大博打元も子もなくすってんてん

甘粕正彦

大博打元も子もなくすってんてん 
大博打身ぐるみ脱いですってんてん


いつか来るお迎え案内(あない)死出の旅
冥途から阿弥陀浄土へお迎えに

 


石川五右衛門鼠小僧次郎吉天狗小僧霧太郎高橋お伝夜嵐お絹小野小町空海紫式部和泉式部源義経/弁慶太田道灌斎藤道三毛利元就武田信玄上杉謙信織田信長明智光秀駒姫豊臣秀吉細川ガラシャ石田三成黒田官兵衛真田幸村徳川家康伊達政宗春日局八百屋お七大石内藏助絵島加賀千代女良寛国定忠治吉田松陰高杉晋作土方歳三大前田英五郎西郷隆盛清水次郎長乃木希典山本五十六甘粕正彦松岡洋右東條英機吉田茂・・・
 
 
 
 
 

 

義弟 
仏さま思い出楽しむ時くれる
あの世でも酒樽もって行けるなら
灯りさす光り追いかけ一人旅
穏やかに花に囲まれさようなら
   
  

 

石川五右衛門
石川や浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ
(石川家は無くなっても砂浜の砂が無くなってもこの世から盗人がいなくなることはない)
辞世の句です。石川というのは五右衛門自身及び石川家のことです。五右衛門が処罰された時に本人だけでなく一族郎党全て処罰されました。  
●辞世の句 
「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」
石川五右衛門の辞世と伝えられる歌です。“川浜の砂がたとえ尽きることがあろうとも、この世の中に盗人がいなくなることはない、なぜなら盗人の種が尽きることがないからだ”という意味です。ここでいう「盗人の種」とは、人のものを盗みたいという心のことです。奪ってでも、盗ってでも自分の物にしてしまいたいという欲の心が人を泥棒という犯罪に走らせるのですから、まさにその心は「盗人の種」です。
天下の大泥棒と知られる石川五右衛門は武将の城に忍び込むその大胆で勇敢な盗みの手口から泥棒界の英雄となり、五右衛門にあこがれ、泥棒稼業を目指す若者も現われる始末で、ときの為政者は、このまま五右衛門を野放しにしていては都の治安はよくならないと威信をかけた大捕物を断行した末、ついに五右衛門は逮捕されます。第2,第3の五右衛門を生まないよう、この男だけは泥棒にあこがれる若者がこりるような処刑をしなければ、と考えた政府は五右衛門をあの有名な「釜ゆでの刑」に処します。大きな釜で茹で殺したと伝えられ、今に五右衛門風呂として知られます。
さてその釜ゆでの刑に処せられる際、五右衛門が詠んだとされる歌が、「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」です。“オレをみせしめにしてこの世から泥棒をなくそうとしたって、この世から泥棒はなくならないぞ、なぜなら人間の心の中に、誰にも知られなければ盗んでしまえ、捕まらなければ人の物も盗ってしまえという欲の心があるからだ”と詠んだ歌です。
石川五右衛門の予言通り、五右衛門処刑後も泥棒が絶えることはなく、あれから400年以上経った今日もそれは変わりません。当時の日本よりずっと法整備もされ、警察機構もしっかりし、防犯対策も向上していますが、やはり窃盗、強盗、詐欺、などの犯罪はなくなっておらず、石川五右衛門の予測は当たっていると言わざるをえません。
法律を整備すると、その法の抜け道を見つけてまた人をだまそうとする者が現われる。それで法を改訂して抑止しようとすると、そのまた法の盲点を突く犯罪が出てくる。いたちごっこです。科学が発達し、その技術が防犯に生かされても、盗む方も先端科学を利用し、新たな盗みのやり口を生み出します。お金やカードを持ち歩くと盗まれるのが心配だからとネットバンキングを利用すれば、ハッキングされ、口座のお金が盗み取られる犯罪もあり、住所が特定されないよう、個人情報保護法を設定しても、瞳に映った景色からその人がどこに住んでいるか特定するストーカーも出てきています。カードナンバー、パスワードは盗まれる心配があるからと、最近では指認証システムが導入されますが、ピースサインの写真からその人の指紋も復元し、指認証をパスする犯罪も出てきてます。
政治、経済、科学、医学と、どれだけ世の中が変化しても、人間の心が変わっていないので、犯罪がこの世からなくなることはないのです。 
●石川五右衛門 1
[1568年?-1594年] 安土桃山時代の盗賊の頭目。確かな経歴は不明だが、実在したことは確かなようである。出身地も定かではなく、盗賊であったことと、1594年に親子党類ともに京都三条河原で釜ゆでの極刑に処された、ということくらいで、あとは俗説と伝承が混在して、その実体はよくわかっていないというのが現状である。
「石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」
この辞世の句と、「絶景かな、絶景かな・・・」と、南禅寺山門上で市中を眺めて言ったセリフが有名な並木五瓶作「金門五山桐」。石川五右衛門がの名が広まったのは1778年に初演となったこの歌舞伎狂言や、1737年初演の人形浄瑠璃「釜淵双級巴」に負うところが大きいといえるだろう。この他にも五右衛門を題材にした物語は多く、特に1802年に刊行された「絵本太閤記」は、人々が想像する五右衛門像を確定的にしたものである。その「絵本太閤記」には、おおよそこう書かれている。
「五右衛門は河内国石川村で生まれた。、幼名は五郎吉。17歳の時に伊賀に渡り、臨寛という外人僧に忍術を習い、その後にはその忍術を使い悪事を重ねていく。そんなある日、関白秀次の家臣木村常陸介から、太閤秀吉の暗殺を依頼される。伏見城に潜入した五右衛門は秀吉が寝静まるのを待ち、丑三つ時に秀吉の部屋に忍び込んだ。鼾も高く寝入っている秀吉を見た五右衛門が飛びかかろうとしたまさにその時、その時、枕元に置かれた千鳥の香炉がチリリと鳴いた。見つかった五右衛門は数日間の拷問の末、手下を含め総勢20人と共に釜ゆでにされたのである」
これらはあくまで創作であって実話ではない。このように事実よりも伝説のほうが多い人物なのだが、五右衛門という人物は果たして実在したのだろうか。
五右衛門と思われる人物に関しての最も古い資料は、公家の山下言経の日記「言経縁記」である。そこには「文禄3年(1594年)8月、盗人スリ10人、子一人を釜にて煮る」と書かれている。
その次には1642年に林羅山が、文禄の時代に石川五右衛門という盗賊が捕らえられ、母親と同類20人を煮殺したという記載を「豊臣秀吉譜」に記し、また、沢庵禅師も随筆に五右衛門のことを書き記してはいるが、これらは共に処刑から年代が経ちすぎていて、今ひとつ信憑性が欠けるという研究者もいるようである。
五右衛門の名前が出ている「豊臣秀吉譜」が信憑性に欠けるとなれば、「言経縁記」に書かれてある盗人が果たして本当に石川五右衛門という名前であるかという疑問が起こる。だが実は「言経縁記」と処刑の期日と方法が全く同じように書かれた文献が、意外にも外国に存在したのである。
「日本王国記」というタイトルの本がローマのイエズス会文書館に所蔵されている。著者はアビラ・ロラン。アビラは16世紀から17世紀にかけて約20年ほど日本に滞在した貿易商で、1615年に長崎でこの本を書き上げているのだが、その文中に、かって都を荒らし回る盗賊の集団がいたが、集団の中で15人の頭目が捕らえられ、京都三条の河原で彼らは生きたまま油で煮られたという記述がある。だが、この記述にもまた石川五右衛門の名前は存在しない。ところが、である。この本にはペドロ・モレホンという宣教師が注釈を書いており、この盗賊処刑の記述に、「この事件は1594年のことである。油で煮られたのは「Ixicavagoyemon」とその家族9人ないしは10人であった」と書かれているのだ。このペドロという人は、処刑当時京都の修道院の院長をしていたという。
こうして、石川五右衛門実在説は、2人の外国人によって裏付けられた。また、五右衛門を煮た釜というのが戦前まで東京の刑務所協会に保存されていたが、戦時中どこかに消失してしまったということである。
●石川五右衛門 2
稀代の大泥棒・石川五右衛門、伝説と史実の狭間に生きる闇の住人
数多くの漫画、アニメ、ゲームに登場するにも関わらず、実在した人物か曖昧であると言われ、その半生に関しても諸説ある石川五右衛門。一番古く確実な記録は、スペイン人貿易商アビラ・ヒロンが記した「日本王国記」である。文禄4年(1595)、都を荒し回る盗賊団があり、その中で15人の頭目が捕らえられ、京都三条河原で生きたまま油で煮らたという内容である。
この記事に対して、イエスズ会の宣教師のペドロ・モレホンが「この事件は1594年のことで、油で煮られたのはIxicava goyemon(石川五右衛門)とその家族9人か10人であった」という注釈を加えている。また、公家の山科言経の日記「言経卿記」の文禄3年8月(1594年10月)の条には、「一、盗賊スリ十人、子一人釜ニテ煮ラル。同類十九ハ付(磔)ニ懸之、三条橋南ノ川ニテ成敗ナリ、貴賎群集云々」とある。ペドロ・モレホンの注釈と時期が同じではあるが、頭目の名が記されていない。
石川五右衛門の名がはっきり出てくる日本国内の資料は、林羅山が寛永19年(1642)に幕府の命で編纂した「豊臣秀吉譜」である。だが、この記事は事件後約50年経ってから書かれたものなので、史料価値が低い。
このような理由から、石川五右衛門の実在が疑問視されてきたのだ。
さまざまな石川五右衛門像が生まれた背景には、浄瑠璃や歌舞伎などの芝居で脚色されてきたことが挙げられる。その始まりは、浄瑠璃「石川五右衛門」である。
石川五右衛門は元遠州浜松の大名・大野庄左衛門の家臣で、真田蔵之進であったという。君主の死後、先妻の子藤若と後妻の子の妹の柳の前の間に家督相続争いが起こり、藤若に味方した蔵之進は柳の前の後継人・進藤団右衛門に陥れられ、浜松を追われ河内に逃れる。ところが、国許では進藤が専権を奪い、藤若を暗殺しようとしていた。藤若は柳の前と共に遠州を逃れる。一方、蔵之進は河内で生活に窮迫し、大阪や京都で強盗を働いていた。そして、京都の豪商の家に押し入り、偶然やってきていた柳の前をそうと知らず殺してしまう。盗品を改めたところ、主家大野家の家系図が出てきて、君主の姫と知らず殺してしまった事に気付き悲嘆に暮れ、神妙に縄目を受けるのである。奉行所で石川五右衛門と妻、息子が取り調べを受け、妻は無罪放免となったが、五右衛門と息子の小源太は京の市中を引き回しの上、七条河原で釜煎りの刑に処されたのだ。有名な辞世の句「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」は、この時に五右衛門が詠んだものとして初めて現れる。
この五右衛門伝説に、井原西鶴や近松門左衛門といった元禄上方文化の有名な作家たちが脚色を加え、ますます伝説は巨大化していった。秀吉の甥、関白秀次の家臣から秀吉暗殺を依頼されるが、香炉が鳴って捕らえられてしまう話、伊賀忍術の開祖、百地三太夫について伊賀流忍術を学んだ話など、盗賊から義賊へ、そして忍者の性格付けもされていく。南禅寺の三門に上り、「絶景かな、絶景かな」と大見得を切る有名なシーンも、三門の建立時期と五右衛門の活躍した時期が合わず、作り話である。それらの作品のラストは釜茹で、または釜煎りの刑であるが、そのエピソードも様々だ。子供と一緒に処刑されることになったが、釜の中で自分は息絶えるまで子供を持ち上げていたという説と、苦しまない様に一思いに釜に沈めた説、そして子供を下敷きにした説がある。どれをとっても残酷なラストである。
五右衛門の出身地について、興味深い説がある。丹後の与謝郡野田川町では、代々石川五右衛門はこの土地の出だと語り伝えてきたとう。丹波・丹後の境である大江山は鬼の伝説で有名であるが、鬼とは時の政府に反旗を翻したアウトサイダーの隠語である。政治的に厳しい抑圧を受けていた庶民たちのはけ口として、反逆のヒーロー・石川五右衛門が誕生したのである。 
●石川五右衛門 3
文楽や歌舞伎でも有名な石川五右衛門は、釜茹での死の直前に、「石川や浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」と、悪は亡ばない事を言いましたが、凶悪テロから強盗、暴力、耐震偽装、ホリエモン等、際限のない犯罪。世の中の悪行は尽きる事を知りません。
さてこの、五右衛門が世間に知られているのは、大名屋敷を荒らし廻り、太閤秀吉に対し大阪城に侵入し盗みを働き、最期には三条川原で釜茹でになったと言う事でしょう。天下の大泥棒でけちな小泥棒とは格が違います。
しかし、「五右衛門」という豪快な名前や、釜茹でという聞いた事もない最期など、恐ろしいイメージより、むしろ人気アニメ「ルパン三世」の如く、義賊的な思いを起こさせ、親近感を感じる方も多いのではないでしょうか。
一説によると、五右衛門は河内の国(大阪府)石川村の出身で、幼名を五郎吉。十四歳の頃、父母が死に、放蕩で身を崩し、十七歳の時、住家を売って伊賀に行き、名張で福寛という南蛮人に忍法の手ほどきを受けます。
十九歳の時、福寛の許を去り、忍者の親分・百地三太夫の家に奉公し、名を石川文吾と改めるも、百地三太夫の後妻と不義密通をしてしまい、揚句の果てには、三太夫の金子八十五両を盗み、後妻と伊勢に駆け落ちして頓てその女も捨ててしまいます。
その後、名を五右衛門と改め、京都・東山に住みつき、大勢のあぶれ者を子分にして、本格的な盗人家業に入ります。そして、とうとう天下人・秀吉の伏見城に忍び入り、秀吉の枕元にあった名器・千鳥の香炉を 盗もうとして捕らえられてしまうのです。
又一説にはその頃秀吉に疎んじられていた関白・秀次が、 どうせ殺されるなら先手を打てと、五右衛門に秀吉殺害を依頼したとも云われておりますが、 はたして真相は・・・どうぞお楽しみ下さい。
●石川五右衛門 4
数多くの漫画、アニメ、ゲームに登場するにも関わらず、実在した人物か曖昧であると言われ、その半生に関しても諸説ある石川五右衛門。一番古く確実な記録は、スペイン人貿易商アビラ・ヒロンが記した「日本王国記」である。文禄4年(1595)、都を荒し回る盗賊団があり、その中で15人の頭目が捕らえられ、京都三条河原で生きたまま油で煮らたという内容である。
この記事に対して、イエスズ会の宣教師のペドロ・モレホンが「この事件は1594年のことで、油で煮られたのはIxicava goyemon(石川五右衛門)とその家族9人か10人であった」という注釈を加えている。また、公家の山科言経の日記「言経卿記」の文禄3年8月(1594年10月)の条には、「一、盗賊スリ十人、子一人釜ニテ煮ラル。同類十九ハ付(磔)ニ懸之、三条橋南ノ川ニテ成敗ナリ、貴賎群集云々」とある。ペドロ・モレホンの注釈と時期が同じではあるが、頭目の名が記されていない。
石川五右衛門の名がはっきり出てくる日本国内の資料は、林羅山が寛永19年(1642)に幕府の命で編纂した「豊臣秀吉譜」である。だが、この記事は事件後約50年経ってから書かれたものなので、史料価値が低い。
このような理由から、石川五右衛門の実在が疑問視されてきたのだ。
さまざまな石川五右衛門像が生まれた背景には、浄瑠璃や歌舞伎などの芝居で脚色されてきたことが挙げられる。その始まりは、浄瑠璃「石川五右衛門」である。
石川五右衛門は元遠州浜松の大名・大野庄左衛門の家臣で、真田蔵之進であったという。君主の死後、先妻の子藤若と後妻の子の妹の柳の前の間に家督相続争いが起こり、藤若に味方した蔵之進は柳の前の後継人・進藤団右衛門に陥れられ、浜松を追われ河内に逃れる。ところが、国許では進藤が専権を奪い、藤若を暗殺しようとしていた。藤若は柳の前と共に遠州を逃れる。一方、蔵之進は河内で生活に窮迫し、大阪や京都で強盗を働いていた。そして、京都の豪商の家に押し入り、偶然やってきていた柳の前をそうと知らず殺してしまう。盗品を改めたところ、主家大野家の家系図が出てきて、君主の姫と知らず殺してしまった事に気付き悲嘆に暮れ、神妙に縄目を受けるのである。奉行所で石川五右衛門と妻、息子が取り調べを受け、妻は無罪放免となったが、五右衛門と息子の小源太は京の市中を引き回しの上、七条河原で釜煎りの刑に処されたのだ。有名な辞世の句「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」は、この時に五右衛門が詠んだものとして初めて現れる。
この五右衛門伝説に、井原西鶴や近松門左衛門といった元禄上方文化の有名な作家たちが脚色を加え、ますます伝説は巨大化していった。秀吉の甥、関白秀次の家臣から秀吉暗殺を依頼されるが、香炉が鳴って捕らえられてしまう話、伊賀忍術の開祖、百地三太夫について伊賀流忍術を学んだ話など、盗賊から義賊へ、そして忍者の性格付けもされていく。南禅寺の三門に上り、「絶景かな、絶景かな」と大見得を切る有名なシーンも、三門の建立時期と五右衛門の活躍した時期が合わず、作り話である。それらの作品のラストは釜茹で、または釜煎りの刑であるが、そのエピソードも様々だ。子供と一緒に処刑されることになったが、釜の中で自分は息絶えるまで子供を持ち上げていたという説と、苦しまない様に一思いに釜に沈めた説、そして子供を下敷きにした説がある。どれをとっても残酷なラストである。
五右衛門の出身地について、興味深い説がある。丹後の与謝郡野田川町では、代々石川五右衛門はこの土地の出だと語り伝えてきたとう。丹波・丹後の境である大江山は鬼の伝説で有名であるが、鬼とは時の政府に反旗を翻したアウトサイダーの隠語である。政治的に厳しい抑圧を受けていた庶民たちのはけ口として、反逆のヒーロー・石川五右衛門が誕生したのである。
●石川五右衛門 5
石川五右衛門(生年不詳 - 文禄3年8月24日(1594年10月8日))は、安土桃山時代の盗賊の首長。文禄3年に捕えられ、京都三条河原で煎り殺された。見せしめとして、彼の親族も大人から生後間もない幼児に至るまで全員が極刑に処されている。従来その実在が疑問視されてきたが、イエズス会の宣教師の日記の中に、その人物の実在を思わせる記述が見つかっている。江戸時代に創作材料として盛んに利用されたことで、高い知名度を得た。
一般に知られる大盗賊「石川五右衛門」
安土桃山時代に出没した盗賊。都市部を中心に荒らしまわり、時の為政者である豊臣秀吉の手勢に捕えられ、京都三条河原で一子と共に処刑された。墓は京都の大雲院にある。これは五右衛門が処刑の前に市中を引き回され、大雲院(当時は寺町通四条下ルにあった)の前に至った際、そこで住職に引導を渡された縁による。
史料に残る五右衛門
下記に石川五右衛門に関する記述がある史料を示す。史料に残された石川五右衛門の記録は、何れも彼の処刑に関わるものである。
   ペドロ・モレホン
まず、安土桃山時代から江戸時代初期の20年ほど日本に貿易商として滞在していたベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンの記した『日本王国記』によると、かつて都(京都)を荒らしまわる集団がいたが、15人の頭目が捕らえられ京都の三条河原で生きたまま油で煮られたとの記述がある。ここにイエズス会の宣教師として日本に滞在していたペドロ・モレホンが注釈を入れており、この盗賊処刑の記述に、「この事件は1594年の夏である。油で煮られたのは「Ixicava goyemon」とその家族9人ないしは10人であった。彼らは兵士のようななりをしていて10人か20人の者が磔になった」と記している。
   山科言経
また、公家の山科言経の日記『言経卿記』には、文禄3年8月24日(1594年10月8日)の記述として「盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎らる。同類十九人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり」との記載があり、誰が処刑されたか記されてはいないものの宣教師の注釈と一致を見る。また、時代はやや下るものの1642年(寛永19年)に編纂された『豊臣秀吉譜』(林羅山編)は「文禄のころに石川五右衛門という盗賊が強盗、追剥、悪逆非道を働いたので秀吉の命によって(京都所司代の)前田玄以に捕らえられ、母親と同類20人とともに釜煎りにされた」と記録している。以上の史料にはそれぞれ問題点も挙げられているが、石川五右衛門という人物が安土桃山時代に徒党を組んで盗賊を働き、京で処刑されたという事実は間違いないと考えられている。
   続本朝通鑑
『続本朝通鑑』(寛文10年(1670年)成立)には、「頃年、有二石川五右衛門者一、或穿窬或強盗不レ止矣、秀吉令二京尹前田玄以遍捜一レ之、遂捕二石川一、且縛二其母竝同類二十人許一烹二殺之三条河原一」とある。
   歴朝要紀
『歴朝要紀』(天保3年(1832年)草稿完成)には、「所司代法印前田玄以、捕二賊石川五右衛門竝其母及其党二十一烹二殺于三条河原一」とある。
伝説の五右衛門
出生地は伊賀国・遠江国(現浜松市)・河内国・丹後国などの諸説があり、伊賀流忍者の抜け忍で百地三太夫の弟子とされる事もある。遠州浜松生まれで、真田八郎と称したが、河内国石川郡山内古底という医家により石川五右衛門と改めたという説もある。
丹後国の伊久知城を本拠とした豪族石川氏の出であるとする説がある。石川氏は丹後の守護大名一色氏の家老職を務めていたが、天正十年、一色義定の代の頃、石川左衛門尉秀門は豊臣秀吉の命を受けた細川藤孝の手によって謀殺され、伊久知城も落城した。落城の際、秀門二男の五良右衛門が落ち延び、後に石川五右衛門となったとする。この故に豊臣家(秀吉)を敵視していたと伝わる。伊久知城近辺には五良右衛門の姉の子孫が代々伝わっているとされる。
また一説に「三好氏の臣 石川明石の子で、体幹長大、三十人力を有し16歳で主家の宝蔵を破り、番人3人を斬り黄金造りの太刀を奪い、逃れて諸国を放浪し盗みをはたらいた」とも。
   様々な伝説
前述以外にも、その生涯についてはさまざまな説がある。
・幼名は五郎吉。幼い頃から非行を繰り返し、14歳か15歳の頃に父母を亡くす。19歳の頃からについては幾つかの説があり、主に「伊賀に渡り、忍者の弟子になった後、京を出て盗賊になった」や「奉公した男性の妻と駆け落ちした」などがある。
・百地三太夫(百地丹波)について伊賀流忍術を学んだが、三太夫の妻と密通した上に妾を殺害して逃亡したとの伝承が知られている。
・その後手下や仲間を集めて、頭となり悪事を繰り返す。相手は権力者のみの義賊だったため、当時は豊臣政権が嫌われていた事もあり、庶民の英雄的存在になっていた。
・金の鯱(名古屋城・大坂城など諸説あり)を盗もうとしたとも伝わるが、これは別の盗賊談の混同かと思われる。
・京都市伏見区の藤森神社に石川五右衛門寄進という手水鉢の受け台石がある。前田玄以配下に追われた五右衛門が神社に逃げ込んだ際、神社が管轄が違うと引き渡しに直ぐに応じなかったため、まんまと逃げおおせた。そのお礼として宇治塔の島の石造十三重塔(現重要文化財)の笠石を盗んで台石として寄進したものという。そのため、塔の島石塔の上から三番目の笠石は他のものに比べて新しいのだという。
・五右衛門の隠れ家は、東山大仏(方広寺)門前にあった大仏餅屋にあったという。そこから鴨川河原に通じる抜け穴もあったという。
・秀吉の甥・豊臣秀次の家臣・木村常陸介から秀吉暗殺を依頼されるが秀吉の寝室に忍び込んだ際、千鳥の香炉が鳴いて知らせたため捕えられる。その後、捕えられた配下の一人に悪事や部下などをすべて暴かれてしまう。
・三条河原で煎り殺されたが、この「煎る」を「油で揚げる」と主張する学者もいる。母親は熱湯で煮殺されたという。熱湯の熱さに泣き叫びながら死んでいったという記録も実際に残っている。
・有名な釜茹でについてもいくつか説があり、子供と一緒に処刑されることになっていたが高温の釜の中で自分が息絶えるまで子供を持ち上げていた説と、苦しませないようにと一思いに子供を釜に沈めた説(絵師による処刑記録から考慮するとこちらが最有力)がある。またそれ以外にも、あまりの熱さに子供を下敷きにしたとも言われている。
・鴨川の七条辺に釜が淵と呼ばれる場所があるが、五右衛門の処刑に使われた釜が流れ着いた場所だという。なお、五右衛門処刑の釜といわれるものは江戸時代以降長らく法務関係局に保管されていたが、最後は名古屋刑務所にあり戦後の混乱の中で行方不明になった。
・処刑される前に「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」と辞世の歌を詠んだという。(古今和歌集の仮名序に、たとへ歌として挙げられている「わが恋はよむとも尽きじ、荒磯海(ありそうみ)の浜の真砂(まさご)はよみ尽くすとも」の本歌取か。)
・処刑された理由は、豊臣秀吉の暗殺を考えたからという説もある.。
創作文芸
江戸時代には伝説の大泥棒として認知されている。盗賊の彼が人気を博した理由は、浄瑠璃や歌舞伎の演題としてとりあげられ、これらの創作の中で次第に義賊として扱われるようになったこと、また権力者の豊臣秀吉の命を狙うという筋書きが庶民の心を捉えたことにもよるであろう。また徳川政権の下では権力者の象徴として前政権の秀吉が適当だった為と考えられる。
歌舞伎『楼門五三桐』の「南禅寺山門の場」(通称:『山門』)で、煙管片手に「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両……」と名科白を廻し、辞世の歌といわれている「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」を真柴久吉(豊臣秀吉がモデル)と掛け科白で廻して山門の上下で「天地の見得」を切るのが有名。ただし実際の南禅寺三門は文安4年(1447年)に焼失、再建は五右衛門の死後30年以上経った寛永5年(1628年)であるため、五右衛門の存命中には存在していない。この作品で五右衛門は明国高官宋蘇卿(実在の貿易家宋素卿のもじり)の遺児という設定となっている。この場面の、金襴褞袍(きんらんどてら)に大百日鬘(だいひゃくにちかつら)という五右衛門の出で立ちは広く普及し、これが今日では一般的な五右衛門像となっている。

石川五右衛門墓 大雲院(京都市)
戒名は「融仙院良岳寿感禅定門」。これは処刑された盗賊としては破格の極めて立派な戒名である。
一方で彼の実際の行動について記録されている史料は少ない。反面、そのことが創作の作者たちの想像力と創作意欲をかき立てていることは間違いなく、彼に関しては古今数多くのフィクションが生み出されている。  
  
 

 

鼠小僧次郎吉
天が下古き例はしら浪の 身にぞ鼠と現れにけり
●辞世の句 1
   天が下古き例はしら浪の 身にぞ鼠とあらわれにけり
意訳すれば 「昔から世間を騒がせた大盗人のように自分も悪事が露見してしまったなあ」 「しら浪」は「白浪」で中国の故事に基づいて「盗人」「盗賊」の意。「古き例(たとえ)」とあるので、石川五右衛門や歌舞伎の「白浪五人男」を稼業の先人として意識しています。「しら浪」の「しら」は「知る」との掛詞。「天が下知る」とは天下を治める、という意味ですが、ここでは「日本中に名の知れた」くらいにとっておきます。「現れ」は「顕れ」で悪事などが露見する意。最後の「けり」は詠嘆。前の「ぞ」に呼応して連体形です(係り結び)。最後の部分は「自分も盗賊・鼠小僧として世間で評判になった(または、出現した)」と解釈できないこともありません。その場合「現れ」は掛詞になります。
●辞世の句 2
   天が下 古き例はしら浪の 身にぞ鼠と現れけり
『回向院』の奥に、義賊 “ねずみ小僧” の供養墓が建立されている。「甲子夜話」によるば、武家屋敷のみ押し入ったために、庶民からは義賊扱いされているとの記述がある。後に、幕末の戯作家・河竹 黙阿弥が、権力者である大名家に自在に侵入し、被権力者である庶民に盗んだ金を配るという、虚構の鼠小僧を主人公とした作品を世に送り出した事から、人気に火が付き演劇界においては、現在まで続く当たり狂言の一つとなった。
供養墓の前にある小さな供養碑は、「欠き石」と呼ばれる物である。鼠小僧の墓石を欠き、財布や袂に入れておけば、金回りが良く成る、或いは持病が治ると言われ、願いが成就した人々により奉納された「欠き石」は、擦り減る度に数年ごとに建て替えられる。現在までに、その数は数百基にも及んでいるという。
見事な辞世の句もさることながら、“ねずみ小僧” の戒名も又立派なものである。
   天保二年八月十八日
   教覚速善居士
   俗名 中村次良吉
天保三年八月十九日 浅草にて処刑される。処刑日と寂滅日とに、一年のずれがあるが? 義賊故、戒名を授与されたのであろう。
戒名とは本来、得度・受戒・灌頂などの儀礼を受け、仏門に帰依した者に与えられる法号である。現在では多くの場合、通夜葬儀の際に受戒・読経して引導により与えられる事が殆どである。所謂、亡者の冥途での名前のように化しているが、本来ならば生前に法の世界に生きる事への誓いなのだ。 
●鼠小僧次郎吉 1
   天が下古き例はしら浪の 身にぞ鼠と現れにけり
(先人(盗賊)達の例に漏れず、オイラがねずみ小僧だってこと、世間中に知れ渡っちまったなぁ。)
「天が下(あまがした)」は世間、「古き例(ふるきためし)」は過去の(大盗賊達の)例、「しら浪(しらなみ)」は昔中国で黄巾の乱が起こった際、残党が白波谷に篭って自らを白波賊と呼んだ故事、および過去の大盗賊である白浪五人男にちなんで、「身にぞ鼠と」は私が鼠(小僧)だということが、「現れにけり」は発覚した、あるいはばれてしまった、といった意味になります。
当時は連座制が適用されていましたが、両親からは勘当されており、捕縛される直前には、数人居たと言われる妻や妾とも離縁状を出しており、周囲の人間を巻き込むことなく天涯孤独の身で刑を受けました。
処刑は小塚原刑場で行われ、享年は36歳でした。
作者は次郎吉(じろきち)で、大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯で、後に義賊として知られました。
なお、本職は鳶職であったと伝えられています。
文政8年(1825年)に土浦藩藩主である土屋相模守の屋敷に忍び込むまで28箇所32回の窃盗を繰り返し、ここで捕縛された際、初めて盗みに入ったと嘘をついて難を逃れます。
しかしその後、賭博の金欲しさに再度窃盗を行い、その後7年間、71箇所90回の窃盗を行った後、天保3年(1832年)5月5日、松平宮内少輔屋敷に忍び込んだ際についに捕縛、本来重犯罪のための刑である、市中引き回しの上での獄門の判決が下されました。
市中引き回しの際女装しており、美しい着物を身に付け薄化粧の上、口紅までしていた、と言われています。
なお、鼠小僧の墓所は回向院にあり、その墓石を持っていればギャンブルに強くなるという俗信により削り取られています。
●鼠小僧次郎吉 2
   天が下 古き例は しら浪の 身にぞ鼠と 現れにけり
天(あま)下(した)例(ためし)と読む、「しら浪」は「盗賊」の意であり「知る」と掛かる。
講談などでご存知の「ねずみ小僧」の辞世の句です。鼠小僧次郎吉は江戸後期、江戸開府200年ぐらいの時に活躍?した人物です。
盗賊になる前の職業も諸説あり、建具職人や火消しなどちょっと調べがついていませんが、20代の半ば頃から盗賊になったといいます。
鼠小僧次郎吉は大名屋敷を狙い盗みを働いていました。この事が後に講談などで義賊として英雄となった理由でした。
しかし、実際は「我が藩が、こそ泥一匹に藩の金子を盗まれたなどと世間に知れたら一大事じゃ!」という、江戸期の武士らしい理由で届出が出ない、と言うことから盗むにはうってつけだったと言う理由から狙っただけだったのです。
もちろん盗んだお金を庶民にばら撒くわけもなく全ては酒と博打に消えていったと言います。
彼は1825年(27,8歳)の時に一度捕まって、よく時代劇に出てくる「入墨」をされた上に追放の刑になっています。
幕府の庶民に対する基本法である「公事方御定書」には、放火は「火あぶり」、不義密通は「引きまわしの上、獄門」10両を盗んだだけで「死罪」という厳しいものでした。
この場合の「死罪」とは、牢内で斬首というものであり、その死体は刀の試し切りなどに使われました。
ちなみに時代劇などで出てくる「下手人(げしゅにん)」も刑罰名であり、こちらは通常の斬首刑で喧嘩の末に相手を殺した場合に適用されるものでした。これは「喧嘩両成敗」を実現させる法というわけです。
ですから、「入墨の後に追放」とはあまりにも刑が軽く、この事からも、いかに大名家が届出をしていないか解ると思います。
そんな鼠小僧次郎吉でしたが天保三年(1832)に江戸の日本橋浜町の上野小幡藩松平宮内少輔の屋敷で2度目の御用!となりました。この時は調子に乗って真っ白の装束で盗みに入った為に捕まったとも言われています。
本人が白状したものだけでも、侵入すること400回、盗んだ総額一万二千両、単純計算(1両=十万円)でも十二億円以上の現金を盗んだ事になります。
そして北町奉行で吟味する事3ヶ月「お奉行様!これではキリがありません!」というわけで、鈴ヶ森の刑場で磔に処せられたといいます。
鼠小僧次郎吉のお墓は現在墨田区両国の回向院にあります。このお墓がなんだか変わった形をしているのです。
これは、稀代の盗人のお墓は、1「あやかりたい」という怪しい?人物、2「こりゃ縁起がいい」という博打好きの人物、3「するっと入っちまうかも」という受験生、などの人々が御守り代わりに石を削って持っていってしまう事から変わった(使い古しの石鹸)のような形になってしまいました。皆様も御入り用(特に上記1、2の理由の場合)の際は是非ご一石どうぞ・・・。 
●鼠小僧次郎吉 3
鼠小僧次郎吉は、文化文政時代に活動した実在の盗賊。歌舞伎芝居小屋の出方兼大道具係の父・貞次郎(定治郎)の子として、寛政9年(1797)に元吉原に生まれる。本名は次郎吉。10歳の頃、父の見様見真似で覚えた知識を活かして、木具職人の家へ奉公に入る。16歳で職人が肌に合わず、親の元へ戻る。その後は鳶人足となったが、五尺足らずの小柄であまり役にもたたず、25歳で鳶職を飛び出した為、父から父子の縁を切られる。そこからはお決まりの身を持ち崩し、博打に嵌り、その資金稼ぎのために、盗人稼業に手を染めるようになった、と伝わる。
五尺の小柄が今度は役にたつことになった。小さな体でちょろちょろと身軽に動き回る身のこなしは、盗人には、向いていたのかもしれない。文政 4年(1821)父に勘当されて、間もなく、某大名・武家屋敷に忍びこみ、誰も傷付けることなく、金だけを盗んだのが、泥棒稼業の初仕事であった。以後、文政8年に捕縛されるまで、武家屋敷ばかりを狙って、盗むこと28箇所32回に及んだ、という。武家屋敷は盗難があっても、泥棒に入られることを恥とし、奉行所には届けないから、現場で捕まらない以上、気楽な稼業だったようだ。
盗っ人というのは、すたすたと屋根から屋根を走り、塀を乗り越え、抜き足・差し足・忍び足で忍び込み…というのが映画などでお馴染みだが、次郎吉の場合、「だれそれに面会の用事がある」と御用を繕って、脇門から屋敷内に入り、堂々と盗みをして帰る、などの手際をも駆使した。被害にあった大名には、美濃大垣藩・戸田采女正の屋敷のように、一度に424両の大金を盗られた大名もある。会津若松の松平肥後守の屋敷のように、1年おきに、数回も度重なり盗まれた大名もいた。これらは次郎吉が供述した、屋敷の内情を細かく調べたうえでの犯行だった。
それでも次郎吉は、一度捕縛されたことがある、文政8年(1825)、土浦藩上屋敷に忍び込んだときのことである。その時は、与力の詮議において初犯と嘯き、入墨・追放の刑止まりで、定法の死罪は、まんまと免れることができた。(江戸時代の罰則では、十両の金を盗むと「死罪」と決まっていた。そこで九両二分三朱まで盗んで、あとの一朱をとらないという、法律通の泥棒もいたという、ずる賢い次郎吉もその手を使った、のかも)
次郎吉は、大名屋敷のみを狙って盗みに入り、貧しい人達にそれを施したとされる事から、後世に「義賊」として伝説化されている。その「義賊伝説」は、処刑直後から語られ、広まったようだ。曲亭馬琴が見聞録『兎園小説余禄』に書き留めている。『此のもの、元来、木挽町の船宿某甲が子なりとぞ、いとはやくより、放蕩無頼なりけるにや。家を逐れて (勘当されて)…中略…処々の武家の渡り奉公したり。依之(これより)武家の案内(内情)に熟したるかといふ一説あり。…中略…盗みとりあい、金子都合、三千百八十三両余、是、白状の趣なりとぞ聞えける』この金額は、ざっと今の五億円前後と算盤が弾き出す。
泥棒は一度やると止められない。一度捕まって性懲りもなく、また盗みをはじめ、天保3年(1832)5月、日本橋浜町の松平宮内少輔邸に忍び込んだところを、北町奉行所の同心・大八木七兵衛に捕縛された。「捕まるときの有様について、馬琴は」『浜町なる松平宮内小輔屋敷へ忍び入り、納戸金(手許金)を盗みとらんとて、主侯の臥戸(寝室}の襖戸をあけし折、宮内殿目を覚まして、頻(しきり)に宿直の近習を呼覚して…中略…是より家中迄さわぎ立て、残す隈なくあさりしかば、鼠小僧庭に走り出で、塀を乗て屋敷外へ堂と飛びをりし折、町方定廻り役・榊原組同心・大谷木七兵衛、夜回りの為、はからずもその処へ通りかかりけり、深夜に武家の塀を乗て、飛びおりたるものなれば、子細を問うに及ばず、立ち処に搦め捕えたり』
次郎吉は捕まって、同心の大谷にこんなことを言った。「ここで命を奪わず、町奉行所に差し出してくれ。奉行所で吟味を受けてから処刑されたい」理由に「俺が盗みに入った屋敷では、その責任をとって切腹した人もいる。金銀が紛失したので、疑われている人も多い。奉行所で残らず白状して、その人たちの罪をそそぎたい」時の奉行は、北町の榊原忠之。芝居小屋育ちの次郎吉得意の芝居っけのある供述は名奉行には通じず、奉行は、次郎吉に死罪を求めた。そして獄門、市中引き回し時には、奉行の配慮で薄化粧の口紅を許され、悪びれた様子も見せず、馬上で目を閉じて「何無妙法蓮華経」と唱えたという。やがて次郎吉が日本橋3丁目あたりへ差し掛かった時、二人の女が目礼をした。次郎吉に深い恩を受けた情婦だったのだろう。
牢獄での取り調べの後の8月19日、市中引き回しの上、千住小塚原(一説-品川鈴ヶ森)で磔、獄門に処された。「この日の様子について、馬琴は」『この者、悪党ながら、人の難儀を救ひし事、しばしば也ければ、恩を受けたる悪党(仲間)おのおの牢見舞いを遺したる。いく度といふことを知らず、刑せらるる日は、紺の越後縮の帷子を着て、下には、白練のひとへを重ね、襟に長房の数珠をかけたり。歳は36、丸顔にて小太り也。馬に乗せらるるときも、役人中へ丁寧に時宜(お辞儀)をして、悪びれざりしと、見つるものの話也。この日、見物の群衆、堵(垣)の如し、伝馬町より日本橋辺は、爪もたたざりし程也しとぞ』
馬琴は、教養人としての自負があってか、記事を「虚実はしらねど風聞のまま記すのみ」と結んでいる。『世に様々な風聞風説が流れ、それが読書に記されている。たとえば、捕らわれてしまう失策は、『自々録』によると、大きな鼾のせいだ』という。「松平宮内小輔の深殿の天井に、『日ごろの大胆をもて、深更をまつうち、眠りにつき、大なる鼾よりしてあやしめられ、堅士捕者の達者や有りけん、搦め捕られたり』と、まことに無様である」
「盗み取った金額について」「『天言筆記』には、盗賊に押し入りしは、大抵諸侯にして、七拾軒、盗みし金額は、凡そ二万二千両なり」とある。今のざっと35億円前後である。この金高について『巷街贅説』(こうがいぜいせつ)には、『大名方九十五ヶ所、右の内には、三十四度も忍入り候所も有之(これあり)、度数の儀は、八百三十九ヶ所程と相覚へ、諸所にての盗金相覚候分、凡三千三百六十両余迄は、覚候由申し立て候』
…中略…『しかとは申し立て難き候得共、盗み相働き初めより当時まで、凡そ一万二千両余と覚え申し候由、右盗金悉く悪所盛り場等にて、遣ひ捨て候事之由』とある。さらに、九十五ヶ所の氏名と、被害の金高を逐一列記している。『その屋敷には、尾張、紀伊、水戸の御三家や、田安・一橋・清水の御三卿まであり、盗人ながら見上げたものである。金額が最も大きいのは、戸田采女正の四百二十両(6500万円前後)である』
「義賊ということについて」学芸大名として名高い松浦静山が、鼠小僧について「『金に困った貧しい者に、汚職大名や悪徳商家から盗んだ金銭を分け与えた』という伝説がある。この噂は、彼が捕縛される9年も前から流れていた。事実、彼が捕縛された後に、役人による家宅捜索が行われたが、盗まれた金銭はほとんど発見されなかった。傍目から見ると、彼の生活が分をわきまえた慎ましやかなものであったことから、盗んだ金の行方について噂になり、このような伝説が生まれたものと考えられる」
「だが、現実の鼠小僧の記録を見ると、このような事実はどこにも記されておらず、現在の研究家の間では『盗んだ金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費した』という説が定着している。 鼠小僧は、武士階級が絶対であった江戸時代に於いて、大名屋敷を専門に徒党を組むことなく、一人で盗みに入ったことから、江戸時代における反権力の具現者のように扱われたり、そういったものの題材して使われることが多い。 しかし、これについて、資料が残されていない中で、鼠小僧自身にその様な意図が無かったという推測もある。
「鼠小僧が大名屋敷を専門に狙った理由について」敷地面積が非常に広く、一旦、中に入れば警備が手薄であったことや、男性が住んでいる表と、女性が住んでいる奥が、はっきりと区別されており、金がある奥で発見されても、女性ばかりで、逃亡しやすいという理由が挙げられている。また、町人長屋に大金は無く、商家は逆に、金にあかせて警備を厳重にしていた。大名屋敷は、謀反の疑いを、幕府に抱かせるおそれがあるという理由で、警備を厳重に出来なかったものと考えられ、また面子と体面を守るために被害が発覚しても公にしにくいという事情もあった。
「松浦静山『甲子夜話』」幕政での栄達という青雲の夢破れ、47歳で平戸藩主を隠退した静山は、以後、82歳で没するまで、学芸に親しみ、怪談奇談に耳をそばだて、隠居仲間やお抱え相撲取り・弓職人など多彩な人々との交流を楽しんだ。本所下屋敷で隠居暮らしを堪能しつつ、鼠小僧の評判に興味をもち、その名の由来について、『甲子夜話』に書き記している。「或人言ふ。このごろ都下に盗ありて、貴族の第(屋敷)より始め、国主の邸にも処々入りたりと云ふ。然れども人の疵つくること無く、一切器物の類を取らず、唯、金銀のみ取去ると。されども、何れより入ると云ふこと、曽(かつ)て知る者なし。因て人、「鼠小僧」と呼ぶ」と。
「鼠小僧の母」江戸の末期、天保(1831〜)のころ、西の郡と呼ばれていた蒲郡に、江戸から一人の老婦人が、ひっそりと帰ってきて暮らしはじめた。35、6年ぶりのことだ。家の裏手には、鬱蒼とした藪が広がっていた。その藪の中に、名前も戒名も書かれていない粗末な墓らしきものがある。と、近くの住民が気づいたのは、それからしばらくたってからのことだった。老婦人の名を「かん」といった。ある日のこと、道でかんとすれ違った住民が尋ねた。「藪の中にある墓は、どなたをご供養なさっているんですか」 かんは一瞬、驚いた様子を見せ、顔をくもらせた。
暫くたって小さな声で「倅の」とだけ、言って立ち去った。『がまごおり風土記』(伊藤天章著)には、文政期に江戸市中の大名屋敷に忍び込み、天保3年に38歳で処刑された鼠小僧次郎吉は、蒲郡の生まれだと書かれている。母親のかんは、処刑のあと一握りの遺髪を手に蒲形村に帰り、墓をつくり冥福を祈った。この墓が後に委空寺(神明町)に移されたという。 次郎吉の生家は現在の神明町。生後間もなく、父の定七は江戸に旅立ってしまう。1、2年後、母のかんは、定七を追って、幼い次郎吉を背負い上京した。お墓のいわれとともに、このような話も代々語り伝えられている。真実はともかく鼠小僧は歌舞伎や小説、映画に義賊として描かれている。地元の人たちには、ちょっぴり自慢だったに違いない。
「次郎吉は用心深い」必要以上の大金を盗まなかったのは、捕まったときの用心で、金がなくなるまで盗みを働かなかった。不自然な大金が見つかると、証拠になるからである。当然、深い付き合いもできるだけ避けて、プライバシーを守った。親しい仲間ができ、棲家が知られ、家に遊びにくるようになると棲家を変えた。女房だって四人いて、その家を転々としていたのだ。それも金で買った飲屋の女である。名前も治三郎、次兵衛などと使い分けていた。
次郎吉の墓は、本所回向院にあり、戒名は「教覚速善居士」俗名・中村次良吉とある。戒名の教覚速善とは、頭脳よく、記憶力もよく、素早い、が次郎吉の持っていた印象で、善とは何を表したものか、義賊であったことを示したものなのだろうか。「鼠小僧の辞世」「天が下古き例(ためし)はしら波の 身にぞ鼠とあらわれにけり」「ウン? なんとなく聞いたことがある、ってか」「やっぱり、黙阿弥の作品だから白波五人男に似てしまうんですな」
「鼠小僧に死刑を宣告した奉行・榊原忠之」北町奉行としての忠之は、迅速かつそつのない裁決を行い、江戸市民から人気があった。北町奉行在任は17年に及び、これは歴代江戸町奉行中でも長期にわたる。『想古録』では、「前任者が7,8年、時に10年以上掛かっていた採決を、2,3日で行ってしまう」ほどのスピード裁判であったと伝えており、長期にわたる訴訟で、訴訟費用に苦しんでいた江戸庶民から歓迎された。また在任中に、鼠小僧次郎吉、相馬大作、木鼠吉五郎など、世間を騒がせた規模の大きい裁判も多数担当した。
●鼠小僧次郎吉 4
天保3年8月19日、西暦では1832年9月13日の今日は、盗賊・鼠小僧次郎吉 の忌日である。次郎吉36歳くらい.。
弁天小僧菊之助の「知らざあ言って聞かせやしょう」、日本駄右衛門の「問われて名乗るもおこがましいが」、お嬢吉三の「こいつぁ春から縁起がええわぇ」。盗賊を主人公とする「白浪物(しらなみもの)」と呼ばれる演目には、小気味よく、印象的な名台詞がある。台詞の主は知らなくても、誰でも聞いた覚えがある有名な台詞だろう。そして、盗賊といえば、『 江戸の三小僧 』と、呼ばれた稲葉小僧 、葵小僧、鼠小僧の三人がいたが、中でも一番の有名なのは何と言っても鼠小僧だろう。
大金持の家だけを襲って、盗んだものを貧しい人に分け与える義賊であるとして、泥棒ながら庶民に人気のある盗賊であり、映画やテレビなどでも盗賊の、ヒーロー的存在である。
   鼠小僧忍び込み控 子の刻参上
上掲の画像は、私の大好きであった長谷川一夫が鼠小僧を演じた映画のポスターである。左:『鼠小僧忍び込み控』(1956年・大映/監督:加戸敏)、右:好評のため翌年公開された続編『鼠小僧忍び込み控・子の刻参上』(1957年・大映/監督:田坂勝彦)である。
そして芥川龍之介も『鼠小僧次郎吉』や『戯作三昧』などの短編で取り上げているので鼠小僧は、歌舞伎に縁がない人でも知っているだろう。
鼠小僧を主人公とした歌舞伎の本名題『鼠小紋東君新形』の初演は、江戸の末期、安政4年正月11日(1857年2月5日)、市村座で公演された。二代目河竹新七(黙阿弥)42歳のときの作品だそうである。
初演は、「4代目市川小團次が盗賊・稲葉幸蔵(いなばこうぞう)、13代目市村羽左衛門(のちの5代目尾上菊五郎、14歳)が蜆(しじみ)売り三吉を演じて評判となったそうだ。
この作品の題材は、天保3年(1832年)に獄門(ごくもん)に処せられた実在の盗賊・鼠小僧。幕末に2代目松林伯円(しょうりんはくえん)が講釈(こうしゃく:近代以降[講談(こうだん)])にして人気を博し、これをもとに黙阿弥が芝居にした。近い時代の犯罪者であるため、奉行所をはばかり、鼠小僧ではなく天明期(1781年〜1788年)の盗賊・稲葉小僧:作中では稲葉幸蔵)の名を使っている。
冒頭の画像は、その時の役者絵で、3代目歌川豊国(歌川 国貞)画『鼠小紋東君新形』の稲葉小僧に扮する4代目市川小團次である。以下参考の※4:「鼠小紋東君新形 - 早稲田大学演劇博物館 浮世絵閲覧システム」で大きく拡大した画像を見れる。
初演は小團次の熱演もあって、100日も興行が続く大当りをとり、黙阿弥は一躍時代を代表する人気作者となった。健気な蜆売り(しじみうり)の少年を演じて評判となった菊五郎は、明治期(1868年〜1912年)には稲葉幸蔵を演じ、当り役のひとつとした。
先にも触れたように、鼠小僧は、江戸時代後期、化政時代(大御所時代)に出没し大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯である。
本名は、次郎吉。人を傷つけない義賊として評判になり、鼠小僧と呼ばれていた。また、名前と合わせて「鼠小僧次郎吉」とも称されていた。本業は鳶職(とびしょく)であったと言われている。
義賊と言うのは、辞書にもあるように「金持ちから金品を奪い、困っている者に分け与える盗賊」と言うことになるのだが、事実、彼がつかまった後で役人による家宅捜索が行われたところ、盗まれた金銭は殆ど発見されなかったそうで、傍目(はため)から見ると、彼の生活が分をわきまえた慎ましやかなものである事から、盗んだ金の行方について噂になり、この様な伝説が生まれたものと考えられているようだが、現在の研究家の間では「盗んだ金の殆どは博打と女と飲酒に浪費した」という説が定着しているようだ。
鼠小僧は武士階級が絶対であった江戸時代に於いて、大名屋敷を専門に徒党を組む事無く一人で盗みに入った事から、江戸時代における反権力の具現者として祭り上げられたようだ。
ただし鼠小僧自身にその様な意図があった訳では無く、当時は大名屋敷の警備が非常に手薄であった為、江戸に於いて最も大金を盗み易い種類の家であったと言うだけの理由であった(町人長屋に大金は無く、金のある商家は逆に金にあかせて警備を厳重にしていた)。また、武家屋敷では被害にあっても届け出ればむしろ「盗賊に盗まれるなど不届き至極」と咎めを受ける可能性もあり、面子と体面を守る為には被害に遭っても公にし難く、殆ど届け出ることはない。その上、彼は鳶職であったので、身のこなしも軽く、ひとけのない所をうまく忍び込めたのだろう。
鼠小僧が捕らえられたのは、天保3年5月8日(1832年6月6日)上野国小幡藩主松平宮内小輔忠恵の浜町屋敷と言われている(諸説あるようだ)が、実は文政8年(1825年)にも忍び込んだところを一度捕まり入墨、中追放となっていた。
参考※5:「剣客商売の時代」の”法律と治安に関する項目”の刑罰や悪人達の末路・刑事裁判、犯罪など見ると分かるように、江戸時代の幕府の庶民に対する基本法である「公事方御定書」では、盗人には「入墨」の刑が決まりであり、犯罪者を一定地域内で居住することを禁じた刑にも色々あるが、「中追放」は、武蔵・山城・摂津・和泉・大和・肥前・東海道筋・木曾路筋・下野・日光道中・甲斐・駿河での居住を禁じ、田畑・家屋敷のみを没収と言うものであった。だから、この地域での犯罪であったろうと思うが、「公事方御定書」では10両を盗んだだけで「死罪」という厳しいものであったので、入墨、中追放と言うからには、大名家が被害届を出していなかったものと考えられている。
天保2年より同15 年に及ぶ諸記録を収録した『天保雑記』(※6、※7)という書物には、鼠小僧が忍入った大名や旗本の屋敷名や盗んだ金高、又奉行所による判決文などが記録されている。
文政8年(1825年)に土浦藩藩主である土屋相模守の屋敷に忍び込むまで28箇所32回の窃盗を繰り返し、ここで捕縛された際には、初めて盗みに入ったと嘘をついて難を逃れ、入墨所払いの刑を受けていたが、その後、江戸に舞い戻り、7年間、71箇所90回の窃盗を行った後、天保3年(1832年)5月5日、松平宮内少輔屋敷に忍び込んだ際についに2度目めの捕縛をされた。
そして、北町奉行・榊原忠之によって出された判決は、市中引き回しの上での獄門(磔串刺)である。
磔(はりつけ)とは、罪人を板や柱などに縛りつけ、槍などを用いて殺す公開処刑の刑罰のことである。
江戸時代の磔刑は本来なら関所破りや親殺し、主人殺しなど凶悪犯(殺人や放火や)に適用される刑であり、処刑は鈴ヶ森刑場にて行われた。鈴ヶ森刑場跡には、今でも実際に使われていた磔台が残っている。
鼠小僧に対する磔刑の判決は、江戸庶民から義賊として持て囃されることを封じることに狙いがあったのであろう。
鈴ヶ森刑場での最初の処刑者は江戸時代の反乱事件「慶安事件」の首謀者のひとり丸橋忠弥であり、その後も、平井権八や天一坊、八百屋お七、白子屋 お熊(人形浄瑠璃『恋娘昔八丈』のヒロイン・白木屋お駒のモデル、河竹黙阿弥作の歌舞伎『梅雨小袖昔八丈』のモデル)といった人物がここで処刑されているのを見てもわかるように、鈴ヶ森での刑は、権力への反抗や火付けといった当時の江戸では絶対に許されない犯罪に対する見せしめのために行われている。
当時の処刑は連座制が適用されていたが、鼠小僧の次郎吉は堺町(現在の中央区日本橋芳町二丁目・人形町三丁目)中村座の木戸番(芝居・相撲・見世物小屋の木戸口の番人)定七の長男であったらしいが、盗みに入った頃には、勘当され親兄弟とも縁が切れており、数人いたといわれる妻にも捕縛直前に離縁状(離婚証明)を渡していた為、天涯孤独の身として刑を受けたという。 この、自らの行いに対しあらゆる人間を巻き込まずに済ませた、という点も、鼠小僧が義賊扱いされる要因の一つとなっているという。
東京都墨田区両国の回向院に、「鼠小僧次郎吉の墓があり、戒名は、「教覚速善居士」
これを、「教えを速やかに、善く覚える」とも読めることから、受験がうまくゆくようにと訪れる人も多いという。また、鼠小僧の墓石のかけらにご利益があると、墓石を削って行く人も多いようだ。墓は石塔群の中にあるが、墓は荒川区南千住5丁目にある「南千住回向院」(過去は両国回向院の別院)で小塚原刑場の近くにあることから小塚原回向院とも呼ばれるところにもあるが、戒名はこことは違う。向かって右端のものがそうだ。しかし、、当時、獄門にかけられた罪人は埋葬も弔いも許されなかった。だから、いずれにしてもこれらの後に、建てられたものろう。
義賊であったかどうかは別として、「鼠小僧次郎吉」 の話は、講談や歌舞伎・映画・TVと現在でも庶民の味方として描かれている。
「天(あま)が下 古き例(ためし)は しら波の 身にぞ鼠と あらわれにけり」
これは、「ねずみ小僧」の辞世の句だというが、なんか聞いたような台詞だ。 
天が下(あまがした)」は世間、「古き例(ふるきためし)」は過去の(大盗賊達の)例であり、「しら浪(しらなみ)」は昔中国で黄巾の乱が起こった際、白波谷に拠った残党が自らを白波賊と呼んだ故事から「盗賊」の異名であり「知る」と掛かる。「現れにけり」は発覚した、あるいは、ばれてしまった、といった意味、であり、これを通釈すると 、「先人(盗賊)達の例に漏れず、俺もねずみ小僧だってことが、世間中に知れ渡ってしまったな〜」・・・と言った意味になるのだろう。
同じ盗人の石川五右衛門の「石川や浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ 」と言うのがあるが、「問われて名乗るもおこがましいが、産まれは遠州浜松在、十四の年から親に放れ、身の生業も白浪の沖を越えたる夜働き、盗みはすれど非道はせず、人に情を掛川から金谷をかけて宿々で、義賊と噂高札に廻る配附の盥越(たらいご)し、危ねえその身の境界も最早四十に、人間の定めはわずか五十年、六十余州に隠れのねえ賊徒の首領日本駄右衛門」という「歌舞伎・白浪五人男」(青砥稿花紅彩画)の頭領・日本駄右衛門の台詞にあやかったようだ。
日本駄右衛門のモデルとなった実在の日本左衛門は浜松付近で強盗を重ねていた盗賊、盗人の代表的な人物だ。鼠小僧の辞世の句もこれら河竹黙阿弥の書いた白波もの(盗賊ものの演目の総称)の台詞を意識して後に誰かにつくられたものだろう。
市中引き回しの際には牢屋敷のある伝馬町から日本橋、京橋のあたりまで有名人の鼠小僧を一目見ようと野次馬が大挙して押し寄せた。市中引き回しは当時一種の見世物となっており、みずぼらしい外見だと見物人の反感を買いかねなかった為、特に有名な罪人であった鼠小僧には美しい着物を身に付けさせ、薄化粧をして口紅まで注していたという。
鼠小僧を主役とした歌舞伎『鼠小紋東君新形』が大当たり後、鼠小僧を扱った歌舞伎、映画、テレビなど、みなイケメンが鼠小僧の役を演じているが、実際の鼠小僧は、五尺に満たない小男で、丸顔にうすあばた、髪も眉も薄くて目が小さい、とお世辞にもイケメンとは言いがたいが動作は敏捷であったようだ。
前後2回10年で盗んだ物は、金貨が殆どであり、合計で3,121両というが、これを現代の値にするといくらになるかは知らないが、1両10万円とすると少なくとも31億円位いになるだろうが、捕まったときは博打と女に入れあげていて、碌な家財道具もなく金もほとんどなかったというが、ま〜、よく遊んだものだね〜。ただ、誰一人、人を殺めることなくやってのけたのだから・・・。
今流行りの私の大好きな池波正太郎の時代小説『鬼平犯科帳』の鬼平こと長谷川平蔵(長谷川 宣以)なら、苦笑いしたことだろうな〜。
「盗みはすれど人は侵さず」「貧乏人は泣かせない」金のありそううな大名屋敷ばかり狙って盗んだのだから・・・。
平蔵が火付盗賊改方長官であったのは1787年(天明7年)から1795年(寛政7年)まで、鼠小僧がなくなる35年ほど前のことである。1783年(天明3年)の浅間山大噴火や折からの大飢饉による農作物の不作により、インフレが起こり、全国各地で打ち壊しが頻発し、被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約2万人)が餓死したといわれ、世情は酷く不穏であった。このような経済不安から犯罪も増加し、凶悪化していた。そのような背景があったからだろう、ドラマでは、火付け、盗賊といった重犯罪者以外、貧乏人に迷惑をかけないものはお目こぼしすることも多く見られた。
実在の鬼平は、寛政の改革で人足寄場(軽犯罪者の更生施設)の建設を立案し、石川島人足寄場の設立などで功績を挙げている。
ただ、江戸市中で強盗及び婦女暴行を繰り返していた凶悪盗賊団の首領・葵小僧などは、逮捕後わずか10日という異例の速さで処刑(斬首)している。鼠小僧の場合は、どうしただろう・・・。やはり、以後、盗賊が英雄視されることのないように、見せしめのために、断罪に処したのだろうな〜。
●鼠小僧次郎吉 5
1797?‐1832(寛政9?‐天保3) 江戸の著名な盗賊。『視聴草』によれば、一八二三年(文政六)以来一〇年間に九九ヵ所の武家屋敷へ一二二度も忍びこみ、金三〇〇〇両余を盗む。盗金は酒食や遊興、ばくちなどに費やした。三二年八月獄門。三六歳とも三七歳ともいわれた。のち小説、講談、戯曲に義賊として仕立てられ、ますます著名となった。
実録本『鼠小僧実記』は実在の稲葉小僧(一七八五年捕縛)と鼠小僧とをつきまぜて物語に仕上げている。この書によれば、神田豊島町の紀伊国屋藤左衛門の子に生まれ、貧に困って捨子となり、博徒鼠の吉兵衛に拾われ、幸蔵と名づけられて育つ。二〇歳のころ上方へ行き次郎吉と変名、博徒淀辰と畳屋三右衛門を頼り、義賊を志し、江戸へ帰って盗みを働き、やがて淀辰が捕らわれて詮議がきびしくなり、高崎へのがれるが大宮で召し捕られ、引回しのうえ小塚原で獄門に処せられるのが筋である。江戸末期の諸大名奥向きの放漫と庶民の困窮を描出し、義賊がぬけめなく立ち回る点に享受者の共感があった。二世松林しょうりん伯円は「泥棒伯円」と呼ばれるほど白浪物しらなみもの講釈を得意とし、その演目の一つが『緑林みどりがはやし五漢録――鼠小僧』で、これをもとに河竹黙阿弥が脚色した歌舞伎が『鼠小紋東君新形ねずみこもんはるのしんがた』である。その初演の年、同名題の合巻を紅英堂から出版(柳水亭種清編、二世歌川国貞画)、市井の小盗賊を英雄視したところに幕末の時代相が反映されている。
(奉行)「貴様は大胆な奴ぢやなア、大名方へ盗みに行ツて、首尾よう免れた抔などとは、実に珍しい曲者である」(次郎)「恐れながら申上げます、大名方と申しまするものは、表玄関から這入ります時は、その用心は極厳しい事でございますが、裏の庭口から忍び入ツて、御主人の御居室へ這入ります時は、その締方が手薄いものでございます、大名方が一番私は金が取りようございました」(奉行)「さてもさても悪い所へ目を注けたものである」と筒井伊賀守殿も非常に驚かれました、尚再三再四と御取調べに成りまして、大名方の御名前をお控へになると、その数は水戸殿始め一橋殿、田安殿、清水殿、尾張殿、紀伊殿、水野出羽守、(中略)細川長門守、小堀織部の八十九軒にございます、(中略)恁かくて後奉行筒井伊賀守殿、次郎吉を御呼出しに相成りまして、その口書申渡しには
   異名鼠小僧事 無宿入墨 次郎吉 未ひつじ三十三歳
私儀十年以前巳み年以来、処々武家屋敷二十八ケ所、度数三十二度、塀を乗り越え又は通用門より紛れ入り、長局奥向ながつぼねおくむきへ忍び入り、錠前を斡こぢ開け、或は土蔵の戸を鋸のこぎりにて挽切り、金七百五十一両一分、銭七貫五百文程盗み取り使い捨て候後、武家屋敷へ這入り候得共、盗み得ず候処召捕られ、数ケ所にて盗み致し候儀は押包み、博奕ばくえき数度いたし候旨申立て、右科とがに依り入墨の上、追放相成り候処、入墨を消し紛らせ、尚悪事相止まず、尚又武家屋敷七十一ケ所、度数九十度、右同様の手続にて、長局奥向へ忍び入り、金二千三百三十四両二分、銭三百七十二文、銀四匁三分盗み取り、右に付き御仕置に相成り候以後の盗みケ所都合つがふ九十九ケ所、度数百二十二度のうち、屋敷名前失念、又は覚えず、金銀盗み取らざるもこれあり、凡そ金高三千百二十一両二分、銭九貫二百六十文、銀四匁三分のうち、古金五両、銭七百文は取り捨て、其余は残らず酒食遊興、又は博奕を渡世同様に致し、在方ざいかた処々へも持参、残らず使ひ捨て候始末、重々不届至極の段恐れ入り奉り候以上
(奉行)「いま申し聞かした通り相違あるまいナ」(次郎)「恐れ入りましてございます」爪印を致させ、其儘伝馬町へ下げ置かれました、恁かくて六十日経過いたしまして、伝馬町御牢内に於て、石出帯刀たてわきお立合ひの上、江戸市中引廻と定りました、其時の次郎吉の服装いでたちは、紺の縮布ちゞみの上衣うはぎ、下には白無垢を着まして、帯は黄糸八端、白足袋を穿き藤倉草履、下には天鵝絨びろうどの腹掛を致して居りました、紫房の念珠じゆずを持ち、顔には薄化粧を致して口臙脂くちべにをさし、裸馬に打乗り、今や市中を引廻さんと、同心、与力前後に附いて出でんと致す、其時ソラ鼠小僧の引廻、ヤレ次郎吉の御仕置よ、とワイ〓〓騒ぎ立てまする、此時馬上に在ツて次郎吉は「天の下ふるきためしは白浪の、身こそ鼠とあらはれにけれ」と口吟くちずさみましたが、泥棒にはチヨイト異ツた男でございます、さて引廻の後伝馬町御牢内に伴れ帰り、首を剄ねましたのは天保二年八月十二日の事でございまして、千住小塚ツ原へ三日の間露されました、その遺骸を葬りましたのは、子ねの権現堂村の茂兵衛でございまする、且つ一基の石碑をば建てました、戒名は教学速善信士(後に居士と改む)とございます、彼の次郎吉の妾お花は、母親お虎が間もなくこの世を去りまして、独身となりましたに付き、諸方より縁談等も申込まれましたが、例令たとひ賊ながらも、一旦契りし夫なれば、二度の夫は持たぬと云ふ決心にて、次郎吉の跡を懇ろに吊とむらひ、例の裁縫たちぬひの業を以て、生涯を送りましたと云ふ事でありますが、母に似ぬ心得の好い女でございました、然るにこの次郎吉の石碑を欠いて持ツて行けば、勝負事に運が強いとか、無尽の取れる咀まじなひになるとか何とか色々な事を申して、誰が為す業か度々石碑を打欠ぶつかいては新しく調こさへ、三年と同じ石碑が立ツて居ないと云ふ位ゐで、只今ではその石碑の数が積りまして、積んで周囲まはりの塀と致してございますが、世に之れを回向院えかうゐんの鼠塚と申す、白浪のお話にございます。  
  
 

 

天狗小僧霧太郎
生涯を賭けて盗めど今までに 身に付く金は今日の錆び槍
●天狗小僧霧太郎 
「都鳥廓白浪」(みやこどり ながれの しらなみ)は、通称「忍の惣太」(しのぶの そうた)で知られる歌舞伎の演目。二代目河竹新七(黙阿弥)作、全三幕。安政元年三月(1854年4月)、江戸 河原崎座で初演。 
背景
能の「隅田川」で有名な、吉田梅若が人買いの忍ぶの惣太にかどかわされて隅田川の畔で死んだ故事をもとにしている。吉田家の家臣山田六郎は、腰元梶浦との不義がもとで主家を追放され、東国の向島で桜餅売りに身をやつしている。女房お梶との二人暮らしで、男伊達「忍ぶの惣太」と名乗って葛飾十右衛門と傾城花子を争っている。そんな中、飛び込んできたのが、吉田家の家宝「都鳥の系図」が何者かによって盗まれ主君吉田松若は行方不明との知らせ。主家の一大事と惣太は系図探しに奔走するが、活動資金も足りず、さらに盗賊団によって鳥目にされてしまう。
序幕 向島梅若殺しの場
満開の桜が続く隅田川堤で惣太は病に苦しむ少年を介抱する。鳥目で目が見えない惣太は手探りで少年の懐の大金を知り、已む無く少年を絞殺する。この少年こそ松若の弟梅若丸で、母とともに惣太を頼って東国まで流れてきたのだが、追手によって母と奴軍助と離れていたのだ。だが、惣太にはそんなことを知るすべもない。
二幕目 向島惣太内の場
さて、傾城花子は天狗小僧霧太郎という盗賊団の頭の変装した姿であるが、実は吉田松若が系図の詮議のため盗賊となっているのであった。惣太もそのことに気付き身請けして自宅に連れ帰ったのだが、系図盗難の真犯人、宵寝の丑右衛門の計略で花子と系図を奪われてしまう。悲嘆にくれる惣太のもとに舅である奴の軍助が来て梅若殺害を知らせ、申し訳なさに自害する。さてはあの時の少年はご主君の弟と驚く惣太であったが、女房お梶の自己犠牲で鳥目が治る。そこに十右衛門が駆け付けお梶が実の妹であったことを告げ惣太を励ます。すべてを十右衛門に託し惣太は花子の隠れ家に向かう。
大詰 原庭按摩宿の場
一方花子こと松若は系図を奪おうとする丑右衛門を殺し、系図を手に入れた上からは早速立ち退こうとする。ところに惣太が現れ両者立ち回りとなる。惣太はわざと松若の手にかかり、梅若殺しを懺悔して息絶える。そこへ捕り手がなだれ込むが松若は悠々と飯を食べて捕り手をあしらう。 
  
 

 

高橋お伝
子を思ふ親の心を汲む水に ぬるる袂の干る隙もなし 
なき夫の為に待ちゐし時なれば 手向に咲きし花とこそ知れ   
しばらくも望みなき世にあらんより 渡し急げや三途の河守 
嬉しきも憂きも夢なり現なり さめては獄屋看ては故里
●辞世の句
「子を思う親の心を汲む水に濡れる袂の干る隙なし」
「首斬朝右衛門」
大山街道溝口宿には古く様々な人物が出没した。その一人、人呼んで「首斬り朝右衛門」がいる。
先祖は据物斬(土壇などに罪人の屍などをおき刀剣の切れ味を試すこと)で、日本国死刑執行人であった。
八世朝右衛門は、十二才で父と共に刑場に臨み、以来十有七年の間、死刑を執行した人であった。
明治十四年明治新政府は斬首刑を廃止した。
元来、武道の大熱心家で、据物斬の名人であった初代山田朝右衛門源貞武は、徳川家御腰元奉行支配、山野加右衛門尉永久の教えを受けて徳川家の御佩刀御用役を務めた。かの赤穂義士、不破数右衛門正種、堀部安兵衛武庸とは武道の親友であった。
こんな経緯があって、町奉行所に、配下として与力と同心が付属され、延享三(一七四六)年以降は、一番所あたり与力二五騎、同心百二十人に増員、以降は世襲となった。
朝右衛門は、十七才から刑場に臨み二十五才の「斬盛り」で、一般に「毒婦」と呼ばれた「高橋お伝」(上州利根郡下牧村、高橋九右衛門の養女、殺人を犯すなど毒婦と評判された女性。明治九年に捕えられ、三年後に朝右衛門により死刑執行された)を斬った。
高橋お伝の辞世の句は「子を思う親の心を汲む水に濡れる袂の干る隙なし」だと紹介している。
明治初年高橋佐助の次男波之輔を、婿養子にしたが、波之輔はライ病に罹り、家庭不和から故郷にいられず、夫婦は上京した。
お伝は、虎ノ門の金毘羅様へ夫波之輔の病気平癒を願掛けし、横浜の名医J・ヘボン博士に罹って波之輔の全快を願うが、治る見込みがなく、絶望する。
その所へ姉カネの夫から、妙薬が送られてきて、喜んで服用させると、治るどころか波之輔は悶絶して死んでしまう。
お伝は姉の夫を毒を盛った犯人と付け回し、浅草蔵前の水茶屋に同道。
一泊した夜、艶言で迫まれ、果ては短刀で脅かし、振り切った際、男が自分で倒れたので、恐ろしさの余り、男が寝ているように見せかけて、茶屋を出てしまった、という。
かくて街道筋には古来、人情噺に絡む話が多い。
「なき夫の為に待ちゐし時なれば 手向に咲きし花とこそ知れ」
高橋お伝 (本名:高橋でん)
嘉永3年7月(1850年8月) 誕生、生後すぐに養子に出される。
慶応2年12月(1867年1月) 高橋浪之助と結婚。
明治5年(1872年) 9月17日  夫・浪之助が癩病を発病後死去。
毒殺などと言われるが実際は逆で、お伝は厚い看病をしている。
その後小川市太郎と恋仲になる。
明治9年(1876年)8月  ヤクザ者の市太郎との生活で借財が重なり、古物商の後藤吉蔵に借金の相談をしたところ、枕を交わすなら金を貸すと言われる。
8月26日  吉蔵の申し出を受け入れ、東京・浅草蔵前片町の旅籠屋「丸竹」で一晩を過ごす。
8月27日  吉蔵が態度を変え金は貸せないと言い出したため、怒りにまかせるままに剃刀で喉を掻き切って殺害。財布の中の金を奪って逃走する。
9月 9日 強盗殺人容疑で逮捕。
明治12年(1879年)1月31日  東京裁判所で死刑判決。
市ヶ谷監獄で死刑執行。八代目山田浅右衛門の弟吉亮により、斬首刑に処された。
遺体は警視庁第五病院で解剖されて、その一部(性器)が現在の東京大学法医学部の参考室で保存された。その後小塚原回向院に埋葬された。墓は片岡直次郎・鼠小僧次郎吉・腕の喜三郎の墓に隣接して置かれている。
明治14年 (1881年) 4月  お伝の三回忌のおりに仮名垣魯文の世話で谷中霊園にも伝の墓が建立された。こちらには遺骨は納められていない。
十二代目守田勘彌、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次、三遊亭圓朝、三代目三遊亭圓生らが寄付者となっている。お伝の芝居を打って当たったのでその礼として建てたという。
「しばらくも望みなき世にあらんより 渡し急げや三途の河守」 
高橋お伝について
1879年(明治12年)日本で最後に斬首刑となった人物である。罪状は強盗殺人。明治の毒婦とも言われ、当時は世間を騒がせた。
群馬県に生まれた高橋お伝は最初の主人がらい病(ハンセン病)に侵され看病の甲斐なく死去。(後に毒殺したという説に)
小川市太郎と恋仲になるが借金がかさみ、後藤吉蔵に「愛人になるなら金を払う」と言われ、一夜を共にするが翌日後藤吉蔵を殺害して財布を奪い逃走する。
裁判では姉(架空)の仇討だった、吉蔵の自殺だったなど、無罪を主張するも、明治12年に死刑判決。
昔は首斬り八百屋と呼ばれていた、と現在の社長さんは笑っていたが、このスーパーの裏手入口に社長の仏心により観音堂が建立され、毎年盛大な供養が行われている。
その余慶のためか、スーパー観音は日に日に栄えている。この観音堂の右手が、首斬場の跡である。
高田露代議士が目撃した、首斬り浅右衛門が高橋お伝を斬首した首斬場である。
高い黒坂塀と昼なお暗い杉木立に囲まれた首斬場で、安村大警視正立会いのもと首斬り浅右衛門は、暴れ狂いもがくお伝の首を斬り損じ、地に押し伏せて押し斬りに挽き切ったと、同囚たちと一緒に見せられた高田氏が鬼気迫る光景を詳細に書き残している。
すぐ近くに残っていたお伝首洗いの井戸も、今は道路改正で埋められたと思う。
書籍にあるスーパーはもうない。が、高橋お伝の首斬場である「市ヶ谷監獄首斬場跡」は残っている。
谷中霊園には「高橋お伝」の墓がある。
高橋お伝 1850〜1879
嘉永3年、上野国前橋に生まれる。明治初期の稀代の悪婦として知られる。最初の夫、浪之助が悪病にかかり身体の自由を失ったのでこれを毒殺し、他の男のもとに走り、その後、各地を放浪しながら悪事を重ねた。明治9年、浅草蔵前の旅館丸竹で、古着屋後藤吉蔵をだまして殺害、所持金200両を持って逃走、京橋新富町で捕らえられ、同12年、30歳で死刑に処せられる。毒婦お伝の名は都下の新聞、仮名垣魯文のお伝一代記『高橋阿伝夜叉譚』などで有名になる。しかし、彼女は貧困と差別のうちに男に利用された気の毒な存在と見る見方も強まっている。碑は物語で利を得た魯文が世話人となって作られた。死してなお、トイレの傍らにあるお伝の碑には、いつも花束が絶えず、この碑にお参りすると三味線がうまくなるというジンクスもある。自然石に「しばらく望みなき世にあらむより渡しいそぐや三津の河守」の辞世の歌が刻まれている。子規の句に「猫の塚お伝の塚や木下闇」もあるが現在魯文ゆかりの猫の塚は谷中三崎町永久寺に移された。谷中墓地掃苔録よりこのお墓には納骨されていない。このお墓は『高橋阿伝夜叉譚』を書いた、仮名垣魯文ら有志によって建立されたらしい。小塚原回向院にひっそりあるのが高橋お伝の墓である。高橋お伝戒名、榮傳信女、俗名高橋お傳。小塚原にお墓があることから、小塚原処刑場で斬首されたとある所もあるが、小塚原処刑場は明治6年には廃止されており、高橋お伝の処刑は明治12年なのであり得ない事である。処刑は市ヶ谷監獄の首斬場である。
「嬉しきも憂きも夢なり現なり さめては獄屋看ては故里」 
●高橋お伝 1
東京各社撰抜新聞
明治十二年(一八七九)五月十日 三島蕉窓絵
東京大学法学部附属明治新聞雑誌文庫蔵
冒頭の「外面如菩薩内心如夜刃」は〈毒婦〉を形容する常套句。末尾、お伝の獄中吟とされる「しばらくも望みなき世にあらんより渡しいそげや三途の河守」の一首は、魯文の『高橋阿伝夜刃譚』のほか『東京絵入新聞』のつづき物などにも見えるが、真偽は明らかではない。
東京各社抜新聞
外面如菩薩内心如夜刃毒婦とその名高橋/阿伝が出所は上州沼田の藩広瀬何某の女なりしが/故あつて母親の離別のをりに伴なはれ母の実家へ/到りし後高橋九右エ門が養女となり成長なすに/したがひて鄙珍らしき容色は雨をふくめる海棠/ならで枝に鍼もつ薔薇花誰しも心ありそ海恋の/湊へ打よする仇しあだなる波之助を夫となしても/僅の間天刑病に脳めるを愈さんものと故郷を立いで/夫婦手に手をとりがなく東京に少時は足を留めて/直ならぬ心の底は横浜かけて種々の悪事も大谷の/其丸竹へ合宿の以前は内山仙之助当時は後藤吉蔵を/殺害なせし事よりして遂にはかゝる天の網御所刑うけしは/本年の一月三十一日なりとぞ/拇印なして檻獄へ戻されしをりの吟/しばらくも望みなき世にあらんより/渡しいそげや三途の河守
かなよみ 明治九年(一八七六)九月十二日
東京大学法学部附属明治新聞雑誌文庫蔵
事件の二週間後、各紙に一斉に現れたお伝捕縛を報じる記事のうち、かなりの紙幅を割いたもののひとつ。挿絵に描かれているのは『かなよみ』の売り子で、記事冒頭の「是は此頃東京市街に於まして大評判の大新聞所ろは……」は、当時小新聞の販売を担っていた彼らの売り声である。
東京絵入新聞「毒婦お伝のはなし」
明治十二年(一八七九)二月十八日
東京大学法学部附属明治新聞雑誌文庫蔵
お伝の斬首の翌日から、多くの小新聞が出生からはじまる彼女の履歴と事件の詳細とをつづき物に潤色して掲げた。なかでも『東京絵入新聞』はほぼ毎回に挿絵を入れ、計十六回にわたる大部のつづき物を連載している。これは凶行直後、死体のそばに残した書置きを認めるお伝。
其名も高橋毒婦の小伝 東京奇聞
岡本勘造綴、吉川俊雄閲、桜斎房種画
初編明治十二年(一八七九)二月〜第七編同年四月
東京大学法学部附属明治新聞雑誌文庫蔵
『東京さきがけ』改め『東京新聞』に連載されたつづき物は、『高橋阿伝夜刃譚』に2日先んじて合巻化され、初編以後も先を争うようにして刊行された。お伝の供述を否定するところから物語を開始した魯文と異なり、ここでのお伝は彼女の供述どおり、沼田藩家老のご落胤という出自をもち、事件も仇討ち殺人として物語られている。
高橋阿伝夜刃譚 初編
仮名垣魯文著、守川周重画
初編明治十二年(一八七九)二月〜第八編同年四月
東京大学法学部附属明治新聞雑誌文庫蔵
『かなよみ』でも魯文が「毒婦おでんの話し」の連載を始めたが、これはわずか二回で中絶し、直ちに金松堂辻岡屋文助から合巻として発兌された。この唐突な企画変更の背景には、『東京奇聞』との出版競争があったといわれる。草双紙としてきわめて異例の活版刷初編はそのことを示唆する。
綴合於伝仮名書筋書
『歌舞伎新報』十四号・明治十二年(一八七九)五月十五日、十七号・五月三十日
東京大学法学部附属明治新聞雑誌文庫蔵
「綴合於伝仮名書」は、新富座での上演に先だって『歌舞伎新報』にその筋書が連載された。この年創刊されたばかりの『歌舞伎新報』は、劇評や劇界雑報のほか、各座で上演される狂言筋書の連載が売り物であった。
高橋阿伝夜刃譚 仮名垣魯文補綴
明治十八年(一八八五)十一月、錦松堂 
国立国会図書館蔵
明治十二年の金松堂『高橋阿伝夜刃譚』を元版にして活字に組みなおし、翻刻出版されたもの。回数・本文ともに合巻のままで、脱漏部の補填や訂正以外の改変は見られないが、挿絵は望斎秀月によって新たに描かれた。
たかはしおでんくどき
明治十三年(一八八〇)五月 吉田小吉
東京大学法学部附属明治新聞雑誌文庫蔵
近代における事件報道の量的拡大は、口説節やちょぼくれ(浪花節の前身といわれる)、祭文などの大道芸や門付芸に数々の題材を与えた。本来、文字化された報道に先んじるはずのニュース媒体としての「声」が、逆に新聞雑報やつづき物の後追いをしたのである。
近世人物誌やまと新聞附録 第十一号
明治二十年(一八八七)八月二十日
公判開始以前の新聞附録で、まだ事実関係がはっきりしていないために、事件の原因についても二説の風聞を併記して、「種々入込たる事情もあらんか」と推測するにとどまる。峯吉殺しの現場を再現した絵画には、暗闇に二人の人物を浮びあがらせ、凶器の出刃包丁とともに傘や提灯を配するものが見られる。凶行は梅雨の夜の出来事であった。
近世人物誌やまと新聞附録 第十一号
今ハ酔月の女房お梅故は柳橋では小秀/新橋でハ秀吉とて三筋の糸に総を掛/け三弾の何でも宜と気随気まぐれで/鳴らした果五月の闇の暗き夜に以/前ハ内箱今ハ食客の峯吉を殺せし/事ハ普く人の知る所ながら彼を/殺せしといふ原因に二様あり一は/峯吉が平生よりお梅に懸想し言/寄ることも数度なりしが流石に面/恥かかするも気の毒とて風の柳に/受居りしを或る夜兇器をもつて/情欲を遂んと迫りしより止を得/ず之を切害せしといふにあり一ハ世に/も人にも包むべき一大事を峯吉に洩/せしに彼の同意をせざるより事の爰/に及びしともいふ二者何れが是なる/か公判の上ならでハ知るによしなし/唯お梅は是迄も情夫の自己につれ/なかりしを憤り之を害さんと威/したる事二度に及ベりされバ此度/の峯吉殺しも想ふに種々入込たる事情/もあらんか兎にかく凄き婦人なりかし
●高橋お伝 2
谷中の五重塔跡のすぐそばに「高橋お伝」の墓があります。明治の初め、毒婦としてその名をはせた「お伝」の墓ですが、右上に辞世の歌が彫ってあります。
   しばらくも望みなき世にあらんより 渡し急げや三津の河守
横の説明文では、上のように書かれているとしていますが、“三津”は“三途”だろうとおもいます。
この辞世の歌はお伝が歌ったとはおもえません。この墓の裏には、この碑の世話人として仮名垣魯文の名があります。多分、仮名垣魯文の歌でしょう。つまり、お伝が首切の刑に処せられてから、仮名垣魯文の戯曲が大当りして、いはば、そのデモンストレーションとして、建碑したようにおもわれます。その当時、仮名垣魯文はたいしたイベントプロデューサーだったのでしょう。
ちなみに、小塚原の回向院にもお伝の墓があります。この墓の方が小さくて本物らしく見えます。回向院は去年墓地の改装工事をして、古いお墓をまとめましたので、見つけやすくなりました。
お伝は今でいえば、単なる殺人犯なのですが、マスコミにとりあげられると、それがひとりあるきして、どんどん脚色されていき、遂にはこんなおおきなお墓ができてしまうというのは、現代にも同じように起きているようで、ちっとも進歩していないようにおもえます。今のマスコミのあり方を考えさせる碑と見ればいいのでしょうか。
●高橋お伝 3
南千住の回向院に、高橋伝のほんとうの墓はあるのだが、谷中墓地にも辞世の歌を刻んだ石碑が建っている。もっとも、こちらは『高橋阿伝夜刄譚』(たかはしおでんやしゃものがたり)でさんざん商売をした仮名垣魯文が、気がとがめたのか自筆を碑に彫らせて建立したものだろう。のちに魯文は、事実誤認と取材不十分を認め新聞紙上で(読者とお伝に?)謝罪している。黙阿弥も『綴合於伝仮名書』(とじあわせおでんのかなぶみ)という芝居を書いているが、こちらはヒロインをいちおう「玉橋お伝」と“仮名”にしてはいる。でも、ほどなく谷中のほうが墓所のように思われて、彼女の七回忌はここで鳴り物入りで賑やかに行われたらしい。
   暫くも望みなき世にあらんより 渡し急げや三つの川守
高橋伝の辞世歌だが、稀代の「毒婦」として彼女の名が残るのは、おそらく後世に描かれたことさらスキャンダラスな新聞記事や草子(読物)、講談、芝居などによる、無責任な脚色がほとんどだろう。忠臣蔵Click!とまったく同じセンセーショナリズムが、明治になっても変わらずに巷間で活きていたのがわかる。ハンセン病の夫を抱えて、ふるさとの上州を追われ、ほどなく横浜で借金を重ねた看病の甲斐もなく夫に死なれ・・・と、彼女の身に次々と起きた不幸の数々は、今日の眼から見れば周囲の差別観や男たちの狡猾さに呆れこそすれ、およそ情状酌量だらけの人生だ。
それが、女が男を殺害したという珍奇さから、当時のマスコミを中心に「毒婦お伝」や「お伝地獄」のイメージが捏造されていった。介護して死なれた夫までもが、のちには毒殺されたことになってしまう。浅草の連れ込み宿で、客を殺し11円(魯文草子では200円)を奪ったお伝は、死罪を言い渡されて市ヶ谷監獄に収監された。当時、死刑を言い渡された罪人は、いまからは信じがたいことだが執行を絞首刑か斬首刑から選ぶことができた。お伝は、斬首刑を選択する。
   子を思ふ親の心を汲む水に 濡ゝる袂の干るひまもなし
高橋伝が市谷監獄でこしらえた一首だが、これらの歌が後世に残されているのにはわけがある。斬首刑の執行人、八世・山田朝(浅)右衛門吉亮(よしふさ)が歌詠みの宗匠だったのだ。いや、山田家は三世・吉継(よしつぐ)のときから歌の宗匠資格を求めるようになっていた。「首斬り役人」(幕府から知行を得ていたわけではないので、厳密には役人ではない)を勤めるうちに、罪人が辞世の歌を詠む機会に何度も出くわし、また執行前に難しい漢詩を朗々と吟じられて、その意味がわからず恥をかいたことが何度もあった。だから、教養が高くなければ「首斬り役」は勤まらないということで、山田家ではことさら宗匠に匹敵する歌詩への教養を高めることになった。
山田朝(浅)右衛門吉亮は冷静な執行吏にしてはめずらしく、高橋お伝の執行をしくじっている。刑執行を見学していた横瀬夜雨の『太政官時代』(明徳出版社・1929年)でも、当の山田吉亮へのインタビューによる篠田鉱三の『明治百話』(岩波書店版・1996年)でも、斬りそこなった情景が記録されている。処刑前には落ち着いていた彼女だが、いざ執行する土壇場になって、最期にひと目だけ愛人に逢いたいと騒ぎ出した。「お待ちになって!」と声をかけられつづけ、首座がすわらずに彼女の後頭部を打ってしまった吉亮も無残だが、最期には「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えながら、斬りやすいように首を前へ伸ばしたお伝も哀れだ。

(前略)押え人足が左右から押えると、後の一人がおでんの足の拇指を握っています。これは向こうへ首が伸びるようにするためです。いよいよとなると、「待ってくれ」といいます。何を待つのかと思っていると、情夫に一眼逢わせてほしい、と頼むんです。「よし逢わせてやろう」といいながら、聞届けられるものではないから、刀に手をかけると、今度は急に荒れ出して、女のことだからキャッキャッと喧ましい。面倒なので検視の役人に告げようとすると、安村大警部が首をふって居られた。そこで懇々とその不心得を説いて斬っちまいましたが、斬り損ねたので、いよいよ厄介でした。死ぬ間際までその情夫の名を呼びつづけていました。

同じ証言の中で、山田吉亮は落ち着いたお伝の態度を見て、「手前が手がけた女の中では一番したたかもの」(同書)と断じているが、そこに世間のスキャンダラスな捏造記事やこしらえ話による予断はなかっただろうか? また、同日に刑を執行される男がブルブル震えているのを見て、お伝は「お前さんも臆病だね、男の癖にサ、妾(わたし)を御覧よ、女じゃァないか」(同書)と励ますのだけれど、これがまた山田をはじめ周囲にはふてぶてしく映ったようだ。執行直前の半分ふてくされたような態度に見える30歳のお伝に、あることないことをデッチ上げられてレッテルを貼られた人間の、投げやりで絶望的な開き直りが感じ取れないだろうか?
高橋お伝が、最後の斬首刑人のように言われることが多いが、これも誤りだ。先の『太政官時代』によれば、お伝のあとにも20代の女性の斬首刑がつづいて執行された記録が残っている。こちらはお伝とは異なり、静かな最期だったと記載されている。 
 
  

 

夜嵐お絹
夜嵐の覚めて跡なし夢の花 
●夜嵐お絹 1
「あの人はどうしましたか?」恋人との障害になる「主」を毒殺…“絶世の美女”が漏らした「さらし首」になる直前の言葉
江戸から維新を経て東京となった明治初期。世の中が大きく揺れ動く中で、ある一人の女性が起こした事件が人々の注目を集めていた。
明治4(1871)年に起きた「夜嵐お絹」事件は、「主」がいる妾の身で役者・嵐璃鶴に恋をした原田きぬが引き起こした殺人事件。「主」小林金平の目を盗んで逢瀬を重ねた二人だが、ある日小林に露見し会うことが出来なくなった。
思い詰めたきぬは、「恩も義理も、いとしい男には替えられない。小林を毒薬で亡き者にし、恋人と夫婦に……」と病に伏せる小林に毒を盛った――。
きぬは望みを果たしたが、その後はどうなったか。
〈近所や親類への連絡をこなし、自分の菩提寺である上野の壽昌院に行って「夫が亡くなり、16日に野辺送りをする」と伝えた。16日、小林家のきぬの後見役・吉左衛門と伊三郎が来訪。手助けを頼んで湯灌(ゆかん)をしていた折、小林の遺体の所々に色が変わっているのを吉左衛門が見つけた。不審に思って尋ねたが、きぬは知らぬ顔で「最初からよほど熱が激しかったためだろう」と間に合わせのうそを言いながら、流し目で吉左衛門を振り返る愛嬌は、天女の天下りか女菩薩が現れたよう。吉左衛門も魂を奪われて見とれていたが、何か思い当たることがあると見えて、詳しいことも聞かず、そこそこに遺体をひつぎに納め、壽昌院に送って葬った。誰も疑う者はなく、きぬはこれで障害がなくなったと晴れた心地がした。2月5日夕、久しぶりに璃鶴の家に行き、差し向かいでよもやま話をしていたが、何を思い出したか、きぬがキッと居直り、「恩ある旦那に一服飲ませて片づけたのは誰のためか」と言うと、璃鶴はビックリ仰天。「エー」とばかりにおののくのを「静かに」と押し静め、「邪魔は払った。なにとぞ一生連れ添って」という無理難題に、何の答えもできない璃鶴の心はいかばかりか――。〉
「いまさら何を考えるのか。男らしくない人ね」
ここで7月10日付記事は終わる。次は1日おいた7月12日。4回続きの最終回だった。
〈璃鶴はきぬの話を聞いて、あまりのことに身の毛がよだち、ものを言うこともできなかった。「この身を引き取ってくれ」と迫られ、元はといえば、「主」ある女と知りながら、いったん断った「逢瀬の橋」を心許して渡ったためで自業自得。いまさら悔やんでも取り返しがつかないと思いながら、どうかして言い抜けようと思案にくれていた。きぬは膝を進めて「いまさら何を考えるのか。男らしくない人ね」とほほえみつつ、肩に手を当てて振り動かした。璃鶴はホッとため息をついて唾を飲みこみ、「それほどに思ってくれてうれしいが、もしこのことが世間に知れれば、あなたは元より主殺しで、つながる縁の私も同罪。お互いに身を思い、先を思い、しばらくは遠ざかって世間の疑いを招かないようにするのが肝心。それを、旦那が亡くなって喪も明けないうちに夫婦になっては、ますます人の口に上り、身の破滅ともなる。壁に耳があるのが世の習い。油断はできない」ととっくり言い聞かせた。きぬもうなずき、「いとしい、可愛いという思いに耐えなければ。少しでも早く夫婦となって楽しい月日を送りたいと思うばかり。必ず悪く思わないでおくれ」とひたすらわびて別れた。〉
〈それからは浅草寺の塔頭の境内に移り住んだが、2月上旬、きぬは叔父・篠崎筍助を呼び、小林が生前金を貸し付けた証書を自分の名宛てに書き換えるよう依頼。小林の遺産を弟が一人占めし、きぬには全く入らなかったことから、小林が金を借りたように書類を偽造し、小林の弟にその金を請求する訴えを起こす悪だくみをした。しかし、「天網恢恢(天は悪を見逃さないというたとえ)」、かかる毒婦を見逃すはずがない。小林の病死に不審があることがひそかに取り沙汰されるうち、かつて璃鶴と密通していたことを近所の人が聞き知り、そこここでうわさが高くなった。その筋の耳に入り、同年7月10日、きぬは屯所に引き立てられて調べを受け、はじめは隠していたが、証拠を押さえられて、これまでにした悪事をつぶさに白状に及んだ。翌(明治)5年2月、斬罪のうえ小塚原に梟首され、璃鶴も徒(刑)2年半の刑に処せられた。「隠悪陽報」(隠れた悪事は報いが現れる)一段の長い物語はまずこれきり。〉
最後はあっさりしているが、公文書を基にしているためだろう。犯行が露見してお絹が検挙されるいきさつについてはさまざまな説がある。璃鶴の取り巻きの1人がお絹との“不倫関係”を暴露した、八丁堀の与力が活躍した……。記事の流れから見ると、吉左衛門が何かの役割を果たしたとも思える。
「恋に狂った妖艶」に言い渡された判決は…
「法務図書館所蔵史料にみる『夜嵐お絹』のことども」によれば、裁判が行われた場所は分からないが、判決言い渡しは、明治4年に司法省内に創設された東京裁判所で行われたとみられる。大正末期から戦前にかけて大審院(現在の最高裁判所)判事を務め、文筆家としても知られる尾佐竹猛が書いた「戀(恋)に狂つ(っ)た妖艶・夜嵐のお絹」=「明治大正史談4」(1937年)所収=には、きぬに申し渡された判決の内容が載っている(原文のまま)。
「其方儀、金平妾身分にて嵐璃鶴と密通(に)および剰(あまつさえ)戀(恋)慕之情彌(いよいよ)増(まして)金平を嫌ひ(い)、鼠取薬と唱候(唱しそうろう)品に而(て)同人を毒害(に)および、病死之趣に仕成(しなし=に見せ)内葬致し、其上、主人貸金可取立(取り立てるべし)と筍助外二人申合(申し合わせ)貸金證(証)文名宛等取直し、或(あるい)は證文取拵(取りこしらえ)る段旁々(かたがた)、右始末重々不届至極に付梟首申し付る   壬申(明治5年)二月二十日」
梟木の捨札と異なるのは、金銭詐欺未遂の罪状が書かれていることだろう。嵐璃鶴にも申し渡しがあった。
「其方儀、きぬと密通および、其後同人は小林金平妾之旨承(うけたまわ)り一旦相斷(断)る旨は雖申(もうすといえども)尚又度々密通致し、其上きぬ儀、金平を毒殺致す旨申聞(申し聞け)るを其儘(そのまま)打過(打ち過ぎ)候段、右始末不埒(ふらち)に付徒罪二年半申付る」
“最期の時”、彼女は突然あることを訊ねた
お絹の最期は、斬刑に当たった「首斬り朝右衛門」こと山田朝右衛門(9代吉亮)の証言がある。1908(明治41)年7月9日発行10日付報知夕刊に「夜嵐おきぬの處刑 白晝(昼)小塚原の打首」の見出しで掲載されている。要点を記す。
〈夜嵐おきぬのことを述べましょう。本名は原田きぬ、年齢は28歳でした。元来多情な婦人で、人の妻(妾)になりながら多くの俳優と関係した。獄中で璃鶴の子を宿したため、出産などで斬首の期日が延びまして9月26日、いよいよ処刑と決まりましたが、法規の改正で小塚原の刑場へ引き出し、公衆の面前において斬るということになりました。(小伝馬町の)牢を出る時、女囚連中が別れを惜しみ「お絹さん、未練を残さず往生を遂げなさいよ。これは私たちの志です」と申して、前々から飯粒を固めて数珠をこしらえ、百八煩悩百八顆(粒)紙のこよりを刺し通して渡す。それを持って刑場へ出ましたが、別に辞世も何もありません。白紙を半分に折って顔を覆い、荒むしろの上へ座らせる。縄取り(縛った縄を持つ役人)の話に「璃鶴さんはどうしました?」と聞いたそうですが、まさか達者で生きているとも申されませんから「蓮の台(うてな)で半座を分けているだろうよ」(あの世にいるという意味)と言い聞かしたら、涙をホロリと落として「かわいそうなことをしましたね」と吐息を吐いたとやら。おきぬの顔はというに、手前の見たところでは、大した美人とも思われなかった。細面ではあったが、色は青白くなって振るいつくほどの女ではない。特にさらすのですから、斬り方も普通とは違います。座りのよろしいように斬ります。時に正午、無事に済みました。〉
男関係については風評をそのまま語ったのだろう。執行日については誤って記憶しているようだ。この朝右衛門の話は篠田鑛造「明治百話」(1931年)にもほぼ同内容が載っている。同書の「著者の横顔」によると、篠田が報知新聞記者だったころ、朝右衛門から売り込まれ、報酬20円(現在の約4万4000円)を払った貴重な文献だという。
朝右衛門の回想とは逆に、読み物などにはお絹の「辞世」が紹介されている。「夜嵐のさめて跡なし花の夢」。璃鶴の姓になぞらえて詠まれ、ここから「夜嵐お絹」の名前も広まったが、これも草草紙「夜嵐阿衣花廼仇夢」を書いた岡本勘造(起泉)の創作のようだ。
「お絹の一件でむしろ名を挙げたようなものであります」
朝右衛門の回想通り、お絹は妊娠していた。歌舞伎の歴史を記した木下宗一「風雪第3(国難時代)」(1965年)によれば、その年(明治4=1871年)の11月8日、男の子を出産。子どもは璃喜松と名付けられ、商家に里子に出されたという。
同書や伊原敏郎「明治演劇史」(1933年)によると、お絹は当初、璃鶴も共犯と主張していたが、出産後、供述を翻し、素直に単独犯行を認めた。
嵐璃鶴は「明治演劇史」には「市川権十郎」として詳しい経歴が載っている。京都の出身で嘉永元年9月15日生まれ。本名・岡田菊三郎。富裕な商家の長男だったが、遊芸好きで11歳の時、子役がいなかったため、京都・南座で初舞台を踏んだ。嵐璃寛の弟子となり、家庭内の不和から江戸に出て人気を集めた。
刑期を終えて出獄したのは明治7(1874)年。元の記事が見当たらないが、「明治大正昭和歴史資料全集 犯罪篇上巻」(1933年)によれば、同年8月17日付「郵便報知」に「優者璃鶴は、かつて刑に処せられ懲役場にあったが、満期で昨16日、赦免になったという」との記事が載ったという。
「劇聖」と呼ばれた九代目市川團十郎に救いの手を差し延べられ、その門に入って市川権十郎と改名し、春木座(のちの本郷座)の座頭として活躍した。「背のすらりと高い、やせ型の品位のある風采だった」と同書。明治37(1904)年3月に57歳で死去した(「近世悪女奇聞」)。
お絹の運命とは裏腹に復活を遂げたわけだが、山田朝右衛門は報知の記事の中で「お絹の一件でむしろ名を挙げたようなものであります」と語っている。
事件から7年、新聞が取り上げて…
事件から7年、お絹の処刑から6年の歳月がたって新聞が取り上げ、草草紙になって人気が爆発した。「近世悪女奇聞」は東日の捨札の記事を挙げてこう書いている。
「右より詳しい詮索は、まだ誰もする者がいなかった。いわゆる『明治の毒婦』という読み物の興味は、まだ当時の市井にはなかったのである。しかるに、6年後の明治11(1878)年1月に出版された久保田彦作・揚州周延画の草双紙『海上新話鳥追お松』(錦栄堂版)第1巻が当たりに当たった。これが毒婦実録物流行のスタートになり、まだ世人から忘れられていなかった数年前の夜嵐お絹の実録が、鳥追お松出版後わずか半年足らずの6月から岡本勘造作・永島孟斎画『夜嵐阿衣花廼仇夢』と題して全8編16冊となって出、これまた大当たりになったため、翌12年2月から高橋お伝の実録草双紙が出、それ以降、キビスを接して毒婦物の実録が、はじめ草双紙、さらにボール表紙本へと移行して輩出することになる」
早稲田大教授などを務めた本間久雄は、毒婦ものが当時一般に愛読された原因を「作そのものよりもむしろ挿画である」と言う=「明治初期毒婦物の考察」(「明治文学名著全集第5巻」1926年)所収。
「至るところにある挿画の血みどろなブラッデー・シーンや春画式のエロチック・シーンが、作そのもの以上に作の内容を説明して、読者の脳裏に毒婦的観念を印象させ、悪魔主義的色彩を印銘させたのではなかったろうか」
同書は付け加えてこう書く。
「明らかにその時代そのものの影響である。たとえ維新になったとはいえ、台湾の役やら西南の役やら、引き続いて起こる戦乱のために、まだ一般的に世間が血なまぐさく、乱雑で、従って風紀の取り締まりなども行き届かなかったので、性的方面でも、かなり猥褻に流れることが自然でもあった。同時に、人間の本能欲から、その虚に乗じて、今のわれわれが想像する以上の猥褻が行われていたという、その時代そのものの影響である。さらに言葉を換えて言うと、以上の残酷な挿画や卑猥な挿画は、この血なまぐさく乱雑な時代そのものを代弁したものであるともいえるのである」
伊藤整「日本文壇史第1(開化期の人々)」もこう分析する。
「これらの毒婦物語は明治10年の西南戦争ごろから盛んに読まれていた。西南戦争は一面では明治政府に対する反抗がもはや成功せぬことを人民に悟らせ、政府の人民に対する絶対的な圧力を確立させた。だが他面では、莫大な戦費のためにインフレーションが起こり、商人や農夫が思わぬ収入を得、都会生活の旧士族や俸給生活者の生活は物価高騰で困難になった。戦争の残忍な心理的影響とインフレーションによる生活の大きな変動は、市民たちの生活を乱し、女性たちもその影響を受け、事実上、生活の波に追われて男から男へと移り歩く浮動的な女性が出てきたのである」
「毒婦」「妖婦」と呼ばれた「小娘」
人気が爆発した「毒婦夜嵐お絹」の物語はいろいろなメディアで格好の題材となった。1882年の雑誌「近事譚」は、歌舞伎の演目として上演されたとして、そのあらすじを載せている。
そこでは相手は歌舞伎役者ではなく講談師になっている。その講談でも何人もの講釈師に高座で取り上げられた。スクリーンでは1913年、日活向島撮影所の「夜嵐おきぬ」をはじめ、戦後まで繰り返し映画化された。ヴァレリー・ダラム「明治初期の毒婦物における悪女造型のレトリック その(1)」=「東京経済大学人文自然科学論集」(1990年)所収=はこう指摘している。
「江戸時代でも、何らかの形で社会の掟を破って『悪女』として名を馳せた女性たちがいなかったわけではないが、『新聞』の誕生を契機とし、こうした女性たちに関するニュース性の極めて高い情報は、より速く民衆の間に流布することになった。このように、毒婦物というジャンルの開花を主に可能にしたのは、近世以来の文学形式、そして新しい時代のニュース機関という二つの要因であると思われる。」
その間に次々フィクションが紛れ込み、中には、元の事実とは似ても似つかぬ内容のものも。
「原田きぬを主役とする殺人事件は、格好の素材として表舞台に引っ張り出され、必ずしも史実に合致しない脚色を付加されて、新たなイメージとともに人々の脳裏に焼き付けられていったと考えることができる。」
「法務図書館史料にみる『夜嵐お絹』のことども」はそのように述べ、さらに付け加える。
「そして、それ以後の時代を生きた人々の多くは、事の真実はともかく、明治維新直後の女性犯罪者としての『夜嵐お絹』の名前を長く記憶にとどめることになり、併せて『夜嵐お絹』事件は、明治犯罪史を編むに際し、欠くことのできない一項目となっていったといえよう」
対して「明治・大正・昭和呪われた女性犯罪」(1965年)で作家・清水正二郎は「夜嵐お絹。その名は高い。第一、夜嵐と上につけば、誰でも何となく、物凄いその道のベテランを想像する。しかし現実には、彼女のやった犯罪はごく小さいものだし、その心情は哀れである」「どうも彼女の場合は、死後につけられた名前が大げさすぎたようだ」と言う。
読み物の内容からの感想だが、一聴に値する。
「たのみ難き男心をたのんで、一生を無にしてしまった女心は哀れである。彼女の死後、無責任な戯作者たちが情夫の嵐璃鶴をもじって夜嵐お絹などと騒いだが、この本名・原田きぬ、24歳(29歳の誤り)でこの世を去った女は、まだほんの小娘で、決して毒婦だとか妖婦だとかいわれるほどの存在ではなかったのである」
●夜嵐お絹 2
[本名:原田きぬ] 明治5年2月20日(1872年3月28日)、東京浅草で女の生首が晒された。捨札にはこうある。
「東京府貫属、小林金平ノ妾ニテ、浅草駒形町四番地借店、原田キヌ。歳二十九。此ノ者ノ儀、妾ノ身分ニテ嵐璃鶴ト密通ノ上、金平ヲ毒殺二及ビ候段、不届至極二付、浅草二於テ梟首二行フ者ナリ」
要するに、29歳の元芸者、原田きぬは妾の身分でありながら嵐璃鶴という歌舞伎役者と不義密通を重ねた上、主人を毒殺したために梟首(きょうしゅ=晒し首)を云い渡されたというわけだ。なお、現代人の我々には「妾の身分でありながら云々」は些か奇異に感じられるが、当時は妾を持つことは公然と認められており、妾といえども貞操を要求されたのである。
事件を報じた2月23日付の『東京日日新聞』によれば、きぬは2月20日に小塚原刑場で処刑され、その日から3日間晒されたという。美人だったそうだ。そして、これまでに何人もの役者を手玉に取って来た毒婦であると断じている。しかし、この記事には金平がどのような方法で毒殺されたのかについては記されていない。おそらく殺鼠剤(=砒素)の類いを食事に混入されたのではあるまいか。また、『新聞雑誌』明治5年2月号によれば、きぬは逮捕された時に身籠っており、獄中で男子を出産し、身寄りに預けられたという。出産を待って処刑されたのだろう。
この事件は巷では「夜嵐おきぬ」を呼ばれて大評判となった。元芸者の美人妾と美少年の歌舞伎役者という取り合わせが、市井の人々の心を掴んだのだろう。新聞雑誌は彼女のことを大袈裟に書き立て、3巻セットの読み物まで出版された。即日完売するほどの人気だったという。やがて芝居が上演され、繰り返し映画化もされた。新東宝の『毒婦夜嵐お絹と天人お玉』(57)が今のところの最後の映画化である。ちなみに「夜嵐」とは、浮気相手の芸名「嵐璃鶴」と、きぬの嵐の如き乱行ぶりを掛けたものとするのが定説である。きぬの辞世の句「夜嵐のさめて跡無し花の夢」から取ったとの説もあるが、彼女は辞世の句を残していない。この句は後の創作である。
なお、浮気相手の嵐璃鶴もまた不義密通の罪で3年の徒刑を云い渡されている。釈放されたのは明治7年9月のことだ。その後は市川権十郎と名を改めて歌舞伎役者を続けたという。 
●夜嵐お絹 3
湯殿での戯れ
夜嵐お絹(よあらしお絹)は、幕末から明治初期に実在した毒殺犯で本名原田絹(はらだきぬ)といいます。出身地については、諸説ありますが1840年、三浦半島城ヶ島の漁師・佐次郎の娘として生まれたそうです。16歳の時に両親と死別し伯父に引き取られますが、すぐに江戸に出て浅草仲見世の半襟店で働きました。お絹は大変な美人であったことから連日のように、大勢の客が押し寄せ店は大繁盛だったそうです。たまたま、浅草参りに行っていた烏山藩(栃木県)藩主・大久保忠美が、この美人のお絹を見初めて、お供に命じて伯父を連れ立って下屋敷に来るように命じました。(出会は芸妓のお絹を見染めて、芝居小屋に出ていたお絹を見染めてなど諸説あります)
お殿様自ら伯父に、お絹を御部屋様(側室)として迎えたいと頼んだそうです。当時、側室になることは、名誉であるばかりか莫大な支度金がもらえるため、願ってもないお話だったのです。もちろん漁師の娘からすぐには武家には入れませんから、一度しかるべき家の養女となり、そこからあらためて側室として迎えることになるのです。
話がまとまり名も「花代」と改め、半月ほどで側室としてお城に上がりました。
安政末に編纂された「烏山家家譜」によれば、忠美は24歳年下のお絹を溺愛して、毎晩のようにご寵愛したそうです。1857年、花代はお世継ぎの「春若」を出産します。しかしその3年後に、忠美は病で逝去してしまいます。
わずか45歳の若さでした。
お絹は当時の慣例に従って名を「真月院」と改め、仏門に入ります。しかし、普通の武家の娘ならこの後、生涯亡き夫の冥福を祈る生活を送るのですが、もともと信仰心の薄い漁師の子ですから17歳の子供にはそのような生活は馴染めなかったたのです。やがて欝状態になります。医師の勧めで箱根に転地療法することになり、お供をつれて箱根に行きました。箱根は奈良時代から続く名湯で江戸の絵師・鳥居清長の「箱根七湯名所」の絵で一躍有名になり人気が出て、沢山の人が湯治として利用していたそうです。
箱根逗留が10日ほどしたある夜、湯船につかりながら、満天の空を見上げていました。その夜はこうこうと月が輝いて静寂とした露天湯殿を照らしてました。お絹は、湯船のそばで火照った身体を夜風で涼ませながら江戸のことや亡き夫のことを考えてました。そして、思いおこせば主人を亡くしてからこのかた、男との交じあいもなく17歳の若さで寂しく仏門に入ってこうして男を近づけない生活を1年近くになろうとしている。
「浅草お絹」「江戸一の器量よし」と騒がれた日々を思うと、なんと侘しいことかとわが身の不憫を嘆くのでした。
愛おしさが増してそっと胸に手をやりました。未亡人とは言え、まだ17歳の若さです。持て余すような劣情に襲われ、人がいないのを幸いに淫らな気持ちをそっと慰めました。目が潤み顔を赤く上気させ息を弾ませてたその時、突然男が入ってきました。急なことで驚いたのですが、とっさに足を拭う仕草をして誤魔化しました。
こんな処で恥ずかしい
「気づかれたかしら?」とドキドキしながら、それとなく男の様子を見ると25、6歳のきれいな顔立ちの男でした。
それが「後家殺しの業平」とあだ名される日本橋の呉服商紀伊国屋の伜「角太郎」でした。
当時の温泉は混浴でしたから男が湯殿に男がは入ってきてもしかたがなかったのですが、慣れているとは言え男の視線は恥ずかしいと感じるものです。でも深夜遅く、人目もない場所、男恋しさに悶々とした女、後家殺の男、薄暗い湯場・・・と条件が重なれば何も起きないはずもなく、すぐにただならぬ関係になってしまいました。お絹はあっという間に洗い場に身を横たえて、激しい角太郎の動きに身を任せていました。こうして箱根逗留の間、何度も愛し合いました。江戸に戻ってからも二人の関係は続き、角太郎が足繁くお絹の元に通う生活がはじまりました。
しかしやがて「真月院」が毎晩乱行していると言う噂が、大久保家の知るところとなり、お絹は追放されてしまいます。もちろん角太郎とは別れ離れになってしまいます。
それからしばらくは、定かではありませんが、26歳の頃にお絹は浅草で芸者の生活を送っていました。
お座敷に出てまもなく、高利貸しをしている小林金平という老人に目をかけられ、身請けされます。浅草の歌舞伎三座付近の猿若町に妾宅を設け住むことになりました。小林はケチな男でしたが、お絹にだけは求めるものなら何でも与えてました。昔の妾は一軒屋を借りてもらい、通いの女中をつけてもらのが普通で、生活費の他になにがしかの小遣いをもらうなど何一つ不自由のない生活を送れることが出来たのです。そんな折に、旦那の小林に金を借りに来る「伊之助」という遊び人と親しくなります。カレは役者の知り合いが多いことから退屈まぎれに役者を紹介してもらいました。紹介といっても、ただ会うだけでなく、金でHをする「役者買い」のことです。「可愛い子はH好き」の例えの通り、お絹も多情な女でしたから、金にあかして次から次へと役者を買いあさっていきました。
事件後の新聞報道によれば市川団蔵、尾上菊五郎、市川女寅、助高屋高助、坂東家橘など、当時名優と呼ばれた役者のほとんどと関係をもっていたそうです。お絹の役者狂いが頂点に達したころ、伊之助が連れてきたのが美少年の役者「嵐璃鶴(りかく)」でした。上方歌舞伎出身の役者でした。見たこともないくらいの優しい顔立ち、年下の愛くるしい笑顔にお絹はぞっこん惚れてしまいます。いつしか、璃鶴なしではいられなくなったお絹は、三日にあけず、向島の待合所で逢瀬を楽しんでいました。
夫婦になりたい一心で
いつものように、激しい情事の後で布団の中で横になっていると、璃鶴が煙草を吸いながら突然つぶやくようにして「お絹はん、わてのこと忘れたら承知しまへんぇ。うちとお絹はんは旦はんがいなければ夫婦ですよって」と耳元でささやきまました。夢心地の境地に漂っているお絹には、璃鶴の甘い声にうっとりとして、璃鶴の歯の浮くようなおべんちゃらに生娘のように赤くなってうなずいてました。もう一度と腕を絡めると、璃鶴はお絹の胸に顔を埋めてきて、再び歓楽の世界に落ちていくのでした。お絹は「旦那さえいなければ」という言葉が心に残り、頭の中でぐるぐると幾度も繰り返してしまうのです。
やがて二人っきりの生活を夢見ている自分がいました。こうして、しだいしだいに旦那の小林が疎ましくなっていくお絹でした。
ある日、伊之助にこのことを相談すると「旦那にいなくなってもらうのには石見銀山(殺鼠剤)を葛湯の中に混ぜるのが一番ですぜ」と教えられます。そしてお絹はこの恐ろしい計画を実行します。言われたように葛湯の中に殺虫剤を混ぜて小林を殺害したのです。小林は口から泡を吹いて、あっというまに死んでしまいました。
その後も、そ知らぬ顔で璃鶴との密会を楽しんでいたお絹でしたが、伊之助が口を滑らしたことで噂が立ちついには二人とも逮捕されてしまいます。昔は、不義密通はご法度で妾でも厳しく貞操を要求されていたのです。
1871年(明治4年)5月に小伝馬町に繋がれた時、お絹は璃鶴の子を宿していて子供を生むまでの5ケ月間は刑の執行は延期されました。10月1日璃鶴の子を産んで、1872年(明治5年)2月20日小塚原刑場(南千住)で打首の刑で処刑されます。断頭後三日間は処刑場で「梟首」(きょうしゅ=さらし首)に処せられました。
「夜嵐の覚めて跡なし夢の花」(美しい花のような生涯でしたが、今は嵐のあとのように消えてしまいました)と辞世の句を残し短い生涯を閉じます。
また浮気相手の嵐璃鶴も不義密通の罪で3年の徒刑を云い渡されました。明治7年9月に釈放され、市川権十郎と改名改して歌舞伎役者を続けたといいます。
処刑後10年も経たぬうちに『其名も高橋毒婦の小伝』を書いた岡本起泉が『夜嵐阿衣花廼仇夢』を発表して毒婦夜嵐お絹の事件が広まり講談、芝居となりました。

1872年(明治5年)2月20日お絹の首をはねたのは、高橋お伝などを処刑した有名な人切浅右衛門でした。
また遺体の一部は、杉田玄白らにより「解体新書」(1774年刊)を書く上で役立ったそうです。お墓は、刑死された後に「回向院」(荒川区南千住5-33-13)にあります。このお寺は刑死者を供養する為に寛文7年(1667年)に建立されたそうです。境内にはお絹の他にも「吉田松陰」「高橋おでん」「鼠小僧次郎吉」など有名人の墓があります。
●夜嵐お絹 4
夜嵐おきぬ(よあらし おきぬ)は、幕末から明治初期に実在した毒殺犯原田きぬ(はらだ きぬ、生年不詳、弘化元年(1844年)説 - 明治5年2月20日 (旧暦)(1872年3月28日)をベースとして生まれた新聞錦絵等における登場人物及び後年製作された映画作品のタイトルである。
原田きぬ本人については処刑の時に発行された「東京日日新聞」の資料があるが正確な資料は少ない。夜嵐おきぬの物語は現実の原田きぬのそれというよりは、それに脚色を加えたフィクションである。木下直之は夜嵐おきぬの物語について「物語も画像も必ずしもキヌの事件に必ずしも内在する必要はなく、戯作者と絵師の判断に委ねられる」と述べている。
ストーリー
1844年あるいは弘化前後の時代に、三浦半島城ヶ島の漁師・佐次郎の娘として生まれたらしい。彼女は16歳のときに両親と死別し、伯父に引き取られ江戸に出て芸妓になった。「時尾張屋」において「鎌倉小春」と名乗りその美貌から江戸中の評判を取る。
そのとき、大久保佐渡守(下野国那須郡烏山藩三万石城主)に見初められ、黒沢玄達(日本橋 (東京都中央区)の医者)を仮親とし、大久保家の御部屋様(側室)となり、名を花代と改めた。安政4年(1857年)、お世継ぎの春若を生んだが、その三年後に土佐守は44歳の若さで逝去し、二人の新婚生活に終止符が打たれた。
花代は当時の慣例に従って仏門に入りることになり、名を「真月院」と改め、亡き夫の冥福を祈る生活に入った。
しかしながら、これは半ば強制されたもので、真の信仰心から仏門に入ったのではなかったので、そのような生活には馴染めなかった。やがてうつ病状態になり、勧める人があって箱根に転地療法に出かけることになった。
しかしながら同所で「今在原業平」の異名を持つ日本橋 (東京都中央区)の呉服商紀伊国屋の伜、角太郎と出会うことになり、やがて二人は恋に落ちた。江戸に戻った後も二人の関係は続き、角太郎がきぬの元に通う生活が始まった。だが、そのような禁断の恋が許されるはずもなく、やがてその乱行不行跡が大久保家の知るところとなった。そして、きぬは同家から追放された。その後、角太郎に縁談話が持ち上がり、彼の足はおきぬから遠ざかっていった。
その後きぬは元の芸者の生活に戻ることになった。戊辰戦争時、旧幕府時御鷹匠であり、その後金貸し業を生業としていた東京府士族小林金平が、明治2年おきぬを気に入り身請けした。そして彼は浅草の歌舞伎江戸三座付近の猿若町に妾宅を設けおきぬを住まわすことにした。小林はきぬを溺愛し、彼女の求めるものなら何でも与えた。
彼女は歌舞伎役者の璃鶴(「璃鶴」は三代目嵐璃珏の俳名、後の二代目市川権十郎)との役者買いにのめり込んだ。恋人との結婚を願い、障害となる旦那である小林金平を殺鼠剤で毒殺した。
逮捕、裁判にかけられたとき、彼女は妊娠していた。死刑判決を受けた後、出産まで刑の執行が延期され、小塚原刑場で処刑された。当時近代刑法が確立しておらず、断頭の後三日間獄門に処せられた。執行に際し残した辞世の句「夜嵐の さめて跡なし 花の夢」から、きぬは「夜嵐おきぬ」と渾名で呼ばれるようになったと物語上はなっている。しかし、実際のキヌは辞世を残してはいないという(『明治百話』)。不義密通に対する罪で璃鶴は懲役3年だった。
なお、蜂巣敦は大久保忠順がお絹を妾にしたが世継ぎが生まれたので捨てたところ、その放浪先で殺人事件を起こしたのだとこの事件の顛末を記述している。
フィルモグラフィ
この事件は当時センセーションを巻き起こし「毒婦夜嵐おきぬ」事件として世に知られることになった。
きぬの処刑後10年も経たぬうちに岡本起泉が『夜嵐阿衣花廼仇夢』(1878年 - 1880年)として小説化している。
さらに後年、映画の主題となった。
●夜嵐お絹 5
明治時代を代表する「毒婦」と言えば、日本最後の斬首刑となった高橋お伝が有名であるが、華やかさで言えば、この人の右に出る女性犯罪者はそうはいないだろう。
明治5(1872)年2月20日、小塚原刑場(現在の東京都荒川区南千住2丁目)にて「原田きぬ」という20代後半の女性が、首切り処刑人・八代目山田浅右衛門の手によって斬首刑にされた。
「原田きぬ」にはピンと来なくても、「夜嵐おきぬ」という名前には聞き覚えのある人もいるかもしれない。「夜嵐おきぬ」は幕末から明治初期に実在した毒殺犯で、その物語は後に映画や講談の題材となった。
彼女の「華やかさ」は生前に関係を持った男性の職業による。きぬは、人妻でありながら、当時の有名な歌舞伎役者・嵐璃鶴(あらしりかく・後の二代目市川権十郎)と男女の関係となっていた。
璃鶴は歌舞伎界屈指の美青年として知られており、今で言えば「アイドルが人妻と不埒な恋愛」というところか。
璃鶴にぞっこんなきぬは、璃鶴と一緒になるため旦那を殺すことを決意。殺鼠剤で毒殺したのである。
きぬと璃鶴はめでたく結ばれるはずだったが、きぬが璃鶴に「旦那を殺した」ことをしゃべったためか、役人にばれて半年後に逮捕。すぐに死刑が決まったが、きぬはこの時、璃鶴との子供を身ごもっていたため、すぐには処刑されず、出産を待ち、明治5年(1872年)2月20日に斬首刑となったという。
なお、きぬの最後だが、様々な逸話があり、「夜嵐おきぬ」という通り名は、彼女が最後に読んだ辞世の句(「夜嵐のさめて跡なし花の夢」)から来ているという説もあるが、実際は読んでいないとされ、また、大人しく刑に処されたのは、愛する璃鶴がきぬより先に処刑された(実際は禁固3年ほど)と役人が嘘をつき、後を追うつもりで処刑されたという説もある。
「夜嵐おきぬ」は実在した犯罪者だが、現在伝わっているものについては創作も多いという。
●「夜嵐お絹」事件
明治時代は正味約44年。その中で性格は大きく変わっている。明治初年は、長かった江戸時代の雰囲気がまだ色濃く残っている。
今回取り上げる「夜嵐お絹」の事件も、ネーミングからして大時代で芝居がかっている。実際に事件が起きてから7年後、「草草(双)紙」(くさぞうし=江戸中期以降流行した、挿絵を中心の通俗小説)で人気が沸騰。犯罪に絡んだ他の女性と合わせて空前の「毒婦ブーム」を巻き起こした。
そこには、江戸から明治維新を経て東京となった社会と人々の動揺が大きく影を投げ掛けていた。文中、いまは使われない差別語、不快語が登場するほか、敬称は省略する。なお、1872(明治5)年11月以前は太陰暦(旧暦)、以後は太陽暦(新暦)で表記。
「密通」「毒殺」、そして「さらし首」
当時の新聞の保存状況も関係して、この事件に関する新聞記事は極めて少ない。発生・検挙時の記事も残っていない。「夜嵐お絹」=本名・原田きぬ(キヌ)=の死刑執行を報じたニュースがあるだけ。それも官庁発表がベース。漢字とカタカナで瓦版に毛が生えたような東京日日新聞(東日=現毎日新聞)だ(原文のまま)。
「明治五年ツチノト(己)申(さる)二月廿(二十)三日
 西洋(西暦)千八百七十二年四月第一日 
 日曜日
 第三號(号)
 晴寒暖計五十九度(華氏=摂氏15度)」
こんな題字の後に地所売買を認める「公聞(公告)」や、フランスでの体験から乗馬を戒める説があるという話題、大阪の劇場移転が許可されたニュースの後に次のような記事が――。
「捨札の寫(写=うつし)
 東ケ井(東亰=東京)府貫ゾク(貫属=本籍)
 小林金ペイ(平)妾(めかけ)ニテ
 浅草駒形チヨ(ョ)ウ(町)
 四番借店(借家)
 原田キヌ
 歳二十九
此(この)者ノギ(の儀)妾ノ身分ニテ嵐璃鶴トミツゝ(ツ)ウ(密通)ノ上、主人金ペイオ(ヲ=を)毒殺ニ及ブ段不届至極ニ付、浅草ニオイテキヨウボク(梟木=梟首)ニオコナウ者也
ミギ(右)ハ當(当)二十日ヲン(御)仕置トナリ昨廿二日迄(まで)三日ノ間、同處(処=所)ニ晒(さらし)アリタリ。猶(なお)リカク(璃鶴)ノ處置ハ次號(号)に出ス」
「妾」は「その男性と肉体関係を持ち、生活を保証されているが、正式な妻としては扱われないで暮らす女性」(「新明解国語辞典」)。当時は妻に準じて扱われ、配偶者以外と性的関係を持つことを罰する「姦通罪」が適用された。
「梟首」とは「さらし首」。斬罪の後、斬られた首を公衆の面前にさらされることだ。まだこの時点では江戸時代以来の刑罰が維持されていた。「捨札」とはさらし首に添えて罪状を記した立て札のこと。ここまでがその内容だが、記事は続く(現代文に書き換える)。
あまりに美しい声の「絶世の美女」
「評者いわく
この女、(美貌は)玉貔・季妃・西施を欺き、美声は迦陵頻伽のようだ。その通り、加えてそのみだらなことはこの通り。実に恐るべきは毒婦の色気である。璃鶴も非常に美丈夫で、これまで何人もの女を惑わしてきた。災いはついにここまでに至った。遊び人は必ず溺れるもの。問題は遅いか早いかだけだ。
蛇食うと聞けば恐ろし雉子(キジ)の声」
「評者」というが、記者個人の感想か街のうわさのたぐいだろう。「玉貔」「季妃」「西施」は、いずれも中国で絶世の美女といわれた女性。「迦陵頻伽」とは、仏教で極楽浄土に住むといわれる想像上の生物。声が非常に美しく、仏の声と形容される。美声の美女という最上級の表現。最後に狂句を置くあたりが教訓めいていて、当時の新聞らしい。
事件の経緯が書かれた公的資料はないと見られていたが…
「夜嵐お絹」が登場する読み物は数多いが、事件の経緯について書かれた公的資料はないと見られていた。
ところが、法制史の権威である霞信彦・慶応大名誉教授は「刑政」1995年4月号に載せた論文「法務図書館所蔵史料にみる『夜嵐お絹』のことども」の中で、法務省所管の法務図書館が所蔵する明治初期の刑事裁判史料の一つ「諸府口書(しょふくちがき)」に、口供書や処断決定書など原田きぬの一件記録が収められているのを発見したと書いている。
しかし、法務図書館の蔵書検索システムではどうやっても該当する史料が出てこない。やむを得ず、同論文で「表現を異にする個所はあるものの、大筋で両者の内容がほぼ一致する」とされた郵便報知新聞1878(明治11)年7月8日付から4回続きの記事を見る。書き出しはこうだ。
「毒婦きぬが俳優嵐璃鶴に姦通して主人を毒殺せし科(とが)より斬罪に處せられ、梟首になりしとは、皆人の知るところなるに、先頃魁(さきがけ)新聞紙にて其経歴と積惡(悪)との緒(いとぐち)を記せし後ち(のち)「夜嵐阿鬼奴(衣)花廼仇(婀娜)夢」と題せし草双紙まで物せしが、今記者が探り得し所とは大に異なるものなしとせず。志(し)かし、高(たか)が市井の一姦婦の行跡、且(か)つ極(ごく)の舊(旧)聞なれば、今更雑報欄内を塡(埋=うず)むるは本旨に悖(もと)るとの憚(はばか)りなきにあらねど、若き女の戒めにもと、迷わぬ先の道しるべと老婆心切めかして苟(いささ)か此(ここ)に記す」
世間に流布されている説とは違う、と書くのは内容に自信がある表れか。だが、記事は文語体で芝居ががっており、ニュースというより読み物。「に」「が」「は」などは実際は変体仮名が使われ、いまの人には読みづらい。ここからは現代文にして要約する。
「あさましい女が色欲界に沈んだからは…」
〈きぬは姓は原田で、父は旧幕府時代、重役を務めた若林佐渡守の家臣で原田大助と称していた。
きぬが3歳の弘化3(1846)年、暇を出され、(神田)小川町の都筑長三郎に仕えたが、安政5(1858)年、きぬが16歳の時、そこからも暇を出された。娘を抱えた夫婦は売り食いで暮らしに困窮。住居も弓町(本郷)の借家に移ったが、その年に父母とも帰らぬ人となった。
きぬは叔父の原田周平を頼って養われたが、同年9月ごろ、下谷御徒町に住む元御家人の小林金平の妾にまで成り果てた。小林はそのころどんな仕事をしていたのか、大金をたくわえ、人からも徳があると尊敬されており、きぬも何の不足もないばかりか、衣装、道具、髪飾りまで恵まれた絶頂の生活。「散りてぞ花はめでたかりけり」と人もうらやむばかりだった。
慶応3(1867)年の末、京阪地方から不穏な情勢が広がり、翌年春、戊辰戦争が始まったため、小林は小梅村(現東京都墨田区)に転居。同居をはばかって、明治2(1869)年12月、猿若町(現東京都台東区)の寮を借りてきぬを住まわせた。
人情は抑えるのが難しく、一つかなえばまた一つを望むのは世の常。正邪を計り知らぬあさましい女が色欲界に沈んだからは、身に受けた人の恩恵を打ち忘れ、恩義にもとる煩悩の暗闇に真理の光も陰り、花を吹き散らす。きぬが嵐璃鶴を見初めたのは翌(明治3=1870)年10月上旬のことだった。〉
女性蔑視の表現が目につくが、下級武士の家に生まれた娘が次々不運に見舞われたすえ、正式な結婚ではなかったものの、生活に不足のない境遇を得た。ところが――というストーリー展開。
別の資料に記されていた「売れっ子芸妓」時代
小説家・時代考証家だった綿谷雪の「近世悪女奇聞」(1979年)の「夜嵐お絹」の項は、叔父のところへ行ってからのことや時間経過が郵便報知の記事とはだいぶ異なる。
叔父によって「妾奉公」に出されたが、住んでいた家が焼け出されたため、猿若町の芝居茶屋経営者のもとに身を寄せた。そして明治維新後、26歳のときに「志女屋の小ぬき」という名で芝居茶屋の芸妓に。器量がいいので売れっ子となり、客だった小林金平に見初められたという。読み物などでは、「妾奉公」に行ったのは家督を譲った隠居の大名になっている。
猿若町は現在の浅草6丁目付近。幕府は天保の改革で各地にあった芝居小屋を浅草にまとめて移し、猿若町と改称した。「江戸三座」と呼ばれた中村座、市村座、森田座があって「芝居町」として繁栄した。
芝居町には芝居小屋に付属して芝居茶屋があった。「遊里の引手茶屋、相撲の相撲茶屋と同じような一種の劇場の付属機関で、見物のために、今日でいえばプレイガイド、その他食堂、休憩場を兼ねた存在であった」=「講座日本風俗史第6巻」(1959年)。
猿若町にも数多くの芝居茶屋があった。「芝居のはねた後には、待合と料理屋を兼ね、幕末には『櫓下芸者』という芝居茶屋専門の芸者も出現しており、御殿女中が役者との出会いで事件を起こした絵島生島の場合も、この芝居茶屋が発端を成した」(同書)。
山本夏彦「無想庵物語」(1989年)は明治時代の芝居茶屋を「華族や銀行頭取の夫人が役者や力士を買う場所である」と書いている。金に余裕がある「有閑婦人」が隣の芝居小屋から役者を呼んで酒食を共にすることはその世界での常識だったようだ。
狂い始める彼女の運命
郵便報知の記事は二人の出会いを具体的に書いていないが、そうした“役者買い”だったことは間違いないと思われる。ここから彼女の運命の歯車は狂っていく。記事は続く。
〈幕の間に楽屋に忍ぶ恋路さえ気ぜわしく、都合が折り合わずに積もる話も打ち明けられず日を過ごした。「これではきりがない」と度胸を決め、ある日の夕方、約束して璃鶴の家を訪問。きょうは人目もないから互いに心の謎を解いて、罪を酒にかこつけて夜の更けるまま転び寝の、暁を告げるカラスの声が二人の仲を取り結ぶ。この仇夢(艶っぽい夢)が身を亡ぼす種とは知らなかった。
これからきぬは璃鶴のことが忘れられず、恋しいと思えば思うほど、小林を嫌って、そばにいるのさえいとわしく、言葉を交わすのも腹立たしくなった。たびたび暇をくれるよう言ったが、小林は疑うばかりで聞き入れない。
そのまま月日が過ぎたが、これほど思い込んだ恋が休むはずはない。ついによからぬ心を起こし始め、あさはかにも、王子稲荷への参詣からの戻り道、板橋の「縁切り榎(エノキ)」の皮をはいで持って帰り、事情を知っている「下女」に、小林が帰宅したら、うまくだまして飲ましてくれと頼んで璃鶴のところへ出かけて行った。〉
「ゆうべはどこへ泊まった」と核心を突く言葉が…
ここまでが郵便報知7月8日付記事の内容で「以下次号」とある。中山道の最初の宿場・板橋宿に「縁切り榎」があり、その皮をはいで煎じ、別れたい相手に飲ませると縁が切れるという言い伝えがあった。このあたりはまだ可愛げがあった。だが、事態はエスカレートする。次号7月9日付の記事は――。
〈小林が猿若町に来てみると、きぬはおらず、夜が更けても帰らない。何か理由があると思ったが、どこへ行ったか分からなかった。思えばこのごろ、しきりに暇を乞うだけでなく、変なそぶりも見える。問いただしてみなくては、と思いつつゴロリと一人で寝た。
そのころ、そうとは知らないきぬは璃鶴の家で酒を酌み交わし、夜明け近くに寝た。日影に驚いて身支度もそこそこに、頭巾をかぶって人目を避け、やっと家に帰ってきた。小林はきぬをハッタとにらみ「ゆうべはどこへ泊まった」と“うなじに五寸釘を打つ”(核心を突く)。
ハッとばかりに平伏して言い訳にも口ごもるきぬの襟首を捕らえ、手元のキセルを取って所構わずめった打ち。隠し立てもできず、きぬは、璃鶴とこうこうこうなったと打ち明け、「これからは心を入れ替えてどんなことも辛抱するから、今度の不始末はどうか許してほしい」とわびた。小林も根が首ったけのきぬのこと、髪を切って改心の証しとしてその日は収まった。〉
このあたりは新聞記事というより、テレビ・ワイドショーの再現ドラマのよう。当時の新聞ニュース自体にそうした性格があったということだ。
「小林を殺せば…」きぬによぎった“悪念”
明治時代の新聞は、新しく生まれた政党の主張を載せ、天下国家を論じる言論活動中心の「大新聞」と、読み物など娯楽中心の「小新聞」に分かれていた。郵便報知は「大新聞」に位置付けられていたが、それでも、こうした下世話な話題を載せて読者を増やそうとしていたのだろう。物語はいよいよ核心に近づく。
〈収まりかねるのは煩悩の火で、“再び燃える焼けぼっくい”。小林の目を忍んでたびたび会っていたが、璃鶴もさすがに「主」ある女と聞いて何か気味が悪く、ある日きぬに「これまでは独身と思っていたから将来を誓い合ったが、小林様の愛妾と知ってはそれはできない。きょう限り縁を断ち、いままでは変な夢を見たと諦めよう」と言い放った。
その後は会わないように努めていたが、きぬのたっての頼みにちょっとぐらいはと心を許したのが運の尽き。きぬは男の膝に顔を押し当て、「もし私を嫌ってこのまま会えないのなら、焦がれて死ぬのも、いま死ぬのも同じ。いっそここで」と、用意したカミソリを取り出し、ひらめかしながら口説く言葉に、璃鶴も「男傾城(遊女)」の悲しさで断りきれなかったのだろう。軟化して二人は再び悪い夢に戻った。〉
〈恋の欲が日増しに募り、思う男に会うには人の目のはばかりが多く、といって小林は暇を取るのを受け入れず、いろいろ思案も尽き、切羽詰まったところから、「優しき如菩薩の梨花海棠も色を失い、悪鬼羅刹も物の数ではなく」恐ろしい悪念を起こした。「縁切り榎も効果がないうえは、仕方がない。恩も義理も、いとしい男には替えられない。小林を毒薬で亡き者にし、恋人と夫婦になって楽しみたい」と一人うなずいた。
ある日「蕃木鼈(マチン)」を4〜5粒購入。以前から出入りしている深井伊三郎をだまして頼んで粉末にし、煮しめの中に混ぜて小林に勧めたが、あまりの苦さに二度と手を付けず、薬の効き目も表れなかった。〉
正月、病に伏せる小林にきぬは…
〈焦ってもどうしようもなく、一人苦しみながらきょうあすと過ごし、大みそかを迎えた。小林は相変わらず妾宅に泊まって、あすは恵方参りで縁起を祝おうと、きぬと語り明かした。明治4(1871)年の正月元日になると、小林は「気持ちが悪い」と寝込んだまま4日までこもりっきり。
きぬは「これはいい機会。何とかして片づけよう」とさんざん頭を巡らせて、ふとあることを思い出した。翌5日の早朝、浅草聖天町、高木金次郎方の居候・繁蔵に頼んでネズミ捕り薬2包を買わせ、1包を道明寺の干飯に混ぜて湯を煮立てた。
病の床に伏している小林のそばに寄り添い、「あまり空腹なのも毒だとか。ちょうどもらった道明寺の干飯の湯など一口召し上がらない」と背中をさすりながら、女が勧める湯。これがこの世の食い納めか。小林の命は風前のともしびよりも危うかった……。〉
「跡(後)は明日」と9日付の記事は終わっているが、いかにもうまい所で切っている。これでは読者も次が読みたくなるだろう。連載小説のような記事というべきか。
「梨花海棠」とは中国でよく使われる表現で、桜の花が終わったころに咲く梨の花と海棠の花にたとえて「相思相愛」の風情を指すようだ。「悪鬼羅刹」は仏教でいう鬼。
「蕃木鼈(マチン)」は「馬銭」とも書き、ストリキニーネのこと。猛毒で江戸時代はネズミ捕りなどに使われた。古畑種基「法医学ノート」(1959年)によれば、外国では毒殺に使われた例がいくつも報告されているという。
後に出てくる「ネズミ捕り薬」は「近世悪女奇聞」には「石見銀山」として出てくる。ヒ素を含む鉱物を焼いて作った殺鼠剤で、島根県の鉱山で採掘されたが、近くの石見銀山の名前で全国に広まった。同書によると、ヨーロッパの王族の犯罪にはヒ素がよく使われたほか、江戸時代の加賀騒動でも毒殺に利用された。
「道明寺」は蒸したもち米を干した保存食「道明寺粉」のこと。大阪の寺で作られ始めたことから名付けられた。湯で溶いて「重湯」のようにしたのだろう。7月10日付の記事は次のように続く。
きぬからもらった“薬”を飲んだ小林は…
〈小林の重い枕を少しもたげて、きぬが差し出す干飯汁を何気なく飲み、「食が進まない中、おまえの作り方がいいせいか、すごく甘い」と舌を鳴らし、変わった様子もなかった。その夜遅くなったころから苦しみだし、ことに激しく吐いて一時に疲労が出たが、命に関わるほどでもなかった。
同月12日、きぬが残った1包を取り出し、医者からもらった散薬だとうそをついて、手に持ち添えて小林の口に含ませ、水を注ぎ入れたのは正午ごろ。たそがれ時分からしきりにもだえ苦しみ、ついにその夜、毒婦の無残の悪計と知るや知らずや、小林は帰らぬ旅路におもむいた。〉
江戸から維新を経て東京となった明治初期。世の中が大きく揺れ動く中で、ある一人の女性が起こした事件が人々の注目を集めていた。
明治4(1871)年に起きた「夜嵐お絹」事件は、「主」がいる妾の身で役者・嵐璃鶴に恋をした原田きぬが引き起こした殺人事件。「主」小林金平の目を盗んで逢瀬を重ねた二人だが、ある日小林に露見し会うことが出来なくなった。
思い詰めたきぬは、「恩も義理も、いとしい男には替えられない。小林を毒薬で亡き者にし、恋人と夫婦に……」と病に伏せる小林に毒を盛った――。
きぬは望みを果たしたが、その後はどうなったか。
〈近所や親類への連絡をこなし、自分の菩提寺である上野の壽昌院に行って「夫が亡くなり、16日に野辺送りをする」と伝えた。16日、小林家のきぬの後見役・吉左衛門と伊三郎が来訪。手助けを頼んで湯灌(ゆかん)をしていた折、小林の遺体の所々に色が変わっているのを吉左衛門が見つけた。
不審に思って尋ねたが、きぬは知らぬ顔で「最初からよほど熱が激しかったためだろう」と間に合わせのうそを言いながら、流し目で吉左衛門を振り返る愛嬌は、天女の天下りか女菩薩が現れたよう。
吉左衛門も魂を奪われて見とれていたが、何か思い当たることがあると見えて、詳しいことも聞かず、そこそこに遺体をひつぎに納め、壽昌院に送って葬った。誰も疑う者はなく、きぬはこれで障害がなくなったと晴れた心地がした。
2月5日夕、久しぶりに璃鶴の家に行き、差し向かいでよもやま話をしていたが、何を思い出したか、きぬがキッと居直り、「恩ある旦那に一服飲ませて片づけたのは誰のためか」と言うと、璃鶴はビックリ仰天。「エー」とばかりにおののくのを「静かに」と押し静め、「邪魔は払った。なにとぞ一生連れ添って」という無理難題に、何の答えもできない璃鶴の心はいかばかりか――。〉
「いまさら何を考えるのか。男らしくない人ね」
ここで7月10日付記事は終わる。次は1日おいた7月12日。4回続きの最終回だった。
〈璃鶴はきぬの話を聞いて、あまりのことに身の毛がよだち、ものを言うこともできなかった。「この身を引き取ってくれ」と迫られ、元はといえば、「主」ある女と知りながら、いったん断った「逢瀬の橋」を心許して渡ったためで自業自得。いまさら悔やんでも取り返しがつかないと思いながら、どうかして言い抜けようと思案にくれていた。
きぬは膝を進めて「いまさら何を考えるのか。男らしくない人ね」とほほえみつつ、肩に手を当てて振り動かした。璃鶴はホッとため息をついて唾を飲みこみ、「それほどに思ってくれてうれしいが、もしこのことが世間に知れれば、あなたは元より主殺しで、つながる縁の私も同罪。お互いに身を思い、先を思い、しばらくは遠ざかって世間の疑いを招かないようにするのが肝心。
それを、旦那が亡くなって喪も明けないうちに夫婦になっては、ますます人の口に上り、身の破滅ともなる。壁に耳があるのが世の習い。油断はできない」ととっくり言い聞かせた。きぬもうなずき、「いとしい、可愛いという思いに耐えなければ。少しでも早く夫婦となって楽しい月日を送りたいと思うばかり。必ず悪く思わないでおくれ」とひたすらわびて別れた。〉
〈それからは浅草寺の塔頭の境内に移り住んだが、2月上旬、きぬは叔父・篠崎筍助を呼び、小林が生前金を貸し付けた証書を自分の名宛てに書き換えるよう依頼。小林の遺産を弟が一人占めし、きぬには全く入らなかったことから、小林が金を借りたように書類を偽造し、小林の弟にその金を請求する訴えを起こす悪だくみをした。
しかし、「天網恢恢(天は悪を見逃さないというたとえ)」、かかる毒婦を見逃すはずがない。小林の病死に不審があることがひそかに取り沙汰されるうち、かつて璃鶴と密通していたことを近所の人が聞き知り、そこここでうわさが高くなった。
その筋の耳に入り、同年7月10日、きぬは屯所に引き立てられて調べを受け、はじめは隠していたが、証拠を押さえられて、これまでにした悪事をつぶさに白状に及んだ。翌(明治)5年2月、斬罪のうえ小塚原に梟首され、璃鶴も徒(刑)2年半の刑に処せられた。「隠悪陽報」(隠れた悪事は報いが現れる)一段の長い物語はまずこれきり。〉
最後はあっさりしているが、公文書を基にしているためだろう。犯行が露見してお絹が検挙されるいきさつについてはさまざまな説がある。璃鶴の取り巻きの1人がお絹との“不倫関係”を暴露した、八丁堀の与力が活躍した……。記事の流れから見ると、吉左衛門が何かの役割を果たしたとも思える。
「恋に狂った妖艶」に言い渡された判決は…
「法務図書館所蔵史料にみる『夜嵐お絹』のことども」によれば、裁判が行われた場所は分からないが、判決言い渡しは、明治4年に司法省内に創設された東京裁判所で行われたとみられる。大正末期から戦前にかけて大審院(現在の最高裁判所)判事を務め、文筆家としても知られる尾佐竹猛が書いた「戀(恋)に狂つ(っ)た妖艶・夜嵐のお絹」=「明治大正史談4」(1937年)所収=には、きぬに申し渡された判決の内容が載っている(原文のまま)。
「其方儀、金平妾身分にて嵐璃鶴と密通(に)および剰(あまつさえ)戀(恋)慕之情彌(いよいよ)増(まして)金平を嫌ひ(い)、鼠取薬と唱候(唱しそうろう)品に而(て)同人を毒害(に)および、病死之趣に仕成(しなし=に見せ)内葬致し、其上、主人貸金可取立(取り立てるべし)と筍助外二人申合(申し合わせ)貸金證(証)文名宛等取直し、或(あるい)は證文取拵(取りこしらえ)る段旁々(かたがた)、右始末重々不届至極に付梟首申し付る   壬申(明治5年)二月二十日」
梟木の捨札と異なるのは、金銭詐欺未遂の罪状が書かれていることだろう。嵐璃鶴にも申し渡しがあった。
「其方儀、きぬと密通および、其後同人は小林金平妾之旨承(うけたまわ)り一旦相斷(断)る旨は雖申(もうすといえども)尚又度々密通致し、其上きぬ儀、金平を毒殺致す旨申聞(申し聞け)るを其儘(そのまま)打過(打ち過ぎ)候段、右始末不埒(ふらち)に付徒罪二年半申付る」
“最期の時”、彼女は突然あることを訊ねた
お絹の最期は、斬刑に当たった「首斬り朝右衛門」こと山田朝右衛門(9代吉亮)の証言がある。1908(明治41)年7月9日発行10日付報知夕刊に「夜嵐おきぬの處刑 白晝(昼)小塚原の打首」の見出しで掲載されている。要点を記す。
〈夜嵐おきぬのことを述べましょう。本名は原田きぬ、年齢は28歳でした。元来多情な婦人で、人の妻(妾)になりながら多くの俳優と関係した。獄中で璃鶴の子を宿したため、出産などで斬首の期日が延びまして9月26日、いよいよ処刑と決まりましたが、法規の改正で小塚原の刑場へ引き出し、公衆の面前において斬るということになりました。
(小伝馬町の)牢を出る時、女囚連中が別れを惜しみ「お絹さん、未練を残さず往生を遂げなさいよ。これは私たちの志です」と申して、前々から飯粒を固めて数珠をこしらえ、百八煩悩百八顆(粒)紙のこよりを刺し通して渡す。
それを持って刑場へ出ましたが、別に辞世も何もありません。白紙を半分に折って顔を覆い、荒むしろの上へ座らせる。縄取り(縛った縄を持つ役人)の話に「璃鶴さんはどうしました?」と聞いたそうですが、まさか達者で生きているとも申されませんから「蓮の台(うてな)で半座を分けているだろうよ」(あの世にいるという意味)と言い聞かしたら、涙をホロリと落として「かわいそうなことをしましたね」と吐息を吐いたとやら。
おきぬの顔はというに、手前の見たところでは、大した美人とも思われなかった。細面ではあったが、色は青白くなって振るいつくほどの女ではない。特にさらすのですから、斬り方も普通とは違います。座りのよろしいように斬ります。時に正午、無事に済みました。〉
男関係については風評をそのまま語ったのだろう。執行日については誤って記憶しているようだ。この朝右衛門の話は篠田鑛造「明治百話」(1931年)にもほぼ同内容が載っている。同書の「著者の横顔」によると、篠田が報知新聞記者だったころ、朝右衛門から売り込まれ、報酬20円(現在の約4万4000円)を払った貴重な文献だという。
朝右衛門の回想とは逆に、読み物などにはお絹の「辞世」が紹介されている。「夜嵐のさめて跡なし花の夢」。璃鶴の姓になぞらえて詠まれ、ここから「夜嵐お絹」の名前も広まったが、これも草草紙「夜嵐阿衣花廼仇夢」を書いた岡本勘造(起泉)の創作のようだ。
「お絹の一件でむしろ名を挙げたようなものであります」
朝右衛門の回想通り、お絹は妊娠していた。歌舞伎の歴史を記した木下宗一「風雪第3(国難時代)」(1965年)によれば、その年(明治4=1871年)の11月8日、男の子を出産。子どもは璃喜松と名付けられ、商家に里子に出されたという。
同書や伊原敏郎「明治演劇史」(1933年)によると、お絹は当初、璃鶴も共犯と主張していたが、出産後、供述を翻し、素直に単独犯行を認めた。
嵐璃鶴は「明治演劇史」には「市川権十郎」として詳しい経歴が載っている。京都の出身で嘉永元年9月15日生まれ。本名・岡田菊三郎。富裕な商家の長男だったが、遊芸好きで11歳の時、子役がいなかったため、京都・南座で初舞台を踏んだ。嵐璃寛の弟子となり、家庭内の不和から江戸に出て人気を集めた。
刑期を終えて出獄したのは明治7(1874)年。元の記事が見当たらないが、「明治大正昭和歴史資料全集 犯罪篇上巻」(1933年)によれば、同年8月17日付「郵便報知」に「優者璃鶴は、かつて刑に処せられ懲役場にあったが、満期で昨16日、赦免になったという」との記事が載ったという。
「劇聖」と呼ばれた九代目市川團十郎に救いの手を差し延べられ、その門に入って市川権十郎と改名し、春木座(のちの本郷座)の座頭として活躍した。「背のすらりと高い、やせ型の品位のある風采だった」と同書。明治37(1904)年3月に57歳で死去した(「近世悪女奇聞」)。
お絹の運命とは裏腹に復活を遂げたわけだが、山田朝右衛門は報知の記事の中で「お絹の一件でむしろ名を挙げたようなものであります」と語っている。
事件から7年、新聞が取り上げて…
事件から7年、お絹の処刑から6年の歳月がたって新聞が取り上げ、草草紙になって人気が爆発した。「近世悪女奇聞」は東日の捨札の記事を挙げてこう書いている。
「右より詳しい詮索は、まだ誰もする者がいなかった。いわゆる『明治の毒婦』という読み物の興味は、まだ当時の市井にはなかったのである。しかるに、6年後の明治11(1878)年1月に出版された久保田彦作・揚州周延画の草双紙『海上新話鳥追お松』(錦栄堂版)第1巻が当たりに当たった。これが毒婦実録物流行のスタートになり、まだ世人から忘れられていなかった数年前の夜嵐お絹の実録が、鳥追お松出版後わずか半年足らずの6月から岡本勘造作・永島孟斎画『夜嵐阿衣花廼仇夢』と題して全8編16冊となって出、これまた大当たりになったため、翌12年2月から高橋お伝の実録草双紙が出、それ以降、キビスを接して毒婦物の実録が、はじめ草双紙、さらにボール表紙本へと移行して輩出することになる」
早稲田大教授などを務めた本間久雄は、毒婦ものが当時一般に愛読された原因を「作そのものよりもむしろ挿画である」と言う=「明治初期毒婦物の考察」(「明治文学名著全集第5巻」1926年)所収。
「至るところにある挿画の血みどろなブラッデー・シーンや春画式のエロチック・シーンが、作そのもの以上に作の内容を説明して、読者の脳裏に毒婦的観念を印象させ、悪魔主義的色彩を印銘させたのではなかったろうか」
同書は付け加えてこう書く。
「明らかにその時代そのものの影響である。たとえ維新になったとはいえ、台湾の役やら西南の役やら、引き続いて起こる戦乱のために、まだ一般的に世間が血なまぐさく、乱雑で、従って風紀の取り締まりなども行き届かなかったので、性的方面でも、かなり猥褻に流れることが自然でもあった。同時に、人間の本能欲から、その虚に乗じて、今のわれわれが想像する以上の猥褻が行われていたという、その時代そのものの影響である。さらに言葉を換えて言うと、以上の残酷な挿画や卑猥な挿画は、この血なまぐさく乱雑な時代そのものを代弁したものであるともいえるのである」
伊藤整「日本文壇史第1(開化期の人々)」もこう分析する。
「これらの毒婦物語は明治10年の西南戦争ごろから盛んに読まれていた。西南戦争は一面では明治政府に対する反抗がもはや成功せぬことを人民に悟らせ、政府の人民に対する絶対的な圧力を確立させた。だが他面では、莫大な戦費のためにインフレーションが起こり、商人や農夫が思わぬ収入を得、都会生活の旧士族や俸給生活者の生活は物価高騰で困難になった。戦争の残忍な心理的影響とインフレーションによる生活の大きな変動は、市民たちの生活を乱し、女性たちもその影響を受け、事実上、生活の波に追われて男から男へと移り歩く浮動的な女性が出てきたのである」
「毒婦」「妖婦」と呼ばれた「小娘」
人気が爆発した「毒婦夜嵐お絹」の物語はいろいろなメディアで格好の題材となった。1882年の雑誌「近事譚」は、歌舞伎の演目として上演されたとして、そのあらすじを載せている。
そこでは相手は歌舞伎役者ではなく講談師になっている。その講談でも何人もの講釈師に高座で取り上げられた。スクリーンでは1913年、日活向島撮影所の「夜嵐おきぬ」をはじめ、戦後まで繰り返し映画化された。ヴァレリー・ダラム「明治初期の毒婦物における悪女造型のレトリック その(1)」=「東京経済大学人文自然科学論集」(1990年)所収=はこう指摘している。
「江戸時代でも、何らかの形で社会の掟を破って『悪女』として名を馳せた女性たちがいなかったわけではないが、『新聞』の誕生を契機とし、こうした女性たちに関するニュース性の極めて高い情報は、より速く民衆の間に流布することになった。このように、毒婦物というジャンルの開花を主に可能にしたのは、近世以来の文学形式、そして新しい時代のニュース機関という二つの要因であると思われる。」
その間に次々フィクションが紛れ込み、中には、元の事実とは似ても似つかぬ内容のものも。
「原田きぬを主役とする殺人事件は、格好の素材として表舞台に引っ張り出され、必ずしも史実に合致しない脚色を付加されて、新たなイメージとともに人々の脳裏に焼き付けられていったと考えることができる。」
「法務図書館史料にみる『夜嵐お絹』のことども」はそのように述べ、さらに付け加える。
「そして、それ以後の時代を生きた人々の多くは、事の真実はともかく、明治維新直後の女性犯罪者としての『夜嵐お絹』の名前を長く記憶にとどめることになり、併せて『夜嵐お絹』事件は、明治犯罪史を編むに際し、欠くことのできない一項目となっていったといえよう」
対して「明治・大正・昭和呪われた女性犯罪」(1965年)で作家・清水正二郎は「夜嵐お絹。その名は高い。第一、夜嵐と上につけば、誰でも何となく、物凄いその道のベテランを想像する。しかし現実には、彼女のやった犯罪はごく小さいものだし、その心情は哀れである」「どうも彼女の場合は、死後につけられた名前が大げさすぎたようだ」と言う。
読み物の内容からの感想だが、一聴に値する。
「たのみ難き男心をたのんで、一生を無にしてしまった女心は哀れである。彼女の死後、無責任な戯作者たちが情夫の嵐璃鶴をもじって夜嵐お絹などと騒いだが、この本名・原田きぬ、24歳(29歳の誤り)でこの世を去った女は、まだほんの小娘で、決して毒婦だとか妖婦だとかいわれるほどの存在ではなかったのである」
   【参考文献】
   ・「新明解国語辞典」第六版 三省堂 2005年
   ・山本夏彦「無想庵物語」 文藝春秋 1989年
   ・綿谷雪「近世悪女奇聞」 青蛙房 1979年
   ・「明治大正史談4」 明治大正史談会 1937年
   ・篠田鑛造「明治百話」 四條書房 1931年
   ・木下宗一「風雪第3(国難時代)」 人物往来社 1965年
   ・伊原敏郎「明治演劇史」 早稲田大学出版部 1933年
   ・「明治文学名著全集第5巻」 東京堂 1926年
   ・伊藤整「日本文壇史第1(開化期の人々)」 大日本雄弁会講談社 1953年
   ・清水正二郎「明治・大正・昭和呪われた女性犯罪」 好江書房 1965年
   ・「講座日本風俗史第6巻」 雄山閣出版 1959年
   ・古畑種基「法医学ノート」 中央公論社 1959年
   ・「明治大正昭和歴史資料全集 犯罪篇上巻」 有恒社 1933年  
●夜嵐阿衣花廼仇夢
(よあらしおきぬ・はなのあだゆめ)初篇緒言
さきかけ
我さきがけ新聞第三百廿号(本年五月廿八日)の紙上を以て其発端を説起し、号を逐(おふ)て連日掲来(かゝげきた)りし毒婦阿衣(おきぬ)の伝は、其実録 に拠て余が戯れに筆を走らせしに、図らず看客(かんかく)の喝采を蒙り、新紙の発売多を加ふるの栄を得たれど、既に紙上に示せし如く、俳優市川権十郎が嵐 璃鶴(りかく)たりし時、同人を懲役に陥れ、其身の厳刑に処せられたる大眼目は、只阿衣が末路の一事のみ。其生涯の奸悪を数ふれば数條(すでう)の珍説奇 談多端に渉(わた)り、新聞の紙面に悉(つく)す能(あた)はざるのみならず、一場の説話も数号(すがう)に渉るを以て、看客或は其首尾照応を誤るの憾 (かん)なきにあらねば、金松堂の主人が乞(こふ)に応じ、半途にして紙上の掲載を止め、岡本(=勘造)子(し)をして之を双紙に綴らせ、爰(こゝ)に初 編を発兌(はつだ)せり。題して夜嵐阿衣花廼仇夢といふ。其顛末を記するや、曾(かつ)て新紙に掲げしものと故(ことさ)らに参差(しんし)表裏を示すを 以て、頗(すこぶ)る看客の心を楽ましむるものあらん。
明治十一年六月   芳川俊雄記
初編上  発端
夜嵐にうつろひ見せし山桜、八重もひとへに徳川の政事におさまる八百八町、まだ東京も江戸とよぶ頃、本町辺の薬種問屋(やくしゆとんや)で、人も知る紀 の国や角太郎(かくたろう)といへるは、早く両親(ふたおや)に別れ、十八歳にして家名を相続せしが、性来歌俳諧茶の湯、その外(ほか)遊藝をのみ好みし かば、兎に角家業をうるさく思ひ、僅か両三年にて弟(おとゝ)竹二郎へ名跡(みやうせき)を譲り、自分は予(かね)てしつらへおきし、牛島の辺(ほと)り なる小梅(こむめ)の別荘へ移りすみて、まだ定まれる妻もなく、朝(あした)には花を楽しみ、夕べには月を賞して、風流にのみ世を送りし。今年は残暑のつ よくして、凌(しの)ぎかねたるより思ひたち、箱根の湯治(とうぢ)から江の島へんを見物せんと、常に出入(でいり)の宗匠と幇間(たいこもち)の豆八を 引連(ひきつれ)、両掛一荷(りやうがけいつか)を男に担がせ、江戸を出(いで)しは七月のはじめ、急がぬ旅とて路すがら打(うち)たはむれて興じつゝ、 其夕ぐれに神奈川宿(じゆく)へたどりつき、石井といへる旅籠屋(はたごや)へ泊り、互ひに滑稽の雑言(むだごと)に、夜もはや四ツをすぎしころ、隣座敷 の女連(づれ)の客の内一人の娘が急に癪(しやく)をおこしてとぢらるゝ様子にて、其母親と思(おぼ)しきが、頻りにお八重お八重と呼(よば)いけれど、 更に治(をさま)る模様もなければ、皆々当惑の体なるを、角太郎は気の毒に思ひ、家業がらとてさいはひに良薬(よきくすり)を貯(たくはへ)たれど、見知 らぬ女の其中へ、さすがは夫(それ)といひかね、宿の女を近く招いで、薬のことをいふふくめ、隣座敷へいひ入(いれ)しに、此方(こなた)はことに悦こび て、少しなりともいたゞきたいとのことなれど、強き薬なれば分量が過(すぎ)てはならぬと、自身に行(いつ)て手づからに、とぢつめられし病人の口ヘ薬を そゝぎこみしに、その效(きゝ)めにや、強くさしこみたる癪も一時にひらきしかば、母は尚さら、附そふ女のたれかれも、神かとばかり角太郎をふし拝み、か はるがはるに礼をのべ、茶など煎じてもてなさんとせしが、女子(をなご)ばかりの座敷に長居をするもいかゞならんと思へば、夜もいたく更(ふけ)たれば、 明朝ゆるりとお目にかゝるべしと其場を立さり、互ひに臥床(ふしど)へいりたるが、かゝる混雑の中なりければ、双方とも名前などを尋ねることを失念せしと ぞ。扨(さて)も紀角(きかく)の一群(ひとむれ)は、用ある旅にあらねば、日中暑気のはげしき間を休まん程に、涼しき内に少しも行(ゆか)んと、その翌 朝(あさ)、となり座敷の人々がまだ起出でぬまへに、支度をとゝのへ、急いで此家(このや)を立(たち)いでしを、少しも知らぬ女連(づれ)、ゆふべお八 重の介抱につかれたるのか、但しまた、今日はおそくも宅(うち)へ帰ると心にゆるみが出(いで)たるにや、つひ寐わすれて、東なる連枝(れんじ)の窓から 朝日のさすに眼を覚し見れば、お八重がおらぬより、母は驚ろき皆々を呼起し、其処よ此処よと探せども、更に知れねば、母親が座敷へかへつて娘の臥床(ふし ど)をあらためると、枕の下から出た一封は、お八重の手跡(て)にて書置(かきおき)とあるに、胸轟き、先だつ涙のみこんで、急ぎ披(ひら)いて読(よ み)くだせば、私(わたく)し事訳ありて、迚(とて)も宅(うち)へは帰れぬゆゑ、世になきものと御あきらめ被下度(くだされたく)、母(はゝ)さまへは 不孝の上もなけれど、平(ひら)におゆるしをねぎまいらせ候云々(しかじか)と、手短かに書(かき)のこしたる一通を、顔におしあて、母親がワツとばかり に泣伏て、仔細は何かしらま弓、引(ひい)て返らぬ訳あらば、なぜ打あけて此母に、斯(かう)してたべといはねにも、矢のたつ例(ためし)もあるものを、 仮令(たとへ)どのよな事にもあれ、只(たつ)た一人の娘じやもの、徹(とほ)してやらいでおくものぞ、是ほど思ふ此母の心もしらで、身をかくす其方(そ なた)の心は安かろが、跡に残つた人々の心を少しは汲(くみ)わけて、無分別なる量見を必らず起してたもるなと、其処にお八重の居(を)る様に、かきくど きしが、其内も心せかれて、若(もし)ひよつと淵川へでも沈みはせぬかと、宿屋の主人(あるじ)へ頼んで人を雇ひ、諸方へ手わけをして、其近在を隈(く ま)なく尋ねしが、更にゆくゑが分らねば、ひとまづ江戸へ帰つた上、また兎も角もせんものと、力おとして女連、是非もなくなく此家を立いで、江戸の住家 (すみか)へ帰りける。
夫(それ)に引替(ひきかへ)、角太郎の一群(ひとむれ)は、憂事(うきこと)知らぬ気散(きさん)じの旅は道くさ夜(よ)は早く宿に着(つい)て、箱 根なる湯治も、病のあらぬ身は、汗を流すの外ならず、涼しき内はあちこちと、鄙珍らしき見物に、疲れて帰る宿屋の椽ばな、風入(い)りよきに簾(すだれ) を巻あげ、碁など囲んで楽しみけるが、庭の彼方(あなた)の離れ座敷、端(はし)近く折々立出で、此方(こなた)を眺め、附(つき)の女中と何やらん囁き 合(あふ)て打戯れるけだかき婦人は、年の頃二十余りにて縹致(きりやう)勝(すぐ)れて麗はしく、起居(たちゐ)の様のしとやかに、折目正しき振舞は、 さる大名のお部屋さま、少しの病気をいひたてに、遊散(ゆさん)ながらの湯治とは、其附人(そのつきびと)の少なきにてぞ知られける。紀角は朝夕顔見合 せ、世に美くしき婦人ぞと、交(かた)みに尻などつゝきあひ、又も天女の来迎(らいがう)と眼を慰むるばかりにて、互ひに心ありそ海、ふかき底意を汲(く み)かねて、まだ言(こと)ばさへかはさぬうち、はやお暇(いとま)の日限が逼(せま)りしと見へ、女中の群は当所を立出で、江戸の方へと帰りしのち、紀 角は爰に四五日余り逗留せしが、同所にあきたるのみか、天女が影をかくせし故、せめて天女の岩屋なりとも拝まんものと、二人の連(つれ)を促がして、江の 島へとこそは赴きける。
此処は東海道程ケ谷宿の裏手にあたり、金澤鎌倉への近路(ちかみち)なる下大岡の山中にて、まだほの暗き路傍(みちばた)に、繁る並木の松がえの梢はな れる暁烏(あけがらす)があいあいの声聞(きく)も、今更此の身につまされて、思ひまはせば人でなし、道にそむける、ぎりある父へよからぬ名をばきせまじ と、恩愛深き母親の歎きをあとにやうやうと、人の談(はな)しに聞きおきし、闇路をたどるお八重の心も細き流れの岸にそふ、路のかたへの松の根に、腰うち 掛てホツと一息つくづくと、我身ながらも怖ろしや、よう爰(こゝ)までは来た事ぞ、斯(かう)脇路へまはつては、最早逐手(もはやおつて)は来はすまい、 思ひの外に草臥(くたび)れたれば、日の昇るまで休まんと心に少しゆるみが来しか、宵に発(おこ)りしつかへの癪が、また胸さきへきやきやと差(さし)こ まれては大変と、細帯かたく引しめて、がまんはすれど疲れた躰、堪(こら)へきれねば其儘に倒れて苦しむ折もよく、雑色村(ざふしきむら)の方(かた)か ら爰へ通るは、是も女の独旅、年の頃は二十五六にてどこやら垢抜(あかぬけ)たる都の風俗、だるま返しに髪を結び・・・
初編中
・・・白地の浴衣を高く端折(はしよつ)て、笠を片手にすたすたと通りがゝつて、お八重を見つけて立どまり、独りでうなづき、帯の間の紙入から何やら薬を取 出して、お八重の後へ廻り、抱(いだ)き起して背をなでおろし、錫(すゞ)の中なる薬を少しお八重の口ヘふくませ、傍(かた)への流れに手拭をひたして、 其水をしぼりこみなどせし手厚き介抱に、やうやう開きがつきしかば、お八重は地獄で佛の思ひ、厚く礼をば述(のべ)けるに、女はさのみ恩ともせず、旅する 人は相(あひ)たがひ、女子(をなご)同志はわけての事、よい塩梅(あんばい)に薬がきいて私も嬉しう思ひます、お供の衆はお薬にても買(かひ)にばしゆ かれしかと問はれて、お八重は涙を払ひ、私や独りで鎌倉へゆく者で、供をもなんにもつれません、夫(それ)ゆゑ猶さら病気などには困ります、お蔭でさつぱ り治まりましたといふに、女は不審顔、みれば爰(こゝ)らのお方でなし、独りで旅をなさるとは、何か仔細のあらましを、苦しからずばはなしてと、他事なき ことばに、お八重も今さらその親切にほだされて、包みもならず鼻うちかみ、実(じつ)わたくしは江戸本石町(ほんこくちやう)の呉服店(だな)松坂屋の八 重ともうす者なるが、先年親父(おやぢ)が亡なつて、と聞いて女は打(うち)おどろき、さう仰(おつ)しやればどうやらおみうけもうした事もある、元わた くしが日本橋へんにおりし頃、お宅はかねて知ております、あの御大家(ごたいけ)の娘子(むすめご)が、供をもつれず只独り、こゝらあたりへまいらるゝ仔 細は大方(おほかた)分りましたが、爰は山中(やまなか)、朝風は身にひやひやとからだの大毒、お召(めし)も夜露にぬれてあるゆゑ、里へ出て乾かしなが ら、ゆつくりとおはなしもうすこともあり、兎にかくわるくはいたしませぬゆゑ、あとへお返りなされませと、無理にすゝめて程ケ谷(ほどがや)の方(かた) へとこそは伴なひける。
扨(さて)も角太郎は残暑しのぎに、いまだ見ぬ箱根の湯治場から江の島鎌倉と憂(うき)を知らぬ湯散(ゆさん)旅、二人の伴(つれ)の興ずるを、笑ふて うかうか日数(ひかず)もたち、はや秋風の身にしむ程になりしかば、土産のしなじな買とゝのへ、馴し隅田の牛島わたり、小梅の寮へ帰りしは、八月なかばの 頃なりし。角太郎はたゞ風流にのみ心をよせ、浮世の事をいとふより、奉公人(ひと)は多くつかはず、庭の掃除や植木の手入は自分もしたり、折々は出入の者 があれこれと程よくするに任せおき、小女(こをんな)一人を手元に使ひ、食事の世話などさせおきしが、旅の留主(るす)中は不用心(ぶようじん)なりと て、本町の本宅に年久しく召使ふお芳といふ四十二三の心きゝたる女を留主居におきしと知るべし。
今朝は角太郎おそく臥所(ふしど)をおきいでゝ、椽ばなにたちいであたりを見廻し、少しの間みずにゐたれば、庭の景色がかはつたと、のびあがつて隣りの 寮をのぞきこみ、不審な顔でお芳をよび、隣は是まで明家(あきや)であつたがどなたか越してこられしかと、尋ねにお芳は両手をつき、まだ申しあげねど、つ ひ此頃さるお大名のお妾にて、たしかお名前はおきぬ様とか、その殿様がなくなられたので御隠居をなさるため、此玉屋の寮をお買なされたとかきゝました。余 程うつくしいお妾さまでござります、夫(それ)についても昨晩一寸申しあげましたが、先生や豆八さんの前をかねて、詳しくお咄(はな)しいたしませなんだ が、こりやわたくしから折入てお願ひ申すも、本(もと)はといへば長い咄しを一通りお聞きなされて下さいまし。
旦那のお留主へ預かつた娘といふは、その以前、此わたくしが下総(しもふさ)から初めて江戸へ出て来たおり、草鞋(わらぢ)をぬいだお主(しゆう)さ ま、本石町の呉服店(だな)松坂屋さまの娘子にて、十四の時に父御(てゝご)が亡(なく)なり、母御は後家をたてんとて、夫々(それぞれ)覚悟をなされし が、まだうら若き後家だては、却つて世間の口もうるさし、手広き家業に女主(をんなあるじ)は届かぬがちと、親類方のすゝめにより、店をあづかる番頭の弥 兵衛といふを入婿に跡へなほした其頃は、此わたくしは暇(いとま)になり、夫(それ)も誰ゆゑ、番頭の弥兵衛は四十に近き身で見かけによらぬ色好み、間が なすきがなわたくしを捕へていやなことばかりいふのをすげなく断はりしを、遺恨に兎や角ないことをいひこしらへて追出(いだ)せし、夫から旦那の処へ上 り、今日が日までも御恩にあづかる嬉しさに、又引かへて面(つら)の憎きは弥兵衛にて、仮にも親とよばれる身で、いはゞ主人の娘子へ無体な恋慕、あさな夕 なに附(つけ)まはるうるさき仕打を、母親へ咄さば必らずことのもと、父とよびなす其人へ恥かゝするは子の道ならず、殊に世間の外聞をいとふものから、身 一ツに憂(うき)を忍んで日を送る深閨女(おぼこむすめ)の気苦労から、つゐに病を引おこし、ぶらぶらなやむその上に、癪まで知て折々に煩ふことの多かり ければ、医者の勧めで五月雨のやゝ晴(はる)るころ、母ごと外(ほか)に女中二人を引つれて、伊豆の熱海へ湯治の保養に二月(ふたつき)あまり、世の中の 憂(うき)をわすれし甲斐あつて、顔の色つや身体の衰ろへ原(もと)の通りに全快せしとて、先月初めに女連(づれ)四人で江戸へ帰る時、神奈川宿の泊りに て、明日(あした)は我家へ立帰り、又も弥兵衛に種々(いろいろ)とかき口説(くどか)るゝこともやと、思ひまはせば廻すほど、此(この)よにあられぬ悲 しさを、誰に語らん人もなければ、こよひ窃(ひそ)かに此家(このや)をぬけ出し、かねて往来(ゆきき)に見ておいた鎌倉道(みち)を左りへ入り、松ケ岡 なる尼寺へ其身をよせんと覚悟はしても、娘気の案じわづらふあとやさき、久しく忘れた持病の癪にとりつめられ、開きのつかぬを隣座敷のお客に救はれ、疲れ て伴(つれ)の寝入りしころ、身を隠すとのみ書置して、其(その)庭口から忍び出し、たしかに夫(それ)と見ておいた程ケ谷宿の横道から迷ひ入(いつ)た る山中で、其夜も明て烏のなく頃、又もや癪にとりつめられ、悩む所へ通りかけしは、本店(ほんだな)の四郎吉どんの一件で此方(こなた)へは顔出しかねる 私の姪のお吉が、在所から此地(こちら)へ帰る途中にて、種々介抱をした上で、名前をきけば伯母の私が大恩うけたお主(しゆう)の娘なれば、その儘にして もおかれず、さりとて宅(うち)へは帰らぬ覚悟、うかうか街道へ伴(つれ)て出ば尋ねる人に見つけられんと、神奈川宿の裏手を通り、野毛の知音(しるべ) へ立より、芝浜へ出る押送りへ便船して、此地(こつち)へつれては来たものゝ、お吉も今は他人の家の居さふらふ、人の世話まで届かぬゆゑ、旦那のお留主と 少しも知らず、此わたくしを外へ呼出(いだ)し、以前の咄(はな)しを委しく語り、その娘子をわたくしへ渡して、後(のち)の計らひは万事よろしく頼むと いへど、弥兵衛めがなき科(とが)きせてわたくしに暇(ひま)を出したるその後は、一度も今に尋ねぬ事ゆゑ、本石町の様子も知れず、又なまなかに此事を知 らさば、却つて娘子のなんぎになるも計られねば、旦那のお帰りなされた上で、よい御分別もある事と、かくまひおきし娘子にあふて力をそへて下されと、昔し の恩を忘れざる、その深切があらはれる長物語りを、角太郎感心しながら聞き終り、咄しの次第は分つたが、若(もし)もその娘はお八重といふではあるまい か、と問ふにお芳はびつくりし、如何(どう)して旦那がそのお名を、と不審するのは尤もなれど、お八重といへば、神奈川で泊りあはせて癪にとぢられ、母御 (はゝご)がお八重と呼(よび)いけるさわぎを見かねて、此私が進ぜた薬で、漸々(やうやう)と開きがついた娘子ならん、何にしても不思儀な事と、お八重 を爰へ呼よせて、互ひに見かはす願とかほ、尽せぬ縁(えにし)、またこゝであふとは誰か白髭(しらひげ)の神ならぬ身を如何にせん、世をうし島とふりす てゝ、尼になるみの浴衣(ゆかた)のまゝで、癪にとぢられ取乱したるその様を、見られし方かと思へば今さら恥かしく、礼の辞(ことば)もあとやさき、只こ の上はよき様に、力になつてたまはれと、優しきことばに、角太郎、お前がたよりに思はるゝおよしは、私しが少(ちひ)さい時から世話になり、知つての通り 何事も家を任せておくほどなれば、及ばずながらおよしと共に力になつて、どの様にか、お前が難儀をなさらぬやうしませうほどに、不自由なりとも心おきなく おられよと、情の言葉に、お八重はなほさら、およしも嬉しく、一日(ひとひ)一日と送るうち、互ひに心ありま山、いなの笹はら否(いな)ならぬ、二人はい つか下紐のとけてうれしき中となり、日に睦まじき有様を、およしは知れど今さらせんなく、却つてお八重の仕合せならんと心の内に喜こべど、人の娘を沙汰な しに、かうしておくはよからねど、なまなか先へ咄(はな)しをなさば、又もお八重の身の上と思へば、そのまゝ捨(すて)おいて、そのうち首尾をせんもの と、千々(ちゞ)に心を苦しめつゝ、うかうか送る秋の空、梢の紅葉はや散て、手洗水(てあらひみづ)に薄氷(うすごほり)はるや来ぬらん師走のなかば、忙 がしきとて本町より迎ひをうけて、およしは一先(ひとまづ)本宅へこそ立かへる、年の首(はじ)めの賑ひは、昨日(きのふ)にひきかへ何となく庭の景色も とゝのふて、さきがけみせる梅の花、東風(こち)のまにまに香(にほ)ひける。
初編下
四季の眺(ながめ)の色々と変る浮世をうし島と、表を飾る菩提心(ぼだいしん)、つまぐる数珠の袖の内、とめきの薫(かをり)煩悩(ぼんなう)の花の色 ある小梅の里、紀角が住(すめ)る別荘に、隣る玉屋の寮を買(かひ)うけ、引移(ひきうつり)来し其人は、元浅草鳥越(とりごえ)の甚内橋の辺(ほとり) に任む原田某(それ)の娘おきぬとて、幼少(をさなき)ころより手品を習ひ、其(その)藝名(げいみやう)を鈴川小春と呼(よび)なして、江戸町々の寄席 (よせせき)で美人と評判高かりければ、諸大名の館(たち)へも召され、座敷手品の御所望(ごしよまう)に、愛敬(あいきやう)ふくむ手先の早業、御意 (ぎよい)に適(かな)つて、十七の春の半(なかば)に、大窪家の若殿が妾に抱(かゝ)ひ玉ひしより、其両親(そのふたおや)も浮み出でしが、其翌年コロ リといへる病のため、枕を並べて両親とも、此世を去(さり)し跡々は、外(ほか)に親族もなきものか、残りし妹(いもと)のお峯まで、御殿の内へ引取て、 栄耀(ええう)に送る春秋(はるあき)も、はや二(ふた)替り三年(みとせ)目に、寵愛うけし殿様が頓(とみ)に卒去(みまかり)たまひし後は、此世をう しと一間(ひとま)に籠り、嘘かまことか看経(かんきん)にたじなく月日を送るのみ。痩衰へて食事さへほそきと聞(きい)て、後室(こうしつ)より二週間 (ふたまはりかん)の暇(いとま)を賜はり、箱根の温泉(いでゆ)で保養をせよと有がたき仰せを受て、侍女(こしもと)其外附(つき)の侍諸共(もろと も)、宮の下なる奈良屋といふ旅宿に暫し逗留する頃、対ひ座敷の相客を見初(みそめ)て頻りに慕はしけれど、いひよる術(すべ)もながき暇(いとま)にあ らぬみは、はや日限の迫りきて、やしきへかへる思ひでに、せめては焦(こが)るゝ其人の名所(などころ)だけも問(とひ)たしと、宿の女へ窃(ひそ)かに 頼み、探つて聞けば、本町の紀角といへる薬種問屋(やくしゆどひや)の若隠居といふを頼みに、心残して立(たち)かへる。江戸の屋敷の究屈(きゆうくつ) を厭ふが上に、湯治場のざんじの保養が身に染(しみ)て、折目正しき礼式をうるさく思ふのみならず、今は屋敷に用なき躰(からだ)、身儘(みまゝ)になつ て彼人(あのひと)にあふよしもがなと、物思ふ心知(しつ)たる婢女(はしため)のおさよといふは四十の上を二ツ三ツこしぢの雪のとけやすく、腹いと黒き おきぬの合口(あひくち)、始終を聞て容易(たやす)く引うけ、小者(こもの)へ頼んで紀角が上を悉(くは)しく探り、今は小梅の別荘に住むよし知て、奥 向の首尾をつくろひ、おきぬを病気と云做(いひなし)て、保養かたがた亡君(なききみ)の後世(ごせ)を吊(とぶら)ふ庵室にと、爰(こゝ)へは移り住み しにて、其時屋敷の重役(おもやく)から、若(もし)も此後(こののち)良縁あつて方付(かたづく)ならば、屋敷で世話もしてとらせん、又一生を潔(いさ ぎよ)く送るとあらば、扶助もせん、身の振方(ふりかた)は何(いづ)れとも心の儘に任せよと、月々に多く手当を賜はりければ、妹のお峯とお小夜の外(ほ か)に、下婢(はしため)二人、男といふは此頃新たに抱へたる下部(しもべ)の甚八のみにして、主従六人豊かにこそは暮しける。
打はやす拍子も同じ七種(なゝくさ)の声の方(かた)から明(あけ)そめて、霞たな曳(びく)庭の戸を、押て入来(いりく)る二人の客は、彼(かの)宗 匠と豆八にて、年首(ねんしゆ)の礼はそこそこに、今日は節句に初卯(はつう)を持込み、殊に恵方も午(うま)の方(かた)、是非とも出初(でぞめ)のお 供をせんとそやし立(たて)るに、角太郎さらば初卯に詣でんと、世を忍ぶ身の是非なくも、お八重を家(うち)へ残しおき、二人を伴(つれ)てふらふらと出 かけた跡へ、引ちがへ訪(とひ)来し人は、日頃から隣の寮や此家へお幇間(たいこ)半分出入する橋場辺りの藪医にて、其名を黒林玄達と呼者(よぶもの)な り。案内もせずに庭先から、ヤア御慶(ぎよけい)でござる、大将宅(うち)かな、美人の側(そば)にばかり侍(はんべ)つて居ては健康を害します、是から 初卯へ御出馬とは如何(いかゞ)と音なふ声に、お八重は奥から走りいで、年首の礼を一通り述て、只今斯々(かくかく)にて三人伴立(つれだち)、初卯へ参 ると出たばかり、まだ其辺におりましよと聞て、玄達のそのそ座敷へ上り、辺り見廻し、夫(それ)では美人はお留主居(るすゐ)か、隣へ行(いつ)ても初卯 の留主、此方(こなた)の主人(あるじ)も又お留主、是で漸く読(よめ)た読た、貴嬢(あなた)は何も知られぬが、主人は隣のレコと湯治場からのお馴染 で、末は夫婦と約束のしてあることも知ております、貴嬢(あなた)はどうしたお方やら、度々お尋ね申しても、お咄(はなし)ないのは余程不思議、何を頼み に此宅(このうち)におらるゝことやら、是も分らぬ、今に苛酷(みじめ)を見らるゝかと思へば実(まこと)にお気の毒、早う分別なされよといふは実(まこ と)か、底気味わるく、お八重は何と言葉さへなくよりつらき胸の内、さし俯くを玄達は得たりと側へにじりより、其所(そこ)を愚老がよい様に主人へ甘(う ま)く説得して、隣の縁を切(きら)して進ぜる、お礼の印に、お八重さん、只(たつ)た一度でよい程に、ウンとおいひ、と抱(いだ)きつく手先を払ふて飛 退く所へ、下女が慌(あわて)て障子を引あけ、本町から四郎吉(しろきち)どんが御年首に見へました、と聞て驚く玄達は、七種(なゝくさ)なづな遠どの所 (とこ)をお早々、ドレドレ、此地(こつち)へござらぬ先に、ストントンと足踏(ふみ)ならし、残りおしげに帰りける。
夫(それ)とは知らぬ角太郎、二人の末社(まつしや)を引伴(ひきつれ)て、柳島から亀井戸の梅には少し早けれど、此所まで来る次(ついで)にと、梅屋 敷をも見物せうに、爰(こゝ)で逢(あひ)しは玄達から咄(はなし)のあつた隣の主婦(あるじ)、箱根で去年見知りたるおきぬの一群(ひとむれ)、春の初 (はじめ)といひながら、最(いと)嬋妍(あでやか)に着飾(きかざつ)て、休らふ床机(しようぎ)も隣あひ、始めて爰で言葉を交へ、附(つき)の女中と 豆八が戯(たはむる)る事の面白さに、遂打解(つひうちとけ)て、夫からは此二群(ふたむれ)が一ツとなり、料理店(れうりや)橋本にて一酌を催ふし、互 に興を尽せしは、兼ておきぬが願(ねがひ)にて、如何なる神の引合せにや、是まで度々玄達から夜(よる)なと遊びに来られよ、と云送りしが、物堅く女子 (をなご)ばかりの其宅(うち)へ出入するのは如何(いかゞ)ぞと断はりおりし其人が、斯(かう)まで和らぎ玉ひしとは、春はありたきものなりと、おきぬ は痛く酒を過して苦しき様子に、其場を切あげ、打伴(うちつれ)だつて帰り路、角太はおきぬを扶(たす)けつゝ、隣の寮へ送り込み、二人の伴(つれ)を門 (かど)から返して入(い)る座敷に、しよんぼりとお八重が物を案じるは、例(いつも)の事と角太郎、側へ座(すわつ)て顔打眺め、斯(かう)ポカポカと 陽気になつたに、外へ出られぬお前の身の上、気分の欝(ふさ)ぐは尤もじや、其内お芳の働きで、どうとか咄(はなし)が極(きま)るであらう、少しの間辛 抱すれば、表向(むい)ての夫婦(めをと)となれる、今日は計らずお隣のおきぬさんの女中連(づれ)に出あひ、橋本で一杯やつたが、七種(なゝくさ)の初 卯のせいか、近年にない人の出、といふ端々が玄達の云し辞(ことば)に思ひあたれば、扨(さて)はとお八重は驚けど、口はしたなく云出(いひいで)て、軽 蔑(さげすま)れては恥しと、彼(かの)玄達が猥(みだ)らなる振舞せしも押包み、只本宅から番頭が年首に越せしことなどを告(つげ)て、其場を取なせし が、角太は夫(それ)より折々に隣の寮へ往通ひ、親しく交はる其内に、恋に手鍛錬(てだれ)のおきぬの取なし、夫といはねど情あることの葉草の露けきに、 春風うけて靡けてふ、おさよが軽き媒酌(とりもち)に、つの打解けてから、角太郎、以前に変つて日毎の様に、隣へばかり入込(いりこ)むにぞ、お八重は始 めて玄達の虚(うそ)が実(まこと)と鳴海潟、汐干に見へぬ沖の石、人こそ知らぬ朝夕に便なき身のみ嘆(かこ)ちつゝ、袂の乾く間(ひま)とても泣(な く)より外(ほか)に、此事を相談するはおよしのみ、夫も此頃家(いへ)におらねば、只此上は身を慎み、怨を包んでいつまでも、身を任したる角太の主(ぬ し)へ仕へた上で、見捨られなば夫(それ)までと、諦めて見ても、娘気の又も兎(と)やかう行末を案じ出しては、物思ふ心の内ぞ憐れなり。
扨(さて)もおきぬは去年(こぞ)の秋見初(みそめ)た恋が漸々(やうやう)に叶ふて嬉しき此上は、世間晴ての夫婦とならば、又楽しみも格別ならん、屋 敷の方(かた)は縁付(えんづき)の願も済(すめ)ど、恋人にお八重といへる附者(つきもの)あれば、角太の方(かた)が面倒なり、只此上はお八重さへ除 かば、此方(こつち)の望は叶はん、何か手段はないものかと、胸に余つた相談に、おさよも困(こう)じて那是(あれこれ)と思案に其夜の更行(ふけゆき) て、燈火(ともしび)暗き一間から、怜悧(りこう)な様でも女は女、二人で一晩考へても、出る物とては座睡(ゐねむり)ばかり、是でも愚老は男だけ、直 (すぐ)に浮んだ一工夫、智恵をお貸(かし)申さうかと、のつそり出たは他人にあらず、彼(かの)黒林玄達にて、兼て此家(このや)へ出入する内、おさよ といつか馴染(なれそめ)て、人目を忍び語らふを、おきぬは知れど、二人とも腹いと黒き性(さが)なれば、何かの用にたつことあらんと見て見ぬ態(ふり) で、慈悲(なさけ)をかけておいたるも、是等のことを謀らんためと、おきぬは心に黙答(うなづき)て、手箱の内から黄金(こがね)を取出し、紙に捻(ひね つ)て玄達が前に差おき、仕上(しあげ)た上の褒美は格別、是は手附じや、お八重を除く手段といふを、早く早くとおきぬとおさよが急立(せきたつ)るを、 じらしておいて小声になり、夫は斯々(かうかう)なされよと、聞て二人は顔見合せ、暫し辞(ことば)もなかりしが、おさよが又も声を窃(ひそ)まし、夫を 其儘にしておかば、ことの露顕の本にもならん、夫ゆゑ跡は根性を見抜ておいた下部(しもべ)の甚八へ頼んで、斯々(かうかう)するならば跡腹(あとばら) やまぬ上策ならん、左様(さう)じやと三人囁きあふ、工(たく)みの程ぞ怖しけれ。
今日とすぎ、昨日と遊ぶ、春の日の長きも暮て、今日ははや二十日といふて仕舞正月、骨牌(かるた)の遊びの名残とて、おきぬは文もて紀角の許(もと) へ、今日は少しく用意もあれば、まだおめもじをせぬお八重さまをもおつれなされて、夕刻から是非ともお出(いで)下されと、いひ越(こし)たるゆゑ、承知 の旨を答へおきしに、お八重は心もすゝまぬと断りいはゞ何とやら、吝気(りんき)の様に聞へもせんと、故(わざ)と悦び支度(したく)を調へ、角太と共に 隣なるおきぬの寮へ到りしに、今日は殊更座敷を飾り、おきぬは御殿にありし姿の襠(うちかけ)に、四方(あたり)まばゆく見ゆるほど粧(つく)り立(た つ)たる容体(やうだい)にて、褥(しとね)に座をしめ、お八重を近づけ、初対面の会釈して、今年十五の莟(つぼみ)の花、善か悪かは白絲のまだ馴染なき 妹のお峯を呼出して引合せなどする内に、かゞや(火ヘンに、軍)く数の燭台と共に持出す酒肴(さけさかな)、おさよが始終座敷を取持(とりもち)、勧むる 杯の廻るにつれ、おきぬは角太を側へ引寄(ひきよせ)、是見よがしの振舞に、お八重は妬(ねた)く思へども、自分の夫(をつと)といふではなく、此方(こ つち)も元は徒事(いたづらごと)、口惜(くちをし)けれど胸を摩(さす)つて忍ぶ所へ、おさよが別の徳利を持出し、是は甘いで飲(のめ)ますと、無理な 勧めに二三杯、お八重が飲(のむ)と忽ちに眼(まなこ)暗んで、手足が慄ひ、胸の辺りが苦しくて、何分座敷に堪(たへ)られぬ様子を、おさよが見て取て、 以前の徳利を取方付(とりかたづけ)、お八重様には上(あが)らぬせいか、余程お酔なされた御様子、お休みなさるがよからうと、おさよがいへば、角太郎、 少しも飲(のめ)ぬ不意気(ぶいき)な女、お手数(てかず)ながら一寸宅まで送つて下され、役にたゝぬと構ひもせぬを、お八重は悔(くや)しと思へども、 胸苦しきに堪(たへ)かねて、挨拶とてもそこそこに、女中の肩に扶けられ、我家の座敷へ入るや否や、其儘そこへ打臥して、正体なければ、下女は驚き、むり に臥所(ふしど)へ担ぎ込み、風を引(ひか)せぬ手当して、己(おのれ)も臥床(ふしど)の用意をする時、隣の女中が言伝(ことづて)に、貴家(あなた) の旦那は私方へお泊りなさると聞て、其所爰(そここゝ)戸締(とじまり)して己(おの)が臥床に入(いり)にける。
其夜も更(ふけ)て丑満(うしみつ)頃、庭の籬根(かきね)を乗越て、忍び入(いつ)たる一人の曲者(くせもの)、手拭まぶかに面(おもて)を包み、裳 (もすそ)を高く引(ひつ)からげ、庭石伝ひに椽先(えんさき)の雨戸を一枚こぢ放し、お八重の臥床を伺ふて、独(ひとり)ほくほく打点頭(うちうなづ) き、有あふ手拭引延(ひきのば)し、正体もなきお八重の口へ猿轡(さるぐつわ)、帯にて体をぐるぐるまき、やおら起して肩へ引かけ、急いで庭の切戸から、 裏を廻つて田甫路(たんぼみち)、いきせき駆(かけ)て、牛島の堤へ登つて辺(あたり)を見廻し、爰(こゝ)は名ばかり長命寺の前の岸、又候(またぞろ) 小堤(こどて)へ担ぎあげ、爰らでよいと思ひしか、肩にかけたるお八重を卸(おろ)し、足と首とへ両手をかけ、中(ちう)に釣(つる)して南無阿彌陀佛の 声もろとも、隅田の流(ながれ)へざんぶとこそは投(なげ)こんだり。こゝの小舟に棹さす男は何者にて善なるや悪なるや二編をよみてしりたまふべし。
二編上
花見小袖の色さへ疾(とく)うつろひて、今ぞひとも思ひ袷(あはせ)着る頃なん、夜半(よは)の嵐にあへるてふ、衣(きぬ)のやれにし跡をものせよとい はれぬ。遮莫(さはれ)、まだすぢ棲(つま)もそぐはしかねし身の面(おも)なき業(わざ)ながら、たゞよし川うしの仕附苧(しつけを)(苧=そ)を便 (たより)として、漸く初篇を綴(つゞ)くりしに、僥倖(しあはせ)にも後をとの促しありときゝ、そゞろに編をつぎあてがひくらき手元の夜なべ仕事に、ま たポツポツとつゞり出(いだ)しつ。
明治十一年七月下浣   岡本勘造題
扨(さて)も角太郎は思はずもおきぬが相手に、夜の更(ふく)るまで酒をのみ酔つぶれたるまゝ、其所へ打臥し、まだ起(おき)もせぬ其翌朝(よくて う)、宅(うち)に留守せし婢女(はしため)が、いと慌たゞしく取次もて、お八重さまには昨夜(ゆうべ)の内どこへかおいでなされしのみか、雨戸が一枚外 れたまゝ、椽のあたりに泥の足跡つきたるは、常事(たゞごと)とも思はれねば、早うお帰り下され、といふを聞(きけ)ども、角太郎、昨夜の酒がまだ醒(さ め)ねば、是はお八重が事をこしらへ、早く帰つてくれとの事ならんと、兎や角なして、漸々(やうやう)と宅(うち)へ戻れば、いひしに違はず、雨戸がはづ れてゐるのみならず、庭の切戸も破れており、曲者入(いり)し様子にて、お八重がおらぬは殊に訝(いぶ)かし、夜半(よなか)に何処へ行べきぞ、扨は此身 がおきぬの許(もと)へ通路(かよひぢ)しげきを恨みに思ひ、便りなき身はいとゞなほ胸にせまりて、若(もし)ひよつと悪い覚悟をしはせぬか、何にもせよ 不思議ぞと、お八重の臥床(ふしど)を調べしに、あたりに落たる文(ふみ)の切端(きれはし)、これはと取あげよく見れば、男の手跡で始めはなけれど、此 程申しあげし通り、今宵こそ首尾してまたれよかし、合(あひ)づはかねておはなし申せし通りなれば、必らずとも人に暁(さと)られぬ様お支度なされよ、ま づは用事のみ、取いそぎあらあらかしこ、と筆はとめても、留らぬは此道ばかりといふものゝ、お八重に限つて其様な事のあるべき様子はなけれど、現在男の此 手紙は、心せくまゝ取落せしに相違なし、アヽ七人の子はなすともと古人がいひしも今更に思へば憎き女ながらも、其(そ)を伴出(つれだ)せし男は誰(た) ぞ、 ・・・以下・割愛・・・  
●作られた悪女 原田絹「仇嵐嶋物語」 
犯罪実録物の流行
明治にはいって、戯作や演劇で犯罪の実録物が流行した。演芸・芸能が報道と密接になったためでもあろうが、「実録」を隠れ蓑に、真実の情報を伝えているという建前で、本来なら、公序良俗を乱すとして排除される犯罪や痴情のもつれといったスキャンダラスな内容を堂々と表現できたという事情もある。
とくに、高橋お伝や、原田絹、花井お梅など、女性の犯罪者の実録物は爆発的人気を得た。
こうした女性たちの実録物は、真実を衒(てら)ってはいるが、著者(演者)も読者(観衆)も、得た、あるいは提供された情報が本当に真実であるかどうかなど、さほど考えもしなかったのではないだろうか。真実かどうかは関心の外にあるからだ。はっきりいってしまえば、こうした実録物からは、美しい女性たちの淫乱な性生活に対する興味、のぞき趣味的グロテスクな社会的要求が透けて見える。
講談も同断。明治実録もののうち『百花園(ひゃっかえん)』に明治26年2月から9月に連載された伯円の「仇嵐嶋物語(あだあらししまものがたり)」をご紹介するまえに、明治時代「毒婦」といわれた原田絹について少し述べたい。
「毒婦」原田絹
原田絹は金融業を営む小林金平の妾で、役者買いにはまり、うち嵐璃珏(あらしりかく)に恋着し、恋を成就させるため邪魔になる旦那を殺鼠剤で毒殺したとされ、明治5年、斬首のうえ晒し首の極刑に処された。処刑から数年後に書かれた『夜嵐於衣花廼仇夢(よあらしおきぬはなのあだゆめ)』(明治11年)でも、明治19年に出された『新編明治毒婦伝』でもお絹はあからさまに淫乱な悪女である。「毒婦」のイメージは不動であったのだ。
ちなみに「夜嵐」の呼び名は、処刑の前に、彼女が「夜嵐のさめて跡なし花の夢」と辞世の句を読んだと創作されたことで付けられた。
伯円の講談「仇嵐嶋物語」は、雑誌『百花園』に載せる題材を選ぶ際、「目覚敷(めざましき)艶気タツプリの情話(はなし)を致して貰ひ度い」との編集サイドの希望で原田絹の物語が選択されたという。この一事をもってしても、彼女らの人生がどういう目的で取り沙汰されていたのかよく分かる。
物語の出だしは、「抑々(そもそも)淫婦原田絹と申すは」と断定的だ。ところが、読み進めても、お絹はなかなか悪女にならない。
伯円が語る原田絹
実在のお絹の素性には伝わらないことが多く、伯円弁ずるお絹の人生は、伝承、口承からなる9割がたの作り事と思っていただきたい。
お絹は、三浦半島の漁師の娘で海女として育ったが、12歳の時、美貌を見込んだ芸者屋の主に20両で売られ、諸芸を仕込まれ15歳で芸者デビュー。数年後、兵庫の大店(おおだな)高田屋の若旦那吉之助に身受けされた。立場は妾ながら、裕福で惚れた男と一緒になってそれなりの幸せを手にするはずであった。ところが吉之助の地元の兵庫に向かう旅の途中、目下縁談が持ち上がっている若旦那が、結婚前に妾を連れ帰ってはおためにならずと忖度したお供の番頭によって荒れた海に落とされる。
海女として育った出自が幸いし、お絹はとっさに身につけた着物を脱いで荒波を泳ぎきった。そして力尽きて波打ち際を漂っているところを通りがかった男に救われた。男は房吉というならずもので、水死体(だと思った)の女の容貌があまりに美しいので、惜しいと思って見に行ったところ、まだかすかにぬくもりがあったので知人の家に連れて行き介抱してもらった。短絡的な房吉は自分が救った女が自分のものになるのはあたりまえと考え、回復したお絹を女房にし、海に落とされたいきさつを聞いて、はるばる兵庫まで高田屋をゆすりに行く。
ゆすりは思ったよりも稼ぎにならず、会えば吉之助と復縁できるのではというお絹のかすかな希望も、房吉が亭主面していればうまくいくはずもなく、高田屋から貰った金を持って、お絹は房吉とともに江戸にもどり、再び芸者稼業をはじめた。
持ち前の美貌でたちまちに大変な売れっ子となるが、それがまた嫉妬深い房吉には気にいらない。鬱々としているところ、さらに厄介者が家に居着くことになる。お絹が、三浦で漁師をしているはずの父がみじめに零落した姿で往来を行くのを見つけ、家で養うことにしたのだ。父はお絹は実の娘ではなく、義妹の生んだ子で父親はれっきとした武家であることを告げ、あまつさえ金で売ったからには親として尽くしてもらうことはできないと遠慮するが、お絹は恨みの一言もなく12歳までの扶育に感謝して孝養を尽くす。ところが、房吉は、仲のよい父娘の関係にいかがわしい疑いを抱き、父親を毒殺してしまうのであった。
悪女にならない夜嵐お絹
ここまでのところ、お絹は悪女ではない。むしろ、善良といえる心優しい女性である。伯円の講談では、お絹のこの前半生がくわしく語られるがゆえに、その後の物語を聞いても彼女を心底から悪女とは思えない。
父を殺されたのち、芸者稼業をつづけていたお絹は、ある時、3万石の大名「大壺家」の殿様(下野国那須郡烏山藩3万石の藩主大久保佐渡守。速記では実名を避けて大壺家としてある)のお目にとまって側妾として上がることになった。そこで藩主の寵愛を受けて、男児を出産、御部屋様となる。しかし、もともと歳の差のあった藩主が亡くなると、未亡人待遇で髪を下ろし、仏門ざんまいの暮らしを強いられる。かつては芸者として賑やかな世界に生きていたまだ20代なかばに満たない若い身空だ。陰気な生活に心を病んでしまう。
保養のため箱根に湯治にいったお絹は、そこで出会った若く美しい男と恋に落ちた。男は日本橋の呉服商紀伊国屋の跡取りで角太郎といった。江戸に戻ったお絹は向島小梅の紀伊国屋の寮のとなりに寮を構えてもらい、角太郎と逢瀬を繰り返した。しかし、角太郎は、妻にお八重という令嬢を選び、お絹との縁を切る。お絹は角太郎との情事が大壺家に知られて家を追われる。
明治以降は、小林金平という金貸業の男の妾となる。伯円の講談では、小林は元幕府の鷹匠で、角太郎とお八重が結ばれるのに手を貸し、お絹に角太郎をあきらめるように説得にいって、その美しい容貌に惹かれたことになっている。
小林はお絹のために浅草猿若町に妾宅をかまえた。もともと芝居好きであったお絹が役者買いにはまったのはこの頃のことだ。そして、役者のひとり、嵐璃珏に本気になる。妻になりたいお絹と、さほど気のない璃珏。璃珏はお絹の猛攻撃をかわすために、「立派な旦那がいるお絹さんとは一緒になれない」と告げる。そこで、お絹は璃珏との婚姻の邪魔になる旦那を毒殺する。ちなみに伯円の講談では、お絹は体調が悪いという小林金平のためにしじみ汁や葛湯をこしらえているが、あきらかに毒を盛ったとはいっていない。飲ませたかよりも殺鼠剤を入手したということが死刑判決の決め手になった。
悪人は誰であったのか
さて、このお絹の人生をみて、淫蕩な女の因果応報だと思うだろうか。
むしろ、縁を結んだ男の善し悪しで人生が決まってしまった旧時代の女性たちの流されるしかない一生に悲しみを感じる。非正規雇用者が、職を変えてもなかなか正社員になれない負の連鎖のように、運命がいくら転換しても、妾や愛人あつかいで正妻にはなれない運命。恋が報われない憂さ晴らしに役者買いをしたがために淫婦の名を残し、さらに果ては実際に犯したのかわからない罪で斬首である。
伯円がお絹の人生に同情していたかどうかは不明である。この講談以外でお絹の名を口にしたという記録もない。梨園の人々と親しい付き合いがあった伯円は、事件の当事者、姦通罪で10年の徒刑に処された嵐璃珏(恩赦にあずかって3年で出獄し、のちに二代目市川権十郎を襲名、歌舞伎役者として大成した)とも交流したことがあった。その当時は「拙者抔(など)と酒を飲み拙者宅へ来て寝泊りを致して随分懇意に遊び戯ふれた事も有升」という。お絹に買われたことがある他の役者たちの名も知っていた。お絹の人柄などは彼らに聞いていたのかもしれない。
当時の成功者の常として、正妻の他に妾もいた伯円が斬新な女権論者であったとは思われない。ただし、明治の世に、数名の女弟子を受け入れて、「珍獣」としてではなく、ちゃんとした講談師として育てたという一面がある。
伯円による明治の毒婦「夜嵐お絹」の印象はいかがだっただろう。
毒婦といわれた美しい悪女が男を惑わせ、殺し、ついには法によって裁かれる勧善懲悪の物語を予想されていただろうか。
結局、伯円が末尾に「実に慎むべきは色情の道」と教訓を垂れているのは、出世前の男たちに対してである。
いったい悪は誰であったのだろう。お絹か、お絹と関係した男たちか。それすらも明白に言い切ることができないのだ。 
●夜嵐おきぬと呼ばれた毒婦「原田きぬ」 
「夜嵐おきぬ」は、原田きぬが犯した事件を取り上げた作品。
明治5年2月20日、東京浅草で一人の女性が梟首(さらし首)を言い渡され、3日間に渡ってさらされたという。
女性の近くには、立札が立てられ、その立て札には「小林金平の妾にて浅草駒形町四番地に住む 原田きぬ29歳は、嵐璃鶴という男性と不義密通を重ねたうえ、主人を毒殺した。このことは不届き至極なので梟首を言い渡され、20日に処刑となった。昨日22日までの3日間浅草でさらされた。」と書かれてあった。
おきぬは処刑される前に、「夜嵐の さめて跡なし 花の夢」との辞世の句を詠んだことで、夜嵐おきぬと呼ばれるようになった。
おきぬ芸者になる
おきぬが16歳の頃、両親と死別し芸妓になることとなった。
おきぬは大変な美貌の持ち主であったため、何人もの歌舞伎役者と関係を持った。
やがて東京に住む小林金平に身請けされ、金平の妾になった。
しかし、おきぬは嵐璃鶴(りかく)と密会し、関係を持っていた。璃鶴は歌舞伎役者で水もしたたる美少年だった。
璃鶴と逢瀬を重ねるうちに、将来を約束する仲になり、障害となった主人・金平を殺鼠剤で毒殺したという。
きぬの裁判
きぬは逮捕され、主人殺しによって梟首が言い渡された。
璃鶴は、徒刑(労役)10年の刑であった。
きぬは逮捕時、身ごもっており、「新聞雑誌」によれば、きぬは獄中で男子を出産し、産まれた子は身寄りのものに預けられたという。
璃鶴は、その後景気が短縮され、3年後に出獄した。
璃鶴は、出獄後は市川権十郎を名乗り、「新聞雑誌」一首詠んで投稿した。
「罪は皆みそぎぞ果たし隅田川 きよきながれを汲みぞ嬉しき」
おきぬは毒婦に
裁判後、おきぬは明治5年(1872)2月20日、東京浅草で処刑されたうえ、死体がさらされた。
死体のそばに立てられた立札には、「この者、妾の身分にて嵐璃鶴と密通の上、主人金平を毒殺に及ぶ段不届き至極に付き、浅草において梟首に行う者也。」
処刑されたのは、東京府貫属小林金平の妾にて浅草駒形町四番地借店 原田キヌ 二十九歳
と書かれてあった。
きぬは、璃鶴という男性と不義密通を重ねたうえ、主人を毒殺したため、不届き至極であるから、梟首(さらし首)に処したというのである。
当時は、本妻以外にも妾を持つことが認められ、さらに妾であっても貞淑を要求されていた。
きぬがさらされると、新聞はきぬの悪行を書き立て、きぬの死体にはたくさんの人でにぎわった。
雑誌は特集を組み、出版物も多く発売され、きぬの雑誌は発売と同時に売り切れるほどの人気だったという。 
●夜嵐おきぬ(本名:原田きぬ) 
明治5年2月20日(1872年3月28日)、東京浅草で女の生首が晒された。捨札にはこうある。
「東京府貫属、小林金平ノ妾ニテ、浅草駒形町四番地借店、原田キヌ。歳二十九。此ノ者ノ儀、妾ノ身分ニテ嵐璃鶴ト密通ノ上、金平ヲ毒殺二及ビ候段、不届至極二付、浅草二於テ梟首二行フ者ナリ」
要するに、29歳の元芸者、原田きぬは妾の身分でありながら嵐璃鶴という歌舞伎役者と不義密通を重ねた上、主人を毒殺したために梟首(きょうしゅ=晒し首)を云い渡されたというわけだ。なお、現代人の我々には「妾の身分でありながら云々」は些か奇異に感じられるが、当時は妾を持つことは公然と認められており、妾といえども貞操を要求されたのである。
事件を報じた2月23日付の『東京日日新聞』によれば、きぬは2月20日に小塚原刑場で処刑され、その日から3日間晒されたという。美人だったそうだ。そして、これまでに何人もの役者を手玉に取って来た毒婦であると断じている。しかし、この記事には金平がどのような方法で毒殺されたのかについては記されていない。おそらく殺鼠剤(=砒素)の類いを食事に混入されたのではあるまいか。また、『新聞雑誌』明治5年2月号によれば、きぬは逮捕された時に身籠っており、獄中で男子を出産し、身寄りに預けられたという。出産を待って処刑されたのだろう。
この事件は巷では「夜嵐おきぬ」を呼ばれて大評判となった。元芸者の美人妾と美少年の歌舞伎役者という取り合わせが、市井の人々の心を掴んだのだろう。新聞雑誌は彼女のことを大袈裟に書き立て、3巻セットの読み物まで出版された。即日完売するほどの人気だったという。やがて芝居が上演され、繰り返し映画化もされた。新東宝の『毒婦夜嵐お絹と天人お玉』(57)が今のところの最後の映画化である。ちなみに「夜嵐」とは、浮気相手の芸名「嵐璃鶴」と、きぬの嵐の如き乱行ぶりを掛けたものとするのが定説である。きぬの辞世の句「夜嵐のさめて跡無し花の夢」から取ったとの説もあるが、彼女は辞世の句を残していない。この句は後の創作である。
なお、浮気相手の嵐璃鶴もまた不義密通の罪で3年の徒刑を云い渡されている。釈放されたのは明治7年9月のことだ。その後は市川権十郎と名を改めて歌舞伎役者を続けたという。 
●夜嵐おきぬと呼ばれた毒婦「原田きぬ」 
「夜嵐おきぬ」(よあらしおきぬ)は明治時代の新聞錦絵等に毒婦として登場する人物及び、後年に制作された映画のタイトルである。夜嵐おきぬには、実在のモデルがおり、原田きぬという人物である。きぬは当時29歳で元芸者だったが、金貸し業を生業としていた東京府士族の小林金平に囲われる妾であった。ところがが、きぬは嵐璃鶴という歌舞伎役者と不義密通を重ねた上、主人を毒殺したために梟首(晒し首)にされた。
原田きぬは弘化元年(1844)頃、三浦半島城ヶ島の漁師であった佐次郎の娘として生まれたとされる。少女時代に養老滝五郎に弟子入りし、小春の芸名で寄席に出て手品を演じていたようだ。きぬが16歳の安政5(1858)年、父母が相次いで病死、伯父に引き取られて江戸に出て芸妓になることになった。芸妓置屋「時尾張屋」において「鎌倉小春」と名乗り、その美貌で江戸中の評判を取るほどの美人だったようだ。
きぬはこの芸妓時代に、大久保佐渡守(下野国那須郡烏山藩三万石城主)に見初められ、日本橋の医者である黒沢玄達を仮親とし、大久保家の側室となり、名を花代と改めた。安政4年(1857年)、世継ぎの春若を生んだが、その3年後に佐渡守が44歳で早世し、ふたりの新婚生活に終止符が打たれた。花代は当時の慣例に従って仏門に入ることになり、名を「真月院」と改め、亡き夫の冥福を祈る生活に入った。
しかし、きぬが仏門に入ることは半ば強制されたもので、真の信仰心から仏門に入ったのではなかったので、そのような生活には馴染めず、やがて欝状態になり、勧める人があって箱根に転地療法に出かけることになった。箱根で「今業平(美男の代名詞)」の異名を持つ日本橋の呉服商紀伊国屋の伜、角太郎と出会い、ふたりは恋に落ちた。江戸に戻った後もふたりの関係は続き、角太郎がきぬの元に通う生活が始まった。
しかし、そのような禁断の恋を隠し果せるはずもなく、やがてその乱行不行跡が大久保家の人々の知るところとなり、きぬは同家から追放されることになった。その後、角太郎に縁談が持ち上がり、彼の足はきぬから遠ざかっていった。その後、きぬは元の芸妓生活に戻ることになった。戊辰戦争時、旧幕府時御鷹匠であり、その後金貸し業を生業としていた東京府士族の小林金平が明治2年、きぬを気に入り身請けした。
そして、小林は浅草の歌舞伎三座付近の猿若町に妾宅を設け、きぬを住まわすことにした。小林はきぬを溺愛し、彼女の求めるものなら何でも与えた。彼女は歌舞伎役者の璃鶴(後の二代目市川権十郎)との役者買いにのめり込み、彼との結婚を願い、明治4年(1871)障害となる旦那である小林を毒殺した。小林がどのような方法で毒殺されたのか記録はないが、殺鼠剤(砒素)の類いを食事に混入されたのだろう。
逮捕、裁判にかけられた時、きぬは妊娠しており、死刑判決を受けた後、出産まで刑の執行が延期され、明治5年(1872)2月20日に小塚原刑場で処刑された。当時、近代刑法が成立しておらず、断頭の後三日間梟首に処せられた。死刑執行に際し、きぬが残した辞世の句「夜嵐の覚めて跡なし花の夢」から、きぬは「夜嵐おきぬ」と渾名されるようになったと言われるが、実際は辞世を残してはいないという説もある。
この事件は巷では大きな話題を集めた。元芸妓の美人妾と美少年の歌舞伎役者という取り合わせが、市井の人々の心を掴んだのだろう。新聞や雑誌は彼女のことを大袈裟に書き立て、3巻セットの読み物まで出版された。即日完売するほどの人気だったという。やがて芝居が上演されるようになり、繰り返し映画化もされた。1957年に封切られた新東宝の「毒婦夜嵐お絹と天人お玉」が今のところの最後の映画化である。
事件を報じた同年2月23日付の「東京日日新聞」によれば、きぬはこれまでに何人もの役者を手玉に取って来た毒婦であると断じている。当時は妾といえども貞操を要求されており、彼女の浮気相手であった嵐璃鶴もまた不義密通の罪で3年の徒刑を言い渡された。釈放されたのは明治7年9月のことだ。その後は市川権十郎と名を改めて歌舞伎役者を続けたという。きぬが獄中で出産した男児は身寄りに預けられた。 
  
  

 

小野小町 900
あはれなりわが身の果てや浅緑 つひには野辺の霞と思へば  
●小野小町 1
[生没年不詳] 平安時代前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。 
人物
小野小町の詳しい系譜は不明である。彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話があり、後世に能や浄瑠璃などの題材としても使われている。だが当時の小野小町像とされる絵や彫像は現存せず、後世に描かれた絵でも後姿が大半を占め、素顔が描かれていない事が多い。
一方で小野小町は美女の代名詞として定着しており、地域や店の看板娘のことを「○○小町」と呼ぶ慣習がある。
   出自
系図集『尊卑分脈』によれば小野一族である小野篁の息子である出羽郡司・小野良真の娘とされている。しかし、小野良真の名は『尊卑分脈』にしか記載が無く、他の史料には全く見当たらない。加えて、数々の資料や諸説から小町の生没年は天長2年(825年) - 昌泰3年(900年)の頃と想定されるが、小野篁の生没年(延暦21年(802年) - 仁寿2年(853年))を考えると篁の孫とするには年代が合わない。ほかに、小野篁自身の娘、あるいは小野滝雄の娘とする説もある。
血縁者として『古今和歌集』には「小町姉(こまちがあね)」、『後撰和歌集』には「小町孫(こまちがまご)」、他の写本には「小町がいとこ」「小町姪(こまちがめい)」という人物がみえるが存在は疑わしい。さらには、仁明天皇の更衣(小野吉子、あるいはその妹)で、また文徳天皇や清和天皇の頃も仕えていたという説も存在するが、確証は無い。
また、「小町」は本名ではなく、「町」という字があてられているので、後宮に仕える女性だったのではと考えられる。ほぼ同年代の人物に「三条町(紀静子)」「三国町(仁明天皇皇子貞登の母)」が存在する。前述の小町姉が実在するという前提で、出羽国の郡司の小野一族の娘で姉妹揃って宮仕えする際に姉は「小野町」と名付けられたのに対し、妹である小町は「年若い方の“町”」という意味で「小野小町」と名付けられたという説もある。
   生誕地に纏わる伝承
生誕地については、伝承によると現在の秋田県湯沢市小野といわれており、晩年も同地で過ごしたとする地域の言い伝えが残っている。ただし、小野小町の真の生誕地が秋田県湯沢市小野であるかどうかの確証は無く、平安時代初期に出羽国北方での蝦夷の反乱で出羽国府を城輪柵(山形県酒田市)に移しており、その周辺とも考えられる。この他にも京都市山科区とする説、滋賀県彦根市小野町とする説、福井県越前市とする説、福島県小野町とする説.、熊本県熊本市北区植木町小野とする説.、神奈川県厚木市小野とする説.など、生誕伝説のある地域は全国に点在しており、数多くの異説がある。東北地方に伝わるものはおそらく『古今和歌集』の歌人目録中の「出羽郡司娘」という記述によると思われるが、それも小野小町の神秘性を高めるために当時の日本の最果ての地の生まれという設定にしたと考えられてもいて、この伝説の裏付けにはなりにくい。ただ、小野氏には陸奥国にゆかりのある人物が多く、小町の祖父である小野篁は青年時代に父の小野岑守に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたと言われる。また、小野篁のいとこである小野春風は若い頃辺境の地に暮らしていたことから、夷語にも通じていたという。
   晩年に纏わる伝承
前述の秋田県湯沢市小野で過ごしたという説の他、京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ、小町は晩年この地で過ごしたとの説がある。ここにある随心院には、卒塔婆小町像や文塚など史跡が残っている。後述の「花の色は..」の歌は、花が色あせていくのと同じく自分も年老いていく姿を嘆き歌ったものとされる。
   墓所
小野小町の物とされる墓も、全国に点在している。このため、どの墓が本物であるかは分かっていない。平安時代位までは貴族も風葬が一般的であり(皇族等は別として)、墓自体がない可能性も示唆される。
秋田県湯沢市小野には二ツ森という深草少将と小野小町の墳墓がある。なお、近隣には、小野小町の母のお墓とされる姥子石など、小野小町ゆかりの史跡が多数存在している。
宮城県登米市東和町米川に『小町塚』と称する墓があり、付近には「小町桜」と呼ばれる桜の木があった他「小町峠」という地名や、小町を慕ってやってきたという某大納言の碑も残っている。
宮城県大崎市にも小野小町の墓があり、生地の秋田県雄勝郡横堀村に帰る途中、この地で病に倒れ亡くなったと伝えられている。
山形県米沢市の塩井町には小野小町の墓とされる美女塚がある。
福島県喜多方市高郷町には、小野小町塚があり、この地で病で亡くなったとされる小野小町の供養塔がある。
栃木県栃木市岩舟町小野寺にも小野小町の墓があり、小町は大慈寺裏の断崖から薬師如来の世界を見て、身投げをしたという伝説がある。
茨城県土浦市と石岡市には、小野小町の墓があり、この地で亡くなったとの伝承がある。この2つの地は、筑波山の峠を挟んでかなり近いところにある。
神奈川県厚木市小野には、嘉永元年に建てられた拝殿の横に、小町塚が存在する。
愛知県あま市新居屋に小町塚があり、背面には「小町東に下るとき此処で死せし」とある。
京都府京丹後市大宮町五十河も小野小町終焉の地と伝わり、小町の墓と伝えられる小町塚や、小町を開基とする妙性寺があり、小野小町公園が整備されている.。
京都府綴喜郡井手町では、小野小町が当地にて69歳で没したと伝えられ、小町の墓と伝えられる小野小町塚が残されている。
京都府京都市左京区静市市原町にある小町寺(補陀洛寺)には、小野小町老衰像と小町供養塔などがある。
滋賀県大津市大谷にある月心寺内には、小野小町百歳像がある。
和歌山県和歌山市湯屋谷にも小町の墓があり、熊野参詣の途中この地で亡くなったとの伝承がある。
鳥取県西伯郡伯耆町にも同種の言い伝えがあり、小町地区に墓がある。また隣接して小野地区も存在する。
岡山県総社市清音黒田にも、小野小町の墓がある。この地の伝承としては、小町が「四方の峰流れ落ちくる五月雨の黒田の蛭祈りますらん」とよむと、当地の蛭は吸い付かなくなったという蛭封じの歌が伝えられている。
山口県下関市豊浦町川棚中小野にも、小野小町の墓がある。
   世界三大美人
一般にクレオパトラ、楊貴妃と共に「世界三大美人」(または世界三大美女)の一人に数えられている。小野小町の代わりにヘレネー、楊貴妃の代わりに虞美人を加える場合もある。
明治中期、日本国内でナショナリズムが高まると、世界三大英雄(カエサル、ナポレオン、織田信長)ら日本人を世界の偉人にしようという動きが生まれ、小野小町もメディアに登場するようになったのが始まりとされている。
作品
歌風はその情熱的な恋愛感情が反映され、繊麗・哀婉、柔軟艶麗である。『古今和歌集』序文において紀貫之は彼女の作風を、『万葉集』の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせているとして絶賛した。仁明天皇の治世の人物である在原業平や文屋康秀、良岑宗貞と和歌の贈答をしているため、実在性が高い、とする説もある。実際、これらの歌人との贈答歌は多く伝わっている。また、小町の歌集として『小町集』が伝わる。
   思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを 『古今集・序』
   色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける 『古今集・序』
   わびぬれば身を浮草の根を絶えて誘ふ水あらば往なむとぞ思ふ 『古今集・序』
   わが背子が来べき宵なりささがにの蜘蛛のふるまひかねてしるしも 『古今集・序』
   いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣をかへしてぞきる
   うつつにはさもこそあらめ夢にさへ人めをもると見るがわびしさ
   かぎりなき思ひのままに夜もこむ夢ぢをさへに人はとがめじ
   夢ぢには足もやすめずかよへどもうつつにひとめ見しごとはあらず
   うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき
   秋の夜も名のみなりけりあふといへば事ぞともなく明けぬるものを
   人にあはむ月のなきには思ひおきて胸はしり火に心やけをり
   今はとてわが身時雨にふりぬれば事のはさへにうつろひにけり
   秋風にあふたのみこそ悲しけれわが身むなしくなりぬと思へば
   — 『古今集』
   ともすればあだなる風にさざ波のなびくてふごと我なびけとや
   空をゆく月のひかりを雲間より見でや闇にて世ははてぬべき
   宵々の夢のたましひ足たゆくありても待たむとぶらひにこよ
   — 『小町集』
次の歌からも美女であった事が窺える。これは、百人一首にも選ばれている。
   花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に
   — 『古今集』
緒話
絶世の美女として知られており、美人の代名詞とも言える人物だが、平安時代の女性のご多分に漏れず、生没年をはじめその素性はほとんど明らかにされていないなど、その人物像には謎が多い。同じく百人一首に選ばれた小野篁の孫とも言われるが、多くの学者からは矛盾点が多いため否定されている。出生地も諸説あるが、秋田県湯沢市がもっとも有力とされ、あきたこまちなどの名前の由来となっている。第54代天皇の仁明天皇から、その子である文徳天皇、孫の清和天皇の三代の時代に宮中で仕えていたと言われており、仁明天皇の更衣(父親が身分の高くない天皇の后)だったという説もある。
小野小町のエピソードとして特に知られているのが、深草少将の百夜通いである。小町に求愛した少将は、小町から百日間毎日通い続けたら受け入れると言われ、毎日欠かさず小町の元へ足を運び続けたが、九十九日目の夜に大雪のため願い叶わず凍死してしまったという伝説である。この話はフィクションであるが、少将のモデルとなった人物は存在したと言われており、同じく六歌仙にして交流のあった遍昭がその候補者に挙げられている。
その一方、小町は長命であったと言われているが、その晩年を描いたエピソードは乞食となって落ちぶれた、地方各地を放浪して行き倒れになったなど、美人と謳われた全盛期とは一転して不遇なものが多い。その反面、故郷の東北に帰って静かに隠棲した、百夜通いで命を落とした少将を弔って90歳近くまで生きたなど、穏やかな晩年を描いた話も少なくない。  
●小野小町 2
世界三大美女のひとりとされ、六歌仙にも数えられる平安の歌人である小野小町。数々の男性を魅了し、恋をテーマにした和歌が多いことで知られています。百人一首にも選ばれ栄華を誇りましたが、晩年に関しては謎が多い人物です。そんな小野小町の辞世の句が以下です。
「あはれなり わが身の果てや 浅緑 つひには野辺の 霞と思へば」
「私の亡きがらは浅緑の煙となり、最後には野辺にたなびく霞になってしまうのだなあ」という意味です。この世と別れなければならないことを嘆いている様子が表されています。 
●辞世の句 1
   あはれなり わが身の果てや 浅緑 つひには野辺の霞と思へば
(あわれなり わがみのはてや あさみどり ついには のべの かすみとおもえば)
あはれだなあ、私の亡きがらは荼毘に付せられ、浅緑色の煙と立ち昇り、お終いには野辺に立ちなびく霞になってしまうと思うと。いずれは霞となってしまう身、だから小さな事にくよくよせずに、前向きに生きて行って欲しい。 
注 / 浅緑=霞の色をいう。野辺の霞=火葬されて立ちなびく煙を暗示。新古今和歌集。
●辞世の句 2
   あはれなり わが身の果てや 浅緑 つひには野辺の 霞と思へば
「私の亡きがらは浅緑の煙となり、最後には野辺にたなびく霞になってしまうのだなあ」という意味です。この世と別れなければならないことを嘆いている様子が表されています。
世界三大美女のひとりとされ、六歌仙にも数えられる平安の歌人である小野小町。数々の男性を魅了し、恋をテーマにした和歌が多いことで知られています。百人一首にも選ばれ栄華を誇りましたが、晩年に関しては謎が多い人物です。
●辞世の句 3
誰もが知る平安初期の美女・小野小町とこの歌のイメージはあまり結びつかないかもしれない。
小野小町は伝説の多い人物で、深草少将の百夜通いや、能の『卒塔婆小町』『通小町』の中の髑髏伝説など…。
美しく華やかだった若かりし頃と、それに正反対の老いた姿との対比が、人々の創造力を刺激したのだろう。
地方で誰からも顧みられず野ざらしで死んで髑髏となって道端に転がっている姿が語られる。
平安時代の葬送の地は、東の鳥辺野と西の化野(あだしの)があった。もとは鳥葬や風葬の地だったと思われるが、主に行基集団の志阿弥(しあみ)という者が火葬に関わり早くから火葬が行われていたようだ。歌にある霞は、火葬の煙であろう。
自身が死して火葬され煙となるところまで想像して歌に読む。その歌が格調高く見事に人間の無常感を歌いあげていることから、小野小町という人物の魅力がうかがえる。
   あはれなり 我が身の果てや 浅緑 つひには野辺の 霞と思へば
●辞世の句 4
   あはれなり わが身のはてや あさ緑 つひには野べの 霞と思へば (新古今集)
哀れだなあ、わが身の終わりは。最後は浅緑色の霞となって野辺に漂うのだと思えば。小町には死の影がさした歌が散見されるが、これもその一つ。三句切れの「あさ緑」の語が、哀傷のなかに抒情的な彩りを添えているところが小町らしい。「あさ緑」くすんだ黄みの緑色。糸、野辺、霞などにかかる枕詞として用いられる。「野べの霞」火葬の煙を暗示している。
普通「浅緑」は、
   あさみどり花もひとつに霞みつつおぼろに見ゆる春の夜の月(菅原孝標女『更級日記』)
のように春の麗らかさを表現するのに用いられるので、その情緒を連想させるのだ。 
●「吾れ死なば焼くな埋むな野に晒せ犬の腹肥やせ」 1
あの世界三大美女の一人と言われている、小野小町 晩年の和歌である。
「私が死んだなら焼くことも埋葬することも致すな、遺体は野ざらしにして、腹をすかせた野良犬に食べさせてくれ」と言っている。
「花の色は移りにけりな……」で有名な、小野小町はんが、…何があったん? どないしはったん? と、茫然自失の私。さらに、小町はんには、藤原氏に喧嘩を売った和歌があると言われる。
   「物をこそ岩根の松も思ふらめ 千代経る末も傾きにけり」
当時、朝廷で権勢を欲しいままにしていた藤原一族を「罵った」歌で、藤(藤原氏)と言う植物は松(朝廷)に寄生して生き、最後には松の命を奪ってしまうと詠んだ。
「帝さえ顔色を窺う藤原氏に喧嘩を売った。いいぞ、いいぞ、小町!」と手放しで褒めたい。
先の和歌は、「ああ、私は思い残すことなく人生を生き切ったわ。どうせなら遺体もしっかり役立ててよ」という根性の座った、お年寄りの、今風に言えば、後期高齢者の心意気と言うものだろうか。
良い意味で、裏切ってくれた小町はん。いつの時代にも、カッコイイおなごはんていてはるんどすなぁ。…
●「吾れ死なば焼くな埋むな野に晒せ犬の腹肥やせ」 2
平安時代の女流歌人にして「六歌仙」にも「三十六歌仙」にも含まれる小野小町は、生没年も生没地も不詳であるといわれます。けれども、平安前期に東北地方の日本海側に生まれたという節が有力です。同時代の肖像画もないので素顔はわかりません。美人であったか定かではないです。ただ、残された短歌にふれる限りで、彼女は辺境の人であることが偲ばれましょう。『古今集』におさめられている有名な句に次のものがあります。「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」これは通常の解釈だと、わが世の春を謳歌した美女も、春に咲く桜の花びらと同じように、時がたてば色あせ老いさらばえる、ちょうどわが身のように、となります。でも、その解釈は彼女が美人であることを前提にしているではありませんか。
日本海側の一帯を指してまだ「裏日本」と称していた20世紀半ば、頸城野(新潟県上越地方)に生まれた私は、この短歌に裏読みをしています。彼女の辞世の句といわれるもの、およびそれと似たような気持ちで詠んだもの二つを紹介しましょう。辞世の句「あはれなりわが身の果てや浅緑つひには野辺の霞と思へば」「吾れ死なば焼くな埋むな野に晒せ痩せたる犬の腹肥やせ」辞世の句にある「あはれなり」は倒置法で記されています。よほど「あはれ」なのでしょうね。この部分と『古今集』の「わが身世にふるながめせしまに」(これも倒置法)を重ねてみると、「あはれ」は、趣がある、しみじみと感じられる、という解釈でいきたいです。ようするに、自然に即して生きることの感慨を吐露しているのでしょう。そうであればこそ、自分が死んだら、死体を野に晒して野犬の食べ物に供せよ、と詠んだのです。小野小町は、自らの人生を自然生態系の一部にきちんとおいているのです。
この生活観・人生観は、親鸞が流された地(頸城野)や世阿弥が流された地(佐渡島)の先住民にふさわしいです。とりわけ親鸞の「悪人正機」は、のちに「裏日本」と称されることになる辺境の地で、流刑という裏読みの生きざまに刻まれ培われたのです。
ところで、「裏」は「奥」に通じます。奥義・奥伝・奥行など、いずれも「あはれ」な佇まいを感じる。「奥」は、現代社会ではかき消されてしまった闇の世界、奥深い神秘、マレ人がやってくる沖のかなたといった割り切れなさ、いや、割り切ってはいけない曖昧ゾーンを暗示しているのです。「裏」も同様です。その「裏」は、近代日本では虐げられるものの冠詞となりました。何故でしょうか。私は、その問題に関して歴史地理的・宗教民俗学的、そして社会思想的な検討をおこなっています。その際、近現代日本ないし国民国家日本における「裏日本」の意味をも考え、21世紀における「裏日本」文化ルネッサンスを提唱したい思いなのです。「奥」や「裏」は、21世紀的衣食住コミュニケーションに不可欠の触媒的ゾーンといえるのです。
●小町ゆかりの寺 随心院
   花の色は移りにけりないたづらに 我が身世にふるながめせし間に
小倉百人一首に載る小野小町の歌である。
小野小町は古今集六歌仙の一人として計十八首が、全勅撰集では総計六十七首の歌を残している平安初期の歌人である。
クレオパトラ、楊貴妃と共に世界三美人の一人にも数えられ、謡曲、歌舞伎、その他いろんなジャンルの芸能の世界で取り上げられる女性だが、これだけ謎につつまれた女性も珍しい。
謎、つまり、いたことはいたらしいのだが、いつの頃、どのような素性で、何処に生まれ、どんな人生を送り、何処でいつ亡くなったのか、となるとこれを裏付ける確かな資料がほとんどない。
つまり、何も分からないのである。
わずかに残る資料や伝の類から、小町は小野篁の子の出羽郡司小野良真の娘として出羽で生まれ、長じて宮中の五節の舞姫に選ばれて参内し、仁明天皇の目にとまって後宮に迎えられ、更衣(嬪)としてに仕えたという説が強い。異説もある。
小町の歌として「小野小町集」には100首を越える歌が残されているが、そのすべてが小町の歌といえるかは疑わしいようだ。小町の歌として確かなのは古今集の十八首のみとする説すらある。
調べれば調べるほど分からないことばかりなのである。
   吾れ死なば焼くな埋むな野に晒せ 痩せたる犬の腹肥やせ
これも小町が晩年に詠んだ辞世の歌と伝えられる。
真偽の程は分からないが、ある意味では小町にふさわしい歌かも知れない。
古今集にある歌からすると、小町は後宮て数多の侍女にかしづかれ十二単を纏い、取り澄まして歌を詠む賢しらな自分の何処かに、冷たく醒めた目でそれを見放すもう一人の別の自分がいる。
そんな人だったような気がするからである。
その小町ゆかりの寺として先ず挙げられるのが随心院である。
京都市山科区小野御霊町にある真言宗善通寺派の大本山である。
このあたり一帯は小野氏が栄えた地だと言われる。
寺伝によると後宮を退いた小町はこの寺でひっそりと余生を過ごしたとされている。
深草少将の百夜通いの物語もこの地を舞台にしている。
総門を入ると参道右手に小野梅園が広がる。
梅園は今梅祭りが開催されている。
梅祭りの時期、随心院では「はねず踊」という珍しい踊りが催される。
深草少将の百世通いを題材にした伝統芸能で、「はねず」は小野梅園の遅咲きの紅梅の色からきている。
梅園の南の一角に「化粧(けはい)の井戸」がある。
小町は、朝夕、この井戸水に自らの姿を写して化粧をしたのだとか。
この井戸の辺りに小町の住家があったと説明板には書かれている。
また本堂の裏手(東)の林の中には小町の文塚がある。
小町によせられた千束もの文を埋めたとか。
文塚と少し離れたところに小町に仕えた侍女のかわいらしい供養塔がある。
庫裡の玄関脇に
   花の色は移りにけりないたづらに〜 
の冒頭の歌を刻んだ歌碑が立っている。
庫裡を入ると奥書院、能之間、表書院、は本堂と回廊伝いに巡ることが出来る。
伽藍は外からの見かけより広く、気をつけて歩かないと伽藍を巡っているうちに出口を見失いかねない。
表書院は薬医門を入った正面に位置している。
中を巡っていると気づかないが、拝観入り口の庫裏と大玄関は庭つづきで隣り合っているのである。
薬医門と大玄関は拝観用の入口としては使われていない。
随心院には小町の墓はなく、ここで亡くなったことを裏付ける資料もない。
はたして小町は何処で、どのように亡くなったのであろうか。
●小野小町伝説
『丹哥府志』
五十河村
[小野山妙性寺](曹洞宗)
寺記に云。小野山妙性寺は小野小町の開基なり、往昔三重の里は小野一族の所領なりといふ、小町老いたる後此地に来りて卒す。法名を妙性といふ、其辞世として
九重の都の土とならずして はかなや我は三重にかくれて
愚按ずるに、小野小町は其生出本来詳ならず。或曰。小野良真の女なり、仁明帝承知の頃の人、年老たるに及で落魄して相阪山に死すといふ。又小野常澄の女なりとも伝ふ。或の説に冷泉家の書ものには小町は井手の里に死す時に年六十九才とありよし。徒然草には小町は極めてさだかならずといふ、其衰へたるさまは玉造といふ文にありしと袋草紙に見へたれども此説には論ありともいふ。かようなる事は考ふれどもいまだ丹後に来たる事をきかず、されども養老三年初て按察使を置く時丹波国司小野朝臣馬養丹後、但馬、因幡の三国を管す、其養老年中より小町の頃までは僅に百年斗りなり、これによってこれを見れば小野一族の所領なりといふもいまだ據るなきにしもあらず、其終焉の地明ならざるは蓋鄙僻の地に匿るならん。今其塚といふ處を見るに古代の墳墓と見へたり恐らくは其終焉の地ならんとも覚ゆ、後の人これに増補して少将の宮を拵へ又丹流と僧妙性の二字に文字を足して近號を拵ふ、これよりいよいよいぶかしくなりぬ。
『両丹地方史』
小野小町の伝承について
   序文
大宮町五十河には、五十日真黒人の伝承がある。五世紀末、顕宗・仁賢天皇が幼き時、雄略天皇の迫害を丹波国余社郡に避け(日本書紀)豪族五十日真黒人に保護されたという伝承である。平安時代になると同じ五十河地方に、六歌仙の第一人者といわれる才媛小野小町の終焉の地の伝承がある。小町については各地に墓があるが根拠は薄い。京都府立大の赤瀬信吾助教授は、深草の少将は架空の人物だが、小野小町は実在の人物であるといわれている。実在の人なら終焉の地は一カ所でなければならない。何故、小町の墓が各地にあるのか。民俗学の一説では、中世全国を語り歩いた一種の巫女集団があり、小野氏も語部の有力な一族であったであろう。その語部の巫女たちが各地を語り歩き一人称で語るのを聞いていた人々は、小町が来たように語り伝えたことによって、各地に伝説が生まれたとしている。開基小町について、先代の妙性寺住職は、小町終焉の地、七カ所を調べたが、いずれもその根拠が薄く妙性寺の小町伝承程、確証のある所はなかったという。私は小町に最もゆかりが深いといわれる五カ所を調査し、「五十河の里小野小町の伝承」を発刊したが、ここでは簡略に記す。
   一、京都市随心院(山科区小野御霊町)
随心院は真言宗の大寺院で、本堂に小野小町文張地蔵尊(小町作と伝える)と、小町晩年の姿を刻んだ卆塔婆小町座像(鎌倉時代)が安置されている。また、寺より少し離れた所に、往昔、小野家の邸宅であったと伝える「小町化粧の井戸」がある。群書類従に小町は小野篁の孫にあたり、出羽の国司を勤めた良実の娘であると記され、日本人名辞典には、出羽の郡領小野良実の娘で、仁明の朝、五節の舞姫として後宮にあり、容貌秀絶にして和歌を巧にし女流第一の名手なりとある。
小町は弘仁六年(八一五)頃生まれ、仁明帝が東宮の時から崩御される迄、更衣として寵愛を受け、嘉祥三年(八五○)仁明帝崩御後、仁寿二年(八五二)宮仕えを辞して小野の里に退きこもり晩年をおくったという。最も有名な深草少将百夜通(ももよかよい)の話も伝えられている。後世、六歌仙の第一人者と評され、小倉百人一首の「花の色はうつりにけりないたずらに わが身世にふるながめせしまに」があ
る。小町も仁和(八八五)・寛平(八八九)の頃、七十歳を越して亡くなったと伝えている。
   二、京都市 補陀洛寺(左京区静市市原町)
補陀洛寺は小野小町が晩年に「われ死なば焼くな埋むな野にさらせ、やせたる犬の腹肥せ」と、世の無常を詠んで死んだ地だという。小さな本堂の中心に「小町老衰像」と称して老いぼれた姿の高さ約一米の木像が安置されている。ここも小町臨終の地といわれるが、住職は何も根拠はないが、この近辺で亡くなったという伝説があり、この像も約四百年前に刻まれたもので、それから小町終焉の地になったようだという。この寺の僅か上に高さ二米余りの五重の石塔があり、小野小町供養塔(鎌倉時代作)で、その下段にも小さな五輪塔があり、「深草少将供養塔」と記されている。なお、寺の入口に「小野皇太后供養塔」が建っている。当寺案内書には如意山補陀洛寺は天慶八年(九四五)朱雀天皇御代第十五代天台座主延昌僧正の発願で創建。その後焼失、廃寺となったが再建され、小野小町終焉の地として「小町寺」とも通称されている。美人の誉れ高い小町が晩年流浪の果てに昌泰三年(九○○)四月一日この地で亡くなったと伝えている。
   三、京都府井手町の小町伝説
井手町の小町伝説は冷泉家記などにより、井手に在住したことがほぼ確実と考えられるが、墓所は確実とは云えない(井手町)。「日本文学にあらわれた井手町」と題する書籍で、小野小町と井手……仁明・文徳・清和(八三三−八七五)の頃、歌人として伝えられている小野小町は複数の小町の存在も考えられている。謡曲拾葉抄〔大井忠恕、明和九年(一七七二)刊〕の関寺小町の条には『宇治殿物語云、小野小町が事、一旦大江惟章が妻たりしが、心かわりせしにより仁明の御子基蔭親王に仕え、住吉にいて尼となり、その後、井手寺の別当の妻となる」とある。光広卿〔烏丸光広、天正七年(一五七九)〜寛永十五年(一六三八)〕の『百人一首抄』に「小野小町の終わりける所は山城の井手の里なりとなん」とあり、また『冷泉家記』には「小町六十九歳於井手死す」と記され、『国書総目録』によると冷泉家記は内閣文庫に写本があるのみで刊本はない。寺島良安の「和漢三才図会」〔正徳五年(一七一五)刊〕にも「小町仁明天皇承和の頃小野良実の女。死於相坂。」冷泉家の書「死於井手六十九歳」とある。現在、上井手の玉津岡神社参道の脇に「小町塚」と呼ばれる小さな塚がある。「色も香もなつかしきかな蛙鳴く、井手のわたりの山吹の花」これは小町の歌として勅撰集にも載っている。井手寺に遺骸を葬ったというが、現在はその寺はなく、薬師堂や大門等の字名が残っている。
   四、秋田県雄勝町の小町伝説
邦光史郎氏は、自民党の「りぶる」(昭和六三年発行)の中で、「小町の塚が雄勝町小野にあるというが、ここに葬られた確証はない……」としている。雄勝町の伝承では「小町は出羽国の桐の木田で生まれ、特別美しい娘で、十三歳の頃都に上り…宮中に仕えた。容姿の美しさや才能に優れていることで、時の帝に寵愛されたが三十六歳の時、小野の里に帰り庵をつくって閑居し歌にあけくれていた……」と伝えられている。桐の木田は雄勝町にあり、今も古式の井戸がある。六月の第二日曜日が小町祭りとなっている。
   五、群馬県富岡市の小町伝説
この町の得成寺は山号を小町山と称する真言宗の寺で、小野小町の開基と伝えられている。小町が晩年諸国行脚をし、この地で倒れ庵を設けて仏道修業による闘病生活をしたと伝え、この庵が寺の草創で小町山普済寺と称した。やがて庵は荒廃し、鎌倉期に「心全和尚」が高野山から不動尊を招来し現寺院(得成寺)となったと伝えている。また、ここには薬師像が安置され、小町が諸国行脚の折に病に倒れ、この地で病気回復を祈り仏助を請うたところ、病はみごと完治したので小町は塩を納めたと伝えられている。以後、塩薬師と呼ばれるようになったという。小町山得成寺の裏庭に化粧の井戸があり、晩年の小町が朝夕その水で顔を洗ったことによって健康をとりもどしたといわれ、抜髪を埋めて塚としたものが小町塚であると伝えている。以上が富岡市の観光案内書である。
   六、京都府大宮町五十河の小野小町
当地は往昔小野家の所領であったと伝えているが、随心院領が「丹後国田数帳(略)」に記されているところから何等かの関係が伺える。「丹哥府志」に「寺伝に云う。小野山妙性寺は小野小町の開基なり。往昔三重の里は小野一族の所領なりという。小町老いたる後、此地に来りて卆す。法名を妙性という」とある。
当寺に小野小町の像を祀り「当寺開基見得院殿小野妙性大姉」の位牌があり、裏面に「住昔之位牌破損矣今也正徳二年壬辰(一七一二)初冬日妙性寺現住丹流改之」と記されている。ちなみに位牌の大姉号は新しいと云われるが、裏面の「位牌破損……」を尊重したい。なお、当寺はもと内山の妙法寺がこの地に庵を建立し寛文年間(一六六一〜七二)の頃、曹洞宗に改宗した。三世眠竜和尚が本堂を建立したが焼失し、現在の本堂は九世僊乗和尚による文政六年(一八二三)の再建である。五十河小字波迫に薬師堂があり、本尊は薬師如来である。小野小町終焉の地に小町の秘仏薬師如来を祀ったと伝えられ、小町薬師ともいう。八月十六日には、小町の供養のために盆踊りをしたが、今は衰退した。
この地に老後の小町が生涯の幕を閉じる結果となるが、妙性寺の二つの貴重な寺宝に「小野小町姫」と書かれた巻物一巻と開基小野小町の位牌がある。巻物には朴淳軒(位牌名、江戸期)が小町伝説を詳しく語り、了然居士(位牌名)がその要点を書き綴り、これを基に寛政頃の住職、雲謄眠龍和尚が老後に記したものが、この巻物である。眠龍大和尚は妙性寺が宮津の智源寺の末寺となってより第三世をつがれた高僧で、その後、曹洞宗中本山、舞鶴の桂林寺住職となられ、老いて和江の仏心寺に移り、ここで書かれたと伝えている。内容は平安の昔、五十河の里に、上田甚兵衝なる人がいた。所用で上京し、帰りに福知山の宿で小野小町と同宿し、凡ゆる点で徒(ただ)人ではないと思い、素性を聞かせて下さいと、自らも丹後国三重の庄五十日村の上田甚兵衛と申す者と挨拶すると、小町も「昔は出羽の郡司小野良実の娘小野小町とは私のことです」と涙を呑んで語られた。それより小町を案内して五十日の里に帰ってきた。幾日か甚兵衛家で過し、旅の疲れも癒されたので、天の橋立、世屋山成相寺の観世音に参り、歌の一詠も奉りたい、と。翌朝、甚兵衛は小町と共に五十河から岩滝へ通ずる長尾坂を越えようとすると、小町が腹痛で苦しみ、どうすることも出来なくなり、南無三宝と念じ乍ら小町を背に負い峠を越えたので、「小野負坂」と申すようになったという。しかし、薬王薬上の験なく辞世一首筆を染めて「九重の花の都に住みわせて はかなや我は三重にかくるる」としるし御終焉になった。上田は遺骸をおさめ、内山の里、高尾山妙法密寺を喪主とし、小野妙性大姉の石碑を建て云々、とある。この巻物の内容について、○大姉号、○上田甚兵衛の名、についていろいろ云われるが、要は、この伝説が長く育てられ、語りつがれたところに何よりも意義があると思う。
   結び
各地に残る小町伝説も諸説が数ある中で、それぞれが伝説を保存し続けた民衆の力がすばらしい。五十河でも小町を丁重に葬り一寺一を建て小町を開基とし、現在も崇め供養を続けている、この小野山妙性寺。あの世にある小町の霊も、この五十河の伝承で、かすかに美しい笑みを浮かべて安らかに眠っているのではなかろうか。
『大宮町誌』
小野小町塚
小野小町の塚は五十河の入口東側の小字「はさこ」にあり、一畝程の埋立地の中に二基の石碑を奉祀している。高さ九二p、幅六○pの小型の一基は上田甚兵衛造立のものと伝えるが、現在磨滅していて僅かに上田甚兵街と判読できるに過ぎない 大型の碑は表に「小野妙性大姉」と彫刻してあり、高さ一m五○p、幅五○pの自然石である。この石は曹洞宗妙性寺の門の側にある万霊塔の石と同一の石を折半して造られたと言い、事実この碑には折半して割られた跡がある。万霊塔に「正徳三年建之」の日付があるから従ってこの小町碑も正徳三年(一七一三)の造立であろう。なお、田を埋め立てて一畝程を整地したのは昭和五五年夏で、その前は木の少しある一坪余りの草地に五輪の台石と高さ六○p余の自然石の「上田甚兵衛」と刻む碑と「小野妙性大姉」の石碑の二基が祀られていた。(五十河沿革誌)
さて、小野小町の手蹟については先人の説の如く極めてさだかでなく、終焉の地についても諸説紛々として確かな事はわからない。嵯峨天皇の弘仁六年(八一五)出羽の郡領小野良実の女として出生、七歌仙の中唯一の女流歌人として名高いこと及び代表的美人であったという伝説くらいしか知られていない。
「徒然草」に疑っているように「玉造小町壮衰書」という小町の晩年の事を書いた漢文の書物は作者不詳の偽作ではないかといわれている。謡曲には小町を題材にしたものが五番ある。その中「草予洗小町」は古今集序を主材として盛時の小町を猫き、「通小町」は古今集の顕照の注から深草の小将の百夜通いの伝説が作られており、その他「卒都婆小町」「関寺小町」「鸚鵡小町」は老衰落魄の小町を取扱ったもので、いずれも「玉造小町壮衰書序」から出たものと言われる。しかし、「玉造小町壮衰書」は徒然草にある如く弘法大師の作とは信じ難く、一般に偽書とされていて信用し難いのである。
次に五十河に伝承する小町伝説についての先人の諸説をあげる。
(村誌)小野小町塚 本村南方字ハザコにあり。東西一間、南北一間、坪数一坪、其中に高さ五尺、幅一尺五寸位の石 塔あり。表面小野妙性大姉の法名あり。建設年干支等無之只管小町塚と伝聞するのみ。 (丹哥府志)小野山妙性寺 曹洞宗
寺記に云ふ。小野山妙性寺は小野小町の開基なり。往昔三重の里は小野一族の所領なりといふ。小野老たる後此地に来りて卒す。法名を妙性といふo其辞世とて
九重の都の土とならずして はかなや吾は三重にかくれて
愚案ずるに小野小町は其生出本来詳ならず。或曰小野良実の女なり。仁明帝承和の頃の人年老いたるに及て落魄して相坂山に死すといふ。又小野当澄の女たりとも伝ふ。或人の説に冷泉家の書ものには小町は井手の里に死す。時に年六十九歳とありし由。徒然草には小町はきはめてさだかならずといふ。其衰たるさまは玉造といふ文にありと袋草紙に見えたれども比説には論ありともいふ。かようなる事を考ふれどもいまだ丹後に来ることを聞かず。されども養老三年始めて按祭便を置し時、丹後国司小野朝臣馬養、丹後但馬因幡の三国を管す。其養老年中より小町の頃までは僅に百年ばかりなり。これによってこれを見れば小野一族の所領なりといふもいまだ拠るなきにしもあらず。其終焉地明ならざるは蓋鄙僻の地に匿るならん。今其塚といふ処を見るに古代の墳墓と見えたり。恐らくは其終焉の地ならんともゆ。後の人これを増補して少将の宮を拵へ又丹流と僧妙性の二字に文字を足して追号を拾ふ。これよりいよいよいぶかしくなリぬ。
その他「宮津府志」「同拾遺」等は省略する。
現在五十河に伝わる小町の文書は妙性寺にある「寺記」と同村田崎十一所蔵の「小野小町姫」とである。妙性寺のは一軸の巻物であり、「小野小町姫」は本文一二枚の小冊子であるが、内容は全く同一である。小町伝説を田崎朴淳翁(田崎家祖先)が物語ったのを僧了然が書き留め更にこれを妙性寺第三世雲騰眠竜大和尚が書き綴ったのが妙性寺の一巻である。(眠竜和尚は天保八年示寂)
その他小町の遺跡として新宮から丹後林道に通ずる坂道を、昔小町が通って来た道というので「小野坂」といい、上田甚兵衛の宅のあった場所を「小野路」と呼んでいる。
「中郡誌稿」に  小町は小説的性行の標本にして各種の文芸又は訓話に附会引用せられ、近畿地方の加き小野と称する地あれば某所に 大抵小町の伝説あり。現に山城宇治郡小野、愛宕郡小野皆其例なり。愛宕郡小野には小野寺と称するあり、卒都婆小野画像等小町に関する書画及び小町の墓と称する宝篋印塔存す。何れも真偽定かならず。
と述べている如く、各地に小野伝説は流布している。これについて民俗字の一説では、中世全国を語り歩いた女性群があり、それは一種の巫女(みこ)であって小野氏はそうした旅の語部の有力な一族であった。その語部の巫女たちが全国を語り歩き一人称で語るのを聞いていた人々は、小町が来たように語り伝えた事によって谷地に種々の伝説が生まれたとしている。
ともあれ、伝説はその所の人々にとってば心の糧であり誇りでもある。父化豊かな郷土の懐しい物語として長く語り伝えられるべきものである。
『中郡誌稿』
小野山妙性寺
(丹哥府志)小野山妙性寺(曹洞宗)
寺記に云ふ小野山妙性寺は小野小町の開基なり往昔三重の里は小野一族の所領なりといふ小野老たる後此地に来りて卒す法名を妙性といふ其辞世とて
九重の都の土とならずしてはかなや吾は三重の里にて
愚按するに…略…
(村誌)寺
妙性寺東西十二間半南北五間面積二百八十九坪、有税地、曹洞宗永平寺末派本村東の方に在り開基小野小町と云ふ創建年号干支等不詳
(宮津府志)小町遺跡、中郡三重村谷の内五十河村の辺小野といふ村あり俗にいふ此辺は往昔小野氏の一族の所領にて小町老年に及びて此の地に来りて卒す、則辞世なりとて
九重の都の土とならずしてはかなや我は三重にかくれて
又此所に禅院ありて小野山妙性寺といふ、妙性は小町が法名なりといふ、是又山中村和泉式部が遺跡の例なるべし(下略、丹哥府志の「小野良実の女」より「玉造といふ文にあり」までと同文)
(村誌)古跡、
小野小町塚、本村南方はさこにあり東西一間南北一間坪数一坪其中に高さ五尺巾一尺五寸位の石塔あり表面小野妙性大姉の法名あり建設年干支等無之只管小町塚と伝聞する耳
按、小町は小説的性行の標本にして各種の文芸又は訓話に付会引用せられ近畿地方の如き小野と称する地あれば其所には大抵小町の伝説あり現に山城宇治郡小野、愛宕郡小野、皆其例なり愛宕郡小野には小町寺と称するあり卒塔婆小町図像等小町に関する書図及び小町の墓と称する宝篋印塔存す何れも真偽定だかならず
(実地調査)当時に三十三番観世音織物曼荼羅一軸を蔵す名高し其銘に曰く
神国三十三所観世音菩薩曼荼羅一軸領納
右野納投二本州由良湊松原寺一拝二箇曼荼羅一因詳二行者之悲心一則招二請此行者経二緯此事一而闢二神州百軸之数一斯日満散安蔵焉感応不思議時之運也人之幸也偈以啓讃(偈略)
  十有一月   丹後州中郡五十川村小野山妙性禅寺現住僊乗
         野州安蘇郡赤見邑服部氏彌内室母子両行者
         奥州南部和賀郡黒沢尻半揚儀助行者
『おおみやの民話』
小野小町  周枳 堀 広吉
昔、五十河の甚兵衛が旅をして、福知山で宿をとっただげな。同じ宿に品のええおばあさんが泊っとって、いるんなことをはなしあって心易うなったそうな。
何か、いわくありげな老人のようすに甚兵衛さんは、
「どうも普通の人とは思えんけど、できたら身分を教えておくれえな、わしは、丹後の国の五十河の甚兵衛というもんですわあ。」
百姓しているゴツゴツした手をついてたずねると、
「ほんとにやさしいおことばで恐れ入ります。何を隠しましょう。今は落ちぶれていますが、小野小町というのはわたしのことです。」
昔を思い出して涙ながらの話に、甚兵衛さんは何もいえず頭をたれているばかりだったそうな。
甚兵衛さんに連れられてあくの日に福知山を出て、昼ごろには天津いうところへつくと、甚兵衛さんが、
「この先をいけば橋立や、宮津に行くけど、峠があって不幸道(今の普甲峠)いう難所があるし、北は加悦谷、三重、五十河、わしはこの道を家へ帰るだ。あんたはどうする」いうと、
「なれん旅で心配です。とにかくいっしょに連れて行つとくれ」いうことで、二人で五十河へ帰り甚兵衛さん宅に泊ることになっただげな。
しばらくして桜の咲く頃、橋立や宮津が見たいといいなったので、甚兵衛さんが案内して見物に出かけたいうことだ。
橋立などを見物して、あとはこの次と尾坂峠まで帰ってきたとき、にわかに小町が腹痛になり、いろいろ看病したけど、一向によくならないで仕方なく甚兵衛さんは小町を背おって、苦労して五十河の里にもどってきたけど、とうとう五十河でなくなったげな。
今でも、五十河には妙性寺というお寺もあるし、石碑も残っとる。
『京都の伝説・丹波を歩く』
小野小町と小野脇の里   伝承地 福知山市今安
今から丁度千年程も昔の話、今安野南の山の裏手に当る小野脇に、極楽寺という寺があり、その付近は温泉が湧いていた。
ある日の夕方、年若い女が顔にも手にも、かさぶたが出来て、あわれな姿でこの地へ迷い込んで来た。付近の山を眺めて、「見聞けば法の声する正明寺物淋しきは小野脇の里」と口ずさんだ。
日はとっぷり暮れて来たので、どこか泊めてもらおうとしたが、この女の姿を見て泊めてくれる家は一軒もない。
けれどこの女は顔かたちは、何となく上品な所があり、ことばも雅びなものがある。とある親切な人が、大層気の毒に思い「暫らく休養しなさい」と言って泊めてくれることになった。
ところが数日たつと、この村にでき物がはやりだした。これは「あの家に女を泊めているからだ」と非難の声が高まって来たので、心配をして「あの山かげの薬師堂で泊まりなさい。食事は家から運んであげましょう」と教えてくれた。
女は教えられるままに、薬師堂にこもって温水にひたり、薬師さんにお祈りしてみたが、なかなか治らない。そこでお薬師さまに「南無薬師頼む施療の願なれば身より薬師の名こそ惜しけれ」と和歌を作ってお願いすると、薬師さまは夢枕に現われて「村雨はただ一時のものぞかしおのがみのかさそっと脱ぎ置け」と和歌でおきとしになった。女はおさとしの通り、温泉につかって、養生をつづけるうちに、一日一日かさぶたがとれて、美しい姿となって、いずこへともなく立ち去って行ったという。
後になって、その女は朝廷に仕える女官で有名な歌人、小野小町であったということがわかった。それ以来村人たちは小野小町のかさぶたを治したというこの薬師さまを前より一層大切に信仰するようになった。    (『福知山の民話と昔ばなし」)
伝承探訪
伝説が断片となって我々の生活から消えていくとはいえ、その記念物はこうしていささかでも形をとどめて残されている。そんな感動をおぼえながら小町の祠の前に立った。かつて彼女が瘡を癒したと伝える湯も、今は池となって目の前にある。
今安の小野脇集落に極楽寺なる寺院があった。『丹波志』には「極楽寺 古跡 今安村内小野脇村 温泉在リシ時薬師ヲ安置」すと記す。今も薬師堂の祠は残り、小野小町の伝説が伝わる。江戸期の福知山の地誌『横山硯』にも、この薬師仏と小町の歌問答は見えている。
ところがこの瘡薬師の伝説は、全国多くの小野の里の薬師霊験譚としても伝承されている。たとえば遠く離れた群馬県北甘楽郡の小野郷にも小町は滞在したという。業病にかかった彼女が、その地の薬師に祈願して、歌の功徳によって病は平癒したと伝える。〈蓑笠〉に〈身の瘡〉を掛けた拙い歌ではあるが、薬師の霊験を説く歌徳説話でもあるのだ。お世辞にも上手とは言えないが、歌による訴えなればこそ、薬師はその効験を顕すと信じられたのである。
かくして小町はずいぶん全国を歩いている。ところがおもしろいことにこの伝説はまた、和泉式部の逸話としても広く分布する。式部もまた小町に劣らず全国を歩いたといえる。もちろんこれは事実ではなく、あくまでも民話・説話のなかでのことである。そして各地に彼女たちの塚や墓が残されている。
こうした伝説の幅広いひろがりは、かつて小町や式部と称する民間の女性たちが、全国を歩いていたことを示している。そして彼女たちはたとえば薬師の霊験譚を各地に語り伝えたのである。柳田国男はこれらの話を持ち歩く旅の宗教者を古代の遊行女婦(うかれめ)の流れをくむ者と決している。
京都誓願寺はこうした話の集まる所であったらしい。誓願寺の和尚安楽庵策伝の編んだ『醒睡笑』にも、この薬師霊験譚は記録されている。延暦寺の児と本尊薬師仏との歌問答として。こうして説話はさまざまに付会伝承されるのだ。  
 
  

 

空海 835
生のはじめに昏(くら)く生の終わりに冥(くら)し  
●空海 1
「生のはじめに昏(くら)く生の終わりに冥(くら)し」
空海(774-835)の著『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』の冒頭部に掲げられた詩に、次の一節があります。
   生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
   死に死に死に死んで死の終りに冥(くら)し
私たちは何も知らないまま、この世に生まれ落ちて、何も知ることなく、この世を去っていく。
どうして生まれてしまったのか、何のために生きているのか、どうして死は避けられないのか、どうして死ななければいけないのか、この束の間の人生に、何か意味はあったのか・・・・・・
これまで、数えきれないほど、無数の人々がこの世に生まれ落ちて、これまで、数えきれないほど、無数の人々がこの世から去っていった。
今この瞬間も、何処かで誰かが生まれて、何処かで誰かが死んでいく。生まれ生まれ生まれ生まれて、死に死に死に死んでゆく。
私の目に映る、時間的にも空間的にも無限とも言えるほどに拡がる、この【生】と【死】のサイクル、鉄の連鎖、もしそれが、何の意味もなく、何の目的もなく、ただただ繋がり、連なっているだけのものだったとしたら、どうでしょうか・・・・・・
もちろん、たとえば私は誰かを愛し、あるいは結婚し、あるいは子どもを産んで、子の将来を願いながら、この世を去っていく、そんな人生に何の意味もない、と断じてしまうのは言い過ぎでしょう。
が、そのように意味に満ちあふれた有意義な人生でさえも、それでもなお、空海は、そこに【暗さ=無知=真実に触れていないこと】を見て取ります。
それでは、空海のいう【暗=冥】とは、どんなことを言ってるのでしょうか。
私には、2つの意味が込められているように思えます。
一つは、いわゆる【輪廻】に宿る暗さだと思います。私たちは知らぬ間に、この世に生まれ落ちていて、生きることが、知らぬ間に自己目的化していて、ただ生きるために生きて、それでも結局最後は、どんなに生きていたいと望んでいても、死んでいかざるを得ない。私たちの意志とは無関係に、生かされて、殺されていく。それがわけもなく何処までも何処までも続いていく、【輪廻】もう一つの暗さとは、人々がその【輪廻】の超え方を知らないこと、【輪廻】の超え方を間違えていること、だと思います。
たとえば、こんな人を想像してみてください。彼は容姿に恵まれて、異性にモテモテ、で、あるばかりか学業も優秀で、一流大学を卒業、のち、会社を自ら立ち上げて、大成功、億万長者となり、最後は、「あぁ素晴らしきかな、我が人生」と、死んでいく。誰もがうらやむ生涯ですね。
が、ここで問題なのは、その人自身のことではなく、その人を眺める私たちの眼差しの方です。
結論から先に言いますと、非常に多くの人が、【輪廻を超える方法は、功することだ】と勘違いしてしまっている、ということです。
実際には、成功するのはほんの一握りで、大半の人が挫折するかどうにかなってしまうので、適切な事例ではないのかもしれませんが、私たちは知らない間に、人生という名のレースに参加させられていて、なんだかよくわからないけれども、一生懸命に走りだし、走って走って走っているうちに、一等賞になることが良いことだと思い込んで、加速する。そこで、リアルに一等賞になろうが負けようが、どの順位に落ち着こうが、誰もがみな、【結局、このレースとは何だったのか?】を知らないまま、レースそのものに対しては無自覚なままに、レースを終えてしまう(死に至る)。空海のいう【暗さ】を、たとえるならば、そんな感じでしょうか。
   生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
   死に死に死に死んで死の終りに冥(くら)し
それが、この世を覆う、【生】と【死】の実態なのです。
レースそのものがどんなに起伏に富んだものであったとしても、そこには、根源的な無知(レースそのものに対する洞察の浅さ)があります。
あるいは、レースを無限に続く【命のバトンリレー】にたとえてみるのもいいでしょう。それでも一切が先へ先へと延々と先送りにされていくだけで、ゴールが延々と先送りにされていくだけで、根源的な無知から免れているわけではないのです。
私たちが生きている世界、すなわち【輪廻】の世界は、【暗さ】に包まれているのです。
「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」
宇宙が尽き、衆生の悩みや苦しみがなくなり、究極の涅槃の境地すら尽きた時、初めて私の願いも尽きる、という意味で、「自分はいつまでも生き続けて人々の救済に当たる」という弘法大師の利他行、菩薩行の覚悟が凝縮されているような言葉です。いまも続く弘法大師信仰の原点もここにあるといえるでしょうね。  
●空海 2
   生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めにくらく、
   死に死に死に死んで死の終りにくらし。 『秘蔵法鑰』
自分はどこから生まれ、どこへ死んでいくのか、生まれるとは何か、死とは何かと言う一大事を、人はなおざりにして何も考えずに人生をおくっている。
とても有名な空海の言葉。密教の教え「輪廻転生」とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を巡る迷いの再生である。人は迷いの世界を巡り、暗闇の中から抜け出せない学習能力の無き者。そろそろ自分の一生に、宇宙大の世界観を当てはめ、輪廻から離脱しようではないか。
●空海 3 
弘法大師の言葉に
   “生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、
    死に死に死に死に死んで終わりに冥し”
という実に印象的な一句がある。
人はみな生まれ変わり死に変わりを繰り返しているが、生と死の本質的な意味に目覚めようとしないという警告である。
私どもは目先の事となると、案外詰まらぬことにもいろいろ心を砕き、究明しようとするのだが、肝心要の生と死の根本問題には眼を向けようとしない。だから、生と死の本然の姿は日進月歩の今日でも依然として深い深い謎に包まれている。
道元禅師は、“修証義”の冒頭に
   “生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり”
と、生と死の根本問題を明らかに達観する事が仏家一大事の因縁、つまり真実の生き方を求めるものにとって最大の課題だと述べている。
その重要課題、日頃はあまり触れまいとしているが、否でも応でも眼を向けざるを得ないのが親しい人との死別であろう。
親、連れ合い、子供、孫の死等々、二度と再び相会うことのできないそれらの人々が、何処でどうしているのか、一片の消息とてない。
生き残った者にとってこれほど遣る瀬無い空しい思いにさいなまれることはないであろう。
この過酷な運命に出会い、眼を背けずに真面にこれを乗り越えてこそはじめて私どもは人生の正しい生き方を学びとってゆくのである。
●秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく) 序
悠々たり悠々たり太だ悠々たり
   ゆうゆうたりゆうゆうたりはなはだゆうゆうたり
(迷いの世界を理解せず、生死輪廻を繰り返している 私達のすがたに、大師は(仏は)いかに向かい合うの でしょうか)
内外の謙? 千万の軸あり
   ないげのけんしょう せんまんのじくあり
(仏典やそれ以外の限りない書物もある)
杳々たり杳々たり 甚だ杳々たり
   ようようたりようようたり はなはだようようたり
(さまざまな道を説くものも、無数にある)
道をいい道をいうに百種の道あり
   みちをいいみちをいうにひゃくしゅのみちあり
(限りなく、永劫に、深く、広くある)
書死え諷死えなましかば本何がなさん
   しょたえふうたえなましかばもといかんがなさん
(それらを書くことも無く、暗記することもなければ 教えの根本をどうして伝えられようか)
知らじ知らじ吾も知らじ
   しらじしらじわれもしらじ
(そうしなければ、誰も教えを知る者もなく 私もしらないだろう)
   ・・・(欠文)・・・
思い思い思い思うとも聖も心ることなけん
   おもいおもいおもいおもうともしょうもしることなけん
(どんなに教えを考えても、考えぬいても聖者もそれを知ることができない)
牛頭草を嘗めて病者を悲しみ
   ぎゅうとうくさをなめてびょうしゃをかなしみ
(古代の中国の神は、草をなめて薬をつくった)
断?車を機って迷方を愍む
   だんしくるまをあやつってめいほうをあわれむ
(偉大な王は、道のわからぬものに指南車をつかって方角を教えた)
三界の狂人は狂せることを知らず
   さんがいのきょうじんはきょうせることをしらず
(迷いの世界に狂える人は、その狂っていることを知らない)
四生の盲者は盲なることを識らず
   ししょうのもうじゃはもうなることをさとらず
(真実を見抜けない生きとし生けるものは、自分が何も見えていない者であることがわからない)
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
   うまれうまれうまれうまれてしょうのはじめにくらく
(わたしたちは生まれ生まれ生まれ生まれて、生のはじめがわからない)
死に死に死に死んで死の終りに冥し
   しにしにしにしんでしのおわりにくらし
(死に死に死に死んで、死のおわりをしらない) 
 
 

 

紫式部 1019-?
誰か世にながらへて見む書きとめし跡は消えせぬ形見なれども
紫式部は、平安時代に日本最古の長編小説と言われる「源氏物語」を書き上げ名を馳せました。紫式部の辞世の句がこちらです。
「誰か世に ながらへて見る 書きとめし 跡は消えせぬ 形見なれども」
「死にゆくものが書いたものを、いったい誰が読むだろうか。書いたものは消えることがない形見ではあるけれど」という意味です。世の無常を憂いながらも、これまでの作品は形見となって残る、という自信が垣間見えます。  
●辞世の句 1
上東門院小少将身まかりて後、つねにうちとけて書きかはしける文の、物の中に侍りけるを見いでて、加賀少納言がもとにつかはしける
   誰か世にながらへて見む書きとめし跡は消えせぬ形見なれども
紫式部  新古今和歌集哀傷817
(小少将の書き遺した文は私たちの目に触れることになったけれども、死にゆく者の書きとめたものをいったい誰が生き残り読んでくれるというのだろう。書きとめた跡は確かに消えることのない形見ではあるけれど。)
「暮れぬまの」 の歌と同じ場面で詠まれた、加賀少納言に贈った小少将哀傷の歌。
式部の書いた跡は千年後にも確かに残っているということを考えるにつけても。
『源氏物語』のような大作を書き遺した人も「いったい誰が読んでくれるというのか」という思いを持っていたということ。
そのいっぽうで「書きとめた跡は確かに消えることはない」という自恃の思いも持っていながら、その自恃の思いは「形見なれども(形見ではあるけれども)」と逆説の接続助詞でつながれて「形見ではあるけれども、それが何になるというのか」という声ならぬ声を導く。
●辞世の句 2
   誰か世にながらへて見る書きとめし跡は消えせぬ形見なれども
「源氏物語」作者として有名な紫式部ですが、歌人としても評価の高い女性でした。
才女ともてはやされ、現存する日本最古の長編小説を書いた紫式部らしい、書くことに寄せた辞世の句です。
「死んでいく者が書いたものを、いったい誰が生きながらえて読んでくれるだろう。書いたものは消えることがない形見ではあるけれど」
●辞世の句 3
紫式部は、平安時代に日本最古の長編小説と言われる『源氏物語』を書き上げ名を馳せました。紫式部の辞世の句がこちらです。
   誰か世にながらへて見る書きとめし跡は消えせぬ形見なれども
「死にゆくものが書いたものを、いったい誰が読むだろうか。書いたものは消えることがない形見ではあるけれど」という意味です。世の無常を憂いながらも、これまでの作品は形見となって残る、という自信が垣間見えます。  
●紫式部集 
紫式部集は、1019年頃成立とされる紫式部の自撰歌集(自身による作品。通説。主観的で説明調でないため)。伊勢物語の短い体裁にならった晩年の回顧録と解すべきもの。他人の歌がそのまま他人の作かは不明だが、伊勢同様に基本翻案(添削)されていると見るのが自然と思う。成立にかかわる紫式部の没年は1014年説、1019年以降説と二分し後説が優勢と思うが、よほどのマニア以外には目安以上の区別の実益はない。
歌数も本により前後するが、ここでは古文写本で最も尊重される定家本、その系列最善本とされる実践女子大本に基づき126首。これが現状最も堅固な構成と思う。定家本があるのに一瞥せず論じる説はそのような理解度と精度としかいえない(諸本の重みは同列ではない。紫式部集こそ原典で、勅撰歌集とそれに依拠する百人一首の様々な表記は原典ではない。末尾も「月かな」ではなく「月かげ」で月影が本来であることは定家本の一連の表記に照らし確実に言える)。
紫式部を代表する歌、つまり紫式部自身を象徴する(紫式部と言えばこの和歌と定家が認定した)百人一首57に採録された紫式部集一番歌「めぐり逢ひて」の現状の通説は、女友達への歌で恋歌ではないとする。しかしそれは誤っている。和歌の前にある詞書の「はやうよりわらは友だちなりし人」の「友だち」三字で同性と決めつけた解釈以前のレベルの認定で、高齢夫がいた女心・世間体も考えられない、男的思い込みでしかないという多角的根拠があり、同性という根拠は「友だち」三文字と思い込みしかない。
現状の解釈は、かな和歌の礎である伊勢物語・筒井筒の文脈(田舎わたらひしける人の子ども、井のもとに出でてあそびけるを、大人になりければ、男も女もはぢかはしてありけれど)も、「めぐり逢」という定家本の字義も、その一般用法に即した源氏物語唯一の恋歌用例も、源氏物語最初の男女離別の歌風も、紫式部日記において好き者と言われ心外とし近い人にも心を憚るとした文脈も、全て無視しているので、別ページで解説して改めた。
解釈とは、1抽象的な文言の含みを、2著者の文脈総体(大意・精神・基本的態度)から、3ごく一般的な語義に即して、4意味を明らかにして通すことで、自分達の動機で言葉を曲げるのが曲解(234違反)。専ら読者の感覚で「友だち」三字で同性と限定するのは解釈以前の思い込み(2違反)。だから直後の「ほのかにて」を通せず即物的に左右する(34違反)。はじめより我はと「思ひ上がり」のような自明な言葉の置き換えは1に反し、234全て違えた誤り。気骨ある語を骨抜きにし肝心を害う。
性質:私的な回顧録=公的な紫式部日記に対し私的な紫式部集
一貫して簡素で主観的で説明調でない詞書、126首という歌数、最後「形見」「亡き人」で終わることから、125段で最後が「つひにゆく」の伊勢物語の影響を受けた紫式部の人生回顧作品と捉えたい(源氏物語・絵合では「伊勢物語」と直接言及される)。
また、紫式部日記が公務日誌的性格を持つのに対し(それが当時本来の日記とされるし、式部は儀式人事担当とされ、日記では宮中儀式や人物評を描いている)、紫式部集はプライベート主体の内容を記したものといえる。
日記18首中4首から式部集126首中2首と、道長の割合が極端に減っていることも、日記と式部集の公私の性質の違いを強く裏付けている。
日記の歌も式部集に収録されているが、それは私的なことに強くまつわる内容のもの。
第三者がどれだけ推理しても絶対知りえないが、本人に近いほど特有の言葉で説明なく分かる、それがプライベートの基本的性質。
プライベート性が強いということが、日記に比して非常に簡潔な描写ということの説明と根拠にもなる(みだりには公開したくない。肝心程ぼかす)。
なお、ここで論じている内容は独自のもので、参考にした文献は原本以外ない。
特徴:簡潔
紫式部集は、長文の紫式部日記や超長文の源氏物語に比して、説明(詞書)が簡潔でほぼ一定の分量で一貫している。紫式部のスタイルからすると、意図的に和歌の必要最小限の背景説明に絞ったものと言える。
歌集の特徴について「大きく二層に分かれ、前半生は人生に肯定感が強く明るい作品が多いが、後半生は否定的で荒涼とした作風が目立つ.」という説明もある。
しかしこの点については、簡素な原文を通して見ても印象は淡々としたもので、最初の二首の「雲がくれにし夜はの月かげ」「秋の別れや悲しかるらむ」からも、前半が強く明るい肯定・後半否定のような二分的情緒を感じることは難しい。最初は全体の象徴だから、これとかけ離れた分類には違和感がある。
「強く明るい」とかいうのは、文言解釈の際に読者達の感性が入っていると思う。
またもう一つの特徴として「独詠が少なく贈答歌が多いのは,式部の生涯での知己,友人関係を重視したことが知られ」という説明もあるが、贈答歌が基本なのは紫式部の基本スタイル(歌風)で、源氏物語と紫式部日記の二作品に比べると、紫式部集の独詠歌は多い方である。795首の源氏物語で独詠歌が5首連続は一度もないが(4首連続は明石宿木の2巻/54巻)、126首の紫式部集では5首連続がある。通常歌集として想定される勅撰歌集(他撰集)は、基本無関係な人々の歌の寄せ集めで基本が独詠であるために贈答歌は必然乏しくなり、それと比べると贈答歌が多くなるのは当然と思う。
したがって「独詠が少なく贈答歌が多い」というのは勅撰歌集のような他撰歌集と比べてのことで、紫式部としては独詠が多い、それが紫式部集。
1 めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜はの月かげ
〔紫式部〕久しぶりに出逢ってお会いしたのに 昔のままのあなたであったかどうであったか見分けのつかないうちに急いで 姿を隠してしまった夜半の月影のようなあなたでしたね
2 鳴きよわる まがきの虫も とめがたき 秋の別れや 悲しかるらむ
〔紫式部〕鳴き弱った垣根の虫も行く秋を止めがたいように わたしもあなたが遠い国へ下って行くのを止められません 秋の別れは何と悲しいことなのでしょう
3 露しげき よもぎが中の 虫の音を おぼろけにてや 人の尋ねむ
〔紫式部〕露がしとどにおいた草深い庭の虫の音のようなわたしの琴の奏法を 並み大抵の人は訪ねて来ないでしょう、まことにご熱心なこと
4 おぼつかな それかあらぬか 明けぐれの そらおぼれする 朝顔の花
〔紫式部〕はっきりしませんね。そうであったのか、そうではなかったのか、まだ朝暗いうちに ぼんやりと咲いている朝顔のような、今朝の顔は
5 いづれぞと 色分くほどに 朝顔の あるかなきかに なるぞわびしき
〔方違へにわたりたる人〕どちらからの筆跡かと見分けているうちに、朝顔の花のように 萎れてしまいそうになるのが辛いことです
6 西の海を 思ひやりつつ 月見れば ただに泣かるる ころにもあるかな
〔筑紫へ行く人のむすめ〕西の海を思ひやりながら月を見ていると ただ泣けてくる今日このごろです
7 西へ行く 月の便りに たまづさの かき絶えめやは 雲のかよひぢ
〔紫式部〕西へ行くあなたへの手紙は毎月のように けっして書き絶えることはしません、空の通路を通して
8 露深く 奥山里の もみぢ葉に かよへる袖の 色を見せばや
〔思ひわづらふ人〕露が深く置いている奥山里のもみぢ葉に 似かよった袖の色をお見せしたいですね
9 嵐吹く 遠山里の もみぢ葉は 露もとまらむ ことのかたさよ
〔紫式部〕烈しい風が吹く遠くの山里のもみぢ葉は 露を少しの間でも留まらせることが難しいように、あなたも都に留まることは難しいのでしょうね
10 もみぢ葉を 誘ふ嵐は 早けれど 木の下ならで 行く心かは
〔思ひわづらふ人〕もみぢ葉を誘う嵐は疾いけれど 木の下でなくては散り行く気持ちにもなれません
11 霜氷り 閉ぢたるころの 水茎は えも書きやらぬ 心地のみして
〔もの思ひわづらふ人〕霜や氷りが閉ざしているころの筆は 十分に書ききれない気持ちばかりがしています
12 行かずとも なほ書きつめよ 霜氷り 水の上にて 思ひ流さむ
〔紫式部〕たとい筆が進まなくても今まで同様に便りを書き集めて送ってくださいね、霜や氷に閉ざされたわたしの心も あなたの便りによってもの思いを流せましょうから
13 ほととぎす 声待つほどは 片岡の 森の雫に 立ちや濡れまし
〔紫式部〕ほととぎすの鳴く声を待つ間は、車の外に立って、片岡の 森の雫に濡れましょうかしら
14 祓へどの 神のかざりの みてぐらに うたてもまがふ 耳はさみかな
〔紫式部〕祓へどの神の前に飾った御幣に いやに似通った紙冠ですこと
15 北へ行く 雁の翼に 言伝てよ 雲の上がきかき 絶えずして
〔紫式部〕北へ飛んで行く雁の翼に便りを言伝てください 雁が雲の上を羽掻きするように、手紙を書き絶やさないで
16 行きめぐり 誰れも都に 鹿蒜山 五幡と聞く ほどのはるけさ
〔西の海の人〕遠くへ行っても廻って都に、鹿蒜山ではありませんが、帰ってきますが また五幡ではありませんが、何時のことかと聞くだけでもはるか先に思われます
17 難波潟 群れたる 鳥のもろともに 立ち居るものと 思はましかば
〔津の国の人〕難波潟に群れている水鳥のようにあなたと一緒に 暮らしていられるものと思えたらいいのですが
18 あひ見むと 思ふ心は 松浦なる 鏡の神や 空に見るらむ
〔紫式部〕あなたにお逢いしたいと思うわたしの心は、松浦に鎮座する 鏡の神が空からお見通しくださることでしょう
19 行きめぐり 逢ふを松浦の 鏡には 誰れをかけつつ 祈るとか知る
〔筑紫の肥前の人〕めぐり逢うことを待つという、松浦の鏡の神に対して 誰を心にかけつつ祈っているとあなたはお分かりでしょうか
20 三尾の海に 網引く民の 手間もなく 立ち居につけて 都恋しも
〔紫式部〕三尾の海で漁民がせわしなく網を引いて働いている その立ち居を見るにつけても都が恋しいことよ
21 磯隠れ 同じ心に 田鶴ぞ鳴く なに思ひ出づる 人や誰れそも
〔紫式部〕磯の隠れた所でわたしと同じ気持ちで鶴が鳴いているが 何を思い出し誰を思ってなのだろうか
22 かき曇り 夕立つ波の 荒ければ 浮きたる舟ぞ しづ心なき
〔紫式部〕空がかき曇って夕立ちのために波が荒くなったので 浮いている舟の上で落ち着いていられない
23 知りぬらむ 行き来にならす 塩津山 世にふる道は からきものぞと
〔紫式部〕知っているのだろう、行き来に慣れた塩津山の 古くからある世渡りの道は辛く塩辛いものだと
24 おいつ島 島守る神や いさむらむ 波も騒がぬ わらはべの浦
〔紫式部〕おいつ島を守る神様は静かになさいと諌めるのでしょう 波も騒がないわらわべの浦ですこと
25 ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に 今日やまがへる
〔紫式部〕ここ越前の国府にこのように日野山の杉むらを埋める雪は 都で見た小塩山の松に今日は見まちがえることです
26 小塩山 松の上葉に 今日やさは 峯の薄雪 花と見ゆらむ
〔?〕小塩山の松の上葉に今日はおっしゃるように 雪が降って、その峯の薄雪は花と見えるのでしょう
27 ふるさとに 帰る山路の それならば 心やゆくと 雪も見てまし
〔紫式部〕故郷に帰るという鹿蒜山の雪ならば 気も晴れるかと出て見ましょうが
28 春なれど 白根の深雪 いや積もり 解くべきほどの いつとなきかな
〔紫式部〕春とはなりましたが、白山の深雪はますます降り積もって いつ雪解けとなるかは分かりませんわ
29 湖の 友呼ぶ千鳥 ことならば 八十の湊に 声絶えなせそ
〔紫式部〕湖の友を呼ぶ千鳥よ、同じことならば たくさんの湊に声をかけなさい
30 四方の海に 塩焼く海人の 心から 焼くとはかかる 投げ木をや積む
〔紫式部〕あちこちの海で塩を焼く海人のように自分から 焦がれているとはこのような嘆きを重ねているのでしょうか
31 紅の 涙ぞいとど 疎まるる 移る心の 色に見ゆれば
〔紫式部〕紅の涙がますます疎ましく思われます 心変わりする色に見えますので
32 閉ぢたりし 上の薄氷 解けながら さは絶えねとや 山の下水
〔紫式部〕春になって閉ざされていた谷川の薄氷もせっかく解け出したというのに それでは川の水のように絶えてしまえとおっしゃるのですか
33 東風に 解くるばかりを 底見ゆる 石間の水は 絶えば絶えなむ
〔文散らしの人〕春の東風で解けるくらいの氷ならば 石間の水は絶えるなら絶えればいいのだ
34 言ひ絶えば さこそは絶えめ なにかその みはらの池を 包みしもせむ
〔紫式部〕絶交するならばおっしゃるとおり絶交しましょう、なんでその みはらの池の堤ではありませんが、腹立ちを包んでいられましょう
35 たけからぬ 人数なみは わきかへり みはらの池に 立てどかひなし
〔文散らしの人〕立派でもなく人数にも入らぬわたしは、沸き返らせて、みはらの池の腹を立てましたが、あなたには負けましたよ
36 折りて見ば 近まさりせよ 桃の花 思ひ隈なき 桜惜しまじ
〔紫式部〕手折ったら近まさりしてください、桃の花 わたしの気持ちを理解しない桜など惜しみません
37 桃といふ 名もあるものを 時の間に 散る桜にも 思ひ落とさじ
〔人〕桃という名があるのですもの、わずかの間に 散ってしまう桜より思ひ落とすまい
38 花といはば いづれか匂ひ なしと見む 散り交ふ色の 異ならなくに
〔紫式部〕花といったら桜と梨とどちらが色つやがないと見ようか 散りかう色はどちらも違わないのだから
39 いづかたの 雲路と聞かば 訪ねまし 列離れけむ 雁がゆくへを
〔紫式部〕どちらの雲路へ行ったと聞いたなら、訪ねもしましょうものを 一羽だけ列を離れて行った雁の行方を
40 雲の上も もの思ふ春は 墨染めに 霞む空さへ あはれなるかな
〔人〕宮中でも悲しみに沈んでいる諒闇の春は薄鈍色に 霞んでいる空までがしみじみと思われます
41 なにかこの ほどなき袖を 濡らすらむ 霞の衣 なべて着る世に
〔紫式部〕どうして取るに足りないわたしごときが夫の死を悲しんで泣いていられましょうか 国母が崩御されて国中が薄鈍色の喪に服しているときに
42 夕霧に み島隠れし 鴛鴦の子の 跡を見る見る 惑はるるかな
〔亡くなりし人の女〕夕霧のために島蔭に隠れた鴛鴦の子のように 父の筆跡を見ながら悲嘆に暮れています
43 散る花を 嘆きし人は 木のもとの 寂しきことや かねて知りけむ
〔紫式部〕散る花を嘆いていたのは散った後の木のもとの 寂しいことをかねて御存じでいたのでしょうか
44 亡き人に かごとはかけて わづらふも おのが心の 鬼にやはあらぬ
〔紫式部〕もののけにかこつけて手こずっているというが 実は自分の心の鬼に責められているのではないでしょうか
45 ことわりや 君が心の 闇なれば 鬼の影とは しるく見ゆらむ
〔?〕ごもっともですね、夫君の心が迷っているので 心の鬼の影をはっきりと見えるのでしょう
46 春の夜の 闇の惑ひに 色ならぬ 心に花の 香をぞ染めつる
〔紫式部〕春の夜の闇に梅の花の色は見えないが 心のうちに花の香を染めたことである
47 さ雄鹿の しか慣らはせる 萩なれや 立ちよるからに おのれ折れ伏す
〔紫式部〕雄鹿がいつもそのように慣らしている萩なのでしょうか 童女が近付くと同時に自然と萩が折れ伏すことよ
48 見し人の 煙となりし 夕べより 名ぞ睦ましき 塩釜の浦
〔紫式部〕連れ添った人が火葬の煙となった夕べから その名前が親しく思われる、塩釜の浦よ
49 世とともに 荒き風吹く 西の海も 磯辺に波は 寄せずとや見し
〔門叩き帰りにける人〕いつも荒い風が吹く西の海にも その磯辺に波の寄せないことがありましょうか
50 かへりては 思ひ知りぬや 岩角に 浮きて寄りける 岸のあだ波
〔紫式部〕お帰りになってわたしの思いがお分かりになったでしょうか、岩角に 浮わついて打ち寄せた岸のあだ波のあなたには
51 誰が里の 春の便りに 鴬の 霞に閉づる 宿を訪ふらむ
〔紫式部〕どなたの春の里を訪れたついでに、鴬は 霞に閉ざされたわたしの宿を訪ねるのでしょうか
52 消えぬ間の 身をも知る知る 朝顔の 露と争ふ 世を嘆くかな
〔紫式部〕死なない間のわが身を知りつつ朝顔のように はかない露と先を競う世を嘆くことよ
53 若竹の 生ひゆく末を 祈るかな この世を憂しと 厭ふものから
〔紫式部〕若竹が成長してゆく先を祈っていることよ わたしはこの世を厭わしく思っているのに
54 数ならぬ 心に身をば まかせねど 身にしたがふは 心なりけり
〔紫式部〕人数にも入らないようなわたしの心のままに身の境遇を合わせることはできないが 身の境遇に従って変わるのは心なのであったわ
55 心だに いかなる身にか かなふらむ 思ひ知れども 思ひ知られず
〔紫式部〕せめて心だけでもどのような身の上に満足するのだろうか 分ってはいるけれどもなかなか悟ることができないことよ
56 身の憂さは 心のうちに 慕ひきて いま九重ぞ 思ひ乱るる
〔紫式部〕身の嫌なことは、心の中では宮中を慕ってきたが いま宮中を見て、幾重にも物思いに心が乱れることよ
57 閉ぢたりし 岩間の氷 うち解けば をだえの水も 影見えじやは
〔紫式部〕閉ざしていた岩間の氷がわずかに解け出すように春になったら 途絶えていた水も姿を現さないでしょうか、わたしもきっとまた出仕しましょうよ
58 深山辺の 花吹きまがふ 谷風に 結びし水も 解けざらめやは
〔ほのかに語らひける人〕深山のあたりの花が散りまがう谷風には 凍っていた川も解けないでしょうか、解けましょう
59 み吉野は 春のけしきに 霞めども 結ぼほれたる 雪の下草
〔紫式部〕み吉野は春の景色に霞んでいるけれども 依然としてかじかんでいる雪の下草です
60 憂きことを 思ひ乱れて 青柳の いと久しくも なりにけるかな
〔宮の弁のおもと〕嫌なことに思い悩まれて青柳のように たいそう久しくなってしまいましたね
61 つれづれと 長雨降る日は 青柳の いとど憂き世に 乱れてぞ経る
〔紫式部〕所在なく長雨が降るのを眺めながら送る日は青柳のように ますます嫌な世の中に悩まされて日を送っています
62 わりなしや 人こそ人と 言はざらめ みづから身をや 思ひ捨つべき
〔紫式部〕しかたないことだわ、あの人たちはわたしを一人前の人と思わないでしょうが 自分自身からわが身を見捨てることができましょうか
63 忍びつる 根ぞ現はるる 菖蒲草 言はぬに朽ちて やみぬべければ
〔紫式部?〕隠れていた根が引かれて現れ出たように今日は菖蒲の節供に ちなんでわたしの心根を表します 何も言わないうちに朽ちて終わってしまいそうなので
64 今日はかく 引きけるものを 菖蒲草 わがみ隠れに 濡れわたりつる
〔紫式部?〕今日はこのように菖蒲草を引き抜いてお言葉をかけてくださったのに わが身は水隠れに家に籠って涙に濡れています
65 妙なりや 今日は五月の 五日とて 五つの巻の あへる御法も
〔紫式部〕素晴しく尊いことだわ、今日は五月五日に 第五巻が重なったこの御法会よ
66 篝火の 影も騒がぬ 池水に いく千代澄まむ 法の光ぞ
〔紫式部〕篝火の影も騒がない池の水に いく千代までも澄んで宿ることでしょう、御法会の光は
67 澄める池の 底まで照らす 篝火の まばゆきまでも 憂きわが身かな
〔紫式部〕澄んでいる池の底まで照らす篝火が まぶしく恥ずかしい嫌なわが身ですこと
68 影見ても 憂きわが涙 落ち添ひて かごとがましき 滝の音かな
〔紫式部。又は小少将の局〕遣水に映る姿を見ても嫌なわたしの涙が落ち加わって 恨みがましい滝の音ですこと
69 一人居て 涙ぐみける 水の面に 浮き添はるらむ 影やいづれぞ
〔紫式部。又は小少将の局〕一人で涙ぐんでいらっしゃった遣水の面に 映り加わっている姿はあなたとわたしのどちらでしょうか
70 なべて世の 憂きに泣かるる 菖蒲草 今日までかかる 根はいかが見る
〔紫式部〕世間一般の嫌さに涙ぐまれる菖蒲草 今日までこのような長い根はどうして見たことがありましょうか
71 何ごとと 菖蒲は分かで 今日もなほ 袂にあまる 根こそ絶えせね
〔小少将の局〕どのようなことと、菖蒲ではないが、ものの条理は分かりませんで、今日もやはり 袂にあまる長い根の泣く音が絶えません
72 天の戸の 月の通ひ路 鎖さねども いかなる方に 叩く水鶏ぞ
〔小少将の君〕宮中の通路は閉ざしてないのに どちらで戸を叩く水鶏なのでしょうか
73 槙の戸も 鎖さでやすらふ 月影に 何を開かずと 叩く水鶏ぞ
〔紫式部〕槙の戸も閉ざさないで休んでいる月光〔月影〕のもと 何を開かないで不満だといって鳴く水鶏なのでしょうか
74 夜もすがら 水鶏よりけに 泣く泣くぞ 槙の戸口に 叩き侘びつる
〔夜更けて戸を叩きし人〕一晩中水鶏よりもはっきりと泣きながら 槙の戸口を叩きあぐねました
75 ただならじ 戸ばかり叩く 水鶏ゆゑ 開けてはいかに 悔しからまし
〔紫式部〕ただ事では済まないことと、戸ばかりを叩く水鶏ゆえに 戸を開けたらどんなに悔しい思いをしたことでしょう
76 女郎花 盛りの色を 見るからに 露の分きける 身こそ知らるれ
〔紫式部〕女郎花の花盛りの色を見ると同時に 露が分け隔てしているようにわが身の上が思われます
77 白露は 分きても置かじ 女郎花 心からにや 色の染むらむ
〔道長〕白露は分け隔てをしないでしょう、女郎花は 自分から色を染めたのではないでしょうか
78 忘るるは 憂き世の常と 思ふにも 身をやる方の なきぞ侘びぬる
〔紫式部〕人を忘れることは嫌な世の常と思うにつけても わが身のやり場がないのが寂しく泣き暮らしています
79 誰が里も 訪ひもや来ると ほととぎす 心のかぎり 待ちぞ侘びにし
〔?〕誰の邸にも訪れ来るのだろうかと、ほととぎすを 心のかぎりを尽くして待ち侘びていました
80 ましもなほ 遠方人の 声交はせ われ越しわぶる たごの呼坂
〔紫式部〕猿よ、おまえもやはり遠方人として声を掛け合えよ わたしが越えかねているたごの呼坂で
81 名に高き 越の白山 雪なれて 伊吹の岳を 何とこそ見ね
〔紫式部〕名高い越の白山に行き、その雪を見慣れているので 伊吹山の雪は何とも思わないことだ
82 心あてに あなかたじけな 苔むせる 仏の御顔そ とは見えねど
〔紫式部〕あて推量に、ああ畏れ多い、苔のむした 仏の御顔を卒塔婆に、それとは見えないけれども
83 け近くて 誰れも心は 見えにけむ 言葉隔てぬ 契りともがな
〔人〕近しくなってお互いに心は見えたでしょう 人伝てでない仲となりたいものですね
84 隔てじと ならひしほどに 夏衣 薄き心を まづ知られぬる
〔紫式部〕わたしは隔て心を持ちませんと常に思っているのに、「人伝てでなく」とおっしゃるとは、夏衣のような あなたの薄い心がまっ先に知られました
85 峯寒み 岩間凍れる 谷水の 行く末しもぞ 深くなるらむ
〔紫式部〕今は峯が寒いので岩間で凍っている谷水のように浅い水ですが 行く末は水嵩も増して深くなっていくでしょう
86 めづらしき 光さしそふ 盃は もちながらこそ 千世をめぐらめ
〔紫式部〕新しい光がさし加わった盃は 持ちながら満月のまま千年もめぐっていくことでしょう
87 曇りなく 千歳に澄める 水の面に 宿れる月の 影ものどけし
〔紫式部〕翳りなく千年も澄んでいる水の面に 宿っている月の光ものどかなこと
88 いかにいかが 数へやるべき 八千歳の あまり久しき 君が御世をば
〔紫式部〕五十日のお祝に、いかにしていかほどと数えやったらよいのでしょうか、八千年もの あまりに久しい若君の御寿命を
89 葦田鶴の 齢しあらば 君が代の 千歳の数も 数へとりてむ
〔道長〕鶴のような長寿があったならば若君の年齢の 千年の数も数え取ることができよう
90 折々に 書くとは見えて ささがにの いかに思へば 絶ゆるなるらむ
〔男〕折々に返事を書くとは見えたが、ささがにのように どのように思えば絶えることになるのでしょう
91 霜枯れの 浅茅にまがふ ささがにの いかなる折に 書くと見ゆらむ
〔紫式部〕霜枯れの浅茅に見まぎれるささがにの 蜘蛛の巣はどのような折に掛くと見えたのでしょうか
92 入る方は さやかなりける 月影を 上の空にも 待ちし宵かな
〔紫式部〕月の入る方角ははっきりしていた月光〔月影〕を ぼうっと上の空で待っていた夕べでしたわ
93 さして行く 山の端も みなかき曇り 心も空に 消えし月影
〔人〕目指して行く山の端もみなすっかり曇って 心も上の空に消えてしまった月光〔月影〕です
94 おほかたの 秋のあはれを 思ひやれ 月に心は あくがれぬとも
〔紫式部〕世間一般の秋の情趣を思いやってください 月に誘われて心は浮かれ出たとしても
95 垣ほ荒れ 寂しさまさる 常夏に 露置き添はむ 秋までは見じ
〔紫式部〕垣根は荒れて寂しさがまさる常夏に 露が置き加わる秋までは見ることができないでしょう
96 花薄葉 わけの露や 何にかく 枯れ行く野辺に 消え止まるらむ
〔紫式部〕花薄の葉ごとに分けて置く露はどうしてこのように 枯れて行く野辺に消え止まっているのでしょう
97 世にふるに なぞ貝沼の いけらじと 思ひぞ沈む 底は知らねど
〔紫式部〕世の中に生きているなかでどうして貝沼ではないが、生きる甲斐がないと 思い沈むことだ、どこそこと池の底は知らないけれど
98 心ゆく 水のけしきは 今日ぞ見る こや世に経つる 貝沼の池
〔紫式部〕心が晴れ晴れとする水の様子は今日見ました これがこの世に生きる甲斐があると伝わった貝沼の池でしょうか
99 多かりし 豊の宮人 さしわきて しるき日蔭を あはれとぞ見し
〔紫式部〕大勢の豊の明りの節会に参集した宮人の中から取り分けて はっきりと日蔭の鬘を着けたあなたをしみじみと見ました
100 三笠山 同じ麓を さしわきて 霞に谷の 隔てつるかな
〔隣の中将〕三笠山の同じ麓なのに区別して 霞が谷を隔てるように分け隔てしていますね
101 さし越えて 入ることかたみ 三笠山 霞吹きとく 風をこそ待て
〔紫式部〕谷を越えて入ることが難しいので三笠山の 霞を吹き晴らす風を待っているのです
102 埋もれ木の 下にやつるる 梅の花 香をだに散らせ 雲の上まで
〔紫式部〕埋もれ木のように目立たずに咲いている梅の花よ せめて薫りだけでも散らしておくれ宮中までも
103 九重に 匂ふを見れば 桜がり 重ねて来たる 春の盛りか
〔紫式部〕八重桜が九重の宮中で咲いているのを見ると、桜のもとに 重ねてやって来た春の盛りでしょうか
104 神代には ありもやしけむ 山桜 今日の挿頭に 折れるためしは
〔紫式部〕神代には有ったのでしょうか山桜を 今日の祭の挿頭のために折り取った例は
105 改めて 今日しもものの 悲しきは 身の憂さやまた さま変はりぬる
〔紫式部〕新年になった今日、何となく悲しい気持ちがするのは わが身の嫌さがまた様変わりしたのであろうか
106 めづらしと 君し思はば 着て見えむ 摺れる衣の ほど過ぎぬとも
〔紫式部〕素晴しいとお思いになりますならば、摺衣を着てお目にかかりましょう 五節のころは過ぎたとしましても
107 さらば君 山藍の衣 過ぎぬとも 恋しきほどに 着ても見えなむ
〔弁宰相の君〕それではあなた山藍の摺衣を着る時期は過ぎたとしましても 恋しいと思っているうちにそれを着てお見せください
108 うち忍び 嘆き明かせば しののめの ほがらかにだに 夢を見ぬかな
〔人〕ため息をつきながら一夜を明かすと、明け方になっても はっきりとあなたの夢を見ることができませんでした
109 しののめの 空霧りわたり いつしかと 秋のけしきに 世はなりにけり
〔紫式部〕明け方の空が霧りわたっており、早くも 秋の様子に世の中は、あなたもわたしに飽きておしまいになったようですわ
110 おほかたに 思へばゆゆし 天の川 今日の逢ふ瀬は うらやまれけり
〔紫式部?〕普通に思うと縁起でもないが、天の川の 年に一度の今日の逢う瀬は羨ましく思われます
111 天の川 逢ふ瀬は よその雲井にて 絶えぬ契りし 世々にあせずは
〔紫式部?〕天の川の逢う瀬は他人の雲井のことです 絶えないあなたとの夫婦の仲は世々に褪せなければ永遠です
112 なほざりの たよりに訪はむ 人言に うちとけてしも 見えじとぞ思ふ
〔紫式部〕何でもない折に訪ねようという人の言葉に うちとけた様子はけっして見せまいと思っています
113 横目をも ゆめと言ひしは 誰れなれや 秋の月にも いかでかは見し
〔紫式部〕他の女性に関心を寄せることなどけっしてしませんと言ったのは誰でしょうか 昨夜の秋の月見もどのようにして見たのでしょうか
114 菊の露 若ゆばかりに 袖触れて 花のあるじに 千代は譲らむ
〔紫式部〕菊の露で若返るほどに袖を拭って この花の主人に千代の齢はお譲り申し上げましょう
115 雲間なく 眺むる空も かきくらし いかにしのぶる 時雨なるらむ
〔小少将の君〕物思いに雲の切れ間なく眺める空もわたしの心同様にかき曇って どのように堪えて降る時雨なのでしょうか
116 ことわりの 時雨の空は 雲間あれど 眺むる袖ぞ 乾く世もなき
〔紫式部〕ごもっともな時雨の降る空は雲間はありますが 眺めているわたしの袖は乾く間もありません
117 浮き寝せし 水の上のみ 恋しくて 鴨の上毛に さえぞ劣らぬ
〔大納言の君〕浮き寝をした水の上ばかりが恋しく思われて 鴨の上毛の冷たさにも負けない侘しさです
118 うち払ふ 友なきころの 寝覚めには つがひし鴛鴦ぞ 夜半に恋しき
〔紫式部〕上毛の霜をうち払い合う友のいないころの夜半の寝覚めには つがいのように親しく過ごしたあなたを恋しく思われます
119 なにばかり 心尽くしに 眺めねど 見しに暮れぬる 秋の月影
〔紫式部〕どれほどの物思いを尽くして眺めたわけではないが 見ていたうちに涙に暮れてしまった秋の月〔影〕であった
120 たづきなき 旅の空なる 住まひをば 雨もよに訪ふ 人もあらじな
〔紫式部?〕よるべない旅の空のようなわたしの住まいを 雨の中を訪ねて来る人もいないでしょうね
121 挑む人 あまた聞こゆる 百敷の 相撲憂しとは 思ひ知るやは
〔紫式部?〕相撲に挑む人が大勢いると聞こえた宮中の 相撲が中止になって、どんなに残念なことかと分っていただけるでしょうか、宮仕え生活の辛さも思い知られましょう
122 恋ひわびて ありふるほどの 初雪は 消えぬるかとぞ 疑はれける
〔人〕あなたを恋しく思っている折に降って来た初雪は 積もる間もなく消えてしまわぬかと心配されました
123 経ればかく 憂さのみまさる 世を知らで 荒れたる庭に 積もる初雪
〔紫式部〕生きているとこのように辛さばかりが増える世の中なのを知らずに 荒れたわが庭に積もる初雪よ
124 暮れぬ間の 身をば思はで 人の世の 哀れを知るぞ かつは悲しき
〔紫式部〕日が暮れない間のはかない身であることを考えないで、人の寿命の 悲哀を知るとは一方では悲しいことです
125 誰れか世に 永らへて見む 書き留めし 跡は消えせぬ 形見なれども
〔紫式部〕いったい誰が世に永らえて見るのでしょう、書き留めた 筆跡は消えない故人の形見ではありますが
126 亡き人を 偲ぶることも いつまてぞ 今日のあはれは 明日のわが身を
〔加賀少納言〕亡くなった人を悲しみ慕うこともいつまででしょう 今日の無常は明日のわが身の上でしょうよ  
●紫式部
『源氏物語』の執筆と出仕
『源氏物語』の執筆をはじめる
『源氏物語』を書き始めた時期と動機については、大きく4つ説があります。
・結婚以前
・宣孝と結婚後
・宣孝と死別後、出仕前
・出仕後
伝説によると、
上東門院彰子のもとに、斎院選子内親王(村上天皇第10皇女)から、何かいい物語がないかと言ってきた。そこで彰子に仕えていた紫式部が、じゃあ何か書いてみましょうと石山寺にこもる。なかなか書けなかったけれど、湖水に映る八月十五夜の月影を見て、ハッとひらめいた。そこで須磨の巻から書き始めたという伝説です。現在石山寺には紫式部の像を置いた「源氏の間」があります。
   瀬田の長橋横に見て ゆけば石山観世音
   紫式部が筆のあと 残すはここよ月の夜に 『鉄道唱歌』
美しい伝説ですが、残念ながら事実とはいえません。石山寺から琵琶湖は見えず、すぐそばの瀬田川も見えません。
結局、宣孝との死別後、宮仕えに出る前という説がもっとも説得力があるようです。おそらく未亡人としての先が見えない、わびしい、鬱々とした気分を、物語を書くことによって慰めようとしたのでしょう。
ただし現在ある『源氏物語』の形に、桐壷巻から宇治十帖まで順序よく書いたのか。ばらばらに書いたのか。ばらばらに書いたとしたらどんな順番でか。さまざまな説があり、わかっていません。
はじめは友人・知人の間で回し読みする程度だったが、そのあまりの面白さが世間の評判になり、やがて藤原道長の耳に入り、式部は宮廷に召し出されることとなったようです(このあたりの経緯も、推測の域を出ない)。
出仕
寛弘2年(1005)もしくは寛弘三年(1006)12月29日、式部は藤原道長の推薦により、一条天皇中宮彰子のもとに出仕します。時に紫式部36歳。中宮彰子18歳。
寛弘2年(1005)の11月15日、一乗院内裏が火事で焼けたので、道長の東三条第を仮の里内裏と(貴族の屋敷などを臨時の内裏とするもの)としていました。
6年前の長保元年(999)11月、藤原道長は長女彰子を一条天皇の後宮に入内させ、翌長保2年(1000)2月、中宮に立てました。
定子と彰子、一代の天皇に二人の后が並立する、「一帝ニ后」という異常な事態がしばらく続きましたが定子は長保2年(1000)12月に25歳で亡くなりました。道長の不動の地位をおびやかす者はもはや、いませんでした。
道長は豊か財力を彰子の後宮に注ぎ込みます。高価な調度品・美術品、内外のめずらしい書物、そして才能あふれる女房たちを彰子の教育係として集めました。紫式部もその一人でした。
おそらく『源氏物語』の評判も、道長の耳に届いていたのでしょう。
近頃皆が源氏、源氏というから読んでみたら…物語といい、人物造形といい、なるほどこれは面白い。特にこの主人公の光源氏というのは金持ちでモテモテで美男子で、まるでワシのようだ。
それにしてもこれだけの物語を作った作者とはどんなものか。先生にお会いしたい、とこうなったのでしょうか。
一条院内裏のありさま
さて紫式部が出仕した時、一条院内裏は昨年の火事で燃えていたため、藤原道長の東三条院が里内裏となっていました。しかし一条院内裏の再建工事が終わると寛弘3年3月4日、一条院内裏に移ります。
一条院内裏跡は現在、住宅街の中に碑が立ち、公園があるだけです。
東北の対(屋敷)に中宮彰子がすみ、女房たちはその廂の間の細殿に住みました。細長い板敷の間を間仕切りでいくつにも区切り、その一つ一つを「局」(小さな部屋)としました。
昼はひっきりなしに廊下を人が行きかい、夜は男たちが夜這いをかけにきます。プライベートは、まったくありません。清少納言のような社交家ならともかく、内にこもるタイプの紫式部には、ストレスがたまったことでしょう。
紫式部
紫式部という名前のゆらいについては諸説ありますが、宮仕えのしはじめは藤式部とよばれていました(『栄花物語『兼盛集』)。父藤原為時が式部丞(984-986)であったことによります。しかし『源氏物語』が評判になってくると、紫の上の名にちなんで、あるいは『若紫巻』の巻にちなんで、「紫式部」とも「若紫」とも呼ばれるようになっていきました。藤原公任が、彼女のいる局のあたりを訪ねていき、「わか紫やさぶらふ」と言っているさまが、日記に描かれています。
出仕後、すぐに退出
寛弘2年(1006)12月29日より宮仕えを始めた式部でしたが、年明けて寛弘3年(1006)正月3日には、もう暇乞いをして里に戻っています。早いですね!寛弘2年は小月で29日が大晦日なので、計4日しか働いていないことになります(ただし出仕した年が本当に寛弘2年であれば)。
   はじめて内裏(うち)わたりを見るに、もののあはれなれば
(はじめて内裏のあたりを見ると、あまりに素晴らしいので)
   身のうさは 心の内にしたひきて 今九重ぞ思ひ乱るる(91)
(私の身の悲しさは、心の内についてきて、今宮中で宮仕えしているさなかにも、幾重にも心乱されている。宮仕えによって気分が晴れることはなかったという歌)
続けて歌のやり取りがあります。
   まだ、いとうひうひしきさまにて、ふるさとに帰りて後、ほのかに語らひける人に
(まだ出仕してほどない頃、古里に帰って後、ちょっと語り合った人(同僚の女房)に)
   閉ぢたりし 岩間の氷 うち解けば をだえの水も 影見えじやは
(閉ざされていた岩間の氷が、春が来て解けましたら、途絶えていた水も流れ出し、そこに影が映らないことがありましょうか。=あなたが気心を解いてくれましたら、また出仕します)
返し
   みやまべの 花咲きまがふ 谷風に 結びし水も 解けざらめやは
(山辺の花を吹き散らす谷風が吹き付ければ、固く閉ざされていた氷も解けて、流れ出さないことがありましょうか=中宮さまの温かな人柄で、宮中も雰囲気になります。だからあなたもまた、出仕しなさい)
   正月(むつき)十日のほどに、「春の歌たてまつれ」とありければ、まだ出で立ちもせぬかくれがにて
(正月十日ごろ、中宮さまから「春の歌をたてまつれ」とあったので、まだ出仕もしないで引きこもっている里で)
   みよしのは 春のけしきに 霞めども 結ぼほれたる 雪の下草
(みよしのは春の景色に霞んでいましょうけれど、私はまだ雪の下草のように閉じこめられていますよ)
筋金入りの引きこもり体質ですね!
3月4日、一条天皇と中宮彰子は一条院に移るということで、東三条第では名残の宴が開かれました。式部の父・為時も楽人として?参加しました。しかし式部はまだ里に引きこもっていたようです。
   やよひばかりに、宮の弁のおもと、「いつか参りたまふ」など書きて
(三月ごろ、中宮つきの女房(弁のおもと)から、「いつまた出仕するの」などと書いて、出仕を促してきた)
   うきことを  思ひみだれて 青柳の いとひさしくも なりにけるかな
(悲しい出来事に心乱れて、お里下がりがたいそう長くなってしまいしたね。青柳のは「いと」にかかる枕詞。何か式部にとって嫌なことがあったらしい)
返し
   つれづれと ながめふる日は 青柳の いとどうき世に みだれてぞふる(定家本)
ぼんやりと物思いにふけって長雨をながめて過ごす日は、たいそう悲しいこの世に心乱れて過ぎていきます。
わずか数日働いただけで里下がりをして、3ヶ月も引きこもっているんですね。よほどイヤなことがあったようではありますが、そもそも働くことに向いてないと思います。とことんな引きこもり体質です。
ついに周囲から式部への批判が出ました。
   かばかりも思ひ屈(くん)じぬべき身を、「いといとう上衆(じょうず)めくかな」と人の言ひけるを聞きて
(これほどに心が折れそうな私であるのに「たいそうなご身分ですねえ」などと人の言うのを聞いて)
   わりなしや 人こそ人と いはざらめ みづから身をや 思ひ捨つべき
(仕方ない。あの人たちは私を人前と言わないだろう。だからといって自ら身を捨てるべきだろうか。そんなことはない=周りが何と言おうと私のやり方は曲げない)
そうとうガンコです。
春が過ぎ、夏になり、秋になっても式部は里で引きこもってました。すると「箏を教えてほしいわ」と言ってきた人があるので、それに答えて、
「箏の琴しばし」といひたりける人、「参りて御手より得む」とある返り事
   露しげき 蓬が中の 虫の音を おぼろけにてや 人の訪ねむ
(露いっぱいの蓬の中の虫の音を、並たいていの気持ちで人は訪ねてくるでしょうか。私などのところへ訪ねてくるなんて、あなたも物好きですね)
女だてらに『日本書紀』を読んでいることがバレて、「日本紀の御局(みつぼね)」とあだ名されてからは、一という文字すら読めないふりをしたというのも出仕直後のこのあたりのエピソードです。
後輩を気遣う
はじめは引きこもりがちだった紫式部も、宮仕えにも慣れてきて、1年2年経つうちに、女房として成長していきました。
寛弘4年(1007)3月。花の盛。
この頃、藤原氏の氏寺である興福寺から、毎年中宮のもとに花が贈られる習慣がありました。花の受け取り訳は大変な名誉とされました。この年の受け取り役は、はじめ紫式部でした。しかし式部は、その名誉な役を、新参者の伊勢大輔に譲ります。
すると藤原道長が言ってきました。「どうせ受け取るのだから歌を詠みなさい」紫式部としては心配もあったでしょう。この娘大丈夫かしら、ちゃんと歌詠めるかしら。そこで伊勢大輔が詠んだのが百人一首に有名な
   いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな
(いにしえの奈良の都の八重桜が、今日は九重の平安京に美しく色づいているなあ)
以上の話は『伊勢大輔集』に採られています。
『紫式部集』にはこれに対する式部の返歌として、
   九重に にほふを見れば 桜狩 かさねてきたる 春のさかりか(98)
(九重の都に八重桜が色づくのを見ると、桜狩りをする春の盛がもう一度来たように思えるよ)
引きこもりだった紫式部も、宮仕えにも慣れ、後輩を気遣うまでに成長していることがうかがえます。伊勢大輔も紫式部の気遣いをうれしく思い、以後、紫式部と伊勢大輔は親しく交わるようになったようです。
土御門第の日々
中宮彰子懐妊
この前年の寛弘4年(1007)から、中宮彰子は懐妊していました。年明けて寛弘5年(1008)4月13日、土御門邸に退出。5月、安産祈願の法華三十講が営まれました。法華三十講とは『法華経』28品に『開経(かいきょう)』『結経(けっきょう)』のニ経を加えて30日間にわたって講義するものです。
7月16日、中宮彰子は出産準備のため一乗院内裏を下り、土御門邸に入りました。翌日、式部の弟の惟規(のぶのり)が勅使として中宮のもとにお見舞いに赴きました。惟規は酔って醜態を演じたようで、式部ははらはらしたことでしょう。
この頃から紫式部は、中宮彰子に『白氏文集』「楽府」の講義をはじめました。胎内の皇子への帝王学も兼ねていたと思われます。
7月20日より安産祈願の法会が土御門邸で営まれます。『紫式部日記』はこのあたりから始まっています。深まりゆく秋の土御門邸のようすが、詩情ゆたかに描かれています。
「秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、おほかたの空も艶なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけはひに、例の絶えせぬ水のおとなひ、夜もすがら聞きまがはさる。」『紫式部日記』冒頭
秋の気配が深まってくるにつれて、土御門邸の様子は、言いようもなく風情がある。池のあたりのたくさんの梢、遣水の脇に草が生い茂っているの、それぞれ見渡す限り色づいて、この頃の空も風流な事物に引き立てられて、絶えることない御読経の声々に、風情は深まってくる。だんだん涼しくなってくる風の気配に、いつもの絶えない遣水の音が、一晩中混じり合って聞こえる。
○もてはやされて 自然の風物までもが中宮ご出産を応援しているようす。○聞きまがはさる 風の音と水の音が混じる。
出産を待つ日々、天皇の勅使がひっきりなしに土御門邸に訪れ、密教の修法(すほう)が行われ、読経の声が響き、今様歌が歌われ、皆一様に彰子の出産を祈願しました。
この間、道長は落ち着かない日々を過ごしました。
寛弘5年(1008)9月9日の夜からいよいよお産ということになり、11日の昼に生まれました。その間のようすを、式部は活き活きと描いています。
「夜中ばかりよりさわぎたちてののしる。
十日のまだほのぼのとするに、御しつらひかはる。白き御帳(みちょう)にうつらせたまふ。殿よりはじめたてまつりて、公達・四位五位ども立ちさわぎて、御帳のかたびらかけ、御座(おまし)ども持てちがふほど、いとさわがし。日ひと日、いと心もとなげに、起きふし暮らさせたまひつ。
御物の怪どもかりうつし、かぎりなくさわぎののしる。月ごろ、そこらさぶらひつる殿のうちの僧をばさらにもいはず、山々寺々をたづねて、験者(げんざ)といふかぎりは、残るなく参りつどひ、三世の仏も、いかにかけりたまふらむと思ひやる。陰陽師(おんやうじ)とて世にあるかぎり召し集めて、やほよろづの神も、耳ふりたてぬはあらじと見え聞こゆ。
御誦経(みずきょう)の使たちさわぎ暮らし、その夜も明けぬ。」
夜中ごろから、騒ぎはじめてわいわい言い始めた。
十日のまだほのぼのと夜が開ける頃、衣装・調度品がお産用の白いものに変わる。白い御帳に、(彰子中宮は)お移りになる。道長の殿をはじめ、公達・四位五位の者たちが騒いで、御帳の帷子をかけ、御座や畳をあわてて取り違えるほどに、たいそう騒がしい。一日中、(彰子中宮は)たいそう心もとない風で、起きたり伏したりなさっていた。
多くの物の怪を憑りましに移して、限りなく騒いでわあわあいう。ここ数ヶ月、間近に土御門邸でお使えしている僧はいまさら言うまでもなく、山々寺々をさがしもとめて、修験者という者は片っ端から、残りなく参上して集まって(加持祈祷をするので)、前世・現世・来世の仏も、どんなにか急ぎ飛んでいらっしゃるだろうと思わせられる。陰陽師も世にある者片っ端から召し集めて(加持祈祷をさせるので)八百万の神も、耳を振りたてないのはないと見え聞こえる。
安産祈願の読経を頼みに寺寺に走る使たちが一日中さわいで、その夜も暮れた。
○御帳 高貴な方の御寝所。浜床(方形の台)に畳2枚敷いて周囲に柱を立て、帷子を垂れる。○御座 夫人が座る茵(しとね)。畳を芯に、布を縁につける。座布団のようなもの。
「御帳の東おもては、内裏(うち)の女房参りつどひてさぶらふ。西には、御物の怪うつりたる人々、御屏風ひとよろひを引きつぼね、局口には几帳を立てつつ、験者(げんざ)あづかりあづかりののしりゐたり。南には、やむごとなき僧正・僧都かさなりて、不動尊の生きたまへるかたちをも呼び出であらはしつべう、頼みみ、恨みみ、声みなかれわたりにたる、いといみじう聞こゆ。北の御障子(みそうじ)と御帳(みちょう)のはざま、いとせばきほどに、四十余人ぞのちにかぞふればゐたりける。いささかみじろきもせられず、気(け)あがりて、ものぞおぼえぬや。いま里より参る人々は、なかなかゐこめられず、裳の裾・衣(きぬ)の袖ゆくらむかたも知らず。さるべきおとななどは、しのびて泣きまどふ。」
御帳の東側は、天皇の女房たちが参り集まってお仕えしている。西には、物の怪がのり移った人々が、屏風ひとよろい(二帖(ちょう)=一双(そう))を周囲に引いて局状にして、その局の入口のところには几帳を立てつつ、修験者がおのおの役割を分担して大声で祈っていた。南には身分の高い僧正・僧都らが幾列にも重なって座っていて、不動尊の生きていらっしゃる姿をも今にも呼んで出現させそうな勢いで、頼んだり、恨んだり、声は皆あちこちで枯れまくっているのが、たいそう尊く思われる。
北の御障子と御帳の間の、たいそう狭いあたりに、女房たちが四十人あまりも後で数えたらいた。少しも体を動かすこともできず、のぼせ上がって、何が何だかわからない様子である。新たに実家から宮仕えに参った(新参者の)女房たちは、せっかくだから中宮さまのおそば近く入れてもらいたいのだが、混み合っていて入れられない。裳の裾・衣の袖のゆく先もわからない。おもだった年配の女房たちなどは、(無事にお産がなるか心配して)しのび泣きしてわけがわからない。
○いみじ ここでは尊い。
9月11日昼頃、彰子は男子を出産しました。
「午の時に、空晴れて朝日さし出でたるここちす。たひらかにおはしますうれしさのたぐひもなきに、男にさへおはしましけるよろこび、いかがはなのめならむ」『紫式部日記』
正午頃、空晴れて朝日が出たように思える。無事にお生まれになった嬉しさの類ない上に、まして男子でさえあられた喜び、どうして一通りであろうか。
紫式部の筆が興奮に躍っているのに対し、藤原道長のほうは淡白です。
「午の時、平安に男子を産み給ふ。候する僧・陰陽師らに禄を給ふ、」『御堂関白記』
あまりに嬉しかったので言葉にまとまらなかったのでしょうか。外に向けた公的記録としての男性の「日記」と、主に個人的な心の動きをつづった、文学としての女性の「日記」の違いが出ているとも見れます。この皇子は敦成(あつひら)親王と名付けられます。後の、後一条天皇です。
『紫式部日記』より
『紫式部日記』には敦成親王の3日夜、5日夜、7日夜、9日夜すべての産養の様子が細かく詳しく描かれています。キリがないので省略しますが、こういう記事が今日、平安時代の風俗習慣をしるのに大いに役に立つわけです。
その間、道長は夜中にも暁にも孫(敦成親王)の顔を見に訪ねてきました。道長がいきなりやってきて乳母の懐をさぐって若宮を抱き取るので、乳母が寝ぼけまなこで目をさます。それが気の毒だと、紫式部は乳母に同情しています。
ある時、道長が若宮(敦成親王)を抱いていると、おしっこをかけられました。そこで、濡れた直衣を脱いで几帳の後ろで火にあぶって乾かしていました。通りかかった公卿に道長は、
「「あはれ、この宮の御しとに濡るるは、うれしきわざかな。これ濡れたるあぶるこそ思ふやうなるここちすれ」と、よろこばせたまふ。」『紫式部日記』
ああ、この宮(敦成親王)のおしっこに濡れるのは、うれしいことだなあ。この濡れた衣を火であぶっているのこそ、思いがかなった心地がするよ」とお喜びになったと。
紫式部の藤原道長に対する観察は、微笑ましく温かいものがあります。
式部の憂鬱
無事にお産もすみ、一条天皇の土御門邸行幸の日が近づきました。女房たちはその準備に大わらわな中、式部はふと庭先の菊を見て、深い憂鬱にとらわれます。
「行幸ちかくなりぬとて、殿のうちをいよいよつくろひみがかせたまふ。世におもしろき菊の根をたづねつつ掘りてまゐる。いろいろうつろひたるも、黄なるが見どころあるも、さまざまに植ゑたてたるも、朝露の絶え間に見わたしたるは、げに老いもしぞきぬべきここちするに、なぞや。まして、思ふことの少しもなのめなる身ならましかば、すきずきしくももてなし、若やぎて、つねなき世をも過ぐしてまし。めでたきこと、おもしろきことを見聞くにつけても、ただ思ひかけたりし心のひくかたのみ強くて、ものうく、思はずに、なげかしきことのみまさるぞ、いと苦しき。いかで、いまはなほもの忘れしなむ、思ふかひもなし、罪も深かりなど、明けたてばうちながめて、水鳥どもの思ふことなげに遊びあへるを見る。
水鳥を 水の上とや よそに見む われも浮きたる 世を過ぐしつつ
かれも、さこそ心をやりて遊ぶと見ゆれど身はいと苦しかんなりと、思ひよそへらる。」
一条天皇の土御門邸への行幸が近くなったということで、屋敷の中をいっそう手入れして美しくなさる。とても美しい菊の根を探しつつ掘って持ってきた。さまざまの色に色あせているのも、黄色であるのが特に見どころがあるのも、さまざまに植えたてたのも、朝霧の絶え間にあちこちに見えるのは、まったく、老いも退散してしまいそうな心地がするのに、どうして、そうはならないのかしら。まして、物思いが少しでも世間並みである身であったなら、もっと色目かしく振る舞い、若々しく、無常のこの世の中をもっと気楽に過ごすことができただろう。ところが、めでたきこと、面白いことを見聞くにつけても、ただ普段から思い抱いていた心に引っ張られる力ばかり強くて、物憂く、心にそぐわず、嘆かわしいことばかりがまさるのが、とても苦しい。どうかして、今は普段の憂鬱な気持ちは忘れたいのだが、そう思ってもやはり物思いは消えない。罪深いことだわと夜が明けるとぼんやり眺めて、水鳥たちが思うこともなさそうに遊びあっているのを見る。
   水鳥を 水の上とや よそに見む われも浮きたる 世を過ぐしつつ
水鳥は水の上で楽しく遊んでいるようによそ目には見える。
でも私だってよそ目には華やかな宮廷生活の中、浮ついてるように見えることでしょう。鳥たちのことをどうこう言えない。
○すきずきし 色めかしい ○もてなし 振る舞い
皇子が生まれて世はお祝ムードで一色なのに、式部はひたすら自分の内なる憂鬱を見つめています。これに続く一条天皇行幸の華やかな場面との対比で、描写に奥行きが出ています。
一条天皇の土御門第行幸
一条天皇の土御門邸行幸
寛弘5年(1008)10月16日、一条天皇が、生まれたばかりの敦成親王と初めてご対面するため、土御門邸に行幸します。
道長はこの日のために土御門邸の池に竜頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の船を浮かべ、これを池のほとりに差し寄せました。竜頭鷁首とは竜の頭と鷁(げき。想像上の水鳥)の首とを彫刻した二隻一対の船です。
10月16日、道長は朝から一条院内裏に参り、一条天皇行幸に同行します。午前11時頃、天皇の鳳輦は一条院内裏東門を出て土御門通りを東へ進み、約1時間後、1.5キロ先の土御門邸西中門から入りました。
一条天皇が御座所に入って落ち着かれると、池に浮かべた竜頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)から管弦が流れます。ついで道長が若宮を抱いて一条天皇の御前にあらわれました。
「おお道長、それが我が子か」
「帝、抱いてやってくだされ」
「よしよし…お前の父じゃぞ…あああ…泣かせてしまった。道長のほうがよいのか?しかし泣き声も可愛いことよ」
「殿、若宮いだきたてまつりたまひて、御前にゐてたてまつりたまふ。上いだきうつしたてまつらせたまふほど、いささか泣かせたまふ。御声いとわかし。」
(殿(道長)が若君(敦成親王)をお抱きなさって、一条天皇の御前にお連れして、おわたしなさった。天皇が抱き取りなさると、若宮はちょっとお泣きになられた。お声がたいそう幼なげだ)
その後、天皇の御前で管弦が奏されます。藤原公任らが万歳楽・千秋楽を声をあわせて朗詠。道長自身も「長慶子(ちょうげいし)」に合わせて舞を披露しました。
夜になって、名月があらわれると、道長は役人に命じて松明を撤去させ、「月を翫んだ」と。風流のきわみですね。
「これまで行幸は何度もあったが、今日の行幸にまさるありがたいことは無い」
道長はそう言って酔い泣きしました。深夜、一条天皇は還御されました。
この日、道長は一条天皇より加階(位を上げること)を提案されました。しかし道長は辞退しています。
「官位ともに高し。公に仕える間、その恐れなきに非ず、賜らざる以て慶となす」
あまりに幸福が重なると怖いということでしょうか。道長の妻の倫子は従一位に叙せられています。また行幸の日には、若宮(敦成親王)に親王宣下が行われています。親王宣下を祝う祝宴には多くの親類縁者が招かれましたが、同じ藤原氏でも「門わかれたるは、列にも立ちたまはざりけり」…系統が違っているものは招かれなかったと『紫式部日記』は記します。
五十日祝(いかのいわい)
同寛弘5年(1008)11月1日、土御門邸にて、敦成親王の五十日祝(いかのいわい)が行われます。五十日祝とは食初(くいそめ)の儀ともいい、餅を口に含める真似をする儀式です。
当代随一の歌人・藤原公任が、
「あなかしこ、この辺(わたり)に若紫やさぶらふ」
そう言って紫式部をたずねて局のあたりまで来ました。『源氏物語』はこの頃第一部の前半あたりまでは完成していて、式部は「若紫」と呼ばれていたようです。
その夜、道長は飲み過ぎて、よたよたしていました。
「また道長さま酔っ払って。隠れましょう。面倒なことになりますわ」
紫式部は同僚の女房宰相の君(大納言藤原道綱の娘)とともに御帳台の後ろに隠れようとすると、道長に見つかってしまい、
「和歌を一つずつ作れ。そうすればゆるそう」
そこで紫式部は、
いかにいかが かぞへやるべき 八千歳の あまりひさしき 君が御代をば
いったいどうやって数え尽くすことができましょう。八千年よりもさらに続く、わが君(敦成親王)の御代の末永いことを。
「うまく詠んだものよ!」
道長は感心して、二度この歌を唱えてから、
あしたづの よはひしあれば 君が代の 千歳の数も かぞへとりてむ
鶴は千年の齢を保つという。私も鶴のように千年生きて、わが君の千年の年の数を数えとってみせるぞ。
紫式部は感心しました。
(あれだけ酔っておいでなのに…殿にとって若宮さまご誕生は長年願ってきたことだから、しみじみうなづける歌だわ)
「中宮さま、お聞きになりましたか、私の会心の作ですぞ」
道長は酔い心地のまま、わが娘中宮彰子に語りかけます。そして、
「中宮の父親として私は悪くない。中宮も私の娘として悪くない。あなたの母(倫子)も幸せに思って笑っている。よい夫を持って幸せに思っているのだろう」
「宮の御ててにてまろわろからず、まろがむすめにて宮わろくおはしまさず。母も幸ありと思ひて、笑ひたまふめり。よい男はもたりかしと思ひたんめり。」『紫式部日記』
酔ってそんなことを言ってふざけるので、紫式部は聞いていてハラハラします。
すると中宮彰子はご機嫌で聞いている。道長の妻倫子は聞くにたえないと思ったのか、自室に引き上げていく。すると道長は、
「部屋まで送らないと母上がご機嫌を悪くするからな」
そう言って、中宮彰子の御帳台の中をくぐって、後を追いかける。
「中宮さまは、こんな私を失礼とお思いでしょう。しかし、親があればこそこんな立派な子が育ったのですぞ」
道長がそう言うと、女房たちは笑って道長をお送りしました。まことにほがらかな、父と娘の一幕でした。
『源氏物語』書写依頼
中宮彰子は寛弘5年(1008)11月1日から17日まで土御門邸に留まります。その間、土御門邸では、『源氏物語』の原本を添えて、ほうぼうに書写依頼を出していました。
紫式部は返ってきた書写をたばねて製本していきました。女房たちも清書に加わりました。
道長は紫式部の局にこっそり入りこみ、『源氏物語』の草稿を持っていってしまいました。ある程度書き直したものがあるのに、道長は書き直し前の古いものを持っていったので、
「あんな不完全なものを持っていって…悪い評判でも立ったらどうしましょう」
紫式部はそんなことを日記に書いています。
寛弘5年(1008)11月17日、中宮彰子は敦成親王とともに土御門邸を後にし、内裏に還御しました。
これら敦成親王誕生から、節目節目の祝儀、一条天皇の土御門邸行幸などは、『紫式部日記絵巻』に活き活きと描かれ、平安王朝文化の華やかさを今に伝えています。
『紫式部日記絵巻』は現在、東京都世田谷区の五島美術館、および大阪藤田美術館、東京国立博物館、個人コレクターに所蔵されています。
紫式部の「憂し」
悲しみにとらわれる
こんな楽しげな毎日であるにもかかわらず、式部はたまに里に帰ると、ふと憂鬱にとらわれました。過ぎ去った昔を思うと、さまざまに感慨がこみ上げました。同僚の女房、大納言の君とのやり取り。
   大納言の君の、夜々御前にいと近う臥したまひつつ、物語りしたまひしけはひの恋しきも、なほ世にしたがひぬる心か
(大納言の君が、夜毎に中宮さまの御前にたいそう近くお臥しになりつつつ物語なさった様子が恋しいけれど、やはり今の境遇に流れていってしまう心であるよ)
   うきねせし 水の上のみ 恋しくて 鴨の上毛に 冴えぞ劣らぬ
(あなたと一緒に仮寝した宮中のことばかり恋しくて、寒々とした気持ちなのは鴨の上毛にもまさっていますよ。「うきね」は水の上で寝ること。宮中の浮ついた気持ちをあらわす。「憂き寝」を掛ける。「水の上」…鴨にとっての「水の上」は式部にとっての「宮中」)
返し
   うちはらふ 友なき頃の 寝覚めには 番ひし鴛鴦(おし)ぞ 夜半に恋しき
(鴨の羽におりた霜を打ち払うように語り合う友もいない今は、夜半に目が覚めると、番の鴛鴦のようにあなたと一緒にいたことが愛おしく思えます)
中宮彰子、還幸
寛弘5年(1008)11月17日、中宮彰子は敦成親王とともに土御門邸を後にし、内裏に還御しました。式部も中宮に従って一条院内裏へ入ります。
寛弘5年の暮れ
寛弘5年(1008)も年が押し詰まりました。式部は12月はじめに里に退り、29日にふたたび一乗院内裏へ。宮仕えにもすっかり慣れてきて、2年前はじめて出仕した時の(たった5日でやめて引きこもった)あの頃の式部とは、まるで違っていました。本人もそれを自覚するのでした。(ずいぶん慣れてきたわ。でもそれもある意味つまんないかも)と。
   師走の二十九日に参り、はじめて参りしも今宵ぞかしと思ひ出づれば、こよなう立ち馴れにけるもうとましの身のほどやと思ふ。夜いたうふけにけり。前なる人々、「内裏(うち)わたりは、なほいとけはひことなり。里にては、今は寝なまし。さもいざとき沓のしげさかな」と、色めかしく言ふを聞く
(師走の二十九日に再度、出仕した。はじめて出仕したのも今夜だったなあと思い出すと、たいそう宮仕えにも慣れてまった、いやらしい身の上だと思う。夜がたいそう更けてきた。前にいる女房たちが、「内裏のあたりは、やはり里とは様子が違うわね。里なら、今は寝ている時間でしょう。ほんとうに寝つけないほど、沓の音がやかましいわね」と、色めかしく言うのを聞いて)
   年暮れて 我がよふけゆく 風の音に 心のうちの うさまじきかな
(年が暮れて、私の年齢もかさんでいく。風の音をきくと、心のうちに寒々したものが吹き付けるよ)
清少納言への批評
さて、藤原道長の周辺に対する紫式部の観察はとてもほがらかで、優しく、肯定的です。しかし一方で、同僚の女房などに対しては、辛辣な批評を書いています。中にも大先輩の女房、清少納言への批評がキツいことは、よく知られています。
「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、まな書きちらしてはべるほども、よく見れば、まだいとたらぬことおほかり。かく、人にことならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行くすゑうたてのみはべれば、艶なりぬる人は、いとすごうすずろなるをりも、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづから、さるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ。」
清少納言こそ、したり顔で嫌な人です。あのようにかしこぶって、漢字を書き散らしていますその教養のほども、よく見れは、まだたいそう足りないことが多いです。このように、人と違ったふうにあろう好んで思う人は、かならず見劣りし、将来は悪くなっていくばかりですから、風流ぶろうとする人は、たいそう殺風景でつまらない時でも、もののあはれを(ムリに)感じようとして、興深いことも見過ごさないようにしているうちに、自然と、方向違いでつまらない様子にもなるに決まってます。そのつまらなくなった人の将来が、どうして良くなるでしょう。
晩年
晩年の紫式部がどう過ごしたのかは、わかりません。しかし『紫式部集』に晩年の気持ちを詠んだとおぼしき歌のやり取りがあります。
   初雪降りたる夕暮れに、人の
(人は同僚の女房と思われる)
   恋ひわびて あり経るほどの 初雪は 消えぬるかとぞ 疑はれける
(あなたを恋い慕う辛い思いが、ずいぶん長く続いています。今朝降った初雪がいつの間にか消えてしまったように、あなたも消えてしまうのではないかと心配です)
返し
   ふればかく うさのみまさる 世を知らで 荒れたる庭に 積る初雪
(年を経れば(雪がふれば)悲しさばかりがまさるこの世のことを知らないで、荒れた庭に積る初雪よ。「ふれば」は「降れば」と「経れば」を掛ける)
紫式部が親しくしていた同僚の女房・小少将が亡くなった後、生前の彼女の手紙を見つけたので、式部はそれを二首の歌に託して、友人・加賀少納言のもとに送りました。
   暮れぬ間の 身をば思はで 人の世の あはれを知るぞ かつはかなしき
日がまだ暮れていない間だけの、はかない身であることを思わずに(棚に上げて)、あの人の人生のはかなさを知るのは、悲しいことです。
   たれか世に ながらへて見む 書きとめし 跡は消えせぬ 形見なれども
(誰がこの世に生きながらえてこの手紙を見るでしょう。書き留めた筆の跡は消えない形見だとはいっても。結局は皆、死んでしまい、誰も思い出さなくなる)
これに対する返し
   亡き人を しのぶることも いつまでぞ 今日のあはれは 明日のわが身を
(亡き人をしのぶこともいつまで続くでしょうか。今日は人の死を悲しんでいるとはいっても、明日はわが身のことですから) 
  
  

 

和泉式部 1030-1040?
あらざらむこの世の外の思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな
恋多き女性として知られる平安時代の歌人が和泉式部。数々の恋愛エピソードをまとめた「和泉式部日記」が有名です。以下の辞世の句は、「後拾遺和歌集」にも載っている歌です。
「あらざらむ この世のほかの思ひ出に 今ひとたびの あふこともがな」
「私はもうすぐ死んでこの世を去るでしょう。あの世への思い出として、もう一度あなたに会いたいものです」と解釈できます。相手が誰かはわかっていませんが、ストレートに気持ちが伝わる情熱的な句です。
●辞世の句 1
   あらざらむこの世の外の思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな 『後拾遺集』
(もうすぐ私は死んでしまうでしょう。あの世へ持っていく思い出として、今もう一度だけお会いしたいものです。)
【あらざらむ】「あら」は動詞「あり」の未然形で「生きている」という意味です。「む」は推量の助動詞「む」の連体形で、全体で「生きていないであろう」という意味になります。【この世のほかの】「この世」とは「現世」という意味ですので、「この世の外」は現世の外の世界、つまり死後の世界ということになります。【思ひ出に】「来世での思い出になるように」という意味です。【今ひとたび】「もう一度」という意味です。【逢ふこともがな】「逢ふ」は、男女が逢い一夜を過ごすことで、「もがな」は願望の終助詞で「〜であったらなあ」と、実現が難しい希望を語ります。
和泉式部(生没年未詳)
1000年頃の人で、越前守大江雅致(おおえまさむね)の娘。最初の夫が和泉守・橘道貞(たちばなのみちさだ)だったので、和泉式部の名前で呼ばれるようになりました。このとき生んだ娘が、百人一首にも登場する小式部内侍です。平安時代の代表的歌人で、自分の恋愛遍歴を記した「和泉式部日記」は時代を代表する日記文学となっています。和泉式部は恋多き女性で、道貞と数年後破局した後、為尊(ためたか)親王、その弟・敦道(あつみち)親王と結ばれ、さらに2人の死後、一条天皇の中宮彰子に仕え、藤原保昌(やすまさ)とも結婚します。晩年は消息不明です。

老いさらばえて私は死の床にあります。もうすぐ私は死ぬでしょう。あの世へもっていく思い出に、もう一度だけあなたにお逢いして、愛していただけたらと思うばかりです。
後拾遺集の詞書には、「心地(ここち)例ならずはべりけるころ、人のもとにつかはしける」とあります歌の通り、病気で死の床に就いている時に、心残りを歌に託して男のもとに贈ったということです。
この歌には、実はさほどの技巧はこらされておらず、作者の心情をストレートに表現した歌といえます。
それにしても「あらざらむ」ではじまるこの歌から感じられる女性の激情、強烈なインパクトはどうでしょうか。
もう今や自分が死にかけている荒い息の下から、「あなたにもう一度逢いたいのです!」と叫んでいるのです。
ひたむきさを越えた、狂おしいほどの情念が感じられますね。
和泉式部には他にも黒髪の乱れも知らずうち臥せばまづかきやりし人ぞ恋しきなどという歌があり、与謝野晶子のような激しさが感じられます。今なら、中島みゆきなどに当たるかもしれませんが、非常に感性の鋭い女性だったようです。
和泉式部は、とにかく恋多き女性として有名で、平安日記文学の代表「和泉式部日記」も、複数の男性との恋愛の経緯を描いたものです。
作者プロフィールにも少し書きましたが、最初の夫・道貞と数年で破局した後、為尊(ためたか)親王と結ばれますが、親王が1年ほどで26歳の若さで病死。続いてその弟・敦道(あつみち)親王と結ばれます。しかし敦道親王も若くして病死、時の最高権力者・藤原道長からは「浮かれ女」と言われ、父親の雅致からは勘当。それにもめげず一条天皇の中宮彰子に仕え、藤原保昌(やすまさ)とも結婚します。果たして苦労が多かったのか、もって生まれた性か、とにかくそれだけ次々と恋愛できるということは、式部が魅力的な女性だったからでしょう。
和泉式部は華のある女性だったからでしょうか、そのお墓も全国に10数カ所あるそうです。たとえば、兵庫県の伊丹市猪名野神社の近くにあるのもそのひとつ。JR福知山線北伊丹駅で下車し、市バス6番の山本団地行きに乗り、辻村で下車すれば近くにあります。他にも、京都府木津町(JR奈良線木津駅下車)などにも墓があります。一般に和泉式部寺と呼ばれているのは、京都市の新京極にある「誠心院」です。ここは、娘の小式部内侍に先立たれた和泉式部に、藤原道長が1027年に建てて贈った庵が元とされています。境内には和泉式部塔などもあり、修学旅行の学生たちなどで賑わっています。行く場合は、阪急京都線四条川原町駅で下車し、徒歩で10分程度です。
●辞世の句 2
   あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな
(私はじきに死んでしまうでしょう。あの世に持っていく思い出に、最後にもう一度だけ貴方に会いたい。)
「あらざらむ」 生きてはいないだろう。下の「この世」を修飾する。「あら」はラ変動詞「あり」の未然形。「む」は推量の助動詞「む」の連体形。「この世のほか」は来世。死後の世界。「この世」は現世。「もがな」 願望の終助詞。
後拾遺集(巻13・恋3・763)詞書に「心地例ならず侍りけるころ、人のもとにつかはしける 和泉式部」。『和泉式部集』の詞書には「ここあしきころ、人に」とあり、「心地例ならず」とか「心地あしき」は病気であること。病気が重く死を覚悟した時に人に遣わせた歌ですが、「人」が誰かはわかっていません。
和泉式部は数々の男性と恋愛関係になり、恋から恋へわたり歩いた奔放な女性というイメージがありますが、この歌にはそういう奔放なものは感じられず、むしろけなげな、まっすぐな感じです。和泉式部。生没年未詳。父は大江雅致(おおえのまさむね)。母は平保衡(たいらのやすひら)の女か?藤原道長は和泉式部のことを、その奔放な恋愛遍歴から「浮かれ女」といいました。また中宮彰子に仕えた同僚の紫式部は「和泉式部は和歌や恋文は達者だが素行は感心できない」と、かなり辛らつに書いています。
性空上人に贈った歌
まだ和泉式部と呼ばれる前の少女時代、書写山円教寺(姫路市)を開いた名僧性空上人に書き贈った歌がよく知られています。
   暗きより暗き道にぞ入りにける 遥かに照らせ山の端の月
(さらに暗い道に入っていく私だ。山の端の月よ。私の行く先をはるかに照らしてください)
はやくも波乱に満ちた人生を予感し、闇路を恐れている様子が伝わってきます。
『和泉式部日記』
999年までに橘道貞(たちばなのみちさだ)と結婚。道貞が和泉守に任じられると、夫の官職名から以後、和泉式部と女房名で呼ばれることになります。
夫道貞との間に小式部内侍が生まれますが、その後、冷泉天皇第三皇子為尊親王と恋仲になり、夫との関係は破綻。父雅致も身分違いの恋だと怒り狂い、式部を勘当します。
1002年、不倫相手の為尊親王が20代の若さで亡くなると、翌年、弟の敦道親王に求愛され、式部は受け入れます。兄弟ともに関係を持ったわけです。その上式部は東三条の館に引き取られ、世間から悪評を集めます。
『和泉式部日記』は敦道親王と恋愛の始終を、歌のやりとりを中心に描いた日記文学です。
悲しみに暮れる和泉式部のもとに、為尊親王の弟・敦道親王(あつみちしんのう)からの使いが来ます。やがて和泉式部と敦道親王との間で歌のやりとりが始まり、男女の関係へと発展していきます…日記という形式に仮託して他人が書いた創作という説もありますが…
敦道親王との間には一子・永覚が生まれます。
ところが1007年、敦道親王も兄と同じく20代の若さで亡くなります。式部の悲しみはたいへんなもので一年間喪に服しています。
小式部を失う
翌年の1008年、式部は一条天皇の中宮彰子に出仕。同じく中宮彰子に仕えた紫式部らと文芸サロンを形成します。彰子の父・藤原道長の家司(けいし 職員)で武勇のほまれ高い藤原保昌(ふじわらのやすまさ 958-1036)と結婚し、夫の任地丹後に下りました。
1025年、娘の小式部内侍が二十代の若さで亡くなると、式部は絶唱とも言える歌を詠んでいます。
   とどめおきて誰をあはれと思ふらん 子はまさるらん子はまさりけり
(子供たちと私を遺して、あの子は今誰のことを思っているだろう。 きっと子供たちのことに違いない。私だって親よりも子供のことを思っているのだから)
   などて君空しき空に消えにけむ 淡雪だにもふればふる世に
(どうして貴女は、あんなに空しく亡くなってしまったのでしょう。淡雪さえも、降ればしばらく留まっているものなのに)
   宮より、「露置きたる唐衣参らせよ、経の表紙にせむ」、と召したるに、結びつけたる
   置くと見し露もありけり はかなくて消えにし人をなににたとへむ
(和泉式部と小式部内侍がお仕えしていた彰子のもとから、「小式部が生前着ていた露模様の唐衣をください。経の表紙にしましょう」と言ってこられたので、衣に結びつけた歌。露を置いていたと見えたわが子・小式部の唐衣。はかないものの例えにいわれる露さえ、まだ衣の上に留まっていますのに、はかなく亡くなってしまったあの子のことを何に例えましょう)
和泉式部はまた娘の遺品を整理しながら口ずさみました。
   もろともに苔の下にはくちずしてうづもれぬ名をみるぞ悲しき
(あの子と一緒に苔の下に朽ち果てることもできず、あの子の名が、名声が埋もれていくのを、私は生きて見ている。悲しいことだ)(『和泉式部集』)
下賀茂神社で歌を詠んだ話
和泉式部が京都下賀茂神社に参詣した時のことです。
下賀茂神社は、鴨川が二手に分かれる三角州地帯にあります。現在も、糺の森といううっそうとしげった鎮守の森が広がっています。
今は大きな参道が真ん中に通っていますが、和泉式部の時代は、うっそうとした森林でした。その中を、壺装束の和泉式部が、しゃなり、しゃなりと歩いていきます。お供の女房を二三人ひきつれて。
「あっ、いたい」
見ると、草鞋で足が擦り切れていました。「どうしましょう」「式部さま、とりあえず紙を巻いておいてください」「あらそう借りるわね」
和泉式部は、足が擦り切れた所に紙を巻いて、下賀茂神社の社殿の前に行って、ぱんぱんと手をあわせていました。
「あれが和泉式部だって」 「へえー、あの有名な」
まわりの人びとは興味津々です。その中に、下賀茂神社の神主が、懐紙に句を書いて、よこしました。
   ちはやぶるかみをば足に巻くものか
畏れ多くも神様を足にまいてよいんですかな。「神」と「紙」をかけているわけです。さあ和泉式部どう出てくるか。有名な歌人の和泉式部だから、さぞかし当意即妙で返してくるにちがいない。神主はワクワクして、待っていました。
和泉式部、クスリとほほえみ、ふところから筆を取りだして、さらさらさら…すっと返した下の句は、
   これをぞ下の社とはいふ
だって、ここは下賀茂神社ではありませんか。「下」は「足」の縁語です。
「おお!さすが和泉式部」
神主はじめ下賀茂神社のまわりの人びとは惜しみない拍手を送りました。
鹿狩りを止めた歌
和泉式部が丹後守藤原保昌の妻として丹後へ下っていた頃、ある夜、夫保昌が仲間を集めて明日の鹿狩りの準備をしていました。
そこへ、悲しげな鹿の声が響いてきます。
思わず胸をおさえる和泉式部。「貴方、よしてください。明日の狩は」
「はっ?おいおい、お前何を言い出すんだ こんなに仲間たちも集まっているんだよ」
「だって…あの声…あまりにも哀れじゃないですか。明日は死ぬことを悟って、あんなにも、鹿が鳴くんですわ」
「ばかな。鹿にそんな感覚などあるものか 昔から馬と鹿はバカと決まってる。奴ら、何も考えちゃおらんよ。しかしまあ…そんなに言うなら、お前は歌が得意だから、よい歌を詠んでみろ。その出来如何によっては、鹿狩りを中止してやろう」
「わかりました」
和泉式部はすかさず詠みました。
   ことはりやいかでか鹿の鳴かざらん 今宵ばかりの命と思へば
(鹿たちがこんなに鳴いているのも道理です。今夜までの命だと、悟っているのです)
「ぐ…ぐぬっ。なんか調子が狂っちゃったな」
こうして保昌は、明日の狩は中止にしました。
貴船明神参詣の歌
   もの思へば沢のほたるもわが身より あくがれ出づるたまかとぞ見る
(思い悩んでいると、沢の蛍も私の身から離れ出た魂かと思われます)
この歌は詞書に「男に忘れられて侍りける頃、貴船にまゐりて、御手洗川に蛍の飛び侍りけるを見てよめる」とあります。男に忘れられた頃、貴船明神に参って、御手洗川に蛍が飛ぶのを見て詠んだ。「男」は一説に二度目の夫藤原保昌とされます。
すると社の内より…
   奥山にたぎりて落つる滝つ瀬の たま散るばかり物な思ひそ
(奥山にたぎり落ちる滝の瀬の水玉が飛び散るような、そんな深刻な物思いは、およしなさい)
という歌を、貴船明神が返しとしてお詠みになった…と、和泉式部は感じました。はたしてその後、悩みは晴れたということです。
晩年
晩年は尼となり誠心院(じょうしんいん)と名乗りました。その寺は小御堂といって御堂関白といわれた藤原道長の領土だったのを和泉式部に賜りました。京都新京極通内にある、誠心院(せいしんいん)です。もとは「じょうしんいん」と言っていましたが、近年「せいしんいん」と言うようになったようです。 
●和泉式部  
[天元元年〈978年〉頃 - 没年不詳] 平安時代中期の歌人である。越前守・大江雅致の娘。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。
経歴
   誕生
越前守・大江雅致と越中守・平保衡の娘の間に生まれる。鎌倉期に成立した『中古歌仙三十六人伝』では、御許丸(おもとまる)と呼ばれ太皇太后宮・昌子内親王付の女童だったらしい(母が昌子内親王付きの女房であった)としているが、和泉式部は『和泉式部日記』の中で宮仕えについて「ならひなきありさま(経験のない様)」と述べているため、否定されている。
父の大江雅致は、一説には大江匡衡の兄であるとされる。また和泉式部の「式部」は、雅致が文章生出身の式部丞だったからであるとする説が存在する。
母の父・平保衡は、『尊卑分脈』によれば平元規の子とされ、子(和泉式部のおじ)に平祐挙がいる。
   きょうだい
和泉式部には、姉妹が何人かいたことが歌集・『和泉式部正集(正集)』などから判明している。「岩躑躅いはねばうとしかけていへばもの思ひまさる物をこそ思へ(正集・六九八)」の詞書には、人に知られず物思いをすることがあった折に「はらから」に歌を送っていることが記されており、相談内容から姉であると考えられる。姉と思しき女性は、斎院・選子内親王の許に出仕しており、『後拾遺和歌集』の歌人である中将・中務姉妹の母にあたる。 また、大江匡衡と赤染衛門の間の子・大江挙周と交際していたらしい女性が『赤染衛門集』から判明しており、挙周と女性ではなく、和泉式部と赤染衛門がもっぱら贈答を交わし、恋の主導権を握っているため、こちらは和泉式部の妹であると考えられる。 もう1人、藤原有家に嫁した女性もいたが、和泉式部と年齢の開きがあるため、異腹の妹と推測される。
   経歴
『正集』には春夏秋冬+恋に部立された「百首歌」が見えるが、これは橘道貞との婚姻以前の正暦4年(993年)前後に詠まれたと考えられている。
長保元年(999年)頃までに和泉守・橘道貞の妻となった。この婚姻は、父・雅致が計ったものであったとされる。後の女房名「和泉式部」は夫の任国・和泉国と父の官名を合わせたものである。長徳3年(997年)〜長保元年(999年)の間には娘の小式部内侍が誕生している。『正集』によれば、この頃に「幼き稚児(小式部内侍)の病みけるを、あはれと思ふべき人」に対して歌を送っているが、この人物は橘道貞と見られ、和泉式部と小式部内侍は同居して京都におり、道貞のみが和泉国へ下向していたと考えられる。和泉国に下向した後の橘道貞と和泉式部は、歌を送り合っており、また、長保元年(999年)には、橘道貞亭で一家をあげて太皇太后・昌子内親王の看病に当たっていたため、この時点では2人の夫婦関係は良好であったと見られる。
道貞との婚姻は後に破綻した(後述するように離婚状態にはなっていなかった)が、小式部内侍は母譲りの歌才を示した。
冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛が世に喧伝されるが、身分違いの恋であるとして親から勘当を受けた。
為尊親王の死後、今度はその同母弟・敦道親王(帥宮)の求愛を受けた。親王は和泉式部を邸に迎えようとし、正妃(藤原済時の娘)が家出する原因を作った。また、源雅通との交流も『正集』に見え、歌の内容からして、一時恋愛関係にあったと見られ、加えて、『和泉式部日記』では「治部卿(源俊賢か)」の存在も噂されている。為尊親王が和泉式部を伴い、藤原公任の白川にあった別業を訪ねているが、『公任集』には和泉式部を「道貞妻」と記されており、正式には未だ橘道貞と和泉式部が結婚状態にあると認識されていたことがわかる。同じく『公任集』によれば、和泉式部は、寛弘元年(1004年)に道貞が陸奥守となり陸奥国に下向する際に歌を贈ったと記されている。和泉式部は敦道親王の召人として一子・石蔵宮永覚を儲けるが、敦道親王は寛弘4年(1007年)に早世した。寛弘年間の末(1008年 - 1011年頃)、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕。長和2年(1013年)頃、主人・彰子の父・藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し夫の任国・丹後に下った。保昌は左馬頭でもあったため、上京している際は1人で丹後に滞在していた。
   晩年
詳しい晩年の動静は不明であるが、『誓願寺縁起』によると、万寿2年(1025年)に和泉式部は娘である小式部内侍を失った。そして、和泉式部は娘の菩提を弔いつつ自らの往生も考えるようになり、播磨国書写山圓教寺の性空上人を訪ねることとした。そこで女人往生のすべを乞うたという。
娘を亡くした愛傷歌は胸を打つものがある。「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遙かに照らせ 山の端の月」は、性空上人への結縁歌であり、式部の勅撰集(拾遺集)初出歌である。仏教への傾倒が伺われる。歌の返しに性空から袈裟をもらっている。
京都に戻った和泉式部は、性空上人の教えをもとに誓願寺に入ると、本尊の阿弥陀如来に帰依して出家し、専意法尼という戒名を授かった、という。
次に誠心院(せいしんいん)の寺伝によると、万寿4年(1027年)に専意法尼(和泉式部)が長年仕えてきた上東門院(藤原彰子)が、父の藤原道長に専意法尼のために一宇を建立するように勧めると、道長は法成寺の塔頭・東北院の一角(現・京都御所の東、荒神口辺り)にお堂・小御堂を建立して「東北院誠心院(じょうしんいん)」と名付け、専意法尼を初代住職とさせた、これが誠心院の起こりであるという。
その後、専意法尼(和泉式部)は性空から貰った袈裟を着用し、命を終えたという。
戒名は誠心院専意法尼。
いずれの伝承においても性空は万寿以前の寛弘4年(1007年)に遷化しており、あくまで伝承である点に留意は必要である。
3人目の子供について
『正集』に集首されている、「この世には いかがさだめん おのづから 昔をとはん 人にとへかし(正七九七)」の歌は、とある人物に「どの男の子供であったと決めましたか」と尋ねられた際の返事であるが、小式部内侍が生まれた時のものとする説が存在する。しかし、和泉式部の子として確認できるのは小式部内侍と石蔵宮の2人であるが、2人とも父親がわからないような状況で生まれた子ではないため、2人以外にも子供を産んだ機会があったと推察できる。時期は、道貞と別れ帥宮と付き合う前か、帥宮の死後、保昌との関係が安定する前であると考えられる。
和泉式部の和歌の特徴 
『古今和歌集』では、「恋し」「恋す」などの恋の感情・行為の主体は男性であると決まっており、『後撰和歌集』や『拾遺和歌集』でもそれは変わらなかった(対して『万葉集』では、額田王や大伴坂上郎女のように、女性も恋する自己を自由に詠んでいる)。 しかし、以上のような平安和歌世界において、突出していたのが和泉式部であった。題詠においても、贈答歌においても、「恋し」「恋す」などの恋愛における主体的な言葉を多く用いており、男性中心の言葉を自在に詠みこなす点が、突出した女流歌人であったと言える理由の一つであった。
和泉式部の和歌の源流
和泉式部は、後に紫式部(『紫式部日記』)に「口に任せたることどもに、必ずをかしき一節の、目にとまる詠み添へ侍り」と言われているため、「天才肌の歌人」というイメージが定着している。しかし、一方で、彼女は先行詩歌から表現や歌材、詠出手法を学んでいた痕跡も窺える。
『正集』の冒頭には春夏秋冬+恋という部立が設けられた「百首歌(実際には欠損が生じ97首)」が見られるように、和泉式部は「曽禰好忠や源重之、源重之女の「百首歌(いわゆる「初期百首」)」を学んでおり、彼らの歌に類似しながらも、詠まれた世界は異なるという彼女の力量を著した歌を『正集』に残している。和泉式部は「百首歌」によって、百首歌人の「先行歌に対し、ある時は歌材やその境地を共有し、ある時は新たな要素を付加して展開させ、ある時は反発してみせる」という作歌手法や、『万葉集」以降の先行歌を徹底的に学ぶ姿勢の影響を受けている。
和泉式部は『後撰和歌集』も学んでおり、天智天皇の「秋の田のかりほのいほの苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ」の歌を基にした「秋の田の庵にふける苫をあらみもりくる露のいやは寝らるる」を詠んでいる。
和泉式部の歌学びは詩歌の世界にも及んでおり、『紫式部日記』に「その方の才ある人、はかない言葉の匂ひも見え侍るめり」とあるように、和泉式部は漢詩文の教養もあり、詩的な世界を下敷きにして作歌してもいる。例えば、「岩躑躅折りもてぞ見る背子が着し紅ぞめの衣に似たれば(正集・十九)」という歌があるが、躑躅は『白氏文集』や『千載佳句』、『和漢朗詠集』などで取り上げられており、漢詩の世界ではポピュラーな景物であった。
この他にも和泉式部は、『万葉集』や『伊勢物語』も学んでいた。『和泉式部続集(続集)』には、ある人から「万葉集しばし(『万葉集』を少しの間お借りしたい)」と申し出があったことが記されている。この時、和泉式部は『万葉集』を所有していなかったが、返答として「かきのもととめず(書き留めていません)」と述べており、「『万葉集』を一旦は手元に置き勉強したこと」、「柿本人麻呂を連想させる返答をしていること」がわかる。『袋草子』には、『伊勢物語』の伝本の中に「泉式部本」があったことが記されている。
交流のあった歌人
和泉式部には、若い頃から歌人達との交流が見られる。例えば大江嘉言である。嘉言の歌集である『嘉言集』の中に、「花心静かならず(嘉言集・一一四)」、「春の小松、緑をます(嘉言集・一一五)」という題を持つ歌があるが、『正集』にも「春の時静かならず、雨の中に松緑をます(正集・四五〇)」のように、同題と思しき詠歌が見える。これらがいつの時点の詠歌なのか、同席していたのかいないのかは明らかではないが、嘉言と和泉式部との交流を想定するには十分である。
また、嘉言や和泉式部の歌と同題と思しき和歌は、嘉言と交流のあった源兼澄の『兼澄集』にも見られ、3人が同時に同題を詠みあうこともあったと考えられる。
他にも、藤原長能や源道済との交流も『長能集』や『道済集』、『正集』に見られる。
人物
・恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評された。また同僚女房であった紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評された(『紫式部日記』)。真情に溢れる作風は恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多い。才能は同時代の大歌人・藤原公任にも賞賛され、赤染衛門と並び称されている。
・敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記『和泉式部日記』があるが、これは彼女本人の作であるかどうかは疑わしい。ほかに家集『和泉式部正集』『和泉式部続集』や、秀歌を選りすぐった『宸翰本和泉式部集』が伝存する。『拾遺和歌集』以下、勅撰和歌集に246首の和歌を採られ、死後初の勅撰集である『後拾遺和歌集』では最多入集歌人の名誉を得た。
・イワシが好きだったという説話があるが、その根拠とされる『猿源氏草紙』は室町時代後期の作品であり、すなわち後世の作話と思われる。
受容史
和泉式部は、あらかじめ決められた歌題について和歌を詠む、12世紀初頭の題詠成立以前の歌人であった。和泉式部が活躍した10世紀後半から11世紀前半は、源融の旧宅であった河原院という場に、和泉式部の実家である大江氏を始めとして、清原氏、平氏などという中下級貴族が集う和歌のサロンが形成されていた。このような和歌サロンの中で、後の題詠へと繋がっていく文芸性を重んじる和歌が形作られていく。曽根好忠は河原院の和歌サロンの代表的な歌人であるが、身分が低い曽根は上級貴族の歌会に参加することが難しく、勅撰和歌集の撰者となることもなかった。その一方でそのような公共性が強く、制約の多い立場から自由に歌を詠むことに繋がった。和泉式部はこのような和歌サロンの流れを受けて和歌を詠むようになっていった。
和泉式部は同時代の紫式部から、優れた歌人として評価を受けつつも、多くの男性と浮名を流した好色な女性という風評を踏まえ、人の道を外しているところがあると批判されている。高名な紫式部による和泉式部評は、後世に和泉式部の好色な女性像を広めることに繋がった。この好色なイメージは平安時代の後期になるとより強化された。
中世前期から室町時代にかけて、仏教的な説話が和泉式部像に強く反映されるようになる。中世の説話では和泉式部が遊女であると捉えられているものがあり、そのような中で、法華経の教えを踏まえながら、仏教的な救済を求める女性として和泉式部が描かれるようになる。
近世に入ると、与謝野晶子が「情熱的な」歌人として和泉式部を高く評価し、その評価が定着していったとの説がある。しかし実際には、藤岡作太郎が、与謝野晶子が和泉式部に関する著作を発表する以前に情熱的な歌人として評価しており、また、与謝野晶子による評価も情熱を全面に押し立てるようなものではなく、和泉式部の作品には、多情であるばかりではなく純情、愛欲とともに哀愁、そして奔放でありながら寂寥という相反した感情が詠み込まれていることを指摘したものであった。
しかしながら、与謝野晶子自身が「情熱的歌人」として捉えられるのと期を同じくするように、和泉式部も情熱に結び付けられていく。そして情熱は「愛欲」、「爛熟した性」、「刹那的な詩人」などといった和泉式部像の形成に繋がってしまった。この和泉式部、そして与謝野晶子と「情熱」との結び付きは、両者の人物像把握に大きな影響を与え続けている。
もちろんそのような和泉式部、そして与謝野晶子と「情熱」や「愛欲」、そして「性」との安易な結びつけには批判があり、求道者として、そして近代的な自我的なものに依る解釈も見られる。しかしそのような和泉式部の受容もまた、近現代からの眼を安易に古典に敷衍するものであるとの批判がある。
遺跡・逸話
・岩手県北上市 - 和賀町竪川目に墓所がある。付近が出生地あるいは没地と伝えられ、ここが和泉式部伝説の北限とされる。早世した小式部を哀れんだ隣人が五輪塔を建てたという伝説に準えて明治2年に奉建された五輪塔などがある。
・福島県石川郡石川町 - この地方を治めた豪族、安田兵衛国康の一子「玉世姫」(たまよひめ)が和泉式部であると言い伝えが残る。式部が産湯を浴びた湧水を小和清水(こわしみず)、13でこの地を離れた式部との別れを悲しんだ飼猫「そめ」が啼きながら浸かり病を治したといわれる霊泉が猫啼温泉として現存する。
・岐阜県可児郡御嵩町 - 旧中山道の途中に和泉式部の廟所と言われる石碑が存在する。同地に伝わる伝承によると晩年は東海道を下る旅に出て、寛仁3年(1019年)にここで病を得て歿したとされている。碑には「一人さへ 渡れば沈む 浮橋に あとなる人は しばしとどまれ」という一首が刻まれている。
・愛知県豊川市小坂井町平口 - 報恩寺境内に和泉式部の墓との伝承がある和泉式部供養塔がある。
・三重県四日市市曽井町 - 「和泉式部化粧の水」があり、和泉式部がここで顔を洗ったら顔のあざが消えたと言われている。
・大阪府堺市西区平岡町 - 居宅跡である「和泉式部宮」がある。
・大阪府岸和田市 - 阪和線下松駅周辺の大阪府道30号大阪和泉泉南線沿いには和泉式部にまつわる池、塚などが存在する。
・兵庫県伊丹市に和泉式部の墓所がある。
・京都府京都市右京区太秦に「太秦和泉式部町」という町名がある。昭和6年に現町名となり、それ以前は「字和泉式部」であった。この字名がついた所以は当地に和泉式部塚があったためとされる。この塚については江戸時代の諸史料・調査記録から、双ヶ丘の南一町ほどのところにあった法妙寺(融通念仏宗、開祖円覚上人)の跡地に残されていたとみえる。塚の傍らにはかつて瓦葺きの小祠があり、側の山茶花の木に絵馬が掛けられて、病気平癒の信仰があったことが確認されている。史家の考察によれば、この法妙寺に定住していたと思われる比丘尼が「式部」を名乗って庶民らの病気の治療をおこない、比丘尼の没後もその霊験を祈願する人々によって塚への参詣が続けられてきたものと考えられている。現在は法妙寺も式部塚も失われ町名だけが残った形だが、塚のあった場所については太秦和泉式部町がある南側と丸太町通を挟んだ北側の二説があり、定まっていないという。
・京都府亀岡市 - 称名寺に和泉式部の墓所があると伝えられる。
・山口県山陽小野田市 - 和泉式部の墓所がある。
・佐賀県白石町/嬉野市 - 白石町の福泉禅寺で生誕し、嬉野市の大黒丸夫婦に育てられたとされる言い伝えがある。寺には故郷を偲んで詠んだとされる和歌の掛け軸が伝わっており、境内には歌碑と供養塔が建立されている。
・長野県温泉寺 (諏訪市) 和泉式部の墓がある。下諏訪宿が、和泉式部の出身地という説がある。
・島根県仁多郡奥出雲町郡 亀嵩駅の近くに和泉式部の墓所がある。
しかしこれらの逸話や墓所と伝わるものは全国各地に存在するが、いずれも伝承の域を出ないものも多い。柳田國男は、このような伝承が各地に存在する理由を「これは式部の伝説を語り物にして歩く京都誓願寺に所属する女性たちが、中世に諸国をくまなくめぐったからである」と述べている。  
●和泉式部日記
世間では何事も「はかどる」ことが美しい。「はかがいった」「はかばかしい成果だ」とほめられる。仕事も家事も勉強も「はか」がいくことを努力目標にする。
能率がいいことが「はかどる」で、ふつうは「捗る」と綴る。ハカは進みぐあいのこと、進捗度のことをさす。かつてそういうことを意味するハカという、人生や仕事を見る単位があったのである。「果」とか「量」とか「計」などとも綴る。
そのハカがいかなければ、どんくさい。能率も悪いし成果も乏しい。これはハカなしで「はかなし」ということになる。ところが王朝文化では、「はかなし」という風情も尊重されたのである。もっとも最初のうちは弱々しいことや頼りにならないことが「はかなし」だった。「いとはかなうものし給ふこそ、あはれにうしろめたし」(源氏・若紫)といえば、たいへん幼くていらっしゃるのが、どうしようもなく先が気がかりですという意味になる。粗末で充ちていないという意味もあった。「九月二十日余りのほど、長谷に詣でていとはかなき家に泊りたり」(枕草子)は、長谷寺に参詣してたいそう粗末な宿に泊まったという意味だ。
こうした「はかなし」に新たな方向をもたせたのが、和泉式部だった。ハカがなくてもいいでしょう、はかどらなくてもいいでしょうというのだ。むしろ頼りなく、空しいことにこそ独得の価値観を認めたのである。「はかなし」が美しい。「はかなき無常」の発見ともいうべきものだった。無常とは「常ならないもの」のことをいう。
いつごろだったか、唐木順三の「はかなし」の議論に誘われて『和泉式部日記』をちらちら読みはじめた時期があった。やや懐かしく、やや心もとなかった。「夢よりもはかなき世の中を嘆きわびつつ明かし暮らすほどに、四月十余日にもなりぬれば、木の下くらがりもてゆく……」。このあまりに有名な冒頭に引きこまれ、そのまま読みこんでいくのは、まるで自分が少女になって大人の女の熟した気分を覗き見るようで、不思議に落ち着かないフラジリティなのである。
男の読後感なのかもしれない。いつもそうなのだが、女房たちの王朝文芸を読むと、だんだん自分が内股で歩いているような感触がやってくる。体がそうなるのではない。気分の体癖のようなものが、なんだか女っぽくなってくる。きっと『源氏』を訳していたころの谷崎や舟橋もそういう気分になったことだろう。
いいかえれば、男がすなるものを女がしてみているのか、女がすなるものを男がしているのか、わからなくなるわけだ。わからなくなるというより、そうした衣ずれを伴う倒錯のような感覚が虚実皮膜のあわいに入っていく。そういうと難儀のようだが、ようするに自分がなまめかしくなっていくのが実感できるのだ。
だからぼくが唐木の読み方をまねたのも実のところは最初のうちだけで、“内股の意識”になってからは、しだいにべつの関心に移っていった。和泉式部の文芸的実験性への関心である。こういうことは読書にはよくあることで、最初の読みちがいが次の読み当たりを導くものなのだ。
だいたい『和泉式部日記』は、これをざっと通読したからといって読んだことにはならない。そこで2度目からは、頻繁に出てくる歌に佇んで読む。ぼくもいつごろからかは忘れたが、歌に佇み、少しずつ数珠つなぎに読んだ。行きつ戻りつもした。
佇みかたも、ちょうど同じ散歩道でもちがった立ち止まりかたがあるように、その時その場で変わっていく。木蓮があれば木蓮に、夾竹桃があればそのわさわさと風にゆらめく実況に、佇んでいく。それにもかかわらず、この日記が日本の古典のなかでも群を抜いて独創に満ちていて、しかもおそらくは何度そこに入っても、どの歌の前後を拾い読んでも、つねに格別の示唆に富んでいることは断言できる。なんといっても傑作なのだ。そして、この作品こそが日本文芸の反文学の原点なのである。
原点だというのは、べつだん厳密な意味ではない。けれども、この日記が日記でありながら「記録」のためではなく、「歌」のために綴られたものであること、および日記でありながら、「私は」というべきところを「女は」というように3人称で綴ったこと(これは画期的だった)、ようするにあとから当時の歌を偲んで綴られたことに、ほとほと瞠目させられるのだ。
歌が先にあり、あとから一四七首を偲んで並べ替え、それを編集した。そういう日記であった。反文学だというのは、歌から出て歌に出て、文から出て文に出て、歌でも文でもあるような偲びの世界をつくったということである。
日本の歌というものは、いたずらに文学作品として鑑賞するものではない。もっとその気になって読む。歌人のほうだって、ここにおいてそこを偲んで詠んでいた。ここにおいてそこを偲ぶのは、その歌が「ひとつの世」にひそむ「夢・うつつ」のあいだを通して贈答されているからだ。「ゆめ」(夢)から「うつつ」(現)へ、「うつつ」から「ゆめ」へ。そのあいだに歌が交わされる。贈り、返される。その贈答のどこかの一端にわれわれがたまさか佇めるかどうかが、歌の読み方になる。
そのような歌の読み方があるのだということを、歌を下敷きにして綴った擬似日記をもって和泉式部が教えてくれた。リアルタイムの日記ではなくて、あとから拵えた日記なのだ。『和泉式部日記』とはそういう擬態なのである。そういう文芸実験なのだ。それが、歌を偲んで歌をめぐる物語を綴るということだった。かつての『伊勢物語』がそうであるように。
けれども『伊勢物語』が男の歌を偲ぶのに対し、『和泉式部日記』は女の歌を偲んだ。そして、どういうふうに偲べばいいかということを告げた。まことにもってたいした実験だった。
和泉式部が日本の歌人の最高峰に耀いていることも言っておかなくてはならない。こんな歌人はざらにはいない。
わかりやすくぶっちゃけていえば、与謝野晶子は和泉式部なのだ。「黒髪の乱れも知らずうち臥せばまづかきやりし人ぞ恋しき」「竹の葉に霰ふるなりさらさらに独りはぬべきここちこそせね」、そして「願はくは暗きこの世の闇を出でて紅き蓮の身ともならばや」。この三首、どれが式部でどれが晶子かわかるだろうか。
晶子ばかりではない。樋口一葉も山川登美子も、生方たつゑも円地文子も馬場あき子も、和泉式部をめざしたのだったろう。きっと岡本かの子も瀬戸内寂聴も俵万智も、ユーミンも中島みゆきも椎名林檎も、その後の和泉式部なのである。恋を歌った日本人の女性で和泉式部を詠嘆できない者がいるとはぼくにはおもえない。
男たちも和泉式部にはぞっこんだった。鴨長明が『無名抄』で和泉式部と赤染衛門をくらべ、人柄はいささか劣るものの歌ではやっぱり式部だと書いたことも、さすがに長明ならではの判釈である。
昭和になって和泉式部を最高の歌人と見たのは、昭和11年から17年まで書き継いだという保田與重郎の『和泉式部私抄』(新学社)だったけれど、歌としてすでに与謝野鉄幹や吉井勇や萩原朔太郎や窪田空穂が、つづいて谷崎潤一郎や唐木順三や寺田透が深々と傾倒していった。それほど和泉式部の歌には才能がほとばしっている。
それなら、長明の評価このかた、式部の歌の最高位がゆるがなかったかというと、そうともいえない。世の中にはむろん多様な風評はいろいろあるもので、紫式部が和泉式部より赤染衛門の歌を優位においたという説に加担する者も少なくない。なにしろ嫉妬深い紫式部の御意見だ。「和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど和泉式部はけしからぬ方こそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない詞の匂ひも見え侍るめり云々」。
和泉式部の手紙などは趣きが深く、走り書きなどには天性の才能を感じるが、品行がふしだらである。歌もなかなかうまいけれど、古歌の知識や理論があるわけではなく、他人の歌の批評をさせるとたいしたことはない。口にまかせて即興するのが上手だということだけだ。そう言うのである。
この紫式部の意見をひっぱって、いまだに式部に難癖をつけようとする者もいる。ただし、これはたいてい和泉式部の生きざまに呆れているせいである(唐木順三のように「はかない詞の匂ひ」に深く注目すると評価が変わる)。
世間が和泉式部の生きざまに呆れるのは、その男遍歴による。大半は誤解なのだが、世間というものはそのように型破りの女を批評するものだ。当時すでに身持ちが悪い女という噂もたっていた。御伽草子には「浮かれ女」(遊女)ともしるされた。品行がふしだらというよりも、おそらくは男好きのする女であったのだろうという、そんなまことしやかな見方も出まわった。
式部は御許丸とよばれた少女時代から多感な娘であったようで、父の大江雅致が冷泉天皇皇后の昌子内親王(朱雀天皇皇女)に宮仕えをしたころには、父にともなって女房として昌子に仕え、すでにいくつかの浮名を流していた。幼くしてコケットリーで、察するにかなりの美人になったのでもあろう。
が、彼女の名誉のために言っておくが、男遍歴といっても、最初は結婚である。相手は、その宮仕えのころに出会った橘道貞で、道貞がのちに和泉守となったので、結婚後に和泉式部とよばれた。
二人のあいだには小式部が生まれた(のちに百人一首にとられた歌「大江山生野の道の遠ければ」を詠む)。道貞は出世街道を進んでいた。道長にも気にいられるようになっていく。その一方で夫が遠国によく出掛けて留守がちだったこともあって、道貞とはしだいに疎遠となり、別居同然の日々になっていく。そこへもってきて昌子内親王が亡くなった。式部の心が乱れていたころ、新たな男、為尊親王が近づいた。
これが弾正宮である。冷泉天皇の皇子だった。『大鏡』には幼少時より容姿がとりたてて「かがやく」ほど美しかったとある。この式部と弾正宮の仲のことは『栄華物語』にも出ていて、式部の浮気というより、「かろがろ」としていて「御夜歩き」が好きなプレイボーイ気味の弾正宮のほうが積極的だったとおぼしい。蛍狩りの帰途に笹の枝に蛍をつけて贈るようなキザな公達なのである。
式部の心はかなりぐらりとする。ひそかに弾正宮の好きな蘇芳の小袿を着け、弾正宮の好きな真名磐の香を焚きしめた。これでは二人の噂はいやがうえにも広まっていく。そのため弾正宮為尊の妻は悲しみのあまり出家した。ところが弾正宮は流行の病いで26歳であっけなく死亡する。昌子の死、夫との離別、新たな恋人の死――。これらがわずか1、2年のあいだに連打されたのである。
式部はこうした自分にふりかかる人の世のはかなさと男女の浮き沈みに、激しく動揺をする。中世、こういう世の中を「宿世」といった。式部に「はかなさ」をめぐる無常の美学が透徹し、日本文芸史上で最も「はかなさ」の言葉を多用しているのも、こういう事情と背景による。
それとともに男女のはかなさにも宿世を感じて心を揺らした。式部に男の接近と男との別離を暗示的に詠んだ歌がやたらに数多いのはそのせいである。式部と親しかった赤染衛門もそういう式部の心の浮沈に同情し、いくつかの歌を贈っている。
そこへ登場してきたのが敦道親王である。弾正宮の弟で、やはり冷泉院の皇子、大宰帥だったところから帥宮とよばれた。
帥宮はすでに2人以上の妻をもっていたが、正妻の関白道隆の三の姫は異常なふるまいもする。あどけないのか、どこか幼児的なのか、しばしば奇矯なことをする。来客があると急に御簾をまくって相手の顔を見たり、ふしだらな着付けで乳房が出そうな恰好をすることもあった。帥宮はほとほと困っていた。
そのころの式部はまさしくコケットリーな風情だったのだろう。成熟した女が心の奥に沈んでいた。帥宮はたちまち式部に夢中になった。おそらくは式部が6つくらいの年上だった。式部も帥宮がたずねてくるのを待つ身となっていく。「薫る香によそふるよりはほととぎす聞かばや同じ声やしたると」と式部が詠めば、「同じ枝に鳴きつつをりしほととぎす声はかはらぬものと知らずや」と返ってきた。二人のあいだに、待つ身と逢う身を交わらせる後朝(朝帰り)がうちつづく。
こうして、『和泉式部日記』は、この帥宮との約十ヵ月におよぶ人を憚る恋愛を語った歌日記になった。歌が先にあり、それをのちに偲んで綴ったものだった。先にも書いたように、擬態としての日記にしてみせたのである。なぜ日記にできたかといえば、帥宮が突然に死んでしまったからだった。またまた早すぎる27歳の死であった。
弾正宮につぐ帥宮との死別。美貌の兄弟の唐突の死。式部はよほど離別や死別に見舞われる宿命の女性なのである。
恋した兄宮と弟宮があいついで死ぬとはよほどのこと、まさに「無常迅速」としかいいようがない。式部は帥宮のために1年にわたる喪に服し、おそらくはその直後であろうが、その思い出を歌日記に綴っていく。日記には載ってないが、帥宮を慕う挽歌数十首はその構想といい、その複雑な構成といい、和泉式部畢生の最高傑作になっている。
人の世のはかなさだけが式部の歌や日記をつくった原因ではなかった。そこには、この時代特有の「王朝文化」というものがある。華麗で異様で洗練された「女房文化」というものがある。和泉式部は、赤染衛門・清少納言・紫式部・伊勢大輔についで藤原道長の後宮に出仕したれっきとした女房である。彼女らと同じ世の「後宮文化」のなかにいた。
この「王朝文化」「女房文化」「後宮文化」の事情を理解するには、余計なことながら、少しだけでも時代背景を知る必要がある。とくに天皇家の血筋と藤原道兼・道長のシナリオを多少は知らなければならない。
そう想うと、ああ1000年かと溜息が出るのだが、いまからちょうど1000年前が1001年である。長保3年になる。一条天皇の時代にあたる。すべてはこの一条の世の文化がどのように用意されていったかということにかかわっている。このとき、花山天皇を欺いて一条の世を政略的に用意した摂政藤原兼家が死に、子の藤原道長が12歳の彰子を強引に入内させていた。和泉式部は27、8だったろうか。あるいはもう少し若かったかもしれない。
一条の世とは、日本の女流文芸が頂点に達した時期である。そこには複雑な血筋の蛇行があった。もともとはこの流れの劈頭に村上天皇がいた。醍醐天皇の皇子で、摂関をおかずに親政をしいた。いわゆる「天暦の治」にあたる。村上天皇に二人の皇子がいて、その皇子の冷泉と円融が10世紀末に次々に天皇になった。このあと、天皇譜は冷泉系と円融系が代わるがわる立つことになり、冷泉・円融ののちは、次が冷泉系の花山天皇、次が代わって円融系の一条天皇、また冷泉系に戻って三条天皇が立ち、そのあとは円融系の後一条天皇と後朱雀天皇になっていった。
ここで冷泉系は後退していった。藤原兼家と道長は勢いをえた円融系のほうの一条天皇の外戚なのである。
日本の天皇家は、天智系と天武系をはじめ、桓武・嵯峨時代の二所朝廷といい、この冷泉・円融系の対立といい、さらには日本を真二つに分断した南北朝といい、実はたえず乱れてきた。そのため、系譜のどちらに立って王朝社会を支援するかということが日本公家社会史の起伏をつくってきた。兼家と道長親子にもそのシナリオが強烈に発動した。それが藤原文化というものであり、そこに後宮文化の血の本質がいやおうなく動いた。
もっとも抜け目のない藤原一族は、不比等・仲麻呂の時代から権勢ルーレットの赤にも黒にもチップを置いてきた。兼家も娘の超子を冷泉天皇に、詮子を円融天皇のほうに入れて、両系の天秤をはかっている。ところが、超子からは三条天皇が生まれたが、超子が早く死んだため、冷泉系は伸び悩んだ。
逆に詮子は一条を産んで、7歳で天皇に即かせた。兼家の摂関家の地位はここで不動のものとなる。このシナリオを完璧に仕上げていくのが藤原道長で、彰子を入内させて一条天皇の中宮とし、一条の世を望月のごとくに完成させた。道長政治の確立である。それとともに円融=一条=道長の女房後宮文化が確立した。つまりは、一条と道長のサロンこそが日本の女流文芸を熱情させた。王朝ハーレムの爛熟である。
和泉式部は負の札を引いた冷泉天皇系に仕えた一家に育っている。父も母も式部自身も、冷泉天皇の中宮昌子内親王に仕え、夫の道貞もその太后大進に就いた。式部は冷泉系だったのだ。
その道貞が時代のなりゆきとはいえ、道長のほうに引かれていった。式部は夫に惹かれつつも(ちゃんと夫を愛していたようだ)、自分のところから遠のいていくその運命のいたずらを儚んだ。和泉式部は冷泉系と円融系(一条)の交点にさしかかって、前半は冷泉に、後半は道長に呼ばれて、清少納言や紫式部にまじって女房となっていった女性なのである。これは清少納言や紫式部の女房生活とはまったくちがう立場であった。心の血がゆらめいている。中心がない。
しかし、そうなればなったで、式部は後宮文化を生き抜かなければならない。式部は帥宮の喪に服したあと(寛弘5年10月)、召されて一条中宮彰子の女房となる。娘の小式部も一緒に出仕した。すでに中宮のもとには紫式部や伊勢大輔が古参のごとく侍っていた。式部があれこれ揶揄されたのは当然だったのだ。
このように見てくると、式部が「擬態としての歌日記」をつくれたのは、帥宮が死んで後宮に入るまでの、ごくわずかなあいだだけだったということがわかる。そのわずかな時間だけが式部の“文芸実験”にゆるされた時間だったのだ。しかし、その実験こそ日本の文芸の反文学の原点になった。
式部が日記をつくるのは、「夢よりもはかなき世の中」を自分の歌が示していると感じられたからである。そこに帥宮との相聞がある。恋の歌の贈答がある。行きつ戻りつがある。寄せては返す無常というものがある。そこを式部は、最初は自分のところに忍んで逢いにくる帥宮の「せつなさ」を中心に描きあげる。
省略も効かせた。主語を3人称にもした。しかし、それなら歌そのものだけでもよかったのに、そうはしなかった。すべてを削いだわけではなく、すべてを活かしたわけでもない。そこが和泉式部の実験だったのである。言葉が心であるような贈答の場面だけを浮上させたのである。よほど考えてのことだったろう。3人称のつかいかたは、こんな感じだ。
晦日の日、女、ほととぎすよに隠れたる忍び音をいつかは聞かむ今日し過ぎなばときこえさせたれど、人々あまたさぶらふほどにて。つとめて、もて参りたるを見給うて忍び音は苦しきものをほととぎす木高き声を今日よりは聞けとて、二、三日ありて、忍びてわたらせ給ひたり。
和泉式部は自分の恋心の高まりを抑える歌で綴る。日記のクライマックスは互いに手枕を交わして後朝を迎えるあたり、あるいはさらには霜の朝に帥宮が式部を紅葉に誘うあたりだろうか。さすがに歌の調子も高まる。
   露むすぶ道のまにまに朝ぼらけ濡れてぞ来つる手枕の袖(宮)
   道芝の露におきゐる人によりわが手枕の袖も乾かず(式部)
これがたった一度の頂点だったようだ。式部は南院に誘われ、先にも書いたように道長のハーレムに出仕する。ただし『和泉式部日記』はそこまでのことは書いてはいない。帥宮に請われて車で出掛ける場面の問答でおわっている。帥宮が死ぬ前の歌世界でおわったのである。あえて日記をおえたのだ。これは『和泉式部日記』が面影を偲ぶことを本懐としている以上は当然だった。
日記はそこでおわったが、式部はその後も波乱の人生をおくる。そして、詳しい説明をするのはよしておくが、ここから、謡曲や和泉式部伝説にうたわれた“伝承の和泉式部”となっていく。それが藤原保昌と結婚し、保昌とともに丹後に下向する和泉式部の後半生の物語というものになる。
保昌は道長の家司で、式部より十数歳の年上である。けれども式部にとっては、中宮彰子との日々や保昌との日々が華やかであればあるほど、帥宮との日々が幻のごとく心を覆ってきただけだったようだ。保昌との結婚生活などたのしいはずはない。
和泉式部は帥宮との日々の追想によって生きた女なのである。面影の追想とはいえ、それは二人が交わした歌をフーガのごとく追想するということで、歌を偲べば体も燃えたが、残るのはやはり歌だけなのだ。しかし、その歌も「面影の偲び」の中だけにある。追想と連想の中だけにある。実在としての歌は、ない。
それは、式部の気持ちに戻っていえば、帥宮との恋そのものがありえぬ日々の出来事だったということである。しょせんは「はか」のない日々だったのだ。帥宮との日々だけではない。式部が見た後宮文化そのものが「はかなさ」であり、もはやありえぬ日々だったのである。
日本文芸は、このあと300年をへて世阿弥の複式夢幻の能楽を獲得する。それは世阿弥ならではの極上である。が、ぼくには『和泉式部日記』がはからずもそれを先駆したとも見えている。唐木順三に言ってみたかったことである。こんな歌がある。
   思はむと思ひし人と思ひしに思ひしごとも思ほゆるかな  
●平安の不倫マニュアル「和泉式部日記」の中身  
もう恋なんて、金輪際ごめんだ。目を閉じると思い浮かぶ、脳裏に焼き付いた後ろ姿。しっかりと記憶に刻まれる言葉の数々。心がズタズタに傷つき、もう二度と修復できないかもしれないと心配になることだってある――。
多かれ少なかれ、誰もがそれぞれのドラマを抱えている。そうはいっても、ドロドロ路線を突き進み、昼ドラ並みの壮絶な人生をまっとうするというのは、凡人にはそう簡単にできることではない。
ドラマクイーンの草分け的存在
平安時代はいわゆる女流日記文学が盛んに創出され、そこには、奔放に、そしてドラマチックに愛を生きた女性たちの姿がありありとつづられている。その中でも和泉式部ほど欲望の道をとことん極めた人は珍しい。危険な情事のパイオニア、ドラマクイーンの草分け的存在と言っても過言ではない、感情の激しさはこの有名な歌人のトレードマークだ。
藤原道長に「浮かれ女の扇」と落書きをされたとき、「アンタ、私の夫でも恋人でもないクセに……」というような意味合いの歌をその場ですらすらと書いて突っ返し、何事もなかったかのように立ち去った、という言い伝えもある。相手は時の権力者であり、雇い主でもあるので、そこまでダイレクトに反抗するにはなかなか勇気がいる。そのエピソードからも和泉ちゃんの大胆な性格がうかがえる。
しかし、桃色事情に関してかなりおおらかだった時代にもかかわらず、おとがめを受け、成敗されていたことから推測すると、彼女はただの恋多き女の次元を超えていたことは確かだ。では、和泉ちゃんの華やかな男遍歴はどのようなものだったのだろうか。
最初の結婚相手は橘道貞。「和泉式部」という女房名は、夫が赴任した和泉国と父の官名を合わせたものである。普通ならこの辺りで恋愛市場を卒業して、習い事ざんまいのマダム生活を楽しむはずだが、和泉ちゃんの恋愛伝説はここから派手やかにスタート。どちらかが不倫したせいか、早くも夫婦仲が冷めてしまい、いつの間に自然消滅状態。
そこで新しい彼氏ができるというところまではいいが、そのお相手は何と!冷泉院の第三皇子である為尊親王というチャラ男だった。受領(ずりょう)の娘、バツイチで子持ちだった和泉ちゃんとしては身の丈に合っていない人を好きになってしまったのだ。
そのうわさで宮廷がにぎわい、和泉ちゃんは勘当までされてしまう。さらに、疫病の大流行で、道路に死体が転がっているような平安京での夜遊びがたたり、為尊親王は26歳という若さで帰らぬ人となる。大好きな人を失い、泣き伏せる日々。ところが、もう立ち直れないと思ったそのとき、突然情熱の嵐が再びやってくる。だって恋しちゃう、女の子だもん。
美人で和歌の達人として有名な和泉ちゃんの周りには、つねに求婚者がうようよしていたのだが、彼女がそこらの中納言や大納言で我慢できるわけない。次の恋人に選んだのは帥宮敦道(そちのみや あつみち)敦道親王……そう、死んだ恋人の実の弟だった!
春の目覚めは恋の目覚め
平安時代の不倫マニュアルこと『和泉式部日記』には、宮廷をびっくり仰天させたそのスキャンダラスなアバンチュールがつぶさに語られている。日記に記されているのは、10カ月ほどの間に起こった出来事なのだが、期間が短い分、密度が何とも濃い。冒頭はこんな感じ。
・・・夢よりもはかなき世の中を、嘆きわびつつ明かし暮らすほどに、四月十余日(うづきじふよひ)にもなりぬれば、木の下暗がりもてゆく。・・・
( 夢よりも儚いこの世の中――大好きな彼はそばにいないなんて嫌!と嘆きながらなんとか生きているうちに、四月十日過ぎになってしまったわ。木々が生い茂り、木の下に広がる影が少しずつ暗さを増していく。)
恋人を失って以来、時間が止まったかのようで、心の季節はいつだって真冬。しかし、周りの自然が少しずつ春に目覚めていく。ちょうどそのときに、帥宮の初めての便りが届く……。運命の時計の針が動き出してゆく瞬間がはっきりととらえられている。
当初、2人の共通の話題は為尊親王の思い出話なのだが、弟くんは早くも攻めモードに切り替え、ナンパ全開のやり取りになる。それに対してまんざらでもない和泉ちゃん。そして月がきれいな夜、ついに帥宮がいきなり女性の家を訪ねる……。
・・・世の人の言へばにやあらむ、なべての御様にはあらずなまめかし。これも、心づかひせられて、ものなど聞ゆるほどに、月さし出でぬ。・・・
( 前から聞いていたからなのか、めっちゃハンサム! こっちもドキッとしちゃって、緊張しながら話をする。そうこうしているうちに月が昇って、光が差し込んできた。)
帥宮……来ちゃった。評判のとおり、カッコイイ! 美しい景色を堪能しながら、2人はいろいろな話をして、少しずつ距離を縮めていく。そこで宮がだんだん焦りだし、入らせてよ!と積極的になる。女性は少し抵抗を見せているものの、並外れた優美な様子を見て心の堰(せき)に穴が開いた。今までずっと寂しかった和泉ちゃんが自分に言い訳しつつも心の扉を開けていく。
・・・「かろがろしき御歩きすべき身にてもあらず。なさけなきやうにはおぼすとも、まことにものおそろしきまでこそおぼゆれ」とて、やをらすべり入りたまひぬ。・・・
( 「俺はそう簡単に外出できる身分ではない。もう自分でどうかしている、と怖くなるぐらいあなたのことが好きで好きたまらないんだ」と言って、そっと御簾(みす)の内側に滑り込んだ。)
晴れて恋人同士になったものの…
……ついに2人は契りを交わすのだ。しかし、結ばれたからといって、めでたし、めでたしというわけにはいかない。早速恋人たちの間に、高くて厚い壁が立ちはだかる。それは戦争でも伝染病でもなく、地震でも台風でもないが、ある意味そうした災害よりおそろしいものだ。それはずばり、浮き名だ。
平安時代の貴族は暇なうえに、うわさ話が大好きで、特に恋バナで大変盛り上がっていた。身分違い! 禁断の恋!となるとなおさらだ。陰口をたたかれたら最後、身の潔白を証明するのは至難の業。何せどこかの部屋から琴の音が漏れただけで、「あそこに絶世の美女がいる!!!」といううわさが流れて誰も疑わなかった時代なんだもの。
おそろしい浮き名のせいで、2人はくっついたり離れたり、男は疑い、女はむっとして、女はすねて男は燃え上がり……かなりじれったい恋のダンスが展開される。『和泉式部日記』の中に記録されている歌のやり取りが、そのじれったさを表している。その数はなんと100首以上にも上るのだ。
この不安定な状態に疲れ果てて、ついに和泉ちゃんは出家すると言い出して石山寺というところにこもる。そうはいっても、浮き世を捨てる気はさらさらないという感じで、朝から晩まで彼のことばかりを考える。当然のごとく、つかの間の寺ごもりにあっけなく終止符を打つ。
・・・山を出でて冥き途にぞたどりこし今ひとたびのあふことにより・・・
( 山を出て、真っ暗な世の中に戻ってきました。あなたに、ただあなたにもう一度逢うためだけに…… )
仏様のいる明るい山を出ていって、恋を選んだ和泉ちゃんはもう破滅の道を歩んでいく覚悟を決めている。ここから2人の仲はもっと深まり、行動がさらに大胆になる。女性が外出することがめったになかった時代に、男性と2人で牛車(ぎっしゃ)に乗り回ったり、外でお泊まりしたり、彼の家に上がったり、髪の毛はぼさぼさ、着物がしわしわの朝帰りをしたり……空前絶後のことであろう。
アバンチュールの時間はハラハラドキドキで楽しくもあるが、帥宮はずっと遊んでいられるような身分ではない。そこでまさかの提案。うちに来ないか、と。しかし、それは決してプロポーズではない。まず、権力もあって、ものすごくカッコよくて、和歌のセンスも抜群というような優良物件が独身なわけがない。それに、和泉ちゃんはただの受領の娘なので、例え第2婦人としても、帥宮との結婚は絶対に許されない。
「うちに来る?」というのはすなわち
「うちに来る?」というのは、つまり愛人兼召使いとしてということだ。毎日帥宮と時間を過ごせる半面、自分のプライドを捨てなければならない。当然、女心はかなり揺れる。だが、恋にすべて委ねることに決意する。これで一件落着かと思ったら、今度は帥宮が出家すると言い出すではないか! ここまで来たのにぃ……と現代人読者ががっかり。しかし、帥宮の出家宣言も一種のパフォーマンスにすぎない。
案の定、出家のことなんぞすぐにあきらめて、和泉ちゃんを家に迎えることに。運命の日は、12月18日。一緒に住み始めたら、面倒な移動をしなくても済むし、とがめる人もいない。まるでパラダイスにいるかのように2人はただ愛し合って、語り合って、幸せな時間をたっぷりと味わう。だが、それを面白く思わない人がいる。帥宮の正妻こと、北の方だ。
・・・「しかじかのことあなるは、などかのたまはせぬ。制しきこゆべきにもあらず、いとかう、身の人気なく人笑はれに恥かしかるべきこと」と泣く泣く聞え給へば、「人使はむからに、御おぼえのなかるべきことかは。御気色あしきにしたがひて、中将などがにくげに思ひたるむつかしさに、頭などもけづらせむとて、よびたるなり。こなたなどにも召し使はせ給へかし」など聞え給へば、いと心づきなくおぼせど、ものものたまはず。・・・
( 「女を連れてきたそうですが、何故私に一言も言ってくださらないの? 別に妻の私はどうこう言えるわけではないですが……あまりにも侮辱的な扱い、周りの人はみんな私を笑いものにしているのよ。もう恥ずかしくって……」と北の方が泣く泣く話している。それに対して宮「新しい召使を雇うにはあなたの許可なんかいらないでしょ。あなたは機嫌が悪いので、こっちの侍女が俺を嫌っていることだし。髪をセットしてもらおうと彼女を呼んだんだ。こっちでも使えばいいんじゃないの」というのであった。)
何その言い方!? 帥宮、ひどくないか? 和泉ちゃんかわいそうだし、正妻も気の毒。北の方の姉は皇太子の妻で、妹がこのような扱いを受けていると知り、家を出ちゃいなさい!と妹を説得する。やがて北の方は耐えかねて、家出を決意。そこで、華々しくフィナーレ。
・・・宮、入らせ給へば、さりげなくておはす。「まことにや、女御殿へわたらせ給ふと聞くは。など車のことものたまはぬ」と聞え給へば、「なにか、あれよりとてありつれば」とて、ものものたまはず。・・・
( 宮が部屋に入ると、北の方は何事もないような様子だった。「お姉さんのところに行くと聞いたけど、それって本当なの? 言ってくれれば車を用意したのに」と話し、北の方は「あちらからお迎えが来たので」とだけ答えて、それ以上一言もしゃべらなかった。)
ひぃーっ! この臨場感あふれるシーンで『和泉式部日記』が突然幕を下ろす。別居寸前の夫婦が目の前にいるかのような感じだが、よく考えてみると、和泉ちゃんがなぜそんなことを知っているのか。まさか障子のすき間からのぞいていたわけではあるまい。
そうなると、可能性が2つある。1つは帥宮から話を全部聞いた(男最低!)。そうじゃなければ、和泉ちゃんが顚末を自ら創作したということになる。
和泉ちゃんが最後に会いたかったのは
『和泉式部日記』は、「日記」と呼ばれているが、もともとは『和泉式部物語』と呼ばれていたようだ。三人称で書かれており、主人公は名前がわからないとある女という設定になっているというのはそのゆえんだが、これはまぎれもなく、和泉ちゃん自作自演の不倫物語だ。
恋愛は勝ち負けなんてないとよく言われているけれど、この作品を読むと、和泉ちゃんが勝利を収め、北の方はぼろ負けという結果を認めなければならない。その一部始終を文章化することによって、愛人の勝利は1000年経った今も色あせない迫力がある。北の方の身にもなってみてくださいよ……。
読者の共感を得るため、主人公はいろいろな試練を乗り越えながら、一途な思いに生きる控えめな女性として描かれている。しかしその中で、まれではあるが表面化する女の積極性というものも看過できない。
たとえば、5月5日の頃、川の水が増したということで、宮は女に歌を送る。当時の常識のとおり、女はそれに対して返歌を送るのだが、紙の端に「かひなくなむ」、つまり「言葉だけじゃ足りないよ、あなたが欲しい!」とそっと書き添える。女性が薄暗い家の中で男性が忍び込んでくるのを待つことしかできなかった時代にあって、その積極的な働きかけは珍しい。和泉式部が伝説となったゆえんは、恋人の数でも、禁断な恋でもなく、その大胆さにあるのではないだろうか。
恋多き女だった和泉式部の晩年についてほとんどわかっていないが、百人一首にこの歌がある。
   あらざらむ この世の外の 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
自分はもう長くないとわかり、「あの世への思い出に、あなたにもう一度だけ逢いたい」と歌っている。モテモテだった彼女は最後に逢いたかったのは誰だったのだろうか? 遊び人の為尊親王なのか? それとも帥宮敦道親王? または数々の愛人の1人だろうか。
「愛こそ人生」をモットーに生きた和泉式部が、最後にもう一度逢いたかったのは「新しい恋」なのではないかと思う。あの美しくて切ない気持ち、夜眠れない緊張感、胸が締め付けられるほど好きという感情をきっともう一度味わいたかったのではないだろうか。どんな長くて寒い冬でも、その先には必ず新しい春がめぐってくるものだから。  
  
 

 

弁慶  1189
六道の道の巷に待てよ君 遅れ先立ち習いありとも
源義経 1189
後の世もまた後の世も廻り会へ 染む紫の雲の上まで
●源義経・辞世の歌  
   後の世も また後の世も 廻り会へ 染む紫の 雲の上まで
1159年、源九郎義経は源義朝(よしとも)の九男、母常磐御(ときわ)前との間に生まれる。常盤(ときわ)との間にできた子供は3人で、それぞれ今若、乙若、牛若と名付けられ、義経は幼名牛若と呼ばれた。
幼き頃に京都鞍馬山の鞍馬寺に預けられ、名を紗那王とされた。やがて自分が源氏の一人であることを知り武術に熱を入れる。このころ、夜な夜な寺を外出し五条大橋の上で武蔵坊弁慶と戦ったなどの伝説が残る。
後に鞍馬寺を脱出、奥州藤原秀衡の下へ向かう。奥州平泉で過ごした後、義経は兄頼朝が挙兵したと聞き頼朝の下に駆けつけ、頼朝とともに平家と戦い勝利。後の壇ノ浦の合戦では平家を滅亡させる原動力となる。
平家を一ノ谷合戦で破り検非違使の任官を受けるが、そのことで兄頼朝の怒りを買い追討される。藤原秀衡を頼って奥州平泉に落ち延びるが藤原秀衡の死後、嫡子泰衡により攻められて衣川館で自害。享年31歳だった。
衣川事件では、泰衡の命をうけた長崎が義経の御所衣川に討って出る。その数三萬騎。義経側はわずか十人。鈴木兄弟、鷲尾、増尾、伊勢三郎が殺害され、弁慶と片岡も喉笛を打裂かれ、身体じゅう矢だらけとなり、馬に寄りそうように倒れ失ったということです。
そのときの辞世の句が次のようであったといわれています。
六道の 道の巷に 待てよ君 遅れ先立ち 習いありとも   弁慶
後の世も また後の世も 廻り会へ 染む紫の 雲の上まで   義経  
●源義経と弁慶の辞世の句
   のちの世もまたのちの世もめぐりあはむそむ紫の雲の上まで
「後の世も、そのまた後の世も、めぐり合おう。その紫色に染まった浄土の雲の上まで共に行こう。」
作者は、源平合戦で最も有名な人物と言っても過言ではない源義経です。平治の乱で父が戦死し、鞍馬寺で育った義経は、兄である頼朝の挙兵に呼応します。一の谷の戦いや屋島の戦いで大胆な作戦を成功させ、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした義経ですが、その後は兄・頼朝の反感を買い、最後は平泉で非業の死を遂げます。現代においても度々、書籍化や映像化がなされるなど人気の義経。この辞世の句は、弁慶が詠んだ句への返歌として歌われました。
その弁慶の辞世の句とその意味はこちらです。
   六道の道のちまたに待てよ君遅れ先立つ習ひありとも
「冥土への道の途中で待っていてください。たとえ死ぬ順番に前後はあっても」
六道とは、浄土宗の中で私たちが輪廻すると教えられている六つの世界のことです。転じて、冥土、あの世を指します。絶望的な状況の中でさえ、主君である義経の未来のことを考え、自分を待っていてほしいと願う弁慶の思いは忠心そのものです。そして、その弁慶の思いに応える義経の歌も、来世での弁慶との出会いを信じる気持ちを歌っています。
非業の死を遂げた二人の悔しさと、仏教の教えに救いを求める二人の気持ちが詠むものにストレートに伝わってくる辞世の句と言えるでしょう。
●六道の道のちまたに待てよ君 ・・・
今から829年前、1198年6月15日(文治五年閏四月三十日)、奥州平泉において源義経主従が落命。世にいう衣川の戦いです。奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡をして藤原三代と称され、この間約100年間は中央の政争とは無縁の一種独立国のような存在を保っていました。源頼朝から逃れた義経を三代秀衡は匿い通しましたが、その子泰衡は父の残した「義経の指図を仰げ」という遺言を無視し、頼朝の要求を拒みきれずに義経を討って頼朝との和平への道を選びました。以下『義経記』から。
   六道の道のちまたに待てよ君 遅れ先立つ習ひありとも 武蔵坊弁慶
(土への道の途中でお待ち下され たとえ後先の違いがあったとしても)
泰衡の軍によって衣川に追い詰められた義経方は寡兵ゆえ奮戦も叶わず、さすがの弁慶ももはやこれまでと別れを告げるために義経の元に戻ります。義経は弁慶の詠んだ歌に感激して歌を返します。
   後の世もまた後の世もめぐりあへ 染む紫の 雲の上まで 源義経
(後世もまたその後世もめぐり逢おうぞ あの紫に染まった雲上の浄土まで)
このあとはご存知の通り、義経は持仏堂に籠もって火を放ち自害。弁慶は義経の最期を穢されぬようにと孤軍奮闘して持仏堂の前で見事な立ち往生を遂げます。そんな最中、実際にご本人たちが歌を詠みあったかどうか、あまり細かいことは詮索しないでおきましょう。ともあれ、鎌倉の背後に奥州藤原氏の勢力が残ることを恐れた頼朝は、それまで義経を匿っていたことを理由として、わずか3ヶ月後に泰衡を死に追い込みます。もともと奥州藤原氏は17万騎という強大な軍事力とそれを養えるだけの経済力を持っていました。秀衡は義経にこの軍を預けたならそう簡単に頼朝も手が出せまいと考えていたのですが、哀れ泰衡にはそれがわからなかったのでしょうね。  
●六道の道の巷に君待ちて弥陀の浄土へすぐに参らん 義経記  
武蔵坊は敵(かたき)追払(おひはら)ひ、御方(かた)へ参り、長刀(なぎなた)脇(わき)に挟(はさ)み、弁慶こそ參りて候へ」と申しければ、判官は、法華経(ほけきやう)八の巻にかからせ給ひけるが、「如何(いか)に」とて見やり給へば、「軍(いくさ)ははや限りになりぬ。備前(びぜんの)平四郎、鷲尾(わしのを)、増尾(ましのを)、鈴木兄弟、伊勢(いせの)三郎、思ふ儘(まま)に軍(いくさ)して討死(うちじに)仕り候ひぬ。今(いま)は弁慶と片岡(かたをか)ばかりになりて候。君を今(いま)一度見参(みまゐ)らせん為(ため)に参りて候。君先立(さきだ)たせ給ひ候はば、死出(しで)の山にて待たせ給ひ候ふべし。弁慶先立ち参らせて候はば、三途(さんづ)の川にて待ち参らせ候ふべし」と申しければ、判官「如何(いかが)すべき。御経(きやう)読みはてばや」と仰せければ、「静かに遊ばしはてさせ給へ。その程(ほど)は弁慶防矢(ふせぎや)仕り候はん、縦(たと)ひ死にて候ふ共(とも)、君の御経(きやう)遊ばしはてさせ給ひ候はん迄(まで)は守護し参らせ候べし」とて、御簾(すだれ)を引上(ひきあ)げて、君(きみ)をつくづくと見参(まゐ)らせて、御前(まへ)を立ちけるが、また立帰(たちかへ)りてかくぞ申しける。
六道の道(みち)の巷(ちまた)に君待ちて弥陀(みだ)の浄土(じやうど)へすぐに参らん
ただ一人への辞世である。「縦ひ死にて候ふ共」以下は、このあとの場面「十方(ぱう)八方(ぱう)を斬りければ、武蔵坊に面(おもて)を合はする者ぞなき。鎧に矢の立つ事数を知らず。折り掛け折り掛けしたりければ、蓑を倒様(さかさま)に着たるが如し。黒羽(くろは)、白羽(しろは)、染羽(そめは)の矢共(やども)の、色々に風に吹かれて見えけるは、武蔵野の尾花の末を秋風の吹き靡かす如くなり」という立ち往生となって現れる。なお底本の異なる岩波書店の『義経記』(日本古典文学大系37)は弁慶の辞世と、それに対する義経の歌を載せている。やりとりにも若干の相違がある。
六道(だう)の道(みち)の衢(ちまて)に待(ま)てよ君(きみ)後(おく)れ先立(さきだ)つ習(ならひ)ありとも 弁慶
後(のち)の世も又後(またのち)の世も廻(めぐ)り会(あ)へ染(そ)む紫(むらさき)の雲(くも)の上(うへ)まで 義経  
●義経記  
義朝都落の事
本朝ほんてうの昔を尋たづぬれば、田村、利仁としひと、将門まさかど、純友すみとも、保昌ほうしやう、頼光らいくわう、漢の樊はんくわい、張良ちやうりやうは武勇ぶようと雖いへども名をのみ聞きて目には見ず。目のあたりに芸を世に施し、万事の、目を驚かし給ひしは、下野しもつけの左馬さまの頭かみ義朝よしともの末すゑの子、九郎義経とて、我が朝てうに並びなき名将軍めいしやうぐんにておはしけり。父ちち義朝は平治へいぢ元年十二月二十七日に衛門ゑもんの督かみ藤原ふぢはらの信頼のぶよりの卿きやうに与くみして、京の戦いくさに打ち負けぬ。重代ぢゆうだいの郎等らうどうども皆討たれしかば、その勢二十余騎になりて、東国の方へぞ落ち給ひける。成人の子どもをば引き具して、幼をさなひたちをば都に棄ててぞ落ちられける。嫡子鎌倉の悪源太あくげんだ義平よしひら、次男中宮大夫進だいぶのしん朝長ともなが十六、三男右兵衛佐うひやうゑのすけ頼朝十二になる。悪源太をば北国の勢を具せよとて越前ゑちぜんへ下す。それも叶はざるにや、近江あふみの石山寺に籠りけるを、平家聞き付け、妹尾せのを、難波なんばを差し遣はして、都へ上り、六条河原ろくでうかはらにて斬られけり。弟おととの朝長も山賊せんぞくが射ける矢に弓手ゆんでの膝口を射られて、美濃の国青墓あふはかと言ふ宿にて死にけり。その外子ども方々はうばうに数多あまたありけり。尾張をはりの国熱田の大宮司の娘の腹にも一人ありけり。遠江とほたうみの国蒲かばと言ふ所にて成人し給ひて、蒲の御曹司おんざうしとぞ申まうしける。後には三河みかはの守かみと名乗り給ふ。九条院くでうのゐんの常盤ときはが腹にも三人あり。今若いまわか七歳、乙若おとわか五歳、牛若当歳子たうざいごなり。清盛これ取つて斬るべき由をぞ申しける。
   本朝([日本])の昔をひも解いて見れば、田村(坂上田村麻呂。平安時代の武官)、利仁(藤原利仁。平安時代中期の武将)、将門(平将門)、純友(藤原純友)、保昌(藤原保昌やすまさ)、頼光(源頼光よりみつ)、漢では樊かい(秦末から前漢 初期にかけての武将)、張良(秦末期から前漢初期の政治家・軍師)は武勇([武術にすぐれ、勇気のあること])であったといいますが名を聞くのみで目にしたことはありません。近年において武芸を世に広く知らしめ、万事において、目を驚かしたのは、下野の左馬頭義朝(源義朝)の末子、九郎義経(源義経)という、我が国に並ぶ者なき名将軍でした。父である義朝は平治元年(1159)十二月二十七日に衛門督藤原信頼卿に味方して、京の戦(平治の乱)に打ち負けました。代々の郎等([家来])も皆討たれて、その勢二十騎余りとなって、東国の方へ落ちて行きました。成人の子どもを引き連れて、幼い者たちは都に残して落ちて行きました。嫡子鎌倉悪源太義平(源義平)、次男中宮大夫進朝長(源朝長)は十六歳、三男右兵衛佐頼朝(源頼朝)は十二歳でした。義朝は悪源太(義平)に北国の勢を集めよと越前国に下しました。それも叶わず、近江国の石山寺(滋賀県大津市にある寺)に籠っていたところを、平家が聞き付け、妹尾(妹尾兼康かねやす)、難波(難波経房つねふさ)を差し遣わして、都に上り、義平は六条河原で斬られました。弟の朝長も山賊が射た矢に弓手([左])の膝口を射られて、美濃国の青墓と言う宿(岐阜県大垣市)で死んでしまいました。義朝にはそのほかにも方々に子が多くいました。尾張国の熱田(愛知県名古屋市にある熱田神宮)大宮司の娘にも子が一人いました。遠江国の蒲([蒲御厨かばのみくりや]=[伊勢神宮の御厨。供物を献納するために設けられた所領]。静岡県浜松市)と言う所で成人したので、蒲の御曹司と呼ばれました。後には三河守と名乗りました。九条院(藤原呈子しめこ)の雑仕女であった常盤御前にも三人いました。今若(後の阿野全成ぜんじやう)は七歳、乙若(後の義円ぎゑん)は五歳、牛若(後の源義経)は当歳子([その年に生まれた子])でした。清盛(平清盛)はこれらの者を捕えて斬るようにと申しました。  
衣河合戦の事
さるほどに、寄せ手長崎の大夫の助を初めとして、二万余騎一手になりて押し寄せたり。「今日けふの討つ手は如何なる者ぞ」「秀衡ひでひらが家の子、長崎太郎大夫」と申まうす。せめて泰衡やすひら、西木戸にしきどなどにてもあらばこそ最期の軍いくさをも為せめ、東あづまの方の奴ばらが郎等らうどうに向かひて、弓を引き矢を放さん事あるべからずとて、「自害せん」とのたまひけり。ここに北の方の乳母親めのとおやに十郎じふらう権ごんの頭かみ、喜三太きさんだ二人は家の上うへに上りて、遣り戸格子かうしを小楯こだてにして散々に射る。大手おほてには武蔵坊むさしばう、片岡かたをか、鈴木兄弟きやうだい、鷲尾わしのを、増尾ましを、伊勢の三郎、備前の平四郎、以上人々八騎なり。常陸坊ひたちばうを初めとして残り十一人の者ども、今朝より近きあたりの山寺を拝みに出でけるが、そのまま帰かへらずして失せにけり。言ふばかりなき事どもなり。
   やがて、寄せ手は長崎大夫助をはじめとして、二万騎余りが一つとなって押し寄せました。義経が「今日の討つ手は何者だ」と訊ねると「秀衡(藤原秀衡)の家の子([郎等]=[家来])で、長崎太郎大夫です」と答えました。義経はせめて泰衡(藤原泰衡。秀衡の嫡男)、西木戸(西木戸国衡くにひら。秀衡の長男)であれば最期の戦をしたであろうが、東国の奴らの郎等に向かい、弓を引くことはあるまいと、「自害しよう」と申しました。ここに北の方(郷さと御前)の乳母親で十郎権頭(増尾兼房かねふさ)、喜三太(御厩おむまや喜三太)の二人は家の屋根に上り、遣り戸([引き戸])の格子戸を小楯にして矢を散々に射ました。大手([正門])には武蔵房弁慶、片岡(片岡常春つねはる)、鈴木兄弟(鈴木重家しげいへと亀井重清しげきよ)、鷲尾(鷲尾義久よしひさ)、増尾(増尾兼房かねふさ)、伊勢三郎(伊勢義盛よしもり)、備前平四郎(平定清さだきよ)、以上八騎でした。常陸坊(海尊かいそん)をはじめとして残る十一人の者たちは、今朝から近くの山寺を参拝にし出かけていましたが、そのまま帰ることなく亡くなりました。言いようもなく哀れなことでした。
弁慶べんけいその日の装束しやうぞくには黒革威くろかはをどしの鎧よろひの裾金物すそかなもの平ひらく打ちたるに、黄なる蝶てうを二つ三つ打ちたりけるを着て、大薙刀おほなぎなたの真ん中握り、打板うちいたの上うへに立ちけり。「囃はやせや殿ばらたち、東あづまの方の奴ばらに物見せん。若かりし時は叡山にて由ある方には、詩歌しいか管絃くわんげんの方にも許され、武勇の道には悪僧の名を取りき。一手舞うて東の方の賎しき奴ばらに見せん」とて、鈴木兄弟きやうだいに囃させて、
嬉しや滝の水みづ、鳴るは滝の水、日は照るとも絶えずとうたり、東の奴ばらが鎧よろひ冑かぶとを首諸共もろともに衣川ころもがはに斬り付け流しつるかな
とぞ舞ふたりける。寄せ手これを聞きて、「判官はうぐわん殿の御内の人々ほど剛かうなる事はなし。寄せ手三万騎さんまんぎに、城の内は僅わづか十騎ばかりにて、何ほどの立合たてあひせんとて舞ひ舞ふらん」とぞ申まうしける。寄せ手の申しけるは、「如何に思し召し候さうらふとも、三万余騎ぞかし。舞ひも置き給へ」と申せば、「三万も三万によるべし。十騎も十騎によるぞ。おのれらが軍いくさせんと企つる様やうの可笑をかしければ笑ふぞ。叡山、春日山の麓にて、五月会さつきゑに競べ馬をするに、少しも違たがはず。可笑しや鈴木、東の方の奴ばらに手並みの程を見せてくれうぞ」とて、打ち物抜きて鈴木兄弟きやうだい、弁慶轡くつばみを並べて、錏しころを傾ぶけて、太刀を兜の真つ向かうに当てて、どつと喚おめきて駆けたれば、秋風に木の葉を散らすに異ならず。
   弁慶のその日の装束は黒革威([藍で濃く染めた黒革で威したもの])の鎧に裾金物([兜の錏しころや鎧の袖・草摺くさずりの菱縫ひしぬひの板=兜の錏、鎧の袖・草摺などの最も下の板。に飾りとして打った金物])を平たく打ち、黄色の蝶を二つ三つ付けた鎧を着て、大薙刀の真ん中を握り、打板([廊下と廊下の間に橋のように渡す歩み板])の上に立っていました。「音頭を取り給え殿たちよ、東国の奴らに見物させてやろう。若かりし頃は比叡山で風情のものでは、詩歌管絃も許されて、武勇の道では悪僧の名を取ったわたしだ。一番舞って東国の下衆どもたちに見せてやるのだ」と言って、鈴木兄弟(鈴木重家しげいへと亀井重清しげきよ)に音頭を取らせて、
うれしや滝の水、音を立てて流れる滝の水よ、日は照ろうが絶えず流れて、東の奴らの鎧冑を首とともに衣川([北上川の支流。岩手県奥州市を流れ、平泉町で北上川に注ぐ川])に斬りつけて流すことだろう(「うれしや滝の水」は「延年舞」=「寺院において大法会の後に僧侶や稚児によって演じられた日本の芸能」の歌詞)
と謡いながら舞を舞いました。寄せ手はこれを聞いて、「判官殿(源義経)の身内の者ほど強い者はいないぞ。わしら寄せ手三万騎に対して、城の内はわずか十騎ばかりなのに、立合([出あって勝負を争うこと])をするために面に出て舞を舞うとは」と言い合いました。寄せ手は声を上げて、「何を思っておるのかは知らないが、こちらは三万騎であるぞ。舞は終わりじゃ」と言うと、弁慶は「三万だろうが三万の中身によるぞ。十騎であろうがその十騎によるのだ。お前たちが我らと戦をしようとすることがおかしくて思わず笑ってしまうわ。比叡山、春日山(奈良市東部の山)の麓で、五月会([小五月会]=[滋賀県大津市の日吉ひえ大社や奈良の春日大社で陰暦五月九日に行われた祭礼])に競べ馬をするのと、まったく同じようなものだ。まったくおかしいのう鈴木(鈴木重家)よ」と言って、打ち物([太刀])を抜いて鈴木兄弟(鈴木重家と亀井重清)、弁慶が馬を並べて、錏([冑から下げて首から襟の防御するもの])を傾けて冑を深くかぶり、太刀を兜の真っ先に差し出して、大声で喚きながら馬を駆けたので、敵は秋風が木の葉を散らすように逃げてしまいました。
寄せ手の者ども元の陣ぢんへぞ引き退く。「口には似ざる者や。勢にこそよれ。不覚人ふかくじんどもかな、返かへせや返せや」と喚おめきけれども、返し合はする者もなし。斯かりけるところに鈴木の三郎、照井てるゐの太郎と組まんと、「和君わぎみは誰たそ」「御内の侍に照井の太郎高治たかはる」「さて和君が主こそ鎌倉殿の郎等らうどうよ。和君が主しゆうの祖父おほぢ清衡きよひら後三年の戦ひの時、郎等たりけるとこそ聞け、その子に基衡もとひら、その子に秀衡ひでひら、その子に泰衡やすひら、しかれば我らが殿には五代の相伝さうでんの郎等ぞかし。重家しげいへは鎌倉殿には重代ぢゆうだいの侍なり。しかれば重家が為には合はぬ敵かたきなり。しかれども弓矢取る身は逢ふを敵、面白し、泰衡が内に恥はぢある者とこそ聞け。それが恥ある武士に後ろ見する事やある。穢きたなしや、止とどまれ止まれ」と言はれて返かへし合はせ、右の肩斬られて、引きて退のく。鈴木既に弓手ゆんでに二騎、馬手めてに三騎さんぎ斬り伏せ、七八騎に手負ほせて、我が身も痛手負ひ、「亀井かめゐの六郎ろくらう犬死すな。重家は今は斯うぞ」とこれを最期の言葉にて、腹掻き切つて伏しにけり。
   寄せ手の者たちは元の陣に逃げ帰ってしまいました。弁慶は「口ほどもない奴らめ。数ばかりの兵どもではないか。不覚人(意気地なし)どもよ、戻って来んか」と大声で叫びましたが、戻って戦う者は一人もいませんでした。そうこうしているところに鈴木三郎(鈴木重家しげいへ)が、照井太郎(照井高治)と戦おうとして、「お主は誰か」と訊ねると、「身内の侍で照井太郎高治だ」と答えました。重家は「ならばお主の主人は鎌倉殿(源頼朝の郎等([家来]。藤原氏の家来)ということか。お主の主人である(藤原秀衡の)祖父清衡(藤原清衡)は後三年の戦い(1083〜1086)の時に、源氏の郎等になったと聞くが、清衡の子基衡(藤原基衡)、基衡の子秀衡(藤原秀衡)、秀衡の子泰衡(藤原泰衡)、ならば我が殿(源義経)には五代の相伝([代々受け継いで伝えること])の郎等ではないか。わたし重家(鈴木重家)も鎌倉殿に重代([代々])の郎等であるぞ。ならばわたし重家が相手する敵ではない。とは言えども弓矢取る武士の身であれば遭ったが敵、おかしなものよ、泰衡の味方をする者は恥ずかしいことぞ。ましてや敵に背を見せて逃げるとはなんということか。卑怯者め、止まらぬか」と言われたので高治は戻って来て重家と組み、右肩を斬られて、引き下がりました。鈴木(重家)は弓手([左手])に二騎、馬手([右手])に三騎斬り倒し、七八騎にも斬りつけて、重家自身も痛手を負い、「亀井六郎(亀井重清しげきよ。鈴木重家の弟)よ犬死するな。わたし重家はこれまでだ」とこれを最期の言葉に、腹を掻き切って倒れました。
「紀伊の国鈴木を出でし日より、命をば君に奉る。今思はず一所にて死し候さうらはんこそ嬉しく候へ。死出の山にては必ず待ち給へ」とて、鎧よろひの草摺くさずりかなぐり捨てて、「音にも聞くらん、目にも見よ、鈴木の三郎が弟に亀井かめゐの六郎ろくらう生年しやうねん二十三、弓矢の手並み日頃人に知られたれども、東あづまの方の奴ばらは未だ知らじ。初めて物見せん」と言ひも果てず、大勢おほぜいの中へ割つて入り、弓手ゆんで相あひ付け、馬手めてに攻め付け、斬りけるに、面おもてを向かふる者ぞ無き。敵かたき三騎さんぎ討ち取り、六騎に手を負ほせて、我が身も大事の傷数多あまた負ひければ、鎧よろひの上帯うはおび押しくつろげ、腹掻き切つて、兄の伏したる所に同じ枕に伏しにけり。さても武蔵は、かれに打ち合ひ、これに打ち合ひする程に、喉笛打ち裂かれ、血出づる事は限りなし。世の常の人などは、血酔ちゑいなどするぞかし。
   亀井重清しげきよは「紀伊国鈴木(今の和歌山県新宮市)を鈴木重家しげいへとともに出た日から、命を君(源義経)に与けたのだ。今思いもしなかったことだが重家と一所で死ぬことをうれしく思う。死出の山([人が死後に行く冥途にあるという険しい山])で待っていてくれ」と言って、鎧の草摺([鎧から下げて大腿部を守るもの])をかなぐり捨てて、「音にも聞け、目にも見よ。鈴木三郎(重家)の弟に亀井六郎(重清)生年二十三、弓矢の手並み([腕前])は有名であるが、東国の奴らは知らないだろう。初めて見物させてやるぞ」と言い終わらないうちに、大勢の敵の中に割って入り、弓手([左手])に回ると、馬手([右手])に矢を放ち、斬りかけたので、重清の正面向かう者はいませんでした。重清は敵三騎を討ち取り、六騎に痛手を負わせて、重清自身も大きな傷を数多く負ったので、鎧の上帯([鎧の胴先=鎧の前面の最下端。に付ける帯])を解いて、腹を掻き切って、兄(鈴木重家)の倒れたところに頭を同じくして倒れました。その頃武蔵坊弁慶は、あちらで戦い、こちらで打ち合わせているうちに、喉笛を切り付けられて、とめどなく血を流していました。世の尋常の者であれば、血酔い([多量の出血のために、意識がぼんやりした状態になること])するほどでした。
弁慶は血の出づればいとど血戯そばへして、人をも人とも思はず、前へ流るる血は鎧よろひの働くに従ひて、朱血あけちになりて流れけるほどに、敵かたき申まうしけるは、「ここなる法師ほふし、余りの物狂はしさに前まへにも母衣ほろかけたるぞ」と申まうしけり。「あれほどのふて者に寄り合ふべからず」とて、手綱を控へて寄せず。弁慶度々の戦いくさに慣れたる事なれば、倒たふるる様やうにては、起き上がり起き上がり、河原かはらを走り歩くに、面おもてを向かふる人ぞなき。さるほどに増尾ましをの十郎じふらうも討ち死す。備前の平四郎も敵数多あまた討ち取り、我が身も傷数多負ひければ、自害して失せぬ。片岡かたをかと鷲尾わしのを一つになりて軍いくさしけるが、鷲尾は敵かたき五騎討ち取りて死にぬ。片岡一方いつぱう隙すきければ、武蔵坊むさしばう伊勢の三郎と一所にかかる。伊勢の三郎敵六騎討ち取り、三騎さんぎに手負ほせて、思ふ様やうに軍いくさして深手負ひければ、暇乞いとまごひして、「死出の山にて待つぞ」とて自害してんげり。
   弁慶は血を流せば流すほど荒れ狂い、人を人とも思わず、前に流れる血は鎧が揺れる度に、朱血([鮮血])となって流れ出たので、敵が言うには、「この法師、あまりに暴れ回ったので前に母衣([鎧の背につけて流れ矢を防ぐもの])を付けているではないか」と言い合いました。「あんなふて者([不敵な者])に近づくものではない」と言って、手綱を引いて寄りませんでした。弁慶は度々の戦に慣れていたので、倒れかけては、起き上がり起き上がり、河原の走り回りましたが、面に向かう者はいませんでした。やがて増尾十郎(増尾兼房かねふさ)が討ち死にしました。備前平四郎(平定清さだきよ)も数多く討ち取り、自身も傷を数多く負って、自害して果てました。片岡(片岡常春つねはる)と鷲尾(鷲尾義久よしひさ)は一緒に戦をしていましたが、鷲尾(義久)は敵を五騎討ち取って死にました。片岡(常春)は片方が手薄になったので、武蔵坊弁慶と伊勢三郎(伊勢義盛よしもり)が駆けつけました。伊勢三郎(義盛)は六騎討ち取り、三騎に深手を負わせて、思う存分戦をして深手を負って、仲間に別れを言って、「死出の山([人が死後に行く冥途にあるという険しい山])で待っているぞ」と言って自害しました。
弁慶敵追ひ払うて、御前おまへに参まゐりて、「弁慶こそ参りて候さうらへ」と申まうしければ、君は法華経ほけきやうの八の巻まきを遊ばしておはしましけるが、「如何に」とのたまへば、「軍いくさは限りになりて候ふ。備前、鷲尾わしのを、増尾ましほ、鈴木兄弟きやうだい、伊勢の三郎、各々軍思ひのままに仕り、討ち死仕りて候ふ。今は弁慶と片岡かたをかばかりになりて候ふ。限りにて候ふほどに、君の御目に今一度かかり候はんずる為に参りて候ふ。君御先立ち候はば、死出の山にて御待ち候へ。弁慶先立ち参らせ候はば、三途さんづの川にて待ち参らせん」と申せば判官はうぐわん、「今は一入ひとしほ名残りの惜をしきぞよ。死なば一所とこそ契りしに、我も諸共に打ち出でんとすれば、不足なる敵なり。弁慶を内に止とどめんとすれば、御方の各々討ち死する。自害のところへ雑人ざふにんを入れたらば、弓矢の疵なるべし。今は力及ばず、たとひ我先立ちたりとも、死出の山にて待つべし。先立ちたらば実まことに三途の川にて待ち候へ。御経おきやうもいま少しなり。読み果つる程は、死したりとも、我を守護せよ」と仰おほせられければ、「さん候ざうらふ」と申して、御簾みすを引き上げ、君をつくづくと見参らせて、御名残り惜しげに涙に咽むせびけるが、敵の近づく声こゑを聞き、御暇おんいとま申し立ち出づるとて、また立ち返かへり、かくぞ申し上げける。
六道の 道の衢に 待てよ君 後れ先立つ 習ひありとも
   弁慶は敵を追ひ払って、義経の御前に参り、「弁慶が参りました」と言うと、君(源義経)は法華経の八巻(鳩摩羅什くまらじゆう訳、八巻)を唱えていましたが、「戦はどうだ」と申すと、弁慶は「戦は終わりでございます。備前(平定清さだきよ)、鷲尾(鷲尾義久よしひさ)、増尾(増尾兼房かねふさ)、鈴木兄弟(鈴木重家しげいへと亀井重清しげきよ)、伊勢三郎(伊勢義盛よしもり)、各々思いの限り戦をし、討ち死いたしました。今はわたし弁慶と片岡(片岡常春つねはる)ばかりです。もはやこれまでと、君(義経)に今一度お目通ししたく参りました。君が先立たれましたら、どうか死出の山([人が死後に行く冥途にあるという険しい山])でお待ちください。わたし弁慶が先立ち参れば、三途の川([死後七日目に渡るという、冥途にある川])でお待ち申し上げます」と申せば、判官(義経)は、「今となってはいっそう名残り惜しく思うものよ。死ぬ時は一所にと約束した以上、わたしも皆とともに戦に出るべきものを、わたしには役不足の敵である故に。弁慶を内に残せば味方の者たちは討ち死にする。わたしが自害するところに雑人([身分の低い者])を入れたなら、弓矢の傷武士の恥となるだろう。今となっては仕方なし。たとえわたしが先立つとも、死出の山で待て。もしお前が先立てば必ず三途の川で待つのだぞ。経もあと少しだ。読み終ったら、わたしが死んだ後も、わたしを守護せよ」と命じると、弁慶は「承知いたしました」と申して、御簾を引き上げ、君(義経)をじっと見て、名残り惜しそうに涙にむせんでいましたが、敵が近づく声を聞いて、別れを申して立ち上がり、また舞い戻って、こう申し上げました。
六道([地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道])の路次で待っていてください、君(義経)よ。わたしが先立てば必ずやお待ちいたしましょう。どちらが遅れ先立つにしても。
かく忙はしき中うちにも、未来をかけて申まうしければ、御返事に、
   後の世も また後の世も 廻り会へ 染む紫の 雲の上まで
と仰おほせられければ、声こゑを立ててぞ泣きにける。さて片岡かたをかと後ろ合はせに差し合はせ、一町ちやうを二手に分けて駆けたりければ、二人に駆け立てられて、寄せ手の兵つはものども群むらめかして引き退く。片岡七騎が中に走り入りて戦ふほどに、肩も腕かひなもこらへずして、疵多おほく負ひければ、叶はじとや思ひけん、腹掻き切り亡せにけり。弁慶今は一人なり。長刀なぎなたの柄一尺踏み折をりてがはと捨て、「あはれ中々良き物や、えせ片人かたうどの足手に紛れて、悪わろかりつるに」とて、きつと踏ん張り立つて、敵かたき入れば寄せ合はせて、はたとは斬り、ふつとは斬り、馬の太腹ふとはら前膝まへひざはらりはらりと斬り付け、馬より落つるところは長刀の先にて首を刎ね落とし、脊むねにて叩き下ろしなどして狂ふほどに、一人に斬り立てられて、面おもてを向くる者ぞなき。鎧よろひに矢の立つ事数を知らず。折をり掛け折り掛けしたりければ、簔みのを逆様さかさまに着たる様にぞありける。黒羽くろは、白羽しらは、染羽そめば、色々の矢ども風に吹かれて見えければ、武蔵野の尾花をばなの秋風に吹き靡かるるに異ならず。
   このようにあわただしい状況で、未来に託し申せば、義経の返事には、
   後世もまたその後世もお前と逢えるよう願っておるぞ。ともに紫の雲の上(天界)に上るまで。
と申したので、弁慶は声を上げて泣きました。それから片岡(片岡常春つねはる)と背中合わせとなって、一町(約100m)を二手に分けて駆け回ったので、二人に駆け立てられて、寄せ手の兵たちは一斉に引き退きました。片岡(常春)は七騎の中に走り入って戦い、肩も腕も防ぎきれずに、傷を多く負って、これまでと思い、腹を掻き切って死にました。今は弁慶一人となりました。薙刀の柄を一尺(約30cm)踏み折り投げ捨て、「惜しいものよ中々良い物だったが、えせ片人([偽の味方])の足手を払うのは、もったいないことだ」と言って、直立不動に踏ん張り立って、敵が近づけば寄り合わせて、ぱっと斬り、ふつと斬り、馬の太腹([馬の腹の太い部分])前膝([前脚の膝])にさっと斬り付け、馬より落ちるところを薙刀の先で首を刎ね落とし、あるいは脊([刀の背])で叩き落として暴れ回っていましたが、ただ弁慶一人に斬り立てられて、面と向かう者はいませんでした。弁慶の鎧には数知れず矢が立ちました。弁慶は鎧に刺さった矢を次々に折ったので、蓑をさかさまに着たような格好となりました。黒羽、白羽、染羽、色とりどりの矢が風に吹かれたように揺れて、まるで武蔵野の尾花([すすき])が秋風に靡くようでした。
八方ぱうを走り廻りて狂ひけるを、寄せ手の者ども申まうしけるは、「敵も御方も討ち死すれども、弁慶ばかり如何に狂へども、死なぬは不思議なり。音に聞こえしにも勝りたり。我らが手にこそかけずとも、鎮守大明神だいみやうじん立ち寄りて蹴殺し給へ」と呪ひけるこそ痴をこがましけれ。武蔵は敵かたきを打ち払ひて、長刀なぎなたを逆様さかさまに杖つゑに突きて、二王立にわうだちに立ちにけり。偏ひとへに力士りきしゆの如くなり。一口笑ひて立ちたれば、「あれ見給へあの法師ほふし、我らを討たんとてこなたを守まぼらへ、痴笑しれわらひしてあるは只事ならず。近く寄りて討たるな」とて近づく者もなし。しかる者申まうしけるは、「剛かうの者は立ちながら死する事あると言ふぞ。殿ばら当たりて見給へ」と申しければ、「我当たらん」と言ふ者もなし。ある武者馬にて辺りを馳せければ、疾とくより死したる者なれば、馬に当たりて倒たふれけり。長刀を握りすくみてあれば、倒たふれ様に先へ打ち越す様やうに見えければ、「すはすはまた狂ふは」とて馳せ退のき馳せ退き控へたり。されども倒たふれたるままにて動かず。その時我も我もと寄りけるこそ痴をこがましく見えたりけれ。立ちながらすくみたる事は、君の御自害のほど、人を寄せじとて守護の為かと思えて、人々いよいよ感じけり。
   弁慶は八方を走り回って暴れたので、寄せ手の者たちが言うには、「敵も味方も討ち死にしたが、弁慶ばかりがあれほど暴れ回って、死なずにいるのは不思議なことだ。噂に聞くよりすごい奴だ。我らの手にかけることはできずとも、どうか鎮守大明神よここに立ち寄り奴を蹴殺してくだされ」と呪いましたが叶いませんでした。武蔵坊弁慶は敵を追い払い、薙刀をさかさまにして杖につき、仁王立ちして立っていました。まるで力士のようでした。口には笑みを含み立っていたので、「あれを見よあの法師だ、我らを討とうとここを守っておるが、笑っているのはいったいどういうつもりか。近づいて討たれるなよ」と言って弁慶に近づく者はいませんでした。ある者が言うには、「剛の者は立ちながらにして死ぬことがあると言う。殿たちよ近寄って見よ」と言いましたが、「わしが見てこよう」と言う者もいませんでした。ある武者が馬で近く馳せ寄ると、すでに弁慶は死んでいたので、馬に当たって倒れました。弁慶は薙刀を強く握り締めていたので、倒れ様に薙刀の先を前に差し出すように見えたので、兵たちは「おいおいまた暴れ回るぞ」と言って急ぎ逃げて様子を窺っていました。けれども弁慶は倒れたまま動きませんでした。その時我も我もと弁慶に近寄りましたが身の程知らずと言うほかありませんでした。立ち死にしながらにらみを利かせていたのは、君(源義経)の自害に、人を寄せないための守護をするためと思われて、者どもはますます弁慶を誉めたのでした。  
判官御自害の事
十郎じふらう権ごんの頭かみ、喜三太きさんだは、家の上うへより飛び下りけるが、喜三太は首の骨を射られて失せにける。兼房かねふさは楯を後ろに当てて、主殿の垂木たるきに取り付きて、持仏堂ぢぶつだうの広庇ひろひさしに飛び入る。ここに沙棗しやさうと申まうす雑色ざふしき、故入道にふだう判官はうぐわん殿へ参まゐらせたる下郎げらうなれども「彼奴きやつばらは自然の御用に立つべき者にて候さうらふ。御召し使ひ候へ」と強あながちに申しければ、別の雑色嫌ひけれども、馬の上を許され申したりけるが、この度人々多おほく落ち行けども、彼ばかり留まりてんげり。
   十郎権頭(増尾兼房かねふさ)と、喜三太(御厩おむまや喜三太)は、屋根の上から飛び降りましたが、喜三太は首の骨を射られて死んでしまいました。兼房は楯を背中に当てて、主殿の垂木([屋根を支えるため、棟から軒先に渡す長い木材])を伝って、持仏堂([持仏や先祖の位牌を安置しておく堂])の広庇([寝殿造りで、庇の外側に一段低く設けた板張りの吹き放し部分])に飛び降りました。そこへ沙棗という雑色([身分の低い者])が、故入道(藤原秀衡ひでひら)が判官殿(源義経)に参らせた下郎でしたが「やつらは戦の役に立つ者たちでございます。お使いくださいませ」と強く申したので、他の雑色たちはいやがりましたが、兼房は馬に乗ることを許しました、多くの者たちは逃げてしまい、沙棗だけが残りました。
兼房かねふさに申まうしけるは、「それ見参げんざんに入れて給はるべきや。沙棗しやさうは御内にて防ぎ矢仕り候さうらふなり。故入道にふだう申されし旨の上うへは、下郎げらうにて候へども、死出の山の御供仕り候ふべし」とて散々に戦ふ程に、面おもてを向かふる者なし。下郎なれども彼ばかりこそ、故入道申せし言葉を違たがへずして留まりけるこそ不便ふびんなれ。「さて自害の刻限になりたるやらん、また自害は如何様いかやうにしたるを良きと言ふやらん」とのたまへば、「佐藤兵衛ひやうゑが京きやうにて仕りたるをこそ、後まで人々誉ほめ候へ」と申しければ、「仔細なし。さては疵の口の広きこそよからめ」とて、三条さんでう小鍛治こかぢが宿願しゆくぐわんありて、鞍馬へ打ちて参まゐらせたる刀の六寸五分ありけるを、別当べつたう申し下ろして今の剣つるぎと名付けて秘蔵ひさうしけるを、判官はうぐわん幼をさなくて鞍馬へ御出での時、守まぼり刀に奉りしぞかし。義経幼少えうせうより秘蔵して身を放さずして、西国の合戦にも鎧よろひの下に差されける。かの刀を以つて左の乳ちの下より刀を立て、後ろへ透とほれと掻き切つて、疵の口を三方さんぱうへ掻き破り、腸はらわたを繰り出だし、刀を衣きぬの袖にて押し拭ぬぐひ、衣引き掛け、脇息けうそくしてぞおはしましける。
   沙棗しやさうが兼房に言うには、「判官殿(源義経)にお会いすることができるでしょうか。わたし沙棗はここに留まって防ぎ矢([敵の進撃を阻止するために射る矢])を射かけましょうぞ。故入道(藤原秀衡ひでひら)が義経殿の家来になれと申されたのですから、下郎([身分の低い者])ではございますが、義経殿が死出の山([人が死後に行く冥途にあるという険しい山])に参るお供仕りたいと思います」と言って散々に戦ったので、面と向かって来る者はいませんでした。沙棗は下郎でしたが彼だけが、故入道(藤原秀衡)が申した言葉に従って留まったのは不便([哀れ])なことでした。義経が「そろそろ自害の刻限になったな、自害はどのようにするのがよいか」と申すと、兼房は「佐藤兵衛(佐藤忠信ただのぶ。源義経の家来)が京で自害されましたが、後まで人々は誉めたそうでございます」と答えると、「そうか。ならば疵口が広いほうがよい」と申して、三条小鍛治(三条宗近むねちか。平安時代の名工)が宿願あって、鞍馬寺に打って奉納した六寸五分(約20cm)の刀がありましたが、鞍馬別当(東光坊とうくわうばう)が譲り受けて今剣と名付けて秘蔵していましたが、判官(源義経)が幼くして鞍馬寺に上った時に、守り刀([護身刀])として献上したものでした。義経は幼少より大切にして身から離さず、西国の合戦にも鎧の下に差していたものでした。義経はこの刀で左の乳の下より刀を立て、背中に通れと掻き切って、疵口を三法に切り破り、腸を引き出し、刀を衣の袖で拭い、その衣を肩に掛けて、脇息([肘掛])にもたれました。
北の方を呼び出だし奉りてのたまひけるは、「今は故入道にふだうの後家の方にても兄人せうとの方にても渡らせ給へ。皆都の者にて候さうらへば、情けなくはあたり申まうし候さうらはじ。故郷こきやうへも送り申すべし。今より後、さこそ便りを失ひ、御歎き候はんとこそ、後の世までも心にかかり候はんずれども、何事も前世ぜんぜの事と思し召して、強あながちに御歎きあるべからず」と申させ給へば、北の方、「都を連れられ参まゐらせて出でしより、今まで存命ながらへてあるべしとも思えず、道にてこそ自然の事もあらば先づ自らを亡はれんずらんと思ひしに、今更驚くにあらず。早々はやはや自らをば御手にかけさせ給へ」とて、取り付き給へば、義経、「自害より先にこそ申したく候ひつれども、余りの痛はしさに申し得ず候ふ。今は兼房かねふさに仰おほせ付けられ候へ。兼房近く参まゐれ」とありけれども、何処いづくに刀を立て参らすべしとも思えずして、ひれ伏しければ、北の方仰おほせられけるは、「人の親の御目程賢かりけり。あれほどの不覚人ふかくじんと御覧じ入りて、多おほくの者の中に女にてある自らに付け給ひたれ。我に言はるるまでもあるまじきぞ。言はぬ先に失ふべきに暫しばらくも生けて置き、恥はぢを見せんとするうたてさよ。さらば刀を参らせよ」とありしかば、兼房申しけるは、「こればかりこそ不覚ふかくなるが理ことわりにて候へ。君御産ならせ給ひて三日と申すに、兼房を召されて、『この君をば汝なんぢが計らひなり』と仰せ蒙かうぶりて候ひしかば、やがて御産所に参り、抱いだき初め参らせてより、その後は出仕の隙だにも覚束なく思ひ参らせ、御成人候へば、女御后きさきにもせばやとこそ存じて候ひつるに、北の政所まんどころ打ち続き隠れさせ給へば、思ふに甲斐かひなき歎きのみ、神や仏に祈る祈りはむなしくて、斯様かやうに見なし奉らんとは、露思はざりしものを」とて、鎧よろひの袖を顔かほに押し当てて、さめざめと泣きければ、「よしや嘆くとも、今いまは甲斐かひあらじ。敵の近付くに」とありしかば、兼房目も昏れ心も消えて思えしかども、「かくては叶はじ」と、腰の刀を抜き出だし、御肩を押へ奉り、右の御脇より左へつと刺し透とほしければ、
御息の下に念仏して、やがてはかなくなり給ひぬ。
   それから義経は北の方(郷さと御前)を御前に呼んで申すには、「今は故入道(藤原秀衡ひでひら)の後家([未亡人])のところへでも兄人([兄弟])のところにでも行きなさい。皆都の者ならば、ないがしろにはしないはずだ。故郷に送るよう申せ。今よりは、それこそ頼りを失い、悲しむことこそ、後世までもの気がかりではあるが、何事も前世の因果と思われて、決して嘆かないように」と申すと、北の方は、「都を義経殿に連れられて出てからというもの、今まで命永らえるとは思っておりませんでした、途中で戦があれば先ずわたくしの命からと思っておりましたので、今さら驚くこともありません。早くわたくしを手にかけてください」と申して、義経に取り付いたので、義経が、「自害より先に申そうと思っておったが、あまりにもかわいそうで申せなかったのだ。今は兼房(増尾兼房)に申し付けよ。兼房よ近う参れ」と申しましたが、兼房は我が手にかけられるとも思われず、ひれ伏したままでした、北の方が申すには、「そなたはわたくしの親ではありませんか。そなたほどの者が不覚人([覚悟のない者])と思われて、多くの者の中からそなたを女であるわたくしのために呼ばれたのです。わたくしに言われるまでもないでしょう。わたくしが言う前に命を失うべきをしばらくも生かして、恥を見させたのが悲しいのです。さあ刀を参らせなさい」と申すと、兼房が申すには、「こればかりは不覚なるのも当然のことでございます。君(北の方)がお産まれになられて三日目に、わたし兼房を呼ばれて、『この君をお前が育てよ』と命じられたので、すぐに産所に参り、君を抱き参らせてより、その後はわたしが出仕している間も心配し、成人されたなら、女御后にもさせようと思ってきましたが、大殿(河越重頼しげより)に引き続き北の政所(河越尼かはごえのあま。源頼朝の乳母である比企尼ひきのあまの次女。河越重頼の正室。没年不詳ながらこの時には生きていたようです)もお亡くなりになられて、思っても仕方のない悲しさだけが、神仏に祈る祈りもむなしくありましたが、今このようなことになろうとは、露ほどにも思いはしませんでした」と答えて、とめどなく涙を流しました、北の方は、「たとえ悲しんだところで、今となっては仕方のないことです。敵が近付いています」と申すと、兼房は目も眩み心も消えてしまうように思えましたが、「叶わないことでございます」と言って、腰の刀を抜いて、北の方の肩に刃先を向けて、右脇より左に刺し通すと、北の方は息絶え絶えに念仏を唱えて、やがてはかなくなりました。
御衣きぬ引き披かづけ参まゐらせて、君の御傍に置き奉りて、五つにならせ給ふ若君、御乳母めのとの抱き参らせたる所につと参り、「御館みたちも上様かみさまも、死出の山と申まうす道越えさせ給ひて、黄泉くわうせんの遙かの界さかひにおはしまし候さうらふなり。若君もやがて入らせ給へ」と仰おほせ候ひつると申まうしければ、害し奉るべき兼房かねふさが首に抱いだき付き給ひて、「死出の山とかやに早々はやはや参らん。兼房急ぎ連れて参れ」と責め給へば、いとど詮方なく、前後思えずになりて、落涙に堰き敢へず、「あはれ前さきの世の罪業ざいごふこそ無念なれ。若君様御館たちの御子と産むまれさせ給ふも、かくあるべき契りかや。亀割山かめわりやまにて巣守すもりになせ」とのたまひし御言葉の末すゑ、実まことに今まで耳にある様やうに思ゆるぞ」とて、またさめざめと泣きけるが、敵はしきりに近付く。かくては叶はじと思ひ、二刀ふたかたな刺し貫き、わつとばかりのたまひて、御息止まりければ、判官はうぐわん殿の衣きぬの下に押し入れ奉る。さて生まれて七日にならせ給ふ姫君同じく刺し殺し奉り、北の方の衣の下に押し入れ奉り、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と申まうして我が身を抱いだきて立ちたりけり。
   北の方に着物を掛けて、君(源義経)のそばに置くと、五つになる若君を、乳母が抱いている所に急ぎ参り、御館([主君]=義経)も上様([奥方])も死出の山([人が死後に行く冥途にあるという険しい山])と申す道を越えられてて、黄泉([地下にあり、死者の行くとされる所])の遙か遠くの世界に旅立たれました。若君もすぐに参られるように」と義経殿の仰せでしたので、殺害しようと兼房(増尾兼房)が若君の頭を抱くと、若君は「死出の山という所に急ぎ参ろう。兼房よ急ぎ連れて参れ」と責めたので、兼房はいっそうやりきれなくなり、前後不覚となって、落涙を止めることができませんでした、「ああ前世の罪業が無念でなりません。若君様は義経殿の子と生まれたのも、こうなる運命だったのでしょうか。亀割山(山形県新庄市)に置いて行け([巣守]=[あとに取り残されること])」と申された言葉が、今も耳に残っております」と言って、またとめどなく涙を流しましたが、敵はすでに近付いていました。このままではどうしようとないことと思って、兼房が二刀刺し貫くと、若君はわっとばかり申して、息が止まりました、若君は若君を判官殿(義経)の衣の下に寝かせて、それから生まれて七日になる姫君を同じように刺し殺し、北の方の衣の下に寝かせました、兼房は「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて我が身を抱きかかえるようにしてやっとのことで立ち上がりました。
判官殿いまだ御息通ひけるにや、御目を御覧じ開けさせ給ひて、「北の方は如何に」とのたまへば、「早はや御自害ありて御側おんそばに御入り候さうらふ」と申まうせば、御側を探らせ給ひて、「これは誰たれ、若君にて渡らせ給ふか」と御手を差し渡させ給ひて、北の方に取り付き給ひぬ。兼房かねふさいとど哀あはれぞ勝りける。「早々はやはや宿所に火をかけよ」とばかり最期の御言葉にて、事切れ果てさせ給ひけり。
   判官殿(源義経)はまだ息があって、目を開けて、「北の方はどうした」と申したので、兼房は「すでにご自害されてお側におられます」と答えました。義経は近くを探して、「これは誰ぞ、若君か」と申して若君の手を取って、北の方に手を添えてやりました。兼房は増して哀れに思いました。「早く宿所に火をかけよ」ばかりを最期の言葉にして、義経は息絶えました。  
兼房が最期の事
十郎じふらう権ごんの頭かみ、「今は中々心に懸かる事なし」と独り言し、予ねて拵こしらへたる事なれば、走り回まはりて火をかけたり。折節をりふし西の風吹き、猛火みやうくわはほどなく御殿に付きけり。御死骸ごしがいの御上には遣戸やりと格子かうしを外はづし置き、御跡の見えぬ様やうにぞ拵へける。兼房かねふさは焔ほのほに咽むせび、東西昏れてありけるが、君を守護し申まうさんとて、最期の軍いくさ少なくしたりとや思ひけん、鎧よろひを脱ぎ捨て、腹巻の上帯うはおび締め固め、妻戸つまどよりづと出で見れば、その日の大将たいしやう長崎ながさき太郎兄弟、壺つぼの内に控へたり。敵自害の上うへは何事かあるべきとて居ゐたりけるを、兼房言ひけるは、「唐土天竺てんぢくは知らず、我が朝てうに於いて、御内の御座所おましどころに馬に乗りながら控ゆべきものこそ思えね。かく言ふ者をば誰たれかと思ふ、清和天皇せいわてんわう十代の御末おんすゑ、八幡はちまん殿には四代の孫、鎌倉殿の御舎弟九郎大夫判官はうぐわん殿の御内に、十郎権の頭兼房、もとは久我こがの大臣殿おほいどのの侍さぶらひなり。今は源氏の郎等らうどうなり。樊はんくわいを欺あざむく程の剛かうの者、いざや手並みを見せてくれん。法ほふも知らぬ奴ばらかな」と言ふこそ久しけれ。長崎太郎が馬手めての鎧よろひの草摺くさずり半枚かけて、膝の口、鎧あぶみの鐙靼金みつをかね、馬の折骨をりぼね五枚かけて斬り付けたり。主も馬も足を立て返かへさず倒たふれけり。
   十郎権頭(増尾兼房かねふさ。架空の人物らしい)は、「今は何も思い残すことはない」と独り言をつぶやいて、予ねてより心に決めていたことでしたので、走り回り館に火をつけました。ちょうど西風が吹いていたので、猛火はほどなく御殿を包みました。兼房は義経の死骸の上に遣戸([引き戸])の格子([格子戸])を外して置き、見えないようにしました。兼房は炎にむせび、東西も分かりませんでしたが、君(源義経)を守護して、最期の戦も残りわずかと思ったのか、鎧を脱ぎ捨て、腹巻([簡易の鎧])の上帯([腹巻の胴先=鎧の前面の最下端。に付ける帯])を固く締めて、妻戸([寝殿造りで、殿舎の四隅に設けた両開きの板扉])からさっと出て見れば、その日の大将の長崎太郎兄弟が、壺([前庭])に控えていました。敵(源義経)が自害したので戦をするまでもないと庭に控えているのを見て、兼房が言うには、「唐土([中国])天竺([インド])ではどうだか知らぬが、我が朝(日本)においては、身内の御座所([貴人の居室])に馬に乗ったまま立ち入るとは怪しからん。こう申すは誰かというと、清和天皇(第五十六代天皇)より十代の子孫、八幡殿(源義家よしいへ)の四代孫、鎌倉殿(源頼朝)の舎弟([弟])であられる九郎大夫判官殿(源義経)の家来で、十郎権頭兼房である、もとは久我大臣殿(義経の妻玉津姫の父らしいが、おそらく架空設定)の侍だった。今は源氏の郎等([家来])だ。樊かい(中国の秦末から前漢初期にかけての武将)と見間違うほど強いぞ、それ手並みを見せてやるぞ。法も知らぬやつらめ」と言うのも久しぶりのことでした。兼房は長崎太郎(兄)の馬手([右側])の鎧の草摺([鎧の胴の付属具。大腿部を守るためのもの])半枚から、膝口、鐙の靼金([水緒金]=[水緒=鞍の腹から垂らして 鐙をつる皮のひも。を受ける金具])、馬の折骨([馬のあと足の上の骨])まで斬りつけました。主(長崎兄)も馬もそのまま倒れてしまいました。
押し懸かり首を掻かんとせしところに、兄を討たせじと弟おととの次郎じらう兼房かねふさに打つてかかる。兼房走り違ふ様やうにして、馬より引き落とし、左の脇に掻い挟みて、「独り越ゆべき死出の山、今は源氏の郎等らうどうなり。樊はんくわいを欺あざむくほどの剛かうの者、いざや手並みを見せてくれん。法ほふも知らぬ奴ばらかな」と言ふこそ久しけれ。供して越えよや」とて、炎ほのほの中に飛び入りけり。兼房かねふさ思へば恐ろしや、偏ひとへに鬼神の振舞ひなり。これは元より期ごしたる事なり。長崎次郎じらうは勧賞けんじやうに与あづかり、御恩蒙かうぶり、朝恩てうおんに驕おごるべきと思ひしに、心ならず捕はれて、焼け死するこそ無慙むざんなれ。
   兼房が長崎兄に馬乗りになって首を掻こうとするところに、兄を討たせまいと弟次郎が兼房に打ってかかりました。兼房はすれ違い様に、長崎弟を馬から引き落とし、左脇に挟みこんで、「独りで越えなくてはならない死出の山([冥土])ならば、供をせよ」と言って、炎の中に飛び込みました。兼房は恐ろしい者でした、鬼神の振る舞いというほかありませんでした。これは元から覚悟していたことでした。長崎次郎(弟)は勧賞([褒美])を与えられ、朝恩を受けると思っていましたが、意に反して兼房に捕らわれて、焼け死にすることになったのはなんとも無慙なことでした。  
秀衡が子供御追討の事
かくて泰衡やすひらは判官はうぐわん殿の御首持たせ、鎌倉へ奉る。頼朝仰おほせけるは、「そもそもこれらは不思議の者どもかな。頼みて下りつる義経を討つのみならず、これは現在頼朝が兄弟きやうだいと知りながら、院宣ゐんぜんなればとて、左右さうなく討ちぬるこそ奇怪きくわいなれ」とて、泰衡が添へて参まゐらせたる宗との侍さぶらひ二人、その外ほか雑色ざふしき、下部しもべに至るまで、一人も残さず首を斬りてぞ懸けられける。やがて軍兵ぐんびやう差し遣はし、泰衡討たるべき僉議せんぎありければ、先陣せんぢん望み申まうす人々、千葉の介、三浦の介、左馬の助、大学の頭かみ、大炊おほいの助、梶原かぢはらを初めとして望み申しけれども、「善悪頼朝わたくしには計らひ難し」とて、若宮に参詣ありけるに、畠山はたけやま夢想むさうの事ありとて、重忠しげただを初めとして、都合その勢七万余騎奥州あうしうへ発向はつかうす。
   こうして泰衡(藤原泰衡。藤原秀衡ひでひらの嫡男)は判官殿(源義経)の首を持たせて、鎌倉へ届けました。頼朝(源頼朝)が申すには、「いったいお前たちが何を考えているのか分からない。お前たちを頼って下った義経を討っただけでなく、義経がわたし頼朝の兄弟(異母弟)と知りながら、院宣だからと言って、容赦なく討つとは奇怪([怪しからぬこと])なことよ」と申して、泰衡が義経の首に添えて参らせた主だった侍二人、そのほか雑色([下級役人])、下部([召使い])にいたるまで、一人残さず首を斬って獄門に懸けました。頼朝はすぐに軍兵を奥州に差し向けて、泰衡を討つべきだと僉議しました、先陣を願い出る者たちは、千葉介(千葉常胤つねたね)、三浦介(三浦義澄よしずみ)、左馬助(小山をやま政光まさみつ)、大学頭(大江景遠かげとほ)、大炊助(新田義重よししげ=源義重。八幡太郎義家よしいへ=源義家の孫)、梶原(景時かげとき)をはじめとして名乗り出ましたが、「誰が適任かわたし頼朝には決められない」と申して、若宮(神奈川県鎌倉市にある鶴岡八幡宮)に参詣すると、畠山(畠山重忠しげただ)が夢に現れたと申して、重忠をはじめとして、都合その勢七万騎余りを奥州に向かわせました。
昔は十二年まで戦ひける所ぞかし、今度は僅わづかに九十日の内に攻め落されけるこそ不思議なれ。錦戸にしきど、比爪ひづめ泰衡やすひら、大将たいしやう以下三百人が首を、畠山はたけやまが手に取られける。残るところ、雑人ざふにんらに至るまで、皆首を取りければ数を知らざるところなり。故入道にふだうが遺言の如く、錦戸、比爪両人りやうにん両関りやうぜきを塞ぎ、泰衡、泉いづみ、判官はうぐわん殿の御下知げちに従ひて軍いくさをしたりせば、いかでか斯様かやうになり果つべき。親の遺言と言ひ、君に不忠ふちゆうと言ひ、悪逆無道ぶたうを存じ立ちて、命も滅び、子孫絶えて、代々の所領しよりやう他人の宝となるこそ悲しけれ。侍さぶらひたらん者は、忠孝ちゆうかうを専もつぱらとせずんばあるべからず。口惜をしかりしものなり。
   昔は十二年間戦った所でした(前九年の役(1051〜1062)。源頼義よりよしが奥州安倍氏を滅した合戦)が、今回はわずか九十日の間に攻め落とされたのは不思議なことでした。錦戸(藤原秀衡ひでひらの長男西木戸国衡くにひら=藤原国衡)、比爪(樋爪俊衡としひら。俊衡は投降したため殺されなかったらしい)、 泰衡(藤原泰衡。藤原秀衡の次男)、大将以下三百人の首を、畠山(重忠しげただ)の手によって取られました。残りは、雑人([身分の低い者])たちまでもが、皆首を取られたので数知れませんでした。故入道(藤原秀衡)の遺言通り、錦戸、比爪が両関(念珠関=鼠ねずヶ関。山形県鶴岡市と白河関。福島県白河市)を塞ぎ、泰衡が、泉(藤原忠衡ただひら。泰衡の異母弟。頼朝との戦を主張し泰衡と意見が対立、泰衡によって誅殺されたらしい)が、判官(源義経)の下知([命令])に従って戦をしていれば、どうしてこのような結果になったでしょう。親の遺言にしろ、君(義経)に対する不忠にしろ、悪逆無道を働いたために、命も失い、代々の所領([領地])が他人の宝となったことは悲しいことでした。侍ならば、ひたすら忠孝をすべき者でなくてはなりません。無念というほかありませんでした。  
 
 

 

太田道灌 1486
かかる時さこそ命の惜しからめ かねて亡き身と思い知らずば
●太田道灌 
太田道灌が生きた時代〜戦乱の巷 関東
まずは道灌が生きた世の中をざっと見てみたいと思います。
室町幕府成立後、関東を統治する機関として鎌倉公方とそれを補佐する関東管領が置かれました。鎌倉公方は足利幕府初代将軍足利尊氏の次男基氏(兄は二代将軍義詮)が就任して以降、その子孫が代々世襲し、関東管領は尊氏の母方の一族である上杉氏が同じく世襲していました。
   室町幕府、将軍家と鎌倉公方家の系譜
そして鎌倉公方は代を経るごとに中央の将軍に対し反抗的な姿勢をみせるようになります。中でも基氏のひ孫にあたる持氏は、補佐役である上杉憲実の制止も聞かず、将軍義教と事あるごとに対立し、ついには討伐され自害します(永享の乱)。このとき憲実はやむなく将軍方として、討伐する側に回りました。
義教の死後、持氏の三男成氏が鎌倉公方になることが許されますが、親の仇の片棒を担いだ憲実の子を暗殺し、今度は鎌倉公方と関東管領の上杉氏が戦います(享徳の乱)。この争いは30年近く続く泥沼の戦いと化します。
このような中で道灌は生まれました。
幼少期の道灌
道灌は、鎌倉公方を補佐する関東管領上杉氏の一族扇谷上杉家の有力家臣太田氏の家に生まれます。道灌は幼少期から英才として知られており、次のような逸話が残っています。
道灌の才気があまりにも鋭いことを逆に心配した父親が「昔から知恵のある者は偽りを言うことが多くなり、偽りを言うものは必ず災いに巻き込まれる。人間は正直でなければならない。たとえば障子のようなもので、真っ直ぐだからこそ立ち、曲がっていては役に立たないものだ。」と言われると、道灌は屏風をもってきて「屏風は真っ直ぐなら立ちませんが、曲がっていると立ちます。これはどうしたことでしょう。」とやりこめました。
上杉氏を支える太田道灌
24歳のときに父より家督を譲られます。享徳の乱がすでに勃発しており、当時は古河公方(この当時鎌倉公方は古河に本拠地を置いていたため、古河公方と呼ばれていました)の勢いが強く、防御の拠点となる城を築く必要がありました。そこで築かれたのが、河越城(川越)と江戸城です。いずれも築城の名人と呼ばれた道灌の工夫が凝らされた名城で、日本の百名城に選ばれています。
現在は皇居となっている江戸城は、江戸時代初期に徳川家康によって造られました。その原型を造ったのが太田道灌です。
江戸城は、後に徳川家康が拠点を置き、江戸幕府の中枢となりました。現在は皇居となっており、皇居には道灌濠と名づけられたお堀が残っています。
河越(川越)城も後に後北条氏が関東支配の拠点とし、江戸時代にも重要な地として譜代大名がこの城を治めていました。
また「足軽軍法」と呼ばれる戦法を考案したといわれています。当時の戦は「やあやあ我こそは〇〇なり」と名乗りをあげ、騎馬武者が一騎打ちで勝負をつけていました。足軽はもともと戦闘員ではなく、兵站など後方任務を担う存在でした。
しかし道灌は足軽に武装をさせ戦闘集団化することで、旧来の騎馬武者の一騎打ちは用をなさなくなり、道灌の軍は敵なしの強さを誇りました。そしてこの戦法は戦国時代に引き継がれ、一般化していきます。
「歌人」太田道灌
道灌は和歌の名人としても知られており、次のような逸話が残っています。
   山吹の花
おそらく太田道灌といえばこの話が最も有名でしょう。
あるとき城外に出ていた道灌は急な雨に見舞われます。そこで雨具である蓑を借りようと、一軒の農家を訪れます。「蓑を貸してくれ」と軒先で告げると奥から少女が申し訳なさそうに山吹の花を道灌の前にそっと差し出して、何も言わず引っ込んでしまいました。道灌はわけがわからず、また腹立たしくもあり、雨に打たれながら城に帰り、この話を家臣にしました。
するとその家臣は「それは“七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞかなしき”という有名な和歌にかけて、申し訳ありませんが家が貧しく蓑(実の)一つさえ持ち合わせていません、ということを暗に申し上げたのでしょう」と答えました。これを聞いた道灌は、あの少女の言わんとしたことを理解できずに腹を立てた自分の未熟さを大いに恥じ、以来和歌の勉強に一層励んだそうです。
ちなみにこの歌は後拾遺和歌集に収められており、本来の意味は「山吹の花は美しく咲くけれども実を全くつけないというのは不思議なことだ」というものです。(山吹のうち、ヤエヤマブキという品種はおしべが花びらに変化し、めしべも退化しているので実をつけません。)
この故事にちなんだ場所は、豊島区に山吹の里の碑があり、新宿区には山吹町という地名があります。また埼玉県越生町にも山吹の里と呼ばれる場所があります。
落語にもこの故事をベースとした「道灌」という噺があり、前座の落語家が習う噺として知られています。
   川を渡る
ある夜行軍中に利根川を渡ろうとしていました。しかし夜分で辺りは暗く、どこが浅瀬なのかわからず、部下たちがどうしたものかと途方に暮れていました。すると道灌は、
“そこひなき淵やはさわぐ山川の浅き瀬にこそあだ波は立て”
(深い淵は水がたくさんたまっているので水面は静かで波は立たない。それにひきかえ浅瀬は水面と川底の間に水があまりないから波が立つものだ。)
という古歌がある。だから耳を澄まして波音が荒い場所を探してそこを渡ればよい、と指示して無事に川を渡ることができました。
   兵の士気を鼓舞する
こんな駄洒落まじりの歌もあります。
小作城(こづくえじょう、現神奈川県横浜市港北区小机町)を攻めていましたが、守りが固くなかなか落とせずにいました。そこで道灌は兵の士気を上げるためにこんな歌を詠みました。
“小作はまず手習いのはじめにていろはにほへと散り散りになる”
(子供が手習い(習字)を初めてするときは、『いろはにほへとちりぬるを』からやるものだ。)
「ちりぬる」と城兵が散り散りになることをかけて、小作の城なぞは簡単に落とせるはずだ、と言っています。これに奮起した兵は小作城を攻め落としました。
「知恵者」太田道灌
   将軍の猿
道灌が上洛すると、ときの将軍足利義政が道灌に会いたいと所望しました。義政はいたずらをする猿を飼っていて、その猿は見知らぬ人に飛びかかり引っ掻く癖があるので、猿に襲われ慌てふためく家臣を見て義政は面白がっていました。家臣たちは皆困っていましたが、相手が将軍なので誰も文句を言えません。
このことを聞きつけた道灌は猿の飼育をしている役人に金を渡して、その猿を謁見の前に借りることにしました。道灌は将軍との謁見のための装束に着替え、猿のいる部屋に行くと、案の定道灌の顔を見るなり猿が飛びかかってきました。しかし道灌は落ち着き払って猿を鞭でピシリと打ち据えます。すると猿はすっかり怯えてしまい飛びかかってこなくなりました。
そしてその猿を返し、翌日将軍との謁見に臨みます。義政は例によって猿を廊下につないで、道灌が慌てふためく様子を見てやろうと待ち構えていました。しかし猿は道灌の姿を見るなり、怯えて体を震わせ身動きしません。その横を何もない顔で道灌が通り過ぎると、義政はあの猿が道灌の威厳に怯えたのだと思い、感心しきりでした。将軍の家臣たちは後日この話を聞き、道灌の知恵に驚いたそうです。
最期〜名将に訪れた突然の悲劇
話を道灌の生涯に戻しましょう。道灌は30年近く続く享徳の乱を収めるべく東奔西走し、戦いを上杉家優位に持ち込み、古河公方と上杉家の間に和議が成立します。長く不毛な戦いはようやく終了したのです。
しかし、すると今度は上杉家の内部に亀裂が走ります。本家格の山内家と分家格ながら道灌の力により勢力を増した扇谷家が仲を違えてしまいます。
このときの道灌は長い戦いを終わらせた実力者として、その勢力、威名、人気は主家を上回らんばかりのものとなっていました。
山内家の当主顕定は道灌に脅威を覚えます。そこで策を巡らせて扇谷家の当主定正に道灌が謀反を図っているとの噂を流し、それを真に受けた定正は刺客を放ち道灌は命を落としてしまいます。
もっとも暗殺の理由は他にも、定正が道灌の人気に嫉妬した、他の家臣が讒言をした、顕定ではなく北条早雲の計略だったなど諸説あります。
いずれにせよ道灌の際立った才能の高さが悲劇的な最期を招いてしまったのです。
   道灌の予言
道灌はその死に際に「当方滅亡」と言い残したといわれています。つまり自分がいなくなれば扇谷家に未来はない、という予言です。自分一人が家を支えていることに自負があったのでしょう。
そして予言は的中してしまいます。道灌が死んだことによって多くの家来たちが扇谷家を離れ、挙句には関東に侵攻してきた北条早雲に攻められ、次々と領地を奪われます。扇谷家は早雲の孫氏康の代に滅ぼされ、さらに山内家も関東を追われ、上杉家の勢力は関東から消滅しました。ときの山内上杉家当主憲政は家督を家来筋の長尾景虎に譲り、景虎は上杉景虎(後に謙信)と名乗りを改めます。
   道灌辞世の句
歌人らしく、道灌の辞世の句といわれるものがいくつか残されています。どれが本当の句なのかは伝わっておらず、あるいは全て後世の創作なのかもしれません。そのなかの一つに
“かかる時さこそ命の惜しからめかねて無き身と思ひ知らずば”
(世の中は無常であることを自分は悟っていますから、このように命を奪われることになっても悔いはありません)
武人らしい日頃の心構えを詠んだ句です。ただ、あまりにもきっぱりと言い切っているのが、逆にこの世に未練を残しているようにも受け取れます。もっともこの句は敵の武将を討ち取った後、追悼の意味で読まれた句だともいわれています。
山吹は道灌そのもの?
太田道灌は当時の文化の中心であった京から遠く離れた関東にあり、しかも鎌倉公方の家臣のそのまた家臣という地位でありながら、数多くの逸話が残っています。もちろんそれらには後世の創作と思われるものも混じっています。しかしよほど優れた人でなければ、ここまで話のネタになることはなかったでしょう。
兵士、民からの人気や軍事的実力を考えると下克上を起こせば、関東の覇者になることもできたようにも思えます。しかし教養が高い道灌は儒学を学んでいたと考えられます。だとすれば主に刃を向ける行為は「覇道」という儒学において最も忌み嫌われていたことであり、道灌には受け入れられなかったと思われます。
ここに道灌の限界がありました。後に関東を支配し戦国時代の幕を開けたといわれる北条早雲は、京で育ち道灌と同じように教養の高い人物でしたが、早雲は躊躇なく旧秩序を破壊し、新たな世の中を作り上げます。(道灌と早雲の間には交流があったともいわれています)この違いは、あくまでも家臣として仕えた者と外からやって来た者の違いなのでしょうか。
最後にもう一度、あの歌を引用します。
七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞかなしき
道灌も山吹の花のように関東に咲き誇り、そして実をつけることなく散ってしまいました。しかしその名は後世に残り、世の人々から敬愛を受けているという意味では立派に実をつけたと言えるのかもしれません。 
●辞世の句 1
私の此の邸宅のある飛鳥山の山続きは、今でも道灌山と云はれるほどで、その昔太田道灌の住つてた処だらうとのことであるが、道灌は始めて江戸城を築いた人だと申すことになつて居る。狩りに出た帰り途、雨に逢つて雨具を借りに或る農家に入ると、蓑の代りに少女が山吹の枝を出したといふので太田道灌の名は能く世間に知られて居るが幼より武蔵の管領上杉持朝に知られ、十一歳召されて出仕し、源六郎持資と称したものである。然るに、上杉の臣下中に道灌と快からざる長尾意玄と申すものがあつて、酷く道灌を邪魔物にし、種々と策略を運らし道灌を亡きものにせんと謀んだが、上杉氏も遂に其策略に乗せられ、道灌を糟屋(今の豊多摩郡千歳村)の第に招き、浴室に入れて置いて刺客に道灌を殺させることになつたのである。これは文明十八年七月、道灌齢五十五の時であつたが、刺客に刺される時も道灌は神色自若として毫も狼狽せる模様なく、
   かかる時さこそ命の惜しからめ かねて無き身と思ひ知らずば
の一首を辞世に詠み、従容として死に就いたとの事である。この一首の意味は、平素より生命を無いものと思つてゐるから、只今不義者の計略にかかり生命を取られても露些か生命を惜しいなぞとは思はぬが若しも平素より生命を無いものだと思つて居らねば、こんな時に定めし生命が惜しいことだらうといふにある。太田道灌は文雅の素養も並々ならず、雅懐に富ませられた方であるが、それでも義と見れば進んで之に殉ずる覚悟が平素よりあつた人と思はれる。今、申述べた如く一首を辞世に詠むことのできたのも、畢竟するに平素より義を見て為さざるは勇無き也、との意気があつたからである。今の青年子弟諸君に於いても、平素より常に此の太田道灌の如き意気と覚悟とを持つやうにして戴きたいものである。
●辞世の句 2
   かかる時さこそ命の惜しからめ かねてなき身と思い知らずは
道灌といえば、戦国時代の智将として知られています。江戸城を築城したことでも有名です。
幼少の頃から聡明な子でした。よく知られている逸話に、父親が「奢者不久(奢れる者は久しからず)」と書いて道灌を諫めると、「不」と「又」の二字を書き加えて、「不奢者又不久(奢らざる者又久からず」としたというのがあります。逸話ですから、本当かどうかはともかく、幼少の頃から道灌は、よくいえば才気煥発、悪くいえば生意気で子どもらしくなく、知恵が回る子どもでありました。
道灌は易経に通じていました。足利学校で学んでいますから、ここで易学を勉強したのでしょう。足利学校といえば当時の日本最高学府。漢籍を通じて儒学を講じ、易学、兵法なども教えていました。
歌の意味ですが、直訳すれば「こんな時はさぞ命が惜しいということだろう 普段から死ぬ覚悟を決めていなければ」となります。これを裏からいえば「いつもこの身を死んだものと覚悟を決めているのだから こんな時でも命は惜しくない」となります。
この歌はよく、道灌辞世の歌といわれていますが、そうではないです。道灌二十四歳の作。
戦の最中、味方の武士が敵の若武者を討ち取り、その首を携えて道灌の陣にやって来ました。味方の武士が言うには「歳はいまだ壮年にも至らぬ勇ましい若武者。敵ながらあっぱれな人物」道灌に、この武士に対する手向けの歌を所望します。そこで詠んだのがこの歌というわけです。
「武士は相身互い(同じ対場にある武士同士、お互いに思いやりをもって接すること)」といいますが、それを地でいくエピソードだと思います。
●辞世の句 3
太田道灌は、江戸城を築城したことで知られる室町時代後期の武将(扇谷上杉家の家宰)です。戦巧者としても知られ、1476〜1480年に起きた長尾景春の乱をほぼ独力で戦い抜くなど、主家 扇谷上杉家の勢力拡大に尽力しました。しかしながら、扇谷上杉家内で太田道灌の力が強くなることを恐れた勢力によって、1486年8月25日暗殺されてしまいます。享年は54歳前後であったと言われています。
   「かかる時 さこそ命の 惜しからめ かねて亡き身と 思い知らずば」
(常にこの身は死んだものと思っているから、このような時でも命を惜しいとは思わない)
太田道灌の死後、主家扇谷上杉家は山内上杉家との抗争に明け暮れ、新興勢力である北条氏によって滅ぼされることになります。
●辞世の句 4
本能寺の変から遡ること約100年、文明一八年(1486年)太田道灌こと太田資長は主君上杉定正に暗殺されてしまいます。その時道灌が叫んだ言葉が「当方滅亡」といわれています。
太田道灌がこの時(暗殺された時)詠んだといわれる辞世の句が何首かあるのですが、だまし討ちに暗殺された時に辞世の句を詠んだとも思われず、悩みに悩んだ結果「当方滅亡」という断末魔を辞世としました。ちなみにその時詠んだとされる歌が
   昨日まで まくめうしわを 入れ置きし へむなし袋 いま破りけむ
   かかる時 さこそ命の 惜しからめ かねて無き身と 思ひしらずば
の二種です。二首ともに辞世の句として素晴らしいものです。
上の歌が(昨日まで分別などという、迷い心を内に蔵していたこの袋も、もはや無用無益である 遂に今、破れてしまったわい)
下の歌が(既にかような無常は悟っているから、このように殺されることになった時でも 命が惜しいものではない)
というような意味かと思われます。
戦国時代は太田道灌と北条早雲という同年生まれの天才の出現から始まるという説もあります。太田道灌と北条早雲は今川家の家督争いの時にまみえ、その時お互いがお互いを異質なものとして諒解しあったという伝説が残っています。
太田道灌といえば江戸城を造った人物として有名ですが、「山吹事件」も大変有名です。
これは、ある時道灌が鷹狩の帰りに雨に降られ、蓑を借りようと農家に寄ったところ、娘が出てきて山吹の枝を差し出しました。道灌は蓑を借りたいのじゃ!と言って怒ってしまいました。
後日その話を聞いた人物は、それは「七重八重 花は咲けども 山吹の みの一つだに なきぞ悲しき」という古歌の「みの」に掛けて(貧しさゆえに、お貸しする蓑一つさえ持ち合わせがありません)いるんだよ、と言われて多いに恥じたと言うことです。
それ以来、幼少の頃から鎌倉五山に響き渡るほどの聡明さを持っていた道灌は、さらに勉学に精進を重ねて行ったといいます。
その後このようなことがありました。謀反を犯した臣下を討つべく謀反人達の立てこもる屋敷を包囲したものの火をかけ延焼させるわけにもいかず、なかなか屈強な者達だったので道灌は一計を案じ家来にこう言いました「その屋敷を取り囲んでいる者達にこちらから使者を出す。その口上は、立てこもっている者のうち一人だけ助けてやる者がいる、ゆめゆめ間違い無きように、というふうに叫ばせる。これが中で立て篭もっている者達に聞こえたと思ったら即座に討ち入るように」というものでした。
家来は言われたとおり使者が口上を叫んだあとに討ち入ると、あっさり全員を討ち取ることができました。皆自分が助かるのではないかと思い、切っ先が鈍ったからでした。
報告を聞いた道灌は「世の中に 独り止まる ものならば もし我かはと 身をや頼まん」という古歌に習ったまでだ、といいました。歌の意味は(世の中に、ただ独り残るとすれば、その幸運をつかむのは、もしや自分ではあるまいか。いやきっとそうだ、と、身びいきに頼りにすることだろう)です。
また、夜行軍中に遠干潟に出くわしたため、このままでは渡れないので満潮か干潮か調べて参れと定正に言われました。一人は暗くてわかりませんと報告したところ、道灌はさほど見に行きもせず、干潮ですから参りましょう、といいました。定正が何故解るのじゃ、と聞いたところ「遠くなり 近くなるみの 浜千鳥 泣く音に潮の 満干をぞ知る」という古歌があります、千鳥の声が遠く聞こえましたので、潮の引いてるのを知りましたと言ったといいます。
その後、川にぶつかった為、また暗くて渡れずにいると、古歌に「底ひなき 淵やは騒ぐ 山川の 浅き瀬にこそ あだ波は立つ」という歌があるから波音が立っているところを渡るのじゃ!と言って自ら進んで渡りきり誰一人川に流される者はいなかったといいます。
幼少の頃から天才の名を欲しいままにしていた道灌にとって「山吹事件」はよほどショックだったと見え、その後は古歌にちなんだ行動がこれほど多く伝えられています。
しかし、この才気走った道灌の行動はやがて主君定正に疑念を持たれ、前述の通り道灌は主君の手によって暗殺されてしまいます。時に道灌55歳、ライバル早雲が大器晩成、80を過ぎても第一線で大活躍をしたことから、若くして倒れたイメージもありますが、けっして若死にしたわけではありません。
だまし討ち、しかも忠勤を励んだ主君にに討たれたところに道灌の悲哀があると思われます。
最後に「当方滅亡」と叫んだことは、それだけの自負があったと同時に、自分がいなければ扇谷上杉は無い、という増長があったことは確かで、定正が恐れるのも致し方無かったかもしれません。
ただ、道灌が健在であれば、後北条家が早雲の時代にあれほどまでに、勢力を拡張することはできなかったでしょう。
●辞世の句 5
   昨日まで莫妄想(まくもうざう)を入れおきしへなむし袋今破りてむ
太田道灌(1432〜1486年)は、室町時代中期の武将。関東管領家である扇谷(おうぎがやつ)上杉定正の執事。江戸城を築いて居城とした。山内(やまのうち)上杉家の内紛を鎮圧したが、かえって扇谷上杉家の勢力増大を恐れた山内上杉顕定方の讒言により、主君定正によって謀殺された。兵法に長じ、和漢の学問や和歌にもすぐれた名武将であったようだ。
道灌には、和歌に目覚める際の「山吹」の古歌のエピソードがあって、これがよく知られている。
若き道灌がにわか雨にあい、農家に蓑を借りようとしたところ、少女が山吹の一枝を差し出したので怒った。後にそれが、「七重八重花は咲けども山吹の実の(みの=蓑)一つだになきぞ悲しき」という古歌にちなんだ振る舞いであることを知る。それが道灌に和歌を学ばせるきっかけになったのだという。
太田道灌は、主君扇谷定正の糟谷館に招かれ、入浴後に湯殿から出たところを襲われたという。死に際に「当方滅亡」と言い残したといい、その語のとおり扇谷上杉家は滅亡していく。
新渡戸稲造『武士道』には、湯殿で襲われた際、道灌が和歌を好むことを知っている刺客は、「かかる時さこそ命の惜しからめ」と上句を詠む。道灌は、致命傷に少しもひるまず「かねて無き身と思ひ知らずば」と下句を付けたと言い、これが道灌の辞世とも伝わる。実際には、この歌は道灌若き日の作歌であるらしいが、こうした覚悟を常に抱いていたということでもあろう。
今日の一首に揚げたこの歌は、『名将言行録』に道灌の辞世として載るものである。『辞世の歌』に松村雄二が指摘するとおり、私には、こちらの方が道灌らしいように思えるので、ここに紹介することにした。どうだろう。
「莫妄想」は、妄想することなかれという禅家の語であり、「妄想」と同じ意味である。「へなむし袋」は、語義不明だが、「へなへな」とか、「からむし」とかにかかわるへなへなした糞袋とでも言ったところか。昨日まで数々の妄想を溜めこんできたこの私のろくでもない肉体を、今こそ破り捨ててしまおう。どこか俗っぽさがただようが、それがかえって豪胆な道灌にふさわしいのではないだろうか。
私が利用する小田急小田原線の最寄駅から相模川の鉄橋を越して3駅先が伊勢原である。大山登山を目指すバスが出る駅として知られているが、大山へむかう道筋を東名高速の橋梁をくぐったあたりに太田道灌の首塚がある。ここが扇谷上杉氏の糟谷館、つまり太田道灌が殺害された地にほかならない。
小学校4年になる時に私は東京の練馬から神奈川県厚木市に転居した。そこはたいそうな田舎に感じた。それでも少しでもこの地と人に馴れるために父親は休みになると周辺の史跡に私を連れて歩いた。最初は市内に限られていたが、次第に周辺地域に拡大されていった。太田道灌の首塚は、そうした父子の史跡巡りの最後だったかもしれない。父もまだ若く、自転車を連ねて、この糟谷館跡を訪れた。史蹟の説明板はあったが、雑草の茂るに任せた場所であったが、湯殿で道灌を殺害するという卑劣な手段に憤りと共になまなましいイメージが湧き上ってきたことを今も覚えている。「夏草や兵どもの夢の跡」という芭蕉の句を親しいものに感じたのは、父の教示があったのだろう。 
●辞世の句 6
   かかる時さこそ命の惜しからめ かねてなき身と思い知らずは
道灌といえば、戦国時代の智将として知られています。江戸城を築城したことでも有名です。幼少の頃から聡明な子でした。
よく知られている逸話に、父親が「奢者不久(奢れる者は久しからず)」と書いて道灌を諫めると、「不」と「又」の二字を書き加えて、「不奢者又不久(奢らざる者又久からず」としたというのがあります。逸話ですから、本当かどうかはともかく、幼少の頃から道灌は、よくいえば才気煥発、悪くいえば生意気で子どもらしくなく、知恵が回る子どもでありました。
道灌は易経に通じていました。足利学校で学んでいますから、ここで易学を勉強したのでしょう。足利学校といえば当時の日本最高学府。漢籍を通じて儒学を講じ、易学、兵法なども教えていました。
歌の意味ですが、直訳すれば「こんな時はさぞ命が惜しいとことだろう 普段から死ぬ覚悟を決めていなければ」となります。これを裏からいえば「いつもこの身を死んだものと覚悟を決めているだから こんな時でも命は惜しくない」となります。
この歌はよく、道灌辞世の歌といわれていますが、そうではないです。
道灌二十四歳の作。
戦の最中、味方の武士が敵の若武者を討ち取り、その首を携えて道灌の陣にやって来ました。味方の武士が言うには「歳はいまだ壮年にも至らぬ勇ましい若武者。敵ながらあっぱれな人物」  道灌に、この武士に対する手向けの歌を所望します。そこで詠んだのがこの歌というわけです。
「武士は相身互い(同じ対場にある武士同士、お互いに思いやりをもって接すること)」といいますが、それを地でいくエピソードだと思います。 
 
 

 

斎藤道三 1556
捨ててだにこの世のほかはなき物を いづくかつひのすみかなりけむ  
●辞世の句 1
近年、斎藤道三(1494-1556)の生涯については見直されている。彼が僧侶から油売りとなり、そこから武士になって謀略を尽くして美濃の守護代になったという一代記は、実は父親とのリレーで二代による国盗りだったと考えられつつある。
   捨ててだにこの世のほかはなき物を いづくかつひのすみかなりけむ
(もうこの世にある我が身以外の他のものは捨ててしまった。何処になるのだろうか、私の終(つい)の棲家(すみか)は。)
あらゆる手段を使って成り上がっていく道三は、「梟雄(きょうゆう/悪の英雄)」と呼ばれ、それが今やキャラクターとして小説、ドラマ、マンガ、ゲームなどで定着してしまった。「美濃のマムシ」だ。
そんな貪欲に欲しいものを手に入れてきた男だが、彼の辞世では、自分の命以外のものは全て捨ててしまったと言っている。
梟雄・斎藤道三が命を散らせたのは、息子の斎藤義龍と争った壮大な親子喧嘩、1556年の長良川の戦いである。
この戦いは、斎藤利政と名乗っていた彼が出家して道三と号し、すでに家督相続していた長男・義龍の廃嫡を考えていたときに起きた。道三は義龍よりも、二男、三男のほうを可愛がっていた。彼と義龍との間は険悪になり、義龍が弟たちを殺して道三に挙兵したのである。
もともと道三は息子の斎藤義龍の武将としての器量について疑っており、「無能」と軽んじていたという。しかし、長良川の合戦のときに、義龍の采配を見た時に自分の評価が誤っていたことに気づき、後悔したときはすでに手遅れだった。
道三の娘・帰蝶(濃姫)は織田信長の正室となっており、信長と道三とは同盟関係にあった。そのため、信長は長良川へ援軍を送り込んだが、それも間に合わなかったのである。
道三は、自分の末っ子(詳細は不明)に遺言も残している。
「其の方の事、堅約の如く、京の妙覚寺へ登られ尤もに候。一子出家、九族生天(きゅうぞくしょうてん)といへり。この如く調(ととの)へ候も一筆泪ばかり」
(そなたのことは、約束してあったように、京の妙覚寺で出家するのが良いと思う。「子供が一人出家すれば九代の親族が天の最上位に生まれ変われる」ともいう。このように考えてはいるが、僧侶にさせてしまうことについては、この筆をもちながらも不憫で涙が出てしまう。)
辞世の句は、この遺言に添えられていたものである。
勝った息子の義龍側には、道三の旧臣も沢山いた。道三は、彼らによって手厚く葬られたという。
●辞世の句 2
   捨ててだにこの世のほかはなき物を いづくかつひのすみかなりけむ
斉藤道三は美濃の国の戦国大名。織田信長の義理の父。道三は一代で美濃の国取りをしたと言うのが通説であるが、最近の研究によると道三の父と道三という二代に渡る努力が効を奏して美濃を治めるようになったという説もある。1494年頃生誕。父は松波庄五郎、母は不詳。下剋上で成りあがった悪者のイメージがあるが、当時の時代背景からすると、能力の無い主君は家臣、領民を不幸にする。
能力がある武士が大名となって国を治めるのは良い事である。毒殺、虐殺、追放された人間には気の毒ではあるが、家臣、領民には幸せを運ぶ行為である。そういう意味で解釈すれば斉藤道三は美濃の名君と言えるでしょう。
商人から武士の道へ
京都で僧職にあった道三が美濃へ出て、油商人として財をなし長井家に仕官した。と伝えられているが、本当にそうであったのだろうか?僧職から油商人、そして長井家に仕官したところまでは父の「松波庄五郎」ではなかろうか。道三の油商人としての姿をイメージできないのである。道三は父の松波庄五郎が長井家に仕官した後を受けて、出世したように思えてならないのである。たった一代で武士以外から大名になったのは秀吉くらいであり、やはり大名となるには長い年月を要すると考えた方が自然である。親子二代にわたる「美濃の国取物語」であろう。
土岐氏に取り入り主君を追放、美濃の国を手に入れる
道三は持ち前の才覚と武芸の達人として頭角を現し、美濃を支配していた土岐家に取り入ることができた。特に土岐家当主の次男である土岐頼芸に寵愛されるようになる。頼芸が家督相続の争いに敗れた後、策を弄して兄の政頼を急襲し、越前に追放する。そして頼芸の信任を得ていた宿敵、長井長弘を殺害する。1538年守護代の斉藤利良が死去すると、斉藤新九郎と名乗る。ところが道三は頼芸の弟の頼満を毒殺するに至り頼芸との対立が決定的となり、ついに1552年、頼芸の大桑城を攻め頼芸を尾張に追放し、ついに美濃一国を手に入れた。
政略結婚で娘を信長に嫁がせる
1548年、道三は敵対していた織田信秀(信長の父)と和睦し、娘(濃姫)を信長に嫁がせる。当時大名家に生れた女性は家を守る為の道具であった。すなわち政略結婚の為の道具である。道三も美濃の南側で勢力を拡大しつつある尾張の織田家を脅威と感じていたのであろう。大事な娘を嫁がせる決断をする。TVドラマでは嫁がせる娘(濃姫)に短刀を渡し婿殿(信長)が「うつけ」ならこの短刀で刺し殺せ!と言ったが、濃姫は、もしかするとこの短刀で父上を刺し殺すかもしれません、と答えたことになっているが、実際は違っていたと推測する。その理由は、姻戚関係をもって「同盟」関係が成り立つので、それを壊す事は御法度であるから、ありえないことである。さらに女性が嫁げば実家よりも嫁ぎ先を大切にするのが当時の慣わしであった。信長の妹、お市の方と浅井長政の実例を見れば明らかである。そしてまた、嫁ぎ先で「婿殿」を刺し殺したと言う事例はないのである。
信長との信頼関係、正徳寺会見
1553年道三は信長に会見を申し入れる。濃姫が嫁いでから5年後のことである。この時の信長と道三の力関係は、明らかに道三の方が上である。余裕ができた道三が「信長」とはどのような人物なのかを見極める為に、道三から提案した会見であった。会見場の正徳寺は由緒正しい寺であり、二人の対面にふさわしい場所であったと言える。
巷間伝えられるところでは、道三が正徳寺にやってくる信長を見ようと密かに町屋に隠れていた。そして信長の「うつけ」姿を見て、やはり婿殿は「うつけ」であったかと思い、いざ会見場に現れた「正装姿」の信長を見て驚くと言う場面があるが、実際はそうではなかったであろうと推測する。
道三の目的は信長と直接会って話し合えば器量が分かる事であるから、わざわざ服装を確認する意味はないのである。人は直接会って話しあえば相手の力量は直ぐに分かる。だから正徳寺の会見は「面白おかしく」後世の人が作った話のように思えてならない。信長ほどの逸材ならば「尾ひれが付く」話は聞いて面白いから、作り話になり易いのだ。ただ間違いなく言えることは、この会見で道三は信長の非凡さを見抜いている。お互いにとってたいへん有益な会見であったことは事実である。
楽市楽座は道三の発案、信長の専売特許ではありません
楽市楽座と言えば信長の顔を思い浮かべますが、信長の専売特許ではありません。各地の大名(六角氏、今川氏など)が自国内で行っていた制度であり、道三も美濃の国を発展させる目的で楽市楽座を取り入れている。楽市楽座は現代風に言うと「市場開放、経済特区」である。信長は舅の道三を見習って「楽市楽座」は自国の産業振興には欠かせないと判断して取り入れたのであろう。
嫡男の斉藤義龍に討たれて戦死す
長良川の戦い、1556年嫡男、義龍との戦い。多勢(義龍軍17,500)に無勢(道三側、2,700)、奮戦するも虚しく、敗戦。信長の援軍間に合わず戦死する。享年六十三歳。戦死する前に、美濃は信長に任せると言う遺言を託す。嫡男の義龍ではなく娘婿(信長)に託すると言う事は、いかに道三が信長を信頼していたか、それを物語る確かな証拠である。道三にとっては波乱万丈、満足できる人生であったと推測する。
●辞世の句 3
   捨ててだにこの世のほかはなき物を いづくかつひのすみかなりけむ
(この世のほかは捨ててしまって、残ったのはこの身この命だけだ。私の最期の地とはいったい何処になるだろうか。)
不明の出自
道三の出自は不明なことが多いです。なぜならば、元々格式ある武家の出ではなく、それどころか父が浪人の身であることから、あまり記録が残されておりません。きちんと記録が残っているのは、11歳で出家しており、妙覚寺に僧侶となった時あたりからです。
名を変え、職を変え
定着している道三の名は、隠居後の寺に入った時の名であり、法号です。最終的には利政の名に落ち着きますが、幼名には峰丸、出家した後は法蓮房、20歳になり還俗し、油商人となった時は、『山崎屋』の屋号を称していたといいます。武家の出ならまだしも、浪人商人で名を変え続けるのは珍しいです。そして、武士になった後は西村勘九郎を名乗ります。
あまり有名ではありませんが、変更は名だけではありません。父の姓が『松波庄五郎』であったことから、道三は、姓も変えていることになります。養子に入ったわけでもない姓の変更は、道三の下剋上と深い結びつきがあります。
下剋上の代名詞
家格の無い者が這い上がった様、格下の者が格上を打ち崩す様を『下剋上』といいますが、道三はまさに下剋上の代名詞のような人物です。
武士となった道三は、美濃国の守護、土岐氏の家臣である長井長弘に仕えます。当時は応仁の乱から、内紛続きの毎日でした。武才で活躍を挙げていた道三は、土岐家当主,政房の二男、頼芸から一目を置かれていました。
誰が裏切るか分からない毎日の中で、長井長弘が土岐氏に反旗を翻しました。力のあった長弘は、実質的に政権を握るようになりなります。主君が力をもったとはいえ、守護は土岐氏にあり、長弘は出世を妨げる存在でした。
そんな折に、頼芸の兄、頼武と家督争いが勃発。道三は頼芸側に付き、見事兄の追放に成功し、より頼芸の信頼を得ることとなります。そしてその三年後、主君の長弘を不行跡(品行が良くないこと)の罪によって殺害します。そして、自信を長井新九郎規秀と名乗りました。ここで、長弘の居城であった稲葉山城の城主の座も奪取します。
さらにこの三年後、美濃国の守護代である斎藤利良が病死し、その名跡を次いで斎藤新九郎利政を名乗り、地位を上げていきました。
美濃国盗り
先の兄弟の土岐家の家督争いで決着がついたと思いきや、頼武の嫡男が父の仇と言わんばかりに攻勢をしかけており、また、六角家や朝倉家の助勢も加わって、美濃国は混沌としていました。
強かな道三は、ここで行動を起こします。目をかけてもらっていた、頼芸の弟である頼満を毒殺。誰の目にもわかる謀反です。その翌年には頼芸当人もまでも大桑城から追放します。あっという間に実質的な美濃国主へと昇りつめます。
しかし頼芸も黙っていません。反撃の算段を整えます。織田信長の父である信秀と朝倉孝景の後ろ盾をもって侵攻し、揖斐城から革手城を取り返します。
また、信秀は本拠である稲葉山城に侵攻しますが、堅守と名高い稲葉山城はびくともせず。逆に、帰陣の折を攻め入れられ軍が崩壊し、信秀の弟の信康が討死。大きな損害を被ります。和睦しか道がなくなった信康は、道三の娘,帰蝶と信秀の息子,信長が結婚することで決着しました。そして道三は、後ろ盾が欠けた頼芸を再び追放します。ここで完全な美濃国の乗っ取りが完成しました。戦国の下剋上です。
道三と信長
姻戚関係が結ばれた斎藤家と織田家。
しかし、娘を嫁がせた男は『大うつけ』のうわさで評判でした。道三は帰蝶に『うつけの評が真なれば、命を奪え』と言い聞かせ小刀を託します。それに対し、『この小刀で父上を指すことになるかもしれません』と返され、道三に負けない帰蝶の強さがにじみ出る一面もありました。
また、信長を呼び面会をすることになったとき、お忍びで小屋から信長の風体を観察します。湯帷子で評判通りのたわけの姿に呆れるもいなや、寺に入った信長は、屏風を引き回し、髷を結い正装に着替え始めました。家臣にも内緒にされていたこの行動に、(日頃のたわけは芝居であったのか)と思わせたと言います。道三も豹変した信長の姿に驚かされます。そして取り巻きの長槍隊に目をやると、自軍よりも長いことに気付きます(長いほど修練が必要)。
面会の後、道三は部下から「噂通りのたわけでしたな」と言われると、「無念なことだが、わしの息子らは、そのたわけの門外に馬をつなぐ(手下になる)ことになるだろう」と返し、義理息子の才覚を見抜きました。
その後、ワンマン経営な道三を訝しがった家臣や諸国人が、息子の義龍をたきつけて謀反を起こさせます。長良川をはさんで両陣営が対峙するとき、道三は『美濃一国譲り状』なる文をしたためました。これは、信長に美濃を譲るというものです。義龍に敗れることを覚悟しつつ、次代を担うものに領地を譲り渡そうとしたのです。信長は援軍として美濃に向かいますが間に合わず。道三の人生はここで幕を下ろします。
しかし、この九年後、信長は譲り状の約束を守るように義龍の息子、龍興を討って稲葉山城を手に入れるのです。
●斎藤道三 1
斎藤道三の生涯を解説!息子の義龍に討たれて戦死
下剋上の代名詞とも言われる斎藤道三。その経歴は、はっきりわかっておらず、まだまだ研究中です。これまでは一代で美濃を平定したと思われていましたが、近年は父親の代から国盗りが行われてきたのではないかということが定説となってきています。
何事にも器用で、知略にも優れており、その恐ろしさから「マムシ」と呼ばれていました。今回は一代で下剋上を成し遂げたとされる通説をご紹介します。
斎藤道三の幼少期のことは明らかになっておらず、出生年は1494年とも1504年ともいわれています。父親は松波左近将監基宗で、山城国に生まれたという説が有力です。京都の妙覚寺で11歳の時に得度を受け、僧侶となりました。
その後、美濃へ行き、油商人として成功します。一文銭の穴を通して油を注ぎ、油がこぼれたら代金はもらわないというパフォーマンスで人気者となりました。
武士になろうと一念発起した道三は、商人を辞めて僧侶時代のつてを頼り、長井長広の家臣となることができました。そして持ち前の武芸と知略で頭角を現し、土岐守護の次男・土岐頼芸の信頼を得ることとなるのです。
1527年、土岐家の家督争いにも貢献し、頼芸の兄・頼政を追放することに成功。さらには主であった長井長広も殺害し、長井を名乗っています。
1538年、美濃守護代の斎藤利良が病死すると、斎藤を名乗るようになりました。その後道三は土岐家の弱体化を狙って、頼芸の弟である頼満を毒殺します。ここから頼芸と対立するようになり、1542年、ついに頼芸を尾張へ追放して美濃国主となりました。
頼芸は織田信秀を頼って美濃へ戻ってきましたが、斎藤道三は娘の帰蝶を織田信長に嫁がせることで信秀と和睦し、頼芸を再び尾張へ追放。道三は完全に美濃を制覇することができたのです。
1554年、家督を息子の義龍へ譲り、道三は隠居。ここで初めて道三という名となりました。しかし元土岐頼芸の側室であった妻が生んだ義龍との関係は上手くいきません。義龍は、土岐家の元々の家臣たちの支持を受けて1555年に挙兵します。
道三が可愛がっていたとされる次男と三男も殺され、1556年に「長良川の戦い」で戦死しました。
斎藤道三の名言。野望の人ゆえの寂しさ
多くの戦国大名は、辞世の句を残して亡くなります。斎藤道三ももちろんそれを残していますが、彼の人生を体現するかのような名言になっています。
「捨ててだに この世のほかは なき物を いづくかつひの すみかなりけむ」
「すべてを捨てて、今はこの世に何一つ残ってもいない。どこが私の最期の安住の地となるのだろうか」という意味です。
斎藤道三は、その生涯を裏切りや謀略で過ごしました。才覚こそは確かに世間を冠絶していましたが、1度狂ってしまった歯車を止めることはできなかったのでしょう。道三時代の美濃の統治を『信長公記』では「残虐な刑罰が絶えず行われていた」と書かれているように、力で支配しなくてはいけない時代を招いたのも彼でした。
結局、才覚一本で渡り歩くには、人間の世はあまりにも切ないもの。斎藤道三は野望の人ではあっても、決して世を治められる桀物ではなかったのです。織田信長は、道三の才あるゆえの悲劇を目の当たりにして、天下統一への意志を固めたのかも知れません。
斎藤道三と織田信長に関するエピソードを3つ紹介!
1 信長を早くから評価していた英傑
斎藤道三の美濃斎藤家と、織田信秀の尾張織田弾正忠家は、道三が追い出した守護の土岐氏を信秀が保護していた関係から、対立していました。しかし道三はこの状況を打破するために、自分の娘・帰蝶と、信秀の嫡男・信長の政略結婚を画策します。
斎藤道三は信長をうつけだと聞いていましたが、婚姻成立後に道三が信長と面会した際、信長は鉄砲を携えた護衛隊を従え正装で彼を出迎えました。道三は信長を見て「いつかお輪が息子達はこの男のために馬をひくこととなるだろう」といい、信長の才を早くから見抜いたといわれています。
実際、道三はのちに遺言として「美濃は婿の信長に譲る」と明言しているくらいですから、道三にとって世界が変わるほどの出来事だったのでしょう。
2 信長の楽市・楽座は、斎藤道三から学んだ?
織田信長の政策で有名なのが、楽市・楽座です。しかし実は、信長以前から楽市・楽座を実施していた大名は数多くいました。斎藤道三も事実上美濃国主となってからは楽市・楽座を実施しています。
ほかには近江の六角義賢、安芸の毛利元就、駿河の今川氏真なんかも市場の重要性と既得権益を貪る寺社勢力や株仲間に危機意識を持っていました。
道三といえば司馬遼太郎氏の『国盗り物語』によって広く知られるようになりましたが、この中のセリフで「かつて美濃紙というのは座でつくられていて非常に高価なものであった。けれど、俺の政策によって誰もが気楽に使えるようになった」というものがあります。
楽市・楽座の定義はその土地で商売を営む際に場所代を税金として支払う必要なく、自由に開いていいとすることです。道三の家は元が商売人という流れから当時商売人が受けていた不条理と既得権益の独占を知っていたのかもしれません。まして美濃の土岐家は源氏の流れをくむ格式ある家、その辺の感覚は道三とは正反対だったでしょう。
信長は後に楽市・楽座を当然道三から「譲り受けた」美濃でも実行してます。しかし楽市・楽座は同時に商人を定着させる政策でもあり、商売が寺社のものから商人のものへと変化していくのです。
3 岐阜で行われている道三まつり
岐阜県では先述の『国盗り物語』が大河ドラマとなって以来、毎年4月の第1土曜と翌日日曜に「道三まつり」が行われています。大河ドラマの放映は1973年ですが、道三まつりは1年早い1972年がスタートです。
元々岐阜では岐阜まつりという地域祭が毎年4月初旬に行われていましたが、大河ドラマ放映決定をきっかけに斎藤道三という人物が見直され、1972年に行われた信長まつりから斎藤道三を独立させて翌年から岐阜まつりと一緒に道三を祭るようになりました。
まつりは2日間に渡って行われ、道三の菩提寺である常在寺にて道三の追悼式、楽市・楽座にちなんだ歩行者天国・フリーマーケット、岐阜まつりの神輿パレード、道三・義龍親子の復元模写等のイベントが行われ、毎年この時期の岐阜県では盛り上がりを見せています。
斎藤道三と息子の斎藤義龍に、血縁関係はない?
戦国大名のなかでも謀略を尽くして成り上がった斎藤道三は、黒い噂が絶えませんでした。その代表が、長男の義龍が実は道三の子ではないとする説です。
時は、斎藤道三が土岐家の政権争いに介入を始めた頃に遡ります。
美濃本来の守護は、土岐家という源氏の一族でした。当時土岐の当主は政房でしたが、政房は長男の頼武に問題がなかったにも関わらず次男の頼芸(よりよし)に家督を継がせようと考えていました。この兄弟喧嘩を煽って最終的に頼芸に花を持たせたのが、道三なのです。
頼芸には深芳野という愛妾がいましたが、彼は道三へ深芳野へと下賜します。それから間もなく2人の間に長男の義龍が生まれました。
しかし、江戸時代に書かれた文献では、深芳野は道三に与えられた時点ですでに頼芸の子を身ごもっており、それを道三の子だと偽ったとする説もあります。
斎藤道三の甥は明智光秀、娘婿は斎藤利三
斎藤道三の正室は、小見の方という人物。彼女の父親は、美濃の土豪・明智光継、兄は明智光綱です。この光綱の息子が、明智光秀。明智家は土岐家の支流で光継の時代から道三に与して生き残っていましたが、光綱が亡くなった際、光秀はまだ幼少だったため叔父の光安が後を継ぎます。
しかし「長良川の戦い」で、明智家は道三に与したため族滅、生き残ったのは光秀や三宅弥平次(明智秀満)、斎藤利三らわずかな者たちでした。
ところで斎藤利三は、一説によると斎藤道三の娘を最初の正室として娶ったといわれています。利三こそが正統な斎藤家の一族であるため、こうした配慮がなされたと考えられますが、真偽は定かではありません。
こう見ると、「本能寺の変」の首脳メンバーは、道三の影響を少なからず受けた人物たちです。下克上はDNAとも教育の賜物ともいいますか、処世術にも何か通じるものがあるように感じます。
斎藤道三は人望に欠けた野望の人だった
位を力で奪ったはいいですが、斎藤道三はその後の処理を誤ってしまいます。道三の台頭は傀儡とはいえ、いまだ名声豊かな土岐頼芸あってのこと。しかし道三は頼芸の弟・頼満を毒殺するなど、早くから土岐家に対して攻撃を仕掛けるのです。当然頼芸は、道三とは断交して抗戦しますが、やがて頼芸は道三によって美濃を追放されてしまいます。
斎藤道三は、それ以前から栄達のきっかけをくれた長井長弘を殺すなど、手段を選ばない狡猾なところがありましたが、こうした行為の数々は当然国人からはよく思われておらず、息子の義龍を筆頭に大勢から非難を浴びることとなります。
さらに、義龍がいながら弟の孫四郎と喜平次を溺愛し、喜平次に「一色右兵衛大輔」と名乗らせ土岐家の祖である一色家を継がせるという意思表示をしました。この結果、「長良川の戦い」では美濃三人衆をはじめ、ほとんどの国人が義龍に与し、道三に与した明智家等は族滅の憂き目に遭わされるのです。
斎藤道三は、かねてから義龍を「無能、おいぼれ」と侮っていましたが、「長良川の戦い」までの経緯と戦での義龍の采配を見た道三は、義龍と立派な男だと認め、自分が下した評価が間違っていたことを死をもって認識させられた形になってしまいました。
●斉藤道三 2
歴史上の人物の中でも極悪非道な武将の一人としていまでも語り継がれている斎藤道三。「美濃のマムシ」とも呼ばれ恐れられていますが、非常に頭の切れる優秀な武将であったともいわれています。一介の油商人だったところから、一国一城の主にまで登りつめた斎藤道三の人生に迫ります。
プロフィール
斎藤道三は、諸説ありますが有力なものとして、明応3年に山城乙訓郡西岡で生まれたという説があります。北面武士と呼ばれる院の北面を警護する武士の家系であり、当時は峰丸という幼名で呼ばれていました。11歳になると京都妙覚寺にて出家の儀式を受け、法蓮房という名前の僧侶として過ごした経歴があります。
家紋
斉藤家の家紋は「二頭立波」と呼ばれる家紋で、なんと道三自身が作った紋といわれています。もともと美濃斎藤氏では、大和撫子をイメージした「撫子」と呼ばれる家紋が使われていましたが、道三は自分が城主となり斉藤を受け継いだ際、この家紋から「二頭立波」に変更しました。見た目通り、荒々しく立った波をそのままデザインとして取り入れたもので、波の紋は力強さをイメージしたものだといわれています。また、武家で多く使用されてきた紋であることから取り入れられたともいわれています。
居城「稲葉山城」
斉藤道三は僧侶時代から油商人を経て美濃の有力者の一人である長井氏に仕えることになります。しかし自身の出世により不仲となってしまったことをきっかけに道三は長井氏を殺害。そこで長井氏の居住であった「稲葉山城」の乗っ取りに成功します。
その後道三は稲葉山城の大改修を行い、領国支配の拠点として固めました。稲葉山城は一朝一夕では落ちない難攻不落の城といわれ、道三はこれをきっかけに主人であった土岐頼芸を殺害、一気に美濃の国を自分の手中へと収めていきます。土岐頼芸に仕えた当時は多大な信頼を勝ち取っていたとされており、幾人を裏切ってでも稲葉山城を拠点としようとする道三の悪人ぶりがわかるエピソードです。
死因と最後
斉藤道三は嫡男である義龍との「長良川の戦い」にて最期を迎えます。1554年、自身が国主を務めた美濃の国を義龍に譲った後、斉藤道三は一線を退き隠居します。しかし義龍は道三とは真逆といっても良い性格であったことから、次第に「この耄者に任せられん」と考えるようになり、長男である義龍を差し置いて弟たちを溺愛し始めます。それに伴い、道三と義龍の不仲となったことから2人は対立。ただの親子喧嘩が長良川の戦いという合戦となってしまったわけです。
道三の性格もあって、より兵が集まっていた義龍軍が優勢。最期は攻め立てられ、義龍の部下によって首を切り落とされたことが道三の死因といわれています。
これをきっかけに義龍は自身を父を殺したはんか者と名乗りますが、道三は死に際に「虎を猫と見誤るとはワシの眼も老いたわ。しかし当面、斉藤家は安泰」という言葉を残して亡くなったといわれています。最初から最後まで相容れなかった道三と義龍ですが、死ぬ間際の最期の瞬間に道三の父としての一面を見ることができる言葉ともいえますね。
娘「帰蝶」
斉藤道三の娘で有名な人物に三女の帰蝶がいます。その名ではあまり知られていませんが、後に濃姫と名乗って信長の正室となる歴史上の女性の中でも名の知れた人物です。道三の息子である義龍とは異母兄弟であり、一説によると、かの明智光秀と従兄弟関係にあるのではないかといわれています。
有名な人物ですが史料が少なく、謎も多く残っています。信長に嫁いだときは弱冠15歳であったといわれており、政略結婚でありながらもあの信長の正室を務めあげただけに肝の据わった女性として描かれることが多い人物です。
息子「斉藤 義龍」
斉藤道三を語るのに避けられないのが息子である斉藤義龍です。義龍は道三の隠居により美濃の国の国主として稲葉山城の主となりました。しかしこの交代は道三が進んで行ったものではなく、道三の経営のやり方についていけなかった家臣によって行われたものであるという見方もあります。
そういった経緯にくわえ、義龍自身が戦に対し好戦的でないおとなしい性格だったことから、道三は義龍を「耄者」として見るようになります。幼いころは僧侶であった自身が油商人を経て武将にまで上り詰めた経験もあって、行動を起こさない義龍にもどかしい思いを抱いていたのかも知れません。
この当時の道三と義龍の不仲が後の長良川の戦いに繋がるのですから驚きですね。
子孫、末裔
道三の子は義龍、帰蝶を含め7人いたとされています。その下の代については帰蝶と信長の間にも子どもはいなかったとされており、他の兄弟にも子どもがいたかどうかは不明といわれています。
道三の末子であった斉藤利治は後に織田家に亡命したことで長男の義龍と美濃斉藤家当主を争うこととなります。そういった交戦で信長との戦いが続くなか、義龍は35という若さで急死したといわれています。
義龍の後は子である斉藤龍興が跡を継ぎますが、道三と同じく家臣からの信頼は薄かったとされており、織田軍との一戦で戦死したといわれています。
斉藤道三について
壮大な親子喧嘩の元死んでいった斉藤道三。自ら下剋上を果たしながらも、周りからの信頼を勝ち取れなかった道三ですが、ここから彼の本当の姿を暴いていきます。
道三の異称「美濃のマムシ」
斉藤道三の別名ともいえる「美濃のマムシ」。美濃の国の領主となるまでの下剋上精神が親の腹を食いちぎって生まれてくるとされるマムシにたとえられこう呼ばれています。道三は幼いころは僧侶として粛々とした日々を送っていましたが、美濃へ渡った後、油商人としてパフォーマンスを見せながら油を売り歩きます。その仕事の出来と人間的な魅力から美濃の有力者である長井家に仕えますが、恩人であった長井氏を殺害し乗っ取りを起こします。その後自分の主人であった土岐頼芸の城をも奪うという、まさにマムシのような行動を度々起こすわけです。恩人であれ、主人であれ、出世のためなら裏切りを起こすといったところが美濃のマムシと呼ばれる所以でしょう。
油売りだった経歴は実はウソ?
美濃のマムシとしての下剋上ストーリーが有名な斉藤道三ですが、実は油売りから戦国大名になった経歴は嘘だったのではないかという説があります。そのもととなったのが後に発見された古文書「六角承禎条書写」です。
六角承禎条書写によるとそもそも僧侶であったのは道三ではなく道三の父であり、長井氏に仕えたのもこの父だったと述べられています。つまり美濃の国盗りは道三だけによるものではなく、道三の父と親子二代によるものだったといわれているのです。
ちなみにこの六角承禎条書写には油売りというフレーズはひとことも出てこないとのこと。どちらにしてももともと僧侶の息子であった経歴から戦国大名にまでなりあがったという説は残っているのですから、下剋上になる素質はもともと備わっていたのかもしれません。
名言
「山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべき事、案の内にて候」
斉藤道三がうつけと評判であった織田信長と初めて対面した際、多くの兵士を率いている信長の姿を見て「評判どおりのうつけだった」と述べた家臣へ「自分達の息子はそのうつけの下に就くことになる」と告げた言葉です。
誰から見てもうつけにしか見えない信長でしたが、道三はその才能を見抜いていたともいえます。戦国の地で下剋上を果たした道三の一流さがわかる一言ですね。
「捨ててだに この世のほかは なき物を いづくかつひの すみかなりけむ」
戦国の武将の中でも特殊な人生を送った斉藤道三の辞世の句です。何もかも捨て去り身一つとなったいま、自分の身が行きつく先はどこなのか、という意味を持つ言葉で、道三自身の弱さや寂しさを感じさせる一句となっています。裏切りが常に傍に付き添っていたかのような人生であったために、彼自身も最期に行きつく安息の地はどこなのかという思いがあったのかもしれません。また最期くらいは、と道三自身本当は安息の地を求めていたともいえる言葉ですね。 
 
 

 

毛利元就 1571
友を得てなおぞうれしき桜花 昨日にかはる今日のいろ香は  
●辞世の句 1 
   友を得て なおぞ嬉しき 桜花 昨日にかはる 今日のいろ香は
(1 一緒に桜をみる友を得て、桜も私も嬉しい。同じ桜を観ていても、昨日に比べて今日では桜の香りも良いように思える。)
(2 先だった友が迎えに来たようだ。今日の桜は昨日見たときより色香が際立っている。)
(3 友を得られたことがとても嬉しい。今日の桜の色香が昨日と違うように、(友を得られた)今日はまた違った1日となるだろう。)
毛利元就 / 戦国時代の武将・大名。毛利氏の第12代当主。10カ国120万石を支配した中国地方の覇者。「戦国最高の知将」「稀代の策略家」とも評された。享年74、食道がん・老衰のため死去。 
●辞世の句 2 
   友を得て なおぞ嬉しき 桜花 昨日にかはる 今日のいろ香は
毛利元就は安芸の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、一代で中国地方を制覇します。
傑出した戦略家・謀略家。戦国時代最高の智将、「謀神」とも呼ばれ、用意周到な策略で自軍を勝利へ導く稀代の策略家でした。
毛利弘元の次男として生まれ、幼名を松寿丸といいます。父・弘元が、三十五歳の若さで隠居すると、嫡男幸千代丸に、家督と本城である吉田郡山城を譲り、自身は元就を連れて猿掛城に移りました。五歳のときに母を十歳のときに父を相次いで失った元就は、幼くして猿掛城主になりますが、家臣の裏切りに遭い、猿掛城を追われます。
その困窮した境遇を「乞食若殿」と揶揄されるなか、継母の杉大方に養育されます。兄が急死したため、家督を幼少の嫡男が継ぎ、元就が後見することになりました。
幼い主君に代わり戦場に出た元就は抜群の活躍を見せ、毛利家中の信望を集めます。主君が九歳で夭折すると、重臣たちの推挙で元就が家督を継ぎました。
毛利氏ははじめ尼子氏に仕えていましたが、当主経久が元就の家督相続に反対したため、尼子氏と次第に敵対関係となり、大内義興の傘下となります。
尼子晴久が三万の兵で元就の本拠地である吉田郡山城を攻めた際に、兵を撃退すべく、児玉就忠・福原貞俊を派遣。敗北しますが、大内氏の援軍もあり尼子軍を退けます。
元就には九男二女がいて、長女を甲立城の城主、穴戸元源に嫁がせると、二男、元春の妻には備中高松城の熊谷信直の娘を迎えて、元春を吉川家に養子に入れ、また三男、隆景には沼田小早川の娘をめとって、隆景を小早川氏へ養子に出し毛利家に組み込みます。これにより、小早川氏の水軍を手に入れ、安芸一国の支配権をほぼ掌中にしました。
1551年 陶晴賢は主君である大内義隆を討ち大内氏の実権を握ると元就は一応の協調姿勢をしめしながら勢力を広げます。
しかし陶晴賢との関係が悪化して対立すると、厳島の戦いで多数の謀略を張り巡らせ、陶軍の兵力約二万を毛利軍はわずか四千でやぶると、大内氏の領地を手中に収め一躍大国の大名に成長します。
1563年に宿敵尼子氏を攻めている最中に長男の隆元を亡くします。元就は悲しみに耐えながら、跡をついだ孫の輝元を補佐します。
1566年に尼子氏を倒し中国地方の覇者になると孫の輝元を次男元春、三男隆景にたくして亡くなります。享年七十五歳でした。 
●毛利元就 
戦国時代の武将・中国地方(山陽道・山陰道)の武将・大名。毛利氏の第12代当主。安芸吉田荘の国人領主・毛利弘元の次男。毛利氏の本姓は大江氏。正式な姓名は、大江 元就(おおえ の もとなり)。家紋は一文字三星紋。  
用意周到かつ合理的な策略および危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く策略家として知られ、軍略・政略・謀略と、あらゆる手段を弄して一代のうちに一国人領主から芸備防長雲石の六ケ国を支配する太守へとのし上がった。子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられている。
生涯
   家督相続
明応6年(1497年)3月14日、安芸の国人領主・毛利弘元と正室の福原氏(福原広俊の娘)との間に次男として誕生。幼名は松寿丸。出生地は生母の実家の鈴尾城(福原城)と言われており、現在は毛利元就誕生の石碑が残っている。
明応9年(1500年)、幕府と大内氏の勢力争いに巻き込まれた父の弘元は隠居を決意した。嫡男の毛利興元に家督を譲ると、松寿丸は父に連れられて多治比猿掛城に移り住む。
文亀元年(1501年)には実母が死去し、松寿丸10歳の永正3年(1506年)に父・弘元が酒毒が原因で死去した。松寿丸はそのまま多治比猿掛城に住むが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまう。この困窮した生活を支えたのが養母であった杉大方である。杉大方が松寿丸に与えた影響は大きく、後年半生を振り返った元就は「まだ若かったのに大方様は自分のために留まって育ててくれた。私は大方様にすがるように生きていた。」「10歳の頃に大方様が旅の御坊様から話を聞いて素晴らしかったので私も連れて一緒に2人で話を聞き、それから毎日欠かさずに太陽を拝んでいるのだ。」と養母の杉大方について書き残している。
永正8年(1511年)、杉大方は京都にいた興元に使いを出して松寿丸の元服について相談し、兄の許可をもらって松寿丸は元服した。そして、多治比(丹比)元就を名乗って分家を立て、多治比殿と呼ばれるようになった。
永正13年(1516年)、長兄・興元が急死した。死因は酒毒であった。家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼少のため、元就は叔父として幸松丸を後見する。
永正14年(1517年)10月22日、有田城下において、佐東銀山城主・武田元繁を討取った(有田中井手の戦い)のが元就の初陣である。武田勢は熊谷元直も戦死し敗走した。元就の存在が初めて京都の大内義興に知られたのはこのときであり、義興から「多治比のこと神妙」という感状を与えられたと、元就自身が記している。この戦いの後、元就は大内氏から尼子氏側へ鞍替えし、幸松丸の後見役として安芸国西条の鏡山城攻略戦(鏡山城の戦い)でも、その智略により戦功を重ね、毛利家中での信望を集めていった。詳細な時期は不明であるが、この頃に吉川国経の娘(法名「妙玖」)を妻に迎える。27歳で長男の隆元が生まれているので、初陣から27歳までの間で結婚したと言われている。
大永3年(1523年)7月、甥の毛利幸松丸がわずか9歳で死去すると、分家の人間とはいえ毛利家の直系男子であり、家督継承有力候補でもあった元就が志道広良をはじめとする重臣たちの推挙により、27歳で家督を継ぎ、毛利元就と名乗ることになった。しかし、毛利家内では家督について揉め事があったらしく、この家督相続に際して毛利氏の重臣15名による「元就を当主として認める」という連署状が作成され、8月10日に元就は吉田郡山城に入城した。当主になった元就は連歌の席で「毛利の家 わしのはを次ぐ 脇柱(あくまで自分は分家の身であるから、と謙遜の意味)」という歌を詠んでいる。
大永4年(1524年)4月、元就の継承に不満を持った坂氏・渡辺氏らの有力家臣団の一部が、尼子経久の指示を受けた尼子氏重臣・亀井秀綱支援の下、元就の異母弟・相合元綱を擁して対抗したが、元就は執政・志道広良らの支援を得て元綱一派を粛清・自刃させるなどして家臣団の統率をはかった。
元綱粛清後、元綱の子は男子であったが助けられ、後に備後の敷名家を与えられている。元就自身が書いたとされる家系図にはこの元綱の子だけでなく三人の孫まで書かれている。また、僧侶になっていた末弟(元就・元綱の異母弟)の就心に頼みこんで還俗させ、就勝の名を与え、北氏の跡を継がせて側に置いた。
なお、この事件はこれで収まらず、謀反を起こした坂氏の一族で長老格であった桂広澄は事件に直接関係はなかったが、元就が止めるのも聞かず、一族の責任を取って自害してしまった。元就の命を聞かずに勝手に自害したことで桂一族では粛清を受けるものと思い、子の桂元澄を中心に一族で桂城に籠って自刃しようとしたが、元就の懇願もあって思いとどまり、以後も桂氏は毛利家重臣として存続することになった。なお、この事は毛利家中に広く伝わったらしく、後に防芸引分の際に隆元が元澄に、「元就にあの時命を助けられたのだから今こそその恩を返すべく元就が陶氏に加勢しに行くのを引きとめてほしい」と要請している。また、この時謀反を起こし粛清された渡辺勝の息子、通は乳母に助けられ備後の山内家へ逃げている。
   勢力拡大
家督相続問題を契機として、元就は尼子経久と次第に敵対関係となり、大永5年(1525年)3月に尼子氏と関係を断ち、大内義興の傘下となる立場を明確にした。
享禄2年(1529年)11月、かつて毛利幸松丸の外戚として元就に証人を出させるほどの強大な専権を振るい、尼子氏に通じて相合元綱を擁立しようと画策した高橋興光ら高橋氏一族を討伐。高橋氏の持つ安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れた。
天文4年(1535年)、隣国備後の多賀山通続を攻め、降伏させた。
一方で、長年の宿敵であった宍戸氏とは関係の修復に腐心し、娘を宍戸隆家に嫁がせて友好関係を築き上げた。元就が宍戸氏との関係を深めたのには父・弘元の遺言があった。元就が後年手紙で、「父・弘元は宍戸氏と仲をよくしろと言い遺されたが、兄の興元の時は戦になってそのまま病でなくなってしまい、父の遺言は果たせなかった。しかし、それは兄はまだ若かったからしかたなかったことだ。だが、元源殿はなぜか自分の事を気に入って下さって水魚の交わりのように親しくつきあってくださった。」と述べている。元就は宍戸元源の方から親しく思ってくれたとしているが、実際は宍戸氏とも争っていた高橋氏の旧領の一部を譲る等、積極的に働きかけていた。宍戸家家譜によると正月に数人の伴を引き連れて元就自身が宍戸氏の五龍城を訪れ、元源と気が合ったため、そのまま2人で枕を並べて夜遅くまで語り合い、その中で元源の孫の隆家と娘(後の五龍)との婚約が決まったと伝わる。なお、宍戸隆家は生まれる前に父を亡くしており、母の実家の山内家で7歳まで育ったため、宍戸氏と誼を結ぶことで山内氏とも繋がりができた。また、元源の兄である司箭院興仙は細川政元の側近であり、政元の暗殺後も興仙の子孫が細川氏に仕えていたため、中央と独自の政治的パイプを持っていた元源と関係を深めることは、後年元就が尼子氏を牽制するために細川氏や赤松氏と関係を持った際に役に立つことになった。前述の渡辺氏の生き残りである渡辺通が許されて毛利家に戻って元就に仕えたのもこの頃と考えられている。
その他、一時大内氏に反乱を起こし窮地に追いやられた天野氏や、安芸武田氏と関係が悪化した熊谷氏とも誼を通じ、安芸国人の盟主としての地位を確保した。毛利家中においても、天文元年(1532年)に家臣32名が、逃亡した下人らを匿わずに人返しすることなどの3カ条を守り、違反者は元就が処罰するという起請文を連署して捧げている。
天文2年(1533年)9月23日付けの『御湯殿上日記』(宮中の日誌)に、大内義隆より「大江のなにがし」を応永の先例に倣って官位を授けるように後奈良天皇に申し出があったという記事がある。これは毛利(大江)元就をその祖先である毛利光房が称光天皇より従五位下右馬頭に任命された故事に倣って同様の任命を行うようにという趣旨であった。元就は義隆を通じて4,000疋を朝廷に献上する事で叙任が実現することになった。これによって推挙者である大内義隆との関係を強めるとともに、当時は形骸化していたとは言え、官位を得ることによって安芸国内の他の領主に対して朝廷・大内氏双方の後ろ盾があることを示す効果があったと考えられている。また、同時期には安芸有力国人である吉川氏当主吉川興経から尼子氏との和睦を斡旋されるが、逆に尼子方に断られてしまっている。
天文6年(1537年)、長男の毛利隆元を人質として、大内氏へ差し出して関係を強化した。
天文8年(1539年)、従属関係にあった大内氏が、北九州の宿敵たる少弐氏を滅ぼし、大友氏とも和解したため、安芸武田氏の居城佐東銀山城を攻撃。尼子氏の援兵を武田氏は受けたものの、これにより、城主武田信実は一時若狭へと逃亡している。
天文9年(1540年)、経久の後継者である尼子詮久率いる3万の尼子軍に本拠地・吉田郡山城を攻められるが(吉田郡山城の戦い)、元就は即席の徴集兵も含めてわずか3000の寡兵で籠城して尼子氏を迎え撃った。家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏らの協力、そして遅れて到着した大内義隆の援軍・陶隆房の活躍もあって勝利し、さらにこの戦いの顛末を記録した文書を幕府に提出(毛利元就郡山籠城日記)して称賛を受け、安芸国の中心的存在となる。同年、大内氏とともに尼子氏の支援を受けていた安芸武田氏当主・武田信実の佐東銀山城は落城し、信実は出雲へと逃亡。安芸武田氏はこれにより滅亡した。後に信実は室町幕府に出仕し、元就の没後に織田信長に追放された足利義昭に従って毛利氏を頼ることになる。また、安芸武田氏傘下の川内警固衆を組織化し、後の毛利水軍の基礎を築いた。
天文11年(1542年)から天文12年(1543年)にかけて、大内義隆を総大将とした第1次月山富田城の戦いにも、元就は従軍した。しかし、吉川興経らの裏切りや、尼子氏の所領奥地に侵入し過ぎたこともあり、補給線と防衛線が寸断され、さらには元就自身も4月に富田城塩谷口を攻めるが敗れ、大内軍は敗走する。この敗走中に元就と隆元は大内軍の殿軍を命じられ、死を覚悟するほどの危機にあったが、渡辺通らが身代わりとして戦死、窮地を脱して安芸に帰還することができた。
天文13年(1544年)、元就は手始めに強力な水軍をかかえる竹原小早川氏の養子に三男・徳寿丸(後の小早川隆景)を出した。小早川家には元就の姪(兄・興元の娘)が嫁いでおり、前当主の興景は吉田郡山城の戦いで援軍に駆けつけるなど元就と親密な仲であった。天文10年、興景が子もなく没したため、小早川家の家臣団から徳寿丸を養子にしたいと要望があったが、徳寿丸がまだ幼いことを理由に断っている。しかし、当主不在のまま何度か戦いがあり、困った小早川家家臣団は今度は大内義隆に、元就が徳寿丸を小早川家へ養子に出すように頼みこんだ。元就も義隆の頼みを断ることはできず、興景没後3年経ってようやく徳寿丸は小早川家へ養子へ行った。なお、興景を失った竹原小早川氏に対しては、備後神辺城主である山名理興(尼子派)が天文12年に攻め寄せたため、大内軍と共に毛利軍も救援に赴いている。6年後の神辺城陥落(神辺合戦)まで戦いは続いたが、この陣中で徳寿丸は元服して隆景を名乗るようになった。一方同年には、備後三吉氏へ遠征に出た尼子軍を撃退するため、児玉就忠・福原貞俊を派遣したが敗北している(布野崩れ)。ただし、三吉軍の夜襲が成功したため、最終的に尼子軍は退却した。
天文14年(1545年)、妻・妙玖と養母・杉大方を相次いで亡くしている。息子の隆元に宛てた手紙に「この頃は、なぜか妙玖のことばかりがしきりに思い出されてならぬ。」「妙玖がこの世にいてくれたらと、いまは語りかける相手もなく、ただ心ひそかに亡き妻のことばかりを思うのだ。」「内をば母親をもって治め、外をば父親をもって治め候と申す金言、少しも違わず」と述べている。妙玖の名前は、元就から息子に毛利家の結びつきを説くときに語られる、大切な結び目としての母の名であった。
天文15年(1546年)、元就が隠居を表明。隆元が毛利家当主となる。ただし、完全に隠居したわけではなく実権はほぼ元就が握っていたため、隆元もこの時は元就の隠居に反対しなかった。
天文16年(1547年)、妻・妙玖の実家である吉川家へ元春を送りこむ。当時吉川家当主であった吉川興経は新参の家臣団を重用していたため、吉川経世たち一族や重鎮と対立が激しくなっており、家中の統制ができなくなっていた。そこで反興経派は元就に、吉川国経の外孫に当たる次男・元春を吉川氏に養子にしたいと申し出た。元就は初め、元春を子のなかった異母弟・北就勝の養子にする約束があったため断ったが、吉川家の再三の要求に応じて元春を養子に出した。一方、吉川家当主の吉川興経は家臣団によって強制的に隠居させられた。隠居させられた興経は、吉川家家臣団との約束で吉川氏の領内に隠居させる予定であったが、元就は興経派らの動きを封じるため興経を深川に移した。それでも興経派を警戒していた元就は吉川家の当主となった元春をなかなか吉川家の本城へ送らなかった。
ちなみに吉川家相続前に元春は熊谷信直の娘と独断で婚約を結び、元就は熊谷信直へ侘びの手紙と「あいつは犬ころの様なやつだが息子をどうかよろしく頼む」と一言書いている。元春夫婦は結婚後も、吉川家相続の後も吉田郡山城におり、長男の元資(元長)が生まれてもまだ吉田郡山城に留まっていた。元春が吉川氏の本城に入るのは、興経の隠居後の天文19年(1550年)に、将来の禍根を断つため興経とその一家を元就の命で熊谷氏が殺害してからである。
一方で、先の月山富田城の戦いで当主・小早川正平を失っていた沼田小早川氏の後継問題にも介入した。当主・小早川繁平が幼少かつ盲目であったのを利用して家中を分裂させ、後見役の重臣であった田坂全慶を謀殺した上で繁平を出家に追い込み、分家の竹原小早川当主で元就の実子である小早川隆景を後嗣にさせている。これにより、小早川氏の水軍を手に入れ、また「毛利両川体制」が確立、毛利氏の勢力拡大を支えることになるのである。
これにより安芸・石見に勢力を持つ吉川氏と、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏、両家の勢力を取り込み、安芸一国の支配権をほぼ掌中にした。
天文18年(1549年)2月、元春と隆景を伴い山口へ下向する。この時大内家は陶隆房を中心にした武断派と相良武任を中心とした文治派で対立が起こっていた。また、当主の大内義隆は月山富田城で負けて以来、戦に関心を持たなくなっていた事もあり、不満に思っていた陶隆房が山口下向中に元就達の宿所に何度か使いをやっている。なお、元就はこの山口滞在中に病気にかかったようで、そのため逗留が3カ月近くかかり、吉田に帰国したのは5月になってからである。なお、この時元就を看病した井上光俊は懸命に看病したことで隆元から書状を貰っている。
天文19年(1550年)7月13日、家中において専横を極めていた井上元兼とその一族を殺害し、その直後に家臣団に対して毛利家への忠誠を誓わせる起請文に署名させ、集団の統率力を強化。後に戦国大名として飛躍するための基盤を構築していく。しかしながら井上一族をすべて殺したわけではない。先の井上光俊のように看病してもらった者や、井上一族の長老である光兼は元就が太陽を拝むきっかけとなった客僧を招いた屋敷の主であったことなど恩があるものは助命しており、主だった30名のみ処分している。元就自身はこの誅伐に関して手紙で、幼いころに所領を横取りされたことなど積年の恨みつらみを書きしたためているが、家臣を切るのは自分の手足を切るような悪い事であるから決してしてはならないことであると隆景に宛てて書いている。
   厳島の戦い
天文20年(1551年)、大内義隆が家臣の陶晴賢(隆房から改名)の謀反によって殺害され、養子の大内義長が擁立される(大寧寺の変)。元就は以前からこの当主交代に同意しており、11年前の吉田郡山城合戦での盟友でもあった隆房と誼を通じて佐東銀山城や桜尾城を占領し、その地域の支配権を掌握。隆房は元就に安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えた。
元就はこれを背景として徐々に勢力を拡大すべく、安芸国内の大内義隆支持の国人衆を攻撃。平賀隆保の籠もる安芸頭崎城を陥落させ隆保を自刃に追い込み、平賀広相に平賀家の家督を相続させて事実上平賀氏を毛利氏の傘下におさめた。
1553年、尼子方の江田氏が守っていた備後の高杉城、旗返山城を落とし、尼子晴久の安芸への侵入を大内氏の家臣、江良房栄らとともに撃退した。
この際の戦後処理のもつれと毛利氏の勢力拡大に危機感を抱いた陶隆房は、元就に支配権の返上を要求。元就はこれを拒否したため、徐々に両者の対立は先鋭化していった。そこに石見の吉見正頼が隆房に叛旗を翻した。隆房の依頼を受けた元就は当初は陶軍への参加を決めていたが、陶氏への不信感を抱いていた元就の嫡男・隆元の反対により出兵ができないでいた。そこで隆房は、直接安芸の国人領主たちに出陣の督促の使者を派遣した。平賀広相からその事実を告げられた隆元や重臣たちは、元就に対して(安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えるとした)約束に反しており、毛利と陶の盟約が終わったとして訣別を迫った。ここに元就も隆房との対決を決意した(防芸引分)。
しかし、陶隆房が動員できる大内軍30,000人以上に対して当時の毛利軍の最大動員兵力は4,000から5,000人であった。正面から戦えば勝算はない。さらに毛利氏と同調している安芸の国人領主たちも大内・陶氏の圧迫によって動揺し、寝返る危険性もあった。そこで元就は得意の謀略により大内氏内部の分裂・弱体化を謀る。
天文23年(1554年)、出雲では尼子氏新宮党の尼子国久・誠久らが尼子晴久に粛清されるという内紛が起こった。尼子氏が新宮党を粛清の最中、陶晴賢(隆房より改名)の家臣で、知略に優れ、元就と数々の戦いを共に戦った江良房栄を毛利氏に300貫の領地を与えることを条件に内応させる。しかし、房栄がさらなる加増を求めたため、房栄の内応をわざと元就が晴賢に明かしている。隆元は実際、房栄は命を助けてやるだけでも有難いと思うべきなのに、要求する領地が多すぎると不満を手紙で述べている。
そして同年、「謀りごとを先にして大蒸しにせよ」の言葉通りに後顧の憂いを取り除いた元就は、謀反を起こした吉見氏の攻略に手間取っている陶晴賢に対して反旗を翻した。晴賢は激怒し即座に重臣の宮川房長に3,000人の兵を預け毛利氏攻撃を命令。山口を出陣した宮川軍は安芸国の折敷畑山に到着し、陣を敷いた。これに対し元就は機先を制して宮川軍を襲撃した。大混乱に陥った宮川軍は撃破され、宮川房長は討死(折敷畑の戦い)。緒戦は元就の勝利であった。
弘治元年(1555年)、これにまたもや激怒した陶晴賢は今度は自身が大軍を率いて山口を出発した。交通と経済の要衝である厳島に築かれた毛利氏の宮尾城を攻略すべく、厳島に上陸した。しかし厳島周辺の制海権を持つ村上水軍が毛利方についたこともあり、陶晴賢は自刃。大内氏はその勢力を大きく弱め、衰退の一途を辿っていくことになる。
弘治2年(1556年)、備前遠征から素早く兵を撤兵させた尼子晴久率いる25,000人と、尼子と手を結んだ小笠原長雄が大内方であった山吹城を攻撃。これに毛利氏は迎撃に出るが、忍原において尼子晴久に大敗し、石見銀山は尼子氏のものとなる(忍原崩れ)。
弘治3年(1557年)、大内氏の内紛を好機とみた元就は、大内氏の当主・義長を討って、大内氏を滅亡に追い込んだ。これにより九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功した(防長経略)。
同年、家督を嫡男・隆元に完全に譲ろうとするが、隆元はこれを拒絶した。
永禄元年(1558年)、石見銀山を取り戻そうとして毛利元就・吉川元春は小笠原長雄の籠る温湯城を攻撃。これに対して尼子晴久も出陣するが、互いに江の川で睨みあったまま戦線は膠着。翌永禄2年(1559年)には温湯城を落城させ山吹城を攻撃するが攻めあぐね、撤退中に城主本城常光の奇襲と本城隊に合流した晴久本隊の攻撃を受け大敗している(降露坂の戦い)。
   尼子氏・大友氏との戦い
弘治2年(1556年)以降、尼子氏当主・尼子晴久によって山吹城を攻略され石見銀山の支配権を失っていたが、永禄3年(1561年)12月に尼子晴久が死去する。そして尼子氏の晴久急死による動揺もあり、晴久の嫡男・尼子義久は将軍・足利義輝に和睦を願うも、この和睦を元就は一方的に破棄し、永禄5年(1562年)6月に本城常光が毛利氏へ寝返ると、出雲侵攻を開始する。
これに対して晴久の跡を継いだ尼子義久は、難攻不落の名城月山富田城(現在の島根県安来市)に籠城し、尼子十旗と呼ばれる防衛網で毛利軍を迎え撃った。しかし、永禄6年(1563年)に元就は尼子十旗の一である白鹿城を攻略した。
だが一方で、同年8月3日、当主である嫡男・隆元の不慮の死という悲運にも見舞われている。そのため、隆元の嫡子・幸鶴丸が家督を継承したが、11歳の若さであったため、元就が後見して政治・軍事を執行する二頭体制が敷かれた。
永禄8年(1565年)2月、幸鶴丸が吉田郡山城で元服し、将軍・足利義輝の諱一字を拝領して、輝元と名乗った。毛利氏の当主は代々、元就の父・弘元や兄・興元、嫡子・隆元のように守護大名配下の国人領主として元服したが、輝元は将軍より偏諱を与えられる、つまり「国家の支配者」として元服しており、元就の代において毛利氏の地位が大きく向上したことが裏付けられている。もっとも、輝元が将軍の偏諱を受けることができたのは、元就が幕府に働きかけたからであり、永禄7年12月以前から元服の準備が進められていたことが確認されている。
同年3月、元就は輝元とともに出雲へ出陣し、4月に月山富田城を包囲して兵糧攻めに持ち込む事に成功する(第二次月山富田城の戦い)。元就は大内氏に従って敗北を喫した前回の月山富田城攻めの戦訓を活かし、無理な攻城はせず、策略を張り巡らした。当初は兵士の降伏を許さず、投降した兵を皆殺しにして見せしめとした。これは城内の食料を早々に消耗させようという計略であった。それと並行して尼子軍の内部崩壊を誘うため離間策を巡らせた。これにより疑心暗鬼となった義久は、重臣である宇山久兼を自らの手で殺害。義久は信望を損ない、尼子軍の崩壊は加速してしまう。この段階に至って元就は、逆に粥を炊き出して城内の兵士の降伏を誘ったところ、投降者が続出した。
永禄9年(1566年)11月、尼子軍は籠城を継続できなくなり、義久は降伏を余儀なくされ、戦国大名としての尼子氏は滅亡した。こうして元就は一代にして、毛利氏を中国路8ヶ国を支配する大名へと成長させた。
出雲尼子氏を滅ぼした元就であったが、永禄12年(1569年)6月に尼子勝久(尼子誠久の子)を擁した山中幸盛率いる尼子残党軍が但馬の山名祐豊の支援を受けて出雲へと侵入し、毛利氏に抵抗した。 さらに豊後の大友宗麟も豊前の制覇を目指しており、同年10月には北九州での主導権を巡る争いの中で、陽動作戦として元就自身によって滅ぼされた大内氏の一族である大内輝弘に兵を与えて山口への侵入を謀るなど、敵対勢力や残党の抵抗に悩まされることになる。毛利氏にとっては危機的な時期ではあったが、元春、隆景らの働きにより、大友氏と和睦しつつ尼子再興軍を雲伯から一掃することに成功した。だが、大友と和睦した事により、大内家の富の源泉となっていた博多の支配権を譲る結果になった。
永禄10年(1567年)、元就は輝元が15歳の時、二頭体制をやめ、隠居しようとした。だが、元就は輝元から隠居しないように懇願されたため、その隠居を断念した。
   元就の最期
1560年代の前半より、元就はたびたび体調を崩しており、永禄9年(1566年)2月には長期の出雲出陣の疲労からか大病を患ったが、将軍・足利義輝が見舞いのために派遣した名医・曲直瀬道三が元就の治療に当たった。元就の治療は「道三流」と称される道三門下の専門医によって行われ、道三門下の専門医と道三との往復書簡いわゆる「手日記」を通して処方が決定された。その効果もあって翌月には全快し、永禄10年(1567年)1月には最後の息子である才菊丸(後の秀包)が誕生している。なお、毛利氏領国では、専門医・専従医不足に伴う医療基盤の軟弱さが、永禄9年に曲直瀬道三が下向して一挙に改められた。
永禄12年(1569年)4月、吉田郡山城において病にかかったが、永禄9年の時ほど重くはなかったため、やや快方に向かうのを待って長府に出陣。元就は立花城の戦いにおける毛利軍を督戦したが、これが元就の生涯で最後の出陣となった。
永禄13年(元亀元年、1570年)1月、尼子勝久への攻撃を行うために元就に代わって輝元が総大将となり、元春と隆景も出陣した。元就は吉田郡山城に残って、大友氏や浦上氏の来襲に備えたが、同年9月に重病にかかった。元就重病の報を聞いた輝元は、元春を出雲に残して隆景と共に急遽帰国し、元就の看病にあたった。同年9月22日には元就が輝元からの書状に比較的長めの返書を送っており、元就の病状がある程度回復したことが分かるが、用語の誤りや重複の跡が見られることから、全快には至っていないことが窺われる。元就もそのことを自覚していたようで、この返書の追而書において「何共内心くたびれ候間、是非に及ばず候」と記しているが、自身の節制と輝元や侍臣らの熱心な看病によって更に体調を持ち直し、出雲に出陣している将兵に対しても指導と激励の書状を送れるようになった。同年11月12日に月山富田城を守る五男・元秋が元就の近臣である南方就正に宛てた書状では、元就の体調が回復したことに安堵した旨が記されている。
元亀2年(1571年)3月16日、元就は花見の会を催し、その席上で「友をえて 猶ぞうれしき 桜花 昨日にかはる けふの色香は」と詠み、同日には病気平癒の祈願のために出雲国の日御碕神社に社領50貫を寄進している。元就の病状が落ち着いたことで、隆景も看病の必要はないと判断して暫く本拠の沼田に帰り、4月中に再度吉田に訪れた。
同年5月になると元就の病状が再び重くなったため、隆景は出雲出陣中の元春とも協議して、安国寺恵瓊を使者として京から医師を招聘することを決定し、5月13日に東福寺の塔頭・勝林庵にその斡旋を依頼した。将軍・足利義昭の命によって毛利氏と大友氏の和睦斡旋のために安芸国に訪れていた聖護院道増も元就のために病気快癒を祈願したが、元就の病状は次第に進行していった。
6月4日、元就はかつて自らの一身に代えて元就の身体堅固・寿命長久を祈った隆元の追善料として、隆元終焉の地である安芸国高田郡佐々部の内丸名7町2段半を常栄寺に寄進した。
6月13日、元就は吉田郡山城で激しい腹痛を起こして危篤に陥り、翌6月14日の巳の刻(午前10時頃)に死去した。死因は老衰とも、食道癌とも言われる。享年75(満74歳没)。
家督そのものはすでに嫡孫の輝元が継承済であったが、その死により二頭体制が終了し、輝元は毛利両川体制を中心とした重臣の補佐を受けて親政を開始した。
   没後
元就が死去すると、隆景は直ちに出雲出陣中の元春に書状を送って元就の死去を報じ、輝元の意志として元春が元就を弔うために帰国するかは出雲の情勢次第で判断するよう求めた。元春は尼子勝久の勢力が増すことを防ぐためにやむなく帰国を断念し、元就の葬儀を含めた後事全般は輝元が隆景、宍戸隆家、熊谷信直、福原貞俊、口羽通良ら重臣と協議して執り行う事となった。
備前の浦上宗景らの侵攻を防ぐために備中に在陣し、元就重病の報を受けると吉田に帰還して元就の看病に当たっていた粟屋就方は元就の葬儀が終わるまでは備中に戻らない意志を示していたが、輝元と隆景は備中の情勢を鑑み、6月16日に粟屋就方が急ぎ備中に戻り変事に備えることが元就への追善であるとして、特別に葬儀に先立っての焼香を許可し、就方もこれを受け入れた。
元就の遺体は元就が死去した6月14日の夜に毛利氏の菩提所である大通院に移された。当時の大通院の住持は浩雲周養だったが、輝元は備後国三原の妙法寺の住持・嘯岳鼎虎を吉田に招聘し、元就の葬儀の導師を務めることを依頼した。また、特に元就と師壇関係の篤かった山口国清寺の住持・竺雲恵心を招いて元就の葬儀で偈を授けてくれるよう依頼するため、6月17日に粟屋元重を山口に派遣し、山口奉行の国司就信と共に竺雲恵心との交渉に当たらせた。また、国司就信が生前の元就に目をかけられていたことから、山口を離れて葬儀に参列することを許可した。
元就の初七日である6月20日、元就の葬儀が大通院で執り行われ、嘯岳鼎虎が祭文を捧げて元就の菩提を弔い、竺雲恵心が「四海九州知有人 人生七十五煙塵 分明浄智妙円相 突出虚空大日輪」という偈を授けた。葬儀が終わると元就の遺体は吉田郡山城の西麓にある三日市において火葬され、6月24日に輝元が大通院の境内に築いた墳墓に元就の遺骨が埋葬された。その際に大庭賢兼は「法の水 手向果ても 黒衣 立はなれ憂き 墓の前かな」と詠じて追慕した。また、大庭賢兼は6月27日の二七日、7月5日の三七日、7月12日の四七日、7月19日の五七日、7月26日の六七日の各法会で追慕の歌を詠じている。
7月28日、元就の追善のため、隆景は安芸国の仏通寺において僧衆300人が列席する盛大な仏事を執り行った。8月3日には大通院で元就の七七日の法会が執り行われ、元就と親交があり安芸滞在中であった聖護院道澄が参列し、大庭賢兼と共に追善の歌を詠じた。
その他にも各方面からの弔問があり、山口の法泉寺が隆景に弔問し、湯原春綱も隆景に弔問して香典100疋を送った。織田信長も使僧を派遣して弔問し、9月17日には柳沢元政を派遣して弔辞を述べさせた。大和筒井城主・筒井順慶も家臣の清須美右衛門を輝元のもとに派遣し弔辞を述べ、香典100両を贈った。東福寺の塔頭・勝林庵は法華経5巻を一軸に書写して元春へ贈っている。
元亀3年(1572年)、朝廷は元就の生前の忠功を追賞して従三位の位階と「惟徳惟馨」の諡を贈った。また、元就の200周忌に当たる明和7年(1770年)に元就・輝元・秀就の霊を祀る神社が萩に創建されると、朝廷は元就の神霊に「仰徳大明神」の神号を贈り、文政12年(1829年)11月8日にはその神社に正一位の位階を授けた。更に明治維新における長州藩の功績から、明治2年(1869年)2月3日に元就を祀る神社に「豊栄神社」の神号を贈り、明治41年(1908年)4月2日には元就に正一位の位階が追贈された。
人物・逸話
   朝倉宗滴による評価
越前朝倉氏の名将、朝倉宗滴は自身の著作『朝倉宗滴話記(続々群書類従所収)』の中において、元就のことを「日本に国持人使の上手よき手本と申すべく仁は、今川殿(今川義元)、甲斐武田殿(武田信玄)、三好修理大夫殿(三好長慶)、長尾殿(上杉謙信)、毛利某、織田上総介方(織田信長)、関東正木大膳亮方(正木時茂)…此等の事」と書いており、政務・家臣掌握術において今川義元や武田信玄らと共に高く評している。
   天下を競望せず
尼子氏の滅亡後、中国地方の覇者となった元就だったが、自身は「天下を競望せず」と語り、自分の代での勢力拡大はこれ以上望まない意志を明らかにしていた(とはいえ、大内氏の支配圏だった北九州進出にはこだわり、晩年まで大友氏と激しい抗争を続けた)。またそれは息子や孫達の代に至るも同様であり、三男・隆景を通じて輝元の短慮を諌めるようにたびたび言い聞かせ、これが元就の『遺訓』として毛利家に浸透していったという。
   三本の矢
死ぬ間際の元就が、3人の息子(隆元・元春・隆景)を枕元に呼び寄せて教訓を教えたという逸話がある。元就は最初に、1本の矢を息子たちに渡して折らせ、次はさらに3本の矢束を折るよう命じた。息子たちは誰も3本の矢束を折ることができなかったことから、1本では脆い矢も束になれば頑丈になることから、3兄弟の結束を強く訴えかけたというものである。この逸話は「三本の矢」または「三矢の訓」として有名だが、実際には元就よりも隆元が早世しているなど史実とは食い違う点も多く、弘治3年(1557年)に元就が書いた直筆書状『三子教訓状』に由来する創作とされる。
   家臣・周辺国人への気遣い
「元就はいつも餅と酒を用意し、地下人などの身分が低い者達まで声をかけて親しくしており、家来が旬の花や自家製の野菜、魚や鳥などを土産に元就の所へ訪れるとすぐに対面して餅か酒のどちらかを上機嫌で振舞った。家来が持ってきた土産はすぐに料理をさせ、酒が飲めるかそれとも飲めないかと尋ね、もし酒が欲しいですと答えたら「寒い中で川を渡るような行軍の時の酒の効能は言うべきでもないが、普段から酒ほど気晴らしになることはない」とまずは一杯と酒を差し出し、もし下戸だと答えれば「私も下戸だ。酒を飲むと皆気が短くなり、あることないこと言ってよくない。酒ほど悪いものはない。餅を食べてくれ」と下々に至るまで皆に同じようにあげていた」(『吉田物語』)
   後世に遺された数多くの手紙
元就は筆まめな人物であり、数多くの自筆の手紙が残っている。明和4年(1767年)に毛利家で編纂された毛利氏の訓戒集には手紙などに残された元就の小言が30近く羅列されている。また、前述の『三子教訓状』の紙幅は2.85メートルにもなり、同じような内容が繰り返し記される。吉本健二、舘鼻誠など戦国の手紙を研究している人物の多くが「元就の手紙は長くてくどい」と言う意味の事を記している理由である。吉本は元就の手紙を「苦労人であった為かもしれないが説教魔となっている」と評した。このような手紙について元就自身は「思いのまま綴った」「急いで書いた」という趣旨の釈明をしているが、実際には誤字脱字は多くなく、手紙の意図が伝わるように読み手を意識した文章になっていることから、複数回の下書きをした上で入念に準備しているものと考えられている。
   酒でのウサ晴らしを戒め、下戸で通す
元就は嫡男の隆元に、酒は分をわきまえて飲み、酒によって気を紛らわすことなどあってはならないと、節酒の心得を説いている。孫の輝元が元服を済ませた際には、輝元の実母の尾崎の局に小椀の冷汁椀に一杯か二杯ほど以外は飲ませないように忠告している。このような背景に、元就は毛利氏歴代が酒に害されやすい体質であることを熟知しており、そのために元就自身は節酒をしてその延命効果を説いたのである。
政策
   政治体制
元就が構築した政治体制は領内の国人領主や地方勢力との共生を念頭とした典型的な集団指導体制であり、同年代の他の戦国大名と類似する点が多い。また元就の統治には、三子教訓状や百万一心などの標語による家臣・領民の心理的な変革が含まれていた。この点は武田信玄などに通じるものがある。毛利氏の統治の特色として挙げられるのは地方領主の独立性の高さであり、大名(毛利氏当主)による独裁とは程遠い体制だったことである。その詳細は武田氏などと同様に複雑かつ煩雑で把握しにくいが、家中に奉行制度を確立して政務を効率化すると共に、毛利家当主のサポート体制を盤石なものとして政権の基盤構築に成功していたことは確かである。
だが、これは古来の血族支配や、国人・土豪といった守旧的勢力の存在を前提にした良くも悪くも保守的な体制でもあった。特に地方勢力の独立性を認めることは、軍事組織(戦国大名)としての一体性をやや欠き、脆さをも内包することになったからである。この結果、嫡孫・輝元の代には革新的かつ強権的な軍事体制を実現した織田氏との交戦により苦境に陥り、一部国人衆の離反を招いた。また両川(元春・隆景)や穂井田元清など有力な血族が死去した後の関ヶ原の戦いでは、家中が東軍派と西軍派に割れて一貫した行動が取れず、結局敗軍の烙印を押されてしまうという醜態を演じた。(これは元来優柔不断な性格だった輝元の不手際によるものであるが、そもそも有力な血族による直接的補佐を必要とした毛利氏の体制から言えば、やむを得ないことであったとも言える。)
にもかかわらず毛利氏が大名として生存を果たせたのは、元就の政治理念と異常なまでの家名存続の意志が、その死後も家中に色濃く残っていたためである(吉川広家の機転など)。後述する毛利両川とそれを筆頭とした奉行らによる集団指導体制の構築、そして「天下を競望することなかれ」という言葉を残したのは、自らの死による体制の変質や時流の変化を見越した判断でもある。
   毛利両川体制
防長経略の年(1557年)に、元就は長男の毛利隆元に家督を譲って隠居した。しかし隆元が政権の移譲を拒絶したため、実権は元就がなおも握り、吉川元春と小早川隆景による毛利両川体制を確固たるものとしていったのである。隠居に際しての同年11月25日、14箇条の遺訓(いわゆる「三子教訓状」)を作成、家中の結束を呼びかけた。この遺訓が後に「三本の矢」(前述)の逸話の基となったとされている。
続いて同年12月2日、元就以下12人の主だった安芸国人領主が著名な「傘連判状」を結んでいる。これは上下関係を明らかにはせず、彼ら国人領主皆が対等の立場にある事を示している。
だが、裏を返せば、当時の毛利氏は井上一族の粛清によってようやく自己の家臣団を完全に掌握したばかりの状態であって、未だに安芸の土豪連合の集団的盟主という立場から完全には脱却できず、実子が当主である吉川・小早川両氏といえども主従関係にはなかったのである。毛利氏がこうした土豪の集団的盟主という立場から脱却して、土豪連合的な要素の強かった安芸国人衆の再編成と毛利家の家臣への編入を通じて、名実ともに毛利氏による安芸統一が完成する事になるのは隆元が安芸国守護に任じられた永禄3年(1560年)頃とされている。
ただし、その後もこうした国人領主は毛利氏との主従関係を形成しつつも、限定的ながら一部においてその自立性が認められていくことになった。こうした直臣家臣団と従属土豪(国人領主)という二元的な主従関係は関ヶ原の合戦後の長州藩移封まで長く続き、その統率が破綻することなく続いたのは毛利氏当主とこれを支える両川の指導力によるところが大きかったのである。
   朝廷・幕府との関係
吉田郡山城の戦いで勝利した顛末を記した戦況報告書『毛利元就郡山籠城日記』を宍戸元源の書状とともに、幕府の木沢長政のもとに持参させ、足利義晴や管領の細川晴元らに披露させた。幕府では尼子氏によって追放された赤松晴政に同情していたため、尼子氏を敗走させた元就の働きに大いに感動した。細川晴元から天文10年4月2日付で元就に出された書状には、最大級の賛辞が記載されている。
大内氏の滅亡後、弘治3年(1557年)に践祚した正親町天皇に対し、即位料・御服費用として総額二千五十九貫四百文を進献し、その即位式を実現させたことにより、以後の毛利氏は更に中央との繋がりを強くすることとなる。同時期の元就の陸奥守就任、隆元の安芸守護就任、元就・隆元父子揃っての相伴衆就任、孫の輝元が将軍・足利義輝から偏諱を拝領したことなどは、全てこれら中央政界に対する工作が背景にある。また、これら政治工作の資金源となったのが石見銀山である。
さらに、尼子氏や大友氏との戦いでは、幕府の仲裁を利用して有利に事を進めている。尼子氏との戦いでは石見銀山を巡って激戦を繰り広げるが、幕府による和平調停を利用して有利な形で和睦。尼子氏が石見銀山に手を出せない状況を作り出して、その支配権を得た(雲芸和議)。また、大友氏との戦いでも幕府は毛利氏に和平を命じているが、これに対して元就は一時黙殺し、状況が有利になってからそれに応じるという機転を見せた。
   女子の資産相続
毛利氏領国では、女性の資産が、その本人ばかりか嫡男にも相続されるなど、女性の財産所有権および相続権が一面的とはいえ、認められていた。武家女性の社会的地位に関する特殊性が見て取れる。また、成人した庶子の男子よりも実子の女子に優先相続権がある場合もあった。 
 
 

 

武田信玄 1573
大ていは地に任せて肌骨好し 紅粉を塗らず自ら風流
●辞世の句 1
   大ていは地に任せて肌骨好し紅粉を塗らず自ら風流
甲斐(山梨県)の守護の家柄で信虎の子、名は晴信です。(信玄とは出家後の法名)
父、信虎は十四歳で後継者争いに勝ち武田家の家督を継ぐと、わずか一年で甲斐一国の統一に成功したほど戦上手でした。
しかし戦いに明け暮れたため、税を徴収される領民や家臣の不満が最高潮に達していました。二十一歳の信玄は、家臣とともに信虎を駿河に追放して国主になります。
民政に力を入れ、なによりも民衆の立場に立ち、国を富ませることを第一としました。山国の貧しい甲斐の領土開発を行い、政治家としても優れた手腕を発揮しています。“人は城、人は石垣、人は堀。”とうたわれるように、生い立ちや身分に関係なく能力のある武将を積極的に採用しました。
軍事面では強い軍団をつくるために家臣の守るべき「甲州法度」とよばれる五十五ヶ条の細かい規則をつくります。
家臣達の組織や普段の訓練に気を配り、戦陣にはつきものの“ばくち”や略奪を厳しく取り締まりました。
さらに抜け駆けの功名争いなども禁止して、統制ある軍隊をつくりあげます。
屈強な武田騎馬軍団を率いて近隣諸国を攻略。「甲斐の虎」の異名を取りました。
越後国の上杉謙信とは対立。五回にわたり川中島で戦います。とくに四回目の戦いが多くの将兵を失う激戦でした。
晩年の信玄は京都を目指して上洛の軍を起こします。三方ヶ原で徳川勢を破りましたが、信玄は病になり療養のため甲斐に引き返します。帰路の途中、信州の伊那駒場で五十三歳の生涯を閉じました。
生涯における合戦の数は百三十あまり、その戦略や政策は信長や家康に受け継がれています。
●辞世の句 2
謙信の好敵手である「甲斐の虎」武田信玄。天下を目指し京都へ上洛戦を開始しますが、持病である膈(胸と腹の間)の病が悪化し、信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)の地で無念の死を遂げます。
   「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」
信玄が亡くなる間際に残した辞世の句です。解釈すると、「この世の中は、流れに身を任せて生きていくものだ。その中で、自分を見出して生きて、死んでいく。虚栄を張らずに正直に生きていく事が一番楽なのだ」という意味です。現代ではSNSも普及したことで、とかく自分をよく見せようと演出しがち。しかし信玄の言う通り正直に自分を見せた方が、精神的疲労を感じることも少なく、悪いイメージも持たれにくいのではないのでしょうか。
●辞世の句 3
武田信玄(1521-1573)には持病があり、亡くなる前には喀血を繰り返していたという。彼の病名は労咳(ろうがい/結核のこと)ではないかとの説もある。享年53。死ぬには早い年齢だった。彼の死のおかげで織田信長も徳川家康も命拾いした。なぜなら彼は、上杉謙信と並んで戦国最強と呼ばれる武将だったからだ。
   大抵 還他肌骨好 (大ていは地に任せて肌骨好し)
   不塗紅粉 自風流 (紅粉を塗らず自ら風流)
おおよそ此の世を生きるには、世の中の流れに身を任せるべきなのだ。見せ掛けで生きてはいけない。自分を飾らず生きることがすばらしいのだ。
武田信玄といえば、上杉謙信とやりあった1553年から1564年まで続いた川中島の戦いが有名だ。ここでは詳細について触れないが、この戦い以降、武田・上杉の両者は直接対決を避けるようになった。そして信玄の現実的な関心はより織田信長、徳川家康へとシフトしていく。
信玄は、1570年頃から織田信長とは表面的には友好関係を保ちながらも徐々に信長の敵対勢力である足利義昭、浅井長政、朝倉義景、本願寺、松永久秀などと接触し、信長包囲網を構築した。そして織田信長と同盟を組んでいた徳川家康の領国へと攻め入った。
1573年の三方ヶ原の戦いである。
信玄とも家康とも同盟している信長が家康に援軍を送ったので、信玄は武田と織田との同盟破棄を通達。徳川方の野田城を落とし、長篠城へと入った。武田軍の勢いがそのまま続けば、織田・徳川の立場は非常に危なかった。
ところが、信玄の体調が悪化した。実は、野田城を陥落させた頃から信玄は喀血していたという。これから信長を潰そうという時だけに、タイミングが悪かった。一度は回復したかに見えた信玄だったが、結局病は好転せず、武田軍は甲斐国へと戻っていく。そしてその道中で信玄が亡くなってしまったのだ。
信玄の死は3年間秘匿された。その3年間、武田家としてはあくまで信玄が病気である、としていたが、実際のところ信玄の死の事実は諸国へすぐに広まってしまったようだ。
信玄の辞世以外に残された遺言の中に、家督を相続した武田勝頼に残した信玄の終生のライバル・上杉謙信に関する言葉がある。
遺言の中で信玄は「上杉謙信とは和議を結ぶように。謙信は男らしい武将であるから 若いお前を苦しめるような行いはしないであろう。和議を結んで頼っていけば、決して約束を破る男ではない。私は最後まで謙信に頼ることが言い出せなかったが、勝頼は必ず謙信を頼りとせよ。上杉謙信はそのように評価してよい人物だ」と言い残したと「甲陽軍艦」に記載されている。
のち、武田氏と上杉氏とは和睦が結ばれた。武田勝頼は、1575年の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に惨敗した後、上杉謙信に救援を要請した。上杉軍に護られたおかげで甲斐国へと帰国することができたのである。
信玄の上記の辞世(遺偈)は、少々難解だ。彼が辞世の中で言いたいのは「自分を飾らないことが素晴らしい」
ということだろう。本音で生きろ、ということか。
もしかするとこの辞世には、本当は上杉謙信との和睦を結びたくても意地になって結ばなかった自分への反省の意味もこもっていたのではないだろうか。 
●辞世の句 4
武田信玄は、戦国初期の有名な戦国大名のひとりです。川中島の戦いで、上杉謙信と死闘を繰り広げたエピソードが有名です。織田信長も武田軍の前に一度は敗れ、戦国史上最強との呼び声も。最後は戦陣の中で病没したとされています。死因は胃癌や結核、肝臓病などがあげられており、臨終の際に3年間は自分の死を隠すように遺言したと言われています。信玄が残した辞世の句が以下です。
「大ていは 地に任せて 肌骨好し(きこつよし) 紅粉を塗らず 自ら風流」
「世の中は世相に任せて生きるものだ。その中で自分を見つけ出して死んでいく。上辺だけで生きるようなことはしてはならない。自分の本心で生きることが一番良いことだ」と解釈されています。見栄を張らずに正直である方が、穏やかに生きていけるという教訓めいた句です。 
 
 

 

上杉謙信 1578
四十九年一睡の夢 一期の栄華一杯の酒
極楽も地獄も先は有明の 月の心に懸かる雲なし  
●辞世の句 1
   四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒
現代語にすると、「49年の生涯はひと眠りの夢のようなもの。一代の栄華は一盃(ぱい)の酒に勝るだろうか」ということになる。
この言葉は、戦国武将の上杉謙信(1530−78)の辞世の詩と伝えられている。
人はだれでも、死を前にすると、ある種のむなしさを感じるのだろう。それまでは、すべてが生きるための営為であり、汗も涙も努力も、すべてが生きることであり、明日への積み重ねだったのだ。
ところが、死とは明日がなくなることである。となれば、これまでの日々は、いったい何だったのだろうかと感じるに違いない。すべてが無に帰してしまおうとしているのである。
喜びもあり、悲しみもあった長い長い道のりも、そのすべてが消えてしまうとなると、あっという間のできごとでしかない。どんな栄耀(よう)栄華も、死の前にどんな価値があるのだろうか。
生きつづけることが前提のすべてから、その前提がなくなろうとしているとき、これまで持っていた価値や意味はどこへ行くのか。だれもが、そのむなしさを歌わずにはいられないのであろう。
●辞世の句 2
   四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一杯の酒
これは、上杉謙信が残した最期の言葉です。
上杉謙信とは、「越後の虎」とも呼ばれた戦国時代の有名な武将です。1530年に越後の守護代の家に生まれ、初名は長尾景虎といいました。のちに関東管領という重役であった上杉憲政から家督を譲られ上杉姓を名乗るようになります。そして、何度かの改名の後、上杉謙信という名前になったのでした。
上杉謙信は、武田信玄や織田信長と並び立つ越後の戦国大名でのちに軍神と称されることになる英雄でした。49年という生涯の中で、織田信長や北条氏康らと戦いを繰り広げましたが中でも、5度に及んだとされる武田信玄との川中島の戦いは戦国時代の伝説のように語り継がれています。
上杉謙信は、歴史上の人物の中でも特に人気が高い人物ですがそれは、謙信の人間性に惹かれて、という人も少なくないのではないでしょうか。謙信が戦いと酒を愛していたということは有名ですが彼は非常に義理堅い人物で、私利私欲のために戦いをしたことは1度もありませんでした。また、生まれつき高いカリスマ性をもち、たくさん行ってきた戦さに負けたことはなかったといわれています。
そんな謙信が残したこの最期の言葉
   四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一杯の酒
は謙信の人生をよく表しています。
この言葉の趣旨は「49年の人生は夢のように儚く、人生における栄華も 一杯の酒のようにほんの一瞬の出来事にすぎない」というものでありますが、この言葉には不思議と悲壮感や虚無感は感じられないように思います。49年という短い生涯を、駆け抜けるように生きた謙信だからこそ言えた言葉だったのでしょう。ここには、彼の人生に対する充足感が詰まっています。
上杉謙信は、人生というものを大切に生きた人物だったのでしょう。
●辞世の句 3
   極楽も地獄も先は有明の 月の心にかかる雲なし    
(死後に行くのが極楽でも地獄でも、夜明けに輝く月のように、私の心に曇りはない。)
・有明の月…陰暦十六日以後、夜が明けかけても、空に残っている月。
上杉謙信の辞世の句である(他に漢詩の辞世もある)。心の底からこの歌のような境地に達することが、悟りを開き仏となることである。
死は誰にも確実にやってくることがわかりながら、死後の事は誰にもわからない。お釈迦様も死後はわからないとおっしゃっている。「わからない」ということを受け入れたことが、お釈迦様の悟りである。
悟りを開いたならば、死後に何があろうと恐れることはなくなる。死後のことがわからずとも迷いなく生きられる。
しかしその境地に達することはなかなかできない。多くの人は不安を抱き、迷いながら生きている。そんな人の行く先として、阿弥陀様は西方極楽浄土を築いた。迷いから抜け出せない人を浄土へと導くために、阿弥陀様がいらっしゃるのだ。
だから私達はこの世界で安心して生きて死んでいける。道に迷ったとしても、阿弥陀様は必ず私達を導きに来て下さる。そう信じて阿弥陀様に全てを委ねて念仏を唱えて欲しい。
●辞世の句 4
   極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし
越後国の武将で、越後の虎とも越後の龍とも呼ばれた武将です。上杉謙信は私欲の少ない、清廉の人として知られています。戦国時代屈指の戦上手であり、野戦においては戦国武将の中でも最高の指揮統率力を持つ戦術家といわれています。そのあまりの強さゆえに北条氏康、武田信玄も野戦を避けて持久戦をとっていました。
軍事能力に卓越しており、生涯で約七十回もの合戦を行い、敗北は僅か数回と伝えられています。神がかり的な采配で直接の戦闘では圧倒的な強さを誇っていました。そのため「越後の龍」や「軍神」と評され恐れられています。
謙信の生い立ち
上杉謙信は、1530年に春日山城で生まれました。幼名を虎千代といいます。
幼い頃に春日山城下にある林泉寺に預けられ、禅や仏の修行を続けながら僧侶として育つことになります。実兄にして越後守護代の長尾晴景は病弱で越後の内乱を鎮圧することができなかったため、兄の要請で謙信は栃尾城に入ります。当初、僧侶として育った謙信の実力を皆が疑っていましたが、いざ戦が始まると先頭に立ち、敵を打ち破って初陣から手柄をあげます。さらに勝ち戦を続け、反乱を鎮圧する戦いで大きな活躍を見せたため、兄が隠居すると春日山城城主・守護代に推薦されて「長尾家」の家督を相続します。
越後守護・上杉定実が没し、嗣子がないため越後守護の上杉家が断絶すると、将軍・足利義輝は、越後守護代である長尾景虎(上杉謙信)に越後守護の地位を認める書状を送りました。
越後国主の地位を認められると、内乱続きであった越後国でしたが、景虎は二十二歳の若さで越後統一を成し遂げます。
のちに関東管領上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と名を変えて上杉氏が世襲する関東管領に任命されました。
武田信玄との川中島の戦いや、北条氏康を攻め込む小田原城の戦い、織田信長との戦いなど、数々の戦いを繰り広げますが、遠征の準備中に春日山城で倒れます。死因は脳溢血との見方が有力視されています。謙信は無類の大酒飲みでした。
謙信は自らの利のために領土を拡大していません。武田信玄が死去すると、上杉家の家臣達は今が好機と知り出陣を謙信に進言しましたが「若い勝頼が継いだばかりに襲うのは大人気ない行為だ」と兵を出さず、長篠の戦で武田家が織田家から敗れると、再び家臣たちは出陣を進言しますが「人の落ち目を見て攻め取るのは不本意だ」と言って攻めることはありませんでした。
義理堅い武将としても有名で、北条氏康は謙信について「信玄、信長は表裏があり頼むに足りない。ただ謙信のみは請け負った以上は骨になるまで義理を違えない。謙信の肌着を分けて、若い武将の守り袋にさせたく思う。わしがもし明日死ねば、後を頼むのは謙信である」と評価しています。
また、武田信玄は死に臨んで跡継ぎの勝頼に「あのような勇猛な武将とことを構えてはならぬ。謙信は、頼むとさえいえば、必ず援助してくれる。断わるようなことは決してしない男だ。この信玄は、おとなげなくも、謙信に依託しなかったばかりに、一生、かれと戦うことになったが、甲斐国を保つには、謙信の力にすがるほかあるまい」と遺言しています。
戦国の世にあり謙信ほど義理、情に厚い武将は他にいません。慈悲深く義を貫いた名将でした。 
●辞世の句 5
武田信玄の永遠のライバルと言われ、「敵に塩を送る」という古語を生んだのが上杉謙信です。信玄とは12年の間に5回戦ったものの、決着はつかなかったとみられています。出陣を前にして意識不明となり、そのまま亡くなったとされる謙信の辞世の句がこちらです。
「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」
「私が死んだあとに行くのは極楽か地獄かはわからないが、私の心は雲のかかってない月のように晴れやかである」という意味です。謙信は仏教に深く帰依していたと言われていて、最期にさっぱりと悟りを開いた様子が見てとれます。  
  
 

 

織田信長 1582
人間五十年 下天のうちに比ぶれば 夢幻のごとくなり 一たび生を得て 滅せぬもののあるべきか (「敦盛」)  
●織田信長
生誕:天文3年5月12日(1534年6月23日)、死没:天正10年6月2日 、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。
尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。父の代から力をつけ、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼし、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑えて戦国乱世の終焉に道筋をつけた。
しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で没し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。
辞世の句
「人間50年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を受け 滅せぬもののあるべきか」
(人間の一生は所詮50年にすきない。天上世界の時間の流れに比べたらはかない夢や幻のようなものであり、命あるものはすべて滅びてしまうものだ)
ご存知の通り「本能寺の変」にて憤死した信長公。そのため直接的な辞世の句は伝えられていません。しかし彼の死生観を象徴するものとして「敦盛」の一節が、辞世の句として言い伝えられています。「本能寺の変」については、犯人の明智光秀は間違いないとして、その首謀者や、動機についていまだに議論になっています。飼い犬に手を噛まれる形で、自軍に襲われた信長でしたが、最後の言葉として、「是非に及ばず」(意訳:しょうがない)という言葉が伝わっています。
   「敦盛」とは
幸若舞の1つ、作者は不明。源平合戦の「一ノ谷の戦い」で、平家軍は源氏軍に押されて敗走をはじめる。 平清盛の甥で平経盛の子、若き笛の名手でもあった平敦盛は、退却の際に愛用の横笛を持ち出し忘れ、これを取りに戻ったため退却船に乗り遅れてしまう。
そこに源氏方の熊谷直実が通りがかり、格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にすると、平家の有力武将であろうと踏んで一騎討ちを挑む。敦盛はこれに受けあわなかったが、直実は将同士の一騎討ちに応じなければ兵に命じて矢を放つと威迫した。多勢に無勢、一斉に矢を射られるくらいならと、敦盛は直実との一騎討ちに応じた。しかし悲しいかな実戦経験の差、百戦錬磨の直実に一騎討ちでかなうはずもなく、敦盛はほどなく捕らえられてしまう。
直実がいざ頸を討とうと組み伏せたその顔をよく見ると、元服間もない紅顔の若武者。名を尋ねて初めて、数え年16歳の平敦盛であると知る。直実の同じく16歳の子熊谷直家は、この一ノ谷合戦で討死したばかり、我が嫡男の面影を重ね合わせ、また将来ある16歳の若武者を討つのを惜しんでためらった。
これを見て、組み伏せた敵武将の頸を討とうとしない直実の姿を、同道の源氏諸将が訝しみはじめ、「次郎(直実)に二心あり。次郎もろとも討ち取らむ」との声が上がり始めたため、直実はやむを得ず敦盛の頸を討ち取った。一ノ谷合戦は源氏方の勝利に終わったが、若き敦盛を討ったことが直実の心を苦しめる。合戦後の論功行賞も芳しくなく同僚武将との所領争いも不調、翌年には屋島の戦いの触れが出され、また同じ苦しみを思う出来事が起こるのかと悩んだ直実は世の無常を感じるようになり、出家を決意して世をはかなむようになる・・・
織田信長は、出家した熊谷直実が世をはばかり詠んだとされる「人間50年下天のうちをくらぶれば夢幻のごとくなり 一度生を受け滅せぬもののあるべきか」、この節を特に好んで演じたと言われています。とくに有名なのは、桶狭間の戦い前夜、「敦盛」の一節を謡い舞い、陣貝を吹かせた上で具足を着け、立ったまま湯漬を食したあと出陣したという逸話が『信長公記』に残されています。
天下取りは叶わなかったものの、のちの世に様々な影響を残した信長公の48年の生涯。自らの野望のために一直線に走り抜けた人生は、辞世の句と伝えれる「敦盛」の一節と、「是非に及ばず」とのメッセージとともに、魔王とも言われ、時代をつくった信長という人物とは対照的な「諸行無常」な人生観を今に伝えています。
   その後の織田家
自身も織田家の家督の相続に苦戦した信長は、生前より世継ぎを長男の織田信忠とし、盤石の体制を敷いていました。しかし、「本能寺の変」をおこした明智光秀はぬかりなく、信長だけでなく別行動をしていた信忠にも追手を放ち、自害に追い込みます。
信長亡き後の織田家は混乱し、跡継ぎは信長の家臣達(羽柴秀吉、柴田勝家、池田恒興、丹羽長秀の4人)による会議で決められることとなります。これは『清洲会議』と呼ばれ、三谷幸喜によって映画にもなりました。会議の結果、10人以上はいたと言われる信長の息子たちをおしのけ、秀吉が推薦した長男・信忠の遺児・三法師が跡継ぎに指名されます。魔王といわれた織田信長、そして織田家の家名は秀吉の傀儡となり、事実上歴史の表舞台から退場したのでした。
その後の織田家は、天下人となった秀吉と家康の間で翻弄されながらも、2系統4家が大名として江戸時代も生き残ります。信雄系が、うちの柏原藩と天童藩(山形県天童市)。信長の弟・有楽斎(うらくさい)の系統では、柳本藩(奈良県天理市)と芝村藩(奈良県桜井市)があります。どの織田家も似たり寄ったりの規模ですが、柏原藩は2万石しかありません。小さく細々とやってきました。また七男・信高の子孫として、スケーターの織田信成が知られています(異説あり)
   織田家の究極の‘‘倍返し‘‘(意趣返し)
いまいちパッとしなかった息子たちとは対照的に、織田家のDNAは、信長の妹・お市の方の血筋のなかで輝きを魅せていきます。お市の方は、浅井長政に嫁ぎ、茶々、初、江の姉妹を生んだあと、最期は柴田勝家と再婚し秀吉の手によって絶命することとなりました。その後、三姉妹の運命も翻弄されていきます。茶々は秀吉の側室となり、秀頼を生み大阪の陣で憤死。初は名門の武家・京極家に嫁ぎ、大坂の陣の際には豊臣・徳川の両家の改善のため奔走しています。江は、二代将軍・秀忠に嫁ぎ、三代将軍・家光の生母となったほか、娘・和子は後水尾天皇に嫁ぎ、その血統は今上天皇さまにも受け継がれました。
秀頼の生母となった茶々。秀吉の死後、家康によって秀頼が撃たれたことで、悲劇の女性としても知られています。子種に恵まれなかった秀吉が57歳で授かった愛息。しかしその出生については、疑惑がついてまいります。伝聞によれば、秀頼は体格に恵まれ、190cmもの身長があったそうです。父・秀吉は、信長から「はげねずみ」とのあだ名で呼ばれるほど、容姿に恵まれなかった秀吉。
叔父・信長の突然の死去により、運命に翻弄されることとなった茶々の生涯。織田家のDNAを持つものとして、かつての家臣だった秀吉の側室となることには、相当の反発があったことでしょう。仮に秀頼が不貞の子だったとすると、茶々による秀吉への復讐は、「本能寺の変」以上の大事件だったのかもしれません。・・・織田家、恐るべし。
信長は天使か悪魔か
   信長はサタンの生まれ変わり!?
天正2(1574)年、一乗谷の戦いで、浅井氏を滅ぼした信長は、その年の正月、浅井長政親子の首を薄濃(はくだみ)にして正月の酒席に供するという、現代人にとっては衝撃的な演出をしたといわれています。これを俗にドクロ杯と呼び、信長の残虐性を伝えるエピソードとして有名です。
その他にも、比叡山の延暦寺では坊主を閉じ込め焼き討ち。長島の一向一揆では、降伏を願い出た門徒たちを根切りといわれる虐殺するなど、当時の人々からは魔王と恐れられていました。
「第六天魔王」という言葉をご存知でしょうか?仏教に詳しい方や日本の歴史に興味がある方ならご存知の方も多いかも知れません。「第六天魔王」はキリスト教の悪魔「サタン」の訳語として用いられる事があります。
第六天魔王
信長は、武田信玄への手紙のなかで、自らを「第六天魔王」と呼称しています。「第六天魔王」とは仏教の用語です。正式な名称は「第六天魔王波旬」といい、この「波旬」とは人間に害をなし善を妨げる悪魔を指す言葉です。第六天魔王の正体はもともと、仏教における神様(天部)で六欲天の最上位に位置し、仏教における天界の一つである「他化自在天」に住んでいます。この神は天界の一つ「欲天」の中の最上階層「第六天」に住んでおり人間のあらゆる欲望を司る神だと言われています。この神は人々のあらゆる欲を満たし、その快楽を自分のものに出来るとされています。
信長は当時、革新的な経済政策を持って人々の欲望を喚起し、経済活動を活性化させる事で得た莫大な富を基盤にして勢力を伸張させていたので、「第六天魔王」はまさしく自らを的確に表していると言えます。さらに、それまで大きな既得権益を握っていた寺社勢力を徹底的に打倒し、人々に自由な経済を解放した功績を見ても、皮肉を交えながらもセンス良く自分を表すのに「第六天魔王」ほど的確な表現もないでしょう。
武田信玄は織田信長と敵対するにあたり、自らを天台宗の総本山である比叡山の最高位である「天台座主」と名乗って信長に手紙を送りました。これに対し信長は自らを「第六天魔王」と書いた手紙で応じます。織田信長は1571年に自らに敵対の姿勢を示した比叡山延暦寺の焼き討ちを行いました。
延暦寺に関連する僧たちは信長の勢力から逃れるため、全国各地に逃亡しますが、その中でも元々仏教を支援していた甲斐国の武田信玄の元には多くの僧たちが保護を求めて集まりました。これを受けて武田信玄は自らを比叡山の最高位の役職であると示す「天台座主沙門信玄」と名乗り、それを認めて信長に対する批判文とも宣戦布告とも言える書状を送ったのでした。この武田信玄からの挑戦状ともいうべき手紙に対して、織田信長が「第六天魔王」と名乗ったのは、いわばちょっと洒落を効かせた手紙で喧嘩を売られたから、こちらも洒落を効かせて応じたという意味合いが強いです。
   案外やさしい悪魔?
織田信長は自らに敵対する世俗の勢力と結びついた宗教勢力を徹底的に潰そうとしたことで有名です。その苛烈さを示す数々のエピソードが残っています。しかし同時に、武装解除した宗教勢力に対する信仰の自由を認めた寛容さもあったといわれています。
敵対しない限り、宗教に対し寛容な姿勢をみせた信長。バテレンのキリスト教にも布教の許可をだしています。また神道への将敬も深く、熱田神宮への寄進のほか、乱世のなか存続が危ぶまれていた伊勢神宮の式年遷宮を再開させたのも、信長の功績です。
   神とハサミは使いよう?
ナニワ金融道の作者・青木雄二さんは、講演録のなかで、世界一簡単な唯物論を披露しています。
「ホナ、こうしまひょ。お父さんの嫁はんが難病にかかりました。治すにも大金が必要です。どうしても工面できまへん。神様どうかうちのカカアを助けてください。神に祈ることで治りまっか?」
「いやそれは…」
「そうでしょう? 必要なのは神やのうて、金と医者ですがな。」
「つまり神がおらんということを前提にものを考えると、物事の本質がスッキリ見えてきます。これが唯物論ですわ」
必要なのは、神様ではなく金と医者((+_+))、もとこうもないあんまりなロジックですが、案外、信長も同じ考えをもっていたのでは?と家訓二ストは考えます。神と仏も使いよう・・・ 合戦のとき、あるいは部下の使い方をみると、信長の突出した合理性をみることができます。秀吉や、光秀を駒のように使いまくった信長は同じように、神も仏さまも使い倒しています。
延暦寺を焼き討ちし、いまなお魔王と恐れられる信長。神も仏も恐れない一面をもちつつも、一方では神を敬い、はかない辞世の句(敦盛)を好んだ信長。2つの側面は天使でも悪魔でもなく、「自分」という神の声を純粋にまで聞き続けた痛快な快男児だったのではないでしょうか?
すべては信長から始まった
   すべては信長ははじまった
司馬遼太郎さんは、その著作のなかで、信長をこう評してします。「 すべては、信長からはじまった。」(「この国のかたち」より)信長は、全てにおいて独創的であり、近世の基本については信長が考え、かつ布石を施したというのが司馬さんの考えです。
のちに天下人となる秀吉や家康は、信長がイノベーションの末につくったグランドデザインにそって天下統一を果たしたにすぎないのではないでしょうか?「ゼロから1の距離は、一から千の距離よりも遠い」との格言のとおり、秀吉も偉いし、家康もすごい。しかし、ゼロから1をつくった信長にはかないません。
戦国時代、それまでの多くの常識を打ちこわし、ゼロから一をつくった男、信長。「すべては信長からはじまった」司馬遼太郎の表現は、まさに過不足ない賛辞です。
   「桶狭間」勝利の真因
作家の堺屋太一さんも独自の視点で信長の功績を評価しています。常識的発想を超越し、新たな時代を切り開いた信長。商品取引の拡大円滑化を図った「楽市・楽座」や農業兼業の地侍たちを「兵農分離」によって銭で雇う専業の戦闘集団に変えたことはよく知られるなか、堺屋さんの指摘する信長のすごみは、柔軟な発想を行動につなげ、さらに組織内で多数の部下の納得を得たことにあるであると指摘しています。
その一番の例は「桶狭間の戦い」です。約2万5000の今川軍に対し約3000の信長軍。「強大な今川軍にはかなわない」という通説が広がる中、信長軍は急襲に成功し今川義元を討ちはたします。堺屋さんは、「桶狭間の勝利は、奇襲という戦術面ばかりが評価されているが、それはむしろ枝葉のことだ」と指摘。その上で、重要なのは「一人の裏切り者も出なかったことであり、織田軍の行動を今川方に通報する者が全くいなかったという事実である」と強調しています。
   「理念型」の経営手法
優秀な経営者は、繰り返し「理念」だけを語ると言われています。「マネジメント」という言葉が生まれる500年も前に、信長は「天下布武」という理念を内外に示しすべての行動を、理念に沿うかによってのみ評価しています。
強固な中央集権国家を構想し、一時は、自分自身を神になぞらえた信長ですが、必ずしも「既成概念の全面的破壊者ではなかった」と堺屋さんは指摘しています。足利将軍義昭を利用し、経済力に富む堺の自治を許し、無神論者でありながら日蓮宗やキリスト教の布教活動に便宜も…。これらは信長らしい合理主義の現れです。「天下布武」という目的のためには、自らを神としながらも、ちゃっかり、釈迦もキリストの権威も利用する・・・
直線的に目的を実現することだけにとらわれず、総合的に物事を吟味、判断する−。こうした点も信長の魅力なのではないでしょうか?
戦国のもしドラ? もし織田信長がドラッカーのマネジメントを読んだら?
   戦国の「もしドラ」
『マネジメント』とは、直訳すると「経営」「管理」などの意味をもつ概念です。経済学者であるピーター・ドラッカーによって提唱され、その死後も多くの経営者を魅了しています。具体的には組織の目標を設定し、その目標を達成するために、経営資源を活用したりリスク管理することを指します。
今やビジネスシーンにおいて、「マネジメント」という言葉を使わないことは、想像することも難しくなっています。この言葉、累計270万部超の大ヒットとなった『もしドラ』(岩崎夏海著『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーのマネジメントを読んだら)の主人公・川島みなみが手に取った本の名前、として覚えている方も多いのではないでしょうか。実は、この「マネジメント」という概念を考えた人物もドラッカーです。
どんなチームであろうと、メンバーをまとめあげ、必ずゴールにたどり着く。そのために必要となる、組織を動かし、人を動かすための方法を教えてくれる導きが「マネジメント」の本質です。
会社社を経営するように、国そのものを経営することを目指した織田信長は、まさにドラッカーの実践者だったのではないでしょうか。現代の企業の経営者が決算を競うように、戦国大名たちも自身の生き残りと領土拡大のため、領民や家臣に対する統治活動や領地争いの軍事活動やそのための経済活動が行ないました。そこには、時代をこえても共通する「マネジメント」の力があったのです。
   天下人のそれぞれのマネジメント
信長を経営者として例えると、ベンチャー企業の創業者タイプ。秀吉は、たたき上げの敏腕の後継ぎ。家康は・・・経理あがりの古参の幹部が、ちゃっかり会社をのっとったといところでしょうか?戦国時代を終わらし、天下を収めるためには、ライバルたちとの戦いに勝ち、なおかつそれまでの既得権益や宗教、そして権威と、それまでの時代をつくりかえる必要がありました。
スーパーワンマンタイプの信長は、家臣を駒のように使い天下統一をめざしました。しかしきつすぎる上下関係に嫌気がさしたのか、駒であったはずの光秀に自らの命をとられることとなります。秀吉は、百姓の身分から成り上がり、信長の意思をつぎ、天下人となります。秀吉の特徴は「人たらし」。飴とムチを見事に使い分け多くの支持をとりつけますが、後継者の指名(育成)に失敗し、死後、家康に天下を乗っ取られることとなります。そして家康は、2人の天下人のひいたレールにのり、信長、秀吉ができなかった社会を安定のため様々な仕組みをつくりあげます。
壊す人(信長)、作る人(秀吉)、続ける人(家康)、3人の天下人がそれぞれの時代、それぞれのマネジメントのもと、今につづく日本の形をつくりあげました。
   信長のイノベーション
マーケットは常に変化しています。シャッターをあけると、毎日同じ朝がくるように思えても、同じ1日は決してありません、日々、新たな視点で、チャレンジしなければ、成功は続かないのです。ノベーションの概念は、オーストリアのシュンペーターという経済学者が提唱しました。ざっくりいえば、「同じことばかりしていては、良いことは何も起こりませんよ」という意味に解釈できます。織田信長は戦国時代最大のイノベーターです。常識を疑い、日々改善をしながら、数え上げればキリがないほどの革新を行いました。
目に見えるイノベーションでは、
鉄鋼船の建造:本願寺側についた毛利水軍を攻めるため世界初の鉄の舟を建造
安土城の建立:防御目的であった城郭を権威誇示のシンボルとして活用。
鉄砲の大規模な導入:「長篠の戦い」での「鉄砲三段打ち」が有名な独創的な戦法
織田信長のイノベーションは戦国時代の終焉を早めることになりました。その後、成功した革新は豊臣秀吉、徳川家康に受け継がれて行きました。信長が示したような「コンセプト」や「組織」など多面にわたる改革は現代の「マネジメント」が行わなければならない先駆です。イノベーションは、今を切り開く最も大切な機能です。
   戦国のフランチャイズ
目的を達するために先入観なしに改革をすすめた信長。その改革は、「鉄鋼船の建造」や「鉄砲の三段打ち」といった目にみえるものだけでなく、チームをまとめる手法にこそ、その妙味をみることができます。
秀吉や明智光秀など、それまでの経歴が怪しい者でも、実力だけを評価をし家臣に取り立てています。合戦で勝ち取った領地は気前よく家臣に与え、検地や納税など簡単なルールだけを守らせ、あとは任せきりにもしています。家臣もよく働き、一人一人が第2、第3の信長に成り代わり、領国経営にあたるのでした。
ぶんどった新規の店舗(領土)の経営をまかせる手法は、現代のフランチャイズ制によく似ています。尾張統一に成功するまでの信長は、ベンチャー企業のCEOでした。その後の信長は「天下布武」の理念を統括する持ち株会社のオーナーとなり、部下たちにはチャンスをあたえ、成功したものには、小会社の社長に取り立て次々に上場させています。信長のもとに多くの才能ある若者が集った理由も、こうしたフランチャイズ制にあったのではないでしょうか?
   やる気をおこす「ストックオプション」
信長が与えたものは、領国だけではありません。当時の家臣たちが欲しがったのものは、領国や金だけでなく、お茶の道具である「名物(茶器)」もありました。茶人としても著名だった信長は、千利休と組みお茶の道具に高いステータス性をもたせ、一国一城に匹敵する価値もつけました。
領国を気前よく与えた信長ですが、その範囲はあくまで日本列島のなかでのこと、実際、天下統一後の秀吉は部下に与える褒賞に困り朝鮮出兵を企てたともいわれています。信長がだたの『もの』にすぎない茶器を一国一城以上の価値を与えたことは、驚きと先見性にあふれた方策です。
無から有を生み出した信長。ベンチャー企業の経営者たちは、自分の会社の価値を高め、保有する株式の含み益で巨万の富を得ています(「ストックオプション」)。茶器を権威と関係性だけで価値をたかめた信長。一見、投資詐欺?にも思える手法ですが、当時の大名物(茶器)は現代まで受け継がれ、その多くが国宝に指定されています。目に見える畑や田んぼも財産ですが、長い歴史でみれば所詮、それらは自然からの借り物。信長たちが熱狂した大名物こそが、本当の「価値」だったのかもしれません。
   信長の「ブランディング」
戦国時代とは、それまでのすべての権威が否定され、身分の差をこえ、部下と上司、時には親子同士で覇を競う何でもありの時代でした。自らの器量次第で、侍でも、大名にまでも成り上がれる下剋上の世界は、グローバル化が進み、国境をもこえた何でもありの現代のマーケットに似ています。
「天下布武」は信長が自身のミッションを明確に示した「経営理念」の表明 で、これだけをみても時代を超えたマネジメントのあり方を示します。その意味は、天下を布武することで統一するという宣言です。同時代では武田信玄の「風林火山」や徳川家康の「厭離穢土欣求浄土」が有名ですが、「天下統一」という目標を明確にし自身と配下の武将の心を1つにしたのは織田信長の独創です。イノベーションとは前例がないことを行うことです。基盤となる態度は「あらねばならないのは何か」という素直な視点です。信長はこの視点で「組織のイノベーション」も行ったのです。
信長はいっさい人の忠告を聞かなかったと言われていますが、聞かなかった のは忠告であって情報や知識は貪欲に収集をおこなっています。それもポルトガル宣教師などの最先端の情報には、非常な興味を持って聴き取ってそして先入観なしに理解しているので、地球が球体であることも正しく理解していたそうです。
ここには、あるべき経営者としての基本姿勢の原型が示されています。 情報と知識は先入観と予断なくあらゆる人からあらゆるところから金に糸目をつけず収集し、そして意思決定においては誰にも頼らずここでも先入観と予断なく決定しそして決断したことは直ちに行動に起こす。そして、失敗したら全体構想に鑑みて直ちに修正し再行動を行います。
経営者には先入観と予断なくという前提のうえでまた絶えずアンテナをはったうえでの話ですが、正しいとの確信したなら跳躍しなければなりません。誰も行っていないこと、前例のないことに跳躍するのは恐怖です。しかし跳躍のない経営は、間違いなくゆるやかか急激かは別として確実に衰退しやがて崩壊に向かうのが定めであります。
   改めて考える信長の「辞世の句」
誰も歩んだことのない道なき道を、マネジメント力を駆使し、天下布武をめざした信長。登場以前には搾取される奴隷農民はいても年貢を徴収でき る「農民」という存在自体はいませんでした。そこで行ったのが関所の撤廃と兵農分離で、これによって統治して年貢の徴収を行える自由民である平農民が生れることになりました。また、楽市楽座や撰銭令の実施で商業者の経済活動が活発化して、地子銭や 津銭などの税金の徴収も増えることとなりました。マネジメントの目的が「顧客創造」であるとする「ドラッガー」の定義はな かなか理解できにくいものです。戦国時代にこれを実践し「神の役割」を意識した織田信長は経営者として見た場合時代を超越した第一級の経営者と言えそうです。
「楽市楽座」は、元祖規制緩和
「楽市楽座」とは、織田信長が行った経済政策です。これは独占権をもった業者を排除し商売を自由にできるようにした制度の事をいいます。楽市楽座の「楽」とは規制を取っ払った自由という意味です。インターネットの大手、「楽天」の創業者の三木谷浩史さんは、インターネットを使って自由に商品のやり取りができるスペースを作りたいという思いから「楽市楽座」に由来する社名をつけました。
現代でも、規制緩和が議論になることは度々あります。安倍政権では、国家戦略特区を設置し規制緩和をすすめています。加計学園問題では、新規参入を進める内閣府を「文科行政への横やりだ」と前事務次官が告発。一方、告発した前川氏もいわくつきの人物で、天下り斡旋の責任を問われ辞任にした過去を持つ人物です。実は「天下り」と「規制」は、表裏一体の関係で、ルールができれば、そこで甘い汁を吸おうとする輩が現れるもの、現代であっても難しい規制緩和を、信長は自分の才覚で実践した政治家です。
   経済学的にみた戦国という時代
戦国時代に突入した日本、時同じくして、石見をはじめとした銀山の開発がすすみ、世界の3分の1の銀を産出したといわれています。当時の世界経済においては、銀は唯一の決済通貨です。掘れば掘っただけ、金(かね)が沸いてきたことで、日本は世界有数の貿易国となり、未曾有の好景気に突入しました。天下布武をめざした信長。その戦いは、日本という極東の島国の戦いではなく、世界一の金持ちをめざして戦った戦いでもあったのです。
戦争ばかりしていたイメージの強い戦国時代ですが、人口は爆発的にふえ、経済、文化、あらゆる面で急成長した黄金の時代という側面もあります。 16世紀の100年間は、日本の農業生産力が2〜2.5倍にも増加しました。また関ヶ原の合戦で東西合わせて5万丁の鉄砲が一戦場に集結したという事実は、ナポレオン戦争以前の世界では例がありません。当時、ヨーロッパ全体でも銃の保有数は6万丁ほどで、日本は世界でも稀な軍事大国だったことが分かります。
織田信長は独特の死生観を持っていました。「人間五十年、下天のうちにくらぶれば、夢幻のごとくなり」の謡を好み舞ったのはテレビドラマでもよく出てくるシーンですが、虚無感と美意識と意志力でもって時代の定式を超越して切り開いて行きました。その美意識においては、パソコンのプリント基板にも美を求め前例のない商品を創り出したスティーブ・ジョブズのあり方とどこか共通している趣がありそうです。
市場を独占していたのはお坊さん?
上念司さんの著作「経済で読み解く織田信長」では、規制緩和に成功し、中世を終わらせた、英雄・信長は何と戦ったのかと、提案し、“お金の流れ”から室町・戦国時代の政治経済を解いています。大河ドラマで描かれる信長像は、武田信玄や上杉謙信などの戦国武将がライバルとして描かれます。しかし上念さんによれば、信長の真のライバルは、宗教勢力であったことを指摘しています。信長が戦ったのは、武将だけでなく、むしろ宗教という最強の既得権益でした
現代ではわかりにくい感覚ですが、中世において、宗教団体は、経済を牛耳る一大コンツェルンという側面もありました。
魔王ともいわれた信長の半生のなかで、有名なのが、比叡山延暦寺の焼き討ちです。織田信長は、比叡山延暦寺を焼き討ちし、僧侶、俗人、老若男女あわせて4,000人を皆殺しにしたといわれています。罪のない人たちを、問答無用とばかりに皆殺しにしたことから織田信長は血も涙もない残酷な人であり、宗教弾圧を行ったと後世の人たちは批判しています。
この批判に対して否という回答をわかりやすくおこなったのが、井沢元彦さんの『逆説の日本史 10 戦国覇王編』です。
信長が登場するまでの日本における巨大寺院(たとえば本願寺や延暦寺)は、ものすごい権力を持っていました。ものすごい権力とは経済力と軍事力です。経済力の源泉は、明との貿易や、広大な荘園や様々な利権です。たとえば寺院が関所を管理して、その関所を通る人からお金を徴収していました。
軍事力の源泉は、多くの信徒です。これらの人は、もし寺院が他の寺院や大名に襲われるような事態が生じた場合は、武器を手に立ち上がり一丸となって戦いました。この時代、寺院がほかの寺院を焼き討ちすることが行われたのですが、これは自分の寺院の勢力の拡大を求めて行われたことが多かったようです。
比叡山延暦寺も天文法華の乱では、洛中の法華寺院を焼き討ちし最大1万人の人を皆殺しにしたのですから、織田信長の焼き討ちがこの時代の焼き討ちの中で、ずば抜けて大きな事件ではなかったと考えられます。
   燃やしたものは「宗教」ではなく「既得権益」
それでは、なぜ織田信長は比叡山延暦寺を焼き討ちしたのでしょうか。織田信長は、戦国大名でありながら、他の大名と異なった点が一つあります。他の大名は、自分の勢力の拡大を目指して戦っていただけですが、彼は、天下を統一し、その後どのように運営すればいいのかというグランドデザインを持っていたのです。このグランドデザインというのは、ようするに日本をよりよい国にするために、寺院の持つ利権を剥奪しましょう。そして楽市楽座のような自由に商取引がおこなえる場所を設けて、経済を発展させましょうというものです。この時代、経済をにない事実上の日本銀行のような機能をになっていたのが、比叡山に代表される宗教勢力でした。そしてこの枠組みは、日本だけでなく、ヨーロッパからきた宣教師も同じミッションを背負っていたのです。事実、宣教師たちは熱心にキリストの教えをとく一方、随行した商人たちは暗躍し、奴隷貿易から植民地経営までのりだしていました。
21世紀になっても終わらない、世界の宗教対立
今日も、地球上のどこかで、戦争はおこっています。そしてその殆どに「宗教」が関係しています。十字軍の時代から、イスラム教徒とキリスト教徒。あるいは、カソリックとプロテスタントと、同じキリスト教同士でも、血で血で争う闘ってきた歴史があります。現代でも、イスラム国を代表とする中東情勢では、政治的な利害や信仰の違いが複雑さまし、多くの悲劇をよんでいます。
しかし、日本はどうでしょう?教科書を開いても、血で血を洗う宗教対立は見られません。しいてあげれば、信長による比叡山の焼き討ちや、島原の乱ぐらい。これは世界的には大変珍しいものです。宗教は、ひとに安らぎをあたえ、人生を豊かにしてくれます。仏教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教など、いずれの神様も、大変優しく、人類に救いをもたらします。
ところが、信じるものは救われるっとしながらも、じゃ、他人が信じる宗教が違っていたらどうなるでしょう?宗教はおのれの絶対性を信じるがゆえに、一転して、排他的となり、ときには戦いに発展してしまいます。
ヨーロッパでは、カトリックとプロテスタントが争った中世には、欧州の人口の4分の1が犠牲となる動乱となりました。火あぶりの刑や水責め拷問などの残虐行為も行われ、戦争で飢饉や腺ペストも欧州全域に広がりました
同じように、日本もかつて深刻な宗教対立があった時代がありました。法華経信仰を提唱した日蓮は真っ向から仏教の他宗派の教義を否定し、彼の教えのみの正統性と優位性を説き、また一向宗は、政治や経済と強い結びつきをもち社会を支配する時代があったのです。
   日本の宗教観をかえた3人の偉人
ヨーロッパや中東では2000年にわたり、宗教対立を続けています。そして今なお、多くの血が流されていることは由々しき事態です。キリスト教国が集まるヨーロッパでは、深刻な対立を糧に、信教の自由や政教分離、そして民主主義の導入と、壁をのりこえる努力を積み重ねてきました。
しかし、日本は違います。ヨーロッパの国々が血をにじむような努力と対話で築きあげてきた秩序を400年も前から実現させてきた稀有な国なのです。
では日本だけが宗教と、フラットに向き合えるのでしょう? その秘密には三英傑の知られざる活躍がありました。
   信長の場合
織田信長というと 比叡山の焼き討ちと、一向宗の弾圧という単語が頭に浮かぶ人も多く宗教に厳しい独裁者というイメージが先行しています。しかし焼き討ちの後に、信長と天台宗(比叡山は天台宗の本山)の関係がどうなったか?についてみてみると意外な事実にきがつきます。確かに信長の焼き討ちによって延暦寺の権威は著しく低下したが、かといって天台宗自体が潰されたわけではないという点です。
これは、宗教団体による政治への介入がひどい場合のみ、手を下し、個人による信教の自由や、布教の自由さを担保していたことがわかります。
つまり今から400年も前に 『政教分離』を成功させたのです。織田信長という人は、政治に口出ししたり、武装したり、統治者に歯向かうような真似をしなければ、どんな宗教でも寛容な心で接しています
日本に様々な宗教が入り込むことも、それぞれが熱心に布教活動を行うことも許しています。確かに織田信長は破壊者であったが、それは古いしきたりや利権に対して向けられた物であり、一度破壊が終われば民衆を守り、日本経済を発展させ、あらゆる宗教の自由を保護する守護者としての一面もあった。
織田信長とは、世界史上まれに見る 理想的な独裁者だったといえます。こうした信長の一連の宗教政策によって、日本では宗教家が軍事力を持つことが出来なくなり、世界中でいち早く政教分離を実現させた国家となりました
   豊臣秀吉の場合
豊臣秀吉はキリスト教の布教を認めたものの、漂着したオランダ人から、「スペイン人は征服者であり、他国に修道者を入れ、その後に軍隊を入れて征服をする」との報告を受け、一気に弾圧に動き出しました。これが日本二十六聖人の殉教につながります。敵は味方のふりをする?この時代の宣教師たちは、植民地化の先鞭という側面がありました。高橋裕史『イエズス会の世界戦略』によれば、明征服のためには日本はキリスト教徒を増やし、彼らを兵として用いるべきとしています。
秀吉による唐入り(朝鮮出兵)は、日本を植民化することを狙うスペインとの駆け引きの中で起こったと指摘する研究者もいます。失敗におわった朝鮮出兵で、人心をうしない、徳川家康に天下を譲った秀吉でしたが、その奮闘ぶりは宣教師によって本国に伝えられ、植民地化を断念させたともいえます。大航海時代以降の世界で、植民地化されなかったのは、アジアでは、タイと日本。アフリカではエチオピアのみ、世界192か国で、3つの国しか成しえなかったキリスト教圏の撃退という大義を秀吉はなしとげました
   徳川家康の場合
童話『北風と太陽』で例えると信長は北風で宗教を律し、家康は太陽で骨抜きにした功労者です。家康は一向宗やキリシタンの脅威に際し、檀家制度を作り、仏教を葬式仏教にして軍事的に無力化していったことです。家康は現代における戸籍を寺に管理させ行政の一端を担わせます。そしてすべての国民がいずれかの寺の檀家になることを強制し、個人は決められた寺の枠組みのなかで生涯を暮していくことになります
家康の宗教政策は、たくさんの効果を生みました。檀家制度による安定した収入布教活動の禁止(檀家の取り合いの禁止)おかみに文句さえ言わなければそこそこの暮らしができる保障・・・
この効果は、家康が宗教側に食べさせた強烈な『毒まんじゅう』です。いまだに仏教が葬式仏教と揶揄される所以も、家康が仕掛けた饅頭があまりに美味かったせいではないでしょうか?
   あらためて考える信長の功績
信長は当時の多くの人が聖域と思っていた比叡山を焼き討ちにしました。さらにたてこもる一向宗の門徒に対しては、根切りといわれた殲滅戦を行っています。この2つの事実だけ見れば、信長は宗教に対して厳しい人物だったと感じてしまいます。
しかし、この焼き討ちの後に、信長と天台宗(比叡山は天台宗の本山)の関係がどうなったか?がポイントです。 聖地に火をかけた以上、本当に信長が宗教弾圧者であるなら、禍根を残さぬために天台宗を徹底的に弾圧したはずです。しかし実際は天台宗という宗教自体には何の手も打っていません。確かに信長の焼き討ちによって延暦寺の権威は著しく低下したが、かといって天台宗自体が潰されたわけではないのです。
95年、日本でおきたオウム真理教によるサリンによる無差別殺人事件では、教祖は逮捕され、教団は解体されました。しかし、信長は、教祖をゆるし、また個人個人の信教の自由を保障しています。合理主義者であった信長には、宗教団体への遺恨はなく、最初から 『政教分離』、『商教分離』というビジョンをもっていたと考えれます。信長は、政治に口出ししたり、武装したり、統治者に歯向かうような真似をしなければ、どんな宗教でも寛容な心で接しています。
織田信長は破壊者であったが、それは古いしきたりや利権に対して向けられた物であり、一度破壊が終われば民衆を守り、日本経済を発展させ、あらゆる宗教の自由を保護する守護者としての一面もありました。織田信長とは、世界史上まれに見る 理想的な独裁者でした。こうした信長の一連の宗教政策と、それを引き継ぎ発展させた、秀吉、家康の3人の功績によって、日本では宗教の毒がぬかれ、世界中でいち早く政教分離を実現させた平和な国となっています。
そして、21世紀になった現在ても、世界のほとんどの国で「宗教対立」が起こっています。そうした国には、信長がいなかったのだっと、ただただ感謝するばかりです。  
  
  

 

明智光秀 1582
順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢覚め来れば 一元に帰す
心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ
(たとえ信長は討つとも、順逆に問われるいわれはない。彼も我もひとしき武門。武門の上に仰ぎかしこむはただ一方のほかあろうや。その大道は我が心源にあること。知るものはやがて知ろう。とはいえ五十五年の夢、醒むれば我も世俗の毀誉褒貶に洩れるものではなかった。しかしその毀誉褒貶をなす者もまた一元に帰せざるを得まい。)  
●明智光秀 1
   順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元
(たとえ信長を討つとも、順逆に問われるいわれはない。信長も自分も等しく武門である。武門の上に仰ぐのは帝のほかにない。その大道は我が心源にあることを、知るものはやがて知るだろう。とはいえ我が生涯55年の間ずっと見てきた夢も醒めてみれば世俗の毀誉褒貶(きよほうへん:ほめたりけなしたりすること)に洩れるものではなかった。しかし、その毀誉褒貶をなす者もまたここに一元に帰す。)
   心知らぬ人は何とも言わば謂え 身をも惜しまじ名をも惜しまじ
(私の思いを知る者はいないのだから、誰に何と言われようと構いはしない。命も、名声も惜しみはしない。)
明智光秀 / 織田氏の重臣であり、主君・織田信長に忠実に従い、天下統一事業に貢献した。本能寺の変にて織田信長襲撃後、竹槍で刺されて深手を負い自害。
●明智光秀 2
明智光秀には人生を総括した2つの"辞世の句"があります。そのどちらにも共通しているのが「覚悟」です。信長に取り立てられて一介の浪人から異例のスピード出世を果たすも、結果的には謀反(クーデター)を起こすことになる。そんな波乱に富んだ光秀の人生はさまざまな局面で大きな決断に迫られ、覚悟をもってたち臨み、良くも悪くも歴史に名を残すこととなったわけです。織田信長という苛烈な個性の上司に仕えつつ、そつなく仕事をこなしながらも"麒麟が訪れるような平和な世の中"を望み続けた晩年、最後に立ち向かった局面が本能寺です。この句は「本能寺の変」直前の思いを綴ったものとされています。
   心知らぬ人は何とも言わば謂え 身をも惜しまじ名をも惜しまじ
この句の意味を素直に解釈すれば《私の心を知る者はいないのだから、誰に何と言われようが構わない。命も惜しくはないし、名声だって惜しくない》ということになります。結果的には「三日天下」などと揶揄されることになった光秀ですが、本能寺の変を控えたこの句には、「無責任で口さがない世間からどう思われようと、信念をとことん貫くのみ」という強い覚悟を感じることができます。
このように、自分の決断や行動を正当化できる感情を心理学では「自己肯定感」と言います。時代に一石を投じて後世に名を残す偉人はもちろん、企業の経営者など組織を牽引するリーダーは必ず持っている感情です。そうした人がいる一方、ただ忙しいだけで自分が希望する仕事に就けていない人、或いは、今の役職に満足していない人は自己肯定感が持ちにくいと言われます。信長の手駒となって働いた光秀の立場はまさにそれでした。ではなぜ、ここまで強烈な覚悟と自己肯定感を持てたのか...。
それは大儀を持てたからに他なりません。欲と得を求めて戦を繰り返し、領土拡大だけが善しとされる時代を嫌い、自らの手で終止符を打とうと心に誓った。残念ながらその企ては失敗に終わったわけですが、「世の人は我を何とも言はばいへ、我がなすことは我のみぞ知る」と言って、幕末の世を本気で変えようとしていた坂本龍馬しかり、大義とともに信念に殉ずる生きざまに、日本人は心を揺さぶられるのです。
●明智光秀 3
   順逆二門に無し大道心源に徹す五十五年の夢覚め来れば一元に帰す
   心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ
いかにも武将らしく潔い辞世の句です。
心に残るものがあります。
自分の働く理由を突き詰めることは、将来へつながることになります。
働いている人の多くは、希望とは違う仕事に就いているかもしれません。毎日が忙しいだけで働くことに疑問を持ち始めると将来の自分が不安になります。働く理由がないと働く意欲は生まれません。
自分の方向性を見失ってしまったときに、何のために今の仕事をしているのか働く理由を考える時間をつくることも大事なことです。
働く理由に壮大なビジョンを掲げる必要性はありません。また他人と比較するようなことではないので、人によって働く理由は異なります。
生きるため、家族を養うためなど、生活を守るために働くことは大切なことです。もし働く理由が生活維持でしたら、仕事は選べなくても仕事のやり方は選べます。
今の仕事が面白くなるように仕事を見直すことが必要です。とりあえず仕事の中で楽しいと思う瞬間を見つけることから始めてみてはいかがでしょうか。自分が楽しいことや面白いと感じることだと、報酬がもらえなくてもできることがあります。そのときが仕事に対する喜びや意味を見つけるチャンスです。
●明智光秀 4
   順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す
辞世の句の原文は漢詩です。
1 修行の道には順縁と逆縁の二つがある。しかしこれは二つに非ず、実は一つの門である。即ち、順境も逆境も実は一つで、窮極のところ、人間の心の源に達する大道である。而してわが五十五年の人生の夢も醒めてみれば、全て一元に帰するものだ。
2 (歴史小説家である吉川英治さん) たとえ信長は討つとも、順逆に問われるいわれはない。彼も我もひとしき武門。武門の上に仰ぎかしこむはただ一方のほかあろうや。その大道は我が心源にあること。知るものはやがて知ろう。とはいえ五十五年の夢、醒むれば我も世俗の毀誉褒貶に洩れるものではなかった。しかしその毀誉褒貶をなす者もまた一元に帰せざるを得まい。
3 世間は世の中で起こることを「良いこと」と「悪いこと」に分類する。しかし、この「良いこと」と「悪いこと」の分類は、単に世間から見ればということだ。それはすなわち世間という一方的な見方で分けているに過ぎない。従って物事をそのような物差しで測るべきではない。大事なのはそれを起こした人物が何を思い何を考えて起こしたのか、だ。そこを見誤れば、すなわち物事の本質を見失うということになる。そして、物事の本質が「良いこと」と「悪いこと」ではなく、その人の思いや考えに終結するのと同様に人の一生にも一つの終結がある。それは「死」だ。人の一生は様々だ。そして人は存命中に様々なことをし、それに対して周りはとやかく評価をしたがる。しかしその人物の存命中の評価など当てにはならない。亡くなって初めてその人の真価がわかるのだ。物事の良し悪しは、その人の思いや考えに終結する。そして、人の生き様は、その人の死によって終結するのだ。
   心しらぬ 人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ 名をも惜まじ
明智光秀の名言、辞世の句と言われていますが、これは後世の創作であるとも言われています。しかしこの辞世の句は、謎めいた明智光秀という人物像、そして本能寺の変の謎と相まって、後の時代を生きる私たちにとっては、明智光秀という歴史上の人物に対して、気持ちを駆り立てられるものに違いありません。
この辞世の句を現代語に訳せば、こんな感じでしょうか。
私の心を知らぬ人は、好き勝手に何とでも言うがいい。私は命を惜しまないし、名だって惜しまない。
後世の創作と言われてはいますが、この辞世の句を聞いて、明智光秀の生涯のどの場面が思い起こされるでしょうか。
本能寺の変の前? 本能寺の変の後? それともほかの場面? 私は、秀吉と戦った山崎の戦いの後かなと思います。明智光秀側が劣勢となり、敗北が決定的となった瞬間こそこの辞世の句に相応しい場面だと思いました。その時の場面を思いながら、この辞世の句の現代訳にあれこれと自分なりに肉付けしたいと思います。
私の心を知らぬ人や後世の人は、私のことを好き勝手に言うだろう。謀反を起こした不忠の人物。恩知らず。主君を討った不届きもの。何とでも言えばいい。信長が生きた未来を想像できないのなら、それはそれで平和なことだ。私は自分の信念に従って行動した。恥ずべきことは何もない。命なんて惜しくない。名だって惜しくない。信念を貫き通して死ねることに比べれば。ちょっとカッコよく書きすぎですね。
実際の明智光秀という人物は資料も少なく、謎の部分も多いです。徳政を敷いたという人もいれば、いやいや戦では残虐な人だよという人もいます。それでも、歴史上の人物については、言い伝わる言動や残っている資料などから、いろいろと自分勝手に思いを巡らすことで、ロマンを感じることも出来ます。「私の心を知らない人は、何とでも言うがいい」、この一文は心に響きますよね。
●光秀の最期 5
光秀とその主従は13騎で坂本城を目指していた。この時点では、援軍も頼んであるので、まだ勝機はあった――しかし、光秀は小栗栖の細道を進んでいく時、藪の中から突き出た土民の槍に脇腹を刺されてしまう。それは明らかな致命傷であり、茂朝は泣く泣く光秀を介錯したのであった。
そして、土中で見つかった明智光秀のものといわれる腐った首級は6月17日に本能寺にて晒された。斎藤利三が六条河原で斬首刑にあったのもこの日である。
……以上が一般で伝えられている光秀の最期である。
彼の辞世と言われているものは漢詩と和歌で二つ存在する。
   順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す
(原文:順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元)
「明智軍記」収録。この歌から光秀の1528年生まれ説が取られている。「たとえ信長を討つとも、順逆に問われるいわれはない。信長も自分も等しく武門である。武門の上に仰ぐのは帝のほかにない。その大道がわが心源にあることを知るものはやがて知るだろう。我が生涯五十五年の間ずっと見てきた夢も醒めてみれば世俗の毀誉褒貶に洩れず、ここに一元に帰す。」
   心知らぬ人は何とも言わば謂え 身をも惜しまじ名をも惜しまじ
「永源師檀紀年録」収録。「私の心を知る者はいないのだから、何とでも言うが良い。命も惜しまないし、名誉も惜しまない。私は私の理由があったのだから、悔いはない」 
●明智光秀 6
[ 1526-1582 ] 斎藤道三の家臣・明智光綱の子として誕生。父の逝去により13歳で家督相続。明智城の戦いに敗北し31歳から浪人となる。40歳、越前の大名・朝倉義景に仕える。44歳、織田家臣として本圀寺の戦いに参戦。その後、比叡山延暦寺の焼き討ちに参加。この時の活躍により坂本城主となる。そして57歳、本能寺の変で織田信長を討つも、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗北。敗走中に落ち武者狩りに襲われて負傷し自刃した。
ロイヤリティ
明智光秀を語るとき、真っ先に思い浮かぶのが「主君殺しの裏切り者」という言葉です。"本能寺の変"は戦国史上最大のクーデターだけに、大河ドラマの爽やか過ぎる十兵衛(若き日の光秀)に違和感がある方も少なくないことでしょう。ドラマでは生きざまの辻褄合わせがおこなわれるでしょうが、実際の光秀については謎だらけ。その素顔は史実としてはほとんど語られておらず、戦国時代の名武将にしては気の利いた名言も多くは残されていません。そうした中で、彼の人となりを最もよく表しているのがこの句です。
   鳴かぬなら わたしが鳴こう ホトトギス
思い通りにならないと、「殺してしまえ!」と言って切り捨ててしまう信長に仕えた明智光秀。超短気なワンマン社長の懐刀として、それはもう苦労の連続であっただろうことは容易に察しがつきます。それでも光秀は信長に深い恩義を感じていたようで、この句にも「親方さまの手に余ることは、すべてわたしが引き受けましょう」という光秀の強いロイヤリティが感じられます。
強烈な個性をもつリーダーの下には、優秀な実務家が必ずいて組織内のバランスを保っているもの。また、そうした能力や忠誠心を見抜き、側近として引き立てるのも優れたリーダーの才能です。さまざまなハラスメントが言われる令和の時代からすると、かなりいびつな絆ですが、信長と光秀の間にも確かに信頼関係があったのです。
ところがなぜ「敵は本能寺にあり」という結末に至ってしまったのか。それは信長に対する失望です。光秀は信長の天下統一に、乱世に平和を誘う「麒麟」の姿を重ねて見ていたはずです。それが幻想だと悟ったとき、「親方さまが麒麟になれぬなら、このわたしが」そう決意したのでしょう。後世、「忠誠心に個人的な感情を交えるな」を人生訓とした勝海舟は、光秀の純粋さを嗤ったのかも知れません。
自己肯定感
明智光秀には人生を総括した2つの"辞世の句"があります。そのどちらにも共通しているのが「覚悟」です。信長に取り立てられて一介の浪人から異例のスピード出世を果たすも、結果的には謀反(クーデター)を起こすことになる。そんな波乱に富んだ光秀の人生はさまざまな局面で大きな決断に迫られ、覚悟をもってたち臨み、良くも悪くも歴史に名を残すこととなったわけです。織田信長という苛烈な個性の上司に仕えつつ、そつなく仕事をこなしながらも"麒麟が訪れるような平和な世の中"を望み続けた晩年、最後に立ち向かった局面が本能寺です。この句は『本能寺の変』直前の思いを綴ったものとされています。
   心知らぬ 人は何とも言わば謂え 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ
この句の意味を素直に解釈すれば《私の心を知る者はいないのだから、誰に何と言われようが構わない。命も惜しくはないし、名声だって惜しくない》ということになります。結果的には『三日天下』などと揶揄されることになった光秀ですが、本能寺の変を控えたこの句には、「無責任で口さがない世間からどう思われようと、信念をとことん貫くのみ」という強い覚悟を感じることができます。
このように、自分の決断や行動を正当化できる感情を心理学では「自己肯定感」と言います。時代に一石を投じて後世に名を残す偉人はもちろん、企業の経営者など組織を牽引するリーダーは必ず持っている感情です。そうした人がいる一方、ただ忙しいだけで自分が希望する仕事に就けていない人、或いは、今の役職に満足していない人は自己肯定感が持ちにくいと言われます。信長の手駒となって働いた光秀の立場はまさにそれでした。ではなぜ、ここまで強烈な覚悟と自己肯定感を持てたのか...。
それは大儀を持てたからに他なりません。欲と得を求めて戦を繰り返し、領土拡大だけが善しとされる時代を嫌い、自らの手で終止符を打とうと心に誓った。残念ながらその企ては失敗に終わったわけですが、「世の人は我を何とも言はばいへ、我がなすことは我のみぞ知る」と言って、幕末の世を本気で変えようとしていた坂本龍馬しかり、大義とともに信念に殉ずる生きざまに、日本人は心を揺さぶられるのです。
度量
仕事上の"嘘"は時として、人間関係を円滑にしたり、仕事をスムーズに進める潤滑油になります。また、頑なに正直な人よりも、本音と建前を上手に使い分ける人の方が効率的に仕事を進めて評価されることもある。つまり、程度にもよりけりですが、ビジネスにおける嘘は駆け引きを有利に進める"戦略"にもなるのです。
明智光秀が生きた戦国時代は、まさしく"騙し合いの時代"です。どれだけ上手に相手を騙すことができるかで国の栄枯盛衰は決まりました。ただそれは武士や僧侶といった特権階級の人々に限られており、額に汗して働く農民たちは、食うや食わずの生活でも嘘偽りなく年貢を納めることが義務づけられていました。この言葉はそんな農民の目線に立ち、封建的な社会の常識に逆らう光秀の気概が感じられる名言です。
   仏の嘘は方便と云ひ 武士の嘘をば武略と云ふ これをみれば 百姓はかわゆき事なり
この言葉を超訳すれば、《仏や武士の嘘なら理屈をつけて許されるけれど、百姓たちが納める年貢の帳尻が合わないと厳しく咎めたてるのはおかしい。そもそも、その程度の嘘などかわいいものではないか》という意味合いになるでしょう。そしてこの言葉の中の、仏を政治家に、武士を官僚に、そして百姓を庶民に置き換えてみると、まさしく今の日本の姿が浮き彫りになります。
疑惑があってものらりくらりでまともに答えようとしない政治家たちがいます。平気な顔をして見え透いた嘘をつき難局を乗り切ろうとする官僚たちもいます。その一方で、庶民(中小企業)たちは、決算を迎えるたびに"節税対策の重箱の隅"を突かれやしないかとひやひやしています。
もちろん納税は義務であり、それを守ることで社会生活は成り立っています。いかに会社の経営が厳しくとも粉飾が正当化されるものではありません。ただ、封建的な戦国時代にあって「その程度の嘘などかわいいものではないか」と言い放った光秀と比較して、これから日本を引っ張ってゆくことになった新しいリーダーには、そうした鷹揚さがまるで見えません。
コロナで右往左往している真っ最中に、消費税増税に前向きな発言をしてみたり、理念は「自助、共助、公助、そして絆」などと空虚なことを言ってみたり...。他人からの借り物のような方便ばかりを並べるのではなく、庶民の目線に立って気骨ある舵取りをし、日本に"麒麟"を導いてもらいたいものです。
●明智光秀 7
「明智光秀」は、三英傑のひとり「織田信長」から絶大な信頼を得て、低い身分から一国一城の主へと出世した戦国武将。織田信長に忠誠を誓っていたはずの明智光秀は、「本能寺の変」で織田信長を自害に追い込み、わずか10日余りの天下を取りました。忠義に厚い有力武将である一方で、謀反により天下人を葬った明智光秀の生涯は、謎に包まれています。
出生から朝倉家家臣になるまで
   光秀はどこの国で生まれた?
明智光秀の出自は、美濃国土岐(現在の岐阜県南部)の庶流であったと考えられますが、明智光秀が生まれた時点では文献に登場するほどの家柄ではなかったためか、明確になっていないのが現状です。
「明智光秀」という人物が歴史上に登場するのも、朝倉氏に仕えた時点からであり、朝倉氏に仕える以前のことに関して、決定打となる史料はありません。
通説では、明智光秀は1528年(享禄元年)に出生しており、父は「斎藤道三」に仕えていた美濃土岐・明智城主「明智光綱」(あけちみつつな)。母は若狭国守護「武田義統」(たけだよしむね)の妹「お牧の方」であると言われています。
明智家と斎藤家の関わりを示す史料「明智氏一族宮城家相伝系図書」では、明智光秀の叔母にあたる女性が斎藤道三に嫁いだという記述がありますが、本書がどこまで事実に即した物かは分かっていません。
ただ、この家系図に従うのであれば、明智光秀の叔母と斎藤道三との間に生まれた娘は「濃姫」(のうひめ:織田信長の正室)であり、明智光秀と濃姫はいとこ同士であった可能性があるのです。
明智光綱は、明智光秀が幼いころに没しており、代わりに伯父の「明智光安」(あけちみつやす)が明智家の家督を継ぎました。しかし、斎藤道三と「斎藤義龍」(さいとうよしたつ:斎藤道三の長男)の内紛により明智光安は命を落とし、1556年(弘治2年)に明智城は陥落。三十路手前の明智光秀は国を追われ、流浪の身となってしまうのです。
   明智光秀の家系図
   国を失い諸国を流浪。越前国・朝倉義景へ仕官!
明智光秀は、明智城が落城してから越前国(現在の福井県嶺北地方)「朝倉義景」(あさくらよしかげ)に仕えることになりますが、落城後すぐに仕官した訳ではありません。
約2年の空白期間を経て朝倉氏のもとへ渡っており、この空白期間については諸説ありますが、流浪の身として諸国を放浪し、鉄砲の使い方や戦術など、戦国の世において必要とされる素養を身に付け、室町幕府将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)に仕官したという説が有力と言われています。明智氏は土岐氏一族の出自であり、さらに一族からは幕府の奉公衆となっている者も多くいたことが、この説の理由です。
明智光秀は、一族の伝手(つて)を頼って足利義輝に仕官します。しかし、間もなくして足利義輝は「三好長慶」(みよしながよし:室町時代の武家政権[細川政権]を終わらせて[三好政権]を樹立した戦国武将)の重臣「三好長逸」(みよしながやす)、「三好宗渭」(みよしそうい)、「岩成友通」(いわなりともみち)から成る「三好三人衆」と、「三好義継」(みよしよしつぐ:三好長慶の甥)により自害に追い込まれました。
この事件は「永禄の政変」と呼ばれています。三好三人衆は、幕府の首長として将軍家を掌握しようとしており、一方で足利義輝は、将軍家による直接統治にこだわっていたため、三好義継らにとって足利義輝は邪魔な存在だったのです。なお、足利義輝の最期に関しては討ち取られたという説もあります。
主君がいなくなった明智光秀は再び浪人となりますが、美濃国は依然として斎藤家が治める地であったことから帰ることができず、岐阜に近い越前に行き着いたと考えられるのです。そして、越前を治めていた朝倉義景に能力を認められたことから、朝倉義景に仕官するようになりました。
明智光秀、将軍・足利義昭の側近として幕府再興に奔走!
   室町幕府復興を画策。足利義昭の側近に
放浪の身から脱することができた明智光秀は、「足利義昭」(あしかがよしあき)の上洛に向けて奔走することになります。
足利義輝が自害に追い込まれたのち、奈良に出家していた足利義輝の弟・足利義昭は「自分こそが将軍にふさわしい」と考え、近江に逃れて仏門から還俗(げんぞく:僧が俗人に戻ること)し、上洛にあたって後ろ盾を得ようと周辺の有力武将を頼ることにしたのです。
そして、足利義昭は越前の朝倉義景へ接近。足利義昭の側近には「細川藤孝」(ほそかわふじたか)がおり、明智光秀は細川藤孝と共に足利義昭の近習として室町幕府再興を目指すことになります。
足利義昭が頼った諸大名の中には、当時急速に力を付けてきた織田信長と、織田信長の妹「お市の方」の婿「浅井長政」(あざいながまさ)がいました。なお、足利義昭に命じられて織田信長へ協力を要請しに行ったのが明智光秀であり、このとき明智光秀は初めて織田信長と接触し、朝倉義景の家臣でありながら織田信長の家臣も兼任するようになったと考えられています。
1568年(永禄11年)、足利義昭は、織田信長や浅井長政に擁されながら無事に上洛を果たしました。しかし、翌年の1569年(永禄12年)に義兄・足利義輝を自害に追い込んだ三好三人衆に襲われます。
この事件は京都「本圀寺」(ほんこくじ)で襲撃されたため「本圀寺の変」(ほんこくじのへん)と呼ばれており、窮地に陥った足利義昭の危機を救ったのが明智光秀でした。明智光秀は、細川藤孝や織田信長の家臣「池田勝正」(いけだかつまさ)達と協力して三好三人衆を退き、その後京都奉行の職務を任されることになります。
織田信長のもとで大出世!一国一城の主へ
   金ヶ崎退き口での奮闘
1570年(元亀元年)、織田信長が越前の朝倉氏へ侵攻した折、同盟を組んでいた浅井長政が謀反を起こしました。前には朝倉軍、後ろからは浅井軍が迫る挟撃の形となり、織田軍は撤退を余儀なくされます。
このとき明知光秀は「木下藤吉郎秀吉」(きのしたとうきちろうひでよし:のちの[豊臣秀吉])と共に、越前国敦賀郡金ヶ崎において殿(しんがり:部隊の最後尾で敵の追撃を阻むこと)を務めました。
「金ヶ崎の退き口」(かねがさきののきくち)と呼ばれるこの撤退戦で、明智光秀は朝倉軍による追撃を食い止め、織田軍の被害を最小限に抑えることに成功。この働きを織田信長から評価されて、宇佐山城(滋賀県大津市にあった城)を任されることになりました。
その後、明智光秀は比叡山延暦寺焼き討ちで実行部隊の中心として活躍。功績を認められたことから、近江国滋賀郡約50,000石を与えられて坂本城を築城し、この時点で正式に織田信長の家臣になったと言われています。
明智光秀は「長篠の戦い」、「天王寺の戦い」、「有岡の戦い」など数々の戦に参戦。出自も定かではないほどの低い身分であったと見られる明智光秀は、こうして織田信長の重臣として戦国の世に名を馳せていったのです。
明智光秀最大の謎・本能寺の変
   なぜ明智光秀は謀反を起こした?
織田信長から重用され、明智光秀自身も織田信長に忠誠を誓っていたにもかかわらず、謀反を起こした理由とは果たして何か。
戦国時代最大の謎とも言われる「本能寺の変」については、現在50以上の説が存在。
その中でも有力と言われる説と共に、真相を裏付ける最新の有力説についてご紹介します。
      織田信長非道阻止説
明智光秀が織田信長に反旗を翻した理由は、織田信長の非道を止めるためだったという説。織田信長は、比叡山延暦寺の焼き討ちをはじめ、天下を取るために多くの命を奪ってきました。明智光秀は、織田信長の残虐非道な行いに堪えかねて織田信長を討つことにしたのではないか、というのが本説の根拠となっています。
      織田信長への怨恨説
かねてより明智光秀は、無茶な要求をしてくる織田信長に振り回されていたため、織田信長に対して怨みを抱いていたという説。織田信長の無茶な要求の例として、本能寺の変の直前に起こった明智光秀の領地召し上げが挙げられます。本能寺の変の直前に織田信長は明智光秀に対して、豊臣秀吉の指揮下に入って難航している中国攻めの手助けをするように命じました。さらにこのとき、明智光秀が治めていた近江志賀郡と丹波国の領地を召し上げ(取り上げ)、代わりにこれから攻めにいく出雲国と石見国(両国とも現在の島根県)を治めさせると言い放ったのです。一国一郡から二国を治めることは大名として栄転と言えますが、それまで政治・文化の中心地である京都で華々しく奉行として活動し、また近畿を中心に動いていた明智光秀にとって、山陰の地へ転封されることは耐えられないことでした。しかも、指揮下に付くのが好敵手とも言える豊臣秀吉。かつて明智光秀は、豊臣秀吉を抜いて一国一郡の城主になった輝かしい栄光もありました。織田信長は、明智光秀を鼓舞しようとして命じた可能性はありますが、明智光秀には左遷されたと勘違いされてもおかしくない状況だったのです。
      朝廷陰謀説
明智光秀は、朝廷と繋がりを持っており、朝廷の意向により本能寺の変が起こったという説。明智光秀は京都奉行を勤め、京都の事情に通じていました。そのため、公家や朝廷の者と繋がりを持っていることは十分に考えられます。明智光秀は、朝廷の意向を受けて織田信長暗殺に及んだのではないかというのがこの説です。
      幕府再興説
明智光秀は、自ら幕府を開く、もしくは足利氏による室町幕府を再興しようとしていたのではないかという説。明智光秀の出生に関して謎が多いことは前出しましたが、明智光秀の父・明智光綱は「清和源氏」の流れを汲む土岐氏であると推測されているため、平氏の末裔を称する織田信長が将軍になることを阻止し、清和源氏の流れを汲む明智光秀が将軍に就くことは自然なことだと言えます。後者であれば、足利義昭は京都を追放されたものの依然として将軍の職を解かれていなかったことから、再び足利義昭を擁立して新たな幕府を開かせようという道筋になるのです。
   最新の研究で明らかになりつつある真相
これまで決定的な史料がなかったために推論の域を出なかった明智光秀謀反の真相ですが、2014年(平成26年)と2017年(平成29年)に発見された史料により、明智光秀が織田信長を討つに至った動機として最有力となったのが「室町幕府再興」説。
2014年(平成26年)6月、岡山県岡山市の「林原美術館」で、「石谷家文書」(いしがいけもんじょ)と言われる1535年(天文4年)〜1587年(天正15年)までの記録を記した歴史的文書の再調査をしていた折に、四国の覇者「長宗我部元親」から明智光秀の重臣「斎藤利三」(さいとうとしみつ)へ宛てた書状をはじめとした、本能寺の変の発端と見られる出来事を裏付ける書状が複数発見されたのです。
文書を記した「石谷家」は、室町幕府13代将軍・足利義輝に仕えた奉公衆の一族。明智光秀の重臣・斎藤利三の兄「石谷頼辰」(いしがいよりとき)は、足利義輝暗殺後に長宗我部元親のもとへ身を寄せていた「石谷光政」(いしがいみつまさ)の養子であり、長宗我部元親とは義理の兄弟という関係にあります。
明智光秀と長宗我部元親の関係は、斎藤利三を介してではありますが、四国の支配に関しての交渉役。織田信長の決定は、明智光秀、そして斎藤利三を通して長宗我部元親へと伝えられていたのです。長宗我部元親が四国一帯の統一を目前にした矢先、「土佐国・阿波国の南半のみを領有せよ」と織田信長から命じられたときの伝達役を行なったのも斎藤利三でした。
織田信長の意向に従うことを拒絶した長宗我部元親を説得するために、斎藤利三が「空然」(くうねん:出家した石谷光政の法名)へ宛てて書いた書状が「空然宛 斎藤利三書状」(石谷家文書・第2巻所収)。本書状は、1582年(天正10年)1月に書かれており、斎藤利三が長宗我部元親に対して「織田信長へ恭順を示したほうが身のためである」と助言を記した書状です。
1582年(天正10年)5月21日、長宗我部元親は織田信長に恭順する意向を示した書状を送ります。「斎藤利三宛 長宗我部元親書状」(石谷家文書・第2巻所収)は、本能寺の変が起きる直前にしたためられた書状であり、長宗我部元親が織田信長との戦闘を回避しようとしていたことを示す貴重な史料です。
しかし、織田信長は長宗我部元親の恭順の態度にも構わず四国へと侵攻を開始。明智光秀は焦り、織田信長を止めるために本能寺の変を起こしたのではないかと見られています。
   明智光秀の謀反の理由に迫るもうひとつの書状
そして、2017年(平成29年)9月に発見された書状は、室町幕府再興説を後押しする書状です。
岐阜県の「美濃加茂市民ミュージアム」が所蔵する「土橋重治宛光秀書状」(つちばししげはるあてみつひでしょじょう)は、明智光秀が足利義昭を奉じて室町幕府を復興させるため、入洛(じゅらく)にあたり各地の諸将へ協力を求めた内容の書状となっており、これまでは本状の写しが「東京大学史料編纂所」にあったものの、原本は確認できていなかったために、決定的な史料としては認められていませんでした。
土橋重治宛光秀書状は、1582年(天正10年)6月12日、本能寺の変が起きた10日後に明智光秀が「土橋重治」(つちばししげはる:反織田信長派、紀伊国・雑賀衆の武将)に宛てて書いた書状です。
内容は「雑賀衆が味方につきありがたい」、「味方をしてくれる者には然るべき恩賞を与え、友好関係を築いていくように要相談する」と続き、「将軍が入洛するにあたり奔走するべきだが、詳細に関しては将軍から指示が下るため、私からは申し上げられない」と書かれています。
新たに見つかったこれらの書状は、室町幕府復興説を思わせる物ではありますが、明智光秀が将軍・足利義昭からの勅命で織田信長を討つに至ったとする史料としては不十分であるとして、有識者の間ではさらに議論が白熱しました。
明智光秀は天海として生きていた?
明智光秀の生死についてはいまだ定かではありませんが、面白い仮説が残ります。それが、明智光秀と南光坊天海(なんこうぼうてんかい)が同一人物ではないかという説。
まず明智光秀と天海の略歴を比べてみましょう。
   明智光秀略歴
1528年頃 美濃国に生まれる(諸説有)
1556年頃 越前朝倉義景に臣従
1568年頃 足利義昭に臣従
1571年 近江国坂本城主になる
1573年 織田信長に臣従
1582年6月2日 本能寺の変で織田信長を討つ
同年6月13日 山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ自害
   南光坊天海略歴
1536年頃 陸奥国に生まれる(諸説有)。その後出家して「随風」(ずいふう)と名乗り、各地で修行をする。
1588年 川越の喜多院に移り「天海」と名を改め、徳川家康の参謀となる。
1643年 108歳で死去。
天海も明智光秀同様、生誕・前半生がはっきりしていません。天海の足跡がはっきりと確認できるのは、徳川家康に仕えてからのこと。100歳以上の長命を保ったことは、確かとも言われていますが、定かではありません。とはいえ、明智光秀と天海は、同時代に生きていたのです。
明智光秀と天海が同一人物と言われる説
前述の通り、山崎の戦いで自害したと言われる明智光秀ですが、その遺体は発見されていません。
そして、天海が歴史の表舞台に顔を出すのは、1608年(慶長13年)、駿府城で徳川家康と対面したときです。このとき徳川家康は65歳、天海は72歳。徳川家康はこの遅すぎた出会いを嘆いたともされています。
それでは、明智光秀と天海同一人物説の一部をご紹介します。
1.徳川2代将軍は「秀忠」、3代将軍は「家光」。それぞれ明智光秀の名前から1文字ずつ取ったのではないかという説。
2.明智光秀寄進の灯篭が比叡山にあるが、その寄進日が本能寺の変の20年後であるという説。
3.明智光秀の家臣だった斎藤利三の娘お福(春日局)は、天海の希望で徳川家光の乳母になったという説。
そして最も気になる説が、江戸幕府初代将軍・徳川家康が眠る「日光東照宮」にあります。
天海は日光東照宮に深くかかわっていました。日光東照宮には、なぜか明智家の家紋である桔梗紋が多く見られるのです。
また日光東照宮の近くには「明智平」(あけちだいら)と呼ばれる地がありますが、その命名をしたのが天海だと言われています。
他にも、筆跡鑑定を行なうと、明智光秀と天海の文字は非常に似ていると言います。
明智光秀と南光坊天海。2人とも謎の多い人物という意味では間違いなく共通点があるようです。明智光秀が優れた武将であったならば、政治の表舞台に立つのではなく、天下人のサポートをするという立場で裏から天下を動かし、自分の手腕を試したというのもやぶさかではないでしょう。
「裏切り」の代名詞 明智光秀の家紋
   桔梗紋
明智家の家紋は、水色の桔梗をあしらった「水色桔梗」(みずいろききょう)。この家紋は、特定の色が付いている非常に珍しい家紋。
桔梗は、秋の七草のひとつに数えられる花であり、もともとは「吉凶を占う」花でした。また、桔梗はその漢字に「更に吉」という縁起の良い文字が組み合わされていることから、明智家以外でも家紋に用いる武将は多く存在し、代表的な人物では「加藤清正」(かとうきよまさ)がいます。
桔梗紋は、清和源氏土岐氏の代表的な家紋としても有名です。土岐一族は、戦国時代以前に「桔梗一揆」と称して団結し、水色の旗を掲げて勢力を拡大していました。明智光秀の水色桔梗紋はそのときの名残であり、源氏嫡流の白に遠慮して、幕に水色を付けたとも言われています。
   本能寺の変により裏切りの家紋に
1582年(天正10年)、明智光秀はこの水色桔梗の旗を掲げて本能寺に宿泊していた織田信長を襲撃し、自害に追い込みました。その後明智光秀は、主君を謀る裏切り者としての烙印を押され、家紋である桔梗紋も裏切りの象徴としてみなされるようになったのです。
桔梗紋を使っていた武士の中には、別の家紋に変える者も現れました。また、現代も子孫が脈々と続く織田家では、桔梗紋は不吉であるとして飾ることは禁止されています。
明智光秀の名言
   「自分は他の誰でもない、煕子殿を妻にと決めている」
愛妻家としても知られる明智光秀が残した名言のひとつです。
明智光秀の正室である「煕子」(ひろこ)は、明智光秀のもとへ嫁ぐ直前に疱瘡(ほうそう:天然痘の俗称)にかかり、顔にはその痕が残っていました。それを見た煕子の父は破談になることを恐れて、密かに煕子の妹と入れ替えて結婚させようとします。
しかし明智光秀はそれを断り、煕子を娶ると宣言し、夫婦になりました。外見の美醜にかかわりなく、煕子を娶ると言った明智光秀の男気溢れる態度に煕子は感銘を受けて、明智光秀を献身的に支えるようになります。それを示す逸話で有名なのは、美濃から越前へ移り住んだのち、明智光秀が連歌会を主宰することになったときの話です。
当時、生活が苦しかった明智光秀は、その接待費をどうするか悩んでいました。そんな折に、煕子は自身の黒髪を切り落としてそれを売り、接待費として捻出したのです。煕子の計らいのお陰で連歌会は無事に成功。明智光秀は、煕子の行動に深く感謝して、妾や側室を一人も娶ることはなかったと言います。
   「心しらぬ 人は何とも 言はばいへ 身をも惜まじ 名をも惜まじ」
本能寺の変を起こす直前に明智光秀が詠んだと言われる句です。
「私の本心を知らない人から何と言われようと構わない。この命も名誉もすべて惜しくはない」という意味の句であり、明智光秀が織田信長に謀反した理由を明らかにしていないことを示唆するような言葉でもあります。
いかなる理由にせよ織田信長を討ち取ることは、計り知れないほどの危険を伴う行為と明智光秀は知っていたのです。織田信長に忠を誓う家臣は多数いる上に、いずれも武勇に優れた名将揃い。天下人となった織田信長を討つという計画が漏れれば、有力な武将が明智光秀の企みを阻止するために駆け付けることは明白でした。だからこそ明智光秀は、誰にもその真意や計画を読み取らせないようにして本能寺へ赴き、織田信長を討ち取ったのです。
自らの意志を貫いて織田信長を討ち取った明智光秀の行動力と信念、そして決断力は、裏切りという点を除けば、現代においても見習うことができる姿勢であると言えます。 
 
 

 

駒姫(伊満) 1595
罪なき身も世の曇りにさへられて 
ともに冥途に赴かば 
五常のつみもほろびなんと思ひて
罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき  
うつつとも夢とも知らぬ世の中に す(住・澄)までぞ帰る白河の水 
●駒姫 辞世の句 1
「罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき」
という句を見てスグに蓮如さんの御文を思い出しますね。
「罪をきる」は無実の罪を着せられるの「きる」と「斬る」をかけています。「剣」はキレのいい如来さまの教え=四十八願、そしてわが命を奪う刀。
「弥陀の剣」には生死をも超越したすべてのことは如来におまかせしているという「諦観」が感じられます。
最後の「障りあるべき」は「弥陀〜」と「なにか〜」を飛ばして詠んでみれば「無実の罪を着せられたこの身に、何の障りがあることか」という意が窺えます。
「なにか五つの 障りあるべき」は実をいうとこの句の一番のポイントだと思います。
「五つの障り」、いわゆる「五障」は「三従(さんしょう)」としばしば一緒に並べられて「五障三従」などといわれることが多い言葉です。これは鎌倉以前の一部仏教宗旨の教えにあった女性差別の考え方です。そのような考えは一部戦後まで続いていました。
要は「五障」を一言で言えば「仏には絶対なれない」ということ、「三従」とは女子の守るべき当然のこととされていた三つの流れで、1幼女娘時代には父に、2婚姻後は夫に、3夫亡きあと老いては子に従って、生涯を全うするということです。
釈迦の教えにはそのような考え方は一切ありませんでした。
釈迦入滅後、釈迦以前のヒンズーやバラモン等の教えがごちゃまぜになって大陸を経て我が国に入って「男性優位、女性下賤」の思想を日本に植え付けていきました。
蓮如さんの御文にはかなりその言葉、「五障三従」が頻出します。
当時の人々にとって「五障三従」は何らの疑いも持たない当たり前のことでしたが、蓮如さんは人々に「それは違う」「老若男女皆同じである」という真実の教え、阿弥陀如来の本願とはどういうものかを御文で伝えました。たとえば・・・
・・・〜しかるに阿弥陀如来こそ、女人をばわれひとりたすけんといふ大願(三十五願)をおこしてすくひたまふなり。このほとけをたのまずは、女人の身のほとけに成るといふことあるべからざるなり。(男も十悪五逆の身で同様であるが阿弥陀如来一仏のみがその誓願をたてているのでこの仏を信じる事が一大事である)
・・・なにのわづらひもなく、阿弥陀如来をひしとたのみまゐらせて、今度の一大事の後生たすけたまへと申さん女人をば、あやまたずたすけたまふべし。 さてわが身の罪のふかきことをばうちすてて、弥陀にまかせまゐらせて、ただ一心に弥陀如来後生たすけたまへとたのみまうさば、その身をよくしろしめして、たすけたまふべきこと疑あるべからず。たとへば十人ありとも百人ありとも、みなことごとく極楽に往生すべきこと、さらにその疑ふこころつゆほどももつべからず。かやうに信ぜん女人は浄土に生るべし。・・・ 等々です。
よってそのような深き真宗の同朋の教えがこの句の中に納まっているのでした。
「阿弥陀如来のおはからいであるのならばまず従って仏の世界に参りましょう、五つの障りなどあるわけがないのだから」という意が籠められている、あの状況下で想像だにできない辞世の句でした。
●駒姫 辞世の句 2
罪なき身を世の曇りにさへられて
共に冥土に赴くは
五常のつみもはらひなんと思ひて
罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき
1 罪なき私の身も、世の中のよこしまな動きに邪魔されているが、みんなともに冥土にいったならば五つの徳目に背いた罪もなくなるだろうと思って、罪を切る弥陀の剣にかかる我が身、どうして成仏できない五つの差し障りなどあるでしょうか、きっと極楽浄土にいけることでしょう
2 罪なき私の身も、世間のよこしまな動きに邪魔されて、みんなと共に冥土に行ったならば、五つの徳目にそむいた罪も滅びるだろうと思って、罪を切る阿弥陀様の剣にかかるわが身、どうして成仏できない五つの障害などあるでしょうか。きっと、極楽浄土に行かれることでしょう
●関白豊臣秀次公側室の辞世の句
これから文禄4年1595年8月2日(太陽暦では9月5日)京都三条河原で処刑された豊臣秀次の側室達が詠んだ辞世の和歌を書きます。
これより前に、秀次の一族公達並びに上臈達は徳永寿昌(ながまさ:岐阜県にある初代高須藩主)の邸に幽因(ゆうしょう)後、丹波亀山城に送られ、七月晦日に徳永邸に護送された。この間に命の短いことを知りつつ、幾つかの辞世の句を詠んだように思える。
後世、この和歌は、瑞泉寺・石崎縁起、瑞泉寺絵縁起、伝来辞世表具外題、伝来辞世書付紙、聚楽物語、太閤さま軍記のうち、甫庵太閤記、関白雙紙、瑞泉寺・関白秀次公縁起、瑞泉寺・秀次公絵縁起、広島大学所蔵・猪熊文書、関白手縣衆車注文、東北大学・狩野文庫の13種類の本に残されています。
その前に、当日8月2日の悲惨な様子を書いておきます。
秀次の若君、上臈、婦人たちを誅(ちゅう:成敗する)すべきとの上使が立ち、いやが上にも悲しみは増した。
検使には石田治部少輔、増田右衛門尉をはじめ、橋より西の片原に、布皮敷いて並び居た。彼らは若君達を車に乗せ、上臈達を警護して、上京を引廻り、一条二条を引き下り、羊の歩みにて三条の河原へ近づいた。
橋のあたりまで着くと、検使たちが車の前後に立ち「先ず若君達を害し奉れ」と下知した。青侍・雑兵共が走り寄り、玉のような若君達を車から抱き下ろし、変わり果てた父秀次の首を見せた。
仙千代丸はおとなしくこれを見て、「こは何と成らせられるや」と呟き、わっと泣いた。その姿に母上たちだけでなく、貴賎の見物、警護の武士に至るまで前後を忘れともに涙に暮れた。しかし太刀取りの武士は「心弱くては叶うまじ」と目を塞ぎ、心を太刀だけに集中して仙千代丸達を害した。この時彼らの母上たちは、人目も恥ずかしさも忘れ、声を上げた
「どうして私を先に殺さないのか!急ぎ我を殺せ!我を害せよ!死出の山三途の川を誰か介錯を頼むぞ」と言いつつ、仙千代丸の死骸に抱きついて伏し嘆いた。
これより目録に合わせ、順に座らせた。もはやいかにすることもできぬと覚悟されて、こうお詠みになり、程なく処刑されていった。
1番目 継室(正室)今出川右大臣菊亭春季の娘 上臈 一の台 34歳 
法名 徳法院殿誓威大姉(とくほういんでんせいいだいし) 
一番は絶世の美人と謳われた今出川右大臣菊亭春季の娘君上臈一の台(みだい)の御局で当年三十一歳の女盛り。此世はかりのやどりなれば何事も前世のむくひとおぼしめし。辞世に
長らへて ありふる程を 浮世ぞと 思えへばのこる 言の葉もなし
(生きながらえていて、この世は悲しみや苦しみに満ちた定めなき世だと思いますから、残しておくような言葉はありません。)
心にも あらぬ恨みは ぬれぎぬの 妻ゆゑかかる 身と成りにけり
(御屋形様が太閤殿下をお恨みいたすなど、心にもないことです。けれどもそんな濡れ衣でも、衣が濡らされた時には褄にも水が掛かってしまうのと同じように、御屋形様の妻である私もまたこのように刑場に消える身となってしまいました。)
つまゆへに くもらぬ空に 雨ふりて 白川くさの 露ときえけり
(妻であるがゆえに、雲やぬ空から雨が降ってきたような、突然思いがけない不幸に見舞われ、白川の草に置く露がすぐに消えてしまうように、私も死んでしまうことになります。)
注:白川とは比叡山に源を発し、京都市を西南流して、祇園付近で賀茂川に注ぐ川
浮世かな 花のしゅらくを 君ゆへに 伏見あらしに つれてこそゆけ
(この世は定めないものです。御屋形様のおかげで美しい花の京の都の生活を楽しみましたが、今は荒れ果てて寂しい伏見に私を連れて行 こうとしておられます。)
さきへゆく 人のこころこハ ならのはの みたのしやうとに まちたまへ君
(先に亡くなっていくゆく人の心は楢の小川に浮かぶ葉のようにどこへ行くか分かりません。御屋形様 弥陀の浄土に行くのはお待ちください。)
注 楢の小川は京都市北区の鴨川神社境内を流れる御手洗川を言う。参拝者が手を洗い、身を清める川
さきのよも このよもちきる つまなれは またのちのよも をなしはちすは
(前世も現世も契りを結んできた妻なので、また来世も同じ極楽に参りたいと思います。)
2番目 四条隆昌(三位中将殿)の娘 小上掾@お妻の前(おつまの方) 16歳
法名 朗月院殿誓曜大姉(ろうげついんでんせいようだいし)
二番は小上臈於妻の前、四条三位中将殿の息女、十六歳のあでやかさ。紫に柳色の薄絹の重ねに白袴を引き、練貫の一重絹うちかけ、緑の髪を半切り、肩の周りにゆらゆらと振り下げて、秀次の首に三度拝し、こう詠んだ
朝顔の 日陰待つ間の 花に置く 露より脆き(もろ) 身をば惜まじ
(朝顔の花は日が陰るとしぼんでしまいます。咲いているわずかな時間だけ花に置く露ははかないものです。その露よりもはかない私のこの身ですから、惜しんだりしません。)
故もなき 罪にあふみの かがみ山 くもれる御代の しるしなりけり
(理由もない罪に問われている私ですが、近江の鏡山に雲がかかっているのも、鏡が曇ったさかしまな御代の証です。)
つまゆへに あふみつらさの かがみ山 曇るすがたの 見えてはづかし
(妻であるゆえに遭遇しているこのつらい思いを鏡山が映しています。悲しみにくれる姿を見られるのは気が引けます。)
つまゆへに さらす我身ハ しら川の すゝきなかせよ 罪も当もな 
(妻であるゆえに、人前に晒されている私。罪も無いのに。白川の岸に茂る薄よ泣いておくれ。)
君かため しらへることの ねにそへて まつかせともに みたのしやうとへ 
(御屋形様の為に弾く琴の音に添えて風に吹かれる松風の音が聞こえてきます。待っていてください。阿弥陀様のおられる浄土へもうすぐ私も参りますから。)
もとよりも あふハわかれの はしめそと しれはいまさら なになけかまし 
(もともと会うのは別れることの始まりと知っていますので、今更何を嘆いたりしましょうか。しませんよ。)
3番目 摂津国小浜の僧 毫摂(ごうしょう)寺善助の娘 中納言局 お亀の前 33歳 長女 露月院 姫9歳 処刑 
法名 絶妙院殿誓超大姉(せつみょういんでんせいちょうだいし) 露月院殿誓槿大童女(ろげついんでんせいきんだいどうじょ)
三番は、姫君の母上、中納言の局於亀の前であった。摂津小浜(宝塚市小浜)の寺の御坊の娘で、三十三歳を栄に少し過ぎていたが、西に向かい「南無極楽世界の教主弥陀仏」と観念し
頼みつる 彌陀の教えの 違はずば 導き給へ 愚なる身を
(頼みにしています阿弥陀様の教えを念じてきました私です。どうか愚かな私をご浄土へ御導きください。)
時分ぬ 無常の風の さそひ来て 花ももみぢも 散にけるかな 
(人の世は定めのない無常といいますが、無常の風というものは季節を決めずに吹いてきます。このたびはその風に誘われて美しき桜も紅葉もともに散ってしまいます。)
時しらぬ 無常の風の さそひきて さかりの花の 散りてこそゆけ
(人の世は定めのない無常といいますが、無常の風というものは季節を決めずに吹いてきます。今を盛りと咲く桜も散りゆきます。)
ちうそんの 佛の御名を たつぬれは 南無阿弥陀佛の こえにひかれて
(御屋形様が亡くなり仏となられ、雨露に濡れながら首が座っておられます。これから私は阿弥陀様の声に引きつられて浄土へ参ります。)
うき世とて いままてこゝに なからへて にしへそゆかん わかふるさとへ
(今まで辛くはかないこの現世に生きながらえてきました。西の方にある私のふるさとお浄土へ参ろうと思います。)
なにごとも みなさきのよの むくいそと きけはそらみて 人たにもなし
(何事もすべて前世の報いであると聞いているので、空を見ながら誰もいない来世に参ります。)
4番目 尾張国 日比野下野守の娘 お和子の前(おわこの方) 18歳 長男 仙千代丸 6歳
法名 天運院殿誓暉大姉(てんうんいんでんせいきだいし) 暁覚院伝誓運大童子(ぎょうかくいんでんせいきだいどうじ)
四番には仙千代丸君の母上、於和子の前であった。尾張日比野下野守が娘にて、十八歳になられていた。練絹に経帷子を重ね、白綾の袴を着て水晶の数珠を持ち、若君の死骸を抱きつつ、泣きながら大雲院の貞安上人に十念を授かり、心静かに回向して、こう詠じた
後の世を かけしえにしの さかりなく あとしたひゆく しでの山みち
(後世をと祈ったあなたとの御縁。もうこの世での盛りは過ぎましたので、御屋形様をお慕いして、死出の山道を行こうと思います。)
後の世を かけしえにしを たのみにて あとしたひゆく 死出の山道
(後世をと祈ったあなたとの御縁。もうこの世での頼みは過ぎましたので、御屋形様をお慕いして、死出の山道を行こうと思います。)
よしあしも しらくてくらせし のちのよハ たすけたまへや なむあミたぶつ
(良いも悪いも知らずに生きて来ました。阿弥陀仏様 後世でお助けください。)
注 代々名は継がれており、日比野清実の嫡男、日比野下野守の娘
注 日比野下野守は秀次公の家臣で尾張清洲奉行。連座により山口少雲とともに京都北野の辺りで自害す。秀次家老、前野長康も自害。
注 瑞泉寺名誉住職によると、4番目 尾張国 日比野下野守の娘 お和子の前(おわこの方)と10番目 美濃国 日比野下野守清実の娘 お阿子の前 22(30)歳の二人が姉妹のようになっていますが検証が必要です。
注 3の太閤さま軍記のうちには「若君三人これあり。御成敗に次第」という記述があるゆえ長男仙千代丸と生母の存在が書いてない。何か大きな力が働いたと思える。
5番目 尾張国 山口少雲の娘 お辰の前 19歳 次男 百丸 4歳 
法名 容心院殿誓顔大姉(ようしんいんでんせいがんだいし) 無上院殿誓道大童子(むじょういんでんせいどうだいどうじ)
五番には百丸君の母上於辰の前。尾州山口将監の娘、十九歳になられていた。
白装束に墨染の衣を掛け、若君の死骸を懐に抱きつつ、長総の数珠を持って、これも大雲院の十念を受け心静かに回向して
夫(つま)や子に 誘われて 行く道なれば 何をか後に 思ひ残さん
(先に亡くなった夫や子供に導かれて行く死出の道なので何も思い残したりしましょうか。何も思い残すことはありません。)
かぎりあれや なにを恨みん から衣 うつつに来り うつつにぞ去る
(もとより限りあるのが人の世でしょう。こういう憂き目にあったからといって何を恨みましょうか。私など夢のうちに栄華を極め、夢のうちに消えていくだけなのですから。)
つまゆへに さかりの花と おもふ身も 咲かぬ嵐に ちるぞ物憂き
(御屋形様のおかげで栄華を極めることができたと思っている私ですが、まだ花も咲かないうちに散ってしまうような子供のことと思うとつらいと思います。)
たつそらの 身ハむらさきに なりそめて かけもかたちも にしへこそゆけ
(旅経つ浄土の空より姿は紫に染まり始めました。私はその西にある浄土に参ります。)
いさゆかん き見もろともに 我も又 にしふく秋の 風やさそハん 
(さあ行きましょう。御屋形様と一緒に。西へと風が吹き誘っていきますよ。)
よよかけて ちきるちきりの くちせすハ をなしはちすの うてなならまし
(前世 現世 来世を一緒にと約束しました。その約束が破れることがなかったら、同じ蓮の花咲く浄土でお会いしましょう。)
6番目 美濃国 竹中貞右衛門尉重定の娘 お長の前(お知屋) 18歳 四男 土丸 1歳
法名 珠月院殿誓光大姉(しゅげついんでんせいこうだいし) 普現院殿誓済大童子(ふげんいんでんせいさいだいどうじ)
六番には土丸君の母上、於千屋の前、美濃竹中与右衛門が娘にして、十八歳。白装束に墨染めの衣着て、物毎に軽々しい出で立ちであった。かねてから禅の知識に参学(特に仏教を学ぶ)し、散る花落つる木の葉を観じ、憂き世の無常を悟って、少しも騒ぐ気色無く、本来無一物の心を
うつつとは 更に思はぬ 世の中を 一夜の夢や 今覚めぬらん
(現実のこととは、決して思うことができない。この世の出来事はほんの一瞬の、一夜の夢のようです。その夢から今覚めたような気がいたします。)
時知らぬ 花のあらしに 誘はれて 残らぬ身とぞ なりにけるかな
(季節を知らない風によって多くの花々が散ってゆきます。私もまた他の皆様方とともに、何も残さない身の上となってしまいました。)
さかりなる こずえの花は 散りはてて 消えのこりける 世の中ぞ憂き
(満開だった桜が散り果てたように、栄華を誇った私達も落ちぶれました。残されていることは辛いことだと思います。)  
世中ハ たのうき世を しらすして おとろくままに 弥陀をたのまん
(世の中の辛さも知らず生きてきました。しかし、辛いものだと知りましたので、もう今からは阿弥陀様を頼みに致します。)
のちの世も 又にちの 世も君とわれ しやうとのゑんと なるそうれしき
(後の世も、またその後の世も 御屋形様と私が浄土で結ばれる縁であるのが嬉しいと思います。)
7番目 北野松梅院の娘 阿左古の前(お佐子の前)19歳 三男 十丸 3歳
法名 覚徹院殿誓正大姉(かくてついんでんせいしょうだいし) 普照院殿誓旭大童子(ふしょういんでんせいきょくだいどうじ)
七番には十丸君の母上於佐子の前、北野の松梅院の娘で、十九歳。白綾に練絹(ねりぬき)の単衣(ひとえ)の重に、白袴を引き、戻の衣を掛け、左には経を持ち右には数珠。西に向かって法華普門品を心静かに読んで、秀次、若君、そして我が身の菩提を回向して
一筋に 大悲大慈の 影たのむ こころの月の いかでくもらん
(一筋に仏様の御慈悲にお頼みにしています。どうして心が曇ったりしましょうか。いえ、悲しくなどありません。)
残しおく かぞいろの上に 思ふにも さきだつ身より わきてかなしき
(残していく父と母の身の上を思うと、先立つ我が身よりもいっそう悲しく思われます。)
玉手箱 ふたやあとに 残しをき かけごのさきに たつぞもの憂き
(玉手箱の蓋を後に残しておくように、両親を残して先立つ身は何とも辛い気持ちになります。)
さ衣(ごろも)の かさねの露の ためなれは のこらぬ身にこそ うれしかりけれ
(雨露をしのぐために単衣を重にして、先立つ私と分かっていますが、大変うれしいことです)
君とわれ いさやましハん のりのにわ いまそはちすの 花のうてなに 
(さあ御屋形様 参りましょう、浄土の庭に、ちょうど蓮の花が一面に広がっていますよ。)
はつもミぢ うすきもこきも もろともに いつれのこらむ こからしのやま
(紅葉は薄いも濃いも一緒に散ってしまいます。木枯らしの吹く山で残っていたりするものはありません。)
注 「北野松梅院禅永はは長袖とて御ゆるしなされ候」で自害を免れた(川角太閤記)
注 北野松梅院家も、後々まで、細川家と繋がり、細川家に支えられる。
8番目 近江国 多羅尾彦七の娘 お萬の前 23歳 
法名 済縁院殿誓普大師(さいえんいんでんせいふだいし)
八番には於万の前であった。江州多羅尾彦七が娘。二十三歳。練絹に白袴引き、紫に秋の花が刺繍された小袖を着て、あたかも病中の事とてみる目もいたわしく、心も消え入るように思えた。これも大雲院の十念を受け掌を合わせ
いづくとも 知らぬ闇道に 迷ふ身を 導き給へ 南無阿弥陀仏
(今、どこに居るかも分からない暗闇の道で迷っています。どうぞ、阿弥陀様お導きください。)
せんねんの 弥陀はあまたに ましませと な無阿ミ陀仏の 一こえに見る
(弥千年の前から弥陀は多くあられますが、阿弥陀様の一声で分かりますよ。)
はるかへり あきまたかりハ きたれども われハいつくをる さしてゆくらん
(毎年繰り返し 春になり、また秋が来るのですが、私はいつまで生れるか、確かに去っていきますけど。)
9番目 尾張国 堀田次郎右衛門尉の娘 お輿免の前(およめの方) 26歳
法名 竟回院殿誓究大師(きょうかいいんでんせいきゅうだいし)
九番には於よめの前、尾州堀田次郎右衛門が娘。二十八歳。これも白装束に数珠と扇子を持ち添え、西に向かい十念して
ときおける 法(のり)の教おしへの みちなれば ひとりゆくとも まがふべきかは
(説き示してくださっていた仏法の教えの死出の道まので、たとえ一人で行ったとしても迷ったりすることはありません。)
千代までも かはらじと こそ思しに うつりにけりな 夢を見しまに
(いつまでも変わらないと思っていたのに、すべては変わってしまいました、私が夢を見ていた間に。)
千代までを かはらじと こそ思ひしに 君のこころの なににかはりて
(いつまでも変わらないと思っていたのに、すべては変わってしまいました。御屋形様の心は何に変り果てたのですか。)
よめハさく おきょうのこえと もろもろに いまに妙なる 身とやむまれん 
(お経の声と共に栄華に過ごしたすべてのものが去り、すぐに美しい身に生まれ変わるでしょう。)
きミゆへに ついにわか身を かわしまの みつのそこにも まためくりあへ 
(御屋形様の妻なので、終にわが身を川島の水の底に沈めることになりましたが、また再び巡りあいお会いしたく思います。)
10番目 美濃国 日比野下野守清実の娘 お阿子の前 22(30)歳 法華経の信者
法名 照遠院殿誓恵大師(しょうおんいんでんせいえだいし)
十番には、於阿子の前、濃州日比野下野守の娘。三十歳。容姿すぐれ心も賢く、毎日法華読誦怠らず、信者なれば、その心を身のうへを蓮によせてかくなん
妙なれや 法(のり)の蓮(はちす)の 花のえんに ひかれ行く身は 頼もしきかな 
(最高の地位にいる御屋形様の妻だから、極楽にある蓮の花園に連れていかれる私は楽しみに思っている。)
ぬれ衣おきし 妻ゆゑに しらいとの 怪しや先と あとにたちぬる
(濡れ衣を着せられた御屋形様の妻であるがため、私めには何も知らされておりません。知る知らぬの縁でいうと、白糸すなわち生糸が織りなす不思議のようなものなのでしょうか、先に逝かれた御屋形様をすぐ後より追うこととなりました。)
つまゆへに 人のくがをも しらいとの あやしやさきと あとにたちぬる
(御屋形様の妻ゆえに 人が住むこの世も 白糸すなわち生糸が織りなす不思議のようなものなのでしょうか、先に逝かれた御屋形様をすぐ後より追うこととなりました。)
我かのせぬ はん里は今の 小車 牛にひかれて 弥陀をたのまん
(聚楽第を出て半里の今 牛にひかれている車に乗っている私は阿弥陀様にお頼みしたい。)
注 瑞泉寺名誉住職によると、4番目 尾張国 日比野下野守の娘 お和子の前(おわこの方)と10番目 美濃国 日比野下野守清実の娘 お阿子の前 22(30)歳の二人が姉妹のようになっていますが検証が必要です。
11番目 出羽国 最上義光の次女 お伊万の前(駒姫)15歳 
法名 諦雲院殿誓聴大姉(たいうんいんでんせいちょうだいし)
十一番には於伊満の前、出羽最上殿の息女であり、十五歳になられた。東国一の美人であると伝え聞かれ、秀次より様々に仰せになり、去る7月上旬に上洛したが、旅の疲れにて未だ見参のない内に、この難儀にあったので、淀の方より「いかにもして申し請け参らん」と心を砕かれたため、太閤秀吉も黙し難く、
「命を助け鎌倉に遣わし尼にせよ」と言った。これにより伏見から大至急早馬が出たが、あと一町という所で間に合わず、遂に蕾のままに散った。辞世は
罪なき身を世の曇りにさへられて共に冥土に赴くは五常(儒教の仁、義、礼、智、信の徳性)のつみもはらひなんと思ひて
注:駒姫を秀次にお目見えさせたのは最上義光と甥、伊達政宗。秀次が対面を望んだのではない。最上義光は謹慎となる。
罪をきる 彌陀のつるぎに かかる身の 何か五つの 障りあるべき 
(罪人をさばく阿弥陀様の剣に命を無くす私ですが 何か五常に触るようなことをしたのでしょうか。)
うつつとも 夢とも知らぬ 世の中に すまでうかべる 白川の水
(私が生きてきたのは御屋形様のありがたいお心ざしに満たされたところであるとともに、言われのない罪に貶められる濁った場所でした。夢か現実かも分からないそんな世の中に暮らすことなく、私も清き白河の水を求めて返ってゆきます。)
いまくまの ほとけのちかひ たのもしや 弥陀にひかれて 西へこそゆけ
(今隠しだてない心を仏様にお誓いしました。頼みましたよ。 それでは阿弥陀様に引かれて西にある極楽に行きましょう。)
よいのまの そらすミのほる 月かけも いるややまのは なくてあけめや
(夜の間に空の隅に昇る三日月も沈む山が無くては太陽が昇ってこないでしょう。朝が来ないので助かるかもしれない。)
12番目 京 秋葉(秋庭)氏の娘 お世智の前(あぜち){歌人}35歳
法名 行覚院殿誓梵大姉(ぎょうかくいんでんせいぼんだいし)
十二番には阿世智の前、上京の住人秋葉の娘であり、三十五歳。和歌をたしなみ月花の宴にも興さる才媛であったとか。最後の時も先を争ったが、目録どおりとのことで仕方なく、辞世に
冥土にて 君や待つらん うつつ共 夢ともわかず 面影にたつ
彌陀たのむ 心の月を知べにて 行けば何地に迷あるべき
にごる世の 白川の水に さそはれて そこのみくづと なるぞかなしき
(白川の水は清く美しいと聞きます。濁り多き世の中では白川の水に惹かれはするものの、美しい水に浸ると引き替えに水底の藻屑となってしまうのも悲しいものです。)
つまゆへに わが白川の 水いでて 底のみづくと なりはてにけり
おあせりと 神やほとけを 祈まつ いまハふしミに ゆきそとゝまる
此ほとの こころのちりも よしやたに なかれてきよき カモカワノミつ
せきとむる しからみもかなし しらかわに うきなをなかす ことのくやしさ
13番目 豊前国 本郷主膳の娘(または女房の姪) 小少将の前 24歳
法名 囲本院殿誓固大姉(いほんいんでんせいごだいし)
十三番には小少将の前、備前本郷主膳が娘にて、二十四歳になられた。彼女こそ関白の御装束を賜ったほどの才媛で、有為転変の憂き世を悲しみはたく君の御供をいそがんと
ながらへば 猶も憂目を 三津瀬川 渡りを急げ 君やまつらん
恋しさを なににたとえん 唐衣 うつつともなき うき世なりけり
ごくらくの 弥陀をたのめハ そのまゝに うまれうまるゝ はちすそのうち
ごくらくを にしのかたそと きくなれは いりひもしはれ われをともなへ
14番目 河内国 岡本彦左衛門三郎の娘、左衛門の後 38歳 侍女{琵琶の弾じ琴の名人で源氏物語の師匠}
法名 楽自院殿誓音大姉(らくじいんでんせいおんだいし)
十四番には左衛門の後殿三十八歳。琵琶、琴の名人で、歌の師匠もされていた。是ぞ今わの気色にて
注:岡本彦三郎は、秀吉が幼い秀次に付け三好家にも従った秀次譜代の臣。
しばしばの 憂世のゆめの 覚め果てて これぞうつつの 佛とはなる
中々に 花のかずには あらねども つねなき風に さそはれにけり
(私めは御屋形様のお側にはべる麗しい方々と並ぶものではありませぬが、普通ではない激しい風にあって花々が散るように、一緒に散らされてしまいます。)
あぢきなや 此よばかりの ちぎりさへ あはで過ぎにし 身をこそつらけり
さりとてハ みるめかなしき しら川の 弥陀をたのミて にしへこそゆけ
われも又 にこりにしまぬ はすのいと なにかこの世に こゝろのこさん
つみあるも たすくるミだの ちかいそと たのむこころの ミちしるへせよ
15番目 播州 村井善右衛門の妹 右衛門の後 35歳 侍女
法名 言廊院殿誓讃大姉(ごんかくいんでんせいさんだいし)
十五番には右衛門の後殿播州村井善右衛門の娘にて、三十五歳。薄幸の生い立ちで、また重ね重ねの憂き涙に袖もかはかず
火の家に 何か心の 留まるべき 涼しき道に いざやいそがん
とても行く みだの御国へ いそげただ 御法の船の さをなぐるまに
(これから向かうことになる阿弥陀の国へどうあっても急いでもらいたいものです。救済の船の棹が投げられるとともに、浄土に到るわけにはいかないのでしょうか。)
えもんこう いまをさいこの 身の行衛 さてこそたのめ 弥陀の浄土 
うらめしや いまゝの世まて なからへて 君とそかへる はすのうハつゆ
かきりそと みをしらかわの うきはしを みのりのふねと をもひわたらん
16番目 妙心寺尼(御伽婆)めうしんの方 68歳 老女
法名 妙心院殿誓忍大姉(みょうしんいんでんせいにんだいし)
十六番は妙心老尼、同坊の普心の妻でお伽婆として仕えていた。辞世に、かづうなら 身に長らぬ 居ていまの 憂き目を見ることのかなしさに
先立ちし 人をしるべに ゆく道の 迷ひをてらせ 山の端の月
17番目 父は三条顕実(あきさね) 母は一の台の連れ子 お宮の前 13歳
法名 顕月院殿誓赫大姉(けんげついんでんせいかくだいし)
十七番は於美屋の前、一の台の娘であり、父は尾張の何某にて十三歳。母子を寵愛されたこと、ただ畜生の有様であると、太閤は深く嫉み思われたとか、最後の体、おとなしやかに念仏して
秋といへば まだ色ならぬ うらば迄 誘ひ行くらん しでの山風
うきはただ おや子の わかれと聞しかど 同じみちにし 行ぞうれしき
(辛いことは親子の別れと聞いておりましたが、このたびは母上と同じ道を行くことができるのが嬉しうございます。)
別れゆく 身ほどもの うき事あらじ みつせがはらの 白川の水
あきといへば まだいろならぬ うらはまで さそひゆくらん しでのやまみち
宕(とう:洞穴)居して としをかそへて 十三の 仏となりて ちゝをおかまん
うき世とて しらぬ野山の 道ゆへに さこそまよふと 人のみるらめ
たまてはこ ふたをやあとに のこしおき かけこのなれる はてそかなしき
18番目 摂津の国 伊丹(いたみ)兵庫頭正親(まさちか)の娘 お菊の前 16歳
法名 悦含院殿誓心大姉(えつがんいんでんせいしんだいし)
十八番には於菊の前、摂州伊丹兵庫の娘で、十四歳。大雲院の上人に十念授かり、いざなふて友にうきめにあふ事を露の身と思ひて
注:秀次の動向が気になり黒田官兵衛孝高が密かに推し、お菊の方を秀次に仕えさせる。
秋風に 誘われて 散る露よりも もろきいのちを 惜みやはせん
先立つも おくるるも みな夢なれや 空より出て 空よりおさまる
(先立つのも遅れるのもすべて夢なのでしょう、因縁の織りなす仮の姿より生まれて元の場所に収まるのです。)
こずへなる 花と思ひし わが身さへ つまゆへ散りて ゆくぞ悲しき
巻あくる みすの追付 身にしみて ふけゆく月の かけやたのまん
きみゆへと をもへはうさも つらかりて たたわひしきハ のちとのよのこと
19番目 尾張国 坪内市左衛門の娘 お喝食(おかつしき)の前(おなあの前)19歳 
法名 量徳院殿誓難大姉(りょうとくいんでんせいなんだいし)
十九番には於喝食の前、尾州坪内佐衛門の娘で、十五歳。武士の如き心ばえ、男子の風があって容儀殊に勝れていたから、稚児の名を付けらた。あさぎ色に練絹の単衣の重ね、白い袴を引しめ秀次の首を拝し、まよひの雲をはらひここの月をすまして
闇路をも 迷はでゆかん しでの山 澄める心の 月をしるべに
いかにとも 何うらみけん 難波がた 良し悪しもただ 夢の世の中
(どうしようかと言っても一体何を恨みましょう、「何うらむ」の何の縁で言う難波潟のよしやあしではないけれど、物事の良し悪しはとにかく夢の中のことです。)
あじきなや 命にかへも なきぞかし いまの別れの なをぞ悲しき
おなさけハ ありあり月の また育て うれしき身と にしへこそゆけ 
かゑらんと をもはむかもの かわなミに いととぬれそふ わかたもとかな 
20番目 右衛門の督(ごう)殿の娘  お松の前 12歳
法名 香気院殿誓薫大姉(こうげいんでんせいくんだいし)
二十番には於松の前、右衛門殿後殿の娘にて、十二歳。まだ幼かったから、唐紅に秋の花を刺繍した薄衣に袴の裾を握りながら、母親の死骸を拝しつつ
残るとも 長らへ果てん 浮世かは 終にはこゆる 死出の山道
我なら手 此あわれさを よそにみは さそなこころも みにそわじとや
21番目 丹波国 由良藩主 別所吉治の客人の娘 お佐伊の前 15歳 生国 近江 おきいの方  年齢不明
法名 煖和院殿誓冷大姉(だんわいんでんせいりょう)
末(すえ)の露 元の雫も 消えかへり 同じながれの 波のうたかた
咲けば散る 花の秋風 立ちにけり たまりもあへぬ 萩がえの露
(咲けば散るのが花の命運です。そんな花にむかって激しい秋風がたつと、ひとたまりもなく消えてしまうのは萩の枝にかかる一滴の露です。)
あさましや いつの世にかは めぐりきて 再びあはん ことはあらじな
きいてたに きミの哀れを ほとゝきす 月もろともに にしへこそゆけ 
とをといひ 五つをけふの かきりとも しらて月日を おハるかなしき
22番目 近江国 鯰江権之介の娘 お古保の前 15歳(19歳)
法名 順音院殿誓冷大姉(じゅんおんいんでんせいわだいし)
二十二番には於古保の前、江州鯰江権之介が娘、十五歳、寵愛深く、雪花月の戯れにのみふけって後世の事は思いもよらなかったが、十念を受けて来世を弥陀にまはせて、そしてこの期は大雲院の十念を受け回向して
さとれるも 迷ひある身も 隔てなき 彌陀の教を 深く頼まむ
我をただ みだの誓ひも 頼まじな 出る月日の 入りにまかせて
(私は阿弥陀の誓いも当てにするつもりはありません。月や太陽が昇ったあとにまた沈んでゆくように、このたびのことは自然のごく当たり前のことなのです。)
わが恋は みやまの奥の ほととぎす なき悲しみて 身は果てにけり
こはるゝハ 露のなみたの しら川の 橋をわたれは かのきしにつく
見しひとも つたへてきかん ひとまても たむけてたべや のりの一こえ
23番目 越前国 木村常陸の守重茲(しげこれ)が呼んだ女郎 お仮名の前 17歳
法名 清観院殿誓白大姉(せいかんいんでんせいはくだいし)
二十三番には於仮名の前、越前国より木村常陸守が呼んだ上臈とか。十七歳。非常に賢く、浮世を泡のように観じて
夢とみの 思ふが中に 幻の 身は消えて行く あわれ世の中 
24番目 お竹の前 (元は捨て子) 18歳
法名 応両院殿誓威大姉(おうりょういんでんせいいだいし)
二十四番には於竹の前。一条あたりで、ある方の拾った娘。昔の如意の妃(きさき)もかくとばかりの類なき美人で、
仏道に去来の相なしと悟って公達のうたれさせ給ふ御有様を見て共に冥土へ心いそぎて
注:お竹の方は、おあひの方から関白にふさわしい女人として聚楽第に呼ばれた一条通に屋敷を構える近衛家縁者の娘。
来りつる かたもなければ 行く末も 知らぬ心の 佛とぞなる
夢にしも 知らぬ憂き世に 生れ来て 又しらぬ世に 帰るべらなり
(夢に知ることもなかった憂き世に生まれ来て、またも知らぬ世に帰って行くのでしょう。)
夢ほども 知らぬうき世に わたりきて つまゆへ身をば ちりとなしけり
なつすくる かけとハいへと たけのこの ついにおやをも しられかれめや
25番目 京 古川主膳(饗膳の意味)の娘 お愛の前 法華の信者 23歳
法名 勝範院殿誓最大姉(しょうはんいんでんせいさいだいし)
二十五番には於愛の前、古川主膳の娘で、二十三歳。法華転読の信者であったから、悉皆(しっかい)成仏何うたがひあるべきところをしまして
草も木も 皆佛ぞと 聞く時は 愚かなる身も たのもしきかな
おもはずも すみぞめ衣  身に添いて かけてぞたのむ 同じはちすに
(予想もしなかったことに墨染め衣を身にまとうこととなり、心から願うのは御屋形様と同じ蓮に生まれ変わることです。)
つまゆへに すみぞめの衣 身にそへて かけてぞたのむ おなじはちすに 
あひそめて 世を久かたの ゆめさめて はやくかへるゝ 弥陀の浄土
かくあらん ことともしらは かねてより ねがわんものを くやしのちのよ 
26番目 京 大原三河守の娘 お藤の前 21歳
法名 離夢院殿誓感大姉(りむいんでんせいかんだいし)
二十六番には於藤の前、大原三河守の娘、二十一歳。十念を受け、やまじにまよふとも仏の御名を唱へなば照らせたまふと思ひて
尋ね行く 佛の御名を しるべなる 道の迷ひの 晴れ渡る空
いかにせん 親にしあはぬ うらみこそ うき世の外の さはりなりけれ
(どうしようか、親に会えない恨みこそが現世の外にも繋がる障碍です)
時知らぬ 無常の風の うらめしや おやにもあはで わくなみだかな 
ふりさきて 鳴そふ山の ほとゝきす 月もろともに にしへこそゆけ
ちとせもと たのみしまつも ゑたくちて ふじもろともに かれはてにけり 
27番目 斎藤吉兵衛の娘 お牧の前 16歳
法名 達故院殿誓通大姉(たつこいんでんせいつうだいし)
二十七番には於牧の前、斎藤平兵衛の娘で十六歳。これも十念を受け手を合わせ
注:吉兵衛の兄は、家光乳母、春日局の父、斎藤利三。姉に長宗我部元親の妻がいる。
急げ只 御法の船の 出でぬ間に 乗り遅れなば 誰か頼まん
妻故に きえぬる身にし かなしきは のこれる母の さこそと思へば 
(御屋形様の妻であるがために、この身が消えてしまうのはやむを得ないと思います。しかし、悲しいのは母が悲しみを抱えたまま後に残されることです。)
つまゆへに 消えはつる身は 思はずや 母のなげきの さこそあらまし
たのますと たすけ給へや 阿弥陀ふつ あとさきしらぬ 我身なりせは
28番目 尾張国 大島次郎左衛門親嵩(ちかたか)の娘 お国の前(お園の前)22歳
法名 本植院殿誓徳大姉(ほんしょくいんでんせいとくだいし)
二十八番には於國の前、泉州大島右衛門の娘、二十二歳。肌には白帷子に山吹色の薄衣の重ねに、練絹に阿字の大梵を書いたのを掛けて、秀次、若君たちの死骸を拝し、秀次の首に向かって座してから、太刀取が「西に向かれよ」と言うと、「本来東西無し。急ぎ討て」と答え、討たれた
注:親崇は秀次の父、三好吉房の妹婿で秀次の叔父になる。
名ばかりを 暫しこの世に 残しつつ 身は帰りゆく 元の雲水
君ゆゑに なみだがはらの 白川や 思ひの淵に しづむかなしき
(御屋形様を思うゆえに涙が溢れてまいります。涙川ならぬ、この加茂の河原で御屋形様の潔白を訴えても報われず、追慕の思いに沈むのが悲しい限りです。)
つまゆへに なみだかはらの 白川や 思ひのふちと 身をしづめけり 
くにくにに いつれあわれは ますかゝみ くもれと月そ にしへこそゆけ
をのゑより をろすあらしの はけしさに てるもミぢはを あわれとも見よ
29番目 出自不明 お須儀の前(お杉の前) 19歳 (肺病に悩み尼に)
法名 微吹院殿誓風大姉(びすいいんでんせいふうだいし)
二十九番には於須儀の前、十九歳。日頃労症即ち肺病に悩み、姿を変えて尼になりたいと願っていたが、今はそれも叶わず、世にあるとき数ならぬ身もうきにはもれむことをかなしみて
すてられし 身にもゑにしや のこるらむ あとしたひ行く 死出の山みち
30番目 大野木土佐守秀俊の娘 お阿屋(おあや)(御すゑの人)(御末衆)31歳
法名 空立誓住清信女(くりゅせいじゅうせいしんにょ)
三十番には於阿屋の前、三十一歳。御末の人。心静かに回向して
注:近江国坂田郡大野木(滋賀県米原市山東町)を所領。
一聲に こころの月の 雲はるる 佛の御名を となへてぞ行く
31番目 美濃の国 丸毛不心斎丸毛兵庫頭かみ光兼光建設株式会社(長照) 東殿 61歳    
法名 然交誓湛清信女(ねんこうせいたんせいしんにょ)
三十一番は東の前、六十一歳。中居御末の女房が預かる人であった。夫は75歳で、この3日前に相国寺にて自害した。
注:長照の嫡男、兼利が安八郡福束城2万石。兼利の妻は、稲葉一鉄の娘。
夢のまに 六十路あまりの 秋にあひて なにかうき世に 思ひのこさむ
(あっという間に六十回を余す秋に会って参りました。この年になっていったいどのような未練を、こんなつらい世の中に残すというのでしょうか
ありがたや 弥陀のちかひは すかれけり いそぎてゆくや 極楽の道
ひかしより にしへムカハゝ こくらくの 弥陀のしやうとや やすゝしかるらん
さかりをも さかりならぬも はなにかぜ くもりミはれミ つきのむらくも
32番目 お参の前 (御すゑの女房)
法名 通岸誓達清信女(つがんせいたつせいしんにょ)  
33番目 津保美 (不明)
法名 最澄誓智清信女(さいちょうせいちせいしんにょ)
34番目 お知保 (不明、乳母?)
法名 開豁誓法清信女(かいかつせいほうせいしんにょ)
美濃国 武藤長門守の娘 おさなの方 16歳
消えてゆく 身はなかなかに 夢なれや 残れる親の さぞなかなしき
(消えてゆく私自身は、かえって夢のようにぼんやりとした気持ちとなっておりますが、この世に残る親はさぞや悲しい思いに満たされていることでしょう。)
さかりなる 花はあらしに さそはれて 散るやこころの おくぞ悲しき
おさなくも まよハし西を このくるま なむあミた仏に ひかれてそゆく 
たたいまを かきりとわたる しらかわの みつこそのちの たむけならまし
越前 少将の方 年齢不明
あめつちの そのあひだより 生まれきて おなじ道にし 帰るべらなり 
(人はみな、天地の間に生まれて、また同じところにもどってゆくのでしょう。)
露の身と うまれあふこそ はかなけれ 消えてもとの 姿なりけり
瀟湘の よるのあめか そてぬれて あしわけ母に 乗りてうかまん
注 瀟湘(しょうしよう)とは 中国湖南省、瀟水と湘水が洞庭湖に注ぐあたりの地方
上賀茂 岡本美濃守の娘 お虎の方 24歳
限りある 身をしる雨の 濡れ衣よ そらも恨みじ 人もとがめじ
(雨が降って衣が濡れるのが当たり前なら、人の命に限りがあるのもまた当たり前でしょう。それを知っているので、たとえそれが濡れ衣だといっても、雨を降らした空を恨みはしないのと同様に、わたくしは他人様に恨みを向けることはいたしますまい。)
さきの世の いかなるむくゐ めぐり来て いまこのなりを するぞものうき
とくのりて つミふかき身の ためなれは われもうかまん しら川の水
注:父は上賀茂神社の祭礼・社務を仕切る神官
和泉国 淡輪隆重(たんのわたかしげ)の娘 お小督(ここ)の方 21歳 四女お菊(1ケ月)は助命 
生まれきて またかへるこそ みちなれや 雲のゆききや いともかしこし
(人の世に生まれ落ちて再び戻ってゆくのが御仏の教えであるのなら、生じては消える雲のありようはなんともありがたいものでしょう。)
うまれきて あふとさだまる 命さへ かほどに惜しき ことはあらじな
きみかよを なになかかれと おもひけん うきにあふこそ いのちなりけり
注:淡輪家は改易所領没収
最上衆其の娘 おこちゃの方 20歳
濡れ衣を きつつなれに しつまゆゑ 身は白川の 淡と消えぬるの
(御屋形様に濡れ衣が着せられたのであれば、衣に馴染む褄のごとく、妻として御屋形様のお近くにおいていただいておりましたゆえに、私も清い白川に浮かぶ儚い沫のごとく消えてゆきます。)
からごろも きてみてつらき わが姿 三条がはらに 身をぞすてける
ことしちや 二十二さいの 春過て 身はあさからの 露とあらそふ 
なかそらハ ういのくもきり あつくとも しんによのつきの かけハくもらし 
近江衆 高橋何某の娘 おみやの方 43歳 侍女
何事の とがにあふみの 今なれや むしもあはれを なきそへにけり
(いったいこのわたくしはどういう咎めにあったのでしょうか。近江の今という名前ではありますが、罪にあった身の今この時となっては、虫の声も悲哀を添えているように聞こえます。)
さりとては ゆかでかなはぬ ことなれば 今はうれしき 極楽の道
ミやしろの 君はほとなく すきのかと 身ハ小車に のりのあととふ 
さらてたに くれゆくそらハ ものうきに いまをかきりの あきのいりちよ
注:高橋氏とは、秀吉家臣で近江志村城(東近江市新宮町)を居城とし名とした志村氏のこと。本姓は高橋氏だがこの地を居城とし志村氏を名乗った。
豊臣秀次
秀次公の法号は瑞泉寺殿高巌一峰道意です。
秀次公には4つの辞世の和歌がありました。
磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦
(海辺でただならぬ嵐にあったが、仲の良い千鳥たちの澄んだ鳴き声を聞くと心が穏やかになる。)
月花を心のままに見つくしむ なにが浮き世に思ひ残さむ
(月も花も思う存分見ることができた。浮世に思い残すことはもう、なにもない。)
思ひきや曇居の秋の空ならで 竹編む窗(まど)の月を見むとは
(かってこんなことを思っただろうか、いや、思いもしなかった。宮中の秋天の名月ではなくて、まさか竹を編む窓の満月を眺めることになろうとは。)
うたたねの夢の浮世を出でてゆく 身の入相(いりあい/夕暮れ)の鐘をこそ聞け
作者は、秀吉の甥である豊臣秀次です。叔父の跡を継ぎ関白に就任した秀次ですが、秀吉に嫡男の秀頼が誕生すると疎んじられ、最後は高野山で切腹してしまいます。秀次はその人生を、叔父である秀吉の政治の道具と思って歩んできたのではないでしょうか。幼い頃から叔父と縁のある武将の養子に出され、最終的には秀吉の後継者となって関白に就任するも謀反の疑いをかけられる事に。「思い残さん」という秀次の句には、澄みきった諦めのようなものを感じます。
注 大垣市史の城主一覧によると6代目池田恒興、7代目池田輝政、8代目三好秀次(後の関白)として天正12年(1582年)5月から10月まで務めている。
注 「摂政関白」という言葉がある。摂政とは幼少な天皇や病弱な天皇に代わって政治を行う職である。関白は天皇の代わりに政治を行う職で、公家の最高位である。いずれも、最終的な決裁者はあくまでも天皇であるが、摂政関白は「天皇の代理人」という意味がある。  
  
 

 

豊臣秀吉 1598
露と落ち露と消えにし我身かな 難波の事も夢のまた夢
●辞世の句 1
慶長3年8月18日(1598年9月18日)、豊臣秀吉が没しました。「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」 秀吉の辞世として知られます。裸一貫から天下人に成りあがり、位人臣を極めた男の辞世にしては、人の世のはかなさのようなものを感じます。
秀吉が臨終の間際、五大老を枕元に呼んで、「秀頼のこと、くれぐれも頼み参らせ候」と、幼い秀頼への忠誠を繰り返し誓わせ、行く末を頼んだことは有名な話です。これを「三国志蜀書」の劉備の最期と比較する向きもあります。劉備は死に臨み、駆けつけた諸葛孔明に、「(我が子)劉禅が君主に相応しい器なら補佐してやって欲しい。もしそうでなければ君(孔明)が彼に取って代わって皇帝となり、蜀を治めてくれ」と言いました。つまり天下のために、天下を統べるに相応しい人物が皇帝となるべきと劉備は言ったとされるのです。しかし、実はこれは額面通りの言葉ではなく、「それほどお前を信頼しているから、息子を頼むぞ」という、孔明に忠誠を誓わせる劉備一流の言葉なのですが、それでも天下を思うというジェスチャーを劉備は示しました。一方の秀吉はというと、けれんも何もなく、ひたすら秀頼の行く末を頼み、かつての人たらしぶりを彷彿とさせる言葉もありません。天下のことよりも、まずは豊臣家の安泰を願う心が先行していたかのようにも受け取れます。
秀吉は何を目指して天下を取ったのでしょう。本能寺の変によって、織田の一部将の眼前が急に開け、天下が姿を現わします。そして競争相手はと見れば、いずれも自分を凌駕する者はいない。唯一、徳川家康がしぶとそうですが、当時の秀吉には勢いがありました。軍事的覇権を握り、官職で旧主織田を凌ぐことで、実質的な秀吉政権を樹立します。さらに秀吉は関白にまで昇進することで、天下人としての地位を正当化しました。しかし、それはあくまでも建前に過ぎず、譜代の家臣でもない武将たちが神妙に従っているのは、気前の良い秀吉が良い目を見させてくれるのと、強大な武力と財力の前にひれ伏しているだけです。そのことを一番良く知っていたのが、秀吉本人だったのではないでしょうか。
目の前にぶら下がっていた天下をつかんだ秀吉ですが、何のために天下を取るか、天下を取って何をするかをどこまで考えていたのか。もちろん天下を取れば戦は止み、平和が訪れるのですが、秀吉は大名たちを休ませずに城の普請に駆り立て、朝鮮出兵を催します。働かせて、それに対する褒美を与えることで、大名たちとの上下関係を維持しようとしたのかもしれません。しかし、それも秀吉が健在であればこそ。「自分が倒れれば、神妙な顔をしていた大名たちは、たちどころに言うことを聞かなくなるだろう。そうなれば幼い秀頼はどうなってしまうのか…」。そうした秀吉の思いが、臨終間際の秀頼を頼むという懇願だったような気がします。
そして「自分はなるほど天下を取り、位人臣を極めた。しかし自分が死ねば、何が残るか。権力も武力も消え失せ、残るのは秀頼一人。しかしその一人息子の安泰さえ覚束ない」。天下人も死ぬ時は身一つ。その事実に気づいた秀吉の辞世が、「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」だったとすれば…。
人間が思い残すことなく笑って死ねるかどうかは、天下人も社会的名声も一切関係ないのかもしれないという気になります。
●辞世の句 2
    露と落ち露と消えにしわが身かななにはのことも夢のまた夢
(露のように生まれ、露のように死んでいく、私の人生であったなあ。色々なこと[大阪で過ごしたこと]もまるで夢の中のことのようだ)
日本の偉人で「さん」を付けて呼ばれる人物を挙げるとしたら、みなさんは誰を思い浮かべるでしょうか?「西郷さん」「太閤さん」私はこれくらいしか思い浮かばなかった。〇〇さんは尊敬されながらも愛嬌ある人物にしかつかない呼称なのである。尊敬と愛嬌を持ち合わせることは難しいのだろう。
今回の短歌は「太閤さん」つまり豊臣秀吉の辞世の句と呼ばれる短歌である。低い身分から織田信長に仕え、その中で出世を重ね、信長亡き後は天下を握ることとなった。日本の歴史上類を見ない成り上がりの人物である。一方「サルと呼ばれていた」「人たらしで天下をとった」とどこか愛嬌を感じさせる人物評が現代まで伝わっている。多くの苦難を愛嬌を振りまきながら乗り越えていく秀吉には、スマートさはないかもしれないが、それが人間らしく、我々一般人にも受け入れやすいのかもしれない。
さて、その秀吉が、誰もが避けられない死を前に何を思ったのであろうか。その心をのぞくことができるという意味でも、この短歌は非常に興味深いものである。
今に生きる
「露のように生を受け、露のように死んでいく我が人生」と秀吉は自分の人生をあらわしている。みなさんもこの感覚は分かると思う。今の年齢になった時の自分はもっと大人のはずだったと思わないだろうか。もっとたくさんの経験をして、全く違う考え方をしていて・・・。なんて想像していたが、実際は生まれた時から大きく変わらない自分がいる。生まれてから今までがそうであるならば、自分が死を迎える時もそうであろう。これだけ毎日多くの時間を生きているけれども、過ぎ去った過去は一瞬であり、断片的な思い出を心に抱えているだけの自分がいる。
秀吉ほどの人生となると、さぞ抱えきれない思い出があるだろう。と想像するのだが、大して変わらないのかもしれない。「いろいろなことも夢の中の出来事のようだ」と秀吉が言うように、過ぎ去った人生は振り返ってみても現実感を持って思い出すことはできず、夢の中の出来事のようなものものなのかもしれない。
そう考えると、「今に生きる」これが生きるということなんだなあ。と感じさせられる。
所詮は一粒の露のような儚い人生と思うと、くだらないことに悩まず、目一杯生きてやろう!なんてことを私は考えてしまった。
憂いはいつまでも続く
天下人となった秀吉は、それまで苦労したかいもあり、幸せに暮らし、命を全うした。ということであれば絵本の物語のようであるが、現実の人生はそうはいかない。天下を意のままに動かせる秀吉であっても、憂いがあった。それは・・・後継者 秀頼 のことであった。57歳の時に秀吉は待望の世継ぎとなる男子を授かるととなる。秀頼である。高齢での子供ということもあり、非常にかわいがった。しかしこの幸せは憂いと表裏一体であった。「自分が死んだ後、今臣下の体で仕えている者たちはどう動くだろうか」この憂いが秀吉の晩年についてまわる。秀吉は何度も諸大名を集め、秀頼への忠誠を誓う血判記請文を求めた。たかが1枚の紙きれなのかもしれないが、この紙きれに頼るしか、死に行くものにできることはないのである。
「かへすがへす秀頼事頼み申候」と諸大名に遺言し、慶長三年(1598年)八月十八日、京都伏見城で薨去した。62歳であった。
その後は、よく知られているように徳川家康が豊臣家を滅ぼした。秀吉の想いは果たされることなく、日本は江戸時代と呼ばれる、徳川家を中心とした政治体制に入る。その江戸時代も約260年後に終わりを迎える。
人生も、歴史も露のようであり、夢のようであるなあ。そんなことを考えさせられる秀吉の歌でした。  
●辞世の句 3
貧しい百姓の家の生まれから天下人となった豊臣秀吉。明智光秀を破り天下統一を果たした後には、豪華絢爛な大阪城を築いて金の茶室を作ったり、側室を何人も置いたりと、派手な生活をしていたことでも有名です。そんな秀吉が詠んだ辞世の句がこちらです。
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
「人生はまるで露のよう(に儚い)。大阪での栄華の日々も、儚い夢のようだった。」と読めます。時代を駆け抜け立身出世を果たした秀吉ですが、最後に振り返ったときには、今までのことが儚い夢のように映ったのかもしれません。
また秀吉は臨終の間際に、遅くできた子どものことを心配していたことも知られています。栄華を誇った天下人でも、最期に思い出されるのは愛する家族だったようです。  
  
 

 

細川ガラシャ(伽羅奢) 1600
露をなどあだなるものと思ひけん わが身も草に置かぬばかりを
先立つは今日を限りの命ともまさりて 惜しき別れとぞ知れ
散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ  
●辞世の句 1
細川ガラシャは、1563年明智光秀の娘として生まれました。ガラシャはクリスチャン名で、和名を玉と言います。十六歳のときに織田信長の勧めにより、細川忠興のもとに嫁ぎました。玉は美女で忠興とは仲のよい夫婦であり、二人の子供が生まれました。
1582年、父・明智光秀が謀反を起こし本能寺で信長を倒します。以前からの盟友である藤孝・忠興父子に加勢を求めましたが、光秀のさそいをきっぱりとことわりました。
本能寺の変のあと、夫である忠興も「逆臣の娘」となった玉の対応に迫られます。玉と離縁する気になれなかった忠興は、玉を丹後の山奥、三戸野に幽閉しました。幽閉中に従った侍女の中に清原いと(洗礼名マリア)がキリシタンであったため、玉はキリストの教えに興味を持つようになります。
二年後、秀吉の許しを得ると幽閉から解禁されます。しかし、玉のいないあいだに、忠興が側室を娶っていたことや、忠興の嫉妬心により屋敷から外出が許されないなど、苦難の生活がはじまります。
1587年に忠興が九州征伐へ出陣。そのあいだに侍女と共に身を隠して教会へ行き、その場で洗礼を受けることを望みましたが、身分を明かせないために断られます。その後は外出する機会がなく自邸で密かに洗礼を受けガラシャ(ラテン語で恩寵や神の恵みという意味)という洗礼名を与えられました。
豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成が対立。忠興は関ヶ原の戦いを前にして家康に味方したため、三成は大坂玉造の細川屋敷にいた玉子を人質に取ろうとしました。
細川屋敷に軍勢が押し寄せ、細川ガラシャに人質となるよう迫りました。細川ガラシャはこれを敢然と拒否します。三成が実力行使に出ると、細川ガラシャは家臣に屋敷に火をかけて、家臣に自らの命を絶たせました。細川ガラシャの清らかにして波乱に満ちた人生は三十八歳で生涯を閉じました。
細川ガラシャ 辞世の句です。
「散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」
(散るときを知っていて、そしてそのときに散るからこそ、花は花の美しさ、人には人の価値がある。)  
●辞世の句 2
戦国武将・明智光秀の娘で、細川忠興の妻として知られる細川ガラシャは、敬虔なキリシタンでした。戦国時代には、婚家と実家で揉めごとが起これば女性は実家に帰されていました。しかしガラシャは、いざというときに帰るべき実家を失っていたので、天国こそが自分の帰るところと心に決めたという背景があります。
そして敵軍の石田三成から逃げられないと悟ったとき、キリスト教では自殺が禁止されているので、家老に自身の胸を槍で突かせました。そのときに詠んだとされる歌が、以下の辞世の句として伝わっています。
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
「死ぬべきときを知っていてこそ、花は花となり、人間が人間たりえるのだ」という意味から転じ、「花も人も、散りどきを知っているからこそ美しいのだ」と解釈されています。  
 
 

 

石田三成 1600
筑摩江や芦間に灯すかがりびと ともに消えゆくわが身なりけり  
●石田三成 1
   筑摩江や芦間に灯すかがり火と ともに消えゆく我が身なりけり
(摩江を照らす、葦の間から垣間見える篝火。明日の明け方には消されるあの篝火は、私の生涯を掛けて忠誠を尽くした豊臣家の命運のようだ。)
「筑摩江」は琵琶湖にある入江で歌枕、「芦間」は葦の間、「ともに消えゆく」は篝火、自分の人生、(および、豊臣政権をそれぞれ意味しているとされています)、といった意味になります。
この詩は石田三成の辞世の句です。関ヶ原の戦いで敗走した三成は出身地である近江国に逃れますが、その際に詠んだものと思われます。
石田三成は生真面目でしたが頭が固く、自らの意見を押し通すため虚偽の発言をして同僚を陥れるなど、人から好かれる性格ではありませんでした。他の武将とのコネも殆どなく、一番の友人であった大谷吉継からもその人徳のなさを指摘をされていましたが、その性格が遠因となって豊臣家を結果的に二つに分けてしまい、関ヶ原の戦いにおいて徳川家に天下を取られる結果となりました。
●石田三成 2
   筑摩江や芦間に灯すかがり火とともに消えゆくわが身なりけり
関ケ原の戦いに敗れ、三成が今まさに斬首されようとしているときのこと。三成が喉が渇いたので水を飲みたいと言うと、水はないが柿ならあると差し出されます。しかし三成は、「柿は胆の毒」とこれを断ります。これから死ぬ奴が何を言うのかと嘲笑されるのですが、「大志のある者は最期まで命を大切にするものだ」と毅然と言い放ったといいます。それが1600年11月6日のこと。
自分の身が消えゆくとしても、生きることを前提とした心持ちを失わなかった三成。「かがり火」とは命の灯であり、命尽きるその瞬間まで志を捨てずに生き抜いてやるという野心のようにも思えます。自分の身が消えゆくときは、できることならそうでありたいものです。
石田三成といえば、盟友の大谷吉継。茶会の際に、誰もがハンセン病を患っている吉継との回し飲みを避けていたところ、たったひとり平然と飲み干してお代わりまでしたのが三成。そのことに恩義を感じた吉継は、決して人望があるとはいえない三成に対して厳しいことを言いつつもずっと味方でいたんですよね。関ケ原の戦いで、有名どころの小早川秀秋をはじめ、五奉行の増田長盛や前田玄以らが徳川軍と内通していたとしても、吉継だけは決して三成を裏切ることはしませんでした。
「お前には人望がない、だから勝ち目はない」と徳川と戦うことに猛反対していた吉継。それは真の友だからこそ言える言葉。もし三成が吉継の直言を素直に受け入れていたなら、歴史はまた変わっていたのかもしれませんね。
●石田三成 3
   筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり
石田三成ほど相反する人物像があり、しかもその評価が曖昧な人物はいません。
かつては豊臣政権中枢で権勢を振るって危うくし、滅亡に導いた奸臣という評価が多数を占めています。ではこうした評価はどのように生み出されてきたのでしょう。
三成は能吏・官僚として高い能力を持ち、賤ヶ岳の戦い直前の大垣の大返しを始めとした多くの戦いで兵站奉行を務め、豊臣軍の迅速な進軍を可能にしています。豊臣政権下では多くの奉行職を務め、堺奉行・博多奉行や九州征伐・奥州征伐後の検地奉行などを歴任して功績を挙げています。また朝鮮出兵においても軍監として従軍しました。
しかし一方で武人としての功績に乏しく、唯一大将を務めた小田原征伐の緒戦である武蔵忍城攻めでは水攻めに失敗して味方に多数の死傷者を出すなど、前述の官僚としての有能さの影響もあり、戦下手という像が造られています。
また三成の負の像として、融通が利かない・傲慢・冷徹といったものがあります。千利休・豊臣秀次の切腹や浅野長政や加藤清正・小早川秀秋を讒言によって追いこみ、利休と秀次を死へ追いやったのは他ならぬ秀吉自身の意志です。
また浅野長政ら三人は朝鮮出兵に反対の立場を取ったことで秀吉自身に粛清された可能性が高く、三成は彼らの動向をありのままに秀吉に伝え、命令を忠実に実行しただけです。三成は秀吉の冷徹な行いの身代わりになって周囲の憎悪を受けることとなりました。こうした姿勢が秀吉の威を借りて傲慢であると捉えられたのかもしれません。
三成自身も非常に不器用な男であり、正直すぎるあまり人望を得られていないということを大谷吉継から指摘されています。それが、関ヶ原の戦いにおいて自身が総大将に就かず、西国の大大名である毛利輝元と宇喜多秀家を担ぎだした所以です。
こうしたことから周囲の誤解を受けることが多くても、三成の不器用ながらも実直で義理堅い面に惹かれた直江兼続・大谷吉継・島左近といった人物が彼に同心したことからその人柄をうかがい知ることができます。
時代の流れとともに評価の変わってきた三成ですが、この先はどういった評価を受けていくことになっていくのでしょう。
●石田三成 4
   筑摩江(つくまえ)や芦間(あしま)に灯(と)す かがり火と 
   ともに消えゆく 我が身なりけり
石田三成の逸話
近江国長浜の観音寺(伊香郡古橋村の三珠院という説もあり)に、秀吉が鷹狩りの帰りにのどの渇きを覚えて立ち寄り、寺小姓に茶を所望した際、最初に大振りの茶碗にぬるめの茶を、次に一杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小振りの茶碗に熱い茶を出した。
まず、ぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、後の熱い茶を充分味わわせようとする寺小姓の細やかな心遣いに感じ入った秀吉は彼を連れ帰り、それが後の三成である、という逸話が俗に「三杯の茶(三献茶)」と呼ばれるエピソードであります。
処刑前の三成、小西行長、安国寺恵瓊の3人に、家康が小袖を与えた際、他の二人は受け取ったが、三成は「この小袖は誰からのものか。」と聞き、「江戸の上様(家康)からだ」と言われると、「上様といえば秀頼公より他にいないはずだ。いつから家康が上様になったのか」と言って受け取らなかったそうです(「常山紀談」)。
家康がやはり処刑前の三成に会った際、「このように戦に敗れることは、古今良くあることで少しも恥では無い」といったところ、家康も「三成はさすがに大将の道を知るものだ。平宗盛などとは大いに異なる。」と嘆じたようです。(「常山紀談」)。
三成が処刑直前に、警護の人間に喉が乾いたので水を所望したのに対し、「水は無いが、柿がある。代わりにそれを食せ。」と言われたところ、「柿は痰の毒であるのでいらない。」と答えたところ、警護の者は「もうすぐに首を切られるものが、毒断ちをして何になる。」と笑ったそうですが、三成は「大志を持つものは、最期の時まで命を惜しむものだ。」と泰然としていたといいます(「茗話記」)。 
●石田光成 5
   筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり
石田三成ほど相反する人物像があり、しかもその評価が曖昧な人物はいません。
かつては豊臣政権中枢で権勢を振るって危うくし、滅亡に導いた奸臣という評価が多数を占めています。ではこうした評価はどのように生み出されてきたのでしょう。
三成は能吏・官僚として高い能力を持ち、賤ヶ岳の戦い直前の大垣の大返しを始めとした多くの戦いで兵站奉行を務め、豊臣軍の迅速な進軍を可能にしています。豊臣政権下では多くの奉行職を務め、堺奉行・博多奉行や九州征伐・奥州征伐後の検地奉行などを歴任して功績を挙げています。また朝鮮出兵においても軍監として従軍しました。
しかし一方で武人としての功績に乏しく、唯一大将を務めた小田原征伐の緒戦である武蔵忍城攻めでは水攻めに失敗して味方に多数の死傷者を出すなど、前述の官僚としての有能さの影響もあり、戦下手という像が造られています。
また三成の負の像として、融通が利かない・傲慢・冷徹といったものがあります。千利休・豊臣秀次の切腹や浅野長政や加藤清正・小早川秀秋を讒言によって追いこみ、利休と秀次を死へ追いやったのは他ならぬ秀吉自身の意志です。
また浅野長政ら三人は朝鮮出兵に反対の立場を取ったことで秀吉自身に粛清された可能性が高く、三成は彼らの動向をありのままに秀吉に伝え、命令を忠実に実行しただけです。三成は秀吉の冷徹な行いの身代わりになって周囲の憎悪を受けることとなりました。こうした姿勢が秀吉の威を借りて傲慢であると捉えられたのかもしれません。
三成自身も非常に不器用な男であり、正直すぎるあまり人望を得られていないということを大谷吉継から指摘されています。それが、関ヶ原の戦いにおいて自身が総大将に就かず、西国の大大名である毛利輝元と宇喜多秀家を担ぎだした所以です。
こうしたことから周囲の誤解を受けることが多くても、三成の不器用ながらも実直で義理堅い面に惹かれた直江兼続・大谷吉継・島左近といった人物が彼に同心したことからその人柄をうかがい知ることができます。
時代の流れとともに評価の変わってきた三成ですが、この先はどういった評価を受けていくことになっていくのでしょう。
●石田光成 6
   筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり
生誕:永禄3年(1560年) ― 死没:慶長5年10月1日(1600年11月6日)
安土桃山時代の武将・大名。豊臣氏の家臣。豊臣政権の五奉行の一人。関ヶ原の戦いにおける西軍側の主導者として知られている
見なおされる光成の人物像
歴史は勝者によって作られる。これまで光成の人物像について、計算高い、冷徹な武将として語られきました。しかし、近年、「あれ?光成いいやつじゃない?」との評が盛り上がっています
豊臣家に忠義をつくした生涯だけでなく、太閤検地や、軍役におけるロジスティックの差配の見事さなど、光成の優秀さを示す逸話は数多くあります。
旗印にもちいた「大一大万大吉」。その意味は「一人が万民の為に、万民が一人の為に、さすれば世に幸福が訪れる」というものです。意訳すれば、「One for all,all for one.一人はみんなのために、みんなは一人のために」。
裏切り寝返りが当たり前の乱世にあって、光成のピュアすぎる人柄がつたわる旗印なのではないでしょうか?
出立
長浜城主となった秀吉は、ある日、領内で鷹狩をしていた。
その帰途、喉の乾きを覚えて、ある寺に立ち寄って茶を所望した。対応した寺の小姓は、まず最初に大ぶりの茶碗にぬるめの茶を一杯に入れて出した。喉の乾いていた秀吉は、それを一気に飲み干したあと、もう一杯たのんだ。次に小姓は、やや小さめの碗に、やや熱めにした茶をだした。秀吉が試みにもう一杯所望したところ、今度は小ぶりの碗に熱く点てた茶を出した。相手の様子を見て、その欲するものを出す、この心働きに感じいった秀吉は、その小姓を城に連れて帰り家来とした。この小姓が、その後累進し、五奉行の一人、石田三成となったのである
1582年(22歳)、信長が本能寺で自害。翌年、三成は秀吉VS柴田勝家の「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」に参陣し一番槍を務めた。27歳で九州征伐、32歳で小田原攻めに従軍するなど、秀吉の天下統一事業を参謀としてサポートする。
三成は戦場で全くと言っていいほど武勲を挙げていない。それでも秀吉が側近として寵遇したのは、補給・輸送に腕を振るい(兵一人当たりの兵糧、弾薬を緻密に計算し輸送していた)、経済面での才能を高く評価していたからだった。三成は後の太閤検地の実施でも成果を挙げており、秀吉は有能な実務者は豪胆な武将以上に得難いと、彼に感服していた。1591年、三成は近江北部に所領を与えられ、31歳で城を持った(佐和山城、19万石)。
秀吉は三成が4万石に加増された時、才気に富んだ三成がどんなに多くの人材を登用したのかワクワクして尋ねた。「あれから一人を登用しました」「たった一人だと!?」「島左近であります」。島左近は三成よりも20歳も年上の名将。「あの島左近がお前のような若僧に仕えるのか!?ありえん!」「私もそう思い、知行の半分、2万石で登用しました」「これは面白い。主君と従者が同じ知行など聞いたことがないわ」。秀吉はこの話に感心して、後日左近に高価な羽織を与え「どうか三成をよろしく頼む」とねぎらったという。三成が佐和山城主になった時、左近に加増を告げると「三成殿が50万石の大名と成られても、拙者は今の知行で充分なので、その加増はどうか部下達に」と断った。
三成が検地で目覚しい働きをしたことから、秀吉が九州に33万石の領地を用意したところ、三成はこの破格の厚遇を断った。「私が九州の大名になってしまうと、大阪で行政を担当する者がいなくなります」。三成は個人の出世よりも、故郷・長浜が復興したように、国全体を活性化させることを重視していた。
1592年、秀吉の朝鮮出兵に対し、三成は無益さを訴えて最後まで反対していたが、秀吉はどうしても大陸を支配するといって聞く耳を持たず、ここに足掛け6年間の不毛な侵略戦争が始まった。日本軍は16万という大軍で力攻めをし、当初は優勢だったものの、やがて明の大援軍が介入して一気に戦況が悪化した。三成も渡航し最前線で戦い負傷する。翌年、明軍と和平を結ぶために休戦。明の講和使節を伴って帰国したが会談は決裂。1596年、再出兵。「補給線もズタズタに寸断されており、このままでは日本軍は全滅してしまう」。そのように三成が危惧していた矢先、秀吉があっけなく病没する(1598年8月)。三成はすぐさま全軍に朝鮮からの退却を指示した。
最初の朝鮮出兵の撤退時に、三成と加藤清正は激しく対立した。即時撤兵を考える三成と、交渉を有利に運ぶ為にも最後に戦果を挙げるべきとする清正で口論になった。清正は戦線を無理に拡大して友軍まで窮地に追い込んでおり、勝手に“豊臣清正”と名乗るなど問題行動もあった。三成は日本にいる秀吉に“清正が和睦の邪魔をしている”と報告。怒った秀吉は清正を帰国させ謹慎処分にした。これを逆恨みした清正は「三成を一生許さぬ。たとえ切腹を申し付けられても仲直りなどできぬ」と激怒した。
秀吉の他界
秀吉の忘れ形見・秀頼はまだ5歳。秀吉は他界する前、まだ幼い秀頼の将来を心配して、五大老(前田利家・徳川家康・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)と、五奉行(前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家)に、秀頼への忠誠を誓約させた。そして、五大老と五奉行を合わせた十人衆の中から、前田利家と徳川家康をリーダー格に置き、両者の指揮のもとで合議制の政治を行なえと言い残した。秀吉の死を看取った三成は誓う。
1599年1月(39歳)。秀吉は特定の大名が大きくならないように、大名間の婚姻を厳禁していた。ところが秀吉の死からまだ半年も経っていないのに、家康はこれに背いて伊達政宗、福島正則らと私婚を結ぶ動きを見せた。この時は家康以外の十人衆が全員で問責して縁組を止めさせた。しかし、3月に家康と並ぶ実力者・前田利家が病没してしまい、これで一気に家康が権力を掌握し始める。利家が他界した夜、三成は以前から彼と対立していた加藤清正、福島正則ら武闘派の諸将に襲撃された。命は助かったものの、大阪城からは追い出され滋賀の居城で謹慎することになった。
そして運命の1600年。家康は天下取りに向けて本格的に動き出す。6月、家康は五大老の1人上杉景勝(会津)の討伐準備で江戸に入り、諸国から兵を集めた。7月11日、三成も水面下で反家康の行動を開始。まず最も親しい越前敦賀の大名・大谷吉継に挙兵計画を打ち明けた。吉継は「今の家康に勝てるわけがない」と忠告したが三成は「秀吉様の遺言をこれ以上踏みにじらせぬ」と譲らぬため、吉継は“三成は昔からの親しい友だ。今さら見放すわけにもいかない”と腹をくくった。
この大谷吉継はハンセン病を患っていたが、秀吉に「100万の兵を与えてみたい」と激賞された名将だった。当時の人々はこの病を感染病と誤解していたので、吉継は普段から顔や手を布で覆い隠していた。ある時、秀吉の茶会で吉継に茶碗が回った時、彼は飲む振りをして次に回すつもりが、傷口から膿みが茶に垂れてしまった。列席した武将達は絶句し、一同はすっかり青ざめてしまった。吉継は茶碗を隣に回せなくなり、場の空気は固まった。その時、三成が立ち上がる。「吉継!もうノドが渇いてこれ以上待ちきれぬ、早くまわせ!」と茶碗をもぎ取り、そのまま最後の一滴まで飲み干したのだ。石田三成とは、そういう男だ。
関ヶ原の戦いへ
“家康を叩く”といっても家康軍8万に対し、三成には6千の兵士しかいない。しかも政治の中心から干されて1年以上が経っている。普通なら諦めるところだが、彼は筆一本にかけた。西国にはまだ五大老のうち毛利輝元・宇喜多秀家がいる。「家康公の行いは、太閤様に背き、秀頼様を見捨てるが如き行いである」三成は家康の非を訴え両者を説得し、挙兵の約束をとり付けた。また五奉行も長束正家・増田長盛・前田玄以の三奉行(自身を入れると四奉行)が味方になった。7月17日、二大老・四奉行の連署で、家康の罪科13ヵ条を記した檄文を全国の諸大名に送る。毛利輝元は西軍総大将として大阪城に入城した。これを受けて各地から続々と反家康勢力が大阪に結集し、その数は9万4千まで達した。既に数の上で1万余も家康側を上回っている。さらに東北の上杉軍3万6千を入れると13万になり、東軍をはるかに超える巨大戦力となる。「…勝った!」。西軍は手始めに伏見城、大津城を落とし、近畿一円をほぼ制圧した。
西軍と東軍の戦闘は日本各地で行なわれており、東北で上杉(西)VS伊達・最上(東)、中山道で真田(西)VS徳川秀忠(東)、九州では黒田勢(東)が西軍諸勢力と戦っていた。
9月15日朝8時。ついに天下分け目の合戦が始まった。時に三成40歳、家康58歳。両陣営の最終的な布陣は、西軍8万5千、東軍7万5千。西軍は兵数で有利を保ったまま戦に突入できた。
まず東軍の井伊直政隊が西軍の宇喜多隊へ攻撃を開始。両陣営が一進一退を繰り返すなか、三成は山上に陣を張る西軍陣営に対し、「加勢せよ」と合図の“のろし”をあげるが、なぜか山から下りてこない。西軍で戦っているのは、親友の大谷吉継、文官の小西行長、大老・宇喜多の三隊という3万5千の兵だけ。どうもおかしい。そして正午、やっと小早川秀秋の大軍が参戦してきたと思ったら、なんと西軍に襲い掛かってきた!午後1時、勇戦していた大谷隊が持ちこたえられず全滅。吉継は自分の首を敵に晒されることを良しとせず、切腹の後に地中深く埋めるよう側近に命じた(今も発見されていない)。
小早川の寝返りがきっかけとなり、味方の裏切りに歯止めが利かなくなっていく。やがて宇喜多隊、小西隊が敗走し、とうとう残るは三成の本隊のみとなった。三成の家臣は四方から津波のように押し寄せてくる東軍を相手に、獅子奮迅の戦いぶりを見せたが、多勢に無勢、一人、また一人と、壮絶に散っていった。だが、これほど絶望的な状況でも、三成の家臣だけは誰も裏切らなかった。午後2時、死闘の果てに三成隊は全滅。ここに合戦は終わった。
西軍総大将を引き受けたはずの毛利輝元は、大阪城に入ったまま関ヶ原にやって来ず、合戦では三成が総大将になるしかなかった。毛利はこともあろうに、家康の「戦闘に加わらなければ所領は保証する」という密約をのんでいたのだ…。
三成軍の最期を歴史書『天元実記』はこう刻む「三成は武道に名誉ある者であれば、何をおいても召抱えた為に、関が原における石田家の兵の働き、死に様は尋常ではなかった」。
合戦3日後に居城の佐和山城も落城。城内にいた父兄、石田一族は自害した。西軍を裏切った小早川、脇坂らの武将は、早く武勲をあげようとして佐和山城に乗り込み、内部の質素さに驚いた。三成は約20万石の武将であるばかりでなく、秀吉に寵遇され、長く政権中枢に身を置いていたので、さぞかし城内は豪勢で、私財を貯えているだろうと東軍は思っていた。ところが、壁は板張りで上塗りされずむき出しのまま、庭には風情のある植木もなく、手水鉢は粗末な石。ある東軍の軍医は記す「佐和山城には金銀が少しもない。三成はそれらを貯えてはいなかった」。
三成はよくこう語っていた「奉公人は主君より授かる物を遣いきって残すべからず。残すは盗なり。遣い過ぎて借銭するは愚人なり」。
敗戦後、三成は伊吹山に独りで落ち延びたが、6日後、潜伏先の古橋村で捕縛された。9月24日、家康のもとへ護送される。縄で縛られた三成の姿を見て東軍の猛将・藤堂高虎が近づき、丁重に言った。「この度の合戦での石田隊の戦いぶり、敵ながら実にお見事でした。貴殿の目から見て我が隊に問題があれば、どうか御教授願いたい」「鉄砲隊を活かしきれてなかったようです。名のある指揮官を置けばあの鉄砲隊の威力は向上しましょう」。この助言に感謝した高虎は、以降、藤堂家の鉄砲頭には千石以上の家臣を当てることを家訓とした。
そして迎えた、家康との対面。最初に家康が声をかけた。「戦は時の運であり、昔からどんな名将でも負けることはある。恥にはあたらぬ」。三成は少しも臆することなく「承知。ただ天運が味方しなかっただけのことよ。さっさと首をはねられい」。「さすがは三成、やはり大将の器量がある。(命乞いをした)平宗盛とは大いに異なることよのう」。
関ヶ原から2週間が経った10月1日、三成は京の都を引き回された後、六条河原で処刑された。享年40歳。なぜ関ヶ原の戦場で自害せずに逃亡したのか問われた三成はこう答えた--「私はまだ再起するつもりだった」。
三成は薩摩の島津義久と連携して九州からの巻き返しを図っていたという。
死後徳川幕府によって悪評を流され、極悪人にされてしまった石田三成。しかし、彼は20万石の一家臣でありながら、250万石の巨大な大名・徳川に戦いを挑んだ果敢な男だ。西軍から裏切り者が出たことで人望がないように言われてきたが、全滅するまで戦った石田隊の兵たち、大谷吉継、敬意を示した敵将など、彼らは人格者としての三成の素晴らしさを身をもって語っている。何より、三成に人間的な魅力がなければ筆一本で東軍を上回る9万もの兵を2ヶ月で集められるわけがない。真に国土の繁栄を願い、自身の居城は極めて質素。敗者でなければ英雄になっていた男だった。
三成が検地改革に取り組むまで、各地で長さ・体積の単位は異なっていたうえに、収穫高は各領主の申告制だったので不正が横行していた。三成は単位を統一し、家臣たちと直接農村に入って測量を行なった。この改革で全国の農業生産高が正確に把握できるようになり、長期的視野の農政が可能になった。単位の統一は経済・流通を大いに発展させた。
三成は西軍内の裏切りに薄々感づいていた。合戦直前の手紙に「小早川が敵と内通し、敵は勇気づいているという」「毛利が出馬しないことを味方の諸将は不審がっている」「人の心、計りがたし」と記している。
徳川光圀は三成をこう評している「石田三成を憎んではいけない。主君の為に義を心に持って行動したのだ。(徳川の)仇だからといって憎むのは誤りだ。君臣共によく心得るべし」。西郷隆盛はこの三成評に感銘を受けたいわれています。
●辞世の句 1
豊臣秀吉の家臣として有名な石田三成は、関ヶ原の戦いに敗れて京都の六条河原にて1600年11月6日(慶長5年10月1日)に処刑されました。享年40歳でした。
   「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」
現代文に訳すなら「ああ、故郷の芦の間に燃えているかがり火がやがて消えていくように、自分の命ももうすぐ潰えてしまうのだな」といったところでしょうか。
「筑摩江」(つくまえ)は琵琶湖にある入江で歌枕、「芦間」(あしま)は葦の間、「ともに消えゆく」は篝火、自分の人生、(および、豊臣政権をそれぞれ意味しているとされています)、といった意味になります。
●辞世の句 2
   筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり
豊臣秀吉から実務的な才能を見抜かれ、低い身分から20万石を有する大名にまで出世した石田三成。
しかし秀吉の死後、豊臣家をしのぐ勢力を得ようとした徳川家康に反旗を翻し、「関ヶ原の戦い」で立ち向かった結果、おしくも破れて命を落とすことになりました。
いわば負け組の武将です。
歴史ファンの間でも少し前までは、成功したか否かで人気が決まる傾向がありましたが、豊臣家のために尽くす石田の姿、そして「尽くしたわりには報われない悲しさ」が、女性を中心に人気を呼んでいるとのことです。
石田は対外的には武将として、最後まで剛気に振る舞っていたようです。
関ヶ原で破れ、逃走後に捕縛された石田は大津城の門前で晒し者にされました。
飲み水を所望したのに、柿しかないといわれ、「柿は痰の毒になる(喉に悪いから要らない)」と断った逸話は有名です。
「もうすぐ殺される身で何を言うんだ」と嘲笑われても、「武将たるもの、最後の最後まで諦めてはいけない」と一喝したそうな。
しかし、「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」という彼の辞世は、より素直な印象です。石田の心細さもあらわなように見受けられます。
筑摩江は石田の故郷、現在の滋賀県・琵琶湖の東北端にあたる地域のことですね。
意訳すれば、「わが故郷・筑摩江で、夜釣りで灯される火のように、明け方には消えていってしまう私の身の上のはかなさよ……」とでもなるでしょうか。わが人生は一夜の夢のようだったと石田は嘆いているのです。  
  
 

 

黒田官兵衛(如水) 1604
思ひおく言の葉なくてつひに行く 道は迷はじなるにまかせて  
●辞世の句 1
   おもひおく言の葉なくてつひにゆく みちはまよわじなるにまかせて
「思い残す事は無い」「我が人生に一片の悔いなし」「悔いはない」「本望だ」充実した人生を生きた人の言葉です。
充実した人生を生きるためには、他の誰かの価値基準に従っていても満足できません。
他人が評価する人生ではなくて、自分の価値基準を大切にした人生です。
自分を見つめ、自分の価値基準に気づくためには、自分の内側に目を向ける。
自分のことについて考える時間が必要ですね。
とはいえ転職など、これまで歩んできた道から方向を変えて新たな道へ進もうとすると、大きな不安や心配、迷いの気持ちを抱えます。
先の見えない未来に対する不安や心配、迷いのヒントになるものを見つけたい。
そう思いながらいろいろ調べても答えは出てきません。
それは答えがないからです。
自分の答えは、自分で出せばいいのです。
人から教えられる答えよりも、自分で考え抜いた答えが正解です。
答えを知っていても、自分では見ないようにしているかもしれません。
いずれにしても、その答えは自分の内側を見つめることで、でてくるものです。
頑張ればできると思い込んでいることは解決にはなりません。
無理や我慢は続かないので、自分にできることのみに焦点を当て、答えを出しましょう。
自分にできないことが分かれば、人の手を借りることもできます。
自分で答えを決める名言です。
「常に自分の中にある答えを求めなさい。まわりの人や、まわりの意見や、まわりの言葉に、まどわされてはいけません」
「いい人生を歩む人は、つねに自分自身に問いかけている」
「自分の行き先がわからないと、おそらく別な場所に行ってしまうだろう」
「答えなんてのは、自分の中にしかないんだ。自分で答えを見つけて、自分のスタイルを作っていくしかないんだ」
●辞世の句 2
豊臣秀吉による天下統一を支えたキリシタン大名の黒田官兵衛は、1604年4月19日(慶長9年3月20日)に京都伏見藩邸にて亡くなりました。享年57歳でした。
   「おもひおく 言の葉なくて つひにゆく みちはまよわじ なるにまかせて」
(この世に思い残すことはもう何もない。今は迷うことなく心静かに旅立つだけだ。)
●辞世の句 3
   「おもひおく 言の葉なくて つひにゆく みちはまよわじ なるにまかせて」
(この世に思い残すことはもう何もない 今は迷うことなく心静かに旅立つだけだ)
戦国時代の武将の中でも、黒田官兵衛と竹中半兵衛は大好きです。特に官兵衛は、なるべく殺さないで戦を終わらせる調略や交渉がうまかった。(調略は使うが、裏切ることは一度もない)有名な話には小田原攻めがある。豊臣方の降伏交渉に対して北条方から鉛と火薬が送り返されたにもかかわらず、相手の心理を読み、単身無防備で交渉して見事無血降伏させた。その際に北条氏直が官兵衛に家宝の北条・白法螺貝と吾妻鏡、日光一文字・葡萄文蒔絵刀箱付を贈ったんだけど、実は、うたまろ〜のイラストにある法螺貝はその北条・白法螺貝がモチーフになっています。
官兵衛の「仕えたい主人がいれば(秀吉)、参謀・軍師として仕えるが、いなければ、自身で天下を狙いにいくぞ(関ヶ原の際の九州攻め)」的なスタンスがたまらない。「尊敬する社長や働きたい会社がなければ起業する!」的な感じがね。戦国時代の乱世において、死ぬ前に、「この世に思い残すことはもう何もない」といえるまで生ききった官兵衛は本当に素晴らしい。
黒田官兵衛(孝高) / 黒田如水 (1604年3月20日没:享年59才)
戦国時代〜江戸時代前期の武将・大名
主に豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。また、九州の福崎を黒田家の故地である福岡の地名にしたことでも有名。姫路城に攻め込んでくる三千の兵を、三百の兵で撃退したり、兵糧攻めで鳥取城を落城させる策略の立案や、水攻めによる高松城攻略、中国大返しの進言、小田原城の無血開城、関が原の合戦の間に、九州を統一しようとしたりと、数々の武功を立てた名参謀であり野心家。
秀吉が家臣に「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう」と言った際に、側近が「官兵衛殿は10万石程度の大名に過ぎませんが」と聞き返したところ、秀吉は「お前たちはやつの本当の力量をわかっていない。やつに100万石を与えたらとたんに天下を奪ってしまう」と言った。これを伝え聞いた官兵衛は身の危険を感じて隠居を申し出たというのは有名な話。
荒木村重謀反では、信長に寝返ったと思われ、人質として預けられていた息子・長政を殺害される危機に陥った際に、竹中半兵衛に長政を助けてもらったことから、半兵衛への感謝の気持を忘れないために黒田家は家紋に竹中家の家紋を用いた。遺訓として「人に媚びず、富貴を望まず」がある。
●辞世の句 4
   おもひおく 言の葉なくて つひにゆく みちはまよわじ なるにまかせて
これは、戦国乱世の天才軍師であった黒田官兵衛の辞世の句です。
この句の意味は、「今となっては思い起こすことは何もない。最後の道行に何の迷いもない。なるようになるまま進んでいこう」というような意味の句です。
黒田官兵衛と言えば、天下人の豊臣秀吉に「本気になれば、官兵衛こそが天下人となるであろう」とまで言わしめたほどの人物。
太閤殿下の言葉からも分かるように、官兵衛には時の天下人も羨む卓越した才能を持ちながらも、軽薄な野心などとは程遠い人物だったことが伺えるような気がします。
黒田官兵衛(本名:孝高(よしたか))は、1546年12月22日(天文15年11月29日)に生まれ、1604年4月19日(慶長9年3月20日)58歳で没しています。
秀吉と共に数々の武功をあげ、1582年の明智光秀の謀反により本能寺の変で織田信長が討たれた時も官兵衛は秀吉と毛利(中国)攻めの真最中でした。
しかし、明智謀反の知らせを受けるやいなや即座に逆臣・明智光秀を討つよう秀吉へ進言。
早々に毛利と和睦後、所謂「中国大返し」を成功させました。
そんな黒田官兵衛ですが、晩年の出家後は黒田如水(じょすい)と名乗り、福岡藩の藩祖として当地の勃興に尽力されたようです(諸説あり)。
「水の如し」と書いて如水。
今までの数多の功績を水の泡に例えた名前です。
まさに我欲を超越した黒田官兵衛らしさが、出家後の名前にも表されているように思えてなりません。 
●黒田官兵衛 1
黒田孝高 [ くろだよしたか ] 播磨国の姫路生まれで戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・軍師。キリシタン大名でもあった(洗礼名はドン・シメオン)。戦国の三英傑に重用され、筑前国福岡藩祖となる。
諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、通称をとった黒田官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは剃髪後の号をとった黒田如水(くろだ じょすい)(隠居名であるが)としても広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。竹中重治(半兵衛)とともに秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。
生涯
   出身
黒田氏は、『寛永諸家系図伝』などによれば、賤ヶ岳山麓の近江国伊香郡黒田村(現在の滋賀県長浜市木之本町黒田)の出身とされるが、定かではない。
孝高の祖父・黒田重隆の代に備前国邑久郡福岡村から播磨国に入り、龍野城主・赤松政秀、後に守護・赤松晴政重臣で御着城(現在の姫路市東部)を中心に播磨平野に勢力を持っていた戦国大名の小寺則職・政職父子に仕えた。
小寺氏は黒田氏を高く評価し、天文14年(1545年)に重隆を姫路城代に任じた。重隆の子、黒田職隆には政職の養女を嫁がせ、小寺姓を名乗らせた。
   播州時代
天文15年(1546年)11月29日、孝高は黒田職隆の嫡男として、播磨国の姫路に生まれた。幼名は万吉。
永禄2年(1559年)、母親を亡くし、文学に耽溺したと言われる。
永禄4年(1561年)、小寺政職の近習となる。
永禄5年(1562年)、父と共に土豪を征伐し、初陣を飾る。この年から「小寺官兵衛」を名乗っている。
永禄7年(1564年)、室津の浦上清宗が、婚礼当日に敵対する赤松政秀に攻められ、父・政宗とともに討たれる事件があったが、清宗の妻を孝高の姉妹と見る向きもある。永禄10年(1567年)頃、孝高は父・職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘・光(てる)を正室に迎え、姫路城代となった。また、従兄弟の明石則実との同盟を結ぶ。
永禄11年(1568年)9月、放浪中の足利義昭が織田信長と美濃国で会見して上洛を要請し、三好三人衆を退けて室町幕府15代将軍となる。
永禄12年(1569年)、3年前に山陰山陽に勢力を張る毛利元就により滅ぼされていた尼子氏の残党の立原久綱、山中幸盛らが尼子勝久を擁し、但馬国の山名祐豊や浦上宗景らに後援され、大友宗麟と多々良浜で交戦中であった元就の背後をつく形で出雲国で再興のために決起する(尼子再興軍の雲州侵攻)。元就は義昭に救援を要請した。
8月、祐豊に木下秀吉(後の羽柴(豊臣)秀吉)が率いる2万の兵が差し向けられる。更に義昭と誼を結んだ赤松政秀が、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んでくる。政職は池田勝正、別所安治らに攻められ、宗景は宇喜多直家に離反され、孝高には300の兵しか無かったが、奇襲攻撃を仕掛けるなど、2度にわたり戦い、三木通秋の援軍などもあって撃退に成功する(青山・土器山の戦い)。政秀は浦上宗景に攻められ降伏した。この後、三好三人衆が一旦は勢力を立て直し、信長包囲網が張られ、義昭と信長の関係も険悪になり始める。
元亀4年(1573年)、包囲網は甲斐国の武田信玄の発病などにより弱体化し、信長が勢力を盛り返す。4月、東播磨の三木城主・別所長治(安治の子)が攻めこんでくる(印南野の戦い)。7月、内紛により三好氏の篠原長房が討死。9月、信長が浅井長政を討ち、義昭を追放。12月、浦上宗景が信長と和睦。
天正3年(1575年)、信長の才能を高く評価していた孝高は、主君・小寺政職に長篠の戦いで武田勝頼を破っていた織田氏への臣従を進言。7月、羽柴秀吉の取次により岐阜城で信長に謁見し、信長から名刀「圧切長谷部」を授かる。さらに年明けには政職にも、赤松広秀(政秀の嫡子)、別所長治らと揃って京で謁見させる(『信長公記』)。一方で9月には、浦上宗景が宇喜多直家に敗れ小寺氏の元に落ち延びてくる。
天正4年(1576年)1月、丹波国の波多野秀治が、赤井直正攻めの明智光秀を攻撃(黒井城の戦い)して信長より離反。 2月、義昭は毛利輝元(元就の嫡孫)の領内の鞆の浦へ逃れた。4月、信長と本願寺の和睦が決裂。7月、輝元の叔父・小早川隆景配下の水軍の将・浦宗勝が、信長の水軍を破る(第一次木津川口の戦い)。
天正5年(1577年)5月、毛利氏は本願寺勢力に属していた播磨の三木通秋と同盟し、浦宗勝を通秋の所領である英賀に上陸させた。孝高は500の兵で逆に奇襲をし、5,000の兵を退ける(英賀合戦)。
この戦いの後、10月に長男の松寿丸(後の黒田長政)を人質として信長の元へ送る。これは信長が播磨諸侯に人質の提出を命じたものの、主君の政職が嫡子・氏職が病弱であることを理由に、松寿丸を代わりに提出させたためとされる。
10月、信長は信貴山城の戦いで松永久秀を討伐した後に、秀吉を播磨に進駐させた。孝高は一族を父の隠居城である市川を挟んで姫路城の南西に位置する飾東郡の国府山城に移らせ、居城であった姫路城本丸を秀吉に提供し、自らは二の丸に住まい、参謀として活躍するようになる。月末には秀吉は、弟の羽柴秀長を但馬国の生野銀山を管轄する太田垣景近の竹田城攻めに向かわせる(11月4日落城)。孝高は秀吉本隊の上月城攻めに従い、佐用城攻めでは竹中重治らと共に先陣を務めている。上月城は、以前に浦上宗景と共に毛利氏と戦っていた尼子勝久、山中幸盛ら尼子遺臣団が城代を任される。
   織田家臣時代
天正6年(1578年)3月、別所長治がほとんどの周辺豪族を引き込んで反旗を翻し(三木合戦)、これに毛利氏が呼応する。4月、海から宇喜多直家軍7,000と雑賀衆の兵が、別府(べふ)の阿閉城に攻め込んできた際には孝高が救援し1,000の兵で防ぎ退ける。しかし、7月に秀吉本隊は信長の指示に従い、尼子遺臣団を残して上月城を放棄し、書写山まで撤退した。
双方の調略も激しさを増し、9月に孝高は宇喜多直家を調略することに成功する。しかし、今度は織田家の重臣で摂津国を任されていた荒木村重が信長に対して謀反を起こし、有岡城に籠城した(有岡城の戦い)。この時、主君の小寺政職も村重に呼応しようとしたために、10月、孝高は村重を翻意させるために有岡城に乗り込んだが、成功せず逆に幽閉される。
天正7年(1579年)10月19日、本丸を残すのみとなっていた有岡城(伊丹城)は開城し、孝高は栗山利安に救出された。そのときには1年半の監禁により官兵衛の足は不自由になっていたという。
天正8年(1580年)1月、秀吉は2年間の難攻の末にようやく別所長治の三木城を陥とした。小寺政職も、信長の嫡男・織田信忠によって討伐されて鞆の浦へ逃がれ、大名としての小寺氏は滅んだ。織田家臣として秀吉の与力となり、名字に黒田を用いたのはこれ以降と考えられている。 秀吉は三木城を拠点とし、姫路城を孝高に還そうとするが、孝高は「姫路城は播州統治の適地である」と進言して謝絶する。7月、秀吉より姫路城普請を命じられる。9月、孝高は揖東郡福井庄(網干周辺)に1万石を与えられる。
天正9年(1581年)6月、前年に降伏した山名豊国を追放して3月に吉川経家を城主に迎え入れていた因幡国の鳥取城へ、秀吉は再び出兵(第二次鳥取城攻め)し、これに孝高も加わる。策略により若狭国などの商人が周辺の米を買い占めた上で包囲して補給路を絶ち、更に城周辺の人家を孝高らの隊が襲撃、住民の多くを鳥取城に避難させた上で兵糧攻めを行ったため、城内の兵糧は短期間で枯渇、飢餓で凄惨極まりない状況に追い込まれ(鳥取の渇(かつ)え殺し)、3ヶ月で降伏を余儀なくされた。天正8年から10年頃に孝高は、毛利氏と結んだとされる淡路島の由良城主・安宅河内守攻め、志知城から信長側に付いた阿波国の三好氏の支援などに、小西行長らとともに関わっている。
また天正10年(1582年)、毛利氏の武将・清水宗治が守る備中高松城攻略に際し、秀吉は巨大な堤防を築いて水攻めにしたが上手く水をせき止められなかった。これに対し、孝高は船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈めるように献策し、成功させたと言われる。
   豊臣家臣時代
6月2日、高松城攻めの最中、京都で明智光秀により本能寺の変が起こり、信長が横死した。変を知った孝高は秀吉に対して、毛利輝元と和睦して光秀を討つように献策し、中国大返しを成功させたという逸話がある。 山崎の戦いでは天王山に布陣し、裾野の中川清秀隊を追い落とそうとする明智軍と戦闘を繰り広げた。9月頃より、毛利氏・宇喜多氏の国境線確定交渉を行い、蜂須賀正勝ととも毛利側の安国寺恵瓊と交渉した。
天正11年(1583年)、大坂城の縄張りに当たる。秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政の攻撃に遭って中川清秀の部隊が壊滅し、続いてその攻撃を受けることとなったが守り抜いた。
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いの当初においては、大坂城で留守居役を務めている。黒田長政らは岸和田の戦いで根来盛重、鈴木重意、長宗我部元親らの兵を破った。中入りの時期には、蜂須賀正勝らとともに本営の備えとして召喚され、小牧山包囲からの撤退戦となった5月1日の織田信雄・徳川家康連合軍との二重堀砦の戦いで、木村重茲らと殿軍を務めている。7月、二重堀砦の戦いの最中の無断離脱を問われ改易された神子田正治の山崎城を含む播磨国宍粟郡を与えられ5万石の大名となっている。
天正13年(1585年)、四国攻めにおいては、讃岐国から攻め込んだ宇喜多秀家軍に軍監として加わり、先鋒として諸城を陥落させていった。植田城に対しては、これを囮であると見抜いて阿波国へ迂回するなど、敵将・長宗我部元親の策略を打ち破ったといわれる。阿波国の岩倉城が攻略されたところで、長宗我部軍は撤退・降伏した。この頃に、孝高は高山右近や蒲生氏郷らの勧めによってキリスト教に入信し、「シメオン」の洗礼名を与えられている。
天正14年(1586年)、従五位下・勘解由次官に叙任された。10月、大友宗麟の要請による九州征伐では、毛利氏などを含む軍勢の軍監として豊前国に上陸し、長野鎮辰の馬ヶ岳城他、時枝鎮継の時枝城などを収容。宇留津城、香春岳城などを陥落させる。翌年3月に豊臣秀長の日向方面陣営の先鋒を務めて南下し、島津義久の軍勢と戦い、戦勝に貢献している(根白坂の戦い)。戦後は石田三成と共に博多の復興(太閤町割り)を監督している。
   豊前国主
九州平定後の天正15年(1587年)7月3日、馬ヶ岳城をはじめとする豊前国の中の6郡(ただし宇佐郡半郡は大友吉統領)、およそ12万石(太閤検地後17万石以上)を与えられ、中津城の築城を開始。7月に佐々成政が肥後国の統治に失敗し、隈部親永らによる国人一揆が起きたため、孝高も鎮圧のための援軍として差し向けられるが、その隙をついて豊前国でも野中鎮兼ら国人勢力が肥後国人に呼応し、伊予国への転封を拒否し3万石を改易されていた城井鎮房が挙兵して居城であった城井谷城を占拠するなど、大規模な反乱となる。長政が一旦は鎮圧に失敗する(岩丸山の戦い)などしたため、黒田氏は持久戦策をとり、兵站を断ち徐々に鎮圧する。
天正16年(1588年)1月頃、中津城が完成。同年4月、嫡男・城井朝房と娘・鶴姫を人質に出して降伏するも城井谷城からの退去に応じなかった鎮房を、秀吉の指示もあり、長政が中津城で謀殺、郎党を攻め滅ぼす。
天正17年(1589年)5月、家督を嫡男の長政に譲り、孝高は秀吉の側近として引き続き仕える。中津城はほとんど長政に任せ、孝高は猪熊、伏見の京屋敷や天満の大坂屋敷を拠点とする。
天正18年(1590年)の小田原征伐では北条氏政・氏直父子を小田原城に入って説得し、無血開城させる功績を立てた。秀吉は中津で留守居役をしていた長政に宛てた7月10日付の朱印状にて「小田原の儀、北条一類首を刎ねられ、御本意残所なく仰せ付けられ候、今度の首尾、勘解由、渕底候条、委曲申し遣わすべく候」と、孝高の活躍により戦いは終結したと、功績を称えている。この時、北条氏直から名刀「日光一文字」などの家宝を与えられている。
文禄元年(1592年)からの文禄の役では、総大将・宇喜多秀家の軍監として参加したが、加藤清正、小西行長などの暴走で思ったような指揮を執れず、病を理由に帰国した。
文禄2年(1593年)3月15日、孝高は再び朝鮮に渡ったが、秀吉が画策した晋州城攻略計画に反対して石田三成、増田長盛らと対立し、秀吉を直接説得するため、5月21日に東莱城より名護屋城へ帰国したといわれる(『フロイス日本史』)。しかし、秀吉からは軍令に従わずに戦線を離脱したと見なされ、朝鮮に追い返されている(『益田孝氏所蔵文書』)。秀吉への拝謁も許されないまま朝鮮に戻った孝高は長政の拠る機張城に赴く。同年6月の第二次晋州城攻防戦においての後藤基次らが用いた亀甲車の設計や、和式城郭の縄張りなどに携わっている。8月、剃髪して「如水軒円清」と号し、死罪を覚悟して長政らに遺書を残していたが、秀吉によって赦免されている。
慶長2年(1597年)からの慶長の役では、総大将・小早川秀秋の軍監として釜山に滞陣。第一次蔚山城の戦いにおいて、加藤清正の救援に向かった長政が留守にした梁山城が8,000の軍勢に襲われた際、救援に駆けつけ、1,500の兵で退けたといわれる(『黒田家譜』)が、過大宣伝であるという指摘もある。勝利した日本軍が戦線縮小を図ると、秀吉は軍令に従わず全羅道攻略を放棄したと見なして、黒田長政、蜂須賀家政、加藤清正、小西行長など、多くの武将が叱責や処罰を受けた(『看羊録』)。また慶長の役では次男熊之助を失う。熊之助は元服前であったが、慶長2年(1597年)朝鮮半島へ向かう途中で乗っていた船が沈没し、水死した。
   関ヶ原の戦い
慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去した。この頃、如水が上方の情勢を知らせてきた吉川広家宛てに「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候」と遠からず天下の覇権をめぐって最後の大乱が起きるであろうことを予想した内容の書状が残されている。12月に上洛し伏見屋敷に居住したという。
慶長4年(1599年)1月、生前の秀吉が『大坂城中壁書』にて制限した大名間の婚姻と私的な交流に徳川家康や福島正則らが抵触すると、それを詰問した前田利家・石田三成ら大老・奉行衆との間に緊張が高まる。この時、如水は蜂須賀家政や藤堂高虎らと共に、家康方に参じる。3月、利家が病死すると、利家方であった加藤清正や細川忠興らを引き込んだ長政らが三成襲撃事件を起こす。家康の仲裁により、三成は領国の佐和山城に退去し、長政や家政の朝鮮での罪科は誤審と裁定された。
慶長5年(1600年)6月2日、家康が会津の上杉景勝討伐を諸大名に命じる。6月6日、長政は家康の養女・栄姫と再婚し、6月16日に家康と共に出陣。7月17日(8月25日)、石田三成らが家康の非を指摘して挙兵し(西軍)、関ヶ原の戦いが起こった。長政は豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み、後藤基次ら黒田軍の主力を率いて、9月15日(10月21日)の関ヶ原本戦で武功を挙げた。
中津に帰国していた如水も、家康方に対し、前もって味方として中津城の留守居を務める密約を結び、行動した。石田三成の挙兵の知らせを用意させていた早舟から受け取った如水は、中津城の金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、九州、中国、四国からも聞き及んで集まった9,000人ほどの速成軍を作り上げた。
9月9日(10月15日)、再興を目指して西軍に与した大友義統が毛利輝元の支援を受けて豊後国に攻め込み、東軍の細川忠興の飛び地である杵築城を包囲攻撃した。城将・松井康之と有吉立行は如水に援軍を要請。同日、如水はこれに応じ、1万人と公称した兵力を率いて出陣した。それまでは三成の誘いに対し、西軍に与する条件として九州7ヶ国の恩賞を求め、東へ向かう九州の西軍の部隊を素通りさせ、準備期間を稼いでいたという。
道中の諸城を攻略した後、9月13日(10月19日)、石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突した。母里友信が緒戦で大友軍の吉弘統幸に破れる等苦戦するも井上之房らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した(石垣原の戦い)。
9月19日(10月25日)、富来城の攻略中に哨戒船が、東上中の城主である垣見一直からの密書を運んでいた飛脚船を捕え、西軍敗報に接する。その後、如水は藤堂高虎を通じて家康に領地切り取り次第を申し入れ、西軍に属した太田一吉の臼杵城(佐賀関の戦い)などの諸城を落としていった。国東半島沖の豊後水道付近では水軍が、関ヶ原より引き上げてきた島津義弘の軍船と戦い、焼き沈めている。
10月14日、如水は兵5,000を柳川へ派兵し、自身は西軍に参加した小早川秀包の居城である久留米城攻めへ向かう。鍋島直茂・勝茂父子が32,000の兵を率いて久留米城攻めに参戦する。10月16日、柳川城の支城である海津城を落とす。その後、宇土城攻めを終えた加藤清正も参戦する。交渉の上、立花宗茂は降伏し如水軍に加わる。そして11月に入り如水は宗茂、直茂、清正を加えた4万の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐に向かったが11月12日に肥後国の水俣まで進軍したとき、家康と島津義久との和議成立による停戦命令を受け、軍を退き解散した。
   晩年と葬儀
関ヶ原の合戦の後、徳川家康はまず長政に勲功として豊前国中津12万石から筑前国名島(福岡)52万石への大幅加増移封をした後、井伊直政や藤堂高虎の勧めもあり、如水にも勲功恩賞、上方や東国での領地加増を提示するが如水はこれを辞退し、その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送った。晩年は福岡城に残る御鷹屋敷や、太宰府天満宮内に草庵を構えている。また、上方と福岡を行き来し、亡くなる半年前には所縁の摂津国有馬温泉に、療養滞在している。
慶長9年3月20日(1604年4月19日)の辰の刻、京都伏見藩邸(現在の京都市伏見区深草大亀谷敦賀町近辺)にて死去した。享年59。辞世の句は「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」。死の間際、如水は自分の「神の小羊」の祈祷文およびロザリオを持ってくるよう命じ、それを胸の上に置いた。そして、
・自分の死骸を博多の神父の所へ持ち運ぶこと。
・息子の長政が領内において神父たちに好意を寄せること。
・イエズス会に2,000タエス(約320石に相当)を与え、うち1,000タエスを長崎の管区長に、1,000タエスを博多に教会を建てるための建築資金に充てること。
を遺言した。また、家臣の殉死を禁止している。
4月のある夜、午後10時半頃、博多の教会の宣教師たちは如水の遺骸を、博多の町の郊外にあって、キリシタンの墓地に隣接している松林のやや高い所に埋葬した。主だった家臣が棺を担い、棺の側には長政がつきそった。如水の弟で熱心なキリシタンであった黒田直之が十字架を掲げ、直之の息子と、徳永宗也の甥が松明を持ち、ペロ・ラモン神父とマトス神父は祭服を、修道士たちは白衣を着ていた。墓穴は人が200も入るほどの大きなもので、その中に着いたのち宣教師たちは儀式を行い、それから如水を埋葬した。同じ夜、長政は宣教師のもとを訪れ、葬儀の労に謝し、翌日には米500石を贈った。その15日か20日後、長政は仏式の葬儀もおこなっている。
如水の死から2年後、如水の追悼記念聖堂が完成し、慶長11年3月21日(1606年4月28日)からその翌日にかけて宣教師たちは荘厳な式典を行った。それは聖堂の献堂式に始まり、2日目には如水の追悼ミサが執り行われ、これには長政や重臣たちも参列した。ミサの後、長政は宣教師たちを福岡城に招いて宴を設け、如水の妻・照福院(光)は教会のための特別な寄付をしたという。
後に長政は京都の臨済宗大徳寺に、父・如水を弔う為に塔頭・龍光院を建立。法要が行われた。同院は当初、大徳寺最大の塔頭で如水の霊廟の他、大阪天満の如水屋敷にあった書院、茶室等を移築。これが国宝茶席三名席の一つの密庵である。
また、如水の晩年の伝承に基づいた墓碑が各地に残存し、近年盛んに研究されている。
明治35年(1902年)11月13日 、従三位を追贈された。
伝承・後世の俗説
孝高に関する話は、ルイス・フロイスなどの宣教師、菩提寺の崇福寺住職・景轍玄蘇といった直接面識のあった人物の記述の他、『川角太閤記』、『常山紀談』、『故郷物語』、『名将言行録』、『黒田如水伝』(金子堅太郎著、1916年)などによる、伝聞を記述された物も多く知られる。備中高松城水攻めと中国大返しは孝高の献策などといった話は、三代福岡藩主・黒田光之の命において寛文11年(1671年)に編纂を開始された『黒田家譜』(貝原益軒著、1688年)以降の逸話である。
また慶長5年(1600年)10月の吉川広家に宛てた書状に、「関ヶ原の戦いがあともう1か月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで華々しい戦いをするつもりであったが、家康の勝利が早々と確定したために何もできなかった」とある。現代に於ける「天下を狙った野心家・黒田如水」との俗説はここからきていると思われる。

孝高の隠居後の号である如水の由来について、ルイス・フロイスは次のように記している。
「官兵衛は剃髪し、予の権力、武勲、領地、および多年にわたって戦争で獲得した功績、 それらすべては今や水泡が消え去るように去って行ったと言いながら、ジョスイ、すなわち水の如し、と自ら名乗った。」— フロイス日本史
他にも『老子道徳経』の有名な一節である「上善如水」から引用されたという説もある。手柄を立てながらも、過度に報酬を要求しなかった姿勢などから老子の思想の鱗片がうかがえる。
孝高が用いた印章には、「IOSUI SIMEON/SIMEON IOSUI」と読めるものと、「QVAN」(または「QVÃN」)とも読めるものがあり、いずれも当時用いられていたポルトガル語式ローマ字表記による「シメオン じょすい/じょすい シメオン」、「くゎん(ひゃうゑ/びゃうゑ)」と考えられる。 なお当時、大文字のJとUを欠き、Iがiとjの、Vがuとvの大文字として兼ね用いられていた。
人物
・徳川秀忠は孝高を「今世の張良なるべし」と評した(三河後風土記)。
・筆頭家老・栗山利安と母里友信は如水の命により若い頃に義兄弟の誓紙を交わした。如水が死ぬ間際、二人を呼び「これはあの時の誓紙だ。本来なら今はもう返すべきであろうが、最後まで約束を守ってくれた頼もしい誓紙だから冥土まで持って行こうと思うておる。自分が死んだら、お守りとして棺の中に入れておいてくれ。」と笑いながらそれを大切そうに懐中に入れたという(古郷物語)。
・福岡県福岡市博多区に所在する崇福寺に伝来する肖像は慶長9年(1604年)の作で、家臣の井上之房(九郎右衛門)の求めに応じて作成され、「如水」の号を授けた大徳寺の春屋宗園による賛が記されている。如水像は他にも何点かあるが、どれも脇息にもたれかかり、片膝を立てくつろいだ姿で描かれている。これはしばしば足が不自由だからとする説明があるが、こうした図像は柿本人麻呂像を始めとする歌人の肖像によく見られる形式であり、歌人としての一面もあった如水の像もこれに倣っていると考えられる。
・頭部に醜い瘡があったと言われる。これは有岡城にて投獄されていたときに患ったものとされる。長期に渡って劣悪な環境の土牢に押し込められていたため、救出された際に足腰が立たず、背負われて城を脱出したとされる。なお、左脚の関節に障害が残り、歩行や騎行がやや不自由になり、以後は合戦の指揮も輿に乗って行なうようになったとも言われるが、これの最も古い出典は大正時代の『黒田如水傳』である。小寺休夢宛の秀吉からの手紙によれば、孝高は城うち(本丸)にいたとされる。有岡城内の孝高の安否については、家臣の栗山利安、母里友信、井上之房などが、城下の商人の銀屋(しろがねや)の付き人を装って確認していたとされる。また有岡城内では村田吉次の伯母、黒田一成の父(加藤重徳)などに、世話をされていたとされる。
・九州征伐後の豊前国5郡半などの褒賞を、貝原益軒の『黒田家譜』などは、孝高の勲功に対して少なすぎると評し、これを石田三成の讒言などによるものとしている。湯浅常山の『常山紀談』などは、豊臣秀吉が孝高の才能を恐れたからだとしている。ルイス・フロイスの手紙は、孝高がキリシタンであったため迫害を受けたとしている。
・次男の熊之助が海難で亡くなった(後述)後、まだ長政に男子がいなかったため、山中城の戦いで戦死した妹婿の一柳直末の遺児で、孝高の養子となっていた松寿丸を跡継ぎに指名した。しかし、この松寿丸は13歳で亡くなっている。
・関ヶ原の戦いの折、石田三成方で本戦に加わっていた太田一吉や小早川秀包の九州での居城は、「攻め手に如水がいれば降伏せよ」と指示を与えられており、それまでの徹底抗戦を止め、開城した。
・関ヶ原の戦いの後、「家康は『我が徳川家の子孫の末まで黒田家に対して疎略あるまじ』と3度右手を取り感謝した」という長政の報告に対し、「その時、お前の左手は何をしていた?(家康の首を取れる絶好の機会にお前は何をしていた)」と叱責した。野心家ぶりを表す話だが、同時代史料に存在する話ではなく、明治時代に福本日南が著した『黒田如水』や大正時代に金子堅太郎が著した『黒田如水傳』で等で記述されている話である。中世史家の本郷和人は「如水の性格から言って考えにくい、この時の長政は唯一の黒田家の跡取りで、ここまで非情なことをする人ではない」と否定的な意見を述べている。ただし慶長5年(1600年)10月の吉川広家に宛てた手紙で「関ヶ原の戦いがもう1ヶ月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで、華々しい戦いをするつもりであったが、家康勝利が早々と確定したため何もできなかった。」と述べた事実があり、状況によっては最後に大博打を打とうとした可能性を示す文献が遺っているのは確かである。
・鳥取城の兵糧攻めや備中高松城の水攻めは孝高の献策であると後に逸話として語られることがある。だが、従軍していたことは明らかである(『鳥取城合戦始末』記)が、実際に献策を示すような資料があるわけではない。
人間関係
   秀吉との関係
秀吉は孝高の才知を高く評価すると同時に恐れていたと、後の時代に書かれることがある。
名将言行録によれば本能寺の変で織田信長が死去した際、孝高は取り乱す秀吉に対して「御運が開かれる機会が参りましたな」と述べ、以後の秀吉は孝高の智謀を恐れるようになったという。同書には、秀吉が家臣に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ」と尋ねると、家臣達は徳川家康や前田利家の名前を挙げたが、秀吉は黒田官兵衛(孝高)を挙げ、「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るであろう」と言った。側近は「官兵衛殿は10万石程度の大名に過ぎませぬが」と聞き返したところ、秀吉は「お前達は奴の真の力量を分かっていない。奴に100万石を与えたならば途端に天下を奪ってしまう」と言った。これを伝え聞いた官兵衛は、「我家の禍なり」と直ちに剃髪し如水と号したとしている。また、「秀吉、常に世に怖しきものは徳川と黒田なり。然れども、徳川は温和なる人なり。黒田の瘡天窓は何にとも心を許し難きものなりと言はれしとぞ」とも書いている。文禄5年(1596年)の慶長伏見地震の際、如水は蟄居中の身でありながら倒壊した伏見城に駆けつけたが、秀吉は同じく蟄居中の加藤清正の場合には賞賛して警護を許したのに対し、如水に対しては「わしが死なず残念であったろう」と厳しい言葉をかけたと言われている。
だが、「おまえは弟の小一郎(豊臣秀長)と同じように心安く思っている」と書かれた天正5年7月付の孝高宛の秀吉自筆の書状など、資料として仲違いを示すようなものがあるわけではない。
孝高は後世にしばしば秀吉の「軍師」と呼ばれる。戦国期には合戦に際して方角や日時を占う「軍配者」が存在し、「軍師」とも呼ばれた。孝高は軍配者ではないが、軍師には主君の側近くにあって政治・外交・軍事的な指南を行うものという意味もある。孝高は後者の意味で秀吉の軍師とも評されるが、秀吉の有力側近は豊臣秀長と千利休であり、孝高は軍事的な司令官ではあったが豊臣政権を動かす発言力は有していなかったとする指摘もある。しかし、ルイス・フロイス著の『日本史』には、「カトリックを受洗した者のうちには、関白の顧問を勤める一人の貴人がいた。彼は、優れた才能の持主であり、それがために万人の尊敬を集めていた。」として、黒田孝高の名をあげており、参謀や顧問、側近として幕僚にいたことは間違いない。
印度総督名代アレハンドロが秀吉との会見を望み、孝高が仲介の労をとったことがあったが、そのとき秀吉は機嫌を悪くして「汝は彼ら(パーデレ達)を愛護し、キリシタンたるが故に予が与えんと決定した大部分が与えられないのを知らぬのか。下(九州地方)の戦闘に大将として働いた時、二ヶ国を与えようと約束したが、その時パーデレ及びイルマンに対する不快から、その後、豊前国の大部分と王の名称しか与えなかった事を。」と言ったという。
   竹中重治との関係
孝高(官兵衛)は、同じく秀吉の「軍師」とされる竹中重治(半兵衛)と並んで「両兵衛(二兵衛)」と呼ばれることがある。
荒木村重謀反(有岡城の戦い)の時、信長は翻意するよう説得に向かった孝高が帰ってこないのは、主家の小寺政職と共に村重方に寝返ったからだと判断し、小寺家の人質として預けられていた松寿丸(のちの黒田長政)を殺害するように命じたが、機転を利かせた重治は密かに松寿丸を匿った。重治は孝高が救出される前に、平井山の付城で陣没したが、黒田父子を案じる手紙を残している。重治への感謝の気持を忘れないために、黒田家は家紋に竹中家の家紋を用い、また重治の子の竹中重門の元服の際には孝高が烏帽子親を務めた。
   毛利氏との関係
毛利輝元率いる毛利氏とは、秀吉の名代としてたびたび交渉にあたっており、フロイスの日本史にも「関白は彼を通じて山口の国主(毛利輝元)と交渉している」と書かれてある。また、輝元ら毛利氏が上洛した折は、官兵衛がすべて取り仕切っている記述が残されている。
輝元の叔父・小早川隆景とは仲が良かったらしく、隆景は如水に対し「貴殿はあまりに頭が良く、物事を即断即決してしまうことから、後悔することも多いだろう。私は貴殿ほどの切れ者ではないから、十分に時間をかけたうえで判断するので、後悔することが少ない」と指摘した。豊臣秀吉の養子であった小早川秀秋は、豊臣秀頼誕生後の当初は毛利本家の養子にと計画されていたが、隆景の申し出と如水の執り成しにより、小早川家の養子となった。如水は隆景の訃報に接し、「これで日本に賢人はいなくなった」と嘆じたという。隆景の末弟で養子の小早川秀包を、黒田長政や大友義統らと同時期にキリスト教の洗礼へと導いており、関ヶ原の戦いで西軍についた秀包の久留米城に1,000の兵を率いて駆けつけて降伏開城させ、妻子を保護した。
輝元の従兄弟・吉川広家とは隆景の死後、特に親密となり、関ケ原の折に孝高・長政親子は広家を通じて毛利・小早川の調略を成功させている。二人がやりとりした手紙も多く残されており、孝高が広家に送った如水釜と呼ばれる茶器も現存している。
   家臣との関係
家臣に対しては、諄々に教え諭す様にして極力叱る事の無い様にしていたが、どうしてもという時は猛烈に叱りつけた。ただし、叱った後に簡単な仕事を言いつけたりして後腐れの無い様に心がける事も忘れなかったという。ちなみに家督を継いでから隠居するまでの間、一人の家臣も手討ちにしたり、死罪を命じたりしていない。
また、身の回りの物を家臣に払い下げていた。この事についてある家臣が「何故、我等家来に売り渡しますか。どうせなら下賜されれば宜しいでしょう」と言った所、「くれてやりたいが、くれてやれる物は限りがあり、貰えなかった者は不平感が募るであろう。だから払い下げるのだ。こうすれば銭の無い者や銭を失いたくない者は買わぬであろう。こうして多少なりとも不公平にならずにしようと思うのだ」と言ったという。
晩年は家臣に対して冷たく振舞ったが、これは当主の長政に家臣団の忠誠を向けさせるためであった。また、死に臨んでは優秀な家臣を長政に遺すために、殉死を禁じたという。
   その他の人間関係
・自身を幽閉した荒木村重(道薫)とは共に秀吉の家臣になった後も交流があった。書簡の写しが残っている。
・茶道にも造詣深く京都の聚楽第内の猪熊の屋敷(現在の京都市如水町・小寺町)は一条の千利休邸と隣り合い、茶道を学んでいる。堺の豪商・津田宗及の『天王寺屋会記』や博多の豪商・神屋宗湛の『宗湛日記』によれば、利休はじめ秀吉ら多くの貴人と同席した記録が残っており、中でも正客として招かれた「野菊の茶会」は著名である。如水は自ら『御茶堂之記』という記録を残し、利休に寄せる自分流の茶道の心得を記している。他にも茶人や造園家として有名な武将・小堀遠州らとも交流があり、大坂天満の自邸の茶室など、遠州が設計に関わっているとされる。
・関白の豊臣秀次とは複数の交換書状が残っており懇意だった事が文面からも解る。如水と称した後にも将棋などの相手や、朝鮮出兵で病気をした時に秀次が当代一の医者を如水に送ったという記録が残る。史実として隠居した如水に対し褒美加増をするなど親しい間柄であった事が解る。また妹・心誉の夫であった一柳直末から貰い受けた短刀、厚藤四郎及び北条氏から買い取った鎬藤四郎を秀次に献上したとされる。秀次事件では、秀吉の播磨国入り以来、陣営を共にしてきた従弟の明石則実が、前野長康らと連座となった。
・風流人で和歌や連歌などをたしなんでおり、幼い頃から源氏物語などを読み母親の明石氏などの影響もあり教養深かったとされる。京都の公家、五摂家や堂上家の人々とも多く親交を持っている。関白・近衛信尹とは特に親しく、複数の交換書状(書簡)が太宰府天満宮などに所蔵されている。
・徳川家康の庶子である結城秀康は、小牧・長久手の戦いの和睦の際に、人質として豊臣秀吉に差し出され、養子となっていた。その後、秀吉に実子・豊臣鶴松が誕生し、小田原征伐の後に家康が関東へ移封となると、孝高の執り成しにより北関東の名門で11万1千石を領していた結城晴朝の養子となり、後を継いだ。関ヶ原の戦いの後の伏見では、孝高の屋敷に3日に1度訪れるほど親交している。
・京都大徳寺の名僧・春屋宗園は如水と大変仲が良く、書状などが複数残っており、福岡市美術館蔵の肖像画には、宗園の讃が漢文で丁寧に書かれている。晩年は、息子・長政の建立した塔頭・龍光院にて隠棲している。
・関ヶ原で西軍側についた宇喜多氏の武将で、同じキリシタンであり母方の親戚でもある明石全登を、弟・直之の元で庇護したとされる。
・旧主の小寺政職の嫡男・小寺氏職を庇護したため、小寺氏は存続する事となった。
・隠居してからは、隠居屋敷に身分の低い者の子供達を入れて存分に遊ばせた。時には子供達が泥足で廊下を走ったり相撲を取ったりで襖や障子を破いたりしたが、決して怒ったり叱ったりしなかったという。小説家の海音寺潮五郎はこの事を指して「信長・秀吉・家康の三英傑より人物的には勝っている」と評した。
関連史跡ほか
・宇佐神宮(大分県宇佐市)- 大友宗麟の戦火により消失した、神宮寺・弥勒寺の再建に当たっている。
・安楽寺天満宮(太宰府天満宮)- 如水は中興の祖といわれ、境内には茶の湯で使用した「如水の井戸」が残っている。
・合元寺(大分県中津市)- 城井鎮房が中津城で暗殺された際、城井家臣40名が滞在していた。寺の門前の白壁は黒田兵が彼らを討った際に血痕が付着し、それが幾度塗り替えられても浮き出るので、ついに赤色に塗られるようになり、地元では通称「赤壁寺」と呼ばれる由来になったという伝承がある。庫裏の大黒柱には現在も刃痕が残っている。戦死した城井家臣は合葬され、境内の延命地蔵菩薩堂に祀られ菩提が弔われた。ただし合元寺は中国式の廟を模して作られ、当初より壁は赤かったという説もあり、城井家臣誅殺の悲劇性が赤壁と結びついて伝説を生んだともいわれる。
・黒田家の播磨での先祖の伝承がある兵庫県西脇市、荘厳寺では、毎年、官兵衛を偲び法要が行われている。
・墓所 福岡市博多区の崇福寺。/ 京都市北区の大徳寺塔頭・龍光院。
・祀社  福岡市中央区西公園の光雲神社。黒田孝高を祭神、「水鏡権現」として祀る。/ 兵庫県姫路市廣峯神社本殿隣「官兵衛神社」。黒田家が廣峯神社御師だったとの伝承により建立。
その他
・筑前国福岡の地名は元は福崎であり、如水が曾祖父・黒田高政の代から関わりが深く、洪水で壊滅した備前国福岡 (瀬戸内市)の地名にちなみ変更されたとされる。
・『黒田家譜』を編纂した貝原益軒の祖父・貝原信盛は備前国の吉備津神社の神官であり、武田信玄に仕えた後、九州攻めの際に孝高に出仕して外交官を、慶長7年には福津崎の代官を務めている。
・江戸時代には如水の家臣から24人の精鋭が選出され、黒田二十四騎と呼ばれた。そして、この24人の中の親族や譜代重臣の黒田利高、栗山利安、井上之房、後藤基次や母里友信など8人が、黒田八虎とされた。この二十四騎の成立については江戸時代初期、江戸城百人組番所鉄砲隊の二十五騎組との関連性が指摘されている。
・19世紀の福岡藩士・山口武乕の調査により発見された系図『黒田家略系図(荘厳寺本)』によると、足利尊氏の有力守護大名である赤松円心の弟・円光の子を1351年より氏祖として代々黒田城主を務め、赤井忠家(赤井直正の祖父)に落城させられる最後の当主のその弟を孝高とする、とされる。黒田庄が黒田氏ゆかりの地である可能性は、『播磨鑑』の記述や初期の家臣団の出身地などから否定出来ないものの、赤松氏の『赤松諸家大系図』を始めとする他の眷属や姻族の系図などに拠る裏付けも無く、黒田氏の祖先を赤松氏につなげようとした意図がみられる。
・1983年に黒田孝高の子孫で黒田家第16代当主・黒田長高が孝高の号の「如水」を冠した不動産会社「如水興産」を設立している。主にかつての福岡藩藩邸があった、東京都港区を中心に事業を展開している。
・平成25年(2013年)、黒田官兵衛中津顕彰会によって、黒田孝高の人物屋外像(石造)が中津城に史上初めて建立された。2016年には正室、櫛橋光の石像も隣に建立され「夫婦和合の像」として紹介されている。
●黒田官兵衛 2
「おもひおく 言の葉なくて つひに行く 道はまよはじ なるにまかせて」
関ヶ原の戦いにおける論功行賞で黒田家は豊前中津12万石から筑前一国52万石へと加増されます。筑前国に入封した黒田長政は名島城に入りますが、城下町を拡張するには手狭であったため、博多に隣接する福崎に新たな城を築城します。
城の縄張りは長政自身で行いますが、築城の名人である官兵衛の助言もあったと思われます。城の着工は1601年とされ翌年に完成しました。
福崎の地を福岡と改め新たな居城は「福岡城」と呼ばれるようになります。福岡という地名の由来は、黒田氏発祥の地が「備前国福岡」であることからこの名がついたとする説が一般的ですが、「備前国福岡」発祥説には懐疑的な意見も多いことから謎とされています。
福岡城はおよそ27万平方メートルの広さがあり、本丸、二の丸、三の丸、曲輪、櫓を備えた壮大な城でその規模は九州一でした。櫓の数は47もあり、天守台や礎石(そせき)も存在していることから、当時は天守が建てられていたといわれています。何らかの理由で一度建てた天守を破却したようなのですが、その理由はわかっていません。
福岡城が完成すると官兵衛と光は三の丸に住むようになり、さらに太宰府天満宮内に草庵を構えそこで過ごすことも多かったとされています。倹約家の官兵衛らしく生活は大変質素なものだったと伝えられています。
1603年征夷大将軍に就任した徳川家康は宮中に参内するため上京します。官兵衛も領地の福岡から上洛しますが、体調を崩したため有馬温泉で逗留するも病状は回復せず、京都伏見藩邸で寝込むようになります。
死期を悟った官兵衛は領国を統治するための心構えを説いた遺書を長政に残します。また、葬儀は質素にすること、殉死を禁ずるなどの遺言を残しています。
黒田官兵衛(如水)は、1604年3月20日京都伏見藩邸でその生涯を閉じます。享年59。
辞世の句は「おもひおく 言の葉なくて つひに行く 道はまよはじ なるにまかせて」
「思い残す言葉もなく、ついにあの世に行くことになったが、道には迷わずに行けるだろう 成り行きに任せることにしよう」
官兵衛(如水)の亡骸は福岡の崇福寺(そうふくじ)に葬られます。法名は龍光院。崇福寺は黒田家の菩提寺となります。さらに長政は官兵衛(如水)のために京都の大徳寺に塔頭、龍光院を建立して位牌を安置しました。
長政は備前長光の茶入れと刀を官兵衛(如水)の遺品として家康に献上し、徳川秀忠は香典として銀子200枚を黒田家に贈ります。
臨終に際しての逸話
体調が悪化し死期が近づいた官兵衛の元には別れを言うために多くの家臣が訪れるようになります。
官兵衛は見舞いに来た家臣の悪口や過去の失敗、働きぶりを叱ります。あまりにも酷い言葉で叱るので家臣たちは戸惑い官兵衛の元から去っていきます。
見かねた長政が「家臣を罵るのはやめてください」と諌めると、官兵衛は「すべてお前のためにやっているのだ!ワシから心が離れれば家臣たちはお前に忠勤を励むようになるだろう。そうなれば家中をまとめるのも容易いだろう」と長政に言ったのです。
官兵衛亡き後の黒田家
福岡藩初代藩主となった長政は大坂冬の陣、夏の陣とも徳川方につき、徳川家との結びつきをさらに強固なものとします。長政は、1623年8月4日上洛中に病が悪化して報恩寺で息を引き取ります。享年56歳。
官兵衛の妻 光は1627年福岡で亡くなります。享年75
栗山利安(栗山善助)は1631年に死去。享年82。
母里友信(母里太兵衛)は1615年に死去。享年60。
井上之房(井上九郎右衛門)は1634年10月22日に死去。享年81。
黒田騒動
長政の死後家督は嫡男忠之が継ぎ福岡藩2代藩主となりますが、忠之は側近(倉八十太夫)を重用し、祖父や父の代から仕えた重臣をないがしろにしたため、家臣との間に対立が起こり深刻な状況となります。
1632年栗山利安(栗山善助)の嫡男利章は「忠之が謀反を企てている」と幕府に訴えでたため大騒動となります(黒田騒動)この事件で黒田家は改易の危機に立たされますが幕府は「利章の乱心」が原因であるとの裁定を下し、利章を盛岡藩預かりに、倉八十太夫を高野山に追放して黒田家は御咎めなしとなります。
幕末の福岡藩
幕末には11代藩主黒田長溥(くろだながひろ)が登場します。長溥は幕末の名君に数えられる人物で、西洋の技術を積極的に取り入れ医学校の創設や反射炉の建設を行います。しかし、藩内では佐幕派と尊皇攘夷派の対立が激化!尊攘派が藩政を握るようになります。
尊攘派の加藤司書、月形洗蔵、平野国臣らは薩摩の西郷隆盛や長州の桂小五郎とともに政治の表舞台で活躍するようになりますが、やがて幕府を倒す「尊王倒幕」へと思想を変えていきます。
長溥の思想は「尊王佐幕」と呼ばれるもので、尊王ではあるが幕府を助け幕藩体制のもとで改革を行うという考え方でした。
倒幕へと暴走する福岡勤王党の存在は幕府から警戒され、福岡藩も倒幕派と見られるようになります。危機を感じた長溥は、1865年福岡勤王党の弾圧に乗り出し21名を切腹または斬首にする処分を行います(乙丑の変 いっちゅうのへん)
この大弾圧により加藤司書や月形洗蔵といった有能な人材を失った福岡藩は、尊王倒幕運動から脱落し薩摩、長州、土佐、肥前の後塵を拝することになり、戊辰戦争では活躍の場を与えられることはありませんでした。
黒田家では長溥の養子となった長知(ながとも)が12代藩主となり、版籍奉還後には知藩事に就任します。長知の長男 長成(ながしげ)は1884年に制定された華族令により侯爵となりました。
●黒田官兵衛 3
黒田官兵衛の「信頼構築力」
さて皆様の心と体はお元気でしょうか? ストレスフルな時代を生き抜いた戦国時代の武将を深掘りしながら、彼らのメンタル力について探ってみたいと思います。
前回は備前国の大名の殿様として生まれながらも関ケ原の戦いで一夜にして敗軍の将となった宇喜多秀家を取り上げ、彼の環境適応能力の高さについて考察しました。秀家は逃亡の果てに八丈島に流刑されるという過酷な運命に耐えながらも、84歳という天寿を見事に全うしました。
今回はストレスに大きく影響する「周囲からのサポート力」について、黒田官兵衛に登場してもらいながら、あれこれ考察してみたいと思います。なお史実で明らかになっていない部分については、筆者の想像が多分に入っておりますが、「まあそういう解釈もできるだろう」と寛大な心でお楽しみいただければと思います。
ストレス緩和の鍵は「周囲からのサポート力」
ところで話はガラッと変わりますが、2015年12月から義務化(常時50人以上の労働者のいる事業所の場合、50人未満の事業所は努力義務)されたストレスチェックテストでは、大きく分けて「ストレス反応」(心身に出ている症状)、「ストレス要因」(仕事上のストレスの原因)、「周囲のサポート状況」の3項目を総合的に判断して個人のストレス度を判定します[注1]。
このうち「周囲のサポート状況」は、表1にあるような質問によって、「上司からのサポート」「同僚(部下を含む)からのサポート」「家族・友人からのサポート」の3つに分けて判定されます。
これら3つのサポートが良好であればあるほど、ストレスを緩和する力が高くなります。もし職場の「ストレス要因」の内容や程度が同じ人が2人いるとしたら、「周囲のサポート状況」が良好な人の方が、おそらく心身の「ストレス反応」も出にくくなり、総合的なストレス度も低くなる可能性が高いと考えられます。
言い換えますと、上司や同僚、家族との関係性が良くサポートをたくさん得ている人ほど、ストレスは緩和され、ストレスに対する耐性が高くなるということです。また、上司・同僚・家族の3つの領域から強力なサポートが潤沢に得られれば得られるほど、アイデアや行動力といった心のエネルギーも湧きやすくなっていきます。
周りのサポートを引き出す官兵衛の人間力
さて筆者は、戦国時代の武将の中でこの3つのサポート力を見事に活用していたのは、黒田官兵衛(1546〜1604年)ではないかと考えています。
ご存じ黒田官兵衛は、NHK大河ドラマの主人公にもなった有名な武将です。1546年(天文15年)に生まれ、もとは播磨国(兵庫県姫路市)の小大名・小寺家の家老にすぎませんでしたが、その優れた知力・頭脳を豊臣秀吉に認められ、軍師として大活躍していきます。秀吉の天下取りにブレーンとして大きく貢献して大名に出世し、のちに筑前国福岡藩の祖となります。
官兵衛はドラマや小説では、「説得によって敵を味方に寝返らせる」調略の名人であり、知謀に秀でた策士として語られがちです。しかし筆者は官兵衛が、「上司力」「同僚(部下も含む)力」「家族・友人力」という3つのサポート力を常に最大限にしっかり引き出しながら、自分の豊かな才能とリンクさせていった彼自身の人間性にこそ大きな魅力と興味を感じるのです。
実は官兵衛には、彼が真っすぐな誠実さを持ち、かつ温かな人間味にあふれていたことを示す様々なエピソードが豊富に残されています。
例えば荒木村重が織田信長に反旗を翻した際には、単身で説得に乗り込むも失敗し、有岡城の劣悪な環境の土牢に1年近くも監禁されますが、敵に寝返ることなく耐え抜いて生還したことはあまりにも有名です。また官兵衛は、この有岡城の牢で世話になった牢番・加藤重徳の恩を忘れなかったようで、彼の子を自分の養子として立派に育て上げ、のちに彼は黒田家を支える重臣となりました。
このエピソードからも分かるように、官兵衛は愛情深い面倒見のよい人柄だったようで、家臣を大切に育てることに若い頃から腐心し、育て上げた優秀な家臣団と家族に近い深い絆で結ばれていたことも有名です。官兵衛が集め育てた精鋭部隊の侍大将たちは、「黒田二十四騎」と呼ばれ、現在にもその武勇と忠義が語り継がれているほどです。ちなみに先述した牢番の子は、「黒田二十四騎」の一人・黒田一成です。また有名な民謡「黒田節」は官兵衛が育て上げた猛者・母里友信(もりとものぶ)の豪快なエピソードから生まれたとされています。
こうして官兵衛が育て上げた優秀な家臣は、下克上が当たり前の戦国時代において、官兵衛が有岡城に幽閉されている間も誰一人となく黒田家を見限ったり裏切ったりせず、それどころか見事官兵衛の救出に成功します。忠義者の家臣たちがいなければ、官兵衛は有岡城で獄死したでしょう。彼らはその後の天下を左右する数々の重要な戦いでも大いに武功を立てて黒田家を支え続けました。
官兵衛は知略に優れていただけでなく、情に厚く部下を愛し育てるという人間力を多分に有していたからこそ、ストレスチェックでいうところの「同僚(部下を含む)からのサポート力」を常に得続けていくことができたのでしょう。
伝わるところによると、官兵衛は「人を活すること多大」であり、家臣をよく日ごろから観察することを怠らず、その得手(長所)を伸ばし、不得手(短所)を補う手段や仕組みを考えることにたけていたようです。また官兵衛は、その生涯のうちで一度も部下を手打ちにしたり死罪を申しつけたりしなかったともいわれています。現代に置き換えると、自分が気に入らなくなった部下に対してパワハラしたり切り捨てたりしないで、長所を見つけ出して上手に活用できる懐の深い上司・経営者だったといえるかもしれません。
「信頼のブランド」を築けた理由は?
このように知謀だけではなく温かい人間性と誠実性を兼ね備えた官兵衛は、「上司のサポート力」ももちろん抜群でした。若い頃は秀吉はもちろんのこと、秀吉お抱えの名軍師・竹中半兵衛にも気に入られ、軍師としての薫陶を受けたようです。
ちなみに官兵衛が有岡城に幽閉されたとき、信長が「官兵衛が敵に寝返ったに違いない」と勘違いして官兵衛の息子・松寿丸(のちの黒田長政)を殺すように秀吉に命じますが、竹中半兵衛がひそかにかくまって命を助けたとされ、黒田家の存続を左右する重要なサポートも行っています。もし信長に知られると半兵衛自身の命が危なくなるリスクの高い行為でしょうが、それをおしても松寿丸をかくまうことを半兵衛に決意させる信頼関係を、官兵衛は作り上げていたのでしょう。
実際、官兵衛が秀吉の軍師として次々と敵の調略に成功したのも、彼の誠実な交渉態度に高い信頼性があったからこそ。官兵衛は二枚舌を使って敵をだましていたわけではないのです。彼は優れた頭脳で状況を正確に分析し、敵にメリット・デメリットを分かりやすく伝えたうえで、敵にとっても最大限に有利になる条件を提示するという方法で説得したようです。今でいうところの「ウィンウィンの関係」を可能な限り目指して官兵衛は交渉していたのです。
また官兵衛はその当時の武将としては稀有(けう)なヒューマニズムの持ち主で、「知謀をもって敵城を降参せしめ和議を調え、人を殺さずして勝事を好みたまう」(「黒田家譜」[注2])を旨としていたといわれます。降参した敵の家臣も極力生かすように努め、望む者は自らの家臣として迎え入れることも多かったようです。裏切りやだまし討ちが日常茶飯事だった戦国時代において、「官兵衛の言うことならば信用できる。官兵衛ならば約束を反故(ほご)にしない」と、彼の誠実さと篤実さが「信頼のブランド」となっていたために敵方の武将も彼の言葉に耳を傾けたのでした。
息子思いの「父の愛情エピソード」も
さてこうして上司力・部下力を得て才能を十分に開花させた結果、名もなき田舎の家老から秀吉の名参謀に出世して全国に名をはせた官兵衛でしたが、あまりにも頭脳明晰(めいせき)であるがゆえに、天下統一を成し遂げたのちに疑念が強くなった秀吉から次第に警戒されるようになったようです。
秀吉という上司力が低下してきたことを敏感に察知した官兵衛は、家督をさっさと息子の長政に譲って40代半ばの若さで隠居し、「如水」と名を改めて入道してしまいました。のちは若い長政を後ろから支えつつ、晩年の秀吉の命じる軍務を粛々とこなしていきました。このような動きができたのも、官兵衛の家族力が良好だったからといえるでしょう。
官兵衛は長男・長政を甘やかすことなく厳しく深い愛情を持って育て、彼の帝王学をしっかりと伝授したようです。「黒田如水教諭」と呼ばれる遺訓にも「神の罰や主君の罰よりも臣下百姓の罰おそるべし」(家臣や百姓の支持を失うことが領主にとって一番恐ろしいことだ)などといった名言の数々が残されています[注3]。
官兵衛の教育により長政は立派に成長し、関ケ原の戦いにおいて父親譲りの知謀をもって多くの武将を徳川家康に味方するように説得・調略し、東軍勝利のために大きな功績を上げました。官兵衛はこの間、自らも兵を挙げて小大名たちを次々と攻略し北九州を席巻しています。
その結果、黒田家は関ケ原の戦いによる功を大いに家康に認められ、筑前52万石の大大名となりました。息子・長政と父・官兵衛の連携プレイによる見事な家族力で、天下分け目の関ケ原の戦いを見事に勝ち抜き、黒田家をさらなる隆盛に導いたのでした。
関ケ原の戦いののち、官兵衛の晩年は非常に穏やかであったようです。50代になっていた官兵衛は本格的な隠居生活に入り、息子・長政に頼んで福岡城の一角に小さな屋敷を造って夫人とともに仲良く住み、よく城下をぶらぶらと散策しては領民の子供たちに菓子をやり遊んでやったといわれています。ちなみに官兵衛はこの時代の武将に珍しく、側室を持たずに正室1人とのみ一生を添い遂げています。
1604年(慶長9年)、病気で寝込んだ官兵衛は自らの死を予測し、わざと家来たちに当たり散らして自分が嫌われるように仕向け、長政に家来たちの忠心が向くようにしたという、いかにも策略家らしい「父の愛情エピソード」も現在に伝わっています。また官兵衛は遺言として、家臣たちに「殉死」(主人の後を追って死ぬこと)を固く禁じ、優秀な家臣たちが引き続き息子・長政を支えるように計らいました。
官兵衛の辞世の句は、
「おもひおく 言の葉なくて つひに行く 道は迷はじ なるにまかせて」
この世に思い残す言葉はない。迷うことなくなるにまかせて旅立とう……といったような意味でしょうか。激動の戦国時代を全力で生き抜いた官兵衛が、安らかな心で悠々と晩年を過ごし、この世に未練なくすがすがしくあの世に旅立ったことは間違いないと思います。
まず、周囲の身近な人を大切にすることから
さて、今回は黒田官兵衛の人間性にスポットを当てて、彼がいかに終生にわたって堅固な周囲のサポート力を持ち得たのかを考察してきました。官兵衛には温かな人間性と誠実さが根底にあったからこそ、「上司」「同僚(部下)」「家族・友人」という3方からのサポート力に恵まれ、その結果、彼の才能が戦国時代という苛烈なストレス社会でも存分に活用できたのだと筆者は考えます。
現在、書店にはあらゆる類のビジネス書があふれ、ちまたではスキルアップのセミナーや研修があちこちで開催されていますが、「自分の才を伸ばすことだけに注力するのではなく、まずは自分の周りの人々に対して裏切ることなく誠実に接すること、そして自分を支えてくれる部下や家族にはできるだけ愛情をかけて育てることが大切である」と、官兵衛は生きざまを通じて教えてくれているように思います。
官兵衛はその結果、少数精鋭の本当に信頼できる人間関係を常に身の回りに大切に保ち続けたことで、人生の危機をいくたびも乗り越えて晩年には心の安寧なる世界にたどり着くことができました。
現代に生きる私たちは交流サイト(SNS)などで多くの人と簡単に浅く広く手軽につながることができ、「ゆる〜い表面だけのノリのよい付き合い」が急速に増えています。また一方、現実社会でも、利害関係で簡単にくっついたり裏切ったりする烏合(うごう)の衆的な人間関係が少なくありません。もしかしたら現在も「心の戦国時代」は続いているのかもしれません。こうしたストレスフルな現代社会であるからこそ、官兵衛のように深い信頼と安心感で結ばれた人間関係を、たとえ少数でもいいから構築していくことを心がけたいものですよね。

[注1]国が推奨している「職業性ストレス簡易調査票」で検査した場合
[注2]『豊臣秀吉の天下取りを支えた軍師 黒田官兵衛』(宮帯出版社)より
[注3]『豊臣秀吉の天下取りを支えた軍師 黒田官兵衛』(宮帯出版社)、『黒田官兵衛 作られた軍師像』(講談社現代新書)より 
  
  

 

真田幸村 1615
関東軍 百万も候え 男は一人も無く候  
●名言 1
   「関東勢百万も候へ、男は一人もいなく候」
「関東の兵はたくさんいるが、男と呼べるほどの人物は一人もいない」という意味の名言です。
一六一五年四月二十八日に始まった大坂夏の陣では、豊臣軍は七万、徳川軍一五万五千と約半分の兵力しか持たず劣勢は明らかでした。冬の陣の後、徳川との講和の条件として外堀をすべて埋められた大坂城はその城塞としての機能を失い、もはや裸同然にされていました。豊臣方の武将には城を捨て野戦に打って出るしか戦う道は残されていませんでした。五月六日「道明寺の合戦」では奈良と大坂を結ぶ道明寺付近で畿内入りする徳川軍を個々撃破する作戦をとりましたが、事前に内部から情報が流され徳川方にルート変更をされたうえ、濃霧で豊臣方の集結が遅れ孤立した後藤又兵衛、薄田兼相ら名将が伊達政宗の騎兵鉄砲隊の前に次々と倒されていきました。幸村が到着した時には戦場が壊滅しており撤退するしか道は残されていませんでした。幸村は撤退する大阪方の殿軍(最後尾)を務め、伊達軍に対して地面に伏した長柄槍隊で波状攻撃をかけ追撃を食い止めました。殿(しんがり)とは撤退する味方の盾となり一人でも多くの味方を退去させるいわば決死の役割です。幸村は見事味方の撤退を成し遂げた際、この名言をひと吠えして悠々と帰還したそうです。
●名言 2
   関東勢百万も候へ、男は一人もいなく候
大坂夏の陣、道明寺の戦いでの名言です。
大阪冬の陣以降、大阪城の堀を埋められた豊臣方は、籠城することが困難になっていました。後藤基次は城を出て徳川軍を迎え撃つことを主張。
大和方面から進軍してくる徳川軍に対して、河内平野の入口の国分村で徳川軍を迎え撃つことが決定しました。後藤基次、その後に毛利勝永、真田信繁が大坂城を出発。道明寺村付近に集結する予定でした。
先行した後藤基次隊が道明寺に到着すると、すでに徳川軍が国分村まで進軍していました。
基次は毛利勝永、真田信繁隊を待たずに進軍。後藤基次は小松山に陣を構えました。後藤隊を見つけた徳川軍は小松山を包囲します。
後藤隊は数度に渡り徳川軍を撃退していましたが、多勢に無勢。勝ち目がないことを悟った後藤隊は小松山を下りて最後の突撃を試みます。
後藤隊は奮戦するも伊達隊の射撃で後藤基次が討たれると部隊も壊滅しました。
その後、豊臣軍の第二軍、明石・薄田・山川隊も撃破されるころに、第三軍の毛利勝永隊が到着。さらに遅れてきた真田信繁隊も到着します。
遅参の責任をとるために、敵勢に突撃して討死を覚悟した信繁でしたが、毛利勝永に押し留められて退却戦の殿軍を務めます。
信繁隊は追撃を仕掛ける伊達政宗隊とぶつかりますが、政宗が率いる騎馬鉄砲隊を見事に打ち負かして、豊臣全軍の撤収を成功させました。
そのときに信繁は、関東勢百万も候へ、男は一人もいなく候といって撤退したといわれています。
男性でしたら一度は言ってみたい男気あふれる言葉です。信繁のような気概と誇りに憧れます。
信繁のように自分の行動や生き方に信念を持っている人は品性の良さが滲みでます。
品がある人が存在するだけで、場が華やかになり、和やかな雰囲気に包まれます。朝から疲れた顔をした、ゆとりがない人には魅力がありません。毎日の経験や成長から生み出された「ゆとり」が心に育つことで、人としての品格が備わります。また、確固たる自信がある人は、流行に流されたり、周りに振り回されたりすることもありません。
気高さや強さから生まれる品格を身につける為に心がけること
   言い訳をしない。
   人との約束を守り、自分との約束を守る。
   笑顔。
   身だしなみを整える。
   他人に優しく思いやりのある行動。
   立場の弱い人、見ず知らずの人にも礼儀正しい。
   相手を否定しない。
   必要なときはしっかり意見が言える。
   姿勢が良く、立ち居振る舞いが美しい。
   感謝の気持ちを素直に表現できる。
   人を引っ張っていく力の強さ。
   懐の深さ、安心感。
   謙虚さ。
性格は顔にでて、生活は体型にでます。
この軸があってこそ、凛とした雰囲気がでてきますが、品格を身につけることは修行に近いと感じています。
今ある自分を大切にして、日々の暮らしの中で心を磨いて、ゆっくりゆっくり花を咲かせましょう。 
●真田信繁
[ さなだのぶしげ ] 安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)。真田幸村の名で広く知られている。
豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康を追い詰め、本陣まで攻め込んだ活躍が江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評されるなど日本の国民的ヒーローとされている。後世、軍記物、講談、草双紙(絵本)などが多数創作され、さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵である家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。
2016年には真田信繁(幸村)を主人公にした大河ドラマ『真田丸』(脚本:三谷幸喜、主演:堺雅人)が放送された。
「真田幸村」の由来
「真田幸村」の名が広く知られているが、諱は「信繁」が正しい。直筆の書状を始め、生前の確かな史料で「幸村」の名が使われているものは無い。信繁は道明寺の戦いで勇戦した家臣6名に対して、将棋の駒型の木片に戦功を書き記した感状を与えている。「繁」の字の下半分に花押を重ね書きする信繁の書き癖から翻刻された際に「信仍」「信妙」と誤写されているが、花押の形が信繁のものであると断定でき、死の前日まで「信繁」と名乗っていたことが確認できる。また、幸村と署名された古文書は、記録類のなかに書写されたものが2通見られるが、いずれも明らかな偽文書で、信繁が幸村と自称したことの証明にはならない。
「幸村」の名が見られるようになったのは夏の陣が終わってから60年近く経った、寛文12年(1672年)に刊行された軍記物の『難波戦記』がその初出であるとされる。『難波戦記』では昌幸の次男「左衛門佐幸村」や「眞田左衛門尉海野幸村」との名乗りで登場するが、前述のようにこの名乗りを実際に使用した形跡はなく、大坂入り後の書状でも「信繁」を用いている。
しかし「幸村」という名前にも説得力があった。「幸」は真田家や(真田家の本家にあたる)海野家の通字であり、また「村」については徳川家に仇なす妖刀村正が由来に利用された。俗説ではあるが、村正は幸村の佩刀であったとか、介錯に村正が用いられたとかいう話がある。もちろんこれらは誤伝であるが、話に尾ひれがついたことで「幸村」の名は元禄時代には広く知られていた。そのため、元禄14年(1701年)に書かれた『桃源遺事』(徳川光圀の言行録)では既にもう、編集者の三木之幹、宮田清貞、牧野和高らがわざわざ、幸村は誤り、信仍が正しいと書き記したほどである(もっとも、信仍というのも誤っている)。
時代が下るにつれて「幸村」の名があまりに定着したため、江戸幕府編纂の系図資料集である『寛政重修諸家譜』や兄・信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正式な系図までもが「幸村」を採用した。 松代藩が作成した系図の『真田家系図書上案』では信繁だけだが、『真田家系譜』になると幸村が現れる。大坂夏の陣から200年近く後、文化6年(1809年)、徳川幕府の大目付から「幸村」名についての問い合わせを受けた松代藩・真田家は、「当家では、『信繁』と把握している。『幸村』名は、彼が大坂入城後に名乗ったもの」との主旨で回答している。
篠原幸久は論文で、武田信玄の同母弟に典厩信繁がおり、難波戦記の作者らには真田信繁の活躍を描く効果上、その旧主家一門の著名な同名者の呼称を避ける意図があり、信繁の名乗りが否定されて幸村が案出されたのであろうと主張する。
信繁の発給文書は20点が確認でき、花印は9回変えている。
生涯
   出生から真田氏の自立
永禄10年(1567年)または元亀元年(1570年)、真田昌幸(当時は武藤喜兵衛を名乗る)の次男として生まれた。母は正室の山手殿。通称は、長男の信幸が源三郎を称し、信繁は源二郎を称した。
真田氏は信濃国小県郡の国衆で、信繁の祖父にあたる幸隆(幸綱)の頃に甲斐国の武田晴信(信玄)に帰属した。信繁の伯父・信綱は先方衆として信濃侵攻や越後国の上杉氏との抗争、西上野侵攻などにおいて活躍している。父の昌幸は幸隆の三男で、武田家の足軽大将として活躍し武田庶流の武藤氏の養子となっていたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて長兄・信綱、次兄・昌輝が戦死したため、真田氏を継いだ。
幸隆は上野国岩櫃城代として越後上杉領を監視する立場にあったが、昌幸も城代を引き継いだ。信繁は父に付き従い甲府(甲府市)を離れ岩櫃に移ったと考えられている。天正7年(1579年)には武田・上杉間で甲越同盟が締結され上杉方との抗争は収束するが、一方で相模の後北条氏との甲相同盟が破綻したため、上野国は引き続き緊張状態にあった。
天正10年(1582年)3月には織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡し、真田氏は織田信長に恭順して上野国吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵され、信繁は関東守護として厩橋城に入城した滝川一益のもとに人質として赴く。同年6月に本能寺の変により信長が横死すると武田遺領は空白域化し、上杉氏・後北条氏・三河国の徳川家康の三者で武田遺領を巡る争いが発生する(天正壬午の乱)。滝川一益は本能寺の変によって関東を離れる際に信繁も同行させ、木曾福島城で信繁を木曾義昌に引渡した。
真田氏は上杉氏に帰属して自立し、天正13年(1585年)には第一次上田合戦において徳川氏と戦っている。従属の際に信繁は人質として越後国に送られ、信繁には徳川方に帰属した信濃国衆である屋代氏の旧領が与えられたといい、天正13年(1585年)6月24日に屋代氏旧臣の諏訪久三宛に安堵状を発給している。慶長5年以前の信繁領は上田市西塩田の前山村で、上田領全体で千貫以上を所持していた。
   豊臣秀吉の馬廻衆
織田家臣の羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると昌幸はこれに服属し、独立した大名として扱われる。信繁は人質として大坂に移り、のちに豊臣家臣の大谷吉継の娘、竹林院を正妻に迎えている。
天正17年(1589年)、秀吉の命で、信幸は沼田城を後北条氏へ引き渡したが、北条氏直が裁定に逆らって名胡桃城を攻めたことで、12月に小田原征伐が号令される。翌年の遠征に際しては、昌幸・信幸は前田利家・上杉景勝らと松井田城・箕輪城攻めに、信繁・吉継は石田三成の指揮下で忍城攻めに参戦したと伝えられる。
文禄の役においては、『大鋒院殿御事跡稿』によれば、昌幸・信幸とともに肥前名護屋城に700名の指揮を執って在陣している。『松浦古事記』によると、三ノ丸御番衆の御馬廻組の中に信繁の名がある。
文禄3年(1594年)11月2日、従五位下左衛門佐に叙任されるとともに、豊臣姓を下賜される。この信繁の立身には、岳父の吉継とその母である東殿の意向が反映されていた。
豊臣政権期の信繁の動向は史料が少なく、詳細はわかっていない。文禄3年の叙任も史料自体はあるものの、さらに確認するための別の史料による裏付けは困難でもある。
ただし、近年の研究によって信繁が秀吉の馬廻衆であり、昌幸とは別に1万9000石の知行を有していたことがわかっている。信繁は豊臣政権から伏見城の普請役を課され、大坂・伏見に屋敷を与えられるなど独立した大名として遇されていた。一方で知行地の支配については原昌貞ら昌幸の家臣に任せていた。
   関ヶ原の合戦
秀吉死後の慶長5年(1600年)に五大老の徳川家康が、同じく五大老の一人だった会津の上杉景勝討伐の兵を起こすとそれに従軍し、留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘(小松殿)であるため東軍についた兄・信之と袂を分かつことになる。諸説あるが東軍西軍どちらにつくかの合議を犬伏で行ったため、「犬伏の別れ」として語られることが多い
東軍の徳川秀忠(家康の三男)勢は中山道制圧を目的として進軍し、昌幸と信繁は居城上田城に籠り、38,000の徳川軍を城に立て籠もって迎え撃った。少数の真田隊に手こずった秀忠勢は家康からの上洛を命じられ、攻略を諦めて去った。
また、秀忠勢が去った後も海津城将の森忠政は葛尾城に井戸宇右衛門配下の兵を置いて上田城の動きを監視させていた。これに対して信繁は9月18日と23日の2度討って出て、夜討と朝駆けを敢行している。
9月15日、西軍は秀忠が指揮を執る徳川軍主力の到着以前に関ヶ原で敗北を喫する。昌幸と信繁は本来なら敗軍の将として死罪を命じられるところだったが、信之とその舅である本多忠勝の取り成しがあって、高野山配流を命じられるにとどまり、12月12日に上田を発して紀伊国に向かう。初め高野山にある蓮華定院に入り、次いで九度山に移った。
蟄居中の慶長16年(1611年)に昌幸は死去。慶長17年(1612年)に信繁は出家し、好白と名乗った。
   大坂城入城
慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化する。
大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山の信繁の元にも使者を派遣して黄金200枚、銀30貫を贈った。信繁は国許(上田)にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して嫡男大助幸昌と共に大坂城に入った。大坂で信繁が指揮を執っていた軍は、鎧を赤で統一していたという。
   大坂冬の陣
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、信繁は当初からの大坂城籠城案に反対し、先ずは京都市内を支配下に抑え、近江国瀬田(現在の滋賀県大津市。瀬田川の瀬田橋付近)まで積極的に討って出て徳川家康が指揮を執る軍勢を迎え撃つよう主張した。その作戦案に浪人衆は賛成を表明するが結局受け入れられずに終わる。
大坂城への籠城策が決定すると、信繁は大坂城の最弱部とされる三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築いたが、千田嘉博によると大坂城の実際の最弱部は、上町台地の中央部、真田丸の西のあたりであるとされる。信繁は、地形の高低差が少なく惣堀の幅も狭い真田丸という突出部を築くことで真田丸に敵の注意を引きつけ、大坂城の真の弱点を見逃しやすくしたのである。さらに真田丸の背後には幅200メートルにもおよぶ深い谷があり、信繁は、真田丸がたとえ落とされたとしても、その谷が大坂城を守りつづけてくれると見越して、この場所に真田丸を築いたのであると指摘している。さらに半円形といわれてきた真田丸は『浅野家文庫諸国古城之図』が採録した『摂津 真田丸』の絵図を調査した千田嘉博により、不定形であったことが判明した。
この戦闘で信繁は、寄せ手を撃退し、初めてその武名を天下に知らしめることとなる。なお、この真田丸を造る際、大野治長を始めとする豊臣方の他の武将は、これを信繁が徳川方に寝返るための下準備と疑っていた。
冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に取り壊されてしまった。そして豊臣方の弱体化を謀る家康は慶長20年(1615年)2月に、使者として信繁の叔父である真田信尹を派遣し、「信州で十万石下さるべく候旨」条件を提示し、承知をするならば、本多正純から誓詞を与えると寝返るように説得している。信繁が秀頼には恩があると言ってこれを断ると、正純から再び信尹を使者として差し向け、今度は「信濃一国を与える」と説得に出たが、これを聞いた信繁は「信濃一国などで裏切るような者だと思ったか。」と立腹して対面をしなかったという。
   大坂夏の陣
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、道明寺の戦い(5月6日)に参加。伊達政宗隊の先鋒(片倉重長ら)を銃撃戦の末に一時的に後退させた。
ただし、この道明寺の戦いでは、先行した後藤基次(通称又兵衛)隊が真田隊が駆けつける前に壊滅し、基次は討死している。この大幅な遅れの要因としては、当日の濃霧のため、真田隊が行路を誤ったためとする史料がある。また、毛利勝永隊はこの時、真田隊より早く戦闘現場に着陣済みで、真田隊の到着を待っていた。しかも当日の指揮権は、大坂城内の譜代の大野治長が持っていた。そのため、後藤基次討死の責任が、信繁や勝永ら現場の武将にあるとは断定できない。しかし、所定の時間に着陣できなかった信繁は毛利勝永に向かって「濃霧のために味方を救えず、みすみす又兵衛(後藤基次)殿らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない」と嘆き、この場での討死を覚悟した。これを聞いた毛利勝永は「ここで死んでも益はない。願わくば右府(豊臣秀頼)様の馬前で華々しく死のうではないか」と信繁を慰留、自らは退却に移った。ここで真田隊は殿軍(しんがり)を務め、追撃を仕掛ける伊達政宗隊を撃破しつつ、豊臣全軍の撤収を成功させた。この撤退戦の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。この言葉は後世にまで語り継がれた。
信繁は兵士の士気を高めるためには、豊臣秀頼本人の直接の出陣を訴えたが、豊臣譜代衆や、秀頼の母・淀殿に阻まれ、秀頼の出陣は困難を極めた。
5月7日、信繁は大野治房・明石全登・毛利勝永らと共に最後の作戦を立案する。それは右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺・茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回・待機させ、合図と共にこれを急襲・横撃させるというものだった、とされている。
先鋒の本多忠朝の部隊が毛利隊の前衛に向けて発砲し、射撃戦を始めた。信繁は、かねての作戦計画に齟齬をきたすため、毛利隊に射撃中止の伝令を遣わし、勝永自身も中止を促したが、射撃戦は激しくなるばかりで、ついに本格的な戦闘へと突入したため、作戦を断念せざるを得なくなった。これを受けて信繁は、軍目付の伊木遠雄に向かって武運拙きことを嘆き、己の死を覚悟したという。そして死を覚悟した信繁は徳川家康本陣のみを目掛けて決死の突撃を敢行した。この突撃は真田隊のみではなく、毛利・明石・大野治房隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦し、徳川勢は総崩れの観を呈するに至った。信繁が指揮を執る真田隊は、越前松平家の松平忠直隊・15,000の大軍を突破、合わせて10部隊以上の徳川勢と交戦しつつ、ついに家康本陣に向かって突撃を敢行。精鋭で知られる徳川の親衛隊・旗本・重臣勢を蹂躙し、家康本陣に二度にわたり突入した。真田隊の攻撃のあまりの凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだった。
なお、家康の本陣が攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目であり、家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる。
大野治長は秀頼の出馬は今しかないと考え、自ら言上しようと大坂城に引き返した。しかしこの時、治長は秀頼の馬印を掲げたまま帰ろうとしたため、退却と誤解した大坂方の人々の間に動揺が走り、落胆が広がった。さらに城内で火の手が上がったことで、前線で奮闘していた大坂方の戦意が鈍った。家康はこれを見逃すことはなく、全軍に反撃を下知した。東軍は一斉に前進を再開し、大坂方は崩れ始めた。
この時、真田隊は越前・松平隊と合戦を続けていたが、そこへ岡山口から家康の危機を知って駆けつけた井伊直孝の軍勢が真田隊に横槍を入れて突き崩したという。真田隊は越前・松平隊の反撃によって次々と討ち取られて数が減っていき、遂には備えが分断されてしまった。数度に渡る突撃で信繁の疲弊も頂点に達した。兵力で勝る徳川勢に押し返され、信繁は家康に肉薄しながら、ついに撤退を余儀なくされたのである。真田隊が撤退をはじめたのを見た毛利隊も攻撃続行をあきらめた。こうして大坂方は総崩れとなって大坂城への退却を開始し、天王寺口の合戦は大坂方の敗北が決定的となった。
信繁は四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で木にもたれて傷つき疲れた身体を休ませていたところを、越前松平家鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、「この首を手柄にされよ」との最後の言葉を残して討ち取られた。享年49。実際は、真田信繁だという首級が多数あったと言われている。一方、近年発見された新史料では、生玉(生國魂神社の周辺)と勝鬘(勝鬘院の周辺)の間の高台で身を休めていた信繁に、西尾が相手を知らずに声をかけ、互いに下馬して槍で戦った末に討ち取り、後に陣中見舞いに来た知人が過去に真田家に仕えていたことから信繁の首と判明したと記述されている。
人物・逸話・俗説
・真田家の家紋である六文銭 旗印である六文銭(もしくは「六連銭」)は、冥銭を表しているといわれている。冥銭とは本来古代中国の習俗で、日本ではとくに亡くなった人を葬る時に棺に入れる六文の銭を意味し、三途の川の渡し賃のことである。これを旗印にすることは「不惜身命」を意味するといわれている。
・家康を追いつめた勇猛な名将として語り継がれた。夏の陣の戦功においては、自らも参戦した証人とも言える黒田長政は生前に、大坂夏の陣図屏風を描かせ、右隻中央に信繁軍の勇猛果敢な姿を配している。江戸時代中期の文人・神沢杜口は、自身の著した随筆集『翁草』のなかで、「史上、単独一位は真田、第二の功は毛利」と記し、さらに「惜しいかな、後世、真田を言いて、毛利を言わず」と、毛利勝永の活躍を記している。幕府・諸大名には当然ながら知られていたが、庶民には夏の陣から後、主に軍記物や講談等でその名将ぶりが知られていった。徳川に敵対したにもかかわらず幕府側は、真田の名将ぶりの流布を敢えて禁ずることはなかった。これに関しては、「その忠勇に敵方も武士として尊意を示した」「主君に最後まで忠義を尽くすという筋立てが幕府に容認された」とされる。他に「二代将軍となった秀忠の関ヶ原での遅参を誤魔化すため、真田親子が名将の方が都合が良かった」「大坂の陣でやや不甲斐なかった徳川勢を遠回しに擁護するため」といった見方も存在する。
・信繁の人柄は、兄・信之の言葉によると柔和で辛抱強く、物静かで怒る様なことは無いという、およそ勇猛な武将のイメージとはかけ離れたものであったようである。また、信之は『幸村君伝記』において「左衛門佐は国郡を支配する本当の侍であり、それに対して我らは見かけを必死に繕い、肩をいからしている道具持ちという程の差がある」とも語っている。
・「台徳院殿御実紀」に記述されている逸話として、家康は大坂方の諸将の中で最も活躍した信繁に脅威を覚え、大坂冬の陣の後には信繁の兄・真田信之に命じて信濃一国40万石で彼を調略しようとしているが、この破格の条件に興味を微塵も見せず豊臣家への忠誠を最期まで貫き通しているとされる(諸説があり叔父真田信尹に命じて上田10万石とも)。
・大坂の陣において後藤基次の近習を務めた、長沢九郎兵衛という者が後年に口述筆記させた『長沢聞書』によると、「真田左衛門佐(信繁)は四十四、五にも見え申し候。ひたひ、口に二、三寸の疵跡あり小兵なる人にて候」とあり、年齢相応(大坂入城時、信繁48歳)の容姿をした小男であったと想像される。
・『真竹内伝追加』によれば、九度山幽閉中の信繁は日頃から地域の人々や老僧と深く交わり、狩りをしたり寺に遊びに行っては囲碁や双六に興じ、屋敷では夜更けまで兵書を読み耽っていたという。また、父昌幸生存中は、兵書の問答を欠かさず、欠けていた知識を教え込まれ、常に武備を怠ることは無かった。心中に蟠竜(伏流する竜)を保ち近隣の郷士や郎従をしばしば集めては、兵術、弓、鉄砲の訓練を行っていたとされる。これがどこまで真実であるかは定かでは無いが、信繁のその後の戦歴と活躍を見ると極めて蓋然性が高い。
・大坂の陣の後、秀頼と嫡男の大助(幸昌)とともに薩摩国に落ちのびたとする俗説がある。
愛用の刀槍
現在のところ、信繁の愛用の刀槍が何であったのかは不明である。
講談や軍記物語では、信繁の愛槍は「十文字槍」とされ、これは両鎌槍を強化して作られた細めの槍である。槍の柄は朱色に塗られ、真田の赤備えに恥じぬ名槍であったと講談や軍記物語では語られている。大坂夏の陣図屏風に描かれた信繁も十文字槍を握っている。
信繁の愛刀についても、刀は正宗、脇差しは貞宗、とする話が有名だが、これは歴史書というよりも歴史小説に近い明治初期の『名将言行録』(明治2年(1869年))に登場する説である。他にも、村正の大小を帯びたという説が有名だが、こちらは噂の出処が比較的古く、徳川光圀の家臣が元禄14年(1701年)12月に著した光圀の言行録『桃源遺事』まで遡ることができる。この書によれば、光圀は、「真田信仍は東照君(家康)を宿敵と見なしてから、常に千子村正の大小(打刀と脇差の一揃い)を手放さなかった。村正は徳川家不吉の刀と聞いて、東照君を調伏(呪殺)する意図があったのだと聞く。武士とはこのように、常日頃からこのようなことにまで忠義に心を尽くすものだ」と称賛していたという。なお、実際に村正を大小で愛用していたのは、徳川家康である。こちらは噂や伝説などではなく、尾張徳川家に伝来した由緒正しいものがあり、大小のうち村正の脇差は大正時代に売却されたが、徳川家康愛用の村正の打刀は徳川美術館が所蔵し、今も展覧会などで観ることができる。信繁の兄の真田信之の家系松代藩真田家には、村正の弟子の千子正重の刀が伝来していた(信之のものかは不明)ので、信繁が村正を所有していたとしても時代考証的に不自然ではない。ただし、徳川家に祟るとする妖刀伝説が発生したのは家康の死後なので、その場合はただの業物としての村正ということになる。
伝承
・島津忠恒 「五月七日に、御所様の御陣へ、真田左衛門仕かかり候て、御陣衆追いちらし、討ち捕り申し候。御陣衆、三里ほどずつ逃げ候衆は、皆みな生き残られ候。三度目に真田も討死にて候。真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由。惣別これのみ申す事に候。」。
・細川忠興 「左衛門佐、合戦場において討ち死に。古今これなき大手柄。」
・徳川家康 「真田幸村は大将に似合わぬ働きをした。それは前日の道明寺の戦いで伊達政宗軍と戦った際、8千挺の鉄砲に打ちすくめられ屈強の兵士を多く失ったことだ。そのために翌日の戦いではあまり活躍できなかったのだ」
・『大坂御陣覚書』(宇佐美定祐) 「真田は味方の諸軍乱走るも機を屈せず、魚鱗に連なりて駆け破り、虎韜に別れては追い靡き、蜘蛛手十文字に掛け破らんと、馬の鼻を双べて駆け入り、其の速かなるは疾雷の耳を掩ふに及ばざるが如し。」
・『翁草』(神沢杜口) 「真田は、千載人口に残る奇策幾千百ぞや。そもそも信州以来、徳川に敵する事数回、一度も不覚の名を得ず、徳川の毒虫なりと世に沙汰せり、当世の英雄真田を非ずして誰ぞや。絶等離倫、一世の人物、今にいたりて女も童もその名を聞きてその美を知る。」
・『北川覚書』 「車軸を流す雨の如く候へども、真田が備、一人も散らず真丸に堅り、とてものがれぬ処にて候間。一寸も後をみせ候なと、皆々念仏を唱へ、死狂に懸り候。」
・『元和先鋒録』〈藤堂藩大阪夏之陣御先手勤方覚書〉(藤堂高文) 「真田左衛門合戦の様子奇怪の節多し、此の日初めは茶臼山に出、夫より平野口に伏兵を引廻し、又岡山に出て戦ふ。後に天王寺表に討死す。其の往来抜け道の跡、今に相残り候旨、実にしやかに書き記し候。」
・『山下秘録』 「家康卿の御旗本さして、一文字にうちこむ、家康卿御馬印臥せさすること。異国は知らず、日本にはためし少なき勇士なり、ふしぎなる弓取なり真田備居侍を一人も残さず討死させる也。合戦終わりて後に、真田下知を知りたる者、天下に是なし。一所に討死にせるなり。」
・『言緒卿記』(山科言緒) 「五月七日、癸丑、天晴。大坂落城す。天王寺にて、真田、たびたび武辺、其の後、討死なり」。
上記以外にも、信繁(幸村)の活躍は後世、伝承として各大名家などの文書に記録され、「武勲にあやかろうとした諸将が信繁の首から遺髪をこぞって取り合いお守りにした」と言われる。
墓所
真田信繁の墓所(正確には供養墓・供養塔)は、以下の複数が確認されている。
・龍安寺塔頭大珠院(京都府京都市) 信繁の七女おかねの夫、または舅である石川貞清(宗林)は、竹林院を始めとする信繁の遺族を援助したことでも知られ、龍安寺に信繁夫妻の墓を建立した。この墓は鏡容池の弁天島に現存するとされるが、非公開となっている。
・妙心寺塔頭養徳院(京都府京都市) 真田家系譜に「御葬地不詳御石牌京都花園妙心寺塔頭養徳院に有り」とあるが、非公開となっている。
・田村家墓所(宮城県白石市) 田村家出身の片倉定広(田村清顕の甥宗顕の子)に嫁いだ五女・阿昌蒲の縁で、田村家の墓所に墓が建立された。
・長国寺(長野県長野市) 松代藩真田家の菩提寺。信繁と嫡男の幸昌の供養塔がある。
・孝顕寺(福井県福井市) 西尾宗次は、自家の菩提寺に首塚を建立(首塚の上に安置されていた通称「真田地蔵」は、西尾家の子孫が福井市立郷土歴史博物館へ寄贈し保存)。実際に首が埋葬されたかは不明。
・妙慶寺(秋田県由利本荘市) 四女・御田姫(顕性院)が真田家(信繁系統)の菩提寺として建立した寺。墓はないが位牌が残されている。
・心眼寺(大阪府大阪市) 真田丸所在地に信繁の菩提を弔うため創建された寺。2014年の信繁四百回忌に合わせて墓碑が建立された。
また、逃亡伝説に基づいた墓所も全国に点在する。
・田原家私有林墓石(鹿児島県南九州市頴娃町牧ノ内の雪丸地区) 真田幸村(伝承のまま)は大阪の陣の後、島津の軍船で鹿児島に逃れ、谷山(今の鹿児島市谷山地区)に上陸した。鹿児島では幸村は芦塚左衛門と名乗ったが、現地の者は、幸村を芦塚大左衛門、その子・真田大助幸昌を芦塚中左衛門、孫を芦塚小左衛門と区別していた。その後、豊臣秀頼を谷山においたまま、尾根伝いに揖宿郡頴娃村(今の南九州市頴娃町)に潜入し、(牧ノ内)雪丸に居を構え住んだ。その名残として墓が立てられたが、その墓には何の刻印もない。幸村は、頴娃村摺木の百姓娘との間に隠し子をもうけたが、徳川幕府の追及を逃れるため、その娘を(別府)大川の浦人に嫁がせ、生まれた子は瓢左衛門と名づけられた。その子孫は幕末になって名字帯刀を許され、真江田姓を称し、(別府)大川の真江田家・難波家の墓には六文銭が刻まれている。
・お篭もり堂(長崎県南島原市西有家町) ここには、「真田幸村の墓」(伝承のまま)とするものがあり、大助幸昌の子孫とされる山田芦塚家の墓は雲仙旧山田村牧之内にある。
・一心院(秋田県大館市) 大坂の陣では死なずに、島津を頼って鹿児島に落ち延びたとする伝説に由来する。島津家が徳川に恭順したため、その後は各地を放浪。寛永2年(1625年)から四女御田姫の嫁ぎ先の実家佐竹家に庇護され大館に住み、寛永18年(1641年)に75歳で没したと伝えられる(嫡男大助の墓もある)。
●真田幸村の戦い (小説)
天王寺口の戦
元和げんな元年になると東西の和睦は既に破れ関東の大軍、はや伏見まで着すと聞えた。
五月五日、この日、道明寺玉手表には、既に戦始り、幸村の陣取った太子へも、その鬨ときの声、筒音など響かせた。
朝、幸村の物見の者、馳帰って、旗三四十本、人衆にんず二三万許り、国府越より此方へ踰来こえきたり候と告げた。これ伊達政宗の軍兵であった。が、幸村静に、障子に倚よりかかったまま、左あらんとのみ言った。
午後、物見の者、また帰って来て、今朝のと旗の色変りたるもの、人衆二万ほど竜田越に押下り候、と告げた。これ松平忠輝が軍兵であった。幸村虚睡そらねむりしていたが、目を開き「よしよし、いか程にも踰えさせよ。一所に集めて討取らんには大いに快し」とうそぶいた。
軍に対して、既に成算のちゃんと立っている軍師らしい落着ぶりである。
さて、夕炊ゆうげも終って後、幸村徐おもむろに「この陣所は戦いに便なし、いざ敵近く寄らん」と言って、一万五千余の兵を粛々と押出した。その夜は道明寺表に陣取った。
明れば六日、早旦、野村辺あたりに至ると、既に渡辺内蔵助糺ただすが水野勝成かつなりと戦端を開いていた。
相当の力戦で、糺は既に身に深手を負っていた。幸村の軍来きたると分ると、糺は使を遣わして「只今の迫合に創きずを蒙りて復また戦うこと成り難し。然る故、貴殿の蒐引かけひきに妨げならんと存じ人衆を脇に引取候。かくして横を討たんずる勢いを見せて控え候。これ貴殿の一助たるべきか」と言って来た。
幸村、喜んで「御働きの程、目を愕おどろかしたり。敵はこれよりわれ等が受取ったり」と言って、軍を進めた。
水野勝成の軍は伊達政宗、松平忠輝等の連合軍であった。幸村愈いよいよ現われると聞き、政宗の兵、一度に掛り来る。
ここで、野村という所の地形を言っておくと、前後が岡になっていて、その中間十町ばかりが低地であり、左右田疇でんちゅうに連っている。
幸村の兵が、今しも、この岡を半ばまで押上げたと思うと、政宗の騎馬鉄砲八百挺が、一度に打立てた。
この騎馬鉄砲は、政宗御自慢のものである。
仙台といえば、聞えた名馬の産地。その駿足に、伊達家の士の二男三男の壮力の者を乗せ、馬上射撃を一斉に試みさせる。打立てられて敵の備の乱れた所を、煙の下より直ちに乗込んで、馬蹄に蹴散らすという、いかにも、東国の兵らしい荒々しき戦法である。
この猛撃にさすがの幸村の兵も弾丸に傷き、死する者も相当あった。
然し、幸村は「爰ここを辛抱せよ。片足も引かば全く滅ぶべし」と、先鋒に馳来って下知した。一同、その辺りの松原を楯として、平伏ひれふしたまま、退く者はなかった。
始め、幸村は暑熱に兵の弱るのを恐れて、冑も附けさせず、鎗も持たせなかった。かくて、敵軍十町ばかりになるに及んで、使番を以て、「冑を着よ」と命じた。更に、二町ばかりになるに及んで、使番をして「鎗を取れ」と命じた。
これが、兵の心の上に非常な効果を招いた。敵前間近く冑の忍しのびの緒を締め、鎗をしごいて立った兵等の勇気は百倍した。
さしもの伊達の騎馬鉄砲に耐えて、新附仮合の徒である幸村の兵に一歩も退く者のなかったのはそのためであろう。
幸村は、漸く、敵の砲声もたえ、烟も薄らいで来た時、頃合はよし、いざかかれと大音声に下知した。声の下より、皆起って突かかり、瞬またたく間に、政宗の先手さきてを七八町ほど退かしめた。政宗の先手には、かの片倉小十郎、石母田大膳等が加っていたが、「敵は小勢ぞ、引くるみて討ち平げん」など豪語していたに拘らず、幸村の疾風の兵に他愛なく崩されてしまったのである。
これが、世に真田道明寺の軍と言われたものである。
新鋭の兵器を持って、東国独特の猛襲を試みた伊達勢も、さすがに、真田が軍略には、歯が立たなかったわけである。
幸村は、それから士卒をまとめて、毛利勝永の陣に来た。
そして、勝永の手を取って、涙を流して言った。「今日は、後藤又兵衛と貴殿とともに存分、東軍に切込まんと約せしに時刻おそくなり、後藤を討死させし故、謀はかりごと空しくなり申候。これも秀頼公御運の尽きぬるところか」と。
この六日の朝は、霧深くして、夜の明あけも分らなかったので幸村の出陣が遅れたのである。若もし、そんな支障がなかったら、関東軍は、幸村等に、どれ程深く切り込まれていたか分らない。
勝永も涙を面に泛うかべ「さり乍ながら、今日の御働き、大軍に打勝れた武勇の有様、古いにしえの名将にもまさりたり」と称揚した。
幸村の一子大助、今年十六歳であったが、組討して取とったる首を鞍の四方手に附け、相当の手傷を負っていたが、流るる血を拭いもせずに、そこへ馳せて来た。
勝永これを見て、更に「あわれ父が子なり」と称たたえたという。
こうして、五月六日の戦は、真田父子の水際みずぎわ立った奮戦に終始した。
真田の棄旗
五月七日の払暁、越前少将忠直の家臣、吉田修理亮しゅりのすけ光重は能よく河内の地に通じたるを以て、先陣として二千余騎を率い大和川へ差かかった。
その後から、越前勢の大軍が粛々と進んだ。
が、まだ暗かったので、越前勢は河の深浅に迷い、畔ほとりに佇たたずむもの多かった。大将修理亮は「河幅こそ広けれ、いと浅し」と言って、自ら先に飛込んで渡った。
幸村は、夙つとにこの事あるを予期して、河底に鉄鎖を沈め置き、多数が河の半ばまで渡るを待って、これを一斉に捲き上げたので、先陣の三百余騎、見る見る鎖に捲き倒されて、河中に倒れた。
折柄、五月雨さみだれの水勢烈はげしきに、容赦なく押流された。
茲ここに最も哀れをとどめたのは、大将吉田修理亮である。彼は、真先に飛込んで、間もなく馬の足を鎖に捲きたおされ、ドウと許り、真倒まっさかさまに河中に落ちた。が、大兵肥満の上に鎧を着ていたので、どうにもならず、翌日の暮方、天満橋の辺に、水死体となって上った。
また、同じ刻限、天王寺表の嚮導きょうどう、石川伊豆守、宮本丹後守等三百余人が平野の南門に着した。見ると、そこの陣屋の門が、ぴったり閉めてあって入りようがない。廻って東門を覗うかがったが、同様である。内には、六文銭の旗三四旒りゅう、朝風に吹靡ふきなびいて整々としていた。
「さては、此処がかの真田が固めの場所か。迂濶に手を出す可らず」その上、越前勢も、大和川の失敗で、中々到着するけしきもないので石川等は、東の河岸かしに控えて様子を覗っていた。
夜がほのぼのと明け始めた。そこで東の門を覗ってみると、内は森閑として、人の気配もなかった。何のことだ、と言い合いつつ、東の門を開いて味方を通そうとしている所へ、越前勢の先手がやっとのことで押し寄せて来た。
大和川に流された吉田修理亮に代って、本多飛騨守、松平壱岐守等以下の二千余騎である。
が、石川宮木等は、これを真田勢の来襲と思い違い、凄まじい同志討がここに始まった。
石川宮木等が葵あおいの紋に気付いた時は、既に手の下しようのない烈しい戦いになっていた。ようやくのことで、彼等が、胄を取り、大地にひざまずいたので、越前勢も鎮しずまった。
しかし、こんな不始末が大御所に知れてはどんなことになるかも知れない、とあって、彼等は、その場を繕うために、雑兵の首十三ほどを切取り、そこにあった真田の旗を証拠として附けて、家康に差出した。
家康いたく喜ばれ「真田ほどの者が旗を棄てたるはよくよくのことよ」と御褒めになり、その旗を家宝にせよとて、傍かたわらの尾張義直卿に進ぜられた。
義直卿は、おし頂いてその旗をよく見たが、顔色変り「これは家宝にはなりませぬ」と言う。
家康もまた、よく見れば、旗の隅に細字で、小さく「棄旗」と書いてあった。「実に武略の人よ」と家康は、讃嘆したとあるが、これは些いささかテレ隠しであったろう。
寄手の軍が、こんな朱敗を重ねてぐずぐずしている間に、幸村は軍を勝曼院の前から石之華いしのはな表の西迄三隊に備え、旗馬印を竜粧りゅうしょうに押立てていた。
殺気天を衝き、黒雲の巻上るが如し、という概があった。
陽ひも上るに及んで、愈々合戦の開かれんとする時、幸村は一子大助を呼んで、「汝は城に還りて、君が御生害ごしょうがいを見届け後果つべし」と言った。が、大助は「そのことは譜代の近習にまかせて置けばよいではないか」と、仲々聴かなかった。そして、「あく迄父の最期を見届けたい」と言うのをなだめ賺すかして、やっと城中に帰らせた。
幸村は、大助の背姿うしろすがたを見、「昨日誉田ほんだにて痛手を負いしが、よわる体ていも見えず、あの分なら最後に人にも笑われじ、心安し」と言って、涙したという。
時人、この別れを桜井駅に比している。幸村は、なぜ、大助を城に返して、秀頼の最後を見届けさせたか。その心の底には、もし秀頼が助命されるような事があらば、大助をも一度は世に出したいと云う親心が、うごいていたと思う。前に書いた原隼人との会合の時にも「伜に、一度も人らしい事をさせないで殺すのが残念だ」と述懐している。こう云う親心が、うごいている点こそ、却って幸村の人格のゆかしさを偲しのばしめると思う。
幸村の最期
幸村の最期の戦いは、越前勢の大軍を真向に受けて開始された。
幸村は、屡々しばしば越前勢をなやましつつ、天王寺と一心寺との間の竜たつの丸に備えて士卒に、兵糧を使わせた。
幸村はここで一先ず息を抜いて、その暇に、明石掃部助全登かもんのすけなりとよをして今宮表より阿部野へ廻らせて、大御所の本陣を後うしろより衝かせんとしたが、この計画は、松平武蔵守の軍勢にはばまれて着々と運ばなかった。
そこで、幸村は毛利勝永と議して、愈々秀頼公の御出馬を乞うことに決した。秀頼公が御旗おんはた御馬印を、玉造口まで押出させ、寄手の勢力を割いて明石が軍を目的地に進ましめることを計った。真田の穴山小助、毛利の古林一平次等が、その緊急の使者に城中へ走った。
この使者の往来しつつある猶予を見つけたのが、越前方の監使榊原飛騨守である。飛騨守は「今こそ攻めるべし、遅るれば必ず後より追撃されん」と忠直卿に言上した。
忠直卿早速、舎弟伊予守忠昌、出羽守直次をして左右両軍を連ねさせ、二万余騎を以て押し寄せたが、幸村は今暫く待って戦わんと、待味方まちみかたの備をもって、これに当っていた。
すると、意外にも、本多忠政、松平忠明等、渡辺大谷などの備を遮二無二切崩して真田が陣へ駆け込んで来た。また水野勝成等も、昨日の敗を報いんものと、勝曼院の西の方から六百人許り、鬨を揚げて攻寄せて来た。幸村は、遂に三方から敵を受けたのである。
「最早これまでなり」と意を決して、冑の忍の緒を増花形ますはながたに結び――これは討死の時の結びようである――馬の上にて鎧の上帯を締め、秀頼公より賜った緋縮緬ひぢりめんの陣羽織をさっと着流して、金の采配をおっ取って敵に向ったと言う。
三方の寄手合せて三万五千人、真田勢僅かに二千余人、しかも、寄手の戦績はかばかしく上らないので、家康は気を揉もんで、稲富喜三郎、田付たづけ兵庫等をして鉄砲の者を召連れて、越前勢の傍より真田勢を釣瓶打つるべうちにすべしと命じた位である。
真田勢の死闘の程思うべしである。
幸村は、三つの深手を負ったところへ、この鉄砲組の弾が左の首摺くびずりの間に中あたったので、既に落馬せんとして、鞍の前輪に取付き差うつむくところを、忠直卿の家士西尾仁右衛門にえもんが鎗で突いたので、幸村はドウと馬から落ちた。
西尾は、その首を取ったが、誰とも知らずに居たが、後にその胄が、嘗かつて原隼人に話したところのものであり、口を開いてみると、前歯が二本闕かけていたので、正しく幸村が首級と分ったわけである。
西尾は才覚なき士で、その時太刀を取って帰らなかったので、太刀は、後に越前家の斎藤勘四郎が、これを得て帰った。
幸村の首級と太刀とは、後に兄の伊豆守信幸に賜ったので、信幸は二男内記をして首級は高野山天徳院に葬らしめ、太刀は、自ら取って、真田家の家宝としたと言う。
この役に、関西方に附いた真田家の一族は、尽ことごとく戦死した。甥幸綱、幸堯ゆきたか等は幸村と同じ戦場で斃たおれた。
一子大助は、城中において、秀頼公の最期間近く自刃して果て、父の言葉に従った。 
 
 

 

徳川家康 1616
人生とは重き荷を背負いて遠き道を行くが如し
嬉しやと二度さめて一眠り うき世の夢は暁の空
先に行くあとに残るも同じこと 連れていけぬをわかれとぞ思う  
●徳川家康 1
うれしやと 二度(ふたたび)さめて ひとねむり 浮世の夢は 暁の空  
うれしいかな、最後かと目を閉じたが、また目が覚めた。この世で見る夢は夜明けの暁の空のようだ。 さて、もう一眠りするとしようか
生誕:天文11年12月26日(1543年1月31日) 死没:元和2年4月17日(1616年6月1日)75歳没
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名で江戸幕府の初代征夷大将軍。
1600年に関ヶ原の合戦で石田三成を破り、事実上天下を握ると、1603年に征夷大将軍となって江戸幕府を開いた。大坂夏の陣、大坂冬の陣で豊臣氏を滅ぼした後、1616年に死去。
辞世の句 異聞
先に行く あとに残るも同じこと 連れて行けぬをわかれぞと思う
今死にゆく私も、今は死なず生きるお前たちもいずれは同じところへ行く。だからといって、私はお前達を死の道連れとはしない。ここでお別れだ。
徳川家康 遺訓
人の一生は重き荷を負って遠き道を行くが如し、急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし
心に望み起こらば困窮したる時を思い出すべし
堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え
勝つことばかり知りて負くることを知らざれば、害その身に至る
己を責めて人を責むるな
及ばざるは過ぎたるに勝れり
( 家康の遺訓は、家康自身のものでなく、明治の時代、日光東照宮の宮司によって弘められたといわれています。)
天下人のアンガーマネジメント
   厭離穢土 (おんりえど)
「厭離穢土欣求浄土」は戦国時代、徳川家康の馬印に用いられたことで知られています。松平元康(後の徳川家康)は、桶狭間の戦いで今川義元討死の後、菩提寺である三河国大樹寺へと逃げ隠れます。前途を悲観した元康は松平家の墓前で自害を試みるが、その時13代住職の登誉が「厭離穢土欣求浄土」と説き、切腹を思いとどまらせたと伝えられています。
この娑婆世界を「穢れた国土」(穢国)として、それを厭い離れるという意味であり、阿弥陀如来の極楽世界は清浄な国土であるから、そこへの往生を切望するという意味となります。
若き日の家康は、人質として多くの時間を過ごしてきました。のちに天下人となる家康は、危機を迎える度に、ピンチを糧にして成長していきます。家康公とて間違いもあれば、怒りを抑えきれないときもある。アンガーマネジメントとは、自らの怒りをコントロールするための手法です。「厭離穢土」と、決してかっこよくないエピソードを旗頭にしていのも、家康なりのアンガーマネジメントだったのかもしれません。
   馬上の脱糞のエピソード
三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、元亀3年12月22日(1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦いです。信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を徳川・織田の連合軍が迎え撃ったが敗退しました。
武田軍にこっぴどくやられた家康。命からがら逃げだすものの、退却の際には馬上で脱糞したとのエピソードも伝わっています。その時の情けない想いを一生忘れないよう、しかめっ面の不細工な自画像を描かせたと言われています。
   狸おやじの面目躍如?
家康は、豊臣秀吉の死後、五大老の一人として豊臣政権を支える立場となりました。しかし、天下人を狙う家康は政権内部の対立をあおり、「関ヶ原の戦い」が起こります。一般的には豊臣方と家康の争いとされる戦いですが、大義名分的には、お互いが、秀吉の遺児・豊臣秀頼を守る戦いでした。天下はまだ豊臣家にあったのです。
関ヶ原の戦いで石田三成をうった家康。家康を味方した加藤清正や、福島正則は秀吉の子飼の家臣であり、秀頼をまもるため、家康方についた・・・はずが、ふたをあけてみれば、豊臣家の瓦解がはじまっていたのでした。
結局、大坂冬の陣、夏の陣と2つの戦いをへて、家康は完全に豊臣家を滅亡においやります。この間、豊臣秀頼には何度も挽回のチャンスがあったはずが、結局、打開策をうちだせぬまま、大阪城の落城とともに、自死にいたります。
秀吉との約束を破り、権謀術策のすえ豊臣家を追い落とした家康。正義や名誉のへったくれもない姿にこそ、戦国の乱世を生き抜いた男の神髄があります。逃げるためには馬上での脱糞もいとわない家康にくらべ、豊臣秀頼は関白の子であるというプライドが邪魔し、結局、関ヶ原の戦い、大坂冬の陣、夏の陣、いずれも戦場におももくことはありませんでした。
秀吉は生前、家康のことを次のように評していたそうです。
「家康は愚か者である。しかし油断ならない愚か者である」と
   織田がこね 羽柴がつきし天下餅 すわりしままに喰うは徳川
天下統一というビックプロジェクトは、信長、秀吉、家康という3人の男の能力と、絶妙な順番がなければ達成できない大事業でした。冒頭の狂歌は、そんな3人の関係性を見事に言い現わしています。もちろん、家康が天下を横取りした・・・という側面は否定できないものの、秀吉がいう「愚か者」だったからこそ、家康は家康なりの方法で天下を安定させ、200年をこえる超長期政権を実現させたのではないでしょうか?
家康の「家訓」
死後、東照宮にまつられ大権現として神となった家康。その死の直前、大きな墓地をつくらないよう遺言をのこしたものの、二代将軍・秀忠はこれを無視。父である家康を神格化し、日光に巨大な伽藍を造営します。同じように家康の辞世の句や、遺訓など、出典の怪しい遺言が創作されることとなりました。
ただし、将軍家でなく、尾張の徳川家や、水戸の徳川家には、武家の大将としての心得が伝聞されています。そのなかには、大将は水泳の技術を会得することを求めています。その理由は、たとえ負け戦であっても、大将が生きている限り、負けではない。大将たるものいざというときには、泳いででも逃げうせろっというものです。
実際、水戸徳川家では、「水府流水術」がつたわり、家康から数えて15代目、最後の将軍となった徳川慶喜も、幼少期から訓練にはげみ、この水泳術を会得していたそうです。馬上の脱糞であったり、あるいは泳いで逃げろっであたっり、あんまりかっこよくないメッセージこそ、家康が子孫たちに伝えたかった「家訓」であったと、家訓二ストは確信しています。
今も生きる家康の遺産
世界有数の大都市となった東京。しかし家康が入城するまでは、江戸は水はけの悪いさびれた寒村であったと言われています。しかし、家康は、川の流れを強引に変えるなどの難工事にいどみ、今に続く東京の町割りを完成させました。その影響は、江戸から、明治と時代が変わっても活かされ続け、近年でも家康の遺産ともいえる恵みを私たちにもたらしてくれています。その1つが、都内をくねくねと走る首都高速です。
   首都高速は家康の遺産
首都高速と言えば東京を走る高速道路です。もともとは東京オリンピック開催に際して、羽田空港から都心までスムーズにアクセスできるように建設されたものです。そのため、オリンピック開催が決まってから大急ぎで着工、完成させなければなりませんでした。しかもその構想は推定500年はかかるとされるもので、それをわずか5年で完成させたとあって、世界中を驚かせました。
短期間で完成させられた秘密は土地買収にお金も時間もかからなかったから。その秘訣は、江戸城のお堀を使ったからです。徳川家康は関東にやってきてお城を立てた時、一気に江戸城周辺(現在の都心)を整備して、お堀を築きました。その堀をちゃっかり転用したいうのが真相です。
ちなみに東京の首都高速は、世界中の大都市を見ても、都心にこんなに空中道路が張り巡らされている所は例がありません。ビルの間を縫うように走る光景には、訪日外国人にも好評で、 世界の人から見ると 「ドラえもんの世界だ!」 「未来の都市だ!」と感じるそうです
   ノーベル平和賞確実の抜群の実績
徳川家康は、戦国の時代に終止符をうち、世界でも稀に見る長期平和を築きました。 ヨーロッパには250年に渡る平和な時代を実現させた国はありません。現存していれば紛れも無く「ノーベル平和賞」に選ばれるでしょう。
また秀吉により江戸の統治を任されました(体のいい左遷)際には、ただただ荒地の広がる江戸の地をゼロから開拓し今に続く大都市を築き上げました。江戸時代には100万人をこえる人口となり、当時のパリやロンドンをこえる世界一の都市に成長していきます。
江戸時代は、庶民文化が発達し、農民でも工夫さえすれば収獲が増えた分を自分の蓄えにして豊かになれた、やりがいのある社会だったといわれています。日本の国民性としての勤勉さは、この徳川時代の農民が、工夫しだいでは自分の収入を増やし、生活の改善が出来るという体制のもとで身につけたものだったのです。
海外の歴史家も、「私が庶民だったら、日本の江戸時代に住み、貴族だったら、19世紀イギリスに暮す」と言っています。所詮、欧米の文化は貴族だけの文化であり、一般人は奴隷か、搾取されるだけの存在でしかありません。庶民が、書物を読むとか、余暇を楽しむためお伊勢参りに出かけるのがブームになるなど、どこの国でありえるでしょうか?
家康は野盗の横行していた戦国時代を、わずかの時間で、女の一人旅ができ、年よりの芭蕉が丸腰で旅行できる平和な社会を実現させました。戦国時代〜秀吉時代が世界に恐れられた軍事大国だった日本が、家康の徹底した政策によって長期の平和を築き、安定した内政を実現させいました。家康がきずいた幕藩体制をベースとした政治システムが、いかに世界的に評価されるべきものか、客観的に理解できると思います。
家康がつくった江戸という都市、そして江戸という時代は、その後の日本の繁栄に確実にひきつがれる土台となったのでした。
及ばざるは過ぎたるに勝れり (家康遺訓より)
   「未完成」という名の安定
世界遺産にもなっている日光東照宮。栃木県日光市にあり、徳川家康を祭神とするお社です。東照宮の陽明門には、12本の柱があり、その内の一本は逆むきに備え付けられていることが知られています。一見、不自然な逆むきの柱。その真意は、荘厳な建物も、完成した瞬間から崩壊が始まるという考えから、一ヵ所だけ不具合をつくり、いつまでも未完成であることを表現したといわれています。この建設様式を見て思い出すのは、家康の遺言の一節、「及ばざるは過ぎたるに勝れり」です。
   賢者は歴史に学ぶ
1603年、将軍に任じられた徳川家康によって開府された江戸時代は、1867年、大政奉還されるまでの264年に及ぶ政権です。江戸時代は、世界史的に見ても類を見ない「長く平和な治世だった」と内外から高い評価を受けています。
家康は、歴史好きで有名でした。とくに、好んだ歴史書に鎌倉幕府の誕生の物語を記した「吾妻鏡」があります。この本には、天下人となった平清盛が、情けによって幼い源頼朝、義経の兄弟を助け、のちに成長した兄弟の活躍によって、平家が滅亡したことを記しています。書籍に学び、歴史を教訓にしていた家康は、「吾妻鏡」を反面教師とし、秀吉の遺児・秀頼を殺戮します。「平家の失敗」は、300年の時をへて、家康によって活用されたのです。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶもの、家康のジャッジはまさに、賢者の選択でした。
天下を不動なものにすべく様々な布石をうつ家康。しかし家康がうちだした施策のなかには、首をかしげるものもありました。それが、水戸藩を創設することとなる十一男・頼房に与えた家訓です。その内容は、「徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ」というものです。家康の仕込んだ家訓という名の「トロイの木馬」は、264年もの間、眠りつづけ、幕末になりその威力を発揮します。江戸時代の最期の将軍となった徳川慶喜は、水戸藩の出身です。もちろん父からも家訓を守るよう厳しくしつけられていました。家康が仕掛けた「トロイの木馬」はどんな結果をもたらしたのでしょう?
   及ばざるは、過ぎたるに勝れり
家康の遺訓は、「及ばざるは過ぎたるに勝れり」との一文で締めくくられています。東照宮の逆さ柱に限らず、家康は勝ちすぎることを嫌い、また常に負けた時のことを考えていた武将です。『江戸の備忘録』(磯田道史 著)には、徳川家康は水泳にうるさい教育パパであったことが紹介されています。その意味は、
「戦は常に勝つとは限らない。負けいくさもある。負けいくさになると、どんなに偉い大将でも馬に乗り、泳いで逃げなくてはならない。しかし、こればかりは、家臣に代わってもらうわけにいかない。だから乗馬と水泳教育は絶対必要だというのである」。というものでした。
   家康の天下どりの大仕掛け 「トロイの木馬」
「トロイの木馬」とは、ギリシア神話に登場する兵器です。戦争において、トロイア(イーリオス)を陥落させる決め手となったと言われています。中に人が隠れることができるようになっていた。転じて、内通者や巧妙に相手を陥れる罠を指す言葉です。近年ではコンピューターウィルスでも「トロイの木馬」の通称がつかれています
家康は、十一男・頼房に、「もし戦になったら、将軍家でなく天皇の味方をせよ」との家訓を伝え、この世を去ります。この家訓は、トロイの木馬となり、東照宮の逆さ柱のごとく、完成された江戸時代にあって、水戸藩の家訓は、不均衡なバランスをとりつつ静かにその出番を待つのでした。
   徳川家康遺訓に学ぶもの
家訓には、天下をとった徳川家康の人生観を反映させた至極の言葉が並んでいます。忍耐や我慢の大切さを息子や孫に伝えている内容です。それは、今を暮す我々にも活かせる教訓です。
家康晩年の言葉としてこんな言葉が残されています。「平氏を滅ぼすものは平氏なり。鎌倉を滅ぼすものは鎌倉なり。」歴史書をみれば、平氏を倒したものは源氏です。しかし、元をたどれば、平氏に驕りがあったため、敵にやぶれたとも、言い表せます。家康は天下をとったあと最後の敵を「慢心」であると、子孫に対しての厳しい戒めの言葉をのこしたことが分かります。家康ほどでないにせよ、我慢を重ねることを覚えれば、人生を成功させることができます。もし、ちょっとやんちゃなお子さんがいたら、家康の家訓を声にだして、一緒に唱和されることをお薦めします。
最初は意味が分からなくても、声にだし、そして暗記できるほど読み込むといいでしょう。一見むずかしい言葉が並びますが、かえってそれが燃えるポイントになります。とくにおすすめなのが、湯船での家訓の唱和です。家康公の家訓をお風呂のなかで、大きな声で暗唱し、お父さんと一緒に天下とりをめざしましょう。
家康遺訓をめぐるアナザーストーリー
   実は贋作?家康の遺訓をめぐるストーリー
家康の遺訓をめぐっては、いまも真贋について学会で意見がわかれています。いまのところ有力なのは、明治維新後、家康のご遺徳を軽んじられることを危惧した幕臣の一人が、遺訓を贋作し、これを真筆だと思い込んだ高橋泥舟が日光東照宮に奉納し、世間に広まったとの説が有力です。ちなみに、この学説をとなえたのが、尾張徳川家の末裔だというのも歴史の面白さを感じます。
遺訓に異をとなえた徳川義宣氏。その研究成果として、「いま流布している家康遺訓の底本は伝水戸光圀作「人のいましめ」(『天保会記』1830年に見える)であったようである」と述べています。かくいう光圀公は家康の孫。孫だとしたら、家康の遺訓を耳にしても、矛盾はないようにも思えます。家訓二ストは、学者ではありません。これからも家康の遺訓の真贋にかかわらず、多くの人が「信じてきた」という一点で、本物としてブログで紹介していきます。
   明治維新後の徳川家
あまり語られることのない明治維新後の徳川家のその後、海外の例をとれば、旧政権をになった王族は、虐殺されるか、亡命をし延命をするというのが一般的です。しかし、明治政府は、最後の将軍となった徳川慶喜には蟄居を命じるものの、戊辰戦争で官軍に協力した尾張徳川家を筆頭に、生き残った徳川家の縁戚に寛大な処置をみせます。
また、戊辰戦争で一番の被害をだした松平容保公が率いる会津藩にあっても、容保公には不如意な日々を送られましたが、明治5年には赦免され、同13年に5代目の宮司として、日光東照宮に赴任されています。家康公の遺訓が世間に流布されはじめるのはまさにこうした時期でした。幕府によって手厚く護られた日光東照宮も、維新後は1つの宗教法人として独立して運営する必要があったのです。政治の世界を離れ、神職として第二の人生を歩みはじめた容保公。世界遺産になった見事な建築はもちろん、家康公のご遺徳が現代にのこっているのも、容保公をはじめ、多くの幕臣たちの働きがあったのでした。
   焼かれなかった日光東照宮
新しく政治をになった明治新政府の面々にとって、徳川幕藩体制は正すべき旧体制です。事実、政治、文化、体制、あらゆる面で新しくなったことで、当時の人は、維新でなく「御一新」(ごいっしん)と呼んだほどです。徳川の祖・徳川家康も御一新の対象となり、戊辰戦争のなかで、攻撃目標になったこともなります。その際、攻撃を命じられたのは、藤堂高虎を祖とする藤堂津藩でした。
藤堂津藩は、鳥羽伏見の戦いでは、いち早く官軍側につき、先祖伝来の?の機敏さをみせつけることとなります。かつて藤堂高虎は、関ヶ原や大坂の陣では豊臣家を見限って徳川の天下取りの走狗となったことで、外様大名でありながら、家康の信頼が一番厚い存在になっています。しかしその藤堂家が、今度は因縁の山崎の地で徳川家を見限ったのは、つくづく因縁というものを感じます。裏切りによって得た天下は、260年もたった後で、まったく同じように裏切りによって失われたのです。
しかし、藤堂津藩兵は戊辰戦争で薩長に日光東照宮を破壊することを命じられた際には、拒否しています。大きな恩のある家康公に墓標に弓をひくぐらいなら、官軍を攻撃するまでと、勢いのまま謀略をくりかえす官軍に、乾坤一擲の忠義をみせたのでした。
   死せる孔明、仲達を走らす
明治維新という激動期にあっても、結局は250年も前に、死去した家康の手のひらの中で、踊らされていたことがわかります。三国志の英雄・諸葛亮孔明は、死去したのちも、敵軍の将・仲達を疑心暗鬼のすえに、撤退させたことが、慣用句として知られています。死せる家康、日本を走らす。徳川幕藩体制は260年、明治維新後150年。現代を暮らす我々自身も、まだまだ家康公の策のなかで踊らされているのかな。 
●徳川家康 2
   「先に行く あとに残るも 同じこと 連れてゆけぬを わかれぞと思う」
   「嬉やと 再び醒めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
2023年の大河ドラマの主役・江戸幕府を開いた天下人「徳川家康」は、この2つの辞世の句を残しています。
辞世の句とは、死を覚悟した人間がこの世に書き残す、生涯最後の句(または急逝により、事実上生涯最後となった句)を指します。その句には、読み手の死生観や人生観が色濃く表れ、特に偉人たちの残したものは人々の心を打ち、後世まで語り継がれています。波乱万丈な人生を歩んだ彼らの辞世の句は、私たちに「どう生きるか?」を問いかけてくるようです。
不遇な幼年期
家康には辞世の句とは別に、非常に有名な句があります。「人の一生は重き荷を負うて 遠き道を行くが如し 急ぐべからず」というものです。現代の言葉にすると「人生は、重たい荷物を背負って遠くまで歩くことと同じ。急いではいけない」という意味です。家康の人生はこの句に象徴されるように、耐えて耐えて耐え忍んでようやく大成した、まさに「大器晩成」な生涯だったといえます。
1542年、現在の愛知県東部にあたる三河国・岡崎城で、家康は生まれました。父は、松平氏8代当主・松平広忠。その嫡男にあたるので、いわゆる“お世継ぎ”、次期当主です。そんな権力者のもとに生まれた家康ですが、幼少期から不遇な時代が続きます。
当時の三河国は、「東に今川義元・西に織田信秀」と強国に挟まれており、いつでも戦が始まるような状況にありました。1547年、ついに織田氏が家康の住む岡崎城に向けて侵攻したため、父・松平広忠は今川氏に援軍を要請。今川義元は、その見返りとして家康を人質に出すように要求し、家康は若干6歳にして、人質として今川氏に送られます。しかしその道中、付き添っていた家臣に裏切られ、なんと逆に織田軍に売り飛ばされてしまうのです。
その後、約2年間を織田氏のもとで過ごした家康は、人質交換によってあらためて今川氏に移され、また人質生活が始まります。父の松平広忠はすでに亡くなっていました。なのに…次期当主の家康は今川氏の人質。岡崎城は、事実上今川氏に支配されたのです。
ターニングポイントは「桶狭間」
18歳になった家康に風雲急が訪れます。「桶狭間の戦い」にて、今川軍25,000人対織田軍3,000人という圧倒的な兵力差を覆し、織田信長が勝利したのです。この戦いには家康も参加していましたが、敗北を知ると今川氏からの独立を決意します。
こうしておよそ12年に渡る人質生活が終わり、家康は三河国の主として、戦国時代に名乗りをあげます。しかし、家康の不運はまだまだ続くのでした。
生命の危機を感じた「三方ヶ原の戦い」
家康の人生で最も大負けした経験がこの「三方ヶ原の戦い」です。1572年、織田信長を討つため京都に向けて出発した武田軍は、家康の本城・浜松城の目前まで迫ります。このとき家康は織田氏と手を組んでいたので、武田軍は敵方にあたりました。
徳川軍の軍勢は、織田信長からの援軍を合せても約11,000人。一方の、武田軍は約30,000人と約3倍の兵力差がありました。家康は攻めることもできず、浜松城に立てこもる作戦をとります。
しかし武田軍は、沿岸部の浜松城を無視して三河国方面へと進撃したのです。家康にとってこれは屈辱。後ろから攻めてくる危険があった浜松城を捨ておいたのですから、「眼中にないよ」と言われているようなものです。忍耐強いはずの家康もこの挑発には我慢できず、つい討って出てしまいました。
実はこれは武田軍の罠。徳川軍は散々に敗北し、有能な家臣の数々が戦死してしまいます。家康も命からがら逃げ帰り、この失敗を大いに反省しました。自戒の念を忘れることのないように、帰陣直後の自分の姿を絵に描かせた「しかみ像」という逸話と絵(「徳川家康三方ヶ原戦役画像」)が残っています。
辞世の句に込められた想いとは?
人生最大の大敗を喫した家康…しかし、まだまだ波乱万丈な人生は続くのです。辞世の句のひとつを解説いたします。
   「先に行く あとに残るも 同じこと 連れてゆけぬを わかれぞと思う」
「行く」とは亡くなることを意味しています。なので前半の「先に行く あとに残るも 同じこと」は、「先に亡くなるのも後から亡くなるのも同じことだ。いずれみんなあの世に行く」という意味です。では、後半の「連れてゆけぬを わかれぞと思う」はどんな意味が考えられるでしょうか?
この後半部分を読み解くには、当時の武家の風習が参考になります。“追い腹”という言葉をご存知でしょうか?亡くなった主君の後を追って、その家族や家臣が切腹をすることです。主君への忠誠心を示す行為として、戦国時代〜江戸時代初期まで美徳のように行われていました(1663年、徳川家綱の時代から法律で禁止に)。
実はこの句は「自分の後を追って殉死することを禁じるための家臣たちへのメッセージ」と考えられており、現代の言葉に直すとこのようになります。
「先に亡くなるのも後に亡くなるのも同じことだ。いずれみんなあの世に行く。だから、私の後を追って死んだりしないように。ここで一度別れよう」
「三方ヶ原の戦い」の際、自らの誤った判断で多くの家臣を犠牲にしてしまった家康。絵に残すほど深い後悔は、江戸時代という太平の世を築いたあとも、きっと忘れることはなかったのでしょう。苦渋の人生を歩んできた家康を支えてくれた家臣への想いがこの句には込められているのです。
その日、家康はオフだった
「本能寺の変」といえば、当時破竹の勢いで勢力を広げる織田信長が、家臣である明智光秀の裏切りによって京都・本能寺にて没した事件です。この時、家康は信長に京都まで招かれたついでに近畿地方各地を観光していました。軍勢は連れてきておらず、30名程度の従者が付き添っていただけということなので、いわば“オフの日”だったといえます。本能寺の急報を受けたのは大阪・堺にいたときです。
家康は、きっと青ざめたことでしょう。信長と家康は同盟関係にありますので、光秀が自分も狙ってくることは想像に難くありません。しかも、本能寺と堺は60km程度しか離れていないので、1日もあれば刺客が到着してしまいます。もしかしたら、もう到着しているかもしれないのです。一方、味方は約30名だけ…。
こうして、後の世まで語り継がれる大脱出劇が始まりました。ちなみに、この本能寺の変は家康にとって相当ショックだったようで、一度は自刃を覚悟しています(家臣・本多忠勝に止められて未遂に終わりました)。そんな諦めの早い一面も、実はあるのです。
2度目の“人生最大のピンチ”
領地である三河国(現在の静岡県)を目指して逃げる家康。最大の難所は「伊賀国(現在の北西部)」でした。この地域は中小の領主が共同統治していました(「惣国一揆」と呼ばれています)。家康にとって都合が悪いのは、1581年、この惣国一揆に対して、信長が徹底的に攻撃していたことです。同盟国である徳川も相当恨まれているはず…。「落ち武者狩り」にあう可能性があったのです。
結果的に家康はなんとかこの伊賀をくぐり抜け、無事三河国まで帰還します。危険地帯・伊賀を生き抜いた顛末は「神君伊賀越え」という逸話で語り継がれています。家康はその後、しばらくの間、関西で引きおこる信長の後継者争いの戦(山崎の戦い・賤ケ岳の戦い)を傍観していました。
小牧・長久手の戦い
本能寺の変後、織田家臣内の権力争いを制したのは、豊臣秀吉でした。一方家康はこの間、関東の北条氏と同盟を結び、勢力を強めていきます。
1584年、織田信長の二男「織田信雄」と秀吉との間で戦が勃発します。家康は織田軍の援軍として参戦。現在の愛知県西部にあたる場所で起きたこの戦いは「小牧・長久手の戦い」と呼ばれています。徳川・織田軍約16,000人に対して、豊臣軍は約100,000人と大きな兵力差がありましたが、徳川・織田軍は戦を優位に進めます。
約8ヵ月に及んだ小牧・長久手の戦いは、豊臣秀吉から講和が持ちかけられ終結。1586年には天下人となった秀吉と縁戚関係を結び、家康はその配下となります。1590年には逆に元・同盟国であった北条氏を征伐するために、豊臣軍として参戦しました。
この頃家康は、領地である三河国を没収される代わりに、関東の8ヵ国を与えられます。徳川軍の力を削ぐための秀吉の作戦でしたが、家康は武田・北条氏の家臣を迎え入れ、さらに力を蓄えていきます。
ついに天下人に
いよいよ家康が天下を取る時がやってきました。1598年に豊臣秀吉が没すると、1600年には、徳川家康 対 石田三成 の日本を2つの勢力に分けての大戦争が始まります。「関ヶ原の戦い」として有名なこの戦は、家康が指揮する東軍の勝利で終了しました。1603年には、朝廷から征夷大将軍に任命され、「江戸幕府」が誕生します。
このあたりの顛末は家康の晴れ舞台となります。大河ドラマを楽しみにお待ちください
そして江戸時代へ
1605年、家康は将軍職を三男の「徳川秀忠」へと譲ります。これが一応の“現役引退”ですが、その後も陰ながらも政治の主導権を握り続けました。
後の1614〜1615年には「大坂冬の陣・夏の陣」で豊臣家を完全に滅ぼし、ついに家康の天下掌握が完了したのでした。そして歴史は「江戸時代」へと続いていきます。
1616年4月17日、家康の生涯に幕が下ります。この時、75歳。当時としては異例の「長生き」でした。その理由は、出世してからも質素な食事と節制を続けていたからと噂されています。
天下人の残した句、その意味とは?
   「嬉やと 再び醒めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
現代の言葉に訳すと「もう目が覚めることはないかと思って眠ったが、再び目覚めることができて嬉しい。この世で見る夢は、夜明け前の空のようなものだ。さぁもうひと眠りしよう」といった意味になります。なんとものんびりした句ですが、本記事をここまで読んだあなたはまた違った意味を見出すかもしれません。たびたび死の危険に直面した家康だからこそ、目が覚めただけでも感謝できる、とてもポジティブな句にもとれます。「夜明け前の空」とは一体どんな比喩なのでしょうか。その想いは家康にしかわかりませんが、暗い夜空に朝日が差し込む様子から「希望」を感じさせます。「もうひと眠りしよう」なんて、「転生してまた新しい夢に挑戦しよう」という意味にさえ思えてきます。いずれにしろ、この句からは晩年を満足げに過ごす家康の姿が浮かんでくるようです。
耐え忍ぶ人生の果てに天下人の夢を成し遂げた家康。この句から感じる「感謝の心」「前向きさ」「希望」こそ、人生の成功の秘訣なのかもしれません。
●徳川家康 3
名言
   「人はただ 身の程を知れ 草の葉の 露の重きは 落つるものかな」
人は身の丈に合わぬことはしない方が良い。露も小さいと葉についていられるが、大きくなると重くなって落ちてしまう。(露=秀吉の暗喩)
辞世の句
   「うれしやと 二度(ふたたび)さめて ひとねむり 浮世の夢は 暁の空」
嬉しいと思ったら夢であった。なんだと思いながらも、また頑張ろうともう一眠りをする。全くもってこの乱世での私の夢は、明けきらなくて歯がゆい、暁の空みたいである。
   「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」
先に行くのも、後に残るのも同じことである。共にすることができないことが、本当の別れ(=死)なのだと思う。
どんな戦国武将?
東照大権現、たぬき親父でおなじみの、戦国三英傑が一人、徳川家康の紹介です。人気武将は織田信長におされっぱなしですが、2023年1月からの大河ドラマ「どうする家康」で再び注目を集めています。
   弱小国が故の人質生活
家康が生まれた三河国は、東に今川義元、西に織田信秀に挟まれており、いつどちらに占領されてもおかしくないような弱小国でした。(この頃の家康は松平姓であり、幼名は竹千代です)
信秀が、松平家の本城である岡崎城に侵攻の動きを見せると、当主松平広忠は、今川義元に援軍を求めます。義元は人質を要求し、竹千代を駿府城に送ることとなります。
ところがその道中で、護送役の戸田宗光が今川家を裏切って千貫文で織田家に売り飛ばします。勝った織田家は、広忠を脅しの材料に臣従を求めますが、広忠は「息子を殺すなら殺せ。一子をもって隣国の信を失うわけにはいかない」と返し、信秀を感嘆させました。
今川家と織田家が人質交換でまた今川家にいきますが、織田家で滞在した期間は2年。このときに織田信長と出会ったとされています。
そしてこの人質交換が行われたのは、父:広忠が死んだ8カ月後の事でした。当主がいない中で、家康が人質になったことで、三河は実質的な今川家の属国となりました。
この時、まだ家康は8歳であり、岡崎城に戻ったのは、11年後の1560年、桶狭間の戦いで今川義元が戦死した後のことでした。この期間の間に、今川義元の姪である瀬名と結婚しています。
   三河一向一揆
今川家に動揺が走り、その支配から逃れた家康は、織田信長と対面し、敵意が無いことを伝えます。そして信長と同盟を結んだことで(清州同盟)、今川家と断交したことも公になりました。この証の一つとして、この頃の名前は義元の「元」の字をもらって「元康」としましたが、これを返上し「家康」と名乗るようになっています。
この頃に勃発したのが、三河一向一揆です。起こった所以は諸説ありますが、本證寺という寺に不審者が入ったとき、西尾城主の酒井正親が捕まえたため、守護使不入の特権侵害を起こしたことが発端とされています。
特権を守りたい三河ヶ寺(本證寺、上宮寺、勝鬘寺)や本宗寺と特権を解体し、三河を統一したい家康との間で起こった戦いになります。通常、一揆というと、当主の命によって家臣団が鎮圧にあたりますが、三河一向一揆は、家臣が門徒側として参戦している内戦の側面もありました。後の徳川十六神将である夏目吉信や蜂屋貞次らも門徒側で参戦しており、『犬のように忠実』と揶揄されるほど結びつきの強かった三河武士が反旗を翻す様を見せら付けられ、家康に宗教の恐ろしさを感じさせた一揆でした。
   三方ヶ原の戦い
足利義昭が信長包囲網を敷いたとき、家康にも要請が来ていましたが、これを無視することによって清州同盟を維持しました。
武田信玄の軍が西上作戦を開始すると、遠江国・三河国に侵攻してきます。この時はまだ、大軍であった武田家に対抗するだけの力はなく、信長に援軍を求めますが、信長も包囲網への対応で精一杯であり、単独で対処する公算が大きくなります。
家康は本城である浜松城に繋がる二俣城を取られることを避けるため、天竜川を渡らせまいと偵察隊を出し、自身も出陣します。しかし、武田軍の行軍スピードが家康の予想よりも早く、思わぬところで部隊が衝突。望まぬ形で開戦してしまいます。兵の差も大きかったため、すぐさま退却を始まます。この時、殿を務めた大久保忠佐と本多忠勝は坂下という不利な状況ながらも必死に堪え、なんとか家康を逃すことに成功します。
しかし、撤退は成功するも、武田軍はそのまま二俣城を占拠。もともと不利な状況でしたが、さらに加速させる形となってしまいます。次に本城を狙われると思った家康は守備を固めようとしますが、あろうことか武田軍は城を素通り。なめられていると激昂した家康は、籠城を説く家臣を振り払い出陣を決意。
追撃するや否や武田軍は待ってましたと言わんばかりに転進。誘い込まれた家康の軍は壊走してしまいます。命からがらに浜松城に逃げ帰り、追撃兵に追いつかれようとするところ、空城の計によってこれを免れることができました。
深謀遠慮のイメージのある家康ですが、この時はまだ血の気と共に短慮な部分が見えます。しかし、この屈辱的な敗戦を忘れず、次に生かそうと、肖像画を描かせます。世に有名な『しかみ像』です。上記の理由で書かせたことが定説でしたが、最近になってこの絵に新説が生まれ、自戒ではなく子孫への戒めを伝えるためというものや、昭和11年に尾張徳川19第当主の徳川義親氏が、同初代党首の徳川善直が父:家康の苦難を風化させないように描かせたというものもあります。
なんにせよ、後の天下人であるので、負け戦にも価値があったことは間違いありません。
   伊賀越え
本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた1582年6月2日。家康は堺から上洛するところでした。行軍をしようとしていたその折に、訃報を聞きつけます。このとき家康が伴っていた将兵は30名ほどと言われており、身の危険が高く付きまとう状況でした。しかし、家康は信長の仇を討たんと上洛をしようとします(追腹を切ろうとした説もあり)。
本多忠勝らの熱い説得により本国への帰還を決意。盟友の死により、いつ敵が狙ってくるかも分からない道中、大通りは絶対に避けなければなりません。大名と言えど、やっていることは落ち武者と変わりありません。間道を通行する中で土民や地侍に殺される可能性も低くありませんでした。不幸中の幸いとして、家臣の中に伊賀出身の服部半蔵がおり、半蔵が集めた甲賀・伊賀者に助けを求めることができました。(この出会いがきっかけで、後に家康は忍者組織を組み入れることにもなります。)
なんとか無事伊勢にたどり着き、6月4日には船で三河に帰ることができました。
   関ケ原の戦い
信長の死後、明智光秀を討たんとしますが、中国大返しを果たした羽柴秀吉に先を越され、刀の行き場を失います。
ここから秀吉の勢力が拡大していき、しばらくは秀吉の家臣となる時代を過ごします。
転機となったのは1598年、秀吉の病死です。この時五大老筆頭となっていた家康は、秀吉に禁じられていた合議の無い大名家同士の婚姻(伊達家や福島家)を敢行するなど、少しずつルール違反を始めます。ここから段々と違反を増やし、兵の給料を増やしたり減らしたりと、五奉行の役目であるものを大老の家康がやってしまうなど、枷が取れた家康のやりたい放題が目立っていきました。その家康を良く思わなかったのが五奉行筆頭の石田三成でした。
1600年には、家康が会津征伐をしようとする折に、石田三成が挙兵。秀吉の側室である淀殿から、三成に謀反の動きがあるという知らせを利用し、三成成敗の大義名分を獲得。天下分け目の戦い、関ケ原合戦の始まりです。
開戦後よりも開戦前の調略が主となった関ケ原合戦。当初は三成率いる西軍が優勢でしたが、次々と寝返ることで東軍が優勢となります。決定打となったのが、松尾山に陣を敷いていた小早川秀秋が大谷吉継の軍に突撃したことでした。結果的にほんの数刻での決着となりました。
日ノ本を二分する戦いで勝った家康は、自他ともに認める天下人でした。幕府を開くと唯一、豊臣秀頼と淀殿が抵抗しますが、大勢は決しており、1615年には大阪の陣にて決着がつきました。
   晩年
大坂の陣から数カ月後、武家諸法度や一国一城の令を制定したことにより、日本全域の支配を達成。長きにわたる徳川政権が始まります。
1616年鷹狩への出先で病に倒れます。家康の死因で『天ぷら食中毒』がありますが、死去したのは4月17日なのに対して、天ぷらを食したとされるのは1月21日という記録があり、なかなか無理筋な説明であると言えます。
元々太っていた家康ですが、死ぬ直前はどんどん痩せていき、吐血と腹にしこりが確認されたところから胃癌などの内臓疾患であると考えられています。
東照大権現の神号は、秀吉の明神を嫌ったことで付いたものだと言われていあす。東照宮は日光と久能山に2つありますが、ほぼ同時期に作られています。家康の遺言によって建立されたものですが、遺骸がどちらにあるかは分かっておりません。遺言では久能山に葬るとされています。
この二つの違いとすれば、日光東照宮は幕府主体で建てられたもので、久能山東照宮は息子:秀忠が慰霊の意で込めて建てられたものになります。それゆえか、江戸時代は久能山の参拝者は制限されていました。
ただどちらも豪華絢爛な作りであるにも関わらず、1年半ほどで創っていることから金銭や人員の動員がすごかったことが伺えます。この早さと作りの荘厳さは、これからの徳川家の威光を高めるのに役立ったと言えるでしょう。
●辞世の句 1
有名な辞世の句は偽物だった!
徳川家康の辞世の句は以下のものとして有名です。
「人の一生は、重き荷を負うて、遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思へば不足なし。」
(人生とは、重い荷物を背負って遠い道のりをお歩いていくようなものだ。急いではいけない。こんなものだ、と思えば何の問題もない。)「東照公御遺訓」
これは「東照公御遺訓」として伝えられている人生訓の冒頭部分になります。
ところがこれは明治時代に幕臣の一人によって偽造された文書の可能性があるのです。
その根拠としては、文書の最後に書かれた花押(署名の代わりに書かれる記号)が本人の書いたものと微妙に異なるからだそう。
にも関わらず、この文書は日光東照宮に収められているほどなので、家康が書いたものとして信じられて来たのです。(日光東照宮も信じるほど信頼の篤い人が作成したのでしょうか?)
では、本当の辞世の句は?
では、徳川家康の本当の辞世の句はいったいなんなのでしょうか?
上記の句が偽物と判った現在においては、次の句が本物の辞世の句として考えられています。
「嬉しやと 二度さめて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
(目が覚めて、もう一度眠る。嬉しいことだなぁ。この世の出来事は、まるで明け方に見る夢のようだ。)
とても穏やかな句のように感じますね!
長い苦難の末に天下統一を果たして「やり遂げた」という満足感が現れているようです。
信長、秀吉ら他の「三英傑」の辞世の句との比較
この家康の辞世の句は人生を「夢」に例えていますが、このことは家康と並んで「三英傑」と呼ばれた織田信長、豊臣秀吉の辞世の句とも共通しています。
織田信長の辞世の句は
「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て 滅せぬもののあるべきか」
(人の人生は50年。天上世界の時間の流れと比べれば、一瞬で終わる夢や幻のようなものだ。命を受けたものはみな、例外なく滅びるのだ。)
豊臣秀吉の辞世の句は
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
(露のように生まれ落ち消えていく、ありふれた命の我が身。大坂でのことは、夢の中で夢を見ているような儚いものだった)
織田信長は突然終わりをつげる人生を「あっけないものだ」と歌っています。
同様に豊臣秀吉も、栄華を極めたものの心配事もあり(子供のこと)志なかばでこの世を去る無念さを感じます。
このようにあっけなさ、むねんさを「夢」という言葉で表しているのが、信長や秀吉の辞世の句です。
一方で家康は「夢」という言葉に素晴らしさ、喜びを乗せています。
辞世の句で、この「夢」というキーワードが共通して使われているために、それぞれの人生が終わるときの気持ちの違いが浮かび上がってくるようです。
●辞世の句 2
青年期から波瀾万丈! 天下人・徳川家康が辞世の句に込めた、独自の死生観とは?
松本潤主演の大河ドラマ「どうする家康」が好調だ。2023年1月の初回放送直後から、Twitterの世界トレンド1位を獲得したほか、毎回、放送と共にハッシュタグ「どうする家康」がトレンド入りを果たすほど、視聴者の心を釘付けにしている。
人気の理由には、天下人として知られる武将・徳川家康について、意外とよくわからないという人の興味関心をひきつけているのが大きいのではないだろうか。そんな家康の生涯をもっと知りたいと思う人に読んでほしい書籍がある。歴史学者・磯田道史氏による「徳川家康 弱者の戦略」だ。
徳川幕府が「二百六十年隠してきた真実を暴く!」と豪語する本書。強者たちを相手にしながらも実は常に弱者だった家康が、のちになぜ天下人となったのか?を、著者の考察をはさみながら丁寧に解説している。
故郷を追われ、故郷に戻った家康の青年期
家康の人生は波瀾万丈だ。故郷である三河の勢力争いに巻き込まれた幼少期。1547年、家康は数え年でわずか6歳のときに、駿河の今川義元のもとへ人質に出された。ただ、多くの作品では「苦難の物語」として描かれるが、著者は「むしろ幸運だった」と考察する。
当時、竹千代を名乗っていた家康は岡崎城主の跡取りとして期待されていた。しかし、父・松平広忠の領国経営は破綻の一途をたどり、すでに今川の援助でかろうじて存続している状態だったという。
人質に取られて以降、武家の成人の儀式・元服の際には、今川義元から馬や鎧などをもらうほど、たいそうかわいがられていた家康。のちに、今川勢の先兵として織田信長軍と対峙した桶狭間の戦いの前哨戦で戦ったさなかでは「今川義元が討ち取られてしまった、との報せ」を受けることになる。
今川軍の敗北により尾張から故郷の三河へとたどり着いた家康は、家臣たちの必死の要請により、生まれ育った岡崎城で領土回復作戦に乗り出す。実は、この過程では織田側に拉致された事件もあったが、著者の言う家康の「巻き込まれ人生」を彷彿とさせる。
辞世の句に表れていた家康独自の死生観
家康を表す「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす」という有名な句がある。寛容で忍耐強い家康の性格をよく表したものとして知られるが、自身が詠んだ辞世の句には彼の人間性、死生観が浮かんでくる。
本書で紹介しているのは「嬉しやと 再び覚めて一眠り 浮世の夢は暁の空」の一句だ。この句には「目が再び覚めて、またひと眠りする。現世で見た夢は夜明けの空で、また日が昇ってくる。つまり、自分は消えることはない」という意味が込められており、表現されているのは「死んでもまた再生する世界観」だと著者は解説する。
また、家康は「先に行く あとに残るも同じこと 連れていけぬを別れぞと思ふ」という一句も残している。この句は「死後に残された人にポイント」を置いていて、「自分がいなくなっても徳川の世を続けよ」とするメッセージを伝えているという。
家康は死後、自身の遺志により静岡の久能山という断崖絶壁に遺体を埋葬させた。静岡県駿河市の久能山東照宮から、今なおそこから現代の日本を見守っているのかもしれない。
さて、本書によると徳川幕府は「二百六十年」にもわたり続いた。戦乱の世を生き抜き、天下を取った家康の生きざまは、令和を生きる私たちに何を教えてくれるだろうか。大河ドラマとあわせて楽しんでほしい。 
  
  

 

伊達政宗 1636
馬上少年過 時平白髪多 残躯天所許 不楽是如何
曇りなき心の月を 先だてて 浮世の闇を照らしてぞ行く
咲きしより今日散る花の名残まで 千々に心のくだけぬるかな  
●伊達政宗 1
「馬上少年過ぐ」とは
晩年の伊達政宗が残した漢詩で「酔余口号」というものがあります。
馬上少年過 世平白髪多
残躯天所赦 不楽是如何
馬上少年過ぐ
世平らかにして白髪多し
残躯天の許すところ
楽しまずんばこれ如何せん
現代風に意訳すると「若いころは戦場で往来したものだが、平和になって気付いたら白髪の老人になっていた。幸せな老後は天が許したもの。これを楽しまなくてどうする」となります。一般的には伊達政宗はこの詩で、平和な老後に満足している気持を表現しているとされています。
しかし「楽しまずんばこれ如何せん」の部分に関しては、「楽しまなくてどうする」という解釈と、「楽しいと思えないのはどうしてだろう」という、全く違う二通りの解釈ができるのです。
最後まで徳川と闘うことができなかった無念、それを暗に表現したのではないか、そういう説もあるのです。これは、政宗自身がどちらともとられるように作った可能性もあり、現在でも謎となっています。
趣味人だった伊達政宗
伊達政宗は東北の覇者としての武勇伝は有名ですが、実は多くの趣味を持つ文化人でもありました。
料理・能・詩作など、晩年の伊達政宗は一日たりとも無駄に過ごすことがなかったと伝えられています。
若年のうちから習っていた能に関しては、奥小姓を太鼓の名人に弟子入りさせたり、政宗自身も家康や秀吉の前で太鼓を打つなどしました。
一説によると、政宗が晩年、能に費やした費用は年間で約3万石に及んだとされています。
また、秀吉が吉野で歌会を開いた際に武将たちはそれぞれ詩歌を読みましたが、政宗が最も和歌に精通し優れていたと伝えられています。
伊達政宗の辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」です。
この句は、暗闇の中を月の光を頼りに進むように、戦国の時代をひたすらに歩いてきた、という解釈がされています。
●伊達政宗 2
漢詩をいくつも後世に遺した!政宗の「漢詩」
まずは政宗の漢詩について、具体的にみていきましょう。
漢詩とは、中国の伝統的な詩のことです。政宗は生前に多くの漢詩を書き残し、その数は三十三首にも及びます。先ほど戦国武将は文化にも明るいという話をしましたが、政宗ほど漢詩を多く残した武将はそう多くないとされています。
政宗の有名な漢詩として、「春雪」という詩や、「酔余口号」などの詩が挙げられます。
   餘寒無去發花遲 春雪夜來欲積時 信手猶斟三盞酒 醉中獨樂有誰知
【意訳】「春というのに余寒が去らず、梅の開花も遅い。夜になって、ちょうど春の雪が積もろうとしているところだ。我が手にまかせて気の向くままに何杯も酒を酌む。この酔いのうちの独りだけの楽しみがわかるものが私以外に誰かいるだろうか。」— 「春雪」
   馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何
【意訳】「馬上で戦いに明け暮れた若い時は過ぎていった。今、世の中は平和になって我が身は年を重ねて白髪が多くなった。今こうしてあるのは天が許してくれたものだ。これからは残りある人生を楽しみたいものだ。」— 「酔余口号」
この他、酒を題にしている漢詩が多いようです。これは政宗の酒好きに由来するものであるとされていますが、後述の和歌ではこれがあまり見られないことから、漢詩を書く際の特有の話題選びといえるでしょう。
ちなみに漢詩の実力に関しては、和歌のそれほど優れているとはいえないという見方もあるようです。実際、研究者は政宗の漢詩は尊大になりすぎるきらいがあり、詩人にはなり切れていなかったと評しています。
専門家も絶賛!大名ではナンバーワンとも評される政宗の「和歌」
次に政宗の和歌について、みてみましょう。
政宗の和歌は同時代人および後世の評論家からも非常に高い評価を受けており、極めて優れた歌人であったことが知られています。実際、秀吉の主催した、和歌に優れた人物しか出席を許されない歌会に早くから招待されていたことが確認できます。そこで都の知識人たちと親交をもった政宗は、さらに実力に磨きをかけていくことになります。
政宗の「和歌力」の下地となっていたのが、古典への造詣であったとされています。「古今和歌集」などの和歌集から、「源氏物語」といった物語など、あらゆる古典への造詣の深さが後世に遺した和歌や逸話などからみてとれます。
政宗を代表する名歌としては、後水尾天皇が作った「集外三十六歌仙」という和歌集に収録されている、逢坂関を詠んだものなどが挙げられます。
   ささずとも 誰かは越えん 逢坂の 関の戸埋む 夜半の白雪
【意訳】「閉ざさなくても、誰が越えようか。逢坂の関の門戸を埋める、夜間降り止まぬ白雪よ。」— 「酔余口号」
この一首は、政宗を代表する最高の名歌と評されており、勅撰和歌集に載っていても違和感のないほどの傑作であると評されています。そのため、大名に限らず同時代人の中では最高の歌人であったと評する声もあるほどです。
また、有名な辞世の句も高く評価されています。
   曇りなき 心の月を 先立てて 浮世の闇を 照らしてぞゆく
訳すと「何も見えない真っ暗闇の中で、月の光を頼りに道を進むように、戦国の先の見えない時代の趨勢を 自分が信じた道を頼りに ただひたすら歩いてきた一生であったなあ」といった感じになります。
この政宗の辞世は、堂々とした風格が感じ取れる歌であると評されています。さらに、上記のものや辞世の句の二、三の歌だけでも歴史に名を刻むにふさわしいと、最高級の評価をされています。
さらに、こうした「お堅い」和歌だけでなく、遊び心あふれる和歌も遺されています。その点からも、政宗の性格がうかがい知れるようです。
能楽史上にも残る能楽愛好家との声も!政宗の「能楽」好き
戦国の世において、教養人の嗜みとされたものの一つが「能楽」でした。秀吉や家康も能楽愛好家として知られていましたが、政宗も負けず劣らずの能楽愛好家であったことが知られています。
その発端は父輝宗の能楽好きに影響されたところがあるとされており、家内でたびたび接待や嗜みとして能が催されていた様子が確認できます。また、能を嗜むだけでなく、みずから太鼓を打つほどの腕前であったともされています。
実際に「貞山公治家記録」によると、著名な家臣・片倉景綱(小十郎)邸で能六番が演じられた際、二番の演目で太鼓を打っていたと記されています。このように、家臣とのコミュニケーションツールとしても、能を活用していました。
加えて、政宗はお抱えの能役者を一から育て上げるという熱の入れようをみせています。大名がお抱えの能楽者を雇うことは珍しくありませんでしたが、一から能役者を育てるというのは極めて珍しかったようです。
その人物は桜井八右衛門安澄といい、奥小姓であった14歳のときに政宗の命によって金春流の能家に入門させ、めきめきと腕を上げていったとされています。その後、実力を認められた安澄は政宗が主宰する能の主役を任されるようになっていき、「政宗大夫」と称されるほどの実力者に成長しました。
「伊達家文書」によれば、政宗と同じく能楽を愛した藤堂高虎が「御うら山しく候」と羨望の声を上げた様子が記されています。
また、政宗自身による能楽へのスタンスも言葉として残されており、「木村宇右衛門覚書」によれば「能楽は無駄にも思えるが、他人の歓待にこれほど素晴らしいものはない」と語っていたとされています。
「文化人」になっていった理由は地理的条件にあった
さて、ここまで政宗の「文化人」としての側面をみてきました。ここでは書ききれませんでしたが、他にも絵画や茶の湯など、当時教養と呼べるものはほぼすべて兼ね備えていました。
その理由として考えられるものは、東北の大名というコンプレックスが由来であるとされています。都から離れているという都合上、どうしても「田舎者」という誹りをうけることになってしまっていたからです。
そのために、政宗はそうした誹りをうけないために、コンプレックスを反動にして教養を身に着けていったという見方もあります。ただ、一方で東北出身であることに誇りを感じているという一面もあり、政宗の精神構造は非常に複雑なものであったといえるでしょう。
●伊達政宗 3
酔余口号について
   酔余口号
   馬上少年過
   世平白髪多
   残躯天所赦
   不楽是如何
馬上少年過ぐ 世平らかにして白髪多し 残躯天の赦す所 楽しまずして是を如何にせん (若しくは) 楽しからずこれ如何に
(青春時代は馬上で過ぎ去った。今、世は平らかで、自分は白髪の多い老体となってしまった。残躯を駆り、残りの人生を天の赦す所まで(=命尽きるまで)楽しまずしてどうする。(若しくは)(今は太平の世であると言うのに)楽しくないのはどうしてなのだろうか。)
戦、戦で馬上に過ぎて行った若かった時代に思いを馳せると共に、老体となった今の自分について思いを巡らす、といった内容です。
さて、この漢詩「若しくは」と書いたように最後の一文に二つの解釈の余地があり、どちらが本当の意味なのか?と話題になる事があります。
筆者は二つの意味があっていいと思う派です。政宗公程の教養人だったら、一文に二つの意味を持たせておく位は普通にするだろうし。二通りの解釈ができる事は当然分かっていたでしょうから、どちらも本心から出た言葉でいいんじゃないかと。
三句目、「残躯天所赦」と四句目「不楽是如何」の繋がりを考えれば、「楽しんだ方がいいじゃん!」の方がさらりと読めて自然ですが、政宗公の性格を考えると「楽しい(戦もなく、伊達家も今の所安泰、生活も安楽だ)」「楽しくない(昔は高い志を持ち、もっと充実していた)」のどちらも思っていそうです。詩人ですから。
「酔余口号」の題の通り、酒に酔った勢いで若かった頃の志や充実していた人生、そして現在の自分の境遇などを振り返ってちょっと切ない気持ちになっている一方で、「もう楽しむしかないよね、今の生活だって趣味に政治にと忙しくて楽しいし!」と割り切っているという、二律背反するような気持ちを詠んでみたのではないかと思ったりします。実際、幕府成立、安定後の政宗公は人生を楽しみに楽しんでるとしか思えない。
とは言え、酒を嗜み、詩を口ずさんで、能に料理に政治にと忙しくしている日々の中にも、ふと若かった頃を思い出して切なくなる瞬間はありますよね、と、いい年になった筆者は勝手に共感しています。
彼は周囲の親しい人達に、戦で領土を拡大し、いずれは伊達家を天下も望めるような勢力に成長させることができる当主になって欲しいと望まれて育ちました。当然それが自身の願いでもあった訳ですから、伊達家の中興の祖である九代当主大膳大夫政宗公の名を戴いたことが、彼にとってどれ程大きなプレッシャーであり誇りであったか、きっと現代人には想像もできないものであったろうと思います。
自分の生まれた所の人達が「中興の祖」として崇め奉っている人と同じ名前で、大勢の家臣や郎党、領民の命や財産を背負って、敵を殺して領土を奪う。勝てば領土を得て周囲にも褒めそやされる、だけど負ければ……の人生がこの先延々と続くんですよ。もし、周囲の期待に応えられなかったら、なんて考える事も許されなかったでしょう。敵は待ってくれませんから。
そんなこんなで色々あって、幕府も軌道に乗ってしまい、彼はとうとう天下を取る事はできませんでした。しかし、伊達家の石高は62万石、日本で第三位の雄藩となり、彼自身も若い頃の殺伐とした日常が嘘のような生活を送ります。
今は戦もないし、趣味にも金を掛けられるし、伊達家の当主として周囲にかしずかれて生活する事ができる。昔と比べて今はいいなあ……でも。
若かった頃ってもっと違う何かで充実していたんじゃなかったっけ?
みたいな意味だったんじゃないかと。彼は優秀な政治家であると共に優れた詩人でもありましたから、こういう相反する気持ちをさらっと歌に詠みそうだなあと思っています。
そう言えば、政宗公の詩才は司馬遼太郎先生にも「曹操にも比肩すべき」と言われていましたね。確かに、詩才だけでなく、この二人の性質って一部似てる所がある、ような。
冷徹な政治家で軍略家、苛烈な性質を持つ一方でセンチメンタルな所もある、文才があって作る文章が雄大で格調高く、美しい。そう言えば、彼らの文章から受ける印象も似ている気がします。
●伊達政宗 4
「酔余口号」
   馬上少年過  馬上少年過ぐ
   世平白髪多  世平らかにして白髪多し
   残躯天所赦  残躯は天の赦すところ
   不楽是如何  楽しまざるはこれいかん/楽しまずんばこれいかん
(若い頃は馬にまたがり、戦場を駆け巡って年を重ねてきた 今、世の中は平和になって、私の頭にも白いものが増えてきたことよ 天下を取れなかった代わりに、天から授かった残りの生命が私にはある それなのに何か心楽しまないのはどうしたことだろう そんなこと考えずに残された限りある日々をせめて精一杯楽しもうじゃないか)
●伊達政宗 5
仙台藩伊達家の菩提寺・瑞巌寺にて伊達政宗が晩年に述懐した漢詩「馬上少年過ぐ」に共感
上掲の写真は 伊達政宗が1609年に再興・整備した伊達家の菩提寺・瑞巌寺です。 伊達政宗(1567〜1636年)を藩祖とする仙台藩の石高62万石は 加賀・前田家、薩摩・島津家に次ぐ全国第3位で その支配地は 現在の岩手県南部から宮城県全域までと福島県新地町という広大なものでした。
政宗は 天下に臨むつもりでしたが 先ず足元の奥州平定事業に取り組んでいた時に 中央で秀吉の政権が成立してしまい その後を家康が天下を定めたので 天下を得ずに生涯を終えています。 政宗は68歳の天寿を全うし没しましたが、晩年、次のような心境を漢詩に残しています。
   馬上少年過(馬上少年過ぐ)
   時平白髪多(時、平かにして白髪多し)
   残躯天所許(残躯天の許す所)
   不楽復如何(楽しまざるをこれ如何せん)
      四十年前少壮時(四十年前少壮の時)
      功名聊復自私期(功名聊(いささ)か復(ま)た自ら私に期す)
      老来不識干戈事(老来識らず干戈(かんか)の事)
      只春風抱桃李巵(只春風に桃李の巵(さかづき)を抱く)
おおまかな意味は次のとおりです。
若い頃、馬に乗って戦場を駆け抜け活躍したが、今では世の中は太平になり、また、自分にも白髪が増えた。天から与えられた余生が残ってはいるが、これを楽しまずしてどうしようか、(楽しいとは思えないのはどうしたことなのだろうか)
四十年前の若く勢いがあった頃は、功名を立てるに、口にこそ出さなかったが、秘かに自信があった。しかし、歳を取ってしまい、戦のことなどすっかり忘れてしまった。今はただ、春風に吹かれながら、桃と李(すもも)の花の下で酒を楽しむばかりである。
優れた統率力と才能を発揮し、時には天下人すら敵にまわし、死の直前まで天下を取る野心を捨てなかった政宗でしたが 晩年の体力の衰えに打ち勝つことは出来なかったようです。  この漢詩は 功成り名遂げた政宗が自分の人生を振り返って満足しているという感慨を詠んだものなのか 天下を取れず徒労に終わった自分の人生を苦々しく思っていることを詠んだものなのが 解釈が分かれるようですが 苦々しく思っていると解釈した方が正しいのではないでしょうか?
この漢詩は 政宗が政宗自身の生涯を回顧した自分史的な面白さがあり 平仄(ひょうそく:漢詩で重視される発音上のルール)と韻が正確に作られていることから 政宗が乱世を生き抜いた教養人でもあったことを示すものだそうです。 
夢の内容は異なるものの 政宗の漢詩に共感する今は夢破れて定年退職した元企業戦士も多いのではないでしょうか?
伊達政宗の菩提寺は 松島の「瑞巌寺」と仙台の瑞鳳殿へ行く途中にある「瑞鳳寺」の二つがあります。 どちらが格上の菩提寺なのか良く分かりませんが 政宗が生存中に改築したのが瑞巌寺で 死後の墓として指示したのが瑞鳳寺です。
瑞巌寺の参拝を済ませてから 表参道を歩き 松島湾に突き出た小島に建つ瑞巌寺五大堂(1604年に政宗が再建)を訪ねました。
東日本大震災の津波被害が松島で少なかったのは 松島湾に浮かぶ多くの島が防波堤の役を果たしたからと言われています。 しかしながら 瑞巌寺の山門から本堂につながる約180mの参道両側に起立していた杉並木1000本の2/3が津波の塩害で枯れ伐採されたので 昔の幽玄で厳粛な参道の雰囲気を失っており 残念でした。
●伊達政宗 6
二つの辞世の句
これまで広く知られている辞世の句(寛永13年1月20日)
   曇りなき心の月を先立てて浮世の闇を照らしてぞ行く
何も見えない暗闇を照らす月の光のように、自分の信念を光として先の見えない戦国の世を歩いてきたぞという政宗の生き様を表しています。
己の志を持ち続けて乱世を生き抜いた姿が、伊達家のこれからの導きになっただろうという老いたみちのくの殿の言葉だろうと私は受け取りました。
また、独眼竜だった政宗ですから、人生の半分は暗闇だったとも考えられると悲しさも見えます。武将として生き切った自分だが、果たしてそれでよかったのかと静かなやるせなさが垣間見れます。現代を生きる私たちにも響いてきますね。
そして、もう一つの辞世の句
昨年、角田石川家の資料で見つかったもう一つの辞世の句は
   くらき夜の真如の月をさきたてゝこの世の闇を晴してそ行
死が近づいた時に長女の五郎八姫に宛てた句が、次女の牟宇のもとにも手紙で伝えられたとされています。角田石川家や仙台藩関係の出来事を記録した「石川家御留(おとどめ)」の中にありました。
状況として政宗は将軍謁見のため、病身であったが江戸へ出かける前に作ったようです。その頃の将軍は家光で政宗は69歳でした。
辞世の句を比べてみる
1 曇りなき心の月を先立てて浮世の闇を照らしてぞ行く 寛永13年1月20日
2 くらき夜の真如の月をさきたてゝこの世の闇を晴してそ行 寛永13年4月20日
一見とても似ていますよね。体調の優れなく命の限りを政宗自身わかっていたのは間違いありません。あれほど乱世を生き抜いてきた男の美しき最期の想いが両方に見えます。
私が感じたことを述べます。
   1の「浮世の闇」と 2の「くらき夜」
この似ている言葉から彼の心境の違いを感じました。
「浮世の闇」には武将としての選択を繰り返し、家臣を引っ張ってきたリーダーとしての政宗があります。戦国武将として生き抜いた彼が家臣に向けての言葉だと受け取れます。
「くらき夜」は、あえて平仮名表記です。他でもない自分の娘への愛しさを感じますね。娘に添いたい父の最後の本音が伝わります。
   1の「照らして」と 2の「晴して」
「照らして」には自分は伊達家のトップの存在であり、藩を守ってきたこと。民にとっては神に近かった人生だったという雰囲気が感じられます。
「晴して」は人間として家族として守ってきた一人の人間がこの晴れた世を去っていかねばならない淋しさを思わせています。
家族へ「俺の人生いろいろあったが、みちのくを守ってきたぞ。後はお前たちに頼んだぞ」と柔らかい解釈できるのではないでしょうか。
おわりに
今回、角田石川家から見つかった資料を見ていると、政宗は外ではかっこいい武将だけれど、内では娘大好きパパだったのだろうと思いました。自分の生き抜いた姿勢をどうしても娘に伝えたくて詠んだ辞世の句なのでしょう。
   くらき夜に 真如の月を さきたてゝ この世の闇を 晴してそ行
政宗の三日月の兜を思い浮かべてしまいます。
●伊達政宗 7
   「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照らしてぞ行く」
(何も見えない真っ暗闇の中で、月の光を頼りに道を進むように、戦国の先の見えない時代の趨勢を、自分が信じた道を頼りに、ただひたすら歩いてきた一生であったなあ)
(あたり一面は闇だけれども、曇りなく光る月のように自分の心を持ち、自分の心のままに信じて自分の道を進んできた。そんな一生だったな。)
●伊達政宗 8
伊達政宗が詠んださらしなの歌
戦国から江戸初期を生きた東北地方の名将、伊達政宗(1567―1636年)にも「さらしな」を詠んだ和歌があることが分かりました。その歌は「曇るとも照るとも同じ秋の夜の其の名は四方にさらしなの月」。曇っていても晴れていてもさらしなの月はすばらしい、それくらい全国に知られた名月であるということを詠んだ歌だと思います。
この歌の発見≠ノ至る最初のきっかけは、2012年の読売新聞の記事(8月19日付)。政宗が亡くなる直前の辞世の歌が月にまつわるものであることが、政宗の領地であった松島(宮城県の松島湾、日本三景の一つ)の夜空に浮かぶ月の写真とともに紹介されていました。辞世の歌は「曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照らしてぞ行く」です。
いくたびもの合戦を経て仙台藩民の暮らしを豊かにする施策を一通り打ち、藩主として十分な働きをしたにもかかわらず、亡くなる直前まで「世の一寸先は闇、月の光で照らし進んで行くのだ」と戦国の只中を生き抜いた武将ならではの思いを感じます。
読売新聞の記事は政宗の歌には月にちなんだものが多いとも記していたので調べました。その過程で伊達家末裔の一門の当主、伊達宗弘さんが、歌人としての政宗にスポットを当てた「武将歌人、伊達政宗」(ぎょうせい)をお書きになっているのを知り購入したところ、その中に冒頭のさらしなの歌があったのです。
本によると、さらしなの歌は政宗が父輝宗(てるむね)の菩提寺として建立した覚範寺(かくはんじ、仙台市青葉区)で嘉永2年(1625)、「名所月」をテーマに詠みました。辞世の歌の約10年前、58歳ごろです。
この歌の読み解き方は本の中では詳しくは触れられていませんが、詠まれたのが戦国の世を終わりに導いた天下人、豊臣秀吉が亡くなった(1598年)後だったことから想像をふくらませました。
政宗は秀吉と親交があり、秀吉が築いた伏見城下(京都市伏見区、現存せず)に藩の屋敷を設けていました。シリーズ49で紹介したように秀吉は伏見城下に見渡せた広大な「巨椋池(おぐらいけ)」にかかる月の美しさを「さらしな」や「松島」の月にも負けないと自慢した歌(さらしなや雄島の月もよそならんただ伏見江の秋の夜の月)を詠んでいます。秀吉は伏見城にやってきた政宗にこの歌を披露したのでは…政宗はそれをきっかけにさらしなの月の天下での評判を身をもって感じたのでは…。
確かなことは分かりません。ただ、政宗は特に愛した松島の月を見ながら、さらしなの月を思い描くことがあったのは間違いないように思います。 
  
 

 

春日局 1643
西に入る月を誘い法を得て 今日ぞ火宅をのがれけるかな  
●春日局 1
春日局は、明智光秀の家臣 斎藤利三の娘で江戸幕府 三代将軍 徳川家光の乳母です。春日局は、朝廷との交渉を行い、江戸城の大奥の基礎を作り、権勢をふるった女性としても知られていますが、1643年10月26日 享年64歳前後で亡くなりました。
   「西に入る 月を誘い 法を得て 今日ぞ 火宅を のがれけるかな」
(西の方へ没していく月を心に留めながら、仏の教えに従い、やっと今日悩み多いこの世から逃れることができます)
●春日局 2
   西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな
春日局(かすが の つぼね)/斎藤福(さいとう ふく)
生誕:天正7年(1579年)
死没: 寛永20年9月14日(1643年10月26日)
安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母
父は美濃国の名族斎藤氏の一族で明智光秀の重臣であった斎藤利三。江戸城大奥の礎を築いた人物です。朝廷と徳川家をつなぐ役目をおい、天皇に謁見するため、特別な位と名前を朝廷からいただくことになります。「春日局」とは、そのとき朝廷から賜った称号です。近世初期における女性政治家として随一の存在であり、徳川政権の安定化に寄与したと評価されています。
「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」春日局の辞世の句
「火宅」は、仏語で、煩悩や苦しみに満ちたこの世を、火炎に包まれた家にたとえた言葉です。当時の女性としては異例の出世をとげた春日局ですが、その半生をみると、波瀾万丈なものでした。父・斉藤利三は優秀な武士であり、明智城下で何不自由のない幼少期をすごします。しかし、本能寺の変で、明智光秀は謀反をおこすと、つづく山崎の合戦で、利三は絶命。家長を失った家族は、金銭的に苦しく、また裏切り者との汚名をおびた一家は、極貧のどん底を経験します。
その後、結婚をへて3人の子どもにも恵まれたお福でしたが、人生をかえる一大転機が訪れます。それが将軍家のお世継ぎである家光(当時の竹千代)の乳母として白羽の矢が立ったのです。苦しい生活から一転、将軍家での栄誉ある生活も、考え方次第では、それまでの人生を捨て、子どもや旦那をすてる業(カルマ)の深い選択を意味しました。辞世の句にある「火宅」とは、こうした心境を吐露したものだったのではないでしょうか
当時の乳母は、単にベビーシッターというだけでなく、幼い竹千代の衣食住、そしてそれを支える女性たちを束ねる仕事もありました。「奥」とは、政治の世界を司る男たちの世界を「おもて」として、将軍の日常生活をみる裏方を「奥」とするものです。とくに、世継ぎをつくる必要のある将軍をもてなす女だけのハーレムを作り上げたのが、春日局の功績です。
また乳母という立場をこえ、次期将軍の指名を家康から引き出したことも特筆すべき功績です。 3代将軍徳川家光は、慶長9年(1604)に徳川秀忠の次男として江戸城で生まれました。幼少期は小心者で、家光の弟国松(松平忠長)がおり、両親は活発な国松を寵愛していました。しかし、元和2年(1616)、廃嫡の危機を感じた春日局は、家康に直訴。これに応えるように家康は家光を世継ぎに指名し、次期将軍の地位が確定しました。
こうして、裏切り者の娘。普通の主婦、そして、将軍の後継人にまで上り詰めた春日局の生涯は、ドラマされるなど、政治家として、そして一人の女として、いまなお注目をあびる存在です。
三代将軍 徳川家光とは
徳川 家光(とくがわ いえみつ)は、江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)。2代将軍秀忠の次男(嫡男)である。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江。乳母は春日局(福)
慶長10年(1605年)、家康は秀忠に将軍職を譲位して大御所となる。幼少時の家光は病弱で吃音があり、容姿も美麗とは言えなかったと言われる。慶長11年(1606年)に弟・国松(後の忠長)が誕生する。家光と忠長の間には世継ぎ争いがあったとも言われ、『武野燭談』に拠れば、秀忠らは忠長を寵愛しており、竹千代廃嫡の危機を感じた福は駿府の家康に実情を訴え、憂慮した祖父・家康が長幼の序を明確にし、家光の世継決定が確定したと言われる。
秀忠は政権移譲した後も、大御所として父・秀忠の権勢はおとろえず、幕政は本丸年寄と西の丸年寄の合議による二元政治のもとに置かれました。寛永9年(1632年)1月に秀忠が死去すると二元政治は解消され、将軍から公方として親政を始める。
   「生まれながらの将軍」
家光の生まれた時は、祖父である家康は将軍に任じられ、まさに徳川幕藩体制が整えられる重要な時代でした。家光は俗に「生まれながらの将軍」と自らをたたえ、全国の諸侯をかしづかせたと言われています。その意味は、家康も秀忠も、部下であった時代があり、戦国時代をともに戦った仲間がいたのに比べ、家光は、生まれながらに絶対権力をもつことを宣言したのでした。事実、家康からみれば、関ケ原の大恩のある加藤清正の率いた肥後藩も、あっさり改易のうえ、おとりつぶし。また寛永12年(1635年)の武家諸法度の改訂では、大名に参勤交代を義務づける規定を加え、全国の大名たちをしぼりとる体制を整えたのでした。
対外的には長崎貿易の利益独占目的と国際紛争の回避、キリシタンの排除を目的として、対外貿易の管理と統制を強化していきます。島原の乱をへて、長崎を通じた貿易の管理・統制である「鎖国」体制を完成させました
   時代は、太平の世の中に
天下人となった家康ですが、信長、秀吉の失敗を身近にみてきた経験から、敵を倒すことよりも、平和な時代をつづけることがいかに難しいことか痛感していた政治家でした。
なくなる前、ようやく大阪の陣をしかけ、豊臣家を滅亡させることに成功します。そして、死をまじかに感じながら最後に手掛けた政策が、三代将軍の家光の指名だったのです。春日局のつげくち?も効いたこの選択には、長男が世襲するというルールを強いたことで、無用な争いを避ける意味がありました。
下剋上が当たり前だった時代、兄弟は一番近いライバルであり、また、そんなライバル争いを制した強い世継ぎだけが戦国の世を勝ち抜く当主となることができました。事実、信長が弟をころし、また伊達正宗は、弟に加え実の父をも手をかけています。
家康は徳川の時代を長く続ける為に、これまでの歴史から学び、優秀だろうが愚鈍であろうが、長男が跡を継ぐ絶対のルールをしいる一方、将軍個人の能力によって右往左往しない盤石のバックアップ体制を整えたのでした。
これらの、家光の代までに取られた江戸幕府の一連の強権政策は「武断政治」と言われます。「文句あんなら刀でやりあうべっ」というのが武治政治。一方、家光は、武力でなく法律で大名や庶民をしばる「文治政治」です。武力から官僚型の政治の変換に立ち会ったのが家光の政治家としての功績でした。家康がえらいのはもちろん、秀忠、家光と三代に渡って聡明な政治家を輩出した事が徳川264年の歴史をきずきました。
家光は、父・秀忠よりも祖父である家康をリスペクトしつづけ、家康のために世界遺産にもなった日光東照宮を絢爛豪華に改築させました。また、家康と同様、自分を将軍におしあげた功績者として、乳母である春日局を大事にしていたと伝えられています
   家光と春日局
家光は、将軍の指名の際の春日局の行動に大変感謝したそうです。お福の子、稲葉正勝ものちの徳川家光側近となりました。お福はまた、徳川家光の側室選びに心を配り、嫡子誕生に苦心しました。家光が疱瘡になったとき、お福は生涯薬を飲まない誓いを立て、水を浴びて祈ったといいます。
家光の成長とともに、お福の江戸城での立場はゆるぎないものとなり、大奥での権力は絶大なものとなります。家光の妹・和子が、時の天皇・後水尾天皇に嫁いでいたこともあり、家光はお福に様子を見に行かせますが、身分は斉藤家のお福。宮中に入れる身分ではありませんでした。家光は将軍家の威光をもって、お福を縁のある三条西実条の仮の妹という名目で宮中に入れました。これに対して後水尾天皇はお福に「春日局」の称号を与えています。
天才政治家・松平信綱、大剣豪・柳生宗矩、大奥の長・春日局。家光を支えた鼎の三足の一人とあげられています。お福が死去する前に薬を飲まないことを知ると、家光は自ら薬を飲ませようとしましたが、お福は飲んだふりをして誓いを守りました。六十四歳で閉じます。
家光と春日局は、ある種本当の親子以上の関係であり、また政治家として一蓮托生の同志として、徳川の太平の世をきずきあげたのでした。
●春日局 3
春日局は江戸時代の女性だが、その名を知るものは多い。
徳川2代将軍・徳川秀忠の子である竹千代の乳母でありながら、竹千代よりも弟の国松を溺愛する将軍夫妻に対抗し、見事に竹千代を3代将軍・徳川家光として育て上げた女性。そして、大奥を組織的に整備して、その実権を握った女性。
転落した人生から一転、権力の頂点まで上りつめた春日局は、稀代の策略家だったのか?
激動の日々
春日局とは、竹千代が将軍となった後に朝廷より下賜された称号であり、本名は「斎藤福(さいとうふく)」という。関ヶ原の合戦より遡ること約20年前、1579年(天正7年)に斎藤利三の娘として生まれた。斎藤利三は明智光秀の重臣であり、本能寺の変による山崎の戦いで羽柴秀吉軍に敗北する。父は処刑され、兄弟とも散り散りになった福は、縁戚を頼り流浪の日々を送った。やがて、母方の稲葉家に落ち着くことになり、その間に公家にとって必要な教養を身につけたといわれる。
成人後は、小早川秀秋の家臣、稲葉正成の妻となった。稲葉正成は戦場ヶ原の戦いの際に主君・小早川秀秋と共に小早川軍を東軍に寝返らせている。しかし、その後に正成と小早川秀秋は不和となり、正成は浪人となった。父に続き、夫までもが主君を失うという人生になったのだ。
そこに転機が訪れたのは、正成と二人、京都にいたときのことであった。
将軍家の乳母へ
将軍家が乳母を募っていることを知ったのである。
このときにすでに2代将軍・徳川秀忠は4人の娘と、1人の息子をもうけていたが、嫡男であった長丸はわずか10ヶ月で夭逝していた。そのため、次男の竹千代が生まれると嫡子なる。つまり、生まれながらにして、次期将軍の座は竹千代のものであるように思われた。
しかし、乳母になるための条件は、家族と離れて単身、江戸城にあがらないといけない。さらに、希望者は福だけではない。どのようなやりとりがあったかは不明だが、福は夫の正成と正式に離縁、長男の稲葉正勝とともに江戸に向かうと、見事に採用された。採用の理由として、福の家柄や公家並の教養、元夫である稲葉正成の戦功が大きかったといわれる。
息子も家光の小姓となったが、これで母子は完全に別れ別れの人生を歩むことになった。
正室お江との確執
さて、乳母となってからの逸話は有名である。
2004年にフジテレビ系で放送されたドラマ「大奥〜第一章〜」では、徳川秀忠と正室であるお江(ごう)は、竹千代よりも弟の国松(後の徳川忠長)を溺愛しており、福は竹千代を守り、将軍の座に就けることを決心する。その過程において、竹千代と国松の扱いの差や、福とお江との確執などいかにもドラマらしいエピソードで盛り上げているが、実際にはかなりの部分が後世の創作だったようである。
何しろ、将軍家においてそのような記録が残るはずもなく、外部に事細かに情報が漏洩していたとは考えにくい。それよりも、竹千代が生来、虚弱体質で内向的な性格だったのに対し、国松は健康で明るい性格だったという。このことから、「竹千代が嫡男であるにもかかわらず、国松が跡取りの座を狙う」という構図を当てはめるのにピッタリだったはずだ。娯楽要素を盛り込むために話を大きくしたと考えたほうがいい。
竹千代、将軍へ
お江との「女の戦い」があったのかは別として、福が竹千代を溺愛していたのは間違いないようだ。幼い竹千代に、もう会えない自分の子たちの姿を重ねたからかもしれない。
竹千代の虚弱体質の原因のひとつが「食の好き嫌いが多かった」ことだといわれている。ただでさえ、江戸時代は肉を口にする習慣もなく、栄養的には偏りのある食文化。さらに好き嫌いがあるというなら、確かに力も出ないだろう。
そこで、福は白米に工夫をした。ただの白米だけではなく、赤飯、麦飯、栗飯などの数種を用意させ、そのなかから好きなものを竹千代に選ばせるという方法をとったのである。なんとも贅沢な話だが、これにより竹千代の偏食は治ったという。
もうひとつ有名なエピソードとして、秀忠とお江が年長者である竹千代よりも、国松を次期将軍にしようとしていることを憂慮した福が、当時駿府で隠居していた家康に直訴した話がある。長幼の序により、竹千代こそ次期将軍であると確定してもらうためだった。しかし、この話も近年では後世の創作であるというのが一般的となっている。
春日局
やがて竹千代が徳川家光と改名し、将軍職に就くと、福もその権力を増した。とはいえ、家光からの信頼は絶大であり、「将軍様御局」となってお江の下で大奥を取り仕切るようになった。お江の没後は、家光の側室を探しては大奥へ入れることに熱心だったが、一方で家光と正室・鷹司孝子が不仲になると、大奥の実権は完全に福に集中した。
さらに家光とともに御所へ訪れる際には、福が武家の娘という身分では御所へ入る資格を有していなかったために、公家と縁組まで行い「春日局」の称号を得ることとなった。
残る史料によれば、離縁した稲葉家を含めた近親者が出世していたりと、権力を使った点も見付かるが、乱用していたとまではいえない。また、大奥を取りまとめるために厳しい態度で公務に臨んでいたとされるが、一説では老中をも上回る権力者であったというから、これも仕方なかろう。
すべては家光への愛情の深さゆえに手に入れた権力であり、結果論である。彼女自身が策略家であったという肯定的証拠はない。
最後に
春日局がどこまでその権力を私的に利用したのかは推測しかできない。
しかし、辞世の句では「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」と詠んでおり、「仏の教えにより煩悩にまみれたこの俗世から、西に沈む月とともにやっと解放される」というような内容である。煩悩、つまり、権力や地位などのしがらみから解放される喜びを残したということは、彼女にとって権力よりも家光のことだけが生きる目的となっていたのだ。
●春日局 4
「春日局」謀反人の娘から将軍家の乳母へ。大奥を築いた女傑
戦国時代というと、戦働きをした男性の活躍がクローズアップされがちです。
しかしそれだけではありません。立身出世を遂げ、絶大な権勢を誇った女性たちも数多く存在していました。春日局こと斎藤福もその一人です。
彼女は明智光秀の重臣である斎藤利三を父に持ち、本能寺の変によって謀反人の一族となります。その後徳川家光の乳母となり、老中をも凌ぐ権力を手に入れました。
一体、彼女は何者だったのでしょうか。どのように身を起こし、将軍家の乳母にまでのぼりつめたのでしょう。春日局の生涯を見ていきましょう。
逆臣の娘としての前半生
   父は明智光秀の重臣
天正7(1579)年、春日局は丹波国下館で斎藤利三の娘として生まれました。母は稲葉一鉄の娘である安と伝わります。幼名は福といいました。
斎藤氏は美濃国の守護代を務めたほどの家柄で、父の利三の家もこの一門だったといいます。利三は当時、明智光秀の重臣として丹波国・黒井城の城主を務めています。
丹波国は光秀の所領であり、その中心である福知山城のそばに黒井城はありました。福が生まれた下館は、黒井城の平時の住居であったと考えられています。
   本能寺の変で謀反人の一族に
天正10(1582)年、幼い福の運命を一変させる大事件が起きます。明智光秀と父・利三らが、本能寺において主君である織田信長を討ったのです。
明智軍は一時京都の近隣を占領しますが、中国地方から戻った羽柴秀吉に山崎で敗れてしまいました。光秀は落武者狩りに遭って死亡。利三も近江国の堅田で捕らえられ処刑されてしまいました。福は一転して謀反人の娘となってしまったのです。
その後、彼女は母方の実家である美濃国の稲葉家に引き取られました。清水城において、母方の親戚・三条西公国に養育されたと考えられています。
公国は若くして内大臣にまで上り詰めた公卿です。三条西家は香道を家伝としており、古今伝授の継承者を輩出するなど歌道にも精通した家柄でした。
福はここで書や歌、香道といった教養を身につけました。立場上、大変肩身が狭い思いをしたことは予想されます。
徳川将軍家に出仕する
   関ヶ原で夫・正成が東軍の勝利に大きく貢献する
やがて福にも、運命を変える出来事が訪れました。親戚の稲葉重通の養女となり、稲葉氏の縁者である稲葉正成に嫁ぐことになったのです。
正成は当時、小早川秀秋の重臣で福の前にも婚姻歴がありました。つまり福は後妻という立場になります。福は正成との間に稲葉正勝をはじめ、三人の子供をもうけています。
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いが勃発。この時、夫の正成が小早川秀秋を説得して東軍に寝返らせ、徳川家康の勝利に貢献する活躍を見せています。
戦後、秀秋は備前国岡山に五十五万石を拝領して大大名となり、正成も引き続き、秀秋の家老として重要な位置を占めました。
しかし再び福たちの運命は暗転します。関ヶ原の翌年に正成が岡山を出奔。同7(1602)年には、秀秋も亡くなってしまうのです。
正成が浪人となったことで、福たちの暮らしも困窮したと予想されます。
   将軍家の乳母に任じられ、家光を養育する
慶長9(1604)年、京都所司代・板倉勝重が将軍家世継ぎである竹千代(のちの徳川家光)の乳母の一般公募を行いました。
福はこれに応募するため正成と離縁し、京に上ります。ここで福は、家康の側室であるお亀の方(相応院 義直生母)の推挙を得たと伝わります。
乳母の選考においては、福自身の教養は勿論ですが家柄も評価の対象となりました。実際に家康は斎藤利三の娘であることを誇りに思うように福を常々励ますなどしています。加えて福には、前夫・正成の関ヶ原での戦功も考慮されたようです。
同年、福は正式に竹千代の乳母に任命されました。
のちに息子・稲葉正勝も家光の小姓に取り立てられるなど、福の一族の前途は開き始めていました。しかし福も家光も、順風満帆な出だしではありませんでした。
『藩翰譜』によると、2代将軍徳川秀忠とお江夫妻は嫡男の竹千代ではなく、弟の国松(後の徳川忠長)を偏愛していたと伝わります。家光が廃嫡となる危険性も十分にあったわけです。
これに危機感を覚えた福は、竹千代が八歳となった慶長16(1611)年に行動を起こします。福は駿府にいた大御所である家康に直訴に及びました。家康はこの後に江戸城を訪れ、江の忠長溺愛ぶりを目にしたといいます。そして将軍家の正嫡は家光と、家康によって定められました。
   大奥を取り仕切り、絶大な権勢を誇る
元和4(1618)年には、江が中の丸に移動し、奥御殿(大奥)の制度改革が行われることとなりました。* 大奥とは江戸城に存在した将軍家の子女や正室、奥女中(御殿女中)たちの居所のこと。
ここで中心的役割を果たしたのは福でした。大奥出入りの規則が明確となり、これによって将軍家や大名家の世継システムが完成しています。
福は大奥における総指揮権を委任されました。大名家の婦女子たちは、福のもとに縁組や願い事の相談に訪れるなどしています。福は幕閣をも凌ぐほどの絶大な権勢を誇りました。
元和9(1623)年には、家光が将軍職に就任。乳母の福にとっても、念願が叶った瞬間でした。
福の権勢は、将軍となった家光も一目置くほどでした。例え幕閣の下知だとしても、不合理なものには是正を求めています。
ある時、将軍の献立が上意に適わず別の用意がなかったことがありました。福は老中である松平信綱を呼び出し、控え膳の必要性と合理性を説き、これを改めさせています。信綱は「知恵伊豆」と称されるほどの老中です。島原の乱の鎮圧にも関わるほどの人間でした。その信綱に指図をするほど、福の権勢は強かったということになります。
福は将軍権威を背景に老中をも上回る権力を手にしていました。
朝廷から「春日局」の称号を下賜される
   家光の名代として参内する
寛永3(1626)年、江が没します。この頃から福は家光の側室探しに尽力します。
伊勢慶光院の院主・永光院(お万の方)などの女性たちを次々と大奥入りさせました。このときに大奥の役職や法度などを整理し拡充しています。
しかし寛永6(1629)年、家光が疱瘡にかかり医師らの誤診で重態となります。福は日光東照宮の神前に自らの「薬断ち」を誓い、平癒を祈願。さらに伊勢神宮に参拝しています。
この時、福は家光の病態を心配すると同時に、政治面にも目を配っていました。福は次に京を目指します。上洛して朝廷の動向を捉えつつ、幕府の威厳を示す意図があったとされています。
しかし無官での参内は許されません。そこで福は血縁である三条西実条の猶妹となり、参内する資格を得ます。結果、後水尾天皇や中宮和子(家光の妹)に拝謁することが叶いました。ここで福は従三位の官位と「春日局」の名号を賜っています。
さらに福こと春日局は、内侍所で臨時の神楽の興業に漕ぎ着けます。これは朝廷による最大級の待遇でした。春日局は、将軍の名代として面目を施すことができました。
   二位局となり、老中の母となる
寛永9(1632)年の再上洛の際には、従二位に昇任し、二位局とも称されました。これは平時子(清盛の妻)や北条政子と並ぶほどの位置でした。同年には、長男である稲葉正勝が大名に任命されています。関東の要衝である相模国小田原城に八万五千石を賜るという大出世でした。
さらに同年には、正勝は加判(老中)に抜擢。春日局とその一族は特別待遇を受けています。しかし寛永11(1634)年、長男の正勝が春日局に先立って亡くなります。ここで春日局は幼少である孫・正則を養育することになりました。
翌12(1635)年には家光の上意によって、義理の曾孫・堀田正俊を養子に迎えています。寛永20(1643)年、福こと春日局は病で世を去りました。享年六十四。
辞世は「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」と伝わります。
おわりに
春日局は、実際にどのような人物だったのでしょうか。『徳川実紀』には、
「この局が忠節のことども 世に伝ふること多けれども まことらしからぬことのみ多く伝へて益なきに似たり」とあります。これは春日局が将軍家を凌駕する権勢を誇ったことに対する、やっかみも多分にあると想像できます。
しかし実際に、春日局の権勢が原因で江戸城で刃傷沙汰が起きたこともありました。時の老中・井上正就の嫡男・正利の縁談に春日局が介入し、これが破談となったことがあります。
結果、正就は恨みを持たれた仲人に江戸城内で殺害されています。これは江戸城内における初めての刃傷沙汰でした。ただし、他の戦国時代の人物とは異なり細やかな心配りも見せています。
春日局は、西本願寺の良如上人に手紙を書いています。自分の奉公人の母親が西本願寺にいると聞いたためです。奉公人を母親に会わせた上で奉公させてくれるよう頼んでいます。
春日局のような高位にある人間が、奉公人のために手紙を書くということは異例のことです。彼女の優しさや心配りが行き届いたがうかがえます。 
●春日局 5
徳川家光を3代将軍に導いた女性の波瀾万丈の人生と逸話
江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母となった春日局(かすがのつぼね)。彼女は夫の没落から一転、徳川将軍家に入り絶大な発言権を得るなど波瀾万丈な人生を歩みました。将軍継嗣問題に介入したことから、家光を将軍に導いた人物ともいえるでしょう。江戸時代初期に活躍した春日局はどのような女性だったのでしょうか?春日局が稲葉正成と結婚するまで、家光の乳母としての活躍、春日局の残した功績、家光との逸話などについてご紹介します。
稲葉正成と結婚するまで
もともとは武家の姫だった春日局。まずは、彼女のうまれから稲葉正成と結婚するまでについて振り返ります。
   出自は美濃国守護代の斎藤氏
「春日局」とは朝廷から賜った称号で、本名は斎藤福(さいとうふく)といいます。福は天正7年(1579)にうまれました。父は代々美濃国守護代を務める武家の名門の一族である斎藤利三、母は稲葉一鉄の娘・安です。守護代斎藤氏が滅びると、一門の斎藤家は縁戚関係にある明智氏に仕官。利三は明智光秀のもとで手腕を発揮し、福知山城近郊の要衝だった丹波・黒井城の城主に任命され、筆頭家老にも就任しました。福は黒井城の平常時の住居である下館(現在の興禅寺)でうまれたとされ、城主の姫として幼少期をすごしたようです。
   稲葉家に引き取られる
その後、主君・光秀により君主である織田信長が討たれるという本能寺の変が勃発します。利三は光秀への恩義もあり、首謀者の一人としてこのクーデターに加担しました。しかし、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、帰城後に坂本城下の近江国堅田で捕らわれ処刑。福の兄弟も落ち武者となって各地を流浪したと考えられています。
父を亡くした福は母方の実家・稲葉家に引き取られ、母方の親戚である三条西公国(さんじょうにしきんこく)の養育により書道・歌道・香道などの教養を身につけました。後に伯父・稲葉重通の養女になると、小早川秀秋の家臣・稲葉正成の後妻となります。夫の正成は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて、主君・秀秋に対し東軍に寝返るよう説得。これにより徳川家康率いる東軍に勝利をもたらした功労者となりました。
家光の乳母としての活躍
稲葉家の一員になった福ですが、その後、彼女の人生は激変します。福は徳川将軍家に入り、家光の乳母として活躍するのです。
   夫と離婚し、将軍家の乳母に
関ヶ原の戦いの2年後、主君・秀秋が早世し、世継ぎがいなかったことから小早川家は改易(任を解かれるなどの刑罰)となりました。これにより夫は浪人へと転落。福は夫とともに美濃で半農生活を送ることになります。そんな中、慶長8年(1603)に江戸幕府が開府し、家康の嫡孫・竹千代(のちの徳川家光)の乳母募集のお触れが出されました。福はこれに応募し、公家の文化や教養があったことから見事乳母に選ばれます。この選定には、夫・正成を通して福に面識があった家康が関与していたという説もあるようです。こうして徳川将軍家の一員になることが決まった福は、正成と離婚する形をとりました。
   徳川秀忠・江夫妻との主導権争い
家光は将来的に将軍になることを期待されていましたが、慶長11年(1606)に2代将軍・徳川秀忠と妻・お江のあいだに第2子の次男・国松(徳川忠長)が誕生すると、雲行きは怪しくなりました。というのも、秀忠夫婦は家光より国松を可愛がるようになったのです。理由は諸説あるものの、幼少期の家光が病弱だったため将軍にふさわしくないと考えたからだといわれています。この状況に絶望した家光は自殺未遂まで起こしており、事態を重く見た福は駿府城で隠居中だった家康を訪問して直訴。一説には、この働きかけにより家光が3代将軍に決まったとされ、福は乳母としての地位を固めました。
春日局の残した功績
その後、福は「春日局」を下賜され歴史に名を刻みます。彼女はさまざまな功績を残してこの世を去りました。
   将軍様御局として大奥を仕切る
元和9年(1623)に家光が将軍に就任すると、福は将軍様御局としてお江のもとで大奥の公務を取り仕切りました。お江の没後は家光の側室探しや大奥の整備に尽力し、老中を上回る実質的な権力を握ったといわれています。寛永6年(1629)には伊勢神宮に参拝して上洛し、公家・三条西家の力を借り「春日局」の号を賜りました。
なお、将軍になれなかった弟・忠長は、お江の没後に奇行をはたらくようになり、父・秀忠に領地を召し上げられ蟄居を命じられます。この頃から体調を崩した秀忠は寛永9年(1632)に死去。その後、忠長も家光の命により自害することとなりました。
   多くの人を出世に導く
春日局は縁故のある人々を出世させたことでも知られています。彼女が家光の乳母になってから、かつての夫は2万石の大名として復帰し、二人のあいだに生まれた稲葉正勝は相模小田原藩8万5000石の大名へと出世。また、兄の斎藤利宗は家光の旗本となり5000石を領有するなど、彼女が援助した者はほとんど出世しました。
   64歳でこの世を去る
家光の乳母として発言力を高め、大奥を取り仕切るなど活躍した春日局ですが、寛永20年(1643)に64歳でこの世を去りました。辞世の句「西に入る 月を誘い 法を得て 今日ぞ 火宅を のがれけるかな」(訳:西の方へ没していく美しい月を心にとどめ、仏の教えに従って、今日こそ煩悩の多いこの世から逃れることができます)からは、波瀾万丈な人生をおくった彼女の思いが伝わってきます。墓所は、東京都文京区の麟祥院、神奈川県小田原市の紹太寺、京都市の金戒光明寺にあります。
春日局と家光にまつわる逸話
家光のために奔走した春日局。ここでは、春日局と家光に関するエピソードをご紹介します。
   「七食飯」で食生活を改善!
幼いころの家光は虚弱体質で食も細かったため、春日局は「お命をつなぐものの第一は飯なり」として「七色飯」を考案しました。これは、7つの飯を用意し好きなものを選んでもらうというもので、「菜飯」「小豆飯」「麦飯」「粟飯」などが用意されました。これにより家光は食生活が改善され、健康を取り戻したといわれています。
   世継ぎのために「大奥」を作った
家光は男色家としても知られており、30歳を過ぎても世継ぎがうまれませんでした。危機感を抱いた春日局は家光の側室探しに奔走。彼女の努力の甲斐もあり、やっと成果が出て長男・家綱が誕生します。このとき春日局が家光好みの美女を集めたことが日本の「大奥」の始まりです。春日局は江戸城大奥の基礎を築いた人物でもありました。
   2人の絆を示す「稲葉天目」
寛永6年(1629)に家光が天然痘を患った際、春日局は「生涯薬を飲まない」という誓いを立て、伊勢神宮で家光の平癒を祈願しました。寛永20年(1643)、病に倒れた春日局はかつての誓いを守って薬を飲もうとしなかったため、家光は「稲葉天目(いなばてんもく)」という茶碗と薬を贈り、自ら飲ませたという逸話が残されています。
将軍の乳母として権勢をふるった
美濃国守護代の一族にうまれるも、一度は没落した春日局。しかし、彼女は家光の乳母として徳川将軍家の一員となり、その後も家光のために奔走しました。大奥を取り仕切った彼女は、老中にも劣らない権力を手にいれ、徳川幕府の基礎固めに寄与したため、政治家として評価されることもあるようです。3代将軍となった家光は、参勤交代など後世に続く仕組みを作ったことから、彼女の残した功績は大きいといえるでしょう。
●春日局 6
家光を育てた春日局は史実でも怖い女性だったのか?
春日局にどんなイメージをお持ちでしょう?
家光の乳母――というのは確かに第一に出てくる彼女の肩書ですが、同時に大半の方が感じるのが“畏怖”ではないでしょうか?
何と言っても怖い、だけど、信念があって少し尊敬もしてしまう。
それは徳川家光のため、あるいは将軍家のため、粉骨砕身働いたことが伝わってくるからで、彼女はもしかしたら日本史上最も有名な「乳母」でもあるかもしれません。
NHKドラマ『大奥』ではそんな春日局を斉藤由貴さんが演じ、あらためて強烈すぎるイメージを残してゆきましたが、こうなると史実の春日局がどんな女性だったか気になってはきませんか?
実は彼女自身の生まれからして劇的だった。
春日局の生涯を振り返ってみましょう。
父の斎藤家より母の稲葉家を重視
2020年大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公は明智光秀でした。
それと春日局の何がどう関係あるんだ?
と思われるかもしれませんが、しばしお付き合いください。
光秀のもとに斎藤利三という重臣がいました。
この利三、もともとは稲葉一鉄(稲葉良通)の家臣だったのですが、何かと折り合いが悪く、光秀のもとへ逐電。
不満を抱いた稲葉一鉄が、織田信長にそのことを訴えると、光秀は叱られ、両者の間に遺恨が生じた――なんてエピソードが有名です。
ただこれ、後に【本能寺の変】が起きたため、それにあわせて創作あるいは誇張された逸話と考えられます。
確かなことは、美濃時代から縁のある光秀に、斎藤利三が仕えていたということ。
そんな利三のもとに、天正7年(1579年)、娘の福が生まれました。
後の春日局です。
彼女の母親は、稲葉一鉄の娘でした。実際には諸説あるのですが、稲葉氏の出自であることは間違いないようで、ならば利三は岳父と揉めていた可能性があるってことですね。
しかし、仲違い程度のトラブルでしたら可愛いものでしょう。
利三と光秀はこの後、重大事件を起こします。
ご存知【本能寺の変】です。
本能寺から山崎へ
天正10年(1582年)6月2日、早朝――明智軍が本能寺に襲いかかり、実質天下人だった織田信長が討ち取られてしまいました。
正確に言えば、遺体は見つからず生死は不明でしたが、それが影響してか光秀のもとへは思ったように味方が集まらず、明智軍は【山崎の戦い】で豊臣秀吉に敗れてしまい、斎藤利三も処刑されてしまいます。
兄たちも命を落とし、福はじめ残された斎藤家の人々は、非常に苦しい日々を送る宿命を背負わされます。
そこへ救いの手が差し出されました。
他ならぬ稲葉一鉄です。
稲葉の血を引く子供を保護することにした一鉄は福も引き取り、そのまま長男・稲葉重通の養女として美濃清水城に預けました。
稲葉一鉄は織田家に従っていましたので、その庇護下なら「逆賊の娘」という汚名も薄れます。
だからでしょうか。福自身にとっては、幼くして亡くなった父の斎藤家よりも、母方・稲葉家のほうが重要でした。
家紋も稲葉家のものを使用。
そんな稲葉家でしっかりとした教育を与えられた福は、教養あふれる女性としてすくすくと育ってゆくのです。
夫の妾を殺して逃げ切り離婚の成立
文禄4年(1595年)頃、福は結婚しました。
相手は小早川秀秋の家臣・稲葉正成(まさなり)。
稲葉家の婿養子としてやってきた武将であり、この夫と福は“強烈な事件”を経て離縁しています。ざっと説明しますと……。
   
あるとき福は、夫の正成がこっそり妾を持ち、男児まで産ませていたことを知りました。
福はその妾を呼び寄せ、優しく声をかけます。
「お気になさらないでくださいね。なんでも男の子までいるんですって? ここで育てればよいのですよ」
その様子に夫も安心し、妾もホッとして同居するようになりました。
ところが夫の留守中、福はこっそり刀を隠し持って妾に近づき、一刀のもと斬り捨てたのです!
そして彼女は、用意してあった駕籠に乗ると、そのまま逐電してしまいました。
   
福は、正成の子・幼い正勝を抱いて逃げたともされます。
当時は、女性が逃走に成功し、そのまま城や屋敷に駆け込むと離婚が成立しました。
これを聡明と見るか、恐ろしいと戦慄するか。
いずれにせよ非常に手際がよく、彼女が只者でなかったことは確かでしょう。
竹千代(徳川家光)の乳母になる
慶長9年(1604年)7月17日――江戸城西の丸で、徳川秀忠の二男が産声を上げました。
秀忠には2年前にも長丸という男児が産まれていましたが、ほどなくして夭折。
そんな最中に生まれた男児は、やや早産ながら健康であり、伏見にいた家康も殊の外喜ぶと、自らの幼名から「竹千代」と名付けました。
後の徳川家光です。
待望の後継ぎ誕生に将軍家ではにぎにぎしく祝いが行われ、乳母につけられたのが稲葉福でした。
なんと彼女は、徳川宗家の後継者を任されたのです。
だからでしょうか。竹千代の出生には、ある疑惑が囁かれます。
福は、乳母でなはく、生母ではないか? というものです。
今後もその確証が得られることはおそらく無いでしょうが、いずれにせよ竹千代が彼女の胸に抱かれ、乳を飲んだことは確かです。
そして迎えた慶長10年(1605年)。
徳川秀忠が二代将軍になると、その翌慶長11年(1606年)、竹千代に弟が生まれ、国松と名付けられました。
後の徳川忠長です。
国松は、兄の竹千代とは違い病弱で、生まれてから便通がなく、生死を彷徨いました。
そんな我が子を見て胸を痛めたのか、それとも別に理由があったのか。
母であるお江(江与・小督とも/本稿はお江で統一)は、自らの乳で国松を育てることにしました。
当時の貴婦人としては異例のことであり、それだけに弟への愛情が増してしまったようで、母・お江は国松を溺愛し、父・秀忠もそれにならいました。
かくして竹千代と国松が対立する構図が出来上がってしまうのです。
日本史上最強の乳母
なんとしても竹千代様を後継ぎにせねばならない――。
福がどこまでそう決意していたか。
これも今となっては確認しようがありませんが、結果的に、竹千代が三代将軍・徳川家光となったため、その乳母である彼女にも様々な逸話が残されています。
ざっと見て参りましょう。
   抜け参り伝説
兄弟の寝室は並んでいましたが、徐々に格差が広がってゆきました。
国松の方が小姓が多く、母のお江は毎晩、豪華な夜食を用意。
賑やかな弟の部屋に対し、兄の部屋はひっそりと静まり返っている。
そんなあるとき、福の姿が数日間見えなくなりました。
福はなんと徳川家康に直訴していたのです。
家康は後に江戸まで来て、竹千代こそが後継ぎだと示しました。
山田風太郎『甲賀忍法帖』およびその漫画化『バジリスク』は、この逸話を元にして福を登場させています。
   主君の自殺を止める
家光が12歳のとき、絶望し、自殺しようとしました。
これを福が諌めて家康に報告したため、後継となることが決定的になったとされます。
家光の偏食を治すために作った「七色飯」など、優しい乳母としての逸話が広められてゆきますが、創作や誇張もあるとされます。
その最たる例が家光と忠長の争いでしょう。
様々なフィクションで取り上げられる、時代劇でもお約束・定番の作品であり、人気のある題材です。
これが福のイメージにも大きく影響。
やたらと陰謀渦巻くシチュエーションなため、福も、柳生宗矩や知恵伊豆こと松平信綱と並び、腹黒い陰謀家とされてしまうのです。
福自身は、あくまで母方であり、養女にもなった稲葉家の人間だという自意識がありました。
しかし、父が明智光秀の重臣であったことが盛り上がるポイントとされます。
対立するお江が織田信長の姪であるというのも、因縁を感じさせる。
大河ドラマの主人公まで務めながら、陰謀を企む姿が思い浮かぶ――そんな人物が柳生宗矩(1971年『春の坂道』)と春日局でした。
平時子や北条政子と並び頂点へ
三代将軍の後継争いに、首尾よく勝利した福と徳川家光。
元和9年(1623年)6月、家光は父・秀忠とともに上洛し、翌7月に伏見城で将軍宣下を受けました。
江戸城に戻ってからは秀忠が西の丸に移り、家光が本丸へ。
当初は大御所として秀忠の実権が保たれ、寛永31年(1632年)末、その死により、ついに家光単独での統治が始まります。
盤石となった徳川の世において、福は出世を遂げました。
寛永6年(1629年)に三位の位階と「春日局」の名号を賜ると、その3年後、寛永9年(1632年)には、平時子や北条政子と並ぶ従二位となり、緋袴着用の許しを得ました。
日本史には、存在感あふれる乳母が何人も登場します。
稲葉福はその中でも従二位となったことで、頂点に立ったといえます。
そして寛永20年(1643年)9月14日、享年64で没したのでした。
大奥の創始者として
以降は、春日局と記させていただきます。
フィクションで取り上げられることが多い彼女は、家光と忠長の後継者争いだけでなく、大奥作品でも最初の大物として登場します。
頭を悩ませたのは、家光に子ができぬこと。
男色を好み、女性に興味を示さなかったとか、お江とのことでトラウマがあったなど、家光には様々な説が囁かれます。
そんな家光の問題をあの春日局が放置するわけがない――そう見なされて様々な伝説が飛び交います。
フィクションならば、どうアレンジしてもある程度は自由ですので、どんどん膨らんでゆく。
大奥という名称は家光時代の後に生まれたとされますが、システムとしての大奥は春日局が生み出したとされます。
ゆえに男女逆転版漫画ドラマ『大奥』でも、家光の身代わりをつとめる千恵時代から始まります。
大胆なアレンジをしているとはいえ、実は史実を元にしています。
   公家出身の美僧・有功は春日局に脅迫され……
それ以前にも娘がいたとされる家光ですが、彼が本格的に女性に目覚めたのは尼僧から還俗させられた“お万の方”がきっかけとされています。
公家出身で血筋も確かな美人尼僧。
そもそも春日局が家光の好みを調べて選んだという伝説があります。
「脅迫した」と拡大解釈されることもあるほどです。
   大奥を作り上げる
将軍家存続のため、子孫繁栄目的の男性を閉じ込め、異世界を作り上げる――この時点であまりのことにハッとさせられる、それこそが男女逆転版の狙いでしょう。
実際に春日局はそんな特殊な世界を出現させたわけですが、女性を閉じ込める【大奥】には現代人の我々も慣れきってしまっていてショックを受けません。
他国にもハーレムや後宮はあるし、そういうものだと受け止めてしまいますよね。
そこに男女を逆転させる意義があると思えるのです。
誰かの人生を決定的に変える。
国の仕組みそのものも変更してしまう。
そしてそれは数百年間にわたって続く――劇的な出来事のはずが、いつしか当然のこととして私たちは受け止めてしまっていたのかもしれません。
しかし改めて考えてみると、それはとてつもないことだったのではないでしょうか。
大奥というシステムの構築を成し遂げた春日局は、偉大なれど冷酷と言えるのかもしれません。
注意しておきたいこともあります。
後世、徳川慶喜の妾となったお芳は、慶喜と同衾する際、御中臈と御坊主(剃髪した女中)が侍りました。
火消しの娘だったお芳は、これに激怒。
カンカンになって追い出しましたが、そもそもは寝物語で政治工作を封じ、暗殺を防ぐための工夫です。
春日局が考えたことではなく、綱吉時代におねだりする女性がいたための処置とされます。
時代がくだるごとに【大奥】は肥大化し、権力を持ち、将軍家を圧迫するほどになったと幕末には嘆かれるようになりました。
その種を蒔いた春日局を男女逆転版ドラマでは斉藤由貴さんが演じました。
実は彼女、NHK版『柳生一族の陰謀』では春日局の宿敵であるお江を演じています。
一人の女優がお江と春日局を演じるというのは興味深いこと。 
  
 

 

八百屋お七 1683
世の哀れ春吹く風に名を残し おくれ桜の今日散りし身は
●辞世の句 
   世のあは[わ]れ春吹く風に名を残し 遅れ桜の今日散りし身は
お七が火炙りの刑で処せられる前に、遅咲き桜を手渡されて詠んだとされる歌である。
「春に吹く風に、遅咲き桜の花が散るように、浮名・悪評を残して今日死んで行く身=私は哀れではかないことだ」といったほどの意か?
処刑されるまでのいきさつは・・・お七は、八百屋の娘(養女)。彼女は、大火に焼け出されての避難先の寺で、小姓の男と情を交わす仲になる。そして、男を恋慕するあまり、火事になれば会えると思って放火する。結果、放火の罪で捕らえられ、品川の鈴ヶ森で火刑に処せられる・・・その直前に詠んだのが上の歌である。
世間に悪評を残し、遅桜の散るのにたとえて死んでいく自分を「あは[わ]れ」と評価している点、目も認識も確かである・・・と評価できよう。歌自身、なかなかなものである。「恋は盲目」などというけれども、お七の好きな男を恋慕する心の強さ、純粋さには、ただただ脱帽するばかり。
八百屋お七(1668?〜1683?)は、江戸・本郷の八百屋の娘(養女)。下総(千葉県)の生まれ。  
●八百屋お七 1
八百屋お七(やおや-おしち)は江戸時代前期、江戸・本郷駒込に住んでいたとされる町娘である。
八百屋の娘で、八百屋お七と呼ばれる。
謎の多い人物で、生まれた年や亡くなった日は不明だが、一方で「駒込のお七が火を付けた」という記録と、品川・鈴ヶ森刑場で火炙り刑になったということがわかっているだけである。
お七事件は、江戸においての文学作品や芸能に影響を与えた。
天和の大火
天和2年(1682年)12月28日、駒込・大円寺から出火し3500人もの人が亡くなる火災が発生した。
天和の大火と呼ばれる。
この火事で、お七の家族が駒込・吉祥寺に逃げてきた。
家が建て直されるまでの避難である。
この時、お七は吉祥寺の寺小姓・吉三郎に出会い恋に落ちる。(寺名、少年の名前には諸説ある)
お七と吉三郎
前述のように、お七における歴史的な資料はほとんどなく、物語は井原西鶴の好色五人女が基本になっているといってよい。
なので、実のお七というものは知るよしもないのだが、好色五人女から見るお七は、主人公の輪郭をはっきりさせるため、よくいえば生き生き描かれている印象がある。
西鶴の描くお七は「世の人はなぜ雷を恐れるのか」というセリフがあり作者も、お七のキャラクターをはっきりしておいた方が物語を構成させやすかったのではないか、とも思う。
一方の吉三郎(吉三)は、お七の同い年の寺小姓。
寺小姓の説明は省かせていただくが、こちらも美少年とある。
寺小姓と美少年はセットのようなもので、物語はこれで流れていき、吉三の指に刺さったトゲをお七が抜いてあげるところで悲恋が始まった。
放火
お七と吉三は、その後手紙のやり取りなど繰り返したが、お七は家の再建に伴って寺を後にする。
戻ったお七は、しばらく情緒不安定だった。
吉三とやり取りした手紙だけが残っているだけである。
「吉三様に逢いたい・・・」こうなったら、吉三の事しか頭にない。
「そう、もう一度火事になれば」当時の放火は大罪であるので正気の沙汰ではないのだが、思い立ったら早かった。
お七は、立て直したばかりの自分の住んでいる家に火を付けた。
桜が散るように
火を付けたお七は、強風のなかで大きくなっていく火を見て正気に戻ったらしい。
みずから火見櫓に上り、半鐘を叩いたが何の意味もない。
火は消されたが、お七はすぐに南町奉行に連れていかれた。
取り調べで、お七は放火の事実を正直に認めている。
奉行の甲斐庄正親は、この少女を不憫に思い、命だけは助けてあげたいと「そなたはまだ十五であろう」(十五と十六は島流しか死罪の境らしい)と聞いたのに対し、自分はもう十六であると、かたくなに主張したという。
おそらく、後に付け加えた創作であろうが、お七の気丈な性格が出たエピソードだ。
甲斐庄は仕方なく、火付けの罪で火炙り刑を宣告した。
江戸市中引き廻され、鈴ヶ森刑場にて十六歳の若い命は散っていった。
   「世の哀れ 春吹く風に 名を残し 遅れ桜の 今日散りし身は」
遅咲きの桜を役人から手渡され、お七が最後に遺した言葉である。
その後の物語
その時の吉三はというと、体調を崩していたらしい。
周囲が心配し、事件のことを何も伝えていなかったのだが、寺がその事を告げたのは百ヶ日の朝だった。
吉三は後を追おうとするが、お七の遺言が「私を弔ってほしい」であったと聞き思いとどまる。
吉三は出家し、西運となり目黒・明王院に入る。
供養のため目黒不動と浅草観音を嵐の日も念仏を唱えて歩いたそうである。
有名な目黒雅叙園は、その明王院跡になるらしい。
目黒雅叙園内には、西運が使っていたと伝わる「お七の井戸」がある。
興味のある方は是非ご覧になっていただきたい。
ちなみに雅叙園から上っていく坂(行人坂)の途中に目黒・大円寺という寺がある。
明王院とは違う寺で、明王院が明治に廃寺になって西運ゆかりのものが大円寺に移された。
昭和になって日参りする西運の姿を刻んだ石碑が立てられた。
その横には、地蔵菩薩が立っているが、優しそうなお顔がお七のような気がして微笑ましい。
●八百屋お七 2
長妙寺 〜八百屋お七の墓〜
   世の哀れ 春吹く風に 名を残し 遅れ桜の 今日散りし身は
今日は何の日か皆さんご存知ですか?三月二十九日は八百屋お七さんの命日なのです!
「天和二年(1682)十二月、江戸の大火で家族と共に寺に避難した際に、寺小姓と恋に落ちたお七。家が再建され二人は引き離されてしまうが、また火事が起きれば再会できるかも…と思いお七は自分の家に放火をしてしまう。火事は小火で済んだが当時付け火は大罪であった。天和三年三月十八日から二十八日の間、お七は江戸中を引き回され、神田・芝・四谷・浅草・日本橋の晒し場五ヶ所で十日間晒された後、鈴ヶ森刑場にて火炙りの刑に処せられたのであった。数えで十六歳であった。」
冒頭の一首はお七さんの辞世の句とされています。
お七さんのお墓は何箇所かあるのですが、今回は千葉県八千代市にある「長妙寺」へ御墓参りに行ってまいりました。こちらはお七さんの遺髪が実母により埋葬されたと伝えられています。
「天受山 長妙寺」 千葉県八千代市 寛永三年(1626)一月十八日に創建された日蓮宗の寺院です。本堂の左側にお七さんのお墓があります。
八百屋お七の墓 / 「八百屋お七」の話は、江戸時代の昔から火つけの犯人として、鈴ヶ森の刑場で処刑され今なお一抹の憐れみを誘うものがあります。お七は現在の八千代市に生まれ、江戸の本郷に店を開いた八百屋徳兵エに養子として迎えられました。器量のよい娘で、その名は日頃願をかけていた当山の七面様から一字をいただきました。あるときその八百屋が火災に遭い、やむなく本郷の近くの寺、吉祥院に避難して家の再建を待ちました。そのとき、お七は寺小姓の吉三郎という好青年に恋心をいだき、八百屋が再建され店に戻ってもその恋心は募るばかりでした。そして家が焼ければ再び寺に移れると思いこんだお七は、ついにわが家に火をつけ、それが大火となり江戸八百八町を焼失したともいわれています。お七は天和三年(1683)、火つけの罪で火あぶりの極刑に処されました。実母はこれを悲しみ密かにお七の遺髪を受け取り、当山に運び、戒名を妙栄信女と授与され、墓も世を忍び小さな墓石を建て密かに埋葬されました。
いたいけな少女が、恋ゆえ大罪の放火を犯し、極刑に処されたという事件は、当時の人々に衝撃を与え、皆がお七さんに同情と哀憐の思いを寄せました。事件から三年後に発表された井原西鶴の「 好色五人女」 をはじめ、文学や歌舞伎、文楽など多くの作品に取り上げられました。お七の実話を著したものとして「天和笑委集」や、馬場文耕の「近世江戸著聞集」などが知られています。
八百屋お七さんの事件に関して諸説ありますが、実は正確な史実はほとんど分かっていません。お七さんの生年や命日、出身地、避難先の寺の名前、恋人の名前すらはっきりしていません。お七さんの家が八百屋だったのかすら、それを裏付ける確実な史料は存在しないのです。
とりあえず確実なのは「お七という娘が放火をし、火炙りの刑に処された」ということだけなのです。
長妙寺に伝わるお墓にはお七さんの遺髪が埋葬されたという点で非常に貴重です。ご本人の身体の一部が埋葬されている訳ですから…。
鈴ヶ森刑場で火炙りにされた後、お七さんの遺体がどこに埋葬されたのかも、実はよく分からないからです。黒焦げになったお七さんの遺体は見せしめのためしばらく放置されたそうです。重罪である火刑者が、墓に葬られることは許されなかったのです。
またお七さんが八千代市で生まれ、養子に出されたという話が伝わっている点も大変興味深いと思います。
●八百屋お七 3
   世の哀れ 春吹く風に 名を残し 遅れ桜の 今日散りし身は
本日三月二十九日は、皆さん何の日かご存知ですか? 本日は八百屋お七さんの命日であります。
天和二年(1682)十二月、江戸の大火で家族と共に近くの寺へ避難したお七は、寺小姓と恋に落ちました。家は再建され、二人は引き離されてしまいますが、また火事が起きれば再会できるかも…と思い、お七は自分の家に火を付けてしまいます。幸いにも火事は小火で済みましたが、当時、付け火は大罪でした。天和三年(1683)三年十八日から二十八日の間、お七は江戸市中を引き回され、神田・芝・四谷・浅草・日本橋の晒し場五ヶ所で十日間晒された後、鈴ヶ森刑場にて火炙りの刑に処せられました。数えで十六歳でありました。
冒頭の一首は、お七さんの辞世の句とされております。
「お七地蔵」がある「密厳院」から、次に八百屋お七さんが処刑された「鈴ヶ森刑場」にやって来ました。
慶安四年(1651)に設けられ、明治四年(1871)に廃止されるまで、数多くの罪人が処刑されてきました。お七さんを始め、白井権八、天一坊、白木屋お駒といった、後世、歌舞伎や講談で人々に広く愛された面々がここで殺されていったのです。
処刑に使われた台石や、多くの供養塔が日蓮宗大経寺の境内に集められ、昭和二十九年に「鈴ヶ森刑場跡」として東京都史蹟の指定を受け、品川百景のひとつにも選ばれる貴重な文化遺跡となっております。
鈴ヶ森遺跡 / 鈴ヶ森遺跡は品川宿の南、東海道沿いに慶安四年(一六五一)に開設された御仕置場の跡です。大井村鈴ヶ森の刑場は、東海道に面し、規模は元禄八年(一六九五)実施の検地では間口四〇間、奥行き九間であったとされます。東海道(現在は第一京浜)の拡幅等により旧態を留めていません。大経寺は御仕置場に隣接し処刑者の供養のために建てられた寺で、髭題目を刻んだ石碑は池上本門寺二五世貫首日(にちぎ)の筆によると伝えられるもので、元禄十一年(一六九八)若しくは元文六年(一七四一)の建立とされます。
この鈴ヶ森刑場では、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒など、演劇などで知られた者が処刑されたとされます。江戸の刑制史上重要な遺跡です。
「火炙台」が保存されています。お七さんをはじめ、火炙りの処刑者たちは、この石台の上で生きたまま焼き殺されたのです。黒焦げになったお七さんの遺体は、見せしめのため三日間晒されたそうです。
隣にあるのが「磔台」。中央に開いた四角い穴に角柱が立てられ、罪人たちはその柱の上部に縛り付けられ、四方から槍で刺殺されたのです。
「鈴ヶ森刑場」では磔刑と火刑が中心だったそうです。鈴ヶ森でなぜ多く火刑が行われたのでしょうか?
その理由は海辺だったからだそうです。海辺は強い風が吹いているので、火刑の煙が吹き散らされて、罪人は煙で窒息死出来ないからなんだとか。窒息しないので、炎で焼かれ、あまりの熱さに気を失います。気を失っても、火はますます強くなり、熱さで我に帰る。また気を失う。熱さで起きる…。これを繰り返すと、人間は発狂して死ぬそうです。
無実の罪で殺されていった人も多かったそうです。当時の拷問は凄まじく、無罪を主張し続けることは不可能に近いことだったのです。
こちらは「首洗いの井」。処刑者たちの首は、ここで血しぶきを洗い落とした後、晒し首にされました。「井戸から生首が飛び出してくる」といった、霊の目撃談も多いようです。
「鈴ヶ森刑場跡」に隣接している「大経寺」。慶安四年(1651)の鈴ヶ森刑場の開設と同時に創建されたと推測されています。昭和十七年(1942)に、日蓮宗の寺院「鈴森山大経寺」として正式に発足しました。
ご住職に頼めば、本堂の中も見せて頂くことができますよ。外国人が撮影したという晒し首の写真や、出土した髑髏の写真などが展示されており、鈴ヶ森刑場についていろいろ説明して下さいました。
この付近には今でも何百体もの遺体が埋まっているのだとか。もしかしたら、八百屋お七さんの遺体も埋まっているかもしれません。
●八百屋お七 4
井原西鶴 好色五人女 八百屋お七
油断も隙もない世の中である。
その中でも特に人目にさらしてならぬものは道中の所持金、酔っ払いに脇差し、それに娘のそばに生臭坊主だろう。
お七の親達はその寺を引き上げてから後は、厳重に娘を監視して、二人の恋を裂いてしまった。だが、二人は下女のお梅の情けで数々の文をやりとりして、互いのおもゐの程を知らせ合っていた。
ある夕暮れの事であった。板橋近在の村の者らしい子が、それが商売の松露(しょうろ)土筆(つくし)を手籠に入れて、売りに来た。お七の親もそれを買い取った。その夕暮れは、春とはいいながら大変な雪降りで、その子は村まで帰るのは難儀だとひどくこぼすのであった。
八百屋の亭主がそれを可哀想だと思い、何気なく、
「ちょっとそこら、土間の片隅にでも休んでいて、夜が明けたら帰るがよい」
と、言ってくれたので、有り難く思い、その子はごぼう大根が積んであるのを片付けて、竹皮の小笠で顔を隠し、腰蓑を身にまとって一夜の凌ぎとするのであった。
だが、夜が更けるにつれて、風は枕に吹き通し、土間はすっかり冷え込んで来て、あわや凍え死にそうであった。次第次第に吐く息も細くなり、目がくらんできた時、お七の声がして、
「さっきの子供が可哀想だよ。せめて白湯でも飲ませてあげなさい」
お梅が、茶碗に白湯を汲み、下男久七に手渡した。久七がそれを受け取り、子供に与えた。
「かたじけない御親切」
と礼を述べると、薄暗闇をいいことにして、久七が彼の前髪をいじりあそび弄(もてあそ)びながら(*1)、
「お前もこの江戸に住まわせたら、もう念友のある年頃だに、可哀想に」
と、言うのであった。
「いいえ、何とも賤しく育ちまして、田を鋤(す)く馬の口を取ったり、柴を切ったりすることしか、何も存じません」
と答えると、久七は子の足を弄(いじ)りながら、
「これは珍しい、皸(あかぎれ)もない綺麗な顔じゃ。ちょっとこっちに顔を向けぇい」
と、口を近づけて来るに、何か恐ろしく、切なくて、歯を食いしばって目を潤ませていた。すると、久七は思いついたように、
「いやいや、よそうよそう。ネギやニンニクを食った口かも知れん」
と、やめてくれたので、ほっとした。
その後、寝につく時刻となって、召使いの者達は、梯子を登って二階に上がり、燈火の影も薄れた。亭主が戸棚の錠前に注意すれば、内儀は火の用心のことをよく言い付けた上に、娘のことを警戒して、中戸をしっかり締めて行った。
夜中の二時の鐘が鳴っている時であった。家の表戸をどんどん叩いて、女と男の声がし、
「もしもし、婆さん。ただいま、おめでたがありましたよ。男のお子さんで、旦那さんが大変お喜びですよ」
と、しきりに呼び立てるのであった。家中の者が皆起きてきた。それは何よりの事だと、亭主夫婦もすぐ寝床から起き抜けて来、出しなに海人(まくり)甘草(かんぞう)(*2)を引っつかみ、かたかたの草履を履いたまま、お七に戸締りを言い付けて、大慌てで連れだって行った。
お七は戸締りをして戻る時、夕方のあの子のことが気に掛かるので、お梅に、
「その手燭を照らして」
と、子の様子を見ると、すっかり寝てしまっているのが、却って可哀想に思われた。
「よく寝ていますから、そのままにしておやりなさいませ」
と、お梅が言うのも聞こえぬ風をして、お七が近寄って見ると、肌に付けた兵部卿(*3)の匂い袋の薫りが鼻に来た。おやっと、笠をとりのけて見れば、貴族的な横顔に何か沈んだ陰が宿り、それでも鬢はほつれも見せていなかった。しばらくその姿に見とれていたが、吉三郎と同じ年頃の人と思い合わせて、もしやと袖に手を入れてみると、この姿に似合わぬ浅黄羽二重(はぶたえ)の下着をしていた。はっと驚き、よく見れば吉三郎であった。
「これまた、どうして、こんなお姿に」
と、お七は人に聞こえるのもかまわず、彼にしがみついて泣き出した。
吉三郎は顔を見合わせ、しばらく物も言えなかったが、ややあって、
「私がこういう姿に身を変えて来たのも、せめて一日なりと、そなたの顔を見たかったばかりになのだ。宵からの私の辛い思いを察しておくれ」
と、一部始終のことを一つ一つ語るのであった。
「とにかく、奥へお入り下さいまして、そのお恨みもお伺いいたしましょう」
と、手を引いてやったが、宵からの無理に身体が痛み、何とも出来ぬのは痛ましかった。下女と二人してようやくの思いで、手車にかき乗せ、お七の寝間に連れて行った。手の届く限り身体をさすり、色々と薬を与えた。
吉三郎もやった笑い顔が出来るようになったので、お七は喜び、歓んで、
「酒を酌(く)み交して、今夜の思いのたけを語り明かしましょう」
と、言っているところへ、生憎にも、親父が帰宅してきた。
吉三郎を衣桁(いこう)の陰に隠して、お七は白ばくれて、
「ほんとうにおはつ様は、母子ともにお丈夫ですか」
と言うと、親父は、
「たった一人の姪のことだから、とにかく心配したが、これでようよう重荷をおろした」
と、大変な機嫌で、もう初着の模様のことまで詮議し、
「万事めでたいづくめで、鶴亀松竹の模様を摺箔(すりはく)(*4)にした初着はどうだろうな」
と、言うのであった。
「そんなにお急ぎになられなくとも、明日ゆっくりお考えに」
と、お梅も力添えして、口々に言ったけれども、親父は、いやいや、こういう事は早いが良いのだと、木枕の上で鼻紙を折りたたみかけ、雛型を切り出したのは、情けなかった。
ようようそれも終わったので、色々だましすかして、親父を寝かせつけた。
積る思いは山々あったが、親父の寝床とは襖一重の間であったので、話し声の漏れるのが怖かった。行燈のもとに、硯と紙を揃えて、心の内を互いに書いて見せたり、見たりするのであった。
夜通し、書き口説いて、明け方は別れねばならなかったが、燃え募る恋のおもゐをそんなことでは尽くし得なかった。
吉三郎に対する恋をそれと人にも語らず、明けくれに悩む女心のはかなさ。また逢える方法とても考え付かなかったが、ある日、風の激しく吹いた夕方、ふと、いつぞやの火災に寺へ避難して行った時の騒ぎを思い出し、
(またああいう事があったら、吉三郎様に逢えるかも知れない)と、途方もない出来心を起こして、危険な事を決心したのは、誠に因果なことであった。
だが、わずかな煙が立ったばかりの内に、人々が見つけて騒いで、おかしいと調べたところ、煙の中にお七を発見した。尋問されて、お七は包み隠さず白状したので、世の哀れをそそった痛ましい処刑が行われた。
今日は神田のくづれ橋に身をさらせば、次は四ツ谷、芝口、浅草、日本橋にとさらし者にされた。集まり眺めた人達は皆、お七の姿を見て、哀れに思わぬ者は無かった。
しかし、お七は既に覚悟を決めたことであったので、身のやつれることもなく、毎日もとのままの美しい姿であった。きちんと黒髪を結った麗しい風情には、ほととぎすまでも十七の春を一期に散るお七を惜しみ鳴くかと思われるばかりであった。
その四月の初め頃、これが最後だと宣告され、覚悟を促されたが、少しもお七は取り乱したところもなかった。人の世は夢幻のようなものだと、唯ひたすら、極楽浄土を願っているお七の心根を、ひどく哀れに思って、手向花にといって咲き遅れの桜の一枝をくれた人があった。
それを手に眺めたお七は、
「世の哀れ春吹く風に名を残し おくれ桜の今日散りし身は」
と、歌を詠んだ。
それを聞いた人達は、一層その痛々しさに同情して、引かれ行く女の姿を見送ったものであった。
それから、夕暮れの鐘の撞き出される頃、品川の向こう鈴ヶ森(*5)の仕置き場で、滅多の事では行われない、火焙(あぶ)りの刑(*6)に処せられた。
人はどの道煙となって果てる身の上、それを思えば、殊更お七を不憫に思わぬ者はなかった。それもすでに昨日のこと、今朝になって見れば、塵も灰も残らず、聞くものは鈴ヶ森の松風の音ばかりであった。旅人もその噂を聞き伝えて、素通りすることなく、必ず回向(*7)してその跡を弔って行った。その当日のお七の着ていた小袖、郡内縞のことまで色々詮索(せんさく)して、後の世の物語の種としたものであった。
こうして、何も縁(ゆかり)の無い人達さえ、お七の忌日命日には、梻(しきみ)を折り立てて回向してくれるのであったが、その契りを交した若衆だけがどうしてお七の最後にも現れなかったのか不思議だと、皆の者が噂していた。
ちょうど、その頃、吉三郎は、お七のことを苦慮する余り、病に伏し、意識も怪しくなり、もう助からぬらしく、余命いくばくも無いという容態であった。
傍の人々の心遣いで、お七の処刑を知らせては、もう殺すようなものだと、
「お七殿が平生言っておられた言葉の端にも、覚悟の程が見えて、身の始末までなされて最期を待っていられたのだが、人の命は分からぬもの、ふとしたことで助命になりました」
と、うまく取りつくろって言い聞かせ、
「今日昨日の内には、その方がここにお出でなさいましょうから、思うままお逢いすることも出来ましょう」
などとまで言うのに、一層吉三郎は自分の心を取り乱し、与える薬も飲まず、
「君よ恋し。お七はまだ来ないのか」
と、そのことばかり、うわ言のように言うのであった。
そのうちに、早や、お七の三十五日も来た。
「知らぬのも可哀想だが、今日はもう三十五日だ」
と、吉三郎には押し隠して、お七の回向をするのであった。それより四十九日となり、親類の者が仏前に小餅を供えに、寺を訪れて来て、せめてお七の恋人に逢わせて下さいと、悲しいことを言うのであった。
寺では、吉三郎の様子を言い聞かせ、
「また哀れな思いをするだけだから、まぁまぁ、そのままに逢わずに願いましょう」
と、道理を尽くして制止するのであった。
お七の親も、
「元々立派なお育ちのお方なそうだから、このことを聞きなされたら、きっとお生き長らえあそばされることもないだろう。それよりは、ずっと押し隠して、御病気も御本服されたその時、お七が言い残した事などもお聞かせ申し、語り慰め申して、せめて我が見の形見とでも思い、気晴らしにもいたしましょう」
と、卒塔婆を書き、墓地に立てて手向けの水に涙にくれながら供えて行った。
無常の習いといいながら、後に残された親の身となっては、何とも言えぬことであったであろう。
人間の命ほど、どうなるとも分からぬものはない。いっそのこと、死んでしまえば、怨みも恋もありはいないのに、吉三郎は、お七の百ヶ日に当たる日、初めて病床を離れることが出来た。
竹の杖にすがって、寺の中を静かに歩いている時、吉三郎に新しい卒塔婆が目に止まった。
その亡き人の名を読みとって、はっと驚き、
「自分は全く知らなかったのだが、人はそうは思うまい。気後れして生き長らえていると取り沙汰されるのも残念だ」
と、脇差しに手をかけたところ、法師がその手を抑え、懸命に留めて、
「どうしても死なれる御覚悟ならば、これまで親しかった人に暇乞いなされ、長老様にもその訳をよく話した上で、御最後なされるが良い。と言うのは、そなた様と兄弟の契りをなされたお方の頼みで、そなたをこの寺に預け置いたものだ。その責任上からも寺は迷惑することだし、その辺も篤とお考えなされて、この上余計な悪い評判の立たぬよう御勘考下さい」
と、諌めるのであった。
吉三郎もなるほど至極のことと納得して、その場の自害は思い留まったが、と言って、娑婆に未練を残しているのではなかった。
それから、長老様にこのことを申し上げると、彼も驚かれて、
「そなたのことを懇(ねんご)ろにと、兄分の人から切に愚僧が頼まれ預かったものだ。その人は今松前に参られ、この秋は江戸に帰られ、必ずここに罷り越されるからと、この間もくれぐれも言ってよこした程である。その間にこちらに何か間違いでも起ったりしては、まず愚僧は何よりの迷惑だ。兄分の人がお帰りになられた上で、そなたはどのようなことでも勝手になさるがよろしい」
と、色々意見なされたので、吉三郎は日頃の恩義のことも考え、
「仰せには決して背きません」
と、承服したが、まだ不用心と思われたか、刃物を取り上げ、多勢の番僧を監視役に付けさせたので、詮方なく、吉三郎は自分の部屋に帰った。その人達に向かって、
「ああ、世間の非難を考えると、残念。まだ若衆を立てている身でありながら、よしなき女の情にほだされてと言われるばかりでなく、その上その人はあの不幸、自分はこの悲しみ。衆道の神も仏も、私も見捨てなさったのだろう」
と、感極まって涙にくれながら、
「この上、兄分の人がお帰りになられるようなことになれば、全く面目無くて立つ瀬も無い。それよりは今のうちに早く死んでしまいたい。しかし、舌をかんだり、首をつったりしては、世間の噂も生温い死に方と言うだろう。不惑とおぼしめさるなら、どうぞそなたの腰のものをお貸し下さい。どうせ生きていて何の甲斐も無い命です」
と、涙ながらに語るのには、そこに居合わせた人は皆もらい泣きし、沁々(しんしん)と同情を寄せるのであった。 このことを、お七の親達が聞いて、寺へ訪ねて来た。
「御嘆きはもっともでございますが、お七の最後の時に、くれぐれも申し残しましたには、吉三郎様に誠の情があるならば、浮世をお捨てなされて、いかような御出家になりとお成り下さい。そして、このように刑場の露と消えゆく私のあとを弔い下さるならば、そのお情けはどうして忘れられましょう。夫婦は二世の契り、その縁(えにし)は死んでも朽ちますまい。と、言い残して行きました」
と、さめざめ言うのであったが、なかなか吉三郎は聞き分けがなく、いよいよ何もかも諦めて、舌を食い切る気色がうかがわれた。
その時、お七の母親は、彼の耳近くに口を寄せて、しばらく何か囁いていた。何を言ったのか分からなかったが、吉三郎も頷いて、
「それじゃあ、とにかく」
と、納得した。
その後、吉三郎の兄分の人も江戸に立ち帰って来て、条理を尽くした意見を言い聞かせたので、彼はようやく出家することになった。
その前髪を剃り落とす時の哀れさに、坊主も剃刀を思わず落としたほどであった。咲き誇る花に襲う一陣の嵐のような無残な姿、それを思い比べれば、命があるだけ吉三郎はお七の最後よりも猶もの哀れであった。
剃髪して見れば、しかし、古今まれな美僧であった。恋が動機で出家なった者は、一身に誠があるもの。
吉三郎の兄分の人も、郷里の松前に帰ってから、墨染の衣を着る身となったとかいう噂であった。
男色女色と交錯したこの恋物語はまことに哀れなもののと語り継がれた。
●八百屋お七 5
八百屋お七 辞世の句
   世の哀れ春ふく風に名を残しおくれ桜の今日散し身は (井原西鶴「好色五人女」)
八百屋お七 / 寛文8年〈1668年〉 - 旧暦 天和3年3月28日〈1683年4月24日〉。江戸時代前期、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女である。井原西鶴の「好色五人女」に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など様々な文芸・演芸において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公になっている。
お七の生涯については伝記・作品によって諸説あるが、比較的信憑性が高いとされる「天和笑委集」によるとお七の家は天和2年12月28日(1683年1月25日)の大火(天和の大火)で焼け出され、お七は親とともに正仙院に避難した。寺での避難生活のなかでお七は、寺の小姓生田庄之介と恋仲になる。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火した。火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったが、お七は放火の罪で捕縛されて、鈴ヶ森刑場で火あぶりに処された。お七の恋人の名は、井原西鶴の「好色五人女」や西鶴を参考にした作品では吉三郎とするものが多く、そのほかには山田左兵衛、落語などでは吉三(きっさ、きちざ)などさまざまである。
「天和笑委集」は、お七の処刑(天和3年〈1683年〉)のわずか数年後に出された実録体小説である。
相前後してお七処刑の3年後の貞享3年(1686年)には大坂で活動していた井原西鶴が「好色五人女」で八百屋お七の物語を取り上げている。
西鶴によって広く知られることになったお七の物語はその後、浄瑠璃や歌舞伎などの芝居の題材となり、さらに後年、浮世絵、文楽(人形浄瑠璃)、小説、落語や映画、演劇、人形劇、漫画、歌謡曲等さまざまな形で取り上げられている。
よく知られているにもかかわらず、お七に関する史実の詳細は不明であり、ほぼ唯一の歴史史料である戸田茂睡の「御当代記」で語られているのは「お七という名前の娘が放火し処刑されたこと」だけである。
それだけに後年の作家はさまざまな想像を働かせている。
遺言
創作として何人かの作家達はお七に遺言をさせている。
紀海音は「八百屋お七恋緋桜」のなかでお七の遺言として「ゆしまにかけししやうちくばい 本こうお七としるしをく。十一才の筆のあと見し人あらばわたくしの。かたみと思ひ一へんの御ゑかうたのみ奉ると。」としている。
(意訳 (私が11歳のときに)湯島(の寺)にかけた松竹梅の額に本郷お七と書きました。私の十一才の筆跡を見た人がいらっしゃいましたら私の形見と思って一片の供養をしてやってください。)
墓所
円乗寺のお七の墓は、元々は天和3年3月29日に亡くなった法名妙栄禅尼の墓である。
これがお七の墓とされて、後年に歌舞伎役者の五代目岩井半四郎がお七の墓として墓石を追加している。
円乗寺の他にも千葉八千代の長妙寺にもお七のゆかりの話しと墓があり、鈴ヶ森刑場に程近い真言宗寺院・密厳院には、刑死したお七が埋葬されたとの伝承や、お七が住んでいた小石川村の百万遍念仏講が造立(貞享2年〈1685年〉)したと伝わるお七地藏があるほか、岡山県御津町にもお七の物とされる墓がある。
岡山のお七の墓ではお七の両親が美作国誕生寺の第十五代通誉上人に位牌と振袖を託し供養を頼んだのだと言う。さらに吉三郎の物とされる墓は、目黒大円寺や東海道島田宿、そのほかにも北は岩手から西は島根まで全国各地にある。
また、お七と吉三郎を共に祭る比翼塚も目黒大円寺や駒込吉祥寺などにある。  
  
  

 

大石内藏助 1703
あらたのし思いは晴るる身は捨つる 浮世の月にかかる雲なし
極楽の道はひとすぢ君ともに 阿弥陀をそへて四十八人
覚悟した ほどにはぬれぬ 時雨かな
●辞世の句 1
   あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし
(あらたのし おもいははるる みはすつる うきよのつきに かかるくもなし)
「あら楽し」は、「あら楽や」とも。
大石内蔵助の辞世とされている歌。ただし、辞世ではないという意見もある。また、そもそもこの歌が大石のものではないとの意見もある。
何と楽しいことか。思いをを晴らして死んでゆくというのは。月に雲がかかっていないように晴れ晴れとした心地である。
   覚悟した ほどにはぬれぬ 時雨かな
こちらが辞世とも言われている。
●辞世の句 2
この大石内蔵助の辞世の句は、泉岳寺で主君の墓前で討ち入りの報告をしたあとに詠まれた、泉岳寺の客殿にて休養していた時、負傷した近松勘六の治療をしている間、泉岳寺の寺僧の懇請によって書かれたといいます。
いずれにしても大石内蔵助の「あら楽し」の句は、泉岳寺で詠まれたことになっています。
ただ、「古文書で読み解く忠臣蔵」(吉田豊氏著)では、大石の「あら楽し」の辞世の句は、自作であるか疑わしい。大石ははっきりとした自作の辞世の句は残していないが、切腹を二日後に控えた2月2日付の細井広沢宛書状に、「覚悟したほどにぬれぬ時雨かな」(討ち入りの後が大変かと備えていたが、何事もなかった)という一句を詠んでいるとあります。
大石内蔵助の実際の辞世の句は、「極楽の道はひとすぢ君ともに 阿弥陀をそへて四十八人」といわれます。
●辞世の句 3
「あら楽や 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」
これが辞世の句とされているが上記は主君長矩の墓に対してのもので、実際には次が辞世の句と言われる。
「極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人」
死に至った経緯
物静かで飾り気のない性格で、内面は厚く人望があった。 身長は157cm程度で小柄。
浅野家家臣は、お家再興優先派と仇討ち優先派(江戸急進派)の2つに分裂しそうになるのを頑張って回避。
内蔵助本人はお家再興に力を入れていたが、お家再興は絶望的になり討ち入りを決意。その間、まわりの目を欺く為に遊びほうけていたのは有名な話。
でも、もともと自由気ままな性格の遊び人だったので、本当に楽しんでいた時もあるようです。そして、吉良邸に討ち入り、見事仇討ち完遂。
その後、吉良の首級(しゅきゅう)を亡き主君の墓前に供え仇討ちを報告。
翌年切腹 享年45 法名・忠誠院刃空浄剣居士
「あら楽や 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」 の方は、言葉は適切ではないかもしれませんが、いわば目標を達成し晴れ晴れとした心情がよく分かります。
そしてもう一つの、 「極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人」 は、いざ死を前にして、討ち入りをした四十七人に主君長矩を足した四十八人で天へと向かう落ち着いた雰囲気を感じます。
●辞世の句 4
   「あら楽し 思いは晴るる 身は捨つる 浮き世の月に かかる雲なし」
これは、あの赤穂浪士の大石内蔵助が 詠んだ辞世の句なのだが・・・・
この誰もが知っている 歴史上有名な事件のはじまりは、
元禄14年3月14日(1702年)。
江戸城、松の廊下で赤穂藩主、浅野内匠頭が刃傷に及び、大名としては、異例の即日切腹となった。
その時、浅野内匠頭の辞世(切腹前に詠んだ句)は、
   「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」
風に香りを乗せて、自然に散りゆく花に対して、この思いを伝えることすら出来ず、自分は無理に散っていかなければならない、悔しい思いがこめられているようなのだが、少し調べてみると、大石内蔵助は、この主君の辞世に込められた悔しさに、あだ討ちを決意したというのが 大方の見かただが。
武家諸法度からすると、喧嘩両成敗にありながら、吉良家には、おとがめなしという沙汰が下され、一方では、
赤穂城は明け渡しの上、お家は断絶。
お家再興を願っていた内蔵助の、最も、とおとい嘆願も叶わなかったこと。
それらの情報が、ひとつずつ、駆けつけてくる家臣らから伝わってくる、十数日の短くも長い時間が、大石内蔵助にあった。
時代の将軍、五代綱吉のマニフェストは、武士道の復活。主人に対しての忠義が第一義という考え方である。幕府の裁定に対する不満を募らせる内蔵助。
自分は、今ここで、歴史的な事実を探ろうと思っているのでは全くないが、つい最近、ふっとこんな事を思った。
まず、浅野内匠頭の辞世を受けた大石内蔵助が、主君の無念を思うのは言うまでもないが、そこから順に届いてくる矛盾の連続の中で、本懐を遂げる意志を固めながらも、その強烈な思いが、徐々に時代に対する不満や、時代に向けて叫びたいという反逆心となって、強くなっていったに違いない。
いま、あらためて、この大石内蔵助の読んだ辞世の句を見る時・・・
   「あら楽し 思いは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」
自分は思う・・・・。
この大石内蔵助の辞世は、見事に目的を遂げて切腹が言い渡されてから考え、詠んだものではなく、主君、浅野内匠頭の辞世を知ってから、この赤穂城下にいる内に、考えて考えぬいて用意していたものだったのではないだろうか。
天下世間に向けて・・・。自分とは余りにも違ってしまった時代の流れ、政治に向けて・・・。
吉良上野介を討って、華々しく一矢を報いたあとは、ただ黙することでこの覚悟が辞世のみとなって≪きわだつ≫その一点に命をかけようとした。
この辞世を詠まんがための一瞬に、すべてを冷静に組み立て、行動をしていたのではないか?
内蔵助は思っていた、こんな時代からは、いさぎよく、すがすがしく決別し、皮肉を込めて、矛盾を突き、最高の残念と信念を伝えたい。
誇り高く美しく・・・そして、そして・・・あまりに哀しく。
忠義という大儀を超えて、滅び、消えてゆくさまを、≪あら楽し≫ といって身をもって示したかったのだ。
関ヶ原の合戦から徳川の時代も100年がたち、人の心も様変わりした 大平の元禄の世で、
内蔵助の嘆願書には
「赤穂家臣は武骨な者ばかりにて、ただ君主一人を思い、赤穂を離れようとはしません、吉良上野介様への仕置きを求めるわけではありませんが、家中が納得できる筋道をお立て下さい」
なんだか自分には、大石内蔵助が自身に宿る、最後の武士魂を叫んでいるように思えてならないのである。
自分自身が武骨な武士であるという、どうにも変えることのできない性 ≪サガ≫ と精神を、時代とは関係なく貫いてゆく方法でしか 生きられなかった・・・精一杯生きてゆく形、それが死という結果になった。
●辞世の句 5
   「あらたのし 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」
「忠臣蔵」の名で親しまれている赤穂浪士の討ち入り事件。そのリーダーが大石内蔵助です。
主君である浅野長矩が幕府の要人である吉良上野介を切り付け、そのまま長矩は切腹となり、浅野家は断絶とされてしまいます。復讐を叫ぶ浅野家の家臣たちをなだめ、ぎりぎりまで御家再興を図った内蔵助でしたが、再興が不可能となると、吉良家への討ち入りを画策。47人の浪士と共に、討ち入りを成功させた内蔵助は、世間の同情を集めつつも切腹を命じられます。
その時の辞世の句の意味を見てみましょう。
「思いを晴らして死ぬことは、なんと楽しいことか。今宵の月に雲がかかっていないように、私の心も澄み切っている。」
主君、浅野長矩の恨みを晴らした思いが句に表現されています。内蔵助にとって、急進派をなだめながら復讐の機会を待ち続けた一年間は非常に長く苦しいものだったでしょう。雲のかかっていない月になぞらえて自らの晴れ晴れとした気持ちが表されています。
内蔵助を含めた47人の赤穂浪士は切腹という処分を下されますが、彼らの行いは世間で称賛されます。
結果的に、浅野家は再興を許され、内蔵助は本懐を遂げました。
●辞世の句 6
大石内蔵助(大石良雄)の最後
大石内蔵助(大石良雄)は「忠臣蔵」で有名な赤穂藩の筆頭家老です。主君である浅野長矩が江戸城内で刃傷事件を起こし、その責任を問われ、長矩に即日切腹ならびにお家断絶の沙汰が下ってしまいます。大石内蔵助は、筆頭家老としてお家再興を目指しますが果たせず、その後苦難の末に、主君の仇である吉良上野介の屋敷に討ち入り、本懐を果たしました。そして、1703年3月20日、幕府の命で切腹。享年44歳前後だと言われています。
そんな大石内蔵助の辞世の句と言われているのが以下の句です。
   「あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」
   「極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人」
現代文に訳すなら、一句目は「思いを晴らして死んでいくのは、何と楽しいことよ。 見上げる月に雲がひとつもかかってないように、我が心は澄み切っている。」、二句目は「仇討ちを終えた四十七士は主君とともに阿弥陀如来の待つ極楽へ旅立ちます。」。
●辞世の句 7
赤穂義士のリーダー・大石内蔵助義雄は、元禄16年2月4日(西暦1703年3月20日)に熊本藩細川越中守の下屋敷において切腹しました。内蔵助の辞世の句としては一般に
   あら楽し 思いは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし
が知られていますが、これは浅野内匠頭の墓に対して詠んだものだそうで・実際の辞世は
   極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人
だそうです。
ここに掲載したのは細川家下屋敷に預けられた義士たちの世話をした堀内伝右衛門が切腹直前の内蔵助に頼んで書いてもらったものですが、実際は源実朝の歌をそのまま書きつけたものです。とっさのことゆえ・良い句が思いつかなかったのかも知れません。
   武士の 矢並つくろふ 小手のうへに あられたはしる 那須のしの原
内蔵助の筆跡について、書道家の石川九楊氏は次のように印象を語っています。
「筆跡を見るとスタイリストだったのかなという気がします。「ふ」や「る(流)」の最終の点が右上に高く位置してポーズを取っています。当時の武家の基本書法である御家流を踏まえていますが、筆先が立って筆圧が高い。例えば「の」の字。終筆部でいったん沈んでから上に向かう時、少し左に出して・ゆるやかに上げていくのが普通なのに、大石は鋭く一気に回転部を書き切っている。たぶん独自の美学があった人ですよ。代々家老を勤める家に生まれたわけだから、教養もあったでしょうしね。」
この書を見ますと、史実の内蔵助も舞台の「元禄忠臣蔵」の内蔵助のイメージを決して裏切らない人物であったようですね。真山青果が「元禄忠臣蔵」で描いた内蔵助は実に理屈っぽくて・また迷う男です。「元禄忠臣蔵」は観念のドラマです。内蔵助は常に立ち止まって、「自分が進むべき道・同志たちを導く道はこれでいいのか・これで正しいのか」ということを内蔵助は自らに問い・そこで揺れます。内蔵助はそのことを考える時、いったん行動の原点に立ち戻ることを必ずします。その思考の原点こそが初一念です。そして、元禄の時代と昭和初期の気分が「揺れる気分」においてつながっているのです。そのことが分かれば「元禄忠臣蔵」で青果が本当に描きたかったものが見えてきます。
源実朝の句 1
   もののふの 矢並つくろふ 籠手のうへに 霰たばしる 那須の篠原 金槐和歌集
「金槐和歌集」(きんかいわかしゅう) / 鎌倉時代前期の源実朝の家集(歌集)。略称で「金槐集」とも呼ばれる。成立は1213 年頃。「金」は鎌倉の「鎌」の金偏をとったもの、「槐」は槐門 (大臣) の意で、鎌倉右大臣(=源実朝 <みなもとのさねとも> の敬称)の家集の意。
口語訳 / 那須の篠原で武士が矢の並びを直している。折からの悪天候の中、その籠手には霰が降りかかり、飛び散っている。
釈注 / 実朝は那須を訪れたことがなく、机上の作。かねてから伝聞していた建久四年の父頼朝の那須での狩りを想起し、また「わが袖に 霰たばしる巻隠し 消たずてあらむ 妹が見むため(柿本人麻呂)」を念頭に置きつつ詠んだものか。那須の篠原で狩りをする武人が、次の獲物を狙うまでのわずかな間、降る霰の中でひと息入れて、馬上で矢並を直しているという勇壮な情景である。
語釈 / 矢並つくろふ:背中に負う箙に差した矢の並び具合を整えること。
源実朝の句 2
   もののふの 矢並つくろふ 籠手の上に 霰たばしる 那須の篠原 金槐和歌集 
(もののうの やなみつくろう こてのうえに あられたばしる なすのしのはら)
意味 / 武士が箙(えびら)の中の矢並を整えていると、その籠手の上に霰が音をたてて飛び散っている。勇壮な那須の篠原の活気みなぎる狩場であることだ。狩場の凛(りん)と張り詰めた勇壮な雰囲気と、霰のもつ激しさが溶け合っています。
注 / 矢並つくろふ=矢の並びの乱れを整える。籠手(こて)=手の甲を保護する武具。那須の篠原=栃木県那須野の篠竹(しのたけ)の群生する原。鎌倉時代は狩場であった。
作者 / 源実朝=みなもとのさねとも。1192〜1219。28歳。鎌倉幕府三代将軍。鶴岡八幡宮で甥に暗殺された。
 
 

 

絵島 1741
浮き世にはまた帰らめや武蔵野の 月の光のかげもはづかし
●絵島 1
   浮世には又帰らめや武蔵野の 月の光の影も恥かし
絵島(えじま、天和元年(1681年) - 寛保元年4月10日(1741年5月24日) 旗本・白井平右衛門の娘で、江戸時代中期の江戸城大奥御年寄である。名前は「江島」が正しいとされている。歌舞伎役者・生島新五郎とともに大奥につとめる多数が処罰された風紀粛正事件、江島生島事件の中心人物である。本名はみよ。
三河国に生まれ、江戸で育つ。実父・疋田彦四郎(甲府藩士)の死後に母が再婚したため、平右衛門の養女となる。彼女は最初、尾張徳川家に仕えた。次いで甲府徳川家の桜田御殿に仕え、藩主・徳川綱豊が6代将軍・家宣になるとともに大奥入りする。家宣の側室で7代将軍・家継の生母であるお喜世の方(後の月光院)に仕え、その月光院の右腕とも言われていた。正徳4年(1714年)、月光院の名代として前将軍・家宣の墓参りのため奥女中の宮路らと共に寛永寺、増上寺へ参詣。その帰路の途中、木挽町(現在の東京都中央区東銀座界隈、歌舞伎座周辺)の芝居小屋・山村座に立ち寄り、帰城が遅れた。その門限に間に合わなかった咎で評定所の審理を受ける。山村座の役者であった生島新五郎との密会を疑われ、拷問にかけられたが、彼女は自白しなかった。死罪を減じての島流し処分と裁決が下りたが月光院が減刑を嘆願したため、結局は信濃高遠藩(現在の長野県伊那市高遠町)へ流された。また連座者として、旗本だった絵島の兄・白井平右衛門は斬首、同弟は重追放の処分を受けた。絵島は屋敷に幽閉され、朝夕二度、一汁一菜の食事を摂り、酒、菓子類を口にすることを禁じられ、着用する衣服も木綿のもののみと定められた生活のなか、お経などを読んで時を過ごした、ともいう。しかし、大奥在籍のころから信仰していた日蓮宗の蓮華寺に行くことは許された。ただ、大奥の事を一切口にしなかったほどの清廉な姿勢が後に高遠藩の藩主に一目置かれるようになったという。そして27年間の幽閉(閑居)生活の後、寛保元年(1741年)に風邪をひいて全身がむくみはじめ、それが元になって死去した。
墓所は高遠の蓮華寺にある。法名は「信敬院妙立日如大姉」。
現在では高遠城址公園に隣接した伊那市立高遠町歴史博物館の敷地に、絵島が幽閉された建物が復元され絵島囲み屋敷として公開されている。それは一見、普通の屋敷や家屋のようにも見えなくないが、庭に面した格子戸は「はめ殺し」で開けられず出入りできず、唯一の出入り口の脇には詰所が設けられ監視人が配置され、板塀の上には二重の忍び返しがあり、外部の世界と完全に遮断。つまり屋敷は実質的には監獄であった。また、手紙のやりとりも出来なかったという。しかし徳川吉宗が8代将軍となり、享保7年(1722年)に高遠藩主内藤頼卿が江戸家老の野木多宮に絵島の赦免嘆願書を届けさせ、翌年月番老中安藤信友から内藤家の江戸藩邸に「非公式ながらこれを許可する」という達しがあった。そのため絵島は高遠城内での起居は比較的自由になり、囲い屋敷の周囲の散歩は認められた。藩主や内藤蔵人の好意で、月に何度かは城に出てきて、城に勤める女性たちの躾の指導をしていた。  
●大奥 女たちの戦い
大奥には月光院について良からぬ噂が流れていました。何と月光院が将軍の側近と恋愛関係にあるというのです。
正徳4年(1714年)1月、絵島は奥女中たち5名ほどをともなって将軍家の菩提寺・増上寺に出かけました。正室や側室の代わりに歴代将軍のお墓参りをする代参のためです。境内の墓所でつつがなく参拝をすませた一行は、帰り道に芝居見物をしました。女中たちのお目当ては生島新五郎。当時大人気だったイケメン歌舞伎役者です。芝居の後には生島新五郎たち歌舞伎役者たちも加わって接待の宴が開かれました。奥女中たちは久しぶりの外出を大いに満喫しました。
しかし、このとき絵島はささいなミスを犯してしまいました。宴の席につい長居してしまったのか、あるいは帰り道で何かトラブルがあったのか江戸城の門限にわずかに遅れてしまったのです。この遅刻が大奥最大のスキャンダルに発展するとはこの時の絵島には知る由もありませんでした。
芝居見物の3週間後、事態は思わぬ展開をむかえました。絵島は突如役人から呼び出しを受けたのです。申し渡されたのは門限破りを理由とした大奥追放。おって取り調べが始まるまで謹慎を命じられました。
絵島が謹慎している間に、事件の関係者の取り調べがすすめられました。呼び出されたのは芝居の後の宴に同席した歌舞伎役者たちです。
ところが、このとき役者たちが追及されたのは絵島の門限破りについてではありませんでした。疑われたのは絵島と生島新五郎の男女の仲。奥女中にとって恋愛はご法度。もしこれが事実であれば、大奥始まって以来の一大スキャンダルです。
尋問は熾烈を極めました。生島新五郎は激しい拷問にかけられ、絵島と情を通じていたとありもしない事実を認めてしまいました。
続いて絵島の取り調べが始まりました。取り調べは連日連夜、絵島に一睡も許さず続けられました。心の支えとなったのは、月光院と過ごした日々のことでした。月光院もまた絵島を守るべく老中たちへ懸命の説得を続けていました。
そして、絵島に下された判決は遠流。江戸から遠く離れた土地に流し、生きては二度と帰さぬ刑です。極めて厳しい処分でしたが、生島との密通という罪には問われなかったのです。
絵島は静かに判決を受け入れました。心残りは月光院に一目会ってお詫びできなかったこと。この時よんだ歌が残されています。
   浮世にはまた帰らめや 武蔵野の 月の光の影もはずかし
大奥にはもう帰ることはできないでしょう。月の光のように自分を照らしてくれた月光院様にただただ申し訳なく思います。
こうして絵島は大奥という舞台を去りました。しかし、彼女の凛とした生き方の物語には、さらなる続きがありました。
絵島が流されたのは信州・高遠。ここに絵島が過ごした屋敷が復元されています。与えられたのは小さな8畳間の一室のみ。周囲には格子戸がめぐらされ、屋敷の外に出ることは許されませんでした。
「大奥で見聞きしたことは決して外へもらしてはならない」
筆や紙は与えられず、言葉を交わせるのも身の回りの世話をする下女だけに限られました。絵島はこの地で27年の時を過ごした後、その生涯を閉じました。享年61。
絵島の死後、幕府の役人が高遠に派遣され、生前の様子について聞き取りが行われました。その記録の中にはこんなやりとりが残されています。
「絵島は江戸でのことを何か話さなかったか」「付け置いた下女が申すには、そのようなことは一切なく心静かに過ごしていたそうにございます」
●絵島 囲み屋敷 (長野県伊那市高遠)
信州、高遠の内藤駿河守へお預けとなった絵島は、当初、高遠城から一里も離れた非持村火打平(ひじむらひうちだいら)に幽閉されていた。絵島が高遠にきて三年目に家継が世を去り、紀州の吉宗が八代将軍となる。翌年、間部詮房は越後村上藩主となって江戸を去る。幕府も大奥も月光院や間部の勢力を恐れる必要がなくなり、享保四年(一七一九年)十一月絵島は冬の西風が寒い非持村火打平から、武田信玄が山本勘助らに命じて、拡張改装させた名城・高遠城三の丸の囲い屋敷に移された。
絵島が移された屋敷の外塀は二メートルほどの高さ、その上に一メートルぐらいの忍び返しが組まれてある。二十八年もの長期間、十人近くの武士、足軽に昼夜見張らせることは時の高遠藩内藤家にとってかなりな負担であったろう。
最初の囲み屋敷のあった火打平から山室川を遡ること六キロ、日蓮宗の遠照寺がある。当時の住職は、絵島と同じ甲州生まれだったという。絵島が寺を訪れたきっかけは、囲い屋敷の役人を通じて朱子学の本を借りたのがはじまりで、住職の法話を聞き、囲碁の相手もしていたなど、囚われの身ではあったが、寺を訪れることは許されていたという。絵島は日蓮宗へ帰依した。絵島の希望でここの寺に遺品や歯など分骨を埋めた墓がある。その死の際に、墓は蓮華寺にと告げた。
絵島は高遠に遠流の身となってから、亡くなるまで二十八年、質素な生活の日々を送った。絵島は二度と江戸の土を踏むことなく、寛保元年(一七四一年)四月六十一歳でその生涯を閉じ、配所からそれほど遠くない蓮華寺に埋葬された。
   浮世にはまた帰らめや武蔵野の 月の光の影も恥ずかし
(江戸出発の折、絵島が詠んだと伝えられる)
   あわれなる流されひとの手弱女(たおやめ)は 媼(おうな)となりてここに果てにし
(斎藤茂吉)
絵島の死後、三宅島に流されていた生島新五郎は寛保二年(一七四二年)に許されて帰り、翌年七十三歳で亡くなっている。  
●絵島 2
●絵島(1)
絵島のことである。今から300年前、江戸の巷間を騒然とさせた前代未聞の疑獄事件、「絵島生島事件」の主役、絵島その人の話である。
数年も前になろうか、晩秋から初冬に移りゆく肌寒い日の午後、私は伊那市高遠町の山里にひっそりと建つ蓮華寺を訪れた。本堂を裏手に回った高台にその人の墓石が寂しく据え置かれ、横には等身大と思われる絵島の石像が当時の装束を身にまとってすっくとたたずんでいた。流れ行く蕭条たる静けさの中を通過してきた黄昏の斜光がその端正な面立ちをほんのり茜色に染めている。大奥女中の容色は遥かな時空を越えてさえ、少しも衰えることなく、か細い肩には余るほどの矜恃を載せ、小さき胸には収まらぬほどの意地を秘め、誇り高く光彩を発していた。その「像としての存在感」はかって絵島が幽閉されていた囲い屋敷で感じた「名としての存在感」を遥かに凌駕する艶めかしさで私に迫ってきた。私は絵島の語る声を聞き漏らすまいと身を虚しくして現前する絵島その人を眺めつづけた・・・・・・ /
   えにしなれや もも年の後 古寺の 中に見出でし 小さきこの墓    田山花袋
大正5年(1916年)7月26日、作家、田山花袋が高遠町内の蓮華寺の裏山、桜の老樹の下に小さな墓を発見、こう詠んだ。そこに葬られているのは、江戸時代、権力争いの中に翻弄された末に遠流に処された悲劇の絵島だった。町人文化が華開く江戸で起きた大騒動も絵島の死によって終わりを告げ、以来2世紀近く、田山花袋によって絵島の墓が発見されるまでは、世間からはまったく葬り去られていたのである。
絵島生島事件
江戸城大奥を揺るがした絵島生島事件は正徳4年(1714年)1月12日に端を発する。その日、大奥の年寄絵島(当時34歳)は、月光院の名代として前6代将軍家宣の命日に芝増上寺へ参詣した。月光院とは、家宣の側室で7代将軍、家継の生母、お喜世の方のことである。絵島は月光院の右腕であった。芝増上寺の帰路、絵島は大勢の供の者を従え、木挽町(現在の銀座4丁目)にある山村座に立ち寄り芝居見物。芝居終了後には当時評判の美男役者の生島新五郎と茶屋で酒宴におよんだ。酒宴の結果、絵島一行は大奥の門限である午後4時までには帰りつかなかった。大奥七ツ口の前で通せ通さぬの押し問答をしている内にこの事が江戸城中に知れ渡るところとなってしまった。このことで絵島は、生島新五郎との密通を疑われた。冤罪であったという説も強いが、真実はともあれ、下された処罰は過酷なものであった。
下された処罰
江戸中町奉行坪内定鑑、大目付仙石久尚、目付稲生正武らによって関係者が徹底的に調べられ、大奥の規律の緩みが次々と明らかにされた。絵島は生島との密会を疑われ、評定所から下された裁決は死一等を減じての遠島。連座して、旗本であった絵島の兄の白井平右衛門は妹の監督責任を問われ武士の礼に則った切腹ではなく斬首、弟豊島平八郎とその子供は追放。月光院の嘆願により、絵島についてはさらに罪一等を減じて高遠藩、内藤清枚にお預けとなったが、事実上の流罪であった。絵島の遊興相手とみなされた生島は三宅島への遠島、絵島を山村座に案内した奥山喜内は死罪、山村座座元の五代目山村長太夫は伊豆大島への遠島、作者の中村清五郎は伊豆神津島へ流罪。取り巻きとして利権を被っていた大奥御殿医の奥山交竹院とその弟の水戸藩士、幕府呉服師の後藤とその手代、さらには材木商らも遠島や追放。月光院派の女中たちは着物や履物を取り上げられ、死人か罪人しか通さない平河門手前の不浄門から裸足で追放。その他連坐刑も含め遠島、改易、永の暇を下された者は1500人以上だったという。また山村座は廃座、残った市村座、森田座、中村座、の3座にも風紀の乱れを理由にそれぞれお咎めがあり、興行規制が敷かれた。
絵島の生い立ち
絵島は甲州藩士の娘として生まれたが、幼くして父が死に、母は連れ子をして白井平右衛門のところに嫁いだ。(別に、天和元年1681年、絵島は大和郡山に生まれたという説もある)元禄16年(1703年)23歳の時に縁あって紀州鶴姫に仕えたが、24歳の時に鶴姫が夭逝したため、白井の友人の奥医師、奥山交竹院(伊豆の利島へ遠島)の世話で江戸桜田御殿に住んでいた甲州藩主徳川綱豊(後の6代将軍家宣)の側室、お喜世の方(後の月光院)に仕えることになった。家宣が綱吉の世嗣と決まって江戸城に入った時、絵島は月光院に随行して本丸に入りお使番になった。月光院が家継を生んだ年、家宣が6代将軍になると、絵島は400石を賜って29歳で年寄となった。正徳2年(1712年)家宣死去、家継が7代将軍となると絵島は600石を加増されて大年寄となり、大奥で大きな力を持つようになった。時に32歳であった。大年寄という役は1000人からいる女中を取り締まる年寄頭で大奥に数人いる。呉服商後藤縫殿介、薪炭商都賀屋善六等々の利権亡者たちが争って絵島の歓心を得ようと、船遊び、芝居見物に三回ほど誘ってもてなした。女中数十人を引き連れての遊興であった。大奥の女中の不評をかって失脚した老中もいたくらいで当時の大奥の力は強大であった。
事件の背景
絵島生島事件がいかなるものであり、なにゆえに大事件へと発展したのか。背景は以下のようであった。天英院は前将軍、家宣の正室である。しかし彼女の生んだ男児は早世し、将軍の生母となることはできなかった。月光院は前将軍、家宣の側室であったが、彼女の生んだ男児が家宣の後を継いで7代将軍家継(就任当時はわずか4歳)となり、将軍の生母となり、大奥に権勢を張るようになった。この正室対生母の対立の結果、生母月光院の家老とも言える絵島が、正室天英院派に狙われたとみることができる。ただ、天英院という人は、思慮深く温厚な人物だったようで、天英院が直接事を起こしたとみることは疑問である。綱豊が6代将軍家宣となり、お喜世の方がその子を生んだとき、絵島は年寄りに上げられている。家宣が死に、4歳の家継将軍が生まれた。月光院となったお喜世は将軍の生母としての威勢を張ることによって、家宣の正室、近衛家からきた天英院、他の2人の側室から嫉妬反感の攻撃を受ける。絵島を厳しく取り調べた評定所の役人たちは、すべて天英院派に属していた。年若い月光院は、家継の補佐役である側用人、間部詮房を頼りにし、詮房は妻も側室も持たず、江戸城内に住んで政務に励んだという。家宣が学問の師として迎えた新井白石と政治顧問として迎えた間部詮房を追い込むために月光院派の絵島が狙われたことは間違いない。事実、この事件後、次期将軍選びの流れは旧勢力派が握るようになり、7代将軍家継がわずか8歳でこの世を去ると、8代将軍には紀州の徳川吉宗がなり、同時に、間部詮房、新参の儒学者、新井白石らは失脚していった。
正徳4年2月22日、絵島は、預かり先の白井平右衛門宅へやってきた目付役人に、厳しく取り調べられた。世上には、絵島と生島という役者とのうわさ以上に、月光院と間部詮房との間に「私通」があったのではないかということが、取り調べの目的であった。この絵島取り調べの前に、生島新五郎は目付けらによって徹底的に取り調べられ、「石抱き」という拷問にかけられた。石抱きとは、両手を後ろ手に荒縄で縛りあげ、正座させた膝の上に四角の石を乗せ、白状するまでだんだん石を重ねていき、その石を前後左右に揺り動かす。このため皮膚が破れ、その苦痛から逃れるために目付らの言い分をすべて認めさせられ、生島新五郎は、「絵島と情交があった」と白状した。この新五郎の自白を盾に、絵島は「うつつ責め」という厳しい拷問を受けた。この「うつつ責め」とは、三日三晩一睡もさせずに責め立て、意識朦朧の中で無理矢理に供述させる拷問だが、このような責め苦にあっても、絵島は新五郎との情交はなかったと最後まで頑強に否定した。絵島は老中らの拷問も交えた厳しい追及にも、「月光院様と詮房殿には不純な関係は一切ありません」と明確に否定している。絵島は裁きの場にあって生島とのあいだに何らやましいことは断じてないと言い開き、大奥のことについては、口外一切厳禁の法度だからと固く口をつぐみ、三日三晩不寝の糾問と鞭打ちに何も語らず、月光院と間部詮房をかばって一言も語ることがなかったという。絵島の罪状は、事件の担当者、老中秋元但馬守喬知が若年寄、大目付とともに評定し、おのが情欲に負けて大奥の重い職責にありながら風紀を乱したとされたが、その冷酷無残さは前代未聞であった。正徳4年3月のことであった。
信州高遠への流刑
絵島に高遠への遠流が下された。正徳4年3月12日午後2時ごろ、高遠藩江戸屋敷に、老中阿部豊後守正喬から切り紙がきた。城戸十兵衛が出頭すると2通の書付が渡された。1通には絵島の取り扱いの指示が書かれていた。
一、かろき下女一人附置き候事。
一、食物一汁一菜に仕り朝夕両度ノ外無用ニ候。
 (食事は一汁一菜とし、朝夕の二食とすること)。 附、湯茶ハ格別 其ノ外酒菓子何ニても給えさせ申間敷候(菓子、酒などは与えてはならないこと)。
一、衣類木綿着物帷子(かたびら)の外堅無用ニ候。
 (衣類は木綿の着物とし、帷子(かたびら)以外は無用のこと)。
 右之外ノ儀ハ追て伺わるべく候 以上
この書状と同時に、正喬から直接、城戸十兵衛へ、口頭で次のように申し渡された。
一、絵島はお預けではないから、そう心得て、遠流の格で諸事を取り計らい申すよう、つまり高遠へ遠流と心得られよ。
一、申すまでもないことではあるが、男女間の関係は随分気を付けられよ。
一、絵島の受け取りについては委細を坪内能登守と打合せ、牢屋で請取られたし
城戸十兵衛は早速立ち帰り、絵島請取りの人数をつれ町奉行所に出張し、町奉行坪内能登守から絵島を受け取り、駕籠に錠をおろして藩邸に運び、一室に監禁した。絵島を受け取るとき、城戸十兵衛は、係官に絵島の月経の有無を尋ねた。淫奔の女であったからということで妊娠を知らずに高遠へ押送したのち、子どもでも生まれたならば、あらぬ疑いを受けることを恐れたからだ。牢舎の役人は高遠方の入念に感じ早速絵島に訊ね、その滞りのなかったことを伝えたという。高遠藩にとっては天から降って湧いたような、迷惑この上ない災難であったに違いない。罪科人とはいえ、江戸城大奥で権勢を振るった大年寄り、過ちや粗忽があったらお家断絶にもつながりかねない。藩主以下家老たちは相談し、どんな些細なことにもいちいち伺い書を出した。翌13日にもなお、幕府へ伺いを出した。これに対して、直ちに附箋で対応を指示してきた。
一、絵島事、屋敷の風並悪しく火事の節は私の下屋敷へ退けてよろしきか。 / 下屋敷へ退けられてよろしい。
一、たばこをほしいと申したら出してもよろしいか。 / 与えなくてもよい。
一、硯や紙をほしいと申したら渡しますか。 / 渡さなくてよい。
一、扇子や団扇や楊枝などをほしいといわれたならば出してもよろしいか。 / 与えてもよろしい。
一、髪を結う時、櫛道具・はさみは渡してもよいか。 / それも差し支えない。
一、爪を切りたいと申し出たら、切らせてもよいか。 / それもよろしい。
一、毛抜を欲しい時は出してもよいか。 / よろしい。
一、カネ(歯を染めるために)をつけたいと申す時はその道具を出してもよろしいか。 / 出さなくてよろしい。(人妻や奥女中などは歯を染めたが、絵島には許さなかった)
一、風呂に入りたいと申したら湯に入れてよいか。 / 差し支えない。
一、病気の節は手医師の薬を用いてよろしいか。 / その通りにいたされたい。
一、絵島へ私(藩主)は折々逢いまして様子をみなくてはなりませんか。 / 左様なことはせずともよろしい。
かくのごとく藩は絵島の取扱いに慎重であり、また幕府の命に背かぬよう、微に入り細にわたり、かつ峻厳であったかがうかがわれる。このお預かり罪人の留置やら、護送やら、在所におけるお囲み屋敷の準備など、高遠との連絡で忙しい日々が続いた。高遠藩では、道中事故があってはと特に願って護送の人数を増やし、一行は80余人になった。絵島を高遠まで護送する錠前つきの駕籠は、3月26日(3月28日説もある)の午前4時、四谷を出発した。囚人駕籠に身を入れるときは、裁きの場では気丈だった絵島が声をあげて泣いたという。江戸出発の折、絵島が詠んだと伝えられる歌が残っている。
   浮き世には また帰らめや 武蔵野の 月の光の かげもはづかし 絵島
信州高遠での生活
信州高遠の内藤駿河守へお預けとなった絵島は、当初は高遠城から一里も離れた非持村火打平に幽閉されていた。絵島が高遠にきて3年目に家継が世を去り、紀州の吉宗が8代将軍となる。翌年、間部詮房は越後村上藩主となって江戸を去る。幕府も大奥も月光院や間部の勢力を恐れる必要がなくなり、享保4年(1719年)11月絵島は冬の西風が寒い非持村火打平から武田信玄が山本勘助らに命じて拡張改装させた高遠城三の丸の「囲い屋敷」に移された。絵島が移された屋敷の外塀は2メートルほどの高さ、その上に1メートルぐらいの忍び返しが組まれている。28年もの長期間、10人近くの武士、足軽に昼夜見張らせることは時の高遠藩内藤家にとってかなりな負担であったろう。最初の囲み屋敷のあった火打平から山室川を遡ること6キロ、日蓮宗の遠照寺がある。当時の住職は、絵島と同じ甲州生まれだったという。絵島が寺を訪れたきっかけは、囲い屋敷の役人を通じて朱子学の本を借りたのがはじまりで、住職の法話を聞き、囲碁の相手もしていたなど、囚われの身ではあったが、寺を訪れることは許されていたという。絵島は日蓮宗へ帰依した。絵島の希望でここの寺に遺品や歯など分骨を埋めた墓がある。高遠に流されてからの絵島の生活は自己に厳しいものであった。蓮華寺に残る検死問答書に日常のことが細かく記されているが、その一例を食事の面にみると、半月は精進日を設けて魚類を断つ生活をしていた。4年後の38歳からは全く精進の毎日で、死去するまで24年間は魚類を全く断つ生活をおくっていたのである。死に臨んで絵島は「墓は蓮華寺に」と告げた。絵島は二度と江戸の土を踏むことなく、寛保元年(1741年)4月10日、61歳でその生涯を閉じた。絵島は江戸在城中より日蓮宗の信者であったため、蓮華寺二十四世本是院日成上人の導きを受け、遺言どうり蓮華寺後丘に埋葬された。戒名「信敬院妙立日如大姉」、妙経百部の回向を受け、永代霊膳の丁重なる扱いを受けた。蓮華寺を訪れた歌人、斎藤茂吉は墳墓を前にして以下のように詠んでいる。
   あわれなる 流されひとの 手弱女は 媼となりて ここに果てにし 斎藤茂吉
その後の顛末
絵島の死後、三宅島に流されていた生島新五郎は寛保2年(1742年)に許されて帰り、翌年73歳で亡くなっている。絵島事件では、たった1ヵ月の間に大勢の人を裁き、死罪、遠島、追放、所払いなど非常に過酷で乱暴極まりない裁きを下した。門限をやぶるという軽微な犯罪である。そこに油をかけ火を大きくしたのは、嫉妬からまる権力闘争であり、大奥内の次期将軍争いのために利用されたといっても過言ではない。門限破りで終身刑とは常軌を逸した処罰であろう。恐るべきは人間の心に巣食う権力の魔性である。「裁定を下した人たちは自責の念のために死ぬだろう」という声が江戸庶民の中から起こった。事実、処断のあった1ヵ月後の4月に、秋元但馬守喬知が死去した。喬知は処断のあった日から邸宅に閉じこもったまま一歩も外出しなかったという。絵島の断罪判決のあった2ヵ月後の5月、老中坪内能登守定鑑が、「流人の扱いに手違いがあった」と将軍からけん責処分を受けた。またこの裁判の主要目付稲生次郎左衛門は出仕拝謁を差し止められている。そして事件後間もなく、事件に関連して処分された人々は、重罪に処せられた者を除いてその大勢が赦免となった。絵島は、江戸時代から今日にいたるまで「絵島生島」と呼ばれて芝居や映画で演じられてきたが、実際にはこの恋は存在しなかったと考えられている。高遠藩は幕府に対して再三絵島の赦免要請をしたが、最後まで許されることなく、絵島は幽閉地の高遠で没した。派閥抗争の中での評定に「江戸の粋な計らい」はなかったのである。高遠の内藤家が尾張徳川家と親しかったことが、絵島を押し付ける原因になったと思われるが、厄介極まりない預かり人に対して、高遠藩が示したやさしい心遣いがせめてもの慰めである。
現在、伊那市立高遠町歴史博物館に併設されて絵島が起居した「囲み屋敷」が建っている。 この囲み屋敷は残存した原図により、ほぼ同じ位置に昭和42年(1967年)に復元されたものである。あまりのささやかさに胸痛むものがある。また三宅村と高遠町とは、絵島と生島新五郎との縁で、昭和45年(1970年)に友好町村盟約を締結。例年、9月には生島が流された東京都三宅村の関係者も参列して蓮華寺の墓前で絵島の法要が営まれているという。
   向う谷 陽かげるはやし この山に 絵島は生きの 心耐へにし 今井邦子
   物語 まぼろしなりし わが絵島 墓よやかたよ 今うつつな里 有島生馬
江戸の街に咲き高遠の山里に散った希代の女人の生涯であった。
・・・ 遥か彼方から絵島の声が聞こえてきた。
・・・ もろびとは私のことを不運な哀しき女人とお思いになられるかもしれませんが、私は少しもそうは思っておりませぬ・・・ 世を渡る恨み辛み、その怨嗟ともどもくるめて小さき一身に背負って黄泉に旅立つことの喜びこれに勝るものはござりませぬ ・・・かって西行さまが願われましたように、花の下にて春死ぬる望外の幸せに今は胸を高鳴らせているほどでございまする ・・・
   願わくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃 西行
・・・ これもまた西行さまのお歌でございますが、配流の庵で私はけして寂しくなどございませなんだ・・・ さまざまなお方様と朝な夕な、いつ果てるともなく語らいつづけていたのでございまする ・・・
   寂しさに 堪へたる人の またもあれな 庵ならべむ 冬の山里 西行
西行の歌のように絵島は山里の庵でひとり寂しさに堪え、紅に染まる高遠小彼岸桜が満開に咲く花曇りの空に勇躍して旅立っていったのである。時は寛保元年(1741年)4月10日、齢61歳の春爛漫であった。
たたずむ絵島の墓所にも夕刻がせまっていた。先ほどまで絵島の面立ちを茜色に照らしていた黄昏の斜光も今はない。だが孤高の女人の表情に微塵も揺るぎはない。ただ黙して遥か遠く江戸の天際を見つめているのみである。気高きその姿に手を合わせた私は暮れなずむ蓮華寺の斜面を山裾に向かってゆっくりと降りていった。
●付記、高遠に思う
以下2編の小文は時に応じて高遠城趾を訪れた際に書かれたものである。直接に絵島と関係するものではないが、物語の背景が投影されているように思う。
春宵考
春爛漫、長く寒い冬が過ぎ去り、桜の花が一斉に狂ったように咲きこぼれる宵、「春宵」の季節がやって来た。春宵は、「古代と現代」、あるいは「生と死」が、エマルジョン(混交)しているようなミステリアスで、幻想的な、異次元空間である。
それは、数学者、岡潔(1901〜1978)の随筆「春宵十話」に、また日本画家、東山魁夷(1908〜1999)、加山又造(1927〜2004)、近くは中島千波(1945〜)の描いた春宵(満開の夜桜に浮かぶ、霞がかったおぼろ月の淡い光)等に直観される「時空が断裂」した不可思議な風景である。
切り口は異なるが、坂口安吾(1906〜1955)の小説に「桜の森の満開の下」がある。その冒頭・・大昔は、人は桜の花の下を怖ろしいと感じ、その下を通る人間は気が変になって一目散に逃げていくのだと・・。(ひとひとりいない桜の森の満開の下には得たいの知れない夜叉が棲息しているのである)
また逆に、旅に生きた孤高の歌人、西行は「願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃(続古今和歌集)」と満開の桜の下で死を迎えたいと歌に詠んでいる。
春宵とは単なる花見酒に酔いしれるだけの空間ではけしてないようである・・・。
時の宿命
春の桜で有名な高遠であるが、晩秋の紅葉もいい。小雨交じりの日であったが、行く秋を惜しむがごとくの鮮やかなもみじ葉であった。信州伊那谷の山懐に囲まれた高遠は世の喧噪から隔絶されたように静かな町である。しかし、歴史を振り返るとき、そこには数々のエピソードが秘められている特異な時空間である。
戦国末期、武田の支城であった高遠城は数万に及ぶ織田軍に囲まれ落城した。先軍の将は信長の長男、信忠であり、信長、光秀らの本軍もまた「この高遠」を通過し、諏訪、甲府に向かい、ついに天目山に武田勝頼を追いつめ、武田家を滅亡させるにいたるのであるが・・・その後、数ヶ月して起きた「本能寺の変」で、信忠、信長、光秀らもまた、この世の人でなくなるとは本人たちも、よもや「この時」は思わなかったにちがいない。
また世で言う「絵島生島事件」で有名な大奥女中の絵島が流されたのも「ここ高遠」であり、幽閉されていた「囲み屋敷」が復元されて高遠町立歴史博物館の敷地内にある。
さらに徳川二代将軍秀忠の妾腹の子、保科正之は「ここ高遠」で育ち、後に会津藩の創始者となり、実の兄、将軍家光を支え幕政改革にその才を発揮した。その会津藩、最後の藩主松平容保は、維新回天の時代の中で、滅び行く徳川幕府をひとり支え、京では京都守護職として「新撰組」を率い、転じて会津では「白虎隊」を率い、最後の最後まで壮絶な戦いを貫徹した。
これらを俯瞰するとき、すべての事の縁は、「ここ高遠」に始まる観がある・・・そして、それはまた高遠という空間が背負った「時の宿命」なのかもしれない。
●絵島(2)
「絵島(1)」を書いたのは2015年1月3日のことである。その中で絵島の墓所は蓮華寺の他に遠照寺に分骨されたことを記した。その遠照寺をいつかは訪れたいと思っていたのだが機会は意外にはやくやってきた。
遠照寺は日蓮宗の寺であり創建は平安時代(860年)に遡る。釈迦堂は国の重要文化財に指定されてはいるが現在では牡丹寺としてのほうが知られている。5月下旬から170種類、2,000株にのぼる鮮やかな牡丹の花が境内を埋め尽くすという。訪れるならばその牡丹の花が咲く頃がいいとさだめ、5月の風に誘われるようにして訪れた。
高遠城址を過ぎ秋葉街道と呼ばれる街道をさらに南アルプス山麓に向けて車を走らせる。やがて美和ダムの堤体が障壁のように現れる。豊かな水量を蓄えたダム湖がエメラルドグリーンに輝いている。そこからは街道を左折して山室川に沿って山道をさらに6キロ程登ると遠照寺に行き着くはずであった。だが行けどもなかなか現れない。道を間違えたかと疑念が浮かぶ頃にようやくささやかな集落の中にその寺影を認めた。
牡丹の見頃とあって駐車場は満杯であった。山門から続く参道の両側は色彩豊かな大輪の牡丹で敷き詰められ、参道を登るにつれて心もしだい艶やかに染まっていく。蓮華寺の墓所を考えていたせいか、目当ての絵島の墓を通り越してしまい、坂道を登り詰めた高台にある人影も途絶えた奥の院まで行ってしまった。引き返してみると意に反して往来激しき小さなお堂の裏手、もろびとの墓に混じって絵島は眠っていたのである。ささやかな墓石に添えられた案内板がなければ誰も見つけることはできないであろう。以下の記載はその案内板に書かれた由緒の写しである。
「絵島様分骨の墓
高遠へ流された最初の六年間、長谷村非持の火打平(ひょうじだいら)の囲み屋敷にいた頃、絵島様は、漢学の書を借りたことが縁となって遠照寺に参詣するようになりました。絵島様はそこで、当時界隈きっての名僧と謳われた遠照寺中興の祖、見理院日耀上人と出合い上人に導かれて、女人成仏を説く法華経の教えに深く帰依するようになったといいます。遠照寺では、藩の許可を得て「絵島の間」なる一室を設けて絵島様を迎え、絵島様は、日耀上人の法話を聞き上人と碁を打つのを唯一の楽しみとしたと言います。流人生活を送られる絵島様にとっては、厳しい冬の中に訪れた小さな日溜まりのような魂の安らぎの日々でありました。高遠での絵島様は、一汁一菜の厳しい精進潔斎のうちに自らを律し、法華経の転読と唱題を日課として、み仏に帰依した静かな日々の中に後半生を送られたといいます。それは、自らの罪への激しい坑がいと贖罪の日々でもありました。寛保元年(1741年)旧暦四月十日寂、享年六十一歳、法号信敬院妙立日如大姉、墓地には遺言により歯骨と毛髪が納められています。」
絵島様という表記が何とも微笑ましい。通常はどこでも「絵島」である。300年前に村人が絵島に抱いた思いが今なおこの地にこのように語り継がれているのであろう。墓石に並んで石面に刻まれた小さな歌碑が置かれている。
   浮き世には また帰らめや 武蔵野の 月の光の かげもはづかし
絵島を高遠に向けて護送する錠前つきの駕籠は、正徳4年(1714年)3月26日、午前4時、四谷を発った。囚人駕籠に身を入れるときは、裁きの場では気丈だった絵島が声をあげて泣いたという。その江戸出発の折に絵島が詠んだと伝えられる歌である。
日耀上人との出逢いは絵島が囲い屋敷の役人を通じて朱子学の本を借りたのがはじまりというが、流人としての高遠での生活の楽しみは、おそらく遠照寺を訪ねて日耀上人の法話を聞き、上人と碁を打つことの外にはなかったであろう。 それにしても麓の火打平にあった囲み屋敷から6キロの山道をたどることは大奥女中の足ではさぞや大変なことであったであろう。おそらくは山室川に沿って付けられた山道を渓流音を聞きながらゆっくりと歩をすすめたであろう。絵島の姿が彷彿と浮かんでくる。絢爛たる大奥の世界から瞬く間に鄙にも希な山奥の世界に落とされた我が身を絵島はその刻いかなる気持ちでながめていたのであろうか。
だが「絵島の間」なる室を設けて迎えられたとする遠照寺での待遇は他の資料からは考えられない程に厚遇である。先の絵島様の表記と相まって歴史は多くを語ってはくれない。 絵島が訪れた頃に牡丹がかくこのように咲き誇っていたのかは知るよしもないが、あるいは絵島の目を楽しませる程には咲いていたのかもしれない。艶やかな牡丹の大輪は大奥女中の絵島には違和感なく似合っているし、その花影には時空を超えて絵島の息吹が漂っているかのようである。 過酷な人生を背負わされた絵島ではあったが遠照寺での安らかなひとときはせめてもの慰めであったに違いない。
帰路、山麓を駆け下り、美和ダムを通過し、こころなくぼんやりとしていた私の視界に路側に立てられた「絵島火打平囲み屋敷跡」という小さな表示板が飛び込んできた。 それはあたかも絵島が私を呼び止めたかのような出来事であった。行き過ぎてしまった車を戻して私はそこに駐めた。 屋敷跡はこの上の高台にあるとみえ半分埋もれかかった小道が斜面に付けられている。鬱蒼とした藪の中を蜘蛛の巣をはらいながら少し登ると苔むした大石で築かれた屋敷跡に出た。屋敷などは残っているはずもなく30坪ほどの平地が昼下がりの陽をあびて静まりかえっているばかりである。高台の下を流れる山室川の川音が山鳥の声に乗ってかすかに聞こえてくる・・・
高遠への配流が下され絵島は前掲の歌を残して江戸四谷を発った。80余人の護送のもと錠前つきの駕籠であったという。たどり着いた先がここ火打平の囲み屋敷であった。 6年間に渡る幽閉のあと、西方4キロ程の距離に位置する高遠城三の丸の囲い屋敷に移され、61歳で寂滅するまでの22年間をそこで過ごした。 高遠へ配流された年齢を計算すれば33歳となる。絵島の年齢で以上の経過を記載すれば、33歳〜39歳までの6年間は火打平の囲い屋敷、39歳〜61歳までの22年間は高遠城三の丸の囲い屋敷となる。都合28年間に渡る流人生活であった。 その間の絵島の消息はくまなく拾ってみても以下のごとくのものしか見いだせない。
高遠に流されてからの絵島の生活は自己に厳しいものであり、蓮華寺に残る検死問答書に日常のことが細かく記されている。その一例を食事の面にみると、半月は精進日を設けて魚類を断つ生活をし、4年後の38歳からは全く精進の毎日で、死去するまでの24年間は魚類を全く断つ生活をおくっている。 死に臨んで絵島は「墓は蓮華寺に」と告げ、再び江戸の土を踏むことなく、寛保元年(1741年)4月10日、61歳でその生涯を閉じた。 絵島は江戸在城中より日蓮宗の信者であったため、蓮華寺二十四世本是院日成上人の導きを受け、蓮華寺後丘に埋葬された。 戒名「信敬院妙立日如大姉」、妙経百部の回向を受け、永代霊膳の丁重なる扱いを受けた。 同時に絵島の遺言により遠照寺にも分骨され歯骨と毛髪が納められた。
火打平の囲い屋敷から遠照寺まで6キロ余、高遠城三の丸の囲い屋敷からとなれば10キロ以上ともなろう。28年間の流人生活を通じて絵島は幾度山上の遠照寺を訪ねたのであろうか。火打平の囲い屋敷から山上を仰ぎ見るとき、そこに天上の楽土を思い描くのは私だけではあるまい。 あるいは絵島もまた遠照寺が在る山上の世界に「永遠の理想郷」を夢見ていたのではあるまいか。
・・・ 不意に5月のそよ風が高台を吹き抜けた。 先ほどまで網膜にとどまっていた色艶やかな牡丹の花はいっせいに天空高く舞い上がり、300年の歳月は刹那のうちに行き過ぎていった。 あたりはもの音ひとつなくしんとしている。
●絵島(3)
NHK土曜時代劇「忠臣蔵の恋〜四十八人目の忠臣」というドラマが人気を博している。視聴していた私は、話は赤穂浪士の討ち入り事件で四十七士の1人であった磯貝十郎左衛門に思いをよせた主人公の「きよ(赤穂藩主浅野内匠頭長矩の正室、阿久里に仕えていた侍女)」が四十八人目の忠臣として仇討ちに助力する物語であると思っていた。だが物語は討ち入りが終わったあとも続き、そのきよが6代将軍家宣の側室であるお喜世の方(後の月光院)となり、ついには7代将軍となる家継の生母にまで出世、それとともに月光院を支え続けた大奥女中の絵島(ドラマの中では江島)まで登場することになろうとは青天の霹靂のごとくに予想だにしないことであった。のちに江戸の巷間を騒然とさせた前代未聞の疑獄事件「絵島生島事件」の主役となる絵島その人の消息は、絵島(1)、絵島(2)で描いている。その描写の中からドラマに関係しそうなくだりを抜き出すと以下のようである。
   絵島の生い立ち 
   事件の背景
月光院の父、勝田玄哲が現在も残る台東区元浅草の唯念寺で住職を務めていたことは事実であって、ドラマでもきよの父をこの勝田玄哲として描いている。「忠臣蔵の恋〜四十八人目の忠臣」が史実であったかどうかは定かではない。おそらくはドラマの構成上において想像をふくらませたものであろう。
だがそうでもないとする根拠について、ドラマの原作となっている「四十八人目の忠臣」を書いた諸田玲子氏はその後書きで以下のように述べている。
「月光院と赤穂浅野家とのつながりについては疑問視する説もあるが 月光院が浅野内匠頭の後室に進物を贈りつづけていた事実やゆかりの寺に伝わる逸話 藩の分限帳の名などつき合わせれば 荒唐無稽な話とも思えない これを前提に考えれば きよが桜田御殿へあがったいきさつや 赤穂浅野家の再興が成ったわけも腑に落ちてくる 待望の男児を産んだ女が褒美に嘆願を許されるのは歴史上よくある話で 月光院が旧主のためにひと役買ったという設定もあながち穿ちすぎではないと思う」
また月光院の義理の姉が浅野家に奉公していたという話や大石内蔵助と徳川家宣の正室である近衛熙子(天英院)が縁戚関係にあったという話もある。
これらを勘案すれば、あるいは月光院と赤穂浪士との間には何らかの関係はあったのかもしれない。であれば、家宣の寵愛を得た月光院が男児を産んだ褒美として赤穂浅野家の再興と島流しとなっていた遺児たちの恩赦を願うことは充分にありうることである。
「忠臣蔵の恋〜四十八人目の忠臣」の真偽はともかく、私が注目したのは「遥かなり絵島(1)(2)」で描いた信州高遠に流罪になった絵島が被った疑獄事件(絵島生島事件)を生んだ当時の時代背景と江戸城内で織りなされた愛憎渦巻く人間模様の胎動と葛藤の風景である。
月光院と絵島が生きた世は「5代将軍徳川綱吉の世」から「8代将軍徳川吉宗の世」へと移行する狭間の時代である。5代将軍綱吉は江戸の庶民をして「お犬様」と呼ばせしめた「生類憐れみの令」の制定や赤穂事件の原因となった江戸城内「松の廊下」で起きた浅野内匠頭と吉良上野介の刃傷事件における「片手落ち」の裁定等々で世を混乱させた評判悪しき将軍であり、8代将軍吉宗は傾きかかった徳川家を質素倹約をもって立て直した幕府中興の祖と呼ばれる名君である。
つまるところ「赤穂事件」や「絵島生島事件」の物語はかかる「混乱から安定へと移行する狭間の時代」における世相、気分、息づかいがいかなるものであったのかを暗黙裏に後世に伝えているのではあるまいか。それはまた同時代に生きた人々の意識世界に投影された「直観的場面」が現実世界に構築した「歴史的場面」でもある。その歴史的場面の風景を「忠臣蔵の恋〜四十八人目の忠臣」は映像をもって今に生きる私たちに見せてくれているのである。  
 
  

 

加賀千代女 1775
月も見てわれはこの世をかしくかな  
●加賀千代女 1
加賀の千代女と呼ばれる女性のことが気になっていました。
千代女のことは「朝顔に つるべ取られて もらい水」の句の作者として紹介されている文章を以前に何度か目にしたことがあるだけで、それ以上のことは何も知りませんでした。
最初にその名前を知ったのは鈴木大拙の「禅と日本文化」を通してだったのではないかと思います。調べてみるとその本の第七章「禅と俳句」で芭蕉の「古池や蛙とび込む水の音」などと並んで千代女の上掲の句が採り上げられています。
千代女は元禄16年(1703)、加賀の松任(石川県白山市)の表具屋の娘として生まれ、その町で育ちました。
松任は北国街道に面した宿場町で金沢の近くでしたので、千代女の家には表装依頼の文化人などの出入りも多かったようです。そういう影響もあってか千代女は幼いころから俳句に興味をもちだし、17歳の時に蕉風10哲のひとり各務支考(かがみしこう)にその才覚が認められてからは俳諧の世界で広くその名が知られるようになっていきました。
句集に「千代尼句集」(1764)、「はいかい松の声」(1771)、「自選俳句帖」(1768)の3冊があり、そこに計958の句が集められています。そのほかのものも合せると計千六百余句になるそうです。
その中からよく知られている句をいくつか書き出しておきたいと思います。
「蜻蛉(とんぼ)釣り 今日はどこまで 行ったやら」
早く夫を亡くしていた千代女に弥市という一人息子が残されていました。しかしこの子も幼少にして亡くなります。この俳句は今は亡き幼子のことを思いながら作られたものです。千代女の子を思う母親としての哀切の情が伝わってきます。
この句は「朝顔に」の句とともに広く知られていて、小林一茶(1763-1827)も自分の子を失った時に「子うしなひて」と前置きして、千代女のこの句を引いています。(「おらが春」)
また新渡戸稲造(1862-1933)は「武士道」「克己」の章で、千代女のその句を載せて外国の人たちに向けて説明を施しています。
千代女に同じ趣向の句として「破る子の なくて障子の 寒さかな」があります。
「髪を結ふ 手の隙(ひま)明て 炬燵哉」
千代女は芙蓉の花を思わせるような美しい女性であったようです。けれども再婚することはありませんでした。夫との死別の後は句作と仏法聴聞に明け暮れる毎日でした。
52歳の時に千代女は剃髪して仏門に入り、浄土真宗の尼僧となって法名の素園を名乗るようになります。北陸地方は蓮如上人のその地への巡錫(1471)以降、加賀門徒の名でも知られるように真宗の盛んな地です。
出家の動機はそれまでに多くの人の死を見てきたことにもよるのでしょうか、この世の諸行が無常であるとの思いが強くなったからだったようです。
上の句は髪を剃って髪を結う手が空いて、その手を炬燵の中で温めることのできる自由さを詠いつつ、出家することによって得られた、それまでのすべての憂いから解放された伸び伸びした気持ちが表現されています。
阿弥陀仏に任せきった千代尼の俳句に「ともかくも 風にまかせて かれ尾花」があります。このほかにも法味のある句がたくさんありますが、それらの解説は1にゆずりたいと思います。
「蝶は夢の 名残(なごり)わけ入(る)花野哉(かな)」
この句は死の前年、病床での作だそうです。このとき千代尼は蝶となって花野を飛び交っています。千代尼は「花の俳人」と称されているように多くの花を愛でてきました。いま身は病の床にありますが、まだまだ俳諧の世界で花と戯れてみたいのです。
これは千代尼の直筆最後の句とされていますが、辞世の句とはされていません。しかし句作の時期といい句意から見てみて、私にはこの句を千代尼の辞世の句としたいという勝手な気持ちが強くあります。
私がそう思うのは、芭蕉の辞世句「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」と並べて考えているからかもしれませんが。
千代尼は安永4年(1775)に74年の生涯を終えます。辞世の句は「月も見て 我はこの世を かしく哉」でした。「かしく哉」は「あがめ敬うべきだ」の意味で、ここでは「もったいない」「有り難い」となるでしょう。
「朝顔や つるべ取られて もらい水」
千代尼は「朝顔に」の句の初5字を後に「朝顔や」と改めています。その理由と考えられることは、「朝顔に」のままですと、句全体がやや説明的となり、その句が平板に解釈されるおそれがあります。しかし千代尼の本意は最初からそこにはなかったのでしょう。
その句の眼目は朝顔の美にあったのではないかと思います。そこで「朝顔や」と切れ字を挟むことで、朝顔の存在をクローズアップし、そうすることで句の焦点をはっきり朝顔の美に絞り込んだのだと思います。
私の目には朝顔の美しさに打たれ、うっとりして立っている千代尼の姿が浮かび上がってきます。
●加賀千代女 2
前に「トンボ(蜻蛉)にまつわる思い出話」という記事の中で、「蜻蛉釣り 今日はどこまで行ったやら」という俳句をご紹介しました。
これは江戸時代の女性俳人の加賀千代女の俳句です。彼女の息子は幼い頃に死んでしまいます。いなくなってしまった息子は、きっと遠くまで蜻蛉を捕りに出掛けたのだろう。早く帰ってこないかなあ。あるいは天国で蜻蛉釣りをしながら楽しく暮らしているのかしら・・・と子供を偲ぶ句です。
彼女には「朝顔につるべ取られてもらひ水」という有名な俳句もあります。
下の画像は、この俳句と加賀千代女を描いた歌川国芳の浮世絵です。
1 加賀千代女の前半生
加賀千代女(かがのちよじょ)(1703年〜1775年)は、加賀国松任(今の白山市)で、表具師福増屋六兵衛の娘として生まれました。松尾芭蕉の「奥の細道」が刊行された翌年です。
幼名はつ、号は素園、草風。一般庶民にもかかわらず、幼い頃から俳諧をたしなんでいたということです。
12歳の頃、奉公した本吉の北潟屋主人の岸弥左衛門(俳号・半睡、後に大睡)から俳諧を学ぶための弟子となりました。16歳の頃には女流俳人として頭角を現しています。
17歳の頃、諸国行脚をしていた俳諧師・各務支考(かがみしこう)(蕉門十哲の一人)(1665年〜1731年)が地元に来ていると聞き、宿に赴き弟子にしてくださいと頼むと、「さらば一句せよ」と、ホトトギスを題にした俳句を詠むよう求められました。
千代女は俳句を夜通し言い続け、「ほととぎす郭公(ほととぎす)とて明けにけり」という句で遂に支考に才能を認められ、指導を受けました。そのことから名を一気に全国に広めることになりました。
結婚したか否かについては説が分かれていますが、「蜻蛉釣り 今日はどこまで行ったやら」や「破る子の なくて障子の 寒さかな」のような俳句を見ると、子供を生んだもののその子が夭折したことは間違いなさそうです。
通説によると彼女は1720年(享保5年)、17歳のとき金沢藩の福岡某(一説に金沢大衆免大組足軽福岡弥八)に嫁ぎ男の子を生みましたが、20歳の時、夫に死別し子も早世して松任の実家に帰ったということです。結婚に際して、「しぶかろかしらねど柿の初ちぎり」という句を残したという伝もあります。
彼女は生まれつき身体が弱く、その後結婚することはありませんでしたが、街道沿いの千代女の家には、次々と各地の俳人が立ち寄って句を交わし、また、頻繁な書簡の交換によって多くの俳書に入集して行きます。
2 加賀千代女の後半生
30歳の時、京都で伊勢派の俳諧師・中川乙由(なかがわおつゆう)(1675年〜1739年)(*)に会ってその才能を認められ、当時としては珍しい女流俳人として名声をほしいままにしています。また画を五十嵐浚明(いがらししゅんめい)(1700年〜1781年)に学んでいます。(*)中川乙由は、伊勢国船江の新屋と号する豪商でしたが、風雅遊興を好んだため、一代で家業を傾けた人物です。
年を経るに従い、父母や兄など家族に不幸が続いたことから、家業に従事せねばならず、俳諧を続けることが困難になります。しかし、この期間に千代女の内面の充実があったと考えられます。
40歳代後半から、加賀の俳人達の書画軸制作が流行し始め、それと共に千代女の俳諧活動は再開されます。
1754年(宝暦4年)51歳で剃髪した後の10年余りはめざましい活躍を見せ、1763年(宝暦13年)には、藩命によって朝鮮通信使献上の句軸・扇を書き上げ、翌年には既白編「千代尼句集」を上梓しています。
こうした活動は地方俳壇に大きな刺激を与えており、加賀では蕉風復帰が叫ばれ、やがて全国的な俳諧中興の機運を醸成するのに寄与していったと考えられます。
71歳の時、与謝蕪村の「玉藻集」の序文を書いています。
1775年(安永4年)9月8日、彼女は長く続いた病のあと72歳で亡くなりました。1,700余の句を残したといわれています。
辞世の句は、「月も見て我はこの世をかしく哉」です。
彼女は若くして後家になり、子供も夭折しましたが、その後再婚もせず俳句を生きがいとして、生涯の大半を北国の小さな在郷町で過ごし、非常にストイックな生活を送ったようです。
建礼門院(けんれいもんいん)(1155年〜1213年)のように、平家滅亡後、生き永らえて京・大原の里に隠棲して、仏に救いを求め平氏一門の菩提を弔う仏道一筋に生きた女性もいますが、彼女の場合は俳句が救いとなったようです。
夫が若くして亡くなったり、離婚してシングルマザーになった女性が、「苦労しながらも子供の成長が生きがいで何とかやってこられた」という話はよく聞きます。そういう意味では、子供も幼くして亡くした彼女は不幸だったと思いますが、彼女は朝顔などの花や自然を愛し、それらを優しく俳句に詠み込んだり、時には子供や夫への追憶も俳句に託すことで、72年の生涯を生き抜けたのでしょう。 
●加賀千代女 3 
[ 元禄16年(1703)-安永4年(1775/10/2) ] 俳人。号は草風、法名は素園。千代、千代尼などとも呼ばれる。
朝顔を多く詠っていることから、出身地の旧松任市では市のシンボル、合併後の現・白山市では市の花に選ばれた。白山市では市民による朝顔の栽培が盛んで、同市が毎年開く千代女あさがおまつりで花の出来映えが競われている。白山市中町の聖興寺に、遺品などを納めた遺芳館がある。
生涯
加賀国松任(今の白山市)で、表具師福増屋六兵衛の娘として生まれた。一般庶民にもかかわらず、幼いころから俳諧をたしなんでいたという。
12歳の頃、奉公した本吉の北潟屋主人の岸弥左衛門(俳号・半睡、後に大睡)から俳諧を学ぶための弟子となる。16歳のころには女流俳人として頭角をあらわした。
17歳のころ、諸国行脚をしていた各務支考が地元に来ていると聞き、宿に赴き弟子にしてくださいと頼むと、「さらば一句せよ」と、ホトトギスを題にした俳句を詠むよう求められる。千代女は俳句を夜通し言い続け、「ほととぎす郭公(ほととぎす)とて明にけり」という句でついに支考に才能を認められ、指導を受けた。そのことから名を一気に全国に広めることになった。
結婚したか否かについては説がわかれている。結婚説では1720年(享保5年)、18歳のとき金沢の福岡某(一説に金沢大衆免大組足軽福岡弥八)に嫁ぐが、20歳のとき、夫と死別し松任の実家に帰ったとする。結婚に際して、「しぶかろかしらねど柿の初ちぎり」という句を残したという伝があるが、「しぶかろか」の句は千代女の句集になく、結婚経験があるかどうかも確証はない。
30歳のとき、京都で中川乙由にあう。画を五十嵐浚明に学んだ。52歳には剃髪し、素園と号した。72歳のとき、与謝蕪村の『玉藻集』の序文を書く。1775年(安永4年)、73歳で没。辞世の句は、「月も見て我はこの世をかしく哉」。1,700余の句を残したといわれている。
誤説
・「起きてみつ寝てみつ蚊帳の広さかな」が千代女の句として広く流布しているが、実は千代女の作ではなく、彼女以前に元禄時代の浮橋という遊女が詠んだ句である。
・一茶が引用した「蜻蛉釣り今日は何処まで行ったやら」の句も、生涯1,700余りの句の中になく伝説と見られる。
代表的な句
・朝顔に つるべ取られて もらい水 (35歳のときに、朝顔や〜 と詠み直される)
正岡子規は俳論書『俳諧大要』でこの句を取り上げ、もらい水という趣向や釣瓶を取られての表現がこのうえなく俗であり、人口に膾炙する句ではあるが俳句とは呼ぶべきではないと断じている。一方、鈴木大拙などは、「彼女がいかに深く、いかに徹底して、この世のものならぬ花の美しさに打たれたかは、彼女が手桶から蔓をはずそうとしなかった事実によってうなずかれる」(『禅』所収)と絶賛している。また、直筆原稿に「朝顔や」と書かれているものがあることから、金沢では「や」の方を奨励している。
・月も見て 我はこの世を かしく哉  
●加賀の千代女 4 
自然に対する深い愛情を表現した俳句を詠み、俳句を通じて国際交流の先駆けを果たしたとされる俳人、加賀の千代女(かがの ちよじょ。1703〜1775年)を紹介する。
加賀の千代女(以下「千代女」)は、1703年、加賀国松任(まっとう)(現在の石川県白山市(はくさんし))の、掛け軸などを仕立てる表具屋の娘として生まれた。千代女は、幼い頃から父が集めた書画に囲まれて育ち、6歳(*1)の頃にはすでに俳句を詠んでいたと伝わっている。
17歳のときには、俳人・松尾芭蕉(*2)の弟子、各務支考(かがみ しこう)に俳句の才能を認められ、「あたまからふしぎの名人(不思議というしかないほどの名人)」と評された。こうした周囲の評価にも後押しされ、千代女は俳句の創作に打ち込んでいく。その後、両親や兄弟が相次いで亡くなり、30代半ばから一時、家業を切り盛りするために俳句から離れたが、40代後半から1775年に73歳で亡くなる直前まで俳句の創作に情熱を注いだ。千代女が一生のうちに詠んだ俳句は、現在までに約1900句確認されている。
千代女の故郷である石川県白山市に建つ「千代女の里俳句館」の学芸員、横西彩(よこにし あや)さんは「千代女の句は情緒的で、豊かな感性と自然に対する深い愛情がうかがえます。生まれ育った土地の豊かな自然と四季折々の美しい風景が、彼女の作る句に影響を与えたと言えるのではないでしょうか」と語る。
千代女は52歳の時に出家し、仏門に入り、尼僧となった。横西さんは、「千代女は、『世の中が嫌になったから出家したのではなく、月日の流れの早さに心細くなったため』と(記(しる))しています。ただ、尼僧となった後も、千代女は多くの俳句を作っています。おそらく家業が軌道にのって、俳句に打ち込める環境になったのではないかと考えられます」と話す。
千代女が世により広く知られるようになったきっかけの一つに、朝鮮通信使(*3)へ俳句の献上がある。1763年、朝鮮通信使一行が、徳川家治(とくがわ いえはる。1737〜1786年)の第10代将軍就任祝賀のために来日した時、61歳の千代女は、この一行に、俳句を献上することになったのだ。
「千代女は、加賀藩(*4)の命を受け、掛軸6幅と扇15本に自作の句を書いて献上しました。これは、日本の俳句作品が公式に海外へ紹介された、極めて初期の事例です。つまり、千代女は、俳句による国際交流の先駆け役を果たしたと言えるでしょう。さらに、明治時代(1868〜1912年)には、ドイツの日本文学研究者カール・フローレンツ(1865〜1939年)や英国の言語学者バジル・ホール・チェンバレン(1850〜1935年)によって、千代女の俳句が翻訳、紹介されたことで、“女詩人チヨ”としてその名が世界に広がりました」と横西さんは言う。
千代女の豊かな感性と自然に対する深い愛情が、日本人のみならず、外国人の心にも触れたにちがいない。

*1 年齢は全て、伝統的な「数え年」での年齢。生まれた時を1歳として、1月1日を迎える毎に1歳ずつ加える。
*2 芭蕉は17世紀の俳人で、「俳聖」として知られる。
*3 朝鮮通信使は1603年から1811年まで12回にわたり朝鮮国から来日した外交使節団。
*4 加賀藩は、現在の石川県と富山県にあたる地域を所領とした、江戸時代で最も有力な藩の一つ。
朝顔やつるべとられてもらひ水
千代女の最も有名な句。制作年は不明だが、若い頃の作と考えられる。季語は「朝顔」で秋。「朝早く起きて井戸の水を汲みに行くと、釣瓶(つるべ)の縄に朝顔の蔓(つる)が絡みついて美しい花を咲かせていた。水を汲むために蔓を切ってしまうのは忍びないので近所から水をもらってきて間に合わせた」という様子を詠んでいる。早朝のすがすがしい空気や美しい朝顔に寄せるやさしさが感じられる趣き豊かな句である。
紅(べに)さいた口もわするゝしみづかな
制作年不明。季語は「しみづ(しみず)」で夏。「焼けつくような暑い夏の日、きちんと口紅をさして家を出たものの、あまりの暑さに途中で見つけた清水で口紅が落ちるのも忘れて喉を潤した」という光景を詠んでいる。せっかく塗った口紅が水で落ちてしまったことを気にする繊細な感情が読み取れる句だ。
百生(ひゃくなり)や蔓(つる)一すじの心より
25歳の頃の作。季語は、「百生(ひゃくなり、ヒョウタンのこと)」で初秋。この句は、仏教の教えを基に作られた句で、一本の蔓から多くのヒョウタンの実がつけるように、「人間のすべての行いはただ一つの心から生まれる。すべては心の持ち方次第」という内容を詠んでいる。この句を書いた千代女の書画が多く残っていることから、自身も気に入っていたと考えられる。 
●加賀の千代女の俳句 1
朝顔やつるべ取られてもらひ水
タイトルの句を見て「あれ変だな」と思った方は、俳句に造詣が深い人か、それなりに教養のある人です。何も思わなかった人は金沢出身の人か、俳句に関心のない人です。さて、あなたはどちらでしょうか。
これはよく知られている俳句の一つですから、知っていて当然です。ただし一般には、「朝顔につるべ取られてもらひ水」という形で流布しています。ところが千代女の直筆に「朝顔や」と書かれているものがあることから、本場の金沢では「や」の方を奨励しているのです(「に」から「や」に推敲)。だから金沢出身云々と言ったのです。
では「に」と「や」ではどのような違いがあるのでしょうか。なんだか古文の問題のようで申し訳ありません。文法的にはどちらも間違っていません。それならどっちがいいのでしょうか。わかりやすいのは断然「に」の方ですね。朝早く起きて井戸まで水を汲みに行くと、朝顔のつるが釣瓶(の綱?)に巻きついていました。そこで擬人法的にこう詠んだと解釈できるからです。わざわざ「もらひ水」をした理由がはっきりしていますね。
それが「や」だと少々複雑になります。俳句の「や」はいわゆる「切れ字」ですから、一度そこで文が切れます。そのため朝顔と「つるべ取られて」以下が直接結びつきません。ですから即座に誰に取られたのかが判断できないのです。そのかわり「朝顔や」とすることで、何より朝顔の花の美しさに感動していることが感じられます。一方「朝顔に」では、朝顔の花の美しさが伝わりにくいのではないでしょうか。それぞれ一長一短があるのです。
もちろんつるが巻きついているだけですから、それをほどいてあるいはちぎって、水を汲むことも可能です。そうしないで近所で水をもらうところが千代女の優しさというか、この句の見所ではないでしょうか。鈴木大拙など「彼女がいかに深く、いかに徹底して、この世のものならぬ花の美しさに打たれたかは、彼女が手桶から蔓をはずそうとしなかった事実によってうなずかれる」(『禅』所収)と絶賛しています。
それとは別に俳句の近代化をはかる正岡子規は、この句を「人口に膾炙する句なれど俗気多くして俳句といふべからず」(新聞日本)とバッサリ切り捨てています。というのも、「もらひ水」という趣向が写生から離れて「俗極まりて蛇足」だからというのです。「もらひ水」を秀句とするのか蛇足とするのか、芸術の評価というのは難しいものですね。
ここで少し古典の勉強をしましょう。千代女の詠んだ「朝顔」はどんな植物だと思いますか。というのも古典に出てくる「朝顔」はなんと普通名詞であり、朝咲く花ならどれも朝顔と称される可能性があるからです。そのため「朝顔」という名の植物には大きな変遷があります。古く万葉の時代、「朝顔」は現在の桔梗のことでした。ですから秋の七草の「朝顔の花」は桔梗のこととされています。
その後、外来種の槿(むくげ)が「朝顔」の座を奪います。さらに同じく外来種の牽牛子(けんごし)も「朝顔」と称されています。それが江戸時代になって淘汰され、最終的に牽牛子の固有名詞として「朝顔」が定着し、今日に至っているのです。ということで、時代的に千代女の「朝顔」は牽牛子(今の朝顔)で良さそうです。ただし江戸時代にかなり品種の改良が行われていますから、サイズや色や形などは原種とは大きく異なっているかもしれません。
もう一つ、朝顔の季節はいつでしょうか。小学生の頃、夏休みの宿題に朝顔の観察日記を付けた記憶のある人は、ためらわずに「夏!」と答えるかもしれません。でも俳句の季語では「秋」になっています。身近な「朝顔」にも、旧暦と新暦のずれが影響を及ぼしていたのです。古典って面白いですね。
●加賀の千代女の俳句 2
朝顔や釣瓶取ったか取られたか
正岡子規は『獺祭書屋俳話』の中で「加賀の千代」と題して一節を割いている。「加賀の千代は俳人中尤有名なる女子なり。其の作る所の句も今日に残る者多く、俳諧社会の一家として古人に譲らざるの手際は幾多の鬚髯男子をして後に瞠若たらしむるもの少なからず」と書き、千代の句と支考の句を並べ比べて「俳諧にも、男でなければ、あるいは女でなければ、言うことができないことがある」と述べている。加賀の千代、加賀千代女は、江戸時代の女流俳人で、各務支考(蕉門十哲のひとり)とも交流があった。
次の句が、千代の代表句として知られている。
   朝顔に釣瓶取られてもらひ水
しかし、この千代の句についての子規の批評は手厳しい。子規は『俳諧大要』において、次のように書いている。
「朝顔の蔓が釣瓶に巻きつきてその蔓を切りちぎるに非ざれば釣瓶を取る能はず、それを朝顔に釣瓶を取られたといひたるなり。釣瓶を取られたる故に余所へ行きて水をもらひたるという意なり。このもらひ水という趣向俗極まりて蛇足なり。朝顔に釣瓶を取られたとばかりにてかへつて善し。それも取られてとは、最俗なり。ただ朝顔が釣瓶にまとひ付きたるさまをおとなしくものするを可とす。この句は人口に膾炙する句なれども俗気多くして俳句とはいふべからず。」
〈朝顔に〉の句の解釈は、子規が述べているように、朝顔の蔓が釣瓶に巻きついていたので釣瓶を使うことができず、水をもらってきたということであろう。井戸から水を汲むために釣瓶を使いたいが、朝顔が巻きついている。引きちぎるのも忍びない。釣瓶は使わずそのままにして、水は余所からもらってこよう、ということである。朝顔を愛でる視線が伝わってくる。自然を愛おしむ気持ちが感じられる。
しかし、この子規の評を読み、よくよく考えてみると、子規が「俗極まりて」「俗気多くして」と言う気持ちがなんとなくわかる気がする。
この句が、千代の実生活から作られたものなのか想像から作られたものなのかは知らないが、仮に千代が、朝顔の釣瓶に巻きついているところを見て詠んだとすると、ちょっと嫌な書き方をするが、「私にはこんな気持ちがあるのですよ」と自慢しているようにも読めてしまうのだ。朝顔の美しさ、自然の美を詠めばいいのに、この句は人の優しい気持ち、自然を愛する気持ちを詠んでいる。そんな気持ちをわざわざ句として表現するということは俗であるということであろう。
〈朝顔に釣瓶取られて〉の「釣瓶」には助詞がついていないが、格助詞を補い、文のかたちにすると「朝顔に釣瓶を取られた」となるだろう。子規もそのように解釈している。この「朝顔に釣瓶を取られた」というのは文法用語でいうと間接受身である。対応する能動形は「朝顔が釣瓶を取った」ということになる。目的語が主語の位置にくる受身を直接受身といい、この例では「釣瓶が朝顔に取られた」とするのが直接受身である。間接受身は「被害の受身」「迷惑の受身」とも呼ばれることがあり、目的語はそのままに、被害者(被害というのが強すぎるなら被影響者といってもいい)が主語の位置にくる受身形である。〈朝顔に釣瓶取られて〉という表現には主語が明示されていないが、釣瓶を取られて迷惑を伴った人であり、〈もらひ水〉で表現されている誰かに水をもらいにいった人と同一人物であると解釈できる。
この句では、朝顔が釣瓶に巻きついているのを見て、釣瓶を使うことを止め、水をもらいにいった人物が主語であり、朝顔は主語ではない。朝顔よりも人物を主語に置くことを選択している。主語の位置は主題の位置でもあるので、人物を中心とした表現であると考えられる。
主題を人ではなく、朝顔にした方がいいのではないかというのが子規の評であろう。「もらひ水という趣向俗極まりて蛇足なり」「取られてとは、最俗なり」というのは、人が主題となってしまっていることを言っているのであろう。「ただ朝顔が釣瓶にまとひ付きたるさまをおとなしくものするを可とす」と、朝顔を主語とした言い方をしている。
Wikipedia「加賀千代女」を見ると、興味深いことが書かれていた。代表的な句としてこの〈朝顔に〉の句が挙げられているが、そこに「35歳の時に、朝顔や〜 と詠み直される」と書かれていた。
   朝顔に釣瓶取られてもらい水
   朝顔や釣瓶取られてもらい水
個人的には〈朝顔や〉の方がいい。〈朝顔や〉とすることで、朝顔を主語とした解釈をすることができる。「朝顔が釣瓶を取られた」と読めなくもない。朝顔の視点からの表現で、釣瓶を水を汲むために取られてしまったという意味である。もちろん、元の〈朝顔に〉の句の情景のままで朝顔を強調するために〈朝顔や〉としたということかもしれないが、「朝顔が釣瓶を取られた」という解釈の方が面白く感じる。
水を汲もうと井戸に行くと、朝顔が釣瓶に巻きつこうと蔓を伸ばしていた。成長はうれしいが釣瓶に巻きつかれてしまうと困る。まだしっかりとは巻き付いていないので「朝顔さんちょっとごめんね」と、朝顔から釣瓶を取り上げて水を汲んだ。そして「さっきはごめんね」と汲み上げたばかりの水を朝顔にかけてあげる。こんな情景を朝顔の視点から描いた句として読むことができるのではないだろうか。
他にもこんな解釈をしている人はいないかと(大雑把にではあるが)ネット検索をしてみたがいないようである。ただ、〈朝顔や〉としている千代直筆のものが残っているということはわかった。
●加賀の千代女の俳句 3
   朝顔につるべ取られてもらい水
   墨染で初日うかがふ柳かな
   わかみづや流るるうちに去年(こぞ)ことし
   うつくしい夢見直すや花の春
   来たといふまでも胡蝶の余寒(よさむ)かな
   よき事の目にもあまるや花の春
   手折(たお)らるる人に薫るや梅の花
   水ぬるむ小川の岸やさざれ蟹
   花の香にうしろ見せてや更衣(ころもがえ)
   音なしに風もしのぶや軒あやめ
   ぬれ色の笠は若葉の雫にて
   風さけて入口涼し菖蒲哉
   しばらくは風のちからや今年竹
   山のすそ野の裾むすぶ清水かな
   釣竿の糸にさはるや夏の月
   秋たつや寺から染て高燈籠
   京へ出て目にたつ雲や初時雨
   似た事の三つ四つはなし小六月
   月も見て我はこの世をかしく哉
   髪を結う手の隙あけて炬燵かな
川ばかり闇はながれて蛍かな
千代女は、元禄から安永へと18世紀の七十三年間を生きた俳人。加賀国松任(現・石川県石川郡松任町)の生まれだったので、通称を「加賀千代女」という。美人の誉れ高く、何人もの男がそのことを書き残している。若年時の「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」の心優しさで世に知られ、しきりに喧伝もされた。二百余年後に生まれた私までもが、ついでに学校で教えられた。さて、句の川は何処の川かは知らねども、往時の普通の川端などは真の闇に包まれていたであろう。川面で乱舞する蛍の明滅が水の面をわずかに照らし、かすかなせせらぎの音もして、そのあたりは「川ばかり」という具合だ。このときに、しかし川の流れは、周辺の闇と同一の闇がそこだけ不思議に流れているとも思えてくる。闇のなかを流れる闇。現代詩人がこう書いたとすれば、それは想像上のイメージでしかないのだけれど、千代女の場合はまったき実感である。その実感を、このように表現しえた才能が凄い。繰り返し舌頭に転がしているだけで、句は私たちの心を江戸時代の闇の川辺に誘ってくれるかのようである。寂しくも豊饒な江戸期の真の闇が、現代人の複雑ながらも痩せ細った心の闇の内に、すうっと流れ込んでくるようである。
万歳やもどりは老いのはづかしく
いつの世も、歌と笑いは感性の先端を行くものであり、若い人の心を捉えてはなさないものです。我が家にも若い娘が二人いることもあって、最近はお笑いの番組がテレビに映っていることがしばしばあります。言葉への接近の仕方、ということでは確かに漫才に学ぶところは多く、時代そのものをからかう姿勢は、とても若い人にはかなわないと感心しながら、わたしも娘の後ろからテレビを見ています。この句の季語は「万歳」。新年を祝う歌舞の意味ですが、滑稽味を表してもいるその芸は、漫才の起源といってもよいのでしょう。「ピエロの涙」に言及するまでもなく、笑いの裏側には悲しみの跡がついているようです。人を笑わせた後の寂しさは、その対比がはっきりとしていて、見るものの胸を打つものがあります。面白おかしく演じたその帰り道に、芸の緊張から解かれた顔には、はっきりと老いの徴(しるし)が見られます。それを「はづかしい」と感じる心の動きを、この句は見事に表現しています。老いがはづかしいのはともかく、万歳といい、句といい、自分の表現物を人前にさらすことはたしかに、はづかしい行為です。でも、このはづかしさなくして、人の胸に届くものはできないのかなとも、思うのです。
●加賀の千代女の俳句 4
   —春—
山吹や 影も狂はぬ 水の影
山吹は野山に自生しているほか、渓流際に咲いていることもある。従って、この水は渓流の水を意味しているのであろう。水の流れが淀んで、しかも停滞している所に山吹の花が咲いている。風がなく、水面が鏡のようで、黄色い山吹の花の綺麗に咲いている姿がそのまま水面に映っている。それを「影も狂はぬ」と表現している。素晴らしい表現力と思う。「影」とは「水面に映った姿」という意味である。
ももの花 我を忘れる 月日かな
女の子にとって桃の節句は特別な日である。花嫁を連想させるからである。千代女は18歳で結婚し、20歳で死別したと言われている。短かった結婚生活であり、老いて結婚に憧れる事もないと思う。しかし、桃の花を見るたびに、少女の頃、親に桃の節句を祝ってもらった楽しい思い出などに耽り当然とすることを句にした。「もも」が平仮名になっているのは、「百」をと掛けているからかもしれない。花の好きな彼女は桃の花だけではなく、花を見るだけでも、過去を思い出しては少女に戻っていたのではないか。
脇道の 夜半(よわ)や明るく 初さくら
夜中、山の脇道は真っ暗である。提灯を下げて歩いていたのであろう。それでも、足元を照らす程度の明るさであろう。歩いているうちに、山桜が咲き始めているのに気が付いた。山桜の咲いている付近が明るく感じたのである。千代女には次の句もある。
   踏み分けた 情(なさけ)の道や 山さくら
   —夏— 
花の香に うしろ見せてや 更衣
この句は何処で作ったのだろう。字義通り受け取るなら、自分の家の庭に桜の木が植えてあり、庭に背を向けて衣替えの準備をしたという事になる。しかし、彼女が住んでいた加賀では、桜の花の季節は衣替えをするには早すぎると思われる。遅咲きの桜があったのかもしれない。季語「衣替え」は夏を意味するが、この句は晩春を詠んだ句である。つまり、衣替えが主題ではなく、「春を惜しむ」のが主題である。つまり、花が散るのを見るのではなくて、花が散るのを惜しんで背を向けたことに句の意味がある。風が吹いているので、背を向けてはいるが、花の香を感じている。そして、出して来た夏用の服を一つ一つ検(あらた)めながら、季節の変わり目を感じている。
   —秋—
はからずも 琴きく雨の 月見哉
中秋の晩に雨が降っている。月を見ようと、時折空を見上げてはいるものの、月は必ずしもその姿を表わさない。誰かが筝を引き始めた際に、「図らずも」満月が姿を現した。しかし、雨は止むことがない。これで、満月、雨、そして筝の音が同時に楽しめる、これは天の計らい事で、幸せな事だ。
星合を何とかおもふ女郎花(おみなえし)
星合とは、七夕に織女の星と牽牛の星が出会うことをいう。女郎花の花言葉の一つは「約束を守る」となっている。織女と牽牛が毎年七夕の日に逢瀬を重ねる約束を果たしている。女郎花も彼等の様に、その季節が来たら花を咲かせようと考えているのだろうか。
  —冬— 
初雪は 松の雫に 残りけり
初雪に喜んだが、今雪は止み、日が出ている。松の枝の上に積もっていた雪は次第に融けて、水となり枝から滴り落ちている。遂に、雫となって葉の下に残った事だなあ。雫になった風景もまた風情があることだ。
同じような句に、「花となり 雫となるや 今朝の雪」がある。
●加賀の千代女の俳句 5
千代女は元禄十六年(1703年)加賀の国松任(現在石川県白山市八日市町)の表具師福増屋六兵衛の娘として生まれ、北潟屋主人の岸弥左衛門(俳号・半睡、後に大睡)の弟子となる。更に、各務支考の指導も受け、俳句の才能を伸ばしていった。江戸を代表する俳人を並べてみよう。
   松尾芭蕉(1644年〜1694年、伊賀)
   服部嵐雪(1654年〜1707年、江戸)
   宝井其角(1661年〜1707年、江戸)
   野沢凡兆(?〜1714年、加賀)
   千代女 (1703年〜1775年、加賀)
   与謝蕪村(1716年〜1784年、摂津)
   小林一茶(1763年〜1828年、信濃)
ここに挙げた俳人は皆、作風が相異なる。千代女は当然、芭蕉の作品は研究していたであろうが、嵐雪・其角の作も、その一部は加賀まで届いたであろう。千代女は女性的な句が多く、独特の雰囲気がある。
親しくしていた中川乙由と別れる際に作った句が
   蝶ほどの 笠になるまで したひけり
である。男子にはなかなか書けない句である。女の素直な気持ちがよく表現されている。これに対して、乙由は千代女の
   山吹や 柳の水の よとむ頃
を絶賛している。春の山裾の風景を描いたのではないかと想像する。山吹の黄、柳の緑が対比され、川べりの柳が風に揺れている様子と水が淀む様子とが春の雰囲気を出している。
私が気に入った次の千代女の句を鑑賞する。
   
   梅さくや 何がふっても 春は春
   百なりや つる一筋の 心より
   閑かさは 何の心や 春の空
   よきことの 目にもあまるや 花の春
   春風や いろいろの香を そそのかし
「梅さくや」では「雪が降っても春は春」と言いたいのであるが、雪と言わず、霰と言わず、雨と言わず、何が降ってもと言っている所が工夫した所である。
「百なりや」は千代女の仏心を表現した作品。百成瓢箪(ひゃくなりびょうたん)が百成(ももなり)になるまでに、多くのドラマがあった事を読み手に示唆する句となっている。
「閑かさ」は「しずかさ」「のどかさ」どちらに読めば良いのであろう。これを知るためには次の短歌が補助線になる。
久方の光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ 紀友則・古今和歌集
(大意:こんなにも長閑な春なのに、どうして桜の花は、落ち着いていられず、慌ただしく散ってしまうのでしょう)
一つの歌の中に「のどか」と「しづ心」の双方の言葉が入っている。千代女の心には、この歌があって作ったと考えれば、「閑かさ」は「しづかさ」と読むのであろう。紀友則の歌では、「しづ心」がないのは桜の花であるが、千代女の歌では「何の心」と問いかけている。この問い掛けに対する解釈は二通りある。一つは、「何の花の心」であり、もう一つは「誰の心」である。千代女は女性の観点から歌うことが多いので、後者の解釈においても、「誰」を女性に限定出来るかもしれない。
前者の解釈に立ってみよう。春は心が急く季節である。あっちに花が咲き、こっちにも花が咲く。どの花もその時になれば、自然と花が咲き、そして自然に散るのであり、何も慌ただしく咲いて慌ただしく散っていくわけではない。この様に考えると、句意は次のようになる。
「紀友則は『桜の花はしづ心無く』と言っているけれど、そうかしら?どの花も皆しづ心で咲いて散るのではないかしら?それとも、変化の多い(しづ心無き)春の空のせいかしら?」
後者の解釈に立ってみよう。花を見るのに、雨が降るのを心配する人もいれば、逆に一雨降って欲しいなどと思う風流な者もいる。同様に、雷を心配する者もいれば、逆に雷を喜ぶものもいる。気候の変わり易いこの時期の人の心も変わり易い。花みる人の「しづ心」などは何処にあるかしらなる。そこで、その句意は次のようになる。
桜の花が咲く時分は気候が変わり易い季節ね。人の心も変わり易く、空模様がそうである様に、しづ心などは望めないわ。
簡単そうに見えるこの句が、以外に深みのある句ということが理解されたと思う。
「よきことの」と「春風や」の句は同工異曲。春が深まるにつれて、春化粧が濃くなっていく姿を心嬉しく見ている。
   
   夕顔や ものの隠れて 美しさ
   葉桜の 昔忘れて すずみけり
「夕顔や」の句は、夏の夜に夕顔が咲いているが、暗くて、周囲がよく見えないが、却って夕顔の美しい白が際立っている。
「葉桜の」句の「昔」とは、花が咲いていた時分を指す。その頃はまだ花冷えだったかもしれない。しかし、今は緑の葉桜を眺めながら、涼んでいる。
   
   月の夜は 石に出て啼く きりぎりす
   稲妻の 裾を濡らすや 水の上
この二つの句は花を題材にしていないが、特に目にとまったので、紹介する。
「月の夜」の句は、月が大きな石の上のキリギリスを照らし、秋の雰囲気を醸し出している。絵画的な句であり、この句を詠むと、「岩鼻やここにも一月の客」を思い出す。
「稲妻の」句は、稲妻の音に驚いた少女が水たまりで裾を濡らしてしまったという可愛らしい句である。この句は、千代女が17歳の時に「稲妻」の題を与えられて作ったもので、彼女の可愛らしさが出ている。
   
   春の夜の 夢見て咲くや 返り花 (返り花とは季節外れの花を言う。)
季節外れの花を歌った句であるが、春を夢見て咲くとは、冬なのに春を待ちきれなくて咲いた花という感じが出ていて、女性らしい句である。
●加賀の千代女の俳句 6
春の俳句
   世の花を 丸うつつむや 朧月
季語:朧月(春)
意味:世に咲いている花をぼんやりと丸く包み込むような光だ。あの朧月のかすかな光は。
朧月は、薄曇りの夜にぼんやりと輝く光が特徴の月です。秋や冬の月の鋭い輝きと違って、咲き誇る花を包み込むような優しい光を「丸うつつむや」と表現しています。
   ふみわけた 情(なさけ)の道や 山さくら
季語:山さくら(春)
意味:後から来る人のために踏み分けてある、人の情けを感じる道だなぁ。道の先で山桜がきれいに咲いている。
山桜への山道を、後に見に来る人のために誰かが丁寧に踏み分けて道を作ってくれていた光景を詠んだ句です。山道は踏み跡があるかないかで歩きやすさが全く違うため、人の情けに感動しています。
   春風や いろいろの香を そそのかし
季語:春風(春)
意味:春風が吹いている。いろいろな花や食べ物の香りをそそのかすように運んでくる。
春になるとさまざまな花が一斉に開花します。また、桜餅など独特の香りのする食べ物も多く、お祭りなどではさらに多くの香りにあふれるでしょう。そんな香りがただよってくる、ではなく「風がそそのかした」としたところにユーモアを感じます。
   折返す 春や百とせ 千とせまで
季語:春(春)
意味:還暦をむかえ、人生の折り返し地点に立った春だなぁ。このまま百歳、千歳までも生きていたいものだ。
60歳の春を迎えたことを報告する手紙に記されていた一句です。還暦とは干支十干が一巡りする区切りの歳であり、これからの人生に思いを馳せています。
   梅が香や ことに月夜の 面白し
季語:梅が香(春)
意味:梅の良い香りがただよってくるなぁ。梅の香りをかぎながら見る月の夜は、全てのものにおもむきがあって面白いものだ。
どこからともなくただよってくる梅の香りと、月に照らされる夜の風景を詠んでいます。「ことに」と強調することで、春の月夜の趣深さへの感嘆を表現した句です。
   手折らるる 人に薫るや 梅の花
季語:梅(春)
意味:手折った人に薫っている梅の花の香りだ。
梅の花は姿もさることながら、特に香りを賞賛される花です。梅の花の枝を手折った人から梅の香りがより濃く漂っていることに着目しています。
   朝夕に 雫のふとる このめ哉
季語:このめ/木の芽(春)
意味:朝に夕方に、雫のしたたる木の芽がどんどんと膨らんでいくことだ。
木の芽が膨らんで葉が出そうな様子を「ふとる」と表現しています。朝と夕方を詠んでいるので、作者が日々気にかけていた木の芽なのかもしれません。
   春雨や うつくしうなる 物ばかり
季語:春雨(春)
意味:春雨が降っているなぁ。春は雨にぬれても美しくなる物ばかりだ。
春雨に濡らされることによって、新緑や花、地面などが美しく見えていると感じている一句です。何もかもが美しいという感情は、長い冬が終わり生命力のあふれる春になった喜びからきていると考えられます。
夏の俳句
   蛍火や よしなき道も そこらほど
季語:蛍(夏)
意味:蛍が舞って光っているなぁ。あまり歩くにはよくない道だが、蛍のいない道に比べればそれほど悪くない。
「そこらほど」というまるで口語のような平易な表現を用いています。暗くて歩きにくい道でも、蛍を見ながら歩けるならいいじゃないか、という気楽さが伺える一句です。
   垣間より 隣あやかる 牡丹かな
季語:牡丹(夏)
意味:垣根の間から、隣の人があやかるように鑑賞している我が家の牡丹であることよ。 隣の
家のガーデニングの花や植木がちらりと見えて、季節を実感することは現在でもよくあるでしょう。江戸時代でもそのような感覚は変わらなかったと親近感を覚えます。
   ゆふがほや 物のかくれて うつくしき
季語:ゆふがお(夏)
意味:夕暮れになって夕顔が咲いているなぁ。薄暗くなって、いろいろな物が見えなくなっている中で夕顔の白い花が浮かび上がって見えるのがなんとも美しいものだ。
夕顔はその名のとおり、日没から夜明けにかけて咲く花です。薄暗くなって庭や垣根などいろいろな物が見えなくなっていく中で、花だけがぼんやりと浮かんで見える美しさを詠んでいます。
   まだ神の むすばぬも出て 田植哉
季語:田植(夏)
意味:まだ神様の縁結びも済んでいない若者まで出てきて田植えをしていることだ。
「神の結び」とは縁結びのことで、ここではまだ結婚していない若者をさします。小さな子供たちまで総出で田植えをしている家族の風景です。
   起きてみつ 寝てみつ蚊帳の 広さかな
季語:蚊帳(夏)
意味:恋しい人がいなくて、起きてみたり、寝てみたりする。1人寝の蚊帳の広さが寂しいものだ。
加賀千代女が夫と死別したときの句と伝えられていましたが、元禄時代の「浮橋」という遊女の句であることがわかっています。単なる寝床の広さではなく、蚊帳で囲まれた場所が広くて寂しいという、寂しさを空間的に表現した名句です。
   散れば咲き 散れば咲きして 百日紅(さるすべり)
季語:百日紅(夏)
意味:散れば咲いて、また散れば咲いていくサルスベリの花だ。
サルスベリはその名前の通り、夏から秋にかけて100日もの間咲き続けると言われています。同じ花が咲き続けるのではなく散っては咲くことを繰り返しているため、作者の観察眼が光る一句です。
   川ばかり 闇はながれて 蛍かな
季語:蛍(夏)
意味:あたりは真っ暗で川ばかりがあるのを感じる。闇が川の上を流れるように見えて、その上に蛍が舞っていることだ。
現代の日本とは違って作者が生きていた江戸時代には街灯がなく、川は真っ暗な暗闇の中に流れていました。その上を蛍が舞うことでわずかな光が水面に反射し、川の上の闇までもが水のように流れている感覚を詠んでいます。
秋の俳句
   朝がほや 釣瓶とられて もらひ水
季語:朝がほ(秋)
意味:朝顔が咲いているなぁ。朝顔の蔓が釣瓶に巻きついているが、蔓を切るのが忍びないので近所から水をもらってきた。
加賀千代女の代表作です。「朝顔に」とされている句もありますが、後の句軸などで「朝顔や」と詠み直したことがわかっています。蔓を切らない優しさと、釣瓶を動かせずに近所に助けを求める江戸時代の庶民の生活を生き生きと描いた一句です。
   百生(ひゃくなり)や つるひとすじの 心より
季語:百生(秋)
意味:百生瓢箪は一本の蔓に多くの実を付ける。同じように、人のさまざまな行いも唯一その人の心から生まれるのだ。
「百生」とは「百生瓢箪」を略した季語で、ひとつの蔓に多くの瓢箪が付くことから名付けられました。この句は仏教における「三界唯心」を説いたもので、「全ては心から発生する」ということわりを百生瓢箪に例えたものです。
   ゆふぐれを 余所に預けて もみぢ哉
季語:もみぢ(秋)
意味:夕日に照らされる紅葉はとても美しい。しかし夕日はすぐに暮れて見えなくなってしまうので、夕暮れをよそに預けて紅葉を見ていたいことだ。
夕暮れで見えないと詠む句は多いですが、「余所に預けて」という表現がユーモアを感じさせます。秋は日が落ちるのが早いため、ほんのわずかな時間だけ楽しめる夕日と紅葉の美しさを称えた句です。
   とんぼつり 今日はどこまで 行ったやら
季語:とんぼつり(秋)
意味:トンボを釣りに行ったあの子は、今日はどこまで遊びに行ったのやら。
加賀千代女が幼くして亡くした子を思った句とされていますが、千代女が残した句集や句軸に残されていないため、本当に千代女が詠んだ句かはわからないとされています。子を気づかう母親の句と取るか、亡き子が遊んでいるのを想像した句と取るかで印象が変わってくる俳句です。
   月も見て 我はこの世を かしく哉
季語:月(秋)
意味:長らく病を得ていたが、仲秋の名月も見られた。私はこの世からお暇しよう。
加賀千代女の辞世の句です。「かしく」という言葉の解釈にいくつか説があり、「病で痩せた」「じゅうぶんに生活した」「かしことも書く手紙の末尾のあいさつ」といろいろな意味にとれます。辞世の句としての意味が通る「この世を去る」と解釈しました。
   雫かと 鳥もあやぶむ 葡萄かな
季語:葡萄(秋)
意味:まるで雫のようだと鳥も考えてしまうほど見事なブドウであるなぁ。
見事なブドウの粒を見て雫に例えている面白い一句です。飛んでいる鳥がついばもうとしても、あれは本当に果物だろうかと考えてしまうほどだと例えています。
   長き夜や かはりかはりに 虫の声
季語:長き夜(秋)
意味:秋の長い夜だなぁ。かわるがわる虫の声が聞こえてくる。
秋の夜に聞こえてくる虫の声は常に一定ではありません。この句では長い夜を過ごしている間に変わっていく虫の音に耳を傾けています。
冬の俳句
   ともかくも 風にまかせて かれ尾花
季語:かれ尾花(冬)
意味:とにもかくにも、風にまかせて揺れる枯れたススキのように、全てを仏様におまかせしよう。
作者が仏門に入ったときの句です。仏教では全てを仏の慈悲に委ねる考え方が一般的のため、風に身を任せるススキと、仏に身を任せる自分自身を掛けています。
   髪を結ふ 手の隙(ひま)明て 炬燵哉
季語:炬燵(冬)
意味:仏門に入って剃髪したことで、髪を結う時間が必要なくなった。その暇を炬燵の中で過ごしていることだなぁ。
俗世にいた頃は髪を伸ばしていたため、その手入れや髪結いにとても時間がかかっていたのでしょう。剃髪してからは髪の手入れをする必要がないため、その分の時間をコタツに入って詩作に励んでいます。
   朝の日の 裾にとどかぬ 寒さ哉
季語:寒さ(冬)
意味:朝日の光が着物の裾に届かないので、とても寒いことだ。
冬の太陽は夏に比べて低い位置にあるため、光の入り方が変わってきます。日の光が届かずに寒い様子を平易な表現で詠んだ句です。
   松風の ぬけて行たる しぐれかな
季語:しぐれ(冬)
意味:松の林に風が吹くごうという音がかけ抜けていくような時雨の音であったことだ。
「松風の時雨」という表現があります。松林を風が吹き抜けていく音と時雨が降る音を掛けて詠まれる表現で、この句も松風の時雨を意識して実際の時雨を詠んだものです。
   万両は 兎の眼もち 赤きかな
季語:万両(冬)
意味:万両は兎の眼のように赤い植物であることだなぁ。
「万両」とはヤブコウジ科の常緑樹で赤い実をつけます。冬に実をつけることで正月の縁起物とされていて、この句では赤い実を兎の赤い目に例えているユーモアのある俳句です。
   水仙の 香やこぼれても 雪の上
季語:水仙(冬)
意味:真っ白な水仙の花の香りがこぼれても、そこは真っ白な雪の上なのだ。
白い水仙の花と白い雪を対比させている一句です。落ちるものを花弁ではなく香りという目に見えないものにすることで、寒い冬に香り高く咲く水仙の花を称えています。
   花よりも 名に近づくや 福寿草
季語:福寿草(新年)
意味:花としての美しさではなく名前のめでたさこそが福寿草なのだ。
「福寿草」は黄色い花を咲かせる正月の縁起物で、名前の通りめでたいものとされてきました。作者は美しい黄色の花よりもそのおめでたい名前こそ重要だと詠んでいて、独特の感性を発揮しています。
   鶴のあそび 雲井にかなふ 初日哉
季語:初日(新年)
意味:鶴が舞うように遊び、雲がたなびくはるか遠いところからも見ることができる初日の出であることだ。
朝鮮信使に献上した句のうちの一つです。めでたい鶴や初日の出を詠み込んだうえで、たなびく雲と「はるか遠いところ」という意味を掛けた雲井という言葉を使っています。  
●千代と一茶
千代(ちよ)
・朝顔につるべ取られてもらひ水
・木から物のこぼるる音や秋の風
・何着ても美しうなる月見かな 
・ころぶ人を笑うてころぶ雪見かな
千代というのは、加賀千代女(かがのちよじょ、かがのちよめ)のことで、江戸時代中期、18世紀の俳人です。石川県白山市の出身で、素晴らしい俳人というだけでなく、日常生活においても人々から大変に尊敬され、本人も世間から悪しざまに言われないように身の持ち方に気をつけて、堂々と生きた女性としても有名な女性です。女性俳人の代表とされ、名句をたくさん残していますけれど、そのひとつひとつに心根のやさしさがあふれ、まじめに俳句を勉強し、まじめに生き抜いた女性としての品格さえも、歌から感じ取れる凄みがあります。
   朝顔につるべ取られてもらひ水
冒頭にある絵は、歌川国芳が、この「朝顔につるべ取られてもらひ水」を絵にしたもので、まさに歌のイメージにぴったりの絵になっています。「ある朝、井戸で水を汲もうとしたら、朝顔が釣瓶の所につるを巻きつけていました。水を汲むには、その朝顔のツルを千切ってしまえば済むところ、なんだかそんなことをしたら健気な朝顔がかわいそうで、隣の家に水を貰いに行きました」といった意味の句です。
わずか12文字の短い言葉の中に、朝の情景や朝顔の清々しさが浮かび、おそらく女性でしょうか、ツルを切らずに水をわざわざもらいに行く女性の、やさしい心が、心地よく伝わってきます。
けれどそれだけでなく、朝という時間帯が、出勤前の忙しい時間帯であることは、昔も今もなんら変わることはありません。そんな忙しい時間にあっても、やさしい心遣いを忘れない。健気な植物をおもいやる。自然をたいせつにする。植物をたいせつにする。そんな「思いやりの心」の美しさ、たいせつさを、この句はあざやかに描いているということができます。
   木から物のこぼるる音や秋の風
「秋の風」とありますが、ここで詠まれた風は、季節が秋で、モノがこぼれるような激しい音をたてているところから、野分(台風)の強風です。台風の風はおそろしいです。けれど、そのおそろしい風を、直接「台風の強風です、こわいです」と書かないで、句から連想させるというところに、俳句の面白さがあります。
つまり、和歌と同じで、言いたいことを直接的に言うのではなく、言いたいことをあえて言わずに、相手(読み手)に連想させるようにする。いかにも日本的な「察する」文化の句です。
その台風の嵐の風が、まるで物がひっくり返って激しい音を立てている音であるかのように聞こえてきます。昔の家屋を想像してみたらわかると思いますが(私の家もそうなのですが)、大風が吹くと家が揺れます。はっきりいって、強風は怖いです。家が飛ばされかねないからです。
ところがその台風のおそろしい強風を、これまた「秋の風」と千代女は詠んでいます。つまり、そんなおそろしい風さえも、それはそれで季節の風物として、千代女は現実として受け入れようとしています。
つまり、この句の凄みは、たとえどんなに辛いこと、恐ろしいことがあったとしても、それを受け入れ、消化し、そこからまた強く立ち上がっていく。「強い」という字は、「勁い」とも書きますが、この「勁い」は、「疾風に勁草を知る」から来ています。どんなに強い風が拭いても、草花はその風を「柳に風」と受け流す。それが「勁さ」だという言葉です。
この句は、その「疾風に勁草を知る」を、女性の立場から千代女が俳句にしたということができます。
ちなみに白山市の松任には、千代女の居宅が有った場所に、いまも「なつめ」の老木があります。もう樹齢300年を超えているそうですが、その「なつめ」の木が、この歌に詠まれた木なのだそうです。
本当に日本は歴史の古い国なのだと思います。
   何着ても美しうなる月見かな
季語で「月見」とありますから、前の句と同じ秋、おそらくは中秋の名月であろうと思います。その美しい満月の月灯りのもと、女性たちは、子供達と一緒に、お団子などを食べながら「お月見」を楽しみます。ちょうど良い加減の満月の月灯りで、普段着の女性たちが、夜風に映えて美しい。そんな情景です。
さらにいうと、この時代、「美しい女性」というのは、単に見た目が良い、顔立ちが良い、あるいはスタイルが良い女性をいいません。心根のやさしさや、働き者であること、家事や人付き合いなどを、まめに行う活き活きとした女性のことを「美しい」と言いました。
ですからこの歌にある「何着ても美しい」というのは、いわゆる月見のために着飾った女性、商売で着飾っているような女性たちではありません。ツギのあたった野良着を着ている女性たちが、月灯りのもとで、生き生きと輝いて見えることを詠んでいます。
さらにいうと、「何着ても」というのは、どんな身分や職業の人であっても、あるいはどのような民族衣装を着た人たち(他国の人たち)であっても、という意味にもなります。どんな民族、身分、職業の人であっても、お月様の下では、等しく人間です。それを「美しい」という。つまり、互いを人して対等な存在として認め合うという精神が、ここにあります。
   ころぶ人を笑うてころぶ雪見かな
こちらは季節が冬になります。歌に説明は要らないでしょう。みんなで雪見をしていると、誰かが雪に転んでしまいます。その様子を見て大笑いした人が、自分もまた雪にすべって転んでしまう。そんな様子をみながら、みんなで「アハハ」と大笑いしている。江戸中期の、そんな街角の楽しげな様子が、まるで目に浮かぶかのようです。
そしてこの歌には、さらに奥行きがあります。「転ぶ人」というのは、失敗した人です。失敗には、いろいろなことがあります。事業の失敗、人間関係の失敗など、さまざまです。そういう他人の失敗を、嗤(わら)う。それは、決して良いこととではありませんし、他人を笑いものにする人は、笑いものにした、そのことで自分もまた、失敗して他人に迷惑をかけたりします。
人の世に、100%の成功などありません。100%良い人もいない。すべての人は、良いこともすれば、悪いこともしてしまうし、必ず何らかの失敗をします。そうした人々の喜怒哀楽、愛憎恩恵のすべてを包み込んで、天から降る雪は、すべてを覆って真っ白にします。
人を憎んだり、嘲笑したりするのではなく、自分も、そんな失敗する人のなかのひとりだと自覚して、全部笑って、みんなでまた楽しもうよ、がんばろうよ、といった響きが、この句の中に読み込まれています。
一茶(いつさ)
・雀の子そこのけそこのけお馬が通る
・やせ蛙まけるな一茶これにあり
・やれ打つなはへが手をする足をする
一茶(いっさ)というのは、ご存知、小林一茶のことです。時代的には、千代女よりも半世紀ほどあとの人になります。一茶といえば、初婚が50歳のときで、なんと28歳の「きく」と結婚し、その「きく」が37歳で早世すると、今度は一茶62歳で田中雪と結婚、ところが雪とは半年で離婚し、その後なんと64歳で「やを」と再々婚して、一女を得ています。一茶は、58歳のときに脳卒中になって半身不随になり、63歳のときには言語障害までおこしていたそうですが、それでも連日連夜励んでいたのだそうで、まあ、元気がよいというか、むしろ、たいしたものだと感心してします。
   雀の子そこのけそこのけお馬が通る
ここでいう「雀の子」は季語になります。雀は春に卵がかえって雛になることから、季節は春です。春先の良い天気の日、雀の雛が道路で遊んでいます。
「そんなところで遊んでいたら、お馬さんに踏まれてしまうよ、危ないよ」といった歌意になります。句に「そこのけそこのけ」とありますから、その馬は、いわゆる荷駄の馬ではなくて、大名行列の馬かもしれません。
同時にこの句は、当時の武士達は、いわゆる権力者たちですけれど、そんな武士達に対して、この歌は逆に雀の子たちが「そこのけそこのけ、ここはオイラの遊び場だい」と言っているようにも見えます。つまり、権力に対して、天真爛漫な庶民が「そこのけ、そこのけ」と言っている。二本差しの武士達の権力に対して、堂々と「そこのけ、そこのけ」と言っている、いわば反骨精神のようなものも、実はこの句には詠まれています。
おもしろいのは、こうした反権力というか、反骨精神の俳句が、戦時中の小学校6年生向けの教科書に掲載されていることです。戦時中なのです。いまどきの学者さんや、一部の宗教家や左翼の人達は、まるで「戦時中は言論が封殺されて、国家権力の下で何もかもが押さえつけられた時代」といいますけれど、まさにそういう時代に、子供達に小林一茶の「そこのけ、そこのけ」が、学校で教えられているのです。
この一茶の「そこのけ」の句と、そのひとつまえにある千代女の「ころぶ人を笑うてころぶ雪見かな」の句を重ねてみると、おもしろいことがわかります。それは、「たとえ国家権力といえども、人の世なのです。間違いを犯すこともある。だからこそ、ひとりひとりがしっかりと勉強し、自立した大人となって、たとえ相手が国家権力であろうとも、間違いは間違いとして、しっかりと訂正できる大人になってもらいたい」という明確なメッセージです。
   やせ蛙まけるな一茶これにあり
痩せたカエルが、何かに飛びつこうとしているのか、それとも他の何かと喧嘩しているのか、それはわかりません。ただ、痩せたカエルが、何かに挑戦しようとしている。その痩せカエルに、一茶が「負けるな、がんばれ!、オレがついてるぞ!」と応援しています。
だからといって、一茶は、その痩せカエルが喧嘩している相手を踏み潰したり叩いたりはしないでしょう。一茶は、ただ、見ていて、応援しているだけです。けれど、「一寸の虫にも五分の魂」、たとえ痩せても日本男子。どんなに苦しくても辛くても、戦うべき時には、命をかけて戦う。世に非道があれば、それを正すために戦う。
この世に、理想社会なんてものは存在しません。どんなに素晴らしく平和で安定した豊かな世であっても、その中には競争もあり、憎しみもあり、戦いがあります。それでも、どこまでもみんなのために、自分を鍛え、精進し、みんなのために生きていく。それは、断じて隷従することではない。どこまでもみんなのため。それが皇国臣民の生き方であると、こうして教えられたのです。
   やれ打つなはへが手をする足をする
「はへ」というのは「蝿」のことです。蝿は本当に邪魔なものです。まさに「うるさい(五月蝿い)」存在です。
けれど、だからといって、打つ、つまりただ殺すのではなくて、その蝿が手をする、足をするなら、そうさせてやりなさい、とこの俳句は詠まれています。「泥棒にも三分の理」、ただ一方的に裁くのではなく、三分でも理があるなら、ちゃんと聞いてあげようではないか、と、この句は教えてくれています。
それは、ただの「やさしさ」ではありません。そこには「三分の理」は三分の理として、それだけに影響されないしっかりとした自我が形成されていなければなりません。そうでなくては、蝿のための世の中になってしまう。
しっかりとした信念と覚悟を持ち、そのうえで、たとえ蝿であっても、その言い分は、ちゃんと聞き届ける。そうしても、蝿の言いなりにならないだけの、しっかりとした信念を持つ。そのために勉強する。

ご紹介した7首の俳句は、国民学校の小学6年生向けの国語教科書に掲載された俳句です。その「国民学校」というのは、それまで「尋常小学校」と呼ばれた小学校を、昭和16年4月から改組して「国民学校」として発足しました。つまり、まさに戦時中の小学校です。
戦時中の小学教育ですから、戦後には、「軍国主義のファシズムを徹底するための教育制度であった」などと悪しざまに言われ続けてきました。ところが、では、どのような教育が国民学校で行われ、どのようなことを書いた教科書が使われていたのかと、実際にその教科書を読んでみれば、まさに、今日お伝えした、「やさしい心を持ち、しっかりと学び、察する心を養うことで、たとえ権力であったとしても、間違っているものには、しっかりと立ち向かう精神」が、しっかりと教えられていたわけです。 
   
 

 

良寛 1831
散る桜残る桜も散る桜
●良寛和尚 1
   散る桜 残る桜も 散る桜
江戸時代の曹洞宗の僧侶で、歌人でもあった良寛和尚の辞世の句と言われている歌です。意味は、「今どんなに美しく綺麗に咲いている桜でもいつかは必ず散る。そのことを心得ておくこと。」というように受け取れます。要するに限られた「いのち」です。
皆さん少し平生を振り返って考えてみましょう。今の世の中は色々悩み事が多くあります。仕事、家庭、対人関係、子育て、自分の将来、健康やお金のこと等、幸せな事より悩み事の方が多く重たくのし掛かっている毎日ではないでしょうか。
しかし、物事にはすべて結果があることは言うまでもありません。無常にも時間は止めることができません。ならばどう時間を過ごすのかを考えること。 即ち、限られた「いのち」の中で、その結果に到るまでを如何に充実したものにし、悔いの残らないようにすることが大事だと思います。
また、この良寛和尚の句から親鸞聖人が得度をされる時にお詠みになられたと伝えられる「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」という歌を連想させられます。「明日があると思い込んでいる気持ちは、いつ散るかもしれない儚い桜のようです。夜に嵐が吹こうものならもう見ることはできません。」とそのような心境で親鸞聖人は慈鎮和尚に得度を願われたことと思います。
この二つの歌から伺えることは、今生きている命を「如何に生きるか」ということではないでしょうか。自分自身が積み重ねてきた過去の経験(苦しみや楽しみ)を現在に生かし、そして未来につなげていくことができるのは、自分一人の力ではありません。いろいろな人に支えられているからこそ実現できるのです。
そのことに気付き、そして感謝の気持ちを持って日々充実した生活を過ごさせていただくことが私たちの使命なのではないでしょうか。
●良寛和尚 2
良寛禅師 辞世の句
いつも衣の懐に手毬やおはじきを入れて、子どもらと無邪気に遊んでいたという良寛和尚。「散る桜 残る桜も 散る桜」という禅語は、そんな良寛の辞世の句と言われている。
今まさに命が燃え尽きようとしている時、たとえ命が長らえたところで、それもまた散りゆく命に変わりはないと言い切る良寛の心。桜は咲いた瞬間から、やがて散りゆく運命を背負う。
ブッダが説いた「死」の原因
仏教の創始者であるブッダは80歳で亡くなった。旅の途中、チュンダという人物から施しを受けた供物を食べたことによる食中毒が原因だったと考えられている。それはキノコ料理だったとも、豚肉料理だったともいわれている。
極度の下痢と脱水症状に苦しみ、衰弱していくブッダの姿を見て、チュンダは責任を感じ泣き続けていたという。
しかし、そんなチュンダに、ブッダはこう言い聞かせた。
「チュンダよ。嘆く必要はない。お前は最後の供物を私に与えてくれた。大いなる功徳がお前にはある」
また、齢80になって死の淵をさまようブッダの傍で、不安にうろたえる弟子のアーナンダにはこう言い聞かせた。
「嘆くでない。悲しむでない。生じたものが滅しないということはありえないのだ。生まれた者は必ず死ぬのである」
人は生まれた時点で必ず死ぬことが決まっている。生まれたから、死ぬのである。チュンダの食事を食べなくても、ブッダは死を免れることなどできはしなかった。
だからブッダはチュンダが罪の念に苛まれるのを防ごうとした。自分の食事が死の原因だなどと思って嘆かなくていいのだ、と。
それどころか、貧しい身でありながら精一杯の食事を施してくれたチュンダに対し、あなたは大きな功徳を積んだと言って、感謝の気持ちさえ伝えている。この言葉を聞いて、チュンダは一層涙を流したに違いない。
死に至る病を患い、余命を宣告されるのは、死を眼前に突きつけられることと同じであり、辛く厳しいことであるのは間違いない。だが、余命というのであれば、人は生まれた時点で「寿命」という余命を宣告されて生きていることを忘れてはいけない。
誰もが、生きて、死ぬのである。1年後の死は不幸で、10年後の死は幸福かといえば、そんなわけはないだろう。
ガンが不幸の元凶なのではない
ガンを患い医者から余命を宣告され、苦悩の日々を送っていた人がいた。
その人は当初、残りの人生を悲観することしかできなかったが、ある時、いまある命の尊さに深く感じ入り、これまでに味わったことのない幸福感を覚えたという。
「ガンを患うことがなければ、生きることの尊さも、命の尊さも知らずに人生を終えていたかもしれない。命というものに意識を向けることなく死んでいたかもしれない。だから今では、むしろ人生の最後にガンを患ったことを有り難いことだとさえ思っている」
その人はそう述懐した。
幸福や不幸といった概念がいかにあやふやなものであるかを思い知らされる。
致死率100%の寿命
人は死ぬ。必ず尽きる命を得たこの人生は、致死率100%の「寿命」という病にはじめから冒されている。
命があることと命が失われることは、まさにコインの裏表。病に冒されたから死ぬのではない。生きているから、死ぬのである。
良寛の残した辞世の句は、哀れで、はかない。人間は死から逃れることはできないという諦観のようにも聞こえ、命を諦めた言葉にも受け取れる。
しかし、禅において「諦める」という言葉は、物事の真実を明らかにするという意味の「明らめる」という意味で用いられる。必ず死ぬこの人生とは何なのか。それを明らかにすることが「諦める」であり、諦観という言葉の真意だ。
   「散る桜 残る桜も 散る桜」
桜は散る。命は散る。必ず散りゆくこの命とは何なのか。
人がその人生において本当に考え抜くべき問いを残してこの世を去った良寛の辞世の句に、潔さと美しさを感じるのは、私だけではないはず。
(良寛の辞世の句は「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」だとする説もある。)
●良寛和尚 3
   「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」
江戸時代の曹洞宗の僧侶である良寛の言葉です。
良寛さんは江戸時代の末期1758年、越後の名主の長男として生まれ、18歳で出家し曹洞宗光照寺で修業を積まれました。22歳の時、玉島(岡山県倉敷市)円通寺の国仙和尚に師事し、国仙和尚の死後は越後に戻られ、各所の空庵を転々とされた後、国上山(燕市)にある国上寺(こくじょうじ)の五合庵に定住され、そこで約20年間を過ごされました。そして、60歳を前にして体力が衰えられてからは国上山のふもとにある乙子(おとこ)神社の草庵に移り住まれ、69歳の時に国上山を離れて、島崎(長岡市)の木村家に移住し、74歳でお亡くなりになられます。
このようなご経歴の良寛さんは、とても多くの方々に親しまれたお坊さんでした。普通のお坊さんのように、お葬式での勤行や、仏典を引用したさまざまな説法をされるわけではなく、空庵を転々とされる質素な生活を続けられ、一般の方々にはわかりやすく簡単な言葉で仏法をお話しされ、裕福な人々とは詩や和歌を詠み交わされました。また特に子どもを愛し、「子供の純真な心こそが誠の仏の心」といって子どもたちと一緒に遊び、戒律の厳しい禅宗の僧侶でありながらお酒を好み、農夫と頻繁に杯を交わされたそうです。このように良寛さんは、老若男女や貧富等によって人を分け隔てする事が無く、誰とでも、優しく温かい気持ちで触れ合われたので、その人柄に接した人々は皆、穏やかに和んだと言われています。
今回ご紹介する言葉は、良寛さんが晩年、和歌のやり取りを通じ心温まる交流を続けられた弟子の貞心尼が、良寛さんとの和歌のやり取りをまとめられた歌集「蓮(はちす)の露(つゆ)」に出てくる良寛さんの言葉です。
貞心尼が、高齢となり死期の迫ってきた良寛さんのもとに駆けつけると、良寛さんは辛い体を起こされ貞心尼の手をとり「いついつと まちにし人は きたりけり いまはあいみて 何か思わん」と詠まれました。そして最後に貞心尼の耳元で「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」とつぶやかれお亡くなりになったそうです。この歌には「あなたには自分の悪い面も良い面も全てさらけ出しました。その上であなたはそれを受け止めてくれましたね。そんなあなたに看取られながら旅立つことができます」という貞心尼に対する深い愛情と感謝の念が込められているのではないでしょうか。この最後の「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」について、貞心尼は「この歌は良寛さんご自身の歌ではないが、師のお心にかなうものでとても尊いものだ」おっしゃっておられます。良寛さんの着飾らなく真摯な人柄に触れ、心が和み、幸せな気持ちになる、そんな歌ではないでしょうか。
●良寛和尚 4
   散る桜 残る桜も 散る桜
天真寺門前の河津桜は満開となり、春の季節を運んで下さいます。
桜を鑑賞していると、良寛さんの辞世の句「散る桜 残る桜も 散る桜」が思い出されます。良寛さん自らの命を桜にたとえた詩。私は命を終えていくが、残されたあなたたちも命を終えていく「諸行無常」の定めなのですよ、精いっぱい生きて下さい、仏様のみ教えに出遇ってくださいね、という良寛さんのお心が詰まった詩であります。
そしてもう一つ桜から伝わってくる詩があります。親鸞聖人、幼名範宴が9才の時、お得度のなされました。その時、戒師の慈鎮和尚が「夜遅いから、お得度式は明日にしましょう」というおっしゃられたことに対して詠まれた詩です。「明日ありと 思う心の 徒桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」満開に咲いている桜もいつ嵐が来て散ってしまうかもしれません。今お得度をお願いします。「諸行無常」だからこそ、「今を生きる」「今この瞬間を精一杯生きていく」「仏様のご縁を大切にする」という親鸞聖人に歩まれたメッセージが伝わってきます。
以前お伺いした大谷大学名誉教授の広瀬先生のお話しを思い出します。京都に住んでいる先生の元に、あるお母さんと娘さんが尋ねます。娘さんは、高校卒業後ある企業に勤めます。仕事では、受け持ちの集金先があり、その中の一軒が非常に貧乏でお金をもらいに行っても払ってくれない。それ以上払ってくれとはいいにくいので 初めの頃は自分のボーナスで立て替えてみたりしていたが、だんだんお金がかさみ大金になった。その娘さんは、この伝票さえなくなれば、私もあの家の人もこんなに苦労しなくていいと、ふと思って伝票を焼いてしまった。焼いたとたん、はっと気がついた。大変なことをしてしまった。娘さんは東京へ飛び出し、ホテルで服毒自殺をはかる。生きていく望みがない。ずいぶんと苦しんで、家出をしたが幸いにもまた連れ戻されました。そんなことがあり、お母さんが娘さんを先生の所まで連れてきた。娘は挨拶もしない 怖い顔をしている。
先生はこうおっしゃった。「私の独り言のつもりで聞いて下さい。あなたは今から2,3ケ月前に、3ヶ月たったら広瀬という人間の前に座るというあなた自身を想像してみたことがありますか」と尋ねると「ありません」といいます。
私という人間を 知らないのだから あるはずがない。「ところが 3ヶ月前には 思っても見なかったことが あなたの想像を超えて 京都の広瀬という男の 未だかつて座ったこともないところに今、あなたが座っている。あなたは 生きる値打ちがない、どうしようもないと生きる目的を失って自殺しようとしたそうだけれども 明日はどうなるのか どんな自分になるのか あなたには想像もつかないはずです。その証拠に3ヶ月前には 思いつかなかったあなたが、こうして今広瀬の所に座っているという事実があるとすると、あなた自身が、心の痛手を抱えているかもしれないけれども、明日は真っ暗だという人生、生きる望みがないということは、あなたはあなた自身の人生に対して倣慢だという証拠ではないですか。自分の人生を自分で決めると言うことは、傲慢なことその倣慢さが払われてみると 実は昨日の私と今日の私とでは いのちは正直に確実に変わっているということがあるのではないか」とお話をしました。
しばらくしてお母さんが、娘が結婚する気になって結納もおさまり、今月結婚式の運びになったと報告されたそうです。
まさしく「諸行無常」です。自分で自分を決めない。私はこういう人間だ。私にはもはや明日はこうしかならないのであると、自分で自分を決めない。決めないから与えられた自分を生きることができる。そこに行き止まりのない生命のあゆみに正直である私が生まれてくるのではないか。というお話しでした。
「諸行無常」あらゆるものは移り変わっていく。その真理の眼から「出会い、そして別れの悲しみ」が映し出されます。とともに、「悲しみを抱えているこの現状は永遠に続くことはない」「変わりゆく現実の姿」が見えてきます。桜の姿を通しながら、仏法に出会わせていただく有難たき一日であります。
●良寛和尚 5
   散る桜 残る桜も 散る桜
良寛さんの辞世の句と言われています。
散る桜も残る桜もやがては等しく死を迎える運命を秘めているといった意味の句だと思いますが、どうも最近この句が頭から離れません。
桜の一生は短い。われわれの人生も人類の歴史からみれば、一瞬のフラッシュにような時間間隔でしょう。人生も桜の花の命同様儚いものではあります。
震災後も続く余震、原発からの放射能漏れさらには日本経済の先行きなど、かつてないほどの不安が日本中を渦巻いています。
ただ先々を心配したところでいずれにしてもそう遠くない将来に、今生きている人(残った桜)はみんな散るわけですから、良い意味で開き直ったほうが得な生き方かもしれません。
先の見えない不安に怯えながら生きることは人生の時間の無駄使い。そんな風にも思います。
必要以上に悲観的にならず、今この瞬間の人生を楽しむことが大切であるとこの句は教えてくれているのかもしれませんね。
●良寛和尚 6
四月八日はお釈迦さまのお誕生日・花まつりです。全国各地のお寺や、仏さまの教えをいただく学校などでは、お釈迦さまの誕生された姿・誕生仏に甘茶をかけたり、白い象をひっぱったりと、お釈迦さまの誕生をお祝いする行事が行われます。
日本では、桜の花が咲く季節と時を同じくして、花まつりの季節がやってきます。桜の花の美しさは、あっという間にその花びらが散ってゆくその儚(はかな)さと相まって、私の心に響いてきます。
   「散る桜 残る桜も 散る桜」
これは、江戸時代の僧侶・良寛さんが遺された句です。「散る桜 残る桜も 散る桜」、一見華やかな春の季節にあって、自分自身の命を桜の花の儚さに重ねる、見事な句です。
花まつりはお釈迦さまの「誕生」をお祝いする行事ですが、仏さまの教えに照らされてみると、人間の誕生は生まれた瞬間から、死を背負っています。桜の花が、咲いた瞬間から、やがて散りゆく命を生きているのと同じです。
生まれた瞬間から、私たちは「老病死」という現実を背負って生きていくことになります。生まれた瞬間から、老いつつある身を、縁が催せば病を生じる身を、そしてどんな人であっても、一切の人びとが、やがて命を終えていかなければならない、「この身」を生かされています。
花まつりといえば、子どもたちのための行事だと思われがちですが、この「生死一如(しょうじいちにょ)」の人間の身の事実を、お釈迦さまの誕生をとおして教えられる花まつりは、老いも若きも関係なく、私が「人と生まれた」ことを確かめる、そういった機縁なんでしょう。
●良寛和尚 7
江戸時代に良寛という和尚さんがいました。彼の辞世の句、人生最後の言葉は何か。それは次の通りです。
   「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」
そして内容的には宗教心の極致をこの詩(うた)は示していると言える。
「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」およそ物事には裏と表があります。表の部分、それは人に見せたい部分、自分の得意とする明るい部分。例えば、自分に子供がいて、その子供が立派に育っているということも、親として当然の表の部分に当たる。
一方、同じ私にも裏の部分がある。外の人に見せたくない部分、ばれたら恥ずかしい、だから隠している。あるいは自分の過去の失敗、人から触れられたくない部分が人間には必ずあるものです。これが裏の部分です。
人間は、裏の部分と表の部分をこのように持ち合わせています。表の部分を是非みんなに見せたい。一方裏の部分は隠したがる。だから、背伸びをするという事は誰にでもあります。良寛和尚の仰りたいことは、あの落ち葉は裏と表を持ち合わせていますけども、人間はとかく表の部分だけを見せようとして背伸びをしがち。
ところがこの辞世の句の場合、物事には裏と表があり、両方自然にありのままを見せて、受け入れて散っています。良寛和尚は自然のままに、己への計らいがない、わざとらしさがない、もっと自然に生きよ、と語っているのです。
今から45年ほど前、私は司祭になって最初に東京の徳田教会というところに行きました。徳田教会は何千坪という広い土地の中にある教会です。
あるクリスマスの時、お隣の保育園の先生方のクリスマス会に招かれました。その時、参加者に何か出し物、手品などの演技を求められました。自分にも順番が回ってきました。昨年は同じ場面で手品をして失敗しているので、もうそれは出来ません。
そうだ、最近カラオケの器械が発明された。たまたま数日前、その器械を手に入れたので、何か演歌を一度皆の前で歌ってみたいと思い、促されそれを歌ったのです。
それは都はるみの「北の宿から」でした。
「♪あなた変わりはないですか 日ごと寒さがつのります 着てはもらえぬセーターを 寒さこらえて編んでます 女ごころの未練でしょう あなた恋しい北の宿 ♪」。
自分でもびっくりするくらいよく歌え、盛大な拍手。私は興奮して、司祭館に帰ってからも、すぐには眠つけませんでした。数時間の後、ぐっすり寝入って朝方の事。あの歌がとつぜん耳もとで聞こえて来たのです。
「あなた変わりはないですか、日ごと寒さがつのります」。
都はるみの歌を誰かが歌っているのだ。ガバっと起き、布団を払いのけた。ところが誰もいません。自分自身が寝ぼけ、興奮して「北の宿から」を歌いながら、目が覚め、飛び起きたのです。
それから2時間後です。朝のミサが始まりました。シスターが60人ほど来ています。ミサは進み、聖体拝領の時間になった。順番に一人ずつ、「キリストのおん体」と言いながら私は聖体を授け、一方聖体を受けるシスターの方は答えていた。「アーメン」と。何人かに聖体を授けているとき、「キリストのおん体」の「キ」が引っかかって、つい言ってしまったのです。「キタノヤドカラ」と。聖体を受けたシスターは「アーメン」と答えていました。
人間は愛すべき愚者!(聖トマス・モア) 「裏を見せ、表を見せて 散るもみじ」
●良寛和尚 8
   裏を見せ 表を見せて 散るもみじ
子ども好きで穏やかな良寛さん。その人柄の良さは後世の誰もを惹きつける。しかし彼の死因は直腸癌、あるいは大腸癌だったと言う。小説などに美しく描かれた末期と異なり、おそらく痛みと苦しみの中で亡くなっていかれたのではないだろうか。
しかし、だからと言って彼の生き様や人柄はいささかも色あせることはない。苦楽、盛衰、悲喜…人生の終わりにどちらを迎えようと、一人の人間が生き抜いた価値は変わらない。ちょうど紅いもみじの美しさは裏と表の双方があって成り立つように。人の一生は繰り返せず、変わってもらえず、必ず終わりが来る。そしてその終わりがいつ来るかわからない。終わりを見つめつつ今を大切に生きたい。
●良寛和尚 9
   裏を見せ、表を見せて散る紅葉
私は何となく、この句が好きです。そこはかとない悲しさと、ほのぼのとしたやさしさというのでしょうか良寛さんの飾り気のない人柄がよく出ているように感じます。
良寛さんについては、色々な本にも書かれていますので、知っている方も多いかと思います。この句は、晩年に交流の深かった貞心尼という尼僧さんに向けられたものです。自分の心の中の弱い部分も含めて全てを見せてきた人(貞心尼)に対して、何か肩の荷を下ろすような、そんな気持ちをもって作られたものなのでしょう。
良寛さんに関しては、沢山のエピソードが残されていますが、いずれにも共通しているのは、人肌の温もりというのでしょうか、当世風に言うと癒し系といいますか、思わず顔がほころんでしまうような、おかしみと同時に温かいやさしさを感じさせる、そんなお話しが多いように思います。
良寛さんの持つやさしさ=人の心を癒す力というのはどこから来るのでしょうか? 私は、良寛さんの心の背景にはいつも悲しみがあるように感じます。庄屋の長男として生まれながら、生来の不器用な性格からか仕事をうまくこなすことが出来ず僧侶への道を歩んだ前半生。人並み外れて正直な心を持っていたが為、世渡りのけっして上手ではなかった良寛さん。生きていくことの難しさを、正直であるがゆえ、身にしみて感じていたであろうと思われます。そんな良寛さんだからこそ、人の悲しみ、生きることのつらさを、それが誰のものであれ、自然な共感を持って受け止めることが出来たのではないでしょうか。人生の底に澱のように沈んでいる悲しみを静かに見つめる心から、良寛さんの包みこまれるようなやさしさは、わき起こってきているように思います。
この良寛さんの、人の世の悲しみを見つめる心、人の悲しみを自分のものとして共感する心、これを仏教では悲心と言います。仏教で大切な言葉の一つとして”慈悲”という言葉がありますが、この慈悲の悲は、悲心の悲です。慈しみの心は、悲しみの心と同体です。曹洞宗のお寺で現在一番良く読まれるお経は、おそらく大悲心陀羅尼というお経だと思いますが、このお経は、大悲心をもって衆生を救おうという願いをもった観音菩薩の功徳を讃えるお経です。つまり、悲心(大悲心)というのは一番良く読まれているお経のテーマである訳で、ある意味、曹洞宗において(というか、多分大乗仏教一般において)一番の眼目であるとも言えるでしょう。
親や学校の先生が子どもに、人の気持ちが分かる人間になりなさい。とよく言われますが、これなどはまさに悲心のベースになることではないかと思います。世の中が便利になり、人に合わせなくとも日々の生活が何事もなく過ぎていく昨今、なんとなく他人の気持ちに無関心になってきている傾向があるように思います。人の心はやはり、思い思われていないと安心出来ないのではないでしょうか? 今、癒しが求められているのも、この辺りに原因があるのではないかと思います。多少面倒に感じる時があったとしても、人と人との心の交流は大切にしなければならないのだと思います。言うは易し、行うは難し。ですが、この人の気持ち(特に悲しみ)を思いやるという”悲心”、この様な世の中だからこそ、私達の心の中にも是非持ちたいものです。
●良寛和尚 10
病臥した良寛と貞心尼
文政13年(天保元年・1831)73歳の良寛さまは、夏頃から下痢の症状に苦しむようになりました。良寛の病気は直腸がんではなかったかと言われています。8月に寺泊に行く途中、地蔵堂の中村家で病臥したとき、秋萩の咲く頃に貞心尼の庵を訪問すると約束したのに、その約束を果たせなくなったことを詫びる手紙を、貞心尼に出しています。その中に良寛の次の歌があります。
   秋萩の 花の盛りは 過ぎにけり 契(ちぎ)りしことも まだとげなくに (良寛)
その後、良寛さまの病状ははかばかしくなく,冬になる頃には庵に籠もって、人とも会わないようにしていると、聞いた貞心尼は、次の歌を書いた手紙を出しました。良寛さまが人とも会わないのは、下痢の症状から、赤痢やコレラなどの伝染病かもしれないと思っていたためでしょう。
   そのままに なほ耐へしのべ いまさらに しばしの夢を いとふなよ君(貞心尼)
それに対して良寛さまは、次の真情のこもった歌を貞心尼に返しました。
   あづさ弓 春になりなば 草の庵を とく出てきませ 逢ひたきものを (良寛)
   (あづさ弓…春の枕詞) (とく…早く)
12月25日、貞心尼のもとに、良寛さまの病状が重篤になったという知らせが届きました。貞心尼が驚いて急いで訪ねると、良寛さまは、さほど苦しんでいる様子もなく、貞心尼の訪問をうれしく思い、次の歌を詠みました。
   いついつと 待ちにし人は 来たりけり 今は相見て 何か思はむ (良寛)
さらに次の歌も詠みました。
   武蔵野の 草葉の露の ながらへて ながらへ果つる 身にしあらねば(良寛)
人の命は草葉の露のようにはかなく、いつまでも生き永らえて、生き尽くせる身ではないという意味でしょう。
良寛危篤の報は由之のもとにも走りました。由之の「八重菊日記」にあります。
   禅師(ぜじ)の君、久しく痢病を患ひ給ひて、今は頼み少なしと聞き、驚き参らせて師走の二十日まり五日の日、塩入坂の雪を凌いで参(もう)でしを、いと甚(いと)う喜び給ひて、この雪には如(いか)でと宣(のたま)ひしかば、さすたけの 君を思ふと 海人の汲む 塩入坂の 雪踏みて来つ (由之)
   心なき ものにもあるか 白雪は 君が来る日に 降るべきものか (良寛)
由之は、いったん与板に帰り、貞心尼に29日付けの手紙を送って、良寛のことを頼んでいます。
「一日二日は殊に寒さ耐へがたく候。病者、御扱い、御辛労、申すべき様もなく存じ奉り候。寒きにつけては、殊に案じられ候。どうぞ便りあらば、詳しくお知らせ下されたく候。御覧もむつかしからむと存じ、主(良寛)へは文も奉らず候。かしこ。二十九日
雪降れば 空を仰ぎて 思いやる 心さへこそ 消え返りぬれ   由之
貞心禅尼 御もとへ」
昼夜、一睡もせずに看病する貞心尼の目に、日に日に衰弱してゆく良寛さまの姿が見えました。貞心尼は悲しくなって次の歌を詠みました。
   生き死にの 境(さかい)離れて 住む身にも さらぬ別れの あるぞ悲しき (貞心尼)
   (さらぬ…避けられない)
生死(しょうじ)の迷いの世界から離れて住んでいるはずの仏に仕える身にも、避けることができない死別のあることが、たまらなく悲しい、という貞心尼の悲痛な思いの伝わってくる歌です。この貞心尼の歌を聞いて、良寛さまは、次の返しの俳句を口ずさまれました。
   うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ (良寛)
この句は、表と裏をひらひらさせ、よどみなく舞いながら散って落ちていく紅葉の姿から、執着しない、とらわれない、自在で滞らない生き方を学べという良寛さまの最後の教えだったのでしょうか。もみぢ葉が散ることは死を意味します。あるいは、貞心尼にはおもて(仏道の師匠としての良寛)も、うら(生身の人間としての良寛の真実の姿)もすべて見せました、もう思い残すことは何もありません、という良寛さまの最後の思いも込められているのでしょうか。
●良寛和尚 貞心尼との交流 11
貞心尼
貞心尼は寛政十年(一七九八)長岡藩士の娘奧村マスとして生まれました。文学好きな少女だったようです。
十七歳の時、小出の医師関長温に嫁ぎましたが、子供ができなかったこともあってか、二十二歳の時に離婚しました。
二十三歳の時、柏崎の閻王寺(えんおうじ)で、剃髪し、心竜尼・眠竜尼(しんりょうに・みんりょうに)の弟子となり、尼としての修行を始めました。
托鉢の折々に、和歌や書にたけた徳の高い僧侶という良寛さまの噂を聞いたのでしょうか、是非ともお会いして、仏道のことや和歌のことを学びたいと思うようになったのでしょう。
その機会を得るためにでしょうか、文政十年(一八二七)貞心尼三十歳の年の春、七十歳の良寛さまのいる島崎に近い長岡の福島(ふくじま)の閻魔堂(えんまどう)に移り住みました。
最初の訪問
その年の四月十五日頃、良寛さまがいつも子供たちと手毬をついているということを聞いた貞心尼は、手まりを持って島崎の木村家庵室の良寛さまを訪ねました。しかしながら、良寛さまは寺泊の照明寺密蔵院に出かけており、不在だったのです。そこで貞心尼は次の和歌を木村家に託して良寛さまに渡してもらうことにしたのです。                          
   これぞこの 仏の道に 遊びつつ つくや尽きせぬ 御法(みのり)なるらむ  (貞心尼)
六月に貞心尼からの手まりと和歌を受け取った良寛は貞心尼に次の歌を返しました。                      
   つきてみよ 一二三四五六七八(ひふみよいむなや) 九の十(ここのとを) 十とおさめて またはじまるを  (良寛)
この歌の「つきてみよ」には手まりをついてみなさいという意味と、私について(弟子になって)みなさいという意味が込められているようです。それから秋になって、貞心尼は初めて良寛さまに逢うことができました。その時の唱和の歌です。                         
   君にかく あい見ることの 嬉しさも まだ覚めやらぬ 夢かとぞ思ふ (貞心尼)
   夢の世に かつまどろみて 夢をまた 語るも夢も それがまにまに (良寛)                                     
   まにまに…なりゆきにまかせよう
その日貞心尼は熱心に良寛さまの仏道のお話しを聞いていましたが、夜が更けてきたので、良寛さまは次の歌を詠みました。                                              
   白妙(しろたえ)の 衣手寒し 秋の夜の 月なか空に 澄みわたるかも (良寛)
この歌の月は仏法の象徴であり、月が澄みわたっているということは、仏法の真理は明白だということでしょう。あわせて、月が空高く昇り、夜も更けたことから、今日はこれくらいにしましょうという意味を込めた歌でしょうか。夜が更けても、まだまだお話しを聞きたいと思った貞心尼は次の歌を返しました。
   向かひゐて 千代も八千代も 見てしがな 空ゆく月の こと問はずとも (貞心尼)
「仏法の象徴である月をいつまでも見ていたい、仏道の話をもっと聞いていたいのです。空行く月は言葉(仏法の真理)を言わないとしても、良寛さまから仏道の話を聞き続けたいのです。」というような歌意でしょうか。一方で、「良寛さまと向かい合っていつまでも良寛さまを見ていたい。空行く月は何も言わないように、良寛さまが私に何も話をしなくとも」というような意味にもとることができるかもしれません。この歌に対して、良寛さまは次の歌を返しました。                                        
   心さへ 変はらざりせば 這(は)ふ蔦(つた)の 絶えず向かはむ 千代も八千代も (良寛)
仏道を極めようという心さえ変わらなければ、蔦がどこまでも伸びていくように、いつまでも向かい合って、お話しをしましょうという意味でしょう。この歌を聞いて、貞心尼は次の歌を返しました。                             
   立ち帰り またも訪ひ来む たまぼこの 道の芝草 たどりたどりに (貞心尼)
   たまぼこの…枕言葉
さらに良寛さまは貞心尼に次の歌を返します。
   またも来よ 柴の庵(いほり)を 嫌(いと)はずば すすき尾花の 露を分けわけ (良寛)
こうして二人が初めて出逢った日から、貞心尼は良寛さまの仏道の弟子となり、手紙のやりとりや貞心尼の良寛さまへの訪問が続きました。やがて、お互いの心がかよいあい、良寛さまが遷化するまで二人の心温まる交流が続きました。
病臥した良寛と貞心尼の交流
文政十三年(天保元年・一八三〇)七十三歳の良寛さまは夏頃から下痢の症状に苦しむようになりました。八月に寺泊に行く途中、地蔵堂の中村家で病臥したとき、秋萩の咲く頃に貞心尼の庵を訪問すると約束したのに、その約束を果たせなくなったことを詫びる手紙を貞心尼に出しています。その中に良寛の次の歌があります。
   秋萩の 花の盛りは 過ぎにけり 契りしことも まだとげなくに (良寛)
その後、良寛さまの病状ははかばかしくなく、冬になる頃には庵に籠もって、人とも会わないようにしていると、聞いた貞心尼は、次の歌を書いた手紙を出しました。
   そのままに なほ耐へしのべ いまさらに しばしの夢を いとふなよ君 (貞心尼)
それに対して良寛さまは次の真情のこもった歌を貞心尼に返しました。
   あづさ弓 春になりなば 草の庵を とく出てきませ 逢ひたきものを (良寛)
   あづさ弓…春の枕詞  とく…早く
年末になって、貞心尼のもとに良寛さまの病状が重篤になったという知らせが届きました。貞心尼が驚いて急いで訪ねると、良寛さまは、さほど苦しんでいる様子もなく、貞心尼の訪問をうれしく思い次の歌を詠みました。
   いついつと 待ちにし人は 来たりけり 今は相見て 何か思はむ (良寛)
さらに次の歌も詠みました。
   武蔵野の 草葉の露の ながらへて ながらへ果つる 身にしあらねば (良寛)
人の命は草葉の露のようにはかなく、いつまでも生き永らえて、生き尽くせる身ではないという意味でしょう。昼夜、一睡もせずに看病する貞心尼の目に、日に日に衰弱してゆく良寛さまの姿が見えました。貞心尼は悲しくなって次の歌を詠みました。
   生き死にの 境(さかい)離れて 住む身にも さらぬ別れの あるぞ悲しき (貞心尼)
   さらぬ…避けられない
生死(しょうじ)の迷いの世界から離れて住んでいるはずの仏に仕える身にも、避けることができない死別のあることが、たまらなく悲しい、という貞心尼の悲痛な思いの伝わってくる歌です。この貞心尼の歌を聞いて、良寛さまは次の返しの俳句を口ずさまれました。
   うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ(良寛)
この句は、表と裏をひらひらさせ、よどみなく舞いながら散って落ちていく紅葉の姿から、執着しない、とらわれない、自在で滞らない生き方を学べという良寛さまの最後の教えだったのでしょうか。もみぢ葉が散ることは死を意味します。あるいは、貞心尼にはおもて(仏道の師匠としての良寛)も、うら(生身の人間としての良寛の真実の姿)もすべて見せました、もう思い残すことは何もありません、という良寛さまの最後の思いも込められているのでしょうか。  
  
 

 

国定忠治 1851
見てはらくなして苦敷世の中に せましきものはかけの諸勝負
やれうれし壱本ならでいく本も かねが身に入る年の暮かな  
●国定忠治 1
赤城の山も今夜を限り 生まれ故郷の国定の村や 縄張りを捨て国を捨て 可愛い子分のてめえ達とも 別れ別れになる首途(かどで)だ
関東無宿
二十代のころ故郷の上州を離れ、すでに五十年の歳月が流れた。人生の大半を他郷で生きたことになる。そんな歳月を背負いながら、私のなかの故郷の色彩が最近微妙に変化していることに気づく。
若いころの私のふるさとのイメージは上州の山河であった。荒涼の山々や、そこに流れる荒瀬の音がすぐに聞こえてきた。しかし、最近私のなかのふるさとは、もっと人間に向かうことのほうが多い。いいかげんでずるがしこく、ちょっと卑猥、そしてそんなことに享楽している村人の姿。ほんとうはもうそんな状態もないのだろうが、いまの私のなかのふるさとはそんな場所なのである。
そんな気持ちを下敷きにしながら、上州に生きていた人間像、それも成功のなかに名を残した人びとでなく、もっと土臭くあの国の土に生きてきた庶民を書いてみたいと思う。
国定忠治はそんな人間の代表であろう。
この稿は忠治を中心として書いていくが、それはあくまでひとつの材料に過ぎない。あくまでその背景のほうが、私にとっては大事なのである。したがって、この内容もどこへ飛んでいくのか自身でもわからない。「気ままな忠治」と題するしだい。
   人生半分渡世半分日向ぼこ
群馬県には、国定忠治の供養碑が二つある。ひとつは伊勢崎市国定町の養寿寺にある。忠治は嘉永三年(一八五〇年)一二月二一日、同じく上州の大戸(現吾妻町)の関所で処刑されたが、その妾であったお徳が刑場から首と手足を盗み出し、当時の国定村の養寿寺の住職貞然に首をあずけて埋葬したといわれるもの。墓碑には「長岡忠治之墓」とある。
ただし、この墓石は二代目である。初代のものはギャンブルのお守りなどのため削りとられてゆき、上の部分がほとんど欠けてしまったため、現在は本堂に安置され、その後、忠治の血縁筋(忠治の弟友蔵の子)長岡利喜松氏によって、現在のものに建て替えられた比較的新しいもの。やはり削りとられるため鉄柵に囲まれている。
そしてもうひとつは、同じ伊勢崎市曲輪町善應寺にある「情深墳」と名づけられたもの。こちらの墓碑名には「遊道花楽居士」とある。さきに述べた妾お徳が、自宅の庭に埋葬していた腕をあらためて供養するため建立したとある。
この二つの墓は伊勢崎駅、国定駅といずれもJR両毛線沿いにある。巷間すでに知られていることだが、両毛線は別名「ギャンブルライン」または「オケラライン」といわれる。この沿線に高崎競馬、前橋競輪、伊勢崎オート、桐生競艇、足利競馬という公営ギャンブルがあったためである(ただし、高崎、足利は現在廃止となった)。
国定忠治は文化七年(一八一〇年)上州は佐位郡国定村に生まれた。この地はその後佐波郡東村となり、平成の大合併により現在は伊勢崎市に変わっている。まさに地名滅びて人名が残ったのである。
父は長岡与五左衛門、母は伊与、長岡忠次郎が本名。国定はそのときの地名である。
すでに二百年も昔の、たかが一博徒が、なぜこれほどまでに名を残しているのか。近年になっての東海林太郎や島田正吾の果たした役割はもちろんだが、もっと以前、江戸後期よりこの名は地元では著名であったという。その地元の噂にマスコミが乗ったのである。
それでは、なぜ忠治の名が地元にこれほどまでに浸透していたのか。まず当時の関東地方の農村の状況を考えておく必要がある。
文化七年は江戸時代の末期である。幕府では老中の松平定信が辞任して、将軍がコ川家斉に代わったころ。家斉は天保八年(一八三七年)に将軍職を家慶に譲ったあともずっと実権を握り続け、いわゆる大御所時代を作りあげたひとりである。その放漫な政治は、享楽的、営利的な風潮を社会にもたらし、商人の活動を活発化させたが、しわ寄せは農民に広がっていった。
関東周辺ではそれがとくに顕著であった。このころから関東では飢饉が続き、農村の荒廃はますます進み、政治の腐敗と治安の乱れはしだいに高まっていった、そんな時代である。
武蔵国では中山道鴻巣宿から秩父郡まで、上野、下野、常陸、下総、佐原あたりでは、追放処分を受けた者や旧離(親またはその近親が縁を切り、役所に届け出て人別帳から外すこと)、勘当、欠落(重税、貧困からよその土地へ逃亡すること)などの「帳外者」が無宿となり、みずからを「通り者」と称していた。やがてそうした連中の実力者が親分となり、長脇差などを帯して闊歩するようになってゆく。それまでは村掟などに縛られて、自由を得られなかった若者がしだいにその埒外に飛び出してくるのである。
そのころから上州を中心とした農村地帯では養蚕が発展し、農民のこの収入を求めて、賭博がとくに盛んになっていった。
忠治の生まれた上州国定村は、赤城山の裾野が果てるところにある。冬はこの山を越えたいわゆる赤城颪のまともに吹き下ろしてくる村。
そこは当然貧しく、農民は虐げられていた。
赤城山麓のこの付近からは、忠治をはじめ大前田栄五郎、島村の伊三郎などという博徒の集団が生まれている。さらには、渡世人ばかりではなく、多くの犯罪者が生まれた。川井村の無宿政吉、福嶋村の無宿巳之吉、そしてわが高崎では、当時の上乗附(かみのつけ)村の無宿長次郎など……枚挙にいとまがない。人心の荒廃とともにいかにこの地の農民が困窮していたかがよく窺えるのである。
さて忠治、十七歳のとき殺傷事件を起こしたが、このとき匿われたのは大前田栄五郎の元である。さらに二十五歳、天保五年(一八三四年)、島村の伊三郎を殺傷、信州に逃れていく。
一茶と忠治
往時の上州の盗賊を数名挙げたが、そのひとりに上乗附村無宿長次郎という名があった。忠治の記録のなかで偶然見つけた名前だが、その出身地乗附という地名が、妙に気にかかった。というのは、乗附というのは私の出身である高崎にある町だからである。
さらにここは、私の少年時代の遊び場所だったところでもあるからだ。もちろんいまは高崎市の郊外の町であるが、忠治の時代は碓氷郡上乗附村である。
この地名の由来は鎌倉時代初期の公卿そして歌人の藤原家隆まで遡る。家隆は紫式部の遠縁にあたり『新古今和歌集』撰者のひとりである。
その家隆があるとき同門の人びとと、川のほとりで歌を詠みあっており、たまたまかたわらの大石を舟に見立てて一首詠んだところ、突然この石が浮かびあがった。家隆は急いでこの石に乗りこんだ。そこから生まれた地名がこの乗附であるという。ロマンある伝説である。その舟となったお舟石は、現在もこの町の乗附小学校の校庭の一角に残っている。
はじめ各国の国司を努め、のちに宮内卿となり、その後出家して摂津国四天王寺に入ったというこの歌人の伝説が、どうして東国の片田舎に残っているのか不思議である。
その乗附村出身の盗人である長次郎のことを知りたくて、いろいろあたってみたが、残念ながらほとんど記録は残っていない。
ただひとつ、ここからあまり遠くない那浪(なわ)郡福嶋村(現佐波郡玉村町)にいた玉村宿改革組合村の大総代渡辺三右衛門によって書かれた日記『御用私用年中諸日記』『御用私用掛合答其外日記』にわずかにこの長次郎の名が残っていた。それはこの男の盗みの一覧である。
とりあえず挙げれば、
1 弘化三年(一八四六年)八月  下瀧村四郎兵衛にて単 物ひとつ、これを二朱二百文で売る
2 同年九月  乗附村藤蔵にて木綿堅縞袷ひとつ、これ を高崎本町部屋頭稲葉へ金一分で質入
3 嘉永元年(一八四八年)正月  下瀧村にて木綿堅横縞 袷ひとつ、これを下瀧村天田善兵衛へ金二朱四百文にて 質入
4 同年四月  下瀧村にて木綿堅縞袷ひとつ、これを下 斉田村質屋へ六百文にて質入
5 同年同月  中斉田村清六前熊五郎より木綿半天ひと つ、これを下斉田村春吉へ三百文で渡す
等々弘化三年より記録にあるだけでも、新町宿、玉村宿周辺の村から木綿、米、かなべら(鏝の異称)などの着物、農具を盗み、近村の質屋や倉賀野宿の人足部屋へ質入していた。盗品の件数は二十件、金額は二両と銭五千七百文であった。
ひとつひとつはケチな事件であるが、当時の実情背景を考えれば、これが大悪党となるのであろう。
一八世紀後半から一九世紀初頭にかけて、関東の農村はますます荒廃、博打、地芝居、遊興が盛んとなり、農村社会からはみ出す者も増えていった。このころの社会の掟は共同体からの排除が基本であり、排除された者たちは徒党を組んで、また新しい犯罪予備軍となってゆくことになる。無宿者から博徒が生まれ、その博徒から互いに盃をかわす親分子分の関係が生まれ、貸元である親分は賭場の勢力範囲である「縄張り」を武力を行使して広げていった。
村落共同体から排除された者はそのほかに、親からの勘当、駆け落ちなどもあるが、いずれにしてもその原因は関東農村の貧困にある。博徒のほかに無宿の非人や乞食となった者もいたようだ。
こんな体制からの脱却状態は、多少形は変わっても、現在に通じるものもあるのではないか。
このころの俳諧はどんな状況に置かれていたのか。芭蕉はとうに亡く、蕪村も死に、そのあとに残ったものはおびただしい月並みの山であった。ただひとり、この月並みをすこし逸脱した俳人がいた。
それは小林一茶。
忠治が殺傷事件を起こして下野に逃れ、大前田英五郎の元に身を寄せたのは十七歳のとき、文政九年(一八二六年)。その翌文政一〇年、ふるさとの信濃柏原で大火にあった一茶は焼け残りの土蔵で六十五歳の生涯を終えている。一茶と忠治、この荒廃の時代に十七年間の重なった生がある。
どちらも共同体からの逸脱者であるが、その形や事情にはすこし隔たりがあって面白い。
小林一茶と国定忠治が生きていた文化、天保、嘉永の時代、この国はどんな状況に置かれていたのか。おもな事項だけでも振り返ってみよう。
文化元年(一八〇四年)ロシアよりレザノフ長崎に来航、 通商要求
文化五年(一八〇八年)間宮林蔵樺太探検、フェートン号 事件発生
文政八年(一八二五年)異国船打払令
文政一一年(一八二八年)シーボルト事件
天保四年(一八三三年)天保の大飢饉はじまる
天保八年(一八三七年)大塩平八カの乱、モリソン号事件
天保九年(一八三八年)中山みきによる天理教開祖
天保一〇年(一八三九年)蛮社の獄
天保一二年(一八四一年)「天保の改革」
天保一四年(一八四三年)人返しの法発令、水野忠邦失脚
嘉永六年六月(一八五三年)ペリー浦賀に来航
徳川の鎖国政策にほころびが見えると同時に、虐げられた民衆にやっと外に向く眼が開きはじめたのである。
しかし、これらはあくまで中央、江戸を中心としたこと。忠治や一茶の生きている上州や信濃ではまだまだ遠い出来事であった。
余談だが、この当時の世界は、ナポレオンの即位、ウイーン会議、モンロー宣言、阿片戦争、そんな時代である。
元に戻って、当時の上州と信濃の関係を地理的に見てみよう。
『赤城録』という記録が残っている。過日、筑波大学付属図書館でこの写本に初めてお目にかかった。
筆者は羽倉外記用九またの名は簡堂。上野、下野などの代官を歴任したのちに、老中水野忠邦の推挙により勘定吟味および御納戸頭を兼任、退官後は江川太郎左衛門英龍(坦庵)、川路左衛門尉聖謨(敬斎)とともに、幕史の三兄弟と称された人。この羽倉外記が往時の上野の代官時代のことを書いた記録である。
浅才の私などには読みきれない事項もあるが、そこにこんなことが書いてあった。
天保五年(一八三四年)忠治が島村伊三郎殺害後、信州松本の親分勝太の元へ草履を脱いだことがある。
さらに、天保七年春、弟分の茅場の長兵衛が中野の目明し滝蔵と本陣忠兵衛の次男波羅七(原七)に殺されたと聞き、復讐のため、鉄砲、槍、刀で武装して子分とともに信州に乗り込むが、すでに二人はお上の御用となってしまっていた(ちなみに、このときさきを急いだ忠治が関所手形なしで大戸の関所を通行したのが、のちに磔刑となった原因といわれている)。
上州の赤城山麓を縄張りとする忠治が隣国とはいえ、なぜ信濃とのかかわりを持ったのであろうか。
その大きな理由として信州が関東取締出役の管轄外にあったことが挙げられる。文化二年(一八〇五年)からはじまる関東取締出役は、幕府直轄領、大名領、旗本知行所、寺社領などが錯綜していた関東では悪事をして他領に逃げ込む者の逮捕が困難であり、これらを一括して取り締まるべく設置された。通称「八州廻り」いわゆる関八州を御領、私領の別なく取締まりできるようにしたものである。ただし、水戸藩、川越藩領だけは例外だった。
信州はこの八州廻りの管轄外、罪を犯したものは当然、そこに逃げこむことになる。
現在もあまり大きな変化はないが、山国である上州から信濃へ通じる道は数すくない。一番大きな街道は中山道、しかしここには碓氷関所があった。当然、彼らの道は監視の甘い脇往還、裏街道ということになる。上州の北大戸から信州街道の狩宿、鎌原、大笹、鳥居峠を越え、大笹街道、須坂、長野に抜けるもの。もうひとつは草津道から渋峠を越え、中野にいたるもの。
これらの道は咎人の道であるばかりでなく、一般旅人の道であり、またモノを運ぶ道でもあった。江戸と信州、上州を結び、煙草、米、塩などが多く運ばれたという。
もちろんこれらの脇往還にも関所はあった。信州街道の大戸関所と狩宿関所、大笹関所等々である。しかしこれらの関所の規模は、藩主が努める碓氷関所などに比べると、規模は相当小さく、たとえば、安中藩主による碓氷関所の番頭二名、平番三名、同心五名、中間四名、箱番四名、女改め一名などと比べても、幕府代官の直轄していた大戸関所などは、役人四名、それも交代して務めるものであったという。
この大戸関所を国定忠治も越えている。もちろん手形などはなし。天保五年(一八三四年)、島村伊三郎殺害後、信州松本の親分を頼って旅に出たとき。そして天保七年、さきに書いたように、茅場の長兵衛の仇を取るため、信州中野に乗り込んだときである。
まえに私はこの時代をわずか十七年間だけすれちがった信州の小林一茶の名を書いた。中風のため一茶の死んだのは文政十年(一八二七年)。その前年、忠治は初めて殺傷事件を起こし、下野国大前田英五郎の元に身をよせていた。
私は忠治と一茶の街道でのすれちがいに期待したのだが、忠治が信州に入ったころ、一茶はすでに亡く、どうやらそれは無理というもののようだ。
世に拗ねて
国定忠治こと長岡忠次郎が生まれた文化七年(一八一〇年)は、小林一茶が『七番日記』を書きはじめた年である。弟との遺産交渉がこじれたり、梅雨のころ桜井蕉雨と行った上総国の旅の疲れもたまり、自らの体の衰えも感じはじめていた時代である。
年齢は四十八歳、信州永住をほのめかしながら、江戸との間を往復したり、若き日からの行脚の地、上総の国をまた訪ねたりする日々が続いていた。
『七番日記』の序に一茶自身こう書いている。
「安永六年より旧里を出て漂泊すること三十六年なり。日数一万五千九百六十日、千辛万苦して一日も心楽しむことなく、己を知らずしてつひに白頭翁となる。」
文化八年六月、上総富津の大乗寺では、残りすくなくなった奥歯を失ってつぎのように述懐している。
「四十余年の草枕、狼ふす草をかたしきて、夜通したましひ消ゆるおそれをしのび、あらし吹舟を宿ゝして、底の藻屑に身を浸すうさをしのぎ、たまたま花さく春にあへば、いさゝかうれひを忘るゝにゝたれど、ほとほと露ちる秋の行末をかなしむ。重荷負ひて休ふごとく、たのしミのうちにくるしミ先立。其折々に齢のひたもの(むやみと)ちゞまり行くことを、今片われの歯を見るにつけ思ひしられぬ。いつの日むしろ二枚も我家ちいひて、人に一飯ほどこさるゝ身となりなば、是則安養世界(極楽世界)なるべし。」
これより十年ぐらいまえから、全国人気俳人番付に前頭として登場するなど、ようやく江戸俳諧の世界での地位も高まった時代である。古き一派である葛飾派を離れ、「一茶園月並」を主催するなど、業俳として俳諧活動に専念する決意をかためていた。
往時の俳諧の世界は、天明三年(一七八三年)三月、暁台主催でおこなわれた芭蕉百回忌取越追善の興業も終わり、すでに芭蕉は神格化、偶像化された人物となっていた。芭蕉の称えた真の俳諧は曲視され、多くの業俳は大衆に迎合し、ただの点数を取り合うものとなっていった。
当然一茶もその世界にあったが、彼はそこから一歩抜け出そうとしたのである。その理由はさまざまに考えられるが、私はこれを一茶の決意とは受け止めていない。むしろ、信濃という片田舎に生まれ、そこに幼少の時代を過ごした一茶の自然のうちに持っていたアニミズムのようなものが、その作品にごく自然に表現された結果だと思っている。
現実生活において鬱積された抑制感、たとえば貧困、孤独、継子といった疎外感が自然に作品に反映され、身の回りにある小さな動物などを詠むことになったのではなかろうか。そしてその結果が皮肉にも大衆迎合の月並俳諧と一線を画すこととなったのではないだろうか。
大きなもの、美しいもの、優雅なるもの、これらに反発することによって、鬱積された己の心の解放を求めたといってもよい。
私の好きな一茶の句のひとつに
   鵙よ鵙ピンチャンするなかゝる代に (七番日記)
というのがある。「かゝる代に」などといいながら、一茶は世の中を批判しようとしたのではなく、世間というもののなかにある小さな鵙という存在に自身の目を向けただけである。
小さな生き物に目を向けるということは、彼の生まれた信濃を見つめるということである。継子ゆえに、遺産争いのもつれのゆえに奉公に出され、十数年も故郷を捨てたこともある一茶も、その晩年はやはり故郷回帰への道をたどったのである。
さらに産土への絶ちがたい慕情が、たとえば芭蕉のように、永遠なるものへの詩情となるといったふうに昇華するのではなく、あくまで単純に、あくまで泥臭く俳諧となっていったのではないだろうか。
今日においても、一茶が底深い人気を持ち続けているのは、たんに頭で考えた俳諧ではなく、肉体を通して物に迫っていった作品を残しているゆえであろう。
もうひとつは、その作品をあくまでも自身の言葉で書いていたということではあるまいか。大胆な俗語、破調や無季……。
   蕗の葉にぽんと穴明く暑(あつさ)哉 (七番日記)
   鳶ヒヨロヒゝヨロ神の御立ちげな (七番日記)
   月よ梅よ酢のこんにやくのとけふも過ぬ (七番日記)
   南天よ炬燵やぐらよ淋しさよ (享和句帖)
   うき雲や峰ともならでふらしやらと (文政句帖)
一茶が地方宗匠としての地位も確定し、やっと生活に落ち着きもできて、柏原の小升屋の乳母宮下ヤヲ(三十二歳)を娶った文政九年(一八二六年)、生まれ故郷の上州を逃れていくひとりの若者がいた。齢十七歳の長岡忠次郎である。村という社会の体制に反発して博徒への道に入った彼は、この年ひとつの殺傷事件を起こし、八州廻りに追われながら下野の国の大前田栄五郎を頼り、故郷を一時離れていった。
国定忠治という名の初めて登場してくる事件である。
同じような時代、生まれた土地に反骨を持ち、一方は江戸へ、一方は下野へ旅立っていき、晩年は故郷へ帰らざるを得なかった若者二人。その反骨と漂泊について考えてみたい。
ふたたび忠治に戻る。
忠治の生まれた上州佐位郡国定村は、当時はどんな状況にあったのか。
文政年間(一八一八〜一八三〇年)の記録が残っている。それによれば、戸数百六十四軒、村の収穫高は六百四十石とある。ここから年貢を差し引かれると、一戸あたりの収入は二人が暮らせる程度の微々たるものだ。しかし、実際にはこのほかに桑畑を持ち、養蚕による収入もあるので、とくに貧しいといった状況でもない。だがこの養蚕による現金収入が、皮肉にもやがて農民自身を縛ってゆく結果にもなる。
国定村は幕府の天領である。代官矢島藤蔵がひとりで支配していた。国定村の「根本大先祖」である国定家は昔、新田義貞の家臣であったといわれている。国定家に残された『国定村浪士新古貴賤順席正記』に「古百姓十六軒皆由緒ある浪人なり」として、その十六軒のなかに忠治の苗字である長岡氏姓があるところをみると、先祖は新田義貞の家来だったのかもしれない。
国定村は赤城山の山麓にある。赤城の裾野は長い。この雄大な山麓の西に渋川市、富士見村、前橋市、そして南に国定、薮塚、間々田などの町々がしがみつくように点在している。
冬になると北の上越方面に雪を降らした風が、今度は乾いた空っ風となって赤城山から吹き下ろしてくる。赤城颪である。西上州の人間は誰も皆この空っ風に親しんできた。
この風に向かって立つと、不思議に傲然たる気分になる。
本当は弱い人間が、なにか一丁やってやるかという気持ちになるのだ。
たいしたこともできぬかもしれないが、短い詩や歌ぐらいはできるかもしれないというようになってしまう。
この山麓から萩原朔太郎が生まれ、さらには伊藤信吉、山村暮鳥、土屋文明、村上鬼城などという短詩型のすぐれた作者が生まれたのは、そんな理由からだと私は勝手に思っている。
そのひとり萩原朔太郎は、かつてこの村を訪れ、忠治の墓の前に立った。そして一篇の詩を残している。
   國定忠治の墓  萩原朔太郎
   わがこの村に来りし時
   上州の蠶すでに終りて
   農家みな冬の閾を閉したり。
   太陽は埃に暗く
   悽而たる竹藪の影
   人生の貧しき惨苦を感ずるなり。
   見よ 此處に無用の石
   路傍の笹の風に吹かれて
   無頼の眠りたる墓は立てり。
   ああ我れ故郷に低徊して
   此所に思へることは寂しきかな。
   久遠に輪廻を斷絶するも
   ああかの荒寥たる平野の中
   日月我れを投げうつて去り
   意志するものを亡び盡せり。
   いかんぞ残生を新たにするも
   冬の蕭條たる墓石の下に
   汝はその認識をも無用とせむ。 ─上州國定村にて─
この詩について朔太郎は詩集『氷島』でみずからつぎのように解説している。
昭和五年の冬、父の病を看護して故郷にあり。人事みな落魄して、心烈しき飢餓に耐へず。ひそかに家を脱して自轉車に乘り、烈風の砂礫を突いて國定村に至る。忠治の墓は、荒寥たる寒村の路傍にあり。一塊の土塚、暗き竹藪の影にふるへて、冬の日の天日暗く、無頼の悲しき生涯を忍ぶに耐へたり。我れ此所を低徊して、始めて更らに上州の蕭殺たる自然を知れり。路傍に倨して詩を作る。
まことに彼の郷土望景詩である。
当然忠治も少年のころからこの山を見、風を浴びてきた。
忠治の父与五左衛門は桑を栽培し、生糸を紡ぎ、さらには近所の百姓からも生糸を買い集めてこれを近隣の本町村の市場に売るということで、ある程度の生活を続けてきた。
振り返って一茶、彼も貧農の出といわれることがあるが、よく見ると持高六石五升の本百姓の家に育っているので、このあたりの状況は忠治に似ている。
しかし、一茶の父は忠治十歳の文政二年(一八一九年)五月二〇日にこの世を去ってしまう。
忠治が渡世の道に入っていくのはこのころからである。
奔放な衝動により、単調な百姓の生活に飽き足らなくなってしまう。酒を飲み、宿場の飯盛女を相手に