恵まれて 傘寿

明けまして おめでとうございます

若いときは まさか80歳までなどと 思っていました
恵まれて 元気に到達

家族も元気
毎日のおいしい食事 家内の頑張り
健康に気を付けましょう

一区切り
やはり昔を 思い出してしまう
 


傘寿
 
 
 
●よき友は 心の花の 添え木かな  
友達に恵まれました
本当の心 開ける人
中学時代からの友人
会社の付合いから生まれた友人 
 
 
 
●為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり   
何としても 最後までやりとげる 拘り
嫌われたことも 一度や二度ではありませんでした
独断専行 商品 形にする
 
  
 
●やってみせ 言って聞かせて させてみせ ほめてやらねば 人は動かじ 
「言って聞かせて」を忘れていました 説明不足
部下が離れる 一人や二人ではありませんでした
人の価値観 それぞれ
自己満足 一人だけ本物に育ちました
 
 
 
●明日ありと 思う心の あだ桜 夜半(よわ)に嵐の 吹かぬものかは
自分の世界 夢
梯子を外されたこと 一度や二度ではありませんでした
無駄使いの防止 思考実験で検証 可能なら着手
周囲の説得 後回し
親鸞聖人が詠まれたと伝わる和歌です。親鸞聖人が9歳の時、仏門に入られる決心をされ天台座主である慈円を訪ねましたが、すでに夜だったので、「明日の朝になったら得度の式をしてあげましょう」と言われました。しかし、聖人は「明日まで待てません」とおっしゃられ、その時詠まれたのがこの歌と伝わっています。この歌の意味は、「今美しく咲いている桜を、明日も見ることができるだろうと安心していると、夜半に強い風が吹いて散ってしまうかもしれない」ということですが、親鸞聖人は、自分の命を桜の花に喩え、「明日自分の命があるかどうか分からない、だからこそ今を精一杯大事に生きていきたい」との思いが込められています。
今年も3月11日がきました。あの大震災から早くも3年が経過し、あの時に感じた災害の悲惨さ、そして命のはかなさというものが薄れつつあるように思えます。私たちは当然のように自分には明日もあり、また明後日もあり、そして10年先、20年先もあると思っています。また、知らず知らずのうちにそういうことを前提とした生活習慣となり、今ここにしかないこの命を大切に生きられていないことも多くあるのではないでしょうか。3年前の3月11日には一瞬にして2万人近くの方々がお亡くなりになり、そして3年経過した今もなお、26万人以上の方々が避難生活を余儀なくされているという現実。この現実を経験しても、時間の経過とともにその記憶が薄れ、また当然のように自分には明日があり、今を精一杯生きられていない自分。親鸞聖人の詠まれた歌から、改めてそういった自分に気づかされます。
4月は新年度です。本学も多くの方々が新しい生活に期待を膨らませご入学されます。心機一転、新たな気持ちで新たな生活をはじめていきたいものです。今までは「明日やればいい」と言って、先延ばしにしていることはないでしょうか? 「もう少し落ち着いたら、新しいことを考えよう」「もう少し落ち着いたら、改善に取り掛かろう」「もう少し落ち着いたら、資格の勉強を始めよう」と言って先延ばしし、結局なにも手をつけられなかった今までの生活を改め、これからは「今を精一杯生きる」ことを目標に、何事も先送りせず取り組む生活を送りたいものです。  
 
 
 
●時鳥 (ほととぎす)
鳴かぬなら殺してしまえ時鳥
鳴かぬなら鳴かしてみしょう時鳥 
鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥
信長は短気ではげしい気性、秀吉は工夫をこらすタイプ、家康はがまん強い性格だったといわれているが、本当にそうなのだろうか? 資料をたんねんに調べていると、三人の意外な性格が見えてきた!
「殺してしまえ」 実は「がまん強い努力家」だった信長
信長がまだ10代のころのこと。ふつうよりも長い槍をつくり、新しい戦法を発明した。これは、信長が天才だからできたのだろうといわれてきた。しかし、実際は信長は寝る時間や食べる時間をおしんで研究し、周囲から大うつけ(ばかもの)といわれてもがまんし、この長い槍の戦法を完成させている。 信長はとてもまじめで、研究熱心だったのだ!
「鳴かせてみよう」 すべて計算!? 秀吉の「人たらし」
織田家につかえ、美濃(みの・岐阜県南部)を攻略するときのこと。秀吉は、敵の武将を味方につけることに成功した。しかし信長は、その武将を殺してしまえと命じる。ふつうの人間なら、武将を殺してしまうだろう。しかし秀吉はそうはしなかった。武将に「すぐに逃げられよ」といい、刀を捨てて、万が一の時は自分を人質にするよう申し出たのだ。これは、たんに秀吉の人の良さをしめすエピソードではない。秀吉は「武将は感激してわしの評判を美濃で広めるだろう」と考えて、逃がしたのだ。秀吉の人の良さは、深い「計算」にもとづいていた。
「鳴くまでまとう」 家康は「短気」だった?
家康はがまん強い性格だといわれるが、本当にそうだろうか。家康は、じっとしているようにと言われているのにもかかわらず、ある戦いで挑発にのってしまい、大敗したことがある。そして、家康の長男である信康も、そのはげしい性格から信長に切腹を命じられたともいわれている。戦いぶりからも、血筋からも、実は家康は短気だったと考えられる。  
家康 短気さや無謀さが見え隠れする青年時代
家康と言えば辛抱強く、気長に待てる性格と認識している人も多いであろう。なんせ「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」という句が独り歩きしている側面が強すぎるのである。この句は、当の家康本人が読んだ句ではないということはご存じであろうか。そして問題は「誰が」「いつ」詠んだのかということである。実は、この句は江戸後期の『耳嚢(みみぶくろ)』という文献に見られる「狂歌」に過ぎない。しかも読み人知らずである。先にも書いたが、江戸時代の家康に関する評価には多分に脚色があり、多少差し引いて考えなければならない。実際に、家康が幕府を開く以前の史料を読み解いていくと、黒歴史と言っても過言ではない意外な面が浮かび上がってくるのである。
実は短気
家康愛用の軍配にはイライラして噛んだ歯形でいっぱいだったと言われる。また、そりの合わない年下の家臣を縁側から突き落とすなどの癇癪を起していたことも記述されている。特に合戦中は怒りやすく、激高すると馬の鞍を拳で殴りつける癖があり、拳が血だらけになったと言われている。後年、その癖がもとで指の曲げ伸ばしがしにくくなったというから、かなり頻繁に激高したものと推測される。
結構無謀?
家康の無謀さを端的に表しているのは三方ヶ原の戦いであろう。元亀3年(1572年)、西上作戦を開始した武田信玄は遠江国に侵攻したが、何と家康のいる浜松城を素通りして三方ヶ原台地に向かったとされる。元々織田・徳川連合軍は浜松での籠城を計画していたのだが、この信玄の作戦には驚いたらしい。これを、信玄を背後から襲う好機ととらえた家康は、反対する家臣を押し切って追撃に出た。浜松素通りは信玄の策では?という疑念は家康の頭にも当然あったと思われる。しかし、それをしても追撃の欲求に勝てなかったあたりに、無謀さが見て取れるのである。この追撃策は信玄のフェイクを利用した戦略の1つであったという説もある。だが、命からがら逃げかえった家康が有名な「しかみ図」を描かせているところを見ると、無謀さのなせる業ではなかったかと思えてしょうがないのである。  
鳴かぬなら… 誰が詠んだ? ホトトギスの川柳
耳嚢(みみぶくろ)
「鳴かぬなら…」の原形と思われる川柳は、江戸中期に書かれた雑話集『耳嚢(みみぶくろ)』に収録されている。『耳嚢(耳袋)』は、旗本・南町奉行の根岸鎮衛が、佐渡奉行時代(1784-87)頃から晩年(1814年)までの約30年にわたって、様々な怪談・奇談・噂話を書きためた全10巻の雑話集。何度も書き写されて何種類も写本が出回っているため、出典によって部分的に文章表現が異なり、漢字・かな表記にゆれが見られる。
「いまだ郭公を聞かずとの物語いでけるに、信長、鳴ずんば殺してしまえ時鳥と、ありしに秀吉、なかずともなかせて聞こう時鳥と、有りしに、なかぬならなく時聞こう時鳥と遊はされしは神君の由。」
現在よく知られている「鳴かぬなら…」の川柳とは若干異なっているが、信長・秀吉・家康のそれぞれの個性はしっかりと表現されているように感じられる。「鳴ずんば」とは、「鳴かないのならば」の意味。郭公、時鳥は、ホトトギスの別名・異名。神君(しんくん)とは「神格化された君主」、江戸時代では「徳川家康」を意味することが多い。
現代版に近い甲子夜話
上述の『耳嚢(耳袋)』八の巻が完成したのは1805年頃だが、そこから20年前後経過した江戸後期に出版された随筆集『甲子夜話』(かっしやわ)では、現在よく知られている形に近い「鳴かぬなら…」の川柳が収録されている。
「郭公を贈り参せし人あり。されども鳴かざりければ、なかぬなら殺してしまへ時鳥  織田右府 鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤 なかぬなら鳴くまで待よ郭公  大権現様」
郭公、時鳥、杜鵑は、いずれもホトトギスの別名・異名。『耳嚢(耳袋)』と比較すると、20年後の江戸後期に刊行された『甲子夜話』の方が、現代の我々が知る「鳴かぬなら…」の川柳にぐっと近づいていることが分かる。なお『甲子夜話』の筆者は、肥前国平戸藩第9代藩主・松浦静山。1821年から1841年まで20年間にわたり執筆され、正篇100巻、続篇100巻、第三篇78巻に及ぶ。
誰が句を詠んだ?
信長・秀吉・家康の個性を表した「鳴かぬなら…」の川柳は、一体誰が詠んだのだろうか?『甲子夜話』の筆者・松浦静山だろうか?それとも、その20年前の『耳嚢(耳袋)』筆者・根岸鎮衛だろうか?残念ながら、これらの川柳を誰が詠んだのかについては、今日まで決定的な資料は見つかっていない。粕谷宏紀編「新編川柳大辞典」では、三将が詠んだとするのは誤りと指摘されている。本当の作者が誰なのかについては、専門家らによる今後の更なる研究の進展を待つほかなさそうだ。鳴くまで待とうホトトギス。
明智光秀の句もある?!
2020年に放送されたNHK大河ドラマ「麒麟が来る」において、主人公として注目を集めた明智光秀(明智十兵衛)。ネットで検索すると、明智光秀の名前が付された次のような「鳴かぬなら…」の川柳を見かけたので、その出典や真偽は不明なものの、参考までにご紹介したい。
「鳴かぬなら 放してやろう ホトトギス」「鳴かぬなら 私が泣こう ホトトギス」
いつ誰が詠んだ川柳なのか出典は不明で、なぜ2種類もあるのかよく分からないが、明智光秀の(性格を表した)句としてネットで出回っている。興味深い内容だが、作者不明の後世の創作であることは間違いないだろう。
「ほととぎす」の歌はいつ、だれがつくったの?
「鳴かぬなら殺してしまえほととぎす」などの織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の性格を比べた歌は、いつ、だれがつくったのでしょうか?
これらの歌は、肥前(ひぜん)国(長崎県)の平戸藩主である松浦静山の随筆「甲子夜話(こうしやわ)」に書かれています。この本は1821〜41年にかけて成立したものです。江戸時代後期です。この本には、
「郭公を贈り参せし人あり。されども鳴かざりければ、
なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府
鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤
なかぬなら鳴まで待よ郭公 大権現様」
と書いてあります。これがもとになり、現在のような、なめらかな口調の歌になったといわれています。  
色々の社長に仕えました
チャンスをくれ 暖かく見守ってくれた社長
信じて 任せてくれた社長
結果が全て 口を出さない社長
茶坊主任せ 馬鹿な社長
 
 
 
●今日に死ぬ覚悟 
死を覚悟してこの一日を生きん  
私たちは普通に生きていると、ただただ流されるままに日々が過ぎてゆきがちではないでしょうか?何に流されるかというと、さまざまな欲望にも流されますし、周りの状況や流行りなどにも流されますし、流されがちなまま惰性で過ごしがちなのが、私を含め多くの普通の人の陥りがちなあり方かと思います。私自身、欲望や環境に流されがちなクセは、死ぬまで無くならないクセではないかと思いはじめているくらいです。このようなあり方を救ってくれる薬のようなものはあるのでしょうか?
この人生の根本問題に対する良薬は、命が限られたものであること、今日死ぬかもしれないことを、絶えず心に新たにすることではないかと思います。アップル社を作ったスティーブ・ジョブズが有名な講演の中で、17歳の時に次の言葉に出会ったと語っています。「毎日を人生最後の日だと思って生きよう。いつか本当にそうなる日が来る」。彼は17歳の時から、死ぬまで、毎朝、鏡の前に立ち、この言葉を自分自身に向かって投げかけました。「今日が最後の日だとして、お前がやろうとしていることは、それで良いのか?」と毎日、自分に問いかけたとのことです。
「今日が人生の最後の日」ということは、必ず当たる日が来ます。その日がいつかは、前もってははっきりとはわかりません。一番早ければ今日かもしれませんし、数十年後かもしれません。ですが、「平均年齢から考えると、あとウン十年くらいは生きるだろう」などと思って生きていると、だらだらと時を過ごしてしまいがちです。「今日が最後の日だとして生きる」ことで、ウカウカ生きるあり方を脱し、本当に大事なものに向かって生きる可能性が開けると思います。
禅の修行においてもこれは基本中の基本です。『禅関策進』という禅の修行者にとっての座右の本においても、同様の叱咤激励が繰り返されています。「大晦日(人生最後の日)になって、あわてふためいても遅いぞ!」「喉が渇いてから、井戸を掘るようなことをしていて、どうする?」
今日死ぬとしても、あわてふためいても仕方ないことです。今日死ぬとしても最も大事なことは何かを深く見つめ、自分が為すべきこと、大事なことを行なっていくよりほかにないわけです。一度きりの命を、今現に生きているわけですし、与えられた命という恵みに感謝し、生かしてくれている周りの人や環境に感謝し、せっかくの恵みをできるだけ無駄にせぬよう、持前を発揮して生きていくよりありません。
哲学者・教育者である森信三先生は、「わたくしの宗教観として一番しっくりするのは、『念々死を覚悟してはじめて真の生となる』の一語であります」と語っています。私自身も宗教のギリギリのところはここにあると思っています。森先生は、人から色紙に何か書くことを求められると、最晩年は次の一語を書きました。「死を覚悟してこの一日を生きん」この言葉を、毎日、いや時々刻々心に新たにしていきたいと思います。この心の姿勢を失わずに生きることで、初めて真に生きる道が開けると思うからです。
死ねる覚悟で開発・製造に挑む  
昔から“一将功成りて万骨枯る”ということわざがある。たしかにこれは一面の真実をあらわしているといえよう。つまり、一人の大将が功を成すためには、戦場で多くの兵卒たちが死ぬ。それで一将の功が成るためには、万卒が死ぬというような大きな犠牲が一方で払われているんだ、と、こういうことなのである。しかし、また一面においては、その当時の武将の心構えはどのようなものであったかというと、いよいよ戦争をして戦い利あらずというときには、「傭兵たちの命は一つ助けてもらいたい。そのかわり、私は責任をとって切腹しよう」と、こういうことであったのではないであろうか。つまり、大将は大将なりに、事あらば兵にかわっていつでも死ねる覚悟をもっていたのである。いわば、こういう心構えというか、徹底した責任感というものが、昔の武将たちの真骨頂であったと思う。そしてこのような心意気というものが、われわれの祖先というか、いわば日本の伝統の一つの姿として、生きていると思うのである。今日においても、これはやはり生きつづけていると思うのである。 
武士道と云うは死ぬ事と見付けたり
「死」を覚悟することで「生」が浮かび上がり、今この瞬間に生命がほとばしる。「死」が日常にあった武士たち。その生き様は潔く、美しかった。現代を生きる私には「死」は必ずしも身近ではない。今、いかに生きるか。  
出家とは生きながら死ぬことなり
出家とは生きながら死ぬことなりとおもっているわたしにとって、死はもうすでに終わっていて、今ある現身(うつしみ)は、仮の姿でしかないのです。じたばたしたって死ぬときは死ぬのですから覚悟はついています。足のふみ場もない汚い書斎で、本のトーチカの底に埋もれるように、机にうつ伏して死んでいた朝、いつものようにやって来ただれかが、いつものように徹夜のうたたねだと思って、声をかけずに去ってゆき、一時間ほどしてコーヒーを持って来たとき、ようやく死んでいることに気づく。キャーッという彼女の悲鳴で、四方から積み上げた本がばらばらと落ちかかり、わたしの死体は本に埋もれてしまう。そんな死様(しにざま)を望んでいるのだけれど、こればかりはおはからいです。  
自己責任 一匹狼 極める
仕事第一 物づくり 外注先協力を得る
結果は売上 協力会社との取引も拡大
お金のことばかり 裏を返せば 多くの人への心配りを忘れていました
傘寿になって 手遅れの反省
 
 
 
●露営の歌
勝って来るぞと 勇ましく ちかって故郷を 出たからは
手柄たてずに 死なれよか 進軍ラッパ 聴くたびに
まぶたに浮かぶ 旗の波
   土も草木も 火と燃ゆる 果てなき荒野 踏みわけて
   進む日の丸 鉄かぶと 馬のたてがみ なでながら
   明日の命を 誰が知る 
・・・
死んで還れと 励まされ さめて睨むは 敵の空
   ・・・
   天皇陛下 万歳と 残した声が 忘らりょか
戦争する身は かねてから 捨てる覚悟で いるものを
鳴いてくれるな 草の虫 東洋平和の ためならば
なんで命が 惜しかろう 
田舎者 何としても 一旗揚げたかった
走ることは得意でも 走るだけで経営に無知でした
錦を飾れませんでした
 
 
 
●経験
経験が浅い
経験を積む
いろいろな部署を経験する
はじめての経験
経験してみて分かる
経験を生かす
人生 経験の積み重ね 
昭和41年(1966年 23才) 5週間 ベルギーに出張
写真技術の研修をうける
外人を知る 身分社会を知る 異文化を知る 休日にロンドン・パリへ遊びに行った
自分の考え 言葉にする大事さを知る
この経験 新しい自分の出発点になりました
このチャンスをくれた会社 今も感謝しています
 
●経験
やめて 愛してないなら やめて くちづけするのは
やめて このまま帰して あなたは わるい人ね
わかってても あなたに逢うと いやと言えない ダメなあたしネ
だから 今日まで だから 今日こそ きらいにさせて!離れさせて!
   やめて 本気じゃないなら やめて きつく抱かないで
   やめて そんな気やすめは あなたは ずるい人ね
   わかってても あなたの後を ついてゆきたい ダメなあたしネ ・・・ 
若気の至り 恰好を付ける
気分転換 気分の赴くまま 憂さ晴らし 
浮気 据膳 一時の楽しみ
夜中 夢に見る 神様のお叱り
 
 
 
●経験
若いとき セールスエンジニア 全国行脚 新技術の紹介指導
    行かなかった県 沖縄 鹿児島 宮崎 島根 福井 石川 富山 山形 秋田 青森
営業 新商品開発 代理店販売 保守 
    自社の土俵創り ( 光源 ) OEM ( フィルムメーカー )
    特許工業所有権 ( 平行光 照明 レタッチ )
接待 神様との距離を取り払う手段
    安いお酒はご利益なし 年に1,2度の豪華接待
    クラブのお姉さんに銀座の仕来りを教わる 据え膳食べてはダメ
バブル崩壊 
市場調査 商品企画 商品開発 ( PC机 2焦点ペンライト 空気清浄機 )
マイペースの販売
1994年頃からか 米国ネットでの情報量の多さを知る 情報から最新技術も学びました
2000年ごろ〜 
企業HPの制作  ネットでの情報発信 販売 
情報「量」で勝負 
当時 一般企業のHPは会社案内の延長程度でした
仕事の合間 気分転換 このHPスタート
 
 
 
●盛り場ブルース
咲いて流れて 散って行く 今じゃ私も 涙の花よ
どこにこぼした まことの涙 さがしたいのよ 銀座 赤坂 六本木
   お酒飲むのも なれました ・・・
   小雪はらって 今夜もひとり 酔ってみたいの洞爺 すすきの 定山渓
酔ってもえてる この腕に ・・・
想い出させる 七夕の夜 恋の細道 青葉 国分 一番町
   泣けぬ私の 身がわりに ・・・
   夜のお城の つれない風に 髪も乱れる 栄 今池 広小路
通り雨には すがれない ・・・
すがるこいさん 涙にぬれて 帰るあてなく 南 曾根崎 北新地
   路地のひかげの 小石でも ・・・
   願いをかけた チャペルの鐘が 今日もせつない 薬研 八丁 本通り
グラス片手に 酔いしれて ・・・
ぐちも言います 人形だって 誰がなかせる 中洲 天神 柳町
   流れたくない 流れたい ・・・
   何を信じて 生きてく女 春はいつくる 渋谷 新宿 池袋 
若いときの 全国行脚を思い出す
その日のお客様 仕事の打ち上げ ご馳走になりました
今治の料理屋さん 真っ赤で大きな夕日 瀬戸内海に沈む 思い出
銀座 赤坂 六本木 新宿 すすきの 国分 栄 南 北新地 祇園 中洲 天神
クラブ キャバレー バー スタンドバー 居酒屋 料理屋 料亭
 
 
 
●港町ブルース
背のびして見る海峡を 今日も汽笛が遠ざかる 
あなたにあげた 夜をかえして 港、港 函館 通り雨
   流す涙で割る酒は だました男の味がする 
   あなたの影を ひきずりながら 港、宮古 釜石 気仙沼
出船 入船 別れ船 あなた乗せない帰り船 
うしろ姿も 他人のそら似 港、三崎 焼津に 御前崎
   別れりゃ三月 待ちわびる 女心のやるせなさ 
   ・・・ 港、高知 高松 八幡浜
呼んでとどかぬ人の名を こぼれた酒と指で書く
・・・ 港、別府 長崎 枕崎  
   女心の残り火は 燃えて身をやく桜島 
   ここは鹿児島 旅路の果てか 港、港町ブルースよ 
若いときの 全国行脚を思い出す
仕事の合間 時間つぶし 寄り道 観光
街の風景 景色 楽しみました
 
 
 
●明日は我が身 
他人事と思っていた事故や災難などが、明日には自分に降り掛かってくるかもしれないことから、不幸な出来事が、いつ我が身にふりかかってくるかわからないこと。  
悪い夢 失敗したら ・・・
想定外 言い訳 脇道 逃げ道 責任転嫁 
助っ人探し 転売して無かったことにする 
道連れ 開き直り 自分の世界
 
●全て良し  
終わり良ければ全て良し  
結果良ければ全て良し
よく足を引っ張られました
仕事 「負けるが勝ち」 はありません
せめて 「引き分け」 に・・・ 持ち込みました
どうあれ 受注出来れば 「勝ち」
 
●昭和枯れすすき
貧しさに負けた いえ世間に負けた この街も追われた いっそきれいに死のうか
力の限り生きたから 未練などないわ 花さえも咲かぬ 二人は枯れすすき
   踏まれても耐えた そう傷つきながら
   淋しさをかみしめ 夢を持とうと話した ・・・
この俺を捨てろ なぜこんなに好きよ 死ぬ時は一緒と あの日決めたじゃないのよ
世間の風の 冷たさに こみあげる涙 苦しみに耐える 二人は枯れすすき  
昭和48年 ベンチャーの立ち上げiに参加 
スポンサーは上場企業
負けないよう 寝ないで頑張りました
楽しみは 日曜 日帰りドライブ 車はケンメリ 
( 歌は昭和49年のもの )
 
 
 
●津軽海峡冬景色
上野発の 夜行列車 おりた時から 青森駅は 雪の中
北へ帰る 人の群れは 誰も無口で 海鳴りだけを きいている
私も ひとり 連絡船に乗り こごえそうな鴎 見つめ 泣いていました
ああ 津軽海峡 冬景色
   ごらん あれが竜飛岬 北のはずれと 見知らぬ人が 指をさす
   息でくもる 窓のガラス ふいてみたけど はるかに かすみ 見えるだけ
   さよなら あなた 私は帰ります 風の音が 胸をゆする 泣けとばかりに ・・・  
昭和52年 オイルショック 
あっという間に メインのユーザー3社が倒産
仲間の心も バラバラになりました
ベンチャー 閉店
 
 
 
●南無阿弥陀仏
めしを喰って静かに息をついていたら いつの間にか日が暮れて 気がついた時は墓場の中
死ぬまで少年の心でいることのできる人は実に幸いである
東路に筆を残して旅の空 西のみくにの名所を見む
大義を思う者は、たとへ首をはねらるる期までも命を大切にして、何卒本意を達せんと思う
世の中は食うてかせいで寝て起きてさてその後は死ぬるばかりぞ
一代聖教みな尽きて 南無阿弥陀仏に成り果てぬ我が亡骸は野に捨て獣に施すべし
四十九年一睡の夢 一期の栄華一杯の酒
よく生きることは、よく死ぬことでもある。一生懸命に生きたものは、納得して死を受け容れることが出来る、という意味です
死ぬよりも、生きているほうがよっぽど辛いときが何度もある。 それでもなお生きていかねばならないし、また生きる以上は努力しなくてはならない
おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が
死は救いとは言いながら、そうは悟りきれぬものである
あと十年生きたいが……せめてあと五年の命があったら、ほんとうの絵師になれるのだが
普段から武士道の心がけを練っていなかったならば、いざという場合に潔く死ぬことはできにくいものだ。よくよく心を武に刻むことが肝要である
人間は、みんなに愛されているうちに消えるのが一番だ
生きるのも日常、死んでいくのも日常
生れ生れ生れて生の始めに暗く死に死に死んで死の終に冥し
いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん
願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ
人間は生きることが全部である。死ねば全てなくなる
この世をば どりゃ おいとまに せん香の 煙とともに 灰左様なら
誰も知らない暗い所にいくのだからなかなか単純な気持ちじゃないよ
人は死ぬ。あたりまえだ
昨日まで人のことかと思いしがおれが死ぬのかそれはたまらん
「朝に人としての道を悟ることができれば、その晩に死んでも悔いはない」という事こそが人の道である。人としての努力をすることもなく、ただ死に向かうのは人の道ではない
死のうと思っていた。 今年の正月、よそから着物一反もらった。 お年玉としてである。着物の布地は麻であった。 鼠色の細かい縞目が織り込まれていた。これは夏に着る着物であろう。 夏まで生きていようと思った
死ぬということは、生きているよりいやなことです。 けれども、喜んで死ぬことが出来れば、くだらなく生きているよりは幸福なことです
露とおき露と消えぬる我が身かな 難波のことも夢のまた夢
噓でも冗談でもない。死んだら皆に柩の前で万歳を唱えてもらいたいと本当に思っている
人間、死ぬときは死ぬのがよい
生まれるということは死ぬ ということの約束であって、 死も格別驚くことではない
武士といえば、常に死ができている者と自惚れているようだが、そんなものは出家、女、百姓とて同様だ。武士が他と異なるのは、兵法の心得があるという一点においてだけだ
人は死ぬ瞬間までも、 もしかしたら助かるかもしれないと空想し得る力を与えられている
死は生の対極としてではなく、その一部として存在する
このお盆に生きている全部の人間は、単に今年度の生き残り分にすぎない
虎は死して皮を残し、人は死して名を残す。 保険に入っていれば金を残す
災難に遭う時節には災難に遭うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候
天国はすごくいいところらしい。 だって、行った人が誰一人帰ってこないのだから 
助けてください 仏様 神様
目を瞑る
気持ちの整理 
 
 
 
 
 


2023/1