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●怪火・鬼火 | |
人の心を惹き付け、時に惑わし時に興奮させる太古からの記憶、それが火。古くから神聖なものとされることが多く、それは暖を取る為の手段であったから、または唯一の灯りであったからなど様々な理由があります。しかし現代では専ら火は恐怖の象徴。暖炉や囲炉裏のある家であればその限りではないのでしょうが、基本的には火は料理をする時ぐらいにしか見ることがありません。故に火のイメージはどうしても火災などに繋がりやすく、古い時代とは別の意味での”恐れ”を抱いてしまいます。
火が極身近にあり、火と共に生きていた時代。そんな我が国日本の古い時代の伝承や伝説を思い出し、改めて火との新しい付き合い方を考えてみましょう。 日本で最も多く伝えられているのが、怪火(かいか)・鬼火(おにび)の類です。 妖怪として扱われることもありますが、簡単に言ってしまえば原因不明の発火現象の事です。また、怪火と鬼火は名前こそ違いますがイコールと考えて大丈夫です。 この怪火・鬼火は日本全国で伝承があり、特に有名なものだと狐火でしょうか。 怪火・鬼火と並んで狐火はその現象だけでもほぼ全国に目撃例がある謎の現象です。 提灯を灯しているかのようにポツポツと点いた灯りが突如現れ(数は1つから列になっている多数の物まで様々)、その原因を突き止めようと近づいても決してその灯りの元に辿り着くことは出来ず、フッと消えてしまうのです。 そのような理解不能な火を、人々は「狐火」と呼んだり怪火・鬼火と呼んでなんとか理解しようとしたわけです。 |
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北海道 狐火(きつねび) / 青森県 もる火 / 秋田県 裾野の火 / 岩手県 大入道の怪火 / 山形県 古籠火(ころうび) / 宮城県 亡霊火(もうれいび) / 福島県 龍燈(りゅうとう) / 茨城県 飛び物 / 群馬県 光玉(ひかりだま) / 埼玉県 狐の嫁入り(きつねのよめいり) / 千葉県 唸り松 / 栃木県 狐火(きつねび) / 東京都 火忌みさま(ひいみさま) / 神奈川県 青火(あおび) / 新潟県 陰火(いんか) / 石川県 海月の火の玉(くらげのひのたま) / 富山県 ふらり火 / 福井県 斑狐(まだらぎつね) / 山梨県 天狗火(てんぐび) / 静岡県 お近火(おちかび) / 長野県 あやしき火 / 岐阜県 風玉(かぜだま) / 愛知県 亡魂(ぼうこん) / 京都府 叢原火(そうげんび) / 滋賀県 油坊(あぶらぼう) / 三重県 いげぼ / 大阪府 姥ヶ火(うばがび) / 和歌山県 釣瓶(つるべ) / 奈良県 蜘蛛火(くもび) / 兵庫県 油返し(あぶらがえし) / 岡山県 ホボラ火 / 鳥取県 チュウコ / 島根県 オショネ / 広島県 海幽霊 / 山口県 根場の怪火 / 徳島県 四ッ屋の怪火 / 愛媛県 船幽霊 / 高知県 遊火(あそびび) / 香川県 牛鬼(うしおに) / 福岡県 マヨイブネ / 大分県 とんとろ落ち / 佐賀県 天火(てんか) / 長崎県 うぐめん火 / 熊本県 不知火(しらぬい) / 宮崎県 筬火(おさび) / 鹿児島県 ウマツ / 沖縄県 イニンビー | |
●火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ) | |
日本神話の中でも比較的序盤にあたる、イザナギとイザナミが神を産む段においてイザナミが産み落とすのが火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)です。
しかし火之迦具土神はなんとも印象深い産まれ方をするのですがご存知でしょうか?それは、産まれた時に自身が火の神であることから、イザナミが陰部をヤケドしてしまうのです。さらにただのヤケドに済まず、イザナミはその陰部のヤケドが原因で死んでしまいます。イザナミの死を悲しみ、激怒したイザナギはなんと火之迦具土神を切り殺してしまうのです。 ――この神話上の逸話は、多くの教訓を与えてくれるとされています。 出産により陰部をヤケドし死んでしまうイザナミは、まさに出産の危険性を描いているとも言われていますし、火の神をイザナギが殺すということは人が火をコントロールできるようになったことであるとも言われます。 また、少し踏み込んだ話になってしまいますが、古い時代、火と出産とは相性が良くないとされていた時代があり(ケガレ思想など)、火の神を産むということが縁起の悪いことであるという描写でもあったのかも知れません。 例えば今でも言う言葉として「産後の肥立ち」があります。 これは子供を産んだ後の女性がしっかりと健康を回復していくことを表す言葉ですが、この肥立ち(ひだち)の「ひ」を「火」と掛けて、どうやら肥立ちが悪くなるから火を遠ざける、という解釈がなされていた地域があったようです。 ゲン担ぎというのは一見くだらないように見えて根深いものだったりするので扱いが非常に難しいです。 |
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●かまど神 | |
台所や囲炉裏の火の神様がかまど神(かまどがみ)です。日本の多くの地域で祀られている神様で、農耕、牧畜だけでなく家族をも守ってくれる神様として信仰されています。
かまど神は割と気性の荒い神様とされることも多いのですが、僕の推測ではキッチンは食材などの命と密接に関わりのある大切なものを扱う場所ですから、そこでの悪行は罰が当たるんだぞ、という戒めの為にかまど神が怒りっぽい神様とされたんじゃないかと思います。 怒れるばあちゃん、かあちゃんは神をも凌駕するのです。食べ物は大切に。 |
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●火伏の神社 | |
日本における火伏(ひぶせ。防火ほどの意味)のご利益があるとされる神社は有名どころで二社あります。
1つは、先に書いたイザナミから産まれた火之迦具土神を祀る秋葉神社。この神社は火事の頻発していた江戸に、火伏の願いとともに建立された神社で、今の秋葉原の名前の由来にもなっている神社です。 もう1つが、火之迦具土神を産んだ側のイザナミを祀る愛宕神社。火之迦具土神を産むことで死んでしまったイザナミもまた、火を御すことのできる神として祀られているのがなんとも不思議です。 |
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●怪火 | |
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●狐火 1 | |
日本各地に伝わる怪火。ヒトボス、火点し(ひともし)、燐火(りんか)とも呼ばれる。
郷土研究家・更科公護がまとめた狐火の特徴によれば、火の気のないところに、提灯または松明のような怪火が一列になって現れ、ついたり消えたり、一度消えた火が別の場所に現れたりするもので、正体を突き止めに行っても必ず途中で消えてしまうという。また、現れる時期は春から秋にかけてで、特に蒸し暑い夏、どんよりとして天気の変わり目に現れやすいという。 十個から数百個も行列をなして現れ、その数も次第に増えたかと思えば突然消え、また数が増えたりもするともいい、長野県では提灯のような火が一度にたくさん並んで点滅するという。 火のなす行列の長さは一里(約4キロメートルあるいは約500〜600メートル)にもわたるという。火の色は赤またはオレンジ色が多いとも、青みを帯びた火だともいう。 現れる場所は、富山県砺波市では道のない山腹など、人の気配のない場所というが、石川県鳳至郡門前町(現・輪島市)では、逆に人をどこまでも追いかけてきたという伝承もある。狐が人を化かすと言われているように、狐火が道のない場所を照らすことで人の歩く方向を惑わせるともいわれており、長野県飯田市では、そのようなときは足で狐火を蹴り上げると退散させることができるといわれた。出雲国(現・島根県)では、狐火に当たって高熱に侵されたとの伝承もあることから、狐火を行逢神(不用意に遭うと祟りをおよぼす神霊)のようなものとする説も根強く唱えられている。 また長野の伝説では、ある主従が城を建てる場所を探していたところ、白い狐が狐火を灯して夜道を案内してくれ、城にふさわしい場所まで辿り着くことができたという話もある。 正岡子規が俳句で冬と狐火を詠っている通り、出没時期は一般に冬とされているが、夏の暑い時期や秋に出没した例も伝えられている。 狐火を鬼火の別称とする説もあるが、一般には鬼火とは別のものとして扱われている。 ●各地の狐火 ●王子稲荷の狐火 東京北区 王子の王子稲荷は、稲荷神の頭領として知られると同時に狐火の名所とされる。かつて王子周辺が一面の田園地帯であった頃、路傍に一本の大きな榎の木があった。毎年大晦日の夜になると関八州(関東全域)の狐たちがこの木の下に集まり、正装を整えると、官位を求めて王子稲荷へ参殿したという。その際に見られる狐火の行列は壮観で、近在の農民はその数を数えて翌年の豊凶を占ったと伝えられている。 ●狐の嫁入り 山形県の出羽や秋田県では狐火を「狐松明(きつねたいまつ)」と呼ぶ。その名の通り、狐の嫁入りのために灯されている松明と言われており、良いことの起きる前兆とされている。 宝暦時代の越後国(現・新潟県)の地誌『越後名寄』には、怪火としての「狐の嫁入り」の様子が以下のように述べられている。 「夜何時(いつ)何處(いづこ)共云う事なく折静かなる夜に、提灯或は炬の如くなる火凡(およそ)一里余も無間続きて遠方に見ゆる事有り。右何所にても稀に雖有、蒲原郡中には折節有之。これを児童輩狐の婚と云ひならはせり。」 ここでは夜間の怪火が4キロメートル近く並んで見えることを「狐の婚」と呼ぶことが述べられており、同様に日本各地で夜間の山野に怪火が連なって見えるものを「狐の嫁入り」と呼ぶ。 ●その他 岡山県・備前地方や鳥取県では、こうした怪火を「宙狐(ちゅうこ)」と呼ぶ。一般的な狐火と違って比較的低空を浮遊するもので、岡山の邑久郡豊原村では、老いた狐が宙狐と化すという。また同じく邑久郡・玉津村の竜宮島では、雨模様の夜に現れる提灯ほどの大きさの怪火を宙狐と呼び、ときには地面に落ちて周囲を明るく照らし、やがて跡形もなく消え去るという。明治時代の妖怪研究家・井上円了はこれに「中狐」の字を当て、高く飛ぶものを天狐、低く飛ぶものを中狐としている。 ●正体 各地の俗信や江戸時代の古書では、狐の吐息が光っている、狐が尾を打ち合わせて火を起こしている、狐の持つ「狐火玉」と呼ばれる玉が光っているなど、様々にいわれている。寛保時代の雑書『諸国里人談』では、元禄の初め頃、漁師が網で狐火を捕らえたところ、網には狐火玉がかかっており、昼には光らず夜には明く光るので照明として重宝したとある。 ●英語のFoxFire(「朽ちた木の火」の意から、実際にはヒカリゴケなどの生物発光)を直訳した説 元禄時代の本草書『本朝食鑑』には、狐が地中の朽ちた木を取って火を作るという記述がある。英語の「foxfire」が日本語で「狐火」と直訳され、この「fox」は狐ではなく「朽ちる」「腐って変色する」を意味し、「fox fire」は朽ちた木の火、朽木に付着している菌糸、キノコの根の光を意味していることから、『本朝食鑑』の記述は、地中の朽ち木の菌糸から光を起こすとの記述とも見られる。 ●死体から出るガス等による光説 『本朝食鑑』には、狐が人間の頭蓋骨や馬の骨で光を作るという記述もあり、読本作者・高井蘭山による明和時代の『訓蒙天地弁』、江戸後期の随筆家・三好想山による『想山著聞奇集』にも同じく、狐が馬の骨を咥えて火を灯すとの記述がある。長野県の奇談集『信州百物語』によれば、ある者が狐火に近づくと、人骨を咥えている狐がおり、狐が去った後には人骨が青く光っていたとある。このことから後に、骨の中に含まれるリンの発光を狐火と結び付ける説が、井上円了らにより唱えられた。リンが60度で自然発火することも、狐の正体とリンの発光とを結びつける一因となっている。 ●反論 しかし伝承上の狐火はキロメートル単位の距離を経ても見えるといわれているため、菌糸やリンの弱々しい光が狐火の正体とは考えにくい。 1977年には、日本民俗学会会員・角田義治の詳細な研究により、山間部から平野部にかけての扇状地などに現れやすい光の異常屈折によって狐火がほぼ説明できるとされた。ほかにも天然の石油の発火、球電現象などをその正体とする説もあるが、現在なお正体不明の部分が多い。 |
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●狐火 2 | |
●山際や川沿いの所などに現れる怪光の一種。現在なお正体不明の部分が多い。英語でフォックスファイアfox fireという場合のフォックスは、キツネのことではなく、朽ちるとか、腐って色が変わるとかいう動詞、あるいは朽ち木などについたバクテリアの発光をいう。しかしこれは4、5メートルも離れると見えないから、古来、日本で見られた狐火とは違う。更科公護(さらしなきみもり)は、日本における狐火の見え方の特徴を次のようにまとめている(1958)。(1)火の気のない所に火の玉が一列に並んで現れる。(2)色は提灯(ちょうちん)または松明(たいまつ)のようである。(3)狐火はついたり消えたり、消えたかと思うと、異なった方向に現れたりする。(4)狐火の現れる季節は春から秋口にわたっており、蒸し暑い夏、どんよりとした天気の変わり目に現れやすい。(5)狐火の正体を見届けに行くと、途中でかならず消えてしまう。狐火についてはその後、角田義治の詳細な研究(1977)があり、これは山間部から平野部に向かう扇状地などに現れやすい光の異常屈折によってほぼ説明できることが明らかにされた。
●狐火の正体として、越後(えちご)(新潟県)のものは天然の石油の発火というようなことも考えられるが、発光の原因としては、このほか球電現象による場合もあったであろう。江戸で有名なのは王子の狐火で、毎年大つごもりの夜にはよく現れ、これをわざわざ見物に出かける人もいた。芝居では『本朝廿四孝(にじゅうしこう)』という狂言の四段目「謙信館狐火の段」で舞台の上で狐火を見せる。この芝居に出る狐は善玉の狐である。狐火と同様の現象はヨーロッパの各地でも見られているが、ドイツではこれをイルリヒトIrrlichtといい、屋根に住む小人コボルトのなす術(わざ)と考えられている。出現する場所が日本と同様、川沿いの所に多いことも興味深い。狐火は冬の季語となっている。 ●1 (狐の口から吐き出されるという俗説に基づく) 闇夜、山野に出現する怪火。実際は燐化水素の燃焼などによる自然現象。燐火(りんか)。鬼火(おにび)。狐の提灯(ちょうちん)。幽霊火。青火。《季・冬》。実隆公記‐長享二年(1488)二月二日「夜前於二野路一有二狐火一」。俳諧・蕪村句集(1784)冬「狐火や髑髏に雨のたまる夜に」。2 (青白い光が狐火に似ているところから) 芝居で、樟脳火(しょうのうび)をいう。3 植物「のげいとう(野鶏頭)」の異名。4 きのこ「ほこりたけ(埃茸)」の異名。〔重訂本草綱目啓蒙(1847)〕。[語誌](1)狐が火をともすという俗信は「宇治拾遺‐三」をはじめ古くからあった。(2)近世、江戸郊外の王子稲荷に大晦日の夜に狐が集まって官位を定めるとの言い伝えが流布して、大晦日の夜は「王子の狐火」を見に人が集まりその燃え方により新年の豊凶を占ったという。単に「狐火」で冬の季語とするのは「王子の狐火」からの転用であろうが、蕪村などの用例はあるものの歳時記への登録は大正時代まで下る。 ●(1) 義太夫節の曲名 近松半二らの合作『本朝廿四孝』の4段目。明和3 (1766) 年竹本座で初演された。時代物。いとしい勝頼が討たれると知った八重垣姫が必死の念で法性の兜に祈ると,狐の力が姫に乗移り,あとを追う。曲も人形の動きも華麗でしばしば上演される。(2) 地歌の曲名 元禄年間 (1688〜1704) の三味線の名手岸野次郎三郎の作曲。前半は赤穂浪士の大石内蔵助らの作詞ともいわれる。後半に投節 (なげぶし) が取入れられているほか,他の三味線音楽に,この曲の旋律がさまざまに応用されていることで有名。 ●夜陰に野原などで火が点々と見えたり消えたりする現象をいう。原因は明らかにされていない。キツネが火を燃やすという俗信から生じたもので,キツネが骨をくわえて口気を吹くときに発するという説もある。地方により,その形状,名称はまちまちに伝えられ,東北地方では狐松明 (キツネたいまつ) と呼ぶ土地もある。菅江真澄の『雪の出羽路』には,秋田県平鹿郡では村になにかよいことのある前兆として狐火が現れると綴られている。この狐火がちょうちん行列のように見える様子を,一般に狐の嫁入りともいう。 ●《狐の口から吐き出された火という俗説から》1 闇夜に山野などで光って見える燐火りんか。鬼火。また、光の異常屈折によるという。狐の提灯ちょうちん。《季 冬》「—や髑髏どくろに雨のたまる夜に/蕪村」 2 歌舞伎などで、人魂ひとだまや狐火に見せるために使う特殊な火。焼酎火しょうちゅうび。浄瑠璃「本朝廿四孝ほんちょうにじゅうしこう」の四段目「謙信館奥庭狐火の段」の通称。[類語]燐火・火の玉・鬼火・人魂。 ●植物。ヒユ科の一年草,薬用植物。ノゲイトウの別称 ●植物。ホコリタケ科のキノコ。ホコリタケの別称 ●キツネがともすとされる淡紅色の怪火。単独で光るものもあるが,多くは〈狐の提灯行列〉とか〈狐の嫁入り〉とよばれるもので,数多くの灯火が点滅しながら横に連なって行進する。群馬県桐生付近には結婚式の晩に狐火を見ると,嫁入行列を中止して謹慎する風習があったという。江戸の王子稲荷の大エノキの元には毎年大晦日に関八州のキツネが集まって狐火をともしたといわれ,その火で翌年の吉凶を占う風もあった。狐火がよく見られるというのは,薄暮や暗くなる間際のいわゆるたそがれどきとか翌日が雨になりそうな天候の変り目に当たるときであり,出現する場所も川の対岸,山と平野の境目,村境や町はずれといった場所で,キツネに化かされる場所とも一致するようである。 |
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●狐火 3 | |
狐が灯すという怪火で、各地に伝承があります。
光を発するのは狐の吐息、狐が尾を打ち合わせて生じた火、馬の骨を燃やした火、光る玉など様々にいわれます。その明かりの有様から「狐の提灯」「狐の松明」と呼ばれることもあります。狐火が集団で現れて移動するときは「狐の嫁入り」が行われているともいいます。江戸の王子稲荷では、大晦日の夜に関八州の狐が官位を貰うために集まるため無数の狐火が舞うといわれました。里人はこの狐火の流れを見て豊作の吉凶を占ったそうです。 |
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●狐火 4 | |
様々な伝説を産んできた正体不明の怪光で、狐が咥えた骨が発光しているという説がある。水戸の更科公護は、川原付近で起きる光の屈折現象と説明している。狐火は、鬼火の一種とされる場合もある。 | |
●狂歌百物語・狐火 | |
嫁入は よき玉姫と 行列の 夜をまつ崎に すゝむ狐火(雛好)
賑はしく 数見ゆるほと 淋しさの まさるは野辺に ともす狐火(草加篠田 稲丸) はふかれて むれをはなれし 狐火は 何国の馬の 骨やもやせる(和木亭仲好) くたかけの 油鶏をや 餌にはみし 夜ことに狐は 火をともしけり(幸亭喜多留) 松明を ともし送ると みえつるは 嫁とりをする 夜るのとの達(草加 四角園) はめなとの 鶏をやくへき 火もみせて 背なか帰りを 化す狐火(千住 茂群) 火ともして 狐の化せし 遊び女は いづくの馬の 骨にやあるらん(青梅 槙住園千本) 人の目を 迷はし鳥や もの言はぬ 口に火ともす 稲荷山道(三輪園甘喜) 挑燈か 松明なるか 疑へば 迷はし鳥の 火をともすらん(下総結城 文左堂弓雄) 宵闇の 廿日鼠の 油揚げ 火をも点して さがす小狐(弓の屋) 闇の夜も 挑燈持てば 迷はぬを 人迷はしに 燃やす狐火(下毛葉鹿 松園其春) 狐火の 燃ゆるにつけて 我魂の 消ゆるやうなり 心細道(鬼面亭角有) 時雨する 稲荷の山の 狐火も 青かりしより 燃え初めにけん(館林 久雄) 末終に 火口とならん 穂薄の 枯れ伏す野辺に 燃ゆる狐火(幸亭喜多留) 挑燈を 灯しつらねて 行列を するかと見るは 夜の殿様(高見) 田鼠は 鶉毛虫は 蝶なれど けして知れざる 闇の狐火(上総飯野 烏柿廼部た成) 小夜時雨 湿る薄の 花火口 見えみ見えずみ 燃ゆる狐火(梅樹園) 狐火に 雨こんこんと 降る夜半は 差してこそゆけ 笠森稲荷(小倉庵金鍔) 狐火の 燃ゆる雨夜の ひとり旅 見つけて汗を 消すばかりなり(尺雪園旧左) 油揚を 喰ひにし口に 燃やす火か 雨にも消えぬ 野狐の業(南勢大淀浦 春の門松也) 稲荷山 三つの燈火 影添ひて 木陰に燃ゆる 夜半の狐火(八王子 檜旭園) 螢影 はや絶々に なりしころ 草の葉末に 燃ゆる狐火(下総結城 文左堂弓雄) 遠近と 飛火の野辺の 狐火は 枯れし尾花に 火のつくが如(南在居美雄) 彼方より いつか此方へ 狐火の 数はひいふう 三廻りの土手(萬々斎筬丸) 狐等の 不知火ともす 筑紫路や 野辺の尾花の 浪のまにまに(下毛小倉 文廼門楳良) |
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●尾崎狐 | |
狐をば ふところにして 尾崎村 腹をふくらす 商人あきうどもあり(月豊堂水穂)
子を産みて 増える狐の 尾崎村 持参金にも まさる婚礼(東風のや) 尻馬に のせて送らん 花嫁の 持参に添へし 尾崎狐を(和風亭国吉) 上つけの 尾崎狐の 玉つむぎ 化かす本場の ふえし疋数(升友) 嫁入りの 釣り合ひ如何いかに 尾崎村 提灯照らす 丑三つの鐘(槙のや) 尾崎村 婚礼の日も 忌まずして 虎の威を借る 狐もてゆく(綾のや) 買ふ人の 袖も袂も 毛の国に 名も高崎の 尾崎狐は(上総大堀花月亭) 売買に 利も算盤そろばんの 玉狐 人を秤の 重みにぞなる(松梅亭槙住) 手品ほど 袖より出して 人目をも 眩くらます玉に 遣ふ小狐(芝口や) 嫁入りに 祝儀は要らじ 尾崎村 持参の狐火を 燈し行く(桃太楼団子) |
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●狐の嫁入り 1 | |
日本の本州・四国・九州に伝わる怪異。現象には大きく分けて、提灯の群れを思わせる夜間の無数の怪火と、日が照っているのに雨が降る俗にいう天気雨の、2つのタイプがある。いずれの現象も人間を化かすといわれた狐と関連づけられ、また古典の怪談、随筆、伝説などには異様な嫁入り行列の伝承も見られる。平成以降の現代においても、それらにちなんだ神事や祭事が日本各地で開催されている。
●怪火としての「狐の嫁入り」 宝暦時代の越後国(現・新潟県)の地誌『越後名寄』には、怪火としての「狐の嫁入り」の様子が以下のように述べられている。 「夜何時(いつ)何處(いづこ)共云う事なく折静かなる夜に、提灯或は炬の如くなる火凡(およそ)一里余も無間続きて遠方に見ゆる事有り。右何所にても稀に雖有、蒲原郡中には折節有之。これを児童輩狐の婚と云ひならはせり。」 ここでは夜間の怪火が4キロメートル近く並んで見えることを「狐の婚」と呼ぶことが述べられており、同様に新潟県中頚城郡や同県魚沼地方、秋田県、茨城県桜川市桜川市、同県西茨城郡七会村(現・城里町)、同県常陸太田市、埼玉県越谷市や同県秩父郡東秩父村、東京都多摩地域、群馬県、栃木県、山梨県北杜市武川村、三重県、奈良県橿原市、鳥取県西伯郡南部町などで、夜間の山野に怪火(狐火)が連なって見えるものを「狐の嫁入り」と呼ぶ。 かつて江戸の豊島村(現・東京都北区豊島、同区王子)でも、暗闇に怪火が連続してゆらゆらと揺れるものが「狐の嫁入り」と呼ばれており、これは同村に伝わる「豊島七不思議」の一つにも数えられている。 地方によっては様々な呼び名があり、同様のものを埼玉県草加市や石川県鳳至郡能都町(現・鳳珠郡能登町)では「狐の嫁取り(きつねのよめとり)」といい、静岡県沼津市などでは「狐の祝言(きつねのしゅうげん)」とも呼ぶ。徳島県では、こうした怪火を嫁入りではなく狐の葬式とし、死者の出る予兆としている。 日本で結婚式場の普及していなかった昭和中期頃までは、結婚式においては結婚先に嫁いでゆく嫁が夕刻に提灯行列で迎えられるのが普通であり、連なる怪火の様子が松明を連ねた婚礼行列の様子に似ているため、または狐が婚礼のために灯す提灯と見なされたためにこう呼ばれたものと考えられている。嫁入りする者が狐と見なされたのは、嫁入りのような様子が見えるにもかかわらず実際にはどこにも嫁入りがないことを、人を化かすといわれる狐と結び付けて名づけられた、または、遠くから見ると灯りが見えるが、近づくと見えなくなってしまい、あたかも狐に化かされたようなため、などの説がある。 新潟県の麒麟山にも狐が多く住み、夜には提灯を下げた嫁入り行列があったといわれるが、この新潟や奈良県磯城郡などでは狐の嫁入りは農業と結び付けて考えられており、怪火の数が多い年は豊年、少ない年は不作といわれた。これについては、狐火がリンの発光と考えられていたことから(狐火#正体も参照)、狐火の多い時期には、農作物の生育に必要不可欠なリンが土中に多く生成されていたとも考えられている。 これらの怪火の正体については、実際の灯を誤って見たか、異常屈折の光を錯覚したものとも考えられている。また戦前の日本では「虫送り」といって、農作物を病害から守るため、田植えの後に松明を灯して田の畦道を歩き回る行事があり、狐の嫁入りが田植えの後の夏に出現する、水田を潰すと見えなくなったという話が多いことから、虫送りの灯を見誤ったとする可能性も示唆されている。 ●天候に関する言い伝え 関東地方、中部地方、近畿地方、中国地方、四国、九州など、日本各地で天気雨のことを「狐の嫁入り」と呼ぶ。 怪火と同様、地方によっては様々な呼び名があり、青森県南部地方では「狐の嫁取り」、神奈川県茅ヶ崎市芹沢や徳島県麻植郡山類では「狐雨(きつねあめ)」、千葉県東夷隅郡では同様に「狐の祝言」という。千葉県東葛飾郡でも青森同様に「狐の嫁取り雨(きつねのよめどりあめ)」というが、これは、かつてこの地域の農家では嫁は労働力と見なされ、一家の繁栄のために子孫を生む存在として嫁を「取る」ものと考えられていたことに由来する。 天気雨をこう呼ぶのは、晴れていても雨が降るという嘘のような状態を、何かに化かされているような感覚を感じて呼んだものと考えられており、かつて狐には妖怪のような不思議な力があるといわれていたことから、狐の仕業と見なして「狐の嫁入り」と呼んだともいう。ほかにも、天気雨のときには狐の嫁入りが行なわれているとも、山のふもとは晴れていても山の上ばかり雨が降る天気雨が多いことから、山の上を行く狐の行列を人目につかせないようにするため、狐が雨を降らせると考えられたとも、めでたい日にもかかわらず涙をこぼす嫁もいたであろうことから、妙な天気である天気雨をこう呼んだとも、日照りに雨がふるという異様さを、前述の怪火の異様さを転用して呼んだともいう。 狐の嫁入りと天候との関連は地方によって異なることもあり、熊本県では虹が出たとき、愛知県では霰が降ったときに狐の嫁入りがあるという。 ●古典・伝説での「狐の嫁入り」 前述までのように嫁入りを思わせる自然現象だけではなく、江戸時代の古書や、地域によっては伝説上にも、実際に嫁入りの痕跡が見られるという話がある。埼玉県行田市では、谷郷の春日神社に狐の嫁入りがよく現れるといい、そのときには実際に道のあちこちに狐の糞があったという。岐阜県武儀郡洞戸村(現・関市)では、怪火が見えるだけではなく、竹が燃えて裂ける音が聞こえるなどが数日続き、確かめてもそんな痕跡はないといわれた。 寛永時代の随筆『今昔妖談集』には江戸の本所竹町、文政時代の草紙『江戸塵拾』には同じく江戸の八丁堀、寛政時代の怪談集『怪談老の杖』には上州(現・群馬県)神田村で、それぞれ奇妙な嫁入り行列が目撃され、それが実は狐だったという話がある。 このように狐同士の婚礼をそれとなく人間たちに見せる話は、全国的に分布している。一例として民間の伝承においては、埼玉県草加市の伝承で、戦国時代、ある女性が恋人と結婚を約束したにもかかわらず病死してしまい、その無念さが狐に乗り移り、女性の葬られた場所の付近で狐の嫁入り行列が見られるようになったという伝説がある。また信濃国(現・長野県)の民話では、ある老人が子狐を助けたところ、やがて成長した狐が婚礼を迎え、老人に礼として引出物を持参したという話がある。こうした嫁入りの話では、前述までのような自然現象および超自然の「狐の嫁入り」が舞台装置のように機能しており、日中の嫁入りは天気雨の中、夜間の嫁入りは怪火の中で行なわれることが多い。 特定の動作を行なうことで狐の嫁入りが見えるという伝承も各地にあり、福島県では旧暦10月10日の夕方にすり鉢を頭にかぶり、腰にすりこぎをさしてマメガキの下に立つ、愛知県では井戸に唾を吐き、指を組み合わせてその穴から覗くと、狐の嫁入りが見えるという。 江戸時代頃には、こうした「狐の嫁入り」の伝承が信じられていたことから、人間が狐に仮装して「狐の嫁入り」を演じたとしても、庶民にはそれを見破ることができなかったとして、人為的な仕掛けで会った可能性も示唆されている。 狐同士の結婚ではなく、人間の男性のもとに雌の狐が嫁ぐ話もあり、代表的なものとしては、人形浄瑠璃にもなり、平安時代の陰陽師・安倍晴明の出生にまつわるものとしても知られる『葛の葉』が挙げられる。このほかにも『日本現報善悪霊異記』や、1857年(安政4年)の地誌『利根川図志』などに同様の話がある。後者は、関東の諸葛孔明と喩えられる実在の武将・栗林義長にまつわるもので、茨城県牛久市の女化町の名の由来でもあり、同県龍ケ崎市に女化神社として狐が祀られている。 また『今昔物語集』や、1689年(元禄2年)の『本朝故事因縁集』、1696年(元禄9年)の怪談集『玉掃木』には、既婚の男のもとに、狐がその妻に化けて現れる話がある。ちなみに1677年(延宝5年)の怪談集『宿直草』では逆に、雄の狐が人間の女性に惚れ、その女の夫に化けて契り、異形の子供が生まれる話がある。 ●関連作品 江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎による『狐の嫁入図』では、天気雨のときには狐の嫁入りがあるという俗信に基き、狐の嫁入り行列と、突然の天気雨に驚いて農作物を取り込む人々の様子が描かれている(画像参照)。このように、空想上の情景として狐たちと現実の農村風俗とを同時に絵画の中に描くことは珍しい例と指摘されている。 同時代の俳諧師・小林一茶の句にも「秋の火や山は狐の嫁入雨」とある。明治時代の俳人・歌人である正岡子規は短歌で「青空にむら雨すぐる馬時狐の大王妻めすらんか」と読んでいる。 人形浄瑠璃『壇浦兜軍記』(1732年初演)でも「たつた今までくわんくわんした天気であったが、ええ聞こえた、狐の嫁入のそばえ雨」とあり、戦後では時代小説『鬼平犯科帳』に「狐雨」と題した1篇がある。 そのほかに1785年(天明5年)の『無物喰狐婿入』(北尾政美画)、1796年(寛政8年)の『昔語狐娶入』(北尾重政画)、1799年(寛政11年)の『穴賢狐縁組』(十返舎一九画)などの江戸時代の草双紙や黄表紙、『祝言狐のむこ入』『絵本あつめ草』といった江戸時代の上方絵本にも、擬人化された狐が嫁入りを行なう「狐の嫁入り」が描かれている。これらは擬人化された動物の嫁入りを描いた「嫁入り物」と呼ばれる種類の作品だが、狐たちに江戸の具体的な稲荷神の名前が付けられているという特徴がある。このことは、稲荷信仰と嫁入り物の双方が江戸の庶民に深く浸透していたことを示すものと見られている。 民間では、高知県の赤岡町(現・香南市)などで、「日和に雨が降りゃ 狐の嫁入り」という童歌があり、天気雨の日には実際に狐の嫁入り行列が見られるといわれた。 ●関連行事 前述の新潟県の麒麟山の嫁入り行列に由来する祭事として、同県東蒲原郡阿賀町津川地区では「狐の嫁入り行列」が行われている。もとは狐火の名所として、昭和27年頃から狐火に関するイベントが行われており、一度は途絶えたこのイベントが、1990年に嫁入り行列を主体とした観光イベントとして復活されたもので、毎年4万人もの観光客で賑わっている(詳細は狐の嫁入り行列を参照)。 山口県下松市の花岡福徳稲荷社でも、毎年11月3日の稲穂祭で「きつねの嫁入り」が行われている。こちらは同神社で古くから行なわれていた豊作祈願の稲穂祭が、戦後の混乱期に途絶えていたところを、地元の有志たちが、同神社で白い狐の夫婦が失せ物捜しや五穀豊穣・商売繁盛の神として祀られていたことを参考にして、狐夫婦の結婚式を再現したものとも、江戸時代に寺の住職が、夢枕に現れた白い狐夫婦の依頼で供養をしたところ、紛失していた数珠が見つかったという伝説にちなんで、1950年(昭和25年)から始まったともいう。下松市民の中から狐夫婦を演じる市民が選ばれるが、新婦役となった女性は良縁に恵まれることから、同神社は縁結びの利益もあるといわれている。 三重県四日市市海山道の海山道稲荷神社でも、毎年節分に「狐の嫁入り道中」の神事が行われる。こちらも江戸時代に追儺として行われていたものが、やはり戦後に甦ったもので、その年の厄年の男女が、神使の総本家での子狐と、海山道稲荷神社の神使の家の娘の狐に扮し、嫁入りの様子が再現され、大勢の参拝客の賑わいを見せている。 |
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●狐の嫁入り 2 | |
狐の嫁入りという気象現象をご存知ですか?いわゆるお天気雨のことを意味しています。この狐の嫁入りには不思議な伝説があるのです。また、狐の嫁入りは大変縁起のいい現象とも言われています。縁起のいい効果についても調べましたのでご紹介します。
●狐の嫁入りとは? 狐の嫁入りは自然現象の一つですが、あなたもきっとあったことがあるでしょう。どうして狐の嫁入りというのか、そしてどのようにして起こるのか、気になったことはありませんか? 狐の嫁入りについて調べましたので、ご紹介します。 ●狐の嫁入りが起こる原因 狐の嫁入りはいわゆるお天気雨のことです。空は晴れているのに雨が降っている自然現象のことを指します。雨は空に浮かんでいる雲が降らしています。この雲から地上までの距離は大変離れていて、雲から落ちた雨粒が地上に落ちてくるまでにはかなりの時間がかかっています。また、雲が浮かんでいる空の風の強さと地上に吹いている風の強さにも大きな違いがあります。多くの場合、空に吹いている風の方が地上で吹く風よりもとても強いのです。そのため、雲は素早く移動していきます。雲から落ちた雨が地上に落ちてくるスピードよりも、雲が上空を移動するスピードの方が遥かに早いのですね。このため、地上で雨が降っているときには、すでに雲は風に吹き飛ばされてはるか遠くに移動していて、お天気雨という現象が起きるのです。 ●お天気雨が狐の嫁入りと呼ばれている理由 お天気雨を狐の嫁入りと呼ぶのには、狐が持つイメージに深く関係しています。昔から日本では狐は人間を化かす生き物と考えられていました。狐は神様や神様の使いという考えがあったため、不思議な力があるとされていたのでしょう。空は晴れているのに雨が降っているなんて、まるで狐が化かしたみたいだと人々は思ったようです。そこから、お天気雨のことを「狐の嫁入り」と呼ぶようになりました。また、狐には自然現象を操る力もあると考えられていたこともあり、空が晴れていても雨を降らすことができるのだと思っていたということも影響しているようです。 ●狐の嫁入りにまつわる伝説 狐の嫁入りは、張れているのに雨が降るという不思議な現象から、さまざまな伝説があります。そんな狐の嫁入りにまつわる伝説をいくつかご紹介します。 ●狐の嫁入りとはもともとは鬼火のことだった ある夜、村人が山の方を見てみるとたくさんの鬼火が行列を組んで山を登っていく光景を目にしました。こんな真っ暗な山の中を人間が出歩くはずがないと考えた村人たち。また、その山の頂上には狐を祀ったお社がありました。村人たちはお社に祀っている狐の神様のところにお嫁さんが来たのだと考えました。それからというもの、夜には絶対に山には近づいてはならないと言われるようになりました。夜に山へ入ると、狐の神様のお嫁さんとして連れて行かれてしまうと言われたそうです。 ●天気の日に雨が降るのは宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)様の力 その昔、毎日日照り続きで米ができない土地がありました。その土地では、毎年できた米を宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)様に捧げるという風習があったのですが、米ができなければお供えすることができません。そこで、その村の人たちは宇迦之御魂神様に雨を降らしてくれるように毎日祈りを捧げました。このままではお供えする米も採れないと訴えたのです。すると、宇迦之御魂神の使いである狐がどこからともなく現れ、空に向かって一声鳴き声を上げました。驚いた村人たちが空を見上げると、雲一つない晴れた空にもかかわらず、たくさんの雨が降ったのだとか。村人たちは大変喜び、その年はいつも以上に豊作になったそうです。 ●狐の嫁入りが縁起がいいとされる理由 狐の嫁入りは縁起がいい自然現象とされています。この理由は珍しい自然現象だからという理由だけではないようです。狐の嫁入りが縁起がいいとされている理由について調べましたので、紹介します。 ●嬉し泣きの意味 狐の嫁入りには、嬉し泣きの意味があると言われています。空が晴れている状態を喜びと考えた時、雨は涙を意味するので泣くことを意味すると考えられます。空が晴れているのに雨が降るのは、喜びで感極まって泣いてしまったことを意味していると、昔の人は考えたのです。嬉し泣きをするのは、その状況がとても幸運だったり楽しかったりするからです。また、喜ばしい席でも嬉し泣きをする人がいます。それだけ幸せだということを、嬉し泣きで表現しているのですね。 ●虹が出るから 狐の嫁入りでは、虹が多く見られます。これは、太陽の光が雨にあたることで虹ができやすくなっているためです。虹は昔から大変縁起がいいとされていました。7色という色も縁起がいいと考えられていたのです。虹を見ると幸運になったり、願い事が叶ったりするという考えが根付いていたのですね。そんな虹が多く見られる狐の嫁入りも、虹と同じように幸運が訪れる前触れだという考えが定着したのでしょう。狐の嫁入りは虹の前兆とも考えられます。虹が幸運の象徴なら、その虹の前に降る狐の嫁入りは、幸運の前触れを知らせてくれる喜ばしい現象だということなのです。 ●豊作をもたらしてくれるから 狐の嫁入りには、数々の伝説や民話が残されています。その中でも最も多く見られるのが、狐の嫁入りのおかげで豊作になったというお話です。農業にとって雨はとても大切な天の恵みです。もちろん晴れている日もとても大切ですが、現在ほど水道設備が整っていなかったため、農家の人たちにとって雨は命の水でもあったのですね。晴天のときにもたらされる雨はまさしく天からの恵みです。狐の嫁入りでもたらされる雨には神様からのご加護がたくさん込められていると考え、いつも以上に豊作になるという言い伝えが生まれたのでしょう。 ●狐の嫁入りがもたらしてくれる縁起のいい効果とは? 狐の嫁入りは、昔から縁起がいい自然現象と言われていますが、その効果は現在も続いています。狐の嫁入りがもたらしてくれる縁起のいい効果を、スピリチュアルの観点からご紹介しましょう。 ●人間関係が良くなる 狐の嫁入りに遭遇すると、人間関係が良くなるという嬉しい効果があります。狐の嫁入りでもたらされる雨が、人間関係の悪いエネルギーを洗い流してくれるのです。更に、雨で浄化された美しい太陽のパワーも同時に受け取ることができるため、対人運も一気に上昇します。もし人間関係で悩んでいるときに狐の嫁入りに出会ったら、あなたが抱えている人間関係の悩みは解決するというサインです。信じて状況を静観しましょう。 ●金運が上昇する 狐の嫁入りには、金運が上昇するという嬉しい効果もあります。狐の嫁入りで降る雨が、お金のエネルギーを浄化してくれるのです。お金は高くて美しいエネルギーに多く集まってきます。あなた自身のエネルギーも美しく浄化されるので、お金を引き寄せる力が強くなるのですね。特にお金で困っているときに狐の嫁入りにあったら、誰かのためにお金を使うことを考えてみましょう。清い心がお金を引き寄せるパワーを更にアップさせてくれるでしょう。 |
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●提灯火 | |
日本各地に伝わる鬼火の一種。
田の畦道などに出没し、地上から高さ1メートルほどの空中を漂い、人が近づくと消えてしまう。四国の徳島県では、一度に数十個もの提灯火が、まるで電球を並べたかのように現れた様子が目撃されている。化け物が提灯を灯していると言われていたことが名の由来で、狐の仕業とも言われている。 徳島県三好郡などでは、この提灯火のことを狸火(たぬきび)といい、その名の通り狸が火を灯しているものとされる。寛保時代の雑書『諸国里人談』によれば、摂津国川辺郡東多田村(現・兵庫県川西市)の現れた狸火は、火でありながら牛を引いた人の形をしており、その姿は人間とまったく変わりなく、事情を知らない者が正体に気付かずに狸火と世間話を交わしていたという。 大和国葛下郡松塚村(現・奈良県橿原市)では、こうした怪火を小右衛門火(こえもんび)という。主に雨の晩、川堤に提灯ほどの大きさの怪火が、地上から三尺(約90センチメートル)の高さの空中に浮かび、墓場から墓場へと4キロメートルも飛び回るという。曲亭馬琴らによる奇談集『兎園小説』によれば、小右衛門という人物がこの正体を見極めようと、出没地という松塚村へ赴いたところ、目の前から火の玉がやって来て頭上を飛び越えた。小右衛門が杖で殴ると、火は数百個にも分裂して彼を取り囲んだ。小右衛門は驚いて逃げ帰ったが、その夜から熱病にかかり、やがて手当ての甲斐もなく命を落としてしまった。以来、この怪火は人々により小右衛門を病死させたものと噂され、小右衛門火の名で呼ばれるようになったという。また別説では、小右衛門が杖で怪火を殴ったり怪火が分裂したのではなく、小右衛門のもとへ飛んで来た怪火は流星のような音と共に彼の頭上を飛び越えて飛び去ったのみともいう。 江戸時代の怪談小説『御伽厚化粧』には、近江国(現・滋賀県)沼田の小右衛門火の記述がある。それによれば小右衛門という貪欲な庄屋が、悪事が明るみに出て死罪となり、彼の怨みが怪火となって現れるようになったという。あるときこれに遭った旅役者の一座が、試しに怪談芝居に使う「ヒュードロドロ」の笛を吹いたところ、小右衛門火は役者たちの方へ向かってきて、火の中に人間の青い顔が浮かび上がったため、彼らは震え上がってすぐさま逃げ帰ったという。 |
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●大入道 | |
日本各地に伝わる妖怪。名称は大きな僧の意味だが、地方によって姿は実体の不明瞭な影のようであったり、僧ではなく単に巨人であったり、様々な伝承がある。坊主(僧)姿のものは大坊主(おおぼうず)ともいう。また大きさも人間より少し大きい2メートルほどのものから、山のように巨大なものもある。人を脅かしたり、見た者は病気になってしまうとする伝承が多い。キツネやタヌキが化けたもの、または石塔が化けたとする話もあるが、多くは正体不明とされている。
●人に害を成す大入道 ●北海道の事例 嘉永年間、支笏湖畔・不風死岳(ふっぷしだけ)近くのアイヌ集落に大入道が出現した。その大きな目玉で睨みつけられた人間は、気がふれたように卒倒してしまったという。 ●東京の事例 第二次世界大戦最中の昭和12年(1937年)。赤紙を届けに行った人が、赤羽駅の近くにある八幡神社踏切で兵士の姿の大入道に襲われ、4日後にその場所で変死した。大入道の正体は自殺した新兵、もしくは失敗を責められて上官に撲殺された兵士の亡霊と言われた。ちなみにその近辺では、赤紙を受取ったという者は誰もいなかったという。人間の霊が大入道と化す、珍しい事例である。 ●人を助ける大入道 阿波国名西郡高川原村字城(現・徳島県名西郡石井町)では、小川の水車に米などを置いておくと、身長二丈八尺(約8.5メートル)の大入道が現れ、それを搗いておいてくれると言われていた。ただし搗いている様子を見ようとすると、脅かされてしまうという。 ●動物が化けた大入道 ●岩手県の事例 岩手県紫波郡に伝わる口碑、鳥虫木石伝「鼬の怪」より。同郡徳田村大字高田(現・矢巾町)の高伝寺に毎夜本堂に怪火が燃え上がって、その影から恐ろしい大入道が現れるので、寺では檀徒を頼んで夜番を行ってもらっていた。何しろ毎夜のことなので人々も不審に思い、キツネだろうタヌキだろうという評判であった。ある冬の小雪のサラッと降った朝、寺の周囲を見て歩くと、イタチが本堂から抜け出していった足跡があった。後を追って行くと隣家の木小屋の薪を積んだ下に入ったので、村人多数で取り巻きつつ、その薪を取り退けて見るとイタチの巣があった。巣の中から古イタチを捕らえて殺した。するとその夜から寺の怪火も大入道も現れなくなった。 ●宮城県の事例 かつて仙台の荒巻伊勢堂山に、夜毎に唸り声を発する大岩があった。さらにはその大岩が雲をつくような大入道に化けるという話もあった。当時の藩主の伊達政宗はこの怪異を怪しんで家来に調査させたが、戻って来た家来たちは、大入道の出現は確かでありとても手に負えないと皆、青ざめていた。剛毅な政宗は自ら大入道退治に出向いた。現場に着くとひときわ大きな唸り声と共に、いつもの倍の大きさの入道が現れた。政宗が怯むことなく入道の足元を弓矢で射ると、断末魔の叫びと共に入道は消えた。岩のそばには子牛ほどもあるカワウソが呻いており、入道はこのカワウソが化けたものであった。以来、この坂は「唸坂(うなりざか)と呼ばれたという。この唸坂は仙台市青葉区に実在しているが、坂の名を示す碑には、かつて荷物を運ぶ牛が唸りながら坂を昇ったことが名の由来とあり、妖怪譚よりもこちらのほうが定説のようである。 ●その他の大入道 ●富山県の事例 越中国下新川郡黒部峡谷に16体もの大入道が現れ、鐘釣温泉の湯治客たちを驚かせた。身長は5丈〜6丈(約15〜18メートル)で、七色の美しい後光が差していたという。後光という特徴がブロッケン現象における光輪と共通することから、温泉の湯気に映った湯治客の影を正体とする説もある。 ●愛知県の事例 江戸時代中期、三河国の豊橋近くに、古着商人が商用で名古屋へ行く途中、大入道に遭遇した。身長1丈3〜4尺(約4メートル)と伝えられており、大入道の中では小さい部類に属する。 ●滋賀県の事例 江戸時代の見聞雑録『月堂見聞集』巻十六に「伊吹山異事」と題して記載されている。ある秋の夜。伊吹山の麓に大雨が降り、大地が激しく震えた。すると間もなく、野原から大入道が現れ、松明状の灯火を体の左右に灯して進んで行った。周囲の村人は、激しい足音に驚いて外へ出ようとしたが、村の古老たちが厳しく制した。やがて音がやみ、村人たちが外へ出ると、山頂へと続く道の草が残らず焼け焦げていた。古老が言うには、大入道が明神湖から伊吹山の山頂まで歩いていったということである。これは大入道の中でもさらに大型の部類に属するとされる。 ●兵庫県の事例 「西播怪談実記」によれば延宝年間9月、夜中に播磨国で水谷という者が犬を連れて山奥に猟に出かけ、山伏姿の大入道が自分を睨み付けているのを目撃。山を跨ぐほどの巨大さ(数千メートルの巨大さ)であったという。殺生を戒める山の神の化身であったと噂されたという。同様に同地佐用郡にて元禄年間5月、鍛冶屋平四郎という者が夜中に網を持ち、山奥の川に漁にでかけると、3メートルほどの大入道が川上で網をひっぱっているのを目撃、腹の据わった平四郎は脅えず引き合いをやり、数百メートルほど歩いた後に大入道は姿を消したという。また同地佐用郡でも、早瀬五介という者が夕刻時、あたりが暗くなった頃、目の治療の帰りに2人連れで道すがら、道の真ん中で3メートルほどの大入道が立ちふさがっているのを発見、大急ぎで逃げるように駆け抜けていったが、同行者には見えなかったという。 ●熊本県の事例 熊本県下益城郡豊野村下郷小畑(現・宇城市)の話。ここに「今にも坂」という坂があるが、昔、ここに大入道が現れて通行人を驚かせた。以来、人がその話をしながらこの坂を通ると、「今にも」という声がして、その大入道が現れるという。「今にも坂」の名はこの大入道に由来する。 ●祭礼の大入道 四日市祭の大入道 三重県四日市市で毎年10月に行なわれる諏訪神社の祭礼四日市祭は、大入道山車(三重県有形民俗文化財)で知られる。これは諏訪神社の氏子町の一つである桶之町(現在の中納屋町)が、文化年間に製作したものとされ、都市祭礼の風流のひとつとして、町名の“桶”に“大化”の字を当てて「化け物尽くし」の仮装行列を奉納していたものが進化したものと考えられているが、以下のような民話も伝えられている。桶之町の醤油屋の蔵に老いた狸が住み着き、農作物を荒らしたり、大入道に化けて人を脅かしたりといった悪さをしていた。困り果てた人々は、狸を追い払おうとして大入道の人形を作って対抗したが、狸はその人形よりさらに大きく化けた。そこで人々は、大入道の人形の首が伸縮する仕掛けを作り、人形と狸での大入道対決の際、首を長く伸ばして見せた。狸はこれに降参し、逃げ去って行ったという。また、反物屋の久六のもとに来た奉公人が実はろくろ首であり、正体を見られ消息を絶った彼を偲び製作したという話もある。高さ2.2メートルの山車の上に乗る大入道は、身の丈3.9メートル、伸縮し前へ曲がる首の長さは2.2メートル、舌を出したり目玉が変わる巨大なからくり人形である。これを模して首の伸縮する大入道の紙人形も地元の土産品となっている。また毎年8月に開催される市民祭の大四日市まつりにも曳き出されるなど、四日市市のシンボルキャラクターになっている。なお四日市市のゆるキャラ「こにゅうどうくん」は彼の息子という設定。 |
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●狂歌百物語・大入道 | |
草鞋わらんぢも 引きずりながら 逃げ出しぬ 仁王立ちなる 入道を見て(松梅亭槙住)
文福の 化けし姿か 臍までも 大釜ほどに 見ゆる入道(千住茂躬) 箱根より 東に無しと 入道は 足高あしたか山に 首伸ばすらん(喜樽) 榎ほど 背丈の延びて 堀池の ほとりに夜毎 出づる入道(檮の門久根) 切る跳ねる 逃げる所を 碁盤もて 大入道は 押さへられけり(鶏告亭夜宴) 法のりを説く 法師と化けし 入道は 顔も洗濯盥ほどなり(神風や青則) また出づる 大入道は 化物の 大将軍の 遊行ゆぎやうするのか(江戸崎 緑樹園) 入日をも 招く薄すすきの穂 手のべて 入道たてる 紅葉もみぢばのもと(緑裘園邦彦) 濡れ仏 とも見えにけり 入道に 惣身へ流す 己が冷や汗(仙台松山 錦著翁) 入道も 人を甘くや 見るならん 塩をつけても 喰はん勢ひ(羽衣) 武蔵坊 よりも一嵩ひとかさ 大入道 弁慶嶋の 着物をや着て(長年) 空向きて 見上ぐるほどの 入道は 目も月と日の 如く光れり(槙住) 其の丈も 雲突くばかり 怖ろしや 大入道の目は 月に似て(仝 千澗亭) |
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●鬼火・人魂・火の玉・光玉 | |
人が死ぬとき、魂が人魂になって出て行く。3日前に出て寺に行く事もあるという。長さ3m、幅15p程度。色は青、赤、赤い玉で尾は青、お月様のような色などという。波のように上下しながら飛ぶ、ノロシを曳いてすーっと飛ぶ、ふらふら飛ぶ、などという。 | |
●鬼火 1 | |
江戸時代に記された『和漢三才図会』によれば、松明の火のような青い光であり、いくつにも散らばったり、いくつかの鬼火が集まったりし、生きている人間に近づいて精気を吸いとるとされる。また同図会の挿絵からは、大きさは直径2、3センチメートルから20,30センチメートルほど、地面から1,2メートル離れた空中に浮遊すると推察されている。根岸鎮衛による江戸時代の随筆耳嚢巻之十「鬼火の事」にも、箱根の山の上に現れた鬼火が、二つにわかれて飛び回り、再び集まり、さらにいくつにも分かれたといった逸話が述べられている。
現在では、外見や特徴にはさまざまな説が唱えられている。 ●外観 / 前述の青が一般的とされるが、青白、赤、黄色のものもある。大きさも、ろうそくの炎程度の小さいものから、人間と同じ程度の大きさのもの、さらには数メートルもの大きさのものまである。 ●数 / 1個か2個しか現れないこともあれば、一度に20個から30個も現れ、時には数え切れないほどの鬼火が一晩中、燃えたり消えたりを繰り返すこともある。 ●出没時期 / 春から夏にかけての時期。雨の日に現れることが多い。出没場所水辺などの湿地帯、森や草原や墓場など、自然に囲まれている場所によく現れるが、まれに街中に現れることもある。 ●熱 / 触れても火のような熱さを感じないものもあれば、本物の火のように熱で物を焼いてしまうものもある。 ●鬼火の種類 鬼火の一種と考えられている怪火に、以下のようなものがある。これらのほかにも、不知火、小右衛門火、じゃんじゃん火、天火といった鬼火がある(詳細は内部リンク先を参照)。狐火もまた、鬼火の一種とみなす説があるが、厳密には鬼火とは異なるとする意見もある。 ●遊火(あそびび) / 高知県高知市や三谷山で、城下や海上に現れるという鬼火。すぐ近くに現れたかと思えば、遠くへ飛び去ったり、また一つの炎がいくつにも分裂したかと思えば、再び一つにまとまったりする。特に人間に危害を及ぼすようなことはないという。 ●いげぼ / 三重県度会郡での鬼火の呼称。 ●陰火(いんか) / 亡霊や妖怪が出現するときに共に現れる鬼火。 ●風玉(かぜだま) / 岐阜県揖斐郡揖斐川町の鬼火。暴風雨が生じた際、球状の火となって現れる。大きさは器物の盆程度で、明るい光を放つ。明治30年の大風では、山からこの風玉が出没して何度も宙を漂っていたという。 ●皿数え(さらかぞえ) / 鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』にある怪火。怪談で知られる『皿屋敷』のお菊の霊が井戸の中から陰火となって現れ、皿を数える声が聞こえてくる様子を描いたもの。 ●叢原火、宗源火(そうげんび) / 鳥山石燕の『画図百鬼夜行』にある京都の鬼火。かつて壬生寺地蔵堂で盗みを働いた僧侶が仏罰で鬼火になったものとされ、火の中には僧の苦悶の顔が浮かび上がっている。江戸時代の怪談集『新御伽婢子』にもこの名がある。 ●火魂(ひだま) / 沖縄県の鬼火。普段は台所の裏の火消壷に住んでいるが、鳥のような姿となって空を飛び回り、物に火をつけるとされる。 ●渡柄杓(わたりびしゃく) / 京都府北桑田郡知井村(のちの美山町、現・南丹市)の鬼火。山村に出没し、ふわふわと宙を漂う青白い火の玉。柄杓のような形と伝えられているが、実際に道具の柄杓に似ているわけではなく、火の玉が細長い尾を引く様子が柄杓に例えられているとされる。 ●狐火(きつねび) / 様々な伝説を産んできた正体不明の怪光で、狐が咥えた骨が発光しているという説がある。水戸の更科公護は、川原付近で起きる光の屈折現象と説明している。狐火は、鬼火の一種とされる場合もある。 ●考察 まず、目撃証言の細部が一致していないことから考えて鬼火とはいくつかの種類の怪光現象の総称(球電、セントエルモの火など)と考えられる。雨の日によく現れることから、「火」という名前であっても単なる燃焼による炎とは異なる、別種の発光体であると推察されている。注目すべきは昔はそんなに珍しいものでもなかったという点である。 紀元前の中国では、「人間や動物の血から燐や鬼火が出る」と語られていた。当時の中国でいう「燐」は、ホタルの発光現象や、現在でいうところの摩擦電気も含まれており、後述する元素のリンを指す言葉ではない。 一方の日本では、前述の『和漢三才図会』の解説によれば、戦死した人間や馬、牛の血が地面に染み込み、長い年月の末に精霊へと変化したものとされていた。 『和漢三才図会』から1世紀後の19世紀以降の日本では、新井周吉の著書『不思議弁妄』を始めとして「埋葬された人の遺体の燐が鬼火となる」と語られるようになった。この解釈は1920年代頃まで支持されており、昭和以降の辞書でもそう記述されているものもある。 発光生物学者の神田左京はこれを、1696年にリンが発見され、そのリンが人体に含まれているとわかったことと、日本ではリンに「燐」の字があてられたこと、そして前述の中国での鬼火と燐の関係の示唆が混同された結果と推測している。つまり死体が分解される過程でリン酸中のリンが発光する現象だったと推測される。これで多くの鬼火について一応の説明がつくが、どう考えてもリンの発光説だけでは一致しない証言もかなり残る。 その後も、リン自体ではなくリン化水素のガス体が自然発火により燃えているという説、死体の分解に伴って発生するメタンが燃えているという説、同様に死体の分解で硫化水素が生じて鬼火の元になるとする説などが唱えられており、現代科学においては放電による一種のプラズマ現象によるものと定義づけられることが多い。雨の日に多いということでセントエルモの火(プラズマ現象)と説明する学者もいる。物理学者・大槻義彦もまた、こうした怪火の原因がプラズマによるものとする説を唱えている。さらに真闇中の遠くの光源は止まっていても暗示によって動いていると容易に錯覚する現象が絡んでいる可能性も指摘されている。 いずれの説も一長一短がある上、鬼火の伝承自体も前述のように様々であることから、鬼火のすべてをひとつの説で結論付けることは無理がある。 また、人魂や狐火と混同されることも多いが、それぞれ異なるとする説が多い一方、鬼火自体の正体も不明であるため、実のところ区別は明確ではない。 |
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●鬼火 2 | |
各地に伝わる怪火です。
鬼火について、『和漢三才図会』は『本草綱目』を引き、土に染み込んだ戦死者や牛馬の血が年月を経て化したものだとしており、同じく霊の変化である人魂や陰火とは別物としています。色は青、形は松明の火のようで、集まったり離れたりしながら人に近付いて精気を吸い、馬の鐙などを打ち合わせて音を立てれば消滅するとされています。炎の色は青とされることが多いようですが、それ以外の鬼火の話も残されています。また、狐火や人の怨念が燃えるもの、正体不明のものをも広く指して鬼火と呼ぶ場合もあります。 |
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●龍燈、龍灯、竜灯 1 | |
日本各地に伝わる怪火。主に海中より出現するもので、海上に浮かんだ後に、いくつもの火が連なったり、海岸の木などに留まるとされる。
主に龍神の住処といわれる海や河川の淵から現れる怪火であり、龍神の灯す火の意味で龍燈と呼ばれ、神聖視されている。 ●広島県の厳島神社の例では、旧暦の元旦から1月6日頃まで、静かな夜に社前の海上に現れるというもので、最初に1個現れた火が次第に数を増して50個ほどになり、それらが集まってまた1個に戻り、明け方に消え去るという。厳島では夜に多くの人がこれを見物し、特に島の最高峰である弥山からよく見えたといい、「龍燈」の名は、厳島神社で祀られている厳島明神が海神であるために、海神の住居である龍宮にちなんで名づけられたともいう。 ●磐城国(現・福島県)も出没地として知られている。磐城国の閼伽井岳山頂の寺から東を見ると、4里から5里(約16から20キロメートル)の彼方に海が見え、日暮れの頃、海上の高さ約1丈(約3メートル)の空中に提灯か花火の玉のような赤い怪火の出没する様子がよく見えるという。毎晩7、8個現れるが、必ず2個ずつ対になって現れ、1個目の龍燈が現れて3、4町(約327から436メートル)ほど宙を漂った後、2個目の龍燈が現れ、1個目の軌跡を沿って宙を漂うという。 ●寛保時代の雑書『諸国里人談』では、他にも龍が寺に火を献じる例が紹介されている。周防国(現・山口県東南部)上庄熊野権現には大晦日に龍燈が現れるといい、丹後国(現・京都府北部)の天橋立には文殊堂に「龍灯の松」と呼ばれる一本松があり、毎月16日の夜中、沖から龍燈が飛来してこの松に神火を灯すという。 ●橘南谿による江戸時代の紀行文『東遊記』によれば、越中国(現・富山県)では中新川郡の眼目山(さっかさん)という寺(立山寺(りゅうせんじ)の事)で毎年7月13日の夜、立山の頂上と海中から龍燈が飛来して境内の松の梢に留まるが、立山から飛来するものを山燈、海上から飛来するものを龍燈と称すると記している。その昔、道元の弟子の1人・大徹禅師がこの寺を開いた際、山の神と龍神が協力して神火を寺に献じることになったものといわれ、南谿は山燈と龍燈とが一度に現れるのは全国的に極めて稀なものであるとの当時の評判を伝える。 ●大阪では沖龍灯と呼ばれ、魚たちが龍を祀るために灯す火と言われている。 ●新潟県佐渡島新穂村(現・佐渡市)の伝説では、根本寺の梅の木に毎晩のように龍燈が飛来しており、ある者が弓矢で射たところ、正体はサギであったという。 ほかに龍燈の灯るとされる松や杉の伝承も日本各地に存在し、これらは龍神が寺社に神火を献じているといわれているが、更に南方熊楠は中国やインドにも同様の伝承があることを報告している。 ●常宮神社 - 福井県敦賀市 ●焼火神社 - 島根県隠岐郡西ノ島町 ●木余り性翁寺 - 東京都足立区 ●解釈 柳田國男は、「龍灯」は水辺の怪火を意味する漢語で、日本において自然の発火現象を説明するために、これを龍神が特定の期日に特定の松や杉に灯火を献じるという伝説が発生したとし、その期日が多く祖霊を迎えてこれを祀り再び送り出す期日と一致することから、この伝説の起源は現世を訪れる祖霊を迎えるために、その目印として高木の梢に掲げた灯火であろうと説き、更に左義長や柱松も同じ思想を持つものと説く。 この説に反論する形で南方熊楠は、龍灯伝説の起源はインドにあり、自然の発火現象を人心を帰依せしめんとした僧侶が神秘であると説くようになって、後には人工的にこれを発生させる方法をも編みだしたが、それが海中から現れ空中に漂う怪火を龍神の灯火とする伝承があった中国に伝わって習合し、更に中国に渡った僧侶によって日本に伝来、同様の現象を説明するようになったものであるとし、また左義長や柱松は火熱の力で凶災を避けるもの、龍灯は火の光を宗教的に説明したもので、熱と光という火に期待する効用を異にした習俗であると説く。 |
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●龍燈 2 | |
夜間、海上より火の玉が飛び来り陸上に留まることあり、之を龍燈という。幡多郡足摺山寺本堂の前に「龍燈松天燈松」という二大木あり、暗夜海上より二つの火玉が来てこの松に留まったという、今は枯れたり。其外安芸郡野根村、龍王ガ峰、崎浜の仙崎、唐浜の神峰、これら皆な龍燈の上り来る所と申し伝う。長岡郡大谷の山中に燈籠の畷という所の山の腹に大岩あり、此所へも上るといい伝えらる。又一年安芸郡甲浦白浜にて夜分大風吹き沖の方より龍起りける。一面火の如く成りて通りけるに翌日見れば木など焦げる、龍の火たることいちじるし、これは龍燈とは多少異なるも参考に記す。 | |
●狂歌百物語・龍燈 | |
さしのぼる 梢の上の 龍燈に 鱗きらめく 橋立はしだての松(江戸崎 緑樹園)
かんてらも 幾尋いくひろあるか 消えずして 鯨の油 添はる龍燈(和風亭国吉) のろしほど 軋きしめき出づる 龍燈に 龍たつの宮姫 笑みや含まん(鈍々舎香勝) 龍燈の 夜な夜な上がる 磯辺には 昼も鱗を 見する松が枝え(蟻賀亭皺汗) 眠らざる 魚うをの油や 照らすらん 見る人の目を さます龍燈(升目山人) 一群ひとむれの 螢とや見ん 海草の 腐りし中を 上がる龍燈(水々亭梅星) 龍燈は 鯨の油 添はりけん 七浦照らす 宮嶋の沖(神風や青則) 煙をも 立てゝ鱗を 三保の浦 磯辺の松を 照らす龍燈(水穂) 秋葉山 浮かべる灘の 龍燈は 天狗の業か 蜑あまが焚く火か(守文亭) 空や海 うみや空なる 久かたの 星の光に 紛ふ龍燈(紫の綾人) 法のりの場には 夜毎かゞやく 光明寺 鵜うの木の森に かゝぐ龍燈(五息斎無事也) 時の間に かく増えしとは 不知火の 筑紫の海の 龍燈の数(江戸崎 緑亀園広丸) 魚油 焚きぬる海士あまや 常に見る 沖に折々 龍たつの燈火ともしび(遠江見附 草の舎) わだつ海みの 龍はあかしを 照らすらん 尾鰭の光る 魚の油に(京 獅々丸) 唐崎の 松に火ともす 龍燈も たちまち闇と 消ゆる一雨(哥居) 松浦潟まつらがた 領巾振山ひれふるやまの 蔦紅葉つたもみじ 昼も火ともす 龍燈の松(上毛板鼻 末広庵老泉) |
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●海幽霊 | |
夏から秋の夜にかけて、沖合の海上を怪火が走ることがある。 | |
●船幽霊・舟幽霊 | |
日本全国各地に伝わる海上の幽霊が怨霊となったもの。江戸時代の怪談、随筆、近代の民俗資料などに多く見られる。山口県や佐賀県ではアヤカシと呼ぶ。
●伝承 ひしゃくで水を汲みいれて船を沈没させるなどと信じられた幽霊。水難事故で他界した人の成れの果てといい、人間を自分たちの仲間に引き入れようとしているという。その害を防ぐためには、握り飯を海に投げ入れたり、底の抜けたひしゃくを用意したりするなどの方法が伝えられている。土地により亡者船、ボウコ、アヤカシなどとも呼ばれる。同様に海の怪異として知られる海坊主も、地方によっては妖怪ではなく船幽霊の一種とされる。 その姿は地方や伝承によっていくつかに大別され、船と亡霊が水上に現れるもの、帆船など船そのものが亡霊として現れるもの(いわゆる幽霊船)、人の乗っている船の上に亡霊だけが現れるもの、海坊主や怪火として現れるもの、山や断崖などの幻影や怪音現象として現れるものなどがあり、以上の現象のいくつかが組み合わさった例も見られる。海上での伝承が多いが、海のない地方でも河、湖、沼に現れたともいう。高知県に伝わる鬼火の一種・けち火も船幽霊と見なされることがある。 現れるのは雨の日や新月または満月の夜、時化の夜や霧のかかった夜が多い。船として現れる場合は、船幽霊自体が光を発しているので、夜であっても船の細部まで確認できるという。また盆の十六日に操業していると死者が船縁に近づいてき船を沈めようとする。ほかにも霧の濃い晩に船を走らせていると目の前に絶壁、あるいは滑車のない帆船が現れ、慌てて避けると転覆したり暗礁に乗り上げるので、構わず真っ直ぐ突き抜けると自然に消えてしまう。 船を沈ませようとする以外にも、高知県幡多郡大月町では船のコンパスを狂わせるといい、富山県では北海道へ行く漁船に船幽霊が乗り移って、乗員の首を締め上げるという。愛媛県では船幽霊に遭ったとき、それを避けて船の進路を変えると、座礁してしまうという。また、かつては悪天候の日には船が遭難しないよう、陸地でかがり火を焚いたというが、船幽霊が沖で火を焚いて船頭の目を迷わせ、この火に近づくと海に飲み込まれて溺死してしまうという。 船幽霊を追い払う方法も土地によって様々な伝承があり、宮城県では船幽霊が現れたとき、こちらの船を止めてじっとにらみつけると消えるとされる。竿で水をかき回すと良いともいう。海に物を投げ込むと良いという説も多く、神津島では香花、線香、団子、洗米、水など、高知では灰や49個の餅、前述の高知の大月町では土用豆、長崎県では苫、灰、燃えさしの薪を投げこむという。また高知では、「わしは土左衛門だ」と言って自分が船幽霊の仲間と言い張ることで追い払うことができるともいう。愛媛では、マッチに火をつけて投げることで船幽霊を退散させたという。 ●古典 江戸時代の奇談集『絵本百物語』では、西海に現れるという船幽霊を平家一門の死霊としている(画像参照)。平家は壇ノ浦の戦いで滅びたことで知られるが、関門海峡の壇ノ浦・和布刈間(早鞆)の沖では甲冑姿の船幽霊が現れ「提子をくれ」と言って船に取りついてきたといわれる。ひしゃくを貸すと船に水を汲み入れられるので、船乗りはこの海を渡るにあたり、椀の底を抜いて供えておき、船幽霊にはそれを渡して凌いだという。あるときに霊を憐れんだ法師が法会を行い、この怪異は失せたという。 江戸時代の知識人・山岡元隣は海上に火の玉や亡霊が現れる船幽霊についても朱子の朱子学を例に持ち言及しており、恨みを抱いて死んだ人が復讐を果たしてなお亡魂を残している例をいくつか挙げ、「かやうの事つねに十人なみにあることには待らねども、たまたまはある道理にして、もろこしの書にもおりおり見え待る」と結論している。煙は手に取れないが、積もって煤になれば手に取れる。気は質のはじめであり、気が滞って、形を成したり声を生じたりするのを幽霊と呼ぶ。もっともこの幽霊も滞った気が散っていくにしたがって消えうせるとしている。 ●近年の事例 1954年に戦後最大の海難事故とされる洞爺丸事故が起きた後、事故後に就航した連絡船のスクリューに奇妙な傷跡が見つかるようになり、事故の犠牲者が船幽霊となってスクリューに爪を立てているという噂が立った事例がある(これは後に電蝕による傷と判明した)。この船幽霊は海ばかりか陸にも現れたといい、北海道の七重浜で夜中にタクシーに乗った全身ずぶ濡れの女性が、目的地に着くと姿を消し、洞爺丸の幽霊と噂されたという。また青森駅では、宿直室で寝ていた職員が窓ガラスを叩く音で目を覚ましたところ、窓ガラス越しにずぶ濡れの手が見え、「洞爺丸の犠牲者が救いを求めている」と慌てて逃げ帰り、翌朝にはその窓ガラスに手形が残っていたという。 また1969年には神奈川県の海で、白い人影のようなものが目撃されて「ひしゃくを下さい」と声が聞こえたといわれ、大学のヨット部の遭難した部員が、沈んだヨットから水を汲み出したがっているといわれた。 ●民俗学からの観点 民俗学者・花部英雄によれば、船幽霊の出現は風雨や濃霧の晩、急に天候が悪化したときに多く、こうした状況下では事故が発生しやすく話に現実味が加わり、不気味さや不安感をかきたてるため、僅かの怪異も伝承の枠の中に組み入れて幻影・幻想を現実として語ったりするとされる。出現時期に盆が多いのは精霊船のイメージと重なるためとされる。しかしその根底には、祀られることの無い水死者の霊が浮遊していて船幽霊に化して現れる死霊信仰があり、盆や大晦日あるいは特定の日などの禁漁日に海に出てはならない、また近づいてはならない海域に出現する、などの禁忌を犯した場合の戒めにあるとしている。 ●正体についての学説 船幽霊が船に取り憑いて動きを阻むともいわれるが、これは現代ではある程度の科学的な説明がなされており、内部波による現象とされている。例えば、大河の河口に近い海域ではその影響により塩分濃度の小さい水域ができるが、塩分濃度の低い水は比重が軽いので通常の海水の上層部(海面)に滞留し、しかも双方の水は簡単に混じり合わず、はっきりした境界面を形成する。その境界面付近に船のスクリュープロペラがある場合、いくら回転させてもエネルギーは水の境界をかき乱し、内部波を作るだけに消費されて、結果として船が進まなくなるというものである。極地方で氷が溶けて海水中に流れた場合にも同様の現象が起こることは極地探検家のナンセンも記録している。このように、塩分、水温、水圧などによる海水の密度の変化に伴う内部波が船の前進を妨げるという説が唱えられている。 ●各地の船幽霊 ●いなだ貸せ(いなだかせ) 福島県沿岸。「いなだ(ひしゃく)貸せ」と船上の人に話しかける。「いなだ」とは船で用いられるひしゃくのことで、これに穴をあけて渡さないと、たちまち船に水を入れられて沈没させられてしまう。 ●ムラサ 島根県隠岐郡都万村(現・隠岐の島町)。この地では、潮の中に夜光虫が光っている様子をニガシオというが、その中にボーっと光りながら丸く固まっているものがムラサである。船が上に乗りかかるとパッと散らばってしまう。また、夜に突然にして海がチカッと光って明るくなることがあるが、これはムラサにとりつかれたためであり、竿の先端に刀や包丁をつけて海面を数回切るとよいという。 ●夜走り(よばしり) 山口県阿武郡相島(現・萩市)。船が白い帆をまいて走ると、一緒に走って来る。灰をまいて音をたてると退散する。 ●ウグメ 長崎県平戸市、熊本県御所浦島などの九州地方。船がこれに取り憑かれると航行が阻まれるといい、平戸では風もないのに突然帆船が追いかけて来るともいう。九州西岸地方では船や島に化けるともいう。この怪異を避けるために平戸では灰を放り込むといい、御所浦島では「錨を入れるぞ」と言いながら石を投げ込み、それから錨を放り込むという。煙草を吸うと消えるともいう。淦取り(あかとり。船底にたまる水を取る器)をくれといって現れるともいい、淦取りの底を抜いて渡さないと船を沈められるという。 ●迷い船(まよいぶね) 福岡県遠賀郡、同県宗像市鐘崎。盆時期の月夜の晩、海に帆船の姿となって現れるもの。怪火が現れたり、人の声が聞こえることもあるという。 ●亡霊ヤッサ(もうれんヤッサ) 千葉県銚子市、海上郡(現・旭市)。霧の深い日や時化の日に漁船のもとに現れる船幽霊で、海難事故の水死者の霊が仲間を増やそうとしているものといわれる。「モウレン、ヤッサ、モウレン、ヤッサ、いなが貸せえ」との声が船に近づき、突然海から「ひしゃくを貸せ」と手が飛び出すが、やはりひしゃくを貸すと船を沈められるので、底を抜いたひしゃくを渡すという。「モウレン」は亡霊、「いなが」はひしゃくの意味で、「ヤッサ」とは船を漕ぐ掛け声。妖怪漫画家・水木しげるの著書での表記は「猛霊八惨」(もうれいやっさん)であり、水木の出身地・鳥取県境港市ではこの猛霊八惨を鎮める祭礼も開催されている。 ●ミサキ 福岡県などでは船幽霊の一種とみなされている。 ●なもう霊(なもうれい) 岩手県九戸郡宇部村小袖(現・久慈市)に伝わる海に出没する黒い船とともに現れる妖怪で、時化(しけ)の時などに櫂(かい)をよこせと無理をいうが、返事をしたり、櫂を貸してはならないとされる。 ●日本以外の類似怪異 『桂林漫録』(寛政12年)の記述として、「覆溺(ふくでき)して死せる者の鬼(ここでは幽霊を指す)を覆舟鬼ということ」、「海外怪妖記に見たりと」とあり、日本人によって船幽霊に当たる怪異が中国にもあったことが記されている。また、中国には、「鬼哭灘(キコクタン)の怪」という怪異の伝承があり、はげた怪物が舟を転覆させようとするとされる(こちらは海坊主に近い)。 |
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●狂歌百物語・船幽霊 | |
生魚を 積み来る船も 腐つたる 匂ひたまらぬ 夜半の幽霊(花前亭)
乗りし人 覆さんと 取りつくは 船幽霊の 罪の面楫(和風亭国吉) 襟元へ 水かけらるゝ 心地せり 柄杓貸せてふ 船のこわねに(江戸崎 有文) 底ぬけの 柄杓を借りて 酒船へ 水を割らんと 出づる幽霊(雲井園) 友盛の 姿か何か 白浪に 船を泊めたる 怒り顔にも(於三坊菱持) 落ち入りて 魚の餌食と なりにけん 船幽霊も なまぐさき風(桃江園金実) 幽霊に 投げてやつても 垢柄杓 また底気味の わるき船頭(扇風) おのが身を 沈めし海を 乗る船に 浮かまんとてか 縋る幽霊(南向堂) 浮かまんと 船を慕へる 幽霊は 沈みし人の 思ひなるらん(下毛葉鹿 其春) 罪ふかき 海に沈みし 幽霊の 浮かまんとてや 船に縋れる(美雄) 傾げたる 重身に海を 浮かばれぬ 怒りの見ゆる 友盛の霊(栄寿堂) 伊勢の海 柄杓の底の 抜参り 船幽霊ぞ 一文も無き(花門改 注連春雄) 船ゆれて 水泡喰へとの 武蔵坊 弁慶祈る 友盛の霊(有恒) 恨めしき 姿は凄き 幽霊の 楫を邪魔する 船の知盛(無多垣壁成) 幽霊は 黄なる泉の 人ながら 青海岸に などて出づらむ(日光 不二門守黙) 沈みては 浮かむ瀬のなき 幽霊の 青錆見ゆる 新中納言(南寿園長年) 沖遠く たゞよふ船は 幽霊に 取らす柄杓も 底しれぬ海(星屋) 南無三と 逃げる船足 早けれど 船幽霊も やはり足なし(近江日野 淡海敬喜) 大物の 浦みの浪に 友盛の 怒りに船を 停むる幽霊(松楳亭槙住) 幽霊は 酒舟に来て わめくゆゑ 出だす柄杓も 底抜け上戸(雛好) 罪ふかき 水屑の中に 染まりけん 出づるも青き 幽霊の顔(南伊勢大淀浦 松也) 幽霊の 叫ぶを聞きて 乗る船の 下は地獄の 思ひありけり(常陸大谷 稜威千別) 弁慶の 数珠の功力に 友盛の 姿も浮かむ 船の幽霊(語吉窓喜樽) 幽霊に 貸す柄杓より いち早く 己が腰も 抜ける船長(結城 椿園) 罪ふかき 海にさまよふ 魂は そも弘誓の船に 乗りかねにけん(常陸大谷 千別) 船底の 板の下なる 地獄より 浮かまんとてや 出づる幽霊(常陸村田 緑洞園菊成) 奈落まで 深く沈みて 恨むなり 波に浮かべる 船の幽霊(上総大堀 可明) 其の姿 錨を負ひて つきまとふ 船の舳先や 知盛の霊(蝶々舎登麻呂) なうなうと 声もかすかな 幽霊に 艫にひつくり かへる船人(五常亭真守) 西海の 水屑となりて 平らなる 浪も逆立つ 船の幽霊(秋田舎稲守) |
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●東北地方 | |
●もる火 青森県五所川原市 | |
青森県五所川原市でいう怪火で、もり火とも呼ばれます。
雨の夜、水死や首吊りのあった場所に現れる真っ青な火で、化物の中で最も恐ろしいものだといわれています。頭から胴にあたる部分は人の指より太いほどで、足に当たる部分がぶらりと下がっています。空中を浮遊しており、悪口を言った人についてまわります。打てば細かく砕けますが、それでも人についてくるといいます。もる火に出会った場合には念仏を唱えるか、灯火のある部屋に入ればよいとされています。 |
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●モンジャ 青森県津軽地方 | |
青森県の津軽地方の海岸に伝わる怪異で、海で死んだ人間の魂が家に帰って来ることをいう。こうした伝承については、津軽の民俗学者・森山泰太郎の著書『津軽の民俗』などに記述がある。名称は「亡者」を意味する。
東津軽郡石崎ではこの亡霊の帰還を「モジャビ(亡者火の意)」ともいう。これが家へ帰って来る際には、庭で足をたたくような音がして「寒いから火を焚け」などと声がするという。 西津軽郡舘岡村(現・つがる市)では「モレビ(亡霊火の意)」と呼ぶ。夜中に大戸を叩くものであるという。あるとき、漁師が海に流されて死に、その夜中に家の大戸を叩く音がした。家人が外に出ても誰もおらず、モレビの仕業といわれた。 同郡鰺ヶ沢町では「モジャ」ともいい、これが家へ帰って来ると、台所の板の間でバタバタと着物の砂を払う音がして、流しでザーッと手を洗う音がするという。また同町では、「モジャ」は人間に憑くともいう。ある者が夜、全身に水を浴びたように寒くなり、体の震えが止まらないので、ゴミソ(男性の祈祷師)に相談したところ「4人組の海のモンジャが、誰も供養してくれないので、なんとかしてもらいたくて憑いている」とのことだった。 北津軽郡小泊村(現・中泊町)では、浜辺で火を焚くとモンジャが火にあたりに来るといわれた。あるとき、沖合いで漁船が沈没し、漁師の遺族たちが浜辺で火を焚くと、伝承の通りにモンジャが現れたという。 「モジャビ」「モレビ」などは火を意味する名前が付いているものの、『津軽の民俗』にはこれらが火をともなって現れたという記述はない。しかし後述のように、他の地方には同じく「亡霊火」といって、遭難者の霊が海上で火をともなって現れる伝承があるため、『津軽の民俗』は家に帰って来る事例のみが記載されているのであって、津軽のモンジャも海では火となって現れるという可能性も示唆されている。 ●風習 モンジャの伝わる地方では、海、山、川で誰かが死んだときなど、人間が不慮の死を遂げた際には、その魂がその場に残るといわれており、遺体をその場から運び去った後に、改めて魂を迎えに行くという風習があった。 遺体が失われた場合でも、死者は手向けを期待して家の近くをさまようといわれたため、必ず遺体のかわりに身代わりのものを葬り、懇切な供養が行われていた。たとえば鰺ヶ沢町では、海で死んだ者の遺体が発見されなかったときは「シルシをヤスメル」といって、煙草入れ、枕、丹前などのように、普段から身に着けていたものを墓に納めて葬った。 西津軽郡田ノ沢でも同様の事故が起きた際や、山中で人が遭難して死んだときなど、家を離れて死んだ者がいるときには、供養のために海岸の丘に後生車を立てており、それを通行人がまわすと、死者は早くに浮かばれるといわれた。また海難者の出たある家では「16日のアカツキボカイ」といい、盆の16日の朝、死者の数だけ人形を作り、小さな舟に乗せて流す風習があった。 ●類話 青森県五所川原市では、水死や首吊りのあった場所には、雨の夜に「もる火」または「もり火」という怪火が現れるといわれ、地元ではもっとも恐ろしい化け物といわれている。これに対して悪口を言うと、その人について回る。打てば細かく砕けるが、やはり人について回る。念仏を唱えると去るといい、灯火のある部屋には入ってこないともいう。 宮城県牡鹿郡女川町や鹿児島県でいう「亡霊火(もうれいび)」は船幽霊に類するもので、遭難者の霊が帆船などの姿となり、夜の海を行く漁船の前に急に現れ、漁船がそれを避けようとしてもまた前に現れ、やむを得ず船を止めると、それは船の形を失って燐光となり、遠くへ走り去るという。 |
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●スウリカンコ 青森県八戸市大館塩入 | |
青森県八戸市大館塩入に伝わる怪火。名は「汐入村のカン子」の意。かつてカン子という美女が多くの男性から求婚されたが、好きな男がいるために断ったところ、それを不快に思った男たちにより新井田川に生き埋めにされ、以来、この怪火が飛ぶようになった。後にその場所には磐城セメントの工場が建った際、カン子を弔う祠が建てられたという。 | |
●尻屋埼灯台 1 青森県下北郡東通村 | |
[しりやざきとうだい] 青森県下北郡東通村の尻屋崎に存在する灯台で1945年に米軍に空襲され運用不能になったにもかかわらず、1946年夏に夜になると光りだすことが確認され、灯台長代理が公文書「灯台の怪火について」として灯台局に報告された。8月に仮復旧し謎の光はなくなった。 | |
●尻屋埼灯台 2 | |
青森県下北郡東通村の尻屋崎の突端に立つ白亜の灯台で、日本の灯台50選に選ばれている。「日本の灯台の父」と称されるブラントンによって設計された、二重のレンガ壁による複層構造の灯台となっている。周辺には寒立馬(かんだちめ)と呼ばれる馬が放牧されており、一帯は景勝地となっている。
●歴史 1876年(明治9年)10月20日:東北最初の灯台として初点灯。なお、参考文献での表記は「尻矢崎」となっている。 1877年(明治10年)11月20日:日本で初めて霧鐘が設置される。 1879年(明治12年)12月20日:日本で初めて霧笛が設置される。これを記念して12月20日が霧笛記念日となっている。 1883年(明治16年)10月24日:隕石が落下しガラス損傷。 1889年(明治22年)4月12日:灯明変更。 1901年(明治34年):日本初の自家発電の電気式灯台になる。 11月2日:灯器変換工事のため仮灯点灯。12月20日:工事落成により本灯点灯。 1908年(明治41年)1月1日:船舶通報事務取扱開始。 1923年(大正12年)6月30日:燭光数変更。 1932年(昭和7年)2月11日:無線方位信号所業務開始(無線標識・無線羅針)。 1945年(昭和20年):米軍の攻撃により破壊。運用不能になる。 1946年(昭和21年) 夏:破壊されたはずの灯台が光を放つ怪現象が起こる。8月20日:霧信号舎屋上に仮設の灯火を点灯する。同時に怪現象も消える。11月23日:仮灯の灯質変更。 1947年(昭和22年) 1月18日:仮灯消灯、無線方位信号所業務休止。2月15日:等質変更の上仮灯点灯。3月14日:無線方位信号所業務再開。4月28日:仮灯の灯質変更。 1949年(昭和24年) 6月15日:船舶気象通報放送開始、偶数時の2分から4分まで。9月23日:灯塔が復旧し本灯点灯、仮灯撤去。 1976年(昭和51年):点灯100周年。 2007年(平成19年)4月10日:無線方位信号所(レーマークビーコン)廃止。 2016年(平成28年)9月:気象通報業務の廃止。 2017年(平成29年)6月28日:国の登録有形文化財となる。 2018年(平成30年)6月1日:一般公開が始まり、参観灯台の一つとなる。 2019年(平成31年)3月:ディファレンシャルGPS局を廃止。 ●まぼろしの灯台 第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)に米軍機の機銃掃射を受けて、当時勤務していた村尾常人標識技手が殉職した。翌1946年(昭和21年)、攻撃を受け破壊しつくされたはずの灯台が光を放ち、その目撃が相次いだ。謎の光のおかげで付近を航行中の漁船が遭難を免れたということもあった。人々は米軍の攻撃時に殉職した村尾標識技手の霊なのではないかと噂した。当時の灯台長が公文書「灯台の怪火について」を灯台局に報告した。同年8月に霧信号舎屋上に仮の灯りを点灯すると同時にこの現象は消えた。なお、灯台には銃撃の跡が今でも残る。 |
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●古籠火 1 山形県 | |
[ころうか]
鳥山石燕の『百器徒然袋』にある日本の妖怪。石灯籠の上に座り火を口から吐いているすがたで描かれている。灯籠の火の妖怪として石燕が描いたものであると考えられている。「古戦場には汗血(かんけつ)のこりて鬼火となり、あやしきかたちをあらはすよしを聞(きき)はべれどもいまだ灯籠の火の怪をなすことをきかずと」と石燕は記しており、特に典拠とした古文献はないようである。
●古屋敷の古籠火 小説家・山田野理夫の著書には「古籠火」(ころうび)と題し以下のような話が山形県のものとして紹介されている。上之山藩の田村誠一郎という武士が江戸から国もとの勤めに変わり、新しく屋敷が立つまで古屋敷に住むことになった。その古屋敷で家族で夕食をとっていたところ、庭が急に明るくなった。誰かが火を入れたのかと田村が尋ねたが、誰も火を入れていなかった。老いた奉公人が言うには、あれは古籠火というもので、古びた灯籠がしばらく火を入れてもらえないと、ひとりでに火が灯るのだという。 この山田の著書にある話は、水木しげるの著作における古籠火(ころうび)の解説でも引用されている。 |
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●古籠火 2 | |
――それ火に陰火(いんくわ)、陽火(やうくは)、鬼(き)火さまざまありとぞ。わけて古戦場(こせんじゃう)には汗血(かんけつ)のこりて鬼火となり、あやしきかたちをあらはすよしを聞はべれども、いまだ燈籠(とうろう)の火(ひ)の怪(くはい)をなすことをきかずと、夢の中におもひぬ。――鳥山石燕『百器徒然袋』
古籠火は、石灯籠が鬼火のような火の妖怪。年月を経た石灯籠が付喪神になったと類推される。 小説家・山田野理夫の著書『古籠火』(ころうび)と題し、山形県の怪談が以下のように述べられている。田村誠一郎という武士が江戸から国許の勤めに変わり、新しく屋敷が立つまで古屋敷に住むことになった。その古屋敷で家族で夕食をとっていたところ、庭が急に明るくなった。誰かが火を入れたのかと田村が尋ねたが、誰も火を入れていなかった。老いた奉公人が言うには、あれは古籠火というもので、古びた灯籠がしばらく火を入れてもらえないと、ひとりでに火が灯るのだという。 |
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●亡霊火 1 宮城県牡鹿郡女川町・鹿児島県 | |
亡霊火(もうれいび)は海上遭難者の亡霊が船になったものである。夜間に漁船が航行していた時、前面に帆船が突然現れた。衝突を避けようとして方向を転じると、さらにその前面に現れる。やむなく停船して凝視すると、忽然として船の形ではなくなり、遠くを燐火が走っていくのが見えたという。 | |
●亡霊火 2 | |
後述のように、他の地方には同じく「亡霊火」といって、遭難者の霊が海上で火をともなって現れる伝承があるため、『津軽の民俗』は家に帰って来る事例のみが記載されているのであって、津軽のモンジャも海では火となって現れるという可能性も示唆されている。 ...
宮城県牡鹿郡女川町や鹿児島県でいう「亡霊火」は船幽霊に類するもので、遭難者の霊が帆船などの姿となり、夜の海を行く漁船の前に急に現れ、漁船がそれを避けようとしてもまた前に現れ、やむを得ず船を止めると、それは船の形を失って燐光となり、遠くへ走り去るという。 ... |
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●関東地方 | |
●火の玉・ひかり玉 群馬県利根郡みなかみ町 | |
群馬県利根郡みなかみ町。ループトンネルのある山で、6人いっぺんに火の玉を見た。1尺(30p)ほどの大きさだった。何かあると思ったが、その日、トンネルの事故で人が死んだ。 | |
●善導寺 群馬県 | |
特異な形をした岩櫃山の麓に善導寺はある。創建は貞治年間(1362〜1368)、吾妻太郎が開基とされる。この寺には吾妻一族にまつわる怪異があると伝えられている。
永禄6年(1563年)、甲斐の武田信玄は上野国への侵攻を本格化させ、岩櫃山にある岩櫃城攻略を目指した。派遣されたのは主将の真田幸隆以下、約3000の兵であった。 堅城を誇る岩櫃城は力攻めでは落ちない。一旦和議を結び、幸隆は内応に応ずる者を求めて調略を図った。それでも事が上手く運ばないため、再度城を取り囲んで水路を断つ策に出たが、一向に埒が開かない。幸隆は、城内に水を運び入れる場所があるとにらんだ。そこで城との和議に際に交渉役に当たった善導寺の住職に尋ねたところ、水利の秘密をいとも簡単に喋ってしまった。武田勢は水路を断つと、たちどころに城内は動揺。ほどなくして城主が逃亡して落城となったのである。 それからしばらくして善導寺は火事を起こして焼け落ちた。人々は岩櫃城落城の祟りであると噂した。その後、善導寺では本堂を再築するたびに火事が起こった。記録によると慶長4年(1599年)、寛文3年(1663年)、享和3年(1803年)、天保8年(1837年)、明治35年(1902年)と5回も起きている。しかも出火の原因は不明であり“鳥が火のついた物をくわえて飛んできた”とか“火の玉が飛び込んでいった”とかいう怪異の噂が立つばかりであった。明治の大火の時も“本堂から火の玉がいくつも落ちてきたと思ったら、手の着けようもない猛火となった”という話が伝わっているという。 現在は明治の大火以来の本堂が新しく建てられている。 |
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● 炎石 茨城県・西福寺 | |
[ほむらいし]
西福寺は寛永9年(1632年)に了学上人の隠居所として建立された浄土宗の寺院である。その山門付近に一基の板碑が置かれている。
この板碑は明治4年(1871年)に廃寺となった妙見寺にあったものを移したとされ、さらにその元を辿ると、同市蔵持にある3基の板碑と並んで神子女引手山にあったものとされる。 建長5年(1253年)、時の執権・北条時頼は民生安定のためにこの地に豊田四郎将基の供養碑を建てた。その際に時頼は、いまだ平将門が祀られていないことを聞き及び、自らが奏上して勅免を得ると、千葉胤宗に命じて将門の赦免と供養のための板碑を建てるように命じたのである。さらに翌年と翌々年には、豊田氏・小田氏といった将門所縁の一族によって板碑を建て、その次の年にも将門の父である良将の供養のために板碑を建てた。この4年続けて建てられた板碑のうち、建長6年の板碑だけが妙見信仰の縁で妙見寺に移され、さらに西福寺に置かれているのである。 この建長6年の板碑には「炎石」の別名が残されている。天保年間(1831-1845)のこと。ある旗本がこの石を気に入り、縄を掛けて持ち運ぼうとした。ところがその夜、突然この石が炎を噴き出したため、旗本は恐れおののいて逃げたという。それ以来、この板碑は「炎石」と呼ばれるようになり、将門公の霊が籠もっていると信じられるようになった。さらにはこの石に縄を掛けると病が治るという言い伝えも出来たという。 |
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●王子の狐火 東京都北区王子 | |
江戸郊外、東京都北区の王子に現れる狐火にまつわる民話の伝承のこと。王子稲荷は稲荷神の頭領として知られると同時に狐火の名所とされる。現在では、大晦日の夜に地元の人々によって狐の行列が催されている。
●民話 かつて王子周辺が一面の田園地帯であった頃、路傍に一本の大きな榎の木があった。毎年大晦日の夜になると関八州(関東全域)の狐たちがこの木の下に集まり、正装を整えると、官位を求めて王子稲荷へ参殿したという。その際に見られる狐火の行列は壮観で、近在の農民はその数を数えて翌年の豊凶を占ったと伝えられている。 この榎の木は「装束榎」(しょうぞくえのき)と呼ばれ、よく知られるところとなり、歌川広重『名所江戸百景』の題材にもなった。 ●歴史 ●伝承の描写の初出 王子と狐とが一緒に登場する最も古い資料は、寛永期に徳川家光の命により作られた『若一(にゃくいち)王子縁起』という王子神社の縁起絵巻である。この絵巻の原本は存在しないが、精巧な模本が紙の博物館にあり、その奥書によれば作成作業は堀田正盛(加賀守)のもとに春日局の甥で斉藤三友(摂津守)をもって遂行されたとある。また文は林道春がかかわり、絵は狩野尚信が描いたことが知られる。絵巻の完成は寛永十八年(1641年)七月十七日だった。 『若一王子縁起』絵巻は王子神社についてのものだが、すぐそばの王子稲荷神社も別当寺金輪寺の持ちであったために、下巻にその社のたたずまいと、その前道筋に集まり来たる諸方の命婦(狐)の絵がある。絵には、稲荷社前の道筋のあちこちに狐火を燈した複数の狐と松の木の下にも二匹の狐が描かれている。そして「諸方の命婦、此の社へ集まりきたる」とあり、下札には「毎年十二月晦日の夜、関東三十三ケ国の狐、稲荷の社へ火を燈し来る図なり、この松は同夜狐集まりて装束すと言伝ふ」と狐の集合が説明されている。なお、大田南畝は『ひともと草』に「むかしは装束松といひしも、今はいつしか榎にかはれり」と書いている。 狐火の絵は、この絵巻を彩るためだけに描かれたものではなく、縁起を作るに先んじて寛永期の幕府の役人が王子の狐火の調査に来たという事実により、当時広く流布していた伝承の表現だったと知れる。 ●寛政改革による民話の変節 絵巻の完成後約150年経った寛政3年(1791年)になって、王子稲荷社が実際に諸国三十三ケ国の稲荷社の総社であったかどうかの社格の是非を幕府が問題にした。寺社奉行の松平輝和が老中松平定信に進達した「王子稲荷額文字之儀ニ付、金輪寺相糾候申上候書付」で始まる文書(以下、「進達文書」と記す)にその内容が示されてある。「進達文書」には、王子稲荷が自社について「東国惣司ト称シ候濫觴」、つまり王子稲荷が東国惣司と自称しているとあり、これは王子稲荷が「関東稲荷惣司」との源頼義の文言を「東国稲荷惣司」(とうごくいなりそうつかさ)と平安時代以来認識し自認してきたことを意味する。王子稲荷社は三十三ケ国伝承にまつわる額や幟(のぼり)などを没収され処罰を受けた。 幕府の王子稲荷神社調査記録の「進達文書」は、王子と狐の民話が古くは「東国三十三ケ国からの狐集合」だったことを示すが、これ以降、世上、王子の狐民話は狭く関八州の物語として伝わるようになり現在に至る。ただし、当の王子稲荷社自身は門石に「康平年中、源頼義、奥州追討の砌(みぎ)り、深く当社を信仰し、関東稲荷惣司と崇む」と刻み、往古と変わらぬ社歴を今に伝えている。 ●装束榎の碑と装束稲荷 狐が集まったとされる榎の木は明治時代中頃に枯死した。昭和4年(1929年)には道路拡張に伴い切り倒され、「装束榎」の碑と「装束稲荷神社」と呼ばれる小さな社が停留所の東部に移されている。一帯は戦前には榎町と呼ばれてもいた。 ●王子狐の行列 地元王子では1993年より毎年、大晦日の夜から元日にかけて「王子狐の行列」と呼ばれるイベントが催されている。狐顔メイクまたは狐面を身につけた裃姿で、装束稲荷から王子稲荷へ参詣する。 |
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●皿数え 東京都 | |
鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』にある怪火。怪談で知られる『皿屋敷』のお菊の霊が井戸の中から陰火となって現れ、皿を数える声が聞こえてくる様子を描いたもの。 | |
●狂歌百物語・皿屋舗 | |
皿やしき 夜も九ツの 時廻り 震へて数も 合はぬ拍子木(花前亭)
九つと 聞くのも凄し 皿の数 お菊がこわす 丑三ツの鐘(宝珠亭船唄) そこねたる 皿一枚の あやまりに 菊が命ぞ 終りやきなる(善事楼喜久也) 生ぐさき 風に女の 亡き魂の 影は人魚に 似し皿屋舗(守文亭) 聞く夜毎 みな伏柴ふししばの 僂かがなへる 皿に懲りたる 嘆きする声(草加 四角園) 残りたる 其の一念を 不足せし 皿の数にも 合わせてしがな(桃太楼団子) さらさらに さらに恨みを 晴らせ菊 足らぬ勝がちなる 今の世の中(青則) 怨念の 出でしと聞くは 昔にて 更に気けの無き 今の番町(笑寿堂春交) 古井戸の 底気味わろき 水際に 皿の欠けほど 残る月影(和木亭仲好) 不足した 数に姿を 引きかへて 目も皿のごと 凄き古井戸(仝) 数へつる 皿も九ツ 八ツ過ぎは 身の毛もよだつ 寐ずの番町(狂蝶亭春里) 恨みをも 並べていふか 皿屋鋪 数へては泣き 数へては泣き(青梅 六柿園) 底知れぬ 井戸の声ある 皿屋鋪 深き思ひを 汲みてこそ知れ(駿府 東遊亭芝人) 念仏の なんまいだてふ 破われ声に むかし弔ふ 皿やしき跡(清明堂喜代明) 生臭き 風も吹くらん 皿屋鋪 わりたる魚うをの 香も失せずして(鬼面亭角有) 深きわけ 井戸にあるらん 皿屋鋪 聞けば底気味 悪くこそあれ(有恒) 十枚と 見つれば欠くる 皿屋鋪 いづれ愚昧の 世にぞ有りけり(腹光) 初霜に 枯れゆく菊は 怨念も 朧に白き 袖の見ゆらん(八王子 檜旭園) 目の前に 因果は廻り 車井くるまゐの 去らぬ恨みの 菊が怨念(松梅亭槙住) さらさらと 言はずに数を 九つと 聞くさへ井戸に 沈む破声われごゑ(無多垣壁成) 恨めしと いふ声菊が 姿かと 見れば尾花の 動く井の本(語実亭人芳) 焼継やきつぎを したなら憂き目 見ざりしを さうとは更に 思はざる菊(石公舎古龍) 屋敷跡 年を経る井に 菊が霊 目を皿にして わめく破れ声(花都堂吉雄) かぞへぬる 皿の数さへ 九つの かねて恨みを 菊が怨念(喜樽) 瀬戸物の 時代もよほど 古屋敷 皿を数へる 菊が怨念(藤紫園友成) 皿ゆゑに 井戸へ命を 捨て鐘の 音も哀れに 菊が怨念(筬丸) 十枚の 皿を一枚 割る企たくみ その執念ぞ 深き古井戸(文昌堂尚丸) かぞふれば 数の減りにし 残り菊 はかなく褪せる 霜の剣に(佐野 糸屑) 皿ゆゑに 身を損ねたる 怨念の 恨みの数を 並べてぞ出る(宝市亭) 足らざりし 皿の思ひは 残るとも さらに屋敷の 跡にこそなき(団子) 錦手にしきでの 皿を数ふる 古井戸に 青紅あをくれなゐの 鬼火燃えけり(弓の屋) さらさらと 雨のふる夜は 消えぬだに 猶袖ぬらす 皿屋敷なり(草加 四豊園稲丸) 皿屋敷 さらに姿は 見えねども 声はなゝ八つ 九つの鐘(於三坊菱持) ぞつと吹く 秋風寒し 番町に 聞く拍子木の 数も九つ(花の門) 執しふねきの 深き恨みを 皿々に 忘れ兼ねつゝ 出づる魂たまかも(水々亭楳星) 秋草の 錦手染める 皿屋敷 あはれ悲しき 声も聞くかな(桜園春世) 九枚まで 夜ごと数へる 井戸の底 深い謂いはれを 聞く皿屋敷(裏のや宿守) 幽霊の 面影見せて 皿やしき 立てる柳の 色の青山(常陸村田 松風軒村藤) 幾年に なるかとばかり 皿屋敷 指を折りつゝ 数へてぞみる(栃木今泉 東枡亭玉泉) 後の世の おとし咄ばなしに 割れるほど 其の名を残す 皿屋敷かな(谷町山住) 聞くたびに 哀れなりけり 皿やしき 底気味悪き 井の内の色(匂々堂梅袖) 古井戸は 名のみ残れど 皿やしき 八つ九つは 人も通らず(静川亭雪橋) 声凄く 伊予の湯掛ゆがけの 右左みぎひだり 八つ九つと 皿数へけり(上総 大堀可明) 幾度も 数へ数へて 皿やしき 九つよりぞ いとゞ寂しき(青梅 尺雪園旧左) 化けて出る 評ばん町の 皿屋敷 数読む声の 哀れをぞ聞く(記長喜) かぞへても 数足らじとて 泣く声を 聞くも怖ろし 皿屋敷かな(淡海の屋) 屋敷跡 七つ八つと 数へぬる 更地の井戸の 声の哀れさ(蔭芳) 怖ろしや 人に恨みを かけ皿の 数をかぞへる 闇の番町(豊のや) |
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●火忌みさま・亡霊 東京都大島泉津村 | |
大島の泉津村で一揆が起こったとき、30人あまりが神津島に流されることになったが、1月24日に暴風雨のために全員が海に消えた。その亡霊が泉津村にくるので、24日の晩は海を見てはいけないといわれている。もし、船を見ると祟りがあるといい、この晩は真っ暗にして火をたかない。また、日が暮れると戸を閉じで外出しないのだという。 | |
● 唸り松・怪火 千葉県成田市 | |
千葉県成田市。「唸り松」といわれる木が声を発するというので、ある男が確かめに行ったが何もなかった。家に帰ろうとすると大男がついてきたので彼を倒した。家へ着くと怪火が起きたが退治した。それから木が唸らなくなったという。 | |
●人魂の森 千葉県 | |
千葉県、伝説の地(匝瑳地区大浦)。宮和田(みやわだ)に、こんもりと繁った森がある。
この森は、人魂(ひとだま)の森と呼ばれて、一本一本の木が人間ではないかと言い伝えられている。 その昔、一人の木こりが、この森へ入っていった。「この森には、ずいぶん良い木があるぞ」 木こりは、吸い込まれるように森の奥へ入って行った。しばらく行くと、何かまっ黒で大きなものにぶつかった。「あれえ、おったまげた。こんなでっけえ松の木は見たことがねえ。よし、これから切ることにしべえ」「ギーコ」、「ギーコ」 木こりは、この森で一番大きな松の木を切り始めた。すると中頃まで切った時、「何だっぺ。何か赤いものが出て来たぞ。うわあっ、血、血、血だあっ」何と、松の木からどろどろとした真っ赤な血が流れ出て来た。木こりは、気味が悪くなり、のこぎりをおいて一目散に家へ逃げ帰って来た。 それ以来、夜になると、この森の上を青白い魂(たましい)が、ふわり、ふわりとさまよい飛んでいたと言われる。また、血の出た松の木の中には、この森の主である大蛇がいたとも伝えられる。 村人は、この森を『人魂の森』とか、『ヘビの森』とか言って、近づかなかったそうだ。おかげで今でもこの森は、ひっそりとした寂しい森のままである。 |
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●中部地方 | |
●猫股の火・猫又の火 新潟県 | |
[ねこまたのひ]
越後国(現・新潟県)に伝わる怪火。宝永年間の怪談集『大和怪異記』に記述がある。「猫股の火」の名は漫画家・水木しげるの著書によるもので、原典は「猫人をなやます事」と題されている。
ある武家で、毎晩のように正体不明の火の玉が出没していた。大きさは手毬ほどで、床から高さ3寸(約9センチメートル)ほどの空中を漂っていた。寝ている家人の部屋に入り込むこともあった。 また火が現れるだけでなく、人がいないはずの部屋で物がひとりでに動いたり、夜に眠っていた者が、朝になると寝ている姿勢が正反対になっていた、といった奇妙な出来事も起こるようになった。 この武家の主人は、こうした怪事件に怯むような者ではなかった。しかし噂が広まり、それを迷惑に思った主人は、火の玉の正体を暴こうと考えていた。 そんなある日のこと。主人が庭に出ると、年老いた猫が頭に赤い布をかぶって立っていた。これを怪しんだ主人は、弓矢で猫を射落とした。主人が猫の死骸に近づくと、それは5尺(約1.5メートル)もの大きさで、尻尾が二股に分かれた怪猫だった。この怪猫の死後、それまで家で起きていた様々な怪異は一切、起こることはなかったという。 |
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●狂歌百物語・貍(ねこまた) | |
破れ戸樋 笛ふく秋の 夜嵐に はた天蓋も 踊る猫寺(何の舎)
貍を 出す見世物師 看板の 口上書に 尾に尾つけけり(俵舎) 目はさらに 口は耳まで 酒よりも 油昧しと 舐むる猫又(鶴子) 手拭に 天窓かくしつ 尻尾をや 人に見せじと 踊る猫また(千住 茂躬) 貍の 住居となりし 古寺は 山の尾さきの 道もふたまた(宝珠亭舟唄) あしびきの 山猫の尾の 二股の 長々しきを 引きて踊るや(頓々) 鉄漿かねつける 五倍子ふしの粉さへも 貍の 古くなつたる 破やれ寺の婆(尚丸) 妖しけれ 女に化せし 猫または 下腹に毛も 無きとこそ知れ(語万斎春芳) 御あかしの 油をなめて 燈心の 二また猫も 年をふる寺(山道廼冨茂登) 物凄き 貍見れば 中々に 我が目の色も かはるばかりぞ(常陸大谷 千別) 眼まなこさへ 丸行燈あんどんの 皿の如 湑したみ油を ねぶる猫また(金鍔) 薄雲の 腹へ来る時 ねこまたは ふたまたらしき 汝が心かも(静川亭雪橋) 夜嵐に 時々回る 辻番の 変はり目凄く 見ゆる貍(静洲園) 草も木も 眠るといへど 丑三つの 時をはかりて 出づる猫また(秩父野上 千燈庵小松) 人をしも されて引きこむ 夕まぐれ 腹に毛のなき 貍婆々ア(匂々堂梅袖) 山深く 引きこもるてふ 猫または 尾ふたつにこそ 世をも避けけれ(佐野 糸屑) 見た人も 尾に尾をつけて 咄すらし 嘘を月夜に 踊る貍(銭の屋銭丸) 踊りたる 事はそしらぬ 振をして 日向に丸う 昼もねこまた(青梅 旧左) ねこまたは 油を舐めて 行燈を 消してかたちは 見せぬ闇の夜(駿府 翠のや松彦) 紫陽花の 影を楽屋に 七度も 目の替はるてふ 猫ぞ踊れる(雪麻呂) 臆病な 杣が小屋へは 猫またも 尾をさけてから 気を引きにくる(上総飯野 部た成) 三味線の 皮となりても 猫または 多くの人を 誑かすらん(常陸府中 檜川楼真淀) 尾のさきは 二つに裂けし 貍の 踊る屋形は 三つ股の川(花林堂糸道) 貍よ 踊らば貸さん 暑さには 汗を絞りの 浴衣なりとも(谷町山住) |
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●権五郎火 新潟県三条市本成寺地方 | |
新潟県三条市本成寺地方に伝わる。五十野の権五郎という名の人物が旅の博打打ちとサイコロの博打で争った末に大勝ちし、良い気持ちで帰っていたところ、夜道を追って来た相手の博打打ちに殺害され、その怨念が怪火と化したものとされる。付近の農家では、この権五郎火は雨の降る前触れとされており、権五郎火を見た農民は稲架の取り込みを急いだといわれている。 | |
●煤け提灯 新潟県 | |
[すすけちょうちん] 新潟県に伝わる。雨の夜、湯灌の捨て場から火の玉が飛び出し、ふわふわ飛び回るという。 | |
●ふらり火 1 富山県富山市磯部町・神通川流域 | |
鳥山石燕の『画図百鬼夜行』、佐脇嵩之の『百怪図巻』、作者不詳の『化物づくし』などの日本の古典の妖怪画にある火の妖怪。
『百怪図巻』『化物づくし』などには、犬のような顔をした鳥が炎に包まれた姿で描かれている。『画図百鬼夜行』による画も炎に包まれた鳥だが、こちらの顔はインド神話の迦楼羅を思わせる。 解説文がないためにどのような妖怪かは不明だが、火の化身であり、供養をされなかった死者の霊魂が現世をさまよった末、このような姿に成り果てたとする説がある。 ●類話 ふらり火の類話として、富山県富山市磯部町の神通川流域の磯部堤で明治初期まで現れていた「ぶらり火」の伝説がある。 天正年間。富山城主の佐々成政に早百合という妾がいた。早百合は大変美しく、成政から寵愛をうけていたため、奥女中たちから疎まれていた。あるとき、奥女中たちは早百合が成政以外の男と密通していると讒言した。成政はこれを真に受け、愛憎のあまり早百合を殺し、磯部堤で木に吊り下げてバラバラに切り裂いた。さらには早百合の一族までも同罪として処刑されることになった。無実の罪で殺されることになった一族計18人は、成政を呪いつつ死んでいった。 以来、毎晩のようにこの地には「ぶらり火」または「早百合火」と呼ばれる怪火が現れ、「早百合、早百合」と声をかけると、女の生首が髪を振り乱しながら怨めしそうに現れたという。また佐々氏は後に豊臣秀吉に敗れるが、これも早百合の怨霊の仕業と伝えられている。 |
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●ふらり火 2 | |
ふらふらと現れる火を纏った鳥の妖怪。詳細不明だが、モデルになったのは迦楼羅神(かるらしん)だと言われる。迦楼羅とは、インド神話における「ガルダ」が仏教に取り込まれた神である。英語圏ではガルーダとも言い、多分そっちのほうが馴染みがあるはず。ガルダは、光や熱を放つ炎を纏う神鳥であり、それが仏教に取り込まれ日本に伝わったと考えるのはとても自然で無理がない考え。なぜ「ふらり火」という名が付いたかは解らないが、富山県に伝わる、戦国武将佐々成政にまつわる「ぶらり火」の伝説と関係があるのかも知れない。あるいは、ただ単にフラフラ彷徨う怪火のことをそう名付けた可能性もある。
しかし『百怪図巻』のふらり火も、『画図百鬼夜行』のふらり火も、どことなく情けない顔をしているのが好印象である。もっとシャンとした顔だったのなら名前も変わっていたのかも知れない。 |
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●ふらり火 3 | |
『百怪図巻』などの化物尽くし絵巻や『画図百鬼夜行』に絵姿のある妖怪です。化物尽くし絵巻では火炎の中央に犬のような顔をした鳥がいる姿、『画図百鬼夜行』ではより鳥らしさを強調した姿で描かれています。松井文庫の『百鬼夜行絵巻』などでは同じ妖怪が「ぶらり火」と名付けられています。江戸時代に制作された絵巻の中には、同種の絵巻において化物を退散させる尊勝陀羅尼の巨大な火の玉や朝日に相当する存在として、ふらり火と同じ姿の化物を描いているものもあります。
元来絵姿だけの妖怪であるため、この妖怪の性質を説く諸々の言説は後付あるいは想像によるものと考えられます。 |
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●ぶらり火 4 | |
化物尽くし絵巻などに描かれる妖怪「ふらり火」の別名のひとつです。
熊本県八代市の松井文庫に伝わる『百鬼夜行絵巻』や、国際日本文化研究センター蔵の『化物尽くし絵巻』(北斎季親筆)ではこの名称が採用されています。 外見は「ふらり火」と大差ないものですが、北斎季親の絵巻では怪鳥の体色が白になっています。 |
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●磯部の一本榎 富山県 | |
[いそべのいっぽんえのき]
護国神社のそば、神通川に沿って流れる松川は桜並木で有名であり、「磯部のさくら」と彫られた碑が建てられている。そのすぐそばに1本の榎が植えられている。これが磯部の一本榎と呼ばれ、怪異の伝説が残されている。
織田信長配下であった佐々成政は越中の大名であったが、柴田勝家と共に羽柴秀吉と敵対関係にあった。賤ヶ岳の戦い後、秀吉に与する大名に囲まれた成政は、徳川家康に接近して打倒秀吉を画策した。ところが天正12年(1584年)、小牧長久手の戦いで突如秀吉と家康は和睦する。慌てた成政は家康説得のために、蛮行に近い行動を取った。越中から真冬の立山・北アルプス連峰を縦走して信濃を抜けて、浜松にいる家康に直談判をしようとしたのである。この【さらさら越え】と呼ばれる行動も虚しく、成政の再挙要望を家康は拒否、失意のうちに成政は富山に戻っていった。 ところが富山に戻った成政は信じられない噂を聞く。最も可愛がっていた側室の小百合が小姓・竹沢熊四郎と不義密通、懐妊している子も竹沢のものというのである。怒りに駆られて熊四郎を斬り捨てると、成政は小百合の髪を掴んで神通川のほとりの榎の木まで引きずっていき、髪を逆手に持ち上げてそのまま吊し斬りにしたのである(一説では榎に縄で宙づりにして斬り刻んだとも)。無実の罪で殺される小百合は歯を噛み砕き、血の涙を流して「悪鬼となって、数年のうちに子孫を殺し尽くして家名断絶させる」と罵り叫んだという。また「立山に黒百合が咲いたら、佐々家は滅亡する」とも言ったという。 その後、この榎には怪異が起こるようになった。風雨の夜、この付近に女の生首と鬼火が現れ、それは「ぶらり火」と呼ばれるようになった。またこの榎の下を「小百合、小百合」と七回呼びながら回ると、小百合の亡霊が現れるとも伝えられた。 小百合を斬殺してから佐々家は凋落、成政は秀吉に降伏して越中の太守から秀吉の御伽衆となった。そして後に肥後一国を与えられるが、国人一揆を誘発した罪によって摂津の尼崎で切腹。天正16年(1588年)、小百合が殺されて僅か4年足らずの出来事であった。 小百合斬殺とその後の怪異については、実は、その後に越中の支配者となった前田家が統治の手段として流した噂話であるとの説もある。明治の頃まで人魂が出ると言われた一本榎であるが、戦災によって焼き払われてしまい、現在あるものは2代目ということである。また榎のすぐそばには小百合の霊を慰めるべく早百合観音堂がある。 |
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●海月の火の玉 1 石川県 | |
[くらげのひのたま] 日本の妖怪の一つ。鬼火の一種であり、海の近くを飛び回るという。江戸時代の奇談集『三州奇談』に名が見られる。
元文年間、加賀国(現在の石川県)に現れたという火の玉。夜中に武士が全昌寺の裏手を歩いていると、生暖かい風とともに火の玉が飛んできたのでこれを斬りつけたところ、二つに割れて、ねばねばとした糊か松脂のような感触の、赤く透き通ったものが顔に貼り付き、両目を開けてみるとそれを透かして周囲を見通すことができた。土地の古老に訪ねたところ、「それは海月が風に乗ってさまようのだろう」と言ったという。 |
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●海月の火の玉 2 | |
江戸時代の奇談集『三州奇談』に記される元文年間の石川県に出現したとされる怪火。
話しによれば、真夜中に全昌寺というお寺の裏手を小原長八という名の侍が歩いていた所、生温かい風と共に火の玉が飛んできたのでこれを切り捨てた。すると火の玉は真っ二つに割れて長八の顔に生臭いねばねばとした糊か松脂のような感触の、赤く透き通ったものが張り付き、両目を掛けてみるとそれを透かして周囲のものを見通す事が出来たという。慌てて顔に張り付いたそれを何とか拭い去った長八は、流石に肝を冷やし、気分が悪くなったので急ぎ足で家路へと就き顔を洗ったが、ねばねばした感触はぬぐい切れず、生臭いに臭いも暫くは取れなかったという。 次の日、近くに住んでいる土地の古老にそれとなく昨日の出来事を訪ねた所、その火の玉の正体は“クラゲ”で、(クラゲは時に)夜中に風に乗って彷徨ことがあると教えてくれたという。 |
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●そうはちぼん 石川県 | |
石川県に伝わる怪火のような姿をした謎の物体。別名、ちゅうはちぼん。名称の本来の意味は仏具であり、シンバルのような楕円形の形をした楽器妙八のことであり、怪火のような姿がこの楽器に似ていることが由来とされる。
秋の夜、羽咋市にある眉丈山の中腹を東から西に、不気味な光を放ちながら群れて移動する。羽坂の六所の宮から一ノ宮の六万坊へ移動するともいう。『気多古縁起』によれば神通力を用いて自由自在に空中を浮遊する光の玉であるとの記述が見られ、「江戸時代に現れたUFOのことではないだろうか」などとの意見もある。 UFOの町として名高い石川県羽咋市では『そうはちぼん伝説』が各地に伝承されており、その特徴などからUFOと絡めて扱う書物が多いためか、そうはちぼんは他の一般的な怪火、鬼火などとは異なった捉えられ方をしている。 |
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●金火 石川県 | |
[きんか] 江戸時代の奇談集『三州奇談』にあるもの。上使街道八幡や小松で現れるという、火縄のような怪火。 | |
●三体仏堂 福井県・松龍寺 | |
[さんたいぶつどう]
松龍寺は奈良時代の養老年間(717〜724年)に泰澄大師が帝釈天を祀ったことから建立された古刹である。現在この寺の山門の脇には簡素な堂があり、左から大日如来・阿弥陀如来・地蔵菩薩の3体の仏像が安置されている。地元では“三体仏堂”と呼ばれており、江戸時代の中頃に近在の人が慰霊のために建てたと言われる。この地はかつて激戦があり、『朝倉始末記』に「越前加賀之一揆蜂起附帝釈堂怨霊之事」という逸話が残されている。
長享2年(1488年)以降「百姓の持ちたる国」となった加賀の一向宗門徒であるが、政治的にも対立する越前朝倉氏とたびたび合戦を繰り広げており、その最大のものが永正3年(1506年)の九頭竜川の戦いである。この戦いで大敗して国外退去を余儀なくされた越前一向宗門徒は、その翌年の7月に加賀の門徒勢と共に越前領内に侵攻し、拠点回復のため朝倉軍と戦った。これが松龍寺付近でおこなわれた“帝釈堂の戦い”である。この戦いでも一揆勢は敗れ、玄任率いる300名余りの軍勢が全滅するなど多数の死者が出たのである。そして戦から30日あまりして、帝釈堂近くの村々に怪しいものが出るようになったという。 ある夜、家の門をほとほとと叩く者があるので家人が戸を開けると、そこには頭のない青白い骸が4、5体立っていた。悲鳴を上げて戸を閉め、後から怖々覗くともう誰もいなかった。 ある時には、突然窓から青色の生首が覗き込むやにっこりと笑いかけてきた。それを見た家の女房が棒立ちになっていると、そのまま掻き消すように見えなくなってしまった。 ある夕刻、3人の禅僧が付近を通りがかると、雲の上に数多くの修羅道に落ちた兵の姿が現れ、鬨の声を上げて合戦を始めた。さらに傘ほどの大きさの光るものが100以上も飛んできて、その後から鬼のような姿をした者が、馬にまたがり火を吐きながら走り寄ってくるのが見えた。僧達は慌てて寺に逃げ帰った。 そして冷たい雷雨の日などは、日中にもかかわらず、合戦がおこなわれているような物音が聞こえてくることまで起こった。 そこで増信上人という僧が豊原寺の僧と共に帝釈堂で追善法要を執りおこなったところ、それからは奇怪なことが起こらなくなったという。 この“帝釈堂の戦い”で松龍寺も当然焼失したが、当時の住職であった霊仁和尚はこの地を去らず、草庵を建ててこの地で亡くなった者の霊を供養し続けたという。その後、承応元年(1652年)に松龍寺は藩命によって浄土宗に転宗し、現在に至っている。境内には、住職の達誉智山が“熊坂長範物見松”で大仏を製作した残りの木屑を使って彫り上げた1000体の阿弥陀仏が安置してある千体仏堂がある。 |
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●斑狐 福井県 | |
夜、越前国細呂木から三国への帰り道で、鬼火を照らした狐が踊っていた。それを見た男が近付くと狐は若衆に化けた。男は狐を連れ茶屋に行き飲み食いした後、男は逃げた。狐も茶屋の主人に追いまわされたが逃げのびた。 | |
●あやしき火 長野県 | |
信濃国千曲川で、大雨で若者2人が川に落ちて死んで以来、夜になると川のほとりに怪しい火が出て2人の霊が現れると噂されるようになった。ある人が供養したら現れなくなったと言われるが、怖いと思う心の為、霊などが見えたのだろう。 | |
●山口の一つ火 長野県上田市 | |
長野県上田市に伝わる怪火で、上田地方の七不思議のひとつとされているものです。
昔、山口村にある美しい娘がいました。娘は松代の男と恋仲になり、太郎山、鏡台山、妻女山などの山々をものともせず、毎晩男の元へと通いつめました。雨風も関係なく、彼女はいつも両手に温かい餅を握って男を訪ねました。恋人の男は、次第にこれらの行動に疑念を抱くようになっていきます。か弱い女の身でありながら、なぜ毎晩あの険しい山を越えられるのか、なぜいつも温かい餅を持ってきてくれるのか、男はあるとき娘に訊いてみました。「あなたに逢いたい逢いたいの一念には、どうして山路の夜が恐ろしいでしょう。そして毎晩あなたに差しあげるお餅は、家を出るとき握ってくる餅米がいつの間にか餅になっているのです」彼女はそう答えますが、男の疑いはますます募ります。この交際がいずれ身の破滅を招くのではないかと危惧した男は、遂に彼女の殺害を企むようになりました。山中の断崖で待ち伏せしていると、疾風のように駆けてくる者があります。このときとばかりに、男は娘を深さも知れない谷底へ突き落としてしまいました。それ以来、この山々には真紅のつつじが咲き乱れ、火の玉が現れるようになったといいます。 別の伝承によれば、娘は村の若い衆によって殺されたことになっています。松代から地蔵峠を越え、曲尾を過ぎて太郎山金剛寺峠を通る美人の噂を聞いた若者たちは、ある晩山の中で女を待ち伏せしていました。すると、たいへんな勢いで娘が走り来たので、若者たちはこれを捕らえようとしました。娘は用心のため携帯していた剃刀で抵抗しましたが、多勢に無勢、とうとう捕えられて袋叩きにされたうえ、谷底に投げこまれてしまいました。 一つ火とはこのような目に遭った彼女の思いが出るもので、特に雨の夜などにはその光がありありと分かったといいます。 |
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●老人火・老人の火 長野県、静岡県 | |
[ろうじんび・ろうじんのひ]
江戸時代の奇談集『絵本百物語』にある怪火。
信州(現・長野県)と遠州(現・静岡県)の境で、雨の夜に山奥で現れる魔の火。老人とともに現れ、水をかけても消えないが、獣の皮ではたくと消えるという。 一本道で老人火に行き遭ったときなどは、履物を頭の上にのせれば火は脇道にそれて行くが、これを見て慌てて逃げようとすると、どこまでもついてくるという。 別名を天狗の御燈(てんぐのみあかし)ともいうが、これは天狗が灯す鬼火との意味である。 江戸後期の国学者・平田篤胤は、天狗攫いから帰還したという少年・寅吉の協力で執筆した『仙境異聞』において、天狗は魚や鳥を食べるが獣は食べないと述べている。また随筆『秉穂録』によれば、ある者が山中で肉を焼いているところへ、身長7尺(2メートル以上)の大山伏が現れたが、肉を焼く生臭さを嫌って姿を消したとある。この大山伏を天狗と見て、これら『仙境異聞』『秉穂録』で天狗が獣や肉を嫌うという性質が、老人火が獣の皮で消せるという説に関連しているとの指摘もある。 |
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●陰摩羅鬼 静岡県 | |
[おんもらけ] 『駿国雑志』巻二十四下で紹介されているものです。
これは駿河国(現・静岡県)安倍郡安倍川原の渡頭、刑場に現れるものだといいます。里人が語るところによれば、陰雨寂寞たる夜、安倍川の仕置場に奇火を見た者がいたといい、その色は青く、人が佇んでいるような形をしていました。この他、古戦場や墳墓のあった場所にもこの火が現れることがあるといいます。名付けて幽霊火というもので、これは土中に凝って長い間消滅しなかった人血がなす陰火で、世にいう陰摩羅鬼(おんもらけ)であろうと記されています。 陰摩羅鬼(おんもらき)は林羅山『怪談全書』などで紹介されている屍の気が変じたという妖怪で、黒い鳥の姿をしているとされます。『駿国雑志』で陰摩羅鬼とされているものは鳥ではなく陰火ですが、死体から出たものの変化という部分に共通点を見出すことができます。 |
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● 風玉 1 岐阜県揖斐郡揖斐川町 | |
歴史的な大風に見舞われたとき、盆の周りほどもある風玉が現われた。明るいものであって、大風の吹く間、ずっと山から出て、何度も行き来した。 | |
●風玉 2 | |
岐阜県揖斐郡揖斐川町の鬼火。暴風雨が生じた際、球状の火となって現れる。大きさは器物の盆程度で、明るい光を放つ。明治30年の大風では、山からこの風玉が出没して何度も宙を漂っていたという。 | |
●天狗火 愛知県、静岡県、山梨県、神奈川県 | |
愛知県、静岡県、山梨県、神奈川県に伝わる怪火。
主に水辺に現れる赤みを帯びた怪火。その名が示すように、天狗が超能力によってもたらす怪異現象のひとつとされ、神奈川県や山梨県では川天狗の仕業とされる。夜間に山から川へ降りて来て、川魚を捕まえて帰るとも、山の森の中を飛び回るともいう。 人がこの火に遭遇すると、必ず病気になってしまうといわれている。そのため土地の者はこの火を恐れており、出遭ってしまったときは、即座に地面にひれ伏して天狗火を目にしないようにするか、もしくは頭の上に草履や草鞋を乗せることでこの怪異を避けられるという。 遠州(静岡県西部)に現れる天狗火は、提灯ほどの大きさの火となって山から現れ、数百個にも分裂して宙を舞うと言われ、天狗の漁撈(てんぐのぎょろう)とも呼ばれている。 愛知県豊明市には上記のように人に害をなす伝承と異なり、天狗火が人を助けたという民話がある。昔、尾張国(現・同県)東部のある村で、日照り続きで田の水が枯れそうなとき、川から田へ水を引くための水口を夜中にこっそり開け、自分の田だけ水を得る者がよくいた。村人たちが見回りを始めたところ、ある晩から炎の中に天狗の顔の浮かんだ天狗火が現れ、水口を明るく照らして様子をよく見せてくれるようになった。水口を開けようとする者もこの火を見ると、良心が咎めるのか、明るく照らされては悪事はできないと思ってか、水口を開けるのを思い留まるようになり、水争いは次第になくなったという。また同県春日井市の民話では、ある村人が山中で雷雨に遭い、身動きできずに木の下で震え上がっていたところ、どこからか天狗火が現れ、おかげで暖をとることができた上、道に迷うことなく帰ることができたという。しかしこの村では天狗火が見える夜に外に出ると、その者を山へ連れ去ってしまうという伝承もあり、ある向こう見ずな男が「連れて行けるものならやってみろ」とばかりに天狗火に立ち向かったところ、黒くて大きな何かがその男を捕まえ、山の彼方へ飛び去っていったという。 ●松明丸 松明丸(たいまつまる)は、鳥山石燕の『百器徒然袋』にある天狗火。火を携えた猛禽類のような鳥として描かれている。『百器徒然袋』の解説によれば、天狗礫(天狗が降らせる石の雨)が発する光で、深い山の森の中に現れるとされる。暗闇を照らす火ではなく、仏道修行を妨げる妖怪とされる。 |
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●勘五郎火 愛知県犬山市 | |
愛知県犬山市などに伝わる怪火で、「勘太郎火」とも単に「勘五郎」とも呼ばれたようです。
犬山市橋爪では次のように伝わっています。橋爪の村、青木川の辺に、かつて勘五郎という百姓と老母が二人きりで暮らしていました。十八歳の勘五郎は親孝行な正直者で、評判の働き者でした。ある夏、何日も日照りが続いて、勘五郎の田の水も干上がってしまいました。ところが隣の田には少し水が残っていました。これを目にした勘五郎は我慢できなくなり、夜明け前にそっと家を抜け出すと畔を切って落とし、自分の田へ水を引き入れてしまいました。夜が明けて勘五郎の行いが露見すると、殺気立っていた村人たちが彼を取り囲みました。村人の追求からは逃れられず、勘五郎は彼らに打ちすえられて命を落としました。老母は帰らぬ息子を探し求めて家を出ましたが、村人たちは勘五郎の行方を教えてはくれません。事情を悟った母親は、それから食を断ち、勘五郎の名を呼び続けながら死にました。それからは毎年、夏の夜には橋爪の田の上を二つの陰火がさまようようになりました。そのうえ以後四百年にわたって青木川は何度も氾濫し、村人を苦しめました。犬山徳授寺の太陽和尚が勘五郎親子の霊を弔ったことで、ようやく青木川は鎮まったといいます。 岩倉市八釼町では、蛍取りに出かけて行方不明となった勘五郎という子を捜す母の手灯りが勘五郎火だといわれています。これは青みがかった赤い裸火で、年中いつでも見えるものの、田植えの時期に特によく見られたといいます。 |
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●近畿地方 | |
●地黄煎火 1 滋賀県甲賀市 | |
[じおうせんび] 江戸時代の読本『絵本小夜時雨』にあるもの。江州水口(現・滋賀県甲賀市)で、ある者が地黄煎(飴の一種)を売って暮していたが、盗賊に殺され、金を奪われた。その物の執心が怪火となり、雨の夜を漂ったという。 | |
●地黄煎火 2 | |
『絵本小夜時雨』にある怪火です。
(現・滋賀県甲賀市) 江州水口の泉縄手に、膝頭松という大木がありました。そこで地黄煎(地黄を煎じた汁を練りこんだ飴)を売り、少しの金を蓄えている者がいましたが、盗賊に殺害されて金を奪い取られてしまいました。地黄煎売りの執心は死後もその地に留まり、雨夜には松のもとから陰火が飛ぶようになりました。これを地黄煎火と呼んだといいます。 絵には飛び交う怪火のみならず、松の根元から現れた、地黄煎売りの亡霊らしき巨大な化物の姿もあります。 |
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●蓑火 滋賀県彦根 | |
[みのび]
近江国(現・滋賀県)彦根に伝わる怪火。
旧暦五月の梅雨の夜などに、琵琶湖を人の乗った舟が渡ると、その者が雨具として身に着けている蓑に点々と、まるでホタルの光のように火の玉が現れる。蓑をすみやかに脱ぎ捨てれば蓑火も消えてしまうが、うかつに手で払いのけようとすれば、どんどん数を増し、星のまたたきのようにキラキラと光る。 琵琶湖で水死した人間の怨霊が姿を変えたものともいわれるが、井上円了の説によれば、これは一種のガスによる現象とされる。 同種の怪火は各地に伝承があり、秋田県仙北郡、新潟県中蒲原郡、新潟市、三条市、福井県坂井郡(現・坂井市)などでは蓑虫(みのむし)、蓑虫の火(みのむしのひ)、蓑虫火(みのむしび)、ミノボシ、ミーボシ、ミームシなどという。信濃川流域に多いもので、主に雨の日の夜道や船上で蓑、傘、衣服に蛍状の火がまとわりつくもので、慌てて払うと火は勢いを増して体中を包み込むという。大勢でいるときでも一人にしか見えず、同行者には見えないことがあり、この状態を「蓑虫に憑かれた」と呼ばれる。逆に居合わせた人々全員に憑くこともあり、マッチなどで火を灯すか、しばらく待てば消え去るという。中蒲原郡大秋村では、秋に最も多く出るという。 北陸地方の奇談集『北越奇談』などには福井県坂井郡の蓑虫の記述があるが、これは怪火ではなく、雨の夜道で傘の水滴が目の前に垂れ下がり、手で払おうとすると脇によけ、次第に水玉が大きくなり、数を増して目をくらますものという。正体は狸の仕業ともいわれ、石屋や大工には憑かないという特徴がある。また秋田県仙北郡角館町(現・仙北市)付近では、蓑虫は寒い晴れの日、蓑や被り物の縁に光が付着して、手で払っても消えないものだという。これらの怪異は新潟県ではイタチ、三条市では狐、坂井郡では狸の仕業とされる。 安政時代の書物『利根川図志』にも、これらと同種の怪火である川蛍(かわぼたる)がある。これは千葉県印旛沼で、主に雨の日、夜中に高さ1-2尺(約30-60センチメートル)の空中にホタルのような光が漂うというものである。沼の上に出した舟の中に入ってくることもあり、力まかせに叩くと船一面に砕け散り、火のように燃えることはないものの、非常に生臭い悪臭と、油のようにぬるぬると気味の悪い感触が残り、洗ってもなかなか落ちないという。 |
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●化け火 滋賀県大津市堅田 | |
[ばけび]
近江国堅田村(現 滋賀県大津市堅田)に伝わる火の妖怪である。文化時代の奇談集『周遊奇談』には「化けの火」の名で記述がある。
四季を問わず曇りか小雨の夜、湖の湖岸から出現し、地上から高さ4,5尺(約1.2–1.5メートル)の空中を漂う。最初は小さな火だが、移動しつつ大きさを増し、山の手に辿り着くころには直径3尺(約0.9メートル)ほどとなっている。 この火の玉が人の顔が浮かび上がり、2人の人間の上半身が相撲をとっているような形になることもあるという。 ●相撲に関する伝承 かつてある男が、この化け火の正体を暴こうと考えた。田の畦で彼が待ち構えていると、果たして化け火が現れた。田舎相撲の実力者である彼は、大声を張り上げながら化け火に立ち向かって行ったが、逆に5,6間(約9–11メートル)も先へ投げ飛ばされてしまった。 投げられた先には稲穂が実っていたため、男は傷を負わずに済んだ。だが彼を始め、化け火に立ち向かった者は皆、同様に投げ飛ばされてしまうため、遂には村人たちは誰も化け火に関らないようになったという。 |
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●油坊 1 滋賀県、京都府 | |
滋賀県や京都府に伝わる怪火、または亡霊。名称は、油を盗んだ僧侶がこれに化けたという伝承に由来する。
滋賀県では、野洲郡欲賀村(現・野洲市)に、晩春から夏にかけて油坊という怪火が現れたと伝えられており、比叡山の灯油を盗んだ僧侶が変化したものといわれた。このような怪火は、寛保時代の雑書『諸国里人談』によれば比叡山の西麓にも現れたという。 滋賀県愛知郡愛荘町の金剛寺では、油坊は油を手にした霊とされる。こちらにも野洲郡のものと似た伝承があり、寺に灯油を届ける役目を持つ僧侶が、遊ぶ金欲しさに灯油を盗んで金を作ったが、遊びに行く前に急病で命を落としてしまい、それ以来、寺の山門に霊となって現れるようになったという。 ●類話 油にまつわる怪異は各地に伝承がある。江戸時代の怪談本『古今百物語評判』によれば、比叡山の全盛期に延暦寺根元中堂の油料を得て栄えていた者が、後に没落し、失意のうちに他界して以来、その家から根元中堂へ怪火が飛んでいくようになり「油盗人(あぶらぬすっと)」と呼ばれたという。噂を聞いた者がこれを仕留めようとしたところ、怒りの形相の坊主の生首が火炎を吹いていたという。 摂津国昆陽(現・兵庫県伊丹市)でも同様に、中山寺から油を盗んだ者の魂とされる怪火を「油返し(あぶらかえし)」といい、初夏の夜や冬の夜、昆陽池のそばにある墓から現れ、池や堤を通り、天神川から中山へ登って行くという。狐の嫁入りという説や、墓にいるオオカミが灯す火との説もある。『民間伝承』にはこの怪火の特徴について「この火は、パッ〱〱〱とつくと、オチャ〱〱〱と聲がしトボ〱〱〱とセングリ〱と後へかへらずにせいてとぼる」とある。この文の意味は専門家でも意味不明とされるが、火の中からこのような話し声が聞こえるとの解釈もある。 また新潟県南蒲原郡大面村(現・三条市)では、滝沢家という旧家で、家の者が灯油を粗末に扱うと「油なせ(あぶらなせ)」という妖怪が「油なせ」(「油を返せ」との意味)と言いながら現れたといい、村人たちは病死した滝沢家の次男が化けて出たと噂していたという。この油なせは怪火ではないが、民俗学者・柳田國男はこれを油坊に関連するものとしている。 |
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●油坊 2 | |
●伝承
滋賀県では野洲郡欲賀村(現・野洲市)に、晩春から夏にかけて「油坊(あぶらぼう)」と呼ばれる怪火が発生すると伝えられています。ただ現れて人を驚かすだけで、それ以上何か危害を加えるということはないようです。また江戸時代中期に成立した菊岡沾涼の『諸国里人談』には、同じような怪火が比叡山の西のふもとにも出現したと記されています。 ●正体・生まれ 油坊の正体は、昔灯油を盗んで罰せられた比叡山の僧の亡霊といわれています。夜は真っ暗なので明かりがないと生活することができません。電球や電気スタンドがない時代は、行灯や灯台で油を燃やすことで光にしていましたが、油は植物や魚から抽出する限りある貴重なものでした。油を盗んだり粗末に扱うことは重罪であり、「油泥棒は妖怪になる」と戒められたのです。そして ●油盗人とも呼ばれる 油坊は「油盗人(あぶらぬすっと)」と同種の妖怪と考えられます。「油盗人(あぶらぬすっと)」とは、江戸時代の怪談本『古今百物語評判』に載っている妖怪です。同書によれば、比叡山延暦寺の油を盗んで富を得た者が、後に破産し、どん底に沈んだまま死んでしまったそうです。それ以降延暦寺に怪火が現れるようになり、油泥棒の霊として「油盗人(あぶらぬすっと)」と呼ばれたといいます。 ●似た妖怪 ●姥火 姥火は河内国(現:大阪府)や丹波国(現:京都府北部)に伝わる怪火です。ある老婆が毎晩のように神社の御神灯の油を盗み、自分の家の明かりにしていました。上述したとおり、油を盗むのは大罪ですから、神罰が下り火の玉にされたのです。これが「姥火」の正体です。 ●油赤子 火の玉の姿でが突然家の中に入ってきて、行灯の油をぺろぺろなめて去って行く妖怪です。油をなめる時の姿が赤ん坊なので「油赤子」と呼ばれるようになったようです。 |
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●イゲボ 1 三重県度会郡 | |
伊勢の度会郡では鬼火のことをイゲボという。他では耳にしないので、由来を想像しにくい。 | |
●イゲボ 2 | |
三重県度会郡でいう鬼火です。
蜩c國男『妖怪談義』所収「妖怪名彙」で列挙されている妖怪名のひとつで、柳田はイゲボについて「他ではまだ耳にせぬので、名の由来を想像しがたい」と述べています。 |
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●悪路神の火 三重県度会郡玉城町 | |
[あくろじんのひ] 『諸州採薬記抄録』や佐々木貞高(為永春水)の随筆『閑窓瑣談』に記されている日本の怪火。伊勢国、あるいは伊勢のうち田丸領間弓村(現・三重県度会郡玉城町)の猪草が淵に現れたとされる。
以下、天保12年(1841年)刊行の『閑窓瑣談』より概略を記す。 猪草が淵は幅十間(約18メートル)ばかりの川に、水際まで十間を越える高さに丸木橋を渡す。水底は深く、さらに周囲には山蛭が多く住む大変な難所であった。このあたりに出没したのが悪路神の火である。雨の降る夜に特に多く現れ、誰かが提灯を灯しているかのように往来する。この火に出会った者は、素早く地に伏して通り過ぎるのを待ち、逃げ出せばよい。このようにせず、うっかり近づけば病に侵され、大変な患いになるという。 ●閑窓瑣談の典拠 『閑窓瑣談』はこの話の典拠として、享保年間に幕府の採薬使として諸国を巡った阿部友之進(照任)の採薬記を挙げ、友之進が「眼前に見聞し」たものと記している。阿部照任の著述としては、松井重康とともに口述した『採薬使記』があるが、この書に悪路神の火の記載はない。いっぽう、享保5年(1720年)から、宝暦4年(1754年)まで採薬使であった植村政勝の著す『諸州採薬記抄録』伊勢国の項には、『閑窓瑣談』とほぼ同様の記述が見られる。ただし、『諸州採薬記抄録』では「猪草淵」の次に続けて「悪路神の火」を記すものの、この怪火を猪草淵に現れるものとしているわけではない。 「(猪草淵の記述を略す) 又同国にて悪路神の火とて雨夜には多く挑灯のことく往来をなす、此火に行逢ふ時は流行病を受て煩ふよし、依之此火に行逢ふときは早速に地に伏す、彼火其上を通すへるによつて此病難を逃るゝといへり、」— 諸州採薬記抄録 巻一 『閑窓瑣談』の該当部分。 「(猪草が淵の記述を略す) 又此邊に悪路神の火と號て、雨夜には殊に多く燃て、挑灯のごとくに往來す。此火に行合者は、速に地に俯に伏て身を縮む。其時火は其人の上を通路するなり。火の通り過るを待て迯出す。然も爲ざる時は、彼火に近付て忽ちに病を發し煩ふ事甚しといふ。」— 閑窓瑣談 第三十四 ●類例 怪火にあって病を得る例は他書にも見える。古くは『日本書紀』斉明天皇7年(661年)に、宮中に鬼火が現れ大舎人や諸近侍が多数病死したとある。また津村淙庵の見聞録である『譚海』には「天狗火」の記事があり、この怪火は遠州(静岡県西部)の海辺に現れ、これに近づいた者は多く病悩するという。 ● 地上から60〜90センチメートルの高さをふわふわと飛ぶという。 |
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●逢火 京都府 | |
逢火(あうひ、あいび、おうび?)は比叡山西麓あたりに出没したといわれる怪火で、山城国の地誌である『雍州府志』などに記述がみられます。
比叡山西麓の相逢の森には五月の夜になるといくつもの隣火が南北より飛来し、集まっては消えていくといいます。梅雨の夜にはことのほか多くみられ、土地の人はこれを逢火と呼んでいました。その昔山門にとある淫僧がいて、北谷の美童が彼から寵愛を受けていました。しかし美童は病死、僧も後を追うように亡くなると、二人の亡魂が火となって森で相逢うようになったのだといいます。 『嘉良喜随筆』はこの逢火について、いろいろと付会する説があるも、その実態は森を飛び交う青鵲(アオサギか)の羽毛が光を発しているに過ぎないとしています。鷺をはじめとして山鳥の類が光を発するという話は広く知られており、目撃談も数多く記録されています。 |
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●叢原火・宗源火 京都府 | |
[そうげんび] 鳥山石燕の『画図百鬼夜行』にある京都の鬼火。かつて壬生寺地蔵堂で盗みを働いた僧侶が仏罰で鬼火になったものとされ、火の中には僧の苦悶の顔が浮かび上がっている。江戸時代の怪談集『新御伽婢子』にもこの名がある。 | |
●渡柄杓 京都府南丹市 | |
[わたりびしゃく] 京都府北桑田郡知井村(のちの美山町、現・南丹市)の鬼火。山村に出没し、ふわふわと宙を漂う青白い火の玉。柄杓のような形と伝えられているが、実際に道具の柄杓に似ているわけではなく、火の玉が細長い尾を引く様子が柄杓に例えられているとされる。 | |
●墓の火 京都府 | |
鳥山石燕による江戸時代の日本の妖怪画集『今昔画図続百鬼』にある怪火。
画図では、藪に囲まれて荒れ果てた墓所で、梵字の欠けた五輪塔に炎が燃え上がっている様子が描かれている。梵字が欠けているため、梵字によって断たれるべき煩悩が炎となって燃え上がっている、などと解釈されている。 江戸時代の怪談本『古今百物語評判』では「西寺町に墓の燃し事」と題し、西寺町(京都市の仁王門通の仁王門通#西寺町通)で、「墓の火」と同様に切腹した人の墓から炎が燃え出すという怪異が述べられており、人間の体からこぼれ落ちた血が燐火となって燃え上がるものと解説されている。 |
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●釣瓶火 京都府 | |
[つるべび]
鳥山石燕の『画図百鬼夜行』にある火の妖怪。
画図には解説文は一切添えられていないが、国文学者・高田衛監修による『鳥山石燕 画図百鬼夜行』(国書刊行会)では、別名を「つるべおとし」「つるべおろし」としており、江戸時代の怪談本『古今百物語評判』で「西岡の釣瓶おろし」と題して京都西院の火の玉の妖怪が描かれたものが原典とされている。石燕がこれを『画図百鬼夜行』に描いた上で「釣瓶火」と命名したものと解釈されている。 昭和・平成以降の妖怪関連の文献での解釈では、釣瓶火は釣瓶落としに類する怪火、または釣瓶落としとは別種の妖怪として扱われることがほとんどであり、四国・九州地方で、木の精霊が青白い火の玉となってぶらさがったもの、または静かな夜の山道を歩いていると木の枝から突然ぶら下がり、毬のように上がったり下がったりを繰り返すものとされ、火といっても木に燃え移ったりはせず、火の中に人や獣の顔が浮かび上がることもあるという。樹木についた菌類や腐葉土に育ったバクテリアによる生物発光といった解釈もある。 |
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●釣瓶落とし 1 京都府 | |
木の上から落ちて来て、人間を襲ったり、食べたりする妖怪。その動作が、井戸の水を汲み上げる「釣瓶」に似ているので、この名がついた。
しかし、和歌山の釣瓶落としは少し違っていて、海南市黒江に伝わる話では、古い松の根元にある釣瓶を通行人が覗くと中に光る物があり、小判かと思って手を伸ばすと釣瓶の中へ引き込まれて木の上へ引き上げられ、木の上に住む釣瓶落としに脅かされたり、そのまま食い殺されたり、地面に叩きつけられて命を落としたという。 |
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●釣瓶落とし 2 | |
釣瓶落としまたは釣瓶下ろし、京都府、滋賀県、岐阜県、愛知県、和歌山県などに伝わる妖怪。木の上から落ちて来て、人間を襲う、人間を食べるなどといわれる。
●伝承 大正時代の郷土研究資料『口丹波口碑集』にある口丹波(京都府丹波地方南部)の口承によれば、京都府曽我部村字法貴(現・亀岡市曽我部町)では、釣瓶下ろしはカヤの木の上から突然落ちてきてゲラゲラと笑い出し、「夜業すんだか、釣瓶下ろそか、ぎいぎい」と言って再び木の上に上がっていくといわれる。また曽我部村の字寺でいう釣瓶下ろしは、古い松の木から生首が降りてきて人を喰らい、飽食するのか当分は現れず、2、3日経つとまた現れるという。同じく京都の船井郡富本村(現・南丹市八木町)では、ツタが巻きついて不気味な松の木があり、そこに釣瓶下ろしが出るとして恐れられた。大井村字土田(現・亀岡市大井町)でも、やはり釣瓶下ろしが人を食うといわれた。 岐阜県久瀬村(現・揖斐川町)津汲では、昼でも薄暗いところにある大木の上に釣瓶下ろしがおり、釣瓶を落としてくるといい、滋賀の彦根市でも同様、木の枝にいる釣瓶下ろしが通行人目がけて釣瓶を落とすといわれた。 和歌山県海南市黒江に伝わる元禄年間の妖怪譚では、古い松の大木の根元にある釣瓶を通行人が覗くと光る物があり、小判かと思って手を伸ばすと釣瓶の中へ引き込まれて木の上へ引き上げられ、木の上に住む釣瓶落としに脅かされたり、そのまま食い殺されたり、地面に叩きつけられて命を落としたという。 ●古典 江戸時代の怪談本『古今百物語評判』では「釣瓶おろし」の名で、大木の精霊が火の玉となって降りてくる妖怪が描かれている。同書の著者・山岡元隣は釣瓶下ろしという怪異を、気が木火土金水の五つの相に変転して万物をなすという「五行説」により説明しており、雨の日(水)に木より降りて(木)くる火(火)、ということで、水-木-火の相生をなすことから大木の精だと述べている。五行の変化は季節の移り変わりようなもので、若い木はまだ生を十分に尽くしておらず木の気を満たしていないので、次の気を生ずるに至らない。大木となってはじめて火を生ずる。その火も陰火なので雨の日に現れるという。 鳥山石燕の妖怪画集『画図百鬼夜行』では、『古今百物語評判』で火の玉として描かれた「釣瓶おろし」が「釣瓶火」として描かれている。このことから、昭和・平成以降の妖怪関連の文献などでは釣瓶落としは生首や釣瓶が落ちてくる妖怪、釣瓶火は木からぶら下がる怪火、といったように別々の妖怪として扱われていることがほとんどだが、本来は釣瓶落としも釣瓶火と同様、木から釣瓶のようにぶらさがる怪火だったとする説もある。 ●類話 釣瓶落としに類する妖怪はほぼ日本全国に類似例があるものの、ほとんどは名前のない怪異であり、「釣瓶下し」「釣瓶落とし」の名称が確認できるものは東海地方、近畿地方のみである上、釣瓶が落ちるのもそれらの地域のみであり、そのほかは木から火の玉が落ちてくる、焼けた鍋が落ちてくるなど、火に関連したものが多い。 たとえば山形県山辺町では鍋下ろし(なべおろし)といって、子供が日暮れまで遊んでいると、スギの木の上から真っ赤に焼けた鍋が降りてきて、子供をその鍋の中に入れてさらってしまうといわれる。島根県鹿足郡津和野町笹山の足谷には大元神(おおもとがみ)を祀る神木と祠があり、周辺の木を伐ると松明のような火の玉が落ちてきて大怪我をするという記述がある。静岡県賀茂郡中川村(現・松崎町)では鬱蒼とした木々の間に大岩があり、そこに毎晩のようにほうろく鍋が下がったという。青森県の妖怪のイジコも、木の梢から火が降りてくるものとの解釈もある。 |
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●二恨坊の火・仁光坊の火 大阪府茨木市二階堂 | |
[にこんぼうのひ]
摂津国二階堂村(現・大阪府茨木市二階堂)、同国高槻村(現・同府高槻市)に伝わる火の妖怪。
3月から7月頃までの時期に出没したもので、大きさは1尺ほど、火の中に人の顔のように目、鼻、口のようなものがある。鳥のように空を飛び回り、家の棟や木にとまる。人間に対して特に危害を加えることはないとされる。特に曇った夜に出没したもので、近くに人がいると火のほうが恐れて逆に飛び去ってしまうともいう。 ●古書における記述 ●『諸国里人談』(寛保時代の雑書) かつて二階堂村に日光坊という名の山伏がおり、病気を治す力があると評判だった。噂を聞いた村長が自分の妻の治療を依頼し、日光坊は祈祷によって病気を治した。ところが村長はそれを感謝するどころか、日光坊と妻が密通したと思い込み、日光坊を殺してしまった。日光坊の怨みは怨霊の火となって夜な夜な村長の家に現れ、遂には村長をとり殺してしまった。この「日光坊の火」が、やがて「二恨坊の火」と呼ばれるようになった。 ●『本朝故事因縁集』(江戸時代の書物) 二階堂村に山伏がおり、一生の内に二つの怨みを抱いていたために二恨坊とあだ名されていた。彼は死んだ後に魔道に堕ちたが、その邪心は火の玉となって現世に現れ、「二恨坊の火」と呼ばれるようになった。 ●『古今百物語評判』『宿直草』(江戸時代の怪談本) かつて仁光坊という美しい僧侶がいたが、代官の女房の策略によって殺害された、以来、仁光坊の怨みの念が火の玉となって出没し、「仁光坊の火」と呼ばれるようになった。 ●吹田市の伝承 大阪府吹田市にも、表記は異なるが読みは同じ「二魂坊」といって、月のない暗い夜に2つの怪火が飛び交うという伝説がある。 伝説によれば、かつて高浜神社の東堂に日光坊、西堂に月光坊という、親友同士の修行僧がいた。2人の仲を妬んだ村人が日光坊のもとへ行き、月光坊が彼を蔑んでいると吹き込み、さらに月光坊のもとへ行き、日光坊が彼を蔑んでいると吹き込んだ。月光坊は疑心暗鬼となり、次第に日光坊を憎み始めた。村人たちはさらに、日光坊が月光坊を殺しに来ると月光坊に告げた。一方で日光坊は、最近の月光坊の心変わりを疑問に思い、誤解を解こうと彼のもとへ赴いた。 月光坊は、ついに日光坊が自分を殺しに来たと思い込み、錫状を彼の胸に突き立てた。日光坊は殺しなどではなく、仲直りに来たとわかったときには、すでに日光坊は息絶えていた。月光坊は罪となり、自分たちを騙した者を取り殺すと叫びながら死んでいった。以来、この村には怪火が飛び交うようになり、村人たちは「二魂坊の祟り」と恐れたという。 また寛政時代の地誌『摂津名所図会』にも「二魂坊」といって、かつて日光坊という山伏が別の山伏を殺して死罪になり、その怨念が雨の夜に怪火となって現れ、木の上に泊まって人々を脅かしたという記述がある。 高浜神社の社伝によれば、河内(現・大阪府東部)の豪族が祖神の火明命と天香山命を祀ったのが神社の起こりとされ、二魂坊や日光坊とは、この2柱の神を指しているとの説もある。 |
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●古戦場火・古戦場の火 大阪府東大阪市 | |
[こせんじょうび・こせんじょうのひ]
日本の伝承にある鬼火の一種。鳥山石燕の妖怪画集『今昔画図続百鬼』や怪談集『宿直草』などの江戸時代の古書に記述がある。
多くの人間が死んだ戦場に、数え切れないほどの鬼火の集団となって現れ、ふわふわと宙をさまよう。戦場で命を落とした兵士や動物の怨霊とされている。『今昔画図続百鬼』では、死者の血が地面に滴り、そこから発生するとされている。成仏できない怨霊が生者に害を成す話は多いものの、古戦場火は人に害を成すことなく、ただ宙を飛び回るだけと言われているが、これに遭遇した人は念仏を唱えながら帰ったという。ときには怪火とともに、首のない兵士が血みどろの姿で、自分の首を捜してうろつく姿も見られたという。 『宿直草』にある怪談「戦場の後、火燃ゆる事」によれば、大坂夏の陣で豊臣家が徳川家に敗れ、無念の思いで殺された豊臣側の武士が成仏できずに古戦場火となり、戦場となった河内国若江を漂うようになったという。若江で人々が夕涼みをしていると、田の上に1.5メートルほどの大きさの怪火が数個固まり、現れたり消えたりを繰り返しつつあちこちへ移動しており、まるで何かを探してうろつき回っているようだったという。 『宿直草』には「古戦場火」の名は見られず、この怪火のことは単に「火」とのみ表記されている。「古戦場火」の名は石燕が『今昔画図続百鬼』において、合戦のあった場所に現れる怪火の総称として命名したものとされている。 |
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●姥ヶ火 大阪府、京都府北部 | |
河内国(現・大阪府)や丹波国(現・京都府北部)に伝わる怪火。寛保時代の雑書『諸国里人談』、井原西鶴の雑話『西鶴諸国ばなし』、江戸時代の怪談本『古今百物語評判』、『河内鑑名所記』、鳥山石燕の妖怪画集『画図百鬼夜行』などの古書に記述がある。
『諸国里人談』によれば、雨の夜、河内の枚岡(現・大阪府東大阪市)に、大きさ約一尺(約30センチメートル)の火の玉として現れたとされる。かつてある老女が平岡神社から灯油を盗み、その祟りで怪火となったのだという。 河内に住むある者が夜道を歩いていたところ、どこからともなく飛んできた姥ヶ火が顔に当たったので、よく見たところ、鶏のような鳥の形をしていた。やがて姥ヶ火が飛び去ると、その姿は鳥の形から元の火の玉に戻っていたという。このことから妖怪漫画家・水木しげるは、この姥ヶ火の正体は鳥だった可能性を示唆している。 この老女が姥ヶ火となった話は、『西鶴諸国ばなし』でも「身を捨て油壷」として記述されている。それによれば、姥ヶ火は一里(約4キロメートル)をあっという間に飛び去ったといい、姥ヶ火が人の肩をかすめて飛び去ると、その人は3年以内に死んでしまったという。ただし「油さし」と言うと、姥ヶ火は消えてしまうという。 京都府にも、保津川に姥ヶ火が現れたという伝承がある。『古今百物語評判』によれば、かつて亀山(現・京都府亀岡市)近くに住む老女が、子供を人に斡旋するといって親から金を受け取り、その子供を保津川に流していた。やがて天罰が下ったか、老女は洪水に遭って溺死した。それ以来、保津川には怪火が現れるようになり、人はこれを姥ヶ火と呼んだという。 『画図百鬼夜行』にも「姥が火」と題し、怪火の中に老女の顔が浮かび上がった姿が描かれているが、「河内国にありといふ」と解説が添えられていることから、河内国の伝承を描いたものとされる。 枚岡で神社から油を盗んだ老女は、その罪を恥じて、池に身を投げたという伝説もあり、大阪府東大阪市出雲井町の枚岡神社には、この伝説にちなむ池「姥ヶ池(うばがいけ)」がある。これは、老女の悲嘆を後世に残すべく、大阪のボランティア団体が中心となり、土砂に埋まって失われた池を整備して、復元させたものである。 |
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●青鷺火 奈良県 | |
[あおさぎび、あおさぎのひ] サギの体が夜間などに青白く発光するという日本の怪現象。別名五位の火(ごいのひ)または五位の光(ごいのひかり)。「青鷺」とあるが、これはアオサギではなくゴイサギを指すとされる。
江戸時代の妖怪画集として知られる鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』や『絵本百物語』にも取り上げられ、江戸時代にはかなり有名な怪談であったことがわかる。また江戸後期の戯作者・桜川慈悲功の著書『変化物春遊』にも、大和国(現・奈良県)で光る青鷺を見たという話がある。それによると、化け柳と呼ばれる柳の大木に毎晩のように青い火が見えて人々が恐れており、ある雨の晩、1人の男が「雨の夜なら火は燃えないだろう」と近づいたところ、木全体が青く光り出し、男が恐怖のあまり気を失ったとあり、この怪光現象がアオサギの仕業とされている。新潟県佐渡島新穂村(現・佐渡市)の伝説では、根本寺の梅の木に毎晩のように龍燈(龍神が灯すといわれる怪火)が飛来しており、ある者が弓矢で射たところ、正体はサギであったという。 ゴイサギやカモ、キジなどの山鳥は夜飛ぶときに羽が光るという伝承があり、目撃例も少なくない。郷土研究家・更科公護の著書『光る鳥・人魂・火柱』にも、昭和3年頃に茨城県でゴイサギが青白く光って見えた話など、青鷺火のように青白く光るアオサギ、ゴイサギの多くの目撃談が述べられている。サギは火の玉になるともいう。火のついた木の枝を加えて飛ぶ、口から火を吐くという説もあり、多摩川の水面に火を吐きかけるゴイサギを見たという目撃談もある。江戸時代の百科事典『和漢三才図会』にも、ゴイサギが空を飛ぶ姿は火のようであり、特に月夜には明るく見え、人はこれを妖怪と見紛える可能性があるとの記述がある。 また一方でゴイサギは狐狸や化け猫のように、歳を経ると化けるという伝承もある。これはゴイサギが夜行性であり、大声で鳴き散らしながら夜空を飛ぶ様子が、人に不気味な印象をもたらしたためという説がある。老いたゴイサギは胸に鱗ができ、黄色い粉を吹くようになり、秋頃になると青白い光を放ちつつ、曇り空を飛ぶともいう。 科学的には水辺に生息する発光性のバクテリアが鳥の体に付着し、夜間月光に光って見えるものという説が有力と見られる。また、ゴイサギの胸元に生えている白い毛が、夜目には光って見えたとの説もある。 ●『吾妻鏡』における類似怪異 『吾妻鏡』13世紀中頃の建長8年(1256年)6月14日条に、「光物(ひかりもの)が見える。長(たけ)五尺余(165センチほど)。その体、初めは白鷺に似ていた。後は赤火の如し。その跡、白布を引くが如し」という記述がある。「本朝においてはその例なし」と記されていることから、光るサギのような怪異という意味では、現存記述として最古のものと見られる。ただし、この怪異は、「サギの形をした怪光」という話である(また、最後には赤くなったとある)。 ●『耳嚢』 『耳嚢』には、文化2年(1805年)秋頃の記録として、江戸四谷の者が夜の道中で、白衣を着た者と出くわしたが、腰から下がなく、幽霊の類かと思い、振り返ると、大きな一つ目が光っていたので、抜き打ちで切りつけ、倒れたところを刺し殺すと大きな五位鷺であったという話が記述されている。なお、そのサギはそのまま持ち帰られ、調味されて食された。そのため、「幽霊を煮て食った」ともっぱら巷の噂となったという。人が妖怪に食べられる話は多いが、人間に食べられてしまった稀な例といえる。 |
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●じゃんじゃん火・ジャンジャン火 奈良県 | |
奈良県各地に伝わる怪火。鬼火の一種とされる。宮崎県ではむさ火(むさび)、高知県ではけち火(けちび)ともいう。
「じゃんじゃん」と音を立てることが名の由来。心中者や武将などの死者の霊が火の玉に姿を変えたものとする伝承が多い。 同じ奈良でも地域によって別々の伝承があり、また地域によって独自の別名がある。 ●奈良市白毫寺町 白毫寺と大安寺の墓地から出現する2つの火の玉を指す。夫婦川で2つの火が落ち合い、もつれ合い、やがてもとの墓地へ帰って行く。人がこの火を見ていると、その人のもとへ近寄ってくるとされ、じゃんじゃん火に追いかけられた者が池の中に逃げ込んだものの、火は池の上まで追って来たという話もある。正体は心中した男女であり、死後は別々の寺に葬られたことから、火の玉となって落ち合っていると伝えられている。 ●大和郡山市 毎年6月7日に佐保川の橋の上へ訪れる2つの人魂を指す。白毫寺町と同様、男女の霊とされている。かつては6月7日になると、付近の各村からそれぞれ20人ずつ男女が選ばれ、出没地である橋の上で踊り、人魂の主である霊を慰める風習があったという。 ●天理市藤井町 城の跡から出現し、西へと飛んで行く火の玉を指す。これに遭遇した者は、橋の下などに隠れてやり過ごさなければならない。残念火(ざんねんび)とも呼ばれる。 ●天理市柳本町、田井庄町、橿原市 雨の近い夏の夜、十市城の跡に向かって「ほいほい」と声をかけると飛来して、「じゃんじゃん」と音を立てると消える。ホイホイ火(ホイホイび)とも呼ばれる。安土桃山時代に松永弾正に討たれた武将・十市遠忠の怨霊とされ、これを見た者は怨霊の祟りによって三日三晩の間、熱病に見舞われてしまうという。遠忠が討たれた際に殺された武士たちが大勢で「残念、残念」と言うために「じゃん、じゃん」と聞こえるともいう。また天理市田井庄町では、首切地蔵という首と胴体の離れた地蔵があるが、かつてじゃんじゃん火に襲われた武士が刀を振り回し、誤って路傍の地蔵の首を刎ねてしまったのだという。その武士は結局、丸焦げになって死んだといわれる。 |
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●蜘蛛ノ火・死んだ明智の蜘蛛火 1 奈良県桜井市 | |
江戸時代の展示資料は、大窪舒三郎昌章著『諸国採薬記』(国立国会図書館所蔵)である。天保2年(1831)に書かれたもので「伊吹山採薬記」に「蜘蛛ノ火」の記述がある。
「夜伊吹山ヘ登ルト折節見ル事アリ五六寸廻リニ光ルモノ所所ニ見ユ近ヅケハ遠クトヒ去ト云フ。タイラグモト云四方ヘ足ヲヨセタルクモノ多クアツマリ光リヲナスト云」 夜に伊吹山に登ると、ときどきタイラグモが集まって20センチくらいの光の球となって浮いているのがところどころに見え、近づけば離れていくというのだ。お伽噺のような美しい光景に思える。 「蜘蛛火」は、『日本妖怪大事典』(村上健司編著)に「奈良県磯城郡纏向村(桜井市)でいう怪火。数百の蜘蛛が一塊(ひとかたまり)の火となって虚空を飛行するもので、これにあたると死んでしまうという。岡山県倉敷市玉島八島には蜘蛛の火というものがある」と記されている。「蜘蛛ノ火」は「蜘蛛火」と同種の怪異である。 イヌワシは漢字で「狗鷲」と書く。突出した大きな嘴、発達した視力、広い行動圏、すぐれた飛翔力、大きな翼と扇型の尾羽など、イヌワシは天狗のモデルともいわれている。大窪は同書に伊吹山に連なる弥高山に「天狗多シト云」と記しているところも興味深い。 ところで、『47都道府県・妖怪伝承百科』(丸善出版)にリチャード・ゴードン・スミスの書いた『Ancient Tales and Folklore of Japan』(日本昔話民間説話集)に、「The Spider Fire of the Dead Akechi」(死んだ明智の幽霊の蜘蛛火)の話が載っていた。15センチほどで、舟を難破させたり、航路を間違わせたりするらしい。 伊吹山文化資料館で企画展が行われた「牧野富太郎」は、植物分類学の基礎を築き、日本の植物学の父と称される人物だ。明治14年(1881)に初めて伊吹山を訪れ、その後もたびたび植物探査と採取を行っている。大窪は、尾張藩御薬園御用役を務める江戸時代後期の本草家である。精巧な線画の本草図を得意とし、『蜘蛛類図説』はシーボルトが帰国の際に持ち帰っている(朝日日本歴史人物事典)。意外なところで、明智光秀と蜘蛛ノ火が繫がった。 |
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●蜘蛛火 2 | |
奈良県磯城郡纏向村(桜井市)に伝わる怪火。数百匹のクモが一塊の火となって空を飛び、これに当たると死ぬといわれる。似たもので、岡山県倉敷市玉島八島で、クモの仕業といわれる「蜘蛛の火」がある。島地の稲荷社の森の上に現れる赤い火の玉で、生き物または流星のように山々や森の上を飛び回っては消えるという。播州(現・兵庫県)の怪談集『西播怪談実記』のうち「佐用春草庵是休異火を見し事」では、播州佐用郡佐用村(現・同県佐用町)に怪火が出現し、人々が「くも火だったのだろうか」と語ったというが、詳細は明らかになっていない。 | |
●縁切蜘蛛 奈良県宇智郡 | |
奈良県宇智郡に伝わる妖怪です。
大和国宇智郡葛城山麓の近内村に「蜘蛛の森」と称する森があり、昔から葛城の大蜘蛛の子孫が棲んでいました。この大蜘蛛は闇夜になると提灯大の光り物と化して森の木々を移動していましたが、明治時代、森の木が本願寺殿堂再建用の材木として買い上げられ伐採されてしまったために住処を失ってしまいました。それ以後、蜘蛛は夜ごとに近内村に現れ、大木がある家々を飛び歩くようになりました。村人はこれを恐れ、やがて夜は誰一人外出しなくなりました。若い男女の密会も途絶えたため、この蜘蛛は縁切蜘蛛という名で呼ばれるようになったといいます。 |
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● 光玉 奈良県吉野郡吉野町 | |
[ヒカリダマ] 奈良県吉野郡吉野町。夜道を1人で歩いていたら、山の上のほうから、光玉が飛んだ。赤い色がだんだん柿色になった。高い所を飛んでいたのだが、自分に近づいて来るようで、力が抜けて座り込んでしまった。 | |
●首切地蔵 奈良県 | |
[くびきりじぞう]
奈良には“ジャンジャン火”と呼ばれる怪火が現れたという。ただし怪火であればどのような場合でも“ジャンジャン火”と呼び習わしていたようであり、地域によって伝承の内容が異なることが多い。
天理大学の南東角の交差点にある地蔵堂には、胴体と首とが真っ二つになった地蔵が安置されているが、このような姿になった由来にも“ジャンジャン火”が登場する。 この場所から南東に行った場所に龍王山という山がある。戦国時代の末期に、その山腹に龍王山城があった。この城は大和の小領主である十市氏が治めていたのだが、敵対する領主(筒井氏とも松永氏とも)によって攻め落とされた。十市氏の武者達が「残念、残念」と言って自害して果て、その怨念が火の玉となって飛び回ったのが“ジャンジャン火”であるとされる。そしてその火を見ると、病気になるとか死ぬとか言われ、大変恐れられたのである。 昔、大晦日の夜に、このあたりに住む庄右衛門という浪人がこの地蔵堂で休んでいると、いきなりジャンジャン火が飛んできた。恐れおののいた庄右衛門は、手にした提灯で防いだが役に立たず、とうとう刀を抜いて辺り構わず振り回した。しかしもはやどうすることも出来ず、最後には庄右衛門は黒焦げになって死んでしまったという。さらに翌日になると、庄右衛門の焼死体にはびっしりと奇妙な虫が付いていたという。そして庄右衛門の刀が当たったためか、地蔵堂にあった地蔵の首が見事に斬り落とされていたのである。それ以来、この地蔵は首切地蔵と呼ばれるようになったとのこと。 |
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●打合橋 奈良県 | |
[うちあいばし]
豊臣秀長が大和郡山を統治していた頃、家老に亀井氏という者があり、その息子に式部と名乗る若侍がいた。ふとしたことから式部は、百姓の娘であった深雪と懇ろとなり、二人は打合橋のたもとで逢瀬を重ねるようになった。ところが藩では侍と他の身分の者との恋は御法度。いつしか噂になった二人の仲も当然罪に問われた。そして式部は死罪と決まったのである。
処刑の場は式部の願いから、打合橋となった。家老の息子とはいえ公序良俗に反する大罪ゆえに斬首を科せられた式部は、従容として橋の上で首を刎ねられた。その首は高く飛び上がると、そのまま橋の下に落ちていった。人々はその首の行方を追って橋の下に向かうと、そこには深雪の亡骸があった。おそらく覚悟の上で式部の後を追ったのであろう。深雪は式部の首を抱きかかえたまま事切れていたのであった。 それから二人の命日に当たる6月7日になると、橋の東西から一対の怪火が橋を渡り、橋の真ん中でジャンジャンと音を立てながらあやしく絡み合う姿が目撃された。人々はそれを式部と深雪の霊であろうと考え、その日は橋のたもとで「ジャンジャン火迎え」と称する慰霊の踊りをするようになったという。 奈良市と大和郡山市の境にある打合橋は、現在でも県道41号線としてかなりの交通量のある場所となっている。既に怪火が現れることもなく、また慰霊の踊りも行われることも絶えて久しい。ただその橋の名前だけが、この悲しい伝承の痕跡となっているのみである。 |
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●狐に化かされる 兵庫県姫路市 | |
姫路に伝わる「およし狐」伝説。この話は人に助けられた狐が恩返しとして人の妻となる「狐女房」型の話と言えるが、一般的な狐女房の話は、狐が人の妻となるものの正体を見破られて去っていく、という話が多い。この伝説の「およし狐」は嫁入りを避けて、人間に幸せな結末をもたらしている。こうした筋立ては、一般的な狐女房話よりは新しい時期のものと考えてよいだろう。
ただし、「およし狐」の名前自体は中世末期の文献までさかのぼることができる。天正4(1576)年の奥書がある『播磨府中めぐり』で「梛寺(なぎでら)の小よし狐」と記されていて、少なくともこのころから、姫路で語られ続けてきたことがうかがえる。 寛延3(1750)年の『播州府中めぐり拾遺(しゅうい)』では、梛寺の柱が動くことがあり、これをおよし狐の仕業と伝えている。梛寺は、姫路城下町建設以前には姫山近くの梛本(なぎもと)というところにあった寺で、現在は市内の坂田町(さかたまち)にある善導寺(ぜんどうじ)の前身とされている。 天正4(1576)年の奥書がある『播州故事考(ばんしゅうこじこう)』では、永正10(1513)年のこととして、梛寺にまったく同じ服装をした二人の女性が参詣し、寺僧が不思議と思って見ていると、近くの泉のあたりで一人は消えてしまい、「梛寺の狐」の仕業とされたという。 柱を動かしたり、参詣の女性に化けたり、ここに見える「およし狐」は、一般的な狐の怪異話になっている。おそらくこのほかにも、さまざまな怪異がおよし狐の仕業とされていたのだろう。 また江戸時代以来、およし狐は、紀行文「姫山の地主神」で紹介した姫路城天守閣のおさかべ姫と結びつけられることもあった。寛延3(1750)年の『播州雄徳山八幡宮縁起(ばんしゅうゆうとくさんはちまんぐうえんぎ)』では、「梛寺のおよし狐は女に化けて活動したことが諸書に見える」とし、「ここからおさかべ姫と混同されるようになったのであろう」と述べている。江戸時代の知識人の間でも、両者は本来別物で、後から結びついたものと見られていた。 およし狐がいた梛本には、中世までは梛寺とともに播磨総社(はりまそうしゃ)もあった。梛本の場所は、近世の諸書では一致して、城下町の久長門(きゅうちょうもん)の内側にある岐阜町(ぎふまち)あたりとされている。現在の場所にあてはめると、国立病院機構姫路医療センターや県立姫路東高校の付近になる。当館のすぐ東側である。 さて、およし狐のほかにも、姫路周辺には狐話が多数あった。『播磨府中めぐり』では、「宿村の小六」の話があり、天正3(1575)年の『近村めぐり一歩記』では蒲田(かまた)の「井内源二郎」、才(さい)の「竹次郎」のほか、「福吉狐」、「山本村の鼠狐」、「朝日山大法主の狐」、「又鶴の半まだら狐」、「利生のおしも狐」、「神村の太郎太夫狐」、「管長狐」、「黒岡山のはら斑狐」など多数の狐の名前があげられている。また、天正元(1573)年の成立と伝える『播陽うつつ物語』では、名古山(なごやま)の「万太郎狐」、「黒天狗」、「翠髪」、「釣狐」に化かされた話がある。 こうした狐話の多さは、姫路に限ったことではない。中世末期から江戸時代にかけて、狐の話は全国各地で数多く語られるようになっていた。量的に見れば、狐は江戸時代の妖怪の主役級である。 |
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●草刈火 兵庫県 | |
『西播怪談実記』にある怪火です。
元文(1736〜1741)のはじめ、五月雨の頃に、佐用郡佐用村の半七という者が姫路へ赴き逗留していました。本来の用事は思うように進まなかったため、半七はある日の夕方にふと思い立って飾東郡蒲田村の知人を訪ねてみることにしました。 雨が降るか降らぬかの道中、まだ目的地に至らぬ間に日が暮れてしまいました。すると、道の真ん中から突如として一筋の火が燃え出てきました。不思議に思ってじっとしていると、火がもう一筋出てきて、互いにもつれたりよじれたりした後にぱっと消えてしまいました。しばらくすると再び火が出てきて、また同じように消えました。 半七は気味悪く思いながらも火が出た辺りを通過して、知人の家に辿り着きました。そこで先ほど見たもののことを話すと、知人は「以前から時々その火を見る人があり、草刈火と言い伝えている」と言いました。昔、草刈りの子が喧嘩をして、鎌で切り合った末に二人とも死んでしまったことがあり、それが哀れにも今なお修羅の相を見せているのだろうということでした。 これは著者の春名忠成が半七から直接聞いた話であるといいます。 |
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●油返し 1 兵庫県伊丹市昆陽 | |
兵庫県伊丹市昆陽に伝わる怪火です。
『民間伝承』通巻53号「妖怪名彙に寄す」(辰井隆)によれば、油返しは初夏の闇夜や寒い冬の夜、昆陽池の北堤辺りに現れるといいます。 池の南にある千僧の墓から出て、昆陽池や瑞ヶ池の堤を通って天神川の畔から中山寺へ行くともいいます。 油返しはパッパッパッパッとつくと、オチャオチャオチャオチャと話し声がし、トボトボトボトボとセングリセングリと後ろへかえらず急いて灯るもので、その正体は中山寺の油を盗んだ者の魂が化したもの、北堤にいる狐の嫁入り、千僧にいる狼が灯す火だなどといわれました。 |
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●油返し 2 | |
「油返し」とは、兵庫県の伊丹市昆陽に伝わる怪火の妖怪です。初夏や冬の寒い夜に「昆陽池」の傍にある墓地や堤付近に現れると言われています。
油返しはパッパッと点滅するように現れると、「アチャ、アチャ」声のような物が聞こえ、どこか忙しない様子で灯る怪火と伝えられています。 昔、「中山寺」というお寺から油を盗んでいた者がいたそうです。油返しはこの盗人の魂が化けたものと言われています。また、出現場所である昆陽池の南側には「千僧の墓」があり、油返しはこの墓から現れて池の堤を通り、天神川の畔や中山寺に向かうというお話もあります。 正体はお寺から油を盗んだ人の魂が化けたものと言われていますが、他にも千僧にいる狼の灯火説や昆陽池の北堤で暮らしている妖狐の嫁入り説があります。特徴的には忙しなく灯るせっかちな怪火なので、どうしてそんなに落ち着きがないのか気になる所ではあります。まさか、油を盗んだ人はその油が引火して…は流石に私の考え過ぎですね。 |
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●青火 兵庫県姫路市 | |
夜、墓地などに燃え出て空中を飛びまわる、青白い火の玉。鬼火(おにび)。幽霊火(ゆうれいび)。燐火(りんか)。随筆・嘉良喜随筆(1750頃)三「二階町(兵庫県姫路市?)に柳原家の家あり。毎夜青火光る。此所昔寺也」。 | |
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●中国地方 | |
●ほぼら火 1 岡山県倉敷市下津井 | |
サバを積んで市場に運ぶとき、夜中にサバを造りにしていると、帆を捲いた船がものすごいスピードで走ってきて行き過ぎた。「迷い火だな、ほぼらだな」と思った。一旦行過ぎた船が又帰ってきたので、料理していたサバをぶつけると船はおかの方へ行った。ホボラとは幽霊のことという。 | |
●ほぼら火 2 | |
岡山県倉敷市下津井に伝わる。魚島(八十八夜から四十日ほどの魚の多い時期)の頃、夜更けに漁船を出したら、タタタッと風の吹く音がして帆を巻いた舟がこちらに走ってきた。料理していたサバを投げつけたら丘の方へ行った。 | |
●チュウコ 岡山県 | |
備前(現・岡山県)のチュウコとは空中に見る怪火にして、他地方の狐火きつねび、火ひの玉たまなどを総称した名称である。その原因は狐に帰するからチュウコという。 | |
●オショネ 島根県松江市八束町遅江 | |
島根県松江市八束町遅江に伝わる妖怪です。
ある寒い日に、漁師が舟で沖待ち(魚が網にかかるまで待つこと)をしていました。あまりに寒いので釣鐘(炬燵のようなもの)に当たって過ごしていたところ、ふと気付くと目の前に大きな山がありました。流されてしまったのかと思い、艫へ回って錨綱を引いてみましたが、何も異常はみられません。肝の据わった漁師は、そのまま目を瞑って釣竿を引き続けることにしました。暫くして目を開けてみると、艫の竹に横綱のような筋のはった所の上で、手も足もない三人の子供が焚火を囲んでいました。「あの子供は話に聞いたオショネというやつに違いない。とうとうこれは化かされたんだなあ」と思った漁師は、釣鐘にシュシュミ(植物の葉か)を投げ入れました。火にくべられたシュシュミがパチパチと音を立てると、オショネは驚いて、フーッと飛んで嵩山の松で提灯になってぶら下がり、ふらりふらりしていたといいます。 |
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●牛鬼 島根県北東部 | |
[うしおに、ぎゅうき] 各地で伝承があり、その大半は非常に残忍・獰猛な性格で、毒を吐き、人を食い殺すことを好むと伝えられている。ただし、その中の一部には悪霊を祓う神の化身としての存在もいる(後述)。
伝承では、頭が牛で首から下は鬼の胴体を持つ。または、その逆に頭が鬼で、胴体は牛の場合もある。また、山間部の寺院の門前に、牛の首に人の着物姿で頻繁に現れたり、牛の首、鬼の体に昆虫の羽を持ち、空から飛来したとの伝承もある。 海岸の他、山間部、森や林の中、川、沼、湖にも現れるとされる。特に淵に現れることが多く、近畿地方や四国にはこの伝承が伺える「牛鬼淵」・「牛鬼滝」という地名が多く残っている。 『百怪図巻』など江戸時代に描かれた妖怪絵巻では、牛の首をもち蜘蛛の胴体を持っている姿で描かれることが多い。『百鬼夜行絵巻 (松井文庫)』では同様の絵が「土蜘蛛」という名で記され牛鬼(鳥山石燕『画図百鬼夜行』に似たものが描かれている)と区別されている例もいくつか見られる。 ●各地の伝承 ●三重県 三重県では牛鬼はひどく祟るとされた。かつて南伊勢・五ヶ所浦の洞穴に牛鬼がいるといわれ、五ヶ所城の城主・愛洲重明が弓で射たところ、その祟りで正室が不治の病となってしまった。これがもとで重明は正室を疎んじ、京から来た白拍子を溺愛するようになった。これにより正室の親元である北畠氏は愛洲氏と不仲となり、愛洲氏を滅ぼしてしまったという。 ●和歌山県 西牟婁郡の牛鬼淵は、底が海にまで通じており、淵の水が濁ると「牛鬼がいる」といわれた。ここの牛鬼は出会っただけで人を病気に至らしめるという。このようなときは「石は流れる、木の葉は沈む、牛は嘶く、馬は吼える」などと逆の言葉を言うと、命が助かるという。またこの地の牛鬼は、猫のような体と1丈(約3.3メートル)もの尾を持ち、体が鞠のように柔らかいので歩いても足音がしないという。上戸川では滝壺に牛鬼がいるといい、これに影を嘗められた人間は高熱を発して数日のうちに死ぬといわれ、それを避けるため毎年正月に、牛鬼の好物である酒を住処に供えたという。三尾川の淵の妖怪譚では、牛鬼が人間に化け、さらに人間を助けるというたいへん珍しい話がある。青年が空腹の女性に弁当を分けたところ、その女性は淵の主の牛鬼の化身で、2ヶ月後に青年が大水で流されたときに、牛鬼に姿を変えたその女性に命を救われた。だが牛鬼は人を助けると身代りとしてこの世を去るという掟があり、その牛鬼は青年を救った途端、真っ赤な血を流しながら体が溶けて、消滅してしまったという。 ●岡山県 牛窓町(現・瀬戸内市)に伝わる話では、神功皇后が三韓征伐の途中、同地にて塵輪鬼(じんりんき)という頭が八つの大牛姿の怪物に襲われて弓で射殺し、塵輪鬼は頭、胴、尾に分かれてそれぞれ牛窓の黄島、前島、青島となった。皇后の新羅からの帰途、成仏できなかった塵輪鬼が牛鬼に化けて再度襲い掛かり、住吉明神が角をつかんで投げ飛ばし、牛鬼が滅んだ後、体の部分がバラバラになって黒島、中ノ小島、端ノ小島に変化したという。牛窓の地名は、この伝説の地を牛転(うしまろび)と呼んだものが訛ったことが由来とされる。また、鎌倉時代に成立した八幡神の神威を紹介する神道書・『八幡愚童訓』にも塵輪(じんりん)という鬼が仲哀天皇と戦ったことが記されており、先述の伝承の由来とされる。『作陽志』には、美作苫田郡越畑(現・苫田郡)の大平山に牛鬼(ぎゅうき)と名付けられた怪異が記されている。寛永年間に20歳ばかりの村民の娘が、鋳(カネ)山の役人と自称する男子との間に子供をもうけたが、その子は両牙が長く生え、尾と角を備えて牛鬼のようだったので、父母が怒ってこれを殺し、鋳の串に刺して路傍に曝した。民俗学者・柳田國男はこれを、山で祀られた金属の神が零落し、妖怪変化とみなされたものと述べている。 ●山陰地方 山陰地方から北九州にかけての沿岸では、牛鬼では濡女や磯女と共に海中から現れるといい、女が赤ん坊を抱いていて欲しいなどと言って人を呼びとめ、相手が赤ん坊を抱くと石のように重くなって身動きがとれなくなり、その隙に牛鬼に食い殺されるという。牛鬼自身が女に化けて人に近づくともいうが、姿を変えても水辺に写った姿は牛鬼のままであり、これによって牛鬼の正体を見破ることができるという。石見(現・島根県)でも同様に、釣り人のもとに赤ん坊を抱えた怪しげな女が現れ「この子を少しの間、抱いていて下さい」というので抱き取ったところ、女が消えたかと思うと海から牛鬼が現れ、しかも腕の中の赤ん坊が石に変わり、あまりの重さに逃げることができないでいたところ、彼の家にあった代々伝わる銘刀が飛来して牛鬼の首に突き刺さり、九死に一生を得たという。牛鬼はほかにも地名由来に関わっている場合もあり、山口県光市の牛島などは牛鬼が出たことに由来する。 ●高知県 明和3年(1776年)の大旱魃の年に岡内村(現・香美市)の次郎吉という男が、峯ノ川で牛鬼を目撃したという。また同県の民話では、ある村で家畜の牛が牛鬼に食い殺され、退治しようとした村人もまた食い殺されていたところへ、話を耳にした近森左近という武士が弓矢の一撃で退治した。村人たちは大喜びで、弓を引く真似をしながら左近の牛鬼退治の様子を話したといい、これが同県に伝わる百手祭の由来とされる。物部村市宇字程野(現・香美市)に伝わる話では、2-3間の深さのすり鉢状の穴に落ち抜け出せずに泣いている牛鬼を、屋地に住んでいる老婆が助け、それ以来牛鬼はその土地の者には祟りをしなかったという。土佐山村にある鏡川の支流である重倉川に牛鬼淵があり、昔、こけ淵と呼ばれていた頃に牛鬼が住んでいて、ある時、長谷集落の猟師が夜間にぬた撃ちに出かけた際、身の丈7尺、身体は牛で顔は鬼のような姿の牛鬼と遭遇して、これを射殺。牛鬼は淵に沈んで7日7夜血を流し、後に7尺ほどの骨が浮かんできたので、小さなお宮を立てて祭り、お宮を「川内さま」、こけ淵を牛鬼淵と呼ぶようになった。 ●愛媛県 宇和島地方の牛鬼伝説は、牛鬼の伝承の中でも特に知られている。かつて牛鬼が人や家畜を襲っており、喜多郡河辺村(現・大洲市)の山伏が退治を依頼された。村で牛鬼と対決した山伏は、ホラガイを吹いて真言を唱えたところ、牛鬼がひるんだので、山伏が眉間を剣で貫き、体をバラバラに斬り裂いた。牛鬼の血は7日7晩流れ続け、淵となった。これは高知県土佐山、徳島県白木山、香川県根来寺にそれぞれ牛鬼淵の名で、後に伝えられている。別説では、愛媛県に出没した牛鬼は顔が龍で体が鯨だったという。同じ「牛鬼」の名の伝承でも地域によって著しく姿形が異なることから、妖怪研究家・山口敏太郎は、水から上がってくる大型怪獣はすべて「牛鬼」の名で呼ばれていたのではないかと述べている。宇和島藩のお家騒動である和霊騒動を機に建立された和霊神社では、例祭として7月23日と24日に「牛鬼まつり」が行われている。 ●ツバキの根説 牛鬼の正体は老いたツバキの根という説もある。日本ではツバキには神霊が宿るという伝承があることから、牛鬼を神の化身とみなす解釈もあり、悪霊をはらう者として敬う風習も存在する。またツバキは岬や海辺にたどり着いて聖域に生える特別な花として神聖視されていたことや、ツバキの花は境界に咲くことから、牛鬼出現の場所を表現するとの説もある。共に現れる濡女も牛鬼も渚を出現場所としており、他の場所から出てくることはない。 ●古典 民間伝承上の牛鬼は西日本に伝わっているが、古典においては東京の浅草周辺に牛鬼に類する妖怪が現れたという記述が多い。 鎌倉時代の『吾妻鏡』などに、以下の伝説がある。建長3年(1251年)、浅草寺に牛のような妖怪が現れ、食堂にいた僧侶たち24人が悪気を受けて病に侵され、7人が死亡したという。『新編武蔵風土記稿』でもこの『吾妻鏡』を引用し、隅田川から牛鬼のような妖怪が現れ、浅草の対岸にある牛島神社に飛び込み、「牛玉」という玉を残したと述べられている。この牛玉は神社の社宝となり、牛鬼は神として祀られ、同社では狛犬ならぬ狛牛一対が飾られている。また「撫で牛」の像があり、自身の悪い部位を撫でると病気が治るとされている。この牛鬼を、牛頭天王の異名と牛鬼のように荒々しい性格を持つスサノオの化身とする説もあり、妖怪研究家・村上健司は、牛御前が寺を襲ったことには宗教的な対立が背景にあるとしている。 『枕草子』において「おそろしきもの」としてその名があげられており(148段)、また『太平記』においては源頼光と対決した様子が描かれている。 江戸時代初期の古浄瑠璃である『丑御前の御本地』によれば、平安時代の豪族・源満仲の妻が、胎内に北野天神が宿るという夢をみたのち、三年三月と云う長い妊娠期間を経て、丑の年丑の日丑の刻に男児を出生した。この男児は源頼光の弟(原文では「らいくわうの御しやてい」「ただの満中が次男」)にあたるが、牛の角と鬼の顔を持つために殺害されかける。しかし、殺害を命じられた女官が救い出して山中で密かに育て、成長して丑御前と呼ばれるようになる。満仲は妖怪退治の勇者である息子の源頼光に丑御前の始末を命じる。丑御前は関東に転戦し徹底抗戦、隅田川に身を投げ体長約30メートル(十丈)の牛に変身して大暴れしたという。 ●怪火としての牛鬼 関宿藩藩士・和田正路の随筆『異説まちまち』には、怪火としての「牛鬼」の記述がある。それによれば、出雲国(現・島根県北東部)で雨続きで湿気が多い時期に、谷川の水が流れていて橋の架かっているような場所へ行くと、白い光が蝶のように飛び交って体に付着して離れないことを「牛鬼に遭った」といい、囲炉裏の火で炙ると消え去るという。これは新潟県や滋賀県でいう怪火「蓑火」に類するものと考えられている。 また因幡国(現・鳥取県東部)の伝承では、雪の降る晩に小さな蛍火のような光となって無数に蓑に群がり、払っても地に落ちまた舞い上がり着き、やがて蓑、傘ともに緑光に包まれるという。 ●実在する牛鬼の遺物 徳島県阿南市のある家では、牛鬼のものと伝えられる獣類の頭蓋骨が祠に安置されている。これはかつてある家の先祖が、地元の農民たちの依頼で彼らを苦しめる牛鬼を退治し、その首を持ち帰ったのだという。 福岡県久留米市の観音寺にも牛鬼の手とされるミイラがある。康平年間(1063年)に現れた牛鬼のもので、牛の首に鬼の体を持ち、神通力を発揮して近隣住民を苦しめ、諸国の武士ですら退治をためらう中、観音寺の住職・金光上人が念仏と法力で退治したものという。手は寺へ、首は都へ献上され、耳は耳納山へ埋められたという。耳納山の名はこの伝説に由来する。 香川県五色台の青峰の根香寺には、牛鬼のものとされる角が秘蔵されている。これは江戸時代初めに青峰で山田蔵人高清なる弓の名手に退治された牛鬼とされ、同寺に残されている掛軸の絵によると、その牛鬼は猿のような顔と虎のような体を持ち、両前脚にはムササビまたはコウモリのような飛膜状の翼があったという。この掛軸と遺物は、現在では諸々の問題により一般公開されておらず、ネット上でのみ公開されている。 |
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●たくろう火 広島県東部 | |
「備後国」(広島県東部)御調郡に伝わる火の妖怪。江戸時代の歴史書・地誌である『芸藩通志』などにも記載されている。
夏から秋にかけての夜、海岸に火の玉となって出現する。2つの火が並んで現れることから、比べ火(くらべび)とも呼ばれる。かつては瀬戸内海を重要な交通路とする船乗りたちにとってよく知られた妖怪であったという。 広島中部の伝承によれば、非業の死を遂げた2人の女が、京女郎、筑紫女郎(ちくしじょろう)と呼ばれる2つの石と化し、その霊がたくろう火になったと言われている。 出没したのはかなりの過去であり、微かに古い書物にのみ伝承されているに過ぎず、土地の古老にすらほとんど知られていない。 |
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●玉の岩 広島県尾道市・千光寺 | |
[たまのいわ]
尾道の観光ガイドの表紙を飾る最も有名な光景が、この千光寺から海を眺めたものであろう。尾道観光の象徴であるといっても過言ではない。
千光寺は山肌にへばりつくように建てられており、その境内には多くの巨岩がある。そのいくつかには名前が付けられており、それぞれ曰くの伝承がある。中でも“玉の岩”と呼ばれる巨岩には、寺名にまつわる伝承が残されている。 “玉の岩”という名の通り、かつてはその岩の上に如意宝珠があり、夜ごと光を放ち、それは海からもはっきりと見えるほどであったという。ある時、異国人がこの寺を訪れて、この岩を買い取りたいと申し出た。住職は断ったが、異国人はそのやりとりから、住職はこの玉のことを知らないと確信した。そして岩に登ってその玉を盗み出したのであった。しかし玉を持って帰る途中、海にそれを落としてしまったという。 この玉の岩にある如意宝珠が光り輝くことから「大宝山千光寺」、また玉が沈んだ辺りを「玉の浦(現在の尾道港)」と呼ぶようになったとされる。高さ15mの“玉の岩”の天辺には、かつて宝珠があったことを示す窪みが今でもある。また、この宝珠の光を反射させて海を照らしていたとされる「鏡岩」の伝承があったが、平成12年(2000年)にその所在が明らかになっている。おそらく海上の要衝にあって、灯台の役目を果たしていた時期があったものと推察できる。 |
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●根場の怪火 山口県柳井市平郡島 | |
山口県柳井市平郡島。防州の平郡島に伝わる怪火で、夜、漁船に乗っている時に明るく火が見えたりするのですが朝、そのあたりに行ってたしかめて見ても、燃えた痕跡が何も見つけられない、といったもの。 | |
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●四国地方 | |
●煙の宮 香川県・青海神社 | |
[けむりのみやおうみじんじゃ]
崇徳上皇の遺体は白峯山で荼毘に付されたのであるが、さらにその時に怪異が起こった。今度は荼毘の時に出た煙が、山のふもとのある一ヶ所に溜まって動かなくなったのである。一説によると、その煙は輪を成し、その中に天皇尊号の文字が現れたとも伝わっている。また煙が消えた場所には上皇のお気に入りの玉があったともされる。その後、この地にも崇徳上皇の霊を慰める青海神社が建立され、【煙の宮】と呼ばれることになる(玉は社宝として保管されているらしい)。
このようにその死に際してとんでもない怪異を連続して起こした崇徳上皇の怨念は、ついには京都をたびたび戦禍に巻き込む源平の合戦を引き起こし、武家が公家を圧倒する世の中を生み出したとされる。つまり上皇の呪詛の言葉は見事に成就されたのである。 上皇の祟りは現在でも続いているのであろうか。それにまつわる一つの事実だけ紹介しておく。 昭和39年9月21日、この日崇徳天皇陵(白峯陵)で八百年御式年祭が執り行われたのであるが、その日の未明に近隣の林田小学校で不審火があり、校舎が全焼している。この林田小学校は、上皇が讃岐へ配流された時の最初の住まいとされた“雲井御所”のすぐそば。そして火事の直後には猛烈な雷雨があったとされる。 |
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●明の宮 香川県・白峯神社 | |
[あかりのみやしらみねじんじゃ]
日本史上、唯一魔道の者となると公的に宣言した人物がいる。崇徳天皇である。
鳥羽上皇を父に、待賢門院を母に持つ崇徳天皇であるが、実の父は祖父に当たる白河上皇であると、当時から暗黙の事実として言われてきた。それが数奇の運命の最初であった。鳥羽上皇は、父である白河上皇が亡くなると、“叔父子”である崇徳天皇を排斥し始める。上皇は崇徳天皇を退位させ、実子の近衛天皇を据えて院政を始める(院政は天皇の直系尊属、つまり父か祖父でなければ行えない。崇徳上皇は上皇であっても、院政を行うことは不可能なのである)。さらに近衛帝崩御の後には、崇徳上皇の同腹の弟が皇位に就く。1156年鳥羽上皇が崩御すると、崇徳上皇は武力行使によるクーデターを画策する。しかしそれよりも早く仕掛けたのが、実弟である後白河天皇であった。この【保元の乱】であっけなく敗れた崇徳上皇は、厳罰というべき讃岐への配流となる。そこで菩提のために、自らの指先から血を絞り出して大乗経190巻を写経し、京都のいずれかの寺院へ納めてほしいと頼んだ。しかし、後白河天皇はそれを拒否。ここに至ってついに崇徳上皇は、自らを怨霊と化すのである。 「我、日本国の大魔王となり、皇をとって民となし、民を皇となさん」。 送り返された経文の最後に、舌を噛み切ってこう血書した上で海中に沈めた崇徳上皇は、それから髪をくしけずらず、髭も爪も伸ばし放題となり、さながら天狗のような様相となった。そして9年後、京都へ戻ることなく46歳で崩御する。 遺体を荼毘に付すための勅許を得るまでの約20日間、上皇の遺体は“八十場の霊泉”に漬けられ腐敗を防いでいたという。その遺体がおかれていた場所の近くで、毎夜のように神光が現れた所があった。上皇の没年にはこの地に【白峯宮】が建立され、その怪光出現の故事から【明の宮】と呼ばれるようになった。 この白峯神社と同じ敷地には四国八十八ヶ所の七十九番札所の“天皇寺”がある。元は空海建立の寺院であったが、白峯宮創建後はその神宮寺としてこの名前となったという。ちなみにこの辺り一帯は古くは“天皇”と呼ばれており、坂出でも最も上皇ゆかりの地と言ってもいいかもしれない。 |
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●狸火 徳島県三好郡山城谷村 | |
狸が灯すとされる怪火で、各地に伝承があります。
徳島県三好郡山城谷村には、次のような狸火の話が伝わっています。大正二年、秋も末頃の夕方のこと、山中から一隊の提灯の火が現れました。その中には梔子燈籠らしき青白い光も混じっていて、明らかに葬列の火だと分かりました。火の行列は山を下り、麓の某家の裏まで来ると、再び山上へ引き返していくうちに消えてしまいました。家から墓地へ行かずに山へ帰ってしまったこと、そして狸火にしては出る時間が早すぎることから、人々は疑問を抱きました。後になって、提灯行列が現れた時刻と、某家の者が山で狸を二匹殺して持ち帰った時刻が一致することが明らかになり、人々は狸が弔いの列を作って眷属を見送ったのだろうと哀れがったといいます。 |
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●オボラ 愛媛県大三島 | |
愛媛県大三島に伝わる怪火。亡者の霊火とされる。同県越智郡宮窪村(現・今治市)では「オボラビ」といって、海の上や墓地に正体不明の怪火が現れる伝承があり、これらが同一視されていることもある。 | |
●金の神の火 愛媛県・怒和島 | |
[かねのかみのひ] 愛媛県・怒和島に伝わる。民俗学研究所による『総合日本民俗語彙』に記述がある。大晦日の夜更け、怒和島の氏神(社殿)の後ろに現れる提灯のような火。人がわめいているような音を出すのが特徴で、土地の人々の間では、これの出現は歳徳神の出現の知らせと見なされている。 | |
●遊火 高知県高知市 | |
[あそびび] 高知県高知市や三谷山で、城下や海上に現れるという鬼火。すぐ近くに現れたかと思えば、遠くへ飛び去ったり、また一つの炎がいくつにも分裂したかと思えば、再び一つにまとまったりする。特に人間に危害を及ぼすようなことはないという。 | |
●けち火 高知県香美市、新潟県佐渡市 | |
高知県、新潟県佐渡市に伝わる怪火。
人間の怨霊が火の玉と化したものとされ、草履を3度叩くか、草履に唾をつけて招くことで招きよせることができるという。火の中には人の顔が浮かんでいるともいう。 海上に現れるともいい、そのことから船幽霊の一種ともいわれる。奈良県に伝わる怪火・じゃんじゃん火と同一視されることもある。 民話研究家・市原麟一郎の著書によれば、大きく二つに大別され、人が死んだ瞬間にその肉体から発生したものと、眠っている人間から発生するものとがあるとされる。 後者の事例としては、明治初期の高知県香美郡(現・香美市)の以下のような民話がある。芳やんという男が夜道を歩いていると、物部川のそばで道端にけち火が転がっていた。近づくところころと転がりだすので、好奇心から追いかけたところ、けち火も逃げ出し、その内に人家に入り込んだ。その家では、うなされながら寝ていた男が目を覚まし、妻に「芳やんが追いかけて来るので必死に逃げて来た」と語ったという。 また同じく明治時代の高岡郡の民話では、斎藤熊兄という度胸のある男がけち火を目撃し、「ここまで飛んで来い」と怒鳴ったところ目の前に飛来して来た。斎藤はけち火を生け捕りにしようとするが、手でつかんだり足で踏みつけようとするたびにけち火は消え、また現れを繰り返した。ようやく両手でつかみ取って家へ持ち帰ったが、家で手を開くと、いつの間にかけち火は消えていた。翌日から熊兄は原因不明の熱病にかかり、そのまま死んでしまったという。 江戸時代の土佐国(現・高知県)の妖怪絵巻『土佐お化け草紙』(作者不詳)では、鬼火と書いて「けちび」とふりがながふられている。 佐渡の外海府村では、人魂のことを「ケチ」と呼んでいた。佐渡の郷土研究者である青柳秀雄の著書『佐渡海府方言集』によれば、ケチは人魂のこととある。 |
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●潮江山さうれん火 高知県高知市 | |
高知市街の南方に鏡川あり、其の南方に平田を隔てて孕山あり、蜿蜒として東西に連亘す。此の山に昔「さうれん火」というあり、雨天或は暖味の晩などには必ず現はれ、或は列をなし遊行する如く恰も葬式の行列火などを遠望する様なこともあり、かたがた葬連火とも呼ばれしとも伝えらる、高知市街からは之を打ち眺め、「又今晩もさうれん火が行きよる」といいはやしたと謂う。
●参考 かかる怪火は日本全国所々にありて土佐一国に限らない。近江の国では化けの火といい関西では狐火などとも呼ばれる、之は諸国周遊奇談に、近江国堅田村、中昔より化の火と呼んであやしき火あり、こは曇った夜は四季とも現われ出る、まず湖の岸より少しき火出ればだんだん山手の方へ行きて其火広がり大方三尺ばかり又大小もあり、時により小き時は一尺ばかりもあり火勢強からず、もっとも月夜には出ず、小雨の夜と曇りの夜ばかり、地をはなれること四、五尺にして人の面現れ両人裸で左右の手を組み、相撲など取る形なり云々。其のさま土佐の怪火と全く符号合せり。また曰く、京師の西の河原宗玄火(そうげんび)といふあり、此火は両夜曇り夜はことに出るなり、この火の色青く光り夜中に至れば松の木などの枝にとまり、また人の足元へ来り、それを撃つなどするときは中々撃つこと能はず、終りは水中に入て消える如く失せるなり。洛西の宗玄火、げにも其の名称といい事実といひ何ぞ土佐のさうれん火と相似寄りたる此の如きや。 |
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●西分怪火 高知県 | |
弘化の頃(一八四四〜一八四七)香美郡赤岡濱(今の高知県)にて要馬(馬上組討の稽古)の催しあり。和食の大工竹崎茂七というもの朋友三人と連れ立ち見物にゆき、夜に入りて帰途西分村の西岡前と云うところに来りし時、僅か三間ばかり向こうでクワット大火が燃え立ったので、三人は大に驚き眸を定めて之を見れば、身の丈甚だ高くして頭と面はさながら棕櫚毛を以て作りたる如き異形の者が木盆のような物に火の玉を載せて持っているので、三人は益々恐怖し早足でそこを走り去り、まだ十間も過ぎざる内に顧視せしかば、早くも沖の方へ向き濱松近に到り有しが又僅々を行くひまに堀切川に至り堤を上へ来る体にて、さては彼奴又我等が前へ廻る積りかといよいよ急ぎ同村永正寺門(今小学校門)に来り見れば、何時の間にか和食村円城寺門(これも今学校地)の傍の松の梢に留まりしという。茂七は明治二十六年頃七十歳にて健在し此の物語りをなせしという。 | |
●野火 高知県 | |
[のび] 土佐国(現・高知県)の長岡郡に伝わる。山中や人里を問わず出現する。傘程度の大きさの火の玉が漂って来たかと思うと、突然弾けて数十個もの星のような光となって地上から高さ4,5尺ほどの空中に広がり、ときにはその範囲は数百間にも渡る。草履に唾をつけて招くと、頭上に来て煌々と空中を舞うという。 | |
●青鷺の火 高知県 | |
昔高知城内の鷹屋に飼れたる十寸鏡(ますかがみ)という名鷹あり、其頃日が暮れて後、城南潮江山の方より城山を指し、いと青みたる火の燃つつ空中を飛来る。毎夜にて諸人大に怪となせしを彼の鷹は是を見る見る翼を震い勇み進まんとするので、遂に之を放ちければ忽ち一大怪鳥と組んで地上に落ちたのを火を揚げて見れば年古りたる青鷺だった。このような怪鳥を夜中に知りて進まんとしたのは実に神異の鷹にして、後容堂公の乗馬の逸物に十寸鏡という名をつけたが、此の名鷹の名を継がれしものとぞ青鷺の火光を発すること昔より其の伝あり。 | |
●七人みさき 高知県・吉良神社 | |
[しちにんみさき]
豊臣秀吉に屈して土佐一国の主となった長宗我部元親であるが、さらにその身に不幸が訪れたのは、嫡男であった信親の討死であった。我が子討死の報を聞き自害しようと取り乱したとの話が残るほどであり、その嘆きは尋常のものではなかったと言える。そしてそれを端に発して、さらなるお家騒動が勃発する。
新たに家督を継ぐ者として元親が指名したのは、末子の千熊丸(後の盛親)であった。しかも元親は、亡くなった信親の娘を千熊丸に嫁がせると決めたのである。それに真っ向反対したのが、元親の甥であり婿でもある吉良左京進親実である。長宗我部の家督については、既に秀吉から元親次男の香川親和とする朱印状が出されている。そして何と言っても、元親の裁断では叔父姪の間の婚儀となり人倫に背く行いである、と。親実の主張は正論であるが故に、元親の不興を買うことになった。 さらに側近の久武親直が、日頃から犬猿の仲であった親実らのことを讒言したため、遂に元親は意を決して親実及び比江山親興に切腹の沙汰を下したのである。天正16年(1588年)10月のことである。 切腹の命を親実が受けたのは、ちょうど碁を打っている最中であった。屋敷に戻り、作法に則り用意をした親実は「一門の者として君を諫める立場にあったが、佞臣によって忠義の道を絶たれた。当家は間もなく滅びよう」と言い残し、腹を真一文字に切り腸を引き出して死んだのである。 さらに元親は命じて、親実の治めていた蓮池城の留守を守る重臣ら、親族で名のある者たちを自害させるなど根こそぎ誅殺した。その主立った者は、親実の庶兄である僧・宗安寺真西堂(如淵)、同じく姻族で神職の永吉飛騨守宗明、蓮池城を預かる重臣・勝賀野次郎兵衛、その他にも城ノ内太守坊、吉良彦太夫、小島甚四郎、日和田与三右衛門の七名であった。 この事件は人々を怖れさせたが、さらにここに奇怪なことが起こった。親実ゆかりの地で八人の主従の亡霊が出現するようになったのである。主のいなくなった蓮池城下を夜陰に乗じるように呻き声を上げて人馬が宙を駆け回る音がした。また親実の墓や長宗我部の城周辺でも夜ごとに怪火が現れ、それに遭遇した者は命を落とすか大病になったという。さらに仁淀川の渡し船の船頭は姿の見えない数名連れの者を乗せて川を渡ると、その降りがけに「我は左京進の亡霊なり。怨みを晴らさんために一党率いて城に急ぐものなり」という声を聞いたという。 その翌日、親実切腹の讒言をした久武親直の屋敷前に老婆が現れて久武の次男を抱え上げると、次男は人事不省に陥りその晩に急死。その三七日目の忌日に長男が発狂して仏間に籠もり、さらにその三七日後にとうとう仏間で腹を切る。しかも今際の際に「上使二人が来て詰め腹を切らされた」と言い残して死亡。そして七七日には母親も狂死し、親実の祟りであるとまことしやかに言われた。(久武には八人の子があったが、そのうちの七名までがわずかのうちに死んでしまったという話も残る) そのうち怪火だけではなく、白馬に乗った首のない侍や鉄棒を持った大入道が現れるなどの怪異が城内でも目撃されるようになり、さしもの元親も捨て置けなくなり、親実以下の者の供養をおこなうよう命じた。そして結願の日。身分を問わず多くの者が祈りを捧げ、僧侶が読経する中、突然祭壇に置かれた一党の位牌がガタガタと動き始めたと思うと、そのまま中空に飛んでいってしまったのである。自分たちの怨みはそのようなものでは鎮まりはしないと言わんばかりの様子に、人々は恐れおののいたのである。 その後、寛文6年(1666年)、土佐山内家は親実の墳墓を改葬し、その上に親実を祭神として新たに社殿を建てた。それが現在ある吉良神社である。そしてその本殿脇には、この騒動で亡くなった七名の者を祀る七所神社が置かれており、この七名を以て「七人みさき」とする旨が表示されている。 |
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●火の玉なんじゃろ 高知県宿毛市 | |
●その1
最近火の玉の研究もなかなか熱心にやられるようになり、日本でも早稲田大学の大槻先生など火の玉観測情報センターをつくって研究しているようです。 さてその火の玉、世の中が昔とちごうてそうぞうしくなると出て来るのがいやになるのか、近頃あんまり出会うたという話を聞かんが、 夏の夜など涼み台に集まって聞くお化けの話。そこではたいてい一役買っていたものだし、出会った人もたくさんおった。 お墓の中から燐が飛び出る。たいていの人がそんなことを言うたが、それもおかしなことだろう。 ●その2 中学生以上のみんななら知っているだろうが、普通では黄燐(おうりん)赤燐(せきりん)、そのうち気温があがって自然に燃えるのは黄燐ということだ。 第二次大戦でアメリカ軍が使った黄燐焼夷弾(おうりんしょういだん)、木造の家を焼く大きなマッチだったと言えるが、たしかに燃える。 墓場の穴から飛び出すことまでは考えられても、それだけの熱をだすなら火の玉の飛んだ所は火事騒動がついて来る。そう考えるとおかしなことだろう。大小、色もさまざまなのもを何度か見たが、わらぐろにさえ火はつかない。 ●その3 何年か前メタンの様なガス説も出たが、これも同様おかしいとこがある。 光を出す虫のかたまりと言った人もあるそうだが、電線にかかって四方八方に輝きながら飛び散って消えた火の玉。 丁度夜明けの頃だったが、明るくなって調べてもそれらしいものの一つも見当たらない。 舟底を走る火の玉もあるが、それは夜光虫のかたまりだと言うことを否定は出来んが。中には蛍を食ったひき蛙が うごくと火の玉に見えるんだという説まである次第で、今のとこなんともこれだと言い切ることはむつかしそうだ。 火の玉が飛ぶのは夏だとは限らない。墓場とも限らない。 ●その4 町の中でも出ることがあるし、道路わきから出ることもある。 学生時代に見た営所での火の玉なんか今でもはっきり覚えているが、あるいは小中学生のみんなのおじいさん達の中にはそれを知っている人がおられるかも知れん。 どす黒い様な赤色のバレーボール位の丸い玉。東の空から西に向けて兵舎の上空を飛んで行く。 時間は午前一時すぎ、召集のすこし年のいかれた兵隊さんが、戦地に向うときだけ飛ぶと、お世話になっていた班長さんが話してくれた。憲兵(けんぺい)の一人がスパイの信号ではないことだけははっきりしたが、どれだけさがしても原因は 判らない、と話してくれた。 なんとも不思議な気持ちで見た火の玉だった。 ●その5 空気の原子や分子がこわれてプラズマ状態になり、言えば稲光(いなびかり)の様なものといった考え方。 自然にある放射線が空気の原子や分子を火の玉にする。こんな考え方が今の所一番進んだ考え方と言われるが、 それにしてもいろいろな火の玉を実際見てくると決まりきった説明がつくもんだろうかとうたがいたくなる。 お化けの話につきもんだったからといって、火の玉に取って食われた人はない。学者はその正体をつかもうと調べ始めた。 お家の人にも聞いてみたら面白い話が出て来るかも知れん。 すこうしかたい話になってしもうたが、若い人達こんな話も頭のすみにちょっとおいてもらうと有難い。 ちょっとちごうた話になって相すみません。 |
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●九州地方 | |
●迷い船 福岡県宗像市 | |
福岡県遠賀郡玄海町――現在の宗像市の海上に出るという妖怪で、盆の十五日の晩にのみ出るといわれており、そのためその日の夜に海に出るのは禁忌とされている。
ある四人が禁忌を破って出たところ、大量であったが海面に人の首が現れ、笑ったり転がったりしたので恐ろしくなり、急いで帰ったが、大量の魚と思ったものは全て草鞋であり、後に四人は狂い死にしてしまったといわれている。 また風に逆らって行く帆船や何もないのに話し声が聞こえることもあり、その方へ向かうと必ず難破するといわれている。 迷い船が現れるときは必ずタマカゼ――北西の方から吹く悪い風が吹き、大雨になるという。 |
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●とんとろ落ち 大分県大分市 | |
大分県北海部郡市坂ノ市町――現在の大分市に伝わる、狸が灯すという怪火。
虫追い松明行列に混ざったり、真っ暗な時化の夜に、赤い灯が野原を彷徨うといわれている。 この怪火を灯すといわれている狸は元々は人間の飛脚だったといわれる。戦国時代、上野遠江守という殿様から密書を託されたが、それを紛失してしまい手打ちとなった。それから飛脚は狸となり、今もその密書を探しているのだといわれている。 |
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●天火 佐賀県 | |
[てんか、てんび、てんぴ] 日本各地に伝わる怪火の一種。江戸時代の奇談集『絵本百物語』や、松浦静山の随筆『甲子夜話』などの古典に記述があるほか、各地の民間伝承としても伝わっている。
●民間伝承 愛知県渥美郡では夜道を行く先が昼間のように明るくなるものを天火(てんび)といい、岐阜県揖斐郡では夏の夕空を大きな音を立てて飛ぶ怪火を天火(てんぴ)という。 佐賀県東松浦郡では、天火が現れると天気が良くなるが、天火が入った家では病人が出るので、鉦を叩いて追い出したという。 熊本県玉名郡では天上から落ちる提灯ほどの大きさの怪火で、これが家の屋根に落ちると火事になるという。佐賀県一帯でも火災の前兆と考えて忌まれた。 かつては天火は怨霊の一種と考えられていたともいい、熊本県天草諸島の民俗資料『天草島民俗誌』には以下のような伝説がある。ある男が鬼池村(現・天草市)へ漁に出かけたが、村人たちによそ者扱いされて虐待され、それがもとで病死した。以来、鬼池には毎晩のように火の玉が飛来するようになり、ある夜に火が藪に燃え移り、村人たちの消火作業の甲斐もなく火が燃え広がり、村の家々は全焼した。村人たちはこれを、あの男の怨霊の仕業といって恐れ、彼を虐待した場所に地蔵尊を建て、毎年冬に霊を弔ったという。 天火は飛ぶとき、奈良県のじゃんじゃん火のように「シャンシャン」と音を出すという説もあり、そのことから「シャンシャン火」ともいう。「シャンシャン火」の名は土佐国(現・高知県)に伝っている。 ●古典 『甲子夜話』によれば、佐賀の人々は天火を発見すると、そのまま放置すると家が火事に遭うので、群がって念仏を唱えて追い回すという。そうすると天火は方向転換して逃げ出し、郊外まで追い詰められた末に草木の中に姿を消すのだという。 また、天火は雪駄で扇ぐことで追い払うことができるともいい、安政時代の奇談集『筆のすさび』では、肥前国(現・佐賀県)で火災で家を失った人が「ほかの家の屋根に火が降り、その家の住人が雪駄で火を追いかけたために自分の家の方へ燃え移ったため、新築の費用はその家の住人に払って欲しい」と代官に取り計らいを願ったという語った奇談がある。 江戸時代の奇談集『絵本百物語』では「天火(てんか)」として記述されており、これにより家を焼かれた者、焼死した者があちこちにいるとある。同書の奇談によれば、あるところに非情な代官がおり、私利私欲のために目下の者を虐待し、目上の者にまで悪名を負わせるほどだったが、代官の座を降りた翌月、火の気のないはずの場所から火が出て自宅が焼け、自身も焼死し、これまでに蓄えた金銀、財宝、衣類などもあっという間に煙となって消えた。この火災の際には、ひとかたまりの火が空から降りてきた光景が目撃されていたという。 |
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●うぐめん火 長崎県南高来郡千々石町 | |
長崎県南高来郡千々石町。海上にぼんやり見える火があった。うぐめん火といい、近くに行っても同じだけ遠くに見える。見えた方向から話し声が聞こえる。海で遭難した人の霊がさまよっているのがこの怪火である。 | |
●アヤカシ 長崎県 | |
アヤカシは、日本における海上の妖怪や怪異の総称。
長崎県では海上に現れる怪火をこう呼び、山口県や佐賀県では船を沈める船幽霊をこう呼ぶ[1]。西国の海では、海で死んだ者が仲間を捕えるために現れるものだという。 対馬では「アヤカシの怪火」ともいって、夕暮れに海岸に現れ、火の中に子供が歩いているように見えるという。沖合いでは怪火が山に化けて船の行く手を妨げるといい、山を避けずに思い切ってぶつかると消えてしまうといわれる。 また、実在の魚であるコバンザメが船底に貼り付くと船が動かなくなるとの俗信から、コバンザメもまたアヤカシの異称で呼ばれた。 鳥山石燕は『今昔百鬼拾遺』で「あやかし」の名で巨大な海蛇を描いているが、これはイクチのこととされている。 ●千葉の伝承 江戸時代の怪談集『怪談老の杖』に、以下のような記述がある。 千葉県長生郡大東崎でのこと。ある船乗りが水を求めて陸に上がった。美しい女が井戸で水を汲んでいたので、水をわけてもらって船に戻った。船頭にこのことを話すと、船頭は言った。 「そんなところに井戸はない。昔、同じように水を求めて陸に上がった者が行方知れずになった。その女はアヤカシだ」 船頭が急いで船を出したところ、女が追いかけて来て船体に噛り付いた。すかさず櫓で叩いて追い払い、逃げ延びることができたという。 |
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●狂歌百物語・あやかし | |
室むろの沖 くゞつの思ひ 荒浪に あやかし出でて 止むる船足(銭の屋別号 宝山人)
あやかりて 薬罐やくわん頭の 子を産むは 煮え茶をかけし 尨犬むくいぬの罪(花前亭) あやかしの 附きたる家の 疾風はやちかぜ 吹き返したる 船板の塀(語志庵跡頼) ふたまたの 猫まね沖の あやかしに 船を取らして あるか高浪(上総大堀 花月楼) 災ひは 下と思ひの 外にまた 上よりおこる あやかしの風(遠江見附 松風琴妻) あやかしに 逢うたる船は 海神に 怒り沈めて 詫び祈りけり(春の辺道艸) 珠数すりて 影弁慶や 祈るらん 義経ならぬ 船のあやかし(花垣真咲) あやかしに 逢うたる灘は 遠江 地獄は近き 船板の下(道艸) 吹き荒るゝ 雨夜の浪の あやかしに 影弁慶も ひそむ船底(江戸崎 緑樹園) ゆくりなく 通りし関の 藤川に 舟足止むる あやかしや何(弓のや) 浜荻の 伊勢の海漕ぐ 舟にしも とりつく声の あやかしうまし(常陸村田 八千代菊成) 年越しに 払ふ悪魔の あやかしの 西国船の 海にたゞよふ(優々閑徳也) あやかしの 怖さも夢と 思ふまで ほがらほがらと 明けの赭舟そほぶね(江戸崎 緑樹園) あやかしに 柄杓をかして 汲める時 ほといふ息を 出いだす船人(青則) あやかしの 筑紫の沖に 黒雲の 巽たつみの風に 船覆ふ浪(升友) 浜荻の 声に目ざめし 楫かぢ枕 置き惑はする 船のあやかし(雨守) ぬいてかす 柄杓の底も なき魂たまに 手向けてぞやる 船のあやかし(下毛葉鹿 花好) |
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●不知火 八代海、有明海 | |
九州に伝わる怪火の一種。旧暦7月の晦日の風の弱い新月の夜などに、八代海や有明海に現れるという。なお、現在も見え、大気光学現象の一つとされている。
海岸から数キロメートルの沖に、始めは一つか二つ、「親火(おやび)」と呼ばれる火が出現する。それが左右に分かれて数を増やしていき、最終的には数百から数千もの火が横並びに並ぶ。その距離は4〜8キロメートルにも及ぶという。また引潮が最大となる午前3時から前後2時間ほどが最も不知火の見える時間帯とされる。 水面近くからは見えず、海面から10メートルほどの高さの場所から確認できるという。また不知火に決して近づくことはできず、近づくと火が遠ざかって行く。かつては龍神の灯火といわれ、付近の漁村では不知火の見える日に漁に出ることを禁じていた。 『日本書紀』『肥前国風土記』『肥後国風土記』などよると、景行天皇が クマソをせいばつして、九州をまわられた時、ある海岸から船に乗って海にでられた。そのうちまっくらい闇が迫ってきて、どこへ着いて良いかわからなくなってしまった。 すると、突然はるか前方にあかあかと、火の光が現れてきた。天皇は舵を取っている船頭に向かって、「あの火にむかってすすめ。」とおっしゃった。言われるままに船を進めると、やがて無事に海岸に着くことができた。天皇は村の土地のものに向かって「あの火の燃えるところは、なんというところだ。そして、いったいあの火は何の火だ。」「はい、あれは火の国の八代郡の火の村でございます。しかしだれがつけて燃やしているのか、わからない火でございます。」そこで天皇は「あれはおそらく人の燃やしている火ではあるまい。」しらぬひ、しらぬい(不知火)という呼び名は、ここから起こっている。 ●正体 大正時代に入ると、江戸時代以前まで妖怪といわれていた不知火を科学的に解明しようという動きが始まり、蜃気楼の一種であることが解明された。さらに、昭和時代に唱えられた説によれば、不知火の時期には一年の内で海水の温度が最も上昇すること、干潮で水位が6メートルも下降して干潟が出来ることや急激な放射冷却、八代海や有明海の地形といった条件が重なり、これに干潟の魚を獲りに出港した船の灯りが屈折して生じる、と詳しく解説された。この説は現代でも有力視されている。宮西道可は熊本高等工業から広島高工の教授であり、専門的な研究をした。彼によると、不知火の光源は漁火であり、旧暦八朔の未明に広大なる干潟が現れ、冷風と干潟の温風が渦巻きを作り、異常屈折現象を起こし、そのため漁火は燃える火のようになり、それが明滅離合して漁火が目の錯覚も手伝い、怪火に見えるという。 また山下太利は、「不知火は気温の異なる大小の空気塊の複雑な分布の中を通り抜けてくる光が、屈折を繰り返し生ずる光学的現象である。そして、その光源は民家等の灯りや漁火などである。条件が揃えば、他の場所・他の日でも同様な現象が起こる。逃げ水、蜃気楼、かげろうも同種の現象である」と述べているまた、丸目信行は文献集『不知火』に、『不知火町永尾剣神社境内から阿村方面へ時間経過による不知火の変化』と題し、多数の写真を載せている。 現在では干潟が埋め立てられたうえ、電灯の灯りで夜の闇が照らされるようになり、さらに海水が汚染されたことで、不知火を見ることは難しくなっている。 ●昭和8年の藤原咲平の説明 気象学者の藤原咲平は『大気中の光象』を昭和8年に書いたが、その中で不知火の原因はわかっていないと書き、見物客を喜ばして利潤を得ることと、夜光虫の発光を可能性として示していた。 |
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●狂歌百物語・不知火 | |
筑紫潟つくしがた 越路にまさる 一ひと不思議 汐を油に ともす不知火しらぬひ(槙のや)
赤き心 みせし宿禰すくねが 湯起請ゆきしやうを 炊きし事をも 偲ぶ不知火(草加 四角園) 不知火の 数くだくるは 火の国の 二つに分かる 初めなるらん(江戸崎 緑樹園) 筑紫潟 波間に燃ゆる 不知火は 水もつ月の 出いでて消ゆらん(仙台松山 錦著翁) 小町紅の 色や筑紫の 不知火は 波のうねうね 燃え優るらん(上総大堀 花月楼) 筑紫潟 龍たつの都の 御垣守みかきもり 衛士ゑじの焚く火と 燃ゆる不知火(守文亭) 筑紫潟 かゝる不思議を 海松布みるめ刈る 蜑あまに問へども 訳は不知火(花林堂糸道) 物問へば 知らぬ人まで 知り顔に ほどよく嘘を 言ひ筑紫潟(参台) 誰たがなくに 何を種とて 筑紫潟 浪のうねうね 燃ゆる不知火(綾のや) 八汐路やしほぢの 道しるべとも なりぬるを 誰たが不知火と 言ひ始めけん(草加 稲丸) 漁すなどりし 魚うをの油や 燃ゆるらん 筑紫の人も わけはしらぬ火(喜樽) 腰蓑に 心尽しの 蜑人あまびとは 燃ゆともしらぬ 火を払ふらん(在江戸 獅々丸) 是はまた 梅の影かや 飛び飛びに 筑紫の沖に 見ゆる不知火(紫廼綾人) 沖遠み ちらちらと目に つくし潟 蜑の漁あさりの 舟かしらぬ火(下毛葉鹿 花好) 肥ひの海の 魚の油や 添はりけん 夜毎夜毎に 燃ゆるしらぬ火(上毛板鼻 輻湊楼停舫) 飛梅とびうめの 星の光か 闇に見る 目にも筑紫の 沖のしらぬ火(花前亭) 夜もすがら 筑紫の海に 汐煙り 立ちぬる中に 燃ゆる不知火(在明亭月守) |
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●筬火 1 宮崎県延岡地方 | |
[おさび] 宮崎県延岡地方で明治時代中期まで目撃談があった怪火。雨の降る夜、延岡の三角池と呼ばれる池に2つ並んで現れる火の玉。ある女が筬(おさ、織機の付属品)をほかの女に貸し、後にその筬を返してもらおうとしたところ、すでに返した、まだ返してもらっていないと言い争いになり、誤って2人とも池に落ち、その怨念がこの怪火となり、その後もなお2つの火が争いを続けていたという。この怪火を見た者には、良くないことが続けて起こるともいわれる。 | |
●筬火 2 | |
宮崎県延岡地方に伝わる怪火の一種で、三角池という池に出るといわれています。
これは雨の降る晩に二つ出るもので、明治の半ばまでは折々目撃者がいたといいます。昔、二人の女が筬(おさ。機織の際に折り目を整えるために使う櫛状の器具)の貸借をめぐって、返せ、返したの争いとなって池に落ちて死んだといい、そのため二つの火が現れて喧嘩をするようになったのだと考えられていました。 筬火の名は『延岡雑談』を出典として柳田國男「妖怪名彙」(『妖怪談義』所収)にて紹介されています。ここでは類似する妖怪として名古屋の「勘太郎火」の名も挙げられています。 |
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●ウマツ 鹿児島県大島郡瀬戸内町 | |
鹿児島県大島郡瀬戸内町に伝わる海上に出る怪火。赤いウマツは「アハウマツ」、青いウマツは「オーウマツ」と呼ぶという。
ある人が子供の頃、イカ釣りの時にウマツを見た。祖父から教えられていた通りに袖下から見てみると、そこに白衣を着た神様のような姿が見えたという。 |
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●火玉 鹿児島県永良部島 | |
[ひざま] 鹿児島県奄美群島の沖永良部島に伝わる妖怪で、呼び名の通り明るい火の玉と伝わる場合もあれば、胡麻塩色の羽で頬の赤い鶏の姿をしているともいわれています。
ヒザマは最も恐ろしい邪神と考えられ、空になっている甕や桶に宿ると信じられていました。そのため、甕や桶は伏せておくか水を入れておくことになっていました。火事はヒザマが引き起こすものとされ、家にヒザマがついたときにはすぐユタ(沖縄・奄美地方の巫女)を招いてヒザマを追い出すための儀式を行ったといいます。 |
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●イニンビー 沖縄県那覇市 | |
沖縄県那覇市。タマガイの出現時間は短いが、イニンビーの出現時間は長い。イニンビーは男女の愛につながる伝説を伴うことが多い。妻が浮気したと誤解した夫が金城橋で自殺したとき、妻も後追い自殺した。そのあと、2つの火の玉が飛び交うようになったというものである。 | |
●火魂 沖縄県 | |
[ひだま] 沖縄県の鬼火。普段は台所の裏の火消壷に住んでいるが、鳥のような姿となって空を飛び回り、物に火をつけるとされる。 | |
●遺念火・因縁火 沖縄県 | |
[いねんび・いんねんび]
沖縄地方に伝わる火の妖怪。遺念とは亡霊を指す沖縄の言葉であり、この遺念が火となって現れるのが遺念火とされる。あちこち移動したり飛び回ったりせず、ほとんど同じ場所に現れる。出没場所は山中など、人のいない寂しい場所が多いが、まれに海上にも現れるという。
●伝承 遺念火は多くの場合、駆け落ちの末の行き倒れなどで非業の最期を遂げた男女、恋愛のもつれによる心中した男女などが一組の火となって現れるといわれ、様々な悲恋譚を伴っている。 ●首里市(現・那覇市) 首里市の南にある識名坂という土地のものは遺念火の中でよく知られ、トジ・マチャー・ビーともいう(トジは妻の意)。昔、ある仲の良い夫婦がいた。妻はいつも街に出て商売をしており、夫は帰りの遅い妻をいつも迎えに出ていた。あるとき2人の仲を妬んだ者が、夫に「お前の妻はいつも浮気をして遊び歩いている」と嘘を言った。夫は生き恥を晒すことを苦とし、識名川に身を投げた。やがて帰ってきた妻はそれを知り、自分も身を投げた。以来、識名坂から識名川へと、2つの遺念火が現れるようになったという。 ●名護市 昔、大変仲の良い若夫婦がおり、妻はいつも仕事に出て遅くに帰って来た。あるときに夫は魔がさし、妻が不貞を働いているのではと考えた。妻の帰り道、夫は変装して襲い掛かった。妻は必死に抵抗し、かんざしで夫の喉を突き刺した。やっとのことで妻は家に帰ったが、夫の姿はない。もしやと思い引き返すと、夫はすでに死んでおり、あまりの悲嘆に妻は自害した。命がけで貞操を守った妻と、その妻を疑った夫の無念が、2つの遺念火となって夜な夜な現れるという。 ●名護町(現・名護市)山中 ある女性が人目を忍び、険しい山を通って夜間の山頂で恋人と密会していた。ある暴風雨の夜。男はこの天候では女は来ないだろうと思って山へ行かなかったが、女はやって来ており、男の不実をなじって自殺した。男はそれを知り、自分の薄情さを悔やんで後を追って自殺した。以来、同じ時刻に山頂に2つの火が現れるようになったという。 |
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●鬼火 | |
鬼火・人魂・火の玉・光玉。 人が死ぬとき、魂が人魂になって出て行く。3日前に出て寺に行く事もあるという。長さ3m、幅15p程度。色は青、赤、赤い玉で尾は青、お月様のような色などという。波のように上下しながら飛ぶ、ノロシを曳いてすーっと飛ぶ、ふらふら飛ぶ、などという。 | |
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●人魂 1 | |
人間の魂が形を現して飛び回るもので、おおむね尾を引いて飛ぶ丸い発光体として伝えられています。その目撃談は古今の様々な書物に残されており、近代、現代の怪談集や体験談にも類例を頻繁にみることができます。
江戸時代の百科事典である『和漢三才図会』は、人魂の特徴を「頭は丸く平たく、尾は杓子に似て長く、色は青白でかすかに赤みを帯びている。地上三、四丈ばかりを静かに飛び、遠近定まらず、落ちると壊れて光を失う。煮ただれした麩餅のようで、落ちた場所には小さな黒い虫が数多くいる」と説明しています。 |
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●人魂 2 | |
主に夜間に空中を浮遊する火の玉(光り物)である。古来「死人のからだから離れた魂」と言われており、この名がある。
古くは古代の文献にも現われており、現代でも目撃報告がある。また同様の現象は外国にもあり、写真も取られている。 万葉集の第16巻には次の歌が掲載されている。 「人魂のさ青なる君がただひとり逢へりし雨夜の葉非左し思ほゆ」— 万葉集(尼崎本)第十六巻 鬼火(おにび)、狐火などとも言われ混同されることがあるが、人魂は「人の体から抜け出た魂が飛ぶ姿」とされるものであるので、厳密には別の概念である。 形や性質について語られる内容は、全国に共通する部分もあるが地域差も見られる。余り高くないところを這うように飛ぶ。色は青白・橙・赤などで、尾を引くが、長さにも長短がある。昼間に見た例も少数ある。 沖縄県では人魂を「タマガイ」と呼び、今帰仁村では子供が生まれる前に現れるといい、土地によっては人を死に追いやる怪火ともいう。 千葉県印旛郡川上村(現・八街市)では人魂を「タマセ」と呼び、人間が死ぬ2,3日前から体内から抜け出て、寺や縁の深い人のもとへ行き、雨戸や庭で大きな音を立てるというが、この音は縁の深い人にしか聞こえないという。また、28歳になるまでタマセを見なかった者には、夜道でタマセが「会いましょう、会いましょう」と言いながらやって来るので、28歳まで見たことがなくても見たふりをするという 。 ●諸説 19世紀末イギリスの民俗学者セイバイン・ベアリング=グールドは、死体が腐敗して発生したリン化水素の発散が墓の上をただよう青い光を生むということはありそうなことだと考えていた。一説によると、「戦前の葬儀は土葬であったため、遺体から抜け出したリンが雨の日の夜に雨水と反応して光る現象は一般的であり、庶民に科学的知識が乏しかったことが人魂説を生み出した」と言われるが、人や動物の骨などに多く含まれるリン酸は自然発火しないので該当しない。ただし、リン化水素は常温では無色腐魚臭の可燃性気体で、常温の空気中で酸素と反応して自然発火する 。 昔から、蛍などの発光昆虫や流星の誤認、光るコケ類を体に付けた小動物、沼地などから出た引火性のガス、球電、さらには目の錯覚などがその正体と考えられた。例えば寺田寅彦は1933年(昭和8年)に帝国大学新聞に寄稿した随筆の中で、自分の二人の子供が火の玉を目撃した状況や、高圧放電の火花を拡大投影した像を注視する実験、伊豆地震の時の各地での「地震の光」の目撃談に基づき、物理的現象と錯覚とが相俟って生じた可能性を述べている。実際に可燃性ガスで人工の人魂を作った例もある(山名正夫・明治大学教授のメタンガスによる実験、1976年ほか)。 1980年代には、大槻義彦が「空中に生じたプラズマである」と唱えた。 だが、上記の説明群では説明できないものもあり、様々な原因・現象により生じると考えられる。 |
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●人魂 3 | |
●火の玉ともいい、死者の霊をいう。人が死ぬときに人魂が出るといい、夜分に出ると青色の光を発して空中を飛ぶという。地上に落ちたものを見ると「こんにゃく」のようなものという。人魂が川を越すと本人はよみがえり、あと3年ぐらい生存できるともいう。大分県旧大野郡(現、豊後大野(ぶんごおおの)市など)では、「ぬえ」という鳥が鳴くと人が死ぬのでこの鳥を「ヒトダマ」とよんでいる。青森県下北(しもきた)半島の小川原(おがわら)地区では、人の死ぬ前か死と同時に肉親や知人のところへくる人魂を、「タマシ」または「タマンコ」という。「タマシ」は人によって見える人と見えない人とがある。また前に死んだ人の人魂が、病人を迎えにくることもあるという。病み衰えた老人の人魂は弱々しく、若い者の事故で死んだときなどの人魂は勢いがよいという。人の末期(まつご)に際して魂(たま)呼びということをするのも、この人魂信仰に基づいている。奈良県宇陀(うだ)市菟田野(うたの)区では「タマヨビ」と称して末期の病人を起こして水を与え、死ぬと死者の着物を屋根の上にほうり上げるという。
●1 遊離魂。死者の霊。ふつう青白く尾を引いて空中を飛ぶという。死者の霊は四九日間、旧宅を去らないとか、死ぬ直前に出るとか、墓場に出るなどという。鬼火(おにび)。陰火(いんか)。火の玉。人魂火。万葉(8C後)一六・三八八九「人魂(ひとだま)のさ青(を)なる君がただ独逢へりし雨夜の葉非左し思ほゆ」。2 流星の俗称。日本紀略‐昌泰二年(899)二月一日「未時星出レ自二空中一。南東歴行。〈略〉尾長五六尺許。観者奇怪。謂二之人魂一」。3 歌舞伎の小道具の一つ。初めは真鍮(しんちゅう)の色玉、後にガラス玉を真綿で包み、中へ火を入れたりしたが、新しくはぼろや海綿に焼酎を浸みこませ、燃やして陰火に擬し、空中を飛ぶように見せるもの。雑俳・柳多留‐五六(1811)「人魂で草りをさがす楽屋番」。 ●死の前後あるいは生存中の肉体から遊離して空中を浮遊すると信じられる魂。青または赤,黄色の発光物をいい,その多くは尾をひいて飛ぶといわれる。青魂,飛魂,風魂,飛物,鬼火,幽霊火,火玉,タマセなどの名称がある。科学的には,リンが燃える物理現象にすぎないとされるが,人の体内には霊魂が宿るとする観念と結びついて信じられるようになったと考えられる。 ●人の死の前後に身体を放れて遊飛するという霊魂。夜間空中を飛ぶ怪火の正体とされ,火の玉と呼ぶ地方もある。《万葉集》にも見え,その色は青白く,球状で尾を引くと考えられている。 ●夜、空中を飛ぶ青白い火。古くから、死者から抜け出た霊が漂うものとされる。[類語]幽霊・幽鬼・鬼・亡霊・燐火・火の玉・鬼火・狐火。 ●霊魂が身体から遊離して起きる怪火現象。浮遊している火の玉を人魂とみる例が一般的といえるものの,火の玉と人魂とを区別している例もある。この現象は幻覚の一種であるが,生命の根元が霊魂にあり,その霊魂が肉体より離れることによって死や病気などさまざまな異常な現象が起こるという遊離魂の観念にもとづいている。シャマニズムの観念,魂呼ばい(魂呼び)や沖縄本島のマブイ(霊魂)落しやマブイ込めの習俗などの観念と一連のものといえる。 ●…怪火の一つで,暗い雨夜に湿地や墓地などで燃えるという火。燐火(りんび),人魂(ひとだま),火の玉ともよばれ,形は円形,楕円形,杓子形などで尾をひいて中空をとび,青色のほか黄色や赤色の火もある。人が死ぬと同時にその家の藪から青白い火の玉が出るとか,人の魂は家から知人の所へまわってから寺へ入るなどともいう。… |
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●”ひとだま”の正体 4 | |
「ひとだま(人魂)−夜空に空中を浮遊する青白い火の玉。古来、死人の体から離れた魂といわれる」(広辞苑)。
「人魂の真青(まさお)なる君がただひとり・・・」(万葉集)。 ぼくが育った当時の東京の杉並はまだ田舎であった。家の近くには人魂が出るという墓場まであったが、ぼくは夜そこをいつも目をつぶって駆け抜けたので、自分で真偽を確かめる機会がなかった。ただ、兄がよくこの人魂を外泊の理由にしたことを覚えている。一般に怪奇現象はウソか錯覚かこじつけのケースが多いが、人魂については古来目撃記録が大変多く、これに比べればUFOなどはまさに新参者である。またその正体は、人間の魂が肉体を離れて活動するという遊魂説が主流であるが、 これについては上記のように、『広辞苑』までもが「……といわれる」と無責任である。 一方、怪奇現象否定派の方も人魂については、流星・土葬死体の燐・夜光虫・蜃気楼説など多彩で、反オカルトの旗手、早稲田大学の大槻教授などは、 すべてプラズマで説明できると唱えている。人魂の形状の記録もまたさまざまだが、それらを総合すると、「色青白く球状で、尾を引いてふわふわと不気味に移動する」ものこそが“本家人魂”らしい。 戦後、当時唯一の昆虫の一般誌であった『新昆虫』(北隆館発行)に、昆虫学者の故春田俊郎氏が、山でガの夜間採集中に人魂に出合い、勇をふるってこれを捕虫網で捕らえた経験を書いている。網の中でなお青白く光っていたそれは、なんとユスリカのような小さい虫の群であった。人魂の形状からこれはおそらくある種の蚊柱と思われる。羽化する時に偶然発光バクテリアを体に付け、オスが群飛してメスを呼び込むための蚊柱を形成したことで人魂と化したのであろう。すべてではないにせよ、 これが人魂の正体のひとつであるに違いない。事実、「人魂が蚊に化けた」という古い記録もある。 蒸し暑いどんより曇った夏の夜、林や墓場の中、地上のあまり高くない場所をふわふわと……蚊柱と人魂の出現条件の何と似ていることか。 もし人魂に出合う幸運に恵まれた読者がおられたら、学術的な見地からぜひ捕獲してぼくに送って欲しい。ただし、ホントの人魂でタタリがあっても責任は負いかねるが……。 |
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●人魂 5 | |
家の妖怪。出没地域、和歌山県全域。皆さんが耳にする「火の玉」には人魂、狐火(きつねび)、鬼火(おにび)などの種類があって、人魂は人の体から抜け出た魂が浮遊するものをいう。以前、僕が出演するラジオ番組にこんなお便りが寄せられた。ある日、病床の祖父の元へお見舞いに行ったら、畳の上を火の玉がコロコロと転がっていた。驚いていると、祖父が「すまんが、そこの窓を開けてくれ」と言う。指示通りにすると、火の玉は畳を離れてスーッと窓から外へ飛んでいった。祖父が亡くなったのは間もなくのことであった。これもきっと人魂だったのだろう。 | |
●人魂の一つの場合 寺田寅彦 6 | |
ことしの夏、信州しんしゅうのある温泉宿の離れに泊まっていたある夜の事である。池を隔てた本館前の広場で盆踊りが行なわれて、それがまさにたけなわなころ、私の二人の子供がベランダの籐椅子とういすに腰かけて、池の向こうの植え込みのすきから見える踊りの輪の運動を注視していた。ベランダの天井の電燈は消えていたが上がり口の両側の柱におのおの一つずつの軒燈がともり、対岸にはもちろん多数の電燈が並んでいた。
突然二十一歳になるAが「今火の玉が飛んだ」といいだすと、十九歳になるBが「私も見た」といってその現象の客観的実在性を証明するのであった。 そこで二人の証言から互いに一致する諸点を総合してみると、だいたい次のようなものである。 ベランダから池の向こうの踊り場を正視していたときに、正面から左方約四十五度の方向で仰角約四十度ぐらいの高さの所を一つの火の玉が水平に飛行したというのである。その水平経路の視角はせいぜい二三十度でその角速度は、どうもはっきりはしないが、約半秒程度の時間に上記の二三十度を通過したものらしい。 二人の目撃者の相互の位置は一間けんほど離れており、また椅子の向きも少しちがっていたので、私は二人の各位置について、そのおのおのの見たという光の通路の方向を実地見証してみた。そうして、その二人のさす方向線の相会するあたりに何があるかを物色してみた。すると、およその見当に温泉の浴室があり、その建物の高い軒下には天井の周囲を帯状にめぐらす明かり窓があって浴室内の電燈の光に照らされたその窓が細長い水平な光の帯となって空中にかかっている。どうも火の玉の経路がおおよそそれと同じ見当になるらしいのである。 ところで、だんだんによく聞きただしてみると、二人の証言のうちで一つ重大な点で互いに矛盾するところがあるのを発見した。すなわち向かって右のほうにいたAは光が左から右へ動くように思ったというのに左のほうにいたBはそれとは正反対に右から左へ動いたようだと主張するのである。この二人の主張がそれぞれ正しいとすると、これは問題の現象が半分は客観的すなわち物理的光学的であり半分は主観的すなわち生理的錯覚的なものだという結論になる。この事がらがこの問題を解くに重要なかぎを与えるのである。 私は、数年前、高圧放電の火花に関する実験をしているうちに、次のような生理的光学現象に気づきそれについてほんの少しばかり研究をした結果を理化学研究所彙報いほうに報告したことがある。 長さ数センチメートルの長い火花を写真レンズで郭大した像をすりガラスのスクリーンに映じ、その像を濃青色の濾光板ろこうばんを通して、暗黒にならされた目で注視すると、ある場合には光が火花の道に沿うて一方から他方へ流れるように見える。しかし実際はこの火花放電の経過は一秒の百万分一ぐらいの短時間に終了するという事が実験によって確かめられたので、到底肉眼でその火花の生長を認識することは不可能なはずである。それだのにそれが移動するように「見える」というのは、全くわれわれの眼底網膜に固有な生理的効果すなわち一種の錯覚によるものと考えるほかはないのである。そうして、この効果は暗黒にならされた目にあまり強くない光の帯が映ずる場合に特に著しいように思われたのである。 この事実と、前述の二人の見たという火の玉の進行の現象とは何か縁がありそうに思われる。一つの可能性は、上記の浴室の軒の明かり窓の光が一時消えていたのが突然ぱっと一時に明るくなったと仮定すると、その光の帯が暗がりになれていた人の横目には一方から一方に移動する光のように感ぜられたのではないかということである。火花の実験の場合においても、正視するときよりもむしろ少し横目に見るときにこの見かけの移動の感じが著しく、またその移動の方向が目の位置によって逆になるようであった。もっとも、いかなる場合にいかなる方向に動くかという点についてはまだ充分詳しいことを調べたわけではなかったが、ともかくも、実際はほとんど同時に光る光帯が、場合により右から左へ、あるいは左から右へ動くように見えうるという事実がある。これが現在の問題に対して一つの有力な手がかりになるのである。もっとも火花の場合には光帯が現われるとすぐに消えるのに反して現在の場合では点火したきりで消えなかったとすると少し事がらがちがう。それで、後の場合でも同様な錯覚が生ずるかどうかは別に実験を要するわけである。 とにかく、これは一つの可能性を暗示するだけで実際はどうだかわからない。 もう一つの可能性がある。前記の浴室より、もう少し左上に当たる崖がけの上に貸し別荘があって、その明け放した座敷の電燈が急に点火するときにそれをこっちのベランダで見ると、時によっては、一道の光帯が有限な速度で横に流出するように見えることがある。これはたぶんまつ毛のためやまた眼球光学系の溷濁こんだくのために生ずるものかと思われる。それで、事によると「火の玉」の正体がこれであったかもしれないとも思われる。しかしこれだとすると、たいていは光芒こうぼう射出といったようなふうに見えるのであって、どうも「火の玉」らしく見えそうもないと思われる。 そうかと言って、浴室の天井の電燈が一時消えていたというのは単なる想像であって実証をたしかめたわけでもなんでもないから、結局この問題の現象はなんだかわからないということに帰着するのであるが、しかしこの出来事の上記の考察から示唆された一つの実験的研究を、ほんとうに実行してみることはそうむだではあるまいかと思われる。たとえば、暗室の一点に被実験者をすわらせておいて、室のいろいろな場所のいろいろの高さにいろいろな長さや幅で、いろいろの強度と色彩をもった光帯を出現させ、そうしてそれに対する被実験者の感覚を忠実に記録してみたら存外おもしろいかもしれないと思われるのである。 伊豆いず地震の時に各地で目撃された「地震の光」の実例でも、一方から他方へ光が流れたというような記録がかなりたくさんにあったが、これらもやはり前記の生理的効果で実験はほとんど瞬間的に出現した光帯を、錯覚でそういうふうに感じるのではないかと疑われるのである。とにかくそういうこともあるくらいだから、だれか生理光学に興味をもつ生理学者のうちにこの問題を取り上げてまじめに研究してみようという人があったらたいへんにありがたいと思うので、それでわざわざ本紙のこの欄をかりてこのような夢のような愚見を述べてみた次第である。それでこの一編はもちろん学術的論文でもなんでもなくて、ただの随筆に過ぎないのであるが、だれかがこの中からちゃんとした論文の種を拾い上げ培養して花を咲かせるという事についてはなんの妨げもないであろう。 それはとにかく、われわれの子供の時分には、火の玉、人魂ひとだまなどをひどく尊敬したものであるが、今の子供らはいっこうに見くびってしまってこわがらない。そういうものをこわがらない子供らを少しかわいそうなような気もするのである。こわいものをたくさんにもつ人は幸福だと思うからである。こわいもののない世の中をさびしく思うからである。 |
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●人魂の森 7 | |
千葉県、伝説の地(匝瑳地区大浦)。宮和田(みやわだ)に、こんもりと繁った森がある。
この森は、人魂(ひとだま)の森と呼ばれて、一本一本の木が人間ではないかと言い伝えられている。 その昔、一人の木こりが、この森へ入っていった。「この森には、ずいぶん良い木があるぞ」 木こりは、吸い込まれるように森の奥へ入って行った。しばらく行くと、何かまっ黒で大きなものにぶつかった。「あれえ、おったまげた。こんなでっけえ松の木は見たことがねえ。よし、これから切ることにしべえ」「ギーコ」、「ギーコ」 木こりは、この森で一番大きな松の木を切り始めた。すると中頃まで切った時、「何だっぺ。何か赤いものが出て来たぞ。うわあっ、血、血、血だあっ」何と、松の木からどろどろとした真っ赤な血が流れ出て来た。木こりは、気味が悪くなり、のこぎりをおいて一目散に家へ逃げ帰って来た。 それ以来、夜になると、この森の上を青白い魂(たましい)が、ふわり、ふわりとさまよい飛んでいたと言われる。また、血の出た松の木の中には、この森の主である大蛇がいたとも伝えられる。 村人は、この森を『人魂の森』とか、『ヘビの森』とか言って、近づかなかったそうだ。おかげで今でもこの森は、ひっそりとした寂しい森のままである。 |
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●人魂について 8 | |
昭和40年代の初頭、私は三重県伊勢市の皇學館大学文学部国史学科の学生でした。皇學館大学は全国的にみても珍しい大学でした。それは2年間、基本的に寮生活を送らなければならない全寮生の大学だったからです。
当時、寮と大学は歩いて15分間の距離にありました。しかし大学のある倉田山を駆け下りて、寮がある丘まで駆け上る、約5分間で大学に行ける近道がありました。マムシ谷という名前の通り、夏になればマムシがよく出たところでした。なぜマムシ谷と言うのか先輩に聞きますと、はるか昔の先輩が、近道をするために、この道を通ったときにマムシに足をかまれ、命は助かったけれど、かまれたショックで1年間、頭の中が空っぽになり留年したと言うことでした。それ以後、マムシ谷という名前で呼ばれることになったそうです。また、このマムシ谷の近くに墓場があり、たびたび人魂が出たりしました。私も2年間の寮生活で何回も人魂を見ました。当時の伊勢市は土葬が多かったために、人魂が見られたと思います。 一昔前の葬儀は土葬が主流であったため、遺体から抜け出したリンが雨の日の夜に雨水と反応して光る現象は一般的であり、庶民に科学的知識が乏しかった事が人魂説を生み出したとする説もありますが、早稲田大学の前教授の大槻義彦氏が唱えた高圧電気( プラズマ ) 説などもあります。その大槻説とは、高圧電気が地表にかかり、空気の分子が原子核を電子に分離し、激しく動き回る時に、雷や火の玉が起きる条件が整いますと、それがある量子状態の時に、火の玉となって現れる、と言う説です。また昭和51年に・明治大学元教授のメ山名正夫氏のメタンガスによる実験、人工の人魂を作った例もあります。しかし人魂について実際に説明できないものもあり、様々な現象により生じると考えられています。 記録によれば 人魂 は奈良時代 (710〜794年)から存在していて、「万葉集」16巻(3889) にはそれを詠んだ歌があります。 人魂のさ青 ( あお ) なる君がただひとり、逢えりし雨夜は久しいとぞ思ふ ( 雨の夜に唯 一人歩いていたら、青白い人魂と出遭ったことを思いだします )。 江戸時代の正徳2年(1712) に日本で初の図入り百科事典として和漢三才図会 ( わかんさんさいず)が作られましたが、寺島良安が編纂したものです。万物を図に書いて漢文で解説していますがそれによれば、人魂は地上から3尺(約1メートル)ほどの高さを飛行し、落ちると破れて光を失うとありました。また、煮爛れた( にただれた )餅のようにも見え、人魂の落ちた場所には小さな黒い虫が多くいるとも書いてありました。 いろいろ調べてみると、上記以外にも 火球 という現象が存在することが分かりました。これにも流星などのように高空で発生する天文現象と、雷雲に関係した「光る物」の二種類がありますが、多くの人々により現象が目撃、確認されていて、それ以外にも原因不明な「光り物」があることも昔から数多く目撃されていました。あまり知られていませんが、世界のホンダの創業者、本田宗一郎氏も人魂の研究者の一人でした。 私が見た人魂は、夏ではなく冬の季節で、午後7時すぎ、大学の帰りのマムシ谷で何の気もなしに空を見上げたら、青白く、少し緑っぽい発光体が音もなくすごい勢いで走り抜けていったのです。それはゆらゆら燃えているようであり、20mほどの高さを一定速度で水平に一直線に移動して行きました。驚いたか、と聞かれますと、「おお、あれがリンの燃えている人魂か」、と言うぐらい冷静でした。しかしながら神秘的なものでした。 前述の早稲田大学の大槻教授は、熱心に火の玉の正体はプラズマだと主張して熱心にしておられ、科学者がテレビ番組で「科学的に考えれば・・・・」と言われれば何でも信じる時代ですが、私が人魂を実際に見た、と言うと、「リンが燃えている現象だ、人魂はプラズマだ」と言って済んでしまいます。 先代もよく人魂を見た話しをしていました。「人魂は、人が死んだ直後又は死ぬ直前に体から出る。おじいさんが死ぬときに、部屋が暑いから窓を開けてと言われたので、窓を開けたら人魂が出て行った」。また「生きている人の体から魂が人魂となって抜け出し、その人は人事不省に陥ったが、再び人魂が戻ってきて正気を取り戻した」という話しを先代から何度も聞かされていたので、子供のころは夜に出かれるのが怖かったのです。昔の子供は、このように幽霊や人魂、おばけの話しを年寄りから聞かされているので、夜遊びは怖くて夕方には家に帰っていたものです。 |
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●狂歌百物語・人魂 | |
誰たれ見しと なくて言ひつく 咄はなしまで 翼を添へて 走る人魂(仙台松山 千澗亭)
一念に 燃やす炎ほむらの 日高川 わたる恨みや 妄蛇なるらん(静洲園) 生ぐさき 風の誘ひて 鰯雲 かゝる絶え間を 過ぐる人魂(海樹園) 煩悩と 迷ひの雲の 中空を ふわりふわりと 出づる人魂(桃実園) 爪にまで 火ともし比ごろは ふはふはと 黄金こがね色なる 人魂の訪とふ(弥彦冨幹) 大神楽だいかぐら 毬の曲すと 見るまでに ひやらひやひや 思ふ人魂(大内亭参台) 千人の 首塚出でて 玉の緒の 百万遍も 行きつ戻りつ(月のや満丸) 犬猫と 同じ譬へに 言はれにし その人魂の 尾を引きて行く(駿府松径舎) 糸をひく 人の玉子の ふわふわは 今際いまはの息の つまり肴か(足兼) 人魂の とんだ咄に 尾が附きて 先から先へ 走り行くらん(月のや満丸) 人魂の とんだ咄を 仕出しいだして はては争ふ 顔の青筋(花林堂糸道) 飛び廻る 夜も深川の 人魂は いかなるものか 霊岸寺前(栄寿堂) 見るうちに ふと火の消えし 人魂は さぞな闇路を 迷ひぬるらん(下毛葉鹿 壺蝶楼花好) ばつたりと 逢うて逸れ行く 人魂に 我が魂の 消ゆる思ひぞ(上総飯野 一矢亭内志) 二階家やの 棟むねにせまらぬ 人魂は 心広尾の 原や訪ふらん(雲井園) 橋落ちし 時に死にたる 人魂を 永代唱ふ 回向院にて(上総 花月楼) 家の上を とんだ噂に 青ざめし 我が魂も 人に見られむ(伊勢大淀浦 春の門松也) 欲に目の なくて身失せし 人なれや 闇より闇を 迷ふ魂(常陸大谷 千別) 人魂を 見しと見ぬとの 争ひに 額ぬかより青き 筋も引くらん(青則) 人魂に 羽根が生へてや 鳥部山 あちらこちらを 飛び廻るなり(南葉亭繁美) 月花を 愛せし人の 魂とみて 哥の念仏ねぶつも 詠みて手向けん(文左堂弓雄) 下襲したがひの 妻に結ばん きもさめつ 引きし五色の いとも凄さに(駿府 小柏園) 人魂の とんだ所の まがり角 出会がしらの ぞつと襟もと(無事也) 人だまの 光も凄く ぞつとして 心細くも あとを引きけり(下毛葉鹿 壺万楼松寿) 人魂の 飛ぶとひとしく 肝玉の 消えて真黒き ぬばたまの闇(館林 美通歌垣) うそうそと 言ふを真事まことと 言ひつのり 青筋出して とんだ人魂(上総飯野 部多成) 小夜ふけて 見る人魂に 驚きて 青くなりてぞ 跡を引くらん(芝口屋) 魂を見て 結ぶ処の 下襲したがひの 褄つまをからげて 逃げる女をみなら(高見) 人魂も 無縁の墓を 抜け出でて 石にも筋の 残る青苔(清のや玉成) 結びぬる 下襲の褄 ほつれけん 糸を引きつゝ 見ゆる人魂(駿府 芝人) 青筋を 引きてちりちり 飛び行くは 癇癪持ちの 人の魂かも(尚丸) 酒ゆゑに 果てにし人の 魂かそも 後を引きつゝ 空を飛び行く(下総戸奈良 水彦) 夏草の 青野が原に 夜ごと夜ごと 燃ゆる螢や 鬼火なるらん(梅袖) |
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●「人魂乃佐青有公之但独 相有之雨夜乃葉非左思所念」 1 | |
訓読 人魂(ひとだま)のさ青(お)なる君がただひとり 逢(あ)へりし雨夜(あまよ)の葉非左し思ほゆ
意訳 人魂のようなまっ青な君がひとりきりで現れた雨夜の葉非左が思われる。「葉非左」は未詳。 「葉非左」をどう読むか。私案「はひま」と訓ずる。万葉集の個々の歌は一人が作ったものでなく、また、転写の間に多様な表記、改訂がなされたかもしれない。「葉」は「は」と読む。「山葉従(やまのはゆ):16-3803」「久受葉我多(くずはかた):14-3412」の例がある。「非」は「ひ」。「左」は、「左右」が「まで」と読む例(9-1789)があるから、「左」の一字は「ま」を充てられる。 「はひま」を漢字に充てると「駅馬・駅」ができる。広辞苑に「駅・駅馬 はいま(ハヤウマ(早馬)の約 ハユマの転)」とある。万葉集で、「駅馬・駅」に充てるものに、「はゆま」がある。「波由麻(14-3439・18-4110・18-4130)」と表記される。『日本書紀』には、「駅(はいま)に乗りて:岩波文庫4巻352頁。」「駅馬(はいま)に乗りて:同左188頁。」「馳駅(はいま)して:同左202頁。」は、注13に「早馬を馳せて」くらいの意とある。現代風の「はいま」は、「はゆま」と「はひま」から音が変化したものと思われる。 「ゆ」と「い」の音変化は、「行く・往く」、的(いくは=ゆくは)に見られる。万葉集には、接頭語の「い」も多く用いられた。なお、神聖の意を有した接頭語の「ゆ(斎)」の音転語と思われる「い」があり、…「斎垣」「斎串」「斎杭」をはじめ、この時代の文献には多く見られる。(6) 「ひ」と「い」の音変化は、川合(かわひ:播磨風土記、東洋文庫90頁。)、坂合部(さかひべ:日本書紀4巻、岩波文庫344頁。)、問菟(塗?宇とひう:同左350頁。)、使(つかひ:同左30・36頁。)、丹治井(たじひ:摂津名所図会大成巻之一、20頁。)、阿為神社、阿比或は阿井と書り。(摂陽郡談,第11、神社の部221頁。)、堺(さかひ)、念(おもひ)など歴史的仮名遣いに例が多い。 私案の解釈は、「人魂に出会って(人魂のように)まっ青になった君がただひとりで雨夜を行くのは怕(おそろ)しく、早馬があれば一刻も早くこの場所を駈け去りたいと思う(念じる)だろうよ。」 |
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●人魂乃 佐青有公之 但獨 相有之而夜乃 葉非左思所念 2 | |
大和言葉の詠み方は、
人魂の 左青なる君が ただひとり へりし雨夜の 葉非左し念ほゆ。 ひとだまの さをなるきみが ただひとり あへりしあまよの 葉非左しおもほゆ。 「葉非左」が解かれていないが、歌の意味は、凡そ、人魂の青白い君がたった独りで、出逢った雨夜の「葉非左」が思われるとなると、されている。 問題は、最後の句の読みにある、「葉非左し」については、未だに、読み解かれていない。 「葉」は、三通りの訓読みがあり、「は」か「ひら」か「えふ」と読む、さらに「よう」という漢読みがある。「は」は、今でも読んでいる読み方だから説明するまでもないだろう、「ひら」は、葉の数え方の、ひとひら、ふたひらの「ひら」で、平たい物を意味する、「えふ」は、木の葉のように、丸みに先の尖った切り込みやその尖って角をなしているところを意味する、今では、この言葉の使いかはされていない、「よう」は、いまでも使う読みだから説明もいらないだろう。 「非左」だから「右」になり「う」になる、「葉」の右は、「は」は一文字だから該当せず、「ひら」は「ら」、「えふ」は「ふ」、「よう」は「う」、すなわち、「葉非左し」は、「ひらうし」になる。「うし」は、「憂し」と「失し」の掛詞だろう。 人魂の 左青なる君が ただひとり 逢へりし雨夜の 平うし念ほゆ ひとだまの さをなるきみが ただひとり あへりしあまよの ひらうしおもほゆ 「念」は、念じる、耐える 「ひらうしおもほゆ」では、字余りになるので、「ひらうしおもふ」でいいだろう。 人魂の 左青なる君が ただひとり 逢へりし雨夜の 平うし念ふ ひとだまの さをなるきみが ただひとり あへりしあまよの ひらうしおもふ 歌の意味を解釈すれば、人魂となった青白い君がただ独り逢いにきた雨の夜、ひたすら苦しく消えてくれとじっと耐えた、よほど、雨の夜に逢いにきた、君の人魂が怖かったのでしょう。 歌を詠んだ男への深い想いがあったのに、逢えない女(死んでしまったのかも知れない)、男がすげなくしたのだろうが、女は人魂となってまで男に逢いに来た、そのことに、男は、ひたすら憂い、消えてくれとじっと耐えていたのです。 |
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●人魂の さ青なる君が ただひとり ・・・ 3 | |
・・・今日は「幽霊の日」だそうです。1825(文政8)年の7月26日、江戸の中村座で四世鶴屋南北の作による「東海道四谷怪談」が初演されました。浪人、民谷伊右衛門に毒殺された妻、お岩の復讐譚ですが、これは不義密通をはたらいた男女が殺され、戸板に縛られて神田川に流されたという、実話を基にして作られました。西洋のモンスターは、近頃頻発する殺人事件と同様、相手構わず力づくで襲いかかりますが、日本の幽霊はお上品なことに、直接手を下しません。特定の相手に取り憑いたら、狂死するまで、じんわり、しつこく恐怖を味あわせてゆくのです。寒ぶっ・・・
人魂の さ青《を》なる君が ただひとり 逢へりし雨夜の 葉非左し思ほゆ 〜作者未詳 『万葉集』 巻16-3889 雑歌 ( 人魂となった真っ青な君が ただひとり 私と出くわした 雨の夜のこと 震えあがって夢中で逃げたことを思い出すよ ) 三行目の訳文は、第5句を前文の流れから類推して、かなり適当に訳したものです。というのも、「葉非左」の語の読みかたも意味も解明されていないから。万葉集は、ひらがなもカタカナも誕生していない時代に、中国から輸入した漢字に音をあてた、いわゆる「万葉仮名」ばかりで書かれた歌集です。したがって、「古来より難読」として、平安期より現在に至るまで、多くの研究者が知恵を絞っても解読できていない歌も多く含まれています。この歌の「葉非左」がわかれば、第4句までの意味も若干変わってくる可能性もあります。この歌集の成立自体が未だにミステリーなのですから、やむを得ないところかもしれませんね。 |
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●人魂のさ青なる君がただひとりあへりし雨夜の葉非左し思ほゆ 4 | |
●1.歌
人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜乃 葉非左思所念 (万葉集 巻第16-3889) =人(ひと)魂(だま)乃(の) 佐(さ)青(を)有(なる)公(きみ)之(が) 但(ただ)独(ひとり) 相(あへ)有(り)之(し)雨(あま)夜(よ)乃(の) 葉(は)非(ひ)左(さ)思(し)所念(おもほゆ) =人魂乃(ひとだまの) 佐青有公之(さをなるきみが) 但独(ただひとり) 相有之雨夜乃(あへりしあまよの) 葉非左(はひさ)思(し)所念(おもほゆ) =人魂のさ青なる君がただひとりあへりし雨夜の葉非左し思ほゆ ●2.語句・語意・品詞分解 人魂のさ青なる君がただひとりあへりし ※人魂(ひとだま):〔名詞〕夜、空中を浮遊する陰火。ひとだま。死人から遊離したタマシイ。 ※の:〔格助詞〕…で。…であって。この「の」は、同格を表す。同格であるから、人魂=さ青なる君 「さ青なる君」は、ある日、死んだ、その直後、その死体からヒトダマが遊離し、ふわふわ空中を飛ぶ陰火、「さ青なる君」になった。 ※さ青(さを・さお):〔名詞〕真っ青(まっさお)。さ青(さあを)=強意の接頭語「さ」+名詞「青(あを)」 ※なる:断定の助動詞「なり(=…である)」の連体形。 ※君(きみ):〔代名詞〕君。あなた。 ※が:〔格助詞〕…が。この「が」は、主格を表す。 ※ただ:〔副詞〕ただ。わずかに。たった。 ※ひとり(一人・独り):〔名詞〕ひとり。 ※あへ(会へ・逢へ・遭ふ・合へ・あえ):ハ行四段活用動詞「あふ(=会う・顔を合わせる・対面する・であう・行きあう・遭遇する・戦う)」の已然形・命令形。 ※り:存続・完了の助動詞「り(=…た・…てしまった)」の連用形。 ※し:過去の助動詞「き(=…た)」の連体形。 人魂のさ青なる君がただひとりあへりし =人魂(人魂)の(で、かつ)さ青(真っ青)なる(な《陰火である》)君(君)が(が)ただ(たった)ひとり(ひとりで)あへ(であっ)りし(た) =人魂であって、かつ、真っ青な君がたった一人でであった、 =人魂の真っ青な君がたった一人で出あった 雨夜の葉非左し思ほゆ ※雨夜(あまよ):〔名詞〕雨の夜。雨が降っている夜。雨の降る夜。夜の雨。 ※の:〔格助詞〕…の。この「の」は連体格を表す。 連体格の「の」は、種々の訳になる。以下はその例・・・ 1.死出の(の=の山の麓にある)山路。 2.金の(の=で出来ている/で作った)頭環。 3.足の(の=にできた)タコ。 4.紫式部の(の=の腸にいる)回虫。 5.絶海の(の=に浮かぶ)孤島。 6.代返の(の=にかんする)依頼書。 7.七転八倒の(の=する)結石痛。 8.ズラカッタの(の=という所に住んでいる)姉。 9.ニホンアナグマの(の=に所属する・に付いている)シッポ。 10.養和の(の=の頃の・の頃に起こった)飢饉。 ※葉非左(はひさ):〔名詞〕はひさ。葉非左という名のヒトだ。 ※し:〔副助詞〕…が。…のことが。…のみ。…ばかり。この「し」は、強意。 ※思ほゆ(おもほゆ):ヤ行下一段活用動詞「おもほゆ(=思われる・思い出される)」の終止形。 雨夜の葉非左し思ほゆ =雨夜(雨の降る夜)の(の)葉非左し(葉非左のことが)思ほゆ(思われる) =雨の降る夜の葉非左のことが思われる。 ●3.現代語訳 人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜乃 葉非左思所念 =人魂のさ青なる君がただひとりあへりし雨夜の葉非左し思ほゆ =人魂(人魂)の(で、かつ)さ青(真っ青)なる(な)君(君)が(が)ただ(たった)ひとり(ひとりで)あへ(であっ)りし(た)雨夜(雨の降る夜)の(の)葉非左し(葉非左のことが)思ほゆ(思われる) =人魂であって、かつ、真っ青な君が、たった一人で出あった、雨の降る夜の葉非左のことが思われる。 =人魂の真っ青な君がたった一人で出あった、雨の降る夜の葉非左のことが思われる。 ●4.「人魂乃佐青有公之但独相有之雨夜乃葉非左思所念」の解釈 (1)万葉集古義などによる解釈 万葉集古義は、 ●よみかた 人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜葉 非左思所念 =人(ヒト)魂(タマ)乃(ノ)/佐(サ)青(ヲ)有(ナル)公(キミ)之(ガ)/但(タダ)独(ヒトリ)/相(アヘ)有(リ)之(シ)雨(アマ)夜(ヨ)葉(ハ)/非(ヒ)左(サ)思(シク)所(オモ)念(ホユ) ●歌意 「雨夜の闇きに、唯独道行ば、さらでだに心もとなくて、物おそろしきこと、かぎりなきものなるに、まして幽霊の真佐青なる君が行逢たるは、たちまち心肝も消失るようにおぼえて、そのおそろしさは、忘るるおりなく、久しくおもわるるよ。」としている。 万葉集古義の「人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜葉 非左思所念」には、「乃」が無い。 万葉集全釈も、 人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜葉 非左思所念 =人魂の さ青なる君が ただ独 逢へりし雨夜は 久しく念ほゆ =人魂の真青なその人魂に、唯一人で私が逢った雨の降る夜は、恐ろしくて夜の明けるのが久しく思われる。・・・としている。 ほかに、「非左思所念」の、「非」と「左」を入れ替えて、「左非思所念(さびしくおもほゆ)」とするものもある。「久しく」が、「寂しく」に変わるのである。 さっき、万葉集古義の「人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜葉 非左思所念」には、「乃」が無い。と記したが、万葉集古義は、「雨夜の下、類聚抄に、『乃』の字あり。これによれば、『アマヨノ』と訓みて、『葉』の字は、次の句へつくべきか、猶考ふべし」としている 古葉略類聚抄(こようりゃくるいじゅしょう)「(古葉略類聚抄は)歌書。著者未詳。写本五巻。万葉集の歌を分類したもの。もとは十二巻ばかりあったと思はれるが、現存のものは、建長二年書写の写本五冊。万葉分類書中、類聚古集についで古いのみならず、分類方法は、混雑せず統一された体をなす。大正十二年刊本あり。」 (2)「葉非左思所念」の型 人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜乃 葉非左思所念 万葉集には、名詞+強意の副助詞「し」+思ほゆ(所念・所思・於母保由)の型がある。↓ 「人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜乃 葉非左思所念」も、この型である。「思ほゆる」の下に、詠嘆を表す終助詞「かも」が付くこともある。以下の通り。 (1)仮廬し思ほゆ(巻第1-7) 金野乃、美草刈葺、屋杼礼里之、兎道乃宮子能、借五百磯所念。 =秋の野の、み草刈り葺き、宿れりし、宇治の宮処の、仮廬し思ほゆ。 (2)大和し思ほゆ(巻第1-64) 葦辺行、鴨之羽我比爾、霜降而、寒暮夕、和之所念。 =葦辺行く、鴨の羽がひに、霜降りて、寒き夕べは、大和し思ほゆ。 (3)神代し思ほゆ(巻第3-304) 大王之、遠乃朝庭跡、蟻通、島門乎見者、神代之所念。 =大王の、遠の朝庭と、在り通ふ、島門を見れば、神代し思ほゆ。 (4)都(京)し思ほゆ(巻第3-329) 安見知之、吾王乃、敷座在、国中者、京師所念。 =やすみしし、吾が大君の、敷きませる、国の中なる、都し思ほゆ。 (5)手児名し思ほゆ(巻第3-433) 勝牡鹿乃、真真乃入江爾、打靡、玉藻刈兼、手児名志所念。 =葛飾の、真間の入江に、うちなびく、たまも刈りけむ、てごなし思ほゆ。 (6)大和し所念(巻第3-359) 安倍乃島、宇乃住石爾、依浪、間無比来、日本師所念。 =安倍の島、鵜の住む磯に、寄する波、間(ま)無(な)くこのごろ、大和し思ほゆ。 (7)妹が手本し思ほゆるかも(巻第6-1029) 河口之、野辺爾庵而、夜(よ)乃(の)歴(ふれ)者(ば)、妹(いも)之(が)手本(たもと)師(し) 所念鴨。 =河口の、野辺に庵(いお)りて、夜の経(ふ)れば、妹がたもとし、思ほゆるかも。 (8)なぎさし思ほゆ(巻第7-1171) 大御舟(おほみふね)、竟(はて)而(て)佐(さ)守(もら)布(ふ)、高島之、三尾勝野之、奈伎左思所念。 =大御舟、泊(は)ててさもらふ、高島の、三尾の勝野の、渚し思ほゆ。 (9)大和し思ほゆ(巻第7-1219) 若浦爾、白浪立而、奥風、寒暮者、山跡之所念。 =若の浦に、白波立ちて、沖つ風、寒き夕べは、大和(やまと)し思ほゆ。 (10)尾花し思ほゆ(巻第8-1533) 伊香山、野辺爾開有、芽子見者、公之家有、尾花之所念。 =伊香山、野辺に咲きたる、萩見れば、君が家なる、尾花し思ほゆ。 (11)みやこし思ほゆ(巻第8-1639) 沫雪、保杼呂保杼呂爾、零(ふり)敷(しけ)者(ば)、平城(ならの)京(みやこ)師(し)、所念可聞。 =泡雪の、ほどろほどろに、降り敷けば、平城の京し、思ほゆるかも。 (12)川津し思ほゆ(巻第10-2091) 彦星之、川瀬渡、左(さ)小(を)舟(ぶね)乃(の)、得(え)行(ゆき)而(て)将(はて)泊(む)、河津石所念。 =彦星の、川瀬を渡る、さ小舟の、え行きて泊(は)てむ、川津し思ほゆ。 (13)すがたし思ほゆ(巻第11-2684) 笠無登、人爾者言手、雨乍見、留之君我、容儀志所念。 =笠なしと、人にはいひて、あまづつみ(雨障)、とまりしきみが、姿し思ほゆ。 (14)なぐやし思ほゆ(巻第13-3345) 葦辺往、雁之翅乎、見別、公之佩具之、投箭之所思。 =あしべゆく、雁のつばさを、見るごとに、きみがおばしし、なぐや(=なげや)し思ほゆ。 (15)吾家し思ほゆ(巻第18-4065) 安佐妣良妓、伊里江許具奈流、可治能於登乃、都波良都婆良爾、吾家之於母保由。 =朝びらき、入江漕ぐなる、楫(かじ・舵)の音の、つばらつばらに、わぎへ(吾家=わが家)し思ほゆ。 (16)国べし思ほゆ(巻第20-4399) 宇奈波良爾、霞多奈妣妓、多頭我禰乃、可奈之妓与比波、久爾幣之於母保由。 =海原に、霞たなびき、たづ(たづ=鶴)が音の、悲しき宵は、国べし思ほゆ。 以上、万葉集の型、名詞+強意の副助詞「し」+思ほゆ(所念・所思・於母保由)の例を記した。 要するに、「葉非左思所念」のよみかたは、葉非左思所念=葉非左し思ほゆ である。 (3)「人魂乃佐青有公之但独相有之雨夜乃葉非左思所念」の解釈 (2)「葉非左思所念」の型から、葉非左思所念=葉非左し思ほゆ 万葉集古義に、「雨夜の下、類聚抄に、『乃』の字あり。これによれば、『アマヨノ』と訓みて、『葉』の字は、次の句へつくべきか、猶考ふべし」とあるので、「乃」を入れて、人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜乃 葉非左思所念としたが、「雨夜乃(=雨夜の)」も、解釈を混乱させるモトとなっている。 5・7・5・8・8 ではなくて、5・7・5・7・8 ということもある。 それゆえ、せっかく入れた「乃」を削除する。 人魂乃佐青有公之但独相有之雨夜乃葉非左思所念−乃 =人魂乃佐青有公之但独相有之雨夜葉非左思所念 =人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜 葉非左思所念 上記の、「人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜 葉非左思所念」は、万葉集古義「人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜葉 非左思所念」の、「葉」を左側の「相有之雨夜葉」から離して、右側の「非左思所念」の上にひっつけた、「人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜 葉非左思所念」であるが、意味は、まるで異なる。 「人魂乃佐青有公之但独相有之雨夜乃葉非左思所念」の解釈 人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜 葉非左思所念 =人魂乃(ひとだまの) 佐青有公之(さをなるきみが) 但独(ただひとり) 相有之雨夜乃(あへりしあまよ) 葉非左(はひさ)思(し)所念(おもほゆ) =ひとだまの(5) さをなるきみが(7) ただひとり(5) あへりしあまよ(7) はひさしおもほゆ(8) つぎに、人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜 葉非左思所念 の中味。↓ ここでは、土地の名・ひとのな的見方をする。 人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜 葉非左思所念 =人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜 葉非左思所念 土地の名(名字):雨夜 名:葉非左 「アマヨ(雨夜)」というのは、土地の名。土地の名前をとって、「葉非左」の名字みたいなものにした。 地名そのものであってもかまわない。いずれにしろ、葉非左は、当時、アマヨに住んでいたか、住んでいるヤツだ。「アマヨ」、作者(詠み人)が、でっち上げた「地名兼姓兼アマヨノ」かも知れん。 〔訳例〕 人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜 葉非左思所念 =人魂のさ青なる君が、ただひとりあへりし、雨夜葉非左し思ほゆ。 =人魂(人魂)の(で、かつ)さ青(真っ青)なる(な)君(君)が(が)ただ(たった)ひとり(ひとりで)あへ(であっ)りし(た)雨夜葉非左(雨夜葉非左→よみかたは「アマヨノハヒサ」でもいい)し(のことが)思ほゆ(思われる) =人魂で、真っ青な君が、たった一人で出あった、雨夜葉非左(よみかたは「アマヨノハヒサ」でもいい)のことが思われる。 =人魂の真っ青な君が、たった一人で出あった、雨夜葉非左のことが思われる。 万葉集は、以上の観点からも見直す必要がある。 |
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●火の玉 1 | |
●1 丸い火のかたまり。特に、墓地や沼沢などで、夜、燃えながら空中を飛ぶように見える光の塊。おにび。ひとだま。ひだま。雑俳・すがたなぞ(1703)「火の魂が米やの軒をこけあるく」。2 激しく闘志を燃やして事に当たるさまをいう。ロマネスク(1934)〈太宰治〉喧嘩次郎兵衛「数千の火の玉小僧が列をなして畳屋の屋根のうへで舞ひ狂ひ」。3 取引市場で、熱狂的な相場をいう。〔取引所用語字彙(1917)〕。
●1 球状の火のかたまり。特に、夜、墓地などで空中を飛ぶという火のかたまり。鬼火。人魂ひとだま。2 激しく闘志を燃やすようすなどをたとえていう語。「火の玉となって戦う」。 |
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●火の玉の正体って? 2 | |
人が亡くなったときや、亡くなる2〜3日前に、魂が体から離れて飛ぶことを火の玉(人魂(ひとだま))といいます。この世に心残りがあるために、さまよい出てくると、昔から考えられています。
きもだめし大会のときの怖い話としては定番の火の玉ですが、その正体を科学的に証明しようといろいろな説があるようです。 ひとつは、昔は人が亡くなると土葬(どそう)と言ってそのまま土に埋めていました。そのとき亡くなった人の体からリンという科学物質が出てきて、雨水と反応して光るというものです。 また他にもホタルなどの昆虫や光る植物を見間違えたという説や、電気現象、自然の中でガスが発生したものに火がついたものなど、いろいろな説があります。 このような話を知っておくと、これからはきもだめしで火の玉の話を聞いても、ちょっとは怖くなくなるかもしれませんね。それでもやっぱり怖い・・・かな? |
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●火の玉は本当にあるの、正体は何 3 | |
火の玉というのは本当に存在するのです。しかし、昔からいわれているような、死んだ人のたましいが光っているものとはちがいます。このことは、ようやく最近になってわかってきたことです。最近では、火の玉を実験で作ることに成功した大学の先生もいます。
火の玉は、プラズマという一種の電気のようなものが原因(げんいん)で発生します。この火の玉は、ぼんやり光ったり、ゆらゆらと動いたりするもので、めったに起こる現象(げんしょう)ではないようです。火の玉というのは、雷(かみなり)のように、自然の中で起きる電気のいたずらであると考えられ、おばけやゆうれいとは何の関係もないものなのです。 |
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●火の玉なんじゃろ 4 高知県宿毛市 | |
●その1
最近火の玉の研究もなかなか熱心にやられるようになり、日本でも早稲田大学の大槻先生など火の玉観測情報センターをつくって研究しているようです。 さてその火の玉、世の中が昔とちごうてそうぞうしくなると出て来るのがいやになるのか、近頃あんまり出会うたという話を聞かんが、 夏の夜など涼み台に集まって聞くお化けの話。そこではたいてい一役買っていたものだし、出会った人もたくさんおった。 お墓の中から燐が飛び出る。たいていの人がそんなことを言うたが、それもおかしなことだろう。 ●その2 中学生以上のみんななら知っているだろうが、普通では黄燐(おうりん)赤燐(せきりん)、そのうち気温があがって自然に燃えるのは黄燐ということだ。 第二次大戦でアメリカ軍が使った黄燐焼夷弾(おうりんしょういだん)、木造の家を焼く大きなマッチだったと言えるが、たしかに燃える。 墓場の穴から飛び出すことまでは考えられても、それだけの熱をだすなら火の玉の飛んだ所は火事騒動がついて来る。そう考えるとおかしなことだろう。大小、色もさまざまなのもを何度か見たが、わらぐろにさえ火はつかない。 ●その3 何年か前メタンの様なガス説も出たが、これも同様おかしいとこがある。 光を出す虫のかたまりと言った人もあるそうだが、電線にかかって四方八方に輝きながら飛び散って消えた火の玉。 丁度夜明けの頃だったが、明るくなって調べてもそれらしいものの一つも見当たらない。 舟底を走る火の玉もあるが、それは夜光虫のかたまりだと言うことを否定は出来んが。中には蛍を食ったひき蛙が うごくと火の玉に見えるんだという説まである次第で、今のとこなんともこれだと言い切ることはむつかしそうだ。 火の玉が飛ぶのは夏だとは限らない。墓場とも限らない。 ●その4 町の中でも出ることがあるし、道路わきから出ることもある。 学生時代に見た営所での火の玉なんか今でもはっきり覚えているが、あるいは小中学生のみんなのおじいさん達の中にはそれを知っている人がおられるかも知れん。 どす黒い様な赤色のバレーボール位の丸い玉。東の空から西に向けて兵舎の上空を飛んで行く。 時間は午前一時すぎ、召集のすこし年のいかれた兵隊さんが、戦地に向うときだけ飛ぶと、お世話になっていた班長さんが話してくれた。憲兵(けんぺい)の一人がスパイの信号ではないことだけははっきりしたが、どれだけさがしても原因は 判らない、と話してくれた。 なんとも不思議な気持ちで見た火の玉だった。 ●その5 空気の原子や分子がこわれてプラズマ状態になり、言えば稲光(いなびかり)の様なものといった考え方。 自然にある放射線が空気の原子や分子を火の玉にする。こんな考え方が今の所一番進んだ考え方と言われるが、 それにしてもいろいろな火の玉を実際見てくると決まりきった説明がつくもんだろうかとうたがいたくなる。 お化けの話につきもんだったからといって、火の玉に取って食われた人はない。学者はその正体をつかもうと調べ始めた。 お家の人にも聞いてみたら面白い話が出て来るかも知れん。 すこうしかたい話になってしもうたが、若い人達こんな話も頭のすみにちょっとおいてもらうと有難い。 ちょっとちごうた話になって相すみません。 |
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● 光玉 | |
[ヒカリダマ] 奈良県吉野郡吉野町。夜道を1人で歩いていたら、山の上のほうから、光玉が飛んだ。赤い色がだんだん柿色になった。高い所を飛んでいたのだが、自分に近づいて来るようで、力が抜けて座り込んでしまった。 | |
●火の玉・ひかり玉 | |
群馬県利根郡みなかみ町。ループトンネルのある山で、6人いっぺんに火の玉を見た。1尺(30p)ほどの大きさだった。何かあると思ったが、その日、トンネルの事故で人が死んだ。 | |
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●金霊 | |
[金玉、かねだま、かなだま]
日本に伝わる金の精霊、または金の気。厳密には金霊と金玉は似て非なるものだが、訪れた家を栄えさせるという共通点があり、金玉が金霊の名で伝承されていることもある。ここでは金霊、金玉の両方について述べる。
鳥山石燕による江戸時代の妖怪画集『今昔画図続百鬼』によれば、善行に努める家に金霊が現れ、土蔵が大判小判であふれる様子が描かれている。石燕は同書の解説文で、以下のように述べている。 「金だまは金気也 唐詩に 不貪夜識金銀気といへり 又論語にも富貴在天(ふうきてんにあり)と見えたり 人善事を成せば天より福をあたふる事 必然の理也」 「不貪夜識金銀気」は中国の唐代の詩選集『唐詩選』にある杜甫の詩からの引用で、無欲な者こそ埋蔵されている金銀の上に立ち昇る気を見分けることができるとの意味である。 また「富貴在天」は文中にもあるとおり、中国の儒教における四書の一つ『論語』からの引用で、富貴は天の定めだと述べられている。これらのことから石燕の金霊の絵は、実際に金霊というものが家に現れるのではなく、無欲善行の者に福が訪れることを象徴したものとされている。 同時期にはいくつかの草双紙にも金霊が描かれている例があるが、いずれも金銭が空を飛ぶ姿で描かれている。1803年(享和3年)の山東京伝による草双紙『怪談摸摸夢字彙(かいだんももんじい)』では「金玉(かねだま)」の名で記載されており、正直者のもとに飛び込み、欲に溺れると去るものとされている。 昭和以降の妖怪関連の文献では、漫画家・水木しげるらにより、金霊が訪れた家は栄え、金霊が去って行くと家も滅び去るものとも解釈されている。また水木は、自身も幼い頃に実際に金霊を目にしたと語っており、それによれば金霊の姿は、轟音とともに空を飛ぶ巨大な茶色い十円硬貨のような姿だったという。 東京都青梅市のある民家では、実際に人家に金霊が現れたという目撃例がある。家の裏の林の中に薄ぼんやりと現れるもので、家の者には恐れられているが、その家でも見れば幸運になれるといわれている。 似た仲間に、江戸時代の怪談本『古今百物語評判』に記述されている「銭神(ぜにがみ)」がある。銭霊(ぜにだま)ともいい、黄昏時に世界中の銭の精が薄雲状となって人家の軒を通るもので、刀で切り落とすと大量の銭がこぼれ落ちるという。同書の著者・山岡元隣によれば、これは世界中の銭の精が集まって、空中にたなびいているのだと解説されている。 ●金玉 その名の通り玉のような物または怪火で、これを手にした者の家は栄えるという。 東京都足立区では轟音と共に家へ落ちてくるといい、千葉県印旛郡川上町(八街市)では、黄色い光の玉となって飛んで来たと伝えられている。 静岡県沼津地方では、夜道を歩いていると手毬ほどの赤い光の玉となって足元に転がって来るといい、家へ持ち帰って床の間に置くと、一代で大金持ちになれるという。ただし金玉はそのままの姿で保存しなければならず、加工したり傷つけたりすると、家は滅びてしまう。 江戸時代の奇談・怪談集である『兎園小説』では、1825年(文政8年)の房州(現・千葉県)での逸話が語られている。それによれば、丈助という農民が早朝から農作業に取り掛かろうとしていたところ、雷鳴のような音と共に赤々と光り輝く卵のようなものが落ちて来た。丈助はそれを家を持ち帰り、秘蔵の宝としたという。この『兎園小説』では「金玉」ではなく「金霊」の名が用いられているため、金霊を語る際にこの房州での逸話が引き合いに出されることがあるが、妖怪研究家・村上健司はこれを、金霊ではなく金玉の方を語った話だと述べている。また同じく妖怪研究家の多田克己は、この空から落ちてきたという物体を、赤々と光っていたとのことから、隕鉄(金属質の隕石)と推測している。 東京都町田市のある家では、文化・文政時代に落ちてきたといわれる「カネダマ」が平成以降においても祀られているが、これも同様に隕石と考えられている。 |
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●狂歌百物語・金玉 | |
塗籠ぬりごめの 窓飛び出だし 金玉は 左官の家に 住替すみかへやしつ(花林堂糸道)
羽根生えて 利足も高く 飛び歩ありく 烏に貸せる 金の玉かも(朝霞亭) 怖ろしと 見し人をもて 言はしむる 天に口なし 色の金玉(和風亭国吉) 爪に火を ともして溜めし 金玉の 飛び行く方へ 指をさしけり(遠江見附 草の舎) 金玉も 爰ここに筋目を 引窓の しめくゝりよき 家に落ちけり(艶芳) 誰たれか腰 冷やし果てゝや 飛びぬらん 寒けだちぬる 夜半の金玉(信濃飯田 清因) 万燈の やうに見えねど いにしへの 長者が跡に 光る金玉(藤紫園友成) 銭でさへ 阿弥陀と光る 諺に 百はい光る 夜半の金玉(升友) 物言はぬ 山吹色の 金だまの 主ぬしは誰たれとも わからざりけり(駿府 松径舎) 瑠璃色を 帯びて光れる 魂たまはしも お歯黒壺に 埋うづむ金かも(尚丸) きん玉と 称となへは同じ かね玉を 妹いもは褌ふどしを 外してぞ追ふ(春道) 金玉も 蔵の網戸に かゞやきて 光りを放つ 観音びらき(花前亭) 抑へんと すれども出来いでき 金玉に 出す二布ふたぬのも 空色にして(香好) 明け近き 空に三つ四つ 飛びにけり 烏に貸して 溜めた金玉(喜久也) 山吹の 色かあらぬか 金玉は 見とまらざりし 内に消えけり(日年庵) うなりつゝ 飛びて光は 青山の 長者が丸に 落つる金魂かねだま(南向堂) 積み溜めて いけし茶壺の 金玉も 飛びて出花の 山吹の色(雛の舎市丸) 菜の花の 色に光るは 誰が油 絞りて溜めし 金の玉そも(常陸大谷 緑蔓園) 口なしの 色に光るは 喰ふ物も 食はで溜めにし 金の玉かも(江戸崎 緑樹園) あれと指 さす間に消えつ 爪に火を 燈して是も 溜めし金玉(常陸村田 菊成) 金玉の 飛びし長者の 明あきやしき 先祖に泥を 塗籠のあと(足兼) 真直ますぐなる 心で見れば 何のその 浮世を横に とんだ金玉(上総大堀 花月楼) 爪に火を 燈せし人の 執念や 凝りて明るく 燃ゆる金玉(京 花兄) 門跡の 家根に光りて 金玉の とんだ噂も 今菊の門(雅学) 飛ぶにさへ 黄金色なる 金玉の 財布の紐や あとを引くらん(星の屋) 見し人も 又聞く人も めずらしと いふ金玉の 飛んだ事をば(金丸) 爪に火を 燈して溜めし 金玉か 闇にも光り かゞやきて飛ぶ(駿府 松径舎) 中空を 真直ますぐに飛んだ 金玉は 利追ひに曲がる 道を嫌ふか(松の門鶴子) 飛び落ちた 処を縁と 草の根を 分けて尋ねて ありし金玉(弥彦庵冨幹) |
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●地震光 | |
[じしんこう]
テクトニクスの力、地震活動、火山噴火が起きている地域もしくはその近くの空に現れるといわれる光の大気現象である。懐疑主義者は、この現象の理解が不十分であり、報告された目撃情報の多くが平凡な説明により説明できてしまうと指摘している。
●外観 地震が発生している間に光が現れると報告されているが、1975年のKalapana地震に関する報告書のように地震の前後に光の報告があるものもある。これらは白から青みを帯びた色で、形はオーロラに似ていると報告されているが、時折もっと広い色スペクトルを有すると報告されている。光は数秒間見ることができると報告されているが、数十分続くとも報告されている。震央から見ることができる距離も様々であり、1930年の北伊豆地震では震央から最大110kmの場所で光が報告された。2008年の四川大地震では、震央から北東約400kmに位置する天水市で地震光が報告されている。 2003年のメキシコのコリマ地震では、地震が起こっている間に空にカラフルな光が見られた。2007年のペルー地震では、海上の空で光が見られ、多くの人々により撮影された。この現象は2009年のラクイラ地震や2010年のチリ地震でも観察され、フィルムに収められている。2011年4月9日の桜島の噴火の際にも、これがビデオ映像として記録されている。1888年9月1日に起きたニュージーランドのアムリ地震でも報告されており、このとき光はReeftonで9月1日の朝に観察され、9月8日に再び観察された。 この現象のビデオに記録された最近の出現は、2014年8月24日にカリフォルニア州ソノマ郡、2016年11月14日にニュージーランドのウェリントンで雷のような青い閃光が夜空に見られた。2017年9月8日、チアパス州のピヒヒアパン近くで起きた8.2マグニチュードの地震で、740km離れたメキシコシティで多くの人がこの現象を目撃したことが報告されている。 地震光の出現は、マグニチュード5以上の高いマグニチュードの際に発生すると思われる。また、地震が起こる前に黄色の玉状の光が現れている。 ●種類 地震光は出現時刻に基づいて2つの異なるグループに分類することができ、(1)一般に地震前数秒から数週間に発生するプレシーズミックEQL、(2)震央付近(地震誘導応力)もしくは地震波列の通過中、特にS波の通過中の震央から離れたところ(波誘導応力)に発生するコシーズミックEQLがある。 より低いマグニチュードの余震のEQLは珍しいと思われる。 ●考えられる説明 地震光の研究は進行中であり、このようにいくつかのメカニズムが提案されている。正孔モデルはその1つである。 いくつかのモデルでは、地震前・地震時に高い応力がかかり、いくつかの種類の岩石(ドロマイト、流紋岩など)のペルオキシ結合が破壊されることにより起こる酸素が酸素陰イオンになるイオン化がEQLの生成に関与していることが示唆されている。イオン化の後、イオンは岩石中の亀裂を通り上に上がる。一度それらが大気に達すると、空気のポケットをイオン化して光を放射するプラズマを形成する。実験室での実験では、高い応力レベルが印加された際に岩石中の酸素がイオン化することが確認されている。研究は、断層の角度が地震光発生の可能性に関係あることを示唆しており、地震光が多く発生する裂け目の環境では副垂直(ほぼ垂直)断層がある。 1つの仮説では、石英を含む岩石の地殻運動により圧電的に作られた強い電場を伴うものもある。 もう1つ考えられる説明は、近く応力の領域における地球の磁場および/また電離層の局所破壊であり、これの結果として低高度および大きな気圧における電離層放射再結合もしくはオーロラとして観測されるグロー効果が生じる。しかし、この効果はすべての地震においてはっきりせず、明確に観察されておらず、未だ実験的には直接実証されていない。 アメリカ物理学会の2014年3月大会では、地震の際に明るい光るが現れることがある理由に可能な説明を与えるための研究が行われた。研究によると、同じ材料の2層がお互いに擦れ合うと電圧が発生すると述べている。調査を行ったラトガーズ大学のTroy Shinbrot教授は、地球の地殻を模すために異なる種類の穀物を用いて実験を行い、地震発生をエミュレートした。「穀物が開いたとき、正の電圧スパイクを測定し、閉じたときに負の電圧スパイクを測定した」この亀裂により電圧が空気中に放出され、空気中に電圧が印加、空気が帯電し明るい電気光が生成される。行われた研究によると、この電圧スパイクは行われた全ての材料で毎回生成された。この事象の理由は明らかになっていないが、Troy Shinbrot教授は摩擦発光という現象を参照した。研究者たちはこの現象の根底に達することで、地震学者が地震をより予測できるようにするための情報を多く提供できることを望んでいる。 ●批判 Brian Dunningによると、研究者たちは地震光の「確認された観測」がないことを心配する必要がある。それらが起こった時や場所に一貫性がないのは危険である。それが「1つで、既知で、証明された現象ではない」可能性がある。しかし、YouTubeのようなサイトが現れてから、かなりの量のビデオ映像が上がっている(1つの例として2017年のメキシコ地震)。ただし一貫性のある説明はなされていない。「驚異的な量の文献がある... これらの論文のほとんどは合意点がない... 私はこれらの熱心な研究者のうち何人がハイマンの定言命法『説明するものがあると確信を持つまで、何かを説明しようとするな』を知っているのかと疑問に思わざるを得ない」Dunningの最終的な結論は「ちゃんとした証拠が保留」になるまで地震光の主張に対しては懐疑的である。 Robert Sheafferは、多くの懐疑主義者と科学ブロガーが、主張のソースを調べたり光とは何かについての基礎研究をしたりせずに地震光を本当の現象として受け入れていることに驚いたと書いている。彼のブログBad UFOで、人々が地震光であると主張するものの例が示されており、次に同じように見える彩雲の写真を示している。彼は「『地震光』がどのように変化するかは実に注目すべきことです。時には小さな球体で山を登っているように見え、時に稲妻のように見えます。彩雲のように見えるときもあります。地震光は、あなたが熱心に証拠を求めているとき、まったく同じように見えてしまうかもしれない」と述べている。 Sharon Hillは、地震光には科学がなく、充分な研究がなされていないと書いている。全ての地震が同じではなく、「拡大」と「圧縮」断層が「地表面下と同様に地表面上で異なる挙動」を生じさせる可能性があると述べている。彼女は、懐疑主義者がなぜこの「信頼性がなく、再現性がなく、不十分な説明のために」起こるかもしれないことを確認するのに消極的であるのかを理解している。また、可能性としては「強い地震が電気配線を壊し、変圧器を爆発させている」というものがある。地震に関する電気信号の研究が増えれば、この現象をより深い理解が得られるだろう。 |
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●野宿火 1 | |
『絵本百物語』にある怪火です。
これは「狐火」でも「草原火」でもなく、田舎道や街道、山中などに出現するもので、人のいないところでほとほとと燃えては消え、消えては燃えを繰り返します。時として人が騒ぎ歌う声などが聞こえることもあるといいます。 |
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●野宿火 2 | |
日本の伝承に伝わる怪火の一種。江戸時代の奇談集『絵本百物語』に記載される怪火の一種。
記述によれば、田舎道や街道、山中などで何者かが火を焚いたかの様に出現する、ほとほと燃える細い火で、特に人が集まった後に人気のない場所や遊山に行った人が去った後に現れ、消えたかと思うと燃え上がり、燃えたかと思えば消えるという事を繰り返すとされる。 また、雨降りの後などに木々の間から、そっと野宿火を覗くと、その周囲からは人が騒ぎ歌う声などが聞こえる事もあるといわれている。 |
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●野宿火 3 | |
野宿火(のじゅくび)は『絵本百物語』で紹介される怪火。竹原春泉の挿絵ではただの焚き火のような絵が載っている。田舎道、街道、山の中など、どこにでも出没するようで、人がいなくなった後で、誰もいないのに燃えては消え、消えては燃えを繰り返す。人が騒いだり歌ったりする声だけが聞こえてくる。乞食が朝早くに起き出した跡や、野山に遊びに出掛けた人が帰った後、お花見や紅葉狩りなどのイベントの後などに出現するので、もしかしたら、そこにしばらくいた人の気持ちがその場に残って、このような火となって現れるのかもしれない。
「田舎道は更にて、街道山中抔いづこにもあり。誰が焚捨たるとはなしに、人なき跡にほとほとと然上りては消、きえては又もゆ。したじ焚しめたるほむらの消ては然るを野宿火と云。乞食の暁起出てたる跡、遊山に人の去りたる後、何れもものすごし。雨の後抔に然立たるを木の間がくれにみれば、人のつどひてものいふさまなどにことならず。哀に物すごくしてすさまじきものは野宿火也。きつね火にもあらず、草原火にてもなく、春は桜がり、秋は紅葉がりせしあとに火もえあがり、人のおほくさわぎ、うた唱ふ声のみするは野宿の火といふものならん。」『絵本百物語』巻第壱第七「野宿火」より |
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●野宿火 4 | |
江戸時代の奇談集『絵本百物語』にある日本の怪火の一種。
『絵本百物語』本文の記述によれば、田舎道、街道、山中などで、誰かが火を焚いたかのように現れる細い火であり、特に人が集まって去った後や遊山に行った人が去った後に現れ、消えたかと思うと燃え上がり、燃えたかと思えば消え、これを繰り返すとある。 「雨の後(のち)などに然立(もえたち)たるを木(こ)の間(ま)がくれにみれば、人のつどひてものいふさまなどにことならず」とあることから、雨降りの後などに木々の間から野宿火をそっと覗くと、その周囲から人の話し声が聞こえたとする説もある。鬼火の一種であり、火と言っても熱は発さず、周囲の木を燃やしたりすることはないとする解釈もある。 ●類話 寛保時代の雑書『諸国里人談』には「森囃」(もりばやし)と題して以下のような話が述べられており、『絵本百物語』の「野宿火」は、この「森囃」を描いたものと考えられている。 享保時代初期。信濃坂(現在の岐阜県中津川市と長野県阿智村の境にある神坂峠)である年の夏、毎晩のようにどこからか囃子の音が聞こえ、笛や太鼓や数人の声が十町(約1キロメートル)四方に響くようになった。それらの音は近くの森の中から音がすることが次第にわかったが、その場所では篝火が焚かれているのみで、人の姿はなく、ただ囃子の音だけがしていた。翌朝にその場所を見ると、木の枝の燃えさし、1尺ほどに切られた竹などが捨てられていた。噂を聞いた人々は、面白がってこの怪異を目にしようと、その地に多くの見物人が集まるようになった。やがて、秋、冬と季節が流れるに連れて囃子の音は弱まっていったが、翌年の春頃には、謎の囃子の原因が一向につかめないことから人々は恐怖心を抱き、囃子の流れる夜になると決して外出しないようになった。春が過ぎると囃子の音は途絶え、ついに正体はわからないままだったという。 |
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●火柱 1 | |
[ひばしら]
空中に赤気が立ち上る姿が火の柱のように見えるという怪奇現象である。高さ7、8尺ないし数丈の火が地上または山上に立つという。俗に大火の前兆であるともいい、火柱の立った家は、娘が人身御供に成らねばならないという。
火柱は『吾妻鏡』(仁治元年2月4日)、『元正間記』、『益軒先生与宰臣書』などに記述があるが、その正体については不明である。『北条九代記』には、「火柱相論条、仁治三年(二年か?)二月四日戌の刻ばかりに、赤白の気三条西方の天際に現じ、漸く消えて後に赤気の一道、その長七尺ばかりに見えて耀けり。陰陽師泰貞朝臣御所に参りて申しけるは、此天変を彗形の気と名付け、俗説に火柱と申習はす。昔村上天皇の御宇、康保年中に出現せしこと旧記に載せられ候と申す」とある。 |
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●元正間記 / 大火事大地震の事 元禄16年11月23日(1703/12/31) | |
其頃江戸に火柱と云もの有たり、晩七ッ過ゟ初北之方ニ見へたり山の根より空へ弐丈斗赤く幅二尺斗ニ見へたり、南の方へ倒れて其火柱日を追て南へ〳〵と廻りけり、火事夫ニ随ひ三月初本郷の末より焼出し小日向を焼、其次に小日向ゟ出て四日市迄焼、其次本村ゟ焼出青山、赤坂迄焼、其次麻布竜土ゟ焼出品川本宿迄焼たり、日数四十日斗火柱に随て北より南へ焼て火柱日柱見へず、勿論其頃は大事繁き江戸なれハ火柱に随ひ焼たるハ気のへりたる事也、南の方ニてハ火事の来るを待て居たり然るに、其年霜月廿三日夜丑の刻江戸大地震ニて諸大名の屋敷〳〵ハ云に不及、町〳〵ゆり倒れ男女死人怪我人夥敷、水戸殿御門前二百間斗倒れたり、浅草観音の塔九輪折れて大地へ落、神社仏閣大きに痛ミ、御城ハ数ケ所御櫓土台より倒れしも有、二重三重目ゟ震ひ崩れしもあり、大手桜田御門大きに傾き鉄を以巻たる御門の柱さけ、弐十間余の棟木震り打御堀水往来へ打上けたり、御本丸西の丸ハ慥ニ不知、惣して江戸中の見付〳〵残りなく御多門ハ崩れたり、此節一位桂昌院様押ニ打れ御逝去なりと云ふ併し深く隠して翌年二月廿三日御逝去の沙汰に及ふ、其夜甲府様外桜田御屋鋪御厩ゟ出火し五十間余里焼失たり御殿ハ別条なし、焼死人大勢の由、此地震ゆり出の強き事右の如くニ而地震止事なく昼夜十五六度也、日数立ニ随ひ少〳〵ゆるといへ共初の地震ニ手こりして上下共庭に仮屋を作りて本家に居られず、箱根にてハ大石抜ケ出往来をふさき、翌年上杉弾正へ往環道作り抜石取捨の御手伝被仰付けり、其節狂哥に
此度ハ箱根の山の御手伝ひ 又大石にこまる弾正 江戸初りての大地震にて人々薄氷を踏む思ひをなしけり、同廿五日水戸宰相殿奥長庵ゟ出火して折節大風烈しく吹立、三方ニ別れ大火と成る。一方ハ鳶坂ゟ本郷江焼上り加賀殿柳原を始として湯嶋天神、神田明神、聖堂やく、其比丘夫ゟ神田残らす東叡山、谷中、三崎、下谷、浅艸雷門を限り夫ゟ駒形、竹町、聖天町、山谷迄焼たり。一方ハ小石川ゟ小石町へ焼、筋違橋へ入須田町、田町ゟ豊嶋丁へ広がり夫ゟ本丁、石丁初め下町残らず、一口ハ八丁堀、鉄炮洲、霊巌嶋、佃嶋ゟ深川八幡迄焼。一口ハ伝馬丁、堺丁、浜丁、河岸残らす両国橋迄焼落死人三万人の余有之、死がいを河岸に積上て見るに身の毛もよたつ斗也、火事ハ本所へ飛、石原、亀戸ゟ四ッ目通り五百羅漢、猿江迄焼たり。五十年已来の大火也、是を水戸様火事と云、狂哥に 猿楽や田楽斗お好ゆへ 水戸宰相味噌を付たり 本郷加賀宰相殿屋敷八丁四方の積りにて広大成る屋敷也、右之通の大火故江戸中の職人諸弟へ頼まれ勿論材木屋も売切たり、加賀殿屋敷早速板かこひ可有所右の通り広大なる屋敷故板材木大工木挽手づかへ半年斗かこひ無之、天下に壱人の大録殊に金持の沙汰を得たるに無其儀又細川越中守殿ハ隠れなき摺切ニ而、出入の町人に一切払無きに付世上の沙汰止時なし、又吉良上野介去年最期の躰甚た未練也笑草也依之其頃のかる口に いて其頃の恥かきハ梅鉢九やうに桐のとふ加賀ニかこひなし越中ニ払ひなし上野に首なし合せて三人衆行焼に火をとかし辻番かしこまつて候 霜月廿三日ゟ江戸中の騒動大方ならす、如此凶事なれハ翌正月ハ恵方から万歳来ると祝ひ直し、元録十七年の三月朔日ゟ年号改り東叡山の桜も色増り、亀戸の藤の花も時めき替らぬ江戸の繁昌也、然に改元有て間もなく紀州の鶴姫君様御急病ニて御逝去也、将軍秘蔵の姫君故御歎きの(カ)程さこそと思ひ知られたり、江戸ハ申ニ不及諸国鳴物停止元録十七年宝永と改たまるを(下略) |
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●火柱 2 | |
●空中に立ちのぼって柱のように見える赤い気。吾妻鏡‐仁治二年(1241)二月四日「白赤気三条出現〈略〉泰貞朝臣最前馳二参御所一。申云。此変為二慧形一、異名火柱也」。柱のかたちに高く空中に燃え上がった火。また、稲妻など空中を走る火。火の柱。世話詞渡世雀(1753)上「火柱にもだき付度折から」。火事の前兆といわれる幻覚。火柱が見えると近いうちに火災があるという。
●柱のように空中に高く燃え上がった炎。「ガス爆発で火柱が立つ」。 ●・・・これだけいって、腰こしの般若丸はんにゃまるをひき抜ぬいたが、その刀身とうしんは、いきなりまっ赤かにひかって見えた。うしろの炎ほのおはもう高い火柱ひばしらとなっていた。・・・吉川英治 ●・・・その次の瞬間、弦三の眼の前に、瓦斯ガスタンクほどもあるような太い火柱ひばしらが、サッと突立つったち、爪先から、骨が砕けるような地響が伝つたわって来た。・・・海野十三 ●・・・もっとも敵の地雷火じらいかは凄すさまじい火柱ひばしらをあげるが早いか、味かたの少将を粉微塵こなみじんにした。が、敵軍も大佐を失い、その次にはまた保吉の恐れる唯一の工兵を失ってしまった。・・・芥川竜之介 ●・・・不斷ふだんは、あまり評判ひやうばんのよくない獸やつで、肩車かたぐるまで二十疋にじつぴき、三十疋さんじつぴき、狼立おほかみだちに突立つツたつて、それが火柱ひばしらに成なるの、三聲みこゑ續つゞけて、きち/\となくと火ひに祟たゝるの、道みちを切きると惡わるいのと言いふ。・・・泉鏡花、泉鏡太郎 ●・・・かヽる人々ひと/″\の瞋恚しんいのほむらが火柱ひばしらなどヽ立昇たちのぼつて罪つみもない世上せじやうをおどろかすなるべし。・・・樋口一葉 ●・・・僕の好奇心は火柱ひばしらのようにもえあがったけれど、博士の沈痛ちんつうな姿を見ると、重かさねて問とうは気の毒になり、まあまあと自分の心をおさえつけた。・・・海野十三 ●・・・炎々たる城頭の火柱ひばしらは、郊外十里の野づらを染めて夜もすがらな城内の人声が、赤い雲間に谺こだましている——・・・吉川英治 ●・・・いま其その影かげにやゝ薄うすれて、凄すごくも優やさしい、威ゐあつて、美うつくしい、薄桃色うすもゝいろに成なると同時どうじに、中天ちうてんに聳そびえた番町小學校ばんちやうせうがくかうの鐵柱てつちうの、火柱ひばしらの如ごとく見みえたのさへ、ふと紫むらさきにかはつたので、消けすに水みづのない劫火ごふくわは・・・泉鏡花、泉鏡太郎 ●・・・と、下からまっ赤かな火のかげが、開ひらいたなりに、パッと天井てんじょうへうつった。まるで四角かくな火柱ひばしらのように。・・・吉川英治 ●・・・そしてほっと一息ついたおりしも、天地もくずれるような音がして、目の前にものすごい火柱ひばしらが立った。第二研究室が、大爆発を起こしたのだった。なにゆえの爆発ぞ。海野十三 ●・・・おりしも雷鳴らいめいがおこって、天地もくずれるほどのひびきが、山々を、谷々をゆりうごかす。三角岳の頂上に建っている谷博士たにはかせの研究所の塔とうの上に、ぴかぴかと火柱ひばしらが立った。・・・海野十三 ●・・・と、かれがもらした痛嘆つうたんのおわるかおわらぬうち、遠き闇やみにあたって、ズーンと立った一道の火柱ひばしら、それが消えると、一点の微光びこうもあまさず、すべてを暗黒がつつんでしまった。・・・吉川英治 ●・・・「あっ、火柱ひばしらだ。湖の中から、火柱が飛出した。あっ、火柱が飛ぶ。火柱が飛ぶ」・・・海野十三 ●・・・その第一。火柱ひばしらの発見者で、そのために大怪我をした友永千蔵という男は、怪我を・・・海野十三 ●・・・「ははあ、なるほど。では、親類の方ですね」と、かの青年は、ひとり合点をして、「それなら話してあげましょう。千蔵さんは、ゆうべ火柱ひばしらにひっかけられて、大怪我をしたのですよ」・・・海野十三 ●・・・なんでも雷かみなりさまを塔の上へ呼ぶちゅう無茶むちゃな実験をなさっているうちに、ほんとに雷さまががらがらぴしゃんと落ちて、天にとどくような火柱ひばしらが立ちましたでな、それをまあ、ようやく消しとめて・・・海野十三 ●・・・鳥山石燕《百鬼夜行図》にはキツネがくわえた骨から燐火が出ている図が狐火として描かれており,鬼火と結合したものと思われる。なお,川岸によく出現するという火柱も狐火の変形とされるが,こちらはイタチのしわざといわれ,火柱の倒れた方向に火災が起こると信じられている。・・・ ●・・・もっとも敵の地雷火は凄まじい火柱をあげるが早いか、味かたの少将を粉微塵にした。が、敵軍も大佐を失い、その次にはまた保吉の恐れる唯一の工兵を失ってしまった。これを見た味かたは今までよりも一層猛烈に攻撃をつづけた。――と云うのは勿論事実ではない・・・ 芥川竜之介「少年」 ●・・・風の音、雨のしぶき、それから絶え間ない稲妻の光、――暫くはさすがの峨眉山も、覆るかと思う位でしたが、その内に耳をもつんざく程、大きな雷鳴が轟いたと思うと、空に渦巻いた黒雲の中から、まっ赤な一本の火柱が、杜子春の頭へ落ちかかりました。 杜・・・ 芥川竜之介「杜子春」 ●・・・その第一行から、すでに天にもとどく作者の太い火柱の情熱が、私たち凡俗のものにも、あきらかに感取できるように思われます。訳者、鴎外も、ここでは大童で、その訳文、弓のつるのように、ピンと張って見事であります。そうして、訳文の末に訳者としての解説・・・ 太宰治「女の決闘」 ●・・・夜警で一緒になった人で地震当時前橋に行っていた人の話によると、一日の夜の東京の火事は丁度火柱のように見えたので大島の噴火でないかという噂があったそうである。 寺田寅彦「震災日記より」 ●・・・そればかりでなく、みんなのブラボオの声は高く天地にひびき、地殻がノンノンノンノンとゆれ、やがてその波がサンムトリに届いたころ、サンムトリがその影響を受けて火柱高く第二の爆発をやりました。「ガーン、ドロドロドロドロ、ノンノンノンノン。」・・・ 宮沢賢治「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」 |
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●利欲の心火 1 | |
[りよくのしんか] 妖怪を題材としたかるたなどに見られる絵柄の一種です。利欲とは利を貪ろうとする欲望、心火は激しい嫉妬や怒りなどの感情のことで、この図は利を貪る心が灯す火を描いたものといえます。
手にある目玉は手目と詐(てめ。イカサマのこと)をかけた洒落で、爪から伸びている火は諺の「爪に火を点す」(蝋燭や油の代わりに、爪に火を点して節約する→非常にけちなことのたとえ)を表しています。同様の発想で爪に火を点した手の絵柄で吝嗇家、金の亡者を揶揄したものには、『化物和本草』の「爪の火」、『画本纂怪興』の「しわん坊」、『怪談模模夢字彙』の「古銭場の火」などがあります。 |
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●利欲の心火 2 | |
日本に伝わる妖怪の一種。妖怪を題材としたカルタなどに見られる絵柄の一種。利欲とは利を貪ろうとする欲望、心火は激しい嫉妬や怒りなどの感情の事で、利欲の心火の図は利を貪る心が灯す火を描いたものといえる。利欲の心火の手にある目玉は、手目と詐(てめ。イカサマの事)をかけた洒落で、爪から伸びている火は諺の「爪に火を点す」(蝋燭や油の代わりに爪に火を点して節約する→非常にけちな事のたとえ)を表している。この様に、爪に火を点した手で吝嗇家(リンショクカ)や金の亡者を揶揄している。 | |
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●陰火 1 | |
夜間、山野や墓地などで幽霊、妖怪などが出るとき燃えて浮遊するといわれる不気味な火。燐(りん)などが燃えることによるという。きつね火。鬼火。芝居の小道具の一つ、棒の先につけた布片を焼酎にひたしてから燃やした青白い火。幽霊などが現われる場面に用いる。焼酎火(しょうちゅうび)。 | |
●陰火 2 | |
亡霊や妖怪が出現するときに共に現れる鬼火。 | |
●陰火 3 | |
●夜間、山野や墓地などで幽霊、妖怪などが出るとき燃えて浮遊するといわれる不気味な火。燐(りん)などが燃えることによるという。きつね火。鬼火。
●芝居の小道具の一つ。棒の先につけた布片を焼酎にひたしてから燃やした青白い火。幽霊などが現われる場面に用いる。焼酎火(しょうちゅうび)。 ●・・・此地火一に陰火いんくわといふ。かの如法寺村によほふじむらの陰火も微風すこしのかぜの気きいづるに発燭つけぎの火をかざせば風気ふうき手てに応おうじて燃もゆる、陽火やうくわを得えざれば燃もえず。・・・鈴木牧之、山東京山 ●・・・此地火一に陰火いんくわといふ。かの如法寺村によほふじむらの陰火も微風すこしのかぜの気きいづるに発燭つけぎの火をかざせば風気ふうき手てに応おうじて燃もゆる、陽火やうくわを得えざれば燃もえず。・・・鈴木牧之、山東京山 ●・・・水中すゐちゆうより青あをき火閃々ひら/\ともえあがりければ、こは亡者まうじやの陰火いんくわならんと目を閉とぢてかねうちならし、しばらく念仏して目をひらきしに、橋の上二間けんばかり隔へだてて・・・鈴木牧之、山東京山 ●・・・火脉くわみやくの気息いきに人間にんげん日用にちようの陽火ほんのひを加くはふればもえて焔ほのほをなす、これを陰火いんくわといひ寒火かんくわといふ。寒火を引ひくに筧かけひの筒つゝの焦こげざるは、火脉の気いまだ陽火をうけて火とならざる気息いきばかりなるゆゑ也。・・・鈴木牧之、山東京山 ●・・・此ほとり用水に乏とぼしき所にては、旱ひでりのをりは山に就ついて井を横よこに掘ほりて水を得うる㕝あり、ある時井を掘て横にいたりし時穴あなの闇くらきをてらすために炬たいまつを用ひけるに、陽火やうくわを得えて陰火いんくわ忽たちまち然もえあがり・・・鈴木牧之、山東京山 ●・・・遠ざかって行く自動車のうしろに、陰火いんかのような二つの蛍火ほたるびが見えていた。[注、当時の自動車は箱型で、後部にすがりつくことができた]・・・江戸川乱歩 ●・・・静子は可なり面おもやつれをしていたけれど、その青白さは彼女の生地であったし、身体全体にしなしなした弾力があって、芯に陰火いんかの燃えている様な、あの不思議な魅力は・・・江戸川乱歩 ●・・・そして、次々と恐ろしい作品を発表して行った。私はけなしながらも、彼の作に籠こもる一種の妖気にうたれないではいられなかった。彼は何かしら燃え立たぬ陰火いんかの様な情熱を持っていた。・・・江戸川乱歩 ●・・・と苦笑にがわらひをして又また俯向うつむいた……フと氣きが付つくと、川風かはかぜに手尖てさきの冷つめたいばかり、ぐつしより濡ぬらした新あたらしい、白しろい手巾ハンケチに——闇夜やみだと橋はしの向むかうからは、近頃ちかごろ聞きこえた寂さびしい處ところ、卯辰山うたつやまの麓ふもとを通とほる、陰火おにび・・・泉鏡花、泉鏡太郎 ●・・・底に青ずみ漂う血の海。上にさまよう陰火おにびの焔は。罪も報いも無いまま死に行く。精神病者の無念の思いじゃ。聞いて聞こえぬ怨みの数々。聞いた心がクドキの文句じゃ。念仏代りの阿呆陀羅経あほだらきょうだよ。・・・夢野久作 ●『陰火(尼)』(太宰治) 九月二十九日の夜更け、若い尼が「僕」の部屋を訪れた。尼は、「月夜の蟹が痩せているのは、砂浜に映る自分の醜い月影におびえ、終夜ねむらずよろばい歩くからです」というお伽噺をし、蒲団に横たわって、「私が眠ると、如来様が毎晩遊びにおいでになるので、ご覧なさい」と言う。尼は眠ったまま、にこにこ笑い続け、そのうちだんだん小さくなって、二寸ほどの人形になった。 |
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●狂歌百物語・陰火 | |
つきまとふ 女小袖の 形見物 燃ゆる鬼火や 紅絹の胴裏(何の舎)
音もせず 声も夏野に 燃えあがる 鬼火は蛍 あつまりし如(喜樽) 小夜ふけて 雨降る寺の 荒庭を 草かげ青く 鬼火燃えけり(銭廼舎銭丸) 露とのみ 消えにしあとに 燃ゆる火は 胸のほむらの 残りなるらし(楳星うめぼし) 夜の雨 猶燃えまさる 鬼火こそ 世に消えがたき 思ひなるらめ(高見) 墓場にて 燃ゆる鬼火は 持て行きし 六道銭の 青錆の色(常陸木原 有杉) 雨により 風によりつゝ 柳陰 いと物凄く 鬼火燃えけり(江戸崎 緑錦園有文) 目に見えて 手にも取られず 燃ゆる火は 露と消えにし 人の思ひか(青梅 扇松垣) ものゝ肉 入れざる寺に なまぐさき 風をおこして 鬼火燃えけり(下毛戸奈良 月潦亭水彦) 綾なしと いふ闇の夜の 折々に 燃ゆる鬼火は いとも怪しな(千住 四耕園茂躬) 糸柳 茂る葉陰に 青々と 燃ゆる鬼火に 気ももつれけり(下毛葉鹿 広瀬舎定段) 光見て みなとゞろくは 奈落なる 東よりたつ 鬼火なるらん(草加 四角園) 戦ひの 昔しのぶか 鬼火さへ 色も青野が 原に燃ゆるは(文栄子雪麻呂) 降る雨に 燃ゆる陰火は 消えやらで 心ばかりは 消ゆるやうなり(喜樽) 松並木 紅葉も交ぢる 縄手道 青くれなゐに 火の燃ゆる見ゆ(吉野楼喜久也) 前にあると 見る間に消えて 後ろ髪 引かるゝやうに 鬼火燃えけり(浅龍園哥根人) |
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●亡魂 1 | |
死んだ人の霊。死人の魂。また、成仏できないで迷っている霊魂。幽霊。 | |
●亡魂 2 | |
●死んだ人の霊。死人の魂。また、成仏できないで迷っている霊魂。幽霊。性霊集‐八(1079)三嶋大夫為亡息女書写供養法花経講説表白文「雖二朝夕流レ涙、日夜含一レ慟、无レ益二亡魂一」。高野本平家(13C前)三「今勅使尋来て宣命を読けるに亡魂いかにうれしとおぼしけむ」〔後漢書‐段伝〕。
●亡き人のたましい。死者の霊魂。亡魂。亡霊。多武峰少将物語(10C中)「君がすむ横川の水しにごらずばわがなきたまは常に見せてむ」。 ●死んだ人の魂。また、成仏じょうぶつできずに迷っている霊魂。幽霊。亡霊。[類語]み霊・英霊・英魂・神霊・祖霊・霊魂・精霊・魂魄・忠霊・尊霊・魂・霊。 ●死者の霊。晋・潘岳〔寡婦の賦〕氣して胸に乘じ、涕(なみだ)して枕にる。魂きて永なり。時忽(こつ)として其れ(す)ぎて盡く。 ●・・・九泉に堕つる涙まことこもりて、再び亡魂なきたまをや還しぬべき。しかすがに亡き人の神気すでに散じたれば、猝にはかにわれ等と談かたらひ難くや・・・蒲原有明 ●・・・お松がいま言うた九重の亡魂なきたまでなければ、竜之助の身の中から湧いて出る悪気あっき。・・・中里介山 ●・・・住家すみかなく彷徨さまよひ歩く亡魂なきたまの・・・永井荷風 ●・・・猫間川ねこまがはの岸きしに柳櫻やなぎさくらを植うゑたくらゐでは、大鹽おほしほの亡魂ばうこんは浮うかばれますまい。しかし殿樣とのさまが御勤務役ごきんむやくになりましてから、市中しちうの風儀ふうぎは、見みちがへるほど改あらたまりました。・・・上司小剣 ●・・・嘘うそか眞まことか、本所ほんじよの、あの被服廠ひふくしやうでは、つむじ風かぜの火ひの裡なかに、荷車にぐるまを曳ひいた馬うまが、車くるまながら炎ほのほとなつて、空そらをきり/\と𢌞まはつたと聞きけば、あゝ、その馬うまの幽靈いうれいが、車くるまの亡魂ばうこんとともに・・・泉鏡花、泉鏡太郎 ●・・・惜をしみ落延おちのびしは今更後悔こうくわい至極しごくなり然しながら今其方そなたにせよ我にせよ假令たとへ生害しやうがいしたりとも何面目なにめんぼくあつて喜内殿に地下にて言譯が成べきや夫よりも我思ふには敵吾助を尋たづね出て首くび取とつて亡魂ばうこんを祀まつらば少しは罪を・・・作者不詳 ●・・・相手が兇悪な盗賊とかまたは殺人ひとごろしの罪人とか、そういうものを退治るなら一も二もなくお受けしようが、亡魂ぼうこんとあっては有難くない——これが葉之助の心持ちであった。・・・国枝史郎 ●・・・○さるほどに源教げんけういほりにかへりて、朝日あけのひ人をたのみて旧来としごろ親したしき同おなじ村の紺屋こんや七兵衛をまねき、昨夜かう/\の事ありしとお菊きくが幽霊いうれいの㕝をこまかに語かたり、お菊が亡魂まうこん今夜こよひかならずきたるべし・・・鈴木牧之、山東京山 |
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●青火の亡魂 3 山梨県笛吹市 | |
あおびのぼーこー。山梨県旧東八代郡御坂町に伝わる。
墓場に青火がでるため地元の人間は亡魂だと恐れて昼間も近づかなかった。玉吉はある晩、見届けてやろうと地神の魂の扇をもって出かけた。墓場では確かに青火が燃えており、扇で仰ぎながら近づいてみた。すると墓の土が新しかったので土を掘り棺桶の縄をつかんで引き上げるとそれは棺桶ではなく“ほけい”であった。 ここでいう“ほけい”はおそらく「行器(ほかい)」であると思われる。行器とは平安時代以降に食物を運搬するのに用いた、3本脚の木製の容器であり、一部地域では葬儀の際に白米などを詰めて霊前に備えるために用いられたりするようである。 また、玉吉が扇を手にいれる話もある。六左衛門という長者に出不精の体が不健康の玉吉という20ほどの一人息子がいた。ある晩玉吉の夢枕に地神が立ち「万年橋の下の蛇籠の間に地神の魂である扇がはさまっているので、それで仰げば諸病が治る」と告げた。朝にでかけぼろぼろの扇を手に入れて帰ると家では普段外にでない玉吉がいなくなったと大騒ぎをしていた。大水害の後で地神は祭っていなかったので、屋敷神を祭って地神祭をした。しばらく後、玉吉は体も治り仕事をするようになった。村人も病気になると扇で仰いでもらうようになり、するとすぐに病気は治ったという。 「仰げば治る地神の扇 行器の青火も仰ぎ見る」 |
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●燐火 1 | |
●雨の降る夜や闇夜などに墓地や山野沼沢で燃えて浮遊する青白い火。化水素の燃焼などによる現象という。鬼火(おにび)。人魂(ひとだま)。狐火(きつねび)。幻雲詩藁(1533頃)二・月夜経古戦場「須臾天暗吹成レ雨、火光青白骨城」〔庾信‐連珠〕。
●墓地や湿地で発生する青白い火。人魂ひとだま。鬼火。狐火きつねび。[類語]火の玉・鬼火・狐火・人魂 。 ●戦場の跡によく現れる。出たり消えたりしながら人の精を吸い取る。これを防ぐには馬鎧を叩きながら声を出せばよい。 |
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●燐火 2 | |
●これは燐火りんかにして物理的妖怪と申すものだが、学理を知らざるものは真に幽霊が地上より現れたごとくに思い、幽霊火と申している。・・・井上円了
●何処いずくよりか来りけん、忽たちまち一団の燐火おにび眼前めのまえに現れて、高く揚あがり低く照らし、娑々ふわふわと宙を飛び行くさま、われを招くに等しければ。・・・巌谷小波 ●横浜の新仏しんぼとけが燐火ひとだまにもならずに、飛んで来ている——成程、親たちの墓へ入ったんだから、不思議はありませんが、あの、青苔あおごけが蒸して、土の黒い、小さな先祖代々の石塔の影に・・・泉鏡花 ●その大おおきな腹ずらえ、——夜よがえりのものが見た目では、大でかい鮟鱇あんこうほどな燐火ふとだまが、ふわりふわりと鉄橋の上を渡ったいうだね、胸の火が、はい、腹へ入はいって燃えたんべいな。・・・泉鏡花 ●第三の幽霊 (これは燐火りんくわを飛ばせながら、愉快さうに漂ただよつて来る。)今晩は。何なんだかいやにふさいでゐるぢやないか? 幽霊が悄然せうぜんとしてゐるなんぞは、当節がらあんまりはやらないぜ。・・・芥川竜之介 ●生なまな眼色めいろは燐火フオスフオラスを吸ふ青びかり・・・福士幸次郎 ●・・・宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火に過ぎない。況や我我の地球をやである。しかし遠い宇宙の極、銀河のほとりに起っていることも、実はこの泥団の上に起っていることと変りはない。生死は運動の方則のもとに、絶えず循環しているのである。そう云う・・・芥川竜之介 ●・・・「鮹の燐火、退散だ」 それみろ、と何か早や、勝ち誇った気構えして、蘆の穂を頬摺りに、と弓杖をついた処は可かったが、同時に目の着く潮のさし口。 川から、さらさらと押して来る、蘆の根の、約二間ばかりの切れ目の真中。橋と正面に向き合う・・・泉鏡花 ●・・・その時沖を見ていた人の話に、霧のごとく煙のような燐火の群が波に乗って揺らいでいたそうな。測られぬ風の力で底無き大洋をあおって地軸と戦う浜の嵐には、人間の弱い事、小さな事が名残もなく露われて、人の心は幽冥の境へ引寄せられ、こんな物も見るのだろ・・・寺田寅彦 ●・・・何もない空虚の闇の中に、急に小さな焔が燃え上がる。墓原の草の葉末を照らす燐火のように、深い噴火口の底にひらめく硫火の舌のように、ゆらゆらと燃え上がる。 焔の光に照らされて、大きな暖炉の煤けた・・・寺田寅彦 |
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●ヲロシヤの人魂 | |
『怪奇談絵詞』に描かれている妖怪のひとつです。
詞書には「人々恐れをなすといへども全く妄念でやいのたかばたなり。筋引よふなるハ糸なり。風烈しと見る時は早くおろしやおろしやと云」とあり、ヲロシヤ(オロシャ)と颪(冬季に山などから吹き降ろす風)とをかけてロシアを諷刺する意図がこめられていたことがうかがえます。 |
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●緒話 | |
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●白蛇姫物語 鹿追町の伝承 | |
鹿追の町は、クテクウシと呼ばれ、アイヌの人達が、鹿を追いこんで、捕えていたころでした。 北の方には、よく似た形をした二つの山が並んで聳え、人々はいつも仲良く座っているように見えるので、 夫婦山と呼んでいました。アイヌ語では、東と西のヌプカウシヌプリというのだそうです。 その裾野に拡がる大地は、今では大きな林を見ることができませんが、昔は何百年も経た柏やナラの大木が密生し、 熊やキツネ、うさぎ、鹿などの野生の動物が自由にとぴまわっていたのでした。アイヌの人達は、その動物を捕ったり、平らな土地を利用して、春に火を入れて焼畑農業という方法で、 麦やヒエを植えて生活をしていました。本当に静かで、食糧も豊富ですから、アイヌ部落の人達は、 酋長さんを中心に楽しい毎目を過ごしていたのでした。
ところが、ある年のことです。寒い寒い冬過ぎ春が来たというのに寒さは少しもおとろえず、 5月になっても6月になっても大地は緑の色を見せませんでした。7月になると、大雨が降り続き、アイヌの人達は、 藁葺きの粗末な家の中で、熊や鹿の皮を身につけ、外にも出ることができず、プルプルふるえているだけでした。8月、9月になっても同じです。もう部落には食糧が無くなり、元気な若者達が、 熊や鹿、うさぎを捕るために山の中を馳けまわりましたが、食物のないところに動物がいるはずがありません。日高とか上川、石狩の方にみんな移動してしまって、一匹の姿も見ることができないのです。 このままではみんな飢え死にしてしまう。毎日毎日部落の人達は相談をくりかえしました。 音更や、帯広のアイヌ部落にも助けを求めに行きましたが、どこも十勝は同じことで人々は困り果てていたのでした。 困り果て、疲れ果てたアイヌの人達は相談の結果、神にお祈りすることになったのです。 アイヌ部落には、神に仕える老人がおり、その老人の指図で神を祭る祭壇をつくり、 人々はもう残り少なくなった食物ですが、少しづつ持ち寄ってお供えし、みんなでお祈りを始めたのです。老いも若きも、男も女も、赤ちゃんまでが、祭壇の前で祈りつづけました。 2日、3日、そして7日目になりました。昼も夜も一生懸命になって祈り続けるアイヌの人達は、 とうとう疲れ果てて倒れるように眠ってしまったのです。 と、その時です。疲れ果て、精も魂もつき果てて、泥のようになって眠っている人々の夢の中に、 女神が現われたのです。「食物もなく、それでいて他の人々と争うことをせず、 ひたすら神に祈るお前達の心をみとめてあげましょう。明日の朝、お前達が目をさました時、 お前達の前に白蛇を見るであろう。これは、私の使いである。 この白蛇の後をついて行くがよい」そう言葉を残して女神の姿は消えました。”アッ”一斉に声を挙げて、アイヌの人達は目をさましました。そして、お互いの顔を見合せ、 みんなが同じ夢を見たことを話しあったのです。「お告げに、神様が私達を助けてくれる、 私達の願いが聞き届けていただけたのだ」みんなは手をにぎり肩を抱きあって喜ぷのでした。 そうしたしばしのざわめきの中で、朝が静かに訪れて来たのです。 キラキラと光る本当に久しぶりの太陽の姿に、アイヌの人達は思わず、手を合わせ頭をさげるのでした。と、その時です!人々のすぐかたわらの草の中に白いものが動くのを見ました。 白蛇です。神のお告げは本当でした。真白い美しい体に真赤な目、そして目からチロチロと細くて紅い舌を出しながら、 白蛇はアイヌの人達を見ているのです。酋長さんが叫びました。「サァー皆さん神は私達の願いを聞いてくれたのです。 代表を選んでこの白蛇様と出かけようではないか」 若くて元気な若者が10人程選ばれました。 若者達は部落の人達から、鹿の肉だとか僅かな塩をもらってでかけることになりました。 若者達は、これから出かけるところが、どんなところか知りません。どんな困難があるかわかりません。 でも、心ははずんでおりました。「私達は部落のみんなのためにやるんだ!どんなに苦しいことがあっても負けるものか、 神は必ず助けてくれる」そう心に誓って、みんなのすがるような願いの声を背に出かけたのでした。 ツッ、ツッと白蛇は身をくねらせながら前に進みます。白蛇は、ヌプカウシの山の方に向っているのです。 「山の方に行って何があるのだろう。食糧は平らなところにあるのじやないか、山はぶどうも、こくわもないし、 熊も鹿もいない筈なのに」一人がつぶやきました。「何を云うか、私達は神に案内されているのだ。神を信じようではないか。 今の私達には、信ずることしかないのだ。さあー頑張って」リーダーがたしなめます。みんなは、肩で息をし、汗びっしょりになりながら、 背丈を越える草を掻きわけ、懸命になって白蛇の後を追うのでした。道らしい道がありません。今まで来たことが一度もありません。 ヌプカウシの山を白蛇は時々後をふり返りながら、先にたっていきます。 部落を出てから、もう1時問にもなります。まだ山の中腹でした。 朝6時に出てきたのですから、昼近くになりますが誰も腹が空いたというものはいません。”ヨイショ、ヨイショ”お互に声をかけ合い手をひきあって山を登ります。 来た道をふり返って見ると、十勝平野が果てしなく広がり、造か彼方に日高の山脈がかすんで見えています。 本当に美しい眺めですが、みんなは、それを気にする余裕はありません。 それから3時間近くたったでしょうか。一行は、山の頂上にたどりついたのです。 ”フウー”と、肩で息を切らしながら腰をおろした一行が、ふと前の方を見おろしますと、どうでしょう。 遙か彼方に、キラッキラッと光るものが見えるではありませんか。”オーッ、あんなところに水が見える、山の上に沼があるゾー”一同が一斉に声を挙げました。 そうなんですね。湖とか川は低いいところにあるものとしか考えられないのが、あたり前の話ですもの。 アイヌの人達が不思議がるのも当然のことだったのです。ですが、今の一行は、そのことを改めて考える気待はありませんでした。 ふと見ると白蛇が、その湖の方に向って進むではありませんか。”オイ、白蛇様が前に行くぞ”遅れては大変だ、がんばろう。 疲れた体のことは、もう忘れたように、目の前に見える不思議な沼の出現につかれたように一行は道を急ぐのでした。 「アッ!これは!!」 沼の岸辺にたどり者いた一行の目に水面に跳ねる、おぴただしい魚がとびこんできました。 今まで見たこともない姿です。赤い斑点があざやかで、三十糎以上もある美しい姿です。 そして、水際の浅瀬にザリガニが、うようよといるではありませんか。もう時間は夕方の6時近くでしょうか。沼の向う岸に小さな山が見えます。 その影が、タ陽に映えながら、まるでくちぴるのように見えます。 その横から、もくもくと湧き出るように、かすみでしょうか、水面に流れこんできています。一行は、ヘタヘタと岸辺に腰をおとし、物も言わずこの光景を見入るのでした。30分も無言で座りつづける一行が、ふと気がつくと今まで、いつも目の前にいた、白蛇の姿が見えません。 「神のお告げの場析はここだ。さあーこの魚をとろうではないか」 リーダーの声に一行は一斉に動き出しました。岸辺の白樺の小枝を折って釣り竿のかわりに、 用意、この針に鹿肉の乾かしたのを付けて水面に下しました。と、どうでしょう。針が水に着くか、つかぬ間に魚が飛ぴついてくるではありませんか。 もう夢中でした。一行はあたりが暗くなるまで、空腹も忘れて釣りました。くさっては困ると、一人が腹をさいて塩をつけます。その腹わたを水に捨てますと、 それに向って、また魚が群がるのです。そして水際のザリガニが真黒になって、その腹わたに集ってくるではありませんか。 一行は、もう目の前が見えなくなるまで魚とザリガニを採るのでした。 あたりが真暗になり、一行は焚火で暖をとり、釣り上げた魚を焼いて腹ごしらえをしました。 今までに一度も食べたことのない、おいしい味でした。遇度に脂がのり、あきあじのような味で2匹も食べると、 腹がみちてくるような感じです。「神のおかげだ。これでコタンの人達の飢えを救うことができる。 明日の朝は早く帰ろうではないか」人々は、本当に何ヶ月ぶりの笑顔でした。 腹ごしらえを済ませ、一行がウトウトとした時でした。清みきった夜空にきらめく星の光が、 急にその明るさを増し、辺りが、シーンと静かになりました。ハッ!となって一行が起きあがって、目をこらして空を見上げました。 と、どうでしょう。あの夢枕に立って、お告げになった女神が、大きな大きな白蛇をともなって、 宙に浮かぷように一行を見下ろしているではありませんか。「この魚はオショロコマと呼び、この湖にしか住まぬ魚である。これから後、凶作の時のみ食するがよい。 いたずらにこの魚をとることは、白然の恵みに反し、人の心を失うことになることを忘れてはならぬ」 玉をころがすような美しい声でした。それでいて、一行の心の中にしみとおりどうしてもこれを守らなければ、 と命じる重さも感じるお声でした。一行は、ひざまづき、両手をついてその言薬を聞くのでした。 やがて一行が静かな湖に面をあげた時、もう女神も白蛇の姿も見えませんでした。 一行は、黙って顔を見合せ、たがいの心に、今の女神のおさとしをたしかめ合うのでした。 翌日、一行は更にオショロコマを採り、ザリガニをとって、足も軽くコタンにもどったのです。 そしてその年の苦しい飢えを救われたのです。然別湖は、今も太古の姿そのままに静かに私達を迎えてくれます。 ですが、この尊い女神の教えに反し、和人がこの地を訪れ、 面白半分にオショロコマを釣り始めました。ザリガニもそうでした。そして昭和も40年も遇ぎた時、然別湖のオショロコマは急激に、 その姿を見せなくなったのです。また、ザリガニは、或る日突然のように一匹も見えなくなりました。「困った時の救いにのみ食べよ」という神の教えに背いた報いなのでしょうか。 人と自然は調和しつつ生きなければならない。白然を大切にしてこそ、人は生きつづけることができる。その大切なものを、私達は忘れてはいないでしょうか。私達の故郷に残された白蛇姫の伝説は、 私達に、人としての大切な道を、今もなお語りかけているのです。私達の大切なふるさととしての然別湖の自然を、いつまでも守り統けることを誓おうではありませんか。 |
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●賀茂建角身命・八咫烏伝承 | |
『古事記』是(ここ)に亦、高木大神の命以ちて覚(さと)し白(まを)しけらく、「天つ神の御子を此れより奥つ方に莫(な)入り幸(い)でまさしめそ。荒ぶる神甚多(いとさは)なり。
今、天(あま)より八咫烏(やたからす)を遺(つか)はさむ。故、其の八咫烏引道(みちひ)きてむ。其の立たむ後(あと)より幸行(い)でますべし。」とまをしたまひき。 『日本書紀』既(すで)にして皇師(みいくさ)、中州(うちつくに)に趣かむとす。 而るを山の中嶮絶(さが)しくして、復行(またい)くべき路無し。乃ち棲遑(しじま)ひて其の跋(ふ)み渉(ゆ)かむ所を知らず。時に夢みらく、天照大神(あまてらすおほみかみ)、天皇に訓(をし)へまつりて日(のたま)はく、「あれ今頭八咫烏を遺す。以て嚮導者(くにのみちびき)としたまへ」とのたまふ。果して頭八咫烏有りて、空より翔(と)び降(くだ)る。天皇の日はく、「此の烏の来ること、自づからに祥(よ)き夢に叶へり。大きなるかな、赫(さかり)なるかな。我が皇祖天照大神、以て基業(あまつひつぎ)を助け成さむと欲せるか」とのたまふ。 伴信友『瀬見小河』一之巻高木大神と申は、高御産巣日神の又の御名なり、八咫烏すなはち建角身命なり、(略)、書紀に天照大神、古事記に高木神(高御産日神の又の御名)とあるは、互に一方を語り伝へたるものにして、まことは天照大御神、高御産巣日神の御慮もて、神産巣日神の孫(みひこ)の建角身命を、豫て天降し置て、(高御産巣日神と神産巣日神とは、相偶(あひたぐひ)ませるがごとく、いとも奇(くす)しき御間(みなか)に坐ますにおもひ合せ奉るべし、かくて此二神の、建角身命の御祖に系りて、きこえ給へる氏々あり、因に下に拳ぐるをみて、それをもおもひ合せ奉るべし)供奉(つかへまつて)せ給へる由を、天皇の御夢に告覚(つけさと)し給へりしなり。 『尋常小学読本』巻五(二年生用)日本ノ一バンハジメノ 天皇ヲ神武天皇ト申シ上ゲマス。コノ天皇ガワルモノドモヲ御セイバツニナツタ時、オトホリスヂノミチガケハシクテ、オコマリノコトガゴザイマシタ。ソノ時ヤタガラストイフ烏ガ出テ来テ、オサキニ立ツテ、ヨイミチノ方ヘ御アンナイ申シ上ゲマシタ。又アル時ドコカラトモナク一羽ノ金色ノトビガトンデ来テ、オ弓ノサキニトマリマシタ。ソノ光ガキラキラトシテ、ワルモノドモハ目ヲアケテイルコトガデキマセン。ソノ光ニオソレテ、皆ニゲテ行キマシタ。 天皇ハ國ノ中ノワルドモヲノコラズオタヒラゲニナツテ、天皇ノオクライニオツキニナリマシタ。ソノ日ハ二月十一日ニアタリマスカラ、コノ日ヲキゲンセツト申シテ、毎年オイハヒヲイタスノデゴザイマス。 |
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●玉依媛命・丹塗の矢伝承 | |
『続日本紀』風土記逸文 山城國 賀茂社山城の國の風土記に曰はく、可茂の社。可茂と稱ふは、日向の曾の峯に天降りましし神、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)、神倭石余比古(かむやまといはれひこ)の御前に立ちまして、山代河の随(まにま)に下りまして、葛野河と賀茂河との合ふ所に至りまし、賀茂川を見迎(みはる)かして、言(の)りたまひしく、「狭小くあれども、石川の清川なり」とのりたまひき。仍りて、名づけて石川の瀬見の小川と曰ふ。彼の川より上りまして、久我の國の北の山基(やまもと)に定(しづ)まりましき。爾(そ)の時より、名づけて賀茂と曰ふ。
賀茂建角身命、丹波の國の神野の神伊可古夜日女にみ娶(あ)ひて生みませるみ子、名を玉依日子と曰ひ、次を玉依日賣と曰ふ。 玉依日賣、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢、川上より流れ下りき。乃(すなは)ち取りて、床の邊に插し置き、遂に孕みて男子を生みき。人と成る時に至りて、外祖父(おほぢ)、建角身命、八尋屋を造り、八戸(やと)の扉を堅(た)て、八腹の酒を醸(か)みて、神集へ集へて、七日七夜楽遊したまひて、然して子と語らひて言(の)りたまひしく、「汝の父と思はむ人に此の酒を飲ましめよ」とのりたまへば、やがて酒杯(さかずき)を挙(ささ)げて、天(さき)に向きて祭らむと為(おも)ひ、屋の甍を分け穿(うが)ちて天に升(のぼ)りき。乃ち、外祖父のみ名に因りて、可茂別雷命(かもわけいかつちのみこと)と號(なづ)く。謂はゆる丹塗矢は、乙訓の郡の社に坐せる火雷神(ほのいかつちのかみ)なり。 可茂建角身命、丹波の伊可古夜日賣、玉依日賣、三柱の神は、蓼倉の里の三井の社に坐す。 伴信友『瀬見小河』二之巻 丹塗神矢の事丹塗矢云々、逐感孕生男子とある丹塗矢は、大仙咋神の玉依日賣に婚(アヒ)給はむ料(タメ)に、神霊を憑給へる物實なり、其は古事記に大仙咋神、亦名山末之大主神、此神者坐近淡海之日枝山、亦坐葛野之松尾用鳴鏑神者也、(用字は桁字としてよむべからず、 其説は下に云ふべし)と見えて、此鳴鏑神者とは、かの云々の時の鳴鏑の神矢なり、其を大仙咋神の霊形として松尾に祀れる由を、因にここに挙げたるなり、(但し玉依日賣に婚給へる事を語はで、ただ鳴鏑神者也とあるは、うちつけなるここちす、もしくは阿禮か遺れて誦み脱せる事のありしにてやあらむ、) |
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●三重県亀山市 昔話・伝説 | |
●景清松について
景清松は亀山市辺法寺町不動院境内にあり、今から約七百六十年前、平氏悪七兵衛景清の父平忠清が当地に住んでいる七郎兵衛景清兵尉に任じ不動院を再興した。その記念木として堂より五間の地に松樹を指木したのである。しかし、寛保年中落雷し、樹がだんゞ衰えて幹の中心が腐朽して空洞になったところへ天保の初め再び落雷があり、空虚な内側へ引火することを恐れて村人は協力して消火につとめたが、幹が高いので手の施しようもなく、ただ外部から節穴等へ土を塗って空気の入るのを止めて鎮火を待つのみであった。村人は昼夜の区別なく監視にあたり、七日七夜で全く消えたといわれている。しかし、天保七丙申年八月十三日に大暴風のために遂に吹き折られ鐘楼堂に倒れかかり、鐘楼堂ともに倒壊した。翌年正月に再び指木されたのが現存の松である。 長兵衛の手によって植えられたので村人は一名、長兵衛松ともいう。初代景清の松株が一部分保管してある。 かげきよき この松が根に 行いて 心うごかぬ みちもとむらん ちとせもと 誓うみのりのお 影清き しるしにのこる 松のひともと その他俗謡、踊り歌中にも歌詞があり、現在景清の父忠清、兄忠光の三碑現存され、不動院において後世を弔い冥福を祈っている。 |
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●孝子万吉のこと
旧東海道の宿場にあって、関の小万とならび称せられる。鈴鹿坂下宿字古町に生れ、父は市右衛門、母は久米といった。家計が極度の貧窮で田畑など全然ないところから、市右衛門は毎日峻嶮な鈴鹿峠の上り下りの旅人の荷物を運び賃銀を得て辛うじて生計を立てていた。 ところが、万吉が四才の安永八年の春、父は急死したが、健気な妻久米は万吉の弟吉次郎という乳呑児を懐ろに抱き、現今の家政婦のようなことをやって二児の養育にかよわい腕で奮闘努力した。しかし、不幸は続いた。万吉六才のとき弟の吉次郎が病死するに至り、母久米は打続く苦練に遂に病床に倒れ、ただでさえ困窮な家計は益々苦しくなるばかり、万吉は子供心にも深くこれをなげき、夜は里に走って薬を買い、昼は街道に出て旅人の小荷物などを持ち、弱小の身に鞭うって峻嶮な鈴鹿峠を日に幾回となく上下し、僅かに三文、五文の賃銀を得て母の薬料を稼ぎ露命をつないだ。 天明三年万吉が八才のとき全国的大飢饉となり、米麦はもとより雑穀に至るまでその値が平時の十倍、普通の農民でさえ餓死する者が続出した。しかし、万吉は勇を鼓し、心を励ましつつ一生県(ママ)命に働き、半合、一勺の米を得て「母食せざれば自己一粒も食せず」と健気にも母を養った。わずか八才の幼児にしてこのたゆまぬ精神力、艱難辛苦は実に驚嘆のほかない。 しかし、「天は助くる者を助く」この年幕府の旗本で賢者の聞え高い石川忠房公が大阪城代の在勤満ちての帰国道中、盛夏八月十五日の蟹ヶ坂で万吉が縄の刺緒にさした銭四、五文を持ち通りかかったのを認め、「その銭は如何するか」と問うたことから、万吉一家の事情がわかり、石川公は大いに同情し、病女を自ら見舞い、その貞節高きと万吉の孝心を激賞し白銀を与えた。このことが各地に伝わるにおよび天下の同情は続々と寄せられ、はじめて万吉一家に光がさしたのである。 その後天明六年万吉十一才のときに為恭卿の世継冷泉右衛門督為章卿の朝臣が日光山例幣使として下向の帰路に当り、特に万吉を召出し親しくその孝養を賞で、青銅若干を与えた。 さらに、十二才の時には江戸表に召出され勘定奉行から白銀二十枚の褒章、母久米へ一生一人扶持を与えられたのである。 かくて文化十年正月母は他界したのであるが、文政四年万吉四十六才の冬、近江国信楽代官に召出され足軽役として召抱え苗字帯刀を許可された。 万吉は忠誠に終始し万延元年十二月二十八日に享年八十五才の高令で世を終ったのである。 |
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●浄源寺の地蔵盆
旧亀山町の三本松に浄源寺という寺がある。この寺では毎年八月(以前は七月だったらしい)に盛大な催しがある。すなわち、この寺にある地蔵の祭りである。 浄源寺は、江戸時代の初期、念仏の行者浄源の草庵を結んだ所で、旧亀山町西町にある善導寺の末寺である。 旧東町の東端に露心庵という建物があった。今は浄源寺に併合されて民家となっている。この建物はその昔教海という坊さんが藩主、石川公のお姫様のいのりとして建てたそうで、この坊さんはここに地蔵を建てようと企て日本中から銅の鏡をあつめはじめて、地蔵を造るだけ集まると地元の(今の三本松)人々を集めてこの銅鏡をとかして地蔵を造ることを手伝わしたそうで、今でも三本松の年老いた人には地蔵を造ることを「たたら踏む」というのだそうである。そして出来上がったのが今の浄源寺にある銅の地蔵で、地蔵のまわりには、当時鏡や、資金を寄付した人の名前がかいてある。 ところが、維新になり姫様(当時石川家)はこの露心庵を手放したので、誰もめんどうをみる者がなくなった。そこで町内の人々はこの地蔵なりともどこかへ安置したいと考え、思いついたのが近くの浄源寺である。 しかし、安置はしたものの、そのまま放っておくわけにもゆかず、そこで町内の人々が毎年七月にお祭をしてやろうと(近年は八月が多い)いうことになって現在に至っているという。これすなわち浄源寺の地蔵祭である。 |
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●関の小万
亀山市の歴史という事については、母はあまり詳しい事は知らない。けれども、石川六万石の城下であり、有名な三関所の一つの鈴鹿の関をひかえて、いろゝな昔話、たとえば「関の小万が亀山通い。月に雪駄が廿五足。」との俗謡で有名な孝女小万の仇討も、郷土史の一つに入るんでしょうと、聞かせて呉れた。 小万の父は九州久留米藩の家臣牧藤左衛門といい、代々藩の剣術指南であったが、武道の上から同僚小野元成の遺恨を買い、遂に謀殺された。そのとき妻は妊娠の身だったが、けなげにも亡夫の仇を討つべく藩主の許可を得て旅に出た。敵をさぐるうちに臨月となって身動きもならず、鈴鹿の関町地蔵前の山田屋にとまり、主人吉左衛門に事情をうちあけ、その援助をたのんだところ、吉左衛門は心から同情し、何くれとなく彼女の世話をした。程なく女児を生んだが、産褥熱から吉左衛門一家の手厚い看護も効なく、明和五年秋遂に他界してしまったのだが、彼女の遺言はいうまでもなく愛児の養育と仇討の事であった。吉左衛門夫婦は子供がないのを幸い、小万と名ずけて養女とした。やがて小万が十五となった時、亀山藩士加毛寛斎の道場に通わせて、武術の修業をさせたが、彼女は非常な美人であり、道場通いのあとは鈴鹿越えの旅人に天性のこぼれるような愛敬をもって女中とともに客引きにつとめ、また、家事の手伝いや父母への孝養を怠らなかった。 やがて小万は十八の春を迎え、その武術も大いに上達した。それでも彼女は亀山の道場通いを怠らず、実母の遺言の仇をさぐる心情切々たるものがあった。ところが天祐というか、神助というか、かねてもとめる敵小野が加毛の道場の食客となった。小万はこれを知って養父母にも相談し、師匠寛斎の助勢をも得て仇討を決行することになり、小万は男装して宿場の馬子に化け、両刀をござに包んで亀山城大手前の札の辻で、小野の帰路を待ち伏せ彼の不意を討って遂に、仇討を遂げたのであった。これは天明三年八月の暑い盛りであった。其後も、小万は山田屋の家業を手伝い、養父母へ孝養を尽したが、享和三年正月十六日丗八の若さで病歿した。関町福蔵寺に彼女の墓がある。 |
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●亀山市東丸町 牛尾家にまつわる伝説
昔、亀山城の御殿様が家来をつれて野登山へ狩りに行った。その狩の後城へ帰ろうとしていると、突然大きな雷鳴と共に雨が降り、風が吹き大嵐となった。そしてあたりは真暗になり何も見ることができなかった。そこで御殿様はこれは雷の仕業(いたずら)だといって家来に空にむかって鉄砲を打たせた。その後嵐は止み、非常によい天気となったので帰ろうと思って家来を集め点呼したところ一人足らなかった。その人は牛尾太郎兵衛という人であった。そこで家来達はあちらこちらさがし、やっと見付け出したが、牛尾太郎兵衛は野登山の頂上の岩の上に真二つに裂かれて死んでいた。で家来達はこれは天狗の仕業だと考えた。そして牛尾家ではそれ以来野登や神社に参拝しなくなったということである。 その後世間では野登山には天狗が住むといわれるようになり、月のきれいな夜にはどこからともなく天狗の遊ぶ音である笛の音や天狗のいかる音である木を切り倒すような音が聞こえて来たといわれ、これも天狗の仕業だといい伝えられた。 |
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●石井兄弟亀山の仇討
亀山藩の時代に、今も残っている石坂で仇討が起こったのです。そのときのたたかいの人物というのが、亀山藩槍術指南番であったところの、赤堀水之助と石井兄弟であったのです。石坂というのは、城から降りてくる所の、急な坂です。そこでの仇討の結果は、石井兄弟によって赤堀は討たれました。 亀山仇討 四十七の さきがけぢやぞな かをるほまれが 石坂なわて なわて桜が ヒラヒラと ナントナント ナントナント ナントナント ナントヨイ ナントヨイ(亀山小唄) |
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●簪かんざし井戸の由来
川崎町柴崎の裏山に、古びた井戸がある。今は木の葉や土に埋もれて、その深さは分からないが、底に金の簪が落ちていて、毎年一月二十五日の晩には、井戸中から琴の音が聞こえてくるという。 今よりおよそ三百八十年前、戦国時代の終り頃、織田信長は、諸国の大名を征服し、城と寺を尽く焼き払おうとした。このとき、伊勢の国の鈴鹿の郡の峰城主は、一向一揆に応援したので、信長は明智、蒲生の武将に大勢の軍勢を付けてさしむけた。かくて攻撃軍は天正元年五月に峰城を囲んだ。 しかし、南、東、北の三方を川に囲まれ、その内側には深い堀があり、更に峻険な自然の城壁の上に立つ峰城は容易には陥らない。攻撃軍もやむなく安楽、八島の川を前にして、兵糧攻めの持久戦ときめこんだが、城兵は時々城門より不意に打ち出で、攻撃軍を悩まし、兵糧を取って引き上げるので織田勢の損害は段々大きくなってきた。しかし織田勢には当時何よりも恐ろしい鉄砲隊がある。それに応援軍も到着したので、明けて天正二年一月二十五日に遂に天守閣は炎上し、一度にどっと攻め込んだので城主は抜穴より桑名に逃れ、奥方は井戸に入って死なれた。このときの城の宝といわれた大きな金の簪をさして飛び込まれたので簪井戸と名づけられ、一月二十五日の晩には悲しい琴の音が聞こえて来るという。そしてこの時の攻撃軍の主将、蒲生氏の恐しい奮闘振りは今でも伝えられて、川崎では「がもじが来る」といえば泣く子もだまる位である。 城兵に近藤という姓の人がいたので、柴崎では皆同じ姓の近藤であり、逃れた兵士が桑名に住み込んだのでたくさんこの姓がある。 |
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●椀塚
徳川時代より以前、阿野田に豪農がいて、土地や馬を多く持っていた。その人が「漆器」を造り始めた。その漆器を造るために道を作る必要があったために、道を多く造り、便利になったので、村人から大変尊敬された。その人が死んだ後、人々はその人を埋めた。その塚を「椀塚」という。村人は「寄り合い」があって、お膳やお椀が欲しい時、椀塚へ行って、その数をいってお願いしてあくる日に行ってみると、そのとうりに用意してある。それを返すといつのまにか消えてしまう。というお話です。 |
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●親子地蔵
自動車、バスはよく通るが、人通りの少ない淋しい場所に一人の女の子をしっかりと抱いた「親子地蔵」が立っている。この地蔵には次のような話が秘められている。 今から三十七年ぐらい前に旧井田川の下新道というところに巫女をしている家があった。一人娘がいた。親はその娘に後を継がせるために、田村(旧亀山町)から養子を迎えた。その養子は大変怠け者で親と意見が合わなかったので、一人の女の子を残して娘と別れてしまった。両親は少しの間に死んだので、娘は女の子をつれて吉川十兵衛という糸取の家で働き、女の子を養っていた。それから年月がたって、以前別れた田村の男がある日ひょっこり現われて、娘(田村の男の嫁であった人)に合おうとした。糸取り屋の主人は合わせなかったのでその日は帰っていったが、それから二、三日してまた現われた。そのとき娘は丁度和田の自分の親類の家に用事に行っていたため留守であったが、夜中になってもう一度来たときには、娘は女の子を抱いて寝かせていた。男は何んと思ったのか急に窓から家に入って、娘と子供を短刀で一気に殺すというむごい殺し方をして、そのまま立ち去っていった。その後始末は下新道の人々が集まって行い、地蔵を立てて皆んなが親代りに供養を行った。今でもこの供養はつづけられているが、それからは人々は怠け者の男達にこの話を聞かせると改心したといわれている。今度この「親子地蔵」はせきじょう寺に移し変えられるそうである。 |
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●龍神湯
龍神湯の謂れは、場所、亀山市南野町、高橋享光宅である。 これは上図にも書かれているように、承平元年のことであると、伝えられているのは全国でも有名である。上図を中心にして、私は書くのであるから、その残されていた高橋様方の書類(系図)の中で必要な部分を写させてもらった。その書類を読めば、大略のことはさっしられると思います。 上図をだいたい説明すれば「先祖は天皇の血筋を引いていられるそうである。残されているのは、人皇五十八代、光孝天皇の代からである。その子(?)光内太子(第五皇子)は、二十七才の時、罪があり駿河に流されたのである。次に光明親王(号は浅間皇子) 承平元年(今から一〇二五年前)卯年正月三日、冨士浅間の神が空より自ら降りて来て、母に子供が生まれると感じて、同じ年の十月十三日、親王が誕生したのである。 又、同月十九日、母は蛇に変じて産室にいた。その時、夫に注意して、産室の戸を開けなかった。がしかし、ひそかに母の産室を見る。夫がいうには、過ぎし日の七日間(一週間)戸を開か(ママ)なかったが、とうとう見てしまった。生れた子(親王)は、体が普通とは変り鉄のように硬かった。云云 故に、子孫は在軍中も、冑を着なくてもよいほど硬かった。 家に伝わっている薬は、これ龍神湯であります。」 と書き示してあった。これは私が訳したのであるから多少誤っているところがあるかもしれない。次に、いろいろうかがってみると、この人が親王をおうみになさる時に、非常に難産であったらしい。 「いつから龍神湯≠ニ呼ばれたのですか?」 「その文の通り承平元年(西暦九三一)だそうです。」 「近所の人々に聞くと安産のために玉≠ニいうものがあるそうですが、その玉というのは、どのような由来があるのでしょうか?」 「現在でも玉はあります。(?)土で作ったもので、立派というほどのものではございませんが。がしかし、その玉というのは、後継者とか、長男だけとかいわれますが、私(高橋様のおばさん)も一度見たことがあります。由来といわれると、ほかに四十八種の薬草と、この玉をけづったもので、その草とまぜて、安産するようにといわれて、薬ができたのだそうです。そして不思議なことにこの玉は、けづってもけづってもへらないのだそうです。 「一番遠い所からでは、どこから買いにこられましたか?」 「全国といってよいほどで、北海道まで広がりました。そして、北海道の方まで買いにこられました。」 「その玉は、一般に見せられますか?」 「いいえ、見せられません。」 「現在ではどうですか?」 「今は売上げの申告でか、わかりませんが、現在はたえています。」 「・・・・・」 「今から四年前の辰の年に、朝日新聞社から龍神湯について話して下さい。といわれても、うちのおじいさん(享光)は絶対に話されなかったのです。という訳ではっきりしたことは、私も聞いておりません。」 又、高橋家の分家にあたる、未亡人、高橋しも(七七才)さんに聞くと。 「何でもずっと昔のことで、男やもめであった。高橋家の人が、池に魚つりに行った。すると、きれいなお姫様が、出てきてそばに座って話しかけた。又、翌日も他の池につりに行ったが、また同じお姫様が、同じようにそばに座って話した。こんなことが一ヵ月も続いて、最後には、とうとう高橋家までついてきて、妻となってしまった。一年程たって、ある日、私は今日はお産をするから、今日から一週間の間は、この部屋へ入ってくれるな。」といって、産室に入った。家人も不思議に思って、おそる?一週間目に部屋を盗み見ると、何んと驚いたり、白蛇となって、生れた子の頭をぺろぺろとなめていたそうである。そのとき白蛇は気付いて、その後、「もう私はこの高橋家にいることはできぬようになった。天の神様となってここを去ります。そのかわり四十八種の薬草の名を書いて、それに玉を一個そえ、どうか、この子(親王)が、またこの家が、一代不自由のないように、家伝として、産前産後の病人に与えてやって下さい。その利益で永久にこの家は、小遣銭に不自由させません。」といって姿を消した。その後、親王の成長した体は、一倍硬く全く鉄のようであったので、戦に出ても、弓矢のあたる心配はない剛健な体であったそうである。その後のうつり変りは、はっきりわからないそうである。」と語られた。 |
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●天狗
鈴鹿郡関町加太は、山があるせいか、天狗についての話があります。 この話は中在家というところで聞いたことです。今から約百年程前のこと、中在家の天田川の支流のおとがの谷の山奥の大嶽というところに古い五社の宮(今はありません)がありました。毎年秋になると中在家の人々が野上りのおもちをこの宮へ上げに来たそうです。この山に二人のこびきが入っていました。夜になるとピューピューといいながら五社の宮から天狗が二百間ほど離れたかさね石の上まで飛んだということです。それからずっと後に山の地焼きに行った人がいってたことですが、かさね石の方角から缶をける音が聞こえるので行ってみるとその音は聞こえなくなったそうです。今もまだ、この「かさね石」は残っているということです。 |
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●陰涼寺山の狐
亀山陰涼寺山にはキツネが多く住んでいて、キツネおろしを行って、そのキツネおろしをした人に「あなたはどこからきたか」と聞くと、その人は「私は陰涼寺山のきん吉」という人が多かった。という話 亀山神社 山田木水先生にきく。 |
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●加太の相撲のおこり
加太字神武の庄兵衛(今の中森幸一)さんところに下男でドツキさんという人がいて、この人は非常に力持であった。ある所の家の普請の時十人ぐらいでもつ字棟を一人で持って一人で十人分の飯をたべたということである。 ある時加太の川俣神社へ大関鎌ヶ岳一行が来たときドツキさんが飛入りする時、フンドシがなかったので竹を切って来て、鎌ヶ岳の前で竹を手でわって、それをフンドシの代りにして土俵へ上ったが、鎌ヶ岳の方がびっくりして相撲を取らなかったそうである。それから有名になり大相撲しか使えない五色の天幕、八丁ぬきが使われるようになったそうである。五色の天幕は赤、黄、青、白と空の色をまぜてである。これは全国で加太と相撲協会と一つは不目、三つしかないのである。それから加太の相撲は三人がかりといわれるのは昔の伊勢の国、伊賀の国、近江の国から集まって来たからだといわれている。五色の天幕は今も神社におさめてある。相撲だけでなく、神社も相当のくらいがさずけられていたのだと思われます。 |
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●坂の下・鈴鹿峠の伝説
“行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず” ・・・この文と同じに歴史は止まることなく常に流れている。 死んだ人は再び生き返らぬ。このように永久に生き返らず地に眠っている我々の先祖が、語り伝えられた伝説とは何であろうか。 今年七十六才になるおじいさんに聞いて見た。 「今は畑になっている所がその当時有名な宿屋があった。「大竹屋」といい百万石の殿様が泊るほど大きかった。或るとき、昭憲皇太后が京都から下ってこられ、こう敷の居間にお休みになったとき坪の内にある不断桜を見て、 “おおみ地の 雪の寒さも忘れけり 不断桜の花の坂下”と歌をお作りになった。 又、あるとき馬方うまかたが大竹屋まで入って来て、翌朝その馬方は紺のつつっぽに豆しぼりのてぬぐいを鉢巻して馬のたずなをかたにかけ、おいわけを歌って鈴鹿峠を越えた。 坂は照る照る 鈴鹿は雲る あいの土山雨が降る 馬が物いうた鈴鹿の坂で おさんじょろなら 乗せるというた。 と歌ったということだ。 鈴鹿峠の頂上に馬の水飲場の上に大きな松の木がはえていた。私の小さい時にその松は切り倒されたが、大きな松でした。 「あの、その松に何かいわれがありますか。」 「えヽ、その松の木に並んで西に鏡岩があって、そのかたわらに山賊の住家があった。」 「それは横が二尺に、たて三尺のべたっと平たい石で、黒色をおびていて松の木の下を旅人が通ると鏡岩にうつるので、それをおそって物をとったといわれている。 「鏡岩は今でも鈴鹿峠の上にありますね。今見ると、あんな石を山賊はたん念にみがいたのですか。」 「いや。岩は天然にみがかれたそうだ。それでその山賊をたいじしたのが田村将軍(田村丸)で、弓でうちとり、例の松の木に弓をかけたので、弓かけ松といわれた。弓かけ松より二丁程昇ったところに田村将軍の神社があって、そこで一生をお暮らしになったということだ。」 「田村将軍はどこから来たか御存知ありませんか。」 「さあ、それは誰も知らないらしい。」 この辺でおわかれをした。おじいさんは自分の代で五代目だそうだ。 |
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●蛇の伝説
亀山市和賀町にある藤山の奥の谷になった所に池があり、この池についての伝説である。僕も藤山へは百合の花を取りに行ったことがあるが、なか?淋しい所で、池まで行くには山の中を通って行かねばならない。現在営林署の所有している山で松の木がたくさん植っている。 昔、ある人がこの池に魚を釣りに行った。その日は少々曇っていたが思い切って出かけた。山の中に這入ると昼であっても暗い所であるのに、その日は少し曇っているので非常に暗かった。大きく高い木がたくさん繁っている中を通って奥に向って進んで行って池に出た。誰一人といない淋しい所である。その人が池で魚を釣っていると今まで無風状態で波も少しもなかったが、急に少し風が出て波が出て来たと思うと、池の中からその人が今まで見たことのない真赤な蛇が現われ、その人の方に向ってから???と鳴いて来たので、その人は飛ぶようにして帰って来たという伝説である。 このような蛇についての話はたくさんある。僕も母から蛇は神様の使いである。と聞かされた。蛇についてたくさんの話があるから不思議な動物であると思った。 |
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●亀山市野村町の富士山ふじやまの伝説
私の村に伝わるお話。(現在の亀山市野村町) 頃は江戸時代、参勤交代で亀山城主石川氏が家臣とともに、江戸へ上り、江戸滞在中、富士の裾野へ狩りに行った。このとき、この山にすむ大蛇が家臣の一人高橋氏におもいをよせ、大蛇は姫に化け、名を伊都岐島姫となのり、高橋家につかえ、高橋氏の妻となった。そのうち伊都岐島姫は、子供を宿し、分娩する日がきた。そのとき伊都岐島姫は、家の者に七日七夜産室をのぞいてはならぬといいました。だが、あまり不思議だったので七日の朝にとうとう高橋氏がのぞいてしまった。 そのとき、伊都岐島姫は大蛇となって、子供の顔をなめていた。それからは、高橋家にいられなくなり、伊都岐島姫は、もとすんでいた山へ帰ることを決心して、高橋家に手土産に光玉を置いていった。 又、産後の薬として龍神湯をおいていったので、高橋家はそれを売って栄えたといわれ、又、姫はもとの山に帰る途中子供のことを思って近くの山にすむことになった。この山こそ、私の村の西方にある山である。 姫は山の裾にある池にすみ、山に登って頂上で鏡をみながら髪を結っているところを見たという人もあるといわれ、その人は驚きのあまり死んでしまった。この山が後に富士山と名ずけられた。海抜百十三米で亀山町の最高の地点である。又、頂上にはなにもはえていない岩の山である。又、姫の生んだ子供は男子で、戦争に行って頭に矢があたっても頭がわれたり、傷がついたりしなかったといわれ、これは生まれたとき、姫がなめたからだということである。 |
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●亀山市川合町の民俗
○お姫井戸の由来 何代前かは分かりませんが、その昔亀山の殿様に攻められて負けたとき、お姫さまとそのそば女という人が“渡辺のツナ”とかいうお城の井戸に入られたのです。何でも戦いに負けたときは、正月であったとかで元旦の朝には毎年お姫さまの泣いておられる声が井戸よりきこえてくると昔から伝えられております。(今、この井戸には“サイセンボ”という木で周囲がおおわれ、井戸は埋まっています。)又、その城のそば(今の里の畑)には民家があって、(畑からは民家の瓦と思われるものが出た)栄えたそうです。現在の川合町はそこより低地の東方へ移動してきています。東海道ができたためらしい。しかし低地に移ったために洪水を恐れて大堤防が築かれたそうです。が、今は何もありません。 ○その他 戦国時代の影響として現在薬師堂といわれている土地に大きな森があり、その中にお地蔵様を祀ったそうです。天正の乱のとき、織田信長が天下の実権を握り、神社、寺院を焼き打にして京都へ攻めのぼった。そこで川合の薬師堂もやかれて、薬師堂を略して焼地蔵様と申すようになったそうです。焼かれたとき残った石の鳥居、手洗いばちは現在真宗高田派の檀那寺、西信寺にあります。 |
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●振袖火事 | |
麻布の質屋の娘が、本妙寺に墓参りに行った帰りに寺の小姓に一目ぼれ。恋い焦がれるも娘は病にかかり死んでしまう。娘の両親は生前娘が大切に着ていた振袖を棺に掛けてあげた。供養の物は寺の寺男がもらうことになっていたので、とある寺男が振袖を貰う。その男は罰当たりにもその振袖を転売。振袖を買った娘が最初の娘と同じように病死。不思議なことにまたしても供養の物としてその振袖は本妙寺へ。寺男、またも転売。また違う娘が買い、病死。供養で三度本妙寺へ。
流石にこれはヤバイぞ、と寺でその振袖を焼き清めることに。焼こうとしたところ、突如強風が吹き、火の付いた振袖は人の姿のように風を孕んで江戸中に燃え移る炎の原因となった。というお話。 ![]() |
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●縁切榎 東京都板橋区本町 | |
中山道最初の宿場町として栄えた板橋にあって、名所と呼ばれたのが縁切榎である。その名の通り「縁切り」にご利益があるとされており、特に悪縁を切って良縁を授かるとして庶民の信仰を集めている。願を掛ける者は、この木の樹皮を削り、煎じて飲ませると良いとされている。
この榎の木が「縁切榎」と呼ばれるようになったかについては、定説がある。江戸時代、このあたりに旗本の屋敷があったが、この垣根の際に榎と槻の木が並んで生えていた。この2本の木が目立っていたため、誰が言うともなく「えのきつき」と呼び出し、それがいつしか詰まって「えんつき」、即ち「縁尽き」の語呂合わせが広まり、その後榎だけが残ったということらしい。初代の榎は明治期に焼けてしまい(一部は現地に保存されている)、現在は2代目を経て3代目の榎となっている。 この木にまつわる最も有名な逸話は、和宮降嫁の際に「縁切り」の噂を聞き及んで、この木が見えないように迂回路を造らせて行列を通したという話。この噂にはさらに尾ひれがついて、和宮の行列が通る時には榎を菰筵で覆い隠したもされる。実際、縁切榎については「嫁入りの行列が通ると縁付かない」という言い伝えがあるが、10代将軍徳川家治に嫁いだ五十宮倫子の場合も迂回路を通ったという記録があり、和宮の時だけ特別ということではなかったのが真相らしい。 |
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●狂歌百物語・縁切榎 | |
縁切りに 削り呑ません 古榎 我が身の皮も 剝ぎし男を(語吉窓喜樽)
結納の 鰹節かつぶしも仇あだ 背合せの 額をさゝぐる 縁切り榎(豊の屋) 縁切りの 榎を削り 給はれと 三くだり半に 書く頼み状(松梅亭槙住) 縁を切る 為に煎じた 榎の葉 濃き茶に水を 差すたぐひなり(蟻賀亭皺汗) 板橋の くゞつに秋の 風立ちて 縁きりぎりす 榎にぞ鳴く(秋田舎稲丸) 琴を断つ 斧の刃さへも 当てぬ木に 縁の糸筋 切る榎かも(注連しめのや春門) 秋風の 立ちて夜寒の 絵馬さへも 背中合せの 縁切り榎(江戸崎 広丸) 悪縁の 縁切り榎 生木なまきをも 裂くは御神の 刀なりけり(和風亭国吉) 出雲へと 立ちぬる神は 板橋の 縁切榎 わき目してゆく(織人) 削られて さぞ板橋に 幾世経る 縁切榎 名を嘆くらん(有恒) 別れより 惜しむ別れも 立ち枯れて 縁切榎 しげる夜ぞなき(艶芳) いたはしや 連理の中の 片枝を もがんと祈る 縁切り榎(江戸崎 有文) 中のよき 夫婦めをとは忌みて 縁切りの 夏の木偏は 通らざりけり(甘喜) 縁切りて 背兄せなを遣りつる 別れかな 榎の額に 影は見えねど(信濃飯田 尚友子清因) 縁切りと 聞けば榎の 文字は夏 木偏を去りて 廻る聟嫁(芝口や) 池の名は よしや負ふとも 妹いもと背せの 縁切榎 掘り捨てよかし(槙のや) 夫婦めをとなか 桜の後の 若葉なる 夏木榎に 願ふ縁切り(桃江園) 離れにて 深き仲をも 洞うろにせん 縁切榎 削り飲ませて(駿府 望月楼) 天狗住む 樹より梢は 低けれど 女夫めをと引き裂く 縁切り榎(星のや) 縁切りの 榎にかゝる 切凧きれだこは 中にしやくりし 人もあるらん(曲尺亭直成) 八雲たつ 出雲に結ぶ 縁えにしにも 八重垣をする 榎ありけり(草加 稲丸) 飯盛めしもりと 結びし縁も 切れ兼ねて 榎に願を かくる板橋(大内亭参台) 縁を断つ 榎と婆々が 隠し持つ 中に切れたる 女夫巾着めをときんちやく(足兼) 僧正が 門の榎と 裏表うらうへに 立ちし浮名の 縁は切れけり(幸亭) 身を売りて 夫の縁を 切る榎 そのほとりなる 板橋の駅(菱持) 縁切りの 榎祈れと 中々に 梢は枝の いや交はすらん(駿府 東遊亭芝人) 悪縁の 切れて心の 涼しさよ 未練は夏の 木の利益りやくにて(仝 小柏園) 雲の縁 切れて嬉しと 旅人の 榎のもとに 休む夕だち(羽衣) 女夫仲めをとなか 縁切るために 削らるゝ 榎も皮の 膚はだに別れつ(日年庵) 寐返りて 縁切榎 祈る身を 結ぶの神は さぞや憎まん(装師坐浜松) 指を切り 髪を切りたる 飯盛に 縁切榎 飲ます板橋(春門) 小指にも 誓ひを立てし 縁も今 切るを榎に 願ふはかなさ(楳星) |
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●生霊 | |
[いきりょう、しょうりょう、せいれい、いきすだま] 生きている人間の霊魂が体外に出て自由に動き回るといわれているもの。対語として死霊がある。人間の霊(魂)は自由に体から抜け出すという事象は古来より人々の間で信じられており、多くの生霊の話が文学作品や伝承資料に残されている。広辞苑によれば、生霊は生きている人の怨霊で祟りをするものとされているが、実際には怨み以外の理由で他者に憑く話もあり(後述)、死の間際の人間の霊が生霊となって動き回ったり、親しい者に逢いに行ったりするといった事例も見られる。
●古典文学 古典文学では、『源氏物語』(平安時代中期成立)において、源氏の愛人である六条御息所が生霊〔いきすだま〕となって源氏の子を身籠った葵の上を呪い殺す話が「あまりにも有名である」が、能楽の『葵上』もその題材の翻案である。 また、『今昔物語集』(平安末期成立)の「近江国の生霊が京に来りて人を殺す話」では、ある身分の低い(下臈の)者が、四つ辻で女に会い、某民部大夫の邸までの道案内を頼まれるが、じつは、その女がその大夫に捨てられた妻の生霊だったと後になって判明する。邸につくと、門が閉ざされているのに女は消えてしまい、しばらくすると中で泣き騒ぐ音が聞こえた。翌朝尋ねると、家の主人が自分を病にさせていた近江の妻の生霊がとうとう現れた、とわめきたて、まもなく死んだという。下臈が、近江までその婦人を尋ねると、御簾越しに謁見をゆるし、確かにそういうことがあったと認め、礼の品などでもてなしたという。 憎らしい相手や殺したい相手に生霊が憑く話と比べると数が少ないが、恋する相手に取りつく話もある。江戸中期の随筆集『翁草』56巻「松任屋幽霊」によれば、享保14か15年(1729年-30年)、京都に松任屋徳兵衛の14、5歳の息子、松之助に近所の二人の少女が恋をし、その霊が取りついた。松之助は、呵責にさいなむ様子で、宙に浮くなど体は激しく動き、霊の姿は見えないが、それらと会話する様子もくりかえされた(ただし霊の言葉は男の口から発せられていた)。家ではついに高名な象海慧湛(1682-1733)にすがり折伏を試みて、松之助の病も回復したが、巷に噂が広まり好奇の見物人がたかるようになってしまった。 また、寛文時代の奇談集『曽呂利物語』にある一篇では、女の生霊が抜け首となってさまよい歩く。ある夜、上方への道中の男が、越前国北の庄(現福井市)の沢谷というところで、石塔の元から鶏が道に舞い降りたのを見る、と思いきや、それは女の生首であった。男が斬りつけて、その首を府中「かみひぢ」(武生市上市か?)の家まで追いつめると、中で女房が悪夢から目覚めて夫を起こし、「外で男に斬りつけられて逃げまどう夢を見た」と語る。このことから、かつては夢とは生霊が遊び歩いている間に見ている光景という一解釈が存在したことが窺える。 ●民間信仰 死に瀕した人間の魂が生霊となる伝承が、日本全国に見られる。青森県西津軽郡では、死の直前の魂が出歩いたり物音を立てるのを「アマビト(あま人)」といい、逢いたい人のもとを訪ねるという。柳田國男によれば、「あま人」と同様、秋田県仙北郡の伝承ではこのように自分の魂を遊離させてその光景を夢見できる能力を「飛びだまし」と称していた。同じく秋田県の鹿角地方では、知人を訪ねる死際の生霊が「オモカゲ(面影)」と呼ばれていたが、生前の人間の姿をして足が生えており、足音を立てたりもする。 また柳田の著書『遠野物語拾遺』によれば、岩手県遠野地方では、「生者や死者の思いが凝って出歩く姿が、幻になって人の目に見える」ことを「オマク」と称し、その一例として傷寒(急性熱性疾患)で重体なはずの娘の姿が死の前日に、土淵村光岸寺の工事現場に現れた話を挙げている。『遠野物語』に関して柳田の主要情報源だった佐々木喜善は、このときまだ幼少で、柳田は目撃現場にいた別の人物からこの例話を収録したとしており、佐々木当人は「オマク」という言葉は知らず、ただ「オモイオマク」(おそらく「思い思はく」)と言う表現には覚えがあることを鈴木棠三が尋ね出している。 能登半島では「シニンボウ(死人坊)」といって、数日後に死を控えた者の魂が檀那寺へお礼参りに行くという。こうした怪異はほかの地域にも見られ、特に戦時中、はるか日本国外の戦地にいるはずの人が、肉親や知人のもとへ挨拶に訪れ、当人は戦地で戦死していたという伝承が多くみられる。 また昭和15年(1940年)の三重県梅戸井村(現・いなべ市)の民俗資料には前述の『曾呂利物語』と同様の話があり、深夜に男たちが火の玉を見つけて追いかけたところ、その火の玉は酒蔵に入り、中で眠っていた女中が目覚めて「大勢の男たちに追いかけられて逃げて来た」と語ったことから、あの火の玉は女の魂とわかったという。 ●病とされた生霊 江戸時代には生霊が現れることは病気の一種として「離魂病」(りこんびょう)、「影の病」(かげのやまい)、「カゲワズライ」の名で恐れられた。自分自身と寸分違わない生霊を目撃したという、超常現象のドッペルゲンガーを髣髴させる話や、生霊に自分の意識が乗り移り、自分自身を外側から見たと言う体験談もある。また平安時代には生霊が歩く回ることを「あくがる」と呼んでおり、これが「あこがれる」という言葉の由来とされているが、あたかも体から霊だけが抜け出して意中の人のもとへ行ったかのように、想いを寄せるあまり心ここにあらずといった状態を「あこがれる」というためと見られている。 ●生霊と類似する行為・現象 「丑の刻参り」は、丑の刻にご神木に釘を打ちつけ、自身が生きながら鬼となり、怨めしい相手にその鬼の力で、祟りや禍をもたらすというものである。一般にいわれる生霊は、人間の霊が無意識のうちに体外に出て動き回るのに対し、生霊の多くは、無意識のうちに霊が動き回るものだが、こうした呪詛の行為は生霊を儀式として意識的に相手を苦しめるものと解釈することもできる。同様に沖縄県では、自分の生霊を意図的に他者や動物に憑依させて危害を加える呪詛を「イチジャマ」という。 また、似ていることがらとしては、臨死体験をしたとされる人々の中の証言で、肉体と意識が離れたと思われる体験が語られることがある。あるいは「幽体離脱」(霊魂として意識が肉体から離脱し、客観的に対峙した形で、己の肉体を見るという現象)も挙げられよう。生霊は、依存や執着しやすい人・未練がある人が取り憑かれやすいと言われる。 |
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●狂歌百物語・生霊 | |
塵ほどの 恨みつもりて 足引あしびきの 病に人を 萎なやす生霊(千住 四耕園茂躬)
石に矢を 通す思ひの 生霊は 梓の弓に 引かれてぞ出る(望止庵貞丸) 占うらかたの おもてに出でて 生霊は 巽そんの卦のたつ 祈禱するらし(東遊亭芝人) 葛の葉の 恨み重なる 生霊は 秋風たちし 人に離れず(檮の門久根) 是までは よもや瞞だましは せまい気の 女の思ひ 懸くる生霊(大内亭参台) 聾みみしいの 人の恨みや かゝりけん 加持も祈禱も 効かぬ生霊(下総古河 記永居) 蠟燭の 炎の赤き 鬼となりて 鼎かなへの角を 見する生霊(花垣真咲) 生霊の 繁き恨みの 重りてや 葛湯ばかりを 好む煩わづらひ(千住 紫竹園茂群) 中々に 我が身なやます 生霊は 胸の檜に 釘や打ちけん(喜樽) 葛の葉の 露とは消えぬ 生御霊なまみたま 憑きし恨みは 人の秋風(菊寿園延麻呂) ひと口は 悪い女をみなの 深なさけ 思はれすぎて 困る生霊(槙の屋) 二つてふ 穴怖ろしや 人呪ふ 罪の深さは 知らぬ生霊(草加 四角園) 酒好きの 生霊なれや 梓神子あづさみこ 水を向ければ 口も憑よるなり(駿府 芝人) 生霊の 憑きてや首も 垂れ柳 常なき風の 誘ふばかりに(宝船亭升丸) 何の化と 頼みてなせる 笹はたき 竹の不思議に 出づる生霊(菱持) 女をも 口車にて だましたる 罪はたちまち めぐる生霊(花前亭) 身は一つ 心は二つ 生霊の 憑いて身も世も あらぬ苦しさ(道艸) 生霊に 取り憑かれしや 自由にも 身動きさへも ならぬ煩ひ(駿府 望月楼) 秋風の 立ちて付きにし 生霊は 桐の一葉ひとはと ともに落ちけり(道艸) 生霊を 盈みたさんとして 占うら問へる なげ嶋田なる 妹いもがかんざし(喜代喜) |
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●木霊 | |
[こだま、木魂、谺] 樹木に宿る精霊である。また、それが宿った樹木を木霊と呼ぶ。また山や谷で音が反射して遅れて聞こえる現象である山彦(やまびこ)は、この精霊のしわざであるともされ、木霊とも呼ばれる。
精霊は山中を敏捷に、自在に駆け回るとされる。木霊は外見はごく普通の樹木であるが、切り倒そうとすると祟られるとか、神通力に似た不思議な力を有するとされる。これらの木霊が宿る木というのはその土地の古老が代々語り継ぎ、守るものであり、また、木霊の宿る木には決まった種類があるともいわれる。古木を切ると木から血が出るという説もある。 木霊は山神信仰に通じるものとも見られており、古くは『古事記』にある木の神・ククノチノカミが木霊と解釈されており、平安時代の辞書『和名類聚抄』には木の神の和名として「古多万(コダマ)」の記述がある。『源氏物語』に「鬼か神か狐か木魂(こだま)か」「木魂の鬼や」などの記述があることから、当時にはすでに木霊を妖怪に近いものと見なす考えがあったと見られている。怪火、獣、人の姿になるともいい、人間に恋をした木霊が人の姿をとって会いに行ったという話もある。 伊豆諸島の青ヶ島では、山中のスギの大木の根元に祠を設けて「キダマサマ」「コダマサマ」と呼んで祀っており、樹霊信仰の名残と見られている。また八丈島の三根村では、木を刈る際には必ず、木の霊であるキダマサマに祭を捧げる風習があった。 沖縄島では木の精を「キーヌシー」といい、木を伐るときにはキーヌシーに祈願してから伐るという。また、夜中に倒木などないのに倒木のような音が響くことがあるが、これはキーヌシーの苦しむ声だといい、このようなときには数日後にその木が枯死するという。沖縄の妖怪として知られるキジムナーはこのキーヌシーの一種とも、キーヌシーを擬人化したものがキジムナーだともいう。 鳥山石燕の妖怪画集『画図百鬼夜行』では「木魅(こだま)」と題し、木々のそばに老いた男女が立つ姿で描かれており、百年を経た木には神霊がこもり、姿形を現すとされている。 これらの樹木崇拝は、北欧諸国をはじめとする他の国々にも多くみられる。 |
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●狂歌百物語・木魂 | |
分け登る 庚申山の 岨そば道に 立てる木魂は 猿すべりかも(松の門鶴子)
石となる 楠くすの木精こだまに うつ斧の 当てゝ怪しき 火も出でにけり(銭のや) 切り兼ぬる 檜の魂たまに 空をうつ 斧の焼刃も 鈍なまる乱れ火(弓のや) 狐とも 狸とも名の 判らぬは なんじやもんじやの 木魂なるらん(藤園高見) 楠に 木魂あるとは 聞きしかど 見んこと難き 石とこそなれ(雛の舎市丸) 作らざる 眉さへ長く 緑なす 髪や柳の 木霊こだまなるらん(五葉園松蔭) 切らるゝを 知りてか杣そまが 昼寐せし 夢に恨みを 黄楊つげの木魂は(桃本) 行き暮れて 宿を仮寐の 一人にも 物を磐手の 森の木魂は(文語楼青梅) 斧の音ねは 余所よその風とや 神木の 魂は 内にこそあれ(綾のや) 木の魂たまは 何ぞと人の 問ひし時 松とこたへる 嶺の夜あらし(宝鏡園元照) 作らざる 眉さへ長く 緑なす 神や柳の 木魂なるらん(五葉園松蔭) 岩枕 寄りふす妹は 夏の日に 生みし根太ねぶとの 木魂なるかも(槙のや) 朽ちかゝる 榎の虚うろの 光るのは 木の魂の 出づる穴かも(馬遊亭喜楽) 丈高き 杉の股から 産まれけん 心直すぐなる 木魂なりけり(参台) いざなみの 滝に影さす 光り物 神代の杉の 木魂なるらん(茂住) 朧かげ 分け行く森の 下道に 木の魂や 九つのかね(蟻賀亭皺汗) 碁盤にも 伐らんと寄れば 杣人そまびとを 榧かやの木魂や 撥ね退のけてけり(楽月庵) 人間の 情や受けん 千年ちとせ経る 老木に目鼻 木くらげの耳(南雲舎雨守) 山の気の 凝りてや魂に なりぬらん 擦れあふ樹々に 燃ゆる炎は(惟孝) 行き逢うた 人にもきやつと 言はするは 猿滑さるすべりてふ 木魂なるかも(日年庵) 切られたる 恨みは胸を 通し矢の 的をつらぬく 魂は柳か(空満そらみつや) |
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●飛竜 1 | |
空を飛ぶ竜。または、空を飛んでいる竜。「飛竜雲に乗る」などのように、英雄や傑物を譬えて言う場合もある。 | |
●飛龍 2 | |
[ひりゅう、ひりょう] 天空を雄飛する龍のこと。カッコいい名前のため、この名をつけられたものは多い。飛龍とは、空を飛ぶ龍のこと。ゆえに、西洋の翼あるドラゴンであるワイバーンの訳語としても用いられている。飛竜とも書く。龍頭鳥身で魚のヒレのような翼を持つ姿で描かれることが多く、水を治めることから寺院の火災避けとして彫刻された。応龍と同一視もされている。養命酒のマークとしても使われている。
東洋の古典『易経』に飛龍という言葉がよく登場する。空を駆けずりまわっているものの意味で、龍がいるのだとか龍の特別な能力のことをいっているのではなく、一種の状態である。例えば、「飛龍天に在り。上にして治むるなり」(『聖獣の竜がその本性のままに六頭打ち揃って自在に天空を飛びめぐって活躍している』というのは、聖人が上位にあって人民を治めることである)など。 |
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●狂歌百物語・飛龍 | |
湖に 住みたる鯉や 一夜さに 富士を飛び越す 龍となりけん(花前亭)
浮いた事 とらへて語る 咄にも 尾鰭の増える 鯉の化物(香以山人) 時を得て 今は池にも 忍ばずの 鯉や空飛ぶ 龍と化しけん(栄寿堂) 不忍しのばずゆ 龍立ち昇る 上野山 鯉のうろこの 三十六坊(於三坊菱持) 水や空と 見し湖の 鯉や化す 雲の浪をも くゞる飛龍は(京 楳の門花兄) 終つひに雨 よぶ力をや 得しならん 飛龍の登る 霧降きりふりの瀧(跡頼) 氏なくて 龍の鰓の 玉の輿 乗りてや雲の 上へ登れり(紫の綾人) 湖の 鯉も出世を 駿河なる 富士の嶺ねをこす 龍となりけり(稲守) 碁石出る 那智の瀧壺 撥ね出して 鯉は雲井へ うち登る龍(宝山人) 諏訪の湖うみ ひたぶる鯉は 裏不二を 飛び越す龍と なる沢の音(芝口屋) 降る雨に 風の翅つばさを 添へて空 かけるは足や 飛龍なるらん(有明亭月守) 蓮はちす生おふ池の鯉もや富士の嶺の砂を飛ばす龍となりけん(草加 四豊園稲丸) 潜まりて翼得る日を松浦川まつらがは龍立ちのぼる領巾振山(宝遊子升友) |
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●柴田宵曲 妖異博物館 1 「怪火」 | |
惡路王といふのは何人であるか。水戸の西北に祠があつて、大きな髑髏(どくろ)を~體としてゐる。これが惡路王の髑髏だといふのであるが、伊勢の唐子谷にはまた惡路~の火といふものがある。水戸でも已に~に祭られてゐるのだから、惡路王即惡路~と見ていゝかも知れぬが、さう手つ取り早く斷じ得るかどうかわからない。唐子谷の猪草が淵といふのは大難所で、幅十間ばかりの川に杉丸太が渡してある。この橋の高さは水際より十間餘りあり、危險千萬な上に、山蛭が澤山ゐて人を惱ます。こゝに生れて他所に出ぬ人は、老年になるまで米を見たことがないといふ、大變な土地であつた。惡路~の火はこの邊に燃えるので、雨の夜は殊に多く、挑燈のやうに往來する。この火に行き會つた者は、速かに俯伏して身を縮め、火の通り過ぎるのを待つて逃げ出さなければならぬ。さうせずに火に近付けば、忽ちに病を發し、煩ふこと甚しいといふ。髑髏の事を傳へた「一話一言」と、火の事を傳へた「閑窓瑣談」との間には何の連絡もないのだから、倂記して疑問を存するにとゞめる。
[やぶちゃん注:「惡路王」ウィキの「悪路王」によれば、『平安時代初期の蝦夷の首長。文献によっては盗賊の首領や、鬼とされることもある』。しばしばアテルイ(?〜延暦二一(八〇二)年:平安初期の蝦夷の軍事指導者。延暦八(七八九)年に胆沢(いさわ:現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて処刑された)と『同一視されるが、ほかにも異称は多く存在し、それらのどこまでが同じ人物でどこまでが別人なのかは、史料によって異なる。また、伝承が残るのは主に岩手県や宮城県だが、奥羽山脈を越えた秋田県や北関東の栃木県、さらに蝦夷とは何の関係もない滋賀県にもゆかりの地とされる旧跡が存在する』。『どの伝説においても、坂上田村麻呂ないし彼をモデルとした伝承上の人物によって討たれるところは共通している』とある。 「水戸の西北に祠があつて、大きな髑髏(どくろ)を~體としてゐる」これは現在の水戸市の西北の、茨城県東茨城郡城里町(しろさとまち)高久にある鹿嶋神社のことであろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「悪路王」によれば、この神社には『悪路王面形彫刻が伝わる。坂上田村麻呂は下野達谷窟で討った悪路王(阿弖流為)の首級を当社に納めた。ミイラ化した首は次第に傷みがひどくなったので、木製の首をつくったという』。『達谷窟の所在地が陸奥国ではなく下野国とされているところが他の伝承と異なる』とある。また、個人サイト「300年の歴史の里<石岡ロマン紀行>」の「鹿嶋神社」の詳しい解説と画像の載るページも是非、参照されたい。 「伊勢の唐子谷」「猪草が淵」ウィキの「悪路神の火」(あくろじんのひ)によれば、現在の三重県度会郡玉城町の内と思われる。川が特定出来ない。地域の識者の御教授を乞う。 「十間」約十八メートル。 「閑窓瑣談」これは同書「後編」の「第三十四 惡路~(あくろじん)の火(ひ)」。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示し、挿絵も挿入した。 |
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○第三十四 惡路~の火 伊勢國紀州御領(ごりりやう)の内にて、田丸(たまる)領間弓(まゆみ)村の唐子谷(からこだに)といふ所に、猪草(ゐくさ)が淵(ふち)といふ大難所あり。常の道路(みち)巾十間計(ばかり)の川あり。其河に杉丸太を渡して往來とせり。此丸太橋の高サ水際より十間余有。是を渡る時は甚(はなはだ)危怖(あやうくおそろ)しき事言語に絶(たえ)たり。橋の下は々(あをあを)たる水の面(おもて)其底を知らず。此邊(このへん)山蛭(やまひる)といふ蟲多く、手足に取付(とりつき)て人を悩(なやま)す。寔(まこと)に下品(げひん)の地(ち)にして、男女(なんによ)の形狀(かたち)見分(みわけ)がたき程の所なり。此地に生れて他へ出(いで)ざる人は、老年まで米などを見ざる者多しといふ。又此邊に惡路~の火と號(なづけ)て、雨夜には殊に多く燃(もえ)て、挑灯(てうちん)のごとくに往來す。此(この)火に行合(ゆきあふ)者は、速(すみやか)に地に俯(うつむき)に伏(ふし)て身を縮(ちぢ)む。其時火は其人の上を通路(つうろ)するなり。火の通り過(すぐ)るを待(まち)て迯出(にげいだ)す。然(さ)も爲(せ)ざる時は、彼(か)火に近付(ちかづき)て忽ちに病(やまひ)を發し煩ふ事甚しといふ。這(こ)は享保の年間、阿部友之進といふ名醫、採藥の爲に經歷(けいれき)して彼(かの)地にいたり、眼前に見聞(けんもん)し、歸府の後(のち)諸國の奇事を上書(じやうしよ)せし採藥記にあり。 |
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惡路王の正體がはつきりせぬ以上、惡路~の火の由來もわからない。享保年間に阿部友之進といふ醫師がこの地を經歷して、「採藥記」といふものを書いてゐるさうだが、これは未見の書である。惡路~の火が猪草が淵の邊に現れ、出逢つた人を惱ますには、何か然るべき理由があるに相違ないが、肝腎の點の書いてないのが物足らぬ。そこへ往くと大津の油盜みの火などは至つて明白である。志賀の都に油を賣る商人が、大津の辻の地藏の燈明に上げる油を毎晩盜んだ。その男の死後、迷ひの火となつて、今の世までも消えぬといふ。倂し松明のやうな火が飛び囘るだけで、人に害を與へることはなかつたらしい(本朝故事因緣集)。
[やぶちゃん注:「採藥記」前注で引いた「閑窓瑣談後編」の「第三十四 惡路~の火」には確かにそう書いてあるのであるが、ウィキの「悪路神の火」によれば、「閑窓瑣談」は『この話の典拠として、享保年間に幕府の採薬使として諸国を巡った阿部友之進(照任)の採薬記を挙げ、友之進が「眼前に見聞し」たものと記している。阿部照任の著述としては、松井重康とともに口述した』「採藥使記」なる書があるものの、『この書に悪路神の火の記載はない』。一方、享保五(一七二〇)年から宝暦四(一七五四)年まで採薬使の職にあった植村政勝の著した「諸州採藥記抄錄」の「伊勢國」の項には、「閑窓瑣談」と『ほぼ同様の記述が見られる』とある。但し、「諸州採藥記抄錄」では、『「猪草淵」の次に続けて「悪路神の火」を記すものの、この怪火を猪草淵に現れるものとしているわけではない』とある。以下、「諸州採藥記抄錄」の「猪草淵」の記述を略したものが掲げられてあるので、恣意的に正字化して示しておく。一部の読みは私がオリジナルに歴史的仮名遣で附したもの。 |
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又同國にて惡路~の火とて雨夜には多く挑灯(てうちん)のことく往來をなす、此火に行逢(ゆきあ)ふ時は流行病(はやりやまひ)を受(うけ)て煩ふよし、依之(これによつて)此(この)火に行逢ふときは早速(すみやか)に地に伏す、彼(かの)火其(その)上を通(とほ)すへるによつて此(この)病(やまひ)難を逃るゝといへり、 文中の「通すへる」は「通(とほ)す經(へ)る」か。 | |
「本朝故事因緣集」作者未詳。刊記に元禄二(一六八九)年とある。説法談義に供される諸国奇談や因果話を収めた説話集。全百五十六話。
同じ近江の話ではあるが、少し違ふのが「百物語評判」にある。叡山全盛の時代に、中堂の油料として一萬石ばかり知行があり、東近江の住人がこの油料を司つて、家富み榮えて居つた。その後時代の變遷に伴ひ、この知行がなくなつたのを、本意なく思つた東近江の住人が、その事を思(おも)ひ死(じに)に死んだ。爾來この者の在所から夜每に光り物が飛び出し、中堂の方へ來て、例の油火の方へ行くので、別に油を盜むわけではないが、皆油盜人と名付けた。これはその者の執念が油火を離れぬため、今以て來るのだらう、仕留めようと云ひ出した者があつて、弓矢域砲を持ち出し、衆を恃む鵺退治のやうな形勢になつた。案の如くその時間になると、K雲一むら出る中に光り物があり、瞬く間に若者どもの頭上に來て、弓矢も全く手につかぬ。その時光り物をよく見屆けた者の説によれば、怒る坊主首が火焰を吹いて來る姿がありありと見えたさうである。今から百年ほど以前の話であつたが、次第に絶え絶えになつた。現在でも雨の夜などには時々この光り物が出る、湖水邊の在所の者はよく見るとある。「百物語評判」といふ書物は、山岡元鄰の宅で百物語を催した時、元鄰がその話每に和漢の故事を引いて評したのを、沒後貞享三年に至つて刊行されたものである。元鄰の沒したのは寛文十二年だから、その存生時代に百年以前といふと、どうしても元龜天正前後まで遡らなければならぬ。江戸時代の話ではない。 [やぶちゃん注:「古今百物語評判」(既出既注)のそれは、同書「卷之三」の「第七 叡山中堂(ちうだう)油盜人(あぶらぬすびと)と云ふばけ物付鷺(あをさぎ)の事」である。国書刊行会江戸文庫版を参考に、例の仕儀で加工して同条全文を示す。挿絵も挿入しておく。 |
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第七 叡山中堂油盜人と云ふばけ物付鷺の事 かたへの人の云はく、「坂本兩社權現の某坊(それがしばう)と云へる人の物語に、そのかみ叡山全盛のみぎり、中堂の油料とて壱万石ばかり知行ありしを、東近江の住人此油料を司りて家富みけるに、其後世かはり時移りて、此知行退転せしかば、此東近江の住人世にほいなき事に思ひ、明けくれ嘆きかなしみしが、終に此事を思ひ死ににして死ににけり。其後夜每(よごと)に此者の在所よりひかり物出でて、中堂の方へ來たりて、彼の油火のかたへ行くとみえしが、其さますさまじかりし故、あながち油を盜むにもあらざれど、皆人油盜人と名付けたり。はやりおの若者ども、是れを聞きて、如何樣にも其者の執心油にはなれざる故、今に來たるなるべし。しとめて見ばやとて、弓矢鐡砲をもちて飛び來たる火の玉を待ちかけたり。あんのごとく其時節になりて、K雲一叢出づると見えし。その中に彼の光り物あり。すはやといふ内に、其若者どもの上へ來たりしかば、何れもあつといふばかりにて、弓矢も更に手につかず。中にもたしかなる者ありて見とめしかば、怒れる坊主(なうず)の首(くび)、火焰(くわゑん)吹きて來たれる姿ありありと見えたり。是れ百年ばかり以前の事にてさふらひしが、その後は絶え絶えに來たりて、只今も雨夜などには其光物折々出で申し候ふを、湖水辺の在所の者は坂本の者にかぎらず、何れも見申し候ふ。此事かくあるべきにや」と問ひければ、先生答へていはく、「人の怨靈の來たる事、何かの事に付けて申すごとく、邂逅(たまさか)にはあるべき道理にて侍る故、其油盜人もあるまじきにあらず。しかしながら年經て消ゆる道理は、うぶめの下にてくはしく申せし通りなり。其死ぬる人の精魂の多少によりて、亡魂の殘れるにも遠近のたがひあるべし。また只今にいたりて、其物に似たりし光り物あるは、疑ふらくは鷺なるべし。其子細は江州高島の郡(こほり)などに別してあるよしを申し侍る。鷺の年を經しは、よる飛ぶときは必ず其羽ひかり候ふ故、目のひかりと相応じ、くちばしとがりてすさまじく見ゆる事度々なりと申しき。されば其ひかり物も今に至りて見ゆるは、鷺にや侍らん」。 |
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元鄰センセ、何で「鷺の年を經しは、よる飛ぶときは必ず其羽ひか」るんでしょうか? 理を尽くして私に判るように説明して下され!
「鵺」「ぬえ」。一般には猿の顔・狸の胴体・虎の手足・尾は蛇などとされる本邦では最初期のハイブリッド妖怪である。 「貞享三年」一六八六年。 「寛文十二年」一六七二年 「元龜天正」「元龜」は一五七〇年から一五七三年、「天正」は一五七三年から一五九三年。] 河内國平岡には一尺ばかりの火の玉が飛ぶ。昔平岡社の油を盜んだ姥が死後に燐火になつたので、叡山の西の麓の油坊、七條朱雀の道元の火、皆似たものと「諸國里人談」にある。平岡の姥火の正體は五位鷺で、遠くからは圓い火に見えるのだといふ説もあるが、五位鷺の羽は慥かに光るらしい。山岡元鄰も油盜人の火に就いて、鷺説を持ち出して居つた。油盜人と油坊は同一であるかどうか、よくわからぬ。 [やぶちゃん注:「河内國平岡」は枚岡(ひらおか)が正しく、現在の大阪府東大阪市東部の汎称地名である。 「平岡社」現在の大阪府東大阪市出雲井町にある枚岡神社であろう。 「諸國里人談」は江戸中期の俳人で作家の菊岡沾凉(せんりょう 延宝八(一六八〇)年〜延享四(一七四七)年)の寛保三(一七四三)年刊の随筆。同話は「卷之三」にある「油盜火」(「あぶらぬすみび」と訓ずるか)。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。読みはオリジナルに私が歴史的仮名遣で附した。 |
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○油盜火
近江國大津の八町に、玉のごとくの火、竪に飛行(ひぎやう)す。雨中にはかならずあり。土人の云(いはく)、むかし志賀の里に油を賣ものあり。夜每(よごと)に大津辻の地藏の油をぬすみけるが、その者死て魂魄、炎となりて迷ひの火、今に消(きえ)ずとなり。 ○又叡山の西の麓に、夏の夜燐火飛ぶ。これを油坊といふ。因緣右に同じ。七條朱雀(しざく)の道元(だうげん)が火、みな此(この)類ひなり。これ諸國に多くあり。 |
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攝津の高槻には二恨坊の火といふのがあつた。本人は山伏で、生涯に二つの恨みあるにより二恨坊と名付ける。「本朝故事因緣集」に從へば、曇る夜は必ず鳥のやうに飛び、竹木や屋の棟などにとまる、近寄つて見れば火の中に眼耳鼻舌唇を具へ、恰も人面の如くである。男女多く集り見るときは、恐れ辱ぢて飛び去るといふのだから始末がいゝが、何の恨みがあつたかは書いてない。「諸國里人談」は山伏の名を日光坊とし、行力他にすぐれて居つた。村長(むらをさ)の妻が病に臥した時、この山伏に加持をョんだら、閨に入つて祈ること一七日、病は平癒したが、後に至り密通の名を負はせ、平癒の恩も謝せずに殺害した。この恨み妄火となつて長の家の棟に飛び來り、長を取り殺すとある。これだと恨みの點はよくわかるが、恨みが一つしかない。日光坊訛つて二恨坊となるならば、強ひて二の字に拘泥する必要はないかも知れぬ。
[やぶちゃん注:「攝津の高槻」現在の大阪府高槻(たかつき)市。 「本朝故事因緣集」本話は「卷之四」「九十一 攝津高槻二恨坊(にこんばう)之火」。「国文学研究資料館」公式サイト内のここから画像で読める。 「諸國里人談」のそれは以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。読みはオリジナルに私が歴史的仮名遣で附した。 |
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〇二恨坊火
摂津國高槻庄二階堂村に火あり。三月の頃より六七月までいづる。大さ一尺ばかり、家の棟(むね)或は諸木(しよぼく)の枝梢(ゑだこずゑ)にとゞまる。近く見れば眼耳鼻口のかたちありて、さながら人の面(おもて)のごとし。讐(あだ)をなす事あらねば、人民さしておそれず。むかし此所に日光坊(につかうばう)といふ山伏あり。修法(ずはう)、他にこえたり。村長(むらをさ)が妻、病(やまひ)に臥す。日光坊に加持(かぢ)をさせけるが、閨(ねや)に入(いり)て一七日(ひとなぬか)祈るに、則(すなはち)病(やまひ)癒(いえ)たり。後に山伏と女密通なりといふによつて、山伏を殺してけり。病平癒の恩も謝せず。そのうへ殺害す。二(ふたつ)の恨(ふらみ)、妄火と成りて、かの家の棟に每夜飛來(とびきたり)て、長(をさ)をとり殺しけるなり。日光坊の火というを、二恨坊(につこんばう)といふなり。 |
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柴田の「日光坊訛つて二恨坊とな」ったとするのは、すこぶる腑に落ちる解釈である。]
「諸國里人談」はこの種の火が諸國に多くあると云ひ、千方の火、虎宮の火、分部の火、鬼の鹽屋の火、などを擧げた。千方の火は藤原千方の因緣で、伊勢の川俣川の水上より、挑燈ほどの火が、川の流に沿うて下る事、水より早いといふ。逆臣として誅せられた千方の怨恨であらう。分部の火は同じく伊勢の話で、分部山より小さい挑燈ほどの火が五十も百も現れ、縱に飛び𢌞つた後、五六尺ほど一團となり、塔世川を下る事、水より早しといふのだから、先づ大同小異である。然るに塔世が浦には鬼の鹽屋の火といふのがあり、この火の中には老媼の顏が見える。そこらは二恨坊の火に似てゐるが、これが川上の火と行き合ひ、入れ違ひ飛び返りして戰ふ。やゝあつて一つになり、また分れて、一方は沖へ飛び、一方は川上へ奔るといふのを見れば、山伏の恨みなどとは比較にならぬ問題が含まれてゐるらしく思はれる。火が一團となつて動くのは、大きな爭鬪なり、戰ひなりがあつたものでなければならぬが、その事は亡びて口碑の上にも存せず、火のみ昔の恨みを傳へてゐるのが却つて哀れ深い。 [やぶちゃん注:「千方の火」「ちかたのひ」。後注参照。以下、妖怪(怪火)の固有名にルビを振らない柴田は極めて不親切である。 「虎宮の火」「とらのみやのひ」或いは「こきう(こきゅう)のくわ」。古い地神か。Bittercup氏のブログ「続・竹林の愚人」の「虎宮火」によれば、現在の摂津市の旧味舌(ました)下浜、現在の浜町にあった。今は大阪府摂津市三島の味舌(ました)天満宮に合祀されているという。 「分部の火」「わけべのひ」。「分部」は後に出る通り、山名で、伊勢国安濃津(あのうつ/あのつ/あののつ:現在の三重県津市)にある安濃(あのう)川(本文の「塔世(とうせ)川」はその別称)川上にある。 「鬼の鹽屋の火」「おにのしほやのひ」。 「藤原千方」「ふじはらのちかた」。ウィキの「藤原千方の四鬼」(ふじわらのちかたのよんき)によれば、『三重県津市などに伝えられる伝説の鬼』。『様々な説があるが、中でも『太平記』第一六巻「日本朝敵事」の記事が最も有名』で、『その話によると、平安時代、時の豪族「藤原千方」は、四人の鬼を従えていた。どんな武器も弾き返してしまう堅い体を持つ金鬼(きんき)、強風を繰り出して敵を吹き飛ばす風鬼(ふうき)、如何なる場所でも洪水を起こして敵を溺れさせる水鬼(すいき)、気配を消して敵に奇襲をかける隠形鬼(おんぎょうき。「怨京鬼」と書く事も)である。藤原千方はこの四鬼を使って朝廷に反乱を起こすが、藤原千方を討伐しに来た紀朝雄(きのともお)の和歌により、四鬼は退散してしまう。こうして藤原千方は滅ぼされる事になる』。『他の伝承では、水鬼と隠形鬼が土鬼(どき)、火鬼(かき)に入れ替わっている物もある。また、この四鬼は忍者の原型であるともされる』とある。 「川俣川」「かばたがは」と読むものと思われる。三重県中部の中央構造線沿いを西から東に流れ伊勢湾に注ぐ櫛田(くしだ)川上流の支流。恐らくはこの附近にあるはずである(グーグル・マップ・データ)。 「五六尺」一・五〜一・八メートルほど。 「塔世が浦」現在の櫛田川河口の吹井ノ浦のことか。 「川上の火」先の分部(わけべ)の火のこと。 どうしようかと思ったが、禁欲注ではあるが、原典紹介をせめての旨としてきた以上、やったろうじゃ、ねえか! 「諸國里人談」の「千方の火」・「虎宮の火」・「分部の火」・「鬼の鹽屋の火」(これは前の「分部火」と闘うとする怪火の名)を以下の挙げる。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。【 】は割注。以下は「卷之三」の条々であるが、必ずしも順に並んではいないので、「*」で別個に示した。どれをどう表記挿絵したものかは判然とせぬが、挿絵も入れた。面倒なので、注は附さぬ。 |
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○千万火
勢州壱志郡家城の里川俣川の水上より、挑燈ほどなる火、川の流にそいてくだる事、水よりはやし。これを千方の火といふ。むかし藤原の千方は此所に任しけるとなり。大手の門の礎の跡今に存せり。それより旗屋村、的場村、丸之内村、三之丸、二の丸、本丸といふ村々あり。今凡七千石程の所なり。千方は今見大明~[と云、則此所のうぶすななり]。 |
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○虎宮火
攝津國島下郡別府村の虎の宮の跡といふ所より出て、片山村の樹のうへにとゞまる、火の玉なり。雨夜にかならずいづるなり。これに逢ふ人、こなたの火を火繩などにつけてむかへば、其まゝ消ゆるなり。虎の宮又奈豆岐宮ともいふ。是則前にいふ所の日光坊の一族、其腦(なつき)を祭る~といひつたへたる俗説あり。又云、延喜式に、攝州武庫郡名次~を祭る歟。 |
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○分部火
伊勢國安濃津塔世の川上分部山より、小き挑燈ほどなる火、五十も百も一面に出て縦に飛めぐりて後、五六尺ほど一かたまりになりて、塔世川をくだる事水よりはやし。又塔世が浦に鬼の鹽屋の火といふあり。此火中には老媼の顏のかたちありける。かの川上の火と行合、入ちがひ飛かえりなどして、相鬪ふ風情なり。少時して又ひとつにかたまり。そのゝちまたわかれて、ひとつは沖のかたへ飛、一つは川上へ奔るなり。[やぶちゃん注:下線やぶちゃん。] |
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「分部山」は恐らく「わけべやま」と訓じ(位置不詳)、「塔世の川」は恐らく「とうせのかは」で現在の三重県津市を流れて伊勢湾に注ぐ安濃川(あのうがわ)の部分旧称か支流と思われる。郷土史研究家の御教授を乞うものである。]
この種の火はとかく恨みに結び付くので、あまり愉快なものではないが、こゝに恨みなどには全然縁のない、天~の火といふのがある。伊勢國雲津川のほとりに天~山といふ山があつて、夏秋のころ日が暮れると、この山の茂みに火が見える。然も戲れに人が呼べば、直ぐその前に飛んで來るのである。里から山まで二里以上も距離があるのに、呼ぶが早いか、矢のやうに飛んで來る。火の大きさは傘ぐらゐで、地上を離れ步くこと一二尺に過ぎぬ。火の中にうめくやうな聲がして、人の步くに從つて迫つて來るだけで、別に怪しい事もなく、害をなす事もない。人は見馴れて怪しまず、子供などは火の中に入つて戲れるほどで、熱氣はなく、普通の火のやうな色をしてゐるが、臭氣があるため、久しく傍にはゐにくい。人が家へ歸れば、この火はそこまでついて來て、一晩中去らず、うめくやうな聲を立ててゐる。誰かまた火を呼んだなと云つて、戸外に出て草の葉を一つ摘み取り、それを額に戴く時は、火は忽ち飛び去つて見えなくなる。必ずしも草の葉には限らぬ、何でも地上にあるものを戴いて見せれば、火はこれを避けて行つてしまふ。「いかなる物といふ事を知らず」と「譚海」は書いてゐるが、これなどは多くの怪火の中に在つて、先づ親しみ易いものと云へるであらう。 [やぶちゃん注:「譚海」「卷之八」の「勢州雲津天~の火の事」。一部にオリジナルに歴史的仮名遣で読みを附した。 |
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○勢州雲津川上に天~山といふあり、その山に火あり。里人天~の火といひならはしたり。夏秋のころ日くるれば、天~の山のしげみに此火みゆるを、戲(たはむれ)に人よぶときは其前に飛とび)いたる。里より山までは二里あまりをへだてたるところを、よぶ聲につきてそのまゝ來(きた)る事、端的にして矢よりも早(はや)飛至(とびいた)る。此火からかさの大さほどありて、地上をはなれてありく事一二尺に過(すぎ)ず。火の中にうめく聲のやう成(なる)もの聞えて、人のありくに隨つて追來(おひきた)る、あやしき事なし、害をなす事もなき故、常に人見なれて子供などは火の中に入(いり)て、かぶりたはぶるゝ事をなす。熱氣なくして色は常の火のごとし、ただ臭氣ありて久しく褻(なれ)がたし。家へ歸行(かへりゆく)に、火も人に隨ひ來りて、終夜戸外(こがい)に有(あり)てうめく聲有(あり)てさらず。里人例の戲(たはむれ)に火を呼(よび)たるよとて、戸外に出て草の葉をひとつ摘(つみ)とり額に戴(いただく)時は、此火たちまちに飛(とび)さりてうするなり。地上にあるもの何にてもいたゞきて見する時は、火避(さけ)て飛(とび)さる事すみやかなり、いか成(なる)物といふ事をしらず。 | |
「天~山」不詳。現在の三重県津市を流れる雲出(くもず)川の上流かと思われるが、山の位置を特定出来ない。識者の御教授を乞う。ともかくも、これは実に面白い現実現象であるように思われる。何だろう?] | |
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●柴田宵曲 妖異博物館 2 | |
●「舟幽霊」
「生月(いきつき)というところの鯨組の親方に道喜という者があった。はじめ舟乗りをしていた頃、或夜舟端に白いものが何十も取り付いたので、よく見れば子供のような細い手である。」 「人吉(ひとよし)侯の侍医であった佐藤宗隆という人は、江戸へ出る船中で舟幽霊を見た。播州(ばんしゅう)舞子(まいこ)の浜あたりは、こういう事の稀なところであるが、その夜は陰火が海面を走って怪しく見えた。ほどなく大きさ四尺余りもある海月(くらげ)のようなものが漂って来て、その上に人の形をした者が居り、船頭に向って何か云いかけそうに見えた。」 ●「異形の顔」 「鈴木桃野(とうや)の祖父に当る向凌という人が若い時分に、独り書斎に坐っていると、忽然として衣冠を着けた人が桜の枝から降りて来た。(中略)衣冠を着けた人などが、この辺に居る筈がない。固(もと)より天から降るべき筈もないから、心の迷いでこんなものが見えるのであろうと、暫く目を閉じてまた開けば、官人は次第に降りて来る。目を閉じては開くこと三四度、遂に縁側のところまで来て、縁端に手をかけた。」 「越中、飛騨、信濃(しなの)三国の間に入り込んだ四五六谷というところがある。神通(じんずう)川を遡り、またその支流を尋ねて行くのに、甚だ奥深くて、これを究め得た者がない。近年飛騨舟津(ふなつ)の者が二人、三日分の食糧を準備して川沿いに行って見たが、その食糧も乏しくなったので、魚を釣って食うことにして、なお幾日か分け入った。或時ふと同行者の魚を釣っている顔を見ると、全く異形の化物である。思わず大きな声で呼びかけたので、魚を釣っている男が振向いたが、その男の眼には此方の男の顔が異形に変じている。お互いに異形に見える以上、この地に変りがあるに相違ないと、急いでそこを逃げ出し、大分来てから見合せた顔は、もう平常に戻って居った。思うにこの谷は山神の住所で、人の入ることを忌み嫌って、こういう変を現したものと解釈し、その後は奥深く入ることをやめたが、飛騨の高山(たかやま)の人の話によれば、それは山神の変ではない、山と谷との光線の加減で、人の顔の異形に見えることがある、飛騨のどこかに人の往来する谷道で、人の顔が長く見えるところがあるが、その谷を行き過ぎると常の通りになる、この道を通い馴れぬ人はびっくりするけれども、所の人は馴れて何とも思っていない、ということであった。」 ●「猫と鼠」 「「閑窓瑣談(かんそうさだん)」にあるのは遠州御前崎(おまえざき)の話で、西林寺(さいりんじ)という寺の和尚が或年暴風の際、舟の板子(いたご)に乗って流れて来る子猫があったのを、わざわざ小舟を出して救い寺中に養う。十年ほどたって、猫は附近に稀れな逸物の大猫になり、この寺には鼠の音を聞くこともなかった。西林寺は住職と寺男だけという簡素な寺であったが、或時寺男が縁端でうたた寝をしていると、猫も傍に来て庭を眺めている。そこへ隣りの家の猫がやって来て、日和もよし、伊勢参りをせぬかと声をかける。寺の猫がそれに答えて、わしも参りたいが、この節は和尚様の身の上に危い事があるので、外へは出られぬ、と云う。隣りの家の猫は寺の猫の側近く進んで、何やらささやくものの如くであったが、二疋はやがて別れた。寺男は夢うつつの境で、この猫の問答を聞いたのである。その夜本堂の天井に恐ろしい物音が聞える。折ふし雲水の僧が止宿して居ったのに、この物音が聞えても、一向起きて来ない。(中略)夜が明けて後、天井から生血が滴るので、近所の人を雇い、寺男と共に天井裏を見させたところ、寺の猫は朱(あけ)に染まって死んで居り、隣りの猫も半ば死んだようになっていた。更に驚いたのは、それより三四尺隔てて、二尺ばかりもある古鼠の、毛は針を植えたようなのが倒れていることであった。(中略)猫はいろいろ介抱して見たが、二疋とも助からなかった。」 ●「化け猫」 「佐藤成裕(しげひろ)は「中陵漫録(ちゅうりょうまんろく)」に猫の話をいくつも書いているが、その中に禅僧から聞いたという化け猫の話がある。猫好きの婆さんがあって、猫を三十疋も飼っている。猫が死ねば小さな柳行李(やなぎごうり)に入れて棚に上げ、毎日出して見てはまた棚へ上げて置く。この事已(すで)に尋常でないが、この婆さんは白髪で、猫のような顔をしていたそうである。後に人に殺され、半日ほどして老猫に変った。」 ●「大鳥」 「ある雪の明け方、新城(しんじょう)の農民が近くの山へ炭焼きに行くと、向うの山にいつも見たことのない大木が、二本並んで立っている。上に物があって、大きな翼を搏って上るのを見れば、前に大木と思ったのは鳥の両脚であったというのである。」 ●「茸の毒」 「普請をする家があって、黄姑茸を煮て職人に食べさせることにした。時に屋上に在って瓦を葺(ふ)く者が、ふと下を見れば、厨(くりや)には誰も居らず、釜の中で何かぐつぐつ煮えている。忽ち裸の子供がどこからか現れて、釜を繞(めぐ)って走っていたが、身を躍らして釜中に没した。やがて主人が運んで来たのは茸の料理である。屋根屋ひとり食わず、他人に話もしなかったが、食べた連中は皆死んだ。」 ●「果心居士」 「果心居士の話は「義残後覚(ぎざんこうかく)」に書いてあるのが古いらしい。伏見(ふしみ)に勧進能があった時、果心居士も見に来たが、已(すで)に場内一杯の人で入る余地がない。これはこの人達を驚かして入るより外はないと考えた居士は、諸人のうしろに立って自分の頤(おとがい)をひねりはじめた。居士の顔は飴細工の如く、見る見るうちに大きくなったから、傍にいる人はびっくりして、これは不思議だ、この人の顔は今までは人間並だったが、あんなに細長くなってしまったと、皆立ちかかって見る。遂に居士の顔は二尺ぐらいになった。世にいう外法頭(げほうがしら)というのはこれだろう、後の世の語り草に是非見て置かなければならぬと、誰れ彼れなしに居士の顔を見物に来る。能の役者まで楽屋を出て見に来るに至ったので、居士は忽ちその姿を消し、人々茫然としている間に座席を占め、十分に能を見物することが出来た。 果心居士は長いこと広島に住んでいたが、そこの町人から金銀を大分借りた。そうして一銭も返済せずに京へ来てしまったので、町人はひどく腹を立てた。その後町人も京へ上ることがあって、鳥羽(とば)の辺でばったり果心居士に出逢うと、口を極めて居士を罵倒する。借金をしたのは事実だから、一言の申し開きもしなかったが、居士は例の如く自分の頤をひねりはじめた。今度は伏見の能見物の時と違って、顔の横幅が広くなって、目は丸く鼻は高く、向う歯が一杯に見える、世にも不思議な顔になってしまった。町人もいささか驚いていると、居士はすましたもので、拙者はこれまであなたにお目にかかったことがござらぬが、何でそのように心易げに申さるるか、と反問した。町人が見直すまでもなく、全く別の顔だから、まことに卒爾(そつじ)を申しました、と平あやまりにあやまって別れて行った。」 「「義残後覚」に出ている話は(中略)大体に於て悪戯の程度にとどまっているが、元興寺(がんごうじ)の塔へどこからか上って、九輪の頂上に立ち、著物を脱いで打ち振い、やがてもとの通り著て、頂上に腰掛けたまま四方を眺めている「玉箒木(たまはばき)」の話になると、大分放れたところが出て来る。或晩奈良の手飼町の或家で、客を四五人呼んで酒宴を開いた時、客の中に果心居士をよく知った者が居って、頻(しき)りに幻術の妙をたたえたところ、それなら居士をこの座へ招き、吾々の見ている前で幻術をさせて下さい、お話ほどの事もありますまい、と少し疑惑を懐(いだ)く者もあった。はじめに居士の話をした者が出て行って、間もなく居士と一緒に戻って来たが、その時少し疑惑を持つ一人が進み出て、(中略)どうか私の身について奇特をお見せ下さい、と云った。居士は笑って、(中略)座中の楊枝を手に執り、その人の上歯を左から右へさらさらと撫でた。上歯は一遍にぶらぶらして、今にも脱け落ちそうになったので、その人大いに驚き悲しみ、恐れ入りました、御慈悲にもとのようにして下さい、と歎願に及ぶ。(中略)再びかの楊枝で右から左へ撫でると、歯はひしひしと固まって、もとの通りになった。人々今更の如く感歎し、とてもの事に今夜この座敷で、すさまじい幻術をお見せ下さい、子々孫々までの話の種に致します、と所望する。お易い事と呪文を唱え、座敷の奥の方を扇を揚げて麾(まね)けば、どこからか大水が涌き出して、座敷にあるほどの物が全部流れはじめた。水は忽ちに座敷に充ち満ち、逃げようにも逃げられなくなったところへ、十丈ばかりもある大蛇が、(中略)波を蹴立ててやって来る。皆々水底に打ち伏し、溺れ死んだと思ったが、翌日人に起されて座敷を見れば、平生と変ったところは何もない。」 「その頃大和(やまと)の多門(たもん)城には、松永弾正久秀(だんじょうひさひで)が居住して居った。果心居士の噂を聞いてこれを招き、(中略)自分はこれまで幾度となく戦場に臨み、刃を並べ鉾(ほこ)を交うる時に至っても、終(つい)に恐ろしいと思った事がない、その方幻術を以て自分を脅すことが出来るか、と尋ねた。居士はこれに答えて、畏りました、然(しか)らば近習の人も退け、刃物は小刀一本もお持ちなされず、灯も消していただきとうございます、と云う。久秀はその通り人を遠ざけ、大小の刀を渡し、真暗な中にただ一人坐っていると、居士はついと座を立ち、広縁を歩いて前栽(せんざい)の方へ出て行った。俄かに月が曇って雨が降り出し、風蕭々として、さすがの松永弾正も何だか心細くなって来た。どうしてこんな気持になったかと怪しみながら、じっと暗い外を見ているうちに、誰とも知らず広縁に佇む人がある。細く痩せた女の髪を長く揺り下げたのが、よろよろと歩いて来て、弾正に向って坐ったけはいなので、思わず何者じゃと声をかけた。その時女大息をつき、苦しげな声で、今夜はお寂しゅうございましょう、見れば御前に人さえなくて、と云うのは、五年前に病死した妻女の声に紛れもない。弾正もここに至って我慢出来なくなり、果心居士はどこに居る、もうやめい、と叫ばざるを得なかった。件(くだん)の女は忽ち居士の声になって、これに居りまする、と云う。もとより雨などは降らず、皎々(こうこう)たる月夜であった。」 ●「命数」 「鯰江(なまずえ)六太夫という笛吹きがあった。国主の秘蔵する鬼一管という名笛は、この人以外に吹きこなす者がないので、六太夫に預けられたほどの名人であったが、何かの罪によって島へ流された。(中略)ひそかにこの鬼一管を携え、日夕笛ばかり吹いて居った。然(しか)るにいつ頃からか、夕方になると、必ず十四五歳の童が来て、垣の外に立って聞いている。雨降り風吹く時は、内に入って聞くがよかろう、と云ったので、その後はいつも入って聞くようになった。或夜の事、一曲聞き了(おわ)った童が、こういう面白い調べを聞きますのも今宵限りという。不審に思ってその故を問うと、私は実は人間ではありません、千年を経た狐です、ここに私のいることを知って、勝又弥左衛門という狐捕りがやって参りますから、もう逃れることは出来ません、という返事であった。そこで六太夫が、知らずに命を失うならともかくも、それほど知っていながら死ぬこともあるまい。弥左衛門が嶋にいる間、わしが匿まってやろう、と云ったけれども、狐は已(すで)に観念した様子で、ここに置いていただいて助かるほどなら、自分の穴に籠っても凌(しの)がれますが、弥左衛門にかかっては神通を失いますので、命を失うと知っても近寄ることになるのです、今まで笛をお聞かせ下さいましたお礼に、何か珍しいものを御覧に入れましょう、と云い出した。それでは一の谷の逆落しから源平合戦の様子が見たい、と云うと、お易い事ですと承知し、座中は忽ち源平合戦の場と変じた。」 ●「異玉」 「江戸の亀井戸に住む大工の何某が、夏の夜涼みに出たら、どこからか狐が一疋出て来た。その狐が手でころばすようにすると、ぱっと火が燃え出る。不思議に思って様子を窺えば、火の燃える明りで虫を捕るらしい。狐は虫を捕ることに夢中になって、近くに人がいるのを忘れ、別に避けようともせぬので、手許へ玉のころがって来たのを、あやまたず掴む。狐は驚いて逃げ去った。玉は真白で自ら光を放つ。夜人の集まった時など、この玉を取り出してころがすと、ぱっと火が燃えて、付木(つけぎ)なしに明りの用を弁ずる。大工は大いに重宝して、二年ばかり所持して居ったが、その間一疋の狐が大工の身に附き添って、昼夜とも離れない。年を経るに従い、大工も痩せ衰えて来た。多分この玉の祟りだろうと皆に云われるので、漸(ようや)く玉を返そうと思う心が起り、或夜闇の中に投げ遣った。狐は忽ち躍り上ってこれを取り返し、大工の方は何事もなかった。」 |
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●柴田宵曲 続妖異博物館 | |
●「月の話」
「王(おう)先生なる者が烏江(うこう)のほとりに住んで居った。(中略)長慶(ちょうけい)年間に楊晦之(ようかいし)という男が長安から呉楚に遊ぶ途中、かねてこの人の名を聞いていたのでその門を敲(たた)いた。先生は黒い薄絹の頭巾を被り、褐色の衣を著けて悠然と几(つくえ)に向っている。晦之が再拝して鄭重に挨拶しても、軽く一揖(いちゆう)するのみであった。併し晦之を側に坐らせての暢談(ちょうだん)は容易に尽きそうにもないので、晦之は一晩泊めて貰うことになった。先生の娘というのが出て来たが、七十ばかりで頭髪悉(ことごと)く白く、家の中でも杖をついている。これはわしの娘じゃが、惰(なま)け者で道を学ばぬものじゃから、こんな年寄りになってしまった、と云い、娘を顧みて月の用意をせよと命じた。この日は八月十二日であったが、暫くして娘が紙で月の形を切り、東の垣の上に置くと、夕べに至り自ら光りを発し、室内はどんな小さなものでもはっきり見えるので、晦之は驚歎せざるを得なかった。」 「周生(しゅうせい)は唐の太和(たいわ)中の人で、(中略)道術を以て多くの人の尊敬を集めた。或時広陵(こうりょう)の舎仏寺に居ると、これを聞いた人が何人も押しかけて来る。恰(あたか)も中秋明月の夜であったから、皎々(こうこう)と澄み渡る月を見て、自(おのずか)ら月世界の話になり、吾々のような俗物でも、月世界に到ることが出来るでしょうか、と云い出した者があった。周生は笑って、その事ならわしも師に学んだことがある、月世界に到るどころではない、月を袂(たもと)に入れることが出来る、(中略)と云った。或者はこれを妄言とし、或者はその奇を喜ぶ中に、周生は委細構わず、一室を空虚にし、四方から固く戸を鎖(とざ)し、数百本の竹に縄梯子を掛けさせ、わしは今からこの縄梯子を上って月を取って来る、わしが呼んだら来て御覧、と云う。人々は庭を歩きながら様子を窺っていると、先刻まで晴れていた空が忽ち曇り、天地晦冥(かいめい)になって来た。その時突如として周生の声が聞こえたので、室の戸を明けたところ、彼はそこに坐っていて、月はわしの衣中に在る、と云う。どうかその月をお見せ下さい、と云われて、周生が衣中の月をちょっと見せると、一室は俄かに明るくなり、寒さが骨に沁み入るように感ぜられた。」 ●「大なる幻術」 「唐の貞元(じょうげん)中、楓州(ふうしゅう)の市中に術をよくする妓が現れた。どこから来た人かわからぬけれど、自ら胡媚児(こびじ)と称し、いろいろ奇怪の術を見せるので、これを見物する人が次第に集まるようになり、一日の収入千万銭に及ぶということであった。或時懐ろから一つの瑠璃(るり)瓶を取り出した。大きさは五合入りぐらいのもので、全体が透き通り、手品師のよく云うように、種も仕掛けもないものであったが、胡媚児はこれを席上に置いて、これが一杯になるだけ御棄捨(ごきしゃ)が願えれば結構でございます、と云った。瓶の口は葦(あし)の管のように細かったに拘らず、見物の一人が百銭を投ずると、チャリンと音がして中に入り、瓶の底に粟粒ぐらいに小さく見える。皆不思議がって、今度は千銭を投じても前と変りがない。万銭でも同じである。好事の人が次ぎ次ぎに出て、十万二十万に達しても、瓶は一切を呑却して平然としている。馬はどうだろうと云って投げ込む者があったが、人も馬も瓶の中に入り、蠅のような大きさで動いて居った。その時官の荷物を何十台という車に積んで通りかかる者があり、暫く立ち止って見ているうちに、大いに好奇心が動いたらしく、胡媚児に向って、この沢山の車を皆瓶の中に入れ得るか、と問うた。媚児は笑って、よろしゅうございますと云い、少し瓶の口をひろげるようにした。その口から車はぞろぞろと入って行き、全部中に在って蟻のように歩くのが見えたが、暫くして何も目に入らなくなった。そればかりではない、媚児までが身を躍らして瓶の中に飛び込んでしまったから、ぼんやり口を明いて見物していた役人は驚いた。何十台の荷物が一時に紛失しては申訳が立たぬ。直ちに棒を振って瓶を打ち砕いたが、そこには何者もなかった。媚児の姿もその辺に現れないと思っていると、一箇月余りの後、清河(せいが)の北で媚児を見かけた者がある。彼女は例の数十台の車を指揮し、東に向って進んでいたということであった。」 ●「眼玉」 「唐の粛宗(しゅくそう)の時、尚書郎房集(しょうしょろうぼうしゅう)が頗(すこぶ)る権勢を揮(ふる)っていた。一日暇があって私邸に独坐していると、十四五歳の坊主頭の少年が突然家の中に入って来た。手に布の嚢(ふくろ)を一つ持って、黙って主人の前に立っている。房ははじめ知り合いの家から子供を使いによこしたものと思ったので、気軽に言葉をかけたけれど、何も返事をしない。その嚢の中に入っているのは何だと尋ねたら、少年は笑って、眼玉ですと答えた。そうして嚢を傾けたと思うと、何升もある眼玉がそこら中に散らばった。」 ●「離魂病」 「夫婦のうち妻が先ず起き、次いで夫も起きて出た。暫くして妻が戻って来ると、夫は寝床の中に眠っている。夫が起き出たことを知らぬ妻は、別に怪しみもせずにいると、下男が来て鏡をくれという夫の意を伝えた。旦那はここに寝ているではないかと云われて驚いた下男は、寝床の中の主人を見て、慌てて駈け出した。下男の報告によって来て見た夫も、自分と全く違わぬ男の眠っているのにびっくりした。夫は皆に騒いではいけないと云い、衾(ふすま)の上から静かに撫でているうちに、寝ていた男の姿はだんだん薄くなり、遂に消えてしまった。この夫はその後一種の病気に罹(かか)り、ぼんやりした人間になったそうである。」 「「奥州波奈志(ばなし)」に「影の病」として書いてあるのは明かに離魂病である。北勇治という人が外から帰って来て、自分の居間の戸を明けたところ、机に倚(よ)りかかっている者がある。(中略)暫く見守っているのに、髪の結いぶりから衣類や帯に至るまで、まさに自分そのものである、(中略)不思議で堪らぬので、つかつかと歩み寄って顔を見ようとしたら、向うむきのまま障子の細目に明いたところから縁側に出た。併し追駈けて障子を開いた時は、もう何も見えなかった。この話を聞いて母親は何も云わず眉を顰(ひそ)めたが、勇治はその頃からわずらい出し、年を越さずに亡くなった。北の家ではこれまで三代、自分の姿を見て亡くなっている。」 「衡州(こうしゅう)の役人であった張鎰(ちょういつ)に二人の娘があって、長女は早く亡くなったが、下の娘の倩(せん)というのは端妍(たんけん)絶倫であった。鎰の外甥に王宙(おうちゅう)なる者があり、これがまた聡悟なる美少年であったから、鎰も折りに触れては、今に倩娘(せんじょう)をお前の妻にしよう、などと云って居った。二人とも無事に成長し、お互いの志は自ら通うようになったが、家人はこれを知らず、鎰は賓僚(ひんりょう)から縁談を持ち込まれて、倩をくれることを承知してしまった。女はその話を聞いて鬱々となり、宙は憤慨の余り京へ出る。(中略)然(しか)るに宙は船に乗ってからも、悲愁に鎖(とざ)されて眠り得ずに居ると、夜半の岸上を追って来る者がある。遂に追い付いたのを見れば、倩娘が跣足(はだし)であとから駈けて来たのであった。(中略)宙は倩娘を船に匿(かく)して遁れ去ることにした。数月にして蜀(しょく)に到り、五年の月日を送るうちに、子供が二人生れた。鎰とはそのまま音信不通になっていたのであるが、(中略)久しぶりに手を携えて衡州に帰る。宙だけが鎰の家を訪れて、一部始終を打ち明け、既往の罪を謝したところ、鎰は更に腑に落ちぬ様子で、倩娘は久しいこと病気で寝ている、何でそんなでたらめを云うか、と頭から受け付けない。宙は宙で、そんな筈はありません、慥(たし)かに船の中に居ります、と云う。鎰が大いに驚いて、人を見せに遣ると、船中の倩娘は至極のんびりした顔で、いろいろ父母の安否を尋ねたりする。使者が飛んで帰ってこの旨を報告したら、病牀の娘は俄かに起き上り、化粧をしたり、著物を著替えたりしたが、笑っているだけで何も云わない。奇蹟はここに起るので、船から迎えられた倩娘と、病牀から起き上った倩娘とは、完全に合して一体となり、著ていた著物まで全く同じになってしまった。(中略)神仙の徒が人を修行に誘う場合、青竹をその人の丈(たけ)に切って残して置くと、家人などは本人の居らぬのに気が付かぬという話がある。倩娘の本質は宙のあとを追って去り、形骸だけが病牀に横わっていたものであろう。 ●「壁の中」 「「列仙全伝」の中の麻衣仙姑(まいせんこ)は石室山(せきしつさん)に隠れ、家人達がその踪跡を探し求めても、容易に突き留めることは出来なかった。ところが或日石室山に於て偶然出会った者があり、その棲家を問うと、一言も答えずに壁のように突立った岩石の中に入ってしまった。」 「世を遁れ人目を避ける点は同じであるが、麻衣仙姑とオノレ・シュブラックとでは動機が違う。オノレ・シュブラックの恐れるのはピストルを持った一人に過ぎぬに反し、仙姑はあらゆる人の目から自分を裹(つつ)み去ろうとする。罪を犯した者と仙を希う者との相違である。」 ●「吐き出された美女」 「許彦(きょげん)という男が綏安山(すいあんざん)を通りかかると、路傍に寝ころんでいた年の頃二十歳ばかりの書生が声をかけて、どうも足が痛くて堪らない、君の担いでいる鵞鳥の籠の中に入れて貰えぬか、と云った。彦も笑談(じょうだん)半分によろしいと答えたら、書生は直ぐ乗り込んで来た。籠には鵞鳥が二羽入れてあったのだが、そこへ書生が加わっても一向に狭くならず、担ぐ彦に取って重くもならぬのである。やがて一本の木の下に来た時、書生は籠から出て、この辺で昼飯にしようと云い、大きな銅の盤を吐き出した。盤の中には山海の珍味がある。酒数献廻ったところで、書生が彦に向い、実は婦人を一人連れているのだが、ここへ呼び出して差支えあるまいか、と云う。彦は異議の唱えようがない。忽ち口から吐き出したのは十五六ぐらいの絶世の美人であった。そのうちに書生は酔払って眠ってしまう。今度はその美人が、実は男を一人連れて居りますので、ちょっとここへ呼びたいのです、どうか何も仰しゃらないで下さい、と云い出した。女の吐き出したのは似合いの美少年で、先ず彦に一応の挨拶をした後、盃を挙げてしきりに飲む。たまたま書生が目を覚ましそうな様子を見せたので、女は錦の帳(とばり)を吐いて隔てたが、愈々(いよいよ)本当に起きそうになるに及んで、先ず美少年を呑却し、何事もなかったように彦に対坐している。書生はおもむろに起きて、大分お暇を取らせて済まなかった、そろそろ夕方になるからお別れしよう、と云い、忽ち女を呑み、大銅盤を彦に贈って別れ去った。」 ●「死者生者」 「「夷堅志」に出て来る李吉(りきつ)という男は、死んでから十年もたってもとの主人に逢い、一緒に酒を飲んだりしている。彼の説によると、幽霊は随所に見出すことが出来るので、あれもそうです、これもそうですと云って指摘した。(中略)「宣室志」にある呉郡の任生(じんせい)なども、この鑑別の出来る人であった。或時二三人の友人と舟を泛(うか)べて虎丘寺(こきゅうじ)に遊んだが、その舟の中で鬼神の話になり、鬼は沢山いても人が識別出来ぬのだ、と任生は云った。そうして岸を歩いている青衣の婦人を指し、あれも鬼だが、抱いている子供はそうじゃない、と説明した。」 ●「魚腹譚」 「銭塘(せんとう)の杜子恭(としきょう)が人から瓜を切る刀を借りた。後に持ち主が返して貰いたいと云ったら、あれはそのうち返すよ、と答えた。刀の持ち主が嘉興(かこう)まで行った時、一尾の魚が躍って船中に入ったので、その腹を割いたら子恭に貸した刀が出て来た。これは子恭の秘術であると「捜神後記」に見えている。」 |
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