振袖火事

 

 

明暦の大火江戸三大大火振袖火事の真相大火の出火原因明歴大火の雑話・・・
八百屋お七諸話 / お七1お七2お七3お七4
心中事件の劇化歴史に取り憑かれた鴎外淡島様八百屋お七口説き覗きからくり節心中万年草松竹梅湯島掛額好色五人女お七の雑話・・・
 
 
明暦の大火
 
明暦3年(1657)正月18日昼頃・未の刻(午後二時)、本郷丸山町本妙寺から出火、おりからのはげしい北西風にあおられて、湯島、浅草、八丁堀、佃島、まで広がった。前年の11月から80日あまり雨が降らず乾ききっていたうえに、強風に吹きたてられ、方々に飛び火したのである。 
翌19日、未明に一旦鎮火したのもつかの間、昼前に再び小石川伝通院表門下、新鷹匠町の武家屋敷から火の手があがり、北の丸の大名・旗本屋敷をはじめ、江戸城本丸・二の丸・三の丸をも焼いた。4時頃より風はますます激しくなり、中橋・京橋の町屋や四方の橋が焼け落ち、逃げ遅れた人々の累々たる屍は、南北3町、東西2町半のあいだにも及んだという。 
さらに同日夕刻、麹町5丁目の町屋から出火、山王権現、西の丸下、愛宕下の大名屋敷に延焼し、増上寺よりさらに南の芝口の海手につきあたり、燃えるものがなくなって、20日の朝鎮火した。 
この火事で、本郷から芝口までの60余町が焼け野原になった。橋は江戸中60余個所のうち、浅草橋と一石橋がかろうじて残った。土蔵は9千余あったが、災難を免れたのは1/10もなかった。死者は10万人を越すといわれ、無縁仏を弔うために建てられたのが、両国の回向院(えこういん)である。なお、本妙寺の施餓鬼で焼いた振り袖が原因となったという因縁話がついて、振り袖火事といわれるようになったのは後の事である。
 
伝振袖火事 
ある商人の娘に「おきく」という子がいた。その娘が花見の時に見かけた若者に一目惚れしてしまう。彼女は彼が着ていた着物に似せて振袖をつくるが、間もなく恋の病に臥せったまま明暦元年1月18日、17歳で亡くなってしまう。当時、亡くなった人が生前一番愛用した衣類を、葬儀のとき棺に掛ける慣わしがあった。振袖は棺桶にかけられ、文京区本郷の本妙寺で葬儀が行われた。 
その後振袖は古着屋に売られ、別の若い娘の元に渡りる。ところが翌年の同じ日この娘も17歳で早死にし、振袖と共に同じ寺で葬儀が行われた。また古着屋を経て、次に振袖を購入した別の娘も、翌年同じ様にして早死してしまう。結果的に、同じ振袖が3年続けて同じ月日に、同じ年齢の娘の葬儀の棺に掛けられて、同じ寺に来たことになってしまった。 
恐れた親たちが集まり、この着物を本妙寺で焼いて供養をしようということになった。ところが読経供養して燃やしていると、突如つむじ風が吹いて火のついた振袖は空高く舞い上がり、江戸中を焼き尽くしてしまったという。
   
明暦の大火と本妙寺 
明暦の大火は通称振袖火事とも呼ばれ、史上最大の火事で歴史上では本妙寺が火元とされている。 この火事により108000人の命が失われた。しかし、本当は本妙寺は火元ではない、幕府の要請により火元の汚名をかぶったのである。当時、火事が多く幕府は火元に対しては厳罰をもって対処してきたが、寺に対しては一切お咎めなしであった。大火から三年後、客殿、庫裡、六年後に本堂を復興し、十年後には日蓮門下、勝劣派の触頭に任ぜられている(触頭とは幕府からの通達を配下の寺院への伝達や、本山や配下の寺からの幕府への訴願・諸届を上申達する役)。さらに隣接して風上にあった老中の阿部忠秋家から、毎年明暦の大火の供養料が大正12年の関東大震災にいたるまで260年余にわたり奉納されていた。 
真相は、本妙寺に隣接して風上にあった阿部家が火元である。老中の屋敷が火元とあっては幕府の威信失墜、江戸復興政策への支障をきたすため、幕府の要請により本妙寺が火元の汚名を引受けたのである。
   
振袖火事を喧伝した人 
本妙寺は明暦の大火すなわち振袖火事の火元とされているが、本当は火元ではない。史実としては本妙寺が火元であると350年経った今も信じられている。その理由は「火事は何処だ、丸山の本妙寺だ。振袖を焼いた火が本堂の屋根へ燃え移った」とされる振袖火事説が信じられているからである。誰が何のために振袖火事説を喧伝し、火元ではない本妙寺を火元であると拡めたのだろう。物の本では「火事は何処だ、丸山の本妙寺だ」との噂は忽ち江戸中や全國へ拡まったとされている。単に口さがない人々の噂が何処からともなく拡まったとは考えられない、誰かが意図的に喧伝したものと考えざるを得ない。
当時はまだ火事に関するかわら版はなかったようである。当時、江戸は火事が多く、火事の火元は厳重にその責任を問われ厳罰に処せられた。多くの大名屋敷や寺社が大火後、防災上の都市計画のためとの理由で、場所を移転させられている。にもかかわらず、本妙寺に何の咎もなく、数年後もとの場所へ復興している。 
本妙寺に阿部家に代わって火元の汚名をかぶるように要請したのが幕府である。火元ではない本妙寺を火元であると喧伝しても、本妙寺から異議が出ないことを知っていたのは幕府だけであると言える。ここがチエ伊豆といわれた筆頭老中松平伊豆守がその本領を発揮したところではないだうか。幕府は混乱が静まって世間が火元の詮索を始めて、本当の火元である阿部家の名前が出ることを阿部家以上に恐れたわけである。阿部忠秋の老中という幕府の中枢の立場から、火元とあっては幕府の威信の失墜につながり、江戸復興等の政策遂行に支障をきたすからである。幕府は本妙寺の応諾があるや否や、火元は丸山の本妙寺だと喧伝に全力を注いだわけである。振袖火事説は後世の作り話とはされるが、信じられていることから、当初から幕府によって「振袖云云」の理由は言われていたと考えるのが妥当である。
   
明暦の大火は放火? 
放火説の根拠は、大火以前の江戸は都市として限界の状況にあり、大火後に復興都市計画が見事に実行されたことにある。当時の江戸には放火がしばしばみられたことも放火説が出されるゆえんである。 
江戸は堅固な江戸城、城周辺の譜代・外様を意識した武家屋敷と寺院の配置、河川への架橋の禁止、92門といわれる城門など、軍事都市であった。大火以前急速に膨張しており、創設期の軍事優先の都市計画では対処できないところまできていた。大火の前年、遊郭吉原の日本橋人形町から浅草への移転が考えら、幕閣が江戸の改造に乗り出そうとしていた。 
封建時代とはいえ都市の改造には、説得と補償問題など時間を必要とするものごとがからみ、容易でないことは明白であった。外様大名の屋敷は動かせても、譜代・御三家や幕府首脳の屋敷、格式ある寺院の移転は至難のことと思われ。幕府は公共の理由で土地を収用した場合は代替地を支給し、時に移転費用を支出していた。大火災は大きい犠牲を伴うが、見方によれば都市改造を一挙におこなう格好の機会でもある。ここに幕府発案による「放火説」が浮上する因がある。 
大火を機に江戸の都市は整備され、区画整理や神社仏閣の移転、屋根の防火対策、広小路・火除土手の設置などが行われた。江戸城を防備するため隅田川には千住大橋しか架けられていなかったが、川向こうの本所方面に逃げられずに焼け死んだ人が多かったことから、大火後、本所方面の開発に合わせて、万治2(1659)年、隅田川にはじめての橋として両国橋が架けられた。焼失した江戸城の天守閣は、町民の復興を優先させたため復元されることはなかった。
   
明暦の大火後の下町(墨田区・江東区) 
市街地拡張のために移転されたものに吉原がある、それまでは今の人形町あった。浅草には多くの寺院も移転し、結果的に繁華街として賑やかになったのも火事のおかげといえる。馬喰町にあった西本願寺は築地に移転し、現在の築地本願寺となる。馬喰町の広大な跡地には街ができ発展し、浅草橋、馬喰町の問屋街もこの移転がなければ存在しなかった。 
防災用に広小路がつくられ、東日本橋あたりには両国広小路ができた。現在の両国橋の西側の袂のあたり、広いスペースには見せ物や芝居、屋台が賑わい、江戸有数の盛り場となった。両国広小路がなかったら、両国、東日本橋、浜町などの隅田川周辺は、現在もっと寂れてたと思える。 
墨田区・江東区にとってこの火事はとても重要な役割を果たした。本所方面に逃げられずに焼け死んだ人たちが多かったことから、隅田川に両国橋が架けられた。隅田川の東側への行き来が楽になり、流通が盛んになり土地も栄えた。それまでの墨田区・江東区は野っ原の村ぐらいしかなかった。火事で亡くなった10万人以上の屍を弔うため大きなお寺が必要となり、幕府は両国に回向院を建立した。たくさんのお参りに両国地域は栄えた。回向院では勧進相撲を行うようになり、時代を経てこの地には日本相撲協会ができ、国技館ができた。
火災後に市街地拡張のため、今の中央区新川にあった霊岸寺が江東区白河に移転してきた。大きなお寺はそれだけでひとつの街をつくり、門前町と言われる。霊岸寺もそんなお寺で江東区白河に街ができた。現在の白河という地名そのものが、霊岸寺から由来してる。霊岸寺が白河藩主・松平定信の菩提寺であったため、白河が地名となった。 
大火後、急速に江東区あたりは埋め立てが進む。それまで現在の葛西橋通りあたりから南はほとんど海で、人を分散させるためには土地が必要だった。富岡八幡宮のお祭は明暦の大火以前からあったが、火事を境に埋立地に人がたくさん移り住んできたためか活気が増した。 
一番大きい影響は木場の移転、日本橋にあった木場は江東区の佐賀に移った。火災があっても燃えない郊外に移された。有名な材木問屋・紀伊国屋文左衛門は江東区に住んでいた。冬木って地名があるが、江戸時代そこに冬木屋という材木商があったからである。
 
   
江戸三大大火

 

江戸時代264年の間に、なんと100回以上もの大火があったという記録が残っている。特に日本橋、京橋などは2-3年に一度は大火にあい、街道の出発点として有名な日本橋は10回も焼け落ちたという。
  明暦の大火 
1657年(明暦3年)1月18日本郷5丁目(現在の文京区本郷)の本妙寺から出火。火は2日間燃えつづけ、江戸のほとんどを焼きつくした。10万人以上の死者がでたという。同じ振袖を着た娘が3人も続けて病死したので、その振袖を焼こうとし、火のついた振袖が舞い上がって寺に燃え移ったので「振袖火事」ともいわれている。この火事の後、幕府は「定火消」という消防組織をつくり、さまざまな防火対策をとった。火が燃え広がるのを防ぐために町の処々に火除地(空き地)や火除土手をつくり、道の幅も広くした。商店などは燃えにくい土蔵造りにすることを進め、町には火の見やぐらをつくり、防火用水を置くようにした。
  目黒行人坂(ぎょうにんざか)大火 
1772年(明和9年)2月29日、目黒行人坂(現在の目黒区下目黒1丁目付近)の大円寺から出火。麻布から江戸城周辺の武家屋敷を焼きつくし、さらに神田、千住方面にまで広がっ。死者約1万5000人。火事の原因は坊さんの放火によるもので、犯人は「鬼平犯科帳」で有名な火付盗賊改役・長谷川平蔵に捕らえられ、火あぶりの刑になった。
  丙寅(ひのえとら)の大火 
1806年(文化3年・丙寅の年)3月4日、芝・車町(現在の港区高輪2丁目付近)の材木屋付近から出火。おりからの激しい南風にあおられ、たちまち燃え広がり、京橋、日本橋のほとんどを焼きつくし、神田、浅草まで広がり、江戸の下町530町を焼く大火となった。死者約1200人。焼け出された人を救うため、幕府は御救小屋(おすくいごや)を建て、多数の人が仮の宿と食事をすることができた。
 
 
振袖火事の真相
 

 

大火後の本妙寺の復興振りは正に目覚しい。すべてに厳罰主義に徹した幕府のこの厚遇は、粉飾的なる振袖の話による原因が大火の真相とは、とても思えない。何故に例外ともいえる穏当な処分がとられたのであろうか深い疑問を残す。この明暦三年正月一八日の天気の記録は、朝から強い風が吹いていたことが明白である。関東の空風は黄塵天を覆って昼なお暗くなる程で、このような日に火を燃すが如き不謹慎な行為はあり得ない。本妙寺の門前には加賀前田家があり、周辺には寺院及び大名屋敷が立ち並んでいた。 
本妙寺の寺報によると、大火の翌年から老中阿部忠秋より数表(十五俵)の米が、大火の回向供養料にと本妙寺に届けられている。阿部家は本妙寺の近隣に住んでいたが檀家ではない。また供養料にと言うのであれば、この大火の為に幕府が建立した回向院がある。にもかかわらず、この供養料の行為は幕末まで続き、明治維新後は金額(金十五両)によって続けられ、大正十二年九月の関東大震災に至って終了している。本妙寺に対して阿部家は、実に約二百六十余年にわたって供養料を送り続けた 。
阿部家は出火となるや家臣を走らせて、火元は本郷の丸山本妙寺であり、供養の為に振袖を燃したところ本堂の屋根に燃え移ったのである、と江戸中に触れ、誰疑うことなく噂は拡まった。重大な 事をただすため久世大和守広之が本妙寺の僧侶に面接したところ、以外にも近辺の老中阿部忠秋の屋敷より出火した事がわかり、思いもよらぬ此の真相に広之は愕然とし、直ちに松平伊豆守に相談した とある。拡まった噂「振袖火事」説は、出火の責任を本妙寺へ押し付けるために阿部家が捏造して触れまわったものであるとされている。近年では振袖火事説は後世の作り話というのが識者の間では通説である。 
杉山氏の言われる、出火と同時に阿部家が火元は本妙寺だと触れまわり、それが拡まったものであると仮定して考えてみるに、客観的にみて、出火と同時に江戸中へ「火元は本妙寺だ」などと触れまわることがあの大混乱のなかで、はたして可能であったであろうか。しかも、あの咄嗟の時に、供養の為に振袖を燃したところ、その火が本堂の屋根に燃え移ったのである等と、もっともらしい理由までつけて触れまわることなど不可能であろう。たとえ触れまわり、それが拡まったものと仮定しても、杉山氏自身述べられておるように、寺僧に糺せば真相は直ぐ判明することであり、阿部家が一存で一方的に本妙寺へ火元の責任を押し付けたとあっては、本妙寺には久世大和守、大久保一族等譜代の直参旗本の檀家が数多くおり、それ等を含め壇信徒が黙っているはずがない。また、阿部家がそのような卑劣な愚挙を犯すとも考えにくい。物の本によれば阿部忠秋なる人は信望のある人格者であった由である。以上の理由により阿部家が、一存で出火の責任を本妙寺へ押し付けたものであるとの杉山氏の説には賛成しがたい 。
しかし、この大混乱の緊急状態下においては、忠秋の責任追求よりも、まず三老中が一体となって幕府の威信をしめし、動揺を見せずに江戸を復興することが先決問題であり、本妙寺も久世大和守広之よりこの事情を聞かされて火元の汚名をかぶり、阿部一門を救ったのだった。この故に本妙寺の復興には老中松平や阿部、そして久世らの幕閣の大きな支援があったわけである。 
この意見に関しては杉山氏と同感である。大火の処理にあたっては、筆頭老中松平伊豆守や久世大和守等が中心となって協議の結果、この大災害が阿部家の失火が原因とあっては、阿部忠秋が老中という幕府の中枢にあることを考えると、大衆の怨恨の的になることは必至であり、ひいては幕府の威信の失墜は免れず、以後の江戸復興等の政策遂行に重大な支障を招く結果につながりかねない。阿部家の責任を追求するより、大混乱を静め、江戸を復興させ、幕府の威信を保つことが大切であるとの結論にたっし、阿部家と隣接して風下にあった本妙寺に理由を説明して、阿部家に代わって失火の火元という汚名を引受けることを要請し、本妙寺も幕府の要請に応じて火元の汚名を引き受け、幕府の威信の失墜を防ぎ、その後の政策遂行に支障をきたさないよう協力し、ひいては、阿部一族を失火の責任から救うという結果につながったわけである。
260余年に及ぶ阿部家からの大火の回向供養料は、名目は回向供養料ではあったが、本来は火元の汚名をかぶり、阿部一族をその責任から救ったお礼と解するのが妥当である。それ故本妙寺に対しては一切お咎めなしで、大火後に、多くの大名や寺社が都市整備改造のため移転させられているにもかかわらず、本妙寺は移転せず、数年にして元の地に復興し、その復興に際しては、松平、久世等幕閣の支援があったわけで、異例の「触頭」への昇格もまた頷けるわけである。 
近年における明暦大火に関する推理、論争にもこの大火の裏には何かのかたちで幕府が絡んでいるということは窺えるわけで、さらに突き進んでそれ以上ということになると謎につつまれてしまう。この裏には本妙寺が火元の汚名をかぶるという犠牲において、幕府の威信の失墜を防ぎ江戸復興のための政策遂行に支障をきたさないために大きく貢献し、結果として老中阿部忠秋を失火の責任から救ったという隠された事実があったわけである。 
ちなみに、出火原因は、当日は朝から強風が吹き荒れていたので、阿部家では雨戸を閉めていたため屋内が暗く、女中が手燭を持って歩行中に躓いて転倒し、手燭の火が障子に燃え移ったのが原因と伝えられている。 
本妙寺HP資料抜粋 / 当山第四十世/村上日宣上人(昭和43年3月晋山、昭和2年4月19日遷化)が「もはや三百年も経ち、誰にも迷惑はかかることもなく、時効であろう」として寺報で発表 した「明暦の大火火元の真相」にもとづく、本妙寺檀徒/杉山繁雄/「振袖火事の真相」(「大法輪閣発行の大法輪、昭和58年1月号」) の解釈
 
 
明暦の大火の出火原因

 

1、振袖供養から出火説
出火原因が諸説ある中で、最も広く信じられているのが本妙寺の振袖供養の火から出火したという話です。
これが広く信じられていたということは、明暦の大火は、俗に「振袖火事」とも呼ばれていることでわかります。
それでは、振袖供養とはどういうお話だったについて、矢田挿雲が中公文庫新版 「江戸から東京へ〈1〉麹町・神田・日本橋・京橋・本郷・下谷 」 の中に詳しく書いていますので、それに基づいて書いてみます。
明暦の大火の4年前の承応3年(1654)春3月、麻布の質商遠州屋彦右衛門の一人娘梅野が、母に連れられて、菩提寺の本妙寺に参詣したついでに、浅草観音にまわるつもりで、上野山下まで来たところ、上野山内に姿を消した寺小姓風の美少年に一目ぼれしたのが発端です。
美少年は、紫縮緬(むらさきちりめん)の畝織(うねおり)へ荒磯と菊の模様を染めて、桔梗の紋をつけた 振袖を着ていましたので、梅野は母親にねだって寺小姓が来ていた通りの振袖を縫ってもらい、梅野は、枕に鬘(かつら)をつけて、それを振袖で包んで夫婦遊びをしていました。
両親は八方へ手分けをして、その美少年を探しますが見つかりませんでした。
そして、梅野は恋わずらいにより翌年の承応4年(1655)1月16日、17歳でなくなってしまいました。
遠州屋では、梅野の棺を振袖で蔽(おお)って、葬式をすませ、振袖は本妙寺に納めました。
本妙寺では葬儀が済むと、古着屋へ振袖を売り払いました。
《昔は、葬儀には亡くなった人が生前一番愛用していた衣類を棺に掛けて行われるのが慣例で、埋葬の後にはその衣類が古着屋に売られ、墓の穴掘り人足の浄めの酒代にされたそうです。》
その振袖が、翌年の梅野が亡くなった同じ日に行われた、上野の紙商大松屋又蔵の娘きの(17歳)の葬式に、再び本妙寺に納まりました。そして本妙寺では、それをまた売り飛ばされました。
すると翌年の同月同日に、今度は本郷元町の麹商喜右衛門娘いく(17歳)の葬式に三度本妙寺に戻ってきました。
三度も同じことが重なったため、さすが、住職もこわくなって、今度は振袖を古着屋の手へ渡すことを思いとどまり、娘三人の親が施主となって、明暦3年1月18日、本妙寺内で大施餓鬼を行い、振袖を火に投じて焼くことにしました。
この日、振袖を火に投じると一陣の竜巻が、北の空から舞いさがり、火のついた振袖がさながら人間の立った姿で、80尺の本堂真上に吹き上げたため、火の粉は雨のように降りそそぎ、たちまち本堂から出火し、これが近隣に燃え広がっていったといいます。
以上が「振袖火事」の伝説ですが、「明暦の大火」研究の第一人者黒木喬氏は、この説に否定的です。
黒木氏著の「明暦の大火」によると、この話は真実ではないそうです。だいいち振袖伝説がいつごろどのようにつくられたのかもはっきりしていないそうです。
ただ、明暦の大火の25年後の天和2年(1682)に起きたいわゆる「八百屋お七の大火」の事件が影響を及ぼしていると書いています。
つまり、「八百屋お七の大火」より明暦の大火ははるかに被害が大きいのだから、なにか変わった因縁話があったにちがいない。いやないほうがおかしい。おそらくこのような心理が民衆に働いたのではなかろうかと書いています。
2、本妙寺火元引受説
本妙寺が火元だと信じられています。
しかし、本妙寺は実際の火元ではなくて、火元を引き受けたのだと言っています。
本妙寺のHPには以前次のように書かれていました。(現在のHPには掲載されていません)
しかし、本妙寺は火元ではない。幕府の要請により火元の汚名をかぶったのである。
真相は、本妙寺に隣接して風上にあった阿部家が火元である。
老中の屋敷が火元とあっては幕府の威信失墜、江戸復興政策への支障をきたすため、幕府の要請により本妙寺が火元の汚名を引受けたのである。 
こう考える理由は、当時、江戸は火事が多く、幕府は火元に対しては厳罰をもって対処してきたが、本妙寺に対しては一切お咎めなしであった。
それだけでなく、大火から三年後には客殿、庫裡を、六年後には本堂を復興し、十年後には当山が日蓮門下、勝劣派の触頭に任ぜられている。これはむしろ異例な厚遇である。
さらに、当山に隣接して風上にあった老中の阿部忠秋家から毎年当山へ明暦の大火の供養料が大正十二年の関東大震災にいたるまで260年余にわたり奉納されていた。
この事実からして、これは一般に伝わる本妙寺火元説を覆すものである。
3、放火説
明暦の大火が発生した当時、もっとも広く信じられていたのは不逞浪人による「放火説」のようです。
明暦の大火が起きたのは明暦3年(1657)正月ですが、その6年前の慶安4年(1651年)7月に「由比正雪の乱」が起きています。
この残党が放火したのでないかという説です。
「玉露叢」という本に書かれているそうです。
また、幕府の石工棟梁の亀岡宗山が書いた「後見草」に、丸橋忠弥や由比正雪の残党が火をつけたのではないかという説が書かれています。
さらに「幕府が江戸の都市改造を実行するために放火したとする幕府放火説」もあると書いている本もあります。
このように諸説がありますが、実際の原因については明確になっていないということのようです。
 
 
明歴大火の雑話 

 

明暦の大火…俗に言う「振袖火事」は武家の失火?はたまた都市計画のために幕府が仕向けたもの?
江戸時代は明暦の頃、ある商人の娘に「おきく」という子がいました。その娘が花見の時に見かけた際、ある若者に一目惚れをします。彼女は彼が着ていた着物に似せて振袖を作りますが、間もなく恋の病に臥せったまま17歳で亡くなってしまいます。
同じ振袖が3年続けて同じ月日に、同じ年齢の娘の棺に…
おきくが愛用した振袖は棺桶にかけられ、文京区本郷の本妙寺で葬儀が行われました。その後振袖は古着屋に売られ、別の若い娘の元に渡ります。ところが翌年の同じ日この娘も17歳で早死にし、振袖と共に同じ寺で葬儀が行われました。
さらに、古着屋を経て、次に振袖を購入した別の娘も、翌年同じ様にして早死してしまいます。結果的に、同じ振袖が3年続けて同じ月日に、同じ年齢の娘の葬儀の棺に掛けられて、同じ寺に来たことになってしまいました。
恐れた親たちが集まり、この着物を本妙寺で焼いて供養をしようということになりました。ところが読経供養して燃やしていると、突如つむじ風が吹いて火のついた振袖は空高く舞い上がり、江戸中を焼き尽くしてしまいました。
この話が、1657年2日間にわたって江戸の町を燃やした火災の原因として、まことしやかに語られています。およそ10万人の死者を出した江戸時代最大の火災事件です。
江戸の大半を焼いた大火災「明暦の大火」
木造家屋が今より多く、家々が密集していた江戸の町では、火災が一番の災害でした。「火事と喧嘩は江戸の花」と呼ばれるくらいに火事が多かったのですが、一度火が出てしまうと、被害はたちまち甚大なものになってしまいます。
もちろん、町火消もいましたが、今と違って水道が完備されている訳でもありません。当時の消化方法は風下の家を壊して燃えるものを減らして、類焼を防ぐのが精一杯でした。
そんな江戸で最大の被害を出すことになったのが「明暦の大火」です。
2日間3回にわたって出火したこの火事は、江戸城本丸、大名屋敷百六〇家、旗本屋敷七七〇家、町屋敷四百町が焼け、死者はおよそ10万人だったと伝わります。特に、火が迫ったため小伝馬町の牢屋敷が囚人を解放したところ、集団脱獄と勘違いした役人が浅草門を閉鎖。逃げ場を失った二万三千人が焼死したと伝えられています。
当時の江戸は80日以上も雨が降らず、強い風が吹き荒れた乾燥状態だったといわれています。確かにわずかな失火でも被害が拡大してしまいそうですが、江戸幕府がこの火事を逆手に取って都市計画を実行したのではないかという説が存在してます。
そもそも明暦の大火の発端からして奇妙なものとなっています。原因となったとされる寺院は普通ならば相当な責任を負うはずですが、大火の後も移転することもなく、幕府からは異例の厚遇をうけています。
実はこの火事、火元は本妙寺に隣接していた武家の阿部家が火元だったと考えられています。ときの老中の屋敷が火元とあっては幕府の威信失墜、江戸復興政策への支障をきたすため、幕府の要請により本妙寺が火元の汚名を引受けたというのがこの振袖火事の真相ではないかと考えられているのです。
また、火災当時、江戸の町の人口は急増し、建物も非常に密集化したために、この時期に発生した火事を利用して幕府が都市計画を目論んだという説も存在しています。事実、大火の後、異例の速さで江戸の再建計画が進められています。
いずれにしても、「振袖火事」には秘められた真相がありそうです。
 
振袖火事の真実…江戸娘・梅の話は真実だったのか?
両国にある回向院は江戸時代に建立されたお寺だ。建立されたのは、振袖火事と呼ばれる江戸中を舐めつくした大火で犠牲になった人々の鎮魂の為。
振袖火事とは、別名:明暦の大火とも呼ばれる火事で、お寺の護摩壇にくべられた振袖の着物に火が付き、その着物が空高く舞い上がり、江戸中に火の粉を降りまき火事を起こしたとされている火事だ。
ただのお寺の失火の様に思われる振袖火事だが、その裏には一人の娘の悲しい物語が隠されていた。
「 江戸時代の初期、町人の娘であった梅は、通りすがりの寺の小姓の美少年に一目ぼれをした。しかし、その美少年はどこの寺の人ともしれぬお方。恋い焦がれた娘・梅は二度と会う事はないであろう悲しみに病の床に就いた。そして、梅の最後の望みは小姓と同じ柄の振袖を着る事。振袖を手にした娘・梅は17歳の誕生日に息絶え、悲しんだ両親はその振袖をせめてもの供養にとお棺へと入れた。しかし、お棺を納めた寺の坊主は悪徳坊主。悪徳坊主は、お棺の中に金目の振袖を見つけるとその着物を古着屋へと売り払ってしまった。ところが、その振袖はまたお寺へと戻ってきた。でも、戻ってきたのは振袖だけではなかった。古着屋から振袖を買った別の娘の亡骸も一緒だった。不思議なことに振袖が再びお寺へと戻ってきたのは、1年前に亡くなった梅の命日だったのだが、悪徳坊主はそんなことは気にも留めずに、またもう一度、その振袖を古着屋へと売り払った。二人の娘の死にかかわった1枚の振袖のその後は…というと…。想像通り、1年後にその振袖はまた別な娘の亡骸と共に梅の命日に寺へと戻ってきた。さすがに気味が悪くなった悪徳坊主は、その振袖を護摩行の火に投げ入れたのだが、護摩行の火が移った振袖は風で空高く舞い上げられ、江戸中に火の粉を振りまいた・・・。 」
これが、江戸の町民たちの間で語られていた振袖火事の『物語』だ。
此処で、『物語』…と書いた理由。実は振袖火事には真実が他にもあるとされている。
それは、幕府の重鎮の家からの出火説と幕府の陰謀説。幕府の重鎮の家からの出火説は、その火元が老中の家だったというモノで、それを隠すために老中の家の隣にあった寺に多額の寄付をして、責任を押し付けたとする説。そして、幕府の陰謀説は、江戸を区画整理したかった幕府サイドが、とりあえず更地に戻すために江戸城に危険の及ばない範囲で火を点け、全てを焼き払った…とする説だ。
もう300年以上も昔の話なので、今となっては真相は分からないが、火のないところには煙は立たない筈。幕府陰謀説などが出るという事は、なにかしらその根拠となりうる動きが幕府側にもあったのかもしれない。
 
明暦の大火 本妙寺は火元じゃない?
1657(明暦3)年に竹橋界隈の武家屋敷などを含め江戸の町を焼き尽くした「明暦の大火」(旧暦1月18〜20日=現在の3月2〜4日)は、本郷丸山の本妙寺(現在の文京区本郷5丁目)でまず起こり、その後2カ所でも発火した火災の総称で、本妙寺の出火原因として「振袖火事」という都市伝説も紹介しました。
でも、「本妙寺=火元」に異論もあるのです。
本妙寺は1910(明治43)年に豊島区巣鴨5丁目に移転するまで、大火当時と同じ本郷にありました。その跡の一角に建つマンションの前に文京区教委が「本妙寺跡と明暦の大火」のプレートを設置しており、「"振袖火事"の火元とされているが原因には諸説がある」と書かれています。
当の本妙寺のホームページも見てみましょう。「本当は本妙寺は火元ではない。幕府の要請により火元の汚名をかぶったのである。・・・真相は、本妙寺に隣接して風上にあった阿部家が火元である」と断言し、当時の寺周辺の位置関係に風向きも描いた地図=一番上の写真=を掲げ、「老中(阿部忠秋)の屋敷が火元とあっては幕府の威信失墜、江戸復興政策への支障をきたすため、幕府の要請により火元の汚名を引受けたのである」と記しています。
なぜ、そういえるのか、状況証拠を2点、挙げています。
第1。「当時、江戸は火事が多く、幕府は火元に対しては厳罰をもって対処してきたが、当山に対しては一切お咎(とが)めなしであった。それだけでなく、大火から3年後には客殿、庫裡を、6年後には本堂を復興・・・これはむしろ異例な厚遇である」
第2。「阿部忠秋家から毎年当山へ明暦の大火の供養料が大正12年の関東大震災にいたるまで260年余にわたり奉納されていた。・・・阿部家を失火の責任から救うということ・・・に対するお礼と解するのが妥当である」
より詳細なレポートもあり、この「真相解明」は、本妙寺第40世・村上日宣上人(1967年没)が「もはや300年も経ち、誰にも迷惑はかかることもなく、時効であろう」として『寺報』で発表した「明暦の大火火元の真相」に基づき、檀徒の杉山繁雄氏(1988年没)が仏教総合雑誌「大法輪」1983年1月号に「振袖火事の真相」と題して書いたのがベースとのこと。(ちなみに、阿部忠秋は由井正雪の乱後の浪人たちの江戸追放論に「根本原因は生活の困窮であり、追放は解決にならない」と反対したとか、多くの捨て子を育てたとか、人情味のある人だったことを示す逸話が多く残っているそうです)
振袖伝説も真相を隠ぺいするために造られたと考えれば納得がいきます。26日の当ブログで紹介した幕府放火説と比べても、阿部家失火説の方が信憑性は高いように思います。
ただ、腑に落ちない点が一つあります。一番上の地図をもう一度よく見てください。「阿部伊豫守」とありますね。「伊豫(予)守」は阿部の本家(阿部福山家)、つまり阿部忠秋の従兄でやはり老中を務めた重次(対馬守)の家で、重次の祖父・正勝と二男・正春が伊予守を名乗っていました。ちなみに、分家(阿部白河家)の忠秋は豊後守、その養子・正能は播磨守です。ただ、忠秋も伊予守正勝の孫ではあります。
この地図、「江戸切絵図」といい、尾張屋という板元が江戸時代末期の1849(嘉永2)年〜1863(文久3)年の15年間に32種を世に出したうちの1枚。では、発行当時の阿部家はというと、阿部白河家は第14代の播磨守正耆、第15代の豊後守正外らで、伊予守ではありません。本家(阿部福山家)は第10代の正寧、12代正教がいずれも伊予守です。
また、あるサイトによると、大火の10年余り前の1644(正保元)年の「正保年中江戸絵図」を見ると、阿部屋敷は「阿部對梅(対馬)守」と書かれていますから、重次です(本妙寺は描いてありませんが、この地図を右に90度回すとほぼ同じ位置関係になります)。本妙寺の隣は、本当に忠秋の家だったのか。地図が間違っているだけなのか・・・。
 
明暦の大火・振袖火事のこと
「明暦(めいれき)の大火(たいか)」通称「振袖(ふりそで)火事」。1657年に起こった歴史上最大規模の大災害です。
明暦三年正月十八日(3月2日)の未の刻(午後二時)に火の手が上がり、折からの強風に煽られてたちまち江戸中に燃え広がりました。火の手はまるで巨大な化け物のように町を覆い二日間に渡って町を燃やし続けたのです。江戸城本丸(天守閣のある建物)をはじめ二の丸、大名屋敷、社寺など江戸八百八町総てを焼き尽くしました。二日間で江戸のほとんどが焼き尽くされました。この災害での焼死者は十万八千人と言われています。
火事と喧嘩は江戸の華などとも言われますが、火事が頻発した江戸時代でこれほどの大きな被害を出した災害は他にありません。災害規模はとてつもなく大きいのですが、同様に大きな謎を持った災害です。
大きな謎とは、火元が特定出来ていないことです。日本史的には「本妙寺」が火元であると伝えられています。当時は本郷 丸山(文京区 本郷五丁目)にあったお寺です。明治43年に移転して、現在は豊島区巣鴨五丁目にこのお寺はあります。しかし、知れば知るほど出火元は「本妙寺」ではないと思えてくる史実が出てきます。
もし、この「本妙寺」が火元であったとしたならば想像を絶する厳罰があったはずです。火事が多かった江戸時代、幕府は火元に対して厳罰をもって対処していました。明暦の大火の後、「本妙寺」は厳罰に処されるどころかまるでエリートコースに乗ったかのような待遇を受けて、火事が起こってから三年後には元の場所で復興することが出来ています。そして十年後には日蓮門下の勝劣諸派の触頭(ふれがしら)にまでなっています。この触頭の仕事は幕府からお寺への伝達や本山や配下のお寺から幕府への各種の訴願や諸届を上申することです。幕府とお寺を結ぶ なくてはならない重要な窓口を果たしていたというわけです。これはむしろ、処罰を受けるどころか昇格です。
ちなみに「明暦の大火」から後 明和九年(1772年)に起きた大火の時は火元の寺はその後 五十年間再建は許されませんでした。火事を出してしまうという責任は改易(かいえき)になってもおかしくないほどの重大な処罰があっても不思議ではないことなのです。なのに、「本妙寺」は一切 お咎めなしです。
変ですよね?怪しげなにおいがプンプンしてきます。何か裏がある!はずです。
私は以前からこの謎に興味を持っていました。10年ほど前に実際に「本妙寺」を訪れました。
ここが火元とされているお寺なのか・・。墓所のはじに大きな慰霊碑がありました。明暦の大火の供養塔です。
10万人も亡くなっている・・。四方八方から火が押し寄せ、その中で逃げ場を失った人たちはどれほど悔しい思いをして命をおとしたことでしょうか。えらいことだよなぁ。真相を知りたいものだなぁ・・。
俗に伝えられている「本妙寺」からの出火の原因は<振袖>が関係しています。<振袖火事>と言われている所以(ゆえん)です。火事が起こった江戸時代、葬儀には亡くなった人が生前一番愛用した衣類を棺に掛けて行われるのが慣例でした。埋葬の後にはその衣類が古着屋に売られて墓の穴を掘った穴掘り職人の浄め(きよめ)の酒代にされていました。
事の発端は火事が起こる三年前にさかのぼります。明暦元年正月十八日、本妙寺で恋煩い(こいわずらい)で亡くなった十七歳の娘さんの葬儀が行われました。棺にはその娘さんが生前一番愛した振袖が掛けられ、葬儀が終わると振袖は古着屋に売られて酒代になります。ここで話が終われば何の不思議なことはないのですが、その同じ振袖が翌年、そのまた翌年と三年続けて同じ月日に同じ年頃の娘の葬儀の棺に掛けられてきたというのです。これに驚き怪しんだ寺の僧は三人の娘さんの遺族に話します。「この振袖には娘さんたちの思いがこもっているのでありましょう 供養をせぬばなりますまい」ということで、遺族も参列して読経供養して燃やすことにしました。その時に火が付いた振袖が強風で舞い上がり、本堂の屋根に燃え移ります。振袖は火の粉をまき散らして燃え始めたとされています。これが出火の原因だと伝えられています。なので<振袖火事>と言われるようになりました。
この振袖火事のお話は文学的というか戯曲的にものすごく魅力があります。不思議さ全開で人の興味・好奇心をくすぐります。実はこの話は明暦の大火の後にうまれたお話です。あくまでも伝承であり その話の生まれた経緯もはっきりしません。
自然発火で江戸の大半が焼失したとも思えません。何かしら原因があるはずです。 
多くの研究者がこの明暦の大火の真相に迫ろうとしてきました。
< 気になるポイント 1 >  
失火なのか放火なのか??一説によると火の手があがった日は朝から強風が吹き荒れていたとされています。そんな風の強い日に火を燃やす不謹慎な人がいるでしょうか? もし、火事を出してしまったら厳しい罰が待っているのです。出火の時間は午後の二時です。たとえ行燈(あんどん)を使っていた時代としても昼過ぎの、この時間であれば普通消しているのではないでしょうか?なので、私の考察としては失火ではなく放火と考えます。 
< 気になるポイント 2  >
なぜ放火なのか? 
放火前提ですが、真っ先に考えられるのは単純に幕府転覆を狙う反体制の仕業です。とにかく江戸の町を壊滅させてしまおうということなのです。一度火の手が上がれば、風の加減によってはあっという間に町は焼け野原になります。江戸の町の住居は密集しているうえにほとんどが木造です。一度火が付いたら それはまるで、たきぎ同然のように燃え上がるはずです。実行に移した犯人は 明暦の大火から六年前に幕府転覆を図った由井正雪一派の残党が報復のために本妙寺に火を放ったと考えられています。文京区文化財調査委員 戸畑忠政さんによる考察です。
そしてもうひとつの放火の理由 
当時、江戸の町はめまぐるしく発展して町は何の規則性もなく滅茶苦茶に膨れ上がっていました。現代での感覚で言えば都市整備が必要とされる町になっていたのです。「なんとかして、この町をもっと効率よく住みやすい町にして管理したい」幕府は考えをあぐねていたはずです。この謎を解くカギは時の権力者 松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)である。彼こそが大火の黒幕だと指摘するのは都立北多摩校で日本史を教える黒木教諭です。
もっとも手っ取り早く、簡単な方法があります。一度、全部焼き野原にしてしまおうと考えたのです。人々の生活を無視したあまりにも利己的で残忍な方法です確かに邪魔なものを全部取り払えば、都市整備は簡単に進められます。
この都市整備をするために動いたのではないかと言われているのが松平伊豆守信綱とされています。一説によるとこの伊豆守信綱は頭のキレは抜群で人々からは「チエ伊豆」といわれたほどでした。このままの江戸では乱が起きた時に攻めるにも守にも不利な状態だと考えたのでしょう。江戸全体を頑強な砦にして強い江戸の町を作りたかったのです。大火が起これば都市整備は実行に移せます。位置的に考えて江戸の町を焼き尽くすのに都合の良い場所はと選ばれたのが本妙寺のあたりだったということになります。出火の様子を伝える「加賀藩史料」には本妙寺近くで馬に乗った侍が目撃されています。徳川家の史書にはその侍を放火犯として捕えた記述が残されています。ただし、その侍は処罰は受けていません。この人物が何者かの命令で放火の実行にあたったのではないかと黒木さんは考えています。
もうひとつの説があります。
これは放火説ではありません。 失火が原因であるとしています。この説では本妙寺の近くにお屋敷があった老中阿部忠秋家が火元であると説いています。そう語るのは本妙寺檀徒の杉山茂雄さん(昭和六十三年十一月一日寂)です。本妙寺の門前には加賀前田家があり周辺には寺院や大名屋敷が立ち並んでいます。
本妙寺の寺報によるとこの大火の翌年から老中阿部忠秋より十五俵の米が大火の回向供養料として本妙寺に届けられています。この供養料は幕末まで続いています。明治維新後は金額 金十五両によって続けられ、大正十二年九月の関東大震災に至って終了しています。 本妙寺に対しての阿部家からの供養料は二百六十年余りに渡って送り続けられました。これはいったい、何を語るのでしょうか。この事実から、本妙寺としては火元を引き受けたと考えられるのです。
出火の原因は女中さんによる失火とされています。当日は朝から強風が吹き荒れていたそうです。阿部家では雨戸を閉めていたために室内が暗く女中さんが手ロウソクを持って歩行中につまづき、転倒しロウソクの火が障子に燃え移ったのが原因とされています。
これならば強風の日に火事が起きた状況が説明できます。そうだったのか。 失火だったのか。
出火元の 阿部忠秋は老中です。幕府の中枢にあります。この事が明らかになると大衆の怨恨の的になるのは必至なことであり、幕府の威信の失墜は免れません。大火後の江戸の復興も不可能になるかもしれません。そこで、筆頭老中松平伊豆守や久世大和守らが協議をして阿部家の責任を追及するよりも江戸復興の政策遂行を進めるために、本妙寺に火元を引き受けてもらうよう要請して、本妙寺はそれを引き受けたとされています。
二百六十年余りに続いた阿部家からの供養料は名目は供養料ですが、本当は火元の汚名をかぶり、阿部一族を救ってくれたことに対してのお礼だったのです。
本妙寺が汚名をかぶることで、この大火の騒乱を沈めることと江戸の復興に大きく貢献したわけです。もし、これが事実であるとするならば、大火の処理として幕府は最も前向きで建設的な答えを出したと思います。
大火の原因は失火なのです。火事を起こそうとして放火したわけではないのです。誰にでも予期せぬことは起こります。その責任を追及せずに、江戸の復興を最優先させるべく出した答えが「出火元は本妙寺である」ということだったのです。
この大火で亡くなった方には本当に供養しなければならないことだと思いますが、幕府はみごとな政策をとったと思います。
本妙寺もとても慈悲深い決断をされたと思います。人を救い、江戸の復興を支えたわけです。
歴史の中には埋もれてしまった真実がたくさんあると思います。現代で、もし同じような大火が起きたらどうなるでしょうか。出火元は厳しく責任を追及されるはずです。例え失火であったとしてもです。振袖火事のような伝承は生まれる余地はないはずです。
振袖火事の伝承が生まれた背景にはひょっとしたら「人を救う」という思いが根底にあると考えられます。失火の責任を追及せずに、火事の原因を作り上げたのです。江戸中の大半を焼き、10万人もの命が失われてしまった時にその責任を追求出来るものでしょうか。無理です。
振袖火事として歴史に残っている理由は1657年の江戸時代に生きる人たちのこの苦難を乗り越えようとする思いや前向きな考えから生まれた結果であったと私は考えています。
 
振袖火事・女の情念譚に隠された真相
明暦の大火
「明暦3年(1657)正月18日昼頃・未の刻(午後二時)、本郷丸山町本妙寺から出火、おりからのはげしい北西風にあおられて、湯島、浅草、八丁堀、佃島、まで広がった。前年の11月から80日あまり雨が降らず乾ききっていたうえに、強風に吹きたてられ、方々に飛び火したのである。
翌19日、未明に一旦鎮火したのもつかの間、昼前に再び小石川伝通院表門下、新鷹匠町の武家屋敷から火の手があがり、北の丸の大名・旗本屋敷をはじめ、江戸城本丸・二の丸・三の丸をも焼いた。4時頃より風はますます激しくなり、中橋・京橋の町屋や四方の橋が焼け落ち、逃げ遅れた人々の累々たる屍は、南北3町、東西2町半のあいだにも及んだという。
さらに同日夕刻、麹町5丁目の町屋から出火、山王権現、西の丸下、愛宕下の大名屋敷に延焼し、増上寺よりさらに南の芝口の海手につきあたり、燃えるものがなくなって、20日の朝鎮火した。
この火事で、本郷から芝口までの60余町が焼け野原になった。橋は江戸中60余個所のうち、浅草橋と一石橋がかろうじて残った。土蔵は9千余あったが、災難を免れたのは1/10もなかった。死者は10万人を越すといわれ、無縁仏を弔うために建てられたのが、両国の回向院(えこういん)である。なお、本妙寺の施餓鬼で焼いた振り袖が原因となったという因縁話がついて、振り袖火事といわれるようになったのは後の事である。」
「麻布の質屋の娘・梅乃は寺小姓に一目惚れし、その小姓が着ていた服と同じ模様の振袖を作らせて愛用していましたが、ふとしたことで死んでしまいました。両親は憐れんで娘の棺にその振袖を着せてやりました。
当時こういう棺に掛けられた服とか仏が身につけているカンザシなどは、たいていの場合、棺が持ち込まれた寺の湯灌場で働く者たちがもらっていいことになっていました。この振袖もそういう男たちの手に渡り、いいものに思えたので売り飛ばされ、回り回って別の娘の物になりました。
ところがこの娘もこの振袖を愛用していて、しばらくの後に亡くなったため、また棺にかけられて寺に持ち込まれることになりました。寺の湯灌場の男たちもびっくりしましたが、またそれを売り飛ばし、また別の娘の手に渡りました。
ところが、その娘もほどなく死んでしまい、またまた棺に掛けられて寺に運び込まれてきたのです。
今度はさすがに湯灌場の男たちも気味悪がり、寺の住職に相談。死んだ娘たちの親も呼び出されてみんなで相談の結果、この振袖にはなにかあるかも知れないということで、寺で供養することになりました。
それは明暦3年(1657)1月18日午前十時頃のことでした。この寺は本郷丸山本妙寺という寺です。
住職が読経しながら火中に振袖を投じます。
ところが、折しも強い風が吹き、その振袖は火がついたまま空に舞い上がりました。
そしてその振袖は本堂の屋根に落ち、屋根に火が燃え移りました。
おりしも江戸の町はその前80日も雨が降っていませんでした。
この屋根に燃え移った火は消し止めるまもなく次々と延焼、湯島から神田明神、駿河台の武家屋敷、八丁堀から霊岸寺、鉄砲州から石川島と燃え広がり、日本橋・伝馬町まで焼き尽くしました。火は翌日には北の丸の大名屋敷を焼いて、本丸天守閣まで焼失することになりました。
この火事で亡くなった人は10万人以上。
世に明暦の大火と呼ばれていますが、この火事の発端から「振袖火事」の異名があります。」
火元は本妙寺でなく阿部家
「明暦の大火は通称振袖火事とも呼ばれ、史上最大の火事で歴史上では本妙寺が火元とされている。 この火事により108000人の命が失われた。しかし、本当は本妙寺は火元ではない、幕府の要請により火元の汚名をかぶったのである。当時、火事が多く幕府は火元に対しては厳罰をもって対処してきたが、寺に対しては一切お咎めなしであった。大火から三年後、客殿、庫裡、六年後に本堂を復興し、十年後には日蓮門下、勝劣派の触頭に任ぜられている(触頭とは幕府からの通達を配下の寺院への伝達や、本山や配下の寺からの幕府への訴願・諸届を上申達する役)。さらに隣接して風上にあった老中の阿部忠秋家から、毎年明暦の大火の供養料が大正12年の関東大震災にいたるまで260年余にわたり奉納されていた。
真相は、本妙寺に隣接して風上にあった阿部家が火元である。老中の屋敷が火元とあっては幕府の威信失墜、江戸復興政策への支障をきたすため、幕府の要請により本妙寺が火元の汚名を引受けたのである。」
明暦の大火は放火?
放火説の根拠は、大火以前の江戸は都市として限界の状況にあり、大火後に復興都市計画が見事に実行されたことにある。当時の江戸には放火がしばしばみられたことも放火説が出されるゆえんである。
江戸は堅固な江戸城、城周辺の譜代・外様を意識した武家屋敷と寺院の配置、河川への架橋の禁止、92門といわれる城門など、軍事都市であった。大火以前急速に膨張しており、創設期の軍事優先の都市計画では対処できないところまできていた。大火の前年、遊郭吉原の日本橋人形町から浅草への移転が考えら、幕閣が江戸の改造に乗り出そうとしていた。
封建時代とはいえ都市の改造には、説得と補償問題など時間を必要とするものごとがからみ、容易でないことは明白であった。外様大名の屋敷は動かせても、譜代・御三家や幕府首脳の屋敷、格式ある寺院の移転は至難のことと思われ。幕府は公共の理由で土地を収用した場合は代替地を支給し、時に移転費用を支出していた。大火災は大きい犠牲を伴うが、見方によれば都市改造を一挙におこなう格好の機会でもある。ここに幕府発案による「放火説」が浮上する因がある。
大火を機に江戸の都市は整備され、区画整理や神社仏閣の移転、屋根の防火対策、広小路・火除土手の設置などが行われた。江戸城を防備するため隅田川には千住大橋しか架けられていなかったが、川向こうの本所方面に逃げられずに焼け死んだ人が多かったことから、大火後、本所方面の開発に合わせて、万治2(1659)年、隅田川にはじめての橋として両国橋が架けられた。焼失した江戸城の天守閣は、町民の復興を優先させたため復元されることはなかった。
明暦の大火後の下町(墨田区・江東区)
市街地拡張のために移転されたものに吉原がある、それまでは今の人形町あった。浅草には多くの寺院も移転し、結果的に繁華街として賑やかになったのも火事のおかげといえる。
   めぐり巡って振袖が
   女の情念乗り移り
   いつから噂となったのか
   そいつぁ仏様でもわからねえ
振袖火事の真相 
大火後の本妙寺の復興振りは正に目覚しい。すべてに厳罰主義に徹した幕府のこの厚遇は、粉飾的なる振袖の話による原因が大火の真相とは、とても思えない。何故に例外ともいえる穏当な処分がとられたのであろうか深い疑問を残す。この明暦三年正月一八日の天気の記録は、朝から強い風が吹いていたことが明白である。関東の空風は黄塵天を覆って昼なお暗くなる程で、このような日に火を燃すが如き不謹慎な行為はあり得ない。本妙寺の門前には加賀前田家があり、周辺には寺院及び大名屋敷が立ち並んでいた。
本妙寺の寺報によると、大火の翌年から老中阿部忠秋より数表(十五俵)の米が、大火の回向供養料にと本妙寺に届けられている。阿部家は本妙寺の近隣に住んでいたが檀家ではない。また供養料にと言うのであれば、この大火の為に幕府が建立した回向院がある。にもかかわらず、この供養料の行為は幕末まで続き、明治維新後は金額(金十五両)によって続けられ、大正十二年九月の関東大震災に至って終了している。本妙寺に対して阿部家は、実に約二百六十余年にわたって供養料を送り続けた。
阿部忠秋はときの老中であった。その大家の失敗を世間に知らせることはできない。ゆえに為政者側があらぬ話を作り出したのである。阿部家のこの火事での死者へ回向はなんと260年間に及んでいる。そういう点でも、この火事の原因が老中阿部家の失火であることはおよそ推測できるだろう。
娘たちの怨念とは実は、大火で焼け死んでいった江戸町民たちの怨霊の仮の姿だったのである。
このように怨念は長く消えない。しかし民衆には権力に対してなすすべがなかった。せめて話を膨らませ、真実を匂わせようと芝居にしたばかりである。本当はこの事実のほうが怪談だったと言えまいか。
さて、これを陰陽五行に当てはめると、興味深い内容が浮かび上がる。
まず、梅野が恋に燃えた1654年は午年。火気のもっとも盛んな年である。
そして、亡くなった翌年は未年。火気ばらみの土気の年である。
これは、土気の中でも最も強い力を持っているとされる。
これは私の見解にすぎないが、火気に生み出された恋は、翌年の妖気を孕んだ火気によって、あやかしの念を持ってしまう。
さらに、これに木気が関わる。
出会いは春。亡くなった日と火事の起こったのが1月。どちらも木気である。
『木生火』で、木は火のパワーを増幅させる。
また、梅野の振袖は『紫縮緬』。木気の青と火気の赤を合わせた色である。
それが、翌々年の1657年、酉の年に災いをもたらした。この年は金気の中気である。
『火剋金』──
金の年は木の力を得た火の妖気に剋されたと解釈できなくもない。
さらに出火の始まりが未の刻、一時収まった火が再び燃え上がったのが巳の刻、ともに火気の時刻であったことも見逃せない事実である。 
 
明暦大火の秘め事
江戸時代の「三大火事」の一つ明暦大火は、三省堂の大辞林によると「明暦三年正月一八日、本郷本妙寺から出火して、翌日にかけて江戸城を含む府内のほぼ6割を焼失、死者10万人余を出した江戸最大の火事。この後、江戸の都市計画が進められた。振袖火事」と出ている。
振袖火事といわれたゆえんは、恋わずらいで亡くなった娘を不憫に思った親が、本妙寺で読経供養の後、生前一番愛していた振袖を燃やしたところ、折からの強風で舞いあがり、本堂の屋根に燃え移ったことによる。
ところが、昨年末新聞で本妙寺が「火元の言い伝えは誤解」と訴えた小冊子を出したとの記事を見た。
現在の本妙寺は、豊島区の染井霊園の近くにあるが、ある日、寺を訪ねたところ本堂の横に、明暦の大火と、安政地震の2つの供養塔があった。
寺務所でいただいた冊子によると「火元は本妙寺」という通説に対し、宗門内では、つとにそれを否定する指摘があったが、今回、外に向けて大火の真相を積極的に訴えることにしたとある。
本寺の由来をさかのぼると、徳川家発祥の岡崎に所在する古刹につながり、そのゆかりで山号も「徳栄山」と徳川家が栄えるようにとの願いが込められている。
寺は家康のその後の居城浜松から江戸に移り、府内を転々としながら、最終的に本郷丸山(地図で見るように現在の東大赤門の近く)に落ち着き、明治43年まで所在した。
丸山に移って間もなく、例の大火で全焼したが、地図によると本妙寺に隣接した北西部に「阿部伊豫守」の中屋敷があり、当時は老中の阿部忠秋が住んでいた。
火の手があがった当日は朝から北風が吹き荒れ、阿部家では雨戸を閉めたままであった。このため屋敷内は暗く、女中が火のついた手燭を持って歩いていたが、転倒し、火が障子に燃え移り、大火に及んだという。
老中宅が火元とあっては、その責任は重く幕藩体制が揺ぎかねないし、市内の復興計画にも支障が出てくる。そこで、筆頭老中松平伊豆守信綱や、久世大和守、当事者の阿部伊豫守の3老中が一体となって協議した。
その結果、幕府側から阿部家の風下にあり、徳川家と縁も深く、久世家が檀家ともなっている本妙寺に、失火の汚名を着るよう要請した。寺側も「大義」に殉じてそれを承知した。
その代償として、火元として厳罰に処せられることもなく。さらに、以降260余年にわたり、本寺に対し、阿部家からは回向供養料が出された。
江戸時代とはいえ、「火元は阿部家だ」という噂が広がらなかったのは不思議に思えるが、幕府側がいち早く「火元は本妙寺」という話しを流布したことと、阿部家に関する情報が一切秘匿され、寺側も全員が汚名を着ることに協力したからであろう。
知恵者松平信綱の指揮のもとで遂行された明暦大火の秘め事は、彼の思惑どおり、ほぼ350年たった今でも、辞書に「火元は本妙寺」と書かれており、事の良否は別として、彼や寺などの対応ぶりは見事である。
それに引きかえ、昨今の政官民は、「秘め事」 が露見する都度、取り繕うのに右往左往して醜態を演じており、なんだか情けなくなってくる。 
 
振り袖火事(明暦の大火)
振袖火事は本郷丸山本妙寺施餓鬼の法会の時、形見の振り袖を焼きましたが、その火が強風に煽られて本堂の経文や障子などに燃え移り、江戸期で最大の大火となったといわれます。その振り袖のいきさつは.....、
麻布百姓町(桜田町)の大店質屋・遠州屋彦右衛門の娘[梅野(うめの)またはお染め]は、上野の花見で寺小姓を見初め、寺小姓が着ていた紫縮緬に菊を染めた振り袖を作って、夫婦遊びをします。しかし、大店の娘と寺小姓では身分が違い、かなわぬ恋の恋煩いの末に梅野は、亡くなってしまいます。
哀れんだ両親は、菩提寺の本妙寺へその振り袖をおさめましたが、寺男が無情にその振り袖を売り飛ばしてしまいます。(当時棺桶に収められていた副葬品などは寺男の専有物という決まりがあったようです)しかし.....その振り袖を次に買い求めた上野の町娘「きの」がやはり病死してしまい、さらに再び売りに出された振り袖が別の町娘「いく」に買い求められますが再びいくも病死してしまい、三度までも本妙寺に寄進されて戻ってきてしまいました。すると、住職は執念の恐ろしさに施餓鬼の法会で燃やしたのが火事の始まりといわれています。
明暦三(1657)年本郷の本妙寺から出火、一月十八日から二十日にかけて江戸の大半を焼きましが、火元は本妙寺単独ではなく小石川伝通院表門下、麹町5丁目などの複合火災であるとの説が有力です。
焼失武家屋敷1200、寺社300、町屋120町江戸城も西の丸を除き本丸、二の丸、三の丸、天守閣を焼失。死者108,000名の大火事。明暦の大火・丸山火事とも呼ばれ、江戸市中の六割が焼失し、死者は十万人を超えるともいわれ、江戸三大火の筆頭とも、世界三大大火(ローマ大火・ロンドン大火)の一つともいわれます。そして、関東大震災と東京大空襲を除く日本の有史以来最大の火災です。
また、この火事のあとにそれまでは千住大橋だけであった隅田川に両国橋・永代橋などの橋が架けられ、川向こうの深川などが発展することとなります。そしてこの火事を期に江戸は都市改造を経て「大江戸」へと大きく変貌を遂げて行きます。
「麻布区史」によるとこの火事による麻布域の被害は、
・・・幸いにもこの劫火は我が麻布には及ばなかったらしい〜(中略)〜これは溜池の湖沼と、芝愛宕の林叢とが自然の防火壁を為したる為であるが、一面には又当時我が麻布の地が類焼を免れ得ざる程の市街を形成していなかったからであらう。・・・と記して、閑散とした農地で郊外の色あいが濃かった麻布がそれゆえに焼失を免れたとしています。
しかし、この火事直後から増上寺隠居所の移転で幕命により、麻布氷川神社が元地を奪われて現在の狭小な社地へ遷座を余儀なくされ、また、仙台藩邸の移転をはじめとする武家屋敷の流入が始まります。さらにこの火事による難民救済事業の一環として「古川の改修工事」が始まります。
これらのことから、麻布もそれまでの農村を中心とした江戸郊外地域から、諸大名の中屋敷・下屋敷、また外様大名の上屋敷が中央部移転したことによる市街化が始まります。
このように振袖火事による直接の被害はなかった麻布も、この火事から二十六年後には「お七火事(天和の大火)」では大きな被害を受け、さらに時代が下った明和九年(1772年)2月29日の目黒行人坂を火元とする大火(行人坂の大火・死傷者9,000人)の時は、あ組の活躍もむなしく、一本松なども焼る大被害を出したといわれています。
行人坂の大火の後、資材不足に商人がつけこみ物価が10倍に跳ね上がり、世直しのため「安永」と改元しましたが、庶民から狂歌で皮肉られることになります。
「年号は安く永し(安永)と変われども、諸色高直(しょしきこうじき)、いまにめいわく(明和九)」
稲垣利吉氏が調べた所、麻布消防署の記録によると麻布は、寛永18年(1641年)から文久3年(1862年)の220年間に45回大火に遭遇しているそうです。その内、麻布が火元となる火事を以下に。
•享保6年(1721年)善福寺門前より出火、愛宕下まで延焼。
•宝暦12年(1762年)日ヶ窪より出火、赤羽橋まで延焼。
•明和8年(1771年)鳥居坂上、戸川内膳邸より出火、永坂、十番、古川より高輪まで延焼。
•寛政5年(1793年)藪下より出火、白金遊行寺まで延焼。
•同6年 (1794年)芋洗坂より出火、日ヶ窪、一本松、雑色より古川町まで延焼。
•享和2年(1803年)1月1日永坂より出火、十番、雑色、古川まで延焼。
•同年同月 12日坂下町より出火、雑色町全焼。
•文化7年(1810年)宮下町より出火、久保町辺まで延焼。

この振袖火事の火元は本郷丸山本妙寺とされていますが、近年オーストリアの博物館でこの火事に関係のあるものが見つかったそうです。それは150cmほどの座像で台座も座布団もない状態で展示されていたそうで、博物館には由緒来歴は全く伝わっていませんでした。そして、偶然来館していた江戸東京博物館の遣欧調査団によりその座像が調査されますが、やはり来歴をつかむものは見つからなかったそうです。しかし調査団が知己のあるドイツ人研究者に連絡を取ると、座像底部に文字があることが解り、早速調べられました。 座像下部の文言にはこの座像が振袖火事の火元とされている本妙寺の開山・智存院日慶の座像であることが記されており、元和六(1620)年二月二十四日に檀家で旗本寄合の久世才兵衛定勝により造立され、さらに寛文十二(1672)年六月十四日には時の住職六世・感應院日遵により彩色と座像を安置するための宮殿が造営されました。この座像の彩色が施され、宮殿が建立されたのは 振袖火事が起こってから15年ほど後のこととなりますが、江戸を焼き尽くすほどの大火の火元となった本妙寺が、わずか15年でその罪を許され、仏像安置のための宮殿を造営されるのは可能なことだったのでしょうか? 振袖火事の火元説には、この本妙寺のほか、隣接していた老中阿部忠秋邸からの出火説、老中松平信綱(知恵伊豆)による江戸再開発説などもありますが、真相は不明です。 
 
振袖火事(明暦の大火)
1.江戸の三大大火
江戸の歴史は大火の歴史である。江戸時代の265年のうち、江戸で火元から長さ15町(約1.6キロメートル)以上焼けた大火は96回にも及び(実に三年に一度の大火である)、1週間に一度は必ず小火(ぼや)があったという。
今も昔も江戸の冬は乾燥しており、北西の風が吹くと直ぐに大火になった。当時は火を消すのではなく(消防ポンプなどない時代である)、破壊消防であったのが大火の理由だ。
その江戸の三大大火とは、明暦の大火(振袖火事、1657年)、明和の大火(行人坂の火事、1772年)、文化の大火(芝車坂の火事、1806年)であり、最も被害の大きかったのが振袖火事である。
2.振袖火事
振袖火事は、ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つといわれる。振袖火事による被害は、関東大震災、東京大空襲を除き、延焼面積、死者とも日本史上最大であった。実際、振袖火事では江戸城の外堀から内側の市街地は全て焼失している。江戸城の天守閣まで焼失し、今でも天守閣は当時のまま東御苑に城壁の姿を残している。
記録によると、振袖火事は前年の11月から80日間降雨がなく、明暦3年1月18日は辰の刻(午前8時)から乾(北西)の風が強く吹いていたという。当日未の刻(午後2時)、本郷4丁目の本妙寺より出火し、広がった火の手は湯島天神、神田明神を焼き、その後、浅草、京橋、佃島、深川へと拡大した。
振袖火事は放火が原因だと云われているが、その理由は、翌日まで続いた大火が鎮火しようという矢先、今度は巳の刻(午前10時)に小石川伝通院表門下、新鷹匠町の大番衆与力の宿所より再び出火、さらに同日申の刻(午後4時)に麹町5丁目の在家より三度目の出火となったからである。
焼死者は10万8千人と云われ、身元不明の遺体は幕府の手により本所牛島新田で埋葬された。その後、供養のため現在の回向院が設立されている。
3.振袖火事の謂(いわ)れ
上野の商家、大増屋十右衛門の娘、お菊(麻布の質屋の娘、お梅という説もある)は上野寛永寺への花見のとき、前髪立の寺小姓を見初める。
当時、不邪淫戒を守る僧侶は美しい寺小姓を置いて寵愛したが、その中でも寛永寺の寺小姓は粒選りであった。小姓は人混みに紛れ、その面影はお菊を虜にしたのである。
お菊は小姓が着ていた着物の色模様に似せた振袖を誂えてもらい、小姓を想い続けた。
しかし、恋の病のまま、承応4年(=明暦元年、1655年)1月16日、16歳の若さで亡くなる。両親は憐れみ、お菊の棺桶にその振袖を掛けて葬儀を営んだ。
棺桶に掛けられた振袖は、持ち込まれた寺の湯灌場の者たちの酒代になるのが当時の通例であった。
古着屋に売られた振袖は本郷元町の麹屋吉兵衛の娘、お花の手に渡ったが、そのお花も病気になり、翌明暦2年の同じ日に死亡した。
振袖は再び古着屋の手を経て、麻布の質屋、伊勢屋五兵衛の娘、おたつのもとに渡ったが、おたつも同様に明暦3年の同じ日に亡くなった。
二度目までは気に留めなかった寺の者も三度同じ振袖が棺桶に掛っているのを見て、流石に気味悪くなり、おたつの葬儀に十右衛門夫婦と吉兵衛夫婦を呼び寄せた。三家は相談し、因縁の振り袖を本妙寺で供養してもらうことにしたのである。
和尚が読経しながら振袖を火の中に投げ込んだ瞬間、折しも突風によって火のついた振袖が宙に舞い上がり、本妙寺の本堂に飛び込んだ。
火は瞬く間に本堂を焼き、それが燃え広がって、江戸中が大火になったという。
4.幕府陰謀説
幕府が江戸の都市改造を行うために放火したという説がある。
当時の江戸は急速な発展で都市機能が限界に達していた。しかし、住民の立ち退き補償などが障害となるため、幕府が大火を起こして江戸市街を焼け野原にし、一気に都市改造を実行しようとしたというものである。
実際に大火後の江戸は都市改造が行われている。
しかし、当時の幕府の権限は絶大であり、そんなことをしなくても都市改造は出来たはずである。それに江戸城まで焼失させることはない。下手をすれば、幕府転覆である。この説はあり得ない。
5.本妙寺引受説
真相はこうだ。実際の火元は、本妙寺に隣接する、老中、阿部忠秋の屋敷であった。
しかし、老中の屋敷が火元となると幕府の威信が失墜してしまう。そこで、幕府が因果を含めて阿部邸の風下にあった本妙寺に火元を引き受けさせたものである。
これは、火元であるはずの本妙寺が大火後も取り潰しにあわなかったどころか、その後は大火以前よりも大きな寺となり、さらには大正時代にいたるまで阿部家から毎年多額の供養料が納められていたことなどを論拠としている。
6.何故、寺社が放火されたか
放火は火炙りの刑とされ、親族や雇い主にも連座が適用された。また、失火であっても火元は罪に問われ、大火の場合は厳罰主義(死刑や流罪)とされた。
このため、放火は寺社が標的とされることが多かったが、この理由は、寺社からの出火が町奉行ではなく、寺社奉行が捜査責任者であったからだといわれる(寺社奉行の捜査能力は低く、ほとんど逮捕されなかった)。
さらに、不況期は放火が後を絶たなかった。資材を大量に使用して再建するため、大火後は再建需要で景気が良くなったからである。
なお、天和2年(1683年)に発生した天和の大火は、別名「お七火事」と呼ばれる。
この大火により焼き出された本郷の八百屋の娘、お七は檀那寺であった吉祥寺に避難し、そこの寺小姓を慕うようになった。お七はこの小姓に会いたい一心でその後も再三放火事件を起こし、最後は鈴が森刑場で火炙りの刑に処せられた。
江戸を語るに、火事を抜くことは出来ない。誠に「火事と喧嘩は江戸の華」である。 
 
明暦の大火(振袖火事)
俗に「振袖火事」と呼ばれる明暦の大火は、明暦3年(1657年)1月に発生した江戸の火事。1月というのは太陰暦での話で、現在の暦では3月初旬のことだった。
「振袖火事」という言葉の艶っぽい響きとは裏腹に、江戸市街の大半を焼き尽くす、日本史上最大規模の都市火災であったと言われる。
2日間燃え続けた火災による死者は10万人を超え、1945年3月10日、米軍により東京上空から40万発近くの焼夷弾が投下された、あの東京大空襲の死者をも超えるほどの被害だった。
元禄頃の江戸の人口は80万人程度だったというから、約半世紀前の明暦頃もほぼ同じと考えると、実に10人に1人以上がこの火災で命を落としたことになる。
また、寒い時期だったため、火災の後、家を失って凍死する者も相次いだ。
「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉があるが、実際それほど江戸では火事が頻繁に発生したらしい。
江戸開府から大政奉還までの期間、江戸で発生した一定規模以上の火災はなんと50回近くにも及ぶという。おおよそ5年に一度の計算になる。この頻度の高さは他の都市に比べても突出していたようだ。
江戸時代、人の暮らしには火が不可欠だった。煮炊きは勿論、灯りを求めるにしろ、暖をとるにしろ、火が必要だ。人の暮らしが高密度に寄り集まった大都市ほど、火災の発生頻度が高かったというのも、そういう意味で当然の結果だろう。
ところでこの明暦の大火、その原因についてはいくつかの説がある。
   ・幕府放火説(都市改造のため)
   ・反幕府勢力の放火説
   ・大名・阿部家出火説
など。
ただ、実際にもっとも知られているのは、こうした現実的な原因追求とは一線を画した説、「振袖火事」の名の通り「火事は一枚の振袖に起因する」という現代で言えばいわゆる都市伝説に近い話である。
この説によれば、火事に至る顛末は以下の通り。
「ウメノは本妙寺の墓参りの帰り、上野のお山に姿を消した寺小姓の振袖に魂を招かれて恋をし、その振袖の紋や柄行と同じ振袖をこしらえてもらって夫婦遊びに明け暮れた。その紋は桔梗紋、柄行は荒磯の波模様に、菊。そして、恋の病に臥せったまま承応4年(明暦元年)1月18日、17歳で亡くなった。寺では葬儀が済むと、不受布施の仕来りによって異教徒の振袖は供養せず、質屋へ売り払った。その振袖はキノの手に渡ったが、キノも17歳で、翌明暦2年の同じ日に死亡した。振袖は再び質屋を経て、イクのもとに渡ったが、同じように明暦3年の1月18日に17歳で亡くなった。イクの葬儀に至って三家は相談し、異教徒の振り袖をしきたりに反して、本妙寺で供養してもらうことにした。しかし和尚が読経しながら振袖を火の中に投げ込んだ瞬間、突如吹いたつむじ風によって振袖が舞い上がって本堂に飛び込み、それが燃え広がって江戸中が大火となったという。」
少女の恋の未練が宿った艶やかな振袖が、炎と共に風に舞い上がり、江戸を焼き尽くす・・・この振袖原因説では、真実の追求はもはや完全に放棄されている。その一方で、話としては実に面白い。デマの流布量=問題の重大さ×話の曖昧さという法則があるが、これはいかにも、あっという間に江戸中に広まりそうな、デマとしての素養を持ったストーリーだ。
恋の相手が寛永寺の寺小姓というあたりも、なかなか細工が細かいところ。寛永寺は徳川家の菩提寺。町人の少女が足を踏み入れることなど叶わない聖域だ。探すすべもなく、会えたところで叶うはずのない一目惚れの相手・・・まさに、「君の名は」の世界である。寺小姓は寺の雑用などをする少年で、僧形ではなかったのだろうが、それにしても随分色っぽい着物を纏っていたものだ。くだんの振袖の柄が、そもそも少年が身に着けていたものだった(一説には生地は紫縮緬という)・・・という部分にも、なんとも幻惑的なムードが漂う。この話、最初は半信半疑に構えつつも、どうもついつい引き込まれてしまう。真実を知ろうとする者の魂を抜く魔力が、この話には備わっている気がする。この話のおかげで、真相はすっかり藪の中に葬られたに違いない。実に巧妙な出来栄えのこのストーリーを信じるとすれば、登場人物の中に咎めるべき人間は誰1人いない。敢えて言えば、寺小姓の魔性の美しさこそが罪・・・としか結論づけられないのである。
余談だが、上の話にある「死者の振袖を質屋に売る」というくだりは、現代人にはちょっとばかり違和感を感じるところかもしれない。しかし、繊維製品の絶対量が不足していた江戸時代には、そうしたことはごく当然の話で、死者の着物も古着市場に出回り、再利用された。当時は人が死ねば衣服を脱がせ、「湯灌場(ゆかんば)」という専用スペースで体を洗い、死に装束に着換えさせたことから、死人の着ていた衣類は「湯灌場物」と呼ばれたらしいが、そうした湯灌場物も古着の一ジャンルとして市場流通していたようだ。
さて、この話で火元とされている本妙寺について。この寺は法華宗で、現在は巣鴨にあるが、江戸時代には本郷丸山(現在の文京区本郷5−16あたり)にあった。加賀前田家の屋敷(現在は東大)にも近い高台、方角としては、丁度江戸城の真北にあたっている。時は3月。火が最初に神田、日本橋方面に向かったことと、北西の季節風の吹くこの時節とを考え合わせると、本妙寺を火元とする話にはそれなりに説得力がある。また、最初に振袖に魅入られた少女・ウメノが本妙寺の墓参りの帰りに上野に立ち寄ったというくだりも、本妙寺のあった本郷と上野との距離関係から考えて不自然ではない。ただ、現在本妙寺には老中や町奉行を務めた家柄の武家の墓が残っており、厳しい身分制度に縛られていた当時、この寺に町人の檀家があったものなのかどうか、その辺は疑わしい気もする。
問題の振袖の特徴「紋は桔梗紋、柄行は荒磯の波模様に菊」というあたりにも、何か含みがありそうなのだが・・・桔梗紋と言えば明智光秀? そう言えば、上野寛永寺の開山・天海和尚は明智光秀と同一人物という俗説がある。その話と何か関連があるのかないのか、単に思わせぶりで終わっている話なのか・・・このあたりは、都市伝説レベルの話だけに、真面目に検証した人はいないかもしれない。
明暦の大火が別名「振袖火事」と呼ばれている以上、振袖火元説=本妙寺火元説は一応有力とされているわけだが、奇妙なことに、本妙寺がこの火事の火元として処分されることはなかったらしい。火事の後も、少なくとも江戸末期まで寺は火災当時と同じ場所にあった。
振袖火元説=本妙寺火元説には実はカラクリがあって、本妙寺に隣接して屋敷を構えていた老中・阿部忠秋宅が本当の火元であり、阿部家が対面を慮って本妙寺に火元を引き受けさせたのでは・・・という説もある。実際、この火事以来明治維新後に及ぶまで、阿部家から本妙寺に対して多額の供養料が支払われ続けていたという。この話はなかなか説得力があるものの、残念ながら事件の全貌を十分に説明しきれてはいない。というのは、この火事、1月18日に出火して、19日に沈火した頃小石川辺りから再び出火、その後時間を置いてさらに麹町からも出火、と、時間差で連続出火が起きたことが特徴とされており、それが被害を拡大させた最大の原因になったからだ。出火地点はいずれも、江戸城の北から西側にあたる地域。冬から春先にかけて北〜北西の風が吹くことを計算に入れた放火だとすれば、出火場所の位置関係から見ても非常に説得力がある。そこで、幕府放火説・反幕府勢力放火説などの説が生まれるわけだが、さすがに、新たな都市計画を手っとり早く進めるための幕府の放火、という説は、少々話が乱暴すぎる気もする。いくら封建時代の為政者といえども、そこまで領民の命を軽く見てはいなかったはずだ(と思いたい)。
となると、消去法で考えれば、反幕府勢力による放火が原因、ただし政情不安によるパニックを防ぐため、幕府が敢えて事実を伏せて振袖にとり憑いた魔の仕業に仕立てた・・・というあたりが、真相なのだろうか。それにしても、現代ならともかく、町人が古着を日常的に着回していた時代に、古着に宿った情念が大火災を巻き起こした、というストーリーがまことしやかに市井を駆け巡った・・・というのも、興味深い話だ。このストーリーの背景には、死者の古着=それを着ていた者の魂が宿っているかもしれない恐ろしいもの、という感覚があるように思えるのだが、当時の人々はそんな感覚を心のどこかに抱きつつも、必要に迫られて古着を買い求めていたのだろうか。 
 
むさしあぶみに見る明暦の大火と俗説「振袖火事」
明暦の大火は、明暦3年(1657年)1月本郷本妙寺より出火した火災で、江戸の三大火のひとつです。明暦の大火の様子を記録した「むさしあぶみ」には、絵もつけられており、火事の様子などを興味深く見ることができます。
この明暦の大火は振袖火事と呼ばれています。俗説「振袖火事」の由来について、小池猪一「火消夜話」誠文図書(昭54年)から紹介します。
この「明暦の大火」は、江戸最大の大火であった反面に、「振袖火事」という俗説のあった大火として人々にも知られている。この俗説について消防史家小鯖英一氏の資料に、つぎのような記述があって誠に興味深い内容であるため、原文のままつぎに記載しておこう。
「麻布百姓町の質屋さんで屋号が遠州屋、主人の名前が彦右ェ門、この人の一人娘で梅野さん、年は十六、町内での小町娘、この梅野さんが承応三年の春うららの一日、母親につれられまして菩提寺本郷の本妙寺に参詣しての帰り、せっかくここまで来たのだから浅草の観音様へというわけで、上野池の端仲町の錦袋園の辺で駕を降りまして春のどかな上野山下を母親二人でぶらぶら歩いておりますと、通り魔のように擦れ違った美しい寺小姓、どこのだれかわからず口もきかなかったのですが、これがいわゆる一目ぼれというやつで、上野山内へ後姿を消してゆくまで、ポーッと見とれていた。母親にかたをたたかれ真赤になったのが発端で、さてこれからというものは寝ては夢、おきてはうつつまぼろしのという、今どき流行しない恋わずらい。
両親が心配して、なにを話してもご返事なしのためいきばかり。
子煩悩の両親は八方へ手分けして、その美少年を探してみましたが、てんで手がかりがありません。
娘はろくに物もたべず、だんだんやせていくばかり、やっとの事であの方にお目にかかれないのなら、せめてあの方のお召しになっていた着物でもというわけで、紫縮緬の畝織の、荒磯と菊の模様を染め、桔梗の縫紋を置いたものをつくってもらった。
これにちょっと手を通しただけで見染めの翌年即ち承応四年一月十六日、十七才を一期として焦れ死んでしまった。
遠州屋では娘梅野の心を不びんに思い、棺をその振袖で蔽って野辺の送りを済ませ、この振袖を本妙寺に納めた、ところが本妙寺の方ではこれを近所の古着屋へ売りとばした。
翌年梅野の祥月命日にあたる日に上野山下の紙商大松屋又蔵の娘きの(これも十七才)の葬式にこの振袖が本妙寺に納められた。
又、売りとばすと翌々年の同月同日本郷元町粕屋喜右ェ門の娘いく(十七才)の葬式に三度びこの振袖が寺へ戻ってきた、こうなると住職も少々おそろしくなり、三人の娘の親に相談して、この三人が施主となって明暦三年の正月十八日寺内で大施餓鬼を修し燎火に投じてこの振袖をやくことになった。
サアこうなると、だまっていられないのが江戸ッ子。
恋し懐しが病のもと、相手は上野輪王寺水も滴る寺小姓
と、尾鰭をつけて瓦版かなんかで煽ったからたまらない、江戸中のひょうばんとなり、さしもの本妙寺の境内は超満員「早くやかねえのか」「早く焼けよ」と、はらのへったやつが、うなぎ屋へ飛込んだようなさわぎ。
住職もこの風ではと思ったが「それでは」というので火の中へこの振袖を入れた。このとき一陣の竜巻北の空から舞い下り、裾模様に火のついた振袖をさながら人間の立った姿で地上数メートルの本堂真上に吹き上げた、忽ち本堂のき先から出火、三筋に別れる狂風に煽られて紅炎の一団は湯島六丁目に一団は駿河台へと飛火した。」
これが俗説「振袖火事」の由来であるが、「明暦の大火」を記録した史料には、この三人の娘も美少年も出てこないところが俗説の俗説たるところで面白い話ではないか。 
 
キモノの「袖」に注目してみる
「江戸期の振袖」にまつわること
「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉は、よくご存知だろう。「華」という例えが適切かどうかは疑問だが、江戸市中において、大火災がかなり絶え間なく起こっていたという証でもある。江戸の三大大火は、1657(明暦3)年1月の「明暦の大火」、1772(明和9)年2月の「明和の大火」、1806(文化3)年3月の「文化の大火」。中でも、「明和の大火」は、江戸城の天守閣を始め、多数の武家屋敷や町家を焼失し(大名屋敷500・旗本屋敷700・社寺300・町400以上が罹災したと伝えられる)、死者は10万人にものぼる。関東大震災や東京大空襲以前では、最大の厄災だった。
最初の「明暦の大火」は、別名「振袖火事」とも言われている。なぜこの呼び名が付いたのかには、「怪談めいた訳」がある。この火災の火元は三ヶ所。真っ先に火の手を上げたのが、本郷丸山(現在の文京区本郷5丁目あたり)にあった法華宗の寺「本妙寺」。時は明暦3年1月18日(今の暦では3月2日)の未の刻(午後2時)頃のこと。この日、本妙寺では、「寺と因縁のある振袖」を焼く「供養」が行われていた。この振袖には、「焼いて供養しなければならない訳」があった。長くなるが、お話してみよう。この日を遡ること丁度2年前。日も同じ1655(明暦元)年の1月18日のこと、本妙寺に一枚の振袖が納められた。この振袖の持ち主は麻布の質屋、遠州屋彦左衛門の一人娘「梅野」であった。この梅野の振袖は、紫のちりめん地に荒磯と菊を染め出した、袖丈の長い「大振袖」である。この品の色と柄は彼女自身の強い希望で誂られたものだった。それは、上野へ花見に行った時に出会った、一人の「寺小姓」が着ていた衣装に似せたもの。梅野はこの寺小姓の少年に「一目ぼれ」したのだ。以来、この少年の「面影」を忘れることなく、着ていた「衣装」も忘れられなかった。そして、自分にも彼の衣装と「同じ色・図案」の「振袖」が欲しいと望んだのである。つまり「片思いペアルック」ということになろうか。振袖そのものは、豪華絢爛たるものである。梅野は、これを着て、再び少年に出会う日を夢見ていたのだが、「病」に臥せり、亡くなってしまった。両親は「恋も知らず早世してしまった娘」の冥福を祈るため、思い入れのある「振袖」を菩提寺である本妙寺へ納めた。
さて、受け取った寺としても、こんな豪華な振袖をどうすることも出来ないので、古着屋へ売り払った。ところが、一年後の1656(明暦2)年、1月16日にまたもこの振袖が寺に納められた。今度は上野の紙商人、大松屋又蔵の娘、「おきの」の品としてである。寺では、再びこの品を古着屋に売り払った。そして、翌年、この大火の年の正月、寺では三度この振袖と対面したのだ。今度は本郷元町の麹商人、喜右衛門の娘「おいく」の棺の上にかけられていた。さすがに寺も、この振袖を手にした娘が、三人ともすべて亡くなるという「祟り」を諌めるために、「焼いて供養すること」を決めた。本妙寺の庭で「振袖供養」が始まったのが、未の刻(午後2時)。読経のうちに火がたかれ、そしてついに、「因縁の紫ちりめんの大振袖」を火の中に投げ入れた。その時、突風が吹き、火の付いた振袖が舞い上げられ、本堂の屋根に引っかかった。そして、見る見るうちに、火は堂を包み込み、やがて寺から隣接する建物に次々と燃え移っていった。まさに、この振袖がはらむ「狂気」のようなものが感じられる。夭折した「梅野」が持つ、現世に対する「恨み」がこもっているのだろうか。これが、「振袖火事」といわれる所以のことだ。今日の本題に入る前の前置きがまたまた長くなってしまった。
「振袖」の「振り」とはどの部分のことなのか、そのあたりから話を始めてみよう。この形態のキモノ(小袖)が現われたのは、鎌倉や南北朝時代に遡る。この時代に見られた「脇を小さく開けた子どものキモノ」がその原型とされている。「振り」とは、「あけられた脇」のことで、これが付けられたキモノが「振袖」であった。だから、現在のように「たもとが長いキモノ=振袖」なのではない。室町期になると、この形態が定着したが、「脇開け」のものは、15,6歳までと着用が決められていた。近世の江戸期に入ると、この「脇開け小袖」は嫁に行くまでのもの、すなわち当時の結婚適齢期である16,7歳くらいに着用するものと意識され、20歳になる前には、「脇を閉じたもの=脇を留めたもの(これが「留袖」の由来でもある)」を着なければならなかった。
現代における振袖の「脇開け」部分。「袖付け」の下、両側に開いたところ。
画像上の身頃側の「脇開け」が「身八つ口」。下の袖側の「脇開け」が「振り八つ口」。袖側の「振り八つ口」が閉じられず、開いたままになっていることで、「振袖」の名が付いた。現代のキモノの形態では、喪服にせよ浴衣にせよ、全ての長着にこの「振り八つ口」が付いている。つまり、袖側の脇は開けられていることになり、「形的」に言えばすべて、「振袖」ということになるのだ。もちろん、現在の「振袖」という名称は、振りの形ではなく、未婚の女性が着用したキモノという「用途」から付けられているのは、言うまでもない。
さて、江戸期の振袖に話を戻そう。先ほどお話した、「振袖火事」のエピソードの中で、この振袖が誂られる「きっかけ」のところを思い返して頂きたい。麻布の質屋の娘「梅野」は、上野の花見で出会った一人の少年の「衣装」を真似て、同じ色、柄の振袖を作らせた。ということは、少年が着ていた衣装が、「振袖」だったということになる。この時代、「元服(13歳)」になる前の少年も、「振袖」を着用していた。それを裏付ける資料をご紹介しよう。1687(貞享4)年に刊行された「男色大鑑(なんしょくおおかがみ)」。著者は、江戸の民衆生活を書かせたら、この人の右に出るものはいない「井原西鶴」。西鶴のことは、以前大晦日の掛け取りの話「世間胸算用」(昨年12月28日の稿)を紹介したが、これは「町人物」というジャンルにあたる。西鶴の「浮世草子」の中でも、もっとも得意としたのが、「好色物」(いわゆる「性的」なもの・今でいう「アダルト本」)。昭和の「エロ小説」の三大巨頭と言えば、「川上宗薫・宇能鴻一郎・富島健夫」、これにSM小説の帝王「団鬼六」を加えれば、「エロ四天王」である。バイク呉服屋も若い頃、随分世話になった。今は、「映像」での「性表現」が氾濫しており、大変憂慮する時代だが、一昔前は、「巧みな文章表現」だけで「想像を膨らませてた」ような、なんとものんびりした、有る意味では、「健康的」ともいえる良い時代だった。「昭和のエロ小説」を語り出せば、ブログ一回分では、足りないので、この辺りでやめておく。ともあれ、西鶴は江戸の「アダルトモノ」の分野でもトップランナーの位置を占めていた。この「男色大鑑」は、その名でわかるように、「男色」つまり、「同性愛=ゲイ」の話である。その中には、大人がうら若い少年を愛するような「稚児愛」なる話が書かれている。今なら当然、「児童ポルノ禁止法違反」になる。具体的な内容はともあれ、この本には、当時の少年達が身に着けていた「衣装」も細かく描写されており、この時代の「服飾文化」を知る上では、貴重な記述になっている。「小姓」などを勤めていた少年の振袖には、「裾模様」のものや「無地モノ」、「雲取りや縞」、また「総模様」ともいうべき、全体に柄が付けられていたものなど、様々な意匠があった。色、図案とも女性モノと遜色ないもので、その着方も同じだった。だから、「梅野」が「少年が着用していた振袖」と同じ衣装を誂ることができたのである。つまりは、「振袖」というものには、男女の区別がなく、単純に「年齢」を表す品物であったことがわかる。男子も女子同様に20歳前になると、脇の開いた「振袖」ではなく、脇の閉じられた「留袖」を着用しなければならなかったのである。
袖における「振り」の話から、「丈の長さ」というところに話を移そう。「大振袖」と「中振袖」の袖丈の比較。画像の上のブルー地の品物の袖丈は3尺(約114センチ)以上。下のレンガ地の品物は2尺5寸(約95センチ)
キモノというものの原型は「小袖」にあり、江戸時代にこの「小袖の意匠」が変化したことで、「袖丈の長さ」も変化していったと考えられる。江戸期以前の小袖の模様というものは、有る程度「固定化」したものだった。なぜならば、着用できる人は、武士などの「上流階級」の者に限られていたためで、「流行」と呼ばれるような変化にはなかなか至らなかったのだ。江戸に入り、時代を追うに従って、一般町人の中から金銭的に余裕のある商人たちが現われ、その者によりあらためて「衣裳」というものが見直された。それは、今までの「小袖」に付けられていた模様や施しを進化させ、「贅を尽くした衣裳」になるような模様や柄付けが考え出されたのである。これが、江戸初期(1615〜24年)に流行した「慶長小袖」であり、その30年後(1658〜73年)の「寛文小袖」であり、革新的な「友禅」という技法が生み出された元禄期の「元禄小袖」である。慶長小袖は摺箔と刺繍、寛文小袖は鹿の子絞りと刺繍、元禄小袖は友禅と、それぞれ柄を付けるための技法に特徴があり、柄行きも年を経ることに、「大胆に自由に」しかも「豪華」になっていった。もちろん小袖そのものに表現される柄行きや施しで、「豪華さ」を競っていったのであるが、それと同時に注目されたのが「袖の丈の長さ」だった。特に、「脇の開いた、振り八つ口」のキモノを、身に付けることができる「うら若き女性」の「小袖」は、「柄のあしらい」が豪華になるのと比例するように、「袖丈の長さ」が長くなっていった。資料を見ると、「寛文小袖」が流行した頃の袖丈は、1尺5寸(約57cm)程度で、特に「長い」と思われる丈ではないが、「元禄小袖」の頃は、2尺2寸(約83cm)となり、さらに19世紀初頭の文化年間には、今の大振袖の寸法とほぼ同じ、3尺(約114cm)にまで長くなっていった。「袖丈」が長くなるということは、それだけ、「袖の振り八つ口」も長くなるということであり、「若さ」を強調する意味もあったのではないだろうか。そして、これだけ袖が長くなると、もうそのキモノを「小袖」と呼ぶのには似つかわしくなく、それが「振りが長い袖のキモノ=振袖」という意味に変化していったと思われる。
今、ひと世代前の母親達が使った振袖を見ると、「中振袖」すなわち「袖丈・2尺5寸程度」の品物が多い。上の画像でみると、袖丈の短い方の振袖を参考にされたい。しかし、今の振袖を見ると、ほとんどが「大振袖」すなわち「袖丈3尺」で仕立てられている。もちろんこれは、女性の体格の変化(高身長になり、袖が長い方が見映えがするということ)が大きな要因であるが、同時に、より品物を豪華に見せることができるという、意識の「象徴」と見ることも出来るだろう。ともあれ、現在の3尺という振袖の袖丈は、すでに200年も前から、形作られていたものなのであるが、改めて、この「振袖」という品の原点から歴史を辿れば、また違う見方も出来るような気がする。
次回は、今のキモノにおける「袖丈の寸法」について考えて見たい。キモノのアイテムにより変えられる袖丈の寸法。持っているキモノの袖丈が「まちまち」なため、襦袢の袖丈と合わないものが沢山ある、という人の話もよく聞く。キモノの種別により、「袖丈」の変化はあるのか、また「標準」となる袖丈の寸法があるのか、またあるとしたら、それは守るべきものなのか、その辺りのことを中心として話を進めてみたい。
「江戸の華」だった「火事」と「喧嘩」は「リンクするもの」と考えられる説があります。どういうことかといえば、ここで使われている「喧嘩」というのは、「火事場での喧嘩」であり、「火消し同士の対抗意識」の果てに起されるものだということです。「町火消し」が誕生したのは、1718(享保3)年のこと。発案は当時の南町奉行大岡越前守忠相、あの大岡越前です。この時「町火消し」に採用されたのが「鳶職人」達。彼らは身軽に飛び回り、また「家の構造」にも詳しいことから、火を消す仕事にはもってこいの業種。これ以前はそれぞれの町には、「火消し」はなく、「定火消し」という各藩の武家屋敷を守るための「火消し」しか存在しませんでした。町ごとに作られた火消しは、「いろは48組」に区分され、それぞれ「町の名誉と誇り」を持った集団でもあったのです。だからこそ、他町の組との「対抗意識」も強烈なものがあり、それと同時に、それまでの火消しを一手に引き受けていた「定火消し」に対する意識や反発も相当なものだったのです。この「火消し同士」が火事の現場で、消火の仕方や仕事の手順において「仲たがい」をして「喧嘩」になることは、「日常茶飯事」。それで「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉が生まれたと解釈できるようです。
品物・年齢・体格で異なる袖丈寸法
先日、このブログでご紹介した、フランス人の「マリー」さんから、お礼のメールが届いた。私は、単なる「小売店主」であり、「研究者」ではないので、確固とした答えにはなっていないと思うのだが、それでも「少し」は役に立てたようである。また、先日マリーさんとのやりとりを、このブログ上で紹介したことも、嬉しかったようだ。「mayishitar」という名前は、職業上での「通称」のようなもので、本名はやはり、「marie(マリー)」さん。職業は「パリのデザイナー」だそうだ。日本の服飾文化に興味を持ち、民族衣装としてのキモノを知り、その中から「加賀友禅と推測される品(型使いのものだったが)」を自分で求め(どのような経緯で、あの品物を手に入れたのかわからないが)、疑問があれば、直接質問して理解を深めようとする。「デザイナー」という職業的な意識の中から、「東洋の不思議な衣裳、キモノ」への関心が生まれたと思えるのだが、中々探究心のある方とお見受けした。マリーさんは、日本語を全く理解できないし、私もフランス語が全くわからない。「自動通訳」だけが頼りなのだが、おそらく書いていることの「半分程度」しか、読み取れていないだろう。お互いに「変てこな訳」から、ある程度内容を類推している。それでも、何とか意志の疎通が図れるのだから、不思議なものだ。ただ一つ心配なのは、マリーさんが「呉服屋」というものは、みんなバイクを使って仕事をしている職業だと思わないか、ということである。
さて、今日は「キモノの袖」に関する話の続きをしてみよう。前回は袖の「振り」というものに注目して、その歴史的な経緯なども書いたが、今回は、「袖丈」の寸法そのものについて考えてみたい。お客様との話の中でよくあることの一つに、「キモノと襦袢の袖丈の寸法が合わない」ということがある。「袖丈」が合わないとどうなるか。キモノの袖丈より襦袢のほうが長いと、キモノの袖の中で襦袢の袖が余り、ぶくつく。逆に襦袢が短すぎると、キモノの袖から襦袢の袖が飛び出してしまう。キモノと襦袢の袖丈における長さの基準というものがある。例えばキモノの袖丈が1尺3寸であれば、それに見合う襦袢の袖丈は1尺2寸7、8分。だいたいキモノと襦袢の寸法差を2分程度にしておけば、中で襦袢がからまることもなく、また外に飛び出すこともない。キモノと襦袢を「同寸」にしておくというところもあるようだが、ほんの少しだけ襦袢の方を短くしておいた方が、スムーズだと思う。
袖丈の寸法というものは、品物や年齢、また使う方の体格によっても違いがあり、「画一的」ではない。いちおうそれぞれ「基準」となる寸法が存在するのだが、一般のお客様にそのことがあまり浸透していないように思われる。そして、以前「裄」の寸法のところでもお話したのだが、昔の寸法の基準というものが、現代女性の体格の変化(とくに身長)により、合わなくなっている。これから、いくつかのアイテムごとに、現代の体型に見合う「袖丈」というものを少し考えていこう。
まず、「祝着」の袖丈寸法から見てみよう。
(黒地四つ身友禅小紋・袖丈1尺3寸5分・約51cm 朱地小紋・袖丈1尺8寸・約68cm)
子どもの祝着の袖丈というものは、やはり長い方がかわいい。だから、出来る限り長くしておきたい。もちろん歩いている時に、袖を地面に付かない程度にはしなければならないが、仕立てを受ける時に長さを確認しておけばすむことだ。上の画像、黒地の方は、「三歳祝着」の時の、標準的な袖丈の寸法である。女児の身長は95〜100cmほどなので、このくらいの丈であれば、引きずることはない。長い袖のキモノと被布の組み合わせは、三歳の時にしか出来ない「愛らしい着姿」となる。朱地は「七歳祝着」の寸法。小学校1年生女児の身長は115〜125cm。この頃になると少し個人差が出てくるので、使う子の大きさにより袖丈の長さが変わる。背の高い子だと、「2尺(約75cm)」の袖丈にするような場合もあり、「小振袖」のような感じになる。七歳の時には、初めて本格的な帯結びをするので、子どもらしさと女の子らしさが同時に出せるように、長い丈にしておきたい。いずれにせよ、「反物」から作ると、着る子の体格に合わせて自由に寸法を取り、仕立てをすることが出来る。仕立てあがった「プレタ」のキモノとの違いは、この辺りにもある。
(二点の付下げ いずれも1尺7寸5分・約66cmが最大の袖丈寸法)
次ぎに、「付下げ」を例にとって「フォーマル」の袖丈を考えてみよう。一口に「フォーマル」といってもキモノには様々なアイテムがある。前回少し触れた、「振袖」には、「大」、「中」、「小」の「振袖」があり、それぞれ、「大は3尺・約114cm」・「中は2尺5寸・約95cm」・「小は2尺・約76cm」である。「振袖」は未婚者の「最上位の格」に当たるもので、「長い袖」は、未婚者の象徴でもある。「黒留袖・色留袖」と「訪問着・付下げ」とでは、「フォーマル」としての位置づけが違う。留袖類は「第一礼装」であり、キモノとして「最上位」に当たる。この留袖類は、使い道が身内の婚礼か、叙勲の授与式などに限定されていて、「未婚者」が使うことはあまりないと思われる(独身者が増えた昨今では、そうとも言い切れないかもしれないが)。という訳で、留袖類の袖丈は、長くはなく、1尺3寸〜4寸(約49cm〜53cm)くらいがほとんどだ。ここで、「兄弟」の結婚式に参列する場合を例として、考えてみよう。姉でも妹でも「既婚者」であるならば、使うものは留袖になる。では、「未婚者」であるならば、どうであろう。姉・妹ともに30歳前後より下の年齢ならば、着用するアイテムは「振袖」でよいだろう。ただ、年齢に関りなく(例え二十歳代でも)、結婚する人より年上の「姉」の場合には、「振袖」を使うことには抵抗があるという方もいる。そうなると着るのは「訪問着か付下げ」になる。(私は「振袖」でもよいと思えるが) また、「妹」でも30歳をかなり過ぎていれば、やはり振袖よりも「訪問着・付下げ」ということになろう。訪問着・付下げというのは、着用する方の「年齢」あるいは「結婚しているか否か」で、「袖丈」が変わる。年齢を追って、「振袖」の次ぎに作るフォーマルというのは、訪問着あるいは、付下げになる。そして、20歳代の未婚女性がこれらを作るとき、袖丈はやはりある程度「長く」したい。着る方の身長にもよるが、だいたい1尺5寸〜8寸(約57〜68cm)程度と考えられる。訪問着や付下げは、あらかじめ反物の「裁ち位置」というものが決まっているため、袖丈においても長さには「限界」がある。上の画像でわかるように、黒地と茶地の二反の付下げの袖丈を測ってみると、どちらも、最高の長さが1尺7寸5分(約66cm)になっている。だが、これが「既婚者」の場合は、いくら年が若くとも、長い寸法にはしない。だいたい1尺3寸〜5寸(約49cm〜57cm)の間に落ち着く。こう考えれば短い袖丈は「既婚者」である証のようにも思えるが、ただし背の高い方は、少し丈を長くしておいた方が、バランスの良い着姿になる(身長160cm以上だと1尺4寸・170cm以上だと1尺5寸くらいが適当かと思う。)それと同時に考え方として、フォーマルモノの場合、カジュアルモノよりも少しだけ袖丈を長くしておくことが多いことを覚えておいて頂きたい。このように、付下げや訪問着の袖丈というものは、「未婚・既婚」の違いや、年齢、また体格の違いなどにより、ある程度長さに「基準」のようなものが以前からある。ただ、昨今の「独身者」の増加により、すこし悩ましい時もある。例えば、4,50歳代の「シングル」の女性の袖丈はどのようにするか、という問題に当たる時、「シングル」なので「長い袖」にするのか、それとも「年齢」によって「短い袖」にするのか、迷いが生じる。こんな時、私は「体格」から袖丈を決めるようにしている。ただし、それも当然1尺5寸を越えない範囲で考えなければならないのは言うまでもない。振袖の次ぎのフォーマルとして作られた、若い時の長い袖の訪問着・付下げ(1尺5寸〜8寸)も、「既婚者」になるか、あるいは「年齢が進めば」、丈をつめる必要が出てくる。着用の際には、このあたりのことは、気に留めておかれるとよいだろう。
(左から1尺5寸 約57cm・1尺3寸 約49cm・1尺2寸 約45センチの袖丈)
今度は、「フォーマル」というところから少し離れて、「カジュアルモノ」の袖丈について考えてみよう。昔、キモノが普段着として生活の中に定着していた頃は、日常の家の仕事をする時、「長い袖」というのは、邪魔になったと思われる。そういう意味においても、先ほどお話したように、「フォーマル」の袖丈の方が「カジュアル」よりも長いものになっていた。紬や小紋などの日常着の袖丈は、未婚の20代の方といえども、そうそう長くはしない。どんなに背の高い方でも1尺5寸(約57cm)までである。浴衣などは、ほぼ1尺3〜4寸に固定されている。一般的には、1尺3寸(約49cm)の袖丈というものが、もっとも「ポピュラーな標準寸法」として知られている。それは決して間違いではないが、私は、少しは着る方の「体格」も考慮して、丈は決められるべきだと考える。そもそもこの1尺3寸という基準は、女性の身丈の「並寸法」が4尺程度(平均身長が152,3cmだった時代)の頃に、割り出された袖丈である。今の平均身長は160cm近くになっていて、これを考える時、この寸法では短く感じてしまい、せめてもう1寸長くして、1尺4寸を袖丈の「標準寸法」とした方が、時代には合っているように思われる。また、年配の方には、これより短い1尺2寸(約46cm)程度の寸法を選ぶ場合があるが、これもその方の体格と関りがある。年齢が進むと、次第に身長が低くなることもあり、70、80代の方の袖丈は、自然と短いものになっていく。これも、体格と袖丈のバランスを考えた上の選択の一つと言えよう。
ここまでお話してきて、キモノの「袖丈」という寸法は、画一的な決め方がされるものではなく、品物・年齢・体格、それに未婚か既婚かによって、変化するものとご理解頂けたと思う。「袖丈」は伸ばしたり、縮めたりしながら、使いまわしていくと考えることで、長くも使え、後の世代に譲ることが出来る。それは、例えば最初から2寸程度の縫込みを入れておけば、背の高い人が使うことも出来るし、また短くする時には、切り落としたりせず、ある程度中に入れておけば、また元の袖丈に戻せる。つまり、一枚のキモノを長く使うということ(誰かがキモノを受け継ぐこと)を、常に頭の片隅に入れておくことが、ある程度「年齢」や「体格」に応じて「直すことができるような工夫」につながるということなのである。もう一つ「袖丈」で大切なのは、既婚者になった時や、ある程度年齢が進んだ時などに、「寸法を決めてしまうこと」であろう。例えば、フォーマルもカジュアルも(持っているどんなキモノもすべて)1尺4寸に統一してしまうとか、フォーマルは1尺4寸、カジュアルは1尺3寸と決めるとかである。こうすることにより、「襦袢の袖丈」と「キモノの袖丈」が「まちまちになる」という心配はかなりなくなる。キモノの袖丈が品物によって違っていたら、その違った寸法の分だけ、襦袢が必要になる。これでは、効率が悪いばかりか、使う時にいつも、キモノと襦袢の袖が合っているかどうか、いちいち確認しなければならない。今日は、「袖丈の寸法」ということで話を進めてきたが、あまり上手な説明になっていないことが、自分でもわかる。ここまで読まれた方は、一応ご自分の袖丈がどのくらいになっているか、確認されるとよいと思う。品物により、寸法に違いはないか、あるいは一緒に使おうとしている襦袢の袖丈と合っているかどうかなどを知っておけば、着用の時に、スムーズな準備が出来るように思う。このブログの、「寸法」についての稿がいつもわかりにくいことを、最後にお詫びしたい。
前回の「江戸期の振袖」の記述を考えると、「未婚者」は「袖を長く」、「既婚者」は「袖を短く」というのが、この時代における「丈の基準」だったように思えます。「未婚者」の増加や、「晩婚化」、それに体型の変化などが、「キモノの袖丈」の変化に影響を及ぼしています。もしかすると、この先「袖丈の長さ」は「着る本人の自由」という時代が来るかも知れません。今から百年後、キモノというものがどのような形で存在しているのか誰にもわかりません。「今とほぼ同じ形」で残されているか、かなり「特異なもの」として存在しているか、さてどうなることやら。 
 
振袖火事
その年、明暦3年(1657)は、新年早々からしきりに火事が起こっていた。 元旦には四谷竹町から出火、4日5日にも続けて火事騒ぎがあった。冬の江戸は雨量が少なく、空っ風が吹くのは例年のことだが、前年の11月からこの年にかけてはことに異常気象で、一滴の雨も降らなかった。 乾ききった空気は、ちょっとした不始末からたちまち火事をよんだ。
「いやな風が吹くねぇ」 正月18日は朝から、乾(北西)の強い風が吹き荒れ、戸障子を揺さぶり、道の土埃を舞わせた。江戸庶民は寒さに肩をすくめながら、不安げに囁き交わした。昼少し過ぎに、本郷本丸の本妙寺の門前にはちょっとした人だかりができた。本堂では読経が始まっていた。「噂どおり、お供養をするのかい」「振袖を焼くたぁ、珍しいじゃねぇか」「何とももったいない話だね」「けど、おめえ。とんでもねぇ因縁つきの振袖だってぇじゃねぇか。いっそ焼いちまうのがいいのさ」「若い娘が三人も……だってぇからね」「くわばら、くわばら」人々は、そそけ立った顔を見合わせた。それは、2年前の話に始まる──。
明暦元年(1655)、日も同じ1月18日、この本妙寺へ布施として一枚の振袖が納められた。 紫縮緬の大振袖に、荒磯と菊を染め出し、桔梗の縫紋を付けた目のさめるように華やかな柄行であった。この振袖を身にまとったのは、むろん年若い娘で、名は梅野。麻布百姓町で質店を営む遠州屋彦左衛門の一人娘であった。承応3年(1654)の春、梅野は母に付き添われて上野の山へ花見に出かけた。
当時、花見は芝居見物とともに、女の大きな楽しみの一つであった。江戸時代の中流以上の家庭の婦女子というのは、今考えるよりはるかに、外出の機会が少なかった。他国への旅行など、女は滅多にできなかったし、買い物に出歩くということさえまずなかった。いったん、外出するとなると、娘ならば母親か乳母、上女中が付き添い、妻女には女中などの供がつく。町内の稽古所や銭湯を除けば、一人歩きなどというものは殆どなかった。 いったん、外出するとなると、娘ならば母親か乳母、上女中が付き添い、妻女には女中などの供がつく。町内の稽古所や銭湯を除けば、一人歩きなどというものは殆どなかった。それだけに、年に数えるほどの物見遊山は、心躍る楽しい出来事であった。
梅野も早くから花見振袖を新調し、その日がくるのを指折り数えて待っていた。遠州屋も大切な一人娘を今日を晴れと着飾らせ、母、乳母、女中のほか、店の若い衆に提重などを持たせ、小袖幕の用意などして賑々しくくりこんだ。母をはじめ、女中や店の者に取り巻かれ、美しく装った梅野は、花の間を逍遙しながら野に放たれた小鳥のように、うきうきと心が弾んだ。艶やかな頬は上気し、興奮から目は輝いていた。通りすがりに同年輩の娘の衣装に素早く目を走らせては自分の衣装と比べて、品定めするのも忘れない。その時、前方から、目を奪うように派手やかな衣装を着た者が近づいてきた。女ではなく、前髪立の寺小姓であった。
──なんと見事な。相手の衣装を見、ついで顔を見て、梅野は息を呑んだ。雪をあざむく白い額に、前髪がはらりとふりかかって、彫り込んだようにくっきりした目鼻立ちといい、これまでに見たこともない美少年であった。当時、不邪淫戒を守る僧侶は、競って美しい寺小姓を置いて寵愛したが、わけても上野寛永寺の寺小姓は、粒選りと定評があった。
あっと思う間に少年は人混みに紛れてしまった。 が、その面影は梅野の胸に焼き付いて離れなかった。
2、3日して、梅野は母に新しい振袖がほしいとねだった。紫縮緬に荒磯と菊を染めるようにと、色や柄についても細かく注文した。母は言うなりに、染物屋へあつらえてくれた。振袖が仕立て上がってきた日、梅野は人目のないところで、その衣装をひしと胸に抱いた。梅野はその振袖に手を通そうとしなかった。その代わり、枕に着せて、生きている人に語るように問答した。──いじらしくも、梅野は最初から恋をあきらめていた。
「まあ、十五にもなって、まだ人形遊びかえ」母も乳母も笑ってみていたが、そのうちに様子がおかしいと気付きだした。梅野は始終、軽い熱を出し、弱々しい咳をするようになっていた。俗に言う“恋煩い”である。
梅野が片思いに悩んでいると知って、両親は当惑した。しかし、日に日に弱ってゆく娘を見るに耐えかねて、上野あたりの寺小姓らしいというのを手がかりに、懸命に探し回った。だが、いっこうにそれらしい少年の所在はつかめなかった。──掴めなかったのではなく、娘に“不しだら”の汚名のつくことを恐れて、あえて少年と会わせなかったに違いない。花見の日には母親も乳母も同行していた。恋に患うほどの娘の変化を見過ごすとは思えない。とうの昔に少年の顔は知れていたろうが、わからぬふりを続けていたのだろう。 そのうちに、娘も諦めるに違いないと践んでいたことだろう。しかし、梅野はしだいにやせ衰えて、翌年の正月、あの振袖をしっかり抱きしめたまま、露のように儚く亡くなった。
嘆き悲しんだ両親は、娘の思いの残る振袖を菩提寺の本妙寺に納め、冥福を祈ることにした。
さて、寺としては、華美な振袖を手元に置いてもしかたない為、出入りの古着屋へ売り渡された。そして、その一年後の正月十六日、振袖は再び本妙寺へ荷われて来た。
棺の主は「おきの」といい、上野山下で紙を商う大松屋又蔵の娘であった。葬儀のあと、大松屋は、「娘のたいそう大切にしておりました振袖でございます。なにとぞ、こちらへお納めを」と申し出た。本妙寺では、だまって振袖を受け取った。
そしてまた翌年の正月、三度、あの振袖を目にして、寺のものは目を見合わせた。この度は本郷元町に住む麹商い喜右衛門の娘「おいく」の棺に掛けられていた。
梅野の妄執が残って、他の娘たちに祟りをなすのであろう。江戸人たちは、因縁の絡まる振袖の噂でもちきりだった。男も女も怖いもの見たさから、振袖供養の当日、本妙寺へ集まった。未の刻(午後2時ごろ)、さかんな施餓鬼の行われ、僧たちが庭火を囲んで声高く経を誦する間に、振袖が火中に投じられた。燃えさかる炎はたちまち紫の振袖を包むかに見えた。と、そのとき一陣の突風が巻き起こり、あっという間もなく振袖を引っさらった。
目に見えぬ強い力に引かれるように、虚空高く舞い上がり、下から見上げる人々の目にそれは、人の立ち上がって手を広げた姿そのままに見えた――。
一面に火のついた振袖は、八十尺といわれる本堂の屋根に引っかかった。火の粉が雨のように降り注ぎ、人々が大騒ぎする間に、本堂の棟木に燃え移った。こうして本堂から出た火は、その日のうちに江戸八百八町の大半を焼き尽くしたのだった――。
「振袖火事」と呼ばれる明暦の大火の死者は十万八千余。当時の江戸の人口は三十五万余であったことからも、 関東大震災や第二次世界大戦にも等しい大きな災害であったのがうかがえる。火は一晩で、湯島、神田辺、浅草御門内町屋、通町筋、鎌倉河岸、京橋八丁堀、霊岸島、 鉄砲洲、海手、佃島、深川までをなめ尽くし、江戸城本丸、天守閣もこのとき炎上した。いったんは収まった火事であったが、翌日の19日巳の刻(午前10時)過ぎ、小石川伝通院前新鷹匠町から再び燃え出し、 牛込御門、田安御門、神田橋御門、常盤橋御門、呉服橋御門、八代洲河岸、大名小路、数寄屋橋御門前を焼き払った。また同日、番町から出た火は、半蔵御門外、桜田虎御門、愛宕下、増上寺門前札の辻、海手までを焼いた。羅災したものは、万石以上の大名屋敷が500余、旗本屋敷が770余、神社仏閣350余、町屋400町、片町800町との記録が残っている。
このあまりにも多くの焼死者を葬るために、本所回向院は作られた。
この大火を境に、江戸の様子は大きく変わった。日除地をつくり、道を広げて広小路にし、両国橋を作った。定火消しの制度もこの翌年に誕生している。 定火消し、方角火消しなどというのは、武家の率いる火消しで、大名自身が馬上姿で颯爽と陣頭指揮をとったりした。町火消しができるのは、もっと後年のこととなる。
さて、これを陰陽五行に当てはめると、興味深い内容が浮かび上がる。
まず、梅野が恋に燃えた1654年は午年。火気のもっとも盛んな年である。そして、亡くなった翌年は未年。火気ばらみの土気の年である。これは、土気の中でも最も強い力を持っているとされる。これは私の見解にすぎないが、火気に生み出された恋は、翌年の妖気を孕んだ火気によって、あやかしの念を持ってしまう。さらに、これに木気が関わる。出会いは春。亡くなった日と火事の起こったのが1月。どちらも木気である。『木生火』で、木は火のパワーを増幅させる。また、梅野の振袖は『紫縮緬』。木気の青と火気の赤を合わせた色である。それが、翌々年の1657年、酉の年に災いをもたらした。この年は金気の中気である。『火剋金』──
金の年は木の力を得た火の妖気に剋されたと解釈できなくもない。さらに出火の始まりが未の刻、一時収まった火が再び燃え上がったのが巳の刻、 ともに火気の時刻であったことも見逃せない事実である。 
 
振袖火事と歴史の重み
むかしむかしの物語です。江戸の麻布に、質屋の娘さんで梅乃(うめの)さんというたいそう美しい娘さんがいました。その梅乃さんが、ある日、本妙寺の墓参りに行きました。用事を済ませて帰ろうとしたとき、たまたま出会ったお寺のお小姓(こしょう)さんに一目惚れしてしまいます。
女性から告白なんて、考えられない時代です。しかも相手はお坊さんです。そこで梅乃さんは、その小姓が着ていた服と同じ模様の振袖を作らせ、これを愛用しました。ところが梅乃さんは、なぜかふとしたことで、わずか17歳で亡くなってしまったのです。
ご両親の悲しみはいかばかりだったことでしょう。梅乃さんの棺に、ご両親はその振袖を着せてあげました。
その頃、こうして棺に掛けられた服や、仏が身につけているカンザシなどは、棺が持ち込まれたお寺の湯灌場で働く者たちが、もらっていいことになっていました。この振袖もそういう男たちの手に渡りました。
振袖は売却され、回り回って紀乃(きの)さんという、これまた17歳の娘さんの手に渡りました。ところがなんとこの紀乃さんも、あくる年の同じ日に亡くなってしまったのです。
振袖は、再び墓守たちの手を経て、今度は、幾乃(いくの)さんという娘さんのもとに渡りました。その幾乃さんも、翌年、17歳で同じ日に亡くなってしまったのです。
三度、棺にかけられて寺に持ち込まれた振袖を見て、寺の湯灌場の男たちは、びっくりしてしまいました。そして寺の住職に相談しました。
住職は、亡くなった娘さんたちの親御さんを呼び出しました。みんなで相談の結果、この振袖にはなにかあるかも知れないということで、お寺でご供養をすることになりました。それが明暦3(1657)年1月18日午前10時頃のことです。住職は、読経しながら火中に振袖を投じました。
そのとき、突然、強い風が吹きました。火がついたままの振袖が、空に舞い上がりました。まるで何者かが振袖を着ているかのようでした。舞い上がった振袖は、寺の本堂に飛び込みました。そして本堂の内部のあちこちに火をつけたのです。
おりしも江戸の町は、80日も雨が降っていませんでした。本堂に燃え移った火は、消し止めるまもなく次々と延焼しました。そして火は、まる三日間燃え続け、湯島から神田明神、駿河台の武家屋敷、八丁堀から霊岸寺、鉄砲州から石川島と燃え広がり、日本橋・伝馬町まで焼き尽くし、さらに翌日には北の丸の大名屋敷を焼きました。江戸城の天守閣まで焼失しました。これが明暦3年(1657)に起きた「明暦の大火」です。
火事で亡くなった人は10万人以上にのぼりました。火災としては、東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大の大火災となりました。ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数える人もいます。また、この大火災で焼失した江戸城天守閣は、今日になっても、まだ再建されていません。
さて、この話には後日談があります。
事件の発端になったお寺の小姓は、天正18(1590)年、徳川に攻め落とされた土岐氏の子孫だというのです。そして実は、滅ぼされた土岐氏の恨みを、振袖に託して復讐を遂げたというのです。燃え上がる梅乃の慕情と、土岐氏の恨みが重なったとき、まさにそれが紅蓮の炎となって江戸の町を焼いた・・・となるのですが、この手の因縁話というのは、すこし前までは、ほんとうにごく普通に、一般的に、テレビドラマや映画などでも、よく語られたものです。
横溝正史の「八つ墓村」は、映画が3本、テレビドラマが6本、漫画が5作品、舞台が1作品あるのだそうですが、そのなかの映画ひとつとっても、昭和26年の松田定次監督で片岡千恵蔵が金田一耕助を演じた映画、昭和51年に野村芳太郎監督が渥美清、萩原健一で撮った映画までは、田治見家の因縁話が、話の主題となっていました。
ところが平成18年に豊川悦司、高橋和也主演の八つ墓村は、監督が市川崑でありながら、因縁話がなりをひそめて、事件の残酷性や事件当時者たちの愛憎が主題へと変化しました。
ひとつの大きな事件に際して、因縁が、ほんとうにその事件のきっかけだったかどうかは別として、そうした因縁が多くの人々の共感や納得を得たということは、人々の間に「共有する歴史があった」ということを意味します。逆にいえば、因縁話が理解できない社会は、「歴史が共有されていない」ということになります。
重要なのは、「因縁を信じないのは科学的な社会」などでは全然なくて、実は「自分たちの存在を歴史の流れの中に感じることができない社会」に、日本が変化しているという恐ろしさです。このことは、明暦の大火よりもおそろしい出来事であるように感じます。
縄文・弥生時代の集落跡は、全国にたくさん発見されていますが、その特徴は、集落の真ん中に先祖の墓地があることです。つまり死者と生者が、ひとつの村落の中で共存してるのです。これはつまり、人々が歴史と一体となって生きていたことを表します。これが太古からある日本文化の原点です。
このことはたいへん重要なことで、昔といまが共存しているということは、いまと未来も共存しているということです。過去現在未来という時間軸の中に人々が生きていることを表します。一生懸命学んで大人になって、大人になったら、一生懸命働いて、子や、孫の未来を築く。それが日本人の、1万7000年続いた縄文時代以来の、DNAに蓄積された姿です。
だからこそ日本人は、歴史を大事にしてきたし、だからこそ因縁話なども生まれてきたわけです。因縁というのは、歴史的原因と経過のことを意味します。ですから歴史的原因と経過が受け入れられない、あるいは理解されない社会というのは、その民族が「民族としての歴史を失っている」、もしくは「失わせたい力が働いている」ことをあらわします。
戦後の日本は、戦前に逮捕されていた共産主義者、卑怯な手段で徴兵を拒否した「醤油組」、戦時中日本人の若者が兵役について外地に向かったことで代替労働力として日本本土の工場などに出稼ぎに来ていた朝鮮人、朝鮮戦争のときに祖国を捨てて逃げてきた韓国人、済州島人(済州島は李氏朝鮮の時代には自分たちはモンゴルの直系だと主張して李氏朝鮮に帰順していなかった)などの、いわゆる「敗戦利得者」が、牛耳る社会です。
こうした人達は、人口の上からはごく一部でしかありませんが、少数であるがゆえに、結束が固い。そして少数であるがゆえに、経済を牛耳り、大金を得ています。
けれど日本はシラス国です。天皇という存在のありがたさによって、民衆がそうした一部の人たちが民衆を支配することをないようにしてきた国です。いかなる権力者があらわれようが、民衆はわが国の頂点におわす天皇の民なのです。どのように見積もっても、敗戦利得者たちに支配され続けるような、ヤワな民ではないのです。
徳川幕府は、明暦の大火で焼失したわが国最大にして最高の江戸城天守閣の再建をあきらめました。天守閣を再建して虚勢をはることよりも、焼け出された人々の民生の安定を第一にしたからです。これが西洋やChinaの王朝であれば、おそらく逆ではないかと思います。城が先、民生は後回しです。
なぜ徳川幕府が天守閣を後回しにし、さらには以後200年以上も天守閣を再建しなかったか。ここに、当時の武士たちの立ち位置が明確に現れています。武士はもともと新田の開墾百姓たちです。そして武士は、平安の昔も、鎌倉時代も、戦国の昔も江戸時代も、領主として、地域を私的に統轄しましたが、民はあくまで「天子様の大御宝」と認識されたのです。
西洋やChinaでは、領主は領土と領民を支配します。けれど日本では、領主は領土を支配しましたが、領民は支配していません。いまの会社内で、部長や課長が部下を「支配」しているのではなく、部下はどこまでも「会社」の社員であり、「役席者が私的に支配しているのではないことと同じです。
そしてそういうことがなぜ実現できたかといえば、因縁と呼ばれる歴史的原因と経過を大切にしてきたからなのです。 
 
明暦の大火(江戸) 1657年1月18日(新暦3月2日)
明暦の大火
明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災で、「振袖火事」・「丸山火事」とも呼ばれる。
延焼面積・死者共に江戸時代最大で「江戸の三大火」の筆頭にあたり、外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失した。死者数は3万から10万人と云われ、江戸城天守閣は。これ以後、再建されることは無かった。
この大火を契機に江戸の都市改造が行われ、御三家の屋敷が江戸城外へ転出。それに伴って、武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転している。
それまでは防備上の理由で千住大橋だけだった、隅田川へ架橋(両国橋や永代橋等)の追加が行われ、隅田川東岸に深川などの市街地が拡大することになる。また、吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進み、市区改正も行われた。
広小路
この大火をきっかけに、上野や両国などには幅の広い街路が設置され、火災の類焼を食い止める役割を果たした。これは「広小路」と呼ばれ、現在でも上野広小路などの地名が残されている。また、JR上野駅には「広小路口」の改札がある。
明暦の大火から3年後の万治3年(1660年)には名古屋でも大火があり、同様の通りが設置されたとのこと。ちなみに千葉県市川市では、蔵前橋通りで市川橋(江戸川)を渡るとすぐに大きな交差点があり、この交差点は「市川広小路」と呼ばれている。
三回の出火
この火災は、本郷・小石川・麹町の3箇所から連続的に発生したもので、ひとつ目の火災が終息しようとしているところへ次の火災が発生し、結果的に江戸市街の6割が焼き尽くされた。
   第一の火災
1月18日(3月2日)未の刻(14時頃)、本郷丸山の本妙寺より出火。神田、京橋方面に燃え広がり、隅田川対岸にまで及ぶ。霊巌寺で炎に追い詰められた1万人近くの避難民が死亡、浅草橋では脱獄の誤報を信じた役人が門を閉ざしたため、逃げ場を失った2万人以上が犠牲となる。
   第二の火災
1月19日(3月3日)巳の刻(10時頃)、小石川伝通院表門下、新鷹匠町の大番衆与力の宿所より出火。飯田橋から九段一体に延焼し、江戸城は天守閣を含む大半が焼失。
   第三の火災
1月19日(3月3日)申の刻(16時頃)、麹町5丁目の在家より出火。南東方面へ延焼し、新橋の海岸に至って鎮火。
火災の原因について
いくつかの説があるが、真相は不明。一般に語られる事としては、以下の三つがある。
   本妙寺失火説(振袖火事とも呼ばれる所以)
お江戸・麻布の裕福な質屋・遠州屋の娘・梅乃(16)は、本郷の本妙寺に母と墓参に行ったその帰りに、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れ、寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か食欲もなくし寝込んでしまう。梅乃の両親は彼が着ていた服と同じ柄の振袖を作り、彼女与える。しかし、病は悪化、梅乃は若い盛りの命を散らす。両親は葬礼の日、せめてもの供養にと娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやった。当時、棺に掛けられた遺品などを寺男たちが貰うことが許されていた。この振袖は本妙寺の寺男によって転売され、上野の町娘・きの(16)のものとなる。ところがこの娘もしばらくの後に病となって亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられて、奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれた。寺男たちは再度それを売り、振袖は別の町娘・いく(16)の手に渡る。ところがこの娘もほどなく病気になって死去、振袖はまたも棺に掛けられ本妙寺に運び込まれてきた。寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにした。住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ちあがったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移した。たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、江戸の町を焼き尽くす大火となった。
   幕府放火説
幕府が江戸の都市改造を実行するために放火したとする説。当時の江戸は急速な発展による人口の増加に伴い、住居の過密化をはじめ、衛生環境の悪化による疫病の流行、連日のように殺人事件が発生するほどに治安が悪化、都市機能が限界に達していた。しかし、都市改造には住民の説得や立ち退きに対する補償などが大きな障壁となり進展せず。そこで幕府は、大火を起こして江戸市街を焼け野原にしてしまえば都市改造が実行しやすくなると考えた。
   本妙寺火元引受説
実際の火元は老中・阿部忠秋の屋敷だったが、老中の屋敷が火元となると幕府の威信が失墜してしまうということで幕府の要請により阿部邸に隣接した本妙寺が火元であると云うような話を広めた。火元であるはずの本妙寺が、大火後も取り潰しにあうこともなく、元の場所に再建を許された上に触頭にまで取り立てられ、大火以前より大きな寺院となり、さらに大正時代にいたるまで阿部家より毎年多額の供養料が納められていたことなどを論拠としている。
本妙寺
1590年(天正18年)家康の関東入国の際、遠江国曳馬より武蔵国豊島郡の江戸城内に移る。
1603年(慶長8年)、江戸の家康に征夷大将軍宣下があり、その後、寺地を転々とし、
1616年(元和2年)小石川(現在東京都文京区)へと移る。
1636年(寛永13年)、小石川の伽藍が全焼し、替地の本郷丸山(東京都文京区本郷五丁目)へ移った。その後の1657年、明暦の大火では、この寺の御施餓鬼のお焚き上げから火が出た(振袖家事)の伝説もある。
1667年、幕府により、法華宗勝劣各派の触頭となる。
1910年(明治43年)、現在の豊島区巣鴨五丁目の地へ移転した。(現在の豊島区の境内の墓地には明暦の大火で亡くなった人々の菩提を弔う供養塔がある) 
 
「振袖」 小泉八雲   
和訳 1
近頃、私は古物商の多く住んで居る小さい町を通つて居る間に、一軒の店にかかつて居る派手な紫の振袖を見た。コ川時代に位の高い貴婦人が着たやうな着物であつた。私はそれについて居る五つの紋所を見るために足を停めた、同時に昔江戶の破滅の原因となつたと云はれる同じ着物のつぎの傳說を憶ひ出した。
殆んど二百五十年前、將軍のキの或富んだ商人の娘が、どこかの祭禮で、著しく美麗な若い侍を群集のうちに認めて、直ちに戀に落ちた。彼女に取つては不幸にも、彼女の從者によつてその侍の何人であるか、どこの人であらうかを知る事ができないうちに、彼は雜沓の間に見えなくなつた。しかし彼の印象ははつきりと、――着物の最も些細な點まで、――彼女の記憶に殘つた。その當時若い侍の着たリ着は若い女の着物と同じ程派手であつた、そしてこの立派な侍の上着は戀に惱んだ少女に取つては非常に綺麗に見えた。彼女は同じ紋をつけた同じ色と地の着物を着たら何かの折に彼の注意を惹く事もできようと想像した。
そこで彼女は當時の習慣によつて大層長い袖のこんな着物を作らせた、そしてそれを非常に大切にした。外山の度每にそれを着た、そして家ではそれを部屋にかけて、彼女の知らない愛人の姿がその中に潜んで居る事を想像して見ようとした。どうかすると何時間でも、その前で――或は物思ひをしたり或は泣いたりして――すごす事もあつた。彼女は又この年の愛を得るために~佛に祈つて――日蓮宗の題目『南無妙法蓮華經』をよく唱へた。
しかし彼女は再び年を見なかつた、それで彼女は彼を慕うて煩つた、病氣になつて、死んで葬られた。葬られてからいそんなに彼女が大事にしてゐた振袖は檀那寺へ寄贈された。死んだ人の着物をこんな風に處分するのは古い習慣である。
住職はその着物を高く賣る事ができた。それは高價な絹で、その上に落ちた淚の痕は殘つてゐなかつた。それを買つたのは死んだ婦人と殆んど同年の少女であつた。彼女はただ一日だけそれを着た。それから病氣になつて、妙な素振をするやうになつた――綺麗な年が目について仕方がない、そのために自分は死ぬのだと叫び出した。それから暫くして彼女は死んだ。それから振袖は再び寺へ寄贈された。
又住職はそれを賣つた、それから又それが若い婦人の物となつて、その婦人は一度だけそれを着た。それから又彼女は病氣になつて、綺麗なまぼろしの事を口走つて、死んで、葬られた。それから着物は三度目に寺へ寄附された、そこで住職は驚いて訝つた。
それにも拘らず彼はもう一度その不吉な着物を賣つて見た。もう一度或少女がそれを求めて、もう一度それを着た、そしてそれを着た少女は煩つて死んだ。そして着物は四度目に寺へ寄附された。そこで住職は何か惡い力がそのうちに籠つて居ると信じた。それで彼は小僧達に、寺の庭で火を焚いてその着物を燒く事を命じた。
そこで、彼等は火を焚いて、その中へ着物を投じた。ところがその絹が燃え出すと、突然その上に火焰の目映(まばゆ)いやうな文字――『南無妙法蓮華經』の題目――が現れた、――そしてこれが一つ一つ、大きな火花のやうになつて寺の屋根へ飛んだ、そして寺は燒けた。
燃える寺からの燃殼がやがて近所の方々の屋根に落ちた、それですぐ町が全部燃えた。その時、海の風が起つてその破滅を遠くの町々へ吹き送つた。それで區から區へ、殆んど江戶の全部が消滅した。そして明曆元年(一六五五)正月十八日に起つたこの火災は今でも東京では振袖火事として覺えられて居る。
『紀文大盡』と云ふ話の本によれば、振袖を作つた少女の名は『おさめ』であつた、そして彼女は麻布百姓町の酒屋、彥右衞門の娘であつた。綺麗であつたので、彼女は又麻布小町と呼ばれた。同じ書物によれば、その傅說の寺は、本クの本妙寺と云ふ日蓮宗の寺であつた。それから着物の紋は桔梗であつた。しかしこの話には、色々違つた說がある、私は『紀文大盡』は信じない、何故なれば、それには、その綺麗な侍は實は人間ではなく、上野、不忍池に長く棲んでゐた龍の化身であると說いて居るからである。
和訳 2
最近、ある小さな通りを通った。そこは、主に、古着商人たちによって間借りされている店が立ち並んでいるのだが、私は一軒の店の前に、「むらさき」と呼ばれる濃い紫色で染められた振袖が掛けられているのに気が付いた。おそらく、徳川将軍の時代、高貴な身分の女性が身にまとっていたものであろう。その着物の五つ紋を見ようと足を止めた時、ある言い伝えが私の脳裡に蘇った。それは、江戸の町を壊滅させたと言われている、これによく似た振袖にまつわるものである。
今からおよそ二百五十年前のことである。江戸の裕福な商人の娘が、とある寺社の祭りに行った時、息を呑むほど美しい一人の若侍を、人混みの中に見かけた。娘は、一目見るなり、恋に落ちた。だが、運の悪いことに、その者が一体、誰で、どこから来たのか、娘は知ることができなかった。なぜなら、仕えの者が追おうとした時には、すでに、その男は、人の群れに紛れてしまっていたからだ。
しかし、若侍の姿は、強烈に、娘の記憶に、焼き付いてしまった。その着物のすみからすみまで、思い出せるほどに。当時、年若い侍は、休みの日には、若い娘に負けず劣らず、華やかな衣装を身に着けていた。そして、あの見知らぬ美しい侍が着ていた小袖は、彼に恋する娘には、見事なほど素晴らしいものに思われた。娘は考えた。あの小袖と同じ地と色の着物に同じ紋を入れ、それを着ていれば、いつかの折に、彼の気を惹くことができるかもしれない、と。
そうして、娘は、思い通りの振袖をあつらえた。袖は、当時の流行にしたがい、とても長いものにした。娘は、その振袖を重宝した。外出する時には、常に、それを着て、家に帰ると自分の部屋に掛け、名も知らぬ愛する男の姿を、その振袖に重ねて、思い描いた。時には、何時間も、振袖の前で、過ごすこともあった。夢想にふけっては、すすり泣き、また、夢想にふけっては、すすり泣きした。娘は、侍への愛が成就するよう、仏に願いを託し、題目を唱えた。
だが、娘が侍に再び会うことはなかった。娘は彼に恋い焦がれ、悲嘆にくれるあまり、病の身となり、亡くなってしまった。娘の亡骸が埋葬されると、彼女が、たいそう、大切にしていたあの振袖は、家の菩提寺へと納められた。そのように、死者の衣類を始末することは、昔のしきたりであった。
その寺の住職は、良い値で、その振袖を売り払うことができた。というのも、それは、高価な絹でできており、亡き娘が落とした涙は、ただの一粒でさえ、痕をとどめていなかったからだ。振袖は、死んだ娘と同じ年頃の娘に、引き取られていった。だが、娘が、たった一日、それを着てみると、彼女は病にかかり、奇妙な振る舞いをするようになった。若く美しい男の姿が頭から離れず、彼に恋い焦がれるあまり、死んでしまうと、泣き叫ぶのだ。間もなく、その娘は、亡くなってしまった。振袖は、ふたたび、あの寺へと、納められた。
ふたたび、住職は、振袖を売り払った。今度も、若い娘の持ち物となった。娘は、ただ一日、それを着てみただけだったが、この娘も病に陥り、美しい男の幻のことを言いながら、亡くなってしまった。娘は葬られ、振袖が、三度(みたび)、あの寺へと納められると、さすがに、住職もいぶかしく思うようになった。
だが、それにもかかわらず、住職は、もう一度、思い切って、この不吉な振袖を売りに出してみた。それは、また、若い娘の手に渡り、娘は振袖に手を通した。この娘も、悲嘆にくれるあまり、亡くなってしまった。そして、振袖は、四度(よたび)、寺に納められた。
住職は、きっと、何かの悪霊がとりついているに違いないと考え、小僧たちに、境内で、その振袖に火をつけ、燃やしてしまうよう、命じた。
小僧たちは、命ぜられるがままに、火を起こし、その中に、あの振袖を投げ入れた。だが、その絹の織物が燃え出すと、突然、その上に、目もくらむほどまぶしい炎の文字が現れた。それらは、題目の形をしている。「南無妙法蓮華経」 そして、これら七つの炎の文字は、大きな火花となって、一つずつ、寺の屋根まで舞い上がり、寺は炎上した。
火の粉は、やがて、寺から近隣の屋根へと燃え移ったが、瞬く間に、通り全体が、火の海と化した。そして、潮風が起き、さらに、遠くの通りへと、猛火を吹き付けた。この大火で、江戸の通りという通り、地区という地区、ほぼ全域が、壊滅してしまった。
この大惨事は、明暦三年一月十八日(1657年3月2日)に起こったが、今なお、東京では、「振袖火事」として、記憶されている。
紀伊国屋門左衛門の書によると、その振袖をあつらえた娘の名は「おさめ」と言い、麻布にある百姓町の酒商人、彦衛門の娘であったそうな。おさめは、その美しさゆえ、「麻布小町」とも呼ばれていた。また、同書によると、かの寺は、本郷にある日蓮宗の本妙寺で、さらに、振袖に付けられた紋は、桔梗紋であったという。だが、この「振袖火事」については、多くの伝承がある。私は、紀伊国屋門左衛門の説には、疑いを抱いている。なぜなら、彼は、その美しい侍は、この世の者ではなく、かつて、上野の不忍池に生息していた竜が人に姿を変えたものだと言い切っているからだ。 
 
強氣の者召仕へ物を申付し事 / 本妙寺火防札の事
強氣の者召仕へ物を申付し事
巣鴨に御譜代(ごふだい)の與力を勤し猪飼五平といへるありて、我等も知る人にてありしが、彼五平親をも五平といひて享保の此迄勤ける由。あく迄強氣(がうき)者にて、常にすへもの抔切て樂みとし、諸侯其外罪人などありてョぬれば、悦びて其事をなしけるよし。或る時召仕の中間を召抱る迚、壹人年若く立派なる者來りて、氣に入りし故給金も乞ふ程あたへ抱けるが、小身の事故纔に壹僕なれば、或る時米を舂(つ)き可申と申付しに、彼中間答て、我等は草履取一邊の約束にて何方へも召抱られし事也。御供ならばいか樣の儀も致べけれど、米舂し事なければ此儀はゆるし給へと言ければ、五平聞て、尤の事也、約束違へんも如何なり、さらば供可致とて、其身裸に成て下帶へ脇差を差、自分と米を舂、右米をつき御供可致とて彼下男に草履を持せ、自分の米をつき候跡へ附て廻り候樣に申付ければ、彼僕も込り果て、何分我等舂き見可申とて、其後は米を舂けるとなり。
   
○前項連関:生臭の売僧を、理路の逆手を取った奇略で窮地に追い込んだ武士から、我儘な家来を、同じく理路の逆手を取った率先行動で困惑させて従属せざるを得なくさせた武士で連関。
・「御譜代の與力」同心の上に位置する。現在の東京都の各警察署長相当と考えてよい。まずウィキの「与力」より引用する。『同心とともに配属され、上官の補佐にあたった。そのなかで有名なものは、町奉行配下の町方与力で、町奉行を補佐し、江戸市中の行政・司法・警察の任にあたった。与力には、町奉行直属の個人的な家臣である内与力と、奉行所に所属する官吏としての通常の与力の2種類があった』。猪飼は「御譜代」とあるから、恐らく後者と思われる(後述)。『与力は、馬上が許され、与力組頭クラスは、二百数十石を給付されて下級旗本の待遇を凌いだが、不浄役人とされ将軍に謁見することや、江戸城に登城することは許されなかった』。「不浄役人」というのは犯罪者の捕縛や拷問・断罪に直接関わる仕事であったから。但し、後に述べるように当時の同じ禄高の武士に比べると遙かに実入りが良かった。『また当時25騎の与力が南町・北町奉行所に配置されていた。なお、与力は一騎、二騎と数える』。『役宅としては300坪程度の屋敷が与えられた。また、諸大名家や商家などよりの付け届けが多く、裕福な家も多かった』。『与力は特権として、毎朝、湯屋の女風呂に入ることができ、屋敷に廻ってくる髪結いに与力独特の髷を結わせてから出仕した。伊達男が多く与力・力士・鳶の頭を「江戸の三男」と称した』。「御譜代」とは、御抱席に対する語。御抱席とは交代寄合の地位、則ちその一代限りで召抱えられる地位を言う。これに対して世襲で受けられる役職を譜代席、その中間を二半場(にはんば)と呼んだ。ウィキの「御家人」によれば、『譜代は江戸幕府草創の初代家康から四代家綱の時代に将軍家に与力・同心として仕えた経験のある者の子孫、抱席(抱入(かかえいれ)とも)はそれ以降に新たに御家人身分に登用された者を指し、二半場はその中間の家格である。また、譜代の中で、特に由緒ある者は、譜代席と呼ばれ、江戸城中に自分の席を持つことができた』。給与や世襲が保証された『譜代と二半場に対して、抱席は一代限りの奉公で隠居や死去によって御家人身分を失うのが原則であった。しかし、この原則は、次第に崩れていき、町奉行所の与力組頭(筆頭与力)のように、一代抱席でありながら、馬上が許され、230石以上の俸禄を受け、惣領に家督を相続させて身分と俸禄を伝えることが常態化していたポストもあった。これに限らず、抱席身分も実際には、隠居や死去したときは子などの相続人に相当する近親者が、新規取り立ての名目で身分と俸禄を継承していたため、江戸時代後期になると、富裕な町人や農民が困窮した御家人の名目上の養子の身分を金銭で買い取って、御家人身分を獲得することが広く行われるようになった。売買される御家人身分は御家人株と呼ばれ、家格によって定められた継承することができる役ごとに、相場が生まれるほどであった』とある。
・「猪飼五平」諸注注せず、不詳。読みは「いかい」若しくは「いがい」。
・「込り果て」底本では「込り」の右に『(困)』と注記する。
・「強氣」は「豪儀」とも書いて、威勢がよく、立派なさまという意以外に、「強情」「頑固」の意がある。但し、表現から見て、根岸は現在の「豪気」=「剛気」の意義と全く同等に用いている。則ち、強く勇ましい気性、大胆で細かいことに拘らない性質(たち)である。
・「すへもの」刀剣の試し斬りの一つである据物斬りのことを言う。人体による試し斬りの技を言う。一般に罪人の死罪執行後の遺体を用いた。ウィキの「試し斬り」に、『徳川幕府の命により刀剣を試し切りする御用を勤めて、その際に罪人の死体を用いていた山田浅右衛門家等の例がある。また大坂町奉行所などには「様者」(ためしのもの)という試し切りを任される役職があったことが知られている。その試し切りの技術は「据物」(すえもの)と呼ばれ、俗には確かに忌み嫌われていた面もあるが、武士として名誉のあることであった』とあり、さしずめ猪飼はこの様者並の立場にでもあったものと思われる。『なお、その試し切りの際には、一度に胴体をいくつ斬り落とせるかが争われたりもした。例えば三体の死体なら「三ツ胴」と称した。記録としては「七ツ胴」程度までは史実として残っている』。『据物斬は将軍の佩刀などのために特に厳粛な儀式として執り行われた』。『その方法は、地面にタケの杭を数本、打ち立て、その間に死体をはさんで動かないようにする。僧侶、婦女、賎民、廃疾者などの死体は用いない。死体を置き据えるときは、死体の右の方を上に、左の方を下にして、また、背中は斬る人のほうに向ける。刀には堅木のつかをはめ、重い鉛のつばを加える。斬る箇所は、第一に摺付(肩の辺)、第二に毛無(脇毛の上の方)、第三に脇毛の生えた箇所、第四に一の胴、第五に二の胴、第六に八枚目、第七に両車(腰部)である。以上の箇所を斬ってその利鈍を試みるのである。二つ胴、三つ胴などというのは、死体を2箇以上重ねて、タケ杭の間にはさんでおいて試みるのである』と記す。
   現代語訳
剛毅の者が奇略を以って我儘な家来に仕事をさせた事
巣鴨に、代々与力を勤めて御座る猪飼五平という者がおる。私もよく知っておる男であるが、この五平、父親もまた同じ五平を名乗り、享保の頃まで与力を勤めて御座った。
この父五平、途轍もなく剛毅な男にて、普段、据え物斬りなんどを楽しみと致しており、大名家その外から刀剣類鑑定の依頼があり、偶々処刑された罪人の遺体なんどがあれば、二つ返事で請け合い、喜んで試し斬りを致いたということであった。
ある時この父五平、召使うための中間(ちゅうげん)を召し抱えるようと探しておったところへ、彼の元へ、雇ってもらいたき旨申して一人の若い丈夫が訪れた。一目見て気に入ったので、給金も望みむままの額で決し、抱えることとなった。
五平、小身の旗本なれば、雇うて御座った中間、これ一人、二人。
ある時のこと、五平、餅を食いたくなり、「米を搗きな。」と申し付けたところが、この中間、涼しい顔でこう答えた。
「私は、主人草履取りとして御供することの専従という契約にて、どちら様にもそのような中間として召し抱えられてきた者にて御座る。こちら様にても御同様の御約束で御座った。されば、御供の儀なれば致しますれど、米を搗いたついたこと、これ、御座らねば、その儀は御赦し下されい。」
それを聴いた五平、にやっと笑うと、「いや! それは尤もなことじゃ! 約束に違(たご)うこと、これ、我が本意(ほい)にてもあらぬ!――さればとよ、これより、我らが供致すがよい!」と言うや、五平、上着をばっさり脱ぎ捨て褌一丁の裸になり、その褌に脇差を差し、その場でちょいと米を搗いて、「さても! 拙者、米搗くに、うぬはその供せよ!」とて、かの下男に草履を持たせ、「拙者、このままにて米を搗きつつ、各所を廻らんとす。故、その後にぴったり付いて!――廻るが、よいぞ!」と申し付けたところ、流石に下男、困(こう)じ果てて、「……わ、分かり申した……わ、我らが、米を搗いて、みましょう、ほ、程に……」と言うて、その後(のち)は、命ずれば黙って素直に米を搗くようになった――ということにて御座る。
本妙寺火防札の事
白山御殿に新見(しんみ)傳左衞門といへる人あり。常時よりは三代も已前也。餘迄強勇の男也しが、本妙寺旦家(だんか)にてありしに、或時本妙寺來りけるが、なげしの上に秋葉の札ありしを見て、ぼうほう罪とて、他宗の守札など用ひ候は以の外あしき事也、當寺よりも火防の札は出し候間、早々張かへ給べしといひぬ。傳左衞門聞て、不存事迚秋葉の札を張ぬ、然し本妙寺の火防札は無用にいたし可申。夫はいかにと尋ければ、享保の比本妙寺火事とて、江戸表過半燒たる事あり。かゝる寺の守札望なしと答へければ、僧も赤面なしけると也。
   
○前項連関
・「火防」「かばう(かぼう)」「ひよけ」「ひぶせ」と三様に読める。根岸がこれをどれで読んでいるかは不詳。因みに岩波版で長谷川氏は「かぼう」とルビされている。
・「本妙寺」明治43(1910)年に東京都豊島区巣鴨に移転した。法華宗陣門流東京別院。山号は徳栄山。ウィキの「本妙寺」によれば、『1572年(元亀2年)日慶が開山、徳川家康の家臣らのうち三河国額田郡長福寺(現在愛知県岡崎市)の檀家であった武将を開基として、遠江国曳馬(現在静岡県浜松市曳馬)に創建された寺である。1590年(天正18年)家康の関東入国の際、武蔵国豊島郡の江戸城内に移った。1603年(慶長8年)、江戸の家康に征夷大将軍宣下が有った。その後寺地を転々とし、1616年(元和2年)小石川(現在東京都文京区)へ移った。1636年(寛永13年)、小石川の伽藍が全焼し、幕府から指定された替地の本郷丸山(東京都文京区本郷5丁目)へ移った。現在も本郷五丁目付近に「本妙寺坂」なる地名が残されている。本郷時代には塔頭7院を有した(円立院、立正院、妙雲院、本蔵院、本行院、東立院、本立院)。1657年(明暦3年)の大火(いわゆる明暦の大火)ではこの寺の御施餓鬼のお焚き上げから火が出たとも伝えられる(異説有り)。現在墓地には明暦の大火で亡くなった人々の菩提を弔うために建てられた供養塔がある』と記す。
・「秋葉の札」火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰される、現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家、赤石山脈南端にある秋葉山本宮秋葉神社を起源とする秋葉大権現の火除けの御札。ウィキの「秋葉山本宮秋葉神社」によれば、『戦国時代までは真言宗との関係が深かったが、徳川家康の隠密であった茂林光幡が戦乱で荒廃していた秋葉寺を曹洞宗の別当寺とし、以降徳川幕府による寺領の寄進など厚い庇護の下に、次第に発展を遂げてゆくこととな』り、『徳川綱吉の治世の頃から、三尺坊大権現は神道、仏教および修験道が混淆した「火防の神」として日本全国で爆発的な信仰を集めるようになり、広く秋葉大権現という名が定着した。特に度重なる大火に見舞われた江戸には数多くの秋葉講が結成され、大勢の参詣者が秋葉大権現を目指すようになった。この頃山頂には本社と観音堂を中心に本坊・多宝塔など多くの建物が建ち並び、十七坊から三十六坊の修験や禰宜(ねぎ)家が配下にあったと伝えられる。参詣者による賑わいはお伊勢参りにも匹敵するものであったと言われ、各地から秋葉大権現に通じる道は秋葉路(あきはみち)や秋葉街道と呼ばれて、信仰の証や道標として多くの常夜灯が建てられた。また、全国各地に神仏混淆の分社として多くの秋葉大権現や秋葉社が設けられた』とある(一部の読みを省略した)。本件御札が秋葉山本宮秋葉神社のものであるとは断定出来ないが、そうとっておく。岩波版長谷川氏でもそう注されている。
・「ぼうほう罪」底本では右に『(謗法罪)』と注記する。本来は釈迦の説く仏法の教えを謗ることであり、広義には正しい仏法を説く人を謗ることを言う。
・「白山御殿」底本鈴木氏注に『いまの文京区白山御殿町から、同区原町にまたがる地域にあった。五代将軍綱吉が館林宰相時代の住居。綱吉没後は麻布から薬園を移し、一部は旗本屋敷となった』とある。本来は白山神社の跡地であった。注にある「館林宰相」について、ウィキの「徳川綱吉」より引用しておく。綱吉は三代将軍家光の四男として生まれ、『慶安4年(1651年)4月、兄の長松(徳川綱重)とともに賄領として近江、美濃、信濃、駿河、上野から15万石を拝領し家臣団を付けられる。同月には将軍・徳川家光が死去し、8月に兄の徳川家綱が将軍宣下を受け綱吉は将軍弟となる。承応2年(1653年)に元服し、従三位中将に叙任』、『明暦3年(1657年)、明暦の大火で竹橋の自邸が焼失したために9月に神田へ移る。寛文元年(1661年)8月、上野国館林藩主として城持ちとなったことで所領は25万石となる(館林徳川家)が創設12月には参議に叙任され、この頃「館林宰相」と通称される』ようになった。その後、『延宝8年(1680年)5月、将軍家綱に継嗣がなかったことからその養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、同月家綱が40歳で死去したために将軍宣下を受け内大臣とな』ったのであった。
・「新見傳左衞門」底本鈴木氏注に『シンミ。もとニイミといったが、先祖が家康の命によってシンミに改めたという。義正・正朝・正尹の三代、伝左衛門を称した。正尹は宝暦十年大番組頭となり、明和三年六十七歳で没した。三代前というのは義正であろう。義正は小十人頭、持筒頭を勤め、延宝七年六十で没した』とあるから、正尹の生没年は(元禄16(1703)年〜明和3(1769)年)、義正は(宝永7(1710)年〜延宝7(1679)年)となる。その「正尹」は「まさただ」と読むものと思われる。但し、岩波版長谷川氏注は当時の伝左衛門を正武とし、その三代前は伝左衛門正朝であると、異なった判断を示されている。正朝は『書院版組頭等。寛保二年(一七四二)没。九十二歳。駒込高林寺に葬。同家は牛込顕彰正寺か高林寺に葬り、本妙寺に葬のことは見えない』と重大な疑義を示されておられる。正朝の生没年は(慶安4(1651)年〜寛保2(1742)年)である。
・「本妙寺火事」前注で示した通り、明暦の大火のこと。以下、ウィキの「明暦の大火」によってその概要を見る。『明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる』。『この明暦の火災による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の三大火の筆頭としても挙げられる。外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失した。死者は諸説あるが3万から10万人と記録されている。江戸城天守はこれ以後、再建されなかった』。『火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものである。ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数えられることもあ』り、この『明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われた。御三家の屋敷が江戸城外へ転出。それに伴い武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。防備上千住大橋のみしかなかった隅田川への架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など、市街地が拡大した。吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進んだ。市区改正』や『防災への取り組みも行われた。火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置された。現在でも上野広小路などの地名が残っている。幕府は耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励したが「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるとおり、その後も江戸はしばしば大火に見舞われた』。以下はその火災状況を、主に当時の様子を記録した万治4(1661)年刊の浅井了意による仮名草子「むさしあぶみ」を用いて仔細に記す。『この火災の特記すべき点は火元が1箇所ではなく、本郷・小石川・麹町の3箇所から連続的に発生したもので、ひとつ目の火災が終息しようとしているところへ次の火災が発生し、結果的に江戸市街の6割、家康開府以来から続く古い密集した市街地においてはそのすべてが焼き尽くされた点にある。このことはのちに語られる2つの放火説の有力な根拠のひとつとなっている』。『前年の11月から80日以上雨が降っておらず、非常に乾燥した状態が続いており当日は辰の刻(午前8時頃)から北西の風が強く吹き、人々の往来もまばらであった』。まず1度目の出火と延焼。『1月18日未の刻(午後2時頃)、本郷丸山の本妙寺より出火 神田、京橋方面に燃え広がり、隅田川対岸にまで及ぶ。霊巌寺で炎に追い詰められた1万人近くの避難民が死亡、浅草橋では脱獄の誤報を信じた役人が門を閉ざしたため、逃げ場を失った2万人以上が犠牲とな』った。2度目の出火と延焼。『1月19日巳の刻(午前10時頃)、小石川伝通院表門下、新鷹匠町の大番衆与力の宿所より出火。飯田橋から九段一体に延焼し、江戸城は天守閣を含む大半が焼失』した。そして3度目が来る。『1月19日申の刻(午後4時頃)、麹町5丁目の在家より出火。南東方面へ延焼し、新橋の海岸に至って鎮火』した。次に「災害復旧」の項。『火災後、身元不明の遺体は幕府の手により本所牛島新田へ船で運ばれ埋葬されたが、供養のために現在の回向院が設立された。また幕府は米倉からの備蓄米放出、食糧の配給、材木や米の価格統制、武士・町人を問わない復興資金援助、諸大名の参勤交代停止および早期帰国(人口統制)などの施策を行って、災害復旧に力を注いだ』とある。次にこの大火の真相に纏わる三つの説が示される。中々に興味深い。まずはオーソドックスな「本妙寺失火説」で、「振袖火事」という異名の由来にもなっている因縁譚である。『ウメノは本妙寺の墓参りの帰り、上野のお山に姿を消した寺小姓の振袖に魂を招かれて恋をし、その振袖の紋や柄行と同じ振袖をこしらえてもらって夫婦遊びに明け暮れた。その紋は桔梗紋、柄行は荒磯の波模様に、菊。そして、恋の病に臥せったまま承応4年(明暦元年)1月18日(1655年2月22日)、17歳で亡くなった。寺では葬儀が済むと、不受不施の仕来りによって異教徒の振袖は供養せず、質屋へ売り払った。その振袖はキノの手に渡ったが、キノも17歳で、翌明暦2年の同じ日(1656年2月11日)に死亡した。振袖は再び質屋を経て、イクのもとに渡ったが、同じように明暦3年の1月18日(1657年2月28日)に17歳で亡くなった。『イクの葬儀に至って三家は相談し、異教徒の振り袖をしきたりに反して、本妙寺で供養してもらうことにした。しかし和尚が読経しながら振袖を火の中に投げ込んだ瞬間、突如吹いたつむじ風によって振袖が舞い上がって本堂に飛び込み、それが燃え広がって江戸中が大火となったという』。『この伝説は、矢田挿雲が細かく取材して著し、小泉八雲も登場人物は異なるものの、記録を残している』と記す。因みに、この小泉八雲の作品とは“Frisodé”「振袖」である。講談社学術文庫版小泉八雲名作選集「怪談・奇談」で和訳が読める(原注を含め文庫本で4ページに収まってしまう小品である)。『また、幕末以降に流布された振袖火事伝説を、江戸城火攻めの声明文として解釈すると、振袖の寺小姓は、1590年に上総の万木城を徳川軍勢に攻め落とされた土岐家の子孫が浮かび上がる。さらに、その寺小姓は、上野の寛永寺の天海の弟子の蓮海で、後に、波の伊八で有名な上総和泉浦の、火攻めの兵法に長けた飯綱権現をご本尊とする飯縄寺の住持であることが伺える。そして、不受不施派からの改宗を余儀なくされた上総の法華信徒は、その寺小姓と手を携え合い、狐に括り付けた烏の翼に火を放つ飯綱権現の兵法を吸収し、江戸城と城下の火攻めを決行したことが読み取れる。なお、この時の東叡山寛永寺の貫首は守澄法親王でありながら、川越の喜多院の末寺に過ぎず、幕府の朝廷に対する圧迫が伺え、朝廷と法親王と蓮海と不受不施派による討幕未遂だった可能性もある』と記す。滅ぼされた土岐氏の怨念――怪僧天海の弟子で蓮海―禁教ファンダメンタリスト集団不受不施派―伝奇ではお馴染み妖術飯綱の法――法親王絡みの尊王倒幕の陰謀……流石にウィキでは「要出典」の要請が示されているが……こりゃ、こたえらんねえ面白さじゃねえか! お次は『幕府が江戸の都市改造を実行するために放火したとする』幕府確信犯の「幕府放火説」ときたもんだ! 『当時の江戸は急速な発展で都市機能が限界に達しており、もはや軍事優先の都市計画ではどうにもならないところまで来ていた。しかし、都市改造には住民の説得や立ち退きに対する補償などが大きな障壁となっていた。そこで幕府は大火を起こして江戸市街を焼け野原にしてしまえば都市改造が一気にやれるようになると考えたのだという。江戸の冬はたいてい北西の風が吹くため、放火計画は立てやすかったと思われる。実際に大火後の江戸では都市改造が行われている』とするが……かなり、いや、激しく乱暴。三つ目は「本妙寺火元引受説」である。『実際の火元は老中・阿部忠秋の屋敷であった。しかし、老中の屋敷が火元となると幕府の威信が失墜してしまうということで幕府の要請により阿部邸に隣接した本妙寺が火元ということにし、上記のような話を広めたのであった。これは火元であるはずの本妙寺が大火後も取り潰しにあわなかったどころか火事以前より大きな寺院となり、さらに大正時代にいたるまで阿部家より毎年多額の供養料が納められていたことなどを論拠としている。本妙寺も江戸幕府崩壊後はこの説を主張している』とする。これはありそうな話ではある。最後のエピソード集から一つ。『この大火の際、小伝馬町の牢屋敷奉行である石出帯刀吉深は、焼死が免れない立場にある罪人達を哀れみ、大火から逃げおおせた暁には必ず戻ってくるように申し伝えた上で、罪人達を一時的に解き放つ「切り放ち」を独断で実行した。罪人達は涙を流して吉深に感謝し、結果的には約束通り全員が戻ってきた。吉深は罪人達を大変に義理深い者達であると評価し、老中に死罪も含めた罪一等を減ずるように上申して、実際に減刑が行われた。以後この緊急時の「切り放ち」が制度化される切っ掛けにもなった』とする。不謹慎乍ら「明暦の大火」が、面白い!
   現代語訳
本妙寺火除けの御札の事
白山御殿辺に住む新見(しんみ)伝左衛門という御仁がある。
今よりは三代前程も前のことにて御座るらしいが、その頃の伝左衛門――当家は代々当主は伝左衛門を名乗って御座る――これ、全く以って剛勇そのもの御人であった。
ある日のこと、本妙寺の檀家で御座った彼の屋敷に本妙寺の住僧が訪問した。
通された座敷の上長押の上に秋葉神社の札があるのを目にするや、
「――かくするを謗法(ぼうほう)の罪と申す! 他宗の守り札なんど用い候は、以っての外に悪しきことにて御座るぞ!――当寺より火除けの御札、出して御座いますれば、早々にお貼り替えなさるがよろしかろう。」と言った。すると伝左衛門、「成程、存ぜぬことなれば秋葉の札を貼って御座ったの。……なれど……本妙寺の火除け札拝受は、これ、御無用と――致したたく存ずる。」――「――そ、それは、なに故かッ!」住僧、気色ばんで問い質す――と伝左衛門徐ろに、「――享保の頃、本妙寺火事と言うて、かの寺から出火致いて江戸表半ば過ぐる程に焼け尽くしたことあり――かかる寺の――火除けの札、なんど――何の御利益も、ない!」と答えたれば、僧は赤面したまま、言葉もなかった――ということにて御座る。
 
  
 

 


    
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八百屋お七 1 (天和の大火)

 

天和二年(1682)暮、火事で焼け出された八百屋の娘お七は身を寄せた駒込の寺小姓に恋をする。店が再建され家に戻ったお七は寺小姓に対する思いが募り、ため息の毎日。そこで思いついたのが、もう一度火事になり焼け出されたら、あの寺小姓にまた会えると思い火をつける。髪を乱し着物を乱しながら火のみ櫓に登り、愛しい男のいる駒込方向を見て半鐘をたたく哀れなお七の姿が描かれた浮世絵がある、八百屋お七の悲恋物語は後に芝居と成って今に語られる。
戒名    妙栄禅定尼  
辞世の句 世の哀れ春吹く風に名を残し おくれ桜の今日散りし身は 
死んで花実が咲くものか  
ねんねねんねと 寝る子はかわいい  
起きてなく子は つら憎い  
うちのこの子は 今寝るとこじゃ  
だれもやかまし 言うてくれな  
だれもやかまし 言わせんけれど  
守(も)りがやかまし 言うて起こす  
七つ八つから 奉公(ほうこう)に出して  
親の権利(けんり)が どこにあろ  
死んでしまいたや この世の中は  
死んで花実が 咲くものか  
死んで花実が 咲くものならば  
八百屋お七は なぜ咲かぬ 
天和の大火 1  
[ てんなのたいか ] 天和2年旧暦12月28日(西暦換算1683年1月25日)に発生した江戸の大火である。28日正午ごろ駒込の大円寺から出火し、翌朝5時ごろまで延焼し続けた。死者は最大3500余と推定されている。お七火事ともいうが、八百屋お七はこの火事では被災者であり、のちに八百屋お七が放火した火事とは異なる。
八百屋お七​
この大火により焼け出された江戸本郷の八百屋の一家は、檀那寺(この寺については諸説ある)に避難した。避難先の生活の中で八百屋の娘・八百屋お七は、寺の小姓と恋仲になる。やがて店が再建され、お七一家はその寺を引き払ったが、お七の寺小姓への想いは募るばかり。そこでもう一度火事が起きたらまた同じように寺にいけるかもしれない、と寺小姓に会いたい一心で自宅に放火した。火はすぐに消し止められぼやにとどまったが、お七は捕縛されて鈴ヶ森刑場で火炙りの刑に処せられた。このことから、天和の火災はお七火事とも呼ばれるようになった。  
天和の大火 2  
天和2年12月28日(1683年1月25日)、江戸駒込(現在の東京都文京区向ケ丘)の大円寺から出火した。この火災は、141の大名・旗本屋敷、95の寺社が焼損するなどの被害により、「天和の大火」と呼ばれ、江戸の十大火事の一つとされる。「延長十三里あまり」(現在の距離で約50km)を焼いたとの記録も残り、深川(東京都江東区常磐)に暮らしていた俳人・松尾芭蕉の庵も類焼した。
この火災にまつわる話を、井原西鶴が取り上げて「好色五人女」を著し、その登場人物で八百屋の娘お七の名を取り、「お七火事」とも称され、広く伝わる火災となった。 
天和の大火 3  
数年前、某政治家が「放火は女性の犯罪」というとんでもない失言をしたことがありました。
おそらく「女性は男性より腕力がないから、刺殺や首を絞め殺すという直接的な方法より、放火のような間接的に殺す手段を選ぶ傾向がある」と言いたかったのでしょう。
実際はそんなことはなく、放火犯は男性のほうが圧倒的に多いです。
政治家たるものご自身の発言には責任を持って欲しいですが、もしかしたらそういうイメージを持つようになってしまった事件が江戸時代にありました。
天和二年(1683年)12月28日、後に「お七火事」と呼ばれることになる天和の大火が発生しました。
井原西鶴の「好色五人女」やジェームス三木脚本・前田敦子主演「あさきゆめめし」視聴率低すぎて炎上などで有名な事件ですが、実はお芝居と史実の火災ではかなり話の流れが変わっています。
元禄赤穂事件より歌舞伎の忠臣蔵のストーリーのほうが知られているのと同じですね。
まずは「好色五人女」のほうのあらすじをざっとご紹介しましょう。
お芝居のお七と史実の火災に大きな壁
主人公・お七は江戸の八百屋の娘で、あるとき起きた大火事によって両親とともに焼け出されてしまいます。
幸いお寺に避難することができたのですが、よかったのはここまで。小姓として働いていた少年と恋に落ちてしまったことが、双方にとって悲劇をもたらします。
少年のほうは寺に入った身でそもそも恋愛の自由などなく、お七も仮住まいだったため、家が再建されるとすぐ離れ離れになってしまいます。その後、少年はあれこれ知恵をめぐらせてお七に会いに行くのですが、両親に見つかりやはり逢瀬はままなりませんでした。
この状況で焦れに焦れたお七は、「また火事になれば、あのお寺に避難できてあの人にも会えるかも」
と思い立ち、自ら家に火を点けるという暴挙に及ぶのです。
幸い、隣人がボヤのうちに消し止めたため大事には至りませんでしたが、当時も放火は重罪中の重罪。お七はその日のうちに捕まり、市中引き回しの上、火あぶりという極刑に処されます。
馬で市中引き回し…火あぶり…三日間遺体を野晒し
相手の少年はこのとき病床に臥せっており、お七の罪や処刑を知ったのは百か日が過ぎてからでした。彼は嘆き悲しみ自害しようとしますが、周囲に引き止められて出家し、その後はお七の菩提を弔って暮らした……というものです。
そして、お七が少年と出会ったきっかけとなった大火事が「お七火事」と呼ばれるようになったというわけです。
処刑の前に役人がお七を哀れみ、助命しようとするシーンも有名です。が、これは「好色五人女」にはなく、その後、繰り返された類似作品で追加されたもの。中には40年近く前に世を去っている土井利勝(1573−1644)が助命を申し付けているものもあったりして、話を盛るにも程があるなぁと。
現在も放火は重罪の一つです。今よりずっと木造家屋が密集していた当時は被害の拡大が避けられませんでしたから、【馬で市中引き回し…火あぶり…三日間遺体を野晒し】というかなり重い刑が科せられました。
引き回しの最中に死んでいたとしても、遺体を火あぶりの上、民衆に晒すほどの徹底振りです。そんな罪をそう簡単に軽減できるはずがないですよね。
お芝居では「14歳なら流罪で済むから、役人が”お前は14歳だろう?”とわざととぼけた」とされています。
しかし江戸時代、年齢を理由に放火犯が助命・減刑されるという例はなかったようです。13歳の放火犯が処刑された例もあります。
歴史的な公式記録は1行しかない
次は史実の面から見てみましょう。お七の物語はあまりにも有名なため、大まかな流れについては事実と思われがちですが、実はお七に関する公的な記録はたったの一行しかありません。
わかっているのは「駒込付近に住んでいたお七という女性が火事を起こした」ことだけで、年齢や放火の動機、はたまた家業が八百屋だったかどうかすら不明だったりします。
当時、放火犯は珍しくありませんでしたから、あまりにも多すぎて仔細を記録する余裕や必要がなかったんでしょうか。
どっちにしろ、いくら好きな人に会いたいからって放火を選ばなくても良さそうなものです。
実はこれ、現代ではサイコパスと呼ばれる一種の精神異常者の思考に極めて似ています。
具体的に言うと会う方法を工夫するより、当時の状況を再現するという点ですね。ご興味のある向きは各自お調べください……と言いたい所ですが、知らないほうがいいかも。
もし、お七が相手の少年と出会ったきっかけが火事ではなくて「どこそこの街角で出会ったから」というようなものだったら、お七はストーカーになっていたのかもしれませんね。よくストーカー事件の犯人に対して「いい人だったのにどうしてこんなことに」なんて証言が出ますが、ごく普通の人がちょっとしたきっかけで豹変してしまう事例は、数百年前から珍しくはなかったということでしょうか。 
天和の大火 4  
1682年(天和2年)
   12月28日 駒込大円寺から出火
午後2時頃、駒込大円寺から出火し、その後、東は本所、南は日本橋まで類焼した。焼死者は3500人にのぼったと言われる。この火事により、深川芭蕉庵も焼け、松尾芭蕉は水に潜ってかろうじて助かった。また、この火事で両国橋が焼け、本所の開発は中止となる。
1683年(天和3年)
この年の初め、寺小姓・生田庄之助と八百屋久兵衛の娘・お七が恋仲になる / 火事で駒込正仙寺(円乗寺とも言われる)に避難した駒込片町の八百屋久兵衛の娘・お七が、寺小姓・生田庄之助(左兵衛とも言われる)と恋仲になる。
   3月2日 お七が放火
お七は庄之助に会いたい一心で放火。しかしすぐに消し止められる。
   3月29日 お七は火刑に処せられる
鈴ヶ森でお七は火刑に処せられる。このような事件もあったころから、この大火は「お七火事」とも言われる。
1686年(貞享3年)
この年、井原西鶴が『好色五人女』を発刊 / これにより、お七の話が取り上げられ、評判となる。
ゆかりの地・施設
寺 / 出火元となったとされる大円寺には、お七ゆかりの焙烙地蔵があり、お七が逃げ込み庄之助と出会ったとされる円乗寺にはお七の墓があります。
   大円寺(東京都文京区向丘1-11-3)
   円乗寺(東京都文京区白山1-34-6) 
天和の大火 5  
お七火事=天和の大火が起こる (天和2年=1683年1月25日) 12月28日 
331年前の今日(旧暦)、天和の大火が江戸の町を焼いた。お七火事とも呼ばれる。
天和2年(1683)、駒込大円寺が火元という大火が江戸の町を襲い、死者3500名にも及ぶという大惨事となった。
井原西鶴の『好色五人女』を始め、歌舞伎や文楽などで名高い八百屋お七の物語は、この天和の大火に始まる。
天和の大火で焼け出された江戸・本郷の八百屋、八兵衛なる男は、檀那寺であった駒込の吉祥寺に避難した(本郷の円乗寺ともいう)。八兵衛にはお七という16歳になる娘がいた。お七は避難場所で出会った寺小性、生田庄之介と恋仲となる。
やがて八兵衛は新居を再建、一家は寺を引き払うが、お七の庄之介への恋情はやみがたかった。お七は、火事になればまた庄之介に会えるかもと、なんと自宅に放火をしたのである。お七の火付けによる火事は幸い大火にはならずすぐに消し止められて小火で済んだ。
しかし、当時、火付けは大罪である。お七は捕われ、鈴ヶ森で火あぶりの刑に処される。天和3年のことだった。
この事件の3年後の貞享3年(1686)、井原西鶴が『好色五人女』でお七を取り上げたことにより、お七の名は全国に広く知られるようになる。歌舞伎や文楽などの悲恋のヒロインがこうして誕生したのである。 
「天和の大火」と駒込大円寺  
大円寺は、都営地下鉄白山駅と東京メトロ本駒込駅が最寄り駅です。白山駅A1番出口から徒歩4分、本駒込駅1番出口から徒歩5分の距離です。旧中山道に接している参道入り口には「大圓寺」と書かれた大きな石柱が建っています。
大円寺は慶長2年(1597)に創建された曹洞宗のお寺です。最初は、神田柳原にありましたが、慶安2年(1649)現在地に移りました。この大円寺は、天和2年(1682)におきた天和の大火の火元でした。天和の大火は、江戸十大大火の一つに数えられるほどの大火でしたが、俗に「お七火事」と呼ばれています。天和の大火は天和2年(1683)12月28日に発生しました。火事は大円寺の塔頭から出火し、隣の同心屋敷に延焼し、本郷方面に燃え広がりました。皮肉なことに、大円寺の本堂や庫裏は燃えることはなかったそうです。
本郷に向かった火事により、本郷にあった加賀藩前田家の上屋敷も炎上しました。さらに、湯島、神田、日本橋と延焼していきました。そして、浅草橋門を焼失させて火事は、隅田川を飛び越えて、回向院に飛び火しました。回向院もまもなく焼失し、火事はさらに隅田川沿いに南下して、霊厳寺、富岡八幡宮も焼失させて、ようやく翌日29日の午前5時頃に鎮火しました。駒込から本所深川までも焼失させれるほどの大火となってしまいました。この大火で、焼失した大名屋敷は73、旗本屋敷166、寺社95だそうです。そして、死者は最大3500名余と書いたものがあるようです。
この火事で焼け出された有名人が、松尾芭蕉です。松尾芭蕉は、延宝8年(1680)から、小名木川から別れた六間堀そばに門人の杉山杉風(さんぷう)の生け簀の番屋を改築して芭蕉庵と名付けて住んでいました。この天和の火事の際、芭蕉が住んでいた芭蕉庵は焼失してしまいました。芭蕉自身は、六間堀に腰までつかって頭に苫をかぶり、時々は苫に水をかけて火を凌いだそうです。
また、日本橋地区も大火で多くの商店が焼失しています。その中の一つが、越後屋です。越後屋は、延宝3年(1673)、三井高利が、長男の高平を江戸の責任者にして、本町1丁目(ちょうど現在の日銀新館あたり)にお店を開きます。しかし、越後屋の商法は、従来の本町の呉服屋の商法とは大いに異なっていたため、同業者に恨まれ、迫害を受けるようになってきました。そうした状況の中で、天和3年(1683)に、当時駿河町に移転しました。その、移転の直接のきっかけとなったのが、天和2年(1682)に起きた天和の大火で焼失したことです。
また、この火災で、オランダ商館長が定宿としていた長崎屋も焼失したようで、翌年の江戸参府の際には、商館長一行は、浅草の藤屋というところに宿泊しているようです。さらに、火の手が近づいた小伝馬町牢屋敷では、明暦の大火の時と同じように囚人の切放しが行われました。 
八百屋お七は八百屋の娘なのか  
昔からずっと疑問に思っていることがある。井原西鶴の『好色五人女』の中の八百屋お七を読んでいた時のことだ。文章や挿し絵から感じられるお七のイメージが大店の娘に思えてならないのである。父親の八百屋八兵衛は本郷のほとりで売人をしていると書いてあるが、八百屋=裕福というイメージが全く浮かばないのである。個人的な思いでいえば、江戸時代の八百屋といえば、店先に野菜を並べて売っている店売り(たなうり)か、籠に野菜を入れ担ぎ売りをしている棒手振り(ぼてふり)であろう。どちらも細々と商いをしている感じで、裕福な大店と八百屋が全く結びつかないのである(全国の八百屋さん本当にごめんなさい。)。
そもそも八百屋お七とは何者であろうか。『日本国語大事典第二版』によれば、八百屋お七のことを次のように記している。「江戸前期の江戸本郷の八百屋の娘。天和2年(1682)の大火災で檀那寺に避難した際、寺小姓と恋仲になり、恋慕のあまり再会を願って放火し、火刑に処せられたという。……」(p34)。世間知らずの大店の娘ならば、さもありなんという感じである。
どうも江戸時代の八百屋のことがあまりよくわかっておらず、それが八百屋と大店の結び付きを阻んでいるように思えてならない。そこで、手近なところにある文献ということで家にあった『守貞謾稿』を繙いてみることにした。それによると、江戸時代の職業を紹介している菜蔬賣の項目に八百屋の記述がある。要約すると、1菜蔬賣のことを江戸・京阪とも八百屋と呼ぶこと、2江戸では、瓜茄子等一種の野菜を持ちまわって売る者を前栽賣といい、京阪ではこれも八百屋ということ、3(江戸では)八百屋は数種類の野菜を売る者であること、4江戸・京阪とも菜蔬を青物といい、青物を扱う店を菜蔬店、青物見世、八百屋ということ等が記されている。
『守貞謾稿』の説明だと、筆者がイメージしている八百屋そのもので、八百屋=大店という図式を思い描くことができない。そこで、独善的ではあるが、八百屋=大店を思い描けるようないくつかの仮説を立ててみた。
仮説その1 「八百屋八兵衛は青物問屋である」
伊藤若冲の生家が青物問屋であることは夙に有名であるが(だからこそ、生計(たつき)に頓着せず、画を描けたのであろう)、青物問屋であれば八百屋=大店という図式が成り立つように思える。三田村鳶魚によれば、「お七の親は加州の足軽で、後に八百屋になった……」(p145)とあることから、場合によっては、加賀藩へ野菜を納める大商いを行っていたのかもしれない。ただし、この仮説には1点難しい問題があり、それは当時青物問屋を八百屋と呼んでいたのかどうかということである。
仮説その2 「八百屋八兵衛は万屋だった」
八百屋というのは、もともと八百万(やおろず)の品物を扱っており、それが八百屋の語源ともなったとする説がある。今でいう万屋(よろずや)であろうか。もしそうだとすると、八百屋が手広く高価な品物等も扱っており、大店として営業していた可能性はある。この仮説は、かつて当機構に在職していた奥津女史が筆者との議論の中で唱えた仮説である。
仮説その3 「元々は野菜を商いしていたが、そこから派生して異なる商売を行っているケース」
宮尾登美子の『菊亭八百善の人々』を読むと、八百善について次のように記されている。「……何でも創業は元禄のころ、場所は山谷で最初は野菜と乾物を商っていたので、八百屋善太郎が代々の屋号になったと聞いています。……」(p66)。八尾善とは、いわずと知れた江戸で最も有名な料亭の一つである。この例のように、元々野菜を商っていた八百屋がその後そこから商売替えをして大店となる場合もあろう。
いずれにしてもよくわからない。勝手な思い込みだけでは大きな誤りに繋がることになる。ではどうするか。江戸といえば、やはり江戸東京博物館であろう。ということで、単なる思い込みで、江戸東京博物館の7階にある図書室にお邪魔した。訳を話すと、お忙しい中司書の方が関係ありそうな文献を探してくれた。
その中の『江戸店舗図譜』や『定本江戸商売図絵索引』には、当時の八百屋の姿が絵(浮世絵)で示されている。『江戸店舗図譜』にある大阪の八百屋を見ると、大店のレベルまではいかないにしても多少裕福そうに見える。これはどうしたことであろうか。『江戸店舗図譜』には絵とともに八百屋の説明書きがある。それによれば、「江戸時代の八百屋は、俗に青物と呼ばれる野菜類のほかに、辛子・胡椒・胡麻・葛粉・わらび粉・椎茸・干瓢・鰹節・湯葉・素麺・干うどん・昆布などの乾物類も一緒に商っていた。」(p285)、とある。仮説その2でも述べたように、手広く多くの商品を扱っていたとすれば、八百屋が大店として商いを行っていた可能性はある。
でも何となく釈然としないので、図書館内をふらふらと歩いていると、大部の『江戸商家・商人名データ総覧』が目に飛び込んで来た。説明によれば、江戸問屋仲間の「名前帳」や「名簿」、各種記録文書中の仲間商人連名、買物案内、地誌、武鑑等に掲載されている限りの商人の名前データが収録されているとあるので、参考になるかと思い「八百屋」を名乗る商人名を見てみた。八百屋浅五郎をはじめとして「炭薪仲買」を生業とする者が多く、確認された時期を見ると「慶応」となっていることから江戸も末期の頃の状況だとわかる。八百屋善四郎は「料理」を生業となしており、八百屋太兵衛は「すし」を生業としている。いずれも「文政」期となっていることから江戸時代も後期であることがわかる。また、八百屋和助は「番組人宿」(注) となっており、時期は後期の「文化」が記されている。
こう見て来ると、江戸時代も後半では「八百屋」を屋号に掲げながら、いわゆる野菜を売る八百屋とは異なり、他業種の商いを行っている八百屋があることがわかる。当然の事ながら、『江戸商家・商人名データ総覧』に掲載されている八百屋は大店であろう。八百屋お七が生きた時代は江戸時代も前半のことなので、江戸時代前半の商家に関する資料がないか司書の方に聞いたところ、資料はないとの返答であった。
いろいろと見て来たが、結局のところ、八百屋八兵衛がどの様な商いを行っていたのか特定することはできなかった。しかしながら、ひとつ分かったことがある。江戸時代(それも後期)の八百屋は野菜を売るだけの商いではなかったということである。野菜とともに野菜以外の物も商っている八百屋もあり、全く異なる商いをしていた八百屋も存在したということである。 
 
 
八百屋お七 2

 

寛文8年(1668)?-天和3年3月29日(1683/4/25)江戸時代前期、江戸本郷の八百屋太郎兵衛の娘。生年は1666年で生まれとする説があり、それが丙午の迷信を広げる事となった。下総国千葉郡萱田(現・千葉県八千代市)で生まれ、後に江戸の八百屋太兵衛の養女となった。お七は1682年(天和2年)12月の大火(天和の大火)で檀那寺(駒込の円乗寺、正仙寺とする説もある)に避難した際、そこの寺小姓生田庄之助(左兵衛とする説も)と恋仲となった。翌1683年(天和3年)、彼女は恋慕の余り、その寺小姓との再会を願って放火未遂を起した罪で、捕らえられて鈴ヶ森刑場で火刑に処された。遺体は、お七の実母が哀れに思い、故郷の長妙寺に埋葬したといわれ、過去帳にも簡単な記載があるという。 
その時彼女はまだ16歳(当時は数え年が使われており、現代で通常使われている満年齢だと14歳)になったばかりであったため奉行が哀れみ、お七は15歳だろうと聞いた(15歳以下の者は罪一等を減じられて死刑にはならない)が、彼女は正直に16歳であると主張し、お宮参りの記録を証拠として提出した程だったという。 
お七処刑から3年後の1686年(貞享3年)、井原西鶴がこの事件を「好色五人女」の巻四に取り上げて以降有名となり、紀海音の「八百屋お七」、菅専助らの「伊達娘恋緋鹿子」、為永太郎兵衛らの「潤色江戸紫」、鶴屋南北の「敵討櫓太鼓」など浄瑠璃・歌舞伎の題材として採用された。芝居では寺小姓と再会するため、火の見櫓の太鼓を叩こうとする姿が劇的に演じられる場面が著名。
 
 
八百屋お七 3

 

「火事と喧嘩は江戸の花」などと申しますが、天和3年(1683)春の火事で、放火の罪により死刑(火刑)に処せられたのが八百屋お七で、実話です。 
江戸は本郷の八百屋の娘であったことから八百屋お七というのですが、放火の罪というのは、当時の木造住宅中心の江戸にあっては殺人罪よりももっと重い罪だったようです。 
歌舞伎や人形浄瑠璃でも、この八百屋お七を題材とした作品が沢山作られました。代表的なのが「伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)」というお芝居ですが、美しくなければならない芝居の世界での八百屋お七のイメージは、放火ではなく火の見櫓に登って太鼓(半鐘)を打ちならす(これも大罪です)無分別だが可憐な町娘として描かれているのが一般的のようです。  
江戸時代では、主として防犯上の理由からでしょうが、夜になってある時刻を過ぎると、町々に設けられた木戸を閉じて人の往来をストップさせていたそうです。そして例外的に、閉じられた木戸を開けるのは「火事」のときだけだったのです。 
八百屋お七は、恋人である寺小姓・吉三郎に逢いたいが故に、禁を犯して火の見櫓に登り半鐘を打つのです。火事だと木戸番が誤解すれば、木戸は開いて恋人に逢いに行けるのです。動機は燃える恋だったのです。お七にとっては、それがどんな結果を齎(もたら)すのか考える余裕がないほど思いつめていたのでしょう。 
歌舞伎では、恋に関しては男よりもむしろ女の方が積極的のようです。古来、大和撫子という名に象徴される日本の女性は、恋に関しては控えめというか、男性の方から誘われるまで待つというのが美徳であると、私なども古い人間ですから思っていたのですが、歌舞伎を見ている限りどうもそれは違うんじゃあないかと思うことしばしばです。 
お七に限らず、あの「三姫」の八重垣姫も恋人・勝頼に対し積極的に恋を仕掛けます。時姫は、恋人をとるか自分の父親をとるかを迫られたとき迷うことなく恋人を選択しています。揚巻だって助六は自分の間夫(まぶ)であると白昼堂々と広言して憚りません。歌舞伎に登場する女性たちは、おしなべて皆力強いのです。こんなこと言うとお叱りを頂戴しそうですが、世の独身女性たちは歌舞伎に登場する女の生きざまを見習うべきかも知れません。 
なお、八百屋お七を「櫓のお七」とも呼びますが、既にお分かりのように火の見櫓に登るお七だからです。 
余談ですが、当時の江戸は人口100万人を超える世界最大の木造建築都市であり、世界一火事に弱い都市だったようです。江戸時代に記録に残る火事は、御府内だけで1500件を超えるといわれ、江戸三座や吉原遊郭が全焼した回数は、20回を超えているかもしれません。 
明暦3年(1657)の振袖火事、安永元年(1772)の目黒行人坂(めぐろぎょうにんざか)火事、文化3年(1806)の芝車町(しばくるまちょう)火事は、「江戸三大大火」として知られていますが、とりわけ被害が大きかったのが明暦の大火です。 
正月18日、本郷丸山町の本妙寺で施餓鬼(せがき)に焼いた振袖が、折りからの強い風に煽られて舞いあがったのが原因で、俗に振袖火事とも言われていますが、この火事による被害は、江戸城本丸、二の丸、天守閣をはじめ、大名屋敷160、旗本屋敷770、寺社350、橋60、蔵9000に及び、焼失した町数は400余、死者は10万人を超えるという、まさに日本史上最大の火事だということです。
 
   
八百屋お七 4

 

[寛文8年(1668年)? -天和3年3月28日(1683年4月24日) 生年・命日に関して諸説ある] 江戸時代前期、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女である。井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など芸能において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公になっている。なお、本項では日付表記は各原典に合わせ、原則は旧暦表記とする。
概要​
お七の生涯については伝記・作品によって諸説あるが、比較的信憑性が高いとされる『天和笑委集』によるとお七の家は天和2年12月28日(1683年1月25日)の大火(天和の大火)で焼け出され、お七は親とともに正仙院に避難した。寺での避難生活のなかでお七は寺小姓生田庄之介と恋仲になる。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火した。火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったが、お七は放火の罪で捕縛されて鈴ヶ森刑場で火あぶりにされた。
お七の恋人の名は、井原西鶴の『好色五人女』や西鶴を参考にした作品では吉三郎とするものが多く、そのほかには山田左兵衛、落語などでは吉三(きっさ、きちざ)などさまざまである。
『天和笑委集』は、お七の処刑(天和3年(1683年))のわずか数年後に出された実録体小説である。相前後してお七処刑の3年後の貞享3年(1686年)には大坂で活動していた井原西鶴が『好色五人女』で八百屋お七の物語を取り上げている。西鶴によって広く知られることになったお七の物語はその後、浄瑠璃や歌舞伎などの芝居の題材となり、さらに後年、浮世絵、文楽(人形浄瑠璃)、日本舞踊、小説、落語や映画、演劇、人形劇、漫画、歌謡曲等さまざまな形で取り上げられている。よく知られているにもかかわらず、お七に関する史実の詳細は不明であり、ほぼ唯一の歴史史料である戸田茂睡の『御当代記』で語られているのは「お七という名前の娘が放火し処刑されたこと」だけである。それだけに後年の作家はさまざまな想像を働かせている。
多数ある八百屋お七の物語では恋人の名や登場人物、寺の名やストーリーなど設定はさまざまであり、ほとんどの作品で共通しているのは「お七という名の八百屋の娘が恋のために大罪を犯す物語」であり、小説などの「読むお七」、落語などの「語るお七」ではお七は恋人に会いたいために放火をするが、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)、日本舞踊、浮世絵などの「見せるお七」ではお七は放火はせず、代わりに恋人の危機を救うために振袖姿で火の見櫓に登り火事の知らせの半鐘もしくは太鼓を打つストーリーに変更される(火事でないのに火の見櫓の半鐘・太鼓を打つことも重罪である)。歌舞伎や文楽では振袖姿のお七が火の見櫓に登る場面はもっとも重要な見せ場となっていて、現代では喜劇仕立ての松竹梅湯嶋掛額/ 松竹梅雪曙以外には櫓の場面だけを1幕物「櫓のお七」にして上演する事が多い。さまざまある設定の中には月岡芳年の松竹梅湯嶋掛額(八百屋お七)や美内すずえ『ガラスの仮面』などのように放火と火の見櫓に登る場面の両方を取り入れる作品や冤罪とするもの、真山青果の戯曲のように放火とせずに失火とする創作などもある。
実在の人物としての「八百屋お七」​
古来よりお七の実説(実話)として『天和笑委集』と馬場文耕の『近世江戸著聞集』があげられ「恋のために放火し火あぶりにされた八百屋の娘」お七が伝えられていたが、実はお七の史実はほとんどわかっていない。歴史史料として戸田茂睡の『御当代記』の天和3年の記録にわずかに「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」と記録されているだけである。お七の時代の江戸幕府の処罰の記録『御仕置裁許帳』には西鶴の好色五人女が書かれた貞享3年(1686年)以前の記録にはお七の名を見つけることができない。お七の年齢も放火の動機も処刑の様子も事実として知る事はできず、それどころかお七の家が八百屋だったのかすらも、それを裏付ける確実な史料はない。
東京女子大学教授で日本近世文学が専門の矢野公和は、天和笑委集や近世江戸著聞集を詳しく検討し、これらが誇張や脚色に満ち溢れたものであることを立証している。また、戸田茂睡の『御当代記』のお七の記述も後から書き加えられたものであり、恐らくはあいまいな記憶で書かれたものであろうと矢野は推定し、お七の実在にさえ疑問を呈している。
しかし、大谷女子大学教授で日本近世文学が専門の高橋圭一は『御当代記』は後から書き入れられた注釈を含め戸田茂睡自身の筆で書かれ、少なくとも天和3年お七という女が江戸の町で放火したということだけは疑わなくてよいとしている。また、お七処刑のわずか数年後、事件の当事者が生きているときに作者不明なれど江戸で発行された天和笑委集と大阪の西鶴が書いた好色五人女に、違いはあれど八百屋の娘お七の恋ゆえの放火という点で一致しているのは、お七の処刑の直後から東西で広く噂が知られていたのだろうとしている。お七に関する資料の信憑性に懐疑的な江戸災害史研究家の黒木喬も、好色五人女がお七の処刑からわずか3年後に出版されている事から少なくともお七のモデルになった人物はいるのだろうとしている。もしもお七のことがまったくの絵空事だったら、事件が実在しないことを知っている人が多くいるはずのお七の事件からわずか3年後の貞享3年にあれほど同情を集めるはずが無いとしている。
御当代記​
天和3年の記録に「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」と記録されている『御当代記』の著者戸田茂睡(1629-1706)は歌学者として知られ「梨本集」などの著作がある。実家は徳川忠長に仕える高禄の武家だったが、忠長の騒動に巻き込まれて取り潰されて大名家預かりの身になり、その後許されて伯父の家300石の養子になって仕官し、1680年ごろに出家して気ままな暮らしに入っている。
御当代記は五代将軍徳川綱吉が新将軍になった延宝8年(1680年)から茂睡が亡くなる4年前の元禄15年(1702年)までの約22年間の綱吉の時代の政治・社会を、自由な身で戸田茂睡自身が見聞したことを記録していったもので、子孫の家に残され発見されたのは天保年間(1830年代)になってからだが、信憑性の高い史料とされている。 御当代記は日記のように毎日記録していったものではないが、事実を時間の経過を追って記録しているものである。
天和笑委集​
天和笑委集は貞享年間に成立した実録体の小説で、作者は不明。西鶴と並んでお七の物語としては最初期、お七の処刑後数年以内に成立し、古来より実説(実話)とされてきた。しかし、現代では比較的信憑性は高いものの巷説を含むものとされている。全13章からなり、第1章から第9章はこの時代の火災の記録、第10章から第13章は放火犯の記録となっており、お七の物語は第11章から第13章で語られ、全体の1/5を占めている。第1章から第9章で書かれた火災の記録は史実と照らし合わせると極めて信憑性が高く、またお七とは別の放火犯である赤坂田町の商家に住む「春」という少女が放火の罪で火あぶりになった事件や少年喜三郎が主人の家に放火した事件を書いた第10章の記述が、江戸幕府の記録である『御仕置裁許帳』に記された史実と一部に違いはあるもののほぼ同じであることから人物の記述についても信憑性が高いものとされてきた。しかし現在では天和笑委集は当時の記録に当たって詳細に作られているが、お七の記録に関してだけは著しい誇張や潤色(脚色)が入っているとされている。例えば天和笑委集では火あぶりの前に江戸市中でさらし者にされるお七は華麗な振袖を着ていることにしているが、放火という大罪を犯して火あぶりになる罪人に華麗な振袖を着せることが許されるはずもないと専門家に指摘されている。
近世江都著聞集​
近世江都著聞集は講釈師馬場文耕がお七の死の74年後の宝暦7年(1757年)に書いたお七の伝記で、古来、天和笑委集と並んで実説(実話)とされてきた。近年に至るまで多くの作品が文耕を参考にしており、天和笑委集よりも重んじられてきた。その影響力は現代に残る丙午の迷信にまで及んでいる-#後世への影響参照。
近世江都著聞集は、その写本が収められている燕石十種第五巻では序文・目次・惑解析で4ページ、本文は11巻46ページほどの伝記集で、その46ページのなかで八百屋お七の伝記は最初の1巻目と2巻目の計8ページほどの極めて短い作品である。近世江都著聞集の惑解断と2巻目末尾で文耕は「お七を裁いた奉行中山勘解由の日記をその部下から私は見せてもらって本にしたのだ」としている。お七の恋人の名を吉三郎とする作品が多いが、自分(文耕)以外の八百屋お七物語は旗本の山田家の身分に配慮して、悪党の吉三郎の名をお七の恋人の名にすりかえたのであり、また実在する吉祥寺の吉三道心という僧をお七の恋人と取り違えている人もいるがまったくの別人だと言う。
文耕は本文2巻目末尾で自信満々に「この本こそが実説(実話)だ」と述べているが、しかし、その割にはお七の事件の約40年前に亡くなっている土井大炊頭利勝を堂々と物語に登場させたりしており、後年の研究で文耕の近世江都著聞集にはほとんど信憑性がないとされている。
創作における「八百屋お七」​
現代、多数ある八百屋お七物語の作品に大きな影響を与えた初期の作品として井原西鶴の『好色五人女』や実説とされてきた『天和笑委集』、『近世江都著聞集』があり、また西鶴から紀海音を経て現代の歌舞伎に至る浄瑠璃・歌舞伎の流れも現代の文芸に大きな影響を与えている。大まかには初期の作品はお七の悲恋物語で吉三郎の占める割合は低く、後年の文芸作品でもその流れを汲むものは多いが、後年の特に演劇作品を中心したなかには、吉三郎を身分の高い侍としてそれにお家騒動や重宝探しあるいは敵討ちといった吉三郎に関する要素を絡めていき、逆にお七の放火や火あぶりといった悲恋の要素が消えていく系列作品群が見られるようになっていく。
この節では『好色五人女』、『天和笑委集』、『近世江都著聞集』のあらすじと、浄瑠璃・歌舞伎の流れ及び現代演じられている歌舞伎の八百屋お七作品のあらすじなどを記載する。
文芸作品​
   井原西鶴『好色五人女』巻四「恋草からげし八百屋物語」​
井原西鶴『好色五人女』はお七の事件のわずか3年後に出版され、自ら積極的に恋愛行動に移る町娘という、それまでの日本文学史上画期的な女性像を描き、お七の原典として名高い。西鶴の後続への影響は絶大なもので、特に演劇系統は西鶴を下地にした紀海音を基にするものがほとんどであり、西鶴が設定した恋人の名を吉三郎、避難先の寺を吉祥寺とすることを受け継いでいる作品が大多数を占めることからも西鶴の影響の大きさが推測される。
(あらすじ)師走28日の江戸の火事で本郷の八百屋八兵衛の一家は焼けだされ、駒込吉祥寺に避難する。避難生活の中で寺小姓小野川吉三郎の指に刺さったとげを抜いてやったことが縁で、お七と吉三郎はお互いを意識するが、時節を得ずに時間がたっていく。正月15日、寺の僧達が葬いに出かけて寺の人数が少なくなる。折りしも雷がなり、女たちは恐れるが、寺の人数が少なくなった今夜が吉三郎の部屋に忍び込む機会だと思ったお七は他人に構われたくないゆえに強がりを言い他の女たちに憎まれる。その夜、お七は吉三郎の部屋をこっそり訪れる。訳知りの下女に吉三郎の部屋を教えてもらい、吉三郎の部屋にいた小坊主を物をくれてやるからとなだめすかして、やっとお七は吉三郎と2人きりになる。ふたりは『吉三郎せつなく「わたくしは十六になります」といえば、お七「わたくしも十六になります」といえば、吉三郎かさねて「長老様が怖や」という。「おれも長老様は怖し」という。』という西鶴が「なんとも此恋はじめもどかし」というように十六歳の恋らしい初々しい契りだった。翌朝吉三郎といるところを母に見つかり引き立てられる。八百屋の新宅が完成しお七一家は本郷に帰る。ふたりは会えなくなるが、ある雪の日、吉三郎は松露・土筆売りに変装して八百屋を訪ね、雪の為帰れなくなったと土間に泊まる。折りしも親戚の子の誕生の知らせで両親が出かける。両親が出かけた後でお七は土間で寝ている松露・土筆売りが実は吉三郎だと気が付いて部屋に上げ、存分に語ろうとするが、そこに親が帰宅。吉三郎を自分の部屋に隠し、隣室に寝る両親に気がつかれないようにお七の部屋でふたりは筆談で恋を語る。こののちになかなか会えぬ吉三郎の事を思いつめたお七は、家が火事になればまた吉三郎がいる寺にいけると思い火付けをするが、近所の人がすぐに気が付き、ぼやで消し止められる。その場にいたお七は問い詰められて自白し捕縛され、市中引き回しの上火あぶりになる。吉三郎はこのとき病の床にありお七の出来事を知らない。お七の死後100日に吉三郎は起きられるようになり、真新しい卒塔婆にお七の名を見つけて悲しみ自害しようとするが、お七の両親や人々に説得されて吉三郎は出家し、お七の霊を供養する。
   近世江都著聞集​
近世江都著聞集は古来より実説として重んじられ、文芸作品にはその影響を受けたと考えられる作品が多数ある。江戸時代にも狩野文庫『恋蛍夜話』や曳尾庵 著『我衣』を代表にして石川宣続、小山田与清、山崎美成、乾坤坊良斎、加納徳孝、純真らの作家が近世江都著聞集を下地にしたと思われる作品を書き、近代でも水谷不倒、三田村鳶魚、昭和に入っても藤口透吾 や多岐川恭 などが近世江都著聞集を下地にして作品を作っている。
成立がお七の死後74年たった後であり、既に西鶴や海音など多くの作品が世に出ており、文耕の近世江都著聞集はそれらの作品からさまざまに取捨選択し創作を加えて面白い作品に作り上げたと考えられている。ただし、面白いものの前述のように現代では近世江都著聞集のストーリーには信憑性がまったくないものとされている。
(あらすじ)元は加賀前田家の足軽だった八百屋太郎兵衛の娘お七は類の無い美人であった。天和元年丸山本妙寺から出火した火事で八百屋太郎兵衛一家も焼け出され、小石川円乗寺に避難する。円乗寺には継母との間柄が悪く実家にいられない旗本の次男で美男の山田左兵衛が滞在していた。お七と山田左兵衛は互いが気になり、人目を忍びつつも深い仲になっていた。焼け跡に新宅が建ち一家は寺を引き払うが、八百屋に出入りしていたあぶれ者で素性の悪い吉三郎というものがお七の気持ちに気が付いて、自分が博打に使う金銀を要求する代わりに二人の間の手紙の仲立ちをしていた。やがて吉三郎に渡す金銀に尽きたお七に対して吉三郎は「また火事で家が焼ければ左兵衛のもとに行けるぞ」とそそのかす(吉三郎はお七に火事をおこさせて自分は火事場泥棒をする気でいる)。お七は火事が起きないかと願うが火事は起こらず、ついに自ら放火する気になったお七に吉三郎は「焼けるのが自分の家だけなら罪にならん、恋の悪事は仏も許すだろう」と言い放火の仕方を教える。風の強い日にお七は自分の家に火をつけ、八百屋太郎兵衛夫妻は驚きお七を連れて逃げ出す。吉三郎はこの隙にと泥棒を働くが、駆けつけてきた火付盗賊改役の中山勘解由に捕縛された。拷問された吉三郎は火を付けたのは自分では無く八百屋太郎兵衛の娘お七だという。中山勘解由がお七を召しだして尋ねるとたしかに自分が火をつけたと自白するので牢に入れ、火あぶりにしようと老中に伺いをたてる。そのときに幕府の賢人土井大炊頭利勝が「悲しきかな。罪人が多いのは政治が悪いからだとも言う。放火は大罪で火あぶりにするべきだが、か弱い娘がこのような事をする国だと朝鮮・明国に知れると日本は恐ろしい国だと笑われるだろう。」と言い、中山に「15歳以下ならば罪を一段引き下げて遠島(島流し)にできるではないか。もう一度調べよ」と命ずる。土井大炊頭の意を汲んで、中山はお七が14歳だということにして牢を出し部下に預ける。しかし、このことを聞いた吉三郎は自分だけが刑されるのをねたみ、中山を糾弾する。中山は怒り吉三郎と口論するが、吉三郎は谷中感応寺の額にお七が16歳の証拠があると言い、実際に感応寺の額を取り寄せたら吉三郎の言うとおりだったので中山も仕方なく天和2年2月吉三郎と一緒にお七を火あぶりにする。
   天和笑委集​
天和笑委集は他の作家への影響力と言うことでは西鶴や文耕には及ばないが、種彦や豊芥子などの評論などによって各種の作品の中では事実に近いであろう物として評価されている。現在でもお七の真実を探ろうとする黒木喬などのように天和笑委集をその解析の中心におく専門家もいる。
(あらすじ)江戸は本郷森川宿の八百屋市左衛門の子は男子2人女子1人。娘お七は小さい頃から勉強ができ、色白の美人である。両親は身分の高い男と結婚させる事を望んでいた。天和2年師走28日(1683年1月25日)の火事で八百屋市左衛門は家を失い正仙院に避難する。正仙院には生田庄之介という17歳の美少年がいた。庄之介はお七をみて心ひかれ、お七の家の下女のゆきに文を託してそれからふたりは手紙のやり取りをする。やがてゆきの仲人によって、正月10日人々が寝静まった頃に、お七が待つ部屋にゆきが庄之介を案内する。ゆきは2人を引き合わせて同衾させると引き下がった。翌朝、ゆきはまだ早い時間に眠る両親の部屋にお七をこっそり帰したので、この密会は誰にも知られる事はなかった。その後も2人は密会を重ねるが、やがて正月中旬新宅ができると、お七一家は森川宿に帰ることになった。お七は庄之介との別れを惜しむが、25日ついに森川宿に帰る。帰ったあともゆきを介して手紙のやり取りをし、あるとき庄之介が忍んでくることもあったが、日がたつにつれお七の思いは強くなるばかり。思い悩んでお七は病の床に就く。3月2日夜風が吹く日にお七は古綿や反故をわらで包んで持ち出し、家の近くの商家の軒の板間の空いたところに炭火とともに入れて放火に及ぶが、近所の人が気が付きすぐに火を消す。お七は放火に使った綿・反故を手に持ったままだったのでその場で捕まった。奉行所の調べで、若く美しい、悪事などしそうにないこの娘がなぜ放火などしようとしたのか奉行は不思議がり、やさしい言葉使いで「女の身で誰をうらんで、どのようなわけでこのような恐ろしいことをしたのか?正直に白状すれば場合によっては命を助けてもよいぞ」と言うがお七は庄之介に迷惑かけまいと庄之介の名前は一切出さず、「恐ろしい男達が来て、得物を持って取り囲み、火をつけるように脅迫し、断れば害すると言って打ちつけるので」と答える。奉行が男達の様子を細かく尋ねると要領の得ない話ばかりする。これでは助けることは出来ないとお七は火あぶりとなることになった。お七は3月18日から他の悪人達と共に晒し者にされるが、その衣装は豪華な振袖で鮮やかな化粧と島田に結い上げ蒔絵のついた玳瑁の櫛で押えた髪で、これは多くの人目に恥ずかしくないようにせめてもと下女と乳母が牢屋に通って整えたのだと言う。お七および一緒に死罪になる6人は3月28日やせ馬に乗せられて前後左右を役人達に取り囲まれて鈴が森に引き立てられ、大勢の見物人が見守る中で処刑される。大人の4人の最後は見苦しかったが、お七と少年喜三郎はおとなしく処刑されている。お七の家族は縁者を頼って甲州に行きそこで農民となり、2人の仲が知れ渡る事になった生田庄之介は4月13日夜にまぎれて旅に出て、終いには高野山の僧になっている。
演劇作品​
小説などの文字による作品では「お七は火事で焼け出され、火事が縁で恋仲になり、恋人に会いたい一心で放火をして自身が火あぶりになる」と徹頭徹尾「火」にまつわる恋物語である。しかし、江戸時代中期、安永2年(1773年)の浄瑠璃『伊達娘恋緋鹿子』でお七が火の見櫓に登って半鐘を打つ設定になり、やがて半鐘は歌舞伎では太鼓に代わる事もあったものの、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)などの見せる作品では、八百屋お七といえば火の見櫓にのぼる場面が大事な見せ場になり、放火などはしなくなる。当時、木造家屋が密集している江戸は火事が多く幕府も放火には神経を尖らせていた。また、芝居小屋自身も火災に会うことが多かったので放火の演出は避けたかったのだろうと推測されている。また、技術的にも陰でこそこそ行う放火の舞台演出は難しい。しかし、お七と火を完全に切り離す事もできない。そのぎりぎりの接点が火の見櫓であったのだろうと考えられている。
   歌舞伎『八百屋お七歌祭文』​
歌舞伎では宝永3年(1706年)にお七の芝居として初めてになる『八百屋お七歌祭文』が上方で上演されている。初代嵐喜世三郎がお七を演じて大評判になり、さらに江戸でも嵐喜世三郎がお七を演じていることは伝えられているが、この作品の内容については現代ではほとんど分からない。この作品が上演された1706年の時点では櫓に登るお七は着想されていない。
   歌舞伎『中将姫京雛』​
宝永5年(1708年)江戸・中村座で初演。嵐喜世三郎主演。八百屋彌右衛門の養女お七は実は継母に捨てられ人買いに売られた中将姫である。妙円寺の小姓吉三郎も実はお家騒動を避け身分を隠している唐橋宰相である。お七は八百屋の養子庄九郎との結婚を強いられ、吉三郎に会いたさのあまり養父を殺してしまう。お七は旧臣の情けある裁きで救われ出家する。
中将姫京雛は嵐喜世三郎の人気とお七の27回忌を当て込んで、中将姫伝説と八百屋お七を無理やりに継ぎ合わせた作品で、時代物(江戸時代以前を題材にする作品)と世話物(江戸時代の作品)の混淆の脚色の嚆矢とされている。この作品以降、歌舞伎作品では平家物語や曽我物語など江戸時代以前の物語の世界の中に八百屋お七を織り込む時代・世話混淆物が主流になり、吉三郎に関する要素(お家騒動や敵討ち、重宝探しなど)が増えていく。
   浄瑠璃『八百屋お七恋緋桜』​
浄瑠璃でもお七物の作品は多数あるが、もっとも影響が強かったのがお七の死の30数年後の正徳5年(1715年)から享保初年(1716年)ごろに成立した紀海音の『八百やお七』(『八百屋お七恋緋桜』)である。紀海音の浄瑠璃は西鶴の好色五人女を下地にしながらも大胆に変え、より悲劇性を強くしている。海音のお七では吉三郎は石高一千石 の名の知れた武士の息子、親からは出家するように遺言され、親の忠実な家来の十内が遺言を守らせにくる。またお七にも町人万屋武兵衛が恋心を抱いている。火事の避難先の吉祥寺で出会ったお七と吉三郎の恋は武兵衛と十内の邪魔によって打ちひしがれ、再建した八百屋の普請代二百両をお七の親に貸し付けた武兵衛がそれの代わりにお七を嫁に要求し、家と親への義理の為お七は吉三郎に会えなくなる。西鶴が用意した吉三郎の八百屋への忍び込みを海音も用意はするが、海音作では下女のお杉の手引きで軒下に身を隠す吉三郎は、武兵衛との結婚を願う母親の話を聞いてしまいお七に会わないまま立ち去ってしまう。お杉の話で吉三郎とすれ違ってしまったことを知ったお七は、吉三郎に立てた操を破らなければならない定めに半狂乱になり、家が焼けたら吉三郎のもとにいけると火をつけてしまう。お七の処刑の日、両親は悲嘆にくれる。西鶴が出家させた吉三郎を、海音はお七の処刑の直前に刑場で切腹・自殺させてしまう。
   浄瑠璃『伊達娘恋緋鹿子』​
浄瑠璃では紀海音以降、『八百屋お七恋緋桜』に手を加えた作品が続出するが、安永2年(1773年)菅専吉らの合作で『伊達娘恋緋鹿子』が書かれる。『伊達娘恋緋鹿子』ではお七は放火はせずに、代わりに吉三郎の危機を救うため火の見櫓に登って半鐘を打つ。この菅専吉らの新機軸「火の見櫓の場」を歌舞伎でも取り入れて現代では文楽や歌舞伎では火の見櫓に登るお七が定番になっている。
   歌舞伎『八百屋お七恋江戸紫』​
明和3年(1766年)三世津打治兵衛の同名題の作品を安永7年(1778年)桜田治助が改作した狂言歌舞伎で、浄瑠璃『伊達娘恋緋鹿子』の発案を下地にはしているものの、設定を大胆に変更し喜劇仕立ての八百屋お七になっている。お七を吉祥院の天女像そっくりの美人とし、天女像とお七を入れ替える事から通称「天人お七」とも言われる。この八百屋お七恋江戸紫は興行的に大変に当たったので、これ以降は歌舞伎で八百屋お七といえばこの「八百屋お七恋江戸紫」か、もしくはそれを改作した系列作品ばかりが上演されるようになる。『八百屋お七恋江戸紫』を改作した福森久助作『其往昔恋江戸染』は現代のお七として定着している。時代もこのあたりまで来ると、歌舞伎の八百屋お七と西鶴の八百屋お七とはストーリー上の共通点はまったくなくなり、恋人の名と寺の名だけが共通となる。
   歌舞伎『松竹梅雪曙』​
前述したように、浄瑠璃の菅専吉らの新機軸「火の見櫓に登るお七」を歌舞伎でも取り入れて『八百屋お七恋江戸染』及びその改作の福森久助作『其往昔恋江戸染』(文化6年(1809年))が上演されるが、さらに作家黙阿弥が安政3年(1856年)火の見櫓の場面を舞踊劇にした歌舞伎『松竹梅雪曙』を書き、これが現代でも上演されている『櫓のお七』の外題である。この松竹梅雪曙に四代目市川小団次が人形振りを取り入れた。そもそもの『其往昔恋江戸染』は多数の場に分かれていたが、現代(1986年)国立劇場でも演じられている松竹梅雪曙では「吉祥院お土砂の場」と「火の見櫓の場」の2幕物で、構成・ストーリーは後述の松竹梅湯島掛額とほぼ同じである。
   櫓のお七​
現代では文楽(人形浄瑠璃)や歌舞伎では喜劇仕立ての歌舞伎『松竹梅雪曙』/『松竹梅湯島掛額』以外には八百屋お七が全幕で上演される事は少なく、『伊達娘恋緋鹿子』を黙阿弥が改作した『松竹梅雪曙』の「火の見櫓の段」だけを一幕物『櫓のお七』として上演する事が多い。また、日本舞踊でも『伊達娘恋緋鹿子』の櫓の場を舞踊劇にして踊られている。
   人形振り​
歌舞伎の「火の見櫓の段」(一幕物では『櫓のお七』)において、前半のお七と下女お杉の場面では、お七を演じている役者は普通に人間として演じている。しかし、お杉が主人に呼ばれお七が一人になるところから、黒衣が二人もしくは三人出てきて役者の後ろに付き、お七を演ずる役者は人形のような動きで演じ踊るようになる。これを人形振りという。黒衣は人形を動かしているかのように振舞う。お七役の役者は人間でありながらあたかも操られている人形のように手や首を動かす。これは様式美を追求し追い詰められたお七の姿を表しているのである。文楽を取り入れたものだが、追い詰められたお七の心を描くには、人形の誇張の動きが適しているからだと言われている。
   歌舞伎『松竹梅湯島掛額』​
松竹梅湯島掛額は福森久助作「其往昔恋江戸染」の「吉祥院お土砂の場」と、河竹黙阿弥の「松竹梅雪曙」の「火の見櫓の場」を繋ぎ合わせた2幕物で松竹梅湯島掛額の1幕目の「吉祥院お土砂の場」は歌舞伎では珍しいドタバタ喜劇であり、アドリブも多い。八百屋お七物の全幕物のなかでは松竹梅雪曙とこれが現代(21世紀初頭)上演される数少ない全幕物の八百屋お七である。
松竹梅湯島掛額/松竹梅雪曙は通称「お土砂」と言われるが「お土砂」は大事な小道具で、お土砂は真言密教の秘密の加持を施した砂でこれを死体にかけると死体が柔らかくなると言われている。この物語では生きた人間にお土砂をかけるとかけられた人間は体が柔らかくなり力が抜けて「ぐんにゃり」となってしまうことになっている。また、主役がお七と吉三郎ではなく、紅長こと紅屋長兵衛とお七である。
(吉祥院お土砂の場のあらすじ)幕が通常とは逆に上手から開く。舞台は鎌倉時代の江戸の町。江戸に木曽義仲が攻めてくるともっぱらのうわさで人々は駒込・吉祥院に避難してくる。吉祥院は本堂の欄間の左甚五郎作とされる天女像で有名で天女は美しく、また八百屋の娘お七は天女そっくりの美人である。町の娘達の人気者の紅屋長兵衛(紅長・べんちょう)はお七ととても仲のよい紅売り(化粧品売り)である。吉祥院の寺小姓吉三郎に恋するお七は吉三郎と夫婦になりたいと母に願う。しかし、釜屋武兵衛から借金しているお七の家は、返済の代わりにお七と武兵衛の縁談を進めていると言われたお七は悲しみ、紅長が慰める。そこに吉三郎の家来の十内がやってきて、吉三郎の帰参がかなって国許に帰り家老の娘と結婚するのだと言い、お七はまた悲しみ、紅長が慰める。母は十内にお七と吉三郎の結婚を願うが、身分違いでとんでもないと断られる。そこに吉三郎がやってくるが、実は吉三郎は宝刀「天国の剣」を探さなければならない身でその期限もせまっている。吉三郎は十内に女にうつつを抜かしている場合ではないと怒られる。釜屋武兵衛に案内されて源範頼公の家来長沼六郎がお七を探しにやってくる。源範頼公がお七の美しさを聞いて愛妾にしたがっているのだという。長沼六郎にお七の居場所を問い詰められた寺の住職は困るが、紅長の発案で欄間の天女像を外してそこにお七を入れる。長沼六郎は欄間の天女像の美しさに感心するが実はそれがお七本人だとは気が付かない。その騒ぎを聞いて吉三郎がやってくるが、紅長のお七への入れ知恵によって、吉三郎はお七と夫婦になる約束をさせられる。さて、長沼六郎と釜屋武兵衛はお七を探して寺中を調べるが、お七は死んだと聞かされる。長沼六郎と釜屋武兵衛は疑い、やってきた棺桶の中を調べるが、棺桶から出てきたのは死者に扮した紅長。大の字で立ちはだかる紅長が釜屋武兵衛を張り倒し、釜屋武兵衛が紅長にかけようとした「お土砂」を奪って逆に釜屋武兵衛にかけると釜屋武兵衛は「ぐんにゃり」となる。紅長は長沼六郎たちにもお土砂をかけてぐんにゃりとさせて、お七と下女お杉を逃がす。調子に乗った紅長は舞台上の人々に楽しそうにお土砂をかけてお七とお杉以外の登場人物や舞台の裏方たちをぐんにゃりとさせる。そこにハプニングがおこり洋服の観客が舞台に乱入してくる。観客を引き止めに劇場の女性従業員も舞台に上がる。紅長は観客や女性従業員にもお土砂をかけてぐんにゃりさせる。さらに紅長は下手から幕を引きに来た幕引きにもお土砂をかけてぐんにゃりさせる。幕引きまでぐんにゃりさせた紅長は楽しそうに自ら幕を引く。
(火の見櫓の段のあらすじ)
(場面の前提。吉三郎は主君の宝刀を見つけられなかったことで明日にも切腹となることになり、それを聞いたお七は嘆き悲しむ。その宝刀を自分の家に来ている武兵衛がもっていることを知ったお七は吉三郎のもとに行きたいが、夜間の事ゆえ町の木戸は固く閉まっている。今夜の内に宝刀を取り戻さないと吉三郎の命は救えない。)
お杉とお七は町の木戸を開けてくれるよう番人に頼むが、夜は火事のとき以外は開けられないと固く断られる。目の前に火の見櫓はあるが、火事でもないのに火事の知らせの太鼓(あるいは半鐘)を打つのは重罪であるとお杉は恐れる。やがてお杉は主人に呼ばれる。一人になったお七は決心し櫓に登って太鼓を打つ。太鼓を聞いて木戸が開く。そのときお杉が宝刀を取り返してくる。追ってくる武兵衛をお杉が阻止している間に宝刀を持ったお七は木戸を通って吉三郎のもとに走っていく。2幕目は通常のように下手から幕が開く。
   敵討櫓太鼓​
東海道四谷怪談などを書いた歌舞伎狂言作者鶴屋南北も八百屋お七の歌舞伎狂言を書いている。初演は文政4年(1821年)河原崎座においてである。鶴屋南北の八百屋お七の題は「敵討櫓太鼓」全8幕の芝居であるが、1975年の時点では台本の一部は残っていない。鶴屋南北の「敵討櫓太鼓」では物語中盤で吉三郎とお七は夫婦になり幸せに暮らしている。しかし吉三郎は親の敵を知ることになりお七を見捨て敵討ちに出発する。お七は吉三郎を追いかけるため町木戸を開かせようと火の見櫓に登って禁制の太鼓を打つ。お七は死刑を言い渡されるが運よく大赦で救われる。吉三郎は首尾よく敵を討ち果たす。
   三人吉三廓初買​
歌舞伎『三人吉三廓初買』、通称『三人吉三』は同じ名を持つ三人の盗賊がおりなす物語。「月も朧に白魚の、篝も霞む春の空。冷てえ風も微酔に心持よくうかうかと、浮かれ烏のただ一羽塒(ねぐら)へ帰る川端で……(中略)こいつぁ春から縁起がいいわえ」と有名な台詞を朗々と唄い上げる女装の盗賊「お嬢吉三」は八百屋お七の見立て(パロディ)である。序幕で「八百屋の娘でお七と申します」と名乗り、大詰では、お嬢吉三が櫓に登って太鼓を打ち、木戸が開いて櫓の前に三人の吉三が集合する。三人吉三は役人に取り囲まれて自らの悪行に観念する。パロディであっても歌舞伎のお七物では振袖姿で櫓に登り太鼓を打つのが「お約束」。
その他の作品​
   落語​
落語で八百屋お七物にはいくつか有り、十代目桂文治による口演の「八百屋お七」では、お七は町内でも評判の美人、婿になりたがる男の行列が本郷から上野広小路まで並ぶほどである。火事で店が焼けたためお七は駒込の吉祥寺に預けられ、そこで美男の寺小姓吉三(きっさ)と恋仲になる。家が再建され寺を去るお七は吉三に「あたしゃ、本郷へ行くわいな」とあいさつする。以降の展開は多くのお七物と同じだが、幕府の老中土井大炊頭が可憐な娘を丸焼きにするのを気の毒がる。当時の江戸では火付け犯は15歳を過ぎれば火あぶり、15歳未満は罪を減じて遠島の定めだったため、土井大炊頭はなんとかお七の命を救おうと奉行に命じ「お七、そちは十四であろう」と謎をかけさせる。しかし、お七が正直に「十六でございます」と答えてしまったために火あぶりとなる。死後にお七は幽霊となり人々を悩ます。それを聞きつけて来た武士に因縁つけて逆に手足を切られて1本足になり、こりゃかなわんと逃げるとき武士に一本足でどこに行くかと聞かれて答え「片足ゃ、本郷へ行くわいな」の台詞で締めくくる。
別の八百屋お七物は「お七の十」の通称で知られていて、火あぶりになったお七と悲しんで川へ身投げし水死した吉三があの世で出会って抱き合ったらジュウと音がした、火と水でジュウ(七+三で十)というネタがつく噺もある。
   漫画『ガラスの仮面』​
漫画『ガラスの仮面』では劇中劇で櫓のお七の場が取り上げられる。北島マヤ演じるお七は町に火をつけ櫓に登り、燃え盛る町を見下ろしながら半鐘を打ち鳴らす。燃え盛っているのは家屋ばかりではない。お七の心にも自分自身にはどうにも出来ない恋の炎が燃え盛り、燃え尽きる町を見ながらお七の心も燃え尽きる。
   映像作品​
・映画
   お七と伝七(1925年 演:潮みどり)
   八百屋お七(1926年 演:柳さく子)
   お七鹿の子染(1936年 演:森静子)
   八百屋お七 ふり袖月夜(1954年 演:美空ひばり)
   八百屋お七 江戸祭り一番娘(1960年 演:中島そのみ)
   情炎お七恋唄(1972年 演:小川節子)
   好色元禄(秘)物語(1975年 演:橘麻紀)
・テレビドラマ
   西鶴物語 第7回・第8回「八百屋お七」(1961年 演:市川和子)
   NHK劇場 恋すれば物語(1964年 演:中尾ミエ)
   大江戸捜査網(1970年 演:永島暎子)
   江戸巷談・花の日本橋 第21回「初恋八百屋お七」(1972年 演:范文雀)
   江戸を斬る 梓右近隠密帳 第13話「巷談・八百屋お七」(1973年 演:村地弘美)
   家光と彦左と一心太助(1989年 演:藤谷美紀)
   必殺仕事人・激突! 第4話 「八百屋お七の振袖」(1991年 お小夜 演:杉浦幸)
   天下の副将軍水戸光圀 徳川御三家の激闘(1992年 演:喜多嶋舞)
   本当にあった日本史サスペンス劇場(2007年 演:星井七瀬)
   あさきゆめみし 〜八百屋お七異聞(2013年 演:前田敦子)
・アニメ
   火要鎮(2013年 作:大友克洋、オムニバス作品「SHORT PEACE」の一編)
   うる星やつら 第165話 「お芝居パニック!面堂家花見のうたげ!!」ラムが梅干しを食べて(酔って)八百屋お七に扮する。
   音楽作品​
夜桜お七(1994年 歌:坂本冬美)
お七(水曜日のカンパネラ)
郷土芸能の題材としての「八百屋お七」​
天和笑委集では、物語の後日談としてお七と庄之介の話が全国津々浦々に伝わったとしている。天和笑委集の成立自体がお七の死後数年以内なので八百屋お七の事件の噂話はたちまちのうちに全国に伝わったことがうかがえる。これらは中央の文芸作品の影響を受けながらも各地でさまざまに形を変え、お七の恋物語は郷土芸能の題材として全国各地にさまざまな形で伝承されている。二松学舎大学教授で国文学専攻の竹野静雄が1986年にまとめた調査でも全国38都道府県で八百屋お七を題材にした郷土芸能が確認され、昭和まで伝承されなかったものを含めると沖縄を除くほぼ全国に八百屋お七を伝承する郷土芸能があったものと思われる。
郷土芸能としての「八百屋お七」は歌祭文・覗きからくり節・盆踊歌・飴売り歌・願人・祝い歌・労作歌・江州音頭やんれ節などが確認される。とくに八百屋お七盆踊り歌は昭和ですら保存されている件数が多く、またその内容も多くの系列があり、かつては全国いたるところで歌われていたものと考えられている。
覗きからくり
覗きからくり節では八百屋お七はよく演じられる演目の一つであり、各地の自治体でその保存活動や紹介活動が行われている。新潟市の巻郷土資料館では、約100年前の八百屋お七の覗きからくりを保存し、館員による口上付きの公演も随時行っている。
「お七」作品における登場人物とモチーフ​
八百屋お七物語は多くの作家がさまざまな作品を提供している。お七とお七の恋人を除いては作品ごとに登場人物は異なるものの比較的登場することが多い人物について述べる。もちろんこの節で述べる登場人物像は各作家の設定した人物像であって、史実とは無関係である。
恋人​
恋人の名は 天和笑委集では生田庄之介 好色五人女では小野川吉三郎、近世江戸著聞集では山田左兵衛、紀海音では安森吉三郎、現代の歌舞伎「櫓のお七」では吉三郎、松田定次監督の映画『八百屋お七 ふり袖月夜』(1954年公開) では生田吉三郎とさまざまである。前述したように、『近世江戸著聞集』の作者である馬場文耕は自分以外の八百屋お七物語は旗本の山田家の身分に憚って、悪党の吉三郎の名をお七の恋人の名にすりかえたのだと言う が、しかし『近世江戸著聞集』はほぼ虚構である事が立証されているので、吉三郎とするものが多いのは恐らくは西鶴と、西鶴を下地にした紀海音の影響力であろうとされている。
恋人の身分は初期の作品ではあまり高くはなく、西鶴では吉三郎は浪人で兄分(同性愛の恋人)がいる。天和笑委集でも生田庄之介の身分はそれほど高くはないのでお七に高い身分の男との結婚を望んでいる両親にお七は生田庄之介との交際を言い出せない。しかし、紀海音が吉三郎を1000石 の名の知れた武士の息子、親の忠実な家来の十内が親の遺言を守らせに来るように設定してからは、浄瑠璃や歌舞伎では身分の高い武士の子とされる。文耕の近世江都著聞集では恋人(山田左兵衛)の親は2500石の旗本である。現代の歌舞伎では吉三郎は武家の中でも身分が高い家の子で八百屋の娘とは身分が違いすぎて結婚の対象ではないことにされる。
下女​
八百屋で働く下女の名は天和笑委集では「ゆき」、紀海音の浄瑠璃や現代の歌舞伎では「杉」。八百屋の下女は二人の恋の仲を取り持つ役割で、火の見櫓に登るお七の設定では宝刀を武兵衛のもとから取り返してくる役割をはたす。「火の見櫓の場」では吉三郎は直接登場しないので、八百屋の下女はお七に次いで重要な登場人物になる。
父​
お七の父の名も作品によってさまざまである。天和笑委集では市左衛門、好色五人女では八兵衛、近世江戸著聞集では太郎兵衛、紀海音では久兵衛、落語では久四郎 と作品ではそれぞれが違う。お七の父の名前も素性もうかがい知ることはできないが、江戸災害史研究家の黒木は加賀藩邸(今の東京大学本郷キャンパス)がすぐ近くであったことからお七の家は加賀藩出入りの商人の可能性を指摘している。
十内と武兵衛​
紀海音が浄瑠璃『八百屋お七恋緋桜』で考案した2人で、お七の恋の邪魔者(もちろん、実在人物ではない)。吉三郎の実家の家来で忠実・生真面目な侍ゆえに吉三郎の行動に枠をはめたがる十内と、お七に恋心を抱き金の力でお七を我が物にしようとする金持ちの町人武兵衛(万屋武兵衛や釜屋武兵衛など)の2人はその後の浄瑠璃、歌舞伎でもお七・吉三郎の恋の障害になる人物と設定される。現代に上演されることが多い歌舞伎・松竹梅湯島掛額でもその設定は変わらない。ことにお七と吉三郎・武兵衛の三角関係は浄瑠璃・歌舞伎以外の作品にも取り入れられることが多い。
役人
お七を裁く役人は小説や落語などでは登場することが多く、現代の歌舞伎などでは登場しない。
   中山勘解由​
中山勘解由は史実では先手頭で天和3年正月23日に火付改に着任。 お七の放火事件がおきた天和3年3月には、史実としてはこの人物が放火犯の捜査・逮捕の責任者である。中山勘解由は容疑者をかなり厳しく取り調べ、この人物が着任している間は放火の罪で処刑される人数が増加している。海老責という拷問方法を考案もし、拷問を含む厳しい取調べで恐らくは冤罪も多かったであろうと推定されている。
しかし史実とは反対に八百屋お七の物語ではお七の命を何とか救おうと努力する奉行として登場することが多い人物で、文耕の『近世江戸著聞集』のなかでもお七の年齢をごまかして助けようとする奉行中山殿の名前が出てくる。文耕ではお七の年をごまかした事を悪党の町人吉三郎に糾弾され、大身の旗本で重責を担う立場にありながら吉三郎と真剣に口論し、吉三郎に論破されてしまう。
狩野文庫『恋蛍夜話』では奉行中山勘解由はお七に「火付けはしてないな?」と聞き、もしもお七が「はい」と答えたら助けるつもりが、お七が正直に「火を付けた」と答えてしまったために仕方なく火あぶりにせざるをえなくなったとしている。落語でも土井大炊頭の意を汲んでお七の年齢をごまかして助けようとするがお七自身にその意図を無にされる。ただし、中山勘解由がまだ存命中に書かれた最初期のお七の伝記である天和笑委集ではことの次第ではお七の命を救ってもいいと思っている奉行が登場するが、天和笑委集では奉行の個人名は出していない。また同じく最初期の作品である西鶴の好色五人女では奉行は登場しない。
尚、お七の事件の数年前の延宝8年(1680年)、『江戸方角安見図』では中山勘解由配下の組屋敷は本郷(今の東京大学本郷キャンパスの農学部と工学部・法学部の通りに面した最西側部分)にあり、お七の家の至近にある。
   町奉行​
史実ではお七の事件時天和3年3月、甲斐庄飛騨守正親が南町奉行を務め、北条安房守氏平が北町奉行を務めている。
大谷女子大学教授の高橋圭一はお七の時代の火付改役は犯人の逮捕と奉行所への送付が仕事で裁判は町奉行所の仕事のはずであり、前述の中山が判決まで下したと言う各種の作品は創作であろうとしている。
文芸作品によっては八百屋お七物の登場人物として、南町奉行甲斐庄正親や北町奉行北条安房守氏平がお七の裁きの奉行を務めることがある。彼らも本音ではお七の命だけは助けてやりたいが、お七が正直に自白してしまったのでやむなく定法通り火あぶりにする奉行、と設定されることが多い。
   土井大炊頭利勝​
史実では家康・秀忠・家光の三代に仕えた武士で、江戸幕府の老中・大老までつとめた古河藩16万石の大名(1574-1644)。お七の事件の約40年前に亡くなっているので、史実でお七と絡むことはありえないが、馬場文耕の『近世江都著聞集』や文耕を参考にした物語、落語などでは奉行に命じてお七の年齢をごまかして何とかお七の命を救おうとする人物として登場する。
衣装​
宝永3年(1706年)に八百屋お七を演じた初代嵐喜世三郎が「丸に封じ文」紋をつけた衣装で可愛らしいお七を演じて評判になり以降「丸に封じ文」紋がお七の紋として定着する。文化6年(1809年)『其往昔恋江戸染』で八百屋お七役の歌舞伎役者の五代目 岩井半四郎が麻の葉段鹿子の振袖を着たことから大流行し麻の葉文様は若い娘の代表的な着物柄になり、五代目 岩井半四郎以降は歌舞伎や文楽でもお七の櫓の場では麻の葉の段の振袖が定番になっている。八百屋お七のパロディでもある三人吉三でも、お嬢吉三の衣装は「封じ文」と似て非なる「結び文」紋と櫓の場での衣装は麻の葉段鹿子染めであり、最初に提示した月岡芳年の八百屋お七の絵でも一部に麻の葉の鹿子柄が見える。
平成21年の歌舞伎座公演『松竹梅湯嶋掛軸』の「櫓の場」ではお七と下女お杉二人の前半ではお七の衣装は黄八丈格子縞の町娘の普段着風の着物、お杉が退場しお七一人(と黒衣)の人形振りの場の途中から早変わりで着物が浅葱色と紅色の麻の葉の段鹿子の振袖に変わる。そのように現代の歌舞伎舞踊では前半は黄八丈の町娘の普段着風、それが櫓の場の見せ場では麻の葉の段鹿子の振袖に変わることが多い。
文学では西鶴は避難した先の寺でお七に貸し与えられた振袖を黒羽二重の大振袖、桐と銀杏の比翼紋で紅絹裏の裾を山道形にふさをつけ色めいた小袖の仕立て、焚き込めた香の薫もまだ残っているとしている。
天和笑委集では火あぶりの前に江戸市中でさらし者にされているお七には「肌には羽二重の白小袖、甲州郡内の碁盤縞、浅黄の糸にて縫いたる定紋の三つ柏五ッ所に桃色の裏付けて一尺五寸の大振袖上に重ね、横幅広き紫帯二重にきりきりと引き回し後ろにて結び留め、襟際少し押し広げ、たけなる黒髪島田に結い上げ、銀覆輪に蒔絵書いたる玳瑁(タイマイ)の櫛にて前髪押さえ、紅粉を以って表(顔)をいろどる」と豪華な装いをさせている。
遺言​
創作として何人かの作家達はお七に遺言をさせている。
紀海音は「八百屋お七恋緋桜」のなかでお七の遺言として『ゆしまにかけししやうちくばい 本こうお七としるしをく。十一才の筆のあと見し人あらばわたくしの。かたみと思ひ一へんの御ゑかうたのみ奉ると。』としている。(意訳 (私が11歳のときに)湯島(の寺)にかけた松竹梅の額に本郷お七と書きました。私の十一才の筆跡を見た人がいらっしゃいましたら私の形見と思って一片の供養をしてやってください。)歌舞伎や浮世絵で八百屋お七の題に「松竹梅湯島掛額」とつけているものがある。
井原西鶴は、死出のはなむけに咲き遅れの桜の枝を渡されたお七の辞世として『世の哀れ春ふく風に名を残しおくれ桜の今日散し身は』としている。
お七の年齢と裁判制度​
現代の「八百屋お七」の物語では落語などを中心に「当時の江戸では火付け犯は15歳を過ぎれば火あぶり、15歳未満は罪を減じて遠島の定めだった」とし、お七の命を救ってやりたい奉行がお七の年齢をごまかそうとして失敗するものが多い。人情話としては面白いが専門家からは疑問が呈されている設定であり、またこの設定は西鶴などの初期の八百屋お七物語には見られない。
放火犯について15歳以下ならば罪を減じて遠島(島流し)にする規定が明確に設けられたのはお七の死後40年ほどたった徳川吉宗の時代享保8年(1723年)になってである。ただし、享保8年(1723年)以前にも年少の殺人犯については死罪は避けようという諸規定は存在したが、放火犯については明確な規定は無く、また『天和笑委集』第10章では13歳の放火犯喜三郎が火刑になった記述がある。
最初期のお七の伝記である西鶴の『好色五人女』の八百屋お七物語では裁判の場面はない。『天和笑委集』では裁判の場面はあるがお七の年齢を詮議する記述はない。1715-16年の紀海音の『八百屋お七』や1744年為永太郎兵衛『潤色江戸紫』でもお七を裁く場面はない。しかし、お七の事件から74年後の馬場文耕の『近世江都著聞集』では裁判の場面が大きく取り扱われ、お七の年齢を15歳以下だと偽って助けようとする奉行が登場するようになる。馬場文耕の『近世江都著聞集』は後続の作家に大きな影響を与え、これ以降の作品ではお七の年齢の扱いで生死を分けることにする作品が続出してくる。馬場文耕の『近世江都著聞集』には史実としてのリアリティはまったく無いが、講釈師文耕ならではの創作に満ち溢れ、お七の年齢詮議の話も文耕の創作であろうとされている。
「お七」ゆかりの史跡​
一家が避難した寺​
唯一の歴史資料ではお七が放火に至った経緯や理由は一切不明だが、創作の八百屋お七物語では避難先の寺でお七は恋人と出会い、それが物語の発端となる。
『天和笑委集』でお七一家が避難したとされる「正仙院」という寺を実在の寺として見つけることはできないが、延宝8年(1680年)の『江戸方角安見図』では本郷森川宿の近くに「正泉院」という寺を見つけることが出来る。江戸災害史研究家の黒木喬によると正泉院はお七一家が焼け出された天和2年師走28日(新暦1683年1月25日)の火事の火元となった大円寺の裏にある寺だが火元でありながら大円寺自身は大して焼けなかったように正泉院も焼けなかったのだろうとして、黒木はこれが天和笑委集でいう正仙院ではないか?としている。『江戸方角安見図』はインターネットで公開もされているが江戸方角安見図の駒込一の右下隅に「正泉院」が見える。
西鶴が二人の恋の場の寺の名を駒込・吉祥寺とし、西鶴の流れを汲む多くの作品や現代の歌舞伎などでも吉祥寺が避難先の寺とされるが、お七一家が家財道具を持って逃げるには少し遠い(西鶴の好色五人女の挿絵では家具類を持って避難している)。黒木は西鶴が大阪なので大阪でも名の知られている寺を物語の舞台に選んだのだろうとしている。日本大学藝術学部教授を務めた目代 清も避難先はおそらくは円林寺か円乗寺で少なくとも吉祥寺ではないと断言している。
近世江都著聞集や加藤曳尾庵の『我衣』(文政8年(1825年))などでは円乗寺としている。
墓所​
円乗寺のお七の墓は、元々は天和3年3月29日に亡くなった法名妙栄禅尼の墓である。これがお七の墓とされて、後年に歌舞伎役者の五代目岩井半四郎がお七の墓として墓石を追加している。しかし、矢野公和はこれに疑問を呈している。単なる死罪ですら死体は俵に入れて本所回向院の千住の寮に埋めるに留まるが、その死罪よりも重罪である火刑者が墓に葬られることは許されるはずも無いと矢野は指摘している。仮に家族がこっそり弔うにしても、寺に堂々と墓石を立てることはありえない。また、お七の命日を3月29日とする資料は逆に墓碑を根拠としたものであろうとも指摘されている(お七の刑死後数年で発行された天和笑委集ではお七の命日を3月28日としている)。
円乗寺の他にも千葉八千代の長妙寺にもお七のゆかりの話と墓があり、鈴ヶ森刑場に程近い真言宗寺院・密厳院には、刑死したお七が埋葬されたとの伝承や、お七が住んでいた小石川村の百万遍念仏講が造立(貞享2年(1685年))したと伝わるお七地藏があるほか、岡山県御津町にもお七の物とされる墓がある。岡山のお七の墓ではお七の両親が美作国誕生寺の第十五代通誉上人に位牌と振袖を託し供養を頼んだのだと言う。さらに吉三郎の物とされる墓は、目黒大円寺や東海道島田宿、そのほかにも北は岩手から西は島根まで全国各地にある。また、お七と吉三郎を共に祭る比翼塚も目黒大円寺や駒込吉祥寺などにある。
後世への影響​
伝説​
「八百屋お七」を題材とするさまざまな創作が展開されるのに伴い、多くの異説や伝説もあらわれるようになった。
お七の幽霊が、鶏の体に少女の頭を持った姿で現れ、菩提を弔うよう請うたという伝説もある。大田蜀山人が「一話一言」に書き留めたこの伝説をもとに、岡本綺堂が『夢のお七』という小説を著している。
大和高田市には「八百屋お七」のモデルとして、大和国高田本郷(現在の大和高田市本郷町)のお七(志ち)を挙げる説もある。高田本郷のお七の墓と彼女の遺品の数珠は常光寺に現存する。地元では、西鶴が高田本郷のお七をモデルに、舞台を江戸に置き換えて「八百屋お七」の物語を記した可能性があるとしている。ただし、大和高田市のお七の数珠には享保10年(1725年)とあり、これは井原西鶴の好色五人女が書かれた貞享3年(1686年)の39年後である。また、常光寺の享保年間の過去帳には 死刑囚「しち」という名が見えるともされているが、同じく享保年間は井原西鶴よりも後の年代である。
一方、吉三郎は信濃国の善光寺を参詣し、お七の供養のために地蔵を奉納したという。今も境内にその地蔵があり「ぬれ仏」とも言われる。
お七風​
江戸時代にもインフルエンザの流行は多く、お七が亡くなった1683年以降の100年間に限っても11回の流行があった。お七の死から120年近くたった1802年の流行は漂着した外国人から伝わっていったとされるもので、長崎から九州各地さらに上方に流行の範囲を広め、その外国人の出身地をとった「アンポン風」や流れ着いた地の「さつま風」あるいはそのころお七の小唄が流行っていたので「お七風」とも呼ばれた。上方では病人がいない家はないほど流行したが死者は多くは出なかった流行風邪である。
迷信​
干支の丙午(ひのえうま)年の生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮めるという迷信は、丙午の年には火災が多いという江戸時代の初期の迷信が、八百屋お七が1666年の丙午生まれだとされたことから、女性の結婚に関する迷信に変化して広まって行ったとされる。
この迷信は昭和の時代になってすら強く、昭和41年(1966年)の出生率は前年に比べて25%も下がる影響があった。しかし、江戸時代には人の年齢はすべて数え年であったため、もしも八百屋お七が1666年の丙午生まれならば、放火し火あぶりにされた天和3年(1683年)には18歳になってしまう。西鶴や紀海音などの各種の伝記では16歳となっている。紀海音が『八百やお七』でお七を丙午生まれとし、それに影響された為長太郎兵衛らの『潤色江戸紫』がそれを引き継ぎ、また、お七が延宝4年(1676年)谷中感応寺に掛けた額に11歳との記載があると馬場文耕が『近世江都著聞集』で述べたことも生年を寛文6年(1666年)とする根拠となった。海音は強い影響力を持ち、近世江都著聞集も現代では否定されているものの長く実説(実話)とされてきた物語であり、数多くの作品が近世江都著聞集をもとにしていて、お七の丙午年生まれ説はこのあたりから生じている。 
 
 
心中事件の劇化

 

貞享2年(1685)に井原西鶴によって書かれた「好色二代男」の巻八「流れは何の因果経」の項に、その頃大阪新町遊郭(公娼)にて心中沙汰を引き起こした遊女の名前を次のように列拳している。  
「我がふる里のみしりし女郎計、詠めける久代屋の紅井、紙屋の雲井、京屋の初之丞、天王寺屋の高松、和泉屋の喜内、伏見屋の久米之介、住吉屋の初世、小倉屋の右京、拍屋の左保野、大和屋の市之丞、新屋の靫負、丹波屋の瀬川、野間屋の春弥、新町ばかりも是なれば、外は貌も見知らず、名も覚えず。扠もおそろしき事かな。半時は程は血煙立て、千種を染めしか、夜明けて見るに、影も形もなかりき。されば此おもひ死を、よくよく分別するに、義理にあらず、情にあらず。皆不自由より無常にもとづき、是非のさしずめにて、かくはなれり。其のためしには、残らずはし女郎の仕業なり。男も名代の者はたとへ恋はすがるとても、雲井は大夫職にしてかかるあさましき最後、今に不思議なり、兎角やすものは銭うしないと申せし」  
新町だけても僅かの間にこれだけの心中が起きていることから見て、大阪の各所に散在する遊所(私娼窟)でも同様な事が多発していたと推測出来る。又、西鶴も心中の大半は安女郎と名も無い庶民とのもので、義理や人情からではなく、借金にて身を縛られた不自由からの脱却と現世への無常が原因によると書いている。だから、最高の大夫という地位に居て、身を縛られているとは云え栄華な生活を約され、身請けのチャンスのある雲井が心中したことが解せぬと云っているのである。  
この内に名前の出て居る大和屋市之丞の心中事件は、こぜの長右衝門と生玉にて天和3年(1683)5月17日に発生したもので事件後直ちに芝居に取り上げられ、大阪の3芝居にて「生玉心中」と云う外題にて競演された。伊原青々園著「歌舞伎年表・第一巻」には、この「生玉心中」が心中物芝居の本邦初と記している。この生玉というのは生玉神社の事で、この境内では後に多くの心中事件が起きている。  
天和年間の頃から上方では何故か心中事件が多発するようになり、中でも興味をそそる心中は速報性を旨とする人形浄瑠璃や歌舞伎狂言に格好な材料を提供する結果となった。  
「生玉心中」に続いて歌舞伎狂言に取り上げられた心中事件は、元禄8年12月7日(1695)に起きた世に言う「三勝半七の心中」である。この事件は「元禄宝永珍話」に「三勝半七相対死一件」として事件を処理した「摂州西成郡下難波村御代官之扣帳」が収められたおり、事件は摂津国西成郡下難波村の法善寺の墓地南側の畑の石垣の側にて、大和国宇治郡五條新町豆腐屋赤根半七と大阪島の内の笠屋抱え芸子三勝が喉を切って心中したもので、半七が事業の資金繰りが付かなくなり、心中を持ちかけ三勝が同意した故の心中であった。  
この事件は直ちに歌舞伎狂言化され、翌9年正月2日に大阪岩井半四郎座にて「あかねの色揚」と云う外題にて上演され150日間のロングランをしたと云う。この芝居を見て大阪下博労町にて心中が起きたと「新色五巻書」に書かれているそうだ。この事件を題材にした歌舞伎狂言が江戸にて上演されたのは遅く、事件後21年を経た享保元年(1716)江戸中村座にて「半七三かつ心中」として上演されたのが始めである。この事件は以後様々な形で浄瑠璃や歌舞伎狂言に取り上げられて広く流布されてれいる。  
元禄12年(1699)正月には大阪嵐三右衛門座にて歌舞伎狂言「石掛町心中・おつや佐吉」が上演された。同年12月8日に大阪千日寺にて起きた大阪淡路町伊賀屋三郎兵衛と北新地茶屋菱屋抱え酌婦おせきとの心中事件は、直ちに京都山下半左衛門座にて翌年正月に切狂言「心中茶屋咄」として上演され大当たりを取り、次いで大阪岩井四郎座「千日寺心中」、大阪荒木座「千日寺心中」と各座が取り上げ上演した。  
元禄15年(1702)には世に「お俊伝兵衛」と喧伝される心中事件が起きた。これは京都堀川通さはらぎ町八百屋与助娘おしゅんと小川通米屋庄兵衛が京都三本木河原にて心中した事件で、同年京万太夫座にて「米屋心中」翌年夏に早雲座にて「三本木河原の心中」の外題にて上演された。この事件は元禄末期に京阪にて起きた相対死を実録風に書いた書方軒著「心中大艦・五巻」(宝永元年(1704)刊行)の巻2京の部に「東河原夜明の紅」と題して心中までの過程を書いている。簡単に述べると、おしゅんは17歳から3年間の妾奉公を終え家に戻っていた。近くに住む庄兵衛は最近妻を亡ない寡夫であった。おしゅんを見染めた庄兵衛はおしゅんを妻にと申し入れたが、おしゅんの親は娘に寄生して生きているので、年契約の妾奉公、年30両、季節毎の仕着を提供を条件として出した。借財を持つ庄兵衛はおしゅんを忘れられず、諸所より借財しておしゅんを囲った。契約切れ近くになり、おしゅんは親が次ぎの妾奉公先を探していると告げるが、おしゅんに深く愛情を抱きながらも多額の借財を抱える庄兵衛は継続して契約をすることが出来ないと真情を話す。おしゅんも庄兵衛に愛情を抱いており、親の食い物になっている現状から逃れたいと、二人は駆け落ちをすることに決めた。  
しかし、おしゅんの真情に触れた庄兵衛は一人で自殺すると心に決めて家を出るが、態度に不審を抱いたおしゅんは後を追い、東河原にて庄兵衛を見つけ、二人の愛を完遂するには友に死するしかないと、ここに心中を成した。  
元禄16年(1703)4月7日に大阪内本町醤油問屋手代徳兵衛と大阪蜆川(北新地)天満屋抱え芸子お初が曽根崎天神の森にて心中した。直後の4月25日には大阪竹鳩幸右衛門座にて「曽根崎心中」の外題にて上演され、次いで京阪の各座にて競演された。やや遅れて近松門左衛門が浄瑠璃を書き、「人形浄瑠璃・曽根崎心中」外題にて上演。近松作のこの浄瑠璃は、心中を美化し、扇動するかの様な聞く人を同化させる美しい文章にて彩られている。その一例として、「逢ふに逢われぬ其の時は、此の世ばかりの約束か、さうした例のないでなし」や、「誰が告ぐるとは曽根崎の、森の下風音に聞こへ取伝へ、貴賎群衆の回向の程、未来成仏疑ひなき恋の手本となりにけり」や、大詰も死への道行に語らえる「この世も名残夜も名残、死に行く身に譬ふれば、仇しか原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそ哀れなれ。あれ数ふれば七つの時が六つなりて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂減為楽と響くなり」は見物客に紅涙を絞らせ、大当りとなった。中にはこの芝居を見て心中をするものまで現れたと言う。この浄瑠璃は数多くの心中物を書いた門左衛門の第一作である。  
近松門左衝門作浄瑠璃「曾根崎心中」は「お初徳兵衛」の名にて今でも親しまれ、心中現場の曽根崎の森跡には[お初天神](大阪の繁華街北の新地の中にある)か祭られている。歌舞伎化されたのは享保4年(1719)4月江戸中村座である。また、この心中は様々な外題にて上演されており、宝歴5年7月江戸森田座狂言「女夫星浮名天神・お初徳兵衛」の道行の場では、富本節「道行時雨の柳」[初代富本豊前作曲]が用いられている。  
元禄16年(1703)7月には、堺の帯屋手代久兵衛が、組絲屋菱屋娘お初と井戸へ投身心中した事件が起きた。当地に興行中の豊竹若太夫か直ちに「心中泪の玉の井」と題する人形浄瑠璃を作り上演、帰阪後豊竹座にて再演し好評を得た。  
伺年秋、大津柴屋町の芸子小稲と屏風屋稲野屋半兵衛が、近江八景の一つである唐崎の松の根方にて情死[心中大鑑三に辛崎心中として記載あり]したのを、近松門左衛円が歌舞伎狂言「唐崎八景の屏風」として書き下ろし、京都早雲座にて上演した。  
これ以後も続発する心中事件は芝居・浄瑠璃に多く取り上げられ、特に近松門左衛門と竹本義太夫のコンビによる人形浄瑠璃はそれぞれが好評を得た。  
宝水3年(1706)正月には、元禄16年(1703)に大阪新町にて薩摩藩士が湯女を多く殺傷した事件[西鶴著・好色五人女にある「おまん源五兵衛」の話〕と、寛永3年(1627)9月27日に京都東山麓の鳥辺山にての心中事件をない交ぜにした歌舞伎狂言が、京都万太夫座にて「鳥辺山心中・おまん瀕五兵衛」として上演され、京阪の各座が競演した。この内、大阪岩井半四郎座では、「鳥辺山心中・お染半九郎」と実名にて上演し、道行の場では地歌「鳥辺山」を用いた。  
鳥辺山心中と云うのは、二条城勤番旗本菊池半九郎が勤番明けにて江戸へ戻る直前に、酒の上の口論にて同僚の弟坂田源四郎を斬殺し、逃れられず馴染みの祇園の茶屋若松抱えお染と鳥辺山葬祭地にて情死した事件である。この心中は明和3年(1766)の人形浄瑠璃「太平記忠臣講釈」五番目にも扱われており、宮薗節「鳥辺山・道行人目の重縫」[近松半二作詞・二世宮薗薗舌八作曲]が使用さ丸ている。  
また、「おまん源五兵衛」を題材とした狂言が以後様々に作られており、「おまん源五兵衛物」と呼はれている.  
宝水3年(1708)2月には、大阪千日寺にて萬屋助六と京島原遊郭の遊女揚巻が情死した。この心中を題材にして11月に京都早雲座では芝居「助六心中紙子姿」、大阪片岡仁左衛門座切狂言では「京助六心中」が上演され、京助六心中の道行の場で蛙一中節「助六心中」が使用された。  
後に多く作られ「助六物」と呼ばれるものの始であるが、心中を主眼に置いた上方風助六である。江戸風の助六は、この事件を題材にながらも、助六を男伊達に仕立てた任侠物で、正徳3年(1713)4月に江戸山村座にて二代目団十郎が演じた、津打治兵衛作「花館愛護桜」が初めてである。  
享保18年(1733)正月中村座狂言「英分身曽我」二番目狂言「助六」では浄瑞璃に河東節「助六・所縁江戸桜」が用いられ、以後の江戸風助六物上演には河東節が勤めることが約され、この決まりは現在でも続いている。  
現在「助六」と云うと江戸風助六を指す。  
翌4年(1707)には、宝永元年(1704〉に大阪万年町紺屋徳兵衛と六軒町重井筒屋抱え遊女おふさが、高津の大勧進所にて情死した事件を基に、近松門左門が人形浄瑠璃「心中重井筒・おふさ徳兵」を書き竹本座にて上演した。この歌舞伎化は享保5年(1722)正月で、江戸中村座二番目狂言として演じられた。  
同6年(1709)には、同年6月1日に大阪で起きた鍛冶屋弟子平兵衛と蜆川(北新地)の遊女小かんが、北野の藍畑にて心中したのを近松が浄瑠璃に仕組み「心中刃は氷の朔日」が竹本座にて上演された。  
同7年(1710)春には、正月に大阪の質屋油屋お染と店の丁稚久松が不義理を成し、添えぬことを嘆いて店の油組工所にて情死した事件を紀海音が浄瑠璃にし「おそめ久松袂の自絞り」を書き豊竹座にて上演した。この浄瑠璃は以後様々に作られる「お染久松物」の始である。  
このお染久松の事件にはいろいろの説があり、原田光風座著の随筆「及瓜漫筆」には、「油屋の娘お染は4歳、丁稚久枚13歳、同年正月元旦の事、年始客が多いので久松が子守を任された。お染が井戸に興味を持ち覗いているうちに誤って落ち溺死した。主人の娘を死なせた責任の重大さに気付いた久松は、やむなく土蔵に入り首を括って自殺した。これを面白く心中物として芝居にした」と、過失失を悔いての久松自殺説を書いている。  
明和5年(1768)2月大阪角の芝居(中山座)の並木正三・並木宗輔作の狂言「お染久松増補袂自絞」の道行の場では、宮薗節「道行夢路の春雨」が用いられ、安承9年(1780)大阪竹本座め近松半二作人形浄瑠璃「新版歌祭文・お染久松」は数あるお染久松の集大成とも云われ、義太夫「野崎村の段」はよく知られており、また、暮切れの花道への引っ込みに用いられる連れ弾きの伴奏も良く知られている。文化10年(1813)3月の江戸森田座切狂言「心中里の噂の」(鶴屋南北作)では、「お染の七役」があり、お光の役では、常磐津「お光狂乱」(三世瀬川如皐作詞・四世岸澤古式部作曲)が用いられた。文政8年(1825)11月江戸中村座顔見世狂言「鬼若根元台」の二幕目大切所作事として清元「お染・道行浮塒鴎」(四世鶴屋南北作詞・初世清元斎兵衛作曲)が初演された。  
宝永7年(1710)から享保7年く1722)に掛けては、近松門左衛門の手により今に残る心中物浄瑠璃が作られた時期に当たっている。  
宝永7年(1710)2月7日、高野山女人堂にて寺小姓成田久米之介と高野山山麗の紙谷宿の娘お梅が情死した事件に、八百屋お七を絡ませた近松門左衛門作人形浄瑠璃「心中万年草」が竹本座にて4月に上演。  
正徳2年(1712)秋には、同年京都にて起きたお花と半七の情死事件に、同じく大坂長町にて起きた女の腹切事件とを岩び付けて、「お花半七・長町女腹切」が竹本座にて上演。  
正徳5年(1715)5月には、前年5月5日に大阪松屋町茶碗屋一津屋五兵衛伜嘉平次と伏見坂町柏屋抱え遊女おさがが生玉神社の境内にて心中した事件を題材にした「生玉心中・おさが嘉平次」が竹本座にて上演。  
享保5年(1720)12月には、現在でもしばしは取り上げられる近松門左衛門の代表作である「心中天の綱島・小春冶兵衛」が竹本座にて上演。この作品は同年10月14日に、大坂綱島の大長寺の墓地にて天満お前町紙屋治兵衛と曾根崎新地紀の国屋抱え遊女小春が情死した事件を題材にして作られており、上の巷「河庄」か有名である。  
この浄瑠璃は後に様々な改作物か上演されたが、其のうち近松半二が改作したものを土台にして安永7年(1778)に大坂北の芝居にて上演されたのが歌舞伎上演の最初である。  
外題の「天の綱島」は心中壌所の綱島と諺の「天綱恢恢疎にして漏らさず」より取って作られており、この諺は「天の法綱は目か粗いようだが、神は全てを見通しておるので、悪人は漏れ無く捕らえられる」を意味しています。  
享保7年(1722)4月5日に起きた事件は、近松門左衛門のライバルである紀海音との競作となった。この事件は大阪生玉の馬場先にある大仏勧進所にて、山城国上田村百姓平右衛門妹で大坂油掛町八百屋川崎屋源兵衛養女千代が夫半兵衛と心中した夫婦心中事件である。原因は養父が夫のある千代を日夜口説き、養母に話しても直らず、夫も養子故に義理に縛られ離縁される事になったが、二人は離れられず、心中する事にて添え遂げようとした事件であったと云われている。  
紀海音は直ちに事件を脚色して人形浄瑠璃「心中二腹帯・お千代半兵衛」を翌日豊竹座にて上演され、同22日には竹本座にて近松松門左衛門作「心中宵庚申・お千代半兵衛」が上演された。  
この作品を最後として心中物浄瑠璃は暫時作られなくなった。その理由は心中多発か社会現象となったことに対処するために、翌年2月29日に出された幕府の「心中法度」により、以後心中物芝居・浄瑠璃の新作・上演が禁じられたことによる。 
 
 
歴史に取り憑かれた鴎外

 

「渋江抽斎」 (抜粋) 
・・・・・・ わたくしの獲た五郎作の手紙の中に、整骨家名倉弥次兵衛の流行を詠んだ狂歌がある。臂を傷めた時、親しく治療を受けて詠んだのである。「研ぎ上ぐる刃物ならねどうちし身の名倉のいしにかゝらぬぞなき。」わたくしは余り狂歌を喜ばぬから、解事者を以て自ら居るわけではないが、これを蜀山等の作に比するに、遜色あるを見ない。筠庭(ゐんてい)は五郎作に文学の才が無いと思つたらしく、「歌など少しは詠みしかど、文を書くには漢文を読むやうなる仮名書して終れり」と云つてゐるが、此の如きは決して公論では無い。筠庭(ゐんてい)は素漫罵(まんばけなす)の癖がある。五郎作と同年に歿した喜多静廬を評して、「性質風流なく、祭礼などの繁華なるを見ることを好めり」と云つてゐる。風流をどんな事と心得てゐたか。わたくしは強ひて静廬を回護(かいご弁護)するに意があるのではないが、これを読んで、トルストイの芸術論に詩的と云ふ語の悪解釈を挙げて、口を極めて嘲罵してゐるのを想ひ起した。わたくしの敬愛する所の抽斎は、角兵衛獅子を観ることを好んで、奈何なる用事をも擱(さしお)いて玄関へ見に出たさうである。これが風流である。詩的である。  
五郎作は少(わか)い時、山本北山(ほくざん)の奚疑塾(けいぎじゆく)にゐた。大窪天民は同窓であつたので後に迨(いた)るまで親しく交つた。上戸の天民は小さい徳利を蔵して持つてゐて酒を飲んだ。北山が塾を見廻つてそれを見附けて、徳利でも小さいのを愛すると、其人物が小さくおもはれると云つた。天民がこれを聞いて大樽を塾に持つて来たことがあるさうである。下戸の五郎作は定めて傍から見て笑つてゐたことであらう。  
五郎作は、又博渉(はくせふ)家の山崎美成(よしゝげ)や、画家の喜多可庵(きたかあん)と往来してゐた。中にも抽斎より僅に四つ上の山崎は、五郎作を先輩として、疑を質すことにしてゐた。五郎作も珍奇の物は山崎の許へ持つて往つて見せた。  
文政六年(1823)四月二十九日の事である。まだ下谷長者町で薬を売つてゐた山崎の家へ、五郎作はわざわざ八百屋お七のふくさといふものを見せに往つた。ふくさば数代前に真志屋へ嫁入した島と云ふ女の遺物である。島の里方を河内屋半兵衛と云つて、真志屋と同じく水戸家の賄方を勤め、三人扶持を給せられてゐた。お七の父八百屋市左衛門は此河内屋の地借(ぢがり借地人)であつた。島が屋敷奉公に出る時、稚なじみのお七が七寸四方ばかりの緋縮緬(ちりめん)のふくさに、紅絹裏(もみうら)を附けて縫つてくれた。間もなく本郷森川宿(もりかはじゆく)のお七の家は天和二年(1682)十二月二十八日の火事に類焼した。お七は避難の間に情人と相識(さうしき)になつて、翌年の春家に帰つた後、再び情人と相見ようとして放火したのださうである。お七は天和三年三月二十八日に、十六歳で刑せられた。島は記念(かたみ)のふくさを愛蔵して、真志屋へ持つて来た。そして祐天上人(いうてんしやうにん)から受けた名号(みやうがう)をそれに裹(つゝ)んでゐた。五郎作は新にふくさの由来を白絹に書いて縫ひ附けさせたので、山崎に持つて来て見せたのである。  
五郎作と相似て、抽斎より長ずること僅に六歳であつた好劇家は、石塚重兵衛である。寛政十一年(1799)の生で、抽斎の生れた文化二年には七歳になつてゐた。歿したのは文久元年(1861)十二月十五日で、年を享くること六十三であつた。 ・・・・・・
森鴎外の『渋江抽斎』は「その三十」で抽斎の四人目の妻の五百(いほ)が登場するところから俄然面白くなる。この女性が実に魅力的なのだ。どうしてNHKはこの人を朝ドラの主人公にしないのかと思ふほどである。  
この作品の題名となつてゐる渋江抽斎本人は、儒学の教へである「無為不言(ぶいふげん)」を忠実に守つた人なので、その人生には何ら波乱に富んだことはない。まじめで正直で情が厚く、困つている人がゐればよろこんで助けてやる立派な人で、勉強熱心で出世も遂げた人だが、残念ながらこの人の人生は面白くおかしくもない。  
ところが五百は勇気と行動力に満ちた積極的な女性で、その人生は冒険あり、立廻りありの波瀾万丈、涙と感動に満ちた英雄伝である。  
だから読者は五百にどうしても感情移入してしまふ。彼女の死は自分の母の死のやうに悲しくなる。最後に五百を一人で買い物にやらせたことを、息子の保(たもつ)とともに後悔する。五百がしきりに話をしてゐたのが急に黙つて座つてしまた場面を思ひ出すたびに目に涙が浮かぶのである。  
読者は五百が地動説を知つてゐたことを鴎外と共に誇りに思ふのである。子供時代に江戸城に務めてゐた五百が本丸に棲む物の怪の正体を一人で突き止めたことを誇りに思ふのである。三人の強盗に囲まれて何も出来ない抽斎を救ふために、風呂場から半裸のまゝ短剣を口にくはえて手に湯桶をもつて強盗に立ち向かつた五百を誇りに思ふのである。  
鴎外の『渋江抽斎』はこの五百といふ人を描き出したことで、永遠の価値を得たと言へる。  
五百以外に面白い人物といへば息子の優善(やすよし)だらうか。真面目一家の中で一人だけぐれる。抽斎の蔵書を勝手に持出して売り払ふ。この家にとつてまるで疫病神のやうな存在である。なぜこんな人間ができたのか不思議であり鴎外もその原因を深く追求しないが、優成が先妻の子で一番可愛がられることが少なかつたことは間違ひない。しかし、その優善が明治維新以後、兄弟の中では一番よく出世する。人生の皮肉である。  
次に鴎外が発表した『寿阿弥の手紙』は何と言つても八百屋お七が作つた袱紗(ふくさ)を鴎外が手にするくだりが圧巻である。  
水戸藩御用達の菓子商真志屋(ましや)の隠居が出家して寿阿弥(じゆあみ)と称した。この人は奇行で有名なだけでなく文名も高かつた。たまたま鴎外はこの人の書いた長文の手紙を手に入れて、その一部を『渋江抽斎』の中で紹介した。  
その手紙をもつと詳しく紹介するために書いたのが『寿阿弥の手紙』である。しかし、話は手紙だけでは終らない。鴎外は『渋江抽斎』と『伊沢蘭軒』の取材中に、この寿阿弥といふ人は水戸侯の御落胤だといふ情報を得てゐた。そして鴎外は寿阿弥の菩提寺に参つたときに、寿阿弥の墓に今でも墓参りに来る老女がゐることを聞きつけて、その家を訪問する。  
しかし、その老女の話からは、寿阿弥自身は御落胤ではなく寿阿弥の祖先が御落胤らしいといふことがわかつただけで、寿阿弥自身が何者かは分からないまま引き上げてくる。  
ところがその鴎外のもとに、老女の婿つまりその家の当主が寿阿弥の祖先のことを伝へる文書と遺品をもつてやつてくるのである。そしてその中に八百屋お七の袱紗が含まれてゐた。  
この袱紗については『渋江抽斎』の中で、寿阿弥が家に伝はつてゐるのを見つけて人に見せたことが書かれてゐる。いまそれを書いた鴎外の目の前にその袱紗が時間を超えてやつてきたのである。  
その袱紗はお七の幼なじみのお島といふ娘が武家奉公のために家を出るとき、餞別としてお七が手づから縫つて拵えたものである。そこまでは『渋江抽斎』を書いたときに分かつていた。  
しかし今その袱紗と共に届けられた文書によつてそのお島の奉公先が水戸家であるといふこと、そしてそのお島こそは水戸侯の落胤をはらんで宿下がりになり、そのまま寿阿弥の祖先である菓子商真志屋に嫁いできたといはれてゐる女だといふことが明かになつた。そしてその水戸侯とはほかならぬ水戸光圀であるらしいことが分かつたのである。  
こうして今あのお七の袱紗と真志屋の御落胤問題が島といふ一人の女のもとで一つに繋がつたのだ。  
「八百屋お七の幼馴染で、後に真志屋祖先の許に嫁した島の事は海録(かいろく)に見えてゐる。お七が袱紗を縫つて島に贈つたのは、島がお屋敷奉公に出る時の餞別であつたと云ふことも、同書に見えてゐる。しかし水戸家から下つて真志屋の祖先の許に嫁した疑問の女が即ちこの島であつたことは、わたくしは知らなかつた。島の奉公に出た屋敷が即ち水戸家であつたことは、わたくしは知らなかつた。真志屋文書を見るに及んで、わたくしは落胤問題と八百屋お七の事とがともに島、その岳父、その夫の三人の上に輳(あつま)り来るのに驚いた。わたくしは三人と云つた。しかし或いは一人と云つても不可なることが無からう。その中心人物は島である。」(『寿阿弥の手紙』十八より)  
鴎外の興奮は、ここで二度繰り替へされてゐる「わたくしは知らなかつた」に如実に表れてゐる。まさに仰天ものの発見であつた。こんなにすごいことを経験した鴎外が歴史に取り憑かれてしまつたのは無理もないことであらう。  
かうして鴎外は一片の砂金を求めて川底の砂を浚ひ続ける人のやうに、歴史といふ大河の砂を黙々とさらひ続ける人となる。そして巨大な砂の山を作つた。それが『伊沢蘭軒』であり『北条霞亭』である。しかも、その山から砂金を見つけ出すのは、今度は読者の仕事になつたのである。  
それは『寿阿弥の手紙』の後半にも当てはまる。寿阿弥自身については、江間家からの養子であることはわかつたが、母のことも妹のことも分からずじまいで、あとはただ真志屋の衰退を示す歴史の砂山が延々と築かれていくのである。  
逆に言へば、星のやうに輝く興味深い話を、鴎外はあくまで単調な歴史の中から浮かび上がる出来事として描こうとした。  
だから、例へば『北条霞亭』の最後の淡々とした編年体の記述の中に、何の衒ひもなく、「(明治)三年庚午七月二十八日に笠峰(りつぽう)は根津高田屋の娼妓を誘ひ出だして失踪した。」などといふ文があつさりと挿入される。鴎外はこの事件あるが故に、この伝記を北条霞亭の死後はるか明治の世まで書き継いだのだらう。  
このやうに鴎外の興味はあくまで俗である。鴎外は、人間が求めるものは俗なことであり、俗なことにこそ人間の本当の姿が現れてゐると思つてゐたやうである。彼の興味が、人の立身出世や幸不幸の変転にあつたのは間違ひがない。  
例へば、鴎外が常に人の美醜に言及した。『渋江抽斎』の中では、抽斎の父允成(ただしげ)が美男で、その茶碗の底の飲み残しを女中たちが競つてなめたといふ話を、鴎外は決して書き落としはしない。  
また『伊沢蘭軒』には醜い女をいとはず結婚した男の話が二つも出てくる。どちらの場合も、その男はまるで立派なことをしたかのやうに書いてある。それに対して美しい女たちのゐる遊郭へ入り浸りになる男の話もしよつちゆう出てくるが、それは決して非難の眼差しで見られてはゐない。  
鴎外の歴史小説は普通の小説とは違つて、明確なストーリーはなく、始まりも終わりも主に鴎外その人の興味である。この人のことを調べてみたいといふ興味から話が始まり、その興味の尽きるところでその話が終わる。  
そのほかに鴎外が伝記を書く動機の一つに、取材に協力してくれた人たちへの礼儀がある。『渋江抽斎』の最後に延々と付け加へられた長唄の師匠勝久とその一派の伝記はまさにこれである。話自体は面白いものではあるが、学者の伝記のあとに続けられては違和感を禁じ得ない。  
『伊沢蘭軒』のあとに発表された『小島宝素』は、この考証家を後世に伝へねばといふ鴎外の義務感から書かれたが、これも小島家のために書かれたといふ要素がある。  
『小島宝素』には、宝素の先祖代々の系譜と、宝素と関係のある人々の生死、宝素の住んだ場所、宝素が将軍付きの医師にまで出世した様子、そして息子たちの伝記、墓の場所などが書かれてゐるにすぎない。しかし、この作品は手に入つた情報を全て処理してから書かれてゐるために、読みやすいことは読みやすい。  
歴史に取り憑かれた鴎外はかうして次々に伝記を書いた。伝記を書くには材料を集めなければならない。その材料とは、まづ第一にお墓である。その人について別の人が書いた文章があればそれも使ふ。それは墓碑であつたり書物であつたりする。そして手紙、日記である。さらに詩などの創作物もそこに加はつて来る。  
鴎外は手に入つた材料をなるべく手を加へないままで読者に伝へようとした。だから読者は鴎外と同じ出発点に立つて事実を推測することができる。  
それが『伊沢蘭軒』と『北条霞亭』の場合、蘭軒、霞亭自身の書いた漢詩と手紙である。特に霞亭については既に『伊沢蘭軒』の中で一通りその生涯が描かれたにもかかはらず、その後あらたに借用できた大量の霞亭の手紙を生かすために『北条霞亭』は書かれた。だから『北条霞亭』では手紙の引用が多い。  
それらの手紙からは江戸時代の学者の肉声を聞くことができる。漢詩はそれを文学として味はふといふよりは、むしろそこから詩の材料となつた出来事を引き出すために引用される。まさに考証である。  
詩はもちろんのこと手紙にも年度は書いてないものが多く、それがいつ書かれものかは内容から推測するしかない。そして詩や手紙を時間の順番に並べて、事実を推測し解説を付していく。『伊沢蘭軒』と『北条霞亭』はそのやうにして書かれた。  
しかし鴎外は、蘭軒の詩も霞亭の手紙も、自分が伝へなければ忘却の中に置かれてしまふといふ思ひで多くを書き写した。それが当時の多くの読者から批判を受けた。これでは過去の事実を並べてゐるだけぢやないかと言はれた。  
現代の読者もきつと同じ感想を持つ人が多いに違ひない。だからここであらかじめどこが面白いか知つておくのもよいだらう。  
『伊沢蘭軒』の最初の見所は頼山陽である。頼山陽は二十一歳で家出をして藩の許しを得ずに上京したために寛政十二年から文化二年の五年間父春水の屋敷に幽閉されるが、その直前の寛政九年から十年まで江戸へ旅行をしてゐる。その間にこのやんちや者の若き山陽は何をしでかしたかである。  
少なくとも、十八歳の山陽は江戸のどこにゐたのか。おとなしく昌平黌にゐずにそこを飛び出して伊沢蘭軒の家にゐたのではないかと鴎外は考へるのである。ちなみに、若い頃の放蕩を改めて勉学に励んでその後名を為した例は鴎外の好むところであり、頼山陽もその一人である。  
次の見所は蘭軒が長崎旅行の途次に作つた漢詩を交へた紀行文である。これは芭蕉の『奥の細道』を旅先を長崎にして俳句を漢詩にしたやうなものである。  
俳句なら今では子供でも作る。だから俳句で紀行文を残した芭蕉はいまも有名だが、同じやうにして漢詩で紀行文を残した蘭軒は、森鴎外のおかげで辛うじてこの小説の中に命を永らへてゐるのみである。  
しかし、当時のエリートはみな漢詩を作つた。その筆頭に来るのが江戸時代では管茶山であり頼山陽であつた。明治になつても漱石や鴎外も漢詩を作つた。これは今で言ふと、英語で詩を作るやうなもので、江戸時代以前の日本人は、それほどに中国文化の吸収に熱心だつた。  
蘭軒は、江戸から中山道、山陽道を通つて長崎に至るまでの途中の土地々々の名所をたどりながら、それを漢詩にしていく。『奥の細道』が一種の名所案内であつたのと同じやうに、蘭軒の紀行文も名所案内として読むことが出来る。(この中で蘭軒は宿場といふ言葉を使はずに「駅」といふ)  
鴎外が訳した『即興詩人』もイタリア観光のガイドブックとしての側面があるが、『伊沢蘭軒』もまた名所旧跡と土地の名物を紹介する旅行のガイドとしての価値がある。(例へば、江戸時代に兵庫県の加古川はシタビラメの名所だつたことが分かる)  
渋江抽斎の師の一人であつた医師池田京水といふ人の廃嫡の謎を解くくだりも、『伊沢蘭軒』の中での読ませ所である。  
一旦池田家の嫡男として養子に入つた京水がどうして廃嫡になつたかは鴎外にとつて大いなる謎であつた。この問題は『渋江抽斎』の中で提起されたものであり、『伊沢蘭軒』の中でやつと解決にたどり着く。  
京水の子孫が保存してゐた京水自筆の巻物が鴎外の手にもたらされたのである。それによつて、養父の後妻に嫌はれた京水自らが世継ぎたることを辞退して家を出たことが明らかになる。これまた鴎外にとつて大いなる発見であり、読者を引きつける内容をもつてゐる。  
さて廃嫡されたとき京水はわづかに十六歳であつたが、江戸に出て町医者として開業する。当時の秀才は今の中高生の年齢で教師になり町医者になつた。また、当時の社会は早熟の秀才を受け入れた。京水の医院は大いに繁盛し、京水は最後は幕府に取り立てられるまでになる。  
蘭軒の嫡子榛軒の妻志保の素性も一読に値する箇所であらう。志保は自分の父が誰であるか調べることを、京都に旅立つ小島春庵に依頼する。榛軒の友人であるこの小島春庵こそは後に別の伝記である『小島宝素』の主人公になる人である(人物再登場!)。  
『渋江抽斎』の五百に相当する女性として『伊沢蘭軒』には柏軒の妻たかがゐる。五百がみずから抽斎の妻たらんと欲したやうに、たかは柏軒の妻になることを自ら望んでなつた。両者ともにすぐれた教養の持ち主で、能書家であつた。男勝りの気性の持ち主であつたことも似てゐた。  
蘭軒の次男柏軒の生涯も特筆ものだ。若い頃やんちやものだつた柏軒はある日改心する。その後彼は幕府の医師として最高位まで上り詰める。そしてたつた一人で老中阿部正弘の看病を担当してその死を看取る。蘭方が盛んになる中で、最後の漢方医としての面目を保持したまま死ぬのである。  
戊辰戦争、中でも五稜郭の戦いに従軍した棠軒(たうけん)の日記も興味深い。この日記からは、明治維新とともに漢方医が洋方医に取つて代られ、時刻の表し方が「とき」「こく」から「じ」に変るやうすがよく分かる。初めのうちは、「時」(とき)と「時」(じ)を区別するために、「何じ」は「何字」で表された。三月には「うまのこく」と言つていた同じ人が四月には「十二字」と書くのである。  
棠軒の日録には明治五年十二月二日に太陰暦が太陽暦に変つたことも出てゐる。明日から太陽暦で一月一日とすると言はれたと書いてゐるのである。  
ほかにも、頼山陽の壮絶な最期とそれを見取つた関五郎といふ男は誰かといふ問題等々。『伊沢蘭軒』は読み所満載である。(なほ関五郎は関の五郎ではなく三文字の名前であると思はれる。頼家ではそれが省略されて五郎と呼ばれたのではないか。その253で松坂屋の主人の名前は寿平治であつたが、平治と呼ばれたとある。それと同じであらう)  
その他に面白いのは、番外編として老中阿部正弘侯毒殺説の紹介と、この小説の退屈さを批判する読者に鴎外が反論するところであらう。  
『伊沢蘭軒』は逐次書き足して行つたもので、『小島宝素』のようにまとめて書いたものではないから、しばしば情報が前後で齟齬をきたす場合がある。(例へば、渡辺昌盈の死に場所は「その276」では本所上屋敷だが「その291」では柳島下屋敷となつてゐる。「その276」には上屋敷の当直番を須川隆白に代つてやつたその日に当直の邸が潰れて死んだとあるからである)  
『北条霞亭』は鴎外が主人公である霞亭に自分を仮託して書いた小説である。おそらく鴎外は、手紙の中で家族に様々な指図をする霞亭の姿に「闘う家長」としての自分自身の姿を見てゐたに違ひない。  
名目上の家長の地位は弟に譲りながらも霞亭は精神的には、家族に対して死ぬまで弱音をはかない家長でありつづけた。鴎外は霞亭と自分を同一化するあまりに、最後には、霞亭の死因となる病気を、自分と同じ萎縮腎ではないかと思ひこむほどである。  
『北条霞亭』の中の最大の出来事は、霞亭が菅茶山に惚れ込まれて茶山塾頭になること、霞亭の福山藩への仕官、『小学』といふ本の注釈書の出版、そして何といつても霞亭自身の早すぎる死である。  
霞亭はやつとのことで福山藩といふ大きな藩に就職が叶ひ、しかも大目付格といふ破格の大出世を遂げて江戸まで出てくるのだが、江戸に来てわづか二年で病に冒されて死んでしまふのである。  
霞亭は何とかしてこの病気を治さうと苦闘する。医者を何人も替へたりもしてゐる。脚気だといふことで米を食ふのをやめ、医師の指示通りに塩気断ちもし、壮絶な努力を積み重ねるのである。しかし、最後の手紙を書いてからわづかに二週間で帰らぬ人となつてしまふ。家も新築してさあこれからといふ時の死であるから、その無念は想像に余りある。  
ところで『伊沢蘭軒』も『北条霞亭』も小説とはいへ考証であるから、普通の小説を読むやうにして読んでもなかなか楽しめない。考証、つまり過去の正しい事実をひたすら求めるといふ過程を鴎外と共にするとき、初めて楽しめるものとなる。  
あるいは読者は独自の考証をしながら読むのもよい。例へば、わたしはネット上にあるテキストを修正しながら読んだ。これもまた考証である。だから私はこの小説を楽しめた。  
読者は例へばこれらの小説に書かれている地名が現在どこであるのかを探求しながら読むのもよいだらう。また鴎外が使つた漢字の特徴を検証しながら読むのもよいだらう。あるいはまた、私が修正したテキストに尚も残つてゐるはずの誤字を探しながら読むのもよいだらう。そのやうにすればきつと誰でも倦きることなくこの小説を読み続けられるはずである。  
ただ一つしてはならない読み方があるとすれば、それはストーリーの面白さを求めて読むことである。鴎外の伝へる話の中には小説より奇なるものが多々含まれてゐるが、それはストーリー仕立てではなく、事実の探求の過程で現はれてくるものである。  
鴎外は『大塩平八郎』の「付録」で初めてこの考証をやつてみせた。それを彼は『渋江抽斎』以降、本編の中でやることにしたのである。  
とはいへ、『渋江抽斎』で五百の話を書いた鴎外は、若き日に『舞姫』のエリスを描き『雁』のお玉を描いた鴎外に近いものがある。五百の英雄譚はその真実を厳密に確認したものではないだらう。  
『渋江抽斎』その六十七の義眼の女の話も面白い話ではあるが、嘘ではないかと思はせる。そもそも、日常気づかれない程に精巧な義眼があつたのだらうか。逆に健常者で寝てゐるときに目を開いて寝る人は少なくない。そこから発展した話とも考へられる。  
したがつて、歴史といつてもやはり一種の小説であることを免れない。『寿阿弥の手紙』における水戸光圀の御落胤話も、それが光圀本人の子であるかは推測の域を出ることはない。  
ところで、鴎外の歴史小説を読む楽しみの中に、バルザックの小説の場合と同じく、人物再登場の楽しみがある。『渋江抽斎』の中で脇役で登場した伊沢蘭軒が次は主役になり、『伊沢蘭軒』の中で脇役で登場した北条霞亭が、次の小説に主役として登場するのである。  
『伊沢蘭軒』と『北条霞亭』で重要な役割を演じるのは手紙であるが、これがかなりの難物である。当時の手紙は候文で、漢文のやうで漢文でない書き方をする。それが殆ど当て字なのである。だからそれを知つてゐないと読めないのだ。  
ここにしばらく例を挙げてみよう。まず「而」は「て」、「度」は「たく」と読む。「致」は「いたす」、「間敷」は「まじく」、「遣」は「つかはす」、「罷」は「まかる」、「頼」は「たのむ」、「希」は「ねがふ」、「請」は「こふ」と読む。  
「被」は尊敬の「られ」、「為」は尊敬の「され」、「仕」は「つかまつる」、「奉」は「たてまつる」、「遊」は「あそばす」、「下」は「くださる」、「承」は「うけたまはる」である。  
これらを組合せて、「被遊」は「あそばされる」。「被下」は「くだされる」。「被致」は「いたされる」。「被居」は「をられる」。  
三文字がくつつくと、「仕度候」は「つかまつりたくそろ」。「奉存侯」は「ぞんじたてまつりそろ」、「被成下候」は「なしくだされそろ」、「奉希候」は「ねがひたてまつりそろ」。  
四文字以上になると、「可被下候」は「くださるべくそろ」、「可被成下候」は「なしくださるべくそろ」。「被為入候」は「いらせられそろ」となる。  
また鴎外も漱石も漢文で使はれる漢字を使つて日本語を書いた。それは福沢諭吉も同じである。「云ふ」を全部「言ふ」と書くようになつたのは、ごく最近のことである。鴎外の文章も漢文の読み下し文に近いものである。だから、その書き方の決まり事を知つておく必要がある。  
そのなかから少しを挙げると、「世」は一字で「世々」つまり「代々」と読む。「愈」なども一字で「いよいよ」と読む。「之」は「これ」か「の」に読み分ける。「先々」は「さきざき」ではなく「まづまづ」と読む。  
また「が」は現代語のやうな主語ではなく所有を意味することが多いから注意がいる。逆に「の」が主語を表すことが多い。意味が分からなくなつたら、この「の」と「が」の読み方を間違へてゐることが多い。  
例へば『鈴木藤吉郎』の五に「遠山は中根香亭の伝を立てた帰雲子で、少時森田座囃子方を勤め吉村金四朗と称したと云ふ非凡の才子である」では最初の「の」は主語を表してゐる。中根香亭が遠山金四郎の伝を立てたのである。  
鴎外の史伝は漢詩の読み下し文がついてゐる「ちくま文庫」と岩波の「鴎外歴史文学集」が読みやすいだらう。「ちくま文庫」ではそれがひらがなのルビになつているのに対して「鴎外歴史文学集」では別立ての漢字仮名まじり文として漢詩の後に挿入されている。  
漢詩の現代語訳は岩波では部分的に注記されてゐるのに対して、「ちくま文庫」では漢詩ごとに全訳が付いている。また岩波の読み下し文は音読みが多く、「ちくま文庫」は訓読みが多い。例へば「話勝十年読」を「はなすはじふねんよむにまさる」(ちくま文庫)なのに対して「話は勝る十年の読」(岩波)といつた具合である。  
ただ「ちくま文庫」版の欠点は鴎外の文章を現代仮名遣ひに変へてしまつてゐることである。大正時代に政府が現代仮名遣ひを採用しようとしたときに、鴎外はそれを軍を背景にして強行に阻止した人である。鴎外の遺志を顧みない行為と言はねばならない。  
「鴎外歴史文学集」の『伊沢蘭軒』の注釈は、想定する読者のレベルが中学生程度になつてゐる(その割りに漢字のルビが少ないが)。「廃藩」が「廃藩置県」のことであり「左脛」が「左のすね」であることまで註が付いている。かうした無駄な註が多すぎるために、註が次の頁までせり出すことがよくある。  
「鴎外歴史文学集」では、テキストの漢字の選択に一貫性がない。例へば、「校定」の「校」は前の方では「挍」としてゐるが終盤では校となつてゐたり、「間」が「閨vとなつてまた「間」に戻つたり、ずつと「撿す」で来てゐたのが終盤になると「検す」になつたり、女壻が一カ所だけ女婿になつてゐたりする。  
「相模」もだいたい「相摸」だが終盤では「相模」になる。家族関係の子供のことを表すのに、娘のことをずつと「女」で来たものが急に「娘」(『伊沢蘭軒』その三百五十)になつてゐたり、「悴」が「伜」になつたりする。「輒(すなはち)」も「輙」になつたりする。ふりがなも「達」に「たつし」が終盤では「とどけ」に変つてゐる。  
「解説」によると、『伊沢蘭軒』では鴎外自身の新聞連載の校定を使つたとあるから、このやうな混乱は鴎外自身の校定漏れの結果かもしれない。本文には鴎外自身の書き間違ひまでそのまま残してゐるが、鴎外自身の意図としては直しても良かつたのではないか。現状では読者は注釈を絶えず参考にする必要がある。「解説」には役割分担を明確にして一貫性を持たせてゐるかのやうに書いてはあるが、実際はそれほどでもなささうである。  
漢字は新字に替へてあるのだが、異字体はそのままになつてゐたりとややこしい。  
巻尾の人名注と書名注は玉石混合で、本文にある記載内容を整理したり、言ひ換へただけのものもある。例へば、本文の「嵯峨八百喜」の注が「嵯峨の人」ではあんまりだらう。  
鴎外は革新保守のいづれかと言へば完璧な保守である。社会主義など彼は一揆や打壊しなどと同列にとらへてゐた。彼の尊んだのは精神的なものである。  
「何国にても貧富の違に而、千金を芥にいたし候者も、また銭百文も持不申ものも有之、不同の世也。貧人が富人をうらやむといふは愚者の常なれど、これほど分をしらぬ事はなき也。皆人に命禄といふもの有之候。」今の社会主義乃至共産主義を駁するものとなして読まむも亦可なりである。霞亭をして言はしむれば、社会主義の国家若くは中央機関は愚者の政を為す処である。(『北条霞亭』その十より)  
さて、鴎外の歴史小説の一つである『都向太兵衛』には宮本武蔵が登場する。「武士道とは死ぬことと見つけたり」といふ有名な言葉があるが、それは武蔵の信念でもあつた。そして太兵衛もまた死を恐れないことを身につけた男であつた。  
武蔵は太兵衛がこの武士道の心得をもつてゐる男であることを初対面にして見抜いてしまふ。そして藩主に太兵衛を推薦するのである。太兵衛はその後「死を決してことに当る」の精神をもつて藩主に仕へ、名を残す偉業を成し遂げる。  
一方、鴎外の史伝を読んでいくと、いかに人々が次々に死んでいくかを思はざるを得ない。恐らく鴎外の歴史小説で一番多く使はれてゐる漢字は「歿」であらう。鴎外は死が突然、人の意を無視して訪れるありさまを淡々と描いて行く。武道を重んじてゐた鴎外は、史伝を通じて「人生とは死ぬことである」と言ひたかつたのではあるまいか。  
 
 
淡島様

 

黙阿弥の脚本の「松竹梅湯島掛額(シヨウチクバイユシマノカケガク)」は八百屋お七をしくんだものであるが、其お七の言葉に、内裏びなを羨んで、男を住吉様(スミヨシサマ)女を淡島様(アハシマサマ)といふ条(クダ)りが出てくる。お雛様を祭る婦人方にも、存外、淡島様とお雛様との関係を、知らぬ人が多いことゝ思ふ。  
古くは願人(グワンニン)といふ乞食房主があつて、諸国を廻りめぐつて、婦人たちに淡島様の信仰を授けまはつたのである。そして、婦人たちからは、衣類を淡島様に奉納させたのであつた。  
其由緒(ユカリ)はかうである。昔住吉明神の后にあはしまといふお方があつて、其が白血(シラチ)・長血(ナガチ)の病気におなりになつた。それで住吉明神が其をお嫌ひになり、住吉の社の門扉にのせて、海に流したのである。かうして、其板船は紀州の加太の淡島に漂ひついた。其を里人が祀つたのが、加太の淡島明神だといふのである。此方は、自分が婦人病から不為合せな目を見られたので、不運な人々の為に悲願を立てられ、婦人の病気は此神に願をかければよい、といふ事になつてゐるのである。処々に、淡島の本山らしいものが残つてゐるが、加太の方がもとであらうと思ふ。  
東京の近くで物色すると、三浦半島の淡島があり、中国では出雲の粟島、九州に入ると平戸の粟島などが有名である。凡そ、祭神は、すくなひこなの命といふ事になつてゐる。特に、出雲のは、此すくなひこなが粟幹に弾かれて渡られたのだ、といふのである。すくなひこなは其程小さい神様なのである。国学者の中でも、粟島即、すくなひこな説を離さぬ人がある。  
処が古事記・日本紀などを覗いた方には、直ぐ判ることだが、すくなひこなの命以外にちやんと淡島神があつて、あの住吉明神の后同様に、海に流されてゐるのである。即、天照大神などを始め、とてつもない程沢山の神々の親神であるいざなぎのみこと・いざなみのみことの最初にお生みになつたのが、此淡島神で、次が有名な蛭子神であつた。  
遠い遠い記・紀の昔から、既に、近世の粟島伝説の芽が育まれてゐたことが訣る。一体、此すくなひこなは、常世の国から、おほくにぬしの命の処へ渡つて来た神であり、而も、おほくにぬしと共に、医薬の神になつてゐるし、粟に引かれて来た粟といふ聯関もあり、かたがた淡島神とごつちやにされる原因に乏しくないのである。でも、其は後世の合理的な見解に過ぎないので、もつと色々な方面から、お雛様の信仰と結び附いたのであつた。  
此淡島様の祭日は3月3日であつて、淡島を祈れば、婦人病にかゝらず、丈夫な子を持つ、と信ぜられてゐたのである。此は、3日には女が海辺へ出かけて、病気払ひの祓除(ミソギハラヘ)をした遺風が底に流れてゐるらしい。一方、3月3日を祓除の日とする事は、日本ばかりではなく、支那にもあつた事で、寧、大部分支那から移された風と見ることが出来る。  
唯、単に春やよひの季節のかはる頃、海に出て、穢れを洗ふといふのは、古くからあつたと見られる。支那では、古く3月の初の巳の日、即、上巳の日に、水辺に出て祓除をし、宴飲をした。其が形式化して曲水(ゴクスヰ)の宴ともなつたので、通常伝へる処では、魏(ギ)の後、上巳をやめて3日を用ゐる様になつたが、名前は依然、上巳で通つてゐるのだといふ。同じ例は端午の節供に見出される。始め、五月最初の午の日であつたものが、5日に決められても、やはり、端(ハジ)めの午なのである。  
かうして支那の信仰が、日本在来の宗教上の儀礼と結合して、上巳の祓へといふものが盛大に行はれるに至つたのであつた。唯、必しも女ばかりが、此日に祓除した訣ではなかつたらうが、ともかく、女の重要行事であつた事だけは認められるであらう。 
 
 
八百屋お七口説き 1

 

花のお江戸にその名も高き 本郷二丁目に八百屋というて  
万青物渡世をなさる  店も賑やか繁昌な暮らし  
折も折かや正月なれば 本郷二丁目は残らず焼ける 
そこで八百屋の久兵衛ことも 普請成就をするその中に  
檀那寺へとかり越しなさる  八百屋のお寺はその名も高き  
所駒込吉祥寺様よ 寺領御朱印大きな寺よ 
座敷間数も沢山あれば これに暫くかり越しなさる  
八百屋娘はお七と云うて  年は二八で花なら蕾  
器量よいこと十人すぐれ 花に例えば申そうならば 
立てば芍薬座れば牡丹 歩く姿は姫百合花よ  
寺の小姓の吉山というて  年は十八薄前髪よ  
器量よいこと卵に目鼻 そこでお七はふと馴れ初めて 
日頃恋しと思うて居れど 人目多けりゃ話もできず  
女心の思いの丈を  人目忍んで話さんものと  
思う折から幸いなるか 寺の和尚は檀家へ行きゃる 
八百屋夫婦は本郷へ行きゃる 後に残るはお七に吉山  
そこでお七は吉山に向かい  これ吉さんよく聞かしゃんせ  
あとの月からお前を見初め 日々に恋しと思うて居れど 
親のある身や人目を兼ねて 言うに言われず話も出来ず  
今日は日までも言わずにきたが  わしが心をこれ見やしゃんせ  
兼ねて書いたるその玉章を 吉三見るよりさしうつむいて 
さても嬉しいお前の心 さらば私もどうなりましょと  
主の心に従いましょと  この夜打ち解け契りを結ぶ  
八百屋夫婦は夢にも知らず 最早普請も成就すれば 
明日は本郷に皆行く程に それにつけても私とお前  
別れ別れに居るのは嫌と  実は私も悲しうござる  
言えば吉三も涙を流し わしもお前に別れが辛い 
共に涙の果てしがつかぬ そこで吉三は気を取り直し  
これさお七よよう聞きゃしゃんせ  秋に逢われぬ身じゃあるまいし  
又も逢われる時節もあろう 心直して本郷へ行きな 
わしもこれから尋ねて行くよ 言えばお七も名残を惜しみ  
涙ながらに両親共に  元の本郷に引越しなさる  
八百屋久兵衛日柄を選び 店を開いて売り初めなさる 
その近所の若衆どもを 客に招いて酒盛りなさる  
酒のお酌は娘のお七  愛嬌よければ皆さん達が  
我も我もとお七を名指す わけて名指すは釜屋の武平 
男よけれど悪心者で 辺り近所の札つき物よ  
その夜お七と逢い初めてより  どうかお七を女房にせんと  
思う心を細かに書いて 文に認めお七に送る 
お七方より返事も来ない そこで武平はじれだしなさる  
さらばこれより八百屋に忍び  あのやお七に対面いたし  
嫌であろうがあるまいとても 口説き落として女房にせんと 
思う心も恋路の欲よ 人の口には戸が立てられぬ  
人の話や世間の噂  それを聞くより八百屋の夫婦  
最早お七も成人すれば いつがいつまで独りでおけば 
身分妨げ邪魔あるものよ 早くお七に養子を貰い  
そして二人が隠居をいたす  それがよかろと相談いたし  
話決まれば娘のお七 何を言うても年若なれば 
知恵も思案もただ泣くばかり そこでお七は一室へ入り  
覚悟極めて書置きいたす  とても吉三と添われぬなれば  
自害いたして未来で添うと 思い詰めたる剃刀持ちて 
既に自害をいたさんものと 思う所から釜屋の武平  
さてもお七を口説かんものと  忍ぶ所から様子を見たる  
武平驚き言葉をかける これさお七ゃ何故死にゃしゃんす 
これにゃ訳ある子細があろう 云えばお七は顔振り上げて  
これさ武平さん恥ずかしながら  云わねば解らぬ私の心  
親も得心親類達も 話し相談いたした上で 
わしに養子を貰うと言うが 嫌と言うたら私の不孝  
親に背かず養子にすれば  二世と契りし男にすまぬ  
親の好く人私は嫌よ わしの好く人親達嫌よ 
あちら立てればこちらとやらで 何卒見逃し殺しておくれ  
聞けば武平は悪心起こし  とても私の手際じゃ行かぬ  
さればこれから騙してみんと これさお七やよう聞かしゃんせ 
そなた全体親への不孝 可愛い男に逢われもしまい  
なおもそなたは死ぬ気であれば  これさ火をつけ我が家を焼きな  
我が家焼ければ混雑いたす 婿の話も止めものなれば 
可愛い男に逢われる程に それがよかろと云われてお七  
女心の浅はか故に  すぐに火をつけ我が家を焼けば  
家は驚く世間じゃ騒ぐ 騒ぐ紛れに釜屋の武平 
八百屋財産残らず盗む 又も武平は悪心起こし  
わしが恋路は叶わぬ故に  悪い奴らは二人の者よ  
今に憂き目にあわしてやろと すぐに役所へ訴人をいたす 
そこで所の役人様は 哀れなるかなお七を捕らえ  
町の役所へ引き連れなさる  吟味するうち獄舎に入れる  
後に残りし小姓の吉三 それと聞くより涙を流す 
さても哀れや八百屋のお七 元の起こりは皆俺故に  
今は獄舎の憂き目を見るか  そなたばかりは殺しはせぬぞ  
今に私も未来へ行くよ あわし悪いは釜屋の武平 
わしも生まれは侍故に せめて一太刀恨みを晴らし  
それを土産に冥途へ行こうと  用意仕度で探しに行きゃる  
本郷辺りで武平に出会い 恨む刀で一太刀斬れば 
うんとばかりに武平は倒れ 吉三手早く止めを刺して  
首を掻き切り我が家に帰り  委細残らず書置きいたし  
直にそのまま自害をいたす そこでお七は残らず吟味 
罪も極れば獄舎を出でて 行くは何処ぞ品川表  
哀れなるかや娘のお七  云うに云われぬ最期でござる
 
八百屋お七口説き 2 
月にむら雲 花に風 散りてはかなき 世のならい 
これから始まる 物語 八百屋お七の 物語 
八百屋お七の 云うことにゃ すみからすみまで 毛の話 
ここは駒込 吉祥院 ご朱院なされて うしろより 
ひじで突きつき 目で知らす お話変わりて 八百屋では 
お七の好きな 生なすび 元から先まで 毛が生えた 
とうもろこしを売る 八百屋 いとし恋しい 吉さんと 
四角四面の 屋根裏で おへそくらべも 出来ようが 
女心の はかなさよ 一把のわらに 火をつけて 
ポイと捨てたが 火事のもと 誰知るまいと 思ったに 
天知る地知る 人が知る 丁度これより 四軒目 
釜屋の武平さに 見っけられ 釜屋の武平さが 証人で 
お七はその場で 召捕られ 意見・捕縛に 突出され 
明日は何処へ 廻される しぶしぶ参るは 御奉行殿 
その日の詮議の 役人は お七のためには 伯父になる 
一段高いは 御奉行様 七尺下がって お七坊 
お七いくつで 何の年 紅葉のような 手をついて 
申し上げます 御奉行様 私は十五で 丙午 
お七十四で あろうがの 私の生まれは ひの年の 
ひのえひの時 丙午 七月七日が 誕生日で 
それにちなんで 名もお七 十四と云えば 助かるに 
十五と云った ばっかりに 助かる命も 助からず 
百日百夜は 牢の中 百日百夜が 明けたなら 
がんじがらめに 縛られて 裸の馬にと 乗せられて 
上はせん札 上昇の 罪の明かしを 書きしるし 
大伝馬町は 小伝馬町 米の花咲く 麹町 
江戸楽町へと 引き廻し 恋の花咲く 品川で 
吉野家女郎衆の 云う事にゃ あれが八百屋の 色娘 
髪はカラスの 濡れ羽色 目元ぱっちり 色白で 
口元純情で 鼻高で 女の私が ほれるのに 
吉さんほれるも 無理はない 悟り開けた 坊さんも 
木魚の割れ目で 思い出す 浮世離れた 尼さえも 
バナナのむけ目で 思い出す まして色良い お七坊 
ぞっこんほれるも 無理はない 鈴ケ森へと 着いたなら 
鬼の役人 待ち受けて 死刑台へと 乗せられる 
下から上がる 火の炎 あれさ熱いよ 父さんよ 
あれさ熱いよ 母さんよ いとし恋しいの 吉さんよ 
 
八百屋お七口説き 3 
恋の火がつく 八百屋のお七 お寺は駒込 吉祥院  
寺の和尚さんに 吉さんというて 吉さんは奥の書院座敷の 床の間で   
机にもたれて 学問なさる後より お七そばに さしよりまして   
膝でつくやら 目でしるす これいなもうし 吉さいな  
私しゃ これから 本郷に帰る たとえ本郷と この寺と   
道はいかほど へだつとままよ かならず忘れて 下さるな  
言うてお七は 本郷に帰る 本郷二丁目 角びきまわした 八百屋店  
八百屋の店の 売り物は ごぼうや人参や 尾張の大根じゃ ほしかぶら  
みつばや芹や とうがらし かき豆十八ささぎじゃ こりゃどうじゃ   
望みあるなら 何なとござれ お七ひと間で うたた寝をする  
うたた寝枕で 見る夢は ま一度我が家を 焼いたなら   
またもやお寺に いかれょかと かわいい吉さんに 会われよものと  
夢を見たのが その身の因果 一輪の藁に 火をつけて  
我が家の屋根にと ぽいとほり投げて 火の見やぐらに かきつけて   
ひと段登って ほろと泣き ふた段登って ほろと泣き  
三段四段は 血の涙 火の見のやぐらに かけのぼり   
撞木片手に 四方を見回し 火事じゃ火事じゃと 半鐘をたたく   
江戸の町中は おおさわぎ このことばかりは たれ知るまいと思うたに  
かまゆの ぶ兵次というやつが なんきんどたまを 振りたてて  
なすびみたよな 目をむいて 大根みたよな 鼻たれて  
人参みたよな 舌を出し お奉行様にと 訴人をいたす  
一寸二寸は のがれもしょが 三途のなわに 縛られて  
はだか馬にと 乗せられて 泣き泣き通るは つづや町  
もはや品川 あの通りぬけ 品川女郎衆が 立ち出でて  
あれが八百屋の お七かと うりざね顔で 色白で   
吉さん惚れたは 無理もない 仕置きの場所には 鈴が森   
二丁や四面にゃ 矢来を結うて たつる柱が 首金さぐり    
しばやわり木を 積み立てて  吉さんは 仕置きの場所にかけつけて   
はるかむこうの 彼方より これいなお七 その方は   
あわれななりに なられたな そういうお声は 吉さんかいな   
よう顔見せて おくれたな 我が家を焼いた その罪で   
わたしゃ焼かれて 今死ぬわいな あれが一度に 燃ゆるなら   
さだめしお七 熱かろう 苦しゅかろ ぼうと燃えあがる その声に   
皆いちどきに… 後はホイホイ 涙のたまり水  
 
祭文松坂 「八百屋お七」
一段目 (忍びの段)
   さればに アーよりては これにまた 
   いづれに愚かは なけれども 何新作の なきままに 
   古き文句に 候へど 八百屋お七の 一代記
   事細やかには 読めねども 粗々読み上げ 奉る
花のお江戸に 隠れなき 
所は本郷 三丁目 五人娘に 三の筆 
八百屋の娘に お七とて 歳は二八で 細眉毛 
面白盛りゃ 花盛り 情け盛りや 色盛り 
二十日の闇には 迷はねど 恋路の道の 暗迷ひ 
縁は異なもの 味なもの 小姓の吉三に あこがれて 
今宥は学寮へ 忍ばうか 明日は学寮へ 忍ばうかと 
物憂き月日を 送りしが 夜は夜中の 八つ時分 
母と添ひ寝の 手枕を そよと脱け出て それなりに
寝間着のままで しごき帯 寝乱れ髪を 撫で上げて
さらしの手拭ひ 頬かむり 我が住む寝間を 忍び出で
危なさ怖さを 身にしみて 両親様の 目を忍び
駒込寺へ 忍ばんと やうやう我が家を 忍び出で
お寺を指して 急がるる 寺大門にも なりぬれば
通る大門 道すがら 千本松原 小松原
朝日も射さない 松林 松の小枝に 鳥づくし
鳥もいろいろ をる中に 山雀小雀に 四十雀
妙の音を出す ほととぎす 弟のためかは 知らねども
八千八声の 声をして 鳴くほととぎすの しほらしさ
お七は吉三に 焦がれては 八千八声は 鳴かねども
吉三に逢ひたい 添ひたいと 日には三度の 血の涙
草の中にも 虫づくし 虫もいろいろ をる中で
機織り虫の せはしさよ 心静むる 鈴虫や
誰を待つやら 松虫は 忙しさうにて 鳴き明かす
朝夕焦がるる くつわ虫 なかで憎いは きりぎりす
お七が心も 知らずして 明け暮れ恋しい 吉さんを
思ひ切れ切れ 切れとなく やれ情けなや きりぎりす
思ひ切らるる ことなれぽ これまでお寺へ 忍びやせぬ
性ある虫なら 聞いてたべ そなたも役目で 鳴くであろ
鳴く商売の ことなれば 常に鳴くなぢや なけれども
今宥一夜は 推量して お七が通る そのときは
鳴いてくれるな 頼むぞと 鳴くきりぎりすも 振り捨てて
さらばお寺へ 忍ばんと かくてお寺に なりぬれば
お庫裏の雨戸に 手をかけて そよと開けては 忍び込み
忍び込んだよ やれ嬉し 忍び込んだが 茶の会の間
あまたお寝間の あるなかに どれが吉三の お寝間やら
辺りをしばらく 見廻せば 獅子はなけれど 牡丹の間
虎はなけれど 竹の間よ 鹿はなけれど 紅葉の間
鶴の間雁の間 通り抜け 夏は涼しき 扇の間
吉三の様子を 菊の間で お七が姿ぢや なけれども
すんなりほつそり 柳の間 目細鼻高 桜の間
差し足抜き足 忍び足 やうやうなれば 学寮の
唐紙ぎはへ 立ち寄りて 間の唐紙 手をかけて
開けんとせしが 待てしばし このや唐紙 開けるなら
まだ添ひ馴染まぬ 吉三さん 唐紙音で 目を覚まし
もしも吉三に 八分され 恥かかされては 一大事
昔古人の たとへには 八分されても 二分残る
残る二分にも 花が咲く その二分求めて 花咲かす
これまで思ふて 来たるのに 吉三に逢はずで 帰られぬ
妹背山では なけれども 山と山とが 領分で
境の川に 隔てられ 間を流るる 吉野川 敷居の水が ままならぬ
寝てをる吉三は こがのすけ 焦がるるこの身は ひな鳥よ
これまで通ひ 忍び来て この唐紙の 開かぬのは
何神様の お咎めぞ さらば神々 頼まんと
一つ東の あづまや様 二つふたごの 明神様
三つ三島の 薬師様 四つ信濃の 善光寺
五つ出雲の 色神様 六つ六道の お地蔵様
七つななごの 天神様 八つ八幡の 八幡様
九つここで 思案ある 十はところの 鎮守様
紀州の国に 隠れなき 名草の郡 加太が浦
淡島様と 言ふ神は 女子一代の 守り神
腰からしもの 病気なら 何なりともかなはせあるとのこ誓願
わたしが吉三に 惚れたのも これもやはり腰から下の 病気ぞへ
これのお申し 淡島様 どうぞあなたの こ勢力で
この唐紙の 開くやうに 開いたばかりぢや つまらない
吉三と話の できるやうに 話ばかりぢや つまらない
吉三としつぼり 添ひ寝して うまく楽しみ できるやうに
うまく楽しみ できたなら そのまま命が 終はるとも
厭ふ心は さらになし 悪七兵衛 景清は
詰めの牢さへ 破るのに 唐紙一重が ままならぬ
女子心の 恐ろしさ これも世上の 讐へなる
親の教へる 縫ひ針や 読み書きなぞは 覚へずに
親の教へぬ 大胆な 色の道には 智恵がつく
島田の油を 梳き取りて 唐紙敷居に すりこんで
間の唐紙 そよと開け 横身になつて そつと入り
開けし唐紙 はたと閉め 忍び込んだよ やれ嬉し
忍びし座敷を 見てあれば あまた出家も 寝てござる
がくざん様も 寝てござる 鐘つくお方も 寝てござる
ほんにお寺と いふものは 西瓜畑ぢや なけれども
丸い頭が ごろしやらと
   さても一座の 上様へ まだ行く末は 程長い
   読あば理会も 分かれども 一息入れて 次の段
二段目 (口説きの段)
差し足抜き足 忍び足 やうやう吉三の お寝間なる
枕の元へと 立ち寄りて 髪に挿したる 前挿で
眠る灯を 掻き照らし 吉三の寝姿 うちながめ
さてもきれいな 吉三さん 常に見てさへ よい殿御
まして寝姿 優しやな お七が惚れるも 無理はない
髪は鳥の 濡羽色 角前髪に 大たぶさ
あのもみあげの 美しさ 今業平の 殿御ぶり
とても女子に 生まれたなら この様なきれいな 吉さんと
こちの人よ 女房よと 言はれて三日も 暮らしたい
学問疲れか 知らねども または良き夢 見しやんすか
白川夜胎で 寝てござる のお可愛やと すり寄りて
女子に博労は なけれども 袖から袖に 手を入れて
耳に口をば あてられて 軒端を伝ふ 笹蜘蛛の
糸より細き 声をして これのおいかに 吉三さん
わたしやお前に あこがれて 夜中も厭はず 来た程に 
ちと目覚まして 下しやんせ こちらへ向いて 下さいと
呼び起こされて 吉三さん ふと目を覚まし 起き直り
女子禁制の この学寮 夜更けて女子の 声がする
七つ下がりて この寺へ 女子なんぞは この夜中に
忍び込んだる その者は 迷ひ変化の 物なるか 
狐狸の 業なるか いかなる迷ひの 物なるや 
正体現はせ くれんぞと 守り刀に 手をかけて 
鍔元くつろげ いたりしが お七はそれを 見るよりも 
申し上げます 吉三さん 迷ひが迷ひで ござんする
わたしやお前に 迷ふてきた いつぞや本郷 焼け出され
われらが家も 類火にて 家作成就を 致すうち
親子三人 もろともに この寺門前 仮住居
八百屋久兵衛が 七ぞいの 吉三ははつと 驚いて
おやおや久兵衛殿の 娘かへ 供をも連れずに この夜中に
何たる用にて お出でぢやと 言はれてお七は 顔を上げ
これのお申し 吉三さん そのときお前が この寺の
お朝事参りの そのときに 本尊様の その前で
花立て替へを なさるとき うしろ姿を ちらと見て
身にしみじみと 惚れました 堪へじやうなき 懐かしい
見たい逢ひたい 添ひたいと 思ふ月日が 重なりて
この様な病ひに なりました 三度の食事が 二度となり
二度の食事も 一度なる 一度の食事も 吉三さん
胸につかへて 癪となる お茶や白湯でも 通りやせぬ
両親それを 見るよりも 恋路の闇とは 露知らず
江戸らくちやうの 神々へ 残らず心願 かけらるる
お七の病ひが 治るなら 一生殿御は 持たせまい
祝いの座敷も 踏ませまい 男に肌も 触らせまい
男と名のつく ものならば 男猫でも 抱かせまい
淡島様へも その通り 堅い心願 こめらるる
わたしやそふでは ござんせぬ 千服万服の 薬より
あなたの一声 聞くことで ほんに病気が 快気する
お七が心で 思ふには この様なきれいな 吉さんと
一生添ひたいとは 思へども 末代ならずば 十年も
十年ならずぽ 七年も それもならずば 五年でも
五年ならずば 三年も それもならずば 一年も
それもならずば 半年も 半年ならずば 百日も
それもならずぽ 五十日も 五十日ならずば 三十日
それもならずば 二十日でも 二十日ならずば 十日でも
十日ならずば 五日でも それもならずば 三日でも
せめて一夜も 片時も こちの殿御や 女房やと
言ふて楽しむ ことあらぽ 女子に生まれた 甲斐もある
好いたお主と 添ふならば たとへ野の末 山の奥
木の実かやの実 食ぺるとも 竹の柱に 笹の屋根
簑の子の縁に 藁畳 莚を壁に しつらふて
糸も取りましょ 績み紡ぎ わたしが手つから まま炊いて
おあがりなされや 食べましよと どんな貧しき 暮らしでも
苦労に苦労が してみたい 手鍋さげるは まだおろか
欠けた茶碗に たがをかけ 口欠け土瓶で お茶を煎じ
汲んで飲んだり 飲ませたり 忠距蔵では なけれども
縁の下にて くだいふが 風の吹くたび ゆらのすけ
屋根から天川 義平さん 寝てて大星 拝むとも
朝は早起き ばんないで 仕事はせんざき やごろでも
縞の財布や 米櫃が たとへおかるに なるとても
明日はわきから もろのでも わしやよいちぺと かんぺする
これまで思ふて 来たほどに 不燗とひとこと 吉三さん
言ふてくれては どうぢやいな 吉三はそれを 聞くよりも
これのおいかに お七とや わたしや子細の ある身ゆゑ
七つの歳より この寺の 住持のお世話に あつかりて
今日は出家を 遂げやうか 明日は出家を 遂げやうかと
明け暮れ思ふて をるとこへ 恋路の道の ことなれば
ひらにご免と はねらるる お七が心は 浅間山
胸に煙りの 立つごとく
三段自 (床入りの段)
お七は士旦二に 打ち向かひ これのおいかに 吉三さん
梅も八重咲く 桜花 牡丹も八重ぢや しやくやくも
数ある中の 乱菊も 一重にひらく 朝顔も
うすもみち葉の 一枝も 思ひ思ひに 色をもつ
あなたも出家を 遂ぐるなら 釈迦のみ弟子で ござんしよの
羅喉羅は釈迦の 子でないか 陀羅尼は釈迦の 妻ぢやもの
釈迦にも妻子の あるものを 如来と書いた 一文字は
女口に来たりと 書くさうだ 妙法蓮の 妙の字は
女少しと 書くさうだ 浄土真宗を 見やしやんせ
昔が今に 至るまで 親鷲上人 始めとし
左手と右手に 妻と子を 抱いて寝るでは ないかいの
あたたも出家を 遂ぐるなら 袈裟や衣の お情けで
可愛や娘と つい一度 言ふてくれたが よいわいな
これのおいかに 吉三さん 文玉章を 贈りしが
やれど尽くせど 返事無い 見ればあなたは 封も切らぬ 
あなたが読むが いやならぽ わたしが読んで 上げまする 
わたしの家は 八百屋ゆゑ 青物づくしに こと寄せて 
丹誠尽して 書いた文 これにておん聞き 下さいと 
まづ一番の 筆だてには ひと蕗しめじ 松茸さうろ
あだな姿の 大根や 紫蘇や三つ葉や 芹よと
たでぬしさんに はうれん草 蕨が心を 独活うどと
瓜な願ひの 山の芋 心の竹の子 願ひあげ
神々様へ 蓮根し 早く嫁菜に なりたやな
もしもいや菜と 言はれたら なんと松露 栗くりと
案じて物も 慈姑ずに 辛いこえびぢや なけれども
筆にまかせた 唐がらし 八百屋の店では なけれども
十六ささぎの 初なりを 塩梅見る気は ないかいの
ひと莢もぐ気に なりやしやんせ 食べてみしやんせ 味が良い
これのおいかに 吉三さん わたしにばつかり もの言はせ
さらにあなたは もの言はぬ 秋がきたやら 鹿が鳴く
わたしやお前に 焦がれて泣く のお胴欲なと とりすがる
吉三はそれを 聞くよりも これのおいかに お七とや
恋する人が あればとて 恋はるる人のあるは 世のならひ
文玉章を 贈りしとて いまだ返事も 返さぬうちに
重ねてお出では ご無用と お七はそれを 聞くよりも
これのおいかに 吉三さん 野原に根をもつ 花咲かす
採れば手にたつ 鬼あざみ 鬼と言はるる 花でさへ
露に一夜の 宿を貸す 馬に蹴られし 道芝も
露に一夜の 宿を貸す 菜種の花さへ あのやうに
しほらしさうなる 花なれど 胡蝶に一夜の 宿を貸す
それになんぞへ 吉三さん お前の肌を なぜ貸せぬ
これのおいかに 吉三さん 恋といふ字を 知らぬかい
色といふ字を 覚へぬか わたしや女子で 知らねども
今宥これまで 忍び来て この身このまま 婦りやせぬ
吉三はそれを 聞くよりも さてもくどい 女予ぢやの
いつまでさうして 居たとても その理に詰まる わしぢやない
花のお七を はねられて ころと丸寝の 空ねむり
お七はそれを 見るよりも これのおいかに 吉三さん
これまで思ふて きたるのに あなたがいやと 言ふならば
この身このまま 帰りやせぬ さらば自害を 致さんと
守り刀に 手をかけて 鍔元くつろげ いたりしが
吉三ははつと 驚いて これのおいかに お七とや
それは何ゆゑ 短慮よ 刀は危い 下に置け
今までいやと 言ふたのは そちが心を 試すのぢや
死ぬ程わたしに 惚れたなら さらばお前に 身をまかす
十六ささぎの 振り袖を こちへこちへと 今は早
奥の一間へ 引きにける 奥の一間に なりぬれば
六尺屏風を 立て廻し お七帯とけ 床急げ
お七はそれを 聞くよりも これのおいかに 吉三さん
あかりを消して 下しやんせ 初床入れの ことなれば
わしや恥しいと 言ふままに ロ水仙の 玉椿
手足はしつかと からみ藤 からみついたよ 藤の花
色紫の ほどのよさ 五尺体の 真ん中に
締めつ緩めつ 初鼓 打ち出す音色の おもしろさ
夜はほのぼのと 明け渡る 明けの烏が 西東
そのときお七が 思ふには 大寺小寺 残りなく
鐘つくお方も 気がきかぬ 本郷のお七が かはゆくば
十日も朝寝を すればよい しののめ烏は 死ねばよい
わけて憎いが 庭の鳥 お天道様も その通り
本郷のお七が かはゆくば 七日七夜も 出ぬがよい
お天道様の 出先には 黒金門でも あればよい
もつたいない ことなれど いかに別れが つらいとて
罪なき仏に 恨みする
四段目 (火あぶりの段)
今はそのとき お七こそ 我家の方へ 帰られて
お七が心で 思ふには 明くればお寺が 恋しなる
暮るれば吉三が 恋しなる いかが致して よからうと
胸の鏡に 手を組んで 涙ながらに 思案する
をなご心の 一筋に 後の災難 つゆ知らず
飛んで火に入る 夏の虫 いつぞや本郷の 大火事に
我らが家も 類火にて 家作成就 致すまで
親子三人 もろともに あの寺門前 仮住居
またも我が家を 焼いたなら 駒込寺へ 行かりよかと
さうぢやさうぢやと お七こそ けふよ明日よと 思ひしが
或る日のことで ある宵に そよ風吹くに 引かされて
あはれなるかな お七こそ こたつのおきを 二つ三つ
小袖の小褄へ 掻い包み 二階はしごを のぼらるる
ひとけたのぼりて ほろと泣き ふたけたのぼりて ほろと泣き
みけたよけたは 血の涙 やうやく二階へ のぼられて
二階の半戸を そよとあけ そよ吹く風と もろともに
小袖のおきを 二つ三つ わが家の屋根へ 投げ出だす
急いで半戸を 閉められて お七は二階 下りられて
表のかたへ 走りゆく 火事よ火事よといふ声に
八百屋夫婦は もろともに 表のかたへ 走りゆき
八百屋久兵衛は 見るよりも これのおいかに お七やい
寒くはないかと 問はれける そこでお七が 申すには
これのおいかに 父様へ わたしは寒くは なけれども
わが家の類火は 是非もない 駒込寺へ 急がんと
あの吉さんの あの寺と 涙ながらに 申しける
父の久兵衛が 聞くよりも さてもさても 情けなや
ただいま出来し 災難は わが子のことで ないかいと
思ひし甲斐も 情けなや 誰知るまいとは 思へども
釜屋の武兵衛が 訴人して それ聞くよりも お奉行様
お七このたび本郷二丁目より始め ご本丸まで 焼いたる罪
明日は白州へ 出だせよと 言はれて母上 聞くよりも
これのおいかに お七やい おかみの白州に 出たならば
もの正直に 申せよと もの正直に 申すなら
必ずおかみの お情けで 罪は許れるで あらふぞと
教へられては 娘こそ はいと返事も 優しさに
衣類着かへて お七こそ 白州の方へ 急がるる
白州の方にも なりぬれば ご免なされと ずつと入り
お奉行様は 見るよりも さても美し この娘
火あぶり罪とは 情けなや 罪は許して やりたやと
これのおいかに お七とや まだそなたと 申せしは
歳は十二か 十三か 言はれてお七は 涙ぐみ
申し上げます お奉行様 十六歳に なりました
お奉行様は 聞くよりも 十六歳にも なるまいが
まだ十三か 十四歳 十五歳にも なるまいと
問はれて今は  お七こそ 申し上げます  お奉行様
わたしの生まれと 申するは 丙午の 生まれなる
十六歳に なりました 言はれて皆さん 情けなや
丙午と あるからは 十六歳に なるであろ
火あぶり罪と 申しつけ 裸馬に 乗せられて
あはれなるかな お七こそ 八百八町を 引き廻し
八百屋の家に 来たりしが お奉行様は 馬を止め
お七このたび本郷二丁目よりはじめ
ご本丸まで 焼いたる罪 火あぶり罪と ありければ
お七はそれを 聞くよりも 申し上げます ふた親様
親の先立つ 不孝者 先立つ罪の 数々や
不孝をお許し 下さいと 大音あげて 申しける
母はそのよし 聞くよりも 表のかたへ 走り出で
馬にとりつき鐙にすがりてこれ娘
それそのやうな利口の事を言ひながら
なぜ成敗に あやるぞへ それほど吉三と 添ひたくば
なぜこの母に 露ほども 洩らせ聞かせて 給はらば
しやうもやうも あらふのに 涙ながらに 申さるる
それはさて置き お奉行様 鈴が森へと 急がるる
今はお七に 打ち向かひ これのおいかに お七とや
汝願ひの 筋あらば 早く申せと ありければ
お七は涙の 顔をあげ 申し上げます お奉行様
駒込寺の 吉さんに 命あるうち 逡はせてと
願ひあげれば お牽行様 これこれいかに みなの衆へ
早くお寺へ 急げよと 言はれて今は 若い者
駒込寺へ 急がるる 申し上げます 方丈様
八百屋の家の お七こそ 火あぶり罪の ことなれぽ
命あるうちに 吉さんに 逢はせてくれと 頼まるる
方丈様は 聞くよりも これのおいかに 吉三郎
八百屋の家の お七こそ 火あぶり罪と あるゆゑに
お七言ひたい こともある 汝も言ひたい こともあろ
早く参れと ありければ 吉三は顔を 赤らめて
草履片方 下駄はいて 鈴が森へと 急がるる
鈴が森にも なりぬれば あまた見物 押し分けて
お奉行様の 前に出で 申し上げます お奉行様
お七が身内の 者なるが どうぞ逢はせて 下さいと
お奉行様は 聞くよりも こちへこちへと 今は早
吉三郎は 見るよりも 煙の中の お七こそ
お七熱つかろ せつなかろ お七はそれを 聞くよりも
吉さん思へば 熱くない 言はれて吉三も たまりかね
黒髪切つて 今・は早 煙の中へと 投げ出だす
お七はそれと 見るよりも 申し上げます 吉さんへ
主がその身に なるからは 娑婆に思ひは 残らんと
十六歳と 申せしは 無常の煙と 立ちの醸る
   まつはこれにて 段のすゑ  
 
 
覗きからくり節

 

「覗(のぞ)きからくり」とは江戸時代中期に江戸と大阪に始まった見世物の一つ。おおきな箱の前面に複数の覗き穴があり、料金を払って中の絵を見る。箱の横には説明者が立ち、紐を引くことにより次々と絵を変えていく。その時に細い棒で箱を叩きながら歌うのが「覗きからくり節」で、出し物で大評判をとったものが「八百屋お七」だった。「八百屋お七」の説明もいりますねぇ。お七は一六八二年、江戸の大火の際、駒込園乗寺に避難したが、そこで寺小姓生田庄之助と恋仲になった。家に戻ってからも忘れられず、再会を願って放火未遂事件を起こし、捕らえられて鈴ヶ森で火あぶりの刑に処せられた。十五歳で火あぶりになったのは江戸時代でも例がない。お七が死んでから三年後、井原西鶴がこの事件を「好色五人女」に取り上げてから有名となり、浄瑠璃や歌舞伎の題材として取り上げられた。以下に全文を紹介する。  
「八百屋お七」          
その頃本郷二丁目に 名高き八百屋の久兵衛は 普請成就する間 親子三人もろともに 檀那(だんな)寺なる駒込の吉祥院に仮住まい 寺の小姓の吉三(きちざ)さん 学問なされし後ろから 膝でちょっくらついて目で知らせ 「これこれもうし吉三さま 学問やめて聞かしゃんせ もはや普請も成就して わたしゃ本郷へ行くわいな たとえ本郷と駒込と 道はいか程隔てても 言い交わしたる睦事(むつごと)を 死んでも忘れてくだんすな」   
それより本郷へ立ち帰り 八百屋商売するうちに 可愛い吉三さんに会いたいと 娘心の頑是(がんぜ)なく 炬燵(こたつ)の燠(おき・赤くおこった炭火)を二つ三つ 小袖の小褄(こづま)にちょっと包み 隣知らずも箱梯子(はしご) 一桁(ひとけた)、二桁(ふたけた)登り行き 三桁(みけた)、四桁(よけた)を登りつめ これが地獄の数え下駄(げた)   
ちょいと曲げてる窓庇(まどひさし) 誰知るまいと思えども 天知る地知る道理にて 釜屋の武兵衛に訴人(そにん)され 是非なく地頭に呼び出され その日のお裁(さば)き極まれば 葦毛(あしげ)のドン畜生(白に茶や黒色の毛が混じった馬)に乗せられて 伝馬町から引き出され 髪を島田に油町(ゆいのちょう) 辛き憂目の塩町を 油屋お染じゃないけれど 久松町をとろとろと お七を見に出し見物は ここやかしこに橘町 富沢町をひき回し 姿やさしき人形町 娑婆(しゃば)と冥土の堺町 さても哀れや不憫やと てんでに涙を葺屋(ふきや)橋 とりわけ嘆くは父爺(おやじ)橋 江戸橋越えて四日市 日本橋へとひきいだし 是非もなか橋京橋を 過ぎれば最早程もなく 田町九町車町 七つ八つ山右に見て 品川表(おもて)を越えるなら ここがおさめの涙橋 鈴ケ森(死刑場)にと着きにける あまた見物おしわけて 久兵衛夫婦は駆け来たり これこれお七これお七、これのうお七という声も 空に知られぬ曇り声 ワッと泣いたる一声が 無情の煙と立ちのぼれば ここが親子の名残なり 哀れやこの世の見納め 見おさめ  
「八百屋お七(猥歌版)」  
(前唄) さては一座の皆様方よ ちょいと出ました私は お見かけどおりの悪声で いたって色気もないけれど 八百屋お七の物語 ざーっと語って聞かせましょう それでは一座の皆様方よ ちょいと手拍子願います  
(本唄) ここは駒込吉祥寺 寺の離れの奥書院 ご書見(しょけん)なされし その後で 膝をポンと打ち目で知らす うらみのこもった まなざしで 吉さんあれして ちょうだいな (ソレソレ)  
八百屋お七のみせさきにゃ お七のすきな夏なすび 元から先まで毛の生えた とうもろこしを売る八百屋 もしも八百屋が焼けたなら いとし恋しの吉さんに また会うこともできようと 女の知恵の浅はかさ 一把(いちわ)のワラに火をつけて ポンと投げたが火事の元 (ソレソレ)  
誰知るまいと思うたに 天知る地知るおのれ知る 二軒どなりのその奥の 裏の甚兵衛さんに見つけられ 訴人せられて召し捕られ 白洲(しらす)のお庭に引き出され 一段高いはお奉行さま 三間下がってお七殿 もみじのような手をついて 申し上げますお奉行様 (ソレソレ)  
私の生まれた年月は 七月七日のひのえうま それにちなんで名はお七 十四と言えば助かるに 十五と言ったばっかりに 助かる命も助からず 百日百夜は牢ずまい 百日百夜があけたなら はだかのお馬に乗せられて なくなく通るは日本橋 (ソレソレ)  
品川女郎衆のいうことにゃ あれが八百屋の色娘 女の私がほれるのに 吉さんほれたは無理は無い (ソレソレ)  
浮世はなれた坊主でも 木魚(もくぎょ)の割れ目で思い出す 浮世はなれた尼さんも バナナむきむき思い出す まして凡夫のわれわれは思い出すのも無理は無い 八百屋お七の物語 これにてこれにて終わります 
 
 
心中万年草

 

心中万年草
浄瑠璃。世話物。三巻。近松門左衛門作。宝永七年(一七一〇)大坂竹本座初演。高野山吉祥院の寺小姓成田久米之助と麓の雑賀屋(さいかや)の娘お梅との高野山での心中を脚色したもの。
浄瑠璃。世話物。3巻。近松門左衛門作。宝永7年(1710)大坂竹本座初演。思春期の少年少女、お梅と久米之介との情死事件を脚色したもの。
人形浄瑠璃。世話物。3巻。近松門左衛門作。1710年(宝永7)4月大坂竹本座初演。同年の2月7日,高野山女人堂で寺小姓の久米之介と山麓紙谷の宿の娘お梅とが情死した事件に取材し,八百屋お七劇の趣向などを採り入れて書きあげたもの。高野山吉祥院の寺小姓成田久米之介は山麓紙谷の宿の雑賀屋(さいかや)与次右衛門の娘お梅と密通し,女犯の罪で山を追放された。お梅には京の三条烏丸の商人美濃屋作右衛門との結婚の話が進んでいた。
…浄瑠璃では,元禄年代の末に上(揚)巻助六の情死を扱った《千日寺心中》などの作品が生まれていたが,1703年に近松門左衛門の世話浄瑠璃の初作《曾根崎心中》が上演されると,浄瑠璃だけではなく,歌舞伎でも歌謡でも空前の心中物ブームが訪れた。近松自身も《心中二枚絵草紙》《卯月紅葉》《心中重井筒(かさねいづつ)》《心中万年草》とたてつづけに心中物の秀作を発表,ライバル関係にあった紀海音も《難波橋心中》《梅田心中》《心中二ツ腹帯》などの作を発表した。歌舞伎の方でも,京坂で《鳥辺山心中》《助六心中紙子姿》《心中鬼門角》《好色四人枕》などの作品が世話狂言として上演され,その影響は宝永・正徳・享保(1704‐36)ごろには江戸にも及び,はじめは時代物の二番目として組みこまれていたが,やがて宝暦・明和(1751‐72)ごろには独立した世話狂言としても演じられるようになった。…
 
心中万年草
主な登場人物
  成田久米之介   吉祥院の寺小姓
  梅        雑賀屋与次右衛門の娘
  雑賀屋与次右衛門 紙屋の主人
  花之丞      梅の兄
  美濃屋作右衛門  梅の婿
  九兵衛      駕籠かき
  伊吹千右衛門   久米之介の友人の兄
 
大高野山南谷吉祥院の寺小姓成田久米之介は、ゆくゆくは出家しなければならない身ながら、麓の神谷の宿雑賀屋の娘お梅と許されぬ恋に落ちていた。何とか山を下りたい久米之介は、播州飾磨の大名に仕える故郷の父が跡継ぎに呼び戻したいという偽手紙をお梅に書かせるが、吉祥院法印に届くはずのその手紙が久米之介に届き、お梅が久米之介に宛てた恋文が法印に届いてしまう。
女と通じるという破戒の罪が明らかとなった久米之介は、吉祥院法印から破門され、深い契りを結んで兄と慕った祐弁律師からも激しく怒られ、なじられる。久米之介は、全山が嵐に荒れ狂う中、高野山から追われてしまう。
一方の雑賀屋では、京から下ってきた美濃屋作右衛門とお梅との祝言が今宵と決まり、家中がその準備で賑わっていた。気が気でないお梅は、しょんぼりと山から下りてきた久米之介を見つけ、駆け寄る。
久米之介とお梅の二人が二階へ上がったあと、作右衛門が血相を変えて駆け込んでくる。お梅と通じた久米之介が山を追われるの実際に見て、疵物を押し付けるつもりかと怒鳴り込んできたのであった。お梅の父と作右衛門はつかみ合いの大喧嘩になるが、お梅の母が取り成し、二階の二人にも短気なことをせぬようにと諭した。
母の思いに応えて、お梅が二階から降りてきたので作右衛門は機嫌を直し、二階で祝言の床杯をしようと言い出す。あわてた両親は、祝言の夜の石打ちにかこつけて灯火を消し、二階の久米之介を逃がそうとする。ことろが久米之介を一心に慕うお梅は、闇の中そっと久米之介の帯について、一緒に雑賀屋を抜け出してしまう。
久米之介とお梅は、死に場所を求めて不動坂の女人堂へと上って行く。女人堂には、久米之介の姉さつが父のお骨を持ってやってきていて、「父の初七日の弔いを弟とともにしたいとはるばる来たが、弟の行方が知れない」と闇の中で嘆いた。はっと驚く久米之介であったが、弟とは名乗らずに別れを告げ、久米之介お梅の二人は、女人堂の側で心中を遂げたのであった。 
 
心中万年草の成立

近松作の「心中万年草」が、『鵬鵡籠中記』の記載により、宝永七年の四月八日から大坂道頓堀の竹本座で上演されていたことに疑問はない。問題は、この宝永七年上演が初演か、再演かということになろうが、再演と考える可能性が全くないわけではない。享保四年(一七一九)に歌舞伎「嫡燭蜘万年草十三年忌」が京の蛭子屋座で上演され、絵入り狂言本も残されている。これから逆算すると実際事件は十二年遡って宝永四年(一七〇七)となる。従来信じられていた『明和版外題年鑑』の宝永五年初演説の強みは、一周忌の年忌興行となることである。しかし、一方、宝永四年が実際事件のあった年とすると、三年目の宝永七年(一七一〇)に、京都亀屋座で「嫡燭軸万年草朝露」が上演され、その絵入り狂言本が残されている事実が説明できない。三周忌は普通二年目に営まれるからである。更に、宝永五年に初演されたとするなら、その「心中万年草」が同じ土地の同じ座でわずか二年後に同外題で再演されたとするのも、竹本座の世話浄瑠璃興行の実際事情にそぐわない。すぐ再演されるほど好評を得た作品なら、宝永四年内至は宝永五年頃にも歌舞伎などでも模倣作の上演があってもよさそうなものである。あれこれ考え合わせると、祐田善雄氏や松崎仁氏の認められるように、 「心中万年草」は宝永七年四月八日からの初演と認めるべきことになる。
「心中万年草」の構成は次のように整理できる。
上の巻
イ 衆道秘密の高野山
ロ 南谷吉祥院の寺小姓久米之介と花之丞
ハ 国元よりの使者
ニ 封じ違えた計略の文
ホ 墓引の木遣
ヘ 大名使者の接待
ト 意外の因縁
チ 念者の怒り
リ 久米之介の嘆き
ヌ 吹き荒れる天狗風
中の巻
ル 十七才の懐子
ヲ 祝言に気の晴れぬお梅
ワ 門に立つ久米之介
カ 勇む父親
ヨ 入来といとう梅の螢
タ 聟と舅の喧嘩
レ 母の苦心
ソ 石打の祝儀
ツ 生死二つの門口
下の巻
ネ 五障の雲に埋もるる女入堂
ナ 枯れしぼんだ万年草
ラ 女人堂心中
この作の実説は明らかでない。その為に注目すべき説が高野正巳氏によって提出されている。氏が早く「近松と海音との交渉−世話物を通して見たー」 (『国語と国文学』昭25・2)に発表され、その後、 『近松門左衛門集中』(朝日古典全書)や『近松とその伝統芸能』(昭40)にくり返されたもので、「心中万年草」を紀海音の世話浄瑠璃の「八百屋お七」の翻案とする説である。氏は、両作の主人公吉三郎と久米之介の寺に入った理由が類似すること、ともに女犯の罪を犯して神聖な寺院をけがしてしまうこと、彼らの出家しなければならぬ所以を語ってきかせる人物が主入公たちの不坪を責めること、ともに父の骨桶を示されて父の死を知ること、敵役の相似た行動などの数々の類似点や、登場人物名の、「八百屋お七」における弁長(吉祥寺の小坊主)、十内、武兵衛と、「心中万年草」における祐弁(久米之介の念者)、千右衛門、武右衛門(久米之介の父)との相似を挙げられて、近松は江戸の地を一度も踏んだことがなく、その浄瑠璃にも江戸を背景としたものは一つもないのであるから、八百屋お七事件については興味を覚えてもそれを題材として執筆する勇気はなく、これを翻案して上方版としたのが「心中万年草」であると断定された。この説は、いわば八百屋お七事件を「心中万年草」の実説とされたものである。
この説の鼓大の問題点は、紀海音の「八百崖お七」の刊年が明確でなく、通説では、むしろ、近松の「心中万年草」よりのちのものと考える傾向が輯い・」とである・「心男年草」の刊記をこれまでより二年ず・せた宝永七年とみても、 「八百屋お七」が先行すると考えることはむずかしい。
この難点を修正補強されたのが、松崎仁氏の「心中万年草小考」である。氏は、 「八百屋お七」の刊行を作風の展開上から正徳末ごろから享保とするこれまでの通説を認め、又、高野氏の「心中万年草」を一種の八百屋お七劇とする説にも従いながら、近松がこの心中浄瑠璃を八百屋お七型に構想した動機を宝永三年から七年にかけての歌舞伎界における八百屋お七劇の流行に求められたのである。氏は、当時の歌舞伎の八百屋お七劇を分析されて、寺の墓前でのお七と吉三郎の詰め開き、近親者による吉三郎への意見事、封じ文の露顕などの重要な趣向がすでに存在し、これが「心中万年草」にとり入れられていったことを明らかにされ、 「心中万年草」と「八百屋お七」との類似性は、むしろ、近松から海音への影響と解釈する方が妥当とさえ思われるという卓説を提唱されたのである。
以上の両氏の説を整理して示すと次のようになる。 「心中万年草」が一種の八百屋お七劇であることについては、高野・松崎両氏共に一致し、従って、「心中万年草」に高野山での心中事件という実説の存在しなかったことを認める点でも共通である。 一方、高野氏が、影響関係を、
「八百屋お七」→「心中万年草」
とされるのに対し、松崎氏は
歌舞伎の八百屋お七物→「心中万年草」→「八百屋お七」
という図式をつくられて、高野説を修正されている。
以上、両氏の説を踏まえて、以下、私論を展開することになるが、最初に私の結論だけを示しておこう。近松の「心中万年草」が、八百屋お七護を構成上の重要な要素としてとり入れていることを認める点では両氏の説に左祖するが、八百屋お七調を単に歌舞伎劇に限定せず、小説、歌謡、浄瑠璃も視野に収めて、もっと幅広く八百屋お七伝承としてとらえたい。次に「心中万年草」成立の核心に、高野山における心中事件という実説の存在を私は想定する。
例にならって図示しよう。
実説   →   「心中万年草」   ↴
      ↑               ↓
八百屋お七伝承    →    「八百屋お七」

順序として、八百屋お七讃の系譜をたどり、宝永七年の「心中万年草」上演までに成立していた八百屋お七讃の内容を推定してみよう。これについては、すでに概述したことがあるが、ここでは、 「心中万年草」との関係に焦点をしぼり、その時に触れ残したことも含めて再整理を施してみることとする。
宝永七年までの八百屋お七諦は四つのグループに大別できる。
第一グループは、西鶴の『好色五人女』巻四の「恋草からげし八百屋物語」に代表される小説系の八百屋お七伝承で、実説について記述する『天和笑委集』 『近世江都著聞集』なども、このグループに含めてよかろう。これらの資料相互には筋や人物名に多少の出入りがあるが、本郷の八百屋の娘お七が出火をきっかけに菩提寺に避難し、そこの寺小姓と恋仲になること、お七の家の普請がなってふたりが逢えなくなり、お七は恋人恋しさに放火し、火刑に処せられるという大筋では一致している。お七の恋入の名は、西鶴作では吉三郎であるが、 『天和笑委集』では庄之介であり、 『近世江都著聞集』では山田左兵衛である。しかも、その身の成行きも、西鶴作ではその場で出家、 『天和笑委集』では高野へ上る筋となっている。お七の父親の名、避難先の寺名にもそれぞれ違いがある。これらの事実は、この第一グループのお七伝承は、あくまでも、お七その人の強烈な恋に焦点が当てられ、その恋人や周辺の人物は副次的な登場人物として、傍役の位置に止まっていることを示している。恐らく、八百屋お七調の原型をもっともよく保存しているのは、この第一グループであろう。
第ニグループは、歌祭文の入百屋お七物である。
八百屋お七を歌った歌祭文は
A「八百屋お七歌祭文」
B「お七恋の燃えくひ」
C「京風江戸八百屋お七祭文」
D「靴八百屋お七吉三郎歌さいもん」
の四種がある。このうちAは
笛に寄るねの秋の鹿引妻故身をばこがすなる。五人女の三の筆。色も変りて江戸桜。盛りの花を散らしたる八百屋の娘お七こそ。恋路の闇の暗がりに。由なき事をしいだして。
(『日本歌謡集成巻八』)
の著名な文句ではじまり、代官所へ引出されたお七が何故このような大事を仕でかしたのかという問いに答えて、いつぞや類火に逢ったとき、親子諸共檀那寺に仮住居し、そこで小姓吉三郎と知りあい、二世までと血で起請文を書いて誓いあったこと、家の普請ができあがり、本郷に帰っても吉三郎と別れている淋しさに耐えかね、又も家を焼いたなら、夫の吉三郎に逢えるだろうと、一束のわらに火を包んで放りあげただけで、燃えるはずはなかったのだと語り、いのち乞いすること、そのあどけなさに、側にいた奴の角内や角介までがもらい泣きをするのであったが、しかし、お七は、ついに鈴が森で処刑された次第を叙述し、お七をとむらうことばで結んでいる。
『天和笑委集』によれば、八百屋お七の恋人は生田庄之介という名であって、この歌祭文の吉三郎とは違い、馬場文耕の『近世江都著聞集』では吉三郎という入物は登場するが、吉祥寺門前の無頼漢で、お七に放火を勧める人物である。恋人の名を吉三郎とすることで、 「八百屋お七歌祭文」は『好色五人女』と近親関係にあり、「五人女の三の筆」という表現からも、西鶴作以降に成立したとみるべきであろう。
これについては、もっとも、問題がないわけではない。
野間光辰氏は、今日に伝存する歌祭文を検討され、「大経師おさん歌祭文」・「大経師おさん茂兵衛」のいずれにも、その末尾に、
姿は朽ちて名は残る、京でおさんと好色の、五人女の一の筆、世の口ずさみ一昔、とあり、・「八百屋お七歌祭文」。「京風江戸八百屋お七歌祭文」の巻頭に、五人女の三の筆、色も変りて江戸桜、盛りの花を散らしたる、八百屋の娘お七こそ、恋路の闇のくらがりに、よしなき事をしいだして、
とあり、「おなつ清十郎」・「おなつ清十郎浮名の笠」の末に
世に聞えにし好色の、五人女の四の筆は、清十郎お夏が身の上と、うやまって申す。
とあって、悉く西鶴の『好色五人女』の巻序と異なるところから、歌祭文にいう「五人女」とは西鶴の作を指していったものではあるまいと推論され、西鶴作以前に存在した『五人女』と題する歌祭文の寄せ本を想定しておられる。
しかし、現存するお夏清十郎関係の歌祭文が、近松の「おなつ清十郎五十年忌歌念仏」の影響下になったことについてはかつて論証したことがあり、歌謡にうたわれた五人女の順序が心ずしも西鶴作とは一致しなかったとみるべきで、歌祭文にうたう「五人女」とはやはり西鶴以前の歌祭文寄せ本の存在が立証されるまでは、西鶴作の『好色五人女』をさすものと私は考えておきたい。大体、歌祭文に詠みこまれた五人女の巻序がかなりいいかげんなものであったことは、「八百屋お七吉三郎歌さいもん」では、冒頭に「五人女の三のふで」と歌っておきながら、末尾を「五人女の一の筆、ただ世の恋はこれなりと、きたるまじきはあくんくるしのさいなんと、うやまって申す」と、「大経師おさん歌祭文」と極めてまぎらわしい文句で止めていることからも推察される。粗雑な瓦版による当時の速拙の板行事情も考慮されねばなるまい。
さて「八百屋お七歌祭文」の成立を西鶴作以降と考えても、お七が奉行の前に引出されて取調べを受けたこと、お七と小姓吉三郎とが血の起請文を取交したこと、二人がまだ枕を交さぬうちにお七の家の普請が成就して、飽かぬ別れをしたこと、お七が放火の際に一束のわらに火を包んで放りあげたこと等、歌祭文に記す内容はいずれも、西鶴作には触れていなかったり、一致しない事柄であって、全体としてお七のあどけなさを強調した作風と併せて、この歌祭文の作者が、西鶴作の存在は知っていても直接の参考にはしていなかったことを示している。巻序の相違などもそこに由来するのであろう。
この「八百屋お七歌祭文」が、元禄時代には、すでに各地の盛り場でうたわれて流布していた事実は、宇治加賀橡作の「四条河原源八景」中に
神はうけずや蝕響、祭文碗ひきよめ奉るの、色のさかりはあづまなる・痴露の娘お七こそ・齋蹄の闇のくらがりに、由なきことを仕出して、つみは死罪にきはまりて、すぐに引き出すあはれさよ、これは恋路の世のうはさ、歌につくりて読売の、手拍子そろふ笠のうち
(『日本歌謡集成巻七』)
と詠まれていることによって明らかである。 「四条河原涼八景」は宝永七年九月刊の『増補松の落葉』に収められているが、加賀橡正本の「愛宕山旭峯」巻末の「四条河原涼の景」と同文であり、文中に宝永元年一月に亡くなった初代大和屋甚兵衛のことをうたいこんでいるので、その没後間もなくの成立とされているものである。
B「お七恋の燃えくひ」は、Aの末尾に「我と我身に焚きつけの。恋の燃えくひ今そげに」とある文句を手掛りに、Aの続編として製作されたもので、手のこんだ問答体の演劇的構成から判断しても、その成立はAに遅れるものと考えられる。
お七処刑の日、刑場に駆けつけた両親が、それほど吉三郎に添いたくば、何故うちあけてくれなかったのだとかきくどく所へ吉三郎も駆けつけ、お七にとりすがってさめざめと泣く。お七は、その吉三郎に自分の亡きのち出家となって弔ってくれと頼み火刑に処せられる。吉三郎はその遺言通り出家となってお七の菩提を弔うという筋。吉三郎が出家となる筋はすでに実説を記す『天和笑委集』にもみえるところで、必ずしも西鶴作との近親関係を推定する手掛りにならないとすれば、このB「お七恋の燃えくひ」もまた筋の上では西鶴作の『好色五人女』とは無関係に成立している。
C「京風江戸八百屋お七祭文」は、前半はA「八百屋お七祭文」に殆ど同文で、その末尾をすこし改め、後半はB「お七恋の燃えくひ」の文句を借り、所々を改めて成立したものである。文句の続け方から判断して、Bの後に成立したものと考えられる。
Dの「砒八百屋お七吉三郎歌さいもん」の成立の仕方もほぼCと同様であるが、後半部はC以上にB「お七恋の燃えくひ」の文句に忠実であり、しかも、目録には「八百屋お七恋路の歌さいもん」 「同下士旦二恋ごろもさいもん」とあり、題名上にも上下を冠すること、又、 「五人女の三のふで」 「五人女の一の筆」 (ほぼ同文の霞亭文庫所蔵『都今様さいもん揃』所収「八百屋お七歌さいもん」では「五人女の三の筆」とある)の文句を冒頭と末尾に重複して持つところからも、元来は、上下別々の祭文を一つに併せたものと判断される。
以上、ABCD四種の歌祭文中、最も古いものはAであり、Bはそれの続編としてつくられ、CDはそれぞれAとBを併せて成立したものであるが、CとDを比較すると、Dの方により文句の不整合が目立つといえよう。従って、八百屋お七関係の歌祭文は結局ABの二種をもってその原型とすべきことになろう。
これらの歌祭文でも、主役は依然お七であり、Aでは奉行所に引出されたお七の哀れさと吉三郎への慕情の強さを強調し、Bでは吉三郎の役割がかなりな比重を占めるようになるが、お七の意志に従っての出家であって、主役であるお七を押しのけるにまでは至っていない。両者共に、お七吉三郎の恋愛を強く表面に打出して、二人の恋とお七の放火によって周囲の人々の置かれたはずの困難な事情は殆ど描写されていない。全体として、西鶴作の延長線上にあったものとみてよい。

第三グループは、歌舞伎の八百屋お七劇である。宝永三年から七年にかけて、京・江戸・大坂の三都をはじめとして、各地に八百屋お七劇が上演されたことはすでに松崎仁氏が御指摘ずみである。それらの諸資料を分析されて、氏がとり出された趣向は
(1) 寺の墓前でのお七と吉三郎の詰開き  
(2) 寺でのお七と吉三郎の初心な恋  
(3) 伯父が吉三郎を折橿してお七との縁を切らせること  
(4) 男だての敵役が登場すること  
(5) 敵役がお七に宛てた吉三郎の恋文(封じ文)を手に入れて吉三郎の女犯を責めること
などの諸点である。このうち(1.2.3.4)は『役者友吟味大坂巻』にみられるものであり、(5)は、宝永五年の三月、江戸の中村座で大坂でお七に扮した同じ嵐喜世三郎が演じた「中将姫京雛」にみられるものである。これらのうち、(1.3.4.5)は、これまでの入百屋お七謹に重要な変更をせまるものであったが、私は、更に、これに一、二の留意すべき事項をつけ加えておきたい。
『役者色将棊大全綱目』の春山源七の条に
八百屋お七の狂言に、旦那寺の住寺、是とても、さのへ讐見ゆる役にはあらねど、仕こなし一寺の上人らしく、伯父高安惣左衛門に、小佐川重右衛門、甥吉三郎に杉山平八をとらえ、せっかんの時、なさけをこめていたわる心いき、お七方へきたう(祈蒋)によせ艶書をつかハしたるとのいひかけ、仏をかけてそうでないとのいひわけ、尤らしうよくしこなしたり
という記事がある。宝永三年の大坂嵐座の「お七歌祭文」で、春山源七の扮する且那寺の住職が、小佐川重右衛門の扮する伯父高安惣左衛門が、杉山平八の扮する甥の吉三郎をとらえ、お七へ贈った恋文(恐らくはお七はに横恋慕する定景という敵役が証拠として提出したもの)を理由に折濫するとき、吉三郎をかばうという重要な場面のあったことが明らかである。
更に、このとき吉三郎を演じた杉山平八は、お七における嵐喜世三郎と同様、この吉三郎の演技が出世芸となって、世話狂言役者とたたえられたことは諸書に記すところである。その彼は、同年の大坂の片岡座の顔見世で、 「京助六心中」の助六を演じている。この「京助六心中」に右の「お七歌祭文」の旦那寺の場面がとり入れられたとみられるふしがある。 『役者友吟味大坂巻』の嵐三十郎条に、
此度助六の切狂言に念仏寺のおしやうとなられ、けいせいあげまきが友人をたすけんために、我が大こくといひ、出家の身として蛸をくハるる所、しゆせうで涙がうかミ申
と記している趣向は、恐らく杉山平八を介してとり入れられたもので、まさに「お七歌祭文」の旦那寺の場面に酷似し、海音作の上巻で、敵役武兵衛が吉三郎の破戒を責めたとき、師の坊がこれをかばって、仏のいましめを破り、卵酒まで飲もうとする趣向の先躍をなすものであった。
宝永三年の大坂嵐座「八百屋お七歌祭文」でお七の役に好評を博した嵐喜世三郎は、宝永四年に江戸中村座に下ると、翌五年三月「中将姫京雛」の三番目でお七劇を主演した。これが、大坂での「お七歌祭文」を推定する手掛りとなることは松崎氏の指摘される通りであろう。
八百屋弥右衛門の養女お七は、継母のために雲雀山に捨てられ、のち人貿いの手にかかった中将姫で、本郷妙円寺の小姓高安吉三郎はお家騒動の難を避けている唐橋宰相で、この二人は許婚の恋仲である。
このような吉三郎の複雑な素姓の設定、又、母に連れられて寺に参詣したお七が独り後に残り、吉三郎と密会する筋、かねてよりお七に横恋慕の八百屋の庄九郎なる人物が、吉三郎からお七へ宛てた封じ文を証拠に吉三郎を責める筋等は、すでに大坂の「お七歌祭文」にしくまれていた筋であろう。しかも、この妙円寺の場面で、悪役の庄九郎が、はじめ女犯の罪をおかしたとして住職を責める件は、 『元禄歌舞伎傑作集上』所収の本文によれば、
扱八百屋の庄九郎同じく平右衛門とて、是も当寺の旦那にて、参詣したりしが、小姓吉三郎を見付け、御寺に物いひければ、住持奥より逢ひ給ふに、両人申しけるは「今より旦那をあげたり。仔細は女犯の犯す悪僧頼母しからず」といふ。住持「其証拠は」といへば封じたる文をいだし、両人読み、名を見れば、奥に吉三郎よりお七殿とあり。
とある。この箇所は、前述した『役者色将棊大全綱目』の記事の内容と殆ど一致している。即ち、同書に「お七方へきたうによせ艶書をつかはしたるとのいひかけ、仏をかけてそうでないとのいひわけ」とある箇所は、はじめ、春山源七の住職が祈疇にかこつけて艶書を贈ったと非難され、仏にかけてそれを否定し、艶書を読みあげてみると、実は、吉三郎からお七へあてた恋文であったという文脈に読める。ここに、恋文をつかってのトリックが吉三郎によって行なわれていたのである。
こうしたかずかずの趣向が、すでに「お七歌祭文」でみられることは、八百屋お七の演技が嵐喜世三郎という人気役者の得意芸として固定していたことによる点が大きい。宝永七年の『役者謀火燵京』の嵐喜世三郎の条に、
亥(宝永四)の霜月お江戸中村座初下りの顔ミせ、名物男のお相手にて、ぬれは嵐とお江戸の評判成しに、七三殿ふりよに果られ、芝居めいりしゆへ、得もの\八百屋お七をお吉と名をかえ難波に替らず大当り
と「中将姫京雛」上演の事情を説明していることもこれを証する。
八百屋お七調の第四グループは、浄瑠璃劇である。
海音の「八百屋お七」以外に、八百屋お七諌をしくんだ浄瑠璃として考慮すぺき作が少くとも二作ある。一つは、都一中の正本「八百屋お七物語」であり他の一つは、富松薩摩の正本「吾妻歌七枚起請」である。
「八百屋お七物語」は、その最後に使用された「八百屋お七道行」が、宝永七年頃出版の一中節段物集『新道行揃』に収録されているので、宝永七年以前の語り物であることが確実である。全体は二段構成に道行をそなえた世謡浄瑠璃である。この頃まだ江戸についての詳細な知識を持たなかった一中の語り物らしく、江戸の市中の描写ももの足りなく、お七の道行が終ってからの最後の半丁分に「八百屋お七歌祭文」の文句をそのまま借りてつじつまを合わそうとしたところがあるために、お七は自殺したのか、捕えられて処刑されたのか明瞭でないところがあり、できのよい作とはいいかねる。ただ、注意されるのは、寺院名を妙円寺とすること、お七になびけといい寄る敵役覚山が存在すること、お七が吉三郎に一目逢ったうえでとその場のがれをいうことなどが、 「中将姫京雛」に一致することである。当時、一中が江戸に上ったという証拠がない以上、上方の「八百屋お七物語」にみられるこれらの趣向は、実は、上方歌舞伎の八百屋お七劇に設けられていた趣向であったと考えるのが順当である。お七の父の名を久兵衛とすること、日蓮のまんだらが重要な役割を果していることなども、上方の八百屋お七劇にしくまれていたもので、のちの海音の「八百屋お七」にもかすかなつながりを持っている。要約するに、一中の「八百屋お七物語」は、宝永三年以降の八百屋お七劇ブームに触発されてつくられた浄瑠璃で、そこに使用されている趣向のいくつかは、歌舞伎の趣向を借用したものであったろう。
次に「吾妻歌七枚起請」についてみよう。この作の下之巻の最後に「お七道行 一中正本」として収められている「吾妻歌七枚起請 八百屋お七道行」は、享保三年頃成立の『都羽二重懐中扇』にはじめて収録されている。富松薩摩が宇治薩摩から改名したのは、正徳五年十二月とされているので、 「吾妻歌七枚起請」の成立は、正徳五年十二月以降、享保三年以前ということになろう。この作は、紀海音の「八百屋お七」を殆どそのまま丸ぬきに使用したもので、道行部分も「八百屋お七」の下巻の道行の「八百屋お七江戸桜」から詞章を同文的に借用した箇所が存在する。宝永年間成立の一中の「八百屋お七物語」に海音作の影響が全く認められず、享保初年の成立と考えられる「吾妻歌七枚起請」にその影響が強く認められることは、海音作の成立年代推定に一つのヒントを与えるものであろう。
以上、煩項なまでの手続きと推定を重ねて、宝永七年の「心中万年草」成立以前の八百屋お七諌の系譜をたどってきた。第一・第二のグループにみられるお七中心の素朴な八百屋お七諏に対して、第三・第四グループには、すでに次のようないくつかの重要な変更と新解釈の加えられていたことを知ることができた。
(一) 吉三郎の前身に複雑な事情をひそませ、還俗してお七との恋を全うすることを不可能とする。
(二) 旦那寺で吉三郎のトリックによるお七宛ての恋文が発見され、近親者から吉三郎が叱責を受ける。
(三) 旦那寺住寺が吉三郎をかばう。
(四) お七に恋慕する悪役が存在する。
(五) お七が死の道行に出る趣向も行なわれていた。
このようにみると、高野正巳氏が近松作と海音作との類似趣向としてあげた、両作の主入公吉三郎と久米之介の寺に入った理由が似ること、ともに女犯の罪を犯して神聖な寺院をけがしてしまうこと、彼らの出家しなければならぬ所以を語って聞かせる人物が主人公たちの不将を責ゆることなどの重要な諸点はすでに両作以前の八百屋お七讃に備わっていたものであり、敵役の相似た行動のヒントも存在していた。ここから紀海音の「八百屋お七」が生まれてくるのはあと一歩に過ぎないといえようが、しかし、近松の「心中万年草」は誕生し得るであろうか。これが私の根本の疑問である。

睡眠不足がつづき、過重な仕事がかさなって、入が疲労することは病気になる条件が備わったものといえよう。しかし、入間が病気になるためには、そこに病菌の侵入という決定的な原因がなければならない。
前節であげた五つの趣向は、いずれも「心中万年草」にとり入れられて重要な場面を構成している。第一節にあげた「心中万年草」の構成と比較して次に示そう。
(一) ……ト
(二) ……二・チ
(三) ……チ
(四) ……ヲ・ヨ・タ
(五) ……ネ
「心中万年草」の上・中・下の各巻にわたる重要な見せ場が殆どすべて、従来の八百屋お七謹に負うていることはこれによって明らかである。この点で、高野説や松崎説は「心中万年草」成立の秘密の過半を明らかにした誠に卓説であったといえよう。しかし、なおかつ、私が、実説の存在にこだわるのは、いかほど条件がそろっても、成立の原因が存在しないからである。八百屋お七諺が、他ならぬ高野山におけるお梅久米之介の心中謳に転生するための決定因が、いかに従前の八百屋お七誕を分析しても抽出することに成功しないからである。
松崎氏がこの問題に考慮を払っておられないわけではない。氏は、消極、積極両面からの二つの論拠をあげて、実説となった心中事件の存在を否定しておられる。
その第一は、同じ宝永七年の京亀屋座で、近松の「心中万年草」の影響の下に成立して上演された歌舞伎狂言「万年草朝露」が近松の浄瑠璃を翻案しているにもかかわらず、場面を高野山から吉野下市に移し、寺小姓と麓の娘の恋を、手代と主家の娘の恋にしてしまったことで、氏は、もし、他ならぬ高野山の寺小姓の情死事件が存在し、世人の口の端に伝えられていたとすれば、それが近松の浄瑠璃によっていっそう強く印象づけられた直後に、当時の上方人の耳目を惹くはずのこれほどアトラクティブな事実を、歌舞伎作者が捨てるとは考えられない、と述べておられる。
しかし、この歌舞伎狂言でも高野山での男女の心中事件という重.要な骨子には何らの変更も加えられておらず、手代と主家の娘の恋に改められているのは、松崎氏の御指摘にもあるように、この「万年草朝露」が、同じ宝永七年の正月大坂荻野八重桐座で上演されて評判をとった「心中鬼門角」のお染久松心中をも当込んでいたからに相違ない。大体、「心中万年草」の最も重要な核心は、高野山での男女心中ということで、その男女の身分や関係はかなりな程度まで近松のフィクションによるものであったと私は考えている。
第二に、松崎氏は、『天和笑委集』に伝える八百屋お七謳に、お七の恋人の寺小姓生田庄之介(11吉三郎)がお七処刑の翌日、夜にまぎれて寺を忍び出て、高野山に上って出家をとげたと記してある事実を指摘されて、近松の時代に男主人公が高野に入ったという噂がお七潭の一つとして存在し、それが近松に示唆を与えたと思われると述ぺておられる。
この事実も、高野心中を八百屋お七劇と結びつける一つのヒントになったと推定する資料にはなり得ても、高野山での男女心中という「心中万年草」の重.要モチーフそのものの成立までを説明し切るには弱いように思える。
ここで改めて注目されるのは、柳亭種彦の『高野山万年草紙』 (文化十四年)の序文に、
A「昔この山足に容華絶代の婦入あり、名をお梅といふ、愛童某と通じ女人堂にて情死を遂げ、同穴の塵とならんとす、」B「人あって死をとどめ、亀鶴の寿を全うせし其の縁故一条の戯曲に綴り、万年草と呼びなせるは、かの近松翁が筆なり」
と記した事実である。この実説の典拠が明らかでないために、これに全幅の信を置く学者はないが、しかし、近松の「心中万年草」がたとえ八百屋お七伝承というよりどころをもっていたにしても、いまみるような形で成立するためには、最小限、この『高野山万年草紙』の前半部Aに述べるような実説の核を必要とするのである。種彦が当時の一流の考証学者であり、彼の歌舞伎や浄瑠璃に関する造詣が並々でなく、しかも、大体その記述の信頼し得ることは定評のあるところで、種彦がなにか拠るべき資料に基いてこの記述をなしたとみることには充分な可能性があるのである。
はじめに述べた『鵬鵡籠中記』の宝永七年四月の条の記事は次のようなものである。
六日
〇八ト道頓へ行筑八日汐操替ルユへ今明日休ミ也 傍之岩井半四郎視酒肴適心江戸もの市川又太郎終リニ軽業ス殆驚目未半頃帰ル
九日
○半七ト筑後二八来ル昨日汐かへ席ハ源氏大かけ物十ふく対かけ物揃ハ筑出テ語ル神妙不測也 切り高野山心中万年草 飽酒食
出かたりの前二出雲カラクリ龍水ヲ吸テ雲中へ入リ電ト雨ヲ降ス
ニ月七日高野山女入堂ニテ南谷吉祥院ノ小姓粂之介トカミヤノ宿さいかやノ与次右衛女むめと心中シテ死たる事也
この記録の主人公朝日定右衛門が、六日に道頓堀の竹本座へ、これも無類の芝居好き大坂の備後屋八郎右衛門と見物に出かけたところ、八日から操りの出し物が替るため、六日七日は休座していた。それで歌舞伎の岩井半四郎芝居を見物して帰った。越えて九日、半七と竹本座へ出かけた。八郎右衛門は遅れてきた。八日からの新しい出し物は、前「大掛物十幅対」、切「高野山心中万年草」で、竹本筑後豫出語りの前に竹田出雲のからくりの見せ物があった、というのが記事の内容である。
私にとって興味があるのは、その次の「二月七日……」以下の部分である。勿論、近松の「心中万年草」を見物して、その内容を記したもので、これをもって直ちに、実説とすることはできないが、実説や・噂話などについて知識を有するときは、それについて記す事の多い詮索好きのこの日記の著者が、見た通りをそのままに紀しているこの記述が、「心中万年草」成立のための核心となる部分を、実に過不足なく示しているという事実は私には偶然には思われない。心中の日時を正確に記していることは、口上の文句によったものと思われる。浄璃瑠本文の下巻にも心中の日時は出てくるが、相当に注意深い聴衆でなければ聞きのがす恐れのあるものである。 「曽根崎心中」や「卯月紅葉」 の場合と同様、当日の上演に際しての口上では高野山の心中事件を仕組んだ旨をうたっていたのではあるまいか。
かれは、宝永三年の四月六日の条に、嵐三右衛門芝居の「八百屋お七」の芝居の評判について詳細に記し、同年の七月十六日と八月十七日の条でも「八百屋お七物がたり」上演の事実について触れている。当時の歌舞伎劇の八百屋お七譚についてはかなり正確な知識を持っていたはずの朝日定右衛門が、「心中万年草」を観劇して、この芝居から素直に印象づけられたことは、高野山での男女の心中事件であって、単なる八百屋お七劇の翻案でなかったことは確実である・主人公の久米之介のいた吉祥院という宿坊も・南谷ではないが・高野の西院谷と往生院谷に二箇所実在していた。八百屋お七諺と関係づけるためだけの単なる近松の筆拍子ではなかったのである。
私は高野山における男女の心中事件という実説は存在していたと考える。それは、細部に渡ってはかなりあいまいなもので、未遂、既遂さえ定かでなく、大坂人である近松の自由な想像を許す程度のものであったにしても、とにかく実説は存在していた。寺院における許されぬ恋という点に八百屋お七調との近親性を見出した近松は、主として歌舞伎劇でブームを呼んでいた八百屋お七護のこれまでみてきたような数々の趣向を利用し、下巻には、松崎氏が指摘されるような苅萱伝説をも利用して「心中万年草」を書きあげた。一方、海音は、近松とは独自に八百屋お七劇を構想し、歌祭文や西鶴の『好色五人女』を主とし、歌舞伎劇や一中の浄瑠璃をも参照して、 「八百屋お七」を書きあげた。その過程で、すでに成立していた近松の「心中万年草」から敵役の描写や登場人物名などのうえに若干のヒントを得ることがあったにしても、海音の「八百屋お七」の基本構想は、直接にはそれ以前に成立していた八百屋お七譚から継承したものであったろう。これが、高野正巳・松崎仁両先学のすぐれた御論考に導かれて、現在までに到達した私の推論である。両氏の御論旨を読みとり、引用するうえに非礼にわたる点がなかったかとひたすらに恐れる。 
 
近松心中物の最期場について
近松は心中劇において、男女の死そのものを描出した。それがまことに惨酷を極めている事は周知のところであり、『曽根崎心中』『心中天の網島』等の註解がなされる場合、必ず言及される一件である。周知の部分にもかかわらず、論述の手順上、『曽根崎心中』『心中天の網島』の心中場の詞章を提示する。
眼もくらみ手も震ひ弱る心を引直し。取直してもなを震ひ突くとはすれど切先は。あなたへはづれこなたへそれ。二三度ひらめく剣の刃。あつとばかりに咽笛に。ぐつと通るが南無阿弥陀。/\南無阿弥陀仏と。くり通しくり通す腕先も。弱るを見れば両手をのべ。断末魔の四苦八苦。あはれといふもあまり有。我とてもをくれふかいきは一度に引とらんと。かみそり取つて咽につき立。柄もおれよ刃もくだけと抉り。くり/\目もくるめき。くるしむ息も暁の知死後につれて絶えはてたり。(「曽根崎心中」)
風さそひくる念仏は我にすゝむる南無阿弥陀仏。弥陀の利剣とぐつと刺ゝれ引据へても伸り返り。七転八倒こはいかに切先喉の笛をはづれ。死にもやらざる最期の業苦共にみだれて。くるしみの。氣を取直し引よせて。鍔元迄指通したる一刀。ゑぐる苦しき暁の見はてぬ夢と消へはてたり。頭北面西右脇臥に羽織打着せ死骸をつくろひ。泣てつきせぬ名残の袂見すてゝ抱へをたぐりよせ。首に罠を引かくる寺の念仏も切回向。有縁無縁乃
至法界。平等の声をかぎりに樋の上より。一蓮托生南無阿弥陀仏と踏外し暫くるしむ生り瓢風にゆらるゝことくにて。次第にたゆる呼吸の道息堰きとむる樋の口に。此世の縁は切れ果てたり。 (「心中天の網島・下」)
かかる心中死描出の惨酷さをめぐって、さまざまな見解が提出されて来た。論者もまた一つの私見を提出しようと思う。論者の目にふれた諸論には、今般の私見に関わることが直接でなく、特に反対の立論を要しないもの、私見の立場から、此の際否定論を表明すべきであるとするもの、その論の部分に、私見と肯定的に関わるものを含むもの、等が有る。
心中場のリアリズムの迫力が論じられるのは当然である。大久保忠國氏は『曽根崎心中』の心中場について、
ここに至つて心中の酸鼻を極めた情景を活寫し、いよいよ迫力を揩オて來る。單に甘く美しい悲戀物語に終らず、眞實感をもつて強く迫る。
と評する。一方武智鉄二氏は、『心中天の網島』の心中場について「残酷なリアリスト近松の嚴しい現實直視の目」と言い、治兵衛の脳裏には小春を殺すその時、「經濟的破綻に自分を追い込んだ封建政治への憎惡が、金錢を亂費させた小春の映像と重なり合つて」「憎しみや憤りに近い氣持」を持っての殺しなのだとし、だからこの小春の殺し場は悽惨な地獄絵と化することが近松の真意であったとする。果してどうであるか。荒木繁氏は、七顚八倒して死んで行く小春が、自らの死を前にして、今縊死せんとする治兵衛に、「さぞ苦痛なされうと。思へばいとしい〳〵と、止めかねたる忍び泣き」を見せる。相手の苦痛を労り自らより大きな苦痛を引受けようとするのは、強烈な愛情の発露である。死の苦痛には愛する者のために命を捧げる歓喜のおののきがあるとし、かくて近松の心中者の残酷な業苦は一転して不思議な陶酔感をもよおすと言われる。すなわち、相手をいたわり苦死することによって愛の極致を描いたとされる。果して歓喜のおののきであろうか。瀧口洋氏は、武道の意気地が心中物にも底流しており、来世に一蓮托生を求めるには、断末魔に耐える強固な決意が必要なのであるとし、殺し場の悲惨を受けても乗り越して行き、自らの手で来世の縁を引寄せるその意思の強さが描かれているのだとする。殺し場が一蓮托生のために乗り越えるべき山であるというその事は、いかにもその通りであろう。
心中場の惨酷描態について、顕著な主張を展開した論者に藤野義雄氏がある。幾篇かの著書を通じて氏は、心中悲劇は仏教文学の懺悔譚的発想によって成立しており、凄惨なる苦痛を経過せぬ限り成仏得脱の救いに入ることはできないのであるとされた。すなわち心中者末期の酸鼻は、成仏への不可欠な条件として作られたのだとされたのである。小川一成氏の視点も藤野説と同系で、その主張は、一層鋭くなされている。氏の論述の中心部分を引用する。
わたしはやはり『曽根崎心中』『心中天の網島』以下近松心中物最期場を「罪障消滅」のための苦行ととらえ、それによって二人の往生が約束され、それが現実に死んでいった者たちへの回向となった、と解釈したいのである。心中物は、基本的に、現実に死んでいった二人を舞台の上に乗せ、潤色を加えつつ彼らの生涯を再現し、最後に両人の成仏を祈願する、という構造を持っている。従って凄惨な心中場は主人公らのいわば「罪障消滅」のための儀式にほかならず、現実において両人が体験したであろう死の苦しみをそのままに、否、それ以上にデフォルメして舞台に乗せ、死者の成仏を祈願しなければならなかった。とりわけ、若くして横死した者たちは丁重に葬らねばならなかったのである。
近松心中物における最期場は如上の宗教的思想の反映であり、現実においても舞台の上においても、そこでの苦痛が激しければ激しいほど、凄惨であればあるほど、未来成仏は確約せられたのであった。と。
この論には、一言不同意である所以を述べておく必要を認めた。仏教において苦行は貴まれる。それは本来修行の厳しさの謂である。修行は戒律を守り俗界の逸楽を拒む厳しき日々であり、苦行とも言われよう。印度の前仏教的修行者は自虐的な苦行を身に課したようだ。また本朝の修行者のある者は、回峰、断食、無言、不眠、姿勢等の激しい苦行をなし、衆生の業苦を代りに身に引受ける等の宗教近松心中物の最期場について的信念によってそれがなされた事は、小川氏の説かれる如くである。しかしそれらは、求めて身に課し、目標を果して満願すべき苦行であって、七転八倒してもがくものではなく、臨終死苦の苦ではない。苦修を進めている修行者の姿は、悲惨な姿ではなく貴い姿なのである。臨終時の苦痛が激しければ激しいほど凄惨であればあるほど未来成仏が保証されるというのであれば、何とも救い様のない苛酷な宗教である。それは仏教理念、特に他力本願の浄土系仏教の理念にはそぐわない(両作とも最期場に南無阿弥陀仏の句を用いた)。阿弥陀仏の本願とはそのような惨酷なものではない。往生は功徳によるところであり、又せめて臨終正念によるところである。それらは死苦を求めることではない。近松が心中者の往生を願った思いはさる事ながら、そのためを思って、最期場の死苦をことさらにデフォルメして作文したのだとする説には同意し難い。
祐田善雄氏は、心中者の悲惨な最期場は、心中死に対する近松の批判的な思いの表われと見られた。心中死の二人が直ぐに成仏得脱するかに思わせるのは、観客に対する一種のカモフラージュ的美化表現であり、むしろ近松の真意は、生命の切れるまでの凄惨な苦痛の厳しい現実を提示することにあったとされ、
当時の世間の道徳や常識に背いて恋のために死を選ぼうとする浅慮な者たちに対しては、厳しい批判をもまた抱いていたことが考えられる
前途ある青春をむざむざ放棄する若者に対する生命の尊厳ともいうべきものを近松は心中場の死の克明な描写で強調したものと考えたい
といわれた。論者の私見は、道徳観としてではなく、社会との調和関係を導入する立場として、祐田説と背馳しない。廣末保氏は、
七転八倒の肉体的な苦患は、現世の苦しみから解き放たれるためにも最後に経なければならない苦患であった。未来での一蓮托生は、「断末魔の四苦八苦」をくぐり抜けることによって始めて約束される。
と言われるのは当然の論であるが、加えて治兵衛の縊死体をなり瓢に喩えた詞章に気をつけられた。
魂はすでに昇天してしまったとはいえ、作者の目はその方向を追うことなく、縊死体を││それも風に揺れるなり瓢0 0 0 のような縊死体を、この劇の最終的なイメージとして定着させる。「この世の縁は切れ果てたり」にすぐ続けての「朝出の漁夫云々」の文章は、その縊死体を、さらに、暁の光のなかに晒す。「すぐに成仏得脱の誓ひの網島心中と」という結びの文句も、以前のそれとは異った響をもっているように思われる。
と言われた。今般の私説に関わる廣末説は、この縊死体の論に関する限り、同じ路線の上に在る。深澤昌夫氏は、近松の心中劇自殺のレトリックを、ひいては作劇法を、『曽根崎心中』心中場の「ゑぐる」をキーワードとして追及した。近松における「ゑぐる」の表現効果を論じ、特にその「身体性」に言及される。
お初が一度に死にきれずあれほどもがき苦しむのは、そもそも徳兵衛の「人間的な矛盾」の然らしむるところではなかったか。「人間的な矛盾」を露呈する徳兵衛の姿と「断末魔の苦をみせて死んでいく」お初の姿、これは表裏一体のものとして読むべきではあるまいか。これは観念のために死のうとする意志と身体の現実、その生命力の自然との葛藤と読むことができよう。
このとき語り手は劇中世界の内側に、劇中の現在を生きる人物のすぐそばに臨在4 4 している。語り手は、君臨しない。また、出来事を第三者的に物語るのでもない。語り手は、矛盾に引き裂かれつつ今を生き、死を生きる劇中人物の身体と同調し、その息遣いと痛みの激しさを韻律に刻みこむ。世話物の誕生を表現の基底部で支えていたのは、そのような身体感覚だったのではないか。そのとき我々の眼の前には血を流し苦しみもがく身
体だけがある。
と。私の論には、徳兵衛の人間的矛盾云々も語り手の在り場の論も関わらない。関わるのは、「我々の眼の前には血を流し苦しみもがく身体だけがある」の一文であり、再応用いられている「身体」という語であり、氏の身体性という視点である。
心中死は、例外を除いて、男女一時の死ではなかった。二人が同所で同時に死ぬ仕方は、武士の刺しちがえの外には実行し難いのである。『今宮の心中』は同時縊死である。『心中二枚絵草紙』は処を別にして、約束の同時に夫々が自死した。『卯月紅葉』のおかめは、自ら与兵衛の手を使い先に自死する形をとる(生き残った与兵衛を下手人にしない作者の配慮によると思われる)。以上は心中死の変型に属する。その他の心中物のすべてが、すなわち『曽根崎心中』『心中重井筒』『心中万年草』『心中刃は氷の朔日』『生玉心中』『心中天の網島』『心中宵庚申』において、男は先づ女を刺殺斬殺するのである。最期場の前部は殺害場なのである。その後で男は、その脇差(『曽根崎心中』『心中万年草』『心中宵庚申』)剃刀(『心中刃は氷の朔日』)で自害、又は縊死(『生玉心中』『心中天の網島』)或は不慮に井戸へ陥って死ぬ(『心中重井筒』)のである。
断末魔の四苦八苦の描出は、すべて刃を受ける女性の末期の描出なのであり、その後で自死する男性は、もっと速やか直線的に死へ直行するように描かれている。断末魔の死苦こそ往生への条件とするならば男女不公平の叙述であり、この点からも断末魔の受苦が往生への条件であるとする論には不具合である。さてこの殺害場の悲惨さは、男が一息に女を即死させられない描写によって生じる。「曽根崎心中」(再掲)では「眼もくらみ手も震ひ弱る心を引直し。取直してもなを震ひ突くとはすれど切先は。あなたへはづれこなたへそれ。二三度ひらめく剣の刃」とある。徳兵衛の乱れに乱れた挙措なのである。男の心は強靭でなく、刃先は乱れて急所を突きはぐれるのである。女性においてはその受苦であるが、男性においても、愛する女を殺害するという事、それは何ものにも比し難く筆舌に尽し難い苦悩なのだ。心中を決行したその極限において発現した業苦の極致であったのである。まことにおぞましくも身に課せざるを得ないそれを越えて彼方へ行かねばならない、この殺害行為に、男性側の最極の苦業が描出されていると解する事ができる。この受取り方は、最期場の文学的達成の理解に資するかと思われるのである。
しかしそれにしても、それは結果論であるように思われる。作者は、男が愛する女を殺すという最極の苦悩を表わすために作品を作ったのか。それが作者の求めるところであるのか。作者の作風であるとすべきなのか。
この所に論者は、一つの視点を導入したいと考える。それは言うなれば、社会とか公儀とかにつながる立場からする視点である。
世話物すなわち切浄瑠璃は、大坂市中の事件に素早く反応した事件ものである。相対死は事件の一つで、事件という点では、一層忌まわしい犯罪事件と同班の出来事である。事件があれば、速やかに読売りが出動し、その速報が流されよう。市民はその出来事の真相に関心を抱くことであろう。そもそも事件ものの切狂言・切浄瑠璃に求められるものは、その事件の始終真相を開示する情報性なのか、市民が既に得ている情報の上に立って、宛こみをして面白がらせる娯楽性なのか。
近松の心中劇にあっては、それは創作に違いないのであるが、事件の真相はこうなのだと、観客に思わせるものを作っている。それが文学的真実と言われるものであろう。先行した読売りに対して、その軽薄さを否定し、情況設定・人心の内面分析・進行描出の上からして迫りに迫り、読売り街の噂の水準を吹き飛し、その一件の真相はこれぞというものを提示したのである。かく言えば最期場の惨酷も、その真相提示の不可欠な部分だとする論なのかと思われそうである。それが真相提示の一部であることは否定すべくもない。問題はその必要性にある。大衆娯楽の興行のうちで、是非あてがわねばならない部分なのか。それなくして作者において、或は観客の求めにおいて不十分なのかと。
事件といえばまず犯罪を考える。重き犯罪の結果は処刑であるが、獄門・晒・引廻しが附加された。晒・獄門には、捨札という横長の札にその罪状が記されて掲示された。引廻しには捨札と共に、罪状を記した紙製の幟旗が掲げられて先頭に行った。その内容がすなわち事件の事実であった。
さて心中の場合、それが事件である所以は、自死したというその事である。屍体が発見されたという事である。
屍体が発見されたとなると、速やかに発見者或は町名主・家主等から検使願が差出され、検使が出向する。検使は町奉行所輩下の町同心である。検使は願書呈出人立会いの上で、「少々たりとも疵有之ば何方に長何寸之深切疵欤浅切疵欤摺疵か何ヶ所と書き留」る(『古事類苑・法律部』所引「袖珍民事秘書・検使」)。かくては致命の傷、ためらい傷などの次第が明白になろう。相対死という事件の総体は以上に尽きる。
享保八年、幕府は相対死の死骸取捨てを申付けた。心中者の屍体の処置が判明するのはそれ以後、心中物の浄瑠璃製作が消滅した以後の事態であって、遺憾ながら心中物作品時代の事情は知り難い。ともあれ、木下光生氏の論文から、相対死に関するまとめの部分を引用させて頂くと、
これらの点をまとめると、享保八年令以降の相対死の処理方法は、1役人村が死体を死体発生場所から最寄りの墓所まで一旦運び、2そこで「取捨」て、3役人村(もしくは垣外)の番のもと、三日間「取捨」とした後、4再び役人村がその死体を墓所から月正島まで運び、5同所に「取捨」てた、という流れとなる
と。月正島に運ばれて取捨という末路は、死罪人の刑死体の末路と同じであった。相対死の屍体は、公儀において、まことに見せしめとすべき、又同時にまことに忌避すべきものであったのである。享保の申付け以前に有っては、かくまで執拗に展陳取捨てはなされなかったであろうが、検使を受けた変死体が忌避さるべき存在であった事は通じるところがあろう。
『心中二枚絵草紙』のお島を除いて、大坂の町屋で心中を遂げたことは無く、相対死の場所は、大坂域内の神社地内、寺方地内、若くは大坂に続く村方堤防である。『心中万年草』は別として、いずれにせよ大坂といわれる範囲にある。座本作者は、これからその事件を、実人名を表わして舞台にかけるのだという事情にある。座本作者は取りあえずその事件の基点の所に赴き、神職住持村方の名主らに接し、挨拶をなし了解を得たのであろう。今般の事件に際し、不慮にかゝわり合いになった人達に対し、今般の件はさぞ御迷惑なさったで御座ろうと挨拶し、その上で、それを演劇に仕組む事への了解を得たことであろう。その際に一件の、死体に関わる事実についての情報が授受されることになろう。いかなる死体のさまであったか、検死の結果いかなる傷であったかが語られたであろう。「何ともあわれな仕儀でござる。成仏を祈りまする」という私情においてその会話は要約せられるであろうが、その前提としての、公儀の立場に関わる挨拶、情報の授受は欠かし難いところであると思われる。
『曽根崎心中』では、切先があちらこちらへ外れた後に咽笛を貫通させた。『心中天の網島』では切先が咽笛を一旦外した後で突き通した。『心中刃は氷の朔日』の平兵衛が小かんを殺すのに、「衿引よせてかみそりの。つか迄ぐつと一刀」突き、それから文をくる〳〵巻きにし、「口押し割つて含ませ。剃刀をつとり喉のめぐりを切り裂き〳〵。続くは首の骨ばかり刀で切つたるごとくなり」とある。この類を見ない殺し方、早く死なすためとはいえ残忍な殺し方が、作者の創意工夫の成果なのだろうか。検屍体に関わる情報がヒントになったのではなかろうか。
事件とは変死なのである。事件とは恋なのではない。事件とは屍体そのものなのである。真相を描いて伝えるべきは、変死の解明なのである。浄瑠璃の外題も、その事件の場所又はその日を標示する。作者が、事情行動心意を創りつつ描き進める真相の行手は、事件の起点である屍体に帰結しなければならない。勿論それは、憫むべき男女の屍、人としての思いを生きてここに至った屍なのである。ここにおいて最期場に、いわば屍体性とも言うべきものが発現せざるを得なかったのだと理解されるのである。
作者方が事件を以て得たりとして脚色に及ぶのは、いわば自己の利益追及の行動である。屍体の現場の思いもあろうではないか。事件の真相を、恋の陶酔に帰結させず、事件の基点である美しからざる屍体に帰結させる事は、作者がその事件を変死一件であると認識した事を表わす態度である。公人として大坂の町方に居住する作者の執った、事件の現場となり懸り合となった寺社在方への、それを無視せざる正当なる態度、社会的な常識の中にある態度であったと理解できるのである。作者の筆力によって眼をそむけたくなるような惨状を描出してしまったのだが。
小山一成氏は前出論文で、「心中重井筒」の最期場、お房の死に様が「ぐつと突きぬく一刀わつと叫びし一声の。哀れはかなき最期なり」と単純で、惨苦の描写の無い事に不審をいだかれ、「本作の最期場は余りにも淡白に過ぎている印象を与えるのである」と言われた。氏は結局、本作における往生のための苦行は、中之巻「火燵の場」がその役を果しているのであると結論づけられたのであった。ところで、本作は宝永四年十一月又は十二月の上演で、心中事件のあったのはその三年以前宝永元年の事とされる(いずれも推定)。とすれば、本作は事件即座のなまなましさは無く、既に世上に過去の事件として知られている話題を作劇した事になる。座本作者がその現場方(高津の大仏勧進所)へ挨拶に出向く事も不要であった。作劇の基点は「語りぐさ」であり、変死体ではなくなっていたのである。最期場は、死に場ではあるが、求められる屍体性は稀薄になっていたのだと解されるのである。
 
 
松竹梅湯島掛額 [しょうちくばい ゆしまのかけがく]

 

1809年(文化6)3月に江戸の守田座で初演された「其昔恋江戸染」と、1856年(安政3)に江戸の市村座で初演された「松竹梅雪曙」から、それぞれの名場面「お土砂の場(天人お七)」と「火の見櫓の場(櫓のお七)」をつないだ演目。江戸時代に実在した少女の放火犯「八百屋お七」を描いた数ある演目のうちのひとつです。
吉祥院お土砂の場[1]
八百屋お七は江戸の人であり、舞台の上も見るからに江戸なのですが、当時の事情で時代設定は鎌倉時代ということになっています。ですがほぼ関係がないと思っても差し支えないので、史実等は気にせずにご覧になることをおすすめいたします。
序幕は「其昔恋江戸染」よりとられた「吉祥院お土砂の場」です。
舞台は、天人の姿が彫られた美しい欄間のある、いかにも立派なお寺のお堂。おんぼろなお寺ではありません。現在でいう文京区本駒込周辺の吉祥院(吉祥寺)です。
欄間の天人は、日光東照宮の眠り猫を手掛けた有名な彫刻職人・左甚五郎の作らしいという設定です。
現在吉祥院のお堂は、友達連れのかしましい町娘たちをはじめ地域の人々が避難してきていて、ガヤガヤとにぎやかな状況です。なんでも「源範頼の軍勢が攻め上ってくる」という話があるためです。町娘たちは避難の途中で、友達である八百屋の娘のお七とはぐれてしまい、お七さんはどうしただろうかと心配しています。
そんな折、お七のお母さんのおたけさんと紅屋長兵衛、下女のお杉、そしてお七が無事に吉祥院へ到着。避難してきた人々と無事に合流することができました。
紅屋長兵衛は、紅粉を商う紅屋の長さん、通称「紅長(べんちょう)」さん。地域で人気のおもしろおじさんといったところでしょうか。冗談と愛嬌でみんなを笑わせてくれます。いわゆる化粧品屋さんのおじさんですから、町娘たちには身近な存在だったのかもしれません。
そんな紅長に、お七はなにやら悩みを相談したいようです。
吉祥院お土砂の場[2]
[1]では、「吉祥院お土砂の場」の状況についてお話いたしました。源範頼の軍勢が攻め上ってくるという話を受けて、お七はじめ地域の人々が吉祥院のお堂に避難してきたところでした。町で人気のおもしろおじさんといったところの紅屋長兵衛、通称「紅長(べんちょう)」さんに、お七はなにやら相談があるようです。
なんでもお七は、この吉祥院の小姓の吉三郎さんに恋をしていて、夫婦になりたいというのであります。小姓というのはお寺に仕えて住職の身の回りのいろいろなお世話をしている少年のことです。八百屋お七の実話を踏襲した設定です。
それを聞いたお七の母のおたけは、つらいけれどその恋は諦めなさいとお七を諭します。吉三郎さんはいずれ出家せねばならない身であり、色恋に迷わせるわけにはいきません。さらに、お七の家が経営している八百屋は借金があるので、お七にはお金の貸主の釜屋武兵衛の家に嫁いでもらい、どうにか店を守らなければならないのです。立場のしがらみだけでなく、家の経済状況のしがらみもあるのでした。
吉三郎さんを一途に思うお七は、家や立場に縛られた非情な運命を突きつけられ、思わず泣き出してしまいます。仕方がないこととはいえ、少女のひたむきな恋が叶わないというのは周りの大人にとっても非常につらいことです。長兵衛はじめ人々が涙するお七をなだめているところへ、ある青年がやってきました。
この青年は吉三郎に仕えている十内という若党。物語の新情報をもたらしてくれます。新情報というのは、「吉三郎は実家の家督を継ぐため許嫁と結婚することが決まった」という衝撃的なもの。これはお七にとってはもうたまらず、取り乱してしまいます。
先ほどは厳しい現実を突きつけたおたけさんですが、本音を言えば、お七の思いをどうにかして叶えてやりたいのです。どうかお七と吉三郎さんを良いようにしていただけませんか…と十内に頼み込みます。
しかし、十内はつれない態度。八百屋の娘なんかと吉三郎さまが夫婦になれるわけがないだろうと突っぱねられてしまいました。
というのも、実は、吉三郎さんは単なる寺小姓ではないからなのであります。
吉祥院お土砂の場[3]
[2]では、お七が吉祥院の小姓の吉三郎さんに恋をしていることを周囲に打ち明けたものの、様々な事情があってその恋は叶わないのよと母のおたけからたしなめられてしまい、さらには吉三郎に仕える十内から吉三郎が許嫁と婚約したという情報までもたらされ、お七はさめざめと涙しました。
たしなめたもののやはり娘の恋は叶えてやりたいと思うおたけは、どうか手立てはないかと十内に頼みましたが、吉三郎は八百屋の娘が結婚できる相手ではないぞと突っぱねられてしまったのでした。一体、吉三郎さんとは何者なのでしょうか。
吉三郎さんの正体は、単なる寺小姓ではありませんでした。
曽我十郎祐成の息子として(「其往昔恋江戸染」の設定)武家に生まれた吉三郎さんは、寺小姓として吉祥院に潜みながら、紛失したお家の重宝・天国(あまくに)の短刀の行方を捜しているのです。
余談ですが、「刀や香箱、掛け軸などなんらかのお家の重宝がどういうわけか紛失し、お家が取り潰しになるなどして、本当は高貴な身なのに一般市民かのように暮らし、宝の手がかりを探っている」というキャラクター設定は、歌舞伎の演目には本当に頻繁に出てきます。
そもそもそんなに大切なものがどうして紛失するのだよ、というツッコミを入れたくなりますが、単にお話を運ぶアイテムとして機能しているものなので、それはそれとしてください。小道具の名前や見た目はそれほど重要でないことが大半ですので、一つ一つ覚えなくても大丈夫です。
と、そんなところへ、噂をすれば影とやらで吉三郎さんが登場します。吉三郎さんは前髪の若衆、いわゆる美少年の出で立ちです。
先ほどのお七やおたけのようすを受けた十内は、どうやら吉三郎さまはあの娘と良い感じになってしまったのではないか…と思い、大望のある身でそのようにうかうかしたことでは困りますぞと吉三郎をたしなめました。
吉三郎さんは、いや、決してそんなことはない。天国の短刀を見つけることが先であり、そんなことにうつつを抜かしている場合でないことはわかっている、と答えます。
そもそもお七とはこの前の火事で吉祥院に避難していた時に知り合っただけで、そんな軽率なことはしていない、と吉三郎さんが言うので、十内は一安心。天国の短刀の詮議に向けていろいろな仕事があるため立ち去ってゆきました。
お七との出会いの設定は八百屋お七の実際の話から取られています。
吉祥院お土砂の場[4]
[3]では、吉三郎さんの正体が明らかになりました。実は吉三郎さんは武家の子息であり、紛失したお家の重宝・天国(あまくに)の短刀を探しているのです。吉三郎さんに仕える十内は、まさか本来の目的をよそにお七という八百屋の娘のお七と恋仲になってしまったのではないか…と心配しましたが、吉三郎さんが決してそうではないと言うので一安心して、刀の詮議のための諸々の仕事をするために帰っていったのでした。
そんななか、ジャンジャンと太鼓の声が聞こえてきます。源範頼軍が近づいていることがわかる緊急性のある情報です。忘れがちになりますが、いちおう時代設定は鎌倉時代ということになっています。
慌てた紅屋長兵衛たちは、様子を見るために吉祥院からわらわらと駆け出していきます。それと入れ違いに、源範頼の家来の長沼六郎と釜屋武兵衛がづかづかと乗り込んできました。
六郎たちの目に入ったのは、吉祥院の欄間に彫られた美しい天人の姿。東照宮の眠り猫で有名な彫刻職人の左甚五郎が彫ったらしい…という設定になっていましたね。
実は八百屋の娘のお七が、この天人にそっくりだと評判になっており、それがどういうわけか源範頼の耳にも入っていて、あろうことか源範頼は「お七を妾にほしい」と望んでいるのであります。
源範頼は兄頼朝に従順でしたが、歌舞伎でお馴染みの「曽我兄弟の仇討ち」後の対処をきっかけに謀反の疑いをかけられ、幽閉のち殺害されたという人物です。
「其往昔恋江戸染」の設定では吉三郎さんは曽我兄弟の兄・曽我十郎祐成の息子ということになっています。つまり、範頼とは非常に因縁深い関係です。
吉三郎さんは出家する身(実は曽我兄弟ゆかりの大望ある武士)、家の八百屋の借金、さらに源範頼が妾に臨んでいるとあっては、お七の吉三郎さんへの恋の障壁はさらに分厚くなってしまいました。これはとても一人の少女に乗り越えられるものではありません。
主君のためどうにかお七を連れて行かねばならないと思う六郎たちは、吉祥院のご住職やお坊さんたちに居場所を尋ねます。本当はお七は奥にいるのですが、住職がいやいやここにはいませんよと嘘をついてあしらっているうち、六郎たちは仕事の都合で去っていきました。忙しいのです。
そんなところへ、様子を見に行っていた長兵衛が大慌てで戻ってきました。長兵衛が言うには、なんと源範頼が自らお七を探しに来るというのです。
吉祥院お土砂の場[5]
[4]では、源範頼の家来から範頼がお七を妾に望んでいるという衝撃的な情報がもたらされました。八百屋のお七という娘は吉祥院の欄間に彫られている左甚五郎作の天人にそっくりだと評判になっていたためです。お七を連れていくためやってきた家来の六郎たちをうまくごまかして帰すことができたものの、今度は源範頼本人が探しに来るらしいぞ大変だ、というところでした。
こんなときに斬新な発想力を発揮して頼りになるのがおもしろおじさん紅屋長兵衛、通称「紅長(べんちょう)」さんです。
紅長さんはまず、天井の欄間に彫られた彫刻を外し、そこにお七を座らせて隠しました。さらに、お七は死んでしまったと偽り、自分自身が吉祥院でお葬式を待つ遺体のフリをして早桶(昔の棺桶)に潜み、どうにかごまかそうと思いつきます。
どちらも昔のコントのようにバレバレのアイデアですが、ツッコミ不在のまま進んでいきます。
そんななか、再び範頼の家来の六郎が戻ってきます。見上げればすぐそこの欄間にお七が座っているという状況。絶体絶命のピンチです。
しかし紅長さんの奇策が大正解。欄間のお七の姿がまさに左甚五郎が彫った天人そのものであるので、六郎たちは全く気が付かずに再び立ち去ってしまうのでした。
ちなみに六郎たちはやたらと出たり入ったりしますが、結局のところ範頼本人が姿を現すことはありません。紅長さんの聞き間違いでしょうか。
そんなどさくさのうちにお堂から人が出払い、欄間にお七が残るばかりとなりました。
とそこへ、お家の重宝・天国(あまくに)の短刀のことで頭がいっぱいの吉三郎さんが悩みながらやってきます。二人きりになる大チャンスです。
お七はいそいそと欄間から降りて、ここぞとばかりに吉三郎さんに迫りますが、家のこともありそれどころではない吉三郎さんはつれない態度…
困ってしまったお七は、アイタタタタ・・・と、にわかの癪を起して吉三郎に介抱してもらいます。もちろんこれは仮病で、歌舞伎に登場する女性キャラクターが、恋を叶える時などによく使う方法のひとつです。
お七は後ろでようすを見ていた紅長さんからのアシストでこの仮病を実行、吉三郎さんはついにお七の気持ちを受け入れてくれるのでした。よかったですね!
吉祥院お土砂の場[6]
[5]では、欄間の天人とお七を入れ替えるという紅長さんの奇想天外なアイデアでお七がピンチを乗り越え、ついに吉三郎さんに思いを受け入れてもらうことができました。しかしいつまた範頼や家来たちがやってくるかわかりませんから、お七と吉三郎さんは奥へ、紅長さんは次の方法の準備へ取り掛かります。
そんなところへ、お七探しを諦めない六郎と武兵衛がまたしてもお堂へ乗り込んできます。お七はどこへ行った、どこだどこだとお坊さんに尋ねますが、驚くべきことに「お七もお母さんのおたけさんも亡くなってしまいました」と言われてしまいます。
なにィイと六郎達がお堂にある早桶(棺桶)を慌てて開けてみますと、なんと中からパワフルな死者が飛び出してきて、武兵衛が投げ飛ばされてしまいました。ゾンビ映画のようです。
ちなみに江戸時代の棺桶は座らせた姿勢のご遺体を収めたそうで、芝居でも丸い桶のようなものが出てきます。現代の棺桶とは違いますがよく考えればまさに桶ですね。
怒った武兵衛は、お堂にある「お土砂」を手に取って、パワフルな死者にかけてやります。するとアラ不思議、死後硬直しているはずの体がぐにゃんぐにゃんになってしまいました!
死者の格好をしてもう一つの早桶に潜んでいた紅長は、そんなお土砂の不思議を目撃したらすっかりおもしろくなってしまい、武兵衛や六郎、さらにはお寺のご住職やお坊さんにまでお土砂をかけてまわり、みんなをぐにゃぐにゃにして楽しむのでした。
演目の中ではパーティーグッズのように愉快に使われていますが、そもそも「お土砂」というのは、真言密教の土砂加持で用いられる清めた白砂のことです。これをお墓やご遺体などにかけることで、亡くなられた方の罪が消えて体の死後硬直も和らぎ、極楽往生ができると考えられている神聖なものです。
そんなお土砂のどさくさのなか、お七はひとまず吉三郎さんと離れ、下女のお杉とともに我が家へと逃れていくのでした。
四つ木戸火の見櫓の場[1]
[6]では、罪が清められ体がぐにゃぐにゃに柔らかくなるという不思議な「お土砂」を手にした紅長さんが、六郎や武兵衛はじめ吉祥院のお坊さんたちまでもをぐにゃぐにゃにしてしまうというドタバタの展開でお土砂の場が終わったところまでをお話いたしました。
お土砂の場は単に喜劇だからというだけでなく、人の出入りがとても多く全体的にドタバタしているのが特徴です。続く場面では、打って変わってシリアスになります。
場面は変わりまして、四ツ木戸火の見櫓の場です。舞台の上は雪の降る夜、町の木戸のそばに立てられた火の見櫓が立っています。
火事に弱い江戸の市街地では、広範囲の延焼を防ぐために火事をいち早く見つけて初期消火を行うことが重大テーマであったので、一定の区画ごとに「火の見櫓」を設置していました。火の見櫓の上には太鼓や半鐘がつるしてあり、火事を発見次第いち早く鳴らして周囲に知らせるという役割がありました。
そんな火の見櫓は八百屋お七のシンボルであり、タイトルなどが変わっても舞台に火の見櫓と雪景色が揃えば、あっ八百屋お七だなと連想できるようになっています。
吉祥院の騒ぎからはしばらく経ちましたが、吉三郎さんはいまだお家の重宝・天国の短刀を見つけることができておらず、八百屋の家へ戻ったお七は吉三郎さんに会えずにやきもきとした日々を過ごしているようです。
そんな折、意外にもお七の家の下女のお杉が、天国の短刀のありかを発見したのです。
お杉が言うには、なんとお七の家に来ている源範頼の家来・竹兵衛が、まさしく天国の短刀を所持しているのだといいます。これを盗んで、吉三郎さんに届けてはどうか…という提案です。
大好きな吉三郎さんに会いたくて会いたくて、いてもたってもいられないお七は、どうにかして天国の短刀を届けたいと思案しますが、既に時刻は暮六つになっており、町の木戸が閉ざされしまい外に出ることができません。
江戸時代の市街地では、火災の防止や犯罪者の逃亡防止など治安維持の観点から、各町の入り口に約4.5mほどの「木戸」が設置されていました。
さらに木戸の番人「木戸番」を置き、通行可能時刻が厳密に定められていたのです。どのような事情があろうと、通行可能時刻が過ぎ閉門の時刻となってしまえば、木戸番の監視のもとで木戸は固く閉ざされ通行禁止とされました。
実際は時刻が過ぎてもくぐり戸などから出入りができたようですが、この芝居の上では「木戸は固く閉ざされ決して開けてもらえない」という状況がとても重要です。ある種のロマンです。
ああ今すぐにでも吉三郎さんに会いたい、しかし木戸は開かない、さてどうしたものか…とお七が悩むところで、次回に続きます。
四つ木戸火の見櫓の場[2]
前記では、場面が「四ツ木戸火の見櫓の場」に移りました。
吉三郎さんが探しているお家の重宝・天国の短刀を、お七の家の八百屋に来ている武兵衛が所持していることがわかり、お七は今にも吉三郎さんに会いに行きたいと思うものの、当時の事情からすぐに届けることができずに阻まれてしまっているという状況です。
お七の障害となっているのは、江戸の防火対策のために町に設置されていた木戸です。既に暮六つという時刻のために番人の木戸番によって木戸が固く閉ざされ、開けてもらうことはできません。
しかし、この木戸を開く術が一つあることをお七は知っています。それは「火の見櫓の太鼓を打つ」というものです。
火の見櫓は、遠くの火をいち早く見つけて初期消火を目指すため、町の一定区画ごとに設置されていていた構造物です。火の発見とともに半鐘や太鼓を鳴らすことで、近隣の人々に火災発生を知らせていました。
火の見櫓の太鼓が打たれたということは、すなわちどこかで火事が起きているということです。木造住宅でできた町はあっという間に延焼してしまいますから、木戸を閉めて住民を閉じ込めている場合ではありません。火の見櫓からの火事の知らせがあれば、すみやかに木戸が開けられます。
火事は江戸の町の脅威であり、命に関わる一大事ですから、虚偽報告があっては大問題です。もしもいたずらで火の見櫓の太鼓を鳴らしたりすれば厳しい罰が与えられました。
火の見櫓にもその旨が記載されているので、下女のお杉は怯えてしまい、用事でふたたび家へと入っていってしまいました。
ひとり櫓の前に残ったお七。絶対にいけないこと、罰を受けることだとはわかっていても、どうしても吉三郎さんに会いたい。その一心に突き動かされたお七は、髪を振り乱し、降りしきる雪のなか火の見櫓を登っていきます。そして撥を手にすると、思い切り太鼓を打ち鳴らしました。
ドンドンドンという音とともに、町の木戸はすぐさま開かれます。
そこへ、この短時間で見事に天国の短刀を入手したお杉が現れ、短刀を受け取ったお七は、降りしきる雪のなか恋しい吉三郎さんの元へと駆けていくのでした。
ここまでで「松竹梅湯島掛額」は幕となります。
紅屋長兵衛と初代吉右衛門
この演目において、江戸のヒロインとして有名な八百屋お七以上に主役として活躍するのが紅屋長兵衛、通称「紅長(べんちょう)」です。
八百屋お七と吉三郎の恋を描くお七吉三郎物の芝居の吉祥寺の場にいつも登場していた「弁長(べんちょう)」という坊主のパロディーがこの紅屋長兵衛であると言われています。
そのため紅屋長兵衛には、「還俗して紅商いに精を出している」という設定がついているようです。元お坊さんでありながらお土砂で遊んでしまうというのがおもしろいところです。
紅屋長兵衛という役どころは本来、脇役のおもしろキャラといったところの三枚目の道化役でありながら、現在は主役級の役者さんがお勤めになる大きな役と認識されています。これは、近代の名優・初代中村吉右衛門の功績によるものです。
大正15年(1926)2月、現在の文京区本郷に存在した本郷座において上演された「松竹梅湯島掛額」において、初代吉右衛門が紅屋長兵衛を務めました。
このとき、附け打ちの方を含む舞台上の全員にお土砂をかける、さらに花道から洋服姿のお客さん役を乱入させてその方にもお土砂をかける、そのうえそのお客さんを制止する劇場案内係も登場させてお土砂をかける…として、最終的に幕引きにまでお土砂をかけ、全ての登場人物をぐにゃぐにゃにしてしてしまい、自らの手で幕を引くという演出をつけたのでした。
この演出スタイルは現在の上演にも引き継がれており、客席の笑いを誘っています。劇場案内係として大人の女性が歌舞伎の舞台に上がるという点でもレアな演出です。不勉強で存じ上げませんがあの方は本物の歌舞伎座の職員の方なのでしょうか、よくお声が出ていますよね。
これがおよそ百年前のアイデアなのかと考えますと非常に斬新だなあと思います!さすが初代吉右衛門です。
浄瑠璃「伊達娘恋緋鹿子」
この演目の後半部分にあたる通称「櫓のお七」は、人形浄瑠璃の「伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)」の「火の見櫓の段」から脚色されたものです。
八百屋お七を題材とした演目は伊達娘恋緋鹿子以前にも数多く作られていますが、そのなかでも現在まで上演され残り続けている美しい名場面です。
お七が放火をするのではなく、火の見櫓の半鐘(歌舞伎では太鼓)を打つという趣向が受け入れられ成功したようです。江戸時代の劇場運営において火というのは非常に忌み嫌われるものであったので、こうした工夫が生まれたとされています。
そんな「伊達娘恋緋鹿子 火の見櫓の段」の詞章をお読みいただきたく、ここにご紹介いたします。
   伊達娘恋緋鹿子 火の見櫓の段
降り積る、雪にはあらで恋といふ、その愛しさの心こそ、いつかは身をば、崩れはし。跡にお七は心も空、二十三夜の月出ぬうち』と体はこゝに、魂は、奥と表に目配り気配り、よその歎きも、白雪に冴えゆく、遠寺の鐘かうかうと、響き渡れば。 「ヤア、あの鐘ははや九つ、夜中限り江戸の門々を蹄めては、大切な用ある人も、往来ならぬ厳しいお触れ、たとへ剣が手に入つても、今夜中に届ける事が叶はねば、吉三様はやつぱり切腹、ハア 悲しや、コリヤ何とせう、どうせう」と、立つたり居たり気はそぞろ更け行く空の恨めしく、鐘鳴る方を睨みつけ、拳を握り歯をかみしめ、ただうつとりと立つたりしが、ふつと気のつく表の火の見、「オオさうじや、アノ火の見の半鐘を打てば、出火と心得町々の門々開くは定。思ひのまゝに剣を届け、夫の命助けいで置かうか。鐘を打つたるこの身の科、町々小路を引廻され、焼き殺されても男ゆえ、少しも厭はぬ大事ない。思ふ男に別れては所詮生きてはいぬ体、炭にもなれ灰ともなれ」と、女心の一筋に、帯引締めて裾引上げ、表に駆け出で、四辻にとがむる人も嵐に凍て、雪は凍りて踏み滑る。お七は難なく火の見の上、撞木追取り打立つる、音より間もなくここかしこ、一度に打出す警鐘の、響きに連れて開く門々。杉は難なく奥の間より、剣を盗んで逃げ来るあと、「ヤイ大泥棒め」と騒け来る武兵衛、引抱へてもぎ取る剣、 「やらじ」と縋るを踏み飛ばす、「ドツコイさうは」と飛び付く弥作、引き擦りのくるその手を直ぐに、腕搦みに「こりや/\/\」かしこは見下す雪の屋根、そのまま三途の瓦葺、睨む地獄の鬼瓦、追つ立て責むる身の因果、廻りくる/\/\/\と下には三人が、挑むうち。「嫌はれた意趣晴らし、引縛つて訴人する」とお杉を蹴飛ばし上り来る、梯子を下より打返せば、武兵衛は大地へ真逆様、持つたる脇差取り落すを、杉は追つ取り吉三が方、駆け行くあとを追ひかける。お七も飛んで遠近の人の、噂と
   あらすじ
本郷駒込の吉祥院の寺小姓吉三郎は、主人左門之助とともに紛失した天国(あまくに)の名剣を探していました。もし見つからなければ、百日の猶予の日限も今宵限り、明六つの鐘を合図に切腹しなければなりません。 一方、本郷の大火で吉祥院へ非難した壇家の八百屋久兵衛は大火で店を失い、店の再建のために釜屋武兵衛に借金をしました。武兵衛は借金の返済の代わりに一人娘のお七を嫁にと望みますが、お七は寺小姓の吉三郎に思いを寄せておりました。今宵に迫った吉三郎の切腹を救いたいお七は下女のお杉から武兵衛が天国の剣を持っていることを知ります。しかし暮六つの鐘を合図に町の木戸は閉まり、吉三郎に知らせることすらできません。町の木戸には火の見櫓があり、火事の際はその火の見櫓の太鼓を打つと木戸が開きますが、もしみだりに太鼓を打つと火刑(ひあぶり)になります。それを知ったお七は雪の降る中、火の見櫓に駆け上がり櫓の太鼓を打ちます。そこへ武兵衛から剣を奪ったお杉が駆けつけ、お七は剣を持って木戸の開いた雪の町を吉三郎のもとへかけていきます。
寒々しい情景と、それと対照的なお七の燃えるような情念の激しさ、背負う罪の重さが見事に表現されていますね。恐ろしいほどです。 
 
 
好色五人女

 

好色五人女
■好色五人女卷一 姿姫路清十郎物語
・戀は闇夜を晝の國 室津にかくれなき男有
・くけ帯よりあらはるゝ文 姫路に都まさりの女有
・太皷に寄獅子舞 はや業は小袖幕の中に有
・状箱は宿に置て來た男 心當の世帯大きに違ひ有 ・命のうちの七百兩のかね 世にはやり哥聞は哀有
戀は闇夜を晝の國
春の海しづかに寶舟の浪枕室津はにきはへる大湊なり爰に酒つくれる商人に和泉清左衞門といふあり家榮えて萬に不足なし然も男子に清十郎とて自然と生つきてむかし男をうつし繪にも増り其さまうるはしく女の好ぬる風俗十四の秋より色道に身をなし此津の遊女八十七人有しをいづれかあはざるはなし誓紙千束につもり爪は手箱にあまり切せし黒髪は大綱になはせける是にはりんき深き女もつながるべし毎日の届文ひとつの山をなし紋付の送り小袖其まゝにかさね捨し三途川の姥も是みたらば欲をはなれ高麗橋の古手屋もねうちは成まし浮世藏と戸前に書付てつめ置ける此たはけいつの世にあがりを請べし追付勘當帳に付てしまふべしと見る人是をなげきしにやめがたきは此道其比はみな川といへる女郎に相馴大かたならず命に掛て人のそしり世の取沙汰なんともおもはず月夜に灯燈を晝ともさせ座敷の立具さし籠晝のない國をしてあそぶ所にこざかしき太鞁持をあまたあつめて番太か拍子木蝙蝠の鳴まねやりてに門茶を燒せて哥念仏を申死もせぬ久五郎がためとて尊靈の棚を祭楊枝もやして送り火の影夜するほとの事をしつくして後は世界の圖にある裸嶋とて家内のこらす女郎はいやがれど無理に帷子ぬがせて肌の見ゆるをはじける中にも吉崎といへる十五女郎年月かくし來りし腰骨の白なまず見付て生ながらの辨才天樣と座中拜みて興覺ける其外氣をつくる程見くるしく後は次第にしらけてをかしからずかゝる時清十郎親仁腹立かさ成此宿にたづね入思ひもよらぬ俄風荷をのける間もなければ是で燒とまります程にゆるし給へとさま/\詫ても聞ず菟角はすぐにいづかたへもお暇申てさらばとてかへられけるみな川を始女郎泣出してわけもなうなりける太鞁持の中に闇の夜の治介といふもの少もおどろかず男は裸か百貫たとへてらしても世はわたる清十郎樣せき給ふなといふ此中にもをかしく是を肴にして又酒を呑かけせめてはうきをわすれけるはや揚屋にはげんを見せてて扣ても返事せず吸物の出時淋しく茶のもといへば兩の手に天目二つかへりさまに油火の灯心をへしてゆく女郎それ/\に呼たつるさても/\替は色宿のならひ人の情は一歩小判あるうちなりみな川が身にしてはかなしくひとり跡に殘り泪に沈みければ清十郎も口惜きとばかり言葉も命はすつるにきはめしが此女の同し道にといふべき事をかなしくとやかく物思ふうちにみな川色を見すましかた樣は身を捨給はん御氣色去迚は/\愚申たき事なれ共いかにしても世に名殘あり勤はそれ/\に替心なれば何事も昔/\是迄と立行さりとはおもはく違ひ清十郎も我を折ていかに傾城なればとて今迄のよしみを捨淺ましき心底かうは有まじき事ぞと泪をこぼし立出る所へみな川白將ぞくしてかけ込清十郎にしがみつき死ずいづくへ行給ふぞさあさあ今じやと剃刀一對出しける清十郎又さしあたり是はと悦ぶ時皆/\出合兩方へ引わけ皆川は親かたの許へ連かへれば清十郎は人/\取まきて内への御詫言の種にもと旦那寺の永興院へ送りとゝけける其年は十九出家の望哀にこそ
くけ帯よりあらはるゝ文
やれ今の事じや外科よ氣付よと立さわぐ程に何事ぞといへば皆川じがいと皆/\なげきぬまだどうぞといふうちに脉があがるとやさても是非なき世や十日あまりも此事かくせば清十郎死おくれてつれなき人の命母人の申こされし一言にをしからぬ身をながらへ永興院をしのび出同國姫路によしみあればひそかに立のき爰にたづねゆきしにむかしを思ひ出てあしくはあたらず日數ふりけるうちに但馬屋九右衞門といへるかたに見せをまかする手代をたづねられしに後/\はよろしき事にもと頼にせし宿のきもいられてはじめて奉公の身とは成ける人たるものゝ育ちいやしからずこころざしやさしくすぐれてかしこく人の氣に入べき風俗なり殊に女の好る男ぶりいつとなく身を捨戀にあきはて明くれ律儀かまへ勤けるほとに亭主も萬事をまかせ金銀のたまるをうれしく清十郎をすゑ/\頼にせしに九右衞門妹におなつといへる有ける其年十六迄男の色好ていまに定る縁もなしされは此女田舎にはいかにして都にも素人女には見たる事なし此まへ嶋原に上羽の蝶を紋所に付し太夫有しがそれに見増程成美形と京の人の語けるひとつ/\いふ迄もなし是になぞらへて思ふべし情の程もさぞ有へし有時清十郎竜門の不斷帯中ゐのかめといへる女にたのみて此幅の廣をうたてしよき程にくけなほしてと頼しにそこ/\にほどきければ昔の文名殘ありて取亂し讀つゝけけるに紙數十四五枚有しに當名皆清さまと有てうら書は違ひて花鳥うきふね小太夫明石卯の葉筑前千壽長しう市之丞こよし松山小左衞門出羽みよしみな/\室君の名ぞかしいづれを見ても皆女郎のかたよりふかくなづみて氣をはこび命をとられ勤のつやらしき事はなくて誠をこめし筆のあゆみ是なれは傾城とてもにくからぬものぞかし又此男の身にしては浮世ぐるひせし甲斐こそあれさて内證にしこなしのよき事もありや女のあまねくおもひつくこそゆかしけれといつとなくおなつ清十郎に思ひつきそれより明暮心をつくし魂身のうちをはなれ清十郎が懷に入て我は現が物いふごとく春の花も闇となし秋の月を晝となし雪の曙も白くは見えず夕されの時鳥も耳に入ず盆も正月もわきまへず後は我を覺ずして恥は目よりあらはれいたづらは言葉にしれ世になき事にもあらねば此首尾何とぞつき%\の女も哀れにいたましく思ふうちにも銘/\に清十郎を戀詫お物師は針にて血をしほり心の程を書遣しける中居は人頼みして男の手にて文を調へ袂になげ込腰元ははこばても苦しからざりき茶を見世にはこび抱姥は若子さまに事よせて近寄お子を清十郎にいだかせ膝へ小便しかけさせこなたも追付あやかり給へ私もうつくしき子を産でからお家へ姥に出ました其男は役に立ずにて今は肥後の熊本に行て奉公せしとや世帯やぶる時分暇の状は取ておく男なしじやに本におれは生付こそ横ぶとれ口ちひさく髪も少はちゞみしにとしたゝるき独言いふこそをかしけれ下女は又それ/\に金じやくし片手に目黒のせんば煮を盛時骨かしらをゑりて清十郎にと氣をつくるもうたてしあなたこなたの心入清十郎身にしては嬉しかなしく内かたの勤は外になりて諸分の返事に隙なく後には是もうたてくと夢に目を明風情なるになほおなつ便を求てかず/\のかよはせ文清十郎ももや/\となりて御心にはしたがひながら人めせはしき宿なればうまひ事は成がたくしんいを互に燃し兩方戀にせめられ次第やせにあたら姿の替り行月日のうちこそ是非もなくやう/\聲を聞あひけるをたのしみに命は物種此戀草のいつぞはなびきあへる事もと心の通ひぢに兄娵の關を居ゑ毎夜の事を油斷なく中戸をさし火用心めしあはせの車の音神鳴よりはおそろし
太鞁による獅子舞
尾上の櫻咲て人の妻のやうす自慢色ある娘は母の親ひけらかして花は見ずに見られに行は今の世の人心なり菟角女は化物姫路の於佐賀部狐もかへつて眉毛よまるべし但島屋の一家春の野あそびとて女中駕籠つらせて跡より清十郎萬の見集に遣しける高砂會禰の松も若緑立て砂濱の氣色又有まじき詠ぞかし里の童子さらへ手毎に落葉かきのけ松露の春子を取などすみれつばなをぬきしやそれめつらしく我もとり%\の若草すこしうすかりき所に花筵毛氈しかせて海原静に夕日紅人/\の袖をあらそひ外の花見衆も藤山吹はなんともおもはず是なる小袖幕の内ゆかしく覗おくれて歸らん事を忘れ樽の口を明て醉は人間のたのしみ萬事なげやりて此女中をけふの肴とてたんとうれしがりぬこなたには女酒盛男とては清十郎ばかり下/\天目呑に思ひ出申て夢を胡蝶にまけず廣野を我物にして息杖ながくたのしみ前後もしらず有ける其折から人むら立て曲太鞁大神樂のきたりおの/\のあそび所を見掛獅子がしらの身ぶり扨も/\仕くみて皆/\立こぞりて女は物見だけくて只何事をもわすれひたもの所望/\とやむ事ををしみけり此獅子舞もひとつ所をさらず美曲の有程はつくしけるおなつは見ずして独幕に殘て虫齒のいたむなどすこしなやむ風情に袖枕取乱して帯はしやらほどけを其まゝにあまたのぬぎ替小袖をつみかさねたる物陰にうつゝなき空鼾心にくしかゝる時はや業の首尾もがなと氣のつく事町女房はまたあるまじき帥さま也清十郎おなつばかり殘りおはしけるにこゝろを付松むら/\としげき後道よりまはりければおなつまねきて結髪の ほどくるもかまはず、物もいはず、兩人鼻息せはしく、胸ばかりおどらして、幕の人見より目をはなさず兄娵こはく跡のかたへは心もつかず起さまにみれば柴人壹荷をおろして鎌を握しめふんどしうごかしあれはといふやうなる皃つきしてこゝちよげに見て居ともしらず誠にかしらかくしてや尻とかや此の此獅子舞清十郎幕の中より出しをみてかんじんのおもしろい半にてやめけるを見物興覺て殘り多き事山/\に霞ふかく夕日かたふけば萬を仕舞て姫路にかへるおもひなしかはやおなつ 腰つきひらたくなりぬ。清十郎跡にさかりて獅子舞の役人にけふはお影/\といへるを聞ば此大神樂は作り物にして手くだの爲に出しけるとはかしこき神もしらせ給ふまじましてやはしり智惠なる兄娵なんどが何としてしるべし
状箱は宿に置て來た男
乘かゝつたる舟なればしかまづより暮をいそぎ清十郎おなつを盗出し上方へのぼりて年浪の日數を立うき世帯もふたり往ならばとおもひ立取あへずもかり衣濱びさしの幽なる所に舟待をして思ひ/\の旅用意伊勢參宮の人も有大坂の小道具うりならの具足屋醍醐の法印高山の茶筅師丹波の蚊屋うり京のごふく屋鹿嶋の言ふれ十人よれば十國の者乘合舟こそをかしけれ船頭聲高にさあ/\出します銘/\の心祝なれば住吉さまへのお初尾とてしやく振て又あたま數よみて呑ものまぬも七文づゝの集錢出し間鍋もなくて小桶に汁椀入て飛魚のむしり肴取急ぎて三盃機嫌おの/\のお仕合此風眞艫で御座ると帆を八合もたせてはや一里あまりも出し時備前よりの飛脚横手をうつて扨も忘たり刀にくくりながら状箱を宿に置て來た男磯のかたを見てそれ/\持佛堂の脇にもたし掛て置ましたと慟きけるそれが爰から聞ゆるものか有さまにきん玉が有かと船中聲/\にわめけば此男念を入てさぐりいかにも/\二つこざりますといふいつれも大笑になつて何事もあれじや物舟をもどしてやりやれとて楫取直し湊にいればけふの首途あしやと皆/\腹立してやう/\舟汀に着ければ姫路より追手のもの爰かしこに立さわぎもし此舟にありやと人改めけるにおなつ清十郎かくれかねかなしやといふ聲計哀れしらずども是を耳にも聞いれずおなつはきびしき乘物に入清十郎は繩をかけ姫路にかへりける又もなき歎見し人ふびんをかけざるはなし其日より座敷籠に入て浮難義のうちにも我身の事はない物にしておなつは/\と口ばしりて其男目が状箱わすれねは今時分は大坂に着て高津あたりのうら座敷かりて年寄たかゝひとりつかうて先五十日計は 夜昼なしに、肩もかへずに、寐筈におなつと内談したもの皆むかしになる事の口惜や誰ぞころしてくれいかしさても/\一日のながき事世にあきつる身やと舌を齒にあて目をふさぎし事千度なれどもまだおなつに名殘ありて今一たびさい後の別れに美形を見る事もがなと恥も人のそしりもわきまへず男泣とは是ぞかし番の者ども見る目もかなしく色/\にいさめて日數をふりぬおなつも同じ歎にして七日のうちはだんじきにて願状を書て室の明神へ命乞したてまつりにけり不思義や其夜半とおもふ時老翁枕神に立せ給ひあらたなる御告なり汝我いふ事をよく聞べし惣じて世間の人身のかなしき時いたつて無理なる願ひ此明神がまゝにもならぬなり俄に福徳をいのり人の女をしのび惡き者を取りころしてのふる雨を日和にしたいの生つきたる鼻を高うしてほしいのとさま%\のおもひ事とても叶はぬに無用の佛神を祈りやつかいを掛ける過にし祭にも參詣の輩壹萬八千十六人いづれにても大欲に身のうへをいのらざるはなし聞てをかしけれ共散錢なげるがうれしく神の役に聞なり此參りの中に只壹人信心の者あり高砂の炭屋の下女何心もなく足手そくさいにて又まゐりましよと拜て立しがこもどりして私もよき男を持してくださりませいと申それは出雲の大社を頼めこちはしらぬ事といふたれどもえきかずに下向しけりその方も親兄次第に男を持ば別の事もないに色を好て其身もかゝる迷惑なるぞ汝をしまぬ命はながく命ををしむ清十郎は頓さい期ぞとあり/\との夢かなしく目を覺して心ほそくなりて泣明しける案のごとく清十郎めし出されて思ひもよらぬ詮義にあひぬ但馬屋内藏の金戸棚にありし小判七百兩見えざりしこれはおなつに盗出させ清十郎とりてにげしと云觸て折ふし惡敷此事ことはり立かね哀や廿五の四月十八日に其身をうしなひけるさてもはかなき世の中と見し人袖は村雨の夕暮をあらそひ惜みかなしまぬはなし其後六月のはじめ萬の虫干せしに彼七百兩の金子置所かはりて車長持より出けるとや物に念を入べき事と子細らしき親仁の申き
命のうちの七百兩のかね
何事も知ぬが佛おなつ清十郎がはかなくなりしとはしらずとやかく物おもふ折ふし里の童子の袖引連て清十郎ころさばおなつもころせとうたひける聞ば心に懸ておなつそだてし姥に尋ければ返事しかねて泪をこぼすさてはと狂乱になつて生ておもひをさしようよりもと子共の中にまじはり音頭とつてうたひける皆々是をかなしくさま%\とめてもやみがたく間もなく泪雨ふりてむかひ通るは清十郎ではないか笠がよく似たすげ笠がやはんはゝのけら/\笑ひうるはしき姿いつとなく取乱して狂出ける有時は山里に行暮て草の枕に夢をむすべば其まゝにつき%\の女もおのづから友みたれて後は皆/\乱人となりにけり清十郎年ころ語し人どもせめては其跡殘しおけとて草芥を染し血をすゝき尸を埋みてしるしに松柏をうゑて清十郎塚といひふれし世の哀は是ぞかしおなつは夜毎に此所へ來りて吊ひける其うちにまざ/\とむかしの姿を見し事うたがひなしそれより日をかさね百ケ日にあたる時塚の露草に座して守り脇指をぬきしをやう/\引とゞめて只今むなしうなり給ひてようなしまことならば髪をもおろさせ給ひすゑ/\なき人をとひ給ふこそぼたいの道なれ我/\も出家の望といへばおなつこゝろをしづめみな/\が心底さつしてともかくもいづれもがさしづはもれじと正覺寺に入て上人をたのみ十六の夏衣けふより墨染にして朝に谷の下水をむすびあげ夕に峯の花を手折夏中は毎夜手灯かゝげて大經のつとめおこたらず有難びくにとはなりぬ是を見る人殊勝さまして傳へきく中將姫のさいらいなるべしと此庵室に但馬屋も發心おこりて右 の金子仏事供養して清十郎を吊ひけるとや其比は上方の狂言になし遠國村/\里/\迄ふたりが名を流しける是ぞ戀の新川舟をつくりておもひをのせて泡のあはれなる世や
■好色五人女卷二 情を入し樽屋物がたり
・戀に泣輪の井戸替 あい釣瓶もおりひに乱るゝ繩有
・踊はくづれ桶夜更て化物 人はおそろしや蓋して見せぬ心有
・京の水もらさぬ中忍て合釘 目印の錐紙に書付て有
・こけらは胸の燒付新世帯 心正直の細工人天滿に有
・木屑の杉楊枝一寸先の命 りんきに逆目をやる杉有
戀に泣輪の井戸替
身はかぎりあり戀はつきせず無常の我手細工のくわん桶に覺え世をわたる業とて錐のこぎりのせはしく鉋屑のけぶりみじかく難波のあしの屋をかりて天滿といふ所からすみなす男有女も同し片里の者にはすぐれて耳の根白く足もつちけはなれて十四の大晦日に親里の御年貢三分一銀にさしつまりて棟たかき町家に腰もとつかひして月日をかさねしに自然と才覺に生れつき御隱居への心づかひ奥さまの氣をとる事それよりすゑ%\の人に迄あしからず思はれ其後は内藏の出し入をもまかされ此家におせんといふ女なうてはと諸人に思ひつかれしは其身かしこきゆゑぞかしされ共情の道をわきまへず一生枕ひとつにてあたら夜を明しぬかりそめにたはふれ袖つま引にも遠慮なく聲高にして其男無首尾をかなしみ後は此女に物いふ人もなかりき是をそしれど人たる人の小女はかくありたき物なり折ふしは秋のはじめの七日織女に借小袖とていまだ仕立より一度もめしもせぬを色/\七つめんどりばにかさねかぢの葉に有ふれたる哥をあそばし祭給へば下/\もそれ/\に唐瓜枝柿かざる事のをかし横町うら借屋迄竃役にかゝつてお家主殿の井戸替けふことにめづらし濁水大かたかすりて眞砂のあがるにまじり日外見えぬとて人うたがひし薄刃も出昆布に針さしたるもあらはれしが是は何事にかいたしけるぞやなほさがし見るに駒引錢目鼻なしの裸人形くだり手のかたし目貫つぎ/\の涎掛さま%\の物こそあがれ蓋なしの外井戸こゝろもとなき事なり次第に涌水ちかく根輪の時むかしの合釘はなれてつぶれければ彼樽屋をよび寄て輪竹の新しくなしぬ爰に流ゆくさゞれ水をせきとめて三輪組すがたの老女いける虫をあいしけるを樽屋何ぞと尋しに是はたゞ今汲あげし井守といへるものなりそなたはしらずや此むし竹の筒に籠て煙となし戀ふる人の黒髪にふりかくればあなたより思ひ付事ぞとさも有のまゝに語ぬ此女もとは夫婦池のこさんとて子おろしなりしが此身すぎ世にあらためられて今は其むごき事をやめて素麪の碓など引て一日暮しの命のうちに寺町の入相の鐘も耳にうとく淺ましいやしく身に覺ての因果なほゆくすゑの心ながらおそろしき事を咄けるにそれは一つも聞もいれずして井守を燒て戀のたよりになる事をふかく問におのづと哀さもまさりて人にはもらさじ其思ひ人はいかなる御方樣ぞといへば樽屋我をわすれてこがるゝ人は忘れず口の有にまかせて樽のそこを扣てかたりしは其君遠にあらず内かたのお腰もとおせんが/\百度の文のかへしもなきと泪に語れば彼女うなづきてそれはゐもりもいらず我堀川の橋かけて此戀手に入てまなく思ひを晴させんとかりそめに請相ければ樽屋おどろき時分がらの世の中金銀の入事ならば思ひながらなりがたしあらば何かをしかるべし正月にもめん着物染やうはこのみ次第盆に奈良ざらしの中位なるを一つ内證はこんな事で埓の明やうにとたのめばそれは欲にひかるゝ戀ぞかし我たのまるゝは其分にはあらずおもひつかする仕かけに大事有此年月數千人のきもいりつひにわけのあしきといふ事なし菊の節句より前にあはし申べしといへば樽屋いとゝかしもゆる胸に燒付かゝ樣一代の茶の薪は我等のつゞけまゐらすべしと人はながいきのしれぬうき世に戀路とて大ぶんの事をうけあふはをかし
踊はくづれ桶夜更て化物
天滿に七つの化物有大鏡寺の前の傘火神明の手なし兒曽根崎の逆女十一丁目のくびしめ繩川崎の泣坊主池田町のわらひ猫うくひす塚の燃からうす是皆年をかさねし狐狸の業ぞかし世におそろしきは人間ばけて命をとれり心はおのづからの闇なれや七月廿八日の夜更て軒端を照せし灯籠も影なくけふあすばかりと名殘に聲をからしぬる馬鹿踊もひとり%\己か家/\に入て四辻の犬さへ夢を見し時彼樽屋にたのまれしいたづらかゝ面屋門口のいまだ明掛てありしを見合戸ざしけはしく内にかけ込廣敷にふしまろびやれ/\すさまじや水が呑たいといふ聲絶てかぎりの樣に見えしがされども息のかよふを頼みにして呼生けるに何の子細もなく正氣になりぬ内儀隱居のかみさまをはじめて何事か目に見えてかくはおそれけるぞ我事年寄のいはれざる夜ありきながら霄より寐ても目のあはぬあまりに踊見にまゐりしほどに鍋嶋殿屋敷のまへに京の音頭道念仁兵衞が口うつし山くどき松づくししばらく耳にあかずあまたの男の中を押わけ團かざして詠けるに闇にても人はかしこく老たる姿をかずかず白き帷子に黒き帯のむすびめを當風にあぢはやれどもかりそめに我尻つめる人もなく女は若きうちの物ぞとすこしはむかしのおもはれ口惜てかへるに此門ちかくなりて年の程二十四五の美男我にとりつき戀にせめられ今思ひ死ひとへ二日をうき世のかぎり腰もとのおせんつれなし此執心外へは行まし此家内を七日がうちに壹人ものこさず取ころさんといふ聲の下より鼻高く皃赤く眼ひかり住吉の御はらひの先へ渡る形のごとくそれに魂とられ只物すごく内かたへかけ人のよし語ばいつれもおとろく中に隱居泪を流し給ひ戀忍事世になきならひにはあらずせんも縁付ごろなれば其男身すぎをわきまへ博奕後家くるひもせずたまかならばとらすべきにいかなる者ともしれず其男ふびんやとしばし物いふ人もなし此かゝが仕懸さても/\戀にうとからず夜半なりておの/\手をひかれ小家にもどり此うへの首尾をたくらむうちに東窓よりあかりさし隣に火打石の音赤子泣出し紙帳もりて夜もすがら喰れし蚊をうらみて追拂二布の蚤とる片手に仏棚よりはした錢を取出しつまみ菜買なと物のせはしき世渡りの中にも夫婦のかたらひを樂み南枕に寐莚しとげなくなりしはすきつる夜きのへ子をもかまはず 何事をかし侍る。やう/\朝日かゝやき秋の風身にはしまざる程吹しにかゝは鉢巻して枕おもげにもてなし岡島道齋といへるを頼み藥代の當所もなく手づからやくわんにてかしらせんじのあがる時おせんうら道より見舞來てお氣相はいかゞとやさしく尋ひだりの袂より奈良漬瓜を片舟蓮の葉に包てたばね薪のうへに置醤油のたまりをまゐらばと云捨てかへるを。かゝ引とゞめて我ははやそなたゆゑにおもひよらざる命をすつるなり自娘とても持さればなき跡にて吊ひても給はれとふるき苧桶のそこより紅の織紐付し紫の革たび一足つぎ/\の珠數袋此中にさられた時の暇の状ありしを是はとつて捨此二色をおせんに形見とてわたせば女心のはかなく是を誠に泣出し我に心有人さもあらば何にとて其道しるゝこなた樣をたのみたまはぬぞおもはくしらせ給はゞそれをいたづらにはなさじと云かゝよき折ふしとはじめを語り今は何をかかくすべしかね/\我をたのまれし其心ざしの深き事哀とも不便とも又いふにたらず此男を見捨給はゞみづからが執着とても脇へはゆかじと年比の口上手にていひつゞければおせんも自然となびき心になりてもだ/\と上氣していつにても其御方にあはせ給へといふにうれしく約束をかため一段の出合所を分別せしと小語て八月十一日立にぬけ參を此道終契をこめ行すゑ迄互にいとしさかはゆさの枕物語しみ%\とにくかるまじきしかも男ぶりじやとおもひつくやうに申せばおせんもあはぬさきより其男をこがれ物も書きやりますかあたまは後さがりで御座るか職人ならば腰はかゞみませぬか爰出た日は守口か牧方に晝からとまりまして ふとんをかりてはやう寐ましよと取まぜて談合するうちに中居の久米が聲しておせんどのおよびなされますといへばいよ/\十一日の事と申のこしてかへりける
京の水もらさぬ中忍びてあひ釘
朝皃のさかり朝詠はひとしほ凉しさもと宵より奥さまのおほせられて家居はなれしうらの垣ねに腰掛をならべ花氈しかせ重菓子入に燒飯そぎやうじ茶瓶わするな明六つのすこし前に行水をするぞ髪はつゐみつをりに帷子は廣袖に桃色のうら付を取出せ帯は鼠繻子に丸づくし飛紋の白きふたの物萬に心をつくるは隣町より人も見るなれば下/\にもつぎのあたらぬかたびらを着せよ天神橋の妹が方へはつねの起時に乘物にむかひにつかはせよと何事をもせんにまかせられゆたかなる蚊帳に入給へば四つの角の玉の鈴音なして寝入給ふまで番手に團の風静なり我家のうらなる草花見るさへかくやうだいなり惣して世間の女のうはかぶきなる事是にかぎらず亭主はなほおこりて嶋原の野風新町の荻野此二人を毎日荷ひ買して津村の御堂まゐりとてかたぎぬは持せ出しが直に朝ごみに行よし見えける八月十一日の曙まへに彼横町のかゝが板戸をひそかにたゝきせんで御座るといひもあへずそこ/\にからげたる風呂敷包一つなげ入てかへる物の取おとしも心得なく火をともしてみれば壹匁つなぎの錢五つこま銀十八匁もあらうか白突三升五合ほど鰹節一つ守袋に二つ櫛染分のかゝへ帯ぎんすゝたけの袷あふぎ流しの中なれなるゆかたうらときかけたるもめんたびわらんじの緒もしどけなく加賀笠に天滿堀川と無用の書付とよごれぬやうに墨をおとす時門の戸を音信かゝさま先へまゐると男の聲していひ捨て行其後せんが身をふるはして内かたの首尾は只今といへばかゝは風呂敷を堤て人しれぬ道をはしりすぎ我も大義なれ共神の事なれは伊勢迄見届てやらうといへばせんいやな皃して年よられて長の道思へば思へば及がたし其人に我を引合せ莵角伏見から夜舟でくだり給へとはやまき心になりて氣のせくまゝいそぎ行に京橋をわたりかゝる時はうばいの久七今朝の御番替りを見に罷りしが是はと見付られしは是非もなき戀のじやまなりそれがしもつね/\御參宮心懸しにねかふ所の道つれ荷物は我等持べし幸遣銀は有合す不自由なるめはmiせまじとしたしく申は久七もおせんに下心あるゆゑぞかしかゝ氣色をかへて女に男の同道さりとは/\人の見てよもや只とはいはじ殊更此神はさやうの事をかたく嫌ひ給へは世に耻さらせし人見及び聞傳へしなりひらに/\にまゐりたまふなといへば是はおもひもよらぬ事を改めらるゝさらにおせん殿に心をかくるにはあらず只信心の思ひ立それ戀は祈ずとても神の守給ひ心だにまことの道つれに叶ひなば日月のあはれみおせんさまの情次第に何國迄もまゐりて下向には京へ寄て四五日もなぐさめ折ふし高尾の紅葉嵯峨の松茸のさかり川原町に旦那の定宿あれどもそこは萬にむつかし三条の西づめにちんまりとした座敷をかりておかゝ殿は六条參をさせましよと我物にして行は久七がはまり也やう/\秋の日も山崎にかたむき淀堤の松蔭なかばゆきしに色つくりたる男の人まち皃にて丸葉の柳の根に腰をかけしをちかくなりてみれば申かはせし樽屋なり不首尾を目まぜして跡や先になりて行こそ案の外なれかゝは樽屋に言葉をかけこなたも伊勢參と見えまして然もおひとり氣立もよき人と見ました此方と一所の宿にと申せば樽屋よろこび旅は人の情とかや申せし萬事たのみますといへば久七中/\合點のゆかぬ皃して行衞もしれぬ人をことに女中のつれには思ひよらずといふかゝ情らしき聲して神は見通しおせん殿にはこなたといふ兵あり何事か有べしとかしま立の日より同し宿にとまりおもわくかたらすすきをみるに久七氣をつけ間の戸しやうじをひとつにはづし水風呂に入てもくび出して覗日暮て夢むすぶにも四人同じ枕をならべし久七寐ながら手をさしのばし行燈のかはらけかたむけやがて消るやうにすれば樽屋は枕にちかき窓蓋をつきあけ秋も此あつさはといへば折しも晴わたる月四人の寐姿をあらはすおせん空鼾を出せば久七右の足をもたす樽屋是を見て扇子拍子をとりて戀はくせもの皆人のと曽我の道行をかたり出すおせんは目覺してかゝに寐物がたり世に女の子を産ほどおそろしきはなし常/\思ふに年の明次年北野の不動堂のお弟子になりてすゑすゑは出家の望と申せばかゝ現のやうに聞てそれがまし思ふやうに物のならぬうき世にと前後をみれば宵ににし枕の久七は南かしらに ふんどしときてゐるは物參りの旅ながら不用心なり樽屋は蛤貝に丁子の油を入れ小杉のはな紙に持添むねんなる皃つきをかし夜の内は互に戀に關をすゑ明の日は相坂山より大津馬をかりて三ぽうかうじんに男女のひとつにのるを脇からみてはをかしけれ共身の草臥或は思ひ入あれは人の見しも世間もわきまへなしおせんを中に乘て樽屋久七兩脇にのりながら久七おせんが足のゆびさきをにぎれば樽屋は脇腹に手をさし忍び/\たはふれ其心のほどをかしいづれも御參宮の心ざしにあらねば内宮二見へも掛ず外宮ばかりへちよつとまゐりてしるし計におはらひ串若和布を調へ道中兩方白眼あひて何の子細もなく京迄下向して久七が才覺の宿につけば樽屋は取替し物共目のこ算用にして此程は何分御やつかいに成ましてと一礼いうて別ぬ久七は我物にしてそれ/\のみやげ物を見出して買てやりける日の暮も待ひさしく烏丸のほとりへちかしき人有て見舞しうちにかゝはおせんをつれて清水さまへ參るのよし取いそぎ宿を出てゆきしが祇薗町の仕出し辨當屋の釣簾に付紙目印に錐と鋸を書置しが此うちへおせん入かと見えしが中二階にあがれば樽屋出合すゑ/\やくそくの盃事して其後かゝは箱階おりて爰はさて/\水がよいとてせんじ茶はてしもなく呑にける是を契のはじめにして樽屋は晝舟に大坂にくだりぬかゝおせんは宿にかへりて俄に今からくだるといへば是非二三日は都見物と久七とゞめけれ共いや/\奥さまに男ぐるひなどしたとおもはれましてはいかゞと出て行風呂敷包は大義ながら久七殿頼といへばかたがいたむとて持ず大仏稻荷の前藤の森に休し茶の錢も銘/\拂ひにしてくたりける
こけらは胸の燒付さら世帯
參るならばまゐると内へしらして參ば通し駕籠か乘掛てまゐらすに物好なるぬけ參りして此みやげ物はどこの錢でかうたぞ夫婦つれたちてもその/\そんな事はせぬぞやうも/\二人つれで下向した事しや迄久七やせんが酒迎に寐所をしてとらせあれは女の事じやが久七がすゝめて智惠ない神に男心をしらすといふ物じやとお内儀さまの御腹立久七が申わけ一つも埓あかず罪なうしてうたがはれ九月五日の出替りをまたず御暇申て其後は北濱の備前屋といふ上問屋に季をかさね八橋の長といへるはすは女を女房にして今みれば柳小路にて鮓屋をして世を暮しせんが事つひわすれける人はみな移氣なる物ぞかしせんは別の事なく奉公をせしうちにも樽屋がかりの情をわすれかね心もそらにうかうかとなりて晝夜のわきまへもなくおのづから身を捨女に定つてのたしなみをもせず其さまいやしげに成て次第/\やつれけるかゝる折ふし鶏とぼけて宵鳴すれば大釜自然とくさりてそこをぬかし突込し朝夕の味噌風味かはり神鳴内藏の軒端に落かゝりよからぬ事うちつゝきし是皆自然の道理なるに此事氣に懸られし折から誰がいふともなくせんをこがるゝ男の執心今にやむ事なく其人は樽屋なるはと申せば親かた傳へ聞て何とぞして其男にせんをもらはさんと横町のかゝをよびよせ内談有しにつね/\せん申せしは男もつ共職人はいやといはれければ心もとなしと申せばそれはいらざる物好み何によらず世をさへわたらば勝手づくとさま/\異見して樽屋へ申遣し縁の約束極め程なくせんに脇ふさがせかねを付させ吉日をあらためられ二番の木地長持ひとつ伏見三寸の葛籠一荷糊地の挾筥一つ奥樣着おろしの小袖二つ夜着ふとん赤ね縁の蚊屋むかし染のかつき取あつめて物數廿三銀貳百目付ておくられけるに相生よく仕合よく夫は正直のかうべをかたぶけ細工をすれば女はふしかね染の嶋を織ならひ明くれかせぎける程に盆前大晦日にも内を出違ふほどにもあらず大かたに世をわたりけるが殊更男を大事に掛雪の日風の立時は食つぎを包おき夏は枕に扇をはなさず留守には宵から門口をかため夢/\外の人にはめをやらず物を二ついへばこちのお人/\とうれしがり年月つもりてよき中にふたり迄うまれて猶々男の事をわすれざりきされば一切の女移り氣なる物にしてうまき色咄しに現をぬかし道頓堀の作り狂言をまことに見なしいつともなく心をみだし天王寺の櫻の散前藤のたなのさかりにうるはしき男にうかれかへ男を嫌ひぬ是ほど無理なる事なしそれより萬の始末心を捨て大燒する竃をみず鹽が水になるやらいらぬ所に油火をともすもかまはず身躰うすくなりて暇の明を待かねけるかやうのかたらひさりとは/\おそろし死別ては七日も立ぬに後夫をもとめさられては五度七度縁づきさりとは口惜き下/\の心底なり上/\にはかりにもなき事ぞかし女の一生にひとりの男に身をまかせさはりあれば御若年にして河しうの道明寺南都の法花寺にて出家をとげらるゝ事も有しになんぞかくし男をする女うき世にあまたあれ共男も名の立事を悲しみ沙汰なしに里へ歸しあるひは見付てさもしくも金銀の欲にふけてあつかひにして濟し手ぬるく命をたすくるがゆゑに此事のやみがたし世に神有むくひあり隱してもしるべし人おそるべき此道なり
木屑の杉やうじ一寸先の命
來ル十六日に無菜の御齋申上たく候御來駕においてはかたじけなく奉存候町衆次第不同麹屋長左衞門世の中の年月の立事夢まぼろしはやすぎゆかれし親仁五十年忌になりぬ我ながらへて是迄吊ふ事うれし古人の申傳へしは五十年忌になれば朝は精進して暮は魚類になして謡酒もり其後はとはぬ事と申せし是がをさめなればすこし物入もいとはずばんじその用意すれば近所の出入のかゝども集り椀家具壺平るすちやつ迄取さばき手毎にふきて膳棚にかさねける爰に樽屋が女房も日比御念比なれば御勝手にてはたらく事もと御見廻申けるに兼て才覺らしく見えければそなたは納戸にありし菓子の品/\を椽高へ組付てと申せば手元見合まんぢゆう御所柿唐ぐるみ落鳫榧杉やうじ是をあらましに取合時亭主の長左衞門棚より入子鉢をおろすとておせんがかしらに取おとしうるはしき髪の結目たちまちとけてあるじ是をかなしめばすこしもくるしからぬ御事と申てかい角ぐりて臺所へ出けるをかうぢやの内儀見とがめて氣をまはしそなたの髪は今のさきまでうつくしく有しが納戸にて俄にとけしはいかなる事ぞといはれしおせん身に覺なく物しづかに旦那殿棚より道具を取おとし給ひかくはなりけるとありやうに申せど是を更に合點せずさては晝も棚から入子鉢のおつる事も有よいたづらなる七つ鉢め枕せずにけはしく寐れば髪はほどくる物じやよい年をして親の吊ひの中にする事こそあれと人の氣つくして盛形さしみをなげこぼし酢にあて粉にあて一日此事いひやまず後は人も聞耳立て興覺ぬかゝるりんきのふかき女を持合すこそ其男の身にして因果なれおせんめいわくながら聞暮せしがおもへば/\にくき心中とてもぬれたる袂なれば此うへは是非におよばずあの長左衞門殿になさけをかけあんな女に鼻あかせんと思ひそめしより各別のこゝろざしほどなく戀となりしのび/\に申かはしいつぞのしゆびをまちける貞享二とせ正月廿二日の夜戀は引手の寶引繩女子の春なくさみふけゆくまて取みだれてまけのきにするも有勝にあかずあそぶもあり我しらず鼾を出すもありて樽屋もともし火消かゝり男は晝のくたびれに鼻をつまむもしらずおせんがかへるにつけこみないない約束今といはれていやがならず内に引入跡にもさきにも是が戀のはじめ 下帯下紐ときもあへぬに樽屋は目をあきあはゝのがさぬと聲をかくればよるの衣をぬぎ捨丸裸にて心玉飛がごとくはるかなる藤の棚にむらさきのゆかりの人有ければ命から%\にてにげのびけるおせんかなはじとかくごのまへ鉋にしてこゝろもとをさし通しはかなくなりぬ其後なきがらもいたづら男も同じ科野に耻をさらしぬ其名さま%\のつくり哥に遠國迄もつたへけるあしき事はのがれずあなおそろしの世や
■好色五人女卷三 中段に見る暦屋物語
・姿の關守 京の四條はいきた花見有
・してやられた枕の夢 灸もゆるよりおもひに燃有
・人をはめたり湖 死もせぬ形見の衣裳有
・小判しらぬ休み茶屋 都に見し土人形有
・身のうへの立聞 夜の編笠子細もの有
姿の關守
天和二年の暦正月一日吉書萬によし二日姫はじめ神代のむかしより此事戀しり鳥のをしへ。男女のいたづらやむ事なし。爰に大經師の美婦とて浮名の立つゞき。都に情の山をうごかし祇薗會の月鉾かつらの眉をあらそひ。姿は清水の初櫻いまだ咲かゝる風情。口びるのうるはしきは高尾の木末色の盛と詠めし。すみ所は室町通。仕出し衣しやうの物好み當世女の只中廣京にも又有へからず。人こゝろもうきたつ春ふかくなりて。安井の藤今をむらさきの雲のごとく松さへ色をうしなひたそかれの人立。東山に又姿の山を見せける。折ふし洛中に隱なきさわぎ中間の男四天王。風義人にすぐれて目立親よりゆづりの有にまかせ。元日より大晦日迄一日も色にあそばぬ事なし。きのふは嶋原にもろこし花崎かほる高橋に明しけふは四条川原の竹中吉三郎唐松哥仙藤田吉三郎光瀬左近など愛して。衆道女道を晝夜のわかちもなくさま%\遊興つきて。芝居過より松屋といへる水茶屋に居ながれ。けふ程見よき地女の出し事もなし。若も我等が目にうつくしきと見しもある事もやと役者のかしこきやつを目利頭に。花見がへりを待暮%\是ぞかはりたる慰なり。大かたは女中乘物見ぬがこゝろにくし。乱ありきの一むれいやなるもなし。是ぞと思ふもなし菟角はよろしき女計書とめよと硯紙とりよせてそれを移しけるに。年の程三十四五と見えて首筋立のび目のはりりんとして額のはへぎは自然とうるはしく鼻おもふにはすこし高けれども。それが堪忍比なり下に白ぬめのひつかへし。中に淺黄ぬめのひつかへし上に椛つめのひつかへしに本繪にかゝせて左の袖に吉田の法師が面影。ひとり燈のもとにふるき文など見てのもんだんさりとは子細らしき物好帯は敷瓦の折びろうど御所かづきの取まはし薄色の絹足袋三筋緒の雪踏音もせずありきて。わざとならぬ腰のすわり。あの男めが果報と見る時。何かした%\へ物をいふとて口をあきしに下齒一枚ぬけしに戀を覺しぬ。間もなう其跡より十五六七にはなるまじき娘。母親と見えて左の方に付右のかたに墨衣きたるびくにの付て。下女あまた六尺供をかため大事に掛る風情。さては縁付前かと思ひしに。かね付て眉なし皃は丸くして見よく。目にりはつ顯れ耳の付やうしほらしく。手足の指ゆたやかに皮薄う色白く衣類の着こなし又有べからず。下に黄むく中に紫の地なし鹿子。上は鼠じゆすに百羽雀のきりつけ。段染の一幅帯むねあけ掛て身ぶりよく。ぬり笠にとら打て千筋ごよりの緒を付。見込のやさしさ是一度見しに脇皃に横に七分あまりのうち疵あり。更にうまれ付とはおもはれず。さぞ其時の抱姥をうらむべしと。皆/\笑うて通しける。さて又二十一二なる女のもめんの手織嶋を着て。其うらさへつぎ/\を風ふきかへされ耻をあらはしぬ。帯は羽織のおとしと見えて物哀にほそく。紫のかはたび有にまかせてはき。かたし%\のなら草履ふるき置わたして髪はいつ櫛のはを入しや。しどもなく乱しをついそこ/\にからげて。身に樣子もつけず獨たのしみて行をみるに。面道具ひとつもふそくなく。世にかゝる生付の又有物かと。いつれも見とれてあの女によき物を着せて見ば。人の命を取べしまゝならぬはひんふくと哀にいたましく其女のかへるに。忍びて人をつけける誓願寺通のすゑなる。たはこ切の女といへり聞に胸いたく煙の種ぞかし。其跡に廿七八の女さりとは花車に仕出し。三つ重たる小袖皆くろはぶたへに裙取の紅うら金のかくし紋帯は唐織寄嶋の大幅前にむすびて。髪はなげ嶋田に平もとゆひかけて。對のさし櫛はきかけの置手拭。吉弥笠に四つかはりのくけ紐を付て。皃自慢にあさくかづき。ぬきあし中びねりのありきすがた是/\是しやだまれとおの/\近づくを待みるに。三人つれし下女共にひとり%\三人の子を抱せける。さては年子と見えてをかし。跡からかゝ樣/\といふを聞ぬ振して行。あの身にしては我子ながらさぞうたてかるべし。人の風俗もうまぬうちが花ぞと。其女無常のおこる程どやきて笑ける。またゆたかに乘物つらせて。女いまだ十三か四か髪すき流し先をすこし折もどし。紅の絹たゝみてむすび前髪若衆のすなるやうにわけさせ。金もとゆひにて結せ五分櫛のきよらなるさし掛。まづはうつくしさひとつ/\いふ迄もなし。白しゆすに墨形の肌着上は玉むし色のしゆすに孔雀の切付見えすくやうに其うへに唐糸の網を掛さてもたくみし小袖に十二の色のたゝみ帯。素足に紙緒のはき物。うき世笠跡より持せて。藤の八房つらなりしをかざし。見ぬ人のためといはぬ計の風義今朝から見盡せし美女とも是にけをされて其名ゆかしく尋けるに室町のさる息女今小町と云ひ捨て行。花の色は是にこそあれいたつらものとは後に思ひあはせ侍る。
してやられた枕の夢
男所帯も氣さんじなる物ながら。お内義のなき夕暮一しほ淋しかりき。爰に大經師の何がし年久しくやもめ住せられける。都なれや物好の女もあるに品形すぐれてよきを望ば心に叶ひがたし。詫ぬれば身を浮草のゆかり尋て。今小町といへる娘ゆかしく見にまかりけるに。過し春四條に關居て見とがめし中にも。藤をかざして覺束なきさましたる人。是ぞとこがれてなんのかのなしに縁組を取いそくこそをかしけれ。其比下立賣烏丸上ル町に。しやべりのなるとて隱もなき仲人がゝ有。是をふかく頼樽のこしらへ。願ひ首尾して吉日をえらびておさんをむかへける。花の夕月の曙此男外を詠もやらずして夫婦のかたらひふかく三とせが程もかさねけるに明暮世をわたる女の業を大事に。手づからべんがら糸に氣をつくしすゑ%\の女に手紬を織せて。わが男の見よげに始末を本とし。竈も大くべさせず小遣帳を筆まめにあらため。町人の家に有たきはかやうの女ぞかし次第に榮てうれしさ限もなかりしに。此男東の方に行事有て。京に名殘は惜めど身過程悲しきはなし思ひ立旅衣室町の親里にまかりて。あらましを語しに我娘の留守中を思ひやりて萬にかしこき人もがな跡を預て表むきをさばかせ内證はおさんが心だすけにも成べしと。何國もあれ親の慈悲心より思ひつけて年をかさねてめし遣ひける茂右衞門といへる若きものを聟のかたへ遣しける此男の正直かうべは人まかせ額ちいさく袖口五寸にたらず髪置して此かた編笠をかぶらず。ましてや脇差をこしらへず。只十露盤を枕に夢にも銀まうけのせんさくばかり明しぬ。折節秋も夜嵐いたく冬の事思ひやりて。身の養生の爲とて茂右衞門灸おもひ立けるに腰元のりん手かるく居る事をえたれば。是をたのみて。もぐさ數捻てりんが鏡臺に嶋のもめんふとんを折かけ。初一つ二つはこらへかねて。お姥から中ゐからたけまでも其あたりをおさへて皃しかむるを笑ひし跡程煙つよくなりて。塩灸を待兼しに自然と居落して。脊骨つたひて身の皮ちゞみ苦しき事暫なれども。居手の迷惑さをおもひやりて目をふさぎ齒を喰しめ堪忍せしを。りんかなしくもみ消して是より肌をさすりそめて。いつとなくいとしやとばかり思ひ込人しれずこゝちなやみけるを後は沙汰しておさん樣の御耳にいれどなほやめがたくなりぬ。りんいやしかるそだちにして物書事にうとく。筆のたよりをなげき久七が心覺ほどにじり書をうらやましく。ひそかに是をたのめば茂右衞門よ我物にしたがるこそうたてけれ。是非なく日數ふる時雨も僞のはじめごろおさん樣江戸へつかはされける御状の次手に。りんがちわ文書てとらせんとざら%\と筆をあゆませ茂のじ樣まゐる身よりとばかり引むすびて。かいやり給ひしをりんうれしく。いつぞの時を見合けるに見せよりたばこの火よといへ共折から庭に人のなき事を幸に其事にかこつけ彼文を我事我と遣しにける茂右衞門もながな事はおさん樣の手ともしらず。りんをやさしきと計におもしろをかしきかへり事をして又渡しける。是をよみかねて御きげんよろしき折ふし。奥さまに見せ奉ればおぼしめしよりておもひもよらぬ御つたへ此方も若いものゝ事なればいやでもあらず候へどもちぎりかさなり候へば取あげばゝがむつかしく候去ながら着物羽織風呂錢身だしなみの事共を其方から賃を御かきなされ候はゝいやながらかなへてもやるべしとうちつけたる文章去迚はにくさもにくし世界に男の日照はあるまじりんも大かたなる生付茂右衞門め程成男をそもや持かねる事や有とかさねて又文にしてなげき茂右衞門を引なびけてはまらせんとかず/\書くどきてつかはされける程に茂右衞門文づらより哀ふかくなりて始の程嘲し事のくやしくそめ/\と返事をして五月十四日の夜はさだまつて影待あそばしけるかならず其折を得てあひみる約束いひ越ければおさん樣いづれも女房まじりに聲のある程は笑てとてもの事に其夜の慰にも成ぬべしとおさんさまりんに成かはらせられ身を木綿なるひとへ物にやつしりん不斷の寐所に曉がたまで待給へるにいつとなく心よく御夢をむすび給へり下/\の女どもおさん樣の御聲たてさせらるゝ時皆/\かけつくるけいやくにして手毎に棒乳切木手燭の用意して所/\にありしが宵よりのさわぎに草臥て我しらず鼾をかきける七つの鐘なりて後茂右衞門 下帯をときかけ闇がりに忍び 夜着の下にこがれて、裸身をさし込心のせくまゝに言葉かはしけるまでもなく よき事をしすまして袖の移香しほらしやと又寐道具を引きせさし足して立のきさてもこざかしき浮世やまだ今やなどりんが男心は有ましきと思ひしに我さきにいかなる人か 物せし事ぞとおそろしく重てはいかな/\おもひとゝまるに極めし其後おさんはおのづから夢覺ておとろかれしかは 枕はづれてしどけなく、帯はほどけて手元になく、鼻紙のわけもなき事に心はづかしく成てよもや此事人にしれざる事あらじ此うへは身をすて命かぎりに名を立茂右衞門と死手の旅路の道づれとなほやめがたく心底申きかせければ茂右衞門おもひの外なるおもはく違ひのりかゝつたる馬はあれど君をおもへば夜毎にかよひ人のとがめもかへりみず外なる事に身をやつしけるは追付生死の二つ物掛是ぞあぶなし
人をはめたる湖
世にわりなきは情の道と源氏にも書殘せし爰に石山寺の開帳とて都人袖をつらね東山の櫻は捨物になして行もかへるも是や此關越て見しに大かたは今風の女出立どれかひとり後世わきまへて參詣けるとはみえさりき皆衣しやうくらべの姿自慢此心ざし觀音樣もをかしかるべし其比おさんも茂右衞門つれて御寺にまゐり花は命にたとへていつ散べきもさだめがたし此浦山を又見る事のしれざればけふのおもひ出にと勢田より手ぐり舟をかりて長橋の頼をかけても短は我/\がたのしびと浪は枕のとこの山あらはるゝまでの乱髪物思ひせし皃はせを鏡の山も曇世に鰐の御崎ののがれかたく堅田の舟よばひも若やは京よりの追手かと心玉もしづみてながらへて長柄山我年の程も爰にたとへて都の富士廿にもたらずして頓て消べき雪ならばと幾度袖をぬらし志賀の都はむかし語と我もなるべき身の果ぞと一しほに悲しく龍灯のあがる時白髭の宮所につきて神いのるにぞいとゞ身のうへはかなし菟角世にながらへる程つれなき事こそまされ此湖に身をなげてながく仏國のかたらひといひければ茂右衞門も惜からぬは命ながら死ての先はしらずおもひつけたる事こそあれ二人都への書置殘し入水せしといはせて此所を立のきいかなる國里にも行て年月を送らんといへばおさんよろこび我も宿を出しより其心掛ありと金子五百兩挿箱に入來りしとかたればそれこそ世をわたるたねなれいよいよ爰をしのべとそれ/\に筆をのこし我/\惡心おこりてよしなきかたらひ是天命のがれず身の置所もなく今月今日うき世の別と肌の守に一寸八ぶの如來に黒髪のすゑを切添茂右衞門はさし馴し壹尺七寸の大脇差關和泉守銅こしらへに巻龍の鉄鍔それぞと人の見覺しを跡に殘し二人が上着女草履男雪踏これにまで氣を付て岸根の柳がもとに置捨此濱の獵師ちやうれんして岩飛とて水入の男をひそやかに二人やとひて金銀とらせて有増をかたれば心やすく頼れてふけゆく時待合せけるおさんも茂右衞門も身こしらへして借家の笹戸明掛皆/\をゆすり起して思ふ子細のあつて只今さい期なるぞとかけ出あらけなき岩のうへにして念仏の聲幽に聞えしが二人ともに身をなげ給ふ水に音ありいつれも泣さわぐうちに茂右衞門おさんを肩に掛て山本わけて木ふかき杉村に立のけばすゐれんは浪の下くゞりておもひもよらぬ汀にあかりけるつき%\の者共手をうつて是を歎き浦人を頼さま%\さがして甲斐なく夜も明行ば泪に形見色色巻込京都にかへり此事を語れは人/\世間をおもひやりて外へしらさぬ内談すれども耳せはしき世の中此沙汰つのりて春慰にいひやむ事なくて是非もなきいたづらの身や
小判しらぬ休み茶屋
丹波越の身となりて道なきかたの草分衣茂右衞門おさんの手を引てやう/\峯高くのぼりて跡おそろしくおもへば生ながら死だぶんになるこそ心ながらうたてけれなほ行さき柴人の足形も見えず踏まよふ身の哀も今女のはかなくたどりかねて此くるしさ息も限と見えて皃色替りてかなしく岩もる雫を木の葉にそゝぎさま/\養生すれども次第にたよりすくなく脉もしづみて今に極まりける藥にすべき物とてもなく命のおはるを待居る時耳ぢかく寄て今すこし先へ行ばしるべある里ちかしさもあらば此浮をわすれておもひのまゝに枕さだめて語らん物をとなげゝは此事おさん耳に通しうれしや命にかへての男じやものと氣を取なほしけるさては魂にれんぼ入かはり外なき其身いたましく又屓て行程にわづかなる里の垣ねに着けり爰なん京への海道といへり馬も行違ふ程の岨に道もありけるわら葺る軒に杉折掛て上々諸白あり餅も幾日になりぬほこりをかづきて白き色なし片見世に茶筅土人形かぶり太鞁すこしは目馴し都めきて是に力を得しばし休て此うれしさにあるじの老人に金子一兩とらしけるに猫に傘見せたるごとくいやな皃つきして茶の錢置給へといふさても京候此所十五里はなかりしに小判見しらぬ里もあるよとをかしくなりぬそれより柏原といふ所に行てひさしく音信絶て無事をもしらぬ姨のもとへ尋入て昔を語れば流石よしみとてむごからず親の茂介殿の事のみいひ出して泪片手夜すがら咄し明ればうるはしき女らうに不思義を立いかなる御かたぞとたづね給ふに是さしあたつての迷惑此事までは分別もせずして是はわたくしの妹なるが年久しく御所方にみやづかひせしが心地なやみて都の物がたき住ひを嫌ひ物しづかなるかゝる山家に似合の縁もかな身をひきさげて里の仕業の庭はたらき望にて伴ひまかりける敷銀も貳百兩計たくはへありと何心もなく當座さばきに語りける何國もあれ欲の世中なれば此姨是におもひつきそれは幸の事こそあれ我一子いまだ定る妻とてもなしそなたものかぬ中なれば是にと申かけられさても氣毒まさりけるおさんしのびて泪を流し此行すゑいかゞあるべしと物おもふ所へ彼男夜更てかへりし其樣すさまじやすぐれてせい高かしらは唐獅子のごとくちゞみあがりて髭は熊のまぎれて眼赤筋立て光つよく足手其まゝ松木にひとしく身には割織を着て藤繩の組帯して鉄炮に切火繩かますに菟狸を取入是を渡世すと見えける其名をきけば岩飛の是太郎とて此里にかくれもなき惡人都衆と縁組の事を母親語りければむくつげなる男も是をよろこび善はいそぎ今宵のうちにとびん鏡取出して面を見るこそやさしけれ母は盃の用意とて塩目黒に口の欠たる酒徳利を取まはし筵屏風にて貳枚敷ほどかこひて木枕二つ薄縁二枚横嶋のふとん一つ火鉢に割松もやして此夕一しほにいさみけるおさんかなしさ茂右衞門迷惑かりそめの事を申出して是ぞ因果とおもひ定此口惜さまたもうきめに近江の海にて死べき命をながらへしとても天我をのがさずと脇差取て立をおさん押とゞめてさりとは短しさま%\分別こそあれ夜明て爰を立のくべし萬事は我にまかせ給へと氣をしづめて其夜は心よく祝言の盃取かはし我は世の人の嫌ひ給ふひのへ午なるとかたれば是太郎聞てたとへばひのへ猫にてもひのへ狼にてもそれにはかまはずそれがしは好で青どかけを喰てさへ死なぬ命今年廿八迄虫ばら一度おこらず茂右衞門殿も是にはあやかり給へ女房共は上方そだちにして物にやはらかなるが氣にはいらねども親類のふしやうなりとひざ枕してゆたかに臥けるかなしき中にもをかしくなつて寐入を待かね又爰を立のきなほ奥丹波に身をかくしけるやう/\日數ふりて丹後路に入て切戸の文珠堂につやしてまどろみしに夜半とおもふ時あらたに靈夢あり汝等世になきいたづらして何國までか其難のがれがたしされどもかへらぬむかしなり向後浮世の姿をやめて惜きとおもふ黒髪を切出家となり二人別/\に住て惡心さつて菩提の道に入ば人も命をたすくべしとありがたき夢心にすゑ/\は何にならうともかまはしやるなこちや是がすきにて身に替ての脇心文珠樣は衆道ばかりの御合點女道は會てしろしめさるまじといふかと思へばいやな夢覺て橋立の松の風ふけば塵の世じや物となほ/\やむ事のなかりし
身の上の立聞
あしき事は身に覺て博奕打まけてもだまり傾城買取あげられてかしこ皃するものなり喧くはしひけとる分かくし買置の商人損をつゝみ是皆闇がりの犬の糞なるべし中にもいたづらかたぎの女を持あはす男の身にして是程なさけなき物はなしおさん事も死ければ是非もなしと其通りに世間をすまし年月のむかしを思ひ出てにくしといふ心にも僧をまねきてなき跡を吊ひける哀や物好の小袖も旦那寺のはたてんがいと成無常の風にひるがへし更に又なげきの種となりぬされば世の人程だいたんなるものはなし茂右衞門そのりちぎさ闇には門へも出さりしがいつとなく身の事わすれて都ゆかしくおもひやりて風俗いやしげになし編笠ふかくかづきおさんは里人にあづけ置無用の京のぼり敵持身よりはなほおそろしく行に程なく廣沢あたりより暮/\になつて池に影ふたつの月にもおさん事を思ひやりておろかなる泪に袖をひたし岩に數ちる白玉は鳴瀧の山を跡になし御室北野の案内しるよしゝていそげば町中に入て何とやらおそろしげに十七夜の影法師も我ながら我わすれて折/\胸をひやして住馴し旦那殿の町に入てひそかに樣子を聞ば江戸銀のおそきせんさく若いもの集て頭つきの吟味もめん着物の仕立ぎはをあらためける是も皆色よりおこる男ぶりぞかし物語せし末を聞にさてこそ我事申出しさても/\茂右衞門めはならびなき美人をぬすみおしからぬ命しんでも果報といへばいかにも/\一生のおもひ出といふもありまた分別らしき人のいへるは此茂右衞門め人間たる者の風うへにも置やつにはあらず主人夫妻をたぶらかし彼是ためしなき惡人と義理をつめてそしりける茂右衞門立聞して慥今のは大文字屋の喜介めが聲なり哀をしらずにくさけに物をいひ捨つるやつかなおのれには預り手形にして銀八拾目の取替あり今のかはりに首おさへても取べしと齒ぎしめして立けれ共世にかくす身の是非なく無念の堪忍するうちに又ひとりのいへるは茂右衞門は今にしなずにどこぞ伊勢のあたりにおさん殿をつれて居るといのよい事をしをると語る是を聞と身にふるひ出て俄にさむく足ばやに立のき三条の旅籠屋に宿かりて水風呂にもいらず休けるに十七夜代待の通しに十二灯を包て我身の事すゑ/\しれぬやうにと祈ける其身の横しまあたご樣も何として助け給ふべし明れは都の名殘とて東山しのび/\に四条川原にさがり藤田狂言つくし三番つゞきのはじまりといひけるに何事やらん見てかへりておさんに咄しにもと圓座かりて遠目をつかひもしも我をしる人もと心元なくみしに狂言も人の娘をぬすむ所是さへきみあしくならび先のかた見ればおさん樣の旦那殿とましひ消てぢごくのうへの一足飛玉なる汗をかきて木戸口にかけ丹後なる里にかへり其後は京こはがりき折節は菊の節句近付て毎年丹波より栗商人の來しが四方山の咄しの次手にいやこなたのお内義樣はと尋けるに首尾あしく返事のしてもなし旦那にがい皃してそれはてこねたといはれける栗賣重而申は物には似た人も有物かな是の奥樣にみぢんも違はぬ人又若人も生うつしなり丹後の切戸邊に有けるよと語捨てかへる亭主聞とがめて人遣し見けるにおさん茂右衞門なれば身うち大勢もよふしてとらへに遣し其科のかれず樣々のせんぎ極中の使せし玉といへる女も同し道筋にひかれ粟田口の露草とはなりぬ九月廿二日の曙のゆめさら/\さい後いやしからず世語とはなりぬ今も淺黄の小袖の面影見るやうに名はのこりし
■好色五人女巻四 戀草からけし八百屋物語
・大節季はおもひの闇 かり着の袖に二つ紋有
・虫出し神鳴もふんとしかきたる君樣 化物おそれぬ新發意有
・雪の夜の情宿 戀の道しる似せ商人有
・世に見をさめの櫻 惜やすかたのちる人有
・樣子あつての俄坊主 前髪は又花の風より哀有
大節季はおもひの闇
ならひ風はげしく師走の空雲の足さへはやく春の事共取いそぎ餅突宿の隣には小笹手毎に煤はきするもあり天秤のかわさえて取やりも世の定めとていそがし棚下を引連立てこん/\小目くらにお壹文くだされませいの聲やかましく古札納めざつ木賣榧かち栗かまくら海老通町にははま弓の出見世新物たび雪踏あしを空にしてと兼好が書出しおもひ合て今も世帯もつ身のいとまなき事にぞ有けるはやおしつめて廿八日の夜半にわや/\と火宅の門は車長持ひく音葛籠かけ硯かたに掛てにぐるも有穴藏の蓋とりあへずかる物をなけ込しに時の間の煙となつて燒野の雉子子を思ふがごとく妻をあはれみ老母をかなしみそれ/\のしるべの方へ立のしきしは更に悲しさかぎりなかりき。爰に本郷邊に八百屋八兵衞とて賣人むかしは俗姓賎しからず此人ひとりの娘あり名はお七といへり。年も十六花は上野の盛月は隅田川のかげきよくかゝる美女のあるべきものか都鳥其業平に時代ちがひにて見せぬ事の口惜是に心を掛ざるはなし此人火元ちかづけば母親につき添年比頼をかけし旦那寺駒込の吉祥寺といへるに行て當座の難をしのぎける此人/\にかぎらずあまた御寺にかけ入長老樣の寐間にも赤子泣聲仏前に女の二布物を取ちらし或は主人をふみこへ親を枕としわけもなく臥まろびて明れば鐃鉢鉦を手水だらいにしお茶湯天目もかりのめし椀となり此中の事なれば釋迦も見ゆるし給ふべしお七は母の親大事にかけ坊主にも油斷のならぬ世中と萬に氣を付侍る折ふしの夜嵐をしのぎかねしに亭坊慈悲の心から着替の有程出してかされける中に黒羽二重の大ふり袖に梧銀季のならべ紋紅うらを山道のすそ取。わけらしき小袖の仕立燒かけ殘りてお七心にとまり。いかなる上らうか世をはようなり給ひ形見もつらしと此寺にあがり物かと我年の比おもひ出して哀にいたましくあひみぬ人に無常おこりて思へば夢なれや。何事もいらぬ世や後生こそまことなれとしほ/\としづみ果。母人の珠數袋をあけて願ひの玉のを手にかけ口のうちにして題目いとまなき折からやことなき若衆の銀の毛貫片手に左の人さし指に有かなきかのとげの立けるも心にかゝると暮方の障子をひらき身をなやみおはしけるを母人見かね給ひ。ぬきまゐらせんとその毛貫を取て暫なやみ給へども老眼のさだかならず見付る事かたくて氣毒なる有さまお七見しより我なら目時の目にてぬかん物をと思ひながら近寄かねてたゝずむうちに母人よび給ひて。是をぬきてまゐらせよとのよしうれし。彼御手をとりて難儀をたすけ申けるに。此若衆我をわすれて自が手を痛くしめさせ給ふをはなれがたかれども母の見給ふをうたてく是非もなく立別れさまに覺て毛貫をとりて歸り又返しにと跡をしたひ其手を握かへせば是よりたがひの思ひとはなりけるお七次第にこがれて此若衆いかなる御方ぞと納所坊主に問ければあれは小野川吉三郎殿と申て先祖たゞしき御浪人衆なるが。さりとはやさしく情のふかき御かたとかたるにぞなほおもひまさりて忍び/\の文書て人しれずつかはしけるに便りの人かはりて結句吉三郎方よりおもはくかず/\の文おくりける心ざし互に入亂て是を諸思ひとや申べし兩方共に返事なしにいつとなく淺からぬ戀人こはれ人時節をまつうちこそうき世なれ大晦日はおもひの闇に暮て明れば新玉の年のはじめ女松男松を立餝て暦みそめしにも姫はじめをかしかりきされどもよき首尾なくてつひに枕も定ず君がため若菜祝ひける日もをはりて九月十日過十一日十二十三十四日の夕暮はや松のうちも皆になりて甲斐なく立し名こそはかなけれ
虫出しの神鳴もふんどしかきたる君樣
春の雨玉にもぬける柳原のあたりよりまゐりけるのよし十五日の夜半に外門あらけなく扣にぞ僧中夢おどろかし聞けるに米屋の八左衞門長病なりしが今宵相果申されしにおもひまうけし死人なれば夜のうちに野邊へおくり申度との使なり。出家の役なればあまたの法師めしつれられ晴間をまたず傘をとり%\に御寺を出てゆき給し跡は七十に餘りし庫裏姥ひとり十二三なる薪發意壹人赤犬ばかり殘物とて松の風淋しく虫出しの神鳴ひゞき渡りいづれも驚て姥は年越の夜の煎大豆取出すなど天井のある小座敷をたづねて身をひそめける母の親。子をおもふ道に迷ひ我をいたはり夜着の下へ引よせきびしく鳴時は耳ふさげなど心を付給ひける女の身なれば。おそろしさかぎりもなかりきされ共吉三郎殿にあふべき首尾今宵ならではとおもふ下心ありて扨もうき世の人何とて鳴神をおそれけるぞ。捨てから命すこしも我はおそろしからずと女のつよからずしてよき事に無用の言葉すゑ/\の女共まで是をそしりける。やう/\更過て人皆おのづからに寐入て鼾は軒の玉水の音をあらそひ雨戸のすきまより月の光もありなしに静なるをりふし客殿をしのび出けるに身にふるひ出し足元も定かね枕ゆたかに臥たる人の腰骨をふみてたましひ消がごとく胸いたく上氣して物はいはれず手をあはして。拜みしに此もの我をとがめざるを不思義と心をとめて詠めけるに食たかせける女のむめといふ下子なりそれをのり越て行を此女裙を引とゞめける程に又胸さわぎして我留るかとおもへばさにはあらず小判紙の壹折手にわたしけるさても/\いたづら仕付てかゝるいそがしき折からも氣の付たる女ぞとうれしく方丈に行てみれども彼兒人の寐姿見えぬはかなしくなつて臺所に出ければ姥目覺し今宵鼠めはとつぶやく片手に椎茸のにしめ。あげ麺葛袋など取おくもをかししばしあつて我を見付て吉三郎殿の寐所はその/\小坊主とひとつに三疊敷にと肩たゝいて小話ける思ひの外なる情しり寺には惜やといとしくなりて。してゐる紫鹿子の帯ときてとらし姥がをしへるにまかせ行に夜や八つ比なるべし常香盤の鈴落てひゞきわたる事しばらくなり薪發意其役にや有つらん起あがりて糸かけ直し香もりつぎて座を立ぬ事とけしなく寐所へ入を待かね女の出來こゝろにて髪をさばきこはい皃して闇がりよりおどしければ流石佛心そなはりすこしもおどろく氣色なく汝元來帯とけひろげにて世に徒ものやたちまち消され此寺の大黒になり迄待と目を見ひらき申けるお七しらけて。はしり寄りこなたを抱て寐にきたといひければ薪發意笑ひ吉三郎樣の事か。おれと今迄跡さして臥ける其證據には是そとこぶくめの袖をかざしけるに。白菊などいへる留木のうつり香どうもならぬとうちやみ其寐間に入を薪發意聲立て。はあ。お七さまよい事をといひけるに又驚き何ニ而もそなたのほしき物を調進ずべし。だまり給へといへばそれならば錢八十と松葉屋のかるたと淺草の米まんぢう五つと世に是よりほしき物はないといへば。それこそやすい事明日ははや/\遣し申べきと約束しける此小坊主枕かたむけ夜が明たらば。三色もらふはず必もらふはずと夢にもうつゝにも申寐入に静りける其後は心まかせになりて吉三郎寐姿に寄添て何共言葉なくしどけなくもたれかゝれば吉三郎夢覺てなほ身をふるはし小夜着の袂を引かぶりしを引のけ髪に用捨もなき事やといへば吉三郎せつなくわたくしは十六になりますといへばお七わたくしも十六になりますといへば吉三郎かさねて長老樣がこはやといふおれも長老樣はこはしといふ何とも此戀はじめもどかし後はふたりながら涙をこぼし不埓なりしに又雨のあがり神鳴あらけなくひゞきしに是は本にこはやと吉三郎にしがみ付けるにぞおのづからわりなき情ふかくひえわたりたる手足やと肌へちかよせしにお七うらみて申侍るはそなた樣にもにくからねばこそよしなき文給りながらかく身をひやせしは誰させけるぞと首筋に喰つきけるいつとなくわけもなき首尾してぬれ初しより袖は互にかぎりは命と定ける程なくあけぼのちかく谷中の鐘せはしく吹上の榎の木朝風はげしくうらめしや今寐ぬくもる間もなくあかぬは別れ世界は廣し晝を夜の國もがなと俄に願ひとても叶はぬ心をなやませしに母の親是はとたづね來てひつたてゆかれしおもへばむかし男の鬼一口の雨の夜のこゝちして吉三郎あきれ果てかなしかりき薪發意は宵の事をわすれず今の三色の物をたまはらずは今夜のありさまつげんといふ母親立歸りて。何事かしらね共お七が約束せし物は我が請にたつといひ捨て歸られしいたづらなる娘もちたる母なれば。大方なる事は聞ても合點してお七よりはなほ心を付て明の日はやく其もてあそびの品/\調ておくり給ひけるとや
雪の夜の情宿
油斷のならぬ世の中に殊更見せまじき物は道中の肌付金酒の醉に脇指娘のきはに捨坊主と御寺を立歸りて其後はきびしく改て戀をさきけるされ共下女が情にして文は數通はせて心の程は互にしらせける有夕板橋ちかき里の子と見えて松露土筆を手籠に入て世をわたる業とて賣きたれりお七親のかたに買とめける其暮は春ながら雪ふりやまずして里までかへる事をなげきぬ亭主あはれみて何ごゝろもなくつひ庭の片角にありて夜明なばかへれといはれしをうれしく牛房大根の莚かたよせ竹の小笠に面をかくし腰蓑身にまとひ一夜をしのぎける嵐枕にかよひ土間ひえあがりけるにぞ大かたは命もあやうかりき次第に息もきれ眼もくらみし時お七聲して先程の里の子あはれやせめて湯成共呑せよと有しに食燒の梅が下の茶碗にくみて久七にさし出しければ男請取て是をあたへける忝き御心入といへばくらまぎれに前髪をなぶりて我も江戸においたらば念者の有時分じやが痛しやといふいかにも淺ましくそだちまして田をすく馬の口を取眞柴刈より外の事をぞんじませぬといへば足をいらひてきどくにあかゞりを切さぬよ是なら口をすこしと口をよせけるに此悲しさ切なさ齒を喰しめて泪をこぼしけるに久七分別していや/\根深にんにく喰し口中もしれすとやめける事のうれし其後寐時に成て下/\はうちつけ階子を登り二階にともし火影うすくあるじは戸棚の錠前に心を付れば内義は火の用心能々云付てなほ娘に氣遣せられ中戸さしかためられしは戀路つなきれてうたてし八つの鐘の鳴時面の戸扣て女と男の聲して申姥樣只今よろこびあそばしましたがしかも若子樣にて旦那さまの御機嫌と頻によばはる家内起さわぎてそれはうれしやと寐所より直に夫婦連立出さまにまくりかんぞうを取持てかたし%\の草履をはきお七に門の戸をしめさせ急心ばかりにゆかれしお七戸をしめて歸りさまに暮方里の子思ひやりて下女に其手燭まてとて面影をみしに豊に臥ていとゞ哀の増りける心よく有しを其まゝおかせ給へと下女のいへるを聞ぬ皃してちかくよれば肌につけし兵部卿のかほり何とやらゆかしくて笠を取除みればやことなき脇顏のしめやかに鬢もそゝけざりしをしばし見とれてその人の年比におもひいたして袖に手をさし入て見るに淺黄はぶたへの下着是はとこゝろをとめしに吉三郎殿なり人のきくをもかまはずこりや何としてかゝる御すがたぞとしがみ付てなげきぬ吉三郎もおもてみあはせ物えいはざる事しばらかへてせめては君をかりそめに見る事ねがひ宵の憂思ひおぼしめしやられよとはじめよりの事共をつど/\にかたりければ菟角は是へ御入有て其御うらみも聞まゐらせんと手を引まゐらすれども宵よりの身のいたみ是非もなく哀なりやう/\下女と手をくみて車にかきのせてつねの寐間に入まゐらせて手のつゞくほどさすりて幾藥をあたへすこし笑ひ皃うれしく盃事して今宵は心に有程をかたりつくしなんとよろこぶ所へ親父かへらせ給ふにぞかさねて憂めにあひぬ衣桁のかげにかくしてさらぬ有さまにていよ/\おはつ樣は親子とも御まめかといへば親父よろこびてひとりの姪なればとやかく氣遣せしに重荷おろしたと機嫌よく産着のもやうせんさく萬祝て鶴龜松竹のすり箔はと申されけるにおそからぬ御事明日御心静にと下女も口/\に申せばいや/\かやうの事ははやきこそよけれと木枕鼻紙をたゝみかけてひな形を切るゝこそうたてけれやう/\其程過て色々たらしてねせまして語たき事ながらふすま障子ひとへなればもれ行事をおそろしく灯の影に硯帋置て心の程を互に書て見せたり見たり是をおもへば鴛のふすまとやいふべし夜もすがら書くどきて明がたの別れ又もなき戀があまりてさりとては物うき世や
世に見をさめの櫻
それとはいはずに明暮女こゝろの墓なやあふべきたよりもなければある日風のはげしき夕暮に日外寺へにげ行世間のさわぎを思ひ出して又さもあらば吉三郎殿にあひ見る事の種とも成なんとよしなき出來こゝろにして惡事を思ひ立こそ因果なれすこしの煙立さわぎて人々不思義と心懸見しにお七が面影をあらはしけるこれを尋しにつゝまず有し通を語けるに世の哀とぞ成にけるけふは神田のくづれ橋に耻をさらし又は四谷芝の淺草日本橋に人こぞりてみるに惜まぬはなし是を思ふにかりにも人は惡事をせまじき物なり天是をゆるし給はぬなり此女思ひ込し事なれば身のやつるゝ事なくて毎日有し昔のごとく黒髪を結せてうるはしき風情惜や十七の春の花も散%\にほとゝぎすまでも惣鳴に卯月のはじめ。すがたさい後ぞとすゝめけるに心中更にたがはず夢幻の中ぞと一念に仏國を願ひける心ざし去迚は痛しく手向花とて咲おくれし櫻を一本もたせけるに打詠て世の哀春ふく風に名を殘し。おくれ櫻のけふ散し身はと吟しけるを聞人一しほにいたまはしく其姿をみおくりけるに限ある命のうち入相の鐘つく比品かはりたる道芝の邊にして其身はうき煙となりぬ人皆いづれの道にも煙はのかれず殊に不便は是にぞ有けるそれはきのふ今朝みれば塵も灰もなくて鈴の森松風ばかり殘て旅人も聞つたへて只は通らず廻向して其跡を吊ひけるされば其日の小袖郡内嶋のきれ%\迄も世の人拾もとめてすゑ/\の物語の種とぞ思ひける近付ならぬ人さへ忌日/\にしきみ折立此女をとひけるに其契を込し若衆はいかにしてさい後を尋問ざる事の不思義と諸人沙汰し侍る折節吉三郎は此女にこゝちなやみて前後を辨ず憂世の限と見えて便すくなく現のごとくなれば人/\の心得にて此事をしらせなばよもや命も有べきかつね%\申せし言葉のすゑ身の取置までしてさい後の程を待居しにおもへば人の命やと首尾よしなに申なしてけふ明日の内には其人爰にましまして思ふまゝなる御けんなどいひけるにぞ一しほ心を取直しあたへる藥を外になして君よ戀し其人まだかとそゞろ事いふほどこそあれしらずやけふははや三十五日と吉三郎にはかくして其女吊ひけるそれより四十九日の餅盛などお七親類御寺に參てせめて其戀人を見せ給へと歎きぬ樣子を語て又も哀を見給ふなればよし/\其通にと道理を責ければ流石人たる人なれば此事聞ながらよもやながらへ給ふまじ深くつゝみて病氣もつゝがなき身折節お七が申殘せし事共をも語りなぐさめて我子の形見にそれなりとも思ひはらしにと卒塔婆書たてゝ手向の水も泪にかはかぬ石こそなき人の姿かと跡に殘りし親の身無常の習とて是逆の世や
樣子あつての俄坊主
命程頼みすくなくて又つれなき物はなし中/\死ぬればうらみも戀もなかりしに百ケ日に當る日枕始て。あがり杖竹を便に寺中静に初立しけるに卒塔婆の薪しきに心を付てみしに其人の名に驚てさりとてはしらぬ事ながら人はそれとはいはじおくれたるやうに取沙汰も口惜と腰の物に手を掛しに法師取つきさま%\とゞめて迚も死すべき命ならば年月語りし人に暇乞をもして長老さまにも其斷を立さい後を極め給へしか子細はそなたの兄弟契約の御かたより當寺へ預ケ置給へば其御手前への難儀彼是覺しめし合られ此うへながら憂名の立ざるやうにといさめしに此斷至極して自害おもひとゞまりて菟角は世にながらへる心ざしにはあらず其後長老へ角と申せばおどろかせ給ひて其身は念比に契約の人わりなく愚僧をたのまれ預りおきしに其人今は松前に罷て此秋の比は必爰にまかるのよしくれ%\此程も申越れしにそれよりうちに申事もあらはさしあたつての迷惑我ぞかし兄分かへられてのうへに其身はいかやうともなりぬべき事こそあれと色々異見あそばしければ日比の御恩思ひ合せて何か仰はもれしとお請申あげしになほ心もとなく覺しめされては物を取てあまたの番を添られしに是非なくつねなるへやに入て人々に語しはさても/\わが身ながら世上のそしりも無念なりいまだ若衆を立し身のよしなき人のうき情にもだしがたくて剰其人の難儀此身のかなしさ衆道の神も佛も我を見捨給ひしと感涙を流し殊更兄分の人歸られての首尾身の立へきにあらずそれより内にさい後急たしされ共舌喰切首しめるなど世の聞えも手ぬるし情に一腰かし給へなにながらへて甲斐なしと泪にかたるにぞ座中袖をしぼりてふかく哀みける此事お七親より聞つけて御歎尤とは存ながらさい後の時分くれ%\申置けるは吉三郎殿まことの情ならばうき世捨させ給ひいかなる出家にもなり給ひてかくなり行跡をとはせ給ひなばいかばかり忘れ置まじき二世迄の縁は朽まじと申置しと樣々申せ共中々吉三郎聞分ずいよ/\思ひ極て舌喰切色めの時母親耳ちかく寄てしばし小語申されしは何事にか有哉らん吉三郎うなづきて菟も角もといへり其後兄分の人も立歸り至極の異見申盡て出家と成ぬ此前髪のちるあはれ坊主も剃刀なげ捨盛なる花に時のまの嵐のごとくおもひくらぶれば命は有ながらお七さい期よりはなほ哀なり古今の美僧是ををしまぬはなし惣じて戀の出家まことあり吉三郎兄分なる人も古里松前にかへり墨染の袖とはな/\取集たる戀や哀や無常也夢なり現なり
■好色五人女卷五 戀の山源五兵衞物語
・つれ吹の笛竹息のあはれや さつまにかくれなき當世男有
・もろきは命の鳥さし 床はむかしと成若衆有
・衆道は兩の手に散花 中剃はいたづら女有
・情はあちらこちらのちがひ 同じ色ながらひぢりめんのふたの物語
・金銀も持あまつてめいわく 三百八十の鍵あつかる男有
連吹の笛竹息の哀や
世に時花哥源兵衞といへるはさつまの國かごしまの者なりしがかゝる田舎には稀なる色このめる男なりあたまつきは所ならはしにして後さがりに髪先みじかく長脇差もすぐれて目立なれども國風俗是をも人のゆるしける明暮若道に身をなしよは/\としたる髪長のたはふれ一生しらずして今ははや廿六歳の春とぞなりける年久しくふびんをかけし若衆に中村八十郎といへるにはしめより命を捨て淺からず念友せしに又あるまじき美皃たとへていはゞひとへなる初櫻のなかばひらきて花の物云風情たり有夜雨の淋しく只二人源五兵衞住なせる小座敷に取こもりつれ吹の横笛さらにまたしめやかに物の音も折にふれては哀さもひとしほなり窓よりかよふ嵐は梅がかほりをつれて振袖に移くれ竹のそよぐに寐鳥さわぎてとびかふ音もかなしかりき灯おのづからに影ほそく笛も吹をはりていつよりは情らしくうちまかせたる姿して心よく語し言葉にひとつ/\品替て戀をふくませさりとはいとしさまさりてうき世外なる欲心出來て八十郎形のいつまでもかはらで前髪あれかしとぞ思ふ同じ枕しどけなく夜の明がたになりていつとなく眠れば八十郎身をいためて起しあたら夜を夢にはなし給ふといへり源五兵衞現に聞て心さだまりかねしに我に語給ふも今宵をかぎりなりしに何か名殘に申たまへる事もといへば寐耳にも悲しくてかりにも心掛りなりひとへあはぬさへ面影まぼろしに見えけるにいかに我にせかすればとて今夜かぎりとは無用の云事やと手を取かはせばすこしうち笑て是非なきはうき世定がたきは人の命といひ果ず其身はたちまち脉あがりて誠のわかれとなりぬ是はと源五兵衞さわぎて忍びし事も外にして男泣にどよめは皆/\たち寄さま%\藥あたへける甲斐なく萬事のこときれてうたてし八十郎親もとにしらせければ二親のなげきかぎりなし年月したしくましましける中なれば八十郎がさい期何かうたがふまでもなしそれからそれ迄菟角は野邊へおくりて其姿を其まゝ大龜に入て萌出る草の片蔭に埋ける源五兵衞此塚にふししづみて悔とも命すつべきより外なくとやかく物思ひしがさても/\もろき人かなせめては此跡三とせは吊ひて月も日も又けふにあたる時かならず爰に來て露命と定むべき物をと野墓よりすくにもとゞりきりて西圓寺といへる長老に始を語心からの出家となりて夏中は毎日の花をつみ香を絶さず八十郎ぼだいをとひて夢のごとく其秋にもなりぬ垣根朝皃咲そめ花又世の無常をしらせける露は命よりは間のあるものぞとかへらぬむかしをおもひけるに此ゆふぐれはなき人の來る玉まつる業とて鼠尾草折しきて瓜なすびをかしげにえだ大豆かれ%\にをりかけ燈籠かすかに棚經せはしくむかひ火に麻がらの影きえて十四日のゆふま暮寺も借錢はゆるさず掛乞やかましく門前は踊太皷ひゞきわたりて爰もまたいやらしくなりて一たび高野山へのこゝろざし明れば文月十五日古里を立出るより墨染はなみたにしらけて袖は朽けるとなり
もろきは命の鳥さし
里は冬かまへして萩柴折添てふらぬさきより雪垣など北窓をふさぎ衣うつ音のやかましく野はづれに行ば紅林にねぐらあらそふ小鳥を見掛其年のほど十五か六か七まではゆかじ水色の袷帷子にむらさきの中幅帯金鍔の一つ脇差髪は茶筅に取乱そのゆたけさ女のごとしさし竿の中ほとを取まはして色鳥をねらひ給ひし事百たびなれ共一羽もとまらざりしをほいなき有樣しばし見とれてさても世にかゝる美童も有ものぞ其年の比は過にし八十郎に同しうるはしき所はそれに増りけるよと後世を取はづし暮かたまで詠つくして其かたちかく立寄てそれがしは法師ながら鳥さしてとる事をえたり其竿をこなたへと片肌ぬぎかけて諸の鳥共此皃人のお手にかゝりて命を捨が何とて惜きぞさても/\衆道のわけしらずめと時の間に數かぎりもなく取まゐらせければ此若衆外なくうれしくいかなる御出家ぞと問せけるほどに我を忘てはじめを語ければ此人もだ/\と泪くみてそれゆゑの御執行一しほ殊勝さ思ひやられける是非に今宵は我笹葺に一夜ととめられしになれ/\しくも伴ひ行に一かまへの森のうちにきれいなる殿作りありて馬のいなゝく音武具かざらせて廣間をすぎて縁より梯のはるかに熊笹むら/\として其奥に庭籠ありてはつがん唐鳩金鶏さま%\の聲なしてすこし左のかたに中二階四方を見晴し書物棚しほらしく爰は不斷の學問所とて是に座をなせばめしつかひのそれ/\をめされ此客僧は我物讀のお師匠なりよく/\もてなせとてかず/\の御事ありて夜に入ればしめやかに語慰みいつとなく契て千夜とも心をつくしぬ明れば別ををしみ給ひ高野のおぼしめし立かならず下向の折ふしは又もと約束ふかくして互に泪くらべて人しれず其屋形を立のき里人にたづねけるにあれは此所の御代官としか/\の事をかたりぬさてはとお情うれしく都にのぼるもはかどらず過にし八十郎を思ひ出し又彼若衆の御事のみ仏の道は外になしてやう/\弘法の御山にまゐりて南谷の宿坊に一日ありて奥の院にも參詣せず又國元にかへり約束せし人の御方に行ば日外見し御姿かはらず出むかひ給ひ一間なる所に入て此程のつもりし事を語り旅草臥の夢むすびけるに夜も明て彼御人の父此法師をあやしくとがめ給ひ起されておどろき源五兵衞落髪のはじめ又このたびの事有のまゝに語ればあるじ横手うつてさても/\不思義や我子ながら姿自慢せしにうき世とてはかなく此廿日あまりに成し跡にもろくも相果しが其きは迄彼御法されての事にとおもひしに扨はそなたの御事かとくれ%\なげき給ひけるなほ命をしからず此座をさらず身を捨べきとおもひしがさりとては死れぬもの人の命にそ有ける間もなく若衆ふたり迄のうきめをみていまだ世に有事の心ながら口惜さるほどに此二人が我にかゝるうき事しらせける大かたならぬ因果とや是を申べしかなし
衆道は兩の手に散花
人の身程あさましくつれなき物はなし世間に心を留て見るにいまだいたいけ盛の子をうしなひ又はすゑ%\永く契を籠し妻の若死かゝる哀れを見し時は即座に命を捨んと我も人もおもひしが泪の中にもはや欲といふ物つたなし萬の寶に心をうつしあるは又出來分別にて息も引とらぬうちより女は後夫のせんさくを耳に掛其死人の弟をすぐに跡しらすなど又は一門より似合しき入縁取事こゝろ玉にのりてなじみの事は外になし義理一へんの念佛香花も人の見るためぞかし三十五日の立をとけしなく忍び/\の薄白粉髪は品よく油にしたしながら結もやらずしどけなく下着は色をふくませうへには無紋の小袖目にたゝずしてなほ心にくき物ぞかし折ふしは無常を觀じはかなき物語の次手に髪を切うき世を野寺に暮して朝の露をせめては草のかけなる人に手向なんと縫箔鹿子の衣しやう取ちらし是もいらぬ物なればてんがいはたうち敷にせよといふ心には今すこし袖のちひさきをかなしみける女程おそろしきものはなし何事をも留めける人の中にては空泣しておどしけるされば世の中に化ものと後家たてすます女なしまして男の女房を五人や三人ころして後よびむかへてもとがにはならじそれとは違ひ源五兵衞入道は若衆ふたりまであへなきうきめを見て誠なるこゝろから片山蔭に草庵を引むすび後の世の道ばかり願ひ色道かつてやめしは更に殊勝さかぎりなし其比又さつまがた濱の町といふ所に琉球屋の何がしが娘おまんといへる有けり年の程十六夜の月をもそねむ生つき心ざしもやさしく戀の只中見し人おもひ掛ざるはなし此女過し年の春より源五兵衞男盛をなづみて數/\の文に氣をなやみ人しれぬ便につかはしけるに源五兵衞一生女をみかぎりかりそめの返事もせざるをかなしみ明暮是のみにて日數をおくりぬ外より縁のいへるをうたてくおもひの外なる作病して人の嫌うはことなど云て正しく乱人とは見えける源五兵衞姿をかへにし事もしらざりしに有時人の語りけるを聞もあへずさりとては情なしいつぞの時節には此思ひを晴べきとたのしみける甲斐なく惜や其人は墨染の袖うらめしや是非それに尋行て一たび此うらみをいはではと思ひ立を世の別と人/\にふかくかくして自よき程に切て中剃して衣類も兼ての用意にやまんまと若衆にかはりて忍びて行に戀の山入そめしより根笹の霜を打拂ひ比は神無月僞りの女心にしてはる%\過て人の申せし里ばなれなる杉村に入れば後にあらけなき岩ぐみありてにしづむばかり朽木のたよりなき丸太を二つ三つ四つならべてなげわたし橋も物すごく下は瀬のはやき浪もくだけてたましひ散るごとくわづかの平地のうへに片ひさしおろして軒端はもろ/\のかづらはひかゝりておのづからの滴爰のわたくし雨とや申べき南のかたに明り窓有て内を覗ばしづの屋にありしちんからりとやいへる物ひとつに青き松葉を燒捨て天目二つの外にはしやくしといふ物もなくてさりとてはあさましかゝる所に住なしてこそ佛の心にも叶ひてんと見廻しけるにあるじの法師ましまさぬ事かげかはしく何國へと尋べきかたも松より外にはなくて戸の明を幸に入てみれば見臺に書物ゆかしさにのぞけば待宵の諸袖といへる衆道の根元を書つくしたる本なりさてはいまも此色は捨給はずと其人のおかへりを待侘しにほどなく暮て文字も見えがたくともし火のたよりもなくて次第に淋しく独明しぬ是戀なればこそかくは居にけり夜半とおもふ時源五兵衞入道わづかなる松火に道をわけて菴ちかく立歸りしを嬉しくおもひしに枯葉の荻原よりやことなき若衆同じ年比なる花か紅葉かいづれか色をあらそひひとりはうらみひとりは歎若道のいきごみ源五兵衞坊主はひとり情人はふたりあなたこなたのおもはく戀にやるせなくさいなまれてもだもだとしてかなしき有樣見るもあはれ又興覺て扨もさても心の多き御かたとすこしはうるさかりきされ共思ひ込し戀なれば此まゝ置べきにもあらず我も一通り心の程を申ほどきてなんと立出れば此面影におとろき二人の若衆姿の消て是はとおもふ時源五兵衞入道不思義たちていかなる皃人さまそと言葉を掛ければおまん聞もあえず我事見えわたりたる通りの若衆をすこしたて申かね/\御法師さまの御事聞傳へ身捨是迄しのびしがさりとはあまたの心入それともしらずせつかく氣はこびし甲斐もなしおもはく違ひとうらみけるに法師横手をうつて是はかたじけなき御心さしやと又うつり氣になりて二人の若衆は世をさりし現の始を語にぞ友に涙をこぼし其かはりに我を捨給ふなといへば法師かんるゐ流し此身にも此道はすてがたしとはやたはふれける女ぞしらぬが仏さまもゆるし給ふべし
情はあちらこちらの違ひ
我そも/\出家せし時女色の道はふつとおもひ切し仏願也され共心中に美道前髪の事はやめがたし是ばかりはゆるし給へと其時より諸仏に御斷申せしなれば今又とがめける人をももたずふびんと是迄御尋有し御情からはすゑ%\見捨給ふななどたはふれけるにおまんこそぐるほどをかしく自ふともゝひねりて胸をさすり我いふ事も聞しめしわけられよ御かたさまの昔を忍び今此法師姿をなほいとしくてかく迄心をなやみ戀に身を捨ければ是よりして後脇に若衆のちなみは思ひもよらず我いふ事は御心にそまずとも背給ふまじとの御誓文のうへにてとてもの事に二世迄の契といへば源五兵衞入道おろかなる誓紙をかためて此うへはげんぞくしても此君の事ならばといへる言葉の下より 息づかいあらく成て、袖口より手をさし込、肌にさはり、下帯のあらざらん事を不思義なる皃つき又をかし其後鼻紙入より何か取出して口に入てかみしたし給ふ程に、何し給ふといへば此入道赤面して其まゝかくしける 是なん衆道にねり木といふ物なるべし。おまんなをおかしくて、袖ふりきりてふしければ、入道衣ぬぎ捨、足にて片隅へかいやりてぬれかけしは、我も人も餘念なき事ぞかし。中幅のうしろ帯ときかけて、此所は里にかはりて嵐はげしきにともめんの大袖をうち掛 是をと手枕の夢法師、寐もせぬうちにしやうねはなかりき。おづ/\手を背にまはして、「いまだ灸もあそばさぬやら、更に御身にさはりなき」と、腰よりそこ/\に手をやる時、おまんもきみあしかりき。折ふしを見合せ、空ねいりすれば、入道せき心になつて耳をいらふ。おまんかたあしもたせば、ひぢりめんのふたの物に肝をつぶして氣を付て見る程皃ばせやはらかにして女めきしに入道あきれはてゝしばしは詞もなく起出るを引とゞめさい前申かはせしは自がいふ事ならば何にてもそむき給ふまじとの御事をはやくもわすれさせ給ふか我事琉球屋のおまんといへる女なり過し年數/\のかよはせ文つれなくも御返事さへましまさずうらみある身にもいとしさやるかたもなくかやうに身をやつして爰にたづねしはそもやにくかるべき御事かと戀の只中もつてまゐれば入道俄にわけもなうなつて男色女色のへだてはなき物とあさましく取みだして移氣の世や心の外なる道心源五兵衞にかきらず皆是なるべしおもへばいやのならぬおとしあな釋迦も片あし踏込たまふべし
金銀も持あまつて迷惑
頭は一年物衣をぬけばむかしに替る事なし源五兵衞と名にかへりて山中の梅暦うか/\と精進の正月をやめて二月はじめつかたかごしまの片陰にむかしのよしみの人を頼てわづかなる板びさしをかりてしのび住ひ何か渡世のたよりもなく源五兵衞親の家居に行て見しに人手に賣かはりて兩替屋せし天秤のひゞき絶て今は軒口に味噌のかんばんかけしなど口惜くながめすぎて我見しらぬ男にたよりて此あたりにすまれし源五右衞門といへる人はとたづねけるに申傳へしを語初はよろしき人なるが其子に源五兵衞といへる有此國にまたなき美男又なき色好八年此かたにおよそ千貫めをなくなしてあたら浮世に親はあさましく其身は戀より捨坊主になりけると也世にはかゝるうつけも有ものかなすゑ/\語りくにそいつめがつらを一目みたい事といへば其皃爰にある物とはづかしく編笠ふか/\とかたぶけやうやう宿に立歸り夕は灯も見ず朝の割木絶てさりとはかなしく人の戀もぬれも世のある時の物ぞかし同し枕はならべつれども夜かたるべき言葉もなく明れば三月三日童子草餅くばるなど鶏あはせさま%\の遊興ありしに我宿のさびしさ神の折敷はあれど鰯もなし桃の花を手折て酒なき徳利にさし捨其日も暮て四日なほうたてし互に世をわたる業とて都にて見覺し芝居事種となりて俄に皃をつくり髭戀の奴の物まね嵐三右衞門がいきうつしやつこの/\とはうたへとも腰さだめかね源五兵衞どこへ行さつまの山へ鞘が三文下緒か二文中は檜木のあらけなき聲して里/\の子共をすかしぬおまんはさらし布の狂言奇語に身をなし露の世をおくりぬ是を思ふに戀にやつす身人をもはぢらへず次第にやつれてむかしの形はなかりしをつらき世間なれば誰あはれむかたもなくておのづからしほれゆくむらさきの藤のはなゆかりをうらみ身をなげきけふをかぎりとなりはてし時おまん二親は此行方たづね侘しにやう/\さがし出してよろこぶ事のかず/\菟角娘のすける男なればひとつになして此家をわたせとあまたの手代來りて二人をむかひかへればいづれもよろこびなして物數三百八十三の諸の鎰を源五兵衞にわたされける吉日をあらため藏ひらきせしに判金貳百枚入の書付の箱六百五十小判千兩入の箱八百。銀十貫目入の箱はかびはへて下よりうめく事すさまじ牛とらの角に七つの壼あり蓋ふきあがる程今極め一歩錢などは砂のごとくにしてむさし庭藏みれば元渡りの唐織山をなし伽羅掛木のごとしさんごしゆは壹匁三十目迄の無疵の玉千貳百三十五柄鮫青磁の道具かぎりもなく飛鳥川の茶入かやうの類ごろつきてめげるをかまはず人魚の鹽引めなうの手桶かんたんの米から杵浦嶋か包丁箱辨才天の前巾着福録壽の剃刀多門天の枕鑓大黒殿の千石どをしゑびす殿の小遣帳覺えがたし世に有ほとの万寶ない物はなし源五兵衞うれしかなしく是をおもふに江戸京大坂の太夫のこらず請ても芝居銀本して捨ても我一代に皆になしがたし何とぞつかひへらす分別出ず是はなんとした物であらう  
 
「好色五人女」巻四 恋草からげし八百屋物語 1
1. 大節季はおもひの闇
ならひ風はげしく、師走しはす の空、雲の足さへ早く、春の事ども取急とりいそ ぎ、餅もち 搗つく く宿やど の隣となり には、小笹おざさ 手毎てごと に煤掃すすはき するもあり。天秤てんびん のかねさえて、取遣とりや りも世の定めととていそがし。棚下たなじた を引連ひきつ れ立ちて、 「こんこん小盲こめくら に、お一文もん 下されませい」 の声やかましく、古札ふるふだ 納をさ め、雑器売ざつきうり 、榧かや ・かち栗・鎌倉かまくら 海老えび 、通町とほりちやう には破魔弓はまゆみ の出見世でみせ 、新物しんぶつ ・足袋たび ・雪踏せつだ 、 「足を空にして」 と、兼好かねよし が書出し思ひ合あは せて、今も世帯持せたい つ身のいとまなき事にぞありける。
はやおしつめて二十八日の夜半やはん に、わやわやと、火宅くわたく の門かど は、車長持くるまながもち 引く音、葛籠つづら 、懸硯かくすずり 、肩に掛けて逃ぐるもあり、穴蔵あなぐら の蓋ふた とりあへず、軽物かるもの を投なげ 込みしに、時の間の煙となって、焼野やけの の雉子きぎす 子こ を思ふがごとく、妻をあはれみ、老母をかなしみ、それぞれの知るべの方へ立退たちの きしは、さらに悲しさ限りなかりき。
ここに、本郷ほんがう の辺ほとり に、八百屋やほや 八兵衛とて売人ばいにん 、昔は俗姓ぞくしやう 賤いや しからず。この人ひとりの娘あり、名はお七といへり。年も十六、花は上野うへの の盛さかり 、月は隅田川すみだがは の影清く、かかる美女のあるべきものか。都鳥その業平なりひら に、時代ちがひにて見せぬ事の口惜くちお し。これに心を掛けざるはなし。
この人火元ひもと 近づけば、母親につき添ひ、年頃頼みをかけし旦那寺だんなでら 、駒込こまごみ の吉祥寺きちじやうじ といへるに行きて、当座とうざ の難をしのぎける。この人々に限らず、あまた御寺みてら に駆かけ 入り、長老様ちやうらうさま の寝間ねま にも赤子泣く声、仏前に女の二布ふたの の物を取りちらし、あるいは主人を踏みこえ、親を枕とし、わけもなく臥ふ しまろびて、明くれば、鐃?ねうはち ・鉦どら を手水盥てうづだらひ にし、お茶湯天目ちやたうてんもく も、仮かり の飯椀めしわん となり、この中うち の事なれば、釈迦しやか も見許し給ふべし。
お七は母の親大事だいじ にかけ、坊主ぼうず にも油断ゆだん のならぬ世の中と、よろづに気を付け侍はべ る。折節おりふし の夜風をしのぎかねしに、亭坊ていぼう 、慈悲じひ の心から、着替きがへ のある程出して、貸されける中に、黒羽二重くろはぶたへ の大振袖おほふりそで に、梧銀杏きりいちやう のならべ紋、紅裏もみうら を山道やまみち の裾取すそと り、わけらしき小袖の仕立したて 、焼た きかけ残りて、お七心に留と まり、 「いかなる上臈じやうらふ か世を早うなり給ひ、形見もつらしと、この寺に上あが り物か」 と、我が年の頃思ひ出して、哀れにいたましく、逢ひ見ぬ人に無常むじやう 起おこ りて、 「思へば夢なれや、何事もいらぬ世や、後生ごしやう こそまことなれ」 と、しほしほと沈み果て、母人ははびと の数珠袋じゆずぶくろ をあけて、願ひの玉の緒を 手にかけ、口のうちにして題目だいもく いとまなき折から、やごとなき若衆わかしゆ の、銀しろがね の毛抜けぬき 片手に、左の人差指ひとさしゆび にあるかなきかの刺とげ の立ちけるも心にかかると、暮方くれかた の障子しやうじ をひらき、身を悩みおはしけるを、母人ははびと 見かね給ひ、 「抜きまゐらせん」 と、その毛抜けぬき を取りてしばらく悩み給へども、老眼のさだかならず、見付くる事難かた くて、気の毒なるありさま、お七見しより、 「我なら目時めどき の目にて、抜かんものを」 と思ひながら、近寄りかねてたたずむうちに、母人ははびと 呼び給ひて、 「これを抜きてまゐらせよ」 とのよし、うれし。
かの御手を取り手て、難儀なんぎ を助け申しけるに、この若衆わかしゆ 我われ を忘れて、自みづか らが手をいたくしめさせ給ふを、離れがたかれども、母の見給ふをうたてく、是非ぜひ もなく立ち別れさまに、覚えて毛抜けぬき を取りて帰り、また返しにと跡あと をしたひ、その手を握り返せば、これより互たがひ の思ひとはなりける。
お七、次第しだい にこがれて、 「この若衆わかしゆ いかなる御方おかた ぞ」 と納所坊主なつしよぼうず に問ひければ、 「あれは小野おの 川がは 吉三郎殿と申して、先祖正しき御ご 浪人衆ろうにんしゆ なるが、さりとはやさしく、情なさけ の深き御方おかた 」 と語るにぞ、なほ思ひ増まさ りて、忍び忍びの文ふみ 書きて、人知れず遣つか はしけるに、便たよ りの人かはりて、結句けつく 、吉三郎方かた より、思はくかずかずの文送りける。心ざし、互たがひ いに入乱いりみだ れて、これを諸思もろおも ひとや申すべし。両方ともに返事なしに、いつとはなく浅からぬ恋人こひびと 恋はれ人、時節じせつ を待つうちこそうき世よ なれ。
大晦日おほつごもり は思ひの間に暮れて、明くれば新玉あらたま の年のはじめ、女松めまつ 、男松をまつ を立て飾りて、暦こよみ 見そめしにも、姫はじめをかしかりき。されどもよき首尾しゅび なくて、つひに枕も定めず、君がため若菜祝ひける日も終をは りて、九日、十日過ぎ、十一日、十二、十三、十四日の夕暮、はや松の内も皆になりて、甲斐かひ なく立ちし名こそはかなけれ。
   
東北ならい 風が激しく吹いて、師走しわす の空は雲の行き交いさえせわしく、人々は正月の用意をあれこれ取り急ぎ、餅もち をつく家の隣では、手に手に笹竹ささだけ を持って煤掃すすは きをする家もある。銀貨をはかる天秤てんびん の針口をたたく響きも冴さ え渡って、大節季のお金の遣り取りをするが、これも世のきまりなのでせわしいことである。店の軒下を乞食こじき どもが連れ立って、 「こんこん小盲こめくら にお一文下されませ」 という声もやかましく、古札納め、雑器ざつき 売り、榧かや ・かち栗ぐり ・鎌倉かまくら 海老えび を売り歩く声、通町とおりちょう には破魔弓はまゆみ を売る出店、仕立ておろしの着物・足袋たび ・雪踏せった の店まで並び、 「足を空にして」 と兼好法師が大晦日おおみそか のさまを書いているのに思いを合わせて、昔も今も世帯もつ人々の年の瀬はちょっとの暇もないことである。
もはや押しつまった暮れの二十八日の夜中に火事が起こった。がやがやと、焼ける家の前を、車長持を引いて行く音、葛籠つづら や懸硯かけすずり を肩に掛けて逃げて行く者もある。穴蔵あなぐら の蓋ふた を取る間も遅しと絹物類を投げ込むが、それもたちまち煙となって、焼野の雉子きぎす が子を思うように、人々は子を思い、妻をあわれみ、老母をいたわるながら、しれぞれ縁故を頼って非難していったのは、まったく悲しい限りであった。
ここに本郷の辺りに八百屋八やおや 兵衛という商人があった。昔は素性すじょう も賤いや しからぬ人で、この人に一人の娘があり、その名をお七といった。年も十六、花にたとえるなら上野うえの の桜の花盛り、月ならば隅田すみだ 川に映る影清く、こんな美人も世にあるものであろうか、東下あずまくだ りの美男業平なりひら に時代違いで見せられないのが残念で、この女に思いを寄せない男とてはなかった。
このお七も火の手が近づいたので、母親に付き添うて、かねがね帰依きえ していた旦那寺だんなでら 、駒込こまごみ の吉祥寺きちじょうじ という寺に行って、さしあたっての難儀をしのいだのであった。この人々に限らず、大勢の者がお寺に駆け込んだので、長老様の寝間に赤子の泣く声がするやら、仏様の前に女の腰巻を取りちらすやら、あるいは主人を踏みこえて行く者もあれば、親を枕にして眠る者もあり、ごたごたの中にごろ寝して、夜が明けると、鐃?にょうはち や鉦どら を持ち出して手水盥ちょうずだらい の代用にしたり、お茶湯天目ちゃとうてんもく も当座の仮の飯椀めしわん になり、もったいない事であったが、こんな騒動の中の事であるから、お釈迦しゃか 様もそこは大目に見てくださるであろう。
お七は母親が大事にして、坊主にも油断のならぬ世の中と、万事に気をつけていた。折から冬のこととて、人々は夜嵐よるあらし の寒さをしのぎかねていたところ、住持は慈悲の心から、着替えのある限りを出して皆に貸された中に、黒羽二重くろはぶたえ の大振袖おおふりそで があった。桐きり と銀杏いちょう の比翼紋ひよくもん で、紅絹裏もみうら の裾すそ を山道形に?ふさ をつけ、色めいた小袖の仕立て、焚き込めた香の薫かお りもまだ残っているのに、お七は心をひかれて、 「どんな御婦人が若死になさって、その形見を見るのも辛いと、このお寺に寄進なさったものだろうか」 と、自分の年頃に思い合わせて、哀れにまたいたましく、見た事もない人の為に無常心が起こって、 「思えば人の一生は夢のようなもの、何もいらぬ世の中じゃ。後生を願うこそ人間のまことの道じゃ」 と、しおしおと思い沈み、母親の数珠袋じゅずぶくろ をあけて、数珠を手にかけ、口の中でお題目を一心に唱えていた。そのとき上品な若衆が、銀の毛抜きを片手に持って、左の人差し指にあるかないかわからぬくらいの刺が刺さったのも気にかかると、夕暮れ時の障子をあけ、抜きなやんでおられるのを、お七の母親が見かねて、 「抜いてさしあげましょう」 と、その毛抜きを受け取り、しばらく苦心しておられたg、老眼のこととてはっきりせず、刺を見つけることが出来ずに困っておられる様子である。お七はこれを見たときから、 「私なら若くてよく見えるこの目で抜いてあげようものを」 と思いながら、近寄りかねて佇んでいると、母親が呼ばれて、 「これを抜いてさしあげなさい」 と言われたのは嬉しかった。
その人の御手を取って難儀を助けてさしあげたところ、この若衆は我を忘れて、お七の手をきつく握りしめられたので、離れ難く思ったけれども、母親が見ておられるのがいやで、しかたなく別れたが、その際にわざと毛抜きを持って帰り、またそれを返しにゆくといって跡を追い、手を握り返したので、これから互いに思い合う仲となったのである。
お七は次第に恋い焦がれるようになって、 「あの若衆様はどうしたお方でしょう」 と、納所なっしょ 坊主ぼうず に尋ねたところ、 「あれは小野川吉三郎殿と申して、ご先祖は由緒ゆいしょ 正しいご浪人ですが、それはそれは優しくて、情けの深いお方でございます」 と話してくれたので、お七はいっそう恋心がつのって、ひそかに恋文を書き、人目を忍んで届けたところ、恋文の書き手が入れ替わって、結局、吉三郎のほうからも胸の思いを数々書き連ねた文を届けてきた。恋い慕う気持が互いに入り乱れて、こういうのを相思相愛というのであろう。双方ともに相手に返事をするまでもなく、いつとなく深い恋人・恋われ人になり、会うべき機会を待っているうちが、二人にはままならぬ憂き世というものである。
大晦日おおみそか は物思いの闇やみ に暮れ、一夜明けるとあらたまの年の始め、門には女松と男松と並べて飾り立て、新しい暦を見ても姫はじめと書いてあるのがおかしかった。けれども二人はよい機会がなくて、ついに枕まくら を交かわ すこともなく、 「君がため春の野に出でて」 と歌に詠よ まれた若菜を祝う日も終わり、九日、十日もすぎ、十一日、十二、十三、十四日も夕暮れ、もはや松の内も終わりになって、むなしく浮名ばかりが高くなったのもはかないことであった。
2. 虫出しの神鳴もふんどしかきたる君さま
春の雨、玉にもぬける柳原やなぎはら のあたりより参りけるのよし、十五日の夜半やはん に、外門そともん あらけなく叩たた くにぞ、僧中そうぢゆう 夢驚かし聞きけるに、 「米屋こめや の八左衛門長病ちやうびやう なりしが、今宵こよひ 相あひ 果は て申されしに、思ひまうけし死人しにん なれば、夜のうちに野辺のべ へ送り申したき」 との使つかひ なり。
出家しゆつけ の役なれば、あまたの法師召し連れられ、晴間はれま を待たず、傘からかさ をとりどりに、御寺みてら を出いで て行き給ひし跡は、七十に余りし庫裏くり 姥うば ひとり。十二、三なる新しん 発意ばち 一人いちにん 、赤犬ばかり、残る物とて松の風淋しく、虫出の神鳴かみなり 響き渡り、いづれも驚きて、姥は年越としこし の夜の煎いり 大豆まめ 出すなど、天井てんじやう のある小座敷たづねて身をひそめける。
母の親、子を思う道に迷ひ、我われ をいたはり、夜着よぎ の下へ引寄ひきよ せ、きびしく鳴る時は、 「耳ふさげ」 など心を付け給ひける。女の身なれば、恐ろしさ限りもなかりき。されども 「吉三郎に会ふべき首尾しゆび 、今宵こよひ ならでは」 と思ふ下心したごころ ありて、 「さても浮世うきよ の人、何とて鳴神なるかみ を恐れけるぞ。捨ててから命、少しも我は恐ろしからず」 と、女の強がらずしてよき事に、無用の言葉、末々すえずえ の女どもまでこれを謗そし りける。
やうやう更ふ け過ぎて、人皆おのづから寝入りて、鼾いびき は軒のき の玉水たまみづ の音をあらそひ、雨戸あまど の隙間すきま より、月の光もありなしに静かなる折節おりふし 、客殿きやくでん を忍び出けるに、身にふるひ出て足元あしもと も定めかね、枕ゆたかに臥ふ したる人の腰骨こしぼね を踏みて、魂消ゆるがごとく、胸痛く上気じやうき して、物いはれず、手を合あは して拝みしに、この者我われ を咎とが めざるを不思議と、心をとめて詠なが めけるに、食めし 炊た かせける女の梅といふ下子げす なり。
それを乗のり 越こ えて行くを、この女、裾すそ を引留ひきとど めける程に、又、胸むね 騒ぎして、 「我留われとど むるか」 と思へば、さになあらず、小半紙一折ひとおり 手に渡しける。 「さてもさても、いたづら仕付しつ けて、かかるいそがしき折柄おりがら も気の付きたる女ぞ」 とうれしく、方丈はうぢやう に行きて見れども、かの児人せうじん の寝姿ねすがた 見えねば、悲しくなって台所に出ければ、姥うば 目覚さま し、 「今宵こよひ 鼠ねずみ めは」 とつぶやく片手に、椎茸しひたけ の煮しめ・揚あ げ麩ふ ・葛袋くずぶくろ など取とり 置お くもをかし。
しばしあって我われ を見付けて、 「吉三郎殿の寝所ねどころ は、そのその小こ 坊主ばうず とひとつに三畳敷さんでふじき に」 と、肩たたいて小話ささや きける。思ひの外ほか なる情なさけ 知り、 「寺には惜しや」 と、いとしくなりて、してある紫むらさき 鹿か の子こ の帯ときて取らし、姥が教へるにまかせ行くに、夜よ や八や つ頃なるべし、常香盤じたうかうばん の鈴落ちて、響き渡る事しばらくなり。
新しん 発意ぽち その役にやあるつらん、起上おきあが りて、糸かけ直し、香かう もりつぎて、座ざ を立たぬ事とけしなく、寝所ねどころ へ入るを待ちかね、女の出来でき 心ごころ にて髪をさばき、こはい顔して、闇くら がりよりおどしければ、流石さすが 仏心ぶつしん そなはり、少しも驚く気色けしき なく、 「汝なんぢ 元来がんらい 帯とけひろげにて、世に徒いたづ ら者や、たちまち消え去れ。この寺の大黒だいこく になりたくば、和尚をしやう の帰らるるまで待て」 と、目を見開き申しける。
お七しらけて走り寄り、 「こなたを抱いて寝に来た」 といひければ、新しん 発意ぽち 笑ひ、 「吉三郎様の事か。おれと今まで跡さして臥ふ しける。その証拠臥しようこ はこれぞ」 と、小服綿こぷくめ の袖をかざしけるに、白菊などいへる留木とめき の移り香、 「どうもならぬ」 と、うち悩み、その寝間ねま に入るを、新発意声立てて、 「はあ、お七様、よい事を」 といひけるに、又驚き、 「何にてもそなたの欲しき物を調ととの へ進ずべし。だまり給へ」 といへば、 「それならば銭八十と、松葉屋の骨牌かるた と、浅草の米饅頭よねまんぢゆう 五いつ つと、世にこれより欲しき物はない」 といへば、 「それこそやすい事。明日あす ははやばや遣つか はし申すべき」 と約束しける。この小こ 坊主ぼうず 、枕かたむけ、 「夜が明けたらば三色みいろ 貰ふはず、必ず貰ふはず」 と、夢にも現うつつ にも申し寝入りに静まりける。
その後のち は心まかせになりて、吉三郎寝姿ねすがた に寄添よりそ ひて、何とも言葉なく、しどけなくもたれかかれば、吉三郎夢覚めて、なほ身をふるはし、小夜着こよぎ の袂たもと を引きかぶりしを引退ひきの け、 「髪に用捨ようしや もなき事や」 といへば。吉三郎せつなく、 「わたくしは十六になります」 といへば、お七、 「わたくしも十六になります」 といへば、吉三郎重ねて、 「長老様がこはや」 といふ。 「おれも長老ちやうらう 様はこはし」 といふ。何とも、この恋はじめもどかし。後は、ふたりながら涙をこぼし、不埒ふらち なりしに、又、雨の上あが り神鳴かみなり あらけなく響きしに、 「これはほんにこはや」 と、吉三郎にしがみ付きけるにぞ、おのづから、わりなき情なさけ 深く、 「冷えわたりたる手足や」 と、肌はだ へ近寄せしに、お七恨みて申し侍はべ るは、 「そなた様にも憎からねばこそ、よしなき文給はりながら、かく身を冷やせしは誰た がさせけるぞ」 と、首筋に食ひつきける。いつとなく、わけもなき首尾しゆび して、寝れ初そ めしより、袖は互たがひ に、限りは命と定めける。
程なくあけぼの近く、谷中やなか の鐘はせはしく、吹上ふきあげ の榎え の木朝風はげしく、 「うらめしや、今寝ね 温ぬく もる間もなく、飽かぬは別れ、世界は広し、昼を夜の国もがな」 と、俄にはか に願ひ、とても叶かな はぬ心を悩ませしに、母の親、 「これは」 と、尋ね来て、引立ひつた て行かれし。思へば、昔男の、鬼一口おにひとくち の雨の夜の心地して、吉三郎あきれ果てて悲しかりき。
新しん 発意ぽち は宵のことを忘れず、 「今の三色みいろ の物を賜たま はらずば、今夜の有様告げん」 といふ。母親立たち 帰りて、 「何事か知らねども、お七が約束せし物は、我われ が請う けに立つ」 といひ捨てて帰られし。いだづらなる娘持ちたる母なれば、大方おほかた なる事は聞かでも合点がてん して、お七よりは、なほ心を付けて、明けの日早く、そのもてあそびの品々調ととの へて、送り給ひけるとや。
   
春の雨が柳の枝に玉を貫いたように見える正月十五日の夜半に、柳原やなぎはら のあたりから参りましたと言って、吉祥寺の外門を乱暴に叩く者があったので、寺じゅうの僧が皆目を覚まして聞いたところ、 「米屋の八左衛門が長らく病気でしたが、今夜あい果てました。かねてから覚悟していた死人のことですから、夜の明けぬうちに野辺の送りをいたしとうございます」 という使いであった。
これは僧侶の役目なので、長老様は大勢の法師たちを引連れられて、雨の晴れ間も待たず、手の手に傘かさ を持って出て行かれたあとは、七十を越えた庫裡くり 姥うば 一人、十二、三歳の新しん 発意ぼち 一人と赤犬ばかり、そのほかに残るものとては松の風が寂さび しく吹いているだけであった。その折、虫出しの雷が鳴り響いたので、皆々びっくりして目を覚まし、姥は雷除よ けに節分の夜の煎い り豆を取り出したり、人々は天井のある小座敷を捜して身をひそめたりした。
お七の母親は、子を思う親心のあまり、娘をいたわって、自分の夜着の下に引き寄せ、ひどく鳴る時は、 「耳をふさぎなさい」 などと気をつけてやられた。お七も女の身であるから、恐ろしくてたまらなかったけれども、 「吉三郎に会う機会は今宵こよい を逃してはない」 と内心で思っているので、 「さてさて世間の人は、どうして雷など恐れるのでしょう。捨てたところでたかが命一つ、わたしはちっともこわくない」 と、女が強がる必要もないことに、余計なことを言ったので、下々の女どもまで陰口をきいて謗そし るのであった
しだいに夜も更けてゆき、皆いつの間にか眠ってしまって、人々の鼾いびき は軒の雨だれと音を争い、雨戸の隙間からさす月の光もあるかなしに、あたりが静かになったころ、お七は客間を忍び出たが、身震いがしてきて足元も定まらず、気持ちよく寝込んでいる人の腰骨を踏みつけて、魂も消えるばかり驚いた。胸がどきどきのぼせてしまってお詫わ びの言葉も出ず、ただ手を合わせて拝んだところ、先方では何も咎とが めないので不思議だと、よく注意して見ると、それは、飯めし 炊た きの梅という下女であった。
その女の上をまたいで行こうとすると、この女は裾すそ を引っ張ってとめるので、また胸がどきどきして、 「自分を引き留めようとするのか」 と思うと、そうではなくて、小半紙を一折手渡ししてくれた。 「さてもさても色事をしなれているので、こんな気ぜわしい場合にも、よく気のつく女だ」 と、うれしく思いながら、方丈へ行ってみたけれども、かの若衆の寝姿が見えないので、悲しくなって台所に出て行ったところ、姥うば が目を覚まして、 「今夜は鼠ねずみ のやつがうるさくて」 とつぶやきながら、椎茸しいたけ の煮しめ、揚あ げ麩ふ ・葛袋くずぶくろ などを取りかたづけるのもおかしかった。
しばらくして自分を見つけ、 「吉三郎殿の寝所は、それあそこの、小坊主とひとつに三畳敷に」 と、肩をたたいてささやいた。これは思いのほかの情け知り、 「寺などに置くのは惜しいもの」 と、かわいくなって、しめていた紫鹿か の子こ の帯を解いて与え、姥が教えたとおりに行くと、もう夜は八つ (午前二時) ごろであろう。常香盤じょうこうばん の鈴が落ちて、その音がしばらく響き渡った。
新しん 発意ぽち が香を継ぐ役であったのだろう、起き上がって鈴の糸を掛け直し、香を盛り継いで、いつまでも座を立とうとしないのでじれったくなり、寝所へ入るのを待ちかねて、女の出来心で髪を振り乱し、恐ろしい顔をして暗がりからおどしたところ、さすがに新発意だけあって悟りの心がそなわり、少しも驚く様子はなく、 「汝なんじ 、元来帯とけひろげで、まったく淫みだ らなやつじゃ。たちまち消え去れ、この寺の大黒にばりたくば、和尚おしょう の帰られるまで待て」 と、目をむいてきめつけた。
お七はてれくさくなって走り寄り、「お前様を抱だ いて寝に来た」 と言う。新発意は笑って、 「ああ、吉三郎様のことか。おれと今まで足を差し入れ合って寝ていた。そのその証拠はこれじゃ」 と、小服綿こぶくめ の袖そで をかざしてみせると、白菊とかいう銘香の移り香がする。お七は悩ましくなって、 「これはもう、どうにもならぬぞ」 と、身悶みもだ えして、その寝間へ入って行くと、新発意は声を立てて、 「はあ、お七様、よい事なさる」 と言うので、また驚き、 「何でもお前の欲ほ しいものを買ってあげよう。だから、お黙り と言うと、 「それなら銭八十文 (約六〇〇円) と、松葉屋の骨牌かるたと、浅草の米饅頭よねまんじゅう 五つと、世の中にこれよりほかに欲しいものはない」 と言う。 「それこそお安い御用、明日になったらさっそくあげますよ」 と、約束した。すると、この小坊主は枕まくら を片寄せ横になり、 「夜が明けたら三色の物を貰もら うはず、必ず貰うはず」 と、夢うつつに言いながら眠り込んで静かになった。
そのあとはお七の心のままになって、吉三郎の寝姿に寄り添い、何も言わずにしどけなくもたれかかると、吉三郎は目を覚ましたが、彼もやはり身を震ふる わして、小夜着の袖そで を頭から引きかぶるのを引きのけ、 「まあ髪を乱暴になさいますこと」 と言う。吉三郎は困り果てて、 「私は十六になります」 ち言えば、お七も 「私も十六になります」 と言う。吉三郎はさらに 「長老様がこわい」 と言うと、 お七も 「私も長老様はこわい」 と言って、どうにもこの恋始めはもどかしいことであった。あとで二人とも涙をこぼして、いっこうに埒らち があかなかったが、この時また雨の上がり際ぎわ の雷が激しく響いたので、 「これは本当にこわい」 と言ってお七は吉三郎にしがみついた。それで自然と吉三郎もこらえきれない愛情がたかまって、 「手足が冷えきっておりますね」 と言って、自分の肌はだ に引き寄せた。お七が恨んで申すには、 「あまた様も私を憎からずお思いにばればこそ、あのような恋文など下さりながら、こんなに私の身を冷たくさせたのはどなたのせいでしょう」 と、吉三郎の首筋にしがみついた。それでいつとなく夢中で愛し合い、縁を結んだ上は、お互いに命の終わるまで変るまいと、涙の袖そで を絞って約束したのであった。
間もなく夜明け近くなり、谷中やなか の寺の鐘がせわしく響き、吹上ふきあげ の榎えのき に朝風が激しく吹きf出した。 「恨めしや。たった今寝て、まだ温もる間もないのに、名残なご り惜しいこの別れ、世界は広いのに、どこかに昼を夜にする国もないものか」 と、にわかに願い、とても叶かな わぬことを思い悩んでいるところへ、お七の母親が探しに来られ、 「これは」 と驚いて、娘を引き立てて行かれた。思えば昔男の業平なりひら が、鬼一口おにひとくち に女を食われた雨の夜のような心地がして、吉三郎はあきれはてて悲しかった。
新発意は宵のことを忘れず、 「先刻約束した三色の物を下さらぬなら、昨夜のことを言いつける」 と言う。母親はあと戻りして、 「何のことか知らぬが、お七が約束してものは、この私が保証しますよ」 と言い捨てて帰られた。いらずらな娘を持った母のことだから、たいていのことは聞かないでも承知して、お七よりはいっそう気をつけて、明けの日早く、そのおもちゃなどの品々を取りそろえておくられたということである。
3. 雪の夜の情宿
油断のならぬ世の中に、殊更ことさら 見せまじき物は、道中の肌付金はだつけがね 、酒の酔ゑひ に脇指わきざし 、娘の際きは に捨坊主すてぼうず と、御寺みてら を立たち 帰りて、その後は、きびしく改めて恋をさきける。されども、下女が情なさけ にして、文は数通かずかよ はせて、心の程は互たがひ に知らせける。
ある夕ゆふべ 、板橋いたばし 近き里の子と見えて、松露しようろ ・土筆つくつくし を手籠てかご に入れて、世を渡る業わざ とて売り来れり。お七親の方かた に買ひとめける。その暮は、春ながら雪降り止まずして、里まで帰る事を歎きぬ。亭主ていしゆ あはれみて、何心なく、 「つい庭の片角かたすみ にありて、夜明けなば帰れ」 といはれしをうれしく、牛蒡ごぼう ・大根だいこん の莚むしろ 片寄せ、竹の小笠をがさ に面おもて をかくし、腰蓑こしみの 身にまとひ、一夜いちや をしのぎける。
嵐、枕に通ひ、土間つちま 冷え上あが りけるにぞ、大方おほかた は命もあやふかりき。次第しだい に息も切れ、眼まなこ もくらみし時、お七声して、 「先程さきほど の里の子あはれや、せめて湯なりとも呑ませよ」 とありしに、飯炊めした きの梅が、下しも の茶碗にくみて、久七にさし出しければ、男請うけ 取りてこれを与へける。 「忝かたじけな き御心入こころい れ」 といへば、暗紛くらまぎ れに、前髪をなぶりて、 「我われ も江戸に置いたらば、念者ねんじや のある時分ぢゃが、痛いた はしや」 といふ。 「いかにも浅ましく育ちまして、田をすく馬の口を取り、真柴ましば 刈るより外ほか の事を存じませぬ」 といへば、足を弄ひら ひて、 「奇特きどく に皸あかがり を切らさぬよ、これなら口をすこし」 と、口を寄せけるに、この悲しさ、切せつ なさ、歯を食ひしめて泪なみだ こぼしけるに、久七分別ふんべつ して、 「いやいや根深ねぶか ・にんにく食ひし口中も知れず」 と、止や めける事のうれし。
その後のち 、寝時ねどき になりて、下々したじた は打付梯子うちつけはしご を登り、二階に燈火ともしび 影うすく、主あるじ は、戸棚の錠前ぢやうまえ に心を付くれば、内儀ないぎ は、火の用心よくよくいひ付けて、なほ娘に気遣きづか ひせられ、中戸なかど さしかためられしは、恋路綱つな 切き れてういたれし。
八つの鐘の鳴る時、表の戸叩いて、女と男の声して、 「申し、姨うば 様、ただ今喜びあそばしましたが、しかも若子わこ 様にて旦那様の御機嫌きげん 」 としきりに呼ばはる。家内いへうち 、起騒おきさわ いで、 「それはうれしや」 と、寝所ねどころ より直すぐ に夫婦連れ立ち、出さまに、海人草まくり ・甘草かんざう を取り持ちて、片かた し片がた しの草履ざうり をはき、お七に門かど の戸をしめさせ、急ぐ心ばかりに行かれし。
お七、戸をしめて帰りさまに、暮方くれがた 里の子思ひやりて、下女に、 「その手燭てしよく 待て」 とて、面影おもかげ を見しに、豊に臥ふ して、いとどあはれの増まさ りける。 「心よくありしを、そのまま置かせ給へ」 と下女のいへるを、聞かぬ顔かほ して近く寄れば、肌につけし兵部卿ひやうぶきやう の薫かを り、何とやらゆかしくて、笠を取除とりの け見れば、やごとなき脇顔のしめやかに、鬢びん もそそけざりしを、しばし見とれて、その人の年頃に思ひいたして、袖に手をさし入れて見るに、浅黄あさぎ 羽二重はぶたへ の下着、 「これは」 と、心を留と めしに、吉三郎殿なり。人の聞くをもかまはず、 「こりや何としてかかる御姿ぞ」 と、しがみ付きて嘆きぬ。
吉三郎も面おもて 見合あは せ、物えいはざる事しばらくありて、 「我われ かく姿をかへて、せめては、君をかりそめに見る事願ひ、宵の憂き思ひ思召おぼしめ しやられよ」 と、はじめよりの事どもを、つどつどに語りければ、 「とかくは、これへ御入りありて、その御恨みも聞きまゐらせん」 と、手を引きまゐらすれども、宵よりの身の痛み、是非ぜひ もなく、あはれなり。
やうやう下女と手を組みて車にかき乗せて、常の寝間ねま に入れまゐらせて、手の続く程はさすりて、幾薬いくくすり を与へ、少し笑ひ顔うれしく、 「盃事さかづきごと して、今宵こよひ は心にある程を語りつくしなん」 と、喜ぶ所へ、親父おやじ 帰らせ給ふにぞ、重ねて憂目うきめ にあひぬ。
衣桁いかう の陰かげ にかくして、さらぬ有様ありさま にて、 「いよいよ、おはつ様は親子とも御まめか」 といへば、親父おやじ 喜びて、 「ひとりの姪めひ なれば、とやかく気遣きづか ひせしに、重荷おろした」 と、機嫌きげん よく、産衣うぶぎ の模様せんさく、 「よろづ祝ひて鶴亀松竹の摺箔すりはく は」 と申されけるに、 「遅からぬ御事おんこと 、明日御心静かに」 と、下女も口々に申せば、 「いやいや、かようの事は早きこそよけれ」 と、木枕きまくら 、鼻紙をたたみかけて、ひな形を切らるるこそうたてけれ。
やうやうその程過ぎて、色々いろいろ たらして寝せまして、語りたき事ながら、襖ふすま 障子しやうじ 一重ひとへ なれば、漏れ行く事恐ろしく、灯ともしび の影に硯すずり 紙かみ 置きて、心の程を互たがひ に書きて見せたり見たり、これを思へば鴛鴦をし の衾ふすま とやいふべし。夜もすがら書きくどきて、明方あけがた の別れ、又もなき恋があまりて、さりとは物憂き世や。
   
油断のならないこの世の中で、ことに見せてならぬものは、旅行の時の肌はだ に付けた金、酒に酔った人に脇指わきざし 、娘のそばに捨て坊主だと、吉祥寺から引き上げてきた後は、厳重に監督して、二人の恋を割いたのであった。けれども、下女の情けで、恋文は何度も遣り取りして、心のうちは互いに知らせ合っていた。
ある日の夕暮れ、板橋いたばし 在住の里の子と見えて、松露しょうろ ・土筆つくし を手籠に入れ、これを渡世の業に売りに来たのを、お七の親の家で買い取った。その夕暮れは、春というのに雪が降りやまず、その子は村まで帰ることが出来ぬと嘆いていた。八百屋の亭主はかわいそうに思い、何気なく 「ちょっと土間の片隅かたすみ にでも寝て、夜が明けたら帰れ」 と言われたので嬉うれ しく、ごぼう・・・ や大根を並べた莚むしろ を片寄せ、たけのこ笠がさ で顔を隠し、腰蓑みの を身にまとって、一夜をしのぎ明かすことになった。
夜風が枕元まくらもと に吹き込み、土間がすっかり冷えあがったので、ほとんど命も危ういくらいであった。しだいに息が切れ、目もくらんできた時、お七の声がして、 「先ほどの里の子はかわいそうに、せめてお湯でも飲ませなさい」 と言われたので、飯炊めした きの梅が奉公人用の茶碗ちゃわん に汲んで、下男の久七に差し出すと、久七はこれを受け取って里の子に与えた。 「ありがたいご親切」 と礼を言うと、久七は暗闇くらやみ にまぎれて里の子の前髪をいじりまわして、 「お前も江戸に奉公に出ていたら、兄分のある年頃じゃが、かわいそうに」 と言う。 「ほんに卑しく育ちまして、田をすく馬の口を取り、柴しば を刈か るわざのほかは存じません」 と言うと、今度は足をいじってみて、 「感心にあかぎれ・・・・ も切らしていないな。これなら口を少し」 と、口を近寄せてきて接吻せっぷん しようとする。この悲しさ、つらさ、歯をくいしばって涙をこぼしていると、久七は考え直して、 「いやいや、葱ねぎ やにんにく・・・・ を食った臭い口かもしれぬぞ」 と、やめてしまったのはうれしかった。
その後、寝る時刻になって、奉公人たちは打付け梯子はしご を登って、二階の燈火の影も暗く、主人は戸棚とだな の錠前じょうまえ に気をつけると、内儀は火の用心をよくよく言い渡し、またその上に娘のことを心配して、店と奥との間の中戸を堅く閉じてしまわれたので、恋の通い路の手がかりが切れ、情けないことであった。
八つ (午前二時) の鐘が鳴る時、表の戸を叩いて、女と男の声で、 「もうし、おば様、たった今、ご出産なさいましたが、しかも男のお子様で、旦那だんな 様がたいへんご機嫌きげん でございます」 と、しきりに呼ばわった。家じゅうの者が皆起き騒いで、 「それはうれしや」 と、寝所からすぐに夫婦は連れ立って、出て行きがけに、海人草まくり と甘草かんそう を手に持って、片ちんばの草履ぞうり をはき、お七に戸を閉めさせ、気ばかり焦あせ って出て行かれた。
お七は戸を閉めて帰りがけに、暮れ方の里の子のこと思いやって、下女に、 「その手燭てしょく 、ちょっとこちらへ」 と言って、その姿を見たところ、ゆっくりと寝込んでいる様子が、いっそうかわいそうに思われた。 「気持ちよく眠っているものを、そのままにしてお置きなさいませ」 と、下女が言うのを聞こえぬふりをして近寄ると、肌はだ につけた兵部卿ひょうぶきょう の香りがして、何となく心をひかれ、笠かさ を取りのけてみると、上品な横顔はしっとりともの静かに、鬢びん の毛も乱れていないのを、しばらく見とれて、恋しいその人と似た年頃であると思い合わせ、袖そで に手をさし入れてみたところ、浅黄あさぎ 羽二重はぶたえ の下着を着ている。 「これは」 と気をつけて見直すと、それが吉三郎殿であった。人が聞くのもかまわずに、 「こりゃ、どうしてこのようなお姿」 と、しがみついて泣き出した。
吉三郎も顔を見合わせ、しばらく物も言えなかったが、 「私がこんなに姿を変えて来たのも、せめてあなたを一目でも見たいと願ってのことです。宵よい からのつらい思いを察してください」 と、初めからのさまざまの事を、いちいち話したので、 「とにかく、こちらへお入りくださった上で、そのお恨みもお聞きしましょう」 と、手を引いてさしあげたけれども、宵からの体の痛みはどうしようもなく、まことに哀れなことであった。
ようやく下女と手を組んで手車てぐるま にかき乗せ、ちゃんとした寝間にお入れして、手の力の続くかぎりさすって、いろいろの薬を飲ませ、少し笑顔が出るようになったのでうれしく、 「盃事さかずきごと して、今夜は心の中にあるかぎりをすっかりお話ししてしまいましょう」 と喜んでいるところに、親父おやじ が帰って来られたので、再びつらい目にあうことになった。
吉三郎を衣桁いこう の陰に隠して、何くわぬ様子で、 「ほんとに、おはつ様は親子ともご無事でしょうか」 と言うと、親父は喜んで、 「一人の姪めい のことだから、あれこれと心配したけれど、これで重荷をおろした」 と、上機嫌で、産衣うぶぎ の模様のせんさくを始めた。 「万事めでたい物尽くしで、鶴亀松竹の摺箔すりはく としてはどうだろう」 と言われるので、 「そんなにお急ぎになられなくとも、明日ゆっくり落ち着いてお考えになったらよろしゅうございましょう」 と、下女ともども口をそろえて言うと、 「いやいや、このようなことは早い方がよいのだ」 と、鼻紙をたたんで木枕にあてがい、ひな型を切られるのにはうんざりしてしまった。
ようやくその産衣騒ぎも過ぎて、いろいろとだましすかして親父を寝かしつけ、さてその後、積もる思いも話したいとは思うものの、襖ふすまく 一重の隔てであるから、話し声がもれるのが恐ろしく、燈火の影に硯すずりく と紙とを措いて、心の中を互いに書いて見せたり見たりした。考えてみると、これこそ鴛鴦おし の衾ふすま ならぬ?おし の衾ふすま と言うべきであろうか。一晩中書き口説くど いて、明け方に別れたが、そんなことではこの上ない恋の思いを語りつくすことが出来なかった。さてもつらいこの憂世うきよ である。
4. 世に見をさめの桜
それとはいはずに、明暮あけくれ 女心をんなごころ のはかなや。逢ふべき便たよ りもなければ、ある日、風のはげしき夕暮に、いつぞや、寺へ逃げ行く世間の騒ぎを思ひ出して、 「又さもあらば、吉三郎様に逢ひ見る事の種たね ともなるなん」 と、よしなき出来心にして、悪事を思ひ立つこそ因果いんぐわ ばれ。少しの煙立騒たちさわ ぎて、人々、不思議と心懸こころか け見しに、お七が面影おもかげ をあらはしける。これを尋ねしに、つつまずありし通りを語りけるに、世のあはれとぞなりにける。
今日は、神田かんだ のくづれ橋に恥をさらし、又は四谷よつや 、芝しば の浅草あさくさ 、日本橋にほんばし に、人こぞりて見るに、惜しまぬはなし。これを思ふに、仮かり にも人は悪あ しき事せまじき物なり。天これを許し給はぬなり。
この女思ひ込みし事なれば、身のやつるる事なくて、毎日ありし昔のごとく、黒髪を結ゆ はせて、うるはしき風情ふぜい 、惜しや十七の春の花も散ち りぢりに、ほととぎすまでも惣鳴そうな きに、卯月うづき のはじめつ方かた 、最期さいご ぞとすすめけるに、心中さらにたがはず、 「夢ゆめ 幻まぼろし の中うち ぞ」 と、一念いちねん に仏国ぶつこく を願ひける心ざし、さりとては痛はしく、手向花たむけばな とて咲き遅れし桜を一本ひともと 持たせけるに、うち詠なが めて、 「世のあはれ、春吹く風に名を残のこ し遅れ桜の今日散りし身は」 と吟じけるを、聞く人一入ひとしほ に痛ましく、その姿を見送りけるに、限りある命のうち、入相いりあひ の鐘つく頃、品かはりたる道芝の辺にして、その身は憂き煙となりぬ。人皆いづれの道にも煙はのがれず、ことに不便ふびん はこれにぞありける。
それは昨日きのふ 、今朝けさ 見れば、塵ちり も灰もなくて、鈴すず の森もり 松風ばかり残りて、旅人も聞きき 伝へてただは通らず、回向ゑかう してその跡を弔とむら ひける。さればその日の小袖、郡内縞ぐんないじま のきれぎれまでも世の人拾ひ求めて、末々すゑずゑ の種たね とぞ思ひける。
近付ちかづき ならぬ人さへ、忌日きにち 々々きにち に樒しきみ 折立おりた て、この女を弔と ひけるに、その契ちぎ りを込めし若衆わかしゆ は、いかにして、最後を尋ね問はざる事の不思議と、諸人沙汰さが し侍はべ る折節をりふし 、吉三郎は、この女に心地悩みて前後を弁わきま へず、憂世うきよ の限りと見えて便り少なく、現うつつ のごとくなれば、人々の心得にて、この事を知らせなば、よもや命もあるべきか、 「常々申せし言葉の末、身の取置とりおき までして、最後さいご の程を待ち居しに、思へば人の命や」 と、首尾しゆび よしなに申しなして、 「今日けふ 明日あす の内には、その人ここにましまして、思ふままなる御見」 などいひけるにぞ、一入ひとしほ 心を取り直し、与へる薬を外ほか になして、 「君よ恋し、その人まだか」 と、そぞろ言ごと いふ程こそあれ、 「知らずや、今日は、はや三十五日」 と、吉三郎にはかくして、その女弔とむら ひける。それより四十九日の餅盛もちもり など、お七親類、御寺みてら に参りて、 「せめてその恋人を見せ給へ」 と嘆きぬ。
様子を語りて、 「又もあはれを見給ふなれば、よしよしその通りに」 と、道理を責せ めければ、 「石流さすが 人たる人なれば、この事聞きながら、よもやながらへ給ふまじ。深くつつみて、病気も恙つつが なき身の折節をりふし 、お七が申し残せし事どもを語り慰めて、我が子の形見に、それなりとも思ひはらしに」 と、卒塔婆そとば 書き立てて、手向たむ けの水も泪なみだ に乾かぬ石こそ、亡き人の姿かと、跡に残りし親の身、無常むじやう の習ひとて、これ逆さまの世や。
   
本心を誰だれ にも打ち明けず、朝夕にくよくよと思いつめる女心ははかないものである。お七は恋人に逢あ う手段もないままに、ある日、激しく風の吹く夕暮れ、いつぞや吉祥寺へ避難した時の世間の火事騒ぎを思い出して、 「また、あのような事になったら、吉三郎殿にお逢いできる種にもなるだろう」 と、つまらない出来心で悪事を思い立ったのは因果なことであった。少しばかりの煙が立ちのぼったので、人々が騒ぎたて、不思議だと気をつけて見たところ、お七の姿を発見した。そこで尋ねたところ、包み隠さず、ありのままを白状したので、放火の罪となり、世の哀れの種となったのである。
お七は引き回されて、今日は神田の崩くず れ橋ばし でさらし者になり、また四谷よつや 、芝の札ふだ の辻つじ 、浅草、日本橋と、群れ集まって見物した人々は、その命を惜しまぬ者はなかった。これを思うに、かりそめにも人は悪い事をしてはならない。悪い事は天がお許しにならないのである。
このお七は、かねてから十分に覚悟したことであるから、姿形すがたかたち がやつれるようなこともなく、毎日、もと家にいた時のとおりに黒髪を結ゆ わせ、美しい風情ふぜい であったが、惜しいかなその十七歳の春の花も散り、ほととぎす・・・・・ までも声をそろえて悲しげに鳴き立てる四月の初めごろ、最期であるぞと覚悟を促したところ、心を取り乱した様子もなく、 「この世は夢ゆめ 幻まぼろし 」 と、一心に浄土を願うその志は、ひとしお痛ましかった。背での旅路の手向たむけ 花として、遅れ咲きの桜を一枝持たせたところ、つくづくと眺めて、 「世の哀れ春吹く風に名を残しおくれ桜の今日散りし身とは」 と吟じたのを、聞く人はなお一層哀れに思って、引かれ行くその後ろ姿を見送ったのであったが、それも限られた短い命のうちのこと、やがて入相いりあい の鐘をつくころ、品川の道のほとり、鈴の森で、世にも珍しい火刑に処せられたのであった。人間というものはどの道煙となることは免れないけれども、とりわけて不憫ふびん なのは、このお七の最期であった。
それは昨日のこと、今朝見ると塵ちり も灰もなく、鈴の森には松風ばかりが残っている。旅人たちも話を聞き伝えて、ここをただは通らず、念仏や読経などをしてその亡き跡を弔とむら った。そしてその日、お七が着ていた小袖こそで の郡内縞ぐんないじま の切れ端までも、人々は拾い求めて、末の世までの語りぐさと思うのであった。
何の縁もない人でさえ、忌日ごとに樒しきみを折り立てて、お七を弔ったのに、その身も心も許した相手の若衆は、どうしてお七の臨終を見とどけ、亡き跡を弔とむら わないのか、不思議なことだと世間で噂うわさ をした。ちょうどそのころ、吉三郎は、お七を思いつめて病気になり、前後不覚の有様、これで命も終りかと見えて心細く、まるで夢うつつの状態だったので、付き添いの人々の配慮から、お七の死を知らせたら、とても命はあるまい。 「常々口にする言葉のはしばしにも覚悟のほどは知られ、身のまわりの始末までして処刑を待っていたが、ふとしたことでお七殿は助かった。人の命というものはわからぬものだ」 と、うまく言いつくろい、 「今日明日のうちにはお七殿がここにいらっしゃって、思うままにご対面ができましょう」 と言ったので、一段と心を取り直し、与える薬はほかにして、 「お七殿が恋しい。あの方はまだ来られぬか」 と、譫言うわごと をいうのだが、 「知らぬことはしかたがない。今日はもうお七の三十五日だ」 と、吉三郎には隠してその人を弔ったのであった。それから四十九日の餅盛もちもり りなどして、お七の親類はお寺に参り、 「せめて一目、お七の恋人をお見せください」 と嘆願した。
寺では吉三郎の様子を話して、 「お会いになると、再び悲しい思いをされねばなりません。まあまあどうぞこのままにして会わずにおいて下さい」 と、道理を尽くして話したので、 「吉三郎殿もさすがに立派な育ちの方であるから、このことを聞かれたら、まさか生きてはござるまい。今は深く隠しておいて、元気になられたその折に、お七が申し残していった事など、お話して慰めましょう。では、我が子の形見に、これなりとも立てて、親の思いを晴らすたねにいたしましょう」 と、卒塔婆そとば を書いて立て、手向たむ けの水を泣く泣く供え、その泪に濡ぬ れて乾かぬ墓石こそ、今は亡な き娘の面影かと思うと、後に残った親の身の悲しさ、老少ろうしょう 不定ふじょう は世の習いとて、親が子を弔うとはまったくさかさまの世であった。
5. 様子あっての俄坊主
命程頼み少なくて、又、つれなき物はなし。中々なかなか 死ぬれば、恨みも恋もなかりしに、百ヵ日に当あた る日、枕始めて上あが り、杖竹つゑだけ を便たよ りに、寺中静かに初立うひだ ちしけるに、卒塔婆の新しきに心を付けて見しに、その人の名に驚きて、 「さりとては、知らぬ事ながら、人はそれとはいはじ。おくれたるやうに取とり 沙汰ざた も口惜し」 と、腰の物に手を掛けしに、法師取りつき、さまざま留とど めて、とても死すべき命ならば、年月語りし人に暇乞いとまごひ をもして、長老様ちやうらうさま にもその断ことわ りを立て、最後さいご を極きは め給へかし。子細しさい は、そなたの兄弟契約けいやく の御方おんかた より、当寺へ預け置き給へば、その御手前への難儀なんぎ 、かれこれ思召おぼしめ し合あは させられ、この上ながら憂名うきな の立たざるやうに」 と、諫いさ めしに、この断ことわ り至極しごく して、自害思ひとどまりて、とかくは、世にながらへる心ざしにはあたず。
その後、長老ちやうらう へかくと申せば、驚かせ給ひて、 「その身は懇ねんごろ に契約けいやく の人、わりなく愚僧ぐそうく を頼まれ預あづか り置きしに、その人、今は松前に罷まか りて、この秋の頃は必ずここに罷まか るの由、くれぐれこの程も申し越されしに、それよりうちに申し事あらば、さしあたっての迷惑、我われ ぞかし。兄分あにぶん 帰られての上に、その身は、いかやうなりともなりぬべき事こそあれ」 と、色々いろいろ 異見いけん あそばしければ、日頃の御恩思ひ合あは せて、 「何か仰おほ せはもれじ」 と、御請う け申まう し上げしに、なほ心ともなく思召おぼしめ されて、刃物を取りて、あまたの番ばん を添へられしに、是非ぜひ なく、常なる部屋に入りて、人々に語りしは、 「さてもさても、我が身ながら世上せじやう の謗そし りも無念なり。いまだ若衆わかしゆ を立てし身の、よしなき人のうき情なさけ に、もだしがたくて、あまつさへその人の難儀、この身の悲しさ、衆道しゆだう の神も仏も我われ を見捨て給ひし」 と、感涙かんるい を流し、 「殊更ことさら 、兄分あにぶん の人帰られての首尾しゆび 、身の立つべきにあらず、それより内に、最後さいご 急ぎたし。されども、舌食ひ切り、首しめるなど、世の聞えも手ぬるし。情なさけ に一腰ひとこし 貸し給へ。なにながらへて甲斐かひ なし」 と、泪なみだ に語るにぞ、座中ざちゆう 袖をしぼりて深く哀れみける。
この事、お七親より聞きつけて、 「御嘆きもつともとは存じながら、最後さいご の時分、くれぐれ申し置きけるは、吉三郎殿、まことの情なさけ けならば、浮世捨てさせ給ひ、いかなる出家にもなり給ひて、かくなり行く跡あと をとはせ給ひなば、いかばかり忘れ置くまじき。二世にせ までの縁えん は朽く ちまじと申し置きし」 と、様々さまざま 申せども、中々なかなか 吉三郎聞きき 分けず、いよいよ思ひ極きは めて、舌食ひ切る色めの時、母親耳近く寄りて、しばし小語ささや き申されしは、何事にかあるやらん。吉三郎うなづきて、 「ともかくも」 といへり。
その後のち 、兄分あにぶん の人も立帰たちかへ り、至極しごく の異見いけん 申し尽つく して、出家しゆつけ となりぬ。この前髪の散るあはれ、坊主も剃刀かみそり 投捨なげす て、盛さかり なる花に時の間の嵐のごとく、思ひくらぶれば、命はありながら、お七最期さいご よりは、なほ哀れなり。古今ここん の美僧びそう 、これを惜しまぬはなし。惣そう じて恋の出家しゆつけ 、まことあり。吉三郎兄分あにぶん なる人も、古里ふるさと 松前まつまへ に帰り、墨染すみぞめ の袖とはなりけるとや。さてもさても、取集めたる恋や、あはれや。無常むじやう なり、夢なり、現うつつ なり。
   
人の命ほど頼み少なく、また、ままにならぬものはない。病気だった吉三郎はいっそ死んでしまえば恨みも恋もなかったであろうに、お七の百ヶ日に当る日、初めて床上げして、杖つえ を頼りに、寺の境内けいだい を静かに歩いてみたところ、卒塔婆の新しいのがあるので注意して見ると、お七の名が書いてあったのに驚いて、 「そんなことになっていたとは、知らぬことではあったが、人はそうは言うまい。気おくれして死ねなかったように噂うわさ されるのも残念だ」 と、腰の刀に手をかけたのを、法師たちが取りすがって、さまざまにとどめ、 「どうしても死なねばならぬ命なら、長い年月懇ねんご ろにされたお方に暇いとま 乞ご いをなさって、長老様にもわけを話して了解を得た上で、最期をとげられるがよい。というのは、あなたは兄弟の契約をされた方が、この寺へお預けになったのですから、その方の手前、迷惑いたします。あれこれよく考え合わせられ、この上さらに悪い評判が立たぬように」 と諫いさ めたところ、この道理を納得して、自害は思いとどまったけれども、とにかくこの世にながらえるつもりではなかった。
その後、長老様へ事情を申し上げたところ、驚かれて、 「そなたの身jは、そなたが懇ろに契約した兄分の方が、特別に愚僧を頼まれたので預かっているのだが、その方は、今は松前まつまえ に行っておられ、この秋の頃には必ずここに来ると、かえすがえすこの間も連絡してこられたのに、それ以前に何か問題が起こったら、さしずめ迷惑するのは、この私である。兄分の方が帰って来られた上で、どのようにも身の振り方をつけたがよかろう」 と、いろいろ意見されたので、平素のご恩を考え合わせ、 「何事も仰せに違たが うような事はいたしません」 と、そのお言葉を承知したが、長老様はそれでもまだ不安に思われて、刃物を取り上げ、大勢の番を付けられたので、しかたなく、ふだんの居間に入って、人々に語るには、 「さてもさても、自分でしでかした事ながら、世間からとやかく謗られるのも残念です。まだ若衆の道を立てている身でありながら、ふとした人のせつない情けにほだされて、そればかりか、それがその人の難儀になったこの身のつらさ、衆道の神も仏も、この私をお見捨てなされたのでしょうか」 と、感きわまって涙を流し、 「ことに、兄分の人の帰られての成り行きを考えてみると、まったく面目の立ちようがありません。それより前に早く命を絶ちたいのです。けれども、舌を食い切ったり、首をくくったりしては世間の聞えも生ぬるく男らしくありません。どうかお情けに刀を一本お貸しください。生きながらえて何のかいがありましょう」 と、涙ながらに語るので、一座の人々も袖そで をしぼって、深くあわれんだのであった。
このことをお七の親たちが聞きつけて、 「お嘆きはごもごもっともと存じますが、娘が臨終の時くれぐれも申しますには、吉三郎殿がまことに私を思ってくださるのならば、浮世をお捨てになり、どのようなご出家にでもなってくださって、このようにして死んで行く私の後世を弔とむら ってくださるならば、どれほど嬉うれ しいか、そのお情けは決して忘れることはございません。二世までの夫婦の縁は決して空むな しくなることはありますまい、と申し残しました」 と、いろいろと言葉を尽くしたが、なかなか吉三郎は聞き入れず、いよいよ思い切って舌を食い切る気配が見えた時、お七の母親が耳の側そば 近くに寄って、しばらく小声で囁ささや かれたのは何事だったのだろうか。吉三郎はうなずいて、 「わかりました」 と言って、その言葉に従った。
その後、兄分の人も帰って来て、もっとも千万な意見を申しつくし、吉三郎は出家することになった。この美しい前髪を散らす哀れさ。坊主も剃刀かみそり を投げ捨て、まるで満開の花を一瞬の嵐に吹き散らす心地がして、思い比べると、命はあるというものの、お七の最期よりはなお一層哀れであった。剃髪ていはつ してみると、古今まれな美僧となったが、あたら美少年をと惜しまぬ者とてはなかった。すべて恋が動機で発心ほっしん した僧は道心堅固である。吉三郎の兄分の人も故郷の松前に帰って出家し墨染すみぞめ の衣をまとう身になったという。さてもさても、あれこれと様々に入り乱れた恋であった。まことに哀れである。無常である。夢である。現である。 
 
「好色五人女」巻四 恋草からげし八百屋物語 2
1.大節季は想いの闇
ならい風激しく、師走の空雲の足さえ速く、春の事ども取り急ぎ、餅突く宿の隣には、小笹手ごとに煤掃きするもあり。天秤の金冴えて、取りやりも世の定めとて忙し。棚下を引き連れ立ちて、「こんこん小盲目に、お一文くだされませい」の声やかましく、古札納め・雑器売り・榧・かち栗・鎌倉海老、通町には破魔弓の出見世・新物・足袋・雪駄。「足を空にして」と兼好が書き出し思い合わせて、今も世帯持つ身の暇なき事にぞ有りける。
早や、押し詰めて 28日夜半に、わやわやと火宅の門は車長持ち牽く音、葛籠・かけ硯、肩に掛けて逃ぐるもあり。穴蔵の蓋、とりあえず軽る物(絹物)を投げ込めしに、時の間の煙となって、焼野の雉子、子を思うがごとく、妻をあはれみ老母を悲しみ、それぞれの導べの方へ立ち退きしは、更に悲しさ限り無かりき。
ここに本郷の辺に八百屋八兵衛とて、売人、昔は俗姓賤しからず。この人、一人の娘あり。名は、お七と云えり。年も 16、花は上野の盛り、月は隅田川の影清く、かかる美女のあるべきものか! 都鳥、その業平に時代違いにて見せぬ事の口惜し。これに心を掛けざるは無し。
この人、火元近づけば母親に付き添い、年ころ頼みをかけし旦那寺、駒込の吉祥寺といえるに行きて、当座の難を凌ぎける。この人この人に限らず、あまた御寺に駆け入り、長老様の寝間にも赤子泣く声、仏前に女の二の布物を取り散らし、あるいは主人を踏み越え、親を枕とし、訳もなく臥しまろびて明くれば、饒鉢 [にょうはち]、鉦 [どら] を手水だらいにし、お茶湯天目も仮のめし椀となり、この中の事なれば、釈迦も見赦し給うべし。
お七は母の親大事にかけ、坊主にも油断のならぬ世の中と、よろずに気を付け侍る。折節の夜嵐を凌ぎかねしに、亭坊(住持)、慈悲の心から着替えのあるほど出して貸されける中に、黒羽二重の大振袖に、桐・銀杏の並べ紋、紅裏を山道の裾取り、訳らしき小袖の仕立て、焚きかけ(香のかほり)残りて、お七、心に留まり、
『いかなる上臈か、世を早うなり給い、形見も辛しと、この寺にあがり物(奉納もの)か』と、我が年の頃思い出して、あはれに痛ましく、会い見ぬ人に無常起こりて、
『思えば夢なれや、何事もいらぬ世や、後生こそ誠なれ』と、しおしおと沈み果て、母人の珠数袋を開けて願いの玉の緒、手に掛け、口のうちにして題目いとまなき折から、
やごとなき若衆の、銀の毛抜き片手に、左の人差し指に有るか無きかの棘の立ちけるも心に掛かると、暮方の障子を開き、身を悩みおわしけるを、母人見かね給い「抜き参らせん」と、その毛抜きを取って、しばらく悩み給えども、老眼の定かならず、見付くる事難くて、気毒なるありさま。
お七、見しより『我なら目時の目にて(視力が良いので)、抜かんものを』と思いながら、近寄りかねて佇むうちに、母人呼び給いて「これを抜きて参らせよ」との由、嬉し。彼の御手を取りて難儀を助け申しけるに、この若衆、我を忘れて、自が手(お七の手)を痛く締めさせ給うを、離れ難かれども、母の見給うをうたてく、是非も無く立ち別れさまに、覚えて(わざと)毛抜きを取りて帰り、また返しにと跡を慕い、その手(若衆の手)を握り返せば、これより互いの想いとは成りける。
お七、次第に焦がれて、
「この若衆、いかなる御方ぞ?」と納所坊主に問いければ、
「あれは、小野川吉三郎殿と申して、先祖、正しき御浪人衆なるが、さりとは優しく、情の深き御方」と語るにぞ、なお、想い増さりて、忍び忍びの文書きて人知れず遣わしけるに、便りの人変わりて(入れ違いに)、結句、吉三郎方より思惑数々の文、送りける。心ざし、互いに入り乱れて、これを「諸思い」とや申すべし。
両方、共に返事無しに、いつとなく浅からぬ恋人・恋われ人、時節を待つうちこそ浮世なれ。大晦日は想いの闇に暮れて、明くれば新玉の年の初め。女松・男松を立て飾りて、暦見そめしにも「姫はじめ」おかしかりき。されども、よき首尾無くて、ついに枕も定めず。君がため若菜祝いける日も終りて、9日 10日過ぎ、11日、12、13、14日の夕暮、早や、松の内も皆になりて(終わって)、甲斐なく立ちし名こそ、はかなけれ。
2.虫出しの雷もふんどしかきたる君様
春の雨、玉にも抜ける柳原のあたりより参りけるの由、15日の夜半に外門あらけなく叩くにぞ、僧中(全ての僧)夢驚かし聞けるに、
「米屋の八左衛門、長病なりしが、今宵、相い果て申されしに、思い設けし(前から覚悟していた)死人なれば、夜のうちに野辺へ送り申したき」との使いなり。出家の役なれば、数多の法師召し連れられ、晴間を待たず、傘を取りどりに御寺を出て行き給いし後は、70に余りし庫裏姥(台所で働く姥)一人、12,3なる新発意(新たに仏門に入った者)一人、赤犬ばかり。残り物とて松の風淋しく、虫出しの雷響き渡り、いずれも驚きて、姥は年越の夜の煎大豆取り出すなど、天井のある小座敷を訪ねて身を潜めける。
母の親、子を思う道に迷い、我をいたわり夜着の下へ引き寄せ「厳しく鳴る時は耳塞げ」など、心を付け給いける。女の身なれば、恐ろしさ限りも無かりき。されども『吉三郎殿に逢うべき首尾、今宵ならでは』と思う下心ありて、
「さても浮世の人、何とて雷を恐れけるぞ。捨てから命、少しも我は恐ろしからず」と、女の強からずして良き事に、無用の言葉、末すえの女どもまで、これを誹りける。
ようよう更け過ぎて、人、皆、自ずからに寝入りて、鼾は軒の玉水の音を争い、雨戸の隙間より月の光もありなしに、静かなる折節、客殿を忍び出でけるに、身に震い出でて足元も定めかね。枕浴衣に臥したる人の腰骨を踏みて、魂消ゆるがごとく、胸いたく上気して、ものは言われず手を合わして拝みしに、この者、我を咎めざるを不思議と、心を止めて眺めけるに、食炊かせける女の、むめという下子なり。それを乗り越えて行くを、この女、裙を引き留めけるほどに、また胸騒ぎして『我、留むるか』と思えば、さにはあらず。小判紙一折、手に渡しける。
『さても、さても、いたずら仕付けて、かかる忙しき折からも、気の付きたる女ぞ』と嬉しく、方丈(住持の居屋)に行きてみれども、彼の兒人 [せいじん] の寝姿見えぬは、悲しくなって、台所に出でければ、姥目覚し「今宵、鼠めは」とつぶやく片手に、椎茸のにしめ、あげ麩、葛袋など取りおくも、おかし。しばしあって我を見付けて「吉三郎殿の寝所は、そのその小坊主とひとつに、三畳敷に」と、肩叩いて囁きける。思いの外なる情知り、『寺には惜しや』と、いとしくなりて、してゐる紫鹿子の帯解きて取らし、姥が教えるに任せ行くに、夜や、八つ頃(AM2:00頃)なるべし。
常香盤の鈴落ちて響き渡る事しばらくなり。新発意、その役にやありつらん。起き上がりて糸かけ直し、香、盛り継ぎて座を立たぬ事、とけしなく(待ち遠しく)、寝所へ入るを待かね、女の出来心にて、髪をさばき、怖い顔して闇がりより脅しければ、さすが仏心備わり、少しも驚く気色なく、
「汝、元来、帯解け広げにて、世に徒ものや(淫奔女)。たちまち消え去れ。この寺の大黒(僧侶の妻)になりたくば、和尚の帰らるるまで待て」と、目を見開き申しける。お七、白けて、走り寄り、
「こなたを抱て寝に来た」と言いければ、新発意笑い、
「吉三郎様の事か。おれと今まで跡さして臥しける。その証拠にはこれぞ」と、こぶくめ(綿入れ)の袖をかざしけるに、白菊などいえる留木の移り香、『どうもならぬ』とうち悩み、その寝間に入るを、新発意声立て、
「はぁ、お七さま、よい事を」と言いけるに、また驚き、
「何にても、そなたの欲しき物を調え進ずべし。黙り給え」と言えば、
「それならば、銭80と、松葉屋のかるたと、浅草の米饅頭 5つと、世にこれより欲しき物は無い」と言えば、
「それこそやすい事。明日は、早々、遣し申すべき」と約束しける。この小坊主、枕傾け「夜が明たらば三色貰うはず。必ず貰うはず」と、夢にも現にも申し寝入りに静まりける。
その後は心まかせになりて、吉三郎寝姿に寄り添いて、何とも言葉なく、しどけなくもたれかかれば、吉三郎、夢覚て、なお身を震わし小夜着の袂を引きかぶりしを、引き退け、
「髪に用捨もなき事や(髪が乱れました)」と言えば、吉三郎、せつなく
「私は 16になります」と言えば、お七、
「私も 16になります」と言えば、吉三郎、重ねて、
「長老様が怖や」と言う。
「おれも長老様は怖し」と言う。何とも、この恋始め、もどかし。
後は二人ながら涙をこぼし、不埓なりしに、また、雨のあがり雷あらけなく響きしに、
「これは、ほんに怖や」と、吉三郎にしがみ付きけるにぞ、自ずから、わりなき(堪えきれない)情深く、
「冷えわたりたる手足や」と、肌へ近寄せしに、お七、恨みて申し侍るは
「そなた様にも憎からねばこそ、よしなき文給りながら、かく身を冷やせしは、誰させけるぞ」と首筋に喰つきける。いつとなく訳もなき首尾して、ぬれ初めしより袖は互いに、「限りは命(死が分かつまで)」と定めける。
ほどなく曙の近く、谷中の鐘せわしく、吹上の榎の木、朝風激しく。
「うらめしや。今寝温もる間もなく、あかぬは別れ、世界は広し、昼を夜の国もがな」と俄かに願い、とても叶わぬ心を悩ませしに、母の親「これは!」と訪ね来て引っ立てゆかれし。思えば「むかし男」の鬼一口の雨の夜の心地して、吉三郎あきれ果て悲しかりき。
新発意は宵の事を忘れず、「今の三色の物を賜らずば、今夜のありさま告げん」と言う。母親、立ち帰りて「何事か知らねども、お七が約束せし物は、我が請にたつ」と言い捨て帰られし。いたずらなる娘持ちたる母なれば、大方なる事は聞かでも合点して、お七よりは、なお心を付けて、明の日早く、その、もて遊びの品々、調えて送り給いけるとや。
3.雪の夜の情宿
油断のならぬ世の中に、殊更見せまじきものは、道中の肌付金・酒の醉に脇指・娘のきわに捨坊主と、御寺を立ち帰りてその後は、厳しく改めて恋を裂きける。されども、下女が情にして文は数通わせて、心のほどは互に知らせける。
ある夕べ、板橋近き里の子と見えて、松露・土筆を手籠に入れて、世を渡る業とて売り来たれり。お七親のかたに買い止めける。その暮れは春ながら雪降りやまずして、里まで帰る事を歎きぬ。亭主あはれみて、
「何心もなく、つゐ庭の片角にありて(土間の片隅にでも寝て)、夜明けなば帰れ」と言われしを嬉しく、牛房・大根の莚、片寄せ、竹の小笠に面をかくし、腰蓑身にまとい一夜を凌ぎける。嵐、枕に通い、土間冷えあがりけるにぞ、大かたは命も危うかりき。
次第に息も切れ、眼も眩みし時、お七、声して
「先ほどの里の子あはれや、せめて湯なりとも飲ませよ」とありしに、飯炊きの梅が、下の茶碗に汲みて久七に差し出しければ、男受け取りて、これを与えける。
「かたじけなき、御心入れ」と言えば、暗まぎれに前髪をなぶりて、
「我も(お前も)、江戸においたらば念者(男色の兄貴分)のある時分じゃが、痛しや」と言う。
「いかにも浅ましく育ちまして、田をすく馬の口を取り、眞柴刈より他の事を存じませぬ」と言えば、足をいらいて(いじって)
「奇特にあかがりを切らさぬよ。これなら口を少し」と、口を寄せけるに、この悲しさ、切なさ、歯を食い締めて涙をこぼしけるに、久七、分別して
「いやいや、根深・ニンニク食いし口中も知れず」と止めける事の嬉し。
その後、寝時になりて、下々は、うちつけ階子を登り、二階にともし火影薄く、主は戸棚の錠前に心を付くれば、内儀は「火の用心」よくよく言い付けて、なお、娘に気遣いせられ、中戸差し固められしは、恋路つなきれて、うたてし。
八つの鐘の鳴る時、面の戸叩いて、女と男の声して、
「申し、姥様。ただ今、悦びあそばしましたが(出産されました)、しかも若子様にて、旦那さまの御機嫌」と、しきりに呼ばわる。家内起き騒ぎて、「それは、嬉しや」と、寝所よりすぐに夫婦連れ立ち、出さまに、まくり・かんぞうを取り持ちて、片しがたしの草履を履き、お七に門の戸を閉めさせ、急ぐ心ばかりにゆかれし。
お七、戸を閉めて帰りさまに、暮方、里の子思いやりて、下女に「その手燭まで」とて、面影を見しに、豊かに臥して、いとど、あはれの増りける。「心よく有りしを、そのまま、おかせ給え」と下女の言えるを聞かぬ顔して近く寄れば、肌に付けし兵部卿のかほり、何とやらゆかしくて、笠を取り除け見れば、やことなき脇顔のしめやかに、鬢もそそけざりし(乱れていない)をしばし見とれて、その人の年頃に思いいたして、袖に手を差し入れて見るに、浅黄羽二重の下着。「これは!」と心を止めしに、吉三郎殿なり。人の聞くをも構わず、
「こりゃ、何として、かかる御姿ぞ!」としがみ付きて歎きぬ。吉三郎も面見合わせ、ものゑ言わざる事しばらくありて、
「我、隠す方を変えて、せめては、君をかりそめに見る事願い、宵の憂き思いおぼしめしやられよ」と、初めよりの事どもを、つどつどに語りければ、
「兎角は、これへ、御入りありて、その御恨みも聞きまゐらせん」と、手を引きまゐらすれども、宵よりの身の痛み是非もなく、あはれなり。ようよう、下女と手を組みて、車にかき乗せて、つねの寝間に入りまゐらせて、手の続くほど摩りて幾薬を与え、少し笑い顔嬉しく、
「盃事して、今宵は心にあるほどを語り尽くしなん」と喜ぶ所へ、親父帰らせ給ふにぞ、重ねて憂き目に遭いぬ。
衣桁の陰に隠して、さらぬあり様にて、
「いよいよ、おはつ様は親子とも御まめか?」と言えば、親父喜びて、
「ひとりの姪なれば、とやかく気遣いせしに、重荷降した」と機嫌良く、産着の模様せんさく、
「よろず祝いて、鶴亀松竹のすり箔は?」と申されけるに、
「遅からぬ御事、明日御心静かに」と、下女も口々に申せば、
「いやいや、かやうの事は早きこそ良けれ」と、木枕、鼻紙をたたみかけて、ひな形を切らるるこそ、うたてけれ。
ようよう、そのほど過ぎて、色々たらして寝せまして、語りたき事ながら、ふすま障子一重なれば、漏れゆく事を怖ろしく、灯の影に硯紙置きて、心のほどを互いに書きて、見せたり見たり。これを思えば「鴛のふすま」とや言うべし。夜もすがら書くどきて、明け方の別れ、またも無き恋があまりて(語り尽くすことが出来ず)、さりとては、もの憂き世や。
4.世に見納めの桜
それとは言わずに(事情を誰にも打ち明けず)明け暮れ、女心のはかなや、逢うべき頼りも無ければ、ある日、風の激しき夕暮に、いつぞや寺へ逃げ行く世間の騒ぎを思い出して、『また、さもあらば、吉三郎殿に逢い見る事の種とも成りなん』と、よしなき出来心にして悪事を思い立つこそ、因果なれ。少しの煙立ち騒ぎて、人々不思議と心懸け見しに、お七が面影を現しける。これを訊ねしに、包まず有りし通りを語りけるに、世のあはれとぞ成りにける。
今日は神田のくづれ橋に恥を晒し、または、四谷・芝の浅草・日本橋に人こぞりて見るに惜まぬは無し。これを思うに、仮にも人は悪事をせまじき物なり。天、これを赦し給はぬなり。
この女、思い込みし事なれば、身のやつるる事なくて、毎日ありし昔のごとく、黒髪を結わせて麗しき風情。惜しや、17の春の花も散り散りに、ほととぎすまでも総鳴きに、卯月の初めず方、「最期ぞ」と勧めけるに、心中更に違わず、夢幻の中ぞと、一念に仏国を願いける心ざし。さりとては痛わしく、手向花とて咲き遅れし桜を一本持たせけるに、うち眺めて、
世の哀 春ふく風に 名を残し おくれ桜の けふ散し身は
と吟しけるを、聞く人、ひとしおに痛まわしく、その姿を見送りけるに、限りある命のうち、入相(夕暮れ)の鐘つく頃、品かはりたる道芝の辺にして、その身はうき煙となりぬ。人皆いずれの道にも煙は逃れず、殊に不便は、これにぞありける。
それは昨日、今朝見れば塵も灰も無くて、鈴の森、松風ばかり残りて、旅人も聞き伝えて、ただは通らず。廻向して、その跡を弔いける。されば、その日の小袖、郡内縞の切れ切れまでも世の人拾い求めて、末すえの物語の種とぞ思いける。
近付きならぬ人さえ、忌日忌日に、しきみ折り立て(仏前花を供え)、この女を弔いけるに、その契りを込めし若衆は如何にして最期を尋ね問わざる事の不思議と、諸人沙汰し侍る折節、吉三郎は、この女にここち悩みて、前後をわきまえず、憂き世の限りと見えて便り少なく、現のごとくなれば、人々の心得にて、この事を知らせなば、よもや命も有るべきか。
「常々申せし言葉のすゑ、身の取り置き(身の回りの整理)までして最期のほどを待ち居しに、思えば人の命や」と、首尾よしなに申しなして、「今日明日の内には、その人、ここにましまして思ふままなる御けん」など言いけるにぞ、ひとしお心を取り直し、与える薬を他になして、
「君よ恋し、その人まだか」とそぞろ事言うほどこそあれ。
知らずや、今日は早や 35日と、吉三郎には隠して、その女弔いける。それより、49日の餅盛など、お七親類、御寺に参りて、
「せめて、その恋人を見せ給へ」と歎きぬ。様子を語りて、
「またも、あはれを見給うなれば、よしよし、その通りに(まぁ、そのままに)」と道理を責めければ、
「さすが、人たる人なれば、この事聞きながら、よもや長らえ給ふまじ。深く包みて病気もつつがなき身の折節、お七が申し残せし事どもをも語り慰めて、我子の形見に、それなりとも思い晴らしに」と、卒塔婆書き立てて、手向けの水も涙に乾かぬ石こそ無き人の姿かと、跡に残りし親の身、無常の習いとて、これ、逆の世や。
5.様子あっての俄か坊主
命ほど頼み少なくて、また、つれなきものは無し。なかなか死ぬれば恨みも恋も無かりしに、百ヶ日に当たる日、枕、初めて上がり、杖竹を便りに、寺中静かに初立ちしけるに、卒塔婆の新しきに心を付けて見しに、その人の名に驚きて、
「さりとては知らぬ事ながら、人はそれとは言わじ。遅れたるように取沙汰も口惜し」と、腰の物に手を掛けしに、法師取り付き、様々留めて、
「とても死すべき命ならば、年月語りし人に暇乞いをもして、長老さまにも、その断りを立て、最期を極め給えかし。子細は(その訳は)、そなたの兄弟契約の御方より、当寺へ預け置き給えば、その御手前への難儀、かれこれ覚しめし合せられ、この上ながら、憂名の立たざるように(悪い評判が立たないように)」と諌めしに、この断り至極して、自害思い止まりて、兎角は世に長らえる心ざしにはあらず。
その後、長老へかくと申せば、驚かせ給いて、
「その身は懇ろに契約の人、わりなく愚僧を頼まれ預りおきしに、その人、今は松前に罷りて、この秋の頃は必ず、ここにまかるのよし、くれぐれ、このほども申し越されしに、それよりうちに、申し事(ひと悶着)もあらば、さしあたっての迷惑、我ぞかし(わしは困る)。兄分帰られての上に、その身はいか様ともなりぬべき事こそあれ」と、色々異見あそばしければ、日頃の御恩思い合せて、
「何か仰せはもれし」と、お請け申しあげしに、なお、心もとなく覚しめされては、物を取りて、あまたの番を添られしに、是非なく、常なる部屋に入りて人々に語しは、
「さても、さても、わが身ながら、世上の誹りも無念なり。未だ若衆を立てし身の、よしなき人のうき情けに、もだし難くて、あまつさえ、その人の難儀、この身の悲しさ。衆道の神も仏も我を見捨て給いし」と感涙を流し、
「殊更、兄分の人帰られての首尾、身の立つべきにあらず。それより内に、最期急ぎたし。されども、舌喰い切り、首絞めるなど、世の聞えも手ぬるし。情に一腰貸し給え。なに長らえて甲斐無し」と、涙に語るにぞ、座中、袖をしぼりて深くあはれみける。
この事、お七親より聞きつけて、
「御歎き、もっともとは存じながら、最期の時分、くれぐれ申し置きけるは、『吉三郎殿、誠の情ならば、浮き世捨させ給い、いかなる出家にもなり給いて、かくなり行く跡をとわせ給いなば、いかばかり忘れ置くまじき。二世(来世)までの縁は朽まじ』と申し置きし」と、様々申せども、中々、吉三郎、聞き分けず。いよいよ思い極めて、舌喰い切る色めの時、母親、耳近く寄りて、しばし囁き申されしは、何事にかあるやらん。吉三郎、頷きて「ともかくも」と言えり。
その後、兄分の人も立ち帰り、至極の異見申し尽くして出家と成りぬ、この前髪の散るあはれ、坊主も剃刀なげ捨て、盛りなる花に時の間の嵐のごとく、思い比ぶれば、命は有りながら、お七最期よりは、なお、あはれなり。古今の美僧、これを惜しまぬは無し。総じて恋の出家、誠あり。吉三郎兄分なる人も、故郷松前に帰り、墨染の袖とは成りけるとや。
さてもさても、取り集めたる恋(男色女色乱れての恋)や、あはれや、無常なり、夢なり、現なり。  
 
 
お七の雑話

 

少女が火あぶりの刑に…。江戸の大火に隠された悲しい恋の物語
1683年1月25日、駒込(現在の文京区)の大円寺の出火を発端とした大火災が発生した。通称「お七火事」と呼ばれる江戸の大火だ。
火は強い北西の風に乗って、本郷から御茶ノ水、神田と南の方角へ延焼。また神田川を沿うように隅田川までたどり着くと、対岸の両国や深川まで燃え広がった。判明しているだけで、大名屋敷75、旗本屋敷166、寺社95が焼失。町家の被害に至っては数万戸に及び、焼死者も約3,500人に及んだ。ちなみにあの松尾芭蕉も被災した1人だ。
この火事は「お七火事」と呼ばれているが、“お七”とは16歳の少女の名前のこと。なぜ彼女の名前が火事の通称として使われているのか。それには深い理由がある。
元々、お七は1月25日の大火で被災した少女。現在では被災すると、学校や自治体の施設に避難することが多いが、当時は寺社に身を寄せることが多かった。八百屋を営んでいたお七の一家も、その例にもれず吉祥寺(円乗寺、正仙寺との説もあり)に避難していた。そこでお七は、寺小姓の生田庄之助(小野川吉三郎、山田佐兵衛との説もあり)と恋愛関係になる。
しかし自由な恋愛など認められることは少ない時代。家が元通りになったこともあって、2人は離れ離れになってしまう。そこでお七は“また火事になれば庄之助に会えるかもしれない”と自宅を放火してしまう。幸いボヤで消し止められたものの、当時の法律では放火犯は火あぶりの重罪であり、もちろんお七も火あぶりの刑に処せられた。
江戸時代の地震や火事などの災害についてまとめた「大江戸災害ものがたり」(明治書院)の著者、酒井茂之氏に詳しく聞くと、このような意見が。
「江戸時代の人々は、娯楽が少なかったこともあり、何か事があると、それに対して大きな興味を表すことが多かったようです。お七が火あぶりの刑で筋違橋のたもとにさらされたとき、大変な見物人が押しかけたといわれていますが、『同情』や『憎しみ』という感覚ではなく、放火という大罪を犯した人物が、16歳という若い娘だった、ということの興味からだったと思われます」
この3年後、井原西鶴が「好色五人女」の4巻で「恋草からげし八百屋物語」として、お七を取り上げたことで更に話題となり、歌舞伎では「お七歌祭文(おしちうたざいもん)」、浄瑠璃では「八百屋お七恋緋櫻(やおやおしちこいのひざくら)」などの題材に取り上げられていった。
また酒井氏は、江戸庶民のお七への感情について、こう話してくれた。
「物語や芝居を見ると、作者たちは恋に狂って大罪を犯したお七を、悪人とはとらえていないようです。むしろ若い娘の一途な思いに対して同情すら抱いているような気がします。お七が火あぶりの刑に処せられたのち、お七を灼熱の苦しみから救うために、大円寺に「ほうろく地蔵」が安置されましたが、この存在も江戸庶民がお七に抱いた感情を、素直に表しているような気がします」
実はお七に関する事実は、長い年月のなかで芝居や言い伝えが入り混じって判然としていない。放火が原因で処刑された16歳(もちろん数え年なので現在であれば14歳か15歳)の少女がいたことは事実のようだ。「恋は盲目」と言ってしまえばそれまでだが、現代でも恋愛関係から事件に発展することはある。せめて他人を巻き込むような大事件にまで発展することの無い様に願うばかりだ。
 
お七の「罪」と吉三郎の「悪」
歌舞伎屈指の名台詞「月も朧に白魚の 篝も霞む春の空」で知られる、『三人吉三廓初買』大川端庚申塚の場。可憐な娘姿に変装した盗賊・お嬢吉三は、自身を「八百屋のお七」だと名乗ります。河竹黙阿弥が『三人吉三』の筆をとった安政期から遡ること約180年前に、実際に江戸の町に生き、世間を騒がせた娘の名前が、なぜここに登場するのでしょうか。
天和の大火とお七
天和の大火で被災し、家族と共に菩提寺に避難したお七は、寺小姓の吉三郎と恋に落ちた。やがて新築された家に戻り、吉三郎になかなか会うことができなくなったため、再び家が焼けたなら恋しい吉三郎に会えると考え、近所の商家に火を付けた。幸いすぐに火は消し止められたが、お七は放火の罪で江戸市中引き廻しの上、火刑に処された。
天和3(1684)年、お七という娘が起こした放火事件は、当時の見聞記(註1)によってこのように伝えられてきました。しかし、お七の年齢や生家、身を寄せた寺や恋仲になった寺小姓の名前など、この事件に関する記録が諸説あることから、これらの見聞記の記述はすでに史実そのままではないという指摘がされています。つまり、「お七という娘が放火をした」という事実が伝わっているのみで、実在したお七の生涯や事件の真相は結局のところ明らかになっていないのです。
このように放火までの経緯が空白で想像の余地があったこと、また恋に身を焦がす娘が恋ゆえに放火に至り、そして最後は火に焼かれるという衝撃的な事件だったことから、この〈お七〉の物語は後世の作家の妄想を掻き立てる題材となりました。
「お七事件」脚色のはじまり
事件からほどない貞享3(1686)年、井原西鶴は彼女を『好色五人女』の題材として取り上げ、巻四「恋草からげし八百屋物語」を発表します。伝聞された事件の内容とストーリーはほとんど変わらないものの、西鶴はお七の恋心に着目し、吉三郎との〈二人の物語〉を紡ぎました。恋ゆえに火あぶりにされた娘〈八百屋お七〉の誕生です。人々は事件の真相を追い求めることより、お七の一心不乱な恋に熱狂しました。これによって「お七吉三郎」というカップリングが定着し、〈八百屋お七〉のストーリーの定型が成立します。放火事件のあらましは歌祭文によって全国に流布し、浄瑠璃や歌舞伎、落語など、さまざまな芸能のモチーフとして引用されていくのでした。
火のないお七
西鶴以降、〈八百屋お七〉の物語は主に上方で戯曲化・舞台化されます。江戸でお七作品が初お目見得するのは宝永5(1708)年、実在のお七の二十七回忌追善演目として創作された『中将姫京雛(ちゅうじょうひめきょうひいな)』という作品でした。すでにお七役で評判を博していた嵐喜代三郎が江戸に下り、この興行は大成功を収め、以来喜代三郎の紋所である「丸に封じ文」の紋がお七の意匠として定着したとも伝えられています。
八百屋の養女であるお七が実は人買いに攫われた中将姫で、吉三郎は実はお家騒動を避けるために身分を隠す唐橋宰相であるという設定は、平安時代から語り継がれてきた中将姫伝説と〈八百屋お七〉が掛け合わされたものです。古典的な設定のなかで同時代の事件を扱う、つまり時代物を背景に世話物を描くというスタイルで物語が展開します。この演目の脚本は失われ、八百屋の息子との縁談を嫌がったお七が吉三郎に会いたさに養父を殺めるものの、情けによって最終的に出家するという大まかな筋書きのみが伝えられています。
ここで注目したいのは、古典の中将姫伝説を借用した結果、従来の〈八百屋お七〉とはかけ離れた物語となり、放火事件が取り除かれた「火」のないお七作品となったことです。「火」の不在は結果として、放火という罪に問われてきたお七を初めて「罪」から解放し、命の救済をもたらしました。
翻弄されるお七
次に、紀海音によって書かれた浄瑠璃『八百屋お七』(註2)を取り上げます。海音は歌祭文や西鶴の『好色五人女』を下敷きにしながら、お七と吉三郎を取り巻く周囲の人々へと視点を広げました。例えば、お七の父の名を久兵衛とし、吉三郎を安森源次兵衛の息子で勘当の身と定めています。また、お七と吉三郎の恋仲を邪魔する武兵衛とその相棒である太左衛門というコンビが、小坊主・弁長を味方につけ、お七を巡って吉三郎と対抗するという三角関係は、これまでにない金銭のやり取りという筋立てを生み出しました。武兵衛は、火事で焼けた家の普請代として二百両の大金を久兵衛に貸し付け、その代わりにお七との婚約を取り付けようと画策するのです。
お七と吉三郎の間にさまざまな人物が介入することで、それまでの二人の恋物語は、周辺の人々を巻き込んだ複雑な人間ドラマへと変化しました。後世の浄瑠璃や歌舞伎にみられる〈八百屋お七〉のキャラクター設定がふんだんに盛り込まれており、戯曲としての〈八百屋お七〉の出発点と位置付けられる作品と言えるでしょう。一方、主人公としてのお七の印象が相対的に矮小化したと指摘する研究者もいます。しかしながら、借金のかたに輿入れしなければならないという家族の義理と、吉三郎への恋心の間で激しく取り乱すお七は、私にはエネルギッシュに輝くヒロインとして映ります。吉三郎が残していった蓑笠に抱きついて狂乱状態となり、炬燵のなかで赤く燃える炭火を取り出したお七が、「恋に自分が煽られるよりも先に燃えてしまえ」と家財道具に火を放つシーンひとつをとってみても、主人公としてのイメージが色褪せているとは到底思えないのです。
ただここで、一人で罪を犯し、一人でその罪を負って死んでいく放火犯という、『好色五人女』に書かれたようなお七像は消滅し、周囲の人々との柵や義理人情に翻弄された結果として火を放つというお七像へ変化したと考えることはできます。世間知らずな恋娘でしかなかったお七は、コミュニティのなかに生きる一人の女性として生まれ変わりました。そのコミュニティへの反発としての放火が描かれていると言えるかもしれません。
この後、海音の死がきっかけとなり、『八百屋お七』には大幅な翻案が加えられるようになります。その先駆けとなったのが延享元(1744)年に初演された浄瑠璃『潤色江戸紫(じゅんしょくえどむらさき)』でした。華やかな新吉原の廓場や木挽町の芝居の場面が挿入されたり、吉三郎が重宝紛失事件のために奔走するというお家騒動の要素が濃くなったりと、演劇的に「見せる」ことに特化した派手な趣向が〈八百屋お七〉の物語に取り込まれていきます。
櫓のお七
さらに『潤色江戸紫』の翻案は続き、安永2(1773)年、菅専助らによって合作された浄瑠璃『伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)』が初演されます。吉三郎が寺小姓となって紛失した重宝・天国(あまくに)の剣を詮索していたり、お七が父の借金のかたに武兵衛との縁談を進められていたり、これまでの〈八百屋お七〉にみられる筋立てが多く引用されていますが、この作品でお七は初めて放火犯ではなくなり、吉三郎を窮地から救うために禁令を破った科で火刑に処されます。放火の「罪」から解放されたお七は、吉三郎のために別の火に焼かれるのです。
天国の剣を盗んだのが武兵衛だと知ったお七は、その在処を吉三郎に知らせようとしますが、町の木戸は堅く閉ざされていて通行は叶いません。木戸が開かれるのは火事を知らせる火の見櫓の太鼓が鳴ったときで、火事でないときにこれを鳴らすのは禁令とされていました。お七は吉三郎を救いたいという一心で、火刑も厭わずに太鼓を打ち鳴らします。この「火の見櫓の場」がヒットし、〈櫓のお七〉という定型が生まれました。結末は史実と同じとは言え、お七の背負う「罪」は本質的に変容したと考えられるでしょう。平時に火の見櫓の太鼓を打つというお七の「大罪」は、その懸命さゆえに観客の胸を打ち、お七は「悪」の担い手ではなくなっていくのです。
これを受けて、完全な悪役として〈悪党の吉三郎〉が誕生します。この「悪」のスライドは、物語の焦点をお七から吉三郎へと移行させていきました。文政4(1821)年に初演された、四世鶴屋南北らによる歌舞伎演目『敵討櫓太鼓(かたきうちやぐらのたいこ)』をみてみましょう。吉三郎による敵討ちが主題ですが、彼が諸国を放浪するうちに八丈小僧吉三という悪党となってお七を騙して結婚し、やがて罪を悔い改め、吉三道心弁長と名を変えて出家するという設定が取られています。南北以前にも吉三郎に悪役を担わせた作品がありましたが、「吉三郎が悪役だとどうもお七の物語に思えない」と観客の不評を買い、早々に上演が打ち切りになりました。南北は当然その評判を知っていたと考えられますが、大胆にも自身が生み出した「色悪」というキャラクターを吉三郎に担わせ、吉三郎を八丈小僧吉三(色悪)と吉三道心弁長(和尚)という二つのキャラクターに分解したのです。ここに〈お七吉三郎〉の物語の解体の兆しが見られます。この作品は、「未刻の太鼓(註3)とお七を取組たる趣向大できなり」(『歌舞妓年代記続編』)と大評判を博しました。
三人の吉三郎
これらの流れを汲んだ黙阿弥は、安政7(1860)年、『三人吉三廓初買』において〈お七吉三郎〉の物語の活用と解体を両立しながら、独自の構想を展開していきます。南北による吉三郎のキャラクター分解をヒントに、八丈小僧吉三からお坊吉三を、吉三道心弁長から和尚吉三をそれぞれ導き、そこに八百屋お七の名を借りたお嬢吉三を加え、三人の吉三郎像を作り出しました。和尚の妹・おとせは西鶴のお七にみられるようなストレートな恋心と積極性を持っていると言えますし、無理に結婚を迫る武兵衛、武家の重宝・刀の盗難と大金が絡むという趣向もすでに先行作品で用意されたものでした。三人の盗賊の物語と文里一重による廓話を融合させるという一見突飛な発想も、『潤色江戸紫』の廓場からの借用と考えていいのかもしれないとさえ思えてきます。
このように〈お七〉をめぐる物語の変遷をたどってみると、『三人吉三』がいかに〈お七吉三郎〉に関連する作品群のモチーフを発展させた作品であるかがわかるかと思います。数多の先行作品によって『三人吉三』の土壌を豊かにし、その上に〈お七〉から派生したたくさんの人々を生きさせるという黙阿弥の趣向に、単に当時の出来事を切り取って芝居にするだけではない、歌舞伎作者としての手腕をみることができます。黙阿弥は『三人吉三』の表面から〈お七〉を消し去りましたが、作品のあちこちに彼女の面影を忍ばせました。同時に、天和の大火を連想させる〈お七〉にまつわるエピソードを散りばめることで、災害の歴史の上に江戸があることを私たちに実感させてくれていると言えるでしょう。
(註1) 実在したお七の手がかりとして注目されてきた記録に、貞享年間に成立したといわれている『天和笑委集』がある。しかし、登場人物の言動の細かさや語り口の饒舌さから作為性が指摘されており、当時上演されていた浄瑠璃や歌舞伎の影響を受けているのではないかとも推測されている。
(註2) 初演時の記録が明らかになっていないため、作品の成立年代について諸説あるが、正徳4(1714)年から享保2(1717)年の間に成立したと推定されている。
(註3) 先行作品である、享保12(1727)年に初演された浄瑠璃『敵討御未刻太鼓(かたきうちおやつのたいこ)』を指す。
 
八百屋お七のあらすじと振袖火事は実話なのか?お七地蔵と蜜厳院とは
八百屋お七のあらすじは?
お七は数え十六の年の暮れに、大火事で焼け出され、避難した駒込の吉祥寺で出会った寺小姓の吉三郎と恋に落ちます。
しかし、やがて自宅は新しく建て替えられ、お七は両親に連れられて、泣く泣く家に戻りました。
でも、吉三郎恋しさは募るばかりです。
思い詰めたお七は、「もう一度、家が火事になれば、また、あのお寺に逃げて吉さんに会える」と、
自宅に火をつけてしまいます。
すぐに近所の人が気づいて、火はボヤで消し止められましたが・・・
その場にいたお七が白状したため、すぐに捕えられ、お白州に引き出されます。
この時代、江戸では、「火つけは十五歳を過ぎていれば火あぶりだが、十五歳になっていなければ島流し」という決まりがあったとか。
そこでお七の心根の哀れさに加え、被害もボヤだったことから、なんとか命だけは助けてやりたいと、奉行が、「お前は十五であったな?」と声を掛けると、奉行の思いやりを察せられないお七は「いえ、十六でございます。」
お七は江戸市中引き回しのうえ、鈴ヶ森の刑場で火あぶりに処せられました。
言い伝えによれば、お七の遺骸は蜜厳院に引き取られて、ねんごろに葬られました。
そして三回忌に彼女が住んでいた本郷小石川村の念仏講の人々が、お七地蔵を建立しました。
一説には、このお地蔵さまは、もともと鈴ヶ森にあったものが、一夜にして飛んできたという伝説もあるそうです。
この事件は、当時の江戸の庶民に衝撃を与えました。
文字通り「恋に身を焦がした」お七の霊を慰めようと、各地からお七地蔵にお参りする人は後を絶ちませんでした。
そして、蜜厳院のお七地蔵は今もその人気がつながっているのです。
・・・と、ここまでが、井原西鶴の『好色五人女』などに描かれたお七の物語のあらすじです。
井原西鶴は、この物語を事件が起きた三年後に出版し、その後、さまざまな人が伝記や物語りを書き、歌舞伎や浄瑠璃、落語などでも演じられてきました。
それだけお七の生き様は、庶民の共感を呼ぶものがあったのでしょう。
ただ、様々な脚色が加えられて、事件の真相は分かっていません。
東京・文京区の「円乗寺」にも『八百屋お七の墓』があり、お七が吉三郎と出会ったという文京区・駒込の「吉祥寺」には、『お七・吉三郎の比翼塚』(比翼塚は心中した男女を一緒に葬った塚)があります。
ところで吉三郎はどうなったか、気になりますね!
鈴ヶ森でお七が処刑された後、吉三郎は西運という僧になり、全国を行脚して修行をしました。また、多くの人から浄財の寄進を受け、さまざまな社会事業を行ったと言われています。
そしてある日、お七が夢枕に立ち、成仏したことを告げたので、『お七地蔵尊』を建立しました。
いま、この御地蔵様と西運上人の像が目黒区の「大円寺」にあります。
「 大円寺(文京区)に安置されている「ほうろく地蔵」。こちらは、放火の罪を犯し、火あぶりの刑を受けた「八百屋お七」にちなむ地蔵尊で、お七の罪業を救うため、熱した炮烙を頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けたことから、このようなお姿に。お地蔵様、本当にたくさん種類があって、興味深いです。 」
八百屋お七と振袖火事は実話なのか?
振袖火事というのは、麻布の質屋の娘・梅乃が寺小姓に一目惚れし、その小姓が着ていた着物と同じ模様の振袖を作らせて愛用していましたが、ふとしたことで死んでしまいました。
両親は憐れんで、娘の棺にその振袖を着せてやりました。
当時こういう棺に掛けられた着物とか仏が身につけているカンザシなどは、たいていの場合、棺が持ち込まれた寺の湯灌場で働く者たちが、もらっていいことになっていました。
この振袖もそういう男たちの手に渡り、いいものに思えたので売り飛ばされ、回り回って別の娘の物になりました。
ところがこの娘もこの振袖を愛用していて、しばらくの後に亡くなったため、また棺にかけられて寺に持ち込まれることになりました。
寺の湯灌場の男たちもびっくりしましたが、またそれを売り飛ばし、また別の娘の手に渡りました。
ところが、その娘もほどなく死んでしまい、またまた棺に掛けられて寺に運び込まれてきたのです。
今度はさすがに湯灌場の男たちも気味悪がり、寺の住職に相談。
死んだ娘たちの親も呼び出されてみんなで相談の結果、この振袖にはなにかあるかも知れないということで、寺で供養することになりました。
それは明暦3年(1657)1月18日午前十時頃のことでした。
この寺は本郷丸山本妙寺という寺です。
住職が読経しながら火中に振袖を投じます。
ところが、突然、強い風が吹き、その振袖は火がついたまま空に舞い上がりました。
そしてその振袖は本堂の屋根に落ち、屋根に火が燃え移りました。
折しも江戸の町はその前80日も雨が降っていませんでした。
この屋根に燃え移った火は消し止めるまもなく次々と延焼、湯島から神田明神、駿河台の武家屋敷、八丁堀から霊岸寺、鉄砲州から石川島と燃え広がり、日本橋・伝馬町まで焼き尽くしました。
火は翌日には北の丸の大名屋敷を焼いて、本丸天守閣まで焼失することになりました。
この火事で亡くなった人は10万人以上。
世に言う『明暦の大火』と呼ばれていますが、この火事の発端が、寺で供養されているあの振袖だったことから、「振袖火事」の異名が広がりました。
この振袖火事という事件は事実なのです。
一方、八百屋お七の場合はどういった事件だったのでしょうか。
お七の生涯については伝記・作品によって諸説あるのですが、比較的信憑性が高いとされる『天和笑委集』によると、お七の家は天和2年12月28日(1683年1月25日)の大火(天和の大火)で、焼け出され、お七は親とともに正仙院に避難しました。
寺での避難生活のなかで、お七は寺小姓生田庄之介と恋仲になるのです。
やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったのですが、お七の庄之介への想いは募るばかりでした。
そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考えたお七は、庄之介に会いたい一心で自宅に放火してしまいます。
火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったのですが、お七は放火の罪で捕縛され、鈴ヶ森刑場で火あぶりに処されたという事件です。
大棚(おおだな)の娘が、寺の小姓に一目ぼれして恋に狂うというところが類似していることから、八百屋お七の事件と振袖火事、同じ事件かと思う人も多いようですが、お七の家族が焼け出された天和の大火は1683年で、後にお七が付け火をしてボヤを出したのは、そのあととなります。
ところが、振袖火事といわれる明暦の大火は1657年のことですから、四半世紀以上の時差があります。
『火事と喧嘩は江戸の華』という言葉がありますが、江戸は大火事が多くて、火消しの働きぶりが華々しかったことと、江戸っ子は気が早いため派手な喧嘩が多かった ことをいった言葉です。
八百屋お七の霊を慰める蜜厳院・お七地蔵
お七は江戸時代前期、恋人に会いたい一心で自宅に放火し、火あぶり(火刑)に処せられた悲しい少女です。
東京・大田区の八幡山蜜厳院という真言宗智山派のお寺の境内に、そんなお七の霊を慰めるために建てられた地蔵菩薩立像、通称『お七地蔵』があります。
いつのころからかお七が、好きな相手と縁を結んでくれる、つまり「恋が叶う」パワースポットとして語られるようになりました。
寺の言い伝えによれば、蜜厳院は、平安時代の初め、法印運誉が開創したと伝えられる由緒あるお寺です。
境内には聖徳太子を安置した太子堂があり、また、玉川八十八ヵ所霊場の第七十六番札所になっています。
お七地蔵は高さが約1.6メートル、その姿は振袖のようにも見え、大田区の名所・旧跡のひとつに数えられています。
お七地蔵と並んで立っている庚申供養塔は、寛文二年(1662年)につくられたもので、庚申塔としては、大田区内で二番目に古く、大田区の文化財に指定されています。
蜜厳院は、大田区大森北三丁目5番4号、交通アクセスは、京急線大森海岸駅下車徒歩約5分のところにあります。
あとがき
十六歳や十七歳という若さゆえに、一途に人を好きになってしまった少女の悲しい物語です。三百五十年の時間を経て伝えられる、物語と史実、そしてその世の中の背景、興味津々です!
 
八百屋お七の日(3月29日 記念日)
1683年(天和3年)のこの日、18歳の八百屋の娘・お七が、放火の罪で3日間の市中引き回しの上、火あぶりの極刑に処せられた。
前年12月28日に江戸で発生した「天和の大火」の際、お七の家は燃えてしまい、親とともに寺に避難した。お七はその寺で寺小姓・生田庄之介と出会い、恋仲になった。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七は庄之介のことが忘れられなかった。
もう一度火事になれば庄之介にまた会えると考えて、3月2日の夜に家の近くで放火に及んだ。近所の人がすぐに気が付き、ぼやで消し止められたが、その場にいたお七は放火の罪で御用となった。
当時は放火の罪は火あぶりの極刑に処せられていたが、17歳以下ならば極刑は免れることになっていた。そこで奉行は、お七の刑を軽くするために「おぬしは17だろう」と問うが、その意味が分からなかったお七は正直に18歳だと答えてしまい、極刑に処せられることとなった。
お七が干支の丙午(ひのえうま)の年の生まれであったことから、丙午生まれの女子が疎まれるようになった。また、丙午生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮めるという迷信に変化して広まったとされる。
八百屋お七は、井原西鶴の浮世草子『好色五人女』に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など芸能において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公になっている。
 
八百屋お七の七変化
「八百屋お七」の物語は今では知る人も少ないかもしれないが、江戸時代には井原西鶴が「好色五人女」で「恋草からげし八百屋物語」として取り上げ、人気を博して以降、日本のあらゆる芸術ジャンルをほぼ総なめにするかたちで幾度となく登場する。
八百屋お七は実在したといわれ、ほぼ唯一の歴史資料である戸田茂睡の「御当代記」では「お七という名前の娘が放火し処刑された」とだけ記されている。
お七の生涯については伝記・作品によって諸説あるが、比較的信憑性が高いとされる『天和笑委集』によると、お七の家は天和2年12月28日(1683年1月25日)の大火(天和の大火)で焼け出され、お七は親とともに正仙院に避難した。寺での避難生活のなかでお七は寺小姓の生田庄之介と恋仲になる。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、自宅に放火した。火はすぐに消し止められボヤにとどまったが、お七は放火の罪で捕縛され鈴ヶ森刑場で火あぶりに処された。
あれ、お七は振り袖姿で火の見やぐらに上り、半鐘を打ち鳴らしたんじゃなかったか?そうお思いの方もいるだろう。その通りで、この物語はよく知られているにもかかわらず、お七に関する史実の詳細が不明であるうえ、西鶴文学や浮世絵はもとより、歌舞伎、浄瑠璃、日本舞踊、文楽、落語などの古典芸能から映画、演劇、漫画などに取り上げられるにつれ、様々にアレンジ、脚色されていくのである。
お七と恋人との馴れ初めは、身を寄せていた寺でお七が相手の指に刺さったとげを抜いてあげることが広く知られているが、恋人は生田庄之助であったり吉三郎だったりする。ほかにも山田左兵衛や、落語では吉三(きっさ、きちざ)になっている。その職業も僧侶であったり、旗本の次男だったり、美少年で豪商の跡継ぎだったり、悪党でお七をそそのかした、というのもある。
また、小説などの「読むお七」、落語などの「語るお七」では、お七は恋人に逢いたいために放火をするが、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)、日本舞踊、浮世絵などの「見せるお七」では、放火はせず、代わりに恋人の危機を救うために振袖姿で火の見やぐらに登り火事の知らせの半鐘もしくは太鼓を打つストーリーに変更される(火事でないのに半鐘をつくことは重罪)。月岡芳年の松竹梅湯嶋掛額「八百屋お七」や美内すずえの「ガラスの仮面」のように、放火と火の見やぐらに登る場面の両方を取り入れる作品もある。
落語では「お七の十」の通称で知られ、火あぶりになったお七と悲しんで川へ身投げし水死した吉三があの世で出会って抱き合ったらジュウと音がした、火と水でジュウ(七+三で十)というオチがつく噺もある。
八百屋お七の墓というのも各所に伝えられている。お七の生家の菩提寺である文京区白山の円乗寺や大和田(現萱田町)の長妙寺のほか、日本全国に38か所もあるそうだ。人気者であった。
 
圓乗寺 お七の墓
文京区白山にある圓乗寺。ここは八百屋於七のゆかりの寺院である。
天和2年(1682年)12月、大火事で焼け出された八百屋於七の一家は、檀家である圓乗寺へ避難していた。そこで於七が出会ったのが、この寺の小姓・生田庄之助。 彼に一目惚れした於七は、また火事になれば会えると思い込み、翌年3月に自宅へ放火。未遂に終わったが、当時の江戸では放火は大罪。3月29日に鈴ヶ森で 於七は火炙りの刑に処せられてしまう。これがいわゆる【八百屋於七】の事件である。
芝居や小説などでは様々なフィクションが入り乱れているが、どうも上に挙げた話が真相のようである。要するに一人の少女が一目惚れの彼氏に会いたいがために狂言放火をやらかし、当時の法令に基づいて罰せられた事件ということである。
於七の墓であるが、都合三基が並べられている。中央にあるのが一番古い墓で、刑死直後に造られたもの。右が、舞台で於七を演じたこともあるという岩井半四郎が百十二回忌の供養に立てたもの。そして左が、二百七十回忌に有志が立てたもの(戦後間もないころである)である。
この圓乗寺にはさらに【於七地蔵】なるものが安置されている。この地蔵の由来によると、この地蔵は於七が成仏したことの証として作られたものであるらしい。
八百屋お七 / お七が有名となったのは、処刑から3年後に井原西鶴が『好色五人女』でこの事件を取り上げてから。その後は創作世界でさまざまな形で脚色され、伝承が拡張している。有名な「振袖火事」の犯人であるとされたり(この明暦の大火は、お七の誕生より約10年前)、丙午の年に生まれたとされたり(これも史実に照らし合わせると2年ほどずれている)しているが、実際には上に書いた通りである。
 
江戸で天和の大火(お七火事)が起こり、死者3,500名余を出したとされる
今日は、江戸時代前期の天和2年に、江戸で天和の大火(お七火事)が起こり、死者3,500名余を出したとされる日ですが、新暦では1683年1月25日となります。
天和の大火(てんなのたいか)は、正午頃に江戸・駒込の大円寺(現在の東京都文京区向丘一丁目)から出火し、隣の同心屋敷に延焼し、本郷方面に燃え広がり、加賀藩前田家の上屋敷も炎上しました。その後、本郷から湯島・神田方面から、柳原の土手沿いに東に向かい、浅草橋門も焼失し、隅田川を飛び越えて、回向院に飛び火します。
そして、回向院もまもなく焼失、さらに隅田川沿いに南下して、霊厳寺、富岡八幡宮も焼失させて、ようやく翌日の午前5時頃に鎮火しました。この大火によって、焼失した大名屋敷は73、旗本屋敷166、寺社95にも及び、死者は最大3,500名余と言われ、江戸の十大火事の一つとされています。
これにより、両国橋も焼け、本所の開発は中止となり、深川芭蕉庵も焼けて、俳聖・松尾芭蕉は水に潜ってかろうじて助かりました。また、井原西鶴著『好色五人女』でも取り上げられ、その登場人物で八百屋の娘お七の名を取って、「お七火事」とも称されています。
 
八百屋お七の足跡
恋人の吉三郎逢いたさに、火の見櫓に上って半鐘を鳴らす──歌舞伎や浄瑠璃で有名な八百屋お七は、実在の人物といわれています。
舞台となるのは本郷から駒込にかけて、実話は歌舞伎や浄瑠璃とは少々違っていて、火の見櫓には上りません。恋人逢いたさに放火をして、火あぶりの刑となっています。
お七が火刑となったのは旧暦の天和3(1683)年3月29日のことといわれ、事件直後の貞享年間(1684〜87)に書かれた作者不詳の『天和笑委集』、3年後の貞享3年(1686)に出版された井原西鶴の『好色五人女』、歌学者・戸田茂睡の延宝8年(1680)〜元禄15年(1702)の日記『御当代記』、74年後の宝暦7年(1757)に書かれた講釈師・馬場文耕の『近世江都著聞集』に事件のことが触れられています。
わかっているのは、本郷・駒込界隈でお七という娘が放火をして天和3(1683)年3月に晒されたということだけです。
放火の動機は、年末の大火で焼け出されて寺に避難したところ、そこで出逢った若者に恋い焦がれてしまい、再び火事になれば寺で逢えると考えて、自らの手で放火をしてしまったという切ない娘心。重罪を犯したお七は鈴ヶ森で火あぶりの刑となり、江戸庶民の同情をおおいに買ったというのが、一般にいわれていることです。
お七は八百屋の娘とされますが、お七の住まいや大火の火元、恋人の名前、避難先の寺などについては、『天和笑委集』『好色五人女』『近世江都著聞集』でそれぞれに異なっていて、本当のことはよくわかっていません。
吉祥寺
都立駒込病院の裏手、東京メトロ南北線本駒込駅の北にある曹洞宗の寺院で、創建は長禄2年(1458)と伝えられます。太田道灌が江戸城築城の際、土中より吉祥増上と刻印された金印を得て、和田倉門内に吉祥庵を創建したのが始まりで、天正19年に神田台に移転したと寺社書上に書かれています。神田台は本郷1丁目から後楽1丁目にかけてといわれます。吉祥寺は明暦3年(1657)の大火で焼失し、再び現在の本駒込3丁目に移転しました。当時、学寮30軒、塔頭5寺、衆徒1700人余りという大伽藍で、現在も広大な敷地を有しています。学寮の一つが駒澤大学の前身となる旃檀林(せんだんりん)で、由緒のある寺ですが、井原西鶴の『好色五人女』巻四「戀草からけし八百屋物語」で、お七が吉三郎と出会うのが、ここ駒込吉祥寺です。
二人の出会いは次のように書かれています。
この人火元ちかづけば母親につき添 年比頼をかけし旦那寺 駒込の吉祥寺といへるに行て 當座の難をしのぎける (略)やごとなき若衆の銀の毛貫片手に左の人さし指に有かなきかのとげの立けるも心にかゝると 暮方の障子をひらき身をなやみおはしけるを母人見かね給ひ ぬきまゐらせんとその毛貫を取て暫なやみ給へども 老眼のさだかならず見付る事かたくて氣毒なる有さま お七見しより我なら目時の目にてぬかん物をと思ひながら近寄かねてたゝずむうちに 母人よび給ひて是をぬきてまゐらせよとのよしうれし (お七は火の手が近づいたので、母親に付き添ってかねがね帰依していた檀那寺、駒込の吉祥寺に行って当座の難をしのいだ。(略)上品な若衆が銀の毛抜きを手にして、左の人差し指の小さなとげが気になる、と夕暮れに障子を開けて苦労しているのをお七の母が見かね、抜いてあげましょう、と毛抜きを取ってしばらく苦心したが、老眼でよく見えない困った様子をお七が見て、私ならよく見える目で抜いてあげられるのに、と思いながら、近寄りかねて佇んでいると、母が呼んだ。これを抜いてあげなさい、と言われて嬉しかった)
檀那寺は菩提寺のこと、納所坊主(なっしょぼうず)は、寺の会計・庶務に当たる僧のことです。吉祥寺の境内を入った左には、「お七 吉三郎 比翼塚」の碑が建っています。
吉祥寺の門前は本郷通りです。江戸時代には日光街道の脇街道として、将軍が日光東照宮に参拝するのに使われたことから、日光御成道と呼ばれました。本郷追分で中山道から分かれ、埼玉県の幸手宿で日光街道と合流しました。岩槻街道とも呼ばれます。
駒込土物店跡の碑
岩槻街道を本郷に向かって戻ると、東京メトロ南北線本駒込駅付近の天栄寺の門前に、「駒込土物店跡」と「江戸三大青物市場遺跡」の二つの碑が建っています。江戸時代、駒込は神田、千住とともに江戸三大市場のひとつでした。
かつて駒込一帯は百姓地で、江戸時代初期、この地にあったサイカチの木の下で近郊の農民が青物市を開いたのが始まりといわれます。 土物とは土のついたままの根菜類のことで、土物が多かったことから駒込の青物市場は土物店(つちものだな)と呼ばれました。
お七は本郷にある八百屋の娘とされていますが、おそらく駒込土物店で仕入れた野菜を売っていたのでしょう。実際には八百屋の娘ではなかったとしても、駒込土物店が近いことから家業を八百屋としたのかもしれません。
青物市場は明治以降も続きましたが、昭和12年(1937)、巣鴨の豊島青果市場に移転しました。
円乗寺
岩槻街道から中山道への道を抜け、白山上から薬師坂を下り、坂下から浄真寺坂に入ったすぐ左が参道入口です。
天正9年(1581)の創建と伝えられる天台宗の寺で、江戸三十三観音第11番札所になっています。参道入口には「八百屋お七墓所」と書かれた石碑と地蔵堂があり、参道正面にある本堂の左手に八百屋お七の墓があります。
円乗寺は、八百屋お七の死から74年経った宝暦7年(1757)に書かれた、講釈師・馬場文耕の『近世江都著聞集』に登場します。
お七 生年は寛文八年十月なりと 公の留め書に見へたり お七 十四歳の春二月 この時 天和元年也とかや 丸山本妙寺と云寺より出火して本郷辺 駒込辺 一宇も不レ残消失に及けり 此節八百屋太郎兵衛も延焼に及けるに小石川圓乗寺は太郎兵衛現在の弟肉縁なれば 親子三人其儘圓乗寺へ行て 爰に落着けり (略)此寺に滞留中 お七はこゝろならずも互に相見る事の日を添て 山田がとりなり 稲舟のいなにはあらぬ恋の山 ふとおもひ初て 人目の関を忍びつゝ ぬる夜の数の重りて いつしかわりなき中となりにけり  (お七の生年は寛文八年十月だと公文書に見える。お七が十四歳の春の二月、この時、天和元年だったという。丸山本妙寺という寺より出火して、本郷と駒込あたりは一軒残らず焼失してしまった。この折、八百屋太郎兵衛の家も類焼したため、小石川圓乗寺が太郎兵衛の弟の血縁だったので、親子三人で圓乗寺に行き、ここに落ち着いた。(略)この寺に滞在中、お七は知らず知らず互いを目にし、日が経つにつれて山田のなりふりに、稲舟のいな〔否〕ではない恋心がうず高く積もって、すぐに恋しはじめ、厳しい人の目をかいくぐって夜の逢瀬を重ね、いつしか深い仲となったということだ)
『近世江都著聞集』によれば、火事で焼け出されたお七の一家が避難したのは駒込吉祥寺ではなく小石川円乗寺で、お七は小姓の山田左兵衛と出会って恋に落ちたといいます。
馬場文耕は、八百屋お七の実話を知る人はいないとして、火付改の中山勘解由の文庫にあった日記を見せてもらって書いた、これこそが実説だと主張していますが、約40年前に歿している老中・土井利勝が登場するなど、信憑性には疑問が持たれています。
円乗寺にはお七の墓石が3基並んでいて、中央は古い供養塔、右はお七を演じた歌舞伎役者の岩井半四郎が寛政年中に建てたもの、左は270回忌に町内有志によって建立された供養塔で、妙栄禅定尼の戒名が刻まれています。
『近世江都著聞集』には、円乗寺にすでにお七の石碑と秋月妙栄禅定尼の苔むした塚(墓)があり、近年狂言の役者が回向供養していると書かれていますので、宝暦7年(1757)にはすでに中央の供養塔があり、4代目岩井半四郎が歌舞伎でお七を演じ、円乗寺に墓参りをしていたことがわかります。
円乗寺が、天和の大火でお七の一家が避難した寺であったかどうかはわかりませんが、お七の菩提寺となっていたことは確かなようです。
寛政年間は1789〜1801年で、4代目岩井半四郎は1800年に歿しています。寛政年中の供養塔について、立札には「寛政(1793)年 初代岩井半四郎建立 百十二回忌供養塔」と書かれています。お七の命日は旧暦の天和3(1683)年3月29日とされ、112回忌は寛政6年(1794)になりますので、立札によればその前年に供養塔が建てられたということになります。
なお、初代岩井半四郎は上方歌舞伎の人で元禄12年(1699)に歿していますので、立札の記載は誤りと思われます。あるいは、4代目岩井半四郎が岩井家初の女形だったので、そのことを指しているのかもしれません。
町内有志によって供養塔が建てられた270回忌は、昭和27年(1952)でした。
大円寺
浄真寺坂を上り、中山道を渡って白山上方面に戻りながら、右に道を入ると金龍山と書かれた赤い山門が見えます。慶長2年(1957)に創建された曹洞宗の寺で、山門をくぐると正面に八百屋お七ゆかりの焙烙(ほうろく)地蔵があります。
江戸時代前期の歌学者・戸田茂睡の日記『御当代記』の天和3年(1683)の項に「駒込のお七付火之事、此三月之事にて、廿日時分よりさらされし也」という記述があります。
これに先立って、師走から正月にかけて付け火が多発し、早期発見のために火の見鐘楼を一町に2つずつ設け、火付改の中山勘解由父子を中心に取り締まり、避難路を確保するために大八車や地車、車長持の使用を禁止したと書かれています。
八百屋お七の一家が焼け出されたのは、天和2年(1682)12月28日の火事といわれています。天和の大火、俗にお七火事ともいわれ、この火元となったのが駒込大円寺です。
大円寺の焙烙地蔵は、天和の大火に関連してお七を供養するために建立されたもので、享保4年(1719)に寄進されたと伝えられています。焙烙は素焼きの土鍋のことですが、古くは中国・殷の火刑のことを焙烙(ほうらく)と呼んでいました。
大円寺は江戸三十三観音第23番札所ともなっています。
セウセン井ン(正泉院)跡
八百屋お七の事件直後の貞享年間(1684〜88)に書かれた作者不詳の『天和笑委集』 には、12月28日の火事で家を失った一家は正仙院という寺に身を寄せたと書かれています。
極月廿八日の類火に、家を失ひける故、としの始に立寄べき宿もあらず、しばしが内かねてたのみ参らせたりし、正仙院といへる御寺に立越え、身の難儀を語り、偏に頼おもふよしを云、住持安く請て一間をあたへ、いつ迄も是に有て、世間しづかならんとき、家地に歸(帰)り給へと、いたつてたのもしくもてなし、くるしき心露なかりし故、ばんじをわすれ打とけ居たりし、爰に此寺の内に生田庄之介と云て、住寺てうあいの美少年あり (略)七がすがたをほの見そめしより、つかの間も忘れやらず、おきふし立居に思ひあこがれ、よそめのいとまだにあれば、物かげよりさしのぞきながめかし
正仙院で庄之介を見そめたお七は、新しく普請した家に戻ってから庄之介逢いたさに放火をしますが、この寺がどこにあったのかは不明です。ただ、天和2年(1682)の大火の約10年前の寛文11〜13年(1671〜73)に刊行された新板江戸外絵図には岩槻街道沿いにセウセン井ンがあり、天和の大火の直前の延宝8年(1680)の江戸方角安見図鑑、直後の元禄2年(1689)の江戸図鑑綱目には正泉院があることから、この寺が『天和笑委集』にいう正仙院なのかもしれません。
大円寺から裏手の道を岩槻街道に抜けて本郷に向かうと、東側に十方寺、長元寺、浄心寺と江戸前期の地図に見える寺院が続きます。古地図に当てはめますと、正泉院があったのは浄心寺の南の辺りになります。
願行寺
岩槻街道をさらに南下すると、中山道と合流する本郷追分です。追分の手前には、岩槻街道沿いに都営バスの本郷追分停留所があり、唯一、本郷追分の名を残しています。
このバス停の手前から東に入る道を抜けると、東京大学地震研究所の通りに出ます。これを南に進むと明応3年(1494)開山の浄土宗の古刹があります。
『近世江都著聞集』には、お七の父、八百屋太郎兵衛は願行寺門前に八百屋を営んでいたと書かれています。しかし、『寺社書上』の願行寺の説明には、天和2年12月28日の火事で類焼したために馬喰町から駒込に移ってきたと書かれており、この火事以前に八百屋を願行寺門前に構えていたとする『近世江都著聞集』の記述は矛盾しています。
願行寺門前を過ぎて、再び岩槻街道に戻ると、本郷追分の分岐に宝暦年間(1754〜64)から続く酒屋の老舗・高崎屋があります。
高崎屋の角を中山道に入ったところに追分一里塚跡の案内板があります。一里塚は中山道の起点、日本橋から一里の距離にあることを示します。
本郷森川宿
本郷追分から南、中山道に沿った西側に本郷森川宿がありました。
お七の家が本郷にあったことは、馬場文耕の『近世江都著聞集』と井原西鶴の『好色五人女』に書かれていますが、『天和笑委集』によれば、お七の父、八百屋市左衛門は森川宿で乾物青物を商っていたといいます。
森川宿は明治になって周辺の地域を集めて森川町となりますが、昭和40年(1965)の住居表示法で消滅しました。
森川宿の岩槻街道を挟んだ向かいには御先手組の与力・同心の組屋敷がありました。延宝8年(1680)の江戸方角安見図鑑には当時、火付改の中山勘解由の組屋敷だったことが記されています。
本妙寺跡
森川宿から南は本郷です。住宅街の入り組んだ道を南に進んだ本郷5丁目16番付近に、かつて本妙寺がありました。本妙寺は、明暦3年(1657)の大火、いわゆる振袖火事の伝承で知られる法華宗の寺です。
八百屋お七の一家が焼け出された火事について、井原西鶴の『好色五人女』には火元は書かれていません。『天和笑委集』には12月28日の火事と書かれていますが、火元は明らかではありません。
馬場文耕の『近世江都著聞集』では、火元は丸山本妙寺とされています。丸山は付近の地名です。
一般に八百屋お七の一家が焼け出された火事は、天和2年(1682)12月28日の天和の大火と考えられています。ところが天和元年(1681)12月28日にも火事があって、この火元は丸山本妙寺だといわれています。 『近世江都著聞集』に書かれているのは、あるいは天和元年の火事のことかもしれません。
本妙寺は、明治43年(1910)に巣鴨に移転したため、 現在、この地に本妙寺はありませんが、菊坂を挟んだ向かいにある本妙寺坂にその名を残しています。本妙寺の現在地は、豊島区巣鴨5丁目35番6号です。
加賀藩上屋敷
森川宿から本妙寺坂にかけて、岩槻街道を挟んだ東側の東京大学本郷キャンパスは加賀藩前田家の上屋敷跡です。『近世江都著聞集』には、お七の父は前田家の元足軽・山瀬三郎兵衛で、浪人となったため願行寺門前に八百屋を開き、八百屋太郎兵衛と名を改めたと書かれています。藩主らの住む藩邸の中心は東大正門から赤門の南にかけてで、その北と南に江戸詰めの藩士らが住む長屋が並んでいました。
江戸時代の消防組織には、藩邸を中心とした大名火消、旗本を中心とした幕府直轄の定火消、町人による町火消の3つがありましたが、天和の大火の頃は大名火消と定火消の2つでした。 『御当代記』にも、「大名火消之者、火事あらば廻り合せ次第かけつけ、早々ふみ消し可レ申候、その内御公儀の本火消衆参候はば、相渡し退き可レ申候との事也」と書かれています。本火消は定火消を指しているものと思われますが、初め大名火消が消火にあたり、やがて幕府の本火消が到着したならば引き継ぐとしています。
加賀藩の大名火消は加賀鳶と呼ばれ、江戸藩邸に出入りの鳶職人で編成されていました。江戸の大名火消の中でも特異な衣装と威勢の良さで知られ、火消の腕と喧嘩っ早さで人気だったといいます。八百屋お七の一家が焼け出された火事でも、加賀鳶が本郷の消火活動にあたったと思われます。
 
八百屋お七〜世の哀れ 恋人に会いたい一心で放火し処刑に
八百屋お七(やおや-おしち)は江戸時代前期、江戸・本郷駒込に住んでいたとされる町娘である。八百屋の娘で、八百屋お七と呼ばれる。謎の多い人物で、生まれた年や亡くなった日は不明だが、一方で「駒込のお七が火を付けた」という記録と、品川・鈴ヶ森刑場で火炙り刑になったということがわかっているだけである。お七事件は、江戸においての文学作品や芸能に影響を与えた。
天和の大火
天和2年(1682年)12月28日、駒込・大円寺から出火し3500人もの人が亡くなる火災が発生した。天和の大火と呼ばれる。この火事で、お七の家族が駒込・吉祥寺に逃げてきた。家が建て直されるまでの避難である。この時、お七は吉祥寺の寺小姓・吉三郎に出会い恋に落ちる。(寺名、少年の名前には諸説ある)
お七と吉三郎
前述のように、お七における歴史的な資料はほとんどなく、物語は井原西鶴の好色五人女が基本になっているといってよい。なので、実のお七というものは知るよしもないのだが、好色五人女から見るお七は、主人公の輪郭をはっきりさせるため、よくいえば生き生き描かれている印象がある。西鶴の描くお七は「世の人はなぜ雷を恐れるのか」というセリフがあり作者も、お七のキャラクターをはっきりしておいた方が物語を構成させやすかったのではないか、とも思う。一方の吉三郎(吉三)は、お七の同い年の寺小姓。寺小姓の説明は省かせていただくが、こちらも美少年とある。寺小姓と美少年はセットのようなもので、物語はこれで流れていき、吉三の指に刺さったトゲをお七が抜いてあげるところで悲恋が始まった。
放火
お七と吉三は、その後手紙のやり取りなど繰り返したが、お七は家の再建に伴って寺を後にする。戻ったお七は、しばらく情緒不安定だった。吉三とやり取りした手紙だけが残っているだけである。「吉三様に逢いたい・・・」こうなったら、吉三の事しか頭にない。「そう、もう一度火事になれば」当時の放火は大罪であるので正気の沙汰ではないのだが、思い立ったら早かった。お七は、立て直したばかりの自分の住んでいる家に火を付けた。
桜が散るように
火を付けたお七は、強風のなかで大きくなっていく火を見て正気に戻ったらしい。みずから火見櫓に上り、半鐘を叩いたが何の意味もない。火は消されたが、お七はすぐに南町奉行に連れていかれた。取り調べで、お七は放火の事実を正直に認めている。奉行の甲斐庄正親は、この少女を不憫に思い、命だけは助けてあげたいと「そなたはまだ十五であろう」(十五と十六は島流しか死罪の境らしい)と聞いたのに対し、自分はもう十六であると、かたくなに主張したという。おそらく、後に付け加えた創作であろうが、お七の気丈な性格が出たエピソードだ。甲斐庄は仕方なく、火付けの罪で火炙り刑を宣告した。江戸市中引き廻され、鈴ヶ森刑場にて十六歳の若い命は散っていった。「世の哀れ 春吹く風に 名を残し 遅れ桜の 今日散りし身は」遅咲きの桜を役人から手渡され、お七が最後に遺した言葉である。
その後の物語
その時の吉三はというと、体調を崩していたらしい。周囲が心配し、事件のことを何も伝えていなかったのだが、寺がその事を告げたのは百ヶ日の朝だった。吉三は後を追おうとするが、お七の遺言が「私を弔ってほしい」であったと聞き思いとどまる。吉三は出家し、西運となり目黒・明王院に入る。供養のため目黒不動と浅草観音を嵐の日も念仏を唱えて歩いたそうである。有名な目黒雅叙園は、その明王院跡になるらしい。目黒雅叙園内には、西運が使っていたと伝わる「お七の井戸」がある。興味のある方は是非ご覧になっていただきたい。ちなみに雅叙園から上っていく坂(行人坂)の途中に目黒・大円寺という寺がある。明王院とは違う寺で、明王院が明治に廃寺になって西運ゆかりのものが大円寺に移された。昭和になって日参りする西運の姿を刻んだ石碑が立てられた。その横には、地蔵菩薩が立っているが、優しそうなお顔がお七のような気がして微笑ましい。
これも余談だが、明和9年(1772年)に江戸三大大火に数えられる、大円寺火元の行人坂の大火が発生している。火事という事件と、お寺の名前が一致しているのは偶然だが面白い気がする。
 
天和の大火
天和2年12月28日(1682年。340年前の12月28日)の昼頃、大円寺(東京都文京区向丘一丁目11-3。斎藤緑雨の墓がある)から出火して翌朝5時頃まで延焼、3,500名もの人が亡くなったと言われています。
「天和の大火」は「お七の火事」とも言われますが、まるでお七が放火したような印象になるのでよした方がいいです。お七はこの火事の被災者の一人に過ぎません。4年後の 貞享 じょうきょう 3年(1686年)、井原西鶴(44歳)が書いた『好色五人女』によると、お七(八百屋お七)は、本郷森川宿(現・東京都文京区本郷六丁目 map→)の八百屋の大店「八兵衛」の数えで16歳(満15歳。今の中学3年生くらい)の「かかる美女のあるべきものか」というほどの娘。「天和の大火」で「八兵衛」も焼け、一家は菩提寺の 吉祥寺きちじょうじ(東京都文京区本駒込三丁目19-17)に避難。お七はそこで、寺小姓てらこしょう(住職にそばに仕えて雑用をする少年)の吉三郎きちさぶろう と出会い、相思相愛の仲になります。
2人の仲を心配した母親はお七を連れて吉祥寺を引き揚げます。その後西鶴は2人に2度の逢瀬をさせ、1度は思いを遂げさせていますが、結局は思いのままに吉三郎と会えないあまりの切なさからお七は、火事になれば彼のいる吉祥寺にまた戻れると放火してしまうのでした。
火事はぼやで済みましたが、放火は大罪、天和3年3月29日(1683年)、お七は市中引き回しの上、当地の鈴ヶ森刑場(東京都品川区南大井二丁目7-3)で火あぶりになったとされています。
・・・「世のあはれ、春吹く風に名を残し遅れ桜の今日散りし身は」と吟じけるを、聞く人 一入 ひとしほ に痛まはしく、その姿を見送りけるに、限りある命のうち、入相いりあい(日が入る頃。夕暮れ時)の鐘つく頃、品かはりたる(品川にかけている)道芝の 辺 ほとり にして、その身は憂き煙となりぬ。人皆いづれの道にも煙はのがれず、ことに 不便 ふびん はこれにぞありける。
それは昨日、今朝見れば、塵も灰もなくて、鈴の森松風ばかり残りて、旅人も聞伝へてただは通らず、回向してその跡を弔ひける。さればその日の小袖、郡内縞のきれぎれまでも世の人拾ひ求めて、末々の物語の種とぞ思ひける。・・・(井原西鶴『好色五人女』のうち「恋からげし八百屋物語」より)
吉祥寺にあるお七と吉三郎の「比翼塚(ひよくづか。愛し合う二人のための供養塔)」 円乗寺(圓乗寺。文京区白山一丁目 34-6)のお七の供養塔。お七が家族と避難したのを西鶴は吉祥寺としたが、この円乗寺との説もある
吉祥寺にあるお七と吉三郎の「比翼塚(ひよくづか。愛し合う二人のための供養塔)」 円乗寺(圓乗寺。文京区白山一丁目 34-6)のお七の供養塔。お七が家族と避難したのを西鶴は吉祥寺としたが、この円乗寺との説もある
「天和の大火」の出火元とされる大円寺の「ほうろく地蔵」。焼けたほうろく(鍋の一種)を被り、火あぶりになったお七の苦しみを引き受けているという 鈴ヶ森刑場跡(東京都品川区南大井二丁目7-3 )の火あぶり台跡。真ん中の穴に鉄柱を立て、縛り付けられた処刑人の足元で薪が燃やされたという
「天和の大火」の出火元とされる大円寺の「ほうろく地蔵」。焼けたほうろく(鍋の一種)を被り、火あぶりになったお七の苦しみを引き受けているという 鈴ヶ森刑場跡(東京都品川区南大井二丁目7-3 )の火あぶり台跡。真ん中の穴に鉄柱を立て、縛り付けられた処刑人の足元で薪が燃やされたという
「天和の大火」の他にも、 江戸では大火が49回もあったそうで、世界でも例がないようです。
「江戸の三大大火」の最初が、明暦3年(1657年)の「(1)明暦の大火」。3日間燃え続け、江戸の大半を灰にしました。江戸城の外堀の内側はほぼ全焼、3〜10万人もの死者が出たそうです。江戸城(現・皇居)の天守閣も燃え、以後再建されていません。林 羅山は、この火事で大切な本を失い、その衝撃の中、4日後に死去。この火事で全てを失った少女を山本周五郎は『柳橋物語』の主人公にしています。
「明暦の大火」は「振袖火事」とも呼ばれます。麻布の質屋の娘ウメノが寺の小姓風の美少年に恋をしたというのです。彼女は彼が着ていたのと同じ振袖を作ってもらい、枕にカツラをかぶせてその振袖でくるんで人形を作り、夫婦ごっこをしていました。そのうちに切なさのあまり病になり17歳で死去。その振袖は次々に同じ年頃の娘の命を奪っていきます。商家の娘と寺小姓の組み合わせがお七の話に類似していて興味深いです。25年後の「天和の大火」における“お七の物語”の原型ではないでしょうか。
こじつけも甚だしく、その振袖を「不受不施派(日蓮宗の一派)」が供養しなかったがために娘たちの命が奪われたというのです。それで、本妙寺(現・豊島区巣鴨。かつては東大の赤門前にあった)でその振袖を供養することになります。ところが、僧侶が振袖を火に入れた瞬間につむじ風が起きて、燃えた振袖が寺の本堂を焼き、寺の外にも燃え広がって「明暦の大火」になったというのです。「不受不施派」に悪いイメージを持たせる話になっているのが、またまた興味深いです。権力者にとって都合の悪い存在(例えば不受不施派)や罪を被せやすい存在(例えば商家の娘)に罪を被せた可能性も高いのではないでしょうか? 多分そうなのでしょう。失火の罪は重いので、武家や大名屋敷では、出火しても門を閉ざし、極力自力で消そうとしたし、周りもその事情を察して、門が開かないうちは、手を貸さなかったとか。そして、万が一火元になってしまった場合は、他の弱い存在にその罪を被せた・・・?
「明暦の大火」の45年後の元禄15年(1702年)赤穂浪士の討ち入りがありますが、浪士たちは上の習慣を利用して、火消しの格好をし(日頃から赤穂の火消しの勇敢さは評判だった)、「火事だ!」と叫びながら吉良邸に侵入したようです(映画にあるようないでたちではなかったようだ)。ぞろぞろ歩いていても火消しの格好なら不審に思われずらいし、火事であれば、門が開くまでは周りの武家が吉良邸に駆けつけることもなかった。
おな、「明暦の大火」は、「幕府放火説」「本妙寺火元引受説」というのもあるそうです。
「江戸の三大大火」の2番目が、明和9年(1772年)に発生した「(2)明和の大火(行者坂の大火)」。死者・行方不明者が計1万8,900人ほど出たようです。出火元が「天和の大火」同様大円寺(目黒区。「天和の大火」の大円寺は文京区)なのが不思議・・・。3番目が文化3年(1806年)の「(3)文化の大火」。
「江戸っ子は宵越しの金をもたない」といいますが、お金を貯めてもどうせ火事でなくなってしまうので、後のことは考えずにパッと使ってしまおう、とそういった気風になったといわれます。江戸の火事を「華」といいますが、実際はこの世の地獄だったろうと思います。江戸のイメージを悪くしないよう為政者がこしらえた標語か、庶民の精一杯の強がりでしょうか? 明治になってからですが来日したモースは日本の火事に多大な関心を寄せています。彼の詳細な日記に、「彼等(火事での被災者)は平素通り幸福そうに見える」とあります。命さえ助かれば、案外のんきだったのも事実かもしれません。
 
八百屋お七  
「火事と喧嘩は江戸の花」などと申しますが、天和3年(1683)春の火事で、放火の罪により死刑(火刑)に処せられたのが、この「八百屋お七(やおやおしち)」です。実話です。
江戸は本郷の八百屋の娘であったことから「八百屋お七」というのですが、放火の罪というのは、当時の木造住宅中心の江戸にあっては殺人罪よりももっと重い罪だったようです。放火の事情はどうあれ、兎に角「八百屋お七」と言えば、不届き至極の大罪人というレッテルが貼られ、現代でいえば、和歌山県の毒入りカレー事件の林真須美被告のような人物として当時のマスコミ?は扱った訳です。
マスコミ報道が一方的であることは、江戸時代も現代も変わらないようです。
八百屋お七 それはさておき、歌舞伎や人形浄瑠璃でも、この「八百屋お七」を題材とした作品が沢山作られました。代表的なのが「伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)」というお芝居ですが、美しくなければならない芝居の世界での「八百屋お七」のイメージは、放火ではなく火の見櫓に登って太鼓(半鐘)を打ちならす(これも大罪です)無分別だが可憐な町娘として描かれているのが一般的のようです。
江戸時代では、主として防犯上の理由からでしょうが、夜になってある時刻を過ぎると、町々に設けられた木戸を閉じて人の往来をストップさせていたそうです。そして例外的に、閉じられた木戸を開けるのは「火事」のときだけだったのです。
「八百屋お七」は、恋人である寺小姓"吉三郎"に逢いたいが故に、禁を犯して火の見櫓に登り太鼓(半鐘)を打つのです。火事だと木戸番が誤解すれば、木戸は開いて恋人に逢いに行けるのです。動機は燃える恋だったのです。お七にとっては、それがどんな結果を齎(もたら)すのか考える余裕がないほど思いつめていたのでしょう。
歌舞伎では、恋に関しては男よりもむしろ女の方が積極的のようです。古来、大和撫子という名に象徴される日本の女性は、恋に関しては控えめというか、男性の方から誘われるまで待つというのが美徳であると、私なども古い人間ですから思っていたのですが、歌舞伎を見ている限りどうもそれは違うんじゃあないかと思うことしばしばです。
お七に限らず、あの「三姫」の"八重垣姫"も恋人"勝頼"に対し積極的に恋を仕掛けます。"時姫"は、恋人をとるか自分の父親をとるかを迫られたとき迷うことなく恋人を選択しています。"揚巻"だって"助六"は自分の間夫(まぶ)であると白昼堂々と広言して憚りません。歌舞伎に登場する女性たちは、おしなべて皆力強いのです。こんなこと言うとお叱りを頂戴しそうですが、世の独身女性たちは歌舞伎に登場する女の生きざまを見習うべきかも知れません。
なお、「八百屋お七」を「櫓のお七」とも呼びますが、既にお分かりのように火の見櫓に登るお七だからです。
余談ですが、当時の江戸は人口100万人を超える世界最大の木造建築都市であり、世界一火事に弱い都市だったようです。江戸時代に記録に残る火事は、御府内だけで1500件を超えるといわれ、江戸三座や吉原遊郭が全焼した回数は、20回を超えているかもしれません。
明暦3年(1657)の振袖火事、安永元年(1772)の目黒行人坂(めぐろぎょうにんざか)火事、文化3年(1806)の芝車町(しばくるまちょう)火事は、「江戸三大大火」として知られていますが、とりわけ被害が大きかったのが明暦の大火です。
正月18日、本郷丸山町の本妙寺で施餓鬼(せがき)に焼いた振袖が、折りからの強い風に煽られて舞いあがったのが原因で、俗に振袖火事とも言われていますが、この火事による被害は、江戸城本丸、二の丸、天守閣をはじめ、大名屋敷160、旗本屋敷770、寺社350、橋60、蔵9000に及び、焼失した町数は400余、死者は10万人を超えるという、まさに日本史上最大の火事だということです。
 
長壽寺 八百屋お七の供養塔
長壽寺・当山八百屋お七縁起
合掌 八百屋お七の父親は七尾出身で、加賀藩の足軽・山瀬三郎兵衛といい参勤交代の折に江戸に出る。元々、侍奉公を嫌っていた三郎兵衛は脱藩し、本郷駒込追分町に八百屋を開業、相当の財を成した。一六八二年二月二十八日、江戸市外駒込の大円寺から出た火事は、おりからの強風にあおられて南の市内に向かい、本郷・上田・神田日本橋を襲い、隅田川を越えて本所・深川まで延焼、夜になってようやく鎮火した。延焼家屋は大名屋敷七十五、旗本屋敷百六十六、寺社九十五、町屋五万二千余、焼死者三千五百人。世にいわれている八百屋お七の「お七火事」とは、この日起こった火事をさしている。
だがこの火事はお七の仕業ではない。実は、この大火では、お七一家も収容者だったのだ。家を失ったお七一家は菩提寺である円乗寺に仮住まい、ここでお七は寺小姓の吉三郎と運命的な出会いをする。店が再建され、連れ戻されたお七の思いはつのるばかり 「また火事があれば・・・」 そこでお七は翌年三月二日、新築まもない我が家に火を放つ。江戸市中を火の海に埋めたお七はつかまり、火あぶりの極刑にあった。この話は、やがて浄瑠璃や歌舞伎に脚色され、お七と吉三郎の恋物語は語り継がれてきた。
だが、娘を非業の死で失ったお七の母親の子を思う心はいかばかりか計りしれない。お七の母と称する者が娘の菩提を弔いたいと、供養塔を建てるため奔走したらしい。罪人の供養塔を建てることの許されない時代に、火あぶり極刑にされた罪人の供養塔を建てることなどもってのほかだった。もし、供養塔を建てたと知られれば、その寺も廃寺になったという。当山第七世・喰性院日邊に事情を明かし依頼建立したものと伝えいたる。。過去帳にも記さず代々の住職が口伝でその由来を伝え、隠密にしてきた。取調べがあれば、歴代の住職の墓と偽ってきた。
その供養塔は、高さ二メートル一八センチ、幅六十センチと大きく、御影石でできた大変立派なもので、わざわざ大阪方面から運ばせたものらしく、供養塔の左横には母親の法名願主「法春比丘尼」と銘が刻まれている。 再拝
命日 天和三年三月二十九日(一六八三)

八百屋お七は、恋人逢いたさに放火事件を起こし、火刑に処されたと云われる少女になります。
井原西鶴の「好色五人女」に書かれ一躍知られる存在となって、その後、文学や歌舞伎、浄瑠璃、文楽、芝居、落語などの芸能、現代でも時代劇の映画やドラマ、歌謡に登場する少女です。ところが、時代が下るごとに脚色や創作が加えられて実像がぼやけ、名前は知られますが実像や実際の事件自体は謎の少女でもあるんです。実際、実在したかも疑われている存在です。
しかし、最初にお七事件のすぐ後に書かれた作者不明「天和笑委集」と井原西鶴の描いた「好色五人女」ですが、共に当時の実録話を題材にしています。実話の為にあまり脚色を加えすぎると、事件を知る大衆には解ってしまうので、ある程度忠実に事件を扱ったと云われています。
両作品は同時期(事件から1〜3年)に書かれたもので、特に井原西鶴の作品は江戸期文学史上初の町娘が主人公ということで大流行、お七に同情と人気が集まり、後に続く各種の作品や芸能に大きな影響を残しています。
天和笑委集はともかく、井原西鶴は関西在住で、江戸の事件を伝聞で聴いて脚色したのは確かです。
同時代人で江戸本郷・浅草にいた国学の先駆者で歌学者・戸田茂睡(もすい)の実記(日記)「御当代記」では「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分より晒されし也」とあるそうですが、後で付け加えた形跡があり、前述の両作を見てから茂睡自身が記憶で付記したのではないかとみられているそうです。とはいえ、お七に関する実記(実録・記録)としての記述と云えるのはこれだけです。
お七の物語で一番最初に書かれた天和笑委集11巻から抜粋すると・・・
天和笑委集のあらすじ
江戸は本郷森川宿の八百屋市左衛門の子は男子2人女子1人。娘お七は小さい頃から勉強ができ、色白の美人である。両親は身分の高い男と結婚させる事を望んでいた。天和2年師走28日の火事で八百屋市左衛門は家を失い正仙院に避難する。
正仙院には生田庄之介という17歳の美少年がいた。庄之介はお七をみて心ひかれ、お七の家の下女のゆきに文を託してそれからふたりは手紙のやり取りをする。やがてゆきの仲人によって、正月10日人々が寝静まった頃に、お七が待つ部屋にゆきが庄之介を案内する。ゆきは2人を引き合わせて同衾させると引き下がった。翌朝、ゆきはまだ早い時間に眠る両親の部屋にお七をこっそり帰したので、この密会は誰にも知られる事はなかった。その後も2人は密会を重ねるが、やがて正月中旬新宅ができると、お七一家は森川宿に帰ることになった。お七は庄之介との別れを惜しむが、25日ついに森川宿に帰る。
帰ったあともゆきを介して手紙のやり取りをし、あるとき庄之介が忍んでくることもあったが、日がたつにつれお七の思いは強くなるばかり。思い悩んでお七は病の床に就く。3月2日夜風が吹く日にお七は古綿や反故をわらで包んで持ち出し、家の近くの商家の軒の板間の空いたところに炭火とともに入れて放火に及ぶが、近所の人が気が付きすぐに火を消す。お七は放火に使った綿・反故を手に持ったままだったのでその場で捕まった。
奉行所の調べで、若く美しい、悪事などしそうにないこの娘がなぜ放火などしようとしたのか奉行は不思議がり、やさしい言葉使いで「女の身で誰をうらんで、どのようなわけでこのような恐ろしいことをしたのか?正直に白状すれば場合によっては命を助けてもよいぞ」と言うがお七は庄之介に迷惑かけまいと庄之介の名前は一切出さず、「恐ろしい男達が来て、得物[注 12]を持って取り囲み、火をつけるように脅迫し、断れば害すると言って打ちつけるので」と答える。奉行が男達の様子を細かく尋ねると要領の得ない話ばかりする。これでは助けることは出来ないとお七は火あぶりとなることになった。
お七は3月18日から他の悪人達と共に晒し者にされるが、その衣装は豪華な振袖で鮮やかな化粧と島田に結い上げ蒔絵のついた玳瑁(たいまい、べっ甲)の櫛で押えた髪で、これは多くの人目に恥ずかしくないようにせめてもと下女と乳母が牢屋に通って整えたのだと言う。お七および一緒に死罪になる6人は3月28日やせ馬に乗せられて前後左右を役人達に取り囲まれて鈴が森に引き立てられ、大勢の見物人が見守る中で処刑される。大人の4人の最後は見苦しかったが、お七と少年喜三郎はおとなしく処刑されている。お七の家族は縁者を頼って甲州に行きそこで農民となり、2人の仲が知れ渡る事になった生田庄之介は4月13日夜にまぎれて旅に出て、終いには高野山の僧になっている。

文中最後に一緒に処刑された喜三郎も放火犯で当年13歳だったと云われています。お七との係わりは無く別事件犯として処刑された喜三郎も、後にはお七に結び付けられて恋人や詐欺犯として扱われています。
実録物と云われながら人気の高まりとともに、後発の作品に脚色が加わるように、、お七の素性や伝承が数多く語られることになります。お七が恋をした相手の名も天和笑委集では生田庄之介、好色五人女では吉三郎になっています。また落語では吉三など、浄瑠璃では山田佐兵衛。また、お七一家の避難先も天和笑委集では火元の大円寺裏の正仙院、他には円乗寺前の仮宅、好色五人女は吉祥寺など。。
文中の天和の大火は昔から「お七火事」と呼ばれ、さもお七の放火によって江戸市中を総なめにした大火と云われていました。実際にはこの火事はお七も被害者で、家を焼かれたお七一家は一時疎開して、事件の要因となった出逢いがあったわけです。お七の放火はすぐに発見されてぼやで鎮火されていますが、放火は重罪で処刑になっています。ちなみに異説になりますが、天和の大火の同年一月にも大きな火事があったのですが、その犯人がお七で捕縛され、天和の大火の時は牢の中だったという説もあります。三月のぼやは創作というものです。とにかく、お七についても謎や不明が多いんですね。罪状は書かれていませんが、これが一緒に処刑された喜三郎の放火事件ではないかとも思われます。
江戸での小説・歌舞伎・浄瑠璃・文楽・落語、更には近代のドラマ・映画・歌謡など様々な脚色が施されて、お七の人気は不動のものと言えます。相手の出家した庄之助・吉三郎の墓も全国に点在しています。なんと言ってもお七の場合は殺人より重い火付盗賊に次ぐ厳しい処分の火付けの重犯罪人、江戸は死罪の場合は俵詰めで回向院に埋められていましたし、重犯罪人の場合、墓石や供養塔などはもってのほかでした。
とはいえ、そこは人気者・お七、各地に墓や供養塔があります。特に墓所として有名なのが、お七一家の菩提寺と云われた円乗寺の八百屋お七の墓。三基並んでいますが現在も訪れる人が絶えず、花が絶えないようです。
天和笑委集では命日は天和3年(1683年)3月28日ですが、29日に亡くなった左の法名妙栄禅尼という墓が、後年お七の墓としてなぞられたもののようです。更に美貌で愛嬌と色気にあふれ「眼千両」と呼ばれ、江戸三座を長男・次男と立女形を独占した5代・岩井半四郎がお七112回忌(寛政5年?)に右横に建てた物です。中央は円乗寺の住職が建てたもの。。お七の命日を3月29日にするのは円乗寺の墓からと云われています。
この他にも、お七の舞台になった大円寺・吉祥寺、更にはお七の持仏や成仏とするお七地蔵、吉三郎からみの比翼塚やお七井戸、ただその多くは浄瑠璃や歌舞伎からの脚色から発生したと思われるものが多くあります。
地方における供養塔・観音像など 僕が知っているものでは浄土宗開祖・法然の生誕地の岡山県の誕生寺。開山は敦盛で有名な熊谷直実こと蓮生法師。こちらの寺伝ではお七死後の16年後、元禄12年(1699年)江戸では公に供養するわけにいかず、誕生寺の本尊の回向院・増上寺での御開帳の際に誕生寺住職(15世・通誉)にお七の振袖を預けて供養を願い出たというものです。本堂内に花月妙艶信女という法名で位牌を作り安置供養しています。恋や道に迷って悩む若い女性のためにお七観音が境内に祀られています。
また岡山にはお七の墓もあると聞いていますが詳細は不明。機会があったら調べてみます。
長壽寺の寺伝ではお七の両親の出身地を七尾としていて、江戸で墓や供養塔を建てることが出来ず、母親が故郷である七尾の長壽寺の住職に頼み込んで建てた供養塔としています。しかし加賀藩にしても重罪人の供養塔は許されるものではなく詮議の際には歴代住職の供養塔としていたと云います。
大阪近辺の御影石を使い、その大きさは高さ2.18m・幅60pと他の墓を圧する大きさです。前面に法華経のヒゲ題目と呼ばれる「南無妙法蓮華経」、左側面には願主として母親の法名・「法春比丘尼」の名が彫られています。
若くして不名誉な死を遂げた娘に、激しい悔恨と思いが籠っていると云われます。
母親の思いが籠ったと伝わる供養塔について水を差すわけではありませんが、この供養塔には疑問が多く残ります。供養のためとはいえ、あまりに立派過ぎるということ、火付けという当時では重犯罪者の供養碑としては大きすぎるのです。
願主の記銘の「法春比丘尼」という名前の考察
江戸の三大処刑場は鈴ヶ森・小塚原・大和田になりますが、この内大和田には面影はありませんが、鈴ヶ森や小塚原は僅かに名残りが残り、幕末から明治初期にかけての資料も多く残っています。処刑場には本来は慰霊碑や地蔵・供養碑が許されていなかったので多くが廃棄か回向院・延命寺他の寺院に移されたと云われます。現在ある小さな石仏などは幕末の禁制が緩んだ時に持ち込まれたものと言われています。
そのなかで長く容認されて置かれていたのが、地蔵尊と題目供養塔でした。また鈴ヶ森にはこの他に戦馬や動物に対する馬頭観音もありました。
この題目供養塔の願主の銘が「谷口氏」と「法春比丘尼」なのです。
江戸の伝承・・・元禄時代(元禄11年(1698年))法春は本郷の商人だった谷口与右衛門の母。生類憐れみの令の敷かれていた頃、与右衛門が酒を飲んでの帰り道、犬数頭に襲われやむなく犬を斬った。正当防衛とはいえ、法は法、小塚原の刑場で磔刑で処刑された。これを悲しんだ法春は小塚原と鈴ヶ森の刑場に供養塔を建てたという。
ところが、この谷口名と法春名の題目供養塔は大阪豊中から江戸にかけて、大小の刑場に百基以上建てられていたというのです。現在も半数が確認されているそうです。一番古いものとしては、大阪府堺市の月蔵寺にある大野道犬斎(治胤)の供養塔と云われています。
大野道犬斎(治胤)は、淀殿の乳母・大蔵卿局の息子四兄弟(治長、治房、治胤、治純) の三男。大阪夏の陣では、前哨戦で東軍の先端基地にされるのを恐れて堺を焼討ちして、戦端を開いた一人です。この戦火は堺の2万戸を焼いたと云われます。
大阪城落城後、城を脱出しますが京都で捕縛され、堺衆に引き渡され刑場の並松で火炙りに処されたと云われています。葉隠の中に逸話が書かれていて、火炙り後の黒焦げになった道犬斎はむくっと起き上がると近くにいた東軍武士に斬りつけると、そのまま粉々に崩れ落ちて黒い灰になったと云われています。町を焼いた仇とはいえ、豊臣家に準じた姿に打たれ町民は五輪供養塔を刑場に建てたと云われています。
元々はこの並松に五輪供養塔と題目供養塔があったのですが、現在は共に月蔵寺に移されています。この題目碑にも「題名壹千部 為無縁法界 法春比丘尼」と刻まれています。
「 月蔵寺の寺伝によれば・・・京都の三木隨法師の資料によれば「今から三百年程前の江戸時代、貞享・元禄・安永・正徳の頃、京都には熱心な法華経信者である谷口一族がいた。その主たる人物は「京都町人八幡屋谷口長右衛門自栄」で、戒名が「妙信院法悦日随」であることまでは判明するが、それ以上の詳細は不明で宗門の歴史に一族の名前が一人として記録されていない。京都本山本圀寺の墓地にある無縁塔の最頂部に谷口法悦が寄進した石塔があり『若い頃から菩提心を起こして題目を唱え、法華経六万部を読んで心からの喜びを感じた。』という内容の碑文が残されている。この谷口一族は全国各地の法華寺院に題目碑を百余基、本尊の板曼荼羅を百十余り、涅槃図や釈迦誕生佛も数多く寄進しており、さらに京都から江戸に至る各地の刑場にも受刑者供養の為に題目碑を建立している。有名なものは東京品川区の鈴ヶ森刑場跡にある題目碑で、身延山の檀信徒研修道場前にも題目碑がある。」と云う。 」
なお、月蔵寺の寺伝には、法悦(八幡屋・谷口自栄)の父母の戒名は、それぞれ「実相院法入日中」・「貞林院法春日陽」で、本尊である板曼荼羅には法春の銘があり、元禄九年に奉納された「釈迦涅槃図」には法悦が父母の追善の為に施主となったことが記されているそうです。
熱心な法華信者とはいえ宗門誌に載らないということは、法華宗が宗門として題目供養塔(碑)を推進したのではなく、個人の慈善活動だったことが窺われます。しかし個人で関東から関西にかけての広範囲に供養塔や板題目を合わせて二百近くも寄進するというのは財力や苦労は並大抵のことではなかったと思われます。この寄進に触発されて、元禄以降に消えた谷口一族の名を使って、以降に本来は設置を禁じられた刑場や重犯罪人の供養として近親者や僧籍が、願主や施主を法悦・日中・法春の名を使って寄進建立していたのではないかと考えられます。
長壽寺の題目供養塔もお七が処刑された鈴ヶ森の題目供養塔を真似て、法春比丘尼の名を借りてお七の母親が建てたのか、七尾の刑場地から移されてきたものかは不明です。僕の知る限りでは題目供養塔(碑)としては、鈴ヶ原・小塚原には及ばないもののこの大きさは他でも見当たらないので、個人のものとは思えず、やはり刑場地から移されて来たのではないかと思われます。さすがに一代謹慎として22人が押し込まれた流罪謹慎地・本行寺のお隣とはいえ血生臭い処刑地とは、この寺院群はそぐわないですから。
 
丸諒の好色五人女巻四 / お七の巻
お七は、江戸は本郷の八百屋の娘です。
天和二年(1682)師走二十八日、江戸の町に大火が出ます。
火は、本郷から駒込、日本橋と焼き付くし、隅田川を越えて、本所、深川までおよび、翌日になってようやく鎮火しました。この火事で、お七の一家も駒込の吉祥寺に避難してきました。
お七は、十六。花なら上野の満開の桜、月なら隅田川にうつる清らかな影、とたとえられるほど、初々しくも美しい娘でした。
本堂は、乳飲み子を抱えた女たちから胡乱な素浪人まで、大勢の人々でごった返しています。お七の母親は、こんなところに娘をおいておくのが心配でなりません。
暮れのこととて、寺の寒さは身にしみます。お七は無邪気に、ご住職が出してくれたありったけの着物を、めずらしげに眺めたりしています。
中には、黒羽二重の大振り袖もありました。
どこかのお嬢さまが亡くなったんだ、残された親はどれだけ悲しんだことかしら。そっとお数珠をとり出して、お祈りをするお七です。
ふと見ると、夕暮れの迫った障子のそばに、銀のとげ抜きをもった若者が、こまっている姿が見えます。上品な面ざしに、すずやかな風情の、きれいな若衆でした。
お七の母親が、見かねて助け舟を出しましたが、小さなとげはなかなか取れません。
あたしなら、目がいいから抜いてさしあげられるのに・・・ と、母親が、お七を呼びました。お七はドキドキしながら、若者の手をとると、とげをきれいに抜いてあげました。
若者はホッとして、思わずお七の手をきつくにぎりしめたのです。
すぐに離れた二人ですが、お七は自分の手の中に、わざととげ抜きをのこしておきました。
これをお返ししなければ。お七は、若者の後を追いかけると、その手をにぎり返しました。
その時から、おたがいを好きになってしまったのです。
若衆の名は、小野川吉三郎と言いました。
やさしい方なのです、と、坊主に聞いて、お七の思いはますます募り、二人は恋文を交わし合います。
しかし、同じ寺にいながら、逢うことも出来ないまま、年は明け、七草もすぎ、松の内も明けようという十四日になっても、二人の仲は進まないのでした。
十五日の夜半は雨でした。急な葬式ができて、お坊様たちがでかけて行きました。吉三郎様に逢うのは、今日しかない。お七は決心しました。
境内には、春をつげる雷さまが、すさまじい音を轟かせています。
本当は怖くてたまらないお七ですが、母親が自分を引きよせて寝ようとするので、邪魔されないように、がんばって強がっておかなければなりません。
やがて、みんなが寝しずまったころ、お七は客間をぬけだすと、吉三郎の部屋をさがしに出ます。暗くて怖くて、ふるえているので寝ている人を踏んづけたりしながら、そおっと歩みを進めていると、下働きの老婆が目をさまし、わけ知り顔でささやきました。
吉三郎さまの寝所は、ほら、あそこだよ。お七は、吉三郎の寝姿にするりと寄りそいます。どうしていいのか分からないまま、吉三郎は、「私は十六になります。」と言いました。
「わたしも十六。」「住職さまが怖い。」「わたしも住職さまが怖い。」なんとももどかしい恋の出だしです。
雨上がりに鳴る雷が、いきなり一つ、暴れました。思わずすがりつくお七を、吉三郎は引き寄せました。「手も足も、冷えきっている。」命の終りまで、この気持ちは変わらないと、結ばれるのでした。
翌朝、お七を探しに来た母親は、娘の姿に仰天します。引き立てられるように連れ戻された新しい家で、お七は厳しく監視されることになってしまいました。文のやりとりは続いていたものの、どうにも会えない、辛い日々が重なっていきます。
ある日の夕方、板橋あたりの村の子が、野のものを売りに来ました。降り止まぬ春の雪のせいで、村に帰れなくなった子を、土間に泊めてやったその晩、姪が初子を出産したという知らせが来て、お七の両親は慌てて出掛けて行きました。
後に残ったお七は、土間に寝ているという村の子の様子を案じてやります。何気なく、笠を除けてみると、驚いたことに、それは吉三郎だったのです。お七逢いたさのあまり、みすぼらしい身なりに変わって、八百屋を訪ねて来たのです。名乗る訳にもいかず、逢える保証は万に一つもないというのに、雪をついて、吉三郎はやって来たのです。
二人はしばらくものも言えませんでしたが、冷えきってよく動かなくなった身体を支えながら、お七は吉三郎を部屋に上げました。ようやく逢えた喜びに、ほっとしたのもつかの間、父親が帰って来てしまいました。襖ひとつ隔てた部屋では、声を立てることもできません。
灯の下に紙と硯を引き寄せて、どれだけ逢いたかったかと、おたがいの気持ちを、書いては見せてしているうちに、まもなく夜明けが来てしまいました。
前よりもっと、思いを募らせながら、二人は別れなければなりませんでした。
三月のある風の強い日、お七の家から火の気が立ちました。
すぐに消し止められたものの、そばにお七がいたので、不審に思った家の者が訪ねると、また火事になれば、吉三郎に逢えるから、自分で火付けをした、と、素直に言うのです。
天和三年(1683)三月二十九日夕刻。八百屋お七は、火付けの罪により、品川の鈴が森の刑場で、火刑となりました。
ひと枝の、遅咲きの桜を、死出のはなむけに手渡されると、お七はそれをしばし眺めて、辞世の句を詠みました。
吉三郎が、お七の死を知ったのは、それから百日も過ぎた頃でした。
あの筆談の夜から後、衰弱して、床に付いたままだった吉三郎に、周りの者が、処刑のことを隠したのです。
もしも、恋人に死に遅れた事を知ったら、誇り高い武士として、すぐさま切腹に及ぶに違いありません。
ひとまず、元気になったら、自分たちが落ち着いて話をするから、と、お七の両親の気づかいもあってのことでした。
やはり、お七の亡くなったことを知って自害しようとする吉三郎に、お七の両親は、死ぬぐらいなら出家して、娘の御霊を弔って欲しいと願います。
もうこれ以上、若い命を散らせて欲しくない、人の親です。
吉三郎は剃髪しました。その姿は、世にも稀なる美僧として、人の哀れを誘いました。
鈴が森には、塵ひとつ、灰のかけらもなくて、ただ松風が吹くばかりです。
旅人も、お七の話を伝え聞いて、そこを通る時には、念仏を唱えて弔ったといいます。 
 
好色五人女 巻四 / 戀草からげし八百屋物語 
大節季はおもひの闇
ならひ風はげしく、師走の空、雲の足さへはやく、春の事共取いそぎ、餅突宿の隣には、小笹手毎に煤はきするもあり。天秤のかねさへて、取やりも世の定めとていそがし。棚下を引連れ立て、「こんこん小目くらにお壹文くだされませい」の声やかましく、古札納め・ざつ木賣・榧・かち栗・かまくら海老・通町にははま弓の出見世・新物・たび・雪踏、あしを空にしてと、兼好が書出しおもひ合て、今も所帯もつ身のいとまなき事にぞ有りける。はやおしつめて廿八日の夜半に、わやわやと火宅の門は車長持ひく音、葛籠、かけ硯、かたに掛てにぐるも有り。穴倉の蓋とりあへずかる物もなげ込しに、時の間の煙となつて焼け野の雉子子を思うふがごとく、妻をあはれみ老母をかなしみ、それそれのしるべの方へ立ちのきしは、更に悲しさかぎりなかりき。
思へば夢なれや、何事もいらぬ世や、後生こそまことなれ」と、しほしほとしづみ果、母人の珠数袋をあけて、願ひの玉のを手にかけ、口のうちにして題目いとまなき折から、やごとなき若衆の銀の毛貫片手に、左の人さし指に有るかなきかのとげの立ちけるも心にかゝると、暮方の障子をひらき、身をなやみおはしけるを、母人見かね給ひ、「ぬきまいらせん」と、その毛貫を取て暫なやみ給へども、老眼のさだかならず、見付る事かたくて、氣毒なる有さま、お七見しより、我なら目時の眼にてぬかん物をと思ひながら、近寄かねてたゝずむうちに、母人よび給ひて、「是をぬきてまいらせよ」とのよしうれし。彼御手をとりて、難儀をたすけ申けるに、此若衆我をわすれて、自が手をいたくしめさせ給を、はなれがたかれども、母の見給ふをうたてく、是非もなく立ち別れさまに、覚て毛貫をとりて歸り、又返しにと跡をしたひ、其手を握りかへせば、是よりたがひの思いひとはなりける。
虫出しの神鳴もふんどしかきたる君様
其後は心まかせになりて、吉三良寝姿に寄添て、何共言葉なく、しとげなくもたれかゝれば、吉三郎夢覚てなを身をふるはし、小夜着の袂を引かぶりしを引のけ、「髪に用捨もなき事や」といへば、吉三良せつなく、「わたくしは十六になります」といへば、お七、「わたくしも十六になります」といへば、吉三良かさねて「長老様がこはや」といふ。「をれも長老様はこはし」といふ。何とも此戀はじめもどかし。後はふりながら涙をこぼし不埒なりしに、又雨のあがり神鳴あらけなくひゞきしに、「是は本にこはや」と吉三良にしがみ付けるにぞ、をのづからわりなき情ふかく、「ひへわたりたる手足や」と肌へちかよせしに、お七うらみて、申侍るは、「そなた様にもにくからねばこそ、よしなき文給わりながら、かく身をひやせしは誰させけるぞ」と、首筋に喰つきける。いつとなくわけもなき首尾してぬれ初しより袖は互に、かぎりは命と定ける。 
 
地獄の数え歌「幻お七」鈴ヶ森刑場への道
井原西鶴「好色五人女」お七と吉三郎の、恋の始まり
吉三郎さまなら、今まで俺と足を絡めて寝ていたさ。その証拠がこれよ、と、起きて来た小坊主の新吉がお七の前で袂(たもと)をひらひらさせる。新吉の袂(たもと)から、白菊という香の薫りが漂(ただよ)った。この小坊主をどうしたものかと、お七が悩みながら寝間に入ると、続いて入ってきた新吉が「はぁ、お七さまが良いことしようとしている」と、声をたてた。
お七は振り返り「お黙り。何でも欲しい物をあげるよ」と。新吉は「そんなら銭八十と、松葉屋の歌留多(かるた)、浅草の米饅頭(よねまんじゅう)五つが欲しい」と言う。「そんな容易(たやす)いもの、明日にでも届けてやるさ」、そう約束してやると新吉は布団に入り「夜が明けたら、三品目を必ず受け取るぞ」「必ず三品目を」と、ぶつぶつ言いながら寝入ってしまった。
これで何をしようと自由になったので、お七は吉三郎の寝姿に寄り沿い、何も言わず抱きついた。吉三郎は夢から醒めて身を震わせ、夜着(やぎ)の袂(たもと)を被って顔を隠した。それを手で払い除(の)け、「髪が乱れる」と、お七が吉三郎を叱る。吉三郎はせつなそうな声で「わたくしは、十六(数えなので実際には十五)になります」と言う。お七は「わたくしも、十六(同)になります」と返した。吉三郎はさらに「長老さま(寺の住職)が、こわいのです」と言ったので、お七も「わたくしも、長老さま(同)はこわいです」と返す。なんとも、もどかしい恋の始まりだった。
井原西鶴「好色五人女」恋に生命(いのち)をかけた吉三郎
井原西鶴の、「好色五人女」「恋草からげし八百屋物語」本文の一部を紹介しました。ふたりはこのあと、ぎこちなく情を交わし、お七はやがて再建された実家へ帰ります。
お七は江戸・本郷駒込の八百屋の娘で、天和2 (1682) 年の江戸の大火で寺に非難した際、寺小姓の吉三郎を見初めます。きっかけは暮れかかった寺の縁側で、ひとさし指に刺さった小さな棘を抜くのに難儀している吉三郎を気の毒がり、お七の母親が「手伝ってあげなさい」と、言いつけたことでした。
お七が実家へ帰ったあと、ふたりは手紙の遣り取りで胸のうちを伝えあいます。ある日、吉三郎は田舎の物売に身をやつし、お七の実家を訪ねて来ました。ところがこの日は雪が降り止まず、物売だと思われ庭先に置いておかれた吉三郎はお七の家で凍死寸前になってしまいます。下女の知らせで見に行ったお七は物売の正体が吉三郎と気がついて驚愕、両親の目を盗み自室へ運び込んで看病します。襖一枚へだてた先に両親が寝ているため、ふたりは硯と筆とで夜どおし語りあい、明け方には別れなければいけません。
お七恋しさに吉三郎がとったこの大胆な行動が、地獄の道行きの始まりでした。吉三郎の気持ちに応えようと、お七は自分もさらに大胆になろうと奮起するのです。
・・・井原西鶴は段の終わりにこう書きます。−浮世草子「好色五人女」「恋草からげし八百屋物語」(雪の夜の情宿)− 又もなき恋が余りて さりとては物憂き世や [現代語訳] 唯一無二の恋が(お七の胸に)溢れてくる。そうはいっても、いろいろ難しい世の中の決まりごとがあるのだ。 ・・・
ところが、その後吉三郎の手紙は途絶えます。実は吉三郎は凍死寸前になったせいで、寺へ帰ったあと高熱にうなされ長患(ながわずら)いをするのです。来ない便りを待つあいだ、お七は自分を「女心の墓場」だと感じ始めます。
やがてある風の強い日の夕暮れ、お七はふと、みんなが寺を目指して逃げていた火事の光景を思い出しました。そして小さな火煙が上がります。人々が駆けつけると、そこにいたのはお七でした。「好色五人女」では、このあいだ何ひとつ説明がありません。
「八百屋お七小姓の吉三からくり口上」放火まで
かわい吉三にあわりょうかと 娘ごころの頑是(がんぜ)なく 炬燵(こたつ)の熾(おき)を二つ三つ 小袖の小褄(こづま)にちょいと包み 隣知らずの箱梯子 ひと桁(けた)昇りて ほろと泣き ふた桁(けた)昇りて ほろと泣き 三桁(みけた)四桁(よけた)と昇りつめ これが地獄の数え歌 ちょいと投げたる まごびさし 誰(たれ)も彼もが 知るまいとは思えど 天知(てんし)る地知(ぢし)るの道(どおり)にて
愛しい吉三郎さまに遭えるだろうかと、何もわからない、子どもじみた娘ごころが高じて。炬燵の熾(おき)を二つ三つ、小袖の褄(つま)に包んで持って、隣の家の箱梯子を、知られないようこっそり掛ける。ひと桁(けた)昇っては、ほろりと泣き、ふた桁(けた)昇っては、ほろりと泣く。三桁(みけた)四桁(よけた)と昇りつめたが、これはまるで地獄の数え歌だ。そうして熾(おき)を、隣の家の庇(ひさし)の中の庇(ひさし)へちょいと投げた。近所の者は気づいたろうが、そんな些細な罪を、誰も彼もが気づくわけはないと思ったのに。しかし天は知る、地は知る、道理というものが、この世にはあるのだ。
井原西鶴「好色五人女」放火のあと
放火でかけつけた人々が問うと、お七は慌てる風もなく「自分が火をつけた」と白状します。その後、今日は神田、または四谷、または浅草、または日本橋と、お七は晒(さら)されて歩き、集まった見物の涙を誘います。
両親が手配したものか、髪は毎日結いなおされ、以前と同じ見目(みめ)麗しい姿です。一月(旧暦)の初め、最期だからと見物人が桜の枝を持たせると「世の哀れ 春吹く風に名を残し 遅れ桜の けふ散りし身は(春吹く風のせいで遅れ桜のように今日みだれ散ったこの身は、浮世の人にはさぞや哀れに見えることでしょうね)」と詠み、鈴ヶ森から旅立ちました。品川のあたり一帯、路地に火あぶりの煙の届かないところはなく、いっそう哀れに感じさせたと書かれます。
「八百屋お七小姓の吉三からくり口上」放火のあとの、お七
江戸橋越えて四日市 日本橋へと引き出(いだ)し 是非もなく中橋(なかばし) 京橋を過ぎればもはや程(ほど)もなく 田町(たまち)九丁は夢うつつ 最期は近寄る 車橋(くるまばし) 高輪(たかなわ)十八丁の其の先が 七つ八つや 右に見て 品川おもてになりぬれば 品川おもての女郎衆(じょろしゅう)が あれが八百屋お七かえ うりざね顔で 色白で あのもみあげの美しさ 吉三が かっ惚(ぽ)れたのも無理はない ここがおさめの泪橋(なみだばし) 鈴ヶ森にぞ着きにける お江戸を離れた仕置き場 仕置き場 四町四方(よんちょうしほう)に矢来(やらい)をしつらいで 中に立てたる角柱(かくばしら) かわいいお七を縛り上げ 見るも哀れな其の中へ 数多(あまた)の見物押しのけて 久兵衛夫婦はかけ来たり これこれお七 これ娘 この世でひとめ遭いたさに 杖にすがって あいに言い置くことがあるならば 息あるうちに言ふてくれ これのぅお七と言う声も そらに知られぬ曇り声 わっと泣いたる ひと声が 妙法蓮華経 南無阿弥陀仏と無常の煙と立ち昇れば ここが親子の名残 哀れやこの世の見納め
江戸橋を越えて四日市(日本橋と江戸橋のあいだ)へ。日本橋へ至って、そのまま中橋(なかばし)へ行き、京橋を過ぎればもう廻るべきところはない。田町(たまち)九丁(田町九丁目は現在の港区江南2丁目あたり)は夢うつつに通り過ぎ、最期までもう間がないとわかる、車町(くるまちょう、現在の泉岳寺のあたり「芝車町」)の入り口・車橋(くるまばし)が目に入る。高輪十八丁の先を、七丁か八丁行ったところで高輪を右に見て曲がり、品川おもてへ出たところ、品川女郎衆があれが八百屋お七かえ、うりざね顔で、色白で、あのもみあげの美しさをご覧よ、とざわめいた、吉三郎が、かっ惚(ぽ)れたのも、そりゃあ無理はないやねぇと。ここがこの世の終わりの泪橋(なみだばし)、鈴ヶ森に着いたのだ。鈴ヶ森はお江戸を離れた仕置き場なのだ、仕置き場さ。見物を離すため四町四方(よんちょうしほう)に矢来(やらい)を掛けまわし、その中心に角柱(かくばしら)が立ててある。与力が見守り獄卒たちが可愛いお七を縛り上げると、見るも哀れ、その中へと引きずってゆく。すると数多(あまた)の見物を押しのけ、お七の親の久兵衛夫婦がかけ寄った。お七、これ我が娘よ。この世でひとめ遭いたさに、杖にすがって来たのだぞ。わしに言い置くことがあるなら、息あるうちに言ってくれ。これのぅお七と言う声も、役人に聞こえないよう、くもり声だ。見物には久兵衛が、わっと泣いたそのひと声だけが耳に入ったことだろう。妙法蓮華経。南無阿弥陀仏。お七は無常の煙になり、空高く立ち昇った。これが親子の名残だった。哀れなことだが、お七にとってはこの世の見納めだったのだ。
井原西鶴「好色五人女」放火のあとの、吉三郎
お七が投獄されたことを、吉三郎は知らず高熱にうなされていました。寺ではお七恋しさゆえの病(やまい)、恋わずらいという診断でした。お七の両親が駆けつけ、吉三郎に遭いたいと言うのですが、病室を覗くと可哀そうになり、そのまま帰ってしまいます。お七が死ぬと吉三郎のいる寺で回向(えこう)が行われますが、吉三郎は「手紙は届いていないか」「お七に遭いたい」とうわごとを言うばかりです。吉三郎が布団から起き上がれるようになった時には、すでにお七が死んで百ヵ日が過ぎていました。
寺では吉三郎にお七のことを教えませんが、吉三郎は杖をついて寺の庭を散歩し、真新しい卒塔婆を見つけてその名を読むと、脇差を抜いて死のうとします。それを同輩の僧が止め「死ぬつもりならば、まずは長老さまに暇乞(いとまごい)すべき」と諌(いさ)めます。その後お七の両親が呼ばれ、お七の遺言が伝えられます。
「吉三郎様まことの情あらば、浮世棄てさせ給い、いかなる出家にもなり給いて、かくなり行く跡を訪(と)わせ給いなば、いかばかり忘れ置くまじき。二世までの縁は朽ちまじ」と。つまり「わたくしに情があれば、浮世を棄てて出家してください。そうしてわたくしの菩提を弔ってください。そのようにしていただいたなら、わたくしもけっして吉三郎さまを忘れません。生まれ変わって、またお会いしましょうね(はあと)」と、いうものでした。
「幻お七」歌詞(抜粋)
夢の浮世にめぐり逢い おもい合(お)うたる その人の おもかげ恋し 人恋し 逢いたや見たやと 娘気の
「おお お前は吉さま」
狂い乱れて降る雪に それかあらぬか 面影の かしこに立てば そなたへ走り ふっと見上げる櫓(やぐら)の太鼓
「あれあれ 吉さまを連れて何処へ」
「ええ 憎い恋知らず 返しゃ 戻しゃ」
打つやうつつか幻を 慕(しと)う梯子の 踏みどさえ 一足づつに 消ゆる身の 果(はて)は紅蓮(ぐれん)の氷道(こおりみち) 危うかりける次第なり
確かなものなどない人の世にもかかわらず、夢のように出会いが叶い、相愛となることができた、その人のおもかげが恋しい、その人が恋しい、逢いたい、見たい、その娘ごころを、わかってください。
「おお、そこにいるお前は、吉さまではないか」
さてもこうして、狂い乱れるように降る雪のなか、あるかないか、わからないほど微(かす)かな面影が、お七の目には見えている。幻影がそちらへ立ったと見ると、そちらへ走り寄り、ふっと見上げたところ、そこに火の見櫓の太鼓があった。
「あれあれ、吉さまを連れて何処へ行くのじゃ」
「ええ、憎い奴め。わたしたちの恋を知らず、邪魔をするか。吉さまを返せ、戻せ」
お七は邪魔者を打とうとするのだが、それが現(うつつ)か幻(まぼろし)か、もう、わからない。吉三郎を慕って昇る梯子の踏み板は、ひと足ごとの死への道行き。その果てに紅蓮地獄(ぐれんじごく)の待ち受ける、氷の道なのだけれど。お七が危うい道へ踏み込んだのは、こういう事情だったので、ございますよ。

「好色五人女」にも「(通称)八百屋お七からくり口上」にも火の見櫓(やぐら)は登場せず、お七が半鐘(はんしょう)を叩くエピソードは出てきません。ですが演出上の効果を考えれば、「火の見櫓」を出す程度のファンタジーは仕方がないと感じます。
ちょっと隣家の箱梯子を借りて登り、隣の家の庇(ひさし)の上にちょこちょこっと炬燵の熾(おき)を撒いたところ折からの雪でジュッと消える、では、舞台が成立しないです。コントであれば、やってみたいと思いますが。
 
八百屋お七、地獄の便り 「幻お七」
ご存知のとおり、江戸時代は仏教が優勢な時代です。そのため、唄のジャンルに「地獄もの」と呼べるような、地獄の責め苦を並べ立てる悪趣味なものがあります。誰が何のためこのような唄を唄い始めたのかわかりませんが、その唄の流れはなんとなく因果ものに似ており、説教節の一種のように見えます。「地獄もの」が、実際のところ仏師が始めたものかどうかは不明です。しかし仏教のいましめを広く民衆に理解させる手段として、効果的だったのは確かです。
地獄の獄卒にその身を苛(さいな)まれる犠牲者は、誰もが知るような恋多き有名人になることが多く、たとえば色男で知られる「在原行平(ありわらの ゆきひら、「行平地獄物語」)」、恋多き女「高尾太夫(「高尾さんげ」)」、恋のため罪を犯した「八百屋お七(八百屋お七追善)」などです。
ご紹介するのは「八百屋お七」の地獄ものです。三味線譜の方は残っているかわかりません。そのためどんな曲かはわからず、歌詞だけが確認できます。内容はほぼエログロナンセンスと言って良く、どこまで本気で書かれたものかも、わかりません。
そうはいっても「幻お七」では、「紅蓮地獄(ぐれんじごく)に堕ちる女」(櫓お七の踏襲)を表現するのですから、江戸時代の「地獄」のイメージをお伝えしないわけにはゆきません。ちなみに「紅蓮地獄(ぐれんじごく)」は八寒地獄(はっかんじごく)にあたり、寒さのあまり皮膚が破れて真っ赤に、血まみれになる地獄です。だから「幻お七」の中で、昇る梯子の踏み板が「氷の道」と呼ばれるのです。
ところでこの歌詞には「照日巫女(てるひのみこ、ただの「日巫女」とも言う)」という、わが国最古の口寄せ巫女が登場します(卑弥呼=日巫女)。照日巫女(てるひのみこ)は個人名のように使われたり、たんなる口寄せ巫女の総称に使われたりもする古い名前で、シビュラ(Sybil)という、ギリシア・ローマ世界における伝説の巫女と同様の存在です。
「八百屋お七追善」歌詞(「松の落葉集」)
戯れ遊ぶ夢の世や、江戸のお七は恋故に、朝(あした)の煙と消え果てて、罪も我が身に恋衣、うらなく交わす言の葉の、吉三は夜毎恋い焦がれ、せめて冥途の便りもと、照る日の御子(てるひのみこ=照日巫女、口寄せの巫女)を頼みつつ、お七に再び梓弓(あずさゆみ)、手向(たむけ)の水こそ哀れなり。天清浄地清浄、内外清浄六根の清浄、(てんしょうじょう ちしょうじょう ないげしょうじょう ろっこんしょうじょう)世々(せぜ)も変わらじと。
たわむれ遊ぶような世の中を生きて、江戸のお七は恋ゆえに、夜明けの露のようにこの世から消え果てた。たとえ罪の女だろうと、吉三にとってみれば自分恋しさのあまり犯した罪、くったくのない言葉を交(か)わした昔が懐かしく、可哀そうに吉三は夜毎(ごと)お七に恋焦がれ、せめて冥途の便りが聞きたいと、口寄せの照日巫女(てるひの みこ)に頼み、憑依のための梓弓(あずさゆみ)をお七へ捧げ、水を手向(たむ)けた。天清浄地清浄、内外清浄六根の清浄(のりと)、(てんしょうじょう ちしょうじょう ないげしょうじょう ろっこんしょうじょう)これからも一生変わらず、お慕いします、と。
思いし夫(つま)のこなさんが、水を手向けて御回向(おんえこう)は、過ぎし添い寝の約束(かねごと)と、引き替わりたる梓弓(あずさゆみ)、唐(から)の鏡もかけ曇る、煙の地獄焦熱の、責(せめ)の苦しさ其のつらさ、閻魔さんの恋知らず、阿呆羅刹(あぼう らせつ)の野薄(のすすき)たちが、言わんす事を聞かさんせ、一度出家と名の付いた、こなんに恋を何故にした。憎い奴とてある事か、碓(からうす)地獄へ落とされて、大切(だいじ)の情の掛所(かけどこ)を、朝夕ついて責めらるる。それに何ぞや流行節(はやりぶし)、六蔵鬼(りくどうの おに)が張り上げて、五尺いよこのそれそれ、五尺てん手拭さんさ中染めたえ、
わが夫(つま)と思い定めたこなさんが、みずから水を手向(たむ)け、御回向(おんえこう)くださるとは嬉しいこと。過ぎた昔の叶わなかった添い寝の約束と、引き換えのような梓弓(あずさゆみ)、それによって許された、この世とあの世の逢瀬だわね。せっかくだから言うけれど、ぴかぴかに磨いた唐鏡(からかがみ)も曇ってしまうほどの、灼熱地獄(しょうねつじごく)で責めさいなまれ、つらい思いをしています。閻魔さんは恋を知らないわからんちん、アホンダラなうえ羅刹に生きる野ススキのような下等な連中が、こら、言われることがわからないのか、一度出家すると決まった男に何故恋をしたと、しつこく責め立てるのです。憎ったらしいと思っても、碓(からうす)地獄へ落とされて、二度と情を交(か)わせないよう、朝な夕な、大きな臼(うす)に入れられ、餅のように杵(きね)で突き責められているのです。そのうえ何なの、六蔵鬼(りくどうの おに)が声を張り上げ、「五尺いよこの、それそれ」と、おかしな唄を唄うのです。(流行した兵庫県の五尺節)「五尺いよこのそれそれ、五尺てん手拭さんさ中染めたえ」と。(同上)
此の碓(からうす)も取り置けば、彼(か)の楊貴妃や小町にも、負けじと親の育てたる、五輪五体のその指を、誓いの咎(とが)に切り捨(す)つる、その罪科(つみとが)が憎いとて、十の指をば十日目に、一つつ捥(も)いで落とさるる、二人の親の寝所を、そっと抜け出て忍びしを、親の目を抜く不孝とて、両目忽(たちま)ち針の先、
   〜残酷なので〜
水もたまらずつぶさるる、その外(ほか)責苦の数々を、較(くら)べば剱(つるぎ)の山に越え、深さ奈落の底とても、劣らぬ程の苦しさも、こなさん故と苦にならず、然(しか)しうき世に存(ながら)えば、何か思いは有明(ありあけ)の、月とも日とも思うまじ、若木の花は散り果てて、残る老木の父様(ととさま)や、母(かか)さんたちの御嘆(おなげき)が、却って猛火の雨と降る、必ず諌(いさ)めて下さんせ。
水地獄もたまらない、毎日つぶされているのです。そのほかにも責め苦の数々を、あじわっているところです。 責め苦の数は比べてみれば剱(つるぎ)の山を越えるほど、苦しみの深さは、奈落の底に劣りません。それほどの苦しみですが、全部こなさんに会いたかったからなので、少しも苦ではありません。こなさんは浮世に生きているのだから、この逢瀬を喜んだあまり、こりゃ有明(ありあけ)の月だぞ、日だぞ、などと、ひとりがってに晴れ晴れとせずに、若い者が死んだあとに残ったわたくしの父(とと)さま、母(かか)さまのお嘆きを、おもんぱかってくださいね。そのお嘆きが地獄で猛火の雨と降り、このわたくしを苦しめることになると、両親によく言い聞かせ、必ず諌(いさ)めてやって、わたくしを救ってくださいませね。
餘(よ)の人千夫萬夫(せんぷまんぷ)より、君が手向(たむけ)の香花(こうげ)には、罪も消え行く後(のち)の世は、ひとつ荷(はちす)に二人寝て、積もる恋しさ語り度(た)く、思い廻せどなかなかに、冥途の使い繁(しげ)き故、名残惜しくも帰るぞえ、さらばと言うも跡絶ゆる、梓(あずさ)の上ぞ哀れなり、吉三は恋しさいや勝(まさ)り、兎に角菩提を祈らんと、花の姿をふり捨てて、墨の衣に引き替わる、煩悩即ち菩提なり、歌うも舞うも法(のり)の声、貰い涙に袖絞る、目元に汐がえ。
世界に千人万人の人がいて、誰が回向(えこう)してくださろうが、貴方さまが手向(たむ)けてくださる香花(こうげ)にまさるものはありません。罪を償い終わった後生(ごしょう)には、ひと房の蓮(はちす)の花弁に二人で寝て、積もる恋の想いを語りたいと願っているのだけれど、冥途の使いがさっきから繁々(しげしげ)と来てわずらわしく、名残惜しいけれど、もう帰ります。じゃあね、と言うきり、お七は消えた。お七の気配だけがしみじみと、梓弓(あずさゆみ)の上に残っていた。吉三は、ますます恋しさが募(つの)ったあげく、今はとにかく菩提を弔わなければと心が急(せ)いて、花のような小姓姿を振り捨て、すぐさま墨ごろもに変った。煩悩はすなわち菩提なり。唄うも舞うも、すべては仏性(ぶっしょう)のあらわれである。傍(かたわら)で見守った人々も、貰い泣きで袖を濡らし、目元がしょっぱくなったほど。
遊女文化と仏教の地獄思想
現代人のわたしたちの目に不可解に映るのは、「八百屋お七追善」のなか、お七が地獄の獄卒に責められるのは「仏師になる予定の相手に女犯(にょぼん)の罪を犯させたこと」「親を欺(あざむ)き恋を貫いたこと」「親に貰った肉体を、起請文を書くため小指を切るなど切り刻んだこと」です。放火の罪は、いっさい問われません。つまりこの時代の仏教が重要視したのは、性的な清純さと家父長制度への従順であって、まるで儒教のように感じます。
この教えの結果として、「遊女は死ぬと、みな地獄へ堕ちる」と言われました。吉原遊郭などを「苦界(くがい)」と呼ぶのは、そこで生活する遊女が今、苦しいからではなく、死ねば必ず地獄の責め苦を受けるからです。
「幻お七という踊り」の記事を読み、気づいた方もいらっしゃったかと思います。「幻お七」作詞者(原作者)である木村富子は旧姓を赤倉と言い、明治44年(1911)の吉原大火まで吉原遊郭にあった「中米楼(なかごめろう)」の娘です。その父親の名前が「赤倉鉄之助」、この名前に見覚えのある方は多いはず。映画やテレビドラマになった「吉原炎上」の揚屋の主人の名前です。
吉原遊郭と木村富子
木村富子の父方の祖母が加賀藩のお狂言師だったことは、「幻お七という踊り」の記事にも書きました。赤倉家はもとは武家ですが、木村富子の祖父・祖母(お狂言師)の代に「中米楼」を買って経営に乗り出しました。映画やドラマの主人公「久野(のち角海老楼へ移り「紫太夫」と名乗る)が所属していた頃は、総領娘だった長女で舞踊家の赤倉古登子(のちの喜熨斗古登子)が経営し、兄弟の赤倉鉄之助とその妻夫婦が帳場を廻しています。これは強く断言しておきますが、映画・ドラマの「吉原炎上」で描かれる下品な吉原遊郭と遊女のイメージはまったくデタラメで、「赤線地帯(1956年、溝口健二監督)」など、敗戦直後の貧しい娼婦の悲哀を描く、映画の影響を受けすぎていると思います。
自分も何度か、「お狂言師」の芸を受け継ぐという方にお会いしたことがあります。また、かつて吉原遊郭にいたという女性たちのバーへお邪魔したことや、吉原遊郭で演奏していたという男女のもと芸人の方、昔は放蕩者で遊女に養われていたというお年寄りにまでお会いしたことがありますが、どなたもみんな「キリリとしゃんと」した方たちでした。全員ご老人でしたが、内側から匂い立つように美しい人たちです。映像で言えば、坂東玉三郎監督・吉永さゆり主演「夢の女」という映画の世界が、事実に一番近いように感じます。映画・ドラマの「吉原炎上」を鵜(う)呑みにしないでくださいね。
実際の「中米楼」の様子は、久野の孫という人が書いた「絵草紙 吉原炎上」という本に詳しく、また、初代 市川猿之助の妻・喜熨斗古登子(赤倉古登子)の晩年のインタビュー「吉原夜話」にも残されています。
要するに木村富子は遊郭文化(実家が揚屋「中米楼」)と唄(母方が琴古流尺八宗家)に詳しく、むしろその中で育った人でした。そのため「黒塚(くろづか)」にせよ「幻お七」にせよ、世間から地獄に堕ちると揶揄されるような主人公をきわめて愛情深く、且つ、罪の中心から目をそらさず、ありのまま描写する傾向があります。
これだけはお伝えしなければいけません。木村富子は最晩年に国策作品の製作にかかわり、「南洋萬歳」(1944年)という舞踊劇を書いて外国から批判されています。夫の木村錦花も、子息の5代目 澤村源之助(1907〜1982年)も伝統芸能の中で生きていたのですから、木村富子が国家の政策に従うのは仕方のないこと、いち芸術家の責任を問うべきではないと考えます。第二次世界大戦後まで生きていたら、戦中作品を批判されて悔しい思いをしたかもしれません。さいわいに、と言って良いかはわかりません。木村富子は昭和19年(1944)に没し、現在は東京の天龍寺(東京都品川区)に眠っています。
「幻お七」歌詞
恋風に ほころびそめし 初ざくら
花の心も白雪の うきが上にも降り積みて
解けぬ ゆうべの もつれ髪
いつか人目の すき油
おもい 丈長(たけなが) むすび目も
しどけなり振り かの人を
偲(しの)ぶ押絵の 羽子板に
いとしらしさの 片えくぼ
そっと突いて 品遣(しなや)り羽子も
二つ三つ四つ いつの日に
遭わりようものぞ 遭いたさに
無理を湯島の神さんへ
梅も絶ちましょ 白桃に
妹背(いもせ)わりなき 夫婦雛(みょうとびな)
あやかりたさの振袖に 
誰(た)が空焚(そらだき)の移り香や
あるか無しかのとげさえも ふるう手先に 抜きかねる
寂漠(しじま)がえんの はしわたし
のぼりて嬉し 恋の山
「おお さっても見事な嫁入りの」
花の姿や 伊達衣装
いろ土器(かわらけ)の 三つがさね
祝いさざめく その中に
うちの子飼いの太郎松(たろまつ)が
ませた調子の 小唄ぶし
誰に見しょとて 五百機(いおはた)織りやる
いとしけりやこそ 五百機(いおはた)の
褄(つま)をほらほら 吹く春風に
あらうつつなの 花吹雪
狂う胡蝶や 陽炎(かげろう)の
燃ゆる思いも そのままに
今はかいなき 仇枕(あだまくら)
遭(お)うて戻れば 千里も一里(いちり)
遭わで戻れば 又千里 ほんにえ
夢の浮世にめぐり遭い おもい合うたるその人の
おもかげ恋し 人恋し
遭いたや見たやと 娘気(むすめぎ)の
「おお お前は吉さま」
狂い乱れて降る雪に それかあらぬか面影(おもかげ)の
かしこに立てば そなたへ走り
ふっと見上ぐる 櫓(やぐら)の太鼓
「あれあれ 吉さまを連れて何処へ ええ憎い恋知らず 返しゃ 戻しゃ」
打つやうつつか 幻を
慕(しと)う 梯子(はしご)の踏みどさえ
一足づつに 消ゆる身の
果(はて)は 紅蓮(ぐれん)の氷道(こおりみち)
危うかりける 次第(しだい)なり

現代語訳
心の中に恋の風が吹き荒れ、初桜が咲いています。積もった冷たい雪のうえにも、花の心が降り積もるのです。夕べ抱き合ったかのように、風に吹かれて、髪がもつれて解(ほど)けません。
いつか、ひとめでいい、お遭いしたいと思案しながら、髪すきの油をとり、悩みながら長い髪を結びますが、その結び目もすぐに解けてしまいしどけなく。なりふり構わず、彼(か)の人へ想いを馳せる、わたしです。
彼(か)の人に似た押絵羽子板の、かわいらしい片えくぼをそっと指でつついてから、しなしなと色っぽく、羽根つきのふりをして遊んでみたり。二つ打ち、三つ打ち、四つ打ち、あといくつ打ち数えたら、あの人に遭えるのでしょうか、 遭いたいのです。無理を承知で湯島天神さんへお願いしてみました、天神さまになった菅丞相(かんしょうじょう)さんにあやかり、梅断ちをして、代わりに白桃を食べています。そうして男と女はわからないものね、と、大人ぶって夫婦雛(めおとびな)に話しかけたりするのです。
夫婦雛(めおとびな)にあやかりたいと思いながら、まだこのように振袖姿。ああ。空焚きで染み込ませたこの香のかおりは、あの人の移り香、あるかなしかの棘を抜いてあげようと、手先を動かすにも、あの人のお顔が美しすぎて、手が震えたほどでした。ふたりとも、お互いがお互いに見入ってしまい、ずっと沈黙が続きましたね。その沈黙が、恋の始まりでした。恋の山に登ることができて、嬉しくて仕方がない今のわたしです。山から里を見下ろしたところ、花嫁行列が目に留まりました。
「ああ、なんて見事な嫁入り仕度(じたく)でしょう。」
花嫁の色とりどりの伊達衣装と、美しい三つ重ねの調度品が目に入ります。行列を取り囲み、祝いに賑わうその中には、大人の声で小唄を歌い、花嫁を言祝(ことほ)いでいる、うちの奉公人の太郎松(たろまつ)が、いるではありませんか。(ああ、そんならあれは、わたし自身の嫁入りなのだねぇ)
誰に見せようと、あんなに色とりどりの機(はた)を織ったのでしょうか。愛しいあなたのためだからこそ、色とりどりの機(はた)を織ったのですよ、着物の褄(つま)が、吹きつける春風に、ほらほらと軽く翻(ひるがえ)ります。ああ、花吹雪が舞い始めました。これはいったい、現実なの?
胡蝶が舞い狂い、足許には陽炎(かげろう)が、もやっとばかり立ち昇ります。燃える想いを捨て置かれ、今は甲斐なく感じる、独り寝の、憎いほどに寂しい、わたしの枕の部屋なのに。
お会いすることができれば、千里の道も一里に感じます。お会いすることができなければ、千里の道は千里のうえにまた千里です、ああ本当に。
確かなものなどない人の世にもかかわらず、夢のように出会いが叶い、相愛となることができた、その人のおもかげが恋しい、その人が恋しい、逢いたい、見たい、その娘ごころを、わかってください。
「おお、そこにいるお前は、吉さまではないか」
さてもこうして、狂い乱れるように降る雪のなか、あるかないか、わからないほど微(かす)かな面影が、お七の目には見えている。幻影がそちらへ立ったと見ると、そちらへ走り寄り、ふっと見上げたところ、そこに火の見櫓の太鼓があった。
「あれあれ、吉さまを連れて何処へ行くのじゃ」
「ええ、憎い奴め。わたしたちの恋を知らず、邪魔をするか。吉さまを返せ、戻せ」
お七は邪魔者を打とうとするのだが、それが現(うつつ)か幻(まぼろし)か、もう、わからない。吉三郎を慕って昇る梯子の踏み板は、ひと足ごとの死への道行き。その果てに紅蓮地獄(ぐれんじごく)の待ち受ける、氷の道なのだけれど。お七が危うい道へ踏み込んだのは、こういう事情だったので、ございますよ。
 
草双紙と講釈の世界 折口信夫
飜案物と言へば、少し茫漠とするが「書き直し物」で通つてゐる種類の脚本がある。歌舞妓根生ひにでなく、他の読み物・語り物・謡ひ物から題材の出てゐる狂言を言ふ語なのだが、歌舞妓の性質から、も一つ特殊な分類を示す語にもなつてゐる。曾我物・浅間物・伊達物などと言ふ風に、一つ題材の狂言をくり返してゐるものは、其主要な事件や、人物を据ゑ置いて、脚色を替へると言ふ方法が行はれてゐた。
今度昼夜に分けて舞台にかけられる「時鳥侠客御所染ホトトギスタテシユノゴシヨゾメ」――曾我綉侠モヤウタテシユノ御所染――が其であり、「吉様参由縁音信きちさままゐるゆかりのおとづれ」が其である。御所染は小説の書き直しであり、由縁の音信は講釈の焼き直しであつて、両方とも河竹黙阿弥の作る所である。
前者は、柳亭種彦の読本――之を仮名書きにした草双紙合巻ガフクワンの方が、広く行はれた。浅間嶽面影草紙及び後輯逢州執着譚アフシウシユヂヤクモノガタリの書き直しである。原作と違ふ点は、今度出る――久しく上場せられなくて、今度出ることになつた時鳥殺しの場の敵役である。浅間巴之丞の奥方瞿麦ナデシコが毒酒を盛つて、悪瘡を発した愛妾を菖蒲咲く八橋ヤツハシにひき出してなぶり殺しにする。其が狂言では、後室百合の方となつて居て、おなじ嫉妬ながら、少し風変りに書かれてゐる。中将姫における岩根御前のやうな継母めいた残忍性を持たしてゐる訣で、其為時鳥のあはれさが一層清純化せられて来ることになるのである。
書き卸しには、百合の方と五郎蔵とが小団次の持ち役になつてゐた。別に深い理由はなく、老女の方が小団次の為勝手シガツテだつたに過ぎないから、さうした新しい性根を持たしたのだと言ふまでゞあらう。其替り、自分の困るやうな工夫をつけてくれと小団次に望まれて、五郎蔵切腹の後、尺八を吹きおなじく自害した杜鵑花サツキ――皐月――が、胡弓を合せて死んで行くと言ふ筋をつけた黙阿弥であつた。こんな皮肉な案を立てたところにも、作者と役者との美しい誼みの見られるのが快いことでもある。
近年芝居にかゝるのは、五郎蔵皐月の縁きりに星影土右衛門が絡んで来る部分だけなので、逢州殺しなども、一向痛切味を持つて、人を悲しませない。浅間の旧臣須崎角弥と言ふ五郎蔵の前身を思はせるやうな内訌した性格描写が度を過ぎて、逢州殺し以前にもう悲劇になつてゐる五郎蔵を演ずる役者などもある。若手芝居に期待してよいのは、さう言ふ新しい理解と、感覚とが、行き詰つた性格描写をつき抜いて、爽やかなものを創造して来る点にあるだらう。小団次から音羽屋系統へ伝承せられて来た行き方に、こゝらで一つの飛躍点を見せてほしいものだ。(初演年紀。江戸市村座、元治元年二月)
乾坤坊良斎の講釈「小堀家騒動」を本筋として、八百屋お七の世界に持ちこんで所謂実録物らしく為立シタてた狂言である。謂はゞ旗本小堀家の私事で、国持ち大名のお家物とは違ふのだが馴れた筆つきに、やはりお家物々々々した重くるしさを離れてゐない。見物は舞台よりも数等低い武家の家庭を周る小世間を想像して居ればよいのである。作者は「お七吉三」と言ふ風に、何処までも並べて見たい世間の甘い感傷をつき放すやうな残酷さで書いてゐる。美しい恋の連名からはみ出した吉三は、市井の小悪党になつてゐるが、此が髪結新三が「お駒才三」の偶像破壊の企てゞあるやうな、おなじ皮肉を含んだ愛敬だつたのだ。が、元来、実録の吉三は悪党で、お七の放火を知つてゐて、八百屋の一家を嚇しては、金をとつて居たと言ふ噂話が別に伝つて居た処から、思ひついた脚色である。
其と言ふのが、八百屋お七歌祭文以来、江戸生粋の事件が、浄瑠璃・歌舞妓・小説類に何百遍となくくり返されて、江戸人にとつては、何にも替へ難い誇りであつた。お七だけは神女の様に天人のやうに穢すことなくそつとしておいて、何か「乙オツ」な工夫はと言ふ洒落気が、とう/\こんな茶気満々たる書き物を作ることに導いたのである。其「天人お七」の実兄が、湯灌場吉三であつて、其が又天人香の看板の前で、天人もどきに横になつて見せる――「よう御趣向――」と叫ばせて見よう、と言ふ茶番めいた気分が、この作に行き渉つてゐることを思うて見物するのでなければ、意味がない。
かうした軽演劇的な要素が、ちらと姿を見せては過ぎる、其をまじめな芝居の間に、ちら/\と見て、やつぱり自分たちは市井の世間を離れずに居るのだと言ふ安心のやうな心持ちに慰撫せられながら、見物する。――さう言つた見物気分が、「由縁音信」などには、濃厚に残つてゐる。其にまう一つ、吉三や、弁秀や、湯島のおかんなどが、入り乱れ掻き廻してだんまりもどきに出没する舞台を見てゐると、何が善やら、悪やらわからなくなる。唯いせいのよいのが善で、時に鼻の心シンを辛くさせるのがひゆうまにちいだといふ位のことしか判断の出来なかつた八百八街の、罪も報いもない市民の生活が極めてまじめに、だが、思ひがけない形に漫画化せられて出て来る、謂はゞ今では貴重な古ふいるむの一つが此芝居である。(初演年紀。中村座、明治二年七月) 
 
ぼやで身を焼く八百屋お七
恋に賭けた女の一途な可憐さは、後世の人々の涙をそそるに十分すぎるものでしたから、文学、歌舞伎、落語などの素材として取り上げられています。このことについては後に記すこととしまして、まずは火事のことを述べます。
お七火事といわれるものには、天和2(1682)年1月27日の火事と同年12月28日および天和3(1683)年3月2日の火事(『天和笑委集』)説があり、現在のところはっきりしていませんが、藤口透吾氏は、天和2年1月の火事がお七火事であり、12月の火事のときにはお七は、伝馬町の牢につながれていたとしています(『江戸火消年代記』)ので、以下は藤口説によって話を進めることにします。
天和元(1681)年2月の大火で焼け出された八百屋太郎兵衛一家は、駒込の円乗寺前に仮小屋を建て、しばらく住んでいました。
そのうちに、娘お七は、寺小姓の左兵衛と人目を忍ぶ仲になっていましたが、皮肉にも太郎兵衛の新居が元の場所にできたので、門前の仮住いを引き払わなければならなくなりました。
その後のお七の胸の内は、いまさらいうまでもありません、そこに現れたのが、ならず者の吉三郎で、彼はお七の耳にささやきました。
「それほどお小姓が恋しいのなら、もう一度、家が火事になれば円乗寺に行ってられるぜ。」
恋は盲目のたとえどおり、お七は前後の見境もつかなくなり、明けて間もない1月のある日、自分の家に火をつけ、円乗寺へと駆け出したのです。
この放火が、江戸の中心部を総なめにする大火の元となったという説もありますが、実際は近所の人がすぐに消し止め、ボヤで済んだというのが真実のようです。
しかし、当時は「失火者斬罪令」(延宝6年)があった時代です。ましてや放火犯人は引回しの上、死罪とされていましたので、お七は天和3(1683)年3月29日、鈴ヶ森で火焙りの刑に処せられたのです。 この時、お七は17歳でした。
ならず者の吉三郎は、お七をそそのかし、火事場泥棒を決め込んでいたところを捕えられ、教唆犯としてお七と同じ刑に処せられたのです。
一方、お七の恋の相手の左兵衛は、このことを知って自害をしようとしましたが果たせず、以後は剃髪して高野山や比叡山を巡り修行につとめ、やがて目黒に戻って西運堂を建立し、名も西運と改めて一代の名僧とまでなりました。入寂したときは、70歳を越えていたと言われています。
ここで異説のまとめをしておきましょう。
火事の日についてはすでに書いておきましたが、お七が焼け出された火事については、天和元年12月28日だとするもの、および翌2年の同月同日だとするもの(どちらも記録に残る火災)があります。焼け出された太郎兵衛(これも市左衛門とするものあり)一家が身を寄せた寺についても、正仙院だとするものがあり、また寺小姓の名にあっては、左平、吉三、生田庄之介といろいろあります。
次にお七を素材とした文学作品などについて紹介します。お七を題材とした最初の文学作品は、お七が火焙りの刑で処刑された天和3(1683)年から数えて3年後の貞享3(1686)年で、井原西鶴によって「好色五人女」の中に書かれました。
人形浄瑠璃としては、元禄16(1704)年2月、大阪豊竹座で上演された紀海音作の「八百屋お七歌祭文」があります。
歌舞伎狂言に初めてお七が登場したのは、宝永3(1706)年正月、大阪嵐右衛門座で公演された吾妻三八作の「お七歌祭文」で、その後数多くの作品が演じられましたが、中でも黙阿弥作の「松竹梅雪曙」は、安政3(1856)年、市川小団次(四代目)が、市村座において人形振りで見せて、大評判となった作品です。
落語としては、お七が放火の罪で火焙りになったことを知った恋人の「吉三」が、可哀相にと自分も大川に身を投げてしまいます。あの世で出会った二人が、「お七か」、「吉三さん」と抱き合うと、「ジュウ」という音がしました。お七が火で死に、吉三が水で死んだことから「火」と「水」が合わさって「ジュウ」。お七の「七」と吉三の「三」を足して「十」という仕込み落ちの話です。
八百屋お七の火事は、放火火災といわれています。そこで江戸時代の放火に関する刑罰について、見てみると次のようでした。
江戸時代から現代に至るまで、放火は常に火災原因の上位を占めています。江戸時代、放火の予防・取締り方策として「火附盗賊改」を設けたり、放火に関する町触れを出す一方、寛保2(1742)年、江戸幕府の基本法典として制定した「公事方御定書」、別名「御定書百箇条」の中に、放火・失火に関する罰則を定め、放火犯や失火を罰していました。
次は、「御定書百箇条」に定められた放火に関する刑罰です。
○放火張文の罪(「御定書百箇条」第六三条・火札張文候者御仕置之事)
「遺恨を以て火を可付旨張文又は捨文いたし候者 死罪」火札とは、相手に遺恨をもって火をつける旨を通告する脅迫状で、これには張文又は捨文(投文)がありました。
○放火の罪(「御定書百箇条」第七○条・火付御仕置之事)
「火付候者 火罪  但焼立申さず候はば引廻之上 死罪  人被頼火付候者 死罪  但頼候者 火罪  物取にて火付候者引廻之地  日本橋、両国橋、四谷御門外、赤坂御門外、昌平橋外」
放火罪には、刑罰に引回しが付け加えられ、また、物取りのために放火した場合は右記の五か所と放火場所ならびに本人居住の町中を引回し、御仕置場に罪状を記した立札が立てられました。 物取りでない放火の場合は、放火場所と本人居住の町中を引回したうえ、処刑しました。
なお、「火罪」とは俗にいう「火焙りの刑」のことで、「死罪」とは「斬首(打首)の刑」で、この刑は、下手人(人を殺し、情状酌量された者が首を斬られる刑)よりは重く、獄門(斬首されてからその首を3日間刑場にさらすという恥辱が付加された刑)よりは軽い刑でした。  
 
八百屋お七の怪異と転生
ふたつのお七譚
八百屋お七と言えば、浄瑠璃を始め歌舞伎にも映画にもなっている有名な少女だ。創作において「情念に散った少女の悲劇」の象徴であり、そのドラマ性に多くのストーリーが生み出された。浄瑠璃『伊達娘恋緋鹿子』で火の粉が舞う中、火の見櫓に昇った振袖のお七が半鐘を鳴らす姿は、哀しく美しい狂気に満ちており、一番の見せ場だ。
そんな八百屋お七も、落語にかかるとどうにも憎めない話となってしまう。東大落語会編纂の落語事典によると、お七が登場する古典落語は「お七」と「お七の十」の2篇。
お七
子どもが生まれた吉兵衛が、嫌味ばかりいう熊公に「子どもの名前はお初だって? 徳兵衛という男と心中するんだろう」と言われて言い返せずにくやしがっている。
そこに女房が、「熊さんのところの子どもはお七っていうんだから、吉三と良い仲になって火をつけて、鈴ヶ森で火あぶりになると言っておやり」知恵をつけてくれた。
さっそく吉兵衛は熊公のところに行って八百屋お七の話をするが、根が良い人間なのでうまくいかない。いつまでも話が進まないものだから、熊公が先回りして
「ははあ、放火して火あぶりになるってんだろ。火をつけたからどうなるってんだ」
「うん、だから火の用心に気をつけねェ」
六代目圓生の「圓生全集」にある他、古いところでは「百花園」に初代三遊亭圓遊の速記がある。圓遊の速記では、サゲで熊公が「火あぶりになるってんだろう」、吉「早いやつだなあ、もうおっかあに聞きやがった」。
他、圓生の他には五代目の三升家小勝がかけていたそうで、古くからある噺なのだろう。圓生は、柳家小せん師に教わったという。
原話は寛延4年「軽口浮瓢箪」の「名の仕返し」。「あわびのし」に近い噺であり、落語の中の女性は強くてとてもよろしい。
さて、もうひとつの「お七の十」は本題の怪談噺だ。
お七の十
恋変じて無情となり、無情変じた恋はない。色恋のためならば道ならぬことをする者はいくらもある。
天和元年の大火の折、本郷の小町と呼ばれるほどの美少女・お七は焼け出され、避難をするもお手付きになってはいけないと、駒込の吉祥寺へ預けられることになった。
寺方なら間違いはないだろうという親心であったが、これが大間違い。寺には業平かと思われるほどの美青年の小姓・吉三と出会い、想い想われで人目を忍ぶ仲となる。
そうこうしているうちに、本郷の新宅が完成し、お七は家に戻ることになった。 衝立の向こうの吉三に 「あたしゃ、本郷に行くわいなァ…」 涙ながらに親に連れられお七は寺を後にした。
それからというもの、吉三の姿が目に浮かび、逢えないとわかっていても忘れられない。想いは募り、もう一度火事になれば、あの寺の吉三さんに逢えるかもしれない。
こうして火を付けてしまったお七は、放火の罪は重いと鈴ヶ森で火あぶりとなった。
吉三の方はこの事件を知って大層悲しみ、お七が火で死んだのだったら、自分は水で死のう。吾妻橋から飛び込み、土座衛門となって十万億土、
「暗いところに来てしまった。おや、誰かこちらに向かってくる。えー、少々伺います。極楽ってのはどっちに行ったらよろしいのでしょう。お七という娘を探してるんですが」 「あら、まあ、わたしがお七ですよ。そういうあなたはどなた」 「わたしは小姓の吉三です」
火あぶりにされて黒くなったお七と、土座衛門でふくれた吉三が、懐かし可愛やと抱き合ったら、火と水が合ったからジューッ。しかもお七の七と吉三の三を足して十…。
吉三と逢えたお七だが、成仏はできないものとみえて、夜な夜な鈴ヶ森に亡魂が出るという。そこへ、二尺八寸を帯挟んだ武士が通りかかった。南無妙法蓮華経の題目石の傍らから現れ出でたるお七の幽霊…
「何だ其の方は。なに、お七。幽霊に恨みを受ける因縁はない」 「あってもなくても構わない。16歳で火あぶりになって恨めしいからとり殺すぞ」
いきなり威張りだしたお七に、武士の方も黙ってはいない。サッと横に払った刀でお七の片足の腿から下を切り落とした。
「これは敵わぬ、敵わぬ」 「お七、其方は一本の足で何処に参る」 「片足や、本郷へ行くわいなァ…」
昭和28年出版の落語速記本「落語選集」から。サゲはお七の台詞である「あたしゃ、本郷に行くわいなァ」の地口オチ。こちらも、小噺を集めて一席にまとめた地噺だ。
至って罪のない噺である。五代目の圓生や四代目柳亭痴楽が演じていたという。以降、かけられてはいないようで、東大落語会編纂の落語事典にも掲載されていない。
鶏になったお七
それにしても、お七は吉三と黄泉の国で再会できたというのに、なぜ生きている人が恨めしいと幽霊となってしまったのだろうか。まだ16歳という少女の身空、恋を全うしたとしても、生への未練は断ち切れなかったのか。
そのヒントは、江戸時代文化期の文人・狂歌師の大田南畝が随筆にしたためている。
お七墓(おしちのはか)
八百屋お七の墓は、小石川円乗寺にある。古い石碑には「妙栄禅定尼」と彫られ、その傍らには立像の阿弥陀を彫刻した新しい碑がある
ある人が円乗寺の住職に由来を聞いた。
京極佐渡守高矩の足軽が、同家の菩提寺である駒込の天沢山竜光寺の墓掃除に通う夢をみた。小石川馬場の辺りを通ると、頭は少女で首から下は鶏という奇妙なものが出て来て、足軽の裾をくわえて引っ張った。
「何の用か」 「恥ずかしながら、わたしは以前火刑に処せられた八百屋お七という者です。いまだこの通り成仏できずにおりますので、どうか跡を弔ってください」
足軽は、同じ夢を3晩続けてみた。妙なことと思い円乗寺へ行くと、
「いかにもお七の墓はあるが、火災の節に折れてしまった。無縁の墓ゆえ再興する者もなく、そのままになっている」
そこで足軽は新たな墓碑を建て、阿弥陀の立像を彫刻させ、お七の法名を入れて、古い墓石の傍らに添えた。さらに、法事を頼んでいったという。
お七がなぜその足軽に法事を頼んだのかはわからない。足軽も、それ以来円乗寺に来ることはなかった。
人間の業は三毒から
少女の顔を持った鶏が、お七を名乗り法事を頼む。お七はなぜ鶏の姿になってしまったのだろうか。
その謎は、仏教の「三毒」にある。三毒とは、仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩、貪・瞋・癡(とん・じん・ち)を指す。
貪は、貪欲(とんよく)ともいう。むさぼり(必要以上に)求める心。瞋は、瞋恚(しんに)ともいう。怒りの心。「いかり」・「にくしみ」と表現する。癡は、愚癡(ぐち)。真理に対する無知の心。「おろかさ」と表現する。
三毒はそれぞれ、鶏・蛇・豚の動物に象徴される。お七の体は鶏であり、成仏できないために鶏と化していると足軽に伝えている。鶏の意味するところは、「むさぼり求める心」だ。
お七は、吉三と生きて情を重ねたいと願っていたのだろう。心中してあの世で共にではなかった。生きて恋を謳歌したかった。一番綺麗で輝かしい一瞬の時の自分を、吉三に捧げたかった。
江戸怪談によくある、嫉妬や怨念は、この噺には出てこない。あるのは愚かで稚拙な欲望だ。どこか物悲しくて美しい。全てを燃やし尽くすとわかっていても求めてしまうのが、人の業というものだろう。
あなたのそばにも八百屋お七
お七の話は、時が経つほどに陰惨で悲劇的になっていくが、実際の火刑は生きたままではなく、絶命させてから行われたらしい。「天和笑委集」によれば、市中引き回しの際も鮮やかな化粧と島田に結い上げた豪華な振袖姿だったという。
吉三のその後はいろいろな説があるが、「恋草からげし八百屋物語」の井原西鶴は、吉三は出家して僧となりお七を生涯弔ったとしている。
お七の運命を変えた火事は、1683年1月25日。騒動から300年は超えていることだし、そろそろお七も人の姿で転生して、どこかで幸せに暮らしていてよい。 
 
誕生寺に伝わるお七伝説
久米南町編で、法然上人ゆかりの誕生寺をご紹介します。誕生寺の歴史をはじめ、本堂、今に伝わる様々な伝説をお聴きしました。
境内にある公孫樹(イチョウ)は、法然上人が地に挿した1本の杖が伸びて、今の大きさになったと言われています。樹齢は850年以上で、地に挿した際に根が上であったため根が空に這うように伸びた事から『逆木(さかぎ)の大銀杏』とも呼ばれているそうです。
そして、誕生寺といえば、八百屋お七の伝説も知る人ぞ知るお話です。
八百屋お七は江戸時代前期、江戸本郷の八百屋の娘です。恋人に会いたい一心で放火事件を起こし、火刑に処されたとされています。
私はかつて赤井克己さんにこの話を聴いて、誕生寺まで振袖を見に来たことがありました。まずは私が赤井さんから聴いた話をすると・・・江戸時代260年の間、大火は3年に1度、小火(ぼや)は1週間に1度の割合で発生したそうです。木造家屋が狭い路地にひしめくように建てられていたので、ひとたび火事になるとたちまち燃え広がったとの事。江戸最大の火事は、明暦3(1657)年1月に起こりました。本郷から出火、折からの強風にあおられて、2日間にわたって江戸の中心部をほとんど焼き尽くし、焼死者11万人の大惨事となったそうです。江戸城天守閣を焼失したのもこの時とか。この明暦の大火から25年後の天和2(1682)年12月にも大火事があり、死者3,500人といわれました。この天和大火の被災者に、本郷駒込で八百屋を営むお七一家もいました。八百屋とはいえ、加賀前田家御用達をつとめる大店(おおだな)で、お七は箱入り娘。一家は避難先の小石川の園乗寺(正仙院、吉祥寺などの説もある)で暮らしていましたが、お七は寺の美貌の僧と恋仲になったそうです。まもなく、再建された家に戻りましたが、お七は男性が忘れられない日々。『もう一度火事になれば、恋しい人に逢える』と一途に思い込み、翌年3月自宅に放火。これは小火ですみましたが、お七は捕らえられ奉行所で裁かれる身に。当時の掟としては、放火犯は火あぶりの極刑。ただし15歳以下は、罪一等減じて島流し。お七は16歳になったばかりだったそうです。奉行は世間知らずで純情なお七を不憫に思い『お前は15歳であろう。間違いないな』と誘導尋問をするが、お七は『16歳です』とかたくなに主張。奉行はやむなく火あぶりの極刑を言い渡し、お七は裸馬に乗せられ、市中引き回しの上、鈴ヶ森で処刑されたという話でした。当時の人気作家・井原西鶴は『好色五人女』でお七を取り上げ、歌舞伎で上演したところ大人気!『お七火事』は江戸の町民の間に定着しました。浄瑠璃でも『八百屋お七恋緋桜』としてお七の純情さが女性に人気を呼んだそうです。明治、大正では岡本綺堂、真山青果などの劇作家も手がけ、近年では有名演歌歌手もお七の悲恋を歌っていたとの事。以上が赤井さんから伺った話でした。
引き続き、誕生寺の安田勇哲さんのお話です。
多数ある八百屋お七の物語のほとんどで共通しているのは、『お七という名の八百屋の娘が恋のために大罪を犯す物語』。
小説などの『読むお七』、落語などの『語るお七』では、お七は恋人に会いたいために放火をしますが、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)、日本舞踊、浮世絵などの『見せるお七』ではお七は放火はせず、代わりに恋人の危機を救うために振袖姿で火の見櫓に登り火事の知らせの半鐘、もしくは太鼓を打つストーリーに変更されているそうです。
ちなみに、火事でないのに火の見櫓の半鐘・太鼓を打つことも重罪であるとの事。
では、誕生寺になぜお七の振袖と位牌が?
その伝説は、現在の本堂が元禄8年に再建された後、ご本尊である圓光大師(えんこうだいし。法然上人)像が江戸の増上寺に7回出開帳(でがいちょう)した記録が残っているそうです。
その折に、同行していた通譽上人(つうよしょうにん)にお七のご遺族が『お七の件で家族まで罰せられる事はなかったが、それより辛い江戸でお七の供養は御法度であるとのおふれが出た。お七の為にも誕生寺で供養してほしい』との願いから預かって来たと伝わるとの事。へーっ!!
当初は観音堂の観音さんの前で供養していたので、誕生寺の観音堂の観音様を『お七観音』と呼ぶようになったとか。
願い多き人間だからこそ1つでもかなえてやろうという観音さま、特にお七にあやかり、恋に効く?とのことです。
お七の振袖はこんな感じで本堂に展示されています。振袖はいたるところが破られ、色あせた綿がむきだしになっていました。振袖をしのばす鮮やかな紫色は、裾にわずかに残っているだけです。
明治期、大阪で開かれた博覧会に出品したところ、お七の美貌にあやかろうと、振袖をちぎって持ち帰る人が続出!火災防止のおまじないに、と持ち帰った人もいたそうです。
なお、大火の原因となった恋人は吉三郎(きちさぶろう)と言って、後に出家し、お七の供養をしたそうです。
私が赤井さんに聴いた話を再びすると・・・吉三郎はお七の分骨を持って供養の旅に。諸国行脚をした後、最後にお七の位牌と振袖が納められている誕生寺にたどり着いて念願の供養をした。この後、岡山を目指して南下するが、現在の岡山市御津吉尾まできた時、力つきたのか倒れ、そのまま同所の仏生山法道寺で死亡したとの事。そのいきさつを知った土地の人々は、吉三郎を哀れんで近くの丘に葬り、合わせてお七の骨も一緒に埋葬、墓も並べてつくり供養するようになったそうです。ちなみに2人の墓は現在、トタン板の小屋の中にあり、お七の墓はなぜか三角形。小屋には『八百屋お七』の大きな看板がかけられているとか。
それにしても、こんな伝説が誕生寺にあったとは!!是非、この振袖は見て欲しいです。
なお、誕生寺の年間行事を紹介すると、今年は2月28日(日)の午後2時から行われる法然上人御忌(ぎょき)と人形供養。御忌(ぎょき)とは法然上人のご命日。
なんと!取材日の1月25日が正式な命日で、誕生寺では1ヶ月後に法要を行っているそうです。
その他、人形供養。古くなった人形等の魂抜きの作法を行い、慈悲深き観音様によって浄土に転生(てんしょう)されるよう供養しています。今年は4月17日(日)との事。
そして、二十五菩薩練供養(お会式大法要)。これは法然上人の御両親供養のための法要。お父さんとお母さんを毎年交互にご供養し、今年はお母さん(秦氏君)の供養。当日は25体の菩薩様が300m先の娑婆堂(しゃばどう)まで練り歩くそうです。

浄土宗特別寺院 誕生寺 / 岡山県久米郡久米南町里方
浄土宗の宗祖、法然上人の生家跡に建久4(1193)年に建てられた由緒ある誕生寺。その境内のいちょうは上人のお手植えと伝えられています。その木の下に立ち、幾百年の時を越えた歴史に思いをはせることから、わたしたちの旅は始まります。
法然上人が今から約850年前の承安5(1175)年に開いた浄土宗は、阿弥陀仏の平等のお慈悲を信じ、「なむあみだぶつ」とみ名を唱えて、人格を高め、社会のために尽くし、明るい安らかな毎日を送り、そして「往生(西方極楽浄土に生まれること)」を願う信仰です。その「他力」の新しい考えはたちまちに日本中の人々の共感を生むことになります。
法然上人はその考えを万人に伝えるために自分がいると考え、その強い信念を普遍のままに生涯を過ごされました。
御影堂は元禄8(1695)年に再建された由緒ある二重の五間堂の寺院建築で、正面に唐破風造の向拝を持ち、浄土宗における仏堂型本堂の中でも本格的なものとして、建築史的にも貴重な建物です。
建久4(1193)年熊谷直実が法然上人の命を奉じ、上人誕生の旧宅を寺院に改めた誕生寺の境内には、法然上人のお手植えと伝えられる樹齢850年の大いちょうが茂ります。