霊と幽霊

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憑依妖精悪魔論成仏成仏諸説不成仏諸説不成仏霊成仏と幽霊・・・
亡霊幽霊枯れ尾花幽霊の正体幽霊とお化け幽霊は餓鬼江戸の幽霊坂・・・
怪談 / 本所七不思議皿屋敷四谷怪談四谷怪談諸話小泉八雲の怪談牡丹燈籠真景累ヶ淵化け猫騒動学校の怪談へっつい幽霊幽霊名字幽霊の酒盛り幽霊薬タイの幽霊事情3.11震災の幽霊談幽霊を見る理由中国の亡霊説話西洋の怪談集海の亡霊首を抱えた亡霊若宮大明神の幽霊首相公邸の幽霊・・・・
霊鬼雑話今昔物語の霊鬼子育て幽霊幽霊船お化けの研究お化け考お化け幽霊船幽霊幽霊妻北斎と幽霊近頃の幽霊幽霊と文学幽霊の衣裳幽霊を見る人を見る幽霊の足画工と幽霊幽霊の芝居見幽霊の自筆世界怪談名作[幽霊]足のない男と首のない男女侠伝処女作追懐談沈黙の塔真鬼偽鬼雪女[八雲]雪女[綺堂]
シュタイナー教育亡霊としての芸術真景累ヶ淵[圓朝]
 

雑学の世界・補考   

霊 [靈]

[音]レイ(漢) リョウ(リャウ)(呉) [訓]たま たましい
〈レイ〉
1 不思議な力や働きをもつ存在。万物に宿る精気。「山霊・神霊・精霊(せいれい)」
2 肉体に宿ってその活動をつかさどる精神的実体。たましい。「霊肉・霊魂不滅/心霊・全身全霊」
3 死者のたましい。「霊園・霊前・霊安室/慰霊・英霊・祖霊・亡霊・幽霊」
4 不思議な力をもつ。人知で測り知れない。「霊感・霊気・霊験(れいげん)・霊獣・霊峰・霊妙・霊薬・霊長類」
〈リョウ〉
たましい。死者のたましい。「悪霊・生霊(いきりょう)・怨霊(おんりょう)・死霊・精霊(しょうりょう)」
〈たま(だま)〉
「霊屋(たまや)/言霊(ことだま)」  
【霊】(れい) たましい(魂) 「死者の霊を慰める」 人知ではかり知ることのできない力のあるもの。
【霊】(ち) 神や自然の霊の意で、神秘的な力を表す。「みずち(水霊)」「のずち(野霊)」「おろち(大蛇)」「やふねくくぢのみこと(屋船久久遅命)」など。
【霊・神】(み) 霊。神霊。「わたつみ」「やまつみ」
【霊】(りょう) たたりをなす生霊(いきりょう)・死霊など。怨霊。ろう。
【魂・霊・魄】(たま) (「たま(玉)」と同語源)「たましい(魂)」をいう。多く「みたま(御霊)」「おおみたま(大御霊)」の形で用い、また、「たまじわう(霊)」「たままつる(霊祭)」などの他、「にぎたま(和魂)」「ことだま(言霊)」「ひとだま(人魂)」などと熟して用いる。*古今‐四四八「空蝉のからは木ごとにとどむれどたまのゆくへをみぬぞかなしき」
魂合(あ)う 男と女など、魂がひとつに結ばれる。互いに思う心が一致する。*万葉‐三二七六「天地に思ひ足らはし玉相者(たまあはば)君来ますやと」
魂あり 物事をうまく処理していく技量がある。*十訓抄‐一「かれが小童にてあるを見るに、たまありげなりければ」
霊の夜殿(よどの) =霊殿(たまどの)
霊祭(まつ)る 死者の霊をまつる。魂まつりをする。
【霊】(ろう) 「りょう(霊)」の直音表記。*源氏‐葵「この御生霊、故父大臣の御らうなどといふ者あり」
【新霊】(にいたま) 最近死んだ人の精霊。新盆を迎える霊魂。にいみたま。
【御霊・御魂】(みたま) 神の霊。人が死んで、その魂(たましい)の神となったものを尊んでいう。みすたま。霊威。おかげ。*万葉‐八八二「あが主(ぬし)の美多麻(ミタマ)賜ひて」 盂蘭盆(うらぼん)に先祖の霊に供える供物(くもつ)。
御霊のふゆ (「ふゆ」は「振(ふ)ゆ」、あるいは「殖(ふ)ゆ」の意という)神、または天皇の恩徳、加護、威力を敬っていう語。*日本紀竟宴和歌‐天慶六年「国むけし鋒(ほこ)のさきより伝へ来る美太末農扶由(ミタマノフユ)はけふそうれしき」
御霊の飯(めし) 年の暮か正月に仏壇または恵方棚(えほうだな)に供える飯。
【霊祭】 先祖の霊を迎えてまつるまつり。一般には盂蘭盆をいう。精霊会(しょうりょうえ)。神道で、霊前祭と墓前祭の総称。
【御霊祭】 年の暮から正月にかけて、また、盂蘭盆(うらぼん)に、先祖の霊をまねく祭り。
【新精霊】(にいじょうろ) 新霊(にいたま)のこと。また、特に九州南部で新盆の家をいう。
【魂祭・霊祭】(たままつり) 先祖の霊を招きまつるまつり。中世までは、年の暮にも行ったともいう(「徒然草」一九段)が、一般には盂蘭盆(うらぼん)に行われることとなった。八月中【新精霊】(あらしょうりょう) 死後、はじめての盂蘭盆にまつられる死者の霊。また、それをまつる新盆(にいぼん)。あらぼとけ。
【新霊】(あらみたま) 死んでから、ふつう一年以内の死者の霊。新仏。
【精霊・聖霊】(しょうりょう) (「しょう」「りょう」は「精」「聖」、「霊」の呉音)仏語。死者の霊魂。せいれい。「しょうりょうまつり(精霊祭)」の略。「しょうりょうとんぼ(精霊蜻蛉)」の略。《季・秋》
【精霊会・聖霊会】 陰暦二月二二日、聖徳太子の忌日に、奈良の法隆寺、大阪の四天王寺などで行う法会。《季・春》 =精霊祭(しょうりょうまつり)
【精霊送・聖霊送】 盆の終わりの陰暦七月一六日頃、家に迎えた精霊(先祖の霊)を送り帰す儀式。送り火を焚いたり、わらや木で作った舟に供物などをのせて海や川に流したりする。
【精霊棚・聖霊棚】 盂蘭盆会(うらぼんえ)に、祖先の位牌を安置し、供え物をのせる棚。そこに先祖の霊を迎える。たまだな。《季・秋》
【精霊蜻蛉】(しょうりょうとんぼ) 精霊祭のころ現れるウスバキトンボ、キトンボなどのトンボの俗称。特にウスバキトンボをさすことが多い。しょうりょうえんば。しょうりょうやんま。《季・秋》
【精霊流・聖霊流】 盆の終わりの精霊送りの日に、供物などをわらや木でつくった舟にのせ、海や川に流す行事。灯籠を流す地方もある。《季・秋》
【精霊飛蝗】(しょうりょうばった) バッタ科の昆虫。雄は細形で体長約四センチメートル、雌はやや肥大し体長約八センチメートル。全体に緑色または灰褐色。頭部は円錐形にとがり、短い触角がある。雄はよく飛び、キチキチと音をたてるので俗に「きちきちばった」ともいう。各地の草むらで夏から秋にかけてみられる。
【精霊火・聖霊火】 盂蘭盆会のときにたく火。ふつう、迎え火・送り火をさす。《季・秋》
【精霊舟・聖霊舟】 精霊流しの船。盆舟。送船。《季・秋》
【精霊祭・聖霊祭】 陰暦七月一五日を中心とする先祖祭。盆。精霊会。盂蘭盆会(うらぼんえ)。たままつり。しょうりょう。《季・秋》
【精霊迎・聖霊迎】 盂蘭盆の初日に、迎え火をたいたり、墓参したりして、死者の霊魂を迎えること。普通は陰暦七月一三日に行うが、京都の六道珍皇寺では陰暦七月九、一〇日(現在は八月九、一〇日)に行う。《季・秋》
六道まいり
京都では、8月の13日から始まり16日の五山の送り火に終る盂蘭盆(うらぼん)には、各家に於て先祖の霊を祀る報恩供養が行われるが、その前の8月7日から10日までの4日間に精霊(御魂みたま)を迎えるために当寺に参詣する風習があり、これを「六道まいり」あるいは「お精霊(しょうらい)さん迎え」ともいう。これは、平安時代このあたりが、墓所の鳥辺山の麓で、俗に六道の辻と呼ばれた京の東の葬送の地であったことより、まさに生死の界(冥界への入口)であり、お盆には、冥土から帰ってくる精霊たちは、必ずここを通るものと信じられたからであろう。
参詣にあたっては、境内参道の花屋にて高野槇(こうやまき)を購い、本堂で水塔婆(みずとうば)に戒名を書いてもらい、迎え鐘をつき、多くの石地蔵がある境内、賽の河原(さいのかわら)と称するところにて高野槇の葉にて水塔婆への水むけ(水回向みずえこう)をする。
そして古来より、精霊は槇の葉に乗って冥土より帰ってくるとされることより、購われた高野槇は、"おしょらいさん"とともに、懐かしき我が家へのしばしの里帰りとなる。
こうした美(うるわ)しい、宗派を越えた京のお盆習俗は、都人の厚き信仰のもとに千年の時空を越えて脈々と受け継がれ、今や、京洛の夏の風物詩ともなっている。
【精霊飯・聖霊飯】 盂蘭盆の行事。子どもたちが米や銭をもらい集め、戸外に臨時の竈(かまど)を設けて炊事をして食事をする。盆竈(ぼんがま)。辻飯(つじめし)。餓鬼飯。《季・秋》
【魑魅・霊】(すだま 「すたま」とも) (魑魅)山林、木石などに宿っているとされる精霊。ちみ。人の霊魂。たましい。
【木霊・木魂・谺】(こだま) (近世初めまでは「こたま」。木の霊の意) 樹木にやどる精霊。木精。山の神。(―する)(音声が山に当たって反響するのを山の霊が答えるものと考えたところから)声や音が物に反響して帰ってくること。また、その帰ってくる声や音。山びこ。
【霊鬼】(れいき) 死者の霊。精霊。特に死者の怨霊の悪鬼と化したもの。悪霊。
【霊社】(れいしゃ) 霊験のあらたかな社。先祖の霊をまつる社。みたまや。霊廟。神道卜部(うらべ)家で、生人に授けるおくり名の下に添える語。
【御霊屋】(おたまや) 先祖の霊や貴人の霊をまつっておく殿堂。霊廟(れいびょう)。みたまや。
【霊府】(れいふ) たましいのやどる所。心。
【分霊】(ぶんれい) 一つの神社の祭神の霊を分けて他の神社の祭神とすること。また、その祭神。勧請。
【分霊社】(ぶんれいしゃ) 他の神社の祭神の霊を分けてまつってある神社。分社。
【霊廟・霊L】(れいびょう) 先祖の霊をまつってある宮。みたまや。卒塔婆(そとば)。
【霊堂】(れいどう) 霊験あらたかな神仏をまつった堂。とうとい神仏の堂。貴人の霊をまつる堂。霊舎。霊屋。みたまや。
【霊殿】(れいでん) 神仏や先祖などの霊をまつった建物。霊廟。
【霊地】 神仏の霊験あらたかな地。神仏をまつってある神聖な地。また、神社や寺など。霊域。霊場。霊境。霊区。
【霊台】(れいだい) 天文、雲気、天候などを観測する台。魂のある所。心意の府。霊府。
【霊代】(れいだい) 神や死者の霊のしるしとしてまつるもの。みたましろ。たましろ。
【霊舎】(れいしゃ) 死者の霊をまつるところ。
【御霊】(ごりょう) 霊魂の敬称。みたま。また、たたりをあらわすみたま。高貴な人、あるいは生前功績のあった人をまつる社。
【神】 宗教的・民俗的信仰の対象。世に禍福を降し、人に加護や罰を与える霊威。古代人が、天地万物に宿り、それを支配していると考えた存在。自然物や自然現象に神秘的な力を認めて畏怖(いふ)し、信仰の対象にしたもの。*万葉‐三六八二「天地(あめつち)の可未(カミ)を祈(こ)ひつつ我待たむ」 神話上の人格神。天皇、または天皇の祖先。死後に神社などにまつられた霊。また、その霊のまつられた所。神社。キリスト教で、宇宙と人間の造主であり、すべての生命と知恵と力との源である絶対者。雷。なるかみ。いかずち。人為を越えて、人間に危害を及ぼす恐ろしいもの。特に蛇や猛獣。他人の費用で妓楼に上り遊興する者。とりまき。転じて、素人の太鼓持。江戸がみ。
【仏】 (「ほと」は梵buddha、さらに、それの漢訳「仏」の音の変化。「け」は「気(け)」か。「け」については、霊妙なものの意とするほか、目に見える形の意で、仏の形すなわち仏像の意が原義とする説もある)死者の霊。また、死んだ人。死人。「仏に成る」
【閻魔・魔・焔魔】 (梵Yamaの音訳。「手綱」「抑制」「禁止」などの意。「遮止(しゃし)」「静息」など種々に訳し、また、死者の霊を捕縛する「縛」とも、平等に罪福を判定する意の「平等」とも訳す。また、古代インド神話では、兄妹の双生児であるところから「双」とも。また、Yama-rDjaの音訳、「閻魔羅社」「摩邏闍」などを略して「閻羅」「羅」などともする)仏語。死者の霊魂を支配し、生前の行ないを審判して、それにより賞罰を与えるという地獄の王。閻魔王。閻魔大王。閻魔羅。閻羅。閻羅王。*霊異記‐下・三五「死して魔の国に至る」
【餓鬼仏】(がきぼとけ) まつってくれる子孫をもたない者の霊。また、飢え死にした者の霊が、峠などで人に取りつくといわれるもの。無縁仏。
【水施餓鬼】(みずせがき) 水辺で行う仏事。経木を水に流し、亡霊の成仏を祈るもの。また、特に難産で死んだ女性の霊を成仏させるため、小川のほとりに四本の竹や板塔婆を立て、布を張って道行く人に水をかけてもらうもの。布の色があせるまで亡霊はうかばれないとする。流灌頂(ながれかんじょう)。
【化人】(けにん) 仏語。仏菩薩が、衆生を救うために、仮に人の姿となって現われたもの。化生(けしょう)の人。鬼神、畜生などが形をかえて、人間に変じたもの。ばけもの。死者の霊などが、生前の姿をこの世に現わしたもの。化生。
【蛇神】 蛇の霊力を恐れ、蛇を神とあがめたもの。また、蛇の霊を使う妖術。「へびがみつき(蛇神憑)」の略。
【蛇神遣】(‥つかひ) 蛇の霊による妖術を使うこと。また、その人。蛇持。
【蛇神憑】(へびがみつき) 蛇の霊にとりつかれたとされる一種の精神病。また、それにかかっている人。
【虞ル】(ぐふ) (「虞」は葬礼の後に霊をまつること。「ル」は祖先の霊廟にあわせまつること)埋葬を終えて帰り、その霊をまつること。また、死後の七日目ごとの法要もいう。
【千人供養】 千人の死者の霊を供養すること。
【千人塚】 戦場・刑場・災害地など、多数の死者をだした地に、その霊を弔うために作られた供養塚。万人塚。
【霊媒】(れいばい) 神霊や死者の霊がのりうつり、それらに代わって話などをすること。また、その人。霊界と現世の媒介者。巫女・口寄せの類。霊媒者。
【霊媒術】 霊媒者によって神霊や死者の霊を呼び出す術。神おろし。
【奇霊ぶ】(くしぶ) (形容詞「くし(奇)」の動詞化)霊妙に見える。不思議な様子である。*古語拾遺「是、太玉命、久志備(クシビ)所生(ませる)神」
【祖霊】(それい) 一般に先祖の霊。日本では個々の死者の霊が、三三年目などの弔上げを終わって個性を失い、祖霊一般に融合して霊質となったもの。
【祖先崇拝】 死者の霊が死後も存続するという考えから、家族、部族、民族の祖先の霊をあがめ祭ること。世界諸民族にみられ、日本にも古くからみられるが、近世以後は儒教などの影響のもとで発達した。
【魂極る・玉極る・霊極る】(たまきわる) 「命(いのち)」にかかる。「魂(たま)極る(命)」と解したところから生じたもの)魂がきわまる。命が終わる。*雑俳・広原海‐九「魂極る牲の羊の跡じさり」
【霊じわう】(たまじわう) (「じ」は「ち(霊)」で神霊の意。→ちわう)霊の力で守る、助ける。*万葉‐二六六一「霊治波布(たまヂハフ)神も」
【忠霊】 忠義のために命をおとした人の霊。英霊。
【忠霊塔】 戦死者の霊をまつった塔。
【弔う】(「とぶらう(弔)」の変化) 人の死をいたみ、その喪(も)にある人を慰める。くやみを述べる。弔問する。死者の霊を慰め冥福を祈る。法要をする。「祖先の霊を弔う」
【言霊】(ことだま) 古代、ことばにやどると信じられた霊力。発せられたことばの内容どおりの状態を実現する力があると信じられていた。上代の例には、外国に対して、独自の言語をもった国の自負のようなものがみられ、また、江戸時代末から近代には国粋主義的な発想の「言霊思想」がみられた。*万葉‐三二五四「しき島のやまとの国は事霊(ことだま)のたすくる国ぞ」 予祝の霊力を持った神の託宣。*堀河百首‐冬「こと玉のおぼつかなきに岡見すと梢ながらも年をこす哉」
言霊の幸(さき)わう国 ことばの霊の霊妙なはたらきにより、幸福の生ずる国。*万葉‐八九四「言霊能(ことだまノ)佐吉播布国(サキハフくに)と語り継ぎ言ひ継がひけり」
【言霊指南】(ことだまのしるべ) 江戸末期の語学書。二編三冊。黒沢翁満著。嘉永五〜安政三年刊。本居宣長・春庭の説を補訂しつつ、国語の活用、てにをは、係り結び、仮名遣いなどについて解説する。
【言霊派】 音義派の一つ。人の発する声に霊があり、その声を合わせて、種々の言語が作られると説くもの。中村孝道、高橋残夢などが、これに属する。
【直毘霊】(なおびのみたま) 江戸中期の国学書。一巻。本居宣長著。明和八年成立。宣長の神道説・国体観などの要旨を述べたもの。
【肉】 (霊に対して)肉体。生身のからだ。また、衣服や装飾をつけない裸の肉体や、性欲の対象としての肉体。キリスト教で、人間そのものをさす。霊に対していう。
【産石】(うぶいし) 出産直後の産飯(うぶめし)にそえる小石。川原、軒下の雨だれ跡や氏神の境内などで拾い、産神の霊をかたどったものと考え、赤子にあてがって霊を補強しようとする呪術信仰に基づく。のちには、赤子の歯や頭を丈夫にするためなどという。
【招魂】(しょうこん) 死者の霊魂を招き呼び、肉体に鎮めること。転じて、死者の霊を招いてまつること。死者をとむらうこと。生者の魂を招くこと。
【招魂祭】 死者の霊魂を招き寄せてとむらう式典。招魂社で行われた、祭祀された人々の霊をとむらった祭典。各地の護国神社で行われた。ふつう東京の靖国神社で行われた春季大祭(四月二一日〜二三日)、秋季大祭(一〇月一七日〜一九日)をいった。《季・春》
【招魂式】 死者の霊魂を鎮祭する時に行う神道の儀式。靖国神社、護国神社で新しく英霊を合祀する場合に臨時に行った儀式。
【招魂社】 靖国神社および護国神社の旧称。江戸末期から明治維新前後にかけて、国事に殉難した人士の霊魂をまつった各地の招魂場を改称したもの。靖国神社は、明治元年に京都の東山に殉難の諸士を合祀したのが前身で、翌年六月、東京九段坂上に仮神殿を造建して東京招魂社と改称、同一二年に現在名となった。また地方のものは、昭和一四年護国神社に改称された。
【山祇】(やまつみ) (後世は「やまづみ」とも。「つ」は「の」の意の格助詞。「山の霊(み)」の意)山の霊。山の神。山をつかさどる神霊。
【霊鷲山】(りょうじゅせん) (梵GィdhrakYォaparvataの訳。禿鷲の頂という山の意)古代インドのマガダ国の首都、王舎城の東北にあった山。釈迦が法華経や無量寿経などを説いた所として著名。山中に鷲が多いからとも、山形が鷲の頭に似るからともいわれる。耆闍崛山(ぎじゃくっせん)。鷲山(じゅせん)。鷲嶺。わしの山。
【喪祭】 喪に服することと祭祀をとり行うこと。葬礼の儀式。また、死者を葬ったあと、その霊をまつる祭。
【霊囿】(れいゆう) (「霊」は、神聖の意、「囿」は園内に一定の区域を定めて禽獣を養うところ)周の文王が禽獣を放し飼いにした園。
【釈奠・舎典】(せきてん) (「釈」も「奠」も置く意で、供物を神前にささげてまつること)中国で古代、先聖先師の霊をまつること。後漢以後は孔子およびその門人をまつることの専称。牛羊などのいけにえを供えず蔬菜(そさい)の類だけを供えてまつる場合は釈菜(せきさい)という。しゃくてん。さくてん。わが国で、二月および八月の上の丁(ひのと)に大学寮で孔子並びに十哲の像を掛けてまつった儀式。もし上の丁が日食・国忌・新年祭などに当たれば中の丁を用いた。廟拝ののち、饗宴があり、博士が出題・講論・賦詩などを行った。応仁の頃に廃絶したが、寛永一〇年林羅山が再興し、その後昌平黌や藩校でさかんに行われた。おきまつり。しゃくてん。さくてん。《季・春》
【聖霊】(せいれい) (英Holy Spiritの訳語)キリスト教で、父なる神、子なるキリストとともに三位(さんみ)一体をなし、その第三位を占めるもの。人間に宿り、神意の啓示を感じさせて精神活動を起こさせるもの。いにしえの聖人の霊。
【霊前】 死者の霊をまつった所の前。霊柩の前。「霊前にたむける」 神の御前。
【奇霊】(くしび) (動詞「くしぶ(奇霊)」の名詞化か)霊妙不思議なさま。*書紀‐大化二年八月(北野本訓)「万物の内に人是最も霊(クシヒなり)」
【霊祀】(れいし) 神霊または死者の霊をまつること。
【霊魂】 人だま。死者の霊が、夜などに、光を発して飛んだりころがったりするといわれるもの。
【霊魂信仰】 霊魂の存在を信じ、肉体を離れても存続し、生きている人間や事物に影響をおよぼすものとしてこれを崇拝すること。
【霊魂不滅】 人間の肉体は死滅しても、霊魂は肉体を離れて存続するということ。
【霊雲】(れいうん) 霊妙不可思議な雲。めでたいしるしの雲。瑞雲。
【霊位】 死者の霊につける名。また、それを書いた位牌。
【所変】(しょへん) 神仏または鬼、霊などが、この世に存在するものの形をかりて、人々の前に現れること。また、その姿。化現(けげん)。
【両墓制】 一人の死者に関して、死体を埋める埋め墓と、その霊をまつる詣り墓とをもつ墓制。
【植物崇拝】 特殊な樹木、森、草、草原に霊性が宿るとして、それを信仰崇拝すること。また、その祭儀。
【寄人】(よりびと) 生霊や死霊が降って寄りつく人。また、霊を寄りつかせるための小童。
【寄子】(よりこ) (「憑子」とも)物の怪(け)にとりつかれた人。また、修験者や、梓巫(あずさみこ)が生霊や死霊を招き寄せるとき、霊を一時的に宿らせるためにそばにいさせる人。よりまし。ものつき。
【山彦】 山の神。山の霊。また、山の妖怪。やまこ。
【木主】(もくしゅ) 神または人を霊にかえてまつる木製のもの。みたましろ。位牌(いはい)。木でつくった像。木像。
【貴】(むち) (「む(身)ち(霊)」の意かという。また「むつ(睦)」の変化とも)神や人を敬っていう語。多くは「大日貴(おおひるめのむち)」「道主貴(みちぬしのむち)」のように、固有名詞の下に付けて用いられる。
【向ける】 神、霊などに供えものをささげて祈る。たむける。
【御影】(みかげ) (「み」は接頭語)神や貴人を敬い、その霊魂をいう語。神霊。みたま。*書紀‐敏達一〇年閏二月(前田本訓)「天地の諸の神及び天皇の霊(ミカケ別訓みたま)」
【守・護】 神仏などの加護があること。神仏などがわざわいを取り除き、幸運をもたらしてくれること。また、そのような神仏。守り神。守護神。「神の守り」 神仏の霊がこもり、人を加護するという札。また、それを入れる袋。守り札。おまもり。護符。守り袋。
【守札】 神仏の霊がこもり、人を加護すると信じられる札。社寺から授かり受け、身につけたり、門戸などに張ったりする。まもり。おふだ。
【歩障】(ほしょう) あからさまに内部をのぞかせないための移動用の屏障具。幔(まん)や几帳で周囲をかこい、柱を持たせて移動する大形のものと、外出者自身で持つ小形のものがある。大形のものは遷宮のとき、霊の移徙(わたまし)や葬礼の渡御具であり、小形のものは女子の物忌の外出用。
【憑依・馮依】(ひょうい) 霊などが乗り移ること。憑(つ)くこと。
【百日曾我】(ひゃくにちそが) 浄瑠璃。時代物。五段。近松門左衛門作。元禄一〇年大坂竹本座初演。先に上演された「団扇曾我(だんせんそが)」が、一〇〇日以上続演したための改題。曾我兄弟の討入り、虎・少将がうちわ売りに扮しての道行があり、兄弟の霊が裾野にまつられるまでを脚色。
【冤鬼】(えんき) 無実の罪で死んだ人の、恨みのこもった霊。
【亡魂】(ぼうこん) 死んだ人の霊。死人の魂。また、成仏できないで迷っている霊魂。幽霊。
【人魂】 遊離魂。死者の霊。ふつう青白く尾を引いて空中を飛ぶという。飛魄(ひはく)。火の玉。
【悪霊】(あくりょう) 人にたたりをする霊魂。死者の霊のほか、生者の魂、人間以外の霊的存在についてもいう。もののけ。怨霊(おんりょう)。
【怨霊】(おんりょう) うらみをもって、生きている者にわざわいを与える死霊、または生霊。
【彼岸会】(ひがんえ) 仏語。春分・秋分の日を中日として、その前後七日間にわたって行う法会。大同元年、崇道天皇(早良親王)の霊を慰めるために初めて行われた。《季・春》
【麓山祇・羽山津見】(はやまつみ) (「つ」は「の」の意、「み」は「み(霊)」)山のふもとをつかさどる神。〔古事記‐上〕
【八神】 天皇の身を守護するため、古くは八神殿に祭られ、現在も宮中三殿の一つである神殿に祭られている八柱の神の総称。神皇産霊(かみむすひ)・高皇産霊(たかみむすひ)・玉留魂(たまるむすひ)・生魂(いくむすひ)・足魂(たるむすひ)・大宮之売・御饌都(みけつ)・事代主の八神の称。
【白蔵主・伯蔵主】(はくぞうす) (「はくぞうず」とも)狂言「釣狐(つりぎつね)」の登場人物の名。猟師の殺生をやめさせるため、老狐が猟師の伯父の僧に化けたもの。一説に、永徳年間の頃、和泉国(大阪府南部)大鳥郡小林寺耕雲庵に住み、霊性をそなえる三匹の野狐を愛育して、常に身辺に飼っていたと伝えられる僧を素材にしたといわれる。
【拈華微笑】(ねんげみしょう) 仏語。釈迦が霊鷲山で弟子に説法しようとしたとき、梵王が金波羅華を献じた。釈迦は一言もいわず、ただその花をひねっただけなので、弟子たちはその意が解せなかったが、迦葉だけが、にっこりと笑った。それを見て釈迦は、仏法のすべてを迦葉に授けたという故事をいう。
【根国】(ねのくに) 日本古代の他界観の一つ。死者の霊が行くと考えた地下の世界、また海上彼方の世界。底の国。黄泉(よみ)。黄泉の国。ねのかたすくに。
【入魂】 神仏や霊を呼び入れること。また、あるものに魂(たましい)を入れること。
【日精】(にっせい) 太陽の精。太陽の霊。
【蚕霊揚】(こだまあげ) 長野県などで、その年の養蚕の終わったときの祝い。蚕の霊を送る意。棚揚げ。
【弔う】(とぶらう) (「とぶらう(訪)」からで、死者の霊をたずね慰める意)「とむらう(弔)」の古形。*伊勢‐一〇一「やんごとなき女のもとに、なくなりにけるをとぶらふやうにていひやりける」
【弔合戦】 死者の復讐をしてその霊を慰めるために、敵と戦うこと。また、その戦い。仇討ちの戦い。弔戦。
【追善合戦】 死者に代わってその恨みをはらし復讐(ふくしゅう)をして霊を慰めるために戦うこと。弔合戦(とむらいがっせん)。
【天国】 キリスト教で、信者の死後の霊を迎えると信じられる世界。神の国。「天国に召される」
【付物・憑物】(つきもの) (憑物)人にとりついてその人に災いをなすと信じられている動物などの霊。「憑物が落ちる」
【鎮魂】(ちんこん) 魂を落ち着かせ鎮めること。肉体から遊離しようとする魂や、肉体から遊離した魂を肉体に鎮めること。また、その術。広義には、活力を失った魂に活力を与えて再生する魂振(たまふり)をも含めていう。たましずめ。「ちんこんさい(鎮魂祭)」の略。死者の霊を慰め鎮めること。
【弔祭】(ちょうさい) 死者の霊をとむらいまつること。また、その儀式。
【合祭】(ごうさい) 二柱以上の神や霊などを一つの神社にまつること。合座。合祀。
【手向水】(たむけみず) 手向けとする水。神仏や死者の霊などに供える水。墓前に供える水。
【手向花】 手向けとする花。神仏や死者の霊などに供える花。
【手向草】(たむけぐさ) (「たむけくさ」とも)(「くさ」は種、料の意)手向けにする品物。神仏や死者の霊などに供える品。幣帛(へいはく)。ぬさ。「さくら(桜)」の異名。「まつ(松)」の異名。「すみれ(菫)」の異名。
【霊代】(たましろ) 人の霊の代わりとしてまつるもの。れいだい。
【退凡下乗】(たいぼんげじょう) 仏語。釈迦が霊鷲山(りょうじゅせん)で説法したとき、摩訶陀(マガダ)国王頻婆沙羅(びんばしゃら)がこれを聞くために道を開いて、中間に建てたという二つの卒都婆。一つは下乗と記し、王はここから歩き、一つは退凡と記し、凡人をこれより内に入れなかったというもの。
【結草】(けっそう) (中国春秋時代、晋の魏顆(ぎか)が、父の死に際して、その妾を殉死させず、他に嫁がせたところ、秦との戦に、妾の父の霊が現われて、草を結び、敵将をつまずかせ、魏顆に手柄を立てさせたという「春秋左伝‐宣公一五年」の故事から)恩にむくいること。
【位】(い・ヰ) 死者の霊を数えるのに用いる。「英霊百位」
【血食】(けっしょく) (「血」は祭祀に供する犠牲(いけにえ)の血の意)いけにえの動物を供えて祖先の霊をまつること。子孫が続いて先祖の祭を絶やさないこと。*中華若木詩抄‐中「霊神の祠あり。いつも血食するぞ」
【造仏供養】 三宝や死者の霊などを供養するために仏像を造り、供物としてささげること。また、新しく仏像が造られたときにする法会。
【葬祭・喪祭】 葬式と祭祀。死者を葬ったあと、その霊をまつる祭。「冠婚葬祭」
【引導】(いんどう) 仏語。迷っている人々や霊を教えて仏道にはいらせること。死人を葬る前に、僧が、棺の前で、迷わずに悟りが開けるように、経文や法語をとなえること。また、その経文や法語。
【グノーシス】 (ギリシアgnRsis)知識の意。特に古代ギリシアの末期では、神秘的、直観的にとらえられた神の霊性の認識をいう。
【口寄】 神仙や死霊の言葉を霊媒に語らせること。行者や巫女が、第三者を霊媒に仕立てて、それに神仙や死者の霊を乗り移らせる場合と、行者や巫女が自ら霊媒となる場合がある。
【口寄巫女】 口寄せを職業とする巫女。かみおろし。いちこ。あずさみこ。みこ。
【靖献】(せいけん) (「書経‐微子」の「自靖、人自献二于先王一」から)臣下が義に安んじて、先王の霊に誠意をささげること。
【靖献遺言】 江戸前期の思想書。八巻。浅見絅斎著。貞享四年成立。寛延元年刊。楚の屈原ら、節義を失わなかった八人の中国人の遺文に略伝などを付し、日本の忠臣、義士の行状を付載する。尊皇思想の展開に影響を与えた。
【遺物崇拝】 祖先、死者、聖人の霊との交わりを求めて、その遺体や所持品を崇拝すること。
【神主】(しんしゅ) (古くは「じんしゅ」とも)ものの霊。ぬし。儒葬で死者の官位・姓名を書き祠堂に安置する霊牌。仏教の位牌にあたるもの。木主。神につかえる人。神官。神職。かんぬし。
【食初】(くいぞめ) 生後120日目の小児に、食事を作って食べさせる祝いの儀式。小さな椀に、30cm以上の箸で、実際には食べさせるまねだけをし、神棚や祖先の霊にその旨を報告し礼拝する。はしぞめ。はしたて。
【諸聖徒日】(しょせいとび) イエス‐キリストを信じて世を去ったすべての人を記念し、その霊のために平安を祈る日。一一月一日。万聖節。
【客神】 主祭神に対して他から迎えた神。外来神に新しい威力があるという信仰から、蕃神、流人、旅人などの霊をまつった例が多い。
【英霊】 (「英華秀霊」の気の集まっている人の意)すぐれた人。また、その魂。英才。*万葉‐三九七三「英霊星気、逸調過人」 死者の霊魂を尊敬していう語。明治以後は戦死者の霊をいうことが多い。英魂。
【春季皇霊祭】 毎年春分の日に、宮中の皇霊殿で、天皇が歴代の天皇・皇后などの霊を祀る祭儀。もと国家の祭日。今は「春分の日」として国民の祝日。《季・春》
【英魂】 すぐれた人のたましい。また、死者の霊をたたえていう語。英霊。
【秋季皇霊祭】 毎年秋分の日に、皇霊殿で、歴代の天皇、皇后、皇親などの霊をまつる祭儀。もと国家の祭日であった。
【神懸・神憑】(かみがかり) 神の霊が人に乗りうつること。また、その状態やそういう人。
【コリント書】 新約聖書中のコリント前書とコリント後書の総称。コリント前書は五四年頃、パウロがエペソからコリントに送ったもの。結婚、処女、霊の賜物、献金など具体的な問題に解決を与える。コリント後書は前書に対する反論に応じたもので、使徒の権威を強調し、反対者に反撃を加え、コリント人に対する強い愛を語る。
【御霊会】(ごりょうえ) 昔、死者の怨霊のたたりを恐れ、これをなだめるために行った祭。祇園会はその一つ。陰暦六月一四日、京都の八坂神社で行われた、疫病・災厄をはらうことをつかさどる祇園の神(素戔嗚尊)をまつる斎会(さいえ)。祇園御霊会。祇園祭。祇園会。
【御霊祭】 京都市上京区の御霊神社で神霊を和らげるために陰暦八月一八日に行った祭。現在では、五月一日から二〇日までに行われる。《季・秋》
【米福粟福】(こめぶくあわぶく) 昔話の一つ。米福・粟福の姉妹のうち、継子(ままこ)の姉娘は継母から事ごとに意地悪されるが、死んだ実母の霊や異腹の妹に助けられ幸福になるという話。
【告別式】 死者の霊に対して、親族、知人などの縁故者が別れを告げる儀式。
【皇霊】 歴代の天皇の霊。
【尊霊】 (「りょう」は「霊」の呉音)霊魂または亡霊を敬っていう語。みたま。そんれい。
【合祀・合祠】 二柱以上の神や霊をいっしょにして一つの神社にまつること。また、一神社の祭神を他の神社に合わせまつること。
【合祀祭】 合祀の時にとり行なわれる祭典。靖国神社で、戦死者、殉難者の霊を祭神として合祀する時に行なわれる臨時の大祭。
【梓巫・梓巫女】(あずさみこ) 梓の木で作った弓のつるをたたきながら、死者の霊を呼び寄せる口寄せ巫女。吉凶や失せ物判断をすることもある。みこ。いちこ。くちよせ。
【客】 霊(たま)祭などで、祭の場に来る死霊・霊魂。
【狐憑】(きつねつき) 狐の霊がとりついたといわれる一種の精神病。また、その人。きつね。
【義士祭】 四月一日から一か月間、東京芝高輪の泉岳寺で行なわれる、赤穂義士の霊をまつる催し。寺宝の展観などがある。ぎしまつり。《季・春》
【息衝竹】(いきつきだけ) 埋葬した時、土饅頭に突き立てる節を抜いた竹。蘇生したときの用意のためとか、死者と話をするためなどの説があり、供養として水をそそぎ入れたりする。霊の通路。息つき穴。
【雷】(いかずち) (「いか(厳)つ(=の)ち(霊)」の意)たけだけしく恐ろしいもの。魔物。*書紀‐神代上(水戸本訓)「上に八色(やくさ)の雷公(イカツチ)有り」 かみなり。なるかみ。かむとけ。*仏足石歌「伊加豆知(イカヅチ)の光の如き」
【影・景】 (「かげ(陰)」と同語源)死者の霊。魂。*源氏‐若菜上「亡き親のおもてを伏せ、かげをはづかしむるたぐひ」
【岳神】 山の神。特に、富士山の霊。富士山頂にまつられている浅間神社の神。
【仕上・仕揚】 (「仕」は当て字)(死後の作法のしめくくりの意とも、また、死者の霊を天にあげる意ともいう)死後三日目、七日目、四九日目などの忌日にいとなむ法事。忌中払。葬礼の後、手伝いの人々に饗応すること。
【取っ付く】 (「とりつく(取付)」の変化)身に病や霊などがつきまとう。不浄なものが身についてはなれない。「狐がとっつく」*滑・浮世床‐初「悪い病ひにとっつかれた」
【千早ぶ】(ちはやぶ) (「いちはやぶ」の変化。また、「ち」は「霊(ち)」で、「霊威あるさまである」の意とも)たけだけしく行う。勢い激しくふるまう。→ちはやぶる。*万葉‐一九九「千磐破(ちはやぶる)人を和(やは)せと」
【浮かぶ・泛かぶ】 (現在では、多く可能を表わす「うかばれる」の形でいう)死者の霊が迷いから抜け出てやすらかになる。成仏する。*山家集‐下「うかばん末をなほ思はなん」
【浮かばれる】 (「れる」は、もと可能の助動詞)死者の霊が迷いからぬけ出てやすらかになれる。成仏できる。
【孝】(きょう) (「孝」の呉音)親の追善供養をすること。また、死者の霊をとむらい喪に服すること。孝養。*宇津保‐俊蔭「三年のけうを送る」
【誄】(しのびごと) (「偲び言」の意。上代は「しのひこと」)死者を慕い、その霊に生前の功徳などを述べることば。死者に対する哀悼の辞。るい。るいし。*書紀‐敏達一四年八月(前田本訓)「馬子宿禰大臣刀(たち)を佩いて誄(シノヒコト)たてまつる」
【おりはやす】 「はやす」は「栄やす」で、良いものにする、効果あらしめるの意から、植物などを折って料理するの意か。一説に、「折って栄えあらしめる」で、すなわち植物を折って植物霊を分け、翌年の豊作を祈る意。*万葉‐三四〇六「上毛野(かみつけの)佐野の茎立(くくたち)乎里波夜志(ヲリハヤシ)吾は待たむゑ今年来ずとも」
【下ろす・降ろす・卸す】 神の霊を天から下界に呼びよせる。*米沢本沙石集‐一・四「大明神をおろしまゐらせて御託宣を仰ぐべし」
【浮かべる・泛かべる】 死者の霊が迷いから抜け出て安らかになるようにする。成仏させる。浮かばせる。
【後】(あと) (「跡(あと)」の意義が拡大したものという)人の死後。死後の霊。追善供養などもいう。*源氏‐明石「更にのちのあとの名をはぶくとても、たけき事もあらじ」
跡を弔(とむら・とぶら)う 死者の霊を慰める。追善のために法事を行なう。
【志す】 (「心指す」で、心がその方向へ向かうの意)死者の霊をとむらう。法要を行なう。多く「こころざす日」の形となる。*咄・醒睡笑‐一「けふは心ざす先祖の頼朝の日なり」
【現ずる】 神仏、霊魂やその霊験が現われる。示現する。*宇津保‐楼上上「石造りてうの薬師仏げむじ給ふとて、多くの人まうでたまふ」 神仏、霊などが霊験を現わす。*浜松中納言‐一「菩提寺といふ寺におはします仏、いみじうけんし給ふといふに、詣で給ひて」
食の御魂(みたま) 稲の穀霊を神格化したもの。のちに米、粟、麦、稷(きび)、豆などの五穀の神、主食をつかさどる神霊となる。伊勢の外宮の祭神豊宇気姫命の霊、また、稲荷の神の祭神ともいう。*書紀‐神代上「倉稲魂、此をは宇介能美埀磨(ウカノミタマ)と云ふ」
家の主(ぬし) その家に古くからすんでいて、霊があるといわれる、蛇、狐、狸などの動物。ぬし。
在天の霊(れい) 死者をまつる時などに、その霊魂をさしていう語。
わたつみ  (「つ」は「の」の意の格助詞。「海つ霊(み)」の意。後世は「わたづみ」「わだづみ」「わだつみ」とも) (海神)海の神。その地方地方の海、雨、水をつかさどるといわれる。海神。わたつみのかみ。海(わた)の神。*書紀‐神代上「少童、此れをば和多都美(ワタツミ)と云ふ」
酒の神(かみ) 酒の霊であり、また、酒をつかさどると信じられている神。日本の少彦名神、ギリシアのディオニソス(バッカス)、エジプトのオシリスなど。
亡き影(かげ) 死んだ人の面影。死者の霊。*源氏‐松風「親の御なきかげを恥づかしめむ事」 亡くなったあと。死んで霊魂となってしまっていること。*源氏‐浮舟「なきかげにうき名流さんことをこそ思へ」
暮れの魂祭(たままつり) 一二月末日に行なう先祖の霊をまつる行事。《季・冬》
七瀬の祓(はら)え[=禊(みそぎ)] 中古、朝廷で毎月または臨時に行われた行事。吉日を選んで、天皇のさまざまなわざわいを負わせた人形(ひとがた)を、七人の勅使に命じて、七か所の河海の岸に持たせて祓えをした。難波・農太・河俣・大島・佐久那・谷・辛崎でするのを大七瀬または七瀬といい、耳敏(みみと)川・川合・東滝・松崎・石影・西滝・大井川で行うのを霊所七瀬、川合(糺川)・一条通・土御門通・近衛通・中御門通・大炊御門通・二条末通でするのを加茂七瀬という。当時の公卿たちも朝廷にならって行い、鎌倉幕府も由比浜・金洗沢・固瀬川・六連・柚河・杜戸・江島で行った。《季・夏》
 
転生1 (てんせい, てんしょう)

 

1 生まれ変わること。輪廻。
2 環境や生活そのものを一変させること。
転生とは、主に仏教において用いられる思想で、死後に別の存在として生まれ変わること。特に輪廻と区別はされていない。一部の宗教では再生とも言われる。キリスト教における復活や新生とは異なる概念である。
転生する前の生のことを前世または前生、現在の生を現世または今生、転生後の次の生のことを来世または後生と言い、これらをまとめて三世(さんぜ)と言う。輪廻のように人間は動物を含めた広い範囲で転生すると主張する説と、人間は人間にしか転生しないという説がある。
一般には仏教を語る上でのみ触れられるが、仏教に固有の思想ではなく、釈迦以前の思想家にも見られ、インドのみならずギリシア古代の宗教思想にも認められる。インドでは六道輪廻にみられるような生まれ変わり(→輪廻)による苦から解脱することが目的とされた。現代の日本では、仏教における転生を、単に民衆を道徳へ導くための建前として語られたにすぎないとする者も多くいるが、過去の日本では、輪廻思想は仏教において前提とされる一般的な考え方であり、浄土教の源信などのように、転生を信じながら真摯な布教活動をした宗教家が多くいた。
研究例
イアン・スティーヴンソンによる調査
転生を扱った学術的研究の代表的な例としては、イアン・スティーヴンソンによる面接調査がある。スティーヴンソンは1961年から生まれ変わり事例の調査を始め,最終的に2000 例を超える「生まれ変わりを強く示唆する事例」を収集した。そして考察の結果、スティーヴンソンは最終的に,ある種の「生まれ変わり説」を受け入れている。
前世療法研究
前世療法で用いられる退行催眠については、虚偽記憶を生み出すという批判もあるが、検証の結果「前世の記憶」である可能性が高い記憶が想起されたケースもある。
生まれ変わりの村
著作家の森田健が、中国に存在する「生まれ変わりの村」を取材した記録がある。村民の記憶によれば、彼らのうち多くの者が肉体の死後、同じ村に生まれ変わるという。前世の記憶を持っているために、生まれながらにして複雑な大工仕事が出来たという男性の例や、性同一性障害に悩まされたという女性の例などが存在する。また、前世と今世では「私」というアイデンティティーは同一のまま保たれるが、温和さや残忍さといった性格は生まれる肉体により変化する、と複数の村人は語っている。
法的取扱い
宗教思想上の概念の問題であるため、一般的には法規制の対象となるものではない。
2007年9月に発行された条例により、中国では、転生を行う際に事前に政府への申請を行い、許可を得ることが必要となった。この条例は、高僧が転生を繰り返すとされるチベット仏教の管理を目的としていると見られている。
フィクションの中での転生
過去に生きていた人物が別人となって現代に現れたり、本人自身の記憶を持ったまま別人として生まれる、というのは魅力的なテーマであり、転生という概念を取り入れたフィクション作品は数多く創作されている。ただし、宗教的な思想とは無関係に、単なる現象や何らかの存在(作品内で設定された架空の神など)による操作の結果として扱われていることも多い。

転生2

 

転生は霊的進化のためにある
シュタイナーにとって転生の原理であるカルマの問題は最大のテーマの一つでした。彼の述べることはすべて、この問題と関わってきます。前生なんてあるわけがないと考えるのは自由ですが、イマギナチオーンという超感覚的な手段で見ると、人間は必ず前生をもっていますし、死んだあとの次の生もあります。問題は、こうした前生や生まれ変わりを事実として受け入れても、なぜそんなことがありうるか、そのわけが分からないと、過去のことばかりにとらわれて今の人生がうわの空になってしまうことです。シュタイナーが転生の意味について述べていることを要約すると「人間は精神的・霊的進化のために転生を繰り返すのだ」と言えます。
人間は地上でいろいろな経験を積んで死んだあと、その経験の結実をたずさえて霊的世界に出ます。そこで一定の期間、霊化の時を過ごし、ふつうはもうそれ以上同じ環境では進歩できなくなった時点で、再び新たな経験を積むために物質界へ降りてくるということを繰り返すのが転生ということです。転生を貫いて存在するものを超越人格と呼ぶことにしますと、一つの超越人格が、地上の生と霊的世界の生の経験を繰り返しながら霊的進化をしていくのだというふうに言えます。以下、シュタイナーの精神科学(霊学)に基づいて、この辺をもう少し詳しく見てみましょう。
死後の世界の詳細
まず人間が死ぬと〈自我十アストラル体十エーテル体〉が物質体(肉体)を残して物質界を去ります。人生の記憶はエーテル体に刻み込まれているので、エーテル体がある間はその一生の様子が、夢も含めてすべて、死後のこの時期にヴィジョンとして見えています。この期間が三、四日続いたあと、エーテル体が離れていく時が来ます(この時が仏教でいう初七日です)。その人の一生を刻み込んだエーテル体は分離して、霊的大宇宙に溶け込んでその一部となります。自分の一生が大宇宙に広がっていくのです。これは大変に壮厳な光景で、その光景を見ている自我の厳粛な思いの中から、一段階高次の自我である〈霊我〉が生まれてきます。この霊我は遠い将来、木星進化期といわれる時期に人類が備えることになる高次の構成要素です。人類は過去に動物と同じレベルの時期を過ごしましたが、霊的進化を遂げて自我をもつまでになりました。今後さらに霊我を発達させていく道のりが続いているわけです。霊我がどんなものかを思い浮かべるのは難しいですが、感情の波がすっかりおさまった澄んだ意識が、さらに徹頭徹尾、善なる意志に貫かれているような状態を思い描くと少し近くなるでしょう。その霊我が、死後の世界ではこの時点で、映像的なものとして現れてくるのです。
エーテル体が分離する時、自我はエーテル体の結実(エッセンス)を受けとります。エーテル体が分離したあと、人間は〈自我十アストラル体〉の構成でアストラル界を進んでいきますが、この時人生の逆行が起こります。死の時点から誕生の時点までを人生が逆向きに展開していくのです。それも生前、他人に苦痛を与えるようなことをしたり言ったりしたことがあると、その時点にさかのぼった時、今度は自分がその苦痛を感じるというふうに感ずる主体も逆になっています。こうして生前、感情の担い手であるアストラル体で体験した事柄のすべてが、逆向きに、逆の立場から再体験され、自分がどんなことを他人にしたかを痛感することになります。いわばこの時期はアストラル体の浄化の時です。この時期は地上にいた時のおよそ3分の1の年月で通過します。
人生を逆向きにすべてたどりきると、アストラル体は役目を終えエッセンスだけを残して分離していきます。こうして初めて〈自我〉は地上的なものから解放されて、純粋な霊となります。感情を担うアストラル体を分離したことによって、霊性にひたされます。初めて真の霊的世界が現れてきます。宇宙の中に織り込まれる自分のエーテル体を見た時には、真の霊的世界は外に現れていましたが、今や自らの内にそれが現れるのです。そして、霊我よりもさらに一段高次の自我である〈生命霊〉が、この時、模範像として現れてきます。この生命霊は人類が金星進化期という木星進化期の次の時期にようやく身につけるものですが、この要素が今、霊的世界の自我の前に聖なる模範像として現れるのです。
今、自我が到達しているのは他の霊たちも存在する世界ですが、この世界を地上的な想像力で物質的な装いをもたせて思い描くのは間違いです。この霊的世界での時期は長く続きます。
カルマの決定
そしてある時点で、宇宙の真夜中と呼ばれる段階がやってきます。この時、自我は自分の内に息づく生命霊と、先に大宇宙に溶け込んでいったエーテル体とを比較します。高次の霊的な模範像と、自分の過去の人生とを比べるわけです。その比較から、次回の人間像が作り出されます。これは最高次の天使存在の仕事ですが、そこに人間自身も参加するのです。いわば神々が人間を世界の中にはめ込む時の、目的の設定に自らも参加することが許されているわけです。このプロセスは物質界での四季の移り変わりや、太陽の上り下りに働く摂理の力よりも、ずっと高次のものだといいます。
こうして、前の人生で生じたゆがみを直すため、次の人生ではどの時代の、どういう親のもとに生まれ、どういう肉体と性格を持つかが決定されます。これが力ルマ(業)となるわけです。しかし、シュタイナーの言う「カルマ」には、ふつうこの言葉に含まれる暗い響きはありません。自分がおかれている不満足な環境や境遇、すぐには変えようのない性格、つらい体験などがあって、それが前生からの因縁だ、などということになると、恨めしさを込めてカルマを考えてしまいがちです。しかし、そのすべては自分の精神的・霊的進化のために、自分が決めたことだということになれば、受け取り方が違ってくるはずです。
前生の能力はどうなるか
極端に厳しい試練でなくとも、それぞれの生には、さまざまな課題が与えられているものです。それでは、前生の課題と今生の課題は、どのように関わりあっているのでしょうか。たとえば前生に花開いた能力は、今生にも受けつがれているのでしょうか。前生がドイツ人でドイツ語を母国語としてしゃべっていた場合、今生では日本人として生まれても、ドイツ語の修得が楽であるというようなことがあるのでしょうか。シュタイナーによれば、残念ながら、そういうことはないそうです。前生でもっていた能力が今生にも受けつがれるということは、まずないことです。例外としては、音楽家としての才能があったのにその才能を花開かせる前に死んでしまったような場合、次の生でその才能を再びもって生まれてくるようなことはあるそうです。しかしふつうは前生の能力は今生にもっている能力から推測できません。音楽家が次の生で数学者になることもあるし、前生では数学者だった人が、今生では数学が全く苦手という場合があるといいます。むしろ、今生で、できたらいいのにと思っても、どうにもだめだということが、前生の能力である可能性が強いそうです。同じことを繰り返していても進歩はないので、今生は前生とまるっきり違う方面に進むわけです。今生で最も抜け落ちている能力が、前生の能力であった可能性が大なのです。内向的で思索的な人の前生を探ると、外向的な行動家だったりするのです。
それでは前生の能力は消えてしまうのかというと、そうではないようです。シュタイナーによると、前生の能力は今生では必ず変容して現れてくるのでして、たとえば、前生の数学的な能力が、今生では視力の良さという肉体面に現れたりもします。
転生へ向かう
さて、自我は霊的世界から物質界へ下降し始めます。まずアストラル界で新たなアストラル体を身につけます。アストラル界を構成している素材を集めて体にするわけです。生まれる前の、つり鐘型をした人間のアストラル体がアストラル界を飛び回ります。生まれる直前にエーテル界から素材を集めてエーテル体を作りますが、そのエーテル体は、その時の、月や太陽や惑星を含めた天球を写しとっています。それぞれの天体の位置を写真のように写しとっているのです。
こうして受胎後十日か二週間の受精卵に〈自我十アストラル体十エーテル体〉が宿ります。物質体としての受精卵に宿る直前、死の直後のフラッシュバックと丁度逆のことが起こり、これからの人生を一瞬、垣間見ます。そのあと、前生を忘れ去った新たな人生が始まるのです。霊的世界での計画に従って選びとった環境で人生が始まります。
誰もが一度の人生で目指すべき進歩をとげるわけではありませんが、転生を繰り返し、経験を積みながら、一進一退しつつ、霊的進化の長い道のりを進むのです。
転生しながら、何度も出会う人たち
一人の人生は別の人の人生と交わり、影響し合います。その影響はたがいの心の成長に跡を残します。すると、次の人生を決める時にたがいに、その跡をつけた同じ相手との関わりを選ぶことが多くなります。つまり人間は、一定の人たちと一緒に、同じ時代、近い場所に転生することが多いのです。
しかし、出会う人がすべて前もって決まっているわけではありません。今生で新たな関わりを結ぶ人もいるのです。また、出来事も、あらかじめ全て決まってはいません。たとえば道を歩いていて工事現場にさしかかった時、上から物が落ちてきて怪我をするようなことも、あらかじめ決まっているわけではないとシュタイナーは言います。その人の意志によって選ばれた行動が結果を生むというパターンもあるのです。つまり危ない近道を選ばなかったら、その事故は起こらなかったのです。前生からの因果ではなく、今生のうちに一つの行動が結果を生んだのです。こうしたことはその人の意志しだいなわけです。
地球の前生〈月進化期〉
シュタイナーがアーカーシャから読み取った宇宙と人類の過去の記録は『アーカーシャ年代記より』という本になっていますがそれは『神秘学概論』の「宇宙進化と人間」の中でさらに具体的に述べられています。これらの本を読めば、霊的世界と地上との間を行き来する転生の始まりは大変古いことが分かるでしょう。
話は少し飛躍しますが、地球にも月進化期と呼ばれる、一種の前生がありました。この時期、現在の物質状態は存在しておらず、すべてが一段階繊細な素材でできていました。この月進化期に人間の先祖は〈アストラル体十エーテル体十物質体(といっても、今の物質の素材とは違う)〉という動物レベルで存在していました。転生を、一つの物質体から分離し、別の物質体と結合することというふうに捉えると、この月進化期の時代にも、その原型はあったといえます。すなわち、〈アストラル体十エーテル体〉が、霊的活動の高まりとともに物質体から解放され、宇宙の調和に陶酔しながら浮かんでいる向太陽期と、物質体に宿って意識作用が高まる惑星期とがあったのです。物質体はその二つの時期が交替する度ごとに、分離と新生を繰り返しました。しかしこれは現在の死と再生のパターンとも違うし、睡眠状態と覚醒状態とも違うものでした。しかし、それぞれの原型とは言えると思います。
この月進化期の痕跡は、彗星に残っているていどで、その他にはほとんどありません。シュタイナーによれば、月進化期の生物は、現在の地球進化期の生物が酸素を必要とするのと同じように、窒素やある種の窒素化合物、シアンや青酸化合物を必要としたそうですが、その青酸化合物が彗星にもあるということを彼は1906年に述べています。この事実は1910年のハレー彗星接近の時に確かめられ、同年三月以降の講演でシュタイナーはこの「予言」を精神科学(霊学)の正しさの証拠に挙げています(もっとも、彗星のスペクトル分析ではすでに1881・82年の彗星で、イギリスのハギンズがシアン化合物を発見していますが、シュタイナーはこの事実を知らなかったようです)。
また、月進化期の名残りは、霊的世界にも僅かながら残っています。精神科学(霊学)の探究のために霊的世界に出た者は、二つの厳密に区別できる時期を体験するといいます。それは二週間おきに交替し、一つの時期には、探究者は自分の能力が高まっているように感じ、八方から霊的世界に起こる出来事が押し寄せ、それを観察できる時期です。次の二週間は、前の時期にえたインスピラチオーンとイントゥイチオーンの内容を思考力によって徹底的に考察できる時期です。このサイクルがあるので精神科学(霊学)は厳密な科学の姿勢をとれるのです。このサイクルは月進化期の向太陽期と惑星期のサイクルの名残りです。
人間の転生の始まり
月進化期のあと、休閑期(プララヤ)があって、すべては霊視も届かない高次の世界へ行ってしまい、そのあと現在につながる地球進化期がやってきます。地球進化期になってようやく、密度の高い物質が現れてきます。この地球進化期の始まりとともに、今までの進化を初めから反復する時期が、しばらく続きます。その時期の初めの人間は一種の「熱」のようなものだけで構成されていて、心臓や血管の原型の中をパワーの流れとしての「熱」流が流れている存在でした。「熱」流は頭頂に相当する部分から下へ流れました。その後、地球がすべてまだエーテル化していた時代、人間のその頭頂の箇所に、「熱」を感知するランタン状の器官ができてきましたが、まだ眼はありませんでした。
地球のエーテル化が終わったころから、転生の原型が再び現れてきます。これはレムリア期に移る以前のことです。このころ、人間の魂は物質体に宿って自意識がある時期と、物質体から離れ、霊的世界に棲む高次霊に包まれて過ごす時期とを周期的に繰り返すようになります。地球が太陽に向かっている間、魂は物質界にある人間の「芽」のようなものに宿り、それが成長して、植物に近い状態になります。しかしその内部は活発に動いています。そして「夜」がやってくると、その物質体は崩壊し、地上にはまた「芽」だけが残ります。その後、レムリア期がやってきます。彼らの頭頂には脚のついた杯のような「熱」を感じる器官がついており、そのつけ根には触手がいくつも生えていて、全体、花のような様子をしていました。これはまだ眼ではありませんでしたが、ギリシャ神話の一つ目の巨人キュープロスの伝説はこのレムリア人の姿に由来します。このレムリア期の半ばごろに、地球全体をおおっていたアストラル的な力が離れていく時期があります。この頃、人間は初めて自我を獲得しますが、アストラル体に悪の可能性が植えつけられます。初めて物質体の崩壊を死と感ずるようになってきます。その後、アトランティス時代になって、死後も個別の存在であると感じられ始めます。ですから、超越人格の転生の始まりは、自我を獲得したレムリア後期からアトランティス期ごろと考えることもできるでしょう。
さて、一つの生と次の生の間は、シュタイナーが述べている例を見ると、数百年単位です。そのくらい年月がたつと、地上の様子も変化していて、新しい体験ができるからです。しかし、こうした転生はいつまで続くのでしょうか。
転生の終わり
人類の転生が終わるのは、木星進化期がやってきた時です。この時すべては再び一段階高次の段階に上るので、物質界は消えてしまいます。この時期を迎えられる人間は霊我を完成していなくてはなりません。現在の自我のままで木星進化期を迎えた人間は一種の自然霊のような存在になる他ないといいます。人類はレムリア期やアトランティス期をへて、現在の人類になっているわけですが、このあと同様の根源的な変化が二度人類に訪れたあと木星進化期が来ます。ですから、まだ遠い将来の話ではありますが、堕落した生を繰り返していれば、進歩はありません。霊的世界で定めた目標に気づかずに人生を過ごすことも大いにありえるのです。
行による自己変革の落とし穴
古代のペルシャのツァラトゥストラのように木星進化期が来るはるか前に、アストラル体を霊我へ、エーテル体を生命霊に変えてしまった者もいます。そうした者の完全に変化し高められたアストラル体やエーテル体は、永遠に運ばれていき、次の転生に持ちこされます。このような者は地上に戻った時、再び完全に高められたアストラル体やエーテル体を作り出すことができるので、以前のアストラル体やエーテル体は、それを必要としている人に与えることができます。ツァラトゥストラはヘルメスにそれを与えたといいます。ツァラトゥストラの自我は後にまた、人類の進化の重要な時点で、ある役割を果たします。しかし、このような特別な存在は極めてまれです。現代によく見られる現象ですが、名誉欲や物欲をもったまま超能力を身につけようと、現代にふさわしくない仕方で修行するような者の場合は、逆に人格の片寄りを増すことがあるでしょう。転生の繰り返しでゆっくりバランスよく歩んでいった方が、ずっとましという場合も多いと思います。
それではいったい、どうしたらいいのか
大事なのは、やたらに前生にこだわるのではなく、今生で正しい意志の力をもち、意志したことを実践することです。そのことは未来の転生に光を投げかけることでしょう。謙虚さ、寛容さ、平静さといった感情を培うことはアストラル体の変化の必要条件です。気まぐれな脱線をしないで徹底的に一つの道筋を追って考えることができないようでは、エーテル体は正しく変化しません。また、善い考えがあっても行動がなければ何も起こりません。考えと行動を常に一致させることができて初めて、物質体の変化が可能になります。物質体の変化は金星進化期のさらに一つあとの時期に完成するものですが。これらは行の基礎ですが、これができなくては、今生で行を積んでもゆがみが出てくるばかりです。ですから、謙虚さ、寛容さ、平静さを養い、落ち着いてものごとを考え、考えと行動を一致させるということは、今生でどうふるまったらいいか分からなくなった場合の良き指針になると思います。 
 
天界の悩み

 

天界は、六欲界、色界、無色界の3つの構造世界になっていて、そのうちの六欲界は六層になっています。六欲界は、天界で一番下ですが、一番下といっても、人間が感じる幸せとは桁違いの幸福感に包まれる世界です。
人間が感じる幸福感が「水滴」とするなら、六欲界の幸福感は「大海」といいますので、想像を絶する幸福感を享受し続けるわけですね。しかもその時間も900万年〜92億1600万年です。気が遠くなるような長期間、幸福感にひたっておられるわけですね。
苦あれば楽ある人間の世界と比較すれば、格段に幸せな世界ですね。浄土宗の極楽に近いところもあります。ちなみに浄土宗の極楽は、六欲界の天界ではなく、色界の最高位にある浄居天(じょうごてん)を言っていると思います。色界の天界については、またいずれ説明いたします。
六欲界の天界は、人間界の幸福感とは比較にならないほど幸せ一杯の気持ちなわけですね。しかも、なんと、この幸福感がほとんど途切れること無く、永続するわけです。朝起きてから、夜、床につくまで、ずーっと幸せな気持ちで一杯で、これが900万年以上も続くわけですね。
天界はどこにある?
ところで天界はどこにあるかといえば、地上から約50m高さから存在するようです。こちらではこの世界がどうなっているのかをご説明しましたが、須弥山という目に見えない高山があるようです。
この地球の地表には、人間、畜生(動物・虫)、餓鬼の3つの生命が存在しています。餓鬼は、通常、人間の目には見えませんが、幽霊や浮遊霊、地縛霊などといった名称で呼ばれていて、時々、人間にも目撃されたり、写真に写ったりしてテレビでも紹介されてお茶の間を賑わすことがあります。
神々が住んでいらっしゃる天界は、地表50m以上からあるようです。古い神社や自然の神を祀る場所に、高山がありますが、これは単なる偶然ではないかもしれません。古代の人々が直感で感じ取ったとか、神々とコンタクトをしたのかもしれませんね。
ですが、神々の中には、地表にテリトリーを作る方々もいらっしゃいます。このことは、実は、「ブッダ最後の旅」としても有名な「大パリニッバーナ経」に出てきます。神々が地上に降り立って、そこに集っている姿をお釈迦さまはご覧になります。神々が降り立つ場所は、力のある人間の王が統治して繁栄する国を作るといったことをお釈迦さまは述べています。
関係ありませんが、日本はイザナギ・イザナミが作ったとされていますね。古事記でもおなじみの国作りの神話ですが、この神話はあながち嘘ではないかもしれません。神々が降り立ったこの日本という国が、このように繁栄しているのも、「ブッダ最後の旅」を読みますと、なんとなく納得してしまいます。
天界の悩み
話しがそれましたが、天界とは、意外と身近にも存在していますが、素晴らしい世界ですね。六道輪廻で生命が輪廻転生するなら、天界だけを巡っていたいものです。そうすれば輪廻も怖いことはないでしょうしね。永久に天界を輪廻し続けることができれば、「勝ち組輪廻」かもしれません。
※しかし天界だけを輪廻することは無理です。「勝ち組輪廻」は理屈の上からもできません。このことは近いうちにお話しいたします。
しかし、この素晴らしい天界にも問題があります。神々の悩みといってもよいかもしれません。それは何かといいますと、なんと「善行がしにくい」ということなんです。
「え!?」と思うかもしれませんが、そうなのです。
神々は、幸せモードの心に固定されていて、その心が人間のようにダイナミックに動くことはないようです。ですので、人間のように自発性を発揮して、善行に励んだり、取り組むことが大変難しいようです。ひたすら幸福感を受けるだけであって、自分から善行をすることが難しいようなのです。神々は素晴らしい方々ですが、反面、心を自在に変化させて自発性を発揮し、善行をするのが困難といった側面があるようなのです。
このとは、人間の体は固く、伸ばしたりすることは人体の構造上、容易ではないことに似ているといいます。人間の体はヨガなどをすれば間接も柔軟になりますが、一般的には身体は固く、簡単に変化させることはできません。
神々は、身体は自由自在に伸ばしたりすることができるようですが、心がプラス思考で固まっていて動かすことが難しいようなのです。人間と正反対ですね。人間は心を自在に変化できますが、身体は自由が効きません。神々は身体は自由に変化できても、心が自由に変化しないようです。
それと黙っていても極上の幸福感に満たされますので、あえて善行しようとする気持ちもわきにくいのではないかと推察します。
天界での生活は受け身が多くなり、単調で同じことを繰り返す退屈な生活と評する方もいるようです。定時に出勤して定刻に帰って日々同じ生活をするパターンに、どことなく似ていると言われる方もいます。
天界は素晴らしい世界ですが、このように心の自由が利かない側面もあるようです。
こういう特徴がありますし、寿命が来ればいずれまた別の生命に転生するわけですが、その時、天界に再び転生できる保証はないようです。
天界の生活では善業エネルギーを蓄積する(善行をする)ことはやりにくく、善業エネルギーを消費することだけになりがちですので、よほどの善業エネルギーが無い限り、天界への再生は困難な印象です。現実は、人間以下の生命に転生することになることが多くなると思います。 
 
前世と転生

 

全ての人間は前世(過去世)を有し、死後に霊魂が霊界で一定の期間を経た後に再びこの世に生まれてくる──これが前世と転生の考え方です。死んだ者の魂が何度も地上に生まれ変わってくるという輪廻転生の思想は、古代エジプトや古代ギリシャの宗教を初め、ヒンドゥー教や仏教などに散見することができます。
また現代においても前世の記憶を持つ人々に関する報告は多く、とくに退行催眠によって誕生以前まで人間の記憶を遡らせると、前世での生活記憶が甦ることがあると言われています。こうした事象は退行催眠の技術が確立された当初から見られていたものでしたが、1986年に出版された『前世治療』という本によって広く世に知られるようになりました。この本の著者であるアメリカの精神科医ブライアン・L・ワイス博士(1944〜)は、退行催眠による治療中に偶然、患者が前世の記憶を甦らせたことを発見し、多くの事例を報告しています。
ワイス博士の著書がベストセラーになって以降、アメリカだけではなく日本においても、退行催眠やヒプノセラピー(催眠治療)により、相談者の前世を明らかにして心的外傷を癒やしたり、現世での生きる目的を明らかにしたりいるというセラピーサロンが流行しており、その意志があれば誰でも自分の前世についての記憶情報を得られるようになりました。
前世と転生の問題については心霊研究家や霊能者の間でも色々と意見の分かれるところです。つまり、全ての人間には前世があり、何度も転生してこの物質世界に生まれ直してくるとすれば、その転生する本体とは霊界にいる霊魂そのものなのか、それとも幽界に残存する様々な霊の記憶や思念のみが新たに誕生する子供の魂に付着してくるだけなのかという点が非常に曖昧で、この部分に関してはじつに様々な見解が存在します。
ちなみに筆者が信頼するある実力派の霊能者によれば、「人間の霊魂というものは霊界の上位次元にあっては複数の個体が集まった塊(クラスター)の群れとして存在しており、そのエネルギー体の一部分が分裂する形で再び物質の衣を纏ってこの世界へ誕生してくる。その際、幽界に残された同じクラスター内の誰かの生前の記憶と思念がまるで磁石のように霊魂の核の周囲にピタリと吸着する。これが過去世や前世の記憶の正体である」とのことでした。この霊能者の見解が果たして正しいのかどうかは現在のところは確かめる術がありませんが、考え方としては非常に興味深いものだと思います。 
 
輪廻転生譚

 

勝五郎の前世記憶
人間は死後どこへ行くのであろうか。その疑問はいまだに解明されていないが、世の中には死んだにもかかわらず再び蘇生したという事例――いわゆる臨死体験が少なからずある。その状態においては類型化したヴィジョンをかいま見ることが知られている。また、一度死んだ人間が同一の肉体に戻るのではなく、時空を超えて別の人間(ないしは動物)として再生するといった輪廻転生の記録も様の東西を問わず記録されている。
有名なところでは小泉八雲の『勝五郎の転生』がある。武蔵多摩郡中村谷津入で起こった「転生」事件に関する貴重な記録である。 勝五郎は文化12年(1815)、父・小矢田源蔵、母・せいの次男として同地に生まれた。文政5年(1822)、勝五郎が7歳のときのことである。彼は姉と遊んでいるときに、姉の前世を聞いたという。姉は「生まれる前のことはわかるわけはない」といったが、勝五郎は逆に不思議がり、自ら生まれ変わったことを始めて告白した。しかし、姉は作り話であるとして、まともにうけとろうとはしなかった。その後、勝五郎の転生の話を両親が知るところとなり、父の源蔵が質したところ、勝五郎は次のように話し始めたのである。 それによると、勝五郎の前世は武蔵野国多摩郡の小宮の領内・程窪村の百姓久平(久兵衛)の子として生まれ、名前を藤蔵といったが、5歳のときに父の久平が死に、その代わりに伴四郎が婿として入り、可愛がってくれたという。だが、藤蔵は翌年の文化9年に6歳で疱瘡に罹って死に、それから3年後、源蔵の家に勝五郎として生まれ変わったというのである。父はにわかには信じられなかったが、噂を聞きつけた村の庄屋・多聞伝八郎が調べてお上に報告した。それにより並々ならぬ関心を抱いた大名の松平観山がじかに調査したところ、藤蔵なる人物の歴史的な実在が確認されたばかりでなく、その生涯なども勝五郎ののべたことと一致していたという。 それにしても、勝五郎はどのようにして再生したのであろうか。彼はその状態を覚えていた。死ぬと、自分(藤蔵)の死体がつぼに入れられ、近くの丘に埋葬されるのが見えた。それから再び家に戻り、自分の枕のところにいたが、しばらくすると、祖父らしい老人がやって来て、藤蔵を連れ出し、一緒に虚空を飛ぶようにして突っ走ったという。周囲の明るさは黄昏時のような感じで、また寒くも暑くもなく、空腹感もなかったという。
老人と一緒に言った場所は、かなり家からは離れたところのように感じたが、奇妙なことに、家族の話し声がかすかではあったが、いつも聞こえていたという。とりわけ、藤蔵のために唱えられた念仏は大きく聞こえ、また仏壇に餅が上げられると、その匂いを嗅ぐことも出来たのであった。 そのように過ごしているうちに、老人は藤蔵を見知らぬ家の前に連れ出していた。「お前は死んでから3年たったので、この家で生まれ変わることになった」そういうと、老人は消えてしまったのである。そこで藤蔵は、その家の戸口の前にある柿の木の下でしばらく佇んでいた。貧乏そうな家だったので、入るのにためらったまま、3日が過ぎた。3日目の夜、雨戸の節穴から家の中に入り、竈のところでとどまっていたが、やっと母の腹の中に入る決心をし、やがて勝五郎として生まれることになったというのである。
勝五郎は祖母のつやとともに、転生前に住んでいたという程窪村に行くことになった。村に近づくつれて、勝五郎は勝手知った者のようにつやを案内した。つやが藤蔵の家を訪ねると、「ここがそうだよ」と答えた。つやは半信半疑ながらも確かめてみると、まさにその通りだった。さらに勝五郎は、藤蔵在世の頃に比べて変化した家の周囲の景観を的確に指摘したという。
ちなみに、国学者の平田胤篤も勝五郎に直接面会して『勝五郎再生奇聞』と題した調査書を残しているが、それによれば勝五郎の再生は、冥界を司る大国主命と、その意を受けた産土の神の熊野権現の計らいであると述べている。
人間以外の動物への転生
ともあれ勝五郎の再生譚は輪廻転生の可能性を証拠づけるものであろうが、生まれ変わりは人間だけでなく、動物にもあることを『法華経験記』は伝えている。 近江国金勝寺の僧頼真は、ものいう時の口元が牛そっくりであることを恥じ、比叡山の根本中堂に籠もって前世の果報を知らせて欲しいと祈った。すると、6日目の夜にお告げがあった。「お前の前世は牛であり、飼い主の近江国愛智郡の役人がお前の背中に法華経をつけて寺まで運んだ。その功徳でお前は人間に生まれ変わることが出来たが、前世の習慣がまだ残っているので、口の動かし方が牛のようになる」ということであった。 『古事談』にも、仁海僧正の父が牛に転生した話が記されている。それによれば、父の死後、夢の中で父が牛になったことを知った仁海は、その牛を買い取って大切に飼っていた。ところが、その後、牛に仕事をさせないため父の罪が軽くならないという夢告があり、そのために、仁海はその牛を田舎へ遣わして時々仕事に使った。その牛の死後、父が畜生道を脱したという夢告を得たという。
いかにも仏教説話的エピソードに見えるかもしれない、だが、仏教とは直接関係のない天理教の教祖・中山みきもまた、人間の命は1回切りではなく、何回も出直すものであると述べている。ミキによれば、人間は死ぬと神の懐に抱かれ、その後出直してくるわけだから、いたずらに死を恐れる必要はないという。
だが、同時に現世で神の意に沿わない行いをすると、その結果として来世においては牛や馬、さらに鼠などの動物に生まれ変わることもあるといっている。みきはある時、知人が馬に生まれ変わっていることを見抜いて声を掛けたところ、その馬が涙を流したという話も伝わっている。また、動物でも人間を見て羨ましく思うものは、来世には人間になって生まれてくる可能性が高いということも述べている。 驚くべきことに。コオロギが人間に生まれ変わったという記録もある。越中国海蓮法師は法華経のうち、最後の3品をどうしても暗記できなかった。そこで何故覚えられないのか祈念したところ夢の中に菩薩が現れてこういった。「お前の前世はコオロギだった。僧坊の壁で僧の唱える法華経を聞いていたが残り3品のところでその僧が頭を壁にもたせかけたので、つぶされて死んでしまったのである。そのため、お前は法華経の3品を覚えることはできないのだ」これは法華経がいかに尊い経典かを強調する仏教説話に、輪廻転生を融合させたものといえるが、輪廻転生は仏教の専売特許ではなく、仏教以前のインドのヒンドゥー教の宇宙観の中にすでに存在していた。
異形の再生譚
輪廻転生説はさらにインドのジャナ教や、古代ギリシャのオルフェウス教など、さまざまな宗教に見られる。また現在の境遇や病気の原因が前世にあるとする考え方もある。
『古事談』によれば、陰陽師の阿倍清明が、花山天皇の前世を占ったという話が収録されている。花山天皇は頭痛持ちで、とりわけ雨の日は激しく痛み、ありとあらゆる医療を尽くしたものの、まったく効果はなかった。
そこで、清明がめされてその原因を占うことになった。すると花山天皇の前世は行者で大峯山で入滅したが、その髑髏が岩の間に落ちて挟まり、雨が降ると岩が水気を吸ってふくらみ髑髏を圧迫するので痛みが酷くなるということが判明した。清明は、その痛みを解決するにはどんな医療をほどこそうとも無駄で、唯一の解決法は前世の髑髏を岩の間から取り出すほかないとし、その髑髏がある場所も具体的に予言した。さっそく使者を遣わしたところ、清明の予言の通り髑髏が見つかり、それを取り出したところ、さしもの頭痛も快癒したという。
また、再生に関する日本の俗信として明治のころまで子供が死ぬとその親は、その子の足の裏や掌などの体の一部に名前や文字を書いて埋葬した場合もあった。もしその名前や文字を持った赤ん坊が生まれると、埋葬したところの土で擦れば、その文字はきれいに消えると信じられていたのである。
実際、次のような記録が伝えられている。岐阜県羽島郡の国島兵助なるもの妻が、明治43年に男子を出産した。その男子の足の裏には「文」という文字の形の痣がくっきりと現れていた。それを知った新聞記者が『岐阜日日新聞』で紹介したところ、富山県西砺波郡福光町在住の佐々木玉枝という婦人が国島宅を訪ねてきたのであった。玉枝には文子という娘がいたが、高等女学校に在学中に病死、両親は娘が再び生まれ変わってほしいと願いつつ、死んだ娘の足の裏に筆で「文」と書き記してから埋葬したという。
また石川県で多田某という人物が死んだとき、密かにその名前を書いて埋めたところ、程なくして能登半島の輪島の家にその名前が刻印された赤ん坊が生まれ、その家の人が墓の土をもらいにきたという話がある。
その真偽はともかく、文字や痣などによって転生の印とする習俗があったことが窺われるが、それ以外にも異形の再生譚がある。
珂磧和尚は延宝6年(1678)に武蔵国奥沢村に浄真寺を造営した。この寺は3仏堂にそれぞれ3体ずつの阿弥陀仏を安置するところから、九品仏と呼ばれたが、その九品仏に金箔で荘厳をすれば、ついに完成というところで、珂磧和尚は急死した。
その後、会津候の夫人が男子を生んだ。だが、この子は乳を飲もうともせず、両手を硬く握りしめたまま泣いてばかりいる。そこである占い師に占わせると、「屋敷じゅうの人に抱かせると泣き止むであろう」と出た。その言葉にしたがって、次々と抱かせてあやしてみたが、泣き止む気配は全くない。最後に残った粥炊きの老人に抱かせてみると、やっと泣き止んで、握っていた掌を開いた。何とその掌には「珂磧」と書かれた紙が入っていたという。
ちなみに、この老人は元は珂磧和尚に仕えていたが、和尚が臨終の間際に「仏の造立を果たさずに死ぬのは無念だ。もう一度生まれて事業を完成してから極楽浄土を願うことにする。転生の際はきっとお前に会えるだろう」といい残して死んだ当の相手だった。
死後の世界への科学的アプローチ
なんとも筆舌しがたい再生譚というほかないが、この種の話は、実は日本の古典を繙けば、少なからず散見されるのである。それらは民族的かつ宗教的要素が渾然1体となっている場合が多いため、純然たるデーターのみの抽出とそれにともなう分析作業はきわめて困難でもある。だが、近年にいたって、輪廻転生や臨死体験を科学的なアプローチで研究しようとする動きが西洋を中心に高まっているのも事実である。
その先駆者がアメリカ・ヴァージニア大学医学精神科のイアン・スティーヴンソン教授で、彼は1960年代から東南アジアで輪廻転生に関するフィールドワークを行い、『前世を記憶する子供たち』を発表し、各方面の注目を集めた。またレイモント・ムーディもその著『かいまみた死後の世界』で臨死体験者の事例を分析し、臨死状態ておいては次のような共通性が見られることを指摘している。
それは、で臨死体験者は医師による死の宣告を受けたあと、やがて不快で耳障りな大きな雑音が聞こえ、それにともない、薄暗くて長いトンネルの中をすべり落ちていくような感じになるということである。その後、自分自身が肉体から分離している状態に気づく。それは横たわっている自分の肉体を空中からながめることができるからわかるという。したがって医師が自分の蘇生術を行っている場面や、その周りで嘆き悲しむ親族の姿が見えることもある。とはいえ、意識はひじょうにはっきりしており、平安と歓喜に満たされたような気分になる。そして往々にして以前死んだ肉親や友人などが自分の前に現れたり、あるいは自分の生涯の光景が走馬灯のように脳裏を駆けめぐる。また強い光に包まれることも多いが、そうした状態は生と死の境界であり、自分の肉体に再び戻って蘇生するか、あの世へ行ってしまうかの境目であるという。
ここで思い出されるのが、チベットに伝わる密教経典『死者の書』である。同書によれば、人間は死ぬと、49日間「中有」(バルドゥ)にさまようことになるという。「中有」とは、いわば死から再生への中間的存在で、臨死体験者はその「中有」をかいま見たということができよう。普通の人間はこの「中有」で49日間さまよい、その間に自分が死んだことを悟るとともに魂の浄化が行われ、しかるべき霊界へ、すなわち天上界や地獄界や人間界などといわれているところへ行くことになるという。中にはその人の業に応じてづっと「中有」にとどまる人もいる。「中有」では、親族などが霊界の案内役として現れることもある。前述の勝五郎の老人にともなわれ、「中有」さながらの状態に3年間とどまったのち、人間界に再生したわけである。 
いずれにせよ、人は原則的に死後「中有」へ行き、そこからさらに異次元の霊界へ行き、それぞれの霊界での自分の寿命が尽きると、再び人間界などに転生するという。人間はそのようにして生死を繰り返しながら、霊的進化の道をたどるというのである。現在「前世療法」という催眠を応用した心理療法がトロント大学医学部の教授ジョエル・ホイットン博士などによって行われているが、興味深いのは、そのほとんどがチベットの『死者の書』に記されている臨死体験などとの内容に酷似していることなのである。これは一体どういうことであろうか。結論的には、死後の世界は、人種、宗教、文化、時代などの枠組みの違いを超えてある種の普遍的な共通性をもっているといってもいいのではあるまいか。そして科学的な研究はやっと端緒についたばかりなのである。 
 
輪廻転生 1

 

1.輪廻のこと。 / 2.転生のこと。 / 3.1と2をあわせた言い方。
転生輪廻(てんしょうりんね)とも言い、死んであの世に還った霊魂(魂)が、この世に何度も生まれ変わってくることを言う。ヒンドゥー教や仏教などインド哲学・東洋思想において顕著だが、古代のエジプトやギリシャ(オルペウス教、ピタゴラス教団、プラトン)など世界の各地に見られる。輪廻転生観が存在しないイスラム教においても、アラウィー派やドゥルーズ派等は輪廻転生の考え方を持つ。
「輪廻」と「転生」の二つの概念は重なるところも多く、「輪廻転生」の一語で語られる場合も多い。この世に帰ってくる形態の範囲の違いによって使い分けられることが多く、輪廻は動物などの形で転生する場合も含み(六道など)、転生の一語のみの用法は人間の形に限った輪廻転生(チベット仏教の化身ラマなど)を指すニュアンスで使われることが多いといえる。また、キリスト教などにおける「復活」の概念は「一度限りの転生」と見なすことも出来よう。ただし、復活の場合はより狭く、生前と同じ人格を保ったままの転生である。 
 
輪廻転生 2

 

六道輪廻
六道輪廻(ろくどう-りんね)は聞いたことがあると思います。実は六道輪廻はお釈迦さまが発見したことです。厳密にいえば、五道輪廻を発見され、後に阿修羅界が組み込まれて六道輪廻になっています。
お釈迦さま以前のインドでは、もちろん輪廻思想はありましたが、もっとシンプルな輪廻転生の思想です。天界と人間界と地獄の3つの世界を行き来する素朴な輪廻思想でした。
しかしお釈迦さまは「五(六)道輪廻」を言います。五(六)道輪廻とは、地獄、畜生、餓鬼、人間、天界の5つです。これに阿修羅を加えて六道です。
生命は、この6つの境界をグルグルと移り変わっていくといいます。
お釈迦さまは、宿命通と天眼通という超能力を持っておられました。現代でも「前世を知る」とかありますが、お釈迦さまの前世を見通す能力は、そんなレベルではありません。自分の過去世を何億回もさかのぼり、しかも自分自身の前世だけでなく、天眼通という能力であらゆる生命の前世をも数多くさかのぼり見通していかれました。このことは仏伝ほか、パーリ経典にはいくつも記録として残っています。
お釈迦さまものすごく数の多い生まれ変わりの様を見ていましたので、輪廻転生のパターンも読み切っていたのでしょう。ですので、お釈迦さまの言葉とは、こういう生命の輪廻の様を踏まえて言われた金言と受け止めた方が無難ではないかと思います。私は仏教をもっとも信頼するのも、お釈迦さまの透徹した洞察力があるからです。
ところで生命が輪廻する数は一体どれくらいなのでしょうか?よく輪廻転生の話しが出ますよね。過去世の記憶にさかのぼるワークとかセミナーもありますし、そういう療法もあります。大抵、「前世のあなたはどこどこで○○をしていましたあ」、といった感じですね。
相応部経典の中に、輪廻に関して言及したお経がいくつかあります。それを読みますと、お釈迦さまはこう言っておられます。
「人が死んで生まれ変わる間に流した涙の量は、海の量よりも多い」「指先につまんだ土を現世とするならば、人の輪廻は、この地上にある全ての土よりも多い」

途方もない数の生まれ変わりです。まさに無限に近い輪廻を、生命は続けていることをお釈迦さまは言っておられます。
さらに、宇宙が生じて崩壊した後、最初の生命が誕生する話しも述べておられます。この辺りは、旧約聖書の創世記よりも詳細な描写になっています。
生命は、宇宙の生成崩壊も数え切れないほど体験していて、お釈迦さまは、宿命通と天眼通という神通力で見通されていました。
仏教(原始仏教)での教えとは、お釈迦さまのこういった非凡な能力を踏まえておっしゃっているところがあります。
仏教が説く輪廻はおそろしい
六道輪廻はお釈迦さまが最初に言われた輪廻の様ですが、お釈迦さまが説かれる輪廻は、世間一般に信じれらているのとは違うところがあります。
まず、生命は、何か目的を持って転生しているのではないということです。これを聞いただけでもショックを受ける方もいらっしゃるかもしれません。ですが仏教では、このように説きます。魂の成長をはかるため、とか、何か使命を帯びているため、というのは原則的にありません。
生命は、ただ「執着と無明の煩悩によって輪廻しているだけ」と喝破します。はっきりいって夢も希望もありません。メルヘンちっくな話しは、お釈迦さまの輪廻転生にはほとんどありません。
もっとも輪廻の中にも、変易生死(へんにゃく-しょうじ)というのがあります。変易生死とは、悟りの門に入った預流果以上の生命(聖者)が、悟りを得るために輪廻を続けることをいいます。変易生死は特殊なケースです。
一般的には分断生死(ぶんだん-しょうじ)といいます。ほぼすべての生命は執着や無明に基づいて、オートに輪廻転生を繰り返しています。分断生死の輪廻がほとんどすべてです。
この部分を書いただけでも、読んだ方は、暗い気持ちになるのではないかと思います。すので、この仏教的な輪廻の思想を生理的に拒絶すか方が多くなります。また言及されない方もいらっしゃいます。
ですが仏教は、一面、まずこの真実を受け止めた上で、修行しましょうと説きます。とはいいましても、輪廻の思想に耐えられない場合も出てくると思います。もしも不安や恐怖を感じる場合は、スルーしてください。前にも書きましたが、自分で確かめられないことは鵜呑みしない、という姿勢です。
真実とは鋭い刃のようであり、時として人を恐怖と不安に叩き落とします。仏教で説く輪廻転生には、実に、ブログでは書けないほどの恐ろしい話しもあります。書けば、ショックを受けてトラウマを抱える方も出てくると思います。ですので輪廻転生については慎重に書かざるをえなくなります。
しかし、お釈迦さまは、良き処に生まれ変わり続けるための、アドバイスを説かれています。しかもその気になれば、誰にでもできる人生上の注意点と処世術です。
お釈迦さまは、仏教徒以外でも誰でも幸せになれる方法を説かれています。ただ単に不安をかき立てるだけでなく、良き生命であるようにと、そのための生き方・処世術をしっかりとおっしゃっているのですね。
五戒・布施〜誰でもできる幸せになれる方法
仏教が説く輪廻転生は大変峻厳で、恐怖すら感じるときがあります。ですが、お釈迦さまは救われる方法もしっかりと説いておられます。しかも仏教を信じない人でも、誰でもできる幸せになれる方法です。
それが戒(五戒あるいは十善戒)と施(ほどこし)です。
そして、この「戒(五戒・十善戒)」と「施」に「修」というう瞑想修行を加えたものが「在家の仏教」になります。
戒(五戒・十善戒)
まず戒(五戒・十善戒)です。
お釈迦さまは、在家には五戒、十善戒という戒律を守ること、人への施しをして心を清らかにすることを基本的な実践行として説かれています。
五戒とは、
1.むやみに生き物を殺さない
2.他人の物や心・与えられていない物・心を取らない
3.不倫をしない
4.嘘をつかない
5.酒を飲まない。
べからず集ではなく、肯定的な表現をすれば以下のような言い方もできると思います。
1.命を大切にする (生き物を殺さない)
2.必要なものだけで満足する (盗まない)
3.TPOを踏まえて本当のことを言う (嘘を言わない)
4.倫理道徳に根ざした恋愛をする (不倫をしない)
5.正常な判断力を保つようにする (酒を飲まない)
十善戒とは、
1.むやみに生き物を殺さない
2.他人の物や心・与えられていない物・心を取らない
3.不倫をしない
4.嘘をつかない
5.つまらない話しや、調子の良いことやお世辞が過ぎることを言わない
6.粗野であったり乱暴な言葉を使わない
7.仲違いさせることを言わない
8.異常な欲を持たない
9.異常な怒りを持たない
10.因果を否定したり道徳を否定する、妄想的な誤った見解を持たない。
になります。十善戒は五戒のうち四戒を含んでいます。
施(せ)
「施」は文字通り、施しを行うことです。布施(ふせ)といいます。施しには、
1.財物をほどこす
2.精神的・心をほどこす
3.法施
この3種類があります。財物とは文字通り、物質になります。お金であったり、物であったりします。
精神や心も施すことができます。これは「無財の七施」といったのが有名です。無財の七施とは、
1.眼施(がんせ)・・・やさしいまなざし。ガンを付けたり睨むような目つきをしない。
2.和顔施(わげんせ)・・・にこやかな顔。微笑んだやさしい顔つき。上目使いの三白眼はナンセンスです。
3.愛語施(あいごせ)・・・やさしく、思いやりのある言葉使い。
4.身施(しんせ)・・・自分の体を使って他人のために動くこと。奉仕。
5.心施(しんせ)・・・他人のために気配りをしたり、喜びを共有する(随喜)こと。
6.床座施(しょうざせ)・・・席を譲ること。または自分の地位ですら後進や相手に譲ってしまう心。
7.房舎施(ぼうしゃせ)・・・雨風をしのげる施しをすること。
※房舎施は、昔は現代のように立派な建物は雨具は無かったため、列挙されているものと思います。現代のニュアンスで解釈しますと、「他人の苦痛を和らげるための配慮」ということになると思います。
これら7つは、昔から言われているお金のかからない心や体を使った施しとされています。そしてよく見ると、五戒や十善戒と似ているところがありますね。
最後の法施(ほうせ)とは、実はこれは仏教特有の施しになります。正しい仏法を施す行為をいいます。
生天の教え
ところで五戒にしても十善戒にしても現代では、なかなか守ることができない所もあります。そこで頑張り過ぎて守ってしまおうとすることもでてくるかもしれません。
しかし教条主義的になったり、頑張り過ぎるのはよろしくないようです。戒律は、リラックスする心を養うことと、悪に対する恐れの心(「慚愧」といいます)を培うことで、自然にできるようになります。
これらのことは念頭に置いて、できるだけ犯さないように注意したいですね。五戒と十善戒については、いずれの機会で説明もしたいと思います。
五戒と施(ほどこし)は、お釈迦さまが在家に説く、基本中の基本の教えです。「生天の教え」とも言われます。これらを守れば、仏教を信じていない者でも誰でも、死後、必ず善処(良い所)へ生まれ変わると、お釈迦さまは断言されています。
大変シンプルですが、この教えは、無限に続く輪廻の様を鋭く見抜いた上でのアドバイスなのでしょう。
在家の仏道とは
そうして、これらの五戒・十善戒と施に加えて仏教の瞑想を行えば、「仏道」になります。
在家の仏道とは、
・戒(かい)・・・五戒・十善戒を行うこと
・施(せ)・・・布施の行為。仏教寺院や社会や人々にあまねく施しをすること。
・修(しゅう)・・・瞑想を行うこと
この3つを行うことになります。このうち、戒と施は、仏教でなくても言われていますし、誰でもできます。そして幸福になれます。仏教では、「仏教の瞑想」を行うことで悟りに至り、究極の幸せになれると説きます。
しかしそうはいっても、最初の「戒律」が「堅苦しい」「強制される・・・と思われて、毛嫌いされることがあります。
しかし、今の言葉で言えば、大霊能者といってもよいお釈迦さまが言われたことです。一応は耳を傾けたほうが良いように思います。
ご自分の前世を何億回もさかのぼって見通され、他の生命の無限の輪廻転生も見通された方です。お釈迦さまは輪廻転生のパターンを完全に読み切られています。ですので、そのアドバイスには耳を傾けるほうが賢明だと思います。
気が遠くなるような生まれ変わりをしているなら、できるだけ良い生命であり続けたいものですしね。
とはいいましても原始仏教では、近世の宗教団体のように教祖を絶対視することはしませんので、耳を傾ける傾けないは、各人の自由になります。ですが、無限に続く輪廻の旅の仕組みと、ここからの脱出方法を残されたお釈迦さまは、やはり偉大であり、その言葉には耳を傾ける価値があると思います。
「五戒・十善戒」と「施」は、宗教や宗派に関係なく、誰でも幸福になれる実践行です。
両親・親孝行を大切にする理由
家族とは人間関係の最小単位であって、誰もが最初に体験する人間関係のひな形ですね。
両親が仲良く、喧嘩の少ない関係であるなら、その子供も同じようなバランス感覚を培っていき、そして大人になって結婚し、両親と同じように喧嘩の少ない関係になりやすいものです。絶対にそうなるわけではありませんが、なりやすいですね。数多くの親子を長年にわたってみていきますと、上記のことは該当します。
親子とは大変、絆が深い関係です。良くも悪くも、子供は両親の影響を受けます。
両親について原始仏教では、どう説いているのでしょうか。今回は人間関係のひな形ともなる両親について説明したいと思います。
1.両親は梵天のように接せよ
原始仏教では、両親を非常に大切にする教えが数多くあります。両親に対しては、梵天に接するが如く敬いなさい、両親は大切に、親孝行はせよ、といった両親を大事にする教えが数多くなります。
その理由は明快です。親は子供を育てるために、自分の身を削ってまでも必死となって尽くすからだ、といいます。明快ですね。今の私たちがこうして生きていられるのも親の「お陰」である。だから大切にしないといけないのです。と明快にお釈迦さまは説かれます。
2.もしも両親を粗末にすると・・・
反対に、両親を粗末にする場合、特に親を殺害した場合、大変な罪になるようです。その罪は極めて大きく、死後、最悪の地獄(無間地獄)へ行くとあります。これは相当怖いです。
「五逆罪」という罪があります。五逆罪とは、
1.母親を殺害する
2.父親を殺害する
3.ブッダを殺害する
4.ブッダに怪我を負わせる
5.正しい仏教教団を破壊(分裂)させる
という罪です。これらを犯すと、悟りを得ることができなくなり、死後、必ず無間地獄へ行くと経典には書いてあります。両親、殊に、母親を殺害することは大変な罪のようです。ブッダを殺害するよりも罪が重たいともいいます。
ちなみに無間地獄(むけんじごく)は、1劫(ごう)という時間の間、存在しつづけるようです。1劫とは43億2000万年 といいます。43億2000万年の間、地獄にいることになるそうです。
・・・・悪いことはしたくないですね。
3.両親との絆
怖い話しになりましたので、ちょっとここでファンタジーのようなお話を。
両親とは絆が強いわけですが、パーリ経典にとてもジーンと来る両親に関するお経があります。それは、あなたが今の両親の元に子供として生まれてくる回数はどれくらいでしょうか?という問いかけです。
今の両親の元に生まれてくる回数です。
この問いを聞くと、「え?」と思いませんか?今の両親の元に生まれてくる回数です。
そもそも、今の両親と同じ両親の前世ってあるの?と思いますよね。
ところがお釈迦さまは腰を抜かすようなことをおっしゃいます。
今の両親と同じ両親の元に生まれてきた回数は、大地の土の数よりも多い、というのです。
茫然自失・・・
開いた口がふさがらなくなります。
なんという膨大な数なのでしょうか。確率からいっても、同じ両親の元に生まれてくるのは極めて少ないはずです。その少ない確率ですら、膨大な回数だと言うのです。
一体、人間の輪廻転生の数はどれくらいなのでしょうか。無限に近い回数ということはなんとなく分かるでしょう。
仏教の輪廻転生とは、このようにスケールが途方も無く大きなものです。
そうして、同じ両親の元に生まれてくる回数、この話し、どこかで聞いたことがありますよね。輪廻する回数の例えです。
輪廻の数もさることながら、「同じ両親の元に生まれてくる回数」も膨大だというこの教え。本当に、人の輪廻の回数は、気が遠くなるほど膨大なことが分かりますよね。なぜなら、同じ両親の元に生まれてくる回数すら、膨大なのですから。
ですが、このお釈迦さまのお話から、両親との絆はいかに深いかが分かると思います。両親との縁とは、信じられないくらい深く、いわば自分の一部のような存在なのでしょう。
ですので両親を殺害する罪が重たくもなるのかもしれません。
今のあなたの両親、過去世でも数え切れないくらい「両親」だったわけです。今と同じ職業や性格でなかったでしょうが、この絆は、来世においても再び結晶化していきます。いつかどこかで、再び、同じ両親の元に生まれてきます。
そう考えますと、両親とは「多生の縁」ではなく、「自分の一部」のような存在だと思います。
先祖や親が霊障になっている?
世間には、先祖が霊障を起こして子孫を苦しめている、運を悪くしている、問題の原因とといった教えを説くところもあります。しかし、お釈迦さまの言葉を鑑みますと、こういう考え方はいただけません。両親のそのまた両親である先祖が祟っているとか、霊障になっているというのがはちょっと酷い考え方です。先祖や両親を粗末(悪者扱い)しかねない考え方です。
確かに霊障といわれる似たケースが起きることもあるようです。しかしそれは稀です。本当が霊障ではなく餓鬼の関与です。
先祖や親はありがたい存在です。自分と絆の深い存在です。大事にしましょう。大切にしましょう。
いつか再び、また親子として巡り会います。またお世話になる方です。今度巡りあったとき、今生以上に大切に育てていただき、健全に育っていきたいものです。両親は本当に大切にする必要がありますね。大切にしましょう。
原始仏教で説かれる両親についてを知ったとき、感謝する気持ちで一杯になりました。この教えをもっと早くから知りたかったとも思いましたが、気付くに遅すぎることはないですね。精一杯の親孝行はしたいものです。
あなたの前世は何?
よく「あなたの前世は、どこどこで○○をしていた」と聞きますよね。そして大抵は「人間」の生活を述べます。
しかし本当の前世には、必ず「六道輪廻」の生命形態が出てくるものです。
生命は六道を輪廻しています。六道輪廻とは、
神、人間、阿修羅、餓鬼、動物、地獄
この6つをいいます。六道輪廻とは、「生命の形態」でもあります。実は全て、リアルに存在する生命なのです。
心の状態とか、境涯とかではなく、実在している生命なのです。本当に存在しているのですね。
ですので六道輪廻とは、この6つの生命の形態をグルグルと輪廻しているわけです。
人間は死後、人間に生まれ変わるという保証はなく、生前の行い(業)によって、六道のいずれかに必ず行きます。ノンストップです。死後、すぐに別の生命に転生します。
幽霊のようにさまよっていることはありません。すぐに別の生命に転生していきます。輪廻とは決して止まることの無い生命の循環になります。
ですから、あなたの前世は、神、人間、阿修羅、餓鬼、動物、地獄のいずれかの可能性があるのですね。決して「人間」だけではないのです。
したがって前世を透視する話しを聞いた場合、必ず六道輪廻の形態が出てくるのが本当です。もしも人間の時代の話ししか出ていない場合は不正確です。あるいは妄想や空想の可能性があります。
仏教の修行には「宿命通」と言って、前世を見通せるようになる修行があります。これを実際に体得した方の話しを聞きますと、前世は人間の時代だけでなく、動物(虫)、地獄、餓鬼、神、人間、といった生命であった時代をも見ることがあるようです。
前世が、海岸にうごめくフナムシだったという方もいます。これは妄想ではなく、実際に修行をして前世を見ている僧侶の話です。地獄に墜ちて40億年以上もただ「熱い熱い」と苦しみ続けた前世を見た方もいます。
リアルな前世とは、こういうものです。必ず六道輪廻を回っていることを発見し気付くようです。
仏教は体験主義であり、お釈迦さまだけでなく、その弟子達も追体験したものであることは、すでに述べています。
前世もそうです。
そうして本当に前世を見れば、過去世において人間だけでなく、動物や虫であったり、餓鬼であったり、時には梵天という神であったり、様々な生命の形態であったことが分かるようです。
ですから、よく「前世を見た」という話しなどもありますが、この体験が全て人間であるなら、眉唾の可能性が高くなります。
また先述の通り「霊」と言われる存在はありません。霊とは、六道輪廻にある生命を通俗的にとらえた表現になります。
生命はゴールの無い輪廻転生RPG(ロールプレイングゲーム)
このように生命が輪廻する六道輪廻の世界を垣間見てきました。地獄から餓鬼、畜生、阿修羅そして人間、天界(六欲界・色界・無色界)。
この六道をグルグルと回り続けているのが生命です。生命はゴールの無い輪廻転生RPG(ロールプレイングゲーム)のようです。
ゲームのRPGでは、主人公の勇者ロトは、モンスターを倒して経験値やMPをアップさせて、最後にはラスボスを倒してハッピーエンドで終わります。最後にファンファーレが流れてゲーム終了。主人公のHPを999までマックスに高めたりしてラスボスを倒して万感の思いにふけったりもします。
しかし人生は、終わりの無い、ゴールの無い輪廻転生です。善行を重ねて天界へと人間界を往復し、色界梵天や、無色界梵天の最高位に達しても、善業パワー(HP)はだんだんと減っていって、やがて人間以下に再び転生していきます。
善業(HP)は減っていますので、再び主人公は善業(HP)の経験値を積んでレベルアップしていきます。仮にレベル99のHP999になって、再び梵天になっても、善業が無くなればエネルギー切れで、また人間以下に戻って経験値を積んで・・・
この繰り返しです。隠し部屋的な「浄居天(じょうこてん)」に行けば、死後、涅槃に入れます。しかし浄居天に入る方法は仏法によるしかありません。普通に輪廻をしていれば、浄居天を発見しても、その部屋に入るカギが無いため入れません。
天界の幸運、幸福は人間の何千倍という大幸福感なわけですが、いつか天界での寿命も尽きて、善業も減って人間へ逆戻り。人間となって苦楽を味わいながら善行ができればいいのですが、実際は、悪心を起こして天界どころが地獄へ行ってしまうことも出てくるでしょう。
不確実性な輪廻。予想外、想定外の出来事に遭遇して輪廻を続けます。しかも厄介なことに、業(カルマ)は七分割されて、七世にわたって影響も及ぼします。
どこにトラップがあって、どんなカルマの結果を受けるか分からない人生。こうした輪廻をグルグルと無限に近い数、続けていると、ブッダを指摘します。
ため息の出そうな輪廻の旅です。
ですから仏教では、輪廻の鎖を断ち切り、涅槃へ赴くことを提唱します。輪廻の話しは、仏教圏でも説かないところもあります。また説かない比丘・僧侶もいます。タイは国家的に仏教が定められている影響もあって、生まれ変わり(輪廻転生)を説かないところもあります。輪廻を別の意味に置き換えて説明することもあります(転生を遠回しに否定もします)。一方、ミャンマーでは輪廻転生が前提です。生まれ変わりは当たり前として説いていく傾向です。
このように国のよっても輪廻転生の扱いは違ってきます。
しかし生まれ変わりは実在していると思います。転生が無いとするなら、この人間、生命の個性や違いをどう説明するのでしょうか。人間に生まれて、自己に気付いたとき、「自分はどこから来たのだろうか」という素朴な感慨を抱く人は多いでしょう。
生命は連続し続ける存在であり、死後もまた別の生命に瞬時に転生し、存続しつづけていきます。輪廻は存在します。転生は存在します。
そして不確実性過ぎる輪廻転生から脱出するために仏教があると言っても過言ではないでしょう。 
 
輪廻転生 3

 

人間は死んで肉体を失っても、再び生まれ変わります。
胎児の心臓が動き出せる状態になると魂が入り、それによって心臓が動き出します。
生まれ変わると、前世の行いが反対になる事が多いです。
例として、前世で男性を大勢泣かせてきた女性は、幽界で、30〜40人もの、女性に対して恨み骨髄の男性に50〜60年間も攻められて辟易していますから、生まれ変わっへきえきた時に、男性に対し異常に潔癖になります。(前世で女性を大勢泣かせてきた男性は、幽界で女性に攻められることになります。)
生まれ変わると、立場が逆になる事が多いです。
奥さんを蔑ろにしていると、次には自分が妻になり、前の妻が夫になって、その夫から同じ様な目に遭わされて苦しむことになります。
つまり、今、連れ合いから苦しめられている方は、前世は立場が逆で、同じように苦しめたということです。
前世が夫婦だった人たちが、再度、夫婦になる確率は80%くらいです。
その内の30%は、夫だった方が妻に、妻だった方が夫になります。
その他の例としては、、前世の加害者が、生まれ変わった時に被害者になります。
前世で人に冷たくしていると、生まれ変わった時に人に冷たくされます。
生まれ変わると、男性が女性になり、女性が男性になることも多いです。(三分の一くらいの方が、性別が変わります。)
そうなると、男っぽい女性、女っぽい男性になります。
前世と同じ性別のときは、男なら“より男らしい”男性に、女なら“より女らしい”女性になります。
人間の魂の人間は、平均400年くらいで転生しますが、神の魂を持った人間は、希にしか人間界には降りて来ないので、人間に生まれたとしても、霊格の高い方は数千年単位で生まれ変わります。
希に前世の記憶を持った人間もいます。
生前の行いが悪いと、動物や害虫などに転生させられる事もあります。
例として、人の秘密を嗅ぎ回ったりしている人は、犬に転生し、他人に甘えてばかりの人は、猫に転生します。
人の陰口や心に突き刺さる発言をする人、主に女性は、血をいっぱい吸ってから叩き潰される蚊に転生して、次には虻に転生して、という具合に段階を経て大きな肉食動物に転生していくのです。
他人が近寄り難い立ち居振る舞いをする人、主に男性は、ゴキブリなど、人間に嫌われる昆虫に転生します。
この様に、人間として生きていた時の行いによって、転生する行き先が変わります。  
 
輪廻転生と死後の世界 4

 

輪廻転生とは、また死後の世界は本当に存在するのか
「人は死んだ後にどうなるのか」これまで多くの人がこのなぞを解くことを試みてきました。「死」によって人間の存在は終わってしまうのか。それとも「死」は永遠という旅路への出発点なのか。あるいは、つぎの人生への中間点となるものなのか。ある人たちは輪廻転生というものを信じています。つまり死んだ後、何か他のものに生まれ変わるという思想です。統計によるとアメリカ人の25%がこの輪廻転生を信じているのだそうです。ではなぜ人々はこの輪廻転生という考えに魅了されるのでしょうか。
輪廻転生とは「更正」ためのの機会なのでしょうか
輪廻転生説は多くの人に希望をもたらすようです。もしもこの世でうまくいかなかったとしても、次の世界ではチャンスがめぐってくると信じるからです。しかし、この輪廻転生を信じる人たちもほとんどの人が生前、自分が何であったかという記憶がないことを認めざるを得ません。もし生前の記憶がないとしたら、一体どうやって過去の過ちから学ぶことができるのでしょうか。何度人生を繰り返してもただ同じ間違いを繰り返すことになってしまうはずです。過去の歴史を振り返ってみても、将来人類が「完全」に近づくという希望が果たしてあるのでしょうか。
また輪廻転生説は公正をもたらすものだと主張する人たちがいます。カーマの法則(変わることのない普遍的な法則)によると、私たちは自分のむくいをその人生に体験するのだといいます。つまり良い行いをしたり、悪を行なうとそれが次の人生に影響を及ぼすというものなのです。カーマの考えでは、全ての人が自分のした悪の報いを受けているというのです。足がないまま生まれてきた子ども、また暴行を受けた女性はそれぞれその報いを受けているということになります。そこには「恵み」とか「赦し」、また「あわれみ」という概念は存在しません。
このことは困難な試練を体験している人たちにとって何の希望も与えないばかりか、苦しみの多くがその本人に由来していないと信じ、その苦しみから救い出そうと努力している人たちとの間に大きな葛藤をもたらします。
輪廻転生説の限界
ほんとうに輪廻転生説はこの病める現代社会に希望と公正をもたらすことができるのでしょうか。またこの考えは「死」という問題に対して一体どんな答えを提供してくれるのでしょうか。しかしイエス・キリストは、全く異なったメッセージを語られたのです。キリストは、不当な苦しみがあることを否定されませんでした。イエス・キリストはその苦しみを起こした人たちにゆるしを与え、また苦しみを経験している人には癒しを提供したのです。キリストは完全なものは一人もいないと教えられました。人の心は汚れで満ちていて、そのため完全で愛の方である神を悲しませる行動や態度を取ったりするのです。キリストは自らの犠牲をもって支払われた償いのゆえ私達の罪を赦すことがおできになると言われました。キリストは、わたし達はこの地上でのたった一度の生涯の中で、キリストの罪のゆるしを受けたかどうかによって永遠の命を得るか、それとも永遠の裁きを受けるかのどちらかであることを話されました。(マタイ25:31-46、ヘブル9:27)キリストはまた「失われている人を探し、また救うため」にこの世に来られたと語られました(ルカ19:10)。またキリストは「仕えられるためではなく、仕えるために、そして多くの人の身代わりとして」来られたと言われました(マルコ10:45)
キリストは十字架にかかられているその時にも私たちに対する愛を示されました。イエス・キリストの隣に十字架に掛けられた強盗はそのとき自分の罪を告白し、イエス・キリストに自分のことを死後に思い出してくださるようにと願ったのです。そのときキリストはこう答えられました。「まことにあなたに告げます。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)この強盗が天国に行くためにたった一つ求められたことはイエス・キリストに対する信仰でした。この世で何度も何度も人生を繰り返しながら良いカーマを得ようと努力する必要などないのです。キリストはこうも言われました。「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」(ヨハネ3:16)
これこそわたしたちにとって、この世においてもまた後の世においても、本当の良い知らせ(Good News)といえるのではないでしょうか。 
 
輪廻転生はあり得るか 5

 

心は存在するか?
自然科学の立場からすると、「心」とは、脳細胞などの働きのうえに名づけられたものにすぎないかもしれません。つまり、心の実体を科学的に追求してゆくと、脳細胞や神経などの存在が見いだされるのみであり、それらと別に心が存在するとは認められない・・・ということです。こうした考え方を仏教哲学の文脈に当てはめれば、「心とは、脳細胞の働きのうえに仮設されたものだ。つまり、脳細胞などは実有であり、心は仮有である」と表現できるかもしれません。これはちょうど、説一切有部などが「人(補特伽羅)は、五蘊のうえに仮設されたものだ。五蘊は実有であり、人は仮有である」と主張しているところの、「人と五蘊の関係」に似ていると思いませんか?
これに対して、仏教自身の側では、心というものを次のように考えます。心は、脳に依存し、脳を利用していますが、脳そのものではありません。脳は物質的なものですから、物質的な原因(精子と卵子、遺伝子、細胞分裂など)によって生み出されます。しかし、心は精神的なものであり、物質(色蘊)としては存在しません。ですから、心の生じる近取因 (それ自体が変化して結果たる心になってゆくところの、主な原因) を、物質的なものの中に見いだすことは不可能です。心と身体は、相互に依存しつつも、主な因果関係としては別々の流れを辿る・・・と仏教では考えています。
そのようなわけで、仏教哲学の枠組みの中で、「心は脳の働きのうえに仮設されたもの」と主張する学派はありません。しかし、インド哲学の伝統では、ローカーヤタ(順世派)という学派が、ほぼそのような見解を主張していたようです。大昔に、随分と科学的な考え方をする思想家たちがいたものです。
このローカーヤタと正反対の見解を擁しているのが、仏教の唯識派です。唯識派は、「脳や身体を含め、あらゆる物質的なものは、心の反映にすぎない。物質的なもの(色)を追求してゆくと、心と別にその存在を認められない。つまり、心だけが真実として成立(諦成就)しており、物質的なものが外側の対象(外境)として認識されるのは虚妄である」と主張しています。
自然科学に慣れ親しんだ現代人からすると、これはとても極端な見方のように思えます。でも、よくよく考えてみると、唯識派の主張も一理あります。なぜなら、いかなる物質的なものも、心によってそれを認識することがなければ、その存在を知り得ないからです。例えば、精密な機械によって測定された実験結果も、もし誰かの心によって認識されなければ、一体どうやってそれを証明できるでしょうか? 機器に表示された数値を見るだけであっても、それは眼識という心によって知覚され、意識という心によって分別されているのです。こう考えると、「心のみが真実として成立しており、物質的なものはその反映だ」という主張も、私たちの経験や常識を根拠にするだけでは、それを簡単に否定できません。
このように、一方ではローカーヤタの見解も説得力がありそうだし、他方ではそれと正反対の唯識派の見解も正しそうに思えてくるのは、一体なぜでしょうか? もし、物質的なものを鍵としてあらゆる存在(一切法)を見渡せば、ローカーヤタのような見解へ帰着することになります。逆に、精神的なものを鍵としてあらゆる存在を見渡せば、唯識派のような見解へ帰着することになるわけです。
どちらを鍵とするかによって、全く正反対の結論が導き出されるという、そのことの意味をよくよく考えてみましょう。そうすると、「何かを鍵とすること自体が、実はあらゆる存在を理解しやすくするための手段にすぎず、究極的には無意味なのではないか」という疑問が湧いてきます。こうした疑問から、仏教哲学の最終結論、すなわち中観派の見解へ辿り着くことができるのです。
中観派は、ローカーヤタと唯識派の双方を否定して止揚する形で(註)「心も物質も、他のものごと(原因や条件、部分、分別による名称の付与)に依存して成立(縁起)しているので、全て仮設(仮説)されたものである」と主張しています。
「仮設されたもの」であれば、勝義という絶対的な次元に於て、何一つ成立しません。それが、「空」という意味です。しかしその一方、世俗という相対的な次元に於ては、「単なる存在」として成立しているのです。この「勝義無、世俗有」という存在感の設定を、心にも物質にも等しく適用する点が、中観派(特に帰謬論証派)の見解の特色です。これを、仏教用語で「外境内心有無平等」といいます。
心にしろ物質にしろ、いかなる存在にも「実有」とか「諦成就」といった実体性を認めないこと。それが、中観派の見解を理解する第一のポイントです。そして第二のポイントは、「私たちの日常世界の全てが、そのような実体性を欠いた程度の存在感をもって成立している」という、この点を本当に納得し、その程度の存在感に満足すべきことです(ちなみに唯識派以下の学派では、心にしろ物質にしろ、鍵となる何らかの存在に実体性を付与しなければ、日常世界が成立していることを合理的に説明できない・・・と考えています)。
以上の論議を前提に、冒頭の問題に戻ってみましょう。「心は存在するのか」。 中観帰派の立場から見ても、心は存在します。なぜなら、日常の正しい認識によって、その存在が知られるからです。それと全く同様に、物質も存在します。ですが、心の実体を追求すれば、どこにも見いだせません。物質についても、全く同様です。脳は、身体は、瓶は、柱は、全て存在するけれど、実体を追求したら何も得られないのです。
『般若心経』は、「色即是空」という経文で、物質には実体性が全く無いことを説いています。続いて、「空即是色」という経文で、実体性を欠いた物質が単に存在することを説いています。さらに、「受想行識亦復如是」という経文で、心もそれと全く同様である点を明確に示しているのです。
輪廻転生はあり得るか?
前の「心は存在するか?」という問題は、輪廻転生を認めるか否かにも関連してきます。その論議の前に、まず次の点を確認しておきましょう。南伝の上座部仏教にしろ、北伝の漢訳大乗仏教にしろ、チベット仏教にしろ、凡そ今日存在している伝統仏教の全てが、輪廻転生の存在を認めています。二十世紀のインドでアンベードカル博士が提唱した新仏教、及び近代仏教学の影響で明治以降に変質した日本仏教の一部のみが、輪廻転生の存在を否定しているようです。しかし、だからといって、多数決のようにして輪廻転生の存在を証明することはできません。私たちは、この問題を、可能な限り論理的に考えてみましょう。
まず、前述のローカーヤタのような見解を奉じていれば、必然的に輪廻転生を否定することになるはずです。事実、ローカーヤタは、前世の存在を認めていません。その理由として、彼らは「誰も見たことがないゆえに」と述べています。一般論として、ローカーヤタの立場は自然科学に近いと思いますが、この「見たことがなければ存在しない」という論理は、ちょっと非科学的で稚拙だと思いませんか?
輪廻転生の存在を自然科学で証明することはできませんが、だからといってその非存在が証明されたことにはなりません。けれども、「心は脳のうえに仮設されたものにすぎず、脳や身体は実有であり、心は仮有である」という見解を本当に証明できれば、輪廻転生の非存在も論証できるはずです。なぜなら、仮設基体である脳が身体の死の時点で機能しなくなったら、その後まで心が存続することはあり得ないからです。そうはいっても、こうした見解は、仏教哲学の全学派によって否定されています。その点は、前に述べたとおりです。
次に、唯識派のような見解を奉じていれば、必然的に輪廻転生を主張することになるでしょう。なぜなら、虚妄な外側の物質である身体が死を迎えたからといって、真実として成立している心まで消滅することはあり得ないからです。そして唯識派は、脳などに依存しなくても存在し得る根源的な心として「阿頼耶識(第八識)」というものを想定し、それが輪廻転生の主体だと主張しています。しかし何といっても、この唯識派の見解は、考え過ぎの観を否めません。特に、阿頼耶識の設定は、空や無我を逸脱する「勇み足」として、中観派から論難されることになります。
では、その中観派の見解による場合、輪廻転生はどなるでしょうか? 心は、実体として成立していなくても、世俗の次元で存在しています。そのような心の生じる主たる原因は、物質的なものではなく、精神的なものに求めなければなりません。心でいくら思っても、現実に物質が生じることはありません。それと同様、物質にいくら働きかけても、心を発生させることは不可能です。中観派では、「前刹那の心から、次刹那の心が生じる」という精神的な因果関係を世俗の次元に設定し、それによって輪廻転生を説明しています。
阿頼耶識のような実体的性を否定しつつ、あくまで世俗の次元に心の連続性を見いだそうというのが、中観派の死生観の特色です。前世から来世へ連続してゆく心とは、意識(第六識)の因果関係の流れです。私たちの生存中の意識は、脳細胞や神経に依存していますが、臨終の過程で微細化され、そうした粗い物質に頼ることなく存在し得るようになるといいます。このような内容は、密教の無上瑜伽タントラの理論を導入することで、より一層明確に説明できるでしょう。
中観帰謬論証派では、世俗の次元に於ける意識の因果関係の流れを承認しつつも、それ自体を輪廻転生の主体だとは位置づけません。輪廻転生の主体は、そうした意識の流れに依存し、それを享受し、利用しているところの「単なる私」です。こう表現すると難解そうですが、生存中のことを考えれば簡単です。今の「私」は、私の意識の持ち主であり、私の意識は、私によって利用されています。持ち主と所有物は同一であり得ないので、私は、私の意識そのものではありません。そのような「私」は、実体を追求すれば何一つ見いだせませんが、世俗の次元では存在しているので、「単なる私」と表現されるのです。
よく、「仏教は無我説だから、輪廻転生を認めていない」などという解説を目にしますが、それが正しくないことは、もうお分かりだと思います。「無我」や「空」によって否定されるのは、実体としての「我」です。しかし、輪廻転生の主体となる「単なる私」は、実体性を全く欠いた世俗の次元の存在にすぎません。もし、そのような「単なる私」も存在しないというならば、いま生きているときの私も存在しないし、私の心も、私の身体も、またそのように「“単なる私”は存在しない」と語っている人自身も、全く存在しないことになるでしょう。
つまり、輪廻転生が成立するか否かは、勝義の次元で実体的な我が成立するか否かに関係するのではなく、世俗の次元で意識の因果関係の流れが連続するか否かにかかっているのです。それもつき詰めてゆけば、「実有である脳の働きのうえに仮設されたもの」ではない心が、世俗の次元で存在するか否かという点に、結局帰着すると思います。
聖教量への信頼
以上のような論理に立脚して、私は輪廻転生があると信じています・・・と言ったら、「しかし、それは理屈のうえでのことだろう。君自身の心に正直に聞いてみたら、やはりローカーヤタのように“前世の存在など見たこともないのだから、信じられない”というのが本音じゃないのか?」という反論が返って来そうですね。事実、自分の前世など見たこともない(否、覚えていない)のは、確かにそのとおりです。だから、まるで見てきたかのように「前世がある」などと語ることは、今の私にはできません。
しかし、見ていない、体験していない、覚えていないことを、人は全く信じられないのでしょうか? 例えば、本物の阿弥陀仏など「見たこともない」のに、深く信心している人は、実に多勢いるはずです。熱心な阿弥陀仏の信者に向かって、「阿弥陀様なんて、本当は存在しないんだよ」などと不謹慎なことをいう人は、ほとんどいないでしょう。ところが、信じている対象が輪廻転生となると、これを批判する人が後を絶ちません。なぜかというと、阿弥陀仏は素晴らしい存在であるのに対し、輪廻は苦しみの連鎖する汚れた世界でしかないからです。
けれども、苦しみに関すること、望ましくないことだからといって、真実から目を背けるわけにはゆきません。なぜなら、たとえ輪廻転生を認めなくても、その一断片であるこの一生に於ける「煩悩→悪業→苦」という連鎖は、厳然として存在するからです。もし、それを心底から厭い、完全に断ち切る方法を求めるならば、仏教の中に答えを見いだすしかありません。そして仏教は、この問題を解決するやり方として、輪廻という大きな枠組みを丸ごと捉えたうえで、苦しみの連鎖を根こそぎ断ち切るという方法を採用しているのです。
それゆえ私は、論理的には前に述べてきたような展開から、また教証としては輪廻転生を説いた諸経典(聖教量)に対する信頼から、輪廻転生を信じているのです。
このように述べると、また次のような反論が返って来そうです。「君は“真実から目を背けるわけにはゆかない”などと格好のよいことをいっているけれど、本音はどうかな? チベット仏教は、輪廻転生を前提とした教理体系になっているわけだから、輪廻転生説を受け入れない限り、一歩も先へ進めないだろう。それを、先へ進みたいから、君は無理して輪廻転生を信じようとしているのではないか?」と。
ならば、開き直って答えますが、私はそれでもよいと思うのです。例えば、阿弥陀仏に対する信仰も、もちろん最初から無条件の感謝や信心を確立できれば理想的かもしれません。しかし、「極楽浄土へ往生したい」という願望から、「そのためには阿弥陀様を信仰しなければいけない」と考え、少しづつ信心を固めてゆく・・・といった信仰形態も、現実には尊重すべきではないでしょうか?
輪廻転生の件に話を戻すと、私個人としては、ツォンカパ大師に対する全面的な信頼が、全ての根本にあります。チベット仏教を自らの信仰とする動機は人それぞれですが、私の場合、ツォンカパ大師への憧れからこの道に入ったといえます。
ツォンカパ大師の教えは、それを深く学べば学ぶほど、素晴らしさが身にしみて感じられます。大師の御著書は、少し努力すれば誰でも理解できるように、明解な論理構成をもって説かれています。遥か後世の堕落した時代に、私のような愚かな凡夫が学ぶであろうことまで御配慮なさり、二重三重の教導で鈍根の者にまで救済の網をかぶせる・・。大師の広大無辺な御慈悲のお蔭で、釈尊の教えに連なる一筋の光明を見いだしたとき、無知の暗闇を漂うばかりの私がどれほど感銘を受けたか、それは筆舌に尽くし難いものがあります。
ツォンカパ大師の伝記を垣間見るならば、本当は文殊の化身でありながら、現われとしては一介の僧侶から身を起こし、学問と修行に精進努力を積み重ね、求道者としてあるべき姿を示してくださった偉大な御生涯が、誠実なお人柄とともに浮かび上がってきます。昔の聖者伝にありがちなウサン臭さなど微塵も感じられず、実直に教えを説き続けてくださったそのお姿に、私は長年追い求めてきたラマの理想像を見いだしたのです。
ツォンカパ大師の教えを、金の真贋を調べるが如くによく吟味するならば、表面に現われている事象に関しては、世俗の正しい五感と矛盾しません。多少隠れている事象に関しては、世俗の正しい論理と矛盾しません。そして、甚だしく隠れている事象に関しては、経典を適切に引用し、自らの言葉の前後に矛盾がありません。
以上の点から私自身は、心情的にも論理的にも、ツォンカパ大師の教説を百パーセント信頼できると考えています。そのツォンカパ大師が、仏教教理の集大成、仏道修行の指針として、満を持して説き明かした教え・・。それが「ラムリム」です。そして、この「ラムリム」が輪廻転生を大前提とした体系である点は、全く疑いの余地がありません。それゆえに、私は、「輪廻転生が存在する」と自信をもって言うことができるのです。
こうしたツォンカパ大師に対する信心は、今まで述べてきた輪廻転生の論証と、決して矛盾する話ではありません。そうではなく、今までの論理的説明を私個人のレベルで根底から支えているものは何かという、その点に関わる話です。

(註)チベット仏教の伝統では、ローカーヤタの見解を、外道の中でも最も低いレベルのものと位置づけている。それゆえ、中観派の見解を解説するとき、直接の相手方としてローカーヤタを持ち出すことはない。実際には、三世実有の法体を是認して外境を実体視する説一切有部の見解と、外境の実在を否認する唯識派の見解とを止揚し、それらの中道という形で中観派の見解を設定することになる。ただ本稿では、近代の自然科学的な発想を考慮に入れ、それと近似するローカーヤタの見解を敢えて持ち出して論議した。  
 
輪廻転生 6

 

仏教の死後観
仏教の死後の世界観は古代インド人が考えたものです。インド人は現世を基本的には苦しみの多い世界と考え、以下の6つの世界(天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界)に分類し、死後はこの六道(ろくどう)を輪廻・転生すると考えたのです。お釈迦様は六道輪廻では永遠に苦しみから逃れることができないと考え、極楽世界(輪廻を超越した世界)である浄土を考えたのです。地獄の恐怖が浄土を生み出したと言っても過言ではないでしょう。故人は浄土に往生し阿弥陀仏のもとで仏に成るべく修行をし続けておられるのです。仏教の真の目的は浄土においても仏に成ることです。
神道の死後観
次に、古代日本人(仏教伝来以前)の死後の世界観はと言いますと、神道のそれであります。神道では、死後は他界(たかい)へ行くのですが、そこは不老不死の世界であり、神々の世界であります。いわゆる黄泉(よみ)の国・常世(とこよ)の国であり、今尚大きな影響のある山中他界という考えを以下に記しておきます。神道では、我々は死後に死霊になり、穢れ(けがれ)を持ち、その穢れを浄化する為に祭祀を行い、次第に浄化され、祖霊を経て祖先神になると考えます。この間、約33年から50年と言われます。弔いあげの年数は山中他界観が根拠です。
1.この世を輪廻する
「人は死んだら、中有(四十九日)と呼ばれる期間内に必ず何かに生まれ変わる」
輪廻転生の考え方から言えば、必ずこの世の何らかの生き物として、生まれていることになっています。六道(ろくどう)と呼ばれる六つの世界(天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界)を生まれ変わっている訳です。
ここで、注意しておくべきことは、あくまでも「この世」での出来事であるということなのです。つまり、「死後の世界」というようなものが、この世とは別に存在しているとは考えていないということです。
2.何が輪廻するのか?
輪廻転生は、この世での出来事ですから、幽霊に関する話ではありません。
念のため、霊魂と幽霊を辞書で調べてみます。新仏教辞典によれば、霊魂とは「肉体から区別された、精神的統一体」とあります。そして、幽霊は「死んだ人の霊魂が、この世に姿を現したもの」とあります。
この説明では、輪廻転生した霊魂と幽霊の差がなくなってしまいます。そこのところをはっきりするために、幽霊とは「死んだ人の霊魂が、死んだ人と同じ肉体を持った状態のまま、この世に姿を現したもの」ということと理解して構わないのではないでしょうか。
さて、本題に戻って輪廻転生ですが、再度何物かに生まれ変わると言うからには、生まれ変わっているものは何かという疑問が湧いてきます。
通常の認識で考えれば、人間は、身体と、身体を司る精神とから成り立っているように思われます。身体とは、肉体のことですから、いわゆる死を以って火葬してしまいますから、「身体が生まれ変わる主体」とは考えにくいと思われます。
次に、精神についてはどうでしょうか。精神とは、心と言っても差し支えないでしょう。もしも、輪廻する主体があるとすれば、心の部分に関わっているのではないかと考えることにしてみます。
3.輪廻する主体
ミリンダ王は問う。「尊者ナーガセーナよ、次の世に生まれ変わるものは何なのですか?」
ナーガセーナ長老は答える。「大王よ、実に名称・形態が次の世に生まれ変わるのです」
ミリンダ王「この<現在の>名称・形態が次の世に生まれ変わるのですか?」
ナーガセーナ長老「大王よ、この<現在の>名称・形態が次の世に生まれ変わるのではありません。大王よ、この<現在の>名称・形態によって、善あるいは悪の行為(業)をなし、その行為によって他の<新しい>名称・形態が次の世に生まれ変わるのです。」

「心のような言葉でしか表せない抽象的なもの」を「名称」とし、「身体のような具象的なもの」を「形態」と考えて良い、と続きます。
つまり、輪廻転生とは、新しい心と身体を持つ「新しい存在」に変わることであると言えます。
そして、「現在の存在」が行なった行為(業)は、「新しい存在」に影響を及ぼすと考える部分は、極めて仏教的ではあります。 
4.死んだらどうなるのか?
死んだらどうなるのか、あるいは死んだら何処にいくのか、という疑問は実に素朴な疑問として、常に我々の関心のあるところです。
ところが、残念なことに、我々には「自分自身の死」を経験することができません。生きている時点で想像している「自分自身の死」は、想像している自分自身からの視点である以上、どんなに考えても表現できることではありません。あるいは、自分自身の死後においても、肝心の経験するはずの自分がどうなっているのか、想像の範囲を越えることができません。
結局、人間にとって、認識の限界を超えていることであり、認識できないものは、存在していないのと同じことであるようにも思えてきます。
「死後のことは経験を超えているから、それがあるともないとも断定できかねる。芋虫は、さなぎとして死を迎える時、自分がその後、美しい蝶となって空を舞うようになるとは夢にも思っていない。われわれも、その芋虫のようなものかもしれない」
芋虫が本当にさなぎの時、蝶になることを夢にも思っていないかどうかは定かではないのですが、たとえ話としてはなるほどと思わせるものはあります。
そして、確かにこの世を生きる我々は芋虫のようである、と思えなくはないのですが、だからと言って、死後に美しい蝶となれる夢ばかりを信じる気にもなれません。しかも、その美しい蝶ですら、死を免れる存在ではないはずです。
5.死を考えることに意味がある。
死んだらどうなるのかを考えることと、自分の死を主観的に知ることとを混同してしまえば、結局、自分の死を主観的に知ることはできないから、死んだらどうなるのかという問題自体ナンセンスに思えてしまいます。ところが、死を考えることは、生を考えることと同じくらい、意味を持つはずです。我々は、あるものごとを見て何かを考えるとすると、その対象に対して、まず心の中に勝手な想像を膨らませます。例えば、死に関しても、一言で言うならば、「全てを失ってしまう出来事である」というようにです。
つまり、たいていの場合、自分の死を考えることとは、自分だけが消えてしまった世界のことを考えることです。これは、過去に自分以外の人々の死を経験し、その際に何事も変わらずに存在し続ける世界を見てきているために他ならないからです。
しかし、自分の死を考えることとは、自分だけが消えてしまった世界のことを考えることなのか、もう一度考えてみて下さい。
それは、むしろ遺された家族の視点に近いものがあります。おそらく、自分自身の死を、無意識に愛する家族に成り代わって想像しているのかも知れません。
死を「全てを失ってしまう出来事」であると想像してしまうのは、死後にも自分自身を認識している何者かを存続させたいという欲望が作り出している思い込みではないか、そのように考えることがあります。
つまり、死後にも存続するもの(霊魂)があると信じる人にとっては、「死とは、全てを失ってしまう出来事である」と言えるのかもしれないのですが、死後には存続するもの(霊魂)はないと信じる人にとっては、「死とは、決して自分だけが消えてしまった世界のことではなくなる」のではないでしょうか。 
 
輪廻転生 7

 

仏教の教えでは、生と死を永遠に繰り返すことを流転、あるいは輪廻といい、その流れから抜け出すことを解脱という。
輪廻転生とは、車の車輪のように人の魂は死んだ後も、永遠に形を変えて生き続けるということである。
車輪のようにまた形を変えてというのは、この世と死の世界を行ったり来たりそのたびに違う肉体で生きるということである。
生まれ変わりに関することは、今までにもいろいろな方面でたくさんのことが言われてきている。今回私は違った角度から、アダムとイブは誰もが知っているので、このことから輪廻転生の話を進めてみる。
これから述べることは、単なる思いつきではなく深い意味で私自身確信していることでもある。その全部をここで詳しく説明できるものではないが、少しでも参考になるようにまとめてみたい。
アダムとイブの話は、旧約聖書の「創世記」に載っている。この内容は、比喩や象徴で書かれてあるので、その解釈も難しい。
あくまで自分の知っていることを基盤にした、霊的推測になる。まず、「創世記」からポイントとなるところをまとめて見る。
「最初の人間アダムとイブが生きる場所として神から与えられた『エデンの園』には、園の中央に『命の木』と、取ってはならないといわれた『善悪を知る木』があった。
神はアダムに園のどの木からでも好きなように取って食べていいが『善悪を知る木』からは取って食べてはならない『それを取って食べると、きっと死ぬであろう』と言った。
ところが、イブがヘビにそそのかされてしまった。ヘビは、『善悪を知る木の実を食べても死ぬことはない。それどころかそれを食べると目が開け神のようになる』とイブに言った。
イブはその木の実を見ると『それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい』と思い、その実を食べた。そしてそれを側にいたアダムにも与えた。
すると、二人の目が開け、自分たちが裸であることに気づき、慌てていちじくの葉を腰に巻いた。食べてはいけない木の実を食べたことを神に知られた二人は、その責任逃れをいい始めた。
アダムは、イブが木からとってくれたから食べたと言い、イブはヘビが自分をだましたからだと、それぞれ他の者のせいにした。
神は、神の言葉を無視した(罪)アダムとイブをエデンの園から追放した。そして罰として、アダムには一生イバラを耕して食を得る苦しみ(食を得るための労働)を、イブには生み(出産)の苦しみを与えた」
以上のことは、「創世記」の第2、3章に載っていることである。旧約聖書では、アダムとイブの楽園追放があり、新約聖書ではキリストの再臨、そして神の国や地上天国の確立がいずれ来るとされている。
今回は聖書をもとにした輪廻転生の話であるから、地上天国である神の国がいつの日か確立するという前提で話を進めていきたい。ただし、キリスト教には、生まれ変わりの教えはない。
ここで心を拡大してイメージしてもらいたい。
いつとも知れぬアダムとイブのいた頃から、これもいつとも分からない地上天国が確立する間のとほうもない時間的空間を想像的な観点から眺めてみよう。
そしてその時間的空間を頭の中で固定しやすいように、今度は適当に縮小してみよう。今、頭の中に見えるのは、地上天国であるエデンの園と来るべき神の国であり、そしてその間には楽園を追放された時間的空間のひずみがある。
楽園を追放されたアダムとイブは、現在の我々人間である。その追放された楽園と来るべき楽園の間が、輪廻転生の場となる。
では、どのようなことで輪廻転生が始まったのかを推測してみよう。
アダムとイブの二人は、神によって神の楽園に置かれていた。しかし、食べてはいけないと言われていた「善悪を知る木の実」を食べてしまった。
善悪は相対である。木の実を食べてすぐにお互いの裸に気が付いたということが相対を知ったということである。
そのようなことから、二人はそれまで真の相対を知らなかったということになる。神は一、相対は神ではない。
善悪を知るということは、裏を返せばネガティブを知るということでもある。ヘビの誘惑はネガティブの象徴であり、神に木の実を食べたことを知られた二人は、早速その責任を相手になすりつけるというネガティブ意識を現している。
一応食べてはいけないと神に言われていたが、食べるかどうかは自由で、神の世界は絶対自由平等の世界であるため、自己意志による自己責任といった法則が働いている。
この法則は、今の我々人間にも同様に働いている。これが神的世界につながる自由と平等の基本となる。
二人は、神の言葉よりヘビの言葉を信用したために、取り返しのつかないことになってしまった。このようなことから考えると、エデンの園には、善悪を知る木があったり、誘惑するヘビがいたりすることから、完全な神の世界ではないということがわかる。
本来、神の世界は完全であるから、完全以外のものは存在できないのである。エデンの園や地上天国にしても、人間が進化した姿である究極の平和意識の世界ということかもしれない。
意識の進化状態が、その意識の存在できる次元を創造し、さらに進化は延長していくということか。
楽園いたときは、食べるための労働はなかったが、そこを追放されてからは労働の苦痛を課せられた。
また生みの苦しみも女に与えられた。楽園にいたときは、これらの苦痛はなかったということになる。
相対の世界において、生み(誕生)があればその対極には死がある。こうして、人類に自分たちのやった行為に対する結果として誕生と死の輪が回り始めた。
この世はアダムとイブの二人から始まったというのは人類の象徴ととらえていいだろう。「木の実を食べると死ぬ」というのは、相対に生きるということで楽園追放であり、分かりやすく言えば天国から地獄に落ちるということである。
楽園が神と同じく永遠の生命の場とすれば、この世は生きていても死がある以上、死の世界だということになる。
永遠の生命とすべてそうでないものとの違いと言う意味にも取れる。
楽園を追放された我々人間は、本質的な面に関しては同等であり平等である。この世においては、すべて輪廻転生に翻弄されている見かけ上のことになる。
真の違いは、自分自身で自覚できる深い意識の中にある。我々はいつまでも人生という流れのままに自己を失っている必要はないのである。
生まれ変わりにストップをかけたり、この人生で次の行き場所を決めることができるのである。このことは何も特別なことではなく今までの過去世の中でも、我々は、無意識のうちに次に行く場所(来世)を決めていたということである。
もちろん、すべては神が決めることであるが、その条件を満たすことは我々の意志でもできることである。
ここまでは、ひずみとしての輪廻転生の場だけを見つめてきたが、「全」が神である以上楽園はいつでも存在していることになる。
我々は、同じ繰り返しの生まれ変わりから脱出して、元のところに帰らなければならない。楽園を追放された理由を考えてみれば、食べた木の実の成分が残ったままでは戻れないということになる。
その成分を消すことが、相対意識やネガティブ意識の浄化であり、それが人生の主たる目的なのである。
これは、神の秩序であり、人間の通る意識の道であるから、それ以外の方法で楽園に至ることはない。
人間の本性を問うのに、「性善説」と「性悪説」がある。
これは、孟子と荀子が首唱したことであるが、楽園にいた時の意識であれば人の本性は善、追放された時のネガティブ意識が人の始まりであれば、人の本性は悪ということになる。
しかし元々人間は神と共にいたのであるから、とりあえずは善ということになる。何故、とりあえずかといえば、これは相対の世界の見方であって、神の中ではこのどちらも無いからである。
我々が聖書や他の宗教のことに関しても、なかなかすんなり理解できないのは、その書かれてある内容をすべてこの世の意味で捉えるからである。
この世で理解できる意味と、潜在意識的な意味、それに完全霊的にある意味の三通りの意識で全体的に把握できれば、霊的な本に書いてある神秘的なことも大体理解できるようになるのである。
生まれ変わりのことは、潜在意識的からもっと先の意識に関することであるから、なかなかピンとこないかもしれないが、それでも自分自身のことなのである。
この内容を意識的な感じとして捉えることができれば、我々が生まれ変わらなければならないのはどうしてか、また生まれてくる目的は何か、本当の人生の目的は何か、などいろいろなことが見えてくるはずである。
それとも人間は、何の目的もない、ただ誕生と死の間で生きるだけの存在なのであろうか。小さな観点でああでもないこうでもないと考えていては、いつまでたっても本当のことが分からない。
輪廻転生の真の意味が分かってくると、自分の前世が何であったかなどは、それほど大きな問題ではない。
前世やその前の過去世のことが役に立つのは、その時の自分の意識のあり方がわかることなのである。
人類としての我々がいつ神と共にあったかは分からないが、それにしても長い間輪廻転生を繰り返しているのであろう。
また来世も同じく生まれ、学校に行って、社会に出て働いて死んでいく。そしてまた再来世も。
本来、真の意識の存在にはないことを、楽園から出されたことでわざわざいやな思いと苦しみに生きていかなければならない。
我々は神の場からやってきたのであるから、動物肉体意識とは別に生命意識(魂)がある以上、動物と同じ意識に下がることはない。
神から離れた理由がわかれば、その逆をたどっていけばいいことになる。「楽園」という言葉自体も分かりやすくするための象徴であって、真に意味することはそれ以上のことであろう。
本来の我々の魂意識、生命意識、神と共にある意識という意味なのであろう。圧倒的大多数の中の仲間意識である安心というひずみの中か、その外かの違いになる。
これを完全理解すれば、誰からもそして何に対しても自分の心が傷付けられるということはない。 我々は本当に長い間、大多数が正しいと信じていたことを、それが本物のように数多くの過去世の中で信じ込まされてきた。また今も。
そして、自分自身も知らないため、そのように教えてきた。結果、まだこのようなネガティブの中で自己も知らずに、この世というものの中で翻弄されている状態が続く。
簡単にまとめてみたが、輪廻転生については今の話とは全く違う内容でもいくつか話すことはできるのである。
輪廻転生自体は証明できないが、それがなければおかしいということは、いくらでもある。
結局、自己の意識の中で深く理解していくことが、一番納得できることである。 
 
龍樹と輪廻転生 8

 

大乗仏教中観派の開祖龍樹は、仏教史の中の巨星である。彼はゴータマ・ブッダに次いで多くの人々に人気がある。その鋭い論法と自由奔放な論理展開、さらには、彼を特徴づける空(くう)の思想は、わたしたちを魅了してやまない。
これらは、龍樹の独自の思想として語られたりするが、しかし、一つ、忘れてはならないことがある。
わたしの見たところ、龍樹はブッダの忠実な注釈者である。彼ほどブッダの言葉のすみずみまで熟知した人はなく、彼ほどブッダの心のひだの奥底まで知っていた人はいない。
独自に見える論法や空の思想も、元をたどるとみなブッダの経典の中に見いだされる。ブッダの説く法にしたがって、その法をさらに龍樹の時代に合わせて展開したのが、彼の著作群であると言ってよいだろう。
そう言える証拠として、わたしはみなさんに自分自身を差し出したい。龍樹作『方便心論』を読んで、わたしが理解したのは、じつはブッダの法だった。それは、『ブッダ論理学五つの難問』(講談社選書メチエ)にまとめた通りである。
輪廻思想についても、先に「ブッダは輪廻を説かなかったか」(上)(下)と題して、本誌『春秋』に寄稿させていただいたが、その内容はブッダの説く思想であると同時に、じつは種明かしをすると、龍樹の説く思想でもあったのである。龍樹の作品『中論』の偈頌、『方便心論』、『宝行王正論』、『因縁心論』、後は、おそらく龍樹作である『大智度論』を註釈として、阿含経典にあるブッダの輪廻転生の哲学説を検討し確かめたうえでまとめたからである。
龍樹で有名なのは、空の思想なので、龍樹の輪廻思想はどこにあるのだろうと思われる人もあるかもしれない。龍樹の説く輪廻説と空との関係を少しお話ししよう。
善悪と空
これまでの龍樹思想研究は『中論』を主体としている。そのためかどうか、龍樹の思想解釈には、誤解や混乱があると思う。ここは、まず『方便心論』を取り上げてみよう。
『方便心論』には、「善悪」と「空」という二つの言葉が出てくる。善悪の特徴と空の特徴をよく知るならば、みな悩みも障害もなくなるだろうと説かれるが、さらにそれについて、『方便心論』は重要な提言をするのである。それは、ものごとを語る順序についてである。
もし、最初に「あらゆるものは空であって、幻の如くであり、真実ではない」と「空」を説くと、智者はわかるが、愚者は混乱してしまう。だから、愚者には、まず、行為とそれには結果があること、煩悩の束縛と解脱のあること、行為する者とその結果を受ける者のことなど、つまり、「善悪」を語らねばならない。そうすれば、愚者でもすぐにわかって疑うことがない。この後に、ようやく空の説明に入るべきであると説くのである。
「善悪」とは、すなわち、輪廻の境涯を指している。善い行為をすればよい境涯に生まれ、悪しきことを行うと悪しき境涯に生ずるというあり方である。これは、『中論』では「世俗諦」と言われる。
一方、「空」とは、この場合、輪廻を脱した者のあり方を指している。こちらは、「勝義諦」と言われている。
さて、そこで、愚者とは誰だろうか? 『方便心論』は内科医チャラカを対象に書かれた批判の書である。だから、この書は、非仏教徒にあてたものと見ることができる。この場合、愚者とは非仏教徒なのである。  しかし、一方、『中論』は、部派など仏教徒に向かって説かれた批判の書である。彼らは、既に輪廻の行程は熟知しているはずである。この行程は、ブッダが十二支縁起説の順観によって示していたのである。だから、『中論』はそこから脱する道の方に力点が置かれることになる。こちらの道は、十二支縁起説の逆観にあてはまる。このため、縁起のもつ「空」という性格が重視して説かれているのである。
善悪を説き、次に、空を説く。これが、龍樹の主張する順序である。  同じことが、『宝行王正論』にも説かれる。ここでは、「まず法による安楽があるならば、その後、至福(解脱)の達成がある。安楽を獲得したあと、それから後、至福へと向かうのである」と説かれ、「善悪」と「空」は、それらの実践によっていたる境地、すなわち、「安楽(アビウダヤ)」と「至福(解脱)」に置き換わっている。そして、第一章では、実際に「安楽」それから「至福」という順序で、内容的には、善悪とその報い(一・七〜一・二四)が、次に、空観(一・二五〜一・三四)が説かれている。
縁起と空
善悪を説き、その後、空を説くのは、これらだけではない。『中論』によっても、それは、はっきりと知られる。第二六章の十二支縁起の説明で、無明に始まり老死に終わる十二の行程が説かれ、苦しみが集まり起こるさまが述べられる。ここに「善悪」のあり方が示される。そして、次に、無明が滅することにより、次々と後のものも滅していき最後に苦が滅すると、「空」のあり方が示される。
先に拙稿「ブッダは輪廻を説かなかったか」(上)(下)では、ブッダの哲学は、弁証法の哲学であると述べた。苦しみにいたる輪廻の道筋をまず説き、次にそれを脱する道筋を示すという順序で語られると強調したのである。この根拠におかれるのが、縁起(因果関係)である。このように、縁起は、時間に縛られた関係である。ブッダの説く縁起が因果関係であるなら、龍樹の説く縁起も、また、因果関係である。
従来、龍樹の説く縁起は、相依相関の関係であるとよく言われる。それは、『中論』のみを考察対象とし、「空」を先に取り上げたことに起因する誤解ではなかろうか。つまり、「善悪」の思想を意識しなかったために、最終的に「縁起」が時間を説く関係であることを見落としたのではないかと思う。この問題については、いずれ機会を見て詳しく論じたい。
龍樹の輪廻思想
さて、具体的な輪廻転生については、『中論』第二六章を見ていこう。ここで、龍樹は十二支の縁起説を説明しているが、ブッダの十二支縁起の定型的な説明とは少し異なっている。龍樹の説明は、生死流転の因縁(ニダーナ)をとくに意識して、『大縁経』や『サンユッタ・ニカーヤ』一二・六五にあるような、九支縁起や十支縁起の行程をここに重ね合わせて解釈しているように思う。
ブッダは、『大縁経』で、意識が母胎に流れ込むことによって、そして、そこで身心(名称と形態)が増大することによって、この世に転生するありさまを説明した。
龍樹も、同じように、十二支縁起を、識(意識)を中心とするこの世からかの世への生死の流転として説明するのである。具体的には、第二六章の最初に「無知(無明)に覆われたものは、形成力(行)によって再生に向かう三通りの行為をなすが、それらによって、趣(来世に住するところ)に赴くのである」と述べて、次に「形成力(行)を縁として、意識(識)は、趣に入る」と説明している。
また、拙稿「ブッダは輪廻を説かなかったか」では、わたしは、遺伝子DNAの過去から未来への伝達が現代科学における輪廻転生であると述べ、それに対比させて、意識(識)の過去から未来への伝達が、ブッダの輪廻転生であると説明した。そう言えるのは、現代科学もブッダの教説も、因果関係を主としているからである。だから、現代のわたしたちにとっては、このDNAの喩えもそんなに悪くはないと自分では思っている。
しかし、龍樹の説明はもっとよい。彼は、「過去から未来への識の伝達」という輪廻のメカニズムを、縁起を基盤としながら上手に説明してくれる。  『因縁心論』の註釈で、彼は、師が口に唱えるものを弟子がまた唱え、というように師資相承の教えの伝達を喩えとして持ち出すのである。師の唱えるものが、臨終の意識にあたるとすれば、弟子の唱えるものは、その次に続いて生ずる意識になる。そうして、口伝の教えが代々伝わるように、識もこの世からかの世へ伝達され輪廻していくのである。
龍樹の喩えは、現代のわたしたちに、輪廻転生の仕組みとともに、口伝による仏法のありさまについても如実に教えてくれている。巧みな喩えと思う。 
 
仏教と輪廻 9 / ブッダは輪廻を説かなかったか

 

ブッダと輪廻転生の思想とのかかわりを問われるならば、わたしは、右の表題の「ブッダは輪廻を説かなかったか」という問いには、はっきりと「否」と答えることができる。ブッダは、輪廻の思想をみずからの教説の中にもっていて人々にそれを説いたのである。
だが、また一方で、「それならば、ブッダは輪廻を説いたのか」と言われると、いささか困惑しながら「いや、そういうわけでもない」と答えざるをえない。彼は、輪廻を脱する道を自ら求め、解脱の方法を人々に積極的に説いているからである。
ブッダの哲学は、弁証法の哲学である。ここは、まずおさえておきたい。
「ブッダの論理学体系とは」という問い
わたくしごとで恐縮だが、拙著『ブッダ論理学五つの難問』(講談社選書メチエ)は、題名どおりブッダの論理学について述べた書である。この「ブ ッダ論理学」という言葉を入り口として輪廻説へと向かいたい。
龍樹造『方便心論(ほうべんしんろん)』は、古い論理学書である。その研究の中で、わたしは、この書がブッダの言行録である『阿含経典』にもとづく論理学を展開していることに気づいた。
ブッダの哲学体系を明らかにするためには、重大な発見であると思い、わたしは『方便心論』を土台に『阿含経典』から論理学を抽出して、それを「ブッダ論理学」と名づけて公開したのである。
これによって、ブッダの「論理学」については、ある程度明らかになったのだが、しかし、論理学の「体系」という点ではまだ語らねばならないことがある。この点を、少しお話ししたい。
さて、ブッダの論理学体系の最大の特徴であり、また、彼の非凡さを示す点は、彼の体系が「閉じている」ということである。これは、体系の中で問われたこと一切に、答えが出せるという意味である。
これによって、ブッダが「一切を知る者」であり、さらに、十二因縁(十二支縁起)説が弁証法の哲学であると説明しうるのである。このあたりを中心に説明していこう。
ブッダの体系は、大きく二つの部分から成っている。まず、中心に置かれるのが、縁起(因果関係)の論理学である。彼はこれを第一義とし、縁起を「これに縁ること」と具体的に呼んで、「如来が出現しても、如来が出現しなくても、これ(=「これに縁ること」)は確立している」と述べたのである。これは、わたしたちの住む自然界、つまり、現象世界を直接表現するための論理学である。
この一方、ブッダは、思考の世界、つまり、言語世界についても論理学を打ち立てた。これは、演繹論理学の体系であって、彼の教説の中に非常に目立たない形で示されている。ここを明らかにしたのが、龍樹の『方便心論』なのである。
一切のことがらは、この二つの論理学によって語られうる。ブッダの体系は、一切を語りうる巨大な体系である。ちょっと、現代の学問体系と比べてみよう。縁起の論理学が扱うのは現象世界であると述べたが、ここを扱うのは現代では科学の分野である。また、一方、思考の世界、とくに最近では言語分析を主体にするのが、現代論理学・分析哲学の分野である。現代においては、科学と論理学の二つの分野は互いに論理学的には接点をもたない。
一方は「発見にかんすることがら」を扱う論理学にもとづくが、もう一方は、「根拠づけにかんすることがら」を扱う論理学にもとづくからである。基本的には、それぞれ異なる論理の上に成り立ちながら、独自に発展している。
さて、「閉じている」ブッダの哲学体系は、自己完結した世界である。したがって、体系内のこと一切についてブッダは知りうる。これに対し、現代科学も現代論理学も、どちらも「開いている」体系であると言えるだろう。「開いている」体系は、未知なる部分を含む。しかし、それゆえに、発展する分野である。それでは、ブッダの体系が「閉じている」といいうる根拠は何だろうか。
「縁起(因果関係)とは」という問い
ブッダの体系を「閉じている」体系としたのは、縁起の論理学である。ブッダの因果関係は、「ブッダの公式」とわたしが名づけた、次の二つの公式によって表される。(1)「これがあるとき、かれがある」と(2)「これがないとき、かれがない」である。この二つのうち、(2)の形式を導入したことによって、縁起(因果関係)は「完全に確立した関係」となった。この(2)の公式は、現代論理学では取り上げられたことがないため、わたしたちには見慣れないものである。ブッダは、これを因果関係を確定するための「決め手」に用いた。論理的な考察は、拙著『ブッダ論理学五つの難問』【難問1】で、確かめていただけると幸いである。
そして、それ故に、ブッダの体系は「閉じている」体系になったのである。「こんな簡単な公式一つでそんなことが言えるのか」と驚く人もいるだろう。明言したい。言えるのである。現代科学と比べてみるとわかるのではないだろうか。
現代科学は、一応帰納論理学にもとづくと言ってよいだろう。これによって、因果関係は確定的な関係にはならない。形式的には、ブッダの二つの公式のうち、(1)のタイプにもとづいて因果関係を規定するからである。例えば、たくさんの人が生まれそして死んでいくのを観察して、それによって、「すべての人は生まれたならば死ぬ」という関係を導くのである。過去と現在の事実(=部分)から、「すべての人」(=全体)について導くわけである。この関係を導く根拠はそれしかない。将来のことはわたしたちには未知であるから、永遠にこの関係が成り立つかどうか確信できない。だから、因果関係は蓋然的(=確からしい)関係にとどまるのである。つまり、未知なる部分を含むがゆえに、「開いている」のである。
ブッダに話しを戻すと、例えば、「老いること・死ぬこと」の原因は「生まれること」であると確定される。それを確定づけるのは、(2)の形式である。すなわち、「生まれること」がないときには、けっして「老いること、死ぬこと」もないと、現に見るからである。「生まれること」→「老いること・死ぬこと」という因果関係は、ブッダの体系にとっては現象世界の中で確定した関係である。
このように、ブッダは、(1)の公式を用いて、苦しみの生ずる道を因果関係の鎖を十二つないで構築し、こんどは、(2)の形式を用いて、苦しみの滅である涅槃を目標として、因果関係を収束したのであった。こうして、ブッダの十二因縁哲学体系は「閉じている」ものとなった。また、これは苦しみの生ずる道から涅槃への道という順序で必ず語られる。したがって、弁証法の哲学となるのである。ここで、ようやく輪廻説を語る準備ができた。
「輪廻するとは」という問い
さて、現代科学は蓋然的な因果関係に基づいているとお話ししたが、蓋然的であれ、このような現代科学に信頼をおくわたしたちは、意外に思うかも知れないが、実はある意味「輪廻」を信じていると言いうる。ちょっと変わった「輪廻」である。それは、遺伝子DNAの親から子への伝達だからである。たしかにわたしたちは、遠い過去からの祖先の遺伝子DNAを受け継いで、今日のわたしたちが作られたと教えられている。これもまた、因果の連鎖によって生死をくり返すという意味で、「輪廻」ではなかろうか。
いや、それはちがう。親から子への遺伝子の伝達は、物質的な世界の話しで、わたしたちが話題にする輪廻転生の姿ではない。わたしたちは、自己自身が過去から未来へ生と死をくりかえすという、そういう輪廻の話しをしているのだ。ブッダの輪廻説と現代人の遺伝物質の輪廻の話しとは、全然ちがう話しである。こうあなたは言うかもしれない。しかし、何も問題はない。ブッダの説明は、まったく同じ方法によっているのだから。
ブッダは、現代風にいえば、遺伝するものを「識(意識)」であると説明したのである。つまり、母胎に流れ込むのは、意識(識別作用)なのである。彼は、輪廻転生のメカニズムを語る経典『大縁経』の中でこう述べている。
「アーナンダよ、意識が母胎に入らないならば、いったい名称と形態(身心)は増大するだろうか」と問い、さらに「意識が、アーナンダよ、母胎に入ったのち、脱落してしまうなら、いったい名称と形態は、ここ(輪廻)の状態に転生するだろうか」とたたみかけるのである。また、「意識が、アーナンダよ、名称と形態において依所を得なかったならば、いったい、未来の、生まれること、老いること、死ぬこと、苦しみの集まりが生ずることが知られるだろうか」と尋ねるのである。他にも、これとは別の経典で、ブッダは、意識について「将来再生が起こるための縁である」と断定している。
意識が母胎に入ったのち、月満ちて生まれ落ちて、あらたな境涯が始まる。物心がついてくると、自我意識が芽生える。そうなると、「わたし」と言い始める。「わたし」という意識をもつ人は、自己の存在を疑うことはない。そのような自己の意識をもつ人が輪廻について考えるとすれば、「自己(アートマン)」には触れない十二因縁説にもとづくブッダの説明より、次のような現代科学を語ったときに用いた表現を好むだろう。「意識を伝達していく因果関係の鎖が輪廻なのである、だから、意識とともにある自己自身は輪廻していくのだ」と。
ブッダの「縁起(因果関係)」を知る者は、必然的に輪廻転生を知るのである。それは、現代科学を知る者が、遺伝を認めるのと同じことである。
さて、意外な感をもたれたであろうか。うまくいくのだろうか、こんな説明で? その点は、次回、ブッダの説明をもっと聞いてみることにしよう。

縁起については、ブッダ自身ですら「深遠である」と述べているほどである。それだから「縁起」を説明するのも、さらには、これと密接に結びつく「輪廻転生」をお話しするのも、相当に困難を伴う。正直なところ、エッセーとはいえ、わたしもかなり必死である。やっと至りついた前回の結論をまとめておこう。
「ブッダは輪廻を説かなかったか――仏教と輪廻(上)」では、縁起(因果関係)の理論構造をブッダの哲学体系を視野に入れてお話ししながら、輪廻転生説はブッダの縁起説から必然的に導き出されてくるということを明らかにした。
現代では、縁起説にもっとも近い因果関係の理論をもつのが現代科学であるから、現代科学の遺伝の話しと類比させて、ブッダの説く輪廻転生の仕組みを説明してみた。ブッダの輪廻説を現代風に簡単に説明すれば、世代から世代へ「意識(識)」を伝達していくことであると、説明できるだろう。
たぶんこの表現が、現代人にとっては、一番理解しやすいのではないだろうか。現代においては、わたしたち人間も遺伝子を世代から世代へ伝達して種を保存してきたという言い方をするからである。
しかし、自分自身が過去から未来へと生と死をくり返すことが「輪廻」なのだとする立場に立つと、上の説明で満足できるだろうか。答えとしては満足できると言っておこう。「意識」は必ず自我意識を生ずる。
だから「自分」という意識をもつならば、必然的に自分自身が過去から未来へと輪廻していくという考えに結びついていくとお話できるからである。ここまではよい。それでは、次に、輪廻転生説をめぐる問題点を探ってみよう。
「因果関係を表すには」という問い
因果関係は、決まった言語形式でのみ説かれうる。特筆すべき特徴は「行為の主体を主語にしてこの関係を書くことはできない」ということである。詳しい説明は、拙著『ブッダ論理学五つの難問』(講談社選書メチエ)の【難問4】【難問5】のあたりを参照してもらいたい。
ここでは、なぜそうなるのかなどの問題は省略しよう。先ほど述べた「輪廻とは、世代から世代へ意識(識)を伝達していくことである」という表現を見てもわかるとおり、輪廻の主体については言及されていない。これが因果関係を示す表現形式である。
『大縁経』には、ブッダとアーナンダとの次のような会話がある。アーナンダは、「縁起」の法が不可思議であると言われるのをあやしんで、「これは、わたしには明らかな上にも明らかであるように見えます」と述べるのである。
これに対し、ブッダは「そういってはいけない」と戒めつつ、「アーナンダよ、深遠であるこの縁起は、深遠に見えるのだ。アーナンダよ、この法を悟らず理解しない、このような人々は、糸のもつれから生まれ、腫れ物に覆われた中から生まれ、ムンジャ草やバッバジャ草の中で生存し、苦界や悪趣や地獄や輪廻を超えでることがないのである」と説明するのである。
この文は、「糸のもつれのように、腫れ物に覆われたように、ムンジャ草やバッバジャ草のように」と比喩として読まれたりもするが、文字通りに読んで解釈できる。つまり、縁起を理解しない人は、来世に、虫けらや小動物など、さまざまな生類としてこのようなところに生まれるとすると輪廻の境涯がよく実感されると思う。
さて、実際、理屈だけなら、縁起(因果関係)の法はきわめて簡単な公式で示される。
前回お話ししたとおり、(1)「これがあるときかれがある」と(2)「これがないときかれがない」という二つの公式である。これらは、アーナンダならずとも、それほど難解にも見えないし疑うまでもないように思える。  しかし、実際に現実の世界に適用するならば、この理法は、ブッダの述べるとおり、きわめて複雑で多様な様相を示すのである。それは、現代に至るまで、ブッダの縁起の理法や輪廻説がきれいに論理的に解釈されていないことを見てもわかるだろう。その混乱の根元にあるのが、一つには「因果関係は、主体を主語にして表すことはできない」ということである。
「輪廻を脱するためには」という問い
さて、不可思議なのは、縁起だけではない。ブッダの言葉もそうである。アーナンダを戒めつつ、「縁起を知らないと輪廻を脱することができない」と述べるが、どうしてそのようなことが言えるのだろうか。どうして縁起を知るならば、輪廻を脱しうるのだろうか。
こんどは『サンユッタ・ニカーヤ』の「アチェーラ」と題されている経典を見てみよう。
アチェーラ・カッサパは、ブッダに、「自ら作るものが苦なのですか」と尋ねる。これは、どういうことかというと、自分の行為の結果として自分が苦を受け取るのか、ということを尋ねているのである。また、彼は、「自らが作るのではなく、他によって作られたものを自分が受け取るのが苦なのですか」とも尋ねる。これは、他人の行為の結果を自分が受け取ることになるのかという意味である。
これに対して、ブッダは次のように答えている。「行う者と感受する者とは同じである」という考えは、常住論に到達してしまうし、「行う者と感受する者が違う」という考えは、断滅論に到達してしまうと述べるのである。
これは、少し補って説明すると、まず、「アチェーラの質問は、(輪廻の)主体を認める考え方に立っての質問である」と、ブッダは解釈しているのである。
すなわち、もし輪廻の主体を認めて「自ら作るものが苦である」なら、自らの行為の結果は常に必ず自らが受け取ることになり、輪廻の主体は常住であるということになってしまう。また、「他が作るものが苦である」とすれば、他人の行為の結果を受け取り、自分の行為の結果を自ら受け取ることがないことになる。
ならば、行為が尽きれば、そこで主体は断滅してしまうことになろう。常住であれば、輪廻をどうやって脱するのか。また、断滅してしまうなら、いったい何が輪廻というのか、輪廻など存在しないだろう。このように、行為主体を立てる表現形式では、「ブッダの」輪廻転生説は説明できない。そこで、ブッダは次のようにいう。
「カッサパよ、これら二つの極端に近づくことなく、中道によって如来は法を説くのである。無明によって行がある。行によって意識がある。意識によって名称と形態がある。名称と形態によって六つのよりどころがある。六つのよりどころによって接触がある。接触によって感受がある。感受によって渇愛がある。渇愛によって執着がある。執着によって生存がある。生存によって老いること・死ぬこと・愁・悲・苦・憂・悩がある。このように、これらすべての苦のあつまりが集まり起こる。
無明が残りなく離れ滅することによって、行の滅がある。行の滅から意識の滅がある。……このようにこれらすべての苦の集まりが滅する。」  主体を立てないからこそ、つまり、このような縁起のメカニズムによって因果の鎖をつないでいくからこそ、苦しみが生じてくる道筋が得られるのである。これが、即ち輪廻に向かう道筋である。
そして、また、縁起の理法によるからこそ、逆に、苦を滅ぼす道が見つかるのである。これが解脱への道筋である。前回で、ブッダの哲学を弁証法の哲学であると述べた所以である。常住論によるかぎり、つまり、「主体」を立てる立場では、輪廻を脱する道を説くことができない。縁起によってはじめて解脱への道が開かれるのである。
後に、仏教の中には、「自己(アートマン)はない」とする無我説が出てくるが、この場合も同じことが言える。否定とはいえ、このように「自己はない」と「自己」を主語とするなら、この表現形式では輪廻は説けない。自己がなければ、行為が尽き身体が滅ぶと主体はなく断滅するほかはない。  一方、「自己はある」とする立場では、輪廻は説けるが、主体である「自己」は永遠だから常住論に陥るのである。「自己」を立てないブッダの中道の教えのみが、輪廻の境涯とそれからの解脱を説きうるのである。
「ではブッダは『自業自得』を説かなかったか」という問い
それでは、ブッダは、解脱を目指すわけではない一般の人々にどのように説明したのだろう。『サンユッタ・ニカーヤ』の中で、信心深い在家の信者マハーナーマは、次のようにブッダに尋ねている。
「カピラヴァットゥの都市の雑踏の中で、荒れ狂う象や馬や車の往来に気をとられ、つい尊師を念ずることを忘れ、教えを念ずることを忘れ、教団を念ずることをわすれてしまいます。このようなときに、わたしの命が終わるようなことがあれば、わたしはいずれの処に生をうけるでしょうか」と。  これに対して、ブッダは、彼を慰め、信心深く戒を守り教えをよく聞いて布施をし智恵に満ちている心は必ず上昇して最高の処に至るだろうと告げるのである。
信などによって満たされた心は、善い境涯に赴くということは、言い換えれば、信心深く善い行いをしているならば、善き境涯が待っているという教えである。また、逆に言えば、悪しき行為に身を染めると悪しき境涯が待っているのである。
ブッダの巧みな説き方をとくとご覧あれ。けっして、行為の主体を主語とはしない。しかし、善い行為は善い境涯を保証することを告げている。このようにして、ブッダの輪廻説は、実質的には一般の人々を、倫理的な責任を自覚させる「自業自得」の教えに導いていくことになるのである。
ブッダの輪廻転生の教えは、当時巷で言われていたような輪廻思想を安易に受け継いだものでは全くない。彼の哲学体系の中に理論としてがっちりと組み込まれているのである。 
 
輪廻転生 10

 

第1章 輪廻転生の思想 
六道輪廻
輪廻転生の思想は、仏教以前からインドにおいて存在していました。仏教においても輪廻思想は説かれ、より明確に六道輪廻という形 で説かれました。六道輪廻とは、私たち人間を含めたすべての生き物は六つの世界を生まれ変わり、死に変わりしているということです。六つの世界とは、地獄・餓鬼・畜生(動物)・人間・阿修羅・天と言われる世界です。
ですから、前の生においては、犬であったということもありえることになります。また、今の世で人間であるからといって、来世もまた人間として生まれ変わるという保障もありません。
輪廻転生の原動力「カルマ」
では、六道のどの世界に生まれ変わるかは、何によってきまるのでしょう?仏教では、生前での生き方、為してきたことの結果によって生まれ変わる世界が決まると説いています。それは「自分の為したことが返る」というカルマの法則に基づいています。カルマとは日本においては業という言葉で知られています。
カルマとは、心の深い層に蓄えられたデータです。自分の為した行為、行ったこと(身体)、しゃべったこと(口)、思ったこと(心)の印象が痕跡として深い意識に残ります。そして、その残存した痕跡を原因として、条件が整うことで現象・結果を生じさせます。
種という原因があって、光・水・養分などの条件が整うことで発芽という現象が結果として生じるということです。
カルマには、身体の行為である身業(身のカルマ)、言葉にかかわる業である口業(口のカルマ)、心にかかわる業である意業(意〔心〕のカルマ)があります。単純な例でいいますと、怒りやすい人というのは、心に怒りの痕跡をたくさん残しているので、それが刺激されやすくなっており、ちょっとした条件(きっかけ)で怒りが生じます。怒れば怒るほど、痕跡は深くなり、より怒りやすくなるという悪循環になっていきます。習慣や癖、傾向、パターンと一般的に言われているものです。これは、記憶ということとも関連しています。習慣ということを考えると、私たちの行為が何らかの痕跡を残すというのは納得しやすいと思います。
また、自分の潜在意識に蓄積されているデータ(痕跡)は、周囲の人や自分に起こる出来事、現象に反映されます。善いものが蓄積されれば、その反映で善い現象が生じます。悪いものが蓄積されれば、悪い現象が起きます。これは、善いことをすれば善いことが返ってきて、悪いことをすれば悪いことが返ってくるという現象です。善因善果、悪因悪果。因果応報ということです。他を傷つけた者は、そのカルマの返りによって自分が痛みを味わうことになります。人に親切にすれば、親切にされます。為したことは返ってくる、あるいは、為したことしか返ってこないということです。今現在、自分に生じている出来事はすべて過去に自分が為したことの結果だということです。
あなたが今、幸福であるなら、過去において自分が今幸福になる原因を作ったということです。また、逆に今が苦しみ多く不幸であるならば、過去において自分が今苦しむ原因を作ったということなのです。善いことを何度も心の深層に刻印することはいいのですが、悪い行為を何度も刻印することは、そのカルマが返ってきたとき(その刻印されたデータが外界に反映されたとき)、私達に大きな苦しみを与えることになります。
まとめますと、自分の為した行為(身・口・意の行為)は、心の深層に痕跡を残し、それは条件が整うと現象化します。その現象化の仕方は、「同じことを何度も繰り返す」、「為したことが返る」といった形で生じます。
そして、このカルマの力が六道輪廻の原動力なのです。
では、どのようなカルマがどの世界に転生する要件になるのでしょう。
地獄界は、憎しみ、怒り、嫌悪の心を持ち、他の生き物を傷つけたり、殺したりした結果として転生します。
餓鬼界には、欲が深く、必要以上に物を欲しがり蓄える、また、他の物を盗む、奪うことによって転生します。
動物界は、無智、愚かさ、怠惰さによって転生します。
人間界は、情、執着です。
阿修羅界は、他に対して優位に立とうとして嫉妬、闘争の心を持ち競うことによって転生します。
天界は、自己満足にひたり、心地よさに満足しているという状態によるカルマによって転生します。
六道のありさま
それでは、六つの世界がどういう世界なのか簡単に見ていくことにしましょう。
【地獄】
地獄は苦しみだけの世界です。その種類はおおまかに言って、熱により苦しむ地獄(例えば、焼けただれた鉄の中に突き落とされるなど)、寒さ冷たさにより苦しむ地獄(例えば、雪と氷の世界で全身凍傷で皮膚も肉もさけてしまう等)、身体が潰されることにより苦しむ地獄(何度も何度も肉体を臼ですり潰されるなど)、身体が切り刻まれることにより苦しむ地獄(繰り返し繰り返し獄卒に体を細々と切り刻まれる等)があります。激しい怒りを生じさせること、熱で他の生命を苦しめるなどの結果として熱の苦しみを味わう地獄、心の冷たさにより寒さ冷たさの地獄、心を突き刺す言葉や他の身体を切り刻んだことの結果として切り刻まれる苦しみを味わう地獄があるということです。
【餓鬼】
餓鬼は餓えと渇きに苦しんでいます。餓えて与えられない苦しみを極度に味わう欲求不満の極限の世界です。食べ物や飲み物を見つけるのも難しく、また、仮に食べたとしても、胃袋に入って火を発して内臓が焼け爛れてしまったりするといいます。他に分け与えることなく、それだけでなく他から奪い、貪欲、強欲に駆られたものたち行く世界です。
【動物】
動物は食物連鎖からのがれることができず、恐怖と緊張の中で生を過ごしています。他の動物の餌食になったり、人に使役されたり、食用や毛皮を得るために飼われ殺されるという自由を奪われた状況でも、智慧によりそれを回避することはできません。無智や愚かさ、怠惰によって動物界に転生します。
【人間】
人間は、四苦八苦、三苦と言われる苦しみにより日々苦しみを味わっています。もちろん、常に苦しみを味わっているわけではありませんが、楽しいこと、喜びはかならず、変化して滅してしまうので苦しみに転じてしまうのです。無常なるものに、とらわれているのが人間で、とらわれているがゆえに苦しみが生じます。人間は、執着、とらわれによって人間として生まれ、とらわれによる苦しみを味わうことになります。四苦とは、生(産まれること)・老(老いること)・病(病気になること)・死(死ぬこと)は苦しみであるということです。四苦に加え、怨憎会苦(憎しみの対象に会うことの苦しみ)、愛別離苦(愛するものと別れることの苦しみ)、求不得苦(求めても得られないことの苦しみ)、五蘊盛苦(とらわれの五つの集まりを持つことは苦しみ)の四つを加えて八苦と言います。三苦とは、肉体的痛みや精神的悩みや憂えなどの直接的苦しみ。楽しいこと喜びが壊れ去ることの苦しみ。一切のものは無常で生滅変化することによる苦しみの三つです。
【阿修羅】
嫉妬、闘争心により阿修羅に生まれ変わります。嫉妬、闘争の心は、閉ざされた心です。競争の虜になり、嫉妬に駆られて生きています。他を凌ぐことを求め常に闘いを望んでいます。徳を積むことで天界の神々を超えるのではなく、闘争によって超えようとします。阿修羅の生は、戦いと殺戮と死の繰り返しであり、怒りに駆られている苦しみの世界です。
【神々】
輪廻にあるものの中で、神々は最高の幸福に恵まれている。生活は快適で、あまりにも何もかも申し分ないために、神々はかえって究極の心の解放をもたらす修行に励もうという気をおこさない。確かに、神々は長寿を楽しむけれども、いつかそれも尽きて死を迎えることになります。神は死が近づくと、今までの喜びがなくなり、色あせてくる。そして、神通力でひどく恵まれない自分の再生の姿をあらかじめ見てしまい、深い失望を味わいます。神々とて六つの世界の輪廻から脱してはいません。ですから、神々から落下してまた、より苦しみの多い世界に転生し続けることになるのです。神々へ転生する要素は自己満足という要素です。

このような六つの世界はそれぞれカルマによって成立しています。その人のもっている傾向によって世界が形成されているということです。六つの世界の存在を考えるには、「類は友を呼ぶ」という言葉を思うと信憑性が増すのではないかと思います。同様の要素(カルマ)を持ったものは同様の経験をするわけで、そういう存在が集まった世界があったとしても不思議ではありません。
こういう話があります。
ご馳走がたくさんお皿に盛られています。そして、それを食べるためのとても長いお箸があります。そこに二つのグループの人たちがいます。一つのグループの人たちは、箸を使って一生懸命食べようとしますが、あまりに箸が長いため、自分の口に食べ物を運ぶことができず、目の前にご馳走があっても空いたお腹を満たすことがでず、ひもじい思いをしています。一方、もう一つのグループの人たちはどうかというと、長い箸をうまく使ってご馳走を食べています。どのようにしてこの人たちは食べているかというと、自分が長い箸で摘んだ料理を人に食べさせてあげているのです。そして、自分も人に食べさせてもらっています。お互いがお互いに他に食べさせてあげているのです。これなら長い箸でも食べることができます。同じ条件・環境でも一方のグループは餓鬼の苦しみを味わい、もう一つのグループは餓えの苦しみを味わうことなく、料理を味わい満足を得ています。
いかがですか?
この話と「類は友を呼ぶ」「似た者同士は集まる」という言葉から考えると、カルマに応じて六つの世界が存在することも納得できるのではないでしょうか。
また、人間界にも六つの世界に類似した様相はあります。病気や怪我による激しい肉体の苦しみは地獄を反映しているでしょうし、アフリカやアジア地域での餓えに苦しんでいる人たちは餓鬼の世界の投影と捉えることができるのではないでしょうか。
この六つの世界は苦しみの世界であり、この苦しみの六つの世界の輪から脱却することを仏教では目指します。そして、それを解脱と言います。
「チベット死者の書」に見る転生のプロセス
チベットには「バルド・トドゥル」という死から次の生への再生までのプロセスが記された経典があります。「チベット死者の書」として知られています。
バルドとは、死から次の生に再生するまでの間の中間状態のことをいいます。仏教用語では、中有または中陰と言います。「バルド・トドゥル」とは「バルドにおいて聴くことによって解脱する」という意味です。聴覚は、死の後にも機能しつづけて、死後の身体の中で働いている意識がイメージを構成するのに大きな役割を果たしているといいます。ですから、死者にこの経典を読み聞かせることによって、迷いの世界に転生しないで、解脱するように導くというものです。そこには、死の瞬間から次の再生までのバルドのありさまが描写されており、死者が解脱していくためのガイドブックの役割をはたします。チベットにおいては、死は解脱の絶好のチャンスであるととらえているのです。この中間状態(バルド)は死者の意識が再びこの世に輪廻転生するか、それとも輪廻から脱していくかの分かれ道を意味しています。
「バルド・トドゥル」は、アメリカの人類学者エヴァンス・ヴェンツが1927年「チベット死者の書」という題名で英訳本を刊行したのが西欧世界に紹介された最初です。1935年ドイツ語版発行のとき、ヴェンツの依頼を受けて、心理学者のユングは心理学的注解を書きました。「その出版の年以来、何年もの間、私の変わらぬ同伴者であり、私はこの書から多くの刺激や知識を与えられただけでなく、多くの根本的洞察を与えられた」とユングは語っています。
それでは、「バルド・トドゥル」の教えに則って、死から次の生への再生までのプロセスを見ていきましょう。 バルドの期間は最長49日間で、解脱して再生を繰り返さない限りは、49日の間にどこかの世界に転生していきます。
・死のプロセス
五感の衰えと四大元素の溶解
地元素の溶解・・・固体成分(肉・骨など)の溶解
水元素の溶解・・・液体成分(血液・体液など)の溶解
火元素の溶解・・・熱成分(体温)の溶解
風元素の溶解・・・呼吸の溶解 最後に長い息を吐き出して呼吸が停止
・「死の瞬間のバルド」(チカイ・バルド)
・「存在本来のバルド」(チョエニ・バルド)
・「再生に向かう迷いのバルド」(シパ・バルド)
死のプロセス
【外なる溶解】
五感の感覚が弱まってきて、その後、体に変化が起こってきます。身体を構成していた地・水・火・風という四つの元素が溶解していきます。
【地元素の溶解】
この段階では、体から力がぬけ、体を動かすことができなくなります。体が地面の中に沈みこむか、落ち込むような、あるいは重たいものの下敷きになったような感じがします。この時、死にゆく人は、身体を起こしてもらったり、枕を高くしてもらったり、掛け布団をとってくれと頼むようになります。血の気が引き、肌の色は蒼ざめはじめます。肉体の物質的要素が溶解していくと、死に行く人は脆弱になります。心は散漫になり、妄念がわき、心は重く沈みこんでゆき、視覚は衰え、何もかもがぼんやりしてきて、陽炎や蜃気楼のように見えてきます。これらはすべて地の元素が水の元素に溶解していくしるしです。
【水元素の溶解】
続いて、水の元素が火の元素に溶解していきます。鼻水やよだれ、目やにが出、失禁します。体液が乾ききっていくように感じ、唇は血の気を失い、まくれ上がります。口と喉はねとつき、ひどく喉が渇きます。身体が震え、痙攣がおこります。感覚が麻痺し、心はいらだち、神経過敏になり、欲求不満になると同時に、雲がかかったように薄ぼんやりした状態に落ち込みます。人によっては「大海に溺れたかのよう」「大河に押し流されたかのよう」といった表現をする人もいます。 煙が立ち上るような顕れを見るといいます。
【火元素の溶解】
この段階までくると、口も鼻も完全に乾ききってしまいます。息を吸う力が弱まり、寒さを感じます。想念がぼんやりしてきて、家族や友人の名前も思い出せなくなり、相手を認識することもできなくなります。蛍に似た赤い火花を見るといいます。
【風元素の溶解】
この段階では、呼吸することがかなり難しくなってきます。息が喉からもれだしているようで、ぜいぜいと喘ぐようになります。吸気は短く、困難をともないます。逆に呼気は長くなります。ここで幻覚やヴィジョンが現われはじめます。生きている間、悪行を積み重ねて きた者は、恐るべき姿形を目にすることになります。今生で経験した忘れることのできない恐怖の瞬間が再現されます。逆に慈悲深い、思いやりのある人生を送ってきた人は、至福のヴィジョンを目にし、仲のよかった友人たちや仏陀や神々に出会うのです。風の元素が意識に溶解するのはこのときです。死に行く人は、灯明か松明の赤い煌々たる炎のような顕われを見るといいます。最後に死に行く人は三回長く息を吐き出し、呼吸が止まります。この段階で通常、現代医学的の知見では死と宣告されます。
【内なる溶解】
しかし、息が絶えてもチベット仏教においては終りではなく、内なるプロセスが残っていると主張します。呼吸が絶えてから、<内なる息>が絶えるまでには「食事をとれるくらいの時間」がある、つまり、およそ二十 分〜三十分くらいの差があるとされています。呼吸が停止しても体を流れる気のエネルギーは活動を続けます。エネルギーはまず、体の中央にあるエネルギーの通り道である中央管に集まってきます。そうすると死者は自分の頭頂から「白い滴」(男性性の生体エネルギー)が降りてくるのを体験します。すると頭上の空間が澄みわたってきて、月の光のような白い道がこちらに向かってきます。このとき、怒りから生じる思考が滅するといわれています。次に、へそのあたりから「赤い滴」(女性性の生体エネルギー)が昇ってきます。すると頭上には、太陽の光を思わせる赤い光の道が開かれてきます。死者はこのとき、貪りから生じる思考が滅し、自分の意識がきれいに澄みわたってくることを認識します。この「白い滴」と「赤い滴」が心臓の位置で出会うと、その瞬間あたりは黒い闇で覆われていきます。このとき、無智に起因する思考が滅します。
「死の瞬間のバルド」(チカイ・バルド)
【第一の光明体験】
黒い闇で覆われた後、その黒闇は消え、次第に意識は晴れてきて、まるで雲がきれて青空が現れるように、死者の意識には、まばゆいばかりに透明な光が現われてきます。この光こそ、生命の大本をつくる原初の光、根源の光であり、私たちの「心の本性」であり、純粋な本質であるといいます。その光は、実体も、色も形もなく、まったく汚れがなく、空であり、輝きに満ちているといいます。
ダライ・ラマは、「この心はもっとも奥深い微細な心である。私たちはこれを仏性と、一切の意識の真の源と呼んでいる。この心の連続体は悟りの心へと続いていく」と述べています。
そして、「バルド・トドゥル」では、その光に飛び込むこと、溶け合うことを死者に呼びかけるのです。
この光こそが私たちの心の本当の姿なのですが、肉体を持って生きているときには、様々な欲望によって心の本当の働きは覆い隠されています。ゆえに本質を知ることができず、苦しみの転生を繰り返しているのです。その状態を仏教では無智により苦しんでいると言います。つまり、わたしたちが肉体を持って生存しているという状態は、魂の本来の姿ではなく、あくまでも無常の世界をさまよう仮の姿にすぎないと仏教ではとらえているのです。ですから、この心の本性である光に融けこむこと、心の本性である根源の光に立ち返ることこそが苦しみからの脱却、解脱であり、仏教の最終目標とされているのです。わかりやすく言い換えると、仏教の目的 「解脱」とは、魂のふるさとへと帰還することにほかならないといえます。
このように、生きているときはさまざまな条件に縛られている心が、死の体験の中ではそのもともとの姿である純粋な光に立ち返っていくので、死は解脱の(苦しみから脱却する)またとないチャンスと言えるのです。ですから、「バルド・トドゥル」という経典を死者に読み聞かせ、六道輪廻からの解脱の手助けをするのです。
しかし、一般の人は、この「解脱」の絶好のチャンスを生かすことができません。なぜなら、大半の人々は生存中に光明を認識する方法(修行)に馴染んでこなかったため、それを認識するための手段を有しておらず、たとえ光明がたちのぼっても、過去の怖れや習慣や条件づけ、つまり古い条件反射にしたがって本能的に反応するしかないからです。また、光明があらわれている時間の問題もあります。人を解脱に導くこの純粋な光があらわれている時間は、生前に修行を積んだかどうかで大きく異なるといいます。生きているうちに、瞑想の訓練をして、気のエネルギーが通る管を清めておいた人には、いつまでもこの光は見えるということです。しかし、管(ナーディ)を清めてない大部分の人々にとって、これは指を鳴らす瞬間に終わってしまうといいます。また、ある者には、「食事を摂るほどの時間」続くと言われています。しかし、ほとんどの人々は根源の光明を認識できず、気絶するといいます。この状態は三日半続き、最後に肉体から意識が離れます。
【第二の光明の体験】
第一の光明である根源の光に溶け込めなかったものの前には、第二の光明が現われます。死者は自分が死んでいるのか、死んでいないのかわかりません。でも、家族のことは見えるし、彼らが悲しんでいる声も聞こえます。ここでも死者に対する導きの呼びかけをしますが、ここで光に溶け込めるものも少ないということです。また、気絶していてこの状態を認識できない死者も多いといいます。
「存在本来のバルド」(チョエニ・バルド)
三日半の気絶状態から意識を戻した死者に、チョエニ・バルドがあらわれます。ここは、光と波動、イメージの世界であり、光がさまざまな大きさ、色、形の仏や菩薩の形をとって現われます。四十八の寂静尊と五十二の憤怒尊がたち現われます。これは、心の本性に蓄えられていたいろいろなもののうち、もっとも純粋で、輪廻の世界の力に染まっていないイメージが出現したものです。それらに溶け込めば六道から脱却できるといいます。
「バルド・トドゥル」では、このバルドのはじめにおいて「バルドにおけるヴィジョンは自分の心(意識)の現われである」ということが重要なポイントであるとして、以下の呼びかけを行います。これは、バルド全体の重要なポイントです。
「ああ、善い人よ、チョエニ・バルドの状態において、どんなに畏怖させ恐怖におののかすような現出があっても、汝は次の言葉を忘れてはならない。そしてこの言葉の意味を心に思いつづけていくがよい。それがお導きの大切な要点である。
チョエニ・バルドが現われてきている今この時に
すべての怖れと怯えを捨て、なにが現われようと、
それが自分自身の意識の投影であることを認識し
これがバルドの現出であると見破らなくてはならない
決定的な瞬間にたどりついたこの時に
自分自身の心の本質からたちのぼった寂静尊と憤怒尊を怖れることはやめよう
と、このようにはっきりと何遍も繰り返し唱えることによって、その意味内容を心に思いつづけ、刻みつけるようにすべきである。そして、恐ろしく脅かす幻影がどんなに現われてきても、自身の心の本質の投影であると確実に認識することが大切な要点である。それを忘れてはならない」
はじめの一週間は、穏やかな波動をたたえた光とともに静寂の神々が現われます。その主なものは以下の五仏です。このとき、仏とともに六つの世界に転生させる光も同時に現われます。死者はその光に引きつけられないよう仏の光に溶け込むように呼びかけられます。
・ヴァイローチャナ
・アクショーブヤ(ヴァジラサットヴァ)
・ラトナサンバヴァ
・アミターバ
・アモーガシディ
続く一週間は、五仏が恐ろしい憤怒の相をとって現われます。
寂静尊、憤怒尊の登場によっても解脱を逃したものは、六道輪廻の世界に引きずられていきます。次の再生に向かうバルドが始まるのです。
「再生に向かう迷いのバルド」(シパ・バルド)
シパ・バルドにおいては、生前におけるカルマがイメージやヴィジョンとしてはっきりと表面化してくるようになります。生前、善い行ないが多ければ、バルドでのさまざまな体験は至福と幸福感が入り混じったものになります。生前、他人を害したり傷つけたりする行為が多ければ、バルドでの体験は恐怖や苦渋に満ちたものになります。これも自己の心の投影です。私たちはカルマの風に追い立てられ、よりどころにすべき基盤を何ももちません。「チベット死者の書」では「この時、恐るべき耐え難いまでのカルマの大嵐があなたを後ろから追い立てる」と表現しています。恐怖に呑みつくされ、タンポポの綿毛が風に翻弄されるように、カルマに翻弄されバルドの薄暗がりのなかで為すすべもなくさまようといいます。
ここでは、閻魔様として知られるヤマ天が、生前の行為の良し悪しを判断して、その人が次の生でどの世界に生まれるべきかどうかを、決定することもあります。閻魔様(ヤマ天)は、死者の生前の行いを全て映し出すという鏡を手に持っているといいますが、これは、臨死体験者の「全生涯のパノラマ的回顧」と似ています。この回顧の体験をした人々は、一生の出来事を細部にいたるまできわめて鮮明に思い出します。それだけでなく、自分の行為がもたらしたあらゆる結果をも見ることになります。自分の行為が他者におよぼした影響と、他者のなかに引き起こした感情それ──がどんなに不快であれ、衝撃的であれ──をつぶさに体験するといいます。自分の行為が他人に与えた影響を自分が体験したり、自分の行為が他人に引き起こした感情を自らが感じたりすることもあるといいます。
【臨死体験者の体験】
「私の一生のすべてが次々と浮かんでは消えていったのです。──それは恥ずかしいことばかりでした。というのも、かつての私の考え方は間違っていたようなのです。・・・・私がしてきたことだけでなく、私のしてきたことが他の人々におよぼした影響も見えるのです。・・・・人が考えていることも、ひとつとして見落とすことはないのです。
一生が私の前を通り過ぎてゆきました。・・・・そこで私は、一生のうちに感じたすべての感情をもう一度感じたのです。そして、その感情が私の人生をどのように左右していたかという基本的なことを、私の目に見せてくれました。私が人生でしてきたことが、他の人々の人生をも左右して・・・・。
わたしは自分が傷つけている相手でもあり、自分が喜ばせている 相手でもあったのです。
それは、わたしが思ったり考えたりした思考のすべてを、今一度完全に生きなおすことだったのです。口にしたすべての言葉、行ったすべての行為をです。さらには、ひとつひとつの思い、言葉、行いがおよぼした影響をです。すべての人への影響です。わたしが気づいていたかどうかに関係なく、わたしの影響がとどく範囲にいたすべての人への・・・・。さらには、ひとつひとつの思い、言葉、行いがおよぼした天候や植物や動物たちへの、土や木々や水や大気への影響です。」
究極的には、審判はすべからく自分の心の中でおこなわれるものなのです。裁かれるのが自分なら、裁くのも自分自身です。レイモンド・ムーディー博士は「続・かいまみた死後の世界」において、「興味深いことに、わたしが調査したケースでは、審判はいずれにせよ人々を愛し、受け入れてくれる神によってなされるのではなく、個々人の内部で行われるということだ」と述べています。また、臨死体験をしたある女性はケネス・リング博士に、「(そのときは)あなたの人生を見せ付けられるのです。そして裁くのはあなた自身なのです。・・・・あなたがあなた自身を裁くのです。これまであなたは自分が犯したすべての罪を許してきました。でも、すべきことをしなかったという罪、生前に行なったに違いないごく些細な不正行為をすべて許すことができますか?あなたは自分の罪を許せますか?これが審判です」と告げています。
このことは、「そのヤマ天も自分の思いが化したものである。」と「死者の書」に書かれていることと同様のことを語っています。
この審判(裁き)の場は、最終的には個々の行為の裏にある動機にいたるまで問われること、過去の行為、言葉、考えとそれらが刻み込んだ潜在力や習癖の力(カルマ)から逃れるすべはないことを示しています。これは私たちが今生だけでなく来世や来来世にまでも逃れ得ない責任を有していることを意味しています。・・・・自業自得、他の誰の責任でもない。自分自身の責任なのだということです。
【再生のヴィジョン】
カルマの風に翻弄され、為すすべもなくバルドのなかを彷徨い続けた後、私たちは、自分のカルマに合ったイメージやヴィジョンに感応し、無意識のうちにそこへ飛び込んでいきます。そして、六道のうちのいずれかの世界へと生まれ変わってしまうのです。
そして、またその生が終わりバルドを経験し、また再生し・・・・とこのように六つの世界を輪が廻るように生まれ変わるのです。
「チベット死者の書」ではこのように死から再生へと向かう輪廻転生の仕組みを説いています。 
第2章 輪廻転生は実証できるか? 
1.臨死体験 / 死後の世界はあるか?
臨死体験というのは、死に非常に近い状態、心臓が停止した、あるいは死を宣告された人が息を吹き返したり、瀕死の状態を抜け出したあとに、その時その人がした体験をいいます。臨死体験が、死後の世界ひいては輪廻転生があることの実証の一躍をになうのは、肉体から離れた意識の存在とそれを含んだ「チベット死者の書」との類似性があげられます。
臨死体験での共通する体験
臨死の体験は、個人差がありますが多くの人に共通した体験があります。
その共通の体験は
1 平和、幸福な感じ、痛みの消失。
2 自分の体から離れる体外離脱体験。
3 暗闇に入る。トンネルを抜ける。
4 自分の人生をパノラマ的に見る。
5 明るく、慈愛に満ちた、暖かく、魅力的な光の体験。
ここでいくつかの具体例をあげてみましょう。ワシントン大学小児科助教授のメルヴィン・モース博士は、薬物の副作用で意識を失った女性の、次のような体験を報告しています。
「見おろすと、病院のベッドに横たわっている自分の姿が見えたんです。まわりでは、お医者さんや看護婦さんが忙しく働いていました。機械が運ばれてきて、 ベッドの足元に置かれるのが見えました。箱みたいな形で、ハンドルが二つ突き出していました。牧師さんが入ってきて臨終の祈りを唱え始めました。私はベッドの足元に降りていって、劇の観客のように一部始終を見ていました。ベッドの足元の壁に、時計がかかっていました。私にはベッドに寝ている自分の姿も、時計もよく見えました。午前11時11分でした。その後、私は自分の身体に戻りました。目が覚めた時、ベッドの足元に自分が立っているんじゃないかと捜したのを覚えています。」
また、ダラス市民病院の医長を勤めたラリー・ドッシー博士の確認によると、手術中の緊急事態で1分間ほど心臓が停止したサラという女性患者は、全身麻酔で意識を失っていたにもかかわらず、手術室の光景を確かに見ていたうえ、手術室から抜け出て他の部屋までさまよったといいます。心臓が停止したときの外科医と看護婦の緊迫したやりとり、手術台にかかっていたシーツの色、主任看護婦のヘアスタイル、各部屋の配置といった手術室内部のことのみならず、手術室外の廊下の手術予定表に書いてあった走り書きや、廊下の端にある医師控え室で手術が終わるのを待っていた外科医の名前、麻酔医が左右別々の靴下を履いていたというような些細なことまで、サラの証言はどれも正確なものでした。なお、サラは、生まれつき視力がなかったということです。この点も考えると肉体の目とは違う別の知覚能力によって状況を認識していたことになり、肉体とは別の意識の存在を認め得る有力な事例ではないか思われます。
なお、エリザベス・キューブラー=ロス博士の研究によると、過去10年以上も視力がなく目の見えない患者たちが、臨死体験中に自分を見舞いに来た人々の洋服や宝石の色、セーターやネクタイの色や形までを確かに「見」て、正確に描写することが証明されています。さらに、エモリー大学心臓学教室助教授のマイケル・B・セイボム博士は、臨死状態で自分の身体の上空に浮かんで様々なものを見た患者たちについて調査し、「肉体から抜け出している間、本人の意識は、肉体ではなく『分離した自分』の中にあるのだが、完全に覚醒しており意識水準も高く、驚くほど思考が明晰になる。」と報告しています。
肉体から離れた意識が、親族が死者を思い嘆き悲しんでいる姿を見るという「チベット死者の書」の記述と、上記の臨死体験の体外離脱体験の間には、明らかに類似性があります。どうやら、私たちの意識というものは肉体と常に一体のものではないということは真実ではないかと思われます。そして、肉体の死といわれる状態でも意識は継続していることも可能性としては高そうです。
続いて、光との遭遇についての体験例をあげてみます。
27歳のイギリス女性が心臓停止した状態での体験です。
「私はしだいに見ることも感じることもできなくなりました。長く暗いトンネルを下っていきましたが、その先にはすばらしく明るい光が輝いていました。私はトンネルを抜けて光の中に出たのです」
「この光には全く闇がありませんでした。おかしな言い方になりましたが、それというのも、もし光が私たちのまわりに満ちているのでなければ、光のあるところ影がある、というのが普通でしょう。でも、この光はすべてを包み込むような完全なものなので、その光を見たのではなく、光のなかにいたのです。」 (マイケル・セイボム著『「あの世」からの帰還』より)
上記の体験は、「チベット死者の書」の感覚の衰弱から暗闇という死のプロセスそして原初の光の体験と類似性があります。
次は、第一部の閻魔様の審判のところでもみましたが、生前の人生のパノラマ的回顧の体験についてみていきましょう。
アメリカのアイオア大学精神科のラッセル・ノイエス博士が報告したボーフォート提督の例です。提督は1795年ポーツマス港で溺死寸前に助かったのでした。
「私の感覚はなかったが、心は死んではいなかった。心の活動はいままでのどのときよりも活発であった。考えが次から次に浮かんでは消えた。自分の家庭のことと結びついた何千という事件が思い出された。次に、思い出はもっとひろがった。この前の航海、さらに前の航海、難破、それから学校時代、子どものころの冒険。このように過去にさかのぼり、いままでの人生のすべてが逆行的に出てきた。しかし、この思い出は、単に事実だけが羅列されるのではなく、そのまわりの光景などがはっきり見えていた。つまり、自分の全人生がパノラマ的に自分の前に展開したのだ。そのすべての行為が善悪の判断をともない、原因と結果も明らかだった。実際、もうとっくの昔に忘れていたささいな出来事が頭を満たし、しかも、それらがつい先ごろ起こったかのような新鮮さをもっていた」
このように人生のパノラマ・ビジョンを見ることは臨死体験において通常あることですが、ある女性は「人間関係の波及効果」とも言うべき仕組みに関する貴重な教訓を見せられたといいます。
「そこには、人を傷つけてばかりいた私の姿がありました。そして、私が傷つけた人たちが、今度は別の人を同じように傷つけている姿がありました。この被害者の連鎖は、ドミノ倒しのように続いていって、また振り出しに戻ってきます。最後のドミノは、加害者である私だったのです。ドミノの波は、向こうへ行ったかと思うと、また戻ってきます。思わぬところで、思わぬ人を私は苦しめていました。心の痛みが、耐えられないほど大きくなっていきました。」
臨死体験の一つの体験だけでなく、共通して「意識の鮮明さ」を報告しています。「肉体から抜け出している間、本人の意識は、肉体ではなく『分離した自分』の中にあるのだが、完全に覚醒しており意識水準も高く、驚くほど思考が明晰になる。」あるいは、「心の活動はいままでのどのときよりも活発であった。」など。このことは、「チベット死者の書」において死後の意識が生前より鮮明であるということと共通しています。
さて、ここで臨死体験は体験している人の夢や幻影であると批判的にみる人がいますが、すでにみた体外離脱体験の内容からみても単純に夢や幻影であると片付けることは難しいと思われます。さらに、以下の報告によっても夢や幻影であるいは願望の投影と見ることは難しいのではないかと思われます。
末期の病を患っている子供たちに「誰に一番会いたいか」「誰に一緒にいて欲しいか」と尋ねてみたところ、99%の子供が両親を選んだにもかかわらず、その後に生死の境をさまよって臨死体験をした子供うち、実際に親のヴィジョンを見たのは、親がすでに亡くなっている子供のみであったといいます。もしも、否定論者が言うように、臨死体験が単に本人の願望の投影である(子供たちには臨死体験の知識はないため実際には願望も生じないだろうが)とすれば、99%の子供は死に際して親のヴィジョンを見る可能性は高いはずです。
この結果を受けて、キューブラー=ロス博士は、自信を持って断言します。
「何年も研究してきたが、(親が先立っている子供を除いて、臨死体験の時に)誰一人として親を見た子供はいない。なぜなら、両親はまだこの世に存在するからだ。誰に会えるかを決める要因と言うには、例え一分でも先に亡くなっている人で、死にゆく人が心から愛していた相手だと言うことなのである。」したがって、「臨死体験は幻想であり、死にゆく者の願望が表出したものにすぎない」という否定論者の見解は、成立しないことになると言えるのではないでしょうか。
2.前世療法 / 過去生への退行催眠
アレクサンダー・キャノン博士によって、生まれ変わりの科学的研究が始められました。催眠を用いて、1300人以上の被験者を紀元前何千年という昔の記憶にまで退行させることに成功したキャノン博士は、1950年にこう結論づけました。
「何年もの間、生まれ変わり仮説は私にとって悪夢であり、それを否定しようと、できる限りのことを行った。トランス状態で語られる光景はたわごとではないかと、被験者たちとの議論さえした。あれから年月を経たが、どの被験者も信じていることがまちまちなのにもかかわらず、次から次へと私に同じような話をするのである。現在までに1000件をはるかに越える事例を調査して、私は生まれ変わりの存在を認めざるを得なかった。」
キャノン博士は、過去生への退行催眠によって、被験者たちの精神症状(原因不明の恐怖症など)が治癒されることに着目し、1970年代から80年代にかけて、何千人もの恐怖症患者を治癒しました。この事実が「過去世療法」として知られるようになり、臨床心理学者のイーディス・フィオレ博士によって「もしも誰かの恐怖症が、過去の出来事を思い出すことで即座かつ永久的に治癒されたら、その出来事が実際に起きたに違いないと考えるのが理にかなっている。」と支持されたように、生まれ変わり仮説の信憑性が徐々に研究者たちからも認められていったのです。
臨床心理学者のヘレン・ウォムバック博士は、何百人もの被験者に退行催眠を行い、被験者たちが報告する、当時の人生で使用していた衣服、履物、食器などは、どの時代のものについても、みな歴史的事実と一致していたと報告しています。この統計的研究の結果、ウォムバック博士は、「道路の脇のテントにいるあなたに、1000人の通行人が『ペンシルバニア州の橋を渡った』という話をしたならば、あなたはペンシルバニア州には橋があるという事を納得せざるを得ないでしょう」という例え話を用いて、生まれ変わり仮説の客観的実証性を認めたのです。
ジョエル・L・ホイットン博士(トロント大学医学部精神科主任教授)は、ハロルドという被験者が、退行催眠によって過去にヴァイキングであった人生を想い出しながら口にした、その当時の言葉を書き留めておきました。ハロルドは、自分が思いだした22の語句について、どれも理解できませんでした。そこで、専門家に 鑑定を依頼してみたところ、アイスランド語とノルウェー語に詳しい言語学の権威が、それらのうち10の語句について、ヴァイキングが当時使用した言語で現代アイスランド語の先駆となった古い北欧語であることを確認しました。他の語句については、ロシア語、セルビア語、スラヴ語から派生したものであり、ほとんどはヴァイキングが使用した海に関する語句であることが確認されました。これらの語句はすでに現存しておらず、一般人であるハロルドが今回の人生で知り得たはずもないため、退行催眠によって導き出された過去生の信憑性を証明する強力な証拠となります。退行催眠で過去生を思い出しながら、今回の人生では知り得ない言語を喋り始める被験者は数多いですが、その言葉は世界中の広範囲に広がっており、古代中国語やジャングルで使われる方言までもが含まれているといいます。
退行催眠による「中間世」バルドの検証
また過去世だけでなく、ホイットン博士は、多くの被験者たちが肉体を持たず意識として覚醒している「中間世」、いわゆる生と生の狭間の記憶を残していることを認識しました。そして、臨死体験及び「チベット死者の書」のバルドの記述との間に類似性を見出しました。
中間世への旅はたいてい死の場面からはじまります。ホイットン博士は催眠状態に入った被験者をまず前世へと連れもどし、その人生の最後の場面をざっと見てから、ソファに横たわっているその人をバルドの境界へと到達させます。ときどき「今どこにいますか」「何が見えますか」と質問しながら進み具合をチェックしていきます。典型的な例では、被験者はその前世の体とおぼしきものの中で息をひきとり、それから徐々に臨死体験の対象研究を行ってきたレイモンド・ムーディー博士やケネス・リング博士、マイケル・セイボム博士らの医師の集めた体験談とそっくりな話をしはじめるということです。
被験者たちは、繰り返しこう述べるということです。身体から抜け出した後、下に横たわる自分の身体を「見」てから、トンネルのような円筒状のものを急速で通過していくというのです。そして、時間と空間のない光の領域の体験をします。その体験は筆舌につくしがたい強烈なもので、はじめてそこを訪れる者は言葉を失い、畏れおののきのあまり顔をひきつらせ、あたりのすばらしさを表現しようとしてもただ唇を震わすばかりだということです。ある被験者の話はこうです。
「あんなに良い気分になったのは初めてです。この世のものとは思えないような恍惚感。ものすごくまぶしい光。私にはこの世で持っているような身体はなく、かわりに影の身体、アストラル体があって、宙に浮いていました。地面も空もなく、境界のたぐいはありません。何もかも見通せます・・・」
また、ホイットン博士の被験者たちの証言は、みな「裁判官」の存在を裏づけており、ほぼ全員が、3人や5人、まれに7人の、年老いた賢人(のイメージでヴィジョン化された魂)の集団の前に出て、一種の裁きを受けたといいます。まさに、閻魔様の裁き、審判です。
彼らは姿が不明瞭な場合もあれば、神話に出てくる神や、宗教上のマスターの姿として見える場合もあるといいます。これらの指導役の魂たちは、目の前の人物に関して知るべきことは何でも直感的に知り、その人物が終えてきたばかりの人生を評価するのを助けてくれます。被験者たちは、「彼らと一緒にいるとわが身の未熟さを痛感する」と証言します。
指導役の魂たちは、今終えてきたばかりの人生を回顧するよう促し、目前でパノラマのように、その一生のヴィジョンを見せてくれます。そのヴィジョンを見ながら、終えてきた人生における後悔や罪悪感、自責の念が心の底から吐露され、被験者たちは、見るも無惨なほど苦悶し、悲痛の涙にくれるといいます。他人に与えた苦しみは、あたかも自分がその苦しみを受けるかのように身に沁みるということです。ある被験者は、「まるで、人生を描いた映画の内部に入り込んでしまったかのようです。人生の一瞬一瞬が、実感を伴って再演されるのです。何もかも、あっという間に」と表現します。
この人生を再現する ビデオテープのようなヴィジョンから、魂は細大漏らさず意味をくみ取り、厳しく自己分析を進めていきます。魂は初めて、自分が幸福を棒に振った時のこと、他人を傷つけてしまった時のこと、命にかかわる危険の間際にあった時のことなどを理解します。私たちの誰もが、終えてきた人生における言動の説明を求められますが、その際に問題とされるのは、我々一人一人の誠実さ、道徳性のみであるといいます。恋人ののどを切った被験者は自分ものどを切られたように感じ、不注意で子供を死なせてしまった被験者は、鎖につながれた自分のヴィジョンを見せられました。生前に裏切り行為をしたある女性は、「あまりの恥ずかしさに、その3人を見上げることもできませんでした」と回想しています。このように退行催眠では、過去世を思い出すだけでなく、生と生の中間・バルドの体験もしているようです。
このように、退行催眠によって「中間生」を思い出した被験者たちと、臨死体験によって「あの世」を垣間見た患者たちとの証言に、極めて共通性があることは注目に値します。被験者たちが思い出した「中間生」と、患者たちが見た「死後の世界」とが同じものを指していることを示唆すると同時に、双方の証言内容が、互いの信憑性を高め合うことになるためです。そして、さらに「チベット死者の書」の記述との共通性も考え合わせるとその信憑性はかなり高くなります。
3.過去生を記憶する子どもたち
ヴァージニア大学医学部精神科主任教授のイアン・スティーブンソン博士は、過去世の記憶を偶発的に語った幼児の事例を世界中から収集していました。例えば、身体のどこかに「あざ」を持つ200人以上の子供が過去生の記憶を持っており、彼らは一つ前の過去生(前世)において、あざと同じ箇所に弾丸や刀剣などの武器が貫通して殺されたのだと証言したのです。そのうち17の事例について、子供たちが「前世ではこの人物だった」と主張する実在の人物が、実際に証言通りの死に方をしたことを証明するカルテを入手することができたのです。
また、スティーブンソン博士は、 今の人生では知り得ないはずの外国語(真性異言)を話す奇妙な子供たちの存在に着目し、世界中から集めた事例を極めて詳細に調査分析した後、少なくとも 3つの事例が十分に信頼できる科学的事例であることを検証して、1994年に次のように結論づけました。「通常の手段で習ったことのない、母国語以外の言葉を話す人たちは、実際の練習によって、どこか別の場所でその言葉を習ったに違いない。それは、前世の時代なのではないだろうか。それゆえ、信憑性のある応答型真性異言の事例は、人間が死後にも生存を続けることを裏づける最有力の証拠の一端になると、私は信じている」と。
また、サトワント・パスリチャ博士(インド国立精神衛生神経科学研究所助教授)も、過去生の記憶を持ち「前の両親を覚えている」と主張する人物の事例を45例も収集し、綿密な科学的調査分析を行いました。その結果、生まれ変わりを自覚する人物は、自らが記憶するという過去生について具体的な事柄を語って おり、45例中38例では、前世(一つ前の過去生)における名前を突き止めることができ、生存する関係者によって、その発言内容の正確さが確認されました。
ちなみに、前世を記憶する人物のほとんどが、食べ物、衣服、人物、遊びなどに関する好き嫌いや、刃物、井戸、銃などに対する恐怖症など、異常な行動的特徴を持っていたという。その行動は、今回の人生における家族から見ると奇妙な行動であるが、前世に関する本人の発言とは一致しており、大半は、前世において死亡したときの状況に関していたといいます。例えば、刃物に対する恐怖感を抱いている場合は、前世で刃物によって殺されていたことが判明しました。
このように、臨死体験、前世療法、過去世を記憶している子どもたちの研究をみてくると、やはり、私たちは単に肉体だけの存在でなく、肉体の死によってすべてがなくなってしまうということはなさそうだという結論が導きだせるのではないだろうか。そして、それらの研究が古い宗教的伝統との類似性が多く、私たちが生きていくうえで、あらためて仏教の説く輪廻転生の仕組みに学ぶところは多いのではないでしょうか。それによって、幸福の道を歩んでいけるものと思います。  
 
輪廻転生 11

 

死後の世界はないという意見について
人間が霊的な魂をもっていない、つまり人間は肉体だけであるという考えを持つ人は、必然的に人間は死ねば無に帰する、つまり死後の世界なんてないと言います。でも、それでは逆に霊魂の存在を認めたら、必ず来世の存在を認めるか、というとそうではない。たとえば、アリストテレスは人間が霊的な魂を持つと考えましたが、死後もその魂が生き続けるかどうかは、あえて結論を出しませんでした。また、次の二つの考えも、魂は認めるが結局来世を否定する考えです。
その一つは輪廻思想です。これはご存じの通り、生物の魂は現世の行いに従って、死後別のものに生まれ変わるという考えですよね。この考えを信奉するのは、インド古代のバラモン教(カ−スト制度を生んだ宗教)とそれから発展したヒンズ−教、そして仏教です。と言っても、仏教の創始者、ゴッタマ・シッダ−ルタ(紀元前 565~485)はあの世については何も話さなかったが、弟子達が来世についての教えを作っていったようです。
7、8世紀ごろチベット人がラマ教という自分たちの仏教を作りました。ラマ教は後でフビライ汗の時にモンゴルにも伝わりモンゴル人の間にも広がります。このラマ教の指導者がダライ・ラマと呼ばれますが、ダライ・ラマが没するとその日に生まれた神童を探して、次のダライ・ラマするのです。というのは前のダライ・ラマの魂がその子に移り住んだと信じているからです。
私にはこの輪廻思想はおかしいと思われるのですが、その理由は、もしそれが本当なら、私達が生まれてくる前に何であったか(犬か猫かあるいは人か)を覚えているはずだが、何も覚えていないということです。しかし、そう言うと、「輪廻思想では、生物が死ぬときその魂は記憶をみんな消されるのだ」と言い返されます。でも、もしそうならですよ、例えば、あなたの友人のA君が死んだとしましょう(変な例ですみません)。そして、その人は記憶を全部失って、全然別の人(B君)に生まれ変わり、あなたの前に現れたとしましょう。そのB君はかつてあなたと一緒に遊び勉強したA君とは別人でしょう。B君は、あなたと一緒に遊び勉強し駄じゃれを言い合って笑ったという経験をまったく記憶していないのです。B君とはもう一度始めからつきあいをし直さないと友達にはなれないわけ。以前A君に言った駄じゃれをもう一度言う必要がある。だから、もし輪廻思想が正しいなら、結局人間は死んだら終わりで、その後にまったく別のものが存在し始めるということになる。
輪廻が正しいと言う人のもう一つの論拠は、ときどき初めて見たことなのになぜか以前どこかで見たことがあるという経験です(デジャビュ;deja vu;already seenの意味のフランス語)。これは、私たちが今の人生を始める以前に別の人生を持っていた証拠だと言うわけです。上で言ったように、もし生まれ変わるときにそれ以前の記憶が全部消されるのなら、どうしてデジャビュなんてことがあるのか理解できませんが、ともかくこの前世の記憶は非常にあいまいでしょ。それから、もう一つ不思議なことは、もしある時に見たことを思い出すくらいなら、どうして自分が誰であったかというもっと大切なことは全然思い出さないのでしょうか。何かを見るという経験に比べれば、自分が誰であることを自覚する経験はずっと重いはず。だから、軽い経験を思い出すなら、より重い経験は絶対に思い出すはずだということです。では、なぜ「デジャビュ」なんてことがあるのでしょうか。私の個人的な考えでは、この今の人生で経験したことが無意識に連結して何か以前経験したことのように錯覚するのではないかと思います。
インドに何度も滞在した経験のある学者の意見では、インドでも輪廻をまじめに信じている人は少ないそうです。輪廻が正しいなら、人生は何度でもやり直しがきくことになる。けれどもし間違っていれば大変です。まじめに考えてみる必要があるでしょう。
もう一つの考え方は、死後人間の魂は宇宙の魂と合体する、とか何とか言う考えです。この考え方は、いくらかの近代の哲学者によって主張されているようですが、どうもまじめに主張されているわけではないようです。いずれにしても、万一これが本当なら、これも結局人間の魂は死後になくなるということになるのはお分かりでしょうか。というのは、私の魂が死後に宇宙の魂と合体したら、もう私の魂は存在しないのですから。
前回、来世がないと考えたら、人生は出来る限り楽しんで過ごすことが人間の幸せだという考えになる、とか、来世での罰も報酬もないのだから好きなことして過ごすべきだという結論になると言いましたが、覚えていますか。もし、そうなら、来世を信じない人はみな快楽主義者で不道徳な人になってしまうのですが、現実は必ずしもそうではあません。例外は一杯ある。それはなぜかと言うと、一つは、人間には、いくら本人が否定しても、良心というものがあって、心の奥底で「善を働き、悪を避けよ」という声を聞くからでしょう。もう一つは、そしてこれが多くのケ−スに当てはまると思うのですが、人間は口では「あの世なんてなか」と言っていても、心底そう考えていないか、あるいはまじめに考えずに口ではそのようなことを言っている場合があるからです。 また逆に天国と地獄を信じていても、目の前の楽しいこと引かれたり、辛いことを恐れたりして、途方もない悪事をすることもある。その理由の一つは、人間がみんな持っている弱さにあるでしょう。むかしむかしのコマ−シャル(何のコマ−シャルか忘れましたが)で、「わかっちゃいるけどやめられない」というのがありましたが、それです。でも、もう一つの理由は、この場合も死後のことをまじめに考えていない、あるいは理解していないことにある。人間って複雑なものですね。 
 
輪廻転生と解脱 12

 

解脱とは、<悟り>とも同義であり、生の真実を理解して、人間を束縛する輪廻転生から解放されることを言います。人間は迷いの中にあって誕生と死を繰り返しており、迷妄にある意識状態から覚醒しなければならないのです。この世に生きることは万人にとって大変なことであり、人間の生の全体を俯瞰してみれば、現象の物理界に生きることは容易ならざることに、すべての人が首肯するはずです。と言うのは、人生の折々に幸福や歓喜を少しばかり味わったとしても、そうした喜びの感情が長く続くことは決してあり得ず、悲哀や苦悩によって苛(さいな)まれ、人生の苦渋を味わって心ひそかに涙を流すときが誰にとっても必ず起こることであり、そしてまた、そうした困難な状況が人生では多々生じることだからです。この現象界は人間にとっての霊的進化の<修行の場>ですから、すべての人にとって苦の娑婆であり、この世で生涯を通して安楽な生を送ることなど決して望めないのです。年若い人々は、人生は希望に満ち溢れて前途洋々たるもののように思うかもしれませんが、いかに冨貴の家、由緒正しき家に生まれようとも、すべての人間がこの現象界では霊的進化を果たすために、人生における困難や苦悩や悲しみを経験して、生の意義を学ばなければならないように定められているのです。
人間が生の本質に目覚めず、迷妄の中にある間は、人間は数多の転生を繰り返して意識進化を果たしていくことになります。そして、最終的に輪廻転生という束縛を離脱して、永遠の生に至ることが可能になるのです。仏教でいうニルヴァーナ、涅槃とは、人間の本性意識である高次の自我が寂滅(消滅)することではなく、絶対的な平安の内に自己を確立して永遠なる進化の道に入ることなのです。涅槃に自己を確立すれば、そのときにはもはや輪廻転生の束縛を受けることがなく、自由解放を達成したことになります。ですから、仏教では、煩悩という迷いを断ちきり、悟りを得て解脱し、涅槃寂静の境地に至ることを衆生に説くのです。生の真理を悟得して、涅槃という絶対平安の境地に至っても、高次の自我である霊は決して消滅することなく、輪廻転生という束縛を離れて至福の内に住しながら、永遠なる意識進化の道程をただひたすら上昇していくのでしょう。
現世に生きる私たち人間の深奥に存在するものが本性意識という霊であり、表層の低次の自我がこの世に顕れ出ている私たち自身です。本性である高次の自我と表層の低次の自我との間で厳然たる区別があるわけではありませんが、自分自身であると思い込んでいる低次の自我は現世に生きている間だけ自己表明する束の間の存在です。低次の自我と高次の自我は別個のものであると誤解してはならないでしょう。それらはあくまで同一体なのですが、換言して、低次の自我とは霊の表層の意識、あるいは霊が持つ個性の一断面と言えるかもしれません。沢木興道禅師がその著書の中で、現世の人間とは瘡蓋(かさぶた)のようなものと述べておられたと思いますが、それは人間の在りようを言いえて妙です。もう少し解りやすく例をあげて言えば、今生で私はAという女性として生まれてきましたが、私の本体はXという高次の自我である霊としましょう。本来の私であるXは、過去生においてBという女性で人生を過ごし、その前の過去生においてはCという男性で人生を送ったかもしれません。ですから、Aという個性も、Bという個性も、Cという個性も、それぞれの人生を生き抜いたり、生き抜いていく人間としての各個人ですが、Aも、Bも、Cも、現世に一回かぎり現れ出た個性であって、霊であるXが表層の低次の自我を介して意識進化を果たしている実体なのです。AはBそのものが生まれ変わったものではなく、過去生においてXがBとして生きたのであり、現在はXがAとして現世に生まれ出ているのです。従って、人間各個人の奥底に存在する高次の自我が過去、現在、未来という次元を超えて連綿と生き通す霊という実体であり、霊は現象の生死に対して些かも影響を受けることはありません。けれども、この現象世界に生まれ出てくるかぎりにおいては、その意識が迷妄の内にあって覚醒していませんから、高次の自我である霊も輪廻転生の束縛を受けているのです。
物理現象界で人間生を生きることは、基本的には誰にとっても苛酷なものですが、しかし世の中には、この現世の生が楽しいと感じている人たちも存外に多く存在していることでしょう。また、この世に生きることは大変であり、現世で生きること自体がうとましいと感じたりしている人々も多く存在することでしょう。人間は誰しも若いうちは外向的であり、世の中の仕組みもまた、興味深く面白いものであって、生きていること自体が楽しいと感じるものでしょうが、年齢を重ねるごとに人生について深く考えるようになり、生の意義や生きることの目的を知りたいと願ったり、あるいは生の空しさを感じたりして、明確な答えが得られそうもない心の問いかけにとまどうものです。しかし、概して生きることに飽き飽きした感情を抱いている人や生の真実を求めて宗教にその答えを見出そうとしている人ほど、輪廻転生から解脱する機縁に近づいていると言えそうです。さりとて、そのような人々にとって輪廻転生の輪が自動的にほどけるというわけではなく、解脱を達成するためには、真理を求めて相当な意識進化を図らなければ、自己の心の奥底から湧き起こる解脱の願望を成就することは決して可能なことではないでしょう。
輪廻転生という、人がこの世に生まれ出るために誕生と死を幾度も経巡ることは大変に辛いことであろうと思われます。親愛なる人々と育んだ友情や親密な関係を断ち切られてしまう死はもちろんのこと、因業や宿世の縁によってこの世における両親となる人たちのもとに生を享けて誕生し、無心なる赤子から頑是ない幼少期を経て健やかな児童期に至るまでの間、親や周囲の大人たちの庇護を受けないと無事に成長することさえままならない子供時代の生そのものが脆(もろ)く危なげであり、また、誕生と死そのものに付きまとうネガティヴな思いはすべての人間の心の中に深く根づいているものでしょう。特に、死については人々が忌み嫌うものであり、すべての人が健やかな長命を望むものです。できるものならば、若々しいままで千年も万年も生き続けたいと思うのがすべての人間の本心でしょう。けれど、この現象世界に人間として生きるかぎり、それは全く不可能なことです。それ以上に、死はいつ何時とも人に訪れるか解らず、実際には人間は常に死と対峙しているのであり、死によって生は捕捉されているのです。いつ如何なるときであっても、死によって一切の関係が瞬時に断ち切られてしまう現世の人間の生とは、それほどまでに不確かなものなのです。ですから、人は現象界という現世に生きることの空しさを感じて、宗教に救いを求めるのでしょう。宗教とは、人間の霊性という意識そのものに関わりますので、物質から精神という霊性に目を転じた人々にとっては、現世から脱却する大いなる方便であり、そしてまた、意識という霊性に目を開けば開くほどに幽玄なる霊の真理に目覚めて、不可思議な生というものの中で真実の自己を見出して、恐怖も不安も消滅した安心立命の境地に達するのです。
この世で物質や快楽を追求して、現世の生が楽しいと思っている物欲的な人間たちにとっては、輪廻転生から解脱するということなどは夢のまた夢でしょう。そのような人々にとっては、生きることも迷妄という夢の中、死もまた夢、現象の生死を超えた永遠の生などは、無明の眠りの中にある、仏法に縁なき衆生には決して到達しえない億劫隔たる彼岸であることでしょう。けれど、この世に生きることは大変なことであると心から思い、輪廻転生から解脱を渇望する人は、それゆえ、今後は瞬時もおろそかにすることなく日々を大切に生きて、霊性において向上する生を導いていくように心がけるべきでしょう。 
 
輪廻転生、カルマの法則 13

 

前世の因縁、因果応報。自分の成した行為は自分に返ってくる。これがカルマの法則である。
しかし、ほんとうを言えば、「カルマの法則」は存在しない。現実として「カルマの法則」はありますが、それを信じている人に当てはまる法則です。それを信じない人には、効力が及ばないでしょう。もし、カルマを信じることを選ぶなら、その信念に力を与えることになり、自分が信じた法に支配されることになる。その考え方を受け入れたとき、カルマを背負ってしまうことになる。その結果、現実の中で効力として力を発揮し、それに支配されることになる。
「カルマ」というものを、こんなふうに考えたら分かると思います。もし、ほんとうに「カルマの法則」があるなら、何かの行いをすれば、必ず何かのカルマが付きまとうことになる。たとえ、それが良い行いであれ、悪い行いであれ、それによって別のカルマが生まれることになる。一つのカルマを解消するために、たとえ「良い行い」をしても、それは同時に新たなカルマを作る。カルマがカルマを生み、そんなふうになって、人間はその輪から永遠に抜け出ることができなくなる。
カルマの法則・・・前世での行為の清算のために、あるときは義務を負う側に、あるときはそれを受け取る側に身を置き、何度も何度も繰り返す。そうであれば、私たち人間は、この際限のない繰り返しの中に生きていくことになる。なんと悲しいことだろう。。
「過去の償いによってこうなった」、「前世のカルマによってこうなった」、そのような捉え方が長い長い間、私たちの意識を支配し、それが心の奥底に記憶されて固定観念となり、それが「カルマという現象」を作り上げてしまったのである。私たちの意識が作り上げてしまった「現象世界」である。そのような記憶があれば、魂は輪廻するという法則を思い出す。それが「輪廻転生」という現象なのだ。 魂にくっついた「残留想念」である。そしてこの世に何度も戻ってきてしまう。実際、そうなったのが私たちであり、人間が「輪廻する人々」と呼ばれる理由なのだ。
カルマを信じている人は大勢いる。ひとつの人生でしたことは、どんなことでも次の生に戻ってきて、その代償を払わなければならないと信じている。そして自分の人生で起きることは前世の因縁、「カルマを償うため」になってしまう。ああ何と悲しい、無益なことよ。

カルマは存在しないが、「魂の欲求」は存在する。「あれをしておくべきだった」。「あのとき、こう言うべきだった、こうすべきだった・・・」。「あの人と結婚すべきだった、あの人に愛を告げるべきだった・・・」。こうした後悔、満たされない思いが、この世に舞い戻させるのである。

もし、ある人が何かの出来事で人の命を奪ってしまったら、その後には、同情を覚えるほどの辛い状況が待っているでしょう。自分の犯したことに向き合うことになり、強烈な罪悪感に見舞われ、辛苦の苦しみを覚えるだろう。だからといって、来世では、「命を奪われる側」に身を置くとは限らない。そのような法は存在しない。
もしかしたら、来世では医者になって、人の命を助ける仕事について、全身全霊で人(生命)を愛し、その生涯を捧げるかもしれない。すべては魂の選択である。運命として定められたものではない。
たとえ、自分が侵した大きな過ちであっても、自分の行為を心から反省し、悔い改めれば因果は解消する。悔い改めた者を、なんで再度罰する必要があろうか!カルマの法則は「神の法」ではない。それは人間が作り上げたものであり、それを信じる人たちの法である。
輪廻転生を繰り返す必要はない。真実はこうである。魂はより多くの経験を渇望する。自分の知らないことを、もっともっと体験し、成長し進化したいと願う。その結果、さまざまな事柄を体験する。そして、ときには苦難の道も選ぶかもしれない。どのような人生であれ、たとえそれが苦難の人生であっても、それは自分の魂の選択である。
そして、一つの人生で、自分ができなかったことがあったり、もう一度やり直したい事があれば、魂はそれを選ぶ。魂の欲求である。
カルマの債務はない、あなたには償いをしなければならないものは何もない。すべては自分の選択であり、魂の決定である。
大事なことは、どのような人生であれ、それがあらかじめ決められたとか、強制されたというのではなく、この人生はより成長を願うために、自分の意思によって選ばれたということである。何度も何度もこの世に生れ、輪廻転生を繰り返し、自分を進化させていく、それも成長のための「一つの選択、方法」にすぎない。自分で選ぶだけだ。前世の因縁である必要はない。前世の行為の帳尻を合わせるために、この世に戻ってくるのではない。

知人に、自分の前世を、昨日の事のように覚えている看護婦がいる。その人は、戦国時代に「山賊」であったという。戦いで傷を負って落ち延びた武士を襲い、金品を奪い、手を切り落としたり、足を切り落としたり、時には、命まで奪っていたという。そんなことを全部覚えているという。
そして今、勤めている病院に、その人たちが診察を受けに来ることがあると言う。前世で足が切られた人が、足の不自由で入院したり、自分が「刀」で切りつけた人が背中に傷跡が残っていたりするという。「今は姿・顔形は違うけど、魂が同じなので、すぐ分かる」という。
そんな人を見るたびに、「すみません、すみません」という思いでいっぱいで、ただひたすら心の中で詫びるという。
他の看護婦さんが、あの患者さんは我がままで、扱いにくいと言う人もいるけど、自分のやったことを考えたら、とてもじゃないけど、そんな事はいえない」という。今は出会うすべての人にありったけの愛を注ぎ、全身全霊で人に奉仕をしたいと願う。そして休みの日には、ボランティア活動に励んでいる。

だから、前世を知る、前世を思い出すということは、きれい事ばかりではなく、時として、罪悪感にさいなまれるような、辛い出来事にも直面しなければならないのだ。過去世をさか登れば、誰でも「極悪残忍な自分」に出会う。
過去世を振り返れば、人を殺(あや)めたことがない人はいないだろう。人の命を奪ったことのない人はいないだろう。人は誰でも”善人”であったし、”悪人”でもあった。争いで人を傷つけ、命を奪い、その犠牲者にもなった。遠い過去に、そのすべてを体験し、そのような経験をして今の自分になったのである。
「悪」を見て、あなたが責める他人は、「かつての自分」なのだ。『人を憎まず罪を憎む』、なんと意味深い言葉だろうか。そして、来世で何をするかは、自分の選択、「魂の選択」である。カルマではない。

人生の目的、生れてきた目的とは何でしょうか? それは何か特定の使命があるとか、運命を生きるというのでなく、この「生」をまっとうすること。「生きることを体験」して、そこから「学ぶ」ということである。死が近づいたとき、それが分かる。この世に別れを告げるとき、それが分かる。やりたいことを悔いなくやり、この生を精一杯生きることである。
あえて言えば、生れてきた目的とは「体験の蓄積」である。魂が強く求めることを体験し、その体験を通じて「未知」だったものを「既知」(きち)にしていくことである。魂は自分の知らない事を、もっともっと体験し、成長・進化したいと願う。自分の理解できないこと、明確に理解できない想念については、それを体験するよう 魂の叫びとなって あなたをつき動かす。
それは新たな冒険であり、時として、辛い体験であるかもしれないが。
体験によって得られものは、叡智となって魂に記憶される。「叡智」とは体験によって得られる感情の蓄積であり、私たちがこの世を去るとき持っていける”ただ一つのもの”である。そして魂がここでの体験を終えると、次の体験に向けて進んでいく。それが私たちの成長進化であり、生まれてきた目的でもある。
幸せであること・・・
人が幸せを感じるとき、感じるようになったとき、あらゆるカルマの法則、トラウマも越えていく。幸せであるという”至福感”によって、カルマもトラウマもすべてが消えていく。消え去る。幸せになること、喜びに溢れること。それこそ人生の目的、生れてきた目的である。  
 
14世ダライ・ラマ法王発見の経緯と輪廻転生制度

 

ガンデン・ポタン
2002年6月5日からの2日間にわたり、ダラムサラにおいて、「ガンデン・ポタン(Gaden Phodrangチベット政府)」の創立360周年記念行事が催された。これは、ダライ・ラマ法王が宗教と政治両方の指導者になってから360年目を迎えたことも意味している。
現在のダライ・ラマ法王は14世である。ダライ・ラマ法王の登場は1世ゲンドゥン・ドゥプから始まり、4世まではその地位は宗教的主柱のみであった。5世ンガワン・ロサン・ギャツォ(1617年〜1682年)の時代に、宗教的・政治的最高指導者となり、その地位は、現在まで受け継がれている。
ガンデン・ポタンが樹立されたのは、1642年のことであった。ダライ・ラマ法王5世は、彼を崇拝していたモンゴルのグシ汗の協力を得てチベット全土を統一し、チベットにおける宗教と政治両面の指導者になり、ガンデン・ポタン政府を築きあげた。全転生者の中でチベットの宗教と政治両方の指導者となった者は、ダライ・ラマ法王ただ一人であり、他のどの転生者もこの地位を得たものはいない。
ガンデン・ポタンという名前は、デプン僧院(三大僧院の一つで、1959年迄、8千人以上の僧侶の修行場となっていた)内にある一室を、タシ・タクパ・ギャルツェンが、ダライ・ラマ法王2世の宮殿として献上したことに由来している。2世は、歓喜の宮殿という意味の「ガンデン・ポタン」と命名し、その後、4世と5世もこの宮殿を利用した。
ダライ・ラマ法王5世は、ポタラ宮殿を建築した後、ポタラ宮殿に政府を移動してガンデン・ポタン・チョクレー・ナムギャル(Gaden Phodrang Chokley Namgyal)と政府名を改名し、現在に至っている。チベット人は、ガンデン・ポタン政府を築き上げた5世のことをンガパ・チェンポ(大いなる5世)と呼んでいる。そのような意味で、現在のチベット(亡命)政府の名前は、ダライ・ラマ法王と切っても切り離せないほど深い関係を持っている。
輪廻転生制度
ダライ・ラマ法王は、チベットの精神的指導者であるだけでなく、政治の指導者でもある。チベットはもちろんのこと、チベット仏教を信仰しているモンゴル、ネパール、シッキム、ブータン、ロシアなどの各地域からも仏教の最高指導者として崇拝されている。世界中のチベット仏教徒は法王の祝福を受けるために、かつてはチベットの首都ラサを、現在はインドのダラムサラを巡礼している。1959年迄はチベット仏教を信仰する者にとって、チベットの首都ラサ(チベット語で「神の土地」)は、チベット仏教の聖地であった。
チベット仏教の教えによれば、すべての生きとし生けるものは輪廻転生すると考えられている。輪廻転生とは、一時的に肉体は滅びても、魂は滅びることなく永遠に継続することである。我々のような一般人は、今度死んだら次も今と同じように人間に生まれ変わるとは限らない。我々が行ってきた行為の良し悪しによって、六道輪廻(神・人間・非神・地獄・餓鬼・畜生)のいずれかの世界に生まれ変わらなければならないのである。例えば現在、人間に生まれていても、次の生は昆虫・動物・鳥などの形に生まれ変わるかもしれない。しかし、悟りを開いた一部の菩薩は、次も人間に生まれ変わり、すべての生きとし生けるものの為に働き続けると信じられている。ダライ・ラマ法王もその一人である。ダライ・ラマ法王は観音菩薩の化身であり、チベットの人々を救済するために生まれ変わったとチベットの人々は信じている。
ダライ・ラマ法王制度は世襲制でもなければ、選挙で選ばれるわけでもない。先代の没後、次の生まれ変わり(化身)を探す「輪廻転生制度」である。新しく認定されたダライ・ラマ法王は、先代が用いたすべての地位や財産を所有することができる。現在のダライ・ラマ法王14世は、チベットの人々を救済するという菩薩行を実現するために、繰り返し生き変わり死に変わりして転生しているとチベット人は信じている。つまり、ダライ・ラマ法王という名前をもった存在が、14回にわたって輪廻を繰り返しきたということである。しかし、それは1世が最初の存在であったことを意味するものではない。ダライ・ラマ法王の輪廻転生は、その化身の起原に関して6百年の歴史をもっており、仏陀の時代にまで辿ることが出来ると14世は述べている。
チベット人は、このようにして自由に自分の力で人間に生まれ変わることのできる者のことをトゥルク「化身」、又は輪廻転生者「ヤンシー」と呼ぶ。ダライ・ラマ法王は、チベットの人々を救済するため、永遠に人間に生まれ変わって、人々を浄土へ導くと信じられている。チベットではたくさんの輪廻転生者が存在するが、その中でダライ・ラマ法王は、最も尊敬されている存在である。
ダライとは、モンゴル語で「大海」である。元来ダライ・ラマは、3世のダライ・ラマ ソナム・ギャツォの略称であり、ギャツォとはチベット語で大海の意味であり、モンゴル語に置き換えたわけである。ラマはチベット語で教師を指し、つまりインド語のグルに相当する。法王(チュウキ・ギャルポ)という呼称は、ダライ・ラマ法王がチベット仏教の最高指導者であることに由来する。また、中国人やその他の外国人の中には、活仏という言葉を使用する者もいるが、この言葉を英語に直訳すれば(Living Buddha又はGod king)という意味になり、正しい呼び方とは言えない。
チベットの人々は、ダライ・ラマと呼ばず、イシェ・ノルブ(如意珠)、ギャルワ・リンポチェ(仏のような宝者)、クンドゥン(御前様)、チェンレーシ(慈悲の観音菩薩)、キャプゴン・リンポチェ(救世主)などの名で呼んでいる。
新しいダライ・ラマの選定に関しては、チベット仏教の伝統に従ったいくつかの方法がある。この方法はダライ・ラマ法王に限らず、どの転生者を認定する時もやり方は同じである。先代の遺言、遺体の状況、神降ろしによる託宣、聖なる湖の観察、さらに転生者の候補が先代の遺品を認識できるかどうかなどである。
聖なる湖のお告げ
1933年、13世は他界し、国民は一日も早く新しい転生者が見つかるようにと祈った。チベット人の精神的主柱であり、国家的指導者であった13世の死は、チベット人にとって「失明したような」大きな悲しみであった。直ちに、チベット政府によって転生者を探す捜索が始まった。チベット仏教の理論上、転生者が亡くなると、49日間以内に地上のどこかに転生者として生まれ変わると信じられている。しかし、それは限定ではなく時と場合によっては2、3年後に生まれ変わるケースもまれにある。
チベット議会(ツォンドゥ)は、ダライ・ラマ法王のいない間の国を治めるための摂政を選任する。この摂政は、ダライ・ラマ捜索の総責任者でもある。13世亡き後、ガンデン座主イシェ・ワンデン、レティン・リンポチェ、プルチョク・ジャムパ・トゥプテンの3人の候補者の中からレティン・リンポチェが摂政に選ばれた。ダライ・ラマ法王不在の時に代わりを勤める人物のことをギャルツァプと呼び、これは摂政を意味する。この人物は、13世の生まれ変わりを発見し、その子が成人に達するまで最高責任者として国を治める。レティン摂政とチベットの内閣(カシャク)をはじめとし、各寺院の最高僧(ケンポ)らは、13世の転生者捜索に力をいれた。
チベットでは人が亡くなると、火葬、鳥葬、水葬、土葬にするのが主だが、偉い化身が亡くなった場合、遺体を薬草などで処理し、ドゥンテン(ミイラ)にして仏塔(チョルテン)の中に供え奉り、信者が遺体を参拝するという風習がある。ポタラの赤い宮殿内(ポタン・マルポ)におさめてある歴代ダライ・ラマの霊廟もその一例である。13世が亡くなった後も、チベット仏教の伝統に従いドゥンテンにするため、いつものように準備に取り掛かった。その時、ダライ・ラマ法王13世が次にどこに生まれ変わるのかを示す兆候が、亡くなって間もなく、遺体の方向となって現れた。
13世の遺体は、仏教の伝統儀式に従ってミイラにする前に、一般信者参拝のため、まずノルブリンカ宮殿(ダライ・ラマ法王の夏の宮殿)の宝坐に南向きに安置された。(チベット仏教では、遺体は南向きにすることが良いとされている)しかし数日後、南向きに安置してあったはずの顔が、東向きに変っているのが二度も発見された。この事実を参拝に行った多くの信者が目撃している。続いてラサの東北側の柱に、星の形をした大きなキノコが突然出現した。13世の転生者が、ポタラ宮殿の東側から生まれ変わるしるしだという噂がラサの町中に流れた。
1935年、レティン摂政一行はまず、ラサから約145キロの地点のチョコル・ギャルにあるラモイ・ラツォという聖なる湖へ行った。ラモイ・ラツォ湖は、パルデン・ハモ(吉祥天母)の魂が宿る湖(Blatso)とされている。チベットの人々は、ラモイ・ラツォ湖の水面に将来の様々な状況を見ることができると信じている。チベットには、このような聖湖はいくつもあるが、その中でも、チョコル・ギャル・ラモイ・ラツォが最も有名である。ラモイ・ラツォ湖の水面に、ある時は文字や形を、ある時は風景を通じてメッセージが現れると言われている。13世の転生者を探す時もこの聖湖から幻影が現れた。現在のダライ・ラマ法王や多くの転生者が、ラモイ・ラツォ湖の予言により見つかっていることは、多数の自伝や仏典に書き記されている。
捜索隊のレティン摂政一行は聖湖へ行く前に、チョコル・ギャル僧院で吉祥天母への特別大供養をした後、ラモイ・ラツォ湖の水辺で祈りと瞑想を行いながら何日間も過ごした。そしてある日、水面から5色の虹のような美しい色が現れた後、ア(Ah)・カ(Ka)・マ(Ma)というチベット語の三文字が浮かぶのを見た。さらに続いて、中心がトルコ石のような青緑色の瓦と金色の屋根の三階建ての寺院の風景を見た。これらの状況の描写は、詳細に書きとめられ極秘にされた。
レティン摂政は、聖湖で見た幻影を神託官に詳しく説明した。チベット政府のネチュン神託、ガトン神託、サムイェ僧院のツェウマルポ神託の三人の神託官は、カタ(チベットの儀礼に用いられる白い布)を東方へ投げ五体投地をし、ダライ・ラマ法王14世が生まれ変わる方角についての託宣を待った。そして、それらのどの託宣も同じ方角を指し示していたのである。
ラモ・トゥンドゥプ少年の発見
当時、チベットの交通手段は、馬、ロバ、ヤクに頼るのが普通だった。捜索隊一行がラサから東チベットのクンブム僧院に着くまで4カ月以上が経過していた。クンブム僧院に向かう途中、ケグドーに立ち寄り、レティン摂政からの手紙と贈り物をパンチェン・ラマに贈り、祝福を受けた。そしてこの時一行は、パンチェン・ラマから僧院近辺の3人の転生候補者の名前と特徴を告げられる。そして、クンブム僧院の周辺の環境は聖湖で見たのと酷似していたため、探していた場所はこの付近に間違いないと思うのであった。
当時、国民党政府はその一帯を中国人省長の馬歩青という人物に任せていた。一行は馬歩青のもとへ伺い、新しいダライ・ラマ法王の転生者を探すためにチベット各地域に代表団を派遣していること、自分達がアムドへ派遣された一行であることなどを伝え、援助と協力を頼んだ。
パンチェン・ラマから告げられた三人の候補者の一人に現ダライ・ラマ、ラモ・トゥンドゥプ少年がいた。タクツェル村のラモ少年宅を初めて訪れた様子は以下の通りである。
高僧のケゥツァン・リンポチェは、ロックパという羊の毛皮で作った着物を着用して召使の格好、秘書のロサン・ツェワンは隊長の格好である。一行はラモ少年の母親に自分たちが旅の途中で今夜泊めて欲しい旨を伝えた。母親は身なりのいいロサン・ツェワンを丁寧に応接間へ案内、みすぼらしい格好のケゥツァン・リンポチェを台所へ案内した。この時、3歳にも満たないラモ少年は、台所に来て一行をじっと見つめていた。ケゥツァン・リンポチェが首に巻いていた数珠を触ってマントラの「マニ、マニ」を唱え、さらに欲しいとせがんだ。その数珠はダライ・ラマ13世のものだった・・・。ケゥツァン・リンポチェはラモ少年に「私が誰か解ればあげよう」と言ったところ、ラモ少年は「セラのアカ(この地方の方言では僧侶のことをアカという)」と答えた。そしてさらに「中にいるのは誰だ」と聞くと、「ロサン」と答えたのである。ケゥツァン・リンポチェは、嬉しさのあまり目一杯涙ぐみ、自分の首にかけてあった数珠を取ってラモ少年の首にかけた。ラモ少年は嬉しそうな笑顔を見せながら再び「マニ、マニ」と唱えた。ケゥツァン・リンポチェは、言葉では表せないほど感無量な気持ちになり、ラモ少年を見つめた。翌朝、一行が出発する時、 ラモ少年も一緒に行きたいと泣き出した。ケゥツァン・リンポチェは、ラモ少年に近いうち戻ってくると約束した。
少年との再会、そして14世の即位へ
ケゥツァン・リンポチェは、チベット仏教の暦を参考に再訪の日を選んだ。チベットでは何もかも仏教中心に考える風習があるため、このような場合、大安や吉日の縁日を優先する。ケゥツァン・リンポチェ一行は、早朝から吉祥天母(パルデン・ハモ)の前で特別供養をして出発した。クンブム僧院では、朝の勤行を呼び出す法螺貝が鳴っていた。チベットでは、牛乳、ヨーグルトや水を器いっぱいに持っている人たちに道で出会うのは吉兆とされる。近道をして山に登ると真下にタクツェル村の全景が見え、ラモ少年の家もあった。その風景を見た瞬間、ケゥツァン・リンポチェは、聖湖で見た幻影と酷似していることに改めて驚きを禁じ得なかった。
ケゥツァン・リンポチェは、今回は自分の僧衣をまとい、随行員の方々もそれぞれの地位の服装に着替えていた。ラモ少年の母親は一行を暖かく迎えバター茶を注いだ。そして、ケゥツァン・リンポチェは、「お宅のお子さんは特別な徴があるようなので、少し質問してよろしいか」と訪ねた。母親は、誰かの転生者の認定に来たのだろうと思い、「どうぞご自由に」と答えた。
一行は、ダライ・ラマ13世の遺品をテーブルの上に並べた。まず、非常に似た黒い数珠を二つ並べたところ、ラモ少年は13世の数珠を迷い無く手に取った。その後も13世の黄色数珠、付き添いを呼ぶ時に使った太鼓などを当てた。本物でないほうが魅力的な飾りがあって子供心をくすぶるものであったにもかかわらず、ラモ少年は次々と本物を言い当てた。最後に二本の杖を見せたところ、ラモ少年は初め間違った杖を手に取り、杖をついて歩く真似をしたが、しばらくその杖を眺めた後、本物を手に取った。それはなぜか。最初、手に取った杖も一時期、ダライ・ラマ13世が使ったもので他の高僧にあげたものだったからである。一行は結果に驚愕しながら互いに顔を見合わせ、ラモ少年こそダライ・ラマ13世の転生者に間違いないと確信したのであった。
さらにラモ少年の両親に、ラモ少年の誕生前後に何か特別な兆候はなかったかを尋ねた。誕生前、タクツェル村では家畜が原因不明で死んだり不作が続いたが、これは何か偉い化身が生まれる徴に違いないという噂が村民の間で流れたという。誕生後、寝たきりのラモ少年の父親が急に元気になったという。ケゥツァン・リンポチェは、ダライ・ラマ13世が中国からの帰りの途中に立ち寄ったタクツェル村を美しい場所だと言ったことを思い出した。
こうして一行は、1935年7月6日生まれのラモ少年をダライ・ラマ13世の生まれ変わりと確認するに至る詳しい内容を電報で報告した。一行は一日も早く14世がラサへ出発することを望んだが、中国人省長馬歩青は出発に関して中国銀貨十万枚の身代金を要求、さらに中国銀貨三十万枚を要求してきた。一行にそのような大金はなく、チベット政府に緊急連絡し金額を用意してもらうしかなかった。しかもどこで秘密が漏れたのか、事態を聞きつけた人々がラモ少年を一目見ようとやって来たりして、一行の焦りはさらに募った。これ以上出発を長引かせてはならないと判断、一行は不足金をラサで返済することにし、一行の高官一人が人質として残った。
ラモ少年と一行は、アムドを出発して四カ月近くかけてチベットの首都ラサに到着した。仏教占星術に基づき、1940年1月14日、ポタラ宮殿で即位式が執り行われた。
ダライ・ラマが語る「ダライ・ラマ制度の未来」
(2015年4月現在)79歳のダライ・ラマ法王は、現在北インドのダラムサラに住んでいる。次のダライ・ラマの転生者探しについて、法王自ら次のように述べている。
「チベット仏教文化の伝統に従えば、ダライ・ラマや高僧の転生者探しは、宗教関係の行事であり、政治とは何の関係もない。特に仏教の教えを否定している者にとっては、転生者探しに何の関係もなければ、それについて議論する権利もない。転生者探しは、職員や委員を選出したりすることと異なる。高僧の化身は、常に全ての生きとし生けるもののためになるように考えて生まれくるので、生まれる場所、父母と家系などが重要となる。これはチベット仏教文化の特徴である。もし、チベットの人々がダライ・ラマの転生者が必要であるなら、私の転生者は、中国支配下のチベット国内ではなく、平和な世界のどこかの国に生まれると断言する。それは、前生がやり残した仕事を引継ぎ成就するために転生者は生まれ変わるとチベット人が信じているからである。前生がやり残した仕事を邪魔したり破壊したりするために生まれ変わる転生者はいない。もし、転生者がやり残した仕事を継承できない国に生まれたら、転生者として生まれ変わる意味がない。つまり、私の転生者を必要とするかどうかを最終判断する権利は、チベット国民にある」
ダライ・ラマは観音菩薩の生まれ変わり
チベット仏教文化の特徴である転生制度は他のどの国にも見られない。特定の子供を輪廻転生者として認定する制度はチベット仏教圏にだけ認められているものであり、すべての儀式や法要はチベット仏教文化の伝統に従って行われている。
現世に自分がこうして存在するのは前世の行いの結果(デープ)であり、現世で善い行い(レーヤクポ)をすれば、その結果は来世に必ずつながるとチベット人は因果応報(レンデー)を信じている。レンデーとはつまり業(カルマ)のことであり、身口意(身は体、口は言葉、意は意識の行い)によって生じる様々な因果関係を指す。全ての生きとし生けるものは、それぞれの行いによって 六道輪廻の世界で輪廻し、生まれては死に、死んでは生まれる。徳を積み善行を行えば罪業がなくなり、最後には輪廻の苦しみから離脱して 涅槃の境地(サンギェ・ゴパン)に到達することができるという。
私たちが自分の業によってこの世に生まれて来ることに対し、転生者 (トゥルク)の多くは世のために自分の意思によって生まれ変って来るとされる。ダライ・ラマ法王やパンチェン・ラマなどの多くの転生者は、人々を救うために人間に生まれ変った者であると考えられている。特にダライ・ラマ法王は観音菩薩の生まれ変りであり、すべての仏の願いを一つにしてチベットの人々を救うため、「雪国」(万年雪に囲まれたチベット)に生まれ変わった化身であるとチベット人は信じている。 
 
業 (カルマ)

 

業(カルマ)の本当の意味とは?
輪廻転生と関連するのが「業」。カルマです。業(カルマ)はご存じでしょう。ですが、最初にお断りしておきたいのは、近年使用されている意味と、本来の意味は違うということです。 「え?」と思うかもしれませんが、通常使われている「業」の意味は、本来の意味ではありません。最近はスピ系でも業といえば、何やら「運命を支配しているエネルギーのようなもの」として受け止められていますが、これは全くの誤りです。少なくとも、本来の業(カルマ)の意味とは違います。
お釈迦さまが在世当時に言われていた「業」とは、
・行為
・結果をともなう行為
こういった意味になります。
一言でいえば、「行為」となります。「行い」です。運命を支配するパワーのようなものではありません。結果がともなう「行い」「行為」を「業」と言っていました。
考えてみてください。何でもそうですが、何か行いをすれば、その結果はともなってきますよね。一生懸命に働けばお金が手に入ります。健康に注意をしていれば病気をしなくなります。「当たり前」のことですよね。因果関係のある「行為」を「業」と言っていたわけです。
ところが近世では、元々の業の意味ではなく、もっと不可思議で運命的な拘束力を伴ったパワーのようなものとして受け止められています。当時、インドで言われていた業、または仏教でも使用していた業の意味は、こういうオカルトめいたものではありません。
どうして別の意味になったのでしょうか。一つは、インドの宗教の一つ、ジャイナ教の影響があると思われます。ジャイナ教では、カルマを断つ教えと実践を提唱しています(※ジャイナ教についてはこちらで書いています)。それと、日本に仏教が伝来し、業の考え方が変容していったと考えられます。
しかし業とは、結果をともなう行いをいいます。
今、非常に厳密に表記しています。なぜなら、結果をともなわない(結晶しない)業もあるからです。結果がほとんど生じない業(行い)もあるのですね。分かりやすくいえば、特別に心が動かずに何気なく行っている行為です。こういったのは結晶化しないか、しにくいものです。
しかし心が反応した行為は業となって結果を必ず生じます。たとえば、募金、慈善事業、寄付、こういった行為は、自分自身、または相手の心を良い方向へ動かし、良い業となり結果をもたらします。反対に、五戒や十善戒を破るような悪行為は、心が汚れるため悪い結果をもたらします。
大事なことは、これらの業がもたらす結果は、現世だけでなく、来世、次の来世・・・に引き継がれていく点です。
近年の業(カルマ)の概念は、こういった来世にまで引き継がれる現象(来世に結果を生じる現象)を拡大解釈し、オカルトめいた思想にまで発展していったことも考えられます。ですが、元々は、運命をガチガチに拘束するような意味では無い、ということですね。業とは、「結果をもたらす行為」ということです。
異熟という業(カルマ)
さて話しは続きますが、輪廻転生のことは原始仏教でも出てきますが、その直後のアビダルマ仏教で精密に分析され洞察も深まっていきました。
業については、アビダルマ仏教の精密な分析が参考になるところがあります。そこでここ数日、アビダルマ仏教の業の分析に基づく見解を書いています。
アビダルマ仏教では「異熟(いじゅく)」という聞き慣れない業(カルマ)の結果を指摘しています。
異熟。これは、一言でいえば「宿命」のような結果(業による結果)です。異熟はスピ系や新興宗教で言われている業の概念に近いものです。
とはいっても、それほど因業めいたものではなく、言ってみれば、その人の「個性」となる核をいいます。人それぞれ特徴や個性がありますよね。陽気な人、冷静な人、軽率な人、思慮深い人、社交的な人、研究好きな人、それぞれ気質があります。こういったその人の核となる傾向を「異熟」といいます。
これを聞けば「なあんだ」と思いますよね。それぞれの個性になるわけです。
もっとも中にはこの異熟が、厄介な場合があります。たとえば人を騙す癖のある人、嘘を言いやすい人、欲望が異常に強い人、落ち着きがなさすぎる人、こういったトラブルを引き起こしやすい異熟として生まれてくる方もいらっしゃいます。
実は、こういった特殊なケースの異熟が、近年のスピ系や新興宗教で言われている「業」の概念に近くなります。
異熟は、人それぞれ違います。中には大変優秀な異熟を持ち、「三因」という生まれの方もいらっしゃいます。
異熟のことを考えれば、人間は決して平等ではないことが分かります。機会は平等であっても、人間はスタートラインから全然不平等な生命です。このことは人間に限らず、全ての生命が該当し、あらゆる生命は異なっています。不平等ととらえるか、個性ととらえるかで、その後の人生観も異なりましょう。
そうして大切なことは、「何故、こういう異熟を持って生まれてくるか」です。
この答えが、前世での行い(業)です。前世の業(行い)の際だった傾向、継続されてきた傾向が、現世での「異熟」として形成されてくることですね。
日頃の自分の行動、思考、感情の出し方を見ていれば、来世、どういった異熟を持った人間になるのか分かります。最近はテレビの影響が強いですので、吉本興業のようなノリの人生を送っていれば、掉挙(じょうこ)という煩悩が異熟となって、落ち着きが無く、思考力の弱い生命として誕生してくるでしょう。テレビに出てくる人の真似をするのは大変危険です。
反対にリラックスを心がけ、家族や友人を大切にして人にも親切にし、言葉にも気をつけて思慮深く生活をしていれば、来世は、天界か、人間であるなら大変優秀な生命として誕生するでしょう。
業は、来世において異熟となって形成もされます。そしてもっと重大なことがあります。このことは、ほとんどと知られていない、輪廻転生に関する重大な秘密です。
業は7つに分裂する
さて今回は前回の続きです。輪廻転生に関する知られざる重大な秘密です。初めて知ることになる人がほとんどでしょう。仏教を知っている人でも知らない人が多い業報に関する仕組みです。
仏教では輪廻転生を瞑想の禅定力で詳しく調べたのでしょう、後世のアビダルマ仏教では、業について大変詳しく調査し分析もしています。
その中でも重要なのが「業が七分割される(七倍になる)」という発見です。あるいは、一つの行為は、7回にわたって報いが訪れるということです。
「なに?」って思うでしょう。
原始仏教の次に出てきたアビダルマ仏教では、業について精密に分析し調査していきました。そうして分かってきたことは、業は7つに分裂(7倍になる)ということなのですね。どのようにして7分割するかといえば、
現世 ⇒ 来世 ⇒ 2番目の来世 ⇒ 3番目の来世 ⇒ 4番目の来世 ⇒ 5番目の来世 ⇒ 6番目の来世
といった具合に、現世を含めて6度の転生にわたって結果が出てくるようになります。一つの行為をした場合、心は7回生まれるといいます。その7つの心がそれぞれ結果を招来するというのですね。
しかも業の結果の出方に強弱がでてきます。
これは相当な衝撃的な業の事実ではないかと思います。どういう形で出てくるかといえば、
・現世 ・・・弱い
・来世・・・強い
・2番目の来世・・・非常に強い
・3番目の来世・・・非常に強い
・4番目の来世・・・非常に強い
・5番目の来世・・・弱い
・6番目の来世・・・微弱
というように出て来るといいます。2番目、3番目、4番目の生涯において大変強く出てくるようなのです。
この事実はショッキングかもしれません。
業の結果は、悪いことだけでなく、良いことも、この法則通りに結果を招来します。
現世において良いことをしても、それが強く出てくるのは2番目の来世以降ということですね。
ですので、現世において非常に悪いことをしても、上手く逃げてしまったり逮捕されなかったりして、報いを受けない人も出てくるわけです。しかしその代わり、来世のどこかで必ず出てきます。
ただし上記の法則は原則です。
一般的に「悪」は速やかに結晶化していくようです。その事実はパーリ経典を読んでいくと散見されます。パーリ経典のダンマパダには「悪は凝固しやすいが、善は固まりにくい」という記述があります。悪のほうが結果が出やすいのですね。
こういったことと関係しているのかどうか分かりませんが、仏教でも懺悔や反省を奨めています。実は、懺悔・反省して、その時点で罪を認めて受け入れることをすれば、業の結果を先送りにしないで、現世において早めに精算させることができるようです。7回の生涯にわたって苦悩を招くよりも、今、精算してしまうやり方ですね。ですが、微弱であっても業の結果は、7回の生涯で出てくるのかもしれません。
このようにアビダルマ仏教では、業を精密に調査し分析し、上記のように述べています。
業の考察
このように業は、7度の転生(生涯)にわたって影響(結果)をもたらすといいます。怖いと感じるかもしれませんよね。ですので、お釈迦さまは「五戒を守りましょう」とおっしゃるわけです。五戒または十善戒を守っていれば、基本的に大変な不幸に遭うことはありません。
良いことを行う(良い心でいる)ことも大切ですが、悪いこと(悪い心でいる)をしないように奨めるのも、業のこういった7分裂(7倍)になる性質を知っていると、腑に落ちるはずです。何故、仏教は「悪いことするな、悪いことするな」と口酸っぱく言うかといえば、業の性質を見切っているからなのでしょう。
業は、原則的に帳消しになりません。悪いことをしても、良いことをすれば帳消しになる、と思われる向きもあります。しかし実際には帳消しにはなるとは限らないようです。悪いことは悪いことで報いと出て、良いことは良いこととして報いとなって出てくると、仏教では説きます。このこともショッキングかもしれません。ですが現実的なことをいえば、代替として善行をすることは良いことです。これもまた機会があれば説明したいと思います。
時々、宗教や、オカルト的な思想の中に、先祖からの因縁や前世からの因縁を切ることができると説くところがありますが、原則的にこれは不可能です。少なくとも仏教では、このようなことは言いません。なぜなら、業の性質上、これはできないからです。原則的には。
業の話しは怖いところがあります。この恐怖心や不安感を逆手にとって利用し、積徳だ、先祖の霊を成仏させるといって、多額の金銭を求めるところもあります。おかしげな新興宗教や思想にかぶれて妄想を強くし、変な業を作らないように注意しなくてはなりません。
業は、このように7倍になるといっても、良いこと(心)も7倍(7分割)されて結果をもたらします。人に施しをしたり、丁寧な言葉を心がけたり、良い心でいますと、それが最低でも7倍(7分割)され良い結果をもたらします。
ですのでお釈迦さまは「施(ほどこし)をしましょう」とも言われるわけですね。施しをすれば豊かさとなって返ってきます。最低でも7倍です。
ただし、施しも、清らかな心で行ったほうがいいのです。この理屈は、もうお分かりですよね。
そうして施しは、清らかな心で、できるだけ清らかな対象に行えば行うほど、その結果は大きくなると、経典には書いてあります。何百倍、何千倍となって戻ってくるとあります。
もっとも、こういう見返りを求めて何かをする、というのもさもしいです。善行をするときは、見返りを求めないで、考えないで行うのが理想的になります。
このことは心も同じです。清らかで落ち着いた心でいるなら、その心は何百倍、何千倍となって返ってくる、つまり来世では、穏やかで楽しい日々を過ごすことができるようになる、ということです。
原始仏教(アビダルマ仏教)では、業をこのように分析しています。悪いことも、良いことも、最低、7倍となって戻ってきます。自分自身が清らかであればあるほど、また施しをする相手や関わる相手が、清らかであればあるほど、結果がよくなるということですね。
原始仏教(アビダルマ仏教)における業報の考え方とは、このようになります。
業への考察が深まりますと、心をよくし、言葉を丁寧にし、行動も上品に、そして落ち着いた生活を心がけるようになります。必然的にそうなっていくでしょう。だから仏教では業の真実を語るのでしょう。
メディアが垂れ流す情報や流行に乗じて、洗脳されて、心を汚し、言葉を乱暴に使い、行動も粗野で、落ち着きを失い、道徳を破壊するような生活にならないように注意しましょう。こういった生活を続けていれば100%、悪業となっていきます。
業ではなく明確な因果関係が多い
業への考察が深まっていくと、いろいろなことに気がついてきます。人生とは、悲喜こもごもで、誰もがつらい目にあったり、喜びにあったりします。しかし、多くは、明確な因果関係で物事が起きていることが分かってきます。確かに、前世の業が関与するケースもありますが、人生上のほとんどのことは、因果関係の連続です。
人生上で理不尽過ぎる大変な目に遭う場合もあります。一生懸命にやっても報われない場合です。必死になって勉強したけれども、希望の学校へ行けなかった。一生懸命に相手に尽くしたけれども離婚することになった。一生懸命に事業に頑張ったが、倒産した。こういう理不尽さが、人生上で起きる場合もあります。
こういった理不尽な場合は、過去世において、何か悪心を起こして悪業を犯した可能性があります。それが現世で結晶化しているのでしょう。しかしもしかすると、本人が気付いていない明確な因果関係があるのかもしれません。
いえ、実は、明白な因果関係がある場合が多のです。案外、気がついていません。仏教で気付きの瞑想を推奨するにも、こういう気付きの力を高めることも関係しているのでしょう。
注意して欲しいのは、人生上で理不尽さに遭った場合、それが先祖の霊的な影響とか、何かの霊の影響と考える方もいらっしゃいますが、実はそのようなことは無いということです。こういったことはほとんどありません。全く無いとは言えませんが、ほとんどないようです。このこともいずれ詳しく説明いたしましょう。※こちら少し記述しました
そうして、因果関係を超越した僥倖(大変な幸運)に遭遇するなら、過去世において良いことをした可能性があります。それが現世で結晶化して幸せとなって享受しているのでしょう。
僥倖と言えるような、因果関係を超越したラッキーに遭遇するのは、過去世の善行の可能性が高くなります。しかし、天使とか守護霊とかに守られているという人もいますが、こういったことも滅多にありません。
過去世の行いが、現世に影響を及ぼすことは確かにあります。しかし全てがそうでは無いということです。人生上の幸・不幸の全てが、過去世の報いとは限りません。このことは増支部経典の何カ所かにも書かれています。
乱暴な言葉を使えば、上品な人は近づきません。嘘を付けば、人は離れていきます。暴力的であれば、温厚な人は去っていきます。
全部当たり前のことです。人生は、当たり前の因果関係が多くあります。
最近はやたらと前世や先祖の因縁めいたものと絡めて説明する風潮が多い様子です。原因と結果が明白な因果関係までも「前世のお〜」とかおっしゃる方がしますが、これはあまりにもナンセンス過ぎます。よく考えてください。
不摂生な生活をすれば、健康を害します。勉強しなければ、成績は上がりません。人に嫌がらせをすれば、疎まれます。
しかし世の中が悪ければ、なかなか成果が出ないときもあります。「これも前世のお〜」「地球のカルマがあ〜」とか言われる方もいますが、冷静になりましょう。
世の中の事象は、個人的な前世とは関係がありません。大地震もそうです。地球には天変地異は数多く起きています。
地球のカルマとか言い出すケースもありますが、業の本質が分かれば、「地球のカルマ」と言ったって、「なんですかそれ?」となることはお分かりでしょう。「業」は「結果をともなう行い」です。地球が、結果をともなう行いをしていますか?自然現象です。
「いや、集合的無意識があ〜」とか言う人もいるかもしれませんが、いい加減にしなさい。そういう妄想はほどほどに。
こういった考え方を完全否定はしませんが、あまりこういう考えて方をしていると「癡(ち)」を強めてしまいます。煩悩で言うところの「痴(ち)」を増していきます。癡とは、頭脳が明晰に働かなくなる煩悩です。鋭い判断や洞察はできなくなっていきます。
何かにつけて「前世のお〜」とか結びつけるようになると、努力し精進する気持ちも弱くなっていきます。無意識のうちに前世に責任転嫁し、自分の罪を覆い隠してしまうこともありがちです。しかも努力をしないで楽な方法ややり方を求め、何かとよろしくありません。
人生の大抵は、因果関係で説明がつきます。中には、因果関係では説明できないことがおきます。そういうとき、初めて「前世の業が関係しているかもしれない」と考えるくらいが丁度良いのです。
前世の業の正しい理解
ですから、当たり前の因果関係までをも「過去世の報い」とするのは考えすぎになります。過去世の報いとは、一生懸命やっても報われないといった理不尽な因果関係において見られることが多くなります。
通常は、因果関係の通りに作用します。やればやっただけ、成果が出てきます。成果が出ず、その原因を精密に分析し精査しても分からない場合、その時初めて「前世の業かもしれなんなあ」と考えるので丁度よいのです。
もっともスタートラインそのものに違いがあるのは事実です。これらには、過去世における業が関与しています(異熟)。
過去施の業が関与しているのは「理不尽さ」が目立つ場合です。明確な因果関係の原則を超越しているケースに限定されると考えていいでしょう。
正しいやり方でいくら一生懸命にやっても全く報われないとき、それは過去施の行いの結果が関与していると思われます。反対にほとんど努力しなくても願いがかなってしまうのも、過去施の良い行いが関与しています。
ですが、努力がムダという意味ではありません。また努力が虚しいということではありません。業による影響はいずれ消えていきます。そういう性質のものです。
何かにすがったり拝んだりしなくても、業は必ず費えて消えていくものです。ですから、原則的に、人生は前向きに、努力を心がけて生きていく方が正解になります。またそういう生き様が新しい業となって、来世にも良いかたちで影響してきます。
あまり業を恐ろしがる必要は無いのですが、業を正しく理解することに慣れないうちは恐怖や不安のほうが強くなるかもしれません。
正しいことをすれば、必ず、正しい結果が訪れます。良い心で行えば、必ず、良い心の状態になります。
当たり前のことですが、この当たり前のことの重みが分かると、人生観や価値観、世界観が変わっていきます。
カルマ・悪因縁を切る教えはジャイナ教がルーツ
無闇に前世に原因を求める姿勢が何故よろしくないかといいますと、お釈迦さまが実はそうおっしゃっているからです。
仏教が誕生する少し前に、インドにはジャイナ教という宗教が誕生しました。ジャイナ教は、マハーヴィラという人がはじめた宗教です。苦行を推奨する宗教です。
ジャイナ教では、生命は業(カルマ)が原動力となって輪廻転生をしているとみなして、カルマを断ちきることで解脱できると説きます。そしてカルマを断つために苦行を行います。苦行と瞑想修行によって、カルマを構成している物質を滅ぼして、カルマから解放されて解脱するという教えです。
ジャイナ教では、業(カルマ)を掘りさげて、運命を拘束するエネルギー(物質)としてとらえました。このジャイナ教が提唱するカルマの概念は、近年、日本の宗教等でも提唱されるカルマの概念に大変よく似ています。
ジャイナ教では、魂にカルマが物質として付着しているため、魂が不自由となり、カルマの拘束を受けて輪廻転生すると考えます。しかし苦行を行い、あわせて苦行に耐えられる心身となるためにチャクラやクンダリーニを開発し、カルマを魂から取り除こうとします。
ジャイナ教は苦行を推奨し、中でも餓死を最高に尊びます。餓死こそ名誉ある生き方であるとします。大変ストイックといいますか、異様な宗教観があるのですが、熱心に苦行に励む修行者もいました。現在でもジャイナ教はインドでも信仰者の多い宗教です。
ですがお釈迦さまは、ジャイナ教の実践法に欠陥があると指摘します。お釈迦さまは人達にこう言います。
「あなた方は、苦の原因をカルマといいますが、そのカルマを見たことがあるのですか?」「いいえ」「全く見たことが無いのに、どうして苦の原因(カルマ)を無くすことができるのですか?」「(一同沈黙)」
見たことも無ければ確かめたことも無い前世のカルマを。どうして滅ぼすことができるのですか?と素朴に疑問を投げかけています。当時、宗教は全て「体験主義」でありました。当時の宗教は、現代の宗教とは違って、全て「瞑想体験」が根底にあり、直接体験しているものでした。
しかし、その体験が中途半端であったり、錯覚・勘違いであったりもします。お釈迦さまが当時、批判した宗教も、瞑想体験の稚拙さ、体験から得られたことへの解釈の誤りに対してでした。
このことは案外知られていないことですが、当時の宗教界は、ほぼ全てが「体験」に基づくものでした。
こちらにも書きましたが、仏教は哲学ではありません。体験や結果が先にあって、それを言語化したものになります。
ですので、体験を伴わない概念や思想というものは、「妄想」「想像」の類として扱われます。さしずめ現代の宗教の多くは「妄想」として一刀両断され、お釈迦さまが現代にいらっしゃたなら、まったく相手にもしないでしょう。
小説という虚構の世界で、リアルな真理を探していることと似ています。滑稽な姿にも映るのでしょう。
お釈迦さまの上記の発言の背景には、体験を伴わない取り組みへのいかがわしさへの指摘があります。想像で前世のカルマを想定し、想像の産物を取り除こうとしているのではありませんか?と指摘しています。ごもっともだと思います。
ジャイナ教と仏教と前世の業・カルマ
さらにお釈迦さまはジャイナ教の修行者らに疑問を投げかけます。
「あなた方は、苦の原因をカルマといいますが、どの苦がどのカルマと対応しているのか分かっているのですか」「いいえ分かりません」「自分が受ける苦と、その原因のカルマが分からなくて、どうして断ち切ることができるのですか?」「(一同沈黙)」
前世のカルマが、現世の苦の原因となっているとしても、どのカルマが、現在の苦悩と因果関係になるのか。それすらも分からないで本当に前世のカルマを滅ぼすことができるのですか?と指摘します。
よく新興宗教で「前世のカルマを切る」とかいうところがありますが、お釈迦さまからすれば「それは妄想ですね」と一刀両断されます。明確な因果関係が得られない場合、それは単なる空想や妄想になります。
このジャイナ教への指摘も同じです。冷静になって考察すれば分かることです。実際に確かめることができなくて、どうして処理や対応ができるのでしょうか。
医療はそうでしょう。病気の原因が分かって、初めて適切な治療ができます。原因を誤れば医療ミスです。大変なことになります。医療の世界ではしっかりと病根となる原因を調べるのも、正しい治療をするためです。
この姿勢は仏教でも同じです。仏教の応病与薬の姿勢は、原則的に明確な因果関係を踏まえた指導になります。
何事も原因が分かって、適切かつ正しく対応ができるものです。中には長年の経験で治療できるケースもありますが、それとて原因が分かるからです。
原因が分かって初めて対処ができるものです。この姿勢は合理的であり科学的でもあります。
お釈迦さまも同じでして、明確な因果関係を考慮されていました。
実際、お釈迦さまは、苦悩の原因が前世にあると喝破したとき、具体的にその前世の業を指摘しています。漠然とではなく、具体的にビシっと指摘するのがお釈迦さまの特徴です。
お釈迦さまの場合は、漠然と「前世の業・カルマ」とひとくくりにすることは無かったということです。具体的に前世の業と現世の現象を結びつけて説明されています。
お釈迦さまはジャイナ教の修行者に、またこうも問いかけます。
「あなたが方は、カルマを断つために、苦行をしていますよね」「はい」「では、そういう苦行に励むのも、あなた方のカルマなのではありませんか?。過去世において、そういう苦行をすべきカルマを積んでいるのではありませんか?」「(一同沈黙)」
これは痛烈な皮肉です。苦行、苦行と盛んに行うのは、前世において苦しむ原因を作っているのでしょうとズパっと切り込みます。言われたほうは閉口してしまいますね。
ジャイナ教の苦行に励む姿勢は、いわゆる「カルマ落とし」です。苦行をすることで罪を償う姿勢に似ています。心情的には理解もできますが、これは実はあまり意味の無い行為だったりします。
結局、お釈迦さまは、「自分で確かめられもしないことを信じて、そこに原因を求めるなら、それは単なる妄想にしか過ぎません」とおっしゃいたいのです。
仏教が現在形であること、確かめられないことは安易に信じないといった姿勢は、妄想を廃して、リアルで地に足の付いた歩みこそ誤りなく心が成長していくからなのでしょう。
妄想や想像をベースにした思想や宗教に基づくアプローチは必ずしも有益ではないということです。
こちらでは前世などに原因を求めて対処する姿勢を手厳しくも注意しましたが、このように申し上げるのも妄想や空想に基づく見解が必ずしも有益ではないからです。
仏教の体験主義とは、実に正しく成長していくための基本となる姿勢だったりします。
業の報いは心が受ける
さて、ここ数日、輪廻転生・業・中庸といったことについて言及しています。
読まれている方は、どういった所感を抱いているか分かりませんが、人によっては衝撃を受けたり、今までの価値観をひっくり返されたりした感想を持った方もいるかもしれません。
お釈迦さまは、ダンマは微細で理解し難いのでダンマを説くことにためらったと言われています。お釈迦さまとは違いますが、私もブログを開始することに躊躇したくらいです。やはり一般的に信じられている価値や信条と正反対なことや、非常にデリケートで繊細な部分がありますので、人によっては苦痛を感じたり生理的に受け付けなくなることが懸念されたからです。
読者の中には、私の知り合いも数人いますし、それこそ人間関係が悪くなりはしないかと思うところはありますが、しかし、こうして原始仏教の世界を説明することで、普段、私が考えていることや世界観が分かっていただけるでのはないかとも期待しています。
今日もおそらく驚くような記事になるかもしれません。業の性質は数日前に書きましたが、今日はより重要なことを紹介したいと思います。それは「業の報い」に関することです。
業は報いとなって返ってくることはご存じでしょう。ですが、仏教が説く業報は、通常思われている仕組みとは違います。
仏教では、業による結果は「心が受ける」としています。業報は、心が受けるのです。
心が受ける?
はて、どういう意味ですか?と答えが返ってきそうです。
文字通り、業の報いは必ず心が受けます。
業の報いと言いますと、病気だとかお金が無いとか、仕事が無いとか、そういう「形」として返ってくると思われがちです。大抵、そう述べていますし、そう受け止められています。しかし実はこれは違います。違うというよりも不正確です。
業の報いは現象で受けるよりも、「心が感受するかたち」で返ってきます。そして、心が感受するように、形をともなってくることがある、ということです。分かりますか?この微妙なニュアンスが。
分かりやすい例でいいましょう。
たとえば過去世において、Aさんは心を込めてXさんを助けました。Aさんは心から助け、また助けられたXさんは心底感謝し、一生、Xさんはその恩義を心にとどめるほどでした。
Aさんは死後、人間として誕生しました。過去世においてXさんを助け、その報いとして友人に恵まれ、人間関係で助けられて「楽」を長期間にわたって感受し続けます。一生は、特に苦労らしいことはなく、努力することなく、穏やかな人生を過ごします。
これは分かりやすい例ですね。業の報いとはこういうものです。行いの結果は、心が受けます。この例では、心が「楽」を受けるのです。しかも人間関係を通じて「楽」を得るのです。
この状態を「福」ともいいます。しかし「福」というのが「外見」的なことを意味することが多くなります。外見的な「福」よりも、心が感受する「楽」に、業報のポイントがあるわけですね。
業の報いは、心が感受するのです。大金持ちになるとか、贅沢な生活ができるとかは、二の次です。心が業の結果を感受するわけです。
分かりますでしょうか。
業報のメカニズム〜心の有様が重要な理由
もう一つ例をあげましょう。
過去世において、Bさんは「しょうがねえな」という気持ちで多額のお金を寄付続けていました。仕方ないという理由からでした。
来世でBさんは、過去世において行った寄付の報いで、物質的には大変恵まれるようになりました。けれども豊かを実感できません。物に恵まれてはいるのですが、どこか虚しさがあります。潤いの無い生活。Bさんは、そういう人生を過ごします。
施しは尊いことなのですが、Bさんは心を汚しながら行ったため、その心が報いとして返ってきているわけです。世間には、意外とこういうケースはありますよね。物に恵まれても心が満たされない。案外多いかもしれません。こういった現象を引き起こす一つの理由が、偽善から施しを行った場合があります。
さらにもう一つ例をあげましょう。過去世においてCさんは、自分を虐げながら、我慢しながら施しをしました。内心、我慢しながらやっていたので、不平や不満に満ちていました。「これだけ必死にやっているんだから、いつか自分に良い報いがくるだろう。」とメラメラと復讐心に似た思いを燃えたぎらせながら善行を行っていました。
Cさんは、死後、転生して人間にまれ変わりました。大変裕福な生活を送ります。しかし心が満たされません。同時に、常にムシャクシャした気持ちになり、横暴な態度を取ることも多くなります。やがて権力に物を言わせて独裁的な体勢まで築いてしまいます。その姿は暴君ネロのようでもあり、独裁者として君臨します。
Cさんのようなケースも意外と起きています。独裁的な企業家、自己愛性人格障害者と言われるタイプです。こういった屈折したケースの背景には、前世において怒りに満ちた心で布施や事業を行った場合があると推測できます。施しの見返りとして形(物質)はは恵まれても、汚れた心の見返りとして汚れた心が異熟として結晶化するわけでです。我慢し過ぎたりストレスを抱え込みすぎることも良くないことがお分かりでしょう。ちなみにこういったケースは過激な企業や新興宗教で時々見られます。
人生劇場における矛盾したケースを2例紹介しました。こういった矛盾は何故起きるのか。その一つが、「心の有様」と「施しの有様」のアンバランスにあるわけです。
だからお釈迦さまは心を浄める「戒」と施しとしての「施」の両方をバランス良く行うこと、特に、心を浄めることを力説もされたわけです。また、感情を激しくさせることよりも「中庸」をおっしゃったわけです。悟りに至る以前に、良い輪廻をするために、「戒・施」を基本として、中庸の教えを説かれています。
なお過去世の業は複雑に絡んで結晶化しますので、人生劇場における矛盾は、複数の過去世の業が絡んでいるとも見ることができます(業は7つに分割)。ですが、「心の有様」と「施しの有様」の矛盾は、来世において矛盾した事象を引き起こす可能性が出てくるということです。
おわかりでしょうか。
輪廻転生における心の働きです。行った心にふさわしい環境なりが作られていきます。そして心が感受するのですね。ちなみにパーリ仏典の「天宮事」というお経には、天界へ往生したケースが数多く掲載されています。反対に「餓鬼事」という経典には、餓鬼界へ墜ちた人間の話が数多く掲載されています。これらの話しのポイントは「心の状態です」。どんなに布施をしても、心が汚れていたために餓鬼の墜ちたケースもあるくらいです。
物や人に恵まれつつも「つまんねえなあ」とか「もうこんな裕福なのは結構」とか常々思っていると、その心が来世で結晶化します。来世は「つまらない」「貧乏がいい」という感受を心が受けるようになっていくということです。
いくつか仏教が述べる業のメカニズムを紹介しましたが、普通に思われている業の仕組みとはかなり異なると思います。
心の状態が重要なのです。そして心が業を受けるのですね。行いもさることながら、心が業を形作り、心が受けるようになるのです。これがお釈迦さまが喝破した業のメカニズムなのです。
仏教では、業は心が受けるとしています。だから、仏教の善悪論も心の状態になるわけです。また中庸という姿勢も重要にもなってくるわけです。
善悪も心が清らかか、汚れているか、となるわけです。全部、関連しているのですね。一つの真理に基づき、すべて説明・解釈ができるようになっているのです。これが仏教の教えなのです。非常に深淵かつ密接に関連していることがお分かりいただけたのではないかと思います。
業報のパターン
結局、業の報いは、
・心
・物質
の両方が報いとなって返ってきますが、ここでパターンを整理しますと、
・心・・・清らか
・物質・・・施しをする
⇒物質的にも恵まれ、快楽が多い人生・・・幸せの多い人生
・心・・・清らか
・物質・・・施しをしない
⇒物質的には恵まれないが、快楽の多い人生(普通の人、清貧を楽しむ)・・・幸せの多い人生
・心・・・汚れている
・物質・・・施しをする
⇒物質的には恵まれているが、心が貧弱(常に欲求不満、暴君、権力にあぐらをかいて人々を苦しめる)・・・物に恵まれても不遇感の多い人生
・心・・・汚れている
・物質・・・施しをしない
⇒物質的に恵まれず、心も貧弱・・・不遇の多い人生
このようになります。ザックリと説明していますが、おおよその傾向は分かると思います。これらのパターンでおわかりの通り、「心の状態」が幸不幸の決めてになります。
だからお釈迦さまは「心を浄めましょう」とおっしゃるわけです。布施(施し)も大切ですが、それ以上に、戒(心を浄める)が重要なのですね。
そうして、業報は、心が感受(心が受ける)わけです。いくら物に恵まれていても、心が汚れているなら、苦痛を感じます。仮に物に恵まれていなくても、心が清らかなら、快楽を感じます。
善行といえば「何かをほどこすこと」と考えられています。道徳な善行も社会に貢献する、人助けをするという「外見的」なことが重視されがちです。宗教団体も数多くありますが、そこで推奨されている善行の多くは「お布施」です。お布施をすることであなた方は幸せになれると説きます。
しかしこれらが不正確なことがおわかりいただけると思います。もちろん、外見的な善行も大切です。施しは大切な善行為です。ですがそれ以上に大切なのが「心の有様」なのです。
仏教での善悪の基準も「心」になるのも、果てしない輪廻転生を見届け尽くしたお釈迦さまの卓越した見解なのでしょう。
世に多い成功哲学や成功法則も見直しが必要でしょう。本質的に「成功」の意味が異なるのです。本当の「成功」とは、心が綺麗になることです。
このことは人間誰しも、本能的に直観していることです。実に「心の有様」こそ、最も重要なことだったのです。
善行は、お金も何もかけずに、気持ちさせあれば誰でも今すぐ、今ここでできる実践行なのです。 
 
前世 1 (ぜんせ)

 

ある人生を起点として、それより前の人生のことを指す。転生を認める世界観ならば、必然的に内包する概念である。人の転生が何度も繰り返されているということを認めるならば、全ての人は皆、ひとつではなく多数の前世を持っているということになる。
インドでは、ヒンドゥー教でも前世が認められている。仏教では、三世のうちの過去世にあたる。インド起源の宗教に限らず、前世の記憶を持って生まれ変わったと主張する人は、古今東西に多い。
また、現代の先進国に暮らし、物理科学と合理性を信奉し、転生や前世の存在を全く信じない人でも、退行催眠を受けている時に、本人としても思いがけず、前世を思い出すということが起きるとの報告がある。近年では、医学博士のブライアン・ワイス(英語版)の著作『前世療法』により、世界中で広く再認識されるようになった。ブライアン・ワイスが、患者の治療中に前世を半ば偶然に発見した経緯、発見をありのまま公表するのか、あるいは科学者としての保身のために発見を隠すか、悩んだ経緯などについては、彼の著書『前世療法』に詳しい。  
 
前世 2

 

前世とは
インドのヒンドゥー教や仏教では、命は生まれ変わるものと考えられています。命は限りあるものですが、現世で終わりではありません。前世があり、現世があり、さらに来世があります。このように命は繰り返されるとする考え方を「転生」と呼びます。そして、前世でどんな生き方をしていたかによって、現世の人生が変わってくると言う考え方もあります。現世で徳を積めば、来世にも良い影響が出てくると言うのです。
前世診断とは
自分自身の性格に悩みを抱えていたり、生き方に迷いを感じたりした時に、救いや解決方法を過去に求める人たちもいます。専門家のもとで、自分の前世を占ってもらうのです。前世診断と呼ばれています。自分自身がどんな人や生き物の生まれ変わりなのかの判断には、化学的な根拠はありません。でも、過去を知ることで多くの人達が救われ、また新しく歩み出す力を得ていることも事実なのです。
前世診断の方法
前世診断は、現世に生まれて来た生年月日をもとに占いで行われます。生年月日だけでは情報が十分ではありませんので、合わせていくつかの質問に答えることになります。質問の内容は、自分の姿屋体型に関するもの、自分自身の考え方や行動など、様々です。親から受けたしつけや子ども時代の記憶に関して聞かれることもあります。
前世の姿とは
現世では人間として生まれてきたからと言って、前世でも人間だったとは限りません。むしろ、2回続けて人間に生まれ変われる可能性の方が稀だとする考え方もあります。小動物など、人以外の生き物だった可能性が高いです。もしも前世が人間だったのなら、どんな職業や身分だったかのかによって現世の生き方に影響があるようです。貴族として生きていたのか、農民だったのか、あるいは違う国籍をもっていたかもしれません。  
 
前世の記憶を思い出す 3 

 

自分の前世は動物ではなく人間である
人間の前世はずっと人間のままです。よく「私の前世は犬だった」とか動物に例えることがありますが、何度生まれ変わっても人間の魂が動物になってしまうことはありません。
人間と動物は、魂の重さが違います。人間の方が高等生物なので魂が軽くできています。動物は動物霊という存在があるように、非常に重い魂です。
人間が動物霊に憑りつかれたまま亡くなってしまうと、動物霊の重さで自分の身体も重くなってしまい、天界まで上がれないといわれています。
生まれ持って前世の記憶を持っている人は多い
前世の記憶を持つ人は意外に多いです。とくに3歳ごろになってよくしゃべるようになると、ぽつぽつと昔の話をし始めます。
この記憶は7、8歳くらいまで続き、それ以降は次第になくなってくるといわれています。もしかしたらあなたも前世の記憶を持っていたかもしれません。
前世の時代はいつか?
前世の時代設定は人によって様々です。何百年も前の記憶を持っている人もいますし、ヨーロッパなどの異国の記憶を持つ人もいます。一方で、最近亡くなった国内の他人の記憶を持っている人もいます。(実はこちらの方が多いようです)
実際にあった話
Aさん(女性)が子供のとき、Bさんというボーイフレンドとよく一緒に遊んでいました。Bさんは病気で若くして亡くなりました。
Aさんが大人になり、男の子を産みました。その男の子が3歳くらいになると、いきなりBさんの記憶を話し始めました。「よく○○で遊んだよね」などといって、友達のような口ぶりで、Aさんしか知らない幼い頃の記憶を話し始めるのです。
言葉使いや立ち振る舞いも、まさにBさんそのもので、まったく子供らしくないときもあります。Aさんは怖くなって、子供に「もうその話をするな」などと怒鳴ってしまうこともあったそうです。この男の子は年齢があがるとともにその話をしなくなったそうですが、記憶をなくしたのか、それとも母親に気を使って話さなくなったのかは定かではありません。
実際にこうした自分の子供が他人の前世の記憶を持っているケースは珍しくありません。
大人になってから前世を思い出す方法
大人になるにつれて前世の記憶を忘れてしまう人が多いですが、どうしても自分の前世を知りたいという方は、退行催眠(前世療法)が有効です。
退行催眠はスピリチュアルカウンセラーに催眠をかけてもらう方法が主流です。中にはスピリチュアルパワーを身体に込めるところもあり、より記憶を思い出しやすくしてくれるところもあります。
ですが、この治療法は自分自身の自己暗示能力も問われるため、結局前世が見られなかったという悲劇も起こりやすいです。料金も高額なことが多いため、まずは自分で催眠をかけてみることをおすすめします。
恐怖症やこだわりが前世を読み解くヒント
いまの自分に、なにか恐怖症はありませんか?もしくは何か譲れないこだわりや癖、習慣、いつも考えてしまうことなど。もしこうした内容があるようなら、それは前世での体験が原因かもしれません。
たとえば前世で裁縫職人をしていたのなら、現在も裁縫や家庭科に興味を持つかもしれません。また前世で火あぶりになった人は、いまも何となく火が怖いと思うこともあります。
これ以外にも「○○へ行きたい」という旅行願望にも注目してみてください。この国がどうしても気になる、この情景が気になる、という場所があればぜひそこへ行ってみることをおすすめします。
わかりやすいのは、海外や国内の旅行風景写真を画像検索してみて、気になる風景、気に入った風景などをピックアップします。その後、それぞれの写真がどこで撮影されたものなのか調べます。すると、恐ろしいほどに一つの国や場所を指していることがあります。その場所は前世での自分と関わりのある場所である可能性が高いので、ぜひ行ってみましょう。
 
前世を語る幼児 

 

1993年の大火災で命を落とした女性の生まれ変わりか。
「前世」というものの概念すらないであろう幼い子が、突然それを語り始めて親を驚かせたという話がたまにある。米国では今、オハイオ州の幼い男の子が自分の前世を語り、それが1993年に起きた大火災とオーバーラップしていることから人々の大きな関心を集めているもようだ。
この男児はオハイオ州シンシナティ市郊外に暮らすニック&エリカ・ルールマンさん夫妻の息子ルーク君。スティーヴィー・ワンダーの大ファンで好きなおもちゃはピアノ。ゆっくりとした足取りで横断歩道を渡る用心深い子だ。そんなルーク君は2歳の時、買ってもらった大きなテントウ虫型のクッションに“パム”と名付け、こんな言葉を口にしたという。
「いい名前でしょう? 僕、前はパムっていう名前だったの。イヤリングが好きな黒い髪、黒い肌色の女の子だったんだよ。」
夢見がちで、想像を膨らませては何でも口にする幼い子にはよくある話だとして、最初は軽く笑い飛ばしていた両親。しかしある言葉が2人を驚かせる。
「でも死んじゃったんだ。電車に乗って大都会の背の高いビルに遊びに行ったら、すごい火事が起きて、高い所から飛び降りたの。うーん、シカゴだったかな。」
「それで天国に行ったんだよ。でも神様がまた戻りなさいと言って僕は突き落とされちゃった。目が覚めたら僕はママのところにいて、ルークっていう名前の赤ちゃんになっていたんだ。」
夫妻は背筋が寒くなり、エリカさんの母リサ・トランプさんに相談。彼女からは「昔、生まれ変わりについての本を読んだことがある。私はルークの言うことを信じるわ」という返答であった。インターネットでそうした情報がないかを調べてみると、出て来たのは1993年3月にシカゴで39名の死傷者を出したニアー・ノース・サイドの「パクストン・ホテル大火災」という事件であった。そこは利用客のほとんどがアフリカ系で、夫妻は飛び降りて命を落とした犠牲者の中に“パム”と呼ばれていたであろうパメラ・ロビンソンさんという名の30代の女性の名を見つけた。
現在5歳になったルーク君だが、今もその主張はブレることがない。両親は専門家による分析を求めたいとして、この話を米Lifetimeチャンネルのリアリティ番組『ザ・ゴースト・インサイド・マイ・チャイルド』に持ち込み、ついにその撮影が始まった。ただし祖母のリサさんは、「性別や肌の色を超えたこうした不思議な輪廻が存在することを明らかにしたいだけで、出演料が欲しいわけではありません」と話している。
テストではルーク君の前に偽物の写真を含めた何枚もの写真を広げ、「パムは?」と尋ねている。ルーク君は的確に彼女を指さして「この写真が撮られた時のこと、覚えているよ」と言うのであった。パメラ・ロビンソンさんの遺族もルーク君については「話を聞けば聞くほどパムにそっくり。彼女も小さい時にはおもちゃのピアノが大好きで、スティーヴィー・ワンダーが大好きでしたよ」と語っているそうだ。 
 
現世 (げんせ、げんせい、うつしよ)

 

現在の世のこと。古くは「げんぜ」とも読む。
我々人間が現在暮らしていると思っている(認識している)世界、または、その認識。日本語では「顕世(けんせ)」とも読み書きし、「この世」とも言い換えられる。
仏教用語としての「現世」は「げんぜ」と(も)読む。自身が輪廻転生していくなかで今生きて属している(生を受けた)この世界のことを指す。彼岸に対する此岸。
現世に対置される世界としては、仏教では、前世、来世(それに加えて地獄が語られることも)。神道では常世・常夜(とこよ)、幽世・隠世(かくりよ)などがある。キリスト教では、天国、地獄(陰府)などがある。
神道
神道では「現世」と書いて古語としては「うつしよ」と読み、この世や人の生きる現実世界を意味する。それに対峙して、常世(とこよ)いわゆる天国や桃源郷や理想郷としての神の国があり、常夜(とこよ)と言われるいわゆる地獄としての死者の国や黄泉の国と捉えている世界観がある。
ただし、常世と現世として二律背反や二律双生の世界観が基本であり、常世・神の国には2つの様相があり、このことは常世(常夜と常世は夜と昼とも表される)が神の国としての二面性を持つことと、荒ぶる神と和ぎる神という日本の神の2つのあり方にも通じるものである。
古神道の始まりといわれる神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)信仰の森林や山・岩などの巨木や巨石は、神の依り代と同時に、籬は垣(かき)の意味で磐座は磐境(いわさかい)ともいい、常世と現世の端境を表す神域でもある。神社神道においても鎮守の森や植栽された広葉常緑樹は、神域を表すと同時に結界でもあり、常世(神域)と現世の各々の事象が簡単に行き来できないようにするための物であり、禁足地になっている場所も多い。
また、集落につながる道の辻に置かれる石造の祠や道祖神や地蔵なども、厄除けや祈願祈念の信仰の対象だけでなく、現世と常世の端境にある結界を意味するといわれる。現世における昼と夜の端境である夕刻も常夜との端境であるとも考えられ、この時分を「逢魔時(おうまがとき)」といって、現世に存在しないものと出遭う時刻であると考えられている。
仏教
仏教における「三世」の一つであり、前世、今世、来世 のうちの今世に該当する。また、時間的な前後は別として、浄土教では「厭離穢土、欣求浄土」の概念がある。「穢土」とは「穢(けが)れた世」という意味で、現世にあたる。
『金剛般若経』では「一切の有為の法は、夢幻泡影の如し」とあり、現世を夢幻、泡のように儚いものとして把握していたことが窺える。このように仏教では現世を否定的に捉えていた。
プロテスタンティズム
近代プロテスタンティズムでは被造物を重視することが徹底して否定され、それによって現世の否定がなされ、来世指向のみになったが、やがて現代化するにつれて来世指向は失われ現世指向に傾斜した、と池田昭は解説した。
現世利益
神仏の恵みが現世で与えられるとする信仰。 日本では、一般的に、多種多様な神仏は、それぞれの特色に応じた恵みを、生活の様々な局面のなかで授けてくれるという世界観が根付いている。 一般的に、宗教における現世利益の位置づけは軽視されがちであるが、日本においては、神仏と切っては切れないものとして認識されている。
神教
古来より、地域共同体の守護神である氏神や鎮守へ、村落などの氏子の共同体成因の集団的意志として、雨乞い、日乞い、虫送り、疫病送りなどの現世利益を得ることを目的とした祈願行為が行われていた。現代でも、「祭」のなかに、その伝統文化が根付いている。 現在では、個人の心願に応えるために、神前にて、加持祈祷に長じた神主や巫女により祝詞奏上や舞の奉納がされ、祈願者の玉串奉奠により得られるとする。 個人としての心願の種類としては、病気直し(自分とその家人)、家内安全、商売繁盛、生活苦からの離脱に分類され、そのうち、病気なおしを祈願する場合がもっとも多いという。
仏教
教典を読経したり、念仏・真言を唱えたり、祈祷を行うことにより得られるとする。 日本では、仏教伝来以降、国策として仏像の建設をするなど、現世利益を得る政策がとられた。そして、災厄が訪れ、生活が挫折した際、回復するためにご利益を願うという民衆の心意に対応し、古代末期から中世にかけてさかんとなった真言・天台密教による加持祈祷により、民衆に広まった。 現在でも、真言僧侶による護摩修行などが盛んに行われている。 
 
来世

 

来世(らいせ、らいしょう)、あるいは後世(ごせ、ごしょう)とは、今世(今回の人生)を終えた後に、魂が経験する次の人生、あるいは世界のこと。また、動物におけるそれのことを指す場合もある。神道においては常世(黄泉)のことを指す。仏教では「三世」のひとつ (「前世・現世・来世」のこと。仏教以外においては人生に焦点を当てた「過去生・現在生・未来生」という表現もある)。
転生を前提とした考え方
仏教
仏教では、前世・現世・来世の捉え方はさまざまで、宗派の教義によって異なることに注意を要する。
下記は転生を前提とした考え方である。現世を中心に考える宗派では、六道を自分の心の状態として捉える。たとえば、心の状態が天道のような状態にあれば天道界に、地獄のような状態であれば地獄界に趣いていると解釈する。その場合の六道は来世の事象ではない。
浄土教では、一切の迷いが無くなる境地に達した魂は浄土に行き、そうでない魂は生前の行いにより六道にそれぞれ行くと説く宗派がある。
日蓮の教えでは、(転生があるにしても)、今の自分(小我)に執着するあまり、いたずらに死を恐れ、死後の世界ばかりを意識し期待するより、むしろ自分の小我を越えた正しい事(大我)のために今の自分の生命を精一杯活かし切ることで最高の幸福が得られるのだ、とされている(『一生成仏抄』)。
また真言宗などの密教でも、大我を重要視して即身成仏を説き、天台宗も本覚思想から、「ここがこの世のお浄土」と捉え、来世について日蓮と同様の捉え方がなされる場合がある。
スピリチュアリズム
人間の魂は人間にだけ生まれ変わっており、動物には生まれ変わることは無い、とされる。肉体の死後、魂は、一旦霊的な世界に戻り、数年〜数百年後に、またこの世の肉体に宿る、とされる。この世は魂にとってのある種の"学校"のようなものであり、魂は転生を多数繰り返し、人間の肉体を通して様々な立場に伴う苦しみ・喜びなどを学び、次第に智慧を得て大きな慈愛にも目覚めると、この世で肉体を持つ必要はなくなり、霊的な階層世界の上層へと登ってゆく(言わば"卒業"する)とされる。
"行ったきり"の死後の世界
「今の人生→死後の世界」という一方通行的な世界観。自分が今の自分のまま別の世界に行くという考え方(この考え方は、厳密に言えば「来世」という転生を前提とした項には属さないかも知れない。が、便宜上この項で扱う)。この意味では、「来世」の類義語として、あの世(あのよ)、死後の世界(しごのせかい)が挙げられる。
天国と地獄
様々な宗教で「天国」と「地獄」((あるいは極楽と地獄)があるとする考え方も多い。 この場合、天国は生前に良い行いをして過ごした人が行き、地獄は生前に悪い事をしてきた人が行くとされることが多い。
キリスト教においては、ヨーロッパの中世期ころなどに、(元々のイエスの教えの意図から離れてしまい) 洗礼の有無等によって死後に魂の行く世界が異なる、などと強調されたことがあったが、現代のカトリック教会では、過去の反省も踏まえ、そのようなことに力点を置いた説明は控えられている。
古代日本における死後の世界
日本では、古代において、死後に行く世界は、黄泉(よみ)と呼ばれていた。だが、発想の原点がそもそも現世利益重視や小我重視の視点であるため、あの世は「けがれ」の場 ( 否定されるもの、あるいはある種のタブー) としてとらえられる傾向があった。また同様の理由から、黄泉の概念は善悪とは結び付けられることもなく、人間の生き様を高めるためのきっかけとはならなかった。 後に、仏教が流入すると、日本古来の黄泉の観念と、仏教概念の中でも通俗化した"極楽・地獄"の観念とが混交することとなった。
日本での通俗
「天国・地獄」という図式を前提とした上で、"地獄には閻魔がいて生前の罪を裁く"とする考え方も民衆の間にはある。これは、インドで生まれ、中国の民衆によって脚色され、後に日本の民衆にも広まった考え方であるが、あくまで通俗的なものであり、真面目な仏教の概念ではない。
日本において支配的な宗教である神道及び仏教には本来「天国」という用語は無い。しかしながら日本人が故人について語る時、「天国の誰々」と呼ぶことはあっても「極楽の誰々」「黄泉の誰々」とは滅多に言わない。改まった語法として「泉下の誰々」があるが、これは黄泉から来た言い回しである。
来世への「旅」
人の肉体が生死の境をさまよっているときに、魂(意識)は川岸にたどり着き(三途の川)、それを渡ることで魂は次の世界に行く、という話は、広く知られている。臨死体験をした者にこのような報告をする者も多いらしい。が、自ら転生をしていると認める者でも、その川は便宜的に視覚化されたある種の心象風景ともいうべきものであって、この世とあの世の間に川があるわけではない、と説明する者もおり、もとより物理的に検証できる性質のものでもなく、真偽のほどは定かではない。 
 
来世についてのキリスト教の考え

 

キリスト教の教えはイエス・キリストの教えであって、カトリック教会はそれを忠実に伝えていると自負しているわけですが、その教えの中でも信じなければならない部分(これを教義{ドグマ}と言う)と、各自が勝手に解釈してよい部分があります。そして、教義の部分は普通とても限られていて、大きな部分がそれぞれの解釈に委ねられています。この「あの世」に関しての教えでも教義の部分は少ないので、神学者たちが残りの部分について様々な意見を言っていますが、それも紹介したいと思います。
何年か前にテレビで臨死体験についてのドキュメンタリ−がありました。臨死体験というのは、事故などでほとんど死にかけたときの体験です。その状態から回復した人たちの証言を集めた番組でした。それによると、多くの人が死にかけたとき向こうのほうに明るい光を見たと言っているそうです。「そんなことは何にも見なかった」という臨死体験者もいることも言っておきますが、面白いことですね。でも誰もそこまで行って帰ってきた人はない。そこには何があるのでしょう。
あの世についてのキリスト教の教え
キリスト教は人間は霊魂と体からできていて、肉体が死んでも霊魂は永遠に生きると教えます。霊魂がいつ体から離れるのか、脳が死ぬときか心臓が止まるときか、は科学の問題で教会は何も言っていません。
しかし、はっきり教えていることは、霊魂が体から離れた瞬間に審判があるということです。これは個人と神様の個人的な審判なので「私審判」と呼ばれます。好奇心を引かれることは、私審判とはどのように行なわれるのかということですが、これについては聖書には何も書いていません。イエス様は、世の終わりにある「公審判」(最後の審判と同じ)についてははっきり教えましたが(マテオの25章)、私審判については話してれませんでした。そこで、以下に書くことは、神学者たちの言っている意見です。つまり、これと違う考えを言うのもまったく自由てわけ。でも、一様聞いて考えてみてください。
霊魂が体から離れると、瞬間的に自分の人生をまるで映画を見るように見るらしい。そうすると、自分のした良いこと悪いことさぼってしなかった良いことなど一つ残らずはっきり見える。私審判のことを「真実の時」と言うのですが、それはその時には嘘ごまかしができないからです。この世では私たちはよく嘘をついて人をだましますが、神様はだませません。自分の一生の本当のありさまを見て、判決が下るとき、「それはおかしい」と反論する気持ちさえ起こらないと考えられる、ってわけ。
もう一つの注意は、審判とは、古代エジプトの絵にあるように天使が天秤をもって、「あんたがした良いことは120、悪いことは140。差し引きするとマイナス20。残念だけど地獄に行きなさい」と言うようなものではないらしい。善業と罪を比べるのではなく、私たちがどのような態度で人生を過ごしてきたか、つまり根本的に、自分のためだけを考えて生きてきたのか、それとも神と隣人のことを考えて生きてきたのか(結局人の生き方とはこの二つのどちらかになる)が、判定の対象になる、とうわけです。イエス様の公審判についての教えによると、人は生きているときに困っている隣人のことを考えて助けてあげたか、それとも無視したかで裁かれています。つまり、自分のことだけ考えた利己主義者か、隣人に気を配ることができる人であったか。(もちろん、殺人や強盗などは隣人愛を全く否定することですからダメに決まっている)。このようなことを考えると少し恐くなのが普通。でも神様は私たちの父である、というイエス様の根本的な教えがあります。だから、この父の良い子として生きようとしていれば、恐れることは何もない。もし、今から神様と親しい生活を送っていれば、審判のときに神様は優しい父として接してくださるでしょうから。また家族、友達の中で困っている人はないでしょうか、という気配りにも心がけた方がいい、という結論です。 
 
常世(とこよ)、かくりよ(隠世、幽世)

 

永久に変わらない神域。死後の世界でもあり、黄泉もそこにあるとされる。「永久」を意味し、古くは「常夜」とも表記した。日本神話や古神道や神道の重要な二律する世界観の一方であり、対峙して「現世(うつしよ)」がある。
「常夜」と記した場合は、常に夜である、夜の状態でしかない世界であり、常夜という表記の意味から、死者の国や黄泉の国とも同一視される場合もあるが、折口信夫の論文『妣が国へ・常世へ』(1920年に発表)以降、特に「常世」と言った場合、海の彼方・または海中にあるとされる理想郷であり、マレビトの来訪によって富や知識、命や長寿や不老不死がもたらされる『異郷』であると定義されている。
古神道などでは、神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)などの「場の様相」の変わる山海や森林や河川や大木・巨岩の先にある現実世界と異なる世界や神域をいう。
日本神話
『古事記』や『日本書紀』1書第6によると、大国主命とともに国造りを行なった少彦名神は国造りを終えた後に海の彼方にある常世の国に行ったという記述がある。
『万葉集』では、浦島太郎が行った竜宮城も常世と記され、現実の世界とは時間の流れが著しく違う。このことから不老不死の楽園を表すとされる。
『日本書紀』の天照大神から倭姫命への神託では、伊勢を常世の浪の重浪の帰する国(「常世之浪重浪歸國」)とある。
古神道・結界と禁足地
古神道の依り代とされる巨石・霊石や神木や鎮守の森などは、神の依り代であると同時に、神籬の「籬」は「垣」であり磐座は「磐境」ともいい、それぞれ「端境」を示している。
その境界の先は神域と考えられ、常世のことであり、沖ノ島などは社(やしろ)や鎮守の森だけでなく、島全体が神域となっていて禁足地である。鎮守の森や神社の広葉常緑樹の垣は、その常世との端境であると同時に結界でもあり、現世と常世の様々なものが簡単に行き来し、禍や厄災を招かないようにしていて、禁足地になっている場所も多い。
集落に繋がる道の辻に、石造の道祖神や祠や地蔵があるのは、道すがらや旅の安全の祈願祈念だけでなく、常世との端境にある結界の意味を持つ。
常夜という意味から、夕刻などの夜と昼の端境も常世と繋がると考えられ、「逢う魔時」といわれ、深夜なども深い静寂な夜は、常世と重なることから、現実には存在しない怪異のものが現れる時刻を、「丑三つ時」と呼び恐れた。 
 
霊魂 1

 

(れいこん、英 / Soul、Spirit) 肉体とは別に精神的実体として存在すると考えられるもの。肉体から離れたり、死後も存続することが可能と考えられている、体とは別にそれだけで一つの実体をもつとされる、非物質的な存在のこと。
人間が生きている間はその体内にあって、生命や精神の原動力となっている存在、人格的・非物質的な存在。個人の肉体や精神をつかさどる人格的存在で、感覚による認識を超えた永遠の存在。
「霊魂」とは、体とは別に実体として存在すると考えられているものであったり、人間の生命や精神の源とされ非肉体的・人格的な存在とされるもののことである。
霊魂という表現は「霊」と「魂」という言葉の組み合わせであり、両方を合わせて指している。一般には、個人の肉体および精神活動をつかさどる人格的な実在で、五感的感覚による認識を超えた永遠不滅の存在を意味している。
宗教や文化圏ごとに様々な理解の仕方がある。
古代エジプトの時代から、人が死ぬと肉体から離れるが、肉体に再び戻って来る、という考えがあった。 古代インドでは、霊魂は何度もこの世に生まれ変わるという考え方が一般的であった。輪廻転生(転生輪廻)の思想である。  「あの世」(霊界)へ行ったり、「この世」(生者の世界、現世)に影響を及ぼしたりすると考える文化・思想も存在している。人間だけでなく、命あるもの全般、動物や植物に宿ると考えられたり、さらには鉱物にも霊魂が宿る、とされることもある。霊魂を心と同一視することもある。「心は霊体、魂は神魂」とする、霊魂と心を同一視しない考え方もある。また他方、すでにサンジャヤ・ベーラティプッタが来世に関する問いへの確答を避け、不可知論の立場をとった。
霊魂は、生きること、死生観の根源的な解釈のための概念の一つともされる。現代では、霊魂を肯定的にとらえることが、生きがいや健康といったものと深く関係があることが、様々な学者の研究によって明らかにされている。
「霊魂」という表現
「霊魂」という表現は、「霊」という言葉と「魂」という言葉が組み合わされている。「霊」(れい、たま)は、すぐれて神妙なもの、神、こころ、いのちなど、多様な意味を持っている。 また、そこに何かいると五感を超越した感覚(第六感)で感じられるが、物質的な実体としては捉えられない現象や存在(聖霊など)のことを指すこともある。
「魂」(こん、たましい)の方は精神を司る精気を指し、肉体を司る「魄」と対比されている。
よって、「霊魂」という言葉は「霊」と「魂魄」両方を含む概念を指すために用いられている。ただし、通常は、個人の肉体および精神活動を司る人格的な実在で、五感的感覚による認識を超えた永遠不滅の存在を意味している。そして人間だけでなく、動物や植物、鉱物にまで拡大して用いられることがある。
起源
人類誕生以来、いつ頃から「霊魂」という概念を持つようになったかははっきりわかっていない。ホモ・エレクトス以前の古人類には死者を埋葬した証拠が発見されていない。ネアンデルタール人については、(一部に否定説はあるが)死者を埋葬し花を供えるなどの宗教行為を思わせる遺跡が幾つか知られており、これらの行動や文化の原動力として原初的な死生観を持ちえていた可能性があるとする解釈も主張されている。
クロマニヨン人などホモ・サピエンス段階になると、より手の込んだ埋葬方法や墓制の存在がはっきりしており、食料や道具などの供物、墓の上に大石を置いたり死体の手足を縛って埋葬するといった風習もあって、原始的な宗教観念と霊魂への慕情や恐れの観念も、より明確であったと思われる。
宗教などにおける説明
多くの宗教においては、人は死んでも意識あるいはそれに近いものは霊魂となって残ると説く。霊魂は生前暮らしていた土地に鎮まるとも、黄泉のような霊魂の住まう世界に旅立つともいう。霊魂の存在は、しばしば道徳・倫理などと結びつけて語られる。キリスト教などが説くように、生前の行いに応じて天国や地獄などに送られるともいわれる。あるいはヒンドゥー教のように霊魂は生前の行いに応じて転生すると説く宗教も有る。仏教の一部(大乗仏教)でも、六道の間を輪廻すると説く。
古代エジプト
古代エジプトでは、霊魂は不滅とされ、死者は復活するとされていた。オシリスが死と再生を司る神として尊崇された。 自然界のあらゆるものに霊が宿るとされ、霊にも人間と同様に感情や弱点、欠点があると考えられていた。
定められた呪文を唱えたり定まった儀式を行うことによって願望を神に伝えたり、動植物の霊と交流したり、病人から苦痛の原因である悪霊を追い出すことや、死者に再び魂を入れる役割の神官、祭司(魔術師)などがいた。
人の魂は五つの部分から成っているとされた(アルファベット表記なら、Ren、Ba、Ka、Sheut、Ibの五つ)。死者のBa(バー)のよりどころとして死者の体をミイラにして保存した。
死者のバーが無事冥界に渡り、将来死者が甦るようにと、ミイラ作成期間の70日ほどの間、祭司は何度も大量の呪文を唱えた。『死者の書』(死者の霊が肉体を離れて冥府に至るまでの過程を描いた書)が死者とともに埋葬されることもあった。
ピラミッド・テキストと呼ばれる初期の死者埋葬のテキストでは、死者が行くのは天の北にある暗黒の部分であり、そこで北極星のまわりの星とともに、アク(霊)として永遠の命を生きる、とされた。
古代ギリシャの哲学
プラトンは対話篇において霊魂の働きに着目しつつ探求した。『パイドン』および『メノン』においては、永遠の真理(イデア)を認識する方式として想起論を提示し、その前提として霊魂不滅説を唱えた。
キリスト教など
旧約聖書では、ネフェシュ(ヘブライ語で「咽喉」の意)と表現される。これに聖なる霊(ルーアッハ。風、息の意)が入って預言がなされるという思想があった。
欧州においては人間を構成する要素は霊魂(アニマ、ANIMA)、精神 (SPIRITVS) 及び肉体 (CORPVS) であり、錬金術ではこれらは三原質と結び付けられて考えられていた。また、3という数からキリスト教では三位一体に比せられることも多かった。霊魂と精神は肉体に宿り、肉体が滅びると精神と霊魂は分かれると考えられており、霊魂と精神は肉体という泉を泳ぐ二匹の魚に擬せられたこともあった。
ここにおける霊魂は人間の本能のようなものであり、成長することはないと考えられていたのに対し、精神は理性のようなものであって成長するものであるとされていた。
古代インド
ヴェーダやウパニシャッド / 『リグ・ヴェーダ』などのヴェーダ聖典では、人間の肉体は死とともに滅しはするものの、人間の霊魂は不滅である、とされていた。同聖典では、人間の死後に肉体を離れた霊魂は、火神アグニなどの翼に乗って、最高天ヤマの王国にたどり着き、そこで完全な身体を得る、とされた。後のウパニシャッドにおいては、死者の魂は、解脱する人の場合は"神道"を通ってブラフマンに至り、善人の場合は祖道を通って地上に再生する、と説かれた(「二道説」と呼ばれる)。そして解脱することがウパニシャッドの目標となった。霊魂を示す言葉としては「アス」「マナス」「プラーナ」「アートマン」といった言葉が使われた。その中でも「アートマン」はウパニシャッドの中心概念となっている。
サンジャヤ・ベーラティプッタ / 仏教興隆期のインドのサンジャヤ・ベーラティプッタは来世に関する4つの問いを設け「来世は存在するか?」「来世は存在しないか?」「来世は存在しかつ存在しないか?」「来世は存在するわけでもなく、存在しないわけでもないか?」それぞれすべてに対して「私はその通りだとも考えないし、別だとも考えない、そうでないとも考えないし、そうでないのではないとも考えない」として確答を避け、不可知論の立場をとった。このような態度はゴータマ・ブッダの「無記」の立場と通じあう点がある、とされる。
初期仏教
ブッダが説いた初期仏教での「無我」は「霊魂がない」と解するのではなく「非我」の訳語が示すように、「真実の我ではない」と解すべきもの(自他平等の境地を目指した思想)である、ともされている。 俗に言われる霊魂とは全く異なる。
中国の宗教(道教など)
中国の道教では魂と魄(はく)という二つの異なる存在があると考えられていた。魂は精神を支える気、魄は肉体を支える気を指した。合わせて魂魄(こんぱく)ともいう。魂と魄は易の思想と結びつき、魂は陽に属して天に帰し、魄は陰に属して地に帰すと考えられていた。
民間では、三魂七魄の数があるとされる。三魂は天魂(死後、天に向かう)、地魂(死後、地に向かう)、人魂(死後、墓場に残る)であり、七魄は喜び、怒り、哀しみ、懼れ、愛、惡しみ、欲望からなる。また、殭屍(キョンシー)は、魂が天に帰り魄のみの存在とされる。(三魂は「胎光・爽霊・幽精」「主魂、覺魂、生魂」「元神、陽神、陰神」「天魂、識魂、人魂」、七魄は「尸狗、伏矢、雀阴(陰)、容贼(吝賊)、非毒、除秽(陰穢)、臭肺」とされることもある。)
日本
日本での仏教 / 上記の初期仏教に関する上記の解説とは異なり、ブッダは「無我」を説いて霊魂を否定した、ともされる。近年の日本の僧侶や仏教関係者によって執筆された仏教入門書等ではそのような図式で説明されていることが多い。仏教では、六道の輪廻からの解脱を目的としている。 死後、成仏(解脱)する事ができた者は、諸仏の持つ浄国(浄土)へ生まれ変わる。出来なかった者は、生前の行いにより六道のいずれかに生まれ変わる。 その生まれ変わるまでの期間を中陰と呼ぶが、中陰時の立場を、民間信仰では霊魂と混同されることがある。
日本の古神道(民間信仰)や神道 / 古神道では、森羅万象にマナが宿るとする。南洋の諸民族、中国などに共通した思想があった。 折口信夫『霊魂の話』によれば、肉体から容易に遊離し、付着すると考えられた。優れた事績を残した人物の霊魂は、尊と同等の人格神、あるいはこれに相当する存在となるとされる。 国家神道で明治以降、戦死者の魂のことを敬っていう場合は特に「英霊」(えいれい)と呼んでいる。その区別や概念も曖昧であり、それを分類や定義付けることなく享受してきた。 ただし、強弱や主客といえるような区別は存在し、大きいもの(巨石・山河)や古いもの長く生きたものが、その力が大きいと考えると同時に尊ばれた。日本神話にある、人格神などの人としての偶像を持つ神々も信仰の対象とし、「それらの神がその他の森羅万象の神々を統べる」という考え方に時代とともに移っていった。また神(霊魂)には荒御魂や和御魂という魂の様相があるとし、それぞれ「荒ぶり禍をもたらす魂」と、「和ぎり福をもたらす魂」とされる。  
神霊
尊(みこと) / 日本神話にある人格神(人と同じ姿かたちと人と同じ心を持つ神)。
霊(チ) / 霊魂の基本となる言葉。血や乳(チ)に通ずるという。
魂(タマシヒ) / 強い付着性、遊離性を持つマナ 荒御魂(アラミタマ)柳田國男『先祖の話』によれば、新たな御霊(ミタマ)つまり最近死んだものの魂。
霊(ヒ) / 全ての活力の元であり、優れて威力のあるもの。白川静『字訓』によれば、中国で生命の原動力が雨に求められたのに対し(なので雨の字がつく)、日本では太陽光から来ると考えられたので、日と同じヒと呼ばれる。 
 
霊と霊魂 2

 

動物の肉体に宿っているとされる謎な存在でありながら、死後は天に昇ってゲーム三昧マンガ三昧のNEETになったり、奈落へ堕ちてひたすら閻魔様にエクストリーム・謝罪したり、稀に現世に残って、生前なし得なかったことを試みたり恨めしい者に嫌がらせしたりする、なんとも自由で気ままな存在である。夏には欠かせない存在。暑い夏を涼しく演出してくれる、重要な存在である。いまでは一家に一人の幽霊の時代である。                                    
一般に霊と言えば本体の死後、現世に残っている霊を言い、中でも心霊現象を引き起こすと考えられるものを悪霊と呼ぶ。本項では面倒くさいので、悪霊の解説は心霊現象の項に任せるとする。
動物、特に人間の肉体に宿っている状態の霊は、上記の霊と区別して霊魂や魂とも呼ばれる。この霊魂こそが「自分」の正体であるという説もあるが、自分自身なのに、自分自身が自分自身を見ることも触ることもできないという、なんとも理不尽な説である。
霊は数学の0(零)に近いが、そのあり方は大きく異なる。0が無そのものであるのに対し、霊は無のようなものであり、早い話がまるで空気のように存在感の薄いもの、という事である。
霊の分類
地縛霊 / 死んだあともその場から動こうとしないひきこもり思考の霊。とにかくひきこもりな為、自分のテリトリーに入ってくる人間に対して攻撃する傾向がある。近づかなければ何もしないので放っておいてあげてください。自宅警備員の方々はこれになって死後も自宅を警備する。
浮遊霊 / いつまで経っても定職につかず遊び歩いているあんちゃんのごとくプラプラしている霊。遊び歩けるので、一番楽しい。一番人気の霊である。
背後霊 / 人の背中にぴったりとついて回るストーカー思考の霊。その相手に恨みを持って付きまとっている場合と、その人を守ろうとして付きまとっている場合がある。自分の意思で自由に動かせた場合、それはスタンドであり、霊ではない。
生霊 / なんか知らないけど生きてるのに出る奴。しかも恨んだ奴には恐ろしい仕打ちをする。 なまいきかつフリーダムのうえに勝手な奴だ。
綾波霊 / オタクの目の前に現れる 私が死んでも代わりはいるものと言いつつオタクをディラックの海でさらう ちなみに笑えばいいと思うよで回避できる もちろんたくさんいる とあるオタク怒り臣事氏の証言によると限りなくファーストチルドレンだったそうだ
その他 / 霊はとにかくフリーダムであるから、分類できない霊も数多く存在する。
霊の特徴
肉体から離れた霊は、マナーや法律・倫理観などのあらゆる束縛から完全に自由であるが、同時に知識や思考・判断などからも離れた存在となるため、馬鹿である。そのため大抵は神または閻魔様に引き寄せられるがまま、バカ正直に天や奈落へ逝ってしまう。
だが一部の根強い執念をもつ霊は、神や閻魔様が引くよりも更に強い力で現世に執着し、生前なし得なかった事を為し遂げようとする。
当然、霊には脳が無いので「記憶」は存在せず、生前の未練や恨み辛みを覚えているわけではないらしい。にも拘らずなぜ霊が後述のような行動をとるのかという疑問には、以下のような説明が妄想狂たちによって付けられている。
脳裏に焼き付いた強い記憶や感情などがプラスやマイナスのエネルギーとなり、霊をイオン化して善か悪に染めてしまう。
霊=0であり、よって無限の可能性を秘めている。
そんな常識は通用しない。
そもそも霊が人間の妄想
と、変に科学的・数学的・非常識的な説明であるが、ともかく霊は馬鹿なので、エネルギーが導くままに動いてしまうのだと説明し、これでも更に詳しい説明を求めるような者は、霊と同じくらい馬鹿であると言って議論を終了するのが妄想狂の常套手段である。
死後、負のエネルギーを断ち切れればいいのだが、現代ではそういった死んだ時のための予備知識が手に入らないため、あっさりとマイナスエネルギーに染まって邪悪になってしまう霊も多い。非常に無念である。
霊の行動
行動は非常に多様であり、家族や恋人の元へ向かう霊や、憎い人物に復讐しようとする霊など、強い思い入れのある人や物に執着するのが普通だが、中には自宅を警備してみたり、ジャパネットたかたでお得な商品を探したり、偉大なる将軍様のご尊顔を拝見したり、Hydeの身長は156cmだったりするものもいる。
孤独死した老人の霊などは、しばしば自分の死亡届を自分で提出しようとする。残念ながら、成功した例は今のところ無いと思われる。
霊の能力
死霊、特に悪霊はしばしば呪いや祟りなどの強い力を持っているといわれるが、それは何も死者の霊に限った話ではなく、生きている人間の魂にも、そういった能力は一応申し訳程度には備わっているものである。それもよほど強い想念がない限り、直接的に大きな被害を与えるものではなく、せいぜい人をイライラさせてストレス社会を促進したり、眠気を増して仕事効率を低下させたり、食欲や疲れを増してデブを増やして地球温暖化を促進したりするとかいう、ねちねちした嫌がらせレベルである。
ただし、肉体を持つ生きた人間が呪いを成就させるのは非常に困難ではある。肉体があるということは脳があり、耳があるために、聞きたくない音も聞こえてしまう。特に日本の集合住宅では、隣人の話し声や、足音や、あんなことやこんなことをしている声や、夫婦喧嘩や、子供が走る音や、あんなことやこんなことをしている声や、断末魔の呻き声や、あんなことやこんなことをしている声や、駆けつけた警察のサイレン音や、名探偵が現れて華麗に事件を解決する声や、Hydeの身長は156cmである音や、あんなことやこんなことをしている声や、あんなことやこんなことをしている声などの様々な騒音があり、とても心を無にできる環境ではない。
そのため俗に超能力者と呼ばれる人々は、自然豊かで雑音の無い地域(=科学技術が未発達な地域)に多く、頭の固い科学教の信者達はこれを理由に彼らをイカサマ師であると主張するが、大抵はその通りである。
霊に関する誤解
霊というと心霊現象を引き起こす悪霊を連想する人も多いが、前述の通り実際にそれほど大きな心霊現象を起こす霊は極めて稀である。悪霊は閻魔様の持つ掃除機に必死で抵抗して現世に残ろうとするが、普通は大事をなす前に力尽きて、奈落の底へすってんころりんひょいころころりんと転がるのである。
また、善人の魂は天国で極楽に、悪人の魂は地獄で苦痛に過ごすという思想は世界的に見ても非常に多いが、今ではこれは生きている人間のエゴの表れであり、世界の真理ではないというのが主な妄想狂達の見解である。善人に限って多く降りかかる苦しみや悲しみなどの試練が、悪人には少ないことを「不条理」とか「不公平」だとマイナスに考え、「せめて死後は報われてほしいな〜☆」となる思考順序は想像に難くない。
単純に、人間という一生物にとってのみの善悪感がそのまま世界・神にとっての善悪に当たると盲信している人間たちは、自己矛盾と言えそうである。もはや人間は神を崇めているのか、それとも人間が全てなのかもはっきりせず、霊魂や超常現象なんかより、人間という生物のほうがよっぽど謎である。 
 
死後の世界はあるか

 

11月になりました。カトリック教会はこの月を死者の月としてなくなった人々のために祈り、同時に死について考えるように勧めています。世の中には「タブ−(大っぴらに話さないこと)」ということがありますが、宗教を抹殺しようとする近代社会では「死」もタブ−になりました。しかしこれは非常に大切なテ−マで、しかも誰でも本当は興味を抱いているテ−マなのです。上智大学でデ−ケン神父という人が「死の哲学」という授業をしていますが、学生の多くが年末の試験の答案に「今までは死を学ぶなどということは暗い考えだとばかり思っていましたが、生きていく上で実に大切だということが判りました」と感謝するそうです(『死とどう向き合うか』、NHK出版)。
孔子は「死とはどのようなものでしょうか」と聞かれて、「まだ人生の途中で、生ということを満足にわかっていないものには、死は考えても理解できない」と言って答えなかったそうです。孔子にとっての最大の関心は「人がいかに生きるべきか」でしたので、このような答えが出てきたことはある程度理解できます。けど、生きることはよく旅に例えられますが、それなら死ぬことは目的地になりますよね。目的地がどこかを知らなければ、よい旅をすることはできないのと同じように、死が何かを考えなければよい生き方もわからないのではないでしょうか。
とは言っても、死はそんなに明るい話題ではないことは確かです。毎日友達と死について話す人がいたら、ちょっと気味が悪いですよね。また、この受験の大切なときに死について考えて恐くなって夜中におねしょしたりして不眠症におちいり勉強ができなくなって、業務上過失致死かなんかで長崎地方裁判所に訴えられたりでもしたらいやですから言っておきますが、これはおばけの話しのように人を恐がらすためではまったくなく、逆にこのテ−マについて話すことで余計な恐れを取り除くことにあります。
さて、死後の世界については、いろいろな意見があります。どうしてかと言うと、あの世はだれも見たことがないし、見ることができない代物だからです。ヨ−ロッパでは近代になって、見ることも触れることもできない問題に対しては、「それはわからへんから、考えんことにしよう」という考え(これは不可知論とか懐疑論と呼ばれる)が広がり、現在の日本でもこの考えの人は多い。しかし、以前に何度か言ったように、見えない問題についても人間は考えられるし、普段から無意識に考えている。では、どのように考えられるかを、これから何回かにわたってお話したい。
話しの進め方ですが、以下のようにしたいと思います。つまり、まず死後の世界についてどんな意見があるかを見て、それぞれについて考えてみる。次にもしあるならば、それはどのような所かを考える。その後で、キリスト教はどのように教えているかを説明したい。というわけで、まず死後の世界があるかないかについて見てみましょう。
死後の世界はないという意見について
死ぬとは体の働きが止まることだと言えるでしょう。体の機能が止まると、体は腐敗していって最後にはなくなる。問題は人間はこの腐敗する体だけか、それとも霊魂を持つのかということです。そして、当然、霊魂がないという人は死後の世界なんかないと言います。だから唯物論者は死後を否定する。すでにヘレニズム時代エピキュロス(紀元前341〜270年)という人もそう考えていました。彼は「死は我々とは関係ないものや。せやかて、今生きてるときは死はないし、死んでしもたらわしがおらんようになってしまっとんやさかい」と言って弟子たちを勇気づけていました。
皆さんはこのエピキュロスの考えについてどう思いますか。もしこれで満足なら、この先は読む必要はありません。でも、これで満足する人は少ないのです。人は普通死を恐れ、できれば考えないでおこう、とします。そのために今現在目の前にあることに集中しようとする。目の前にあることに集中することは大切ですが、同時に遠くにある目標もしっかり見つめておく必要があるのではないか、と思うのですが。
もし、死後の世界がないから、人間の人生はこの世で終わりです。ということは、人間の幸福とは、この世でできるだけ楽しむということになりませんか。でも少し考えたら、どんなに楽しんでも結局終わりが来て無に帰するなら、それもむなしいことですね。また、もし人生がこの世だけなら、良心に従って善い行ないをしてもあまり意味がない、ということにはならないでしょうか。
唯物論が18世紀に西洋の知識人の間に広がり始め、それ以後自然科学が驚くべき発展を遂げた20世紀の末期の今、世界の大部分の人は来世を信じないのでしょうか。いやその逆なのです。世間には科学が発達すれば、宇宙が自然(神の手を借りずに)に発生したこと、人の精神的な働きは結局脳味噌の働きであること、だから人間も自然の(神の介入なしの)進化の結果猿のような動物から生まれてきたことが証明できる。そうすれば人間の謎もすべて説明できる、と考えている人が結構います。『長崎の歌』(永井隆博士の伝記)という本に、博士が島根の山奥から長大の医学部に入学したとき、まさにそのように考えていたとあります。霊魂とか神とかはまったく非科学的なもので、科学の発達によっていずれ忘れ去れらてしまうものだ、と。しかし、ある日「家に帰れ」との電報を受け取り、急いで帰省します。家に帰るとお母さんが危篤でした。その時の模様を博士は次のように書いています。「私が枕元に駆けつけたときにはまだ息があって、じいっと私の顔を見つめたまま事切れた。その母の最後の目は私の思想をすっかちひっくり返してしまった。私を生み、私を育て、私を愛し続けた母が、別れにのぞんで無言で私を見つめたその目は、お母さんは死んでも霊魂は隆ちゃんおそばにいついつまでもついているよ、と確かに言った。霊魂を否定していた私がその目を見たとき、何の疑いもなく母の霊魂はある、その霊魂は肉体を離れ去るが、永遠に滅びないのだと直感した」(42ぺ−ジ)。
人はなくなった人をお墓に埋葬する。そして、親しい人だったら、しばしばお墓に行って故人に祈るでしょう。それは、この永井博士が直感したことをおぼろげながら認めているからではないでしょうか。来世がないと言った人はいるけど、来世がないと証明した人はいまだいません。 
 
魂 (キリスト教)

 

ほぼすべてのキリスト教徒は、魂(たましい)は人間の不滅の本質であり、魂は死後に報酬か懲罰を受けると信じている。死後の賞罰は、善行あるいは主なる神とイエスへの信仰によって左右されるが、この基準に対して、キリスト教徒の各宗派間で激しい論争が行われている。
なお、魂の復活や、死後について触れられるのは新約聖書であり、旧約聖書での記述は皆無である。
多くのキリスト教学者は、アリストテレスと同じく、「魂についてのいかなる確実な知識に到達することも、世界で最も困難な事柄の一つである」との見解を持っている。初期のキリスト教思想への最も大きな影響者の一人とされているアウグスティヌスは、魂は「肉体を支配するために適用され、理性を付与された、特別な実体」であると書いた。またイギリスの哲学者、アンソニー・クイントンによれば、彼が「性格と記憶の連続性によって接続された一連の精神状態」と規定したところの魂とは「人格性の本質的な構成要素」であり、「したがって、魂に関連付けられるいかなる個々の人間身体からも論理的に区別されるばかりでなく、まさに人格そのものである」とされる(cf. Anthony Quinton, "The Soul," Journal of Philosophy 59, 15 (1962): 393-409)。
オックスフォード大学のキリスト教宗教哲学者リチャード・スウィンバーンは以下のように書いた。「実体二元論者が――精神性の霊的な主体としての――魂の存在を説明できないことは、実体二元論へ頻繁に行われている批判である。魂は感覚と思考、願望、信仰、意図した行為を実行する能力を備えている。魂は人間の本質的な部分である」。
魂の発生源は、しばしばキリスト教徒を悩ませる疑問である。主な理論として、創造説(訳注:“Creationism”誕生の際に、魂が神によって創造されるとする説)、伝移説(訳注:“Traducianism”誕生の際に、両親から魂が遺伝されるとする説)、先在説(訳注:“Pre-existence”誕生の前に、前世での魂の存在があるとする説)が提唱されている。
その他のキリスト教徒は、それぞれ次のように信じている。
少数のキリスト教徒の集団は、魂の存在を信じず、死の際に人間は精神と肉体の両面で存在を停止するとしている。しかしながら彼らは、いつか将来の「世の終わり」に臨んで、主なる神がイエスを信じる者の精神と肉体を再生すると主張している。
他の少数派キリスト教徒は、魂の存在は信じるが、魂が本質的に不滅であるとは信じていない。この少数派もまた、イエスを信じる者の生命にのみ、キリストが不滅の魂を授けるのだと信じている。
中世のキリスト教思想家は、信仰や愛情と同じように、思考や創造力のような属性をしばしば魂に割当てていた(これは「魂」と「精神」の境界が、別個に解釈できる事を意味する)。
エホバの証人は、魂とは霊ではなく生命それ自身であり、すべての魂は死ぬと信じている(欽定訳聖書 - 創世記2章7節、エゼキエル書18章4節)。
「魂の眠り」説では、魂は臨終において「眠り」に入り、最後の審判まで休眠状態に留まると述べている。
「肉体からの離脱と主なる神への帰一」説では、魂は死の瞬間に、その後のいかなる出来事も経験することなく、直ちに世の終わりに至ると述べている。
「煉獄」説では、世の終わりを迎える準備が完了する前に、不完全な魂が贖罪と浄罪の期間を過ごすと述べている。
ウァレンティヌスによるキリスト教グノーシス主義
キリスト教の初期、グノーシス派キリスト教徒のウァレンティヌスは、その他多数の「永遠の知恵」との調和という、神秘主義的な異説を提唱した。ヴァレンティヌスは、人間を体(ソーマ)、魂(プシュケー)、霊(プネウマ)の三重からなる実体と想定した。同様の区分は聖パウロのテサロニケの信徒への手紙一にも見られるが、ウァレンティヌスはこれをより強化させ、すべての人間は半ば休眠中にある「霊的種子(スペルマ・プネウマティケー)」を所有しており、キリスト教徒としての霊的発展の中で、霊によりすべての種子は結合され、キリストの天使と等しい存在となる事が可能であると考えた。
ウァレンティヌスの述べる霊的種子は、ヴェーダーンタ哲学の「ジーヴァ」、イスラム教スーフィズムの「ルー」、その他の伝統宗教における魂の閃きと同一の物であることは明白である。そしてキリストの天使は、現代のトランスパーソナル心理学における「より高度な自己(ハイヤー・セルフ)」や、ヴェーダーンタ哲学の「アートマン」、と同一である。ウァレンティヌスによれば、キリストの天使よりの光線である霊的種子は、その淵源に回帰する。この回帰が真の復活である(ウァレンティヌス自身は、著書『真理の福音』でこう述べている。「最初に死に次に復活すると言う人々は間違っている。生きている間に復活を受けない者は、一度死んだならば何も受けないだろう」)。
ウァレンティヌスの生命観では、我々の肉体は塵に帰り、魂の閃きすなわちグノーシス主義の言うところの霊的種子は、より高度な自己/キリストの天使と正しき魂に結合され、心理的機能や個性を担持する存在(感情、記憶、合理的な才能、想像力等)は残存するだろうが、プレローマすなわち充足(キリストの天使としての復活を果たしたすべての種子が回帰する源)には至らないであろう。魂はプシュケーの世界である「中位の場所」に留まる。
やがて無数の浄罪の後に、魂は「霊的な肉」すなわち復活後の体を与えられる。この区分はやや当惑させられるが、ネシャマ(精神)がその不変不滅の淵源に向かうが、果たされることなく下位の世界に追いやられるという点で、カバラ思想と似ていないこともない。同様にウァレンティヌスによれば、完全なる復活はキリスト教世界観での世の終わりの後にのみ達成され、霊的な肉を獲得し変容した魂が、最終的に 個々のキリストの天使への完全な結合を果たす時に、魂はプレローマに存在する。これが、ウァレンティヌスの言う最後の救済である。
特定教義に縛られないキリスト教徒
多くの特定宗派に縛られないキリスト教徒と、魂の概念についての明確な教義を持つ宗派へ表向きは賛同している多数のキリスト教徒は、魂への信仰に対して「ア・ラ・カルト」な態度を取る。
これらのキリスト教徒は、各々の問題は、その利益と、他のキリスト教分派や他の伝統宗教や科学的理解などの異なる信条と、並置して判断を下す。 
 
聖霊

 

(せいれい、希: Άγιο Πνεύμα、羅: Spiritus Sanctus、英: Holy Spirit、日本正教会では聖神:せいしん)は、キリスト教において、三位一体の神の位格の一つ。聖霊について論じる神学を聖霊論という。
広く「第三の位格」とも説明される一方で、「第三の」といった数え方をせずに「ペルソナ(位格)の一者」「個位(のひとつ)」「神格(のひとつ)」とだけ説明される場合もある。4世紀に聖霊論を展開した聖大バシレイオス(聖大ワシリイ)は、聖霊に限らず、三位一体の各位格に言及する際に、数を伴わせることに批判的である。
本項で扱う聖霊に漢字「精霊」を当てるのは誤字(もしくは誤変換)である。
前提:共通点と相違点の存在
キリスト教内の各教派において、聖霊についての捉え方・考え方には、共通する部分と異なる部分がある。
東方教会と西方教会の間には、聖霊が「父(父なる神)からのみ発出する」とするか、それとも「父(父なる神)と子(子なる神)から発出する」とするかを相違点とするフィリオクェ問題がある。正教会の神学者ウラジーミル・ロースキイは、フィリオクェ問題を東西教会の分裂の根源的かつ唯一の教義上の原因であるとしている(なお、20世紀末以降、西方教会側で「フィリオクェ」を削除ないし再考する動きが散見される、詳細後述)。
カトリック教会とプロテスタントの間においては、聖霊に関する教理が16世紀の宗教改革において聖書を優先していくプロテスタントの中心にあったとされることがある。当時カトリック教会側においては、枢機卿ロベルト・ベラルミーノから、プロテスタントにおいて聖霊論と関係する教理である救いの確信を、プロテスタントが異端であることの最たるものとする批判があり、またカトリック司祭エドマンド・キャンピオンは、聖霊論にプロテスタントとカトリック教会との根本的な相違があると捉えていた。
このように教派ごとの相違点があり、論者によっては重要な争点と位置付けられる一方で、論者によっては、伝統的な神学では聖霊論は非常に軽視されてきた分野であると評される事もある。
本項では各節において、できる限り幅広い教派に共通する内容を先に述べ、次に各教派ごと(東方教会:正教会、西方教会:カトリック教会・聖公会・プロテスタントの順)の内容を簡潔に述べる。
神(位格・個位)
整理された教義(教理・定理)
正教会、非カルケドン派、カトリック教会、聖公会、プロテスタントにおいて、聖霊は三位一体の一つの位格(個位、神格、希: υπόστασις, 羅: persona)であると位置付けられる。
第1ニカイア公会議(第一全地公会、325年)の頃から第1コンスタンティノポリス公会議(第二全地公会、381年)の頃にかけて、こうした三位一体論の定式が(論争はこの二つの公会議が終わった後もなお続いていたが)整理されていった。
「異端」とされた考え
本節では、いわゆる正統派から否定される諸説を概観する。「三位一体そのものを説明するよりも、三位一体でないもの(異端の教え)を説明し、それを否定する方がより正確」とされることがある。
三神論(聖霊は「三つの神のうちの一つ」) / いわゆる正統派によれば、聖霊は神であるが、父なる神・子なる神・聖霊は、三つの神ではないとされ、三位格は三神ではないとされる(なお、こうした「異端」が歴史上まとまった形で出現したことはないともされるが、幾つかの事例につき「三重の神性」への傾斜として批判的に指摘されることはある)。
聖霊は一様式(mode)もしくは「一つの『役』」 / 「子なる神、聖霊は、時代によって神が自分を表す様式(mode)を変えていったもの」「一つの『役』のようなもの」と主張する考えは、様態論的モナルキア主義(英語: modalistic monarchianism)と呼ばれ、いわゆる正統派から否定される。
聖霊の神性は比較的劣っている / 聖霊の神性は認めるものの、父なる神(神父:かみちち)、子なる神(神子:かみこ、イエス・キリスト)よりも劣った存在であるとする主張である。この主張を聖霊について採るアリウス派は、子なる神も父なる神より劣ったものとした。アリウス派は第1コンスタンティノポリス公会議でいわゆる正統派から異端とされたが、聖霊の神性が比較的劣っているという教説も併せて否定されている。
聖霊は神ではない / 聖霊の神性を否定した人々は「反聖霊論者(英語版)」(ギリシア語: Πνευματομάχοι)、もしくは主唱者であったコンスタンディヌーポリ総主教の名から「マケドニオス主義者」と呼ばれる、第1コンスタンティノポリス公会議でいわゆる正統派から異端とされた。 
 
御霊 (みたま,ごりょう)

 

本来、荒魂・和魂などの魂の様相を指す神道用語である。
御霊(みたま,ごりょう) / 魂の尊敬語。
御霊(みたま) / 神道における概念で、荒魂・和魂などの魂の様相のこと。
御霊(ごりょう) / 祟る怨霊を祭って平穏を願う日本の信仰。御霊会、御霊祭とも言う。
また、キリスト教においてプシュケー(命,魂)と対比されるギリシア語プネウマの訳語として、1970年に発行された新改訳聖書などで使われている。ただし、「プネウマ」は多くの場合「聖霊」と訳される。 
御霊信仰

 

人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする日本の信仰のことである。
霊とは
人が死ぬと、魂が霊として肉体を離れるという考え方は、日本において、例えば縄文期に見られる屈葬に対する考え方の一つのように、原始からその考え方は存在していた。こうしたことから、「みたま」なり「魂」といった霊が、人々に様々な災いを起こすと考えられたことも、その頃から考えられていた。古代になると、政治的に失脚した者や、戦乱での敗北者などの霊が、その相手や敵に災いをもたらすという考え方から、平安期に御霊信仰というものが現れるようになる。
怨霊から御霊へ
政争や戦乱の頻発した古代期を通して、怨霊の存在はよりいっそう強力なものに考えられた。怨霊とは、政争での失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊である。怨霊は、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらす。古い例から見ていくと、藤原広嗣、井上内親王、他戸親王、早良親王などは亡霊になったとされる。こうした亡霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこった。これが御霊信仰である。また、その鎮魂のための儀式として御霊会(ごりょうえ)が宮中行事として行われた。記録上、最初に確認できる御霊会は、863年(貞観5年)5月20日に行われた神泉苑で行われたもの(日本三代実録)である。
この最初の御霊会で、崇道天皇(早良親王。光仁天皇の皇子)、伊予親王、藤原大夫人(藤原吉子、伊予親王の母)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文屋宮田麻呂)、観察使(藤原仲成もしくは藤原広嗣) の六人が祭られた。後に、井上皇后(井上内親王。光仁天皇の皇后)、他戸親王(光仁天皇の皇子)、火雷天神(下御霊神社では6つの霊の荒魂であると解釈している。一般には菅原道真であるともいわれるが、道真が祀られるようになったのは御霊神社創設以降)、吉備聖霊(下御霊神社では6つの霊の和魂であると解釈している。吉備大臣吉備真備、もしくは吉備内親王、とも言われる)をくわえ、観察使と伊予親王が省かれた「八所御霊」として御霊神社(上御霊神社、下御霊神社)に祀られている。
御霊信仰が明確化するのは平安時代以降であるが、その上限がどこまでさかのぼれるかどうかは、ひとによって理解が一定していない。史料的に確実な例としてあげられるのは、『続日本紀』の玄ムの卒伝にみえる藤原広継の怨霊であるが、それ以前については意見がわかれている。聖徳太子が怨霊であったとする梅原猛(『隠された十字架』)の説は証拠にとぼしいが、蘇我宗家(蘇我蝦夷・蘇我入鹿)の滅亡にその兆候がみとめられるとする八重樫直比古のような理解や、大津皇子にその発端をみる多田一臣らの説は、『扶桑略記』『薬師寺縁起』のように後世にくだる史料に拠らざるを得ない欠点はあるものの、一定の論拠を有している。また長屋王については寺崎保広(『人物叢書 長屋王』)が、天平7年(735)以降に大流行し、藤原四子らを死に追いやった天然痘と王の怨霊とが関連づけている。この長屋王に関しては藤原広嗣と時代も近い点からみて、ほぼ疑いないと思われる。ただし、本郷真紹のように、長屋王や広嗣の怨霊の記事は、『続日本紀』が平安時代の編纂までくだることから、この時代の潤色であるとみて、早良親王以前の怨霊の存在は認めがたいという見方もある。現状では、奈良以前の例については確証を得難いということになろう。
なお、小説家の井沢元彦は『逆説の日本史』において、古代の日本は中国文明の影響によって、子孫の祭祀の絶えた者が怨霊となるとして、これを「プレ怨霊信仰」と呼び、それが長屋王と藤原四子の事件により「冤罪で死んだ者が怨霊となる」という「日本的怨霊信仰」へと変化したと提唱している。ただし井沢の説は、定説として確定していない梅原の説をほぼ全面的に承認しての論である。
この古代の怨霊について論述したものはあまり多くはないが、『愚管抄』に「アラタニコノ怨霊モ何(いかに)モタダ道理ヲウル方ノコタウル事ニテ侍ナリ」とあり、また怨霊が現れるのは「意趣ヲムスビテ仇ニトリ」という形式を踏むとしている。すくなくとも慈円は怨霊というものは、現れるだけの理由があって現れるものであり、それは「意趣」を返すためであると論じている。慈円の認識が古代から中世の一般的な認識であったのかはわからないが、この叙述によれば、やはり怨霊というものは非業の死、恨みによって生まれるものと考えられていたということになる。平安時代から鎌倉時代にかけては崇徳上皇・藤原頼長(宇治の悪左府)、安徳天皇、後鳥羽上皇・順徳上皇、後醍醐天皇などが怨霊となったと怖れられ、朝廷や幕府は慰撫や慰霊のために寺社を建立している。
南北朝期を通して、こうした怨霊鎮魂は仏教的要素が強くなるが、それでも近世期の山家清兵衛(和霊神社)や佐倉宗吾(宗吾霊堂)などの祭神に見られるように、御霊信仰は衰退してはいなかった。それをもっとも端的に示すのが『太平記』であって、仏教的な影響を受けつつも、南北朝の動乱を怨霊の仕業とする立場を見せ、社会を変動させる原動力であるとみなしている。これは源平合戦などの世の乱れの一因に崇徳院の怨霊の影響があったとみる『保元物語』『平家物語』のありかたを一層、進展させたものと認められよう。
また、一般に御霊信仰の代表例として鎌倉権五郎(鎌倉景政)が語られることが多いが、彼は怨霊というよりは、超人的な英雄としての生嗣や祖霊信仰に基づく面が強いように考えられる。鎌倉権五郎に関しての話題は、民俗学的な面(一つ目小僧)からも見る必要がある。
祇園信仰
御霊信仰に関連するものとして、疫神信仰がある。これは、いわゆる疫病神の疱瘡神やかぜの神を祭ることによって、これを防ぐもので御霊信仰に類似するものがある。有名で全国的なものとしては、牛頭天王を祀る祇園信仰がある。牛頭天王は、疫病や災いをもたらすものとして、京都の八坂神社に祀られ、祇園信仰がおこった。全国で八坂神社、祇園神社、八雲神社を称する神社には、かつて牛頭天王が祀られた例が多い(それらは大抵、「○○天王」という別称をもつことが多い)。ただし、明治の宗教政策により、現在は素盞嗚尊を祭神としている場合がある。
現在の祇園祭もこの牛頭天王に対する信仰から起こったものである。
その他
御霊の音が似ているために「五郎(ごろう)」の名を冠したものも多く見られ、鎌倉権五郎神社や鹿児島県大隅半島から宮崎県南部にみられるやごろうどん祭りなどの例が挙げられる。
全国にある五郎塚などと称する塚(五輪塔や石などで塚が築いてある場合)は、御霊塚の転訛であるとされている。これも御霊信仰の一つである。
柳田國男は、曾我兄弟の墓が各地に散在している点について「御霊の墓が曾我物語の伝播によって曾我五郎の墓になったのではないか」という説を出している。
天皇は中世には祇園の御輿御所近くを通る際にはその怨霊を恐れて方違を行う慣例があった 。これは「祇園会方違」、「御霊会御方違行幸」、「方違行幸」などと言われ、特定の呼称はなかった 。ただし、この方違は単に激しい雑踏を避けるためのものであったとの異説もある 。
谷川健一著『祭りとしての安保』によれば、60年のデモは祝祭であり樺美智子の死は祭りの際の生贄で(但し、儀式としての葬式はデモ主催者によって却下されている)、その後の岸内閣の総辞職は時の為政者が御霊を恐れたためという。
 
荒魂・和魂

 

荒魂(あらたま、あらみたま)・和魂(にきたま(にぎたま)、にきみたま(にぎみたま))とは、神道における概念で、神の霊魂が持つ2つの側面のことである。
荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きである。神の祟りは荒魂の表れである。それに対し和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面である。神の加護は和魂の表れである。
荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、皇大神宮の正宮と荒祭宮といったように、別に祀られていたりすることもある。人々は神の怒りを鎮め、荒魂を和魂に変えるために、神に供物を捧げ、儀式や祭を行ってきた。この神の御魂の極端な二面性が、神道の信仰の源となっている。また、荒魂はその荒々しさから新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している魂とされ、同音異義語である新魂(あらたま、あらみたま)とも通じるとされている。
和魂はさらに幸魂(さきたま、さちみたま、さきみたま)と奇魂(くしたま、くしみたま)に分けられる(しかしこの四つは並列の存在であるといわれる)。幸魂は運によって人に幸を与える働き、収穫をもたらす働きである。奇魂は奇跡によって直接人に幸を与える働きである。幸魂は「豊」、奇魂は「櫛」と表され、神名や神社名に用いられる。
江戸時代以降、復古神道がさかんとなり、古神道の霊魂観として、神や人の心は天と繋がる一霊「直霊」(なおひ)と4つの魂(荒魂・和魂・幸魂・奇魂)から成り立つという一霊四魂説が唱えられるようになる。 
 
祖霊

 

先祖の霊のこと。祖霊とは死者の霊のうち、死霊とはならず、死後の世界へ旅立った精霊(しょうりょう・しょうろう)のうち、直系の子孫が居るもの。
柳田國男は、傍系の子孫や縁故者が弔いをされるものなどが祖霊と呼ばれているとした。
柳田國男は、神道の死生観では、人は死後、インドの仏教のように転生したり、日本の仏教のように地獄や極楽へ行ったり、キリスト教のような遠い死者の世界に行ったりするのではなく、生者の世界のすぐ近く(山中や海上の他界)にいて、お盆や正月に子孫の元に帰ってくると考える、と解釈した。
家系と祖霊
祖先の霊から共同体の神へ / 精霊は祖霊にさらに神に昇化するとする考え方もあり、そのような祖霊は祖神(そじん)や氏神(うじがみ)として氏族や集落などの共同体で祀られることになる。沖縄地方では7代で神になるとされていた。
弔うことによりすべての霊は御霊となる / 柳田國男は、日本の民間信仰(古神道)では、死んでから一定年数以内の供養の対象となる霊は「死霊」と呼び、祖霊と区別する。死霊は供養を重ねるごとに個性を失い、死後一定年数(50年、33年、30年など地域により異なる)後に行われる「祀り上げ」によって、完全に個性を失って祖霊の一部となる、とする。
家系による祖霊崇拝の在り方 / 祖先の霊を祀るために墓所や縁故の場所に小祠を設けたものを霊社、祖先の代々を合せた霊社を祖霊社と言った。その崇祀は子孫に限られ、他者を排する傾向があった。伊勢神宮の古代の私幣禁断には天皇家の祖霊を祀る場所としての排他の論理があるという。
 
精霊 (しょうりょう、しょうらい、しょうろう、せいれい)

 

万物の根源をなしている、とされる不思議な気のこと。精気。
草木、動物、人、無生物などひとつひとつに宿っている、とされる超自然的な存在。
肉体から開放された自由な霊。
なお、キリスト教における三位一体の位格の一つである聖霊(日本正教会では聖神:せいしん)を「精霊」とするのは誤字(誤変換)である。
一言で「精霊」と言っても、漢語として用いている場合、大和言葉に漢字を当てている場合、西洋語のspirit や elementalの翻訳語として用いられている場合などがあり、それぞれ意味内容が異なっている。
漢語
精霊(精怪という漢字も同意でつかわれる)という漢語本来の意味では(漢字文化圏での意味では)、妖怪や妖精や死者の霊や鬼神や鬼をあらわす。
「精(せい)」ではどんな物でも数100年、数1000年生きると宇宙の気が集まって精となる。代表的な例として、付喪神や、妖狐、蛇の精等がある。
しょうりょう、しょうらい、しょうろう
日本の古神道的なものを指す場合は「しょうりょう」「しょうらい」「しょうろう」などと読み、これは「故人の霊や魂」を指し、あくまで「とこよ」(常世・常夜。死者の世界、黄泉の国や三途川の向こう)に旅立った霊魂を指す。それに対して「うつしよ」(現世)に残こったものは「幽霊」「亡霊」「人魂」などと呼ぶ。
せいれい
日本以外の、世界各地の伝承に登場する「spirit スピリット」(spiritの中でも、「魂」と訳すのに不適切な文脈で、例えば「泉の精」や「ランプの精」など「〜の精」と訳すほうがしっくりくるような場合のそれ)の訳語として「精霊(せいれい)」が用いられることもある。
英語で元素を意味する「エレメント」 (element) の形容詞形「エレメンタル」 (elemental) は「四大元素の霊」という意味の名詞としても使われ、その訳語として「精霊」が使われることがある。
四精霊(エレメンタル)
16世紀の錬金術師パラケルススにより、地・水・火・風の四大元素が実体化したものとして、精霊が以下のように関連づけられた。
水の精:ウンディーネ / 火の精:サラマンダー / 風の精:シルフ / 地の精:ノーム
これらのエレメンタルは、ファンタジー作品においては擬人化した姿で描かれることも多い。
四精霊
(しせいれい)は、地・水・風・火の四大元素の中に住まう目に見えない自然の生きもの、あるいは四大元素のそれぞれを司る四種の霊である。四大の精、元素霊(英語:elementalspirits、ドイツ語:Elementargeister)、エレメンタル(英語:elementals)ともいう。エーテルのみで構成された身体を有する擬人的な自然霊で、パラケルススの論じるところでは、霊でも人間でもなく、そのどちらにも似た生きた存在である。パラケルススはこうした存在をドイツ語でding(もの)と呼んだ。
スイス出身の16世紀の医師・錬金術師パラケルススが、古典的四元素説を下敷きにして、著書『ニンフ、シルフ、ピグミー、サラマンダー、その他の精霊についての書』、いわゆる『妖精の書』の中で提唱した。同書はパラケルススの死後、1566年に初めて出版され、パラケルススの小著を集めた『大哲学』(1567年、ラテン語訳1569年)に収録された。
その1世紀後にパリで出版されたモンフォーコン・ド・ヴィラール(フランス語版)の隠秘学小説『ガバリス伯爵』(1670年)は、作中人物のガバリス伯爵をして「四大の民」との婚姻について語らしめた。
元素/パラケルススによるクリーチャーの呼称/ヴィラールによるクリーチャーの呼称
水/水の民(Wasserleute)、ニンフまたはウンディーネ/オンディーヌまたはニンフ
地/山の民(Bergleute)、ピグミーまたはグノーム/グノーム
火/火の民(Feuerleute)、ザラマンデルまたはヴルカン/サラマンダー
風/風の民(Windleute)、ジルフまたはシルヴェストル/シルフ
サラマンダー / 火の精
ラテン語のsalamandra(サンショウウオ)が語源とされるが、これは一部のサンショウウオが焚き火や野火などに遭遇すると湿った地面に潜り表面の粘液で火傷を防ぐ性質があるため、まるで火の中から這い出たように見えることに由来する。プリニウスの『博物誌』10巻には、サラマンドラは斑点を持つ小さなトカゲで、雨が降ると現れるが晴れると姿を消し、体が冷たく火に遭うと溶けると記録されているが、これはサンショウウオに関する記述と考えられている。また、『博物誌』11巻にはピュラリスというキプロスの炉の炎の中でしか生きられない動物が登場しており、精霊のサラマンダーはこちらに近い。上記の通り、炎を操る特徴からファイヤー・ドレイクと同一視され、ドラゴンとして扱われることもある。
フレッド・ゲティングズによれば、火中に住むトカゲの姿に描かれ、別名はウルカヌス(ローマの鍛冶の神)、アエトニキ、ロラマンドリなどである。
容姿には諸説あるが、一般的にはプリニウスにならって小型のトカゲのそれである。火蜥蜴、火竜(かりゅう)とも呼ばれ、ファイヤー・ドレイクと同一視されることもある。
錬金術において、鉛のような病める金属が金に転換されるまさにその温度に至る時に炉に現れるとされ、錬金術の書物の挿絵には炉の温度のヒントとしてサラマンダーが暗号のように描かれる例が多い。また、爬虫類や両生類ではなく蚕のように繭を作る虫という考えもあり、中世には石綿の布をサラマンダーの糸で織った布と偽って販売していた事例も確認されている。サラマンダーの布は洗濯を必要とせず、どれほど汚れても火中に投じるだけで白々と輝くような新品同様の姿に戻るとされる。また、トカゲに似たはサラマンダーは火山地帯に住んでおり、その皮は決して燃えないため高価であるが、危険な火山地帯で火傷をせずサラマンダーを捕らえるにはサラマンダーの皮の手袋と長靴が必要である。
ポープの『髪盗人』では、情熱的な女は死後サラマンダーになるとされており、美しい女性の姿で登場している。
ウンディーネ / 水の精
パラケルススの『妖精の書』によればニンフともいう。名はラテン語のunda(波)と女性形の形容詞語尾-ineから来ており、「波の乙女」「波の娘」というほどの意味。
フレッド・ゲティングスによれば、別名はニンフであり、目に見えないアストラル界の住民で、霊視者には虹色に輝く体に見えるという。
基本的に人間と変わらない容姿であるとされ、人間と結婚して子をなしたという伝説も多く残されている。『妖精の書』によれば、形は人間に似るが魂がなく人間の愛を得てようやく人間と同じく不滅の魂を得るとされる。しかし、水の近くで男に罵倒されれば水中に帰らねばならず、夫が別の女性に愛を抱くと夫を必ず殺さねばならないなど、その恋には制約が多い。シュタウフェンベルクの男が水の精と婚約したが、次第に婚約者を疎ましく思うようになり別人と結婚式を挙げたせいで水の精の呪いで死んだという話が『妖精の書』に紹介されている。この伝説が元になった創作物で騎士フルトブラントとウンディーネの悲恋を描いたフーケの小説『ウンディーネ』が有名で、ウンディーネを題材にした作品にはこの小説をもとに書かれたものが多い。派生作品のうち主なものだけでも、ジャン・ジロドゥの戯曲『オンディーヌ』、ホフマンの歌劇『ウンディーネ』、チャイコフスキーの歌劇『ウンディーナ』、ボードレールに絶賛されたベルトラン(フランス語版)の詩集『夜のガスパール』のうちの一篇の散文詩「オンディーヌ」、前記の詩集をイメージしたラヴェルのピアノ曲『夜のガスパール』第1曲「オンディーヌ」、ドビュッシーのピアノ曲『プレリュード』第2集第8曲「オンディーヌ」、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ作曲、フレデリック・アシュトン振り付けのバレエ『オンディーヌ』などがある。
主題として扱われてはいないが、その他の文学作品にもしばしば登場している。ゲーテの『ファウスト』では、ファウストの呪文に登場。ポープの『髪盗人』では、心優しい女性が死ぬとウンディーネになるとされ、ヒロインである少女ベリンダの守護精霊として登場している。
シルフ / 風の精
名はラテン語のsylva(森)とギリシア語のnymphe(ニュンペー)の合成語から来ており、「森の妖精」というほどの意味。
フレッド・ゲティングズによれば、別名をネヌファ、シルウェストレという。
『妖精の書』によれば、形は人間に似るが魂がなく、人間の愛を得てようやく人間と同じく不滅の魂を得る。ただし、その姿は普通の人間の目には見えない。女性形でシルフィードとも呼ばれる。ただし、シルフィードとは人間とシルフの間にできた子供だとする説もある。
20世紀前半に活動したオカルティスト、ディオン・フォーチュンは、高所恐怖症であるにもかかわらず友人らとともに高山の頂上に登って風の霊を呼び出した時の体験について語っている。
文学における風の精霊としてはエアリエル(Ariel)のほうが有名である。シェイクスピアの『テンペスト』でプロスペローの使い魔として大活躍するほか、ポープの『髪盗人』ではシルフとエアリエルを同一視してシルフの一体の個体名をエアリエルとし、虚栄心の強い女が死ぬとシルフになると説いた。ミルトンの『失楽園』ではエアリエルは堕天使とされた。シルフは伝承では明確な性別を持たず中性的な容姿で描かれることが多い。ヘルマン・フォン・ロヴィンショルド作曲オーギュスト・ブルノンヴィル振り付けのバレエ『ラ・シルフィード』、ショパン作曲ミハイル・フォーキン振り付けのバレエ『レ・シルフィード』のなどの影響で、現在はほっそりした少女のイメージが強い。
ノーム / 地の精
名はギリシア語のゲーノモスgenomos(地に住まう者)に由来する。ノームとは正確には男性形であり、女性はノーミードやノーミーデスと呼ぶ。
フレッド・ゲティングスによれば、別名をピグミー(小人族)といって老人の姿をしている。石のノームと樹木のノームの二種がいるとされる。
一般的に侏儒(ドワーフ)は鍛冶が得意であるとされている。ヨーロッパでは北欧から黒海周辺までノームに似た小人の目撃報告がなされており、だいたい身長は15cmぐらいだと言われている。こうした小人は北米大陸でもまれに目撃されたことがある。カナダでは地方新聞にアイスランド移民が故郷からついてきたノームの近縁である北欧の小人ニスの恋人を募集する記事を載せたことがあり、カナダに多いアイスランド移民やアメリカに多いアイルランド移民など小人伝説にゆかりの深い国からの移民から伝承が伝わったと思われる。
また、アメリカで広く用いられる庭飾りの小人もノームと呼ばれる。
ポープの『髪盗人』では、真面目ぶって淑女ぶりたがる女は死後に醜い女の姿をしたノームへ落ちるとされる。
文学作品(特に児童文学によく扱われる)では数多くある土の精霊の総称ではなく、一種族として扱われることが多い。ヴィル・ヒュイゲン(英語版)の『ノーム』では、北欧のニスという妖精の近縁として、赤い円錐形の帽子を被って手仕事に励んで生活する、グノームとも呼ばれる一族が登場する。寿命は400歳を超えると言われ、女性でも250歳を超えると髭が生えてくるという。マンリー・P・ホール(英語版)の『秘密の博物誌』では土の服を身に着けて働く勤勉な一族とされる。J・K・ローリングのハリー・ポッター・シリーズでは魔法使いの子供たちが親の言いつけで庭のノーム(庭小人)を捕らえては捨てる姿が描かれている。 
 
生霊 (いきりょう、しょうりょう、せいれい、いきすだま)

 

生きている人間の霊魂が体外に出て自由に動き回るといわれているもの。対語として死霊がある。
人間の霊(魂)は自由に体から抜け出すという事象は古来より人々の間で信じられており、多くの生霊の話が文学作品や伝承資料に残されている。広辞苑によれば、生霊は生きている人の怨霊で祟りをするものとされているが、実際には怨み以外の理由で他者に憑く話もあり(後述)、死の間際の人間の霊が生霊となって動き回ったり、親しい者に逢いに行ったりするといった事例も見られる。
古典文学
古典文学では、『源氏物語』(平安時代中期成立)において、源氏の愛人である六条御息所が生霊〔いきすだま〕となって源氏の子を身籠った葵の上を呪い殺す話が「あまりにも有名である」が、能楽の『葵上』もその題材の翻案である。
また、『今昔物語集』(平安末期成立)の「近江国の生霊が京に来りて人を殺す話」では、ある身分の低い(下臈の)者が、四つ辻で女に会い、某民部大夫の邸までの道案内を頼まれるが、じつは、その女がその大夫に捨てられた妻の生霊だったと後になって判明する。邸につくと、門が閉ざされているのに女は消えてしまい、しばらくすると中で泣き騒ぐ音が聞こえた。翌朝尋ねると、家の主人が自分を病にさせていた近江の妻の生霊がとうとう現れた、とわめきたて、まもなく死んだという。下臈が、近江までその婦人を尋ねると、御簾越しに謁見をゆるし、確かにそういうことがあったと認め、礼の品などでもてなしたという。
憎らしい相手や殺したい相手に生霊が憑く話と比べると数が少ないが、相手に恋する相手にり憑く話もある。江戸中期の随筆集『翁草』56巻「松任屋幽霊」によれば、享保14か15年(1729-30年)、京都に松任屋徳兵衛の14、5歳の息子、松之助に近所の二人の少女が恋をし、その霊が取りついた。松之助は、呵責にさいなむ様子で、宙に浮くなど体は激しく動き、霊の姿は見えないが、それらと会話する様子もくりかえされた(ただし霊の言葉は男の口から発せられていた)。家ではついに高名な象海慧湛(1682-1733)にすがり折伏を試みて、松之助の病も回復したが、巷に噂が広まり好奇の見物人がたかるようになってしまった。
また、寛文時代の怪談集『曾呂利物語』にある一篇では、女の生霊が抜け首となってさまよい歩く。ある夜、上方への道中の男が、越前国北の庄(現福井市)の沢谷というところで、石塔の元から鶏が道に舞い降りたのを見る、と思いきや、それは女の生首であった。男が斬りつけて、その首を府中「かみひぢ」(武生市上市か?)の家まで追いつめると、中で女房が悪夢から目覚めて夫を起こし、「外で男に斬りつけられて逃げまどう夢を見た」と語る。このことから、かつては夢とは生霊が遊び歩いている間に見ている光景という一解釈が存在したことが窺える。
民間信仰
死に瀕した人間の魂が生霊となる伝承が、日本全国に見られる。青森県西津軽郡では、死の直前の魂が出歩いたり物音を立てるのを「アマビト(あま人)」といい、逢いたい人のもとを訪ねるという。柳田國男によれば、「あま人」と同様、秋田県仙北郡の伝承ではこのように自分の魂を遊離させてその光景を夢見できる能力を「飛びだまし」と称していた。同じく秋田県の鹿角地方では、知人を訪ねる死際の生霊が「オモカゲ(面影)」と呼ばれていたが、生前の人間の姿をして足が生えており、足音を立てたりもする。
また柳田の著書『遠野物語拾遺』によれば、岩手県遠野地方では、「生者や死者の思いが凝って出歩く姿が、幻になって人の目に見える」ことを「オマク」と称し、その一例として傷寒(急性熱性疾患)で重体なはずの娘の姿が死の前日に、土淵村光岸寺の工事現場に現れた話を挙げている。『遠野物語』に関して柳田の主要情報源だった佐々木喜善は、このときまだ幼少で、柳田は目撃現場にいた別の人物からこの例話を収録したとしており、佐々木当人は「オマク」という言葉は知らず、ただ「オモイオマク」(おそらく「思い思はく」)と言う表現には覚えがあることを鈴木棠三が尋ね出している。
能登半島では「シニンボウ(死人坊)」といって、数日後に死を控えた者の魂が檀那寺へお礼参りに行くという。こうした怪異はほかの地域にも見られ、特に戦時中、はるか日本国外の戦地にいるはずの人が、肉親や知人のもとへ挨拶に訪れ、当人は戦地で戦死していたという伝承が多くみられる。
また昭和15年(1940年)の三重県梅戸井村(現・いなべ市)の民俗資料には前述の『曾呂利物語』と同様の話があり、深夜に男たちが火の玉を見つけて追いかけたところ、その火の玉は酒蔵に入り、中で眠っていた女中が目覚めて「大勢の男たちに追いかけられて逃げて来た」と語ったことから、あの火の玉は女の魂とわかったという。
病とされた生霊
江戸時代には生霊が現れることは病気の一種として「離魂病」(りこんびょう)、「影の病」(かげのやまい)、「カゲワズライ」の名で恐れられた。自分自身と寸分違わない生霊を目撃したという、超常現象のドッペルゲンガーを髣髴させる話や、生霊に自分の意識が乗り移り、自分自身を外側から見たと言う体験談もある。また平安時代には生霊が歩く回ることを「あくがる」と呼んでおり、これが「あこがれる」という言葉の由来とされているが、あたかも体から霊だけが抜け出して意中の人のもとへ行ったかのように、想いを寄せるあまり心ここにあらずといった状態を「あこがれる」というためと見られている。
生霊と類似する行為・現象
「丑の刻参り」は、丑の刻にご神木に釘を打ちつけ、自身が生きながら鬼となり、怨めしい相手にその鬼の力で、祟りや禍をもたらすというものである。一般にいわれる生霊は、人間の霊が無意識のうちに体外に出て動き回るのに対し、生霊の多くは、無意識のうちに霊が動き回るものだが、こうした呪詛の行為は生霊を儀式として意識的に相手を苦しめるものと解釈することもできる。同様に沖縄県では、自分の生霊を意図的に他者や動物に憑依させて危害を加える呪詛を「イチジャマ」という。
また、似ていることがらとしては、臨死体験をしたとされる人々の中の証言で、肉体と意識が離れたと思われる体験が語られることがある。あるいは「幽体離脱」(霊魂として意識が肉体から離脱し、客観的に対峙した形で、己の肉体を見るという現象)も挙げられよう。 
 
守護霊

 

人などに付きその対象を保護しようとする霊のことである。西洋の心霊主義における「Guardian Spirit」の訳語として、心霊研究家浅野和三郎が提唱して定着したものとされる。
守護霊は、人などを守ろうとする意思を持っている霊的な存在のことで、スピリチュアリズム、心霊主義、ヨーロッパなどキリスト教圏、あるいは民間信仰でしばしば言及されているものである。 生まれつき何らかの要因(生まれた時期や季節など)によって所定の霊が付くと考える人や、先祖など当人に縁のある故人であると考える人、また当人の行いによって良い行い(徳)を積むことで良い霊が集まるという人もある。いずれにせよ当人が災難にあわないよう守ってくれている、と考えられている。
守られ方に関する説明については、信仰ごとに考え方がそれなりに異なっており、様々な類型がある。運命に影響して不運を遠ざけ幸運を招くとされるもの、当人の選択が間違っていて悪い結果を招く場合などに夢枕に立って諭すとされるもの、あるいは危機に際して身を挺して災難が降りかかるのを防ぐとされるもの、または呪いなど霊的な災いに際してその効果を打ち消すとされるもの、などがあるのである。
日本では物に取り憑いて、その繁栄や安全に寄与する妖怪や神霊などが、守護霊とされる場合もある。 例えば家に取りついて家を繁栄させる座敷わらし、船に憑いて安全を守る船霊なども、守護霊とされている。
ドイツでは、守護霊を物理的に隔離できると考え、ウイーンの宝物殿において、ある男の守護霊をガラス箱に入れて展示していた。
特に祖霊信仰など、先祖が子孫を守護していると考える信仰では、先祖を祭ることで守護霊の力を強め、現世における子孫の生活をより強く守ってもらおうとすることもある。その一方で、トーテムのように自らの部族や一族に所定の動物の霊的な力が作用していて、これの力を得ようという考え方もあり、生きている側の働き掛けによって守護する側の霊にも何らかの影響が現れるという考え方もある。
キリスト教の信仰では、守護天使という存在にも言及されることがある。天使はそれ自体が神の延長にある存在だが、この守護天使は各々の個人に付き添っていると考えられており、人間を導くとされている。なおこの守護天使は記録天使として、各々の個人の良しに付け悪しきに付け記録をとっていて、死後の行く先決定に関与しているとも考えられている。
人は守護霊という不可視の存在によって常に見守られている、とし、自身のありようを良きにつけ悪しきにつけ見ているのだから、自らの価値観で判断するだけではなく、こういった存在から客観的に見られても正しいと判断されるように行動しよう、と考える人もいる。
なお、こういった霊的な力を呪術的な手法で意図的に自らに「取り憑かせ」て、本願を成就しようという考えも見出せる。いわゆる犬神では、極限状態に置いた犬の生存に対する執念とも怨念ともいえるものを霊的な装置とみなして、その極限にある犬の首を刎ねて祭るという風習が見出せる。ただしこちらは忌み物としての側面もあり、この犬神を祭る一族を穢れとして扱う風習も見られる。
ただし、いわゆる霊感商法の類では、実際には何ら霊的な能力が無い人が、「付き添っている霊の力を強める」と言いつつ、高価な物品を売り付けるような事例も多いので注意が必要である。
スピリチュアリズムにおける守護霊
スピリチュアリズムにおいては、守護霊は生者をサポートする守護霊団(浅野和三郎の言うところの背後霊)の中心となる霊で、すべての生者には必ず担当の守護霊がつく。一人の人間につく守護霊は一人とされ、原則として人が生きている間は交替しない(交代があるという説も存在する)。スピリチュアリズムにおける守護霊の役割は人を守る(護霊的役割)というよりも、生を受けた人の霊的目的を達成するための手助けをすることとされ、目的を達するために必要と判断されれば、生者にとって一見不幸・不運とされる出来事や不遇な環境を用意することさえあるという。
また、守護霊は霊格が高く現世とは離れた所(霊界)にいるために直接現世に干渉することが難しいとされ、より現世の近くで活動できる指導霊や補助霊などの助けを借りることで守護霊自身の役目を果たすという。また守護霊は高次元の霊視で視られるとも言われる為、一般の霊能者には本物の守護霊を霊視する事はほとんどないとされ、この説に則るならスピリチュアリズムの知識のない霊能者が指導霊や補助霊、若しくは憑依霊を守護霊と視誤るケースが少なくないと考えられる。
さらに、守護霊はどの霊がなるかについては、「約400年前から500年前(或いは700年前)に他界した古い祖先霊が守護霊となる」という説のほかに、類魂説(生者の魂は霊界に存在する固有の霊団グループソウルに属していて、その一部が分霊となって肉体に宿っているとする説)においては本人の所属する類魂の霊、ないしはその類魂に関係の深い高級霊がなると考えられている。
ただし、イギリスの降霊会ハンネン・スワッファー・ホームサークルによれば、守護霊の決定は、霊的な成長レベルや、カルマの清算という純粋な霊的要因によって決められるため、血縁者が守護霊になるケースは稀であると言われている。
指導霊 / spirit guideの訳語。守護霊団のうち生者の才能をつかさどる霊で、芸術、音楽、技術、学業、研究、スポーツなど専門分野・特定分野において生者の能力をサポートする役目を持つ。複数の霊が指導に当たることもあり、人生の場面ごとに必要な能力に応じて交代もする。生者が努力するごとに指導霊との関係は深くなり、多くのインスピレーションを与えることが可能となる。逆に著しく怠けていたりすると影響を及ぼすことが困難になり、指導霊がいなくなる場合もあると考えられている。潜在的には守護霊の下に多数の霊が指導霊候補として控えているとされる。
広義には、人類や国、集団などを指導する高級霊を指す場合もある。
支配霊 / control spirit。生者の運命を制御する霊。生者はあらかじめ大まかな運命を決めて生まれてくるが、その運命の成り行きをコントロールするのが支配霊の役目とされている。結婚や就職など人生の大きな転機や、配偶者や親友との出会いなどに強く働く。
補助霊 / spirit helpers。守護霊や指導霊、支配霊を補佐し、地上(現世)との間を取り持つ役目を持つ霊。守護霊や指導霊ほどには霊格は高くなく、地上への影響力に長けている。先祖など血縁者の霊がその任に当たる場合も少なくない。 
 
死霊 (しりょう、しれい)

 

死者の霊魂。生霊の対語としても使われる。
死霊の話は古典文学や民俗資料などに数多く残されており、その振る舞いも様々である。『広辞苑』によれば、死霊とは人にとりついて祟りをする怨霊のこととされているが、生霊のように人に憑いて苦しめる以外にも、自分を殺した者を追い回したり、死んだ場所をさまよったり、死の直後に親しい者のもとに挨拶に現れたり、さらに親しい者を殺して一緒にあの世へ連れて行こうとする話もある。
『遠野物語』には、娘と2人暮しだった父親が死んだ後、娘の前に父の死霊が現れ、娘を連れ去ろうとした話がある。娘は怖がり、親類や友人に来てもらったが、それでも父親の死霊は娘を連れ去ろうと現れ、1ヶ月ほど経ってようやく現れなくなったという。  
 
言霊 (ことだま)

 

一般的には日本において言葉に宿ると信じられた霊的な力のこと。言魂とも書く。清音の言霊(ことたま)は、森羅万象がそれによって成り立っているとされる五十音のコトタマの法則のこと。その法則についての学問を言霊学という。
声に出した言葉が、現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされた。そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意された。今日にも残る結婚式などでの忌み言葉も言霊の思想に基づくものである。
日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」とされた。『万葉集』(『萬葉集』)に「志貴島の日本(やまと)の国は事靈の佑(さき)はふ國ぞ福(さき)くありとぞ」(「志貴嶋 倭國者 事霊之 所佐國叙 真福在与具」 - 柿本人麻呂 3254)「…そらみつ大和の國は 皇神(すめかみ)の嚴くしき國 言靈の幸ふ國と 語り繼ぎ言ひ繼がひけり…」(「…虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言霊能 佐吉播布國等 加多利継 伊比都賀比計理…」 - 山上憶良 894)との歌がある。これは、古代において「言」と「事」が同一の概念だったことによるものである。漢字が導入された当初も言と事は区別せずに用いられており、例えば事代主神が『古事記』では「言代主神」と書かれている箇所がある。
自分の意志をはっきりと声に出して言うことを「言挙げ」と言い、それが自分の慢心によるものであった場合には悪い結果がもたらされると信じられた。例えば『古事記』において倭建命が伊吹山に登ったとき山の神の化身に出会ったが、倭建命は「これは神の使いだから帰りに退治しよう」と言挙げした。それが命の慢心によるものであったため、命は神の祟りに遭い亡くなってしまった。すなわち、言霊思想は、万物に神が宿るとする単なるアニミズム的な思想というだけではなく、心の存り様をも示すものであった。
他の文化圏の言霊
他の文化圏でも、言霊と共通する思想が見られる。『旧約聖書』の「ヘブライ語:רוח הקודש」(ルーアハ)、『新約聖書』では「希: Πνεύμα」(プネウマ。動詞「吹く」(希: πνεω)を語源とし、息、大いなるものの息、といった意が込められる)というものがある。「風はいずこより来たりいずこに行くかを知らず。風の吹くところいのちが生まれる。」この「風」と表記されているものが「プネウマ」である。
一般に、音や言葉は、禍々しき魂や霊を追い払い、場を清める働きがあるとされる(例:拍手 (神道))。これは洋の東西を問わず、祭礼や祝い、悪霊払いで行われる。神事での太鼓、カーニバルでの笛や鐘、太鼓、中華圏での春節の時の爆竹などはその一例である。
言葉も、呪文や詔としてその霊的な力が利用される。ただし、その大本になる「こと」(事)が何であるかということには、さまざまな見解がある。たとえば「真理とは巌(いわお)のようなものであり、その上に教会を築くことができる」と考えたり、あるいは「真実を知りたければ鏡に汝自身を映してみよ、それですべてが明らかになる」といい、それは知りうるものであり、また実感として捉えられるものであるとみる意見や、「こと」自体はわれわれでは知りえないものであるという主張もある。これらはさまざまな文化により、時代により、また個人により大きく異なっている。  
 
人魂 (ひとだま)

 

主に夜間に空中を浮遊する火の玉(光り物)である。古来「死人のからだから離れた魂」と言われており、この名がある。
古くは古代の文献にも現われており、現代でも目撃報告がある。また同様の現象は外国にもあり、写真も取られている。
万葉集の第16巻には次の歌が掲載されている。
人魂のさ青なる君がただひとり逢へりし雨夜の葉非左し思ほゆ
鬼火(おにび)、狐火などとも言われ混同されることがあるが、人魂は「人の体から抜け出た魂が飛ぶ姿」とされるものであるので、厳密には別の概念である。
形や性質について語られる内容は、全国に共通する部分もあるが地域差も見られる。余り高くないところを這うように飛ぶ。色は青白・橙・赤などで、尾を引くが、長さにも長短がある。昼間に見た例も少数ある。
沖縄県では人魂を「タマガイ」と呼び、今帰仁村では子供が生まれる前に現れるといい、土地によっては人を死に追いやる怪火ともいう。
千葉県印旛郡川上村(現・八街市)では人魂を「タマセ」と呼び、人間が死ぬ2,3日前から体内から抜け出て、寺や縁の深い人のもとへ行き、雨戸や庭で大きな音を立てるというが、この音は縁の深い人にしか聞こえないという。また、28歳になるまでタマセを見なかった者には、夜道でタマセが「会いましょう、会いましょう」と言いながらやって来るので、28歳まで見たことがなくても見たふりをするという。
諸説
19世紀末イギリスの民俗学者セイバイン・ベアリング=グールドは、腐敗した燐化水素の発散が墓の上をただよう青い光を生むということはありそうなことだと考えていた。一説によると,「戦前の葬儀は土葬であったため、遺体から抜け出したリンが雨の日の夜に雨水と反応して光る現象は一般的であり、庶民に科学的知識が乏しかったことが人魂説を生み出した」と言われる、が人や動物の骨に含まれるリンは発光しないので該当しない。
昔から、蛍などの発光昆虫や流星の誤認、光るコケ類を体に付けた小動物、沼地などから出た引火性のガス、球電、さらには目の錯覚などがその正体と考えられた。例えば寺田寅彦は1933年(昭和8年)に帝国大学新聞に寄稿した随筆の中で、自分の二人の子供が火の玉を目撃した状況や、高圧放電の火花を拡大投影した像を注視する実験、伊豆地震の時の各地での「地震の光」の目撃談に基づき、物理的現象と錯覚とが相俟って生じた可能性を述べている。実際に可燃性ガスで人工の人魂を作った例もある(山名正夫・明治大学教授のメタンガスによる実験、1976年ほか)。
1980年代には、大槻義彦が「空中に生じたプラズマである」と唱えた。
だが、上記の説明群では説明できないものもあり、様々な原因・現象により生じると考えられる。 
 
木霊 (こだま、木魂)

 

樹木に宿る精霊である。また、それが宿った樹木を木霊と呼ぶ。また山や谷で音が反射して遅れて聞こえる現象である山彦(やまびこ)は、この精霊のしわざであるともされ、木霊とも呼ばれる。
精霊は山中を敏捷に、自在に駆け回るとされる。木霊は外見はごく普通の樹木であるが、切り倒そうとすると祟られるとか、神通力に似た不思議な力を有するとされる。これらの木霊が宿る木というのはその土地の古老が代々語り継ぎ、守るものであり、また、木霊の宿る木には決まった種類があるともいわれる。古木を切ると木から血が出るという説もある。
木霊は山神信仰に通じるものとも見られており、古くは『古事記』にある木の神・ククノチノカミが木霊と解釈されており、平安時代の辞書『和名類聚抄』には木の神の和名として「古多万(コダマ)」の記述がある。『源氏物語』に「鬼か神か狐か木魂(こだま)か」「木魂の鬼や」などの記述があることから、当時にはすでに木霊を妖怪に近いものと見なす考えがあったと見られている。怪火、獣、人の姿になるともいい、人間に恋をした木霊が人の姿をとって会いに行ったという話もある。
伊豆諸島の青ヶ島では、山中のスギの大木の根元に祠を設けて「キダマサマ」「コダマサマ」と呼んで祀っており、樹霊信仰の名残と見られている。また八丈島の三根村では、木を刈る際には必ず、木の霊であるキダマサマに祭を捧げる風習があった。
沖縄島では木の精を「キーヌシー」といい、木を伐るときにはキーヌシーに祈願してから伐るという。また、夜中に倒木などないのに倒木のような音が響くことがあるが、これはキーヌシーの苦しむ声だといい、このようなときには数日後にその木が枯死するという。沖縄の妖怪として知られるキジムナーはこのキーヌシーの一種とも、キーヌシーを擬人化したものがキジムナーだともいう。
鳥山石燕の妖怪画集『画図百鬼夜行』では「木魅(こだま)」と題し、木々のそばに老いた男女が立つ姿で描かれており、百年を経た木には神霊がこもり、姿形を現すとされている。
これらの樹木崇拝は、北欧諸国をはじめとする他の国々にも多くみられる。 
 
魂魄 (こんぱく)

 

中国の道教や伝統中国医学における霊についての概念である。以下記述する。
道教の魂魄
中国の道教では魂と魄(はく)という二つの異なる存在があると考えられていた。魂は精神を支える気、魄は肉体を支える気を指した。合わせて魂魄(こんぱく)とも言う。魂と魄は易の思想と結びつき、魂は陽に属して天に帰し(魂銷)、魄は陰に属して地に帰すと考えられていた。民間では、三魂七魄の数があるとされる。三魂は天魂(死後、天に向かう)、地魂(死後、地に向かう)、人魂(死後、墓場に残る)であり、七魄は喜び、怒り、哀しみ、懼れ、愛、惡しみ、欲望からなる。また、殭屍(キョンシー)は、魂が天に帰り魄のみの存在とされる。(三魂は「胎光・爽霊・幽精」「主魂、覺魂、生魂」「元神、陽神、陰神」「天魂、識魂、人魂」、七魄は「尸狗、伏矢、雀阴(陰)、容贼(吝賊)、非毒、除秽(陰穢)、臭肺」とされる事もある。)
儒学における魂魄現象の解釈
儒学(すなわち公式な学問)の解釈では、張載(11世紀)の鬼神論を読んだ朱子の考察として、世界の物事の材料は気であり、この気が集まることで、「生」の状態が形成され、気が散じると「死」に至るとした上で、人間は気の内でも、精(すぐ)れた気、すなわち「精気」の集まった存在であり、気が散じて死ぬことで生じる、「魂は天へ昇り、魄は地へ帰る」といった現象は、気が散じてゆく姿であるとした。この時、魂は「神」に、魄は「鬼」と名を変える(三浦国雄『朱子集』朝日新聞社)。この「魂・魄」から「神・鬼」への名称変更は、気の離合集散の原理の解釈によるもので、気がやって来るのは「伸」の状態であり、気が去っていくのは「屈」の状態であるとして、気の集散=気の伸屈・往来と定義したことから、「神」は「伸」(シン)に通じ、「鬼」は「帰」(キ)に通じ、元へ戻る=「住」(向こうへ行く)となる。ここに、鬼神=気の集散の状態=魂魄と至る。
「気は必ず散るものであり、二度と集まることはない」と儒学では定義しているが、これは仏教における輪廻転生という再生産を否定するためのものである。ただし、子孫が真心を尽くして祀る時、子孫(生者)の気と通じ感応することで、この世に「招魂」されるとする。一度、散じた気=魂魄は集まらないとしつつも、招魂の時は特別とする、この一見して矛盾した解釈こそ重要であり、この説明がなければ、祭祀の一事を説明できなくなるためである。この現象に関して、後藤俊瑞は「散じた気が大気中に残存し、再び集まり来ることを許容するものである」としたが、この矛盾した解釈をめぐっては、日本の朱子学者を悩ませる種となり、林羅山に至っては、「聖人が祭祀を設けたために、鬼神(=魂魄)の有無を半信半疑(中立的な立場)にならざるをえない」としている(『林羅山文集』巻三十五・祭祀鬼神)。これが因となって、日本近世では、無鬼論者(伊藤仁斎)と有鬼論者(荻生徂徠)に分かれた。
伝統中国医学における魂と魄
魂 / 伝統中国医学において、魂とは、肝に宿り、人間を成長させて行くものであり、また、心を統制する働きだとされている。漢字の部首は「鬼」であるが、この「鬼」が現在の「霊」とほぼ同じ意味で、頭にまだ少し毛が残っている白骨死体の象形文字である。左の云は、「雲」と同じで、形のないもの、掴み所の無いものの意味である。魂が強くなると、怒りっぽくなるとされる。
魄 / 「魄」のほうは、文字通り白骨死体を意味する文字で、人間の外観、骨組み、また、生まれながらに持っている身体の設計図という意味がある。五官の働きを促進させ、成長させる作用があるとされる。肺に宿り、強すぎると物思いにふけるとされる。外観という意味では、「落魄(らくはく、落ちぶれて見てくれまでひどく悪くなる)の語がよくそれを表している。  
 
スピリチュアリティ、スピリチャリティ

 

(英: spirituality)とは、人間に特有な心理的あるいは精神的活動の総体または任意の部分を指す用語であり、多様な意味を持つ。個人の内面における奥深く、しばしば宗教的な感情および信念と関連があるという認識が広く持たれている。スピリチュアリティの意味や、用語として使用する際の理論的および実践的文脈は、分野やテーマによっても相当に異なる。英語のspiritualityに当てはまる日本語はないため、文脈によって霊性、霊的、精神世界、精神性、精神主義、宗教的など様々に訳されるが、意味の限定や誤解を避けるために、カタカナ書きまたは英語で表記されることも多い。宗教学、社会学、文化人類学、心理学、人の幸せや生活の質(QQL)、医療、ターミナルケア(終末医療)などにおける重要な概念として研究されているが、日本人にはなじみのない概念であり、日本語で明確に説明できないこともあり、日本では一般における認知度はあまり高くない。
霊性や精神世界に関わる意味では、日本ではスピリチュアルともよばれる。自然界の法則を超えた神秘的・超常的なものごとである「超自然」(スーパーナチュラル)もスピリチュアルと呼ばれることがあるが、スピリチュアリティは個人の内面あるいは個人を通して見出されるものであり、スピリチュアリティと超自然は異なる概念である。
また、人間の肉体が消滅しても霊魂は存在するとする思想・信仰「心霊主義」(スピリチュアリズム)とも異なる。
概要
スピリチュアリティとは、人間に特有な心理的あるいは精神的活動の総体または任意の部分を指す用語である。合意された特定の意味・定義はなく、日本語訳も一定ではない。様々なスピリチュアリティの意味や定義は、場合によっては互いに矛盾している。文化的運動を指す場合には「霊性」という訳語が当てられることが多いが、生活の質(QOL)や健康について語る際にこの訳語を採用すると、特定の側面(特に宗教的意味)が強調されすぎてしまい、誤解を招きかねない。哲学者・教育学者の西平直は、スピリチュアリティには4つの位相を区別することができると述べている。宗教的生活としてのスピリチュアリティ(→第一の位相)、価値観としてのスピリチュアリティ(→第二の位相)、実存性としてのスピリチュアリティ(→第三の位相)、「大いなる受動性」としてのスピリチュアリティ(→第四の位相)である。鳥取大学の安藤泰至は、スピリチュアリティは「宗教」と「世俗(非宗教)」、「宗教」と他の「宗教」の間の媒介概念となることで、現代社会の宗教状況におけるの様々な局面を同時に照らし出す「時代のことば」になっていると指摘している。
スピリチュアリティは、個人の内面における奥深く、しばしば宗教的な感情および信念と関連があるという認識が広く持たれている。必ずしも特定の宗教に根ざすものではないが、宗教とスピリチュアリティが深い関係で結ばれていることは否定できない。従来の宗教に替わるような新しい自己=霊性探究の運動における一種のスローガンとしても用いられ、近年の欧米では、Spiritual but not religious(SBNR、信仰を持たないが霊性は信じている)という人々も増加している。
「霊性」は、三省堂大辞林では、宗教、特にカトリック教会における宗教心のあり方やその伝統を指す用語として紹介されている。元々spiritualityは、religiousness(信心深さによる敬虔な行為)などと同じ意味で使われていた。霊性、霊的といった、宗教性と重なり合いつつも異なる意味での使用は、1960年代に米国で始まった対抗文化・ニューエイジ運動に起源があるとされ、内面探求への欲求の広がりを受け、欧米ではおおむね1980年代以降に意識的・意図的に用いられるようになった。外来語として入ってきた日本では1990年代に「精神世界」への関心がブームとなり、スピリチュアリティという言葉も使われるようになった。
主流文化における広がりは、1998年に世界保健機関(WHO)が新しく提案した健康定義に、spiritualという言葉が含まれていたことに始まる。スピリチュアリティはこれを契機に主流文化においてもある種の市民権を獲得し、アカデミズムの世界でも注目されるようになった。現在でも、宗教学、社会学、文化人類学、心理学、人の幸せや生活の質(QQL)、医療、人の終末期における重要な概念として研究されている。
語源・背景
スピリチュアリティ(英語:spirituality)の語源はラテン語のスピリトゥス(spiritus)に由来する。このラテン語は、呼吸する・生きている、霊感を得る、風が吹くなどの意味を持つ動詞スピロー(spiro)に基づく。スピリトゥスは、呼吸や息、いのち、意識、霊感、風、香り、霊や魂を意味する。このスピリトゥスは聖書の歴史のなかで、主にギリシャ語のプネウマの訳語となっており、プネウマはヘブライ語におけるルーアハおよびネシャマーに対応している。旧約聖書において、ルーアハは始原のエネルギーであり、神との関わりのなかで、神に従って、新世界を創造するダイナミズムを有するものであり、ネシャマーは神の命の息であり、物質で造られた体にネシャマーが入れられたことで、人は命ある存在となった。聖書における風、息、人間の霊、神の霊といった表現は、一つの存在の中にある本質的なもの、その存在を生かすもの、自ずと発散してくるものを意味している。哲学では、「物質に依存せず、時間と空間に左右されず、合成されたものではない、真・善・美にかかわる行動原理」と考えられてきた。現代英語のspiritは、精神、心、霊魂、聖霊、生気・活気などと訳される。「life and consciousness not associated with a body」(肉体に関連付けられない命や意識)と解説され、肉体との二元論的な意味合いとなっている。また、ラテン語のスピリトゥスは、ギリシャ語のプネウマ同様、もとは呼吸、血液等と同一視され、「生命の原理」と考えられていた。
医療において「スピリチュアル・ペイン」という言葉が知られるが、病や死の接近によって生きる意味や目的が脅かされて経験する苦痛のことで、生きる上での原理に関わる傷み、実存的苦痛、自己存在への苦悩、全存在的苦痛を意味する。心霊現象による苦痛を指すわけではない。
「霊性」は宗教や文化によって異なるため、スピリチュアリティという言葉の背景も一様ではない。日本語の「霊」は、自然物の威力・霊力(「ち」と読むもので、おろち(蛇)、いかずち(雷)等)、祟りなすたましい(「りょう」と読むもので、いきりょう(生霊)、おんりょう(怨霊)等)、たましい(「たま」といわれるもの)といった意味がある。日本の 「霊」には自然界を含めてあらゆる「霊」が含まれるアニミズム的なものであり、一神教におけ二元論的な霊(spiritus)とは意味が異なる。
日本におけるスピリチュアルの訳語の変遷
医療においては、1980年代までは「spiritual needs」を「死について話すことの必要性」と捉え、「spiritual」を「宗教的」と訳すことが場合が多かった。これは当時、キリスト教を想定して「spiritual」を理解し、患者の「spiritual needs」に応えるのはキリスト教の聖職者の役目だと見なされていたためである。その後1980年代後半になると、仏教の立場からの意見も聞かれるようになり、日本人にとっての「spiritual」な側面について注目され、「宗教的」に加えて「霊的」という言葉が用いられるようになった。1990年代になると、あえて訳さずそのままの英語表記または「スピリチュアル」とカタカナ表記されるようになった。
定義・理解
スピリチュアリティという言葉には、共通に認められる定義や意味はない。それぞれが関心に従って機能的な定義を与え、あいまいな部分を切り落とそうと試みるが、各分野における用法は独立したものではなく、相互に影響を与え合っており、それ故に曖昧さが残り続ける。
最も根本的なものとして、宗教との関係のあいまいさが挙げられる。両者の関係として、安藤泰至は次の4つをあげている。
1.「スピリチュアリティ」を「宗教」を含んだ広い概念としてとらえる。
2.重なる部分はあるが、とりあえず区別できるとする。
3.「宗教」のひとつの本質的な要素として「スピリチュアリティ」をとらえる。
4.ふたつは別のものとする。
ある特定の立場からのスピリチュアリティの理解やその概念には、1〜4に見方が複数混在している場合がある。「宗教」をある箇所では「人間の宗教性」とし、別の個所では制度的・文化的な意味での「宗教」と捉えるなど、異なった次元において「スピリチュアリティ」と対比されるためである。安藤泰至は、医療においては2の捉え方が多いが、その重なりをどの程度とするかは、日本とキリスト教圏(特に英語圏)では大きな差があり、キリスト教圏においては重なりは大きいと述べている。日本では伝統宗教の影響が小さいため、「スピリチュアリティ」と「宗教」との重なりを小さいものとし、意識的に宗教と距離を置いた形で専門職によってスピリチュアリティ概念が提唱されている。この場合、「生(や死)の意味の目的の追求」といった側面が強調され、「超越的次元の存在、自覚」のような宗教に近い側面は面に出さない傾向が強い。これは、オウム真理教事件以降の宗教のイメージの低下が影響している。
4つの位相
哲学者・教育学者の西平直は、スピリチュアリティには4つの位相を区別することができるとしている。この4分類に含まれないさらに詳細な位相もあるとしているが、煩雑になるため本記事では触れない。第三と第四の位相は、経験の内奥に潜在する実存性や個人を超越した存在を仮定するもので、トランスパーソナル心理学などでしばしば採用される。この二つの位相には、何かしら実証ないし反証不可能な命題が含まれている。
第一の位相
第一の位相は、世界保健機関(WHO)の健康定義に代表される、身体的、心理的、社会的領域と同一地平にあって、それらとは区別される第4の領域としてのスピリチュアリティである。Carroll, M. M. が、「合体的アプローチ」(integrated approach)として言及したモデルでもある。
1998年に世界保健機関(WHO)で新しい健康定義が提案された。以下が提案された健康定義である。
Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well being and not merely the absence of disease or infirmity.
「健康とは,完全な身体的、心理的、スピリチュアル及び社会的福祉の動的な状態(静的に固定されていない状態)であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」
提案された定義では、dynamicとspiritualという部分が新たに追加されている(この提案は現在まで保留されている)。spiritualの追加は、人間の尊厳の確保や生活の質(QQL)を考えるために、必要かつ本質的なものだという観点から提案されたと言われている。
世界保健機関(WHO)は、スピリチュアリティを、人間として生きることに関連した経験的一側面であり、身体感覚な現象を超越して得た体験を表す言葉であると捉えている。
世界保健機関では健康定義の改正に備え、スピリチュアリティの領域を測定するための尺度SRPB(Spiritual, Religion, and Personal Beliefs スピリチュアル、信仰、個人的信念)を作成した。この尺度は世界保健機関が開発した生活の質(QOL)の尺度であるWHOQOL-100に準拠して構成され、SRPB領域として8つの側面を新たに設定した。
1.絶対的存在との連帯感(Connectedness to a spiritual being or force)
2.人生の意味(Meaning of life)
3.畏怖の念(Awe)
4.統合性と一体感(Wholeness & integration)
5.内的な強さ(Spiritual strength)
6.心の平穏/安寧/和(Inner peace/ serenity/harmony)
7.希望と楽観主義(Hope & optimism)
8.信仰(Faith)
名古屋女子大学の真鍋らは、8つの側面からも心理的領域の側面を除くと、残された側面には魂(soul)、内的な(霊的な)強さ、信仰という一定のキーワードが含まれており、これらが経験される生活領域は宗教である指摘している。ここで述べられる宗教生活は、伝統的な宗教における祈りや儀式への参加だけでなく、絶対的存在を自覚し、それとの結びつきや交流により人生の意味を確認できるような経験を目的とした諸活動がなされる生活領域をすべて含んでいる。文化現象として現れた様々な運動の中でも、オカルト、霊感、神秘体験、瞑想、チャネリングといった、絶対的存在との接触や交流を目的とする活動もここに含まれる。スピリチュアリティが宗教的生活であるとすれば、地域や宗教によって大きな差があると考えられるが、実際WHOの健康定義の改正に積極的だったのは宗教活動が生活に根付いているイスラム圏やアフリカ諸国の代表だった。
西平は、第一の位相におけるスピリチュアリティを宗教性の位相であるとしている。
第二の位相
全人格性としてのスピリチュアリティであり、身体的、心理的、社会的の領域に分けられてしまった人格に統一性を与えるものとして位置づけられる。これはCarroll, M. M.の統一的アプローチ(unifying approach)に当たるものである。現象学派心理学(phenomenological psychology)のDavid N. Elkinsらの視点からの定義がその特徴をよく表している。彼らは定義を行うにあたって、次の仮定を示している。
仮定1. 人間の経験の中にはスピリチュアリティとしか呼びようのない次元がある。
仮定2. スピリチュアリティは人間的現象であり、潜在的には誰にでも起こりうる。
仮定3. スピリチュアリティは宗教と同じではない。
仮定4. スピリチュアリティを定義し、それを評価する方法を開発できる。
この仮定では、スピリチュアリティは人間の経験であり,人間現象であるとされている。この仮定に基づき、文献調査と宗教関係者へのインタビューを行い、スピリチュアリティとしか呼びようのない経験の次元をリスト化し整理し、次のような定義にたどり着いた。スピリチュアリティとは「超越的次元の存在の自覚によって生じる存在・経験様式のひとつであり、それは自己、他者、自然、生命,至高の存在と考える何かに関する一定の判別可能な価値観によって特徴づけられる」。
さらに彼らは,スピリチュアリティを9つの要素から成る多元的構成体として再定義し、それぞれの要素を測定するための尺度を開発している。
1. 超越的次元の存在: 超越的次元、すなわち何かしら「見えない世界」の存在を信じ、それと繋がることで力を得ていると感じる。
2. 人生の意味と目的: 人生には意味があり、存在には目的があると確信している。
3. 人生における使命: 生への責任、天命、果たすべき使命があると感じる。
4. 生命の神聖さ: 生命は神聖であると感じ、畏怖の念を抱く。
5. 物質的価値: 金銭や財産を最大の満足とは考えない。
6. 愛他主義: 誰もが同じ人間であると思い、他人に対する愛他的感情を持つ。
7. 理想主義: 高い理想を持ち、その実現のために努力する。
8. 悲劇の自覚: 人間存在の悲劇的現実(苦痛、災害、病気、死など)を自覚している。そのことが逆に生きる喜び、感謝、価値を高める。
9. スピリチュアリティの効果: スピリチュアリティは生活の中に結実するもので、自己、他者、自然、生命、何かしら至高なる存在等とその個人との関係に影響を与える。
Elkinsらの定義は、スピリチュアリティは宗教的活動として顕在化するのではなく、幅広い領域での生活経験に潜在的な影響を与えるもの、すなわち価値観(value)として捉えている。
第三の位相
人間の根源にある「生きる意味」の自覚に関わる実存性としてのスピリチュアリティ。
第四の位相
「聖なるもの」や「大いなるもの」との出会いやつながり(あるいは一体感)によって、自分が「生かされている」ことを実感する、「大いなる受動性」と呼ばれるもの。
各人の定義
臨床心理学 D.N. エルキンス / 魂を養い、霊的側面を発達させるプロセスおよびその結果。
看護学科 長山正義 / 人間に特有な心理的あるいは精神的活動の総体。
神学 スピリチュアルケア研究・実践 窪寺俊之 / 人生の危機に直面して「人間らしく」「自分らしく」生きるための「存在の枠組み」「自己同一性」が失われたときに、それらのものを自分の外の超越的なものに求めたり,あるいは自分の内面の究極的なものに求める機能。
トランスパーソナル心理学 中村雅彦 / 市井の人々の日常生活における体験、信念、態度および価値観の反映された多様な心理的変数であり、それは人々にとって必ずしも自覚され意識されているとは限らない「潜在因子」である。
死生学研究 藤井美和 / どんな状態でも自分をよしとでき、生きることに根拠を与えるもので、人間存在の根源を支える領域である。これには宗教性が含まれている。
社会福祉研究 木原活信 / 人間の核となるものであり、精神と身体とを結合させるものである。精神とは区別して用いられ、精神、物質、あるいは肉体を包括するもの。
スピリチュアルケア研究 三澤久恵 / 個人の生きる根元的エネルギーとなるものであり、存在の意味に関わるものであり、ゆえにその有り様は、個人の全人的状態、すなわち、個人の身体的、心理的、社会的領域の基盤として各側面の表現形に影響をおよぼす。
学術的研究
スピリチュアリティは宗教学、文化人類学、心理学、代替医療などが相互に関連しあう分野である。
宗教学や宗教社会学の分野では、島薗進などの宗教学者の研究も古くから注目を集めてきた。近年では、「宗教と社会」学会スピリチュアリティ研究プロジェクトの代表研究者である弓山達也や樫尾直樹などとスピリチュアルデザイン研究所を中心とした研究グループをスピリチュアリティ学派と呼ぶことがある。また、非宗教分野での擬似宗教的な実践としてのスピリチュアリティへの関心は、非宗教分野での研究者からも広く注目されるようになっている。
さらに、磯村健太郎の著書『〈スピリチュアル〉はなぜ流行るのか』がある。心理学の面からの取り組みとして、ユング心理学の河合隼雄、トランスパーソナル心理学の諸富祥彦らがいる。 
 
悪霊 (あくりょう、あくれい)

 

悪しき霊。ただし、宗教によって異なる。
キリスト教
聖書には、イエス・キリストが悪霊を追い出し、やまいをいやし、また弟子たちに悪霊を追い出す権威を授けたと書かれてある。教父のテルトゥリアヌス、アウグスティヌスは、異教の神々は堕落した御使いである悪霊だと説明している。カトリック教会には、エクソシスム、エクソシストがあり、プロテスタントでは悪霊追い出しと呼ばれる。サタンと悪霊は堕落した御使いという共通点があるが、サタンと悪霊は区別されている。この場合サタンは堕落した御使いの階級的頂点にある存在であり、悪霊はその手下を指している。ウェストミンスター信仰基準は全人類の始祖がサタンの悪巧みと誘惑にそそのかされて罪を犯し、堕落したために、人間は生まれながらにして怒りの子、サタンの奴隷であると告白する。福音派はノンクリスチャンがすべて悪魔の支配下にあり、宣教の働きは彼らを悪魔の支配下から神の支配下に移すことであると定義する。
比較宗教学
たたりをする死霊を指す宗教もある。悪霊は、祟りや呪いによってわざわい(病気、不運など)の原因となると考えられているものである。
英語の「evil spirit」、ドイツ語の「böser Geist」など、あるいは悪魔、(善神に対立する)悪神などにあたる概念が「悪霊」と翻訳される。
呪術師、祈祷師などに、悪霊ばらい、禊(みそぎ)、祓い(はらい)を依頼するという習慣やしきたりは、東南アジア、インド、スリランカ、日本などのアジア、あるいはアフリカ、中南米など、世界各地に見られる。
キリスト教圏においても、植民地であった地域では、しばしば見られる。たとえば南米各地のインディオの風俗習慣の強く残る地域や、フィリピンなどにおいては、カトリックは各地域に古くからあった信仰(民間信仰)と習合している場合も多く、キリスト教の悪魔ではなく、その地域の信仰の悪霊がとり憑いたとされるときは、人々によってその伝統にそった儀式が行われている。
エホバの証人では、悪霊(あくれい)とは、神に反逆したみ使いで、悪魔サタンとともにエホバの崇拝に反対する霊者である。 
 
怨霊 (おんりょう)

 

自分が受けた仕打ちに恨みを持ち、たたりをしたりする、死霊または生霊のことである。悪霊に分類される。
生きている人に災いを与えるとして恐れられた。
憎しみや怨みをもった人の生霊や、非業の死を遂げた人の霊。これが生きている人に災いを与えるとして恐れられている。
霊魂信仰の考え方では、霊魂が肉体の中に安定しているときその人は生きていられる、と考える。怨みや憎しみなどの感情があまりに激しいと、霊魂が肉体から遊離して生霊となり災いを与える、と考える。
戦死、事故死、自殺などの非業の死をとげた人の場合は、霊肉がともにそろった状態から、突然、肉体だけが滅びた状態になる、とされる。したがって、その人の霊魂は行き所を失い、空中をさまよっていると考えた。これらの霊が浮遊霊である。平安時代の書物にさかんに現れる物の怪(もののけ)、中世の怨霊や御霊、近世の無縁仏や幽霊などは、いずれもこうした浮遊霊の一種とみることができる。
怨霊を主題とした講談や物語などがあり、こういったフィクションなどでは様々な設定で描写されることもある。
怨念
神霊においての怨念(おんねん)とは、祟りなどを及ぼすとされる「思念」を指す。
著名な伝承
日本においては、古くは平安時代の菅原道真や平将門、崇徳上皇などの歴史上の政争や争乱にまつわる祟りの伝承、時代が下った近世では江戸時代に「田宮家で実際に起こったとされる妻のお岩にまつわる一連の事件」としてまとめられた『四谷雑談集』を鶴屋南北(四世)が怪談として脚色した「東海道四谷怪談」などが挙げられる。
また、近代に入っても、明治時代から第二次世界大戦終戦直後に東京で起きたとされる、「大蔵省庁舎内およびその跡地における『首塚』移転などにまつわる数々の祟り」など、伝承されてきた怨霊に関する風聞が広まったこともあった。
民俗学的背景
「江戸時代に至ってもなお、庶民は一般的に怨霊に対する畏怖感、恐怖感を抱いていた」という民俗学上の分析もある。上に挙げた死者の霊は両義的側面を持っていることが分かるが、怨霊と反対に祝い祀られているのが祖霊である。また民俗学と全く関係ないわけでもないが哲学者の梅原猛は日本史を怨霊鎮めの観点から捉えた「怨霊史観」で著名である。
インドの仏教では人は7日に1度ずつ7回の転生の機会があり、例外なく49日以内に全員が転生すると考えられているために霊魂と言う特定の概念がちがうが、日本では神仏習合のため、日本の仏教では霊を認める宗派もある。
怨霊信仰
怨霊の神格化をいい、平安時代以前の怨霊とみられるものとしては、大和政権が征服を進める際に敵方の霊を弔ったという隼人塚がある。いくつかの神社などにおいて、実在した歴史上の人物が、神として祀られている。
日本三大怨霊とされる、菅原道真は、太宰府天満宮(福岡県太宰府市)や北野天満宮(京都市上京区) / 平将門は、築土神社(東京都千代田区)や神田明神(東京都千代田区) / 崇徳天皇は、白峰宮(香川県坂出市)や白峯神宮(京都市上京区)にそれぞれ祀られている。 
 
除霊

 

除霊とは
除霊とは、ある人が長い間心や体のトラブルから抜け出せなかったり、家族に次々と災難が降りかかったりする時に、霊能者にお願いしてお祓いをしてもらうことです。成仏していない霊が取り付いているからトラブルが起きていると考えるのです。霊能者は、その人や土地、家族に取り付いている霊を見付けられます。普通の人には見えない霊が見えるのです。そして、特別な方法で除霊することができるのです。
どんな時に除霊が必要か
どんな時に除霊が必要になるかと言うと、心や体の状態がすぐれない状態が続く時です。次々と病気にかかったり、原因不明の熱が続いたりする時には、良くない霊が取り付いているのかもしれません。うつ状態や幻聴幻覚、自殺願望が消えない時にも霊能者にお祓いをお願いすることで解決することがあります。
土地に関する除霊
ある土地に引越しをしてから家族にトラブルが続く時には、土地の除霊が必要かもしれません。以前住んでいた人に不幸な亡くなり方をしたり、その土地で事故が起きたりしたことがないか、確認してみると良いでしょう。土地の除霊は、霊能者に現場に来てもらってお祓いを行う必要があります。玄関の方角や寝室の位置など、建物の方位を変更したほうが良いこともあります。
動物に関する除霊
鏡を見た時に自分の人相が変わっていたり、動物のような仕草が止められなかったりした時には、動物の霊が取り付いている可能性があります。除霊を考えて見ると良いでしょう。それから、他の人とうまく人間関係が築けない場合や、赤面症のため人前で話ができない場合も動物の霊が原因である可能性があります。片付けができない人や狭い場所が好きな人も、霊能者に頼んで動物の除霊を行うと改善することがあるそうです。  
 
船霊様

 

板子一枚下は地獄だと云われる漁師や船乗りは水神様や厳島神社を観請して信仰し、航行中や漁撈活動中の安全を祈願した。また船には必ず船霊様を祀った。水神様や厳島神社はその土地の産土神として篤い信仰は継がれて居るが、海が工業地帯となって約半世紀を経た今日船霊様に関しては海で生きて来た人達からも忘れられつつある。
船霊は船玉・船魂とも書き、船中に祀られた船の守護神である。この船霊信仰は奈良・平安時代には信仰されていた事が「続日本記」第二十四巻天平宝字七年(763)八月の条に「壬午。初遣高麗国船名日能登 帰朝之日 風波暴急漂蕩海中祈日 幸頼船霊平安到国可必請朝廷」とある。「能登」という船名の船が朝鮮の高麗から帰国の途中暴風に遭い海中を漂流沈没寸前船霊に無事平安を祈願したところ、さしもの荒波は静まり無事帰国できたと記している。
船霊様は中型船以上の木造船には必ず祀ったが、船大工が深夜ひそかに祀り込んだので船頭や漁師たちは船霊の実態を知る人は少ない。安房郡和田町の例では檜の角材に穴を掘り檜の板屋根と基壇をつけお宮を造り、男女の人形、サイコロ、銭12枚(十二銭)五穀(米、麦、大豆、小豆、ささげ)を半紙に包み女の髪毛と麻、サイコロを添えて祀る。サイコロは目が天1地6にする。1を天、2を地として祀ることは船の重心が下部にある方が安定するからである。賽の目には、2はオモガジ・にっこり。3はオモテ・みあわせ。4はトモ(艫)しあわせ。5はトリカジ・ぐっぴり。という語呂合わせがあるという。
市原では江戸中期頃より五大力船が物資の輸送に重要な役割を果たしたが、昭和初期にはその船影を見ることがなくなった。昭和48年、筆者と大室晃氏とで姉崎川崎の船頭・小高綱次翁等より五大力船に関する調査を行った。その際の船霊様の説明によると、女の髪の毛、櫛、簪、紅(化粧品)穴空き銭数枚、船大工の造ったサイコロ二個をセットとして帆柱の基部に穴を開けて其処に祀った。二個のサイコロは三を表に四を裏側にしておいた。三と四に語呂合わせがあって三は「オモテ・しあわせ。四はともしらが。と言い船霊を収納するところを「ツツ」と呼んだという。今津地区にも同様の語呂合わせが伝承されていた。
小型漁船には船霊を祀る例は少ないが今津朝山では胴の間(船の中央部)の帆柱の基部に小穴を穿ち、そこにサイコロを一個だけ船の守り神(船霊様)として祀ったという。やはり賽の目一を上に六を下にする一天六地の決まりを守っていたようだ。また漁師は船の船霊とは別にサイコロ一個を身の安全を守る為に懐中に所持していたという。
(付記)
1.安房地方では船主の妻や娘の髪の毛を賽子(サイコロ)や人形や五穀等と共に祀ったという。女の髪の毛を編むと強靭な綱となり災難から守るということから一緒に収納したと云う。また、出漁した船が無事に帰港できることを願って干からびた蛙も一緒に祀る例もあると云う。
2.今津地区の小型漁船には帆柱の下部の「エチゴジリ」に縦・横10センチ程の船霊祭祀の穴を穿ち、神官より戴いた木製の守り札と賽子をお祀りしたと云う。
3.サイコロの賽の目を一を上に六を下にして祀るのは、船の安定を守ることを祈願することであるが、新造船の船卸の際に船大工の機嫌を損じると賽の目を一を下に六を上に祀るようなことをされると云う。船は上荷が勝つと安定性が悪く強風に遇うと横転することがある。船霊様の祭祀物の中でも賽子は船の安全と安全を祈願する最も重要なものであると云える。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
憑依(ひょうい)

 

霊などが乗り移ること。憑(つ)くこと。憑霊、神降ろし・神懸り・神宿り・憑き物ともいう。とりつく霊の種類によっては、悪魔憑き、狐憑きなどと呼ぶ場合もある。
「憑依」という表現は、ドイツ語の Besessenheit や英語の (spirit) possession などの学術語を翻訳するために、昭和ごろから、特に第二次世界大戦後から用いられるようになった、と池上良正によって推定されている(#訳語の歴史を参照)。ファース(Firth, R)によれば、「(シャーマニズムにおける)憑依(憑霊)はトランスの一形態であり、通常ある人物に外在する霊がかれの行動を支配している証拠」と位置づけられる。脱魂(英: ecstassy もしくは soul loss)や憑依(英: possession)はトランス状態における接触・交通の型である。
宗教学では「つきもの」を「ある種の霊力が憑依して人間の精神状態や運命に劇的な影響を与えるという信念」とする。
訳語の歴史
人類学、宗教学、民俗学などの学術用語として用いられるようになった「憑依」あるいは「憑霊」という表現は、明らかにドイツ語の Besessenheit や英語の(spirit) possession などの翻訳語であり、欧米の学者らが使用する学術用語が日本の学界に輸入されたものである、と池上良正は指摘した。1941年(昭和25年)のある学術文献には「憑依」の語が登場した。一般化したのは第二次世界大戦後だろうと、池上良正は推定した。
「憑依」という学術用語が用いられるようになって後は、この用語に関して、様々な理論化や類型化が行われてきた。例えば、憑依という用語にとらわれすぎず、「つく」という言葉の幅広い含意も踏まえつつ憑霊現象をとらえなおした小松和彦の研究などがある。
「憑依」という用語と分類の恣意性
ただし、学術的な研究が進むにつれて、当初は明確な輪郭をもっているように思われた「憑依」という概念が、実は何が「憑依」で何が「憑依」でないか線引き自体が困難な問題であり、評価する側の価値判断や政治的判断が色濃く反映され、バイアスがかかってしまっている、やっかいな概念である、ということが次第に認識されるようになってきた。
というのは、大和言葉の「つく」という言葉ならば、「今日はツイている」のように幸運などの良い意味で用いることができる。ところが「憑依」は否定的な表現である。英語の be obsessed や be possessed などは否定的な表現であり、「憑依」も否定的に用いられてしまっているのである。現実に起きていることはほぼ類似の現象であっても、書き手の側の価値判断や政治的判断によってそれを呼ぶ表現が恣意的に選ばれてしまい、別の表現になってしまっているのであるといったことを池上などは指摘する。
例えば聖書には次のようなくだりがある。
イエスはバプテスマを受けると、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように自分の上に下ってくるのをご覧になった。また天から声があって言った。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である(マタイによる福音書、3.16)
祈りが終わると、彼らが集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。(使徒行伝 4.31)
このような箇所が翻訳される場合は肯定的に表現され、「憑依」を暗示するような訳語は使われず、このような箇所は「憑依」に分類されてこなかったのである。一方、同じく聖書には次のようなくだりがある。
イエスが向こう岸のガダラ人の地に着かれると、悪霊に取りつかれた者がふたり、墓場から出てきてイエスのところにやって来た。二人は非常に凶暴で(中略)、突然叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ時ではないのに、ここにきて、我々を苦しめるのか」。はるか離れたところで多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで悪霊たちはイエスに願って言った。「もし我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」。イエスが「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると豚の群れは崖から海へなだれこみ、水の中で死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町に行き、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。(マタイによる福音書8.28-33)
これなどは「取りつかれた」などの「憑依」を暗示する用語・訳語が選ばれ、そういう位置づけになっている。
一方、沖縄のユタと呼ばれる人がカミダーリィの時期を回想した体験談に次のようなものがある。
そして神様に歩かされて、夜中の3時になるといつもウタキまで歩かされて、そうすると、天が開いたように光がさして、昔の(琉球王朝の)お役人のような立派な着物を着たおじいさんが降りて来られて「わたしの可愛いクァンマガ(子孫)」とお話をされる。
この体験談を聖書の引用と比較してみると、明らかにイエス自身の事跡を示したマタイ伝3.16以下のくだりと酷似している。まともに判断すれば、マタイ伝3.16のくだりと同じ位置づけで研究されてもようさそうなはずのものなのだが、ところが学術の世界では「ユタと言えばカミダーリィ(神がかり)。だからシャーマン。巫者。だから”憑依”される人物だ」といったような、冷静に検討すれば、あまり正しいとは言えない理屈で分類されるようなことが行われてきたのである。
キリスト教徒のなかには、「キリスト教徒以外の異教徒はすべてサタンによって欺かれている」などと言う人もおり、キリスト教の外にあるイタコやユタなどは”悪霊に憑かれた者”に分類し、それに対して、キリスト教の中にある聖霊に関しては「憑かれる」とは表現しない、と池上は指摘した。こうした表現や用語の選定段階には、聖書の編者たちやキリスト教徒たちの価値判断や解釈が埋め込まれてしまっているのである、と池上は述べた。学者らがこうしたキリスト教徒の「信仰」自体を批判する筋合いにはないが、問題なのは、こうしたキリスト教信仰による分類法が、「学術研究」とされてきたものの中にまでも実は深く入り込み、研究領域が恣意的に分けられてしまうようなことが行われてきたことにある、と池上良正は指摘した。つまり、「ついた」「神がかった」などという表現があると「憑依」や「シャーマニズム」に分類して、宗教人類学や宗教民俗学の守備範囲だとし研究されたのに、「(イエス・キリストが)天が開け神の御霊が鳩のように自分の上に下ってくるのをご覧になった」という記述や「高僧に仏の示現があった」「見仏の体験を得た」という記述は、別扱いになってしまい、キリスト教研究や仏教研究の領域で行われる、ということが平然と行われてきたしまったといった内容のことを池上は指摘した。
古代ギリシャ
哲学 / プラトンはその著作『パイドロス』の中で「神に憑かれて得られる予言の力を用いて、まさに来ようとしている運命に備えるための、正しい道を教えた人たち」と、前4世紀当時のギリシャの憑依現象について紹介している。『ティマイオス』では、憑依された人が口にする予言や詩の内容を、客観的な視点から理性を用いて的確に判断し解釈する人が傍らに必要であることを述べている。
アブラハムの宗教
アブラハムの宗教であるユダヤ教もキリスト教もイスラム教にも、預言者が登場する。これは神が宿ったものともいえる。(預言、福音、啓示)
キリスト教
新約聖書の福音書で「つかれた」と訳される δαιμονίζομαι の語は、パウロ書簡にはでてこない。
ルーダンの憑依事件(英語版)について、神学者のミッシェル・セルトーが、神学、精神分析学、社会学、文化人類学をクロスオーバーさせつつ分析している。
カトリック教会の神学では、夢遊病的なもの(the somnambulic)の型のつきものに possession の名を与え、正気のもの(the lucid)の型のつきものに obsession の名を与えている。
神道・古神道
相撲 / 皇室に奉納される神事であり、横綱はそのときの「戦いの神」の宿る御霊代である。
祓い / 昔の巫女は1週間程度水垢離をとりながら祈祷を行うことで、自分に憑いた霊を祓い浄める「サバキ」の行をおこなうこともあった。
日本語における憑依の別名
神宿り - 和御魂の状態の神霊が宿っている時に使われる。
神降ろし - 神を宿すための儀式をさす場合が多い。「神降ろしを行って神を宿した」などと使われる。降ろす神によって、夷下ろし、稲荷下ろしと称される
神懸り - 主に「人」に対し、和御魂の状態の神霊が宿った時に使われる。
憑き物 - 人や動物や器物(道具)に、荒御魂の状態の神霊や、位の低い神である妖怪や九十九神や貧乏神や疫病神が宿った時や、悪霊といわれる怨霊や生霊がこれらのものに宿った時など、相対的に良くない状態の神霊の憑依をさす。
ヨリマシ -尸童と書かれる。祭礼に関する語で、稚児など神霊を降ろし託宣を垂れる資格のある少年少女がそう称された。尚柳田國男は『先祖の話』中で憑依に「ヨリマシ」のふりがなを当てている 。
民俗学における憑依観
民俗学者の小松和彦は、憑き物がファースの定義による「個人が忘我状態になる」を伴わないことや、社会学者I・M・ルイスの「憑依された者に意識がある場合もある」という指摘以外も含まれることから、憑依を、フェティシズムという観念からなる宗教や民間信仰において、マナによる物体への過剰な付着を指すとした。そのため、「ゲームの最中に回ってくる幸運を指すツキ」の範疇まで含まれると定義する。さらに、そのような観点から鑑みるに、日本のいわゆる憑きもの筋は「possession ではなく、過剰さを表す印である stigma」であるとする。また、谷川健一は、「狐憑き」が「スイカツラ」や「トウビョウ」など、蛇を連想させる植物でも言われることから、「蛇信仰の名残」とし、「狐が憑いた」という説明を「後に説明しなおされたもの」と解説している。
医学と憑依
医学においては森田正馬(森田療法で有名)は祈祷性精神病を研究した。医学領域では、憑依とされているものの一部は、精神疾患の一種と解釈したほうがよいと判断することがある。
ただし、沖縄では「ターリ」あるいは「フリ」「カカイ」などと呼ばれる憑依現象は、その一部が「聖なる狂気」として人々から神聖視された。そのおかげで憑依者は、治療される対象として病院に隔離・監禁すべきとする近代西洋的思考に絡め取られることは免れた、ともされる。
沖縄の本土復帰以降には、同地に精神病院が設立されたものの、同じころ(西洋的思考の)精神医学でも「カミダーリ」なども、人間の示す積極的な営為の一つであるというように肯定的な見方もなされるようになったおかげで、沖縄は憑依(の一部)を肯定する社会、として現在まで存続しているともされている。
超常現象研究からの所見
職業霊媒のように、人間が意図的に霊を乗り移らせる場合もある。だが、霊が一方的に人間に憑くものも多く、しかも本人がそれに気がつかない場合が多い。
とりつく霊とされているのは、本人やその家族に恨みなどを持つ人の霊であったり、動物霊であったりする。
何らかのメッセージを伝えるために憑くとされている場合もあり、あるいは本人の人格を抑えて霊の人格のほうが前面に出て別人になったり、動物霊が憑依した場合は行動や容貌がその動物に似てくる場合もある。
こうした憑依霊が様々な害悪を起こすと考えられる場合は、それは霊障と呼ばれている。
ピクネットによる説明
超常現象専門の研究者であるピクネットは、種々の文献や、証言を調査して以下のように紹介している。
歴史 / 憑依は太古の昔から現代まで、また洋の東西を問わず見られる。すでに人類の歴史の初期段階から、トランス状態に入り、有意義な情報を得ることができるらしい人がわずかながらいることほ知られていた。部族社会が出現しはじめた頃、憑依状態になった人たちはいつもとは違う声で発語し、周囲の人々は霊が一時的に乗り移った気配を感じていたようである。初期文明では憑依は「神の介入」と見なされていたが、古代ギリシャのヒポクラテスは「憑依は、他の身体的疾患と同様、神の行為ではない」と異議を唱えている。西洋のキリスト教では、憑依に対する見解は時代とともに変化が見られ、聖霊がとりつくことが好意的に評価されたり、中世には魔法使いや異端と見なされ迫害されたり、近代でも悪魔祓いの対象とされたりした。現在でも憑依についての解釈は宗派によって、見解の相違が存在する。(→#キリスト教)近年でも憑依の典型的な例は起きている。例えばイヴリン・ウォーは『ギルバート・ピンフォードの苦行』という本を書いたが、これは小説の形で提示されてはいるものの、ウォー自身は、これは自分に実際に起きたこと、とテレビで述べている。(ただしこの事例では、酒と治療薬の組み合わせが原因とも言われている)。最近では「良い憑依」というのを信じる人々もいる。肉体を備えていない霊が、肉体の「主人」の許可を得てウォークイン状態で入り込み、祝福のうちに主人にとってかわることもあり得る、と信じる人たちがいる。
古代イスラエル / ヘブライ語聖書(旧約聖書)にも憑依の記述は存在する。古代イスラエルでは、その状態は霊に乗っ取られた状態であり、乗っ取る霊は悪い霊のこともあり、サタンの代理として登場する記述がある。
キリスト教 / 初期のキリスト教徒は憑依を次のように好意的に見なしている。「聖パウロにおいて、病気の治癒、予言、その他の奇跡を約束して下さった聖霊が憑くような現象は、きわめて望ましい。」その一方で、憑依に関連する能力として「霊の見分け」(つまり悪霊を見破る能力)が認められていた。時代が下ると憑依を悪霊のしわざとする考え方が一般的になり、憑依状態の人が語る内容がキリスト教の正統教義に一致しない場合は目の敵にされ、そこまでいかない場合でも、憑依は悪魔祓いの対象とされている。憑依状態になる人が、魔法使い、あるいは異端者として迫害される事例が多くなっていった。ピクネットは、憑依の歴史的記録で、証拠文献が豊富な例として、1630年代のフランスのルーダンで起きた「尼僧集団憑依」事件をとりあげている。この事件では、尼僧たちの悪魔祓いを行うために修道士シュランが派遣されたのだが、そのシュラン自身も憑依されてしまった。尼僧ジャンヌも修道士シュランも、後に口を揃えてこう言った。 「卑猥な言葉や神をあざける言葉を口にしながら、それを眺め耳を傾けているもうひとりの自分がいた。しかも口から出る言葉を止めることができない。奇怪な体験だった。」A.K.エステルライヒが1921年の著書『憑依』で示した、憑依の中には、悪魔が発語するような語り口、性格が異なる悪霊が五つも六つも詰めかけているような様子、乗り移られるたびに別人になったかのように見えるものも含まれていた。カトリック教徒の中の実践的な人々の間では、「憑依は悪魔のしわざ」説は次第に説得力を失ったが、英国国教会は今でも悪魔祓いを専門とする牧師団は存在している。
医学分野 / 医学領域や心理学の領域で、憑依を二重人格あるいは多重人格の表れとみなす考え方は多い。 「『自分』というのは単一ではない。複数の自分の寄せ集めで普段はそれが一致して動いている。あるいは、日々の管理を筆頭格のそれに委ねている。」ただし、この説明の例では、霊媒行為について当てはまらない、霊媒行為の場合、「筆頭格」のそれは、明らかに何か異なる実在のように見えることが多く、また霊媒はトランス状態になると、その人が通常の状態ならば絶対に知っているはずのない情報を提供している。
矢作直樹のスピリチュアル的見解
救急救命医として大勢の生死の狭間にある患者を診てきた矢作氏は、「人には­見える部分と見えない部分がある」と言う。実際にわれわれが見たり触れたりすることが­できる肉体と、目には見えないが恐らく肉体よりも大きな存在である霊体のことだ。物質的神経の仕組みを解明しても根本的因果関係を説明しているとは言えずその背後に霊的エネルギー体があるのだろうと述べている。
人間の霊性の理解なくして人間を­正しく理解することはできないと言う。われわれはとても限られているものだけを見ている可能性がある。目に見える現象部分に­働きかける西洋医学や科学には一定の意味はあるが、それだけでは根本的な治癒には至ら­ない場合多いのではないかと述べている。
矢作氏は救急救命医として勤務する中で、実際に別人の霊に乗り移られた患者を何人も診­てきたという。搬送されてきた患者に、医学的な疾患だけではない何かが憑いた状態にな­っていることが多いと言うのだ。「憑依かどうかは見れば大体分かる」と言う矢作氏は、­霊魂や霊性というものは一種の波動のようなものであり、目に見えないけれども、確実に­そこに在るものだと解説する。そして憑依は、他者の霊と別の人間の波動が一致した時に­起こるものだという。 
 
妖精

 

初めに
妖精に興味をもっている人たちは沢山いると思います。でも、どんなに興味をもっていても、妖精は童話と空想の世界の存在だと思っている人がほとんどではないでしょうか。私の場合も、童話の登場人物としてのイメージがあまりに強かったため、初めて妖精の存在をシュタイナーによって知らされた時、えっ、ウソだろ?と信じられない思いでした。それまでは、天使存在や悪魔存在なら、善や悪の権化として意味があり、存在してもおかしくないと思えましたが、いたずら好きな妖精とか、可憐な姿をした妖精となると、どうもフィクション臭く感じられていたのです。妖精は、物語を面白くするための登場人物くらいにしか思えなかったのです。そんなものがいるとしても、いったい何のためにいるかと考えると、天使や悪魔のようには明確な答えが出てこなかったのです。
でもシュタイナーの説明を読むうちに、宇宙の万物がたがいに関連し合う緊密なネットワークの中に、妖精存在も組み込まれていることを知って、段々とその存在にも納得がいくようになりました。以下の説明は全集102番の、『霊的諸存在が人間に及ぼす影響』の第10,11講演、212番『地球進化との関連における人間の霊的努力』の第8講演、230番の『創造し、形象を生み、造形する宇宙言語に共鳴する人間』の第8講演などに基づいています。
妖精はエーテル界に棲んでいる
前回までの話で、物質界とはレベルの違う、肉眼に見えない世界がいくつか存在することを紹介しました。アストラル界や、それより高次の霊的世界(この世界にもレベルの違う領域があります)などがそうです。ここで人間の存在の構成要素をもう一度振り返り、それと対応する世界を並べてみましょう。
人間の構成要素界
物質体(肉体)物質界
エーテル体?
アストラル体アストラル界
自我霊的世界
(霊我)高次の霊的世界
(生命霊)より高次の霊的世界
(霊人)さらに高次の霊的世界
すると、エーテル体に対応する界が抜けていることが分かるでしょう。その世界こそが、いわゆる妖精と呼ばれる自然霊(エレメンタル・ガイスト)の棲むエーテル界(エレメンタル界)なのです。エーテル界は物質界とほとんど重なって存在しています。
アストラル界
エーテル界との違いをはっきりさせるために、アストラル界の特徴について少し述べておきます。アストラル界は物質界の一種のネガの世界です。アストラル界では、すべてが物質界と逆になっていて、たとえば数字の641は146となります。アストラル界を死後訪れた時、欲望が起こったりすると、その欲望の感情は見える姿をとって、自分を襲ってきます。感情と同じ素材でできているアストラル界では、感情が実体化するわけです。物質界では自分の内にある感情が、アストラル界では外から自分に向かって来るという、逆さまの現象が起こります。
エーテル界
しかしエ-テル界は、生物のエーテル体が物質体の鋳型であるのと同じように、物質界の鋳型でもあって、緊密な対応関係があります。草木のエーテル体、動物や人間のエーテル体などは、それぞれの物質体に近い形でエーテル界にあるわけです。このエーテル界に物質体のない存在もいて、そういう存在は、物質界に対応する姿がありません。これらの存在の中には、前回話したような天使存在(物質体がなく、エーテル体から霊我までを備えている)もいますが、このような高次の霊的存在は地球領域を突き抜けていますので、ひとまずおいておきます。物質界に姿を現すような物質体をもっていない、低次の存在に注目してみましょう。それが妖精存在であるわけです。
エ-テル界をイメージする
なお、妖精の話に入る前に、エーテル界がどのようなものかをもう少し考えておきます。その一つの考え方は、地球を一つの大きな生き物と考えて、物質のかたまりとしての地球をその物質体とみなし、エーテル界をそのエーテル体とする考え方です。地球のエーテル体がエーテル界というわけです。そのエーテルのオーラの中に、人間のエーテル体や天使存在のエーテル体に混じって、エーテル界の住人たちが浮遊していることになります。シュタイナーは全集117番『霊的世界の境域』の「人間のエーテル体とエレメンタル界について」などの中で、この考え方を紹介しています。
もう一つの考え方は、エーテル界を単なる物質界の鋳型にすぎないと考えてしまう誤りを避けるために必要なものです。先ほど、物質界とエーテル界は緊密な対応関係にあると言いましたが、だからといって、エーテル界を思い浮かべる時、輪郭のはっきりした物質界と同じようなパラレルワールドを想像するのは間違いです。エーテル体が実はリズムをもって還流する流体であるのと同じように、エーテル界も、無数のイメージ、無数の形象が波打ち流動する大海のような世界なのです。そこは前回述べたイマギナチオーンという霊的能力で覗くことのできる世界です。夢の世界の背後に存在する広大な世界です。このエーテル界の素材は、人間が思い浮かべるイメージと同じ性質のものです。もっとも、人間がふつう想像できるイメージは、エーテル界に波打つイメージの影のようなものですが。物質界の物質が実在のものであるのと同じように、エーテル界のイメージは、実体をもった存在なのです。
妖精はどのような要素でできているか
これまでの話で、鉱物・植物・動物・人間・各種天使存在の「体」の霊的要素を明かしてきました。それでは、妖精はいったいどのような要素で構成されているのでしょうか。妖精については、古くはルネッサンス期の神秘主義的な医学者パラケルスス(1493ー1541年)が自然の四つの霊的元素、火、風、水、土に合わせて、火の精(サラマンダー)、風の精(ジルフ)、水の精(ウンディーネ)、地の精一グノ(グノーム)を分類しています。(詳しく知りたい人は大橋博司著、思索社刊の『パラケルススの生涯と思想』の「妖精の書」の章を参照できます。)この火、風、水、土(地)が、シュタイナーの言う自我、アストラル体、エーテル体、物質体の要素と対応しています。
なお、地水風火で霊的元素を表現するやり方は、古くから広く行われていて、私たちがお寺で見かける五輪塔も、火の上に声を表す空を加えて、上から空火風水地というふうに、自我の働き、自我、アストラル体、エーテル体、物質体を表しています。
パラケルススが述べている分類は、シュタイナーの分類とも一致しています。というよりは、エーテル界に存在する妖精は、霊的能力さえあれば、大体同じように見えるということです。霊的世界を科学的に捉えようとしたシュタイナーの場合は、その表現が分析的になります。シュタイナーによれば、各種妖精を構成する要素は次のようになっています。
地の精:物質体十物質体より一次元下の体十二次元下の体十三次元下の体
水の精:エーテル体十物質体十物質体より一次元下の体十二次元下の体
風の精:アストラル体十エーテル体十物質体十物質体より一次元下の体
火の精:自我(不完全なもの)十アストラル体十エーテル体十物質体
以下、シュタイナーの説明に沿って、それぞれの妖精の由来、現れる条件、性質、役割について述べてみます。
地の精(グノーム、コーボルト)
まず地の精がどうやって生まれたかですが、思い出してもらいたいのは、「睡眠を霊的に見る」Tの最後で紹介した分霊の発生という現象のことです。高次の自我が睡眠中の人間の〔物質体十エーテル体〕に入り込み、そこで分裂を起こして、ちぎれた霊的存在=分霊が生じるという現象です。地の精も、自然界で特定の役目を果たすため、かつて高次霊から分裂してできた分霊なのです。その高次霊は全集136『天体と自然界の霊的存在』の第3講演によれば、権天使です。
現れるのは、鉱物とふつうの岩石が接するところ。つまり、金属と他の岩石が接している境界です。妖精はつねに二つの世界の境界に現れます。地の精の場合は、生物が一度も入ったことのないような鉱山の地底などにいるのです。鉱夫はそのような鉱山を掘り進んでいくので、地の精に一番出会いやすい人間です。鉱石や岩石を持ち上げた時に、何ものかがサッと飛散したような気配で、その存在が感じとられることがあるといいます。土を掘ると、そこに固まっていた地の精たちは、パッと破裂してばらばらに分かれてしまいます。彼らは自由に体を大きくすることもできますが、人間より大きくなることはありません。
彼らの体を構成する一番高次の成分は物質体ですから、本来、肉眼で見えてもよさそうですが、物質界以下の力の作用で、見えなくなっています。ふつうの物質体に近い状態は、高圧下でのみ可能です。しかし、圧力を除くと、一瞬のうちに飛散します。土の中で高圧下にある時、彼らの体は圧縮されて、大勢でうずくまっていたり、時には不気味に伸びたりします。圧力を除いて飛散するプロセスは、人間の物質体が、自我、アストラル体、エーテル体を失って崩壊する死のプロセスと同じものです。
霊視力のある人は地中の彼らが見えます。彼らが小さな物質体を持っているのが見えます。その物質体の構造の中には、人間の脳に似た器官があります。人間の場合、物質脳には、自我やアストラル体、エーテル体などの高次の要素が浸透していますが、彼らの「脳」はそうした高次の要素を欠いており、代わりに物質界以下の力の原理の下にあります。妖精はいわば霊的進化の道からはずれた存在でして、地の精の「脳」も、高次の進化の意図に沿っては働きません。むしろそれを阻むように働くといいます。しかし彼らはその知能において、ある意味では人間よりすぐれています。彼らは知能のかたまりともいえます。直観的理解力をもっています。ですから地の精は人間の理解力を不完全なものとして見下し、人間がもたもた推論しながら考えている様子を見てはおかしがっているとシュタイナーは言っています。
彼らには自我がないのですから、倫理的責任感などは期待できません。しかし最高度の「機知」(ウイット)をもっていて、彼らに接する人間はいろいろないたずらや、からかいを仕かけられます。鉱夫の中で、健やかな自然感覚をもっている人は、この存在に気づいているはずだとシュタイナーは言っています。一般に、他の自然霊も含めて、彼らは目に見えないけれど、我々の世界に作用しているのです。
妖精の構成要素
霊視能力者が地の精を見つけたとします。しかしその数を数えることは非常に難しいといいます。たとえば三つまで数えたところでハッと気がつくと、もう三つではなく、ずっと多くなってしまっている。物質界でやるような数え方が通用しないのです。物質界でやり慣れている数え方をしようとすると、彼らはそのすぐれた知能を使って、さっと邪魔をするのだそうです。彼らの知能は、人間の計算の先まわりをすることぐらい簡単にやってのけるのです。
さて、地中に棲む地の精は、大地が好きなのでしょうか。この点についてシュタイナーは全集230番、第9講演の中で、興味深いことを述べています(以下に挙げる地の精は、鉱山の奥深くにいるものでなく、地表近くにいるものらしく、同じ地の精であっても種類が違うことが考えられます)。彼によると、地の精の姿は月の満ち欠けに応じて変化しているそうです。満月の時は物理的な月光を嫌う彼らの肌は、防御のために鎧のようなもので覆われます。そのため、地の精はこの時、小さな騎士のような姿になります。反対に新月の時は、透明になって、霊視すると中身が透けて見え、そこにさまざまな綺麗な色がちらちら輝いているのが見えるそうです。まるで人間の脳の中を覗いたみたいです。しかしそこに見えるのは、宇宙世界の思いです。彼ら地の精は、地上を越えた宇宙世界のことに思いを向けています。本来、地上的なものは憎んでいるのだそうです。なぜなら、大地は地の精をつねに両棲類(ひきがえるなど)の姿になる危険にさらしているからだというのです。地の精は次のように感じているといいます。「あんまり大地に染まると、かえるになってしまう」。ですから彼らはいつも、大地に慣れすぎることを避けようとしています。そこで彼らは、超地上的な理念に没頭するのです。地の精は、本来、大宇宙の理念の担い手なのです。
私はこの話をシュタイナーの講演で読んだ時、蝦墓の妖術を使う児雷也の姿を思い出しました。大きな蝦纂の上に乗って印を結んでいる姿です。歌舞伎や初期の映画で上演された児雷也の物語は中国の説話に由来していますが、妖術は中国が本場です。ヨーロッパの魔法に相当します。妖術や魔法が自然霊の力をコントロールしているのだという話は知っている人も多いでしょう。ゲーテの『ファウスト』の中でも、ファウストが地霊を呼び出す場面があります。自然霊は高次霊の指導の下におけば善用できますが、こうしたコントロールはつねに危険を伴います。一歩間違えれば黒魔術になります。かつてアトランティス人たちは、ある種の自然霊を悪用して自滅しました。現在の人間の系譜が始まった古代インド文化期の前に、アトランティス時代があったのですが、彼らには自然霊も「見え」ていたのです。このアトランティス人のあり方については、次回述べる予定です。
水の精(ウンデイーネ、ニンフ)
水の精は大天使から分霊して生まれました。現れる場所は、岩と植物が接していて、そこにさらに水があるようなところです。たとえば、岩の上を苔がヴェールのようにおおっていて、そこに上から水がしたたり落ちているような泉に、霊視能力のある人の目には、はっきりと姿を現します。
彼らは人間の感受性をうんと繊細・敏感にしたような性質をもっています。たとえば、人間が赤いバラの花を見てきれいだと思ったり、木立が風にざわめいているのを聞いて胸を騒がすような時、彼らは樹液の中に入り込んでバラの花の中にまで昇り、その「赤」を実際に体験したり、木立の枝の中で、風のそよぎを感じたりしているのです。彼らは現象の中にまで入り込んで体験するのです。
植物の成長に手を貸すことも水の精の大きな仕事です。地の精は植物の根に群らがり、大地に対する反感をこめて、植物を上へ上へと押し上げます。植物が重力に逆らって垂直に伸びていくのは、地の精の、大地に対する反感の力のせいなのだとシュタイナーは言うのです。水の精は、地面の近くに群らがって、地の精が草木を上へ押し上げるのを満足そうに見つめるのだそうです。水の精はたえず夢想しているような存在です。そもそもその夢想のエーテル的素材が、彼らの姿を作っているのです。水の精は水のエーテル的要素の中に生き、その中を漂っています。彼らは地の精のようには大地を憎んでいませんが、それでも物質界のある存在に対して大変敏感です。
水の精が敏感なのは、魚に対してです。というのも、水の精は時々、魚の姿になってしまうからです。彼らは油断していると魚になってしまうのです。しかし、じきに魚の姿から、別のメタモルフォーゼに移るといいます。彼らは自分の姿をつねに夢想によって生み出しているのです。
植物の生育に果たす水の精の役割をもう少し追ってみます。実は水の精は自分の姿を夢想することによって、風の要素を作り出しては、またそれを分離させるというような作業を行っています。これは神秘的なプロセスであって、通常の化学的なプロセスではありません。ここに水の要素と風の要素の接触が起こっています。この霊的で繊細なプロセスが植物の成長に必要なのです。植物はいわば、水の精が織りなす夢想の中へと枝葉を伸ばしていくのです。水の精が繰り広げるエーテル的な夢想を鋳型として、その中へ物質体を満たしていくのです。水の精は神秘的な化学者といえます。この働きがなく、垂直に押し上げる地の精の働きだけがあったら、植物は枯れてしまうでしょう。
水の精は水の要素の中に生きています。しかし彼らは、水の表面にいる方を好みます。たとえそれが滴(しずく)であっても、表面の方を好みます。なぜなら彼らは常に、魚の姿になってしまうことを警戒しているからです。
風の精
風の精は太古、天使から分霊して生じました。彼らが現れるのも、やはり二つの界が接するところです。それは、動物界と植物界が接する境界です。といっても、この二つの界が接していればどこでもいいというのではありません。たとえば、牛が草を食べているような形で動物と植物が接していても、これはごく当たり前の接触であり、風の精を呼ぶことはありません。このような接触は通常の進化の歩みに沿ったものです。風の精を呼ぶのは、蜂と花の接触のような場合です。蜂と花は、作りが非常に違うし、全く別の進化段階にあるのに、後になってから共生関係を結びました。蜜を吸う蜂と、吸われる花との間には、親密な味覚のやりとりが行われていて、その奇妙な行為から、エーテルのオーラのようなものが生じます。このエーテルのオーラを求めて、風の精が近づいてくるのです。よく木に沢山の蜂が群らがっていることがありますが、その蜂の群全体が、今述べた味覚のやりとりをしていることもあります。その群が味覚の余韻を味わいながら一斉に飛び立つと、飛んでいる群全体がエーテルのオーラに包まれていて、そのオーラの中に風の精が入り込んでいるといったことも起こるそうです。風の精はエーテルのオーラをいわば養分として摂取するわけです。彼らは虫と花の接触を漫然と待っているのではなく、虫を花の所へ導くこともします。彼らは、ある意味では虫の指導者であるといえます。
風の精は人間の「意志」に似たものを発達させた存在で、風と光の要素の中に生きています。彼らは春や秋につばめが軒先をかすめたり、海の上をかもめが渡る時、その羽音の空気の流れを妙なる調べとして聞きます。そして、その空気の振動の、風と光の要素の中に入り込み、そこを棲み家とするのです。風の精は鳥がいない空を横切る時は、自分自身がいないような寂しさを感じ、空の一画に鳥の姿を見つけると、自分と出会ったような気持ちが湧き起こります。これは一種の自我感情です。風の精は外界に自分の自我を見つけ出すのです。自分の外部の空間に向けて、このような思いを寄せる風の精は、そのことで、宇宙に内在する愛の意志を運んでいるのだとシュタイナーは言います。
地の精や水の精には両棲類や魚類という苦手がありますが、風の精には鳥類という相性のよい存在があるわけです。鳥の側でも風の精に歌い方を教わるそうです。こんなに相性がよければ、風の精は鳥になってしまえばよさそうなものですが、そうならなかったのは、別の使命を担っているからです。それは植物に光を運ぶ使命です。愛の思いにのせて光を運ぶのです。植物が光の恵みを受けられるのは、風の精の仲介によるのだとシュタイナーは言うのです。そして、風の精は、水の精が寄こした素材を元に、光の力を用いて植物の原型をこしらえます。秋の終わりに草木が枯れると、この霊的な原型も地面に滴となって落ち、今度はそれを土の精が受けとめます。土の精は冬中、その原型を感じ続けて、植物の形態の中に含まれる宇宙の理念を手に入れるのです。(つづく)
次回は火の精の話、太古の人間はみな、妖精が見えた話、今後再びエーテル界や妖精の見える人間がふえてくる話などをする予定です。
火の精(サラマンダ−)
まず断っておかなければならないのですが、火の精についてシュタイナーが1908年に述べたことと、1923年に述べたことの間に、矛盾があるのです。前号で風の精は群を成す蜂のオーラの中に入り込んでいると述べましたが、これは全集102番『霊的諸存在が人間に及ぼす影響』第11章1908年6月1日講演)によるものです。しかし、全集230番『創造し、形象を生み、造形する宇宙言語に共鳴する人間』第8章)1923年11月3日講演)では、それが火の精になっています。シュタイナーは36年間に5965回の講演を行いましたが、私が調べた限りでは、このような明白な矛盾は他にありません。ですから、本当はむしろ6000回近い講演をこなしながら、ほとんど矛盾した話がないことの方に注目すべきなのでしょう。
しかし私は、シュタイナーの考えを始めから疑ってかかっている人の、その疑いを増す恐れをおかしても、この事実を明かしておこうと思います。なぜなら、霊的世界観を拒否している人は、シュタイナーを読みませんから、この事実に気づくことはないでしょうし、シュタイナーを「導師」として崇めたり、シュタイナーの考えに基づく人智学運動にのめり込んでいる人たちは、たとえ気づいたにしても、こうした「都合の悪い」事実をことさらとり上げることはしないと思われるからです。このような事実の存在を伝えるのは、シュタイナーの世界観にひかれ、彼の述べることを信頼し、その内容を人に紹介しながらも、彼の著作・講演集をテキスト(文献)として批判的に読むことを心がけている私のような者の役目だと思われるからです。
それでは、読者が自分で判断できるように蜜蜂と妖精の関わりについてシュタイナーが述べていることを二つの講演から抜き出して並べてみましょう。
「たとえば教育を受けた人が、こう言ったとします。『シルフとかいう名の自然霊のことが話題になっているが、そんなものは存在するわけがない!』こういうことを言う人に対しては、次のような逆説的な響きをもった返答をするほかないでしよう。『君に自然霊が見えないのは、その存在を分からせてくれる器官の開発に対して君が心を閉ざしているからだ。ちょっと蜜蜂自身に聞いてごらん。それでなければ蜂の巣の魂にでも聞いてみるといい。蜜蜂なら、シルフの存在に対して心を閉ざすことはしないから(中略)』。花の蜜を吸っている蜜蜂は小さなオーラを出しています。そこに霊的存在が近づいてきます。特に木に群がり、ぶらさがっていた蜂の群が、体内に蜜の味わいのようなものを秘めて飛び立つような時がそうです。そんな時、蜂の群全体が、このエーテルのオーラに包まれていますが、この群には、シルフと呼ばれる霊的存在が入り込んでいるのです。」
「風の精(シルフ)は鳥たちが飛ぶのを見ると、自己を、自分の自我を感じます。火の精はこの自我感情をもっと強い形で、蝶の世界、そして昆虫界全体に対して感じます。植物の雌しべに熱を伝達するために、昆虫が飛ぶ跡を追うことが大好きなのは、この火の精なのです(中略)。花から花へ飛びまわる昆虫はたいてい彼らの追跡をうけています。花から花へと飛びまわる昆虫をよく見ると、その昆虫のどれも、昆虫自体がもっているものとしては説明のつかない特別なオーラを発しているような感じがします。特に花の間を飛び回わる蜜蜂は、明るくきらめく、素晴らしい輝きをもった綺麗なオーラをもっていますが、このオーラを説明するのは大変難しいことです。なぜなら、その蜜蜂はいつも火の精と一緒にいるからです。火の精はいつも蜜蜂を身近に感じていたいほど、蜜蜂と親しく感じているからです。霊視すると蜜蜂は一種のオーラの中に、本来は火の精であるこのオーラの中に包まれているからです。蜜蜂は大気の中を花から花へ、枝から枝へと飛びまわっている時、元々火の精によって与えられたオーラを伴って飛んでいるのです。火の精は昆虫の存在に自分の自我を感ずるだけでなくて、その昆虫とすっかり結合してしまおうとするのです。」
なお、1908年の講演は第一次世界大戦前と大戦中にシュタイナーの講演の多くを速記したヴァルター・ヴェグェラーンが記録しました。1923年のものは専属の速記者ヘレーネ・フィンクによります。
講演集の記録は、ほとんどのものがシュタイナー自身の校閲を受けていません。ですから誤りがあることも考えられ、シュタイナーも自伝の中でその可能ム性について触れていて、各講演集の冒頭にその部分が引用されているほどです。しかし、妖精が境界に現れるという1908年の講演の説明では、地の精はふつうの岩石と鉱物の境界、水の精は植物と岩石プラス水、風の精が動物(昆虫も含む)と植物、火の精が人間と動物がそれぞれ接触する境界に現れることになっていて、蜂と花が接触するさい現れるのが風の精であると、この時シュタイナーが考えていたことは間違いなさそうにも思えます。また、二つめの1923年の説明では、地の精はかえるになるのを恐れ、水の精は魚の姿になるのを厭がり、風の精は鳥に親しいというふうに話が進んだ後に、火の精は蝶の世界・昆虫の世界と親しいといっているわけで、話がしっかり有機的になっていて、速記者が間違いをおかす可能性は少ないように思われます。
繰り返しますが、このような著しい矛盾はシュタイナーには極めて珍しいことです。しかし矛盾は矛盾です。はっきりここで指摘しておこうと思います。私は科学者の冷静さで霊視するシュタイナーの言うことは、他のどんな霊能者よりも信頼していますが、しかしそのシュタイナーのいうことでも無批判にうのみにしようとは思いません。さまざまな予言・霊言のたぐいが押し寄せる世紀末にあっては、こうした姿勢を心のどこかで堅持しておくことも大切ではないかと思います。
さて、それではシュタイナーは火の精の現れ方や役割について他にどのようなことを述べているのでしょうか。以下、まず1908年の講演に基づいて紹介します。
火の精の構成要素は前回述べたように、未完成な自我十アストラル体十エーテル体十物質体です。彼らは進化の歩みが違うため人間の姿はとれませんでした。火の精は他の妖精と比べて、一番後に生まれたものでして、実に多くの種類があります。その大部分は、あとで述べる動物のグループ魂から分霊しました。
人間界と動物界の境界に現れる火の精
火の精は人間界と動物界が、ある意味で普通でない関係にある時に現れます。たとえば騎手と馬の間の、家族的な関わりにひかれて現れます。これは善い種類の火の精です。火の精は人間と動物の心の通い合いによって生まれる感情や気持ちを養分としているのです。とくに羊飼いと羊の群れが一緒に暮らしているような場合、近づいてきて、その場にとどまります。この妖精は非常に賢い存在でして、自然の知恵をもっています。羊飼いが羊たちと一緒にいる所で、この火の精が自分のもっている知恵を羊飼いにそっと教えるようなこともあるそうです。このような妖精に取り囲まれている人間は、小利口な現代人たちが夢にも思いつかないようなことを知ることができるというわけなのです。
植物の受精に力を貸す火の精
1923年の講演では、植物が実を結ぶ時、火の精がどのように働くかが述べられています。まず火の精は熱エーテルを集めて、それを花の中に運び入れます。そのさい花粉は火の精に与えられた超小型の飛行船のような役目を果たします。シュタイナーによれば真の受精は、花粉が雌しべにつく時ではなく、火の精が花粉に乗せて雌しべに運んだ宇宙の熱エーテルを、地の精が地中で受け取る時に生ずるのだそうです。ここで前回から述べている植物の成長をまとめると次のようになります。
まず火の精から受け取った宇宙の熱エーテルを用いて、地の精が地中で植物に活力を与えます。地の精はその時、自分がその中で生きている生命エーテルを植物の根に与えるのです。こうして植物は成長し出しますが、地の精の大地に対する反感から上へ上へと伸びることになります。次に水の精が化学エーテルで枝葉を成長させ、風の精が光エーテルを用いて植物の原型をこしらえます。この原型(母性的なもの)が滴となって地面に落ち、地の精がそれを受けとめます。一方、火の精は熱エーテルを宇宙から集めて雌しべに運び入れます。その力が種子に移り、その種子(男性的なもの)が地中に落ち、これまた地の精が受けとめ、ここに受精が生じます。真の受精は、冬の間、地中で生ずるのだとシュタイナーは言います。
火の精はどうやって生まれるか
大部分の火の精はアストラル界にある動物のグループ魂が分霊することによって生まれたと、先ほど述べましたが、これを詳しく説明することにします。
これまでの話しで、動物には自我がないと言ってきましたが、実はアストラル界にはあるのです。動物の自我はアストラル界にとどまっていて、物質界まで降りてきていないといえます。たとえばその動物をライオンとすると、物質界に存在するすべてのライオンの共通の自我(グループ魂)がアストラル界にあるのです。人間の場合との違いを図で示すと次のようになります(なおシュタイナーはグループ魂のあり方については、多くの講演で繰り返し矛盾なく述べています)。
人間一人一人の違いは、種類の異なる動物の違いと同じようなものです。
人間につくグループ魂
なお人間にも様々なグループ魂が関わってくることがあります。祖霊とみなされるグループ魂などはその一種ですが、これらは一つの家系が呼び寄せた高次の存在です。祖霊に限らず、一つのグループが共通の傾向をもつことで、ある種の存在がグループ魂として引き寄せられます。このような人間以上の高次のグループ魂もいるわけです。これらは、正規の霊的進化の歩みのうちにある天使や大天使などの高次存在とは別のものです。
古代の人間は、部族や家系や血縁関係の共同体に従属していて、その共同体の中で助け合って暮らしていたわけですが、こうした共同体も、ある種のグループ魂をもっていました。祖先霊は古代人が夢うつつの意識状態になった時現れ、忠告を与えてくれたりしました。しかし、こうした関係の中では、個人は強制的に共同体に従属していて、個人の自由は拘束されていたわけです。自我の発達とともに、精神の自由が求められていきますが、シュタイナーは、これからは個人の自由を互いに尊重し合い、自由な意志のもとで集まる共同体が作られていくことが望ましいと考えています。そうした共同体には古代のグループ魂とは別のグループ魂が引き寄せられ、人類の霊的進化を早めてくれるそうです(全集102番、11章)。
アストラル界に出るとライオンの自我に会える
霊能者がアストラル界に出ると、物質界で自我をもった人間に出会うのと同じように、ライオンの自我に会うことができるとシュタイナーは言います。他の動物や昆虫の自我にも会えるわけです。こうした自我がグループ魂として、物質界にいる個々の動物や昆虫の上位にいるのです。動物や昆虫の信じられないような本能的な知恵の源は、アストラル界にいるグループ魂にあるのです。スズメバチが紙と同じ成分の巣を巧みに作るのも、グループ魂の知恵のおかげです。スズメバチの自我は、人間よりも遥か以前に紙を発明したといえます。ニューサイエンスのリーダーの一人、ライアル・ワトソンは『スーパー・ネイチュァ』(訳本289ページ)で、グループ魂に似た考えに行き着いています。彼はある種のアリが、通り道に障害物を置かれると、そのことをテレパシーのようにすぐ直感して迂回路を作りに来るという報告に基づいて、そう考えました。そのようなテレパシーの交信が、同じ種に属するすべての固体に行きわたるのではなかろうかと考え、さらに、それぞれの種が一種の霊的な源をもっているようだとしているのです。
猿のグループ魂が分霊して火の精となる
さて、一匹の昆虫が死んだとします。でも、それはその昆虫のグループ魂にとっては、人間の場合にたとえると髪が抜け落ちたり、ツメを切ったりするのと同じようなことです。昆虫の一匹一匹はグループ魂から魂を分け与えられ、交代で物質界に降りては、また死んでいっているわけです。昆虫の場合、グループ魂から与えられたものは死後、すべてグループ魂に戻ります。しかし、これが高等な動物になると事情は違ってきます。猿の場合は、その知恵を見れば分かるように、昆虫よりも多くのものを、自分のグループ魂から分け与えられています。それがあまりに多すぎるため、死後、そのすべてがグループ魂に戻ることはできないのです。一部は物質界に残ってしまいます。これはグループ魂から分離した自我状の分霊存在です。自然霊の中では最高の種です。これが火の精と呼ばれる妖精なのです。火の精は今でも生まれつつあります。猿の魂が死後、グループ魂に戻れなくなって物質界にとどまり、火の精となっているといえます。
人間の死と猿の死には大きな違いがあります。人間の場合は、物質界にある自我が死後、霊的世界を訪れ、それが再び物質界に戻ってくるという形で輪廻がありますが、猿には輪廻がありません。猿の魂は、死後グループ魂に戻れませんが、かといって新たに受肉することもできずに、物質界に火の精としてとどまるのです。
グループ魂は何から生まれたか
火の精はそのほとんどが猿のグループ魂から生まれたわけですが、それではグループ魂自体はどうやって生まれたのでしょうか。全集136番『天体と自然界の霊的存在』第4章によると、動物や植物のグループ魂は、能天使、力天使、主天使という高次存在が分霊して生まれたものだといいます。分霊して生じた動物のグループ魂の間でも、高次なものと、それほど高次でないものがあるそうです。全集110番『霊的ヒエラルキーと物質界におけるその反映』巻末の質疑応答によると、蜜蜂のグループ魂は、人間が金星進化期(今の地球進化期の次の次)にようやく達するレベルに既にあるそうです(ということは、生命霊まで備えた大天使級の霊ということです)。これは宇宙的に早熟だということです。また、珊瑚のグループ魂は牛のグループ魂より高次だそうですが、こうした話はシュタイナーの霊能力をどこまで信ずるかで受けとめ方が異なってくるでしょう。
古代人はみな自然霊が見えた
自然霊(エレメンタルガイスト)は古代人にとっては日常的な存在でした。古代人は、自然界の住人として動物や植物以外に、自然霊の存在も知っていたのです。アトランティス時代の2/3の時点までは、すべての人間はエーテル界が見えていましたから、自然霊の存在は自明のものでした。アトランティス人のエーテル体は額の所で物質体から著しく突出していて、直接霊的世界に接していました。そのエーテル体は物質体に拘束されていないわけです。そのため、記憶の担い手としてのエーテル体の力も超人的に働いて、無限の記憶力を可能にしていました。そして何の修行もすることなしにイマギナチオーンを用いてエーテル界を霊視できたのです。しかし、この分離したエーテル部分を用いて、高次霊と交信できたのはアトランティス人の中でも秘儀参入者だけでした。このあたりの話は『神秘学概論』第四章「宇宙進化と人間」に詳しいです。
アマゾン川流域の住人は自然霊を見ている?
ワトソンによると、アマゾン川流域のヤノマモ族が現在も用いている薬草の作り方は非常に複雑で、12、3の手順があると言います。アマゾンに人間が住みついてから1万年から1万5千年がたっていると思われますが、試行錯誤だけの方法では何十万種もある植物から特定のものだけを選び出して、しかもそれを一つ抜かしてもだめになる複雑な手順で調合するやり方を発見できたとはとても思えないそうです。彼らにたずねると「森が私たちになすべきことを教えてくれた」と答えるそうですが、私はこうした話を読むと、火の精に囲まれて、素晴らしい知恵を授けられる素朴な羊飼いのことをどうしても思い浮かべてしまいます。
また、アマゾンのコニボ族と生活した人類学者のマイケル・ハーナーはコニボ族が「魂の蔓」と呼ぶ神聖な飲物を飲んでみました。するとワニの姿をした悪魔や、魂の舟や、鳥頭人などが現れる「幻覚」が見えました。彼はこれらの幻はアメリカ人である自分が潜在的にもっていたイメージだと思いましたが、なんと土地の呪術師はその怪物たちを全部知っていて、言い当てたのです。つまり、あらかじめ何も知らない人でも、その土地では土地の人が見る幻と同じものを見てしまうわけです。私はこの現象は、薬の助けを借りてエーテル体が分離した時に、土地に棲みつく自然霊が見えるのではないかと思います(以上『スーパーネイチャーU』318ー319ページ)。シュタイナーによれば、昔の秘儀参入の儀式は、司祭が参入者を三日三晩昏睡状態にする間に、エーテル体を一部分離して、霊的世界の有様を見せるのだそうです。
今後、自然霊を見る人がふえてくる
アトランティス人は、そのような方法をとらなくとも、エーテル体が初めから一部分離していて、エーテル界とその住人を見ていたわけです。このようなエーテル体と物質体の分離はその後はなくなり、古代ギリシャ・ローマの時代にいたって、肉体と魂はすっかり一致します。その後ルネッサンス以降、再びこの結合がゆるみ出してきました。エーテル体が物質体から分離し出したのです。そのため、その隙間に他の存在が入り込む危険もあります。しかし一方で、エーテル界が見える人がふえてきます。自然霊が見える人も多くなるでしょうが、見えている本人や、周囲の人も、それを幻覚と思ってしまうかもしれません。
シュタイナーに言わせると、エーテル界に見えてくるもので、もっと重要なものはキリストの姿だそうです(全集118『エーテル界におけるキリスト出現の事象』)。シュタイナー思想の一つの柱であるキリスト観についてはまた別の機会に述べようと思います。
なお異星人=妖精説を唱える人が一部にいますが、この考えには混同があると思います。妖精は地球のエーテル界に住んでいる存在で、最高の種でも、不完全な自我までしかもっていません。異星人は、私の考えでは地球以外の惑星で、霊我以上の要素を発達させつつある存在だと思います。異星人についてもいつか述べるつもりです。 
 
悪魔論

 

はじめに
もし神が万物を作ったのなら、なぜ悪がこの世にあるのだろうという疑問が湧いてこないでしょうか。もし悪魔がいるとしたら、その悪魔だって神が作ったことになるわけで、一体どうして神はそんなものを作ったのだろうと。これは当然の疑問です。今回はこの疑問をとりあげようと思います。
まず、悪い心、悪い行いの存在を疑う人はいないでしょう。人間の生活のいたるところに悪はあります。しかし、ただ「悪」というと、すべてを悪と善とに分ける単純で硬直した図式が思い浮かんできます。人間は単純に悪とも善とも分けられないことをやっているのだと考える人もいるでしょう。そして悪魔というと、尻尾を生やした何やらやけに人間っぽい存在を想像して、お話の中の存在と思う人が多いかもしれません。
しかしシュタイナーが悪について語る時、悪は肉体的姿をもたない霊的存在として現れてきます。それを悪魔と呼べば呼べますが、それは正常な進化の道から外れてしまった高次の霊的存在であり、霊的世界と人間世界で特定の役割を与えられているものなのです。シュタイナーがとりあげる、このような霊的存在は、大きく分けて二つあります。
二つの悪しき霊的存在
人は何かに夢中になって血を湧き立たせる時があります。その時には、血が湧き立つから価値があるのであり、正しいのだと感じます。それは肉体を若返らせるような充実感を呼び起こします。しかし人はその夢中になっている何かを客観的に、距離をとって見ることができません。こういう時、その人はルツィファー(英語ではルシファー)という霊的存在の力のもとにあるとシュタイナーは言います。この場合、人は行動的で同時に夢想的です。ルツィファーの影響は人を夢想的にするのです。たとえば、人は現実に向かおうという意欲が薄れて空想にふけったり、神秘的なことばかりに目を奪われて、現実がおろそかになる時もあります。現実の世界から離れ、自分が作り出した架空の世界で、何でも自由にできる万能感にひたるのです。このような時も、人はルツィファーの力に捉えられているのです。
また、社会には生きた人間の能力とか関係とかを、冷酷な数字で表し、その数字に基づいて人間を区別するような仕組みがあります。そして、初めは抵抗していても段々に、自分もそういう仕組みにはまり込み、血の通った人間とは思えない機械のような反応をし出す人もいます。そうした仕組みそのものや、心の暖かみを失った人は、アーリマンという霊的存在の力のもとにあるとシュタイナーは言います。アーリマンの影響は人の考え方から生命を奪い取り、物質的なことばかりに向かわせる働きをするのです。ですから、お金や物に対して執着し、この世以外の世界などにかかわることを馬鹿にする人も、この力のもとにあるのです。こうした二つの正反対の傾向があることは、別に霊的なものと結びつけなくても理解できるかもしれませんが、シュタイナーはこの傾向の背景に二つの霊的存在を、はっきりと霊視しているのです。
ルツィファー霊の実体
ルツィファー霊とは全集136番『天体と自然界の内の霊的諸存在』第6講演の話をまとめると、次のようになります。天使・大天使・権天使レベルの霊が、自分よりも高次の位階にある霊に隷属するのではなしに、独自の働きをしようとして高次霊から独立し、仲間の霊に逆らいだしたのがルツィファー霊であると。ですから高次霊に完全に従う天使、大天使、権天使がいる一方で、ルツィファー的天使、ルツィファー的大天使、ルツィファー的権天使がいるわけです。権天使より上の形態霊(能天使)にも正規の進化をしている形態霊と、ルツィファー的形態霊がいて、この異なる形態霊同士が力をぶつけ合うことから太陽系の諸惑星の物質的形態が生じたとシュタイナーは言います。形態霊よりさらに二つ上位の叡知の霊(主天使)にもルツィファー霊がいて、そのルツィファーが太陽から地上にエーテル流を注いだ結果、鉱物の金が生まれたといいます。
このようにルツィファー霊は人間のレベルをはるかに超えた高次の位階に属する存在であり、宇宙を構成する重要な要素になっています。彼らは宇宙の摂理によって生まれたのです。上位や仲間の善霊に逆らう結果、悪の可能性が彼らに宿りました。全集110番『霊的ヒエラルキーとその物質界への反映』の中でシュタイナーは力天使のルツィファー霊をとりあげ、正規の力天使とルツィファー的力天使の闘いから火星と木星の間の小惑星が生まれたと述べています。ルツィファー的力天使の反逆はいわば神意によるものであり、力天使白身が選びとった行為とはいえません。それに比べるとルツィファー的天使は、正規の進化の道を歩むか、停滞してルツィファーの道を歩むかを自分で選択する機会をもっていたといいます。
ルツィファー、アーリマンはいつ生まれたか
ルツィファー霊の発生は、現在の地球進化期の一つ前の、月進化期と呼ばれる期間に起こりました。アーリマンはさらに一つ前の太陽進化期に生まれました。
ここで、シュタイナーの霊的進化論について少し触れる必要があるでしょう。図を用いて説明します。こうした進化論は、神智学文献とは無関係に、シュタイナー自身が一九〇〇年ごろにイマギナチオーンを用いて霊視したものです。
進化期小周期人間の進化
1.土星進化期鉱物的存在
2.太陽進化期   1.土星反復期のあとさらに進化植物的存在
3.月進化期     1.土星反復期動物的存在
            2.太陽反復期のあとさらに進化
4.地球進化期   1.土星反復期    1.極地人種
            2.太陽反復期    2.極北人種
            3.月反復期をへて 3.レムリア人
             からさらに進化   4.アトランティス人
                       5.現生人類
                         1.古代インド
                         2.古代ペルシャ
                         3.古代エジプト・カルデア
                         4.古代ギリシャ・ローマ
                         5.現代
                       6.文化期
                       7.根源人種
5.木星進化期天使レベルの存在
6.金星進化期大天使レベルの存在
7.ヴァルカン進化期権天使レベルの存在
人類は大きな尺度で見ると、土星進化期、太陽進化期、月進化期をへて、現在四つめの地球進化期にいます。ここで土星とか太陽とか月とか言っているのは太陽系の物質としての天体のことではなく、地球の霊的前身が存在した時期の名称として用いています。初めの土星進化期に人間は物質体だけの存在でした。といっても、まだ物質界は全然存在しないころなので、物質体といっても影のようなものでした。このころの人間の意識は、今の鉱物がもっているような意識で、現在の人間が夢を見ない深い眠りの時にもつ意識よりさらに昏いものでした。この土星進化期が終わったあと、すべては霊視も届かない非常に高次の世界に上り、休閑期(プララヤ)が訪れます。
次の太陽進化期の初め、土星進化期を反復する土星反復期があります。その反復期のあとようやく人間のエーテル体が生まれます。これは叡知霊(主天使)の働きによります。エーテル体をもったことによって、人間は初めて本来の意味での生命をもったことになります。人間は〈エーテル体十物質体〉の植物状の存在に進化しました。物質界はまだありません。このころの人間の意識は、いわば植物がもつ意識で、人間が夢を見ない深い眠りの時にもつ意識に似たものでした(『神秘学概論』、『アーカーシャ年代記より』)。
ところで、人間以上の霊的存在も、進化期ごとに進化していました。たとえば、初めの土星進化期にすでに自我をもっていた人性霊(権天使)*は、太陽進化期で自我の上に霊我をもちます。そして次の月進化期には生命霊を、さらに現在の地球進化期には霊人をそなえた存在として登場してくるわけです。
*参考)1:高次霊の名をキリスト教と人智学で比較
キリスト教の呼び名  人智学の呼び名
人間            自由の霊・愛の霊
天使            薄明の子の霊
大天使           火の霊
権天使           人性の霊
能天使           形態の霊
力天使           運動の霊
主天使           叡智の霊
座天使           意志の霊
智天使(ケルビム)     調和の霊
熾天使(セラフィム)    愛の霊
*参考2:地球進化期における各高次霊の構成要素(主天使まで。座天使以上も類推可能だろう)
*参考3:権天使の進化期ごとの構成要素の進化
太陽進化期のあと再び休閑期があり、すべてが超高次世界へ上ったあと、再び下りてきて、月進化期が始まります。初めに土星反復期、太陽反復期をへてから、さらなる進化が続きます。この進化期中に人間はアストラル体を身につけます。こうして人間はくアストラル体十エーテル体十物質体〉の動物的存在となりますが、まだ物質界はないので、今の動物とは違います。このころの人間の意識は夢を見ている時の意識に似たものです。ルツィファーはこの月進化期中に進化に異常をきたしたのです。天使はこの時期、自我までしか備えていない存在でした。ですから現在の人間のレベルにあったわけです。天使たちの中にはルツィファー的力天使の影響のもとに、もう何も新しいことは起こらないと思い込み、進化を停滞させてルツィファーの刻印を帯びました。もちろん、善なる天使として進化を続けるものもいました。どちらを選ぶかは天使の自由だったとシュタイナーは言います。
人間のアストラル体に働きかけるルツィファー
形態霊(能天使)は月進化期中に、最低次の構成要素として自我をもっていました。そして、その進化期中に一段階進化して、次の地球進化期には自我が不要となりました。自分のためには不要となった自我を、形態霊は別のことに用いることができるようになりました。こうして形態霊は、地球進化期のレムリア時代半ばに、人間の内に自我の火をともしたのです。それまでの人間は月反復期の内にあって、〈アストラル体十エーテル体十物質体〉という構成だったのです。人間は地球進化期に自我をもつ段階に達したわけですが、地球進化期の初めにある土星反復期、太陽反復期、月反復期の間はまだ自我を備えていなかったのです。自我の火をともされて初めて、本当の意味で人間が誕生したといえます。このころの人間のことを聖書ではアダムと呼んでいます。また、人間に自我を与えた高次霊のことをイエホバと呼びました。
ところで、月進化期中にルツィファー化した形態霊は、地球進化になっても人間に自我を与えるどころか、停滞した自我状の霊の影響で人間のアストラル体に低次の力を注ぎ込んだのです(以上、全集102番『霊的諸存在の人間への作用」第4章)。これにはルツィファー的天使も参加しています。こうして人間は過ちと悪の可能性を身につけたのです。同時に人間は自由な意識も手に入れました。このルツィファーを聖書では蛇として表現しています。ルツィファーが人間のアストラル体に影響し出すと、それまで周囲に現れていた霊的世界が段々に見えなくなり始めます。また、善霊の支配下にあったころにはありえなかった病気も起こすようになります。人間は自分本位の観念をいだくようになったことで、それまでは高次霊の叡知で自然に避けられていたことが、できなくなったのです。また、霊的世界にいる時と、地上にいる時とを連続した過程として感じられなくなり、物質体の崩壊を死と見なすようになります。過ちに染まったレムリア人たちはルツィファーの影響のもとに、自我の火の力をもてあそぶようになりだし、恐ろしい火の嵐が起こりました。その結果、地球に大規模な破局が訪れ、レムリアの時代は終わります。過ちが最も少ない者たちが大西洋のアトランティスに移り住み、次の時代が始まります。
アトランティス人たちは、ルツィファーの影響で霊的世界を見る力がせばめられていますが、それでもまだ直接、神々と接していたといえます。彼らの額のあたりのエーテル体は物質体から著しく突出していて、その部分はルツィファーの力が及びませんでした。彼らは夜間の睡眠中、物質体から離れた状態で、このエーテル部分を通して高次の霊的存在を見ることができたのです。現代人はこれに近い状態で、夢を見ることしかできません。アトランティス人は夜間、〈自我十アストラル体〉の構成で権天使の領域まで出ていました。しかし、ルツィファーの影響がここに現れて、エーテル部分を通しても天使と大天使までしか見えませんでした。
アトランティスの破局
ルツィファーは常にマイナスの働きばかりするわけではありません。ルツィファーの力によって人間の進化が早まることもありました。たとえばアトランティスの秘儀参入者の一部は、ルツィファーの力を借りて自分を感覚世界から解放し、霊的存在の意図を探ることができました。彼らも突出しているエーテル部分を用いて霊的世界を知覚するのですが、ルツィファーの働きによってこの能力を意識化し、形態霊(能天使)と接触することができたのです。その接触から彼らは太陽霊の秘儀を知りました。そして太陽神託場を創りました。彼らはアストラル体の欲望に捉われることもありませんでした。この神託場は後世のキリスト降臨を待ち望む秘教につながっていきます。アトランティス時代には他の神託場もいろいろありました。地球周辺に限定された領域をもつアーリマンを崇めるヴァルカン神託場もありました。この神託場の帰依者が後の学問の基礎を初めて築いたのです。
しかしアトランティス中期以降、段々と人間に災いが降りかかってきます。アストラル体が悪に染まったままの人間たちが、秘義を探り出し、悪用し始めたのです。特にヴァルカンの秘儀が漏れたことで危険はさし迫ったものになります。人類の進化に逆行することが次々に行われ出します。彼らは、ある種の自然霊の力を借りて成長力や生殖力を悪用し始めました。これはアトランティスの第四期のことです。彼らは地上的なことだけに関心を向けていました。こうした彼らを捉えていた霊的存在はアーリマンだったのです。しかしアトランティス人の多くはアトランティス以後に生き残ることはできませんでした。成長力や生殖力は空気や水の霊的諸力と関係があったため、その力の乱用から、アトランティス全域に破壊的な自然力が吹き荒れ、ここにアトランティスの破局が生じたのです。
この大洪水は聖書の中や、各地の洪水伝説となって残っていますが、アトランティスの痕跡はほとんどかき消えてしまいました(以上『神秘学概論』)。
アーリマンの実体
アーリマンは先ほど述べたように、太陽進化期に正常な進化の道を踏みはずした霊的存在です。ゾロアスター教をおこした古代ペルシャのツァラトゥストラ(伝承に残るツァラトゥストラは後代の人でして、記録に残っていない先代のツァラトゥストラのこと)は、この霊をアーリマンと呼んで善霊アフラ=マツダと対置させました。シュタイナーはこの名を用いています。ですからシュタイナーがアーリマンという時は、たんにゾロアスター教の悪霊というわけではないのです。なおツァラトゥストラが太陽の内に見た太陽霊アフラ=マツダは後にキリストとなってイエスの体に宿る太陽霊と同じものでした。
アーリマンの霊的位階についてはシュタイナーの詳しい説明がほとんどなく、全集110番の質疑応答(1909年4月)で、それを大天使から力天使までと述べているのが目にとまるていどです。やはりルツィファーと同じように、いろいろな位階の霊が加わっているようです。アーリマンは前章で述べたアトランティス時代のヴァルカンの秘義が漏れた時から、地上に特別の支配力を獲得しました。もっとも全集147番『境域の秘儀』第2章によれば、アーリマンも悪霊としてでなく、定まった法則をになっている時があります。アーリマンは植物や動物、人間など自然界に属しているものが死を迎えるプロセスを支配していますが、これは別に悪霊としての仕事ではないのです。物質体が鉱物界に戻るプロセスは正常なものでして、アーリマンはその法則を体現しているのです。
しかしアーリマンもルツィファーと同じように、摂理として働く以外に、足を踏み外して邪悪な影響を及ぼすことがあるわけです。アーリマンは人々の眼を地上の物質世界にだけ向け、霊的世界の存在を信じさせないようにする働きもします。ルツィファーはアストラル体にとりつきましたが、アーリマンは人間の思考に影響するのです。全集193番『社会の謎を内側から見る』第9章の説明によると、アーリマンは「人間を味気なく散文的かつ通俗的なものにし、血肉を失わしめ、唯物主義の迷信に導く力のことである」となります。それに対してルツイファーは「人間の内にあらゆる熱狂的な興奮、誤った神秘主義的傾向、自分を超えて上昇するような人間に働きかけるものを呼び起こす力のこと」でして、「生理学的に人間の血を湧き立たせ、人間に我を忘れさせる」力です。アーリマンは人間社会の中に、分裂や争いをひき起こす力としても働きます。現代の生命のないテクノロジーに象徴される唯物的世界観や、非人間的なノルマを考え出す思考法などもすべてアーリマンとの関わりがあります。機械で装備した軍隊がひき起こす戦争の悲惨さと冷酷さは、アーリマンに支配された場合に人類が落ち入る不幸をはっきりと示しているでしょう。
対立する二つのカ
人間は常にアーリマンとルツィファーの間で揺れ動いている存在です。冷たい計算と熱狂の間を揺れ動き、無味乾燥な思考と、陶酔した感情の間を揺れ動いています。この二つの間のバランスが大切で、『境域の秘儀』の中では、秘儀参入者も、物質体から抜け出た場合にすぐ出会うことになるルツィファー霊とアーリマン霊のどちらにも傾かないでバランスをとることが要求されています。この二つの霊が向かい合って対立している足もとに人間がいるようなものです。
人間の肉体の構造にもこの二つの霊の対立は反映しています。全集158番『人間とエレメンタル界の関連』第五章では、人間の体が高次の善霊(形態霊)の管理のもとで、この二つの霊によって作り出されていることが述べられています。人間の体は左からルツィファーが、右からアーリマンがやってきて、真中で押し合い、左右にそれぞれとりでを作った結果だといいます。また前後では、前からルツィファー、後ろからアーリマンが迫り、間に胸郭の部分を残して対時しているそうです。上下では、下からアーリマン、上からルツィファーとなっています。私たち人間の体はこのような力関係で出来あがっているのですが、このバランスを保っているのは、高次の善霊の力によります。善なる神々の意図によってルツィファーとアーリマンの力の均衡する面が作られ、私たちはそこに身をおいているわけです。肉体における二つの力のバランスは高次の善霊にまかして、私たちは意識する必要がありません。
ルツィファーとアーリマンの二つの力は肉体の構成ばかりでなく、その働きにも関わっています。全集210番『古今の秘儀参入法』第1章によると、ルツィファーは人間の肉体を若くする力として働き、アーリマンは老いさせる力として働いています。そういえば、恋愛の情熱でいつまでも若々しくしている人がいるかと思えば、苛酷な受験勉強の果てに白髪が目立つ若者もいます。知識の詰め込みや、過重な思考はアーリマン的です。ごく小さな子供の内にはルツィファー的な力が優勢ですが肉体を硬化させるアーリマンの力もすでに内在しています。7歳の歯が抜け替わるころになると頭部においてアーリマンが活動し出し、13ー14歳の性的成熟のころにはルツィファーが活動し始めます。
肉体ばかりでなく、心への働きかけもあります。人間の心が知的な理解だけに向かっている時、その心にはアーリマン的なものが働いています。本来は感動や驚異と共に理解すべきものを、たんに分類したり型にはめて整理するような理解の仕方にはアーリマン的な働きが加わっています。知識を並べたてるだけのペダンティックな傾向、俗物的な傾向としてもそれは現われます。
また逆に、物質的なものを軽蔑し、高次なものにだけ関わろうとしたり、暗い神秘主義に向かう心にはルツィファーが働いているのです。
その他、睡眠に入る時、すなわち自我などが物質体から離れる時はルツィファーが働き、目覚める時、すなわち自我が地上に戻る時、アーリマンが働くといいます。私たちがふつうの状態で意識的にバランスをとれるのは心の場合だけです。そのバランスをとる目安となるもの、つまりルツィファーとアーリマンの均衡の中心点におくべきものが問題となりますが、シュタイナーはそれをキリストと考えています。これについては次回述べることにします。 
 
成仏

 

仏教用語で、悟りを開いて仏陀になることを指す。成仏への捉え方は宗派によって異なる。
1 修行者が種々の修行を実践して、仏教の究極の目的である悟りに到達すること。仏陀となること。その修行の期間、方法、また成仏しうる可能性、条件などに関しては、種々の説がある。たとえば、成仏しえない一闡提 (いちせんだい) と呼ばれる人々も成仏しうるとする説や、草木のような生物すら成仏するなどの諸説がある。
2 仏(ほとけ)になること、〈さとり〉を開くこと。仏教の開祖釈迦(しやか)は、ブッダガヤーの菩提樹の下の金剛宝座で明の明星を見て仏陀(ぶつだ)Buddha、すなわち覚(さと)れるものとなった。〈さとり〉をさまたげる煩悩(ぼんのう)から解き放たれる意味で解脱(げだつ)といい、仏(覚れるもの)と成るという意味で成仏という。釈迦が入滅した後、仏弟子たちは成仏を求めて禅定(ぜんじよう)や止観(しかん)とよぶ宗教的瞑想につとめた。
3 「成仏」とは仏教用語で、まさに読んで字の如しで「仏に成る」ということである。この「仏」とは本来、「仏=仏教の開祖釈迦、仏陀」を意味し、さらに「仏のような境地に成れよ=煩悩を捨て悟りを得よ」という教えである。現在の日本においては、「仏様=死者」というイメージが定着し、一般的に成仏というと主に以下の二つのことだと思う人が多いようである。ひとつは「死ぬこと」の別表現で「成仏した」等といった表現。もうひとつは、死後において「霊界で安らかに暮らすこと」を意味し、「これでやっと成仏できる」などと表現される。これら二つの使い方は、もはや日本においては改変できるものではないかもしれないが、本来の意味合いとは大きくかけ離れてしまっている。日本では人の死後、仏教による葬送をする人が多い。この際に僧はお経を読むが、これはたしかに「死者を成仏させるため」の行為である。しかしその意味合いは、「死者の意識に智慧を授けて悟らせ、仏の境地へと導く」のが目的である。密教の究極目標は「即身成仏」と呼ばれる。これは「生きているうちに悟りを得て、仏の心で生きること」を意味する。ところが多くの日本人は、成仏=死というイメージが強すぎるため、「即身成仏」を「即身仏(修行者が瞑想を続けて絶命し、そのままミイラになること)」と混同してしまうのである。「成仏」=仏陀の悟りの境地、仏の心になる、であり、生死とは関係なく人間が到達すべき心の状態を意味するのである。
4 成仏とは、「仏陀に成る」という意味です。したがって「成仏した」といえば、すなわち「仏陀になった」という意味なのです。仏陀に成るというのは難しいことです。簡単にできることではありません。しかも、仏陀に成ることができるのは、生きている人間だけなのです。死者は仏陀にはなれません。仏陀になろうと思えば、もう一度人間に生まれ変わってこなければならないのです。
地獄・餓鬼・畜生の世界は三悪道ともいわれ、生きているときの罪を清算する世界です。修羅の世界は戦いに明け暮れる世界です。修行どころではありません。 
天界は快楽の世界です。修行もできますが、苦が少ない世界ですから修行する必要がありません。人間界は苦しみや安楽・快楽が混在する世界です。修行すれば苦から解放され安楽を得られます。その究極的姿が仏陀なのです。成仏できるのは、人として生きている人間だけなのです。亡くなってからでは遅いのです。死後に望むのは、成仏ではなく、安楽な場所への生まれ変わりだけです。生きているうちに成仏を目指して下さい。心の安楽を得て下さい。成仏は死後に願うものではないのですから。
5 皆さんは「成仏」という言葉の意味を知っていますか。これは文字通りに読めば「仏に成る」ということです。けれども、この意味を正しく理解している人は少ないのです。中には、人間は死ねば必ず仏に成れると考える人や、はたまた金ピカの仏像のような姿になるなどと思っている人がいるかもしれません。しかし、そうではないのです。
法華講員の心得には、「仏教では、人間として真実の幸せは成仏するところにあると説いています。成仏とは、死後の成仏のみを願ったり、人間とかけ離れた存在になることではなく、現実の生活のなかで私たち自身が、仏のような理想的な人格を形成し、安穏な境地にいたることをいうのです」と説明されています。つまり大聖人様の説かれる成仏の意味は、私たちが実際に幸せな生活をしていくことをいうのです。
大聖人様の教えは即身成仏 / およそ私たちは、悩みや苦しみ、欲望などを持ち合わせる人間です。それらの煩悩を断つことなく、凡夫の姿そのままで成仏していく、幸福になることが成仏の意味なのです。このことを大聖人様は「即身成仏」と仰せられています。この即身成仏は、決して何か特別な状況をもたらすとか、姿や形を変えて仏に成るということではありません。判りやすく言えば、御本尊様を信じて手を合わせ、南無妙法蓮華経と唱えれば、今の自分のままの姿で成仏する、幸福になれるということです。ここが大聖人様の教えの尊いところです。
生活の中における成仏の姿 / 皆さんは日頃の生活の中で、どのようなときに自分は幸福だと感じますか。「私は学校の試験で満点を取ったときが幸せだ」とか、「この病気が治るならそれが一番の幸せだ」という人もいるでしょう。たしかに、真剣に信心をしていけば勉強もできるようになるし、病気も治るでしょう。しかし、それだけが信心の目的ではないのです。それでは大聖人様の仏法を信仰していることにはならないのです。成仏とは、正しい信心によって自分自身に正しい智慧を具え、心豊かな人間性を育み、人生における四苦八苦などの、どのような壁にぶつかっても乗り越えられる力を持つことです。この力が具われば、私たちは自由自在に生活を送ることができるようになるのです。ただし、自由自在に生活を送るといっても、これはわがまま勝手に好きなことをするということではありません。私たちが迷いの中で転々することを留めて自由自在な慈悲の命へと変わり、法界を永劫に亘って活動できる姿をいうのです。
御本尊様の功徳に浴した生活を / 私たちは、大聖人様が顕された御本尊様の光に照らされてこそ、自由自在な力強い生命の境界が得られるのです。ですから、毎日の朝夕の勤行と唱題を欠かさず実践し、多くの人々に大聖人様の教えを弘めていくことが大切です。それらを実行できたとき、私たち凡夫が計り知ることのできないほどの成仏という大きな功徳を御本尊様より戴くことができるのです。
6 人が成仏する、とはどういうことか? 成仏する、成仏したい、といいますが、それは一体どうすれば成仏できるのだろうか? 又、巷でよくいうポックリさんとは、どういうことか?死ぬときはなるだけ苦しまずポックリいきたい、と人は言い、ポックリ寺に参る。そうだろうか?
ポックリさんの原理とは?
ある女性が若い男性に、結婚資金や老後の資金に貯めたお金を騙し取られてしまったのです。そして運命のなかで、乳ガンになり手術をして、女性の機能も失いました。さらに阪神大震災で家がなくなり、独りいる姉さんの家に寄留した。その後、母親も亡くなった。
母親は生前、その娘を見て死ぬにも死ねんといった。「お前には何にもようしたげんと、むごい人生を送らせて、こんな目に遭わすのやったら産んでやるんやなかった。お前だけは心配じゃ」というて泣いた。しばらくして定年退職した。全てを失い、この世への執着するものが全部とられていたのです。お母さんが死んで三回忌の頃でした。その彼女に向かって「今こそチャンスだから、本気で禅定してみなさい」と僕は勧めたのです。
そしたら家で禅をする彼女のまわりにつむじ風が起こって、その中心に自分が吸い上げられそうになった。その通り道のことをいわゆるワームホールといい。我々はドライパイプと呼ぶ。身体が浮き上がってきた。安定が悪い。こわいよぉ〜と思ったら、ドスンと落とされた。びっくりして目を開けたら、部屋の中は今までのつむじ風もなく紙一枚飛んでいない。何もない普通でした。
後日、そのことの報告を受けました。「あれは何ですか?」「それはあの世に招待をうけたんや」「えっ、あの世に招待をうけたんですか?そしたら死んで帰ってこないということですか?」「帰りたいか?この世に何の未練があるの?お金はない、家はない、女子でない、母は死んでしまう、定年で仕事もない。あなたにとって、この世に戻って何がいいの?何の未練があるの?あなたをこの地上に打ち付けていた、執着というクギが全部抜けた。だから軽くすっと行けた。実はあなたに対して神仏が、悔いて死んでいった母親に会わせてやろうという計らいが、あなたを引っ張ったのや。何でそのまま行かなかったのや」と私は言いました。これが本当のポックリさんです。
よく老人が「ポックリ寺で祈願してもらった」といわれるが、そんなことでポックリと死ねるのではなく、その老人がこの世に何の未練も執着も、心残りもなくなって、この世につなぎ留めるている、煩悩や執着のクギが全部抜けたら、期せずして、魂が肉体から抜けるのが、ポックリさんの原理なのです。
子供が独り立ちし親離れしていく。自分の主人が死んでいく。兄弟も死んでいく。友だちも死んでいく。とうとう独りぼっちになった。正にあの世に往生、成仏できる条件が整ったということです。自分の人生が済んでしまうのです。そのときは、あの世にもっとも近いのです。どっちでもいいわ。と思ったときにスーと上がっていくのです。ひとつでも思いが残っているときは死ねません。そういうふうに成仏するということです。
前にもこんなこと言ったことがあります。「今やったら苦しまんと、すっと引き取ったげる。あるいは10年長生きする、その代わりにのた打ち回って苦しんで死ぬ、どっちにする?」って言うと、「今、死にたい」と言われる。人間はみな、苦しまずにポックリ死にたいと思っています。ポックリさんの原理を持っておられるのです。
初期仏教
仏教の開祖釈迦は、仏陀すなわち「覚(さと)れる者」となった。このことを指して、悟りをさまたげる煩悩を断って輪廻の苦から解き放たれる意味で解脱といい、仏陀(覚れる者)に成るという意味で成仏という。
釈迦の弟子たちは、釈迦と同様の解脱を得るため釈迦より指導を受け、あるいは釈迦の死後はその教えに随い、釈迦の説いた教義を学び、教団の戒律を守り、三昧や禅定とよばれる瞑想を行なう、いわゆる戒・定・慧(三学)の修行に勤めた。その結果として釈迦と同様に輪廻から解脱できる境地(=涅槃)に達した人物を阿羅漢と呼ぶ。これも広い意味では成仏であるが、教祖である釈迦に対する尊崇の念から阿羅漢に成ることを成仏するとは通常言わず、あくまで仏陀は無師独悟した偉大なる釈迦ただ一人であるとする。つまり、オリジナルな悟りに達したのは釈迦のみで、阿羅漢に達した弟子はそのコピーにすぎないと考えるのである。
上座部仏教
スリランカ・ミャンマー・タイなどに伝わる南方の上座部仏教では、涅槃(般涅槃)を求め、阿羅漢として解脱することを最終目標とする。しかし、釈迦の教えは仏教徒にとっては普遍的な宇宙の真理でもあるとされる。
大乗仏教
初期大乗仏教が成立すると、現世で直接に阿羅漢果を得ることが難しい在家信者であっても、輪廻を繰り返す中でいつかは釈迦と同様にオリジナルなさとりに到達できる(=成仏できる)のではないかと考えられ始めた。
成仏をめざして修行する者を菩薩とよぶが、釈迦が前世に菩薩であった時のようにたゆまぬ利他行に努めることで、自分もはるかに遠い未来に必ず成仏できる。そう信じて菩薩の修行である六波羅蜜を日々行じていくのが、初期の大乗仏教の教えであった。
さらに後期大乗仏教になると、それらの修行の階程をふむことすら歴劫修行と考えられるようになり、一切衆生は本来成仏していると考える思想(如来蔵・本覚)や、信によって本尊に加持することで煩悩に結縛された状態から、ただちに涅槃に到達できるとする密教の即身成仏などの思想も生まれた。
日本文化の「成仏」
日本語の日常会話や文学作品などでしばしば用いられている「成仏」という表現は、「さとりを開いて仏陀になること」ではなく、死後に極楽あるいは天国といった安楽な世界に生まれ変わることを指し、「成仏」ができない、ということは、死後もその人の霊魂が現世をさまよっていることを指していることがある。
こうした表現は、日本古来の死生観が仏教に入り込みできあがった、仏教者が死を迎えてのちに仏のいのちに帰ると考えられた信仰を背景として、この国土である娑婆世界から阿弥陀如来が在す西方国土の極楽浄土へ転生する浄土信仰とも相まって生まれたものである。日本の仏教が、本来の仏教から変化・変形している事は、知られている。
太平洋戦争当時のアメリカの著名な文化人類学者ルース・ベネディクトは、彼女の有名な日本文化についての著作「菊と刀」の中で、「〜彼ら(日本人)は、死後に生前の行いに従って、極楽と地獄に行き先が分けられる、という(本来の)仏教のアイデア(因果応報)を拒絶したのだ。どんな人間でも、死んだらブッダに成る、というのだ。〜他の仏教の国で、そんな事を言う所はない。〜」と述べている。
女性が成仏することができるのは法華経だけなのですか?
弘安元年(一二七八)日蓮大聖人が阿仏房の妻、千日尼御前にあてられた手紙で、 「漢土の天台智者大師法華経の正義を読み始め給わいしには、他教は但だ男に記して女に記せず。乃至今教は皆記す等云云。此れは一代聖教の中には法華経第一。法華経の中には女人成仏第一なりと断らせ給うにや。されば日本一切の女人は、法華経より外の一切経には女人成仏せずと嫌うとも、法華経にだにも女人成仏許されなば、何か苦しかるべき。(中略)・・・其の中に悲母の大恩殊に報じ難し。此を報ぜんとおもうに、外典の三墳(さんぷん)・五典(ごてん)・孝経(こうきょう)等によって報ぜんとおもえば、現在を養いて後生を助け難し。身を養い魂を助けず。内典の仏法に入って五千七千余巻の小乗・大乗は、女人成仏難(かた)ければ悲母の恩報じ難し。小乗は女人成仏一向に許されず。大乗経は或いは成仏、或いは往生を許したるようなれども、仏の仮言(けごん)にて実事(じつじ)なし、但だ法華経計(ばか)りこそ女人成仏、悲母の恩を報ずる実の報恩経にては候えと見候いしかば、悲母の恩を報ぜんために、此の経の題目を一切、女人に唱えさせんと願す」
訳しますと、 「中国の天台智者大師が法華経の意義を正しく始めて理解されたとありますが、その著述では『他教(法華経以外の経)は、ただ男にだけ成仏を許して保証したが女には許していない。法華経では男女共に成仏の保証が与えられた』と述べられました。これからのことは仏さまご一代の全経典の中で法華経が第一の経典であり、その法華経の中で説かれた法門の中で女人成仏が第一であると判断されたのでしょう。   このようであるから、日本のすべての女性は法華経以外の一切経で女人は成仏を果し得ないと嫌われても、法華経にさえ女人成仏が許されているのですから、どうして心配することがありましょうか。(中略)・・・ そのなかでも悲母の大恩はとくに重いものであるので、ご恩を報ずることはとてもできません、母の大恩に報いることを考えると、仏教以外の書物などで報じようと思っても、現世で養うことができても後生まで助けることはできません。これでは肉体を養っても魂を救済することができません。内典(仏教経典)の仏教典籍では、五千とか七千巻といわれる小乗経・大乗教は、女人成仏は困難であると説かれてますので、悲母の恩を報ずることはできません。ことに小乗経典は女人の成仏が全く許されていません。大乗経典では、あるいは成仏とかあるいは往生を許されているようであるが、仮の言葉であり真実の成仏・往生を許したものではありません。ただ法華経にのみ女人成仏が許されているのです。悲母の恩を報ずる実の報恩経が法華経なのであると見ましたから悲母の恩を報ずるためにこの経の題目(南無妙法蓮華経)を一切の女性に唱えていただきたいと願ったのです。  
と述べられています。法華経の提婆達多品第十二に一切の女性の救済が説かれています。
「女人と仏教」「女人成仏」
岩波仏教辞典
女人禁制【にょにんきんぜい】信仰上、女性をけがれ多く、また僧の修行を妨げる者として、特定の寺院・霊場で女性の立入りを禁止したこと。区域を定める結界石を立ててこれを標示したことから〈女人結界〉ともいう。禁止の事実は、比叡山・高野山・金峯山(きんぶせん)その他にみられ、平安時代の記録や文学作品に徴し得るが、この用語の見えるのは、室町時代のころからのようである。女性に本堂の内陣に入るのを許さないのも禁制の一種といえよう。道元・法然・存覚らは女人禁制を強く批判否定した。「此の島は女人禁制とこそ承りて候ふに、あれなる女人は何とて参られ候ふぞ」〔謡・竹生島〕「若君様あれ御覧候へや、一枚は女人禁制、また一枚は産病者禁制、今一枚は細工禁制と書きてあり」〔説経・宝永版あいごの若5〕 
女人成仏【にょにんじょうぶつ】女性が仏に成ること。古来より女性は地位が低く見られ、仏になれない、浄土に女性はいないなどといわれ、法華経(提婆達多品)にも梵天王・帝釈天・魔王・転輪聖王(てんりんじょうおう)・仏の五種にはなれない五つの障(さわ)り(五障)があると説かれている。このほか多くの経論や世間の法などでも、女性は地獄の使い、仏の種子(しゅうじ)を断つ者、亡国の根源、不信を体とする者、五障三従の者などといわれ、不成仏の者と見なされ仏の救いから排斥されてきた。こうした見方と大乗仏教のすべての者は仏に成れると説く教えとは矛盾するものであり、そこで無量寿経には阿弥陀仏の女人往生の誓いを説き(第三十五願)、法華経(提婆達多品)には8歳の竜女(りゅうにょ)の成仏を説いている。この竜女成仏は女人成仏の根拠として重要な意義を持ち、諸経における否定的女性観を打破して、すべての女性の成仏が可能となる法華経の女性観を示したものである。この両経説をタイアップさせて女人成仏を強調し、中古・中世文学の女人往生のモチーフにも大きな影響を与えたのが、天台系浄土門流の所説である。
女性の成仏、往生を説くことは鎌倉仏教の一つの特色である。日蓮は、法華経の竜女の即身成仏を女人成仏の現証を示すものとして重視し、『開目鈔』に「一念三千の成仏にあらざれば有名無実の成仏往生なり。挙一例諸(こいちれいしょ)と申して竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし」と述べ、女人成仏は一念三千の教えによらなければならないことを強調している。女人成仏は、法華経が一切衆生すべてが仏に成れる経であることを示す特色ある教えの一つである。
日本仏教語辞典
女人【にょにん】婦女子のこと。「女性(にょしょう)」ともいう。『源氏』(夕霧)「女人のあしき身を受け、長夜の闇に惑(まど)ふ」。[補説]『涅槃経』九(大正蔵12―422上)に「一切の女人は皆是れ衆悪の所住の処なり」と記され、『妙法華』(12)「提婆達多品」(大正蔵9―35下)に「女人の身、猶、五障あり」と記されるように、佛教の女性観の一部には女性蔑視の思想が見られる。さきの引用文も、このような女性観の反映である。同じ観念に基づいて、「女人禁制」とか「女人結界」などの語が生じた。
女人成佛【にょにんじょうぶつ】女性が女の身体のままで佛になりうること。女人の即身成佛。謡曲『梅枝』「法華はこれ最第一。三世の諸佛の出世の本懐。衆生成佛の直道なし中んづく女人成佛疑ひあるべからず」。[補説]『妙法華』(12)「提婆達多品」に説かれる竜女の成佛は変成男子(へんじょうなんし)説の物語で、女人の即身成仏説ではない。日蓮は『女人成佛抄』の中で、法華経以前の経典には女人不成佛が説かれ、法華経に至ってはじめて女人の成仏が説かれたとし、事の本質をかくしたことが知られる。
広説仏教語大辞典
女人往生【にょにんおうじょう】女人が極楽往生に往生して、男子に生まれかわること。〈『平等覚経』1巻[大正蔵]一二巻二八三上〉
女人往生願【にょにんおうじょうのがん】阿弥陀仏四十八願のうちの第三十五.女性が浄土に往生して男子の身に変わるように、ということを誓う。法然が名づけた。変成男子願ともいう。〈『無量寿経』上[大正蔵]一二巻二六八下参照〉
女人禁制【にょにんきんぜい】女性は修行僧にとっては修行のさまたげとなることが多いので、修行の道場に入ることが禁止されていたこと。わが国では、昔、比叡山・高野山などにこの制があった。この制は明治政府の布告で廃止されたが、廃止の通達はすぐには実行されず、多くのいざこざがあったとされる。大和の大峰山では今日でもこれを守っている。〈謡曲『道成寺』『竹生島』〉
女人地獄使【にょにんじごくし】「にょにんはじごくのつかいなり」とよむ。女は地獄からよこされた使者である、という意。『華厳経』の文であると伝えられているが『華厳経』には見当たらないという。内心如夜叉に同じ。〈『宝物集』4巻、『大日本佛教全書本』85上〉
女人成佛【にょにんじょうぶつ】インドでは、古く女性の地位を非常に低くみて、女には梵天王・帝釈・魔王・転輪王・仏の五種のものにはなれない障害(五障)があるとし、また浄土には女性はいないという考えが生じた〔ただし、天女はいる〕。しかし、すべての者が仏のさとりの実現ができるという大乗仏教の教えと矛盾するので、身を男性に変えてこれを解決しようとしたことをいう。これを変成男子という。女人往生は『無量寿経』に説く、阿弥陀仏四十八願の第三十五願によると、女性も浄土に往生して男子の身となるという。『法華経』提婆品には、竜王の八歳の娘が文殊菩薩の導きによって男身となり、南方世界で成仏したと説かれる。これを竜女成仏という。この問題は『須摩提菩提経』『大宝積経』『無所有菩薩経』などにも論議されている。〈『玉かがみ』〉
女人非器【にょにんひき】女人は仏法を受けるに十分な資格がないということ。[解釈例]仏法の水入るべきに堪へずとなり。〈『拾遺古徳伝』〉
女人不浄【にょにんふじょう】女人の身体が不浄であると観想すること。〈『菩提行経』4巻[大正蔵]32巻557上〉
日蓮聖人遺文辞典教学篇
女人往生【にょにんおうじょう】女人が仏の世界に往き、生まれ変ること。「女人成仏」と類義語であるが、厳密には往生と成仏は意義が異なる。往生は諸仏の浄土に化生して仏となるが、成仏は自ら悟りを開いて仏となることをいう。女人往生の思想は、『無量寿経』巻上(『正蔵』12巻)では阿弥陀仏の第三五願に説かれるが、いずれも男子に変じて往生を遂げるとする。『女人往生鈔』にみえ、また『月水御書』に「女人の成仏往生」の語が、『薬王品得意鈔』や『法華題目鈔』に「女人の往生成仏」の語がみえる。
女人成仏【にょにんじょうぶつ】(高森大乗氏執筆) 女性が仏に成ること。インドでは古来より女性の地位は低くみられ、仏になれない、浄土に女性はいない(天女は除く)などといわれ、爾前の諸経でも二乗・闡提等とともに、成仏を認められなかった。日蓮は『法華題目鈔』に、「女人をば内外典に是をそしり、三皇五帝の三墳五典にも諂曲者と定む。されば災は三女より起ると云へり。国の亡び人の損ずる源は女人を本とす。内典の中には初成道の大法たる華厳経には、女人は地獄の使なり、能く仏の種子を断つ、外面は菩薩に似て、内心は夜叉の如しと文。双林最後の大涅槃経には、一切の江河は必ず回曲(えこく)有り、一切の女人必ず諂曲有りと文。又云く、所有(あらゆる)三千界の男子の諸の煩悩合集して一人の女人の業障となる等云云」と述べている。法華経提婆品にも女性は梵天王・帝釈天・魔王・転輪聖王・仏の五種の者にはなれない五障(五つの障害)があると説かれている(『開結』)。しかし提婆品は八歳の竜女の成仏を説いて、五障を持つが故に社会的に低くみられ、一切の諸経において成仏を許されなかった女性の成仏が可能となる根拠を示したのである。智ギは『法華文句』巻七上(『正蔵』34巻)に「他経は(略)但だ男に記して女に記せず」といって、爾前経に女人の授記は説かれず、女人成仏は法華経のみが説くことを指摘し、最澄は『法華秀句』巻下(『伝全』3巻)において、法華の十勝の第八に即身成仏化導勝を挙げ、竜女成仏(女人成仏)は法華経の力用による即身成仏であるとする。日蓮は『開目抄』に「竜女が成仏此れ一人にはあらず。一切の女人の成仏をあらわす」、「挙一例諸(こいちれいしょ)と申して竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし」と述べて、法華経の竜女成仏が女人成仏の現証を示すものとして重視し、「二箇の諌暁」の一つに数えている。また「法華経已前の諸の小乗経には女人の成仏をゆるさず。諸の大乗経には成仏往生をゆるすやうなれども、或は改転の成仏にして、一念三千の成仏にあらざれば有名無実の成仏往生なり」と述べて、たとえ爾前の経に成仏を許すような説があっても、それは真の即身成仏ではなく、女人成仏は法華経の一念三千の法門によらなければならないことを強調している。女人成仏は、二乗作仏・悪人成仏等とともに、法華経が一切衆生すべてが仏に成れる経であることを示す特色ある法門の一つである。『女人成仏鈔』、『善無畏鈔』、『祈躊妙』、『妙法尼御前御返事』、『千日尼御前御返事』、『法衣書』)等、女性信徒宛消息に多る。
女人之業障【にょにんのごうしょう】業障は業のさわり。成仏のさまたげとなる業のこと。女人の持つ成仏のさまたげとなる業のこと。『主師親御書』に、法華経以外の諸経に女人の罪障深く成仏の困難なことを説いた経文を挙げる中に、「有る経に云く、所為(あらゆる)三千界の男子の諸の煩悩を合せ集めて、一人の女人の業障と為す」とみえる。「有る経」が何をさすかは不詳。
竜女成仏【りゅうにょじょうぶつ】(高森大乗氏執筆) 竜王の娘が仏になること。法華経提婆品に説かれ、「竜女作仏」ともいう。提婆品に「娑竭羅(しゃから)竜王の女(むすめ)、年始めて八歳なり。智慧利根にして、善く衆生の諸根の行業を知り、陀羅尼を得、諸仏の所説甚深の秘蔵悉く能く受持し、深く禅定に入って諸法を了達し、刹那の頃(あいだ)に於て菩提心を発(おこ)して不退転を得たり」(『開結』)とある。すなわち娑竭羅竜王の八歳の娘が、文殊師利菩薩の竜宮で法華経を宣説するを聞いて、菩提心を起こし、速やかに悟りを開き、その後、霊鷲山へ詣で仏前において即身成仏の現証を示したことが説かれている。竜女の成仏は女人成仏の根拠として重要な意義を持つ。爾前の諸経では女人の成仏を認めず、また往生・成仏を許しても改転の成仏か歴劫修行を必要とした。法華経では畜身の八歳の童女が現身のままに速疾に成仏したと説いて、すべての女性の成仏が可能となることを示したのである。すなわち人間に限らず生きとし生きる者はすべて、老若男女を問うことなく、一念の信を生じることによって、法華経の力用により即身に成仏することができると説くのである。竜女成仏は二乗作仏・悪人成仏とともに、法華経が一切衆生すべてを成仏させる経であることを示す特色ある法門の一つである。智は『法華文句』巻七上(『正蔵』34巻)に「他経は(略)但だ男に記して女に記せず、但だ人天に記して畜に記せず。今経は皆記す」と述べて、竜女の成仏が法華経の特色であることを指摘する。最澄も『法華秀句』巻下(『伝全』3巻)に法華の十勝の一つに挙げ、竜女成仏は法華経の勝れた力用を顕すものと述べている。日蓮も『開目抄』に「竜女が成仏此れ一人にはあらず、一切の女人の成仏をあらはす」、「挙一例諸(こいちれいしょ)と申して竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし」と述べ、一切の女人の成仏への道を切り開いたものとし、悪人成仏とともに「二箇の諌暁」という。日蓮は『観心本尊抄』に提婆品の「竜女乃至成等正覚」の文を、畜生界に十界(仏界)を具する証文とするが、竜女成仏は一念三千十界互具の法門によるのである。畜身であっても、女人であっても、八歳の幼稚の竜女であっても、信ずる力さえあれば男子と同様に成仏できることを教えるのが竜女成仏の法門である。なお竜女成仏を経文に「忽然(こつねん)の間に変じて男子と成って」とあることから、男子に身を変えての改転の成仏であるかに見る者もあるが、それは誤りで、変成男子以前にすでに竜宮で悟りを開いていたことは経文に明らかである。変成男子の相を示したのは、爾前・小乗の見解に執われている智積菩薩や舎利弗、さらには一会の大衆の疑いを破るための現証である。『女人成仏抄』、『祈祷抄』、『上野殿御消息』、『秀句十勝抄』等。 
 
成仏・諸説

 

「成仏」して生きることを目指す / 日蓮宗
病気や死への恐れ、人間関係から起こる悩みなど、人の一生にはさまざまな苦しみがつきまとうものです。ときには、自分の思い通りにならないことに対して憤り、その苦しみに振り回されてしまうこともあるでしょう。でも、できることなら苦しみに振り回されず、安らかに生きたいものです。
お釈迦さまの教えには、「人々を苦しめている根本的な原因は何か」、「苦しみから解放されるにはどうすればよいのか」という一貫したテーマがあります。
全ての人が避けることのできない様々な悩みに対し、お釈迦さまは「生きることは苦に満ちている。それは、あらがいようのない真理である。だから、生きることが苦しいのは当たり前ともいえるのだ」と説かれています。これだけを聞くと、なんだか救いのない話のようですね。ですが、お釈迦さまが伝えたかったのはむしろ、その解決方法。苦しみから解放され、安らかに生きるための方法を、仏教の教えとして私たちに残してくださったのです。
仏教が目指す境地は「成仏」、つまり文字どおり仏に成る≠アとです。"仏"とは世の中の真理に目覚め(=さとり)心は何にも乱されず、その智慧を活かして人々の苦しみや悩みを解決しようとする人を指しています。仏教や成仏というと、お葬式や死後の世界などを連想される方もいるかと思います。しかし、お釈迦さまが繰り返し説いていた教えは、私たちがいのちを授かっているこの"現世"で、いかに悩みや苦しみから開放され、イキイキと生きるかということに尽きます。つまり、"今"をイキイキと生きるための智慧、それが仏教なのです。
お経を読んで、なぜ成仏するのですか?
仏教は今から約二千五百年前、インドでお釈迦さまが創始された宗教です。お釈迦さま(仏さま)が説かれた教え、これが「仏教」ということです。お釈迦さまは、教えを文字で書き残すことはしなかったと言われています。お釈迦さまがお亡くなりになってしばらくの間は、お弟子の方々が口伝えで教えをひろめていかれました。やがて教えがまとめられ、経典ができあがっていきます。この経典はインド、またはその周辺の言語によって記されました。経典は漢訳されて中国に伝えられ、やがて日本にも伝わることとなります。これがいわゆる「お経」です。お経には「般若経」、「阿弥陀経」、「大日経」等々さまざまな経典があり、古来より「八万四千の法門」と言われるほど、数多くの経典(お経)があります。
この数多くのお経の中で「妙法蓮華経(=法華経)」というお経こそが、お釈迦さまの真意を伝え、宇宙全体の真理(お釈迦さまの悟り)を明らかにした教えであると見出されたのが「日蓮聖人」です。日蓮聖人は「法華経」こそ仏教の正統の教えであると示されました。そしてその教えを信じてひろめることが、世界の幸福につながると標榜しているのが「日蓮宗」です。
日蓮宗の教えで「お経を読む」ということは、「法華経を読む」ということです。そしてこれ以外のお経を読んでも、「成仏」することはかなわないと教えます。
ところで「成仏」とは何でしょうか。簡単に言えば「成仏する=幸福になる」ということです。お釈迦さまは「人間には苦悩がある」と示されました。この苦悩をすべて解決することが幸福であり、「成仏」なのです。
それでは「法華経」を読むことによって、本当に苦悩が解決され、幸福(成仏)が得られるのでしょうか。
日蓮聖人は声に出してお経を読むということだけが「読む」ということではない、「法華経を信じて、行う」ということを含めたもの、それが「読む」ということだと示されました。これは「法華経」を鏡として世の中を見、そして考え、それに基づき行うということです。
ここで「法華経」というお経に、何が説かれているのか見ていきましょう。「法華経」の中でお釈迦さまは、「私(お釈迦さま)と、あなたは同じ存在である」と説かれました。仏であるお釈迦さまと、すべての人々が同じ存在になれることを明らかにしたのです。すべての苦悩を解決し、本当の幸福者となったお釈迦さまと同じく、私たちも仏となることができるということです。そして「法華経」の教えの肝要は「すべてを否定しない」ということです。日蓮聖人は「この世界で唯一の悪い行いは、法華経を否定すること」と示されています。それはすべてを否定しない教えを否定することは、すべてを否定してしまうことになるからです。すべてを受け入れ、認めることが本当の幸福なのです。これは自分の苦悩をも受け入れるということであり、苦悩こそが自分をより高い境地(仏)へと導くものだということでもあります。
お経を読むということのはじめであり、究極のものは「南無妙法蓮華経」とお唱えすることです。「南無」とは「信じて行う、修行する」ということ。「南無妙法蓮華経」と唱え、そして「法華経」の教えを他の人々にひろめることが「信じて行う」ということなのです。これはすべての人々がお釈迦さまと同じ存在であるということを受け入れるだけでなく、積極的にお釈迦さまと同じ存在となるようにはたらきかけなければならないということです。ここに仏教の厳しさがあります。
ここでもう一度、質問を振り返りましょう。「お経を読んで、なぜ成仏するのですか?」。この質問には、二通りの意味があると思います。自分がお経を読んで、自分自身が仏となれるのかということと、僧侶にお経を読んでもらって、亡くなった方が成仏できるのかということです。前者については、これまでのところでおおよそ説明させていただきました。後者はお経を読んだ本人以外に、その効果が及ぶのかどうかという大きな問題が関わってきます。結論から言えば、「仏教は自分以外の他者が、自分をどうにかしてくれるという教えではない」ということです。つまり亡くなった方が成仏するかどうかは、亡くなった方次第ということです。
こうなると法事を営み、僧侶にお経を読んでもらう必要はないということになってしまいます。ですがここで「法華経」の教えを思い出してください。「私(お釈迦さま)と、あなたは同じ存在である」。これは突き詰めていくと、「すべての人、そして存在はみな同じである」ということに他なりません。
お経を読むということが、「法華経」をひろめるということでもあるのですが、一般の信仰者(檀家)は専門的に、そして日常的に教えをひろめる行為をすることは難しいことです。そこで僧侶という仏教の専門家・専従者が教えをひろめる行為を、「布施」というかたちで支える修行を信仰者はするのです。布施という修行をすることは、教えをひろめることと同義の行為であり、布施を行った人の修行の効果が亡くなった人を含めた他者に及ぶのです。それは「すべての人、そして存在はみな同じである」からです。基本は「仏教は自分以外の他者が、自分をどうにかしてくれるという教えではない」のですが、「法華経」という仏教の最重要の教えだけがお経を読んだ本人以外に、その効果が及ぶことが保証されているのです。「法華経」以外のお経では、これは不可能です。となれば「法華経」以外での供養(葬儀・年回法要など)では、誰も成仏することはできないということになります。
ただしここで注意していただきたいのは、一般の信仰者は金銭的な布施をしているだけで良い、ということではなく、折にふれ少しでも仏教を自分以外の人に伝えていかなくてはならないということです。
ここまで見てきたように、お経を読んだからといって単純に成仏がかなうわけではありません。「法華経」を読む、つまり口に唱え、心で現実と教えを照らし合わせ、身体を用いて現実世界に教えをひろめるという行いをして、はじめて「成仏」に近づくことができるのです。そしてこれが「南無妙法蓮華経」と、身で、口で、心で唱えることだと、日蓮聖人は教えてくださっているのです。 
水子供養
8年ほど前に水子供養をしました。学生で生めなかった為です。先日、霊視が出来る方から水子が成仏できていないと言われ今大変不安な気持ちです。以前供養をしていただいたお寺の名前も既に分からない状態です。別の寺院でもう一度水子供養をした方が良いのでしょうか?

水子の霊を抱えている方は、宗教家や霊能者から何か言われるとそのほとんどを鵜呑みにしてしまします。「成仏していない」などと言われると大変な不安に陥ります。それが「宗教」の怖さです。なぜそのようなことが起こるかと言えば、それは、自分が行った「供養」に自信が持てないからです。多分あなたの場合もそうかもしれません。
ところで、あなたはあなたの水子が今どのようにしているかわかりますか? 多分分らないでしょう。そこがいい加減なことをいわれる隙になっているのです。残念ながら私もあなたの水子は成仏していないと思います。でも、これから私の言うその「成仏していない」というほんとうの意味をしっかり理解してくだされば大丈夫です。
まず、あなたは、「水子の供養」をどのように捉えているのでしょうか。「早く成仏させて葬りたい」「水子とは早く縁を切りたい」「早く忘れて出直したい」「身を清めたい」などと、もし思っていたらそれは大きな間違いです。水子はあなたに縁を切られて喜ぶと思いますか。そうだとしたら水子は汚らわしいイヤな存在になります。もしそのような気持ちがちょっとでもあったらその水子は浮ばれないでしょう。永遠に成仏しないでしょう。
ではどうすれば良いのでしょうか。それにはどうすれば水子が喜ぶかを考えることです。水子の本当の供養とは、縁を切るのではなく、新たに縁を結ぶのです。
どういうことかといいますと、水子を自分自身の中に完全に取り込むことなのです。 切り離すのではなく水子と自分が一体になることです。「あなたとこれから一生共にします。決して離しません。だからわたしも護ってくださいね。」という新たな契りを結び、新たな気持ちを持つことです。新たな縁が始まります。
水子はあなたの分身です。他人ではありません。その関係は切っても切れない永遠の関係なのですから。あなた自身がしっかり水子の霊をあなた自身の中に取り込んでしまうことでその水子は完全に安心(あんじん)の世界、すなわち仏の世界に入るのです。これをもって「成仏」というのです。私が言う「成仏」とはそうゆうことです。
「霊」に形や重さはありません。何の邪魔にもなりません。これかは一人ぼっちではない、いつでも一緒という気持ちから「しっかり供養している」という自信が生まれるのです。そしたら「その水子が今どうしているか」がわかるはずです。
もうどんな人から何を言われても不安になったり迷ったりすることはなくなります。 「ほんとうの供養」とはそうゆうことです。水子供養も基本的には先祖供養と変わりません。先祖は切り離せませんものね。それとまったく同じことです。「仏教は心の科学」です。迷信や妄信にだまされないためにもしっかりした「信仰心」を持つことです。 
一生成仏抄 (別名『与富木書』)
一、御述作の由来
本抄は、大聖人様が立教開宗された二年後の建長七(一二五五)年、三十四歳の御時、鎌倉・松葉まつばケ谷やつの草庵にて認したためられ、下総(千葉県北西部)の富木常忍殿に与えられた御手紙と伝えられています。
建長五(一二五三)年四月二十八日、安房・清澄山嵩かさが森もりにて立教開宗を宣せられた大聖人様は、故郷を後に、末法万年の一切衆生を救済すべく、当時の政治の中心地鎌倉へと向かわれました。そして、まもなく法華弘教の拠点として鎌倉・松葉ケ谷に草庵を結ばれると、その後弘教に努められる中で、後に入道して常忍と称した富木五郎胤継たねつぐ殿が入信したのです。
富木殿は、信行学の錬磨に努め、後に入信した曽谷教信殿、太田乗明殿、四条金吾殿らの中にあって中心的な役割を果たしました。特に『観心本尊抄』『法華取要抄』『四信五品抄』など四十余篇にわたる御書を賜っていることは、下総・若宮の領主として地域社会に堅固な基盤を有する富木殿に対し、後世への御書の格護保存を託されたものといえるでしょう。
二、本抄の大意
一心に御題目を唱え、一生の中で成仏の境界を得るよう勧誡された御書で、はじめに、我ら凡夫の成仏は衆生本有ほんぬの妙理(衆生が本来具備している妙法)を観ずるところにある。この衆生本有の妙理こそ妙法蓮華経であり、妙法蓮華経と唱えることが衆生本有の妙理を観ずることである。なぜなら、法界のすべてが一念の生命に包含されることを説き顕しているのが妙法だからである、と御教示されます。
次に、いかに妙法を持つとも、自己の心の外に妙法蓮華経があると捉えるのは間違いであると示されます。つまり、幾度となく生死を累かさね、長い期間の厳しい修行を経て、はじめて悟りを得ると説く歴劫りゃっこう修行や、念仏を唱えることによって、死後、娑婆世界を捨てて他に極楽浄土の別世界を求めるなど、仏と凡夫、浄土と穢土えどとを隔てるような爾前権教の考え方を誡められています。そして、迷いも悟りも、本来その体は一つであり、衆生の一念を浄化することにより、現に住する娑婆世界において、凡夫がその身を改めずに即身成仏することを教えられたのです。
次いで、妙法蓮華経こそ、その成仏の直道と御教示あそばされ、さらに法華経を引かれ、滅後末法、娑婆世界における妙法受持の唱題に励むならば、必ず一生成仏することを明かされて締め括られます。
三、拝読のポイント
「衆生本有の妙理」・「己心」の真意
私たちが御書を拝するとき、『三沢抄』の、「又法門の事はさど佐渡の国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ」(御書)との仰せに則り、御化導の時期により、御法門の内容に浅深の次第があることを心得るべきです。
佐渡以降、明確に本迹相対、種脱相対と従浅至深して御本意の法門を示され、特に出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊を顕発された、御本仏の境界を基準に御書を拝するとき、はじめてその真意に至ることができるのです。
本抄では、冒頭、私たちの一生成仏のためには「衆生本有の妙理」、すなわち私たち凡夫の己心に本来具そなわる妙法を観ずべきで、それは妙法を唱えることと規定されています。さらにまた、いかに妙法を唱え持ったとしても、妙法が私たちの「己心」の外にあると思えば、それは全く妙法ではないとも御教示されています。
ただし、本抄は大聖人様が御本尊を顕発される遙はるか以前、宗旨建立のわずか二年後という、極めて早期の御書であり、未だ大聖人様の本懐たる妙法の本義を顕されてはいません。つまり、妙法弘通のはじめに当たり、権実相対の上から迹門・諸法実相の理に約した妙法の意義を、私たちの「己心」に具わる「衆生本有の妙理」として示された、一往の御教示なのです。したがって、その理の法門のままでは、私たちに妙法の活現はありません。
しかし、再往「己心」の真意を、大聖人様の仏法の本義から拝すると、『経王殿御返事』に、「日蓮がたまし魂ひをすみ墨にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意みこころは法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(同)と仰せのように、それは直ちに御本仏日蓮大聖人様の「己心」であり、「南無妙法蓮華経 日蓮」と認められた、人法一箇の本門戒壇の大御本尊にこそ存するのです。
されば、私たちが、御本仏の「己心」の当体たる本門戒壇の大御本尊を信じ奉り、南無妙法蓮華経と唱えることにより、はじめて私たちの「己心」に具わる「衆生本有の妙理」も活現し、自らの生命を潤していくことを知るべきです。
これに反して、かの池田大作は、法門の次第浅深をわきまえず、本抄等の文だけを取って、「仏とは、人間(凡夫)である」「人間(凡夫)こそ、仏である」と放言し、衆生の迷心に妙法の当体があるごとく主張しす憚はばかりません。このような憍慢きょうまんの邪義が、大聖人直結という誤った指導となり、『ニセ本尊』という大謗法の所業となって、多くの人を惑わしているのです。
私たちは、真の妙法蓮華経とは、寿量文底下種の御本仏日蓮大聖人の己心の当体たる、本門戒壇の大御本尊に存するとの正義に基き、創価学会をはじめとする推尊入卑さいそんにゅうひの邪義謗法を、徹底して破折していこうではありませんか。
成仏の直道を確信しよう
先の「己心」の真意に基づきながら、私たちの成仏の直道を再確認してみましょう。
大聖人様は、本抄で、一生成仏の要諦につき、私たち凡夫の生命の奥底に妙法蓮華経の生命を具えていることを示され、一心に信心修行に励むことによつて、煩悩即菩提・生死即涅槃の悟りの境界を得ると教えられています。
『譬喩品第三』に、「仏常に教化して言のたまわく、我が法は、能よく生老病死を離れて、涅槃を究竟くきょうす」とあります。生とは、仮に和合した色しき・受じゅ・想そう・行ぎょう・識しきの五陰ごおんが身を成すことをいい、この身の和合が解けるのを死といいます。過去の因縁により現世に出現し、出現しては死に、生死を繰り返すから、生死輪廻りんねとも六道輪廻ともいうのです。この生死の迷いを明らかにし、苦しみから出離することを、涅槃とも、菩提とも、悟りともいい、煩悩・罪障の苦に常に沈む境界を、生死とも、迷いともいうのです。
もし、この迷いからの出離を願うならば、ありのままの私たちの姿を観ずることが肝要です。ありのままの私たちの姿こそ妙法蓮華経の当体なのです。したがって、十界三千の依正・色心・有情非情、一塵も残さず妙法の当体にして、私たちの一念におさまるのです。これを一心法界といい、一念の心が法界に遍満する相を万法というのです。
ただし『四信五品抄』に、「問ふ、何が故ぞ題目に万法を含むるや。答ふ(中略)妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其の義に非ず、唯一部の意ならくのみ。初心の行者は其の心を知らざれども、而も之を行ずるに自然に意に当たるなり」(御書)と仰せのように、妙法蓮華経の五字は経文でも義でもありません。先に述べた通り、御本仏の悟りの意であり、それは人法一箇の御本尊なのです。
私たちは、妙法の心を知らなくとも、この本門の御本尊を信じ行ずることにより、自ずと御本仏の悟りの境界に適かなうのです。
したがって、本門の御本尊を信ずる心を離れて、別に妙法が存するなどと捉えては、生死の迷いから離れることはできません。故に『法華初心成仏抄』に、  「我が己心中の仏性、南無妙法蓮華経とよびよばれて顕はれ給ふ処を仏とは云ふなり」(同)と御教示されているのです。
私たち日蓮正宗僧俗、法華講員は、御本仏日蓮大聖人様の御当体たる本門戒壇の大御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱え奉る唱題の一行こそが、一生成仏の直道であると、深い確信を持つことが大切です。御題目を唱えることこそ、最高の楽しみ、最高の悦びであり、充実した妙法の功徳が、自然と我が生命に涌き上がって、一切の道が開かれていくのです。
四、結び
本抄で御教示あそばされる妙法唱題の大事について、大聖人様は後の『御義口伝』において、「日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは捨是身已しゃぜしんいなり。不惜身命の故なり」と仰せです。これについて御法主日顕上人猊下は、平成十二年夏期講習会第五期の砌、「この身を捨てるということを日蓮大聖人は、南無妙法蓮華経と唱えることだと仰せです(中略)本門下種仏法では、妙法を唱え折伏弘通することがそのまま即身成仏であり、その理由は、迷いの凡身そのものをもって、直ちに肉身のまま仏と成るからです」と御指南あそばされています。
私たちは、日々の唱題と折伏弘教こそが即身成仏の直道であることを深く確信し、いよいよ明年に迫った宗旨建立七百五十年の大佳節をめざし、誓願貫徹に向かって「日々の唱題行」と「一人が一人以上の折伏」に命がけで励んでまいりましょう。 
草木成仏
草木成仏とは、草木や国土などの心を有しないもの(非情といいます)が成仏の相を顕すことをいい、非情成仏、無情成仏とも言われます。
天台大師は法華円教に基づいて草木成仏の法理を説いています。すなわち、国土衆生に三千世間が具ぐすという依え正しょう不二ふにの法門を説き、さらに『摩訶止まかし観かん』において、三千の諸法の一々が即空即仮即中の円融の三諦であるという一念三千の法門を説きました。そして、『摩訶止観』に「一色一香無非中道」とあるように、非情である草木国土が悉ことごとく中道実相の妙体であることを明かしました。
また妙楽大師は『金剛錍論こんごうぺいろん』に、「乃ち是一草・一木・一礫りゃく・一塵じん・各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」とあるように、草木にも三因仏性が具有ぐゆうすることを述べて、天台の草木成仏の法理を扶ふ釈しゃくしました。
日蓮大聖人は、『四条金吾釈迦仏供養事』に、「第三の国土世間と申すは草木世間なり。草木世間と申すは五色のゑのぐ絵具は草木なり。画像これより起こる。木と申すは木像是より出来す。此の画木えもくに魂魄こんぱくと申す神たましいを入いるゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり」と仰せられ、天台の法理を依用して一念三千による草木成仏を明かされました。
そして、『草木成仏口決』に、「一念三千の法門をふ振りすす濯ぎたてたるは大曼荼羅なり」とあり、『経王殿御返事』に、「日蓮がたまし魂ひをすみ墨にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御み意こころは法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」等と仰せられているように、草木成仏の法理によって人法一箇の大曼荼羅御本尊を御建立されたのです。
また、総本山第二十六世日寛上人は『観心本尊抄文段』で、草木成仏の法理について一に不改本位の成仏、二に木画二像の成仏を釈し、この二義の上から大聖人の御建立された御本尊の御当体を明かされています。不改本位の成仏とは草木の当体そのままを改めずに、本有無作の三身如来と拝することであり、木画二像の成仏とは木画の二像に一念三千の仏種をもって開眼かいげんするとき、木画の二像も生身しょうしんの仏であるということです。そして、この草木成仏の二義は『同文段』に、「若し草木成仏の両義を暁さとれば、則すなわち今安置し奉る処の御本尊の全体、本ほん有無作ぬむさの一念三千の生身の御仏なり。謹つつしんで文字もんじ及び木画と謂おもうことなかれ」とあるように、御本尊の全体がそのまま本有無作、事の一念三千の御当体日蓮大聖人と拝するところにその極理があるのです。
つまり、日蓮大聖人の草木成仏義は、天台妙楽等の観念上の草木成仏ではなく、久遠元初の御本仏として事の法体を事の上に開顕あそばされた仏法の極理なのです。 
『草木国土悉皆成仏』の意義
日本には「草木国土悉皆成仏」の句がある。それは、単なる自然への情緒的な感性を表現したに過ぎず、自然を尊重することにつながるかもしれないが、それ以 上には意味がないといわれたりする。むしろ、そうした感覚があったにもかかわらず、日本の近代化の過程において、ひどい自然破壊を阻止することはできな かった。したがって、そのような言葉ないし思想は無力だといわれる。本稿は、この「草木国土悉皆成仏」は、単なる「感性」の表現にとどまるのか、それとも 何らか「知」を含んでいて、しかも環境問題に有効であるのか、有効であるとすればそれはどのような意味においてであるか、を考えてみたい。
この句は、お能にもしばしば引かれていることは有名である。およそ20ほどの謡曲に、この句ないし思想を見ることができるという。おそら くはそれらを通じて、この見方は民衆にも相当程度、広まったものと思われる。この句は、道邃(1106〜1157?)の『摩訶止観論弘決纂義』巻一に出る 「一仏成道、観見法界、草木国土、皆悉成仏」がもっとも古いものと見られている。のちの宝地房証真(〜1156〜1207〜)の『止観私記』には、「中陰 経云、一仏成道、観見法界、草木国土、悉皆成仏、身長丈六、光明遍照、其仏皆名、妙覚如来」と出ており、この頃にはすでに完成していたことになる。今の句 においても、上述の謡曲においても、しばしばこの句は『中陰経』に出ると指摘されるのであるが、実際には『中陰経』には存在しない。したがって、この句は 日本で作られたと考えられ、その思想は日本的な思想と考えられるわけである。(ただし日本のみに固有かどうかは、さらに別途検討すべきである。)
また、以上から、この思想は、主に天台宗において議論されてきたものであることも、知られる。もちろん真言宗等でもではこのことが論じられているが、本稿では主として天台宗における議論に焦点を合わせることとしたい。
この思想の淵源は、天台智(538〜597)の『摩訶止観』に出る、「一色一香無非中道」(一色一香中道に非ざる無し)にある。のちの荊渓湛然 (711〜782)は、『止観輔行伝弘決』において、この句の解釈をめぐり、中道に仏性を読み込み、非情にも仏性があるということを強調した。こうした中 国天台教学を背景に、日本においては最澄(767〜822)ののちに、この問題が大きく扱われていくことになる。円仁、円珍、五台院安然、良源、源信らが この問題を論じ、多くは草木が自ら発心・修行・成仏するということさえ認めようとしたのである。
そうした中、忠尋(1065〜1138)作と伝える『漢光類聚』(これも忠尋の真作か疑問視される場合もある)は、その思想の論点について、まと まった形で示している。そこには、ともかく「草木国土、悉皆成仏」の句の思想的背景が七種の理由に整理されていて、なかなか参考になるものである。その意 趣を私なりにまとめてみると、以下のようである。
一、仏智の相分としての草木は、仏そのものである。(諸仏観見)
二、草木も、理智不二の真如本覚を有しているところに、仏を見る。(具法性理)
三、身心の個体と国土は不二一体であり、仏身を成ずれば仏国土も成じて、そこに草木も成仏する。(依正不二)
四、草木はそのままで、本来清浄・当体常住であり、そこが成仏である。(当体自性)
五、法身は草木を貫いており、その法身は報身・化身と別でない。故に草木はもとより三身を具している。(本具三身)
六、草木の自性は不可説であり、その勝義の真諦を仏という。(法性不思議)
七、一念三千の道理により、心に色を具すと同様、色に心を具す。故に草木にも三千があり、したがって成仏する。(具中道)
ここに見られるのは、自己と世界の関係の論理的・哲学的な把握である。決して、単なる湿潤な自然に生きる日本人の感性の表現にとどまるものではないことが理解されよう。たとえば、忠尋の説には、自己と自然の関係に関して、簡略にいえば、
1自己と自然は、不二であり、切り離せない(依正不二)。2自己の完成と自然の完成は連動している(諸仏観見)。3自然の一つ一つが、自己と自然 を超える究極のいのちに貫かれている(具法性理)。4自然の一つ一つは、他のあらゆる存在と関係し、他を自己としている(具中道)。5自然の一つ一つは、 もとより霊性的内実を有している(本具三身)。6自然の一つ一つは、それ自体において絶対的な価値を有している(当体自性)。7本当の自然および自己は、 言葉を離れている(法性不思議)。 といった了解が含まれている。ここには、必ずしも天台の本門という特異な説に傾きすぎていない、自己と自然のいのちの深い自覚をここに見ることができるで あろう。
こうした自己了解は、それに沿ったライフスタイルを生み出すのではなかろうか。興味深いことに、ディープ・エコロジーを提唱したアルネ・ネスは、 環境へのはたらきかけのみを主張するのではなく、自己意識の変革をその思想の根本においている。すなわち、自己の拡大がおのずからの愛他の実践につながる のであり、このことがもっとも根本的に重要なことだと説くのである。次のようである。
「生物と風土とは二つの事物なのではない。……同様に一個の人間は、人間が全体の場のなかでの関係的な接合点である、という意味では、自然の一部 になっている。一体化の過程とは、この接合点を定めている諸関係が拡大して、ますます多くのものを含む過程である。自己(self)が自己(Self)に 向かって成長する。」
「私たちと他の存在者との連帯について私たちがもっと理解するにつれ、一体化は進み、私たちはもっと配慮するようになる。これにより、他の存在の 幸福を喜び、彼らに危害がふりかかった場合に悲しむようになる道が開かれる。私たちは私たち自身にとって最善であるものを求める。しかし自己の拡張を通じ て、私自身にとっての最善がまた他の存在にとっての最善にもなっている。〈自分自身のものである―自分自身のものではない〉の区別は、文法上残るだけで、 感情の面ではなくなる。」
このように、アルネ・ネスは、自我(ego)・自己(self)・自己(Self:深遠にして包括的なエコロジー的自己)と自己了解が拡大し、そ の自然と一体である自己の了解は、おのずからあらゆる存在の自己実現を喜ぶ生き方を実現していくという。仏教の立場からいえば、自然と不二一体である自己 とは、空性の原理において成り立つことであり、無我である自己において成立することである。これに対し、ネスの自己拡大は、大我の思想ではないのか、それ は仏教と相容れないのではないか、といった問題は検討してみなければならない。そういう問題はあるものの、今は自己を身心のみと思うのではなく、環境も含 めて自己であると見る視点の意義を汲んでおきたい。その視点を得たとしても悟りを開いていない以上はいまだ抽象的であり、また人間は無明・煩悩もかかえて いるがゆえに、そうした自己了解が直ちに愛他の十全な実践をもたらすとも言えないであろうが、私は、基本的には、このようなまず自己了解の転換を推しすす める立場を支持したい。それは、具体的・数値的な行動の基準、指針をただちにもたらすものではないとしても、我々が実践していくライフスタイルのもっとも 根本にあるべきものであろう。
問題は、日本にも、こうした哲学があったにもかかわらず、それが近代化の過程において十分に機能しなかったことであり、その理由を掘り下 げて検討し対処していかなければならない。そのほか、さまざまな問題を検討しなければならないとしても、ともあれ、「草木国土悉皆成仏」の思想が、まった く意味がないとは思えない。それは、単なる「自然感」なのではなく、「自然観」なのであり、実は人間観・自己観であるからである。環境問題、サステイナビ リティの問題に対処していくためには、多角的・総合的に対策を考え、実践していくことが求められていようが、その根底には、自己と世界に関する深い了解が あるべきである。その了解への一つの道として、この「草木国土悉皆成仏」の句ないしその思想は、もう一度検討されるべきものを豊かに蔵していると思うのである。 
山川草木悉皆成仏
もったいない
ここ数年の間に「もったいない」精神が日本で復活しつつあります。これは初のノーベル平和賞を受賞したケニアの前副環境相、ワンガリ・マータイさんが始めて来日した際に、日本には「もったいない」という文化があることを知って感動し、「もったいない運動」のネットワークを作りたいと呼びかけたことがきっかけでした。外国人から、これこそは日本のすばらしい文化だとほめられて、恥かしさを感じた日本人も多かったのではないでしょうか。現在の日本では、「もったいない」は久しく忘れられてしまっていました。
「もったいない」は、存在するどんなものに対しても、いのちを感じて、いとおしく思い、そのもののいのちを活かしきろうとする日本の良き精神文化から発していると思われます。
山川草木悉皆成仏 
<生きとし生けるものは、みな美しき仏の種を宿す>
「もったいない」と同じように、「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもく しっかいじょうぶつ)」も、日本が誇るべき精神文化ではないでしょうか。 [「悉皆(しっかい)」は「ことごとくすべて」という意味 ]
これは「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょう しつうぶっしょう)」や「草木国土悉皆成仏(そうもくこくど しっかいじょうぶつ)」とも表わされています。その意味は、「一切の生きとし生けるもの、植物や動物だけでなく、山や川や草木も、国土という環境世界も、皆ことごとく仏になる本質をもっている」ということです。私たちが日常目に触れるどんなものでも、すべて本質的に仏でないものはないというのです。
「環境イーハトーブの会」では、この精神を現代生活に具体的に活かそうとしていますので、これについて少し説明したいと思います。
「山川草木悉皆成仏」という思想は、日本の中世の鎌倉時代からの文芸に顕著に表われています。室町時代の「能」の謡曲では、柳の木や芭蕉の葉が、虫や石が、成仏することが描かれています。また、茶道や華道の精神にも大きな影響を与えています。
「山川草木悉皆成仏」は仏教思想ですが、その歴史をみますと、この思想は3〜4世紀にインドで成立した大乗仏教経典の『涅槃経(ねはんぎょう)』にある「一切衆生悉有仏性」が出発点であるといわれています。ただその中で、「一切衆生(生きとし生けるもの)」の範囲はどこまでかということは、インドの仏教では輪廻転生するとされる動物までであり、植物は入りませんでした。それが中国へ入ると、動物に加えて植物にも仏性があると説かれるようになりました。ただ、植物についてはあくまでも仏教理論からすれば、というところにとどまっていたようです。
ところが日本に入ると、動物も植物も共に成仏し、さらには岩などの無機物までも仏性をもつとまで拡大されて説かれるようになりました。日本におけるこのような捉え方の変化は、仏教理論からというよりも、目前にある具体的な個々の事物や現象そのものが、そのまま仏の悟りを実現している世界であるという感覚的な面からの捉え方が強く出たことによるといわれています。
日本人の心情にかなう「山川草木悉皆成仏」
このようなインド、中国、日本という国による受けとめ方の違いは、国による自然風土の違いからきていると考えられます。日本列島はモンスーン地帯に属する温暖湿潤な自然風土であり、年間降雨量も多く、森が豊かに生育しました。森では木の実や山菜など豊かな食料が供給されたため、縄文文化を発展させた原始の狩猟・採集経済の時代から”森の文化”が形成され、これが日本文化の原型になったと言われています。このような自然風土の下で、人々は山や風や火や水に神を感じて、日本人の神信仰を形成してきました。そこでは、天地自然を形成する森羅万象のあらゆる要素が神であったのです。これは巨樹に惹かれる現代人の心情にも通じているようです。
日本の神は元来がその土地土地に坐(いま)す存在でした。それは人々に豊穣を与えてくれると同時に、災害や疫病をもたらす恐るべき存在でもありました。だから人々はその地の神を丁重に祭ったのです。
「日本在来の"神"」と「仏教の"仏"」との融合
古来の神々が坐す日本に、外国から入ってきた仏教は、日本の古来の神々を大切に扱いました。寺院を建立する際には、在地の神を祭る神社も建立して篤く祭り、在地の神との融合をはかっています。東大寺の大仏造営の時には、手向山(たむけやま)に八幡宮が建てられました。また、最澄は比叡山を開くに当って山王社を建て、空海は高野山を開くに当って丹生(みう)神社を建てています。
「山川草木悉皆成仏」思想は、平安時代の中期以降に顕著になってきたものですが、これが多くの人々の心を捉えたのは、6世紀後半に日本に公伝された仏教という外来宗教が持つ思想が、日本人元来の自然神信仰という宗教意識と融合して、消化されて説かれたからだと思われます。日本人の心情や感性にあうように形成されてきたので、今日の日本文化につながる多様な伝統文化を生み出し得たのだと言えます。
「山川草木悉皆成仏」は「生物多様性」と同じ
現在、地球上の生物は、開発や気候変動の影響で、毎年4万種が絶滅していると推測されています。国際的な「生物多様性条約」もできていますが、生物種の絶滅に歯止めをかけることはできていません。日本でも「生物多様性基本法」が2008年5月に成立し、多様な生き物を守り自然と共生する社会を目指すとしています。生物多様性の保全は待ったなしの状況です。私たちも失われていく生物多様性を守ることができないでしょうか。
「生物多様性の保全」は分かりにくい言葉ですが、簡単に言えば、その土地土地に固有な植物や動物や自然環境を維持していくことに高い価値があり、元来その土地土地にみられるごく普通の自然こそが、かけがえのない自然だということです。同じ日本にあっても、気候や地形などの風土の違いによって、地域の自然は異なりますので、そこを住み場とする野生の動植物も地域によって異なります。また、そのことが地域固有の文化が生まれた源泉でもあります。何か特別な自然に価値があるのではありません。それは人間も同じことではないでしょうか。
今はそれぞれの地方がその特色を出すことに価値が置かれる時代です。そういう意味でも、地域本来の自然を回復し、地域固有の動植物を守っていくことが、長い目でみれば文化や産業の発展につながり、地域が活性化し、人々が生きていける何よりの保障なると思われます。そういうことでは、身近にある自然をこれ以上失わせないようにすることが、私たちにできる「生物多様性の保全」ではないでしょうか。
偏見を取り除いて、地球を救う思想の普及を
現代の日本人は、歴史的視点からものを考えることが不十分になったといわれています。刹那刹那で生きているからでしょうか。今の日本人は明治時代前の自国の歴史を捨て去ってしまったようにさえ見えます。これは、明治以降は近代化による西洋化が進められたために、日本人は西洋に憧れ、さらには、戦後はアメリカ文化が横溢したことで、自国の歴史的文化的伝統は封建的で劣ったものに見えてしまい、自国の良き文化的伝統まで否定する風潮が強まってしまったことにあるのではないでしょうか。私たちの先人たちが築き上げてきた日本の誇るべき伝統的精神や自然観までも、古臭いものとして捨て去ってしまったので、日本は根無し草となってしまい、その結果もたらされたのは、カネやモノしか信じるものが無くなってしまった今の社会です。現在の日本社会の深刻な犯罪の続出は、こういうところに源があるのではないかと思われます。
私たちはこれまでの偏見を取り除いて、自国の文化的伝統の中から、現代においても誇りうるもの、高い価値を失っていないものを引き出して、受け継いで発展させていく努力が求められているのではないでしょうか。そのひとつとして、「山川草木悉皆成仏」という思想は、人々の心を救う思想ともなり、また地球環境の危機の時代において日本から世界へと発信していける思想ではないかと思われます。 
弥陀成仏
弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり
法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり  (浄土和讃)

阿弥陀如来が法蔵菩薩の昔、一切衆生を救いたいという願いをおこし、永い永い修行の結果、さとりを開き仏をなられてから、釈尊が説法されたその時までに、すでに十劫という長い時間が経っている。阿弥陀仏の成仏以来、その仏の御身より放たれる光は、限りなく、十方のいずこをも、また過去、現在、未来を通して、どこでも、いつでも照らし続け、智慧のない私たちに信心の智慧を与え続けていてくださるのである。
十劫 / 劫とはサンズクリットのカルパの音写で、インドの時間の単位の中で最も長い時間。次のような例によって表現される。一つは、一返が四十里の磐石を百年に一度づつ天女が羽衣で払拭して、この磐石がなくなる時間が一劫。二つは、四十里四方の大城に芥子の実を満たし、百年に一度一粒ずつ取り去ってなくなってしまう時間を一劫という。三つには、塵点劫という言い方もある。
法身 / 普通、法身というのは、阿弥陀如来の報身、釈迦如来の応身に対して、宇宙の真如法性の理を法身というが、今はそれと異なる。今は法性法身から顕れ出た方便法身の弥陀の御身ということ。
光輪 / 仏の光明を転輪王の持つ輪宝にたとえたもの。転輪王の持つ輪宝にたとえたもの。転輪宝が行幸するとき、その車が山を砕き谷を埋めて平地となし、王の進む道を作るという。このように如来の光明に照らされた人生を歩むものは、もろもろの人生の苦難にあっても浄土への人生を導かれる、如来の光明のはたらきを転輪王の輪宝にたとえたもの。

親鸞聖人は、曇鸞大師の作られた『讃阿弥陀仏偈』を『大経』と同等に見られ、これによって四十八首の和讃を作られ、『讃阿弥陀仏偈和讃』と名づけられました。
曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』というのは、阿弥陀を讃嘆した偈文ということですが、親鸞聖人はそこに説かれている阿弥陀仏の御身も、浄土の七宝樹林・八功徳水みなことごとく、われら罪業深重の衆生を救うためのものであると味わわれたものです。
そして浄土真宗の教えは、この阿弥陀如来のおさとりから流れ出てきたものであることを顕すために、「三部経和讃」の前に『讃阿弥陀仏偈和讃』をおかれました。ですから『浄土和讃』も『高僧和讃』も『正像末和讃』も、すべてその源は、阿弥陀如来のおさとりから流れ出たものであるということができるわけです。
さて、「讃阿弥陀仏偈和讃」の最初の一首が先にあげた和讃です。阿弥陀如来が仏となられてから今までに、すでに十劫という永い永い時間が経っている。その間も如来の御身からは、際限のないお光りを十方に放って、世の迷いの衆生を照らしていてくださっている。
何ともったいないことであろうかと、如来の光明の中にご自身を見出された親鸞聖人のよろこびをうたわれたものです。
親鸞聖人が命がけで求道されたことは『恵信尼消息』からも分かります。
「聖人が比叡山を出て、六角堂に百日お籠もりになって、九十五日目の暁に、聖徳太子の示現にあずかり、やがて法然上人にお会いになり、また百か日、降るにも、照にも、どんな大事なことがあってもお訪ねになった」とあります。
このことからも、聖人の命がけの求道の姿が目に浮かんできます。
けれども、いかに厳しい求道をしても、いや厳しく自己を見つめれば見つめるほど、煩悩のなくならないわが身が見えてくるばかりでした。
「まことに知らぬ、悲しきかな愚禿親鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数には入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべし 」と悲しまれています。
如来の大悲の中になりながら、かわいい、欲しい、大事にされたいの心がなくならないばかりか、さとりに近づくことさえも喜ばない煩悩の姿を悲しまれています。
この煩悩の根深さは、五十年、百年前からのものでなく、深い深い十劫もの歴史をもっており、この煩悩の歴史にそって大悲がかけられたことを讃嘆されたのがこの和讃です。 
「成仏」とは何か?
成仏とは何か?新・仏教辞典(誠信書房)によれば、成仏とは「覚(さと)りをひらいて、仏陀(Buddha・覚者)に成ることをいう。死者を成仏したというのは、浄土真宗で死後阿弥陀仏の浄土に生まれると同時に成仏すると説くのに由来する。」 ということだそうです。逆に「成仏しない」とは「仏陀になれない」ことになります。そもそも仏陀になろうと修行を積んでいる一般人は少ないと思うのですが。
そこで「恐れ多くも、わたしは仏陀になるような人間ではございません。さとりを開くなど無理です。修行も無理です。成仏など願いませんので」と断っても、そう簡単に問屋がおろしてくれません。
修行しなくても、成仏できる?
成仏をとく親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、日本で信者の数が一番多いといわれる「浄土真宗」の開祖です。
若い親鸞は、苦しくて辛いこの世で庶民が修行を積み、覚りをひらくのはむずかしい。しかし、そのような哀れな庶民を救うのが、仏ではないのかと自問自答します。すると仏は、そのために浄土門があるとすすめます。
親鸞は、一切衆生を救済すると誓った阿弥陀仏の本願を信じ、南無阿弥陀仏(なむ・あみだぶつ)と念仏すれば、あの世では浄土に生まれ変わり、仏陀になれると易行を学びます。易行とは、誰でもたやすくできる修行という意味です。しかし、親鸞は、その修行も必要ないといいます。
成仏の行き先「浄土」とは?
成仏に、修行も必要ないと聞くと、つい誘われるのですが、成仏の行き先が気になります。
「ところで、その『ジョウド』って、どんなところ?そこでお金とか、財産とか渡さなくちゃいけないとか?危なくない?」と心配になるむきも、いえいえ「譲渡(じょうと)」ではありません。「浄土」です。
浄土とは、さとりを開いた仏または将来さとりをひらくべき菩薩の住むところです。阿弥陀仏の浄土を「西方極楽浄土」といいます。「極楽?いいねッ、きれいな姉ちゃんもいるのかね」などと妄想してはいけません。そんな煩悩を消し去った覚者の国土が、浄土ですので。
成仏は、極楽浄土へ往生すること
しかし「極楽浄土」の言葉が醸しだすイメージは、庶民にはきらびやかで豊潤な世界を夢想させます。
しかも念仏し、信心すれば、そこに行けると聞けば、「極楽浄土」は叶わぬ夢ではありません。
かくして浄土門の教えは、庶民の仏教として、その勢力を伸ばします。そして、戦国時代には大名を恐れさせる一向一揆をおこすほどの組織力を誇るようになります。
いつしか「成仏」は、死者が「極楽浄土」へ往生することを意味する言葉として、宗派をこえて庶民の通念となりました。「成仏」は、家族を亡くした遺族にとっては、その悲しみを癒す言葉となりました。
江戸時代以降、死者を「成仏」させる儀式として仏式葬儀は定着していきます。
成仏は、信者でなくてもできるのか?
ところで、信者でなくても「成仏」はできるのでしょうか?
成仏を説く親鸞が学んだ浄土教では、仏教を自力の聖道門(しょうどうもん)と他力の浄土門に分けます。
聖道門は、さまざまな修行をとおして、自力で成仏することを説くグループです。当時では、天台宗や真言宗をさし、のちの禅宗もこのグループに入ります。
親鸞は、聖道門の道は、実現がむずかしく庶民の救済にはむかないと一線を画します。煩悩に苦しむ衆生は、阿弥陀仏に帰依(きえ)し、その本願力(他力本願)にすがる以外に浄土へ往生できる道はないと浄土門を説きます。
親鸞は、浄土教以外の仏教を批判し、敵にまわすことになります。そのうえ、自力の修行も必要ないと断じれば、お釈迦さまもビックリです。
成仏を説く親鸞は、エロ坊主だった?
成仏へ導く親鸞の行動は、さらにエスカレートしていきます。
理屈だけなら、まだしも、さらに親鸞は、当時仏教界では御法度だった「肉食妻帯」の禁を公然とやぶり、奥さんをめとり、魚や獣の肉を食べる行動にでたのです。
これは、悟りをひらくための出家や戒律をことごとく否定したことになります。当然ながら、「破戒僧」「堕落坊主」「仏敵」「エロ坊主?」などと罵詈雑言(ばりぞうごん)が嵐のように浴びせられ、世間中からバッシングを受けることになります。ブログがあれば炎上です。
しかし、これは奇をてらったパフォーマンスではなく、阿弥陀仏の他力本願にすがる親鸞の徹底した信仰心のあらわれではないかと思います。
浄土真宗は、キリスト教か?
余談ですが、浄土真宗は仏教というより、キリスト教に通じるところがあります。
「煩悩」を「原罪」と読みかえるならば、救済物語として、人々を煩悩から救おうと本願を発揮する阿弥陀仏は、人類の原罪を背負い贖罪(しょくざい)したイエス・キリストの話ににています。とくに信仰心のあり方が酷似(こくじ)しています。
キリスト教も自力のはからいを否定します。ひたすら神を信じなさいといいます。イエス・キリストが神の子であると信じなさい。疑いを許しません。浄土真宗もひたすら阿弥陀仏の本願を信じなさいといいます。そして、二つの教えも、因果応報を否定し、過去の善悪を問いません。改心し、神を阿弥陀仏を信じれば救われます。
現世においても、信者はキリストの”愛”につつまれ、阿弥陀仏の”慈悲”に生きます。両者とも、信者には難しい規律や戒律を求めず、ただただ深い信仰をもとめます。
「親鸞は、欧米か!」とつっこみを入れたくなるところですが、浄土真宗は仏教とは次元を異にする「親鸞教」かもしれません。ともかく信仰の深さは、世界宗教並みです。
地獄に堕ちても、後悔しない!
親鸞の考える信仰はとてつもなく深いようです。『歎異抄』にその凄みを感じさせる一節があります。一部を引用し要約します。
「たとえ法然上人(浄土門の師匠)にだまされて、念仏して地獄におちたとしても、わたしは決して後悔はいたしません。・・・それというのも、どんな修行にもたえられないこの私ですから、結局、地獄こそ定まれる住み家であるといわねばなりません」と。
この絶対服従の信仰こそが、宗教の信仰心なのです。ユダヤ教やキリスト教、イスラム教にも勝るとも劣らない信仰心です。宗教の信仰心は、人の精神を強固なものにします。宗教の力はあなどれません。宗教は強く、そして怖いのです。
信仰心なくば、成仏なし!
仏教のなかでも、出家や修行をもとめない易行といわれる浄土真宗を題材に信仰心と成仏の関係をみてきましたが、やはり「信仰心なくば、成仏なし!」です。
ましてや、お金で信仰心を買うことなどできません。信仰心がなくても、お金を払えば成仏できるわよといえば、それは「霊感商法」です。
もし「成仏」を望むなら、せめて信者になるしか方法はありません。だから、本来の宗教家は、信者になるように熱心に「布教」します。
ところが、日本の仏式葬儀は、信者でなくても、死後に信者名として戒名を授け、にわか信者にしたてて葬儀をおこなうという世界的にみても珍しいシステムを広く採用しています。
信仰なき仏式葬儀は、マジックショー
信者であるかどうかを求めない日本の仏式葬儀は、「信仰心なき宗教儀式」といえます。
これは、明らかに論理矛盾です。阿弥陀仏も信じていない人を浄土に送ると聞けば、親鸞もビックリです。霊感商法とはいいませんが、「マジックショー」を見せられているようです。
しかし、江戸時代より今日21世紀まで400年ちかく、この「マジックショー」が続いてきたのです。ギネス登録間違いなしです。
「死後に戒名(法名)をつけたから、信者になりました」という簡単なトリックを見破れなかったというのでしょうか。日本人を馬鹿にしないでほしい。きっと、信仰や宗教とは違った力が働いていたとしか考えられません。
信仰心なき仏式葬儀を采配する仏教を「葬式仏教」と揶揄されます。その日本独特の「葬式仏教」に迫ります。 
葬式仏教の由来
日本の仏教のことを「葬式仏教」と揶揄(やゆ)されます。
仏教の開祖、釈尊「ゴータマ・ブッダ」は、人々を苦しみから解放するために修行にはげみ、苦しみのもとである「煩悩」の先に「無明」があることを発見します。そして、苦しみの輪廻から解脱する方法をみいだし、悟りを得ます。
日本仏教の先達もまた、庶民を苦しみから解放するために仏教にまなび、修行にはげみました。
修行僧に葬儀について聞かれたブッダは、「そんなことを考える暇があるなら、修行しろ」と応え、「葬儀にはかかわるな」ともいわれたそうです。
仏教の経典は膨大にありますが、葬儀に関する教典はありません。仏教は、いかに煩悩から解放され、いかにこの苦しみの人生を生き抜くのかを問うだけです。
このため、葬儀に奔走する日本仏教のことを「葬式仏教」と揶揄されるのです。この「葬式仏教」はいつから、日本ではじまったのでしょう。
「葬式仏教」は、江戸時代から始まる。
「葬式仏教」は、江戸時代に徳川幕府が宗教統制の一貫として、キリスト教などを排除する「寺請制度」を発令したことに端を発します。
寺請制度(てらうけせいど)は、お寺が仏教の信者であることを証明する証文を発行し、それを庶民が請ける制度です。この証文を請けられなければ、キリスト教などの「邪宗門」の嫌疑がかけられ、厳しい拷問がまっています。
この証文を請けるためには、庶民は村のお寺を「菩提寺(ぼだいじ)」と定め、その檀家となることを義務づけられました。檀家制度(だんかせいど)のはじまりです。
檀家となった庶民のお葬式や供養・法事は、自動的に菩提寺が独占的にとりおこなうようになります。
「葬式仏教」は、死者をにわか出家者にしたてる。
ところが、お坊さんは庶民のお葬式をあまり経験したことがありません。
おなじお坊さんが他界したときに、その僧侶の戒名で葬儀をあげる経験しかありません。そこで妙案を思いつきます。
庶民が亡くなったときは、死者の頭の毛をそる(剃髪)など得度式(とくどしき/出家の儀式)を葬儀で再現し、出家した証しに戒名をさずけ、出家者の心得を読経する。こうして死者を「にわか出家者」と見なして葬儀をおこなう、そう「信仰心なき仏式葬儀」のシステムを編みだしたのです。
このシステムは、室町時代ごろから、修行僧が道半ばに他界したときに考えられた方法を土台にしたようです。
「葬式仏教」は、権力の片棒をかつぐ。
さらに寺請制度では、現在の戸籍にあたる「宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)」をお寺の住職に作成させ、庶民の生活全般を管理させました。
庶民にとっては、寺請証文がなければ、結婚、就職、旅行などもままなりません。万が一、住職に睨(にら)まれれば、社会的な地位も生活基盤も失いかねません。
こうして寺院は、幕府の統治体制の一翼を担うようになり、各地のお寺は幕府の出先機関と化し、権力の片棒をかつぐことになります。
また寺請制度は、汚職の温床にもなり、俗化と腐敗の坂道を転がり落ちる僧侶もあらわれてきます。権力は、煩悩の炎を燃えたぎらせます。
「葬式仏教」は、信仰心より、忠誠心を植えつける!
寺請制度は、庶民を管理・統制するシステムです。
菩提寺の住職は、現場で庶民を統制する管理官です。住職(管理官)から寺請証文を発行してもらえなければ、庶民にとっては命取りです。庶民には、信仰心ではなく、住職(管理官)に対する忠誠心が求められたのです。
この忠誠心が、信仰心なき仏式葬儀「葬式仏教」を支えてきた原動力だったのです。
「葬式仏教」は、集団管理を助長する。
しかし、村にある菩提寺の住職さんだけで、村民を管理するのは骨が折れたことでしょう。
村人のなかには住職に付け届けをしながら、忠誠心の証しとして、あるいはお目こぼしを期待して、密告する輩もいたことでしょう。それが村内の相互監視につながり、集団管理を可能にします。村落共同体の集団管理は、村落共同体として菩提寺に忠誠心を誓うことで、より強固なシステムとなります。
武士は、殿様や藩に忠誠心を誓い、村民は村落共同体として藩と菩提寺に忠誠心を誓います。このような状態が明治維新まで約260年間つづきました。明治維新によって藩への忠誠心は解放されますが、村落共同体にこびりついた菩提寺への忠誠心は、共同体のしきたりや習慣として根づいていきます。
「葬式仏教」は、お墓で生きのびる?
時代が変わり明治になると、明治元年に政府は、仏教の特権をうばう「神仏分離令」を発令します。
この「神仏分離令」をきっかけに、仏教界に反発を抱いていた民衆が、全国の仏教施設を破壊するという「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」運動が高まり、多くの寺院仏閣、仏像、教典などが被害にあいました。
国家神道による宗教統制をめざす明治政府は、「神前結婚式」をヒットさせ、国民の間に定着させました。葬儀も神道バージョンの「神葬祭」を普及させようとしましたが、長年にわたって先祖のお墓を所有する寺院墓地の存在にその野望はくだかれます。
祖先崇拝という庶民の素朴な信仰は、仏教供養に組み込まれ、お墓参りなどに普及してきました。日本仏教は、そのお墓で生きのびてきたといえるかもしれません。 
葬祭ビジネスに活路
戦後になるとGHQの統制化で、「農地改革」がすすめられ、お寺が持っていた「寺社領」も没収されました。
それまで寺社領の農地では、小作人が働き、お寺の生活を支えていました。生活基盤を絶たれた戦後第一世代の住職は、ほかの仕事をさがして兼業するか、葬祭ビジネスに活路を見出すしか方法がありませんでした。
墓地は没収されなかったので、生き残った檀家を頼りに、悪戦苦闘をくり返しながら、高度成長期をむかえます。農村も都会も派手な葬儀を営み、戒名料もうなぎ登り。院居士で100万、200万。院殿居士で300万、500万円などの話もでます。さすがに高すぎるといった批判記事が新聞を賑わせたのもこのころです。
また、やり手の住職は、宗教法人の免税措置を活用し、幼稚園を開いたり、墓地経営を拡大したり、あるいは観光寺として寺院経営を立て直していきました。
こうして各お寺の住職は、りっぱな「寺院経営者」として再出発したのです。
戦後2世、3世は資産管理・運用者
やがて住職の後継者になる大卒の戦後2世、3世の時代が訪れます。先代の築いた財産を受けつぐ番になります。
もちろん、お寺の財産は宗教法人のものですが、住職は世襲制ですので、親の作った財産、お寺、墓地、土地、預金などは後継者の長男が譲り受けます。そこで長男坊は、この資産をどのように守るか、増やすか、何に使おうかと頭をめぐらせ、修行は二の次になります。
出家し、財産や資産などから縁を絶ち、俗世界の執着から離れ、悟りのために修行にうちこむ、そんな仏陀の姿はそこにありません。
資産管理者としての僧侶の姿が、檀家の前にあらわれます。「最近、老朽化が激しくて、ご本尊様に申し訳なくて、そろそろお寺も建て替え時かね」などと愚痴りながら、建て替え資金の協力を請います。
赤いスポーツカーのお坊さんも、転売価格の高い高級車に投資した正当な資産運用者なのかもしれません。「おやじ、いい買い物だろう」と自慢げに話す姿が想像できます。
もはや、寺院の後継者に最も求められるのは、仏心ではなく、経営能力に変わったのかもしれません。 
 
不成仏・諸説

 

両親が成仏していない…?
【相談】
亡き両親のことで、以前からどうしても気になって仕方がないことがあり、ご相談させていただきます。母は13年前、父は2年ほど前に亡くなりましたが、父も母もしょっちゅう夢に出てくるのです。夢に出てくるのは成仏していないからだ、と聞いたことがありますが、それは本当でしょうか?
私は両親に対して、十分な親孝行をしきれなかったという思いが強く、2人が亡くなった直後は、その思いに苦しみました。自分が悪いから亡くなった、とさえ思い詰めました。理由は明かせないのですが、自分にいたらないところがあり、両親も心配事を残して亡くなっている気もします。
供養の仕方は、ぼだい寺が遠方で親戚もないため、家族で仏壇に手を合わせる感じです。手を合わせるのは毎日です。私はどうして両親の夢をよく見るのでしょうか? 供養の仕方がおかしいのでしょうか?
【回答】
死者に心残りがあった場合、彼らは死後、残された者の夢枕に立つ…、そんな能力が彼らにあるのかどうかは、あいにく私には分かりかねます。
けれども、確かに分かることは、残された私たちの側に心残りがあるのなら、夢の中への死者を呼び出すであろう、ということです。
なぜなら、夢を見ている最中には、私たちが気にしているけれども普段は封印している感情が、登場人物たちを通じて上演されている、という側面があるからです。
亡くなられたご両親に対して、「心残りがあったろうなあ」と心配されたり、「自分のせいで亡くなったのではないか…、これじゃ両親も浮かばれないのでは…」と悔やまれたりする強い感情が夢の成分となっているのだろうと思われるところです。
ご両親のために供養をされようとするお心は、決して間違ってはいません。少し気になるのは、祟(たた)られないようにお払(はら)いをするような気持ちになってしまってはおられないか、ということです。それゆえ、「やり方が間違っているのでは…」と心配にもなるのではないでしょうか。
「自分に害を及ぼさないように、どうにか静まってくれ」というような発想がもしも隠れているなら、そこには相手への温かい優しさが欠けています。
そうした、恐れたりおびえたりした心でいる限り、その負の感情ゆえに皮肉なことに、ご両親を夢の中への召喚し続けることでしょう。
ですから、心配したり悔いたり恐れたりする、ネガティブな思考は停止して、「両親が安らかであるように。穏やかであるように」と、ただ優しく、慈悲の気持ちで祈ることへと切り替えてみてください。強い感情がやがて、淡いものへと置き換わっていくに連れて、似た夢は見なくなると思いますよ。 
成仏できるわけない
「おやじは成仏しただろうか」。須賀川市の農業樽川和也さん(39)が虚空に問う。無理だと思った。「布団の上で死ねなかったんだから」東京電力福島第1原発事故から約2週間後の朝、父久志さん=当時(64)=は自宅の裏で自ら命を絶った。遺書はなかった。放射性物質が拡散する中、将来を悲観したとみられる。着ていた上着のポケットに携帯電話があった。内蔵された歩数計はその日、680歩近くを示していた。「丹精込めて育てたキャベツを最後に見て回ったんだろう」。和也さんは推し量る。
久志さんは原発の危うさを前々から口にしてきた。そして2011年3月12日。原発で起きた水素爆発のニュースを見てつぶやいた。「もう福島の百姓は終わり。何も売れなくなる」。口数が減り、朝になると吐き気を訴えた。農業を継いでくれた和也さんに「おまえを間違った道に進ませた」とわびた。土作りに力を入れ、自慢の野菜を学校給食に提供してきた。キャベツ7500個の出荷を控えていた。23日、自宅にファクスが届いた。キャベツを含む結球野菜の出荷停止を伝える文書だった。夕食後、久志さんは珍しく自ら食器を洗った。亡くなったのは翌朝だった。目に見えぬ放射能の汚染が、出口の見えない困難を突き付けた。生きる力を奪い去った−。原発事故に起因するとしか思えない死なのに、当初は震災関連死には該当しないとされた。
そうした中で和也さんは12年6月、東京電力に慰謝料を求め、裁判外紛争解決手続き(ADR)を申し立てた。「原発事故さえなければおやじは死なずに済んだ」と訴え、謝罪を求めるためだった。1年後に和解が成立したものの、東電は謝ることは拒んだ。今に至るまでおわびはない。和也さんは憤怒の表情を浮かべる。修羅のように。「線香一本上げに来ないのは人として間違っている。おやじが浮かばれない」妻美津代さん(65)は和也さんと農作業をした後、久志さんが残した携帯電話を握りしめる。待ち受け画面のキャベツを見ながら「父ちゃん、一緒に闘ってほしかったよ」と残念がる。
久志さんの死は昨年5月、震災関連死としてようやく須賀川市から認められた。
「父ちゃんは成仏しただろうか」。美津代さんは自問し、すぐに首を振る。「できるわけがない。元のきれいな福島が戻ってこない限りは」理不尽に追い詰められた命。さまよっているに違いない魂。夫の無念をかみしめ、怒りに震える。果たせぬ成仏を思う家族の心もさまよっている。 
成仏できない悲しい霊たち
成仏していない仏(死霊)のことを不成仏霊といいます。成仏したくてもなかなか成仏できないで、霊界でもがきあがいている仏です。不成仏霊は現世に生きている人を頼って成仏させてほしいと助けを求めてくることがしばしばあります。供養してあげること以外に方法はありません。霊魂を信じる人は、仏を大切にし、供養を怠りません。また、そうすることにより先祖は安心して成仏しますから、不成仏霊になるケースはまったくみられず、したがって不成仏霊に悩まされることもないのです。死者に対してまったく無知、無関心で、葬儀もせず、遺骨をどこかに放置したまま忘れ去り、お墓などとんでもないと、つくろうとい気さえ起きない、供養などには目もくれず、現世での自分の損得にだけ目を向けている人がいますが、あれやこれやの霊障、すなわちたたりがあり、不孝が不幸を呼ぶ結果になります。原因不明の病気、交通事故、離婚騒動、自殺者の続出、商売の不調、などなど。思い当たる方はぜひ仏さまの供養に努めて下さい。祈りや供養が不成仏霊を出さない最良の方法です。
不成仏霊のなかでも、もっとも成仏しにくいのが自殺霊です。現世に絶望して苦悩から逃れたいと自殺する人が後を絶ちません。しかし、霊界はちっとも楽しくなくひどく後悔する羽目になる。この世にとどまっている方がどれだけ幸せか、はかり知れないのです。自殺した場所には霊が残ります。そして霊を自殺に追いやった相手に復讐を企てることが多く、相手が懺悔するまで責め立てることがあります。自殺霊を放置すると悲劇が悲劇を呼んで収拾がつかなくなります。霊障が出る前にすみやかに霊を供養することが大切です。
死んだ場所に居着く自縛霊――土地、建物、住居、部屋などに住みついたまま、それらに関わった人間に霊障を及ぼす霊があります。これを自縛霊といいます。もちろん供養すれば霊障はなくなります。ここには自縛霊が出るという噂のある場所には無闇に近づかないようにすべきでしょう。
さて、突然ですが、有名なあの人は果して自殺だったのでしょうか。われわれは彼女の命日が近づいていることを鑑み、女の死について少しばかり考察を与えることができるのではなかろうか。勝手ながら、手元にある少しばかりの証言や物証推理によってできうる限り事実に近づくことができれば幸いである。それでなくともあの現場にでかけてゆき心からの供養を捧げたいと考える次第である。それには彼女は自殺霊かそうでないのか見極める必要がある。なぜなら供養の仕方がいくらか違うからである。とりあえず不孝であり、不幸でもあった女に合掌。まずは彼女が辿ったおおざっぱな人生からみてみたい。余談ながら、いつものこと蒸暑い夏場は霊魂が活発にあの世とこの世を行き来するに最適なむんむんする霊の歩みやすい空気が漂い流れていると宜保は強調する。われわれはどの霊に遭遇することができるのでしょう。ぞっとするこわさがあるが、いくらか大人にはたのしみもある。ドロドロドロドロ、ドロドロドロドロ…
藤圭子(享年62) 東京・西新宿のタワーマンションから飛び降りて死亡したのは去年2013年8月22日の午前七時前だった。警察は事件性なしと判断し自殺と断定した。はたしてどうだろう。
しかし、発作的な自殺というには釈然としない謎がある。その一つ目が「自殺の理由」だ。子供ほど年の差がある38歳の男と同居していたのは13階2LDKの部屋だった。遺書はない。同居していた男の証言があるのみだ。それによると、二人の間にトラブルはなかった。自殺の理由もまったく分からない。別々の部屋で寝ていて男女関係はない。マネージャー的存在だと伝えられたが、同じ屋根の下に棲む歌手とマネージャーとは聞いたことがないと業界人はいう。
金の問題。1年で一億使ったと豪語するほどの浪費家の藤圭子。都内の一流ホテルを転々として暮らしていた。宇多田照實氏と離婚したのはヒカルが23歳のころで、巨額の財産分与を手にしたという。カジノでのギャンブルや高級ホテル暮らしでそのうちに貯蓄も底をつく。
貧しく不幸な幼少期は事実だった。「ドスッ」という鈍い衝撃音があたりに轟いた。黒っぽいTシャツにハーフパンツ。遺書はなかった。
浪曲師の父と、目の不自由な三味線弾きの母の間に生まれた。旅回りをしながら極貧の幼少期を送った。宇多田照實氏と再婚しヒカルが生まれるころ母澄子さんと絶縁。父親とはその前に縁が切れていた。葬儀にも参列しないくらいの不仲だった。ヒカルがトップシンガーになり大金が入ってくるようになる。事務所の副社長として藤には2億円入った。夫・照實氏がヒカルの付き人(女)に手を出し夫婦の仲は破綻、まもなく離婚。米国のカジノ回りで大金を浪費するようになる。
ニューヨークの空港で現金を持ち込もうとして差し押さえられる。5年間で5億円使ったと語った。ひとりになった藤さん約6000万円の高級マンションでM氏と同居をはじめる。M氏はキャッシュで購入していた。藤が離婚した年である。この男は警察の取調をうけているが、警察は口が固く、「M氏は38歳の男性です」とだけだ。24歳下の男との奇妙な同居。M氏は新宿に勤めるホストらしいとい話だ。歌舞伎町に勤めるホストが簡単に高級マンションが買えるはずがないという。「寝室は別々で男女関係はない。彼女がなぜ自殺したのかわからない。」と話している。自殺した朝、「別の部屋で眠っていた。」という。 
 
不成仏霊

 

さまよう心霊
あなたが言葉の通じない外国に旅行中に病気になったらどうするでしょうか。とりあえずは、誰かに助けを求めようとされると思います。しかし、必死に訴えていても誰も振り向いてくれない。誰も自分に関心を持ってくれない状態が続いたとしたら、どんな気持ちになるでしょうか。苦しい状態が一ヶ月・二ヶ月と続いたならば、どんな気持ちになるでしょうか。その状態が二年・三年と続いたら、二十年・三十年と続いたらどうされますか。苦しみが百年・二百年と続いたとしたならば、どれほど苦しいかを想像できるでしょうか。それが成仏されていない方々の心霊の気持です。
霊障と言いますと大半の方は、怨霊や悪霊が生きている人間を苦しめることを連想されるのではないかと思いますが、実際には亡くなられたご先祖が自分たちの苦しみを子孫に伝えようと障りを起こしていることが大半です。ご先祖の方々に悪意はなくても、子孫に自分たちの苦悩を伝える手段がないことから災いを起こすことで、自分たちの苦しみを伝えることが少なくありません。また、ご先祖の方々が積極的に災いを起こそうとの意志がない場合でも、成仏されていない心霊が多数集るならば、そこに住んでいる人間に良い影響はありません。
先祖が成仏されていないことをお話しますと、多くの方はどんなご先祖が迷っているのかを気にされます。しかし、私の経験ではあまりに数が多過ぎてわからないことが大半です。迷っている先祖の方々を霊視したとしても、卒業写真状態では、判別などできるはずもありません。それも整然と整列された状態でなく、雑然とした状態ですので、単なる群集を霊視するだけのことです。しかも、その群集が迷っている先祖の一部でしかない可能性が高いと言えます。
更に兄弟や従兄弟の家に迷っている先祖の方々が分散している可能性もあります。迷われているご先祖の方々が、自分たちを供養してくれる家を求めて、さまよっている可能性が高いことから霊視することにあまり意味はないと考えます。
不成仏霊の悪影響
世の中に存在する不幸の原因は、すべて悪霊や怨霊が原因であるかのように主張される霊能者もあれば、逆に霊障ではないかとの相談の中で本当に霊障である確率は一割程度であると主張される霊能者もいます。個人的には悪霊や怨霊が直接の原因で引き起こされる災いの確率は低いと考えますが、間接的な原因として考えるならば、霊的な影響は無視できないと考えています。
心霊とはエネルギー体であると考えるならば、分かりやすいのではないかと思われます。心霊をエネルギー体と考えるならば、不成仏霊は負のエネルギー体であり、神仏は正のエネルギー体であると考えることができます。不成仏霊を負のエネルギー体であるとするならば、負のエネルギー体に取り囲まれると運気の低下を招くことになります。冬でも暖房が整った環境の中で暮らしますと風邪をひく確率は低くても、暖房設備が全くない環境で暮らしていますと風邪をひく確率が高くなるのと同じことです。逆に神仏のご加護を受け易い環境で暮らすことは、冷暖房の調った快適な環境で暮らすのと同じことになります。
過去の経験では、不成仏霊に取り囲まれた環境で暮らした場合の悪影響は、感情が不安定となり、焦燥感や閉塞感が強くなります。健康面では、原因不明の慢性的な疲労感や倦怠感に悩まされることが多くなる傾向があります。このような状況に陥りますと家にいても気持ちの安らぎが得られなくなり、漠然と家が楽しくない、面白くないと言った気持ちになります。
憩いの場のあるはずの家にいることが何となく苦痛に感じるようになりますと、ご主人ならば仕事に逃げ道を求めて仕事人間になったり、心の安らぐ場所を求める気持ちが浮気へと発展したりすることがあります。またお子様の場合には、感情が不安定となり、勉強にも身が入らずに学力の低下、両親への反発、夜遊びの原因となります。そのため、不成仏霊の影響は、家にいても面白くないと感じることだけで終らず、家族の絆を断ち切り、家庭が崩壊する原因となります。
これに対して 不成仏霊が成仏されて霊的な環境が大きく改善されると、感情が安定して焦燥感や閉塞感がいつのまにか消えてしまったと言われる方が少なくありません。これは開運の方法を実践されている方だけでなく、一緒に生活されている家族も同じような効果が及びますので、家にいると気持ちが落ち着くようになります。家にいると気持ちが落ち着くようになりますと家庭が明るい雰囲気となり、ご主人は家族との対話を大切にされるようになります。子供も気持ちが落ち着くことから勉強にも取り組むようになるなど良い循環が始まります。そして喧嘩もなくなり、笑い声が増える生活となります。
勿論、不成仏霊の悪影響がなくなるだけですべての問題が解消するとは限りませんが、不成仏霊の悪影響が解消されることで家庭の雰囲気が大きく改善することは多いようです。
先祖霊の影響
過去の経験では、全く無縁な心霊の影響を受ける可能性は非常に低く、大半の場合には何らかの縁がある心霊でした。そのため、霊障の原因は、何らかの縁のある不成仏霊がある可能性が高いと言えますが、縁と言っても千差万別であり、深い縁もあれば、浅い縁もあると言えます。
深い縁の代表がご先祖であり、霊障の原因の大半は迷われているご先祖が原因でした。過去の経験では、霊障にの原因の大半は、ご先祖が成仏できずに子孫を頼られていることが原因でした。ご先祖の方々には子孫を苦しめようとの意識がないとしても、迷われているご先祖が集まりますと、活力の低下や焦燥感など様々な悪影響があります。また、子孫に障りを起こすことで自分たちの苦悩を伝えようしたり、子孫が先祖供養をしなければならないとの気持ちにさせようとしたりすることがあります。
しかし、過去にはご先祖が子孫を苦しめるはずなどないと頑なに否定される方も少なくありませんでした。ご先祖が障りを起こすはずないと考えられるのは自由であり、ご先祖が子孫に障りを起こしていることを証明することもできませんが、借金を返せなくなり、困り果てて相談するのは、親兄弟でしょうか、それとも他人でしょうか。
大半の方は、借金を返せなくなり、困り果てるならば、親兄弟に頼み、それでも足りなければ親類縁者に頼むのではないでしょうか。当然のことながら親兄弟であるならば、迷惑を掛けても良いと考えているのではなく、他に頼れる人がいないから親兄弟に頭を下げるのが普通ではないでしょうか。
迷っている心霊も同じことなのです。残された子孫を頼ることなく、成仏できるのであるならば、子孫に障りを起こす必要もありません。子孫に障りを起こしているご先祖は、子孫を苦しめたいのではなく、子孫がご先祖の苦しみに気付かないことから障りを起こすことで気付かすしかない状況にあります。
そのため、子孫がご先祖供養を始めますとご先祖が障りを起こすことがなくなるのが大半でした。しかし、長年先祖供養に無関心であった場合には、ご先祖が本当に供養を継続してくれるのかと、疑心暗鬼になられていることが多いことから、一年二年と供養を継続された後にご先祖が落ち着かれる傾向があります。
尚、ご先祖と言っても父方と母方のご先祖がありますが、縁が深いのは父方のご先祖ですが、お父様が婿養子に入られている場合やお母様のご実家の姓を名乗られている場合には、お母様のご実家のご先祖となります。これは何を意味しているかと言えば、先祖が成仏できないで苦しんでいる場合に誰を頼るかの優先順位です。つまり子孫の方々が自分の親は、養子だから肉体としての先祖ではないと考えたとしても、先祖霊は自分と家の姓を名乗っている子孫を頼る傾向があります。
勿論、これは管理人の過去の経験則ですが、成仏されていない先祖霊は、血のつながっていない子孫でなくても、名前を受け継いだ子孫を頼ることが多いようです。そのため、親やお祖父さんが養子であるとしても、この法則に変わりはありません。
家系の因縁1
因縁の本来の意味は、原因と条件を表す仏教用語であり、実体的な物は存在せず、すべての物は相互依存で成り立っていることを表しますが、家系の因縁と言った言葉を聞くことがあります。本来の仏教の教えでは、家系の因縁と言った使い方がされることはありません。しかし、実際には先祖が代々積み重ねてきた罪の報いから引き起こされる災いと言った意味で使われています。
個人的な経験則ではありますが、一般的に言われている家系の因縁とは、霊障の負のスパイラルが原因ではないかと思うようになりました。勿論、家系の因縁と言われる負の連鎖の原因を霊障だけに原因を求める気持ちもなく、心の問題や親子関係の問題が大きいことを否定する気持ちもありません。現実的な問題として考えるならば、問題のある親子関係を単純再生産していると感じる場合が少なくありません。
例えば、虐待を繰り返す親に育てられた子供が親になった場合に、自分は子供に対して愛情豊かに育てようと決意することが多いようですが、そのことが精神的な重圧となり、結果として育児放棄となってしまう場合や過度な愛情の押し付けとなったりする場合があります。また神経質な親に育てられた子供が神経質な子供になる場合や反発心から子供が無軌道な生き方をする場合があります。
育児や心理学の専門家でもない人間が断定的なことを書くことはできませんが、親から充分な愛情を与えられることなく育てられた子供が、親と同じことを繰り返さないようにしようとしながらも、親は子供にどのように接して良いのかが分からず、子供は親の愛情を与えられることなく育ったとの話を聞きます。また、神経質な親に育てられた子供は、自分が親になった場合に子供に対してどのように接すれば良いのかが分からないことから、親と同じように神経質になったり、逆に過度な放任主義になったりするようです。
子供に対して、どのような態度で接すれば良いのか分からない親に育てられた子供は、自分の親と同じように子供に、どのような態度で接すれば、良いのか分からない。その結果として親の愛情を知らない親に育てられた子供は、親の愛情を知らずに育つことになります。これが、家系の因縁と言われる不幸の連鎖の原因ではないかと思うことがあります。また、結婚相手を選ぶ場合に、自分とは正反対の性格の持ち主を結婚相手に選んでいるつもりでも、同じような考え方の持ち主を結婚相手に選ぶことも問題の解決を困難にしている理由ではないかと思われます。
しかし、この不幸の連鎖を心の問題であるとだけ考えるのは早計となります。例えば、虐待を繰り返す親に育てられた子供が、その心の闇を解消できぬままに他界されるならば、死後もその闇を解消できずに迷われる可能性が高くなります。これは何も虐待に限られた話ではなく、同じような心の闇を抱えた親子関係が繰り返されるならば、同じ心の闇を抱えたご先祖が迷われることになります。そして死後の世界に帰られた後にも心の闇を解消できずに迷われ、迷いから抜け出せない心霊は、子孫を頼る可能性が高くなります。
先祖に子孫を苦しめようとする意識はないとしても、子孫は迷っている先祖の影響を受けます。特に子孫が同じ悩みを持っている場合には、迷っている先祖と意識が同通しやすいことから、その影響は非常に大きくなります。つまり、生きている人間は自分だけの悩みだけでなく、迷っている先祖の不安感や苦悩も背負うことになり、生きている人間は、理由の分からない閉塞感や不安感に悩まされることになります。
これが家系の因縁と言われる不幸の連鎖の正体ではないかと考えています。勿論、霊障が解決したとしてもすべての問題が解決するわけではなく、心の問題は残りますが、霊障が解決しますと、それまで悩まされていた焦燥感や閉塞感が解消されて気持ちが落ち着き、家庭内の雰囲気が大きく改善したとの話を数多く聞いています。そのため、霊障が解決することで心の問題も解決が容易となります。
また、迷っている心霊が成仏されますと先祖の影響がなくなるだけでなく、神仏のご加護を受け易くなる傾向があります。そのため、単純に心の問題と考えるだけでなく、霊障として考えるべきではないかと考えます。
家系の因縁2
霊障を自覚されているか、自覚されていないかとは無関係に、霊障のある方が結婚相手に選ばれる方は、不思議と自分と同じような霊障に悩まされている相手を選ばれる傾向があります。本人が意識されているか、意識されていないかを別にして、霊障のある同士が結婚されますと霊障が深刻化する可能性が高くなります。そして深刻な霊障が数代続くならば、家系の因縁と言えるような現象が起きることがあります。
その理由として一般的に霊障に悩まされている方の多くは、ご両親が宗教に無関心であることやあの世の存在を否定されることがあります。どちらのご両親も宗教に無関心なことから神仏との縁が薄いだけでなく、作法や供養もご存じないことが多く、ご自宅の宗旨も分からないことも少なくありません。
このような状況になりますと、ご主人の家系の成仏されていないご先祖の他に、奥様のご実家の成仏されていないご先祖を受けることになります。それでも、ご夫婦のどちらかに神仏に帰依される気持ちが強く、神仏とのご縁があれば良い方向に向かうこともありますが、神仏とは無縁な両親に育てられたは、霊障と言われるようなことが起きても偶然や不運と考えることが多いようです。
そして霊障に悩まされている両親に育てられた子供は、親の霊障をそのまま引継ぐことになることから、親と同じように自分と同じような霊障を持つ相手を選ぶ可能性が高くなります。自分と同じような霊障を持つ相手を選ぶことで更に霊障が悪化します。この繰り返しが数代繰り返されますと霊障の負のスパイラルに陥ります。霊障の負のスパイラルに陥りますと努力しても報われない事が多くなり、不幸の影がいつもつきまとうような人生を歩まれる方が多くなります。また、霊感のない方が自分は霊障ではないかと漠然と感じ始めるのがこの段階となります。
しかし、本当の負のスパイラルは、この段階から始ります。霊障が深刻となりますと家の中が負の想念に包まれるようになります。このような状況になりますと、友人関係や知り合いも霊障に悩まされている方や霊障の予備軍とも言うべき方など、負の想念を溜め込んでいる方の比率が高くなります。
この段階になりますと低級霊の影響を非常に受け易くなるだけでなく、簡単に低級霊を呼び込むようになります。簡単に低級霊を呼び込むような状態にまで環境が悪化した家で育った子供は、低級霊の影響を受け続けることになります。更に不幸にして子供が生まれつき感受性の強い場合には、強度の霊媒体質になりやすくなります。また、霊障ではないかと霊能者を頼る方が増えるのもこの段階であり、新興宗教などの入信や脱会を繰り返す方も多くなります。
この次の段階が宗教カルトへの入信となります。宗教カルトに入信されても、その教えに疑問を持ち、脱会されるならば、良いのですが、熱心な信者となり、教団の教えを盲信されるようになりますと、一種の洗脳状態となり、専門家の力を借りないと脱会させることは難しくなります。
勿論、ここで紹介した霊障の負のスパイラルですべてが説明できるとも考えていませんし、また画一的に説明することには無理があるとも言えます。
家系の因縁3
家系の因縁と言われる現象の原因として、霊障の負のスパイラルがあることを書きましたが、霊障の負のスパイラルは、先祖が成仏されていないことだけが原因ではなく、強い怨みの念を抱く不成仏霊が原因の場合があります。過去の事例を紹介しますと、明治時代に田舎の村で未婚の女性を妊娠させておきながら、他の女性と結婚したことから、相手の男性を怨みながら亡くなられた女性が、相手の男性だけでなく、相手の男性の子孫に災いを起こし続けていた事例、先祖が高利貸しをして多くの人を苦しめていたことから子孫が難病に苦しめられていた事例などがありました。
子孫からするならば、自分に無関係な理由で苦しまなければならないことから、何とも理不尽であると言いたくなりますが、怨みを抱いている不成仏霊からするならば、怨みを抱く相手の子孫であると言うことだけで、憎しみの対象ですので霊障の負のスパイラルに陥る危険性が非常に高くなります。
また、このような場合には深い怨みを抱く不成仏霊がいるだけでなく、生前に他人を不幸に陥れるような生き方をされていたご先祖が迷われている可能性が高くなります。他人を不幸に陥れたご先祖は、当然の事ながら罪深いことから供養をされたとしても成仏が難しくなります。更に厄介なことに、怨みを抱く不成仏霊は、子孫がご先祖を供養することを妨害します。
これは、怨みを抱く不成仏霊からするならば、自分を苦しめた先祖が地獄で苦しむことを願うとしても、成仏することを願うはずもありません。また、怨みを抱く不成仏霊を供養しても深い怨みを抱く不成仏霊が求めているのは、子孫を苦しめることであり、自分が成仏することではないことではありません。
そのため、子孫がご先祖や怨みを抱く不成仏霊を供養しようとされますと妨害することや神仏に帰依することを妨害することが少なくないことから、霊障の負のスパイラルに陥る危険性が非常に高くなります。
このような話を書いていると気が重くなりますが、霊障の負のスパイラルの恐ろしさは、これで終らないことです。深い怨みを抱く不成仏霊に怨まれている家系の子孫は、自殺や破産などが多くなる傾向がありますが、家系が途絶えることはほとんどありません。つまり家系が途絶えない程度に子孫を苦しめるのが、深い怨みを抱く不成仏霊と言えます。また更に厄介なことは、直系の子孫だけでなく、他家に嫁入りや婿入りされてご実家の戸籍から抜けても、怨みを抱いている心霊には関係なく障りを起こす可能性があることです。
子孫からするならば、顔をしらないどころか、名前さえ知らない遠い先祖の犯した罪で苦しめられることは、何とも不条理極まりないと腹立たしい気持ちになりますが、霊障の負のスパイラルから抜け出すことが大切となります。個人的にも、この霊障の負のスパイラルから抜け出すことができずに悩んでいました。どうして、自分がそんなことをしなければならないのかと腹も立ちましたが、自分の代でこの霊障の負のスパイラルを終らせたいと考えるようになりました。しかし、その方法を見つけたのは、人生の半ばを過ぎた頃でした。
世の中には、家系の因縁を解消する方法を紹介されている方や独自の先祖供養を提唱されている方、除霊や浄霊の方法を紹介されている方などがおられますが、過去の経験では神社仏閣で供養するのが一番効果的な解決策でした。
平穏無事
修験道の行者の方が色々な祈願を依頼される方は多くても、お礼の電話がないと嘆かれていました。祈願する人間としては、祈願が成就した場合には、神仏にお礼を申しあげなければならないことから、その後の経過を聞いても、大半の方は祈願されたことすら忘れられているとのお話でした。
祈願されて悩みが解決しても祈願をされたことを忘れてしまう方が多いのは、それだけ平穏無事に暮らせることをご利益であると考える方が少ないと言うことではないかと思われます。神仏のご利益と言えば、多くの方が奇跡を連想されると思いますが、最大のご利益とは、平穏無事な暮らしではないかと考えます。過去の事例でも開運の方法を継続して実践されていますと家庭の雰囲気が好転します。それまで何かと揉め事が多かった家庭から揉め事が減った、病気や怪我が絶えなかった子供が健康に暮らせるようになったとお聞きしております。
不幸の原因をすべて不成仏霊であると考えてはいませんが、騒音に悩まされる生活が続くならば、落ち着きを失うように、不成仏霊に取り囲まれた環境の中で暮らしていますと、霊感のない方であっても苛立ちや焦燥感に悩まされます。これは常にストレスを感じ続ける状態であることから揉め事や病気の要因となり、揉め事や病気が絶えなくなります。
更にこの状態が継続しますと、家の中が暗い雰囲気となり、ご主人や子供は家にいることが苦痛に感じるようになります。その結果、ご主人や子供は家族と一緒に過すことよりも外で過す時間を求めるようになり、浮気や素行不良などの潜在的な要因となります。
逆に、霊的な悪影響が遮断され、常に神仏のご加護がある状態が続くようになりますと穏やかな気持ちで暮らすことができるようになり、家庭内の雰囲気が自然によくなります。家庭内の雰囲気が良くなれば、ストレスを感じることもなくなり、家庭から揉め事や病気が減ります。家で過す時間が快適であると感じるようになれば、ご主人や子供も外で過す時間よりも家で過す時間を大切にされるようになり、浮気や素行不良の要因もなくなります。
そのため、奇跡の連続と言ったご利益を実感できなくても、平穏無事に過すことてができる日々が続くことが最大のご利益であると思います。 
 
成仏と幽霊

 

成仏と幽霊
平成四年五月二十二日、日本で初めての爆破によるビル解体が行なわれました。そして翌日の新聞には「幽霊ホテル六秒で成仏」という見出しで、このことが報道されていました。
このビルは大阪万博をあて込んだ業者が、昭和四十三年に観光ホテルとして琵琶湖畔に着工したのですが、資金難で工事を中断し、以後二十三年間放置されたままだったということです。地元の人はこれを「幽霊ビル」と呼んできたんだそうですね。なんにも使われないうちに老旧化して解体とは、可愛そうな話です。それにしても幽霊ホテルが成仏とは、新聞社も考えた見出しをつけたものですね。
ところで幽霊とは何で、成仏とは何なのでしょう。私たちが死後に行く世界を幽界といいます。そして、そこへ行く魂が霊です。だから死んで幽界をさまよっている霊が幽霊となりましょうか。一方、成仏とは文字通り仏に成ることで、言いかえれば迷いを脱して覚ることです。
大乗仏教では「生前、仏教に帰依していたものが死ぬと、只の霊ではなく、仏の命に帰一して一体となるから、仏に成る」として、これを成仏と解してきました。ということは、仏教に帰依していない人が死んでも成仏にはならないのですが、いまでは一般に、死ぬことを成仏と言い習わしているようですね。成仏は仏教徒の理想であるばかりでなく、一般の幽霊の理想にもなったのでしょうか。まあ、仏教では「すべての人に仏性がある」いや「山川草木しつ有仏性」ともいうのですから、すべてのものが成仏しても不思議はないということです。このビル 「木の岡レイクサイドビル」もフラフラした幽霊生活を終えて成仏したのかも知れません。ところで私たちは、せっかく生きているのですから、何事かを成し就げてから成仏したいものです。私たちの心が資金難にならぬ様、心を豊かにしてかかりたいものですね。 
成仏できる霊と成仏できない霊
霊の記事を書いて言うのもなんなんですが、私は元々幽霊とかって信じるタイプでは無いんです。不可思議な体験をしたとしても、半信半疑です。でも、それで良いと思ってます。下手に、幽霊は存在する、なんて思い込むと、霊が寄って来てしまうと思うので。私は普段、「幽霊なんて、所詮幻覚や幻聴だ!」と思っています。普段の生活に、幽霊なんて迷惑以外の何者でもないので、それで良いと思ってます。
さて、前置きが長くなりました。この世で一番怖いのは、生きている人間だ!って意見をたまに聞くけれど、私はそれは違う!と、声を大にして言いたい。この世で一番怖いのは、悪霊による憑依だ!悪い霊に憑依されて操られてしまう事が、一番危険な事だと思っています。
この世に霊が存在するならば、それは死んだ人間だ。生きている人に良い人と悪い人がいるように、幽霊にも良い霊と悪い霊がいるのだ。
素直で純粋で、心優しく、親切で真面目な人は、死んだらすぐに成仏するだろう。(良い霊)
執着心が強く、自己中で我がまま、欲が深く、僻みっぽい人間は、死んでも成仏できない。(悪い霊)
一言で言うと、性格が悪い人間は、成仏できない。私はそう思っている。そもそも、優しくて親切な幽霊に出会った体験談なんて聞いた事が無い。それだと、成仏した高級霊の類で、守護霊やご先祖様の話だ。
優しくて親切で思いやりがある素敵な人は、死んだらいつまでもこの世に留まったりしない。すぐに成仏できるし、成仏するのだ。
という訳で、この世にいつまでも留まっている末成仏霊は、性格が悪いのだ。全てと言っても過言では無い。だから低級霊であり、悪霊とも呼ばれる。同類の色情霊なんてもっと最低だ。変態そのものなのだ。変態が死んで、幽霊になっても痴漢をし放題とか、キモ過ぎる。最低すぎるだろ。
死んだ後まで、他人に迷惑をかけるなんて最低だ。私は幽霊が大嫌いだ。
この世に未練があるから成仏できないとか言うが、誰だってこの世に未練ぐらい残して死んでいる。それでも普通はちゃんと成仏して、あの世へ行くのだから。
私は思う。死んで幽霊になったからといって、この世で何をやっても罪にならないはずが無い。死んだ後も、この世に留まり悪さをすれば、それは因果応報として、いずれ自分に返るのだ。死んでも魂は永遠なのだろうから。罪は罪として、地獄の底で苦しむ事になるだろう。もしくは、成仏できないという永遠の苦しみを味わう事になるのだろう・・・。 
幽霊概念の変遷
「・死んだ者が成仏できず姿をあらわしたもの・死者の霊が現れたもの」
「この世に怨恨や執念を残して死んだ者の霊が成仏できずに、この世に現す姿のこと。幽霊とは元来死霊を意味する言葉であるが、まれには生者の生霊が遊離して幽霊となることもある。この点は、物の怪と類似する。現今では、幽霊とおばけ(化け物)は混同されているが、幽霊は生前の姿または見覚えのある姿で出現してすぐにだれとわかるし、また特定の相手を選んでどこにでも出現するのに対し、化物は出現の場所や時間がほぼ一定しだれ彼れかまわず出現する」
どちらの解説にも「成仏できず」という語が入っているのが理解の鍵になると考えます。「成仏」は仏教用語ですから、幽霊は仏教的な要素を多分に含む概念なのではないでしょうか。また江戸時代頃の幽霊は、ほとんどが因果物として描かれています。『四谷怪談』『番町皿屋敷』『小幡小平次』など、まず恨みがあってその結果が祟りとなって表れます。
『牡丹灯籠』の元話はちょっと異質ですが、これは元来が中国ネタだからでしょう。この当時の幽霊の条件として、
・はっきり身元が特定されている(どこの誰の幽霊かわかる)
・幽霊になってもしかたのない(と周囲が納得する)恨みを持っている
この二つのことが重要であると思います。
江戸時代は檀家制度というものがあり(現在もあります・・)これは寺請制度ともいい(厳密にはやや異なる)江戸幕府が宗教統制の一環として設け、寺請証文を受けることを民衆に義務付けたものです。キリシタン対策として始まったのだと思いますが、これにより檀家は檀那時の統制下に入り、縛り付けられることになりました。
当時の江戸や大坂など雑多な町人が暮らす地域以外、農村などはきわめて閉鎖的な社会であり、その中で幽霊が簡単に出てしまうのは非常に困った事態でした。なぜなら、その地域の寺に死者を成仏させる力がなかったことになってしまうし、家の中のすったもんだも明らかになってしまうからです。ですから幽霊が出る場合というのは、「あああの人なら成仏せず迷って出てもしかたがない」と周囲を納得させるだけの強い恨みの存在が必要であったのです。勧善懲悪の観点からも幽霊の祟りを受けるのは悪党でなければなりませんでした。
むろん江戸時代にもちょっとした怪異、不可思議事はないわけではありませんでしたが、そういうのは妖怪、狐狸のしわざとして語られることが多かったのです。実際、狐狸の話というのは多く、しかも明治時代になっても語られていました。『明治妖怪新聞』という本がありますが、これは明治時代に新聞に載った怪異譚を集めたもので、狐狸の話は実に多種多様に採録されています。
例えば、現代では夜道を歩いていて、目の前を人型の白い煙(霧)が漂い去った場合、「幽霊を見た」という人も多いと思います。しかし歴史的には、このような正体不明のものは、「妖怪が現れた」「狐狸(ムジナ)に化かされた」となることが多かったでしょう。ところが現代では、妖怪や狐狸というのはすっかり廃れてしまって、その分幽霊の概念が広がってきているのだと思います。
なぜこのようになったか、原因はいろいろあると思います。科学的な教育が浸透して、狐狸をただの動物と考えるようになったこと。幻覚や錯覚、あるいは記憶の改変のメカニズムが解明されてきたこと。寺に力がなくなり、成仏するとかしないとかを真面目に考える人が少なくなったこと。それからメディアの力があるでしょう。テレビの『あなたの知らない世界』それから心霊写真を特集した番組などでは、とりあえず人の姿をしていれば、それが生前がどこの誰とは知られていなくても幽霊として扱っています。この頃には、江戸時代にあった概念がだいぶん崩れてきているのだと思います。
またこれにはテレビ番組制作側の事情もあったのではないかと思うのです。昔のテレビはあまりやらせなどにうるさくなかったので、『川口探検隊』wなど何でもありの状況でしたが、それでもさすがに「〇月〇日に亡くなった、住所□□の〇△さんの幽霊が出ました」と放送するにはいろいろさしさわりがあったと思うのです。ちなみに『あなたの知らない世界』の最恐エピソードといわれる『恐山の怪』では、日本三大霊場の一つ恐山で白い着物のお歯黒の女を目撃した主人公一家が何の因縁もないのに一家全滅させられるという話です。
また水子の霊、守護霊、地縛霊、浮遊霊など、本来の仏教にはないさまざまな霊の形も考え出され、「生首が飛んでいた」という目撃に対して、「それは妖怪〇〇だ」「狐が化かしたんだろう」ではなく「幽霊だね」「地縛霊じゃないか」というような状況になってきているのだと思います。 
浄霊と除霊
浄霊(じょうれい)も除霊(じょれい)も一般的には霊を払うという意味で同じように使われていることが多いようですが、私はまったく違うものと認識をしています。
浄霊
浄霊は亡くなった方が成仏できていない場合、この世に残ってしまった魂(これが霊です)を天へと送り出す事と私は考えています。
成仏とは「死んでこの世に未練を残さず仏となること」と言われますが、実際に、未練がある方・突然の事で自分の死を知らない方はこの世に肉体を持たない状態でとどまっています。
私はその霊の方とコンタクトを取り、無念な事、心残りの事を聞いたり、遺族に伝えたい事をお伝えしたり、またすでに亡くなっているという事を本人に伝えたりします。自分の思いを聞いてもらった霊は、すぐに天へと旅立たれる方もいれば、家族としばらく一緒に過ごしたいと数日経って旅立たれる方もいらっしゃいます。
亡くなった方にとっても、ご家族にとっても、一緒に過ごされる時間は本当に感動の時となります。その間、不思議なことが 起きることもあります。
旅立たれる時には必ず、私のところへ「今から行きます!」と一声があるので(大概が晴れた日の朝ですね)、ご依頼人の方にすぐに連絡をして、心の中でお別れをしていただきます。青空に一条の光が輝き、天に召されていきます。
ですので、私の浄霊は1件という扱い(数日から数週間の場合も)で、何時間でできるというお約束はできません。亡くなられた方にとってそんな無理な方法は行いません。いつ旅立たれるかは亡くなられた方しだいです。私の浄霊は「愛を持って送り出す」ひとつのセレモニー(儀式)です。
除霊
除霊は、一人の霊・一つの魂というよりも、想念・思いなどが集まって人に付いてしまった場合にそれらを取り除く作業です。私はそれらを雑霊と呼んでいるのですが、今まで亡くなった人たちが残していった様々なマイナスな感情や思い、未成仏霊などが集まってしまったものです。
それらが付くと、頭が重い・痛い、吐き気がする、体が重い・だるい、肩や首の周りが重い・痛む、悲観的になる、顔の中心がドス黒く感じる、目の焦点が合わなくなる、耳鳴りがする、人から「ねぇ、大丈夫?」と声をかけられハッとする などがあります。
雑霊は私の浄化力を使って一切合切きれいにしてしまいます。雑霊は同じ波動にまた寄り付いてくるので心のあり方が変わらないと、また同じことが起こるのですが、私の除霊は憑かれにくい体質に導くので、同じ状況にはなりにくいです。
心霊相談・家宅浄化
家の中で物音がする、誰かが居るような気がする、子供が何かにしゃべりかけることがある、犬が何かに向かって吠えるなど 生活の中で不気味な現象が起こり怖い思いをすることがあります。心霊現象といわれるものですが、 霊が元からそこに居るケース、たまたま入ってきてしまったケースなどありますが、いずれにしても それらが家に居て良い事はありません。早めに浄霊・除霊をすることをお奨めします。
家の中が片付いていない、汚い、暗い、風通しが悪い、こういった家は霊が住み着きやすいので注意してください。常に奇麗で、明るく、風通しの良い家にはまず、住み着くことはありません。
部屋の片付けの指導や部屋の浄化のための盛り塩や水晶を置く事をお奨めする事があります。
憑依について
1人の魂(霊)という意味では 霊が憑くという憑依(ひょうい)があります。自分の思いを果たしたくて、霊が生きている人に乗り移ることです。憑依されやすい人、されにくい人がいます。霊感の強い人は憑依されやすいと言われています。霊もわかってくれる人に憑きます。また、同じ波動の人に憑くと言われているのでネガティブになっている時やそういう性格の人なども憑かれやすいです。
私にも経験がありますが(超ネガティブな時があった)、自分が乗っ取られてしまい、車で事故にあいそうになるほど危険な状態でした。
憑依されると、体の具合が悪くなる、時々自分じゃない誰かの感情が自分の中にわき起こる、突然悲しくなったり怒りが出て来る、鏡に映る自分の人相が怖く自分ではないように見える、思うようにしゃべれない、顔や手足がこわばる・・・などが起こります。
身の危険があったり、周りの人を攻撃したり、自分自身が破滅の道へと進むこともあるので、ご自身が憑依されていると感じたら、人が憑依されているかも、と思ったら浄霊することが必要です。
しかし、テレビなどで霊を払う、と言って「ここから出て行け!!」などと怒鳴り声を上げている除霊師がいますが私には理解ができません。
例えそれがどんな霊であろうとも、何か理由があってその人に憑いたのだから、 また、憑かれる人には同じ波動があったのだから、むやみに霊を悪者扱いをするのは失礼です。私はそういった霊に対しても愛を持って天に送り出すよう努めます。
危険な場所へは絶対に行かない
心霊スポットと呼ばれる所へ興味本位ででかける人がいますが、絶対にやめてください。面白半分に踏み入る事は大変危険です。そこにいる霊は恨みや怒りや殺意(そもそもは人が残したものなのですが)などで満ちています。自分の思いを果たしたくて近づく人間に憑依しようと待ち構えています。
テレビで放映されるものを見るのもよくありません。テレビも電波(波動)ですから、憑依されることもありえます。WEBでオカルト小説を読み過ぎて正気を失ってしまい私のところへ相談にいらした方も実際にいらっしゃいます。  
 

 

 
亡霊 (ぼうれい)

 

亡き者の霊。死者の魂。
死者の魂がこの世に現れたもの(幽霊)。亡魂とも。
(比喩的に)今は亡びた過去の存在のはずだが、それがよみがえってきたのではないかと恐れられているもの。亡霊という語は、今は亡びた過去のものごとのはずだがそれがよみがえってきたのではないかと恐れられているもの、の比喩として用いられることがある。例えば、「ファシズムの亡霊」「ナチスの亡霊」 「軍国主義の亡霊」といった表現である。 
【亡霊】
1 この世に現れた死者の魂。亡魂。
2 その復活かと恐れられる、今は亡びた過去のもの。「ファシズムの―」
3 そこにいないものの霊。 
【幽霊】
1 死んだ人の魂。亡魂。
2 死者が成仏し得ないで、この世に姿を現したもの。亡者。
3 比ゆ的に、実際には無いのにあるように見せかけたもの。「―会員」
 
幽霊

 

死んだ者が成仏できず姿をあらわしたもの。または、死者の霊が現れたもの。
幽霊というのは、小学館『日本大百科全書』でも、平凡社『世界大百科事典』でも【幽霊】の項目に、日本の幽霊と西洋の幽霊が並置する形で扱われている 。このように、洋の東西を問わず世界に広く、類似の記載はあり、中世のヨーロッパにも、日本の隣の国、中国にも、また陸上だけでなく、世界の海にもいるとする記載がある 。 西洋でも、(日本同様に)人間の肉体が死んでも魂のほうが死なずに現世でうろついたり、家宝を守ったり、現世への未練から現世にとどまったりする話は多くあり、霊が他人や動物にのりうつることもあるといわれる。
日本
古くは、何かを告知したり要求するために出現するとされていた。
だが、その後次第に怨恨にもとづく復讐や執着のために出現しているとされ、凄惨なものとされるようになった。
「いくさ死には化けて出ない」との言い伝えもあるが、平家の落ち武者や大戦での戦死者のように、死んだときの姿のまま現れると言われる幽霊も多い。
幽霊の多くは、非業の死を遂げたり、この世のことがらに思いを残したまま死んだ者の霊であるのだから、その望みや思いを聞いてやり、執着を解消し安心させてやれば、姿を消す(成仏する)という。
日本で葬式の際に願戻し、死後の口寄せ、あるいは施餓鬼供養などを行うのは、ある意味で死者たちが成仏しやすくしてやり、幽霊化するのを防ぐことだといえる。
歴史
昔話には「子育て幽霊」や「幽霊女房」、「幽霊松」(切られると血を流す松)などの話がある。
日本は島国であるためなのか、海の幽霊の話も多い。船幽霊とも言う。その内容とは例えば、幽霊船が現れて、幽霊が「柄杓(ひしゃく)を貸してくれ」というが、それを渡すとその柄杓で水を汲んで水船(水没してゆく船)にされてしまうといい、幽霊には柄杓の底を抜いてから渡さなければならない、とする。紀州に伝わる話では、幽霊船が出たら、かまわずぶつかってゆけば消えてしまうとされる。
津村淙庵の話(1795)では相州(神奈川)にある灯明台に7月13日にかならず、遭難した船の乗員の幽霊が集まったという。
出会った時点では幽霊であるとは気づかず、後になってから、すでに亡くなった人物(=幽霊)であったと気づく話は、古代から現代にかけて語られている。
『日本書紀』雄略天皇9年(465年)条の記述。『耳嚢』 寛政7年(1795年)に亡くなった小侍の話。映画『学校の怪談2』(現代の例)
伝承される文化・芸術として
江戸時代以前から怪談という形で伝承され、江戸時代には幽霊話が大流行し、雨月物語、牡丹燈籠、四谷怪談などの名作が作られ、また講談・落語や草双紙・浮世絵で描かれ花開き、現在も題材として新作から古典の笑話・小説・劇などに用いられ、その他の様々な媒体で登場し紹介される。
1825年7月26日に江戸の中村座という芝居小屋で「東海道四谷怪談」が初公演された事に因んで、7月26日は「幽霊の日」となっている。
幽霊の姿かたち、現れる場所、時刻
日本では幽霊は古くは生前の姿で現れることになっていた。歌謡などの中でそうされていた。
江戸時代ごろになると、納棺時の死人の姿で出現したことにされ、額には三角の白紙の額烏帽子(ぬかえぼし)をつけ白衣を着ているとされることが多くなった。
元禄年間(1688-1704)刊行の『お伽はなし』では、幽霊はみな二本足があることになっていた。だが、『太平百物語』(1732年)では、幽霊の腰から下が細く描かれた。
享保年間(1716-36)ころになると、下半身がもうろうとした姿で、さらに時代を経るとひじを曲げ手先を垂れる姿で描かれるようになり、定型化した像(ステレオタイプ)がかたちづくられていった。
1785-87に書かれた横井也有の『鶉衣(うずらごろも)』には、腰から下のあるものもないものもある、と書かれている。
墓地や川べりの柳の下などの場所に現れるとすることが多く、丑三つ時(午前2時ごろ)といった特定の時刻に出現するともいわれている。古くは物の怪の類は真夜中ではなく、日暮れ時(逢魔時、昼と夜の境界)によく現れ、場所も町はずれの辻(町と荒野の境界)など「境界」を意味する領域で現れるとされていたが、江戸期を通じて現代にまで及ぶステレオタイプが形成されたと思われる。
定型化した"死装束の幽霊"、"足のない幽霊"
『乱れ髪に天冠(三角頭巾)、死装束の足がない女性』という、芝居やお化け屋敷などでもおなじみの定型化した姿は(いわば「日本型幽霊」)は、演劇や文芸の影響が大きいと言われている。河出書房から出版された『渡る世間は「間違い」だらけ』によると、歌舞伎の舞台「四谷怪談」の演出で幽霊の足を隠して登場したものがルーツだとしている。江戸期に浮世絵の題材として描かれてから定着したものである、とも言う。『番町皿屋敷』の影響もあるともいう。円山応挙(1733-1795)の幽霊画の影響もあった、とされる。応挙の幽霊画は江戸時代から有名であったらしく、その後多くの画家に影響を与えたといわれている。
ただし、「足のない幽霊を最初に書いたのは円山応挙」とまで言ってしまう説については、俗説あるいは不正確な説、と指摘されており、実際には、応挙誕生以前の1673年に描かれた「花山院きさきあらそひ」という浄瑠璃本の挿絵に、足のない幽霊の絵が描かれている。この時代にはすでに「幽霊=足がない」という概念があったようである。
この定型と対比する形で「海外の幽霊は足があるものが多い」と言うこともある。 幽霊の中でも「牡丹灯篭」のお露のように、下駄の音を響かせて現れる者もいるが、これは明治期になって中国の怪異譚を参考に創作されたものである。近年も死者の霊が登場する都市伝説が多く語られているが、外見上生きている人間と区別がつかない幽霊も多く、「死装束を着た足のない幽霊」が「出現」することはほとんどない。
西洋
西洋の原語では、英語ではghost ゴーストあるいはphantom ファントム、フランス語ではfantôme ファントーム などと言う。
やはり死者の魂が現世に未練や遺恨があり、現世に残り、生前の姿で可視化したもの、と考えているのであり、希望を実現しないまま死んだ人、責任を果たしきれないままに死んだ人などが幽霊になって出ると考えられる。婚約したまま死んでしまった女性は幽霊になって花婿のもとを訪れ、出産時に死んでしまった女性の幽霊は乳児のベッドの横に立つ。生前自分が行った行為が良心に咎めて死にきれない者も生者のもとに現れるとされる。
殺された人、処刑された人、望みを果たさないまま無念に死んだ人たちの幽霊は、生者が慰め、その願いを代わりに叶えてやることで消え去るものともされている。
幽霊の姿、現れる場所、時刻
幽霊の現れる時の姿は、生前の姿のままや、殺された時の姿、あるいは骸骨、首なし、透明な幻、あるいは白い服を着た姿で現れる。また火の玉や動物の姿でも現れるとされる。
現れる場所としては、墓場、殺された場所、刑場、城館の跡、教会堂、街の四つ辻、橋などが多い。
現れる時刻は、基本的には真夜中の0時から1時あたりが多く、この時間帯が幽霊時などと呼ばれるくらいであり、夜明けを告げる鶏が鳴くと姿を消すとされる。
ただし、日中に現れるという記述もある。例えば、降霊術師や霊媒によって呼び出された霊である。
ドイツでは11月2日の万霊節には、幽霊たちが列をなして現れ、Frau Holle(ホレばあさん)に引率され、さびしい教会堂や寺院の供養に参加する。その夜になると墓場に鬼火が見えるのは、彼らが来ているしるしなのだと言われている。
村上計二郎は著書「幽霊の実在と冥土通信」日本書院出版部1927年11月18日の19頁にて、幽霊が夜現れ、昼間に現れないのは、彼らが光線を受けて溶解するためだという。 また、32頁では、幽霊が赤子や犬など特定の生き物に見えることや、心霊現象として、幽霊固体が勝手に移動すること、固体重量が変化すること、固体が浮揚すること、楽器の弾奏が行われることが紹介されている。
歴史
古代ローマでは、街の地下に死者の霊が住んでいると信じられ、地下にその住居をつくったり住居の出入り口をふさぐ幽霊石を祭りの日にだけあけて自由に出入りさせる、ということが行われていた。人々は生者を守る霊の力は借りようとし、反対に危害を加えるような霊については警戒したり、祈祷文によって遠ざけようとした。
18世紀後半には幽霊物語が発達し、その草分けとしてホレス・ウォルポールの『オトラントの城』(1764)が知られている。その後、ホフマンやティークや、エドガー・アラン・ポーの作品が多くの人々に読まれた。これらの作品は、単なる架空の話として読まれたわけではなく、人々は幽霊が実在していると見なして読んでいたものである。
西洋の心霊主義では、降霊術も行われていた。
20世紀においても、交霊術は都会においても行われている。
心霊主義では、ポルターガイスト事件も(個々の事件によりはするが)心霊のしわざだと見なしている例も多々ある。(それに対して、超心理学者たちは、ポルターガイストは若者の偶発的な超能力によるのだと説明していることがある)
今日でも、イギリスなどでは幽霊が現れる住宅も存在している。ただ日本と異なるのは、イギリス人たちは無類の幽霊好きで自分の家に幽霊が出ることを自慢しあう。 「幽霊ファン」のような層がいて、幽霊見学ツアーなどが行われている。 イギリスの歴史的に由緒がある住宅などでは、歴史上の人物が幽霊として現れる建物も知られている。
近代の心霊研究はイギリスを中心に発展したが、その理由は、ひとつにはイギリス人の気質が知的な探究心が旺盛なため、幽霊が現れるとされればそれを怖がったりせず積極的に知的に調べてみたがるためとも言われている。
幽霊が出没することを英語では「haunted ホーンテッド」と言い、幽霊が出没する建物は「ホーンテッド・マンション」「ホーンテッド・ハウス」などと言う(日本語では幽霊屋敷)。幽霊を自分の目で見てみたいと思っているイギリス人も多いので、イギリスでは幽霊が出るとの評判が高い住宅・物件は、通常の物件よりもむしろ高価で取引されていることもある日本では、幽霊が出る建物となると、悪い噂になるなどと考えて、ひた隠しにしようとしてしまう傾向があるのとは、対照的である。 
 
幽霊の正体見たり枯れ尾花

 

横井也有
(よこい やゆう、元禄15年-天明3年 / 1702-1783 ) 江戸時代の武士、国学者、俳人。
元禄15年(1702年)、尾張藩で御用人や大番頭を務めた横井時衡の長男として生まれ、幼名は辰之丞、通称は孫右衛門と言った。本名は時般(ときつら)、別号に永言斎・知雨亭など。横井氏は北条時行の流れを組む家柄と称する。
26歳にして家督を継いだ後は用人、大番頭、寺社奉行など藩の要職を歴任。武芸に優れ、儒学を深く修めるとともに、俳諧は各務支考の一門である武藤巴雀、太田巴静らに師事、若い頃から俳人としても知られ、俳諧では、句よりもむしろ俳文のほうが優れ、俳文の大成者といわれる。多芸多才の人物であったという。
宝暦4年(1754年)、53歳にして病を理由に隠居した後は、前津(現在の中区前津1丁目)の草庵・知雨亭に移り住み、天明3年(1783年)に82歳で没するまで、俳文、漢詩、和歌、狂歌、茶道などに親しむ風流人として暮らした。
横井也有と大田南畝
也有の『鶉衣』は大田南畝により刊行されているが、その経緯について南畝は鶉衣の序文に記している。安永の初め頃、たまたま長楽寺に立ち寄った南畝はそこで也有の「借物の弁」を目にし、「余りに面白ければ写し帰」ったという。それ以降、尾張出身者に会う度に也有のことを尋ね、漸くその著作を目にする機会が訪れたが、その時すでに也有は亡くなっていた。南畝は也有の作品がこのまま埋もれてしまうのは惜しいと思い、自らの手で刊行することとした。こうして『鶉衣』が世に出ることになったのである。 
幽霊の正体見たり枯れ尾花とは、恐怖心や疑いの気持ちがあると、何でもないものまで恐ろしいものに見えることのたとえ。また、恐ろしいと思っていたものも、正体を知ると何でもなくなるということのたとえ。
「尾花」はススキの穂のことで、幽霊だと思って恐れていたものが、よく見たら枯れたススキの穂だったという意味から。疑心暗鬼で物事を見ると、悪いほうに想像が膨らんで、ありもしないことに恐れるようになるということ。横井也有の俳文集『鶉衣』にある「化物の正体見たり枯れ尾花」が変化した句といわれる。  
1
薄気味悪く思ったものも、その正体を知れば怖くも何ともないということ。枯れたすすきの穂が「枯れ尾花」。疑心暗鬼の目には、風になびく枯れ尾花も恐ろしい幽霊と映る。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」とある俳人が詠む。それを聞いた人々は「嗚呼、なんと素晴らしい句であろうか」「なんという鋭い洞察力であろう」と感嘆する。そして、人々はどこぞの誰かが幽霊の噂を口にするたびに「あれは枯れ尾花であったのだ」と吹聴するであろう。ただし、自らその場に足を運んで確かめる者などいない。
だが、なかには「その話は本当であろうか」と訝しく思う者もいた。その者は俳人がどうやって枯れ尾花であると見抜いたのか、そのことを詳しく尋ねてみることにした。その求めに応じて、俳人は「その正体を見破ったのは実はずっと昔からであった」と事細やかに説明した。なるほど、ずいぶんと前からそれが枯れ尾花と気付いていたらしい。尋ねた者が「さすがご慧眼でございますな。」と褒めそやすと俳人は気をよくしてこう付け加えた。「週に一度か二度はその場所を訪れておりますので、間違うことはないでしょう。」
はて。このとき、聞いた者は何やら心のうちに引っかかりを感じた。『面妖であるかな。俳人はそれを枯れ尾花と知りつつも、長きに渡り見続けていたのか。何とも酔狂な御仁であることよ。』
無論、そのようなことは口に出さず、丁寧に礼を述べてその者は俳人のところを後にした。帰りの道すがら、その者はあれこれと思案を巡らせてみる。
寒風吹きすさぶ冬の夜道であれば、すすきを見て幽霊と見間違えるのも無理はないが、秋の名月に照らされるすすきであれば、それは季節の風物詩でもあろう。かの俳人は長きに渡りすすきを見ていたというが、秋にはどのような感慨を持ったのであろうか。そうこうしているうちに家へと着いた。 
2
「幽霊だと思ってみていた物を、よく見てみると、それは、ただの枯れたススキの穂であった。」と言うことから生まれたようです。その物の正体が分かってしまえば、そんなにたいしたことではなかったという例えにも使われています。先入観の怖さを言っている諺です。
ところで、ギリシャの財政破綻に端を発したユーロ危機は、対応を一歩間違えるとリーマン・ショック以上の世界大恐慌が起こると言われ、効果的な対応策が打ち出せず、折からのデフレが更に拍車をかけ、何をどうしたら良いのか日夜悩んでいる経営者が多数存在しています。
さて、「経営は全て逆算である」と以前から提言しておりますが、デフレ不況の今日、その重要性が益々高まっています。
一般的に事業再生計画を作る場合、先ず最初にやることは「経営理念」の策定と、それを実行する「経営方針書」を作成し、次にこれを資金的に裏付ける「経営計画書」の作成が基本となります。
しかし、基本どおりに行うと「経営理念」と「経営方針書」の作成につまずいたり、多大な時間を犠牲にしてしまう事例が存在します。これでは所期の目的を達成することは不可能です。中小・零細企業経営の実態は時間的余裕を与えてもらえないからです。
そこで事務所の蓄積されたノウハウを駆使して作成した使い勝手の良いシュミレーションソフトの活用を提案する次第です。今後5年間の損益を入力するだけで、最低限必要な5年間の貸借対照表、返済計画書、投資計画書、要員計画書、キャッシュフロー計算書、各種分析表等が有機的に作成され、一目で我が社の将来像が理解出来るようになっています。 
開発思想は「経営は全て逆算である」からきており、「逆もまた真なり」の例え通り、逆からスタートし数字を中心とした「経営計画」を先ず作成して、我が社が生き延びていくためには最低限何をどうするかの「解」を経営者に求めるように作っていきます。
この最低限の条件をクリアーするために、不退転の決意で「経営理念」の確立とこれを実現するための「経営方針書」を作成し、社員一丸となって行動する事が事態解決の基本である事を理解してもらいたいものです。予想外の厳しい金額が危機意識を高め、トップ自らが背水の陣を敷くことによって初めて目標が達成出来るのです。
目標が定まった頭脳は24時間フルタイムで再点火し、実現に向かって行動を自然に起こす事が出来ます。こうなればしめたものです、全てが好回転に向かって動き出します。これが脳のシステムなのです。脳は目標を与えることによってフル回転する力を秘めているのです。
そうなると、デフレ不況で先が見えない不安がいつの間にか解消され、幽霊の正体が分かってくるのです。
今の政府は不況下の増税路線一本槍で、実現すれば更に景気は悪化します。しかし、政府が悪いと批判してみても我が社にとって何の意味もありません。
今は、自助努力で何をどうするか、シュミレーションを活用しながら我が社の設計図を再構築する事が不可欠と考えております。 
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「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という諺を情報処理心理学的に解釈・説明する
認知心理学の視覚研究の特徴として、外界から眼球を通して得られた情報を脳において処理・統合する一連の仕組みを「情報処理」として扱い、コンピューターのアナロジーにおいて明らかにしてきた点があげられる。このような観点を情報処理心理学的な観点から課題の諺を解釈・説明していきたい。
説明に先立ってこの諺の意味と、情報処理心理学との関係を明らかにする。
文意は「幽霊(という気味が悪いもの)の正体を見た。それは枯れ尾花(という取るに足らないもの)だった」であり、諺としての本旨は、よく確かめないで迷信や思い込みに基づいた早合点をすると事の本質を見誤るよ、という戒めにある。したがってこの諺で言われるような状況が成立するにあたっては、
1幽霊的なものを認識する
2幽霊的なものが、実は枯れ尾花的なものであったと認識する
という2段階の認識が想定されていると言える。
つまり人間がある認識を持つに至る過程を理解することで、この諺を情報処理心理学的に理解することができる。
人間があるパターン(ここでは幽霊的なものや枯れ尾花的なもの)を認識する過程は、脳内に構成されたパターンの内部表現と、入力情報とのマッチングをとる過程として捉えることができる。このパターン認識が進行する過程の説明には2通りの考え方がある。ひとつは入力された情報の特徴を分析・抽出し、それと認識候補との一致度を評価して最終認識結果を得るボトムアップ型の処理である。もうひとつは、これとは逆方向のトップダウン型の処理であり、脳内の構造化された知識や、認識対象に関するモデル(スキーマ)に基づいて認識が進められる。この2つの処理は相補的に働くとされ、ナイサーによると両者は「知覚循環」とよばれる過程の中で交互にあらわれる。
では、実際にこの処理がどのように行なわれるか、科学的見地から妖怪を研究した哲学者、井上円了の文章を元に考えていきたい。井上は「迷信解」と題した一文において、課題の諺を用いながら妖怪(幽霊を含む)を見るという現象を以下のように説明している。
「このような怪談(筆者注:天狗の目撃談)が世間に伝わるや、ひとたびこれを耳にしたるものは、山中に入るごとに、己の心よりあらかじめ天狗に遇うであろうと待ち設けておるようになるから、一層迷いやすく、かつ妄想を起こしやすい。諺に「幽霊の正体見たり枯れ尾花」とあるごとく、つまらぬものを見てただちに天狗なりと思うものである。」(「妖怪学全集」1904)
ここでは人間がトップダウン型の処理を行なって「1幽霊的なものを認識する」過程が描かれている。つまり、天狗という概念がスキーマとして働くと、「つまらぬもの」例えば風に揺れる木の葉、狐や狸が動く影、駆けてゆく修験者の姿などは、そのスキーマに基づいて天狗の特徴として脳内で処理され、その結果「ただちに」天狗というパターンが認識されるのである。
続いて「2幽霊的なものが、実は枯れ尾花的なものであったと認識する」過程についてはどうだろうか。これは課題の諺が当事者の念頭にあるか否かで、異なった処理が行なわれているものと考えられる。
課題の諺が当事者の念頭にある場合、人間が枯れ尾花的なものを見て幽霊的なものだと認識しやすいという「認知についての認知」つまりメタ認知的な視点を持っていることを意味する。この場合、天狗を見たと認識した瞬間にこのメタ認知が発動し、ただちに枯れ尾花なりという結論が導かれることになる。これは「幽霊の正体見たり枯れ尾花」スキーマが、枯れ尾花というパターン認識を導くという点でトップダウン型処理と考えられる。井上の文章に即して考えると、天狗の目撃談が『天狗パターン認識』の要因であるのと同様に、この諺が『つまらぬものパターン認識』の要因となっているのである。
では、この諺が念頭に無い場合はどうだろうか。「ノイズが多く含まれたダルメシアン犬の図」を、一旦「犬である」と認識した後にはそれ以前の状態に戻れない、という例をふまえると、天狗というパターン認識が行なわれた状況から何らかの変化が起こらなければ、新たなパターン認識にいたることはないと考えられる。したがって、空間的な変化や時間的な変化による当初のトップダウン処理の文脈からの離脱が、枯れ尾花的なパターン認識に至る前提である。
この場合の情報処理はどのようなものか。これはボトムアップ処理の一例である特徴分析モデルに則って考えることが出来る。特徴分析モデルとは、パターンを下位要素(特徴)に分け、その特徴の有無・類似度によってパターンが決定されるとする考え方である。天狗であれば、木の葉の団扇、高下駄、長い鼻、などの特徴という脳内情報と、実際の山中の光景とがマッチングされながら、当初天狗であるとされた対象が何なのか決定されることになる。また、この処理が行われている際に、天狗なのか単なるつまらないものなのか、迷いが生じるとすると、それは知覚循環の過程であると考えることが出来る。しかし、当初の文脈から離れた対象について「枯れ尾花」と認識されたとして、それが諺で言うところの「幽霊の正体」とまで言えるかどうかには疑問の余地が残る。
以上が、人間のパターン認識の処理過程を中心にみた、諺「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の解釈・説明である。 
4
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉がある。幽霊を怖がっていると、何でもないものが怪異なものに見えてしまうという事だが、もし、幽霊が実在していたらどうだろう?精神的に弱い人間は、幽霊の正体を枯れ尾花に無理矢理してしまう必要が生じるかもしれない。
大学に入学し、下宿として安い一軒家を見つけた主人公。高名な建築家が仕事場として建てたという、まるで綾辻行人の館シリーズを思わせる変わった山荘風の建物はミステリーホラーの舞台としてぴったりだ。
そこで生じた主人公を追いつめる怪奇現象、彼はしばしば出入りしているインターネットのオカルト板の住人に助けを求めるが、彼の前に現れた二人の少女によって、幽霊か、それとも枯れ尾花かという岐路に立たされる。
ただ、枯れ尾花説にはかなり無理があるように思われる、果たして家の作りが人の精神をあれだけ追い込む事が可能だろうか?このまま枯れ尾花で終わるのかと危惧したが、そうはならなかったものの、枯れ尾花説にもう少し説得力があれば、最期のどんでん返しがもっと生きたのにと思う。この点は少々残念である。
ただし、二人の少女ともうひとり(彼女は少女とは言えないか)の個性というか奇矯な様は結構ですね。これから先が実に楽しみです。
リアルでは心霊現象なんて、私は信じていませんが、幽霊かそれとも枯れ尾花かという選択に近い事はあります。自分は職業柄、山の中を一人で歩く事が結構あるのですが、結構出くわすのです、色々な死体や骨に。
もっとも、大半は野生動物のものですが、首都圏からさほど離れていない天狗伝説のある、観光地としても有名な某山は自殺の名所でもあり、数年歩いていると一度は生の遺体を拝めると言います。幸いにして、自分はまだ経験はありませんが、暗い沢で花や線香が置かれているのを観るのは気持ちの良いものではありません。
私は生物学もかじったので、時々、ちょっと考え込んだりする事もあるのですが、これは人の骨じゃ無い!鹿だ!と自分に言い聞かせます。枯れ尾花であると自分に言い聞かせるのです。まあ、真実は意識の下です。
枯れ尾花で満足ぜずに一歩踏み出してしまった主人公は果たして、どうなるのでしょうか?まあ、これは先を読むしか無いですね。 
5
幽霊の正体見たり枯れ尾花心理学の話 [仕事の方法]
このことばを認知心理学なんかでは、このような解釈をしています。
怖い怖いとおもっていたものが、冷静に見たらつまらぬものだったというような事実がある。つまらないものを恐ろしいものに認知したのは間違いであるが、それを間違いであるかもしれないというのはメタ認知的な視点である。認知自体を認知したのである。このメタ認知は、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉を知っているために発動するのである。
これはこれでいいのですが、幽霊の実体が別のものであるという推論をする仕組みの話です。
私は別のことをいおうと思います。幽霊を見たい心理学、です。本当は枯れ尾花を見ているのに、幽霊だと思いたい心理学です。
不幸と出会いたい、不運とかちあいたい内心の話です。自分が不幸だとか、未熟者だとか言い捨てる本心です。何を言うんだ、と思われるでしょうね。
誰だって不幸にであいたくないだろう。幸せがいいだろう、が一応正論です。
しかし、幸せになるには努力・緊張が必要です。努力も注意も何もしないで過ごしたら間違いがおこるでしょう。不運の方向にいきます。しかしながら、それは何もしない結果ですから疲労しないでしょう。
なんておれは不運なんだろう、とか、降ってきた不幸とたたかっていると言いたがるのは、何もしていない言い訳です。言い訳しながら逃げていたら楽です。本来ならもっといい暮らしになっているはずなのに、あれのせいこれのせいで苦労していると言ってたら自分に酔います。何もしていないのに、何かと戦っているという幻想に酔えるのです。こんなおいしいことはないです。
自分は天才ではない、若輩である、未熟である、といっていればどんな結果が出ても言い訳になります。未熟であることが犯罪であるとは思おうとしないのです。
これに気付いている人と全くその視点のない人の2種類に人間は分けられると思いませんか。その比率は2:8ぐらいかなと思っています。
店をやっている人間でも、サラリーマンでも、幽霊を見たい人間が8割いるのではないでしょうか。 
6
我々の想像力のちからは凄い。ただの枯れ草を一端幽霊だと信じたら、風に揺れるのを死者の国への手招きと思いこみ、柳の葉がなびくのも、幽霊女の長い髪と思いこむ。
しかしオチは枯れ草だ。物語の、オチ直前の殆どの部分は、これなのだ。
物語の殆どは、はじまりでもなく終わりでもなく、「途中」である。
ある焦点(今、これについて話していて、可及的速やかに、○○しなければならない。何故なら、△△だからだ)があり、人々はその為に話したり行動する。
全ての人がその時点で、その情報を均等には知らず、全ての人がその時点で、それぞれの意志や事情を把握しているわけではない。ある問題が今投げ込まれていて、人々はそれぞれの立場や都合でそれに反応する。全ての人がひとつのことに合意できる訳ではない(コンフリクト)。そのことが、今後事態が変容していく可能性を秘めている。
よく出来た物語は、これから動くことを期待させることが上手く、また、今進行している事態を、我々の頭のなかに構築するのが上手い。事態や人々の都合が分かったら、我々は頭のなかで自然に予測をしはじめる。
きっと真相はこうに違いない、きっと○○は△△するつもりだろう、だが△△が黙っちゃいないだろう、××だからだ、だから◎◎になるかもしれない、などだ。こんなことが自分の人生に起こったらどうしよう、というのもそのひとつだ。
我々には想像力がある。上手いストーリーテリングは、想像させるのが上手い。我々に想像させるように、誘導するのだ。枯れ草だったとしても、我々は自分の想像で、幽霊に見えてしまうのだ。
下手なやり方は、我々の想像が物語の中身より上回ってしまうものだ。ハッタリが上手くて、そのハッタリに我々が騙されている、というパターンだ。エヴァがその典型だ。ロンギヌスの槍、世界樹、使徒、地下の巨人、人類補完計画、アスカの発狂、綾波の正体。最初にふられた謎めきで我々が想像した幽霊より、中身がなかった気がする。それを人はハッタリだったという。看板が豪華で期待したら中身は犬の肉だった故事だ。
マルホランドドライブも同じタイプだ。物凄く何かが進行している期待感だけがある。分かりそうで分からない所で場面が変わり、謎が残されたまま更に謎が増えていく。我々は幽霊をそこに見てしまう。実体より大きなものを見て、恐れおののくのだ。この物語は解決しない。ハッタリ以上のものが作れなかったのだ。幽霊だけ見せて、その正体が枯れ草だと知られるのが怖くて、正体を見せないまま終えたのだ。
園子温もそのタイプの作家だ。なんだか猥雑で派手でえげつない題材を扱いながら、物語性は皆無だ。ストーリー自体がたいしたことないから、うわべだけ派手にしている。我々は幽霊を見てうわっと思うが、正体は枯れ草だ。彼の特徴は、キリスト教や詩などで、表面上何か大事なことを言っているのではないか、と思わせることだ。「冷たい熱帯魚」のマリア像、「愛のむきだし」の聖書の朗読、「愛の罪」の詩、「ヒミズ」の震災。物語のプロット上なくてはならないものではなく、幽霊をそこに見させるためだけに存在するハッタリだ。
芸術とはハッタリである、中身は枯れ草だとしても、それが幽霊に見える幻術こそが物語だ、という主張があるかも知れない。
が、幽霊の正体見たり枯れ尾花の意味するところは、なんだ、俺が馬鹿だったのか、でしかない。
我々書き手は、幽霊を書くのが仕事だ。期待させたり、想像させたりをするのが仕事だ。そして、物語が核心に迫り、解決したときに真に満足するものをつくるのが仕事だ。枯れ草でガッカリされるものをつくってどうするのだ。幽霊を見せ、その正体がわかったときに、それ以上の驚きや感動や笑いが生まれなくて、何が物語か。それこそ、中身のある物語なのだ。
あなたの物語は、枯れ草を幽霊に見せるレベルだろうか。枯れ草でないオチが来る、太い話か。そのオチへ向けて、ちゃんと幽霊を見せているだろうか。 
7
例年、この季節になるとテレビなどでも怪奇モノの特集が組まれるが、そんな本格的な”心霊シーズン”を前にして、先日、あるユーザーのツイキャス映像に映りこんだ「白い少女の影」が注目を集めている。
この映像を撮影した男性ユーザーは、夜中の3時頃、夜食の購入と公共料金の支払いをするために、中継を継続したまま、原付バイクで近所のコンビニまで向かった。しかし、コンビニに到着すると、財布を所持していないことが判明。家に忘れたのか、はたまた、道中で落としてしまったのかがわからず、不安に思った彼は、今来たばかりの道を引き返すことに。
すると、自宅近くの中学校の正門前に、白い帽子をかぶり、白いワンピースのようなものを着た姿で佇む少女を発見。不審に感じはしたものの、ひとまずそのまま家に帰った彼は、財布を取って、再びコンビニへ。すると、先程の少女はまだ校門付近に立っており、彼のバイクが近づくと、それを待っていたかのようにゆっくりと歩き出した…彼が最初に少女を見かけてから、”再会”を果たすまでの時間は、およそ2分強。映像を確認すると、往路と復路では、少女は棒立ちのまま、その場から動いた様子はなかった。
このことから、ネット上ではこの”白い少女”について「幽霊ではないか?」と指摘する声や、それを否定する声、さらには、「こんな時間に白いワンピ+帽子姿の女の子が立ちつくしていることが、幽霊でなくても充分怖い」といった声など、実に様々な声があがっている。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」。しばしば「幽霊だ」と話題になるものの多くは、目の錯覚によるものとするのが一般的だが、果たして、このユーザーが目撃した少女、その正体が明かされる日は訪れるのだろうか。 
 
幽霊の正体

 

幽霊の正体。私が幽霊を見ていた理由そして見えなくなった理由!子供の思い込みの背景には心理的虐待の隠蔽、心理操作をする虐待者が隠れている場合もあるでしょう。
一部の幽霊の正体を結論から言いますと「変性意識状態での幻覚」です。
幽霊は幻覚だ
自己催眠と他者催眠による幻覚が幽霊の正体です。催眠とは暗示を受けやすい変性意識状態のひとつのことを言います。その変性意識状態(トランス状態)の時に暗示が無意識に入ることで見えないものが見えたりするのです。私は小さい頃、特に小学生〜中学2年頃まで幽霊らしきものや心霊現象のようなことを何度も体験したことがあります。子どもの頃は無意識が強く変性意識状態になりやすいので、子どものほうが幽霊を見ることが多い傾向にあります。今になって分かってきたことがありますので個人的意見になりますが書いておきたいと思います。
まず、幽霊とは催眠状態(変性意識状態)で、幽霊がいると思い込むことで見えてしまう幻覚です。深い変性意識状態になると催眠では幻覚を見せることが可能です。薬物使用の人が深い変性意識になった状態の時に幽霊がいると暗示を入れると、その変性意識状態の人は幻覚を自由自在に見ることも可能です。変性意識状態にし強く思い込ませると幽霊を見せることは可能なのです。
過去に見た幽霊
私が見てきた幽霊
中2の頃、朝方3時半頃に止まっている車の中にある生首を一人で目撃
秋の寒い夜中の2時頃に雨なのに傘もささずに道路の真ん中に立ち私を睨むように微動だにせず、じーっと見つめる白いTシャツとジーパン姿の男を姉と目撃
知り合いの死んだ母親が自分の家の玄関を横切り、着ているものや髪の長さ等、特徴が聞く前からぴったり
漫画ドラゴンボールの筋斗雲のような雲の様な煙の塊のようなものを複数人で見て犬も吠えた
夕方に公園でブランコで揺れている女の子が『お母さんがいないの…』と言っていて振り返った瞬間、女の子が消えブランコだけ揺れていたのを兄弟全員で目撃
私が体験した心霊現象
小学生のころ姉が馬の写真を撮った時に馬の顔にゴリラの様な男の顔がはっきりとうつっていた。
家出して空き家生活をしていたころ、階段を靴でコツン…コツン…と誰かが歩くが見ても誰もいない。その場にいた全員が同じ音を聞いている。
部屋で姉と二人で親がいない時に、階段を靴でコツン…コツン…と上ってきてドアノブをガチャガチャ!ものすごいスピードで回しているがドアは開かないことが、いつも決まって親がいない夜だった。
自分の部屋でベランダを誰かがあるいて窓をコンコンとしてきたが見ても誰もいない。
このように他にも思い出すとたくさんあり、姉は金縛りにあったり色々あります。
幽霊を見ていた時のキーワード
私が子どもの時に幽霊を見ていた理由ですが、答えのキーワードは『洗脳』 『思い込み』 『無意識』 『暗示』 『変性意識状態』がキーワードです。つまり幽霊は脳、無意識内の情報や思い込みのようなものにすぎないと言うことです。
私は幼少期に地獄に落ちるとか幽霊がいるとか、死後はあるとか、怖いことがいっぱいある、罰が当たる、白黒はっきりしろというようなことを嫌というほど繰り返し繰り返し洗脳かのように刷り込まれる環境で育ちました。特に子どもの内は鵜呑みにして信じてしまうものです。その信じた思い込みの結果、幽霊など存在しないけど幽霊がいるという理由づけを行っていたことに気が付きました。
強い思い込み
生まれて1年くらいから小学生入学前を幼児期といいます。その幼児期には空想世界と現実世界を上手に認識できるようになります。つまり想像することが可能になるので、当然、実在しない地獄や幽霊や悪霊を想像することができる時期なのです。ここに隠ぺいされた心理操作を含んだ児童虐待との関連性があると私は考えています。
この時期に親や環境などから『地獄に落ちる、幽霊がいる、死後はある、怖いことがいっぱいある、罰が当たる、白黒はっきりしろ』と言われ続けると子どもは親を信じるものですからストレートに思い込んでしまいます。
当然私も思い込んでいました。
思い込んでいた間 = 幽霊を見たり心霊現象があった
思い込みが改善されると = 幽霊や心霊現象はなくなった
このような変化が思い込みが改善されるだけで消えるのです。
想像することが可能となった子どもに思い込ませ、『地獄に落ちる、幽霊がいる、死後はある、怖いことがいっぱいある、罰が当たる、白黒はっきりしろ』に関連した想像をふくらますような環境の場合、どんどん思い込みが強化されていきます。
認知の歪み
そして三つ子の魂百までというように、まるで洗脳されたかのように刷り込まれた想像世界を信じていることで、認知の歪みである結論の飛躍も関係しながら幽霊がいた!見えた!という『幽霊を見たい!信じたい!心理』に動かされ理由づけを行っているのです。
認知の歪みがある事で、幽霊がいると信じていたい現実逃避的な強い思いが関係し、根拠を無視して、あらゆる物事を幽霊がいたという結論に飛躍して結論までのリンク付けのための理由をでっちあげていると本人も気が付かずに思い込んでいるのです。
心霊現象は思い込み
それでは前途した私の見てきた幽霊や心霊現象の説明をします。
私が見てきた幽霊
中2の頃、朝方3時半頃に止まっている車の中にある生首を一人で目撃 / 心の中に不安や恐怖があることで親への依存心から親を否定したくない為に親が言う『幽霊がいる』思い込みを強めたことで車の中の物が人の顔に見えた
秋の寒い夜中の2時頃に雨なのに傘もささずに道路の真ん中に立ち私を睨むように微動だにせず、じーっと見つめる白いTシャツとジーパン姿の男を姉と目撃 / もしかしたら具合がわるく動けなかったのか、彼女に振られ放心状態になっていたなど、何か理由があった人間だった。
知り合いの死んだ母親が自分の家の玄関を横切り、着ているものや髪の長さ等、特徴が聞く前からぴったり / 特徴を聞く前だと言ったけど、以前に写真で少しだけ見た気がするので、写真での特徴と思い込みや疲れがたまっていて見えた気がしただけ
漫画ドラゴンボールの筋斗雲のような雲の様な煙の塊のようなものを複数人で見て犬も吠えた / これは変性意識状態が次々うつったことで全員がそこに煙があると思い込んだ可能性。兵庫県上郡町大持の県立上郡高校で、1年の女子生徒が休み時間中に「気持ち悪い」と体調不良を訴え、集団で過呼吸を起こしたような感じ。
夕方に公園でブランコで揺れている女の子が『お母さんがいないの…』と言っていて振り返った瞬間、女の子が消えブランコだけ揺れていたのを兄弟全員で目撃 / これも振り返った瞬間いないと言っているが、正確に時間をはかっていたわけではないので30秒ほど開いたのかもしれない。30秒あれば後ろの木の陰から道路に出れる
私が体験した心霊現象
小学生のころ姉が馬の写真を撮った時に馬の顔の上にゴリラの様な男の顔がはっきりとうつっていた。 / 不明
家出して空き家生活をしていたころ、階段を靴でコツン…コツン…と誰かが歩くが見ても誰もいない。その場にいた全員が同じ音を聞いている。 / 恐怖による思い込み。変性意識状態で自己暗示など。
部屋で姉と二人で親がいない時に、階段を靴でコツン…コツン…と上ってきてドアノブをガチャガチャ!ものすごいスピードで回しているがドアは開かないことが、いつも決まって親がいない夜だった。 / 恐怖による思い込みと変性意識状態で相手と思い込みの共有
自分の部屋でベランダを誰かがあるいて窓をコンコンとしてきたが見ても誰もいない。 / 恐怖による思い込み
このように、自分が幽霊を見たいと思い込んでいたことで、あらゆる可能性を無視して幽霊がいるという思考フレームでしか物事を考えないようにしていたのです。幽霊が見えなくなった時の心の変化は『別に幽霊なんか見たくもない』という思いです。
理由づけ
つまり幽霊が見たい願望、心理が先で、それが目的となり、幽霊がいると思えるように理由づけをおこなうのです。では何故、子供が幽霊を見たがるか?一つは親が幽霊がいると思い込ませることもあります。
音が鳴って、音の出所が不明な場合、ハイ幽霊♪
何か見えたような気がしたら、ハイ幽霊♪
それも幽霊♪ これも幽霊♪
これが認知の歪みなのです。
現実をみるのが怖いから、現実以外に可能性を見出そうとすることで、自我の安定を保っているのです。現実以外に価値を生む為には根拠は邪魔になるので、現実逃避をしたい人は根拠を嫌うのです。怖い幽霊がいるぞ〜という思い込みから自分を解放しましょう!そして、その幽霊がいるという思い込みが何故出来たのかも特定しましょう。恐怖とは支配する時に使うものです。普通じゃないことや不思議なことなどに、自分の価値を作るのはやめ現実を生きることが大事なことですね。

幽霊とお化けの違い 

 

大雄寺には有名な「枕返しの幽霊」の掛軸が保存されています。この絵は、足がなく八方睨みの老女で江戸時代から残される珍しい掛軸である。この絵を掛けてその前で床につき寝ていると、翌朝には反対向きになってしまう、枕が返されると言う不思議な怖い幽霊の絵です。
私たちが今生きているということは、両親からご先祖からしっかりと受け継ぎ受け継がれてきた大切な尊い生命をいただいて生きているのです。ちょうど、駅伝マラソンと同様に生命というタスキをずーと前からバトンタッチされてきた生命、この生命を未練なく、とことん生きぬいてご先祖の代表者として生きているのです。しかし、この生命を不幸にも無念さと未練を残し死を迎えてしまったならば、幽霊としてこの世に出現する。これが幽霊である。
一方、お化けは、人間が生きていくのゆえに作られた物や製品がとことん使い果たされ、私たち人間の心の中に報恩感謝をもって処理されるならば、化けて出てくることはないという。物を粗末に使い、捨てることによって後で化けて出てくる。これがお化けである。  
 
「怖い」と「恐い」の違いを「幽霊」と「お化け」の違いで覚える

 

お墓にお化けの出ない理由 / 幽霊とお化けの違いってご存知ですか?
幽霊は亡くなった人の霊魂
お化けは人以外の物や物質が怪しい姿になったもの
つまり、ゲゲゲの鬼太郎で出てくるような妖怪たちは、幽霊ではなくお化けの類ということになります。生き霊という言葉がありますが、あれは、生身の肉体から霊魂が離れて現れるものなので幽霊と考えていいでしょう(出てきてほしくはありませんが)。人の形をしていたら幽霊、人以外の形をしている怪しいものはお化け。夜中に墓地に行って「お化けが出るぞー」というのは、言葉の正確な使い方としてはおかしいということになりますね。
幽霊は誰にだって恐いもの 〜恐いと怖いの違いについて
「恐い」と「怖い」は、現代ではほとんど区別はされていないようです。漢字の使い分けで困ったときは熟語にしてみると区別出来ることがあるのですが、「恐怖」という熟語もあるので、今回はなかなかの難敵であるといえます。では、簡単にまとめてみましょう。
誰でも恐いと感じるものは「恐い」
自分だけが怖いと思うものは「怖い」
幽霊やお化けのように、一般的に誰にとっても「こわいなぁ」と思えるものについては「恐い」という書き方をします。そして、「うちの父親は厳しいのでこわい」というふうに、自分だけがその対象に対してこわいという感情を抱く場合は「怖い」が正解。ルール的なことでいえば「恐い」という読み方は常用外とされていますので、厳密にいえば『怖い』と『恐ろしい』と区別するほうが好ましいとされています。
怖と恐の区別については面倒で、いま、こうして整理してみても、やっぱり時間が経つと忘れてしまうかもしれませんね。上手にまとめきれなかったこんな日は、お化けだけに、ドロンと消えてしまいたいと思います。 
 
妖怪が幽霊になる時 / 妖怪と幽霊の違い

 

先日、ガチで幽霊を見てしまったかも知れない、という事を書きました。その件以来、完全に拘るべき箇所が人とズレている僕は、「僕が見たのは妖怪なのか、それとも幽霊なのか?」を考え、調べまくりました。見たのは錯覚ではなかったのか? などの疑問は最早どうでもよくなってるのです(笑)
これを考えるのは実にややこしく、ネット上を検索すると「妖怪はこうだ、幽霊はこうだ」という話はいくらでもあるのですが、どれもなんだか無理やりな解釈な気がして、ピンとくるのは少ないものです。
実際、僕自身も幽霊と妖怪の区別はハッキリと出来ていませんから、今後の為にもここは調べて少なくとも自分なりの答えは見つけておくいい機会だとも思ったわけです。
さてさて、幽霊は、過去にも紹介した鳥山石燕の「幽霊」のように、妖怪画の中で描かれていることも少なくありません。

石燕の幽霊を紹介した時の僕の記事を読み返しても、やっぱり漠然としたものとしか解っておらず、なんで妖怪画に幽霊があるのか混乱しているようにも見れます。
それもそのはず、「妖怪」を一つのジャンルとして考えると、やっぱり「幽霊」も妖怪とは異なる一つのジャンルとして確立している気がするからですね。というか、世間一般では幽霊は間違いなく一つのジャンルでしょう。
で、なぜ僕がアノ記事を書いた時に「幽霊を見た」としたかというと、「妖怪を見た」と書くのとはニュアンスが違うだろうし、何よりも僕自身が「あれは妖怪ではないだろ」と思っていたからです。
それらを踏まえると、幽霊というのが僕の中にも、しっかりとしたジャンルとして無意識のうちに出来上がっていたことが解ります。どういう定義なのかはサッパリですが。

尚、「どっちでもいいじゃん」という意見はどうかここはグッと飲み込んで下さい。それを言っちゃったら身も蓋もありませんので。
そこをあえて考える企画ですので。
幽霊は幽霊なんですが、妖怪の枠内の幽霊なのか、幽霊という枠内の幽霊なのかは妖怪図鑑管理人としてハッキリさせておかねばならんのです。たぶん。

さてさて、ではでは、一体幽霊というのがこうも前に出てきやがったのはいつなのか? を突破口に話を進めます。
どうやら幽霊は、江戸時代までは妖怪として扱われていたようです。
故に石燕も妖怪画集で幽霊を扱っているわけで。
その時点での幽霊というのは、人が死んだ後になる漠然としたものであり、名前なんてありません。幽霊、という名前の妖怪ですね。
ご存知江戸時代というのは、現代に通ずる社会の基礎を作った時代でもあり、同時に現代には無い自然との共存、自然を敬う心、他人ごとでは無く確かに存在する死、というのがバランス良く存在していた最後の時代である気がします。
その時代に多くの妖怪がキャラクターとして育っていったのも、そういったバランスありきなのです。
妖怪の多くが、自然現象や神、その時点で理解できない現象などを説明する為に産みだされたわけですが、幽霊もまた、日常的に誰かに訪れる「死」と「その後」を説明するために産みだされたと考えるのは自然なことです。

――しかし、時代が移って行くに従い、日本人は自然をコントロールする術を身に着け、次第に自然への畏怖は薄れていきます。死もまた、良くも悪くも非日常的な事へと推移していき、自然への畏怖が薄れるのに伴い、人は自らの存在を強く主張するようになります。
さらに、それまでは幽霊(怨霊)というのはビッグネームのお偉いさんだけに限定されてました。道真だの将門だの崇徳だの、です。それが次第に民衆も「ならばオレだって」と言い始め、幽霊は遂に個人の名前を持つことになります。面白いのが、これはまさに民衆が権力を持ち始めるのと同時期に起きていること。
江戸時代、参勤交代などで力を削がれていった大名達の陰で、町民は力を付け始め、発言権も増していきます。歌舞伎などでも民衆内で起きた怪異や幽霊譚が増え、その影響もあったのかも知れません。
とにかく、幽霊は個々の名前を持ち、死して尚その自我を主張するようになっちゃったんですね。

ここです! 妖怪と幽霊との境界線は、ここだと、僕は思うのです。
小難しく長々と書いちゃいましたが、簡単に言えば「山田さんの幽霊、って言うんならもうそれ妖怪じゃなくて人じゃん」ってことですかね。
これまた上手く言えなくて歯がゆいのですが、山田さんの幽霊って分かってるなら化け物でも妖怪でもなくそれは山田さんですから、漠然としていた妖怪の中の幽霊とは違い、山田さんの好きな物、嫌いな物、恨み、妬み等も考えなくちゃなりませんし、もうそんなの妖怪じゃなくて山田さんという人そのものだと思うのです。
だから!
幽霊というジャンルが妖怪から派生して確立したのでしょう。
一括りにするには無理がある。かと言って元には戻れない。
人が死後にまで自我を主張するのは当然のことですし、遅かれ早かれ起きたことのはずです。
そして幽霊が妖怪を差し置いてここまでビッグジャンルとなったのは、他でも無い「人が最も恐れるのは人だから」でしょう。
現代においては、大雨よりも、洪水よりも、雷よりも、人は人の恨みや妬みを恐れるのです。
僕だって正直なところ、雷の轟音よりもアパートの上の住人の床ドンの方が恐いです。
ただ同時にこれは人が奢っている確たる証拠でもあり、自然への畏敬の念が薄れている証拠でもあります。
幽霊というジャンルの確立は、そういった意味では喜ばしいことでは無いのかも知れません。そういえば京極夏彦大先生も「妖怪は平和のバロメーター」なんて書いてた気がしますが、妖怪を追い抜く勢いで幽霊がのし上がって来たのはつまりそういうことなんでしょう。

――話を冒頭に戻しまして、僕が見たのは妖怪か、幽霊か、決断の時です。
もうすんげぇ考えました。
あくまでもそれは名前も無いただの姿であったわけだから妖怪のような気もするしでもそこに具体性を持たせようと僕もあれこれ考えちゃったから幽霊な気もするしお盆だったから人の霊だし幽霊っていうべきな気もするしでもそれが偶然ならやっぱりよくわかんない妖怪ってことになる気もするしとなると答えは結局……わかりませんごめんなさい! 
 
幽霊の正体は餓鬼

 

よく巷で「霊」「幽霊」とか言われていますが、この正体は「餓鬼」です。餓鬼が幽霊、霊と言われている存在になります。そして、リアルに存在しています。波動が違いますので、通常の人間の目には移りませんが、意外と身近に多く存在しているようです。
餓鬼は、一つの生命形態です。前世において、強い執着、後悔、怨念を残した場合、餓鬼へ転生するようです。自殺して悔恨の念を持った方も餓鬼になる場合があるようです。
餓鬼は、大変不安定な心を持ち、常に穏やかではありません。イライラ、不安、悲しみ、愚痴、落ち着きが無い、そういったネガティブなメンタリティになっているのが特徴で不安定な精神をしています。
餓鬼は、前世のことを覚えていますので、何故、自分が餓鬼になったのか理解しているといいます。それもあって、いつも後悔の念に捕らわれて、悲しい・悔しい・無念といった気持ちのまま、決して明るい気持ちになることはないといいます。寿命も長く数百年から1000年くらい生き続けるようです。
姿形は奇異で、異様な姿態をしています。ですが、動物や人間に似た姿など多種多彩のようです。稀に人間が見たりすると、その異様な姿にびっくりするわけです。姿形は、人間以上に個性的で、同じ姿をした餓鬼は存在しないとまで言われています。大きさも小さいものから、大きなものまで、手足の長さも胴体の作りも様々です。
餓鬼は、様々な名称で呼ばれています。幽霊、浮遊霊、不成仏霊、魑魅魍魎、動物霊など様々な呼ばれ方をしています。全てリアルに存在し、人間の身近に多く存在しています。特に暗いところや人気の無い所を好んでいるようです。
人間も生前、恨み、嫉妬、欲求不満、イライラ、落ち着きが無いといったネガティブな感情や考え方が多く、占められていると、死後、餓鬼に転生する可能性が高くなるといいます。餓鬼に転生すると長期間、苦悩の心に固定され、業が尽きるまで餓鬼のままになります。業が尽きると、再び別の生命に転生していきます。
餓鬼は、地獄・動物と並んで、三悪趣(さんあくしゅ)という悪処になります。お釈迦さまも「悪趣には転生しないように」と忠告もされています。ですからできるだけ偏りが無く、穏やかで安定し、慈愛に満ちた生活で日々過ごしたいものです。
霊障の本当の話し
よく「霊障」と言いますが、実は霊障は餓鬼が関与してきた稀なケースになります。何か浮かばれていない、得たいのしれない物の怪が取り憑く、というオカルトではなく、リアルな餓鬼という生命が関与する特殊なケースになります。
餓鬼は稀に人間に関わってくることがあるようです。餓鬼は、人間のネガティブな感情が大好きで、人間がイライラしたり、怒ったり、嫉妬したり、恨んだり、落ち着きがない姿を見ると、それをエネルギーとして、餓鬼の生命力を高めていくようです。そうして、そういった人間に近づいて、取り憑いたようになるようです。
こういったことはそれほど多く起きることはないようですが、このような現象が「霊障」になります。祟り話や怨霊は、苦悩に満ちた餓鬼が、生前、自分をとがめた者への復讐にもなります。しかし餓鬼に対して回向(えこう)をしてあげたり、謝罪したり、人間の気持ちを陽気にしたり、慰めたりすることで離れていくようです。
気持ちをいつも前向きで明るく、朗らかな生活をしていれば、餓鬼が近づくことはないようです。餓鬼は身近の至る所にいるようですが、ネガティブな感情を出すことがなければ別に悪さをすることはないようです。
餓鬼といえども、一つの生命です。動物は目に見えますが、餓鬼は目に見えないだけであっても生命です。人間は動物は大切にしてペットにもしますが、餓鬼が異様な姿だからといって邪険にすることなく、可哀相だなという慈しみの心を向けて、餓鬼の幸せを願ってあげることが大事なようです。
そうして、餓鬼に対するこの心が、「回向」のルーツであり、またお盆での供養のルーツでもあります。
回向とは餓鬼の転生を願う人間の心遣い
死後、浮かばれていない先祖というのは、実は餓鬼に墜ちた方々で、その方々へ心を込めて回向差し上げれば、中には餓鬼から別の生命へ転生していくことがあるようです。これが49日の話しの元にもなっています。
回向やお盆の話しは、実は後世に整理されたパーリ仏典「餓鬼事」経に載っています。決して迷信ではなく、また幽霊のように忌み嫌ったりするのではなく、一つの生命として、その存在へ慈しみの心を向けてあげることが大事といいます。
お盆の季節になりますと、年中行事として先祖供養もさかんになりますが、一年に一度は、餓鬼さん達の幸せを願い、別の生命への転生(いわゆる成仏)を願って差し上げることも善行になるでしょう。
決して迷信ではありませんので、見えなくても、そのようにしてあげるとよろしいかと思います。
餓鬼や回向、お盆のことは下記の本にも詳しく載っています。興味のあります方はお読みになってください。 
 
江戸の幽霊坂

 

都心に点在する「幽霊坂」。江戸の頃はこの名が示すとおり寺院・墓地、あるいは昼なお暗く鬱蒼と樹木が覆い茂っていた場所であったのでしょう。当時は坂はランドマークとしての機能を持っていましたから、この名を付ける他に、さして目立ったものがなかったわけで、それだけに江戸の市街がどのように広がっていたかが想像できるでしょう。
江戸時代に既に名づけられていた「幽霊坂」は千代田区では駿河台・富士見台、また新宿区では牛込台で、このあたりは武家屋敷が立ち並んではいたものの、人馬の往来も未だ少ない寂しい場所であったと推察されます。その他は鎌倉時代からある旧道や三田の寛永12年(1635)幕府によって開かれた寺町にありました。他は未だ武家屋敷や寺院の中に取り込まれており、交通路としての機能は持っていませんでした。
市街化が進み、辺りの景観が変わるにつれてそれぞれの「幽霊坂」は出世するようにその名前を変え定着していきます。宝龍寺の脇の坂なので宝龍寺坂、紅梅町の名から紅梅坂、湯立坂は「氷川の明神へ参るのに、ここで湯花(湯が沸騰したときにたつ泡。巫女や神官がこの泡を笹の葉につけて参詣人にかけ清めたり、神託を仰いだりする)を奉った坂」という謂れからきています。庾嶺坂は将軍秀忠が中国の梅の名所、"大庾嶺"にちなんで命名したというもので、6つの別名を有しており、かなり古くからあった道であることが伺えます。(「幽霊坂」は庾嶺坂が転訛したものとの説もある。)
とりわけ乃木坂の名前は乃木大将の殉死を悼み、大正9年に区議会の決議によって改名されたという特筆すべき背景を持っています。以上のように名前を変えずに今もって幽霊坂の名を有している坂は現在もその名のとおりの雰囲気を保っているからなのでしょう。
しかし、そこに住む人々にとってはイメージが悪いので変えてほしいということもあり、勇励坂、有礼坂(明治時代 文部大臣の森有礼の屋敷があったとのこと)などの別名を後から付けられたものの、浸透はしていないようです。変わった別名、ニコニコ坂というのは怖い坂なので、せめて顔だけでもにこにこして通り過ぎようということでしょうか。  いずれの坂も今は都心にあって、闇とは無縁の場所となっています。今回は代表的な3つの地区の幽霊坂を実際に夜に歩いて、灯りの無い、舗装もしていない道であったことを想像しながら平成の今の姿を検証してみることにしました。
幽霊坂
  区 坂名 (別名) 所在地 江戸時代(*切絵図*)1850頃
1 北 幽霊坂 () 田端11-25と30の間を北東に上る 坂下与楽寺 明治 与楽寺内
2 新宿 宝龍寺坂 (幽霊坂) 市谷柳町と弁天町の間を東に上る ***
3 新宿 庾嶺坂 (幽霊坂 行人坂 庾嶺坂 若宮坂 祐玄坂 唯念坂) 外堀通りの家の会館脇を北西に若宮八幡神社に上る ***
4 千代田 紅梅坂 (幽霊坂 光感寺坂) 神田駿河台4丁目、ニコライ堂の北を西に上る 名は大正時代
5 千代田 幽霊坂 (甲賀坂 芥坂 塵坂) 神田淡路町2−9と11の間を西に上る 名は大正時代
6 千代田 幽霊坂 () 早稲田通りから富士見町1-11と12の間を西南に上る 明治20年以後に開かれた
7 千代田 幽霊坂 (勇励坂) 早稲田通りから富士見1-8と2-11の間を西南に上る ***
8 千代田 幽霊坂 () 富士見2-13と14の間を東南に上る ***
9 文京 湯立坂 (幽霊坂 湯坂 暗闇坂) 小石川5丁目と大塚3丁目の境 ***
10 文京 幽霊坂 () 目白台1丁目,新江戸川公園西側を北に上る 細川家屋敷内
11 文京 幽霊坂 (遊霊坂) 目白台2丁目、日本女子大西側を東に上る ***
12 港 乃木坂 (幽霊坂 行合坂 なだれ坂 膝折坂) 赤坂8丁目と9丁目の間 赤坂通り 名は大正時代
13 港 幽霊坂 (有礼坂) 三田4−11と12の間を南東に上る ***
14 品川 幽霊坂 (ニコニコ坂) 南品川5−10と11の間を西に上る 明治 畑地内
神田・駿河台の幽霊坂
幽霊坂と紅梅坂(ニコライ堂北側)はもともとひとつに繋がっていた坂道であった。大正13年(1924)の区画整理で本郷通りができたため分断され、このあたりを紅梅町と称していたので紅梅坂と名付けられた。別名としての幽霊坂は分断前の名前がそうであったからである。
切絵図(1850頃)では坂上に定火消役屋敷があって、当時は坂上に火の見櫓がそびえていたという。維新後は官収されて空き地になっていた所に、後にニコライ堂が建てられた。
幽霊坂は「新撰東京名所図会」によると『往時樹木陰鬱にして昼尚ほ凄寂たりしを以って俗に幽霊坂を唱へたりしを・・・』とある。別名の 芥坂 塵坂は崖上から芥を棄てていたからであろう。
現在は病院 学校などが立ち並ぶ文教地域である。神田駿河台4の元・日立ビルのあった石垣で囲まれた場所は以前は三菱財閥岩崎家の屋敷があったところで 軍艦山とも称されていたとか。坂下は電飾の不夜城「アキバ」のITビル群が光を放っている。「幽霊坂」とはなんとも対照的な光景である。
僅かに石垣上の深い大樹の陰影が往時を偲ばせている。風格のあるニコライ堂が異国情緒を漂わせていて、今や「幽霊」よりも「ゴースト」が似合いそうな一画である。
三田の幽霊坂
この辺りは寛永12年(1635)に江戸城の拡張により八丁堀にあった寺院群20余りが一挙に移されたという いわゆる寺町で、今もその多くが現存している地域である。墓地の横を通る坂なのでこの名が付いたのも当然であろう。
忍願寺と南台寺の間の魚籃坂に抜ける道は 片側の崖下に墓地があり、墓石が整然と並んでいるのが見下ろせ、夜はひとりで通るには足が竦むが、その向こうはビル群が重なるように立ち並び 六本木ヒルズもその間からその姿を灯りの塔のように見せている。ライトアップされた東京タワーも巨大な蝋燭のようで、この寺町全体を見守っているようだ。
しかし、ここは「幽霊坂」と標柱も立てられていてその背後に続く坂上は街灯も寂しげで、ひょっとして・・・・と思わせ、今もって名前にふさわしい一画と言えよう。それでもここに住む人々には普通の生活通りとなっていて、夜でも臆することなく行き来している坂である。
富士見台の幽霊坂
富士見台の幽霊坂については、文献によっていろいろの記述がなされている。今回は一番多く記載のある「今昔 東京の坂」(岡崎清記・日本交通公社)を元にその3ヶ所を検証してみた。
この辺りは寺町ではなく武家地であった。富士見町の名が示すとおり高台となっているため、ほぼ平行してある三本の道がみな幽霊坂と称されている。広い武家屋敷の淋しい鬱蒼とした道であることからそう名付けたのであろう。切絵図や明治時代の地図を見てみると、時代によってかなり変遷が見られる。
絵図で分かるように江戸時代に称されたであろう坂は おそらく富士見町1丁目8と9の間の一ヶ所のみで、あとは屋敷内に取り込まれていたものであり、明治以後に道が開けて幽霊坂と呼ぶに至ったようだ。また宅地化が進むにつれ、近隣の住民から「幽霊坂」ではイメージが悪いということで「勇励坂」とするようになった坂(1丁目12と2丁目13の間)もある。
尚現在「幽霊坂」と呼ぶにふさわしい崖下の道(1丁目11と12)は私道となっているので、この名の消滅もそう遠くないことになろう。坂上は宿舎、寮、会館といった大きな施設が建ち、角川書店の瀟洒な建物が眼を引く。三本の幽霊坂の坂下の通りは早稲田通りで、今や赤提灯のともる店や飲食店が飯田橋駅まで建ち並んで庶民の町の様相を呈している。およそ幽霊とは全く縁のなさそうな世界となっている。  
 
怪談

 

怖さや怪しさを感じさせる物語の総称。日本古来のものを限定して呼ぶ場合もある。中でも、四谷怪談・皿屋敷・牡丹燈籠の三話は「日本三大怪談」に数えられることが多い。怪談は日本国内では通常「夏の風物詩」にあげられる。
元来、死に関する物語、幽霊、妖怪、怪物、あるいは怪奇現象に関する物語は民話伝説、あるいは神話の中にも多数存在する。
『今昔物語集』(「霊鬼」)など、平安時代末期(1120年頃)の古典文学にも多数の怪談が収録されているが、それらを題材にしてまとまった形で残っている物では『雨月物語』(1776年)が有名である。また、四谷怪談(1727年)や番町皿屋敷(1700年代末)のように歌舞伎の題材にも取り上げられ、ひとつのジャンルを構成していた。現在の感覚における古典的な怪談はこれらに基づく物である。また、落語にも怪談物があり怪談噺(怪談咄)と言われ、初代林屋正蔵はじめとする累代林屋、三遊亭円朝、立川三五郎などが創作・演出に工夫を凝らし、伝承に力を尽くした。演目には『牡丹灯籠』『怪談乳房榎』『お菊の皿』『質屋蔵』『真景累ヶ淵』『反魂香』『もう半分』『子育て幽霊』『菊江の仏壇』などがある。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン、Lafcadio Hearn)は古くから伝わる日本各地の怪談や奇談を収集し、自らの解釈にしたがって情緒豊かな物語に仕立て上げ、『怪談 (kwaidan)』(1904年)として一冊にまとめた。
また、明治末期には、当時欧米で流行していたスピリチュアリズムの影響を受け、日本でも「怪談ブーム」が到来し、文学者たちが「百物語」を催したり、盛んに怪談の執筆を行っている。また、現在では「民俗学の原点」とされている『遠野物語』についても、話者の佐々木喜善・著者柳田國男ともに「怪談愛好者」であり、「怪談ブーム」の副産物として登場したものともいえる。民話としての怪談は松谷みよ子の研究の対象ともなっている。
戦後は、新倉イワオが1968年に日本初の心霊番組を企画制作。後に日本テレビ「お昼のワイドショー」内で放映された『あなたの知らない世界』などによって1970年代の怪談ブームをリードした。新倉はその後も番組企画本など合わせて50冊余りの怪異譚を蒐集した著作を世に送り、大人が怪談を嗜むことを許容する社会環境と後年の素地を築いた。また、1970〜1980年代に活躍した中岡俊哉による児童向け怪談、1970年代にブームとなったつのだじろうの『うしろの百太郎』『恐怖新聞』などの恐怖漫画によって子供時代に恐怖・オカルトの洗礼を受けた世代が成長して、現在の怪談需要を支えている。
木原浩勝と中山市朗は、自らが体験者より収集した怪異譚の人名や地名を意図的にぼかすことによって取材ソースを秘匿し、「実話怪談集」というスタイルにまとめ、江戸奉行・根岸鎮衛による随筆「耳袋」になぞらえて『新・耳・袋〜あなたの隣の怖い話』(扶桑社、1990年)として出版した。この仕事は長く忘れられていたが、1998年に復活刊行され、2005年までの7年間に刊行され続けた『新耳袋』全十巻(メディアファクトリー)により「怪談」という日本古来のエンターテイメントの復権がなされることとなった。
『新耳袋』の休眠期に当たる1991年〜1997年には実話怪談集『「超」怖い話』(勁文社)が安藤薫平、樋口明雄の手によって編まれた。これは1998年の新耳袋復活と勁文社倒産の後も平山夢明、加藤一に引き継がれ、竹書房から刊行されている続刊は、新耳袋と並んで近代実話怪談のひとつの潮流となっている。
落語の他に古典的な怪談の題材を扱う講談師にかつては、7代目一龍斎貞山、近年には一龍斎貞水がいるが、現代の怪談需要にそぐわず、講談形式の演目・演者は減少している。代わりに怪談話者として有名なタレントの稲川淳二による(1993年頃から始まった)現代の生活様式に合わせた怪談が語られている。また前述の新耳袋の著者である木原・中山は、新宿ロフトプラスワンにおいて定期的な怪談のトークライブを続けており、11年目を迎えた2007年には通算50回を超えた。現代的な題材の怪談話者としては、浜村淳、桜金造、つまみ枝豆、北野誠、みぶ真也、白石加代子などがタレント活動の中で展開している。
また伝統的な怪談の会のスタイルとして、百物語が挙げられる。
怪談と都市伝説が混同されていることもあるが、現状では明確な公的な定義は共有されていない。
本所七不思議 

 

本所(東京都墨田区)に江戸時代ころから伝承される奇談・怪談。江戸時代の典型的な都市伝説の一つであり、古くから落語など噺のネタとして庶民の好奇心をくすぐり親しまれてきた。いわゆる「七不思議」の一種であるが、伝承によって登場する物語が一部異なっていることから8種類以上のエピソードが存在する。
置行堀(おいてけぼり)
本所(東京都墨田区)を舞台とした本所七不思議と呼ばれる奇談・怪談の1つで、全エピソードの中でも落語などに多用されて有名になった。置き去りを意味する「置いてけぼり」の語源とされる。
江戸時代の頃の本所付近は水路が多く、魚がよく釣れた。ある日仲の良い町人たちが錦糸町あたりの堀で釣り糸を垂れたところ、非常によく釣れた。夕暮れになり気を良くして帰ろうとすると、堀の中から「置いていけ」という恐ろしい声がしたので、恐怖に駆られて逃げ帰った。家に着いて恐る恐る魚籠を覗くと、あれほど釣れた魚が一匹も入っていなかった。
この噺には他にも
「現場に魚籠を捨てて逃げ帰り、暫くして仲間と一緒に現場に戻ったら魚籠の中は空だった」
「自分はすぐに魚籠を堀に投げて逃げたが、友人は魚籠を持ったまま逃げようとしたところ、水の中から手が伸びてきて友人を堀に引きずり込んで殺してしまった」
「釣り人以外にも、魚を持って堀を通りかかった人が魚を奪われた」
「声を無視していると金縛りに遭った」
などの派生した物語が存在する。
東京の堀切駅近くの地にもかつて置いてけ堀と呼ばれる池があり、ここで魚を釣った際には3匹逃がすと無事に帰ることができるが、魚を逃がさないと道に迷って帰れなくなったり、釣った魚をすべて取り返されたりするといい、千住七不思議の一つとされた。
また埼玉県の川越地方にも「置いてけ堀」という場所があり、やはり魚が多く釣れるにもかかわらず、帰ろうとすると「置いてけ、置いてけ」との声が魚を返すまで続いたという。
正体
墨田区江東橋・錦糸堀公園の河童像。河童の背後には置行堀の伝承を記した看板がある。本所の置行堀の怪異の正体は諸説あるが、根強いのは河童の仕業という説、タヌキの仕業という説である。
河童説においては、付近の隅田川、源森橋、錦糸堀、仙台堀に河童の伝承があることが根拠とされており、実際にその伝承にちなみ、墨田区江東橋の錦糸堀公園には河童像が建てられている。
タヌキ説においては、隅田川の七福神めぐりの中の多聞寺に狸塚が存在することから、タヌキには存在感があることが根拠とされる。置行堀以外にも本所七不思議にはタヌキの怪異である狸囃子があり、絵双紙にはタヌキが燈無蕎麦、足洗邸に化ける姿を描いたものがある。置行堀のタヌキが、足洗邸と同様に屋敷から大足を突き出す怪異を起こしたとの話もある(足洗邸#類話を参照)。
「お魚博士」として知られる水産学者の末広恭雄は置行堀を科学的な面から考察し、淡水魚のギバチが体表のトゲで大きな音を出し、実際にその音を化物と思って驚いた人がいたことから、置行堀の怪異があった時代にはそうした堀にもギバチがいたものと推測し、魚が盗まれるのは野良猫の仕業の可能性が強いと述べている。
他にもカワウソ、ムジナ、スッポンによる仕業などと様々にいわれており、追いはぎによるものという説もある。
送り提灯(おくりちょうちん)
提灯を持たずに夜道を歩く者の前に、提灯のように揺れる明かりが、あたかも人を送って行くように現れ、あの明かりを目当てに行けば夜道も迷わないと思って近づくと、不意に明かりが消え、やがて明かりがつくので近づくとまた消え、これの繰り返しでいつまで経っても追いつけない。
石原割下水では「提灯小僧」といって、夜道を歩いている者のそばに小田原提灯が現れ、振り返ると後ろに回りこみ、追いかけると姿を消すといった具合に前後左右に自在に動き回るという伝承があり、本項と同一の怪異と見られている。
同じく本所七不思議のひとつ「送り拍子木」は、提灯が拍子木になったのみで、本項と同様の怪異である。
また、江戸時代には向島(現・東京都墨田区向島)で「送り提灯火(おくりちょうちんび)」と呼ばれる、送り提灯と似た怪異の伝承もあった。ある者が提灯も持たずに夜道を歩いていると、提灯のような灯火が足元を照らしてくれる。誰の灯火かと思って周りを見ても、人影はなく、ただ灯火だけがある。男は牛島明神(現・墨田区)の加護と思い、提灯を奉納したという。もしも提灯を奉納しないと、この提灯火に会うことはないといわれた。
送り拍子木(おくりひょうしぎ)
江戸時代の割下水付近を、「火の用心」と唱えながら拍子木を打って夜回りすると、打ち終えたはずの拍子木の音が同じような調子で繰り返して聞こえ、あたかも自分を送っているようだが、背後を振り向いても誰もいないという話である。実際には、静まり返った町中に拍子木の音が反響したに過ぎないとの指摘もあるが、雨の日、拍子木を打っていないのに拍子木の音が聞こえたという話もある。
同じく本所七不思議のひとつ「送り提灯」は、拍子木が提灯になったのみで、本項と同様の怪異である。
燈無蕎麦(あかりなしそば)別名「消えずの行灯」
江戸時代、本所南割下水付近には夜になると二八蕎麦の屋台が出たが、そのうちの1軒はいつ行っても店の主人がおらず、夜明けまで待っても遂に現れず、その間、店先に出している行灯の火が常に消えているというもの。この行灯にうかつに火をつけると、家へ帰ってから必ず不幸が起るという。やがて、この店に立ち寄っただけでも不幸に見舞われてしまうという噂すら立つようになった。
逆に「消えずの行灯(きえずのあんどん)」といって、誰も給油していないのに行灯の油が一向に尽きず、一晩たっても燃え続けているという伝承もあり、この店に立ち寄ると不幸に見舞われてしまうともいわれた。
正体はタヌキの仕業ともいわれており、歌川国輝による浮世絵『本所七不思議之内 無灯蕎麦』にはこの説に基づき、燈無蕎麦の店先にタヌキが描かれている。
足洗邸(あしあらいやしき)
江戸時代の本所三笠町(現・墨田区亀沢)に所在した味野岌之助という旗本の上屋敷でのこと。屋敷では毎晩、天井裏からもの凄い音がした挙げ句、「足を洗え」という声が響き、同時に天井をバリバリと突き破って剛毛に覆われた巨大な足が降りてくる。家人が言われたとおりに洗ってやると天井裏に消えていくが、それは毎晩繰り返され、洗わないでいると足の主は怒って家中の天井を踏み抜いて暴れる。あまりの怪奇現象にたまりかねた味野が同僚の旗本にことを話すと、同僚は大変興味を持ち、上意の許を得て上屋敷を交換した。ところが同僚が移り住んだところ、足は二度と現れなかったという。
なお怪談中にある大足の怪物の台詞が「あらえ」、怪談の名称が「あらい」であるのは、江戸言葉特有の「え」「い」の混同によるものと指摘されている。
類話
本所七不思議の一つ・置行堀の正体がタヌキであり、そのタヌキが足洗邸に類似した怪異を起こしたという話がある。1765年(明和2年)、置行堀のタヌキが人に捕えられて懲らしめられ、瀕死の重傷を負っていた。偶然通りかかった小宮山左善という者が哀れに思い、彼らに金を与えてタヌキに逃がした。その夜、タヌキが女の姿に化けて左善の枕元に現れ、左善の下女が悪事を企んでいると忠告して姿を消した。しばらく後、左善は下女の恋人の浪人者に殺害されてしまった。数日後、左善の一人息子の膳一のもとにタヌキが現れ、真相を教えた。膳一は仇討ちを挑むが、敵は強く、逆に追いつめられてしまった。そこへ、タヌキが左善の姿に化けて助太刀し、膳一は仇を討つことができた。以来、家に凶事が起る際には前触れとして、天井から足が突き出すようになったという。
また、嘉永年間に六番町に住んでいた御手洗主計という旗本の家でも「蔵の大足」または「御手洗氏の足洗い」といって同様の怪異が起きたといわれる。雑物庫の戸がひとりでに開いて巨大な右足が現れ、これを洗ってやると今度は左足が現れる。両足とも洗い終えると足が引っ込んで戸が閉まるというものだった。大足を退治するべく刀で斬りつけても煙を斬るように効果がなく、祈祷で追い払おうものなら大足が暴れ回って祈祷者を踏みにじり、雑物庫の中を滅茶苦茶に暴れ回って中の品物を壊す有様だった。しかしこの大足は迷惑がられるどころか、以前に雑物庫に忍び込んだ泥棒を踏みつけて捕まえたことがあり、御手洗家ではこの足を家宝の守護者として「ご隠居」と呼び、家の大事なものはすべてその雑物庫にしまっていた。いつしか、女性が洗わないと足は引っ込まないようになったが、主計がこの仕事のために女を雇っても、すぐに嫌がって仕事を辞めてしまった。この怪異は明治時代前期まで言い伝えられ、やまと新聞の1887年(明治20年)4月29日付の記事でも報じられた。
片葉の葦(かたはのあし)
江戸時代の頃、本所にお駒という美しい娘が住んでいたが、近所に住む留蔵という男が恋心を抱き幾度も迫ったものの、お駒は一向になびかず、遂に爆発した留蔵は、所用で外出したお駒を追った。そして隅田川からの入り堀にかかる駒止橋付近(現在の両国橋付近の脇堀にかかっていた橋)でお駒を襲い、片手片足を切り落とし殺した挙げ句に堀に投げ込んでしまった。それ以降、駒止橋付近の堀の周囲に生い茂る葦は、何故か片方だけの葉しか付けなくなったという。
落葉なき椎(おちばなきしい)
江戸時代の本所に所在した平戸新田藩松浦家の上屋敷には見事な椎の銘木があったが、なぜかこの木は一枚も葉を落としたことがない。松浦家も次第に気味が悪くなり、屋敷を使わなくなってしまった。因みに、その話のモデルとなったと言われる木がある。
狸囃子(たぬきばやし)別名「馬鹿囃子(ばかばやし)」
江戸時代の本所(東京都墨田区)では馬鹿囃子(ばかばやし)とも言い、本所を舞台とした本所七不思議と呼ばれる奇談・怪談の1つに数えられている。囃子の音がどこから聞こえてくるのかと思って音の方向へ散策に出ても、音は逃げるように遠ざかっていき、音の主は絶対に分からない。音を追っているうちに夜が明けると、見たこともない場所にいることに気付くという。平戸藩主・松浦清もこの怪異に遭い、人に命じて音の所在を捜させたが、割下水付近で音は消え、所在を捜すことはできなかったという。その名の通りタヌキの仕業ともいわれ、音の聞こえたあたりでタヌキの捜索が行われたこともあったが、タヌキのいた形跡は発見できなかったという。
千葉県木更津市の證誠寺にも狸囃子の伝説があり、『分福茶釜』『八百八狸物語』と並んで「日本三大狸伝説」の1つに数えられ、童謡「証城寺の狸囃子」の題材となったことでも知られる。詳細は證誠寺 (木更津市)#證誠寺の狸伝説を参照。
東京都墨田区の小梅や寺島付近は、当時は農村地帯であったことから、実際には収穫祝いの秋祭りの囃子の稽古の音が風に乗り、いくつも重複して奇妙なリズムや音色になったもの、または柳橋付近の三味線や太鼓の音が風の加減で遠くまで聞こえたものなどと考えられている。
津軽の太鼓(つがるのたいこ)
江戸時代の頃の本所に所在した津軽越中守の屋敷には火の見櫓があった。しかし通常火の見櫓で火災を知らせるときは板木を鳴らすのだが、なぜかこの屋敷の櫓には板木の代わりに太鼓がぶら下がっており、火事の際には太鼓を鳴らした。なぜこの屋敷の櫓だけが太鼓だったのかは誰も知らない。他には越中守屋敷の火の見櫓の板木を鳴らすと太鼓の音がするという物語も存在する。  
皿屋敷(播州皿屋敷、番町皿屋敷など) 

 

皿屋敷(さらやしき)は、お菊の亡霊が井戸で夜な夜な「イチマーイ、ニマーイ..」と皿を数える情景が周知となっている怪談話の総称。播州姫路が舞台の『播州皿屋敷』(ばんしゅう-)、江戸番町が舞台の『番町皿屋敷』(ばんちょう-、ばんまち-)が広く知られる。日本各地にその#類話がみられ、出雲国松江の皿屋敷、土佐国幡多郡の皿屋敷、さらに尼崎を舞台とした(皿ではなく針にまつわる)異聞が江戸時代に記録される。江戸時代、歌舞伎、浄瑠璃、講談等の題材となった。明治には、数々の手によって怪談として発表されている。大正、岡本綺堂の#戯曲『番町皿屋敷』は、恋愛悲劇として仕立て直したものである。
古い原型に、播州を舞台とする話が室町末期の『竹叟夜話』にあるが、皿ではなく盃の話であり、一般通念の皿屋敷とは様々な点で異なる。皿や井戸が関わる怨み話としては、18世紀の初頭ころから、江戸の牛込御門あたりを背景にした話が散見される。1720年、大阪で歌舞伎の演目とされたことが知られ、そして1741年に浄瑠璃『播州皿屋敷』が上演され、お菊と云う名、皿にまつわる処罰、井筒の関わりなど、一般に知られる皿屋敷の要素を備えた物語が成立する。1758年に講釈師の馬場文耕が『弁疑録』において、江戸の牛込御門内の番町を舞台に書き換え、これが講談ものの「番町皿屋敷」の礎石となっている。
江戸の番町皿屋敷は、天樹院(千姫)の屋敷跡に住居を構えた火付盗賊改青山主膳(架空の人物)の話として定番化される。よって時代は17世紀中葉以降の設定である。
一方、播州ものでは、戦国時代の事件としている。姫路市の十二所神社内のお菊神社は、江戸中期の浄瑠璃に言及があって、その頃までには祀られているが、戦国時代までは遡れないと考察される。お菊虫については、播州1795年におこった虫(アゲハチョウの蛹)の大発生がお菊の祟りであるという巷間の俗説で、これもお菊伝説に継ぎ足された部分である。
播州皿屋敷
播州皿屋敷の題材は、早くは歌舞伎として演じられた。1720年6月 (享保5年) 、京都の榊山四郎十郎座が、歌舞伎『播州錦皿九枚館』を上演している。台本は現存しないが、その役割番付(天理図書館所蔵)から人物・背景がうかがえ、この歌舞伎がすでに「皿屋敷伝説を完全なかたちで劇化した」ものだと考察される。また、同年に金子吉左衛門座が題名も内容不詳の皿屋敷を上演している。
浄瑠璃・播州皿屋敷
浄瑠璃『播州皿屋敷』は、寛保元年(1741年)大阪の豊竹座で初演がおこなわれた。室町時代、細川家のお家騒動を背景としており、一般に知られる皿屋敷伝説に相当する部分は、この劇の下の巻「鉄山館」に仕込まれている、次のようなあらすじである:
細川家の国家老、青山鉄山は、叛意をつのらせ姫路の城主にとってかわろうと好機をうかがっていた。そんなおり、細川家の当主、巴之介が家宝の唐絵の皿を盗まれ、足利将軍の不興を買って、流浪の憂き目にあう。鉄山は、細川家の宿敵、山名宗全と結託して、細川の若殿を毒殺しようと談義中に、委細をお菊に聞かれてしまい、お菊を抹殺にかかる。お菊が管理する唐絵の皿の一枚を隠し、その紛失の咎で攻め立てて切り捨てて井戸に投じた。とたんに、井筒の元からお菊の死霊が現れ、鉄山を悩ます。現場に駆けつけたお菊の夫、舟瀬三平に亡霊は入れ知恵をし、皿を取り戻す。
浄瑠璃では、家宝の皿が以前にも盗難などに遭う話や、その因縁がもりこまれた経歴が、上の巻の前半「冷光院館」、および上の巻の後半「壬生村、楽焼家弥五兵衛住家」に収録される。
西播怪談実記
播州佐用郡の春名忠成による宝暦4年(1754年)の『西播怪談実記』に「姫路皿屋敷の事」の一篇が所収される。
お菊虫
お菊虫の元になったのは1795年に大量発生したジャコウアゲハのサナギではないかと考えられている。 暁鐘成『雲錦随筆』では、お菊虫が、「まさしく女が後手にくくりつけられたる形態なり」と形容し、その正体は「蛹(よう)」であるとし、さらには精緻な挿絵もされている。十二所神社では戦前に「お菊虫」と称してジャコウアゲハのサナギを箱に収めて土産物として売っていたことがあり、中山太郎も姫路で売られていた種をジャコウアゲハと特定する。ただ、江戸期の随筆などには蛹以外の虫の説明も存在する。菊虫の件と最初の姫路藩主池田氏の家紋が平家由来の揚羽蝶であることとにちなんで、姫路市では1989年にジャコウアゲハを市蝶として定めた。
お菊井戸
姫路城の本丸下、「上山里」と呼ばれる一角に「お菊井戸」と呼ばれる井戸が現存する。
播州皿屋敷実録
『播州皿屋敷実録』は、成立時は明らかではないが、江戸後期に書かれた、いわば好事家の「戯作(げさく)」であり、脚色部分が多く加わっている。
姫路城第9代城主小寺則職の代(永正16年1519年以降)、家臣青山鉄山が主家乗っ取りを企てていたが、これを衣笠元信なる忠臣が察知、自分の妾だったお菊という女性を鉄山の家の女中にし鉄山の計略を探らせた。そして、元信は、青山が増位山の花見の席で則職を毒殺しようとしていることを突き止め、その花見の席に切り込み、則職を救出、家島に隠れさせ再起を図る。乗っ取りに失敗した鉄山は家中に密告者がいたとにらみ、家来の町坪弾四郎に調査するように命令した。程なく弾四郎は密告者がお菊であったことを突き止めた。そこで、以前からお菊のことが好きだった弾四郎は妾になれと言い寄った。しかし、お菊は拒否した。その態度に立腹した弾四郎は、お菊が管理を委任されていた10枚揃えないと意味のない家宝の毒消しの皿「こもがえの具足皿」のうちの一枚をわざと隠してお菊にその因縁を付け、とうとう責め殺して古井戸に死体を捨てた。以来その井戸から夜な夜なお菊が皿を数える声が聞こえたという。やがて衣笠元信達小寺の家臣によって鉄山一味は討たれ、姫路城は無事、則職の元に返った。その後、則職はお菊の事を聞き、その死を哀れみ、十二所神社の中にお菊を「お菊大明神」として祀ったと言い伝えられている。その後300年程経って城下に奇妙な形をした虫が大量発生し、人々はお菊が虫になって帰ってきたと言っていたといわれる。
このほか、幕末に姫路同心町に在住の福本勇次(村翁)編纂の『村翁夜話集』(安政年間)などに同様の話が記されている。
番町皿屋敷
江戸の「皿屋敷」ものとして最も人口に膾炙しているのは、1758年(宝暦8年)の講釈士・馬場文耕の『皿屋敷弁疑録』が元となった怪談芝居の『番町皿屋敷』である。
牛込御門内五番町にかつて「吉田屋敷」と呼ばれる屋敷があり、これが赤坂に移転して空き地になった跡に千姫の御殿が造られたという。それも空き地になった後、その一角に火付盗賊改・青山播磨守主膳の屋敷があった。ここに菊という下女が奉公していた。承応二年(1653年)正月二日、菊は主膳が大事にしていた皿十枚のうち1枚を割ってしまった。怒った奥方は菊を責めるが、主膳はそれでは手ぬるいと皿一枚の代わりにと菊の中指を切り落とし、手打ちにするといって一室に監禁してしまう。菊は縄付きのまま部屋を抜け出して裏の古井戸に身を投げた。まもなく夜ごとに井戸の底から「一つ……二つ……」と皿を数える女の声が屋敷中に響き渡り、身の毛もよだつ恐ろしさであった。やがて奥方の産んだ子供には右の中指が無かった。やがてこの事件は公儀の耳にも入り、主膳は所領を没収された。その後もなお屋敷内で皿数えの声が続くというので、公儀は小石川伝通院の了誉上人に鎮魂の読経を依頼した。ある夜、上人が読経しているところに皿を数える声が「八つ……九つ……」、そこですかさず上人は「十」と付け加えると、菊の亡霊は「あらうれしや」と言って消え失せたという。
この時代考証にあたっては、青山主膳という火附盗賊改は存在せず(『定役加役代々記』による)、火付盗賊改の役職が創設されたのは1662年(寛文2年)と指摘されている。その他の時代錯誤としては、向坂甚内が盗賊として処刑されたのは1613年であり、了誉上人にいたっては250年前の1420年(応永27年)に没した人物である。また千姫が姫路城主・本多忠刻と死別した後に移り住んだのは五番町から北東に離れた竹橋御殿であった。
東京都内にはお菊の墓というものがいくつか見られる。現在東海道本線平塚駅近くにもお菊塚と刻まれた自然石の石碑がある。元々ここに彼女の墓が有ったが、戦後近隣の晴雲寺内に移動したという。これは「元文6年(1741年)、平塚宿の宿役人眞壁源右衛門の娘・菊が、奉公先の旗本青山主膳の屋敷で家宝の皿の紛失事件から手打ちにされ、長持に詰められて平塚に返されたのを弔ったもの」だという。
市ヶ谷駅近辺、千代田区九段南四丁目と五番町の境界の靖国通りから番町方面へ上る坂は、帯坂と呼称されるが、お菊が、髪をふり乱し、帯をひきずりながらここを通ったという伝説に付会されている。
皿屋敷伝説の発生
皿屋敷の伝説がいつ、どこで発生したのか、「いずれが原拠であるかは近世(江戸時代より)の随筆類でもしかとはわからぬし、また簡単に決定できるものでもあるまい」とされる。三田村鳶魚は、本来、皿の要素がないため播州や尼崎伝説の由来を排すが、播州を推す者もあり、橋本政次は『姫路城史』において太田垣家に起こった事件が原点ではないかとしている。
竹叟夜話
大田垣にまつわる事件については、播磨国永良荘(現兵庫県市川町)の永良竹叟が天正5年(1577年)に著した『竹叟夜話』に記述があり、執筆より更に130年前の事件を語っている。
嘉吉の乱(1441年)の後、小田垣主馬助という山名家の家老が播磨国青山(現・姫路市青山)の館代をしていた頃、花野という脇妾を寵愛していた。ここに出入りしていた笠寺新右衛門という若い郷士が花野に恋文を送り続けていたが拒絶され続けていた。ある時、小田垣が山名家から拝領していた鮑貝の五つ杯の一つが見あたらないことに気づき、花野に問いただしてもただ不思議なことと答えるだけ、怒った彼は杯を返せと彼女を責め立てた。実は笠寺がその一個を密かに隠していたのだが、彼は意趣返しに「杯が見つからなければ小田垣家も滅びる」と脅しながら花野を折檻し、ついには松の木にくくり上げて殺してしまった。その後、花野の怨念が毎夜仇をなしたという。やがてこの松は「首くくりの松」と呼ばれるようになった。
『竹叟夜話』の挿話は、室町末と成立年代が古いが、皿ではなく盃用のアワビだったり、女性がお菊ではなく花野であり、青山氏の名もない等、後の『皿屋敷』と符合しない点も多々みられる。同じく播磨を舞台に、近世の形態にちかい物語は「播州皿屋敷実録」に書きとどめられるが、これは成立年代不詳(あるいは江戸後期)のものである。
牛込の皿屋敷
皿屋敷伝説の、重要要素である10枚の皿のうちの1枚を損じて命を落とす部分は、江戸に起こったという逸話にみつかる。
早い例は、正徳2年 (1712年) の宍戸円喜『当世智恵鑑』という書物に収録される。要約すると、次のような話である:
江戸牛込の服部氏の妻は、きわめて妬み深く、夫が在番中に、妾が南京の皿の十枚のうち一枚を取り落として割ってしまったことにつけ、それでは接客用に使い物にならないので、買換えろと要求するが、古い品なので、もとより無理難題であった。更に罪を追及して、その女を幽閉して餓死させようとしたが、5日たっても死なない。ついに手ずから絞め殺して、中間に金を渡して骸を棺に入れて運ばせたが、途中で女は蘇生した。女は隠し持った200両があると明かして命乞いするが、4人の男たちはいったん金を懐にしたものの、後で事が知れたらまずいと、女を縊りなおして殺し野葬にする。後日、その妻は喉が腫れて塞がり、咀嚼ができずに危険な状態に陥り、その医者のところについに怨霊が出現し、自分に手をかけた男たち既に呪い殺したこと、どう治療しようと服部の妻は死ぬことを言い伝えた。
三田村鳶魚は、この例「井戸へ陥ったことが足りないだけで、宛然皿屋敷の怪談である」としている。また、「牛込の御門内、むかし物語に云[う]、下女あやまって皿を一ツ井戸におとす、その科により殺害せられたり、その念ここの井戸に残りて夜ごとに彼女の声して、一ツより九ツまで、十を[言わずに]泣けさけぶ、声のみありてかたちなしとなり、よって皿屋敷と呼び伝えたり..」と享保17年(1732年)の「皿屋敷」の項に見当たる。牛込御門台の付近の稲荷神社に皿明神を祀ると、怪奇現象はとだえたと伝わる。
皿屋舗弁疑録
江戸を舞台とした皿屋敷の各要素のまとまった物語は、宝暦8年(1758年)、馬場文耕が表した『皿屋舗辨疑録』(皿屋敷弁疑録とも表記)を嚆矢とする。
牛込で起きた事件については、その皿屋敷にまつわる前歴が綿密と語られ、その後は一般に知られる皿屋敷の内容である。その前歴とは概要すると、
将軍家光の代に、小姓組番頭の吉田大膳亮の屋敷を召し上げ、将軍の姉である天樹院(千姫)に住まわせた。この「吉田御殿」の天樹院のふるまいは、酒色に耽溺するなど悪い風聞が立つほどで、そのうち愛人の花井壱岐と女中の竹尾を恋仲と疑って虐殺し、井戸に捨てた。他にも犠牲者は累々とで、「小路町の井戸」と恐れられた。天樹院の死後、この吉田屋敷は荒廃し妖怪屋敷と呼ばれた。
「弁疑録」では、この屋敷は、吉田屋敷からいったん空屋敷となったので、そもそも「更屋敷(サラ屋敷)」という名で、皿事件とは関係なしにそう呼ばれる所以があったのだとしているが、その語呂合わせについては「西鶴の『懐硯』に"荒屋敷"、『西播怪談実記』にも"明屋敷"」とあると考察されている。
その他の発生論
中山太郎は播州ではないと断ずるものの、江戸説に肯定的であるわけではなく、独自の「紅皿缺皿」の民話を起源とする説を展開している。そうした民話の痕跡として、佐々木喜善が記憶からたどって中山に口述した宮城県亘理郡の言い伝えを引いている。
幕末の喜多村信節『嬉遊笑覧』では、土佐の子供の鬼遊び「手々甲(セセガコウ)」の皿数えに由来をもとめている。
類話
日本各地に類似の話が残っている。北は岩手県滝沢市や江刺市、南は鹿児島県南さつま市までと、分布は広い。
そのほか、群馬県甘楽郡の2町1村、滋賀県彦根市、島根県松江市、兵庫県尼崎市、高知県幡多郡の2町1村、福岡県嘉麻市、宮城県亘理郡、長崎県五島列島の福江島などに例がある。
正保の頃、出雲国松江の武士が秘蔵していた十枚皿の一枚を下女が取り落として砕き、怒った武士は下女を井戸に押し込んで殺す。だが「此ノ女死シテ亡魂消へズ」夜毎に一から九まで数え、ワッと泣き叫ぶ。そこで知恵者の僧が、合いの手で「十」と云うと、亡霊はそれ以来消滅した(元禄二年『本朝故事因縁集』) 。
幡多郡に元・伊予松山藩士山瀬新次郎が移り住んだが、妻の瀧が名主に奉公しているうち、名主の縁者の青山鉄三郎が、名主の妾と通ずるだけではあきたらず、瀧にも横恋慕したがみのらず、瀧が管理する秘蔵の皿の一枚を隠した。名主は青山に取調べさせたが、青山の折檻に耐えられずに、滝のなかに投身自殺した。その怨念が皿の数を数える(土佐国幡多郡の「播多郡誌」)
宮城県亘理郡。亘理駅の近くに九枚筵という地名がある。その昔、継母が「缺皿」という名の娘をいじめ、ある時、搗き麦を十枚の筵で干せと言いつけておいて、その一枚を隠した。娘は井戸の身を投げた。(佐々木喜善談)
尼崎のお菊伝説
以下にあげる「お菊」の物語は、「皿屋敷異聞」に分類されてもいるが、皿ではなく食事にまぎれた針が悶着のもとである。蜀山人こと太田南畝『石楠堂随筆』上 1800年(寛政12年)にあるが元禄9年(1696年)、尼崎の城主青山氏の老臣、木田玄蕃(喜多玄蕃)の屋敷に奉公していたお菊が食事を進めたとき、飯の中に針がまぎれており、殺意ととがめたてて菊を井戸に投げ込んだ。謝りにかけつけた母は、時遅しと知って後を追って井戸に飛び込んだ。その後、木田家では怪異や祟りが連発したが、一件が不祥事として尼崎侯の耳に入り、木田は改易、屋敷は祟りがあると恐れられ廃屋となった。のちに青山氏にかわり尼崎侯となった松平遠州侯が、木田宅の跡地に建てたのが尼崎の源正院であり、おかげで浄霊はかなって怪奇はおさまったが、菊を植えても花が咲かなかったという。
ほぼ同様の内容で、根岸鎮衛『耳嚢』にも書かれてるが、旧木田邸の古井戸の場所が「播州岸和田」と記されている。いずれの史料も寛政7年(1795年)の#お菊虫の大量出現を、お菊の100年忌に定めている。尼崎の伝説は、津村淙庵『譚海』にも詳しく書かれている。元禄の頃は、青山播磨守幸督が尼崎の城主であった。
戯曲『番町皿屋敷』
岡本綺堂による1916年(大正5年)作の戯曲。怪談ではなく悲恋物語の形を取る。
旗本青山播磨と腰元は相思相愛の仲であったが身分の違いから叶わない。やがて播磨に縁談が持ち込まれる。彼の愛情を試そうとしたお菊は青山家の家宝の皿を一枚割るが、播磨はお菊を不問に付す。ところが周りの者が、お菊がわざと皿を割った瞬間を目撃していた。これを知った播磨は、自分がそんなに信じられないのかと激怒、お菊を斬ってしまう。そして播磨の心が荒れるのに合わせるかのように、青山家もまた荒れ果ててゆくのだった。
1963年(昭和38年)に大映で市川雷蔵、藤由紀子主演で『手討』が製作された。ただしすぐお菊の後を追う形で、青山播磨も切腹に向かう所で終わる、より悲恋物語の性格が強い作品である。
落語の『皿屋敷』
落語の中に皿屋敷を題材にした話がある。題名は『お菊の皿』、またはそのままの『皿屋敷』。
町内の若者達が番町皿屋敷へお菊の幽霊見物に出かける。出かける前に隠居からお菊の皿を数える声を九枚まで聞くと死んでしまうから六枚ぐらいで逃げ出せと教えられる。若者達は隠居の教えを守り、六枚まで聞いたところで皿屋敷から逃げ出してきたが、お菊があまりにもいい女だったので若者達は翌日も懲りずに皿屋敷へ出かけていく。数日もすると人々に噂が伝わり、見物人は百人にまで膨れ上がった。 それだけ人が増えると六枚目で逃げるにも逃げられず、九枚まで数える声をまで聞いてしまう。しかし聞いた者は死なず、よく聞くとお菊が九枚以降も皿を数え続けている。お菊は十八枚まで数えると「これでおしまい」と言って井戸の中に入ろうとするので見物人の一人が「お菊の皿は九枚と決まっているだろう。何故十八枚も数えるんだ」と訊くと、お菊は「明日は休むので二日分数えました」と答えた。
より古典的なところでは、旅の僧がお菊の霊を慰めようとして「なんまいだー」(=何枚だ)と念仏を唱えると、お菊が「どう勘定しても、九枚でございます」と返す、という駄洒落(だじゃれ)落ちのものもある。 
四谷怪談(東海道四谷怪談など) 

 

四谷怪談(よつやかいだん)とは、元禄時代に起きたとされる事件を基に創作された日本の怪談。江戸の雑司ヶ谷四谷町(現・豊島区雑司が谷)が舞台となっている。基本的なストーリーは「貞女・岩が夫・伊右衛門に惨殺され、幽霊となって復讐を果たす」というもので、鶴屋南北の歌舞伎や三遊亭圓朝の落語が有名である。怪談の定番とされ、折に触れて舞台化・映画化されているため、さまざまなバリエーションが存在する。
お岩稲荷
四谷(東京都新宿区左門町)に実在する「お岩稲荷」(於岩稲荷田宮神社)は、もともとは田宮家の屋敷社で、岩という女性が江戸時代初期に稲荷神社を勧請したことが由来といわれる。
岩の父、田宮又左衛門は徳川家康の入府とともに駿府から江戸に来た御家人であった。岩と、婿養子となった伊右衛門は仲のよい夫婦で、収入の乏しい生活を岩が奉公に出て支えていたという。岩が田宮神社を勧請したのち生活が上向いたと言われており、土地の住民の信仰の対象となった。
現在、四谷左門町には於岩稲荷田宮神社と於岩稲荷陽運寺が、道を挟んで両側にある。また、中央区新川にも於岩稲荷田宮神社がある。
四谷の於岩稲荷田宮神社(田宮家跡地)は明治12年(1879年)の火災によって焼失して中央区新川に移った。新川の於岩稲荷田宮神社は戦災で焼失したが戦後再建され、また四谷の旧地にも再興された。また、陽運寺は昭和初期に創建された日蓮宗の寺院であるが、境内に「お岩さま縁の井戸」がある。
四谷のお岩稲荷には、文政10年(1827年)に記録された文書が残されている。それによれば、四谷に住む武士・田宮又左右衛門の娘、お岩が浪人の伊右衛門を婿にとったが、伊右衛門が心変わりして一方的にお岩を離縁したため、お岩が狂乱して行方不明となり、その後田宮家で変異が相次いだため、田宮邸の跡地にお岩稲荷を建てたというものである。
なお、お岩の「お墓」が、巣鴨の妙行寺(明治時代に四谷から移転)にある。
四谷雑談集
『四谷雑談集』(享保12年(1727年)の奥付)に、元禄時代に起きた事件として記され、鶴屋南北の『東海道四谷怪談』の原典とされた話。
江戸時代初期に勧請された稲荷神社の由来とは年代があわず、また田宮家は現在まで続いており、田宮家に伝わる話としてはお岩は貞女で夫婦仲も睦まじかったとある。このことから、田宮家ゆかりの女性の失踪事件が、怪談として改変されたのではないかという考察がある。
また、岡本綺堂は、お岩稲荷について、下町の町人の語るところは怪談であり、山の手の武家の語るところは美談と分かれているので、事件が武家に関わることゆえに、都合の良い美談を武家がこしらえたのではないか、という考察をしている。
南北の『東海道四谷怪談』以前に、この話を下敷きにした作品としては、曲亭馬琴『勧善常世物語』(文化3年(1806年))や柳亭種彦『近世怪談霜夜星』(文化5年(1808年))がある。
あらすじ / 四谷在住の御先手鉄砲組同心の田宮又左衛門のひとり娘である岩は、容姿性格共に難があり中々婿を得ることができなかった。浪人の伊右衛門は、仲介人に半ば騙された形で田宮家に婿養子として岩を妻にする。田宮家に入った伊右衛門は、上司である与力の伊東喜兵衛の妾に惹かれ、また喜兵衛は妊娠した妾を伊右衛門に押し付けたいと思い、望みの一致したふたりは結託して、岩を騙すと田宮家から追う。騙されたことを知った岩は狂乱して失踪する。岩の失踪後、田宮家には不幸が続き断絶。その跡地では怪異が発生したことから於岩稲荷がたてられた。
『東海道四谷怪談』
『東海道四谷怪談』(とうかいどう よつやかいだん)は、鶴屋南北作の歌舞伎狂言。全5幕。文政8年(1825年)、江戸中村座で初演された。
南北の代表的な生世話狂言であり、怪談狂言(夏狂言)。『仮名手本忠臣蔵』の世界を用いた外伝という体裁で書かれ、前述のお岩伝説に、不倫の男女が戸板に釘付けされ神田川に流されたという当時の話題や、砂村隠亡堀に心中者の死体が流れ着いたという話などが取り入れられた。
岩が毒薬のために顔半分が醜く腫れ上がったまま髪を梳き悶え死ぬところ(二幕目・伊右衛門内の場)、岩と小平の死体を戸板1枚の表裏に釘付けにしたのが漂着し、伊右衛門がその両面を反転して見て執念に驚くところ(三幕目・砂村隠亡堀の場の戸板返し)、蛇山の庵室で伊右衛門がおびただしい数の鼠と怨霊に苦しめられるところ(大詰・蛇山庵室の場)などが有名な場面となっている。
初演時の趣向
中村座における初演時は、時代物の『仮名手本忠臣蔵』と合わせて2日にわたって上演された。
1日目:『忠臣蔵』の六段目(勘平の腹切)まで →『四谷怪談』の三幕目(隠亡堀の場)まで
2日目:『忠臣蔵』の七段目(祇園一力の場)以降 →『四谷怪談』の三幕以降 →『忠臣蔵』の討入り
『忠臣蔵』と続けて演じると、塩冶義士・佐藤与茂七が伊右衛門を討ったあとに吉良邸の討ち入りに参加することになる。再演以降は『四谷怪談』の部分が単独で上演されている。その場合、与茂七らの登場シーンは省略されたり書替えられたりすることが多い。
あらすじ(東海道四谷怪談)
元塩冶藩士、四谷左門の娘・岩は夫である伊右衛門の不行状を理由に実家に連れ戻されていた。伊右衛門は左門に岩との復縁を迫るが、過去の悪事(公金横領)を指摘され、辻斬りの仕業に見せかけ左門を殺害。同じ場所で、岩の妹・袖に横恋慕していた薬売り・直助は、袖の夫・佐藤与茂七(実は入れ替った別人)を殺害していた。ちょうどそこへ岩と袖がやってきて、左門と与茂七の死体を見つける。嘆く2人に伊右衛門と直助は仇を討ってやると言いくるめる。そして、伊右衛門と岩は復縁し、直助と袖は同居することになる。
田宮家に戻った岩は産後の肥立ちが悪く、病がちになったため、伊右衛門は岩を厭うようになる。高師直の家臣伊藤喜兵衛の孫・梅は伊右衛門に恋をし、喜兵衛も伊右衛門を婿に望む。高家への仕官を条件に承諾した伊右衛門は、按摩の宅悦を脅して岩と不義密通をはたらかせ、それを口実に離縁しようと画策する。喜兵衛から贈られた薬のために容貌が崩れた岩を見て脅えた宅悦は伊右衛門の計画を暴露する。岩は悶え苦しみ、置いてあった刀が首に刺さって死ぬ。伊右衛門は家宝の薬を盗んだとがで捕らえていた小仏小平を惨殺。伊右衛門の手下は岩と小平の死体を戸板にくくりつけ、川に流す。
伊右衛門は伊藤家の婿に入るが、婚礼の晩に幽霊を見て錯乱し、梅と喜兵衛を殺害、逃亡する。
袖は宅悦に姉の死を知らされ、仇討ちを条件に直助に身を許すが、そこへ死んだはずの与茂七が帰ってくる。結果として不貞を働いた袖はあえて与茂七、直助二人の手にかかり死ぬ。袖の最後の言葉から、直助は袖が実の妹だったことを知り、自害する。
蛇山の庵室で伊右衛門は岩の幽霊と鼠に苦しめられて狂乱する。そこへ真相を知った与茂七が来て、舅と義姉の敵である伊右衛門を討つ。 
四谷怪談諸話 

 

伊右衛門の色悪的性格
「歌舞伎の大悪人」というと頭に浮かぶのはまずは仁木弾正、それから蘇我入鹿といったところでしょうか。それに「四谷怪談」の民谷伊右衛門も五指に入るであろう人気の悪人です。特に伊右衛門は「色悪」とも呼ばれる役どころです。伊右衛門は、その父を殺してまでして一緒になったお岩を仕官のために見限り死に至らしめ、伊藤家の者も次々に殺害します。さらに「隠亡堀の場」においては、伊右衛門は伊藤家の乳母お槇を何の苦もなく殺害し、それを見ていた直助権兵衛に「おまえもよっぽど強悪だねえ」と言わせています。
「四谷怪談」は繰り返し上演されていくなかで「お岩の怪談劇、復讐劇」としての性格を強めてきたように思われます。お岩の怨念を凄まじいものにしようと考えれば、当然その怨念の対象になる伊右衛門の存在がクローズアップされることになります。伊右衛門が容色を武器にして世を渡ろうとするしたたかな悪人、いわゆる「色悪」として演じられるのも、ともすれば肥大し勝ちなお岩の存在に対して敵役として相応の位置を確保しようという意図から出てくるものに違いありません。
近年の鶴屋南北ブームのなかで、伊右衛門の「近代人的性格」が論じられるようになっています。周知のとおり「四谷怪談」は「忠臣蔵」の裏の世界として設定されています。伊右衛門を忠義の名のもとに討ち入りを強制しようとする封建社会の非人間的論理に敢然として反逆をいどんだ自由人と見ようというわけです。
ここではお岩は伊右衛門に討ち入りを強制しそれを拒否した彼を恨んで苦しめようとする体制的存在とみなされます。これに反抗する伊右衛門の気概を示す科白として挙げられるのが有名な「首が飛んでも動いてみせるわ」です。しかしこの科白は実は文政八年(1825)江戸中村座での初演にはないもので、翌年大坂で改作された「いろは仮名四谷怪談」で初めて登場する科白です。したがってこの科白で南北の作意を論じることはできないと思います。
しかしよく考えてみると、本当に伊右衛門はそんなたいそうな悪人なのだろうかという疑問がついつい湧いてしまうのです。
お岩を殺したのは伊右衛門ではない
うっかりすると錯覚してしまうのですが実は伊右衛門はお岩を自ら手を下して殺したわけではありません。お岩の面相が変わってしまったのは、彼が知らないうちに伊藤家の乳母の渡した毒薬のせいです。またお岩が死ぬのも、彼女がもののはずみで柱に刺さっていた刀にあたったからです。したがっていずれの場合にも伊右衛門は直接の当事者ではなく、伊右衛門の意思にかかわらず事が進んでいきます。もちろん結果的には女房を裏切っていてその死の責任を負うべき男ではありますが、しかし容色にかけて世を渡ろうとするしたたかさが本当に伊右衛門にあるのかはどうも疑問に思えるのです。
伊右衛門は事の成り行きからついふらふらと女房を捨てたけれども、心のどこかでは「これは俺のせいじゃない」と思っていて、どうして自分がお岩に追いまわされなければならないかを根本的に分かっていない人物なのです。どうしてこのような人物が、「体制への反逆者、あくなき自由を求める自由人」なのでしょうか。伊右衛門がお岩を捨てたのは、ただ若くて金のある女の方が寄生の対象として好都合だからに過ぎなかったのではないでしょうか。
例えば「蛇山庵室」での伊右衛門がお岩の幽霊に対して言う科白には、「喜兵衛が娘を嫁にとったも高野の家へ入り込む心。義士のめんめん手引きしようと不義士とみせても心は忠義。夫をあざとひ女の恨み。」とあり、最後に及んで見苦しく言い訳をしているのです。
この最後の科白が伊右衛門の「真の心」を吐露するものだという説もあります。いわば伊右衛門の「隠れ義士説」ですが、これはどうも疑わしいように思います。それならばお岩は最後に伊右衛門の誠を認めて彼を許さねばならないし、芝居としては権太ばりの「モドリ」の結末をつけねば納まらないように思います。
伊右衛門はその軟弱な行き当たりばったりの無定見な生き方ゆえに、自らの意思とかかわりなく復讐の対象に仕立て上げられ破滅していくのです。
お岩には伊右衛門を殺せない
このような伊右衛門を討つのに忠義の論理が役に立たないのは言うまでもありません。「隠亡堀」において「薬下せい」と言って出てくる小仏小平の幽霊はご主人大事の論理だけの幽霊ですが、伊右衛門に斬り付けられると骨に変わってバラバラと崩れ去ってしまうのです。
そこへいくとお岩の幽霊はしたたかです。お岩だと思って斬り付けてみれば、それは新妻お梅であったり喜兵衛であったりするのです。ここでも伊右衛門はそのつもりもないのに大量殺人者に仕立て上げられていくのです。
しかしお岩も「忠義の論理」を振りかざしている以上は、伊右衛門を脅し恐れさせても殺す事はできないのです。最終的にこの芝居で伊右衛門を殺し罰するのはお岩ではなく、佐藤与茂七なのです。(このことは別稿「与茂七と三角屋敷の意味」をご参照下さい。)
「夢の場」の意味
「夢の場」は美しいお岩の姿を見せるという意味でも必要なのですが、この場が暗転しそのまま「蛇山庵室」に続いていることを考えれば、伊右衛門という男の本質的な甘え症をロマンティックに描いてみせていると見るべきでしょう。お岩に追いまわされ散々苦労をしながらも、まだ伊右衛門は「あいつも昔はいい女だったんだがなあ」みたいなことを考えているのです。
一方のお岩の幽霊も「恨めしい」などと言いながら実は伊右衛門が好きなのじゃないかと言う人がいますが、「幽霊は恨みを晴らそうという一念で出る」ものでしょうから、お岩の幽霊が「恨めしいけどホントは好き」というような複雑な思考を持っている存在とは思えません。
しかしなにやらそう思わせるような、男と女の腐れ縁のような不思議な面白さを感じさせるのが「夢の場」での南北の作劇術の妙味なのでしょう。
理想の伊右衛門役者は?
そう考えると伊右衛門が単純に色悪の役どころだと決め付ける訳にはいかないことが理解されると思います。さてこうなると理想の伊右衛門役者はどういう仁の役者でしょうか。
従来イメージの色悪の役どころならば、ぴったりはまるのはやはり十二代目市川団十郎ではないでしょうか。昭和五十四年九月歌舞伎座での歌右衛門との舞台(当時海老蔵)は、線の太い豪気な雰囲気で妖しい光を放つような魅力がありました。
それでは本稿で述べた甘え症、無定見な軟弱な小悪人伊右衛門には誰がはまるでしょうか。私は案外十五代目片岡仁左衛門がいいのじゃないかと思います。昭和五十八年六月歌舞伎座での玉三郎との共演(当時孝夫)では、もちろん従来の色悪の線で演じていた訳ですが、どこかに甘えん坊的な感じがありたいした覚悟もないのに成り行きで悪ぶっている伊右衛門の薄っぺらさがよく出ているように感じられました。仁左衛門は「吉田屋」の伊左衛門を得意としていますが、一字違いの「伊右衛門」に必要なのはもしかしたら和事のじゃらじゃらした雰囲気であるのかも知れません。
そう言えば、武智鉄二演出(昭和五十一年六月岩波ホール)では三代目中村鴈治郎(当時扇雀)が伊右衛門を演じていますが、さすが武智の脚本読みの鋭さを感じさせる配役です。伊右衛門の凄みより和事の色気を重視したということではないでしょうか。
なぜ与茂七に伊右衛門が討てるのか
民谷伊右衛門を討つのはお岩ではなく、お岩の妹お袖の夫である佐藤与茂七なのです。伊右衛門が「何で身どもをいらざる事を」と言っているように大詰めでの与茂七の登場は観客にとっても意外です。誰もがお岩が伊右衛門に直接手を下して決着をつけることを心中期待しているに違いないからです。
お岩の幽霊は伊右衛門の母親や仲間たちをとり殺しているのだから、その霊力からして伊右衛門をとり殺す力はあるはずです。しかしお岩の幽霊は伊右衛門をとり殺すことはしません。いやお岩の背負っている「忠義の論理」では伊右衛門は殺すことはできないのです。
与茂七の登場について、これは四十七士の一人である与茂七が伊右衛門を塩冶浪士の裏切り者として討つことで、自由人伊右衛門が封建社会の論理で罰せられるのだと解釈する人が多いようです。確かにこの結末によって「四谷怪談」は表の世界である「忠臣蔵の世界」に収束されていくのですが、別の見方もできるのではないでしょうか。なぜなら民衆にとって塩 冶(赤穂)浪士は「腐ってない武士」ではあるが、忠義などという封建主義の論理を振りかざしていることでは他の武士と大同小異であるからです。
もし与茂七が単に塩冶浪士としての位置付けだけで「忠義の論理」を振りかざして登場するのであれば、小仏小平の幽霊が伊右衛門の刀に追い払われたように、与茂七に伊右衛門を討つ事はかなわぬはずではないでしょうか。したがって与茂七が伊右衛門を討ち得たからには、彼が封建社会の建前である「忠義の論理」ではなく、真の人間だけが持つ「誠の論理」が備わっているはずだと見なければならないと思います。
そのためには表の「忠臣蔵」は建前の世界で、裏の「四谷怪談」は本音の世界であるという従来の「並列の図式」を捨て去って「四谷怪談」の意味を読もうとしなければならないでしょう。
与茂七と「三角屋敷」の意味
「四谷怪談」では忠義という武士社会の論理のもとで、敵討ちを強制されて苦しむ人間の姿が描かれています。主君の無念を晴らすために家来たちが命も財産も投げ出すというような行為が誰にでも可能であったわけではありません。多くの人々が家族のため、あるいは生活のために心ならずも不忠者の名を着せられて脱落していきました。それを誰が非難できるでしょうか。
佐藤与茂七もまた一歩間違えれば伊右衛門の立場になったかも知れない人物です。与茂七も弱い人間で女房お袖を夜鷹に出させるような苦労をさせておきながら、一方で自分はこっそり夜鷹を買いにいくようなずるさを持っています。だから与茂七の塩 冶浪士としての栄光も、お袖の犠牲によって成り立っていることを考えれば討ち入りもきれい事では済まされなくなるのです。
「仮名手本忠臣蔵」七段目において由良之助が「女房に日々傾城の勤めをさするも皆、亡君の仇を討たんがため・・」と言っていますが、これを南北は「地獄宿」でもっと具体的に生々しく見せているのです。
だから与茂七がお岩の代わりに伊右衛門を討つ資格があるとすれば、それは「三角屋敷」の場において、女房お袖とその兄直助の死をまのあたりにして、生の無情と武家社会の論理の愚かしさを痛いほど感じながらも、それでも武士の誠の道として討ち入りをせざるを得ないという、人間としてのギリギリの生き方を与茂七が選び取ったからに他ならないのです。まさにその意味において赤穂義士は、武士階級のみならず町人階級においても手本となってきたはずなのでした。
表の世界である「忠臣蔵」が忠義の論理を押し付ける建前の世界だと割り切る限り決してこのことは見えてはこないでしょう。武士としての誇りも人間としての誇りも捨て去ってしまった伊右衛門を罰することができる人間は与茂七以外にはあり得ないのです。与茂七は塩 冶浪士としてではなく、「誠の人間」として伊右衛門を討つのです。
そう考えて初めてお岩と伊右衛門の筋からまったくはずれてしまう「三角屋敷」の存在の意味が理解されると思います。「三角屋敷」は与茂七を「伊右衛門の刑執行人」として承認するための手続きの場なのです。
怪談芝居としてみると「三角屋敷」は本筋から離れているように見えます。この場は「四谷怪談」のなかでは最も芝居らしい面白さのある場ではありますが、伊右衛門もお岩も登場しないのです。まさか洗濯桶からお岩の手がニュッと伸びてくるのをみせるためだけにこの場がある訳ではないでしょう。「三角屋敷」は最近あまり上演されないようですが、この場がカットされてしまうのも本筋から離れるように見えるせいでしょう。
しかし「四谷怪談」において伊右衛門を与茂七が討つ以上は「三角屋敷」なしで鶴屋南北の作意を理解することは不可能だと思います。このことは文政八年江戸中村座での初演時に三代目尾上菊五郎がお岩、小仏小平とともに与茂七を兼ねたという事実が証明しています。
南北作品のように歌舞伎オリジナルの場合には作者は役者にはめて台本を書くのですから、番附けが作品解釈の有力な手掛かりになるのです。言うまでもなくこの事実は、お岩と与茂七を同一役者が演じることにより役の並列的構造を観客に印象付けようとした南北の作意を反映したものだと思います。
南北の作劇術
考えれば考えるほど「四谷怪談」はラジカルな作品だと感じ入ってしまいます。世界の設定という歌舞伎の作劇術は「現代劇を作ってはならない」という幕府の弾圧に対する苦肉の策であったといいます。ところが南北は「忠臣蔵」と「四谷怪談」をテレコで上演することによって、「忠臣蔵」が本来秘めている封建社会批判の意図をより鮮明に浮き出させ、さらには「四谷怪談」は室町時代の架空の話ですと高らかに宣言して逃げを打ってしまうのですから、そのしたたかさには驚かざるを得ません。
南北の作劇術はよく言われるように退廃的、趣向的なものではなく、むしろはるかに健康な批判的精神を備えているのではないでしょうか。南北の生世話に、当時の社会風俗を描写しているという三面記事的な興味だけを見るのではなく、その底に潜む民衆のエネルギー、変革への意欲こそを見るべきだと思います。
「四谷怪談」の東海道
ある時にフッと思ったのですが、どうして「四谷怪談」は「東海道四谷怪談」というのでしょうか。ご存知の通り、「四谷怪談」は「忠臣蔵の世界」に仕組まれており、それ自体が忠臣蔵外伝といった形に作られています。それならば、翌年(文政9年)に大坂で上演された外題「いろは仮名四谷怪談」の方がピッタリする感じです。どうして「東海道」なのでしょうか。
一説によれば、今の神奈川県藤沢市あたりに四谷という地名があったそうで、南北は「四谷怪談」を忠臣蔵の世界・つまり江戸を鎌倉に置き換えるために、藤沢が「四谷」だという便法で「東海道」とつけたのだろうとも言われています。しかし、南北がはっきり「雑司ヶ谷四谷町」と書いていることですし、隠亡堀とか蛇山など実際にある地名も含めて、南北は「四谷」を江戸の地名であるとして書いているとしか思えません。
南北がこの芝居の外題を「東海道四谷怪談」としたのは、その名の通り江戸と上方を結ぶ大動脈である街道「東海道」を指しているのだろうと思います。上方は赤穂(つまり、ここでは表狂言である「仮名手本忠臣蔵」の世界)、そして江戸(つまりここでは裏狂言である「四谷怪談」の世界)とをつなぐ線こそが、この芝居を読む鍵であろうと思います。
「東海道四谷怪談」は文政8年(1825)7月江戸中村座での初演。鶴屋南北71歳の作品です。初演時にはこの作品は「仮名手本忠臣蔵」と交互に上演し、二日掛かりで完了する興行形式を取りました。
第1日:「忠臣蔵」大序から六段目までを上演し、次に二番目狂言として「四谷怪談」序幕から三幕目の「隠亡堀」までを上演。
第2日:まず「隠亡堀」を上演し、「忠臣蔵」七段目から十段目まで、次に「四谷怪談」四幕目から大詰めまで、最後に「忠臣蔵」の十一段目(討ち入り)を上演。
「隠亡堀」が重複して演じられているのが興味あるところです。また「四谷怪談」大詰めで伊右衛門が討たれる場面で雪が降っており・与茂七が火事装束で現れるのは、この場面が「忠臣蔵」のまさに討ち入り 前夜であるということ、つまり与茂七は伊右衛門を討った後に討ち入り現場(高師直館)へ駆けつけるということを示しています。
こうした上演形式をとったのは初演時だけのことで、再演以降は「四谷怪談」は単独で上演されてきました。怪談芝居としての「四谷怪談」の要素の方が主体になってしまって、仕掛け物・ケレン物としての工夫がされてきました。だから「四谷怪談」が「忠臣蔵」の世界であることは予備知識として持ってはいても、討ち入り物(「忠臣蔵」の世界)としての「四谷怪談」の意識はいまでは薄れてしまっていると思います。
「忠臣蔵」の世界は武士の建前の世界で、忠義・仇討ちの論理を伊右衛門に強制し、伊右衛門はこうした論理に反発し自由に生きようとようとして結局は建前の世界に殺されるという風に「四谷怪談」を読む見方があります。この場合には、お岩の幽霊は忠義の論理を夫に強制する対立存在として見ることができるでしょう。怪談芝居として恐ぁ〜いお岩さまを作り上げるためには、その怨念の対象である伊右衛門もそれなりの存在に仕立て上げなければなりません。伊右衛門が「色悪」という役柄で磨き上げられていくのも、そうした考え方によるものでしょう。
しかし南北の作意を読むには「四谷怪談」をもう一度「忠臣蔵の世界」に戻して同時代化の発想で読み直してみる必要があるかも知れません。
義士物の同時代化の発想
南北は本作を書くにあたり、お岩稲荷の由来を記した小説「四谷雑談集」を参考にしたと言われています。この小説は享保12年(1727)の成立ですから、お岩の怪談はかなり以前から江戸の街に流布していたことが分かります。「四谷雑談集」によれば、寛永の頃までは江戸の街は空き地だらけで、特に江戸城西の麹町あたりは草むらばかりでありました。そのなかに四つほど民家があってその所を「四つ屋」と称しましたが、やがて家が立ち並び「四つ谷」とも言うようになったのだそうです。また、この地には御先手組諏訪左門組が拝領して住んでいました。左門がここを拓いたというので「四谷左門町」と呼んだそうです。(注:「東海道四谷怪談」では実在の田宮家の抗議をはばかり雑司ヶ谷四谷町に変えられています。)
お岩は御先手組同心田宮又左衛門の娘で疱瘡を患って面相が醜かったのですが、摂州浪人伊右衛門という夫がおりました。この伊右衛門に、与力伊東喜兵衛が自分の妾お花を押し付けようとします。伊右衛門は喜兵衛らと策謀してお岩をさんざんにいじめ、離縁し、家から追い出します。その後の気が狂ったお岩の行方は知れませんが、やがて伊右衛門の周囲に次々と不思議な事が起こり、関係者はすべて死んでしまったと言います。ここではお岩は幽霊としてその姿を現してはきません。しかしその事件がお岩の怨念のせいだということは誰の目にも明らかなのでした。これが「四谷雑談集」の伝える話です。
ここで大事なことは、「お岩」とは先祖の拓いた土地を守っている一種の在地霊と見ることができるということです。お岩の怪談は同心の娘が与力の謀略で土地を奪われてその怨みで祟るという物語です。江戸中期からの急速な土地開発・それにともなう先住者と新参者の軋轢のなかでお岩の霊は江戸という土地と結びついて江戸の民衆に畏れられたということだろうと想像します。
「お岩は江戸の土着のイメージと結びついている」ということがまずキーポイントです。
江戸が「東海道」の東の端なら、西の端は上方(京大坂)です。鶴屋南北はもちろん江戸に生まれ・江戸歌舞伎のなかで生きてきた人間です。江戸の民衆から見た「上方」とはどんなイメージであったのでしょうか。
江戸には徳川幕府がありましたから政治的には上方より優位に立っていたと言えましょうが、経済的には江戸は常に上方に対し従属的位置にありました。近江屋とか伊勢屋とかいう屋号で分かりますが、江戸の商店というのは大部分が上方資本で、その背後には両替という上方の大資本家がいて、江戸の資金を植民地的に食い荒らしていたのです。当時の江戸の大店の番頭というのは大抵は上方出身者でした。例えば「お染の七役」に見られるように、南北作品になかにあるお店者(たなもの)への揶揄・嘲笑というのは、こうした上方の経済的搾取に対する江戸町人の怨みからくるものなのです。
こうした上方に対する江戸の位置が経済的にも文化的にも逆転し始めるのは寛政期ごろからのことです。それまでの江戸歌舞伎は初代菊五郎・初代富十郎らの上方役者を呼び寄せることでその技術水準を保っていたわけで、上方歌舞伎の方がつねに優位であったと言えましょう。それがはっきりと江戸の歌舞伎が優位に立つようになったことを示した事件は、寛政6年(1794)に当時最高の劇作家であった並木五瓶が上方から江戸に移籍したことでした。この時に南北は40歳。「五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)」(寛政7年・都座)は江戸に移籍した五瓶の傑作ですが、この初演には南北もスタッフとして参加しています。鶴屋南北は、この並木五瓶が江戸歌舞伎に伝授した作劇術の影響下に生まれた劇作家なのです。(南北が立作者となるのは通例よりかなり遅く、享和3年(1803)、南北49歳のことでした。)
このような東(江戸)と西(上方)の関係によって「忠臣蔵」を同時代化の発想で読み直したのが、「東海道四谷怪談」だと言えます。ここでは江戸は裏狂言の「四谷怪談」での在地霊としてのお岩に象徴されます。一方の上方は表狂言である「忠臣蔵」の世界です。これは塩 冶(=赤穂)浪士によって代表されています。注意いただきたいのは、東と西・あるいは裏と表は「対立関係」であるという風に単純に読まないということです。東と西の関係は複雑によじれながら絡み合っていると読んでいただきたいと思います。
この芝居に登場する人物は、お岩・お袖以外はすべて「忠臣蔵」の世界から来ています。つまり、すべて上方から流れてきた人々であったということです。判官の刃傷により塩 冶家は断絶し、家来たちは散りじりになって・ある者は商人に身をやつし・ある者は物乞い・夜鷹になって江戸で生活しています。ある者は密かに敵討ちの意志を持ちながら・またある者は生きるために志に背を向けて江戸の街に生きています。高師直討ち取りをめぐる男たちの思惑と欲望のなかで翻弄されつづけるのがお岩・お袖の姉妹なのです。
江戸の在地霊お岩の怨念は、勝手放題に経済的搾取をしてきた上方に対する怨念であったと見ることもできましょう。しかし一方で、まだまだ上方なしで江戸が成り立っていけないことも事実であったのです。そのことが伊右衛門・あるいは直助に頼らざるをえない姉妹の境遇に象徴されています。
さらに見ていけば「四谷怪談」に見られる風俗は南北の生活する文政期の江戸そのままです。当時の江戸には禄を失って路頭に迷う浪人がごろごろしていました。彼らのすべてが武士としてのプライドを捨てた人たちであったでしょうか。うらぶれた生活のなかでも志をもって清く生きた浪人たちもいたことでありましょう。南北はそうしたうらぶれた武士の姿に「忠臣蔵」のなかで江戸の街に身を潜めた義士・あるいは不義士たちのことを想ったに違いありません。伊右衛門の姿はそのまま仲蔵の演じた「忠臣蔵」の定九郎の姿なのではありませんか。南北のなかでは、善と悪、義と不義の明確な区分はなく、混沌のままにまかされているのです。
こうした同時代化の発想から見ますと、「四谷怪談は忠臣蔵批判である」と単純に読めないことがお分かりいただけると思います。むしろ、「忠臣蔵」を東と西の構図で読みながら、対立構図ではなくお互いを補強し合っているようにも思われるのです。南北の上方への想いも愛憎半ばしていると見ることはできないでしょうか。
「四谷怪談」の伏線の謎
「東海道四谷怪談」は文政8年(1825)7月江戸中村座での初演。鶴屋南北71歳の作品です。初演時にはこの作品は「仮名手本忠臣蔵」と交互に上演し、二日掛かりで完了する興行形式を取りました。
第1日:「忠臣蔵」大序から六段目までを上演し、次に二番目狂言として「四谷怪談」序幕から三幕目の「隠亡堀」までを上演。
第2日:まず「隠亡堀」を上演し、「忠臣蔵」七段目から十段目まで、次に「四谷怪談」四幕目から大詰めまで、最後に「忠臣蔵」の十一段目(討ち入り)を上演。
配役は、三代目菊五郎が「忠臣蔵」の由良助・勘平・戸無瀬の三役、「四谷怪談」のお岩・小仏小平・与茂七の三役の合わせて六役。共演の七代目団十郎は「忠臣蔵」の若狭助・千崎・石堂・大鷲文吾の四役に「四谷怪談」の伊右衛門。五代目幸四郎は「忠臣蔵」の師直・定九郎・郷右衛門・本蔵の四役に「忠臣蔵」の直助権兵衛。五代目半四郎は「忠臣蔵」のお軽・お石・お園の三役に「四谷怪談」のお袖でありました。
このように「四谷怪談」と「忠臣蔵」をテレコ上演するやり方は初演の時だけのことで、それ以後は「四谷怪談」は単独で上演されてお化け狂言として人気狂言になっています。ところで「四谷怪談」の人物関係は複雑で混乱しそうですが、ここでまず「四谷怪談」における 脇役の人物背景をご覧ください。
進藤源四郎:実説の赤穂藩士で不義士とされている人物ですが、芝居では伊右衛門の父親ということになっています。息子の伊右衛門は国元に居る時に塩冶家の御用金を横領した犯人でありました。芝居の終りの方で伊右衛門の不実を責めますが、自らは首をつって自害してしまいます。この源四郎は芝居のなかでは大きな位置を与えられていませんが、伊右衛門に「昔気質の偏屈親父」と言われて不義士の苦悩の心中を察せられる役と言えましょう。
お熊:伊右衛門の母親です。元高野家の娘ですが、源四郎と別れた後に師直に奉公して、塩冶家の顔世御前を師直に取り持とうとして判官刃傷の遠因を作る ことになっています。(このことは「隠亡堀」でのお熊の科白に出てます。)つまり、お熊が判官刃傷と塩冶家断絶の遠因を作ったということなのです。さらにお熊は「高師直のお直筆」を使って息子の伊右衛門を高野家に士官させようと画策 します。後に仏孫兵衛(小仏小平の父親)と再婚しますが、最後に蛇山庵室の場でお岩によってとり殺されます。このお熊は「忠臣蔵」との関連を考える時に非常に重要な存在です。
四谷左門:元塩治藩士。お岩・お袖の姉妹の父親ですが、零落して浅草観音周辺で物貰いをしてその日をしのいでいます。伊右衛門の御用金横領 の事実を知っており、伊右衛門をお岩と別れさせようとして、伊右衛門に殺されます。 父親を殺した犯人を知らないお岩は、伊右衛門に父親の敵探索と仇討ちを頼むのですが、これがまた伊右衛門の重荷になってきて、ついにはお岩に嫌気がさしてくることになるわけです。
このように「四谷怪談」の登場人物は「忠臣蔵」の世界と深く係っていることは明らかですが、いくつか気になる点が出てきます。例えば、伊右衛門の公金横領の話、お熊が師直に顔世への恋の取り持ちをするという話、あるいは「隠亡堀」でお熊が伊右衛門に手渡す「高師直のお直筆」なるものの存在などです。
これらの伏線は「四谷怪談」の台本だけ見てみるとあんまり効いているように思えません。お化け芝居として「四谷怪談」を見ている分には、あってもなくてもいい伏線のように思えます。初演の時にはテレコ上演したようだから・それで「忠臣蔵」に無理に関連付けるためにこういう設定をしたのだろうなどと、 吉之助も最初は軽く考えておりました。ところが「四谷怪談」と「忠臣蔵」との関連は見れば見るほど緊密なのです。南北がいい加減にこんな設定を書いたとは思えません。
だとすれば、「四谷怪談」の台本だけで見ると何やら詰まらない設定がテレコで上演した「忠臣蔵」の方に生かされているのではないか・もしかしたら「忠臣蔵」の方に「四谷怪談」の人物が活躍するような入れ事がされているのではないか・そうして両者がさらに緊密に関連するような形になっているのではないか 。つまり、「四谷怪談」に沿う形に筋の改変がされた南北版の「忠臣蔵」が上演されたのではないか。このような妄想がふと浮かんできたわけです。
ところが 残念ながら初演の時の「忠臣蔵」がどのような形で上演されたかということは、初演の時の「忠臣蔵」の台本が失われているので文献的にまったく分からないのです。数多い「四谷怪談」関連のほとんどすべての研究は、いつもの「忠臣蔵」がいつものように並べて演じれたのだろうという前提(あるいは思い込み)で成り立ってい ます 。 しかし、本当にどうだったのかは想像をするしかないわけで、吉之助にはまったくお手上げ 状態であったのですが、評論家・犬丸治氏がサイト「歌舞伎のちから」での記事「穂を摘んだ鷹たち〜失われた台帳」において、この問題に果敢に挑戦していらっしゃいます。
以下は犬丸氏の論文「穂を摘んだ鷹たち」の助けをもらいながら、「四谷怪談」初演時にテレコ上演された「忠臣蔵」がどんなものだったかを素人が無責任に気ままに想像してみようという試みであります。
御用金横領の件
まず伊右衛門の御用金横領の話ですが、これは「仮名手本忠臣蔵」にはまったく無い話です。これはじつは明和3年(1766)に書かれた近松半二の「太平記忠臣講釈」に源流があるそうです。「忠臣講釈」は数ある「忠臣蔵」の書替物のひとつで、昨今はあまり上演されませんが、四段目が俗に「石切りの勘平」として有名です。このなかに御用金紛失の件が出てくるのです。ここでの紛失は斧九太夫の仕業ということになっているのですが、この事件の責任を取って勘定役の早野三左衛門が切腹することになっています。三左衛門は、勘平の父親なのです。
話を「四谷怪談」に戻して、この御用金紛失の件に伊右衛門が絡んでいるとすれば、伊右衛門は「忠臣蔵」のドラマに予想以上に深く係わってくることになるでしょう。これを想像してみると、まず「忠臣蔵・四段目」判官切腹の後の城明け渡しの評定の場において こんな場面があったかも知れません。御用金の紛失が発覚して、九太夫(じつは伊右衛門に横領を指示したのが九太夫であった)がこの責を三左衛門に負わせて、申し訳に三左衛門は切腹します。この時点で、息子の勘平は殿の大事の場面にいなかった不忠に加えて、御用金紛失に絡む父親の責も負うことになるわけです。これでは勘平はとても義士の仲間に入れてはもらえません。
こうなると 「六段目」での勘平切腹までの事情も込み入って来るわけですが、勘平は紛失した御用金を穴埋めしなければならないから金が必要であったということになります。さらに勘平の殺したのが定九郎(九太夫の息子)であるわけですから、勘平は義父・与市兵衛の仇だけでなくて父・三左衛門の仇も半ば討ったことになるかも知れません。また「七段目」幕切れで由良助がお軽に手を添えさせて九太夫を刺させるのも、お軽に夫の仇・義父の仇である九太夫を討たせるという強い理由が出来ることにもなりましょうか。
さらに初演の三代目菊五郎がお岩と勘平を兼ねていることにもご注目ください。「六段目」の勘平はもしかしたら「御用金を盗んで父を切腹に追い込んだ犯人が憎い」と言って死んだかも知れません。紛失した御用金の工面のために女房・お軽は身を売ることになり、自分もまたここに死なねばならぬ羽目に陥ったわけです。だとすれば勘平の怨念の対象は伊右衛門ということになり、「四谷怪談」浪宅において同じく伊右衛門を恨んで死ぬお岩と完全に照応することになります。
「六段目」は第1日の一番目の最後に上演されるのですが、二番目の「四谷怪談」序幕・浅草境内の場において四谷左門が次のように言って伊右衛門の御用金横領を指摘しています。
「(左門が伊右衛門が許さない)申し訳は、いまだ御主人繁盛のみぎり、お国元にて御用金紛失、その預かり主は早野勘平が親三太夫、落ち度と相なり切腹して相果てた。その盗人もこの左門、よつく存じて罷りあれど、この詮議中お家の騒動。・・・何もかも言わずに居るは身が情け。それゆえ娘は添わされぬ」
この台詞で観客は「ああ、こいつが勘平を切腹に追い込んだ犯人なのか」ということはすぐ分かるでしょう。この冒頭で、伊右衛門が罰せられるべき人物であるのは誰の目にも明らかになり、「四谷怪談」と「忠臣蔵」は最初から深く結びつくのです。
師直の恋の取り持ち、さらに驚愕の事実が
伊右衛門の母親・お熊は、師直が顔世御前に横恋慕するのを取り持ちすることになっています。このことは「隠亡堀」の場でのお熊の台詞に出てきます。
「知りやる通り、昔のつれあい新藤源四郎殿と離別してより、師直さまへお末奉公。そのみぎり塩冶の奥方顔世どのを御前さまへ取り持とうとかかってみたが、しぶとい顔世のご不自由ゆえ塩 冶の騒動。その時、師直さまのおっしゃったは、その方もしか後々に難儀の身分となったなら、これを証拠に願うてこいと、これこれ、これはアノ、御前さまの御判のすわりし御書き物、御直筆にて、いわばわしへのお墨付き・・・」
つまりお熊は、判官刃傷とお家断絶の原因に深く係わっているわけです。想像してみると、「忠臣蔵・大序」冒頭において師直がお熊を伴って登場 して、兜改めの前にお熊が師直に恋の手引きのアレコレを伝授するなんて場面が浮かんできます。恋の取り持ちの場面が「忠臣蔵・大序」の方にあれば、「隠亡堀」の場を見ている観客は「ああ、あの大序の時の女がこの婆か、まったくトンデモナイ親子だな」とすぐ分かることになりますから、ますます「四谷怪談」と「忠臣蔵」は結びついていくのです。
さらにお熊の台詞では、お熊が息子・伊右衛門に渡す「師直のお墨付き」のことが気になります。これが一体何を証明するお墨付きなのかは「四谷怪談」だけを見ていると結局分かりません。どこにも書いてないのです。昔奉公したご主人が書いてくれた就職紹介状くらいの価値があるようにしか見えません。しかし、お家物の場合の「お墨付き」というのは、たいてい非常に価値があるものでドラマの展開のなかで行ったり来りするものです。もしそうならば「四谷怪談」での「師直のお墨付き」にはどの程度の価値があるものなのでしょうか。
犬丸氏はここで「高師直のお直筆」は、実は伊右衛門が高師直のご落胤であることを証明するものではないかと推測しています。その源流は、文政4年(1821)に初演された南北作の「菊宴月白浪」に登場する雇い婆・お虎の台詞です。ここでお虎は古骨買与五郎に対して、あなたこそ師直さまのご落胤だと言って次のように物語るのです。
「もともと私は高野の御家に腰元奉公、その頃親御師直さま、手廻りの女にお手を付けられ、ほどなく懐妊。奥方のご嫉妬強く、是非に及ばずお暇下され、月日重なりお前を産み落とすと、七夜のうちに母御は病死。私もそののちお暇もらひ、月日送るそのうちに、師直さまには去年の騒動・・・」
ここでは師直の書付けの入った守り袋が登場するのですが、この設定が「四谷怪談」では「師直のお墨付き」に変化しているのではないかと推測するのです。「四谷怪談」には伊右衛門が師直のご落胤だとはどこにも書いてありませんが、伊右衛門が新藤源四郎の実子でないことは「蛇山庵室」で源四郎が「離縁した女房の実子」と言っていることで分かります。もし伊右衛門が師直のご落胤ならば、高野家臣・伊藤喜兵衛が伊右衛門と娘を結婚させようとしたのは、お梅が伊右衛門に恋したからというのだけが理由なのではなくて、主家との絆を強固にしたいとの目的 があったに違いありません。そうでなければ、判官刃傷のことで主人師直に印象の良いはずがない塩冶浪人をわざわざ婿に迎えようとするのも不思議なことに思えます。また伊右衛門が師直のご落胤であれば、「忠臣蔵」の世界から見た時に伊右衛門が誅すべき存在( 単にお岩の敵であったからだけではない・まさに義士にとっては憎っくき敵・師直の一族ということなのです)である理由がますます強化されるということになります。
こう考えますと、「大序」冒頭には、師直がお熊に恋の手引きをしてもらう場面だけではなくて、我が子・伊右衛門が難儀ある時はこれを持って来いと言って師直が「お墨付き」をお熊に手渡す場面もあったのではないかと想像できるわけです。
さらに「隠亡堀」において直助が伊右衛門に向かって「なるほどお前は強悪だなあ」と言い、伊右衛門が「強悪にやあ誰がしたえ」と返す有名な場面も、これは七代目団十郎が実悪の大先輩・五代目幸四郎に対する敬意を込めたものだと言われますが、父・師直(幸四郎)に対して息子・伊右衛門(団十郎)がそう言っていると考えれば、これはなかなか意味深な場面だということになります。まさに伊右衛門は師直の悪を継いでいるわけですから。
なお、絵番付けでは「隠亡堀」が第1日目最後と第2日目の最初と二回上演されているようになっていますが、本当にそうなのかは疑問も提出されていて様々な論争がされているそうです。しかし、「大序」に師直がお熊にお墨付きを手渡す場面があるならば「隠亡堀」でそれが伊右衛門の手に渡っていることを観客に見せるのは意味があると思いますから、初日最後の「隠亡堀」上演は間違いない ように吉之助には思えます。また2日目冒頭に「隠亡堀」を上演して「お墨付き」の存在を印象付けておけば、最後の「蛇山庵室」で大事なお墨付きはネズミ(ネズミはお岩の怨霊の化身と考えてよい)に食い散らされてしまうのですが、2日目だけの観客にもその意味がよく分かる から親切というものでしょう。もし伊右衛門が師直のご落胤であるならば、このことは非常に重要です。これは伊右衛門の逃げ路がお岩の怨霊によって完全に断たれたということを意味するからです。だから 吉之助は「隠亡堀」は絵番付け通りに2日とも上演されただろうと想像するわけです。
さらに犬丸氏は「夢の場」に在原業平の「東下り」のイメージが託されているのではないかと推測しています。「夢の場」は幻想的で美しく「四谷怪談」のなかでも特異な位置を占めます。そこに見られる若殿姿の伊右衛門と田舎娘のお岩が出会うシーンが「伊勢物語」の「昔、おとこありける・・」というのを連想させるというわけです。これも非常に興味深いご指摘です。「四谷怪談」の登場人物のほとんどは「忠臣蔵」の世界からやって来た・つまり上方から流れてきた人たちであるからです。さらに伊右衛門が師直のご落胤であるとすれば、伊右衛門の 流転する数奇な運命は「貴種流離譚」の趣を呈してくるわけです。この幻想的な「夢の場」が一転して陰惨な「蛇山庵室」になってしまう という・発想の飛んだところが何と言っても「南北の妙味」でありましょう。
初演の三代目菊五郎が、お岩とともに与茂七、さらに「忠臣蔵」の由良助も兼ねていることも興味深いところです。与茂七がお岩の刑執行代理人であるということは別稿「与茂七と三角屋敷の意味」において考えたことがありますが、由良助もまた「四段目」において主人判官に「我が無念を晴らせよ」と復讐を託された人物なのです。(別稿「由良助は正成の生まれ変わりである」をご参照ください。)終幕において与茂七は伊右衛門を討ち・由良助は師直を討つことで、ふたつの「世界」は照応されて、同じ形に落ち着きます。伊右衛門が師直のご落胤ならば、まさにふたつの結末はぴったりと符合するのです。
「四谷怪談」から見た「忠臣蔵」
長々と書きましたが、以上は吉之助の想像に過ぎません。しかし、この想像が違ったとしても「四谷怪談」での伏線はそのまま原作にあるものですから「忠臣蔵」との基本的関係が変化するわけではありません。ただこ んな風に初演のテレコ上演のありさまを想像してみると、「四谷怪談」と「忠臣蔵」の関係がよりクリアに・より強固に見えてくるような気がしてくるではありませんか。
こう想像して見ますと「四谷怪談」と「忠臣蔵」というのは単純にふたつ並べて上演されて並列的・対立的に見比べられるものなのではなくて、二つの芝居が渾然一体となって・複雑に絡み合ってお互いの世界の響きが共鳴し合う形になっているように思われ ます。そのために南北は、初演の「四谷怪談」を「忠臣蔵」とのテレコ上演という特異な形態を意図的に上演したと想像できます。
ここでは「忠臣蔵」のドラマも、市井にある「四谷怪談」のドラマもまったく等価に置かれています。由良助の一力茶屋での遊びも、与茂七の地獄宿での遊びも同じ次元に並べられます。お軽は夫のために身を売り、お袖も夫のために身を売ります。これも同じ次元なのです。しかし、誤解しないで欲しいと思いますが、これは「忠臣蔵」の聖性を引きずり下ろして笑い飛ばそうというような南北の意図があるとは 吉之助はまったく考えていません。(このことは別稿「今日もまたそのようになりしかな」において考察しました。)
「忠臣蔵」は表の世界(建前の世界)・「四谷怪談」は裏の世界(本音の世界)というような対立構図に見るのではなくて、もっと大きく全体を「忠臣蔵」の世界で包み込む構図 を想像してみたいと思います。こうして、市井の世界に迷い込んだ伊右衛門もお岩も・すべての人間世界のドロドロが最後には「忠臣蔵」のあるべき世界に収攬されていく形になっていると思うわけです。
このように 「四谷怪談」での南北の仕掛けが成り立つためには「仮名手本忠臣蔵」が提示する完璧な義士像が観客の観念のなかにあるということが前提にあるのです。南北はこのような二つの世界が絡み合う構造を用意して、「忠臣蔵」の世界をよりリアルに生々しく再生させたのだと思っています。 吉之助には「四谷怪談」終幕にふる雪はやっぱりキレイに見えます。降る雪がすべてを静かに清めてゆきます。「今日もまたそのようになりしかな・・・」
夏狂言としての「四谷怪談」
「東海道四谷怪談」は文政8年(1825)江戸中村座で7月に初演されていますから・典型的な夏狂言です。「四谷怪談」は永くお岩さまの怪談芝居として上演されてきて、江戸での菊五郎家・上方では右団次(斎入)の洗練された演出が歌舞伎に伝わっています。
ところで、「四谷怪談」はお岩/伊右衛門が関連する場面だけ抜き出してみると・どの場面も何となく夏の雰囲気らしく思えます。お岩が醜い姿になって死ぬ「浪宅」は蚊帳が重要な小道具になっていることから分るように・もちろん夏の場面です。お岩/伊右衛門が美しい姿で登場する幻想的な「夢の場」は七夕祭りですから・これも夏です。一方、「隠亡掘」も「蛇山庵室」も盂蘭盆らしい雰囲気に思えます。百万遍の唱えられるなかで・提灯がパッと燃え上がって・そこからお岩の幽霊が現われるのも・いかにも夏らしい雰囲気です。
これは夏狂言の怪談芝居だからそのように思い込んでしまうせいもあります。しかし、脚本を読むとこれが実はそうではないのです。「隠亡掘」の場面は伊右衛門の行方を尋ねる伊藤の妻お弓の質問に対する直助の返事から・事件から四十九日以上経っていることは明白でして・つまり初秋のことになります。「夢の場」の舞台が廻ると「蛇山庵室」になりますが、「蛇山庵室」は外が真っ白な雪景色ですから・これは冬なのです。もしかしたら「蛇山庵室」の雪景色に観客は清涼感を感じるという効果があるかも知れませんが・それは副次的なもので、この場面の雪景色にはむしろかなり違和感があります。「えっ、この場面は夏じゃないのか?なんで雪なんだ?」という感じがします。この違和感を大事にしたいと思います。そこに「四谷怪談」を考える鍵があると思います。
お岩さまの怪談芝居としてだけ考えると・「四谷怪談」は夏の季節感で通してしまった方がずっとスッキリ来るのです。怪談芝居としての「四谷怪談」がひとり歩きしていくなかで、「三角屋敷」や「小平住居」があまり上演されなくなったのは・時間的制約だけがその理由ではなくて、ごく自然な流れであるのかも知れません。怪談芝居として「四谷怪談」を見る分には「忠臣蔵」の件は余計です。お袖の夫が与茂七である必然も・小仏小平の主人が潮田又之丞(これも四十七士)である必然もないわけです。
「四谷怪談」を現代的な視点で解釈することは興味深い試みです。男(伊右衛門)と女(お岩)の暗い情念の物語と読むことも、飽くなき自由を追い求める近代的性格の人物(伊右衛門)と解して・これを縛り絡め取ろうとする世間あるいは体制(お岩)の物語として読むことも出来るかも知れません。それならばいっそのことお岩/伊右衛門の件を中心に・思い切って「忠臣蔵」から離してしまった方が芝居の自由な解釈が可能になるかも知れません。
しかし、「四谷怪談」での与茂七の件の比重を重くしようとするのであれば、それは必然的に「四谷怪談」を「忠臣蔵」に結びつけることになります。そう考えると・この「四谷怪談」に季節のサイクルを与えているのは、「四谷怪談」のもうひとつの筋・すなわち佐藤与茂七に関連する「忠臣蔵」のサイクルから来るわけなのです。
大詰「蛇山庵室」がどうして雪景色であるかと言うと、ここで与茂七が白装束で現われるからです。ここに来て観客には日付刻限までが明確に分ります。それは大星由良助以下四十七士が高家討ち入りをする直前・つまり12月14日の前夜ということになります。与茂七はこの場で伊右衛門を討ち果たした後に高師直屋敷に駆け付けて、討ち入りに参加するのです。
つまり、与茂七の役割は「四谷怪談」を「忠臣蔵」の世界に結びつけることです。このことは「四谷怪談」の完全通しがもはや不可能で・場面の取捨選択をせねばならない現代においては大事なことです。お岩も伊右衛門も・直助も「忠臣蔵」から離れたところで生きていたとしてもおかしくない人物たちです。しかし、与茂七は四十七士の一員であり・「忠臣蔵」の世界から来ているのが誰の眼にも明白な人物です。与茂七が登場すると観客は「討ち入り」のことを思い出さざるを得ません。と言うよりも・観客の脳裏に「忠臣蔵」の世界を呼び覚ますのが与茂七の役割 なのです。
「歌舞伎素人講釈」では「三角屋敷」はお岩の代理として伊右衛門を討つ役割を与茂七に与える場であると解釈しています。(別稿「与茂七と三角屋敷の意味」をご参照ください。) 「四谷怪談」を見れば与茂七の件はお岩の件に対して脇筋のように思えます。しかし、それまではあってもなくても良いように思える与茂七の件が「三角屋敷」の場によって・お岩/伊右衛門の件にはっきりと絡んで来るのです。これが「三角屋敷」が「四谷怪談」のなかで背負っている役割です。つまり、与茂七を考えることは「四谷怪談」における「忠臣蔵の世界」の枠組みをどう捉えるかということになります。
お岩のプレッシャーの正体
ご存知の通り、文政8年(1825)7月江戸中村座での初演では「東海道四谷怪談」は「忠臣蔵」とテレコで上演されました。(これについては別稿「四谷怪談から見た忠臣蔵」をご参照ください。)何のために「四谷怪談」は「忠臣蔵」の世界に絡められているのでしょうか。
一般的な「四谷怪談」のイメージは上方で再演された「いろは仮名四谷怪談」など・その後に上演されてきた怪談芝居の「四谷怪談」によって作り上げられてきたイメージです。例えば 「首が飛んでも動いてみせるわ」という台詞は伊右衛門の性格を現す象徴的な台詞としてしばしば挙げられますが、これは実は「いろは仮名四谷怪談」で初めて登場する台詞で・南北の初演本には出てこない台詞です。とすれば・この台詞を以って南北の意図を議論するのはどうかと思います。これらをごっちゃにした形で・怪談芝居の「四谷怪談」がひとり歩きして・論じられることが多いのです。
しかし、正真正銘オリジナルの南北の「東海道四谷怪談」の場合は「忠臣蔵」 を切り離すことはできません。一般的に言われるような・「四谷怪談」を「忠臣蔵」のパロディーであるとか、「忠臣蔵」は表(建前)の世界・「四谷怪談」は裏(本音)の世界であると言う見方では「四谷怪談」は十分に読み解けないと吉之助は思っています。
伊右衛門は自分を縛ろうとする社会(あるいは世間)の「しがらみ」の疎ましさから逃避しようとしていることは確かです。「しがらみ」のひとつは公の問題・つまり赤穂浪士の高家討ち入りの問題ですが、一方、伊右衛門は私(プライヴェート)の場面においても「しがらみ」に追われています。それはお岩の父 四谷左門を殺した犯人を捜して仇を討つということです。(実はその犯人は伊右衛門なのですが、このことをお岩は知りません。)仇討ちの件で・伊右衛門はお岩からプレッシャー(圧迫)を受けています。それが伊右衛門がお岩を疎ましく思う遠因になっているわけです。
ところで、幽霊と化したお岩は伊右衛門に「恨めしい」とは言いますが・伊右衛門に「仇討ちをしてくだされ」とは言いません。生前のお岩は・愛する男伊右衛門が父の仇をとってくれるのが「その愛の証」であると思っていたはずです。「常から邪険な伊右衛門どの・・・ひょんな男に添いとげて、辛抱するも父さんの、敵を討ってもらいたさ」とお岩は言っています。「そうでなければ私はあなたとはとっくの昔に分かれていますよ」と言ってはいませんが、そうやって伊右衛門に無言のプレッシャーを掛けています。そういうところが伊右衛門には疎ましく感じられます。
恐らくお岩は伊右衛門が信用できない人間であることは薄々感じてはいるのですが、お岩はそうした内心の疑いより・世間体の方を大事にしているのです。伊右衛門に邪険されればされるほど・お岩はますます大義にしがみついていきます。しかし、伊右衛門が自分を裏切って他の女に走ったと知った時点で仇討ちの大義は消し飛んでしまいました。幽霊になったお岩は「仇討ちをしてくだされ」などと今さら言っても仕方ないのです。だから伊右衛門がますます「恨めしい」わけです。
ここでお岩が伊右衛門に与えていたプレッシャーの正体が明らかになります。それは「私を愛しているなら・私が望む通りのことをして」というプレッシャーなのです。これは間違いなく「かぶき的心情」です。別稿「その心情の強さ」をご参照ください。これは「私があなたを愛しているのと同じくらい私を愛して」の変形だと言えます。
だからお岩の怨念というのは私的なレベルだと言えますが、これが大詰「蛇山庵室」において一気に公的な意味を持つものに転化していきます。これは夫婦間のドロドロした喧嘩の果てに・夫が妻を殺してしまったという事件が法廷という公の場で裁かれるというのにちょっと似ています。「あの人は私を殺した悪い人だから・あの人を罰して」とお岩の幽霊は世間に訴えているのです。夫婦の間で起こった犬も喰わない諍いを公平に裁くのは厄介なものです。しかし、表沙汰になってしまったものは公の法律で裁かねばなりません。「妻を殺した」という事実だけで夫は裁かれます。「殺された」と言う事実だけで世間はお岩の味方です。伊右衛門が事情をいくら説明しても誰も理解してくれません。そんなものは犬も喰わないのです。だからお岩が刑執行人に与茂七を選ぶのは社会的な意味があるわけです。
お岩が刑執行人に与茂七を選ぶのは、それにふさわしいと誰もが認める資質を与茂七が持っているからだと考えられます。それは与茂七が塩冶義士であるということです。このことは未来(つまり芝居の結末)から逆転して考える必要があります。お岩が与茂七を選ぶのは与茂七がお岩の妹お袖の夫であるということとか・あるいはお岩の櫛にまつわる怨念の糸で与茂七が伊右衛門を討つのだと考えるのは、原因から結果への流れで芝居を見ようとしているわけですが、そうではなくて・芝居全体から構図を読んでいく必要があります。
お岩の怨念を公的な意味に結びつけるために塩冶義士である与茂七がお岩の妹お袖の夫でなければならないのです。伊右衛門が不義士であることも・結局はそのために設定されていることです。そのように芝居は設計されているのです。
社会とは鏡である
「夢の場」は綺麗なお岩と伊右衛門の姿を見せることが出来ますから・役者にとっても嬉しい場面のはずですし、この舞台が廻って・陰惨な蛇山庵室に転換するのも・南北 劇独特の妙味があって面白いのに、舞台にあまり掛からないのは実に不思議なことですね。この美しく幻想的な場面は蛇山庵室で半狂乱になっている伊右衛門がうなされながら見る夢です。「夢の場」はお岩と伊右衛門の不思議な関係を象徴的に表しています。
もともとお岩の父四谷左門が引き離そうとしたのを無理に一緒になっているくらいですから、伊右衛門はホントはお岩が好きであったのです。「夢の場」では伊右衛門がお岩を無惨に死なせたことをちょっぴり後悔しているらしいことさえ伺えます。ところが、そのような好きな女を相手にしていても(好きだからこそと言うべきか)・伊右衛門の心は酔い切れない。伊右衛門はどこか醒めています。そして、女の心のなかにどこか 恐ろしいものを感じています。そういう伊右衛門の心理が「夢の場」に表れています。
「そういうそなたの面差しが、どうやらお岩に・・・」/「似たと思うてござんすか。但し面影は冴えわたる、あの月影の移るがごとく、月は1ツ、影は二ツも三ツ汐(満汐)の、岩に堰かるるあの世の苦患を・・」/「ヤヤ、なんと」/「うらめしいぞえ、伊右衛門どの」
これは美しい娘の面差しが次第にお岩に変化したとも考えられますが、伊右衛門の心が娘の顔を醜く変えたとも言えます。あるいは物理的に娘の顔が変化したわけではなくて・伊右衛門の眼に変化したように見えただけと考えても良いかも知れません。つまりそこに伊右衛門の心の本質的な冷たさがあるのです。格好は良くて・女性にはモテるけれども、その生き方は虚無的で・周囲を不幸に巻き込んでいく冷たい性(さが)です。
結局、「四谷怪談」の陰惨な物語はすべて伊右衛門の虚無的で・自己中心的な性格が引き起こしたものであることがここで分ります。すべての事件(現象)が伊右衛門の性格に対する社会(世間)の反応として起こったものだと言うことになります。つまり、社会(世間)とは伊右衛門の性格を映している鏡なのです。
ここでは幽霊のお岩の姿がいつの間にやら社会(世間)の見方を代表しています。私的な怨念がいつの間にか公的な怨念に変化しているのです。ほんの出来心の・私的なレベルのつもりでやった悪事がいつの間にやら大事(おおごと)になってしまいます。考えようによっては、これは幽霊よりずっと恐ろしいことです。伊右衛門自身の行為とそれが引き起こした事件との因果関係の糸から、伊右衛門は決して逃れることはできません。こうして伊右衛門は最後には自らの因果の糸に絡め取られていきます。
幽霊の背負う真実
伊右衛門の置かれた状況を・個人と社会(あるいは世間)の対立構図で読むこと自体は必ずしも間違いとは言えないと思います。しかし、社会(世間)を個人の自由を束縛する「悪」という固定観念だけで見ようとするならば・やはり「四谷怪談」を読み間違えることになると思います。なぜなら人間は個人ひとりで生きているのではなく・共同体のなかで生きているのですから、「しがらみ」が人間を人間らしくさせるという場面も・それは確かにあるからです。「しがらみ」を拒否してしまうのは、人間であることを拒否するのと変らないのかも知れません。
確かに「世間のしがらみ」を呪いたくなる場面は現代においてもいろいろあるでしょう。現代芸術でもそれは大きいテーマになるものです。しかし、社会(世間)は人間性と敵対し・ 自由を求める個人の生き方を抑圧するものだと呪うだけでは、やはりちょっと底が浅くなると思います。
このことは「四谷怪談」だけでなく・南北作品によく出てくる幽霊に対する乾いた「笑い」を見ても分ります。幽霊はそれがなおも固執し・それ故に成仏できない・何かの「しがらみ」を背負っています。幽霊は嘘をつきません。そして、ただひたすらに訴えるだけです。そこに幽霊が引きずっている何がしかの真実があるのです。
「桜姫東文章」において・清玄が生きていた時にはあれほど逃げ回っていた桜姫が、驚いたことに「山の宿」では幽霊になった清玄の言うこと(桜姫の父・弟を殺したのは権助であることなど)を実に素直に聞くのです。どうして桜姫は「そんなことは嘘だ・信じられない」と幽霊に言い返さないのでしょうか。それは桜姫には幽霊の言うことが真実であることが分っているからです。
「三角屋敷」では・殺したはずの与茂七が現われて直助は驚いて「幽霊が来た、幽霊が来た」と大騒ぎをします。幽霊の存在を信じていない現代人が「幽霊なんて馬鹿なことで騒いでる」という目で芝居を見るならば、その騒動は南北が幽霊を戯画化して笑いのめしていると見えるでしょう。しかし、江戸の昔の人々は霊魂の存在を信じていたわけですから ・これはまったく逆に考えるべきでして、南北は騒ぐ人間たちの方を茶化しているのです。南北作品の幽霊の笑いのなかに庶民の健康な批判精神を見たいと思います。
シーニュとしての与茂七
与茂七がお岩の刑執行人であるという劇構造をシーニュ(記号・意味あるもの・象形文字)として観客に印象付けるためには、お岩と与茂七をひとりの役者が兼ねると言う方法が最も効果的な方法です。文政8年(1825)中村座での初演では三代目菊五郎がお岩と与茂七(さらに小仏小平)を兼ねて演じました。この配役なら南北の意図が観客にはっきりと実感されると思います。大詰では菊五郎は与茂七で舞台に出ていますから ・当然お岩は登場できないので、その代わりにお岩の化身である鼠が登場して伊右衛門を責めます。
お岩と与茂七を別々の役者が演じるのであれば、原作にはないけれど・大詰でこんな演出も考えられるかも知れません。大詰で討入装束姿の与茂七が現われて・伊右衛門に打ち掛かりますが・伊右衛門も必死で反撃をします。与茂七の形勢が不利になると・ドロドロが掛かってお岩が現われて与茂七の加勢をするのです。伊右衛門の動きがお岩によって止められます。そこで与茂七が反撃に出ます。これが何回か繰り返されて、ついに与茂七が伊右衛門を仕留めます。これならばお岩と与茂七との関係が観客に明確に理解できるかも知れません。
お岩の幽霊は伊右衛門の周辺の人々を圧倒的な力で殺していきます。最後ひとり残った伊右衛門をお岩はどんな形でとり殺すのでしょうか。お岩が伊右衛門にどんな形で対するのか。観客は固唾を呑んで見守ることになります。ここが怪談芝居のクライマックスです。ところが、お岩は伊右衛門を自らの手で殺すことをしないで・最後にこれを与茂七に任せてしまうのです。だから、大詰で 白装束の与茂七が現われて伊右衛門を討つのは、その一面真っ白の雪景色ともども観客にとって意外なことです。伊右衛門さえ与茂七に対して「なんで身どもを、いらざることを」と叫んでいます。その驚きこそが大事です。観客は「四谷怪談」が忠臣蔵の世界の大きな枠組みのなかに取り込まれて・まさに納まった瞬間を見るのです。これこそが時代物の醍醐味です。
ここで「四谷怪談」を時代物と書きましたけれども、ご承知の通り・一般的な歌舞伎の解説書では「四谷怪談」は生世話物に分類されています。しかし、本稿をここまで読まれた方はお分かりの通り・「四谷怪談」の骨格は忠臣蔵にあるわけで、「四谷怪談」は正しくは時代物と呼ぶべきなのです。登場人物の多くは上方から流れてきた者たちであり・武士言葉を使うことから、演技様式的にも時代物であることが言えます。(「四谷怪談」の姉妹編とも言うべき「盟三五大切」についても同じことが言えます。)「四谷怪談」は初演では「忠臣蔵」の二番目の位置に置かれていたわけですから、まあ、その点で純然たる時代物より世話物の方に傾いていることも事実ですが、しかし、「四谷怪談」を「忠臣蔵」のアンチテーゼであると考える限り「四谷怪談」の本質には迫れないと思っています。
時代物としての「四谷怪談」
「四谷怪談」大詰は与茂七が伊右衛門を斬りつけたところで・ドロドロになって・両人キッと見合って・そこで幕になります。伊右衛門がトドメを刺されるところまでは舞台では見せません。そうなると「果たして伊右衛門は死んだのであろうか」、このような疑問が出て来るかも知れません。しかし、その答えは明確です。もし伊右衛門が死なずに・生きているなら、与茂七は高師直屋敷討ち入りの現場に駆けつけることができなくなります。四十七士の討ち入りが成功したことは厳然たる観客の常識(歴史的事実)としてあります。だから、伊右衛門が与茂七に討たれないなんてことはあり得ません。このことは疑う余地もないことです。
伊右衛門が討たれるところを舞台で見せないで・「まず本日はこれ切り」とやることは、その芝居の結末(方向)が明確に定まったという事実があって・はじめて出来ることです。伊右衛門は死なないまま・宙に浮いた状態に置かれるのではなく、むしろこれは伊右衛門が生きたまま死刑台に乗せられ・ 首に縄を掛けられたことを意味するのです。そうすることでお岩の怨念のエネルギーが最大に高められるのです。
「デタント」という言葉をご存知でしょうか。東西冷戦状態(1960年後半から70年代にかけて)の米国と旧ソビエト連邦の政治対話の試みを指したもので、一般的には「緊張緩和」と訳されています。デタントは東西両陣営の軍事力が均衡し、「全面核戦争か平和共存か」という危機認識のなかで生まれたものでした。実は「デタント」は仏語のDétenteに発した語句で、弓をつがえて・引き絞り・相手に狙いを定めた形で互いに向き合った状態を表す言葉です。つまり、「緊張緩和」というのは正しい訳ではないのでして、デタントとは緊張が最高に高まって凍りついた状態を指しているのです 。
「曽我の対面」は曽我兄弟がその場で工藤祐経に襲い掛かって討ってしまわないのも、このデタント状態です。これは「引き分け・再試合」ということではありません。兄弟は仇敵に後日に再会を約してその時に必ず討つことが定まっているのですから、怨念のエネルギーはその時に向けて・より高められたのです。「今のところは生かしておいてやる」というように。そして兄弟は来るべき宿願の成就を確信します。そこに予祝性があるわけです。
「四谷怪談」の大詰も同様に考えられます。文政8年江戸中村座での初演では与茂七が伊右衛門を斬りつけ・両人キッと見合って・そこで幕になった後、舞台は転換して「忠臣蔵・十一段目・討ち入りの場」に続きます。お岩の怨念のエネルギーは最大に高められて「討ち入り」の歓喜のフィナーレへ爆発的に流れ込むのです。このためにお岩の刑執行人として ・四十七士の一員である与茂七が伊右衛門を確かに討たねばならぬのです。そのように南北の「四谷怪談」は設計されています。
こうしたことは「忠臣蔵」とのテレコではなく・「四谷怪談」だけが単独に上演される現代においてはどうでもいいこと なのでしょうか。そうではなくて、「四谷怪談」だけの上演でも・テレコ上演と同じ効果が引き出せるのではないでしょうか。もしそれが可能であるならば、それこそは 白装束の与茂七と降り続ける白い雪の効果なのです。
古い歌
別稿「時代物としての四谷怪談」の冒頭に、モーツアルトの歌劇「ドン・ジョヴァン二」第2幕フィナーレの六重唱の歌詞を掲げておきました。これは石像の訪問者の「悔い改めよ」と言う要求をドン・ ジョヴァン二が拒否して地獄に落ちた後に、ドンナ・アンナほかの登場人物たちが歌うフィナーレです。本稿はこのことについて考えてみたいと思います。
『そんなら、あの悪党は、プロセルピーナ(冥府の女王)やプルトーネ(冥府の王)と暮らせばいい。そして私たち、ああ、善人たちよ、私たちは楽しく繰り返そう、とっても古い歌を。これが悪人の最後だ!そして非道な者たちの死は、いつでも生と同じものなのだ!』
歌劇「ドン・ジョヴァン二」(1787年・プラハ初演)はロレンツォ・ダ・ポンテの台本ですが、ドン・ジョヴァン二(ドン・ファン)は中世期のスペインに伝わる伝説に出てくる人物です。女性を次々と誘惑する男が・その罪深い放蕩な人生のために罰を受け・地獄に落とされると言う・ファウストと同じ中世的な人物です。この作品には先行作がいろいろありまして、ダ・ポンテはそれらを参照しながら・台本を巧みにまとめています。このフィナーレの部分について言えば、1738年に ヴェネチアの劇作家ゴルドー二が書いた5幕仕立ての悲喜劇「ドン・ジョヴァンニ・テノーリオ」の幕切れに典拠があるとされています。その幕切れは次のようなものです。
『なぜなら、人はその生にふさわしく死に、天はすべて堕落する者を憎んで、罪人を罰することを欲する』
この幕切れは当時のバロック演劇の形式に則ったものです。「この世は神によって完全に支配されており、神さまは「善は善・悪は悪」と正しく判断をしてくださる、神の栄光がそこに示されている」というのが、この時代の芸能(演劇でも音楽においても)の主題でありました。ダ・ポンテは「私たちは楽しく繰り返そう、とっても古い歌を」と書いていますが、ここでダ・ポンテは古い時代の演劇のテーマをリフレイン(繰り返し)しようとしているのです。(このリフレインがどういう意味を持つかは後ほど考えます。)
吉之助が「四谷怪談」の論考冒頭に「ドン・ジョヴァン二」の歌詞を掲げた意図はこれでお分かりでしょう。「私たちは楽しく繰り返そう、とっても古い歌を」という言葉を「四谷怪談」の場合に当てはめるならば、それは「仮名手本忠臣蔵」を指すということになります。そのように吉之助は見て論考を進めておりますので、以下をそのようにお読みください。
同時代劇ということ
歌劇「ドン・ジョヴァン二」の時代設定は一見すると明確ではないですが、実は「ドン・ファン」伝説が誕生した17世紀のスペインではありません。それがはっきり分るのは第2幕第13場でレポレッロが晩餐の準備をしているところで・舞台上の楽師たちが奏でる音楽からです。それはその年(1787)にプラハで上演されて人気のヴィンセンテ・マルティン・イ・ソレルの歌劇「ウナ・コサ・ラーラ(珍事)」からの旋律、次に 前年(1786)にウイーンで初演され・当時やはりプラハで流行していたモーツアルトの歌劇「フィガロの結婚」のアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」の旋律です。「ウナ・コサ・ラーラ」には大喜びのレポレッロは、「もう飛ぶまいぞ」には「そいつはあいにくご存知さ」とそっけない態度です。これは楽屋オチということもありますが、歌劇の時代設定が1787年であること・つまりこれが同時代劇であるということを示しているわけです。
パリのバスティーユ監獄が襲撃されて・フランス革命が勃発するのは1789年のことです。(ちなみにモーツアルトが死去するのは1791年です。)つまり、歌劇「ドン・ジョヴァン二」は旧体制(アンシャンレジーム)期の作品ですが・すでに内面に沸々とたぎる革命への息吹きが時代のなかに漂い始めた時期の作品だと言うことです。実際、歌劇「ドン・ジョヴァン二」を読むためにはこれが同時代劇であるという認識が必要です。
一方、「四谷怪談」は文政8年(1825)江戸中村座での初演で「忠臣蔵」とテレコで上演されていることから分るように、世界を太平記に取っています。ということは室町時代ということなのですが、しかし、誰だって赤穂義士の討ち入りは元禄時代の事件であったこと・それを室町時代に当てはめて劇化していることくらいはご存知なのですから、「四谷怪談」もやはり間違いなく同時代劇なのです。 (ここでは元禄と文政のタイムラグは同じ江戸時代のこととして無視できます。)「四谷怪談」には浅草寺雷門・隠亡掘・蛇山などまさに同時代の江戸であることを示す地名と風俗がたくさん出てきます。無理に「忠臣蔵」に関連付けようと言うなら・江戸を鎌倉に・浅草寺を極楽寺にでも移すことをしたのでしょうが、南北はそんな矛盾などへっちゃらで・同時代劇を堂々と主張しています。
したがって、歌劇「ドン・ジョヴァン二」も・「四谷怪談」も同時代劇なわけですが、その時代設定には二重構造があるのです。ひとつは主人公がアイデンティティーを発するところの古い時代です。もうひとつは、そこから発展変革して・新たなものを生み出していこうという新しい時代がすぐそこに来ているということです。大事な点は新しい時代が必ずしも旧時代のものを全否定しているわけでないということです。もちろん否定の要素もありますが・反発あり・ひねくれあり・愛情あり・郷愁あり、なかなかその思いは複雑なものです。旧時代は故郷であり・父親であることは間違いないからです。しかし、息子が成長するためには一度は父親と対決せねばならないということもあるようですね。
ピーター・シェーファーの戯曲「アマデウス」(映画化もされました)冒頭では、「ドン・ジョヴァン二」序曲冒頭の和音が父レオポルドとの確執のなかでの・息子ヴォルフガングの想いとして印象的に扱われました。ドン・ジェヴァン二を地獄に落とす石像の訪問客に父レオポルドのイメージが重なります。したがって「私たちは楽しく繰り返そう、とっても古い歌を」という古い歌は、機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキーナ)のように・劇の最後に取ってつけて歌われる形式的な歌ではあり得ないのです。 しかし、リフレインされる古い歌は、 同じ歌であっても・もはや昔と同じようには歌えません。「四谷怪談」における「忠臣蔵」もそのように考える必要があると思います。
引き裂かれたドン・ジョヴァン二
歌劇「ドン・ジョヴァン二」は1787年にプラハで初演され・成功を納めましたが、その後ただちに人気作というわけではなかったのです。モーツアルトの音楽の素晴らしさを認めつつも、不道徳で怪しからぬ内容のオペラであるとされた時代が長く続きました。19世紀には「ドン・ジョヴァン二」は「光と闇のドラマ」として上演されることが普通でした。主人公ドン・ジョヴァン二は黒い衣装を身にまとい、悪魔に魂を売ったデモーニッシュな人物として描かれました。そして、女性から女性へと永遠に彷徨えるドン・ジョヴァン二を救い出すのが、彼を憎みつつも・抗いがたく愛しているドンナ・アンナです。ハッピーエンド的なフィナーレの六重唱はカットされて、オペラは石像の訪問客によってドン・ジョヴァン二が地獄に落とされる場面で悲劇的に締められたものでした。19世紀的な感性は予定調和的なフィナーレを拒否したのです。この六重唱についてカーマンは次のように書いています。
『このエピローグは、問題に対する答えをいっさい与えてくれない。それはただ、ドンのいない人生がいかに退屈なものかということを示すだけである。』
つまり、ハッピーエンドの六重唱は取るに足らないと言うわけです。ドン・ジョヴァン二は飽くなき理想を求めて既成道徳に反抗した人物である・そのような不道徳な人間 は地獄に落とされなければならない・・・そう言いながら、逆に言えばそれほどに19世紀的感性はドン・ジョヴァン二の悪魔的な魅力に抗し難く捕われていたと言うことです。
歌手で言うならば、チェーザレ・シエピあるいはティト・ゴッビの歌うドン・ジョヴァン二の重厚かつ悪魔的なイメージでしょうか。幸い1954年ザルツブルク音楽祭でのシエピのドン・ジョヴァン二(指揮はフルトヴェングラー、演出:グラーフ)の映像がDVDで見られますが、その舞台は19世紀のドン・ジョヴァン二観の影響を濃厚に引きずっています。(注:この舞台ではフィナーレの六重唱は演奏されています。)
黒い衣装に身を包み・虚無的かつ悪魔的な魅力を持つドン・ジョヴァン二のイメージ、これは歌舞伎の「色悪」のイメージにどことなく通じます。色悪の魅力とは何でありましょうか。 彼らはまったくどうしようもない奴で、やっていることはとんでもない事なのです。しかし、彼らは自分を取り巻く閉塞した状況を自らの行動で打開しようとする意志は持っている人間と言えるかも知れません。状況に不満を感じながら何も変えようとしない善人たちより、もしかしたらその点においてのみ・ちょっとは見所がある奴なのかも知れません。多分そのことが(そのことだけが)歌舞伎の色悪を魅力的にしているのです。
行き過ぎた急進性
中世以来、ドン・ジョヴァン二が不道徳であるとされてきた背景は、彼が単に女たらしであるということだけではありませんでした。(女にモテるということはある意味でいつの世でも男の願望なのですから 。)彼が無神論者あるいは無政府主義者に見えたということにあります。ドン・ジェヴァン二の従者であるレポレッロの歌う有名な「カタログの歌」の歌詞を見てみます。
『可愛い奥様、これが目録です。私の旦那が愛した女たちの、この私が作った目録なんですよ。御覧なさい、私と一緒にお読みください。イタリアでは640人、ドイツじゃ231人、フランスで100人、トルコで91人、だがスペインじゃもう1003人。そのなかにゃ田舎娘もいれば、下女もいるし、都会の女もいる。伯爵夫人、男爵夫人もいれば、侯爵令嬢、王女さまもいるし、あらゆる身分のご婦人、あらゆる姿かたち、あらゆる年齢のご婦人がおりますよ。(略)お金持ちの女だろうが、醜くかろうが、美人だろうが我は張らぬ。ぺティコートさえつけてりゃ、あの方が何をするかはご存知でしょ。』(第1幕第5場:「カタログの歌」)
ドン・ジョヴァン二は、身分も金も・年齢も美醜も関係なく・女たちを分け隔てなく愛します。その意味でドン・ジョヴァン二は、当時は既に形骸化していた封建領主の特権である初夜権を振りかざし・使用人のスザンナを追い駆け回す歌劇「フィガロの結婚」(1786年ウイーン初演)のアルマヴィーヴァ伯爵の願望の延長線上にある存在です。アルマヴィーヴァ伯爵はひと夜を要求し、ドン・ジョヴァン二はすべての夜を要求するというわけです。 ドン・ジョヴァン二は飽くことを知りません。決して妥協をしないのです。だから、女たらしの貴族ドン・ジョヴァン二は中世に生まれた人間像であり、旧体制(アンシャン・レジーム)の落とし子なのです。まずこの点を押さえて置く必要があります。
さらにもうひとつ、女たらしのドン・ジョヴァン二はもちろん「女の敵」ですが、実はそれ以上に「男の敵」なのです。ドン・ジョヴァン二が 男にとって危険なのは・その男から妻あるいは恋人を奪い取るという意味ももちろんありますが、それだけではありません。ありとあらゆる階級の女を誘惑し・その魅力の虜とすることで、男たちが作り上げ・女たちもそこに組み込まれているところの社会構造・そして社会道徳を根底から揺さぶる ということです。女たちはドン・ジョヴァン二の魅力に取りつかれ、ドン・ジョヴァン二によって彼女たちが囲われていたところの社会的拘束から自由になれると感じるのです。それは一時的な幻想であり・後には破滅が待ち受けているのですが、しかし、女が一度は夢見るだけの価値がある幻想でありました。
これはあらゆる階級の男たちが阻止したいことでありました。だから男たちの抵抗が強ければ強いほど、ドン・ジョヴァン二の意欲は高まるのです。障壁が多いことがドン・ジョヴァン二をそそるのです。それが証拠に・カタログの歌の歌詞を見れば、ドン・ジョヴァン二の誘惑した女の数は一夫多妻のトルコで91人と一番少なく、宗教的 規制の強い保守的なスペインにおいて1003人と圧倒的に多くなります。
ドン・ジョヴァン二は女たちのみならず・男たちとも対立し、あらゆる階級と折り合いません。旧体制の出身でありながら旧体制と対立し、旧体制を否定しながら・旧体制のみならず・次の時代に台頭していく新体制とも折り合わないのです。そこにドン・ジョヴァン二の 行き過ぎた急進性・革新性があります。それゆえドン・ジョヴァン二は不道徳であるとされたのです。
19世紀の伊右衛門
文政8年(1825)江戸中村座初演では「四谷怪談」は「仮名手本忠臣蔵」とテレコで上演されました。しかし、その後の「四谷怪談」はお岩の怪談芝居として人気になり・単独で の上演が繰り返されてきました。お化け芝居として上演されるにつれて・「忠臣蔵」との関連が次第に弱くなっていきます。お岩をさらに怖くしようとするならば、その怨念の対象である伊右衛門もそれにふさわしい残忍な悪人でなければなりません。こうしてお化け芝居としてのお岩の肥大化につれ て、伊右衛門は極悪人に次第に仕立て上げられていきます。
幕末期に上演されていた南北作品は「四谷怪談」と「馬盥の光秀」くらいになって南北は影が薄くなりますが、明治になると西洋の近代劇のセンスで再評価されて、南北は再び脚光を浴びるようになります。伊右衛門は封建社会に敢然と反抗し、あくなき自由を求めるニヒルな近代人的性格を持つ人物であると解釈されました。「首が飛んでも動いてみせるわ」という台詞 (実はこれは初演の台本にはなく、大坂での再演で付け加えられた台詞です)が、伊右衛門のふてぶてしい反抗精神を示すものだとされました。現代の伊右衛門のイメージはこうした過程で出来上がったものです。
こうした伊右衛門の「色悪」の印象は、19世紀における「引き裂かれたドン・ジョヴァン二」解釈と似ているところがあります。その背景に19世紀の共通した時代感覚がある のです。ひとつには社会経済が大きく変化し・個人に対して状況が重く圧し掛かってくる世紀末的状況がありました。19世紀は社会倫理の基準が揺らいでいた時代であったのです。
ドン・ジョヴァン二は究極の恋を求めて苦悩する放浪者であると見なされました。ドン・ジョヴァン二ほどの色事師ではないにせよ・伊右衛門の「色悪」のイメージにもこれと似た・「色に掛けて世を渡ろうとする悪人」というイメージが重ねられています。そこでは個人に重く圧し掛かってくる状況の存在・その非人間性が強く意識されています。その非人間的なものは醜く恐ろしい顔をして・伊右衛門に重圧を掛け・どこまでも執拗に追いかけてくるのです。しかし、伊右衛門は決して妥協をしません。あくまでも自由を求めて逃げ回わります。19世紀的な感性は伊右衛門をそのような人間であると見たわけです。
軽やかなドン・ジョヴァン二
19世紀の感性は、ドン・ジョヴァン二の地獄堕ちの場面を重要視しました。地獄堕ちの場面で物語は悲劇的に締められ、予定調和のハッピーエンドの六重唱は省かれました。
騎士長「悔い改めるのだ、生活を変えるのだ、最後の時なのだ。」ドン「いやだ、いやだ、わしは悔い改めはせぬ、わしから離れてくれ。」騎士長「悔い改めるのだ、悪党め」ドン「いやだ、頑固な老いぼれめ。」騎士長「悔い改めるのだ」ドン「いやだ。」騎士長「悔い改めるのだ」ドン「いやだ!」(第2幕第15場)
こうしてドン・ジョヴァン二は地獄に落ちるのですが、19世紀の感性はこのドン・ジョヴァン二の地獄落ちを彼の「選択」の結果であると読みました。ドン・ジョヴァン二は騎士長の石像に「悔い改めよ」と迫られ、これを「いやだ」と拒否します。これはつまり、ドン・ジョヴァン二を悔い改めることを敢然と拒否し、もう片方(地獄行き)を選択したと19世紀の感性は読んだのです。
これは「究極の選択」と言われるものです。例えばリンゴとミカンとどちらが食べたい?と聞かれて、もしあなたがリンゴを取るならば・あなたはミカンを拒否したことにになる。いや、別にミカンを拒否したつもりはないとあなたは言うでしょうが、究極の選択ではそういうことになるわけです。そこに選択の重みがあり、選んだことの責任・ 選ばなかったことの負い目が常につきまといます。ドン・ジョヴァン二の場合はそれは「悔い改めるか・さもなければ地獄落ちか」と言う究極の選択です。永遠の誘惑者は悔い改め・生活を正すくらいならば・あえて死を選んだと、19世紀の感性はそこにドン・ジョヴァン二の悲劇性を見たわけです。
しかし、別の見方ももちろんあり得ます。そもそも「悔い改めるのだ」と言われてドン・ジョヴァン二が「いやだ!」と叫んだのは「選択」したということなのだろうかということです。これがもし「選択」でないならば、ドン・ジョヴァン二はその重さから解き放たれることになります。そのような軽やかなドン・ジョヴァン二があり得るのではないでしょうか。なぜならばドン・ジョヴァン二は女性とあらば片っ端から誘惑するのですから。女性を選ぶなんてことは決してないのですから。ドン・ジョヴァン二は生まれながらの誘惑者 なのですから、選ぶなんてことは絶対しないのです。
実は「ドン・ジョヴァン二」には、黒い衣装を身にまとい・悪魔に魂を売ったデモニッシュなイメージとはまったく異なる・もうひとつの系統の演出が存在します。それは、きらめく純白の衣装に身を包んだ・華やかな伊達男ドン・ジェヴァン二です。その代表的なものは、イタリアの名歌手エツィオ・ピンツァの演じる軽やかな誘惑者としてのドン・ジョヴァン二で しょう。幸い1942年メトロポリタン・オペラでの素晴らしいライヴ録音(ブルーノ・ワルター指揮)が残されています。現代の舞台演出では、このような 「軽やかな」ドン・ジョヴァン二が主流になっています。
同じような役柄解釈の変化の例としてヴェルディの歌劇「オテロ」のイヤーゴが挙げられます。イヤーゴもちょっと昔まではいかにも腹に一物ありそうな・虚無的な暗い人物に描かれたもので した。これもいかにも十九世紀的なイメージです。しかし、現代ではむしろ優男で・明るい感じに描かれることが多くなっています。イヤーゴは優しい顔をしながらオテロに近づき・嘘をささやきます。オテロに対して悪意があるのか・それとも騙すのが楽しい性格なのか・それさえ も分りません。
このようにドン・ジョヴァン二やイヤーゴの性格が「軽やかさ」の方に変化していくことは、そのまま現代の感性のある部分を映し出しています。それは複合的な状況の不条理性を問うものかも知れません。
軽やかな伊右衛門
軽やかなドン・ジョヴァン二の理論的先駆けとなったのがキルケゴールです。キルケゴールは著書「あれかこれか」のなかでドン・ジョヴァン二論を展開し、当時一般的であった「魂の救済を求めて苦悩するドン・ジョヴァン二」の重苦しいイメージを取り払い、絶え間ない浮遊状態にあり・軽やかに誘惑するドン・ジョヴァン二像を作り上げました。
『モーツアルトの「ドン・ファン」は非道徳的だとよく言われる。だが今や正しく理解すると、それは賞賛でこそあれ、非難を意味するものではない。このオペラでは誘惑者について単に語られているだけではない。そこに誘惑者がいるのだ。そして、音楽が個々においてしばしば十分な誘惑的な効果を発揮していることも議論の余地がない。(中略)このオペラが決定づけている方向はすぐれて道徳的であり、このオペラがもたらす印象はと言 えばすぐれて善的なのである。と言うのも、すべてに偉大さが浸透しており、あらゆる情熱、喜びと厳粛、享楽と憤激、これらが作為のない・真のパトスとなってあふれ出ているからである。』(キルケゴール:「あれかこれか」)
本稿をここまで読めば吉之助の意図は大体お分かりかと思いますが、吉之助は伊右衛門の色悪的イメージの解体を試みたいと思うのです。色悪の伊右衛門は明治期の南北解釈から一歩も発展していないように思われます。伊右衛門から色悪の重さを取り払いたいと思うのです。
もちろんドン・ジョヴァン二と伊右衛門はそれぞれ異なった性格を持っています。また作品が描いている状況もまたそれぞれ異なります。しかし、ドン・ジョヴァン二をデモーニッシュな性格に読み込もうとする感性と・伊右衛門を色悪に読み込もうとする感性には共通した19世紀の重苦しい 世紀末的感性が見られます。そう読み込むことに19世紀の感性の必然があるのは当然のことです。しかし、21世紀にはもう少し別の見方をして見たいと思うのです。その共通した重苦しさを取り除くと、恐らく鶴屋南北が初演時に想定したところの・軽くて薄っぺらな伊右衛門が現われてくるであろうという目算が吉之助にはあります。
その取っ掛かりがキルケゴールにあります。「このオペラでは誘惑者について単に語られているだけではない・そこに誘惑者がいるのだ」と言うことです。生まれながらの誘惑者には「選択」する必要などありません。なぜなら誘惑者そのものなのですから。だからドン・ジョヴァン二に「悔い改めろ」などと言っても意味がないことになります。そのことがドン・ジョヴァン二の軽やかさを生みます。ドン・ジョヴァン二は選択の負い目など負うことはないのです。
伊右衛門の場合を考えて見ます。伊右衛門は塩冶浪人ですから・もちろん武士です。しかし、御用金紛失の不祥事に深く関わりのある人間であり・忠義心に欠けた人間なのは明らかです。何かデカいことやってやるという気がないわけでもないのですが、浪人なのに・積極的に職を求めようとせず・フラフラとしており・努力する気がない。たまたま隣家の娘が惚れてくれたおかげで伊藤家の婿になって・高師直に仕官しようとするわけですから、反体制の意識があるようにも思えません。要するに伊右衛門は行き当たりばったりに生きている男です。「四谷怪談」が初演された文化文政期にはこのような禄を失って路頭に迷う浪人武士が多くなっていて・社会問題になりつつあったことを頭に入れておかねばなりません。定職につく気が無くて・働く意欲もなく・ただブラブラと暮らす若者が増えている現代もちょっとこれと似た状況があることに気がつくと思います。
つまり、伊右衛門は本来が軽い・薄っぺらな性格なのです。厳密に言えばこれは「軽やかさ」とは感じがちょっと違いますが、「重苦しさがない」ことでは共通していますし、役としてある種の魅力を帯びなければ面白い芝居にならないわけです。だから、吉之助は ここで「軽やかな伊右衛門」のイメージを提起したいと思います。伊右衛門はお岩に付きまとわれながら「恨めしい、悔い改めよ、生活を変えるのだ」と言われて逃げ回っています。しかし、伊右衛門は「選択」する気などさらさらないのです。なぜならば彼はこうなってしまったのが自分のせいだと思っていない からです。何が悪かったのか・何を反省していいのか、伊右衛門は根本的に分っていないのです。だから、伊右衛門は「選択」する負い目も感じることはないのです。これが伊右衛門の「軽やかさ」の正体です。
「軽やかな伊右衛門」を「無責任な伊右衛門」と言い換えても良いと思います。古い流行語で恐縮ですが植木等的な無責任ということです。 もっとも昭和30年代の無責任男はアッケラカンとしてましたが、平成の無責任男はやや投げやりの風があるかも知れません。無責任男を「いい加 減にしろ」とか「お呼びじゃない」とぶっ飛ばしてコントは終わりになるわけですが、まあ、「四谷怪談」が道徳的だと言うのもあまり大げさに考えずに・その程度に考えておけばよろしいことだと思います。
アイロニーとしてのお岩
「四谷怪談」において伊右衛門を討つのが封建社会の論理であるという見方があります。これは必ずしも間違いとは言えませんが、もう少し分析が必要です。 伊右衛門を討つのは奉行所のお役人のような・お上の権威の直接的な執行者でないのです。伊右衛門を討つのは、四十七士のひとりである佐藤与茂七です。四十七士はもちろん武士ですが、正確には禄を離れた元武士(浪人)です。つまり、四十七士は封建社会の側の執行者ではないのです。しかし、彼らは正義の観念は正しく持っている人間であって・「まともな武士」であるということが言えます。「忠臣蔵」の四十七士は江戸の世にあっては武士の鑑であったということを忘れてはなりません。
つまり、伊右衛門を討つのは「体制」ではなく・「まともな武士」だということです。言い換えれば「真人間・道徳的に正しい人間」と言っても良いと思います。だから、与茂七が伊右衛門を討つ「四谷怪談」の大団円が倫理的な意味合いを帯びるのです。四十七士が守護する「忠臣蔵」の世界が「四谷怪談」を包み込むことになります。これが「四谷怪談」の大団円の意味です。
キルケゴールが「このオペラが決定づけている方向はすぐれて道徳的であり、このオペラがもたらす印象はと言えばすぐれて善的なのである」と言うことは、「四谷怪談」にもそのまま当てはまります。 その幕切れを見れば「四谷怪談」 もまた道徳的であり・善的であると言うことができます。このことは「忠臣蔵」に絡め取られる時代物としての大団円から引き出されてくるものです。そこに南北の健康な批判精神が見えてきます。さらにキルケゴールの「ドン・ジョヴァン二像」を見ていきます。
『オペラの登場人物はキャラクターとして見通されるほど反省されている必要はない。したがって、当然、オペラにおいてはシチュエーションは完全に発展されたり、展開されたりはできないということになる。同じことが行為(ハンドリング)にもあてはまる。厳密な意味で行為(ハンドリング)と言われるものは、意識と結びついてある目的に向かう行動のことであるが、これは音楽の表現能力の手の届かないところのものだ。そしてオペラにあるのは、いわば直接的行為のみである。「ドン・ジォヴァン二」では、この両者が該当する。行為が直接的行為そのものなのである。私はここで、ドン・ファンがいかなる意味で誘惑者であるか、ということを思い出す。また、行為が直接的行為であると言う・そのことが反映して、この作品ではアイロニーが極めて大きい役割を果たすことになる。なぜなら、アイロニーは直接的な生の鞭・懲らしめであり、また常にそうなのだ。一例を挙げてみると、騎士長の登場はすさまじいアイロニーである。ドン・ファンはあらゆる妨害に打ち勝つ。が、人は亡霊を殺すことはできない。シチュエーションは徹底して気分によって運ばれる。』(キルケゴール:「あれかこれか」)
ここでキルケゴールは「ハンドリングHandling」という言葉を使っています。「ハンドリング」については別稿「近松心中論」で引用したように・ワーグナーも同じ言葉を使っています。なお、キルケゴールの「あれかこれか」は1843年の出版で して・ワーグナーが初めてこの言葉を使用した1859年より早いもので、これはワーグナーの影響を受けたものではないことが明らかです。また研究者に拠ればワーグナーがキルケゴール の本を読んだ形跡はないそうです。したがって、ふたりがそれぞれ独自の思索から「ハンドリング」という概念にたどり着いているわけです。
「ハンドリング」について、キルケゴールは「直接的な行動・行為」としており・ワーグナーは「劇(ドラマ)における内的な移行手法」のことを言っています。その共通 したコア・イメージは「たゆまなく浮遊し・揺れる状態」ということです。つまり、存在そのもの・生き方そのものが揺れているということです。キルケゴールはそこにドン・ジョヴァン二の軽やかさを見ているわけです。
伊右衛門のイメージは絶えずユラユラと浮遊しています。ある時は極悪人のようでもあり・ふてぶてしく・虚無的でもあり、ある時は情けない小心者のようでもあります。そしてある時は伊藤家が婿に迎えようとするくらいだから立派な男にも見えたのでありましょう。お岩も一度は惚れた男です。また伊右衛門はある時はお岩を愛し・慕い ・ある時は邪険に毛嫌し、またある時は怖れて逃げ回るのです。伊右衛門の行動は一貫性・持続性がなくて、実に「軽い」のです。恐らく伊右衛門なりにその時々の真情があるのだろうと思います 。しかし、そのことは他人には分かりません。このような分裂した様相がある意味で現代的にも思えます。このような伊右衛門の生き方そのものを懲らしめる存在(アイロニー)としてお岩の怨霊があるのです。
騎士長「悔い改めるのだ、生活を変えるのだ、最後の時なのだ。」ドン「いやだ、いやだ、わしは悔い改めはせぬ、わしから離れてくれ。」騎士長「悔い改めるのだ、悪党め」ドン「いやだ、頑固な老いぼれめ。」騎士長「悔い改めるのだ」ドン「いやだ。」騎士長「悔い改めるのだ」ドン「いやだ!」(第2幕第15場)
お岩の怨霊は伊右衛門の裏切りを責めているのではなく、もっと深いところで・伊右衛門と言う存在に対するアイロニーなのです。 伊右衛門はお岩を裏切ったのではなく・つまり「選択」をしたのではなく・単に放り出して逃げただけなのかも知れません。ここにおいて「四谷怪談」の時代物としての幕切れの意味が見えてきます。
鳴り響く気分
『あらゆる劇的シチュエーションと同じく、音楽的シチュエーションも同時的なものを持つが、力の働きは一種の交響、一種の共鳴であり、調和であり、音楽的シチュエーションの印象は、ともに鳴り響くものを共に聴くということによって生じる統一である。劇が反省しつくされていればいるほど、ますます気分は明白に行動(ハンド リング)として現われる。行動(ハンドリング)が少なければ少ないほど、ますます叙情詩的契機が有力になる。このことはオペラにおいてはまったく当を得ている。オペラは性格描写や行動のなかにはあまりその内在的な目的をおいてはいないが、それはオペラがあまり充分に反省的でないからである。それに反してオペラのなかでは、反省されない実態的な情熱が表現される。音楽的シチュエーションは、分離した声の多数における気分の統一に存する。音楽が声の多数を気分の統一のなかに保ちうるということこそは、まさしく音楽の特異な点である。」(キルケゴール:「あれかこれか」)
ここでキルケゴールは演劇とオペラのシチュエーションの対比を行っています。一般的に西洋近代演劇でのシチュエーションは作品の主人公に集中し・他の登場人物は主人公との関係において相対的な位置を占め るものです。言い換えれば、主題が明確になればなるほど・副人物たちはそのなかで相対的な絶対性を持つようになります。逆に演劇が気分に支配される要素が強い 場合には、そのような劇は主題が明確でないという印象になります。これは近代演劇においては欠点になるのですが、オペラにおいてはそうではないとキルケゴールは言 っています。だからオペラにおける登場人物は徹底的に反省されている必要はないともキルケゴールは言っています。この意味において歌舞伎の劇的シチュエーションはオペラのそれに近いものであることが理解できると思います。 歌舞伎においても登場人物は徹底的に反省される必要はないのです。
オペラの登場人物はそれぞれ勝手に振舞っているように見えますが、実はそれらはすべてひとつの「鳴り響く気分」によって支配されています。それは「一種の交響、一種の共鳴であり、調和であり、音楽的シチュエーションの印象はともに鳴り響くものを共に聴くということによって生じる統一」 なのです。オペラの音楽の内的気分の統一は幕切れ・つまり最後の協和音による終結において果たされます。歌劇「ドン・ジョヴァン二」が古典的な構図を持つのはそれ故 なのです。逆に言いますと、終結を果たすためにオペラは幕切れに古典的な構図を求めるのです。
「ドン・ジョヴァン二」という同時代オペラ(それは非常にラジカルな試みでありました)は無事に終結を迎えるために・もう一度ドン・ジョヴァン二芝居の原型を回顧する必要がありました。ダ・ポンテはゴルドーニの先行作の幕切れを振り返り、リフレイン(繰り返し)をしているのです。そこで繰り返される古い歌はもはや同じ歌ではあり得ないのですが。
『そんなら、あの悪党は、プロセルピーナ(冥府の女王)やプルトーネ(冥府の王)と暮らせばいい。そして私たち、ああ、善人たちよ、私たちは楽しく繰り返そう、とっても古い歌を。これが悪人の最後だ!そして非道な者たちの死は、いつでも生と同じものなのだ!』
「四谷怪談」幕切れにおける佐藤与茂七の討ち入り装束・繰り返される「仮名手本忠臣蔵」の古い歌もまさに同じ意味を持つのです。鶴屋南北は「四谷怪談」の同時代劇に古典的構図を持たせるために・古い歌をリフレインしているのです。「仮名手本忠臣蔵」は赤穂浪士の討ち入りという江戸の同時代の出来事を室町時代の架空の出来事として劇化したものでした。だから「忠臣蔵」は 伊右衛門にとっての古い歌なのです。伊右衛門はそこから発し・そこから逃げ出し・そして再びそれに取り込まれます。
ここで大事なことは、古典的構図を得るために幕切れは協和音で終結しなければならないということです。幕切れの協和音とはすなわち、すべてを「然り」と変えるものです。協和音は根本的に肯定を意味するものです。「四谷怪談」の世界が「忠臣蔵」の世界と対立し・これを否定 しようとするものではないことが、大詰「蛇山庵室」幕切れの古典性において理解できると思います。 「四谷怪談」幕切れはすべてを「然り」と受け入れて・「鳴り響く気分」の統一によって締められるのです。
「東海道四谷怪談」
「東海道四谷怪談」は文政八年七月江戸中村座での初演。初演時の「四谷怪談」は「仮名手本忠臣蔵」と交互に上演されて、二日掛かりで完了する興行形式が取られました。しかし、初演以後は「忠臣蔵」と切り離されて単独での上演となり、もっぱらお岩のお化け芝居として上演されて来たわけです。お化け芝居として観客を怖がらせる為に、お岩の怨念の凄まじさを描 こうと、いろいろな工夫がされました。またそうなると怨念の対象である伊右衛門の悪も、その怨念にふさわしい凄みを利かせなければなりません。こうして現代の「四谷怪談」は、恐らくは初演とかなり違う感触の芝居になってしまいました。
もちろんそのような「四谷怪談」の変遷は、作品自体にそうなる要素が包含されていたからだとも言えます。しかし、現代の「四谷怪談」は確かにお化け芝居であって、お岩の怨念も凄まじさと仕掛けで観客をどのように怖がらせるかが焦点です。また明治以降においては伊右衛門に封建論理に敢然と反抗する自由人的感性を見ようとする傾向が強くなってきました。お岩については、伊右衛門と対立し、これを押さえつけようとする非合理的な存在であると見るわけです。だから逆の意味で、お岩の怨念の凄まじさが重要になって来ます。
したがって現代の「四谷怪談」は、興味はどうしても伊右衛門の方に向き勝ちです。お岩の方はお化けですから、どちらかと云えば、伊右衛門の方から見てお岩がどのように見えるかという視点から論じられることになる。思い返してみれば、これまで「歌舞伎素人講釈」で論じてきた「四谷怪談」もどれも伊右衛門を論じたものなのですねえ。そこで、今回は、お岩の方から「四谷怪談」を論じてみたいと思うわけです。
そのようなことを考えたのも、今回(平成25年7月歌舞伎座)の「四谷怪談」は菊之助が初役でお岩を演じるということであったからです。「四谷怪談」は三代目菊五郎の初演。お化け芝居は音羽屋の家の芸と云われましたが、実は五代目菊五郎以降は、六代目梅幸はお岩を得意としましたが、六代目菊五郎はお岩を一回しか演じませんでした。六代目はどうも気乗りがしなかったようです。七代目梅幸も当代七代目菊五郎 もお岩を演じていません。誰だって役の向き不向きはありますから、向きでないのを・家の芸だからといって無理にやる必要はないわけですが、そういうわけで音羽屋とお岩さまは久しく縁遠かったのです。ですから菊之助がお岩に挑戦するというのは、いろんな意味において嬉しいことです。
そこでお岩について考えてみたいのですが、どうしてお岩は死んで幽霊になって化けて出るのでしょうか。・・「決まってるじゃないか、伊右衛門を恨んでいるからだよ」という声が聞こえてきそうです。自分を裏切った夫への恨み、伊藤家への憎しみ、そして執念の深さ・・・なるほどねえ。確かにその死の直前にお岩は、「ただ恨めしいは伊右衛門どの、喜兵衛一家の者どもも、なに安穏におくべきか。思えば思えば、エエ恨めしい、一念通さで置くべきか」と言っています。
なるほど、凄まじい怨念の台詞です。が、これは、本来、お岩のような、か弱い市井の女性が言う台詞でないのではないか。つまり、世話物で女性が死ぬ時に言う台詞にしては言葉が強過ぎないか・凄まじ過ぎないか。そういうことを感じてもらいたいわけです。歌舞伎で云えば、例えば、荒事の主人公になる人物が、その死の直前に「生き変わり死に変わり、この恨み晴らさで置くべきか」と叫んで、死んで、そして怨霊となって舞台に再び登場します。「なに安穏におくべきか。思えば思えば、恨めしい、一念通さで置くべきか」という台詞も、時代物で男が、しかも身分の高い人物か・あるいは武士が死の直前に言う方が、本来ふさわしい台詞なのです。このギャップを承知のうえで、鶴屋南北は敢てこの台詞をお岩に言わせていると、吉之助は思います。
そこで改めて「なに安穏におくべきか。思えば思えば、恨めしい、一念通さで置くべきか」というお岩の台詞を見れば、この後にお岩は宅悦と揉み合って・柱に刺さった刀に触れてしまって命を落とすのです。だから、生理学的にはこの時点で死ぬわけですが、「四谷怪談・浪宅」のドラマを見れば、お岩の心はそれより以前に死んでいると考えなければなりません。それは、恐らく髪梳きの最中です。「伊藤家にこの礼を言わねばならぬ、その前に女のたしなみ」・・と言って、お岩は髪を梳き始めます。本来ならば美しくなるための女の儀式である髪梳きが、梳けば梳くほど髪がボロボロ抜けて、ますますお岩は凄い形相になっていく・・・まったくやりきれない場面です。こうしてお岩は異界の存在へ転化していく。髪梳きはそのような恐ろしい場面です。だから、この髪梳きの過程でお岩は精神的に死ぬに違いありません。だから、「なに安穏におくべきか。思えば思えば、恨めしい、一念通さで置くべきか」という台詞は、怨霊として異界の存在へ転化した後の、死んだ後のお岩が言っていることになります。
それでは、上記の考察を踏まえて、「どうしてお岩は死んで幽霊になって化けて出るのか。何がお岩を変えるのか。」ということを改めて考えます。吉之助が思うには、その答えは、鏡に映った変わり果てた自分の顔を見る時のお岩の台詞にあります。
『ヤアこりゃコレ、ほんまにわしの面。マア、いつの間にわしの顔が、このような悪女の面になって、マア、こりゃわしかいの、わしかいの。ほんまに私の顔かいのう。こりゃマアどうしよう、どうしよう、どうしたらよかろうぞいのう』
ここに聞こえるのは、お岩の深い悲しみです。何で自分がこんな目に合わなきゃならないのよ、という悲しみです。どうしようもないほどの、それを感じれば感じるほど、自分がはち切れて壊れてしま いそうな、そのような悲しみです。その悲しみこそが、歌舞伎の世話物の、高貴な身分でもない、名もない、か弱い市井の一女性が、幽霊に転化するための、ただひとつの要因なのです。言い換えれば、そのような演劇的な手続きを経て・女が実質的に死んだと同然の状態にならない限りは、本来、時代物で男が言う台詞を、世話物で女が言うわけに行かないということです。そこは南北は手錬の戯作者ですから、踏まえるべき約束事をきっちり守って書いているのです。
南北は同じような芝居をもうひとつ書いています。それは「色彩間苅豆(かさね)」です。累(かさね)には何も罪もないのに、因果の糸のもつれから、面相が変わって、与右衛門に殺され、そして幽霊になって出てきます。その文句を見てみます。
『のう情けなや恨めしや、身は煩悩のきすなにて、恋路に迷い親々の、仇なる人と知らずして、因果はめぐる面影の、変わり果てにし恥ずかしさ・・(中略)・・わが身にまでもこのように、つらき心は前の世の、いかなる恨みかまわしと、くどきつ泣いつ身をかきむしり、人の報いのあるものか、無きものか、思いしれやとすっくと立ち・・』
ここに聞こえるのも、累の深い悲しみです。累の悲しみも、お岩の悲しみも、その悲しみはこの世界そのものに対しています。これは「生きるってどういうことなの・・・」という悲しみなのです。そのような強烈に偏った感情が、お岩や累の意志とまったく関わりのないところで、彼女らを異界の存在(怪物)に変えてしまうのです。ホントは彼女らは、ほんの小さな幸せを願っていただけのはずです。それが、自分の意志と関係ないところで、この世のところのモノと思われない姿とされて、人々に怖がられて・・・それはとても悲しいことなのです。だから心底恐ろしいのではありませんか。
菊之助初役のお岩のことですが、いつものお化け芝居のお岩を期待している方には、淡白すぎるというか・アッサリし過ぎに思えるかも知れません。如何にも化けて出そうなねっとりとした湿ったおどろおどろしい雰囲気(それがどこか執着の深さに通じるのでありましょうか)を期待しまうのでしょう。まあそれも分からないことはないです。その方がお化け芝居らしいですからね。六代目歌右衛門のお岩は確かに怖かった。じっくり時間を掛けて、ねっとりねっとりの髪梳きでした。しかし、あれは長過ぎだったかも知れません。それと比べれば確かに菊之助はアッサリしています。ところが、面相が変わった後のお岩の悲しみが、とてもピュアに見えて来たのです。これは不思議なことです。どういう芸の作用に拠るのでしょうかね。菊之助が若くて美しいからでしょうか、台詞が明晰だからでしょうか。しかし、お岩の悲しみがピュアに伝わってきました。こうしてお岩は幽霊にされてしまうのです。
注を付けておきますが、歌右衛門に悲しみがなかったと言っているのではないのです。歌右衛門の場合でも悲しみは深いのだけれど、歌右衛門のお岩は、お化け芝居で長く培われて来たお岩のイメージのいろいろなものを複合的に引きずっているから、複雑だということです。菊之助は、お岩が幽霊 に転化する要因を、ホントにシンプルにピュアに提示している。どろどろしたところがない。そこがとても新鮮に感じられました。こういうお岩さまもあるのですねえ。
お化け芝居の明晰さ
1
『盆の祭り(仮に祭りと言うておく)は、世間では、死んだ精霊を迎えて祭るものであると言うているが、古代において、死霊・生魂に区別がない日本では、盆の祭りは、いわば魂を切り替える時期であった。すなわち、生魂・死霊の区別なく取り扱うて、魂の入れ替えをしたのであった。(中略)盆は普通、霊魂の遊離する時期だと考えられているが、これは諾はれない事である。日本人の考えでは、魂を招き寄せる時期と言うのが本当で、人間の体のなかへその魂を入れて、不要なものには、帰ってもらうのである。(中略)七夕の祭りと、盆の祭りとは、区別がない。時期から言うても、七夕が済めば、すぐ死霊の来る盆の前の生魂の祭りである。現今の人々は、魂祭りと言えば、すぐさま陰惨な空気を考えるようであるが、われわれの国の古風では、これは陰惨な時ではなくして、非常に明るい時期であった。』(折口信夫:盆踊りの話・折口信夫全集・第2巻)
盆狂言・夏狂言と云えば、お化け芝居(怪談狂言)です。代表的なのはもちろん「東海道四谷怪談」ですが、これは決して陰惨なものではなく、もしかしたらとても明晰な・カラッとしたものかも知れないということを考えます。
先月(平成25年7月)歌舞伎座での菊之助のお岩による「四谷怪談」ですが、おどろおどろしさと云うか・ドロッとした陰惨さが足りないと感じた方は多かったかも知れません。なるほどお化け芝居と云うと、おどろおどろしさとか陰惨さというキーワードがすぐ頭をよぎります。だからお化け芝居の「四谷怪談」にこだわる方には、菊之助のお岩は感触がアッサリした感じで物足りなかったと思います。しかし、そのようなおどろおどろしさとか陰惨さが「四谷怪談」本来の感触であったかどうか、そういうことをちょっと考えてみると面白いと思います。
「四谷怪談」は文政八年の初演以来の盆狂言の定番で、これまでお化け狂言として、いかにしてお岩さまの怨念の凄まじさを描くか、その恐ろしさでどれだけ観客を怖がらせるかということで、型(演出)が練り上げられて来たのです。おどろおどろしく陰惨な「四谷怪談」というのは、初演以来200年の間に培われたイメージで、それは作品から引き出されたものですから、もちろん何がしかの真実を孕んでいるのです。それはそれで正しいことです。しかし、歴史が塗り上げたおどろおどろしさや陰惨さの分厚い絵の具を「四谷怪談」から取り払ったら、何が見えてくるでしょうか。それは「四谷怪談」の明晰さであるかも知れません。その明晰さが菊之助とお岩の感触とまったく同じだというつもりはないけれど、それにやや似たところのサラッとした感触なのです。そこから「四谷怪談」初演時の感触を類推するヒントが 出てくるかも知れません。
『(村上)「あの「源氏物語」の中にある超自然というのは、現実の一部として存在したものなんでしょうかね。」(河合)「どういう超自然ですか?」(村上)「つまり怨霊とか・・・。」(河合)「あんなのはまったく現実だと僕は思います。」(村上)「物語の装置としてではなく、もう完全に現実の一部としてあった?」(河合)「ええ、もう全部あったことだと思いますね。だから、装置として書いたのではないと思います。」(村上)「でも現代の我々 は、そういうの一つの装置として書かざるを得ないのですね。」(河合)「だから、いまはなかなか大変なんですよ。」』(村上春樹x河合隼雄:対談「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」)
河合隼雄先生は平安時代の人々にとって怨霊の存在はまったく現実であっただろうと言います。吉之助はこんなことを考えます。霊魂の不滅とか、怨霊・幽霊の存在というものは昔の人々の世界観の一部としてあったものでした。つまり当然のものとしてあったもので、ですから昔の人々はそのようなものを通じて世界や人生というものを実感として理解しました。ということはそれらは超自然の非合理な存在であったのではなく、当時の人々にとって全く逆にとても明晰で合理的な存在であったということです。
もちろん江戸の民衆にとっても、お岩さまは怖かったはずです。しかし、それはお岩さまが祟るから怖いのであって、幽霊が怖いということではなかったのです。当時の人々にとって、幽霊の存在は疑うことが出来ないことでした。昔の人はお岩さまが出て来る正当な理由があって伊右衛門に祟るという理屈をちゃんと理解していました。伊右衛門が誅されるべき男であることは当然ですから、そのためにその世界が正義と不義の尺度が明確な「忠臣蔵」に仕組まれたのです。南北の「四谷怪談」はそのような明晰な世界観のもとで作られているのです。
2
江戸の三大幽霊はお岩(「四谷怪談」)・お菊(「播州皿屋敷」)・そして累(るい=かさね・「色彩間苅豆」)だと言われます。特に累は江戸の怪異ブームのはしりと言える存在で興味深いものです。累説話は下総国の羽生村という江戸に比較的近いところで実際に起こった事件とされていますが、その実説というのは、実は元禄三年 (1691)に出版された「死霊解脱物語聞書」から来たものです。この「聞書」は、悪霊に祟られて苦しむ病人に悪霊祓いを施した祐天上人や・村人たちから聞いた話を残寿という僧が書き留めたものですが、そのもとになった事件の詳細が明らかでないので、残寿の聞書がどれくらい事実に忠実なのか・創作が入っているのかは、よく分からないそうです。
この累説話について、文化人類学者の小松和彦先生が、「悪霊論〜異界からのメッセージ」のなかで解説くださっているので、詳しくはそちらをお読みいただきたいですが、以下しばらくこの本をなぞる感じになりますが、累説話が怨霊譚に変化していく過程を簡単に まとめてみます。
累説話のもとになった悪霊憑き事件がどんな事件であったか。それがどのような過程で江戸庶民の怨霊譚に変化していくのか。小松先生は、それは原典である「死霊解脱物語聞書」の要約化のプロセスにあると指摘して、それをふたりの研究者の「聞書」の要約を例に 挙げて、解説しています。ひとつは諏訪春雄先生による要約、もうひとつは服部幸雄先生による要約です。この比較がなかなか興味深いのです。
小松先生は、オリジナルの「聞書」の筋の展開に比較的忠実な要約として、まず諏訪先生のものを紹介しています。引用すると長くなるので、端折って記します(詳細は小松先生の本をお読みいただきたい)が、「下総国羽生村に累という醜い女が住んでいた。その入り婿であった与右衛門という男が、累を殺してしまった。その後、与右衛門は後妻を娶り、菊という娘が生まれました。しかし、菊が十三歳の時、菊が煩って苦しみながら、「わたしは菊ではなく、そなたの妻の累だ、その昔、よくもわたしを殺したな」と呻くので、吃驚した与右衛門は寺に逃げ込んだ。その後、村人が怨霊をなだめようと手を尽くすも、死霊は菊からなかなか離れようとしない。しかし、羽生村を訪れた祐天上人が法力を以って遂に累の怨霊を解脱させた。寛文12年のことである・・・」というのがその前半のあらましです。
ここでお分かりの通り、寛文十二年に下総国羽生村で悪霊憑き騒ぎがあって、菊という娘が累という死霊にとりつかれた。祐天上人の死霊祓いによって、その原因は、どうやら与右衛門が前妻の累を殺したということが発端であると判明したというストーリー展開を辿っています。
累説話はまだ続きます。累の死霊が成仏したと村人が安堵したのもつかの間、菊はまたも死霊に悩まされます。祐天上人が駆けつけて、菊にとりついた死霊に正体を問うと、それは助と名乗る子供であった。昔を知っている老人の話しから、61年前に、累の父の先代与右衛門が娶った女の連れ子が助という子供で、この子が醜かったので殺されたこと、その後に夫婦に生まれた娘も醜い子で、それが累であった、ということが分かってきた。祐天上人が助に十念を授けると、助の死霊もついに成仏した。・・以上が「聞書」の物語展開に沿ったところの、諏訪先生の要約の、 概略であります。
ここで分かるのは、「聞書」が伝える事件は、これは幽霊出現事件ではなく、もともとは憑きモノ事件であったということです。これを僧残寿が「聞書」にしたことで分かる通り、「聞書」は祐天上人がその有難い法力で見事死霊を退散させたということを 布教のために広めたという役割もあったわけです。
さらに小松先生は、興味深い指摘をしています。原因不明であった憑きモノ騒動が、祐天上人の死霊祓いによって、その原因が次第に解き明かされていく、そして、その原因が明らかになった 後、人々の脳裡に、すべての発端が先代与右衛門の助殺しにあ ったことが刻み付けられる。そこから累が醜く生まれたことも、累が二代目与右衛門に殺されたことも、さらに菊が病気になったことも、原因は助殺しにあったと、そのすべての事象が原因と結果の一本の糸で結び付けられ、因果の物語とが組み立てられていくということです。
そのような変形の例として、小松先生が次に挙げるのが、服部先生の「聞書」要約です。その要約は、「羽生村に住む百姓与右衛門は他村から妻を娶った。その妻の連れ子が助という男の子だった。その子は目っかちでびっこだった・・・」という感じで始まります。つまり、「聞書」では悪霊祓いによって最後に分かった・ それまで誰も知らなかった事実を、要約の最初に持ってきて、時間的に最も古い出来事から物語を展開させ、「すべてはここから始まった」という風に、その因果関係がよく分かるように整理がされているのです。小松先生は、次のように書いています。
『この服部の要約をさらに変形してみたら、すなわち、累の怨霊が菊に乗り移って恨みごとを述べるのではなく、直接目指す敵与右衛門の前に「恨めしや」と出現するように変形したらどうなるだろうか。そのとき、累の物語は、江戸時代に全盛を究める幽霊譚へと変形することになるわけである。「播州皿屋敷」のお菊や、「東海道四谷怪談」のお岩の物語では、出現するために累が必要とした霊媒という装置などもうなくとも出現しうるとみなされるようになっていた。その意味で、累説話は、悪霊憑き物語と幽霊物語の分岐点・境界に位置する物語といえるはずである。』(小松和彦:「悪霊論」)
3
バートランド・ラッセルは、科学と哲学の違いを問われて、「科学とは私たちに分かっているもの、哲学は分かっていないものを取り上げる・・ですかね。これは単純な区分ですが、知識の進歩によりいくつかの問題が、哲学から科学の方へ移行して行くのです。」というようなことを語っています。
その昔、科学は魔術と同じように考えられていた時代がありました。しかし、例えば旱魃が長く続いて人々が飢餓に喘いでいる時に、呪術師がお呪いをして、 その後すぐに雨が降ったとする。そうすると、これは呪術師がお呪いをしたから雨が降ったわけだから、原因とその結果の間に明らかに相関関係が見えると、人々がそう信じた場合には、それは科学的な行為 だということになるのです。現代人から見れば、迷信に捉われているように見えるでしょうが、このようにお呪いをすれば・それが天に何かの作用をして・それで雨が降る (らしい)という思考は、何かしら科学的 な筋道を踏んでいると言える。そういうところから科学は出発しているのです。
なぜ風が吹くのでしょうか。それは風の神様がふいごを廻して風を送っているのだと古代ギリシア人は考えました。そのような考え方はギリシア人の世界観に裏打ちされたもので、そのなかで成立 したものでした。だから、現代人から見れば馬鹿げた考え方に見えるでしょうが、これは迷信でも何でもなくて、 古代ギリシアの世界のしっかりした科学的思考に基づいたものなのです。そのようなところから、科学的思考が出発しているのです。このようなことが、科学思想史の本を読めば、その最初の方に はいろいろ書いてあります。一応、吉之助は理系の人間でありますので、そのようなことを学んできました。
大事なことは、原因と結果に明らかな相関関係、両者の間に一本の筋道が見い出せるということ、「これがこうなるから、こういう結果になるのか、そうか、分かったぞ」という感覚があるならば、それは何かしら科学的な感覚であるということです。それは、何かしらパッと明るい、すべてが見えたような明晰な感覚なのです。
『(村上)「あの「源氏物語」の中にある超自然というのは、現実の一部として存在したものなんでしょうかね。」(河合)「どういう超自然ですか?」(村上)「つまり怨霊とか・・・。」(河合)「あんなのはまったく現実だと僕は思います。」(村上)「物語の装置としてではなく、もう完全に現実の一部としてあった?」(河合)「ええ、もう全部あったことだと思いますね。だから、装置として書いたのではないと思います。」」』(村上春樹x河合隼雄:対談「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」)
河合先生の言っていることは、六条御息所の生霊にせよ、それは平安の貴族の世界観のなかで成立したものなのだから、それは現実の一部として存在したものだということです。六条御息所 の身体から何らかの念が抜け出して、それが葵の上を苦しめたということは、恐ろしいものだけれども、平安の人々はそれをまったく現実の一部として理解しました。 だから、これは科学的思考に基づいた人間理解なのです。現代人は、生霊というものを非科学的な存在だとして認めませんから、そのような明晰さが分からなくなっています。だから、平安の人々は、 迷信に囲まれて、生霊とか怨霊に日々恐れ慄いて暮らしていたなどいうことになる。しかし、それは間違いです。現代人から見れば、そう思えるだけのことです。
さて、前節で見た通り、小松和彦先生は、服部幸雄先生の「聞書」要約について、「聞書」では悪霊祓いによって最後に分かった・ それまで誰も知らなかった事実を、要約の最初に持ってきて、時間的に最も古い出来事から物語を展開させ、「すべてはここから始まった」という風に、その因果関係がよく分かるように整理がされているとして、より因果律が強まった怨霊譚の方へ変形がなされていると指摘しています。なるほど、憑きモノ事件が幽霊譚に変化して行くプロセスは、小松先生の説明は見事でよく理解できます。吉之助は、この点にまったく異論はありません。
しかし、吉之助がここで明確にしておきたいことは、「聞書」要約において服部先生が累説話の怨霊譚化を意図したのかどうかという点です。但し書きつけますと、小松先生が服部先生にそのような意図 的なものがあったと書いているわけではありません。しかし、この点について曖昧な書き方だと思います。服部先生に、累説話の因果律を強調して怨霊譚へ転化させようとする意図がないことは、明らかなのです。服部先生は、ただ読者に原因と結果がよく分かるように、時系列を整理して、古いところ(原因)から解き明かし、次々と起こる不思議な現象を理解できるようにしただけなのです。つまり、そこに見えるのは、原因と結果を一本の筋道に解き明かした・努めて科学的な態度です。この要約に見えるのは明晰さなのです。
ところが、別の角度から見れば、小松先生の指摘する通り、その要約に見えるのは、因果律を強調して、累の怨霊が敵与右衛門の前に「恨めしや」と出現する怨霊譚の一歩手前の物語 だという風にも読めるわけです。そこに陰惨な非合理の世界が出現することになる。これは小松先生が「怨霊学者」ということですから、まあそのお立場から論旨を展開しているので仕方ないと思います 。しかし、服部先生の要約のなかにある明晰さについて 言及しておくことは、やはり必要なことではないかと思いますね。これは僧残寿の「死霊解脱物語聞書」についても同様です。
例えば(話が飛ぶようですが)横溝正史の推理小説「八つ墓村」とか「悪魔が来たりて笛を吹く」とかを読みます(その昔、吉之助の若い頃にブームになりました)と、次々起こる事件が悪霊の仕業か呪いみたいで、 何が起こっているのだろうと、訳が分からなくて・おぞましく陰惨な感じがしますが、そこに 名探偵(金田一耕助)がひょこり現れて、謎を見事に解き明かしていきます。「はあ、なるほど悪霊の仕業と思いきや、そんなトリックで殺人をしたわけね、これで納得だね」ということになります。そこにある感覚は、正しく科学的な思考で、それは明晰な 感覚なのです。それにしても、呪いやら伝説やらに結び付けてこんな手の込んだ殺し方をするとは酔狂な犯人だねと読後には思いますが 。
僧残寿の「死霊解脱物語聞書」も、また推理小説のようなものです。訳の分からない憑きモノ騒動に、ひょっこり現れた旅の僧(祐天上人)の死霊祓いによって、村の人々が 誰も知らなかった過去の真相が次々に明らかにされていく、これは 江戸の人々にとって推理小説を読むような面白さ です。祐天上人は名探偵です。そこにあるものは、科学的思考です。累説話の根底にも、そのような明晰さがあることを指摘しておきたいと思います。ですから同じ累説話を前にしながら、服部先生や吉之助はそこに明晰さを見ており、小松先生はそこに因果の暗さを見ていることになります。
累説話を基にした歌舞伎といえば、「色彩間苅豆」(かさね)があることはご存知の通りです。「かさね」の舞台は陰惨な物語であるように思うでしょうが、そこにも明晰さが見える場面があります。それは捕り手に絡まれた与右衛門がそこで手紙を見付け、これを広げて月明りに透かして読もうとしてポーズを取る 、その瞬間です。背景の黒幕がバッと切り落とされます。まだ薄暗い下総の田園風景が出現します。それは現代人の目から見れば、行燈の明りのように頼りない「薄暗さ」であるでしょう。しかし、当時の江戸の人々にとって、行燈の明りは十分な明るさであったことを忘れてはなりません。背景の黒幕がバッと切り落とされた瞬間から、与右衛門の旧悪が明かされ・かさねの因果の物語の、その発端からこれまでの筋道が次第に解き明かされ 、すべてが一本の糸につながって、観客に物語が次第に見えてくる。それは江戸の人々にとって、十分なほどの「明るさ」なのです。
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「死霊解脱物語聞書」の物語に明晰さを見るか・因果の暗さを見るか、それはどちらが正しいとか・間違っているということではなく、その眺める視座が異なるから様相が違って見えるということです。しかし、批評の立場から対象を見る場合には、正面から見たり・横から見たり・後ろから見たりして、そうやって出来るだけバランスを取った見方をする姿勢が必要になります。そうすることで批評が客観性を持つものになるか・さらに新たな真実が見出せるかどうかは分かりませんが、批評する場合にはそのような検証が必要になります。累説話のなかに、科学の明晰さと因果の暗さの両面を見ながら、どちらの可能性をも検討せねばなりません。
例えば、次の挿絵をご覧下さい。正徳2年(1712)に出版の「死霊解脱物語聞書」にある「霊界訪問を語る菊」の挿絵です。「聞書」の最初の本が元禄三年(1691)出版とされていますから、それより21年後の本になります。菊が夢うつつの状態(憑依状態)で、悪霊に導かれ霊界を訪れたことを、村人たちに語る姿が描かれています。菊の背後に、累(かさね)の悪霊が描かれています。
この挿絵の示すところは、憑依状態の菊が描かれていて、その菊が語るところを、村人たちが興味深そうに聞き入っているということです。菊の背後に累の悪霊が描かれているけれども、村人たちに累の姿が見えているわけではありません。しかし、村人たちは背後の 霊の存在を確かに感じ取っているのです。そして、正気の菊がこれを語るのではなく、累の悪霊が菊のなかに入り込んで、菊は累に語らされているのだという理屈も、ちゃんと理解しているのです。だから、村人たちは恐れ慄くことがまったくないのです。つまり、当時の科学的感覚において、「それはあり得ることだ、不可解なことではない」と皆が思っているから、怖くないのです。
憑依状態の菊が語ることは、村人たちが知らない・真実を確かめようがない・はるか昔の殺人事件です。このことは疑って掛かれば、祐天上人が何らかの暗示(催眠術)をかけて菊にありもしない事を語らせたということも考えられます。あるいは、 閉塞した村社会のなかの複雑な人間関係が原因で菊のなかにありもしない物語が構築されていったということも考えられないことではないです。これが法廷であるならば、それが真実であったかを検証していく必要がありますし、もしそれが真実でないならば・ないで、その物語がどのように作り上げられたのか・そのプロセスを検証して行くことは、社会学的に面白い研究テーマです。
しかし、「聞書」では、与右衛門および先代与右衛門が殺人を犯したことは事実であると、地の文で語っています。そして、その「事実」を踏まえれば、これまで村のなかで起こってきた奇怪な出来事はすべて明解に説明ができるのです。ですから、「そうか分かったぞ、不可解な出来事だと思ったけれど、そういう事実が発端になって、いろんな事件が起こったわけか、これで一連の事件がひとつの糸につながったぞ」という明晰な科学的な感覚が、累説話にあるということです。
ところが、一連の事件がひとつの糸につながった後、改めて感じさせられるのは、人間の業(ごう)の深さ・やりきれなさということです。これは当時の仏教の世界観によって理解されます。「何と、人生というものは、自分の意志だけではどうにもならないものに、動かされ 、操られているのだなあ」という思いです。そういうものは、何となく重苦しく暗いものです。いったん、原因と結果がひとつの糸で結ばれてしまうと、途端にそれが鬱な気分に変わってしまうことがあるものです。そこから、仏教の因果論の暗さが生まれてきます。
因果律を強調して行けば、累説話は、累の怨霊が敵与右衛門の前に「恨めしや」と出現する怨霊譚の一歩手前の物語ということになります。累説話は本来は 菊の憑き物騒動であるのですが、次第に累の怨霊譚に変化して行くのです。上掲の挿絵でも、累の悪霊が明確に描かれています。見えなかったものの姿が、人々の心のなかに次第に怨霊の像として定着していきます。挿絵は 、累説話の怨霊譚への変遷の途上を見せていると も解釈できます。そこまで約20年の年月が掛かっています。そうすると、これは小松先生の 研究領域になるわけです。
芝居における因果論については、別稿「黙阿弥の因果論・その革命性」で取り上げました。芝居というものは、時間の座標に縛られています。過去と現在・未来を行ったり来たりというような錯綜した展開には、不向きの芸術なのです。基本的に、筋は時間の進行に沿って(伸び縮みはしているけれども)、古い時点から進行していって・それが現在への伏線となるという風に展開して行きます。時に回想の形で過去が挿入される芝居もありますが、巧くやらないと筋がこんがらかって大変なことになります。
だから芝居の場合は、「ひとつの事実が発端になって、次の展開が起こっていく、物語がひとつの糸につながって行く」ということがないと、「分かった」という感覚にはならないわけです。このことは逆に言うならば、演劇というものは因果論に陥りやすい要素を持つ芸術だということですね。
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もともと田舎の憑き物騒動に過ぎなかった累説話が、元禄3年(1691)の「聞書」出版で、江戸の民衆にぱっと広まったわけではありません。累説話が歌舞伎で取り上げられた最初は、享保16年(1731)での江戸市村座での盆狂言であったそうです。その後、累説話はどんどん書き換えられて、筋が変化していきます。現在伝わっている伊達騒動に仕組んだ累物の先駆となるのは、安永7年(1778)での江戸中村座での・初代桜田治助他作による「伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)」です。これは翌年に浄瑠璃化されて、累の筋だけ独立して「薫樹累物語(めいぼくかさねものがたり)」として、現在でもたまに上演されることがあります。その筋を見ると、足利家お抱えの相撲取り絹川は、主君の乱行を憂い殿寵愛の遊女高尾太夫を殺しますが、高尾の妹累と一緒になって故郷である羽生村へ帰って百姓与右衛門となりますが、高尾の霊が祟った累は顔が醜く変わってしまう・・というものです。
まず興味深いのは、「聞書」が伝えるところの菊の憑き物騒動(累の霊が菊に取り憑く)という設定より、怨霊となって出る累の方に焦点が行っていることです。。また、「文書」では先代与右衛門が犯した助殺しの因果により、累は醜い姿で生まれることになっていますが、「薫樹累物語」では、死霊の祟りによって累が美しい顔から醜い顔に変えられてしまうという風に筋が変化します。また与右衛門も「聞書」では先代と二代目がいるわけですが、「薫樹累物語」では与右衛門はひとりに整理されています。そして、自分が関与していない或る事情によって理不尽にも累が祟られて面相が変貌してしまい、それが原因で与右衛門に殺されてお化けになって出るという筋になっています。改めて思うに、時系列を整理した服部先生の「聞書」要約を見ても、これだと先代与右衛門の助殺しに始まって時代が数十年に渡りますから、因果の物語をそのまま芝居にするのは無理があるようです。だから、 累説話が芝居に取り上げられるに当たりプロットが整理されて単純になって行くことには、それなりの必然があるわけです。
もう少し時代が下ったところの舞踊「かさね(「色彩間苅豆」)は、文政6年(1823)江戸森田座での四代目鶴屋南北の「法懸松成田利剣(かさかけまつなりたのりけん)」の二番目・序幕で、歌詞は二代目松井幸三が書いたものです。舞踊「かさね」では書き換えられて「薫樹累物語」から 設定がまた多少変わっていますが、自分が関与していない或る事情によって理不尽に累が祟られて面相が変貌してしまって、それが原因で与右衛門に殺されてお化けになって出るというところは変わっていません。与右衛門の過去の所業がより因果に仕立てられているということは言えそうです。
こうやって、伝言ゲームの如くに、原説である「聞書」から舞踊「かさね」へ筋が変化して行く流れをざっと見ると、演劇というものが、原説のなかのどういう要素を取り・どういう 要素を捨て・そして芝居としてスッキリしたドラマに再構築していくか、その過程を見る気がしてきます。舞踊「かさね」は、美しい腰元が突然醜い姿に変貌してしまう・それは実は恋人与右衛門の過去の所業に原因があった・・ということで、うまくスリラー仕立ての変化物になっています。しかし、この点をもう少し掘り下げたいのです。
累説話が江戸の民衆に流布して行くについては、芝居のイメージに拠るところが多かったと思います。江戸民衆の累(かさね)のお化けのイメージは、歌舞伎が作ったのです。その過程で、何が累説話の核心であると人々が感じたのかということが、大事なポイントだと思います。元禄より時代がずっと下った江戸の民衆は、累説話は因果の物語であると受け取るようになっていました。そのなかで死霊となって菊 に取り憑く累の姿が、人々の心のなかに、どこか悲しく浮かび上がってきたはずです。「聞書」に出てくる累は最初から醜くて性格の悪い女に生まれたことになっています。しかし、それも先代与右衛門の過去の所業のせいであって、累が悪いことは全然なかったのです。ホントは累は美しい姿で生まれるはずだった。それが因果のなせる業(わざ)により醜く生まれてしまったということです。人々は、累のことをそのように理解しました。
ということは、累物の芝居のなかで、舞台で最初に累を美しい姿で登場させることは、累に対する供養の意味が確かにあったのです。それは、累に対して「これが本当のあなたの姿なんだよ」と認めることであるからです。そして、自分がまったく関与していない・恋人与右衛門の悪業によって、理不尽にも自分の面相が変えられてしまうことに因果のなせる業を感じて、人々が「それは是非ないことだなあ、人生は何と悲しいことだなあ」と あわれを感じることに、累に対する供養の意味が確かにあったのです。そこに盆狂言としての累物の意味があったはずです。このことは当時の江戸の民衆の世界観において理解されねばなりません。
ですから別稿「これが私の顔かいの」で書いた通り、変わり果てた姿を鏡で見せられて「これが私の顔かいの」と累が嘆く時に聞こえるものは、「生きるってどういうことなの・・・」という累の悲しみです。ホントは彼女は、ほんの小さな幸せを願っていただけのはずです。それが、自分の意志と関係ないところで、この世のところのモノと思われない姿とされて、人々に怖がられて・・・それはとても悲しいことなのです。だから心底恐ろしいのです。
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お化けと幽霊と妖怪がどう違うのかというのは、よく出る質問だと思います。幽霊というのは死んだ人の魂が成仏できないで・この世に残っているもの、妖怪というのは人間ではない・動物とか物とかが化けたものと、大まかに区別出来ると思いますが、 そのどちらもお化けと呼ぶことがありますから、区分には曖昧なところがあるようです。
泉鏡花といえば無類の「お化け好き」で通っていますが、鏡花のお化けというのは歌舞伎の怪談芝居に出てくるお化けと違って、特定の人を呪ったり・取り憑いたりするために出てくるものではないようです。 鏡花のお化けは、何げなく見るとすぐ横に座って居るという感じのお化けなのです。「変だなあ・こんなものはこの世に居るはずがないのになあ・・でも、そこに確かにそこに居るのだから・いないと思う俺の方が変なのかもなあ・・」などと思いながら一緒に並んで黙って部屋に座っているという感じのお化けです。つまりアッケラカンとしたお化けなのです。(別稿「たそがれの味」をご参照ください。)
そのようなお化けが普通のものだとすると、この点は折口信夫も「近代文学論」のなかで指摘していますが、歌舞伎の怪談芝居のお化けというのは特異だということが分かると思います。歌舞伎に出て来るお化けというのは、大抵恨みを以って成仏できないで・現世に現れますが、その場合、恨みの対象となる人物(あるいはその親族など)が必ずいます。そして、その原因となる人物が誅されると、お化けは恨みを消して、その後は出て来ません。恨みの対象が誅せられれば、お化けが再び登場する必然がないからです。 芝居というものは「ひとつの事実が発端になって、次の展開が起こっていく、物語がひとつの糸につながって行く」ということがないと、観客が「分かった」という感覚にはならないので、芝居というものは因果論に陥りやすい要素を持つ芸能なのです。もちろん因果論は当時の民衆の仏教的世界観が背景にあるものですが、同時に明晰な論理関係を芝居のなかに持ち込んでいます。
「四谷怪談」を見ていて不思議に思うことは、お岩の幽霊は伊右衛門の母親お熊や悪仲間の秋山長兵衛を取り殺しますが、肝心要の恨みの対象である伊右衛門を自分の手で取り殺さないことです。伊右衛門に取り付いて・地獄へ道連れなんてドン・ジョヴァン二の最後のような場面(地獄落ち)を、観客は内心期待しているはずです。しかし、「四谷怪談」では、そうならないのです。伊右衛門を誅するのは四十七士である佐藤与茂七で、彼は伊右衛門を討った後でその足で師直屋敷の討ち入りに駆けつけます。つまり、お岩は与茂七に 処刑を「任せる」のです。これはお岩の怨念の晴らし方という視点から見ると、いまひとつ晴れやかではない。この点を疑問に感じてもらいたいのです。
ここで明らかなことは、お岩の幽霊の件が「四谷怪談」の「装置」であるということ、厳密な意味においてそれが「四谷怪談」の本質ではないらしいということです。もしそれが 「四谷怪談」の本質であるならば、伊右衛門はお岩の幽霊によって葬られなければ、ドラマ的にスカッと来ません。「歌舞伎素人講釈」ではこれについては何度も書きましたので、詳細は別稿「軽やかな伊右衛門」、あるいは「世界とは何か」などをお読みください。「四谷怪談」は「忠臣蔵」 という世界の明晰な論理関係の下にあると言えます。だから吉之助は、お岩の幽霊の件は装置だと言うのです。
「装置」というのは、その1において村上春樹氏が使っている言葉です。つまり、物語の筋を展開させていくための仕掛けということです。歌舞伎のお化け芝居は、そのような特徴を持っています。それは芝居が因果論に陥りやすい要素を持つ芸能であるから、そうなる わけです。例えば黙阿弥の「蔦紅葉宇都谷峠(文弥殺し)」(安政3年・1856・江戸市村座)でも、文弥の幽霊が現れて恨みがましいことを言うけれど、伊丹屋十兵衛に直接手を下すことはありません。そのドラマは、読み様によっては、文弥の幽霊は十兵衛のなかの罪悪感が作り出した幻影であって、十兵衛は罪悪感によって自滅して行くという風に も読めます。それは近代精神分析学的な読み方にも耐えられるものです。つまり、「宇都谷峠」は陰惨で非合理な芝居のように見えますが、文弥の幽霊は完全に装置化しており、実は明晰な論理関係の下に在るのです。
このように歌舞伎を検証して行くと、お化け芝居のなかに「恨みを抱いて死んで・死後に幽霊になってその人物や縁者に祟る」という因果関係の陰惨さ ・非合理な世界のおどろおどろしさを見るということは、作品成立時の(つまり江戸期の)民衆の感覚のなかにオリジナルとして在ったものではないということを考えざるを得ないわけです。
吉之助は、因果論の陰惨さ・おどろおどろしさという感覚は、案外近い時期、すなわち明治期になってから生成してきたものだという風に考えています。その論証のためには、明治期の円朝の怪談噺やら講談やら・周辺のものも検討して行かねばなりませんが、ここで言えることは、そのようなものは否定すべき非合理なものとして、否定されるべき旧弊・否定されるべき江戸というような感覚と複合的に重なり合いながら、陰惨さ・おどろおどろしさという 或る種ネガティヴな感覚で捉えられて行く、そのような複雑な過程を辿っています。泉鏡花を始めとして、明治期の知識人の・こんな人がと思う人が大変なお化け好きで あったりして、怪談会などに嬉々として参加していました。合理主義一辺倒な世の中であるからこそ非合理に憧れるという側面もありますが(西洋の知識階級でも同時期に心霊会のようなことが流行しました)、そこに明治という時代の精神の微妙なところが見えて来 ます。明治という時代には、とても捻じれたところがあります。それは江戸と明治の亀裂から来るものです。
「四谷怪談」は観客を怖がらせるために様々な工夫を凝らしているうちに、お化け芝居として練れて行くわけですが、吉之助は、そこに明治という時代の役割を考えて見たいのです。「四谷怪談」上演史のことで言えば、市川齋入(明治から大正に掛けて上方でケレン芝居で鳴らした 役者)が果たした役割が大きいようです。齋入は上方ですが、ケレン芝居としての「四谷怪談」の影響が東京の方にも及んでいます。ですから、現代の「四谷怪談」から、陰惨さ・おどろおどろしさという分厚い泥絵の具を取り去って見れば、そこから現れるものは、それは案外アッケラカンとして明晰なものであるかも知れません。そういう「四谷怪談」を想像してみたら面白いと思いますね。 
小泉八雲『怪談』  

 

ろくろ首
ろくろ首(ろくろくび、轆轤首、飛頭蛮)は、日本の妖怪の一種。ろくろっ首。大別して、首が伸びるものと、首が抜け頭部が自由に飛行するものの2種が存在する。古典の怪談や随筆によく登場し、妖怪画の題材となることも多いが、ほとんどは日本の怪奇趣味を満足させるために創作されたものとの指摘もある。
語源
ろくろ首の名称の語源は、
ろくろを回して陶器を作る際の感触
長く伸びた首が井戸のろくろ(重量物を引き上げる滑車)に似ている
傘のろくろ(傘の開閉に用いる仕掛け)を上げるに従って傘の柄が長く見える
などの説がある。
2種類のろくろ首
いずれも外見上は普通の人間とほとんど変わらない。首が伸びるタイプ、異常に長く伸び縮みする首を持つ。
首が抜けるろくろ首(抜け首)
こちらの首が抜けるものの方が、ろくろ首の原型とされている。このタイプのろくろ首は、夜間に人間などを襲い、血を吸うなどの悪さをするとされる。首が抜ける系統のろくろ首は、寝ている(首だけが飛び回っている)ときに、本体を移動すると元に戻らなくなることが弱点との説もある。古典における典型的なろくろ首の話は、夜中に首が抜け出た場面を他の誰かに目撃されるものである。
抜け首は魂が肉体から抜けたもの(離魂病)とする説もあり、『曾呂利物語』では「女の妄念迷ひ歩く事」と題し、女の魂が睡眠中に身体から抜け出たものと解釈している。同書によれば、ある男が、鶏や女の首に姿を変えている抜け首に出遭い、刀を抜いて追いかけたところ、その抜け首は家へ逃げ込み、家の中からは「恐い夢を見た。刀を持った男に追われて、家まで逃げ切って目が覚めた」と声がしたという。
『曾呂利物語』からの引き写しが多いと見られている怪談集『諸国百物語』でも「ゑちぜんの国府中ろくろ首の事」と題し、女の魂が体から抜け出た抜け首を男が家まで追いかけたという話があり(画像参照)、この女は罪業を恥じて夫に暇を乞い、髪をおろして往生を遂げたという。
橘春暉による江戸時代の随筆『北窻瑣談』でもやはり、魂が体から抜け出る病気と解釈している。寛政元年に越前国(現・福井県)のある家に務めている下女が、眠っている間に枕元に首だけが枕元を転がって動いていた話を挙げ、実際に首だけが胴を離れるわけはなく、魂が体を離れて首の形を形作っていると説明している。
妖怪譚の解説書の性格を備える怪談本『古今百物語評判』では「絶岸和尚肥後にて轆轤首を見給ふ事」と題し、肥後国(現・熊本県)の宿の女房の首が抜けて宙を舞い、次の日に元に戻った女の首の周りに筋があったという話を取り上げ、同書の著者である山岡元隣は、中国の書物に記されたいくつかの例をあげて「こうしたことは昔から南蛮ではよく見られたことで天地の造化には限りなく、くらげに目がないなど一通りの常識では計り難く、都では聞かぬことであり、すべて怪しいことは遠国にあることである」と解説している。また香川県大川郡長尾町多和村(現・さぬき市)にも同書と同様、首に輪のような痣のある女性はろくろ首だという伝承がある。随筆『中陵漫録』にも、吉野山の奥地にある「轆轤首村」の住人は皆ろくろ首であり、子供の頃から首巻きを付けており、首巻きを取り去ると首の周りに筋があると記述されている。
松浦静山による随筆『甲子夜話』続編によれば、常陸国である女性が難病に冒され、夫が行商人から「白犬の肝が特効薬になる」と聞いて、飼い犬を殺して肝を服用させると、妻は元気になったが、後に生まれた女児はろくろ首となり、あるときに首が抜け出て宙を舞っていたところ、どこからか白い犬が現れ、首は噛み殺されて死んでしまったという。
これらのように、ろくろ首・抜け首は基本的に女性であることが多いが、江戸時代の随筆『蕉斎筆記』には男の抜け首の話がある。ある寺の住職が夜寝ていると、胸の辺りに人の頭がやって来たので、それを手にして投げつけると、どこかへ行ってしまった。翌朝、寺の下男が暇を乞うたので、訳を聞くと「昨晩、首が参りませんでしたか」と言う。来たと答えると「私には抜け首の病気があるのです。これ以上は奉公に差し支えます」と、故郷の下総国へ帰って行った。下総国にはこの抜け首の病気が多かったとされる。
根岸鎮衛による随筆『耳嚢』では、ろくろ首の噂のたてられている女性が結婚したが、結局は噂は噂に過ぎず、後に仲睦まじい夫婦生活を送ったという話がある。本当のろくろ首ではなかったというこの話は例外的なもので、ほとんどのろくろ首の話は上記のように、正体を見られることで不幸な結果を迎えている。
江戸時代の百科事典『和漢三才図会』では後述の中国のものと同様に「飛頭蛮」の表記をあて、耳を翼のように使って空を飛び、虫を食べるものとしているが、中国や日本における飛頭蛮は単なる異人に過ぎないとも述べている。
小泉八雲の作品『ろくろ首』にも、この抜け首が登場する。もとは都人(みやこびと)で今は深山で木こりをしている一族、と見せかけて旅人を食い殺す、という設定で描かれている。
首が伸びるろくろ首
「寝ている間に人間の首が伸びる」と言う話は、江戸時代以降『武野俗談』『閑田耕筆』『夜窓鬼談』などの文献にたびたび登場する。
これはもともと、ろくろ首(抜け首)の胴と頭は霊的な糸のようなもので繋がっているという伝承があり、石燕などがその糸を描いたのが、細長く伸びた首に見間違えられたからだとも言われる。
『甲子夜話』に以下の話がある。ある女中がろくろ首と疑われ、女中の主が彼女の寝ている様子を確かめたところ、胸のあたりから次第に水蒸気のようなものが立ち昇り、それが濃くなるとともに頭部が消え、見る間に首が伸び上がった姿となった。驚いた主の気配に気づいたか、女中が寝返りを打つと、首は元通りになっていた。この女中は普段は顔が青白い以外は、普通の人間と何ら変わりなかったが、主は女中に暇を取らせた。彼女はどこもすぐに暇を出されるので、奉公先に縁がないとのことだった。この『甲子夜話』と、前述の『北窻瑣談』で体外に出た魂が首の形になったという話は、心霊科学でいうところのエクトプラズム(霊が体外に出て視覚化・実体化したもの)に類するものとの解釈もある。
江戸後期の大衆作家・十返舎一九による読本『列国怪談聞書帖』では、ろくろ首は人間の業因によるものとされている。遠州で回信という僧が、およつという女と駆け落ちしたが、およつが病に倒れた上に旅の資金が尽きたために彼女を殺した。後に回信は還俗し、泊まった宿の娘と惹かれ合って枕をともにしたところ、娘の首が伸びて顔がおよつと化し、怨みつらみを述べた。回信は過去を悔い、娘の父にすべてを打ち明けた。すると父が言うには、かつて自分もある女を殺して金を奪い、その金を元手に宿を始めたが、後に産まれた娘は因果により生来のろくろ首となったとのことだった。回信は再び仏門に入っておよつの墓を建て、「ろくろ首の塚」として後に伝えられたという。
ろくろ首を妖怪ではなく一種の異常体質の人間とする説もあり、伴蒿蹊による江戸時代の随筆『閑田耕筆』では、新吉原のある芸者の首が寝ている間に伸びたという話を挙げ、眠ることで心が緩むと首が伸びる体質だろうと述べている。
文献のみならず口承でもろくろ首は語られており、岐阜県の明智町と岩村の間の旧街道に、ヘビが化けたろくろ首が現れたといわれている。長野県飯田市の越久保の口承では、人家にろくろ首が現れるといわれた。
文化時代には、遊女が客と添い寝し、客の寝静まった頃合に、首をするすると伸ばして行燈の油を嘗めるといった怪談が流行し、ろくろ首はこうした女が化けたもの、または奇病として語られた。またこの頃には、ろくろ首は見世物小屋の出し物としても人気を博していた。『諸方見聞録』によれば、1810年(文化7年)に江戸の上野の見世物小屋に、実際に首の長い男性がろくろ首として評判を呼んでいたことが記されている。
明治時代に入ってもろくろ首の話がある。明治初期に大阪府茨木市柴屋町の商家の夫婦が、娘の首が夜な夜な伸びる場面を目撃し、神仏にすがったが効果はなく、やがて町内の人々にも知られることとなり、いたたまれなくなってその地を転出し、消息を絶ったという。
類話
日本国外
首が胴体から離れるタイプのろくろ首は、中国の妖怪「飛頭蛮」(ひとうばん、頭が胴体から離れて浮遊する妖怪)に由来するとも言われている。また、首の回りの筋という前述の特徴も中国の飛頭蛮と共通する。また同様に中国には「落頭」(らくとう)と言う妖怪も伝わっており、首が胴体からスポッと抜けて飛び回り、首が飛び回っている間は布団の中には胴体だけが残っている状態になる。三国時代の呉の将軍・朱桓(しゅかん)が雇った女中がこの落頭だったと言う話が伝わっている。耳を翼にして飛ぶと言う。また秦の頃には南方に「落頭民」(らくとうみん)と言われる部族民がおり、その人々は首だけを飛ばすことができたと言う。
また東南アジアではボルネオ島に「ポンティ・アナ」、マレーシアに「ペナンガラン」という、頭部に臓物がついてくる形で体から抜け出て、浮遊するというものである伝承がある。また、南米のチョンチョンも、人間の頭だけが空を飛び回るという姿をしており、人の魂を吸い取るとされる。
妖怪研究家・多田克己は、日本が室町時代から安土桃山時代にかけて南中国や東南アジアと貿易していた頃、これらの伝承が海外から日本へ伝来し、後に江戸時代に鎖国が行われたことから、日本独自の首の伸びる妖怪「ろくろ首」の伝承が生まれたものとみている。しかし、日本のもののように首が伸縮する事象は錯覚も含めてある程度考えられることなのに対し、海外のように首が胴から離れるということとはかけ離れているため、これら海外の伝承と日本の伝承との関連性を疑問視する声もある。
日本
平将門の首は晒し者にされた後も腐らず毎晩恨み言を語り、自分の体を探し求め宙を飛んだという伝承がある。七尋女房という首の長い(7尋≒13メートル)妖怪が山陰に伝わる。
ろくろ首の「実話」の信憑性
実際に首が伸びるのではなく、「本人が首が伸びたように感じる」、あるいは「他の人がその人の首が飛んでいるような幻覚を見る」という状況であったと考えると、いくつかの疾患の可能性が考えられる。例えば片頭痛発作には稀に体感幻覚という症状を合併することがあるが、これは自分の体やその一部が延びたり縮んだりするように感じるもので、例として良くルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」があげられる(不思議の国のアリス症候群)。この本の初版には、片頭痛持ちでもあったキャロル自らの挿絵で、首だけが異様に伸びたアリスの姿が描かれている(ただし後の版や、ディズニーのアニメでは体全体が大きくなっているように描かれている)。一方、ナルコレプシーに良く合併する入眠時幻覚では、患者は突然眠りに落ちると同時に鮮明な夢を見るが、このときに知人の首が浮遊しているような幻覚をみた人の例の報告がある。
夢野久作の小説『ドグラ・マグラ』においては、登場人物の正木博士が「ロクロ首の怪談は、夢中遊行(睡眠時遊行症)状態の人間が夜間、無意識のうちに喉の渇きを癒すために何らかの液体を飲み、その跡を翌朝見つけた人間がそれをロクロ首の仕業であるとした所から生まれたものである」という説を立てている。
酷使された末に腺病質となって痩せ衰えた遊女が、夜に灯油を嘗めている姿の影が首の長い人間に見え、ろくろ首の話のもとになったとする説もある。
見世物(奇術)としてのろくろ首
内幕と等身大の人形(頭はない)を利用した奇術であり、現代の分類でいえば、人体マジックに当てはまるものである。ネタの内容は、内幕の前に着物を着せた人形を正座させ、作り物の長い首を、内幕の後ろで体を隠し、顔だけを出している女性の本物の首と、ひもで結ぶ。後は内幕の後ろで体を隠している女性が、立ったり、しゃがんだりすることによって、作り物の首を伸ばしたり、縮めたりして、あたかもろくろ首が実在するかのように見せる。明治時代の雑誌で、このネタばらしの解説と絵が描かれており、19世紀の時点で行われていたことが分かる。当時は学者により、怪現象が科学的にあばかれることが盛んだった時期であり、ろくろ首のネタばらしも、そうした時代背景がある。大正時代においても寺社の祭礼や縁日での見世物小屋で同様の興行が行われ、人気を博していた。
海外の人体マジックでも似たものがあり、落ちた自分の頭を自分の両手でキャッチするものがある(こちらはデュラハンの見世物として応用できる)ことから、同様の奇術が各国で応用的にアレンジされ、見世物として利用されたものとみられる。なお、飛頭系の妖怪も幻灯機を用いた奇術で説明がつけられる(暗がりならなおさら悪戯でも可能な話である)。こうした奇術の応用は、現代では特撮に用いられることがある。
耳無し芳一
耳なし芳一(みみなしほういち)は、安徳天皇や平家一門を祀った阿弥陀寺(現在の赤間神宮、山口県下関市)を舞台とした物語、怪談。小泉八雲の『怪談』にも取り上げられ、広く知られるようになる。八雲が典拠としたのは、一夕散人(いっせきさんじん)著『臥遊奇談』第二巻「琵琶秘曲泣幽霊(びわのひきょくゆうれいをなかしむ)」(1782年)であると指摘される。『臥遊奇談』でも琵琶師の名は芳一であり、背景舞台は長州の赤間関、阿弥陀寺とある。これは現今の下関市、赤間神社のことと特定できる。昔話として徳島県より採集された例では「耳切り団一」で、柳田國男が『一つ目小僧その他』等で言及している。
物語
阿弥陀寺に芳一という盲目の琵琶法師が住んでいた。芳一は平家物語の弾き語りが得意で、特に壇ノ浦の段は「鬼神も涙を流す」と言われるほどの名手だった。
ある夜、和尚の留守の時、突然一人の武士が現われる。芳一はその武士に請われて「高貴なお方」の屋敷に琵琶を弾きに行く。盲目の芳一にはよくわからなかったが、そこには多くの貴人が集っているようであった。壇ノ浦の戦いのくだりをと所望され、芳一が演奏を始めると皆熱心に聴き入り、芳一の芸の巧みさを誉めそやす。しかし、語りが佳境になるにしたがって皆声を上げてすすり泣き、激しく感動している様子で、芳一は自分の演奏への反響の大きさに内心驚く。芳一は七日七晩の演奏を頼まれ、夜ごと出かけるようになる。
和尚は目の悪い芳一が夜出かけていく事に気付いて不審に思い、寺男たちに後を付けさせた。すると芳一は一人、平家一門の墓地の中におり、平家が推戴していた安徳天皇の墓前で無数の鬼火に囲まれて琵琶を弾き語っていた。寺の者たちは慌てて芳一を連れ帰り、和尚に問い詰められた芳一はとうとう事情を打ち明けた。和尚は怨霊たちが単に芳一の琵琶を聞くことだけでは満足せずに、芳一に危害を加えることを恐れ、これは危ない、このままでは芳一が平家の怨霊に殺されてしまうと和尚は案じた。和尚は自分がそばにいれば芳一を守ってやれると考えたが、生憎夜は法事で芳一のそばについていてやることが出来ない。かといって寺男や小僧では力不足である。芳一を法事の席に連れていっては大勢の怨霊をもその席に連れて行ってしまうことになりこれでは檀家との間にトラブルを発生させる危険性がある。そこで和尚は芳一を一人にするが怨霊と接触させない方法を採用することで芳一を守ることにした。和尚は怨霊の「お経が書かれている身体部分は透明に映り視認できない」という視覚能力の性質を知っていたので、怨霊が芳一を確認できないように法事寺の小僧と共に芳一の全身に般若心経を写した。ただしこのとき耳の部分に写経し忘れたことに気が付かなかった。また音声によって場所を特定されることを防ぐために芳一に怨霊の武士に声をかけれられても無視するように堅く言い含めた。
その夜、芳一が一人で座っていると、いつものように武士(平家の怨霊)が芳一を迎えに来た。しかし経文の書かれた芳一の体は怨霊である武士には見えない。芳一が呼ばれても返事をしないでいると怨霊は当惑し、「声も聞こえない、姿も見えない。さて芳一はどこへ行ったのか・・・」という独り言が聞こえる。そして怨霊には、耳のみが見え、「芳一がいないなら仕方がない。証拠に耳だけでも持って帰ろう」と考えた。耳だけ持ち帰ることが結果的に芳一にどのような損傷を与えるかに思いをいたせず、結果的に頭部から耳をもぎ取ってそのまま去って行った。 朝になって帰宅した和尚は耳をもぎ取られ血だらけになって意識のない芳一の様子に驚き、一部始終を聞いた後、芳一の身体に般若心経を写経した際、小僧が耳にだけ書き漏らしてしまったことに気づき、芳一に、小僧の見落としについて謝罪した。その後、怪我は手厚く治療されこの不思議な事件が世間に広まって彼は「耳なし芳一」と呼ばれるようになった。琵琶の腕前も評判になり高所得を得ることが出来、何不自由なく暮らしたという。結果的に芳一に降りかかった禍は彼の名声を高めることに寄与したことになる。
解釈
一説に明石覚一検校がモデルとされている。 芳一の受難の物語は純粋な想像の産物だとは考えにくい。突出した能力を持つ人間がその影響力を恐れた既得権益保有者の陰謀により殺されかかったと解釈すべきである。ここにこの奇談の普遍性がある。
類話
上記の話が、一般的に「耳なし芳一」と言われるものであるが、これ以外にも幾つかの類話が存在しており、部分部分で話が違っていたり、結末が異なったりする。
寛文3年(1663年)に刊行された「曽呂利物語」の中では、舞台は信濃、善光寺内の尼寺となっているうえ、主人公は芳一ではなく「うん市」という座頭である。
雪女
雪女(ゆきおんな)は、雪の妖怪。「ユキムスメ」、「ユキオナゴ」、「ユキジョロウ(雪女郎)」、「ユキアネサ」、「雪オンバ」、「雪ンバ」(愛媛)、「雪降り婆」とも呼ばれる。「ツララオンナ」、「カネコリムスメ」「シガマニョウボウ」など、氷柱に結びつけて呼ばれることも多い。
由来
雪女の起源は古く、室町時代末期の連歌師・宗祇法師による『宗祇諸国物語』には、法師が越後国(現・新潟県)に滞在していたときに雪女を見たと記述があることから、室町時代には既に伝承があったことがわかる。
呼び方は違えど、常に「死」を表す白装束を身にまとい男に冷たい息を吹きかけて凍死させたり、男の精を吸いつくして殺すところは共通しており、広く「雪の妖怪」として怖れられていた。
雪女は『宗祇諸国物語』をもとにした小泉八雲の『怪談』「雪女」の様に、恐ろしくも美しい存在として語られることが多く、雪の性質からはかなさを連想させられる。
ちなみに雪男は近代にイエティ、ビッグフットの訳語として付けられただけで、意匠上も「雪女」と生物学的に同種で互いに異性の関係にあるわけではない。
逸話
伝承では、新潟県小千谷地方では、男のところに美しい女が訪ね、女は自ら望んで男の嫁になるが、嫁の嫌がるのを無理に風呂に入れると姿がなくなり、男が切り落とした細い氷柱の欠片だけが浮いていたという。青森県や山形県にも同様の話があり「しがま女房」などと呼ばれる。山形県上山地方の雪女は、雪の夜に老夫婦のもとを訪ね、囲炉裏の火にあたらせてもらうが、夜更けにまた旅に出ようとするので、翁が娘の手をとって押し止めようとすると、ぞっとするほど冷たい。と、見る間に娘は雪煙となって、煙出しから出ていったという。また、姑獲鳥との接点も持っており、吹雪の晩に子供(雪ん子)を抱いて立ち、通る人間に子を抱いてくれと頼む話が伝えられる。その子を抱くと、子がどんどん重くなり、人は雪に埋もれて凍死するという。頼みを断わると、雪の谷に突き落とされるとも伝えられる。弘前では、ある武士が同様に雪女に子供を抱くよう頼まれたが、短刀を口に咥えて子供の頭の近くに刃がくるようにして抱いたところ、この怪異を逃れることができ、武士が子供を雪女に返すと、雪女は子供を抱いてくれたお礼といって数々の宝物をくれたという。次第に増える、雪ん子の重さに耐え抜いた者は怪力を得るともいう。
長野県伊那地方では、雪女を「ユキオンバ」と呼び、雪の降る夜に山姥の姿であらわれると信じられている。同様に、愛媛県吉田では、雪の積もった夜に「ユキンバ」が出ると言って、子供を屋外に出さない様にする。また、岩手県遠野地方では、小正月の1月15日、または谷の満月の夜には、雪女が多くの童子をつれて野に出て遊ぶので、子供の外出を戒めるという。この様に、雪女を山姥と同じものとして扱うところも多く、多くの童子を連れるという多産の性質も、山姥のそれに類似している。和歌山県伊都地方では、雪の降り積む夜には一本足の子どもが飛び歩くので、翌朝に円形の足跡が残っているといい、これを「ユキンボウ」と言うが、1本足の童子は山神の使いとされている。鳥取県東伯郡小鹿村(現・三朝町)の雪女は、淡雪に乗って現れる時に、「氷ごせ湯ごせ」(「ごせ」とは「(物を)くれ、下さい」という意味の方言)と言いながら白幣を振り、水をかけると膨れ、湯をかけると消えるという。奈良県吉野郡十津川の流域でいう「オシロイバアサン」、「オシロイババア」も雪女の一種と思われ、鏡をジャラジャラ引きずってくるという。これらの白幣を振るという動作や、鏡を持つという姿は、生産と豊穣を司る山神に仕える巫女としての性格の名残であると考えられる。実際に青森では、雪女が正月三日に里に降り、最初の卯の日に山に帰ると云われ、卯の日の遅い年は作柄が変わるとされていた。
岩手県や宮城県の伝承では、雪女は人間の精気を奪うとされ、新潟県では子供の生き肝を抜き取る、人間を凍死させるなどといわれる。秋田県西馬音内では、雪女の顔を見たり言葉を交わしたりすると食い殺されるという。逆に茨城県や福島県磐城地方では、雪女の呼びかけに対して返事をしないと谷底へ突き落とされるという。福井県でも越娘(こしむすめ)といって、やはり呼びかけに対して背を向けた者を谷へ落とすという。
岐阜県揖斐郡揖斐川町では、ユキノドウという目に見えない怪物が雪女に姿を変えて現れるという。山小屋に現れて「水をくれ」と言うが、求めに応じて水を与えると殺されてしまうので、熱いお茶を出すべきとされる。またこのユキノドウを追い払うには「先クロモジに後ボーシ、締めつけ履いたら、如何なるものも、かのうまい」と唱えると良いという。
正月元旦に人間界に雪女が来て帰っていく青森県弘前市の伝承や岩手県遠野市の、小正月または冬の満月の日に雪女が多くの子を連れて遊ぶという伝承から見ても、このような人間界を訪れる日から雪女の歳神(としがみ)的性格を窺うことができる。吹雪の晩に雪女を親切にもてなしたところ、翌朝、雪女は黄金と化していたという、「大歳の客」系の昔話の存在も雪女の歳神的性格と無縁ではない。
雪女は子供をつれて出現することも多い。同じような子連れの妖怪、産女(うぶめ)の伝承とも通い合う。山形県最上郡では産女を雪女だと伝えている。
小泉八雲の「雪おんな」のように、山の猟師が泊り客の女と結ばれ子供が生まれ、嫁にうっかり雪女と結んだタブーを口にしたため、女は自分こそ雪女だと明かすが男との間に生まれた子がいたため殺さず、“子に万一の事があったら只では済まさぬ”と告げて姿を消すタイプの昔話のパターンは新潟県、富山県、長野県に伝承があり、その発端は山の禁(タブー)を破ったために山の精霊に殺されるという山人の怪異譚に多い。雪女の伝説は、山人の怪異譚と雪女の怪異譚の複合により生まれたとする説もある。
雪女の昔話はほとんどが哀れな話であり、子のない老夫婦、山里で独り者の男、そういう人生で侘しい者が、吹雪の戸を叩く音から、自分が待ち望む者が来たのではと幻想することから始まったといえる。そして、その待ち望んだものと一緒に暮らす幸せを雪のように儚く幻想した話だという。それと同時に畏怖の感覚もあり、『遠野物語』にもあるように吹雪が外障子を叩く音を「障子さすり」と言い、雪女が障子を撫でていると遅寝の子を早く眠らす習俗もある。障子さすりのようなリアルな物言いにより、待ち望むものの訪れと恐怖とは背中合わせの関係であるといえる。また冬などの季節は神々の訪れであり、讃めなければひどいことになりかねず、待ち望むといってもあまり信用してはならない。なんにせよ季節の去来と関係した話といえる。風の又三郎などとも何処かで繋がるのではないかと、国文学者・古橋信孝は述べている。
雪女の正体は雪の精、雪の中で行き倒れになった女の霊などと様々な伝承がある。山形県小国地方の説話では、雪女郎(雪女)は元は月世界の姫であり、退屈な生活から抜け出すために雪と共に地上に降りてきたが、月へ帰れなくなったため、雪の降る月夜に現れるとされる。
江戸時代の知識人・山岡元隣は雪女は雪から生まれるという。物が多く積もれば必ずその中に生物を生ずるのが道理であり、水が深ければ魚、林が茂れば鳥を生ずる。雪も陰、女も陰であるから、越後などでは深い雪の中に雪女を生ずることもあるかも知れぬといっている。
日本の伝統文化の中で、雪女は幸若の『伏見常磐』などに見られ、近世には確認できる。近松門左衛門の「雪女五枚羽子板」がありだまされ惨殺された女が雪女となり復讐する話である。雪女の妖艶で凄惨な感じがうまく使われている。昔話・伝承では青森、山形、秋田、岩手、福島、新潟、長野、和歌山、愛媛などで確認されている。
小泉八雲の「雪女」
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が『怪談(Kwaidan)』の中で雪女伝説を紹介している。
あらすじ
この話は武蔵の国、西多摩郡調布村の百姓が私に語ってくれたものである。
武蔵の国のある村に、茂作と巳之吉という2人の樵が住んでいた。茂作はすでに老いていたが、巳之吉の方はまだ若く、見習いだった。
ある冬の日のこと、吹雪の中帰れなくなった二人は、近くの小屋で寒さをしのいで寝ることにする。その夜、顔に吹き付ける雪に巳之吉が目を覚ますと、恐ろしい目をした白ずくめ、長い黒髪の美女がいた。巳之吉の隣りに寝ていた茂作に女が白い息を吹きかけると、茂作は凍って死んでしまう。
女は巳之吉にも息を吹きかけようと巳之吉に覆いかぶさるが、しばらく巳之吉を見つめた後、笑みを浮かべてこう囁く。「おまえもあの老人(=茂作)のように殺してやろうと思ったが、おまえは若くきれいだから、助けてやることにした。だが、おまえは今夜のことを誰にも言ってはいけない。誰かに言ったら命はないと思え」そう言い残すと女は戸も閉めず、吹雪の中に去っていった。
それから数年して、巳之吉は「お雪」と名乗る、雪のように白くほっそりとした美女と出会う。二人は恋に落ちて結婚し、10人の子供をもうける。お雪はとてもよくできた妻であったが、不思議なことに、何年経ってもお雪は全く老いることがなかった。
ある夜、子供達を寝かしつけたお雪に、巳之吉がいう。「こうしておまえを見ていると、十八歳の頃にあった不思議な出来事を思い出す。あの日、おまえにそっくりな美しい女に出会ったんだ。恐ろしい出来事だったが、あれは夢だったのか、それとも雪女だったのか……」
巳之吉がそういうと、お雪は突然立ち上り、言った。「そのときおまえが見たのは私だ。私はあのときおまえに、もしこの出来事があったことを人にしゃべったら殺す、と言った。だが、ここで寝ている子供達を見ていると、どうしておまえのことを殺せようか。どうか子供達の面倒をよく見ておくれ……」
次の瞬間、お雪の体はみるみる溶けて白い霧になり、煙だしから消えていった。それきり、お雪の姿を見た者は無かった。
原典
小泉八雲の描く「雪女」の原伝説については、ここ数年研究が進み、東京・大久保の家に奉公していた東京府西多摩郡調布村(現在の青梅市南部多摩川沿い)出身の親子(お花と宗八とされる)から聞いた話がもとになっていることがわかっている(英語版の序文に明記)。この地域で酷似した伝説の記録が発見されていることから、この説は相当な確度を持っていると考えられ、秋川街道が多摩川をまたぐ「調布橋」のたもとには「雪おんな縁の地」の碑が立てられた。100年前は現在とは気候が相当異なり、中野から西は降れば大雪であったことから、気象学的にも矛盾しない。
のっぺらぼう・むじな
のっぺらぼう(野箆坊)は、一般的に外見は普通の人間だが、顔には目も鼻も口もない日本の妖怪である。
のっぺらぼうそのものは存在せず、ムジナ、キツネ、タヌキなどの動物が人を驚かせるために化けたものといわれることが多い。明和4年(1767年)の怪談集『新説百物語』には、京都の二条河原(京都市中京区二条大橋付近)に、顔に目鼻や口のない化け物「ぬっぺりほう」が現れ、これに襲われた者の服には太い毛が何本も付着していたという、何らかの獣が化けていたことを髣髴させる描写がある。しかし正体が不明の場合もあり、寛文3年(1663年)の怪談集『曾呂利物語』では、京の御池町(現・京都市中京区)に身長7尺(約2.1メートル)ののっぺらぼうが現れたとあるが、正体については何も記述がない。民間伝承においては大阪府、香川県の仲多度郡琴南町(現・まんのう町)などに現れたと伝えられている。
また、しばしば本所七不思議の一つ『置行堀』と組み合わされ、魚を置いて逃げた後にのっぺらぼうと出くわすという展開がある(置行堀の怪異もやはり狸などとされている)。
小泉八雲の「むじな」
のっぺらぼうに関しては、小泉八雲の『怪談』の中の『むじな』(Mujina)の話が有名である。多くの伝承と同様に、この話でもムジナがのっぺらぼうに化けている。粗筋は次の通りである。
江戸は赤坂の紀伊国坂は、日が暮れると誰も通る者のない寂しい道であった。ある夜、一人の商人が通りかかると若い女がしゃがみこんで泣いていた。心配して声をかけると、振り向いた女の顔にはなんと目も鼻も口も付いていない。驚いた商人は無我夢中で逃げ出し、屋台の蕎麦屋に駆け込む。蕎麦屋は後ろ姿のまま愛想が無い口調で「どうしましたか」と商人に問い、商人は今見た化け物のことを話そうとするも息が切れ切れで言葉にならない。すると蕎麦屋は「こんな顔ですかい」と商人の方へ振り向いた。彼ものっぺらぼうで驚いた商人は気を失い、その途端に蕎麦屋の明かりが消えうせた。全ては狢(むじな)が変身した姿だった。
再度の怪
「むじな」は、二度にわたって人を驚かせるという筋立ての怪談の典型であるが、これは「再度の怪」と呼ばれ、他にも「朱の盆」や「大坊主」などの話がある。巌谷小波による『大語園』などでは、のっぺらぼうはずんべら坊(ずんべらぼう)の名で記述されており、津軽弘前の怪談として、同様にずんべら坊に遭った者が、知人宅へ駆け込むと、その知人の顔もまたずんべら坊だったという話がある。このような「再度の怪」の怪談は、中国古典の『捜神記』にある「夜道の怪」の影響によるものとされる。
同種の妖怪
尻目(しりめ)
与謝蕪村の『蕪村妖怪絵巻』にあるのっぺらぼう。京都市の帷子辻に現れたとされ、人に会うと服を脱いで全裸になり、尻にある一つ目を雷のように光らせて脅かすという。
白坊主
伝承
静岡県富士郡芝富村長貫(現・富士宮市) / その昔、どんどん焼きをしていると毎年のように、白鳥山から白坊主が「ほーい、ほーい」と呼ぶため、気味悪くなってこの行事をとりやめたという。白鳥山の南にある大鏡山からも白坊主が現れ、この白坊主を見た者には災難が訪れるともいわれる。戦国時代のこの地には狼煙台があり、どんどん焼きは狼煙と見誤るために制限または禁止されたという説もあることから、白坊主とはこの狼煙台の守備兵を指しているとの解釈もある。
大阪府 / 南部では、夜道で人が出遭うといわれるのみで、それ以上の具体的な話は残されていない。タヌキが化けたものという説があるが、定かではない。大阪の和泉では目・鼻・口・手足のはっきりしない、絣の着物を着た全身真っ白な坊主とも、風船のように大きくて丸い妖怪ともいい、いずれも人を脅かすだけで危害を与えることはない。キツネが化けたものともいうが、土地の古老によれば、この地方のキツネは藍染めの縞模様の着物を着て現れるため、キツネではないという。見越入道に類するものとする説もあるが、見越入道のように出遭った人間の前で背が伸びてゆくといった特徴は見られない。のっぺらぼうの一種とする説もある。
広島県安芸郡倉橋町(現・呉市) / カワウソが脚に継ぎ木をして2メートルもの大きさに化けて人を脅かすといい、これに出遭ったときは地上1メートルあたりを殴ると良いという。
熊本県天草郡本渡町(現・天草市) / 本渡町の中央にあるクスノキの中に住み着いている白髪の老婆が白坊主の母親だといい、そのクスノキのそばを夜に通ると、老婆が白坊主の着物のための糸を紡ぐギーギーという音が聞こえたという。この木を切ったところ、真っ赤な血があふれ出したといわれる。
黒坊主
黒坊主(くろぼうず)は、明治時代の東京に現れたという妖怪、または熊野の民話、江戸時代の奇談集『三州奇談』などに登場する妖怪。黒い坊主姿の妖怪とされる。
『郵便報知新聞』第663号の記事によれば、東京都の神田の人家の寝室に毎晩のように現れ、眠っている女性の寝息を吸ったり口を嘗めたりしたとある。その生臭さは病気になるのではと思えるほど到底耐え難いものであったため、我慢できずに親類の家に逃れると、その晩は黒坊主は現れず、もとの家に帰るとやはり黒坊主が現れるという有様だったが、いつしかその話も聞かれなくなったことから、妖怪は消滅してしまったものとみられている。
この東京の黒坊主はの姿は、その名の通り黒い坊主姿とも、人間の目にはおぼろげに映るためにはっきりとはわからないともいう。口だけの妖怪ともいい、そのことからのっぺらぼうの一種とする説もある。
文献によっては東北地方の妖怪とされているが、これは民俗学者・藤沢衛彦の『妖怪画談全集』で、前述の『郵便報知新聞』の挿絵が掲載され、その下に解説文として「夜人の寝息を吸い口を甜る黒坊主・奥州の山地々」と記述されたことによる誤解と指摘されている。
また、熊野の七川(現・和歌山県)では、山中で人間を襲う真っ黒な怪物を黒坊主と呼び、ある者が出遭った際には背丈が3倍ほどに伸び、銃で撃つとそのたび背が伸びて何丈もの怪物と化し、逃げ去るときには飛ぶような速さで逃げ去ったという。同様に背の伸びる妖怪・高坊主の一種とされている。同様に『三州奇談』には、石川県能美郡(現・能美市)の長田川のそばに目鼻や手足の区別のわからない黒坊主が現れて伸び上がり、ある人が杖で突くと、川へ逃げ去ったとあり、正体はカワウソともいわれた。
これらのほか、大入道や海坊主などの妖怪の別名として、黒坊主の名が用いられることもある。
ぬっぺふほふ
ぬっぺふほふまたはぬっぺっぽうは、『画図百鬼夜行』や『百怪図巻』などの江戸時代の妖怪絵巻にある妖怪。顔と体の皺の区別のつかない、一頭身の肉の塊のような姿で描かれている。
絵巻には名前と絵があるに過ぎず、解説文の記述はほとんどないが、その名前や、洒落本『新吾左出放題盲牛』(1781)に「ぬっぺっぽうといふ化けもの有り。目もなく耳も無く」とあることから、のっぺらぼうの一種と見られている。乾猷平は、紫水文庫所蔵の古写絵本(年代不明)に「ぬっべっほう」という妖怪が描かれており、「古いヒキガエルが化けたものとも、狐狸の類ともいう」とあることを紹介している。この「ぬっべっほう」の絵は、「皺の多い琉球芋に短い四肢を配したやうな化物」と表現されている。また先述の『新吾左出放題盲牛』には「死人の脂を吸い、針大こくを喰う。昔は医者に化けて出てきたが、今はそのまま出てくる……」などと書かれている。
また妖怪研究家の多田克己は、のっぺらぼうは現在では顔に目鼻がまったくない妖怪として知られているが、古くはこのぬっぺふほふのように顔と体の区別のつかない形態のものだったとしている。顔に白粉をぬっぺりと塗った様を「白化」というが、この「白化」には「しらばっくれる、とぼける」「明け透けに打ち明けて言うと見せかけて騙す」「露骨になる」「白粉で装う」「白い化物」などの意味がある。その「白化」の意味の体現により、ぬっぺふほふはまず人間に成りすまして(しらばっくれて)通行人に近づき、親しげに会話をし(明け透けに打ち解け)、相手が油断したところで正体を現し(露骨になり)、本来の姿(白粉をべったり塗ったような白い化物)を見せるのだという。
昭和・平成以降の文献によっては、ぬっぺふほふは廃寺などに現れる妖怪などと記述されているが、これは民俗学者・藤沢衛彦の著書『妖怪画談全集 日本篇 上』で「古寺の軒に一塊の辛苦の如くに出現するぬっぺらぱふ」と解説されていることに由来するものであり、藤沢が「寺に現れる」と述べたのは、『画図百鬼夜行』の背景からの連想に過ぎない創作と指摘されている。また文献によっては、死肉が化けて生まれた妖怪で、この妖怪が通った跡には腐肉のような臭いが残るなどと記述されているが、一次出典は不明。
類話
文化時代の随筆『一宵話』に、ぬっぺふほふに似たものが現れた話がある。
1609年(慶長14年)、駿府城の中庭に、肉塊のような者が現れた。形は小児のようで、手はあるが指はなく、肉人とでもいうべきものだった。警戒の厳しい城内に入り込む者は妖怪の類であろうと思われたが、捕まえようにもすばやく動いて捕まえられない。当時の駿府城に住んでいた徳川家康が、その者を外へ追い出すよう命じたため、家来たちは捕獲をあきらめて城から山のほうへと追い出した。
後にこの話を聞いた薬学に詳しい者は、それは中国の古書にある「封(ほう)」というもので、白澤図にも記載があり、この肉を食べれば多力を得る仙薬になったと口惜しがったという。
目も鼻もない女鬼(めおに)
名前については不明だが、『源氏物語』手習の記述に、「昔いたという目も鼻もない女鬼(めおに)〜」といった記述があり、のっぺらぼうの源流と見られる妖怪の存在(顔のない鬼)が古代末から言い伝えられていたことが分かる(少なくとも平安時代中期の近畿圏でそうした怪異が知られていた)。記述の内容からも当時は口があったものとみられる。時代は下って、『遠野物語』内の記述にも、「旅人が目鼻もないのっぺりとした子供に赤頭巾をかぶせたのを背中におぶって通りかかった」とあり、のっぺらぼうの伝承には、口のあるタイプがあり、このことからも西日本から東北地方にかけて、のっぺらぼうの類は、目鼻がないとしか記述されていないことが分かる。
お歯黒べったり
お歯黒べったり(おはぐろべったり)は、歯黒べったりとも言い、日本の妖怪の一種。目も鼻も無い顔に、お歯黒を付けた大きな口だけがある女の妖怪。お歯黒は、江戸時代には既婚女性が行なった化粧の一種で、鉄片を酒・茶・酢で酸化させた液で歯を黒く染めるもの。人を驚かせるだけで、危害を加えることはない。
江戸時代後期の画家竹原春泉作の『絵本百物語(別名『桃山人夜話』)』に姿が描かれている。詞書には、「ある人が古い社の前を通ったとき、美しげな女が伏し拝んでいるので、戯れに声を掛けて過ぎようとしたところ、その女が振り向いた。顔を見ると目も鼻も無く、大きな口でけらけらと笑った。二度と見たくないほど恐ろしかった」という意味のことが記されている。また、「東国では『のっぺらぼう』とも言い、多くは狐狸の化け損なったもの」ともある。
『絵本百物語』のお歯黒べったりは角隠しを着け、美しい着物を着た姿で描かれているので、結婚前に死んだ女性の亡霊とも言われるが、角隠しは、もともと浄土真宗信者の女性が寺参りに際して着用する物であったから、断定はできない。また、のっぺらぼうは小泉八雲の短編『むじな』にあるように、ムジナ・キツネ・タヌキなどが人を驚かせるために化けたものであるとも言い伝えられるので、お歯黒べったりもその類とも考えられる。
ケナシコルウナルペ
アイヌに伝わる妖怪。名称は木原の姥の意味で、胆振地方や沙流郡での呼称。他にも平原の小母を意味するケナシウナラペ、湿地の小母を意味するニタッウナラベなどの名があるほか、天塩地方では山の魔の意味でイワメテイェプとも呼ばれる。
樹木の空洞や川岸の柳原などに棲んでいる怪女。ざんばら髪で、黒い顔には目や口が無く、親指のような鼻が付いているのみである。また川岸の柳原などにも棲むといわれたため、そうした場所では人が泊ることを戒められていた。
クマを操ることができ、山狩りをする者を熊に襲わせたという。そのため、本来善良な動物であるクマが人を襲うのはこの妖怪の仕業とされていた。
沙流郡二風谷部落での話。ある男が山ではぐれた小熊を捕らえ、自宅で檻に入れておいた。夜中になって、檻の前にケナシコルウナルペが現れた。男が見ると、小熊は禿頭の少年に姿を変え、ケナシコルウナルペの手拍子に合わせて踊っていた。そこで男は悪魔払いを行って小熊を殺すと、その死体はリスに姿を変えたという。 
牡丹燈籠(灯篭) 

 

牡丹灯籠(ぼたん どうろう)は、中国明代の小説集『剪灯新話』に収録された小説『牡丹燈記』に着想を得て、三遊亭圓朝によって落語の演目として創作された怪談噺である。『牡丹燈記』は、若い女の幽霊が男と逢瀬を重ねたものの、幽霊であることがばれ、幽霊封じをした男を恨んで殺すという話で、圓朝はこの幽霊話に、仇討や殺人、母子再会など、多くの事件と登場人物を加え、それらが複雑に絡み合う一大ドラマに仕立て上げた。圓朝没後は、四代目橘家圓喬・五代目三遊亭圓生・六代目三遊亭圓生・五代目古今亭志ん生・初代林家彦六など歴代の大真打が得意とした。
明治25年(1892年)7月には、三代目河竹新七により『怪異談牡丹灯籠』(かいだん ぼたん どうろう)として歌舞伎化され、五代目尾上菊五郎主演で歌舞伎座で上演されて大盛況だった。
以後、演劇や映画にも広く脚色され、特に二葉亭四迷は圓朝の速記本から言文一致体を編み出すなど、その後の芸能・文学面に多大な影響を与えた。
『剪灯新話』は、中国から伝えられたのち、江戸中期の怪談集「奇異雑談集」・「伽婢子」に翻案され、そのモチーフは上田秋成の「雨月物語」・山東京伝の「復讐奇談安積沼」などの読本、四代目鶴屋南北の脚本「阿国御前化粧鏡」に採用されるなど、日本でもなじみ深いものであった。現行の「牡丹灯籠」はそれらの先行作を発展させたものである。
『伽婢子』版牡丹灯籠に登場する男の名前は「荻原新之丞」であり、圓朝はこれに着想を得たものと考えられる。
「四谷怪談」や「皿屋敷」と並び、日本三大怪談と称せられる。但し、他の2作が深い怨恨を遺して死んだ亡霊を主人公とし、また「累ヶ淵」では宿世の因縁による何代にもわたる怨恨の連鎖を主たるテーマとしているのと比して、亡霊と人間との恋愛を描くという点で、原作に見られる中国的な趣きを強く残しているものと言える。このモチーフは、映画『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』に取り上げられた『聊斎志異』収録の「聶小倩」などと通じるものがある。
また、日本の幽霊には足が無いのが一般的であるのに対して、牡丹灯籠のお露は、カランコロンと駒下駄の音を響かせて夜道を歩いて来る、という演出にも、中国的な幽霊の名残りが見られる。
あらすじ
旗本飯島平左衛門の娘、お露は浪人の萩原新三郎に恋したあげく焦れ死にをする。お露は後を追って死んだ下女お米とともに、夜な夜な、牡丹灯籠を手にして新三郎のもとに通うようになる。その後、新三郎の下働き、関口屋伴蔵によって、髑髏を抱く新三郎の姿が発見され、お露がこの世の者でないことがわかる。このままでは命がないと教えられた新三郎は、良石和尚から金無垢の海音如来をもらい魔除けの札を張るが、伴蔵の裏切りを受け、露の侵入を許してしまう。以上の主筋に、飯島家のお家騒動。伴蔵と女房お峰の因果噺がからむ。
原作となる「牡丹灯記」(『剪灯新話』所収)では、元朝末期の明州が舞台となっている。主人公は喬某という書生であり、符麗卿と金蓮というのが、亡霊と侍女の名前である。
長編人情噺の形をとっており、多くの部分に分かれているが、六代目三遊亭圓生はお露と新三郎の出会いを「お露新三郎」・お露の亡魂が新三郎に通い祟りをなすくだりを「お札はがし」・伴蔵の悪事の下りを「栗橋宿/お峰殺し」「関口屋のゆすり」にそれぞれ分けて演じていた。 
圓朝の「怪談牡丹灯籠」の速記本は22個の章に分かれている。
1. 飯島平太郎(のちの平左衞門)、刀屋の店先で酒乱の黒川孝藏に絡まれ、斬り殺す。(「発端/刀屋」)
2. 医者の山本志丈の紹介で、飯島平左衞門の娘・お露と美男の浪人・萩原新三郎が出会い、互いにひと目惚れする。(「臥龍梅/お露新三郎」)
3. 黒川孝藏の息子・孝助が、父の仇と知らず、飯島家の奉公人になる。平左衞門は気づいたが、黙って孝助に剣術を教える。
4. 萩原新三郎、お露のことを想い、悶々とする。店子の伴蔵と釣りに出かけ、お露の香箱の蓋を拾う。
5. 飯島平左衞門の妾・お国、平左衞門の留守中に隣家の息子・宮邊源次郎と密通。黒川孝助が見咎め、喧嘩になる。
6. 死んだと聞いたお露が萩原新三郎の前に現れる。
7. 相川新五兵衞が飯島平左衞門宅を訪れ、自分の娘・お徳と黒川孝助との養子縁組を持ちかける。
8. 人相見の白翁堂勇斎が萩原新三郎宅を訪ね、死相が出ていると告げる。お露が幽霊であることがわかり、仏像とお札で幽霊封じをする。
9. 宮邊源次郎とお国、邪魔な黒川孝助を消すため、一計を案じるが、失敗に終わる。
10. 伴蔵と妻のお峰、百両で萩原新三郎の幽霊封じの仏像とお札を取り外してやる、と幽霊のお露に持ちかける。
11. 飯島平左衞門の金百両が何者かに盗まれる。お国はこれを利用し、黒川孝助が疑われるように工作する。
12. 伴蔵と妻のお峰、幽霊から百両を受け取り、萩原新三郎の身辺から仏像とお札を取り去る。(「お札はがし」)
13. 飯島平左衞門の機転と計らいで黒川孝助の濡れ衣は晴れたが、孝助は平左衞門を間男の宮邊源次郎と間違えて刺してしまう。平左衞門は、自分が孝助の父の仇であることを告げ、孝助を相川家へ逃がす。(「孝助の槍」)
14. 萩原新三郎死亡。
15. 飯島平左衞門は深手を負いながらも、宮邊源次郎を殺しに行くが、反対に殺されてしまう。源次郎とお国は飯島家の金品を盗んで逃走する。黒川孝助はお徳と祝言をあげるが、亡き主人・平左衞門の仇を討つため源次郎とお国を追う。
16. 萩原新三郎の葬儀を済ませたのち、伴蔵と妻のお峰は悪事がばれるのを恐れて、伴蔵の故郷・栗橋に引っ越す。
17. 伴蔵は幽霊にもらった百両を元手に荒物屋「関口屋」を開き、成功し、料理屋の酌婦と懇ろになる。酌婦は、飯島平左衞門の元妾のお国だった。伴蔵は。お国との仲を咎めた妻のお峰を騙して殺す。(「栗橋宿/お峰殺し」)
18. 死んだお峰が伴蔵の使用人たちに乗り移り、伴蔵の悪事をうわ言のように喋り出したので、医者を呼んだところ、その医者は山本志丈だった。事の次第を知った山本は伴蔵にお国の身の上を暴露する。お国の情夫宮邊源次郎が金をゆすりに来るが、逆に伴蔵に追い返される。伴蔵は栗橋を引き払い、山本と江戸に帰る。(「関口屋」)
19. 仇が見つからず、孝助はいったん江戸へ戻り、主人が眠る新幡随院を参り、良石和尚に会う。婿入り先の相川家に戻ると、お徳との間に息子・孝太郎が生まれていたことを知る。
20. 伴蔵は悪事の発覚を恐れて山本志丈を殺すが、捕えられる。孝助は良石和尚の予言に従い、人相見の白翁堂勇齋を訪ね、そこで偶然、4歳のときに別れた母親おりえと再会する。すると、孝助が探していたお国が、母親の再婚相手の連れ子であり、源次郎とともに宇都宮に隠れていることを知る。
21. 母おりえがお国と源次郎の隠れ場所に手引きしてくれるというので孝助は宇都宮に出向くが、おりえは、夫に義理立ててお国と源次郎に事の次第を話し、2人を逃す。
22. 母おりえは孝助に事の次第を話し、自害する。孝助は二人を追い、本懐を遂げる。 
真景累ヶ淵 

 

累ヶ淵(かさねがふち)は、茨城県常総市羽生町の法蔵寺裏手辺りの鬼怒川沿岸の地名。江戸時代、この地を舞台とした累(るい、かさね)という女性の怨霊とその除霊をめぐる物語は広く流布した。この物語を題材にとり、四代目鶴屋南北作の『色彩間苅豆』(いろもようちょっとかりまめ)をはじめとした累物(かさねもの)と呼ばれる一群の歌舞伎作品がうまれたほか、三遊亭円朝は怪談噺『真景累ヶ淵』を作り上げた。
累の物語が最初に知られるのは、元禄3年(1690年)に出版された仮名草子本『死霊解脱物語聞書』である。『聞書』によれば、慶長17年(1612年)から寛文12年(1672年)までの60年にわたって繰り広げられた実話に基づくとされている。
下総国岡田郡羽生村に、百姓・与右衛門(よえもん)と、その後妻・お杉の夫婦があった。お杉の連れ子である娘・助(すけ)は生まれつき顔が醜く、足が不自由であったため、与右衛門は助を嫌っていた。そして助が邪魔になった与右衛門は、助を川に投げ捨てて殺してしまう。あくる年に与右衛門とお杉は女児をもうけ、累(るい)と名づけるが、累は助に生き写しであったことから助の祟りと村人は噂し、「助がかさねて生まれてきたのだ」と「るい」ではなく「かさね」と呼ばれた。両親が相次いで亡くなり独りになった累は、病気で苦しんでいた流れ者の谷五郎(やごろう)を看病し、二代目与右衛門として婿に迎える。しかし谷五郎は容姿の醜い累を疎ましく思うようになり、累を殺して別の女と一緒になる計画を立てる。正保4年8月11日(1647年)、谷五郎は家路を急ぐ累の背後に忍び寄ると、川に突き落とし残忍な方法で殺害した。その後、谷五郎は幾人もの後妻を娶ったが、尽く死んでしまう。6人目の後妻・きよとの間にようやく菊(きく)という名の娘が生まれた。寛文12年1月(1672年)、菊に累の怨霊がとり憑き、菊の口を借りて谷五郎の非道を語り、供養を求めて菊の体を苦しめた。近隣の飯沼にある弘経寺(ぐぎょうじ)遊獄庵に所化として滞在していた祐天上人はこのことを聞きつけ、累の解脱に成功するが、再び菊に何者かがとり憑いた。祐天上人が問いただしたところ、助という子供の霊であった。古老の話から累と助の経緯が明らかになり、祐天上人は助にも十念を授け戒名を与えて解脱させた。
法蔵寺には累を弔った墓があり、常総市の指定文化財になっている。また、法蔵寺には祐天上人が解脱に用いたという数珠・累曼陀羅・木像なども保存されている。
江戸時代の作品化
累ヶ淵の物語は江戸時代を通じて流布し、これに触発された作品が多く制作された。「累」という名の女性主人公が、因果の中で「与右衛門」という名の夫に殺害され、怨霊となる筋立てが共通するが、設定は作品によってさまざまに変化している。
怪談として広く知られる契機になったのは四代目鶴屋南北作の「色彩間苅豆」(いろもようちょっとかりまめ)が上演されて以降とされるが、「色彩間苅豆」も、累ヶ淵の説話が広く知られていることを前提として脚色が加えられた作品である。
歌舞伎・文楽『薫樹累物語』(めいぼくかさねものがたり) - 寛政2年(1790年)初演 伊達騒動を題材とした『伊達競阿国戯場』(だてくらべおくにかぶき)の中の一幕に「身売りの累」として組み込まれたもので、のちに独立した演目となった。与右衛門が殺害した傾城高尾の妹が累という設定になっている。
歌舞伎舞踊『色彩間苅豆』(いろもようちょっとかりまめ) - 四代目鶴屋南北作、文政6年(1823年)初演。 通称『かさね』(『累』とも表記される)。歌舞伎『法懸松成田利剣』(けさかけまつなりたのりけん)の一部として制作された。
読本『新累解脱物語』 - 曲亭馬琴作
落語(怪談噺)『真景累ヶ淵』 - 三遊亭圓朝作。安政6年(1859年)初演。 初演時の演目は『累ヶ淵後日の怪談』。明治になって、「神経」をもじった「真景」に改める。 
鍋島藩の化け猫騒動 

 

化け猫(ばけねこ)は、日本の妖怪の一種。その名のとおりネコが妖怪に変化(へんげ)したものであるが、猫又と混同されることが多く、その区別はあいまいである。日本各地に化け猫の伝説が残されているが、佐賀県の鍋島の化け猫騒動が特に有名である(詳細は、#鍋島の化け猫騒動を参照)。
由来
ネコが妖怪視されたのは、ネコは夜行性で眼が光り、時刻によって瞳(虹彩)の形が変わる、暗闇で背中を撫でれば静電気で光る、血を舐めることもある、足音を立てずに歩く、温厚と思えば野性的な面を見せることもあり、犬と違って行動を制御しがたい、爪の鋭さ、身軽さや敏捷性といった性質に由来すると考えられている。
動物の妖怪譚はネコ以外にも、ヘビの執念深さ、キツネが持つ女性への変身能力、民話『かちかち山』などで人を食らうタヌキの凶暴性などがあるが、江戸時代に入って都市や町場が形成され、人間たちが自然から離れて生活することが多くなると、そうした野生動物の妖怪としての特徴が、人間の身近にいながらも神秘性を秘めた動物であるネコのものとして語られることが多くなり、次第に化け猫のイメージが作り上げられていったとの解釈もある。
また、化け猫の俗信として「行灯の油を舐める」というものがあり、江戸時代の百科事典『和漢三才図会』にも、ネコが油を舐めることは怪異の兆候とある。これは、近世では行灯などの灯火用に安価な鰯油などの魚油が用いられ、ネコがそうした魚油を好んで舐めたためと見られている。また、当時の日本人の食生活は穀物や野菜類が中心であり、その残りを餌として与えられるネコは肉食動物ながらタンパク質や脂肪分が欠乏した食生活にあった。それを補うために行灯の油を舐めることがあり、行灯に向かって二本足で立ち上がる姿が妖怪視されたものとの指摘もある。
こうしたネコの神秘性は、江戸時代の遊郭に勤めていた遊女のイメージとも結びつき、当時の草双紙などで人気を博していたキャラクター「化猫遊女」が生まれる元にもなった。
民間伝承
化け猫同様にネコの怪異として知られる猫又が、尻尾が二つに分かれるほど年を経たネコといわれることと同様に、老いたネコが化け猫になるという俗信が日本全国に見られる。茨城県や長野県では12年、沖縄県国頭郡では13年飼われたネコが化け猫になるといい、広島県山県郡では7年以上飼われたネコは飼い主を殺すといわれる。ネコの飼い始めに、あらかじめ飼う年数を定めておいたという地方も多い。また地方によっては、人間に残忍な殺され方をしたネコが怨みを晴らすため、化け猫になってその人間を呪うなど、老いたネコに限らない化け猫の話もある。
化け猫のなす怪異は様々だが、主なものとしては人間に変化する、手拭を頭にかぶって踊る、人間の言葉を喋る、人間を祟る、死人を操る、人間に憑く、山に潜み、オオカミを引き連れて旅人を襲う、などといったことがあげられる。珍しい例では、宮城県牡鹿郡網地島や島根県隠岐諸島で、人間に化けたネコが相撲を取りたがったという話もある。
ただしネコが喋るということについては、人間がネコを見ながら自分の心の中で思った言葉を、あたかもネコが喋ったかのように誤解したものであり、妖怪の類ではないとの指摘もある。1992年(平成4年)の読売新聞には、ネコが人間の言葉を喋ったように聞こえたが、よく聞き直すと、単にネコが口ごもった鳴き声が、人間の言葉によく似て聞こえたに過ぎなかったとの記事が掲載されている。
江戸時代には尾がヘビのように長いネコが化けるという俗信があり、尾の長いネコが嫌われ、尾を切る風習もあった。現在の日本のネコに尾の短いものが多いのは、尾の短い猫が好まれたことによる自然淘汰とする説もある。
なお、老いたネコが怪異を為すという俗信は日本に限ったことではない。たとえば中国浙江省金華地方では、人間に3年飼われたネコは人間を化かすといわれていた。特に白いネコが化けやすいといって白いネコを飼うことを忌む風習もあり、人間を化かす能力を得る際には月から精力を取り込むといわれたことから、月を見上げるネコを見かけた者は、どんなに可愛いネコでもその場で殺したこともあったという。
文献・説話
鍋島の化け猫騒動
肥前国佐賀藩の2代藩主・鍋島光茂の時代。光茂の碁の相手を務めていた臣下の龍造寺又七郎が、光茂の機嫌を損ねたために斬殺され、又七郎の母も飼っていたネコに悲しみの胸中を語って自害。母の血を嘗めたネコが化け猫となり、城内に入り込んで毎晩のように光茂を苦しめるが、光茂の忠臣・小森半佐衛門がネコを退治し、鍋島家を救うという伝説。
史実では、龍造寺氏は鍋島氏以前に肥前を治めていたが、龍造寺隆信の死後は彼の補佐だった鍋島直茂が実権を握った後、隆信の孫の高房が急死、その父の政家も自殺。以来、龍造寺氏の残党が佐賀城下の治安を乱したため、直茂は龍造寺の霊を鎮めるため、天佑寺(現・佐賀市多布施)を建造した。これが騒動の発端とされ、龍造寺の遺恨を想像上のネコの怪異で表現したものが化け猫騒動だと考えられている。また、龍造寺氏から鍋島氏への実権の継承は問題のないものだったが、高房らの死や、佐賀初代藩主・鍋島勝茂の子が早くに亡くなったことなどから、一連の話が脚色され、こうした怪談に発展したとの指摘もある。
この伝説は後に芝居化され、嘉永時代には中村座で『花嵯峨野猫魔碑史』として初上演された。題名の「嵯峨野(さがの)」は京都府の地名だが、実際には「佐賀」をもじったものである。この作品は全国的な大人気を博したものの、鍋島藩から苦情が出たために間もなく上演中止に至った。しかし上演中止申請に携わった町奉行が鍋島氏の鍋島直孝だったため、却って化け猫騒動の巷説が有名になる結果となった。
後年には講談『佐賀の夜桜』、実録本『佐賀怪猫伝』として世間に広く流布された。講談では龍造寺の後室から怨みを伝えられたネコが小森半左衛門の母や妻を食い殺し、彼女らに化けて家を祟る。実録では龍造寺の一件は関係しておらず、鍋島藩士の小森半太夫に虐待された異国種のネコが怨みを抱き、殿の愛妾を食い殺してその姿に成り変わり、御家に仇をなすが、伊藤惣太らに退治されるという筋である。
昭和初期にはこの伝説を原案とした『佐賀怪猫伝』『怪談佐賀屋敷』などの怪談映画が大人気となり、化け猫役を多く演じる入江たか子、鈴木澄子といった女優が「化け猫女優」として知られることとなった。
その他
ネコを妖怪視する記述が文献類に登場するのは、鎌倉時代の頃からである。同時代の説話集『古今著聞集』には、奇妙な行動をとるネコを指して「魔の変化したものではないか」と疑う記述が見られる。この頃の古い化け猫の話には、寺院で飼っていたネコが化けたなど、寺にまつわる話が多いことが特徴だが、これは当時の仏教の伝来にともない、経典をネズミに齧られることを防ぐためにネコが一緒に輸入されたことが理由の一つと考えられている。
江戸時代に入ると、化け猫の話は各種の随筆や怪談集に登場するようになる。民間伝承のようにネコが人間に化ける話や人間の言葉を喋る話は『兎園小説』『耳嚢』『新著聞集』『西播怪談実記』などに、ネコが踊る話は『甲子夜話』『尾張霊異記』などに見られる。『耳嚢』4巻によれば、どのネコも10年も生きれば言葉を話せるようになり、キツネとネコの間に生まれたネコは10年と経たずとも口がきける、と述べられている。化ける話においては、老いたネコが人間の老女に化けることが非常に多い。化け猫の怪談はこの江戸時代が全盛期であり、前述の「鍋島の化け猫騒動」などが芝居で上演されたことでさらに有名なものとなった。
播磨国宍粟郡山崎町牧谷(現・兵庫県宍粟市内)には、辛川某なる人が化け猫を退治した話が伝わっている。同様の話は同国の神西郡福崎村谷口(現・神崎郡福崎町谷口)にも伝わっており、金剛城寺で村人を困らせていた化け猫を寺侍が退治し、化け猫は茶釜の蓋や鉄鍋で矢や鉄砲玉を防いだという。これらはあたかもスサノオのヤマタノオロチ退治のように、土地の旧家が活躍している点が共通している。
明治時代には、1909年(明治42年)に東京の本所の長屋でネコが踊り出したという記事が、『報知新聞』『萬朝報』『やまと新聞』に掲載されている。
史跡
妙多羅天女(みょうたらてんにょ) - 新潟県弥彦神社
由来として、文化時代の随筆『北国奇談巡杖記』にネコにまつわる怪異譚が記述されており、同書では「みょう」に「猫」の字をあてて「猫多羅天女」と表記されている。北陸地方の説話による別説では、老いたネコが老婆を食い殺してその老婆になりかわり、後に改心して妙多羅天として祀られたという「弥三郎婆話」があり、北海道・北奥羽地方の「三左衛門猫」など、類話が全国に伝わっている。
猫の踊り場(ねこのおどりば) - 神奈川県横浜市泉区
かつて東海道五十三次の戸塚宿(現・神奈川県横浜市戸塚区)の醤油屋で、夜になると手拭が1本ずつなくなることがあった。ある夜に醤油屋の主人が仕事に出かけると、人のいないはずの寂しい場所から賑やかな音楽が聞こえた。見ると、そこには何匹ものネコたちが集まり、その中心では主人の飼いネコが手拭をかぶって踊っていた。主人は、手拭がなくなったのはあのネコの仕業かと納得したという。このネコの踊っていた場所は踊場と呼ばれ、後には泉区の踊場交差点や横浜市営地下鉄の踊場駅の駅名などに地名として残されることとなった。踊場交差点には1737年(元文2年)にネコの霊を鎮めるための供養塔が建てられており、踊場駅構内には随所にネコをモチーフとしたデザインが施されている。
お松大権現(おまつだいごんげん) - 徳島県阿南市加茂町
江戸前期、加茂村(現・加茂町)の庄屋が不作にあえぐ村を救うために富豪に金を借りたが、すでに返済したにもかかわらず、富豪の策略で未返済の濡れ衣を着せられ、失意の内に病死。借金の担保になっていた土地は富豪に取り上げられてしまう。庄屋の妻のお松は奉行所に訴え出るも、富豪に買収された奉行は不当な裁きを下す。お松がそれを不服として藩主に直訴した結果、直訴の罪により処刑され、お松の飼っていた三毛猫が化け猫となり、富豪や奉行らの家を滅ぼしたという伝説に由来する。お松大権現は、命をかけて正義を貫いたお松の墓所を祀ったもので、お松の仇を討った三毛猫は猫塚として祀られており、境内には全国的にも珍しいネコの狛犬もある。直訴によって悪人を倒したという伝説から、勝負事にもご利益があるといわれ、受験シーズンには受験生の合格祈願も多い。
猫大明神祠(ねこだいみょうじんし) - 佐賀県杵島郡白石町
「鍋島の化け猫騒動」と同様、鍋島氏にまつわる怪異譚に由来する史跡。化け猫が鍋島勝茂の妾に化けて勝茂の命を狙うが、勝茂の臣下の千布本右衛門がそれを退治する。しかしそれ以来、ネコの祟りのためか千布家に跡継ぎの男子が生まれなくなってしまったため、化け猫を大明神として秀林寺(現・白石町)の祠に祀ったという。この祠には、7本の尾を持つネコが牙を向いた姿で刻まれている。史実では、かつて白石を治めていた秀氏の秀伊勢守が、鍋島氏に尽くしたにもかかわらず、キリシタンの疑いをかけられて滅ぼされ、後に秀氏の残党が鍋島氏を怨んで抗ったことから、秀林寺では秀氏一派の暗躍が化け猫にたとえられたものと見ており、これが「鍋島の化け猫騒動」の原型になったとの説もある。 
学校の怪談 (都市伝説に近い面がある) 

 

高度経済成長時代、学校建設が急務とされ、安価かつ購入容易な土地を探した結果、「安い土地=人気が無い=墓地の側もしくはかつて墓地であった場所」というケースが少なからず発生した。この経緯にその土地固有の伝承や怪奇譚が結びつき、様々な噂を生んだ。これが「学校の怪談」である。
「学校の怪談」は「子供の他愛無い戯言」とされる場合も多いが、昨今のそれは旧来の「怖い話」に、時代性を引用することでリアリティを付加される事例も多く、情報の伝播速度の特進化と相まって、地域を巻き込んだ「社会現象」になる事もある。 
落語「へっつい幽霊」 

 

三代目桂三木助の噺、「へっつい幽霊」(へっついゆうれい)によると。
道具屋にへっついを買いに来た客が、気に入って3円で買って行った。その夜の2時頃、表の大戸を激しく叩く音がする。開けると昼間へっついを買い求めた客で「買ったへっついを取って」という。道具屋の決まりで半値の1円50銭でなら引き取るが、何か事情がありそうなのでその話を聞ければ全額返金するという。
「どういう訳か寝付けず、その内へっついの角からチョロチョロと青白い火が出ると、痩せた青白い男の幽霊が出て『金返せ、金返せ』と言った。ふとんに潜ると枕元で『金返せ、金返せ』という。幽霊の追い剥ぎにあったのは初めてだ。あのへっつい、取って取って取って」。その晩泊めて翌朝へっついを引き取り、店に飾ると3円で売れて、夜中に起こされて1円50銭で引き取り、何日も一つのもので商いが出来た。
良い事は続かず、他の物がパタリと売れなくなった。街の噂になっていてこれでは売れる訳はない。夫婦が裏の台所で「1円付けて誰か貰ってくれないか」と相談をしていた。
それを裏の長屋に住んでいる渡世人の熊五郎が、耳にした。相棒として勘当された若旦那の銀ちゃんを連れて、1円の付いたへっついを貰い受けた。
表通りから路地に入りどぶ板につまずいた銀ちゃんがトントントンとのめり、掃きだめにへっついの角をぶつけると丸い物が銀ちゃんの足元に転げ出た。「幽霊のタマゴが出た!」。縄が切れたので近くの若旦那の家に放り込んで、熊さん家で白い包みを開けると10円金貨で30枚。
ポンと半分に分けて、50銭も分けて、若旦那は吉原に熊さんは博打場に・・・。二人とも一銭も無くして翌日帰ってきた。その晩、若旦那の土間のへっついから幽霊が出て「金返せ、金返せ」。翌日、熊さんは若旦那の実家に行って300円の金を借りてきた。
へっついを若旦那の所から自分の家に運んで夕方から幽霊が出るのを待っていた。あまりの剣幕に正面から出られず、後ろからビクビクしながら現れた。
「私は左官の長五郎で、丁を張るを楽しんでいた。ある時これが大当たり、回りから金を貸してくれの融通してくれの懇願、これでは無くなってしまうとへっついの角に埋め込んだ。当たっている時は恐いもので、その夜フグに当たって死んでしまった。地獄も金次第だと言うから、この金を閻魔に叩き付けて極楽に行きたい。それで出るがみんな目を回すか、逃げ出して用にならない。そこに行くと旦那はエライ」。
「分かったが、全部持っていくんではないだろうな」、「どうするんですか」、「半分分けの150円ずつでどうだ」、「それはヒドいや」、「いやか。それでは出るところに出て、話を付けようじゃないか」、「しょうがないや」。
それではと言うので150円ずつの金に分けたが、お互い中途半端な金だからどちらかに、おっつけっこ、しようじゃないかとサイコロを出した。サイコロの様子を見るのに幽霊の長五郎、下げた手の中で転がす無粋さ。サイコロを壺の中に入れて場に伏せた。どちらでも良いから張れというので「私は丁しか張らないので、丁だ」、「いくら張る」、「150円」、「イイのかい全部で。そうか、良い度胸だな」、「度胸が良いのでなく、モタモタしていたら夜が明けて金もなく帰らなくてはならない」。
「いいかい。開けるよ。勝負。五六の半」、「あぁ〜」、「幽霊がガッカリしたのは初めて見たが、いい格好ではないよ」。「親方もう一度入れてくださいな」、「それは断ろうじゃないか。お前ぇの方に銭がないのが分かっているんだから」、
「へへへ、親方、あっしも幽霊だ。決して足は出さねぇ」。 
1.へっつい
【竈】かまど。広辞苑。薪コンロ。
へっつい横丁 / (台東区雷門1丁目10と11、14と15の間の道)
浅草の雷門前の路地に、俗にこの様に言われた街なみがあった。私が思うに、ここでへっついを壊してお金を見つけたところ、ではなく、へっついを作る職人が多く住んでいたと思われます。
へっつい河岸 / (中央区日本橋人形町2−24)
旧吉原(元和3年〜明暦3年。40年間)の南端に堀がありました。その堀の吉原側の中央の堀岸を「へっつい河岸」と呼ばれていました。今は堀は埋め立てられて、極普通のビルと商店が並ぶ街並です。東にあった堀も埋め立てられて公園になっています。ここ吉原の南端にあった稲荷が「末広神社」と呼ばれています。
本町の店 / 若旦那の親御さんの店があるところ。三木助は場所を明示していませんが、円生さんは大店が多い本町と言っています。三木助は奉公人が14、5人いる立派な店だった。親御さんに話をすると勘当しているのに300円、札で出してくれた。金貨でなくてはいけないというと30枚、金庫から出してくれたという大店です。
2.長屋
普通の長屋(?)は九尺二間(くしゃくにけん。間口が1間半・奥行き2間。四畳半と土間)または九尺二間半(六畳と土間)が多かったのですが、ここの長屋はもう一回り大きい間取りになっています。左中央に井戸と惣後架(トイレ)、掃きだめが設置されています。下水の上にはどぶ板が乗せられています。
どぶ板 / 下水の溝に当てるフタ。普通、路地の中央にU字溝があり、それに被せる木製のフタ。
掃きだめ / ごみため。ゴミを捨てる為の集積箱。トイレに井戸に掃きだめは長屋に一ヶ所、共用です。
3.幽霊
死んだ人の魂。亡魂。 死者が成仏し得ないで、この世に姿を現したもの。亡者(モウジヤ)。
お化け / ばけもの。へんげ。妖怪。また、奇怪なもの、ばかでかいもの。
幽霊は人が死んでこの世に未練を残して居るもの。例えば、落語「阿三の森」のお三さん、「牡丹灯籠」のお露さん、「お菊の皿」のお菊さん、みんな美人です。「応挙の幽霊」の酔っぱらい幽霊は絵そのものが出てくるのもあります。落語「化け物使い」、「お若伊之助」の狸君や、「王子の狐」の女狐など、お化けはそれ以外の奇怪なものと区別が付きそうです。
幽霊とお化けには違いがあると落語家は言います。
美人が死んで、綺麗さが加わって、さも恨めしそうに現れるから恐いのであって、それを幽霊と言います。もともとお化けのような面構えのものが死んで出現したって、それはやはり、お化けだ。と言っています。あらら、お化けが可哀想。
八つ / 今の午前2時頃。幽霊の出る時刻。草木も眠る丑三つ刻、家の棟も三寸下がる、水の流れもピタリと止まる刻限。
4.サイコロ賭博
サイコロで行う博打に、一個でやる「ちょぼいち」、二個でやる「丁半」、三個でやる「チンチロリン」(狐)があります。この噺では「丁半博打」が行われた。
丁半博打 / 2個の賽子を振って出た目の合計が”丁”(偶数)か”半”(奇数)かを当てるもの。この噺では五六の半だと言います。お分かりでしょうが、五と六を足して十一で奇数ですから”半”、幽霊もガッカリするのが目に見えます。足さなくても一見で分かります。それは、偶数同士、奇数同士だと”丁”、どちらかが奇数だと”半”です。
その「猫定」より。私はやったことがないので、三田村鳶魚(えんぎょ)著「江戸生活事典」から引用すると、
八王子の六斎市での賭場の風景。野天博打である。三間盆といって、畳を三間(三枚長く)つなぎ、二枚ずつ合わせてカスガイを打ったものの正面に賽と壺皿(壺)を持った者が立て膝をしている。張る人は両側にいるので、畳の境目ところに子分の目の利いた者が一人ずつ検分している。壺皿は目籠の底を深くした様なもので、紙で張って渋が引いてある。賽は1寸(3.3cm)角もある、鹿の角製の大きなもので、これを二つ打ち込んで壺皿をポンと伏せる。丁方、半方は(置く場所が)決まっているので、丁の人は彼方、半の人は此方に分かれる。丁方も半方も札や銀貨をどんどん張るが、丁方に張ったのが100両有れば、半方に張ったのも100両でなくてはいけない。それを金へ手をつけないで勘定して、両方が合わなければ、何とかして同じようにする。大勢いるので、造作なく平均することができる。
”思うツボ”はサイコロ賭博で丁か半かの壺の中のサイコロの目を思い通りに的中させること。また、”はったり”も「さあ、張った、張った」という呼びかけの言葉からできたといわれる。
張った金をすぐ勘定できる者を盆が明るいと言い、逆にそれができない者を”盆暗野郎”と言った。今言われる”ボンクラ野郎”はこの賭場の盆からきている。
”ピンからキリ”も博打から来ていて、最上等のものから最下等のものまで。最初から最後までの意。
ピン=1、(pintaポルトガル語の点の意) 。カルタ・采の目などの1の数。最上のもの。
キリ=10。クルス(cruzポルトガル)の訛。十字架の意から転じて、十の意。または、それが最後で(キリのないこと)。(花札の桐=12月)から最後の札。
桂三木助は若い時、芸もすさんで博打にのめり込み、当代一流(?)の博打打ちで”ハヤブサの七”と呼ばれ、17年この生活が続いた。落語会の楽屋で、円生がこの噺を終えて戻ったら、そのサイの振り方は違うと言い放ったが、そこまで言うかと円生は思ったという。それを救ったのは25歳年下の仲子への実直な愛で、本物の落語家になったらその時一緒にさせるとの家族の言葉で、「芝浜」でプッツリ酒を止めた勝っつぁんとダブり、精進して名人になった。
芸術祭で賞を取った彼の代表噺「芝浜」、サイの振り方が絶品すぎる、この「へっつい幽霊」、「宿屋の仇討ち」、「ざこ八」、生前最後に演じた噺「三井の大黒」、浪曲の広沢菊春と意気投合し交換した「ねずみ」等は彼の独壇場であった。
四代目は息子が次いだが、惜しくも早死し、現在は空き名跡になっています。
5.言葉
道具屋 / 古画、骨董を扱う古美術屋さんではなく、家財道具一式を扱う古道具屋さんです。
渡世人 / (無職渡世の人の意) 博打(バクチ)打ち。やくざ。
300円(両) / 三木助は明治の初めで時代設定していますから、円と両がごっちゃになって噺の中に出てきます。要約では円で統一してあります。貨幣価値としては3〜5万円位になるでしょうか。だとすると現在では900万〜1500万円。若旦那の家は紙幣または金貨で即座に出せる大店なのです。
左官 / (江戸訛りでしゃかん)(宮中の修理に、仮に木工寮の属(サカン)として出入りさせたからいう) 壁を塗る職人。かべぬり。壁大工。泥工(デイコウ)。 
幽霊名字 

 

幽霊名字をご存じでしょうか。
これは、1998年に刊行した「日本人の名字なるほどオモシロ事典」(日本実業出版社)の中で私が提唱した言葉です。
どういうものかというと、実在しているかのように紹介されていながら、実際にはその存在が怪しいもの、あるいは存在しないと思われるものを指しています。
ある名字が本当に存在する、ということを証明するのは比較的簡単です。実例を1つだけ示せばOKです。ある程度公的に職業についている人がいれば、本名であることを確認した上で、その人を例としてあげればOKです。特に著名人がいない場合は、「○○市に多い」とか、地域を限定して示すこともできます。疑問のある人は、その地域にいくなり、電話帳を調べるなりすれば確認することができます。
しかし、特定の名字が存在しない、ということを証明するはたいへんです。日本人1億2000万人の名字を全部調べたが1つもなかった、ということを示さなければなりませんから。個人情報の保護が急務とされている今、個人(あるいは一企業)が、日本人全員の戸籍を閲覧して確認する、といううことは事実上不可能です。
ですから、誰かが「自分は見た!」と主張すれば、誰もそれを完全に否定することはできません。いろいろと状況証拠を重ねて、「本当は存在しないのでは?」とするのが限度ともいえます。
このあたりが、幽霊の目撃談に似ているため、「幽霊名字」とよんだのです。現在ではいくつかの名字関係のホームページなどでも使われており、名字愛好家?の間ではかなり定着した言葉となってきたような気がします。
では、どうして本当には存在しない名字が堂々と本に掲載されているかのでしょうか?。大きく2つの理由があれますが、両方とも意外に単純な理由です。
一つめの理由は、最近の名字事典の傾向にあります。珍しい名字を多数収録した事典はたくさん出ていますが、最近は収録数の多さを競う傾向が強くなっています。ようするに、「多い方が勝ち」みたいな風潮があるのです。ですから、名字を吟味して収録数を絞るよりは、怪しくても多い方が売れる、と事典の編集者が考えているのです。ユーザーの方も「収録数が多いほど調査が行き届いていていい事典である」と思っているような気がします。(トンデモナイ大誤解なんですが)
もう一つの理由は、苦情処理です。未収録の名字があると本人や関係者から厳しいお叱りがきます。でも、幽霊名字を掲載しても本人からは苦情がきません(だって、いないんですから)。つまり、編集者としては“安心して”掲載することができるのです。
こうした幽霊名字は結構たくさんあります。珍しい名字を紹介している本や雑誌の記事、テレビ番組などでは、よく信じられないような奇妙な名字が紹介されますが、その中には幽霊名字がたくさん混じっていたりします。「こんな名字ホントにあるの?」と思った名字は、本当はなかったりします。
でも、気をつけてください。珍しい名字がすべて幽霊名字ではありません。「六月一日」(うりはり)は幽霊名字ですが、「四月一日」(わたぬき)や「八月一日」(ほづみ)は存在します。
現在、幽霊と実在の間をさまよっているのが「一」(にのまえ)という名字です。「一」という名字については、「いち」「かず」「はじめ」は私も確認していますが、「にのまえ」さんは、タレントの芸名でしか確認できていません。しかし、「実際に見た」という方も結構います。以前テレビの収録をした際、番組内で「にのまえ」さんをクイズの前振りとして使うことになりました。そこで、スタッフに再調査を依頼したところ、かなり昔にテレビ出演したことがあるらしいが、現在では確認がとれない、ということがわかりました。その方が本名であれば、実在することになりますが、なんともはっきりしません。おそらく出演したのはタレントさんで、私は実在しないと思っています。
結局、名字をみただけでは、幽霊名字と実在の名字の差は全くわかりません。もし、実在する名字かどうかは一目みればわかる、という人がいれば、その人は間違いなく超人です。私だって、いまだによくわかりませんから。
名字の調査は幽霊名字との闘いでもあるのです。
※「日本人の名字なるほどオモシロ事典」は、「名字の謎」 と改題して新潮OH!文庫より刊行されています。また、幽霊名字については、 「名字の謎がわかる本」 (幻冬舎文庫)で詳しく紹介しています。 
幽霊の酒盛り 

 

むかし、ある所にいっけんの古道具やさんがありました。古い掛け軸や壷、タヌキの置物から仏像までいろいろなガラクタが店じゅう、所狭しと並んでいました。
ある日、珍しく客があり、あれこれ見回していました。
「掛け軸か、字に勢いがないな。なんだこの刀は、どうせ偽者だろう」
わざと聞こえるように売り物にケチをつけてるのか、いけ好かない客だ。早く帰らないかなあ、主人は番台でぼーとしていました。
すると、「む?この幽霊の絵は!…表情がいい。あやしい色気がただよっている。おい」呼び止められて主人、「へい」と答えます。
「この幽霊の絵はいくらだ」
「はっ…。ええ…はい、この絵ですね」
それはどこかの雑貨市で適当に仕入れてきたものでした。まあひょっとしたら物好きな客が買うかもしれん、くらいの気持ちでしたから、主人にしてみれば二十文にもなれば十分でした。
そこで、「へへ…こんなもんでどうでしょう」と指を二本出します。すると客は、「何!二十両!買った!今手元にはこれだけしか持ち合わせがないのだが、手付けとして渡しておく。すぐに持ってくるから、待っておれ」と言って財布を渡し、店を出ていきました。主人は何が起こったかよくわかりません。受け取った財布を開けてみると、二両入ってます。
どうやら幽霊の絵が本当に二十両で売れたみたいです。ニヤニヤ笑いがこみ上げてきます。
「うっひょーい!二十両!二十両!」
主人は大喜びで店の中を跳ね回ります。半年は遊んで暮らせるお金です。つくづく幽霊の絵に感謝です。
「いやー、あんたよくやってくれたよ。二十両だよ。あらためて見ると、ねえ、そりゃ高値で売れるのももっともだよ。あ、ちょっと待っててくださいな」と、男は台所に行って、酒とおちょこを持ってきます。
「これはお祝いの酒盛りをしないとね。ずっと楽しみに取っておいた酒だけども、こういう時こそ開けなきゃね。ねえ、おねえさんも一つ、絵の中から出てきて一杯やりませんか?ああ、つまみは塩辛と…鰹の叩き、これがまた酒にあうんだよね」
言ってるそばからもう酒をついで、ぐいっぐいっと飲み始めます。
すると、すーーっと空気が冷えてきて、ヒューードロドロとあやしい音がします。
ひょいと見ると、目の前にきれいな女の人が座っています。ところがよく見ると膝から下が見えるような見えないような、半分すけたようになっています。
「まさか」と絵を見ると、女の描いてあった位置には何もない。目の前に女がいる。何度も絵と女を見比べて、主人はやっと理解しました。
「あんた、絵から出てきたの?」
女は目をほそめてにっこり笑ってうなずきます。はらっと前髪が顔にかかる、これがもうメチャクチャ可愛いのです。主人は、幽霊とか絵から出てきたとか、いっしゅんでどうでもよくなりました。
「ま、まま、お姉さん一杯どうぞ」と、酒をすすめます。幽霊の女は両手でちょこんと摘むようにおちょこを持ち、主人が酒をつぐと、すーと口元に運び、背筋をしゃんと伸ばしてお行儀よく座ったまま、くっ、くっ、くくーーっと飲みます。
「いやーーお姉さん、いい飲みっぷりですね。まま、もう一杯」
主人は嬉しくなってジャンジャン酒をすすめます。また幽霊も主人のおちょこにつぎ、二人して飲むのでした。
酒が進むにつれ幽霊の女もだいぶ打ち解けてきて、男が酔った勢いで笑い話をすると、口に手をそえて笑うのでした。最初は正座していた足も崩してます。
腰から下は透明なのでよくわからないですが、確かに崩しているのです。
「お姉さん、あのー、大丈夫ですか?」
女はそばにあったタヌキの置物にもたれかかって、「あんたも飲みなさい」とばかりに酒をすすめます。
そしてタヌキの頭をこずいたり、バシィと背中を叩いては楽しそうに笑うのでした。
「お姉さん、だいぶお酒が回ってるようですけど?」
女はまだまだこれからとで言わんばかりにバンと自分の胸を叩きます。そしてグイグイ飲んでは満足げに長い息を吐くのでした。
そのうちお酒も残り少なくなってきます。女はカラのおちょこをつまんで、ブラブラさせます。
それは悲しそうに目をふせるのです。カラの一升瓶をじいっと見つめます。それから今度は顔を上げて主人を見つめます。この世の終わりかという表情です。
「ああ、わかったわかった、そんな顔しなさんな」
主人がたまりかねてもう一本酒を持ってくると、パァッと笑顔になっておちょこを持った両手を前にさし出して、肩をゆらすのでした。
こうして夜通し酒盛りはつづきました。
朝の光が差し込んできて、主人は目をさまします。飲みすぎで頭がガンガンします。
「うーーん…昨日は変な夢を見たもんじゃ」
部屋の中を見回すと、ヒドイありさまです。嵐が通った後のようです。たぬきの置物がぶっ倒れ、掛け軸は破れ、売り物の古道具がめちゃくちゃに散らばっています。
「あれっ!?」
主人は思わず声を上げます。掛け軸の絵の幽霊が、横になってくてーと寝ているのです。
「ね…寝てる!」
主人はあきれかえって、しばらくその幸せそうな寝顔をみてました。そして、
「売るのは、よそう」とつぶやきました。  
幽霊薬 

 

昔、高草郡布施村(鳥取市布勢)に与一兵衛という百姓がいた。田植えがすむと、日照りの夏になったので、与一兵衛は田に水を引くために、夜更けに嵐ヶ鼻に出かけた。
嵐ヶ鼻は幽霊が出るといううわさがあったのだが、与一兵衛は肝っ玉が据わっていたので、うわさには耳も貸さず、仕事をしていた。
すると、ちょうど草木も眠る丑三つ時をすぎたころ、風と共に、あたりの木々がざわついた。そして若い女が長い乱れ髪をなびかせ、黙ったまま突っ立ている。
与一兵衛は、これがうわさの幽霊だと思ったので、心を落ち着けて、幽霊に声をかけた。「どんな用件で、こんな夜更けの田んぼに来たのかな?」
すると、女は蚊のなくような小さな声で言った。「私は昔、このあたりに住んでいた医者の娘でございます。そのころは度々戦がありました。その戦の最中に、私は3,4年の間わずらっておりました。私を看病していた父の方が先に死んでしまいました。やがて私も死にましたが、戦の世の中でしたので、髪もそれず、葬式もないまま捨てられるようにして、嵐ヶ鼻に埋められました。お願いです。どうか、私の髪をそってくださいませ。」
幽霊の話を聞いてかわいそうに思った与一兵衛は、「それはお安い御用じゃ。だが、今夜は剃刀がない。だから明日の晩必ず剃刀をもってきてそってしんぜよう」と約束した。
それを聞くと、幽霊は大喜びで何度もお礼を述べ、消えていった。幽霊の消えた後、与一兵衛は恐ろしくてひざががくがく震えている自分を知った。
その翌日の夜更け、与一兵衛は約束どおり嵐ヶ鼻に出かけた。すると昨日と同じように薄気味悪い風が吹き、青白い顔をした女があらわれ、与一兵衛の前に立った。
与一兵衛は、幽霊の髪を望みどおりにそってやった。
すると女は、
「これで成仏できます。ありがとうございました。お礼になるほどのものではありませんが、これは父の形見です。」と言って、一冊の本を渡し、スーッと消えてしまった。
幽霊がくれた本には、秘薬の作り方が書いてあった。それからというもの、与一兵衛は、病気の治し方や病気のものがあると、その本を開いては薬を作って与えた。与一兵衛の作る薬は「幽霊薬」といってもてはやされた。
今でも鳥取の西里仁には、与一兵衛の子孫が住んでおり、与一兵衛がよく見た「幽霊薬」の本や道具が残されている。また、女の幽霊には墓も建てられ、ていねいにまつられているという。 
微笑みの国の幽霊事情 / タイの迷信とオカルト文化 

 

家内安全を祈願する厄払いの儀式から、銃弾から身を守るためのお守りまで、タイの文化は迷信に満ちている。そうした迷信への執着が、国が発展しない原因だという主張があるほどだ。
超常現象を毎週取り上げる人気テレビ番組「幽霊に挑む人々」では、母親の遺体のそばで3日間を過ごした2歳の少女が出演し、コメンテーターの1人から質問を浴びた。「誰があなたのミルクを用意したの?」「誰があなたと遊んでくれたの?」「誰がドアを開けてくれたの?」。その質問に対して「ママ」と答えた少女も質問者たちも、辛かった日々に彼女を養い続けたのは母親の幽霊だと純粋に信じていた。
タイでは、このような番組は単なる娯楽を越えた存在だ。「国中の人が来世の存在を信じている」というのは、タイで最も有名な幽霊の専門家であるカポル(Kapol)さんだ。「西洋人は悪魔の存在を信じているのかもしれないが、東南アジアの国々で人々が信じているのは幽霊だ。この種の信心は、人々は悪行を慎む効果をもたらしている。Aという人物が『もしBという人物を殺したら、Bが幽霊となって戻ってきて、自分を苦しめるかもしれない』と考える、といった具合に」と説明する。
精霊信仰(アニミズム)や民間信仰が仏教と深く結びついているタイでは、いたるところに精神世界がある。ほとんどの建築物では、縁起が良いとされる場所に「神棚」を祭り、幽霊たちが悪霊へと変貌しないよう鎮める供え物がささげられる。
悪名高いタイの政争もまた超常現象に頼っている。対立陣営は互いに黒魔術による呪いを公然とかけ合う。抗議デモの参加者たちも、銃弾や危害から逃れる力を持つとされているお守りを身にまとう。
迷信で見失っているもの
だが、こうした素朴な迷信が、タイ人の判断を鈍らせ、搾取される余地を与えてしまう元凶だと批判する声も国内にはある。
インターネット上で「ファックゴースト(FuckGhosts)」というハンドルネームを使い、幽霊の存在を信じることを批判する主張を展開している男性が、匿名を条件にAFPの取材に応じた。この男性は交流サイトのフェイスブック(Facebook)に同名でページを開設し人気を集めているが、最近バンコク市内の交通死亡事故多発地点として有名な交差点に置かれているシマウマの像を足で踏みつける自分の写真を投稿して物議を醸した。
横断歩道を連想させるシマウマは、タイでは事故が多発する場所でよく目にする。不幸にも交通事故で命を落とした霊が次の事故を引き起こすと人々は信じており、シマウマの像がそうした霊をはらうとされているからだ。
この男性は「シマウマを壊そうと考えていたが、監視カメラがあるからね。(この写真も)世間は容赦しないかもしれないね」と語る。男性は、タイの人々が像やお守りばかりを信じ、安全運転を心がけるといったリスク回避の具体的な行動を怠っていると批判しており、フェイスブックでも多くの賛同を集めている。「こうした迷信こそがタイを発展途上国に停滞させている原因だ」と男性は腹立たしげに語った。
世界保健機関(World Health Organization)の統計に基づいた2014年の研究によれば、タイの交通事故による犠牲者は人口10万人当たり44人に上り、世界の国で2番目に死亡率が高い。ドライバーたちは安全祈願のために車を覆ってしまうほどお守りを飾り付けるが、多くは速度違反や飲酒運転を繰り返している。また三輪タクシーもお守りでいっぱいだが、運転手たちはヘルメットを着けずに定員を超える客たちを乗せて走り回っている。
だが「ファックゴースト」による運動は部分的に効果を与えているようだ。1月には、これまで100人の命を奪ってきた交通事故多発地点のカーブで、周辺に置かれた数百もの像を撤去された。ただし、撤去作業は僧侶たちによる悪霊払いの儀式なしには始まらなかった。地元の衛生当局の責任者は「作業員たちが始め、かなり不安を感じてしまっていた。僧侶たちがお経を唱えた後、安心して仕事ができるようになったようだ」と明かした。
迷信は魅力的な商売道具
タイの予言者や占星術師、そして僧侶たちの巨大なネットワークにとって、迷信は間違いなく魅力的な商売道具だ。
悪魔払いや、お守りの呪文や装身具などはすべて、それなりの額を払えば容易に手に入るし、憑依霊を扱った本や映画は絶大な人気を博している。またビジネス界でも毎年、厄払いのために僧侶たちを雇う。
タイの人々は、むごい死や予期せぬ死を迎えた人間の魂が肉体から離れるときに悪霊が生まれやすいと信じられている。なかでも、ナークと呼ばれる女性の霊ほど知られている幽霊はないだろう。19世紀のバンコクで、夫が出征中に出産で命を落とした実在の女性だと信じられている。
この言い伝えには多くのバリエーションが存在するが、どの筋書きも大抵同じで、帰ってきた夫がまるでまだ生きているかのような姿の妻と出会う。ナークは夫に対して非常に献身的だったため、死後も幽霊としてとどまったが、真実を知った夫が逃げ出すと悪霊になったという。
バンコク市内にあるナークが祭られた霊殿には「本殿は宝くじ抽選会の前日には一晩中開いています」と書かれた看板が掲げられ、地元の人々が病気の平癒や幸運、さらには兵役免除を祈願するために供え物を捧げている。
霊殿の外では占い師たちが商売に励み、参拝客たちはご利益を得ようと、魚や亀、カエルといった小動物を近くの用水路に放している。こうした動物たちを商う人々によると、ウナギを逃がすと仕事上の成功が訪れ、カエルの場合は罪滅ぼしになるという。
大僧正はAFPの取材に応じなかったが、参拝客たちは口々に、ナークに供え物を捧げることで報いが得られると信じていると話す。寺を訪れていた若い母親は「ナークも幽霊も存在すると信じている。友だちも皆そうよ」と、さも当然のように話した。 
3.11震災から4年 / 被災地で幽霊目撃談が多い本当の理由 

 

M9.0の巨大地震と、それに伴う大津波によって、15,800人以上の犠牲者を出すという未曾有の大災害からちょうど4年が過ぎた。震災直後から、被災各地で囁かれていたのが「幽霊が出る」という類の噂である。当然、このような幽霊話は多くの犠牲者に対して不謹慎とされ、避難所などではタブーとして扱われてきたようだが、そこに「癒し」を見出す人々も少なくないという。果たして、震災に際して幽霊話が本当に「不謹慎」なのかどうかを考えてみることにしたい。
なお、筆者は超常現象研究家として40年以上にわたって心霊現象などを研究してきたが、今回の記事は3.11にまつわる幽霊話の真偽を確かめるものではなく、そのような話には人々にとってプラスとなる要素があるかどうかを探求するものである。幽霊話の真偽についての考察は、また別の機会に譲ることにしたい。
数々の幽霊話、真剣に報じるマスコミ
さて、3.11から1年ほどが過ぎた頃から、避難所やネット上では様々な幽霊話が語られるようになっていた。多くの死者が出た大震災の後では、このような幽霊話はつきものだが、3.11の場合、いつになく多いようなのだ。以下は、その一例だ。
・ 夜になると大勢の人たちが走る足音が聞こえる
・ 津波で瓦礫となった車の中を、1台ずつ覗いていく子連れの女性がいる
・ 行方不明者の家族の枕元で、「見つけてほしい、埋葬してほしい」と声が聞こえた
・ 仮設住宅で、夜な夜な「寒い」といった呻き声が聞こえる
・ 夜中に停車しているタクシーに近寄ってきて、「自分は生きているのか死んだのかわからない、乗せてもらえないか」と語りかける女性がいる。乗せると、いつの間にか後部座席から消えている
また震災の翌年3月には、AFP通信が「東日本大震災から1年、石巻で語られる『幽霊』の噂」という記事を掲載している。それによると、宮城県石巻市では、さまよう霊たちのせいで修復工事が中断してしまった現場さえあるという。
このような噂を無視できないと思ったのか、なんとNHKまでも、2013年8月23日に「亡き人との"再会"〜被災地 三度目の夏に〜」という番組で、"震災幽霊"の話を真剣に取り上げた。それは、故人と「再会」したという4人の人物の不思議な体験を紹介するというものだった。
津波で3歳の息子と死に別れた母親の場合、子どもが遊ぶ気配を感じると、アンパンマンの乗り物のオモチャのスイッチが勝手に入ったのだという。これまで、超常現象や心霊ものを退けてきたNHKとしては考えられないような番組である。
幽霊話が生まれる本当の意味
このように幽霊話がメディアで取り上げられるようになったのは、大震災から時が経つにつれ、タブー視されていたものを語ってもよいのではないかという雰囲気が少しずつ生まれてきたという背景もあるようだ。さらに、カウンセラーや学者たちによると、大災害や悲劇的事件の後の幽霊話は、日本では一般的なものであって、それが社会的な「癒しのプロセス」にもなるのだという。
前述のAFP通信の記事で、文化人類学者の船曳建夫氏は、人間は本来、突然の死を受け容れられないものだとして、「その社会で納得できなくてたまっているものがどう表現されるかというと、噂話であったり、まつりの中で供養するなどということになります。社会的に共有できるものに変えるということがポイントです」(AFPBB News、2012年3月3日)と語っている。このことは、科学技術が発達した現代の日本でも、そう変わらないようなのだ。この説に合致すると思しき実例を、以下に紹介しよう。
・ にこやかな母の表情に救われ......
仙台市の地方紙・河北新報が、2015年2月26日の記事で紹介している岩手県山田町の公務員・長根勝さんは、大震災で母を亡くした。ある日、その母がニコニコした表情で18歳の娘の夢に現れた。娘が「なぜ津波で逃げなかったの」と聞くと、困ったような顔をしたという。その後、勝さん自身も夢の中で、台所で家事をする母を見た。にこやかな表情だったので救われた思いになったという。勝さんは、その体験を経て「怒りのような感情が薄らいでいった」と語っている。
・ 体験者は幽霊を怖がらない
河北新報の2015年2月27日の記事が紹介しているのは、浄土真宗本願寺派の僧侶・金沢豊さんだ。金沢さんは、毎月のように京都から岩手の被災地へと赴き、これまで200軒の被災者を訪ねているが、超自然的な話や幽霊話を聞くことも多いという。「金縛りになって誰かの顔が見えた」、「津波で亡くなった妹に見られている」といった具合だ。しかし、そのような話をしてくれる人々の顔は、恐怖ではなく慈しむような表情であるという。
・ 見守られている感覚が、生きる希望に
同じく河北新報の2015年1月4日の記事で紹介されているジャーナリストの奥野修司さんは、被災地を回り、犠牲者の霊を見たという家族や知人からの聞き取りを進めている。
そのきっかけは、医師への取材で、死者の「お迎え」の重要性に気づいたからだという。その医師によれば、いまわの際に、亡くなった両親や親類の姿を見る患者の死に方は穏やかだという。最愛の夫を亡くしたある女性は、自暴自棄に陥り、死にたいと思う日々を送っていたが、ある時、夫の霊に会い、見守られている感覚が芽生えて「お父ちゃんと一緒に生きよう」と思い直したそうだ。
確かに、被災地で幽霊を見たという話の中には、単なる興味本位の怪談で終わっているものもある。しかし、こうして見てきたように、特に亡くした肉親や友人との「再会」を果たしたというケースでは、恐怖よりも感動の方が先立つことが非常に多いようだ。「日本人の約2人に1人が幽霊の存在を信じている」という調査報告もあるようだが、震災で大切な人を失った被災者にとって、「たとえこの世にいなくても、あの世で生きている」と考えることが、明日へ一歩を踏み出すための大きな力になっている可能性がある。
多くの死者が出た大災害で、幽霊の話をすることは「不謹慎」に感じられる気持ちも理解できる。しかしそれ以上に、犠牲者の肉親や知人など、残された人々にとっての救いに繋がる面もあることを理解しようとする姿勢が大切ではないだろうか。 
幽霊を見る人、見ない人 / 幽霊を見てしまう理由とは? 

 

寝苦しい日が続きますが、真夏の熱帯夜といえば怪談。コワ〜い幽霊の話を聞くと、背筋がゾクっとしますよね。単に涼しくなるだけではなく、本当に幽霊の気配を感じた…なんて経験がある人もいるのではないでしょうか。「霊感がある」などとよく言いますが、幽霊に出会ってしまう人と、一生出会わない人には、どのような違いがあるのでしょうか?
「幽霊が出そう」という予期が幽霊を呼ぶ
人間は、「なにかが起きそうだ」と予期していると、実際にはなにもなくても、その「なにか」が起こったように感じる性質があります。『超常現象の科学』(文藝春秋)という著書のあるリチャード・ワイズマンがおこなった面白い実験を例に説明しましょう。この実験では、実験参加者に緑色の液体が入った香水瓶を見せ、瓶の蓋を開けるとすぐに強いペパーミントの香りがすると説明しました。そして、瓶の蓋を開けて「ペパーミントの香りがしたら、挙手してほしい」と頼んだところ、実験参加者の半数近くが手を挙げたといいます。しかし香水瓶に入っていたのは、無臭の染料で色をつけただけの水だったのです。「香りがする」と予期することで、存在しない香りを感じてしまったというわけです。
前述の『超常現象の科学』には、幽霊に関する実験も紹介されています。心理学者のジェームズ・フーランは、閉鎖された劇場に実験参加者を集め、ユニークな実験をおこないました。フーランは実験参加者を2つのグループに分け、いっぽうのグループには「この劇場には幽霊が出る」と伝え、もういっぽうのグループには、単に「この劇場は改装中だ」とだけ伝えました。そして劇場のなかを歩き回ってもらったところ、幽霊が出ると聞かされていたグループは、あちらこちらで幽霊の気配を感じ、そうでないグループは、なにも感じませんでした。幽霊が出るかも…とびくびくしていると、単に床がきしんだだけでも、ラップ音(幽霊が立てた音)のように感じてしまうものです。
壁のシミが幽霊に見えるワケ
なかには「気のせいじゃない、実際に幽霊を見たんだ!」という人もいるかもしれません。たとえば心霊スポットで写真を撮ったら、壁に幽霊の顔が浮かび上がっていた…そんな話をよく聞きます。しかし、明るくなってから確かめると、顔のように見える木目だったり、壁のシミだったりと勘違いの場合も少なくありません。・・は単なる記号にしか見えませんが、・_・のように横棒を1本加えるだけで人の顔に見えてしまいます。そして、いったん人の顔に見えてしまうと、もうただの記号として見ることはできません。
この顔文字のように、単に2つの点々を見ているときと、その点々の間に口をイメージさせる直線を加えたときでは、脳の第5次視覚野の働きがずいぶん変わることが明らかになっています。人間が社会で生きていく以上、他人の表情には敏感にならざるを得ません。自分の視界に顔らしきものを見つけると、脳が敏感に反応し、はっきり顔として認識してしまうというわけです。
1976年にNASAのバイキング1号が撮影した「火星の人面岩」という写真をご存知でしょうか。火星の表面に、人間の顔の形をしたモニュメントが映っており、「火星人の建造物か!?」と話題になりました。
この人面岩の写真は作りものではなく、NASAが撮った正真正銘の本物なのですが、後年の調査によって、地形がたまたま顔に見えただけだということがわかりました。このように単なる模様を、人間の顔や人影のようにすり替えて錯覚してしまうことを「パレイドリア」といいます。
日本には幽霊が見える人が多い?
こういった知識があれば、幽霊っぽいものが見えても「気のせい」で済ませることができます。そもそも、幽霊の存在を信じていない人は、幽霊の気配を感じることもありません。逆説的になりますが、幽霊をよく見る人は、少なくとも幽霊の存在を信じている人ともいえます。
インターネット調査のネオマーケティングが実施した調査によると、グラフのように幽霊の存在を信じている人は、過半数以上にのぼります。これはある意味、幽霊に出会いやすい素質を持った人が多いともいえます。幽霊の目撃談が絶えないわけですね。 
中国の亡霊説話 

 

日本人にとって、夏の風物詩と言えば、蝉時雨、朝顔の花、風鈴の音色、金魚すくい、納涼花火大会等、数え上げれば限りがないが、お盆が近づくと映画や舞台で上映(上演)される「怪談」を忘れてはなるまい。
この8月、アンソロジストの東雅夫氏の編集による『文豪てのひら怪談』(ポプラ文庫)が出版された。本書は遠く中国六朝時代(3世紀〜6世紀)の志怪小説や、わが国の『古事記』に始まり、平成日本の幻想文学にいたるまで、1800年余りの長きにわたる和漢の文芸から、800字を目安にして、妖しく不思議な物語を拾い集めたアンソロジーである。
わが国でいう幽霊のことを、中国語では「鬼」(gui、クイ)という。「鬼」という言葉は古くは中国語の意味と同じであった。『日本書紀』にその例が見られる。その後、わが国では「おに」という言葉は中国語の「鬼」とは全く別な
ものをさす言葉に変わっていった。
作家・中国文学者であった故駒田信二氏は自著『中国怪奇物語 幽霊編』(講談社文庫1982)のあとがきの中で、日本の幽霊と中国の亡霊を比較して、次のように述べておられる。「中国では幽魂、幽霊、亡魂、亡霊などが人間としての形をあらわしたものを’鬼’という(中略)わが国の幽霊にもさまざまな形のものがあり、一概にはいえないけれども、大半は、怨みを報いようとしてこの世にあらわれてくる怨霊(おんりょう)であって、身の毛もよだつようなおそろしい形相をしていることになっている。一方、中国の 鬼’は、多くは若い娘の亡霊で、この世の人間を恋い慕って情交を求めてくる。その姿かたちはこの世の人間と少しもかわらないばかりか、情緒纏綿(てんめん)たる絶世の美女であることが多い。従って人間は亡霊をおそれるどころか、そのあらわれるのを待ち望んで契りを結ぶ話(唐『才鬼記』、「州長官の娘」)や、亡霊との別れをかなしむ話(六朝『捜神記』、「赤い上着」)や、再会の約束をはたそうとする話(唐『酉陽雑俎』、「夫人の墓」)なども少なくはない。なかには情交した相手の人間の助けによって人間に生きかえる亡霊(唐『広異記』、「生きかえった娘」)や、子供を生む亡霊(「赤い上着」)、孕(みごも)ったままで死んで墓の中で子を生み育てる亡霊(宋『夷堅志』、「餅を買う女」)、寺僧と密通して子をはらむ亡霊(宋『夷堅志』、「孕った娘」)などもある。だが一般には、人間は亡霊と情交しつづけていると次第に陽の気を吸いとられてついには死ぬ、というのが中国の亡霊説話の主流で、なかには一夜の情交だけで死ぬもの(六朝『捜神記』、「汝陽の宿」)もある。情交を絶ったために死をまぬがれる話もあり、道士の法術によって救われる話(「州長官の娘」)も、法術をまもらずに死ぬ話(宋『夷堅志』、「床下の女」)もある。(以下略)」
本書『中国怪奇物語 幽霊編』には中国の「志怪」系統の「鬼」に関する81篇の説話が集められている。中国では亡霊たちが思いのままこの世に現れ、人間たちもあの世に旅して帰るのである。
さて、中国の怪談(『聊斎志異』)と出会って中国文学に目覚め、ついには独自の翻訳を始めた、話梅子(フアメイズ)さんという人がいる。話梅子とは「話梅」という梅を乾かして砂糖をまぶした中国のお茶漬けにちなんだ名前とか。
話梅子さんの5冊目になる編訳書『棺中の妻』(2009.7.25)が、『中国怪談』に続き角川ホラー文庫から出た。話梅子さんのあとがきによると、本書は唐代伝奇を1篇、明代白話小説を5篇、清代文言小説を6篇選び、原文に忠実な翻訳ではなく、読みやすくするために話の筋を変えない程度に手を加えてあるとのこと。
ともあれ、灼熱の夏の余韻がまだ冷めやらぬ秋の夜長、中国の怪談を手にとって一読されては、いかがだろうか?奇想天外な物語に、きっと夜の更けるのも忘れることだろう。 
西洋の怪談集 

 

夏ともなれば、やはり生ビールを飲んだりスイカを食べたりするように幽霊のお話をしなければ日本人ではない。残念ながらこの手のお話は大変に好きなのであるが、私はまったく霊感というものがなく、個人的な心霊体験を披露することは無理であり、また周囲にも信用するに足る経験者もなく、この点じつに殺風景なものである。
従ってこのコーナーにふさわしく、西洋史がらみの幽霊話で紙面をうめたいと思う。中には伝説じみたものや教訓談じみたものもあるが、日撃者の多さや正式な記録に残っているものも多く、現在「霊的」なものとして表現されている様々な現象は、古代人の自然現象に対する無知が生んだ多くの迷信同様に、近い将来必ずや世間の認める一つの分野となり、大学の一般教養課程の一科目になるかも知れない。今の内に賢明に対応しておかねば後世の笑い者になるかも、だ。

かのナポレオンも幽霊話が大好きで、マルメゾン館の夜話の集いなどのおりには、灯を全部消させて、自分は暖炉のほの明かりに身を置いて、演出効果を盛りあげた上で幽霊話に身を入れた。たまたま誰かがクスリと笑おうものなら、「この種の話を失ってはいけない。学者の本よりもよほど信用できる話なのだから」と本気で叱責したそうてある。

ともかく信憑性の高い心霊現象で有名なのは、やはリロンドン塔の幽霊群で、ことに名高いのが1536年にロンドン塔で斬首刑に処せられたアン・ブーリンの幽霊だろう。あのヘンリー八世の二番目の王妃である。1933年ある冬の夜、立哨中の衛兵が物音もさせずに忽然と現れた白い人影に大して、規則通りに誰何したが返事がない。そこで接近したところ、首のないアン・ブーリン妃の亡霊であることが分かり、噂には聞いていたろうが、実物に出くわしてこの衛兵は腰を抜かして逃げてしまった。
あの観光名物のロンドン塔の衛兵、イギリスの超精鋭部隊の近衛隊員も、さすがに肝を冷やしたらしい。しかし当然、この衛兵は持ち場放棄の罪を問われたわけであるが、「この持ち場に亡霊が出ることは既知の事実だったので、当の衛兵は譴責を受けただけだった」と上官が記録している。
また、別の夜、立哨交代を行おうとしたところ、敷石の上に衛兵が横たわっているのが発見された。とんでもない職務怠慢である。さっそく軍法会議にかけられたわけだが、法廷でその衛兵の証言するところ、白衣の婦人が立ち現れ警備中の自分に黙って接近してきたため、やむなく銃剣で一突きしたが、それが実体のない霊体であったのに驚いて卒倒してしまったという。
またもやロンドン塔名物の亡霊かと軍事裁判官は驚きもせず話を聞いている。証人喚間で法廷に立った二人の将校が、少し前の夜にやはり王妃の亡霊を確認した旨を証言したところ、「確かに例の亡霊だと」立証されて、この衛兵は無罪放免になった。

この年代の幽霊は実に多く、イギリス女王の座をめぐっての争いの犠牲となって17歳の若さで処刑されたジェイン・グレイの亡霊なども、頻繁に出没しており、1970年には観光客の面前に肖像画から抜け出したようなはっきりした姿で現れて、突然消えたらしい。
1957年の2月14日、つまり彼女の403年日の命日、午前3時に11人のロンドン塔衛兵の前に現れた彼女の亡霊のニュースは、海を渡ったフランスの「フランス・ノワール」誌の紙面にも報道された。衛兵たちも大変である。
しかし亡霊とは言え、自分たちが守っているイギリス王室の先祖たちなのであるから、無礼もできまい。エリザべス1世の亡霊と遭遇した近衛騎兵隊長が、この4百年前の女王陛下と会話をしようと試みたらしいが無駄だったという。この隊長、果たして亡霊の女王を何とお呼びしたのであろうか?
女王に一介の隊長ごときが声をかけるなど今も昔も無礼千万、だからエリザベス1世も返事をしなかったのだろう。

先のアン・ブーリンの兄にあたるロシュフォード卿の亡霊も、この一族のブリックリング・ホール城に出没すると言う。日暮れどきに馬に乗って駆け回るというのであるが、この卿も妹アンの二日前に斬首刑に処せられているためか、乗り手も馬も首なしのままの姿らしい。
ここで生まれたアン自身の亡霊も、何も遠くロンドンまで出張しているばかりではなく、ちゃんとこの生家の城にも現れている。しかも兄同様に首なしの四頭の馬に引かれた馬車に乗り、白衣をまとって、その膝の上には切り落とされた自分の首を大事にかかえているという。
この凄絶な四頭立て馬車は城のゲートまで疾走していき、そこで掻き消えるらしい。首を失い命を絶たれた姿で、怨念の塊となり、懐かしい生まれ故郷へと帰っていくのであろうか。

これに比べ、ヘンリー8世との恋が実った舞台であるケント州のヒーヴァ・キャッスルにクリスマスの晩12時の鐘が打ち終えるとすぐ現れるという彼女の亡霊は、イーデン川に架かった橋をゆっくりと楽しい想い出にしたるように渡っていくらしい。
それぞれの場にこめられた生前の思い出が亡霊の態度に反映しているのであろうか。
彼女の父親トマス・ブーリンの亡霊も娘の命日になると故郷の野原を狂ったように駆け回るらしい。まったく哀れな一族である・・・。
ロンドン塔では、このアン・ブーリンと、謀殺された二人の王子、それにウォルター・ローレイ卿の亡霊は実在が保証されているという。観光客の前にも登場するというので、夜中の衛兵のみならず、我々にも「見物」の機会はあるかも知れない。

確実な日撃者の多い幽霊といえば、ホワイト・ハウスに出没するアメリカ大統領リンカーンの幽霊もある。 1978年にAP通信が、 1980年にはUPI通信がそれぞれその事実を報じている。またルーズベルト大統領やアイゼンハワー大統領、イギリスのチャーチル首相やオランダ女王などがホワイト・ハウスでリンカーンの亡霊を目撃している。リンカーンの在任中のそのブレーンなどの幽霊群も一緒に従えて現れるときもあるらしい。これなども保証つきの幽霊話だ。
最近では、2008年10月、ブッシュ米大統領の娘のジェンナさんが、「テキサス・マンスリー」誌11月号のインタビューでこんな経験を明らかにしている。その記事にはこうある。「ジェンナさんはケネディ、ジョンソン、クリントンの歴代大統領の子供たちが使用したホワイトハウス内の部屋で寝ているが、『幽霊たちがオペラを歌うのを聞いた。ある夜はその歌が暖炉から聞こえてきた』と真剣。1950年代のピアノ曲も聞こえてきたといい、『ホワイトハウスにはすごく沢山の幽霊がいると感じる。時々あそこがとても怖くなる』と話した。 ホワイトハウスに幽霊が出没するという噂は昔からあり、暗殺された第16代大統領リンカーンの幽霊話が有名だ」と。

人の執念の有する凄まじいエネルギー。幽霊とは一種のエネルギー現象であるという説もある。人間のある種の激しい感情には、強烈なエネルギーが伴っており、時の経過によってもエネルギーが残留する。サイキックな感知能力を持つ人には、そのエネルギーの実体までが感得できるということだ。怒りや悲しみなどの激しい感情の発露が度を越すと、残留エネルギーとなってその場に残るわけだ。
この考えでいくと納得のいく現象もいくつかある。

たとえば、フランスはアン県シャトラールの城の廃墟とその周囲の牧場を毎晩のように「白衣の婦人」の亡霊がさまようという。
その手には血まみれの衣服が握られており、それを泉で無心に洗い、夜明になると廃墟へ戻っていくという。
このシャトラールの城の歴史を調べると、16世紀の宗教戦争(内乱)の当時、この付近で激戦があり、シャトラールの城主は亡骸も見つからなかったほどの無残な戦死を遂げた。
家来が彼の血まみれの衣服を城で待つ夫人のもとへ届けたまでだった。それ以来、この夫人は気が変になり、白衣を着て戦場跡の野原をさまよい歩くようになったという。
その深い悲しみを伴った行動が、強烈なエネルギーとなって、映像を現場に焼き付け残留させてしまったのだろう。

イギリスのストラットフォード・アポン・エボンの南約6キロのところにある廃墟がある。ここは少し前まで豪華なホテルとして使用されていたが、ある事件から客足が遠のき、結局閉鎖され廃墟となった。
なぜかと言えば、宿泊客たちが相次いで、夜になると不思議な声が聞こえると騒いだためだった。男の残忍な笑い声と女の叫び声・・・。こんな音声が夜毎続いてはたまらない。しまいには評判となり、ある人がこの建物の歴史を調べた。ある実業家がここをホテルとして再建するまでは、200年もの間ここは閉ざされた廃城であった。
城の最後の記録は、17世紀清教徒革命の動乱期、王党派とクロムウェルの軍勢との城の争奪戦で終わっている。
城主は王党派の伯爵で、頑強に城を守ったが力つき開城、革命派軍勢が城を占拠した。クロムウェルは降伏した敵には決して残酷ではなかったが、ここを占拠した軍勢の中にいた二人の将校が、伯爵の美貌の二人娘に日をつけて、強姦して殺してしまうという悲劇が起きる。
この二人の将校は兵士の面前で処刑されたが、不幸な娘たちの無念はす到底慰められるものではない。
以後、彼女たちの最期の絶叫は城の石壁に染みとおり、消えることのない悲鳴として夜な夜な繰り返された。城が閉ざされ200年、ホテルとして賑やかな舞踏会や晩餐会の舞台として再び人々を迎え入れたわけだが、不幸な娘たちの怨念は今だその最後の絶叫をやめることがなかった。彼女らの不幸な人生の最後の場面は強烈な記憶としてその場に滞留し続けており、人々の耳に音声を反響させたのだ。

また、バッキンガム宮殿近くのウェリントン兵営では、何人もの衛兵が、夜中に営庭を首のない女が横切るのを目撃しているという。
ある地点でその幽霊は地面の中へ吸い込まれるように消えていくという。上げ下げ式の窓を開ける音や灯火を求める悲しげな声など、兵営の兵隊たちは散々に恐怖を味わわされている。
その昔、ここの兵営の兵隊だった夫に殺され、首を切断された女がいたらしいが、その首が結局は見つからずじまいのままらしい。この首なし女の亡霊は、その事件の被害者ではないかと推測されている....

やはリロンドンのセント・ジェームズ宮殿には見るも惨たらしい幽霊が出る。それはセリスという男のもので、彼はジョージ3世の五男カンバーランド公爵の召使であった。 1810年、彼の娘はこの公爵の手込めにされ、懐妊、衝撃のあまり自殺してしまう。
セリスは召使の身分ではあったが、父親としての怒りを抑えられず、ある夜、宮殿で公爵を後ろから思い切り殴りつけた。そのあまりの力に、公爵の脳は頭の割れ目から飛び出るほどで、大変な重傷となる。セリスの方は、そのまま部屋に戻ると喉を掻き切って白殺してしまった。
その後、その部屋には、今にも首が胴体より転げ落ちそうな無残な姿をベッドの上にさらすセリスの亡霊が現れるようになったという。

またもっとしみじみした幽霊話であるが、ロンドンのバークレー・スクウェア52番地の古い家屋の二階の窓辺には、ときおり17世紀の服装をした老紳士の亡霊が悲しげな表情で広場を眺めているという。
話によれば、昔この紳士が溺愛していた娘が駆け落ち結婚をしてしまったらしい。式を済ませて落ち着いたら会いに戻ると書き置きがあった。
しかしその約束は守られなかった。老人は娘の帰るのを夢に見ながら生涯を終えたのだろう。
許さぬ結婚を強行した娘への腹立ちも忘れ、ただ愛する娘にもう 一度会いたいという親としての素朴な感情だけをいだきながら、ついに時うこともなく寂しく亡くなったのだろう。現在の広場の雑踏をいくら探しても娘が帰ってくるわけがない。しかしその親心の激しい執念が、その窓辺に2百年も彼の姿を焼き付けてしまったのだ。

1779年、サンドウィッチ伯爵の愛人マーサ・レイは、彼女の求婚者である男からロイヤル・オペラ・ハウスの前で至近距離から顔を射撃され即死した。彼女は自分の死をどうやって納得したであろうか。愛人の伯爵と楽しく過ごしたホワイトホールの海軍本部内の一室には、華やかな人生にいまだ執着する彼女の幽霊が漂っているという。

イギリスでは劇場がらみの幽霊話が多いが、俳優のウィリアム・テリスがアデルフィ劇場の楽屋口で彼の名声を妬んだ同僚に刺殺されたのは1879年、前出のマーサ・レイ同様あっと言う間の人生の終わりである。そのためか、彼が劇場とパットニーの自宅を通うのに使っていた地下鉄のコヴェント・ガーデン駅で彼の亡霊が現れるという。あたかも、自分の死を知らぬ彼が今でも劇場への通勤を繰り返しているように.....ともかく、駅員の間ではすでにお馴染みの幽霊だそうだ。

コリシーアム劇場の二階正面の前から二番目の座席に現れる若い少尉の亡霊。彼は休戦のほんの少し前の1918年のある日戦死した。その戦死した当日の夜に早くも当劇場のその座席に彼の亡霊は現れている。
その席は、最後の休暇の夜に観劇を楽しんだところなのだ。
戦場で倒れた時、彼の胸の中にはまだきらびやかな劇場で好きな劇を満喫した記憶が鮮明に残っていたのであろう。もう一度あの楽しかった一夜に帰りたいという執念が、死後の魂を運んだのだろう。

その近くのアルベリー劇場でも、創立者である故チャールズ・ウィンダム卿の亡霊が、上演に先立って入場してくる観客の中に混じっており、そのハンサムで上品な生前の姿をとどめているという。
また夕暮れどきには薄暗く不気味なミドル・テンプル通りには、書類の束を小脇にかかえ、ガウンをなびかせた弁護士風の男の亡霊が出るらしい。大方の見当では、これは文書偽造などで巧妙に稼いでいたある弁護士の霊とのことで、彼は最後には終身の島流しの刑に処せられている。せっせとロンドンで活躍していた頃が懐かしいのだろう。
またグラナディアの古いバブの酒倉から酒場の裏手へ昇る階段にも、昔死んだ守衛の幽霊が決まって9月になると出るという。この男はここを賭博場に使っており、ある年の9月、いかさまポーカーを見抜かれて殴り殺されたらしい。

イングランド銀行でも有名な幽霊話があり、ひとつは黒衣の尼さんの亡霊と、もうひとつはサラ・ホワイトヘッドの亡霊である。後者は、19世紀の始め頃、イングランド銀行のある行員の妹であった。兄妹は大変仲が良かったが、ある事が原因で銀行を解雇された兄は、それを妹に言わず、生活が困ってくると小切手の偽造を始めた。
ついにはそれも露見し逮捕され、絞首刑にされた。何も知らぬ妹はある銀行員からその話を聞かされて以来、気が変になる。そして毎日のように銀行に来ては兄を探すようになった。銀行員たちもそんな哀れな娘を大事にしてやるが、間もなく彼女は死ぬ。しかしそれからもひどく悲しげな表情で銀行の庭をさまよい歩く彼女の亡霊が目撃されているという。

あの17世紀の赤裸な日記を残したサミュエル・ピープスの亡霊は、バッキンガム通りのある古い家に出る。そこは彼が幸福な九年間を過ごした家だ。1953年、この家の住人が玄関広間で、彼が微笑みながら立っているのと出くわす。どことなく輪郭はぼやけていたそうだ。あれ? と思う間もなく彼は消えてしまったらしい。
1893年の6月22日、海軍中将ジョージ・トライアン卿は地中海で艦隊演習を行っていた。1500マイル離れたロンドンの自宅では彼の妻がホーム・パーティーを開いていた。数百人の招待客は間もなくある人物の登場に仰天した。
恐ろしげな顔つきで大股歩きにホールを横切り、くるりと振り向くなり忽然と消えてしまったその人物は、ほかならぬトライアン卿自身だった。地中海にいるはずの、である。
しかし実物の卿は、丁度その頃、自分のミスで巻き起こした事故により乗艦ヴィクトリア号ともども海底に沈んでいたのであった。生きていた頃に執着していた場所に、こうして死後にその魂が飛来し、映像化され、生への執着が高ければ高いはど鮮明な画像となって、より多くの人の確認するところとなる。
最後の最後に発っした何らかのエネルギーが、生前の姿をその場所に再生させるようだ。

ある瀕死の状態の国会議員が、丁度開催されていた国会の自分の座席にぼんやりとした顔付きで現れ、病状を知っている仲間が驚いて見ているうちに消えてしまった。その議員が回復したあとに、生死の境をさまよっていたはずの自分が国会の議席にすわっていたと聞いてびっくりしたという。人が極限の状態で発する力にはそのような現象を引き起こす作用があるのではないか。

イギリスはエセックスにあるボーレー牧師館は世界最高の幽霊屋敷だという。
二百年間に1300回もの心霊現象を記録する凄まじい幽霊屋敷だ。すでに13世紀頃に修道院があり、そこの修道士と尼僧が駆け落ちして捕らえられ、男は首をはねられ、女は虐殺されるという事件があったらしく、その頃からこの二人の首なし幽霊とかの伝説があった不気味な土地だった。
1862年にこの地に赴任したヘンリー・ブル牧師一家が、その修道院の跡地に牧師館を新築して住んだのが始まりで、家族は、白い女の幽霊や真夜中に馬車の音がし、首のない黒い男が馬車に乗っているのを目撃したり、血まみれの少年やらずぶぬれの少女、灰色の修道服の老女、それに加えて様々なポルター・ガイスト現象と、徹底的に脅かされた。
しまいにロンドンのデイリー・ミラー新聞社が取材にきて、調査団の発表により世界的に評判になってしまう。
最初は幽霊に驚いていたブル家の面々も、死んでからは今度は脅かす側になって幽霊として出てくる始末だ。
ブル家は、例のアン・ブーリン王妃の家系につながる家柄だったせいか、あちらこちらに出没するアン・ブーリン王妃の亡霊がここへも特別出演よろしく現れる始末。
ライフ誌やロンドン・タイムス紙のカメラマンも見事に幽霊の写真を撮影し公表され、世間で大騒ぎを巻き起こす。ある博士は8000万円もする電子装置や赤外線カメラや磁力計や録音装置を導入して、なんとBBC放送と協力してこの幽霊屋敷へ調査に入ったそうだ。

ロンドンのバークレー・スクウェア50番地にも、ロンドンーと言われた幽霊屋敷があり、ここ40年ほどは静まっているそうであるが、そこも様々な幽霊が出没するとのことで評判で、心霊的緊迫状態に満ち溢れているそうな。
すでにヴィクトリア朝半ば頃には住人は逃げ去り、空き家になっている。しかし、正体不明の叫び声や呼び鈴の音やうめき声やドサっという物音が周囲に響き、夜中に近くを通る人々を驚かしている。
「イギリスの幽霊屋敷」の著者ローズ・モートン嬢は、ペストで一家全滅をしたボグナー伯爵の屋敷に寝泊まりした結果、黒衣の婦人の亡霊との遭遇を詳しく書いているが、日本でもそうであるように、亡霊登場の際には金縛り状態に陥り、声も出なかったとしている。
夜、目を開けると黒い衣装をまとった婦人がじっと自分を見下ろしている。モートン嬢は、しめたとばかりにその霊との会話を試みるが、悲しいかな声も出ない。という具合だ。
そして屋敷内を捜索した結果、伯爵夫人の古い日記帳を発見し、その秘密の記録(つまり様々な情事などの記録)の中に、彼女が黒衣を愛用し「黒衣の天使」などと呼ばれたと自慢話が綴られているのを見つける。彼女が出会ったと霊は、病死した伯爵夫人に違いないことが分かった。

幽霊屋数の多くは、ポルター・ガイストなとの騒霊現象をともなっており、様々な霊魂のるつぼとなっている。ストーリー性のある幽霊話を求めるにはいささか品位に欠けるというもので、悪魔的なムードに支配されている。霊にも色々な性質があり、その多くは、不吉な存在、つまり出会った人間に害悪を加える類いのものだ。
フランスはドゥー・セーヴル県モンタランベールでは、十字軍時代に、ここの領主ギー・ド・モンタランベールの遠征の戦利品の一つが盗難され、ある娘に容疑がかけられて、中世特有の残虐な刑罰、つまり火あぶりの刑が行われた。後に娘は無実と分かった。五月になると、土手の核に座ってさめざめと泣くブロンドの娘の亡霊が日撃され、嵐の晩に黒い法衣をまとった男とすれちがうと、その者はその年の内に死ぬらしい。
やはリドゥー・セーヴル県のペリニエには、奇跡が起こると言われたフカンベールの泉があり、 1759年まではペリニエの司祭が住民をつれて詣でていた。しかし、月夜の晩に、この泉で、白い服を着た洗濯女たちの霊が喪服を洗っているのに出くわすと、不幸な出来事に見舞われるという。

またイゼール県アルヴァール・レ・バンにも、出会うと不幸になる幽霊の話がある。ここのサッセナージェ殿の娘アンヌは、かねてからアルヴァールのピエール卿と相思相愛の仲であった。しかしピエール卿はある日、父親からの政略結婚の要請を受けて仰天、様々考えた末に、アンヌを失うくらいならば修道院に入ってしまおうと決心する。しかし、なんのことはない、その政略結婚の相手はほかならぬサッセナージュ家のアンヌであり、二人は天にも井る心地で結婚した。
ところが、なんと、数日の後、アンヌは猪に襲われて事故死してしまった。ピエール卿は世捨て人となる。アンヌは悲しみに暮れる亡霊となり、十二月の月のない晩には、サン・ユーグのシャルトル派修道院の辺りをさまようようになった。この悲しみの怨霊を見てしまった者には、思わぬ不幸、つまり幸福を一転させ不幸の奈落へ落とす運命の非情を味わうことになるそうだ。

また、フランスの名門モンモランシー公爵家にも不吉な女の霊の話がある。この女は、 1598年若くして急死したモンモランシー公爵夫人ルイーズ・ド・ビュドで、部屋の中で、何の外傷もなく、ただ首が百八十度ひねられた状態で死んでいた。悪魔の仕業だと当時から騒がれたものだが、宮廷でも若く美しいこの若妻の評判は高かったので、皆は悲嘆に暮れた。それからというもの、この当時の衣装のままの彼女の幽霊が、この家系の者が死ぬ間際になると屋敷の倉庫に現れるようになった。
彼女が怪死して一世紀近くたった1686年、有名な回想録作家サン・シモン公爵も、この一族の忠実な執事である男から、当主夫人と当主自身が急病で亡くなった時、ルイーズの亡霊の日撃談を聞かされている。公爵は、この執事がいかに立派な人物かを説明し、この幽霊話の信憑性の高さを強調している。

また、パリの王宮チュイルリー宮殿にも、有名な不吉な霊の存在があり、それは「チュイルリーの赤い小男」として王家から恐れられていた。カトリーヌ・ド・メデイシス(1519〜89)の時代から記録があり、宮殿に住む主だった人物の不幸の直前に現れる奇妙な小男らしい。アンリ4世は町中で暗殺されたが、その日の朝にこの赤い小男の姿を宮殿で見かけていたという。アンヌ・ドートリッシュ(ルイ13世未亡人)はフロンドの内乱勃発の数日前にやはり出くわしている。マリー・アントワネットも1792年8月10日、つまり民衆がチュイルリー宮を襲撃してくることになる日の朝、廊下でこの小男と出会っている。ナポレオンも退位する直前に会った。

不吉な霊もあれば愉快な霊、それどころか縁起の良い霊もいる。
ロンドンのドルアリー・レイン劇場には、18世紀の服装に剣を吊って乗馬靴をはき、手には三角帽を持った「灰色の服を着た男」の亡霊が出る。一度だけ150人の観客の前に現れたが、多くはリハーサルの最中に出現する。D列のおしまいの席に現れ、そこから後ろの通路を通ってロイヤル・ボックスの壁の中へと消えるパターン。
この男の姿が現れると、そのリハーサル中の興行が大当たりすることが多く、俳優たちはこの亡霊の出現に脅えるどころか喜ぶ始末だ。何人かの俳優は舞台の上で、より効果的な位置に自分を導く手の気配を感じたというし、本番中にも、俳優が自分で決めた位置に立つと「それでよしよし」と優しく背中を叩かれたり......。
前の世紀に、この劇場の修理工事の最中、この灰色の男の亡霊が壁の中に消えていく箇所の裏側で、長く未使用のままだった小部屋が発見された。その小部屋の中から、助骨に短刀の刺さった埃だらけの白骨体が発見された。この白骨体との関係はまだ明らかにはされていない。

セント・ポール寺院内のある記念礼拝堂でも、陽気な亡霊が出る。彼は牧師の姿をした小男で、一人口笛を吹きながらブラブラしており、人に見つかると、あわてていつも決まった壁のある箇所へ消えてしまう。人に見つかって逃げる幽霊も可愛いが、ある改修工事の際、係員が幽霊がいつも消える壁を職人に壊してもらった。すると丸屋根まで通じる通路につながる秘密の扉が発見されたという。それからプツリとその幽霊は出てこなくなった。
まるで口笛を吹いて人の注意をひき、あわてて逃げる仕草をしては、その秘密の扉の存在を伝えようと努めていたかのように。

おかしな幽霊といえば、功利主義哲学者ジェレミー・ベンタムの話がある。彼は人間にとっての最高の記念像は保存された肉体だと主張し、死後、その遺骸に詰物をして服を着させ、防腐処理をして、マホガニーとガラスで作った気密のケースに保存させた。
今も展示されてはいるが、さすがに頭部だけは蝋細工のものに変えられている。
しかし最近、彼は生前の持論を捨てたのか、ケースのガラスを時々鋭く引っ掻くらしい。その不気味な音は、正式な埋葬をしてくれとの意思表示だと理解されている。また、彼愛用のステッキを振り回した姿で彼の幽霊が職員を追いかけ回すようなこともあるらしい。まったく自分の遺言での処置だと言うのに厄介な人物である。

また、人間に協力的な幽霊たちもいる。アーネスト・ドーソンの長編詩「シナラ」はブロードウェイでも長らく公演され、マール・オペロン主演でハリウッドで映画化された。
このドースンが駆け出しの頃、実に奇妙な心霊体験をしているのである。それは裕福な友人に招かれて泊まったラットランドのホワイシャンガー城でのことであった。この城は1870年に城主一族断絶の後、臨時に賃貸されるようになったらしい。
その居室のひとつでベッドに入ったドーソンは、漂う妖気に短銃を枕元に置いたという。案の定、部屋の隅に月明かりで透き通らんばかりの美しい娘の霊体が現れた。
翌日、友人に尋ねると、その幽霊は初めから城に出ると評判だったらしく、18世紀に死んだ城主マウントバッテン伯爵の令嬢イザベラの亡霊だという。
彼女は文学的才能に恵まれていたが、23歳のときに肺病で亡くなった。詩人としての作品も世に発表されているくらいなので、詩人同士で語り合わせてみようと、彼女の私室だった部屋にドーソンを泊まらせたという。
彼は覚悟を決めたが、ある夜、暖炉の取り外しレンガを発見し、ページのボロボロになったイザベラの詩集を発見した。1768年10月7日の日付があった。
その夜、彼女の幽霊はついに彼に語りかけてくる。あなたの肉体を貸して欲しいと。自分はもっと詩作に励みたかったが病で倒れ、その無念さで漂っているのだ、詩人としてのあなたの肉体に宿って生前の夢を叶えてみたい、と。
ドーソンが承知すると、イザベラ姫の霊体が接近してきて、交錯する。それから、彼はロンドンに帰ってそのときの体験を長編詩にまとめ、有名な「シナラ」の原型が完成したわけである。だが彼も、22歳の若さで病死してしまうのである。詩才のみならず病弱なイザベラ姫の体質までのりうつってしまったのであろうか。

のりうつって云々の話となると有名なのが、あのローズマリー・ブラウン夫人の話だろう。1964年10月のある日、ロンドン郊外バルハムに住んでいた彼女は、不思議な霊気に導かれて物置の古ピアノの前にやってきた。声がする。「私は音楽家リストだ。今からあなたにのりうつる」するとピアノなど弾いたこともない彼女の手が自然に鍵盤の上をすべり、素晴らしい作品を演奏し始めたのである。なんとも、怪しい話であるが、彼女のもとにはリストばかりでなく、ベートーヴェンやショパンやブラームスなどなど音楽家たちの霊が次々と訪れ、シューベルトなどはあの未完成交響曲の完成部を彼女に演奏させたり、ベートーヴェンも未発表の第十交響曲を霊界からの通信で彼女に演秦させている。
その腕前は一流ピアニストも太鼓判を押すほどであり、生前のリストやショパンの演奏の違いも現代人に味わわせてくれる。ローズマリー・ブラウンのレコードは日本でも発売されて、絶版になった。
私はFM放送を録音したが、なんとも奇妙なムードで聴いている。
もしも彼女が嘘をついているのであれば、彼女はピアノの技法の達人であり、各音楽家の作曲技法に精通した驚異的才能のペテン師ということになろう。

イギリス人は大変に幽霊が好きで、古い家屋敷には必ず幽霊が住みついている。生前は幽霊好きで、死後は、化けて出るのが好きなのかも知れない。「愉快な幽霊が出ます」などと付記された不動産物件案内があるほどだ。
それにSPR(心霊研究協会) などといった組織があり、かなりきちんとした活動を展開している。この会員たちは、イギリス人らしく、何かの存在を証明しようとする場合、まずそれが存在しないことを証明しようと躍起になり、それが不可能であると結論が出れば、目的は達成されたという方式で研究をする。何かの心霊現象を演壇で披露すれば、やれそれは錯覚だ、幻覚だ、とまるでそれを信じない人々の集会のように批判されるらしい。それほど厳格に審査し、どう考えても霊的現象としか思えないというものだけを取り上げる。
この機関SPRがお墨付きを押した話は、全イギリス人に受け入れられる。それほどの権威あるところらしい。今世紀始めにヴェルサイユ宮殿を訪れた二人のイギリス人女性が、 トリアノンでマリー・アントワネットの幽霊を見たという話はセンセーションを巻き起こし、日本でも‐冊の本になっているくらいだが、その巻末にこのSPRの審査報告が載っている。
「そのすべてが超常現象と言うには、証拠能力が充分とは言えない」と、細々した点を指摘して弱点をついている。
まるで否定論者が皮肉っぼく論評しているかのようだ。
面白い機関である。人をただこわがらせているだけの安っほい幽霊話の氾濫する我が国とは違い、真剣にその手の出来事を愛するイギリス国民だからこそだろう。

1712年イギリスの「スペクテイター」誌に、 「今ほど学問・科学の進んでいなかった頃には、同じ自然を見るにももっと畏敬・恐怖心が強く、魔法・驚異・呪い・呪詛の恐ろしさに縮み上がったものだ・・・」などと書いてある。
これが書かれてから三百年も経とうとしているのに、基本的には当時の人々と同程度の知識しか持ち合わせておらず、当時の人々と同じように怖がっている現代人の我々は、もう少し真面目にこの種の現象を研究した方が良いのではないか。否、早く解決してしまった方が身のためなのではなかろうか。
怪談は夏の間だけかも知れないが、幽霊の出る出ないは夏に限ったことではないのだから。

英国の幽霊伝説 (シャーン・エヴァンズ著・評)
ある調査によると、英国人の4割以上が幽霊や亡霊、その他の超自然的な存在を信じ、スコットランドと北イングランドでは、3分の2近くの人が幽霊を見たり、気配を感じたことがあると答えているという。本書は、歴史的建造物などにまつわる伝説をはじめ、現在の管理人やその家族、ボランティアや訪問者など、さまざまな人が体験した奇妙な体験を紹介する。
英国で最も有名な亡霊が出没するのはノーフォークの「ブリックリング・ホール」。ここは、かつて国王ヘンリー8世の2番目の妻アン・ブーリンが暮らしていた屋敷の跡地で、1536年に待望の男子を流産したためヘンリーの怒りを買い処刑されたアンの幽霊「灰色の貴婦人(グレー・レディー)」がさまよっているとされる。
毎年、処刑された5月19日には、首のない御者が引く馬車に乗った彼女の幽霊が、自分の首を膝にかかえて屋敷への丘を上っていくといった、今も続く目撃譚を紹介する。
12世紀に築かれた「チャーク城」の元子ども部屋で暮らす管理人一家の前に現れる霊たちは、寝ている住人の足を引っ張ったり、髪をなでたりと、害を与えるのではなく愛情を示す。一方で、鍵をかけたはずの部屋で自動警報装置が鳴り、駆け付けると、フォルダーに隠してあったはずのブザーが椅子の上に放り出されていることがたびたび起きるという。
幽霊として現れるのは人間だけではない。1783年に建てられた「ベリントン・ホール」では清掃スタッフがもう何年も前から馬を飼っていない厩舎の中に2頭の馬を見かけている。
その他、強盗に殺された恋人たちの幽霊が命乞いする声が聞こえるという峠「ウィナッツ・パス」など。実に72カ所にも上るスポットとエピソードを、幻想的な写真とともに紹介。
チャーチルやシェークスピアなどの歴史上の人物たちの逸話も盛り込まれたちょっと変わった英国本。 
海の亡霊 (宮古) 

 

海にも亡霊(ぼうれい、もうれい)が出る。
亡霊船といって、多くは船に乗った亡霊だ。
幽霊船とか船幽霊、船亡者、亡者船などともいう。
船も当然この世のものではない。
お盆に泳ぎにいくと、亡者に海へ引きずりこまれる。
あるいは、海の上から、だれかが声をかけてくる。
これも、船に乗ってはいないけれど、亡霊船とおなじだ。
「お盆に漁に出ると亡霊船にあう」
そんな古老の口ぐせを笑って若い漁師がサッパを出した。
サッパは磯漁に使う小舟だ。
雲行きがあやしくなったと思ったら亡霊船があらわれた。
サッパをこいでいたら、ガスといって濃い霧につつまれた。
そんななか、気がつくと、いつのまにか、このへんでは見かけたこともない男の乗ったサッパがそばにいた。
それが亡霊船だったという話もある。
「ヒシャク(柄杓)を貸せ」
たいがいは、そういってせがまれる。
シャクシ(杓子)やエナガ(柄長)ということもある。
どれもおなじで、アカ(淦)という、船にたまった海水をかきだすための、柄のついた桶だ。
亡霊船にいったんこれを渡すと、必ず自分の船に海水を汲みいれられる。
沈没するまでやめない。
そんなときのために底の抜けたヒシャクを用意しておく。
あるいは貸すときには必ずヒシャクの底を抜いて渡す。
また、海の上で助けを求めてくる声に、うっかりこたえてはだめだ。
返事をすると必ず海に引きずりこまれる。
船幽霊にあったら口をつぐんでとりあわない。
反対に、とにかくなにか返事をしないと海に引きずりこまれるという話もある。
これをトモ呼ビという。
海の亡霊は餓鬼だという話もある。
餓鬼は、いつも腹をすかしている。
だから、お握りをやる。
味噌をといて海に流してやってもいい。
そうすれば退散することが多い。 
亡霊船は、海で死んで遺体が沈んだ、文字どおり浮かばれない人の亡魂だ。
海の亡魂は波間をさまよう。
クラゲのすがたをとることが多い。
人に出会うと、さまざまなかたちで祟(たた)る。
江戸時代に菅江真澄という旅の好きな学者がいた。
気仙沼へきて、船の上でこんな亡霊船の話を聞いている。
沖でカツオをとっていたら、おおぜいの乗った船が近づいてきた。
「そっちに乗せてくれ」
そういって、つぎつぎ乗りうつってくる。
これは亡霊船にちがいないと漁師たちは思った。
飛び乗ってくるものの頭を押さえては、ナマというところにどんどん押しこんだ。
夜が明けるのを待ってナマの板子をあけてみた。
すると、いくつもクラゲだけが入っている。
「クラゲは化けるのか」
ひとりがそういうと、ひとりが応じた。
「クラゲは風にさからって走るから、化けるようなこともあるだろう」――
ナマというのは板子の下の空間で、とった魚を入れておく。
ホトケといって水死体をひきあげると、ここに入れることもある。
クラゲが亡霊に化けるのか、亡霊がクラゲになるのかはともかく、
「クラゲの多くなるお盆には、気をつけることだ」
それが古老の口ぐせだ。 
三島由紀夫事件 / 首を抱えた亡霊 

 

1972年4月、一人の男の葬儀が行われていた。故人は川端康成。日本で初めてノーベル文学賞を受賞した川端康成であった。死因はガス自殺とされた。仕事部屋として使っていた逗子のマンションで遺体として発見された。僧侶の読経が始まる。と突然中央の僧侶の身体が大きく揺れた。何かに突き飛ばされたかのようであった。この動きが読経中に何度か続く。参列者の中にはこの動きに気付き不審に思った人もいた。
読経が終わり中央に座した僧侶が故川端康成の夫人、秀子氏を部屋の隅に導き話始めた。「出来るだけのことをしましたが、首を据えるとこまでです。憑いている霊が強過ぎます。私に出来るのはそこまでです。」この葬儀には実は三島由紀夫も列席していた。ただし、亡霊として。
三島由紀夫はいわゆる三島事件で、すでに死亡していた。
1970年11月25日。川端の死の1年半前。三島は自分がスポンサーとなり作った民族派団体の盾の会のメンバー4名と東京新宿区市ケ谷の陸上自衛隊東部方面総監部を訪問する。アポイントはとっていた。そして突然益田総監を人質にとり、総監室のバルコニーから自衛隊にクーデターを呼びかける。しかし同調する自衛隊員は一人もいなかった・・・。三島はヤジと怒号の中総監室に戻る。そして切腹し、果てる。その後すぐに川端康成は現場に駆けつけている。現場は血の海で三島の身体と介錯を受けた首はバラバラに部屋に転がっていた。警察による現場検証の前であった。
川端康成は三島由紀夫の師のような存在であった。文壇へのデビューを手助けし、仲人も引き受けている。こういった訳で三島はたびたび川端の鎌倉の自宅を訪れていた。それがこの後も三島はたびたび川端邸を訪れる。亡霊となり。秀子婦人はこう証言している。「三島さんが訪ねてくるんですよ。それが惨めなお姿で・・・。」前述の僧侶の言葉から察するところ、離れた首を抱えての訪問だったようである。川端家では何度かお払いをした。しかし効果は無かった。それは三島の霊ではなく、三島の霊にさらについている霊が非常に強力であった。どこかの段階で三島由紀夫はもう一人後見人をつけてしまったようである。川端は三島の葬儀に際しても葬儀委員長を務めている。その時の三島由紀夫への弔辞「葬い、即ち生きている者が死んだ者を葬うとはどういうことであるか。この意味は私はよくわかりませんが、死者をして死者を葬らしめよ、という言葉があります。三島君は多くの人の中に、また或いは歴史の中にも生きている、ともいえるとおもいます。」
何を言っているか理解できるだろうか?前半の言葉は枕言葉として、「死者をして死者を葬らしめよ、」とは何だろう・・・?「三島君は多くの人の中に、また或いは歴史の中にも生きている、ともいえるとおもいます。」とは何を意味しているのだろう・・・?
三島事件の起きる1970年の三島家での新年会。そこには大勢の著名人達も訪れていた。三島は酒でかなり御機嫌であった。訪問者の一人に三輪明宏もいた。三輪は天草四郎の生まれ変わりを自称し、霊感が強いといわれていた。その三輪が三島の背後に青い影を見た。三輪は三島に叫ぶ。「三島さん後ろに誰かいる!」三島はおどけて答える。「いったい誰だい。その物好きなヤツは。」三輪は続ける。「軍服を着ている。2.26事件の関係者かしら?・・・」しかし三輪は2.26事件のことにはあまり詳しくなかった。三島が2.26事件関係者の名前を一人一人挙げていった。そして三島がある名前を挙げた時、三輪は叫んだ。「そう!その人!!」三島の顔色は一瞬で真っ青になった。三島がその時挙げた名前は「磯部浅一(あさいち)」。2.26事件の中心的人物だった。この人物がいなかったら2.26事件はおきなかったのではないかともいわれる人物である。実は三島自身にも思い当たるふしもあったのである。
2.26事件は軍部の一部青年将校達が財界、政治家、官僚の腐敗していると考た輩を排除しようとした事件である。1936年2月26日であった。青年将校達は軍事グーデターを起こし、現人神である天皇の基で世直しをしようとした。それがあっさり昭和天皇から否定され賊軍として鎮圧される。失意の内多くの青年将校は銃殺される。それでも皆最期は「天皇陛下バンザイ!」と唱えて死んでいった。一人を除いて。磯部浅一はクーデターを天皇から否定されると、間違っているのは天皇だと開き直った。天皇を否定した右翼は思想のベースを何におくのだろう・・・?磯部の存在は現在に至るまで右翼のタブーとなった。そして磯部は「天皇陛下バンザイ!」を唱えず銃殺された。成仏することも拒否して。磯部の獄中日記より。「 何ヲッ! 殺されてたまるか。死ぬものか。千万発射つとも死せじ、断じて死せじ。死ぬる事は負ける事だ。成仏することは譲歩することだ。死ぬものか、成仏するものか。悪鬼となって所信を貫徹するのだ‥‥。」
三島は2.26事件をおこした青年将校達に共感した。そして「英霊の声」を書いていた。それを書き上げた際三島は原稿を出版社に渡す前に母親にみせている。母親の平岡 倭文重(しずえ)は語る。「一度読んで、これは息子の書いたものではないと思いました。それで息子に問いただすと。息子はこう答えました。」
「夜中書斎で原稿を書いていると、どこかからか声が聞こえてきて、手が自然に動き出してペンが勝手に紙の上をすべったんだ。自分の意思で止めることもできなかった。後で手直ししようかと思ったが、それも出来なかった。」
「英霊の声」より
「‥‥利害は錯綜し、敵味方も相結び、外国(とつくに)の金銭は人を走らせ もはや戦いを欲せざる者は卑劣をも愛し、邪(よこしま)なる戦のみ陰にはびこり 夫婦朋友も信ずる能(あた)わず いつわりの人間主義をたつき(=生計)の糧となし 偽善の団欒は世をおおい ‥‥魂は悉(ことごと)く腐食させられ 年老いたる者は卑しき自己肯定と保全をば、道徳の名の下に天下にひろげ 真実はおおいかくされ、真情は病み、道ゆく人の足は希望に躍ることかつてなく‥‥ ただ金よ金よと思いめぐらせば 人の値打ちは金よりも卑しくなりゆき‥‥ 烈しきもの、雄々しき魂は地を払う‥‥ 天翔るものは翼を折られ 不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑う かかる日に、などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし」
三島は磯部浅一の霊に取り付かれた。いや呼び込んだといった方が正確かも知れない。
これで川端康成の弔辞の意味が分かる。「死者をして死者を葬らしめよ、」とは「今は死者となった三島よ。お前の力で磯部を成仏させよ。」という意味だと思う。また、「三島君は多くの人の中に、また或いは歴史の中にも生きている、ともいえるとおもいます。」とは、「2.26事件という歴史的事件の影響で三島も死んでいった。しかしその三島や青年将校達の純粋な志は皆の心の中に生き続ける。」という意味だと思う。
三島事件から40年以上が経った。川端婦人も三島婦人も故人となられ、今まで遠慮されていた方々も少しづつ事情を明かし始めている。
菊池寛は自らの幽霊体験に対し他の人がとやかく言うのにこう言い返している。「幽霊がいるとかいないとか議論してもしょうがないじゃないか。幽霊は出るだけで充分だ。」 
若宮大明神 数馬の幽霊 (掛川市粟本地区殿谷周辺) 

 

「で、でたぁ〜」
外から帰ったきこりの甚兵衛は、家へつくとヘタヘタと尻もちをつきました。
「なんだねぇ、何がでたんだね。」
おかみさんが亭主のあわてようにたずねると、
「大入道よ。わしが谷の六さまの前を通って松の木の横を通ったらな、ものすげえ大入道が出て、わしをにらみつけたのさ。」
それから3日たった夜、甚兵衛と同じところを通った茂七も青くなってとんで帰ってきました。村中で次々に大入道の幽霊を見たというものが出て大騒ぎです。
その幽霊は、身のたけ1丈あまりもある大男の武士の亡霊でした。刀を差し、片手に草履をもち、目は片方を斜めに切られ無念の形相すさまじく、口をカッと開 いて、
「やれ恨めしやなあ、汝をとり殺すぞ!」といって追いかけてくる。
幽霊に出会った村人はたいそう驚き、寝こんでしまう者まで出て、村人はこの殿谷(とんのや)あたりを通らなくなりました。
あるとき、ひとりの気情な村の男が、亡霊の出る道を夜更けに通りました。やはり亡霊は男の前に出て、その姿は片目で草履を片方しか履いていません。村の男が怖い気持ちをおしころして逃げずにいると、亡霊が話しはじめました。
「われは宗忠の子、河合数馬将忠(かわいかずままさただ)という者である。隣村の城主荒重のもとへ行った帰りに酒に酔って城主の草履を取り違えて履いたことをとがめられ、荒重に手討ちにされた。身内が弔ったが墓石は幾百年の時を経て忘れ去られ、草むらに埋もれているが、大名の子と生まれ土民の足下となることは口惜しい。何卒懇ろに弔ってほしい。」
これを聞いた男は、さっそく石碑を建てて亡霊を弔いました。
さて年月は経て、ある年の9月8日の夜のこと。村の庄屋の太郎左ェ門の枕も とに数馬の亡霊が現われました。その夢の中で亡霊は、 「石碑を建ててもらったが、霊を神として祭ってくれれば、永くこの村の氏神となるべし。」と頼んで消えました。
太郎左ェ門は村人たちにこのことを話して、小さなお宮を建て数馬を氏神として祭り、若い殿様の霊なので「若宮大明神」と名付けまし た。
今でもこの村では、毎年旧暦9月8日(10月7日)のお祭りが続けられていま す。  
首相公邸の幽霊 / 供養の本質とは何か 

 

最近、首相公邸の幽霊が大きな話題になりました。
フジテレビ系(FNN)5月25日(土)の記事には次のように書かれていました。
「首相が任期中に住むための首相公邸。 安倍首相は、第2次安倍内閣発足後5カ月ほどが経過した今でも入居していないが、24日、この公邸をめぐって、長い間ささやかれていた幽霊のうわさについて、政府が閣議決定をした。 静寂に包まれる夜の首相公邸。ここには身の毛もよだつうわさがある。 午後4時半、菅官房長官は『(気配を感じたことは?)言われればそうかなと思いました』と述べた。
『首相公邸に幽霊が出る』とのうわさについて政府は、『承知していない』とする答弁書を閣議決定した。菅官房長官は『いろんなうわさがあるということは事実でありますし、この間、閣僚があそこで懇談会を開いた時も、そういう話題も出たということも事実でありますけれども』と述べた。記者の質問に、苦笑いで答える菅官房長官。実は安倍首相が、就任からおよそ5カ月がすぎても、公邸に引っ越ししていないことをふまえ、民主党の議員が、『幽霊のうわさは事実か』と質問をしていた。2006年、小泉 純一郎元首相は『幽霊に出会ったことないね。一度会いたいと思ったんだけど』と述べていた。
旧首相官邸だった現在の公邸。かつては青年将校によるクーデター『二・二六事件』の舞台となり、今もその時のものといわれる弾痕が残されている。また、この土地はもともと怪談『化け猫騒動』で知られる、佐賀鍋島藩の江戸屋敷があった所で、いわば、『いわくつきの土地』と言われていた。
羽田元首相の綏子夫人も、以前、住んでいた時の体験を著書で、『悪寒が走ったと申しましょうか、何か胸を圧せられるような、異様な雰囲気を感じました』と語っている。その後、綏子夫人は、知り合いの女性におはらいを依頼。女性は『霊がうようよいる』と話したという。真偽不明のうわさ。安倍首相の今後の入居については、諸般の状況を勘案しつつ判断されるという」 このように、幽霊の問題について真剣に民主党議員が質問意見書を提出し、国会の場で答弁がなされ、それを受けた官房長官が「(幽霊の気配を感じたことは)と言われればそうかなと思った。」と記者会見で述べたわけです。
「日本は大丈夫か?」とか「平和ボケにも程がある」と言われても仕方ないかもしれませんね。
個人的には非常に面白いですけど・・・。
まあ、本当に首相公邸に幽霊が出るとしても、こういったスピリチュアルな問題は表沙汰にせず、秘密裡に処理するのが常識だと思いますけどね。だいたい、放射能とか外国人とかに関する事実をいろいろと隠しておきながら、こんな問題だけ国民にオープンにしてどうするよ、民主党?
じつは、東京大学大学院教授で東大病院部長の矢作直樹氏とわたしの対談本である『命には続きがある』(PHP)が6月19日に発売されますが、同書には幽霊の話題もたくさん出てきます。
わたしたちは、自縛霊や浮遊霊に対する対処法も知っています。もし安倍首相が本当にお困りなら、矢作先生とわたしが「ゴーストバスターズ」として首相公邸に参上するのも面白いかもしれません。
その本で、わたしは「供養」の本質について話しました。
「供養」においては、まず死者に、今の現状を理解してもらうことが必要だと思います。それが本当の供養ではないでしょうか。僧侶などの宗教者が「あなたは亡くなりましたよ」と死者に伝え、遺族をはじめとした生者が「わたしは元気ですから、心配しないで下さい。あなたのことは忘れませんよ」と死者に伝えることが供養の本質だと思います。
さらに言えば、供養とはあの世とこの世に橋をかける、死者と生者のコミュニケーションにほかなりません。少し前に、『ジェットパイロットが体験した超科学現象』(青林堂)という興味深い本を読みました。著者は、元自衛隊空将で南西航空混成団司令の佐藤守という方です。
自衛隊内で今も語り継がれる霊的な現象についての本なのですが、その中に「八甲田雪中行軍遭難事件」の後日談が紹介されていました。
この事件は、1902年(明治35年)1月に日本陸軍第八師団の歩兵第五連隊が八甲田山で雪中行軍の訓練中に遭難した事件で、新田次郎の小説『八甲田山 死の彷徨』(新潮文庫)で有名ですね。映画化もされました。訓練への参加者210名中199名が死亡しましたが、日本の冬季軍訓練における最も多くの死傷者だそうです。著者の佐藤氏が八甲田の古老に聞いた話では、遭難後、青森にある第五連隊の営門で当直につく兵士たちの間で、遭難事件と同じような吹雪の夜になると行軍部隊が「亡霊部隊」となって八甲田から行軍して戻ってくる軍靴の音が聞こえたそうです。
そこで、ある将校が連隊の営門前で当直して待ち構えていたら、深夜に200人近くの部隊が行進する軍靴の音が近づいてきたそうです。
彼らが営門前に到着した気配を感じた当直将校は「中隊、止まれ!」と闇に向かって大声で号令をかけました。すると、軍靴の音が止まったばかりか、銃を肩から下ろす音までして部隊が停止した気配がしました。当直将校は「諸君はすでにこの世の者ではない。今から冥土に向かい成仏せよ!」と訓示し、改めて「担えー、銃」と号令しました。すると、銃を担ぐ音がして、「回れー、右」の号令で一斉に向きを変える軍靴の音がし、さらには「前に進め!」の号令で再び部隊が動き出す気配がしました。やがて行進する軍靴の音は八甲田山の彼方に消えていったそうです。その後、亡霊部隊は戻ってきませんでした。
古老は「きっと兵隊さんたちは成仏したのだろう」と佐藤氏に語ってくれたそうです。
わたしは、この当直将校の「諸君はすでにこの世の者ではない。今から冥土に向かい成仏せよ!」という言葉こそ、供養の本質ではないかと思います。
何よりも、死者は現状を知るための情報を欲しているのです。
首相公邸に本当に幽霊が出るのならば、彼らに「あなた方はもうこの世の人ではないのですよ」と教えてあげて、「どうぞ、迷わず成仏されて下さい」と諭してあげることが必要でしょう。 
 

 

 
霊鬼雑話

 

霊鬼
1) 死者の霊。また,霊魂が形を変えた鬼。
  「其魂魄の−と成りたるにてぞ有らん/太平記」
2) 鬼と化した死者の霊。超感覚的な宗教的存在。怪異・悪霊・死神などを指し、広義には精霊・霊魂をも意味する。
元興寺
元興寺(がごぜ、がごじ、ぐわごぜ、がんごう、がんご)または元興寺の鬼(がんごうじのおに)は、飛鳥時代に奈良県の元興寺に現れたといわれる妖怪。平安時代の『日本霊異記』『本朝文粋』などの文献に話がみられ、鳥山石燕の「画図百鬼夜行」などの古典の妖怪画では、僧の姿をした鬼の姿で描かれている。
敏達天皇の頃。尾張国阿育知郡片輪里(現・愛知県名古屋市中区古渡町付近)のある農家に、落雷と共に子供の姿の雷神が落ちてきた。農夫が杖で殺そうとすると雷神は命乞いをし、助けれくれれば恩返しとして、雷神のように力強い子供を授けると言った。農夫は雷神の求めに応じて船を作ると、雷神はそれに乗って雷とともに空へ帰って行った。
やがて農夫の妻が、雷神の申し子とでも言うべき子供を産んだ。それは頭には蛇が巻きつき、頭と尾を後頭部に垂らしているという異様な姿だった。雷神の言う通り生まれついて怪力を持ち、10歳の頃には力自慢で有名な皇族の王(おおきみ)の1人と力比べで勝つほどだった。
後にこの子供は元興寺の童子となった。折りしも元興寺の鐘楼の童子たちが毎晩のように変死する事件が続き、鬼に殺されたものと噂が立っていた。童子は自分が鬼を捕まえて見せると言い、ある夜に鐘楼で待ち構え、未明の頃に鬼が現れるや、その髪の毛を捕えて引きずり回した。夜が明けた頃には鬼はすっかり頭髪を引き剥がされて逃げ去った。血痕を辿って行くと、かつて元興寺で働いていた無頼な下男の墓まで続いていた。この下男の死霊が霊鬼となって現れたのであった。この霊鬼の頭髪は元興寺の宝物となった。この童子は後にも怪力で活躍をした末に得度出家し、道場法師となったという。
江戸時代の古書によれば、お化けを意味する児童語のガゴゼやガゴジはこの元興寺が由来とされ、実際にガゴゼ、ガゴジ、ガンゴジなど、妖怪の総称を意味する児童語が日本各地に分布している。しかし民俗学者・柳田國男はこの説を否定し、化け物が「咬もうぞ」と言いながら現れることが起因するとの説を唱えている。
一眼の霊鬼
400年以上も昔、蒲原に城がありました。その城の城主は北条新三郎(ほうじょうしんざぶろう)といい、蒲原も平和な毎日でした。しかし、平和な毎日もつかの間、武田信玄が城を攻めてきました。その攻城がうまかったことといったらありませんでした。新三郎もあわてふためいて、もう、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり……。そしてこの城は、信玄により火の城となりました。
彼は、火の城となった城を見かねて、少しはなれた草原に待機しようと走り去りました。しかし、戦いのため、疲労が重なり、身体がいうことをきかず、よろよろよろけて草原に入りました。その時、ピューンと矢がとんできました。矢は彼の背中にささり、それが最期となったのです。そして彼の霊は、ゆくあてもなくさまよっていました。
霊鬼が現れてから1週間もたたないうちに、何十人もの里人が寝こんでしまったり、腰を悪くする人でいっぱいになりました。そこで里人たちは、ある坊様に霊鬼が出ないように頼みました。
「ほほう、その方たちは、あの霊魂に困っているのだな。ようし、私の念仏で、あの霊鬼を退治してやろう。」里人たちは、涙を流してよろこびました。
時は、どんどん過ぎていきました。それと共に念仏もだんだん強まっていきました。さすがの霊鬼も酔ってしまい、最後には消えてしまいました。これで、やっと蒲原にも平和の花が咲き、里人は非常によろこびました。お偉い坊様は神様のようにたてまつられ、いつまでもいつまでも末永く幸せに暮らしたとのことであります。
長善寺の霊鬼
牧山(まぎやま)は陸奥の牡鹿郡に属し、山頂には長善寺という寺があった。長善寺の住職の永存は長州の生まれで、姪が孤児になったのを憐れみ、良縁を得て嫁に行くまでのつもりで、寺で養育していた。牧山の麓には、湊という村があった。笹町新左衛門という人の知行所で、笹町自身その村に住んでいた。
天文年間、永存は笹町と、山林の境界をめぐって争った。久しく決着を見ず、ついに訴訟沙汰となると、笹町は、村人に連署させた『山はもともと村に属する』との文書を提出した。さらに笹町は、永存は姪と姦淫していると訴え出た。これによって郡役所は永存を厳しく糾弾し、国家老の裁きで、藩の流刑地である江島(えのしま)に配流と決した。永存が悲憤慷慨したのは言うまでもない。
「山林の争いの件はともかく、姪を犯したなどというのは甚だしい誣告だ。嘘で人は騙せても、天は真実を知っている。この怨恨を晴らさずにおくものか。笹町を呪詛して、必ずや滅ぼしてみせる。もし姪を犯したのがまことなら、呪ってもなんの験もないだろう。無実であるからこそ、偽りで陥れた敵を呪い殺すことができるのだ」
それからは毎日、江島の海岸へ出て荒波に入り、呪詛することを止めなかった。みずから手指を打ち砕いて火を灯したので、やがて十指は全て燃え尽きた。
何年もの時が経った。石巻から江島に渡ってきた人があったので、永存が笹町の安否を尋ねると、その人は何気ないふうで言った。
「笹町どのなら、いたってご健勝で」「えっ、ほんとに?」「はい、ご家族もみなご無事でおられます」永存は激怒した。
「うぅ、くやしい。生きて笹町を苦しめ殺すことができないなら、死んで鬼となって恨みを報いてやる」
これより後、常に自らの死を祈り、心も身体も徐々に衰弱して、いよいよ死のうというとき、島民にこう告げた。
「死んだら、我が骸を逆さまに埋めてくれ。もしそうしなかったら、きっと祟ってやる」
島民の長はこの遺命に従わず、ふつうに埋葬したが、家に帰るやいなや急病を発して倒れた。それで驚き恐れて、言われたとおりに埋め直した。二、三十日たつと、笹町の屋敷の裏山に、夜ごと光り輝くものが出現した。近くからよく見ると、それは逆さまになって浮遊する僧だった。
まもなく笹町新左衛門が病死した。新左衛門の子の彦三郎があとを継ぐも、これまた不治の病にかかって死んだ。ほかに男子はなかったので、中嶋氏の弟の九左衛門を婿養子として家を継がせた。その九左衛門は委細あって他国へ逃亡をはかり、藩主の命で捕縛されて、兄の中嶋氏方に拘禁された。これ以前に、彦三郎の母、祖母、幼い女子など、みな相次いで死んでおり、ここにいたって笹町の家は滅亡したのである。九左衛門もまた死んだ。湊村は遠山帯刀が賜ったが、やがて遠山も罪を得て、ついに湊村自体が消滅した。
霊鬼
生息地 / どこにでも 大抵はその体の近くに出現する
食べ物 / なし
外見 / 鬼は人間の作った武器によって殺されたり自然に死んだりするが、彼らの魂は単純にそのままあの世へ行く事はない。ある鬼はやるべき事や因縁を残していたり、またある鬼は残酷な方法で殺されたために魂が鬼の霊となり現世に留まっているのである。霊鬼は死ぬ前と同じように行動をするが、生前と違うのは彼らの周りにはオーラのような光が湧いている所である。彼らは幽霊のように半分透けており、生前には持っていた力に加えて不思議な妖力を使えるようになっているのだという。
習性 / 霊鬼は復讐することに執着している。彼らは生前の敵や自らを死に追いやった人間の死を望み、何世紀にもわたって標的を追ったり特定の場所(多くは本体のある所)にて誰かが来るのを待つのである。彼らは強力な僧による除霊がない限り、その場所にとり憑くといわれている。
伝説 / 霊鬼にまつわる話は鬼に比べるととても少ないが、生きている鬼よりも恐ろしいものである。霊鬼に関する有名な話の一つに元興寺の伝説がある。これは不思議な力による子供殺しが、毎夜奈良県にある寺で行われた話である。強力な僧侶にも見つけられなかったもだが神の子によって倒された有名な話しである。 
「死者の霊が見える」「霊のたたりが怖い」
「霊魂」というと、すぐに幽霊とか悪霊を連想し、霊媒や心霊現象などが頭に浮かんできます。しかし、ほんとうに「死者の霊」は存在するのか。死後の世界は、いったいどうなのか。私たちには興味のあるところです。
人が亡くなると肉体は滅びますが、目に見えない霊魂が肉体を抜け出してどこかに存在するのではないか、といった考え方から、幽霊や祟りなどが恐怖の対象となる場合があります。
一方では、亡くなった人の霊が神聖視され、信仰の対象とされる例も少なくありません。
※ たとえば平安時代、政争に負けて都から追放された菅原道真が非業の死をとげたことから、その祟りを恐れた人々が道真の魂を鎮めるために設けたのが天満宮という神社のはじまりです。
ところが本来、“生命活動”という計り知れない不思議な現象は、仏法で説く「三世にわたる生命観」によってのみ、はじめて、その真実相を説き明かすことができるのであり、その他の知識では、その本質を正しくとらえることはできません。
仏教、とくに法華経では、三身(さんじん)の常住(じょうじゅう)を説きます。わかりやすくいえば、仏様は亡くなっても、その仏が説いた真理の法や仏の智慧、人々を救う慈悲の力用(りきゆう)は常にこの世界に存在し続け、人々を導いていく、ということです。これからすると、私たちの生命の中にも、境遇の違いはあっても、仏としての命の一部が具わっており(法華経の一念三千の法理から、どんな人の生命の奥底にも、仏界といって仏様のような広く慈悲深い心が具わっていると説かれる)、私たちの命も、死後も永遠に、この世に存在し続けると理解できます。
※ 法華経では、亡くなった人の生命は、天国や極楽浄土のような遠い世界に行ってしまうのではなく、我々と同じこの世界(娑婆世界・しゃばせかい)に永遠に存在し続け、生死を繰り返すと教えています。
死後の生命について
亡くなった人の生命は、大宇宙の生命体とともに存在し、いろいろな縁によって、時がいたると、ふたたび、この世に生まれ出ることになります。そしてその肉体は、過去世における自分自身の行ない(業因・ごういん)をもとに、宇宙の物質によって形成されていくのです。そしてまた、一生が終わり死に至るとき、その肉体は分解され、ふたたび宇宙の物質へと戻っていきます。生命自体もまた、大宇宙の大生命体と渾然一体となって冥伏(みょうぶく)し、その繰り返しが永遠に続いていく 〜 これが、生命の生死の真実の姿であると仏教では明かされているのです。
さて、大宇宙の生命体に溶け込んだ死後の生命は、過去世からの報いによって苦楽を感じていきます。(悪行を繰り返した人は、死後に、“苦しみ”としてその報いを受け続けていく〜自身の体を傷つければ、その痛みがしばらく続くように〜ことになります)そうしたなか、苦しみや強い怨念、または心残りなどは、その想(おも)いが強ければ強いほど、生きている人間にも感応・伝播し、人によっては、まれに死者の言葉が聞こえたり、死者の姿のようなものが見えるといった種々の作用を感ずるのです。
世間の人の多くはこれを、霊魂の働きであり、実際に、霊魂がそこに現われたものと考えるようです。しかしこれは、あくまでも、敏感な人が、そうした死者の生命の作用を感じ(感応〜感じてそれに反応し)ているだけであって、実際に、そこに死者が、生前の姿そのままで現われたり、声が聞こえているわけではありません。(敏感な人の五感(ごかん)に、死者の想いが伝わるということです)
亡くなった後にも、生前の姿がそのまま残っているということはあり得ません
たとえば赤い服を着たまま亡くなったからといって、死後の世界でも、ずっと赤い服を着けているはずはないのです。それが、敏感な人には見えるというのは、たとえば、私たちは、よく知る人物から電話がかかってきたとき、実際に相手の姿を見ているわけではないものの、会話から伝わってくる相手の機嫌や体調の良し悪し、電話をかけている場所の雰囲気などで、あたかも、電話の相手が眼前にいるかのごとく、その様子や姿を如実に想像できる場合があります。
これと同じように、死者の生命に対して敏感な人には、あたかも眼前にその人物がいるかのごとく、実際に見えたように感じているということです。… むしろ、死者の生命に、姿形(五体)という実体がないからこそ、時空を超越して、自由自在に、どこへでも、誰にでも、その想いを伝えることができるとも言えます。
場所についても同様に言えます。つまり、死者が何らかの理由によって、どうしても、その場所への執着心が捨てきれず、あるいはその場所で辛い事があり、その苦しみが忘れられずに、その場にやってくる人のなかで、とくに敏感な人には、その特定の場所に対する死者の想いが伝わる場合もあると考えられます。
この感応は、生きている我々の側からも、亡くなった方々の生命に影響を与えることがあります。つまり、生きている私たちが不幸であったり、悲しみに暮れた生活を送っていれば、おのずと先祖の生命にも、その辛さ、悲しみが伝わってしまうということです。
その逆も言えることであって、我々が行なう妙法による先祖供養、とくに塔婆供養などの追善供養 〜 遺族の強い信仰心と御本尊の偉大な利益(りやく)により、亡くなった方の生命を、成仏の境界(不安や焦燥感、苦悩の無い安らかな状態)へと導くことが追善供養の意義であり、それは南無妙法蓮華経の御本尊による感応妙(かんのうみょう)の功徳力(くどくりき)によるのです。
こうして考えると、世間で言われるような「幽霊」などは具体的に存在するわけではないことがわかります。
所詮、生といい、死といっても、我々人間は、一つの生命活動における、状態の変化の一片を見ているに過ぎないのです。(例:水が氷となったり水蒸気になったり、姿、形や性質は変わっても、本質は変わらないようなもの)
世の中ではかつて、不幸や災害が重なったりすると、それが特別な悪霊によってもたらされたものと信じ、その悪霊を恐れるあまり、神として祀(まつ)り、その祟りを鎮めようと考えました。(さきほどの天満宮の例など)
また、人は、ひとたび悪いことが重なると、「何かよくない力が働いているのではないか」と不安になり、お祓いや祈祷などに頼ってしまうわけです。
たしかに、死後の生命の状態が、ときには生きている人に感応することもあり、また亡くなった人が受けた苦しみが遺族に伝播し、遺族の生活や人格形成に影響を及ぼすこともあります。
しかし、それらはあくまでも、因果応報によるもので、他人に責任をなすりつけるための口実に過ぎない“祟り”や“呪い”などとは、まったく違うものであることを知るべきです。 
そのほかにも、我々の認識では説明のできない不思議な現象は数多くありましょうが、それらの真相をすべてを知り尽くすことは、私たちには到底不可能なことです。しかし、原因や真相がよく分からないからといって、むやみに恐れるあまり、日常生活が制限されたり、苦悩のあまりに病気になってしまうことこそ残念といえます。
また、不安な心理を悪用され、低俗な宗教や思想に騙されて、お祓いなどを繰り返した結果、さらに悪業(あくごう)を積み重ねることにもなりかねません。
仏法では、因果の法則が根底となって、すべての人間生命の救済が説かれています。つまり過去の自分の行ないが原因となって、報い(結果)をもたらすのであり、悪い原因をつくれば必ず悪い結果が出てきますし、良い行ないを繰り返せば、その結果も自然と良いものとなっていく。
どんな状況にあっても、みんな因果応報〜すべては自身の振る舞いの結果、みずからが招いた状況なのです。よってまず、私たちが今、困った状況にあるならば、まず第一に自身の振るまいを正し、最高の仏法である南無妙法蓮華経の御本尊を信じて、人生を正しく充実したものへと変えていくことこそ、根本的な解決方法といえます。
私たちが、南無妙法蓮華経のお題目を唱えながら、元気に明るく過ごしていくところに、私たちに縁の深い先祖の苦しみをも消滅し、先祖の生命を成仏させる最高の道が存することを、よくよく知っていただきたいと思います。
「どうしたら霊を見なく(感じなく)なるか」
あなたが現在、「死者の霊などが見える(感じる)」ことにより、精神的にも肉体的にも悩んでおり、「一日も早く、見えなく(感じなく)なりたい」と願うならば、具体的に、どのようにしたら良いでしょうか。
まず、焦って、「除霊」などを売りにする宗教には、ぜったいに頼ってはいけません。なぜなら、そうした除霊を生業(なりわい)としているような人々は、「宇宙法界に遍満(へんまん)する大生命体の実相を、正しく説き明かした妙法である法華経の原理」を知る術(すべ)を持ちません。ですから、そうした「生命の実相(じっそう)・実義(じつぎ)」を知らない“素人”に、中途半端な祈祷をされれば、あなたの精神状態は良くなるどころか、“頭破作七分(ずはさしちぶん)”といって、最悪の場合、あなた自身「精神異常」を来す恐れがあるからです。ですから、「法華経の極理(ごくり)」を知らない祈祷師には、何かを相談してもいけませんし、近寄ってもいけません。(面白半分に、そうした祈祷師に近寄ることで、謗法(ほうぼう)与同罪(よどうざい)により、それこそ謗法の毒気が感応する恐れがあります)
まずは、落ち着いて!
おそらく、あなたが感ずるその精霊・亡者の生命は、「あなたを、どうこうしてやろう」との悪意をもって、あなたの心に影響を与えているのではなく、何らかの理由、たとえば、「生前、自分が行なった罪障(ざいしょう)によって成仏できずに迷っている」、「謗法(ほうぼう)の害毒による強烈な苦しみから、なんとか逃れたい」「現世に熾烈(しれつ)な心残りがあり、それが忘れられない」等の理由により、何らかの縁のあるあなたに、救いを求めているのかもしれません。
ですから、まず、その精霊をどこか遠くに追い払おうとするのではなく、その生命を南無妙法蓮華経の御本尊の利益(りやく)によって成仏させていけば、以後、あなたに感応することは完全になくなるのです。
それでは、具体的に、その精霊を成仏させていく方法についてですが、
1) あなた自身が読経(法華経方便品・寿量品の読誦)と唱題(しょうだい)→南無妙法蓮華経を唱える)を行ない、「自他(自分と皆)ともに成仏できるよう」、日蓮大聖人の正しい曼荼羅御本尊に祈り、追善(ついぜん)回向(えこう)していく。
2) それを続けても、なかなか嫌な感覚が抜けない場合、あなたとその精霊との間には、よほど、遠い過去世からの深い因縁があるのかもしれません。よって、なかなか抜けないと感じた場合には、日蓮正宗寺院に参詣し、住職に相談したうえで、「妙法蓮華経」との題目が認(したた)められた塔婆を建立(こんりゅう)することで、その精霊を成仏の境界(きょうがい)へと、強力な力で導いていくことができます。そうすれば、その精霊は安心立命(あんじんりゅうみょう)の境界を得て成仏し、以後、あなたの五感(五根〜心に感じたり、眼に見えるような感覚を受ける)には、むやみに働きかけをしてくることはなくなるはずです。
※ ただし、こうした解決方法である「読経・唱題」や「塔婆供養」は、あなた自身が日蓮正宗寺院の檀信徒になることが前提となります。
なぜなら、あなた自身が信じていない曼荼羅御本尊に、いくら形式的に手を合わせたとしても、あなたの願いや志が、仏様に届くことはないからです。ですから、日蓮正宗では、「宗派を問わず、なんでも引き受ける」ことは、絶対に行なってはいないのです。
もしもあなたが、「霊」について悩んでいるなら、すぐに日蓮正宗の寺院を訪問し、僧侶に相談すべきです。
日蓮正宗の僧侶は、悩みを打ち明けてくる人を無理矢理入会させたり、あるいは入会(入信)してもいないのに、塔婆供養やその他の祈念を行なって金銭を要求するようなことは、ぜったいにありません。
ですから、あなたは安心して、日蓮正宗の僧侶に一切を託して相談してみてください。そして、できうるならば自発的に日蓮正宗の信仰を持(たも)ち、「南無妙法蓮華経」の大曼荼羅御本尊に縁を持つことができれば、心から納得できる解決方法を、必ず見つけられるはずです。 
サタンと悪霊 / 死者の霊が存在するか (サムエル第一28章)
「そこで,その女は言った,『だれをあなたのために連れ出しましょうか』。これに対して彼は言った,『わたしのためにサムエルを連れ出してくれ』。・・・すると,“サムエル”はサウルに言いだした,『なぜあなたはわたしを連れ出させて,わたしをかき乱したのか』。」(サムエル第一28:11,15)
世界中で、死者の霊が存在すると信じられています。例えば、日本は、お盆の時期などには、死者の霊が家族のもとに帰って来るとされ、死者の霊に祈ったり崇拝を捧げたりすることが行なわれます。聖書は死者の霊が存在すると述べていますか。
聖書はエホバ神に見放されたサウル王が、女霊媒に頼って、死んだ預言者サムエルを呼び出そうとしたことを述べています。サウル王は、敵から攻撃されており、その結果を知りたいと思ったのです。エン・ドルの女霊媒が呼び出した者は誰だったのでしょうか。聖書はサウル王によって呼び出されたのが、「サムエル」であると簡単に述べています。
しかし、霊媒がサムエルを呼び出すことができたのだとしたら、聖書と矛盾することが出てきます。モーセの律法下では、死者を呼び出して死者に問い尋ねることは禁止されていました。(申命記18:12。レビ19:31)また、モーセの律法下では、霊媒術者は死に処されることになっていました。実際、サウル王はモーセの律法に従って、霊媒や出来事の職業的予告者を地から除いてしまっていました。(サムエル第一28:3)ですから、サウル王はモーセの律法に真っ向から反することを行なっていました。
サウル王は、敵が攻めてきたので、恐れてエホバに伺いましたが、エホバ神はサウル王が不忠実になったので、彼に対して、夢によっても、預言者によっても、どんな方法でも、サウル王に決して答えようとしておられませんでした。(サムエル第一28:6)
それなのに、エホバ神はご自分がモーセの律法の中で禁じておられる霊媒によって、サウル王に答えられるはずがないのではないでしょうか。
サウル王は、女が呼び出した「サムエル」を、サムエル自身であると信じ込みましたが、実のところ、聖書は死者は意識がなくて、何もできなくなっていると述べています。(伝道の書9:5,10)また、聖書の詩編などは、死者が神を賛美したり語ったりすることができないこと、人間は死によって終わりを迎えると述べています。(詩編6:5;90:10;103:14〜16)
聖書は霊媒に相談するといった心霊術を禁じています。(申命記18:11。ガラテア5:20)霊媒に相談して本当に死者と交信できるのでしたら、愛の神がそれを禁じたり、霊媒に相談することによって汚れると述べるはずがありません。(レビ19:31)
ですから、霊媒によって呼び出されてサウルの問いに答えたのは、エホバ神ではなく、また死んだ預言者サムエルでもありませんでした。それは誰でしょうか。
霊媒が呼び出した「サムエル」は、サムエルのふりをしていた誰かということになります。その者はどうしてサムエルのふりをしていたのでしょうか。その者は人間をだまして死んだ者に意識があるということを信じさせたいと望んでいることになります。また、その者はサウル王を惑わして霊媒を禁じる神の律法を破らせたいと思っていた存在でしょう。
聖書によると、悪魔サタンはエデンの園でエバに「あなた方は決して死ぬようなことはありません」と言いました。(創世記3:4)それで悪魔サタンは、人間が死んでも意識が存続して「決して死ぬようなことは」ないことを人間に信じさせたいと願っています。さらに、悪魔サタンは、人間に神の律法を破らせたいと望んでいます。(創世記3:4,5) それで、死んだ預言者サムエルのふりをしていたのは、悪魔サタンか、サタンの配下にある悪霊です。
霊媒の呼び出す死者が正確に状況を述べ、正確に将来を予言する場合があるかもしれません。結局、悪魔サタンや悪霊は人間の状況を良く知っており、ある場合、正確に将来を予告することができます。それは、一見して人間のためになるように見えるかもしれません。
しかし、聖書は悪魔サタンは「光の使い」に変様して光の天使のふりをしていると述べられています。(コリント第二11:14)悪霊の音信が一見して人間のためになるように見えても欺かれるべきではありません。
また、聖書は悪魔サタンは、「人の住む全地を惑わしている」と述べられています。(啓示12:9)それで、世界中の人が死者の霊が存在すると信じているのは、悪魔サタンと悪霊の大掛かりな欺きです。
また、聖書はエホバ神以外の存在に崇拝を捧げることを禁じています。(出エジプト20:3〜5。マタイ4:10)死者の霊に祈りを捧げることは、死者の霊を崇拝していることになります。そして、もっと悪いことには、死者の霊は存在していないのですから、死者の霊に祈ることにより、死者の霊のふりをしている悪魔サタンや悪霊を崇拝することになります。
死者の霊は存在していません。死者の霊のふりをしているのは、悪魔サタンと悪霊です。私たちは悪霊たちと連絡をとろうとしたり、崇拝したりしないようにしましょう。エホバ神だけを崇拝しましょう。 
死者の霊 / 悪霊の攻撃にどうしたら立ち向かえますか (箴言18章)
「エホバのみ名は強固な塔。義なる者はその中に走り込んで保護される。」(箴言18:10)
最近耳にした経験によると、ある若い日本の女性は、悪霊の声が頻繁に聞こえるそうです。
悪霊はその方の亡くなった祖父や祖母、叔母にそっくりの声をして話しかけてくるそうです。叔母にそっくりな声で話しかけてきても、言葉で抵抗すると、声が変わって男の低い声になるそうです。そして、悪霊から、「お前絶対殺してやるからな」とか、「お前に永遠の命は継がせない」というようなひどいことを言われるそうです。
そのような経験をすると精神的、身体的にたいへんなダメージを受けてしまいます。彼女の経験は死んだ愛する家族のふりをしていても、実際はそれらが悪霊であることを如実に示しています。
なぜなら、どうして生きていた時に自然に愛をもってふるまっていた親族が、死んだ後に急に愛する親族に対してそのように残酷でひどいことを言うのでしょうか。また、親族はクリスチャンではなかったので、永遠の命の希望を知らないでしょう。クリスチャンに対して永遠の命の希望が差し伸べられていることを知っているのは悪霊です。ですから、死んだ親族のふりをしていても、実際は、残酷な性質を持つ悪霊だということが分かります。
では、さまざまな心霊現象に悩まされる時、どのように立ち向かえるでしょうか。
私たちは決して悪霊を恐れて悪霊を崇拝するべきではありません。聖書は私たちが崇拝すべき唯一まことの神がエホバ神であることを示しています。悪霊たちはエホバの存在を知って信じていますから、エホバ神におののいています。(ヤコブ2:19)
それで、悪霊の声が聞こえてきたり、悪霊が音を立てたり、物が動いたりというような悪霊の攻撃があったら、まずすべきことは、エホバ神のお名前を使って声に出してエホバ神に助けを祈り求めることです。箴言の聖句はエホバのお名前が保護になることを示しています。
さらに、そのお祈りは、イエス・キリストの立場を認めて、イエス・キリストを通して祈ることができるでしょう。一世紀において、イエスに遣わされた七十人の弟子たちは喜びながら帰って来て,こう言いました。「主よ,あなたの名を使うと,悪霊たちまでがわたしたちに服するのです。」(ルカ10:17)イエス・キリストの名前を使うと、悪霊たちが服したと述べています。それで、エホバ神に祈る際に、イエス・キリストを通してお祈りをすることができます。
では、悪霊からさまざまなことを言われたら、どうしたらいいでしょうか。イエス・キリストは悪魔サタンに誘惑を受け、悪魔の声が聞こえました。神の子であるイエスが悪魔サタンの攻撃を受けたのですから、神の僕であっても、悪霊の攻撃を受けることはありえるでしょう。
その時、イエスはいつも神の言葉を引用して答えられました。イエスは神の子で、聖書に精通しておられました。ですから、悪魔サタンから誘惑されても完全に聖書に調和した答えを述べ、完全に聖書に基づいて行動することができました。上記の女性は記憶している聖書の言葉を語ることによって悪霊に立ち向かいました。それは、イエスの方法にみならって悪霊に立ち向かっており、立派なことです。
しかし、私たちはイエスのようには、霊的に強くなかったり、聖書の言葉を覚えていなかったりするかもしれません。悪霊から信仰を弱まらせることを言われて答えることができないと悪霊につけこまれて間違った方向に説得されるかもしれません。そのことを考えると、悪霊からの攻撃があった時に、ただエホバのみ名を用いて声を出して祈り保護を求める方が勝っているでしょう。
また、悪霊の攻撃を受けないようにするために、悪霊崇拝に関係した物品を処分することが賢明です。一世紀において、エフェソスで信者となった人々がしたことが次のように述べられています。「実際,魔術を行なっていたかなり大勢の者が自分たちの本を持ち寄って,みんなの前で燃やした。そして,それらの値を計算してみると,合わせて銀五万枚になることが分かった。」(使徒19:18)
エフェソスで信仰を受け入れた人々は、高額な魔術の本を燃やして処分したことが述べられています。それで、悪霊崇拝に関係する偶像、お札、祭壇、その他の備品、オカルトや魔術、占い、催眠術の本、CD、DVD、ビデオなどを処分することによって一世紀のクリスチャンの手本に見倣うことができます。
しかし、私たちは家族と共に住んでいて、家族のそうした所有物に対して権限がないかもしれません。その場合は、少なくとも自分の所有物の中のそうした物品を処分できるでしょう。できたら、少なくとも自分の部屋には、そうした物品が置かないように取り計らえるでしょう。
悪霊に立ち向かって悪霊の攻撃から完全に自由になるためには、多くのことが関係しています。エフェソス書には、わたしたちのする格闘は・・・天の場所にある邪悪な勢力に対するもの」と述べられており、神の僕は抵抗できるように「完全にそろった神からの武具」を身に着けなければならないと述べられています。(エフェソス6:11〜13)
そのためには、神の律法を十分に守るようにすることや、聖書の正確な知識を身に着け、十分に祈ることが求められます。それは、短期間ではできないことかもしれません。
けれども、ヤコブ4章7節には次のように勧められています。「したがって,神に服しなさい。しかし,悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば,彼はあなたから逃げ去ります。」
私たちは悪霊を恐れて、悪霊の支配下に入るのではなく、エホバ神に服してエホバ神の保護を得られるようにしたいと思います。それで、引き続きエホバ神に服し、悪魔に立ち向かい霊的に成長していくように努力してしていきたいものです。 
死者の霊に近づく八月のお盆
八月は一年のうちで死者の霊を一番身近に想う月だと思っている。戦前の東京ではお盆になると死者の霊を迎える”迎え火”を焚いた。浅草の裏道を歩くと、そんな風景があちこちでみられた。高層ビルが乱立した今の浅草では、みられない風景である。
お盆の風習は八世紀ごろから、夏の祖先供養として伝えられてきた。旧暦七月十五日の”旧盆”と、新暦七月十五日の”七月お盆”、新暦八月十五日の”月遅れのお盆”とややっこしいのは、明治六年(1873)一月一日から旧暦(天保暦)が廃止されて新暦(グレゴリオ暦・太陽暦)が用いられるようになった影響である。
というと明治維新後の近代化の一環のように思ってしまうが、明治政府が月給制度にした官吏の給与を(旧暦のままでは明治六年は閏六月があるので)年13回支払うのを防ぐためだったといわれている。農業国家だった日本だから、旧暦の風習をそんじょそこらの事で変わるものではない。
結局は八月の月遅れのお盆が主流となった。もっとも「お中元」の風習も東京などでは七月。地方は八月。都内だけのやりとりなら七月のお中元でも構わないが、地方は八月のお中元が主流だから、一ヶ月早過ぎるお中元になってしまう。お中元商戦に明け暮れるデパートにしてみれば、七月と八月にお中元商戦というのは有り難い話だろうが・・・。
迎え火は八月十三日夕刻に焚くのだが、先祖の霊が家に戻ってくるお迎えの行事。仏壇にお供え物をしてお迎えする。八月十六日になると先祖の霊が墓にお帰りになるのだが、それを送るのが”送り火”。十三日から十六日まで墓は空き家になるから先祖がいない墓に行って掃除などをする・・・。これが戦前にみられた日本の風景である。有名な京都の五山送り火は八月十六日。
懸案だった古沢家の墓を菩提寺の墓所にひとつにまとめることを来週から始める。思いがけない白内障の手術を、それも両眼ともやることになったので、この作業が遅れてしまった。私の父と母のために建てた墓は川崎市の霊園にある。先祖たちの墓は西和賀町沢内の共同墓地にある。また一族の古沢理右衛門の墓は雫石町の広養寺にあるので、それを一カ所にまとめるのは大変な作業になる。
古沢元・真喜夫婦作家の文学碑が菩提寺の庭園に建立されて十年以上の歳月が去ったが、菩提寺の和尚から墓をまとめる課題をいわれてから数年経つ。
私の家は十代の私で絶家となるが、血脈は岩手県だけでなく全国的に広く及んでいる。古くは播州・赤松邑からでた赤松一族。頭領の赤松則村は元弘の変で一族を率いて六波羅に攻め入り、鎌倉幕府を打倒して名をあげている。しかし嘉吉の乱で赤松満祐が足利将軍を殺害し、幕府によって滅ぼされた。
常陸国・川尻に赤松山不動院がある。そこに「祐弁墓碑銘」が現存しているが、赤松祐弁の曾祖父が赤松則村だとしている。足利幕府に追われて全国に逃散した赤松一族が常陸国・川尻を本拠とする地方豪族になっていた。しかし赤松祐弁の曾祖父が赤松則村だという確証は得られていない。
赤松山不動院には何度か訪れたが、赤松祐弁を祖とする宗家の墓が並ぶ墓所を囲むようにして分家一族の墓が林立していた。宗家は「九曜」の家紋を用いた。墓所にはこの家紋がついている。茨城県八千代町の「歴史民俗資料館」に行くと、中央の大丸を囲んで八つの丸がつく九曜家紋がの兜が展示されている。
「九曜」は「九星」とも言い、平良文を祖とする関東の武将・千葉氏も用いた。千葉氏は妙見菩薩を守り神としたが、妙見は星の形で表現され、妙見菩薩は天体の運行をつかさどる神とされた。播州・赤松宗家は左巻きの巴紋。一族でも「九曜」家紋は見当たらない。
分家の墓には「上り藤」と「丸に蔦」家紋の二種類が刻まれている。宗家と分家の古い墓には赤松姓と古沢姓が混在している。
赤松一族は下妻大名の多賀谷氏に仕えた。赤松美濃常範の代の時に多賀谷氏の居城・下妻城が小田原の後北条氏の軍勢によって囲まれた。城主・多賀谷政経は赤松美濃常範に命じて、下妻古沢村の湿地帯で後北条軍を迎え討たせた。
多賀谷と盟約を結んでいた佐竹義宣に応援の馬を走らせているから、常範軍は佐竹軍が駆けつけるまでの時間稼ぎの犠牲部隊だったのだろう。しかし常範軍は奮戦して佐竹軍が駆けつける前に後北条勢を壊滅させた。赤松美濃常範の武名はあがり、世人は「赤松が左文字の刀ふりければ、皆くれないに、古沢の水」と囃し立てた。この軍功によって赤松美濃常範は改姓して古沢美濃常範に改めた。元亀二年(1571)のことであった。
しかし多賀谷大名は石田三成方についたので、関ヶ原の戦いの後に徳川家康によって滅ぼされた。古沢武将の多くは土着して農民になっている。これ以降、古沢姓からもとの赤松姓に戻る者も出たている。
九曜家紋を用いた赤松宗家は播州・赤松氏の直系ではないにしても、やはり戦国時代を生きた名門といえる。宗家が伝えてきた諸古文献によって川尻・赤松家の事績がかなり解明されてきたが、その赤松宗家も川尻の赤松光子家の代で絶家となっている。
この十年がかりで「丸に蔦」家紋を使う川尻・古沢家が、秋田県の能代城に流れて土着し、雫石邑から沢内邑に来た足跡を解明したつもりでいる。その足跡を菩提寺に残すのが、絶家となる十代目当主の私の最期の仕事だと思っている。 
中国盆会(チュウゴクボンエ) / 崇福寺 / 長崎市鍛冶屋町
日本とはひと味違う在留する中国人の盆祭り。昔、死者の霊をなぐさめるため、崇福寺、福済寺、興福寺の3寺合同により唐人屋敷で行われていたが、現在は旧暦7月26日からの3日間、崇福寺で行われるようになった。
この盆祭りは、正式には「普度盂蘭盆勝絵(ぼうるうらぼんしょうえ)」といい、有縁仏、無縁仏をも含めて同時に法会を営む。
第1日は、僧侶によりお経があげられ、釈迦その他尊者の霊を慰め、第2日は同じくお経をあげて亡者や霊を呼ぶ。第3日は全世界の霊に対し供物をあげ、迷い出た人にいたずらしないよう金山、銀山、衣山などを燃やして米饅頭を天に向けて投げ、霊を送る。金山、銀山は金銀貨を意味し、また衣山は着物、洋服、履物等を意味している。
境内第一門をくぐり第二門(第一峰門)のところにある人形は、七爺(ちーえ/背が低く黒い丸顔)と八爺(ぺーえ/背が高く長顔で白衣)。この2人は人間の魂を冥途に連れて行く役割の神だ。本堂の前にはパノラマの娯楽室、沐浴室、女室、舞踊場がある。この玉殿は亡者のために設けられたもので、中には精進料理が供えられ、絶えず香煙が揺らいでいる。さらに本堂の横には冥界における亡者の36軒の店があり、ここでは亡者が物を買ったり、遊んだりできるようにしてあるという。
夜の境内にはいくつもの赤いランタンが灯され、唐人鉄砲や鉦、太鼓の音が始終鳴り響く。遠く関西方面からの参詣者も加わり、盛装した中国の老若男女が三跪九拝(中国式の参拝方法)をして手を向ける香煙は全山をおおい、たいへんな賑わいをみせる。 
ハロウィン
ハロウィンとは、キリスト教の諸聖人の日『万聖節』(11月1日)の前夜(10月31日)に行われる祭り。ハロウィーン。
ハロウィンの語源・由来
ハロウィンの語源は、「諸聖人の祝日の前夜」を意味する「All Hallow's Even」が短縮された「Halloween」で、「Hallowe'en」とも表記される。
ハロウィンの由来は、古代ケルト人の秋の収穫感謝祭に起源があるといわれる。
古代ケルト民族の1年の終わりは10月31日と定められ、この夜には死者の霊が親族を訪ねたり、悪霊が降りて作物を荒らすと信じられていた。
そこから、秋の収穫を祝い悪霊を追い出す祭りが行われるようになり、キリスト教に取り入れられて、現在のハロウィンの行事となった。
ハロウィンには、「Jack-o'-lantern(ジャック・オー・ランタン)」と呼ばれる、カボチャをくり抜いて顔を作った中に蝋燭を立てた提灯が飾られるが、これは死者の霊を導いたり、悪霊を追い払ったりするための焚き火に由来するといわれ、お盆の「迎え火」や「送り火」に近いものがある。
ハロウィンでは、仮装した子供たちが「Trick or treat!(お菓子をくれないといたずらするぞ)」と言って、近所の家からお菓子を貰う由来は、農民が祭り用の食料を貰って歩いたさまを真似たものといわれる。 
お盆って「霊の帰省」期間
毎年お盆には、亡くなった人たちがあの世からこの世に戻ってくると言われる。その送り迎えをするために、道案内の火をたいたり、目印となる提灯をともしたりする。キュウリやナスに割り箸を刺して供えるのは、あの世とこの世を往復するための乗り物になるからとか。キュウリは足の速い馬に、ナスは歩みの遅い牛に見立てられ、戻ってくるときはできるだけ早くキュウリの馬で、帰るときはゆっくりとナスの牛で、ということらしい。
でも、亡くなった人たちは、いったいどんなふうに戻ってくるというのだろう? 一般的には、関東では7月15日、関西では8月15日を中心に、ご先祖さまの霊が自宅に帰ってくると思われているようだ。お盆になると実家に帰省する人が多いけれど、霊だって帰省するというわけだ。
仏教でお盆の由来とされているのは、『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』というお経である。お釈迦さま(釈尊、仏陀)の弟子であった目連が、死んで餓鬼道におちた母を、お釈迦さまの教えによって僧侶に食べ物を施し、供養することによって救うことができたという故事にもとづくものらしい。
でも、ちょっと待った。私たち日本人が「あの世」というとき、餓鬼道や地獄といった苦の世界を想定しているのだろうか。いや違う。ほとんどの人が、ご先祖さまたちは極楽にいらっしゃると思っているはずである。
古来わが国には、旧暦7月15日に先祖祀りをする習慣があったらしい。そこにちょうど「盂蘭盆会」(うらぼんえ=古代インド語ウランバナの音訳)という仏教行事が伝わって結びついたようだ。しかもこの「盂蘭盆会」、起源はインドではなく、中国に伝播する間に起こってきたものと考えられている。つまり、日本古来の民俗信仰と中国風にアレンジされた仏教行事が合体して、現在のお盆のカタチになったと言える。
もともと仏教には、仏教以外の土着の要素、古来の習俗や宗教が混ざり合っている。日本仏教は特にその度合いが高く、ゴッタ煮状態というのが大きな特徴でもある。
だから、仏教本来の合理性や浄土教としての整合性を追求すると、「霊の帰省」というストーリーや「先祖供養」の必然性はなくなる。ちなみに、浄土真宗本願寺派(西本願寺)や真宗大谷派(東本願寺)ではこの立場をとっていて、お盆は極楽浄土の阿弥陀仏や祖先への報恩感謝の行事とされているようだ。
私自身はこれまで、人間は死んだら無だ、死んでしまったら私という意識は終わると思ってきた。「あの世」と言われる死後の世界についてイメージしたこともなかったし、ましてや「霊魂」とか「輪廻転生」などといったものはオカルト趣味として敬遠し、理解しようとしなかった。お盆に死者の霊が戻ってくるなんていうのは、ある種のおとぎ話のように思ってきた。それでも墓参りをしたり、仏壇の前で手をあわせたりして、元気で暮らしていますから安心してください、などと報告していた。
日本人にとってお盆は、心の原風景である。仏教の教義や科学的な見方といった理屈は、いまのところとりあえず置いておこう。そして、遠いご先祖さまというより、身近でご縁のあった故人をしのびたいと思う。それは何もお盆に限ったことではない、という考え方もあるだろう。でも、お盆というのは、いまは亡き人を思い出す「よすが」となる期間には違いないはずである。 
 
今昔物語 / 巻第27 本朝付霊鬼

 

第1話 三条東洞院鬼殿霊語
今昔、此の三条よりは北、東の洞院よりは東の角は、鬼殿と云ふ所也。其の所に霊有けり。
其の霊は、昔し未だ此の京に京移も無かりける時、其の三条東の洞院の鬼殿の跡に、大なる松の木有けり。其の辺を男(をのこ)の馬に乗りて、胡録負て行(ある)き過ける程に、俄に雷電霹靂して、雨痛く降ければ、其の男、否(え)過ぎずして、馬より下て、自ら馬を引へて、其の松の木の本に居たりける程に、雷落懸りて、其の男をも馬をも蹴割(けさき)殺してけり。然て、其の男、やがて霊に成にけり。
其の後、京移有て、其の所、人の家に成て住むと云へども、其の霊、其の所を去らずして、于今霊にて有とぞ、人は語伝へたる。極て久く成たる霊也かし。
然れば、其の所には度々吉からぬ事共有けりとなむ語り伝へたるとや。
第2話 川原院融左大臣霊宇陀院見給語
今昔、川原の院1)は融の左大臣の造て住給ける家也。陸奥国の塩竈の形を造て、潮の水を汲入て、池に湛(たた)へたりけり。様々に微妙く可咲き事の限を造て住給けるを、其の大臣失て後は、其の子孫にて有ける人の宇陀の院2)に奉たりける也。
然れば、宇陀の院、其の川原の院に住せ給ける時に、醍醐の天皇は御子に御せば、度々行幸有て微妙かりけり。
然て、院の住せ給ける時に、夜半許に、西の台の塗籠を開て、人のそよめきて参る気色の有ければ、院、見遣せ給けるに、日の装束直(ただ)しくしたる人の、太刀帯(はき)て、笏取り畏りて、二間許去(の)きて居たりけるを、院、「彼(あれ)は何に人ぞ」と問せ給ければ、「此の家の主に候ふ翁也」と申ければ、院、「融の大臣か」と問せ給ければ、「然に候ふ」と申すに、院、「其れは何ぞ」と問はせ給まへば、「家に候へば住候ふに、此く御ませば、忝く所せく思給ふる也。何が仕るべき」と申せば、院、「其れは糸異様の事也。我れは人の家をやは押取て居たる。大臣の子孫の得(えさ)せたればこそ住め。者の霊也と云へども、事の理をも知らず、何で此は云ぞ」と高やかに仰せ給ければ、霊掻消つ様に失にけり。其の後、亦現るる事無かりけり。
其の時の人、此の事を聞て、院をぞ忝く申ける。「猶、只人には似させ給はざりけり。此の大臣の霊に合て、此様に痓(すく)やかに、異人は否答じかし」とぞ云けるとなむ語り伝へたるとや。
* 1) 河原院 / 2) 宇多院
第3話 桃園柱穴指出児手招人語
今昔、桃園と云は、今の世尊寺也。本は寺にも無くて有ける時に、西の宮の左の大臣1)なむ住み給ける。
其の時に、寝殿の辰巳の母屋の柱に、木の節の穴開たりけり。夜に成れば、其の木の節の穴より、小さき児の手を差出て人を招く事なむ有ける。
大臣、此れを聞給て、糸奇異(あさまし)く怪び驚て、其の穴の上に経を結付奉たりけれども、尚招ければ、仏を懸奉たりけれども、招く事尚止まざりけり。此く様々すれども、敢て止まらず。二夜三夜を隔て、夜半許に人の皆寝ぬる程に、必ず招く也けり。
而る間、或る人、亦、「試む」と思て、征箭を一筋、其の穴に指入たりければ、其の征箭の有ける限は招く事無かりければ、其の後、征箭の柄をば抜て、征箭の身の限を穴に深く打入れたりければ、其より後は招く事絶にけり。
此れを思ふに、心得ぬ事也。定めて、者の霊などの為る事にこそは有けめ。其れに、征箭の験、当に仏経に増(まさ)り奉て恐むやは。
然れば、其の時の人、皆此れを聞て、此なむ怪しび疑ひけるとなむ語り伝へたるとや。
* 1) 源高明
第4話 冷泉院東洞院僧都殿霊語
今昔、冷泉院よりは南、東の洞院より東の角は、僧都殿と云ふ極たる悪き所也。然れば、打解て人住む事無かりけり。
而るに、其の冷泉院よりは只北は、左大弁の宰相源の扶義と云ける人の家也。其の左大弁の宰相の舅は、讃岐の守源の是輔と云ける人也。
其れに、其の家にて見ければ、向の僧都殿の戌亥の角には、大きに高き榎の木有けり。彼(あ)れは誰そ時に成れば、寝殿の前より赤き単衣の飛て、彼の戌亥の榎の木の方様に飛て行て、木の末になむ登ける。
然れば、人、此れを見て恐(おぢ)て当りへも寄らざりけるに、彼の讃岐守の家に宿直(とのゐ)しける兵也ける男の、此の単の飛行くを見て、「己はしも、彼の単衣をば射落してむかし」と云ければ、此れを聞く者共、「更に否(え)射じ」と諍をして、彼の男を励まし云ければ、男、「必ず射む」と諍ひて、夕暮方に彼の僧都殿に行て、南面なる簀子に和(やは)ら上て待居たりける程に、東の方に竹の少し生たりける中より、此の赤単、例の様にはへ飛て渡けるを、男、雁胯を弓に番て、強く引て射たりければ、「単衣の中を射貫くと」思けるに、単衣は箭立乍ら、同様に榎の木の末に登りにけり。其の箭の当りぬと見る所の土を見ければ、血多く泛(こぼれ)たりけり。
男は本の讃岐の守の家に返て、諍つる者共に会て、此の由を語ければ、諍ふ者共、極く恐けり。其の兵は、其の夜、寝死になむ死にける。然れば、此の諍ふ者共より始めて此れを聞く人、皆、「益無き態して死ぬる者かな」となむ云ひ謗ける。
実に人は命に増す物は無きに、由無く「猛き心を見えむ」とて死ぬる、極て益無き事也となむ語り伝へたるとや。
第5話 冷泉院水精成人形被捕語
今昔、陽成院の御ましける所は、二条よりは北、西の洞院よりは西、大炊の御門よりは南、油の小路よりは東、二町になむ住せ給けるに、院の御さで後には、其の冷泉院の小路をば開て、北の町は人家共に成て、南の町にぞ池など少し残て有ける。
其れにも人の住ける時に、夏比、西の台の延(えん)に人の寝たりけるを、長三尺許有る翁の来て、寝たる人の顔を捜ければ、「怪し」と思けれども、怖しくて、何かにも否(え)為ずして、虚寝をして臥たりければ、翁、和(やは)ら立ち返て行くを、星月夜に見遣ければ、池の汀に行て、掻消つ様に失にけり。池掃ふ世も無ければ、萍・菖蒲、生繁(おひしげり)て、糸六借気にて怖し気也。
然れば、弥よ「池に住む者にや有らむ」と、怖しく思けるに、其の後、夜々(よなよな)来つつ捜ければ、此れを聞く人、皆恐合(おぢあひ)たる程に、兵立たる者有て、「いで、己れ其の顔捜るらむ者、必ず捕へむ」と云て、其の延に只独り、苧縄を具して、終夜(よもすがら)待けるに、宵の程見えざりけり。「夜半は過やしぬらむ」と思ふ程に、待かねて少し□たりけるに、面に物の氷(ひや)やかに当りければ、心懸て待つ事なれば、寝心にも急(き)と思えて、驚くままに起上て捕へつ。苧縄を以て、只縛りに縛て、高欄に結付つ。
然て、人に告れば、人集て、火を灯(とも)して見ければ、長三尺なる小翁の、浅黄上下着たるが可死気なる、縛り付けられて、目を打叩て有り。人、物問へども、答へも為ず。暫許有て、少し咲て、此彼(とかく)見廻して、細く侘し気なる音にて云く、「盥に水を入れて得(えさせ)むや」と。然れば、大きなる盥に水を入て前に置たれば、翁、頸を延べて盥に向て水影を見て、「我れは水の精ぞ」と云て、水につぶりと落入ぬれば、翁は見えず成ぬ。
然れば、盥に水多く成て、鉉(はた)より泛(こぼ)る。縛たる縄は結はれ乍ら水に有り。翁は水に成て解にければ失ぬ。人皆此れを見て、驚き奇(あやしび)けり。其の盥の水をば、泛さずして掻て池に入てけり。
其より後、翁来て、人を捜る事無かりけり。此れは水の精の人に成て有けるとぞ、人云けるとなむ語り伝へたるとや。 
 

 

第6話 東三条銅精成人形被掘出
今昔、東三条殿に式部卿の宮と申しける人の住給ひける時に、南の山に、長三尺許なる五位の太りたるが、時々行(あるき)けるを、御子見給て、怪び給けるに、五位の行く事既に度々に成にければ、止事無き陰陽師を召して、其の祟を問はれければ、陰陽師、「此れは物の気也。但し、人の為に害を成すべき者には非ず」と、占ひ申ければ、「其の霊は何こに有ぞ。亦、何の精の者にて有ぞ」と問はれければ、陰陽師、「此れは銅の器の精也。辰巳の角に、土の中に有」と占ひ申したりければ、陰陽師の申すに随て、其の辰巳の方の地を破て、亦占はせけるに、占に当たる所の地を、二三尺許掘て求るに無し。
陰陽師、「尚掘るべき也。更に此(ここ)は離れじ」と占ひ申ければ、五六寸許掘る程に、五斗納(なは)許なる銅の提(ひさげ)を掘出たり。其の後よりなむ、此の五位、行く事絶にけり。
然れば、其の銅の提の人に成て行けるにこそは有らめ。糸惜しき事也。
此れを思ふに、「物の精は此く人に成て現ずる也けり」となむ、皆人知にけりとなむ語り伝へたるとや。
第7話 在原業平中将女被噉鬼語
今昔、右近の中将在原の業平と云ふ人有けり。極き世の好色にて、世に有る女の形ち美(うるはし)と聞くをば、宮仕人をも人の娘をも見残す無く、「員を尽して見む」と思けるに、或る人の娘の、形ち・有様世に知らず微妙しと聞けるを、心を尽して極く仮借(けさう)しけれども、「止事無からむ聟取らせむ」と云て、祖(おや)共の微妙く傅(かしづき)ければ、業平の中将、力無くして有ける程に、何にしてか構へけむ、彼の女を密に盗出してけり。
其れに、忽に将隠すべき所の無かりければ、思ひ繚(わづらひ)て、北山科の辺に、旧き山庄の荒て人も住まぬが有けるに、其の家の内に大きなるあぜ倉有けり。片戸は倒れてなむ有ける。屋は板敷の板も無くて、立寄べき様も無かりければ、此の倉の内に畳一枚を具して、此の女を具して将行て臥せたりける程に、俄に雷電霹靂して喤(ののしり)ければ、中将、太刀を抜て、女をば後の方に押遣て、起居てひらめかしける程に、雷も漸く鳴止にければ、夜も曙ぬ。
而る間、女、音為ざりければ、中将、怪むで見返て見るに、女の頭の限と着たりける衣共と許残たり。中将、奇異(あさまし)く怖しくて、着物をも取敢へず、逃て去(い)にけり。
其れより後なむ、此の倉は人取り為る倉とは知ける。然れば、雷電霹靂には非ずして、倉に住ける鬼のしけるにや有けむ。
然れば、案内知らざらむ所には、努々立寄るまじき也。況や宿(やどり)せむ事は思懸くべからずとなむ語り伝へたるとや。
第8話 於内裏松原鬼成人形噉女語
今昔、小松の天皇1)の御世に、武徳殿の松原を、若き女三人打群て、内様へ行(あるき)けり。八月十七日の夜の事なれば、月き極て明し。
而る間、松の木の本に、男一人出来たり。此の過る女の中に、一人を引へて、松の木の景にて、女の手を捕へて物語しけり。今二人の女は、「今や物云畢(いひはて)て来る」と待立てけるに、良(やや)久く見えず。物云ふ音も為ざりければ、「何なる事ぞ」と怪しく思て、二人の女寄て見るに、女も男も無し。「此れは何くへ行にけるぞ」と思て、吉く見れば、只、女の足手離れて有り。
二人の女、此れを見て、驚て走り逃て、衛門の陣に寄て、陣の人に此の由を告ければ、陣の人共、驚て其の所に行て見ければ、凡そ骸(かばね)散たる事無くして、只足手のみ残たり。其の時に、人集り来て、見喤しる事限無し。「此れは、鬼の人の形と成て、此の女を噉(くひ)てける也けり」とぞ、人云ける。
然れば、女、然様に人離れたらむ所にて、知らざらむ男の呼ばむをば、広量(おもひはかり)して、行くまじき也けり。努怖るべき事也となむ語り伝へたるとや。
* 1) 光孝天皇
第9話 参官朝庁弁為鬼被噉語
今昔、官の司に朝庁(あさのまつりごと)と云ふ事行ひけり。其れは、未だ暁にぞ、火灯(とも)して人は参ける。
其の時に、史□□の□□と云ける者、遅参したりけり。弁□□の□□と云ける人は、早参して座に居たりけり。其の史、遅参したる事を怖れて怱ぎ参けるに、中の御門の門に弁の車の立たりけるを見て、弁は参にけりと云ふ事を知て、官に怱ぎ参るに、官の北の門の内の屏の許に弁の雑色・小舎人童など居たり。
然れば、史、弁の早参されにけるに、我れ史にて遅参したる事を怖れ思て、怱ぎて東の庁の東の戸の許に寄て、庁の内を臨(のぞ)けば、火も消にけり。人の気色も無し。
史、極て怪く思て、弁の雑色共の居たる屏の許に寄て、「弁の殿は何こに御ますぞ」と問へば、雑色共、「東の庁に早く着せ給ひにき」と答ふれば、史、主殿寮の下部を召して、火を燃(とも)させて、庁の内に入て見れば、弁の座に赤く血肉(ちみどろ)なる頭の、髪所々付たる有り。史、「此は何に」と驚き怖れて傍を見れば、笏・沓も血付て有り。亦、扇有り。弁の手を以て、其の扇に事の次第共書付られたり。畳に血多く泛(こぼれ)たり。他の物は露見えず。奇異(あさまし)き事限無し。
而る間に、夜曙ぬれば、人多く来りて見喤けり。弁の頭をば、弁の従者共取て去(い)にけり。
其の後、其の東の庁にては、朝庁を行はざりけり。西の庁にてなむ行ひける。
然れば、公事と云ひ乍ら、然様に人離れたらむ所には怖るべき事也。此の事は、水尾の天皇の御時となむ語り伝へたるとや。
第10話 仁寿殿台代御灯油取物来語
今昔、延喜の御世に、仁寿殿の台代の御灯油を、夜半許に、物来て取て、南殿様に去(いぬ)る事、夜毎に有る比有けり。
天皇、此れを目ざましき事に思食して、「何で此れを見顕さむ」と仰せられけるに、其の時に□□弁源の公忠と云ける人、殿上人にて有けるが、奏して云く、「此の御灯油取る物をば、捕ふる事は否(え)仕らじ。少(いささか)の事は仕り顕してむ」と。天皇、此れを聞食して、喜ばせ給て、「必ず見顕はせ」と仰せられければ、夜に入て、三月の霖雨(ながあめ)の比、明き所そら尚し暗し、況や南殿の迫(はざま)は極く暗きに、公忠の弁、中橋より密に抜足に登て、南殿の北の脇に開たる脇戸の許に副立て、音も為ずして伺けるに、「丑の時に成りやしぬらむ」と思ふ程に、物の足音して来る。「此れなめり」と思ふに、御灯油を取る。重き物の足音にては有れども、体は見えず。只、御灯油の限り、南殿の戸様に浮て登けるを、弁の走り懸て、南殿の戸の許にして、足を持上げて強く蹴ければ、足に物痛く当る。御灯油は打泛(うちこぼ)しつ。
物は南様に走り去(い)ぬ。弁は返て、殿上にて火を灯(ともし)て足を見れば、大指の爪欠て血付たり。夜曙て、蹴つる所を行て見ければ、蘇枋色なる血多く泛て、南殿の塗籠の方様に、其の血流れたり。塗籠を開て見ければ、血のみ多く泛て、他の物は無かりけり。
然れば、天皇、極く公忠の弁を感ぜさせ給けり。此の弁は、兵の家なむどには非ねども、心賢く、思量り有て、物恐ぢ為ぬ人にてなむ有ける。然れば、此る物をも恐れずして、伺て蹴るぞかし。異人は極き仰せ有と云ふとも、然許暗きに、其の南殿の迫に只独り立たりなむや。
其の後、此の御灯油取る事、絶て無かりけりとなむ語り伝へたるとや。 
 

 

第11話 或膳部見善雄伴大納言霊語
今昔、□□□の比、天下に咳(しはぶき)病盛りに発て、病まぬ人無く、上中下の人、病臥たる比有けり。
其れに、或る所に膳部(かしはで)しける男、家内の事共皆なし畢(はて)てければ、亥の時許に、人皆静まりて後、家へ出けるに、門に赤き表の衣を着、冠したる人の、極く気高く怖し気なる指合たり。見るに、人の体の気高ければ、「誰とは知らねども、下臈には非ざめり」と思て突居るに、此の人の云く、「汝ぢ、我れをば知たりや」と。膳部、「知り奉らず」と答ふれば、此の人、亦云く、「我れは此れ、古へ此の国に有りし大納言、伴の善雄と云し人也。伊豆の国に配流されて、早く死にき。其れが行疫流行神と成て有る也。我れは、心より外に、公の御為に犯を成して、重き罪を蒙れりきと云へども、公に仕へて有し間、我が国の恩多かりき。此れに依て、今年、天下に疾疫発て、国の人皆病死ぬべかりつるを、我れ咳病に申行つる也。然れば、世に咳病隙無き也。我れ、其の事を云ひ聞かせむとて、此に立たりつる也。汝ぢ、怖るべからず」と云て、掻消つ様に失にけり。
膳部、此れを聞て、恐々(おづおづ)家に返て語り伝へたる也。其の後よりなむ、伴大納言は行疫流行神にて有けりとは、人知ける。
但し、世に人多かれども、何ぞ此の膳部にしも、此の事を告げむ。其れも様こそは有らめ。此なむ語り伝へたるとや。
第12話 於朱雀院被取餌袋菓子語
今昔、六条の院の左大臣と申す人御けり。名をば重信とぞ申しける。
其の大臣、方違に朱雀院へ一夜御けるに、石見の守藤原の頼信と云し者の、其の時に滝口にて有けるが、其の大臣の御許に有ければ、其の頼信を前立て、朱雀院に遣て、「待居たれ」と有ければ、頼信、立て朱雀院に行けるに、大きなる餌袋に、交(まぜ)菓子を鉉(はた)と等しく調へ入れて、緋の組を以て上を強く封結にして、頼信に預けて、「此れ持行て置きたれ」とて、給ひたりければ、頼信、餌袋を取て下部に持せて、朱雀院に行にけり。
東の対の南面を開きて、火など燃(とも)して、頼信、大臣の渡給ふを待ける程に、夜漸く深更(ふけ)て、大臣、遅く御ければ、頼信、待ち兼て、傍に弓・胡録を立て、其の餌袋を抑て居たりけるに、眠(ねぶ)たかりければ、寄臥たりける程に寝入にけり。
然れば、大臣の御するをも知らざりけるに、大臣御して入て、頼信が寝たるを驚かし給ける時に、頼信、驚て手迷(てまどひ)をして、剣を差て弓・胡録を取て、外の方に出ぬ。
其の後、家の子の公達、大臣の前に集り居て、「徒然なるに」とて、其の餌袋を取寄せて開て見るに、餌袋の内に塵許も入たる物無し。然れば、頼信を召して問はるるに、頼信が申す様、「頼信が白地目(あからめ)を仕り、餌袋に目を放ち候はばこそ、人には取られ候はめ。殿を罷つるに1)、餌袋を給はりて、殿の下部に持せて、終道(みちすがら)目放たず候ぬ。此に取入れては、やがて此て抑て候つる物を、何でか失候はむ。然ては、頼信が抑て寝入て候つる程に、鬼なむどの取てけるにや候らむ」と云ければ、皆人、恐ぢ騒けり。
「実に此れ希有の事」とぞ、其の時の人、云ひける。譬ひ持せたりける下部、盗取とも、少などをこそ取らめ。其れに、跡形も無く、物入たる気も無くなむ有ける。
正しく頼信が語しを聞て、此く語り伝へたるとや。
* 1) 底本頭注「罷ノ下一本出字アリ」
第13話 近江国安義橋鬼噉人語
今昔、近江の守□□の□□と云ける人、其の国に有ける間、館に若き男の数(あまた)居て、昔し今の物語などして、碁・双六を打ち、万の遊をして、物食ひ酒飲などしける次でに、「此の国に安義の橋と云橋は、古へは人行けるを、何(いか)に云ひ伝たるにか、今は『行く人過ぎず』と云ひ出て、人行く事無し」など、一人が云ければ、おそはえたる者の口聞き鑭々(きらきら)しく、然る方に思え有けるが者の云く、彼の安義の橋の事、実とも思はずや有けむ、「己しも、其の橋は渡なむかし。極じき鬼也とも、此の御館に有る、一の鹿毛にだに乗たらば渡なむ」と。
其の時に、残の者共、皆有限り心を一にして云く、「此れ糸吉き事也。直く行くべき道を、此る事を云ひ出てより横道するに、実・虚言も知らむ。亦、此の主の心ろの程も見む」と、励ましければ、此の男、弥よ早(はや)されて、諍ひ立にけり。
此く云ひ立にたる事なれば、互に強く諍ふを、守、此の事を聞て、「糸□□く喤(ののしる)は何事を云ぞ」と問ければ、「然々の事を申す也」と、集て答ければ、守、「糸益無き事をも諍ける男かな。馬に於ては早く得(えさせ)よ」と云ければ、此の男、「物狂しき戯事(たはこと)に候ふ。傍痛く候ふ」と云ければ、異者共集て、「弊(つたなし)々し。弱々し」と励ませば、男の云く、「橋を渡らむ事の難きには非ず。御馬を欲(ほし)がる様なるが傍痛き也」と。異者共、「日高く成ぬ。遅々し」と云て、馬に移(うつし)置て、引出て取せたれば、男、胸□るる様には思ゆれども、云ひ立にたる事なれば、此の馬の尻の方に油を多く塗て、腹帯強く結て、鞭手に貫(ぬき)入れて、装束軽びやかにして、馬に乗て行くに、既に橋爪に行懸る程、胸□れて心地違ふ様に怖しけれども、立返るべき事に非ねば、行くに、日も山の葉近く成て、物心細気也。
況や、此る所なれば、人気も無く、里も遠く見遣られて、家も遥に煙1))(けぶり)幽(かすか)にて、破(わり)無く思々行くに、橋の半許に、遠くては然も見えざりつるに、人居たり。「此れや鬼ならむ」と思ふも。静心無くて見れば、薄色の衣の□よかなるに、濃き単、紅の袴長やかにて、口覆して、破無く心苦気なる眼見(まみ)にて、女居たり。打長めたる気色も哀気也。我れにも非ず、人の落し置たる気色にて、橋の高欄に押懸りて居たるが、人を見て、恥かし気なる物から、喜(うれし)と思へる様也。
男、此れを見るに、更に来し方行末も思えず、「掻乗せて行かばや」と、落懸ぬべく哀れに思へども、此に此る者の有るべき様無ければ、「此は鬼なむめり」とて、「過ぎなむ」と、偏に思ひ成して、眼を塞て走り過るを、此の女、「今や物云ひ懸」と待けるに、無音に過れば、「耶(や)、彼(あ)の主、何(な)どか糸情無くては過ぎ給ふ。奇異(あさまし)く、思懸ぬ所に、人の棄て行たる也。人郷まで将御せ」と云ふをも聞畢てず、頭身の毛太る様に思えければ、馬を掻早めて、飛ぶが如くに行くを、此の女、「穴情な無」と云ふ音、地を響かす許也。
立走て来れば、「然ればよ」と思ふに、「観音助け給へ」と念じて、奇異く駿(と)き馬を鞭を打て馳れば、鬼、走り懸て、馬の尻に手を打懸々々引つるに、油を塗たれば、引外し引外して、否(え)捕へず。
男、馳て見返て見れば、面は朱の色にて円座の如く広くして、目一つ有り。長は九尺許にて、手の指三つ有り。爪は五寸許にて刀の様也。色は緑青の色にて、目は琥珀の様也。頭の髪は蓬の如く乱れて、見るに心肝迷(まど)ひ怖しき事限無し。只、観音を念じ奉て馳する気にや、人郷に馳入ぬ。其の時に、鬼、「吉や、然りとも、遂に会はざらむやは」と云て、掻消つ様に失ぬ。
男は、喘(あへぐ)々ぐ、我れにも非で、彼(あ)れは誰そ時に館に着たれば、館の者共、騒て、「何(いかに)々に」と問ふに、只、消に消入て、物云はず。然れば、集て、抑へて心静めて、守も心もと無がりて問ければ、有つる事を落さず語ければ、守、「益無き物諍ひして、徒に死にすらむに」と云て、馬をば取せてけり。男、したり顔にて家に返にけり。妻子眷属に向て、此の事を語て恐(おぢ)けり。
其の後、家に物怪(もののけ)の有ければ、陰陽師に其の祟を問ふに、「其の日、重く慎むべし」と卜たりければ、其の日に成て、門を差籠て、堅く物忌を為るに、此の男の同腹の弟只一人有けるが、陸奥の守に付て行にけるが、其の母をも具して将下りたりけるに、此の物忌の日しも返来て、門を叩けるを、「堅き物忌也。明日を過して対面せむ。其の程は人の家をも借らむ」と云ひ出たれば、弟、「糸破(わり)無き事也。日も暮にたり。己一人こそ外にも罷らめ、若干の物共をば何がせむ。日次の悪く侍れば、今日は態と詣来つる也。彼の老人は早う失給ひにしかば、其の事も自ら申さむ」と云ひ入れたれば、年来不審(おぼつかな)く悲く思ふ祖(おや)の事を思ふに、胸□れて、「此れを聞くべき物忌にこそ有けれ」と云て、「只疾く開よ」とて、泣き悲て入れつ。
然れば、庇の方にて、先づ物食せなどして、後に出向て、泣々く語るに、弟、服黒くして、泣々く云ひ居たり。兄も泣く。妻は簾の内に居て、此の事共を聞く程に、何なる事をか云けむ、此の兄と弟と俄に取組て、からからと上に成り下に成り為るを、妻、「此は何に」と云へば、兄、弟を下に成して、「其の枕なる大刀取て遣(おこ)せよ」と云ふに、妻、「穴極じ。物に狂ふか。此る事は為るぞ」と云て取らせぬを、「尚遣せよ。然は我れ死ねとや」と云ふ程に、下なる弟、押返して、兄を下に押成して、頸をふつと咋切(くひきり)落して、踊下て行くとて、妻の方に見返り向て、「喜く」と云ふ。顔を見れば、彼の橋にて追はれたりと語りし鬼の顔にて有り。掻消つ様に失ぬ。其の時に、妻より始めて、家の内の物共、皆泣き騒ぎ迷へども甲斐無くて止にけり。
然れば、女の賢きは弊(あし)き事也けり。若干く取置ける物共・馬などと見けるは、万の物の骨頭などにてぞ有ける。由無き諍をして遂に命を失ふ、愚なる事とぞ、聞く人、皆此の男を謗ける。
其の後、様々の事共をして、鬼も失にければ、今は無しとなむ語り伝へたるとや。
* 1) 底本異体字、火偏に雲
近江の国の安義の橋の鬼、人を喰らへる語
さる邸の寝殿の柱に節の穴が開いていた。夜になるとその穴から稚児の手が伸び、手招きする。子供の手の後からにんまりと笑った子供の顔でも想像すると、夜眠られなくなりそうな話ではある。
夜になるとすーと顔をなぜていく者がいる。つかまえて縛ってみると、小さな老人である。請われるままに老人の前に水たらいを置いてやると、首をのばし、水の中に溶けて入ってしまい、後には結び目のついた縄だけが浮いているという話も気味悪い。鬼に食べられて手と足だけが残っている話もある。
こんな話が続くが、どれもストーリー性に乏しい。辛うじて、「安義の橋に現れた鬼女の話」がまとまっている。
近江の国の安義の橋は、いつの頃からか、鬼がでるという噂があって、誰も通らなくなっていた。ある屋敷で、腕自慢の男たちが飲み食いをして騒いでおり、その話が出た。男の1人が橋を渡ることをかってでた。
馬の尻に油を塗り、馬の腹帯を強く結び、軽やかな装束を着て出かけた。橋の袂まで来ると、日が西に沈みそうである。はるかかなたに煙がたなびいているだけで、見渡す範囲に誰もいない。
すると、橋の真ん中に人がいる。薄紫色のすずしげな衣に、濃い紫の単衣、紅の長い袴をはき、口を袖で覆って、切なそうな目つきで見つめている。誰かがこんなところに置き去りにしていったのか。彼を見て、ほっとうれしげな顔を見せ、男は恋心を起こしかけるが、鬼ではないかと思い、目をつぶって馬を走らせた。
声をかけてくれると思った男が黙って行き過ぎるのを見て、女は人里まで連れて行ってくれと呼び止めるが、男はかまわず馬に鞭をあてる。後ろから「あら、情けなや」という言葉が、あろうことか地をとどろかすような声で追ってくる。思ったとおり鬼に違いないと馬を走らせる。鬼は馬に手をかけるが、油に滑って捕まえられない。振り返ると、顔一面が朱色で琥珀色に光った目はひとつ、頭髪が蓬のように乱れたなびいている。9尺ほどもあり、緑青色の手の指は三つ、爪は5寸ほどもあって刀のようである。
辛うじて人里にたどりつくが、最後に鬼が次の言葉を吐いて消えた。
「たとえ、今は逃げても、きっと会って見せよう」
その後、男の家に度々怪しげなことが起こるので陰陽師に相談したところ、特に警戒しなければいけない日を占ってくれた。
厳重な物忌をしたその日、旅に出ていた弟が帰ってきた。物忌みの日なので明日に会おうと言ったが、日も暮れたし、共もいるし、亡くなった母のことも話したいというので、中に入れ、食事をして語らいなどしていたが、どうしたことか、突然兄弟が取っ組み合いをしだした。
兄が弟を組み伏せ、「その枕もとの太刀をとってくれ」と妻に言うが、妻が躊躇しているうちに、今度は弟が上になり、と思うと頚をふっとくいきり落として逃げていってしまった。
妻の方を振り返って、「うれしや」といった顔は夫が語ってくれた鬼の顔に間違いないがもはや遅い。外に出てみると、弟が引き連れてきた供の者や馬などは全てよろずのものの骨であった。
ちなみに、この物語の教訓は「女の賢しきはつたなきことなり」と「益無き物争いして、徒に死にすらむ」ことはおろかだということである。 
第14話 従東国上人値鬼語
今昔、東の方より上ける人、勢田の橋を渡て来ける程に、日暮にければ、人の家を借て宿らむと為るに、其の辺に人も住まぬ大きなる家有けり。万の所皆荒て、人住たる気無し。何事に依て人住まぬと云ふ事をば知らねども、馬より下て、皆此に宿ぬ。
従者共は下なる□□□□所に、馬など繋て居ぬ。主は上なる所に皮など敷て、只独り臥たりけるに、旅にて此く人離れたる所なれば、寝ずして有けるに、夜打深更(ふく)る程に、火を髴(ほのか)に灯(とも)したりけるに、見れば、本より傍に大きなる鞍櫃の様なる物の有けるが、人も寄らぬに、こほろと鳴て蓋の開ければ、「怪」と思て、「此れは若し、此に鬼の有ければ人の住まざりけるを、知らずして宿(やどり)にけるにや」と、怖しくて、「逃なむ」と思ふ心付ぬ。
然気無くて見れば、其の蓋、細目に開たりければ、漸く広く開く様に見えければ、「定めて鬼也けり」と思て、「忽に怱ぎ逃て行かば、追て捕らへられなむ。然れば、只然気無くて逃げむ」と思得て云く、「馬共の不審(おぼつかな)き、見む」と云て起ぬ。然れば、密に馬に鞍取て置つれば、這乗て、鞭を打て逃ぐる時に、鞍櫃の蓋をかさと開て出る者有り。極て怖し気なる音を挙て、「己は何こまで罷らむと為るぞ。我れ此に有とは知らざりつるか」と云て追て来たる。馬を馳て逃る程に、見返て見れども、夜なれば其の体は見えず。只、大きやかなる者の、云はむ方無く怖し気也。
此く逃る程に、勢田の橋に懸ぬ。逃得べき様思えざりければ、馬より踊下て、馬をば棄て、橋の下面の柱の許に隠居ぬ。「観音助け給へ」と念じて、曲(かがま)り居たる程に、鬼来ぬ。橋の上にして、極て怖し気なる音を挙て、「何侍(いづこにはべる)、々々」と度々呼ければ、「極く隠得たり」と思て居たる下に、「候ふ」と答へて出来る者有り。其れも闇ければ、何物とも見えず。(下文欠)
第15話 産女行南山科値鬼逃語
今昔、或る所に宮仕しける若き女有けり。父母親類も無く、聊に知たる人も無ければ、立寄る所も無くて、只局にのみ居て、「若し病などせむ時に、何かが為む」と心細思けるに、指(させ)る夫も無くて懐妊しにけり。
然れば、弥よ身の宿世押量られて、心一つに歎けるに、先づ産まむ所を思ふに、為べき方無く、云合はすべき人も無し。「主に申さむ」と思も、恥かしくて申出ず。
而るに、此の女、心賢き者にて、思得たりける様、「只我れ其の気色有らむ時に、只独り仕ふ女の童を具して、何方とも無く深き山の有らむ方に行て、何ならむ木の下にても産まむ」と。「若し死なば、人にも知られで止なむ。若し生たらば、然気無き様にて返り参らむ」と思て、月漸く近く成ままには、悲き事云はむ方無く思けれども、然気無く持成して、密に構て、食ふべき物など少し儲て、此の女の童に此の由を云ひ含て過けるに、既に月満ぬ。
而る間、暁方に其の気色思えければ、「夜の曙ぬ前」と思て、女の童に物共拈(したた)め持せて怱ぎ出ぬ。「東こそ山は近かめれ」と思て、京を出て東様に行かむと為るに、川原の程にて夜曙ぬ。「哀れ、何(いづ)ち行かむ」と、心細けれども、念じて、打息み打息み、粟田山の方様に行て、山深く入ぬ。
然るべき所々を見行(あるき)けるに、北山科と云ふ所に行ぬ。見れば、山の片副(かたそひ)に、山庄の様に造たる所有り。旧く壊れ損じたる屋有り。見るに、人住たる気色無し。「此にて産して、我が身独りは出なむ」と思て、構て垣の有けるを超て入ぬ。
放出(はなちいで)の間に、板敷所々に朽残るに上て、突居て息む程に、奥の方より人来る音(お)とす。「穴侘し。人の有ける所を」と思ふに、遣戸の有るを開くるを見れば、老たる女の白髪生たる出来たり。「定めて半(はした)無く云はむずらむ」と思ふに、悪1)からず打咲て、「何人の此は思懸けず御たるぞ」と云へば、女、有のままに泣々語ければ、嫗、「糸哀なる事かな。只此にて産し給へ」と云て、内に呼入るれば、女、「喜(うれし)き事限無し。仏の助け給ふ也けり」と思て入ぬれば、賤(あやし)の畳など敷て取せたれば、程も無く平かに産つ。
嫗来て、「喜き事也。己は年老て、此る田舎に侍る身なれば、物忌もし侍らず。七日許は此て御して返り給へ」と云て、湯など此女の童に涌させて、浴(ゆあみ)しなど為れば、女、喜く思て、棄てむと思つる子も糸厳気(いつくしげ)なる男子にて有れば、否(え)棄てずして、乳打呑せて臥せたり。
此て二三日許有る程に、女、昼寝をして有けるに、此の子を臥せたるを、此の嫗、打ち見て云ける様、「穴、甘気(うまげ)。只一口」と云と髴(ほのか)に聞て後、驚て此の嫗を見るに、極く気怖しく思ゆ。然れば、「此れは鬼にこそ有けれ。我れは必ず噉(く)はれなむ」と思て、「密に構て逃なむ」と思ふ心付ぬ。
而る間、或る時に、嫗の昼寝久くしたりける程に、密に子をば女の童に負せて、我れは軽びやかにして、「仏助け給へ」と念じて其(そこ)を出て、来し道のままに走て逃ければ、程も無く粟田口に出にけり。其より川原様に行て、人の小家に立入て、其にて衣など着直してなむ日暮して、主の許には行たりける。
心賢き者也ければ、此も為るぞかし。子をば人に取らせて養せてけり。其の後、其の嫗の有様を知らず。亦、人に「此る事なむ有し」と語る事も無かりけり。然て、其の女の年など老て後に語ける也。
此れを思ふに、然る旧き所には、必ず物の住にぞ有ける。然れば、彼の嫗も、子を、「穴、甘気。只一口」と云けるは、定めて鬼などにてこそは有けめ。此れに依て、然様ならむ所には、独りなどは立入るまじき事也となむ語り伝へたるとや。
* 1) 「にく」底本異体字。りっしんべんに惡 
産女南山科に行き、鬼にあひて逃げたる語
ある屋敷にお使えしている女性が誰の子かもわからぬ子をみごもってしまった。 
ふしだらな、と言って、彼女を非難することは出来ない。両親も親類もない、男を頼りにする以外に生活の糧を持たない者が他にとる手立てない。
彼女はまだ若く、賢く美しかった。誠実で甲斐性のある男があらわれるまでこの館の世話にならなければならない。彼女は、身ごもった事を隠し通し、誰に相談する人もなく、こっそりどこかで産み落とすことにした。当時宮使えのたおやかな女性にとって出産は、生死をかけた出来事でもあった。その事で死ぬのなら「定め」、生きて帰ってこれば幸い、再び何事もなかった風を装って、局にもどろう、そう決めた。
ある朝、まだ暗いうちに産気づき、夜の明けぬうちに屋敷を出、南山科のあたりで、今はすっかり古びて誰も住んでいない山荘をみつけ、そこでお産をして子供は捨てることにした。
部屋に入って、休んでいたところ、誰もいないと思ったのに家の奥から足音がする。困ったことになったと思っていると、引き戸が開き、白髪の老女が出てきた。事情を話すと、やさしくしてくれ、お産も手伝ってくれて、おかげで無事出産した。2、3日その家に厄介になっていると、子供の可愛くなって、捨てる気にならず、乳を飲ませながら、あの親切なおばあさんが預かってくれないだろうか、などと夢想をしていると眠くなってきた。
かすかに、誰かがやってくる足音がした。おばあさんだろうか、しかしその割には足音が重々しい。その頃、もう使われなくなった屋敷には鬼が出ると信じられていた。もしや、鬼ではないか、そう思って薄目をあけると、白髪の老女であった。安心して目をつむると、間近にしのびよる気配がして、「かわいい子じゃ」という老女の言葉が聞こえる。
本当にこの子を預かってくれるかもしれないそう思った瞬間の次の言葉は思わぬものであった。
「なんとうまそうな、ただの一口」
女は、老婆が寝ている間に子供連れて逃げ帰った。 
 

 

第16話 正親大夫□□若時値鬼語
今昔、正親(おほき)の大夫□□の□□と云ふ者有き。其れが若かりける時に、宮仕しける女を語ひて、時々物云ひけるに、久く行かざりければ、云ひ伝たりける女の許に行て、「今夜、彼(あ)の人に会はむ」と云ければ、女、「呼奉らむ事は安けれども、今夜此の宿に、年来来たる田舎人の詣来て、宿て候へば、御すべき所の候はぬが、侘しき也」と云へば、「虚言を云ふにや有らむ」と思て、寄て見るに、現に馬・下人など、程も無き小家なれば、数(あまた)有れば、隠し所無く、「実也けり」と思ふに、此の女、暫(しばし)思ひ廻す気色にて、「為べき様候けり」と云へば、「何(いか)に」と問ふに、女、「此の西の方に、人も無き堂候ふ。今夜許、その堂に御ませ」と云て、近き程也ければ、女、走て行ぬ。
暫許待つに、女を掻具して来にたり。「去来(いざ)させ給へ」と云へば、打具して行くに、西様に一町余許行て、旧き堂有り。女、堂の戸を引開て、己が家の畳一帖を取持来、敷て、預けて、「今暁に参らむ」と云て、女返り去(い)ぬ。
然れば、正親の大夫、女と臥して、物語など為る程に、共に具したる従者も無くて、只独にて、人も無き旧堂なれば、気六借(きむづかし)き程に、「夜中許にも成やしぬらむ」と思ふ程に、堂の後の方に、火の光り出来たり。「人の有けるにこそ」と思ふ程に、女の童一人、火を灯(とも)して持来て、仏の御前と思しき所に居へつ。正親の大夫、「此れは極き態かな」と六借く思ふに、後の方より、女房独り出来たり。
怪く此れを見るに、怖しく思ゆれば、「何なる事にか」と怪むで、正親の大夫、起居て見れば、女房、一間許去(のき)て喬(わき)見て居ぬ。暫許有て云く、「此には何なる人の入御したるぞ。糸奇怪なる事也。丸(まろ)は此の主也。何でか、主にも云はずして、此は来れる。此には何なる人の入御したるぞ。糸奇怪なる事也。丸は此の主也。何でか主にも云はずして、此は来れる。此には古より人来り宿る事無し」と。此く云ふ気色、実とに云はむ方無く怖し。正親の大夫が云く、「己れ更に人の御ましましける所と知り給へず。只、人の『今夜許此に有れ』と申つれば詣来たる也。尤も便無く候ふ」と。女房の云く、「速に疾く出給ひね。出給はずば悪かりなむ」と。
然れば、正親の大夫、女を引立てて出むと為るに、女、汗水に成て、否(え)立たぬを、強に引立て出ぬ。男の肩に引懸て行けれども、否歩まぬを、構て主の家の門に将行て、門を叩て、女をば入れつ。正親の大夫は、家に返りぬ。
此の事を思ひ出るに、頭の毛太りて、心地も悪く思えければ、次の日も終日(ひねもす)に臥して、夕方に成て、尚夜前(ようべ)彼の女の否歩まざりしが不審(おぼつかな)さに、彼の云ひ伝ふる女の家に行て聞けば、女の云く、「其の人は、返り給けるより、物も思えず、只死に死ぬる様に見ければ、、『何なる事の有つるぞ』など、人々問はれけれども、物をだに否宣はざりければ、主も驚き騒ぎて、知る人も無き人にて有れば、仮屋を造て出されたりければ、程も無く死給ひにけり」と云ふを聞くに、正親の大夫、奇異くて、「実には、夜前、然々の事の有し也。鬼の住ける所に人を臥せて、奇異かりける者かな」と云ければ、女、更に其(そこ)に然る事有らむと知らぬ由をぞ答へけれども、甲斐無くて止にけり。
正親の大夫が、年老て人に語けるを、聞き伝へたるなるべし。其の堂は、于今有とかや。七条大宮の辺に有とぞ聞く。委く知らず。然れば、人無からむ旧堂などには宿るまじき也となむ語り伝へたるとや。
第17話 東人宿川原院被取吸妻語
今昔、東の方より、「栄爵尋て買はむ」と思て、京に上たる者有けり。
其の妻も、「此る次でに京をも見む」と云て、夫に具して上たりけるに、宿所の違て無かりければ、忽に行宿るべき所も無くて、川原の院1)の人も無かりけるを、事の縁有て、其の預の者に語ひて借ければ、借してければ、隠れの方の放出(はなちいで)の間に、幕など云ふ物を引廻して、主は居ぬ。
従者共は土なる所に居て、食物などをもせさせ、馬共をも繋せて、日来有ける程に、夕暮方に、其の居たる後の方に有ける妻戸を、俄に内より押開ければ、「内に人の有て開るなめり」と思ふ程に、何にとも思えぬ物の急(き)と手を指出て、此の宿たる妻を取て、妻戸の内に引入つれば、夫、驚き騒て、引留めむと為れども、程も無く引入つれば、怱(いそぎ)寄て、妻戸を引開けむと引けども、程無く閉づれば、開かず成ぬ。
然れば、傍なる𥴩子2)(かうし)・遣戸などを、此(と)引き彼(かう)引き為れども、皆内より懸たれば、開かむやは。夫、奇異(あさまし)く□て、此方は走り彼方へ走り、東西南北を引ども開かねば、傍なる人の家に走寄て、「只今、然々の事なむ有る。此れ助けよ」と云へば、人共数(あまた)出来て、廻々る見れども、開たる所無し。
而る間、夜に入て暗く成ぬ。然れば、思ひ繚(わづらひ)て𨨞を持て切開て、火を燃(とも)して、内に入て求めければ、其の妻を何にしたるにか有けむ、疵も無くて、□□として、棹の有けるに打懸てなむ殺して置たりける。
「鬼の吸殺てけるなめり」とぞ、人々、口々に云ひ合たりけれども、甲斐無くて止にけり。妻死にければ、男も怖れて、逃て外に行にけり。
此る希有の事なむ有る。然れば、案内知らざらむ旧き所には宿るべからずとなむ語り伝へたるとや。
* 1) 河原院 / 2) 𥴩は竹冠に隔
東人、川原の院に宿りて妻を取られたる語
栄枯盛衰の激しい平安時代には、人の住まわなくなった屋敷が結構あったらしい。住んでいても落ちぶれて従者などが減って、当時は明かりも少ないから、幾つかの空き部屋は柱の節から子供の手が招くようなおそろしげな屋敷に変わり果ててしまう。
同時にそういうところで密会したり、一夜の宿を借りたりもしたが、そこは昔の主人の霊や鬼の住むところでもあった。
かつての大邸宅、左大臣源融の川原院もそのひとつで、陸奥の国の塩釜の形を造って、潮の水を汲みいれて池にたたへたりしていたが、融の死後、その息子が宇多院に献上し、やがて誰も住まなくなった。
そんな頃、5位の爵位を買うために京見物を兼ねてでてきたある夫婦が手違いで宿がなく、川原院の管理人に手づるがあってそこに泊まることにした。
供の者を土間に寝させ、馬などもつないでやれやれと夫婦で部屋にあがってくつろいでいると、後ろの妻戸が開いて、何者かの手が伸びてきて、妻をとらえる。驚いて妻をとどめようとするが、妻は隣の中に引き入れられ、驚き騒いで妻度を開けようとするが開かない。隣の家の人の力も借りても開かない。
夜もふけて、思い余って斧でたたきこわし、部屋の中に入ってみると、衣装をかけるところに妻が骨を皮だけのぺらぺらになって、着物のようにかけられている。吸い殺されてしまっていた。
鬼はどこからも逃げ出していないが、きっと源の融の霊になって屋敷の中に消えたのであろう。奇妙なのは、妻の様子が全く触れられていないことだ。当然、泣き叫ぶであろうに。あまりのことに気を失ってしまったのだろうか。或いは、西洋のドラキュラのように女をとりこにし、吸い殺してしまったのだろうか。 
第18話 鬼現板来人家殺人語
今昔、或る人の許に、夏比若き侍の兵立たる二人、南面の放出(はなちいで)の間に居て、宿直(とのゐ)しけるに、此の二人、本より心ばせ有、□也ける田舎人にて、大刀など持て、寝で物語などして有けるに、亦、其の家に所得たりける長侍の、諸司の允五位などにて有けるにや、上宿直にて出居(いでゐ)に独り寝たりけるが、然様の□なる方も無かりければ、大刀・刀をも具せざりけるに、此の放出の間に居たる二人の侍、夜打ち深更(ふく)る程に見ければ、東の台の棟の上に、俄に板の指出たりければ、「彼(あ)れは何ぞ。彼(あしこ)に只今板の指出づべき様こそ無けれ。若し、人などの『火付けむ』と思て、『屋の上に登らむ』と為るにや。然らば、下よりこそ板を立て登るべきに、此れは上より板の指出たるは心得ぬ事かな」と、二人して忍やかに云ふ程に、此の板、漸く只指出に指出て、七八尺許指出ぬ。
「奇異(あさまし)」と見る程に、此の板、俄にひらひらと飛て、此の二人の侍の居たる方様に来る。然れば、「此れは鬼也けり」と思て、二人の侍、大刀を抜て、「近く来ば切らむ」と思て、各突跪て、大刀を取直して居たりければ、其(そこ)へは否(え)来ずして、傍なる𥴩子1)(かうし)の迫(はざま)の塵許有けるより、此の板、こそこそとして入ぬ。
此く入りぬと見る程に、其の内は出居の方なれば、彼の寝たりつる五位侍、物に圧(おそ)はれたる人の様に、二三度許うめきて、亦、音も為ざりければ、此の侍共、驚き騒て、走り廻て人を起して、「然々の事なむ有つる」と告ければ、其の時、人々起て、火を燃(とも)して、寄て 見ければ、其の五位侍をこそ真平に□殺して置たりけり。板、外へ出とも見えず。亦、内にも見えざりけり。人々、皆此れを見て、恐ぢ怖るる事限無し。五位をば即ち掻出にけり。
此れを思ふに、此の二人の侍は、大刀を持て切らむとしければ、否寄らで、内に入て、刀も持たず寝入たる五位を□殺してけるにこそは有らめ。其れより後にや、其の家に此る鬼有けりとは知けむ。亦、本より然る所にて有けるにや、委く知らず。
然れば、男と成なむ者は、尚大刀・刀は身に具すべき物也。此れに依て、其の時の人、皆此の事を聞て、大刀・刀を具しけりとなむ語り伝へたるとや。
* 1) 𥴩は竹冠に隔
鬼、板と現じ人の家に来て人を殺せる語
ある屋敷を3人が夜間の警護をしていた。1人は、主人の寝所の近くに丸腰で、その隣の部屋には太刀をもった二人がいた。
二人が寝ないで話などをしていると、棟から板が降りてきた。誰かが火でも付けようと屋根に上るつもりなら下から板をたてるだろうに、板が上からおりてくる。
板が7、8尺ばかりになったところで、ひらひらと飛んで二人の侍に向かってくる。鬼太郎のマンガに出てきそうな板のお化けである。これは鬼に違いないと思って、太刀で切りつけると、敵わぬと見て格子の隙間から隣に逃げ出していってしまった。
隣の侍は無防備に寝ていたと見えて、やがて、うめき声が聞こえ、入ってみるとぺっしゃんこになって、死んでいた。板に圧しつぶされたようだ。
鬼が子供や女を食べる、或いは、恨みや仕返しで殺すというのはわかるが、わけもなく、食べるのでもなく男を殺すのはどうしてだろう。安義の橋の鬼だって、鬼に危害を加えたわけでもなくただ逃げたのをうらみに思って殺しにくるというのも納得できない。
思うに、夜や人の住まなくなった家は鬼や霊の領分であり、そのテリトリーにやってくるものはおどかしたり、時には殺したりしたのではないか。 
第19話 鬼現油瓶形殺人語
今昔、小野の宮の右大臣と申ける人御けり。御名をば実資とぞ申ける。身の才微妙く、心賢く御ければ、世の人、賢人の右の大臣とぞ名付たりし。
其の人、内に参りて、「罷出」とて、大宮を下(くだり)に御けるに、車の前に少(ちひ)さき油瓶の、踊つつ行(あるき)ければ、大臣、是れを見て、「糸怪き事かな。此れは何物にか有らむ。此れは物の気などにこそ有め」と思給て御けるに、大宮よりは西、□よりは□に有ける人の家の、門は閉ざされたりけるに、此の油瓶、其の門の許とに踊り至て、戸は閉たれば、鎰(かぎ)の穴の有より入らむと、度々踊り上りけるに、無期に否(え)踊り上り得で有ける程に、遂に踊り上り付て、鎰の穴より入にけり。
大臣は此く見置て、返り給て後に、人を教へて、「其々(そこそこ)に有つる家に行て、然気無くて、『其の家に何事か有る』と聞きて返れ」とて、遣たりければ、使、行きて即ち返り来て云く、「彼の家には若き娘の候けるが、日来煩て、此の昼つ方に既に失候にけり」と云ければ、大臣、「有つる油瓶は、然ればこそ、物の気にて有つる也けり。其れが鎰の穴より入ぬれば、殺してける也けり」とぞ思給ける。其れを見給ける大臣も、糸只人には御さざりけり。
然れば、此る1)物の気は、様々の物の形と現じて有る也けり。此れを思ふに、怨を恨けるにこそは有らめ。此なむ語り伝へたるとや。
* 1) 底本「る」が空白。脱字か
第20話 近江国生霊来京殺人語
今昔、京より美濃・尾張の程に下らむと為る下臈有けり。
「京をば、暁に出(いでん)」と思けれども、夜深く起て行ける程に、□□と□□との辻にて、大路に青ばみたる衣着たる女房の裾取たるが、只独り立たりければ、男、「何なる女の立てるにか有らむ。只今定めて、よも独りは立たじ。男具したらむ」と思ひて、歩み過ける程に、此の女、男に云く、「彼(あ)の御する人は、何(いづ)ち御する人ぞ」と問へば、男、「美濃・尾張の方へ罷り下る也」と答ふ。女の云く、「然ては、怱ぎ給らむ。然は有れども、大切に申すべき事の侍る也。暫し立ち留まり給へ」と。
男、「何事にか候らむ」と云て、立留たれば、女の云く、「此の辺に民部の大夫の□□と云ふ人の家は、何こに侍るぞ。其(そこ)へ行かむと思ふに、道を迷(まど)ひて、否(え)行かぬを、丸(まろ)を其へは将御なむや」と。男、「其の人の家へ御せむには、何の故に此には御つるぞ。其の家は、此より七八町許罷てこそ有れ。但し、怱て物へ罷るに、其まで送り奉らば、大事にこそは候はめ」と云へば、女、「尚極て大事の事也。只、具して御せ」と云へば、男、憖に具して行くに、女、「糸喜し」と云て、行けるが、怪く、此の女の気怖しき様に思えけれども、「只有る事にこそは」と思て、此く云ふ民部の大夫の家の門まで送り付つれば、男、「此れぞ其の人の家の門」と云へば、女、「此く怱て物へ御する人の、態と返て、此まで送り付け給へる事、返々す喜しくなむ。自は、近江の国□□郡に、其々に有る然々と云ふ人の娘也。東の方へ御せば、其の道近き所也。必ず音づれ給へ。極て不審き事の有つればなむ」と云て、前に立たりと見つる女の、俄に掻消つ様に失ぬ。
男、「奇異(あさまし)き態かな。門の開たらばこそ、門の内に入ぬとも思ふべきに、門は閉ざされたり。此は何に」と、頭の毛太りて怖しければ、痓(すくみ)たる様にて立てる程に、此の家の内に、俄に泣喤る音有り。「何なる事にか」と聞ば、人の死たる気はひ也。「希有の事かな」と思て、暫く徘徊(たちやすら)ふ程に、夜も曙ぬれば、「此の事の不審さ尋ねむ」と思て、曙畢(あけはて)て後に、其家の内に髴知(ほのしり)たる人の有けるに、尋ね会て、有様を問ければ、其の人の云く、「『近江の国に御する女房の、生霊に入給ひたる』とて、此の殿の、日来不例(つねならず)煩ひ給つるが、此の暁方に、『其の生霊、現たる気色有』など云つる程に、俄に失給ぬる也。然は、此く新たに人をば取り殺す物にこそ有けれ」と語るを聞くに、此の男も生頭痛く成て、「女は喜びつれども、其れが気の為るなめり」と思て、其の日は留まりて、家に返りにけり。
其の後、三日許有てぞ下けるに、彼の女の教へし程を過けるに、男、「去来(いざ)、彼の女の云し事、尋て試む」と思て、尋ければ、実に然る家有けり。寄て、人を以て、「然々」と云ひ入させたりければ、「然る事有らむ」とて、呼入れて、簾超しに会て、「有し夜の喜びは、何れの世にか忘れ聞えむ」など云て、物など食はせて、絹布など取せたりければ、男、極く怖しく思けれども、物など得て、出て下にけり。
此れを思ふに、然は生霊と云ふは、只魂の入て為る事かと思つるに、早う現に我れも思ゆる事にて有にこそ。此れは、彼の民部の大夫が妻にしたりけるが、去にければ、恨を成して、生霊に成て、殺てける也。
然れば、女の心は怖しき者也となむ語り伝へたるとや。 
 

 

第21話 美濃国紀遠助値女霊遂死語
今昔、長門の前司藤原の孝範と云ふ者有き。其れが下総の権の守と云ひし時に、関白殿に候し者にて、美濃の国に有る生津の御庄と云ふ所を預かりて知けるに、其の御庄に紀の遠助と云ふ者有き。
人、数(あまた)有ける中に、孝範、此の遠助を仕ひ付て、東三条殿の長宿直に召上たりけるが、其の宿直畢(はて)にければ、暇取らせて返し遣ければ、美濃へ下けるに、勢田の橋を渡るに、橋の上に女の裾取たるが立てりければ、遠助、「怪し」と見て過る程に、女の云く、「彼(あ)れは何(いづ)ち御する人ぞ」と。然れば、遠助、馬より下て、「美濃へ罷る人也」と答ふ。女、「事付申さむと思ふは、聞給ひてむや」と云ければ、遠助、「申し侍りなむ」と答ふ。
女、「糸喜(うれし)く宣ひたり」と云て、懐より小さき箱の絹を以て裹たるを引出して、「此の箱、方県の郡の唐の郷の□の橋の許に持御したらば、橋の西の爪に女房御せむとすらむ。その女房に此れ奉り給へ」と云へば、遠助、気六借(きむづかし)く思えて、「由無き事請をしてける」と思へども、女の様の気怖しく思えければ、辞し難くて、箱を受取て、遠助が云く、「其の橋の許に御すらむ女房をば、誰とか聞る。何くに御する人ぞ。若し御会はずば、何くをか尋奉るべき。亦、此れをば、誰が奉り給ふとか申すべき」と。女の云く、「只其の橋の許に御たらば、此れを受取りに其の女房出来なむ。よに違ふ事侍らじ。待ち給ふらむぞ。但し、穴賢、努々此の箱開て見たまふな」と。
此様に云立りけるを、此の遠助が共なる従者共は、女有とも見えず。只、「我が主は馬より下て由無くて立ける」と見て、怪しび思けるに、遠助、箱を受取つれば、女は返ぬ。
其の後、馬に乗て行くに、美濃に下着て、此の橋の許を忘れて過にければ、此の箱を取らせざりければ、家に行き着て、思出して、「糸不便也ける。此の箱を取らせざりける」と思て、「今故(ことさら)に持行て、尋て取せむ」とて、壺屋立たる所の、物の上に捧て置たりけるを、遠助が妻は嫉妬の心極く深かりける者にて、此の箱を遠助が置けるを、妻然気無くて見て、「此の箱をば女に取せむとて、京より態と買持来て、我れに隠して置たるなめり」と心得て、遠助が出たる間に、妻、密に箱を取下して、開て見ければ、人の目を捿(くじり)て数入れたり。亦、男の𨳯1)(まら)を、毛少し付けつつ、多く切入れたり。
妻、此れを見て、奇異(あさまし)く怖しく成て、遠助が返り来たるに、迷(まど)ひ呼寄せて見すれば、遠助、「哀れ、『見るまじ』と云てし物を。不便なる態かな」と云て、迷ひ覆ひて、本の様に結て、やがて即ち彼の女の教へし橋の許に持行て立てりければ、実に女房出来たり。
遠助、此の箱を渡して、女の云し事を語れば、女房、箱を受取て云く、「此の箱は、開て見られにけり」と。遠助、「更に然る事候はず」と云へども、女の気色糸悪気にて、「糸悪しくし給ふかな」と云ひて、極て気色悪乍ら、箱をば受取つれば、遠助は家に返ぬ。
其の後、遠助、心地不例(つねなら)ずと云て臥しぬ。妻に云く、「然許開くまじと云し箱を、由無く開て見てとて、程無く死にけり。
然れば、人の妻の、嫉妬の心の深く虚(そら)疑ひせむは、夫の為に此く吉からぬ事の有る也。嫉妬の故に、遠助、思懸けず、非分に命をなむ失ひてけり。女の常の習とは云ひ乍ら、此れを聞く人、皆此の妻を悪2)みけりとなむ語り伝へたるとや。
* 1) 門構えに牛 / 2) 「にく」底本異体字。りっしんべんに惡
美濃の国の紀遠助、女の霊びあひて遂に死にたる語
平安時代の貴族の男は家庭というものにほとんど縛られていない。きれいな女と見れば、
忍び入って通い、飽きればそのまま放ってどこかへ行ってしまう。女はただ男が通ってくるのを待つばかりである。毎日毎日悶々として待つ、それは大変なものであろう。現実には女の方からは何の行動も出来ないから、その分強い怨念となっていく。第20話はその怨念がこもって女は精霊になり、捨てた夫を殺しにいく話である。
妻を持っている場合でも、夫は平気で別の女の所に通ったりする。それはそんなに非難されることにはなっていなかったであろうが、当然女の嫉妬はあっただろう。男の世界にとっては、その嫉妬が限度をこえてもらっては困る。それで、こんな物語ができあがる。
ある男が長い警備の仕事が終わって国へ帰る途中に、妖しげな女から「ある女房にこの箱をわたしてくれ」と頼まれる。。「ゆめゆめこの箱を開けて見給うな」とも念を押される。
断ると災いがあると思ったのか、気軽に引き受けたのか、ともかく引き受けたものの、家に帰るまでにその事を忘れてしまった。
仕方なく、いずれ持っていってやろうと家に置いておいたが、嫉妬深い妻が「どこかの女への贈り物に違いない」と思って、箱を開けてしまう。箱には「人の目をくじり」たものや***(とても書けません)が入っていた。驚いて夫に見せるがどうしようもない。
男は、困ったことをしてくれたと思うが、やむなく箱の紐を元のように縛って、指定された女房に渡しに行く。女房は箱を受け取るなり、「見ましたね」と気色ばんで攻める。男は否定するが、すでに見破られており、女房の怒りを解くことが出来ぬまま家に帰ってくる。
その後、男は気分が悪くなって死んでしまうという話である。
何の罪もない男が死んで、嫉妬深い妻が無事であるというのは解せないが、取引はあくまで男と鬼の間だからこうなったのであろう。又、夫を失っては妻は生きていけないから、妻への制裁にもなるのであろう。
物語は嫉妬深い妻をもらった男への同情と嫉妬深い妻を悪し様に言うことで終わっている。 
第22話 猟師母成鬼擬噉子語
今昔、□□の国□□の郡に、鹿・猪を殺すを役と為る者、兄弟二人有けり。常に山に行て鹿を射ければ、兄弟掻列て山に行にけり。待(まち)と云ふ事をなむしける。其れは、高き木の胯に、横様に木を結て、其れに居て、鹿の来て其の下に有るを待て射る也けり。
然れば、四五段許を隔て、兄弟向様に木の上に居たり。九月の下つ暗の比なれば、極て暗くして、何にも物見えず。只、「鹿の来る音を聞かむ」と待つに、漸く夜深更(ふく)るに、鹿来ず。
而る間、兄が居たる木の上より、物の手を指下して、兄が髻を取て、上様に引上れば、兄、「奇異(あさまし)」と思て、髻取たる手を捜れば、吉く枯て曝(さら)ぼひたる人の手にて有り。「此れは鬼の我れを噉はむとて、取て引上るにこそ有めれ」と思て、「向に居たる弟に告げむ」と思て、弟を呼べば、答ふ。
兄が云く、「只今、若し、我が髻を取て上様に引上る者有らむに、何にしてむ」と。弟の云く、「然は、押量て射ぞかし」と。兄が云く、「実には、只今、我が髻を物の取て上へ引上る也」と。弟、「然らば、音に就て射む」と云へば、兄、「然らば射よ」と云ふに随て、弟、雁胯を以て射たりければ、兄が頭の上懸ると思ゆる程に、尻答ふる心地すれば、弟、「当ぬるにこそ有めれ」と云ふ時に、兄、手を以て髻の上を捜れば、腕の頸より取たる手、射切られて下たれば、兄(あ)に、此れを取て弟に云く、「取たりつる手は、既に射切られて有れば、此に取たり。去来(いざ)、今夜は返なむ」と云へば、弟、「然也」と云て、二人乍ら木より下て、掻列て家に返ぬ。夜半打過てぞ、返り着たりける。
而るに、年老て立居も安からぬ母の有けるを、一つの壺屋に置て、子二人は家を衛別(かこみわ)けて居たりけるが、此の子共、山より返来たるに、怪う母の吟(によひ)ければ、子共、「何と吟給ふぞ」と問へども、答へも為ず。其の時に、火を燃(とも)して、此の射切れたる手を二人して見るに、此の母の手に似たり。
極じく怪く思て、吉く見るに、只其の手にて有れば、子共、母の居たる所の遣戸を引開たれば、母、起上て「己等は」と云て、取懸むとすれば、子共、「此れは御手か」と云て投入れて、引き閉て去(い)にけり。
其の後、其の母、幾(いくば)く無くして死にけり。子共、寄て見れば、母の片手、手の頸より射切られて無し。然れば、「早う、母の手也けり」と云ふ事を知ぬ。此れは、母が痛う老ひ耄(ほれ)て、鬼に成て、「子を食む」とて、付て山に行たりける也けり。
然れば、人の祖の年痛う老たるは、必ず鬼に成て、此く子をも食はむと為る也けり。母をば子共葬してけり。
此の事を思ふに、極て怖しき事也となむ語り伝へたるとや。
猟師の母、鬼となりて子を食らわむとせる語
今は昔、鹿や猪の狩猟を業とする兄弟がいた。
ある日、鹿を射止めようと兄弟が向かい合って、互いの木の上で待っているうちに夜更けになってしまった。その時、兄の髻を引っ張るものがいてさぐると干からびた手である。鬼に違いないと思って、弟に髻の上を射てくれと頼む。弟が、先が二股に分かれた弓矢で射ると手ごたえがあって、見ると、鬼の腕が髻にぶらさがっている。
その夜は狩猟をあきらめて鬼の手を持ってそのまま帰ると、家で母がうめいている。呼びかけても返事をしない。明かりをつけ、鬼の手を見ると母の手に似ている。驚いて、部屋の戸を開けると、片手を失った母が「おのれ、よくも」とつかみかかってくる。
あわてて、逃げ、帰ってみると、母は死んでいたという話だ。
どうして母親が鬼になるのかと思ったら、ひどいことが書いてある。
人の親の年痛く老たるは、必ず鬼になりて、かく子も食わむとするなりけり。
これはどういうことか。財もない庶民は老いたら子供の世話になる、それは鬼が子を食べるに等しいということか。姥捨て山伝説と同じで、年よりは厄介者で、ほどほどに死んでもらわないと困るということだったのだろうか。 
第23話 播磨国鬼来人家被射語
今昔、播磨の国□□の郡に住ける人の死にたりけるに、「其の後の拈(したため)など為させむ」とて、陰陽師を呼籠たりけるに、其の陰陽師の云く、「今、某日、此の家に鬼来らむとす。努々慎み給ふべし」と。
家の者共、此の事を聞て、極く恐ぢ怖て、陰陽師に、「其をば何かが為べき」と云へば、陰陽師、「其の日、物忌を吉く為べき也」と云ふに、既に其の日に成ぬれば、極く物忌を固くして、「其の鬼は、何(いづこ)より何(いか)なる体にて来べきぞ」と、陰陽師に問ければ、陰陽師、「門より人の体にて来べし。然様の鬼神は横様の非道の道をば行かぬ也。只、直(ただ)しき道理の道を行く也」と云へば、門に物忌の札を立て、桃の木を切塞ぎて、□法をしたり。
而る間、其の来べしと云ふ時を待て、門を強く閉て、物の迫(はざま)より臨(のぞけ)ば、水干・袴着たる男の、笠を頸に懸たる、門の外に立て臨く。陰陽師有て、「彼(あれ)ぞ鬼」と云へば、家の内の者共、恐ぢ迷(まど)ふ事限無し。
此の鬼の男、暫く臨き立て、何にして入るとも見えで入ぬ。然て、家の内に入来て、竃戸の前に居たり。更に見知たる者に非ず。
然れば、家の内の者共、「今は此にこそは有けれ。何様なる事か有らむとすらむ」と、肝心も失て、思ひ合たる程に、其の家主の子に若き男の有けるが思ふ様、「今は何にすとも此の鬼に噉(く)はれなむとす。同死にを、後に人も聞けかし。此の鬼射む」と思て、物の隠より大なる□雁箭を弓に番て、鬼に指宛てて、強く引て射たりければ、鬼の最中に当にけり。鬼は射られけるままに、立走て出づと思ふ程に、掻消つ様に失にけり。箭は立たずして、踊返にけり。
家の者、皆此れを見て、「奇異(あさまし)き態しつる主かな」など云ければ、男、「『同じ死にを、後に人の聞かむ事も有り』と思て、試つる也」と云ければ、陰陽師も奇異の気色してなむ有ける。其の後、其の家に別の事無かりけり。
然れば、陰陽師の構へたる事にや有らむと思べきに、門より入けむ有様より始めて、箭の踊返て立たざりけむ事を思ふに、只物には非ざりけりと思ゆる也。鬼の現はに此く人と現じて見ゆる事は、有難く怖しき事也かしとなむ語り伝へたるとや。
第24話 人妻死後成本形会旧夫語
今昔、京に有ける生(なま)侍、年来身貧くして、世に有付く方も無かりける程に、思懸ず□□の□□と云ける人、□□の国の守に成にけり。
彼の侍、年来此の守を相知たりければ、守の許に行たりければ、守の云く、「此て京に有付く方も無くて有るよりは、我が任国に将行て、聊かの事をも顧む。年来も糸惜と思つれども、我れも叶はぬ身にて過つるに、此て任国に下れば具むと思ふは何(いか)に」と。侍、「糸喜(うれし)き事に候ふ也」と云て、既に下らむと為る程に、侍、年来棲ける妻の有けるが、不合は堪へ難かりけれども、年も若く、形ち有様も宜く、心様なども労たかりければ、身の貧さをも顧みずして、互に去り難く思ひ渡りけるに、男、遠き国へ下なむと為るに、此の妻を去て、忽に便り有る他の妻を儲てけり。其の妻、万の事を繚(あつかひ)て出ければ、其の妻を具して国に下にけり。国に有ける間、事に触れて便り付にけり。
此て思ふ様にて過しける程に、此の京に棄て下りにし本の妻の、破無く恋しく成て、俄に見ま欲く思えければ、「疾く上て彼れを見ばや。何にしてか有らむ」と、肝身を剥(そ)ぐ如く也ければ、万づ心すごくて過ける程に、墓無く月日も過て、任も畢(はて)ぬれば、守の上ける共に侍も上ぬ。
「我れ由無く本の妻を去けり。京に返り上らむままに、やがて行て棲む」と思ひ取てければ、上るや遅きと、妻をば家に遣て、男は旅装束乍ら、彼の本の妻の許に行ぬ。家の門は開たれば、這入て見れば、有し様にも無く、家も奇異(あさまし)く荒て、人住たる気色も無し。此れを見るに、弥よ哀れにて、心細き事限無し。九月の中の十日許の事なれば、月も極く明し。夜冷(よさむ)にて、哀れに心苦しき程也。
家の内に入て見れば、居たりし所に、妻独り居たり。亦、人無し。妻、男を見て、恨みたる気色も無く、喜気に思へる様にて、「此は何かで御しつるぞ。何(い)つ上り給たるぞ」と云へば、男、国にて年来思つる事共を云て、「今は此て棲む。国より持上たる物共を、今日明日(けふあす)取り寄せむ。従者などをも呼ばむ。今夜は只此の由許を申さむとて、来つる也」と云へば、妻、喜と思たる気色にて、年来の物語などして、夜も深更(ふけ)ぬれば、「今は去来(いざ)寝なむ」とて、南面の方に行て、二人掻抱て臥しぬ。
男、「此には人は無きか」と問へば、女、「破無き有様にて過つれば、仕はるる者も無し」と云て、長き夜に終夜(よもすがら)語ふ程に、例よりは身に染む様に哀れに思ゆ。此る程に、暁に成ぬれば、共に寝入ぬ。
夜の明らむも知らで寝たる程に、夜も明けて日も出にけり。夜前、人も無(なかり)しかば、蔀の本をば立て、上をば下さざりけるに、日の鑭々(きらきら)と指入たるに、男、打驚て見れば、掻抱きて寝たる人は、枯々(かれがれ)として、骨と皮と許なる死人也けり。「此は何に」と思て、奇異く怖しき事云はむ方無ければ、衣を掻抱て、起走て、下に踊下て、「若し僻目か」と見れども、実に死人也。
其の時に怱て水干・袴を着て、走出て、隣なる小家に立入て、今始めて尋ぬる様にて、「此の隣なりし人は、何こに侍るか」と聞給ふ。「其の家には人も無きか」と問ければ。其の家の人の云く、「其の人は、年来の男の去て、遠国に下にしかば、其れを思ひ入て歎きし程に、病付て有しを、繚ふ人も無くて、此の夏失にしを、取て棄つる人も無ければ、未だ然て有るを、恐て寄る人も無くて、家は徒(ただ)にて侍る也」と云ふを聞くに、弥よ怖しき事限無し。然て、云ふ甲斐無くて返にけり。
実に、何に怖しかりけむ。魂の留て「会たりけるにこそは」と思ふに、年来の思ひに堪へずして、必ず嫁(とつぎ)てむかし。此る希有の事なむ有ける。
然れば、然様なる事の有らむをば、尚尋て行くべき也となむ語り伝へたるとや。
人の妻、死にて後旧の夫に会へる語
今は昔、京に身分の低い侍が美しいけなげな妻と暮らしていた。
知りあいがある国の守となったので、それについていくことになった。いろいろ出発の世話をしてくれるお金持ちの女がいたので、妻を捨て、新しい妻を連れてその国へ行った。
月日が過ぎ、任が終わって、京に帰り、急に前の妻が恋しくなって、新しい妻を家に送ってから旅装束のまま前の妻のところへ駆け馳せてみた。
門は開き、家も荒れ果てとても人が住んでいるとは思えないが、家に入ると妻が1人で待っていてくれた。使用人もいない生活だが、うれしげに迎えてくれた。 
明日になったら必要なものや従者などもそろえようと約束し、積もる話などしてかき抱き、夜明け前になって眠りについた。
降り注ぐ朝日で目が覚めてみると、昨夜かき抱いて寝たる人は枯れ枯れと干れて骨と皮とばかりなる死人であった。
ミイラと一夜の契りを交わし、抱いて寝ていたわけである。凄惨な話だ。
雨月物語の中に「浅茅が宿」という同じような説話がある。下総の国葛飾郡の真間の里に、勝四郎という男がいて、田畑を売って京に商いに出るという筋立てで、最後の場面も目覚めると誰もいなくて、ミイラを抱いたというような今昔物語特有の生ぐささはない。
にもかかわらず、岩波文庫の解説はこんな風になっている。
亡霊と契り、翌朝死骸を見る設定は、雨月物語・浅茅が露に通じる。
文脈が不正確で、ちょっと誤解を生じる記述だ。 
第25話 女見死夫来語
今昔、大和の国□□の郡に住む人有けり。一人の娘有。形美麗にして心労たかりければ、父母、此れを傅きけり。
亦、河内の国□□の郡に住む人有けり。一人の男子有けり。年若くして形ち美かりければ、京に上て宮仕して、笛をぞ吉く吹ける。心ばへなども可咲かりければ、父母此れを愛しけり。
而る間、彼の大和の国の人の娘、形ち有様美麗なる由を伝へ聞て、消息を遣て、懃に仮借(けさう)しけれども、暫くは聞入れざりけるを、強に云ければ、遂に父母此れを会せてけり。其の後、限無く相思て棲ける程に、三年許有て、此の夫、思懸ず身に病を受て、日来煩ける程に、遂に失にけり。
女、此れを歎き悲むで、恋ひ迷(まどひ)ける程に、其の国の人、数(あまた)消息を遣て仮借しけれども、聞きも入れずして、尚死たる夫をのみ恋ひ泣て、年来を経るに、三年と云ふ秋、女、常よりも涙に溺れて泣き臥たりけるに、夜半許に笛を吹く音の遠く聞えければ、「哀れ、昔の人に似たる物かな」と弥よ哀れに思けるに、漸く近く来て、其の女の居たりける蔀の許に寄来て、「此れ開けよ」と云ふ音、只昔の夫の音なれば、奇異(あさまし)く哀れなる物から、怖しく和(やは)ら起て、蔀の迫(はざま)より臨ければ、男、現に有て立てり。打泣て、此く云ふ。
しでの山こえぬる人のわびしきはこひしき人にあはぬなりけり
とて、立てる様、有し様なれど、怖しかりけり。
紐をぞ解て有ける。亦、身より煙1)(けぶり)の立ければ、女、怖しくて物も云はざりければ、男、「理也や。極く恋給ふが哀れにあれば、破無き暇を申して参り来たるに、此く恐ぢ給へば、罷り返なむ。日に三度、燃る苦をなむ受たる」と云て、掻消つ様に失にけり。然れば、女、「此れ夢か」と思けれども、夢にも非ざりければ、「奇異」と思て止にけり。
此れを思ふに、人死にたれども、此く現にも見ゆる者也けりとなむ語り伝へたるとや。
* 1) 底本異体字、火偏に雲 
 

 

第26話 河内禅師牛為霊被借語
今昔、播磨の守佐伯の公行と云ふ人有けり。其れが子に、佐大夫□□とて、四条と高倉とに有し者は、近来有る顕宗と云ふが父也。其の佐大夫は、阿波の守(か)み藤原定成の朝臣が共に、阿波に下ける程に、其の船にて、守と共に海に入て死にけり。其の佐大夫は、河内禅師と云ひし者の類にてなむ有ける。
其の時に、其の河内禅師が許に、黄斑(あめまだら)の牛有けり。其の牛を、知たる人の借ければ、淀へ遣けるに、樋集(ひづめ)の橋にて、牛飼の車を悪く遣て、車の片輪を橋より落したりけるに、引かれて車も橋より落けるを、「車の落る也けり」と思けるにや、牛の踏はだかりて、動かで立てりければ、鞅(むながい)の切れて、車は落て損じにけり、牛は橋の上に留てぞ有ける。人も乗らぬ車なれば、人は損ぜざりけり。「弊(つたな)き牛ならましかば、引かれて牛も損じなまし。然れば、極き牛の力かな」とぞ、其の辺の人も讃ける。
其の後、其の牛を労り飼ける程に、何(いかに)し失たりとも無くて、其の牛失にけり。河内禅師、「此は何なる事ぞ」とて、求め騒けれども、無ければ、「離れて出にけるか」と、近くより遠きまで尋ねさせけれども、遂に無ければ、求め繚(わづらひ)て有る程に、河内禅師が夢に、彼の失にし佐大夫が来たりければ、河内禅師、「海に落入て死にきと聞く者は、何かで来るにか有らむ」と、夢心地にも、「怖し」と思々ふ出会たりければ、佐大夫が云く、「己は死て後、此の丑寅の角になむ侍るが、其(そこ)より日に一度、樋集の橋の許に行て、苦を受侍る也。其れに、己が罪の深くて、極て身の重く侍れば、乗物の堪へずして、歩より罷り行(ある)くが極て苦く侍ば、此の黄斑の御車牛の、力の強くて乗り侍るに堪へたれば、暫く借申して、乗て罷行くを、極く求めさせ給へば、今五日有て六日と申さむ巳の時許に、返し申してむとす。強にな求騒がせ給ひそ」と云ふと見る程に、夢覚ぬ。河内禅師、「此る怪き夢をこそ見つれ」と、人に語て止にけり。
其の後、其の夢に見えて六日と云ふ巳の時許に、此の牛、俄に、何こより来りとも無くて、歩び入たり。此の牛、極く大事したる気にてぞ来たりける。
然れば、彼の樋集の橋にて、車は落入り牛は留りけむを、彼の佐大夫が霊の其の時に行会て、「力強き牛かな」と見て、借て乗り行けるにや有けむ。
此れは河内禅師が語りし也。此れ極めて怖しき事也となむ語り伝へたるとや。
第27話 白井君銀提入井被取語
今昔、世に白井の君と云ふ僧有き。此の近くぞ失にし。其れ、本は高辻西の洞院に住しかども、後には、烏丸よりは東、六角よりは北に、烏丸面に六角堂の後合せにぞ住し。
其の房に、井を堀けるに、土を投上たりける音の、石に障て金の様に聞えけるを聞き付て、白井の君、此れを怪むで、寄て見ければ、銀の鋺(かなまり)にて有けるを、取て置てけり。其の後に異銀など加へて、小(ささ)やかなる提(ひさげ)に打せてぞ持たりける。
而る間、備後の守藤原の良貞と云ふ人に、此の白井の君は、事の縁有て親かりし者にて、其の備後の守の娘共、彼の白井が房に行て、髪洗ひ湯浴(あみ)ける日、其の備後の守の半物(はしたもの)の、此の銀の提を持て、彼の鋺掘出したる井に行て、其の提を井の筒に居(す)へて、水汲む女に水を入させける程に、取はづして、此の提を井に落し入れてけり。
其の落し入るをば、やがて白井の君も見ければ、即ち人を呼て、「彼(あ)れ取上よ」と云て、井に下して見せけるに、現に見えざりければ、「沈にけるなめり」と思て、人を数(あまた)井に下して捜せけるに、無かりければ、驚き怪むで、忽に人を集めて、水を汲干して見けれども無し。遂に失畢(うせはて)にけり。此れを人の云ひけるは、「本の鋺の主の、霊にて取返してけるなめり」とぞ云ひける。
然れば、由無き鋺を見付て、異銀さへを加へて取られにける事こそ、損なれ。此れを思ふに、定めて霊の取返したると思ふが、極て怖しき也。此なむ語り伝へたるとや。
第28話 於京極殿有詠古歌音語
今昔、上東門院の京極殿に住ませ給ける時、三月の廿日余の比、花の盛にて、南面の桜艶(えもいは)ず栄(さき)乱れたりけるに、院、寝殿にて聞かせ給ければ、南面の日隠しの間の程に、極じく気高く神さびたる音を以て、「こぼれてにほふ花ざくらかな」と長めければ、其の音を、院、聞かせ給ひて、「此は何なる人の有ぞ」と思し食て、御障子の上げられたりければ、御簾の内より御覧じけるに、何にも人の気色も無かりければ、「此は何かに。誰が云つる事ぞ」とて、数(あまた)の人を召て見せさせ給けるに、「近くも遠くも人候はず」と申ければ、其の時に驚かせ給て、「此は何かに。鬼神などの云ける事か」と恐ぢ怖れさせ給て、関白殿は□□殿に御ましけるに、怱て、「此る事こそ候ひつれ」と申させ給ひたりければ、殿の御返事に、「其れは其の□にて、常に然様に長め候ふ也」とぞ、御返事有ける。
然れば、院、弥よ恐ぢさせ給て、「此れは、『人の花を見て、興じて然様に長めたりけるを、此く密(きびしく)尋ねさすれば、怖れて逃げ去(い)ぬるにこそ有めれ』とこそ思ひつるに、此の□にて有ければ、極く怖しき事也」となむ、仰せられける。
然れば、其の後は、弥よ恐ぢさせ給ひて、近くも御さざりけり。
此れを思ふに、此れは狐などの云たる事には非じ。「物の霊などの、此の歌を、『微妙き歌かな』と思ひ初てけるが、花を見る毎に、常に此く長めけるなめり」とぞ、人、疑ひける。然様の物の霊などは、夜るなどこそ現ずる事にて有れ、真日中に音を挙て長めけむ、実に怖るべき事也かし。
何なる霊と云ふ事、遂に聞こえで止にけりとなむ語り伝へたるとや。
第29話 雅通中将家在同形乳母二人語
今昔、源の雅通の中将と云ふ人有き。丹波中将となむ云ひし。其の家は、四条よりは南、室町よりは西也。
彼の中将、其の家に住ける時に、二歳許の児を乳母抱て、南面也ける所に、只独り離れ居て、児を遊ばせける程に、俄に児の愕(おび)ただしく泣きけるに、乳母も喤る音のしければ、中将は北面に居たりけるが、此れを聞て、何事とも知らで、大刀を提て走り行て見ければ、同形なる乳母二人が、中に此の児を置て、左右の手足を取て引しろふ。
中将、奇異(あさましく)思て、吉く守れば、共に乳母の形にて有り。何れか実の乳母ならむと云ふ事を知らず。
然れば、「一人は定めて狐などにこそは有らめ」と思て、大刀をひらめかして走り懸ける時に、一人の乳母、掻消つ様に失にけり。
其の時に、児も乳母も死たる様にて臥したりければ、中将、人共を呼て、験有る僧など呼ばせて、加持せさせなどしければ、暫許有て、乳母、例心地に成て、起上たりけるに、中将、「何なるつる事ぞ」と問ひければ、乳母の云く、「若君を遊ばかし奉つる程に、奥の方より、知らぬ女房の俄に出来て、『此れは我が子也』と云て、奪取つれば、『奪はれじ』と引しろひつるに、殿の御まして、大刀をひらめかして走り懸らせ給ひつる時になむ、若君も打棄て、其の女房、奥様へ罷つる」と云ければ、中将、極く恐けり。
然れば、「人離れたらむ所には、幼き児共を遊ばすまじき事也」となむ、人云ける。狐の□たりけるにや。亦、物の霊にや有けむ。知る事無くて止にけりとなむ語り伝へたるとや。
第30話 幼児為護枕上蒔米付血語
今昔、或る人、方違へに下京辺也ける所へ行たりけるに、幼き児を具したりけるに、其の家に本より霊有けるを知らで、皆寝にけり。
其の児の枕上に、火を近く燃(とも)して、傍に人二三人許寝たりけるに、乳母、目を悟(さま)して、児に乳を含めて寝たる様にて見ければ、夜半許に、塗籠の戸を細目に開て、其(そこ)より長五六寸許なる、五位共の日の装束したるが、馬に乗て、十人許次(つづ)きて、枕上より渡けるを、此の乳母、「怖し」と思ひ乍ら、打蒔の米を多らかに掻攫1)(かいつかみ)て打投たりければ、此の渡る者共、散(さ)と散て失にけり。
其の後、弥よ怖しく思ける程に、夜曙にければ、其の枕上を見ければ、其の投たる打蒔の米毎に、血なむ付たりける。「日来其の家に有らむ」と思けれども、此の事を恐て返にけり。
然れば、「幼き児共の辺には、必ず打蒔を為べき事也」とぞ、此れを聞く人、皆云ける。亦、「乳母の心の賢くて、打蒔をばしたる也」とぞ、人、乳母を讃ける。
此れを思ふに、知らざらむ所には、広量(おもひはかり)して行宿るべからず。世には此る所も有る也となむ語り伝へたるとや。
* 1) 底本異体字。𤔩【爪+國】