無縁仏

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雑学の世界・補考   

無縁仏1

供養する親族や縁者のいなくなった死者またはその霊魂である。
現代の日本では一般に死者は火葬され、墓に葬られ、子供や兄弟など親類縁者によって供養されるが、代を重ねるに連れ、墓の承継者の消滅などによって無縁化する場合が出てくる。こうして埋葬者が無縁仏となった墓は大都市の霊園では約10%を超えるほどあるともいわれ、供養塔や無縁仏のみを集めた無縁墓地に合祀されたりする。「三界萬霊塔(さんかいばんれいとう)」という石塔に埋葬されているところもある。
たとえ数代は供養する子孫が続いたとしても、縁者が遠方に移転したり、代が途切れたりすればいずれ無縁仏と化す。確率論的には子々孫々まで供養される可能性の方がはるかに低く、全ての墓はいずれ無縁化する運命をたどる。一部にはこうした考えを背景に墓など作らず、自然葬や海洋散骨などの直接遺骨を海、山などの大自然の循環の中に返させようとする人々もある。これは都市部などに見られる墓地不足、墓園や宗教の商業主義に対する反感、宗教観の変化、核家族化、少子化による管理維持への不安などが背景にあるものと考えられる。
又、しばしば寺院、霊園などの広告に永代供養を謳うものが多いが、「永代」という言葉の使用による誤解からトラブルが多い。実際には10回忌、30回忌や50回忌までといった内規がある場合が多く注意が必要である。また、霊園の倒産、寺院の廃寺などによりこの「永代」も保証される訳ではもちろんない。元来が永代供養というのが、江戸時代に檀家の減少を補う目的で僧侶が発案した商業手法であり、本来は毎月の命日に小額ずつ受け取っていたお布施をまとめて集金する当時の新システムなのであった。現在の永代供養もその名残であるが、商品である以上、言語表現の誤認防止や費用の表示の透明化など早急な法の整備が望まれている。
墓地、埋葬等に関する法律
1999年(平成11年)3月に新たに改正された墓地、埋葬等に関する法律により、墓地の使用者が死亡したり管理料の未納が3年間続いた場合には、「無縁墳墓に関する権利を有する者に対し、1年以内に申し出るべき旨を官報に掲載し、かつ無縁墳墓等の見やすい場所に設置された立札に1年間掲示して公告し、その期間中にその申し出がなかった旨を記載した書面」を管轄する役所に提出する事になり、無縁仏を自由に処分出来るようになった。
無縁仏2

無縁仏とは、亡くなった人を弔う親族・縁者が無くなってしまったことで、お墓の継承者がいないので、後に入る人も無く、またお墓参りをする人もいないお墓のことです。地方から都会に移り住んだ場合、家や土地は売ることがあってもお墓は簡単に整理して売るということが出来ず、そのままにしていることがほとんどで、都会の生活が長くなるにつれ、だんだんと足が遠のいて、草木に覆われたりして荒れ果てたお墓が数多く見られます。また都会で生活している人でも子供が無かったり、跡継ぎが離れて住んでいたりなどの理由で1代限りのお墓となり、無縁仏になったお墓が東京都内の主要霊園だけでも1割を超えると言われています
無縁仏になったら
地方でよく見かける草木に覆われて荒れ果てたお墓は、横を通るたびに気の毒な思いをします。また特に立派なお墓であった場合は、人間の世界の栄枯盛衰を感じます。整備された都会の霊園では草木が覆い茂るようなことはありませんが、それでもお墓参りをする人が絶えてしまったお墓はすぐに分かります。
平成11年3月に改正された「墓地、埋葬等に関する法律」では、墓地の使用者が死亡、あるいは管理料未払いのまま3年間放置した場合、「無縁墳墓に関する権利を有する者に対し、1年以内に申し出るべき旨を官報に掲載し、かつ無縁墳墓等の見易い場所に設置された立札に1年間掲示して公告し、その期間中にその申し出がなかった旨を記載した書面」を当該役所に提出すれば無縁墓地を整理することができるようになりました。従来は、墓地使用者と死亡者の本籍地、住所地の市町村長に照会し回答を得ること、また、2種以上の新聞に3回以上公告を出し、申し出がなければ処理することができるというシステムでしたので、その煩わしさを軽減するために簡略化されたのですが、その背景には無縁墓地の増加が深刻化してきた事実があるのです。
このようにして整理された無縁仏は、無縁仏として合祀されたり、供養塔に納められることになります
永代供養
永代供養と聞けば、永遠に供養してくれるものと思ってしまいます。しかしこの世の中に永遠に続くものは一つもありません。お墓を購入する時や、お寺にお願いする時は、永代供養の中身をちゃんと確かめてください。もともと永代なんて決まりが無いものですから、例えばお寺の場合は、その住職が生きている間とか、30年間とか、故人の後3代までとか、様々です。明確な回答が無い場合もありますので、注意してください。
自分は跡継ぎがないから永代供養にしてもらったので安心などと思っていても、実は期限のある内容だとしたら・・・死んでしまってからは文句の言いようがありません。
理想的なお墓は自分の死後、子々孫々までお墓参りしてくれ、また自分の後に続いてそのお墓に入ってくれることでしょう。これは大変にすばらしいことなのですが、少子化・核家族化の進む現代社会においては、ますます困難なことになっているのです。ワラをもすがる思いで大金を出して買った永代供養の権利も期限付き、お金で永遠は買えないのです
いつかは無縁仏
歴史上に名前を残す人を除いて、私達は死んだらいつかはその名前も存在も完全に忘れ去られてしまいます。また子々孫々まで同じ場所に暮らし続けることは、現代社会において大変に困難になってきました。お墓を作ってもいつかは無縁仏になるのであれば、最初から合祀墓に入るのが無難な選択です。今後は合祀墓の新しい形が出てくるものと思われます。またお墓のいらない散骨もごく普通の選択肢として広がっていくことでしょう。
無縁仏にならないことが理想です。しかしそれは限られた一部の人達となりつつあります。しかし、やむを得ず無縁仏になるような場合は、高いお金を出して狭い場所に入るよりは、安いお金で広い世界に旅立ちましょう。それが大自然の法則て゜あり、生物としての自然の営みであり、宗教的にも魂の循環の中の一つの行程なのです
無縁仏になることが分かっていたら
自分の代で子孫が途切れ、無縁仏になることが分かっていたら、お墓のことをどうするか、真剣に考える必要があります。自分が生きていて、まだ何とか出来るうちに手を打っておきましょう。もうちょっと後で、というふうに考えていたら、結果としてどうにも出来なくなった時に、無念の気持ちを残すことになります。お墓という形にこだわるなら、合同祭祀という方法があります。合同祭祀とは、いろんな人と一緒に一つの墓に入ることです。自分がいなくなっても、誰かが参ってくれるのですから、寂しい思いはしなくてもすむかもしれませんし、合同慰霊祭をしてくれる所もあります。
人と同じ所に入るのが嫌でしたら、散骨が良いと思います。大自然に還れて自由となり、お墓の心配をする必要がなくなります。散骨も広い意味で大自然のお墓だと考えれば、素晴らしいお墓です。最近は自宅や別荘に散骨する人も増えてきました。自宅での散骨は合法です、何も問題ありません。最も身近で自然な姿ではないでしょうか。人は死んだら墓に入るものという固定観念は今の時代には通用しなくなりつつあります。意味のないお墓を作ってもお金と資源の無駄遣いになってしまってはいけません
お墓の整理
散骨などの理由でお墓を整理するにはまず、お墓を管理している寺院や霊園に撤去の旨を申し出て、書類上の手続きをする必要があります。公営の霊園などは手続きはスムーズにいきやすいですが、寺院などでは管理料が入らなくなることを嫌って、無理な解約料を請求することがありますので、ご注意ください。理由を聞かれることがありますが、「お遺骨を家に持ち帰る」という理由だけで充分です。散骨などの理由は持ち出さないことをおすすめいたします。散骨は違法などと、とんでもない事を言う人もいますし、成仏出来ないなどと言われる事もあります。もともと家にあったお遺骨を自分の家に持ち帰ることは全く合法ですし、問題のあることではありません。
書類上の手続きが済んだらお遺骨を取り出してからお墓の中を空にして、墓石を撤去し、更地にします。墓石の撤去などは石屋さんに頼みますが、お遺骨を取り出す時、墓石を撤去する時には僧侶や神主などに拝み込みしてもらうことが必要になります。拝み込みしていないと、石屋さんが仕事を受けてくけない時があります。  
無縁仏になる3

残念ながら、一生独身で子宝にも恵まれず、親兄弟・親戚一同もすでに亡くなってしまい、あ〜私ってばホントの独りぼっち・・・(泣)このまま死んでしまって、誰にも気づかれなかったら、私の亡骸はどうなるんだろう〜(号泣)?
こんな状況になる将来の確率は、誰しもゼロとは言えないのが今の日本です。そういった場合、そもそも遺体はどうなるのか?お葬式はどうなるのか?そして、骨壺はどうなるのか?また、すでに独りぼっちが予想された場合、どういった準備をしておけばよいのか?その事について神戸市で起こった場合を例に考察します。
お葬式
「独居老人、死後1ヶ月経過」「冷たい都会の現状」などなど、たまに新聞を踊らすタイトルに反応してしまうアナタは、すでに独りぼっちを予想されていますね?
身寄りのない人間が亡くなった場合、神戸市では「行旅病人及行旅死亡人取扱法施行細則」にのっとって、処理・手続きされていきます。まずは警察によって検死が入ります。死亡原因によっては、事件になるからです。また、ほんとに身寄りがないかを調べられます。身寄りがいても、遺体の引き取りを拒否されることもあるそうです。せちがらい世の中だゼ(寒)
それらがクリアされると、自治会長がしきってお葬式が行われるか、全くもって誰もお葬式をしてくれない時は、区または市の職員によって、火葬の手続きがされます。
遺体はどうなる
指定の火葬場にて、市や区といった自治体職員の手配で火葬されます。身の回りの遺品は、もしも身内がでてきた時のために、遺骨とともに保存されることになりますが、自治体によって、保存期間に違いがあります。
骨壺はどこへ行く
前述の「行旅病人及行旅死亡人取扱法施行細則」第6条に、「区長は、行旅死亡人を火葬した場合において、遺骨を引き取る者のないとき又は引き取る者が明らかでないときは、神戸市立舞子墓園附属納骨堂(以下「舞子墓園」という。)において、これを保管するものとする。前項の規定による遺骨の保管期間は、特別の理由のない限り、5年間とする。この場合においてその起算日は、舞子墓園に納めた日の属する年度の翌年度の4月1日からとする。」とあります。とりあえず市立の納骨堂におさまることになるんですね。
では、5年たったらどうなるのか?公営墓地には、無縁塚と呼ばれる場所があり、そこに埋葬されることになります。そう、晴れて無縁仏になれるわけです。
無縁塚行きを逃れるために
いつどこで死んでしまうか誰にもわかりません。日頃から、身元を証明するモノを身につけておきましょう。年老いてボケてしまうと、自分で自分がわからなくなります。子供の頃、母親に自分のパンツに黒マジックで名前を書かれたりしませんでしたか?身体から離れない方法で身元を証明するモノを身につけておくと、なおのこと良いでしょう。
基本は、「遠くの親戚よりも近くのご近所さん」です。マンションの管理人、自治会長、おせっかいなお隣りさん、親友(先に亡くなっている場合が多々あり)、老人になった時は、市や区の職員、民生委員、ボランティアのヒト、介護サービスのヒトなど、福祉関係のヒト達、老人の癇癪や頑固さなどに負けず人助けをモットーとして生きているヒト達と、絶対に仲良くしておくべきですね。腐乱死体を見つけてしまう側にとっては、いくら死んでしまった人間相手とはいえ、周りの者は嫌な思いをするものです。身寄りのないアナタにとって残していく者は、身近なヒト達です。最低限でもそういったヒト達のご迷惑にならぬよう、日頃からのお付き合いを大切にしておきましょう。
お葬式の費用を前もって用意しておき、いざという時は速やかに行われるよう、遺言するというのも手です。各葬儀社には、積み立て方式でお葬式費用を前払いするシステムなど色々あります。また、民営墓地や寺院墓地によっては、生前に購入することが可能なところもあります。散骨によるサービスでも、前もってお願いする事ができるところがあります。
シングルで生きるのもシングルで死ぬのも大変です。ボケが始まっていないうちに、死に際の処理を考えて、準備しておくことは決して無駄にはならないでしょう。
山里集落の暮らしと無縁仏4

昔話「金こい銀こい」に出てくる金銀の玉は、この荒れた屋敷に残された宝の霊であった。そして、ちょうど村へ来た旅の六部(お坊様・外部の者)が玉が遊ぶのを見るという不思議な体験をする。宝発見、お坊様が村の一員となることで解決を下して「めでたしめでたし」というてん末でおわる。時代が定かでないが、貨幣経済が発達し、富農(地主)小作、奉公人といった身分が構成された時代の話であるとすれば、このような没落した長者の話に羨望、争い、妬みなどが出てこないところに昔ばなしの非現実性を感じる。すべてのできごとが少し都合よくできすぎている感もあるが、この昔話の中には、さまざまな村の習慣が隠されているように思える。
村の生活と供養
まず、この荒れ果てた空き屋敷を村人たちはどのように見ていたのだろうか。昔話の中では、故あって没落した長者の家であるという。そして、とうの昔に当主は存在しない様子であること、さらに、六部が定住したのち屋敷当主の菩提を供養していることから、その宝の元持ち主であるはずのこの長者やその祖先は、供養する人のない仏であったことが想像できる。そうであれば、村人たちはこの屋敷を随分と気味悪く思っていたことであろう。
死者の霊は、盆正月には生きている人のもとへと降りてくるという考え方が今では一般的だが、昔の人の死者の霊に対する思いは複雑で、ときには生きる者にとり憑いたり不幸にしたりすると考えられていた。それゆえ多くの家で盆正月には供え物をして祖先の霊を祀る。今でもお客仏などの風習が残る地方があるが、無縁仏は各家庭において祖霊とともに祀るという習慣があった。昔の風習上、特に無縁仏は、供養が十分でないために人々に不幸をもたらすのではないかと恐れられ、村や集落といった共同体でその供養を行うことは必要とされていた。没落した長者は、さびれた屋敷だけが残されて供養する子孫もない様子から、この村の長年解決されない懸案であったとも考えられる。
六部が泊まった夜、屋敷に出現した金銀の玉たちは、宝の霊であったという。この宝によって長者一族の供養が実現することになる。つまり、長者の供養にかかる費用は村人の誰もが負担することなく実現したのだ。もし、井戸から宝が出てきたのが本当のことであれば、没落した死者の霊にとり憑かれるかもしれないところを六部の登場によって長者の霊に「ハライ」が行われ、村の問題が円満に解決された−−というのがこの昔話の大筋だ。村の共同体としての規律、死者の霊への恐れ、無縁仏の供養、さらに外部から来た他者の受け入れ…など、この昔話には、多くの村の教えが込められているように見受けられる。
ところで、隠された宝物の霊が「金銀の玉」の正体であったわけだが、「宝物の霊」というのが登場する昔話が調べた範囲では見当たらない。もちろん、日本人は古くから物や動物に霊が宿ると考えてきたが、かえって妖精や呪文について古くからの文化を持つ欧州に、宝物の霊が登場する話が多いように思える。
川沿いの山里原泉
原泉というのは地図上の地名として残されていない。今は掛川の北部、川根町との市境の山深い黒俣を含む村々を原泉と呼んでいて、この昔話が伝えられるのは、その原泉南部に位置する大和田である。おそらく昔は、原野谷川に沿って集落が点在していたことと思われる。
大和田は掛川市街から黒俣へぬける途中にある。掛川バイパス西郷インターチェンジを降りてすぐの県道を北へ向かい、法泉温泉を通過して2kmほどいくと大和田である。大和田隧道をぬけたら左手の細い道に入り、500mほどで原野谷川に架けられた原泉橋にぶつかる。原野谷ダムの手前に位置する山にはさまれた集落で川周辺がわずかな平地が大和田だ。
残念ながら、空き屋敷や六部の庵、井戸など、この昔話にゆかりのある場所がどこなのかはわからない。
 
日本の墓制

柳田民俗学の解釈とその問題・改善点
日本における墓制は、柳田国男の民俗学の研究が土台になってきた。柳田系民俗学は、人間の肉体から離れる霊魂の存在を重要視したため、遺体を埋める埋め墓(葬地)とは別に、人の住む所から近い所に参り墓を建て(祭地)、死者の霊魂はそこで祭祀するという「両墓制」が、日本ではかつては一般的だった、としている。(葬地と石塔と隣接させるのが「単墓制」としている。)そのため、遺体を埋葬する墓所はあったが、墓参りなどの習慣はなく、従来の日本では全く墓は重視されなかったとしている。
しかし、このような墓制には批判が出てきている。岩田重則は、「「お墓」の誕生」(岩波新書)の中で、墓制を
1.遺体の処理形態(遺体か遺骨か)
2.処理方法(埋葬か非埋葬か)
3.二次的装置(石塔の建立、非建立)
の3つの基準で分類している。(現在一般的な「お墓」は、「遺骨・非埋葬・石塔建立型」)。墓に石塔ができてきたのは仏教の影響と関係の強い近世の江戸時代あたりからであり、それ以前は遺体は燃やされずに埋葬され、石塔もなかった(「遺体・埋葬・非建立」型)。また、浄土真宗地域および日本海側では、伝統的に火葬が行われ、石塔は建立されなかった(遺骨・埋葬/非埋葬・非建立型)。このように、柳田のいう「単墓制」「両墓制」というのは特に「遺体・埋葬・建立型」に限った議論において、葬地と祭地が空間的に隔たっていることの分類に過ぎず、日本全国の多様な墓制の歴史的変遷に対応させるには無理があるとの批判である。
なお、沖縄・南西諸島では埋葬がなく本土の墓制との議論は難しい。風葬も参照(現在でも沖縄の一部では、墓はただの納骨所として、祭祀の対象としていないところも存在する)。宮古島、石垣島には、崖下墓があり、宮古島市島尻には3つの郭がある、石組み、グスクで囲った大きな墓(長墓)があり多数の白骨があるが祭祀が行われたかは不明である。最近科学のメスが入れられつつある。
近代以降のお墓
戦前までは、自分の所有地の一角や、隣組などで墓を建てるケースも多かったが、戦後は、基本的に「○○霊園」などの名前が付いた、地方自治体による大規模な公園墓地以外は、お寺や教会が保有・管理しているものが多い。都市部では墓地用地の不足により、霊廟や納骨堂内のロッカーに骨壷を安置した形の、いわゆるマンション式が登場している。なお、地方自治体や寺院などの霊園や地域の共同墓地に墓を立てる場合は、使用権(永代使用権)に基づく使用料(永代使用料)や管理費などの費用が掛かることがほとんどである。金額については、その設置者により異なる。
人によっては生前に自らの墓を購入することがある。これを寿陵(寿陵墓)、逆修墓という。また、自らの与り知らぬ所で付与される形式的な没後の名を厭い、自らの意思で受戒し、戒名を授かることもある。この場合、墓石に彫られた戒名は、朱字で記され、没後の戒名と区別される。
現在の日本では、火葬後に遺骨を墓に収納する方式が主であるが、土葬も法律上は禁止されていない(一部地域の条例を除く)。
 
無縁社会(Aliensocial)

単身世帯が増えて、人と人との関係が希薄となりつつある現代社会の一面。
急速な競争と資本主義が行きつき、かつて存在したような日本の社会構造であった生涯雇用制度の崩壊をはじめ、長引く不況や少子高齢化、女性の社会進出によるかつての結婚に対する若者の意識の変化、地縁血縁社会の崩壊、核家族化社会による家族や社会とのコミュニケーションのできない、したくない若者、中年層の急増などもろもろの要因が重なり合い、かつて存在した地域社会のつながりはなくなり、単身者はますます孤立しやすい社会へと急速に移行している。結婚をしたくてもできない、または躊躇してしまうニートやフリーター、派遣社員の増加が著しく、2030年以降の非婚率は30%を超えるであろうと予測されている。30代、40代ですでに社会から孤立する者が急速に増えている。これらは差こそあれ、日本に限らず先進国一般の風潮であり社会問題化している。
日本では年間で3万人以上が孤独死している。死因は病気、自殺など原因はさまざまだが、誰にも気づかれずに亡くなり、身元すら判明しないまま火葬され、無縁墓地に送られることもある。亡くなってまで一人は寂しいと考え、財産や所持品、さらには自分自身の死後の処理をNPOと生前契約するものも少なくない。
こうした風潮をビジネスチャンスと捉え、さまざまな単身者向けのビジネスや商品が開発、販売されている。身辺整理や遺品整理、埋葬などを専門に請け負う「特殊清掃業」。共同墓、話し相手、保証人代行などの「無縁ビジネス」が繁盛している。  
 
孤独死1

一人暮らしの人が誰にも看取られる事無く、当人の住居内等で生活中の突発的な疾病等によって死亡する事である。特に発症直後に助けを呼べずに死亡するケースがこのように呼ばれる。
この言葉は日本で核家族化の進んだ1970年代に独居老人が死後だいぶ経って久し振りに訪ねてきた親族に発見されたという事件の報道で登場、同種の事例がたびたび発生した1980年代ごろからマスメディアに繰り返し用いられた。
特に隣家との接触のない都市部などにおいて高齢者が死後数日から数ヶ月(長いケースでは1年以上という事例もある)経って発見されるケースが過去に相次いで報告される一方、都市部に限定されず過疎地域での発生も懸念される。
当初、都会には人がたくさんいるにもかかわらずその誰にも気付かれず死んでいるという状況を指して「都会の中の孤独」という逆説的な死様として取り上げられていたが次第に「病気で周囲に助けも呼べずに死んでいった」ことがわかるにつれ、このような事態の発生防止が求められるようになったという経緯を持つ。
なおこの当時は一般的に都市部では人口が集中しているため、孤独を感じる人は存在しないと考えられていた。現在では都市部で人的交流が疎遠になりがちであることが広く理解され、孤独死が身近にも発生しうることが理解されるようになってきている(孤独の項を参照)。
独居者の死因を調査した際に倒れてから数時間以上(長いケースでは数日)にわたって生きていたと考えられる事例も少なからず見出され、福祉や災害援助の上では同種の死亡事件の予防が重要視されるようになった。このため1990年代より各所で様々な予防策が検討・施行または提供され、2005年現在では一定の効果を上げ始めている。
その一方で阪神・淡路大震災といった大規模災害では被災者の仮設住宅による生活が長期に及び慣れない住環境もあるが地域コミュニティが希薄なため隣人が異変に気付きにくく疾病で身動きが取れないまま死亡する人が出るという事態を招いており、この教訓から災害復旧時の孤独死防止が求められ予防策が講じられるようになってきている。
2005年9月24日にNHKスペシャルで千葉県松戸市の常盤平団地における孤独死の問題が放映されたときは大きな反響を呼び、孤独死問題の社会的関心も高まってきている。
定義
孤独死に対しては法的に明確な定義はなく、警察庁の死因統計上では変死に分類される。この変死の中でも検死や司法解剖等により死因特定した結果、早い段階で他者の適切な介護があれば救命できた可能性のあるケースに関して集計されるに過ぎない。このため、これを明確に定義付けての統計は存在しない。
孤独死は明確に定義され難い部分を含むため、以下のようなケースでは特に判別が難しい。
突然死
独居者の突然死は孤独死には含まれないとはされるものの突然死する直前の心肺停止段階の場合は適切な救急救命医療(→救急医療)によって救命できる可能性もある以上、場合によってはこれに含まれるケースもあると考えられる。
自殺
孤独に耐えかねて自殺する人もいる。これは孤独死の範疇には含まれないが発作的に自殺を図ったものの途中で思いなおし、自殺を中断したにもかかわらず周囲に助けを求められなかったために結果的に死亡してしまった場合は孤独死の範疇に含まれるかもしれない。しかしこのようなケースでは自殺か自殺中断による孤独死かの判別がつきにくいため、暗数である。
その一方で死後長期間経過して遺体が傷み死因特定が困難なケースも多いことから、事件性の認められない変死でなおかつ周囲がその人が亡くなったことを長期間にわたって知らなかった場合には死因特定によらずに孤独死と呼ばれる。
なお病院などで身寄りもなく亡くなる高齢者もいるが、これは「孤独な死」には違いないが孤独死とは呼ばれない。
類似するケース
これらの問題に絡んで近年増加中の老老介護(高齢者がその親を介護している事例)等でも介護していた側が急病などで突然死し副次的に動けない要介護者側が餓死するケースも多く確認されており、これも別の形の孤独死として問題視されている。
発生要因的には孤独死となんら変るところがなく特に要介護者側が3日〜一週間程度は存命している場合も多く、これの予防は他の孤独死よりも防止しやすいはずではあるのだがたびたび発生してはその都度、関係者の対応を含めて問題視される事態を招いている。
起きやすいとされる環境
このような亡くなり方は特に都市部などの地域コミュニティが希薄な地域が多いとされ、また震災などによって地域コミュニティが分断されている場合にも発生しやすい。当然、過疎地域等では民家が疎らであるため隣家が気付きにくい部分もある。なお生活様式では、以下のような特徴が挙げられる。
1.高齢者(特に後期高齢者)
2.独身男性(配偶者との死別を含む)
3.親族が近くに住んでいない
4.定年退職または失業により職業を持たない
5.慢性疾患を持つ
6.アパートなどの賃貸住宅(隣家に無関心)
これらでは子供夫婦の家庭も核家族向けの賃貸住宅で身を寄せると子供や孫の生活に迷惑が掛かるとして遠慮して独居を選ぶ人も増えており、上に挙げたような状況に陥る人も少なくないことから潜在的な孤独死予備群は年々増加の一途をたどっていると考えられている。
性別に関しては、阪神・淡路大震災以降に被災者内に見られた孤独死事例やまたは随所で行われているその他の集計において男性は女性の2倍以上の高率で孤独死しやすい傾向が見られる。これは女性は日常的な近所付き合いなどがある率が高いことが関係していると考えられ、男性は職場でこそ人間関係を持っていたが地域コミュニティに馴染むのが下手で周囲に異常が発見されにくく手遅れとなりやすいとされる。  
人ごととはいえない孤独死2

北九州市門司区で4月から餓死・孤独死が連続して起こっている。さまざまな事情によるケースの違いはあるが、そのよって来る原因は根深く、共通している。しかも、表面化したこれらの事件の陰には同様の悲劇が無数に起こっており、予備軍ともいえる人人は増えつづけている。現役層にとっても将来いやおうなしに直面する問題となっている。働けるうちは奴隷のごとくこき使われ、稼ぎは税金でむしりとられ、失業すればぼろ布のように捨てられる。憲法にうたう「健康で文化的な最低限度の生活をいとなむ権利」など保障されない自己責任社会の冷酷な構造を露呈している。
自己責任の社会の冷酷さを露呈
4月21日、門司区市営大里団地で78歳と49歳の母娘の遺体が発見された。死因は病死と見られ、母親の遺体は死後2年近く経過してミイラ化しており、長女も死後約2カ月が経過していた。助けを求めた次女(47歳)も、駆けつけた消防の救急隊員に「2カ月間なにも食べていない」と話し、立つこともできないほど衰弱していたため病院に搬送された。
一家は71年に同団地に入居。94年に父親が死亡後、母と娘2人の3人暮らしをしていた。母親は以前、失対事業で働いていたときのケガで歩くことができず寝たきりになり、96年に身体障害者1級の手帳が交付されていたが、介護サービスなどの世話にはなっていなかった。
ただでさえ失業と就職難の風が吹き荒れるなか、障害者の母を抱え、長女は胃の病気、次女は腰の持病で歩くのが不自由という状態ではまず安定した職には就けない。母親に支給される亡夫の年金をあてに生活していたため、母親の死は収入の途絶を意味した。その結果、母親の遺体をかくしつづけることになったと見られている。
近所の人たちは昨年まで、次女が毎朝、弁当を買いに出たり、週に1回タクシーに乗ってカップラーメンを大量に買い込んでいく姿を目にしているが、今年に入ってからは目にしなくなり心配していた。最後は歩行不能になった体で這うようにして助けを求めにきたという。電気もガスも3月末で使用停止になっており、冷蔵庫の中は空だった。
6月5日には、同区市住宅供給公社・法師庵団地で、69歳と62歳の2人暮らしの老夫婦が遺体で見つかった。夫は死後1カ月、妻は3カ月たっており、死体は腐乱していた。夫婦とも病死と判定された。
夫婦は年金生活だったが、ともに精神的に不安定だったためそのつど病院への入退院を繰り返していた。日日やせ衰えていく姿を近所の人たちは心配していたが、異臭に気がついた住民によって無残な姿で発見された。
同団地では6月にも単身赴任で一人暮らしをしていた60代男性の遺体が死後数日たって見つかっている。
生活保護も受けられぬ
これらの事件に対してマスコミや行政は、「生活保護の相談もなかったので対応しようがなかった」といっているが、わずかながらの生活保護を受給する過酷さは誰でも知っている。
5月末の事件は、それを物語っている。
同区後楽町市営団地で1人暮らしをしていた56歳の男性は、足が不自由の身で仕事を転転としてきたが、病気も重なって労働不可能な状態になった。家賃や300円の町会費も払えなくなり、昨年9月と12月に区役所に生活保護の申請を願い出たが、「息子に扶養義務があり、援助を受けるべきだ」と断られた。
その月に不払い家賃の督促に公社職員が訪ねた際には、家の中を這うようにして玄関まで出てくるほどの衰弱ぶりだったという。そのうち水道、電気、ガスも使用停止になり、しばしばペットボトルに入れた水や弁当などを息子が運んでいたといわれるが次第に見なくなり、骨と皮ばかりになっていく様子を近所の住民も心配していた。
ある住民は、「今年1度、救急車で運ばれたがお金がないためか2日で帰ってきた。それから寝たきりになり、人間があれほどやせれるかというほどやせていた。生活保護の基準が厳しく、軽自動車を1台持っていたから生活保護を受けられなかったと聞いた」と語っていた。
男性は、今年に入っても区役所に「息子も生活が苦しく援助できないといっている」と電話をかけていたが、結局最後まで社会保障の手は差し伸べられることなく、男性は餓死し、やせ細った亡骸が約1カ月後に発見された。
この団地では最近でも2、3件の老人の孤独死が起こっており、数年前には生活苦で70代の老婦人がベランダの物干し竿で首吊り自殺する事件もあった。
表に出ない悲劇は無数
これらの事例は事件として表だっただけのことであり、表に出ない悲劇は無数にある。また、紙一重の状態におかれている人となればもっと多く、周囲の人人は「明日はわが身」の切迫した思いを抱いている。
市営団地に住むAさん(57歳・女性)は、腰を痛めて仕事を辞め、37日間入院していた。
「働けないため収入がなく、年金もまだもらえない。寡婦手当をあてても医療費が5万円もかかっては生活できないので、区役所に生活保護の相談に行っても成人した子供がいるということでけんもほろろに断られた。20代でまだ経済力がないうえに家族もちの息子を頼るわけにはいかない。孤独死は他人事ではない」と語った。
さらに、「隣の家も、奥さんが肺ガンで入院して意識不明。85歳の主人が1人で家にいるが、ほとんど外出せずどんどんやせていく。コメはどこかから送ってきているが、おかゆでも炊いて食べている形跡がない。このまま置いていたら死んでしまうので気が気でない。以前、近所に住んでいた元タクシー運転手も亡くなった。少ない生活保護費の中からこつこつためていた50万円で葬式をしたようだ。親戚も引き取り手がなく、無縁仏にされた」と歯止めのかからない老人の孤独死にやり場のない憤りをにじませた。
別の市営団地に住むBさん(60代・男性)の妹は障害者で1人暮らしだったので生活保護を受けていたが、去年11月に打ち切られた。家賃が払えなくなって家を追い出され、寒い冬空のもと路頭に迷い、夜な夜なこっそりもといた家に帰っては夜露をしのいでいた。今年2月に、区職員が家の中に倒れている妹を見つけて、すぐに入院させたが1週間のちに亡くなったという。
何の連絡も受けていなかったBさんは妹の死によってその事情を知った。「表ざたにはなっていないがそういう話はざらにある。勝手に保護まで打ち切られ、経費節減のために殺したようなものだ。許せるものではない」と冷酷な福祉行政への憤りはおさまらない。
現役世代も綱渡り状態
このような事件が増えている背景には、現役世代が親を養えないという現状がある。不安定雇用や派遣労働が増え、低賃金のうえにケガや病気で失職すればたちまち生活苦の深淵に落ち込んでしまう綱渡り状態におかれている。
2人の小学生の子供を持つ30代の母親は、「パートで老人施設に働きに出ているが、そこでも親族もお金もない老人は悲惨だ。亡くなったあとも病院には引き取り手のないお骨が放置してある状態。わたしの母も年金5万円で暮らしているのでなんとか引き取ってあげたいが、 子供を抱えて家計も厳しい。夫婦共働きだが、税金から家賃、光熱費、医療費などは値上げされ、食費から切り詰めているくらいだから引き取ることができない」と話す。
区内の公団住宅に住む50代の女性は、飲食店を経営していたが、不規則な生活がたたって脳内出血で倒れ、40代で半身不随の身になったことから生活が一変したという。
数年前に離婚して、20代の息子1人、初年性認知症の母親をかかえ、家事さえまともにできない体では店もたたむほかなく、息子も失業中でアルバイト生活。収入はないが、医療費はかかる。藁をもすがる思いで区役所に生活保護の申請を相談にいった。
「働けるようになるまででいいから助けてもらえないか」と必死に頼み込んだが、母親がかけていた生命保険があることを理由に断られ、それからは何度頼んでもノレンに腕押し。生命保険は母親の葬式代としてとっていた唯一の蓄えであって切り崩すわけにはいかず、その後は、家族3人が月7万円の母親の年金での生活となり、電気はつけない、トイレの水も流せないという毎日を2年間送った。
「何十年も一生懸命働いて保険料や税金を納めても、結局とられるだけだった。銀行や大企業はつぶれそうになれば莫大な国家予算がつぎ込まれるのに、市民は死んでも放置される。政治の体質が変わらない限りはこういう問題はなくならない」と怒りをこめて語った。
また、死後数カ月たって見つかるケースが増えていることについて、夫婦共働きが増えてほとんど家にいない親が増えていることや、市の予算削減で、市営住宅に管理人をおかなくなったり、自治会のお祭りや行事が極端に減ったことで地域のつながりが希薄になっていることなどが語られ、社会保障費を切り捨てる「自己責任」政策の結果と語られている。
門司区の濱田保護課長は、「わたしたちは国の定めた法律にのっとって仕事をしている。生活保護の審査については不公平さのないよう厳格におこなっている。後楽町団地の件は、水道や電気が止められていることは把握していたが、息子さんに扶養義務があり、当然援助すると判断したのでその後の状態は確かめなかった。行政の対応は適切だったと思う」と語っている。
 
「子供がいない」というリスク / いつか日本人がいなくなる

少子化は、すでに先進諸国共通の社会問題になっている。日本でも、生まれてくる子供の数は減る一方だ。日本女性が一生のうちに生む子供の数は、平均で1.29人(2005年、厚生労働省発表)。1組の夫婦が少なくても2〜3人は 子供を生まないと、日本人は将来いなくなってしまうかもしれない。
政府は少子化対策(次世代育成支援)を色々と考えてはいるが、残念ながら効果はそれほど見えてこない。少子化で問題になることとして、国力や労働力の低下、財政の悪化などが取り沙汰されるが、実は私たち個人、一人ひとりにとっても、 子供のいないリスクは存在する。
今回は、子供がいないことで、どんな困ったことが自分自身に起こるのか考えてみたい。
入院したとき保証人がいない
高齢者向けの住宅や施設に入るとき、病院に入院するときには、たいてい保証人が必要だ。場合によっては保証人が2人要ることもある。家族や身内、あるいは友人に頼めればよいが、それができない場合、とても困ってしまう。
長生きは喜ばしいことだが、高齢になるほど配偶者や兄弟も亡くなって、友人や親しい人たちがどんどん先にいってしまう。そうなったとき、子供がいれば保証人になってもらえる。けれど、 子供がいないと保証人探しに苦労することは間違いない。
介護してくれる人がいない
「介護」というと、食事を食べさせたり着替えさせたり下の世話などを想像する人は多いようだ。確かに寝たきりになると身体介護は欠かせない。けれども現実には、寝たきりになる前にすべきことがいろいろある。まず、体調の変化を観察したり、病院選びや医者との付き合い、介護保険を使うなら役所へ行って申請手続きをしなければいけない。本人が判断できなくなっていたり、例えば脳梗塞で動けない状況だったら、誰が医師や関係者と介護について相談したり判断したり手続きを取ったりするのだろうか。
いまどき、身体介護はお金を払ってケアサービスを利用すれば何とかなるが、そのケアサービスは依頼しないと受けられないのが現実だ。
子供や身寄りのいない人が要介護になったら、いったいどうなるのか。今後、この問題は社会全体で考えるべき重要事項になると予想されている。
自分の最期の始末をしてくれる人がいない
不老不死の人間はいない。いつか自分もあの世へ旅立つ日がくる。そして、自分の葬儀や埋葬は、自分では決して行うことはできないのだ。それをやってくれるのはいったい誰か。
一般的な例は、夫が亡くなった時は妻が行い、妻が亡くなった時は子供が行うことになる。しかし、子供がいない人はどうするのだろうか。「死を考えるなど縁起でもない」と、何も考えない人は多い。自分の死後など考えたくもないという気持ちはよく分かる。けれども、 子供のいない人こそぜひとも考え、そして信頼できる人を探し、頼んでおくことは大切なことだと思う。
頼み事は、葬儀や埋葬だけではない。税金、年金、保険、銀行など、様々な手続きと、自分の使っていた衣類や荷物(遺品)の処分。これもかなりの大仕事だ。
税金は税務署、年金は社会保険事務所、健康保険は市区町村役場、取引のある金融機関すべて、不動産の登記は法務局と、手続き関係だけでも大変な労力と時間を要する。そして荷物の整理と処分。これは経験のない人にはピンと来ないだろうが、実際にやってみると本当に骨が折れる作業なのだ。私たちが日ごろ、いかに多くのモノと一緒に生活しているか、遺品を整理すると実感するに違いない。
子供がいない人は、まずは甥(おい)や姪(めい)が、後始末を頼む人の候補になるだろう。甥や姪を可愛がっておくことは、とても大切なことだ。
相続で配偶者の身内とトラブルの可能性がある
民法では、子供いない夫婦の場合、亡くなった配偶者の親または兄弟姉妹も相続人になることが定められている。例えば夫が亡くなったとき、夫の親も亡くなっていたら、夫の兄弟姉妹と妻が、夫名義の財産を分け合うことになる。法定相続による遺産分割は、妻が4分の3、夫の兄弟姉妹が4分の1という割合だが、どちらか一方でも遺産の額に不満があれば裁判になる可能性がある。また、もし相続財産が自宅だけという場合は、その自宅を売却し、現金化して分けることになるかもしれない。そうなると、残された妻は住み慣れた我が家を失うことになってしまうのだ。
ただし、遺言書があればトラブルなどは防げるはず。本来、相続には遺留分(必ず取得できる財産の権利)というものがあるが、夫の兄弟姉妹に遺留分はない。遺言書に「妻に全部譲る」と記載すれば安心だろう。けれど、妻が先ということも、ないとは言い切れない。 子供のいない夫婦は、どちらが先にいっても困らないような相続対策をしておくことが必要といえる。
お墓が無縁墓になる
お寺さんとお付き合いのある都会人は少数派かも知れないが、地方に住んでいる場合は古くからお寺さんとのお付き合いがあり、菩提寺に先祖代々のお墓がある人は多い。菩提寺になくても、墓地や霊園など、必ずどこかに先祖のお墓があるだろう。昔から所有している土地の一角に、先祖や親戚の墓が並んでいるという家も珍しくないようだ。
寺院墓地はもちろん、自治体や民間の霊園も、毎年、檀家料や管理料がかかる。それらを負担してくれる子孫がいないと、無縁墓・無縁仏となってしまう。土地も相続する人がいないと、そこにある祖先のお墓はどうなるのだろう。そして自分の入るお墓は。
先祖や自分たちのお墓をこれからも守り続けるのは、意外に簡単なことではない。
後継ぎがいない
由緒ある家柄や珍しい名字、先祖から受け継いでいる財産があったり、事業で成功した場合などは、できれば子孫に継いでほしいと願うだろう。でも子供がいなければ、それはかなわないこと。例えば、莫大(ばくだい)な財産があったとしても、相続する者がいなければ没収されてしまうことを認識しておこう。
せっかく買ったマイホームも、子供がいない場合、自分の亡き後、誰のものになるのか。そこまで考えて、家を持つことを検討すべきではないだろうか。
子供とともに親として成長する体験ができない
子育てをしていると人間の原点を感じることができる。いま、どんなに偉そうな人でも、赤ん坊だったころの様子や泣き顔を想像しただけでおかしくなる。そして、幼い子を抱きしめる喜びはどんな大金でも買えないものの一つだ。
また、子供が成長していく過程を毎日じっくり観察するのはけっこう楽しいもの。子育ては同時に親育てでもあり、自分も親として、人として学ぶことは多い。自分の子育てを振り返ってみると、 子供のおかげで成長させてもらったような気がする。早いもので、我が子は間もなく二十歳。子育てという大事業を終えた満足感を、一人でも多くの人に体験してもらいたいと願わずにいられない。
子供を持たない生き方もよいかもしれないが、子供を持ってみると、生んでよかったと感じる瞬間があり、命に感謝するときが必ず訪れるような気がしている。

子育てほど「苦あれば楽あり」を実感するものはない。少子化の一番の原因は、お金がかかることだといわれている。確かに教育資金の負担は重く、子供がいると、特に母親は自由を束縛され、仕事などが思うようにできないときもある。さらに、相当のエネルギーも必要だ。多分、 子供に悩まされない親などいないだろう。でも、どんなに子育てに苦労しても、子供はいつか必ず大人になる。そして将来、自分の「老い」という現実に向き合うとき、誰よりも助けになるのはやはり我が子なのだ。
いま、若い人たちは、自由を満喫していることと思うが、人は生まれる時と死ぬ時は、必ず誰かの世話になることを忘れないでほしい。
もし、子供を産むか産まないかで、悩んでいる人がいるとしたら、ぜひ親になる喜びを味わってもらいたいと思う。お金はどうにかなるものだ。
世の中には、何らかの事情で、子供ができないご夫婦もいるだろう。そんな場合は、養子(里親)という手段もあるので、考えてみてはいかがだろうか。  
 
日本はこれから無縁仏ばっかになっちゃうぞ

年末は大阪に帰り、豊中にある父方の実家のお墓参りに行ってきた。欠かさず10年以上、年に1〜2度は行っているが、その度毎に気づくのは「お墓の入替」だ。
まぁ要するに無縁仏を整理し、新しいお墓を入れているってことなんだろけど、これはかな〜り深刻な問題だと思う。
加藤家に限らず、日本人が先祖代々守ってきたお墓も、戦後急速に進んでいる少子化という魔物の前では、総じて危急存亡の危機である。すなわち、多くの家督断絶を意味する。
檀家はお盆や回忌の折にお布施を納めているだろうけど、この当たり前のことが、、例えば20年後にサステナブルであるか、どうかは相当疑わしい。
僕の知る限り、戦前生まれの世代にとって、、これはかなりキツイ。何故なら子供の時分から「ご先祖様のお墓を守ること」は最重要事項とじーちゃんばーちゃんから叩き込まれているはずだからだ。
が、しかもソリューションがない。それを解決するもナニも、それ以前に、、現代では己が育てた子供やその子孫が、新たに子供を作る、育てる意志がないのだ。残念ながら。
この教えてgooでのやりとりのように、子供が女性しかいなくても、嫁いだ先に吸収合併されるという方法もあるようだけど、、なんとかしないと、ご先祖様に申し訳ないことになってしまうわけだ。
この「高齢者共通の問題を、物理的に解決する」ことが出来れば、我が国の1400兆円弱の個人金融資産の70%を持っている60歳以上の高齢者の皆さんの財布は緩むに違いない!と思う。アイデア・・まだ浮かんでないのですけど。
今の日本は、20年くらい前の「農家に嫁を!」ってフィリピーナを日本に呼んで集団お見合いしてた頃とは違う。あのギラギラとした肉食系のノリはもうない。
サラリと、、お墓を守ってくれる子孫!?が増える仕組み!という切り口での、斬新な少子化対策事業を起こせば、お金持ち高齢者からの消費、融資、投資が期待出来るのではないだろうか。  
 
「無縁仏」ニュース

増える「無縁仏」家族関係の希薄化、長引く不況 / 2009年12月
亡くなっても遺骨の引き取り手がない「無縁仏」が、宇都宮市内で増加傾向にある。同市生活福祉課によると、10年前は1けた台だったのに対し、2008年度は46人にまで増加。本年度も既に31人に上っている。行き倒れなどの身元不明者はごくわずかで、家族や親族が引き取りを拒むケースが多いのが最近の特徴だという。
孤独死や自殺などで亡くなった場合、警察署から市に一報が入る。市は住所や戸籍をたぐり寄せ、家族や親族を捜す。身元が判明しなかったり、家族らが引き取りを拒否した場合は、市が火葬し、市営墓地・北山霊園内の「無縁故者納骨堂」に遺骨を納める。
無縁仏となる人は、1998年は身元不明者5人を含む計6人だった。しかし、ここ数年、増加傾向をみせ、2005年には50人に。このうち、身元不明者はわずか3人で、ほとんどが引き取りを拒否されたケースだった。
今年3月に自殺した30代男性は、両親がともに亡くなっており、市が親族を見つけ出して引き取りを求めたが、「もう長い間付き合いがなく、縁も切っている」と断られた。
県医事厚生課によると、県内では宇都宮市以外に、無縁仏が大幅に増加した自治体はないという。「都市部で、家族などの人間関係が希薄化していることの表れだろう」(市生活福祉課)という。
また、無縁仏となる人の中には、生活保護受給者が少なくない。08年度は46人のうち、30人が生活保護を受けていた。同課は「長引く不況も影響している。少子高齢化、核家族化などさまざまな要因もあり、今後も増加していくのではないか」とみている。
貧困と孤独、無縁仏に遺族不明や引き取らず / 2010年4月
入所のお年寄りら10人が死亡した群馬県渋川市の「静養ホームたまゆら」の火災から1年。東京都墨田区から送り込まれて犠牲になった6人のうち、3人の男性は遺骨の引き取り手さえいなかった。火災は高齢者の貧困と孤独、家族のきずなが失われた現状をあぶり出した。頼れる家族が身近になく、晩年を孤独に過ごす人たちの急増を、厚生労働省の調査結果も裏付けている。
たまゆら火災の犠牲者で、墨田区から生活保護を受けていた3人の男性の遺骨は今、無縁仏として東京都練馬区内の納骨堂に安置されている。
納骨堂は、自治体の依頼で生活保護受給者や行き倒れた人の葬儀(助葬)を行う社会福祉法人「東京福祉会」が管理。野宿生活者だった3人は、遺族が見つからなかったり、いても引き取りを拒まれたりした。法律上死亡したとみなす「失踪(しっそう)宣告」を、家族から受けていた人もいた。
遺骨は5年間安置された後、埼玉県の霊園に移される予定。都会を追われ、たまゆらに行き着いた3人には、今も「終(つい)の棲(す)み家(か)」が遠い。
生活保護受給者が死亡し、葬儀をする身内がいない場合などに使われる「葬祭扶助」の件数も急増。東京都では2000年度に月平均262件だったが、08年度には1・7倍の437件に伸びている。
3人のように引き取り手のない遺骨も増えている。東京福祉会は07年度に2700人の助葬を行い、うち約1000人が無縁仏になった。東京福祉会の増田正男福祉部長は「集団就職で上京したが体を壊した人や、親を亡くして兄弟や親族と疎遠になった人など、さまざまな事情がある」と説明する。
悲劇を直視、葬送支援も / 2010年3月
東京都練馬区の住宅や商店が密集した一角にある納骨堂「聖恩山霊園」。約6600柱が納められた棚の中に、「静養ホームたまゆら物故者之霊位」と書かれた扉が三つある。火災で犠牲となり、引き取り手がなかった男性3人の遺骨が、そこに眠る。
犠牲者10人のうち墨田区の紹介で入所した生活保護受給者6人の遺体は、区の依頼で、納骨堂を運営する社会福祉法人「東京福祉会」を通して火葬し、うち3体は親族が引き取った。職員の増田正男さん(60)は「いろいろ遺体は見ているが、やはり火事の時はひどい。さぞ苦しかったのでは」とやるせない表情で語る。
同会は、身寄りのない人や身元不明者のための葬儀「助葬」を約90年前から続けている。1990年度は1357件だったが、2008年度は2511件。引き取り手がないため納骨堂に納めた遺骨は、07年度は993柱だった。同会は「助葬を行う業者は増えたので、社会全体での助葬件数はさらに増えているだろう」と説明する。
同会では、遺体を亡くなった場所に直接引き取りに行くこともある。増田さんは7年ほど前、都営住宅で引き取った独り暮らしの高齢の女性が忘れられない。遺体が見つかったのは、死後しばらく放置され、周辺に異臭が漂ったからだ。「腐敗臭で初めてわかるなんて……。なぜそんな死に方をしなくてはいけないのでしょう」

経済的に恵まれず、引き取る親族もいなかった孤独な高齢者が、たまゆらでは多数亡くなった。その悲劇を自分たちの問題としてとらえた人もいる。
東京都の僧侶中下大樹さん(34)は火災翌月の昨年4月、無縁仏などの葬儀をあげる団体「葬送支援ネットワーク」を設立し、活動を続けている。
28歳で住職の資格を取った後、3年ほど新潟県の仏教系ホスピスで働き、約500人の死に立ち会った。東京に戻ってからは路上生活者のための炊き出しに参加するなど、貧困問題に取り組んできた。たまゆらの火災のニュースを聞いた時は「これを「かわいそう」で終わらせたくない」と思ったという。
同団体は、中下さんと友人の葬祭業者の2人が中心で、これまでに80件ほどの葬儀を行った。予約は次々に入り、常に1件は葬儀を抱えている。「無縁仏は写真も位牌(いはい)もなく、火葬して終わり。それが身内なら、自分ならあまりに悲しすぎる」。花や写真を飾り、実質的にボランティアでお経をあげ、持ち出しになることも少なくないという。
たまゆらの犠牲者を悔やみ、昨年4月に東京都内で開かれた追悼集会、5月に火災現場で営まれた四十九日法要では、呼び掛け人の1人となった。今年3月19日には火災現場で一周忌の法要も予定する。
「家族との関係性が崩壊し、都会の住宅事情も貧困だから、たまゆらのような施設が生まれる。亡くなった方をしっかり弔ったうえで、この問題を社会に知らせていきたい」。中下さんは力を込めた。
お墓の継承
お墓の継承について困っています・・・・お墓の継承を主人の親族から頼まれ困っています。主人は父親の弟に育てられ、そのおじさんが現在の墓主となっています。主人の父親、おじさん他の兄弟についてですが長男(子供・娘3人いる)亡くなった妻が別の墓にいてそこの墓主のため無理と言われる次男(子供・息子1人、娘2人)妻が長女で妻側の墓を見るため無理と言われる長女結婚し別性に次女同上三男主人の父親・家出をしていて行方不明四男主人の面倒をみてくれた未婚。書類上、養父とはなっていない。現在の墓主三女結婚して別性にこうなっていて、長男次男が放棄したため、主人に話がきています。はっきりいって私は嫌なんです。主人は父親が幼少からいなかったのですが、結婚してから親族の行事(法事など)に行くと、一番下っ端といった感じに見えました。大事なことも主人の耳には事が終わってから他人から聞かされたり・・・・と、言うなればそんなに頼りにもされてない感じです。それは気楽でいいのですが、今回お墓の継承に関して主人しかいないみたいなことを言われなんでこんな時ばかりまるで跡継ぎみたいないいかたをしてきたのです。納得いかないし、嫌なんです。主人がみなければ無縁仏になってしまうらしく、それに関してはちょっときにかかりますが、墓の継承者になるつもりは全くなく嫌なんです。みんな事情があるにせよ、無責任に放棄しないでほしいです。私達夫婦が見るしかないのでしょうか?本当に困っています。私達も放棄してもいいのでしょうか?主人も無縁仏にするのはいたたまれないけど、継承は荷が重過ぎるといっています・・・・。何かいい方法ないですか??ちなみに私も主人も35歳です。
 
不運な霊を悼む配慮

供養してくれる縁者のいない死者の霊である。子孫が絶えたり、行き倒れや水死、又地震・火事や戦争で死んだ身元が確認されず、奉祀者の無い霊は供養を受けられない為、常に腹を空かさせて彷徨い、人や地域に祟りをなすと信じられた。
聖徳太子は「家ならば妹が手枕かむくさまくら旅に臥せるこの旅人あわれ」と、国の命令で徴用され、帰途に路傍で息を引き取った農民を憐れんでいる。
平安時代には、村人は頻発するこうした身元不明者の死を非常に恐れると共に憐れんで弔った。鎌倉・室町時代になると無縁仏の祟りを恐れて、村境や墓地に無縁塚や三界万霊塔を建てて供養している。
江戸時代には更に普及して、家毎に盂蘭盆に先祖霊を迎える時、精霊棚(盆棚)とは別に無縁仏の為に無縁棚(餓鬼棚)も供えた。これは無縁仏への供養心によるが、無縁仏が祖霊に紛れ込まない様にとの気遣いもあった。盆踊りは先祖霊と交歓すると同時に無縁仏を慰める意味も有った。
又、浄土真宗以外の宗派では施餓鬼が営まれる。元は時期を選ばずに行われたが、現在は盂蘭盆に行われることが多く、両者よく混同される。  
 
骨仏は無縁仏ではない

一心寺の骨仏といえば有名です。遺骨を使って大仏を作り、永代供養するというものです。
これについて誤解が多く、間違った情報が流れているように思う。
よく聞くのが「あれはのたれ死んだ人の無縁仏を葬っている。西成のホームレスの亡骸を供養してるのだ」という誤解。
それは間違いです。骨仏永代供養は、立派な墓立てるに比べたら格段に安いとは言え、タダではありません。
かくいう我が家も母方の祖父母は一心寺さんに納めており、お彼岸には毎年行きます。
(一心寺は浄土宗ですが、宗派は問わない。日本の葬式ってのはそもそも仏教というより神道的観念だし、幸せな死を希望する阿弥陀如来のお経を唱えてもらうのでよかろうと思います)
近場の四天王寺の五重塔内に位牌を永代供養するのも墓作るより安めですが、それと骨仏供養って値段ほとんどかわんないですよ。
ほんとの貧乏人はそんなことしないでしょう。
そうでなく、府民の普通の庶民信仰として骨仏が現在あるという現実が正しく報じられていない。
ご近所でもようけ一心寺の骨仏にしたって家は多いし、貧民とかなんとかでなく、子供も少ないし、転勤族だし、あんまり墓参りもいけないし管理も大変。一心寺さんのお骨仏なら、ずっといつもお経唱えてもらって大事にしてもらえるしいいでしょ、という現代的な理由がそのほとんどです。
お彼岸などに行けば賑わっていますが、身なりのよさげな奥さんなどがたくさん参拝しており、ホームレスは一切見かけません。現代の意義は「あまり自分で墓参り行けないなら骨仏のほうが丁寧に奉ってもらえる」という現代的理由がそのほとんどなのです。
先の記事に挙げた大阪DEEP案内でも一心寺骨仏を奇異の目で記事にされたようですが、非常に認識間違ってると言わざるを得ない。
>その裏の「一心寺」では、行き場を失った無縁仏が誰にも知られず葬られる。
>一心寺に納められた無縁仏の骨は、10年に一度「骨仏」として形作られ、納骨堂に鎮座される。全国広しといえどもホンモノの人骨を使った仏様が堂々と奉られているのはこの一心寺以外知らない。
>西成のドヤ街を抱え、年間数百人が路上で死ぬという、特殊な地域。
>恐らくは全国で最も無縁仏の骨が集まるだろう、この大阪ディープサウスエリアにおいて骨仏の寺として名を馳せる「一心寺」の存在は必然でもある。
えーとまず、まずそのほとんどは無縁仏では無い。お彼岸などには家族連れがみんな拝みに来ます。
骨物は単なる永代供養の一方式でして、低価格とは言えそれなりに金もかかるし本当ののたれ死には供養もされない。
西成のドヤとは関係無いでしょう。最初の骨仏は幕末だし、ドヤとか関係無いやん。
それと、骨仏を一心寺だけの風習のように言うのは間違いです。これはわりと全国に波及していて、各地で骨仏永代供養はわりとよく見られます。
例えば、曹洞宗白王寺[中村観音](名古屋市)・浄土宗来迎院法然寺(香川県)・浄土宗長専寺(福岡県)・真宗大谷派敬覚寺(広島県)・浄土宗西福寺(福井県)等、これらの寺でやはり骨仏やってるそうです。まだあると思います。確か鹿児島あたりにもどっかやってたような記憶がある。
そんな珍しがるほどのもんではないです。
骨仏は特異な信仰というより、むしろ脱宗教化のご時世の結果としてあるのです。
府民の慰霊碑のようなもんです。
なんでもかんでも西成のドヤと結びつけるのは間違った見解です。
少子化の時代ですから、毎日みなさんから線香あげて頂き、お経読んで頂ける、楽な供養として普及しているといったほうが現代妥当かと思います。  
 
先祖供養について / 有縁と無縁の仏

よく無縁仏と聞きますが、これはなんの仏様でしょう?
自分に関係の無い仏様と勘違いなさる方が多くおりますが、実は大変関係が深い仏様なのです。
私達の祖先はお仏壇に安置された方々だけでは無いのです!
今の自分から見て自分の血縁者は江戸時代にも平安時代にも必ずおられますね。
自分の上には両親がいて、その両親の上には父の両親と母の両親がおります。そして、さらにその上には、又、その両親がいるのは当然の事ですね。
つまり自分を磁区に考えたとき自分から逆三角形のように物凄い数の祖先が入ることを実感します。しかし、仏壇に祀られているのは、三代前から四代前の方々が平均だと思います。
そこに祀られていない自分の先祖を無縁仏と考えるのです。
自分に関係が無いのではなく、その方々がいたから、今の自分が存在するという事を実感して日々、有縁仏と無縁仏と供養したいものですね!合掌  

野崎参りは無縁仏供養のイベントである

無縁仏供養が功徳になるという発想は江戸期にありまして、伊勢講じゃないけど、無縁仏講みたいなもんまであって、無縁仏名所みたいなおかしなことも発生していたわけです。
まあ江戸人の御利益大好き信仰の流れにあるはなしなんでしょうけど、それだけじゃなく同時に先人に感謝!というまっとうな意識も当然あるわけです。
僕は寺巡りして、無縁仏ピラミッドとかあると、積極的に寄っててナム〜とわりとするほうなんですが、ヤな顔して避ける人が多そう。死者は祟る式の考え方はどうかしたほうがいいよ、ほんと。
先人に感謝!あんたらが居るから今の我々があるってな感覚でナム〜でいいんじゃないでしょか。
祟るから祀るじゃ、それこそ不敬なんじゃないかとすら思います。
神道など日本古来の祖霊信仰でも、死霊は祟るのでなく、祀ると守ってくれるありがたいもので、感謝の対象なのです。祖霊は山に帰り村の守り神になると考えるのです。
祟るから金出せ、霊障だ霊障だなんて霊感商法は、仏教ではもちろんないだけでなく、神道など日本の祖霊信仰の伝統の観点から言っても異端の発想です。
私は仏教徒ですから仏教的な立場でいろいろ霊感商法を否定してますが、仏教徒でない人にとってもやはり変な思想と思いますよ。
そもそも僕が幽霊を怖がらないのもあると思います。幽霊って人の魂って定義なんでしょ?そこらのおっちゃんおばちゃんが怖いかい?同じじゃん。恐れる理由がわかんない。
幽霊が霊魂だというなら、オレの中にも魂あるはずで、別段負ける要素が無いではないか。少なくともイーブンだ。変な霊障とかで脅されてビビらず、自分に自信を持ちましょう。
その脅える心は、外のなんらかに対する恐れでなく、あなたの心にある弱みに対する恐れです。自分に自信があり、一点の曇りもなければ幽霊などを恐れるはずがない。何かされるんじゃないか?というのはあなたが弱点を抱えているからなのです。
それを克服することで対処すべきで、霊能者はそこを決して埋めはしません。
墓から逃げるな!恐れるな!というのを言いたいですね。
そういう弱い心が、自称霊能者に付け入るスキを与えるのです。
むしろもう寺巡りに飽きて、お墓巡りしたい気に最近なってます。
近世の無縁仏供養巡礼をひとり復活させようかと最近思ってます。
ガンガン人が寄り付かない、オカルト者は恐れまくるような寂れた無縁仏のお墓に行こうと思うのです。
そんで線香でも焚いてまわりたい。そんでそういう文化を広めたい。
そしたらきっと霊障を煽って心の弱い人を食い物にする連中は居場所無くしていくと思うのです。
墓をもっとカルチャーに!
さて、江戸期無縁仏カルチャーといえば、ほとんどそれがそうだとはもう知られてないけど
有名な野崎観音の野崎参りというお祭りは、あれは無縁仏供養のイベントなんです。
なんか野崎参りつって行楽やお祭りになっちゃってますが、あれは無縁仏法要なんです。
野崎参りははっきりと無縁仏の供養イベントとして元来あったもんです。
もちろん行楽という一面もあるんですが、同時に無縁仏供養の功徳みたいなもんがはっきりあったと思います。
なんか今の野崎参りは、何のための何の祭りなのかよーわからん。コンセプトはっきりさせたほうがいいんじゃないかと思うんですが、
最近の人らは無縁仏供養の功徳とかそういうのより、無縁仏コエ〜というほうにいっちゃいがちなんかなあ?
 
氷と水のごとくにて

今年(2010年)は日本各地で降雪があり、地球温暖化と言われながら結構寒い日が続いている。北米でも、ワシントンは大雪だが、冬季オリンピックが開かれているカナダのバンクーバーでは気温が高くて困っているという。先日、ある新聞の広告で、やっと乗れる小さい氷に悲しそうに乗っている白熊の写真を見た。地球全体では明らかに温暖化に向かっており、北極では万年氷が溶けだし、生態系に影響をあたえている。
氷といえば、先ず思い浮かぶのは、白隠禅師(はくいんぜんじ)の「坐禅和讃」の冒頭の句である。
衆生本来仏なり
水と氷の如くにて
水をはなれて氷なく
衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして
遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て
渇を叫ぶが如くなり…
仏教では、水と氷の関係を、よく仏と衆生、菩提と煩悩の関係にたとえる。水は氷にも水蒸気にもなる。水の時は、自由自在で決まった形がなく、丸い器に入れれば丸くなるし、四角い器に入れれば四角になる。水はあらゆるものと融合し溶け合う。硬い岩石も水滴で穿ち、上流のごつごつした岩にも逆らわず、それに沿いながら溶かし、下流に行くに従い丸石や砂利に変える。一方、氷となると、水のような融通無碍の性質はなく、型にはまった固体であり、それ以外の形はとれなくなる。この水の二つの形態から、融通無碍の水は菩提(悟り)に、カチカチに固まった氷は煩悩に譬えられる。
「坐禅和讃」に帰ると、衆生(われら)と仏が、もともと一つもので、あたかも水と氷のような関係にあると。水は清らかで、妨げるもののない融通無碍なるものであるが、自我意識や所有欲に駆られ、本来自由なものである水を執着することにより、かちかちに凍らして不自由な状態(氷)にしてしまう。しかし、氷の本体は水であることに変わりないのだから、水を離れて、氷はない。そのように、仏をはなれて我もない。仏と我らとは同根の密接な関係にある。覚っている姿を仏と呼び、迷っている姿を衆生と呼んでいるに過ぎない。それを知らずして悟りを遥かかなたに求めている。なんと愚かなことであるか。まるで水の中に居て、のどが渇いた、水をくれと叫んでいるようなものだ。
白隠禅師は、坐禅の功徳により、水と氷の譬えのように、氷(煩悩)の本質は水(菩提)であることわりを覚るなら、この身すなわち仏なりと覚ることができるのだ、氷も本来水から生じたものであれば、恐れたり、嫌う必要はない。水という仏性がさまざまな因縁により、氷という異なった姿を仮にとっているに過ぎないのだと説かれた。
又、親鸞聖人の「高僧和讃(曇鸞讃)」には、
無碍光(むげこう)の利益(りやく)より
威徳広大の信をえて
かならず煩悩のこほりとけ
すなはち菩提のみづとなる
罪障功徳の体(たい)となる
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さはりおほきに徳おほし
この和讃は、煩悩に苦しむ我らを励ましてくださる。煩悩に覆われているからといって、嘆き悲しむことはない。氷(煩悩)が多いということはそれだけ水(菩提)が多いということだ。無碍光の利益というのは、妨げることがない阿弥陀如来の慈悲の光ということだが、大日如来の遍照光明といってもよい。威徳広大の信を得てとは、人を畏服させる威厳と心服させる広大無辺の信心を如来よりたまわることにより、必ず煩悩の氷が溶け、それがそのまま菩提(さとり)の水となる。罪業によるさわりが、かえってそのまま良い果報をもたらす善行の基となる。氷と水の関係のように、氷が多ければ多いほど水も多い。業障が多いだけ功徳も多いのだと説かれた。仏教の最大の課題は、煩悩と悟りの関係であるといって差し支えないと思う。出家中心の初期の仏教では、煩悩は悟りを妨げるもので、一日も早く抹殺すべきものであるとされた。そうなると、世俗の地位名誉財産家族を捨てた修行者でなければできない。現に羅漢さんたちは、僧団でひたすら戒律を守り、煩悩と戦いながら修行にいそしまれた。しかし、出家した彼らでも、外的な物欲は捨てることができても、内面の欲はなかなか捨てられなかった。なぜなら、煩悩は外から来るものでない。「盗人(煩悩)を捉えてみればわが子也、切りたくもあり、切りたくもなし」である。煩悩は自らの内心から生じているからである。煩悩を排除することは、自分自身を排除することにつながる。下手したら、悟りを得るとは、己を無に帰する、灰身滅智(けじんめっち)のような境涯を求めることになる。
仏陀の教えを、もう一度深く見ていくと、出家の形をとらなくても、真実を求める気持ちのあるものは、在家にあっても、必ず成仏できると説かれているだけでなく、むしろ、業を造り煩悩に悩む在家のものを対象にして説かれたのが仏陀のおぼしめしではないかと立ち上がったのが、大乗仏教の始まりである。しかし、そこにはいつも煩悩の壁が立ちはだかる。煩悩と言っても、「客塵煩悩(きゃく(かく)じんぼんのう)」と言葉に象徴されるように、仮に外から塵が積もったもので、払えばとれる程度のものとしてみるか、骨の髄までしみこんだどうすることもできない根源的な迷いと見るかで、大きく異なる。客塵煩悩なら自分の修行の力により吹き飛ぶかもしれないが、煩悩はそんな、なまやさしいものではない。頭から爪の先までしみこんでいる。それを無くすことは、仏の助けなくしては不可能に近い。
空海はじめ、法然、親鸞、道元など、各祖師方も煩悩をいかに克服するかでご苦労なされた。わが空海も親から生んでもらったこの身が、どうしたら成仏できるか悩まれた。当時の奈良仏教は、煩悩をひとつひとつ消滅していかなければ成仏はできないと説いた。故に、今生では成仏は不可能とあきらめた。いわゆる三劫(さんごう)成仏である。空海は、密教に出遭って煩悩即菩提ということを知らされた。そして、即身成仏を確信された。
空海は、「十住心論・序」に
もしよく明らかに密号名字を察し、深く荘厳秘蔵を開くときは、すなはち地獄・天堂、仏性・闡提せんだい、煩悩・菩提、生死・涅槃、辺邪・中正、空有・偏円、二乗・一乗、みなこれ自心佛の名字なり。いづれをか捨ていづれをか取らん。
佛智により、現実をありのままに観るなら、地獄も天上の宮殿も、煩悩も菩提も、その他一見相反するものが、みな自らの心に宿る仏の名前であることが分かる。分別により異なって見えるが、みな自分の心から発している。どれを捨てどれを取ろうとするのか。
密教は、出家や般若の智慧を得た機根の高い人々を対象とする教えではない。それらも含めて多くの大衆が成仏できる法門である。密教では、仏は煩悩を一概に否定するのではなく、煩悩の本性をありのままに見つめる。プラスマイナスで見るのではなく、清浄な目で煩悩の起こってくる本源に目を向ける。そうすると煩悩も生じる以前は、虚空のごとき清浄なものである。煩悩も、縁あって、不生の世界である清浄な仏心から生まれたものである。生じた煩悩も、その原因を追って遡ると何もない清浄な世界にいたる。条件が変われば煩悩も変わる。永久に変わらないものではない。仏は、「煩悩即菩提」であると、我らに教えられたのである。この理は、迷っている人間には分からない。「煩悩即菩提」という形式は、分かるかも知れないが、ありがたいという気持ちはわいてこない。それは観念に過ぎないからである。「煩悩即菩提」は、佛智でなければ開けてこない道理である。煩悩を起こし業を造り、どうすることもできない我らに対し、仏様が、「煩悩が起きても悲しむな、煩悩の中に、いつも私が汝を救う本願を実践しているのだ。汝の三業において、休むことなく三密加持を行っているのだ、さあ一緒に真言を念誦しよう」とおっしゃっている。我らは、この「煩悩即菩提」という、仏の教えをただ信じ、いただくばかりである。業に苦しむ者には、佛の同体大悲が、よりありがたく感ずるのである。

「葬式は要らない」を読んで

著者は、元日本女子大教授で、現在は東大の先端科学技術研究センター客員研究員の島田裕巳氏である。
読後感は、はっきり言って、著者島田氏は何を言いたかったのだろうかということだ。このタイトルにあるように葬式は要らないと、時代の流れだと言いながら、条件付きでの、不要論であることを結論としている。
人が「最期まで生ききり、本人にも遺族にも悔いを残さない、私たちが目指すのはそういう生き方であり、死に方である。それが実現されるなら、もう葬式がどのような形のものでも関係な」く、自ずと葬式を不要にすると述べている。最期まで生ききる、悔いを残さないということをどのようなことをいうのかは記されていない。
延々と日本の村社会での祖霊崇拝や仏教のあり方、また諸外国の葬送にまで言及していながら、大事なところを語らずに外面的経済的な事情から葬式が要らないとだけ結論している。はたして、おおかたの人が今病院で亡くなる中で最期の最期まで自分の生を生ききれる人がどれだけあるだろうか、完璧に悔いを残さない人生を送れる人がどれだけいるであろうか。
そう考えるとき、この先生の言いたいことは葬式が要らないということではなくて、都会で流行る直葬に、安易にか、致し方なくか、そうせざるを得ない人たちに、やはり大切なことがあるのだということを教えたかったのだろうかとも思える。
それにしてはその大切な部分、葬式は要らないとして、葬式をせずに、亡くなっていく本人をどう弔うのか、また、遺族はどうしたらいいのか、その心のありよう、いかにしたら身近な人の死を受け止め、癒していけるのかということには全くといって言及されていないのは残念なことである。
確かに派手になりすぎるのも考え物であろう。金額的に各国ごとの比較もされているが、それがどのようなことに使われた金額なのか、その数字の取り方は内容的に整合するものなのかも詳しくは書かれていない。ただ日本人の葬式が贅沢になったのは仏教が葬式を担うようになったからだとし、葬式仏教と日本仏教を貶め、戒名という不透明な存在を批判する。
歴史的背景にも言及されてはいるが、それによって人々はどのように人の死を受け止め、何代にもわたり先祖を祀ることをどのように受け入れてきているのかという内面については解明されていない。身近な人が亡くなったときの残された人たちの心の問題にもあまり触れられていない。
島田氏が指摘するように都会と地方での家に対するとらえ方、地域の受け入れ体制の違いから葬式のありようが変わっていくことは致し方ないことであろう。経済的に誠に厳しい現状から葬式を出すこともできないことも考えられる。しかしだからといって、葬式が不要であると結論することはできまい。他の仏教国ではもちろん仏教徒が死後戒名をつけることはないが、葬式やその後の法要もきちんとなされている。
インドでの経験しかないが、インドの伝統仏教教団・ベンガル仏教会で、何度となく、仏教徒の葬式やサンガダーンという法事にも参加させてもらってきた。裕福な家は盛大に、貧しい家はそれなりに葬式も行い法事も行われている。他の国々も同様であろう。
違うのは、日本では死後四十九日の後に来世に転生すると考えるが、インドでは、七日後に転生すると考えられている。だから日本でいう四十九の盛大な法事に当たる法事を六日目ないし七日目にしていた。
だから、葬式は仏教でしても良いのではないか。それよりも問題なのは、檀那寺がある人は、そのことの意味をきちんと受け入れ、お寺の側は、人の死とはどのようなことか、葬式とはどのような意味があり、戒名とは何なのかをきちんと説明することではないか。そのことが不十分なので、この書でも、本人や家族知人が戒名をつけたらいいと書いてあり、それが単なる死後の名前、生前の人となりを表す称号だとのとらえ方をされてもいる。
生きるとは何か、死とは何か、どう生きるべきかをことあるごとに布教することこそがお寺の役割ではないかと思う。そして、それは僧侶自らがどうあるべきかということにいたり、各本山ともどもこれからの宗団僧侶がいかにあるべきかを侃々諤々議論すべきなのだと思う。島田氏もそのことを指摘している。そうすれば葬式仏教、戒名のあり方に対する批判も違ったものになると。
島田氏は、冒頭に引用したこの書の結論を述べる前に、故人を弔うために集まった人が故人がもう十分に生きた、立派に生き抜いたことを素直に喜ぶ、そんな葬式なら無用とは言えないとも述べている。また、「一人の人間が生きたということは様々な人間と関係を結んだということであ」り、「葬式にはその関係を再確認する機能がある。その機能が十分発揮される葬式が何よりも好ましい葬式なのかもしれない。そんな葬式なら誰もが上げてみたいと思うに違いない」とも書かれている。つまり葬式を擁護し、葬式のあるべき姿を提言してもいる。
それはどこであっても、おそらく地方にあっては地域社会との関わりの中で当然そのような位置づけのもとに現在でも葬式が執り行われているであろう。願わくは、都会にあっても、日頃から宗教者との関係を結び、出来れば様々な機会に人の生き死にについて話し関係を深めつつそのときを迎えるようにあって欲しいものである。つまり本書は、「葬式は、要らない」のではなく、「意味のある葬式推進論」であると言えよう。
追記/何度となく新聞に広告が載る。そこには過激なキャッチが所狭しと書かれている。「葬式に金をかけられない時代の葬式無用論。」「日本の葬式費用世界一。」「戒名を家族で自分でつける方法」ともある。確かにそんなことも書かれているであろう。しかし、島田氏の終章での結論は記事の中に書いたとおりである。広告のキャッチと実際に本を読んでの印象はまるで違う。
広告だけを見て影響を受ける人もあるだろう。本を読んだとしても既にすり込まれた関心を持った部分だけを読んでこと足れりとする人もあるだろう。都会では地域社会との分離、全くの形だけの葬儀が進行しているのかもしれない。しかしそうした地域ばかりではないはずだ。
葬式仏教と揶揄されるが、今日においても葬式法事によって、貴重な仏教を説く機会になっているばかりか、普段会えない親族との交流を図り、小さな子供たちにも親族地域社会との繋がりを確認する場として機能している。人間関係を築けず、家庭の中でも孤立していく人間関係をこれから私たちの社会がどのように健全なものにしていくべきなのか。そうした点に対しても何も触れられず、提案もなく、一方的に葬式無用をこのように宣伝するかの無責任な表現は厳に慎むべきであろう。  
 
死生観と中世仏教の思想 (抜粋)

死とは、それほどまでに、私たちにとって避けがたく、厳粛に受けとめ、直視しなければならない、文字通り一生の一大事である。 山崎豊子さんの「大地の子」は、私たち日本人の多くの涙をさそい、大きな感動を与えた。戦争により、生きた人間同士が行方もわからず引き裂かれる無情で悲惨な修羅場に、多くの人は涙した。映画化されたあの切ないかずかずの場面に、死の残酷を改めて思い知らされた。 戦前・戦中期の日本では、この「大地の子」さながらに、死は私たちの目に見える形で存在していた。この時代は、生と死がいつも隣り合わせになって身近にあった。医療施設が十分に整備をみない時代でもあり、「家で生まれ、家で死んでいく」のが常であった。子供たちも、弟や妹のうぶ声を自分の家の中で聴き、その子守りをしながら兄弟姉妹として過ごすのが一般であった。ひとたび家族の中に不幸があれば、悲痛な叫びと、とどめようのない涙が家を丸呑みするなか、最期の見送りをするのも自宅であった。 それが現代では、どうであろうか。改めて言うまでもなく、現代は「病院で生まれ、病院で死んでいく」時代になった。私たち人間の生と死の環境は大きく変わった。医療技術や設備の著しい進歩と充実に支えられ、私たちは医学に全幅の信頼を寄せつつ、一方では「自分が死ぬこと」すら忘れかねない時代に生きている。 しかし他方では、現代社会に固有のストレスが引き金となった自殺や交通事故死に象徴される、現代的な死と直面しながら生きてもいる。 そのような状況のなか、一九九七年に施行された「脳死・臓器移植法」を一大契機に、あらためて「生と死」の問題が私たち一人ひとりに、今日的課題として覆いかぶさってきた。この二十一世紀は、「死を忘れかけ」ながらも、決して忘れられない時代である。「脳死」と「臓器移植」という、前代に経験したことのない未知の事象をきっかけに、私たち一人ひとりの死生観が問われていると言えよう。現代ほど自分の死を直視し、真剣に考えることを求められている時代はない。本書がそうした時代的要請を考える上で少しでも貢献できるなら、これに勝る喜びはない。 本書は全体を三部構成にし、第T部の「現代日本人の宗教意識」では、現代における日本の宗教事情と宗教意識を問うことから始める。第U部では、これをうけて、「現代人の死の見方」のタイトルのもと、私たちは死をどのように捉え、それとどう対面しているかに構造的に迫ってみることにした。 戦後半世紀が経過した今、私たちの多くは自分の「生と死」という一大問題を考える上で決定的な意味をもつ「生きざまと死にざま」について、ひと筋の道すら見出せずにあえぐことが多い。そうした現代的な状況に照らして、試論的に「中世新仏教の死生観」と題して、中世鎌倉の仏教世界を照射し、そこに日本的な死生観の原風景をみようとしたのが第V部である。その具体的な実践者としての中世人は、現代の私たちの「生きざまと死にざま」を考える上で、ひとつの大きな指標になるであろう。 全体的に、史料は史料として忠実に復原することに心がけながら、併せて、現代人の生の声をできるだけ反映させるため、各種のアンケートや新聞資料にも目配りして、「生と死」を考える素材を、「生と死の日本思想」と銘打って提供した。
日本は宗教の博物館
日本人の価値観に決定的な影響を与えてきた思想ないしは世界観を大局的にふり返れば、大別して二つの大きな思潮があげられる。 一つは、日本的といわれる在来の神々の集合体である「神祇信仰」もしくは神社を中心に祀られる神道である。この神道が、皇室の祖神たる天照太神を祭祀し、日本の国家神として崇信を集めて、世に言う「神国思想」を形成してきたことは、人のよく知るところである。日本の歴史の上で、常に一貫して天皇制を推し進める思想母胎となってきた、日本を象徴する価値体系でもある。 この日本的な神道を「自宗教」とすれば、もう一つの思潮は外国から移入された「異宗教」である。この「異宗教」の代表格は、五世紀に受容された儒教、六世紀に迎えられた仏教、十六世紀に伝道されたキリスト教の三つである。この三つの外来宗教は、「自宗教」の神道とさまざまな思想交渉をくり返しながら、たとえば儒教のように時には国家体制の屋台骨を支えてきた。現世中心の此岸主義をとる儒教とは対照的に、来世中心の彼岸主義を旨とする仏教とキリスト教は、その時代の歴史にマッチした教えを説き、広く日本人の心を捉えてきた。こうした日本的な「自宗教」と外来の「異宗教」が奇妙にも共存している日本の宗教事情を指して、よく「日本は宗教の博物館」だと評する。この評言を確認し、さらにその具体的な様相を探るため、文化庁編の「宗教年鑑」(平成九年度版)をもとに作成したのが、次の表1〜4の統計資料である。これをもとに、「日本は宗教の博物館」と言われる理由ないしは現状を考察してみることにしよう。
仏教と葬式 / 青年の宗教意識
私は平成十一年(一九九九)一月に勤務先の学生二〇〇人に対して、一二項目からなる宗教意識のアンケートを実施した。表(サイトには不掲載)5がそのアンケート内容であり、表6がその集計結果である。対象とした学生は二〇歳前後であり、教員志望が多いものの、生活感覚的には平均的な青年層である。このアンケートの結果から、現代における青年の宗教意識を探ってみたい。 表5に見るように、アンケートの最初は神社に対するイメージについてである。まずクでは、神社の戦争責任について聞いてみた。これを自覚的に受けとめている人は、二〇〇人中、わずか一五人である。その大半は神社に対する戦争責任を問おうとはしない。これは戦争そのものが半世紀を経て風化してきていることを示すものであることは、推測に難くない。前章にみたように、神社は天皇制の思想基盤として、国家神道の中に神社神道の形で組織されつつ、地域の産土神としても生活に根づいていたという二面性をもっていた。私たちが神社の戦争責任という場合は、前者の神社神道の面を問題にするときである。 じつはこの神社神道の本体たる天皇の存在そのものも、時間の経過とともに見方が変化してきている。「現代日本人の意識構造」(NHK放送文化研究所編)の中の「天皇に対する感情」のアンケート調査が、そのことを端的に示している。これによれば、一九七三年における天皇に対する国民全体の感情は、「無感情」が四三%、「尊敬」が三三%、「好感」が二〇%、「反感」が二%であった。それが一九九八年になると、「無感情」が四四%とほぼ横ばいであるのに対し、「好感」が三五%となって一九%の「尊敬」を上回っている。「反感」は一%に減じている。このアンケート結果は、天皇に対する国民感情が戦後復興のなかで、「尊敬」から「好感」に変わったことを示している。戦前の「現人神」から戦後の「人間天皇」への一大変身が、国民の感情にそのまま反映している。国民の視線は抽象的な「天皇」の問題ではなく、具体的に、昭和天皇から今の天皇へ、個人が入れかわったことの結果に向けられている。 このような天皇そのものに対する見方の変化が、神社の戦争責任についての意識の低さにつながっていると考えられる。それとともに・・・
「無信仰の信仰」の背景
ある民放テレビ局が東京で、女子大生ふうの女性に「親鸞って、どんな人か知っていますか」と取材インタヴューをしていた。三年ほど前のことである。「よくわかりません」「名前は聞いたことがあるが……どんな人かは」という返答が大半であったことを記憶している。これは単に、現代の丸暗記式の「歴史教育」のなせるわざと考えれば、なにも驚くことはない。現代日本の「無信仰の信仰」状態をよく反映したものとすれば、さもありなんと合点がいく。 六年ほど前にこんなことがあった。勤務先の公開講座で、「江差追分」で有名な江差町に出向いたときのことである。たしか「北海道と仏教」のタイトルで話題提供したのであるが、終わったあと、八〇歳にはなろうと思われるひとりの老婆が私のところに寄ってきて、こう質問された。 「この年して恥ずかしいが、ナンマイダア(南無阿弥陀仏)とナンミョウホウレンゲキョウ(南無妙法蓮華経)は同じなのか、違うのか教えてけれ」。 老婆の質問にひととおり答えたあと私は、この質問こそが神無きまま形だけの、「無信仰の信仰」を反映したものであると思った。と同時に、この質問の背景に、「南無阿弥陀仏」の「念仏」と「南無妙法蓮華経」の「題目」を区別させない、戦前の「体制宗教」があること、思想統制のための「大日本宗教報国会」があることなどを、とっさに想い起こした。 「無信仰の信仰」に甘んじている日本人が多い理由を考えるとき、もっとも問われなければならないのは、前の丸暗記式の「歴史教育」の現状ではない。それよりも数倍重いのは、戦前の国家と宗教との関係である。「念仏」と「題目」を混同させたのは、国策である。 じつは、既成仏教に集中的にみられる「無信仰の信仰」意識は、昭和の戦前期に形成されたものではない。その歴史的な淵源は遠く近世の江戸時代に求められる。近世の幕藩体制が鎖国制を貫き通すため、思想統制としてキリスト教を徹底的に排除したことは、人のよく知るところである。その国策を推し進めるため、国民はすべて、何宗かの仏教徒になることを義務づけられた。その制度的な仕組みとして登場したのが菩提寺と檀家の結びつきである檀家・寺請制であることも、よく知られている。 この鎖国制下の檀家・寺請制を通して、既成仏教は封建支配の末端を担いながら、いよいよ、葬式仏教の執行者へと変貌していく。既成仏教の寺院は、仏教の教理・教義を説くよりも、今日の役場の戸籍係のような、「婚姻・離婚」の証明や通行証明の発行に忙しく、仏教者から行政官へと変身していく。 檀家に対してはこのように、行政官的な顔をもつ既成仏教の寺院であるが、幕藩体制はこの寺院と檀家の双方に厳しいチェックを忘れなかった。その様子を、日本最北端の松前藩を例にみてみよう。
現代人の死の見方 / 宿命としての死
「十分に終わりのことを考えよ。まず最初に終わりを考慮せよ」。 これは「モナ・リザ」の作者レオナルド・ダ・ヴィンチの残した人生訓である。人間の命には終わりがあることを重視し、そのために若いときからその備えをせよと説く言葉である。人生には必ず「終わり」があることを自覚的に受けとめることは、自らの人生を悔いなく充実したものにする上で、とても大事なことである。 古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、 「生きることではなく、よく生きることこそ、何よりも大切にしなければならない」(「クリトン」) と言い残した。この「よく生きる」ことについて、「死生学」に詳しい日野原重明氏は、こう語っている。 「よく生きるということは、健やかに生き、かつ、よく(健やかに)死ぬことだと私は思う。よく死ぬということは、身体的な苦しみが少なく、かつ、平静な心、できれば与えられた生を最後に感謝する言葉を、子どもや友人、次の世代の人に残して死ぬことだ、と私は思っている(16)」。 そもそも、人間が自らの死、人の死を考えるようになったのは、いつからであろうか。十八世紀のフランスの啓蒙思想家ルソーの次の言葉は、あまりに有名である(17)。 「動物は死とは何かをまったく知らない。死とその恐怖についての知識は人間が動物状態から離れたとき、最初に得たものの一つである」。 人間としての歴史を歩み始めたそのときから、人間は死とその恐怖について考え始めたと言うのである。 死がいかに忌まわしいかを、中世の僧侶・無住一円(一二二六〜一三一二)はこう語っている。 「死トイフコト、オソロシクイマハシキ故ニ、文字ノ音ノカヨヘルバカリニテ、四アル物ヲイミテ、酒ヲノムモ三度五度ノミ、ヨロヅノ物ノ数モ、四ヲイマハシク思ヒナレタリ」。(「沙石集」) 無住は、「死」を「四」と音訓みする例によって、中世人がいかに「死」を恐ろしく、忌まわしく思っていたかを伝えている。この「死」=「四」という音読感覚は、私たちの現代にも通じている。 人間のこの恐ろしく忌まわしい死について、その関わりを、最も正確に、最も明快に表現した言葉は、やはり、ソクラテスの、 「汝自身を知れ」 であろう。この名言の真意は、・・・
新しい死
脳死 / 「死ぬ瞬間」などで世界的に知られるキューブラー・ロスは、人間の死をこう分析している。 「死はこれまで人間にとってつねに忌むべきことであり、今後もつねにそうでありつづけるだろう」。 「私たちは無意識のうちに「自分にかぎって死ぬことは絶対にありえない」という基本認識をもっている」。 「私たちの無意識にとっては、死ぬのは殺されるときだけであり、自然現象や老齢のために死ぬなんて考えられないのだ」。 「そのために、死は、それ自体が報いや罰をまねくような悪い行ない、恐ろしい出来事を連想させるのである」。 キューブラー・ロスは精神科医の立場から、人は基本的に「自分にかぎって死ぬことは絶対にありえない」と考えていると、ズバリ言い当てている。 しかし、人は絶対に間違いなく死んでいく。殺害以外には自分の死を考えられない人間であっても、それでも死ななければならないのが人間である。その死は、大別して次の三つの形態が考えられる。 一つは、日常的に見られるごく普通の「一般死」である。これは老衰や病死を含めた死を指し、別の言い方をすれば「自然死」とも言える。キューブラー・ロスの言う「自分にかぎって死ぬことは絶対にありえない」死にあたるものである。この場合の死の基準は、循環の永久停止、すなわち「心臓死」をもって個体の死とするもので、最も古典的であり、最も一般的な死の形態である。 二つ目は、前の「一般死」に対して、自殺や不慮の交通事故死などを総称した、「特殊死」と呼ばれる形態である。この特殊な死は、戦中における戦死などに相当するものである。現代では戦死に代わって、車社会の到来による交通事故死、人間社会の複雑化に伴うストレスが引き金となって増加傾向をみせる自殺による死が目立つようになった。その意味でこの「特殊死」は、現代の社会情勢を如実に反映したものと言えるだろう。 三つ目は、まさにこれこそ私たちが直面している現代的な死としての「脳死」である。これは周知のように、一九九七年十月の「臓器移植法」の施行をうけて、新たに成立した死の形態である。その「脳死」は一般にこう定義されている。 「心臓は動いているが、脳全体の機能が失われ、その機能が二度と回復しない状態。心停止による死に対し、人工呼吸器の開発の結果、主に救急医療の現場で現われるようになった。脳死判定には、脳死であると確定する「法的脳死判定」と、医師が脳死の可能性が高いと判断する「臨床的脳死診断」がある。 法的脳死判定は臓器移植の前提となり、臓器移植法の施行規則の基準で判定される。判定基準とは、@深い昏睡状態、A瞳孔が固定、B脳幹反応が消失、C脳波が平坦、D自発呼吸がない、の五条件である。六時間後にこれの二回目の判定を行ない、変化がない場合、患者の脳死が確定する」。 以上の三つが、基本的な死の形態であるが、じつはこのほかに、今後さまざまに論議を呼ぶことが予想される「尊厳死」という形態がある。
尊厳死 / 「尊厳死」は、現実に死と直面した場合、医療機器に頼る延命治療よりは、自らの死は自ら自己決定したいという人間の尊厳性に、そもそもの原点がある。この動きがにわかに顕著になったのは、米国で「リビング・ウィル」(生前の遺書)が死の自己決定の手段と認められてからである。それは一九六〇年代の医療技術や延命治療の長足の進歩をうけた一九七二年のことである。その四年後の一九七六年、いわゆる「カレン判決」と呼ばれる安楽死容認判決が出された。 この年、日本でも「日本安楽死協会」が発足し、その法制化に向けて運動が始まった。その一方で、当然のことながら、「安楽死法制化を阻止する会」も発足した。一九八三年、安楽死の法制化よりも、「死の自己決定」に重点を移し、その名も「日本尊厳死協会」と改名される。人間性の尊厳と高度の精神活動に力点を置いた、「生命の質」を前面に押し出した運動へと移行したのである。多くの人の「ポックリ死願望」をうけて、一九九八年、厚生省(当時)も「リビング・ウィル」の尊重を、末期医療に限って検討する方向に傾いた。 この安楽死・尊厳死は、一歩まちがうと、「殺人罪」「嘱託殺人罪」「自殺幇助罪」に問われかねない、まさに「両刃の剣」である。現に一九九一年、東海大学で「末期ガン患者の安楽死」事件が発生した。さらに一九九八年には、大阪の泉大津市立病院でも、末期ガン患者への筋弛緩剤投与による死亡事件が起きた。 この安楽死・尊厳死の問題は、「生命の質」を問うだけに、さまざまな難題が発生しかねない。等しく生命を持つはずの人間のあいだに「生命の質」の差が生まれるという危惧である。「生命の質の高い人」は手厚い医療が受けられるが、・・・
脳死・臓器移植をどう考える
前章の「死生観の構造」で確認したベクトルPBは、「生命」を表わすベクトルであり、私はそれを生物・医学的死生観と規定した。言うなれば、私たちの生に対する執着を表現したもので、「いつまでも生きたい、生かしたい」という願いと思いがそこに込められている。 この世に生を受けた私たちの多くは、いつまでも健康で長生きしたいと思い、日ごろから塩分をひかえめにしたり、栄養補助食品を摂取したりしている。適度なスポーツを心がけて、散歩やジョギングを取り入れている人もいるだろう。多くの人は、自分に合った健康管理に気を配っているはずである。現代病といわれる「ガンの早期発見」のための定期健康診断、いろいろな高度医療技術を駆使した延命治療なども、すべて「いつまでも生きたい、生かしたい」という願いと思いにもとづいている。 この「いつまでも生きたい、生かしたい」という私たちの生命ベクトルが、一九九七年の臓器移植法と脳死の導入によって、新たな展開を見せることとなった。表8に見るように、脳死判定と臓器移植が日本で初めて行なわれたのは、一九九九年二月二十八日、高知赤十字病院においてであった。それ以来、平成十三年二月十二日現在までで一〇例を数える。これまでの医療にはない、まさに空前の高度医療の時代を、日本も迎えたのである。 この「脳死・臓器移植」については、その当初から賛否両論があった。哲学者で元脳死臨調委員でもある梅原猛氏は、 「やはり脳死は移植のために人為的につくった不安定なもので、さらに医学が発展し、現在では脳死となる人が生き返るようなことになれば、脳死の概念はどうなるのだろうか」 と懸念した上で、こう結論している。 「人間の個体としての尊厳は「拒絶反応」という現象に現れている。そのことを忘れてはならないと思う」。(「北海道新聞」平成十一年三月一日付) この間、さまざまな出来事があった。移植のため脳死後の臓器提供の意思を示しながら、体の損傷で法的脳死判定ができないとされた医学生のドナー家族のことが、「北海道新聞」の平成十一年十一月二十八日から十二月三日までの間、「いのちの日々」「ドナー家族の決断」の五回シリーズで取り上げられた。臓器提供側の揺れ動く心情が、こう伝えられていた。 「理屈では移植は分かる。火葬してしまえば、なくなってしまうわけだから。だけど、(中略)息子の細胞が、見ず知らずの人の中で生きていく。そう思うと心情的に耐えられない。死んだのか、生きているのか…。もちろん、一部でもだれかの体の中で生きているということは、うれしいことではあるけれど、たまらない」 という親としての揺れる思い。提供を決意された弟の気持ちも複雑でつらい。 「自分もすべての臓器を提供する意思を示したカードを持っている。そんなぼくでも、いよいよとなったら迷いが出てきた。やるしかないと思っていたが、本当にこれでいいのかと。いずれ呼吸は止まるかもしれないけど、その前にわれわれが止めてしまうのはすごくつらかった。可能性だってゼロではない。もしかしたら、とも思った」。
文学と哲学 / 文学が語る死の世界
「死生観の構造」で図示したPDの「認識」ベクトルについて見ていくことにしよう。私たちにとって、死とはどんなものか、死とはどのような意味があるのかを検討する。言葉をかえていえば、文学と哲学を通して死を問い、死を考える「認識」ベクトルの旅である。 倉田百三の「出家とその弟子」の第六幕第四場は、親鸞の臨終の場面であり、物語の最終場面である。親鸞の最期に間に合うべく、義絶されていた息子の善鸞が常陸稲田から馳せ参じ、親子の最後の対面を遂げる。そこには、息子の犯した仏法上の罪をゆるし、すべての人間に平和が訪れることを夢幻の中で念ずる人間親鸞がいる。
キューブラー・ロスと葉っぱのフレディ / 通過儀礼としての死
「死生観の構造」の中の「恐怖ベクトル」について、心理的・文化人類学的に考えてみたい。 古来から、誰にとっても死は未知であり不安であるがゆえに、恐怖の対象であった。それゆえ「自分に限って死ぬことは絶対にありえない」と思い、かつ思いたいとしてきた。しかし、死はハイデガーが言うように、確実に私たち一人ひとりに訪れる。それを誰かに代わってもらうことはできない。しっかりと自分で引き受けなければならない。 現代は医療技術が高度に進歩し、現実の死が見えにくくなっている。現代は死を否定しようとしている時代であるとさえ言われる。見えにくくなったぶん、逆に死は恐ろしく見えるのかも知れない。 それでも死は、私たちの「死にたくない」という叫びをよそに、時がくればやって来る。いつまでも死を忌み嫌ってばかりはいられない。死を引き受けなければならぬ以上、私たちは死と向かい合い、それを受容する心をもたなければならない。まさに、「心理的な死」との取り組みである。人間の成長するところに、必ず死がある。私たちの死は、私たちの中にあらかじめ潜在しているということを自覚しなければならない。 別な言い方をすれば、私たち人間が誕生し、成長し、死を迎えるまでの、その場面場面は一種の「通過儀礼」=イニシェーションである。死は誰しもが、一度は絶対に通らなければならないイニシェーションである(26)。 この一人ひとりの通過儀礼としての死を、部族的にあるいは種族的に考える方向が文化人類学的なアプローチである。私たちの死をめぐる「恐怖ベクトル」として、心理的アプローチと文化人類学的アプローチは、私たちにとって死が、人間として受容しなければならぬ終点という意味で、同じ範疇の検討の対象となるのである。 心理的・文化人類学的な死の受容とはどのようなものであろうか。それを、数多くの臨床を踏まえつつ解明したのが、精神科医キューブラー・ロスの名著「死ぬ瞬間」である(27)。 末期患者がその死に至るまで、どういうプロセスを経るかについて、キューブラー・ロスは図2のようにまとめた。
救済としての「あの世」 / 恐山信仰
「死生観の構造」の考察もいよいよ、最後の四つ目になった。民俗や宗教の分野からの死に対するアプローチである。ここには、今までの三つのアプローチには見られない独自の死生観がある。あの世での「救済」がそれである。 先に掲げた「死生観の構造」を改めて見ていただくと、「救済」ベクトルPCは頂点Cに向かうほど、信仰と来世観は強まっていくことに気づくであろう。このような「あの世で救われたい」と念じる心は、どこで芽生えるのだろうか。それは、身近な先祖供養(民俗信仰)や神道・キリスト教・仏教という「宗教」のなかに、私たちの大いなる期待として芽生え、育っていく。次に、それを紹介したい。
現代人の死のイメージと来世観
現代人は、自分の死をどのようにイメージしているのだろうか。またあの世についてどう考えているのだろうか。私は勤務先の学生を対象にして、平成十二年十二月に、前者は「人間の死と自分の死」というレポートにより、後者はアンケートにより調査してみた。 表13は男性一〇九人のレポートからキーワードを抽出したものである。前にみた哲学的な死のアプローチにしたがって、これを整理してみよう。多様な死のイメージを羅列すると三五種類となる。その中で三六人と全体の約三割を占める死の第一のイメージは、「怖い・恐怖」であるが、自分の死は遠い存在であり、「今を精一杯生き」て自分の人生に満足できれば死を受け入れられるというものである。これは死と生を対照的に捉える三つのタイプのうちの、死は生の侵犯者であり憎むべき「敵対者」であるという捉え方と、生の対極にある死は今を生き抜く者にとっては「よそ者」以外のなにものでもないという、二つのタイプの混合であるといえる。 次いで二番目に多いのは、死は「悲しいもの」「苦しいもの」とするもので、一四人である。これは生と死を一体的に捉えるアプローチの中の、死は苦の最高とする「臨死のペシミズム」に当たるものである。
中世新仏教の死生観
現代の私たちは、一九九七年の「臓器移植法」の制定に伴って、「脳死」という未曾有の新しい死の基準を、一個の人間としてどう捉えるべきかを求められている。 この重大局面に、現代の宗教界はどう対応しているのだろうか。たとえば、西欧のキリスト教世界の場合、フォイエルバッハやニーチェの「神は死んだ」の言葉に象徴されるごとく、十九世紀から「無信仰の信仰」に入り、人間の内面世界は混迷の時代に突入している。 このことは、日本の宗教界とて変わらない。近世における葬式仏教化、近代における全宗教の天皇教化によって、普遍宗教としての仏教もまた圧殺されてしまった。日本宗教、とりわけ既成仏教は「無信仰の信仰」の時代に入って久しい。 そもそも、釈尊の時代に「死の超越」の宗教として創唱された仏教が、このように「無信仰の信仰」と化したのは、近世から近代にかけての政治との絡みによるものであり、その点、すぐれて歴史的な所産と言わなければならない。したがって現代の私たちが生と死あるいは来世観を含めた総体としてのあるべき仏教の姿を学ぶとすれば、それは「無信仰の信仰」以前の古代・中世の仏教をおいて他にないことになる。 結論を先取りして言えば、「生と死」あるいは「あの世とこの世」の関わり、来世観が、思想の問題として真正面から取り上げられたのは、十世紀の源信の「往生要集」においてであった。
地獄と極楽 / 「往生要集」とは
極楽往生の指南書である「往生要集」を執筆したときの源信の自称名は「天台首楞厳院沙門源信」というものであった。天台宗総本山の比叡山延暦寺は三塔からなっており、その一つである横川の中堂が首楞厳院と呼ばれ、源信はそこで仏道修行する一介の出家者=沙門だったのである。天台宗僧の源信は、どんな目的をもって「往生要集」を書こうとしたのか。その執筆目的を、源信は自らこう述べている。 「それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。道俗貴賤、誰か帰せざる者あらん。ただし顕密の教法は、その文、一にあらず。事理の業因、その行これ多し。利智精進の人は、いまだ難しと為さざらんも、予が如き頑魯の者、あに敢てせんや」。 阿弥陀仏の極楽に生まれるための教えと修行は、この濁りはてた末の代の人々にとって大切な目や足に当たるものである。この教えと修行には、出家者も在俗者も、あるいは高貴な人も貧窮な人もみな心を傾けるであろう。ただ、これまでの天台宗(顕教)と真言宗(密教)の教えは、その内容が一つではない。それにまた、極楽に生まれるために行なう、仏の相好(ようす)や浄土のすがたを観想する「事の業因」も、仏を普遍的な真理そのものと捉えて、これと一体となる修行の「理の業因」も、その内容がじつに多い。利智でひたすら打ちこめる人には、それもむずかしくないだろうが、私のような知恵のゆき届かぬ者にはかなわないものだ。 このように源信は、奈良・平安仏教の教えである「顕密の教法」に代わるものとして、「濁世末代」にふさわしい教えを示そうとして「往生要集」を執筆しようとしたのである。 では、その「往生要集」をどのように構想・執筆しようとしたのであろうか。源信は前の文章に続けてこう語っている。
鎌倉新仏教の思想空間 / 新仏教の背景
平安末期から鎌倉期にかけての政治の世界は、その支配権力の行方をめぐって激しく揺れ動いた。それまで藤原氏が皇室との外戚政策・荘園対策に功をおさめて、権力を独占していた摂関政治が、受領層を支持基盤とする院政政権の前にもろくも崩壊した。武力を前提としてなり立っていたその院政政権も、保元の乱を機に一気に体制的矛盾を露呈し、ついには政治の実権を平氏政権に奪取されるに至る。しかし平氏政権も、武力的な政権とはいえ、皇室との外戚関係を権力保持の幹とする点では摂関政治と変わらず、やがて治承・寿永の源平合戦のなかで西海に沈む。ここに、本格的な武士の政権たる鎌倉幕府が誕生したのである。 このように有為転変してやまない政治の世界の激動が、歴史の他の領域、とりわけ宗教の領域に変動を与えないはずがない。あるときは一村一郷を白骨の野と化すことも珍しくない天災地変の発生や飢饉の続出などと相俟って、この激動する政界の動向は、一種の宿命的・歴史的下降史観である、仏説による末法思想を、当時の人々に否応なく植えつけていった。こうした政治の激変と末法思想の蔓延に象徴される救いようのない古代末期の社会を前にして、聖と呼ばれる念仏修行者の一群は、ただおのれの宗教心の赴くまま隠遁的・現世逃避的に別所を営むだけで、他者の救済にまでその心を動かそうとはしなかった。 旧仏教教団は、時代の諸状況を直視し時機相応の救済手段を講ずるどころか、有力貴族の宗教の世界における立身出世の場と化しているありさまであった。旧仏教教団もまた現世の縮図に他ならなかったのである・・・
死生観の転換
中世の死のイメージ / ひと口に日本の中世仏教といっても、いわゆる鎌倉新仏教が興る中世前期と、その新仏教が南北朝期における一定の教団形成を終えて展開を遂げていった中世後期の室町時代とでは、大いなる差異が存する。よってここでは中世前期についても可能な限り目配りし、その比較を通して室町仏教の死生観を探ってみたい。 鎌倉時代の仏教説話集たる「沙石集」には前に引用したように、次のような一文が収録されている。 「死トイフコト、オソロシクイマハシキ故ニ、文字ノ音ノカヨヘルバカリニテ、四アル物ヲイミテ、酒ヲノムモ三度五度ノミ、ヨロヅノ物ノ数モ、四ヲイマハシク思ヒナレタリ」。 この史料から「沙石集」の作者無住が、死という不可避のものに対して、「恐ろしい」と「忌まわしい」という観念を抱いていたことは容易に読み取れよう。死=「忌まわしい」の観念は後述するように、必ずしも中世全期に通底したものではないにしても、死=「恐ろしい」という恐怖の観念のほうは、中世全体、いな時空を超え、すべての人間が抱懐する根源的な観念であると思われる。 源信が「往生要集」で、臨終念仏の作法である「臨終行儀」を詳細に説き明かしたのも、その心奥に死=恐怖なる観念が厳存していたからではなかろうか。源信は往生のための正しい念仏のあり方=「正修念仏」を説示することによって、死の恐怖から自らを、また他者をも解き放とうとしたのである。 「沙石集」および先に挙げた「今昔物語集」を見れば、中世の人々はその前期・後期の区別を越えて、一様に死=恐怖なるもの、死=閻魔庁への堕落と観念していたことがわかる。
死生観の転換 / では中世とは、このように死をめぐって、恐怖心一色に塗りこめられた時代だったのであろうか。思うに如何に死ぬかということは、逆に言えば如何に生きるかということであるから、その「死にざま」についても、現実における「生きざま」が直接間接に反映されるに相違ない。つまり、個々の人々が如何なる「生きざま」を示したかによって、「死にざま」の観念も微妙に変わってくるのである。 したがって次なる作業として、中世における現実の「生きざま」を、y「現世に対する価値観」、およびz「神祇観」の二つの物差しによって測定し、それによって「死にざま」を分析することが可能になる。 まず念仏門の親鸞を中心に考えてみると、・・・
エピローグ / 二人の僧侶
説教といえば、「また説教が始まったか」式に、「上からの一方的な押しつけ」と解する人が多いのではなかろうか。現代人にとって「説教」の二文字は心地よい響きを持っていない。本来ありがたい「僧侶の法話」として始まった説教が、「上からの一方的な押しつけ」の代名詞となり俗化してしまった現状を、世の宗教者はどう捉えられているのだろうか。 私もこれまで、折にふれさまざまな説教を聴聞してきた。心洗われる教会の牧師さんの説教に触れる機会もあった。無常を説いて参詣者にこの上ない感動を与えた仏教僧侶の説教を聴いたこともあった。しかし、いつもありがたい説教に恵まれるわけではない。 亡き故人の「戒名」の説明はおろか、仏教の片言隻語すら口にすることなく、ただ供養の食膳にすわり、立ち去るだけの典型的な葬式執行の僧侶もいた。そういうかたちで檀信徒と伝統的につながっている僧侶のほうが圧倒的に多いのではなかろうか。 かと思えば、三宝の「仏・法・僧」をご焼香の線香の数とからめて話し、参列者の多いときは「二本」、少ないときは「三本」でも構わないと、はなはだ合理的な説教を垂れる僧侶もいる。 その反面、末期ガンなどの患者が人生の締めくくりの時を過ごすホスピスを訪れて、患者の話や悩みに耳を傾ける僧侶もいる。「北海道新聞」平成十二年十一月十九日付の「死と向き合う」の特集では、その実例として釧路北病院を九年間にわたって月一回訪れている、浄土真宗本願寺派の僧侶を紹介している。死の不安や恐れを口にする人、「地獄に堕ちるのだろうか」と、ひとり苦しんだ末に尋ねるおばあちゃんもいた、とその特集は報じている。 ヨーロッパなどの話として、よくホスピスで患者の大きな心の支えとなっているのは、牧師さんであると聞くことがある。日本の場合、入院中の患者を檀信徒を理由に僧侶が訪れることは、「死」を極端に忌避する国民性もしくは縁起をかつぐ生活感情からして、今なお抵抗があるかもしれない。そのことは逆に言えば、檀信徒と僧侶とが仏縁を通した日常的な心の交流を欠いていることの反映でもある。さらに言えば、菩提寺の僧侶と檀信徒との関係が、「死の葬祭」だけの関係でしかないことの偽らざる証しであるともみられる。
あとがき
夜明け前、いつもとは違う喉の渇きで目が醒めた。それから一時間も経ったであろうか、函館の妻から、寄寓先の北京・友誼賓館に国際電話が入った。「秋田の母が死んだ」と。あまりにも突然の訃報。にわかに信じがたく、しばし茫然自失した。くも膜下出血による二年にわたる植物状態の末のあっけない旅立ちであった。 これは、今から八年前の平成六年四月五日のことである。国際交流基金の派遣教員として、北京日本学研究センターに出講して、ちょうど一週間目のことであった。研究センターの開講直前に北京入りしたばかりで、一時帰国を申し出ることなど、学生のこと、同僚のことを考えればできない相談であった。 そう悟ったあと、なんとか弔電を打った。 異国に聞く母の訃報驚きかつ口惜しく思う。 慈母の施せしあまたの恩をしのべば、感謝の涙つゆも止まらず。 言葉なく苦痛と闘いし老母の姿、いかばかりの苦しみかと、同情してやまぬ。 いま、召されて天国の父のもとに往く、わが父と再び契りあれ、愛し子らと楽しく語りあれ。 羽もなく飛び立ちかねるわが思い、鳥に託して、冥福を祈るのみ。 遠く北京より、母を悼みつつ 合掌 愚息 こんなことになるのなら、日本を発つ前に、最後の顔を見てくれば、と悔やまれてならなかった。帰国する七月中旬まで、研究センターで授業のない日はほとんど毎日、宿所から約一里ほどの大鐘寺に足を運んだ。その往復の道すがら、よく「宇治拾遺物語」十九話の「清徳聖奇特の事」を想い起こしていた。 清徳聖が母の死に遭い、ただひとり愛宕の山に行き、大石を四角に置き、その上に棺を置いて、千手陀羅尼を片時も休むことなく、打寝ることもせず、物も食わず、湯水も飲まずに、声を絶やすことなく誦し奉り、棺を巡ること三年を経過した話である。 そして、清徳聖は、三年目の春に夢となくうつつともなく、ほのかに「此陀羅尼をかくよるひるよみ給へば、我ははやく男子となりて、天に生れにしかども、おなじくは仏になりてつげ申さんとて、今までは、つげ申さざりつるぞ。今は仏になりてつげ申也」という母の声が聞こえたという話である。 清徳聖のように、私は僧籍に身を置いていないが、なぜか大鐘寺へと向かっていた。 本書の執筆動機をありていに言えば、この、子として見送りできなかった母の死にある。母の死後、続けざまに、六五歳を前後する長兄、長姉、次兄がこの世を去った。いまの時代、どうみても早すぎる肉親の死に、いつしか私は、人間にとっての「生と死」について少しずつ考えるようになった。  
 
直葬

葬式をせず火葬だけすることを「直葬(ちょくそう)」といいます。これまで我が国では、人が亡くなってからは死亡→通夜→葬儀・告別式→火葬というステップを経るのが一般的でした。これに対し、死亡→火葬と、途中の儀礼・イベントを取り払ってしまうのが直葬です。
なぜ直葬が増えているのか
正確な統計はありませんが、専門家の推定では、2008年時点で東京都下の20〜30%、地方の5〜10%が直葬だと見られます。直葬そのものは生活困窮者や天涯孤独者については昔から行われてきたことですが、それが一般に広まり始めているのが、最近の特徴です。
なぜ直葬が増えているのでしょう。あくまで仮説に過ぎませんが、次のような要因が考えられます。
・平均寿命の伸長(つまり死亡年齢の上昇)により、社会的儀礼としての葬式の必要性が薄れた
・格差社会の進展で、生活困窮者そのものが増えている
・宗教、とりわけ仏教離れ
・葬式を金銭や時間、手間の点で「ムダ」と考える人が増えている
・メディアでの報道により、直葬が「市民権」を得つつある
直葬をめぐる言説
実際に直葬をしている人たちは、そこに合理性を感じているのだと思われます。よって、わざわざ直葬について語る人たちは、直葬を問題視し、批判的であることが多いです。とりわけ、仏教関係者や葬儀業界関係者。
そこには、「葬式で金を使ってくれないと困る」という思惑と「葬式は死者とのお別れをし、心に区切りを付ける大切なイベント」という思い入れがない交ぜになっているようです。
代表的な直葬批判論・懐疑論を紹介します。
・一口に「直葬」といってもそれを行う家族の想いはさまざまです。全てが悪いとは言い切れません。だが、直葬が増えるのはあまり健全なことではないと思います。遺された者が家族の死に向き合い、惜別の想いをもって弔い、葬りの作業をすることは、いのちの尊厳について身をもって体験する機会となります。
・「葬儀は故人とかかわりのある人が心の整理をつける儀式。それを省くのは、残された人のグリーフケア(悲しみを癒やす)のプロセスがなくなることにもなりかねない」
・特に最近、皆さんからの相談電話を受けていて感じるのが、「安いから家族葬」「お葬式はいらない」という人が増えていることです。費用を抑えること、不必要なものをなくすことはとても大切なことです。でも、大切なお葬式を、「安いから」とか、「必要性を感じないから」という理由で簡単に内容を決めていくことには疑問を感じてしまうのです。お葬式は、大切な人との大切な別れの時間であり、大切な人の冥福を祈る大切な儀式です。このことをまず第一に、お葬式は考えていくべきでしょう。

個人的な意見を言わせていただけば、直葬のみで済ませてしまってそれで気持ちが収まる人たちがいるとするなら、それは生前からの家族関係の反映でしかありません。直葬だけを取り上げて是非を論じても、あまり意味はないでしょう。  
直葬の流行
最近新聞で「直葬」という言葉がときどき見受けられます。さてどういうことでしょうか?
ある仏教の大きな教団のセミナーに行きましたら、講師の方が「ぢきそう」という耳慣れない言葉を発していて、一瞬「?」と思ったのですが、その内容から「直葬(ちょくそう)」のことを言っているんだということがわかりました。
ま、新しい言葉ですから、何と呼ばれようといいのですが、「直葬」という言葉を最初に社会化した者としては「ちょくそう」と言ってほしい気持ちがあります。
「直葬」というのは、「お葬式をしないで、火葬だけする葬法」とでも言ったらいいのでしょう。「お葬式」という言葉でイメージされる通夜や葬儀・告別式といったイベント的儀礼を取り払った、ごく単純な葬法です。
これが東京23区内では、正確な統計はないのですが、少ないところでも10%、多いところでは35%くらいあるということで、大騒ぎ、というのは少し大げさですが、葬祭事業者や僧侶の方々は強い危機感を抱いています。
「現代用語の基礎知識2007」解説 / 「葬式をしない葬儀の形態を言う。死亡後、斎場や遺体保管施設に24時間保管した後、いわゆる葬式をしないで直接火葬に処するもの。火葬炉の前で僧侶等により簡単に読経をあげてもらう等の宗教儀礼をあげてもらうことはある。2000年以降に都市部で急激に増加した形態で、東京では15〜20%、全国平均でも5%程度あると推定される」
「直葬」というのは新しい葬法ではありません。昔からあったものです。それは身寄りのない人の葬儀、生活困窮者の葬儀、孤独死の葬儀です。でもいま急速に拡大しているのは新しい葬法の一つと認識され、消費者に選択されるようになったことです。
いま直葬が増えている理由は、次の3点が考えられます。
(1) 生活格差が拡大してきたことにより葬儀費用を支払えない人が多くなった。
(2) 超高齢者の死が増えてきて、家族が、高齢者が死ぬことにより、面倒が済んだという意識をもつ人が増えた。そこで死者に愛着がなく単に死体処理としての葬儀を行う人が増えてきている。
(3) 通夜・葬儀という儀礼に意味を覚えない人が増えて、専ら近親者が死者の側にいてお別れをすることを選択する人が増えている。
(1)は「格差社会」ということで話題になっているように、かつての総中産階級が壊れ、生活困窮者が増えており、それが高齢者世帯にも広がっていることによります。また、高齢者夫婦世帯の場合、遺される人の残された人生にどれだけ費用がかかるか見通せないことから、葬儀費用をかけられない人が確実に増えていることからきています。
(2)の「死体処理」意識ですが、家族が解体し、遺族が死者に愛着を感じないため、手っ取り早く行いたいと考える人たちが増えていることです。
淋しい現象ですが、家族関係が冷え切っていて葬儀をきちんと行いたくない、葬式費用は無駄と考える人が増えています。
政府も75歳以上の人を「後期高齢者」として、その高齢者から医療の機会を奪い、在宅医療を進めるとして病院から追放しようとしています。介護保険があるとはいえ、病院に代わる受け皿を作らないまま進めています。
在宅介護の体制が整っている場合は病院介護より血が通う介護は可能ですが、その体制が整っていない場合には要介護の後期高齢者は病院を数ヶ月単位でたらいまわしされたあげくに、老人施設もたらいまわしされ、あげくは子どもの家をたらいまわしにされるという超高齢者の難民化現象はすでに始まっており、さらに拡大されようとしています。
「長生きしないで、できるだけ早く死ね、と言われているようだ」と憤慨している高齢者は少なくありません。
ある老人施設で入所していた方が危篤になり、その子どもに連絡しても来ず、死亡を連絡しても「面倒だから施設で葬儀をやってほしい」と子どもが言ったという話も聞きました。
死者を惜別し、送るという意識をもたない家族が増えることを危惧しています。
(3)の儀礼よりもお別れに価値を置く人も増えています。儀礼をしなければ葬儀ではないとは言えません。それぞれの家族が納得できるお別れができれば、それは立派な葬儀です。しかし、規模は小さくとも、葬儀をきちんとした場合に比べるとそうしなかった人の場合、死の事実確認が充分ではなく、適切なグリーフワークを妨げることもあります。
一口に「直葬」といってもそれを行う家族の想いはさまざまです。全てが悪いとは言い切れません。だが、直葬が増えるのはあまり健全なことではないと思います。遺された者が家族の死に向き合い、惜別の想いをもって弔い、葬りの作業をすることは、いのちの尊厳について身をもって体験する機会となります。
近年、三世代世帯が大幅に減少し、あっても家で看取ることも少なくなっています。若い世代が祖父母という肉親の死を体験することが少なくなっています。
死から逃れることができる人はいません。しかし、死は知識でわかって終わりではありません。身近な人を喪うという体験を通じてのみ死というものがわかり、いのちの有限さ、尊さも実感できるのです。「お葬式を知らない子どもたち」の増加は大きな問題になっていくと思います。  
 
神隠し1

長崎で200歳男性
江戸時代に生まれた人が除籍されず、戸籍上は生存扱いになっている問題で、長崎県壱岐市は、1810年(文化7年)生まれの「200歳」の男性の戸籍が残っていると発表した。同市市民福祉課は「明治期の戸籍法に基づいて作成されたのかもしれない。現在はすべての戸籍を電算化しているが、(電算化した際)削除するのを忘れたのだろう」と話している。
男性が生まれた年は江戸後期の侠客(きょうかく)・国定忠治の生年とされ、ピアノの詩人と呼ばれるフレデリック・ショパンも生まれている。薩摩藩の第11代藩主、島津斉彬(なりあきら)の1歳年下にあたる。1810年は、フランスでナポレオンが皇帝として在位していた時代で、ハワイではカメハメハ大王が全島を統一した。同市は長崎地方法務局と相談し、除籍を検討するという。(2010/8/27)
「111歳」長女と孫娘、詐欺容疑で逮捕
東京都内で男性最高齢の111歳とされていた足立区千住の加藤宗現さんが自宅で白骨遺体で見つかった事件で、加藤さん名義で遺族共済年金を不正受給した疑いが強まったとして、警視庁は27日、加藤さんの長女の無職真子、孫娘の登貴美を詐欺容疑で逮捕した。2人は元教師の加藤さんの妻が死亡した2004年8月以降も加藤さんが生存しているように装い、同年10月-今年6月、公立学校共済組合から加藤さん名義で遺族共済年金計約915万円をだまし取った疑い。(2010/8/27)
青森市で184歳女性
青森市に1826(文政9)年生まれの女性の戸籍が残っていることが、27日分かった。生きていれば184歳。市によると、ほかにも所在不明の100歳以上の高齢者約800人の戸籍が残っており、法務局と協議して削除する方針。(2010/8/27)  
東大阪市 120歳以上228人が戸籍上「生存」
100歳以上の高齢者の所在不明問題で、東大阪市では120歳以上の228人が戸籍上、「生存」している状態になっていることが市への取材で分かった。最高齢者は149歳で幕末の1861(文久元)年生まれ。いずれも市に住民登録がなく、住所の履歴を示す書類もない。「戸籍上だけ存在する人」は全国に多数いるとみられている。年金や介護保険などの行政サービスは住民登録が基礎となるため、年金の不正受給などにはつながらず、人口や平均寿命などの統計とも関係しない。
100歳以上の高齢者13人の所在不明が判明した今月上旬、市が戸籍を点検し明らかになった。死亡しているとみられる高齢者の戸籍は法務局の許可を得て不定期で削除している。最近では、99年と91年に削除。戸籍を電算化した00年以降、削除はしていない。法律上、削除の義務はなく後回しになりがちという。市は「法務局と相談して削除事務を進めたい」としている。
同様の事例は他の自治体でも起きている。大阪府八尾市では戸籍上、18人が120歳を超え、最高齢は137歳だった。いずれも住民票は既に削除済みで、戸籍も削除する方針。
法務省民事局によると、高齢者の戸籍削除については行政措置として、100歳以上で所在が不明な高齢者の戸籍については削除できるという取り決めがある。各自治体では110-120歳などを基準に見直し、法務局の許可を得た上で削除している。(2010/8/25)  
神戸市調査中間報告 / 高齢者不明105人中生存確認ゼロ
神戸市は16日、所在確認できない100歳以上の高齢者105人について、追跡調査の中間報告を発表した。生存を確認できた人はおらず、16人の死亡を確認、住民登録の住所地に住居がないのが20人、住居はあるが居住実態がないのが37人だった。これら計73人の住民登録は抹消する。他の32人は、住所が変わってたどりつけなかったなどとして、来週まで調査を継続する。(2010/8/16)  
国内最高齢?「119歳」女性も不明
100歳以上の高齢者の所在不明が発覚している問題で、大阪府東大阪市が所在不明と発表した高齢者のなかに、住民登録上、「119歳」の女性と「115歳」の男性が含まれていることが5日、分かった。
厚生労働省が確認している国内最高齢は現在、佐賀県在住の113歳の女性。同市は2人について、「本人を確認できない」として、厚労省に対しては、高齢者としての届け出を行っていなかった。
女性のケースでは、同市は2002年11月、介護保険料が納付されていなかったことから、住民登録上の住所地を訪ねるなど所在確認を行ったが、女性を確認できなかった。その後は再調査せず、住民登録抹消も行っていなかったという。
市は毎年9月、100歳以上の高齢者の人数を厚労省に報告しているが、この女性については報告から除外してきた。最後に安否を確認した時期は不明で、親族の存在も把握できていないという。このケースについて市は「02年の調査以降、放置していたことは怠慢だったかもしれない。今後、所在不明の状態が続けば、住民登録の抹消手続きをとりたい」としている。(2010/8/6)
不明100歳以上、61人に東大阪は13人確認できず
.111歳で存命とされながら32年前に亡くなっていたとみられる東京都足立区の男性の遺体発見をきっかけに、所在の分からない高齢者が全国で相次ぎ発覚している問題。所在がわからない100歳以上のお年寄りは、6日午前1時までに、61人になった。
この日も各地で、確認作業が続いた。18人の所在がわかっていなかった大阪府東大阪市では3人の所在が分かり、2人は外国人登録原票を国に返納していたことが判明したが、13人の所在は確認できなかった。
一方、15人の安否確認がとれていなかった足立区では、区の職員らが調査した結果、13人とは本人に直接会うなどして健在だとわかった。もう1人は部屋の様子を外からうかがうなどして、「在住」を確認。残る1人の安否確認を続ける。(2010/8/6)
不明高齢者:全国で新たに21人自治体に法の壁
100歳以上の高齢者の所在不明問題で5日、全国で新たに21人が確認できていないことが分かった。4日までの判明分や5日に所在が判明した人などを除くと、所在不明者は全国で71人。この日は、東京都足立区が不明の10人について一斉訪問を行い、東大阪市も18人の調査を実施。行政の網や地域のつながりから漏れた高齢者が次々と明らかになる中、自治体からは「法の限界」を指摘する声も上がる。
足立区
都内最高齢男性とされる白骨遺体が見つかった足立区は、民生委員から「顔を見たことがない」などの報告があった10人について、職員3人が住民登録地を戸別訪問した。9人は所在が確認できたが、男性1人は本人と面会できなかった。登録地には同居人とみられる女性がいたが、インターホン越しに「足が悪いので玄関まで対応に出られない。(男性の)所在は後で連絡する」と答えたという。区は引き続き確認作業を続ける。
区によると、高齢者の所在不明が相次いで発覚した背景には、法律の適用範囲の問題がある。所在が確認できない住民については住民基本台帳法に基づく調査が行えるが、対象は家族や家主らごく狭い範囲の関係者に限られている。方法も質問して所在確認をすることしか認められていないため、「いる」と答えられれば、それ以上の調査は難しい。ある職員は「プライバシーの問題があり、だれかれ構わず聞くわけにもいかない」と話す。
また、自治体が住民の不在を確認した際に、住民票を抹消する「職権消除」にもハードルがある。職権消除を行う際は、職員が現場を確認するが、同法に基づく調査と同様、家族の同意がなければ、強制的に室内に立ち入ることはできない。結果的に、こうした高齢者は、所在確認できなくても、住民基本台帳に残ることになる。
近藤弥生区長は「批判はもっともだが、法律上、自治体ができる調査は限られている」と話している。
東大阪市
一方、18人の所在確認を進めた東大阪市。職員が改めて登録されている住所地に出向いた結果、3人は住所地や市内の施設で所在が確認できた。また、2人は外国人登録が既になくなっていることが判明した。
残る13人のうち4人については、市職員が住所地に出向いたが、別人が住んでいるか、空き家になっており、周辺住民らからも転居先の情報が得られなかった。担当者は「プライバシーへの配慮もあり、これ以上の調査は難しい」と言う。
一方で、行政担当者間の連携不足も明らかになった。他の9人については、高齢介護課が市民課へ02年11月、「長年介護保険料が納付されておらず、住所地にいない」などの理由で、住民登録抹消を検討すべきだと情報提供していた。この情報がどう扱われたかは不明という。市民課は会見で「当時の処理内容が確認できない。追跡調査をしなかったのは改善の余地がある」と説明。高齢介護課は「連絡をもっと密にすべきだった」と述べた。
市民課は6日以降、13人の住民登録を抹消する方向で調査する。
また、所在不明とされていた兵庫県芦屋市の2人について、同市は5日、住民登録されている市内の高齢者で行方不明者はいないと説明した。
国内最高齢者を上回り住民登録119歳と115歳
東大阪市は5日深夜、所在が確認できない13人の年齢、性別を公表した。その結果、国内最高齢者(113歳)を上回る119歳女性、115歳男性が住民登録されていることが判明した。
厚生労働省の最高齢者調査は「本人や家族から生存が確認できる」ことが基準。東大阪市は基準に基づき、106歳の女性を市の最高齢者としている。市は119歳女性について少なくとも8年前には「住民登録抹消を検討すべきだ」と認識しており、市福祉部は取材に対し「怠慢だった」と述べた。
所在、生死確認再検討厚労省が対策チーム
100歳以上の高齢者の所在不明問題で厚生労働省は5日、長妻昭厚労相をトップとする対策チームを発足させた。一定年齢以上の高齢者で一定期間、医療保険や介護保険を全く使っていない人について所在や生死をどう確認できるか検討する。
また、自治体の職員以外による地域の高齢者の見守りや訪問の方法なども詰める。
同省は既に▽110歳以上の年金受給者への面会▽新たに100歳になる人に国から毎年贈る記念品の本人への手渡し−−などを市町村や年金事務所の職員が行うよう要請・指示している。これに加え、都道府県、政令市、中核市それぞれの高年齢者上位5人との面会も自治体に求める方向で検討している。(2010/8/6)  
神隠し2
喪中に神棚を、白い紙や布で覆う慣わし。天狗隠しともいい、人間がある日忽然と消えうせる現象。古来、神域である山や森で、人が行方不明になったり、街や里からなんの前触れも無く、失踪することを「神の仕業」と考えたことを指す。現代でも、唐突な失踪を現す際に用いられる場合がある。
日本の古神道(民間信仰)おいて、縄文時代以前から神や霊魂の存在が信じられており、神奈備(かむなび)や神籬(ひもろぎ)や磐座(いわくら)・磐境(いわさか)は、神域(常世・幽世)と現世(人の生きる現実世界)の端境と考えられており、禍福をもたらす神霊が、簡単に行き来できないように、結界としての注連縄が張られたり禁足地になっていた。これは人も同様であり、まちがって死後の世界でもある神域に入らないようにと、考えられていたからである。
地主が神隠しを免罪符として、障害児を間引いていた事もあり、七五三とも深いつながりがある。
伝承
神隠しの伝承が残る「八幡の藪知らず」の森人々の自然に対する畏怖や畏敬から、多くの場合は不明者は神域に消えたと考えられた。不明者を人々が総出で捜索する際、定まった道筋を通り、鉦や太鼓を叩いて不明者の名を呼ぶなど、ある種の呪術的儀式を伴っていたいたと、うかがわせる伝承も少なくない。
浦島太郎で著名な竜宮伝説も、「竜宮城が神域である常世」とする民俗学者の折口信夫の見解からいえば神域に入って戻ってこられなくなるという設定は、神隠しと共通する。
妖怪の仕業
神隠しの「神」とは、神奈備、神籬、磐座などに鎮座する抽象的ないわゆる古神道の神だけでなく、天狗に代表される民間信仰(古神道)としての山の神や山姥・鬼・狐などの山や原野に係わる妖怪の類などがある。子供が遭ってしまう伝承も多いことから、子供を亡くした雨女という妖怪の、仕業であるとも伝えられる。その他、隠し神も参照(各地に神隠しを行う妖怪の存在が伝えられている)。
現在に伝わる各地の神隠し
神隠しの伝承のある場所としては、青森県の天狗岳や岐阜県の天狗山などがあり、日本各地の「天狗」と名づけられた山に伝承されることも多い。また千葉県市川市八幡の「八幡の藪知らず」(やわたのやぶしらず)は、神隠しの伝承が強く残り、現在も禁足地となっている。
現実的な見地
外傷や心因による一時的、長期的な記憶喪失や錯乱などを原因とする失踪、あるいは事件・事故に巻き込まれたり、自発的に縁故や社会・家族関係を絶つ人など、行方不明者は年間数万人を超えており、伝承に残る神隠しの多くも、こうした行方不明者であった可能性がある。
信仰
人々の山に対する特異な感情(山岳信仰)がベースとなり、多くの場合、不明者は山中に消えたと考えられた。
これらが意味するところは未だ不明であるが、記録によれば、生還者の言葉はシャーマンの口寄せと共通する内容であったとされる点や、近代まで「山」は人々にとっての「他界」であり、神霊の住処であると信じられていたことを鑑み、「神隠し」とは人と神霊が交渉するひとつの方法であったのでは、との説もある。
神隠しが事実として語られたのは、柳田國男が採録した「遠野物語」に代表されるように、時代的に下っても第二次世界大戦前までであって、21世紀において、失踪者が神隠しに遭ったとされる事例は、ほとんど見られない。
心因
また、神隠しには「遭いやすい気質」があるといわれ、子供の場合は神経質な者や知的障害がある者、女性の場合、産後の肥立ちが悪いなど、精神的に不安定な時期に遭いやすかったとされる。
修験者などが交霊儀式を行った際、神隠し経験のある子供を選んで依坐(よりまし)にしたという記録から、トランス・類催眠状態などの変性意識や、解離性遁走(数日から数カ月に亘って行方不明となり、その間の記憶が定かでない心因性精神病の一種)などの心因反応ヒステリーとの関係も指摘される。
結界と道標
神域は上記のような自然の環境が移り変わる場所だけでなく、逢魔時や丑三つ時のように、一日の時刻にもその神域へ誘う、端境であると考えられた。そしてこれらが時代を経るにしたがい、神籬や磐境だけでなく、道の形状の特徴的な峰や峠や坂や、時には人の作った橋や村境や町境などの門や集落の境界や、道の交差する辻などにまでおよび、さらに社会基盤が充実すると、伝統的な日本家屋の道と敷地の間の垣根や、屋外にあった便所や納戸や蔵、住居と外部を仕切る雨戸や障子なども、常世と現世の端境と考えられ、神域へ誘う場所とされた。
このため現世と常世を簡単に往来できぬように、注連縄だけでなく御幣や節分での「鰯の魔除け」などが結界として設けられた。お盆にホウズキを飾るのも常世へ旅立った祖霊(祖先の霊)や精霊が、現世に迷わず辿り着けるようにと、気遣って設けられた「道を照らす鬼火の灯」に例えたものである。
道標(みちしるべ)
山間にある兵庫県佐用町の地蔵もともとは、「道に迷わないよう」にと作られた道標でもあるが、「集落に禍が及ばないよう」や「まちがって神域に入らないよう」にとの思いからの結界でもある。同時に、旅や道すがらの安全を願って建立された塚や、それに類する石造りの像が、今日でも信仰され路傍にひっそりと佇んでいる。
七五三の?雑説
七五三とは人間の霊性の区切りの年齢である。三が山であり神であり唯一の存在を暗示している。人間の3歳というのはもっとも神に近い霊性を持っていると言える。そして5歳7歳と、ある者はその霊性を高めていくのだが、およそ一般の子供は逆に霊性を落とし、神からは遠ざかっていく。これは年齢が長じるに付け、純真無垢な自分以外の他者を信頼し、まかせきるというシャーマニズム特性が、人間レベルの世俗の知恵によって駆逐されて行くからである。およそ15歳になると子供とは呼べず、一個人の霊性が確立するために、シャーマンの資格も、生け贄になる資格も失われる。
「巫」は「三五」「御子」であり、「皇子」「皇女」「神子」もすべて「みこ」と読む。神は「美しい子」を望む。「みこ」が「三五」であるのが面白い。「3X5=15」になる、残る「七」は「十」の変形とも見える。やはり巫がらみであった。「みか」は「巳化」で逆に読むと「かみ」になる。蛇と神の合わせ鏡だ。「みき」は「御酒」、「みく」は「巳九」で蛇の呪法。「みけ」は「三毛」で「三毛猫」であれば、漁師には天気を占うとして特に雄は重宝される。
七五三の三
数えの三歳は、乳児の死亡率の高かった時代においてもっとも危険な時期を過ぎた頃であり、かつ乳離れも完了し、母親から離されてもそれほど手の掛からない年齢である。生まれながらの病気も持たず、神隠しにもあわずに三歳まで生きてこれたことを、親は子供を盛装させて神社へ感謝しにゆくのだ。
七五三の五
数えの五歳は、言葉も覚えはじめ、身体の運動能力に障害があるかないかが見えてくる年齢である。凡と才の違いの発現してくる年齢であり、「かごめ遊び」等で非凡さを発揮する子供は神隠しにあう。順調に成長し、神隠しにも合わずに五歳まで生きてこれたことを、親は子供を盛装させて神社へ感謝しにゆく。
七五三の七
数えの七歳は、基本的な人格が出来始め、自分と他者を区別する自我が芽生え始める年齢であり、自分を無にして神のよりしろとなる条件が欠落してくる。非凡な能力もこの年で現れなければ凡人と見なす。事故にも遭わず、神隠しにも合わず、七歳まで生きてこれたことを、親は子供を盛装させて神社へ感謝しにゆくのだ。
以上のように七五三とは、神隠しの条件から運良く適合しなかった子供たちに対する、「親の感謝」の儀式だった 。子供が忽然と蒸発したのに「神隠し」等と「神」の字を充てて悲しむだけという裏には、世の親たちはこの事実を薄々感じ取っていたのかも知れない。
 
幼児遺棄

2児遺棄 幸せママ離婚で激変 奔放な「女」に
後ろめたさを振り払うかのように明るく振りまっていた下村早苗容疑者(7月下旬、三重県四日市市で)大阪市西区のマンションで幼い姉弟2人の遺体が見つかった事件。逮捕された母親の下村早苗容疑者(23)は結婚、出産と一時は幸せをかみしめた時期もあった。
しかし、インターネットのサイトに子供への愛情をつづっていた「ママ」は激変した。大阪府警の調べに、わが子への思いを吐露することはまだないという。
下村容疑者は今年6月以降、出身地の三重県四日市市に何度も帰郷し、友人と遊び歩いた。逮捕される約1週間前には、3日間ほとんど眠らず大はしゃぎし、電話をかけ続けた。友人は「異常なハイテンションだった」と話す。
この時期、サイトへの書き込みも頻繁に。神戸・須磨海岸で友人らとはしゃいだりする様子を写真で紹介した。だが、子供についての記述は一切なくなった。
〈せっかく女に生まれたもんhapppppyじゃなきゃね〜〉と自己紹介する下村容疑者に母親の面影はなく、友人がメールで「子供はどうしたの」と聞いても、返信はなかった。
東京の専修学校を卒業後、地元の料理店に就職。2006年12月結婚、翌年、長女の桜子ちゃん(3)、次の年、長男の楓ちゃん(1)をもうけた。
かわいい服を着せ、家事も熱心に取り組んだ。育児サークルにも入り、周囲から「人が変わった」と評判にもなった。当時のブログなどには、〈すくすく育ってくれて、ママはほんとにhappy〉などと書き込んだ。
順調に見えた生活は、わずか2年半で終わった。育児を夫や義父母に任せて飲み歩くこともあり、自身の交友関係が原因で昨年5月に離婚。2人を引き取り、名古屋市内のキャバクラ店で働き始めた。この頃すでに大阪市のホストクラブにたびたび姿を見せるようになった。店では安い酒を注文し、大騒ぎしていたという。
「待遇がいいから」と今年1月、同市の風俗店で働くようになった。2人と現場マンションで暮らし始めたが、4月頃から外泊を繰り返すようになり、6月中旬、すべてを投げ出した。
「初めて一人で子育てをしなければならなくなり、何もかも嫌になった」。下村容疑者は府警の調べに、こう供述しているという。(2010/8/6)
「気付かずにごめんね」献花の足途絶えず大阪2児遺棄
大阪市西区で幼い姉弟が自宅に置き去りにされ死亡し、母親の下村早苗容疑者(23)が死体遺棄容疑で逮捕された事件は6日未明に遺体発見から1週間となる。現場マンション前には連日100人以上が訪れ、手を合わせている。シングルマザー、虐待を受けた経験のある女性、元風俗店員。「私だったら」。様々な思いが巡る。
ジュース、お菓子、おにぎり、おもちゃ、絵本、子ども服、「気付かずにごめんなさい」と書いた手紙。飲み物の多くはストローが挿され、食べ物の箱やふたは開けられている。「幼い子でも飲みやすいように」との思いからだ。マンション前を訪れた人は3日に約150人、4日はさらに増え、5日も正午までに30人以上を数えた。
「ニュースを見て、いてもたってもいられなくなった」。大阪市生野区の病院勤務の女性(23)は下村容疑者と同い年で2歳の息子がいる。「子どもにとって母親がすべてなのに」と涙を見せた。1歳8カ月の娘がいる同市北区の英語講師女性(31)は事件後、自分のマンションの他の部屋から聞こえる泣き声が気になり始めたという。
シングルマザーで、4年前に東京から娘(7)と2人で移り住んだという近くの会社員女性(30)は、娘と一緒に手を合わせた。「似た境遇だけに胸が痛い。私も孤独だったが、この子が生きがいだから」。下村容疑者にも子どもをかわいいと思っていた時期があったはず。「知らない土地に来て病み、現実逃避してしまったのでは」
大阪市住之江区の主婦(34)は下村容疑者のようにかつて風俗店に勤めていた。「稼ぎはいいけどストレスがたまる。終わるとくたくた。職場にシングルマザーは多かったが、遊びながらも子育てはちゃんとしていた。下村容疑者は早くに結婚したから遊びに夢中になってしまったのだろうか」
事件を防ぐにはどうすればいいのかと考え込む人も。大阪府高槻市の会社員女性(36)は1年前、通報されたことがある。疲れて帰宅し、寝付かない長女(2)を泣かせるままにしていたら警察官が来た。「部屋にまで入られ、色々聞かれてすごくショックだった」。それでも今回の事件後、「子どもの命を守る方が大切」と思うようになった。自分は絶対虐待はしないと思っていたが、今は「この子がいなかったら」と思う心は痛いほどわかる。夫や両親に支えられてどうにか育児ができている。「この母親(下村容疑者)はまだ23歳。もっと周りが支えてあげるべきだったのでは」
京都府八幡市の主婦(27)は小学生の時に両親が離婚。父親から虐待を受けたという。すぐに手が出る人で、仕事で家にいないことも多かった。不登校になり、冷蔵庫のものを1人で食べた。耐えきれずに3年ほどして、母親に一緒に住みたいと訴えて家を出た。いま5歳と4歳、1歳の子がいる。「自分も子どもに手が出ることもある。大事なのはパートナー。事件を減らすには男性が責任を持って育児に取り組む必要がある」(2010/8/6)
大阪・西区の2幼児死体遺棄 「30分泣き声続く」と住民通報、児相訪問は10時間後
児相、深夜は1人 / 大阪市西区のマンションで幼児2人の遺体が見つかった事件。虐待を疑う通報を受けながら、安否を確認できなかった大阪市こども相談センター(児童相談所)の対応に批判が集まる。大阪市の平松邦夫市長は2日、今回の事件での相談センターの対応について「夜間通報に対する出動態勢を検証しなければならない」と述べ、問題がなかったかどうか調べる考えを示した。
「今も30分ほど泣き声が続いている」 / 市が重視するのは、住民女性からの3回の通報のうち、5月18日の最後の通報。「『今』の異変」を伝える内容にもかかわらず、自宅を訪問したのは通報の約10時間後。「通報に虐待を思わせる大人の怒鳴り声などがなかった」というのが理由だが、同センターの夜間態勢の不備も背景にある。
大阪市では、昨年4月の小4虐待死事件を教訓に、緊急の際は24時間いつでも職員を派遣することにした。だが午後10時半から翌朝9時まで、庁内に職員は1人しかいない。自宅などにいる職員が駆け付ける態勢だというが、「(1人が)職員派遣の是非を判断するには荷が重い」というのが現状だという。
平松市長は「早く対策を講じたい。何が何でも子どもの命は守る」と強い姿勢を見せた。担当幹部も「どんなケースでも対応できるよう、悩みながら、一歩でも二歩でも進まなければならない」と話す。当面は、夜間の出動態勢の見直しが急務となる。
マンションの住人も「なぜ救えなかったのか」と自問している。20代の男性は泣き声などを聞いて、管理会社に2、3回通報。だが改善はされなかった。先月29日には、部屋の所有者と借り主を取り持つ会社に通報。これがきっかけとなり、事件は発覚したというが、既に2人の命はなかった。別の20代女性は「どこに連絡していいかわからなかった」と言う。
住人の大半は20代の若者だ。近く有志約10人がなぜ2人を助けることができなかったかを話し合うために集まるという。呼びかけ人の女性(28)は言う。「2人の死を無駄にしたくない。無関心でいるのはもうやめたい」(2010/8/3)  
 
「木枯らし紋次郎」 笹沢左保

無縁仏に明日を見た
「木枯らし紋次郎、覚悟しやがれ」「おめえだっていつかは死ぬんだぜ」「おめえはこの河原で野ざらしになるんだぜ」紋次郎は完全に包囲されていた。包囲の輪は次第に縮められていく。「上州は新田郡三日月村の生まれ、人呼んで木枯らし紋次郎。おめえには死んでもらうぜ」正面の男が長脇差を振りおろし、それが紋次郎の左わき腹に突き刺さった。そこで紋次郎は眼を開いた。朽ち果てた廃屋の中であった。昨夜、ここに野宿を決め込んだことを思い出した。紋次郎は顔に吹きだしている汗をぬぐって立ち上がり、楊枝をくわえると、無造作に唇の左端に寄せた。三十過ぎに見えるその左の横顔に刀傷の痕があった。
信州小県郡の大日向村であった。紋次郎は歩き出した。街道脇に猫の額ほどの広場があり、その中央に古い石地蔵があった。無縁仏之墓という字がかろうじて読み取れる。石碑の周囲にいくつかの墓石が並んでいた。五、六人の死骸が無縁仏としてここに葬られているに違いない。近くに寺院がないために、こんなことろに無縁仏の墓が設けられたのだろう。紋次郎は無表情だった。自分が死ねばよくて無縁仏だと百も承知している。だから今さら無縁仏を眺めても特別な感情に捕われることはなかった。
紋次郎はちらと横に眼を走らせた。茶屋の縁台近くに三つの人影が浮かびあがった。男と女、それに少年の三人であった。男は渡世人である。夫婦とその子供に見えた。渡世人は待ってくれと紋次郎に声を掛けた。「力蔵と申す者でござんすが、難儀しておりやす。力を貸してもれえてんですが」力蔵は渡世人に似つかわしくなかった。見るからに気が小さそうで、好人物という印象なのであった。「折角ですが、先を急いでおりやすんで」「どちらまで足をお伸ばしになりやすんで」「上州は草津村まで参りやす」
我々は上州の干俣村に行く、という力蔵。「ところが昨夜、大日向村で泊りそこなって、親子三人野宿したわけでござんす。そのせいか、女房の具合が悪くなっちまって。お願いいたしやす、峠越えに力を貸しておくんなさい」「おめえさんが背負って峠越えをしなさればいいんじゃねえですかい」「ひでえ腹下しをして、女房を背負う力もねえんでござんす」「お断わりしやす」紋次郎は歩き出した。「待ちなよ」黄色い声が飛んできて、紋次郎は足を停めた。少年が街道の真ん中に立っていた。十二、三歳だろうが、やや大柄で、挑戦的で気の強そうな面構えは父親と対照的であった。「おとうが頭を下げて頼んでるじゃないか。引き受けてたったらどうなんだい」
紋次郎は力蔵の女房お妻を背負って峠炉を登った。そのあとに十二歳になる倅の一太郎が続き、最後に力蔵が登った。子供相手の脅しと理屈には紋次郎も逆らえなかった。一太郎は風采のあがらない父親を尊敬しているようであった。紋次郎には理解できなかった。自分の女房をおぶって峠越えしてくれと通りすがりの他人に頼むような男の気持ちがわからなかった。「申し訳ありません」背中でお妻は繰り返し詫びた。「力蔵と夫婦になって十四年になりますが、一緒に暮らしたのはたった三年だけでしてねえ」「あとの十一年は旅から旅に流れ歩いているんですかい」紋次郎は聞いた。「博奕好きで気持ちだけは渡世人のつもりなんでしょうが、世間様はそう甘くありません」「渡世人に向かねえとお見受けいたしやしたよ」「根はいい人でしねえ。ただ気が小さい上に意地というものがないんです」
鳥居峠を越え、峠越えの道が下りになった。力蔵は紋次郎に名を聞いた。「遠慮させてもらいやしょう」「あっしは中山道のあちこちで、楊枝をくわえた渡世人の噂を耳にしたんです。おめえさんも楊枝をくわえていなさる。おめえさんは上州の新田郡三日月村の生まれで、木枯らし紋次郎というお人じゃねえですかい」「へい。あっしは紋次郎でござんす」「じゃあ、やっぱりおめえさんは木枯らし紋次郎さんで」力蔵はびっくりするほど大きな声をあげた。「そんな名の聞こえたお人にこうして背負ってもらえるなんて」お妻が当惑したように言った。「木枯らし紋次郎さんに女房を背負ってもらった。こいつはちょいとした自慢話になりそうだぜ」力蔵は妙な喜び方をした。
鳥居峠を降り切ったところで、紋次郎は力蔵親子に別れを告げて、樹海の中に足を踏み入れたが、その直前に五人ほどの渡世人の人影を認めていた。紋次郎は樹木が密生した樹木を降り始めたが、足をとめた。声が聞こえたのである。「木枯らし紋次郎だな」「覚悟するんだな。木枯らし紋次郎が鳥居峠を越えてくることは先刻耳にはいっているだ」「違う。人違いだ」怒鳴る声が聞こえた。力蔵の声であった。「往生際が悪いぞ」「叩き斬れ」紋次郎は樹間を縫って走った。「わっ」力蔵が絶叫し、それにお妻の悲鳴と一太郎の喚き声が重なり、走り去る数人の足音が聞こえた。
紋次郎は街道に飛び出した。路上に力蔵が倒れていた。「とんだことになりやしたね」紋次郎は力蔵の死顔に眼を落した。「この人が紋次郎さんに間違えられるなんて」お妻は嗚咽を漏らした。「運の悪いお人だ」紋次郎はそう呟いて、歩き出した。一太郎は紋次郎の前に立ちふさがった。「このまま行っちゃうつもりかい。おとうはお前に間違えられたんだ。そのために死んだんだぜ」「そいつはわかってる」「だったら、どうして知らん顔で行ってしまうんだ」「あっしには関わりのねえことなんでねえ」「逃げるつもりかい」「いや」「草津村のどこに行くんだ」「硫黄稼の大元締、草津屋寅吉さんのところだ」「どんな用があるんだ」「元締の新八さんというお人に会いに行くのさ」紋次郎は大股に歩き出した。
上州のこの一帯は硫黄の産地として知られていた。硫黄は火薬の原料になることから、徳川時代にはいって多くの規制を受けていた。規制を受ければそれだけ独占事業として有利な商売になる。そこで硫黄稼なる言葉が生れ、硫黄稼は地元の一部の人々にその権利が与えられており、この天保年間の湯治は七人の硫黄稼が公認されていた。そのうちの一人である草津屋寅吉は素っ堅気の名主階級の旦那ではなく、裏にもう一つの顔を持っていた。草津の湯治場を中心とした一帯を縄張りにする貸元だったのである。
大元締の草津屋寅吉の右腕とされた元締の新八も博徒の出で、信州佐久郡の猿久保の貸元、八十吉の実弟であった。猿久保の八十吉と言えばかなりの顔の貸元であった。その実弟の新八は人を斬ったことから草鞋を履き、一年前から草津屋寅吉のところに落ち着いたのである。寅吉は新八の毛並みの良さを買って硫黄採掘の元締に抜擢した。その新八から一か月前、八十吉のところに便りがあった。金の無心である。博奕で二十両の借金ができたので、何とかしてくれと言ってきたのであった。
十日前、紋次郎は猿久保の賭場に立ち寄った時、八十吉は顔を出した。紋次郎は八十吉に鳥居峠を越えて上州にはいろうと思うと話した。すると八十吉は草津に寄ってくれと言ったのである。「新八に二十両を届けるだけなら誰にだってできるが、新八のやつ、まるで三下みてえなことを言いやがる。一つ、新八に説教を垂れる誰かに頼もうと俺は思っていたのさ」紋次郎は人に意見をする貫禄ではないと断ったが、八十吉はその頼みを紋次郎に押し付けたのであった。
紋次郎が草津屋に着いたのは八つ半、午後三時であった。寅吉は五十前のでっぷりした色白の男だった。「生憎と新八は出かけているんだ。大戸まで行ったんだが、二、三日中に戻ってくるはずだがね」「さようでござんすか」「どうだい、おめえさんがよかったら、新八が戻ってくるまでここにいてもらっていいんだぜ」「いえ、ご遠慮申し上げやす」「ヤケに素っ気ねえじゃないかい」「一宿一飯の義理というのが、あっしの性分に合わねえんでこざんす。これでご免をこうむらせていただきやす」
紋次郎は来た道を戻り始めた。雑木林を抜けたとき、「おい、待て」と斜め前方から声がかかった。一太郎であった。相手になりたくなかった。子供に何を言っても無意味なのである。紋次郎は無言で一太郎を追い抜いた。「おとうの敵だ」背後で一太郎が叫んだ。その異常な声に紋次郎は危険を感じたが、そのときは遅かった。右脇腹に焼け火鉢を突き刺したような激痛を覚えた。少年でもやや大柄な一太郎が怖いもの知らずの一年で渾身の力を込めて突き刺したのであった。「お前がおとうを殺したんだ」一太郎はヒステリックに叫ぶと、一目散に走り去った。紋次郎は路上に転倒した。紋次郎にとっては生れて初めての重傷であった。木枯らし紋次郎が少年の手にかかって死ぬ。そのほうが自分らしいかもしれない、と薄れる意識の中で紋次郎は思った。
気が付いた時、紋次郎はもう三日たっていると老婆から教えられた。一応、医者が手当てをし、毎日傷口を見てくれていると言う。枕元に手荷物がきちんと並べてあった、「何をしにきやがった」老婆の声が庭先でした。「怪我人の様子を、あのう」お妻の声がした。「助かるのでしょうか」「知らねえな」「いったい、誰に刺されたんでしょうね」お妻は一太郎が刺したことを知っているのだ。それで心配になり、干俣から様子を窺いに来たのに血がない。「誰に刺されたかおめえは知っているんかないのかえ」「そんな」「旅人さんは誰だかわからないと言ってるよ」「そうですか」「安心したか」
老婆はふんと鼻を鳴らし、俺はお前みたいな女が大嫌いだ、とお妻に怒鳴った。「面だけはおとなしそうで、やることが図々しい。この淫乱女め。みんな知っているだよ、おめえが草津屋寅吉と深え仲だってことを」「え」「おめえは仮にも亭主持ちだぞ。そのおめえが五日に一度は寅吉親方に抱かれてノコノコ草津まで出かけていくっていうじゃねえか」老婆はケラケラ笑った。お妻が逃げて行ったに違いない。紋次郎は天井を凝視していた。亭主の力蔵はほとんど家に寄りつかない。成熟した女にとって最も危険な状態にあったのだ。
老婆は粥を持って部屋の中に入ってきた。「今、干俣のお妻が来やがってな、嫌味を並べて追い返してやった」「……」「実を言うと、おらは見たんだ。どういう事情があるか別にして、お妻の倅がおめえさんを刺したところをな。ところが、おめえさんは偉かった。餓鬼のことだからと、誰に刺されたか口にしなかったもんな。それで、おらはおめえさんがすっかり気に入ってしまっただよ」その老婆の解釈は違っていた。紋次郎は別に一太郎を庇ったのではないでのである。誰が刺したなど紋次郎はどうでもよかったのである。
「おめえさんはうわ言で新八って口走ってたけど、草津屋の元締だった新八のことかね」「その新八さんに用があって、草津まで参りやした」「新八は十日めえに白根に登って行方知れずになったそうだが、寅吉に殺されたって噂もあるだよ。新八はお妻を口説こうとして、寅吉に見つかったっていうからな」「そうだったんですかい」寅吉は紋次郎に大戸に出かけていると嘘をついた。新八は寅吉に殺されたというのが真相に違いない。紋次郎は何もかも読めた気がした。新八を殺した寅吉は何より恐れたのは、紋次郎が草津にやってくることだった。
木枯らし紋次郎が二十両持って新八に会いに来ることは、八十吉からの手紙でわかっていた。紋次郎が来れば、新八の死に関する真相が知れてしまう恐れがある。そうとわかれば八十吉も黙っていないだろう。寅吉は最も安全が保てる方法は紋次郎を殺すことと考えた。紋次郎は流れ旅を続けている。新八に会い意見をして二十両渡したあと、旅立った。猿久保の八十吉はそう判断して、自ら乗り出してくることはないはずだった。従って紋次郎を殺してしまえばあとはなんとかなるだろう。
そう考えたものの、寅吉は紋次郎を殺す自信はなかった。紋次郎が敵という意識を持たないのは子供くらいでないかと思ったとき、寅吉は一太郎の存在に気づいた。たまたま力蔵からお妻のところへ迎えに来てくれと言ってきた。お妻と一太郎が力蔵を迎えに行き、寅吉の子分たちが二人の目の前で力蔵を殺す。目的は紋次郎と間違えたと見せかけて、一太郎の眼前で力蔵を殺すことだった。一太郎が父親思いで気性が激しいのを計算してのことである。一太郎は怒りや復讐の念で、紋次郎を殺そうとする。しかし、紋次郎はまったく相手にしない。だが一太郎は本気なのだ。まさかと誰もは思うとことに高い成功率が秘められていたのであった。
その日、夕方になるのを待って、紋次郎は準備を整えた。夜になって、紋次郎の目が動いた。音にならない足音が近づいてきたのである。五人と紋次郎は数えた。「明かりをつけろい」寅吉の声であった。紋次郎は楊枝を男たちに吹きつけ、長脇差を振るった。悲鳴をあげて逃げる寅吉の背中に紋次郎は落ちていた長脇差を投げつけた。長脇差は寅吉の背中に突き立った。
紋次郎はゆっくりと夜道を歩いた。明け方に鳥居峠の上り道にさしかかった。間もなく、二人連れの旅人に追いついた。紋次郎に気が付くと、二人は慌てて道の端に逃げた。お妻と一太郎であった、母子はかなりの大荷物を抱えていた。故郷を棄てなければならなくなった理由はいくつもあるのに違いなかった。紋次郎はお妻と一太郎に眼もくれずに追い抜いた。鳥居峠を越えて正午前には大日向を通り過ぎ、紋次郎は立ちどまった。例の無縁仏の墓の前であった。紋次郎が見据えている墓標には、「もんじゆうらう」と記されていた。門十郎という名前だけがわかっている無縁仏の墓に違いなかった。紋次郎は二本の楊枝を吹き放った。その楊枝は「もんじゆうらうう」の「ゆ」と「う」の字の上に突き刺さった。残る墓標の字を読むと「もんじらう」となった。
武州川越の近くにある無縁物に「つま・いちたらう。母子地蔵」という石仏が見られるが、お妻と一太郎に関係するものかどうかはわからない。 
暁の追分に立つ
渡世人の彫りの深い顔には生きている人間の感情というものが見られなかった。暗く沈みきっているというより、表情がないのである。左の頬に古い刀傷の痕がある。更にその渡世人は妙なものをくわえていた。楊枝であった。渡世人は両手で川の水をすくい、顔を洗ったが、ほと川面に眼を落した。動く者が川面に映ったのである。何者かが崖の小道を下ってくるのであった。背後の影を登れば、木曾川に沿った街道に出る。木曽路と呼ばれている中山道であった。その先に須原宿があった。
崖を下ってきたのは、女であった。女は色白で男好きのする顔は魅力的な三十近い年増であった。「ちょいと、お前さん」女が声をかけた。「お前さん、紋次郎だろう。私はお梶。と言っても思い出してくれないだろうね。もう八年前になるよ。甲州は勝沼の賭場でイカサマ賽を使って、お前さんに右腕を斬り落とされた神楽の才八なら忘れちゃいねえだろう」「……」「上州は新田郡、三日月村の紋次郎って、あのころのお前さんはまだ若かったねえ。そういう私も二十歳になったばかりの花も盛りの年頃だったけどさ」
お梶は長煙管を素早く打ち振った。飛んできた虻が潰されて落ちた。お梶は煙管の雁首で飛んでいる虻を叩き落したのである。「お前さん、間違いなく木枯らし紋次郎さんだろう」「そのように呼ばれておりやすがね」「だったら思い出しておくれな。八年前、お前さんに右腕を斬り落とされた神楽の才八の女と言われていたお梶だよ」「八年めえのことなんて、なかったことも変わりねえでしょう」「当たり前さ。そんな古い話を持ち出して、恨み言を並べるわけじゃない。昔馴染みのお前さんに頼みたいことがあるのさ」「お断りしやす」「ねえ、お願いだよ。難しいことでないんだ。くたばりどこないの爺さんを酷い目にあわせてやればいいんだ。お礼はさせてもらうよ」お梶の右手には五枚の小判が握られていた。
「ごめんなすって」渡世人はお梶を押しのけるように歩き出した。
須原宿の手前に五人の男が屯していた。この土地に定着している渡世人たちだと一目で知れた。男たちは紋次郎に一斉に会釈をした。「あっしはこの須原に一家を構えておりやす五郎蔵の身内で、留吉というケチな野郎にござんす。この野郎どもも同じく五郎蔵一家の若い者でござんして」五人の中の兄貴分が腰を負った。「ついては折り入ってお願いの筋がござんして」「折角ですが、何かを頼まれるのが嫌いな性分でして」「待ってください。正直言って、おめえさんに何をお願いするのか、あっしもわかってません。実は五郎蔵親分が五年間預かっている客人がおりやす。名は与三郎で、年は六十を過ぎておりますが、このとっつあんが老衰で明日をも知れぬ命なんで」「……」
「その与三郎が昨夜妙なことを言いだしたんで。俺の命はあと二日もたねえ、ついては今生の名残りにやっておきてえことがある。ところがそいつをやるには人の手を借りなければならねえってね。そこで親分が誰の手を借りてえと尋ねると、与三郎は明朝いの一番にこの須原へやってくる旅の渡世人に頼んでくれと言ったんで」「……」「くだらねえことだと、お笑いかもしれやせんが」「まったく、くだらねえことでござんすね」「二十年も島送りになっていたとっつあんの願いを聞いてやるだけ功徳になると思いやすがね」
紋次郎の四肢が一瞬硬直した。それには二つの理由があったのである。二十年も島送りになっていたという男の一言が、紋次郎の消えかかっていた記憶の壁の一部に爪をたてた。紋次郎にも島送りの経験がある。それは身代わりに勤めたお仕置で、無実の罪でった。その時、紋次郎は罠にかかって、死ぬまで島送りの身で過ごさなければならないところだった。その時紋次郎を裏切ったのは誰より信じていいはずの男と女だった。過去のない男紋次郎にとって、過去として残るのはその島送りの一件だけと言ってよかった。もうひとつ、紋次郎をハッとさせた理由はお梶という女の言葉だった。お梶は紋次郎にくたば損ないの爺さんを酷い目に遭わせてくれと頼んだのだ。くたばり損ないの爺さんとは与三郎のことではないか、と紋次郎は思ったのだ。「どうやら、天気も気まぐれのようだ。案内してもらいやしょうか」
須原の五郎蔵の住まいは宿の中ほどにあった。須原の五郎蔵は五十年輩の四角張った体つきの男であった。「おめえさんはもしや木枯らし紋次郎さんじゃねえんで」五郎蔵は呟くと、臥せっている老人に語り掛けた。「与三郎の兄貴よ、お前さんの夢見は大したもんだぜ。これ以上頼りになる者はいねえってお人が見つかったぜ」「五郎蔵どん、すまねえが、座をはずしてもれえてえ」老人は天井を見上げて言った。「わかってらあな」五郎蔵は部屋の外に出た。
老人の肌の色はどす黒く、猿のように皺だらけで、歯は一本も残っていなかった。「俺が知っているのはふた昔も前のことでな」与三郎は弱弱しい声で言った。「紋次郎さんとやらは当世名の売れた渡世人らしいが、俺の耳にははいっちゃいねえ。まあ、そんなことはどうでもいいんだ。俺は昨日昼間に夢を見た。一人の渡世人が金無垢の阿弥陀如来像を背負って、朝のいの一番にこの須原宿にへえってくるという夢をな。それで五郎蔵に頼んで、今朝最初に須原の地を踏んだ渡世人に来てもらったのさ」「そのあっしに何か頼みがあるそうで」「その夢は正夢なのさ。おめえさんに金無垢の阿弥陀如来の像を運んできてもらいてえんだ」「……」
「俺は正気だぜ。俺は長牛の与三郎と呼ばれて、とんでもねえ悪だったのさ。蝮の勘兵衛という野郎と組んで、三十年も前は荒稼ぎをしたもんだぜ。ところが俺と勘兵衛は揃って御用になり、八丈に島送り。七年後には勘兵衛は病死して、八丈島の土になった。ところが俺だけは二十年ぶりに御赦免になって、娑婆に戻ってきたわけさ」「その話と金無垢の阿弥陀如来とどう関わり合いがあるんで」「俺と勘兵衛はお上のどんな厳しいお取調べに対しても、知らぬ存ぜぬで通したことが一つあったんだ。二十五年前、鎌倉の弘蓮寺から消えた金無垢の阿弥陀如来像の行方さ。俺と勘兵衛が盗み出して、生涯の宝物にしようとさるところに隠したわけだ」「それが今でもあるんですかい」「そうともよ」「今になって、その阿弥陀如来をどうしようってござんす」
「俺の命はもう明日の朝まで持たねえだろうよ。だから息を引き取る前にその阿弥陀如来像をしっかり抱きしめてえんだ」「その阿弥陀如来をあっしに運んでこいと言いなさるんですか」「うんと言ってもらいてえ」「須原のお貸元にどうして頼まねえんでござんす」「信じられねえからだよ。俺と五郎蔵の仲は屁みてえなもんだ。昔、五郎蔵の賭場での借り一両を俺が帳消しにしてやった。ただそれだけの仲だ。そんな島帰りの俺を面倒を見るとなりゃあ、五郎蔵の魂胆が見当がつくというもんさ」「しかし、このあっしもどこの馬の骨かえわからねえ流れ者でごさんすよい」「おめさんは夢に出てきたお人だ。阿弥陀如来様のお告げというもんだろうぜ。それに阿弥陀如来の像はお前さんにくれてやるつもりだぜ」
与三郎は眼をカッと開いた。「蝮の勘兵衛はとっくに仏になり、この与三郎も間もなく死ぬんだ。阿弥陀如来像は遠慮なくもらっておきな。俺に身内の一人でもいれば、そいつにくれてやりたいところだが。もう二十七、八年前にことになるが、この俺にも女房みてえな女と生れたばかりの娘がいたが、褌みてえに捨ててちまって、それっきり、噂に聞いたこともねえ」「……」「頼んだぜ、紋次郎さん。場所は妻籠峠の頂きから東へ一丁ほどそれたところに、古い地蔵堂がある。その裏側を二尺ほど掘ると、鉄でできた厨子が出てくるはずだ。阿弥陀如来像はその厨子の中に納まっている」
それっきり与三郎は何も言わなくなった。紋次郎はいきなり背後の障子を開けた。障子の外に二十五、六の青白い顔をした女が座っていた。五郎蔵の家で使われている下女に違いなかった。紋次郎に茶を運んできたのである。紋次郎は縁側に出た。「あのう」女は紋次郎を目で追ったが、紋次郎はそれを無視した。天保十年五月、渡辺崋山、高野長英ら二十六人が捕えられる蛮社の獄を迎えた時期であったが、この木曽路には何の影響も及ぼしていなかった。
紋次郎は須原の宿を西へ抜けた。時刻は五つ、午前八時に近かった。黒牛の与三郎の話の筋道は曲がりなりにも通っていると紋次郎は思った。紋次郎の後をお梶が五メートルほど遅れて歩いていた。それより三十メートル離れて三人連れの渡世人がついて来ている。明らかに五郎蔵の身内であった。そして、紋次郎の前を行く人影があった。女であった。
紋次郎は一里塚を駆けのぼり、松の木の根元にしゃがみこんでいる女を見た。五郎蔵の住まいで見かけた下女であった。女は別に悪びれる様子はなかった。いつかは紋次郎に顔を見られると覚悟の上だったのだろう。「もし」「……」「よかったら一緒に連れて行っておくんなさいまし」「おめえさんもお目当ては妻籠峠の地蔵堂でござんすかい」「はい、半年かかってようやく思いがかないました」「半年がかりで金無垢の阿弥陀如来像を狙っていなすったんですね」「そんなんじゃありません。私はただ最後の親孝行がしたくって」「……」
「黒牛の与三郎は私のおとっつあんなんです。私は二十八年前、おっかさんとともに捨てられた娘のお清です。おとっとあんは五郎蔵親分のところに厄介になっていると聞いたのは半年前、私は遠州掛川から木曽路の須原に飛んできたんです。ところが、おとっつあんは」「相手にしてくれなかったわけでござんすね」「俺の娘はとうに野垂れ死にしたはずだ、お前は俺の娘になりすまして何やら手に入れる魂胆だろう、と言われました。それで時がたてばわかってもらえるだろうって、うちの人に事情を話して、五郎蔵親分のところに住み込みの下働きになったわけで」
「おめえさんは御亭主がいなさるんですかい」「はい。遠州掛川で鍛冶屋をやっております」「堅気の御亭主をねえ。そのおめえさんが何で金無垢の阿弥陀如来像に眼をつけたんですかい。それがどうして親孝行になるんですかい」「私がその阿弥陀如来像をおとっつあんのところへ持ち帰ったら、私が娘のお清だということを信じてもらえると思って」「そのあとの阿弥陀如来像はどうするつもりで」「おとっつあんを葬った寺のお住職にお任せするつもりです」「おめえさんはおめえさんだ。まあ、好きなようにおやりなせえ」紋次郎はお清を置いて足早に歩いて行った。
三富野から半里行くと和合という村がある。紋次郎はその村にある大きな茶屋に入った。「大分、遅れたじゃないか」酔った顔をしてお梶が近づいてきた。「どうやら話が妙な具合になったようだねえ。あのくたばり損ないの老いぼれが事もあろうに、金無垢の阿弥陀如来像の隠し場所を紋次郎さんに教えようとはねえ」「……」「私はてっきり須原の五郎蔵とその身内が阿弥陀如来像を取りに行くものと睨んでいたのさ。それで、紋次郎さんの力を借りようと、ああして頼み込んだだけどね」「……」「でも、私は別に阿弥陀如来像を手に入れるつもりはないんだよ。ただ紋次郎さんの力で五郎蔵たちから阿弥陀如来像を奪い取ってもらいたいだけなんだ。つまり、あの与三郎という老いぼれに阿弥陀如来像を拝ませたくなかったというわけさ」
紋次郎はお梶という女に記憶がないでもなかった。かなり前に甲州勝沼に賭場でイカサマ賽をやった若い者の右腕を叩き斬った覚えがある。その時に壺振りに付きっきりの女が確か若き日のお梶だったのである。「あの与三郎は全く嫌な野郎なんだよ。昔はさんざアコギな真似をしやがったのさ。私はあの与三郎に忘れられない恨みがあるんだよ。だからこの土壇場で与三郎に泣きを見せてやりたいのさ」お梶の右手が水平に走った。長煙管が飛んでいた大きな蜂を叩き落とした。
「その煙管で一服することはねえんでござんすね」「こいつは古い煙管でね。何十年も前から掃除をしたことないね」「おめえさんは煙草をやらねえんで」「ああ」「それなのに、そんな長煙管を持ち歩いているんですかい」「これはおっかさんの形見でね。煙草好きだったおっかさんは粉も残っちゃいないといいうのに、この煙草をくわえたまま息を引き取ったんだよ」「お前さんは何をしているんですかい」「須原の東の小沢というところで、材木流しの中継ぎ所を取り仕切っているのさ」「……」「今からでも遅くないんだよ、紋次郎さん。私に力を貸しておくんな」「お先にごめんなせえよ」紋次郎は雨のやんだ街道へ出て行った。
間もなく妻籠の追分に出る。南へ向かえば木曽路、そのまま中山道である。東への道を行けば大平峠を経て、南信州の飯田へ抜ける。大平街道と呼ばれる道であった。その二筋に分かれる街道の岐点を追分と言っている。妻籠の追分を過ぎ、橋場村あたりから道は上りになる。紋次郎は妻籠峠の頂上にたどりつき、与三郎の指示通り一丁ほど街道をずれたところで、朽ち果てた地蔵堂らしきものを見つけた。すでに夜である、何の作業もできなかった。全ては夜が明けてからであった。紋次郎は木の幹にもたれかかって眠りについた。
紋次郎は人の気配で眼を覚ました。それは忙しい息遣いと激しく動いている手足の一種のリズムであった。紋次郎は眼をひらいた。水と泥を交互に浴びながら、お清は必死になって地面を掘り起こしていた。突然、お清が立ち上がった。泥まみれの鉄製の厨子を抱えていた。お清はその中から金色の阿弥陀如来像を出して、ぼんやりと紋次郎のほうを見た。「お清さん。おめえさん、身籠っていなさるんじゃねえんですかい」ふと、紋次郎が言った。お清のせりだしている下腹が目立っていた。「それもかなりの身重でござんすね「遠州掛川でうちの人は案じているのは、このお腹の子のことで」「だったら、さっさと遠州掛川にお帰りよ」
不意に紋次郎の背後で女の声がし、お梶が猛然とお清のところへ駆け寄った。二人の女は阿弥陀如来像の奪い合いを始めた。そこへ若い遊び人ふうの二人の男が現れ、お梶に向って叫んだ。「姐さん、与三郎が殺されたそうですんぜ」「阿弥陀如来像のことを喋ったらもう用はねえと五郎蔵とその身内が与三郎を蒲団蒸しにしたそうです」「それに須原の五郎蔵が身内十人を連れてこっちに向かっておりやすぜ」お梶は凝然として動かなかったが、やがて自嘲的な笑いを浮かべた。
「お清さん、参りやしょう」阿弥陀如来像を抱きかかえたまま、お清が紋次郎のあとを追ってきた。そして二人は妻籠の追分に到達した。「さあ、ぐずぐずしねえで大平街道を行きなせえ」「は、はい」「黒牛の与三郎はもう生きちゃいねえ。それにその阿弥陀如来像をはおめえさんが掘り出したんですから、おめえさんのものに間違いねえ。早いところ飯田へ抜けて、三州街道を南へ下れば、遠州掛川はそう遠くありやせんぜ」「はい。どうも、すみません」
叫ぶように言うと、お清は大平街道へ小走りに去って行った。紋次郎の目は中山道に向けられた。黒い塊が移動してくる。十人余りの人の群れであった。「馬鹿野郎」すぐ後ろでお梶の泣きわめく声がした。「今の女が誰なのか知っているのかよ」「黒牛の与三郎の娘で、お清さんと聞きましたぜ」「この唐変木。ついこの頃わかったんだけど、あの女は蝮の勘兵衛の娘だったんだ。何とか金無垢の如来像を手に入れようと狙っていた欲の塊だったんだ」「それならそれでいいじゃござんせんか。あの金の如来像が腹の子の血となり肉になるんでしたら」「だから如来像をあの女にくれてやったのかい」「そんなことはあっしの知ったことじゃねえ」
お梶は昨日のことばかり考えている、と話す紋次郎。「おふくろさんと一緒にどんな惨い仕打ちを受けたか知らねえが、おめえさんの頭の中には実の父親の与三郎さんを憎むことしなかったんでござんしょう」「え」「おめえさんが与三郎さんの娘さんだってこはハナからわかっておりやしたよ。古ぼけた長煙管なんどを後生大事に持っていたりするんでね」「おとっつあんはあの金無垢の如来像を盗み出すために、おっかさんと乳飲み子だった私を棄てたんだよ。だから、私はあの如来像が憎いんだ」
お梶を紋次郎は静かに押しのけた。十人の渡世人が半円を描いて紋次郎に迫ってきていた。「木枯らし紋次郎。素直に阿弥陀如来像を渡してもらおうか」中央にいた五郎蔵が怒鳴った。「お梶さん、別にお前さんのおとっつあんの意趣返しをするつもりじゃこざんせんよ。自分の身は手前で守らなけりゃならねえ。それが明日をも知らねえ者の生き方というもんでござんしてねえ」紋次郎の長脇差は五郎蔵を含む十人の渡世人をあの世に送った。
紋次郎は長脇差を鞘に戻すと、くわえていた楊枝を吹き矢のように飛ばした。楊枝はお梶が手にしていた長煙管の竹の部分に命中し、二つになった長煙管が地上に落ちた。「過ぎたことは何もなかったと同じでござんすよ」紋次郎は木曽路を西へ足早に歩きだした。「待っておくんなさいよ」お梶はイヤイヤするように首を振った。「あっしは振り返ることが嫌いでござんしてね」紋次郎の姿はみるみるうちに雨の中を遠ざかって行った。
その後、鎌倉の弘蓮寺に勤務木の阿弥陀如来像が返されてきたという記録はどこにも見当たらない。 
女郎蜘蛛が泥に這う
白い道に二人の影が落ちた。道中支度をした三十前の男女で、夫婦者と一目で知れた。「お前さん、大丈夫だろうね」「心配することないさ。約束通りの利息も用意してきたし」「でも、金沢の与吉郎とか名を売って、近頃は一人前の貸元気取りって噂だよ」「たとえ博奕打ちの親分だろうと、借りた金を返しに来た俺たちに害を加えるはずはなかろうよ。与吉郎はつい一年前まで大里村の百姓だった。そんな阿漕な男じゃないよ」「その与吉郎が先頭に立って、大里村の名主様の不帰依を唱え、そのため名主様は所払いされたと言うんだよ。一筋縄でいく男じゃねえと思うけどねえ」「あれは名主の仁左衛門のほうが悪かったんだ。村勘定を随分誤魔化していたんだから、仁左衛門が首を吊ったもの自業自得というもんだ」
夫婦の話し声を草の中で寝転がって聞いていた男がいた。渡世人であった。痩せていて長身である。空を見上げる眼差しが虚ろだった。その顔の左頬に古い刀傷が見られた。渡世人は空に向けて楊枝をくわえていた。不意にその渡世人の目が横に動いた。本能的に何かを嗅ぎ取ったのである。「待ちねえ」そんな声が聞こえた。急速に近づいてきた男が夫婦者を呼び止めたのである。身の丈があるだけでなく、相撲とりのように肥満した大男であった。
「何も言わずに黙ってだしねえ」大男は亭主の前に手を出した。「何を出すんでございますか」「とぼけるんじゃねえ。おめえは伊那の小商人梅吉、借りた十二両の金を返しに、金沢に向う途中とわかっているんだ」「お願いでございます。どうか、お見逃しくださいまし」「この俺を甘く見るんじゃねえ。煙の千代松だぜ。おとなしく十二両を差し出すか、それとも夫婦揃って三途の川を渡りてえか」そこで渡世人は咳払いをして立ち上がった。煙の千代松や梅吉夫婦は唖然となった。そんなところに人がいると夢にも思っていなかったのだ。
「梅吉さんとやら」渡世人はかすれた声で言った。「その野郎に金をくれることはござんせんよ」「なんだと」千代松は怒鳴った。「その野郎に長脇差を抜けても、おめえさんたちを傷つけることはできやせん。ただの脅しでござんす」「この野郎、何てことを言いやがる」千代松はいきなり長脇差を抜き取った。渡世人は息を吐きだした。くわえている楊枝が木枯らしに似たもの悲しげな音を出した。「その楊枝と吹き鳴らす音。おめえは木枯らし紋次郎」紋次郎が立ち上がって長脇差を腰へ押し込んだ時、西の方向に逃げ去った千代松の姿は一粒の点みたいになっていた。
紋次郎が泊ったのは、高遠の東のはずれに近い清水町にある旅籠屋であった。その旅籠屋の前で乞食芸人が旅人たちに話していた。「松坂屋という旅籠だそうだ。奪われた金がなんと五十両。松坂屋に泊った客は甲州鰍沢の海産物仲買戸塚屋の隠居とお供の手代というわけだ。そこへ忍び入ったのが雲を突くような大男、いきなり長脇差を引き抜き金を出せと凄んだかと思ったら、手代の腹を長脇差で突き刺した」「その手代は死んだのかい」「思ったより傷が浅かったから、四、五日もすれば歩けるそうになるそうだ」「賊は逃げちまったのかい」「五十両を鷲掴みにすると逃げ去ったというんだ」「となると、賊は評判の煙の千代松」「証拠はねえが、そんなところだろうな。煙みてえにへえって来たり消えたりで、人呼んで煙の千代松だ」「血も涙もねえ鬼みてえな野郎だそうだ」「まだ殺したことはないが、信州ではもう五、六人が傷を負わされた上に金を奪われてるそうだぜ」
煙の千代松には聞くも哀れな話がある、という乞食芸人。「この悪党には六十とっくに過ぎた母親がいる。四十近いのに悪事を働く千代松でも、母親から見れば可愛い子であることに変わりない。そこで母親は何とか千代松に悪事を働くことを思いとどまらせようと、もう幾月となく我が子のあとを追いかけているそうだ。気の毒に七十近い母親が白くなった髪を振り乱し、涙ながらに我が子を諌めながら道中を重ねているそうだ」
旅籠屋を出た紋次郎が四日市場を通り抜けた時、老婆の姿を目の隅で捕えた。太めの杖を突き、手に菅笠を持った顔に気品のある老婆だった。それは小耳にはさんだ千代松の母親を連想させた。紋次郎は足を進め、あと四里ほどで金沢に出る荒町村までに来た。紋次郎は金沢の与吉郎という名前を思い浮かべた。与吉郎は大里村の百姓だったが、その村に名主の不帰依事件が起こり、与吉郎が先頭に立って事を運んだというのだ。その不帰依は成功して、名主の仁左衛門は所払いになった上、首をくくって自殺したわけである。
名主といえば村役人の筆頭であり、家柄は村一番というのが常識だった。村の支配者で、村民の遺志を代表する責任者でもあった。権力の手先でもあり、権力に対する反抗者でもあったわけなのだ。勿論、村人たちの尊敬と信頼を一身に集めている。そうした名主の職務のうちで最も重要なのが村内の年貢米を徴収して、領主に上納することであった。次に年貢のほか必要な村の保存米を徴収管理することである。しかし中には不正を行う名主もいるわけで、勝手に年貢米や保存米を過剰徴収したりする者もいる。
そうなると村人たちは名主に対し不信感を持ち、名主の罷免を要求したりする。それが不帰依と称するものだった。村民の意志が固まると、名主の不帰依を支配役所へ訴え出て、不帰依が妥当と認められれば名主を罰することになるが、大里村の仁左衛門の場合は、所払いという重罰を受けたのだ。仁左衛門にしてみれば、耐えきれないほどの屈辱だったに違いない。名主の地位から、先祖代々の名誉と土地を失った乞食に落ちたのと変わりない。一家は離散、仁左衛門は死を選んだのである。
そして与吉郎はおおいに男を上げ、何らかの形で利益も得たのだろう。与吉郎はそのことで慢心増長し、百姓をやっているのが馬鹿らしくなったものと思われる。自己を過信した与吉郎は名が売れ、男を上げることができる道を求めたのに違いない。そうするのに一番手っ取り早いのは、若い者を集め、親分などと呼ばれる身分になることだ。そんなことから与吉郎は甲州街道の宿場金沢に出てきて、一家を構えるようになったのに違いない。
荒町村を過ぎてまもなく、杉の古木が鬱蒼と密生している一帯となった。紋次郎は杉木立の中で睦みあっている男女を見た。女は三十に近く、その苦しげな恍惚の表情は男の身体を十分に知っていなければ示せない反応で、後家か出戻り女と解釈すべきだった。そして女の上で荒い息を吐いている男は煙の千代松であった。紋次郎はゆっくり石段に腰を下ろした。
「本当に久しぶりだねえ」「前にもまして、脂の乗ったいい身体になったなあ、お勝」「嬉しいよ、お前さんにそう言われると。でもお前さんとハナから夫婦になれなかったことが、私は今でも悔しくてねえ」「過ぎたことを言えば愚痴になるだけだ。それに十年前の俺とお前が夫婦になれるはずもなかったしな」「出戻り女になってから、お前さんにこうして可愛がられるようになるなんて、世の中は皮肉にできているんだねえ」「お勝、今からだって遅くはねえんだ」「そうだねえ。お前さんも私も間もなく四十と三十だ。丁度釣り合いが取れると言うもんさ」「だがな、おめえの兄貴が何と言うか」「文句は言わせないよ。それより難しいのはお前さんのおふくろ様のほうじゃないのかい」「まあ、おふくろの話はよしにしようぜ」
千代松は石段に坐っている紋次郎の存在に気づいた。「おめえは」「知っているのかい、その流れ者を」「木枯らし紋次郎だ」千代松は足元の長脇差に手を伸ばした。「ちっとは名が売れているらしいが、いけ好かない野良犬だね」お勝は紋次郎を睨んだ。「紋次郎なんて風来坊を恐れることないじゃないか。このあたりはもう金沢の与吉郎の縄張りだ」「紋次郎、聞いた通りだ。このお勝はな、金沢の与吉郎のたった一人の妹だ」お勝の言葉に勇気を得たのか、千代松は大きな声を張り上げた。
「ちょいと聞きたいことがある」紋次郎が初めて口を利いた。「高遠で聞いた話だが、おめえは信州で何人か傷を負わせたそうだな」「だったら、どうだっていうんだい」「追川というところで二人の子供を連れた二十五、六の母親の左腕を斬り落とし、七両奪いとったのはおめえの仕業じゃねえのかい」「そいつがおめえにどんな関わり合いがあるっていうんだよ」「やっぱり、おめえのやったことかい」「あの女の意趣返しに俺を斬るつもりなのか」「若い母親に何の関わりもねえ。けれど、あの母親の左腕を斬り落として、生涯元へ戻らねえ身体にしたおめえを許すわけにいかねえのさ」「関わり合いのねえ女のためにどうして俺を斬らなきゃならねえんだ」千代松は恐怖の叫び声を上げた。
「諏訪であの母親に柿沢に行きてえと道を尋ねられた。ところが三沢と間違えて南の道を行くように教えちまった。その通り南の道に行ったため、追川であの母親はおめえに襲われた。紋次郎のお蔭であの母親は左腕をなくした。その左腕をおめえから取り返すことにさせてもらうぜ」紋次郎は長脇差を引き抜いた。「助けてくれ」千代松が悲鳴を上げた。「お待ちくださいまし」石段の下から絶叫が聞こえた。ここに来る途中で追い抜いた老婆であった。「おっかさん」千代松が老婆に呼びかけた。「どうか、気をお鎮めになって下さいまし。私はこの愚か者の母親でお甲という者でございます」老婆は繰り返し頭を下げた。
「どうせ悪いのはこの倅だとよくわかっています。倅の後を追い、何とか真人間に立ち帰らせようと旅を続けてまいりました。どうかこの母親を哀れと思って、倅の命だけはお許しを」「……」「私はこの倅が死んだら、とても生きていけそうにありません。どうしても倅を斬るというなら、その前に私を殺しちまってくださいまし」「眼をつぶることにいたしましょう。ですが、今度だけというお話でござんす」紋次郎は石段を下って行った。
断崖に沿った道へ出たとき、紋次郎は急に速力を落した。紋次郎を追って三人の男が現れた。「おめえが木枯らし紋次郎かい」「大した腕だそうだな」「その代り、木枯らし紋次郎をあの与に送って見ろ。金沢の与吉郎一家の名が轟き渡るぜ」「そうよ。いい顔の貸元になれるって親分も喜びなさるだろうよ」三人は興奮気味に口走った。「おめえさん方とは何の遺恨をねえ間柄でござんす。物騒な真似は控えちゃ頂けませんか」「なんだと、この野郎」三人は紋次郎に斬りかかったが、紋次郎をはまったく問題にせず、三人を斬った。
しばらくしてお勝がやってきた。「お前さんがあっしを片付けてくれと兄さんに頼んだですかい」「そうだよ」「あっしを殺すとどんな得があるんでござんしょうね」「私はどうしても千代松さんと一緒になりたいんだよ」お勝はヒステリックに叫んだ。「それが、あっしとどう関わり合いがあるんで」「私と千代松さんは色気づいた頃からいい仲だったのさ。そのときから、とても夫婦なんかになれないってわかりきっていたんだけどね。でも今だったら夫婦になれるんだよ。だけど、一つだけ思い通りにならないことがあるんだよ」「千代松のおふくろさんが承知しねえってことですかい」
「そうさ。だからお前さんを片付けてやろうと思ったんだよ。千代松さんを斬ろうとしたお前を私が殺してやるんだからね。おふくろさんにだって、私の真心ってものが通じるはずじゃないか」「そいつは見当違いっていうもんでござんすよ」「だったら、私は一体どうしたらいいんだい。どうやったら、あの人のおふくろさんい気に入られるって言うんだよ」お勝は半泣きになった。「千代松さんは何より生まれがいいんだよ。あの人は大里村の名主様の一人息子だったんだよ」「……」「だから若い時の私たちは夫婦になれるはずなかった。名主様の一人息子とただの百姓の娘じゃ釣り合いがとれねえもんね。その仁左衛門という名主様は首をきくって死んでしまった。名主様はそれで済んだかもしれないけど、村にいられなくなったその女房子供はどうなるっていうのさ。それから千代松さんはあんたになってしまい、おふくろさんがその後を追いかけまわす。そんな母子になっちまったんだよ」「その不帰依の音頭とりをしたのが、お前さんの兄さんと聞いておりやすぜ」「たとえそうでも、千代松さんと私の気持ちは変わらなかった。だけどあの人のおふくろさんは今でも兄さんのことを恨んでいる。それで私まで毛嫌いするんだよ」
「案ずることはありやせんよ。倅のために命を投げ出すというおふくろさんなら、お前さんのことだってわかってくれるに違いありやせん」紋次郎は再び歩き出した。そのとき、後ろで男の叫び声が聞こえた。腹のあたりを血で真っ赤に染めた男だった。「おめえさんは」「あ、あの時の親分さん」男は紋次郎に救われた梅吉という小商人だった。「親分さん、折角助けていただいたのに、女房は殺されました。金も奪い取られて」「追剥ですかい」「また、あの男に襲われて。煙の千代松ですよ」「場所は」「三丁ほど向こうで」
梅吉は絶命した。紋次郎は立ち上がった。「お前、千代松を斬るつもりかい」お勝が愕然となった。「お前さんも聞いていたはずだぜ。あっしが眼をつぶるのは一度だけだと」紋次郎はすぐに千代松と対峙した。千代松の足元には梅吉の女房の死骸が横たわっていた。「千代松、到頭二人も殺しちまったな」紋次郎は沈んだ口調で言うと、千代松の腹を長脇差で突いた。「俺が悪いんじゃねえ。俺一人じゃ何もできねえんだ」千代松は泣いていた。「俺は意気地なしだ。子供の時から、おっかさんの言いなりになっていたんだなあ」
駆けつけたお勝が千代松の大きな身体を揺さぶった。「お前さん、死んじゃ嫌だよ」「お勝、おめえにも内緒にして悪かったな。煙の千代松は一人じゃ何もできなかったのさ。何もかもおっかさんと言われて初めてできたことだったんだ」「じゃあ、人を傷つけたり金を奪ったりしたのは、おふくろさんに言われて無理にやらされたことだったのかい」「おっかさんは千両集めるまで、俺に悪事を働かせるつもりだったのさ。おっかさんは贅沢に馴れている。だから大金が欲しかったのさ」自嘲的な笑みを浮かべて、千代松は眼を閉じた。
お甲は地面にうずくまった。木の枝から糸が垂直に落ちてきて、お甲の背中の近くで微かに揺れた。糸の先端に蜘蛛がぶら下がっていた。脚が長く背中だけが短毛に覆われた銀白色で、ほかの部分は黒と黄色の縞になっている。女郎蜘蛛であった。紋次郎は楊枝を吹き矢のように飛ばした。楊枝に串刺しにされた女郎蜘蛛はお甲の背中に落ちた。「また、教えてもらいたしたね。やっぱりこの世におふくろなんてものはいねえってことをね」そう言うと、紋次郎はお甲やお勝に背を向けた。お勝は放心したように言った。「ねえ、見ておくれな。千代松さんが悪党なんかじゃないってことをさ。ほら、いい顔をして眠っているじゃないか」「あっしは振り向くってことが嫌いな性分でござんす。ごめんなすって」紋次郎は表情のない顔で足早に歩きだした。
天保十年六月末、お勝なる女、入水して死す。同八月某日、金沢の与吉郎なる博徒、喧嘩口論の末、殺さる。そうある記録の中にも、お甲の消息についてはまったく記されてないと言う。 
水車は夕映えに軋んだ
街街道でちょっとした騒動があると、待ってましたとばかり人が集まってくる。しかしこの場合の見物人たとの雰囲気はちょっと異様なものであった。二十人ばかりの男女が人垣を築いていたが、あたりの空気は少しも緊迫してなく、むしろ和やかであった。確かに妙な揉め事である。見た目には女二人対男一人であったが、一人の女が単に連れであって、揉め事に加わっていなかった。しきりに息巻いている二十七、八の年増女は明らかに酔っていて、股の間から一升徳利が突き出ている。徳利を左右の太腿でしっかりはさみつけているのであった。
もう一方の女は泥酔した連れから徳利を抜き取ろうとしている。年増の妹に違いなく、二十四、五くらいで、妹のほうが遥かに美人であった。「姉さん、いい加減にして」「お縫、余計な口出しするんじゃないよ」酔っぱらった女は男に喧嘩を売っている。だから面白がって人だかりができたのだ。しかし男の方は相手になろうとしなかった。「畜生、女だと思って舐めるんじゃないよ。それともこのお鶴さんが出戻り女だからって、心底馬鹿にするつもりかい」
怒鳴られている男は渡世人だった。かなりの長身で、病人みたいな青白い顔色をしている。左の。頬に古い刀傷の痕が見られた。その渡世人は無言で茶屋の小女に銭を払い、立ち上がりながら、楊枝をくわえた。竹で削った手製の楊枝でその両端が鋭く尖らしてあった。不意に渡世人に肩口に液体が飛んだ。お鶴という女が一升徳利を振り回したのであった。「さあ、怒れ。悔しかったら怒ってみろ」「……」「どうだい、腹が立っただろう。腹が立ったなら、私を殺しておくれ」
「そんなに死にてえなら、川へでも身を投げたらどうですかい」初めて渡世人が口をきいた。「何言ってるんだい。女を斬る度胸も持ってねえんだろう」「あっしは女子供を斬る長脇差を持ち合わせちゃいねえんで」どうか堪忍してください、とお縫という妹が言った。「姉さんは理由もないのに嫁ぎ先から追い出されて、もうヤケッパチになっているんです。飲めない酒を無理に飲んで、あんなふうに荒れ狂って」「あっしには関わりのねえことで」渡世人は足早に立ち去って行った。「変わった渡世人じゃねえか」「ありゃあ上州新田郡三日月村生まれの渡世人、人呼んで木枯らし紋次郎って渡世人さ」野次馬の二人がそんな囁きを交わした。天保十年の二月末で、場所は甲州路、江戸もそう遠くない八王子にすぐ西であった。
拝島を過ぎ、青梅街道を突っ切った時、紋次郎は倒れた女のそばにいる血相を変えている男たちを見た。土地の百姓たちで、倒れている女も百姓娘であった。「死んでるぞ」「やっぱり、お花坊だ」「さんざん弄んで殺したんだろう」「可哀そうに。まだ十五になったばかりだ」「畜生。大谷の利助め」百姓たちは口々に喚いた。羞恥を知らない死骸は二本の脚を左右に開いていて、両方の太腿は鮮血で赤く染まっている。「これでもお代官様に訴えても無駄っていうのか」「死骸だけを棄てていき、殺すところは誰も見ていねえ。訴人にしようがねえ」「八五郎か仙造か吉兵衛。この三人の代貸が若い者にやさせたことに違いねえ」「どっちにしても、大谷の利助の差し金ってことはわかりきっているじゃねえか」「それに、もう十一人も殺されているんだ。我慢できねえよ」
百姓たちが言い合っている脇を紋次郎は通り過ぎた。紋次郎の胸に引っかかることが一つあった。小耳にはさんだ大谷の利助という名前である、紋次郎は利助の評判は聞いていた。利助は温厚な性格で義理堅いと耳にしたことがあった。それに七十五を過ぎている年寄りなのだ。紋次郎は街道をはずれて右へ曲がった。そこに肥溜があった。その脇に二人の男が立ち、もう一人が地上に横たわっていた。倒れているのは男の死骸だとすぐわかった。その死骸を二人の男が肥溜の中に沈めようとしていたのである。二人の男は渡世人らしい風体をしていて、死骸は野良着姿の百姓であった。
「とんでもねえところを、お目にかけてしまったなあ」「……」「渡り者のおめえさんには関わりのねえことだ。見なかったことにしちゃくれねえか」「……」「まさか、嫌とは言うめえな」「大谷の利助親分のお身内衆でござんすかい」「なんだと、おめえはどうして」「どうやら、十二人目の死人が出たようでござんすね」「おめえは、木枯らし紋次郎という野良犬だな」二人は紋次郎に襲い掛かったが、紋次郎は二人をあっさりかわした。「あっしは何も見なかったことにいたしやしょう。お前さんたちに頼まれたから、というわけじゃありやせんぜ。あっしの知ったことじゃねえからでござんすよ」
紋次郎は百姓家の土間の入り口で声をかけた。「お頼み申しやす。納屋の片隅を一晩に限りお借りできないものかと、声をかけさせて頂きやした」「渡世人かね」闇の中に男の顔が浮かび上がった。四十五、六の農夫であった。「へい」「折角だが断るだ。今のおらは渡世人を見ただけで頭の中がカッと熱くなるんでなあ。三日前に渡世人にかかあと十四になる倅が殺されてなあ、おらは一人ぼっちになっちまった。かかあは素っ裸にされた上に松の木の枝に逆さづりにされ、倅のほうはナマス斬りさ」「とんだ。お騒がせいたしやした。ごめんなすて」農夫に背を向けると、紋次郎はいつもの早足のテンポで歩き出した。これから先も渡世人を見る土地の人々の目は冷たいのに違いない。大谷の利助の身内の非道な仕打ちが渡世人全体への反感となっているのだ。
坂戸の北一里のところで高麗川にぶつかる。紋次郎はその河原に降り立ったところで、築かれた人垣で行く手を遮られた。百姓たちは手に鋤、鍬、鎌などを持っていて、どの顔も緊張していた。「喜十のとっつあま、お虎婆さんだぞ」「こんな年寄りを夜中に河原へ引っ張り出してぶち殺すなんて、血も涙もねえ奴らだ」「これでもう十五人めだぞ」「百姓たちを虫けらみてえに思っているんだ」「こうなったら、大谷村へ押しかけて、利助や身内の野郎たちを皆殺しにしてやるべえ」
若い農夫たちは大声を上げたが、そのうちの一人が紋次郎に気づいた。「渡世人だ」「流れ者だろう」「利助の身内じゃないにしろ、渡世人に違いねえぞ」「渡世人はおらたちの敵だ」「殺せ、殺せ」三十人くらいの男たちが紋次郎を押し包んだ。完全に血迷っている。「長脇差を持っているぞ」「長脇差を抜くつもりはござんせん」「騙されはしねえだ」少年という感じの農夫が前に出てきた。「弥吉、危ねえぞ」四十年輩の百姓が少年を制した。「案ずることはござんせん。手向かいは一切いたしやせん」「どうしてだ」弥吉が叫んだ。「堅気衆に向って抜く長脇差は持ち合わせておりやせん」「おめえ何も知らねえのか」四十年輩の農夫が聞いた。「へい。ただの通りすがりの者にござんすからねえ」「ここに来る途中、何人かの百姓が酷い殺され方をしたという話を耳にしなかったかな」「この目で見やしたし、噂も聞いておりやす」「事の起こりは半月前の水争いでな」四十年輩の農夫は怒りに声を震わせた。
水争いは農民にとって不可避の揉め事であった。川と水と農民と農作物は切っても切れない関係にあったからである。その百姓の話によると今度の水争いは半月前に起こったのだという。高麗川を境にした南北の農民たちの間で激烈な水争いが起こり、石を投げ合い農具を振り回しての大喧嘩を始めたのだった。しかし妙な形で犠牲者が出たために、農民たちは慌てて合戦を中止したのである。その犠牲者は百姓でなかった。冷やかし半分に河原に見物に来ていた半七という若い男で、乱闘に巻き込まれ南の村の村民たちに虐殺されたのである。大混乱の中で起ったことであり、半七に誰が手を下したか調べようはなく、半七殺しは何のお咎めもなく済んでしまった。
ところが間もなく南側の村々の人々は惨殺されるという事件が続発したのである。半七のための復讐としか考えられなかった。半七は大谷村の豪農の次男坊であり、同時に博奕打ちであった。半七は大谷の利助の身内の一人に加えられていたのであった。大谷村は北川の村々に属しており、半七を虐殺した南の村々の人間を激しく憎悪したものと思われた。「みなさんはそれを大谷の利助親分の差し金と思ってござんすね」「そうでねえと言うつもりかねえ」「へい。大谷の利助親分はそんな道理に叶わねえことをならすお人でねえと噂に聞いておりやすんで」「……」
紋次郎は河原を横切って歩いた。高麗川を渡ると、やがて高坂の宿であった。紋次郎は追ってくる二人の男に気づいた。肥溜に死骸を沈めようとした二人の男であった「何か御用でござんすかい」「……」「今度はあっしも長脇差を抜きやすぜ」紋次郎は一人を斬って、もう一人の鼻先に長脇差の切先を突きつけた。「利助親分はお達者なんですかい」「親分は去年の夏に中風で倒れて、いまだに口もきけねえ」「利助親分はもう親分らしい力がねえってことですかい」「そうなんだ」「十五人も殺したのは三人の代貸の差金によることでござんしょうが、そいつはどういうわけなんですかい。跡目を継げるのは一人だけなのに、三人の代貸が心を合わせるというのは妙な話でござんすね」「半七の意趣返しにできるだけ酷いやり方で、一人でも多く百姓を殺した物に親分の跡目を継がせることになっているんで」「どこのどいつがそんな取決めをしたんですかい」「それだけは言えねえ。頼む、助けておくんなさい」男は地面に身を伏せた。
紋次郎は鴻巣に向おうとしたが、街道の分岐点で十数人の男たちが待ち受けていたのである。大谷の利助の身内であることは一目で知れた。最前列に三人の男が腕組みして並んでいた。代貸の八五郎、仙造、吉兵衛に違いなかった。「紋次郎、おめえには死んでもらうぜ」紋次郎は三人の代貸を斬った時、水車小屋の陰から女がフラフラと出てきた。女は胸を血で染めて、紋次郎の前に倒れた。茶屋でひどく酔って紋次郎に絡んだお鶴という女だった。
「ほんの少し前にここへ帰りついたばかりなんだよ」もう一人の女の声が水車の横でした。お鶴の妹のお縫という女だった。お縫の顔にはゾッとするような冷たさが見られた。「高麗川の南に住んでいる百姓たちに意趣返しをするように、八五郎、仙造、吉兵衛に三人に指図したのはこの私さ」お縫の顔はただ美しいだけの能面のようであった。「おめえさんは大谷の一家とどんな関わりも持っていなさるんで」「私達は利助の娘だよ。おとっつあんが役立たずになってからの大谷一家は私が取り仕切ったようなものさ」お縫は落ちていた長脇差を拾い上げた。
「おめえさんと半七という野郎はいい仲だったわけですかい」「私は半七に死ぬほど惚れていたんだよ。その大事な半七を嬲り殺しにされたんだから、私がその意趣返しに女の執念を賭けてもおかしくないだろう」「女にしちゃあ惨すぎるやり方じゃねえですかい」「女は惨いもんなんだよ。見ていてごらんな、私はどんな惨いことだってできるんだ」お縫はいきなりお鶴の腹に長脇差を突き刺した。お鶴はヒーッと泣き叫んだ。「実の姉さんじゃねえんですかい」「実の姉さ。だけど、この女は高萩の百姓の女房になっていたんだよ。亭主が半七殺しに一枚加わっていたらしく、私が話を聞きにいくと知って逃げ出しやがった。だから甲州まで追っていって、こうして連れ戻したのさ」「それで、あれほど酔わずにはいられなかった」「妹がどんなに恐ろしい女か、よく承知していたからね」
「もう、忘れてやりなせえ。三人の代貸もいなくなったことだし」「冗談じゃないよ。私は一人になっても半七の意趣返しを続けるつもりさ。やめさせるのは私を殺すほかないんだ。ところが木枯らし紋次郎は女を殺す長脇差は持たないというんだからさ」「おめえさんに向って長脇差を使わねえが、おめえさんが死なねえとは限らねえんですぜ」「寝言を言うんじゃないよ」お縫は長脇差をお鶴の喉に突き刺した、お鶴は声を立てずに息絶えた。紋次郎はお鶴の喉に突き刺さっている長脇差に、自分の長脇差を振るった。峰がお鶴の喉に突き立てられている長脇差の鍔にすぐ下あたりを叩いた。弾き飛ばされた長脇差がお鶴の喉から抜けて、水平に走り、お縫の左の乳房の下に深々と埋没した。お縫はゆっくりと倒れ込んだ。
「長脇差は確かに使わなかったけど、女を殺したことは間違いないんだよ。木枯らし紋次郎がそのことをすぐ忘れられればいいだけどねえ」顔色の失せたお縫が呟いた。「あっしには昨日という日がありません。明日がもし来るようだったら、振り返って思い出すこともないでしょう」木枯らし紋次郎は表情のない顔で街道の分岐点の方に孤影を運んだ。
お縫、八五郎、仙造、吉兵衛の死骸は十五人の男女殺害の下手人として三日間、高麗川の河原に捨て置かれたと記録にある。 
獣道に涙を棄てた
天保十年十一月、霜月ともなれば屋外はやはり寒い。女は餅肌であった。三十前の女盛りである。男は六十近い。大店の主人という感じで、それなりの気品も貫禄もある。「明日は江戸から帰りますね」「忠七かい」「ええ」「年が改まったら、また当分江戸へ出すことになるだろう」「それまではずっと嫁でいなければいけないんですね」「仕方ないじゃないか」「でも辛くて」「私が味を覚えさせたと言いたいんだろう」「でも本当にそうなんですから」「忠七の奴、三十五にもなりおって、どうして嫁を一人前の女にしてやれんのだろう」
上州は藤岡である。人っ子ひとりいない、と加納屋善左衛門も息子の嫁も信じ切っていたのである。これまで一度も人目に触れたことがない。この崖の斜面の窪地は大丈夫だという自信があったのだ。ところが絡み合っている二人から十メートル離れていない地点に人がいたのであった。枯草の上に加納屋善左衛門たちが忍んでくる以前から、そこで眠っていたのであった。
渡世人であった。感情のこもらない目許に虚無的な翳りが漂っていた。左の頬に刀傷の痕があった。渡世人は唇の左端に楊枝をくわえていた。立ち上がった渡世人を見て、加納屋善左衛門は動揺して、声を掛けた。「もし」善左衛門は懐から財布を取りだした。中には十二、三両入っているはずだった。「お願いですから、ここで見たこと聞いたことを忘れてくださいませんか。勿論タダとは申しません」善左衛門は財布を差し出した。渡世人は返事をしなかった。
「お前さんは確か上州の新田郡三日月村の生まれで、紋次郎さんというお人でしょう。くわえていなさる楊枝のことを藤岡の源蔵親分から聞かされたことがあるんですよ。同じ上州生まれのよしみで、私を助けてやってください」「……」「もし財布の中身に不足がおありでしたら、どのようにも色をおつけします」「加納屋善左衛門と言やあ、上州で五本の指に入る分限者じゃござんせんか」「その加納屋善左衛門が年甲斐もなくと、蔑まれようと弁解の余地はございません」「とんでもねえ。男と女の仲はそんなもんだと、あっしも十分承知しておりやすよ」「面目もねえことで。さあ、これをお納めになって下さいまし」善左衛門は財布を上下に動かした。「あっしには関わりのねえことで。ごめんなすって」渡世人は善左衛門に背を向けた。
木枯らし紋次郎が口止め料を受け取っておけば、善左衛門は安堵したであろう。だが、紋次郎はそれを拒んだ。紋次郎にしてみればそんな口止め料など受け取る筋合いはないと思ったのである。たまため目の前で善左衛門と倅の嫁のお菊が白昼夢のような愛欲絵図を繰り広げただけのことであった。加納屋善左衛門ともあろう男の不倫行為が明らかにされれば確かに世間は大騒ぎするだろう。善左衛門・忠七親子の対立は一般の家庭争議のように簡単にすまされない。奉公人が百人を超す加納屋が大揺れに揺れ動くことも考えられる。だが紋次郎にはそんな不倫行為など知ったことではなかった。善左衛門の行為を最初から記憶にとどめるつもりはなかったのだ。しかし、加納屋善左衛門はしうは受け取らなかった。紋次郎の拒絶を悪意に解釈したのだった。紋次郎という目撃者に大変な秘密を握られてしまった。何とかして紋次郎を処理しないうちは不安でならないというわけだった。
紋次郎はその二人の男に気づいたのは、藤岡から南西への道をたどり始めて、一時間ほどした頃であった。目当ては自分だとわかったが、紋次郎は二人の男を無視して歩き続けた。二人ともこの土地の貸元の若い者という感じであった。土地の貸元となると藤岡の源蔵しかいなかった。紋次郎は源蔵を知らないが、先代の小三郎とは面識があった。その先代の小三郎は二年前に病死している。小三郎の跡目相続のことで、何かゴタゴタがあったという噂は聞いていた。結局、代貸の中で一番若かった源蔵が強引に後を継いだという話だった、その源蔵は金の亡者と言われて、ひどく評判が悪かった。
紋次郎は十石峠街道を南西に向かっていた。そのうち二人の男は姿を消した。多分追跡を断念したのだろう。紋次郎は日没の直前に万場に着いた。そして道の真ん中に女がうずくまっているのを見た。「ああ、旅人さん。ここが痛んで動けそうにないんだよ」女は左の乳房の下を押えてみせた。紋次郎は女の横顔を覗きこむように腰を折った。同時に男が一人飛び出して来た。渡世人であった。
紋次郎は渡世人にぶつかっていった。渡世人はよろめくように倒れた。女は一両もらってお前さんを呼び止めるように言われた、と叫んで走り去った。「どういうつもりなんですかい」紋次郎は渡世人に聞いた。「畜生」渡世人が起きあがった。年は三十ぐらいであろうか、とにかくひどい面相なのである。健全なのは目と歯だけであり、あとは顔全体は皺だらけにした油紙みたいになっているのである。「この面を見たかい」「だからって、あっしの命を狙ったんですかい」「こんな面してたんじゃ、どこへ行っても人並に扱ってくれねえ。いっそ死んでしまったほうが楽なくれえだ。木枯らし紋次郎だろうと俺は恐ろしくねえんだ」「誰に頼まれたんですかい」「……」「藤岡の源蔵にですかい」「俺は源蔵親分の身内だ」「そもめえはズブの素人さんだったんでござんしょう」「盃をもらって一年になるはずだ。それまでは武州大宮郷の百姓で、名は太吉」「おめえさんの名は忘れることにいたしやしょう」次の瞬間、紋次郎はもう歩き始めていた。
神ヶ原の手前まで来たとき、石仏の間に腰をおろしている眼を閉じた女がいた。絵に描いたような美人と言う印象を受けた。「もし。旅のお人ですか。それとも、この土地の」女は眼を閉じたままであった。目が不自由なのである。「旅の者でござんす」「西へおいでですね」「へい」「だったら別の道をおいでなさいまし。尾附橋が落ちたためにそれから先は行けません。私は今朝尾附橋が落ちたと言う話を聞きました」「そいつは御親切にどうも恐れ入りやす」「
「言葉つきから察して、旅人さんなのではないでしょうか」「へい」「だったら、いろいろな噂を知っておいででしょうね。太吉という男のことを噂に聞いておいででないですか」「太吉?」「顔が大火傷の痕で爛れているので噂になりやすいと思うんです。元は武州大宮郷の百姓だったのですが、一年前から行方知れずになり、どこかの親分さんのところにいるらしいと風の便りに聞きまして、三月前から私は上州、信州と回っているのです」「その太吉さんなら、つい一時前お見かけいたしやした」「え、それは本当ですか」「藤岡の源蔵の盃をもらったと申しておりやした。では、一足先にご免こうむらせていただきやす」紋次郎は今来た道を万場の方向に歩きだしていた。
紋次郎は尾附橋が落ちたのは源蔵たちの細工ではないかと思った。目の不自由な女にしても、源蔵から金を受け取ってないと言えなかった。紋次郎は足を速めたが、すぐに止めなければならなくなった。太吉と出会ったのである。「紋次郎さん。俺はどうしていいのかわからねえんだ。おめえさんの行く先を見届けろと親分から言われてるんだ」「あっしの知ったことじゃござんせんよ」「お願えだ、どうすりゃいいか教えてくれ」太吉は泣き叫ぶように言った。「お前さん、その声はお前さんじゃないのかい」背後で甲高い女の声が聞こえた。目の不自由な女が追い付いてきたのだ。「お鈴」太吉が呟くように言った。「お鈴が盲になったなんて信じられねえ」「探したんだよ、お前さんを」「すまねえ、お鈴。苦労かけたな」太吉とお鈴は涙を流した。「太吉さんはあっしの行方を見定めろと、源蔵から言いつかっておいでですね。あっしは武州大宮郷に足を向けやすぜ」紋次郎はそう言うと歩き出した。
夫婦はつかず離れず紋次郎のあとを追ってきていた。鬼石の旅籠で紋次郎はお鈴から一方的に話を聞かされた。太吉は火傷で二目と見られない醜い顔になった上に、無実の罪を押し付けられたのだという。事の起こりは一年前の火事にあった。その夜は秩父妙見宮霜月大祭の最初の晩だった。この大祭は年に一度の娯楽を与えるだけでなく、年貢収納を含めた生活費を得る絹大市が立つという意味でも重大な意味を持っていた。だがこの大祭は喜ばれない特徴があった。霜月大祭の期間中によく原因不明の火事騒ぎが起こるということであった。土地の人々の間では、その火事は「赤牛の招き火」と呼んでいた。大祭に火事が起こるとその直後に必ず赤いものを身体につけた牛が山へ逃げ込む姿を見かけるというのである。
一年前の妙見宮霜月大祭の最初の晩、火事があった。太吉はお鈴の妹を連れて家へ帰る途中、絹大市会所の裏を通りかかった。その時点で出火して、紅蓮の炎が二人を押し包んだのである。十七になったばかりのお京が煙に巻かれて倒れ、太吉はお京を助け出そうとして火の中に飛び込んだ。しかし炎に顔を焼かれて、太吉はかろうじて逃れ出たのであった。お京は焼け死に、太吉は顔に大火傷を負った。出火の直後に赤い衣をまとった生き物を見た、「赤牛の招き火」に間違いなかった、と太吉は主張したが、誰も信じてくれなかった。結局、「赤牛の招き火」だと信じてくれたのは女房のお鈴だけであった。
間もなく太吉は大宮郷から姿を消した。お鈴は何とかして太吉の冤罪を晴らしたいと思ったが、それは不可能なことだった。たった一つ期待できるのは、赤牛が出現して招き火による騒ぎが起こることであった。実際に「赤牛の招き火」を見さえすれば、人々はたきちの主張を認めるはずであった。「それでお前さんを妙見宮様の祭りが始まる前に連れて帰りたいと夢中で探したんだよ。本当によかった。祭りにも間に合うし」「だが、招き火がるとは限らねえよ」「きっとあるよ、お前さん」「そんなことより、お前、その目はどうしたっていうんでえ」「……」
三人が大宮郷に着いた時は五つ、夜の八時をすぎた頃であった。太吉の家は一見だけ孤立していた。紋次郎は浅い眠りについたが、すぐに目がさめた。お鈴が右手に太助の長脇差を持って近づいてきた。「やっぱりそうだったんですかい」紋次郎は不意に言った。「おめえさんみてえな綺麗なお人でも、心は濁っていなさるんですね。源蔵からいくらもらう約束で、あっしの命を狙ったんでござんすかい」「源蔵?そんなんじゃありません」「ほかにどんな理由があって、あっしの命が欲しいと言いなさるん」
お鈴は両手で顔をおおった。「お前様に赤牛になってもらおうと思って。夜になったら火を放って、赤牛の招き火だと騒ぎ立てるつもりでした。お前様の死骸に赤い絹を巻きつけ、逃げるところを太吉が刺し殺したことにすれば、村の人たちだって本気にするだろうって。赤牛の正体は無宿人で盗みを働くために火を放ったのだというわけで、そうなれば去年の火事だって太吉のせいじゃなかった、太吉が赤牛を見たのも本当だったと村の衆も信じてくれるだろうって」「この家を灰になさるつもりだったんですかい」「太吉がこんなことになるんなら、家なんて灰になったって」
そしてお鈴は自分で眼を見えなくした、と紋次郎に言った。「太吉があんな顔になったことをひどく気にかけていたので、せめて女房の私だけでも眼を見えなくしたら、太吉が少しは気楽になれるのではないかと思って、蝋燭を目にたらしこんだのです」お鈴は寂しそうに口元をほころばせた。「さぞ、痛かっただろうな、お鈴」太吉の声がした。「許してくれお鈴。俺は腐り芋みてえな男だったんだよ。去年の火事はやっぱり俺のせいだったんだ。赤牛を見たってとんだ嘘っぱちさ。俺が持っていた提灯の火が干し草に燃え移ったんだ」「……」「俺はあの時、お京に悪戯を仕掛けたんだよ。お京を干し草の上に押し倒して。その間に、お京が蹴飛ばした提灯が燃えて、干し草に移っちまった。お前の妹を死なせたのは俺なだよ。そんな俺のためにお前は見える眼を潰しちまうなんて。そうよ、こんな家なんて灰にしちまえ」
太吉は抱えていた甕を板の間に投げつけた。その中に燈油が入っていた。そこへ太吉の手から火がついた燈油皿が落ちた。音を立てて火柱が上がった。「俺なんか地獄に落ちればいいんだ」太吉の口から血があふれ出た。舌を噛み切ったのである。太吉は音を立てて倒れた。長脇差を拾ったお鈴が見当をつけて太吉のところへ歩み寄った。「お前さん、死ぬときは一緒だよ」そう言った直後にお鈴は自らの喉に長脇差を突き立てていた。すでにあたりは火の海になった。
紋次郎は赤い絹布を掴み、家の外に飛び出していった。同時に家の前に固まっていた十人ほどの渡世人が一斉に散開した。「命を大切にして藤岡に戻った者がいたら、加納屋善左衛門さんに伝えて頂きやしょう。世の中には心で睦みあう男と女もいるもんだってね。藤岡へ戻りたくねえ者は死んでもらいますぜ。今朝の紋次郎は容赦することを知らねえでござんすよ」紋次郎は六人ほど斬った。みな若い渡世人だったが、一人だけ三十五、六の男がいた。藤岡の源蔵かに違いなかった。
半鐘が鳴りだした。紋次郎は赤い絹布を体に絡ませて、走り出した。「赤牛だぞう」「去年の赤牛がまた出たぞう」そんな声が聞こえてきた。紋次郎は武甲山に続いている樹海の中へ走り込んだ。獣が通れるだけの道、獣道を行くほかはなかった。紋次郎がくわえた楊枝を吹きならして出すのと同じ音が頭上で聞こえた。朝から木枯らしが吹き始めているのだった。
記録には天保十年を最後に秩父妙見宮霜月大祭に「赤牛の招き火」による火災は、一度も起きていないと記されている。 
「無縁仏に明日をみた」(テレビ放映1972/5)
今とは違い命がけで旅をしていた時代、あまたの無縁仏が存在したことだろう。無縁仏の数だけ無縁になった経緯があり、それぞれの生き様があった。どこの誰かもわからず、見知らぬ土地で命を落とし全くの他人に葬られる。どこで死のうと死んだらおしまいではあるが、実に虚しい思いにかられる。
「水神祭りに死を呼んだ」に通じる死生観がテーマになった作品である。
アバンタイトルからとにかく不気味だ。喧嘩支度の男達が、長ドスや竹槍、手槍を持って青白い霧の中から現れる。
頭には濡れた和紙の上に鉢巻きをしている。濡れた和紙を頭や体に貼り付けるというのは、刀での傷を少しでも防ぐためであり、原作にもある。「帰って来た木枯し紋次郎」の映画でも、紋次郎は敵と対峙する準備で体に濡れた和紙を貼っていた。
「おめえはこの河原で野晒しになるんだぜ」の言葉に「長く生きてえとは、思ったことはねえ。死ぬときが来たら、死ぬまでだ」と答える紋次郎。このセリフと同じような意味のセリフは何度も出てくる。
鞘から長ドスが抜けず、紋次郎は男達に刺され死を覚悟する。視聴者はいつもと違う映像と音楽に、このシーンは現実ではないと薄々わかるのだが、それにしても紋次郎が刺されて苦痛に顔が歪む様は見ていられない。特に闇の奧から死神のようなザンバラ頭の男が、跳躍しながら近づいてくる様は、夢に見そうで恐ろしい。くわえていた楊枝が口からがポトリと落ち、自分の死相が見えたところで紋次郎は悪夢から覚める。
「夢か」と珍しく独り言。やっぱり夢だったのかと、視聴者も一緒にホッとため息をつく。
原作もテレビ版もオープニングはほとんど同じであるが、この後少しずつ展開が違ってくる。明らかにテレビ版の方が原作よりかっこいい。
猿久保の八十吉の賭場で紋次郎は、素人衆の博奕のいざこざを粋な楊枝の使い方で収める。一度張った駒札を変えることは許されないということを、楊枝を飛ばして戒めるというところである。
「札を動かしちゃいけやせん。お客さんは素人衆だ。作法をご存知ねえ。おあげなすっておくんなはい」
と場を収める。貫禄のある言動に八十吉の子分たちも従う。この言い回しは実に渋くてかっこいい。
お妻を背負っての鳥居峠越えを断る紋次郎の前に飛び出した一太郎のセリフの中に、原作にはないセリフがある。
「病人を見捨てて、野仏にするのかい!」
野仏と聞いて悪夢を思い出したのか、この言葉で不本意ながら紋次郎は力を貸す。
逆にテレビ版では省略されているが、原作での紋次郎は次のようなセリフを口にしている。
旅先でどうにもならなくなると、迎えに来てくれと便りをよこすと話すお妻に一言。
「結構な、ご身分で……」
本来、流れ渡世人は職業ではなく、やむにやまれぬ事情のなれの果ての姿なのだ。好きこのんで渡世人になった訳ではなく、渡世人でしか生きていけない者の手段なのだ。従ってどうにもならなくなっても、当然誰も助けには来てくれない。二進も三進もいかなくなったら、野垂れ死ぬしかないのだ。
博奕ですったから20両を持ってきてくれと兄に泣きつく新八といい、金がなくなったらしょっちゅう女房に迎えに来させる力蔵といい、紋次郎の対極に位置する存在、「結構なご身分」なのである。
力蔵が締まらないのは腹下しだけでなく、甘っちょろい生き方にある。とにかく覚悟というものが微塵にも感じられない。
自分の女房を他人に背負わせ、子どもに手を引いてもらい、有名な木枯し紋次郎に女房を背負ってもらったと自慢げに話す力蔵に、紋次郎がイライラするのも当然である。
紋次郎はよく人を背負う。この回で3人目であり、この後第2シーズンでも何人かを背負う。そしてただ背負うだけではなく、かなりの距離を歩く。いかに脚力があるかと感心してしまうが、粗食であれだけの体力があるということには驚いてしまう。毎日、かなりの距離を歩いている賜物か、苦もなく峠を越えてしまう。女性ファンとしてはお妻が羨ましい限りであり、しばらくお妻と我が身を同化させる場面であろう。
原作とテレビ版では展開、設定に大きな相違点が3つあると思う。
その違いの一つに、お妻の設定の違いがある。原作でのお妻は弱々しくおとなしい印象を受けるが、テレビ版ではなかなか強かな面が見える。演じるのは「野川由美子」。どちらかというと明るく庶民的で、おきゃんな感じの役が多く、今回のお妻のような役柄はめずらしいのではないかと思う。
原作でのお妻の存在は薄く、寅吉の策略に加担した割合はテレビ版より低い印象を受ける。
テレビ版でのお妻は亭主の力蔵に、楊枝を作ってくわえさせている。紋次郎にあやかろうという訳であるが、これは原作にはない。情夫の寅吉の指図で「紋次郎に仕立てろ」と言われてのことだった。後で父親思いの一太郎を、紋次郎殺しに利用した寅吉をなじり、斬られそうになる一太郎をかばって寅吉に殺される。テレビ版では、ダメな亭主を見限り殺しを手伝う悪女だが、我が子を想う哀れな母親として命を落とすという設定である。我が子を想うのなら、我が子が慕う父親を何とか真っ当にさせようとするのが本当だろう。その点、何となくどっちつかずで、居心地が悪い感がする。女として生きたかったのか、母親として生きたかったのか。
原作でのお妻は、その場では刃にかかることなく、一太郎と追われるように故郷を後にする。
2つ目は紋次郎の傷の癒し方である。原作では3日間、意識不明の紋次郎を農家の老婆が世話をする。堅気の者に看病されるなど、滅多にないことであり、この老婆の話から寅吉の企みに気づく。
テレビ版の紋次郎は自力でのサバイバル。藁縄で止血し、ヨモギや硫黄で殺菌、泳ぐ川魚を長ドスで捕らえ生で喰らう。岩陰に体を横たえ雨をしのぐ。まさに野獣が野性の本能で、自らの傷を癒そうとするかのようである。
映像のバックミュージックは、上條恒彦が歌うテーマソング。誰にも頼ることなく、助けを求めることもしない。原作以上に自分に厳しく、明らかに力蔵との対比を狙っている。
テーマソングが流れるシーンはいつも重要なメッセージがある。
アキレス腱断裂からの復帰第1作目「土煙に絵馬が舞う」のエンディング。待ちに待った紋次郎の再開に、この曲は花を添えてくれた。
紋次郎がいない1ヶ月の間、フジテレビは笹沢氏原作の股旅シリーズを急遽放映した。紋次郎によく似た4人の主人公は、どれも魅力的ではあったが、やはり紋次郎のようなオーラは感じられなかった。
それだけに「待ってやしたぜ、紋次郎兄貴。やっぱりおめえさんじゃねえと始まらねえ」といった、高ぶる気持ちをこの主題歌は表してくれたと思う。
もう1作は「月夜に吼えた遠州路」の川の中での大立ち廻り。圧倒的に不利であるのに、生きんが為、懸命に敵に向かっていく紋次郎の姿と主題歌がかぶさる。思わず「紋次郎、がんばれ!」と心の中で叫びそうになる。
ドラマ内で流れる主題歌は、どんな逆境にあろうと絶対に諦めない紋次郎への応援歌であり、共感して観る者への応援歌でもあるのだ。
3つ目は決定的な相違点である。楊枝の使い方である。テレビ版の紋次郎は市川監督の意向もあって、武器として使うことはなく、ヒューマンな使い方に徹している。人に向かって飛ばしても、直接身体に刺さるということはなく、顎紐を切ったり刀の柄に刺さったりで唯一、人の身体にというならば、「六地蔵の……」の金蔵の口許ぐらいか……。
しかしこの回の原作は、なんと連続5回も敵に向かって飛ばしている。振分け荷物から取り出した新しい楊枝を5本……と書かれているのだが、一体紋次郎は何本楊枝を常時持っているのだろう?と思ったりする。
生死をさまよった3日間を過ごした老婆の家に、夜陰に乗じて5人の男が紋次郎を殺しにやってくる。右脇腹の刀傷のため、まともに戦えない紋次郎は暗闇の中、次々と楊枝を飛ばし混乱させる。絶体絶命状態であるが故の作戦であることはわかるが、テレビ版では設定が違うので楊枝は武器として使われない。
傷のため握力が落ちた手から長ドスを放さないために、紋次郎は右手に下げ緒で長ドスをくくり付ける。
本ブログで既出だが、これは「地蔵峠の……」の原作主人公、三筋の仙太郎の殺陣から流用したものと思われる。
この時の紋次郎は、下げ緒をキリッと手に巻いた時から、尋常ではくぐり抜けられない修羅場であるという覚悟があったと思われる。
「死ぬときが来たら黙って死ぬだけだ」と紋次郎はいつも覚悟を決めているが、これは自分の命を粗末に考えているわけではなく、生き抜くためのあらゆる手段を講じた上で吐けるセリフなのである。座して死を待つことは絶対にあり得ない。紋次郎にとって「死ぬとき」とはどういうときなのだろう、「黙って死ぬ」とは誰に対して黙ってなのだろう。
この場合の「黙って」とは少し意味合いが違うが、原作での紋次郎は一太郎に刺されたことを一言ももらさなかった。その心意気に老婆は惚れ込み、紋次郎を助けた。
「紋次郎は別に、一太郎を庇ったわけではないのである。たとえ刺した者が一太郎でなかったにしろ、紋次郎は誰であるかを口外せずにすましたことだろう。刺されて、紋次郎が死ぬ。誰が刺したかなどということは、どうでもよかったのである。」(原作より抜粋)
原作では、新八に手渡すはずだった20両をどうしたかは書かれていない。しかしテレビ版では両親に死なれた一太郎に「新八さんに届けに来た金だ。もう用はねえ。死んだお前の親父さんの供養でもしてやってくれ」と、手渡す。
エンディングに「もんじゆうらうの墓」に2本楊枝を飛ばすところは、原作と同じである。原作では計7本も飛ばしたことになる。
さて、気になるところは一太郎のその後である。テレビ版では両親に死なれた一太郎であるので、紋次郎と同じように渡世人になるのではと私は思っている。丁度、紋次郎が故郷を捨てた歳と同じぐらいであろう。向こうっ気が強く度胸もありそうなので、一端の渡世人になるだろう。そしていつまでも憧れを持って紋次郎のことを忘れないだろう、と勝手に解釈してしまう。(桐風庵さんと同意見です)
しかし、原作ではお妻と一太郎は二人して故郷を捨て旅に出る。
「武州川越の近くにある無縁仏に『つま・いちたらう。母子地蔵』という石仏が見られるが、お妻と一太郎に関係するものかどうかはわからない。」(原作より抜粋)とあるが、私としては憎い母親を捨てて、一太郎には独りで生き抜いて欲しい。(紋次郎と同じように)そして、成人してから母親の過ちを許し、死んだ母親のために母子地蔵を建ててやるという設定はいかがなものか……。 

母子地蔵尊1
満州で犠牲になった方々のご冥福をお祈り致します。また慰霊の為に祀られた「まんしゆう母子地蔵(母子地蔵尊)を紹介致します。仲見世を通り抜け、浅草寺宝蔵門の右横に小さな地蔵があります。赤いのぼりの立つ中に安置されています。終戦後の混乱の中で日本に帰ることができなかった人々の霊をなぐさめるために祀られた地蔵です。
1932年、現在の中国東北部に「満州帝国」が建国、日本から沢山の人々が移り住みました。いわゆる「満州開拓団」です。戦争末期、満州方面に配備されていた関東軍は、邦人を置いたまま南下を始めます。これはソ連参戦に対し、満州国の南東部で持久戦闘を展開するためとされます。要は、軍は次の戦闘に関する認識をしていた訳です。が、昭和20年(1945年)5月、つまり終戦の3ヶ月前にも開拓団は「満州国」へ出発しており、開拓団の団員に対し、危険情報というものがどこまでもたらされていたのか、大いに疑問です。
そして、ソ連軍は一方的に不可侵条約を破棄して侵入、在留日本人は見殺しにされる運命となりました。
戦後、開拓団員たちは広野に取り残されて難民となり、自力での日本への避難となりました。徒歩での避難、餓えはお年寄りや子どもたちには特に過酷で衰弱による死者がでました。さらに現地やソ連兵の「略奪」「暴行」「強姦」などで、開拓団は多くの犠牲者を出しました。終戦の年の冬には、なんと24万人にもおよぶ邦人が命を落としたとされます。
東京空襲が8〜10万人の犠牲、広島原爆が14万人、長崎原爆が7万人もの犠牲を出しておりますが、それよりもはるかに多い犠牲が出たのです。
佐賀で飲食店を経営しておられるご夫婦が引き上げ者で、ご体験をお話を伺いました。
「ソ連兵が来たとき、兎に角、ばりばりと撃ってきた。右に左にとばらまくように撃つソ連兵の弾の下を、地べたを這って逃れた。現地で開いた飲食店は結構繁盛してきたが、財産もすべて置いてきた。夫婦二人だったので身軽さのお陰でなんとか生き延びることができた。互いに助け合う余裕もなかった。」
「合流した邦人家族に女学生が居たので(暴行されないように)持っていたはさみで髪を男の子の様に虎刈りにした。」
「乳飲み子を抱えたり、小さな子どもを連れた母親らは、大変な苦労だった。」
「道ばたに暴行されて半分裸の女性が、目を見開いたまま泥に顔を半分埋めて死んでいた。その傍に小さな子がぺたりと座り込んだまま眠るように死んでいた。3歳くらいの子だった。」
「衰弱して昏睡になった自分の子の首に手をかけて死なせた後、発狂して入水自殺した人もいた。」
「もし、現地で子を産んでいたら、大変だったと思う。無事に帰れたかどうかわからない。」 
母子地蔵2
(子どもたちの安全を願い、疏水べりに安置された / 京都市山科区安朱馬場ノ東町)
母親が左腕で子どもを抱き寄せ、左太ももの上に座らせている。安らかに目を閉じている表情は、まだ鮮明だ。琵琶湖疏水の完成から九年後の一九〇三年、疏水に落ちて水死する子どもが相次いだことに胸を痛めた船頭が、安朱の住民の協力を得て、疏水のほとりに地蔵堂をこしらえた。
船頭の名は善兵衛さん。今の高島市から琵琶湖を渡り、大津から疏水で京都や大阪に織物を運んでいたという。地蔵堂の近くに住む中澤良三さん(九〇)は「疏水べりには今のような立派なさくがなかった。うっかり足を滑らせて落ちると、小さな子は命を失った」と話す。
善兵衛さんと安朱の村人は、亡くなった子どもたちの供養とこれ以上の犠牲者を出さないよう、旧志賀町(現大津市)の石工職人に地蔵を彫らせて安置した。
地蔵堂の前では毎夏、安朱北部町内会の子どもたちが地蔵盆をする。赤い前かけは地元の子供会が奉納し、掃除や管理は地蔵堂の隣に住む住民が続けている。善兵衛さんたちの思いは、今も町内で引き継がれている。 
 

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