鬼と邪鬼

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諸説 / 鬼門1鬼門2羅刹天酒呑童子1酒呑童子2酒呑童子3天狗1天狗2夜叉山の神餓鬼鬼子鬼瓦節分1節分2節分3節分4邪鬼龍原寺三重塔大江山の鬼伝説1大江山の鬼伝説2桃太郎1桃太郎2桃太郎3鬼ヶ島鬼無里の伝説鬼女紅葉1紅葉2紅葉3鬼女紅葉考信濃の伝承牛頭天王牛頭天王縁起八面大王狛犬1狛犬2狛犬3白鬼女綱の鬼退治鬼の伝承民話天狗の伝承民話「黒塚」安達ヶ原の鬼婆鈴鹿御前一寸法師おむすびころりん案山子土蜘蛛坂上田村麻呂と清水寺縁起原体剣舞連(鬼剣舞)鬼剣舞の鬼ひとつのいのち考三鬼大権現鬼ごっこの起源なまはげの起源浅茅ヶ原の鬼婆鬼の昔話牛鬼百目鬼阿久留王伝説妖怪百談
「太平記」に見る「鬼」表記
 

雑学の世界・補考   

鬼1

日本の妖怪。民話や郷土信仰に登場する悪い物、恐ろしい物、強い物を象徴する存在である。「鬼」という言葉には「強い」「悪い」「怖い」「ものすごい」という意味もある(鬼 (曖昧さ回避)でも説明)。また、なまはげ(秋田)やパーントゥ(宮古島)など、各地で様々な呼び名があり、角があったり、みのを着ていたり、全身泥だらけなど姿も様々である。
様々な鬼
日本人が「鬼」を一般的に連想する姿は、頭に角(二本角と一本角のものに大別される)と巻き毛の頭髪を具え、口に牙を有し、指に鋭い爪が生え、虎の毛皮の褌を腰に纏い、表面に突起のある金棒を持った大男である。また、肌の色によって「赤鬼」「青鬼」「緑鬼」などと呼称される。このように、鬼が牛の角と体、虎の牙と爪を持ち、虎の毛皮を身に付けているには、丑の方と寅の方の間の方角(艮:うしとら)を鬼門と呼ぶことによるもので、平安時代に確立したものである。なお、現在の鬼の姿は仏教の羅刹が混入したものである。
また伝説の酒呑童子は赤毛で角があり、髭も髪も眉毛もつながっており、手足は熊の手のようである。鬼は元々はこのような定まった姿は持っておらず、後述する語源の「おぬ(隠)」の通り姿の見えないこともあった。まれには、見目麗しい異性の姿で現れて若い男や女を誘うことがある。
「悪い物」「恐ろしい物」の代名詞として利用されることの多い鬼ではあるが、鳥取県伯耆町(旧日野郡溝口町)では、鬼が村を守ったとして「強い物」とし崇めている。
このように、日本の鬼は「悪」から「神」までの非常に多様な現れ方をしており、特定のイメージでかたることは困難である。
鬼の学説
文芸評論家の馬場あき子は5種類に分類している。
1.民俗学上の鬼で祖霊や地霊。
2.山岳宗教系の鬼、山伏系の鬼、例、天狗。
3.仏教系の鬼、邪鬼、夜叉、羅刹。
4.人鬼系の鬼、盗賊や凶悪な無用者。
5.怨恨や憤怒によって鬼に変身の変身譚系の鬼。
馬場によれば、元々は死霊を意味する中国の鬼(キ)が6世紀後半に日本に入り、日本固有のオニと重なり鬼になったのだという。「オニ」とは祖霊、地霊であり「目1つ」の姿で現されており、片目という神の印を帯びた神の眷属とみる見方や「一つ目」を山神の姿とする説(五来重)もある。いずれにせよ一つ目の鬼は死霊と言うより民族的な神の姿を彷彿とさせる。また日本書紀にはまつろわぬ「邪しき神」を「邪しき鬼(もの)」としており得体の知れぬ「カミ」や「モノ」が鬼として観念されている。説話の人を食う凶暴な鬼のイメージは「カミ」、「モノ」から仏教の獄鬼、怪獣、妖怪など想像上の変形から影響を受け成立していったと言える。平安の都人が闇に感じていた恐怖がどのようなものかが窺える。
また、大東文化大学講師の岡部隆志によれば、鬼とは安定したこちらの世界を侵犯する異界の存在だという。鬼のイメージが多様なのは、社会やその時代によって異界のイメージが多様であるからで、まつろわぬ反逆者であったり法を犯す反逆者であり、山に住む異界の住人であれば鍛冶屋のような職能者も鬼と呼ばれ、異界を幻想とたとえれば人の怨霊、地獄の羅刹、夜叉、山の妖怪など際限なく鬼のイメージは広がるとしている。
平安から中世の説話に登場する多くの鬼は怨霊の化身、人を食べる恐ろしい鬼であり、有名な鬼である大江山の酒呑童子は都から姫たちをさらって食べていた。『伊勢物語』第六段に夜女をつれて逃げる途中に鬼に女を一口で食べられる話がありここから危難にあうことを「鬼一口」と呼ぶようになるが、岡部隆志はこれを、戦乱や災害、飢饉などの社会不安の中で頻出する人の死や行方不明を、異界がこの世に現出する現象として解釈したものであり、人の体が消えていくことのリアルな実演であり、この世に現れた鬼が演じてしまうものと推測している。また岡部は、鬼は異界の来訪者であり、人を向こう側の世界に拉致する悪魔であり、昔話のように福を残して去る神ともしている(例、一寸法師、瘤取り爺さんの鬼)。異界と幻想される地名として大江山が著名であるが、それは京都の都として異界の山であったためであり、異界としての山に接する地域には鬼伝承は多い。
国文学者・阿部正路、歴史学者・松本新八郎、評論家・馬場あき子が指摘するように、鬼の形態の歴史を辿れば、初期の鬼というのは皆女性の形であり『源氏物語』に登場する鬼とは怨霊の事だが、渡辺綱の一条戻橋に出てくるように、初めのころは女性の形で出てくる。 また鬼の一つ、茨木童子の鬼などは説話中、切られた自分の腕を取り返すために女に化け渡辺綱のところへ来て「むすこの片腕があるだろう」と言い、それを見せてくれと言うなり奪い取るくだりがあり、そこから女の本質は鬼であり、また母親が持っている、自分の子供を戦争で傷つけたものに対する憎悪のようなものが読み取れ、その怖さに合理性がかいま見えてくる。
鬼の語源
「おに」の語はおぬ(隠)が転じたもので、元来は姿の見えないもの、この世ならざるものであることを意味した。そこから人の力を超えたものの意となり、後に、人に災いをもたらす伝説上のヒューマノイドのイメージが定着した。さらに、陰陽思想や浄土思想と習合し、地獄における閻魔大王配下の獄卒であるとされた。
古くは、「おに」と読む以前に「もの」と読んでいた。平安時代末期には「おに」の読みにとって代わられた「もの」だが、奈良時代の『仏足石歌』では、「四つの蛇(へみ)、五つのモノ、〜」とあり、用例が見られ(仏足跡歌碑#与都乃閇美伊都々乃毛乃を参照)、『源氏物語』帚木には、「モノにおそはるる心地して〜」とある。これらの「モノ」は怨恨を持った霊=怨霊であり、邪悪な意味で用いられる(単なる死霊ではなく、祟る霊。)。
なお、大野晋は独自の研究として、「モノ」はタミル語由来であるという仮説を唱えている。タミル語における「鬼」も多くは女性がなるものと捉えられた。大野晋は、これらのことから、中国の道教が伝わって広まる以前の弥生時代から南インドにおける鬼(モノ)を恐れる観念=御霊信仰が伝わり、由来となったと指摘している。
説話文学に見られる鬼
百鬼夜行 / 平安時代に都の中を歩いてゆくとされた化け物行列のことである。『宇治拾遺物語』巻一の十七で修行僧が龍泉寺という寺で、百鬼夜行に遭った話が伝わっている。また、『今昔物語集』にも巻第十四に若者が百鬼夜行に遭ったという話が伝わっている。当時、百鬼夜行を目撃すると死んだり病気になるなどと恐れられていたが、この二つの話はどちらも信仰が身を助けたという話になっている。
赤鬼・青鬼 / 『宇治拾遺物語』巻一には、瘤取り爺の説話が所収されているが、爺が目撃した鬼として、赤い者や青い者、目が一つの者、口が無い者など様々な異形な者がいたとされている。
藤原千方の四鬼 / 藤原千方に使役されたと言われる4人の鬼。
羅刹国 / 『大唐西域記』11巻 僧伽羅国(シンガラ)の僧伽羅傳説の女羅刹国と似た『今昔物語集』5巻に登場する僧伽羅が漂着した女性の鬼しか存在しない島。後に日本の南方あるいは東方に存在すると信じられるようになった。
仏教の鬼
生前に貪欲だった者は、死後に餓鬼道に落ち、餓鬼になるとされている。
また、地獄で閻魔の配下として、鬼が獄卒の役を務めているとされる。
心の中にすむ3匹の鬼
仏教には、青鬼、赤鬼、黒鬼が出てきます。そんなのいるわけないだろと思う人もいるでしょう。ところが、この青鬼、赤鬼、黒鬼は、私たちの心の中に住んでいるのです。
青鬼とは、限りのない私たちの欲の心です。なければないで欲しがり、あればあったで欲しがる欲の心が青鬼です。ちょうど、海は深ければ深いほど、青さをましていきますが、その海と同じように、私たちの欲には際限がありません。自分の欲のためには、どんな恐ろしいことでも思ってしまうので、まさに鬼です。
赤鬼とは、その欲が妨げられるとカッと燃え上がる怒りの心です。腹が立つと親でも家族でも、恩人でも心の中で焼き殺してしまいます。
黒鬼とは、恨みや妬みの心。
この3匹の鬼などおとぎ話といえる人はいるでしょうか。仏教はその鬼の姿を映し出し、その鬼がどうしたら救われるのかを明らかにした教えです。 
鬼と人
人に化けて、人を襲う鬼の話が伝わる一方で、憎しみや嫉妬の念が満ちて人が鬼に変化したとする話もある。代表的な例としては、能の「鉄輪」や「紅葉狩」に、嫉妬心から鬼と化した女性の話が伝わっている。「般若の面」はその典型である。
『梁塵秘抄』(平安時代末期成立)には、女が男を呪った歌として、「〜角三つ生ひたる鬼になれ〜」と記されており、この事から12世紀末時点で、人を呪いで鬼にしようとした事、また、頭に角が生えた鬼といったイメージが確立していた事が分かる。これは自発的に鬼になる事例とは異なり、相手を鬼にしようとした例といえる。
修験道の役行者の使い鬼である前鬼・後鬼は、共にその子孫が人間として、その名の村を構えている。仏教でも似た例はあり、比叡山の八瀬の村の伝承には、村の祖先は「我がたつ杣(そま)」の始めに、伝教大師に使われた鬼の後裔であると称している(八瀬童子も参照)。このように、宗教界の偉人の使い鬼を先祖とする例が散見される。折口信夫の解釈では、八瀬の伝承は、本来、鬼ではなく、神であり、仏教を受け入れた事による変化としている。
珍しい事例として、『今昔物語集』巻二十第七に記された話には、藤原明子の物の怪を祓った縁から親しく交際するようになった大和国葛木金剛山の聖(ひじり=僧侶、信濃国の山中出身で肌は赤銅色)が、のちに暗殺者の追手を逃れ、崖から転落しながらも生き延び、再会した時に「聖の道を捨て、恋愛の鬼となった」と語る場面がある。山賊のような凶悪な存在ではないが、朝廷で無用者扱いを受けて、鬼(または天狗)扱いをされ、聖自身も恋愛の鬼となったと悟る。鬼であると自他共に認めてしまうが、藤原明子が没する晩年まで交際を続けた。朝廷にとって不都合な存在を鬼とする一事例といえる話である。
中国における「鬼」
中国で鬼(グウェイ、ピンイン : guǐ)という場合、死霊、死者の霊魂のことを指す。日本で言う「幽霊」の方がニュアンスとして近い(中国語版ウィキペディアの記事『鬼』は、日本語版『幽霊』にリンクされている)。中国では、直接鬼と呼ぶのはタブーであることから、婉曲して好兄弟ともいう。また日本にもこの思想が入っており、人が死ぬことを指して「鬼籍に入る」などと言う言い方がある他、元来の意味合いと混交したイメージでも捉えられている。
また他国の人種を蔑称する際「鬼子(広東語:鬼佬)」といい、日本人を最大級の蔑称として日本鬼子を使用する。2010年の尖閣諸島中国漁船衝突事件を受けて中国で発生したデモで、多く日本人が目にした言葉であるが、日本人にとって「鬼」=「強い力」を意味するなど肯定的な意味に捉えることもできるため、肝心の日本人にはいまひとつ侮蔑の意が伝わらなかった。  
 
鬼2

はじめに
「鬼」とは…“その得たいが知れぬだけに身がすくみ、縮み上がるほど実(げ)に恐ろしきモノ、化け物、妖怪の類”と、ほとんどの人々が考えていると思います。誰一人として、本物の「鬼」など見たこともないのにです。
往昔から、“何か分らぬが、とてもおぞましきモノ。角や牙を生やし、金棒を振り回しては、人々を恐怖のどん底に陥れる、赤や青色の皮膚をした怪物”なる言い伝えによる先入観から、「鬼」=「化け物」のイメージを膨らませるだけ膨らませてしまっているのです。
筆者は、石見国(島根県)「鬼村」(おにむら)の生まれです。ご多聞に漏れず、筆者自身も、「鬼」=「おぞましきモノ」なるイメージから、<何故、「鬼村」などという恐ろしい所に生まれたのだろう>と、幼少の頃から思い悩み続けてきました。
「鬼」は悪者なり≠ニ、洗脳され続けてきたため、「鬼」の村=「鬼村」などという恐ろしい地名に嫌悪感を抱き続けてきたことから、この地を選んだ先祖を恨んだものです。 それゆえに、つい最近まで、出身地が「鬼村」であることを語れずにいました。「鬼の村」だなんて…、このものすごい地名≠ェ、とてもとても恥ずかしかったのです。
その理由はといえば… 前出のごとく、「鬼」など見たこともないのに、戦勝者による鬼は悪しき化け物である≠ニのキャッチフレーズを、鵜呑みにしてきたからにほかありません。
三世紀に「九州王朝」に敗れ、七世紀には「近畿王朝」に敗れと、敗れに敗れ、まさに敗者となった「鬼」…。
歴史は、いつも戦勝者側ストーリーであることから、「鬼」の「実像部分」は、ほとんどが抹殺されてしまい、「鬼」は化け物・妖怪・悪者である≠ニの「虚像部分」のみが、一,八〇〇年もの間、全国津々浦々へ喧伝され続けてきたことから、「鬼」に対するイメージは今もって劣悪極まりないのです。
「鬼」は、本当に、人々に乱暴を働き、子供までをも捕っては喰らう妖怪≠ネのでしょうか?ここまでトコトン嫌われる理由は、一体何なのでしょう?
「鬼」は、本当に化け物なのか?
「鬼」? ほとんどの人々が、化け物・妖怪の類と信じて止まない、あの オニは、赤・青色の皮膚をし、金棒を振り回しては乱暴狼藉を働いた挙句、子供を捕っては喰らい、人々を苦しめる悪しきモノ と言われるほど、如何とも致し難き「悪者」なのでしょうか?
答えは「ノー」です!
筆者は、「鬼村」(島根県大田市大屋町鬼村)の生まれであるため、幼少の頃から、〈鬼村だことのワーイワイ、ざいごべ、ざいごべェ〉(ざいごべ=在郷べえ) つまり、「鬼村だなんて、ド田舎モン」とからかわれたものです。
それから五十年を経た今でも〈すごい地名ですねえ、ものすごい所なんでしょ?〉(何がものすごいのか分かりませんが…)なる言葉が返ってきます。
そして、〈深山幽谷、それこそ「鬼」でもいそうな所に住んでいるんだこの人は…〉というような眼差しで見られるのが常なのです。
内心ややムッとしながら、〈そりゃあ、鬼村だなんて、かなりインパクトが強烈で、変わった地名ではありますがねえ…〉〈そういうあなたは、「鬼」の正体をご存知なのでしょうか?〉、〈「鬼」をごらんになったことが、おありなのですか?〉などと思いつつです。
このようなコメントは、十人が十人、いや百人が百人の人々が、「鬼」など見たことも無いのに、『桃太郎の鬼退治』『大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)』等々の伝承話、あるいは、『古事記』『日本書紀』『上記(うえつふみ)』等々の書物に見える、鬼は、化け物、妖怪であるとの記述から、「鬼」とは、なにやら不気味で得体の知れぬおぞましき怪物、という思い込みによるものであると思います。
人類が、宇宙へと旅立つことが可能となった二十一世紀の世となった現代でも、目には見えぬ人間以上の力を持つと恐れられ、人に害を与える怪物であり、得体の知れぬ実におぞましきものの代表格に挙げられている「鬼」…。
全国津々浦々、このように「鬼」というだけで、だれもが眉をひそめるほどに忌み嫌い、挙句の果てに、鬼婆(おにばば)鬼畜(きちく) 鬼門(きもん) 天邪鬼(あまのじゃく) 等々、「鬼」への悪しき表現は枚挙にいとまが無いほどです。
『古事記』には― 荒ぶる神=乱暴する鬼(かみ)まつろわぬ(服従せぬ)人等 なる記述があり、『上記』にも― 禍鬼(まがかみ)荒ぶる鬼(かみ)=乱暴をはたらく鬼(かみ) 子供を捕っては食べる鬼(かみ)と、散々ですが、悪いながらも「鬼」を「かみ」と読ませていることから、「鬼」=「神」なる時代があったと考えるのです。
また、『広辞苑』においては― 天つ神に対して、地上などの悪神。邪神。恐ろしい形をして、人にたたりする怪物。もののけ。と、まるで講釈師のごとく、見てきたかのような「鬼」への罵詈雑言です。
どの書も、よくぞここまで、「鬼」=「おぞましき化け物」として描いているものです。
往古から、これら異常とも思える「鬼」を誹謗中傷する表現が、「鬼」=「悪者」として人々の心の中に住みつき、現在も君臨し続けているという訳です。
だからこそ、このような悪しきモノ(鬼)など生かしておく わけにはいかぬ! よって、我々は鬼退治をする、又は、したのだ≠ニ、戦勝者(「九州王朝」・「近畿王朝」)は躍起になって、大義名分を振りかざし続けてきたのです!
「鬼」のたとえは、このような悪しき表現の多い中、京都、兵庫、東北地方の一部では、「鬼」は「善きモノ」としても伝承されています。
節分ともなれば、全国のほとんどの地で、[福は内、鬼は外]と「鬼」を追い払う行事が多い中、かの地では[福は内、鬼も内]であったり、鬼払いのための豆まきはしない≠ニ聞きます。
海士なる「鬼一族」は、オロチ討伐後、その勢力拡大のため全 国の鉱物産出地を侵略していったのではないでしょうか? 
ヤマタノオロチから奪取した、高文化の「ふいご」を用いるという精錬技術をもってすれば、いかなる鉱物も加工可能です。
祭器・宝器をはじめ、太刀・槍・弓・鎧(よろい)・兜(かぶと)などの武器・武具類、鍬・鎌・鋤(すき)等の農具類、包丁・匙(さじ)等の調理器具製造など、造作も無いことであったでしょう。
この「鬼」と「ふいご」の関係を示す「絵」なるものが存在します。
岩手県立博物館所有のふいごを使い、喜々として製錬技術を人間に伝授している鬼達の絵≠ナす。中世に描かれたものとのことですが、いずれにせよ、妖怪の顔をした「鬼」が、にこやかに笑みを浮かべながら、人間と共に、ふいごの把手(はしゅ)を押したり引いたりしながら、精錬作業をしている絵なのです。実に楽しそうなのです!
これは、「鬼一族」がふいごを使うことによる能率性の高い製錬技術を、侵略地の人々に伝授しているところではないでしょう か? この絵の様子では、「鬼」と人間との関係がさほど悪そうに見えないことから、かの地での「鬼」は、あまり忌み嫌われる存在ではなかったと思われます。
全国には、この「絵」に限らず、「鬼と鉱物 」との関係を伺い知ることのできる、諸々の事物が有形無形で存在すると思われます。
では、この「鬼」の正体とは、一体何なのか?です。残念ながら、今日にいたるまで、その正体を知る人はほとんどいません。
「鬼」とは、ほとんどの人々が化け物・妖怪と同列に考えていますが、筆者は、「鬼=人=神(死後、神として祀られた人)」と考えることから、なぜこのように、角や牙を生やし、金棒を振り回しては乱暴狼藉の限りを尽くし、人を捕っては喰らう実(げ)に恐ろしきものの象徴≠ニされてしまったのか…。納得がいかないのです。
また、「禍鬼(まがかみ)」「悪鬼(わるがみ)」などと、「鬼」を「神(かみ)」と呼びつつも、乱暴、粗暴、粗悪、卑劣、下品≠ニ、ありとあらゆる誹謗中傷的な表現をされるのは何故なのか? 裏を返せば(逆転の発想をすれば)、「鬼」は、かつて神(鬼神)と呼ばれた時代があり、人々から崇め敬い慕われ、信望は絶大であった! からこそ、「鬼」をワルモノに仕立て上げねば、 戦勝者側の立場が成り立たなかったから≠ナあると推察します。
だからこそ、「鬼」は、如何とも致し難き悪しきモノなるゆえ、正義の 味方である戦勝者側はこれを討伐する、或いはしたのだ≠ニ、躍起になって「大義名分」を振りかざし、「鬼」一掃作戦を遂行してきたものと考えます。
この戦勝者側の「大儀」を成立させるために、1800年もの長きに渡って、「鬼」は悪神であり、また、恐ろしい形をしたもののけであると喧伝し続け、そのイメージ作りに勤しんだのです。
その証拠に、二十一世紀となった今日でも、これほどまでに「鬼」なるもののイメージが劣悪なのは、戦勝者側の執拗なまでの作為的喧伝が、全国津々浦々に浸透しているからにほかありません。
敗者「鬼」と 戦勝者「九州王朝」「近畿王朝」
ここでいう敗者、「鬼」とはなんぞや? また、戦勝者とはなんぞや?です。
まず、敗者「鬼」ですが― 島根県大田市大屋町鬼村「大年神社(おおどしじんじゃ)」の祭神「大年神(おおどしがみ)」と、かつて、同村に存在した「八代姫神社(やじろひめじんじゃ)」の祭神「八代姫(やじろひめ)」を元祖とする「鬼一族」のことであると考えます。つまり、「鬼」とは世にいうバケモノではなく、 「鬼」なる地に拠点を置く一族の名称、 「鬼一族」をいうのです!
「鬼」地出身である神々の功績など、認めたくないのが戦勝者です。その功績が大きければ大きいほど、戦勝者にとっては、目の上のタンコブであることから、「鬼」は恐ろしき化け物なり≠ニ吹聴し続けてきました。つまりは、長年に渡る執拗なまでの「鬼排斥運動」=鬼に対する劣悪なイメージ作り≠ノ勤しんだのです。その結果が、前述のごとく、「鬼=化け物。妖怪。もののけ」の図式成立にこぎ着けたという訳です!
ここまで「鬼」を嫌われモノに仕立てあげれば、戦勝者の思うツボです。
『史観の変遷』の著者、木幡吹月氏によれば― 大和朝廷でつくられた『古事記』『日本書記』は、『出雲神話』の良いところは黙殺したうえに、出雲国土経営の祖神、スサノヲノミコトをアマテラスオオミカミの弟にでっちあげ、国譲りを合理化したり、出雲国を黄泉国(よみのくに。死後魂が行くという所)と称して逆臣追放の地としている勝手な話である。これぞ、大和朝廷の御用歴史学者の筆先によるフィクションであると、かなり手厳しい批判です。
筆者も同感ですが…。
そこで、実(げ)に憎き「石見王朝」「出雲王朝」の主=「鬼」は、人に害を与える怪物である≠ニ、国譲り後(西暦200年頃)、全国津々浦々に喧伝しまくったのです! かくして「鬼」は、長きにわたり、 悪役総代表として君臨し続けるという訳でありまして…。もっとも、徹底的な「鬼」退治は、701年から始まる「近畿王朝」になってからのことですから、これ以後かもしれませんが…。
「石見神楽」
スサノヲとは一体何者なのでしょうか?また、どこからやって来たのでしょうか?
スサノヲが、出雲市「産(うみ)神社」の生まれであるとか、大陸からの渡来人であるなどと諸説ありますが、筆者は、石見「鬼」(現「鬼村」)出身の「鬼一族」であると考えます。
というのは、スサノヲの出自を物語るものに、「石見神楽(いわみかぐら)」があります。
( 「石見神楽」 / 八つの頭を持つ、悪しき大蛇ヤマタノオロチを退治するという、スサノヲノミコトの戦勝者サクセスストーリーである。島根県石見地方では、特に盛んに演じられる。「石見神楽」の元祖「大屋神楽社中」による、島根県大田市大屋町「大屋姫神社」での奉納神楽。)
中国地方では、最も有名な神楽の一つで、並み居る神々の中でも、スーパーヒーローことスサノヲを語るのに最も相応しい話といえば、なんといっても、ヤマタノオロチ退治を題材にしたこの「石見神楽」以外には無いでしょう。 
そもそも「石見神楽」とは… スサノヲノミコトが、乱暴狼藉を働き人々を苦しめる、八つの頭を持つ悪しき「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」を退治する≠ニいう内容の勇壮な神楽です。つまり、ヤマタノオロチを敗者とするスサノヲ(鬼一族)側の 戦勝者サクセスストーリーをいうのです。
では、ここに登場する「石見(いわみ)」「石見神楽(いわみかぐら)」とは一体何なのでしょうか?
「石見」… 現在は、島根県西部地方を指しますが、そもそもそもは、同県大田市大屋町鬼(おに)村(むら)にある「鬼岩(おにいわ)」(鬼石)から起こる地名であると考えます。()内に、「鬼石(おにいわ)」と書くのは、大きな石には、神が宿る≠ニする、縄文時代以前にもさかのぼる巨石信仰のシンボルのことで、つまり、この地に拠を構える「鬼一族」としていた、「鬼」(地名)の「大石(おおいわ)」のことなのです。
「鬼岩(おにいわ)」(=「鬼石(おにいは)」)
「鬼一族」の憑代(よりしろ)である。縄文時代より続く巨石信仰のシンボル。島根県大田市大屋町鬼村 御崎(みさき)
白川静著『字訓』によれば― 石、岩、巌、磐も同じ。「石(いは)」は、特に大きな石を言うことが多く、『万葉集』をはじめ、「石」はもともと大石をいう字であり、古くは信仰の対象とされたものであると記されていることから、現「鬼岩」は、元は「鬼石(おにいは)」であったと考えるのです。
そして、この鬼石(おにいわ)を見(み)る≠アとが、鬼石を崇(あが)める≠ニいう意味であることから、「石見(いわみ)」なる地名は、この「鬼石(おにいわ)」より起こった!と考える理由なのです。
『記・紀』には見えませんが、縄文時代には、大きな石には神が宿るとする巨石信仰≠ェありました。「鬼一族」は、縄文時代から、この「鬼石(おにいわ)」を憑代(よりしろ)として崇め敬っていたに違いありません。今も、地元の人々によって大切に守られており、「巨石信仰」が色濃く残っています。近年、島根県天然記念物に指定されました。
さて、「鬼一族」本貫地と思われる「鬼村」ですが… 今から、およそ3000前の縄文時代、日本に「王朝」なる確固たるものが存在したかは定かではありませんが、それに近い「長(おさ)」を中心とした 「王国」らしきものは存在したと考えられます。はじめは、血縁関係者2、30人ほどの大家族に始まり、やがては血縁関係者以外をも含む大所帯となり、これらの集団がいくつも集まり、まとまったものが「ムラ」という形になりました。そして、「ムラ」→「邑(むら)」→「県(あがた)」→「国(こく)」→「郡(こほり)」→「評(ひょう)」の単位に変化していきました。(七世紀末まで「九州王朝」で使われていた「評」の存在は、奈良県の藤原京、伊場から出土した木簡から証明されています)
いつごろから「鬼」地に「村」が付加されたのか定かではありませんが、『神国島根』に― 「宇摩志摩遅尊(うましまぢのみこと)」は、天磐船に乗り、丹後を経て石見の鶴降山に舞い降り、忍原(おしはら)、於爾(お に)、曾保理(そほり)の兇賊を退治した後、八百山の麓「物部神社」(石見国)の地にやって来たとあります。 
ここに見える「於爾(おに)」とは、石見の「鬼」(現「鬼村」)のことです。また、200年前の手描きの地図にも、「鬼」としか記されていないことなどから、往昔よりこの「鬼村」は、「鬼」そのものの地であった に違いありません。
全国には、「鬼一族」の足跡と思われる、鬼崎、鬼木(おんのき)、鬼童(おんどう)、鬼頭(おにがと)、鬼峠、鬼袋、鬼前等々、数えきれないほどの「鬼」地名が存在しますが、「鬼」そのものの村=「鬼村」は、全国広しといえども、石見のここだけなのです!
鬼村には、大年(おおどし)(小字)大年(おおどし)(穂ノ木)の地に、「大年神社(おおどしじんじゃ)」が鎮座します。祭神は、この地の開祖「大年神(おおどしがみ)」(以下オオドシガミ)です。()内の「穂ノ木(ほのき)」ですが、小字(こあざ)の最小単位をいいます。(「穂ノ木」に関しては、山口県周防大島町にお住まいの郷土史研究家、藤谷和彦氏に御教授いただきました)
「大年(おおどし)神社」祭神「大年神(おおどしがみ)」
「鬼一族」本貫地に鎮座。「大年神」は、この地「大年」の開祖であり、「鬼一族」の元祖である。「石見神楽」を最初に舞った社で、祭礼日が4月19日であることから、この日が、ヤマタノオロチ退治記念日かもしれない。島根県大田市大屋町鬼村大年(おおどし)
鬼村は、この社を中心に、「鬼村上(おにむらかみ)」と「鬼村下(おにむらしも)」とに二分されます。「鬼村上」は、「村」という単位を除けば「鬼上(おにかみ)」です。「上(かみ)」は、「神」の借字であることから、「村」という戸数単位が付加される以前は、「鬼上(おにかみ)」=「鬼神(おにかみ)」だったはずです。本来、神とは、「その地の長(おさ)が死んで祀られた人」、つまり、「地名+長(おさ)名」をいうことから、「鬼」(地名)の長=「鬼神」です!
よって、諸々の事物に現れる、「鬼神(おにがみ)」の大本は、ここ「鬼」地の「神」をいうに違いありません! 鬼村は、「大年神社」がすべての中心で、地番も [鬼村一番地]とこの社から始まります。
『石見史』に、鬼村に「鬼加美社(おにかみしゃ)」ありという記述があります。
「鬼加美社(おにかみしゃ)」の「加美」は、「神」の借字であることから、「鬼神社」です!これらの事柄から、「鬼神」を祭神とする「鬼神社」も、「大年神社」の地に存在していたと思うのです。「大年神」を祀る「大年神社」周辺を、「鬼(村)上」と呼ぶことから、「鬼上(おにかみ)」=「鬼神」=「大年神」という図式ではなかったでしょうか。
『神社名鑑』には― 大年の開祖は「大年神」であり、八代(やじろ。鬼村の小字地名)の「八代姫(やじろひめ)」とは夫婦であるとも記されています。
オオドシガミが、鬼村「大年」の開祖であることから、夫婦であるこの二人が、「鬼」地の一族=「鬼一族」の元祖であると考えるのです。
そして、後に登場する、「大国主命(おおぐにぬしのみこと)」(以下オオグニヌシ)「五十猛命(いそたけるのみこと)」(以下イソタケル)「饒速日命(にぎはやひのみこと)」(以下ニギハヤヒ)「大屋津彦命(おおやつひこのみこと)」(以下オオヤツヒコ)「大屋津姫命(おおやつひめのみこと)」(以下オオヤツヒメ)「抓津姫命(つまづひめのみこと)」(以下ツマヅヒメ)「宇摩志摩遅尊(うましまぢのみこと)」(以下ウマシマヂ)等々の、そうそうたる神々はすべて「鬼一族」なのです!
話を「石見神楽」に戻しましょう。
石見国「鬼一族」の子孫、スサノヲノミコトのヤマタノオロチ退治の舞台は、出雲国(現奥出雲町)であるのにもかかわらず、「石見神楽(いわみかぐら)」と呼びます。  
出雲での戦いであれば、当然のことながらその地の名を取り「出雲神楽」と称すべきではないでしょうか? 「白村江(はくすきえ)の戦い」「川中島の合戦」「桶狭間(おけはざま)の戦い」のように…。ところが、イワミカグラなのです!このことは何を意味するのでしょうか? これは、冒頭で述べた戦勝者サクセスストーリーに由来するのです。
ここでの戦勝者とは、石見の「鬼一族」スサノヲであり、敗者はヤマタノオロチをいいます。
オロチ退治の舞台が出雲でありながら、「石見神楽」と呼ぶのは、オロチ討伐後、スサノヲがその先祖オオドシガミに戦勝報告 をし、石見「鬼」地の「大年神社」で、「戦勝記念の舞い」である「神楽」を披露したことに始まるのです。つまり、スサノヲを大将とする石見の「鬼」が、オロチ討伐を元祖「大年神」に報告し、「大年神社」で、戦勝記念に披露した舞が「石見神楽」の起源である! という訳です。
「 石見(地名)」「石見神楽」は、本貫地「鬼」以外の地でも健在です。
というのは、「石見」の起点である「鬼石(おにいわ)」を憑代(よりしろ)とする石見の「鬼」は、全国の鉱物資源を求めて各地を侵略したことから、これらの地に「石見」「石見神楽」を持ち込んでいるからです。
「鬼一族」の侵入を裏付ける、鳥取県:岩美(石見)町、上石見、中石見、下石見、石見川、「石見神社」 / 岡山県:石見町 / 奈良県:石見 等々の「石見」名称をはじめ、「備後・備中」でも盛んに演じら れる「石見神楽」がそれを物語っています。これらは、波紋現象を見るがごとく、中心地である「鬼」本貫地よりも、外に広がる波紋(「鬼」侵略地)に色濃く残っているのです。
「鬼」にちなむ地名
全国に、「鬼」と名の付く地名は多い中、「鬼一族」発祥の地、島根県大田市大屋町「鬼村(おにむら)」は、村なる戸数単位を除けば「鬼」そのものの地です。前述の通り、「鬼」のすべては、「鬼神」こと「大年神」を祖とする「鬼神社」・「大年神社」より始まります。
というのは、
1. 『石見風土記』に、鬼村に「鬼加美社(おにかみしゃ)」あり と記されていることから、「鬼神社」も、この地に存在したと考えられること。(現存せず) (「加美」は、「神」の借字であることから、「鬼加美社」=「鬼神社」)
2. 「地名から起こる長(おさ)名=神」が最も古いスタイルであることから、「鬼」地の長が死に、「神」として祀られた のがこの「鬼神」である。「かみ」は、「加美」、「上」共に「神」の借字であることから、「大年神社」を中心とする地区名「鬼村上(おにむらかみ)」は、「村」なる単位を除くと、「鬼上(おにかみ)」=「鬼神(おにかみ)」と呼ばれる所以の地である。よって、「鬼神」を祀る「鬼神社」も、「大年神社」と同地に存在したと考えられること。
3. 鬼村の地番は、「大年(おおどし)」(小字)、「大年(おおどし)」(穂ノ木)地にある「大年神社」が[鬼村一番地]である ことから、村の中心はこの社であること。
と、以上三点の事柄から、大年の「鬼神社」・「大年神社」が「鬼」のすべての中心であり、二社の祭神は、共に「鬼神」こと「大年神」であると思うのです。
「鬼神」=「大年神」の図式。 
古田武彦氏によれば、日本歴代王朝の源は「出雲王朝」であるとのことですので、「出雲王朝」以前には「石見王朝」が存在したと考えます。つまり、「鬼」こそは、日本歴代王朝の起点であるという訳です!
何故? いかなる理由からか?ですが…「石見王朝」・「出雲王朝」の天王スサノヲ・オオグニヌシ=「鬼一族」なる図式と考える筆者にとって、「鬼」に係わる諸外国や日本の書物類をはじめ、全国の地名 ・神社名・祭神名・姓等が、それを語っているから≠ノほかありません。
『魏志倭人伝』には、卑弥呼(ひみか)は、鬼道に事(つか)えた。卑弥呼の支配国に三十三ヶ国あり。国内に「鬼国」、「鬼奴国」…ありと記されています。この「鬼道」「鬼国」「鬼奴国」とは、「鬼一族」に関わる名称ではないでしょうか? 「鬼道」は、中国の宗教的なものでは?≠ニ記された書物も ありますが、本当のところはわかりません。また、「鬼国(きこく)」・「鬼奴国(「きどこく」、または「きぬこく」)」がどこであるのか、探し当てた者もいませんが、ヒミカ以前がアマテラス、それ以前がスサノヲ・オオグニヌシであることから、「鬼国」=鬼村、「奴」は、「あたり」という意であることから、「鬼奴国」=石見を指しているのではないでしょうか?
つまり、『魏志倭人伝』は、三世紀における「出雲王朝」→「九州王朝」の変遷から、「鬼」(鬼村)地も「石見」も、ヒミカ(倭人)の支配下になってしまった≠アとをいっているのです。ヒミカの本拠地「筑紫(ちくし)」は、かつて、「鬼一族」スサノヲ・オオグニヌシの支配地でありました。
筑紫には、それを物語るかのように、「鬼」にちなむ、鬼木(おんのき)、鬼古賀、鬼津、鬼前、鬼塚、等々の地名が存在し、スサノヲを祀る「須佐神社」が、福岡県に は、嘉穂郡:36社/三瀦郡:30社/田川郡:21社/宗像郡:27社にものぼり、北部九州における、かつての「荒ぶる神スサノヲ」の勢いを表す数の多さです。
これらは、何か来歴(いわれ)があってこその地名・神社数であり、何の脈絡も無きところに突然ヒョッコリ現れるといったものではないでしょう。
わずかな例ですが、島根県出雲市にも「鬼一族」にちなむ、「大年(おおどし)神社」、大年(おおどし)(地名)、「鬼村(おにむら・きむら)」(姓)をはじめ、全国には、鬼沼、鬼神谷、鬼門崎、鬼入道山、「大国(おおぐに)」(姓)、「荒木(あらき)」(「荒鬼」)(地名・姓)、「島根」(地名・姓)等々が存在することから、「鬼一族」が、石見から出雲、筑紫、 全国各地へと侵略していった足跡が伺えます。 
 
鬼3 雑説

鬼とは
1.どの人間の心にも、必ずこれが潜んでいると思う。
2.日本の悪魔。
悪魔と言うよりは、精霊や魔物の方が適切なんですけどね。英語で「節分」を説明するとき、ちょっと考えて、evilとしました。 鬼はdemonでそ。まあ一応フォローすると、節分の鬼なら災厄、害悪、悪意って意味では、あながち間違いじゃないかなぁと。ちなみにdevilだと鬼は連想しづらい。 デーモンってギリシャ語ではダイモーンだけど「守護霊」という意味もあるよ。ちなみに人の名前にもなるよ。デーモン=ヒルとか。 鬼!悪魔!ちひろ!
3.豆を投げつけて撃退する。
成田山の節分では「福は内」しか言わない。不動明王の御利益で鬼は悪いことが出来ないからだとか。 鬼頭さんや鬼山さんが多い地区では「福は内」「鬼も内」という掛け声もあるらしい。
鬼が農村開拓に貢献した伝承を持つ地域や、鬼を祀り神としているような所でも「鬼は外」を節分での禁句としている例がある。 名古屋の大須観音は後者。伊勢から授かった鬼の面が祀られている。
運送業界では大荷につながるとして、鬼もうちというらしい。
4.トゲトゲの金棒を常に携行している。
5.角がある。電気を発する個体もいる。また、その個体はビキニ姿であることが多い。
6.小学校教師の左の手袋の中身。
7.この団体の三代目の長。 犬ともめた。
8.地上最強の生物の別名。 彼の背中に浮かび上がる。
9.赤か青が標準的な鬼の色。
10.いいパンツを履いている。 艮(うしとら=東北)の方向を、風水では「鬼門」と称する。それで鬼は「ウシ」の角と「トラ」のパンツを備えた生き物ということになったらしい。ダジャレかよ! なので、実はこのスタイルの「鬼」は日本特有。中国で言う「艮(ごん)」は別にウシとトラのことを意味しているわけではないので。
ちなみに中国で「鬼」というと亡霊のこと。だから強いイメージはあんまり無い。 中国人がよく言う「日本鬼子」というのは実はこっち。 最近萌えキャラになった。
イタリアの登山電車のテーマ。
11.酒が大好きな個体もいたようだ。
12.諺では色々と使われている。
13.どんな悪事をしているのかわからんが、いつも退治される運命。 桃太郎にも一寸法師にも退治される。 岡山には「鬼側から見た桃太郎」をうたった歌があるようで(鬼が島が観光名所ゆえか)。
その後一寸法師を雇用している鬼もいる。
源頼光に退治された酒呑童子も鬼の一族らしい。
善良な村人から金銀財宝を奪ってるんだよ。
14.時々いいヤツも居る。 人間と仲良くしたい仲間のためにあえて悪役を演じる、泣かせるヤツも。
子を失う母の苦しみを知って改心し、仏教の守護夜叉となった鬼もいる(鬼子母神)。 これらに感化されて上記の節分で「鬼は外」を言わなくなるところもあるようで。
15.西洋のオーガは同類と思われる。
16.姿は似ているが雷様は別者らしい。
17.地獄にいて閻魔大王の手下として働く。
18.牛の顔をしたやつ(牛頭)や馬の顔をしたやつ(馬頭)など、いろんな種類がいる。
19.とりつかれると空腹に苦しめられてしまう種類もいる。飢餓の際によく現れる。 山仕事の時などは昼飯の米粒を少し残しておいて、襲われたときにはそれを食べると助かるらしい。 つまり空腹で血糖値が下がって動けなくなる(いわゆるシャリばての状態)のを餓鬼に襲われるといったようだ。紀州ではダル、と呼んだらしい。
でも最近では子供を指して言うことが多い。悪ガキ、とか。
20.一般的に角は2本だと思うが、1本で描かれている場合もある。どっちでも良いのか?
21.捕まると交代してさっき鬼だったやつが逃げ始め、捕まって鬼になったやつが追いかけ始める。ちゃんとズルせずに10数えてから追いかけ始めろよ。 捕まえても鬼は逃げずに鬼のまま残り、徐々に鬼が増えていく場合もある。高いところは鬼に捕まらない安全地帯の場合もある。でも鬼が近くにきて10数え始めたら降りて逃げなきゃいけない。影を踏まれたら捕まる場合もある。この場合は建物や木の影は安全地帯。でもやっぱり鬼が来て10数え始めたらでなきゃいけない。鬼は盲目の場合もある。このときは周りの子はあまり逃げずに手拍子しながらはやす。 鬼さんこちら、手の鳴る方へ〜 それあれ、時代劇で悪代官や悪徳商人が手当たり次第に腰元に抱きつくっていう死亡フラグ。特に番組開始30〜40分頃なら、もれなくカチコミがある。
22.32.5t以上37.5t未満の荷物客車。
23.鹿部はこっちだ!
24.状況により、一画目の「ツノ」に当たる部分を省く場合がある。  
鬼一覧
天邪鬼
1.ツンデレ、アベコベの代名詞
2.四天王に踏まれているが、退治されているのではなく、四天王をかっこよく見えるように「踏まれ役」を買って出ただけ。 そもそも四天王はいずれも夜叉、食人鬼、餓鬼などを部下に従える「鬼神」である。
3.仏教上の天の邪鬼は単なる「サラリーマン」だが神道は違う。天稚彦、天探女が由来。悲しい伝説あり。
4.素手で地形を変える程の馬鹿力を持つらしい。
茨木童子
1.酒呑童子の副首領
2.茨木市のマスコットキャラ
3.実は捨て子。床屋に拾われた。成長して床屋やってた時にお客様を誤って切ってしまい、その時人間の血を舐め、実は自分が鬼であったことを知る。 依頼人間の血が大好物となり客をわざと傷つけるようになり、育ての親からも捨てられる。その時、酒呑童子に拾われた。
4.酒呑童子が討取られた時、命からがら大江山の城から脱出。
温羅
1.桃太郎が退治したのは多分この人。
2.百獣戦隊ガオレンジャーの2代目幹部で知った人も多そう。
餓鬼
1.餓鬼界に落ちた亡者たちのこと。
2.餓鬼界に落ちたものを供養するのが「施餓鬼」。
3.子供は餓鬼のようにむさぼるように食べるから餓鬼→ガキになったのはあまりにも有名な話。
4.『ゲゲゲの鬼太郎』では、「夜行さん」と呼ばれる死神に殺された同朋の死体を奪い合って食っていた。トラウマどころの騒ぎじゃない。
鬼童丸
1.酒呑童子討伐後に捕えられた鬼。
2.頼光が鞍馬に行くと聞いた鬼童丸は先回りし、そこらへんにいた牛を抹殺して体内に隠れたが見破られ、牛の体から出てきたところ殺された。
3.大蛇丸配下の音の五人衆が一角。
鬼八法師
1.阿蘇の伝説。弓矢拾いにボイコットした鬼。健磐龍命に仕えていた。
2.部下である鬼八法師を切っても切ってもすぐ肉体がつながる。細切れにして遠くに放置したら「阿蘇に実らせないようにしてやると」激怒。しかし首を温めてくれと懇願。
3.健磐龍命は鬼八法師の首を温めた。すると阿蘇に作物が実るようになったという。
牛鬼
1.鬼っつーかこれ蜘蛛じゃね? 何がどう牛なのかもよく分からない。
2.海岸などで襲うモンスターだが宇和島では守護神なんだとか。
紅葉
1.伝承では「もみじでんせつ(紅葉伝説)」というが実は子の名前は「くれは」である。ここでは名を重要視し「くれは(紅葉)」の項とした。
2.会津出身の両親が子に恵まれなかったので、第六天魔王に子を授かるように祈願。こうして生まれたのが紅葉である。
3.美女として京に送られる。しかし、流行病を紅葉のせいとされたため都を追われ最後は戸隠に逃げ伸びるも抹殺。 以後、紅葉伝承の舞台である場所のひとつは鬼無里(きなき)と呼ばれるようになる。鬼が退治され鬼がいなくなったという場という意味である。 がしかし、鬼無里では紅葉が住民を施し、飢えさせないようにしたという伝説も残っている。 都合の悪い人物は「鬼」として始末される黒い歴史が垣間見える。この物語は「鬼女紅葉」として長野県民にとっては常識という噂。
牛頭天王
1.祇園社の神。赤き角を持つ。厄病神である。
2.龍宮へ行き、八大竜王の1人沙竭羅の三女の婆利采女と結婚し七男一女の王子(八王子)を授かった。これが東京都八王子市の「八王子」の由来である。 八王子(八将神)は凶事を自由に操るという。陰陽師にとって大事な神である。以下記載する。八柱(やはしら)とも言う。 太歳神(総光天王)、大将軍(魔王天王)、太陰神(倶魔羅天王)、歳刑神(得達神天王)、歳破神(良侍天王)、歳殺神(侍神相天王)、黄幡神(宅神相天王)、豹尾神(蛇毒気神天王)
3.あれれ?厄病神なのにいつのまにか厄病と戦う神に化けてるぞ?? しかもスサノヲと習合した。 蘇民将来の娘を助けたことをきっかけに厄病と戦う神に化けたんだとか
牛頭馬頭鬼
1.地獄で地獄の亡者を責める獄卒。牛頭馬頭鬼(ごずめずき)という。
2.獄卒のリーダーが牛頭。 獄卒は羅刹がお勤めされているのに、なぜかリーダーは牛頭。 牛頭には「阿傍(あぼう)」という別名があり、羅刹と並び「阿傍羅刹」と称される。一説によると阿傍は山を引っこ抜いて運べるほどの馬鹿力を持つとも言われている。虞や虞や汝を如何せん。
3.馬頭のほうはなんと地上に出て百鬼夜行に参加する場合がある。
鈴鹿御前
1.鬼、天女、盗賊、女戦士・・・これほどまでにぶれるキャラは日本民話でもまれ。
2.第四天魔王の娘!? 第六天魔王以外にもいたのか。第六天魔王由来の鬼女はちなみに紅葉の項を参照。
3.漫画だと「鬼切丸」で有名か?
酒呑童子
1.我が国の「鬼」の代表格 別名酒天童子または朱点童子ともいう。 大江山だけでなく新潟にも酒呑童子伝説がある。 熊童子(青鬼)、虎熊童子(白鬼)、星熊童子(肌色の鬼)、金熊童子(赤鬼)という四天王を従える(色は「日本の鬼交流館」の鬼面から)。副首領は茨木童子(別項で説明)。日本三大妖怪の一人。
2.大江山伝承では八岐大蛇と人間の娘との間で生まれた子とされる。 竜神は人の形をとるとされるから、人間に変身して×××したのか? 憶測でしかないが八岐大蛇って普通は人間の娘を生贄として要求し、差し出されたものを喰うらしいが、中には結ばれたものもいるのでは(憶測にすぎないけど)。ちなみに八岐大蛇を神として祭る神社はちゃんと岐阜にある。竜神で正解。
3.酒呑童子は大江山伝承では頼光四天王(渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武)に退治される。つまり四天王同士のバトル。 名前から察するように泥酔状態にして酒呑童子を抹殺。 調べてみたら「新羅三郎の刀で首を切られ、それでも執念で兜に喰らいついたが噛み砕く前に力尽きた」と出たんですが新羅三郎って源頼光の死後の生まれじゃありませんでしたっけ? 誰か教えて。 源義光=新羅三郎じゃね?たぶん別名なんじゃないかと 卜部季武という人物、陰陽道に長けたいわば魔法戦士である。そして実は卜部季武の子孫が卜部兼好(吉田兼好)である。吉田兼好にはもう魔力はなかったらしいが。
4.大江山の城は竜宮城のような大変立派できらびやかな城であったのと同時に実はダンジョン。
5.「朱点童子」と言えば「俺の屍を越えて行け」で有名。
6.イケメンだったらしい。 新潟伝承では女を振って振って振りまくってとうとう女の呪を受けて鬼になったらしい。平安版「リア充爆発しろ」か? 大江山の鬼の像や絵巻物ではむさくるしいがたい鬼になってるが特に「朱点童子」と記すときはイケメン鬼扱い(ただしイケメンの絵がない)。
7.大江山の鬼討伐の命令の理由もすごい。京で995年に天然痘がはやった時に「鬼の仕業だ」と称して討伐される。
8.外道丸の異名を持つ。 結野家の式神がこの酒呑童子その人という設定。ちょうど頼光四天王の一角である坂田金時の名を冠した主人公と主従関係になるというのは面白い。
前鬼・後鬼
1.修験道の開祖である役小角が従えたという鬼。
2.夫が前鬼で赤鬼、妻が後鬼で青鬼。
3.子供は5人いる。この子供たちを五鬼(ごき)という。 子孫は生駒山地に今でもいる。氏も五鬼。
4.漫画『鬼神童子ZENKI』でわりとこの鬼は有名になった。
滝夜叉姫
1.平将門の娘。五月姫という。
2.復讐すべく貴船神社に行き、「丑の刻参り」を行い念願の鬼の体を手に入れる。このとき人間時代の五月姫の名を捨て滝夜叉姫と名乗る。 五月姫が「丑の刻参り」によって無事鬼の体と心を手に入れた時、鬼の身体と心と力を授けた貴船明神の荒御霊が「今日からお前は五月姫などではない。今日からお前は滝夜叉姫と名乗るのじゃ」とお告げを出したというバージョンもある。五月姫はありがたくこの御託を頂き五月姫の名を捨て、滝夜叉姫と名乗った。
3.千葉で復讐すべく反乱をおこすも陰陽術で成敗される。 あげくに滝夜叉姫の部下、夜叉丸は改心し坂上田村麻呂側に寝返る。 滝夜叉姫は『山東京伝』作品では「がしゃどくろ」をはじめさまざまな妖怪を召喚して戦うが坂上田村麻呂に敗れ去り、最後は改心して将門のもとへと昇天する。この『山東京伝』作品によって「がしゃどくろ」は有名になった。
4.小説「滝夜叉姫」で有名になった。
5.無論、忍たま乱太郎の滝夜叉丸の元ネタである。 フルネームが「滝・夜叉丸」ではなく「平・滝夜叉丸」なのはこの為だから覚えておこう。
なまはげ
1.鬼というより鬼神。守護神。秋田男鹿地方の鬼としてあまりにも有名。
2.いい子にはご褒美。悪い子には・・・
3.欧米文化を打破するために超獣「スノーギラン」を連れてクリスマスの街を襲う。おい、英語が入ってるぞ。
4.山形だと「アマハゲ」になる。 能登だと「あまめはぎ」 日本海側の北部の守護神なんかな?なまはげっていうのは。
橋姫
1.「丑の刻参り」であまりにも有名。文字通り橋にいる鬼女。
2.悪縁切りしたければこいつに願え。
3.嫉妬の女神。
八面大王
1.8つの頭があったのではなく、たくさんの姿を持つという意味で「八面」という意味らしい。
2.坂上田村麻呂が北征する際、信濃の住民から食料を略奪し、激怒して立ち上がった英雄。ちなみに安曇野なんだとか。
3.英雄たちは体中にペイントして「八面鬼士大王」と名乗って抵抗するも虐殺され、坂上田村麻呂側から耳そぎまでされた。どっちが鬼なんだか。 おとぎ話などではなく、史実ということが分かった。
風神
1.仏である風天とはまったく関係ない。
2.基本鬼として描かれる。
3.風神・雷神はセット扱い。 俵屋宗達は偉大だ。 大阪の遊園地では…いや、なんでもない。ただでさえ縁起でもないこの項目をより縁起でもなくしたくない。
雨はどうでもいいのかな。
青山剛昌の『YAIBA』も始まりは風神と雷神の物語だったな。スサノオの力を二つに分けて封じたんだっけ?
4.風神が運ぶ風はいいものとは限らない。病も運んでくる。 関西では改源のCMにより、本人も風邪をひいてることで知られていた。
八雷神
1.伊邪那美命(いざなみのみこと)が火之迦具土神を生んだ時に陰部に大やけどを負って死んだ。その時伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉の国に行って妻伊邪那美を連れ戻そうとするが、醜い姿を見られたくないとして拒んだ。それでもと伊邪那岐命が見た姿とは・・・ 体中に蛆がうごめきながら頭に大雷神、胸に火雷神、腹に黒雷神、女陰に咲雷神、左手に若雷神、右手に土雷神、左足に鳴雷神、右足に伏雷神の八雷神が伊邪那美命と融合しているという恐るべき姿であった。 この姿を見られた伊邪那美は激怒し自分の体から八雷神を分離させて伊邪那岐を追って殺そうとしたが失敗した。 どこのRPGのラスボスだよというぐらいの姿であまりにもおいしい設定だが、我が国の国生みの神話でしかもいざなみ・いざなぎの話というせいもあってゲーム化は厳しい模様。 八雷神は一応鬼扱いになっておい、同時に雷神扱いである。八雷神の総称は「火雷大神」である。
2.八雷神は「やついかづちのかみ」とも「やはしらいかづちのかみ」とも言う
四鬼
1.四鬼(よんき)という。津市の伝承。金鬼(きんき)、風鬼(ふうき)、水鬼(すいき)、隠形鬼(おんぎょうき)4匹。 水鬼が土鬼(どき)に、隠形鬼が火鬼(かき)に入れ替わる場合がある。
2.藤原千方はこの四鬼を従え、朝廷に反乱をおこしたが紀朝雄の和歌で四鬼は退散してしまう。そして・・・抹殺される。 和歌つーか、魔法に近いな。西洋で言う吟遊詩人? 「草も木もわが大君の国なればいづくか鬼の棲なるべき」と言っただけで鬼は退散したらしい。 伊賀市にある千方橋の四鬼のレリーフは鬼ではなく完全に「忍者」として描かれている
3.白土三平の「忍法秘話」にも出るように忍者の祖先に当たるらしい。にしても弱いw
4.ゲームでは「無双OROCHI」で有名
雷神
1.雷様で有名。 太鼓をたくさん背負っている。
2.雷神でおそらく最も有名なのは怨霊と化した菅原道真(菅原道真項目参照の事)。
3.風神・雷神はセット扱い。
4.ザボーガーではない。 高木ブーでもない。
鬼子母神
それはお経のなかに・・
鬼子母神様はお釈迦様のお説きになられた「法華経」というお経のなかに説かれる神様です。お名前をサンスクリット語(古代インドの言語)でハーリティー”(Hariti)といい、これを訳して“鬼子母神”または音訳して、“訶梨帝”(かりてい)などと呼ばれます。
鬼子母神様には、ひとつの伝説があります。
鬼子母神は般闍迦(Pancika パーンチカ)と云う神様の妻であるとても美しい女神で、500人ものたくさんの子どもがいました。鬼子母神はこの愛する子供たちを育てるため人間の子供をさらってなんとこれを食べていたのです、人間達は子供たちをさらわれることを恐れ苦しみ、お釈迦様に相談しました。
お釈迦様は一計を案じ、鬼子母神がもっとも可愛がっていた一番下の子供の姿を神通力によって隠してしまいました。鬼子母神は嘆きそして悲しみ、必死になって世界中を気も狂わんばかりに探し回りましたが、勿論見つかるはずもなく、途方に暮れついにお釈迦様の元に行き、自分の子供が居なくなり見つからないことを話し、助けを求めました。
お釈迦様は鬼子母神に「500人の子供の内、たった1人居なくなっただけで、おまえはこのように嘆き悲しみ私に助けを求めている。たった数人しかいない子供をおまえにさらわれた人間の親の悲しみはどれほどであっただろう。その気持ちがおまえにも今わかるのではないか?」とはなし、「命の大切さと、子供が可愛いことには人間と鬼神の間にも変わりはない」とおしえられ、子供を鬼子母神の元に返しました。
鬼子母神はお釈迦様の教えを受け、改心し以後は全ての子供たちとお釈迦様の教え、またお釈迦様の教えを信じる全ての人たちを守ることを誓いました。これ以降、鬼子母神は鬼ではなく仏教・法華経と子供の守り神となりました。
「鬼」の字のお話
さどわら鬼子母神の“鬼”の文字は本当は、一画めの点すなわち「ツノ」を取ったのような、普通使わない文字を使います。なぜでしょうか?
それは上のお話のように、鬼子母神はお釈迦様とお会いになる前、まさに鬼のような事をしてきました。しかし、お釈迦様の教えを受け、改心し鬼ではなくなったのです。そのことをあらわすため、「ツノ」を取った字を使うのです。
ざくろ
鬼子母神様は右手にざくろの枝をもち、ふところに子供を抱いています。鬼子母神様がざくろを持っていることについてよく、「ざくろは人の肉の味がするから、子供を食べられなくなったかわりに食べている」といわれます。
鬼子母神様は今でも昔の悪い行いを捨てられないそんな神様なのでしょうか?そうではありません!!
ザクロの実をみると1つの実の中に又たくさんの小さな実があり、その一つひとつがそれぞれに小さな種を持っています。このことからザクロは古くから子孫繁栄をあらわす縁起のよい果物として「吉祥果」ともいわれています。鬼子母神様がこのザクロの枝を手に持つのは子供を守る神として子孫繁栄の願いが込められているのです。 
 
鬼4 起源と発達

「鬼」を何と読むか
現在「鬼」という字は普通「おに」と読まれていますが、有名な「九鬼文書」(くかみもんじょ)のように「かみ」と読むこともあります。また古代には「もの」と読んだ例もあるようです。「もののけ」の「もの」ですね。この文字は中国ではgui(キ)と読み、人間の霊魂あるいは亡霊を意味する文字ですが、日本では初期の段階では霊的な存在一般を表すのに使用されたようです。
「おに」の語源
「おに」の語源について多くの本が判で押したように、源順「倭名類聚鈔」(937年頃)の「隠(おぬ)が訛ったもの」という説を取っています。すなわち、「おに」というのはそもそも「見えないもの」であったのが、やがて仏教の夜叉・羅刹などを描いた絵画の影響で、現在のような鬼の姿が描かれるようになったとしています。
「おに」は大和言葉なのではないか、という説もあります。しかし大和言葉だとすると、それをなぜ十世紀の源順が知らなかったのだろうか?というのも疑問点として残ります。あるいは非常に古い言葉で、その頃には既に「鬼」という字と密接に結びつき、もう語源が不明になっていたのでしょうか?
初期の「鬼」
「おに」の初出は多分日本書記(720年)の欽明天皇5年(544年)12月の項だろうと思います。
『彼嶋之人、言非人也。亦言鬼魅、不敢近之。』 (その島の人、人にあらずともうす。また、おにともうして、あえて近づかず)
『有人占云、是邑人、必為魅鬼所迷惑。』 (人ありて占いていわく、必ずおにの為にまどわされん)
ここで「鬼魅」「魅鬼」という単語が出てきており、一般にはこれにどちらも「おに」と訓をつけています。
しかし「魅」は「み」(中国音mei)という文字ですから、この熟語を「おに」と読むのは苦しいかも知れません。
具体的にはここに出てきている「鬼魅」というのは外国人の海賊か何かをさしているのではないかと思われます。
また、日本書紀では斉明天皇の葬儀の時(661年)に、「朝倉山に鬼が出て大笠を着て葬儀をのぞいていた」という記述があります。
初期の頃の鬼の姿で、笠をかぶり簑を着ているというのはポピュラーな姿でした。これはいわゆる稀人(まれびと)の姿であり、現代でも秋田のなまはげにその名残を見ることが出来ます。
この日本書紀の次は出雲風土記(733年)です。これの大原郡阿用郷の項に「目一鬼」(まひとつのおに)というのが出てきます。この地方に目一鬼が人を取って食ったという伝説があることが記述されています。この「目一鬼」は地方柄、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と関連があるのではないかと思われます。
天目一箇神は出雲地方で盛んであった製鉄の神様で、一つ目の神様ですが、焼けた鉄を見つめている内に視力を失った人の象徴ではないか、と一般に言われています。(一つ目は太陽の象徴であり、太陽神ではないかという説もある。)
ごくごく常識的な解釈をしますと、「目一鬼来たりて田作る人の男を食う」というのは、製鉄の作業に人手を強制的に徴用され、視力を失ったり命を落としたりした者が大勢いた、ということを表しているのかも知れません。
平安時代の「鬼」
平安時代には鬼に関する記述がかなり増えて来ます。
伊勢物語(904年)
第6芥河の段。男が愛し合っていた女を連れだし、逃げる最中小屋に隠れていたら、そこに鬼が出て女を食べてしまいます。しかし鬼の姿自体は出てきません。このモチーフは源氏物語・夕顔の帖でも、寂しい寺で夕顔が物の怪に取り殺されるという形で使われています。
枕草子(1002年頃)
第153段に「名おそろしきもの」として牛鬼というのがあげられています。牛の角をはやした鬼でしょうか?
大鏡(1081年頃)
藤原師輔があはのの辻で百鬼夜行にあった話が収録されています。師輔は尊勝陀羅尼を唱えてこれをやり過ごしました。百鬼夜行に逢う話は今昔物語巻24の16にもあります。安倍晴明が子供の頃賀茂忠行に従って道を行っている時に出くわし、忠行が術を使って難を逃れたとされています。
今昔物語(1106年頃)
巻24の第24「玄象の琵琶、鬼の為に取られし語」。羅城門の鬼のところで述べました。ここでは鬼は姿は現していません。
巻27。この巻はまるごと鬼の話で、大量に記述されています。第8では鬼は男の姿をしていました。第13ではかなり恐ろしい形相になっています。真っ赤な顔で目は一つ。背丈は270cmくらい。手の指は3本で爪は15cmほど伸びていて刀のよう。目は琥珀のようで、髪は乱れている。第23では古典的な笠をかぶり、水干を着た鬼が出てきます。
現代につながる鬼の姿というのは平安時代後期くらいに形成されてきたのかも知れません。
室町時代の「鬼」
室町時代になると、現在見るような感じの鬼の絵が残されています。
東京国立博物館蔵の「百鬼夜行絵巻」に出てくる鬼・妖怪たち、同館蔵「不動利益縁起」や清浄華院蔵「泣不動縁起」に出てくる式神などに、鬼の姿の原形が見えます。これらの絵は室町時代の作品です。
また、大江山の鬼退治などが収録されている御伽草子も室町時代頃にまとめられています。
鬼に似たもの
鬼に似た扱いのものとして、まずよく言われる夜叉(やしゃ<ヤクシャ),羅刹(らせつ<ラクシャ)といったインドの鬼がいます。これは日本では法隆寺の玉虫厨子(600年頃)にも既に描かれています。恐らくは仏教の輸入とほぼ同時に、釈迦説話などとともにこういった鬼の姿も輸入されたのでしょう。
つまり、日本人は既に7世紀には外国の鬼の絵姿を見ていたことになります。
同じ仏教関連でも地獄の獄卒である、牛頭(ごず)・馬頭(めず)はどちらかというと中国起源でしょう。敦煌などからも出土しています。源信僧都が往生要集(985年)の中で言及しており、そのころには日本でも少なくとも一部の人には知られていたことになります。清少納言が書いた「牛鬼」もこの牛頭のことかも知れません。
上記「不動利益縁起」の式神が鬼のような姿で描かれています。室町時代の人は式神というのを鬼のようなものと考えたのかも知れません。「鬼」という名前のつくものとしては、役行者(えんのぎょうじゃ)が使っていた前鬼・後鬼というのもあります。これが何なのかというのは意見が分かれるところですが、式神のようなものではないかという意見も有力です。
現代にみる牛の角を生やして虎の皮のパンツをはいた鬼については、いわゆる鬼門が東北の方位で、この方位は十二支でいうと、丑の方位と寅の方位の中間にあたるためである、というのが通説です。つまり「丑寅」の方角が鬼門なので、鬼は牛と虎の要素を持っているというわけです。
節分の豆まきのセリフで「鬼は内、悪魔外」という地方があります。この「悪魔」あるいは「魔」とはお釈迦様が修行していた時に誘惑に来たものです。インドではマラと呼びましたが、これを中国語に訳す時に「魔」という文字を発明して「魔羅」と音写しました。この魔羅を略して魔といい、特に邪悪なものであることを強調するとき「悪」を付加して「悪魔」と呼びました。(男性器をマラと呼ぶのは、やはり修行中に誘惑する存在であるからです。)
能面の「般若」は鬼のような顔をした女の面です。通常燃えたぎるような嫉妬を表す手段として使用されます。似た面に「蛇」がありますが、般若には耳があり、蛇は舌が出ていることで区別できます。基本的には「般若」の段階ではまだギリギリ人間ですが、「蛇」になるともう人間ではなくなっています。
般若には、赤般若・白般若・黒般若の三種類があり、白般若は「葵上」、赤般若は「道成寺」、黒般若は「安達原」などで使用します。
なお、もともと「般若」という言葉は仏教用語でパンニャの音写。智慧という意味です。これは知識よりも高度の精神的働きを表します。なぜ、その「般若」が鬼女の面になってしまったかというと、この般若面を最初に作ったのが、般若という名前の面打ち師であったため、というのが一番通っている説のようです。
「北野天神縁起絵巻」には雷神と化した菅原道真公が清涼殿に雷を落とすシーンがダイナミックに描かれています。この雷神の姿はやはり鬼に似ています。
一般的な「雷様」のイメージというのは、鬼と同じような姿で、太鼓を持っているものです。この太鼓を叩くと雷鳴が轟き、雨が降るということになっています。
鬼の権威低下
平安時代から室町時代頃まで恐れられた鬼ですが、江戸時代以降はどうもその権威が低下してきて、人々が闇の中に見る恐怖はむしろ「幽霊」の方に移っていったようにも思えます。
鬼は、一寸法師・桃太郎などの昔話の中でやられる者としてとらえられ、節分の豆で追い払われ、来年のことを言うと笑う存在になってきました。
それどころか、浜田広介(1893-1973年)の「泣いた赤鬼」になると、鬼は人間と仲良くしたいと思っています。鬼もずいぶんとフレンドリーな存在になってきたものです。(この問題についてはまた後で触れます)
戦時中はアメリカやイギリスのことを当時の政府が「鬼畜米英」と言わせ、桃太郎がその「鬼畜米英」を倒しに行く、などという物語まで作られたりしています。ここで鬼はもう恐れるべき相手ではなくなっていました。倒せる相手だと思ったからこそここに「鬼」が出てきたのでしょう。
鬼はいるのか?
さて、現代の日本において、幽霊の存在は信じる人が多いですが、鬼の存在を信じる人は非常に少数だと思います。しかし「鬼」と呼んでよいものは確かに存在しているようです。これはたちの悪い悪霊の一種であると考えていただければよいかと思います。
基本的にこういった「鬼」は陰陽五行説的に言えば陰(マイナス)の気が極端に集まったものです。
そういう「鬼」が潜んでいる場所は日本中にいくらでもあるようです。そういう意味では「鬼」は「陰」と通じるものがあります。
さて、1000年前の源順は「鬼(おに)」を「隠(おぬ)」と考えて、「見えないもの」と考えたのですが、どちらかというと「陰(おぬ)」だったかも知れません。
鬼はよほど強烈なものでないかぎり、一般の人の目には見えません。通常描かれる鬼の姿というのは、こういったものを感じ取ることのできる人が感じ取った雰囲気を絵にしたものでしょう。そういう意味では、あの鬼の姿は純粋な想像の産物とはいえない面があります。
こういう霊感的な力というのは本当は誰にでもあるのですが、こちらから相手が見えると、それに相手も気付いて逆に危険ですので、普通の人の場合、小さい頃にそういう回路は閉じられてしまいます。しかしまれに、そういう回路が何らかの原因で閉じられなかった人たち、あるいは何らかのきっかけ(一般には大病や臨死体験など)でそれが突然開いてしまう人もいます。
こういった純粋な意味での「鬼」以外に、過去の日本の歴史の中で「鬼」として取り扱われてきたものがあります。それは「よそもの」です。
日本書紀の欽明天皇の巻に描かれた「鬼」は実際問題として外国人のようです。民俗学者の一部には、「鬼」というのは通常暮らしている共同体の範囲外に住む人のことである、と捉える向きがあります。これは確かにそういう面があったようです。
一般に昔の日本の村では、村の一番外側のところに、道祖神・地蔵・あるいは巨石・古木などがあって、そこが一種の結界になっていました。そしてその結界の外側に存在するものは「鬼」として処理されたのです。
道祖神はその「鬼」の不法侵入を防ぐ働きがあります。これは仲のよい男女神なので、その間を無理矢理通り抜けようとすると、「邪魔するな」とばかりに跳ね返されてしまう訳です。
この共同体の外のものを「鬼」とみなすという心理構図は、例えば「おむすびころりん」で穴の中に落ちたおむすびを求めて行くと、そこには鬼がいた、などといった話の中にも見ることができます。桃太郎も海を越えて鬼ヶ島に行きました。海はこの世界とあの世界を隔てる結界です。
そして、この構図は戦時中に敵国に対して「鬼畜米英」という言葉を使ったところにも通じるものです。つまり日本という大きな結界の外にいるものは全て「鬼」だという思想がそこにはあったのでしょう。
しかし、この「よそもの」は害をなす場合は「鬼」ですが、福をもたらす場合は「稀人(まれびと)」になります。
つまり「訪れる神」で、日本神話の世界でも、恵比須神・少彦名神・事代主神などがこの「稀人」型の神です。日本にはこういった「稀人」を迎え入れる神事を行っている地方があります。能登半島の「あえのこと」、男鹿半島の「なまはげ」などはそのタイプの祭と考えられます。沖縄方面にも海からやってくる神様を迎えるお祭りをするところがあるようです。
日本とアメリカの関係も戦時中は「鬼」と呼んでいたアメリカを、戦後は一転して神様のように扱い、日本人はこの50年間、どんどんアメリカの真似をしてきました。やはり「おに」と「かみ」は転換可能な面もあるのでしょう。それ故に「鬼」の字を「おに」とも「かみ」とも読むのかも知れません。
アメリカとの関係については、戦時中は日本という単位の結界が使用されていたのに対し、戦後は日本とアメリカをまとめた結界が使用されるようになったことからくる転換と考えることもできます。つまり「仲間」の範囲が広がった訳です。浜田広介の「泣いた赤鬼」も象徴的です。これはそれまでよそものとされていた人が村人が認めることにより、「仲間入り」したことを表します。近代の特徴として、人々の「身内」とみなす範囲がどんどん広がってきていることがあげられます。以前は村までだったのが明治以降日本全国がひとつになり、戦後は欧米まで広がり、最近はその結界の中にアジアを加えようとしつつあります。
「おむすびころりん」の物語は心理学的にも面白いものです。おむすびがころがり落ちた穴。そこは外界に通じる、結界の外であると同時に、足元にあるもの、つまり心の中にあるものでもあります。
いくら外に結界を張っても、心の奥底には深い闇が広がっています。鬼は私たちの心の中にも潜んでいるかも知れません。 
 
鬼5

1.鬼だらけの国日本
「渡る世間に鬼はない」という諺があるが、日本は鬼だらけの国であった。「仕事の鬼」やら「将棋の鬼」、「野球の鬼」、「鬼嫁」に「鬼婆」などなど、まさしく「渡る世間は鬼ばかり」であったのだ。「鬼の目にも涙」、「鬼に金棒」、「心を鬼にする」などの言い回しが広く使われることでも分かるように、鬼は身近に存在した。
日本の昔話のうち鬼のでないものはほとんどないのではないかと思うくらい、昔話に鬼はつきものである。さらに『今昔物語』などの説話集にも鬼は登場する。日本人は昔から鬼と隣り合わせに暮らしてきたのである。
2.鬼の力
昔話では、大きな図体を持ち、頭に角のある力の強い赤鬼やら青鬼が描かれている。鬼の持つ力とはいかなるものか。昔話のなかの鬼はよく「人を喰う」し「人に化ける」。仏教において、地獄にいる羅刹鬼が人間を喰うことから導かれているのかもしれない。とにかく鬼は凶悪で有害な恐るべき存在であった。
鬼はどこで手に入れたのか宝物をいっぱい持っている。魔法の道具はたくさん持っている。遠くへ移動することができる「千里のくつ」、身長を伸ばせる「打ち出の小槌」に生死を思うままに操る「生き棒・死に棒」、姿を隠せる「かくれ蓑」、どこまでも遠くを見渡せる「千里眼」等々。しかし、どういう訳か鬼はいつもこれらの宝物を人間に奪われてしまうのである。反対に人間の方はそのおかげで幸せになれる。
3.鬼の弱点
大男で力も強く人間に恐れられているはずの鬼だが、結構弱点も多い。お天道様にすこぶる弱く朝が来ると逃げ出すし、なぜだか「菖蒲」に弱かったりする。第一鬼は「頭が弱い」のである。いつも鬼は「人間の知恵」に負かされてしまうのである。結局のところ鬼は痛みも感じれば、恐怖心も抱く、マヌケでおおらかな弱点だらけの、人間とさほど変わりない存在なのである。
鬼は昔話の中では、いつも脇役である。鬼の力、宝、恐ろしさは、鬼を退治する人間の人間の知恵を賞賛するための道具にすりかえられてしまっている。鬼が巨大で荒々しく、強く凶悪であればあるほど、鬼を退治した主人公たちの武勇がたたえられ、それゆえ鬼は脇役として簡単に人間に負けたり、だまされたりするのである。
鬼が人間に簡単に負け、だまされ、さほどの理由もなく退治されてしまうところに、その姿、形とはまるで正反対の、気が良く、単純で、おおらかで間のぬけた鬼の真実の姿をみる。それは、博打を打ちながら、酒を飲み、踊りの好きな鬼の姿も多いことからも言えるのではなかろうか。「狂言」や『お伽草子』に描かれる鬼は、どこかにくめない。鬼が人間の生活と同じ営みをする、これもまた、昔話の中で鬼の存在が語りつがれてきた原動力なのかもしれない。柳田国男は、「昔話の天狗、狐、鬼も、山姥も、皆少々、愚かで弱く、伝説の方では、常に強豪で、人を畏服せしめる。」と述べている。
4.騙されやすい鬼
♪山に住んでた赤鬼は人間になりたいなりたいと〜〜・・・
人間になりたい鬼に対し神様が夜明けまでに100段の階段を作れば人間にしてやるという。鬼は99段まで積み上げて眠ってしまい、やがて夜明けとなって結局鬼は人間になれなかった。人間達の役に立つことによって人間の仲間入りをしたい鬼とその心情を巧みに利用して鬼に奉仕させる人間。しかし結局、鬼は鬼でしかなく人間の仲間に入れてもらえなかったのである。
5.鬼のすみか
昔話に出てくる鬼のすみかは「鬼ケ島」、または「山の中」と大概相場が決まっている。柳田国男は『山人考』において、「上古史上の国津神が二つに分かれ、大半は里に下って常民に混同し、残りは山に入り又は山に留まって山人と呼ばれたと見る。」と述べている。馬場あき子は、「彼らが純粋に山岳部だけを跋渉して生きたことはなお疑わしいとしても、本拠を山に置き、鬼と呼ばれつつ生活の場を持っていたことはいわゆる〈もののけ〉的鬼や呪術の世界に跳梁する鬼とはまったく別種の鬼であったことはたしかである。彼らは生活のすぐ隣に棲んでいた鬼であり、同時に人間界の秩序とは没交渉の、別個の規約に統制されていたと考えられる。」としている。
鬼ヶ島はどこにあるのか。『桃太郎』が鬼ヶ島へいったときも海を渡る話はない。ヤクザの「島」ではないが、島とは「一定の領域」のことであると本居宣長もいっている。だから海に浮かぶ島を「海島」という場合がある。「敷島」も奈良盆地のある地域を指すのが原義である。それゆえ、鬼の棲み家や場所を総称して鬼ヶ島と呼んだのではないかと推測される。「鬼ヶ島」は普通の人々の住んでいる場所とは違う場所である。そして不思議なことに「鬼ヶ島」には必ず宝物があるのである。鬼の住処は、恐ろしい場所である反面、宝の溢れる場所でもある。
6.鬼とは何か
源順(みなもとのしたがう)が著したわが国最初の辞書『倭名類聚鈔』によれば、「鬼ハ物ニ隠レテ顕ハルルコトヲ欲セザル故ニ、俗ニ呼ビテ隠ト云フナリ」、と解説されている。「オニ」という国語は、隠(オン)という字音から導かれたという。
それにしても鬼(キ)と書いて「オニ」と読むのは如何なる訳か。いうまでもなく鬼(キ)は中国語である。「鬼」という字は、もともと死体の象形文字で、そこから死者の霊魂を指すようになった。だから人が亡くなることを鬼籍に入るというのである。もちろん、中国語の鬼のイメージには、日本のように角をはやし虎のパンツをはいた赤鬼・青鬼といったイメージはない。
古来、日本においては、「鬼」=「オニ」ではなかった。仏教経典を通じてのインドの夜叉、羅刹・羅刹婆、餓鬼、地獄の獄卒などと中国的な鬼とが混同され、さらに丑寅の方(北東の方角)に鬼の居場所があるという陰陽道の説から、牛のように角をはやし虎のパンツをはいている鬼のイメージができあがったと思われる。折口信夫は、「畏るべきもの」という共通点から、オニをカミとも言う場合があったのではないかと推測している。実際、鬼と書いてカミと読む場合がある。『日本書紀』『万葉集』などでは、鬼は「もの」「しこ」「かみ」「おに」などと、場合に応じて読み分けられている。馬場あき子は、『日本書紀』景行紀に、「山に邪しき神あり、郊(のら)に姦(かだま)しき鬼あり」と記されていることから、鬼は邪神と対をなしている同じ系列のものとして認識されているといっている。『民俗学事典』によれば、「鬼は山の精霊、荒ぶる神を代表するものの一呼称であった」のではないかとされている。
文献上に「鬼」の字が初めて現れるのは、『出雲国風土記』の、大原郡阿用郷の名称起源の説明で、「昔或人、此処に山田を佃(つく)りて守りき。その時目一つの鬼来りて佃(たつく)る人の男を食ひき」と書かれている。『日本書紀』斉明紀に、朝倉山の上から「鬼」が笠を着て斉明天皇の喪の儀を見ていたという記事がある。
7.鬼の種類
「鬼」の持つイメージには大別して三つある。一つは仏教的な鬼であって、「悪」や「恐怖」のイメージである。仏教系の鬼には、牛頭鬼や馬頭鬼、羅刹女などがあり、鬼に出会ったという話がたくさん残っている。地獄の獄卒である牛頭鬼、馬頭鬼は出会えば必ず理由なく人を殺す。これはもともと、罪深い人間を脅すための演出であった。仏教系の鬼は類型的で、因果応報の仏罰と仏や経文の効能を広く世に伝えるための材料として登場する。
次に、生身の人間でありながら「鬼」と呼ぶ他はない人々である。松谷みよ子によれば、「鬼は、容姿のうえでは架空の存在であるが、もっている性格・行動などには、人間そのもののイメージが重なっているのではないか」という。個人的な恨みや憎悪から、生きながら「鬼」となって怨恨をはらす人々。さらに王朝の繁栄のために犠牲となり世の暗闇に破滅していった「まつろわぬ」闇の世界に棲む人々。例えばゲリラ的盗賊集団の首領、大江山の鬼「酒呑童子」である。馬場あき子は、「常人の知識をこえる不測の行動は、その敏捷果敢さとともに、彼らのもっとも誇りとするところであり、彼らはまさに王朝の政治の暗黒に乗じて生きた鬼の一大典型であった。」といっている。
そして、もう一つは昔話に出てくる鬼。どこか間が抜けていて騙されやすく、陽気でユーモラスなイメージである。
8.鬼の源流
筆者は現実の世に「鬼」として扱われていた人々がいたと思う。普通の人間の住んでいる場所とは違う一定の区域を住処とし、恨みを抱き、悪とされ、恐怖の対象であった人々。しかも、酒と踊りが好きで、素朴で騙されやすく、はては「宝」をとられ征伐されてしまう人々。彼等こそ「鬼」と呼ばれた人々である。そのような要素を兼ね備えた人々が実際に存在したのか。存在したとしたらそれは一体誰か。
「鬼」とは、大和朝廷によって抹殺された者たちであると思う。土蜘蛛は神武天皇東征のとき、吉野山中に穴居し水銀を採取していた。倭建命(日本武尊)によって征伐された熊襲建や出雲建は朝廷支配下の「普通の人間」が住まないところに住んでいる。そして日本武尊を簡単に信頼し、まんまとその罠にはまって亡んでいった「素朴」な人間であった。同じく北の蝦夷達も異国に住み「悪人達」であり「強く」「恐ろしい」人々であるわりには、あっさりと征服されてしまう。しかも「宝物」を持っているのである。彼等こそ鬼の要素を具備した人々といえる。
大和朝廷は自らと対立する列島の先住民たちを「蝦夷」「土蜘蛛」「隼人」等と呼び、あるいは懐柔しあるいは策略を用いそしてある時は武力を以て征服していった。とくに大化の改新(645年)以降、大和朝廷は奥羽に住む縄文人としての特徴を色濃く持ち言語も風俗も異なった「蝦夷」の征伐にのりだす。朝廷にとって先住民族である蝦夷は、滅ぼすかしない「鬼」であった。阿倍比羅夫の東北遠征(656年)から蝦夷対大和の戦いが何度も繰り返され、桓武天皇の時には、征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷討滅の最後の決戦に臨むべく大軍を率いて、蝦夷の王「阿弖流為ーアテルイ」を攻め立てた。
3千から5千の戦力で5万、10万の朝廷軍と互角に戦ったアテルイも結局802年(延暦21年)に投降した。田村麻呂の助命の約束は反故にされ、朝廷はアテルイの首をはねた。アテルイは「鬼」や「悪路王」として、朝廷にはむかう「大悪人」となった。奥羽地方の砂金を始めとする「宝」が朝廷のものになった。蝦夷の大王アテルイこそ日高見の「鬼」である。
9.鬼の末裔
弥生人が縄文人を征服し、日本に統一国家ができたのは、4世紀から6世紀にかけての古墳時代である。そして、支配者になった弥生人のもつ北方系の顔は人相のよい顔とされ、虐げられた南方系の縄文人の顔は鬼の顔になった。世界中に征服された先住民がコビトや、妖精になる話がある。修験道の開祖である役小角にしたがった前鬼、後鬼も、先住民の末裔であったにちがいない。
平安時代の中頃から武士が台頭する。梅原猛は「武士は、もともと狩猟採集を業としていた縄文の遺民とみてまちがいないであろう。」「関東は縄文文化の影響が強く、関東人は縄文人がそのまま農耕化したという自然人類学の学者の説もある。」そして、「中世とは人間的にも文化的にも縄文的なものの最盛の時代なのである。」といっている。武士もまた「鬼」の末裔である。
東北の日高見の国を屈服させた朝廷は、全国各地に投降帰順した蝦夷である「俘囚、夷俘」の人々を集団的に移住させた。歴史研究家・菊池山哉氏は、明治時代に全国215か所の別所地名を調査、分析し「別所は俘囚 に移配地である」という説をとった。そして、別所の特徴として、東光寺、薬師堂、本地仏十一面観音の堂社(白山神社など)を祀り、慈覚大師円仁の伝承があると言う。別所各国の国府や郡家に近接して存在することが多い。八切止夫は菊池山哉の説に再び光を当てた。在野の古代史研究家・柴田弘武氏は、菊池説を発展させ『鉄と俘囚の古代史−蝦夷「征伐」と別所−』で、別所とは蝦夷の俘囚を配した製鉄遺跡であるとして全国各地の例を挙げている。
別所という地名起源については「仏教諸宗の修学・修行に不満を抱く聖たちが、本寺を離れた別の場所に隠遁して、それぞれ集団を結んだ場所」( 『岩波仏教辞典』 )というのが通説である。柴田弘武氏は全国550余か所の別所地名を訪ねて分析、「本寺を離れた修行僧の隠遁地」とするだけでは説明できない所が多いという菊池説を裏付けている。柳田国男は別所の人々が山の者、谷の者、峡(カイ)の者等とも呼ばれたという。
日蓮聖人は、貞応元年(1222年)に安房国長狭郡東条郷小湊の漁村に、三国大夫(貫名次郎)重忠を父とし、梅菊女を母として生まれた。自身の出生について、「日蓮今生には貧窮下賎の者と生まれ旃陀羅(せんだら)が家より出でたり」(佐渡御書)「日蓮は安房国東条片海の石中(いそなか)の賎民が子なり」(善無畏三蔵抄)等と述べている。日蓮聖人は小湊西蓮寺で養育された。小湊西蓮寺は、山号が東光山で、本尊は薬師如来、そして東国に観音、薬師信仰を広め、先住民を教化した慈覚大師円仁が開基である。西蓮寺こそ安房国別所の重要拠点であったと考えられる。この先住民たちこそが日蓮聖人の言う「旃陀羅」であろう。
出雲大社近くの安養寺に、有名な出雲阿国の墓がある。歌舞伎の創始者といわれ、サンカのエラギ(芸能)の源流ともされる阿国も「鬼」と呼ばれた蝦夷の末裔かもしれない。
10.鬼は亡んだか
馬場あき子は、「反体制、反秩序が、基本的な鬼の特質であるとすれば、近世の封建的社会体制の確立しゆくなかで、当然、鬼は滅びざるを得ないものであり、そして滅びたといえよう。」という。
古来、人々は、世の悪に対する怒りの気持ちを鬼に託していた。最近の日本には、権力者の暴走を止め支配者と対峙する「鬼」ではなく、「Panem et circenses.パンとサーカス」に踊らされる大衆しか存在しなくなってきている。「鬼」的な潜在エネルギー「鬼」が醸し出す緊張感を失った日本は文化的創造力を失い弱体化していくのではないか。日本文化に喝を入れこの国を元気にするためには、いまこそ鬼の復活、復権を図るべきであるといえよう。 
 
邪鬼1

 

1 たたりをする神。また、物の怪(け)。怨霊(おんりょう)。
2 四天王像に踏まれている鬼。仏法を犯す邪神として懲らしめられ、苦悶の表情をみせる。
祟りをする神、物の怪(もののけ)などを総称していうが、仏像に関しては仁王像や四天王像の足の下に踏まれている小型の鬼類をさす。毘沙門天(四天王の多聞天)の足下にいる鬼を特に天邪鬼(あまのじやく)と呼ぶという説がある。〈天邪鬼〉は毘沙門天像の鎧に付けられた鬼面の名称であることが室町時代の《壒囊鈔(あいのうしよう)》に記されており、当初は鬼面の名称であったが後に足下の鬼をも意味するようになったと考えられる。
四天王邪鬼 (東大寺戒壇院)
東大寺の戒壇院の四天王は誰もが認める超リアルでカッコいい四天王ですが、彼らに1200年以上もの間踏まれながら我慢し続けている邪鬼のファンも多いのでは。戒壇院にはこれまで何度か足を運びましたが最近は男前の四天王よりも邪鬼たちの表情が気になって、四天王よりも長時間邪鬼たちを見つめている私です。
邪鬼は悪いことばかりして四天王から懲らしめられている小悪魔たちのように見えますが、本当は四天王たちの部下であり、お釈迦様の説法や仏法を邪魔するためにやってくる悪魔たちを追い払うために四天王から「やっつけてこい」と指示を待つ夜叉神(善神)のことなんです。
ですから見た目には「イテテ‥四天王のダンナ、もっと優しく踏んでくださいよ!」と言っているように見えますが私にはやってくる悪魔たちに対して威嚇して「いきり立っている」、そう感じずにいられません。少しでも四天王たちが足元を緩めると、すぐに飛び出して悪魔たちに向かって行こうかというところではないのでしょうか。「コラーッ、俺たちは踏まれっぱなしだけど本当は怒ったら怖いんだゾーッ!」と歯軋りしながら強がって威嚇する声が聞こえてきそうです。
四天王などに踏まれている【邪鬼】
Q / 本を読んでいたら、興福寺の四天王像の邪鬼の説明に「人の心に住む悪いものを鬼の姿で表したもの」との説明がありました。以前私の読んだ本には、「悪さをしていた鬼達が改心して、四天王などの天部達に仕えているのが邪鬼」という意味の説明が書いてありました。
これはどちらの説明も正しいのでしょうか?
A / 実際には、インドにアーリア民族がやってきて、先住民を駆逐したことを、宗教的に表現しています。踏んでいるのが、ヨーロッパからやってきたアーリア人(四天王)、踏まれているのが、インド先住民であるドラヴィダ人(邪鬼)です。
実際に踏んでいる人の身体的特徴や衣服は、アーリア系のものですし、踏まれている人の特徴は、現在インド南部に住んでいるドラヴィダ人のものとなっています。
仏教は、インド古来の宗教の影響を多く受けており、布教する時に、人々にわかり易くするために、神話や伝説を利用しています。
昔から伝わってきたアーリア人による征服伝説を使い、仏教の布教に利用しているのです。
四天王像はアーリア人がドラヴィダ人を征服しているところ、ヒンドゥーに改宗したドラヴィダ人が邪鬼と考えられます。
ちなみに、阿修羅も征服された人たちが信じていた神様で、仏の教えに従って非常に苦労しながら修行している顔と言われています。  
 
邪鬼2

 

我が愛しき邪鬼たち
自分でも何故なのか今だに分からないのですが、何時しか仏教に興味を持ち、仏様を尊崇する気持が強くなり、お寺について関心が高まってきました。ところで最近特に興味をもって眺めているのが「邪鬼」です。
本尊を守っている四天王が、足の下に踏みつけている「よこしまな心を持つ鬼であり、邪悪なるもの」といわれるあの邪鬼です。私のささやかな知識によると、初めから今のように、四天王に踏みつけられていたのではなく、インドではストゥーパの門柱を支えていたようです。詳しいことは知りませんが、京都の東寺へ行きますと、薄暗い講堂にズラリと迫力を持って並んでいる立体曼荼羅と呼ばれる仏像群の中で、邪鬼を踏みつけているのは、四方を守っている四天王ばかりでなく、明王の中にも、憤怒の形相で邪悪なるものを踏みつけて居られるものがあります。
明王の憤怒の形相は、人間を救おうとする並々ならぬ決意の形相であると言われます。勿論四天王は、固い決意で、本尊を守っているわけですから、それを表現するのに、邪鬼を踏みつける迫力は、その真剣さ、偉大さを認めさせるためにも必要なのだと思います。
足の下の邪鬼は、ある者はこれ以上の痛みは無い、といった形相で踏みつけられ、又ある者は、参った!といった顔で、またあるものは恨めしそうに踏みつけている四天王を下から見上げています。それぞれに筋肉隆々の邪鬼で、決して易々と倒され音を上げる弱々しい邪鬼ではありません。
面白いことに、隙あらばその足から飛び出して、反撃に打って出ようという形相のものがあるかと思うと、剽軽(ひょうきん)な顔で、踏みつけられていることをまるで楽しんでいるかのようにさえ思われるものもあります。
私が見た中で一番古い邪鬼は、多分法隆寺の木造の四天王の邪鬼でしょうか。四天王は本来は憤怒の形相のところが、ここは何故か、比較的穏やかな顔をしておられます。従って、踏みつけられている邪鬼も、少しばかり穏やかな感じを受けます。「和」を尊ばれて、新しい国造りに励まれつつも命絶えた、聖徳太子の魂を慰める為に建立されたという説があるようですが、そういう事も一つの理由なのでしょうか。
中でも広目天の邪鬼は正面を向いて、頭の上に広目天の両足を載せ、両肘を折った形で、耳の近くに掌を拳に握り、眼は下向きで、厚い瞼の下に細くあり、口だけが、左右に大きくへの字になっていて、じっとこらえている感じが出ています。ても広目天も邪鬼も何となく穏やかです。
同じ四天王でも、東大寺の四天王となると、顔立ちも厳しくなり、従って邪鬼も、広目天の邪鬼などは、今にも飛び出そうと隙を狙っているようにも見えます。後ろ側の広目天と持国天そのものの顔立ちは、比較的怒りは押さえられているようですが、邪鬼は違います。
更に高野山金剛峯寺にいたっては、鎌倉時代の仏師、快慶作という四天王は、一層迫力があって、邪鬼もまた並々ならぬ迫力があります。こういった邪鬼に何故心が引かれるのでしよう。
私は仏像に興味を持ち始め、古寺を巡って仏像を眺める旅を始めた頃に、仏像彫刻の中で、一番先に気に入ったのが、中宮時の弥勒菩薩像と東大寺の戒壇院の四天王像だったのです。東大寺戒壇院を守る四天王は、日本人の身長に近い位の小ぶりではありますが、それは見事な像で、均整の取れた美しさと逞しさで、遠く中央アジアの様式の甲冑を身に付け、四天王のその精神がひたひたと伝わってくる見事な像に、感嘆しきりでした。
その時は未だ邪鬼には余り興味は無かったのですが、ある時、邪鬼だけ少しばかり抜き出して、写真になっている資料本に出会いました。それを眺めている内に、邪鬼の立場にやや同情する心が芽生えたようです。
よこしまな心を持った邪悪なるものとして、踏みつけられ押さえつけられていないと、世の中が平和に立ちゆかないといった様に、重い四天王の両足で踏みつけられ、身動き一つ出来ない様子は、何とも気の毒ではあります。平べったく潰れているものさえあります。
四天王の強さを表現する為に、考え出された邪鬼なのか、四天王にはそれぞれ名前があるように、邪鬼にも名前があるものなのか、私は知りませんが、一つ一つの邪鬼をじっと眺めていますと、矢張り愛しき者と言えそうな感じがして来るのです。「將たる者は心に一匹の鬼を飼わねばならない」と將たる者の心得を言った武将がいましたが、リーダーの条件として、それくらいの心構えが必要なのでしょう。人間は心の何処かに、ある種の邪鬼を持っていることを悟らせようとしているでしょうか。又、これを作った仏師の、主役を引き立てようとする魂の有り様に、感動する心があるとも言えます。 
東寺では、四天王ばかりでなく、明王の足の下に踏みつけられているものがいます。
例えば、降三世明王立像(こうざんぜみょうおうりゅうぞう)の足下に踏むのは、この明王が、むさぼり、いかり、おろかさという、三界の悪を 降伏(ごうぶく)することを目的としていますので、それを表す為に、ヒンズー教の煩悩を表す主尊と、無智を表すその妃を踏みつけているのです。東寺の講堂はこの世を救う為に、怒りに満ちた明王五体を左に、中央に本尊の大日如来を含む如来五体、右に菩薩五体を据えて、それを守護する四隅の四天王、加えて帝釈天と梵天の計21体の像によって出来ていて、まさに圧倒される思いです。眼が五つある、珍しい金剛夜叉明王像などは、戻って二度も見て来ました。
京都駅から直ぐ近くにありながら中々行けなかったのですが、一たび空海発願の立体曼荼羅と言われる彫刻群に取り付かれるや、時間があれば通って眺めます。
少し面白いことに、法隆寺の多聞天の邪鬼と、後に行った延暦寺の多聞天の邪鬼がやや似ていることに気付きました。延暦寺の多聞天は、体躯堂々としていて、身に付けた具足も少し腰を捻った出で立ちも力がみなぎっていて、法隆寺の静かな多聞天とは違いますが、邪鬼は少しユーモラスで、前向きであることや両手を肘から折っていることなど、共通点があります。法隆寺は、眼は下向きてですが、延暦寺では目玉が飛び出しています。
こうして邪鬼に目を奪われて来ますと、沢山の寺院に四天王が居られますから、中々面白いものです。内部を写真に撮って来ることは出来ませんが、買ってきた資料や、手持ちの本などから、探し出して比べると、又新しい面白さが発見出来ます。
   邪鬼もまた愛しと思へる日のありて薄暗き古寺に目を凝らし見る
   顔の高さに合掌しつつゆく僧の横顔若し永平寺回廊  
 
四天王1

 

(してんのう、サンスクリット語:चतुर्महाराज caturmahārāja) 欲界の六欲天の中、初天をいい、またこの天に住む仏教における、4人の守護神をいう。この四天王が住む天を四王天、あるいは四大王衆天(しおうてん、しだいおうしゅうてん)ともいう。
六欲天の第1天、四大王衆天の主。須弥山頂上の忉利天(とうりてん)に住む帝釈天に仕え、八部鬼衆を所属支配し、その中腹で伴に仏法を守護する。
須弥の四洲(東勝神洲=とうしょうしんしゅう、南瞻部洲=なんせんぶしゅう、西牛貨洲=さいごけしゅう、北倶廬洲=ほっくるしゅう)を守護し、忉利天主・帝釈天の外臣である。この天に住む者の身長は半由旬、寿命は500歳で、その一昼夜は人間界の50年に相当する。
持国天 - 東勝神洲を守護する。乾闥婆、毘舎遮を眷属とする。
増長天 - 南瞻部洲を守護する。鳩槃荼、薜茘多を眷属とする。
広目天 - 西牛貨洲を守護する。龍神、毘舎闍を眷属とする。
多聞天 - 北倶廬洲を守護する。毘沙門天とも呼ぶ。原語の意訳が多聞天、音訳が毘沙門天。夜叉、羅刹を眷属とする。
日本での信仰
四天王は早くから日本でも信仰されていた。 『日本書紀』によれば仏教をめぐっておこされた蘇我馬子と物部守屋との戦いに参戦した聖徳太子は、四天王に祈願して勝利を得たことに感謝して摂津国玉造(大阪市天王寺区)に四天王寺(四天王大護国寺)を建立したとされる。(後、荒陵の現在地に移転。)後世の仏像製作においても、釈迦三尊像などのメインとなる仏像の置かれる須弥壇の四隅には、たいてい邪鬼を踏みしめて立つ四天王像*が配置されている。四天王像としては、東大寺(奈良市)の戒壇院のものが有名である。 
 
四天王2

 

天部の中の「四天王」について記述いたします。天部とは天を住処としておりますが何故天だけに部が付いたのか?それは、天でなく天部とした方が語感が良いからでしょうか。
仏教では、世界の中心に聳える山を「須弥山(しゅみせん)」と呼び、仏堂に設けられた一段高くなった壇は須弥山を象徴したもので「須弥壇」と言います。皆様の仏壇の中にも須弥壇があります。
四天王は須弥山を守る役目を担うことから金堂、本堂などの須弥壇をも守ることになったのでしょう。須弥山において四天王は帝釈天に仕えております。
「四天王像」はインドで誕生した当時は憤怒ではなく温和な顔付きのうえ華麗な装飾を着けた貴人のようです。しかも甲冑を着けないだけでなく「バールフト」の像にいたっては武器すら手にせず合掌手の如くで守護神らしくありません。
バールフットの像には銘があり多聞天(毘沙門天)となっております。邪鬼はおとなしい蹲踞の姿勢で多聞天に踏みつけれた苦しみから逃れようとする反抗的な態度は見られません。
「法隆寺金堂の四天王像」は現存最古の遺構であり武器を手に執っておりますが貴人がスッと立っているようでインド様式の名残かも知れません。その貴人スタイルの四天王が中国では甲冑を着けた武将像に変化いたしました。その様式が我が国に伝わり殆どが中国風の四天王像であります。
四天王像は「仁王像」と同じく躍動感のある像なので人気があります。と言いますのも、老若男女を問わずじっと立っているよりも動きのあるものの方が好まれるからです。我が国古来の日本舞踊でも庶民には動きの無い「女舞」より動きがある「男舞」の方が世間で受けるのと同じことでしょう。
菩薩は「沓」を履きませんが四天王の殆どが沓を履いております。ただし、「東大寺三月堂の日光・月光菩薩像」のような例外もあります。
聖徳太子が発願された「四天王寺」の本尊が四天王、また、「東大寺」は「金光明四天王護国之寺」と呼ばれ本尊が四天王であると思われがちですが他にも主役の本尊がありますので準主役扱いといった方が正確かも知れません。「東寺」の正式名は「金光明四天王教王護国寺秘密伝宝院(略して教王護国寺)」で四天王とはどういう関係があるのでしょうか?
戦勝祈願や国家鎮護の守護神として四天王が盛んに信仰されたようです。古代は戦勝祈願の対象といえば四天王のみだったようですが時代が下れば「毘沙門天(後述)」「勝軍地蔵」も現れて参ります。
四天王寺は聖徳太子が物部氏との戦いで勝利を四天王に祈願され、そのご利益のお陰で見事に勝利した後、太子の発願で建立されたのであります。四天王寺の創建は法隆寺より古いですが第二次世界大戦で焼失したため戦後の再建でまだ新しい建造物ばかりです。ただ不思議なことは、四天王寺がどうして大阪に建立されたのかのと南北一直線の伽藍配置であるのに通常の出入りは西側からという変則なことです。戦勝祈願のお礼というより何か大きな目的があって大阪に四天王寺を建立されたのでしょう。
四天王が天の「王」と言う尊称が付けられるくらいの主役待遇だったのは天平時代迄で平安時代以降は脇役となります。須弥山、須弥壇の四方を守る護法神だったり国家を鎮 護する守護神だったり戦勝の守護神だったりと尊崇されていたのにガードマン如き脇役となってしまったことは大変な格落ちであります。そこで善男善女の皆さん、お参りの際最初に出くわす持国天に会釈した後本尊にお参りください。
東南西北(通常、東西南北ですが時計回りでは)の守護神は、四天王の「持国天(じこくてん)」「増長天(ぞうちょうてん)」「広目天(こうもくてん)」「多聞天(たもんてん)」の配置となります。そこで、持国天の「じ」、増長天の「ぞう」、広目天の「こう」、多聞天の「た」で「じぞうこうた(地蔵買うた)」と覚えるのがよいと伝えられております。そういえば、先月は「地蔵菩薩像のお話」でしたね。
持国天は須弥山の中腹で東方の門を守ります。右手で宝珠を執ることがあります。
増長天は須弥山の中腹で南方の門を守ります。
広目天は須弥山の中腹で西方の門を守ります。戦闘神たる武将が武器を持たずになぜ巻物と筆を持つのかは分からないです。
多聞天は須弥山の中腹で北方の門を守ります。宝塔を右手で捧げていたのが平安時代は左手で捧げるようになります。
四天王の「持物(じもつ)」に関しては広目天の巻物と筆、多聞天の宝塔ぐらいで決まった定型がなく像一つひとつに変化があって四者の違いや甲や衣に施された華麗な文様を調べられるのも一興かと思われますのでしっかりとご覧ください。それと同時に、方位の五色では東が青色、南が赤色、西が白色、北が黒色ですが実際の四天王の肌色は何色かを調べて見てください。
須弥山なら四天王が東南西北の門の守護神でいいですが、須弥壇での現実は、持国天は東南、増長天は西南、広目天は西北、多聞天は東北の方向を守っております。それは、須弥壇の南に増長天を安置いたしますと本尊の真ん前となりそれでは不都合となるから でしょう。それから、鬼がいる方向を鬼門といいそれは東北すなわち丑寅(うしとら)の方向です。それゆえ、鬼の様相は頭に牛の角があり、口には虎の牙を供え、腰には虎皮のフンドシを穿いております。それらを踏まえて、平安京の場合北方を鞍馬寺(後述)、 鬼門の東北を比叡山と2方向の王城鎮護が考えられたのでしょう。
その昔、いろんな分野で四天王が選ばれ「何々の四天王」と呼ばれたものですが最近ではあまり聞かなくなりました。浮世では浮き沈みが激しいので四者が揃うことが出来ずせいぜい御三家どまりでしょうか。 
時代が下ると「仁王」が中門から南大門に移りましたのを受けて中門には四天王のうち二天を祀り伽藍を守らせたのであります。この門を「仁王門」に対し「二天門」と言います。この二天には「持国天と多聞天」あるいは「持国天と増長天」の二通りの組み合わせがありますが四天王の代表格である多聞天が入る持国天と多聞天の組み合せの方が多いようです。また、二天で須弥壇を守るケースもあります。
四天王の足で踏みつけるのは「邪鬼(じゃき)」ですが「天邪鬼(あまのじゃく)」といったほうが理解しやすいでしょう。仏法の敵とは言えもう少し穏やかに優しく出来なかったのでしょうか?と言いますのも建屋を守らせるのに中国、韓国では屋根に多くの霊獣がおりますのに我が国では鬼瓦一辺倒で、仏敵の鬼に建物を守らせるのですから不思議な風潮ですね。いずれにしても、我が国での鬼は毀誉褒貶の激しい生き物です。邪鬼には一鬼、二鬼があります。四天王は邪鬼か「岩座」または、「岩座上の邪鬼」に乗ることもあります。最近は使われなくなりましたが人が亡くなると「鬼籍に入る」といい戒名が鬼の戸籍簿に記されます。このことは故人が鬼になることですがここでの鬼は悪い鬼ではなく敬うべき鬼と言うことでしょう。邪鬼が惨めな姿にされ虐げられるようになり、その後に反発する邪鬼に変貌した頃から四天王がガードマン的な脇役となっていったようです。 
平安時代になると広目天が従来の巻物と筆ではなく「赤い索」を持ち、多聞天は宝塔を右手でなく「左手」で捧げるようになります。それと、長く広い袖を結び背面には裳裾が垂れるようになります。
鎌倉時代になると天平以前のスタイルである広目天が巻物と筆を持ち、多聞天が右手で宝塔を捧げます。広く長い袖を結ぶのは前代と同じですが結んだ袖と背面に垂れた裳 裾が大きく棚引くように翻り激しい動的な姿となります。動き易くするため袖を結ぶの であれば袖なしにするとか長い裳裾がない方がフットワークにはよいと思われますが。
四天王の影が薄くなる平安時代頃から、多聞天が単独で祀られるようになりその際尊名を「毘沙門天」と変え尊崇されるようになります。四天王が公の祈願ですが毘沙門天は公、個人共の祈願として広く信仰され、後には「七福神」の仲間にも選ばれ個人祈願の神として庶民の人気が続きました。七福神といえば毘沙門天より奥さんでもある「吉祥天」の方が宝珠(参照:後述の法隆寺像)を持っておられるので適任だと思われますが「弁財(才)天」が嫉妬して駄目だったのかも知れませんね。嫉妬深いといえば恋人同士で弁財天をお参りするとそのカップルは別れることになるという言い伝えがあります。ゆえに、付合っている相手と別れたい時は弁財天にお参りすることです。誰ですかもう少し早く弁財天を知っておけば良かったと悔やむ不心得者は。インドでは単独尊の毘沙門天の方が四天王より早く出現したらしいですが我が国では毘沙門天は四天王より遅れて現れます。毘沙門天は戦勝神、財宝神などとして広く信仰を集めました。「楠木正成」は「信貴山 朝護孫寺」の毘沙門天に安産祈願して誕生したので幼名を「多聞丸」と名付けました。ま た、「上杉謙信」は毘沙門天を尊崇し戦勝祈願をしたので軍旗は「毘」の一文字が刷り込まれておりました。毘沙門天の像容は多聞天とほぼ等しく右手か左手で宝塔を捧げその反対の手で戟か矛を執ります。
邪鬼か岩座に乗るのが通例です。
「兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)」は我が国では数少なく中国では毘沙門天より兜跋毘沙門天の方が多いということで我が国とは大きな違いです。像容については後述の「東寺像」で記載いたします。
「奉先寺洞(中国・龍門石窟)」は五尊仏で本尊を挟んで弟子、菩薩像、天王像、仁王像となり本尊は「盧舎邦仏」で俗称「奉先寺大仏」と呼ばれるものです。本尊・盧舎邦仏の像高は17.14mで現在の東大寺大仏が14.98mに比べ約15%も大きく、いかに奉先寺洞が大型のものか想像いただけますことでしょう。天王像と仁王像は左右の壁(緑矢印)に造られており正面からは眺めることは出来ません。向かって右の緑矢印の先に僅かに見えるのが天王像の顔で、菩薩より像高は低いです。本尊に向かって右へ阿難像、菩薩像、多聞天像、仁王像です。逆は迦葉(かしょう)像、菩薩像、持国天像(?)、仁王像となります。これ以外にそれはそれは多くの像があり大変見応えのある洞です。四天王は動きのある武将像ですが憤怒相ではありません。憤怒相の四天王は我が国の方が中国より多いような気がいたします。中国は我が国と違って四天王像より二天像の方が多いとのことですが中国では石窟像が多いため、壁面に四天を彫ると四天王像だけが目立ちバランスが取れないからでしょう。
「鞍馬寺」は牛若丸、鞍馬天狗、弁慶などでお馴染みの名刹寺院です。「仁王門」を潜ると間もなく「ケーブルカー」の山門駅ですが駅前に立て看板があり、「山頂本殿まで木立の中の九十九折(つづらおり)参道は約1Kmです。途中、重要文化財の由岐神社拝殿や、義経公供養塔など諸堂めぐりもできます。むかし、清少納言や牛若丸も歩いた道です。
「竹伐り会式(たけきりえしき)」の鞍馬法師が竹を大蛇に見立てて斬りつける勇壮なシーンは圧巻で見る人を感動させております。余談ですが、新聞の『子を抱く親心』で「子を抱く狛犬」が安置された「由岐神社」と「帯解寺」の「腹帯地蔵」が紹介されておりました。
毘沙門天
「毘沙門天立像(びしゃもんてんりゅうぞう)」は本殿金堂の本尊ではなく「霊宝殿」に祀られております。鞍馬寺は平安京の真北に当たるので北方の守護神「毘沙門天像」を祀り平安京の鎮護とされましたゆえ当初は本像が本尊だったことでしょう。
創建当時は私寺建立禁止であるにもかかわらず特別に建立許可されたのは王城鎮護という重要な役割を担った寺院だったからでしょうか?
本像は橡(とち)の一木造で橡が素材の像は初めて見ました。彩色などの装飾はなく檀像風で黒っぽく見えましたが通常なら漆箔が剥落して下地の黒漆が現れる筈ですが本像は何の装飾彩色は施しておりませんので素材の色でしょうか。守護神に相応しい鍛え上げた隆々たる肉体でしかも全体に黒光りしておりましたので余計に頑強な感じがいたしました。 
毘沙門天のシンボルである宝塔を持っておらず、左手を髪の生え際の少し上にかざし、精悍な鋭い眼で平安京を望見しております。いかにも都の守護神らしいスタイルと言えましょう。後述の「浄瑠璃寺像」、「唐招提寺像」は左手を腰に当てているように手を腰に当てる像は結構あり、本像も手を腰に当てるべきところを作者のユニークな発想で手をかざす様式にしたのでしょう。この様式は鞍馬様と呼ばれ途中の疲れを吹き飛ばしてくれる創意にあふれ神秘的魅力を持った逸品です。
毘沙門天(像高176p)を中尊とし奥さんである「吉祥天(像高100p)」とお子さんである「善膩師童子(ぜんにしどうじ)(像高95p)」が脇侍の如く安置されております。毘沙門天より吉祥天は小さく造られておりますが後述の「法隆寺金堂像」の場合は毘沙門天と吉祥 天とはほぼ同寸法で造られております。これら吉祥天の違いは、王城を鎮護する役目の毘沙門天の脇侍としての立場と法隆寺像のように吉祥悔過の本尊を務める立場の違いでこのような像高差になったのでしょう。毘沙門天三尊では現存最古の遺構です。
天部は独尊で尊崇されるのは少ないのに毘沙門天と吉祥天とは単独尊でありますから結婚が出来お子さんが生まれたのでしょう。尊像が家族で表現されるのは稀なことです。
「兜」の中央には宝珠が刻まれており宝珠がある毘沙門天は珍しいです。宝珠があれば福徳神だと分かり衆生に広く信仰されたことでしょう。 
邪鬼ではなく岩座に乗っております。
「冬柏亭(とうはくてい)」は霊宝館の目の前に設置されております。この建屋は与謝 野晶子さんの「書斎」が回りまわって現在地の神々しい鞍馬山に移築されました。
「東寺」は今までに建築物で紹介してまいりましたが後述の「兜跋毘沙門天像」が展示されております「宝物館」しろすべての建物がまとまった位置関係にありこれほど楽に回れるのは京都では他にないでしょう。
多聞天
「多聞天像」は講堂の東北隅に祀られ須弥壇を守護しております。
密教と顕教との違いは密教の場合堂内に多くの尊像が安置されていることです。講堂には四天王と合わせて密教の諸尊の数は21尊もあります。それゆえ、東寺は密教美術の宝庫と言われる所以でしょう。ただ、天平時代の宝石箱と言われる「東大寺三月堂」には狭小の内陣に15尊も安置されていると言う例外もありますが。憤怒の表情、勇壮な姿には見る人を圧倒させる四天王のです。多聞天像は補彩が施され息を吹き返したようで創像当初の煌びやかな像容が偲ばれる見応えのある像となっております。台座は邪鬼や岩座ではなく後述の兜跋毘沙門天の様式である尼藍婆(にらんば)、毘藍婆(びらんば)の二邪鬼と地天女(ちてんにょ)でありこの様式は本像だけと言う独創性に富んだ像です。ですから、尼藍婆、毘藍婆の二邪鬼と地天女であれば兜跋毘沙門天だという区別が出来なくなりました。
兜跋毘沙門天
「兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)」は中国の故事により王城鎮護には最適の守護神といわれたのを受けて、中国からの請来像を平安京の表玄関にあたる「羅城門」の楼上に安置されました。ところが、その羅城門が強風で倒壊いたしましたので東寺に移安されたのが本像です。本像は中国産の魏氏桜桃という桜材で造られており中国で制作されたことは間違いないようです。魏氏桜桃の素材と言えば「清涼寺の釈迦如来立像」が思い出されます。本像を中国から持ち帰ったのは弘法大師空海でしょうか、それとも伝教大師最澄でしょうか?法隆寺金堂の四天王像のように直立不動の姿勢です。兜跋毘沙門天と聞くだけで敵が恐れをなして尻込みするのか威嚇のポーズではなく節度あるスマートな像容であります。熟練の仏師が緻密に彫り込み、胸には鬼面のようなものが二つと腰のところに獅嚙、その他色々な装飾文様など細かい細工が見事に表現されております。 
背の高い山型宝冠の中央に鳳凰や孔雀、金翅鳥といわれる鳥の文様が前面一杯に彫られております。鳥そのものではなく鳥の羽が付いているのは後述の「戒壇院の持国天像」で見られます。ハーフコートのような衣装を着け大陸風の姿でもなく西域風の様相で異国情緒あふれる像です。この像も右手に戟を執り、左手で宝塔を捧げていたことでしょう。
尼藍婆(にらんば)、毘藍婆(びらんば)の二邪鬼を従えた地天女(ちてんにょ)が両手の掌で直立する兜跋毘沙門天の足を受け止めております。我が国では何故か兜跋毘沙門天はあまり多くは造像されなかったようで間もなく衰退いたしますが東大寺中門には近世の兜跋毘沙門天像が安置されております。
持国天
「持国天像」は「九体仏」と壁との隙間に遠慮がちに立っております。装飾の見本帳ともいわれるくらい豪華絢爛たる像で完成された様式美が心ゆくまで味わえます。平安時代の四天王像としては屈指の名作といわれる像がこれほど間近で拝観できるのは幸せなことです。九体仏もいいですがこの四天王像だけでも訪れる価値は充分あります。袖、裾を翻しているのは中門なら風が吹き込んできますが堂内なら風もそよ風くらいですので仏敵と闘っている激しい動きの瞬間を表しているのでしょう。それだけに、気迫のこもった力強い感じがいたします。
「邪鬼」は小太りでぎょろ目の可愛らしい相好で重量のある四天王に踏み付けられてもそんなに苦しんでいるようには見えず逆に微笑んでいるように見えました。
「増長天像」は皮革製の甲冑で身をかためているようにも見えずしかも憤怒相でありません。兜ではなく宝冠を被り異国的な様相を示しております。すらりとしたプロポーションの本像に対し邪鬼の体系は大き過ぎるぐらいなのと踏みつけられてもだえ苦しむのではなく素直な従者の如く憎むべき鬼ではなく眷属のようであります。踏み付けられているというよりもちょんこと乗って貰っているという方が適切かもしれない。四天王は四者で様相に違いがあるのが通例ですが法隆寺金堂像はさほど変わり映えがしない古典的な像容です。四天とも直立不動で動きはなし、広目天以外の他の三天は共に左手に戟を持つという姿です。
「毘沙門天像」、「吉祥天像」共に法隆寺金堂に安置されております。平安時代から吉祥悔過が盛んに行われるようになり吉祥天(像高116p)と毘沙門天(123p)のご夫婦像が本尊の左右に増設されました。ご夫婦像としては最初の記念すべき尊像です。しかし、吉祥悔過の本尊は吉祥天であり何の役目のため多聞天が動員されたのでしょうか?吉祥天像の左手には「宝珠(青矢印)」が捧げられております。気品ある像容の毘沙門天像、均整の取れた美人像である吉祥天像と共に当初の漆箔、切金文様、彩色がよく残っており見る人の心を魅了せずにはいられない像です。毘沙門天像は創像当初は邪鬼か岩座に乗っていたことでしょう。平安時代から多聞天は左手に宝塔を捧げるようになりますが『陀羅尼集経』による場合は宝塔を右手で捧げます。しかし、法隆寺像は『金光明最勝王経』の経典により造られたらしいのでなぜ右手の宝塔となったのかは分かりません。多聞天ではなく毘沙門天だからかまたは同じ金堂安置の飛鳥時代の「四天王像」に合わせて古式で制作されたのでしょうか?お経に関しては何の知識も持ち合わせておりませんので詳しいことは分かりません。

「持国天像」は東大寺戒壇堂に安置され、四天王は須弥壇の中心に向かって立っておりましたが現在は四天王総べて南向きに改変されております。四天王像は当初の像ではなくどこからか移安されたものらしいです。これだけの見事な像は東大寺内のいずれかの仏堂かそれなりの名刹寺院にあったものでしょう。像容は天平時代の特徴である軽快な姿で敏捷な動作が取れるスタイルです。時代的に一番スリムな体付きを的確に表現し写実の妙として感動を呼びますが次の平安時代のように恰幅がよくありませんから威圧感は乏しいです。
「邪鬼」は頭が大きいうえ目、鼻、口が大きく、指は潰れており、まるで妖怪のようです。四つん這いの姿勢で頭と腰を踏みつけられており苦しみのあまりか口を大きく開けております。諧謔に富んだ邪鬼と言えましょう。 
写実を重んじる彫刻と言えば、削り過ぎたりすると修整が難しい木彫ではなく、修整が幾らでも効く塑造か脱活乾漆造であります。塑造は手間、乾漆造は費用を要しますので国家体制が充実していた天平時代以外では無理な技法でした。塑造の手間とは焼きもせず高温多湿の奈良で保存させるため素材の仕込みに年月を掛けてからまず最初に裸形像を造りそれから我々が着付けるように下着を着けそして順次装っていき最後に装飾品で飾るのであります。材料費は土ですから無料ですが余りにも制作時間と手間が掛かりますので本格的な塑像は天平時代までしか制作されませんでした。それゆえ、国宝指定の塑像は奈良以外では存在いたしません。それら名品の制作に膨大な国家予算をつぎ込んだため財政破綻を起こし財政再建が迫られたことが平安京への遷都の一因となったのであります。本像は天平時代の終わりに見られる誇張された表現ではなく古典的な節度ある表現といえましょう。
広目天
「広目天像」は「東金堂」の須弥壇に安置されております。東金堂は堂名の通り興福寺の東側に西向きに建立されておりますので通例通りの東南西北の守護神とはならないため当初からこの配置だったのでしょうか。四天王の持物に関して記載されているものは『陀羅尼集経(だらにじっきょう)』という経典だけでその経典に基づいて制作されたのが東金堂の四天王像です。広目天といえば巻物と筆を持っておりますのが通例ですが東金堂像では右手に少し判別し難いですが索(青矢印)を執り、左手には広目天以外が手に執る「戟(げき)」を執っております。戟とは先が三つ(緑矢印)に分かれているもので分かれていない一つのものは槍です。多聞天は右手で宝塔を捧げております。
天平時代はスマートな体格ですが平安時代になると亀の子のように縮めた首、目をむいてしかも重量感のある筋肉質の体格でまさに仏敵と闘う寸前の迫力で今にも動きだしそうであります。
邪鬼は身体が柔らかいのかそれとも重量感のある四天王に踏みつけられているためか身体が海老のように二つ折りになっており苦しみに耐える邪鬼の姿には哀れみを誘います。
増長天
「増長天像」は右手に金剛杵、左手は腰に当てるポーズです。寺伝では天平時代の作となっておりますが広袖の先を絞り、長い裳裾が垂れる様式からは次の平安時代初期の作と思われます。しかし、多聞天像が宝塔を右手で捧げておりますので天平と平安に跨って造られた像でしょう。大陸的な悠揚迫らぬ風貌で兜は被らず宝髻というのは仏敵も幼稚な武器しかない和やかな時代だったからでしょう。
木彫像、一部乾漆仕上げでこれからまもなく木彫全盛時代となり彫刻の歴史は木彫の歴史となります過渡期の作品です。増長天像(187p)の少し斜め後の千手観音像(535p)、本尊の盧舎邦仏像(304p)、薬師如来像(336p)と比べると脇役の四天王といえども像高が低すぎます。しかし見方によっては三尊が大き過ぎるとも言えます。なぜこのような像高の差が出たのか歴史の謎には興味が尽きないですね。他の三天が閉口で本像のみが開口です。

「当麻寺金堂」の本尊が塑像で四天王が脱活乾漆像であり何故素材の違いが出たのか不思議です。塑像は安価な粘土に比べ脱活乾漆像は高価な漆で制作されています。ランク付けをすると如来、菩薩、(不動明王)、天部となりますから素材の使い方から考えられることは創像当時においては如来と四天王は対等の関係にあったのかそれともどこからか移安されてきたのかは分かりません。それが現在では四天王は脇役になっておりますのは寂しいですね。見事な顎鬚と口髭を付けた異国的な四天王像は他では見たことがありません。これらの鬚髭(しゅし・あごひげとくちひげ)の表現が出来たのも乾漆なので難しくなかったことでしょう。というのも木彫像でも髪の毛などの細かい表現には乾漆で制作することがあります。飛鳥から白鳳時代の作と言われる「法隆寺の六観音像」も素材は樟ですが髪の毛などには木屎漆で仕上げられております。
後の時代の「邪鬼」は仰向けや横向きになり暴れて反抗していますが、「邪鬼」は手を組んで蹲り畏まっております。 
 
当麻寺金堂四天王像の邪鬼

 

−7世紀‐10世紀の東アジア作例の形式分類をもとに−
当麻寺金堂四天王像のうち古様が指摘される持国天像・増長天像の邪鬼について、形式の面からあらためて考察を加える。これまでの邪鬼研究では、東アジアを含む通史的な観点からの検討が十分にされてこなかった。本発表では、7−10世紀における中国・朝鮮半島・日本の邪鬼の形式分類と大陸の邪鬼との造形比較を通じて、当麻寺の二邪鬼の歴史的定位について検討する。
邪鬼の形式は、神将像との関係から「乗せる」「踏まれる」「支える」の3類に大別され、神将像のポーズの変遷とも関連しながら、「乗せる」邪鬼から「踏まれる」邪鬼と「支える」邪鬼へと展開した。この3類は、さらに5種の型に分けられる。「乗せる」邪鬼は、背に神将像を乗せる【台座型】、「踏まれる」邪鬼は、急所を神将像に踏まれる【踏鬼型】にそれぞれ分類される。「支える」邪鬼は、上体を起こし左右対称で両方の掌や肩で神将像を支える【地天型】、左右非対称で、片方の掌や肩で神将像を担ぐ【坦鬼型】、急所を踏まれながらも神将像を担ぐ【坦鬼かつ踏鬼型】に細分される。
大陸においては、8世紀までに5種類の型があらわれ、その全てが10世紀まで継承される。一方、日本においては、7世紀の段階で法隆寺金堂四天王像邪鬼に台座型、玉虫厨子宮殿正面扉二天像邪鬼に地天型、東京藝術大学蔵天王像邪鬼に踏鬼型がみられるが、坦鬼型と、坦鬼かつ踏鬼型はみられず、8世紀以降は踏鬼型が主流形式となる。そこに大陸とは異なる、日本の邪鬼の地域的な特徴が指摘できる。
当麻寺の二邪鬼は台座型である。二邪鬼の材料は欅かとされ、平安前期の後補ではないかとする見解がある。しかし、興福寺北円堂四天王像邪鬼(791年)、東寺講堂四天王像邪鬼(839年)、東寺食堂四天王像邪鬼(899−909年)など、平安前期の作例では踏鬼型が主流形式となっており、形式の面から、当麻寺の二邪鬼を平安前期に位置づけることは難しい。さらにその造形に注目すると、上体は起こさず、支える動作はともわないが、顕著な左右対称性を示している。これに類似した造形は、龍門石窟奉南洞西壁天王像邪鬼や慶州感恩寺西塔出土舎利具青銅製龕附属の浮彫四天王像のうち多聞天像邪鬼など、7−8世紀の唐と新羅の作例にみられ、当麻寺の二邪鬼は、大陸風をうけた古式な造形を示すものととらえることができる。
当麻寺金堂の四天王像については、その脱活乾漆技法と甲制に関して、奈良時代の定型とは直結しない濃厚な大陸風が指摘されている。こうした四天王像の特質は、まさに台座型の形式と左右対称の造形に、強い大陸風が指摘できる邪鬼に通じるものといえる。以上のことから、当麻寺金堂持国天像・増長天像の邪鬼は、四天王像と共に7世紀末頃に制作された当初作である可能性を指摘できると考える。  
 
日本の仏教彫刻における鬼神像に関する一考察

 

■序論 仏教彫刻における鬼神像の源流と伝来
第一章 仏教彫刻の起源と流れ
仏教は日本の古代文化において大きな基盤の一つといえるだろう。そして、彫刻・絵画で現された仏像や涅槃図などは、その重要な要素の一つである。紀元前五世紀の古代インドで始まった釈迦の教えは、その弟子逮や綿々と受け継いだ信仰者達による仏典結集などで形成され、古代インドの神々さえもその懐に取り入れて創造され一大教義となって構築されていった。そして南伝・北伝という大きな枝分かれも合め、教義の変遷とともに仏伝に関する浮彫や彫塑などが制作され、紀元前後の頃にガンダーラやマトゥラーなどで初めて釈迦(仏陀)の像、つまり仏像が制作された。中国には紀元後一世紀に伝えられたとされるが、中国社会に根をおろし発展をみるのは、仏図澄・鳩摩羅什や法顕らの活動がみられる四世紀以降といえる。中国南北朝時代には、北魏などの国家的保護政策もあり、各地に石窟寺院が営まれ、多くの壁画や浮彫・彫塑などの仏像(広義には如来・菩薩・明王・天像等を合む)が描かれ刻まれることになる。中国で漢訳された経典は、その後仏像などの偶像とともに朝鮮、さらに日本へともたらされる。
二十一世紀の現代にいたるまで、それぞれの国での仏教を取り巻く状況は様々な変遷をみるが、伝えられた仏像に関していえば、日本におけるそれら仏教遺産はインド・中国を凌ぐとさえいえるのではないかと考える。日本の仏教文化財は木造主体の建築・彫塑の類が多く、地ぷによる火災や台風、さらに戦火や廃仏毀釈などの社会事象により失われてしまったものも多い。しかし、それらの災禍を逃れ、人から人へと大切に受け継がれた遺産は、誇りうる先人達の心なのだと与える。
本考はそのような仏教遺産のひとつである仏教美術の中で、仏殿・仏像を「支える鬼神(力士・邪鬼等)像」に聞してその変遷を探りつつ、特に仏殿(仏塔) の軒下を支える力士・邪鬼像について、日本に現存する像を対象に検討を加えたい。
第二章 インド・中国・朝鮮の仏教彫刻における鬼神像
仏教彫刻における鬼神像の源流はパールフトやサンチーなどの仏教遺跡の欄楯にみられる。図版1がインドのカルカッタ博物館に収蔵されているものでその碑文には【クヴェーラ・ヤクシャ】と刻まれている(前二世紀)。インド神話に出てくる【クヴェーラ】という財神は【ヤクシャ】と呼ばれる従者を率いておリ. 神話の中では人間に害をなす悪鬼の類でもあったが、仏教に取り込まれてからは仏法を守る護法神となった。これが四天王のうちの多聞天のルーツとされる。その像容をみると武将形ではなく、またその表情に忿怒の様はない。佐和隆研編『仏像図典』によると、四天王像は「もともと仏教本来の神ではなく、その表現にもとくに規制がなかった」ので、「インドに於いては貴人の姿に表現」され、中央アジアから中国に至る間に「次第に武人像として完成」、さらに日本において「忿形著しい武芸天部形」となったとある。たしかに、その像の造形は日本のものと大きく違っている。ただ足下の従者像は、蹲踞して肩部でクヴェーラを支え、両腕を前方で組み、またその表情に関して視線は前方下をみつめ思索的な様子がが見て取れる。
ヤクシャ像はまた仏塔の周囲に建てられた門柱にも現されているが、サンチ-第一塔の西門柱の梁を頭と手で支える短躯(侏儒)・太鼓腹の像がそれである。この塔門は前一世紀後半頃のものとされ、仏殿等の建造物を支える像の源流といえるだろう。この侏儒形で下支えのヤクシャ像は、ガンダーラではギリシ
ャ的容貌をもちギリシャ神話のアトラスとして表現きれている。古代インドにおいて、従者としてのヤクシャは尊像や仏閣の一部を「支えるもの」として表現されている。金岡秀友氏は「外教たると仏教たるとを問わず、古代インドにおいて、鬼は人間や神と絶縁した存在ではない。その両者と連携し、相互に影響を与えあい、時としてその何れにも変容する。神が鬼の形をとり、鬼が人の形をとる。」としているが、このことはその後の伝播地おいても、内包された本質として受け継がれていったものと考える。
中国における仏教美術の遺産としては、各地で営まれた石窟寺院の壁画や浮彫・彫塑があげられ、四世紀以降、敦煌莫高窟・雲崗・龍門・炳霊寺石窟などに残された。そこにも仏殿・仏座を「支える」像が多数表出している。
壁画や浮彫などに現されたこれらの像は「夜叉」・「薬叉」(Yaksa=ヤクシャ)とされ、前述のクヴェーラを支える従者や塔門を支える侏儒の変形で、中国西域においては力強い容貌に大きく変化している。また鞏県石窟寺には浮彫の仏台座等を支える像が刻まれているが、「力士」「邪鬼」「怪獣」「神王」「地神」「托山力士」など様々な名称がついている。その支え方は、おおむね両足を開き蹲踞し両手を開いて(又は片手で)支える姿で現されている。表情は一部を除き、穏やかなものが多く、ほとんど苦しみの様はみられない。雲崗石窟にも仏座や仏龕のアーチ状の柱を支える像が多く見られるが、特徴的なのは第9窟前室天井に高浮彫で現された侏儒(アトラス)像であろう。前述したガンダーラでのヤクシャ像はギリシャ神話のアトラスとして示され、多くは仏座を支える者として現されているが、ここでは木米のアトラスの役割である天空を支えるような像として表現されており、このことはとても興味深い。龍門石窟には、仏座ばかりでなく香炉を複数の力士が支えており、仏具にも同様な役割を担う表現がみられる。
朝鮮における「支える像」としては高句麗時代の古墳にみられ、安岳3号墳[四世紀後半築造]の前室と奥室の境にある石柱3本の柱頭に怪獣(邪鬼)が描かれ、長川1号墳〔五世紀中葉〕の前室の天井の隅に作り出された三角形の部分に、足を踏ん張り上の天井持ち送りを両手で支える力士像が描かれている。このように、中国・朝鮮の仏教美術において、ヤクシャの担っていた「支える」役割は様々な姿で表現され、時には天王像に踏まれる「邪鬼像」として、また仏座を支える「神王」として、また天井を支えるアトラスになぞらえた姿で表出している。そのルーツである、クヴェーラの従者(眷属)としてのヤクシャは、それぞれの時代や伝えられた土地で、制作者の様々な思いに応えているようである。
第三章 「支える」鬼神像の日本への伝来
仏教美術における鬼神像について、図像を合めて日本への最初の伝米は不明であるが、ここではその伝来に関わる例をふたつ考察したい。
図版7は七世紀後半に描かれた法隆寺金堂壁画九号壁(弥勒浄土図といわれているが、異説もある)の描き起こし図で、図版8はその台座部分の拡大図である。そこには、前章でみてきた台座を支える「力士」か「邪鬼」的な像が描かれている。この図様の伝来を考えるにあたり、示唆を与えてくれてのは梶谷亮治氏の説である。梶谷氏は白鳳期に日本で描かれた法隆寺金堂壁画六号壁(阿弥陀浄土図)と唐からの請来品とされている勧修寺繍帳(釈迦如来説法図奈良国立博物館蔵)の相似性を指摘し、また敦煌332窟東壁南側壁画の阿弥陀三尊五十菩薩図との関連にも言及している。その中でキーパースンなっているのが黄文本實という七世紀後半頃の官吏である。その名は『薬師寺仏足石銘文』に残されており、その内容から、本實が渡唐した際、王玄策(唐の官吏)によってインドからもたらされた仏足石図を転写し持ち帰ったことが知られている。梶谷氏は、本實は六五三年に入唐した道昭(日本における法相宗の開祖)とともに赴いたのであろうとしている。そして、道昭は玄奘に師事していたのだから、同時期に長安の西明寺にいた道宣(中国南山律の開祖)と近傍であったのではないかとし、阿弥陀三尊五十菩薩図についての知識が道宣周辺から本實らにもたらされた可能性を指摘している。
推古朝の六O四年に画師に任ぜられた黄書(黄文)家に生まれた黄文本實は、玄奘や王玄策が請来して早々のインド・西域の仏教美術にいち早く接し、飛鳥文化後期(白鳳期)の様式に大きな貢献を果たしたはずである。そして、道昭の指示のあるなしに関わらず、多くの仏画を書写したはずである。帰国に際し彼が請来した中に、法隆寺金堂壁画州六号壁阿弥陀浄土図ばかリでなく、九号壁画(支える邪鬼像を含む図像)に繫がる図様があったのではないだろうか。
図版9は白鳳期作とされる當麻寺四天王像(持国天)とその足下の邪鬼像である。先行研究の多くは現存最古の法隆寺金堂像と次第に忿怒形を強める天平期の唐風様式の過渡的なものと位置づけ、その鬚のある点に閲しては、新羅からの来歴も指摘されている。しかしその西域的風貌や人間的表情、そして邪鬼像の哲学的ともいえる思索的視線などを鑑みると、他に類する像がみられず、かといって当時の仏師の独創的な意匠とも考えにくい。(四天王邪鬼像のうち持国天邪鬼と増長天邪鬼像が思索的表情をしているが、この二つの邪鬼像はともに後補である。平安初期頃のものと推定されているが、平安初期の邪鬼はほぼ例外なく懲罰の役割をもち忿怒形となった四天王に踏まれ、もがき苦しむ姿である。にもかかわらず、何故このような思索的・哲学的表情をもつかということを考えれば、 やはり、元の像がそうであったので、忠実に再現しようとして補作されたのであろうと思う。二体が同意匠の像ということも、このことの裏付けと言えるのではないだろうか。) そこで、序論第二章で触れた【クヴェーラ・ヤクシャ】の足下の像と、二体の邪鬼像の身体の屈ませ方や、前方下方を思索的に見つめる表情がとても似ていることとの関連を考えてみたい。この章で初唐期に入唐した黄文本實という人物を、七世紀後半(白鳳期)の仏教美術界のキパースンとして挙げた。【クヴェーラ・ヤクシャ】の足下の像に近い四天王邪鬼像は、中国石窟には見あたらない。玄奘や王玄策らがインドから直接持ち帰った仏画か彫刻に【クヴェーラ・ヤクシャ】と同じ同じ意匠の四天王像及び邪鬼像があり、それを黄文本實のように当時入唐していた人物が、その像容を書写するなどして持ち帰ったのではないだろうか。小林山太郎氏は、当時の状況について、「玄奘や王玄策の携歸した印度の諸佛像及び粉本が、唐において直ちに模されて」とし、また義淨の『大唐西域求法高僧傳』を引用して「当時においては、入竺の諸僧諸人が彼の地の處々の名高い佛像及びその模本などを多く携歸することが一の流行をなした」と説明している。四天王像の像容が西域的であることから、書写の元の像はガンダーラとの関連があるかもしれない。前述した法隆寺金堂九号壁画に現れた脇侍を四天王と捉える説もあり、この像容には豊かな鬚が示されている。當麻寺像は四体とも他寺の像に比べて襟の高い胸甲を身につけているが、この点も共通項といえる。どちらにしても、法隆寺金堂像は、六世紀までに請来された古様で、そして當麻寺像はエポック的に現れた新像様だったが、次の天平期には四天王の役割が変化し、次第に忿怒を強め、大きな動きを示すことが必要になったのだろう。邪鬼像については、法隆寺金堂像・當麻寺像までは「従者」的意味合いが色濃く残っているものと考える。
■本論 仏塔や仏殿の屋根の軒下を支える力士・邪鬼像

 

第一章 その現状と像容・意匠の特徴
濱島正士著『日本仏塔集成』(中央公論美術出版)によると三重塔・五重塔・多宝塔など木造仏塔は全国に約二七O基が現存し、そのうち近世以前に建造比されたものが約二二O基である。本稿で研究対象にした【軒下を支える力士・邪鬼像】を伴う仏塔は井関正敬氏の調査によると昭和期まで含めると二十一基だが近世以前の塔に限ると十九基現存する。さらに、仏殿等まで範囲を広げると現在まで確認できたものは九棟で、本稿では近世以前の仏塔十九基・仏殿九棟、合計二十八棟の軒下の像を対象としてみていく。
二十八棟のうち基本的に屋根下の隅木を尾垂木に乗って(座って)手や頭・肩等で支える像は二十六棟である。(残りの二隙は専修寺唐門像は門表裏の梁を二体ずつで支え、久米寺本堂像は堂正面の梁を六体で支えている) 尾垂木に乗り隅木を支える像は、構造的にいうと「東」の役割を果たすもので、短い長方柱である「束」に彫刻されたものといえる。
現存最古と考えられる像は、唐招提寺金堂像(南西像を除く三体)で、八世紀後半の作と推定されているがそれに次ぐものとしては、滝山寺三門像(文永四・一二六七年)、次いで法道寺多宝塔像(正平
二三・一三六八年) となり、その間の5〜600年間を埋める像がない。井関氏は塔のみを対象に、「南北朝以前の塔に天邪鬼はない」と指摘しているが、屋根下四隅の構造部材である「束」に彫刻を施すことは、唐招提寺金堂像の例があるのだから、天平末以降の時代で、突如として鎌倉期の滝山寺三門や岩船寺三重塔に現れたり、南北朝期の法道寺多宝塔に現れたりと考えるよりは、九世紀後半に創建された東寺五重塔など著名な寺院建築にその例があったのではないかと考える。
資料にその像容等を一覧にしたが、二十八例を比較・検討すると、その像容・形態・意匠は非常に個性的で、共通する像容としては、東寺像と仁和寺像及び千光寺像と越光寺像の一部に認識できる程度である。また力士像として捉えうるもの、邪鬼像として捉えうるらの、どちらとも判断しにくいらのなど様々である。時代は違うが、序論第二章でみたように中国での「支える像」の像容も多様であり、崇拝の対象となる仏像と違って、彫刻師の自由な発想・イメージが具現化したものと考えられる。表で示した像容を見てもわかる通り、邪鬼的・力士的というばかりでなく、力強いもの[東寺・仁和寺・道成寺像など]・瓢々としたらの[穴太寺・千光寺像]・弱音を吐きそうなもの[龍原寺像]・笑みさえ浮かべているもの[善峯寺・興願寺・久米寺像]・コミカルなもの[名草神社・柏原八幡神社・滝山寺像]など多様な意匠をもって造られている。ただ、古いものについては、装飾的要素以上の意味合いがあるのではないかと考えるので、次章でそれを検討したい。
第二章 唐招提寺金堂の「隅鬼」
(1) その名称と像容
本稿ではこれまで仏殿・仏塔の軒下の像を「邪鬼」「力士」と記してきたが、表に示した岩船寺三重塔の旧像は「隅木受飾束」とされ重文に指定されている。また昭和四十五(一九七O)年に出された「法道寺食堂・多宝塔修理工事報告書」では、この像を「下重隅木支承の力士」として、次のような記述がある。
下層軒廻:斗栱は和様出組、軒天井、支輪を備え、隅だけ尾棰を納め上ばに力士を置いて隅木を支承し、軒は二軒繁棰、切裏申を付ける。
前章で記したように唐招提寺金堂四隅のうちの三体は、金堂創建時(八世紀後半〜末期頃)と推定されており、この像は展覧会等では「隅鬼」と明示されている。
その像容は、元禄期に補作された南西像一体を除き、同意匠というよりほぼ同形・同表情である。各方向に正対し頭頂部より少し後方の頭部と両肩で隅木を支え、尾垂木上に正座して両手は腿に当て隆々たる二の腕を持っている。その表情は強く大きな目で前方を注視し、歯をこれ以上できないほどに食い縛っている。これに対し、南西像は、正対・正座・支え方等は同じだが、その表情は弱々しく情けなきげな印象を受け、二の腕は太いが筋力を強調するものとはなっていない。他の現存する像が、初めて造られたものに必ずしも似ているとは限らないことをこの像は示していると忠われる。つまり、仏塔修理等の際に傷んだ像に代えて新たに造った場合や火災等で焼失し新造した場合などにおいて、その時々の彫刻師が古像の像容にとらわれることなく、独創的な発想をもって制作されたものも多かったと考えられる。
(2) 唐招提寺金堂の創建
「隅鬼」が創建当初のものであるとして、その建立に関して調査した。唐招提寺はいうまでもなく渡来僧鑑真が創建した寺院である。ただ、鑑真在世中には講堂など一部の建物しかなく、寺院というより僧侶の仏門研鑽のための施設であった。そこでまず、いくつかの堂宇について記す。
1 講堂 / 平城宮の東朝集殿を天平宝字四(七六O)年頃に当地に移築した奈良時代宮廷建築唯一の遺構。現在講堂に安置されている木造持国天、増長天立像は、甲(よろい)の文様の彫り口などに盛唐後半期(八世紀半ば)の石彫との類似が指摘され、特に増長天像は鑑真とともに来朝した仏工の作と推定されている。
鑑真の渡来に関しては、弟子の思託による『鑑真伝』をもとに淡海三船が著した『唐大和上東征伝』に詳しい。授戒できる高僧の渡来を依頼するため入唐した栄叡・普照の要請を受けた鑑真の渡航は、五度の失敗と十年を越える歳月をかけてようやく実現したが、その内の第二回目の渡航準備に次のような記述がある。
苓脂紅緑米一百石、甜鼓三千石(略)實像一鋪、金泥像一躯(略)青銭十千貫、正爐銭十千貫(略)僧祥彦・道輿・徳清・栄叡・普照・思託等十七人、玉作人・画師・雕檀・刻鏤・鋳写・繍師・修文・鐫碑等工手都百八十五人、同駕一隻舟
このように、持参する食料・仏像・現金などとともに随行メンバーが記され、その中に雕檀(ちょうだん=飾り彫師)・刻鏤(こくろう=彫刻師)といった工人も率いている。六度目の渡航成功時(天平勝宝五〈七五三〉年)の人員規模は小さかったが、同様に画師や彫刻師など各種工人を率いていたことは間違いないであろう。この点に関しては、金堂創建についての部分でも触れる。
2 金堂 / 奈良時代建立の寺院金堂としては現存唯一のものである。金堂の部材には西暦七八一年に伐採されたヒノキ材が使用されており、建造は同年以降ということになる。『招提寺建立縁起』(『諸寺縁起集』所収)によると、鑑真の死後に和上と共に渡米した弟子の如宝によって造営された。この他、経楼・鐘楼なども如宝による造立かとされている。
3 五重塔 / 束塔があったが、(『日本紀略』によれば、弘仁元〈八一O〉年の創建)享和二(一八O二)年に落雷で焼失した。西塔については不明。
(3) 如宝について
金堂をはじめとして唐招提寺の伽藍整備に大きな役割を果たした如宝という人物は、『唐大和上東征伝』には六度目の渡航者のひとりとして初登場している。
相随弟子揚州白塔寺僧法進、泉州超功寺僧曇静、台州開元寺僧思託、(略)揚州優婆塞潘仙童、胡国人寶最、如寶、崑崙国人軍法力。
鑑真はこの六度目の渡航に、十四人の師弟僧と三人の尼僧、その他外国人など総勢二十四人を率いて来朝している。如宝は胡国人という記述から西域の出身(ソグド人とも)者だったとされる。(但し、元禄十四〈一七O一〉年に義澄が撰修した『招提千歳伝記』巻上之一の第四祖如宝少僧都伝には、「少僧都、諱如宝。朝鮮国人也。不知何氏」とあり、詳細は不明である。)中国出立時は出家者ではなかったようで、来朝後に東大寺戒壇院で受戒している。前述の如宝少僧都伝には『弘仁六(八一五)年正月七日、安然而化。府一十扶桑六十余年。齢治八旬云』とあり、来朝した天平勝宝五(七五三)年にはまだ二十歳に満たない青年だったと推定されている。鑑真の死に際する記事として同書の第二祖法載和尚伝に「太祖臨減、嘱師(法載)及義静・如宝三公、権招提衆務。」とある。法載は第一回目の渡航から鑑真と行動を共にしており、おそらくその死に際しては最上位の高弟であり、義静も中国楊州興雲寺で師事していた高弟のひとりだった。如宝は受戒して十年足らずで三十歳前後の年若い弟子の一人だったが、おそらくその才や人格を高く評価されていたものと思う。結果、師の死後五十年に及ぶ期間に、唐招提寺の伽藍整備ばかりでなく、仏像制作にも大きな役割を果たしている。如宝の造立とされているのは、前述の様に建築物では金堂・経楼・鐘楼などで、彫刻では金堂安置の薬師・梵天・帝釈天・四天王像が挙げられる。このことについて久野健氏は、「堂と像とが同期の設計により(金堂正面の扉を聞くと丁度額縁の中に像を安置したように)出米上がっている」としている。如宝は金堂建立のため、『金堂一宇、右少僧都唐如宝、率有縁檀主等、建立如件』(「建立縁起」)とあるように資金調達に奔走したが、そればかりではなく金堂の設計や仏像の規模・制作方法・様式など多岐に亘って関わっている。斉藤孝氏は如宝の日本美術史の位置づけとして、「初唐・盛唐様式を基調とする天平芸術から、中唐・晩唐様式を中核に持つ貞観芸術」へ日本の工匠たちを導いた「一種のアート・ディレクター」と評している。『日本後紀』の巻廿四に如宝の卒伝がみえる。
弘仁六(八一五)年正月己卯 少僧都博傳大法師位如寶卒。大唐人。不知何姓。固持戒律。無有缺犯。至於咒願。天下絶疇。局量宏遠。有大国之風。能堪一代之壇師者也。
十代で師に従って異国に渡り、奈良後期から平安初期にかけての激動期に、師の教えを実践すべく活動した彼を、「天下絶疇。局量宏遠。有大国之風。」と賛しているが、『本朝高僧傳』巻五十七には、「桓武帝輿后妃太子、就寶受戒」とあり、『元亨釈書』にも「戒行清白ナリシカハ、当代コレヲ崇敬セリ」と記されている。斉藤氏は『性霊集』中の「為大徳如宝奉謝恩賜招提封戸表」を引用し空海との親密な交流も指摘しており、鑑真の後継・唐招提寺造営の中核だったばかりでなく、平安初期における仏教界及ぴ芸術界の先導者として、最も重要な人物の一人だったと忠われる。
(4) 「隅鬼」について
金堂創建時(八世紀末)に設置されていたと推定される「隅鬼」は、どのような意図をもって、堂の四隅の尾垂木に座り隅木を頭で支える像として配置されたのであろうか。鑑真は在唐時より戒律を広めるために弟子達を率いて各地に旅したが、『唐大和上東征伝』の天寶九(七五O)年の一節に次のような記述がある。
従此七日至潤州江寧縣入瓦官寺登寶閣閣高二十丈是梁武帝之所建也至今三百餘歳微有傾損、昔一夜暴風急吹、明旦人看閣下四隅有四紳跡長三尺入地三寸、今造四神王像扶持閣四角、其神跡今尚存焉。
これによると瓦官寺宝閣は、三百年の歳月を経て僅かに傾いていたが、その四隅には長さ三尺、深さ三寸の巨大な足跡が残っており、それに関する逸話として、足跡は暴風の吹いた翌朝に出来ていたもので、寶閣を暴風から守るため支えた四神の残した足跡と伝えられていた。鑑真一行が立ち寄った時には四神王の像が造られ閣の四隅を扶持している、という様子が記されている。足跡は地面に残されたものであろうが、この記事だけでは四隅に造られた四神王の像がどの位置にあったか不明である。
『唐大和上東征伝』に出てくるもう一つの記事として、次のようなものもある。これは、天寶七(七四八)年の五回目の渡航の試みの記事である。(結果は海南島に漂着し失敗。)
去岸漸遠風急波峻、水黒如墨沸浪一透如上高山、怒涛再至似入深谷、人皆荒酔但唱観音、舟人告白舟今欲没有何所惜、即率棧香籠欲拠、空中有聲言莫拠、即止中夜時舟人言莫怖有四神王著甲把杖二在舟頭二在檣舳邊、衆人聞之心裏稍安。
ここにも暴風に対する守護神として「四神王」が記されている。「四神王」という語句がみえる経典としては、陀羅尼集経など三経あるがいずれも暴風との関連はみられない。
これらに記された「四神王」が、「隅鬼」のモデルとなった可能性は十分あるのではないだろうか。前述したように渡来した鑑真一行には〈雕檀・刻鏤〉と記された彫刻師が同行してきたはずで、「隅鬼」の制作者は、これらの工匠、あるいは彼らの指導を受けた日本の工人だったのであろう。金堂本尊の盧遮那仏蓮花座の内部に「造漆部造弟麻呂 造物部広足」という墨書があり、また薬師如来像光背の唐草の背面に「右白下七枚 買奴彫之 左白下七枚 乙尊彫之」という墨書がある。これらの人名は仏像制作や唐草彫刻に従事した工人であろう。ただそこには、金堂創建全体の「アー卜・ディレクター」たる如宝の意志が反映していたはずで、瓦官寺寶閣の四神王のイメージがあったとすれば、「隅鬼」は暴風から金堂を守り扶持する願いを込めた像といえる。さらにいえば、弘仁元(八一O)年に創建されたとされ、江戸中期の一八O二年に落雷で焼失した唐招提寺五重塔にも、隅木を支える「四神王」が設けられ、これにならって九世紀後半に創建された束寺五重塔にも設置されたということも考えられる。
このように類推すると「隅鬼」とされていることに疑問の念が浮かぶ。像容を再検討すると、手指は五本あるようで、「鬼神形」の特徴(手足の指は二〜三本)にそぐわない。(山石岡茂樹氏は、日本における五本指の鬼形の例としてこの像など三例をあげているが、逆にこの像は鬼ではないとの証例ともいえる。)瓦官寺の話には、「閣の四角を扶持」する「四神」「四神王」とあらわされ、そこには「鬼」的要業はみられない。唐招提寺像の場合、歯を必死に食い縛り大きく目を見開く表情から「鬼」と認知されてしまったのではないだろうか。もしかするとそこには、奈良期や平安期に多くつくられ、苦闘し叫喚する四天王邪鬼像の影響があったのかもしれない。
第三章 まとめ
ここまで、仏殿・仏塔の軒下を支える邪鬼・力士像についてみてきたが、各寺院には仏殿・仏塔・仏像に関する史料(古記録や棟札等)はあっても、軒下の像に関するものは皆無に近い。それ故か、先行研究も殆どなく、像容に関する比較検討に終始してしまった観がある。個人的想像の範疇を超えないまとめだが、唐招提寺創建時に屋根の四隅の隅木を支える束として、堂の倒壊を防ぐ願いをこめた「支承の力士(神王)」= 「隅鬼」を設置したことが、このような像の起源となったのではないだろうか。もちろん、インドにも塔の門柱の梁を支える「ヤクシャ」があり、ガンダーラにも仏座を支える「アトラス」があり、中国や朝鮮にも仏寵・仏座・仏具等を支える「力士」「神王」等がある。それらと同じく、仏の教えに従いその一部の下支えとしての役目、暴風等から仏閣を守り倒壊を防ぐ役目を、彼らは千数百年間果たし続けているのであろう。唐招提寺金堂以降の建造物にも、その役目の採用・不採用の多寡は不明だか、主として畿内中心に広まっていたのではないだろうか。しかし、仏像と違って明確な信仰の対象とはならず、またその意味するところが正しく伝わらずに、次第に仏殿・仏塔の四隅で「邪気」を払う「邪鬼」としての性格付けをされたり、あるいは装飾的な意味合いに転化したりという変遷をたどったと考える。いずれにしても本来は、仏殿・仏塔の周囲の「邪」なるものに対する見せしめやそれらを寄せ付けない魔除けのためのものではなく、仏にとっての従者(眷属)であり、形象としての尊格を支えるものとしての意味をもつものと考える。また、密教においては塔を密教の中心仏である大日如来の三昧耶形(如来そのもの)とみなしている。そうであれば、如来の台座を支える神王・力士の変化形とみることもできるのではないだろうか。
■ 結ぴにかえて

 

本稿をまとめるにあたり、四天王像や軒下の像を求めて、この二年間に百余の寺社を訪れた。軒下の像に関してはその像容の多様さに驚きを感じ、ときには奇妙な像に対面して首をかしげることもあった。四天王邪鬼について、水尾比呂志氏はその著作『邪鬼の性』のなかで、それぞれの邪鬼像の「性」を的確
に表現され、また岡本太郎氏は『芸術新潮』に寄稿した「邪鬼」と題した一文のなかで、様々な形相に閑し、「その言い知れないカオスに、われわれの存在の矛盾の状況が凝縮している」と表現されている。両方の邪鬼像ともに、歴史という大きなうねりや混沌の中での、人々の凝縮された思いの姿であることを強く感じている。
この稿をおこすきっかけとなったのは、二OO五年春に東京国立博物館で開催された『金堂平成大修理記念 唐招提寺展 国宝 鑑真和上像と盧遮那仏』において、「隅鬼」を間近に見たことであった。高さ三十センチほどの、力強いが小さな体躯で巨大な金堂の軒下を支えているという。それも千二百年という時間を。風雨に晒されてきた事を考えると、現存していること自体が奇跡的なことだと感じた。本稿は、その宗教性や思想的背景を詳らかにすることを志したが、その端緒に留まっているという感はぬぐえず、今後もこのテーマを追い統けたいと考えている。
 
資料 黄文本実(實)
薬師寺の仏足石と仏足歌碑のこと
御跡(みあと)作(つく)る 石(いし)の響(ひび)きは 天(あめ)に到(いた)り 地(つち)さへ揺(ゆ)すれ 父母(ちちはは)がために 諸人(もろひと)の為(ため)に / [父母のために、また衆生のために仏足跡を刻むその石の響きは天地を震い、諸天諸仏も感応あれと祈ろう。]
三十(みそち)余(あま)り 二(ふた)つの相(かたち) 八十(やそ)種(くさ)と 具足(そだ)れる人(ひと)の 踏(ふ)みし跡処(あとどころ) 希(まれ)にも有(あ)るかも / [三十二相八十種好が具わった人(釈迦)の踏んだ跡は、たいへん珍しく、ありがたいものである。]
この御跡(みあと) 八万(やよろづ)光(ひかり)を 放(はな)ち出(いだ)し 衆生(もろもろ)済(すく)ひ 度(わた)し給(たま)はな 済(すく)ひ給(たま)はな / [この仏足跡から八万の光明を放ち出して、迷いの衆生を救い、悟りの彼岸に至らし給え。]
大(おほ)御跡(みあと)を 見(み)に来(く)る人(ひと)の 去(い)にし方(かた) 千歳(ちよ)の罪(つみ)さへ 滅(ほろ)ぶとぞ言(い)ふ 除(のぞ)くとぞ聞(き)く / [一たび仏足跡を拝めば、過去千歳の罪も消滅するのである。]
薬師寺の大講堂に銘文のある仏足石(高さ69cm)と仏足歌碑(高さ194cm。写真左)がある。もともと、両者は西塔跡南方の仏足堂内に祀られ、仏足石の後方に仏足歌碑が立っていた。同寺の西塔など伽藍復興の機会に講堂内に移されたのだろう。仏足石はその側面に彫り出された銘から、文室真人智努(ちぬ)(天武天皇孫)が亡夫人茨田(まんだ)郡主 法名良式の供養に造立したものである。造立年は天平勝宝5(753)年7月15日である。作業は前年の天平勝宝4年9月7日から始まっており、落慶に1年以上を要している。仏足図が仏足石の上面に彫りだされている。それは、唐の王玄策が中天竺の仏跡から転写し唐の普光寺にあったもの(第一本)を、入唐の使人黄文本実が写し帰り(第二本)、奈良の禅院(道昭創立)に保管されていたものを転写(第三本)し、画師越田安万が石に写したものだ。中天竺の仏足図から数えて第四本である。仏足石の側面に、仏足の由来と奇跡が西域伝や観仏三昧経の一節を引き刻まれている。こちらは銘から推して三国真人淨足(継体天皇の皇子椀王の後裔)が引き写したものであろう。石工は判読不可。仏足石は不整形な自然石で埃をかぶったような褐色である。仏足図が描かれた石の表面は研摩されているが下部は造立当初から土中にあり、凹凸の補正を必要としなかったのであろう。いくつかの陥没穴や掻き毟ったような傷が相当広範囲にみえる。
さて、仏足石の後方に立つ仏足歌碑は粘板岩で、その周辺部が磨耗、劣化し板状の摂理面が露出している(写真参照)。石面を上下段に別け、総数21首の仏足歌が刻まれている。歌は5・7・5・7・7・7で歌われ、末尾の6句目が5句目の歌いかえになっており歌碑では小文字であらわされている。歌は仏足歌体といわれるもので、仏足石と一緒に遺存するわが国最古のものだ。後半部に呵嘖生死の4首をおき、前半部の17首は仏足石の製作風景(標記の歌1首目)から始まり順次、その功徳や滅罪の作用、釈迦への思慕など歌われている。歌中の2首目「三十余り二の相八十種と・・・」(標記の2首目)の句が後拾遺和歌集第20巻に採られ、光明皇后が山階寺(興福寺)にある仏跡に書き付けたものとして出ており、歌碑は興福寺にあった仏足石に附置されていたと考える者がいる。歌碑の来歴につき、江戸時代に奈良近郊の藪の中の小橋として用いられていたが、歌中に薬師の字がみえたところから薬師寺に移されたと述べる者もいる。古来、仏足石や歌碑の由来について論議があり、契沖や眞淵などもそれぞれ所説を述べている。歌碑の造立が仏足石の制作年代より下がるものであるにせよ、仏足石と仏足歌碑は創から薬師寺にあったものかどうか、疑問なしとしないというわけである。しかし、私は、歌碑はやはり薬師寺の本尊との関係や第1首目の詠歌のイメージから創から仏足石も仏足歌碑も薬師寺にあったものと思いたい。
仏足石の部材について、二上山辺りから産出するサヌカイトと推することができないものか。室戸の最御崎寺の境内に、石で叩くと澄んだ金属音がする鐘石という不思議な石がある。長年月にわたり叩かれ続けるうちに石の表面に沢山の陥没穴ができている。その形状は薬師寺の仏足石に似たところもある。サヌカイトは非常に硬く、叩くと石中で共鳴をおこし、よい音が出る。そうすると、仏足図等の製作に1年以上かかったとしても不思議ではないし、仏足図の製作時にノミの打撃音が辺りに響きわたったことであろう。仏足歌の表現は多少の誇張があるにせよ、実景であったという見方もできる。仏足石は踏むものだけではなく、堅木でできた木槌様のもので叩いて拝む作法もあったのではないか。仏足石の脇を叩くときっと澄んだよい音がするに違いないと思うのだが・・・。仏足石の製作が始まった天平勝宝4年9月、東大寺の盧舎那仏の開眼供養が行われている。翌天平勝宝5(753)年6月には鑑真和上が来朝している。そうした奈良の仏教的雰囲気が最高潮に達した頃、文室真人智努は仏足石の造立を発願したのである。  
 
仏教における「鬼」に見る日本人の宗教観

 

仏像や仏教と鬼のイメージはちょっと結びつかないように思えますが、四天王(してんのう)像などの足元をよく見ると、踏みつぶされているかわいそうな邪鬼(じゃき)がいます。そして、平安時代ころから行われている「追儺会(ついなえ)」や「鬼やらい」の仏教行事にも鬼が登場します。

古代インドの闇の神「夜叉」は、はじめは仏法に敵対しますが、お釈迦さまに調伏(ちょうぶく)されて護法善神として仏国土に控える戦士(神将)になりました。そして彼らの家来である邪鬼は、かつては夜叉神の命令で闇世を飛び回り、さまざまな災厄をもたらしていたのですが、今では四天王に調伏されて、踏みつけられています。
お釈迦さまが亡くなられたあと、その遺骨を盗んで逃げた捷疾鬼(しょうしつき)といわれる鬼が、韋駄天(いだてん)に取り押さえられる話があります。この捷疾鬼は、ペストやコレラ、インフルエンザなどのはやり病(やまい)の象徴であったと思われます。
さて寺院のなかの邪鬼を見ていきましょう。まず法隆寺金堂の飛鳥時代につくられた四天王は、中国北部の硬い造形を持った仏像様式を示し、その邪鬼は、青銅器の饕餮文(とうてつもん・古代神話の怪獣の顔)のようなユーモラスな顔をして、まるで四天王を守る乗り物のようにも見えます。
唐の様式である天平時代につくられた東大寺戒壇堂(かいだんどう)の四天王に踏まれている邪鬼は、たいへん表情豊かで、いうことをきかない猛獣が駄々(だだ)をこねているようです。それが、鎌倉時代の邪鬼になるとたいへん写実的で、苦悶や忿怒を思わせる顔をしながらも、どこか愛嬌(あいきょう)があります。
法隆寺五重塔では、初層の屋根と裳階(もこし)の間で、邪鬼(力神)が四隅に一体ずつ、重量挙げのようなスタイルで軒を支えています。かつては悪鬼だった邪鬼が、改心して縁の下の力持ちとして仏法のお役に立とうとしているけなげな姿に見えてきます。
興福寺の一対の有名な邪鬼の像・天燈鬼と龍燈鬼は、立ち上がって灯明をささげ、仏法の光で闇を照らしています。この2体の邪鬼は、私たち日本人が考える「オニ」の姿にもっとも近いものがあります。
中国の「鬼(キ)」と日本の「オニ」は違います。中国の鬼は悪霊や亡霊のことで、姿は見えないものです。しかし、日本では早くからさまざまに擬人化され、絵画などに登場しました。
「オニ」は、酒呑童子(しゅてんどうじ)や茨木(いばらき)童子のような人をも食らう恐ろしい物怪(もののけ)である反面、いったん味方になってくれたら、その強さゆえに、災厄を払い福を招く頼もしい存在であるという二面性をもっています。
今日でも、「鬼神」「鬼将軍」のような表現が用いられます。これは、「悪源太」「悪兵衞」の名前のように「悪」が「強い」を意味しているのと同じです。また荒くれ者が調伏されて、守護者となる構図は、弁慶(べんけい)と牛若丸(うしわかまる)とも共通しています。
京都の祇園祭(ぎおんまつり)は、八坂神社(やさかじんじゃ)のご祭神「牛頭天王(ごずてんのう)」のお祭りですが、牛頭天王の姿や性格は、不動明王とともに日本人が共通して抱く「オニ」のイメージにぴったりです。また牛頭人身(ぎゅうとうじんしん)の容貌魁偉(ようぼうかいい)な神は、ギリシャ神話の怪物・ミノタウロスを連想しますし、『西遊記』や中国の演劇にも登場する「牛魔王(ぎゅうまおう)」にも似ています。
大みそかに山から降りてくる神さまを、家々で迎える習慣は古代からあったようです。この神が鬼の姿に転じた行事が、秋田の「なまはげ」など日本各地に今も残っています。人々は鬼を恐れながら囃(はや)し、もてなします。彼らは、日本人の「オニ」観をよく表しています。
ひたすら恐れ忌避すべき中国の「鬼」を、愛すべき日本の「オニ」に変化させた私たちの宗教観は、かつての朝廷の反逆者・平将門(たいらのまさかど)を今なお神田明神の祭神として祀る心情と共通する、絶対悪をつくらない日本人の優しい心を感じます。
またそのことは、すべての者が救われるとする日本の仏法が背景にあるためだといえるでしょう。 
 
七福神 / 毘沙門天

 

七難を避け、七福を与える北方守護の神仏である毘沙門天は、仏教とそれを信じる人々を守る四天王の一人であり、憤怒の相に唐の武人装束をまとい、左手に宝塔、右手に金剛棒(あるいは三叉戟:先が三つになった槍)を持ち、二体の邪鬼を踏みつけている姿で表わされ、古くから武人たちの厚い信仰を得ている。
北方守護の神
毘沙門天のルーツは、インドの前期ヴェーダ時代(紀元前1500〜紀元前1000頃)からの古い神で、北の方角を守る神ヴァイシュラヴァナで、これが毘沙門天と訳されており、多聞天と呼ばれる場合もある。また、吉祥天は毘沙門天の妻である。
インドでは四方を守る神がいて、北を守る毘沙門天のはかに、東のドリタラーシュトラ(持国天)、西のビルーバクシャ(広目天)、南のビルーダカ(増長天)、これらが仏教に取入れられて四天王と呼ばれるようになった。
仏教での四天王
仏教の世界観では、世界の中心には須弥山という山があり、そのまわりに九つの山と八つの海があるという。須弥山の頂上にはインドラ(帝釈天)がおり、その配下として、須弥山の中腹で四天王が四方を守るという。そこから、優れた部下四人を四天王と呼ぶようになった。
四天王の伝来は仏教の伝来とはぼ同時であるが、平安時代になると、平安京を守るため都の北方に建てられた鞍馬寺に毘沙門天が祀られている。また、毘沙門天を本尊とする寺院としては、仏教擁護をめぐって蘇我・物部の争いで、不利に陥った蘇我馬子と聖徳太子が信貴山に登って生身の毘沙門天像に祈願し、勝利を得たあと太子が伽藍を建立し、自作の毘沙門天像を安置したと伝えられる信貴山真言宗の朝護孫子寺が有名である。
天邪鬼
毘沙門天をはじめ四天王は邪鬼を踏んでいるが、これを天邪鬼(あまのじゃく)といい、仏教の教えやそれを信じる人々に害をおよぼす邪鬼であるいう。日常生活でもアマノジャクという言葉が使われるが、実はここから出ている。この天邪鬼のモデルは、毘沙門天の鎧の腹部にある鬼面だという。
武道の神
毘沙門天の勇壮な姿から、九世紀ごろには、中国で武道の神として崇拝されていたようだ。その姿もインドから中国に渡るにつれ、貴人から武将の姿に変化していったという。日本では戦闘の神として信仰を集めた。
南北時代の武将楠木正成は、自らを毘沙門天の申し子とし、幼名を多聞天にちなんで多聞丸と称したし、上杉謙信も自分のことを毘沙門天の生まれ変わりだと信じ、丸に毘の字をかたどった戦旗を使用していた。
福の神
四方の守護神あるいは戦闘の神である毘沙門天が、なぜ福神になったのかというと、あまりはっきりしたことがわっかていない。
毘沙門天の「びしゃもん」は、サンスクリット語で「あまねく聞く」という意味で、もともとヒンドゥー教の倶毘羅(クーベラ)という、鰐を神格化した神で、財宝を守る神とされている。このヒンドゥー教で財宝・福徳をつかさどる神クベーラと毘沙門天が同一視されたことによるという説もあるが、室町時代には、すでに福神のイメージができあがっていたらしい。
たとえば、「蛭子(エビス)毘沙門天」という狂言がある。その内容は、エビスと毘沙門天が美しい娘の花婿に立候補するが、結局かなわず、二人は福を授けて帰っていくというものである。
毘沙門天とムカデ
毘沙門天には意外な使者がついている。ムカデである。毘沙門天を祀った鞍馬寺では、昔正月の初寅の縁日に「お福むかで」といって生きたムカデを売った。(といっても漢方薬に使ったらしい)七福神の絵のなかにも、毘沙門天の横にムカデを描いたものもあるが、なぜムカデなのかというと、これも謎である。
毘沙門天が鉱物を掘る鉱山師や、その鉱物を加工する鍛冶師などにも信仰されていたという形跡がある。そこから推理すると、ムカデは鉱山の神ともされているが、それは細長く連なる鉱脈の形や鉱山の穴がムカデの形に似ているからであろう。そうなると、鉱山の神=ムカデ=毘沙門天という関係がでてくることになる。 
毘沙門天2
毘沙門天(多聞天)は、世界を守護する最上級の神である四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)のひとりで、夜叉や羅刹を配下にもち、北方を守る。財神(金持ち)で、武神(強い武力をもつ)である。
インド神話では、「ふたつの巨大な戦車を持ち、大空をかけて、宝石の雨を降らせたりした」。「巨大な戦車」とは、悪を粉砕する「法輪」の基であろうから、忍者の使う「八方手裏剣」の原型は「毘沙門天」も持っていたということになる。後に、日本で七福神のひとりに加えられる。
日本での毘沙門天
1 仏教において 〜 表情は、穏やかで、皮革製の甲冑をつけ、左手に三つ又になった槍、右手に宝塔を持ち、直立で立つ(足下に邪鬼をふみつける)。
2 武神として 〜 憤怒の形相で、腰に獅子や天邪鬼の飾りをつけ、足下に邪鬼をふみつける。
3 七福神となる 〜 四天王の一人として日本に入ってきたが、たくさんの財宝を持つゆえに、七福神に加えられる。
平安時代の初めに、毘沙門天単独の信仰の「鞍馬寺」が建てられた。義経(遮那王)は、ここに預けられ、仏教や武術、陰陽道などを学んだのではないだろうか。
そのほか、毘沙門天は、護法神、戦勝神であり、「悪鬼、羅刹」に対しては、退魔力を持つ「切り札」であった。
平清盛は、源氏調伏のため、毘沙門天の像を作らせた。
楠正成の幼名は、「多門丸」であった。
上杉謙信は、自らを毘沙門天の生まれ変わりと信じ、旗に「毘」の文字を使った。  
妖怪と絵馬と七福神
現代は、平安末期・室町末期あるいは江戸の文化・文政期に似ている。妖怪と絵馬と七福神というのが、これらの時代を象徴する三点セットであり、現代も流行しているのがその証だというわけである。平安末期は末法の世であり多くの妖怪が跋扈した。室町末期も中世から近世への大転換期であり付喪神(つくも)・絵馬・七福神が現れた。文化文政期は、元禄時代というバブル後の低成長期であり、怪談が流行り、小絵馬・七福神巡りができた。
妖怪あるいは怪談というのものは、人々の共同幻想・共同幻覚によってイメージされ作り上げたものである。妖怪は、一面では人を恐れさせ危害を加えるものであり、他面では恵みを与えた。妖怪は他界との境に出没した。峠・里山・海浜・辻などである。更地に家を建てると地神が出ることもある。それらが平安末期に百鬼夜行した。陰陽師は「鬼」を言い、密教層は「天狗」を言い、他にも御霊が祟って河童や狐が出た。
鬼は、正月に訪れる年神(としがみ)などの他界から来訪する祖霊の変形である。一つ目の鬼は、神祭の生贄として片目・片足を損じられた神である。その零落した姿が一つ目小僧である。大江山の酒顛童子は山の神の化身である。山の麓に住む人の祖霊が山中の他界に止まって成った神であった。最澄が比叡山を開いたとき帰依を拒んだ山神が大江山に籠ったのである。童子姿なのは子供が心霊の憑巫(よりしま)と成り易いからであった。
天狗は、人間界と隔絶した山に棲み、山の支配者として人に畏怖される超自然的な存在だった。天狗が人に害をなすのは、人が天狗の支配領域を犯したからである。山中で修行する山伏とイメージを重ねられることもあった。しかし人との交渉で里に棲むようになり、人より劣る道化へと落ちぶれることもあった。
河童は2種居た。人型の者は頭に皿があり、獣型の河童は背に甲羅があり人や馬を水中に引きずり込んだ。また相撲やキュウリが好みだった。キュウリは人の味がするからだそうである。水の精であるが山中にも交互に棲んだ。
岩井氏は河童の由来を書こうとしないので、ケノが書く。河童は東南アジアのワニとカエルのキメラである。古事記にある白兎海岸でウサギの皮をはいだ和鰐と同じく、本当のワニの棲む邦から渡ってきた海族の記憶が変化したものである。川辺の鹿なんぞ引きずり込んで食っちまうのだ。
現代の妖怪は、1960年代、水木しげる等による妖怪マンガのブームに始まった。今でも鬼太郎やベムは生きている。それは高度経済成長期の裏面にある人の不安や挫折感を解消しようとする際の不合理世界を表していた。1975年から80年頃は、口裂け女を始めとする都市伝説が現れた。高度成長の歪が顕著になった。同時に新宿の母や風水という占いが流行った。1990年代は、学級崩壊と並行してトイレの花子さんなどの学校の怪談も生まれた。1997年の『もののけ姫』や2001年の『千と千尋の神隠し』といった宮崎駿のエコロジーと神界の話が組合わさった映画が大いに受け入れられた。現代も百鬼夜行しているのである。
絵馬は古い歴史を持つ。元々は奈良時代に雨乞いや暴風雨鎮静のため馬を神社に献上したことに始まった。日食の際にもあった。奈良末期になると生馬ではなく、木で作った馬形(うまがた)を献上した。馬形を作り得ない所は馬の絵を奉納するようになり16世紀は絵馬が主流となった。室町中期には馬以外の画題が登場し、後期には大型化して一種のブームがあった。江戸期には、二月初午(はつうま)と十二月荒神祭に、小型の絵馬がかけられた。やがて個人的な願望や悩み解消を図示するようになり、文化文政期は絵馬の全盛となった。それが現代では受験合格祈願に特化し、江戸期までの匿名性が失われている。
ケノ的な余談である。神戸市の六甲山の展望台に、南京錠を手すりに掛ける習(ならい)が生まれている。ずばり恋愛成就の祈願で、女性が男性に対し両名の名を書いた南京錠を掛けさせるのである。江戸期の絵馬に「酒に錠」の絵柄があったが、それに似たこの南京錠も絵馬の一種だと言えよう。それにしても、指輪や貞操帯の換喩のようでもあり、キモチの悪いものである。
七福神がなったのは、室町末期であった。それまでに6神や8神の時代があった。7神に決まったのは、「般若波羅蜜を講ずれば、七難即ち滅し、七福即ち生じ、三姓は安泰にして帝王は歓喜す」という文言から七福となしたと言われている。恵比寿・大黒天・弁財天・毘沙門天・布袋・福禄寿・寿老人である。
恵比寿は、夷(エビス)と同じで異郷から来臨して幸福をなす客神(まろうどがみ)・寄神(よりがみ)であった。摂津西宮の広岡神社の摂社として夷神が祀られて、後に「戎まわし」「戎かき」「傀儡舞(くぐつまい)」という操り人形芝居の全国興行で一躍人気を博し、恵比寿神が知れ渡った。
大黒天は、もとマハーカラという忿怒形の恐ろしい戦闘神であったが、中国の唐代に寺院の食堂の守護神へと変容した。更に日本の天台宗に伴って渡ってきたが、大国主のダイコクと習合して民衆への支持を広げた。商品経済が発展する室町期には、俵と打出小槌を持つ商売繁盛の神となった。家々に大黒天のオフダを貼る民間信仰が流行したが、その時にオフダを貼った土間と床間の境の柱を「大黒柱」と呼ぶようになった。
弁財天は、河の神サラスヴァーティで、音楽に秀でた女神であった。その漢訳が大弁才天女であり省略して弁才天と呼んだ。源頼朝の依頼で文覚上人が江ノ島に弁才天を勧進したところ、室町時代に福の神として民間に広まり、名も弁財天となった。
毘沙門天は国家鎮護の軍神であった。やはり室町末期に財を授ける神として信仰されるようになった。
布袋和尚は、弥勒菩薩の分身で阿逸多(あじた)や梅多里(みとら)の異名を持つ。奈良時代に伝わり平安期に広く説かれた。その弥勒下生信仰が福の神へと変容したのである。
福禄寿および寿老人は共に南極寿星(カノープス)が神格化した仙人であった。異名同士だったのだが、室町時代に2人として絵に描いたことから別人となった。不老長寿をもたらすとされた。
先に書いたように室町末期に7神に固まった。平安末期に起こった観音霊場巡拝を真似て、江戸期に京都で七福神にちなんだ寺院を巡る「七福神巡り」が考え出された。これが寛政年間に江戸に伝わり、江戸の七福神めぐりができた。更に各地に伝わりローカル七福神めぐりが設定された。それは今も観光スポットとして人気を保っているのである。
 
鬼は煩悩の化身

 

鬼は外
「福は内、鬼は外」。このかけ声には、しあわせになりたい。わざわいから逃れたいという素朴な願いがこめられています。自分自身の心の鬼を払いたいという思いもひそんでいるような気がします。また、この短いかけ声の中に、鬼とは何なのかが語れられています。鬼は福=しあわせの反対のもの。人にふりかかる、いろいろな災厄を、鬼のしわざと考えたのですね。節分の鬼は、まさに、そんな疫病や災厄のシンボルですね。逆の言い方をすると、節分の鬼は、人の災厄を肩代わりしてくれる気のいい鬼たちなのかも知れません。
鬼は隠
平安時代「和名抄」に、「おには隠」とあります。「隠はおん」。目に見えないもので大原神社の節分す。清少納言も「鬼は目に見えぬぞよき」と言っています。また、万葉仮名で書きあらわされている万葉集では、鬼という字を「モノ」とか「シコ」とよんでいます。今でも、「あやしいもの」とか「もののけ」などと言いますね。目に見えず、人にわざわいをもたらすもの、それが「モノ」。鬼のルーツは、「モノ」だったようです。節分の豆まきは、室町時代の中頃から行われていますが、もっぱら、暗闇に向かって豆をまいています。昔は、「オニオドシ」とか「オニヤライ」と言う、一種のまじないをしていました。節分になると、柊(ひいらぎ)の小枝や、鰯の頭、ネギなどを玄関にかざすのです。今も続けておられる家があったら貴重なものです。是非続けて下さい。これは、トゲや臭いで鬼の侵入を防ごうというわけですね。追うというより防ごうとしています。鬼を姿のないものと見ています。
鬼門
目に見えずこわいもの、これほど不気味なものはありません。今でも新型肺炎や狂牛病など、目に見えぬものにおびえています。そこで、人々は鬼を目に見えるものにしようと考えました。陰陽道(おんみょうどう)で、鬼は鬼門(きもん)から出入りすると考えられていましたが、鬼門は北東の方向、昔は丑寅(うしとら)の方向といったので、牛の角(つの)、虎の皮のふんどし姿の鬼となったわけです。人がふんどしをしなくなると、鬼もパンツをはくようになります。
鬼は神か妖怪か
日本の鬼は、時にナマハゲのように神を思わせ、酒呑童子のように人のようにもなり、醜悪怪異なオバケともなります。そんな鬼の特徴をよく示しているのが「こぶとり爺さん」の鬼です。鬼はコブをとるという超能力をもっているのです。そして、よいお爺さんのコブはとってやる。悪いお爺さんにはコブをくっつける。昔の人は、鬼は人の心次第で、恩恵も与えてくれるし、懲罰もあたえるとみていたのでしょう。多神教国・日本ならではの鬼であり、欧米の悪魔と大きく違う点です。
鬼は煩悩の化身
日本の鬼を多彩にしたのは仏教です。餓鬼、鬼子母神、夜叉(やしゃ)など、インドの鬼たちが、お釈迦さまと一緒に日本へやって来ました。それに、邪鬼(じゃき)や天燈鬼といった鬼も生まれます。仏教では、鬼を煩悩(ぼんのう)の化身(けしん)とみています。また、地獄の鬼は、日本の鬼を非常にこわいものにしました。鬼婆は地獄の奪衣婆(だつえば)が原型のようです。不思議なことに鬼爺と言いません。何故でしょう。鬼は仏さまの引き立て役になりながら、人の心の中へは入り込み、多彩なものとなっていったのでしょう。
鬼は今も生きている
鬼は昔の人々の共同幻想がつくり出したものですが、今も人の心の中に生き続けています。良かれ悪しかれ、鬼と言われる人は、いつの世にもいるのです。仕事の鬼もいるし、鬼才といわれる人もいます。鬼は遊びの素材となって暮らしに潤いをもたせる役割を果たしなが柳田村 猿鬼の宮(岩井戸神社)ら、ちょっぴり戒めの役割も果たしてきました。「鬼にならずに 人になれよ」と訴えてきたのです。いま、「ないもの」「欠けているもの」が見えない時代といわれます。価値観も多様化し、人の心がバラバラの不安な時代です。鬼を通して、目にみえぬものをみつめようとした先人たちに学びたいものです。大江山の周辺に、鬼伝説が定着したのは、厳しい山村にあって、伝説を共有することによって、地域の絆を強めあおうとしたからだと思います。
猿鬼
最後に申年なので珍しい猿鬼を紹介しておきましょう。能登半島の先端近い柳田村です。大昔、猿のようにすばしっこい鬼がいて、結局神さまに、弱点の目を射ぬかれてやられてしまいます。そこを当目といい、鬼塚や猿鬼の宮があります。猿鬼の正体は何者だったのでしょうね。 
 
節分の鬼

 

鬼は隠
今年も節分が来ました。現在の生活の中では、節分といっても暦の上の通過点の一つぐらいの感覚しかありませんが、昔の人々にとっては、節分というのは、一年の大きな節目の日でした。
旧暦で、農業が主体であった大昔、旧暦の大晦日と春を告げる節分は、ほぼ同時期だったのです。年があらたまり、万物の甦る春の訪れを告げる日、「邪気を払い、今年も元気で過ごそう」と、自らをふるいたたせようとして始まったのが、節分の豆まきだったと思います。現代でも新春を迎えると信仰をこえて、ドッと初詣でに人が繰り出しますが、似たような心理ですね。
今では、幼児でも鬼の実在など信じていませんが、大昔の人々は、かなり実在感をもって鬼を見つめています。それを笑うよりもむしろ、その背後にあった生活の厳しさや、まじめな生き方に目をむけるべきでしょう。
「鬼」のルーツは「隠」といわれます。隠れているもの、目に見えず災厄をふりまくもの、人間の力を超えた不思議な出来ごとに、鬼を感じ、鬼のしわざと考えたのです。鬼は、人の心の不安感に根ざして、つつしみの心、おそれの心がつくり出したものともいえますね。
京都は鬼のふるさと
日本の鬼の原型をつくり出したのは、平安京の都人たちであったであろう。とりわけ、陰陽師や密教僧など、当時の知識人が、その形成に大きな役割を果たしたのではないかといわれています。以来、千年の歳月をこえて、鬼は人の心にすみついて、長い長い歴史をたどってきました。だから、鬼は実に多様です。
人々は、つくり出した鬼の属性を巧みに使い分け、強いもの、こわいもの、疫病のシンボル、時には山の神の化身として、また子どもたちの遊びの素材として、暮らしの戒めとし、生活のアクセントとして活用してきました。
鬼のことわざの多彩さは、よくそのことを物語っています。鬼のふるさととでもいうべき京都には、実にさまざまな鬼の芸能や伝承が残っています。酒呑童子物語も平安京を舞台にした話です。そんな京都に、実にユニークな節分行事が伝わっています。
廬山寺の鬼法楽
寺社の多い京都では、さまざまな節分行事が行われています。それぞれに工夫をこらした多彩な内容です。また京都では、節分に、「四方詣」といって、東北の吉田神社、東南の稲荷大社、西北の北野天満宮、西南の壬生寺の四社寺へ参詣する風習もあるということです。
そのうち、正鬼門に当たる吉田神社の節分祭は、方相氏(ほうそうし)があらわれるなど、古式をとどめています。今年は、非常におもしろい「廬山寺の鬼法楽」を紹介しましょう。
廬山寺は、中京区広小路上ル、府立医大病院の近くにあるお寺ですが、「角大師(つのだいし)」といわれた元三大師良源の開創になる寺です。ここの節分行事は、天暦四年(九五〇)、良源が宮中で三百日の修法を行ったとき、三匹の鬼があらわれて妨害したのを、良源が護摩の力で退散させたという故事に由来するといわれています。
松明と剣を持った赤鬼、斧を手にした青鬼、槌を持った黒鬼の三鬼があらわれ、踊り狂います。法弓師が天と四方に向かって破魔矢を放つと、これを合図に観衆たちが一斉に豆や餅を投げつける。鬼は苦しみ悶えて退散していくというストーリーですが、おもしろいのはこの三鬼、赤鬼は「貧」(どん=欲望)、青鬼は「瞋」(しん=怒り)、黒鬼は「痴」(ち=愚痴)をあらわすといわれていることです。
鬼は欲望の化身
この廬山寺の節分の鬼は、鬼を人の心にひそむ悪ととらえ、まがまがしい行為のシンボルとして鬼をみている代表的な事例ですが、昔の人々は、多分に、鬼を人間の欲望の化身としてとらえているふしがみられます。
仏教思想の影響と思われますが、鬼を「欲望をあらわにして傷ついたもの」、もっと端的にいえば、「煩悩(ぼんのう=心をわずらわす妄念)の化身」ととらえているのです。結婚式の「角隠し」の風習も、こうした考え方の延長上のものといえますね。
鬼は外
私たちは、近代文明の恩恵を受けて、豊かで便利な生活を享受しています。不景気だ、先行き不透明だといいながら、世界の中で最も平穏で恵まれた国の一つであるような気がします。しかし、「欲望」「怒り」「愚痴」がうずまき、何となく不安であり、不満感が漂っています。子どもの非行どころか、大人の非行があとを絶ちません。豊かな物質文明を手にする中で、人間の力を過信してしまったツケが回って来ているような気がします。
先人たちが節分に託した「つつしみ」と「おそれ」の心を、せめて節分の夜、ふりかえってみたいものです。近くの寺社に詣で、暗闇にむかって、声高く「鬼は外」と叫び、心の鬼を追っ払ってみませんか。 
 
神と鬼の山

 

神々の足跡 / 天照さんと海人族
近年の由良川流域における埋蔵文化財調査の成果は、めざましいものがあります。全国的に注目された広峰古墳の景初四年紀年銘鏡の出土は、その最たるものです。これら多くの出土品は、当地方の古代の栄光をしのばせてくれます。まずは、そうした成果を、みんなで再確認しあいたいものです。
ところで「実証」が重視される世の中、郷土史の研究においても、伝承や伝説などは、とかく他愛もないものとされがちです。勿論、史実との混同は避けなければなりませんが、伝承や伝説を、ひたむきに生きた祖先たちが暮らしの中で育み、その記憶の深層にあったもののエキスととらえれば、ものの見方に幅ができます。日本人は、古来、人を神としてまつり、平気で人を鬼と呼んできました。神を実在した人々の投影と考えれば、ロマンがひろがっていきます。
天照神社 一例をあげましょう。福知山市今安の「天照さん」こと天照玉命神社。発掘調査が物語るように、福知山でもいち早く開けた豊富郷の総社で、福知山では数少ない延喜式内社の一つです。この「天照さん」と、宮津市天橋立、傘松公園の下にある丹後一の宮こと「籠(この)神社」、そして若狭湾の冠島にある老人嶋(おいとしま)神社の祭神が同じ神なのです。
地図上でこの三社を結んでみると、古代、若狭湾と由良川が、人々や文化を運んだ海の道であり、川の道であったことがわかります。この三社の祭神、天照国照彦天火明命(あまてるくにてるひこあまのほめかりのみこと)は、当地方の古代を開拓したと思われる海人族(あまぞく)の祖神とされる神なのです。
「天田」という地名は、古代の皇室御領の田部に由来すると説明されてきましたが、私は「アマダ=海人田」説に傾いています。
浦島太郎の話は、海人族が運んだ話です。福知山の戸田に浦島神社があっても不思議ではないのです。由良川流域の海人族の足跡を一緒にさぐってみませんか。
信仰の山 / 大江山と三岳山
大江山中腹の鬼の博物館につとめて、はや10年。この間、足腰の達者なうちにと思い、ひまをみつけては大江山を歩きました。この年まで知らなかった、いろいろなものに出あいました。その感想は、一言でいうなら、大江山も三岳山も、人を拒絶した深山幽谷ではなく、早くから人の行き交う山だったんだという思いです。古い石碑や小祠、わけありそうな地名の何と多いことでしょうか。
大昔、山は祖霊の鎮まるところ、神のいるところと意識されていたのでしょう。この地方の農耕儀礼に色濃く残る田の神の信仰をみても、田の神は春になると里へ降り、秋が終わると山へかえると信じられ、今も素朴な「山の神さん」の信仰をとどめています。それに、山は里人に豊かな恵みを与えてきました。また水源でもあったのです。大江山の南斜面を流域とする宮川は、古文献に、昔、神通河と呼んだとあります。
大江町の元伊勢内宮の背後に、美しいピラミッド型の日浦ケ嶽があります。山頂には、岩座(いわくら=神の依代)と思われる巨岩が立っています。この山、一願成就の神体山として、今も信仰されていますが、遙拝所からみると、夏至の日、夕日が山頂に沈みます。偶然とは思えぬ神秘的な光景です。
巨岩といえば、福知山市の天座と大江町橋谷の境、かつての但馬街道、俵(たわら)峠の頂上に、巨岩がゴロゴロと並んでいます。「御座岩」といわれ、天照大神降臨の地で、これが天座の地名由来と伝えていますが、この巨石群の正体は一体何なのでしょうか。
大江山と三岳山が、古い時代、修験の霊場であったことも、今では忘れ去られようとしていますが、修験の関連遺跡は、今もかなり残っています。この両山の麓に、古刹が多いことも忘れてはなりません。すでに普甲寺や大仲寺はあとかたもありませんが、大江山や三岳山が信仰の山として栄えた日があったことを、ひとときたぐりよせてみたいものです。
陸耳御笠の伝説 / 加佐は笠
陸耳御笠(くがみみのみかさ)、聞きなれない名だと思いますが、大昔、青葉山から与佐大山(大江山)にたむろして、日子坐王(ひこいますのみこ=崇神天皇の弟)に討たれた土蜘蛛(つちぐも)の名前です。「古事記」にも記載され「丹後風土記残欠」に、かなりくわしくのっています。最近、この「丹後風土記残欠」偽書説も出されていますが、由良川筋の地名の起こりが、この土蜘蛛退治とのかかわりで説明されています。
この陸耳御笠についての論考は、ほとんどなされておらず、私の知る限りでは、民俗学者の谷川健一氏が、若狭、丹後、但馬に残るミやミミのつく地名の多いことをあげ、昔、耳飾りをつける風習を持っていた渡来集団の首長だったのではないかと推論しています。海人族の首長だったというわけです。
ところで、大江町と舞鶴市は、かつて加佐郡に属していました。「丹後風土記残欠」にも、加佐郡のルーツは「笠郡」とのべています。
この「笠」に関連して、興味深い伝承が青葉山に伝わっています。ご承知のように、青葉山は山頂が2つの峰に分かれていますが、その東側の峰には若狭彦、西峰には笠津彦がまつられているというものです。笠のルーツは、この笠津彦ではないのか、そんなふうに考えていたところ、先年、大浦半島で関西電力の発電所建設工事中、「笠氏」の刻印のある9世紀頃の製塩土器が発見されました。笠氏と呼ばれる古代豪族が、ここに存在していたことが証明されたわけです。また、ここから、大陸との交流を裏づける大型の縄文の丸木舟が出土し話題となりました。
陸耳御笠。何故、土蜘蛛という賊称で呼ばれながら、「御」という尊称がついているのか。長年の謎が一つ解けたような気がしています。ヤマト王権の国家統一前、ここに笠王国ともいうべき小国家があったのかもしれない。陸耳御笠と笠津彦がダブってみえてきます。由良川筋の陸耳御笠伝説を紹介したいと思います。
無量寺縁起と仏谷 / 福知山の麻呂子親王伝説
麻呂子(まろこ)親王、これもあまり聞きなれない名前だと思いますが、聖徳太子の異母弟とされる人物です。
この麻呂子親王が、三上山(大江山)にすむ、英胡(えいこ)、軽足(かるあし)、土熊(つちぐま)という三鬼にひきいられた鬼どもを討ったという伝説が、当地方の古社寺の開創縁起となって伝えられています。当地に仏教が流入した時期と麻呂子親王の時代とではズレがありますから、先行していた麻呂子伝説を、寺社創始の権威づけのため利用し混合していったと考えるべきでしょうか。
この両丹地方には、大江山の周辺を中心に実に多くの伝説関連地が残っており、地名の由来となっているケースも多くみられます。今回の話の中で、そうした福知山に残る麻呂子親王伝説を紹介しようと思いますが、中でも、筈巻の無量寺に残る縁起書は、年号の記されている縁起書としては、両丹地方最古のものですし、ゆかりの仏像もまつられています。また雲原の仏谷(ほとけだに)は、親王が鬼退治を祈って、七仏薬師を刻んだところと伝えています。長安寺や長田の願来寺など、親王ゆかりの薬師如来像をまつると伝える寺院もあります。
私が、この麻呂子伝説で一番興味をもっているのは、大江町河守の清園寺の「古縁起」に、親王に討たれた鬼どもが、「火」と「風」と「水」を自在にあやつるとあることで、「火」「風」「水」をあやつるのは、古代製鉄に従事したタタラ師たちではないかと思っています。麻呂子親王が、この地方では、もっぱら「金丸親王」とよばれ、「金屋皇子」とも呼ばれていること、それに鬼の首領の「英胡」の「胡」は、早くから製鉄技術をもっていた中国の胡族を連想させるのです。
大江山には古い時代のタタラ跡が残っています。「魔谷」(大江町北原)、「火の谷」(福知山市天座)など、タタラ跡のあるところは、鬼を思わせる地名ですね。麻呂子親王伝説の裏にひそむ鉄の争奪を、私なりに推論してみたいと思います。
酒呑童子の供養碑 / 福知山の酒呑童子伝説
大江山や三岳山の周辺には、酒呑童子にまつわる伝説がたくさん残っていますが、大江山や三岳山が、鬼の山とされたのは、そう古いことではないような気がしています。江戸中期、この地を旅行した貝原益軒の「西北紀行」には、この地の人々が、大江山を「御嶽」と呼んでいると記していますし、三岳山も、「丹波志」に「女人結界」(女人禁制)とあります。三岳神社は明治初年に改名されたもので、それまでは「三嶽蔵王権現社」でした。蔵王権現は、修験道の一派「回峰修験」の流れをくむ山伏たちの守り神。三岳山のルーツも「御嶽山」であったのでしょう。
南北朝時代の初め(14世紀)に「大江山絵詞」という絵巻物がつくられ、酒呑童子は、その主人公として誕生しました。以来、謡曲「大江山」、能「大江山」そして御伽草子「大江山」が流布していく中で、大江山は酒呑童子の山となっていきます。ここにそうした酒呑童子の物語を、まるで伝説のように定着させていったのは、修験者たちと、在地の民衆との一宿一飯の交流を通じての作業であったような気がします。
福知山市の東北部、雲原、金山、三岳地区に多くの酒呑童子伝説をとどめていますが、それらを紹介しながら、先人たちが、何故こうした鬼伝説を育てていったのだろうということを考えあってみたいと思います。 私が一番感動したのは、天座の奥深く、千丈ケ嶽の頂上近くの山あいにある「酒呑童子の供養碑」です。「酒呑童子断迷開悟」(酒呑童子 迷いを断って悟(さと)りを開け)と刻まれています。何とやさしい心根でしょうか。また、この天座には、酒呑童子の命日に、鎌など刃物を一切使わないで、仕事を休み、この碑の前で大般若経をあげ、酒呑童子の霊を慰める「鎌止め」の風習があったといいます。この風習は大江町側にもあったようで、俳人の加賀千代の旅日記の中で、感動をもって、「鎌止め」にふれています。
 
鬼の日本史

 

このレポートは、これからお盆を迎える諸君、鳥居火や大文字の送り火に見とれたい諸君、盆灯籠や精霊流しに心鎮めたい諸君、盂蘭盆や川施餓鬼や二十日盆に今年は気持ちを向けてみたいと思っている諸君、とくに精霊流しがどうして水に流されていくのかを知りたい諸君のために、贈りたい。
こういう本をゆっくり採り上げるチャンスがなかったので、ちょうどいい。

その前に、著者の成果を紹介しておくと、この人は『隠された古代』でアラハバキの伝説や鎌倉権五郎のルーツを白日のもとに曝した人である。おもしろかった。それだけでなく続けさまに『閉ざされた神々』『闇の日本史』『鬼の太平記』、そして本書、というふうに(いずれも彩流社)、日本各地に伝わる隠れた神々の異形の物語を探索してきた。そういう民間研究者だ。たいていの神社を訪ねたのではないかとおもわれる。
そこには土蜘蛛から河童まで、スサノオから牛頭天王まで、稗田阿礼から斎部広成まで、出雲神話からエミシ伝説まで、ワダツミ神から鍛冶神まで、一つ目小僧から酒呑童子まで、歪曲と誇張の裡に放置されてきた“鬼”たちが、斉しくアウトサイダーの刻印をもって扱われる。これは負の壮観だ。
負の壮観なだけではなく、負の砲撃にもなっている。ときには負の逆襲や逆転もおこっている。ぼくは『フラジャイル』のあとがきに、著者からいくつかのヒントを得たことを記しておいた。むろん肯んじられないところも多々あるけれど、むしろぼくとしては、これらの負の列挙にたくさんの導入口をつけてくれたことに感謝したい。著者はごく最近になって、ついに『鬼の大事典』全3巻(これも彩流社)もまとめた。
まずは、この偉業、いやいや異業あるいは鬼業を、諸君に知らせたかった。

では、質問だ。これから始める真夏の夜の「超絶日本・オカルトジャパン不気味案内」(笑)の直前肝試しにいいだろうので聞くのだが、上に書いたアラハバキって、知っているだろうか。
鬼ですか、人ですか、神ですか。知らないよね。
アラハバキは「荒吐」「荒脛」と綴る正体不明の“反権王”のことをいう。江戸時代にはすっかり貶められて土俗信仰の中に押し込められていた。しかし、愛知三河の本宮山の荒羽羽気神社はアラハバキを祭神として、鬱蒼たる神域に囲まれた立派な社殿をもっている。だから何かが、きっとある。が、ここに参詣にくる人は、ほとんどアラハバキの正体を知ってはいない。
推理を逞しくすれば、アラハバキは「荒い脛穿(はばき)」だから、脛巾のこと、すなわち脚絆にまつわる神だろうということになる。ということは遠出の神か道中安全の神か、ちょっと捻って解釈しても、足を守る神なのかなというあたりになろう。ところが、そんなものじゃない。
アラハバキを「荒吐」と綴っているのは、知る人ぞ知る『東日流外三群誌』(つがるそとさんぐんし)という東北津軽に伝わる伝承集である。そこには「荒箒」という綴りも見える。ホウキというのだから、これはカマドを浄める荒神箒のことかと思いたくなるが、一面はそういう性格もある。ただし東北のカマド神は京都に育ったぼくが知っているカマド神とはまったく異なっていて、かなり異怪な面貌の木彫だ。
まあ、最初から謎めかしていても話が進まないから、ここで著者がたどりついた正体をいうと、これはナガスネヒコ(長脛彦)なのだ。

ナガスネヒコって誰なのか。これも知っている人は少ないかもしれないが、ただのナガスネヒコなら、長い脛(すね)の持ち主という意味だろうから、大男ということで、ダイダラボッチ型の巨人伝説の一人ということになる。
けれども記紀神話の読み取りでウラを取ろうとすると、そうはいかない。『日本書記』では、物部の祖先のニギハヤヒがナガスネヒコを誅殺して、イワレヒコ(神武天皇)に恭順の意をあらわしたというふうになっている。そして、ニギハヤヒはナガスネヒコの妹を娶ったと記録されている。恐いですね。
なぜこんなことがおこったかというと、ナガスネヒコはそれ以前に神武の兄のイツセノミコト(五瀬命)を殺してしまった。だいたいナガスネヒコの一族は、神武の軍勢が大阪湾から難波・河内・大和のルートに入ろうとするときに、これを阻止して暴れた一族なのだ。そのためナガスネヒコは大和朝廷のために殺された。
ところが、である。ここが日本神話の謎多きところになるのだけれど、『古事記』ではナガスネヒコが殺されたとは記していないのだ。
このように記紀の記述に違いがあるときは、だいたい記述に疑わしいものが交じっていると考えたほうがいい。おそらく『書紀』にも粉飾があるのだろう。この見方、おぼえておいてほしい。よろしいか。
さあ、そう思って『東日流外三群誌』を読むと、ナガスネヒコが津軽に落ち延びてアラハバキ王になったと書いてある。その証拠のひとつに、津軽の小泊にいくつもの荒磯神社があって、そこにはアラハバキ神としてのナガスネヒコが祭神になっている。
それを荒生神とも荒木神ともよぶ。つまりは荒い呼吸をする猛々しい神だ。世の荒木クンたちの先祖だね。

そもそもナガスネヒコは神武以前の奈良盆地にいた割拠リーダーの一人だったはずである。奈良五條市今井町には荒木山を背にした荒木神社があって、大荒木命あるいは建荒木命あるいは祭神不明となっている。
このあたりはいまでも「浮田の杜」といって、かつては足が地につかないほどの浮き土があった。京都の伏見淀本町にも同じく「浮田の杜」があり、「淀」も「浮」も同じ意味だったということが察せられる。
こうしたことから、どうもアラハバキあるいはナガスネヒコは、こんなふう荒れた土地を開墾したか、まるごと管理していたか、いずれにしても処置しにくいことを収められる荒っぽい一族だったということが推理されてくる。そのナガスネヒコを大和朝廷の先触れたちが利用したのであろう。けれどもナガスネヒコはそれを知ったか、利用価値がなくなったかで、北へ向かう「化外の人」となったのだ。
それともひょっとして、そもそも北のどこかにエミシ王国のようなところがあって、その一部が流れて畿内あたりに来ていたのを、ニギハヤヒが目をつけたのか‥‥。と、まあ、これ以上のことは、『隠された古代』を読んでもらうということになる。
如何でしたかな。以上が枕の話です。

ということで、入門肝試しだけでもこんなに長くなってしまったのは、このような話は今日の日本人にとっては、まったく何の知識もないことになっているからだ。嘆かわしいね。いや、あまりにも勿体ない。
そこで、以下には『鬼の日本史』のごくごく一部の流れだけを抜き出して、諸君の好奇心と真夏の精霊流しにふさわしい物語を、一筋、浮き上がらせることにする。あらかじめ言っておくけれど、こういう話には、正解も誤解もない。どの立場に依拠するかで、歴史も伝承もとんでもなくワインディングするものなのだ。
では、少しくぞくぞくっとしながら、日本の奥に出入りする「本当の精霊流し」とは何かという話に目を凝らしてみてほしい――。

大和朝廷を作りあげた一族は、天孫降臨した一族だということになっていることは、知っているだろうね。天孫降臨なんてカンダタの糸ではあるまいに、空中から人が降りてくるわけないのだから、これは海の彼方から波濤を蹴立てて日本列島にやってきた一群だということになる。
侵略者とはかぎらない。騎馬民族ともかぎらない。馬に乗ったまま来られるはずもないから、なんであれ波浪を操れる一群とともにやってきた。ここまではいいですね。
で、この天孫降臨した一群のリーダーの名は、記紀神話ではニニギノミコトというふうになっている(正式にはヒコホノニニギノミコト)。ついでに言っておくけれど、このニニギから何代も下って登場してきたのが、ニニギの血統を受け継いだイワレヒコ、つまりカムヤマトイワレヒコ、すなわち神武天皇だね。
もっともこれからの話はそこまでは下らない。ニニギは大和朝廷派の血筋をもったルーツだということがわかっていれば、いい。しかし、そこにはニニギの一族に取って代わられた者たちもいたということだ。それをわすれちゃいけない。アラハバキ伝説もそんな敗北の歴史をもっていた。でも、もっともっと別の宿命を背負った者たちもいたわけだ。

それでは話を元に戻すが、そのニニギがそうやって上陸した九州のどこかで、ニニギはアタツヒメという女性と出会い、これを娶ったのである。一夜の契りなのにすぐに妊娠したというので、その貞操が疑われたという女性だ。
この女性は誰かというと、薩摩半島の西に野間半島があって、そこに阿多という地域があるのだが、その阿多の女というので、アタツヒメとなった。ここは阿多の隼人が君臨していた地域で、アタのハヤトは大豪族だった。
もっともアタツヒメは俗称で、別名は諸君もよく知っているコノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜)なのだ。絶世の美女で、姉はイワナガヒメというひどいブスだったというのだが、むろんあてにはならない。
ところが、出雲神話ではこの姉妹はオオヤマツミノカミ(大山津見)の娘だということになっている。これは困る。オオヤマツミの子はアシナヅチ・テナヅチで、その娘は例のヤマタノオロチの犠牲になりそうになった可憐なクシナダヒメ(櫛名田)だ。そのクシナダを娶ったのがスサノオだ。なぜ、そんな娘がニニギの近くに出没することになったのか。
ところがまた他方、『日本書紀』では、ニニギが娶ったのはカアシツヒメ(鹿葦津)で、その別名がコノハナサクヤヒメだったと記している。どーも混乱している。何かがおかしい。

まず、オオヤマツミは字義通りでいえば山を司る神のようなのだが、それだけの意味の神なのかという疑問がある。
たとえば『伊予国風土記』には、「オオヤマツミ一名は和多志大神」とあって、この神は「百済国より渡り来坐して」というふうに出てくる。これなら海を渡ってきた神だということになる。ワタシ大神というんだからね。では、コノハナサクヤヒメとはいったい何者なのだろうか。
そこで本書の著者は阿多の野間半島に注目して、そこに野間神社があることを知った。そして野間神社を調べてみた。そうすると、東宮にはコノハナサクヤヒメが、西宮には「娘媽神女」が祀られていた。「ろうま」と読む。こりゃ、何だ?あまり聞いたことがない女神だろう。日本っぽくもない。「娘媽神女」とは何なのか。それに、なぜ二人の女神が一対になっているのだろうか。どーも、怪しい。
さあ、ここからがめくるめく推理と謎が一瀉千里に走っていく。やや急ぎたい。

娘媽神女の正体はわかっている。またの名を「娘媽神」「媽祖」「天妃」「天后」といって、中国福建省や広東省などの華南地方の海岸部一帯で信仰されている女神のことをいう。中国出身なのだ。娘媽は漢音ではジョウボ、呉音ではナウモと読む。慣用音ではニャンマとかニャンニャンともいう。
つまり海の民の象徴だ。東シナ海・南シナ海を動かしていた海洋一族に深い関係がある。
ぼくもドキュメンタリーを見たことがあるのだが、この海の民たち(蜑民とよばれることもある)は、地元に派手な媽閣廟を構え、船の舳先にはこれまた極彩色の娘媽神を飾って遠海に船出していく、潮風が得意な冒険の民なのだ。
そうだとすると、ニニギが日本に上陸したときは、この娘媽神にまつわる海の一族がなにかと協力していはずだ。海域から考えてもそうにちがいない。いや、ニニギがその一族のグループの一つだったかもしれない。そういう可能性もある。それならニニギが娶ったアタツヒメも、きっとその一族の流れなのである。
とするのなら‥‥アタツヒメとは実はワタツヒメであって、ワタツミ(海津見・綿津見)の一族のことなのではないか。ワタとは海のことをいう。
おそらくは、そうなのだ。ニニギはワタツミ一族とともに九州のどこかに“降臨”し、そこで子孫をふやしたのである。
ということはオオヤマツミ(山の司祭)はオオワダツミ(海の司祭)こそが原型で、その後に列島の内陸に入っていって、山をも圧えたのだろう。コノハナサクヤヒメもきっと本来は娘媽神型の海女神であったのが、オオワダツミがオオヤマツミに変じるにしだかって、山の花を象徴する陸上型の美女に変身していったのだ。

だいたい日本には、おかしなことがいっぱいおこっている。その痕跡がいろいろのところに残っている。
たとえば信州の最高峰のひとつの穂高には、船が祀られている。そして舟を山に上げる祭りがおこなわれている。なぜ船なんぞが山の祭にあるのかといえば、そこに、古代の或る日、海の民が到達したからだ。そこにコロニーをつくつたからだ。
加えてもうすこし証拠をあげておくと、あのあたりの安曇野という地名は、もとは渥美半島から北上して山地に入ったアヅミ一族の名残りの地名なのである。アツミ→アヅミノというわけだね。アヅミとはアマ族のこと、つまり海の民たちの総称だ。
こういうことが、各地でいろいろの呻き声をあげているというべきなのだ。
だんだん話が広がってきたね。が、ここまではまだまだ序の口の話なのである。著者は野間半島で、もうひとつの発見をする。そこには天堂山という山があって、その名は唐人によって、天堂山、天童山、また天道山と名付けられたという記録があった。
ここでやにわに「天道」が浮上する。ここからちょっとややこしくなっていく。ちゃんと付いてきなさいね。

天道童子を知っているだろうか。これがなんとも妙な話なのである。まあ、聞きなさい。
『天道童子縁起』の文面によると、天武天皇が没した686年に9歳だった天道童子は、故郷の対馬を出て都(藤原京)に上って巫祝の修行を積み、大宝3年(703)に帰島したというふうになっている。
その後、霊亀2年(718)に元正天皇が重病に罹ったとき、すわ一大事と陰陽博士が占ってみると、対馬に天道法師という者がいて、これを召して祈らしめよと卜占に出た。知らせをうけた天道童子はさっそく都に飛んで、すぐさま病気平癒をなしとげた。こうしてその後は、その誉れを称えられて、天道童子は母とともに対馬の多久頭(タクツ)神社に祀られているという。母子神になったわけだ。
変な話だよね。でも、ここにはいろいろ気掛かりな暗示が含まれているようだ。たとえばこの天道童子を生んだ母親は、ウツロ舟に中で日輪を飲み込んだときに懐妊したということになっている。
むろんこんな話はあとからいろいろくっつけた牽強付会であろうけれど、それでもいろいろ気になることがある。ひとつはこの話が対馬と朝廷をつないでいること、ひとつはウツロ舟が関与していること、ひとつはタクツ神社という奇妙な名はそもそも何を意味しているのかということだ。

対馬と朝廷が関係していることは、天武持統朝の交易にすでに対馬が絡んでいること、また、海の民の能力が必要とされていたことを暗示する。しかもこのころ朝廷は罪人や問題人を対馬に流して、そこで管理させていた。
次のウツロ舟というのは、古代の海の民が乗っていた丸木舟のことで、記紀神話では「天磐楠舟」(あめのいわくすふね)とか「天鳥船」(あめのとりふね)と出てくる。これは知っている諸君も多いだろうが、楠などの内側を刳り貫いたのである。つまりはウツなるウツロの舟だ。
なぜこのウツロ舟が重要かというと、まずもって天孫降臨の一族はこのウツロ舟で、その舳先にサルタノヒコを案内役としてやってきたと記述されているからだ(ということはサルタノヒコももともとは海洋関係者だったということだよね)。もうひとつは、日本の伝承や伝説の多くには、幼児を流すときにたいていこのウツロ舟が使われているということだ。あとで説明するが、実はこれはヒルコ伝説につながっていく。
のこる問題はタクツ神社の意味だ。これはちょっとわかりにくいかもしれないが、著者は「タクツ神」は「謫つ神」であろうと推理した。「謫」って、わかるよね。流された者、流竄の者のことをいう。そう、ワーグナーのオペラの主人公たちである。
うーむ、もしそういうことならば、これはたいへんな逆転劇になる。なぜなら「謫つ神」だとすると、天道童子は「流された者」ということになるからだ。となると、どうなるか。
わかるかな、この逆転と逆倒の意味が――。

三つくらいのヨミ筋が考えられるんだね。
第一の仮説は、天道童子は9歳で都に上がって修行を積んだのではなく、もともと呪能のあった者がしだいに力を得たので、対馬に流されたか、海の民の平定のために派遣されたのだ。なぜ対馬かといえば、朝廷はなんとか対馬を支配したかったのである。こういうヨミだ。
第二の仮説は、タクツ神はもともと対馬の氏神か氏の上で、当然に海洋神だった。その子孫の天道童子はなんらかの目的で朝廷に交渉に行った。おそらくは海の民が本来もっていた物語や機能や職能を認めさせたかったのだろう。それを奏上しに伺った。ところが、朝廷はこれを拒絶したか、利用した。そういう経緯だ。
第三の仮説は、さらに過激なものになる。実はタクツの一族は漂着民であって、タクツ神とはもともとそのような漂着・流民のシンボルを集約していたのではないか。すなわち、ニニギが日本に来たときニニギの一族は海の民を利用したのだけれど、その後はその力が疎ましくなって、再び海に流そうとしたのではないか。それは、ひっくるめていえば、“流され王”型のヒルコ伝説を総称している物語の原型のようなものではないかというものだ。
いやいや、どれが当たっている仮説なのかということは、このさい問題ではない。
どうであれ、ここには日本の確立をめぐる二つ以上の勢力の協力と対立とが、その逆の、激突と融和とが、また、懐柔と反発とがひそんでいるのではないかということなのだ。ふーっ。

ところで、海の民とか水の神といえば、日本中にはたくさんの弁天様がいる。しかも半裸のような姿になっている。弁財天のことだよね。一番有名なのは江ノ島の弁天様だけれど、なぜ、あんな水っぽいところに祀ってあるんだろう。海の塩でも好きなんだろうか。
もうひとつ、宗像三神って知っているだろうか。九州福岡の宗像神社に祀られているイチキシマヒメ、タキツヒメ、タギリヒメの3人の女神のことだ。住吉の神々と並んで日本で最も有名な海の女神たちである。実はこの福岡には名島弁財天という有名な神社があって、貝原益軒の『筑前風土記』という旅行記にも「多々良浜名島に弁財天祠あり。昔は大社なり。宗像三神を勧進せしるなるべし」と書いている。
さすがに益軒は、弁財天と宗像三神が一緒になっているところに注目したわけだ。意味深長だねえ。

そうなのだ、実はこれらの女神たちは、もともとのルーツは違っていても、どこかで同じ係累の女神たちになっている。これは日本ではミヅハノメ(罔象女・弥都波能売)に一括内包される者たちなのだ。
ミヅハノメというのは、水にまつわるいっさいの女神のことをいう。「罔象」という字義は「形、小児のごとき水中の妖しき女」という意味をもつ。不気味だね。これを折口信夫は「水の女」と総称したけれど、和名では「水の端の女」という意味だ。
このミヅハノメはおそらく日本で一番多く祀られている女神で、そこから水分神(ミクマリ)、丹生明神(ニブツヒメ)、貴船神、宗像三神、水垂明神、淡島、竜女神、弁天、トヨタマヒメ、乙姫などが次々に“分派”し、あるいは逆に、それらが次々にミヅハノメになった。みんながみんな水々しい神々で、水源や河川や海辺に深い関係をもっていて、しかも女性の姿を象っている。
このうち一番遠いところから漂流するかのように日本に定着したのが弁財天だ。インドからやってきた。本名はサラスヴァティという。娘媽神が次に遠くからやってきたけれど、すでに話してきたように、これは日本の女神に変換されて定着した。それがアタツヒメで、さらにコノハヤサクヤヒメにまで変換していった。
さてと、このような水の女神や海の女神は、シャーマニックな呪能や職能に富むばあいが多く、どこかで必ずや「禊」(みそぎ)とかかわっている。そうだね。
ということは、そこには水に流れていくものたちの運命や宿命、あるいは蘇生や流産もかかわっていたということなのだ。たとえば『中臣祓』という祝詞では「根の国・底の国に坐すさすらふものの姫」というような言い方をする。そこには水子のイメージも重なっている。とくに淡島(淡島様)はウツロ舟に乗せられて流されるという儀式を必ずともなっている。
流し雛を見るとき、日本人ならその意味するところが感覚的にではあれ、なんとなく了解できるはずだよね。

一方、男神で水や海に関係が深い神々も多い。代表的にはオオワタツミ(大綿津見)や海幸彦や宇佐八幡や八幡神だけれど、このほか塩土神やアドベノイソラなどがいる。イソラは海中から出現した神で、顔中にワカメのようなものが覆っている。それが形象化されて、顔に布を垂らして舞う芸能ができたくらいだ。
が、こうしたなかでも最も注目すべきはエビス神やヒルコ神だろうね。二神は名前が違っているけれど、まったくの同一神だ。足が萎え、流謫されている。つねに漂流しつづける神様だ。しばしばウツロ舟で流される。
でも、いったいどうしてエビス=ヒルコは流されたのか?何か罪を犯したのだろうか。ここで、これまでの話がことごとく結びついていく。

まずもって日本列島が海に囲まれた国であることが、大きな前提になる。花綵列島といわれるように、たくさんの島が点々としている。このすべての島嶼を潮の流れが取り巻いている。そこには干満があり、緩急があり、高潮があり、津波があり、そして夥しい漂流漂着がある。椰子の実も鉄砲も、これに乗ってやってきたわけだよね。
なかで、古来の人間の漂着がやはり図抜けていて、この国の歴史に決定的な影響を与えてきた。とくにこの国に君臨した天孫族の一群の到来は、それ以前に流れ着いた一族たちとの葛藤と摩擦と軋轢をつくっていった。わかりやすくいうのなら、ナガスネヒコが先に来ていて、あとからニギハヤヒやイワレヒコがやってきたのだ。
この、先に定着していた一族たちのことを「国津神」といい、あとからやってきた連中のことを「天津神」という。このあとからの連中が天孫降臨族である。
国津神の一族には服属をした者たちもいたし、抵抗した者たちもいた。また天津神に組み込まれた者たちも少なくない。そのような宥和服属の関係が、主に記紀神話に記された物語になっている。
けれども、服属できず、また抵抗した者たちの物語は、徹底的に貶められ、換骨奪胎されて、地方に流された者の物語に、あるいは山中に押し込められた者の物語になっていった。これらが本書でいう「鬼」の物語の主人公なのだ。

他方、国の歴史は子孫を誰がつくるかという歴史でもあるわけだね。そこには女性たち、母になる者たちの歴史が加わった。娘媽神も弁天もミヅハノメもコノハナサクヤヒメの物語も、そのような婚姻の事情がどのようであったかを物語っていた。
婚姻し、子孫を生めば、たいていのばあいはそこで名前がすげ替えられた。オオヤマツミの子供たちがいくつもの名の娘になっているのは、このためだ。記紀や風土記で名前や係累が異なっているなんてのは、当然のことなのだ。

日本人は優美なところも残虐なところもあるけれど、事実を徹底的にリアルに記録するという能力には残念ながら欠けていた。
語り部も史部(ふみべ)も、またそれらの伝承者も、どこでどんな相手に話をするかで、いろいろ工夫というのか、ヴァージョンを変えるというのか、ともかく「柔らかい多様性」とでもいうような話法や叙事性をつくってきてしまったんだね。
それに、初期の日本には文字がなかったから、語り部の記憶も完璧というわけにはいかない。加えて蘇我氏のところで、『古事記』『日本書紀』より古い史書がみんな焼かれてしまった。
そういうわけで、古い時代の各地の信仰や一族の動向を推理しようとすると、なかなか難しい。それでもふしぎなもので、そういう動向のいつくもの本質が、地名や神名や神社名に残響していたりするわけだ。
ともかくも、そのような残響をひとつひとつ掘り起こして組み合わせていくと、そこに大きな大きな或る流れが立ち上がってくるわけだ。それは、海からやってきた者たちの歴史、陸地を支配した者たちの歴史、排斥されていった者たちの歴史、忘れられていった者たちの歴史‥‥というふうな、幾つかの流れになってくる。
それをぎゅっと絞って、対比させるとどうなるかというと、「国をつくった歴史」と「鬼になった歴史」というふうになる。本書はその「鬼になった歴史」をいろいろな視点で綴ったわけだった。

では、ここに綴られた物語で、最もドラスティックな仮説を一言だけ紹介して、この真夏の精霊流しの話を終えることにする。
それは、そもそもアマテラス信仰にまとめられた系譜の物語の原型は、実は海の一族が最初にもってきた物語だったのではないかというものだ。アマテラスの原義がどこにあるかという議論はまだ決着がついていないから、結論的なことなど言えないのだけれど、本書の著者はアマテラスは「海を照らすもの」の意味だったと考えている。字義がどうであれ、ぼくもそういう可能性がそうとうに高いと思っている。
ここでは話せなかったけれど、中世に傀儡子(くぐつ)たちが伝承した説話や舞曲や人形語りがあるのだが、これらはどうみても、海洋型のものなんだねえ。鈴鹿千代乃さんたちが研究していることだ。

日本神話の中核部分の原型は、ことごとく海にまつわっていたんだねえ。そのこと自体は驚くべきことではないだろう。
それよりも、そのような原型の物語はつねに改竄され、奪われ、変更され、失われてきたわけだ。その後も神仏習合や本地垂迹をうけるなかで、大半の“流され王”たちがまったく別の様相のなかに押し込められ、ときに悪鬼や悪霊のような扱いとなったということに、驚くべきなんだろう。そのうえ、そのような変遷の大半をわれわれは看過したり軽視したり、また侮蔑するようになってしまったわけだ。これは悲しいね。
ぼくも、そのようなことについて『フラジャイル』のなかで「欠けた王」などとして、また『日本流』では負の童謡として、『山水思想』では負の山水としていろいろ持ち出している。けれども、ぼくが予想しているのとは程遠いくらい、こういう話には反響がない。寂しいというよりも、これはこういう話には日本人が感応できなくなっているのかと思いたくなるほどだ。

あのね、話というのは、そもそもそこに凹んだところと尖ったところがあるんだね。尖ったところは、どちらかといえば才能がほとばしったところか、さもなくば我田引水なんだ。
だからこそ絶対に逃してはいけない大事なところは、凹んだところなんですね。そこは痛切というものなのだ。その痛切を語ってあげないと、歴史や人間のことは伝わらない。なぜなら、その痛切は我田からではなく、他田から引かれてきた水であり、そこに浮かんだ舟のことなのだ。
その舟には自分は乗ってはいないで、誰かが乗っている。それが弁天だったり淡島だったり、ミヅハノメだったり百太夫だったりするわけだ。つまり知らない人たちなのだ。
だからそこには、ぼんやりとした灯りがふうーっと流れるだけなのだ。それが流し雛であって、精霊流しなんだね。

さあ、見えてきましたか。鬼というのは、このように語られなくなった者たちの総称のことだったわけだ。異様異体の外見を与えられ、申し開きができない歴史に閉じ込められた者たちのことなんである。
えっ、だから、ほら、語りえないものは示しえない、ということだっけ。戦艦大和はどう沈んでいったっけ。葉隠って、どの葉に隠れることだっけ。
 
日本最初の鬼 / 阿用の一つ目鬼

 

日本書紀の黄泉醜女は地獄の鬼のイメージを持つものですが、実際に記録として「鬼」と記述されている最初のものは、出雲国風土記です。
大原郡阿用郷、現在、島根県大原郡大東町と呼ばれるあたり、阿用下分(あよしもわけ)、甲斐川に合流する赤川と阿用川の流域です。
古老(ふるおきな)の伝えていへらく、昔或人、此処の山田を佃りて(つくりて)守りき。 その時目一つの鬼来たりて、佃る人(たつくるひと)の男(おのこ)を食ひき。その時、男の父母(かぞいろ)、竹原の中に隠りて(かくりて)居りし時に、竹の葉動げり(あよげり)。その時、食はるる男、動(あよ)、動(あよ)、といひき。故(かれ)、阿欲(あよ)といふ。神亀三年、字を阿用と改む。
風土記の時代は、卑弥呼の鬼道、アニミズムによって、託宣を下す事で一地域を統率する支配形態が日本中にありました。
一つ目はこの託宣を下す巫女、神官であったと考えられています。
超自然的存在、神的存在と交流する事で、常人を越えた力を得るためにいけにえの風習がありました。いけにえは動物の場合と、人間の場合があり、人間の場合は、体の一部分を傷つける行為が世界的に行われていました。
時代が下り、いけにえとして殺される事は無くなりましたが、片足を折られる、片目を潰される、という象徴的な行為は残っていました。日本の場合、いけにえにする前、いけにえとなる神の候補(王)は、片足を折られて逃げられなくさせられているか、また、捧げ物として片目を潰されていました。体の一部分を著自然的な存在に捧げる事で、常任にはない力を得たのです。
阿用に現れた鬼は、神官が暴力的に土地の者の財を自分のものにしようとして起った惨劇、と読まれています。
そして時代がもっと下がり、アニミズムの力をもった者、集団が、支配階級から転がり落ち、大和朝廷の新たな主神、天皇の統率から離れて、山野道路を漂白流浪し始めた時、新たな鬼が生まれたのです。
鬼と大人
民族学者・折口信夫はオニを大人(おおひと)、大和朝廷に征服された先住民ではないかと述べています。「風土記」には土蜘蛛という先住土着民の中で力の強大な集団の記述が多くあります。「土蜘蛛」の名は「逸文風土記」の中で、神武東征の際、偽者土蛛(あたつちくも、あたは賊の意)がいたが、穴居していたため、「賎しき号(な)」を賜い「土蛛」と呼ぶようになった、とかかれてあります。
風土記に記述されている土蜘蛛は、卑弥呼的なイメージを持っています。松浦郡の土蜘蛛、名を海松樫媛(みるかしひめ)という。景行天皇巡幸の時、随従の大屋田子(おおやたこ)に殺される。杵島郡嬢子山(おみなやま)に土蜘蛛八十女(やそめ)あり。山頂にあり天言を下し、村を支配し服従せず。景行軍を派遣し滅ぼす。彼杵郡(そのきのこおり)浮穴郷の土蜘蛛、浮穴媛(うきあなひめ)、巡幸に無礼。敬の心なしと滅ぼされる。
土蜘蛛は朝廷に反発した者ばかりではありません。「日本書紀」の「景行天皇紀」には八女県(やめのあがた)の美形の山に八女津媛(やめつひめ)という女神(ひめかみ)が住み象徴的存在として、民心をつかんでいた、と書かれてあります。
また肥前国風土記には、左嘉郡に女土蜘蛛、大山田女(おおやまだめ)・狭山田女(さやまだめ)あり、荒ぶる神、人を殺すとき、下田の土をもって人形・馬形を作り祭れと占う。言葉の通り神しずまって殺人の事絶える。と、あります。
土蜘蛛は、或る者は国つ神として、朝廷の神々に組み込まれ、また大和朝廷の一方的な政令に反発したものとして、滅ぼされていきます。そして文化的に低い者として辱められ、次第に山深い奥地に追いつめられて行きます。もとは神として、それから山に追われ棲んだ鬼として、里と交渉を持つものがいました。
福も鬼も同じものだったのかもしれません。  
「ああ」という鬼 

 

日本の鬼の最初の記述は、出雲国風土記、阿用の一つ目鬼のお話です。そこで、鬼に喰われる男は、「動動(あよあよ=動くな、との意味)」と、言葉を残すのですが、その言葉につながる鬼の昔話があるのです。
「"ああ"という鬼。」むかし、ある所に怠け者(せやみ)な定吉という若者がいました。何をするにつけても、文句ばかり言う男で、いつも「ああ、こわぁい、ああ、こわぁい(疲れたという意味)」と言っていました。ある時、定吉は、主人に言いつかって、山向こうの村に使いに出かけました。うら寂しい山道ですから、人にも出会わず、いつもなら、文句を言い続けていられるのですが、この時ばかりは、黙って歩き続けなければいけませんでした。>それでも、山を登りきったところで、あまりに疲れてしまい、大きな松の木のそばに座ると、ああ、こわぁい(疲れた)。」といいました。「あぁい。」どこからか、声がしました。定吉は、きょとんとあたりを見回しました。しかし声の主はどこにも見つかりません。「・・・いま、あぁいと返事したヤツ、誰だぁ?」定吉は、恐る恐る聞きました。「俺だぁ、俺が返事しただぁ。」その声は、ちょうど定吉の座っている松の木の下から聞こえてきました。「おめぇ、どこにいるだぁ?」「ここだぁ、地面の中だぁ。」「・・・おめぇ、なにもんだ?」定吉はあとずさりしながら、聞きました。「俺は、”ああ”という鬼だ。」「鬼?」定吉はびっくりしました。
「俺は、悪い事をしすぎて、神様に小箱の中に入れられ、ここの土の中に埋められた鬼じゃ。」その声は地面を震わせながら続きました。「長い間、埋められたままでの、俺は苦しくて苦しくてしかたない、誰かが通ったならば助けてもらいたいとおもうておったが、誰も通らぬのか音も聞こえぬ。」「途方に暮れておったらば、わしの名前を呼ぶものがいるではないか。どうか、わしを掘り起こしてくれぬか?そうしたならば、お前を一生、安楽に食わせてやろう。」一生、安楽に食わしてもらえる?定吉は大喜びで、その地面を掘りました。すると、小さな鉄の箱が石の下から見つかりました。定吉はその箱をかたかた振りました。すると中から、「おい、何をする?そんなにふりまわすな。痛くてかなわぬ、早く開けてくれ。」と、あの鬼の声がしました。定吉はわけがわからないまま、その箱をパチンと開くと、箱の中から、ボォウと大きな物が出てきました。それは定吉の倍もある黒鬼で、腕は臼のような、脚は樽のような、仁王さまのような、大きな鬼でした。
定吉が腰をぬかして見上げていると、鬼はヒザをついて定吉をのぞき込みました。「おかげで助かった。約束通り、一生安楽に食わせてやろう。」そう言うと、鬼は定吉にフゥ〜ッ!と大きく息を吹きかけました。「うわぁっ!」定吉の体はふわっと浮くとどこか遠くに飛ばされてしまいました。定吉は、おっかなくて目をぎゅっとつむっていたのですが、どこかにばったり落ちてしまいました。目をそ〜っと開けると、そこは色とりどりの木々に囲まれた、大きなお屋敷でした。「ここはどこだぁ?」「俺の屋敷だ。」定吉のそばには、あの黒鬼の「ああ」がたっていました。「この屋敷で、お前は好きなだけ遊んで、好きなだけ食べて暮らせば良い。」黒鬼のああは、定吉を屋敷に招き入れました。定吉はそこで毎日ぶらぶらして、好きなだけ酒を飲み、うまいものをたらふく食べて暮らしました。もう、定吉は文句一つ言う事が無くなってしまいました。何を食べてもうまい、何をしても楽しくて仕方ありませんでした。屋敷の中には、五つの倉があり、そこの扉を開くと、春夏秋冬、それぞれの季節へ行く事が出来ました。右の扉を開くと山へ、左の扉を開くと海へ、つながっていました。黒鬼のああは、自由になれたことがうれしいのか、その時々で気に入った季節へ行って、山の幸、海の幸をとり、また、あちこちの山に出かけては、知り合いの鬼達と遊び歩いていました。ただ、三番目の倉だけはけっして開けようとしませんでした。
ある時、ああは、「俺は、親の年忌法要があって、でかけるから、留守の間、お前は倉を開けて好きな所へ行って遊んでいるがいい。」「だが、いいか?三番目の倉だけは開けてはならんぞ。」そう言って定吉に倉の鍵を渡しました。定吉は、ああが出かけると、次々に倉の扉を開けて、それぞれの季節の山や海へ行き、果物をほお張り、遊びました。
ただ、一つだけ倉の鍵が残りました。定吉は、ほんの少し扉を開けてみるだけならいいだろう、そう思って、三番目の倉の鍵をはずしました。ガキンと音がしました。定吉はそおっとあたりをみまわしましたが、何も起こりませんでした。定吉は右の扉を開けてみました。その向こうには、うっそうと茂る木々があり、向こうは見えませんでした。定吉は扉を閉め、今度は左の扉を開けました。しかしその向こうも、やはり、うっそうと茂る木々があり、向こうが見えませんでした。定吉は、何があるのじゃろうと、扉の向こうへ脚を踏み入れました。空は木の葉が幾重にも重なって、見る事が出来ません。定吉はきょろきょろしながら、うっそうと茂った森を進みました。
何かが茂みの中を動きました。定吉は振り向くと、そこには大きな狼がいました。驚いて走り出すと、狼は吠えながら向かってきました。定吉は木に飛びあがると、そのまま木に登ろうとしました。狼が定吉に飛びかかってきました。定吉は枝にしがみつきましたが、狼は今にも定吉に食いつきそうでした。定吉は「ああっ、おっかなああい!」と叫びました。すると風が飛んできて、定吉をつかみあげると、木を突き抜けて空にのぼって行きました。鬼の面の形をした岩山が、あっという間にはるか下へと見えました。そこは、鬼ヶ島だったのです。そして、いつの間にか元の鬼の屋敷へたどり着いていたのです。
「あれほど、入らぬようにと言っていたのにのう。」黒鬼のああはため息をつきました。「お前がおっかないと叫ぶだで、親の法事を勤められんかった。約束を守れぬ男は、もう大事にはできんのう。」そう言うとまた風のように消えてしまいました。ああがいなくなって、定吉があたりを見回すと、そこは元の松の木の下でした。定吉は、しばらく、そこに座っていましたが、腰をあげると、ただ黙って、歩き出しました。
「ああ」という鬼。
このお話は、グリム童話KHM99「ガラス瓶の中のばけもの」と似たような趣向を持っています。グリムのお話では、ガラスの中の化け物から、宝物を得て裕福になりますが、日本の物は、後半部が「見るなの座敷」「見るなの蔵」となっているようです。原話は岩手県「昔話研究」創刊号、藤原貞次郎さんとなっています。 
「ああ、ああ」という鬼 

 

ある所に木挽きが山奥で木を切っておりました。年をとって、山仕事をするのが辛くなり、ノコの手を止めるとポソリ、独り言を言いました。「誰か、銭コをくれたら、三人娘のうち、一人をくれてもよいのだがなあ、ああ、ああ。」すると、突然目の前に若者が現れました。
「聞いたぞ、爺様。今言うた事は本当か?」「ああ、本当だ。だが、お前さんは誰だい?」「俺は、ああ、ああと言うものだ。では、どっさりと銭コをやろう。娘を一人もらうぞ。」「ああ、ホントに銭コをくれたら、娘をやろう。」木挽きの爺がそう言うと、若者はどこにもっていたのか、大判小判のたくさん入った袋を差し出しました。木挽きの爺は家に飛んで帰り、大判小判を娘達に見せました。そして一番目の娘に「嫁に行かぬか?」と聞くと「変わった名前の方ですが、そのようなお金持ちなら喜んで行く。」と答えました。一番目の娘が、山を登って行くと、ああ、ああが待っていました。娘は、ああ、ああに連れられて、山奥の家へ向かいました。その家は、壊れかけたあばら屋で、娘はがっかりしました。「うむ、山奥の暮らしは、不安だろうの。そうだ、今、良いものを取ってきてご馳走してやろう。待っておれよ。」そう言って、ああ、ああは娘を置いて駆け出しました。家はあばら屋でしたが、娘は、自分を大事にしようとする、ああ、ああが気に入ったのか、家の中を片づけ、掃除をし、野の花を摘んでいけ、ああ、ああの帰りを待ちました。
しばらくして、ああ、ああは何かを持って、帰ってきました。「良いものを取ってきてやったぞ、さぁ、食え。」娘は目を見張り、思わず声を上げそうになりました。ああ、ああが差し出したものは、血がべっとりついた人の腕だったのです。「え、ええ、わかりました。料理して食べる事にいたします。」娘はやっとの事で、答えました。「そうか、では、俺はまた出かけて来る。待っておれよ。」ああ、ああはまた出かけて行き、娘はひとり、残されました。
娘は目の前に置かれた腕を前に、どうしたものかわかりませんでした。どう見ても、人の腕です。食べるわけにもいきません。娘は庭の隅をほり、そこに埋めて隠し、急いで汁を作って、椀に入れると、ゴクンゴクンと飲み干しました。娘は、なんとか形がつけ、やっと、胸をなでおりしました。すると、戸口に、ああ、ああが立って、こちらを見ていました。「ちゃんと、食べたか?」ああ、ああは娘に聞きました。「え、ええ。ちゃんと食べました。」「ほんとに食べたのか?」「ほんとに食べました。」ああ、ああの目には、何か異様なものが光りました。「・・・それなら、呼んでみようか。」「腕や!腕やぁ!」庭の方で、ベコリと音がしました。そして何かが、ずりずりとこちらの方へ動いて来て、戸口の所から中へ入ってきました。それは、娘の埋めた腕でした。「おまえ、嘘をついたな。」ああ、ああは娘の髪をつかむと、そのまま岩穴まで引きずって行き、手足を縛って中に押し込んでしまいました。
木挽きの爺は、ああ、ああにもらったお金で、飲んだり食ったりしていましたが、たちまちお金をすべて使い切ってしまいました。こまった爺は山へ行って、「誰か、銭コをくれたら、娘をもう一人、くれてもよいのだがなあ、ああ、ああ。」と、言いました。
すると、また、ああ、ああが現れ、「聞いたぞ、爺様。前の娘は亡くなってしもうた。もう一人娘をくれるなら銭コをやろう。」と、大判小判のたくさん入った袋を差し出しました。「よし、娘をやろう。待っておってくれ。」木挽きの爺はそう言って、銭コをたくさん持って、家に帰りました。そして二番目の娘に銭コの袋を見せ、姉が亡くなったで、変わりに山へ行ってくれと言いました。
二番目の娘は、山にのぼり、ああ、ああに連れられて、山奥のあばら屋へ着きました。「姉のお墓はありますか?」「うむ、参ってやってくれ。」ああ、ああは娘を岩屋の側の石の前に連れて行きました。ああ、ああは手を合わせる娘に、「腹がすいたろう、何か取って来るから、待っていろ。」と言って、山に入って行きました。なんて優しい人だろう。
娘が家を片づけていると、しばらくして、ああ、ああが帰ってきました。「おかえりなさい。」「ただいま。良いものを取ってきてやったぞ、さぁ、食え。」ああ、ああは、何か肉の塊を差し出しました。それは、人のももから下の足でした。娘は一瞬自分の目を疑いました。なにか知らない獣の肉ではないか?しかしそれはやはり人の足だったのです。「え、ええ、わかりました。料理して食べる事にいたします。」娘が、やっと声をしぼりだして言うと、ああ、ああは「そうか、では、俺はまた出かけて来る。待っておれよ。」と、また出て行ってしまいました。娘は、大急ぎで、その足を囲炉裏の灰の中に隠し、汁を作って、飲み干しました。戸口に、ああ、ああが立っていました。「ちゃんと、食べたか?」ああ、ああが聞きました。「え、ええ。ちゃんと食べました。」「ほんとに食べたのか?」「ほんとに食べました。」「・・・それなら、呼んでみようか。」ああ、ああの目に、何か異様なものが光りました。「腿(もも)や!腿(もも)やぁ!」灰の中から、腿が立ち上がりました。それは、娘の埋めた人の足でした。「おまえ、嘘をついたな。」ああ、ああは娘の髪をつかむと、そのまま岩穴まで引きずって行くと、手足を縛って中に押し込んでしまいました。
木挽きの爺は、また毎日、飲んだり食ったり、遊び暮らしていましたが、また、お金を使い切ってしまいました。こまった爺は山へ行って、「誰か、銭コをくれたら、残った娘を、くれてもよいのだがなあ、ああ、ああ。」と、言いました。すると、また、ああ、ああが現れ、「聞いたぞ、爺様。もう一人の娘も亡くなってしもうた。最後の娘をくれるなら銭コをやろう。」「最後の娘だ、どっさりと銭コをくれ。」「ああ、どっさりとやろう。」ああ、ああは大判小判のどっさり入った袋を差し出しました。「よし、最後の娘をやろう。待っておってくれ。」木挽きの爺はそう言って、銭コをたくさん持って、家に帰りました。爺は最後の娘に、二番目の姉も亡くなったで、変わりに山へ行ってくれと言いました。
最後の娘も、山にのぼりました。そして、ああ、ああに連れられて、山奥のあばら屋へ着きました。「姉達のお墓はどこですか?」「岩屋の前にある。」ああ、ああは娘を岩屋の側の石の前に連れて行きました。「姉達の最後は、どうだったのですか?」娘は手を合わせながらたずねましたが、ああ、ああは何も答えず、「・・・腹がすいたろう、何か取って来るから、待っていろ。」と言って、そのまま、また山に入って行きました。
最後の娘が不思議に思っていると、どこからか声が聞こえて来ました。「あれは鬼だよ。何を持って帰っても驚かずにるのですよ。」娘は不思議に思いました。
今の声は、どこから聞こえて来たのでしょう?鬼ってどういう事でしょう?
娘は岩屋の中をのぞいてみました。そこには見慣れた着物が二つ、ありました。「お姉さん!」近寄ってみると、岩屋の中には大きな鉄の柱があり、そこには二人の姉が骨となって、うち捨てられていました。「鬼が帰ってきますよ。 早く家を片づけて待ちなさい。」「お姉さんたちをこのままに出来ません。」「行きなさい、早く家を片付けなさい。」娘は声の言う通りに、鬼のあばら家を片づけました。洞窟の中には二人の姉が横たわったままでした。木々の葉音が震えると、心がちぎれるように震えました。葉音がやみました。
ああ、ああが帰ってきました。何か持っていました。娘は驚かないように、心の震えを止めました。「良いものを取ってきてやったぞ、さぁ、食え。」鬼が差し出したものは、人のすねでした。「・・・ええ、わかりました。料理して食べる事にいたします。」娘は、静かに答えました。すると、ああ、ああは、「そうか、では、俺はまた出かけて来る。待っておれよ。」と、また出て行ってしまいました。娘は、すねをどうしていいかわからず、沢の下に捨てようとしました。するとまた声が聞こえました。「捨てないで、黒焼にして腹に巻きなさい。」娘は、その言葉通りにしました。とても気味の悪い事でしたが、着物を脱いで腹に巻き付けました。そして着物を着て帯を締めました。臭いにおいが、体にまとわりつきました。吐きそうになりました。それでも、それがとても良いように思えたのです。
ああ、ああが帰ってくると、娘を見据えて尋ねました。「・・・ちゃんと、食べたか?」ああ、ああが聞きました。「ちゃんと食べました。」「ほんとに食べたのか?」「食べました。」娘は何が起こるのか恐ろしくてたまりませんでした。なぜ、すねを黒焼にして腹に巻いたのか、わからなかったのです。ああ、ああの目には、何か異様なものが光りました。「・・・それなら、呼んでみようか。」「すねや!どこにおる?!」「・・・はらにいて、出られねえ。」ぷぅーんとイヤなにおいが立ちこめました。その声は腹に巻いたすねの黒焼から出ていました。ああ、ああは急に優しい目になりました。「おめぇは正直者なのだな、なら俺の秘密を教えてやろう。」ああ、ああは囲炉裏の自在鉤の上の柱に隠してあった小箱を取り出し、開けて見せました。中には金と銀の針、そして小さな小槌がありました。「よいか、この金の針は刺すと病気を治し、死人を生き返らす針、銀の針は生き物を殺してしまう針じゃ。そしてこの小槌は願えば金銀小判財宝、何でも出してくれる打出の小槌じゃ。」ああ、ああは小箱を閉め、梁の上に置きました。「これさえあれば、何不自由なく暮らして行ける。もう、何も心配せずとも良いぞ。」そう言うと、娘を抱き寄せ、そのまま小さな子供のように、クゥクゥと寝てしまいました。娘は梁の上の小箱を見上げました。金の針があれば、姉達が生き返るかもしれない。娘は寝ているああ、ああの側を離れ、そっと梁の上に手を伸ばしました。しかし、梁の上には手が届きません。娘は壁伝いに鴨居にのぼり、梁へと伝って行きました。「何をしておる?!」ああ、ああが目を覚まして叫びました。娘は手を伸ばして小箱をつかみましたが、ああ、ああに足をつかまれ、そのまま、引っ張られました。
「ああっ!」娘は小箱と一緒に落ちてしまいました。カターンと音がしました。小箱の中の小槌が転がって行きました。その後を小判が散らばりました。娘が目を開けると、ああ、ああが、足をつかんだまま、息絶えていました。眉間に銀の針が刺さっていました。金の針を探すと、それは小箱の中にありました。娘は金の針を持って、岩屋の中へ行きました。そして、黒くなって横たわっている姉達を刺しました。すると二人とも血の気が通い始め、しばらくすると元通りの姉となりました。三人は泣いて喜びあい、山を降りました。
それから後、三人の娘は、何不自由する事なく、病気になる事も無く、暮らしたと言う事です。
ああ、ああ。
お話の中では、鬼を殺すのには、熊柳の五葉で耳を刺すとなっています。また、死んだ後、化け物はあまのじゃくだったとしてあります。本来は熊柳の五葉が、もとで、金の針が後からついたものなのか?金と銀の針があって、熊柳の五葉が後からついたものなのか?それとも、もともとあったものなのか?重複したもの、死に針と熊柳の五葉の理由が今一つわかりません。さて、もう一つ、お爺さんはどうなるんでしょう?ある意味、こっちの方が鬼なような気がするんですが、みなさん、どう思いますか? 
それをかく鬼とはいふなりけり 

 

鬼は大和朝廷の形成過程で滅ぼされた先住民族で、それは縦穴式住居に住んだ居穴人であったり、またアイヌやイヌイット、ロシア系のオホーツク人だったと思われています。そこに目には見えない超自然的な力や、得体のしれないなにか、死者、そしてその魂と死の国、洞穴に暮らし、岩穴に住すなど、さまざまなイメージが重なって、鬼という概念ができ上がったようです。
そしてもう一つ、符号としての鬼、が登場します。
力すら持たぬ女性を死いる、巨大な権力や、恐ろしい力を持ったもの、犯人はわかっているが捕らえようもない、その名前を口にする事が、はばかれる時、そのものは「鬼」と呼ばれたのです。
「日本霊異記」の「女人悪鬼に點(けが)されて食(は)まるる縁」では、聖武天皇の時代(714〜748)の頃、大和国十市郡庵知村(あむちむら)の東、鏡作造(かがみつくりのみやっこ)の女、で名を「万(よろず)の子」という女性が、「鬼」の犠牲となっています。
万の子、は「かおかたち端正(きらきら)しく」、「高姓の人よばうになお辞みて年を経たり」、身分のよい家柄の人から、求婚されてたが、それを断り続けて、いました。
そのうち「彩の帛(しみのきぬ)三つの車」を贈られ、「父母はこれを見て、忽ち財に耽る心出で来て」富裕の人の申し出を受けてしまいました。
鏡作は伴造(とものみやっこ)で、中央と直結した富貴の家柄でした。その「万の子」の父母は地方豪族「高姓の人」の申し出を断り続け、「彩の帛」を贈った「富裕の人」を選んだ事になります。それが地域の者の不満に火をつけます。
しばらくして「富裕の人」は「万の子」の元に通ってきます。そして夜半、「万の子」の閨から「痛きかな。」と叫び声が聞こえてきた。初夜の夜半の事で、両親もたいした事と思わず寝てしまいました。
翌朝、「万の子」の閨は、血にまみれ、そこには小さな指と頭が残されていただけでした。その上、「彩の帛」は獣骨となり、車は茱萸の木となり投げ出されていました。親達は子の頭を高価な「韓筥(からばこ)」に納めて仏事を営んだそうです。
汝(なれ)を嫁に 欲しと誰。あむちのこむちの万の子。南無南無や。 仙さかもさかも持ちすすり。法(のり)申し山の知識。 誠に誠に。
お前を嫁にというは誰。あむちのこむちの万の子。南無や危ないそのようす。 仙さかもさかも持ちすすり。法を申すは山ひじり。 まことにまことにご愁傷。
この凶事が起る前に童謡が起ったそうです。
童謡は「わざうた」、呪的な部分が含まれていて、この童謡には「万の子」に対する警告的な意味が含まれていたようです。
「万の子」の両親には地方の「高姓の人」への抵抗があり、その事を地域の者は良く思っていなかった。両親の「富裕の人」への了解は、自らの家柄の誇示であり、それが地域全体の不満の頂点へとつながった、のでしょうか。
結局この事件は「鬼」の仕業とされ、犯人の追及はなされなかったようです。
実際に山に住む僧、聖がかかわっていたかどうかもわかりませんが、本当の犯人がはっきりわかっていながら、被害者すら抗議も反論も出来ない事、詳述してはならない部分、理由を言うことがはばかられる部分。
伊勢物語では「それをかく鬼とはいふなりけり。」と言うと書きしるしています。 
 
日本の鬼

 

はじめに
「鬼」という存在について深く考えた事はなかったのです。「鬼」は鬼。角をはやして、虎皮のパンツをはいて、口元からは牙を覗かせ、人をおそう。そんな者でしょうって。悪者の代表。もちろん、実在のものだと考えたことは(少年時代を除いては)ありません。
日本で有名な「鬼」といったら?
「泣いた赤鬼」ほのぼのとして、ちょっぴり切なくていいお話しですね。青鬼さんカム・バーック!!
昔、某TV局でやっていた「日本昔話」で見た「牛鬼」はそりゃあもう怖かった。きこりの持つのこぎりの一番下の刃は鬼を切るためのもので、それが折れてしまったきこりが牛鬼に襲われてしまうお話しです。本気で怖かった。
御伽草子に出てくる「酒呑童子(しゅてんどうじ)」はいかがでしょう。源頼光と四天王+頼光叔父に倒された鬼です。恥ずかしながら、まじめに内容を知ったのはつい最近です。酒呑童子の名前は聞いたことがありましたが、なにしろその出所が某少年週刊誌のまんがだったのですから。(しかも、プロレスもの)
他に有名な鬼といえば「伊吹童子」。伊吹山に巣くう乱暴な鬼だったようです。
それから、羅生(城?)門の鬼(茨木童子;酒呑童子の片腕だった鬼)。頼光の四天王だった渡辺綱に方腕を切り落とされてみちのくまで逃げた鬼です。 
日本の鬼伝説
古典の中の有名な鬼伝説をまとめてみます。どんな鬼たちがいたのでしょう。
1 酒呑童子伝説(「御伽草子」より)
平安代(かな?)、丹波国(京都中部から兵庫東北部あたり)大江山に住む鬼たち(酒呑童子とその眷属)が都の姫君たちを次々にさらうという事件がありました。
この事件に心を痛めた時の天皇は、清和源氏の嫡流源頼光にその討伐を命じました。
命を受けた頼光はその四天王(碓井貞光・卜部季武・渡辺綱・坂田公時)と叔父の藤原保昌を率いて、山伏の姿に身をやつし酒呑童子の討伐に出かけました。
一行は千丈岳(大江山か?)に鬼どもの住みかを探しますがなかなか見つかりません(鬼の神通力か何かでしょうか?)。ようやくの思いで山中に人の住む庵を見つけると、そこには三人のご老人が住んでいました。源頼光一行はご老人たちに道案内をたのみ、さらに、大酒呑みの酒呑童子を倒すための「神便鬼独酒(しんべんきどくしゅ)」という、鬼が呑むとその神通力が失われやがて眠くなる効果を、頼光たちが呑むと力がみなぎるという、誠に便利なアイテムを頂きました。
実はこの老人たちは、頼光たちが出発前に詣でた石清水八幡宮、住吉明神、熊野権現の神だったのです。
三神の道案内で鬼の鉄の御所にたどり着いた頼光は、山伏になりきり、鬼たちをごまかし、自分たちを歓迎して開いてくれた宴会にて、ぐてんぐてんに酔っ払った(「神便鬼独酒」を呑んだ)酒呑童子とその眷属を討ち果たしましたとさ。
2 羅生門の鬼伝説
平氏が権勢を誇っていた頃、京の都の朱雀大路の南の端"羅生門"には、人々に悪さを働く悪鬼・茨木童子がおったそうな。
その頃、勇猛豪胆で知られる侍渡辺綱(頼光四天王が一人)は、ある夜一人でこの羅生門へ出かけ、茨木童子に戦いを挑み、その右腕を切り落としました。茨木童子は切り落とされた腕をその場に置きざりにしたまま、命からがら逃げ出しました。
茨木童子は京の都を離れみちのく(東北地方)へ逃亡。渡辺綱は10人の家来を引き連れてそれを追います。
そして、ついにみちのくは村田の姥ヶ懐(宮城県)にて茨木童子と対峙。
しかし、綱の叔母に化けた茨木童子にまんまとだまされ、石の長持ちの中にあった右腕を取り返されて逃げられてしまったとさ。
3 紀長谷雄に美女を献上する鬼(「御伽草子」より)
菅原道真公の門下に紀長谷雄というお公家様がおりました。この方かなりの博打好きで、ある夜怪しげな男に誘われて朱雀門の楼上で双六の勝負となりました。勿論、博打・賭け事ですから、お互いに、長谷雄が勝てば美女を、男が勝てば長谷雄の持つ宝をすべて、相手に渡すという条件で双六が始まりました。
勝負は長谷雄の連戦連勝。男は連戦連敗の悔しさのあまりに興奮。ついに本性を現します。この怪しげな男、実は鬼だったのです。しかし、長谷雄は気づかぬふりをして、勝負は終了しました。鬼は(男は)言います。
「約束通り、貴方の理想の美女を差し上げよう。」
後日、長谷雄の屋敷に男(鬼)が美女を連れてやってきます。長谷雄に美女を献上するにあたって、鬼は一つ条件を出しました。
「今から100日の間はこの女体を犯してはならない」
というもの。なんだそのくらいは簡単だと思った長谷雄はふたつ返事で承諾します。長谷雄は80日まで、しっかり我慢しました。
しかし、男というもの、毎日側に美女がいるのにそんなに我慢が続くものではありません。美女にすっかりまいってしまっていた長谷雄は美女の手を取って、ついに閨に・・・。
すると、美女は水のように流れて跡形もなくなってしまいました。しばらくするとあの男(鬼)がやってきて、「せっかくたくさんの死体から良い所だけを使って作り上げたのに。100日すれば人の魂も定まるはずだった。なのに貴方という人は!」 鬼の形相で長谷雄につかみかかろうとしたその瞬間、雷神となった菅原道真公が現れて・・・。
「一生悔やむが良いわ!!」の鬼の捨て台詞に、紀長谷雄は本当に一生悔やんだとさ。
4 源博雅とともに笛を吹く鬼(「十訓抄」第10−20より)
平安期、天皇のご一族に源博雅(最近「安部晴明」を題材にした小説で晴明の親友として描かれています。)という楽がとってもお好きな方がおりました。特に笛の名手として知られ、よく月のあかかりける夜に、朱雀門の前にて終夜笛を吹かれておりました。
すると、もう一人男が現れて、博雅と共に笛を吹きます。二人の笛の音は互いに響き合って、それはそれは美しい調べを。その笛の音、この世に類を見ないほどの優れたものだったそうな。初めて会った男同士ではありましたが、二人とも何も言わずずっと笛を吹きあっていたそうな。
やがて笛を取り替えて吹く事になりましたが、吹いているうちに博雅の笛を持ったまま男は消えてしまいました。
この時、その男が博雅に残した笛の名は「葉二(はふたつ)」。
この後、鬼の笛ということが分かるが、天下第一の笛として伝えられることになったとさ。
鬼の正体
鬼の正体については、以前から様々な見地からの研究がなされ諸説紛紛。
もともと中国では「鬼」という文字は「キ」と発音し、死者や亡者を指す言葉でした。日本でも平安期頃までは、菅原道真に代表される怨霊や亡者、または疫病を運ぶ者として表されていたようです。
菅原道真のような怨霊として「鬼」を考えると、恨みを残して死んでいった人間が魂のみの存在となった時、そのあまりに強い怨念が、ある特定の対称(全ての場合に当てはまるとはかぎりませんが)に対し仇をなすことを目的として鬼となる。このころ、各地では飢饉などもあり、人が満足に平等に生きるのが難しい時代でもあったようです。差別や貧富の差が激しく、劣等感や妬み恨みなどが各所で溢れ、食人さえも日常的にあった(と聞いた)といいます。そんな時代ですから、人は簡単に鬼になっちゃう(されちゃう?)し、物も気を抜くと妖怪になってしまう。
ところが、武家社会が始まり室町期になると、鬼は牛角が頭上に戴き、虎のパンツをはくようになりました。そして、そのままの姿でいわれなくただの悪者として人を襲ったりする(「桃太郎」や「一寸法師」など)。「鬼」という妖怪が、人々に強烈にイメージされるようになりました。なにしろ、それまでの怨霊に比べて分かりやすいのですから。ただ、妖怪「鬼」がまったくの想像上のものでしかなかったかというと、そうでもないような気がするのです。というのは「鬼」の表現に具体的でとても生々しい人間くさい部分が感じられたりするのです。
例えば酒呑童子は源頼光に、「自分は越後の山寺に育ったが法師に恨みを持ちたくさんの法師を殺してしまった。そのため、比叡山では伝教法師に、大江山では弘法大師に追い出された。しかし、弘法大師が亡くなったので、大江山に戻ってきたのだ。」と、語ったそうな。
なんだ。そしたら酒呑童子って人じゃん。って思いたくなりますよね。要するに修行僧なのではないのかなあと。それが人を殺し破戒僧(という表現が正しいかは分からないが)となり、各地を転々としたのかなあと。そういう、脛に傷持つ人々が、一種社会からはじき出されたアウトローとして「鬼」のモデルの一端を担ったのかなあなんて思ったりします。
実際どんな説があるのかは以下の通り。
1 外国人漂流者説
漂流して日本にたどり着いた外国人が鬼として表現されたという説。髪の紅い(赤毛)大男で赤い血(葡萄酒)を呑むという表現は西洋人ぴったり!
2 山人説
日本列島の先住民説。日本に農耕民族がやってくる前から日本で生活していた人々(ようするに縄文人?)の一部が、中央政権である大和朝廷に従わず自分たち独特の生活を里とは隔絶した山間で送っていたのではないか。確か、土蜘蛛なんていう怪物が葛城山(だっけ?)にはいたって、なんかに書いてあんだよね。その怪物の名称はそういう人々(一族)を総称したものではないかという説。
実際、(つながりがあるかどうかは知りませんが。というか詳しくは全く何も知らない。)「サンカ」と呼ばれる人々は昭和期にはいり終戦を迎えるまで山で暮らし、人里にはほとんど姿を見せず暮らしていたという。
3 疫病説
当時、天然痘が大流行。それを流行らせた(とされる)鬼神、疱瘡神ではないかという説。雷神・菅原道真さんも一面にはここに入るのかなあ・・・。
4 修験者説
修験道を志す人々が山岳で修行している姿を鬼とした説。実際、役行者はこの修行で体得した超自然的な能力を使い前鬼・後鬼という鬼(弟子?)を従え空を飛び回っていたという。
5 鉱山労働者説
山の乱開発に対する農耕民の敵意的な感情が、その労働に従事する人々(灼熱に焼けただれたタタラ師たちの顔が鬼にも見えた要因の一つではないかともいう)をそう見せたのではないかという説。今も昔も、公害は恐ろしい。
6 山賊説
峠越えをしてきた人々を襲って金品を巻き上げていた人々だという説。面なんかかぶっていたら、本気で鬼にも見えたかも。伊吹童子はここに入りそう・・・。
7 反体制勢力者説
いつの時代にも隠れ住み、時代を転覆させようとした人々はいるものです。そういう人達ではないかという説。ちなみに、忍者の里として有名な伊賀はいつの頃からは知りませんが、中央での勢力争いに敗れた者たちが集まり住んだ地で、戦国期に活躍した忍者はそれらの人々の末裔だという話しです。忍者を指して織田信長は「人外の化生」と呼んだとか・・・。
おわりに
どこでどうして「鬼」という存在がいわれるようになったのかは分かりませんが、潜在的に人々が恐れる「目に見えないもの」の力を具現化したもののような気がします。
そういうものを意識しているうちに、やがて、常人とは違う特異な力をもった人が現れる。それがモデルとなり、世の人に面白おかしく読んでもらおう書物に描かれることになった。
そして、今に伝わる「鬼」という妖怪が生まれたのではないでしょうか。 
 
日本の鬼2
鬼とは自然の猛威への恐怖から生まれたものであり、鬼以前にモノ(物、神)であった。自然の脅威の最たる者は雷電(神鳴)である。雷を司るモノ(雷神)は雨や風も支配すると考えたので、それは河川の氾濫を起こす水霊(ミズチ、オカミ:異説あり)でもあった。また、このモノの姿は蛇体であると想像された。山河でモノに対して呪具を以って祀ったのは巫女であった。また河の渡渉地点や山の峠のあたりには交通を担う人々が屯し、都市文明から取残され中世になっても、このモノに対する古代の信仰が残っていた。いつしか毛むぐしゃらの鬼の姿となった。
鬼といえば、大江山の酒呑童子や羅生門に現われた茨木童子であり、これらを成敗したのが渡辺綱である。この話が出てきた背景には水辺の人々に残った水霊信仰があったという。渡辺綱は武蔵国の美田からでた者であり、渡渉地点にあった人々の勢力と関係していた。中臣鎌足も常陸国阿威や鹿島の地からして水辺の人々との関係が想像される。他に、鬼が出る話といえば、安達原や矢口の渡がある。いずれも中世の渡渉地点に係わっている。神田明神や浅草寺雷門にも同じ背景が見えてくるのである。宇治川の民には「千早人」という呼び名があった。千早振る人々である。
強力な雷神や水霊にどのような対抗をしたのか。それは先の尖った呪具が使われた。具体的には威嚇の矢である。例えば、関東の古代中世の河川の渡渉地点には「矢」を含む地名が多い。府中矢崎、調布矢野口、矢口渡、矢切渡、三河矢矧橋、近江矢橋渡、矢早瀬渡、矢走渡、竹屋渡などで、そこが水霊に呪矢で対抗した信仰があった名残と思われる。また山でも、矢神、矢祭、矢立、弓箭などの地名があり、山の雷神に対抗した呪矢の祭が想像されるのである。更に、蓮華王院三十三間堂の通矢も弓神事を経由した古代の対抗呪術の後裔と見ることができる。なるほど、斉藤慎一『中世を道から読む』にある路次不自由という言葉は重みを増す。
対抗する呪具は矢ばかりでなく、串・櫛・箸・竿などもあった。神武紀、三島湟咋の娘を大物主は丹塗矢に化けてものするが、良く似た倭迹迹日百襲姫の話では、櫛筥の中に大物主を見たために箸で衝いて死んでしまう。大物主が蛇体の雷神であり百襲姫が対抗する巫女で、櫛や箸という呪具が神話に取込まれたのである。極端な例であるが、琵琶湖野島の伊崎寺から琵琶湖に突き出したサオ(竿)がある。著者は那智滝権現や葛川息障明王院のヒデ(碑伝)との比較により、共に湖上の嵐や滝の氾濫をもたらす水霊への対抗呪具として修験者によって立てられた物であることを示す。竿を横にするか立てるかの違いに過ぎないのだ。
先の尖った呪具は矢や竿のほかにも、先の尖った長い葉の植物(長剣状葉)がある。稲、菖蒲、杜若、竹、茅などがそうである。これらの葉の形は稲妻の形であるので雷神に対抗できると考えられたのであろう。因幡堂の鬼瓦には稲葉が隠れている。五月の菖蒲を葺く行事もここから来ている。尾形光琳「燕子花図屏風」に描かれた杜若も、伊勢物語の「水行く川の蜘蛛手なれば…」の故事を踏まえた水霊への対抗呪具の名残と見ることができそうである。
その伊勢物語や大和物語には、水辺の美女が鬼に食われるか、美女が鬼に化けて勇者を襲う話がある。橋姫伝説と言われるが、水霊を祀りその対抗呪術を行った巫女に由来する。本来は水霊こそが鬼であったが、更に時代が下ると、水霊を祀る巫女が鬼と見做されるようになったのである。更に複雑となり、巫女のラブマジックを行う貴船神社に詣でた女が嫉妬に狂って鬼へと変身する話へと発展したり、謡曲鉄輪の鬼が水に入って蛇体と化し後に改心して宇治の橋姫となるなどの例がある。久米の仙人が川で洗濯する娘の脛の白きを見て墜落するのも水霊を祀る巫女と遠くつながっている。
太古の雷神は電撃により火事を発生させるところから火の神でもあった。雷は虚空から到るので鳥として表現された。雷神は火の鳥であった。火具土神を生んだイザナミが神去るときに天津鳥船が生まれており、また建御雷神に天津鳥船が同行していることでも分る。雷神が火の鳥である神話は日本固有のものではないと著者は書くが例は書いていない。ケノ的に追加しておくと、古代メソポタミアには怪鳥アンズーがいた。ライオンの鬣を持ち吼えながら飛ぶ雷神で(小林登志子『シュメル』)、ハッダ神やヤハヴェ神の祖先であった。
 
鬼の話 / 昔話に見る日本の鬼

 

鬼と聞いて現代人が思い浮かべるのは、まず節分の鬼であろう。二本の角を生やし、髪は赤茶けた巻き毛で、口には牙が生え、トラの皮の褌を締めている。これが春の訪れとともにやってきて、人間たちに悪さをするというので、人びとは「鬼は外」と叫びながら、厄除けの豆を投げつけて鬼を退散させ、自分たちの無事を祈るのである。
秋田のなまはげは節分ではなく、大晦日の夜に現れるが、やはり上に述べたような鬼の特徴を有している。ただし褌を締める変わりに蓑をかぶっているが。
このように、鬼は現代人にとっては、年中行事の一齣で出会うメルヘンチックな産物に過ぎなくなってしまったが、かつての我々の祖先たちにとっては、日常生活の中で大きな意味合いを持ったものであった。
日本人は古来、朝廷が編集した書かれた神話としての記紀のほかに、地方ごとに独自の口誦伝承を伝えてきた。それらは「昔話」あるいは「昔語り」として、世代から世代へと語り継がれ、その一部は「日本霊異記」や「宇治拾遺物語」を始めとした説話集に収録された。
こうした昔話を読むと、鬼をテーマにした「鬼むかし」とよばれるジャンルのものがもっとも多いことに気づかされる。昔話は、記紀とは別の次元で日本人の神話的なイメージを凝縮しているものと思われるので、そこに鬼が頻繁にでてくるというのは、日本人と鬼とが古来深い因縁で結びついていることを感じさせるのである。
そもそもその鬼というものが、日本人にとって何をさしていたかについては、柳田国男や折口信夫らの研究を通じて、死者の霊魂、それも祖霊を意味していたとする見解が有力になっている。
日本人の霊魂観については、筆者は別のところで論を展開したことがある。その論旨を改めていうと、人間の霊魂というものは、人が死んでも滅びることはなく、死者の遺骸の周りを漂いつつ、しばらくは死者に縁あるものの近くにある。そして機会があればほかの生き物に生き移って、違う形で甦ることもあれば、場合によっては、生前の怨念がたたって生者に災厄をもたらすこともある。鬼は、死者の霊魂のうちで、この祟りをもたらす荒ぶる霊魂を形象化したものだといえるのである。
古代の日本人は「おに」という言葉に、「鬼」という漢字を当てたが、漢語の「鬼」はそもそも「霊魂」を意味する言葉である。「おに」は漢語の「穏―おん」が転化したとする俗説があるが、それは順序が逆な説といえる。もともと日本の「おに」が意味の近接性から漢語の「鬼」と表記されたのであって、漢語の音が日本語の「おに」という言葉に転化したのではない。
古来日本人の文化的伝統において、祖霊との関わりほど重要なものはなかった。日本人が一年の節々に催すさまざまな行事には、この祖霊が決定的な役割を果たしている。上述した節分の行事やなまはげ、また各地の伝統的な祭事は殆どが、この祖霊を迎える行事に端を発している。神道などはこの祖霊とのかかわりを体系化したものともいえるのである。
祖霊の中でも、日本人をもっとも悩ましたのは、荒ぶる魂であった。この荒ぶる魂が、日本人の生業たる農耕に災いをもたらすとき、それは疫病神となった。日本人は世界の中に農耕民族として登場して以来、この疫病神に悩まされ続けてきたのであり、疫病神の怒りを静めるために、さまざまな努力を重ねてきた。京都の祇園祭をはじめ、今日でも日本各地に残っている伝統行事の多くは、その起源を厄払いにもっている。
こうした荒ぶる死霊、あるいは疫病神としての鬼については、日本書紀にも言及がある。斉明天皇七年の条に、天皇の葬儀にあたって、蘇我入鹿の霊が出てくる。
朝倉山の上において、鬼ありて、大いなる笠を着て、喪の儀を臨み観る
入鹿は斉明天皇が重詐する以前の皇極天皇であった時に、大化の改新に際して殺されたために、しばしば天皇に祟りをした。また、少し下った時代の菅原道真は、死後怨霊となって都に出没し、自分を陥れた者たちに祟りをもたらし続けた。
こうした死者の荒ぶる霊が、鬼という形をとって、人々の畏怖の対象となっていったのである。
この荒ぶる霊が今日のような鬼の形をとるに至るのには、仏教の影響が働いているものと思われる。その詳細については、今後の論及の中で明らかにしていきたい。 
 
鬼女

 

日本の伝承における女性の鬼。一般には人間の女性が宿業や怨念によって鬼と化したものとされ、中でも若い女性を鬼女といい、老婆姿のものを鬼婆という。日本の古典の物語、昔話、伝説、芸能などによく見られ、有名なものには信州戸隠(現・長野県長野市鬼無里)の紅葉伝説、鈴鹿山の鈴鹿御前がある。
安達ヶ原の鬼婆(黒塚)も名前は婆だが、鬼女とされる。また土佐国(現・高知県)の妖怪譚を綴った『土佐お化け草紙』(作者不詳)には「鬼女」と題し、身長7尺5寸(約230cm)、髪の長さ4尺8寸(約150cm)の鬼女が妊婦の胎児を喰らったという話があるが、これは本来福島県の発祥である安達ヶ原の鬼婆伝説が土佐に伝わり、地元の話と共に語り継がれたものである。
転じて、鬼のように心の酷い女性も鬼女と呼称される。 
 
鬼神

 

1 きしん、きじん、おにがみとも読む。普通人の耳目ではとらえることができない、超人的な能力をもつ存在で、人間の死後の霊魂や鬼、化け物などをいう。
2 中国では亡霊を鬼(き)といい、特に横死してまつられない亡霊(幽鬼)は祟(たたり)があるとした。鬼神も祖霊などの半人半神の霊的存在、ことに荒ぶる神霊をいったが、仏教伝来後、その羅刹(らせつ)などの影響で怪異な姿の悪鬼に描かれるようになった。
3 死者の霊魂を神として祀(まつ)ったものをいう。これを「きじん」ともいうが、その場合は荒々しい鬼の意として使われることが多い。オニガミということばは恐ろしい神の意とされている。『古今和歌集』の仮名序に「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ……」と書かれている。鬼神という語は中国より伝来したもので、その意義は多様である。祖先または死者の霊魂をいうが、幽冥界(ゆうめいかい)にあって人生を主宰する神ともされており、さらに妖怪変化(ようかいへんげ)ともみられている。中国の古典にはいろいろと鬼神のことが述べられている。たとえば『礼記(らいき)』には鬼神が天地、陰陽(いんよう)あるいは山川と連想されたり、併称されたりしている。そして鬼神を祀ることが礼であるという。この鬼神の語がわが国に移入されたのであるが、鬼は一般に妖怪のように悪者とされている。鬼退治の伝説、昔話が多く語られている。大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)や桃太郎の昔話などでよく知られている。しかしその一方に、戦場に赴く者が「死して護国の鬼とならん」などというのは、中国の鬼神と相通じるものがあり、人の過去帳に載るのを「鬼籍に入る」という漢語表現も使用されているのである。
4 …1800年(寛政12)刊。近世思想史上の一争点であった〈鬼神〉の存在について、人間の生死を〈陰〉〈陽〉二気の集合離散と見る立場から、人間の死後、〈陰〉は〈鬼〉、〈陽〉は〈神〉となって天地に帰ると合理的に説明しているが、一面では超自然の怪異もみとめている。ために後年、山片蟠桃(やまがたばんとう)の《夢の代》の無鬼論、平田篤胤(あつたね)の《鬼神新論》の有鬼論の双方から批判された。…
5 鬼神という言葉は、民間信仰から仏教まで多岐にわたって使用されており様々な意味を持つ。“鬼”とつくように、凶暴な荒ぶる神に対する呼称として使われる。その一方で、死んだ人の魂や祖霊を表し、「古今和歌集」の序文においては死者の霊魂と天地の神霊を意味する言葉としても扱われる。仏教では超人的な能力を持つ存在の総称として、仏道の護法を行うものから悪事を働くものまで多くの存在が“鬼神”とされ、「仁王経」でも『国土乱れん時はまず鬼神乱る。鬼神乱るるがゆえに万民乱る』という記述が存在する。儒教においても「詩経」で超常の神霊、「中庸」では世界を創造した神を意味する言葉として扱われている。  
「鬼神」
『玉勝間』をみると、江戸時代の国学者本居宣長さんは、「鬼神」の二通りの読み方について、「ことばの知識人」として深い関心をもっていたのですネ。
西来寺藏『仮名書き法華経』に「鬼神」八例、うち二例に読み仮名があっていずれも「きしん」と清音で表記されています。妙一本でも「きしん」三例、「くゐしん」五例計八例で同じく清音なのです。
これをうけて、鈴鹿本『今昔物語集』で「鬼神」を検索すると、一七例あり、原本(五月二五日影印本発売予定)には読み仮名が未記載なのですが、これを校訂した岩波大系本では、鈴鹿本該当箇所の巻における「鬼神」の読みは「きじん」一四例、無表記三例となっていて、すべて濁音読みです。
「きしん」と読むべき内容のところの頭注四273六六には「人の目に見えず、超人間の自由自在の力をもつもの。普通は乾闥婆・阿修羅・迦樓羅・緊那羅・摩=羅伽等をさす。」としています。
『栄花物語』一五<大系上四四三I>にも見えます。「十億恒河沙の鬼神まもるものなり」。これを索引でも「くゐじん」としているのです。
ここで角川古語大辞典は眼を開いてくれます。この「鬼神」を両様別項目とし、「きしん」では、「鬼」は死者の霊魂、「神」は天地の神霊の意。超人間的な力を持つ、目に見えぬ神霊。天地万物の霊魂。「きじん」とは本来別であり、『日ポ』(日葡辞書)では「Qixin おに、かみ<悪魔と神と>」「Qijin おに、かみ<悪魔>」と区別し、謡曲でも両者を発音し分けているが、近世には混同されて、ともに「きじん」ということが多くなった。(以下省略)
さらに「きじん」の方は、「ジン」は呉音。1仏語。超人間的な威力・能力を持つ神。仏法を守護する善鬼神と、それを妨害する悪鬼神とがある。2恐ろしい力を持つ鬼〔おに〕。変化〔へんげ〕。悪鬼。3「きしん(鬼神)」に同じ。とあります。
実に詳細に識別区分されていて用例も引かれ、「きしんは邪なし」である『今昔物語集』巻第二七・31の大系四520N「実の鬼神と云ふ者は道理を知て不曲ねばこそ怖しけれ。」をこの諺の最も古い用例として取り上げています。
死者でも自分に縁の深い霊魂は「きしん」なのです。縁の薄い祟りをもたらすものこれが「きじん」なのでしょう。室町時代の『玉塵抄』に「なを妄執の瞋恚とて鬼神魂魄の境界に帰り、我と此身をくるしめて」は「きじん」なのです。
ですから、日本国語大辞典の上記ことわざの「きじんに横道=邪なし」の記述はおかしいのです。ついでに、「鬼神簿」は「きしんぼ」と正しく記載されています。 
鬼の女房に鬼神
[おにのにょうぼうにきじん / 鬼のような男には、情け知らずの鬼のような女が、妻になるということ。]
鬼のように気性が激しく、冷たい心をした男には、それにふさわしい、人に服従しないような強い女が 妻になるということのようですが、 鬼神を単に、それと考えると、結婚しない男のことを言っているようにも感じます。 どうして、こんなに難しいことわざが生まれたのか、音吉は頭をかかえてしまいます。 「鬼の女房に鬼」ではなく、なぜ「鬼神」が女房になるのかが、分かりません。 玉勝間では、女の鬼のことを、鬼神と呼ぶ、と書いてあるようです。
重要語の意味 / 鬼=鬼のように血も涙もない人。鬼は「隠(おん)」を意味し、姿が見えないことをいう。 女房=妻。男性が結婚した場合の相手の女性。 鬼神=「きしん」又は「きじん」と読み、1死んだ人の霊魂、神霊。2荒々しく恐ろしいもの。3化け物や妖怪。 情け知らず=他人に対して、その人の気持ちや立場を考えないこと。 玉勝間=「たまかつま」と読み、本居宣長の随筆集。  
敬遠 (けいえん)
表面はうやまうような態度をして、実際は疎んじて親しくしないこと。また意識して人や物事を避けること。
用例:「あまりに口うるさいので、みんな彼のことを敬遠している。」

(出典)【論語・雍也第六】より
樊遅問知。子曰、務民之義、敬鬼神而遠之。可謂知矣。
(書き下し)
樊遅(はんち)知を問う。子曰(いわ)く、民の義を務(つと)め、鬼神(きしん)を敬(けい)して之(これ)を遠ざく。知と謂(い)うべし、と。
(語注)
○樊遅(はんち):孔子(こうし)の弟子。
○民之義(たみのぎ):人としてのつとめ。
○鬼神(きしん):亡霊、死者の霊魂。
(現代語訳)
樊遅(はんち)が知恵について孔子に尋(たず)ねると、孔子は答えて言った。「人としてすべきことを行い、死者の霊魂のことは、それを敬(うやま)いながらも遠ざけておく、それが知恵ということだ」

「春秋戦国時代」と呼ばれる時代は、前半の「春秋時代」と、後半の「戦国時代」の二つの時代の総称です。どちらも諸侯が勢力を競った時代ではありますが、諸侯の上に形式上は君臨している周王朝の権威は、「戦国時代」にいたると一層ないがしろにされ、世の中は弱肉強食の様相を呈してゆきます。
実力主義の風潮が広まると、諸侯の国はもとより、一般民衆の社会生活においても、様々な価値観が変化しはじめます。そうした中で、周王朝が建国された当時の古き良き時代の世の中を理想として、古代への復古を目標としたのが孔子(こうし)でした。
姓は孔、名は丘(きゅう)、字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)、政治家であり、教育者であり、そして思想家としては儒家(じゅか)の祖と仰がれる孔子は、後代の中国はもとより、韓国や日本など東アジア諸国の思想や学問、政治にも絶大な影響を与えた人物です。
孔子の教えは多岐(たき)にわたり、とても一言では言い尽くせませんが、特色の一つを挙げるならば、「尚古(しょうこ)主義」であったと言えます。「尚古」とは、すなわち「古きを尚(とうと)ぶ」の意で、周王朝の古代の制度の復活を願ったことからも、その姿勢を窺うことができます。
新しいものに価値を見いだすのではなく、古い時代の制度や文化を良しとする孔子は、「述(の)べて作らず、信じて古(いにしえ)を好む。」という言葉を残しています。その意は、「古(いにしえ)の正しい思想を継承して伝えゆき、自分の説をむやみにつくったりはしない。私は、古代の賢人たちの述べた思想の正しさを信じて、それを実践することを好むのだ」ということです。
古代を尊び、すでに行われたことの中にすぐれたものを見いだす、という姿勢は、同時に、根拠の無い想像や迷信を戒める姿勢とも重なります。
孔子は「怪力乱神を語らず」であったと言います。孔子が話題にしなかった「怪(かい)・力(りょく)・乱(らん)・神(しん)」とは、怪奇なこと、力をたのんだ武勇伝、世の中や倫理の乱れ、神怪などのことです。孔子は、現実に存在すべきでないことや、存在するかどうか分からないものについては話そうとしませんでした。
また、あるとき、孔子の弟子の一人、季路(きろ)が、「鬼神(きしん)」について、孔子に尋(たず)ねました。中国でいうところの「鬼(き)」とは、日本の鬼(おに)のことではなく、死者・亡霊のことで、「鬼神」とは死者の霊魂のことです。
季路が尋(たず)ねて曰く、「先生、鬼神(死者の霊魂)を祀(まつ)り仕(つか)えるには、どのようにしたらよろしいのでしょうか」すると孔子が答えて言うには、「まだ、生きている人間に仕えることすら満足にできないのに、どうして鬼神(死者)に仕えることができるだろうか」と。
そして、さらに季路が「では、死ぬということは、どのようなことでありましょうか」と尋(たず)ねると、孔子曰く、「まだ、生きるということがどういうことなのか満足に分かっていないのに、どうして死ぬということが分かろうか」。
ことほど左様(さよう)に、孔子は現実のことにのみ目を向けた思想家、政治家でした。しかし、孔子は「鬼神」の話題をしなかったとはいえ、死者の霊魂を無視したり、軽蔑したりした、というわけではありませんでした。そのあらわれとして、樊遅(はんち)という弟子には、こう述べています。
「鬼神(きしん)を敬(けい)して、之(これ)を遠ざく」
鬼神(死者の霊魂)は存在するかどうか、定かではない。だから、そうしたことにとらわれすぎて、現実のことがおろそかになってはいけない。鬼神を敬いながらも、それに近寄って深入りはせず、生きている人として、日々なすべきことを行うべきなのだ、孔子はそう教え諭(さと)したのです。
孔子の、「敬鬼神而遠之(鬼神を敬して之を遠ざく)」という言葉を縮めて、日本では「敬遠」と言い、表面的には敬(うやま)いながら、実際には疎(うと)んじて親しくしないこと、 また意識して人や物事を避けること、を言うようになりました。
「敬遠」という言葉は、常に現実に向かい合おうとした孔子のあり方を端的に示しています。定かではないことに直面したときには、軽々しく妄信(もうしん)せぬよう戒めながらも、無造作(むぞうさ)に排斥(はいせき)することもしない。そうしたあり方は、バランスのとれた「中庸(ちゅうよう)」を重んじた孔子ならではで、まさしく「知」と呼ぶに相応(ふさわ)しい、しなやかな態度であった言えるでしょう。 
マダラ鬼神
マダラ鬼神とは、漢にては摩多羅(魔多羅)の字をあてるも、その源流は、印度の外金剛部の神にして、観世音菩薩の主宰し玉う『補陀洛浄土』の守護神である。
当山開創の砌、法輪独守居士は、延命観世音菩薩を捧持して東支那海を渡航したとき、風波にわかに荒く、大船正に海中に没せんばかりであったが、法輪独守居士の『観音の称号』をとなえ奉る声に応じて摩多羅神現れ玉い、船のへさきに立って波を静め航路を開いたと伝えられている。
マダラ鬼神祭の縁由
1、序 章
文明3年(1471)6月24日、上杉顕定(あきさだ)の部将長尾景信(かげのぶ)の軍勢、古河城を攻撃して古河公方足利成氏(こがくぼうあしかがしげうじ)を破り古河城を占領す。成氏(しげうじ)は弟弘尊(ひろたか)以下一族とともに千葉に逃れ、千葉孝胤(たかたね)にかくまわれる。
2、古河城の奪回
文明4年2月3日、結城城主結城氏広(うじひろ)の援兵を得て弟弘尊(ひろたか)率いる自軍と併せて15,000の兵が、夜陰利根川を渉って古河城を奇襲し遂に奪還に成功した。成氏(しげうじ)は長尾方の敗兵を追って裏筑波山系の雨引山を囲んだ。
3、雨引山楽法寺の焼失
裏筑波山系の雨引山に長尾勢を追い上げた足利勢は、四方から火を放って長尾勢を攻め立てた。当山はこのため炎上し、本尊延命観世音菩薩(像高175cm)は自ら光明を放って観音堂前の椎の老木に難を避けられた。火収まり両軍退去した後、蝟集(いしゅう)した信者は本尊仏の安泰に随喜の涙を流した。
それから幾日か後のこと、夜毎多数の鬼が雨引山上に集まり、材木を運び工事をしているという噂が立った。夜になるのを待ち兼ねるように多数の覆面をした職人が現れて、仮堂を制作していたのである。17日目にして仮本堂が建った。その鬼形の人々を統率したのが馬上姿の鬼神であり、白馬に跨(またが)って覆面の鬼の職人を指揮していた。
これを直視した土地の人々はその異形さに驚き、この鬼の大将こそ天竺(てんじく)のマダラ鬼神であろうと噂し合った。この噂の根元は当山の住持吽永和尚(うんえいわじょう)であったとも伝えられ、或いは吽永(うんえい)の師の坊である吽賀阿闍梨(うんがあじゃり)であったかも知れない。
然し当山にはそれを伝える確実な証拠は何一つ残っていない。
兎(と)に角(かく)、覆面し或いは面を被った職人集団が、無償で仮本堂を建設したという説話が生まれ、これがマダラ鬼神祭の原点であることだけは確かなようである。
ただ謂(い)えることは、日本国内ではマダラ鬼神の祭礼を行っているのは京都の太秦(うずまさ)の広隆寺(こうりゅうじ)と当山のみであり、広隆寺(こうりゅうじ)のそれはマダラ鬼神が鬼面を着け牛に乗り唐風(からふう)の衣装を着けていることに対し、当山のマダラ鬼神は馬に乗り弓箭(きゅうせん)を帯し破魔矢(はまや)を天空に放つという違いが有ることである。
それに当山中興第一世の吽永(うんえい)は吽賀阿闍梨(うんがあじゃり)の弟子であり、吽賀(うんが)は京都の醍醐三宝院(だいごさんぼういん)の阿闍梨(あじゃり)であったということを考えれば、「日本二大鬼祭の一」と位置付けられるマダラ鬼神祭が、当山に於いて実施されるという因縁も判然といたすのである。
この祭礼は、それ以後断続的に継承されて江戸時代にまで続いて来たが、江戸時代初期にいたり当山中興第十三世尊海僧都(そんかいそうづ)が出るに及び、漸く定着するに至った。
尊海僧都(そんかいそうづ)は武蔵国河越六万石の城主松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)侯の二男にして、寛永18年当山住職に就任するに当たり、信綱(のぶつな)侯より当山に内帑金(ないどきん)壱千両を贈られて祭祠料とされた。 依って寛永19年3月、中断していたマダラ鬼神祭を復興した。その際信綱(のぶつな)侯夫人は御自身の衣装を袈裟に改造して当山に納められた。
第二次大戦後の昭和27年、マダラ鬼神祭復興に当たって此の袈裟を鬼神に被着させて、その意義を世に訴えたのである。
祭典の開始は花火の轟音を以て合図となし、古式床しい裃(かみしも)姿の侍(さむらい)を従えたマダラ鬼神が馬上凛々と鬼達を従えて大石段を駈け登り、境内の竹矢来(たけやらい)の中で鬼達の踊りと、鬼神の破魔矢(はまや)の発遣(はっけん)や柴燈護摩(さいとうごま)と太鼓の合奏の裡(うち)を、大祇師(だいぎし)と称する僧侶の大太刀の修抜(しゅうばつ)が行われ、厄災を攘(はら)う光景は圧巻である。正に日本二大鬼祭の名に恥じない。 
 
鬼神論とは何か 有鬼と無鬼 

 

1 鬼神の住むところ
鬼神はどこに住むのでしょうか?鬼神の住処(すみか)はまず何より人間の言語です。そして言語とともに人間の作る建造物がまさしく鬼神の目に見える住処となります。それは霊廟であり、日本では神社です。このような問いと答えとは奇妙に聞こえるかもしれません。
しかしたとえば『朱子語類』の巻三を構成している鬼神をめぐって繰り返されている朱子と門弟間の問答の累積を見た人ならだれでも、鬼神が人間の、ことに儒家知識人の言説上に、その言語のうちに住んでいることを直ちに納得されるでしょう。まさしく私に鬼神についてのこのような問題関心を抱かせたのは朱子たちの鬼神をめぐる言説なのです。なぜ彼らによってこのように繰り返し問われ答えられる形で鬼神が論じられているのか、しかもその問答がなぜ朱子学説の重要な構成要素をなすものとしてあるのか、という疑問からなのです。
そしてもう一つ私に鬼神をめぐる問題関心を抱かせたのは、荻生徂徠の次のような言葉です。
「鬼神の説、紛然として已まざる所以の者は、有鬼・無鬼の弁のみ。それ鬼神なる者は、聖人の立つる所なり。あに疑いを容れんや。故に、鬼なしと謂う者は、聖人を信ぜざる者なり。」(『弁名』天命帝鬼神)。
徂徠はここで、「鬼神なる者は、聖人の立つる所なり」といっているのです。これも簡単には理解できない言葉です。「聖人の立つる所」とはいったいどういうことなのだろうか。徂徠の学説と儒家鬼神論の理解へと私を促した動機の一つをなしているのは、この徂徠の言葉であったのです。この言葉をめぐっては後に詳しく申し上げますが、ここでは最初に私が提示した「鬼神の住処」をめぐる問いと答えにかかわる限りで簡単にのべておきましょう。
徂徠における聖人とは、広い意味での文化体系を具えたものとしての人間世界の制作者の謂いです。聖人とは同時に歴史的古代の先王なのです。聖人=先王の制作になる文化体系を徂徠は「礼楽刑政」という言葉でいいます。このような聖人概念の理解を前提にして考えれば、「鬼神なる者は、聖人の立つる所なり」という徂徠の言葉は、鬼神とは、聖人の制作になる「礼」の体系、すなわち祭祀体系によってはじめて存立するにいたったのだ、ということを意味するはずです。人間の文化体系をこの祭祀体系をも含めて考え、そして文化体系とは同時に言語的表象の体系でもあると考えれば、人間にとって鬼神が存立するにいたるとは、鬼神が人間の文化体系に、あるいは人間の言語体系に住処をえるにいたったということを意味するはずです。
鬼神とはどこに住むのかという問いに、その住処は人間の言語であるというように答えることは、以上のような私の疑問と理解から導かれたことです。鬼神の住処は人間の言語であるということは、いいかえれば鬼神というのは人間の言説上の存在だということです。だから儒家の鬼神論というのは、鬼神を主題として言説上に存立せしめた儒家の議論が鬼神論だということです。鬼神が有るとすれば、儒家言説上に居るのです。鬼神が無いとすれば、儒家言説から消されているということです。それは決して言説外の実体的な鬼神の有無にかかわる問題ではないのです。ところが人々は鬼神をめぐる問題を言説外の実体的鬼神をめぐる問題だと考えてきました。実はそう考えることから、徂徠がいっていたように、紛然として已むことのない有鬼・無鬼の議論が生起することになるのです。人間の言語のうちにはじめて住処をえた鬼神を、あたかも言語外に実在するかのように考えるところから、まさしく幻影(fantom)の鬼神を追って尽きることのない有無の議論が生じてくることになるのです。 
2 鬼神論と言説論的転回
鬼神が人間の言語に住むようになるには、鬼神をめぐる見方の転回を経由しなければなりません。すなわち鬼神が人間によって問われる存在にならなければなりません。この鬼神の言説化というべき転回の原初的なあり方を示しているのが、『論語』先進篇における孔子と子路との間でなされた周知の問答です。
「季路鬼神に事えんことを問う。子曰く、未だ人に事うること能わず、いずくんぞ能く鬼に事えん。敢えて死を問う。曰く、未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。」(先進篇)
鬼神と人間の死、あるいは死後がここではじめて問われたのです。この問答は、祭祀的共同体的な人間の生活のうちに問われることなく存続していた鬼神(祖霊)が、その祀り方を問うという形ではじめて言説上に存在することになった原初的な事件を伝えるものです。それは鬼神が共同体的な生における自然的な存在から人間の言説上の存在になるという一つの重要な転回を示す事件です。そしてこの転回を通じて、孔子の教説もまた成立するといえるのです。この転回とは、自然的な事態への人間的な問い直しであります。『論語』に示されている孔子教団における問答とは、問われることなく継承されてきた儀礼習俗の意義を問い直すことからなる言説化(教説化)の作業だといえます。儀礼習俗が人間社会にとってもっている意義が問い直されることを通じて孔子の教説、すなわち儒家の教説は成立するのです。この儒家教説の成立を劇的に示しているのが、上の鬼神をめぐる『論語』の問答です。
このように鬼神が人間の言説上に住むようになるには、いいかえれば儒家の教説が成立するようになるには人間は一つの転回を経る必要があったのです。この転回を言語論的転回(linguistic turn)に因んで私は言説論的転回と呼びます。と同時に、鬼神をめぐる事態をこのように見うるためには、私たち自身における言説論的な転回を必要とします。すでにいいましたように、鬼神論とは言説上に主題として鬼神を存立せしめた儒家の議論であり、鬼神が有るといえば儒家言説上に居るのであり、無いといえば儒家言説上から消されたのであると見うるためには、われわれが言説論的な転回をする必要があるのです。われわれの視点を言説論的な立場へと転回させる必要があるのです。
「言説」を「事件」と見る言説論的な立場について、私はすでに『「事件」としての徂徠学』でのべました。言説が事件であるとは、それが言説空間的世界に向けて何かが事件性をもって言い出されたことによります。言説の意味とはしたがって、何が新たに言い出されたかという、言説上の差違への注目から、さらには言説空間的な世界との関わりから導かれねばなりません。ではこの言説論的な立場から、儒家鬼神論とはどのように考えられるのか。 
3 鬼神の解釈的言説
朱子の鬼神観は『中庸章句』「鬼神之為徳」章の注釈文中にはっきりと示されております。
「程子曰く、鬼神は天地の功用にして、造化の迹なり。張子曰く、鬼神とは二気の良能なり。愚おもえらく、二気をもっていえば、すなわち鬼とは陰の霊、神とは陽の霊なり。一気をもっていえば、すなわち至りて伸ぶるものは神たり、反りて帰するものは鬼たり。その実は一物のみ。」(第十六章)
ここにしめされているような朱子の鬼神観について、朱子研究者たちは鬼神を陰陽という自然哲学的概念に哲学的に昇華したものだと評してきました。あるいはこれを無鬼論の哲学的な表現であるとみなしてきました。しかしこの朱子の注釈の言語をよく見れば、これは鬼神を陰陽二気論という自然哲学的言語をもって言い換えたものだということが分かります。いわば鬼神を自然哲学的に解釈した言語からなるものです。もちろんこの自然哲学的な解釈はそれとして興味あることだし、ここから朱子の気的自然理解への問いも生じます。しかしここでは朱子鬼神観の言説構成のあり方、それがいかなる言語からなるものかに注目したいのです。朱子の鬼神論とは、鬼神を陰陽二気論的な解釈コードで読み解いた解釈的な言語からなるものです。
鬼神についての解釈的言語からなる朱子の鬼神論的言説から解釈対象としての鬼神は無くなりません。朱子の言説上に常に解釈される主題として鬼神は存在します。したがってこれを無鬼論的言説だと言い切ることはできません。しかし、さりとて朱子は鬼神の実在をいうわけではない。ですから、朱子の鬼神説とは有鬼とも無鬼ともつかないもの、鬼神の有無をいわないものです。私はこれを解釈的鬼神論と呼んでいます。ところで朱子の解釈的鬼神論とはどのような意味をもっているのでしょうか。 
4 鬼神言説化の光景
『朱子語類』の「鬼神」を主題とした第三巻は朱子と門弟たちとの間でなされた鬼神をめぐる執拗な問答によって構成されています。門弟たちが朱子に執拗に問い続けたのは何でしょうか。それは祖先祭祀の根拠づけをめぐってです。たしかに朱子の陰陽二気論的鬼神説は、祖霊と子孫との祭祀の場における合一をそれなりに解釈し、説明します(『中庸章句』十六章)。しかしこの朱子の自然哲学的な解釈は究極的には祖霊への信仰を危うくするのではないか。それこそ師に執拗に問い続けた門弟たちの心裡にある危惧です。その危惧には己れの死後をめぐる実存的な問いも含まれているでしょう。
朱子は門弟によるこの執拗な問いに対して、終始、理気論的な哲学的レベルでの回答を続けます。決して朱子は門弟たちの内心の危惧に安心を与えるような回答はしません。そのことがいっそう弟子たちを不安にさせ、彼らにさらなる質問を続けさせるのです。これはすさまじい言説的な光景です。何がすさまじいのか。それは鬼神が知識人の言語に住むことになる、そのことから派生する問題のすさまじさです。
鬼神は朱子によって哲学的に解釈され、彼の哲学的言説の形をとってその言説上に住むことになります。朱子の鬼神説とは、鬼神を哲学的に変形して自己の言説上に住まわせることにするという鬼神言説化の徹底したあり方を示すものだと思います。それは学者の言語が鬼神的存在を言説化する極致を示しています。しかしこの言説化は鬼神が共同体的な生活にもっていた根を断ち切ってしまいます。自然的鬼神が言説的鬼神になるということはそういうことです。それこそ門弟たちを不安にさせ、彼らを執拗な問いへと向かわせた原因です。
『論語』における孔子と子路との問答が、鬼神の言説化への原初的な光景を示すものだとすれば、『朱子語類』や『朱子文集』における朱子と門弟との問答は鬼神の言説化の究極的な光景を示すものだとみなされます。
ところで鬼神の言説化は、すでにいいましたように、鬼神を言説上に主題化しても鬼神を消し去ることはしません。儒家の鬼神説というのは、鬼神を自己の言説上に住まわせることによって鬼神に新たな意味づけを与える言説でもあるのです。それは鬼神祭祀の再編なり、再形成を意味しています。この方向は、孔子における鬼神の言説化とともに始まることは、『礼記』における諸篇に示されている通りです。儒家鬼神説というのは、鬼神を自己の言説に住まわせながら、鬼神とその祭祀に新たな意味づけを与え、その祭祀を再編していくものです。ある飛躍を覚悟していえば、朱子における鬼神の究極的な言説化とは、帝国の学者官僚による鬼神祭祀のトータルな再編への道を示すものではないでしょうか。
[付記]私がこのように考えるのは、近代日本の国家神道は鬼神を国家的言説の上に住まわせたものだと考えているからです。国家神道の成立に後期水戸学を称される儒家の言説が大きな役割を果たします。その点については徂徠の鬼神説とともに後にふれます。英霊とは死霊を国家的言説の上に住まわせ、変形させたものです。国家は英霊を必要とします。だからこそ日本の首相は国際的な非難にもかかわらず靖国神社への参拝を続けるのです。 
5 無鬼論的言説
儒家の鬼神説において無鬼論とみなされるものがあるとすれば、それはどのようなものでしょうか。いま伊藤仁斎(1627?1704)が『論語』先進篇のあの問答に付した注釈を見てみましょう。孔子が子路の問いにあのように答えたのは次のような考えからだと仁斎はいうのです。
「其の意蓋し人に事ふることを務めて鬼神に諂うこと勿かれ、生存の道を尽くして死の裡を求むること勿かれと曰うがごとし。夫子之を抑えること深し。蓋し仁者は力を人道の宜しき所に用い、智者は其の知り難き所を知ることを求めず。苟も力を人道の宜しきに用いて、又能く生存の道を尽くすときは、則ち人倫立ち、家道成る。学問の道において尽くせり。」(『論語古義』)
ここで仁斎は人間の行為と知識とをはっきりと限定しようとしています。仁者とはみずからの行為を人倫的世界の生存の道に限定し、そこに全力を尽くすものの謂いであり、智者とは人間にとって知り難きことを敢えて知ろうとしないものの謂いだと仁斎はいうのです。これはカントの認識批判におけると同様な、現世的人間の行為と認識との自己限定をいうものです。鬼神の問題は、この限定された人間の世界の外に置かれることになります。こうして人間の行為と知識をめぐる儒家的言説の上から鬼神は主題としても消えてなくなります。儒家言説における無鬼論とはこのような言説であると私は考えます。
しかしこの無鬼論的な言説は祖先祭祀をも否定してしまうのでしょうか。しかし家族道徳を基底にしている儒家の道徳思想からすれば、祖先祭祀の否定はありえません。仁斎における無鬼論は祖先祭祀を否定するというよりは、それを倫理的な祖先への崇敬に再編成するというべきでしょう。仁斎にとって親への敬愛の延長上に祖先への姿勢もあるのだし、そうでなければならないのです。孔子が子路に答えた言葉はまさしくそのことを意味すると仁斎はいうのです。『論語』の本来の意味(古義)を仁斎はそのように読みとるのです。 
6 有鬼論的言説
儒家における無鬼論的言説を仁斎の鬼神説に私は見ました。では有鬼論的言説はだれにどのような形で見出されるのでしょうか。荻生徂徠(1666?1728)が書いた一つの文章があります。それは『徂徠集』にある「私擬対策鬼神一道」という文章です。これは人間の社会的共同体への視点をもった徂徠の思想がよく現れた文章です。やや長いが以下に引きます。
「聖人の未だ興起せざるに方りてや、其の民散じて統無く、母有ることを知りて、父有ることを知らず。子孫の四方に適きて問わず。其の土に居り、其の物を享けて、其の基むる所を識る莫し。死して葬むること無く、亡じて祭ること無し。鳥獣に羣りて以て?落し、草木と倶に以て消歇す。民是れを以て福い無し。蓋し人極の凝らざるなり。故に聖人の鬼を制して以て其の民を統一し、宗廟を建てて以て之れに居き、丞嘗を作りて以て之れを享る。・・・礼楽政刑是れよりして出ず。聖人の教えの極なり。」(『徂徠集』巻十七)
徂徠はここで聖人の制作によって人間共同体が成立する以前の、いわば自然状態としての人間の存立のあり方を描き出しております。これはルソーの『社会契約論』における社会を形成する以前の人間の自然状態の描写を思わせる文章です。ただ人間社会の成立は徂徠にあっては社会契約によるのではなく、聖人(先王)の制作によります。ところで徂徠は人間社会はまず祭祀的共同体として成立すると考えます。上の文章で徂徠は、聖人が「鬼を制することで民を統一した」といっています。聖人が「鬼を制する」とは、すでに『「事件」としての徂徠学』で触れましたように、祭祀対象を明確にし、祭祀儀礼を制定することです。この鬼神祭祀を通じて人間社会はまず祭祀的共同体として成立すると徂徠はいうのです。
徂徠は人間の社会的な存立のあり方に注目した思想家です。この徂徠によってはじめて鬼神は人間の共同体的存立をめぐる言語をもって語られることになったのです。人間の社会的共同性の成立にとって鬼神祭祀が決定的な意味をもつとすれば、鬼神とその祭祀が否認されることはありません。鬼神は人間の共同体を語る言語の上に己れの住処をもつことになります。鬼神ははっきりとこの言語の上に存在します。私が有鬼論的言説というのは、このような言説をいうのです。 
7 徂徠鬼神説と国家神道
徂徠鬼神説において人間共同体の形成にとってもつ鬼神祭祀の意義を認識するものは聖人です。そしてまたこの聖人に政治論的に一体化する為政者であり、認識論的に聖人に一体化して考える儒家思想家です。徂徠の言語はこのようにして成立します。たしかに徂徠の言語は、さきにルソーを引き合いに出しましたように近代の社会思想的な言語との類似性をもっています。しかしここでは、制作者としての聖人を前提にする徂徠的言語は、容易に政治的言語に転形するものであることをいっておきたいと思います。
さきにも触れました後期水戸学に国家神道への視点が成立するにあたって、徂徠学が論理形成上の示唆を与えたと私はみなしています。19世紀の中期、欧米諸国による開国通商の要求によって動揺した徳川末期日本にあって、危機の政治思想として登場したのが後期水戸学です。本来、水戸学は明の亡命学者朱舜水の指導下に形成された朱子学です。徳川後期社会で政治思想として自らを再形成していった水戸学を、初期のものと区別してわれわれは後期水戸学と呼んでいます。この後期水戸学の代表者会沢正志斎に『新論』という著書があります。この書は危機の時代の政治的活動家(幕末の志士)たちに絶大な影響を与えました。この書で会沢は、対外的危機に対応するにあたってもっとも重要なのは「民心の統一」だといいます。では民心を統一するためには何が必要なのか。それは祭祀を通じての民族的な統一であると会沢は答えます。ここで会沢は古代日本における天皇による国家の神道的な祭祀的統一を回顧しながら、その再興を説くのです。ここには、やがて明治政府によって形成される国家神道のアウトラインがすでに明確に引かれています。と同時に、私はここに徂徠鬼神説のはっきりとした影を見出すのです。
仏滅後二千五百年を経た今日の台北で仏舎利が多くの信者を集めておりますが、鬼神が人間の言語に住むようになって同じく二千五百年余を経過した今日、鬼神は己れの住む人間の言語を通して私たちにますます大きな力を振るっているようであります。 
 
鬼の故事来歴

 

「おに」の語源
1 「隠(おん)」の字音から転じた
「おに」の語源説で最も古いのは、日本最初の百科辞典とも言える『和名類聚抄』である。
鬼和名於爾 或説云、隠字音於爾訛也、鬼物隠而不欲顕形、故俗曰隠也
鬼は物に隠れて形が顕れることを欲しないので俗に「隠(おん)」といい、それから「鬼(おに)」と言うようになったというのである。一般にはこの説が有力とされている。
2 「陰(おん)」の字音から転じた
しかし、貝原益軒(『日本釈名』)、新井白石(『東雅』)は、「陰(おん)」説を採る。陰(おに)は音を以って訓とせしなり。いける人は陽なり。死せる人は陰(おん)なり。(『日本釈名』)
大和岩雄は『鬼と天皇』の中で、陰と隠は死にかかわる表記として同じに使われているのだから、陰と隠の二つの意味の「おん」が「おに」に転訛したと、1と2の折衷説を述べる。
3 日本古代の固有言語
3の説は、折口信夫が『信太妻の話』の中で、「一体おにという語はいろいろな説明が、いろいろな人で試みられたけれども、得心のゆく考へはない。今、勢力を持っている「陰」「隠」などの転音だとする漢音語源説はとりわけこなれない考えである。」と、漢字の転音であるという説を批判し、日本の古代の信仰の方面では、「かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、ものとの四つが代表的なものであった(『鬼の話』)」として、「おに」は日本古代の固有の語であるとしたものである。
これに対し大和岩雄は、「かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、もの」は、平安時代なら適用するが、それ以前は、「かみ」「たま」「もの」の三つであって「おに」は入らない。(『鬼と天皇』)と批判している。
4 オホビト(大人)のこと
4も折口が示した説(『日本芸能史ノート』)で、オは大きい意。ニは神事に関係するものを示す語。オニは神でなく、神を擁護するもの。巨大な精霊、山からくる不思議な巨人をいい、オホビト(大人)のこと(『日本国語大辞典』)とするが、鬼は巨大なイメージだけではない。 
漢字「鬼」
「鬼」という字の解釈は様々であるが、死体をかたどった象形文字に、後に賊害の意味を持ち音を表す「ム」の部分が加わったものとみられている。中国においては、「鬼(き)」は死者の霊魂を意味する。人間は陽気の霊で精神をつかさどる魂と、陰気の霊で肉体をつかさどる魄(はく)との二つの神霊をもつが、死後、魂は天上に昇って神となり、魄は地上にとどまって鬼となると考えられていた。 
「鬼」の字の日本での初見
現存遺跡では法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の中の「鬼前大后」(聖徳太子の母の穴穂部間人皇女のこと)とあるのが「鬼」の字の初見で、飛鳥時代から「鬼」の字が用いられていたことを示す。日本の文献に「鬼」字が初めて使われたのは、『出雲国風土記』で、大原郡(おおはらのこおり)阿用郷(あよのさと)の名称起源を説いた文である。
「昔或人、此処(ここ)に山田を佃(つく)りて守(も)りき。その時目一つの鬼来りて佃(たつくる)る人の男(をのこ)を食(くら)ひき」と書かれている。「目一つの鬼」という鬼の形態と食人性、山との関連を示しており興味深い。 
和訓「おに」
漢字の「鬼」という字が「おに」という和訓を獲得し、それがほぼ定着したのは平安時代末期のころで、それまで『日本書紀』『万葉集』などでは、鬼の字を「もの」「しこ」「かみ」と訓じていた。
なぜ「おん」ー「おに」になったのか
なぜ「陰」「隠」の「おん」が「鬼(もの)」にとってかわったかについて、大和岩雄は「晴明や保憲は、普通の人には見えない異界(陰・隠の世界)のもの(鬼)たちを見ることができ、自らも「隠形の術」をおこなっている。こうした陰陽師とかかわる「おん(陰・隠)の鬼(もの)」が表記で「物・者」と区別されただけでなく、言葉も区別され、「もの(物・者)」に対して「おん―おに(鬼)」といわれるようになったのだろう。(『鬼と天皇』)」と述べている。
「もの」とよむ「鬼」
折口信夫は「極めて古くは、悪霊及び悪霊の動揺によって著しく邪悪の偏向を示すものを『もの』と言った。万葉などは、端的に『鬼』即『もの』の宛て字にしてゐた位である(『国文学』)」と書いている。
この「もの=精霊=鬼」とみる折口説に対して、大野晋は「『もの』という言葉」と題した講演で、『もの』という言葉は『精霊』という意味だけで使われたのではないと批判し、「『もの』という精霊みたいな存在を指す言葉があって、それがひろがって一般の物体を指すようになったのではなく、むしろ逆に、存在物、物体を指す『もの』という言葉があって、それが人間より価値が低いと見る存在に対して『もの』と使う、存在一般を指すときにも『もの』という。そして恐ろしいので個々にいってはならない存在も『もの』といった。古代人の意識では、その名を傷つければその実体が傷つき、その名を言えば、その実体が現れる。それゆえ、恐ろしいもの、魔物について、それを明らかな名で言うことはできない。どうしてもそれを話題にしなければならないならば、それを遠いものとして扱う。あるいは、ごく一般的普遍的な存在として扱う。そこにモノが、魔物とか鬼とかを指すに使われる理由があった。」と述べて、「鬼」を「もの」と訓じていた理由を説く。
藤井貞和も『古事記』の「物」表記三四例をあげ、大部分が物象一般だとして大野同様に折口を批判しているが、その中で僅かに「得体が知れない存在物」で『物』としかいいようのないものがあることを認めている。(『物の語り ー モノは『霊魂』か『物象』か』)
大和岩雄は、藤井の言う「得体が知れない存在物」を「霊魂に近い」ものとみて、物象と霊魂の両義性が「もの」にあるという考えを示している。そして、この両義性が、人が作った「物」にも霊魂が宿るという日本人的な発想を生み、付喪神(つくもがみ)を造ったと説明している。
ヨーロッパ人は、「物」と「霊」をはっきり区別している。だから人工的に作られた「物」は妖怪にはならない。(『鬼と天皇』)
同じように、荒俣宏は『妖怪草子』の中で、「日本と違って西洋では、道具を人間が作り出しているという意識が非常に強い。だから人工物には霊が宿らないのです。」と述べ、小松和彦は付喪神について、「そういうものはかなり昔からあったと思います。ものに対する日本人の感性が、相当前から育んで来たイメージでしょう。」と語っている。
付喪神と呼ばれるこの「神」は、百鬼夜行絵巻に描かれているように「鬼(もの)」である。
「しこ」とよむ「鬼」
『万葉集』では、巻二、百十七番の舎人(とねり)親王が舎人郎子をおもう歌で、「大夫や片恋せむと嘆けども鬼(しこ)の益らをなほ恋ひにけり」と「鬼」を「しこ」と読ませている。
「鬼」は「醜」に通用させたもの(『新編日本古典文学全集 万葉集』)であるとされ、馬場あき子は「鬼の面貌が「醜」につながることが、一般的な訓をみちびき出しているこの例は、中国的な〈鬼〉の概念がすでに広く流入していたことを思わせる。(『鬼の研究』)」という。
一方、『現代語対照 万葉集(上)』では、しこ(鬼・醜)について
「本集のシコの用字例には「鬼」の字が五例もあり、『鬼』は一方でモノとも訓まれているので、シコは、異郷・霊界から出現するモノ(精霊)と同義に考えられたようである。それが醜く、けがらわしく、うとましいさまをいうようになり、さらに自嘲的な表現にもなったのであろう。」と注釈を付けている。
また、大国主の別名は「あしはらしこを」といい、記は「葦原色許男」、紀は「葦原醜男」と書くが、西郷信綱はこの「しこを」について、「彼を鬼類・魔性のものと見なしていたためで、たんに醜い男ということではない。(『古事記注釈』)」と述べている。大和岩雄は大国主神の名前の変化に注目している。大国主は記・紀では大穴牟遅(おほなむぢ)神とも名乗るが、「「根の国」(中略)に行ったとたん、この大穴牟遅の名は葦原色許男に変わっている。根の国には黄泉の国のイメージがあり、(中略)この国から逃げて黄泉比良坂(よもつひらさか)を抜け出ると、大国主に名を変えている。大国主神は、黄泉国にいるときにのみ「しこを」を名乗っており、「しこめ」は「黄泉(よも)」がつくように、黄泉国にいる「しこめ」である。いずれも「しこ」は死の国にかかわっている。 「しこ」の漢字表記に「鬼」を用いたのは「しこ」が死の国とかかわる言葉だったからであろう。」と推論している。
「かみ」とよむ「鬼」
折口信夫は『信太妻の話』の中で、「聖徳太子の母君の名を、神隈とも鬼隈とも伝へて居る。漢字としての意義は近くとも、国訓の上には、鬼をかみとした例はない。ものとかおにとかにきまってゐる。してみれば、此は二様にお名を言うた、と見る外はない。此名は、地名から出たものなるは確かである。基地は、畏るべきところとして、半固有名詞風に、おにくまともかみくまとも言うて居たのであらう。」と言う。
馬場あき子はこの文章を引いて、「これによれば、鬼はけっしてかみとは呼ばれなかったが、「畏るべきところ」として近似した感銘から、おにをかみともいう場合があったのではないかという推測で、その例証として「鬼隈」と「神隈」と二様に呼ばれた人名があげられているが、この名称については残念ながらいまだに検証できないでいる。」と述べるが、これは前にあげた法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の中の「鬼前大后」と関係があるのではないかと思う。
このように「畏るべきところ」として「おに」と「かみ」が近似するという説の他に、次の『日本書紀』の「鬼」の検討から、「おに」は「かみ」の蔑称であるという考え方がある。 
『日本書紀』に見られる「鬼」
『日本書紀』で雷以外の鬼関係の記事を挙げる。
1 「神代紀」で高皇産霊(たかみむすび)が瓊々杵(ににぎ)を葦原国に派遣しようとした時。
彼(そ)の地(くに)に、多(さは)に蛍火の光(かがや)く神、及び蠅声(さばへな)す邪(あ)しき神あり。復(また)、草木咸(ことごとく)に能(よ)く言語(ものいふこと)あり。故、高皇産霊(たかみむすび)尊、八十諸(やそもろ)神を召し集(つど)へて、問ひて曰(のたま)はく。「吾、葦原中国の邪(あ)しき鬼(もの)を揆(はら)ひ平(む)けしめむと欲(おも)ふ。当(まさ)に誰を遣(つかは)さばよけむ」
ここでの「鬼(もの)」とは(1)「蛍火の光(かがや)く神」、(2)「蠅声(さばへな)す邪(あ)しき神」、(3)「咸(ことごとく)に能(よ)く言語(ものいふこと)」がある「草木」のことであり、「鬼(もの)」のなかに「神」が含まれていることに注目すべきである。
2 「神代紀」で、派遣された経津主(ふつぬし)神・武甕槌(たけみかづち)神のニ神が大国主の国譲りのあとで、「是に、ニの神、諸(もろもろ)の順(まつろ)はぬ鬼神(かみ)等を誅(つみな)ひて、果(つひ)に復命(かへりことまう)す」とある。馬場あき子は、この「誅(つみな)ひ」という対象が先住者の国つ神にあたり、先住民族の「かみ」に〈鬼〉字をあてたことを、「強い民族意識を表だてつつ討伐の記事にみちている『日本書紀』」の鬼の概念だという。(『鬼の研究』)
3 「景行紀」には、天皇が東国遠征に向かう日本武尊(やまとたけるのみこと)に対して
山に邪(あ)しき神あり、郊(のら)に姦(かだま)しき鬼(もの)あり。衢(ちまた)に遮(さいぎ)り径(みち)を塞(ふさ)ぐ。多(さは)に人を苦(くるし)びしむ。其の東の夷(ひな)の中(うち)に、蝦夷(えみし)は是(これ)はなはだ強(こわ)し。
と言う。馬場あき子はこの「山に邪(あ)しき神あり、郊(のら)に姦(かだま)しき鬼(もの)あり」を、「鬼は邪神と対をなす同じ系列のものとして認識されている」と書く。
そして、その考えがあるからこそ、2の大国主の国譲りのあとで「諸(もろもろ)の順(まつろ)はぬ鬼神(かみ)等を誅(つみな)ひ」というように、「かみ」に「鬼神」をあてるのだと記している。
また、大和岩雄は、この景行天皇の言葉の「姦(かだま)しき鬼(もの)」とは蝦夷のことを指しているとして、「『日本書紀』が辺境の蝦夷らを正史の立場で蔑視したため」に葦原中国の「神」を「鬼(もの)」といい、蝦夷らの異人をに「姦(かだま)しき鬼(もの)」としたのだと説く。(『鬼と天皇』)
大野晋は『岩波古語辞典』で、「人間をモノと表現するのは、対象となる人間をヒト(人)以下の一つの物体として蔑視した場合から始まっている。」とし、『源氏物語』で、「痴れもの、すきもの、ひがもの、古もの、わるもの、なまけものどもなど、片寄った人間、いい加減な人間、一人前でない人間などについて、モノという複合語が使われ、痴れひと、わるひと、ひがひとなどとはいわなかった。それは、モノがヒト以下の存在だという基本の観念が働いていた結果である」と書く。(『日本語をさかのぼる』)
これらのことから大和岩雄は、次のように結論する。『古事記』で「まつろわぬ人」と書くのに対し、『日本書紀』が「ひと」を「もの」といい、さらに「鬼」という字をあてるのは、正史である『日本書紀』の史観によるもので、神・人で、物に近いと蔑視されたものが、「鬼(もの)」なのである。(『鬼と天皇』)
4 「欽明紀」には、魅鬼(もこ)(鬼魅)の文字が見られる。
越国(こしのくに)言(まう)さく。「佐渡嶋の北の御名部の碕岸(さき)に、粛慎人(みしはせのひと)ありて、一船舶(ふね)に乗りて淹留(とどま)る。春夏捕魚(すなどり)して食に充(あ)つ。彼(そ)の嶋の人、人に非(あら)ずと言(まう)す。亦(また)鬼魅なりと言(まう)して、敢(あへ)て近づかず。嶋の東の禹武邑(うむのむら)の人、推子(しひ)を採拾(ひろ)ひて熟(こな)し喫(は)まむと為欲(おも)ふ。灰の裏(なか)に着(お)きて炮(い)りつ。其の皮甲(かは)、ニ(ふたり)の人に化成(な)りて、火の上に飛び騰(あが)ること一尺餘許(あまり)。時を経て相闘ふ。邑(むら)の人深く異(あや)しと以為(おもひ)ひて、庭に置く。亦(また)、前の如く飛びて、相闘ふことやまず。人有りて占(うら)へて云はく、「この邑の人、必ず魅鬼の為に迷惑(まど)はされむ」といふ。久(ひさ)にあらずして言ふことの如く、それに抄掠(かす)めらる。
粛慎人(みしはせのひと)とは、ツングース系民族とも言われる。
鬼は(中略)『日本書紀』において、初めて、天皇に仇成す討たれるべき「諸(もろもろ)の順(まつろ)はぬ鬼神(かみ)」として登場する。それらは、天皇権力に敵対する蝦夷や異人種の粛慎人を魅鬼(もこ)(鬼魅)として蔑視するものであった。こうした有形の鬼は、死して怨霊と化し、天皇に害を及ぼす無形の鬼へと変貌していく。(『陰陽道の本』)
5 「斉明紀」天皇の葬儀がおこなわれた日の夕方、朝倉山の上に
鬼有(あ)りて、大笠を着(き)て、喪(も)の儀(ぎ)を臨(のぞ)み視(み)る。衆(ひとびと)、皆(みな)嗟怪(おかし)ぶ。
この二ヶ月前に、朝倉社の木を切って宮殿を作ったので、神の怒りが落雷となって宮殿を壊し、鬼火となって人々を殺したという記事がある。朝倉山は朝倉の人々にとって神の宿る山であり、神木を外から来た者たちが勝手に切ったので神が怒ったのである。そして日本書紀の編者が天皇の急死の原因も同じと考えたので「鬼が天皇の葬儀を朝倉山の上で見ていた」というふうに書いたのだと、大和岩雄は考え、この「朝倉山の鬼」を朝倉山の山の神だとする。
そして以上の『日本書紀』に記された鬼関係の記事について、「わが国最初の正史において「鬼」が主に皇祖神・天皇との関係で記されていることは無視できない」とし、対照的に『古事記』には「鬼」の表記がまったくないことを考えると、「このように、鬼の視点から見ると、「正史」のもつ「差別意識」「うさんくささ」が、はっきり見えてくる。」と結んでいる。(『鬼と天皇』) 
鬼の分類
馬場あき子は『鬼の研究』の中で、次のように鬼の系譜を分類している。
(1) 神道系…日本民族学上の鬼(祝福にくる祖霊や地霊)
(2) 修験道系…山伏系の鬼、天狗
(3) 仏教系…邪鬼、夜叉(やしゃ)、羅刹(らせつ)、地獄卒、牛頭鬼(ごずき)、馬頭鬼(めずき)など
(4) 人鬼系…放遂者、賎民、盗賊など、人生体験の後にみずから鬼となった者
(5) 変身譚系…怨恨、憤怒、雪辱などの情念をエネルギーとして復讐をとげるために鬼となった者
(1)〜(3)と(4)・(5)は微妙なかかわりは見せているがまったく別種であると記す。
小松和彦も「互いに深く関連し合っている」としながらも、鬼を次の二系統に大別する。
(1) 想像上の鬼…説話や伝説、芸能、遊戯などにおいて語られ演じられるものとしての鬼
(2) 歴史的実在としての鬼…周囲の人々から鬼もしくは鬼の子孫とみなされた人々、あるいは自分たち自身がそのように考えていた人々 
想像上の鬼
想像上の鬼は異様な姿で描き語られ、その基本的属性は食人性にある。〈神〉の対極にいるのが〈鬼〉であり、人々にとって恐怖の対象である鬼は、しかし最終的には神仏の力や人間の武勇・知恵のために、慰撫され、退治もしくは追放される運命を担わされていた。
また仏教思想や雷神信仰と結合し、死後に罪人が行く地獄の獄卒や天上界の雷神を鬼とみなす考えも広まった。
鬼のすみかは、人里離れた山奥や海原遠くにある島などで、そこに鬼ヶ城があるともいう。
鬼は、町や村里のはずれの辻や橋や門など異界(他界)との接点に現れる傾向があり、時刻は夕方から夜明けまでの夜の間とする考えが広く認められている。〈百鬼夜行〉という語は、鬼の夜行性をよく示している。
日本の鬼は、人間や神と互いに変換しうるものとして考えられている。鬼たちの多くは、人間とその補助物である道具などがなんらかの契機によって鬼になったもので、鬼になる契機は大別して二つある。
(1) 過度の恨みや憎しみをいだくこと。
(2) 年を取り過ぎること。年老いた女は鬼女になり(『今昔物語集』)、古ぼけて捨てられた道具は付喪神(つくもがみ)になるという(『付喪神記』)。(小松和彦『世界大百科事典』) 
歴史的実在としての鬼
小松和彦は、「想像の世界の中において、人々に鬼の実在を確信させた背景には、鬼とみなされた人たちの存在があった。」とし、これを次のように分類する。
(1) 大和朝廷などの体制に従わない人々
(2) 体制から脱け出し徒党を組んで乱暴狼藉を働く山賊
(3) 農民とは異なる生業に従事する山の民や川の民、商人や工人、芸能者たち、山伏や陰陽師、巫女たち
(4) 鬼もしくは鬼の子孫とされ、自分たちもそのように考えてきた家や社会集団(『世界大百科事典』) 
大和朝廷などの体制に従わない人々
高橋克彦作品では、鬼とみなされた人たちの存在が大きくクローズアップされる。先に『日本書紀』の「鬼」について見たように、大和朝廷などの体制に従わない「まつろわぬ人」は鬼(もの)と呼ばれ、彼らの祭る神もまた「鬼神(もの)」と蔑視されている。
先住者を鬼とみなしたことは、酒呑童子物語にもみられる。例えば、酒呑童子物語を書き記した最古の『大江山酒呑童子絵巻』では、酒呑童子が頼光に次のように身の上話を語る。平野山を先祖代々の所領としていたが、伝教大師が延暦寺を建てたために逃げ出し、仁明天皇の代より大江山に棲みついている、と。
『日本妖怪異聞録』の中で小松和彦は、「いってみれば、強力な呪力を持った外来者が、先住者である弱い呪術しか持たない者を追い払ったというわけである。つまり、先住者=民=敗者=鬼、征服者=勝者=人間」という図式が見えるとし、「酒呑童子はたしかに京の都の人びとにとっては極悪人で、仏教や陰陽道など、京の人びとの生活を守る信仰にとっても敵であり、妖怪、化物であったろう。しかし、退治される側の酒呑童子にとっては、自分たちが昔から棲んでいた土地を奪った仏教の僧や、欺し殺す武将や陰陽師たち、さらに、その中心にいる帝のほうこそ、極悪人なのである。」と記す。
これら先住者たちを討つ側の論理は「勅なれば」であり、「草も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の棲(すみか)なるべき」という歌である。
天智天皇の時代に、藤原千方というものが四性の鬼を使って体制に背き、伊賀と伊勢は「是が為に妨げられて王化に順ふものなし」という状態であった。宣旨を受け、追討に向かった紀友雄が、鬼にこの歌を送ったところ、四性の鬼はたちまち四方に去って失せたという。(『太平記』)
『酒呑童子(伊吹山)』(赤木文庫旧蔵)では、「土も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の宿とさだめん」と記し、同じ主旨の歌は、他の酒呑童子の物語や謡曲「大江山」、謡曲「土蜘蛛」にも見られる。
大和岩雄は、景行天皇が日本武尊に向かって言った「この天下は汝の天下なり」という発想も、「土も木も我が大君の国なれば」と同じ発想であり、「この天皇の国には鬼の住むところはないということである」と記す。
酒呑童子の物語で印象深いのは、風流の心を持ち、まことに知恵深そうで、山伏に身をやつして潜入してきた頼光らの嘘にころりと騙されて歓待する酒呑童子の姿である。謡曲「大江山」では頼光らに討たれる酒呑童子に次のように言わせている。
情なしとよ客僧達、偽りあらじといひつるに、鬼神に横道なきものを
鬼は横道(道に外れたこと)をせず、鬼を「勅なれば」といって討つ側が横道をするという発想が、酒呑童子譚の根底にある。(大和岩雄『鬼と天皇』)
このように謡曲の作者たちが権力に討たれる鬼の側に立っているのは、彼らが差別されていたからであり、同じ差別されている鬼に心情的に荷担しているのである。
「大江山」の作者らは、室町幕府御用の芸能者だが、彼は漂泊芸能民の頂点にいた存在で、同類の多くは、天皇の「オオミタカラ」といわれる定着農耕民から差別されていた。彼らにとって、「土も木も我が大君の国なれば、いづくか鬼の宿とさだめん」といって「横道なきもの」を討つように命じる権力こそ、「横道」をおこなうものであった。(大和岩雄『鬼と天皇』) 
鬼もしくは鬼の子孫
鬼もしくは鬼の子孫とされ、自分たちもそう考えて来た人々がいる。
例えば、比叡山麓の有名な八瀬(やせ)童子や、吉野において役行者に仕えた前鬼・後鬼の子孫と伝えられる人々などである。
八瀬童子は、成人になっても童形の髪型(長髪の禿(かむろ)姿)で、自ら鬼の子孫であると称し、特権を得ていた。八瀬童子は大葬で天皇の霊柩をおさめた「葱華輦(そうかれん)」という輿を舁(か)くのみならず、即位の際の御大典には「鳳輦(ほうれん)」という輿も舁(か)き、両極の儀に参与する。
八瀬童子・酒呑童子・茨木童子など「童子」と名がつくものはもちろん、長髪の禿姿の金太郎・桃太郎も皆、「童子」である。
なぜ童子が鬼と関係しているかについては、仏教の護法童子との関連や、「童」が神に近い存在であったこと、童男(をぐな)と呼ばれた日本武(やまとたける)尊の荒々しさとの共通点などが指摘されている。
一方、吉野裕子は八卦からその性状を見る。
少男(乾坤六子の末子、五、六歳―十三、四歳の童男)の易の卦は艮(うしとら)、自然は山、方位は丑寅であり、童子とは丑寅の象徴だというのである。丑寅とは、年・季節・日のいずれをとっても「陰から陽へ」の交代・変化を表している。
年―丑月(旧十二月)、寅月(旧正月)―年の境
季節―丑(冬・陰気)、寅(春・陽気)―季節の境
日―丑刻(夜深い・陰)―寅刻(暁・陽)―日の境
つまり、丑寅の象徴である鬼も童子も鬼門も「陰から陽への転換呪物」なのである。
「新旧交代によってこそ、連綿とつづくべきその永遠性は保証される」のであるから、都の丑寅の地の住民が「鬼の子孫」を名乗り、天皇の葬儀に参与するのも、天皇命の永遠性を保証する陰陽の転換呪術のための呪物として」であると説く。(『神々の誕生』) 
愛され続ける鬼
鬼の物語はどれも、鬼が極悪非道の限りをつくしたから退治されるのだということが語られる。しかし、それにもかかわらず鬼は民衆に愛され続けている。
民衆の側からすれば、鬼の出現などの社会不安は、一種の徳治主義の中での体制への批判であり、鬼が反権力の象徴ともみなされたことや、鬼の絶対的な力・破壊力に対する憧れなども、鬼が愛される理由としてあげることができるであろう。
また、理由の一つに、鬼が人間に富をもたらすという福神としての側面がある。
(1) 鬼とみなされた人々との交流・交換を通じて富を入手していたであろうということ、
(2) 社会内部に生じた災厄などを鬼がその身に背負って社会の外に運び出してくれると考えていたこと、
(3) 鬼は結局は敗れ去るものとされていたこと、等々が、鬼が福神化した理由としてあげられる。
春を招ぶ鬼には悪鬼のイメージが見られないといって珍しがる民俗学的論に対し、吉野裕子は、もともと鬼の本質には善も悪もないと説く。
鬼門とは天門・地門・人門・鬼門の四門の一つであって、「天を意味する乾―天門」と「風を意味する巽―地門」を結ぶ西北対東南の軸は、天地という「不変の定位」を示す。一方この軸と直交する「現世を意味する坤―人門」と「彼世を意味する艮―鬼門」の東北対西南の軸は、人間における「変化の運命(さだめ)」を示すものである。
鬼門に対する考えは日本独特のもので、もともと中国の古書に出てくる鬼門は、方角禁忌までは含んでいなかったのである。
宇宙の永遠性は輪廻によって保証され、その輪廻は陰陽の転換によるという古代中国の世界観に立つ限り、陰陽の境をなす丑寅の造型としての鬼は、その転換の荷い手に過ぎず、本来、その本質の中に善悪の道徳性など持ち込まれるはずのないものである。(『神々の誕生』) 
 
鬼の起源

 

鬼。オニ。日本人になじみの深い妖怪ですね。巨大な体。立派な角。虎柄のパンツ。数々のおとぎ話の主要キャラクターであり、”鬼のような”という形容詞もあるくらい我々に親しんでいます。しかし、最初から鬼がこのような形をしていたわけではありません。今昔物語集や宇治拾遺物語集に登場する鬼は、体長約3m。体の色は赤や青で、一つ目の鬼もいます。ですが、角はないし、虎のパンツは履いていません。
結論から言えば、平安時代の後半からちらほら、角や虎の皮をかぶった鬼が出てきます。これは当時流行していた陰陽道の影響です。陰陽道とは、平たく言えば、災いを振りまく方位神を避けるにはどうしたらいいか、というテクニックを突き詰めた学問です。
基本的に方位神は、ずっと移動しているのですが、北東の方角の方位神だけは動きません。いわゆる、鬼門です。この方角は、歴史的にみても重要でした。わざわざ鬼門に備えて、平城京では東大寺、平安京では延暦寺、江戸では寛永寺が造られています。そんな鬼門=北東は、十二支であらわすと”ウシトラ”の方角です。もうお分かりですね?つまり、牛の角や虎のパンツは鬼門→北東→丑寅→ウシとトラと連想された、一種のジョークです。
鬼のイメージが平安時代に固まったことはわかりました。では、そもそも鬼が生まれたのはいったい何時なのでしょうか。もともと、鬼とは中国語で霊魂をさします。魂魄という言葉に鬼が含まれていることからも明らかですね。一方で、鬼の発音は中国語で、”qui”・”kwai”など、漢音でも呉音でも日本語のオニとはなじみませんね。鬼という漢字をなぜオニと発音するようになったのでしょうか。また、何故霊魂を指す鬼が妖怪になったのでしょうか。
この問題については、定説があります。平安時代の倭名類聚鈔によると、オニは元は隠(おぬ)という、隠れているものという言葉がなまったものであるとのこと。平安時代以降、オニは隠から来ている、これが定説です。しかし、私には納得がいきません。以前紹介した風土記の記事を見てください。これが日本の資料上、鬼の初出になると思います。
”或人、ここに山田を作りて守りき。そのとき、目一つの鬼来たりて、田作る人の男を食らいき”…全然隠れていませんよね?むしろ、襲ってきています。しかも、鬼という漢字との因果関係がさっぱりわかりません。
以下は私の推測ですが、古今東西”怪物”はどこにでもいます。もともと、日本にはオニという”得体のしれない化け物”はすでに存在したと考えます。中国から”鬼”という漢字が伝わったとき、”目に見えないもの”という意味で、鬼を日本風にオニと呼んだのではないでしょうか。そう考えると、鬼という言葉の意味が、日本と中国で異なるも納得出来ます。異論は承知ですが、倭名類聚鈔が書かれたのは、風土記から300年も後の話です。その記述を信じ切るには、少々時代が離れすぎているかと思います。
さて、鬼への考察を続けましょう。鬼にはいろいろな側面があります。たとえば、地獄の獄卒としてのイメージ。これは仏教からきています。ビジュアル的にも、夜叉や羅刹といった、仏教の鬼神から影響を受けています。あまりに鬼のあり方が多様的ですので、その性質ごとに7種類に分類しました。
1) 人を食う化けものとしての鬼。
これはもっとも古い形態です。風土記にもありましたが、伊勢物語にも人を食う鬼の話があります。
2) 霊魂・妖怪の総称としての鬼
中国語の鬼の原議に近いです。百鬼夜行、という言葉に含まれる鬼はまさにこれです。
3) 仏教の従事者としての鬼
地獄であくせく働く鬼ですね。
4) 退治される鬼
桃太郎の鬼がこれです。一条戻橋で、渡辺綱が鬼の腕を切った話あたりが元祖でしょうか。
5) まつろわぬ民としての鬼
これは4)に近いですが、あえて分けます。土蜘蛛や、鬼の総領 酒呑童子といった妖怪は、大和朝廷に従わない人々という側面があります。実際、土蜘蛛はもともと朝廷に従わない領主の蔑称から、妖怪に転じています。鬼という言葉には同じくまつろわぬ民への蔑称という側面があると考えます。
6) 変身する鬼
たとえば丑の刻まいりを経て鬼に変じてしまった橋姫伝説。あるいは、今昔物語で、姫への恋慕から死んで鬼となった僧の話。このように、妄執が人を鬼にするという側面があります。
7) 畏怖の対象としての鬼
戦国武将には、鬼というニックネームで呼ばれる武将がたくさんいます。鬼柴田、鬼武蔵、鬼美濃、鬼作佐…etc。
現在、おとぎ話を除いて、残っている鬼は、6)と7)でしょうか。”この鬼!”と人にいうときはよっぽどのことです。過度な嫉妬や羨望、貪欲さの象徴になっていますね。また、”鬼のような”という言い回しや、若者言葉の”オニ強い”のような表現において、畏怖の対象として、鬼は生きています。
鬼の起源は古く1500年近い、最古参の妖怪のひとつです。今日のところは7分類としましたが、今後増減する可能性大です。泣いた赤鬼、のような人に親しむ鬼が一般的になれば、それだけで分類は増えますから。 
 
鬼が作った日本

 

鬼とは、権力の外にいながら強力な技術と思想をもったグループのことである。彼らは、ある時は権力に利用され、ある時は対抗しながら、日本の歴史を動かしてきたのだ。本は、古代から明治時代にいたるまでの、鬼グループの動きについての対談である。これをケノ流にまとめてみた。けだし、二人は鬼の歴史を語ることで闇の世界を想像する力を思い起こさせ、文化に活力を取り戻そうという魂胆なのだ。鬼は時代の裂け目に動き出すものだから。
鬼には2種の系統がある。柳田國男の言う常民とは異なる上に書いたような実在のグループが一つ。本書のメインテーマだ。もう一つは、伝説や芸能で取り上げられる空想上の生き物である。この系統は、馬場あき子の『鬼の研究』に詳しい。観念上の鬼は、中世に卑女=般若として完成したという。もちろん空想といっても何らかの実在の背景を持っていてキッチリ割りきれるものではない。馬場は実在のグループへも迫っている。また土蜘蛛や天狗の話もあって面白い。後者の系統の鬼に興味の方は是非にも読まれたい。
では先ず、鬼に登場願おう。大和朝廷は、ツクシ(北九州)・タニハ(丹後)・ケヌ(関東地方西北部)・スワ(諏訪)の各国を吸収してゆくが、クマソ(熊襲)・ハヤト(隼人)・エゾ(蝦夷/東北地方)は「まつろわぬ(不服・不順)」人々として残った。朝廷の版図に摂り込まれながら、その征服戦の際に抵抗が強かった場所、たとえば葛城や熊野は後々「闇」の空間として見られ、鎮撫のため大きな神社が建てられた。すなわち、過去の強力な敵対者が鬼になるのである。武力で勝てない被征服者は、呪術・宗教を通じて無意識の反抗をした。朝廷からは、土蜘蛛・夜刀神・国栖・佐伯などと呼び蔑まれて、且つ恐れられていた。また東北(夷)からはいつも闇の贈り物があった。ここから「鬼」の歴史が始まったのだ。
天変地異や疫病の流行は為政者を恐れさせた。奈良時代、天然痘の大流行があった。順わぬ民や政敵もいる。例えば藤原広嗣の乱。これらは悪霊が蔓延ったからに違いない。それらから霊的に防衛するため、大陸渡来の宗教、特に仏教が国家安護に利用された。聖武天皇は、奈良に金ピカの大仏(毘廬遮那仏)を作らせ、全国の国分寺の総本山として鎮座させたのだ。その金を大量に供給したのが陸奥国小田郡で、砂金の発見者は百済王敬福であった。渡来人は優秀な技術を持っていたわけである。この大仏建立事業はインフレを招き、平城京を混乱させることになった。
早々にケノ的脱線となる。大仏建立に僧行基がおおいに働いた。資金の調達(「勧進」と言う)、技術者・作業者の確保、聖武天皇・橘諸兄など行政との調整をこなしたのであるが、彼が組織化したのが土木建築の技術者と作業者の鬼グループだったに違いない。行基自身は毘廬遮那仏の完成を見ることはなく没したが、一方、大仏建立のために組織化されながら、その組織体は大仏完成後も一定の力と政治的発言権を持ちつづける。組織体を維持するため、東大寺西塔竣工後も次ぎの仕事を要求するようになるのだ。
この構造は、高度成長期からバブル期に成長した土建業界と行政の産官複合体と同じである。中央政府は独立行政法人を作ったが、地方自治体は暗黙の産官複合体を作った。例えば、神戸市がそうである。六甲山の裏側を削り宅地や工業団地を造成した。掘った土は大阪湾を埋めてポートアイランドと六甲アイランドという人口島を作くり、そこに市営住宅を建てた。「神戸市株式会社」と言われたほど産官の複合化が進んだのだ。その産官複合体は、関西国際空港建設で生き延びた。発案は中央主導だったが、要求(陳情)がなかったとは言えないだろう。こうして瀬戸内の島が削られて行った。とくに小豆島の向かいにある家島諸島は島一つがなくなるほど削られている。やがて関西国際空港1期工事が終わると、神戸産官複合体を維持するために、今度は無駄と分りきっている神戸空港建設を要求するようになった。市議会はいつもこの問題でゆれている。では、8世紀の奈良朝末期、新しい大土木事業が要求されなかっただろうか?
地方の反乱・仏教勢力の増長などを嫌い、生臭い政変を経て、桓武天皇は秦氏の領地である宇多村に新都を造営した。平安京である。ここも霊的に防衛しなければならない。今度は仏教ではなく風水を採用した。それは、東=川=青龍、西=道=白虎、南=池=朱雀、北=山=玄武という四神相応という理論に基づいている。鴨川、山陰道、巨椋池、船岡山(貴船山・鞍馬山)が地理的に対応する。艮(うしとら)の鬼門には、内裏に大将軍八神社、外には一条戻り橋、更に延長上に延暦寺を配したのだ。
またケノ的脱線となるが、青龍・白虎・朱雀・玄武の原イメージは四季であろう。春は青、秋は白、夏は赤(朱)そして冬は黒(玄)という古代中国の季節と色の対応があり、更に、青春=東、白秋=西、朱夏=南、玄冬=北という季節・色・太陽位置という3要素の連想である。ここまでは何となく理解できる。ただ、川・道・池・山が東・西・南・北に対応する媒介項は別にあるようだ。風水にかかわらず象徴体系は、分かったようで分らない。だから面白いのだが…。
さて、京都にはもう一つ、鬼よけの奇策があった。門である。朱雀大路の最南に羅城門がある。内裏の南には朱雀門がある。これらの門は登桜に行くための階段が設えてなかったらしい。ガランとした空間が門の上部に広がっていた。あっても仁王像くらいのものだった。なぜならここは観念上の鬼のために作られていたのだ。鬼が都のあちこちを徘徊しないように門の上部に鬼だけが登れる特等席が儲けられていたわけだ。実際は、夜になると盗賊が寝泊まりしたかもしれないが、彼らは警備員の役も果たしたに違いない。鬼を封じ込めた事には変わりなかったのだ。
このように古代は、何らかの霊的コンセプトを基に国家基盤のグランドデザインとしたのである。何かを発案する時には、最初の取っ掛かりが必要だ。鎌田東二は『聖なる場所の記憶』の中で、「第一行目は神から来る」という言葉を使っている。また「わたしは、そうしたイメージの第一行目を探りあてようとする あえかで 幽(かそ)けき感覚を『もののけ感覚』と呼んでいる」とも書く。時の天皇は「もののけ感覚」によって鬼の気配を感じ、やはり「もののけ感覚」を論理化した宗教=呪術を以って鬼に対処したのだ。
順わぬ人々に目を移そう。奈良葛城地方の人は土蜘蛛と呼ばれたが、一言主という国津神を信仰していた。こういった山には先住の猟師・山岳民族がいたのである。柳田國男は「山拠の人」と呼んだが、山蒿(サンカ)のことであろう。明治時代まで見られたと言う。先に上げた土蜘蛛・夜刀神・国栖・佐伯が当時の日本各地の先住民族の呼称だった。ここに道教の神仙思想がはいり習合する。それにつながる賀茂一族のスーパースターが役行者(小角)である。葛城山に住むシャーマン的な呪術者であった。
更に平安時代になり山へ密教僧が入ってくる。一部の軋轢はあったが結局、習合して修験道が生まれた。彼らは渡来系の人が多く、鉱山や薬草などの高度の知識・技術を持っていた。先に書いた百済王敬福の砂金献上話もそれを裏付けている。平泉の藤原三代も黄金文化であったが、これを支えていたグループがあった筈だ。不老長寿薬の原料である水銀はどうか。また、日本刀の発祥地、岩手県の舞草の鉄を見出しのは誰か。そう考えてくると鬼の広がりが想像できる。柳田國男は、日本の山は東北から中部地方の末端まで全く下山することなく渉り歩くことができたと言う。移動する修験者同士のネットワークが日本の山々に張り巡らされていたのだ。中央政府とは別の、高度な技術と思想を持つ集団=鬼の世界があったのである。
馬場あき子は、文学に現れる鬼を集計して山・橋・門が登場ヶ所ベスト3だという。山は集団で現れることが多く、橋や門は単独が多い。山では、鈴鹿の鬼(鈴鹿御前、立烏帽子)、逢坂山(関山)、そして有名な大江山の鬼を紹介している。大江山の鬼は、比叡山の童(雑役)がことあって集団で大江山へ移り拠点としたことと対応しているという。説話では、酒呑童子として書かれている。特徴は、歳をとっても童(わらわ)と呼ばれ、童髪(肩までの乱髪)をしていたことだ。結髪の令が出ている時代に神部・斎宮宮人及び神人は結髪の制を免れていた。この乱髪は、死後の風俗として想定されている。国津神の末裔が生活のため寺の雑役をさせられ、故あってそこを去った歴史が浮かび上がるのだ。一方、橋や門は交通の要衝であったことと関係があると考察している。この話は中世に重要となってくる。
山岳系の鬼のネットワークがあれば、平地にも鬼はいたはずだ。時代は遡るが、日本書紀の景行天皇紀に「山に邪しき神あり、郊(むら)に姦(かだま)しき鬼あり」とある。平地に住む順わぬ民は、姦計をなして反抗していたのだ。卑弥呼は鬼道をなすとあり、呪術をよくした。その類の末裔かも知れない。奈良時代から道教をベースとした天文学や医薬に詳しい渡来系の者が入ってきてた。共に呪術=医術を業としていた。呪禁道といわれるが、これに密教が加わり、占いまで行う陰陽道(おんみょうどう)へと発展する。上は天皇の相談役、下は町の辻占いをした。彼らを陰陽師(おんみょうじ)という。そのスーパースターが安倍清明である。このグループも後に鬼となって行くのだ。
陰陽師は、式神という鬼を用いて術をかける。一種の催眠術である。奈良期の呪禁道では呪う時には毒虫などを用いていたのだが(蠱毒)、後に象徴的に紙製の人形(ひとがた、式人形)を用いるようになった。これに霊を乗り移らせて治療なり呪詛なりをする。さらに発展して紙の人形を召使のように使う術になる。それが式神である。伝令をしたり人を殺めたりするのだ。式神は、寺男のような実在者(童)だったという説もある。仏教説話にある護法童子は修験道の呪法で用いられるが、式神はこれとも関係があるかもしれない。ここで注目すべきなのは、陰陽師が紙を自由に入手できる立場にあったことで、製紙業と関係していたと考えられるのだ。先端技術を握っていたので為政者ともつながりができる。製紙技術・医術・呪術・占術などの特殊技能をもって権力の中枢に入っていったのだ。
平安末期になって陰陽師そのものが鬼になる。密教僧や修験者が中央政界に入って来たり、武士が実権を握り出すと、陰陽師は権力の近くから追い出された。それで地方の武士団に流れ込み軍事顧問や相談役になる。もちろん振れこみは、恐ろしい呪術者・先端技術者であったから、周りは彼らを「鬼」と見なしたのだ。それが後に自ら武装するようになったのが、忍者である。渡来系の大伴氏は遁甲術を伝えており、中央政治に敗れ甲賀に落ち延び甲賀忍者になったという説、唱門師系統の下級陰陽師が甲賀に入ったとする説、などがあるが、要は追い出された陰陽師が忍者になっていったのである。
陰陽師などの異能者がすべて忍者になったのではなく、生きて行くために色々な職に特化して行った。農民ではないので手に職をつけたのだ。「ガマの油売り」を思い浮かべると良い。良く切れる刀を持っている。紙を惜しげもなく切って花吹雪を上げられるのは紙をふんだんに用意できるからだ。口上も上手い。蝦蟇(ガマ)は「蠱毒」の原料の一つである。傷の治療は医術。傷があっという間に治ったように見えるのは奇術や催眠術だ。こうやって生き延びたのである。そしてここから芸や工が生まれた。日本の中世に発展した芸能の担い手は、表に出てきた鬼だったのだ。能にある般若が観念上の鬼の完成だという馬場あき子の結論と符合しそうである。なお小松と内藤は、諸芸に守護霊(神)があることと陰陽道・修験道の精神構造まで比べ論じている。
600年間を鎮座まします奈良毘廬遮那仏の伽藍も源平の戦いで炎上してしまう。これを再建したのが僧重源であった。先に行基の話をだしたが同じ勧進聖(ひじり)だ。今回は国家プロジェクトではなく、民間組織で行った。チャリティーショウを行って募金を募るのである(勧進興行。現在の寺社の縁日の祭りにできるテキヤの出店はその末裔と言えなくもない)。そこに上記の芸能者が組織されたのだ。このように勧進聖というのは、土建系および芸能系の鬼のネットワークのオーガナイザーであったわけだ。
非農民は生産手段を持たないため、土地課税ではなく賦役による課税が行われた。そういった人々が集まる場所を散所といった。本所に対する言葉である。当然、農耕に適さない坂・河原・谷・浜辺が居住地になる。ここから坂の者や河原者という言葉ができる。平安末期頃から触穢の観念と結び付いて、これらの人々は非人とも呼ばれるようなった。しかし、交通の要衝である奈良坂や清水坂には非人宿があり、関西から北陸まで血縁を媒介としたネットワークが作られていたといわれる。形式的には寺社の下級僧の扱いではあるが、様々の職で生計を立てていた。彼らには天皇家と繋がる起源伝承があった。その血縁がアイデンティティとネットワークを支えていたようだ。天皇は武家に権力を奪われたが、非人に対しては王であり続けたのだ。室町期に非人が増えた。気候の寒冷化があって農民から移った者もいたのかもしれない。そうすると結果的に天皇の権力が強くなる。後醍醐天皇の建武の中興や、南北朝時代の南朝が比較的続いた背景には、非人ネットワークのバックアップがあったといえる。因みに南朝の楠木政成は山の民であった。
天皇家と鬼との関係強化は室町期に突然始まったのではなく、武士が力を得はじめた頃の200年前から始まっていた。熊野詣である。宇多上皇に始まり、白河上皇、鳥羽上皇、後鳥羽上皇がそれぞれ院政をしきながら10〜30回も熊野に御幸したのである。天皇は伊勢神宮に守護神があるので、たとえ熊野権現信仰があっても行幸はできない。上皇だから可能なのである。しかし信仰だけが熊野詣の理由ではないだろう。網野は『異形の王権』で、清浄光寺の後鳥羽天皇像にあるように、後鳥羽天皇は頭上に皇祖神の血統と密教の教主・大日如来の付法を受け継いで日本に現れ出た絶対王者として自らを定めたのであると言う。ここから時間を逆に類推すると、宇多上皇は熊野の修験道を目指しており、その路線を各上皇が追い、後鳥羽上皇が完成させたという説ができる。松本・内藤はもっと積極的に、熊野にある修験者を中心とした鬼のネットワークに接近するためだと言うのである。上皇は熊野の別当と指しで話をしたかったのだと。
熊野には、表面上は修験者でありながら水軍や土建の技術者集団があった。現在でも全国に3000もの熊野神社があるが、それらは平安末期からネットワーク作りが始まっていた。やはり姻戚関係を結ぶやりかただ。船は陸地を進むより速く移動できる。その駆動力が多いに利用されたのだ。水軍は、商船でもあり海賊船でもある。松浦水軍は倭寇でもあった。これは何も中世の日本に限ったことではない。バイキングやルス(川のバイキング)も相手が強そうなら商取引をしたのである。地中海でのカタルーニャやシチリアの商船も風向きが変れば海賊だった。この水軍が全国の津々浦々を押さえていた。そしてその力は源平の合戦で示されたのである。瀬戸内海の制海権を握っていた熊野水軍は、始め平家についていたが、熊野大社のご信託により源氏につくことで屋島の戦いの決着をつけたのだ。鎌倉・室町時代を通じ交易を中心として水軍は、幕府とは独立の勢力を持っていた。
戦国時代ともなると水軍の様相は変った。水軍は戦国大名と繋がり、姻戚同士で戦わざるを得なくなる。すなわちネットワークが切れて行き、水軍は完全に弱体化する。そして秀吉が朱印船という形で水軍の技術者を管理し始め、徳川幕府は鎖国により交易の長崎集中管理を完成させるのだ。
岡の鬼はどうなったか。戦国期から安土桃山時代となると都市(城下町)が発達してくる。特殊な芸や技能を持つものは都市に流れ込んだ。戦国大名の懐に吸収されたのである。山岳系の鬼は、戦国大名のスパイ活動などの協力をしながらもある程度の力は持っていた。しかし織田信長が伊賀の里、甲賀衆がいた琵琶湖東岸の観音寺城(比叡山水軍があった)、比叡山と潰して行き、最後に一向一揆を武力制圧してしまうことで滅んでしまうのだ。実は、一揆は散発的な戦いが 100 年間も続いており、単に蓮如の布教による浄土真宗門徒だけが一揆を構成していたわけではない。戦いの兵站を担った部隊は琵琶湖の堅田衆といわれる水軍であったし、訓練された戦闘員は白山−大日山の山岳系の修験者であったのだ。一向一揆が終結すると鬼の歴史が消えるのである。
非人の王であり続けた天皇に対し、秀吉や家康がどのように挑んで行ったのかを最後に見ておこう。
前出の『聖なる場所の記憶』で鎌田は、家康があらゆる物を縛って行った過程を書いている。豊臣秀吉が西方=浄土=阿弥陀如来=八幡大菩薩志向であるのに対し、家康は東方=瑠璃光浄土=薬師如来志向であると言う。秀吉は阿弥陀ガ峰に埋葬するよう遺言を残し、死後そこへ葬られたあと、吉田神道当主である兼見によって豊国大明神と名づけられた。一方、家康は「関八州の鎮守」となることを望んだ。秀吉の七回忌法要のあと豊国神社はとり壊され、大阪夏の陣が起こる。こうして霊的対抗者が消された。戦勝者・家康は、更に武家諸法度・禁中並公家諸法度・諸宗諸本山法度を制定し、国を縛ったのだ。
家康が没した時は僧梵舜が吉田神道で埋葬の儀を行ったが、後に僧天海の山王一実神道が勢力を付け、日光東照宮への遷祀は天海が執行している。その際、天台宗の教義を神道流に変容させ、仏の姿の薬師如来=人間の姿の家康=神の姿の東照大権現というアラヒトガミ理論で武装したわけである。この上で家光は、寛永の諸法度で宗教界を縛る。ありきたりの神事祭礼しか執り行えないとしたのだ。国の縛りが完成したのである。
しかし、さすがの鎌田東二も家康=天海が図った霊的縛り戦略に気付きながら、そこまでだった。小松は、秀吉が十文字に仏・如来を配した曼陀羅を京都に作ったことを見出したのだ。この十文字の曼陀羅は、豊国神社の東西の線上に両本願寺と阿弥陀ガ峰の阿弥陀如来(過去)が配置され、中央に三十三間堂の観音菩薩(現在)があり、北は方広寺の毘廬遮那仏(未来)、南は奈良(の大仏)を指している。しかもその秘密を家康は知っており曼陀羅を崩すため、豊国神社あとに智積院を建てたというのだ。
ここで思い出されるのが、佐伯快勝『仏像を読む』。仏像の配置の基本パターンは、薬師(東)・阿弥陀(西)・弥勒(北)・釈迦(南)であり、密教は中央に大日如来(毘廬遮那仏)が来るなどのバリエーションがある−という指摘がある。しかし秀吉曼陀羅に相当する配置は、本のどこにも書いてはなかった。小松の指摘は面白いが、本当に曼陀羅を意図したものかの疑問は残るのだ。
家康は更に天皇を西方浄土に霊的に封じ込めた、とも小松は言う。江戸を中心に東(北)は日光東照宮を配し、西の京都に行くまでに東海道五十三次をおいた。これが、華厳経に53人目の普賢菩薩の説教で善財童子が阿弥陀浄土への往生を願う話と対応しており、京都が「あの世」になったことを意味しているというのだ。これを徳川曼荼羅と名づけている。日光(東)の薬師−京都(西)の阿弥陀という配置は、確かに佐伯の本にもある配置パターンである。江戸城の周りを徳川代々の墓(守護神)で覆った天海の霊的企みと合わせて、ありそうに思える。しかし完全に封じこめることはできなかった。江戸時代の後期には、国学者が神道を復活し明治政府のイデオロギーとなって王としての天皇は蘇るからである。小松・内藤は言ってないが、ケノ的結論はこうだ。もっとも強力な鬼は天皇ではないかと(不敬罪で訴えないでね)。 
 
妖怪

 

妖怪談義 
川童・小豆洗い・団三郎・狐・ひだる神・ザシキワラシ・山姥・山男・狒々・チンコロ・大人弥五郎・一つ目小僧・天狗が取扱われていて、有名な「幽霊とお化けの違い」や「お化けは古い神が零落した姿」という考えが書かれている。中身は、少し我慢して読めば分るので紹介しない。関連する事項をあげることで本書の魅力を浮き立たせることにしたい。
まず個人的な話。小さい頃、暗くなるまで遊んでいると「オーマガドキにはアムジョが来るよ」と母や祖母に脅されたものだ。「逢魔ケ時」は長じて直ぐに分ったが、この本ではじめて「アムジョ」の正体がわかった。由緒正しいお化けだったのである。お化けは中世には「咬もうぞ」とか「取って咬も」と言いながら登場した。関西のチンピラさんが「カンダロか!」と脅すのと同じである。大口を開けて「ガァー!!」と襲うイメージからお化けの呼び名がでて、モウ系・ガゴ系・ガガモ系という3系統があると柳田はまとめている。N崎にはそのガガモ系のガモジョがいる。更にg音がとれてアモジョとなった。なるほど「逢魔ケ時には咬もうぞが来る」と言っていたのである。
水木しげる『神秘家列伝−其ノ四』に柳田國男がでてくる。土蔵の普請の際に埋めたとおぼしき銭を掘り出した時に茫然とした気持ちになり空を見ると真昼なのに星を見たという柳田の少年期のエピソードが描かれている。これは本書から採ったようだ。水木の本には、最後に柳田の墓を描いて「当時は妖怪の本というのはあまりお目にかからなかったが柳田國男の『妖怪談義』ではじめて妖怪のことが書いてあるものを読んでそれが非常に面白かったわけです」と。本書の最後に「妖怪名蒐」があって、コナキジジ、スナカケババ、ヌリカベなど水木ワールドの登場人物?も納められている。水木氏は柳田から「影響を受けた」以上のつながりがあったのだ。
「影響を受けた」という意味では、宮崎駿雄『もののけ姫』もこの世界の中にある。本書の後半は、妖怪と見間違えられた山岳民族の話である。山男、山姥、大人、大太良坊などと書き、密かに「大人はある地方では猿田彦のことだと使えている」と仕込んだり、「佐伯と土蜘蛛と国巣と蝦夷と同じか別かは別問題として、これらの先住民の子孫は恋々としてなかなかこの島を見捨てはせぬ」と言う。そこに『秉穂録』という書を引用して「熊野山中にて炭を焼く者の所へ、七尺ばかりなる大山伏の来ることあり。魚鳥の肉を火に投ずれば腥きを嫌ひて去る。又白き姿の女の猪の群を追掛けてくることありという」とか「熊野の山中に長八尺ばかりなる女の屍あり。髪は長くして足に至る。口は耳のあたり迄裂け、目も普通よりは大なりしとぞ」と。ほら、もののけ姫がいる。 
日本妖怪異聞録 

 

小学生向けの中世妖怪物語の解説書である。果たして小中学生が読んで楽しめるか疑問であるが、大人が読んで楽しい本である。扱われている妖怪を列挙しよう。(1)大江山の酒呑童子、(2)妖狐 玉藻前、(3)是害坊天狗、(4)崇徳上皇、(5)鬼女 紅葉、(6)つくも神、(7)鈴鹿山 大嶽丸、(8)宇治の橋姫。『妖怪学新考』なんかと違って、ストーリーを追うのが主で、これに当時の妖怪の観念を抽出する程度の考察を加えるに留めている。配列も平安期から明治までの順に凡そ沿っている。ディテールを削ると物語は面白くなくなるのを承知で、ケノ的要約をしておこう。
(1) 大江山の酒呑童子
物語の紹介の後、酒呑童子の出自を調べている。越後の国に生まれ山寺で稚児として育てられたが、殺人を犯し諸山を転々とするうちに鬼になったとされる。母が信濃戸隠山に参拝祈願して解任したと書かれている。ここから小松氏は、戸隠山権現や九頭龍信仰を背後に認めている。一方、伊吹山の大明神の子とする説話もある。伊吹山大明神とは、出雲から追われたヤマタノオロチである。その子も越前説と似た顛末で鬼となって大江山に棲むようになった。これらから、酒呑童子の怨念に被征服者の魂の叫びと小松氏は読み取っている。
(2) 妖狐 玉藻前
化粧前という美しい遊女が鳥羽院の寵愛を独り占めにし「玉藻前」という名まで賜った。やがて院は病となるが、原因は玉藻前であって、それが下野国那須野の八百歳を経た大狐であると陰陽師安倍泰成が占で見破る。祭文と祓えで玉藻前を追い出すと鳥羽院の病が平癒したという物語である。
この話は、鳥羽院の后であった美福門院保子と関白藤原忠通が諮って、近衛天皇を呪い殺したのが左大臣頼長と父忠実であると鳥羽院に告げたことから、やがて保元の乱に発展した史実をベースにしている。当時の呪詛の方法とは狐霊を用いる荼枳尼天法であった。東寺が伏見稲荷を支配下に置き、狐を辰狐王菩薩と称して信仰していたのである。また、狐が美女に化ける話の元は『抱朴子』に求めている。
小松氏は物語から、病の治療者の業務分担を抽出している。医師(典薬頭)は薬物治療が主であり、効果の範囲は限られていた。密教僧は、護摩壇を設けて修法するが、物怪の正体を予め知る術はなかった。一方、陰陽師は占法で物怪の正体を知った上で、泰山府君祭により物怪調伏を行った。このころは陰陽師が活躍した。
(3) 是害坊天狗
烏天狗は平安時代に天台僧によって語られることが多かった。愛宕山が天狗の拠点とされ、首領は日羅坊といった。天狗は「人さらい」や修行僧を騙すことをなした。僧であったものが戒を破ったため天狗になるとも言われた。天台僧は、この世の異常を天狗によって説明し、天狗を打ち負かすことで僧の験力を誇示した。本には中国から来た是害坊という天狗が天台高僧の護法童子により懲らしめられる話をのせて、天台僧の語り口をクローズアップさせている。
(4) 崇徳上皇
藤原頼長と組んで兵を挙げた崇徳上皇はあっけなく後白河天皇−平清盛軍に敗れ、讃岐に配流された(保元の乱)。九年後、怨念を残して亡くなり白峰山に葬られた。ほどなくして京は疫病に見舞われ、崇徳上皇の怨念がその原因であるとされた。この風評を広めたのは山伏である。『太平記』では、崇徳上皇は天狗たちの首領となったと書く。院政期ともなると、怨念を持って死んだ皇族・貴族が天狗の上層を占め、愛宕山の日羅坊(太郎坊)天狗もその配下へと追いやられる。更に、中世後期になると天狗から怨霊の要素が消え、鬼と区別がつかなくなった。
慶応4年に明治維新軍が奥羽越列藩軍への攻撃を開始する時、明治天皇は、讃岐白峰御陵から崇徳院霊を招霊し、京都上京区に白峰神宮を創建した。孝明天皇や明治天皇は、崇徳院の怨霊が災いをなす事を恐れたのである。こうして、天狗の首領は、神になったのである。
(5) 鬼女 紅葉
応天門の変の首謀者として流罪になった伴大納言善男の子孫にあたる伴笹丸が、第六天ノ魔王に願をかけて娘が生まれた。呉葉という。長じて近くの豪家の子息と婚姻することとなったが、呉葉と笹丸夫妻は支度金だけを取って京へ出奔した。呉葉は紅葉と名を変えた。やがて妖術を使って源経基に取り入り、寵愛を受けて子を宿した。次に正室の御台所を呪詛して正室の差を手に入れようとする。比叡山の大行満の律師によって、その正体が鬼であると見破られ取えられて戸隠山へ追い返された。ところが、紅葉は妖術を使って戸隠山で盗賊団の首領に納まり、始めは義賊気取りだったが、そのうち、紅葉一党は食人鬼と化すのであった。信濃守護から冷泉天皇へこれが奏上され、平惟茂軍が討伐に向かう。数回の戦闘でも落とせなかったが、天台宗常楽寺の北向観音に祈願して「降魔ノ剣」の下賜を受けてやっと退治できたのであった。
小松氏は、もう一つの戸隠山の鬼である「九しやう大王」の話も付けている。
(6) つくも神
鎌倉初期の百鬼夜行は、妖怪が夜に酒宴を開くために集まる行列であった。夜行中に人を捕まえて食うのである。真言密教の呪文が書かれた物を身に付けておくと、その難から免れたようである。室町期になると百鬼夜行は、ユーモラスな妖怪となる。その一つが器物の妖怪(つくも神)である。器物は百年経つと霊を獲得して人を騙すようになる。これを付喪神と呼んだ。そこで、百年になる前に「煤払い」として古道具を路地に捨てたのである。しかし器物は捨てた人を怨んで妖怪となった。これを九十九神と呼んだのである。
(7) 鈴鹿山 大嶽丸
大嶽丸とは鈴鹿山に棲む鬼である。設定は大江山の酒呑童子と似ている。藤原俊宗大将軍は鈴鹿山に住む鈴鹿御前の協力を得て大嶽丸を討ち取った。しかし、大嶽丸の魂魄は天竺を経て日本へ戻って来て、陸奥霧山に立てこもり世を乱し始める。再度、俊宗が討伐に出陣し、蝦夷ガ島で決戦となって討伐されたのである。酒呑童子や玉藻御前の遺骸と共に宇治宝物倉に納められているという。
(8) 宇治の橋姫
別に女を作った夫の左衛門を怨んで、妻は貴船明神へ丑の刻参りをする。願が叶って、生きながらに鬼に変じる作法を教わる。その異様な作法を果たして、鬼となった妻は京へ向かったのである。一方、夢見が悪い左衛門は安倍晴明に相談すると、今夜のうちに怨みのために命を落とすことになるかもしれないと言われる。そして鬼神退散の祭儀を受けた。やがて、鬼に変じた妻が左衛門の家の寝部屋に入ってきて、左衛門を取って行こうとする。そこへ三十番神が出現して鬼女は追い払われてしまった。その鬼女は、続いて洛中で無差別に人を襲い始めたのである。これを聞いた帝は、源頼光に鬼神討伐の勅命を下す。頼光の命により出動した渡辺綱と坂田公時の気迫に負け、鬼神は降参して自らを弔って欲しいと言い残して、宇治川に消えた。帝は、百人の僧による法華経供養の他に、安部晴明に宇治川のほとりに一社を設けさせた。鬼女は「宇治の橋姫」と名付けられて祀られたと。 
妖怪の民俗学 

 

本は、妖怪のとらえ方、化物屋敷考、妖怪のトポロジー、都市の妖怪という4編からなっている。「妖怪のとらえ方」では、柳田国男と井上円了の説という2つの対抗軸を取り上げる。妖怪の本質をやや形式的な民俗学からみた考えと科学合理主義からのとらえ方である。これは「化物屋敷考」では、南方熊楠のポルターガイスト説と井上円了の科学合理主義という2つの軸にかわる。宮田は何れの説にも組しない。「妖怪のトポロジー」では、境界という民俗学らしい概念から心霊スポットが説明される。最後の「都市の妖怪」では、江戸の通り悪魔、金沢の魔所、那覇の石敢当という魔除けなど、前のトポロジーの話につながる。都市全体が「辻」となったのである。ひと頃の「口裂け女」という都市伝説も、なるほどと了解できる。この本は梅雨に読むべき本である。夏前に仕込んでおいて、夏の楽しみを2倍にしよう。というわけで、ケノ的にメモしておく。
柳田国男は妖怪を神の零落した姿であるとした。祀り上げられた神は恵みを与えるが、祀り捨てられると災害を与え、更に人の方が神より勝ると考えるようになると、グロテスクな姿の妖怪となって現れるのである。よく似た幽霊が個人的な恨みから生ずるのとは異なり、妖怪は現れる場所や時が決まっており、多くの人が出会う性質のものとした。宮田は、人家周辺に棲む何かよく分からない精霊みたいなモノで、神であったり妖怪であったりと、厳密に区別はできないのではないかという。幽霊と妖怪の区別も曖昧だと書く。例に磯女という吸血鬼の話が載せてある。宮田は妖怪の原因を、人間の潜在的な恐怖心がもとにある不思議を生み出す精神構造、および開発することによる自然破壊という原罪意識であろうとする。
先に読んだ『ヒメの民俗学』にあった番町皿屋敷の話が、この本にもある。ここでは別の視点を強調しておこう。お菊が紛失したのは皿であるが、先に「サラ屋敷」の言葉があった。それは「更地」のサラであった。都市が拡大し周辺地域の開発がすすむと、土地柄の悪いところにも屋敷が立つ。そもそも空き地(更地)はたいがい低地の水はけの悪い所である。ここには土地開発に抵抗する土地霊がいたりするもので、屋敷住人が病気になると土地霊の仕業とみなされたのである。
皿にはもう一つの観念がまとわり憑いていた。それは付喪神(つくもがみ)と呼ばれている。九十九神とも書く。室町時代に古道具には霊魂があり人に祟りをなすとの考えが生まれた。この時代に工業や物流が拡大して家財道具の更新が多くなり路地に捨てられることが増えたことが、付喪神信仰の背景であろう。お菊の幽霊は皿を9枚まで数え10枚目に「足りない…」と嘆くが、この9が九十九神のキーワードであった。番町屋敷のお宝の皿には、それが憑いていたと思わせる仕掛けである。江戸の民にとって番町皿屋敷は「よく分かる」怪談だったのである。
化物屋敷では合理的解釈や念動(ポルターガイスト)説とは異なり、人柱説を言う。そもそも大工の棟梁は、家の霊を管理して封じ込める役を担っていた。その方法の一つとして娘を大黒柱の下に埋めるということがあったのかもしれないが、それは櫛などを代用する習となった。ここから、家の霊が悪さをしたり、居住する若い女が念動で家を揺らしたりする話へとなったのである。家に霊がいると思われていたことは、「開かずの間」が大屋敷に作られていることから逆に推定できる。家霊を封じ込めておく部屋が、いつの間にか虐待された者の幽霊が住む部屋となったのであると。
ここでケノ的に思い出すのは、白川漢字学である。「家」という字は、屋根の下に豚がいるのではなく、犠牲の犬が収められていると言う。家長は、地霊を鎮めるために犬を殺して埋め、こうして清めた土地の上に住居を建てたのである。「祓」の旁も犠牲の犬である。この習は日本にも伝わったと言われている。地鎮祭や棟上式などの建築儀礼のルーツは、すばらしく古いものであった。このように家と地霊はセットなのだ。
妖怪の出現場所は、辻と橋であるという。直ぐにケノ的にまとわり付くが、鬼の出現場所は山と門の他に橋がベスト3であった(馬場あき子『鬼の研究』)。宮田氏は鬼や河童という言葉を出していないが、妖怪という語で包含しているようである。百鬼夜行はどう見ても妖怪である。加賀一揆の後に鬼は呼び名を変えて都市周辺の辻や橋に現れるようになったのである。
辻(つじ)は道がクロスする地点であるが、ここは霊が集まりやすい所であった。ここで人を困らせるのが「つむじ風」である。時には鎌イタチという妖怪が人を切ることもあった。葬儀の帰り道の辻には竹串をさして、死霊が村落に戻らないようにした。辻はあの世とこの世の境でもあった。そこには辻神とか道祖神と呼ばれる神がいたので、未来を占ってもらうことがあった。辻占いとか夕占(ゆうけ)と呼んだ。黄昏時に辻に立ち、通り行く人の会話の中から解決のキーワードを探すのである。そもそも占いとは、この世の裏を見ることである。辻神にあの世を見せてもらおうとするのである。更に、辻では霊魂を鎮めるための舞を行った。「辻わざ」と呼んだが、ここから幾つかの芸能がうまれた。
橋も妖怪の出現スポットである。集落の端であり境界である。橋の袂には柳の木が植えてあり、辻の竹串と同じで原理で、これに神霊が依り憑き易いのである。もともと橋には橋姫という守護神がいた。それから未来を聞くという橋占があった。橋姫は忘れ去られたが、橋が神霊スポットであることは記憶されたのである。面影橋、言問い橋、姿不見橋などの橋の名が、それを物語っている。
江戸の都市圏の北東部に、○○七不思議というスポットが語られ始めた。「置いてけ堀」などが近頃まで記憶されている。先にも書いたが、江戸自体が巨大な辻空間と化したと宮田は言う。都市開発により昔の境界を多く取り込んだのである。こうして都市に妖怪が出現し始めたのであると。 
妖怪と怨霊の日本史 

 

妖怪と怨霊の日本史この本は、人に害を与える日本の霊的存在の史的展開を綴ったものである。多くの史料や書籍にあたり、中身の濃い妖怪巡礼話となっている。ケノ的にそのエキスを掬ってみよう。
中西進は、「自然」なる語の自立する以前の万葉時代には自然はいつに「もの」であった−という。「もの」とは霊を得て「もの」なのであって、物は霊と一体であった。その「もの」から霊が排除されてゆくとき、「もの」は物質になり、人間は「もの」から遠ざかって、人間と対応する「自然」が見出されるようになる。
では、遠ざかった「もの」はどこへ行ったのか? それは人間に害を為すモノノケとして帰っきたのである。始めは「物の気」があった。「物の恠」と書かれ、モノノサトシとも読まれた。「神仏その他正体の明らかでない超自然的存在が人間の振る舞いに怒りや不快を覚えていることを告げ知らせる、あるいは後に大きな災いが起きるであろうことを予告するための異変」を意味していた。<もの>神の名残である。
もう一つ「物の気」もあった。病気の素・邪気のことである。平安時代に人々は「もの」と総称しうる霊的存在の「氣」に触れ、その影響力により病気になったり、時には死ぬものと信じていた。物の気を強く持つ生き物が、鬼である。彼には近づいてはならない。
10世紀半ばに「物の怪」と書かれるようになった。多くの人々が病になるのではなく、特定の個人や家柄にとり憑き悩ます存在と変わったのである。権謀渦巻く閉塞的な貴族社会における個人的な怨念が、それへと変質した。病気治療に立ち会った憑坐(よりしま)に憑いた霊が、その正体の名を明かした。初めは死んだ者の名(怨霊)であったが、やがて生きている者の名(生霊)も出てくる。というのも人には「心の鬼」が住んでいるからだ−と認識されたからである。平安京の夜は「百鬼夜行」に支配され、陰陽師が活躍した(次回、荒俣宏『陰陽師』へ)。
このようにモノノケだけを見ても霊的存在が変遷していることが分かる。この大転換点は8世紀であったという。「怨霊」の誕生である。その辺りをまとめておこう。
6世紀初めまでは、地の神への畏れがあった。7世紀半ば、律令制が導入されると、国の役人が地祇を使役するような話も出てきた。しかし地方では、国家の力は弱く行基のような霊能力に優れた僧が活躍した。仏教には地の神の個性を越えて、普遍的な呪力があったからである。実はこの時、死後に共同体の祖先霊と融合するという考え方が揺らぎだした。
生産性が上がり地方の豪族の力が強まり、律令制が崩れだす。豪族の個人的な欲望が増大し、共同霊はいなくなった。律令性導入で弱まった地方神はもはや行き場がなくなり、仏教に助けを求めた。神仏習合である。神宮寺が作られ、仏教に吸収された神もあれば、八幡大神のように菩薩となって力を増した神もあった。
中央政界では長屋王呪詛事件をきっかけに藤原四兄弟が権力を強めた。天平年間は、地震や気象異常で不作が続いたところに、天然痘の大流行があった。藤原四兄弟の病死の後を襲った橘諸兄の革新政権は、藤原弘嗣の反乱を招いてしまった。天武天皇の描いた国家構想はズタズタに引き裂かれたのである。
この危機を聖武天皇は仏教による神聖国家建設で乗り切ろうとした。遷都には失敗して平城京にまい戻ったが、大仏(ビルシャナ佛)の鋳造は為した。これには宇佐八幡大神の神託と陸奥国での金鉱発見が寄与した。東大寺を中心とし全国に国分寺を配して仏教の呪力ネットワークで固め、神聖国家建設は一定の成功を果たしたのである。
その平城京は、怨霊の生まれ故郷でもあった。怨霊は貴族社会で生まれたが、疫神と死霊が結びついたものである。先にあるように、疫病は神の祟り(警告)であった。それが、疫病を流行させる専門の鬼神がいると観念されるように変わった。「疫神」と呼ばれている。こうなった背景は、都市の成立がある。人が集中し、そこへ外から伝染病が持ち込まれると一度に流行するのである。故に、疫神は外からやってくものと考えられた。
一方、古代の共同体では死後、祖先の集合霊に融合するものと観念されていた。この共同体が破壊された所や都市住民にとっては、死後に融合すべき祖先の集合霊がいない。その行く先は仏教が提供してくれたが、さまよう死霊も出て来たに違いない。貴族社会での権力争いに敗れた者は怨念を持って死んだ。長屋王、藤原弘嗣、橘奈良麻呂…その例は多数あった。そして彼の死霊も怨念を持つと考えるようになった。
政治的敗北者が冤罪で流刑に遭い、遠方で憤死した。すると、外から疫病が入って来た。それは、かの者の怨念を持った死霊による復讐である−と考えられた。『日本書紀』延暦24年(805年)4月5日に「怨霊」という言葉がはじめて出てくるという。しかしそれまでに怨霊は十分にその威力を知らしめていたに違いない。道鏡は淳仁天皇を廃帝とし称徳天皇の後を奪おうとする。760年代は飢饉が続く。天武帝の血筋は途絶え、天智系の光仁天皇が立つ。遠い天武系の氷上川継が反乱を起こす。とうとう桓武天皇は平城京を捨てて、新たな神聖国家建設を始めることとなった。そのベースは道教である。785年、交野相原で天帝を祀る儀式を執り行い、暴風雨で長岡京建設をあきらめた後、794年に平城京へ移った。
怨霊を鎮める祭りは「御霊会」と呼ばれ、民間により各地で開かれていた。道教=陰陽道の道饗(みちあえ)と同じように、芸能で御霊を饗応しておとなしく帰っていただくというものである。これを政府が一度だけ行った。貞観5年の御霊会である。このときはインフルエンザが流行したと言われているが、内裏東の神泉苑を解放して「御霊六座」を祀った。個々の怨霊を「御霊」という一般的な観念に解消することで、政敵は疫神へ落とし込めれれた。この貞観の御霊会は、藤原良房(北家)の摂関政治開始のセレモニーであった。民間の御霊会はその後も続くが、疫神から牛頭天王となっていった。
疫神におさまらない個人的な怨霊は、藤原政権内のミクロな争いから幾座も生まれた。それらは生前と同じように恨みや欲望を持ち続けた。内面を持つ死霊である。これは江戸以降の「幽霊」に近い。その典型が「紺青鬼」である。死んでも后妃と逢引を繰り返した。中世の「鬼」は歪んだ内面を持つ死霊である。鬼が生前に仏教の修行をしていると、1ランク上の「天狗」となった。これは何時しか山野へ入っていった。
死霊が生前と同じように内面を持つのであれば、その内面(鬼の心)自体が悪さをするかもしれない。であれば、生きている者の内面であっても怨霊となりうる。それは「生霊」と呼ばれた。源氏物語の葵君や夕顔を取り殺したのが六条御休所の生霊であったのは、その代表例である。
本は上の後も、スケール違いの怨霊である菅原道真(天神)、龍となった安徳天皇、稲荷と狐、武家が天皇を凌いで天皇の怨霊に怯えること、など『太平記』までの害を為す霊的存在を綴っている。田中氏は荒俣氏の弟子筋のようだけど、センセもうかうかしてられない。怨霊に史的展開を持ち込み、現代の幽霊の元祖を発見したところなんか、なかなか刺激的である。 
男鹿半島の歴史  

 

「男鹿」の由来は、阿倍比羅夫に降伏したこの辺りの蝦夷の長、「恩荷(おんが)」から来ているらしい。男鹿半島は、いくつかの急な山により成り立っており、日本海を航海する船から見ると島に見える。山は、主に真山•本山•毛無山の3つある。日本海は縄文時代の頃より、交易に使用されており、この山はいつからか神聖な神が宿る山と信じられるようになった。やがて和人が移り住み、これらの島に日本の神が祀られることとなった。
真山の真山神社、本山の赤神神社がそれだ。
なまはげの地、真山神社
真山神社がある辺りは、なまはげゆかりの地だ。この神社のすぐ近くになまはげ館という施設もある。
主祭神
天津彦火瓊々杵命(あまつひこほににぎのみこと)
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
由緒
社伝によれば景行天皇の御代、武内宿禰がおくりく地方諸国視察のため男鹿半島へ下向の折、涌出山(わきいでやま、現在の真山・本山)に登り使命達成と国土安泰・武運長久を祈願して
瓊々杵命(ににぎのみこと)
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
を祀ったのが資源とされる。
平安時代以降仏教の伝播が男鹿へも至り、貞観年中には慈覚大師によって涌出山を二分し、北を真山、南は本山としたと伝えられる。以来修験の信仰が昂(あが)り、天台僧徒によって比叡山延暦寺守護神の赤山明神と習合された。
南北朝時代には真山別当光飯寺は真言宗に転じ、支配も東北豪族の安部氏・清原氏・藤原氏と移りながらも、その庇護のもとに修験霊場として一山繁栄を誇った。
江戸時代には国内十二社に指定され、佐竹候の祈願所として数々の寄進崇敬とともに、幾多の堂塔伽羅が営まれてきた。
明治維新後は神仏分離令によって元の神域に復し、名も赤神神社から真山神社と改められた。明治十四年には県社に列格され、ますます深厳な境内を維持してきた。
平成三年九月、台風による烈風で多くの老杉が倒れて甚大な被害を受けるも、七年間の復興事業で境内整備が完工した。
ご本殿は今なお真山山頂に鎮座し、国家安泰・五穀豊穣・海上安全・勝運の守護神として崇敬されている。
柴灯祭(せどまつり)
本社の特異神事であるこの祭りは、正月三日夕刻境内内に柴灯を焚き、この火によってあぶられた大餅を、お山に鎮座する神に献じその年のなまはげはこの神の使者「神鬼」の化身といわれ、長治年中により行われてきた。また毎年二月の第二金・土・日には「なまはげ柴灯祭り」として当神社を会場に開催される。この時神鬼に献じられる餅は胡麻餅(ごまのもち)と称され、災難除去の御護符として氏子参拝者に頒賜される。玄関の宵に斎行される神秘な神事で、冬の東北雪まつりの一つとして広く知られている。
徐福の到着地?赤神神社五社堂
赤神神社の創立はきわめて古く、赤神は漢の武帝の飛来したところと伝えられ、貞観二年(八六〇)、慈覚大師がここに日積寺永禅院を建て、赤神をその山神としていたという。
建保四年(一二一六)に源実朝は堂社をことごとく比叡山に模して造営したとされている。
その後、応安五年(一三七二)に安倍高季によって修復され、元和三年(一六一七)拝殿造営、寛永一五年(一六三八)、寛文二年(一六六二)再興、延宝三、四年(一六七五〜七六)には堂全体の造営があった。
現在の社殿は、秋田藩主第四代佐竹義格(よしただ)の命により大久保小左衛門が普請(ふしん)奉行となり、宝永四年(一七〇七)から七年(一七一〇)にかけて建て替えられ、江戸中期様式を示す建築である。
五社は、向かって右側から三の宮堂、客人権現堂(まろうどごんげんどう)、赤神権現堂、八王子堂、十禅師堂で、五棟とも格桁行二間、梁間三間一重、正面入母屋造(しょうめんいりもやづくり)、背面切妻造、妻入、向拝一間、唐破風造、鉄板葺の建造物である。
中堂は、厨子をおさめるため他より大きい。また、同型式の社殿五棟が山中に横一列に並んで現存しているのは極めてまれである。
この地は、平安時代末から天台宗山岳仏教の修験道場として発展し、後に真言宗に改宗。藩主から多くの神殿を寄進され、衆徒の存在も知られ、おおいに栄えていたが、明治になり神仏分離令により赤神神社として残る。 
 
鬼住山伝説 / 日本最古の鬼伝説

 

伯耆志に「村の東南の山を鬼住山と云う。怪談あり。西村楽々福大明神の下に弁ず。」とある。
第七代孝霊天皇の世、鬼住山に悪い鬼兄弟眷属が住みついて近郷近在の女子供をさらったり、食料や宝物を奪って住民を苦しめていた。
天皇は鬼退治をしようと決め、鶯王を総大将に、臣下の大連を副将に命じ、鬼住山の鬼退治に行かせることにした。鶯王は鬼住山よりもさらに高い鬼の館を見下ろす南の笹苞山に陣を敷いた。山に布陣して作戦を練り、攻撃を開始することにした。 ところが布陣した山があまりにも高い山なので、食料を補給するのも難しく、苦戦の日々が続いた。村人たちは自分たちも手伝うことを考え、団子を造り笹づとにして鶯王たちのもとに送り続けた。
笹苞団子に元気をつけた鶯王たちは、あらゆる作戦を使って鬼を退治した。しかし、鶯王はこの戦いで戦死してしまった。
人々が献上した笹巻の団子を三つ並べて鬼をおびき出しにかかると、大牛蟹の弟の乙牛蟹(おとうしがに)が出できた。大矢口命が矢を射ると、見事に命中し、乙牛蟹は死んでしまった。
兄の大牛蟹(おおうしがに)は手下を連ねて、反抗にでてなかなか降伏しなかった。
ある夜、天皇の枕元で「笹の葉刈りにて、山の如くせよ。風吹きて鬼降らむ。」と、天津神のお告げがあった。笹の葉を刈って山のように積み上げて待っていると、三日目の朝、強い南風が吹きつけ、あれよあれよと言う間に、笹の葉はひとりでに鬼の住処へと飛んでいった。
鬼は笹の葉が身にまとわりついて成す術もなかった。うず高く積もった笹が突然燃え出し、鬼はひとたまりもなく逃げて散った。逃げた鬼は蟹の様にはいつくばって、「我れ、降参す、これよりは手下となりて、北の守り賜わん」と願ったので、天皇は、「よし、汝が力もて、北を守れ」とお許しになった。
一説には、笹の葉が助けてくれ、一兵も失わず、鬼退治ができた、とする伝える話もあるようで、天皇自ら布陣したと伝えるものや、あくまでも部下や皇子に命じたとするものや、諸説伝わっているようだ。
平成6年の溝口町の「鬼住山ものがたり」によると、鬼を退治したのは、社の社伝にある孝霊天皇自身だとするのが、地元では一般的だとしている。異説として、崇神天皇の世の四道将軍で大吉備津彦命・妻木の朝妻姫の子の孝霊天皇の皇子である鶯王・歯黒皇子や天皇が歯黒皇子や新之森王子、那沢仁奥等を率いて伐ったとも紹介している。
鶯王が戦死した場所に楽楽福社を建て、鬼たちが住んでいた山を鬼住山、鶯王が布陣して笹苞団子を食した山を笹苞山、日野川にかかる橋を鬼守橋と呼び、鬼退治の伝説を伝えている。
また、孝霊天皇が自ら軍を率いてこの山の鬼を退治し、さらに奥の鬼林山の鬼退治に向かったとも伝えられる。この時、孝霊天皇が居を構えていた行宮が「楽楽福(ささふく)」で、笹で葺いた家という意味で、鬼林山の麓にあった、ともつながっている伝承もある。楽楽福(ささふく)は、孝霊天皇の進軍に関わる伝承で他の地域にもあり、佐々布久とする社も出雲国の月山と対峙する勝山の麓の石原集落里山裾にある。飯梨川筋を進軍していったと伝えられるものによるようだ。鬼住山の鬼伝承も、日本書紀・古事記・社の古文書や日野郡史などからの研究がある。
日野川流域伝承
鬼住山鬼退治
孝霊天皇は鬼住山に鬼がいて村人を困らせているのを聞き、鶯王を総大将に、臣下の大連を副将に命じて早速鬼住山の鬼退治に行かせることにした。早速鶯王は鬼住山よりもさらに高い山に布陣して作戦を練り、攻撃を開始することにした。ところが布陣した山があまりにも高い山なので、食料を補給するのも難しく、苦戦の日々が続いた。村人たちは自分たちも手伝うことを考え、団子を造り笹づとにして鶯王たちのもとに送り続けた。笹苞団子に元気をつけた鶯王たちは、あらゆる作戦を使って鬼を退治した。しかし、鶯王はこの戦いで戦死してしまった。村人たちは悲しみ、鶯王を楽楽福大明神として祀り、鶯王が戦死した場所に楽楽福神社を建てたという。鬼たちが住んでいた山を鬼住山、鶯王が布陣して笹苞団子を召し上がられた山を笹苞山、日野川にかかる橋を鬼守橋と呼び、鬼退治の伝説を伝えている。孝霊天皇は鶯王の死がよほど哀しかったのであろう。楽楽福神社の境内を自らの御陵地と定められた。
菅福の里
孝霊天皇は大倉山・鬼林山に鬼が出没するうわさを聞き、皇后細姫、歯黒王子を伴い鬼退治に出発した。丁度上菅の里に着いたとき、皇后細姫の陣痛が始まった。戦いに向かう途中なので何の準備もなく、日野川の河瀬の大岩の平坦なところに菅の葉を敷き、しばらく休んでもらうことになった。これにより、この周辺を下菅、中菅、上菅と呼ぶようになった。やがて、細姫はかわいい姫を産まれ、福姫命と名づけられた。そのとき産湯を使われた産盥という場所も残っている。福姫命は13歳までこの地で過ごされたといい。そのときの行宮が高宮神社の小高い丘である。福姫命はこの地から4キロほど離れた井原の温泉場に出かけられることがしばしばあり、この地の対岸の福長という地名は福姫命が井原までの長い道のりを歩かれたことに由来するという。菅の里というのは、菅を刈って敷物を作り小屋掛けをされたところから名づけられ、「鏡石」は細姫命が肌身離さず持っておられた鏡を石の上に置かれたところ、鏡のあとがくっきりと残ったところから名づけられた。また、孝霊天皇と細姫命、福姫命がしばらく過ごされた頃、このあたりは仮の都となり、地名も「都郷(都合)」と呼ばれるようになったという。孝霊天皇は鬼たちとの戦いになかなか勝つことができなかった。福姫命が13歳になったとき、印賀にも鬼が現れ、孝霊天皇は細姫命、福姫命を印賀の里に連れて行った。
大倉山の伝説
昔、大倉山には牛鬼というとても恐ろしい鬼が住んでいた。里に下りては村人に危害を加えていた。上菅に住んでいた孝霊天皇は、早速歯黒王子を総大将として鬼退治をされることになった。まず、歯黒王子がこの山に登り総攻撃を仕掛け、孝霊天皇は麓で待機して攻撃した。牛鬼一族は歯黒王子の総攻撃にたまりかね、転げ落ちるようにして日野川に方へ逃げてきた。孝霊天皇は待ってましたとばかりに鬼たちに攻撃を始めたので、さすがの牛鬼の大将も降参した。このときに鬼が転げ落ちた滝を獅子ヶ滝とよび、孝霊天皇は合戦のあとこの滝で身を洗い、そぐ側の滝壺で刀を洗ったと伝える。
大宮の楽楽福神社
生山八幡宮の山上に柴滝というところがあって、ここで皇女福姫命が生まれ生山の地名となった。福姫命は13歳まで菅福で過ごされた。この頃、印賀にも鬼が現れ、福姫命は孝霊天皇に連れられて、印賀の里に移り住んだ。のどかな山里で楽しい毎日を過ごされるうち、15歳になったある日、孝霊天皇が印賀の鬼退治をして留守をしていたとき、福姫命は畑にたくさん育ったえんどう豆を採りに行かれた。ところがえんどう豆の蔦が竹に絡み付いて思うように採ることができず、力いっぱい蔦を引っ張ったところ竹の端が目に突き刺さってしまった。福姫命の目が大きく腫れ上がって様態は次第に悪くなっていった。その内、高熱を発してうなされる日々が続き、孝霊天皇や細姫命の看護もむなしく、ついにこの地で薨去されてしまった。村人たちは悲しみ、村の小高い丘(貴宮山)に福姫命を埋葬すると、その麓に楽楽福神社を造り、福姫命を祭神として祀ることになった。
鬼林山
孝霊天皇が大倉山と印賀の鬼退治を終えて菅福の地でしばらく休んでいると、鬼林山の鬼退治をしてほしいと人々が駆けつけてきた。孝霊天皇は再び歯黒皇子を連れて出かけることにした。孝霊天皇は宮内に居を移し、鬼退治をすることになった。鬼林山には赤鬼・青鬼の獰猛な鬼がいて簡単に倒せる相手ではなかった。この合戦のとき、急な病で最愛の皇后細姫が崩御された。孝霊天皇は悲しみの中で住居の裏山(崩御山)に細姫を埋葬した。
孝霊伝説
孝霊伝承と云われる一群の伝承群がある。記紀が記す第七代孝霊天皇、もしくはその皇子を主人公とした伝承たちで、吉備国から南北に延ばした線上に沿って分布している。吉備三カ国(備前・備中・備後)の一の宮、およびそれにまつわる伝説は除き、その他のものを北から南へと拾ってゆく。
(1)鳥取県大山町 / 孝霊山、高杉神社
孝霊山の名の由来は、孝霊天皇が行幸したからと云われているが、別に高麗山とも表され、所在する村の旧名は高麗村である。その山麓の高杉神社は孝霊天皇を祀る。
(2)鳥取県溝口町 / 楽楽福神社(ささふくじんじゃ)
隣の日南町にも、東楽楽福神社、西楽楽福神社があり、いずれも孝霊天皇を祀る。孝霊天皇が(もしくは、その皇子の鶯王と共に)鬼を退治したと云う伝説を伝えている。鬼住山(きずみやま)と云う山に鬼が住み人々を苦しめたので、天皇は、その山よりも高い笹苞山(ささつとさん)で笹の葉を刈って積み上げると、風が吹いて来て笹の葉を吹き飛ばし、鬼住山の鬼たちの所へ飛んで行き、鬼にまとわりついたので、その隙に鬼を斬ったと云う。誠にお伽噺よりも他愛ない話である。
(3)広島県府中市 / 南宮神社
孝霊天皇と吉備津彦を祀る。備後一の宮の吉備津神社は隣の新市町にある。
(4)香川県高松市鬼無町 / 桃太郎神社(旧名は熊野神社)
孝霊天皇の皇子の稚武彦が本津川で洗濯をしていた娘に一目惚れして、その婿となり、女木島に住んでいた鬼を退治したと云う伝説を伝えている。
(5)香川県高松市一宮町 / 一宮寺、田村神社
四国八十八か所第八十三番一宮寺(いちのみやじ)は、隣接する田村神社の別当寺である。本堂の脇にある三基の宝塔は孝霊天皇・倭迹々日百襲姫、吉備津彦の供養塔と伝えられ、一宮御陵と呼ばれている。田村神社は讃岐国の一の宮で、祭神は初めは猿田彦命であったが、いつの頃からか、倭迹々日百襲姫命、五十狭芹彦命(吉備津彦命)、天五十田根(あめのいたね)命、天隠山(あめのかくりやま)命を加えて五柱としている。
この他にも、愛媛県越智郡の河野氏(越智氏)が物部系と伝えられる一方で、孝霊天皇の第三皇子伊予皇子(記紀にはなし)の末裔であると云う伝えを持っていることなども、孝霊伝説の一端に数えられる。
美作国中山神社
このように、吉備国を中心として、その南北に分布している孝霊伝承のうち、南の四国の方のものは、単なる文化の伝播のようにも見られるが、北の方に分布しているものについては、一概にそう云い切ることが出来ないように思われる。そこで、美作国の一の宮、岡山県津山市一宮の中山神社のことを少し考えておく。
美作国は和銅六年備前国の六郡割いて置かれたものであるが、その国の一の宮中山神社の祭神は、吉備三カ国の場合とは異なり、鏡作神・石凝姥神・天糠戸神であり、鍛冶、採鉱の守護神とされている。(ただし、大日本史は備中の吉備津神社と同神と述べている)。中世には中山大明神、または南宮とも称せられた。地主神の大己貴命が中山神(鏡作神)にこの地を譲って、自らは祝木(いぼき)神社に退いたと云う伝承を持ち、また、神社の奥の長良嶽の磐座にある猿神社には、今昔物語(巻26第7)が伝える猿神伝説がある。これは、毎年美しい娘を生け贄に要求する老猿を猟師が退治する話で、伝説の豪傑岩見重太郎の狒狒(ひひ)退治の話とよく似たものである。
美作国は備前国の六郡を割いたものであるから、本来ならば、備前国と同じ神を祀るべきであるのに、そうしなかったのは何故か。美作分国は吉備の国の勢力を削減するための措置であるから、分立した美作からは吉備の影を少しでも薄めたかったためであることは想像に難くない。しかし、それにしても何故、鏡作神や石凝姥神なのか。それは、云うまでもなく、美作地域における製鉄を意識して、金属冶金に関わる神を持ってきたのである。この社が南宮と呼ばれたこともあると云うことは、製鉄神金山彦を祀る美濃の南宮神社との関連も思わせる。しかも、本来の地主神である大己貴神(大国主神)が、その地を譲ったと伝えることは、換言すれば、この地方における製鉄はもともと出雲の勢力下で行われていたが、新しく侵出してきた勢力、すなわち吉備の勢力によって、それを奪われたと云うことである。
そしてそこに猿が関わる。桃太郎の三人の家来、イヌ・サル・キジのうち、サルは楽楽森彦(ささもりひこ)をモデルにしたものと云われる。このことと結び付けると、この地方の製鉄を出雲から奪い取った吉備の勢力とは楽楽森彦に代表される勢力だったとも考えられる。
楽楽福神社
楽楽福神社なるものは、鳥取県西部を南北に流れる日野川に沿って分布している。日野川は砂鉄の採れる川である。
製鉄民と農耕民との紛争の話であるとされる八俣大蛇伝説を伝える記の「肥の川」、紀の「簸の川」は、島根県の斐伊川ではなく、鳥取県のこの日野川である可能性もある。
楽楽福神社にまつわる「鬼」なるものも製鉄民のことで、この伝承も同様に製鉄民と農耕民との紛争であるとの説をなす人もいる。その説によると、「ささ」は砂鉄のことであり、「ふく」は製鉄炉への送風の意味であると云う。私もこの説に概ねは賛同してもよいように思うが、ただ、「ささ」を砂鉄のこととするのは如何かと思う。砂を「いさご」、細かい砂を「まさご」(真砂)と云うから、「ささ」は砂鉄ではなく、単なる「砂」の意味であろう。しかし、砂鉄には「真砂(まさ)」と「赤目(あかめ)」の二種類があり、山陽側で採れる砂鉄が赤鉄鉱、褐鉄鉱を含んで「赤目」と呼ばれるのに対して、山陰側は磁鉄鉱のみからなる良質なもので「真砂」と呼ばれていたので、「ささ」にも副次的に「砂鉄」の意味があると見てもよいのかも知れない。
いずれにもせよ、「楽楽福」の意味を、このように製鉄に関するものと解釈すると、次に考えられるのが楽楽森彦との関係である。「楽楽福」と「楽楽森」の類似は単なる偶然だろうか。先の中山神社の場合と同様に、この日野川の製鉄も楽楽森彦に代表される吉備の勢力によって、出雲から奪われたのであろう。そう考えると、楽楽福神社にまつわる鬼退治の話は、製鉄民と農耕民との紛争ではなく、砂鉄資源を奪い合う出雲と吉備の紛争であると考えることが出来るのである。
楽楽福神社(ささふくじんじゃ) / 鳥取県西伯郡伯耆町宮原
“ささふく”という名前の由来は、“砂”即ち砂鉄をたたら吹きで製鉄することを意味するとされる。つまり、古来より中国山地一帯で盛んにおこなわれていた製鉄を神聖視して祀った神社であるとされる。しかし、一方でこの神社の祭神である孝霊天皇にまつわる伝説にもまつわるとされる。
神社の近くに鬼住山という名の山があり、そこを根城にして暴れ回っていた鬼の集団があった。この地を訪れた孝霊天皇はその話を聞き、早速鬼を退治することを決めた。鬼住山の隣にある笹苞山に陣を築いて、敵を見下ろす形で対峙した。まず献上された笹巻きの団子を3つ置いて鬼を誘い出すと、鬼の兄弟の弟・乙牛蟹を射殺すことに成功した。しかし兄の大牛蟹は降伏するどころか、手下を率いてさらに激しく抵抗して暴れ回ったのである。
事態が膠着しているさなか、天皇は霊夢を見る。天津神が枕元に立ち「笹の葉を刈って山のようにせよ。風が吹いて鬼は降参するであろう」と告げたのである。天皇はお告げに従い、笹の葉を刈って山のように積み上げた。すると3日目に南風が吹き荒れて、笹の葉はまたたく間に鬼住山に飛んでいった。天皇が敵陣へ軍を進めると、そこでは笹の葉が全身にまとわりついて狼狽える鬼達がいた。そこに火をつけるとあっという間に燃え広がり、天皇は一兵も欠けることなく勝ちを収めたのである。
破れた大牛蟹は、蟹のように這いつくばって命乞いをした。そして手下となって北の守りをすることを約束したのである。人々は喜び合い、奇瑞を示した笹の葉で屋根を葺いた社殿を造り、天皇を祀ったのである。これが今の楽楽福神社の始まりであるとされる。またこの鬼退治が、日本最古の鬼にまつわる伝承であるとされている。
楽楽福神社の境内には、孝霊天皇の墓とされる墳丘が残されている。土地の伝説によると、鬼退治を推敲した後も天皇はこの地に崩御するまで留まったという。
日本最古の鬼伝説の残る土地ということで、大牛蟹をモチーフとした巨大像が、鬼住山の対岸の丘に造られている(元は鬼関連のミュージアムだったが閉館)。また鬼住山の北にあり、降伏した鬼達が守ったという鬼守橋には、名前にちなんで鬼のオブジェが置かれている。
孝霊天皇 / 第7代天皇。ただし“欠史八代”と呼ばれる、実在が非常に疑問視される8天皇のひとりである。皇子に吉備津彦命と稚武彦命という“桃太郎伝説”のモデルとなった2人がおり、孝霊天皇の鬼退治伝説もこれと関連があると考えてよい。またこの鬼退治の伝説は、製鉄に使う砂鉄の所有をめぐって、吉備氏(孝霊天皇)と出雲氏(大牛蟹)が争った史実に基づくとも考えられる。  
 
孝霊天皇の関連伝承

 

孝霊天皇の関連伝承
瀬戸内の備中備後、伯耆、土佐に祭神とする神社が主に分布しており、活躍圏を示しているようだ。特に伯耆の樂樂福神社には、「孝霊天皇は武勇絶倫の彦狭島命を伴いて巡幸され、西の国を治め給う」との由緒を持っている。また、備後(広島県府中市)の南宮神社は孝霊天皇の御陵とされている。
孝霊天皇の妃に大倭玖迩阿禮比賣命(記では意富夜麻登玖邇阿礼比売命)がいる。三代目安寧天皇の子師木津日子の子和知津美命の娘であり、和知津美命は淡道(淡路島)に宮を置いた。淡路の大倭と言えば、式内社の大和大國魂神社が鎮座、この大和に縁の名だろうか。
淡路の大倭玖邇阿礼比売、即ち大和国を出現せしめた姫、イザナミの神そのもの、原形のように思える。阿波国美馬郡にイザナミを名乗る唯一の式内社である伊射奈美神社が鎮座している。同じ郡に式内倭大國玉神大國敷神社二座も鎮座、淡路とよく似ている。なお名方郡に鎮座の式内天佐自能和気神社の祭神の一柱に大倭玖迩阿禮比賣命の名が見える。
古事記にては、第3代安寧天皇の子の3番目の子、師木津日子命(しきつひこみこと)に二王が居て、その内の一人和知都美命(わちつみみこと)が淡道之御井宮にいた。とされています。そして、その和知都美命の子に蝿伊呂泥(はえいろね)=大倭玖邇阿禮姫(おほやまとくにあれひめ)(=第6世代に相当)と妹の蝿伊呂杼(はえいろど)が居て、どちらも第7代孝霊天皇の妃になっています。そして、大倭玖邇阿禮姫(おほやまとくにあれひめ)が倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)(=第7世代に相当)を儲けています。
倭迹迹日百襲姫命
(やまとととひももそひめのみこと/やまとととびももそひめのみこと、生没年不詳) 記紀等に伝わる古代日本の皇族。第7代孝霊天皇皇女で、大物主神(三輪山の神)との神婚譚や箸墓古墳(奈良県桜井市)伝承で知られる、巫女的な女性である。
『日本書紀』では「倭迹迹日百襲姫命」、『古事記』では「夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ)」と表記される。名称のうち「トトビ」は「鳥飛」、「モモ」は「百」、「ソ」は「十」の意味と見られ、「鳥飛」から脱魂型の巫女を表すという説がある。なお、『日本書紀』崇神天皇7年8月7日条に見える倭迹速神浅茅原目妙姫(やまととはやかんあさじはらまくわしひめ)は諸説で百襲姫と同一視される。また本居宣長は『古事記伝』において、『日本書紀』に第8代孝元天皇の皇女として見える倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)を百襲姫と同一視する説を挙げる。
讃岐の水主神社 伝承
社伝によると、倭迹迹日百襲姫命都の黒田宮にて、幼き頃より、神意を伺い、まじない、占い、知能の優れたお方といわれ、7歳のとき都において塵に交なく人もなき黒田宮を出られお船に乗りまして西へ西へと波のまにまに播磨灘今の東かがわ市引田安堵の浦に着き、水清きところを求めて、8歳のとき今の水主の里宮内にお着きになり成人になるまでこの地に住まわれた。土地の人に弥生米をあたえて、米作り又水路を開き、雨祈で、雨を降らせ、文化の興隆をなされた御人といわれる 。
孝霊天皇は倭迹迹日百襲姫の父親
伝承には伝えられてはいないが、孝霊天皇もこの地を訪問されともに住んでいた時期があったのではないだろうか。孝霊天皇はAD179年西国平定のために大和から吉備中山に移動しているが、その経路は不明であった。孝霊天皇は大和から淡路島経由でこの讃岐国を訪れ、しばらく倭迹迹日百襲姫とともに暮らした。その後孝霊天皇は吉備中山に、倭迹迹日百襲姫は高松の船岡山に移動したと考える。
『日野郡史』「第四章 神社」の部分に,『伯州日野郡染々福大明神記録事』
「人皇第七代ノ天皇也孝安天皇ノ御子也 一榮々福大明神者孝靈天皇ノ御后也福媛ト申則細媛命トモ中ス孝靈四十五年乙卯二天下三十六二割其頃諸國一見之御時西國隠島工御渡有依レ夫此地二御着有・・・・・・(中略)・・・・・・・・・后歳積り百十歳二シテ孝靈七十一年辛巳四月二十一日ノ辛巳ノ日二崩御シ給テ則宮内西二崩御廟所有り帝悲ミ給ヒテ大和國黒田ノ都へ御節城有テ百二十八歳同七十六年ノ丙戌二月八日二帝崩御也・・・・・・」
これによると,孝霊天皇は孝霊45年(171年)から孝霊71年(184年)頃まで山陰地方にいたことになっている。実際に鳥取県西部の日野川沿いには孝霊天皇を祭る神社が点在し凶賊を征したという伝承が伝わっている。また,孝霊天皇が梶福富の御墓山(イザナミ御陵)に参拝したという伝承もある。
13年間も山陰地方に滞在することは大変大きな事件であったことを示しているが,古事記・日本書紀は黙して語らない。
鳥取県溝口町鬼住山鬼退治伝承 / 鬼住山伝説
その昔、楽楽福神社の御祭神の孝霊天皇、当国に御幸遊ばすに、鬼住の山に悪鬼ありて人民を大いに悩ます。天皇、人民の歎きを聞召し、これを退治召さんとす。
先づ、南に聳える高山の笹苞(ささつと)の山に軍兵を布陣し給うに、鬼の館直下手元に見下し給う。その時、人民笹巻きの団子を献上し奉り、士気盛となる。山麓の赤坂というところに団子三つ並べ鬼をおびき出され給うに、弟の乙牛蟹出来(おとうしがにいでき)。大矢口命、大矢を仕掛けるに、矢、鬼の口に当たりて、鬼、身幽る。この山を三苞山とも言い。赤坂より、今に団子石出づ。
されど、兄の大牛蟹(おおうしがに)、手下を連ね、武く、仇なすことしきり、容易に降らず。
或夜、天皇の枕辺に天津神現れ曰く。
「笹の葉刈にて山の如せよ、風吹きて鬼降らむ。」と、天皇、お告に随い、刈りて待ち給うに、三日目の朝後先き無き程の南風吹きつのる。あれよ、あれよ、笹の葉、独り手に鬼の住いへと向う。天皇、これぞとばかり、全軍叱咤し給う。軍兵は笹の葉手把(たばね)て向う。笹の葉軍兵を尻辺にし鬼に向う。鬼、笹の葉を相手に、身に纏われ、成す術知らず。
うず高く寄りし春風に乾きたる軽葉、どうと燃えたれば、鬼一たまりもなく逃げ散り、天皇一兵も失わず勝ち給う。
麓に逃れた鬼、蟹の如くに這い蹲(つくば)いて、「我れ、降参す、これよりは手下となりて、北の守り賜わん」と、天皇「よし、汝が力もて北を守れ」と、許し給う。後に人民喜びて、笹で社殿を葺き天皇を祭る。これ、笹福の宮なり。(楽楽福神社古文書より)
このあと、宮原の地に笹で葺いた仮の御所が造られ天皇はこの地で亡くなられた、と伝える。
鬼住山伝承別伝
伯耆国日野郡溝口村の鬼住山に、悪い鬼がたくさん住みついていました。この鬼たちは、近くの村々に出ては人をさらったり、金や宝物や食べ物を奪って、人々を苦しめました。
これをお聞きになった孝霊天皇は、早速鬼退治を計画されました。その時、大連が策略を進言しました。
「鬼退治の総大将は、若宮の鶯王にお命じください。私は鶯王の命令に従って、鬼住山の鬼に向かって真っ先に進軍し、必ず鬼を征伐してごらんに入れましょう。」と。
大連は、約束のとおり軍の先頭に立って進軍し、鬼を征伐しました。これをご覧になっていた天皇は、大連の功績を称えて進の姓を賜りました。それ以来人々は進大連と呼ぶようになりました。
また、総大将の鶯王はこの戦いのときに戦死されましたので、土地の人々は、皇子の霊を楽楽福大明神として、戦死の地に宮を建てて祭りました。
この伝承には他にさまざまな別伝がある。それをまとめると。
鬼を退治した人物
 ・ 四道将軍の大吉備津彦説
 ・ 妻木の朝妻姫を母とする孝霊天皇の皇子の鶯王説
 ・ 歯黒皇子説。この皇子は彦寤間命(ひこさめま)とも稚武彦命とも伝う
 ・ 楽楽森彦命説
 ・ 孝霊天皇が歯黒皇子、新之森王子、那沢仁奥を率いて退治したという説
鬼住山に来た方向
 ・ 孝霊天皇が隠岐国の黄魃鬼を退治した後、北からやってきた説。
 ・ 吉備国から伯耆国に入ったという説。
 ・ 備中の石蟹魁荒仁(いしがたけるこうじん)、及び出雲の出雲振根も同時に平定されたという説。
孝霊山の伝承
鳥取県の大山北麓に孝霊山という山がある。この山に孝霊天皇の伝承が伝わっている
第7代孝霊天皇の時代のことです。
「伯耆国の妻木の里(大山町妻木)に、朝妻姫という大変美しくて心がけの良い娘がいるそうな。」 「朝妻は比べ物のないほどの絶世の美女だ。」 「朝妻の肌の美しさは、どんな着物を着ても透き通って光り輝いているそうな。」
などと、うわさは都まで広がって、とうとう天皇のお耳に達しました。
天皇は早速朝妻を召しだされ、后として愛されるようになりました。 朝妻は、故郷に年老いた母親を残しておいたのが毎日気にかかって仕方ありませんでした。このことを天皇に申し上げて、しばらくの間お暇をいただき妻木に帰って孝養を尽くしていました。
天皇は、朝妻を妻木に帰してから、日増しに朝妻恋しさが募り、朝妻の住んでいる妻木の里に下って来られました。
伯耆国では、天皇がおいでになったというので、大急ぎで孝霊山の頂に淀江の浜から石を運び上げて、天皇と朝妻のために宮殿を建てました。そのうちにお二人の間に若宮がお生まれになって鶯王と呼びました。
伝承にいう妻木は孝霊山麓の妻木晩田遺跡のことと思われる。妻木晩田遺跡は後期中葉から後葉にかけての遺跡で後期後葉としては全国最大級の規模の遺跡である。孝霊天皇がこの地に訪れたのはまさに最盛期であった。孝霊天皇の皇后の出身地であるからこそ最大級の遺跡になったとも考えられる。孝霊天皇は孝霊山頂に居を移したとあるが山頂に住むのはいろいろな面で不都合である。実際には,妻木晩田遺跡のすぐ近くの大山町宮内の宮内古墳群周辺に住んでいたのであろう。すぐそばに高杉神社があり、孝霊天皇が祀られている。
崩御山 / 鳥取県日南町宮内
崩御山は孝霊天皇がこの地に滞在中、その皇后細姫が孝霊71年にこの地でなくなり、この崩御山に葬られたというものである孝霊天皇がこの地で崩御したと伝えられているが,孝霊天皇はこの後も活躍しており,亡くなったのは鶯王であろう。また,孝霊天皇の幼名は楽楽福(ササフク)。
楽楽福神足洗池伝承
孝霊天皇は祖神伊弉冊命を祭る御墓山山麓の熊野神社に参詣し、砥波(阿毘縁)の大塚家に立ち寄られた。この地を訪れた孝霊天皇は、乞食のような身なりをしていた。飯を与えようとして近づくと、あたり一面大海のようになって近づくことを得ず、これは尊い方であろうと気づき、衣服を改めてくると、大海は跡形もなく消えうせた。そこで天皇を招じ入れたが、そのときに足を洗われたのが足洗池である。
日野郡史
「孝霊天皇が宮内に宮を作ってしばらくした頃、備中の石蟹魁師荒仁が兵を集め天皇を襲おうとした。天皇はそれを察知し日南町霞に關を作り、吉備津彦(歯黒皇子)に備中へ向かわせた。荒仁は吉備津彦に恐れをなし、大倉山の麓で戦わずして降参した。」
別伝
「孝霊天皇が石蟹魁師荒仁を退治したときに宮内に宮を構えた」
備中の伝承(新見市石蟹)
「強賊の石蟹魁師が石窟に居城を構えて横暴を極めていた。そこで、吉備津彦命がこれを征服して殺した。」
石蟹魁師荒仁の名を直訳してみると「石蟹族の頭領である荒仁」となり、「蟹」は鬼住山の兄弟の「大牛蟹」「乙牛蟹出来」と共通するところがあり、出雲族にもつけられた名で同属と考えられる。
これらの伝承をまとめると、石蟹族は岡山県新見市から、鳥取県日野郡日南町にかけての土地を領有していた出雲族に属する豪族で、土地の広さからして新見市周辺を拠点にしていたと思われる。まず、高梁川をさかのぼってきた孝霊天皇軍を新見市石蟹に居城を設けて迎え撃ったが、吉備津彦が応援に駆けつけ、たちまちたちまち敗走した。新見市の拠点も奪われた石蟹魁師荒仁は日南町霞まで退却しそこを拠点に最後の抵抗を謀ったが大倉山の麓にて降参したと推定するのである。そうすると、孝霊天皇は石蟹魁師荒仁を打ち破った後、鬼林山の牛鬼を破り、そのまま日野川を下って鬼住山の出雲族と戦うことになったと考える。
楽楽福神社
鳥取県にある楽楽福(ささふく)神社のうち、日野郡日南町宮内の楽楽福神社(通称・東楽々福神社)と西楽楽福神社、西伯郡伯耆町の楽々福神社、西伯郡南部町の楽々福神社、米子市安曇の楽々福神社ががあるが、いずれも祭神として大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)を祀っている。
「ささふく」の名称由来
ある夜、孝霊天皇の枕元で「笹の葉刈りにて、山の如くせよ。風吹きて鬼降らむ。」と、天津神のお告げがあった。そのようにすると鬼は降参した。この伝承に基づいて名付けられた名称である。
神社の屋根を笹で葺いて造ったから「ささふく」神社というとする説があるが、伝承に基づいて笹で屋根を葺いたものと思われる。
「ささふく」神社の祭神は、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)であり、島根県野義郡広瀬町石原の佐々布久神社の祭神も大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)であると解される。倭大乱を平定するためにここまで来られて拠点とされた。
佐々布久神社は安来市広瀬町石原にある。
倭健命については鳥取県中部に二か所伝承が残っている。
鳥取県倉吉市(旧関金町)に、ヤマトタケルが伯耆と美作国境の矢筈仙の山頂の岩石の上に立ち、「この矢のとどく限り兇徒、悪魔は退散して我が守護の地となれ」と念じ矢を放った場所が塔王権現で、現在は石祠と石塔が残る。また、放った矢は現在の倉吉市生竹まで飛び、その地の荒神が受け止めたといわれ、「矢留の荒神さん」と呼ばれる神社が建立されている。
宮崎神社 / 鳥取県北栄町
由緒には「是に於て孝霊天皇の御宇皇子大日本根子彦国牽尊、土人の為今の本社地に御祖伊弉諾尊伊弉冉尊を奉齋し給ひき、是れ本社の濫觴なりと、斯くて数十年を経て景行天皇の御宇、皇子日本武尊征西の御時、北海の霪風御艦を悩まし奉りしが不思議の神助にて御艦引寄するが如く本社地乾の隅に着御し給へり、尊大に歓喜し給ひて宣はく 斯く清らかなる地の海面に浮出つるはこは浮洲にや と、是より社地を称して浮洲の社と云ふ、洲の中央に大麻を挿立て御自ら御飯を爨き給ひて二尊を祭り神助を謝し給へり、御飯を炊き給ひし地は本社の北にあり今飯ノ山といふ、斯くて其後風波穏やかになりければ如何なる御訳にや、小艇は此地に置き給ひて、御艦に召され進発し給ひしと云ふ・・・又御難風の御時尊の御沓一隻海に失い給いしが後潮引ける時本社より西方なる山岸によれり、土人この沓を奉して祀れり、是今の汐宮なりという」とある。
伊予の伝承
伊予神社
河野氏の系譜を記した『予章記』には孝霊天皇の皇子の彦狭島命が反抗する民を制圧するために伊予国に派遣されたとあり、続けて皇子が現社地にあたる神崎庄に鎮座し、このことから当社を親王宮と呼ぶと記している。速後上命は『先代旧事本紀』内の「国造本紀」では神八井耳命の子孫とされており、成務天皇の時代に伊予国造に任命されたとある。

美濃国 土岐郡 天津日神社 是れ一書に孝霊天皇の御代の頃なる由を記せり。
尾張国 海東郡 津島神社 孝霊天皇45年に、建速須左男命(タケハヤスサノオノミコト)の御魂が韓郷の嶋より帰朝。
近江国 野洲郡 御上神社 孝霊天皇の治世期、天之御影神が三上山に降臨した。
近江国 犬上郡 春日神社 孝霊天皇五年亥の年虚空より 鹿来り千々の境内をかけ廻りて死す。
丹後国 熊野郡 三嶋田神社 孝靈天皇の御宇、武諸隅命(海部直の祖)生嶋に大山祇命・ 上津綿津見命・表筒男命を祀りて三嶋神社と稱し奉る。
伯耆国 八橋郡 宮崎神社 孝霊天皇の御代、皇子大日本根子彦国牽尊、土人のために今の 本社地に伊弉諾、伊弉冊尊を奉す。
長門国 美禰郡 八幡磨能峰宮 孝霊天皇の御宇、初めて創立し天照大神、蛭子大神を奉斎。
讃岐国 大内郡 水主神社 創祀は遠く孝霊天皇の御宇。
肥後国 阿蘇郡 阿蘇神社 孝霊天皇の時、御子速瓶玉命に勅して大神を祭られたのが当社創建の始め。
肥後国 蘆北郡 陣内阿蘇神社 孝霊天皇の9年(前281年)現在の阿蘇郡一の宮町に阿蘇神社と して祀られたと伝えられている。
伊予国 温泉郡 出雲崗神社 孝霊天皇の御代の創建。
美作国 東北条郡 寄松神社 孝霊天皇の御代に紀州熊野神社より勧請した。 
 
鬼とは古来日本列島に居住していた縄文人

 

不比等死後、不比等の地位だった右大臣になり名実共に政権トップとなった長屋王は、行基と藤原一族の陰謀におとしめられてしまった。天平一(七二九)年、長屋王は聖武天皇を呪術で呪ったという嫌疑をかけられ、自決した。不比等の子、光明子が妃から聖武天皇の皇后となることによって、藤原四兄弟による宮廷での地位は固まり、藤原一族は権力を把握した。そして藤原一族の陰謀に加担した行基は大和仏教の統帥僧侶へと上昇していった。
東北、出羽国と陸奥国の蝦夷を統治するためには、坂東、下野国の蝦夷反乱は壊滅されている必要があった。下野国の北部は陸奥道への入り口であり、ここが安全でなくては、多賀城に東山道や東海道から万余の軍隊を派兵することはできない。下野国は奥州侵略の前線基地だった。各村からは家族ごと農民が、蝦夷の領域であった地帯へ、屯田兵として入植させられていった。蝦夷への遠征のたびに、若い男は兵士として動員され、下野国は疲弊し、たびたび飢饉に襲われていた。前線基地での百姓反乱は、どんな小さな動きでも許されなかった。百姓を監視する役割が高句麗・新羅から移植してきた渡来人屯田兵だった。屯田兵によって河川周辺の土地を奪われ、山奥へと蝦夷は追われていった。渡来人にとって蝦夷は意味不明の不気味な山岳の鬼だった。
鬼とは古来から日本列島に居住していた縄文人だった。そして朝廷軍の軍神、坂上田村麻呂のルーツは、「おもいかね」として神話に登場する公孫氏だった。2世紀後半、後漢の地方官だった公孫度が遼東に国を築く。公孫氏は朝鮮半島まで浸透していくが、やがて公孫氏は魏に滅ぼされた。逃れた一族は朝鮮半島の南部へとやってきた。そこで伽耶諸国を創建する。公孫氏は金属の生産と加工に優れた技術を持っていた。さらには軍事技術があった。やがて公孫氏は伽耶諸国から日本列島に移住を開始する。そして歴代朝廷軍の主力勢力となっていった。公孫氏坂上田村麻呂の系譜は、アテルイの反乱から二百五十年後に勃発した前九年合戦で、安倍貞任、藤原経清ら安倍一族軍を鎮圧した、陸奥守源頼義とその子八幡太郎義家に流れていた。渡来人系譜源氏の奥州征伐への執着は、源頼朝による奥州藤原氏平泉炎上によって帰結した。
雄大な高原山を拝める盆地には木幡神社があった。延暦十四(七九五)年、蝦夷征伐に向かう坂上田村麻呂によって創建されたという。この地と古代那須国を結ぶ佐久山街道の豊田には坂上田村麻呂の将軍塚がある。豊田将軍塚は、坂上田村麻呂将軍が宿泊したと伝えられる、由緒ある場所とされている。そこで坂上田村麻呂は、延暦十四(七九五)年、鬼怒一族に暗殺されたという異史がある。その伝承によると将軍塚は田村麻呂の墓であるというのだ。田村麻呂の暗殺に驚愕した朝廷は、田村麻呂の死を隠蔽し、彼の弟を田村麻呂将軍として祭り上げた。朝廷の自作自演が必要だったのは、東北蝦夷征服の最後の切り札が田村麻呂将軍であったからである。朝廷軍は東北蝦夷征伐の遠征軍を派兵するたび敗北していた。この地は東北反乱の蝦夷と切っても切れない関係にあった。木幡神社には朱色の業火に焼かれ、逃げ惑う鬼たちの地獄絵が本殿の内壁に描かれている。その鬼こそ高原山の縄文人である鬼怒一族とされている。木幡神社は大和朝廷軍が滅ぼした鬼怒一族の怨霊を永遠に封じ込めるための呪術神社とされているが、異史によると木幡神社も鬼怒一族の社であったというのだ。鬼怒一族は社を未来永劫に残すために、坂上田村麻呂将軍によって創建されという風説を下野全土に流した。蝦夷の知恵だった。
前九年の役より二十五年後、頼義の子八幡太郎義家が奥州清原氏の内乱に介入したのが、後三年の役だった。この後三年の役が東国における源氏の覇権と、武家の頭領としての地位を固めた。
坂上田村麻呂系譜である、源氏の関東、東北支配を許すまじと、奥州アテルイの系譜である安倍一族の反乱に呼応し、高原山鬼怒一族の同盟軍でもある八溝山の蝦夷岩獄一族は、北坂東蝦夷の部族反乱を八幡太郎義家源氏軍に対して起こした。下野、常陸、奥州にまたがる山脈こそ八溝山だった。
鬼怒一族も八溝山に入り、北坂東蝦夷山岳ゲリラ軍の中枢を担ったのだが、源氏の家来である那須貞信軍の亀裂な謀略によって、八溝山蝦夷軍は鎮圧されてしまった。那須貞信は相模国から遠征軍を募り、総勢五千の鎮圧軍を形成した。八溝山の蝦夷討伐によって那須貞信は朝廷から源氏の一党として那須国を与えられた。那須貞信は新興那須家の祖となった。
新興那須氏二代目の那須資道は、八幡太郎義家の家来として、奥州征伐「後三年の役」に従軍している。新興那須家の「那須国」は、源氏による奥州侵略の要基地となった。
平家と源氏の「屋島の合戦」で、義経に命じられ、海の小船、平家の女房が持つ扇を射止めたのが、弓で有名な那須与一。古来よりの那須国を奪った、貞信の系譜である。
敗北し、屈辱的に殺された八溝山蝦夷軍の大将、岩獄丸は怨霊となった。
木幡神社には八幡太郎義家が、奥州征伐へ向かう途中、戦勝祈願している。
「鷲の棲む深山には、概ての鳥は棲むものか、同じき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや」(白河法皇)
白河法皇は源氏の頭角を恐れた。八幡太郎義家は白河法皇の陰謀によって、力を削がれ、孤立化していった。最後は病死した。鬼怒一族の怨霊にやられたのだろうと白河法皇は、院政の御所で薄く笑ったという。
「下野の高原山、その山が見下ろす里、木幡神社は源氏の軍神、坂上田村麻呂が奥州蝦夷征伐祈願のため、建てたというが、実はのう……鬼怒一族が建てた怨霊社であるとか、結界に入った蝦夷討伐の覇者は、復讐の霊に呪われるという、恐ろしや、木幡神社の云われをけして源氏に教えてはならぬ、宮廷の公卿にも知らせてはならぬぞえ」
白河法皇は言葉に出さす自分を戒めた。
鎌倉幕府を開いた源頼朝も那須野が原の狩のおり、先祖ゆかりの木幡神社に祈願したという。その後、源頼朝はある日、相模川から鎌倉への帰途落馬し、御所で死んだ。
「もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原」(源実朝)
兄、頼家が追放されたあとを継ぎ、鎌倉幕府三代将軍になった源実朝も那須が原での狩のおり、先祖ゆかりの木幡神社に祈願した。
その後、実朝は、兄頼家の子である公暁に、鶴岡八幡宮の社前で正月拝賀の際暗殺された。公暁は、北条義時ら幕臣に実朝が父のかたきであると聞かされていた。兄弟を皆殺しにした源頼朝の征夷大将軍系譜は消滅した。院政の後鳥羽上皇は、鬼怒一族の怨霊とは恐ろしや、木幡神社に祈願するたび源氏が死んでいく……鬼怒一族を味方に引き入れなければならぬ。かつて朝廷が滅ぼした山の民蝦夷を味方にせねばならぬと胸で誓った。そして後鳥羽上皇は、今が鎌倉幕府打倒の好機と、京都守護伊賀光季を討ち、執権北条義時追討の宣旨を発令し承久の乱を起こしたのだが、鎌倉幕府軍に敗退してしまった。後鳥羽上皇は隠岐に流された。後鳥羽上皇の意思を蘇らせたのが後醍醐天皇だった。
高原山と八溝山の源氏への怨霊をおそれた鎌倉幕府北条執権は、自らを平氏の出自であると宣言するようになっていた。鎌倉幕府最後の執権である北条高時を裏切ったのが、源氏の出自である足利尊氏だった。
奈良時代に高原山から農耕奴隷として西国各地に流された鬼怒一族の末裔は、鎌倉時代末期になり、後醍醐天皇による北条鎌倉幕府打倒の綸旨に応じ、後醍醐天皇の王子である大塔宮が指揮する山岳ゲリラ軍に参加し、安芸の山の民である有留一族と共に、みごと北条鎌倉幕府軍を敗退させる一翼を担った。しかし、山岳ゲリラ軍の将軍である大塔宮は朝廷内の陰謀により、足利尊氏軍に引き渡され、鎌倉に送られてしまい、足利尊氏の弟である足利直義の命令によって暗殺されてしまった。大塔宮を鎌倉から奪還し、山岳ゲリラ軍の再建を計画していた鬼怒一族と有留一族は、大塔宮の死により展望を喪失し、西国に帰還した。やがて朝廷が分裂し後醍醐天皇と足利尊氏の内戦が勃発した。鬼怒一族と有留一族は吉野の山に入り、今度は楠木正成軍に加わる。しかし楠木正成軍は足利軍に敗れてしまう。生き残った有留一族は一度四国に逃れ、そこから安芸の故郷に帰還。鬼怒一族は足利軍による敗軍残党狩りを恐れながら流民となって西国を脱出し、坂東下野北部に向かった。坂上田村麻呂将軍塚があり鬼怒一族の聖地高原山を拝める豊田村を開拓し住み着いたという。豊田村の東には裏高原山の塩原から箒川が流れていた。箒川は那須国の那珂川へと合流する。 
 
蝦夷と鬼

 

1.蝦夷と鬼伝説
東北の鬼伝説といえば、岩木山の大人伝説、男鹿のナマハゲ伝説、安達が原の鬼婆伝説などが代表格である。中でも、安達が原の鬼婆伝説は、能では「黒塚」、人形浄瑠璃や歌舞伎では「奥州安達が原」などに取り入れられ、よく知れわたっている。
福島県二本松市の北東部、阿武隈川の東岸に安達が原がある。
平安時代の半ば、天暦(947ー957)の頃に成立したとみられる『大和物語』に、平兼盛が、
みちのくの 安達ケ原の黒塚に 鬼こもれりと 聞くはまことか
と詠んでいるので、よほど古くから鬼の棲む場所とされていたことになる。
安達が原の観世寺やその周辺には、鬼婆を埋めた黒塚、鬼婆の住んだ岩屋、はては鬼婆の使った包丁から夜泣石、恋衣地蔵堂・伊駒地蔵堂まである。
観世寺の「黒塚縁起」によると、京都のある公家の乳母であった岩手は、てしおにかけて育てた姫の病気が妊婦の生ぎもを飲めば治ると聞かされて、東に下り、みちのくの安達が原の岩屋に住みつく。木枯らしの吹く晩秋の暮れどき、伊駒之助・恋衣と名乗る若夫婦が一夜の宿を乞い、その夜、身ごもっていた恋衣はにわかに産気づき、伊駒之助が薬を求めて出かけたすきに、岩手は出刃包丁をふるって恋衣の腹を裂く。恋衣が苦しい息の下で、母を尋ねて旅してきたことを語ると、岩手はその守り袋を見て、幼いときに都に残したいとしい我が子と知り、気を狂わし、ついに鬼と化す。
以後、宿を求めてきた旅人を殺し、生き血をすすり肉を喰らう「安達ケ原の鬼婆」として恐れられるようになるが、如意輪観音の加護を得た熊野の僧東光坊によって退治される。その鬼婆の死骸を埋めた場所が黒塚で、如意輪観音を祀った寺が観世寺というわけだ。
人形浄瑠璃や歌舞伎の「奥州安達が原」は、安倍貞任と源義家との戦いを軸としながらも、恋衣や貞任の妻で盲目となる袖萩など薄幸の女たちを多く登場させる。鬼と化した岩手も凄惨ではあるが、薄幸の女性の一人である。
「奥州安達が原」では、蝦夷の安倍貞任・宗任が活躍するが、もとの鬼婆伝説には登場しない。しかし、北東北の鬼伝説は、中央政府にまつろわないために鬼とされた蝦夷の首長たちの話が大半である。そういえば、平兼盛の歌は、鬼婆よりも、いわれなくして鬼とされた者たちの面影が感じられる。
岩手県の鬼伝説地を訪ねると、たとえば、西磐井郡花泉町太田沼の「空泣山の鬼婆」のように、子どもが井戸に落ちたとウソ泣きして、道行く人をだまし、突き落として取って喰った鬼婆もいるが、おおむね、坂上田村麻呂の征夷伝説と結びついて語られている。
岩手の人びとが最も嫌う伝説の一つに、東磐井郡平泉町の達谷の窟伝説がある。窟の毘沙門堂を管理する西光寺の縁起によると、ここに住んでいた悪路王・赤頭らが人を害し猛威をふるうので、坂上田村麻呂は毘沙門天の加護を得てこれを平定し、京都の鞍馬寺にならって毘沙門堂を建立、百八体の像を刻んで祀ったという。
この伝説は、『吾妻鏡』の文治5年(1189)9月28日条にも、立ち寄った源頼朝の問いに答える記事として登場するので、よほど古い時代に定着した話だと思う。また、江戸時代中期に訪ねきた菅江真澄も「かすむ駒形」(天明6年1月26日条)に、「むかし、赤頭、達谷などという鬼が、この窟に籠っていたのを、田村麿がうち平らげられた」と書いている。
一関市真柴の鬼死骸は、江戸時代から明治初期までは村名だった。その由来は、田村麻呂に討たれた大武丸の死骸を埋めたところだからだそうで、もとは鹿島神社の社の下に高さ5尺・周囲3丈余の大石があり、そこに埋めていたという。この鬼石は、現在もJR東北線の東脇の田圃の中にあり、200メートルくらい南には大武丸の背骨石・筋石・兜石などと呼ばれる石も残っている。また、首は宮城県の鳴子鬼首に飛んで行ったとも語り伝えている。
江刺地方には、大武丸(大嶽丸)の子の人首丸(ヒトカベマル)にまつわる話が多く、15・16歳の若武者として語られている。達谷の窟を逃れた人首丸は、北上川の支流伊手川をのぼり、江刺市原体の鬼渕に潜み、さらに藤里の愛宕山の洞窟に隠れた。しかし、追撃は急で、米里の大森山(820メートル)にたてこもり、ついに物見山(種山、870メートル)に陣をはった田村麻呂の女婿の田村阿波守兼光に討たれた。
兼光が取った首を見ると、美少年。鬼ではあるが、顔は人。兼光は不憫に思い、観音堂を建立して丁重に祀った。これが、のちに玉里に移された大森観音。地元民は、明治8年までこの地を人首村と称して、人首丸を偲んだそうだ。また、大森山の頂上から100メートルばかり下った所に岩屋があるが、ここが大森観音跡で、さらにやや下った鞍部に立っている2メートル余の石碑を「鬼っこの墓」と呼んで、供養してきたという。案内してくれた佐伯公郎さんは、人首の村名を忌んで米里に変更してから、次第に人首丸を供養する気持ちも失せ、やがて「鬼っこの墓」も忘れられていった、と話してくれた。
気仙地方にも田村麻呂に追われた鬼伝説がたくさんある。大船渡市猪川には赤頭という鬼が棲んでいたという。その頭領の高丸は、久名畑から日頃市に逃げようとして、盛川ぶちの2丈もある大きな岩の上に追いつめられ、最後の力をふりしぼって、向岸に飛び越え逃れた。そこで、この岩を「鬼越」と称したそうだが、道路改修で今はない。同市猪川の長谷寺、陸前高田市小友の常膳寺、同市矢作の観音寺は「気仙三観音」と呼ばれ、田村麻呂が討ち取った鬼の死骸を分割して三寺に葬ったのに由来する。
三陸町越喜来は、「鬼喜来」(鬼が喜んで来た)から来たといい、鬼の隠れ場所だった。しかし、田村麻呂は海から上陸し、たちまちのうちに鬼を討ち取り、その死骸をバラバラにして海に流した。このとき、たくさんの鬼を沢に追いつめ殺したので、「鬼沢」と呼ぶようになった。また、バラバラの死骸が流れついた所を「首崎」「脚崎」「牙ケ崎」などと名づけたと伝えている。
岩手山の周辺にも田村麻呂と蝦夷にまつわる鬼伝説は多く、「鬼ケ城」「鬼古里山」「鬼越」など由来する地名がある。鬼伝説に由来する地名といえば、県名となった「岩手」を忘れる訳にはいかない。盛岡市三ツ割の東顕寺境内にある大きな三つ石は、「鬼の手形」で知られる。田村麻呂に三人の蝦夷が降伏し、その誓約の証に、岩に手形を押したものという伝承もある。だが、一般には、里に下りて来て悪さをする羅刹を三つ石の神が捕え、二度と現われないと約束したので放免したときの、誓約の手形だと語られている。二度と来ないから「不来方」で、岩に押した手形だから「岩手」。そのときの里民の喜びの踊りが「さんさ踊り」になったという。
そのほか、東磐井郡室根村の室根山は鬼首山ともいい、日本武尊が鬼神を退治し、神社を勧請したと伝えられる。大槌町の大槌・小槌も鬼に関する昔話が地名の由来になっている。鍛冶屋は毎夜現れる鬼を金槌で追い帰すが、鍛冶屋と鬼、金属民と鬼とにまつわる話で興味深い。
若尾五尾さんは鬼を古修験(原始修験)との関連でとらえる。古修験者は道教で説く不老長寿薬としての水銀を獲得するため山中に踏み込み、金の採掘・精練をしたが、その手下となった採掘鉱夫を鬼と称した、と若尾さんはいう(『金属・魂・人柱その他ー物質と技術のフークロアー』)。
岩手県内で見られる鍛冶屋の守護神「鍛冶神」の掛図は、全国的にどの程度の広がりを持つか不明だが、岩手では鍛冶屋のフイゴ祭りに仕事場の神棚などに祀る。図柄は、中央部ないし中央上段に三宝荒神、下段に鍛冶場の様子を描いているものが多い。三宝荒神と随神だけの図柄もあるが、フイゴに風を送ったり、向こう槌をふり上げて鍛冶屋を手伝う鬼の入った図柄も多い。鬼は鍛冶屋につきものなのである。
小野寺正人さんは、若尾さんの論を受けて、宮城県の蝦夷伝説と鬼地名を分析している。鬼地名のある近くには金山などの鉱山が存在する。坂上田村麻呂によって征伐された蝦夷を鬼とするのは、鉱山の金工と鬼退治とが結びついたためで、のちに鉱山が廃れ関係が薄れると、鬼退治伝説だけが語られてきたからだという(「宮城県の鬼地名について」『東北民俗』第22輯)。
そうした視点で岩手県内の鬼地名を見直すと、気仙地方など金山や鉄山がセットで存在するものもある。だが、胆沢地方は田村麻呂と闘ったアテルイやモレなど蝦夷の本拠地であり、敗走する蝦夷が岩手山周辺や北上山地や沿岸地方に追いつめられ鬼伝説を残した考えるのが妥当。ただ、大槌町の大槌・小槌伝説は、製鉄の鍛冶屋と鬼との関わりで生まれたのである。
また、厨川柵で敗死した蝦夷の最後の頭領である安倍貞任は、源義経と同様に、これを慕う人々の心の中でいつまでも生き続け、ついには北行伝説として蘇った。その軌跡は、上閉伊郡宮守村の砥石森、下閉伊郡川井村江繋の安倍ケ森、岩手郡岩手町御堂などを経て、北のはて青森県下北郡佐井村に至り、とうとう「貞任鬼」になったという(菊池敬一『安倍貞任伝説』)。北海道まで渡ったとする義経北行伝説の先行形である。
2.アテルイと安倍貞任
『日本紀略』の延暦21年(802)4月15日条に、蝦夷の首長である大墓公アテルイと盤具公モレらが手勢500人を率いて、征夷大将軍坂上田村麻呂の前に投降したという記事がある。次いで、8月13日条には、京都に送られた二人が斬られたとある。
田村麻呂は、二人を胆沢の地に送り返し、彼らを利用して奥地の蝦夷の帰順を図るべきだと力説したらしいが、多くの公家たちは、「野性獣心、反覆定まるなし。奥地に放置するは、虎を養いて患いを遺すものなり」と厳しく退けたので、河内国杜山(現在の大阪府枚方市)で二人は斬られた。強大な中央軍に対して、雄々しく戦って散ったみちのくの英雄の最期である。
アテルイやモレの住む日高見国(ヒタカミノクニ)は、北上川流域の豊かな平和な国だった。ところが、『日本書紀』の景行紀に、「その土地は肥沃にして曠し。撃ちて取るべし」とあるように、中央政権にとっては、掠奪すべき「水陸万頃」の国だった。
とはいえ、祖先以来ここに暮らす人々には、守るべき父祖の地で、襲いくるものがあれば、阻み追い返すべき聖なる土地だった。だから、中央政府では、「まつろわぬ者」「あらぶる者」として「蝦夷」と賤しめ、口実を以て征夷の対象としたのである。
延暦8年(789)春、「板東の安危この一挙にあり」という桓武天皇の特命を受けた紀古佐美は、東山・東海・北陸の諸道の国々から武器・食料・兵士5万2000人を多賀城に集め、軍を分けて衣川に進んできた。以後、しばらく進軍が停滞したので、桓武天皇はいらだち、再度の進撃をうながした。そこで、古佐美は、4000人の精鋭を選りすぐって北上川を渡河し、アテルイの本拠と見られる巣伏村を衝かんとした。だが、アテルイは、わずかな手兵でこれを誘い、伏兵で逆襲し壊滅的打撃を与えたのである。
『続日本紀』によると、渡河軍四千人のうち、戦死者25人、矢に射られて負傷した者235人、溺死者1316人、裸にて帰着した者1257人という散々たる有様で、紀古佐美は、すごすごと都に帰っていった。こうして、坂上田村麻呂が登場することになった。
以後、坂上田村麻呂とアテルイ・モレらの長くて激しい戦いが続くが、時に利あらず、アテルイらは降伏し、ついに斬られてしまう。身長5尺8寸、胸の厚さ1尺2寸、怒れば猛獣もたちまち斃るといわれ田村麻呂も、意に反して処刑された北方の雄者アテルイの最期に、熱い涙を注いだことだろう。
このアテルイに重ね合わす英雄に安倍貞任がいる。奥六郡の郡司に任じられた安倍頼良の子である。
坂上田村麻呂の勝利によって、蝦夷の制圧に成功した朝廷は、その蝦夷の本拠地である現在の水沢市佐倉河に胆沢城を築いた。延暦21年(802)のことであった。次いで翌22年(803)には、現在の盛岡市太田、雫石川の南に紫波城を築いたが、これは川の氾濫による水害が激しかったので、弘仁2年(811)、現在の紫波郡矢巾町徳田の地に徳丹城を築いた。また、延暦23年(804)には鎮守府を多賀城から胆沢城に移し、胆沢の地を東北経営の中心にすえた。
その一方で、衣川以北に胆沢・江刺・和賀・稗貫・紫波・岩手の六郡を設置し、「奥六郡」と称して、降伏した陸奥・出羽国の蝦夷を移住させて封じ込めた。いわゆる俘囚(帰服した蝦夷)であり、その首長を俘囚長として官位を与え、課役を免じて懐柔した。そのため、のちには国司をしのぐ勢力を持つ安倍頼良が登場するのである。
安倍頼良は、蝦夷の血筋を受けて奥六郡の蝦夷を統率し、金や馬などのを基盤とした経済力と軍事力を持ち、南端の衣川を越える勢いであった。永承6年(1051)、それを危惧した朝廷では国司に攻めさすが大敗した。そこで、源頼義を陸奥守と鎮守府将軍に任じ、東国の武士団をさしむけた。頼良は頼義と同音である名前をはばかって「頼時」と改め、金や馬などを献上して恭順のの意思を示して一時おさまる。だが、幾度かの謀略が仕掛けられ安倍軍は暴発させられてしまう。
この源頼義・義家父子と安倍頼時・貞任父子の戦いが前九年の合戦(1051ー62)である。安倍軍の中心は貞任と頼時の女婿・藤原経清で、川崎柵(東磐井郡川崎村)の攻防で安倍側は勝利する。頼義は出羽仙北の清原武則一族と手を結び、小松柵・衣川柵・鳥海柵など安倍氏の拠点を次々と攻め落とし、ついに厨川柵(盛岡市)で安倍氏を滅ぼした。康平5年(1062)のことである。
『陸奥話記』には安倍貞任の最期を、「貞任は剣を抜いて官軍を斬る。官軍は鋒をもってこれを刺し大楯に載せ六人でこれをかつぎ将軍の前に置く。その長さ六尺有余。腰の囲は七尺四寸。容貌魁偉、皮膚肥白なり。将軍、罪を責む。貞任は一面して死す。」と記している。
「一面して死す」とは、頭を下げて死んだことで、貞任は最後まで雄々しく戦い、敵将源頼義に別れの挨拶をして、息をひきとったのである。見事な死にざまであった。「容貌魁偉、皮膚肥白」、これが貞任の姿容貌であった。
その後、奥六郡は清原氏が手にするが、清原氏の内紛によって後三年の合戦がおこり、最後に藤原経清を父に、安倍頼時の娘を母に持つ藤原清衡が継ぐことになる。こうして奥六郡の南の端の衣川を越えた平泉に館を築いて進出し、平泉藤原四代の時代が始まるのである。蝦夷の系譜はこうして藤原清衡・基衡・秀衡らに受け継がれのである。
3.田村麻呂伝説と毘沙門天
先に触れたが、平泉町の達谷の窟に住んでいた悪路王・赤頭らが人を害し猛威をふるうので、坂上田村麻呂は毘沙門天の加護を得てこれを平定し、京都の鞍馬寺にならって毘沙門堂を建立、百八体の像を刻んで祀ったとあった。
悪路王は、アテルイなどの蝦夷首長を象徴した伝説上の人物である。「悪」は、本来、悪源太や悪左府のように、抜群の体力と能力を持った者に冠する称号だった。ところが、いつの間にか、悪鬼羅刹にすり替えられ、高丸・赤頭とともに「三鬼」と呼ばれる鬼に転じられた。
しかし、討たれて都に運ばれた悪路王の首は、はるか北のふるさとを目指して、天を飛んだという。茨城県鹿島町の鹿島神宮にある「悪路王首像」は、田村麻呂が戦勝を祈願し、その報謝に献納したものだと伝承されるが、一方で、天を翔んだ首だと信じられてきた。像は鼻が高く、眉や目尻がつり上がり、伎楽面の酔胡王を思わせる忿怒の容貌をしている。『陸奥話記』に記された安倍貞任の「容貌魁偉」を具象化すれば、このようになるかもしれないと思わせる容貌である。
悪路王伝説は、上総国から常陸国・岩代国などでは平将門伝説と習合して、さらに大きく生き続けるようだ。また、茨城県桂村の鹿島神社にも「悪路王首像」がある。
田村麻呂伝説では、彼は北方の守護神である多門天(毘沙門天)の生まれ変わりとされている。その毘沙門天を祀るお堂が、北上山地の山ひだに点在している。
たとえば、和賀郡東和町の成島毘沙門堂には、地天女の手のひらにのる兜跋毘沙門天像(国重文)が祀られているが、これは像高(地天女とも)472.7センチ巨像。傍らには毘藍婆(ビランバ)・尼藍婆(ニランバ)の二鬼がひかえている。兜跋毘沙門天像は、ほかにも江刺市の藤里毘沙門堂蔵(国重文)などがある。
また、邪鬼を踏んつけている毘沙門天像は、北上市の立花毘沙門堂蔵(国重文)、江刺市の小名丸毘沙門堂蔵、同藤里毘沙門堂蔵(県指定)、宮古市の小山田薬師堂蔵(県指定)などがある。
毘沙門天に踏まれた邪鬼を、先祖が踏みつけにされている姿と思っている人が意外に多い。岩手県立博物館のエントランホールの成島の兜跋毘沙門天像(複製)を見て、何故、先祖を踏みつけているような像をシンボル的に展示するのかと、クレームをつけられる方がままあったものだ。地天女は土地神で、その手に支えられている姿だと説明しても、なかなか納得されない。
先の『吾妻鏡』の伝説は、「坂上田村麻呂利仁」が主人公。奥浄瑠璃の「田村三代記」は、立烏帽子という鈴鹿の鬼女を妻にした彼が、その協力で近江国の高丸や奥州達谷窟の大嶽丸を征伐する物語りである。『御伽草子』の「田村草子」や『元亨釈書』『平泉誌』など、田村麻呂ないし田村麻呂利仁が悪路王や高丸や大嶽丸などの鬼を討伐する話がたくさんある。それが各地の鬼伝説を増幅して行ったのだから、鬼を自分たちの先祖と考えるのも無理からぬことなのである。
しかし、小山田薬師堂の毘沙門天像の邪鬼を見ると、鬼だってなかなかどうして、踏んづけられても簡単に悲鳴を上げたりはしない。頬杖などをして、実に悠然と構えている。
私は、日高見国の呼ばれた北上川流域を母なる国として、そこで暮らした遠祖たちが、その豊かな土地を「討ちてとるべし」という進言にもとづいて、蝦夷と蔑まれ、鬼と呼ばれてと征討されたことの復権を願う。だから、ここに、声を大にして「よみがえれ北天の鬼」と叫びたい。 
 
諸説

 

鬼門1  
北東(艮=うしとら:丑と寅の間)の方位のことである。陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角としている。他の方位神とは異なり、鬼門は常に艮の方角にある。鬼門とは反対の、南西(坤、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)と言い、この方角も鬼門同様、忌み嫌われる。(巽)を「風門」、北東(艮)を「鬼門」とした。
陰陽道においては、北と西は陰、東と南は陽とされ、北東と南西は陰陽の境になるので、不安定になると説明される。
中国から伝わったものとされるが、家相や鬼門に関しては、さまざまな諸説があり、正式な出典証明のない諸説ばかりであり、かつ整合性のある諸説もなく、諸説が一人歩きしているのが現状である。
鬼門の忌避
鬼門思想は中国から伝来した考え方であることに間違いはないが、日本の鬼門思想は中国から伝わった思想とは大きく違った思想になっている。なぜなら風水に鬼門思想はなく、日本独自の陰陽道の中で出来上がった日本独特の思想であると考えるべきである。
現代でも、人々は、縁起を担ぎ、家の北東、鬼門の方角に魔よけの意味をもつ、「柊」や「南天」を植えたり、鬼門から水回りや玄関を避けて家作りする現状があり、根強い鬼門を恐れる思想がある。
十二支で鬼門(丑寅)とは反対の方角が未申であることから、猿の像を鬼門避けとして祀ったりしたといわれている。代表的な例が、京都御所であるが、京都御所の北東角には軒下に木彫りの猿が鎮座し、鬼門に対抗し(猿ヶ辻)といわれ、築地塀がその方位だけ凹んでおり、「猿ヶ辻」と称されてきた説がある。
現在でも、家の中央から見て鬼門にあたる方角には、玄関、便所、風呂、台所などの水を扱う場所を置くことを忌む風習が全国に強く残っている。また、南西の方位を裏鬼門として、鬼門同様、水まわりや玄関を嫌う風習も根強く残っている。これは、京都御所の築地塀が鬼門、北東方位を凹ませてあることから、御所が鬼門を恐れ避けている、鬼門を除けていると考えられ、それから鬼門を避ける鬼門除けの手法とされてきた。
また、都市計画においては、平城京では鬼門の方向に東大寺が、裏鬼門の方向に植槻八幡宮が、平安京では大内裏から鬼門の方向に比叡山延暦寺が、裏鬼門の方向に石清水八幡宮が、鎌倉では幕府から鬼門の方向に荏柄天神社が、裏鬼門の方角に夷堂 が、江戸では江戸城から鬼門の方向に東叡山寛永寺が、裏鬼門の方向に三縁山広度院増上寺が置かれたといわれている。
鬼門の真実
現代でも、家の中央から見て鬼門にあたる方角には、玄関、便所、風呂、台所などの水を扱う場所を置くことを忌む風習が全国に強く残っている。また、南西の方位を裏鬼門として、鬼門同様、水まわりや玄関を嫌う風習も根強く残っている。
これは、京都御所の築地塀が鬼門、北東方位が凹ませてあることから、御所ですら鬼門を避けている、除けていると考えられ、それから鬼門を除ける手法とされてきたことにある。建築家清家清著 現代の家相には、京都御所の猿ヶ辻を家相の教え通りに凹ませていると書かれている。
俗語の「鬼門」
以上のように、鬼門は本来呪術的な意味を持つ言葉であるが、転じて「よくない結果が起こりやすい事柄」に対してこの言葉が用いられるようになっていった。方角に限らず、場所、時間帯や特定の教科などを指すこともあり、その用途は幅広い。 
 
鬼門2
鬼門とは、陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして北東:艮(うしとら:丑と寅の間)の方位を定めており、万事に忌むべき方角としてます。ちなみに、鬼門とは反対の南西:坤(ひつじさる:未と申の間)の方角は人門といいますが、別名裏鬼門(うらきもん)と言い、この方角も鬼門同様、忌み嫌われる方角になります。
東南(巽)は「風門」、北西(乾)は「天門」、南西(坤)は「人門」、北東(艮)は「鬼門」という。陰陽道においては北と西は陰、東と南は陽とされ、北東と南西は陰陽の境で不安定になるため、鬼門、裏鬼門と称される訳です。
そもそも太陽や五惑星が通る道筋を地球上に投影した黄道は、平面上では北東と南西を結んだ線になります。古代ではその黄道が神が通過する道筋と考え、そこから神が通る聖なる通路を常に清浄にしておくという風習が生まれ、北東の玄関を「鬼門」、南西の神が去っていく裏玄関を「裏鬼門」と呼ぶようになったのです。
門鬼思想は中国から伝来した考え方ではあるのですが、日本の鬼門思想は中国から伝わった思想とは大きく違った思想になっています。誤解しがちなのですが、風水に鬼門思想はなく、日本の陰陽道と神道、仏道、宮廷での鬼門思想の文化で出来上がった日本独特の思想なのです。
現代でも、縁起を担いで鬼門の方角である家の北東に魔よけの意味をもつひいらぎ南天を植えたり、鬼門から水回りや玄関を避けて家作りする風習が残っています。また、十二支で鬼門(丑寅)とは反対の方角が坤(ひつじさる)であることから、猿の像を鬼門避けとして祀ったりした風習もあるそうです。京都御所や東寺などには、御所や五重塔の北東角に軒下に木彫りの猿が鎮座していますし、京都御所の築地塀の北東方位を凹ませてあるのも、鬼門避けのひとつの手法とされてきた訳です。
他にも平安京や江戸城などは有名ですよね。
平安京に遷都した際に京都の平穏を祈るため、鬼門の方位にあたる比叡山に延暦寺を建てて鬼門鎮護の霊場としましたし、徳川幕府も江戸城の鬼門にあたる上野に東の叡山ということで東叡山寛永寺を造営し、表鬼門の鎮護にあたったとのことです。ちなみに、江戸城の裏鬼門を鎮護するのが芝の増上寺。二つの寺は幕府安泰の意を込め、代々の将軍の墓所が交互に設けられています。また、江戸の街の北座にあたる日光に東照宮を造営し、家康を神として祀ってあるのですが、その真北に北極星が位置しているというのは偶然ではないでしょう。
もう少し余談を加えておくと、徳川の繁栄に万全を期すため、将軍家に世継ぎが生まれなかった場合は、徳川御三家の尾張あるいは紀州から世継ぎを迎えることとしました。そんな中、水戸は常に江戸にあって将軍家を支え、決して将軍を出してはならないとしたのですが、それは水戸が江戸城から見て鬼門の方位だったためです。そもそも徳川幕府を作り上げるときに、水戸から将軍を出すときが幕府の終わるときである、という訓戒があったらしいのですが、徳川最後の将軍徳川慶喜が最初の水戸出身だったというのは、偶然というだけでは信じがたい何かがあります。
江戸時代は、二百六十年もの間戦乱もなく平和が続いた世界でも稀に見る時代ですが、これひとつとっても、鬼門や陰陽道の考え方が単なる風習だけで片づけられない理由がそこにあるのです。
 
羅刹天

 

(らせつてん、Skt:Rākṣasaの音写) 仏教の天部の一つ十二天に属する西南の護法善神。羅刹(らせつ)とも言う。
羅刹とは鬼神の総称であり、羅刹鬼(らせつき)・速疾鬼(そくしつき)・可畏(かい)とも訳される。また羅刹天は別名涅哩底王(Nirrti-rajaの音写、ラージャは王で、ねいりちおう、にりちおう)ともいわれる。破壊と滅亡を司る神。また、地獄の獄卒(地獄卒)のことを指すときもある。四天王の一である多聞天(毘沙門天)に夜叉と共に仕える。
ヒンドゥー教に登場する鬼神ラークシャサが仏教に取り入れられたものである。 その起源は夜叉同様、アーリア人のインド侵入以前からの木石水界の精霊と思われ、ヴェーダ神話では財宝の神クヴェーラ(毘沙門天)をその王として、南方の島、ランカー島(現在のスリランカ)を根城としていた。『ラーマーヤナ』ではクヴェーラの異母弟ラーヴァナが島の覇権を握り、ラークシャサを率いて神々に戦いを挑み、コーサラ国の王子ラーマに退治される伝説が語られている。概ねバラモン・ヒンズー教では人を惑わし食らう魔物として描かれることが多い。
仏教普及後は、夜叉と同様に毘沙門天の眷属として仏法守護の役目を担わされるようになる。十二天では「羅刹天」として西南を守護し、手にした剣で煩悩を断つといわれる。図像は鎧を身につけ左手を剣印の印契を結び、右手に刀を持つ姿で描かれる。全身黒色で、髪の毛だけが赤い鬼とされる。
中国以東では羅刹の魔物としての性格が強調され、地獄の獄卒と同一視されて恐れられることが多かった。10世紀の延暦寺の僧、源信著『往生要集』はその凄惨な地獄描写で有名だが、そこでも羅刹は亡者を責める地獄の怪物として描かれている。
羅刹の男は醜く、羅刹の女は美しいとされ、男を羅刹娑・羅刹婆(ラクシャーサ、ラークシャサ、ラクシャス、ラクシャサ、ラクササ)、女を羅刹斯・羅刹私(ラークシャシー)・羅刹女(らせつにょ)という。また羅刹女といえば法華経の陀羅尼品に説かれる十羅刹女が知られるが、これとは別の十大羅刹女や八大羅刹女、十二大羅刹女として、それぞれ名称が挙げられており、さらに孔雀経では72の羅刹女の名前が列記されている。 
 
酒呑童子

 

丹波国の大江山、または山城国京都と丹波国の国境にある大枝(老の坂)に住んでいたと伝わる鬼の頭領、あるいは盗賊の頭目。酒が好きだったことから、部下たちからこの名で呼ばれていた。文献によっては、酒顛童子、酒天童子、朱点童子などとも記されている。彼が本拠とした大江山では龍宮御殿のような邸宅に住み棲み、数多くの鬼共を部下にしていたという。
一条天皇の時代、京の若者や姫君が次々と神隠しに遭った、安倍晴明に占わせたところ、大江山に住む鬼の酒呑童子の仕業とわかった。そこで帝は長徳元年(995年)に源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせた。頼光らは旅の者を装って鬼の居城を訪ね、酒を酌み交わして話を聞いたところ、最澄が延暦寺を建て以来というもの鬼共の行き場がなくなり、嘉祥2年(849年)から大江山に住みついたという。頼光らは鬼に毒酒を飲ませて泥酔させると、寝込みを襲って鬼共を成敗、酒呑童子の首級を京に持ち帰って凱旋した。首級は帝らが検分したのちに宇治の平等院に納められた。
歴史家の高橋昌明は、正暦5年(994年)に大流行した疱瘡がこの伝説に関わっているのではないかと見ている。また、『史記』に記される蚩尤伝説や、唐代の小説『補江総白猿伝』、さらには明代の『陳巡権梅嶺失妻記』との類似も認められるという。
出生の伝説
酒呑童子は、一説には越後国の蒲原郡中村で誕生したという。また伊吹山の麓でスサノオとの戦いに敗れた八岐大蛇が出雲国から近江へと落ち延び、そこで富豪の娘に産ませたのが酒呑童子だという伝承もある。その証拠に、父子ともども無類の酒好きであることが挙げられる。
越後国の酒呑童子
伝教法師や弘法大師が活躍した平安初期(8世紀)に越後国で生まれた彼は、国上寺(新潟県燕市)の稚児となった(国上山麓には彼が通ったと伝えられる「稚児道」が残る)。12, 3歳でありながら、絶世の美少年であったため、多くの女性に恋されたが全て断り、彼に言い寄った女性は恋煩いで皆死んでしまった。そこで女性たちから貰った恋文を焼いてしまったところ、想いを遂げられなかった女性の恨みによって、恋文を燃やしたときに出た煙にまかれ、鬼になったという。そして鬼となった彼は、本州を中心に各地の山々を転々とした後に、大江山に棲みついたという。一説では越後国の鍛冶屋の息子として産まれ、母の胎内で16ヶ月を過ごしており、産まれながらにして歯と髪が生え揃い、すぐに歩くことができて5〜6歳程度の言葉を話し、4歳の頃には16歳程度の知能と体力を身につけ、気性の荒さもさることながら、その異常な才覚により周囲から「鬼っ子」と疎まれていたという。『前太平記』によればその後、6歳にして母親に捨てられ、各地を流浪して鬼への道を歩んでいったという。また、鬼っ子と蔑まれたために寺に預けられたが、その寺の住職が外法の使い手であり、童子は外法を習ったために鬼と化し、悪の限りを尽くしたとの伝承もある。和納村(現・新潟県新潟市)では、村付近の小川に棲む「とち」という魚を妊婦が食べると、その子供は男なら大泥棒、女なら淫婦になるといわれ、その魚を食べたある女の胎内に16ヶ月宿った末に生まれた子供が酒呑童子だといい、この地には後に童子屋敷、童子田などの地名が残されている。
伊吹山の酒呑童子
奈良絵本『酒典童子』によれば、酒典童子は、近江国須川(米原市)の長者の娘・玉姫御前と、伊吹山の伊吹大明神(八岐大蛇)との間に生まれた。伊吹大明神の託宣によって、出産後、玉姫は伊吹山に上り、酒典童子は祖父である須川の長者の子として育てられた。10歳のとき、酒典童子は高野山と比叡山のどちらかで仏道修行をするよう祖父から勧められ、高野山は遠すぎるという理由で、近くにある比叡山の稚児となった。入山後、彼は三塔一の学僧とたたえられるまでになったが、酒好きであった。これは五戒の一つ飲酒戒に反するため、彼は皆から軽蔑されたが、師僧に強く叱らると酒を断った。その頃、都が平安京に移り、内裏では祝賀行事として京都の人々による風流踊が催され、諸寺にも風流踊を披露するよう勅命があった。比叡山が都の鬼門に当たるということから、酒典童子の提案で比叡山の僧たちは「鬼踊り」を披露することになった。踊りの際に用いる鬼の面は酒典童子が全て用意した。内裏での披露が終わると、比叡山の僧たちに酒が振る舞われた。鯨飲した酒典童子は、鬼の面を着けたまま山に帰って寝た。翌朝、目を覚ましてみると鬼の面が外れなくなっていた。その姿を僧たちから恐れられ、最澄によって比叡山を追われた酒典童子は、祖父・須川の長者のもとに帰った。しかし祖父は鬼の姿となった酒典童子を迎え入れず、両親のいる伊吹山に追い払った。酒典童子は伊吹山に上り、母の導きで山の北西にある岩屋にこもると、神通力を持つ本物の鬼となり、一帯の人々をさらって食べるようになった。これを憂えた最澄の祈祷によって伊吹山から追放されると、日本中の山々をさまよい、最終的に大江山にたどり着いた。
大江山の酒呑童子 1
平安時代から鎌倉時代に掛けて都を荒らした無法者としての“鬼”は、丹波国の大江山、または現在の京都市西京区大枝(おおえ)、老ノ坂(おいのさか)(京都市洛西地区)及び隣接する亀岡市篠町王子(大江山という小字がある)に本拠があったという。丹波国の大江山の伝説は、大枝の山賊が行人を悩ませたことが誤り伝えられたものとする説がある 。
大和国の酒呑童子
大和国(現・奈良県)の白毫寺の稚児が、近くの山で死体を見つけ、好奇心からその肉を寺へ持って帰り、人肉だと言わずに師の僧侶に食べさせた。その後も稚児は頻繁に肉を持って帰り、やがて死体の肉を奪うだけでなく、生きている人間を襲って殺し、肉を奪うようになった。不審に思った僧が稚児の後を追って真相を知り、稚児を激しく責め、山に捨てた。この稚児が後に酒呑童子となり、捨てられた場所は「ちご坂」の名で後に伝えられた。別説では、白毫寺の住職のもとに生まれた子が、成長に従い牙や角が生え、後には獣のように荒々しい子供となった。住職は世間体を恥じて子供を捨てたが、後にその子が大江山に入り、酒呑童子となったという。
大江山の酒呑童子 2 / 山の神と鬼
鬼の話の中でも、古来もっとも人口に膾炙したのは大江山の酒呑童子の話だろう。能の曲目にも取り上げられ、お伽草紙をはじめ民話の中にも類似の話は多い。それらの話のテーマになっているのは人を食う鬼であり、その鬼を源頼光のような英雄が退治するというのが大方に共通する筋書きである。
能の「大江山」では、丹後の大江山に住み着き、人を攫っては食うという鬼神を、源頼光とその従者50人が山伏姿となって山に踏み入り、退治するという筋書きになっている。そのクライマックスの部分を、謡曲は次のように描いている。
「頼光保昌もとよりも、鬼神なりともさすが頼光が手なみにいかで洩すべきと、走りかゝつてはつたと打つ手にむずと組んで、えいや/\と組むとぞ見えしが、頼光下に組み伏せられ、鬼一口に食はんとするを、頼光下より刀を抜いて、二刀三刀刺し通し刺し通し、刀を力にえいやとかへし、さも勢へる鬼神を推しつけ怒れる首を出ち落し、大江の山を又踏み分けで、都へとこそ帰りけれ。」
「鬼一口に食はんとするを」の部分は、人を食う鬼の恐ろしさを表現したものであり、日本の民話に出てくる多くの鬼に共通する原イメージというべきものである。
このように山中ひそかに住み着き、人を襲ったり食ったりする鬼のイメージは、日本人にとってはなじみの深いものである。お伽草紙などの民話にも類似の話が多く出てくるし、現代においてさえ、鬼を主題にした漫画が好んで読まれているほどだ。時によって鬼は眷属を伴い、集団で鬼の踊りをしたりもする。また百鬼夜行といわれるような、妖怪集団のイメージを伴うこともある。
この鬼が果たしてどういう起源のものであるかについては、五来重などは宗教民俗学の視点から、山神の転化した形であろうと推測している。山の神は、鬼のほかにも天狗や山姥、場合によっては河童などの形をとることもあるが、いづれも日本人の山岳信仰と、その背後にある祖霊信仰に根を持っている。山は古来先祖の魂が去っていくところと思念されていたし、また先祖の霊がこの世に現れるときに、そこを通ってやってくるところであった。
その祖霊としての山神が、何故鬼の形をとって人を食うようにならなければならないのか。なかなか難しい問題だが、そこには古来悠然と流れてきた日本人の山に対する複雑な心性が作用している。
山は死者が葬られるところであったし、また場合によってはその中に踏み込んだ人間たちが忽然と姿を消していなくなることもあった。そんなところから、山は神聖なものであると同時に恐ろしいものでもあった。こんな両義的な感情が山の神に鬼のイメージを重ね合わせさせたのかもしれない。
ところで能ではその恐ろしい鬼が童子の形をとっている。説話の世界でも伊吹童子や茨木童子など、童形の鬼の話はほかにもある。大江山の鬼は酒呑童子という名だが、源頼光がその名の由来を尋ねると、鬼は「我が名を酒呑童子と云ふ事は、明暮酒をすきたるにより、眷属どもに酒呑童子と呼ばれ候」と答えている。
民話研究家の佐竹昭広はこの「しゅてんどうじ」とは「すてご(捨て子)童子」が転化したものだろうと推測しているが、いまその真偽を明らかにすることはできない。一方五来重は、童子を鬼の形に重ね合わせるのは、シャーマニズムの憑霊の儀式において、子どもが霊のヨリシロとなったことを反映しているのではないかと推測している。
酒呑童子は、今は大江山に住んでいるが、そもそもは比叡山にいたということを、能の中の鬼は語っている。
「われ比叡の山を重代の住家とし年月を送りしに、大師坊と云ふえせ人、嶺には根本中堂を建て、麓に七社の霊神を斎し無念さに、一夜に三十余丈の楠となつて奇瑞を見せし処に、大師坊一首の歌に、阿縟多羅三貘三菩提の仏たち、我が立つ冥加あらせ給へとありしかば、仏たちも大師坊にかたらはされ、出でよ/\と責め給へば、力なくして重代の比叡のお山を出でしなり。」
ここには、仏教伝来以前より比叡山には山の神がいて、それが伝教大使によって追い出されたということが語られている。比叡山の山の神は比叡山を追い出された後、筑紫の彦山、伯耆の大山、白山、立山、富士とさすらい歩いて、最後に大江山に住み着いたのだと語っている。
これは天狗ものにおいて、天狗たちがこもる山の名と共通するところがある。こうした山々は古来、日本人にとって山岳信仰の拠点とされてきたところである。そこには日本民族にとって悠久の昔から山の神が住み着いていた。だがそれらは仏教の伝来によって、山の主人としての地位を追われた。追われた山の神の中には、仏の眷属となって生き延びるものもいたであろうが、大江山の酒呑童子のように叛旗を翻すものもあったのだろう。
こうしてみると、大江山の酒呑童子の伝説は、比叡山の山の神の記憶と遠く結びついていることがわかる。
西洋の伝説に出てくる魔女や魔法使いは、もともとヨーロッパ土着の土地の神が、キリスト教の伝来によって異教の魔物とされたことにそのルーツを有しているとされる。文化の衝突によって、古いものが新しいものの視点から位置づけなおされた例である。酒呑童子の伝説においては、それと同じようなことが、日本固有の山の神と、仏教の教えとの間に生じたのであろう。 
酒呑童子の配下
酒呑童子の配下は副首領の茨木童子、そして四天王として熊童子、虎熊童子、星熊童子、金熊童子の四人の鬼が在り、いくしま童子という名前も伝承上には存在する。
茨木童子との関係
酒呑童子とともに京都を荒らした大鬼、茨木童子だが、実は彼らの関係も様々な諸説がある。その諸説の中に、実は茨木童子は“男の鬼ではなく、女の鬼だった”という説があり、または酒呑童子の息子、はては彼の恋人だったという説も伝わっている。そして、しばらくしてから酒呑童子と茨木童子は互いの存在を知り、共に都を目指すようになったといわれている。
妖怪としての酒呑童子
京都に上った酒呑童子は、茨木童子をはじめとする多くの鬼を従え、大江山を拠点として、しばしば京都に出現し、若い貴族の姫君を誘拐して側に仕えさせたり、刀で切って生のまま喰ったりしたという。あまりにも悪行を働くので帝の命により摂津源氏の源頼光と嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭とする頼光四天王(渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武)により討伐隊が結成され、長徳元年(995年)に討伐に向かった。姫君の血の酒や人肉をともに食べ安心させたのち、頼光が神より兜とともにもらった「神便鬼毒酒」という毒酒を酒盛りの最中に酒呑童子に飲ませ、体が動かなくなったところを押さえて、寝首を掻き成敗した。しかし首を切られた後でも頼光の兜に噛み付いていたといわれている。
頼光たちは討ち取った首を京へ持ち帰ったが、老ノ坂で道端の地蔵尊に「不浄なものを京に持ち込むな」と忠告され、それきり首はその場から動かなくなってしまったため、一同はその地に首を埋葬した。また一説では童子は死に際に今までの罪を悔い、死後は首から上に病気を持つ人々を助けることを望んだため、大明神として祀られたともいう。これが現在でも老ノ坂峠にある首塚大明神で、伝承の通り首から上の病気に霊験あらたかといわれている。大江山(京都府福知山市大江町)の山中に埋めたとも伝えられ、大江山にある鬼岳稲荷山神社の由来となっている。
また京都府の成相寺には、この神便鬼毒酒に用いたという酒徳利と杯が所蔵されている。
酒呑童子という名が出る最古のものは重要文化財となっている「大江山酒天童子絵巻」(逸翁美術館蔵)で、南北朝時代後期もしくは室町時代初期に造られたといわれている。この内容は上記の酒呑童子のイメージとはかなり異なっている。まず綴りが酒「天」童子であり、童子は一種の土着の有力者・鬼神のように描かれていることがうかがえる。また童子は「比叡山を先祖代々の所領としていたが、伝教大師に追い出され大江山にやってきた」とも述べている。酒で動きを封じられ、ある意味だまし討ちをしてきた頼光らに対して童子は「鬼に横道はない」と頼光を激しくののしった。 
 
伊吹童子ー酒呑童子の誕生

 

「おおえやま」石原和三郎作詞 田村虎蔵作曲
一 むかし、たんばの、おおえやま、おにどもおおく、こもりいて、
  みやこにでては、人をくい、かねやたからを、ぬすみゆく。
  (わかき、ひめをば、ぬすみゆく)
二 げんじのたいしょう、らいこうは、ときのみかどの、みことのり、
  おうけもうして、おにたいじ、いきおいよくも、でかけたり。
三 けらいは、なだかき、四天王、やまぶしすがたに、みをやつし、
  けわしき山や、ふかき谷、みちなきみちを、きりひらき。
四 おおえの山に、きてみれば、しゅてんどうじが、かしらにて、
  あおおに、あかおに、あつまって、まえようたえよの、大さわぎ。
  (のがるるひめをば、ひっとらえ)
五 かねてよういの、どくのさけ、すすめておにを、よいつぶし、
  おいのなかより、とりいだす、よろいかぶとに、みをかため。
六 おどろきまどう、おにどもを、ひとり、のこさず、きりころし、
  しゅてんどうじの、くびをとり、めでたくみやこに、かえりけり。
明治34年7月発行「幼年唱歌」より。※カッコ内の歌詞は明治34年の初出時のもの。現在の歌詞には「検定唱歌集」大正15年刊で変更されました。作詞、作曲とも「きんたろう」と同じコンビです。
この歌は源頼光が四人の部下とともに大江山に棲む鬼、酒呑童子を退治する話を児童唱歌にしたものです。酒呑童子が京を恐怖のどん底に陥れた時代は平安中期、藤原兼家の五男、道長が、「この世をば わが世とぞ思う 望月の かけたることも なしと思えば」と、歌に詠んだ藤原家全盛の時期の事です。当時の京は、藤原家の栄華の裏で、魑魅魍魎が跋扈し闇に凶賊が走る時代でした。安倍晴明が陰陽道を駆使し、また源頼光をはじめ武士が武力を持って京の治安を守っていました。そのころ大和朝廷の形成過程で山に追われた神々の末裔は、あるものは山岳信仰を形成し、独自の規律、独自のつながりをもって自分たちの生活を形成していました。一方、山には山の人間ばかりがいたわけではなく、町を追われたものが逃げ込む所でもありました。何かの都合で町にすめなくなったり、追われたり、すてられたり、また犯罪をおかして逃げ込む場所も山だったのです。
酒呑童子は捨て童子、ある理由のために捨てられた子供だとされています。
近江の国に大野木殿とという有徳な人がいました。彼には十六歳になる美しい一人娘があり、この姫君のもとに、夜毎かよってくる男のあったのですが、誰も気がつかずにいました。そのうち姫は身ごもってしまい、驚いた乳母が問いただすと、姫君は、どこの誰とは知りませんが「そのありさまけだかき人」が毎晩通ってくる、と答えました。乳母から事情を聞いた母親は、その男がおそらく変化のものと察し、正体をつきとめるために、娘の姫に針のついた苧環(おだまき)を渡し、男のすそに縫い付けさせました。朝になって帰っていった男の後を、糸を頼りにたどると、垣の穴から外へ、そして伊吹山のほとり、弥三郎の家へと続いていました。この弥三郎は野山のけだものを狩って食べ物としていました。けものが捕れない時は、家畜として飼われている、薪を背負った馬や、田を耕していた牛まで奪い取り、打ち殺して食べてしましました。そのさまは、まさに鬼神、人も喰うとして、あたりのものは皆逃げ出し、伊吹の里には人がすまなくなっていました。常人ではないと世間に聞こえた弥三郎が相手と知り、姫君の父大野木殿は、おろそかに扱う事が出来ず、その晩は姫君のもとへ山海の珍味を贈り、夜通し弥三郎の好物の酒でもてなした。弥三郎は姫に宿った子が尋常ならざる能力を備え、国の主ともなりうる男子であると予言します。しかし、弥三郎は大野木殿が勧めた酒を過ごしたため、死んでしまいます。
三十三ヶ月程を経て、姫には異様な男の子が生まれました。生まれてきた男の子は黒々とした髪の毛が肩のまわりまで垂れ、歯は上下とも生えそろい、抱きかかえあげた乳母の手の中で、カッと目を見開くと、「父はいずくにましますぞ。」と、人語を発して皆を驚かせました。この赤ん坊は伊吹童子と名づけられますが、世間には大野木殿の姫君が恐ろしい鬼子を生んだという噂が広まりました。
姫の兄、大野木の太郎は、父に対し進言します。世の中の人々は、伊吹童子を鬼神の変化と言って恐れています。人々の言うように童子は世の子供とは違います。 このまま成長して、おとなしくならず、世の中のためにならない事も起るのではありませんか、その時後悔しても、どうにもなりません。父の大野木殿は、童子が父の伊吹の弥三郎の凶悪無比な血を受け継いでいる事を考えると、恐ろしくてなりません。ついに意を決して、伊吹山中の谷底に童子を捨ててしまいました。童子は始めの頃は泣き叫んでいましたが、しばらくするとケロッとしてあたりを駆け回って遊ぶようになりました。山中の狼や猪、鹿は童子を守り、花や食物を運び、童子は捨てられて死ぬどころか、ますます元気に成長していきます。
山の神の庇護を受け、けものに育てられ、丈夫にそだった伊吹童子は、不老不死の薬と言われる伊吹山の「さしも草」の露をなめ、そのしたたりの水を飲み、たちまち仙術を得て神通力を自在に使う身となりました。そして、それから長い年月がたったのか、大野木殿の事も弥三郎とのいきさつも、遠い昔語りとなり、詳しい事を知るものは誰もいなくなっていました。しかし、それほどの年月がたっても 伊吹童子は、十四、五歳くらいにしか見えませんでした。その力は山を動かし、空を稲妻のように翔け、多くの鬼神を従えてしたい放題の乱暴を働いていました。その乱暴狼藉はついに伊吹大明神の怒りに触れ、伊吹童子は山から追放されました。伊吹童子は比叡の東の峰に翔び、大比叡の山に移りましたが、伝教大姉の法力と山王権現の神力には勝てず、比叡山から逃げ出し、さらに西の山に向かって飛び去りました。西に翔んだ伊吹童子は、丹波の国に大江山という高く険しい山に降り、そこに岩屋をたててすみかとします。大江山は、人の通いが難しい要害で、伊吹童子は岩を積んで築地とし、岩をうがって窟をつくり、また門という門に異形異類の鬼神を置いて警護しました。そして、虚空をかける眷属を都に送り、人の宝を奪い、みめよく若い女房、娘をかどわかして、岩屋のうちに連れ込み、すぐれた女を召使いにし、劣ったものは打ち殺して喰らいました。岩屋にはいつしか金銀財宝がうずたかくつまれていました。この岩屋は鬼ケ城と呼ばれるようになり、恐れて近づく者さえいませんでした。それは人間だけではなく、鳥やけものでさえも、近づこうとしませんでした。
以上が、伊吹童子のお話で、酒呑童子の出生から大江山に住みつくまでの事を、伊吹童子として書かれています。誕生の部分は三輪山縁起のの蛇婿入苧環型の形式を取っています。
伊吹山の伊吹大明神は本地が八岐大蛇とされていて、伊吹の弥三郎は、八岐大蛇の申し子、末裔と考えられています。弥三郎が酒好きで、大野木殿が弥三郎に酒を飲ませたのも、大蛇退治を踏んでいる事になります。また、狼は山の神を暗示する生き物で、しばしば山中に捨てられた子供を守り育てます。ただ、酒呑童子の出生譚である伊吹童子の物語の成立は、酒呑童子より数百年後、でした。
まず酒呑童子の物語があって、後になって出生譚が成立しました。史実として藤原頼光に退治されたと考えられる酒呑童子は千年前後、弥三郎の物語が現れるのは1407年に成立した「三国伝記」です。ここでの弥三郎は、異類のものとして住民を恐怖に落とし入れ、退治された後、明神として祭られた、とされています。
これより先1201年、史実上伊吹の弥三郎という凶賊が討伐されています。1185年壇ノ浦の戦いで平家を破った源氏は武家政治を開始します。柏原弥三郎は平家との戦いで軍功をあげ、近江の国、柏原庄の地頭に任じられました。
地頭は兵糧米を一反につき五升の割で徴収する代わりに、反乱などを鎮圧する役目を持ち、警察権、徴税権、土地管理権をもっていましたが、弥三郎は農民支配に乗りだし、寺社領をも横領しはじめました。
そこで近江の国の守護、つまり弥三郎の上司にあたる、佐々木定綱に柏原弥三郎討伐の命が下されました。しかし、定綱は弥三郎を取り逃し、弥三郎は伊吹山中に逃亡し、一年半にわたり、近隣の集落を襲う凶賊と化したのです。弥三郎は定綱の四男、佐々木信綱によって討たれるのですが、弥三郎の恐怖は数世紀にわたり続きます。
廿一日。 大風近国ノ山木半吹倒ス。 弥三郎風ト云。
元和七年1(621年)十一月二十一日、近江の国一帯に大風が吹いて、山間部に被害が出ました。今で言う台風被害ですね。 この台風だけでなく、不思議な事や理解できない事、何か凶事があると、弥三郎の仕業として恐れ理解したようです。そして弥三郎の子、伊吹童子は酒呑童子とむすびつき、酒呑童子の誕生譚となって語られるようになっていったと考えられています。
 
大江山の鬼 酒呑童子

 

酒呑童子は十四、五の少年の姿のまま神通力を持った不老不死の怪物となって、京の町を襲います。酒呑童子とその眷属は「うつくしき稚児に化けて」、またある時は「母御の姿をまなび」、また「乳母がありさまとなって言い寄」り、なんの疑いも無く見ている女房や娘達を、宙にひっさげ虚空に翔んで、「夜毎に人を取りくらい」ました。町から夜な夜な娘が消えていく、それも公家も武家も区別なく、警戒をしても、連れ去られるものは増えていくばかり。帝はついに酒呑童子討伐の勅命を発し、それを受けた藤原頼光、平井(藤原)保昌、そして頼光四天王、渡辺綱、坂田金時、碓井定光、卜部季武の六人は、山伏の姿となって、大江山「禅定が嶽」へ向かいます。
一行が大江山に入ると、頼光らは三人の翁に出会います。三人の翁は八幡、住吉、熊野の神々の化身で、翁達は頼光達に三つの物を授けます。一つは「しんべんきどくしゅ、神の方便、鬼の毒酒と読む」不思議の酒。この酒を鬼が飲むと、飛行自在の力を失い、切っても突いてもわからなくなり、頼光達が飲むと、薬になるというお酒です。二つ目は「打銚子(うちでうし)」。(ながえのてうし、とも言う。)この銚子は昔神世の時、鬼神と争いがあった時、この銚子で酒を飲ませ、鬼をたいらげたもの。口の二つあるのは毒と薬のへだてで、柄のながいのは、命の縁起をかたどったもので、このちょうしで酌むなら、不思議の酒もいくら飲んでも尽きないものでした。最後は「ほしかぶと」(ぼうしかぶと、帽子兜)という兜。このかぶとは昔神軍が悪魔を鎮める時、「正八幡大菩薩が召したる」もので、これをかしらにいだだいていれば、万人力でくろがねの矢をはなち、矛をふりあげられるようになり、体になんのさわりがないという不思議な兜でした。三人の翁は頼光一行の先達をつとめ、険しい峰を越え、深い谷を渡って行き、大きな岩穴に案内します。
頼光らは翁達とその岩穴に入って行きますが、その洞穴は先に行くほど狭くなり、暗く長い闇の中を、翁達に遅れないようについていきます。三町ほど歩くと明るいところに出て、谷川の岸に出ると翁達は、「この川上に十七、八の上臈がいる、詳しい事はその娘に聞きなさい。」と言い残すと消えてしまいました。一行が川の上流へとのぼっていくと、川のほとりで涙にくれながら血の付いた衣を洗っている上臈がいました。頼光らはこの娘が「鬼の眷属が変化した」ものか、「鬼神が女に変じ、われらをたぶらかさんと」したものか、疑いますが、娘は鬼に連れ去られ、働かされていたものと分かり、「鬼が城」への道を聞いて、娘を配下に送り届けさせます。頼光らは鬼が城のつくと門番と激しい応酬を繰り広げます。山伏姿の頼光一行が、本当に山伏なのか? 門番の鬼達は疑いますが、酒呑童子に注進に行った鬼が「童子の意」を伝え、頼光達を城内に通します。酒呑童子は頼光ら一行を招き入れると、酒を勧め、酒盛りを始めます。酒呑童子は頼光を「どこかで見た人」と疑います。酒呑童子は神通力で人の心をさとりますが、ほしかぶとの力で頼光の心が読めません。酒呑童子は疑いながらも頼光の進める酒の毒に少しづつ参っていきます。全身に毒が回った酒呑童子は、もはや座る事さえ出来なくなり、頼光達を残して寝所に入ります。頼光達はよいつぶれた鬼を倒し、寝所に進むます。 鬼の城は客殿が幾重にも重なり、四季の庭を続く不思議な空間でした。その中にひときわ美しい寝殿がありました。するとふたたび三人の翁が現れ、「よくここまで来られた。鬼の手足は鎖で四方の柱につないである。酒呑童子は身動きすらとれない。」と鉄の扉を押し開くとまた消えてしまいます。
酒呑童子は鎖につながれ、寝所の中で眠っていました。その姿は稚児の姿ではなく、身の丈二丈(約六メートル)、髪は赤く逆さまに生え、髪の間から角が生え、髭も眉もしげり、足と手は熊のようなものでした。
頼光は名剣髭切りの太刀で酒呑童子の首をはねます。その首は怒りをなして虚空に舞い上がり、頼光めがけて襲いかかります。酒呑童子の首は頼光の兜を食い破りますが、その下につけていたほしかぶと、ぼうしかぶとを破る事が出来ずに終わります。一行が外に出ると、眷属の一人、茨城童子が襲いかかり、渡辺綱がこれを倒します。あたりにはもう鬼の姿も見えず、頼光は生き残っているはずの姫君、女房達を救い出すよう命じますが、その声を聞くやいなや、あちこちから生き残った姫君達が出てきて頼光達に駆け寄って来ました。姫君達は頼光達に喰われて亡くなった者、手足を切られ死んだ堀江の姫君、捕らえられていた間の事をはなします。その時、残っていたいしくま童子、かね童子が頼光達に襲いかかりますが、酒呑童子亡き後、鬼の力は弱っていて、他の鬼ともども、とらえられます。
こうして頼光達は生き残った姫君や女房三十余名と捕らえた鬼をつれ都に帰ります。池田中納言の一人娘そして他の姫君達を親元に送り届け、源頼光、平井保昌の二人の大将は宮中に報告に参内します。
帝は頼光に丹波の国を、保昌に丹後の国を、四天王それぞれにも、勲功の賞がありました。この時、帝より望みがあるなら申せとの言葉に、保昌はつい「和泉式部」と答えてしまい、保昌は帝より和泉式部を賜った、そうです。いきさつの真偽は?ですが史実上、平井(藤原)保昌は和泉式部の夫で間違いありません。
こうして、酒呑童子退治は幕を下ろすのですが、異説の一つに猟奇的色彩の強いものがあります。
比叡山に容姿の美しい稚児があり、毎晩僧達と酒を飲んで戯れ遊んでいた。この稚児は酔った後、人に噛みついて血を絞り出し、それを酒に混ぜて飲む、という奇妙な癖を持っていた。この稚児は比叡を出た後大江山に住み着き、石熊、金熊、ほか数十人の鬼となるものと徒党を組んで、毎晩都に現れ、人民婦女子を攫い害した。一条帝は勅命を発し、頼光は保昌、綱たち七人と共に大江山に向かった。
この後退治の部分は同じで、この後頼光達は童子の首を持って帰り帝に差し出すと、帝は喜んでこの首を石の箱に入れて山中に埋めたそうです。
京都府中郡大宮町三重の岩屋寺に伝わる酒呑童子の由来記によると、酒呑童子の首は七条河原に七日間さらされた後大江坂に葬られた、と記され、実際に首塚とされているものも存在します。柏原弥三郎にしても、この比叡山の稚児にしても、史上稀に見る凶悪犯、犯罪集団で、それゆえに「酒呑童子」という鬼となり、また呼ばれるようになったのかもしれません。 
 
天狗1

 

日本の民間信仰において伝承される神や妖怪ともいわれる伝説上の生き物。一般的に山伏の服装で赤ら顔で鼻が高く、翼があり空中を飛翔するとされる。俗に人を魔道に導く魔物とされ、外法様ともいう。また後白河天皇の異名でもあった。
由来
元々天狗とは中国において凶事を知らせる流星を意味するものだった。大気圏を突入し、地表近くまで落下した火球(-3〜-4等級以上の非常に明るい流星)はしばしば空中で爆発し、大音響を発する。この天体現象を咆哮を上げて天を駆け降りる犬の姿に見立てている。中国の『史記』をはじめ『漢書』『晋書』には天狗の記事が載せられている。天狗は天から地上へと災禍をもたらす凶星として恐れられた。
なお仏教では、経論律の三蔵には、本来、天狗という言葉はない。しかし、『正法念處經』巻19には「一切身分光燄騰赫 見此相者皆言憂流迦下 魏言天狗下」とあり、これは古代インドのUlkā(漢訳音写:憂流迦)という流星の名を、天狗と翻訳したものである。
日本における初出は『日本書紀』舒明天皇9年2月(637年)、都の空を巨大な星が雷のような轟音を立てて東から西へ流れた。人々はその音の正体について「流星の音だ」「地雷だ」などといった。そのとき唐から帰国した学僧の旻が言った。「流星ではない。これは天狗である。天狗の吠える声が雷に似ているだけだ」
飛鳥時代の日本書紀に流星として登場した天狗だったが、その後は文書の上で流星を天狗と呼ぶ記録は無く、結局中国の天狗観は日本に根付かなかった。そして舒明天皇の時代から平安時代中期の長きにわたり、天狗の文字はいかなる書物にも登場してこない。平安時代に再び登場した天狗は妖怪と化し、語られるようになる。
付会と俗信
空海や円珍などにより密教が日本に伝えられると、後にこれが胎蔵界曼荼羅に配置される星辰・星宿信仰と付会(ふかい)され、また奈良時代から役小角より行われていた山岳信仰とも相まっていった。山伏は名利を得んとする傲慢で我見の強い者として、死後に転生し、魔界の一種として天狗道が、一部に想定されて解釈された。一方民間では、平地民が山地を異界として畏怖し、そこで起きる怪異な現象を天狗の仕業と呼んだ。ここから天狗を山の神と見なす傾向が生まれ、各種天狗の像を目して狗賓、山人、山の神などと称する地域が現在でも存在する。
したがって、今日、一般的に伝えられる、鼻が高く(長く)赤ら顔、山伏の装束に身を包み、一本歯の高下駄を履き、葉団扇を持って自在に空を飛び悪巧みをするといった性質は、中世以降に解釈されるようになったものである。
事実、当時の天狗の形状姿は一定せず、多くは僧侶形で、時として童子姿や鬼形をとることもあった。また、空中を飛翔することから、鳶のイメージで捉えられることも多かった。さらに尼の転生した者を「尼天狗」と呼称することもあった。平安末期成立の『今昔物語集』には、空を駆け、人に憑く「鷹」と呼ばれる魔物や、顔は天狗、体は人間で、一対の羽を持つ魔物など、これらの天狗の説話が多く記載された。これは1296年(永仁4年)に『天狗草紙(七天狗絵)』として描写された。ここには当時の興福寺、東大寺、延暦寺、園城寺、東寺、仁和寺、醍醐寺といった7大寺の僧侶が堕落した姿相が風刺として描かれている。これら天狗の容姿は、室町時代に成立したとされる『御伽草子・天狗の内裏』の、鞍馬寺の護法魔王尊あるいは鞍馬天狗などが大きな影響を与えていると思われる。
『平家物語』では、「人にて人ならず、鳥にて鳥ならず、犬にて犬ならず、足手は人、かしらは犬、左右に羽根はえ、飛び歩くもの」とあり、鎌倉時代になると、『是害坊絵巻』(曼殊院蔵)を始めとする書物に、天台の僧に戦いを挑み、無残に敗退する天狗の物語が伝えられるようになる。また、林羅山の『神社考』「天狗論」、また平田篤胤の『古今妖魅考』に、京都市上京区に存在する「白峯神宮」の祭神である金色の鳶と化した讃岐院(崇徳上皇)、長い翼を持つ沙門となった後鳥羽上皇、龍車を駆る後醍醐天皇ら、『太平記』に登場する御霊が天狗として紹介される。
『吾妻鏡』天福2年(1234年)3月10日条の記述には、「2月頃、南都に天狗怪が現れ、一夜中にして、人家千軒に字を書く(「未来不」の三字と伝えられる)」と記述されている。『吾妻鏡』では、彗星に関する記述も多く記載されているが、この天狗の記述(13世紀中頃)に関しては、彗星ではなく、別の怪異(けい)と認識していたことが分かる。外観についての記述はないが、字を書けるということは分かる内容である(一夜にして千軒の家に字を書くことが、人ではなく、天狗の所業と捉えられた)。
天狗は、慢心の権化とされ、鼻が高いのはその象徴である。これから転じて「天狗になる」と言えば自慢が高じている様を表す。彼等は総じて教えたがり魔である。中世には、仏教の六道のほかに天狗道があり、仏道を学んでいるため地獄に堕ちず、邪法を扱うため極楽にも行けない無間(むげん)地獄と想定、解釈された。
天狗の種類
前述のように、天狗が成立した背景には複数の流れがあるため、その種類や姿もさまざまである。一般的な姿は修験者の様相で、その顔は赤く、鼻が高い。翼があり空中を飛翔するとされる。このうち、鼻の高いのを「鼻高天狗」、鼻先が尖ったのは「烏天狗」あるいは「木の葉天狗」という。
種類としては、天狗として世にあだなし、業尽きて後、再び人身を得ようとする「波旬」、自尊心と驕慢を縁として集う「魔縁」と解釈される場合もある。
またその伝承も各地に伝わっており、変わったものとして、紀州に伝わる、山伏に似た白衣を着、自由自在に空を飛ぶ「空神」、長野県上伊那郡では「ハテンゴ」といい、岩手県南部では「スネカ」、北部では「ナゴミ」「ナゴミタクリ」という、小正月に怠け者のすねにできるという火まだらをはぎとりに現われる天狗などが伝えられる。姿を見た者はいないが、五月十五日の月夜の晩に太平洋から飛んでくる「アンモ」もこの類で、囲炉裏にばかりあたっている怠け童子の脛には、茶色の火班がついているので、その皮を剥ぎにくるという。弱い子供を助けてくれ、病気で寝ている子はアンモを拝むと治るという。静岡県大井川では、『諸国里人談』に、一名を「境鳥」といい、顔は人に似て正面に目があり、翼を広げるとその幅約6尺、人間と同じような容姿、大きさで、嘴を持つ「木の葉天狗」が伝えられており、夜更けに川面を飛び交い魚を取っていたと記されている。また、鳥のくちばしと翼を持った鳥類系天狗の形状を色濃く残す「烏天狗」は有名である。有名な是害坊天狗などもこの種で、多くの絵巻にその姿が残されている。尼がなった「女天狗」や、狼の姿をした狗賓という天狗もいた。
神としての天狗
神として信仰の対象となる程の大天狗には名が付いており、愛宕山の「太郎坊」、秋葉山の「三尺坊」、鞍馬山の「僧正坊」(鞍馬天狗)、比良山の「次郎坊」の他、比叡山の「法性坊」、英彦山の「豊前坊」、筑波山の「法印坊」、大山の「伯耆坊」、葛城山の「高間坊」、高雄山の「内供坊」、富士山の「太郎坊」、白峰山の「相模坊」などが知られる。滋賀県高島市では「グヒンサン」といい、大空を飛び、祭見物をしたという。高島町大溝に火をつけにいったが、隙間がなくて失敗したという話が伝わっている。鹿児島県奄美大島でも、山に住む「テンゴヌカミ」が知られ、大工の棟梁であったが、嫁迎えのため60畳の家を1日で作るので藁人形に息を吹きかけて生命を与えて使い、2,000人を山に、2,000人を海に帰したと言う。愛媛県石鎚山では、6歳の男の子が山頂でいなくなり、いろいろ探したが見つからず、やむなく家に帰ると、すでに子供は戻っていた。子に聞くと、山頂の祠の裏で小便をしていると、真っ黒い大男が出てきて子供をたしなめ、「送ってあげるから目をつぶっておいで」と言い、気がつくと自分の家の裏庭に立っていたという。
山神としての天狗
天狗はしばしば輝く鳥として描かれ、松明丸、魔縁とも呼ばれた。怨霊となった崇徳上皇が、天狗の王として金色の鷲として描かれるのはこのためである。また、山神との関係も深く、霊峰とされる山々には、必ず天狗がいるとされ(それゆえ山伏の姿をしていると考えられる)、実際に山神を天狗(ダイバ)とする地方は多い。現在でも、山形県最上郡の伝承にみえる天狗は白髪の老人である。山伏を中心とする天狗の信仰は、民間の仏教と、古代から続く山の神秘観山岳信仰に結びついたもので、極めて豊富な天狗についての伝説は山岳信仰の深さを物語るものである。
山形県などでは、夏山のしげみの間にある十数坪の苔地や砂地を、「天狗のすもう場」として崇敬し、神奈川県の山村では、夜中の、木を切ったり、「天狗倒し」と呼ばれる、山中で大木を切り倒す不思議な音、山小屋が、風もないのにゆれたりすることを山天狗の仕業としている。鉄砲を三つ撃てばこうした怪音がやむという説もある。その他、群馬県利根郡では、どこからともなく笑い声が聞こえ、構わず行くとさらに大きな声で笑うが、今度はこちらが笑い返すと、前にもまして大声で笑うという「天狗笑い」、山道を歩いていると突然風が起こり、山鳴りがして大きな石が飛んでくる「天狗礫」(これは天狗の通り道だという)、「天狗田」、「天狗の爪とぎ石」、「天狗の山」、「天狗谷」など、天狗棲む場所、すなわち「天狗の領地」、「狗賓の住処」の伝承がある。金沢市の繁華街尾張町では、宝暦5年(1755年)に「天狗つぶて」が見られたという。静岡県の小笠山では夏に山中から囃子の音が聞こえる怪異「天狗囃子」があり、小笠神社の天狗の仕業だという。佐渡島(新潟県佐渡市)でも同様に「山神楽」(やまかぐら)といって、山中から神楽のような音が聞こえる怪異を天狗の仕業という。岐阜県揖斐郡徳山村(現・揖斐川町)では「天狗太鼓」といって、山から太鼓のような音が聞こえると雨の降る前兆だという。
また夜中に明かりをつけ飛ばす「天狗の火」の話など、神奈川県津久井郡内郷村(現・相模原市緑区)で夜中に川へ漁に行くと真っ暗な中を大きな火の玉が転がることがある。河原の石の上を洗い清め採れた魚を供えると、火の玉が転がるのが止まる。また投網を打ちに行くと、姿は見えないが少し前を同じく投網を打つものがいる。また大勢の人の声や松明の灯が見えるが誰もいない、これは「川天狗」と称し、川天狗に対して山に住む天狗を「山天狗」ともいう。
「天狗の揺さぶり」の話もある。山小屋の自在鉤を揺さぶったり、山小屋自体までガタガタ揺する。さらには普段住んでいる家まで揺する。埼玉県比企郡では天狗が家を揺さぶるのは珍しくなく、弓立山近くの山入では夜、山小屋を揺さぶる者が居るので窓からそっと覗くと赤い顔の大男がいたので、驚いて山の神に祈り夜を明かしたという話が伝わっている。
特に、鳥のように自由に空を飛び回る天狗が住んでいたり、腰掛けたりすると言われている天狗松(あるいは杉)の伝承は日本各地にあり、山伏の山岳信仰と天狗の相関関係を示す好例である。樹木は神霊の依り代とされ、天狗が山の神とも信じられていたことから、天狗が樹木に棲むと信じられたと考えられる。こうした木の周囲では、天狗の羽音が聞こえたり、風が唸ったりするという。風が音をたてて唸るのは、天狗の声だと考えられた。愛知県宝飯郡にある大松の幹には天狗の巣と呼ばれる大きな洞穴があり、実際に天狗を見た人もいると云う。また埼玉県児玉郡では、天狗の松を伐ろうとした人が、枝から落ちてひどい怪我を負ったが、これは天狗に蹴落とされたのだという話である。天狗の木と呼ばれる樹木は枝の広がった大木や、二枝に岐れまた合わさって窓形になったもの、枝がコブの形をしたものなど、著しく異形の木が多い。
民俗学者・早川幸太郎の『三州横山話』によると、愛知県北設楽郡東郷村出沢の三作という木挽きが仲間8人と山小屋に居たとき、深夜に酒2升を買い、石油の缶を叩いて拍子をとり乱痴気騒ぎをした。すると、山上から石を投げ、岩を転がし、小屋を揺さぶり、火の玉を飛ばし、周りの木を倒す音がした。一同は酔いが醒めて抱き合い、生きた心地もしなかった。夜が明けたら木1本倒れていなかった。天狗の悪戯であったという。この話は「天狗倒し」「天狗礫」「天狗火」「天狗の揺さぶり」が一挙に現れたもので興味深い話である。これらの話は大体天狗の仕業とされる代表的なもので、全国津々浦々少しずつ話を変えて伝えられている。
天狗と猿田彦
古事記・日本書紀などに登場し、天孫降臨の際に案内役を務めた国津神のサルタヒコは、背が高く長い鼻を持つ容姿の描写から、一般に天狗のイメージと混同され、同一視されて語られるケースも多い。
祭礼で猿田彦の役に扮する際は、天狗の面を被ったいでたちで表現されるのが通例である。
天狗と迦楼羅(カルラ)天
天狗は、一説に仏法を守護する八部衆の一、迦楼羅天が変化したものともいわれる。カルラはインド神話に出てくる巨鳥で、金色の翼を持ち頭に如意宝珠を頂き、つねに火焔を吐き、龍を常食としているとされる。奈良の興福寺の八部衆像では、迦楼羅天には翼が無いが、京都の三十三間堂の二十八部衆の迦楼羅天は一般的な烏天狗のイメージそのものである。 
天狗の話 / 山の神と山伏
天狗といえば、鬼や山姥とならんで日本の妖怪変化の代表格といえる。天狗を主題にした物語や絵ときものが古来夥しく作られてきたことからも、それが我が民族の想像力にいかに深く根ざしてきたかがわかる。中でも能には、天狗を主人公にしたものがいくつもあり、いずれも勇壮な立ち居振る舞いや痛快な筋運びが人びとの人気を博してきた。
能の天狗ものの代表格は「鞍馬天狗」であろう。これは鞍馬山に年経て住める大天狗が、義経に剣の手ほどきを行い、平家打倒に備えるという筋書きになっている。その大天狗が名乗りを上げる部分を、謡曲は次のように描いている。
後シテ「そも/\これは。鞍馬の奥僧正が谷に。年経て住める。大天狗なり。
地「まづ御供の天狗は。誰々ぞ筑紫には。
シテ「彦山の豊前坊。
地「四州には。
シテ「白峯の。相模坊。大山の伯耆坊。
地「飯綱の三郎富士太郎。大峯の前鬼が一党葛城高間。よそまでもあるまじ。邊土においては。
シテ「比良。
地「横川。
シテ「如意が嶽。
地「我慢高雄の峯に住んで。人の為には愛宕山。霞とたなびき雲となつて。月は鞍馬の僧正が。
地「谷に満ち/\峯をうごかし。嵐こがらし滝の音。天狗だふしはおびたたしや
名乗りから伺われるとおり、日本の主だった山々にはそれぞれ天狗が住みつき、中でも鞍馬の天狗は大天狗として、首領格であると主張されている。
この天狗とはいったいどういうものなのか。まずその面相を見ると、今日鞍馬山に存置されている天狗の像は赤ら顔に大きく飛び出た鼻を持っていることが特徴的だ。これはいうまでもなく記紀神話に出てくる猿田彦の面相を髣髴とさせる。これが関東では鎌倉の建長寺や高尾山の天狗のようにカラスの嘴がついていたりする。
だがいずれの天狗も山伏のいでたちをしていることでは共通している。
天狗が山伏の印象と結びついたのは鎌倉時代だろうといわれている。平安時代には天狗は明確な像としては意識されておらず、中国の言い伝えを採用して流星であるとされたり、地上に災いをもたらす天の妖怪として観念されていた。
日本人にはもともと、祖霊信仰としての山岳信仰があった。祖霊のうちでも人に取り付いて害をなすものは怨霊として痛く恐れられていた。平安時代最大の怨霊に菅原道真のものがあるが、それが国を挙げて恐怖の対象になり、道真の怨霊を静めるための祭が今日の祇園祭に発展したほどなのは、日本人に古来伝わる霊魂観が底にあったからである。
怨霊のうちでも多くのものは山に住むと観念され、それは鬼という形をとって人々を恐れさせた。天狗もいつしかこの鬼の一種として、妖怪変化の中に取り込まれていったと思われるのである。
天狗が山伏という人間の姿と結びついたのには、さまざまな事情があったのだろう。山伏は修験道といって、厳しい山岳修行で知られ、山中を自由自在に駆け巡るというイメージが強かった。それが天を駆け巡るようにも受け取られたので、天狗の観念と結びついたのではないか。
それ以上に、山伏自体の出自にかかわる事情もある。山伏は大峰や比叡山を拠点に、大きな寺院に従属して、大衆として寺院の雑役に従事していた。それ以前には、山伏の先祖たちは山岳の神をつかさどる立場にあったものと考えられる。これらの山岳に伝教大師や弘法大師が仏教の拠点を開くようになると、山伏の祖先たちは寺院に降伏してその下役になるか、寺院に反逆して放浪の旅に出る事を選んだ。
こうした事情を物語るものに「鞍馬寺縁起」がある。それによれば藤原伊勢人がこの地で観音の像を見出し、それを本尊として鞍馬寺を建てるのであるが、この地には既に鞍馬山に年経て住める神がいた。その神は観音の威力に降伏し、そのかわりに魔王尊として祭られる。それがいまいう鬼の姿になったのである。
山伏はこの魔王尊にかかわりあるものとして観念された。つまり鬼の子孫であるという性格付けを持たされたのである。
このほか、大江山の昔話では、酒呑童子はもと比叡山の山の神であったのが、伝教大師に追われて全国を放浪した挙句、大江山に落ち着いたのだということになっている。
こうしてみると、日本の山にはもともと山の神が住んでいたのが、仏に追われて放浪の鬼になったとする信仰が古来あったことがわかる。その鬼が山々を駆け巡る山伏の姿と結びついて、山伏姿の鬼、つまり天狗の形になったのではないか。
なお、天狗にカラスを結びつけるのは、天狗の話が芸能化したためだという説が強い。これにもいわくがありそうである。カラスはやた烏に見られるように、古来霊的な鳥だとも受け取られてきた。古墳の周りに住み着いて、高貴な人の霊を守るのだとする言い伝えもある。こうしたカラスの霊性が、天狗のイメージとどこかで結びついたのかもしれない。
菅原道真の怨霊
能「雷電」は菅原道真の怨霊をテーマにした能である。藤原時平らの陰謀によって失脚し、大宰府に流された道真が、死後怨霊となって都にあらわれ、時平らを呪い殺したり、自然災害をもたらして人々を恐れさせる。それは道真に不実の罪を着せたことへの報復だと考えた朝廷は、道真に天神の称号を贈り、厚く遇することで、怨霊の怒りを鎮めた。こうした道真にまつわる伝説を作品化したものが「雷電」である。
雷電とは字の如く雷や稲妻のことをいうが、それは道真の荒ぶる魂が形として現れたもので、怨霊のシンボルのようなものである。太平記では、道真の怨霊が雷電となって宮中を襲い、時平らを呪い殺すところが語られている。
この作品では、道真は比叡山延暦寺の座主法性坊のもとに現れ、これから雷神となって暴れまわると宣言するところから曲が始まる。そしてその言葉通り宮中で暴れまわることになった道真の怨霊を、法性坊が法の力によって取り鎮め、最後には宮中から天神の称号を贈られた道真の怨霊が、感謝しながら去っていくという結構になっている。
作者や製作年代は不明だが、そんなに古い能ではないらしいことは、複式能の形をとっていることから伺われる。
前段では、道真の怨霊と法性坊とのやりとりが行われ、後段では雷電となって暴れまわる道真の怨霊を法性坊が呪文を唱えながら取り鎮める。そして最後に天神の称号を贈られた道真は、天空の彼方へと飛び去っていく。
非常に単純なストーリーで、劇的展開には乏しいが、雷神のおどろおどろしい舞が怨霊のすさまじさを表現している。どちらかというと、視覚的効果に富んだ作品といえよう。
ここでは先日NHKが放送した宝生流の番組を紹介する。シテは宝生和英、ワキは森常良だった。
舞台にはまず、比叡山延暦寺の座主法性坊が二人の従僧を伴って現れる。(以下テクストは半魚文庫から)
ワキサシ「比叡山延暦寺の座主。法性坊の律師僧正にて候。
詞「偖もわれ天下の御祈祷のため。百座の護摩を焚き候ふが。今日満参にて候ふ程に。頓て仁王会を取り行はゞやと存じ候。
サシ「げにや恵も新たなる。影も日吉の年古りて。誓ぞ深き湖の。漣寄する汀の月。
地「名にしおふ。比叡の御嶽の秋なれや。比叡の御嶽の秋なれや。月は隈なき名所の都の富士と三上山。法の燈火自ら。影明らけき恵こそ。人を洩らさぬ誓ひなれ。人を洩らさぬ誓ひなれ。
法性坊は天下祈祷の胡麻を焚き終わり仁王会を行っているところだが、そこへシテ(道真の亡霊)が現れ、中門の扉を叩く。
シテ「ありがたや此山は。往古より仏法最初の御寺なり。げにやかりそめの値偶も空しからず。我が立つ杣に冥加あらせてと。望を適へ給へとて。満山護法いちれつし。中門の扉を敲きけり。
ワキ詞「深更に軒白し。月はさせども柴の戸を。敲くべき人も覚えぬに。いかなる松の風やらん。あら不思議の事やな。
シテ詞「聞けば内にも我が声を。怪め人の咎むるぞと。重ねて扉を敲きけり。
不思議に思った法性坊が物の隙よりよくよく見ると、それは死んだはずの道真。法性坊はとりもあえず中に入るよう道真に呼びかける。
ワキ「あまりの事の不思議さに。物の隙よりよく/\見れば。これは不思議や丞相にてましますぞや。心騒ぎておぼつかな。
シテ詞「頃しも今は明け易き。月にひかれてこの庵の。樞を敲けば内よりも。
ワキ「不思議や偖は丞相か。はや此方へと。
シテ「夕月の。
地「影珍しや客人の。影珍しや客人の。稀にあふ時は。なか/\夢の心地して。いひやる言の葉もなし。上人の丞相も。心解けて物語。世に嬉しげに見え給ふ。あはれ同じ世の。逢瀬とこれを思はめや。逢瀬とこれを思はめや。
中に入った道真と法性坊は、対面して互いになつかしみあう。というのも、道真と法性坊は子弟の間柄なのだ。法性坊は道真を師と仰ぎ、道真も法性坊を可愛がり、なにかと目をくれてやり、おかげで法性坊は、ついには天台宗の高僧にまで出世することができた。
ワキ詞「さて御身は筑紫にて果て給ひたるよし承り候ふ程に。種々に弔ひ申して候ふが届き候ふやらん。
シテ「なか/\の事御弔悉く届きてありがたう候。秋に後るゝ老葉は風なきに散り易く。愁を弔ふ涙は問はざるにまづ落つ。されば貴きは師弟の約。
ワキ「切なるは主従。
シテ「睦しきは親子の契なり。是を三悌といふとかや。
シテ「中にも真実の志の深き事は。師弟三世に若くはなし。
地「忝しや師の御影をばいかで踏むべき。
次いで居グセでは、二人のなれそめを道真が語る。
クセ「いとけなかりし其時は。父もなく母もなく。ゆくへも知らぬ身なりしを。菅相公の養ひに。親子の契いつの間に。有明月のおぼろけに。憐み育て給ふこと真の親の如くなり。さて勧学の室に入り。僧正を頼み奉り。風月の窓に日を招き。蛍を集め夏虫の。心のうちも明かに。
シテ「筆の林も枝茂り。
地「詞の泉尽きもせず。文筆の堪能上人も。悦び思しめし。荒き風にもあてじと御志の今までも。一字千金なりいかでか忘れ申すべき。
やがて道真は、自分はこれから鳴雷となって宮中に飛び入り宿敵どもを殺すつもりだが、ついては宮中から厄払いに召されるかもしれない。そのときはかまえて応じないようにと道真が言うと、法性坊は、一度や二度ならともかく、三度も勅使を追い返すわけにはいかないと応える。するとその言葉に道真は怒り、本尊の前に備えられていたザクロをかみ砕くと、それを炎に変えて口から吐きだしながら、行方も知らず消え失せてしまう。
シテ詞「われ此世にての望は適ひて候。死しての後梵天帝釈の憐を蒙り。鳴雷となり内裏に飛び入り。われに憂かりし雲客を蹴殺すべし。其時僧正を召され候ふべし。かまへて御参り候ふな。
ワキ「縦令宣旨はありといふとも。一二度までは参るまじ。
シテ「いや勅使度々重なるとも。かまへて参り給ふなよ。
ワキ「王土に住める此身なれば。勅使三度に及ぶならば。いかでか参内申さゞらん。
シテ「其時丞相姿俄に変り鬼のごとし。
ワキ「をりふし本尊の御前に。柘榴を手向け置きたるを。
地「おつ取つて噛み砕き。おつ取つて噛み砕き。妻戸にくわつと。吐きかけ給へば柘榴忽ち火焔となつて扉にばつとぞ燃え上る。僧正御覧じて。騒ぐ気色もましまさず。灑水の印を結んで。鑁字の明を。唱へ給へば火焔は消ゆる。煙の内に。立ち隠れ丞相は。ゆくへも知らず失せたまふ。ゆくへも知らず失せたまふ。
(中入)中入では間狂言として法性坊の従者が現れる。従者は、これまでの主人と道真とのやりとりを反復した後、道真の怨霊が宮中で暴れているので、宣旨を蒙った主人がこれから宮中に赴き、祈祷をするところだと宣言する。
後段では、台座の作り物二台が正面に据えられ、そこに法性坊が現れて台座の一方の上に乗り、祈祷を始める。
ワキ「偖も僧正は紫宸殿に坐し。珠数さらさらとおし揉んで。普門品を唱へければ。
地「さしも黒雲吹き塞がり。闇の夜の如くなる内裏。俄かに晴れて明々とあり。
ワキ詞「さればこそ何程の事のあるべきぞと。油断しける所に。
地太鼓頭「不思議や虚空に黒雲覆ひ。不思議や虚空に黒雲覆ひ。電四方にひらめき渡つて。内裏は紅蓮の闇の如く。山も崩れ。内裏は虚空に溯るかと。震動ひまなく鳴神の。雷の姿は。現れたり。
ワキ詞「其時僧正雷に向ひて申すやう。卒土四海のうちは王土に非ずと云ふ事なし。況んや菅丞相昨日までは。君恩を蒙る臣下ぞかし。内恩外忠の威儀未練なり静まり給へ。あらけしからずや候。
法性坊が祈祷しているところへ道真の怨霊が雷電となって現れ、おどろおどろしく舞いまわる。それへ向かって法性坊が数珠を押しもみながら祈祷の言葉を浴びせかける。祈祷が効を奏し、道真の怨霊は静まる。そこで朝廷に天神の位を贈られて、喜んだ道真は黒雲にうち乗って虚空に舞い上がっていく。
シテ「あら愚や僧正よ。われを見放し給ふ上は。僧正なりとも恐るまじ。われに憂かりし雲客に。
地「思ひ知らせん人々よ。思ひ知らせん人々とて。小龍を引き連れて。黒雲にうち乗りて。内裏の四方を鳴りまはれば。いな光電の。電光頻りにひらめき渡り。玉体危く見えさせ給ふが。不思議や僧正の。おはする所を雷恐れて鳴らざりけるこそ奇特なれ。紫宸殿に僧正あれば。弘徽殿に神鳴する。弘徽殿に移り給へば。清涼殿に雷なる。清涼殿に移り給へば。梨壷梅壷。昼の間夜の殿を。行き違ひ廻りあひて。われ劣らじと祈るは僧正。鳴るは雷。もみあひ/\追つかけ/\互の勢たとへんかたなく恐ろしかりける有様かな。千手陀羅尼をみて給へば。雷鳴の壷にもこらへず。荒海の障子を隔て。これまでなれやゆるし給へ。聞法秘密の法味に預かり帝は天満自在。天神と贈官を。菅丞相に下されければ。嬉しや生きての怨死しての悦これまでなりやこれまでとて。黒雲にうち乗って虚空にあがらせ給ひけり。
宝生流では、雷電は「来殿」と言う題名で、長らく異なった形で上演されてきた。後段での雷電のおどろおどろしい舞のかわりに、天下泰平をことほぐ祝祭的な舞が挿入されていたのである。
宝生流は加賀の前田侯の庇護を受けていたが、前田氏は菅原道真の子孫を名乗っていた。そんなところに、徳川時代の末に菅公九百五十年忌を記念した催しがあった際に、メインの曲目としてこの「雷電」が選ばれたが、もともとの形では、道真公の雰囲気に相応しくないと言うので、後段のおどろおどろしさを省いて、その代わりに祝祭的な舞を持ち込む小書を作ったわけである。宝生流が、上記のような古来の形にのっとった演出をしたのは昨年が初めてのことだという。 
猿田彦と天狗
東京各地の祭りでは、ほとんどどこでも猿田彦が登場して、神幸祭の行列を先導している。長い鼻と赤ら顔の天狗の面をかぶり、一枚歯の高下駄をはき、色あでやかな衣装をまとったその姿は、行列の人気者である。いつの頃から猿田彦が天狗となり、神々の先導役を勤めるようになったか、その鍵は天孫降臨神話の中にある。
猿田彦について、日本書紀天孫降臨の条はつぎのように書いている。
「一神あり、天八達之衢(あめのやちまた)に居り、其の鼻の長さ七咫(ななあた)、背の長さ七尺余り、まさに七尋(ななひろ)といふべし、且(また)口尻明り耀れり、目八咫鏡の如くにして、?然(てりかがやけること)赤酸漿(あかかがち)に似れり、即ち従の神を遣はして往いて問はしむ、時に八十萬神あり、皆目勝ちて相問ふことを得ず、故(か)れ特に天鈿女(あめのうずめ)に勅して曰く、汝は是れ人に目勝つ者なり、宜しく往いて問ふべし、天鈿女乃ち其の胸乳(むなち)を露にかきたて、裳帯(もひも)を臍(ほぞ)の下に抑(おした)れ、あざ笑ひて向ひ立つ、是の時に衢の神問ひて曰く、汝かく為ることは何の故ぞや、対へて曰く、天照大神の子の幸(いでま)す道路に、此の如くにして居るは誰ぞ、敢て問ふ、衢の神対へて曰く、天照大神の子今降行(いでま)すべしと聞きまつる、故れ迎へ奉りて相待つ、吾が名は是猿田彦大神」
この後、猿田彦は天鈿女の問に答えて、天孫の降臨すべき場所は筑紫の日向の高千穂である旨を告げる。この告げに従って天孫の一行は高千穂の串触(くしふる)の峰に天下るのである。
ここに描かれている猿田彦の形相は、長い鼻に真っ赤な顔というのであるから、今日いう天狗のまさに原型のようなものである。その猿田彦が天孫の天下りすべき場所を教えているというのは興味深い。天孫一行は猿田彦の案内がなければ、無事天下ることができなかったとも受け取れる。そこからして、今日の祭においても、神々の行く手は猿田彦が案内するものと、相場が決まったのだろう。
猿田彦の形相は天狗を思い出させるが、実はもともと天狗であったわけではない。日本書紀の中でも、天狗への言及があるが、それは流れ星をさして天狗といっているのであり、もともとは天狗と猿田彦とは別のものであった。両者が結びついて、今日のような天狗のイメージが定着するのは室町時代以降のことである。鞍馬山に住む天狗や、謡曲に多く出てくる天狗のイメージが其の始まりと見られている。
天狗は長い鼻を持ち、一夜にして千里を翔る。形相においては猿田彦を連想させ、神出鬼没な面は流れ星に似ている。日本人の想像力が育てた傑作といえるかもしれない。
 
天狗2

 

藤と天狗さま / このお話は塩尻市洗馬の芦野田・元町両区の産土(うぶすな)、槻井泉八幡神社の藤にまつわるものである。
昔々、産土さまの大藤が大杉に絡んでいたそうな。春になりゃ、紫色の長ーい房を下げ、そりゃあ、見ごとなまでの咲きっぷりだそうな。
そんなみごとさにひかれて、式右エ門さとこの子守り娘が大藤の下にきて 「わあっ。なんていいにおいっ。それにいい色合いだこと」と、うっとりと藤の花を見上げていたかと思ったら、ぞうりをぬいで木にかき登り、何本かの花房を採ってしまったんですと。さぁ、その晩から娘は高い熱にうなされ続けた。ちょうどその頃は野良仕事の忙しいさなかで、娘の看病もしてやれなかった。せめてもと 「おとなしく寝てろよ」と言い残して出掛けるのが精いっぱいであった。
娘がうつらうつらしていると 「これこれ、ちょいと起きなされ」と、声がした。娘がぼんやり目を開けると、白い長い髭に高い赤鼻のおじいさんが立っていた。くぼんだ目をしていたし、おっかねぇ人だと思ったけれど、やさし気な声だったんで、ちょっとばかし安気になった。「この水を飲むとじきに熱が下がるぞえ、それから、あの藤の花を2度と採るではないぞよ」と、いうと、瓦笥(かわらけ)にきれいな水を残し、あっ、という間に姿を消してしまったんですと。
娘は夢かなって思ったんだけど、素直にその清水を飲むと、たちまち熱が下がって達者になったそうな。
その話を聞いた衆は、くちぐちに「そりゃ、お天狗さまに違げえねぇ」といったそうな。
冠着山の麓の麻績村から大岡村に通じる野間というところに天狗松と呼ばれる大きな松の木があったそうな。この木は、天狗がここを通るとき腰かけて休むんだそうだ。
この村に、怠け者で毎日ぶらぶら遊んでばかりいる若い男がいたそうな。ある日のこと、男は天狗松の下でさいころをころがしながら、「おっ、大阪が見えた。今度は京都だっ」と大声で騒ぎながら遊んでいた。と、ちょうどその時天狗が松の梢で休んでいた。
「これっ、お若いの。お前さんは変な物をころがして、大阪が見えるだの京都が見えるだのいっとるが、ふんとに見えるだかやあ」と声を掛けてきた。「あぁ、ふんとさ」 「じゃあ、わしにも見せてくれや」 「だめだめ、おらの宝物だものむやみに貸せねぇさ」 「それじゃ、わしの一番大事な、姿の見えなくなる隠れみのとさいころを、ちっとの間換えるというのはどうかな」
男はしめたっ、と思い、天狗の隠れみのとさいころを換えっこし、さっさと村に帰っていった。
一方、喜んで山のすみかに帰った天狗、大阪や京都を見ようとしてさいころをころがしても何んにも見えない。ギェ、こりゃだまされたと天狗は赤い顔をさらに赤くして男の村に飛んでいった。けどねぇ、いくら探しても男は見つからなかったの。そりゃそうよね、隠れみのを着てるんだもの姿が見つからないはず。
一方、天狗の隠れみのをだまし取った男は、おっかさんも目を見張るほどの働き者になり、孝行息子になった。おっかさんが起きるころにゃあ、ほっかほっかの飯がもう炊けているという具合だ。
近所で病人が出ると、なんと枕元には良薬が置かれていたり、貧しい家にはお金や米が配られるようになった。ところが、評判の悪い庄屋の屋敷では不思議なことが次々と起こっていた。炊きたての飯はなくなるし、蔵の米や、はたまたお金までもが毎日盗まれるのだ。寝ずの番をしてもむだであった。
天狗の隠れみのを着た男の仕業なのかしらん。そうしたことは村の衆は知らず仕舞だったということだが、天狗松は村人から、ずっと大切にされていたそうな。
天狗3兄弟
昔、上山田町力石と坂城との境に自在坊があって、そこに山伏の首長級の3兄弟が住んで天狗に仕えていたそうな。自在坊で、熊野権現を拝し、加持祈祷を生業としていたんですと。ある時、千曲川の大水にあって3人の山伏はちりぢりになってしまった。一番上の兄さんは戸倉の自在山へ、二番目の兄さんは松代の皆神山へ、末の弟は力石の岩井堂に移り住み、厳しい修行を積みながら、民人のために加持祈祷を行っていたそうな。民人たちはその徳を慕って天狗として祀ったそうな。
天狗の枝垂栗
塩尻市北小野の秋の山にはいろいろな実がなる。なかでも栗は大人にも子どもにも人気がある。大人たちは木に登って落としてくるが、子どもたちはそうはいかない。上を見ればいい栗が笑んでいる。ほしい、ほしいと泣き出す子もいる。そこに白い髯を生やした鼻の高いおじいさんが通りがかり、おやげなく思って木に登り、枝を下げて子どもたちに取りよくしてくれたそうな。その後、この栗の木の枝は垂れるようになったと。あのおじいさんは天狗さんであったそうな。
解説
天狗話の収集は長野県立歴史館の中條昭雄さんのお力添えで民話のデータベースより抽出していただいた。出典が違うたびに同じ伝承が現れる煩雑さはあったが、一話ずつ整理する楽しさがあったので救われた。データベースの他は筆者の心のポケットともいいかえる収集のいくつかを開けてみた。
天狗話は北信・中信・東信・南信と、まんべんなくあり、その数の多さには驚かされた。
さてさて、天狗の絵を描いてごらんといわれれば、まず、ふっくらした顔の輪郭を、次に、顔を赤く塗り長い赤鼻と大っきくて鋭い目を描く、あとは山伏の衣装を着せ、手にはヤツデの葉を羽団扇代りに描き、そうそう杖もね。
絵が出来上ったところで天狗の正体を結論づけると、研究者の間では、鉄(鉱石・鉱物)を求めて山から山へと渡り歩く産鉄民の山伏姿への畏敬と不思議な生態が里人から「天狗」とみられていた。つまり天狗は産鉄民だというのである。李寧熙先生も天狗はたたら師だといっているそうなので、いずれにしても天狗=製鉄師の等式が成る。
本稿では民話の中から製鉄に関わりのある部分を解読し、伝承地の周辺の鉄に関わる歴史と地名を探ってみたい。さらに新しい発見があれば嬉しいことである。
まずは「藤と天狗さま」であるが、塩尻市洗馬の槻井泉八幡神社に伝承されるお話である。まず「藤」は何を暗示しているのかというと、製鉄時の火の色であると共に古代砂鉄を漉(こ)すに用いたざるの材が藤の蔓であったといわれているので、その双方を象徴していると思われるのである。
次に驚くことに、祭神は誉田別命と猿田彦である。
誉田はふいごの地、猿田は砂鉄の地の意である。それに製鉄に不可欠な湧水もある。
槻井泉八幡神社のある塩尻市を雑ぱくに見てみると、弥生時代から水田耕作が行われた黒崖をはじめとして芝宮からは三遠式といわれる完全な銅鐸が発見されている。最近、京都府山城町の郷土資料館で山城町出土の銅鐸を観た。舌を付け銅鐸の音を再生する試みもあったが、それに比べても芝宮の銅鐸は立派である。
西洗馬(朝日村)の五社神社には、鉄鉾と3つの鉄鐸を宝物として持つ。お祭りの神々も製鉄神と考えられる。ここに記した銅鐸や鉄鐸が、どう製鉄と関わっているのか、を後に記すことにしたい。
次に地名を読んでみたい。まず洗馬。古代に洗馬牧があるので洗馬の表記は100パーセント賛成なのである。が、もう少し推考を進めて洗馬は洗場で鉄の場では、と推理してみる。神社の近くの芦野田、銅鐸の出土した芝宮、鉄磨(と)ぎと読める宗賀、桔梗ヶ原は古くは菅の荒野とも称したそうである。菅は鉄磨ぎ、荒は古代韓国にあった阿羅に置き換えられることが多い。菅の荒野とは阿羅の鉄磨ぎと読めるので、桔梗ヶ原は早くから渡来の人々によって鉄作りがなされて来た場所なのだろうか。古代韓国語を元に荒野を読んでみれば、単に耕作に適さない荒地でないことが推測できるのである。
二つ目は「天狗の隠れみの」である。同類のお話は中信の北安曇と南信の上伊那にもある。
天狗話の中で松の木の登場は多い。天狗の腰掛はだいたい松の木と決まっているらしい。上田市の市民の山と親しまれる太郎山にも、かつて天狗の腰掛の松があった。「天狗の隠れみの」にも天狗松が出てくるが、「松」はなぜ天狗とセットになるのだろうか。
天狗がたたら師だとすると、たたらには炭が不可欠である。栗の木の炭は最上質のものであるそうな。
赤松の炭も火力が強く上質とされている。「天狗の隠れみの」での「松」は松炭を暗示しているのではないだろうか。
たたらでは、炭をくべ次に砂鉄を投げ入れる作業が3日3晩で1000回におよぶという。
さて、姿の見えなくなる隠れみのは何を暗示しているのだろう。
製鉄の場は、技術や砂鉄、出来上った上質の玉鋼が盗難にあっては経済の非常な損失である。そうしたことがないよう、閉鎖された場所で行われたのかもしれない。そのことが隠れみのに象徴されているのではという仮説を立ててみた。
天狗の持っていた隠れみのを換えっこした男は、悪庄屋の持ち物を失敬し困っている村人に配り、皆幸せに暮したとさ。とあるのは、たたらの技術を体得したか、はたまた、たたら場に侵入し鉄塊を失敬し売りさばいたのかな? そうした市場もあったのかしらん。
お話に出てくる「麻績(麻続)」が機織の意であることは古くから市民権を得ていることだが、古代において麻は布や糸の代名詞であったそうな。
布の意の韓国語「べ」を知った時は懐かしい思いにかられた。なにしろ、幼い頃、着物を「べべ」といっていたからだ。叔母がよく歌ってくれた。お正月さんは良い人で/赤いべべ着て羽根ついて/水晶のような餅食べて―。衣食遊びをくださるお正月を称えた羽根つき歌にもべべが出てくる。布と布を継ぎ合わせたもの「べ・べ」が「べべ」なのである。改めて韓国語との繋がりに驚く。
麻績は「延喜式」にも出てくる由緒ある地名である。地図上に麻績村の文字が鮮やかに踊っている。お話の中の大岡村は長野市と合併。蛇足だが上山田町が千曲市になり「斯羅(さら・新羅)の鉄生み」と読める更級郡が地図上から消えてしまった。
次は「天狗3兄弟」についてである。
大水にあって後、兄弟は四散し、長兄は戸倉の自在山に住んだそうな。いつの頃からか、その山は「天狗山」と称され、樹齢400年から500年ほどの「天狗松」や「天狗の祠」がある。天狗山の山麓には、天狗の立像が出現した。平成7年春のことである。身の丈8mちょっと、体重ときたら約5トン。鉄骨と強化プラスチック製で千曲天狗の愛称を持つ。
そもそも、天狗3兄弟のお話をしてくださったのは、元県議会議員の故・大谷秀志さんであった。大谷さんのご研究では、天狗は産鉄民との認識があり、天狗山を越えた、千曲市森の岡地地区にある清水製鉄遺跡こそ、長兄の天狗ゆかりの地であったのではないかと考えていた。
清水製鉄遺跡は上信越自動車道の建設に伴い発掘された。製鉄のたたら遺跡、大鍛冶の鉄精錬遺跡、小鍛冶遺跡と一貫した作業が行われた製鉄の一大コンビナートであった。発掘の報告書には砂鉄の残存も認められたともある、希有な遺跡である。場所を示すならば、上信越道を千曲市側から上田市に向って1つ目のトンネル、有明山トンネルを通過したすぐの所が清水製鉄遺跡のあった所である。
地名の岡地は大鍛冶が転訛したのではないか、と筆者はみている。
戸倉には福井(福は真金吹くの吹く=福とも考えられている)という地名が天狗山の近くにあり気になっていたところ、近くの山にたたらがあったという情報を得た。だが、それについて詳しい人は病弱とのことで、話を伺うのは難しそうである。曖昧な話で恐縮であるけれど、かつてそうした場所があったらしい、といわれる所と天狗山が指呼の距離にあるので、長兄天狗との関連があるのではと考えている。
次は「天狗3兄弟」についてである。
大水にあって後、兄弟は四散し、長兄は戸倉の自在山に住んだそうな。いつの頃からか、その山は「天狗山」と称され、樹齢400年から500年ほどの「天狗松」や「天狗の祠」がある。天狗山の山麓には、天狗の立像が出現した。平成7年春のことである。身の丈8mちょっと、体重ときたら約5トン。鉄骨と強化プラスチック製で千曲天狗の愛称を持つ。
そもそも、天狗3兄弟のお話をしてくださったのは、元県議会議員の故・大谷秀志さんであった。大谷さんのご研究では、天狗は産鉄民との認識があり、天狗山を越えた、千曲市森の岡地地区にある清水製鉄遺跡こそ、長兄の天狗ゆかりの地であったのではないかと考えていた。
清水製鉄遺跡は上信越自動車道の建設に伴い発掘された。製鉄のたたら遺跡、大鍛冶の鉄精錬遺跡、小鍛冶遺跡と一貫した作業が行われた製鉄の一大コンビナートであった。発掘の報告書には砂鉄の残存も認められたともある、希有な遺跡である。場所を示すならば、上信越道を千曲市側から上田市に向って1つ目のトンネル、有明山トンネルを通過したすぐの所が清水製鉄遺跡のあった所である。
地名の岡地は大鍛冶が転訛したのではないか、と筆者はみている。
戸倉には福井(福は真金吹くの吹く=福とも考えられている)という地名が天狗山の近くにあり気になっていたところ、近くの山にたたらがあったという情報を得た。だが、それについて詳しい人は病弱とのことで、話を伺うのは難しそうである。曖昧な話で恐縮であるけれど、かつてそうした場所があったらしい、といわれる所と天狗山が指呼の距離にあるので、長兄天狗との関連があるのではと考えている。
「天狗の枝垂栗」のお話のある塩尻市北小野と辰野町小野には2つの神社が隣り合っている。塩尻市側は小野神社、辰野町側は矢彦神社で細い水路で境がなされている。両神社は信濃二之宮(一之宮は諏訪大社上社本宮)と称され、小野盆地を憑(たのめ)の里とか頼母(たのも)の里というそうである。また、例祭は田の実祭といい、天候の平穏や稲の豊作を祈る祭だそうだ。
平成17年4月半ば、両神社は御柱の準備がほぼ出来ていた。田の実祭は頼む(み)の意ではないかとの仮説を立ててみた。では何を頼むのか、その辺を探りたくて、特に小野神社の氏子の方々にお世話になった。
両神社には宝物がある。小野神社には、鐸鉾(さなきぼこ)に鉄鐸を麻幣(あさしで)で結びつけたものがある。鐸鉾は矢型状の両刃の剣で、鉄鐸は薄い鉄板をぐるりと巻いた鈴状のもので12口(1つは舌のみ)ある。
矢彦神社にも3口の鉄鐸が現存している。
唐突だが先日、御代田町の浅間縄文ミュージアムでの企画展「古代の音・色」で、複製の銅鐸に紐を巻きつけた舌の柔らかな音色を聴いた。銅鐸は鉄鐸と同様に振り鳴らされたものらしい。『古代の鉄と神々』(真弓常忠著)で祭祀学の著者はいう。最も古い様式を伝えるのは常に祭祀である。祭祀は始源の状態を繰り返すところに本意があり、時代の変遷にもたえて持続すると。「鉄を制する者は天下をも制する」。鉄は銅に比べはるかに有用で実用的なことは周知のことである。その鉄を求めて、つまり、砂鉄以前の湖沼に生える禾科の植物の根に沈澱する褐鉄鉱の塊の生成を祈って銅鐸や鉄鐸は振られたらしいのである。振り鳴らすだけでなく地中に埋祭したものが銅鐸である。より強い祈りを込めたものだろうか。古代人は銅が腐蝕しないことを知っていたのである。
小野神社の「田の実祭」は実は「頼む」の意の祭ではなかったろうか。鉄の生長を頼む(お願い)である。境内にある孔のあいた石を御鉾社という。穴に鐸鉾(さなぎぼこ)を立て、向こうにあるその名も藤池に向かい鉄鐸を振り鳴らしたと考えられる。
「天狗の枝垂栗」を観る旅で辰野町にも足を延ばした。北大出明神社では御船お奉りという、天狗と獅子が参加する珍しい祭がある。氏子の方が、古面の天狗面を見せてくださった。
次に校歌にも歌われている「月丘の森」に行った。
「月」の字が付くので多分製鉄と関わりがあるだろうと考えていたら、そこには諏訪神社があり、建御名方命(たけみなかたのかみ)とその祖母神を祭る。小塚があるが祖母神の陵墓であるそうな。御孫君が出雲から諏訪に向かわれる時同行なさってきたが、祖母神だけは月丘の森に住まわれ長寿の後にここで亡くなられたそうな。
古代「月」の名称は製鉄に関わりがある。月丘の森も、製鉄に適していると考え祖母神はそこにとどまったのかもしれない、と縁起の裏を読んでみた。
次に気になる地名を読んでみたい。
太平洋水系と日本海水系の分水嶺となっている牛首峠を西に下ると、木曽楢川の旧村境を経て桜沢に至る峠道がある。が、その牛首は上等な鉄燒きと読めるし、桜沢は鉄蔵の沢と読める。
たたら場跡はなくても、地名や古い様式を伝える祭祀から製鉄の匂いが伝わってくる。
天狗の冠を持つ、山・石・木・温泉・原はすべてと明言はしないが、その多くは製鉄や鉱物に関わりがあることは確かであるように思える。
伝承も時代と共に変わって行く部分はあるかもしれないが、特に製鉄に関しては、暗示と家徴型伝承の多いことを実感するのである。 
 
夜叉

 

(やしゃ、梵:यक्ष yakṣa、パーリ語:ञक्ख yakkhaの音写、訳:暴悪・捷疾鬼・威徳) 古代インド神話に登場する鬼神。薬叉(やくしゃ)とも称する。のちに仏教に取り入れられ護法善神の一尊となった。
インド神話
一般にインド神話における鬼神の総称であるとも言われるが、鬼神の総称としては他にアスラという言葉も使用されている(仏教においては、アスラ=阿修羅は総称ではなく固有の鬼神として登場)。
夜叉には男と女があり、男はヤクシャ(Yaksa)、女はヤクシーもしくはヤクシニー と呼ばれる。財宝の神クベーラ(毘沙門天)の眷属と言われ、その性格は仏教に取り入れられてからも変わらなかったが、一方で人を食らう鬼神の性格も併せ持った。ヤクシャは鬼神である反面、人間に恩恵をもたらす存在と考えられていた。森林に棲む神霊であり、樹木に関係するため、聖樹と共に絵図化されることも多い。また水との関係もあり、「水を崇拝する(yasy-)」といわれたので、yaksya と名づけられたという語源説もある。バラモン教の精舎の前門には一対の夜叉像を置き、これを守護させていたといい、現在の金剛力士像はその名残であるともいう。
護法善神として
インド神話における夜叉は仏教に包括され、仏法を守護する八部衆の一つとして、また毘沙門天の眷属として羅刹と共に北方を守護する。また夜叉には、天夜叉・地夜叉・虚空夜叉の三種があり、地夜叉以外は飛行するという。
大乗仏典では薬師如来の十二神将や、般若経典を守護する十六善神などが夜叉である。
その他の文化
スリランカではヤカ(Yaka)という病魔とされ、王にマハーコーラ・サンニ・ヤカー(Mahakola Sanni Yaka)がいるとされる。
タイでは、ヤック(ยักษ์)と呼ばれ、緑色と赤色の対になった巨大な像が寺院等の門にしばしば置かれている。画像はタイのバンコク・プラナコーン区タイ王室宮廷内の寺院入口にあるワット・シーラッタナーサーサダーラームのヤック像である(実はタイ国際空港にも同様のヤック像が置いてある)。
仏教の影響を受けたマニ教パルティア語文書(バクトリア出土)では、イエス・キリストとマニの名において夜叉などのデーウ(悪魔)を祓う、と書かれた護符文書がある。またいくつかの夜叉の特徴も併記されており、たとえばヴィシュヴァパーニ(Viśvapāṇi)は一日の第五の時間を支配し、ペシャワルに住み、塩味のものを食べる、とある。
ジャイナ教ではヤクシャ、ヤクシニーは守護神とされる。 
夜叉2
1.元々のインド神話では、善神であった。
夜叉の原型は、インド神話にでてくる「ヤクシャー」だそうだ。ヤクシャーは、北インドで信仰される善神、または、水を守護する山河の聖霊で、命の息吹をもたらす種族という。
ヤクシャーの女は、ヤクシーといい、豊穣をもたらす美しい女神であった。
後に、異民族が侵入してきて、かれらは、善神から魔族におとしめられた。ヒンズー教の伝承では、ヤクシャー族は、黒い体、猛獣の牙、曲がった爪と青い瞳を持ち、性格は、残虐で人肉を好み、人を惑わすとされた。つまり、異民族からは、その勇敢さ、気性の激しさ、攻撃力、抵抗力、復讐心 は相当に怖れられたのか。
さらに後に、ヤクシャーの王クヴェーラ(ヴァイシュラヴァナ、毘沙門天)が、ヒンズー教の重神となり、それにともない、配下のヤクシャー族は、天界の北方と宝物の守護の働きをする「善神」にと復帰した。
2.後に仏教と融合した
ヒンズー教の伝承やインド神話は、仏教に取り入れられた。インド神話が、仏教に取り入れられた経緯については、仏教が広まるときには、その国や地域の文化、習慣、宗教などを否定せずに取り入れるから と推測します。
仏典によれば、彼らの王クヴェーラが仏教を信仰し、多聞天(四天王のひとり、毘沙門天のこと)となり、それにともない、彼ら夜叉は、仏教を信仰し、天界八部衆、八大夜叉大将、十二神将などの要職を任ぜられることになる。
天界八部衆とは、釈迦如来の配下として、仏教と信者を守る組織をいうそうだ。
  天界八部衆
1、天部(梵天、帝釈天、四天王 などの最重神)
2、龍王
3、夜叉
4、乾ダ婆
5、阿修羅
6、迦桜羅
7、緊那羅
8、魔ゴ羅迦
3.さらに、中国、朝鮮を経て、日本に伝わると・・・仏法を守る善神なのだが、なぜか日本では、一般的な、女の鬼の俗称となった。「修善寺物語」「今昔物語」「申楽談義」「仮面譜」 など に登場する。 
日本伝承の「女の鬼」
 名前 / 土地 / 特技 / 解説
紅葉(くれは) / 長野県戸隠村、鬼無里村など / 幻術、妖術、変身、呪殺、人を食う / 937年、奥州の会津生まれ。身代わりを結婚させ、京に出て、ファッション関連の店を開く。その後、妖術を使う罪に問われ、戸隠に流罪される。ついには、盗賊の首領となる。絶世の美女であった が → その後、角が生え、眼はらんらんとし、口は耳まで裂け、身の丈3mとなる。生まれ年まではっきりしているのは、実在したということだろう。そして、忍者ゆかりの戸隠に縁があるとは、いかなることか。ともあれ、 想像を絶する鬼である。
鈴鹿御前 / 鈴鹿 / 神通力、飛行、剣術 / 絶世の美女。古代から中近世まで、鈴鹿の山は、鬼の総本山だった。鬼とは、中央の支配権力に従わない者たちの総称だったのか。
清姫 / 和歌山 / 変身 / 少女、妖艶な熟女、10mの大蛇などに変身。参考、娘道成寺。
六条御息所 / 京? / 呪殺 / 才色兼備の理想的な女性。参考、源氏物語。
鬼婆(おにばば) / 全国 / / 銀髪を振り乱し、眼をらんらんと光らせ、口から血をしたたらせ、手には包丁を持っているというイメージが、一般的。自分のテリトリーに迷い込んだ旅人を餌食にする。
山姥(やまうば) / 全国 / / 悪から善まで、また、若い女から老婆まで、地方によりいろいろの説がある。金太郎の母親の説もあり。富山の立山には、「おんばさま」がいる。
鬼子母神 / / / 鬼子母神は、ヤクシャー族(夜叉)の出身である。インドでは、古来から、求児、安産、育児の神とされている。仏典では、夜叉神の娘で、鬼神般ジャ迦の妻。一万(500、あるいは、1000の説あり)の鬼子の母なので鬼子母神という。誕生のときには夜叉族が歓喜したという。性質は、凶暴で人の子をとって食うのを常とした。釈迦はそれを見て哀れみ、末子を取って隠した。鬼子母神は、7日間探しても見つからず、うろたえ取り乱し、釈尊のところへ行き、その安否を尋ねた。釈尊は、その悪行を戒め、人の子を取って食うことをしないと誓わせて、その子を返した。仏教に帰依した鬼子母神は、仏教を守護する善神となった。鬼子母神は、美しい女の神で、江戸時代、大奥の女性は、子宝をさずかるため、鬼子母神をよく拝んだ。
羅刹(らせつ) / / / 悪鬼の総称で、女は、羅刹女。羅刹は、醜い形で人を怖れさせ、羅刹女は、美しい姿で人を惑わせ、その血肉を食うといわれる。自由自在に飛行し、走るのも速い。夜叉族の出身ともいわれる。後に仏教に帰依し、仏法守護の善神となる。鬼子母神と同じく、我々の生命の中に潜む「ひとつの悪の生命」であるが、仏教に帰依することによって、「善」に転じ、仏教と信者を守護すると説かれる。  
 
山の神

 

山に宿る神の総称である。山神(やまがみ)と言う。
実際の神の名称は地域により異なるが、その総称は「山の神」「山神」でほぼ共通している。その性格や祀り方は、山に住む山民と、麓に住む農民とで異なる。どちらの場合も、山の神は一般に女神であるとされており、そこから自分の妻のことを謙遜して「山の神」という表現が生まれた。このような話の原像は『古事記』『日本書紀』のイザナミノミコトとも一致する。
概要
農民の間では、春になると山の神が、山から降りてきて田の神となり、秋には再び山に戻るという信仰がある。すなわち、1つの神に山の神と田の神という2つの霊格を見ていることになる。農民に限らず日本では死者は山中の常世に行って祖霊となり子孫を見守るという信仰があり、農民にとっての山の神の実体は祖霊であるという説が有力である。正月にやってくる年神も山の神と同一視される。ほかに、山は農耕に欠かせない水の源であるということや、豊饒をもたらす神が遠くからやってくるという来訪神(客神・まれびとがみ)の信仰との関連もある。
猟師・木樵・炭焼きなどの山民にとっての山の神は、自分たちの仕事の場である山を守護する神である。農民の田の神のような去来の観念はなく、常にその山にいるとされる。この山の神は一年に12人の子を産むとされるなど、非常に生殖能力の強い神とされる。これは、山の神が山民にとっての産土神でもあったためであると考えられる。山民の山の神は禁忌に厳しいとされ、例えば祭の日(一般に12月12日、1月12日など12にまつわる日)は山の神が木の数を数えるとして、山に入ることが禁止されており、この日に山に入ると木の下敷きになって死んでしまうという。長野県南佐久郡では大晦日に山に入ることを忌まれており、これを破ると「ミソカヨー」または「ミソカヨーイ」という何者かの叫び声が聞こえ、何者か確かめようとして振り返ろうとしても首が回らないといい、山の神や鬼の仕業と伝えられている。
また、女神であることから出産や月経の穢れを特に嫌うとされるほか、祭の日には女性の参加は許されてこなかった。山の神は醜女であるとする伝承もあり、自分より醜いものがあれば喜ぶとして、顔が醜いオコゼを山の神に供える習慣もある。なお、山岳神がなぜ海産魚のオコゼとむすびつくのかは不明で、「やまおこぜ」といって、魚類のほかに、貝類などをさす場合もある。マタギは古来より「やまおこぜ」の干物をお守りとして携帯したり、家に祀るなどしてきた。「Y」の様な三又の樹木には神が宿っているとして伐採を禁じ、その木を御神体として祭る風習もある。三又の木が女性の下半身を連想させるからともいわれるが、三又の木はそもそもバランスが悪いため伐採時に事故を起こすことが多く、注意を喚起するためともいわれている。
日本神話では大山祇神などが山の神として登場する。また、比叡山・松尾山の大山咋神、白山の白山比盗_など、特定の山に結びついた山の神もある。
オーストリアの民族学者アレクサンダー・スラヴィクは、日本の「山の神」研究を紹介するとともに、ドイツにおける「山の中に眠っている王(カール大帝やフリードリヒ・バルバロッサなど)」「山に住む神々」と比較し、類似点を指摘した。
鉱山における山神
日本の鉱山においては、安全と繁栄を祈願してカナヤマヒコ・カナヤマヒメを祀る神社が設置される事が多く、これらも略称して山神と称する。鉱山で採掘された鉱石がご神体となる事もある。多くは祠程度の規模のものが多いが、歴史が長かったり、規模の大きかったりする鉱山においては一般的な神社と同じ規模のケースもある。
鉱山の閉山後は朽ち果て自然消滅する場合が多い。しかし、鉱山閉山後も製錬所が操業を続けたり、廃水処理施設が稼働したりする場合には、神社が施設の守り神として維持される事がある。 
 
餓鬼

 

(がき、サンスクリット語ラテン翻字: preta、音写: 薜茘多(へいれいた)) 仏教において、亡者のうち餓鬼道に生まれ変わったものをいう。preta とは元来、死者を意味する言葉であったが、後に強欲な死者を指すようになった。六道また十界の1つである。十界のうちでは迷界、三悪道(趣)に分類される。
俗に、生前に贅沢をした者が餓鬼道に落ちるとされている。ただし仏教の立場から正確にいえば、生前において強欲で嫉妬深く、物惜しく、常に貪りの心や行為をした人が死んで生まれ変わる世界とされる。しかし大乗仏教では、後々に死後に生まれ変わるだけではなく、今生においてそのような行状をする人の精神境涯をも指して言われるようになった。
餓鬼は常に飢えと乾きに苦しみ、食物、また飲物でさえも手に取ると火に変わってしまうので、決して満たされることがないとされる。極端な飢餓状態の人間と同じように、痩せ細って腹部のみが丸く膨れ上がった姿で描かれることが多い。
「正法念処経」巻16には、餓鬼の住処は2つある。
1. 人中の餓鬼。この餓鬼はその業因によって行くべき道の故に、これを餓鬼道(界)という。夜に起きて昼に寝るといった、人間と正反対の行動をとる。
2. 薜茘多(餓鬼)世界の餓鬼。閻浮提の下、500由旬にあり、長さ広さは36000由旬といわれる。しかして人間で最初に死んだとされる閻魔王(えんまおう)は、劫初に冥土の道を開き、その世界を閻魔王界といい、餓鬼の本住所とし、あるいは餓鬼所住の世界の意で、薜茘多世界といい、閻魔をその主とする。余の餓鬼、悪道眷属として、その数は無量で悪業は甚だ多い。
餓鬼の種類
餓鬼の種類はいくつかある。
「阿毘達磨順正理論」は、3種×3種で計9種の餓鬼がいると説く。
1. 無財餓鬼、一切の飲食ができない餓鬼。飲食しようとするも炎となり、常に貪欲に飢えている。唯一、施餓鬼供養されたものだけは食することができる。
2. 少財餓鬼、ごく僅かな飲食だけができる餓鬼。人間の糞尿や嘔吐物、屍など、不浄なものを飲食することができるといわれる。
3. 多財餓鬼、多くの飲食ができる餓鬼。天部にも行くことが出来る。富裕餓鬼ともいう。ただしどんなに贅沢はできても満足しない。
「一に無財鬼、二に少財鬼、三に多財鬼なり。この三(種)にまた各々三(種)あり。無財鬼の三は、一に炬口鬼、二に鍼口鬼、三に臭口鬼なり。少財鬼の三は、一に鍼毛鬼(その毛は針の如く以て自ら制し他を刺すなり)、二に臭毛鬼、三に癭鬼なり。多財鬼の三は、一に希祠鬼(常に社祠の中にありその食物を希うなり)、二に希棄鬼(常に人の棄つるを希うて之を食すなり)、三に大勢鬼(大勢大福、天の如きなり)」
「正法念処経」では36種類の餓鬼がいると説かれている。
1. 鑊身(かくしん)、私利私欲で動物を殺し、少しも悔いなかった者がなる。眼と口がなく、身体は人間の二倍ほども大きい。手足が非常に細く、常に火の中で焼かれている。
2. 針口(しんこう)、貪欲や物惜しみの心から、布施をすることもなく、困っている人に衣食を施すこともなく、仏法を信じることもなかった者がなる。口は針穴の如くであるが腹は大山のように膨れている。食べたものが炎になって吹き出す。蚊や蜂などの毒虫にたかられ、常に火で焼かれている。
3. 食吐(じきと)、自らは美食を楽しみながら、子や配偶者などには与えなかった者がなる。荒野に住み、食べても必ず吐いてしまう、または獄卒などに無理矢理吐かされる。身長が半由旬もある。
4. 食糞(じきふん)、僧に対して不浄の食べ物を与えたものがなる。糞尿の池で蛆虫や糞尿を飲食するが、それすら満足に手に入らず苦しむ。次に転生してもほとんど人間には転生できない。
5. 無食(むじき)、自分の権力を笠に着て、善人を牢につないで餓死させ、少しも悔いなかった者がなる。全身が飢渇の火に包まれて、どんなものも飲食できない。池や川に近づくと一瞬で干上がる、または鬼たちが見張っていて近づけない。
6. 食気(じっけ)、自分だけご馳走を食べ、妻子には匂いしか嗅がせなかった者がなる。供物の香気だけを食すことができる。
7. 食法(じきほう)、名声や金儲けのために、人々を悪に走らせるような間違った説法を行った者がなる。飲食の代りに説法を食べる。身体は大きく、体色は黒く、長い爪を持つ。人の入らぬ険しい土地で、悪虫にたかられ、いつも泣いている。
8. 食水(じきすい)、水で薄めた酒を売った者、酒に蛾やミミズを混ぜて無知な人を惑わした者がなる。水を求めても飲めない。水に入って上がってきた人から滴り落ちるしずく、または亡き父母に子が供えた水のわずかな部分だけを飲める。
9. 悕望(けもう)、貪欲や嫉妬から善人をねたみ、彼らが苦労して手に入れた物を詐術的な手段で奪い取った者がなる。亡き父母のために供養されたものしか食せない。顔はしわだらけで黒く、手足はぼろぼろ、頭髪が顔を覆っている。苦しみながら前世を悔いて泣き、「施すことがなければ報いもない」と叫びながら走り回る。
10. 食唾(じきた)、僧侶や出家者に、不浄な食物を清浄だと偽って施した者がなる。人が吐いた唾しか食べられない。
11. 食鬘(じきまん)、仏や族長などの華鬘(花で作った装身具)を盗み出して自らを飾った者がなる。華鬘のみを食べる。
12. 食血(じきけつ)、肉食を好んで殺生し、妻子には分け与えなかった者がなる。生物から出た血だけを食べられる。
13. 食肉(じきにく)、重さをごまかして肉を売った者がなる。肉だけを食べられる。四辻や繁華街に出現する。
14. 食香烟(じきかえん)、質の悪い香を販売した者がなる。供えられた香の香りだけを食べられる。
15. 疾行(しっこう)、僧の身で遊興に浸り、病者に与えるべき飲食物を自分で喰ってしまった者がなる。墓地を荒らし屍を食べる。疫病などで大量の死者が出た場所に、一瞬で駆けつける。
16. 伺便(しべん)、人々を騙して財産を奪ったり、村や町を襲撃、略奪した者がなる。人が排便したものを食し、その人の気力を奪う。体中の毛穴から発する炎で焼かれている。
17. 地下(じげ)、悪事で他人の財産を手に入れた上、人を縛って暗黒の牢獄に閉じ込めた者がなる。暗黒の闇である地下に住み、鬼たちから責め苦を受ける。
18. 神通(じんつう)、他人から騙し取った財産を、悪い友人に分け与えたものがなる。涸渇した他の餓鬼に嫉妬され囲まれる。神通力を持ち、苦痛を受けることがないが、他の餓鬼の苦痛の表情をいつまでも見ていなければならない。
19. 熾燃(しねん)、城郭を破壊、人民を殺害、財産を奪い、権力者に取り入って勢力を得た者がなる。身体から燃える火に苦しみ、人里や山林を走り回る。
20. 伺嬰児便(しえいじべん)、自分の幼子を殺され、来世で夜叉となって他人の子を殺して復讐しようと考えた女がなる。生まれたばかりの赤ん坊の命を奪う。
21. 欲食(よくじき)、美しく着飾って売買春した者がなる。人間の遊び場に行き惑わし食物を盗む。身体が小さく、さらに何にでも化けられる。
22. 住海渚(じゅうかいしょ)、荒野を旅して病苦に苦しむ行商人を騙し、品物を僅かの値段で買い取った者がなる。人間界の1000倍も暑い海(ただし水は枯れ果てている)の中洲に住む。朝露を飲んで飢えをしのぐ。
23. 執杖(しつじょう)、権力者に取り入って、その権力を笠に着て悪行を行った者がなる。閻魔王の使い走りで、ただ風だけを食べる。頭髪は乱れ、上唇と耳は垂れ、声が大きい。
24. 食小児(じきしょうに)、邪悪な呪術で病人をたぶらかした者が、等活地獄の苦しみを得た後で転生する。生まれたばかりの赤ん坊を食べる。
25. 食人精気(じきにんしょうき)、戦場などで、必ず味方になると友人を騙して見殺しにした者がなる。人の精気を食べる。常に刀の雨に襲われている。10年〜20年に一度、釈迦、説法、修法者(仏・法・僧)の三宝を敬わない人間の精気を奪うことができる。
26. 羅刹(らせつ)、生き物を殺して大宴会を催し、少しの飲食を高価で販売した者がなる。四つ辻で人を襲い、狂気に落としいれ殺害して食べる。
27. 火爐焼食(かろしょうじき)、善人の友を遠ざけ、僧の食事を勝手に食った者がなる。燃え盛る炉心の中で残飯を食べる。
28. 住不浄巷陌(じゅうふじょうこうはく)、修行者に不浄の食事を与えた者がなる。不浄な場所に住み、嘔吐物などを喰う。
29. 食風(じきふう)、僧や貧しい人々に施しをすると言っておきながら、実際に彼らがやってくると何もせず、寒風の中で震えるままにしておいた者がなる。風だけを食べる。
30. 食火炭(じきかたん)、監獄の監視人で、人々に責め苦を与え、食べ物を奪い、空腹のため泥土を喰うような境遇に追いやった者がなる。死体を火葬する火を食べる。一度この餓鬼になった者は、次に人間に転生しても必ず辺境に生まれ、味のある物は喰うことができない。
31. 食毒(じきどく)、毒殺して財産を奪ったものがなる。険しい山脈や氷山に住み、毒に囲まれ、夏は毒漬けと天から火が降り注ぎ、冬には氷漬けと刀の雨が降る。
32. 曠野(こうや)、旅行者の水飲み場であった湖や池を壊し、旅行者を苦しめた上に財物を奪った者がなる。猛暑の中、水を求めて野原を走り回る。
33. 住塚間食熱灰土(じゅうちょうかんじきねつかいど)、仏に供えられた花を盗んで売った者がなる。屍を焼いた熱い灰や土を食べる。月に一度ぐらいしか食べられない。飢えと渇き・重い鉄の首かせ・獄卒に刀や杖で打たれる三つの罰を受ける。
34. 樹中住(じゅちゅうじゅう)、他人が育てた樹木を勝手に伐採して財産を得たものがなる。樹木の中に閉じ込められ、蟻や虫にかじられる。木の根元に捨てられた食物しか喰えない。
35. 四交道(しきょうどう)、旅人の食料を奪い、荒野で飢え渇かせた者がなる。四つ角に住み、そこに祀られる食べ物だけを食べられる。鋸で縦横に切られ、平らに引き延ばされて苦しむ。
36. 殺身(せっしん)、人に媚びへつらって悪事を働いたり、邪法を正法のごとく説いたり、僧の修行を妨害した者がなる。熱い鉄を飲まされて大きな苦痛を受ける。餓鬼道の業が尽きると地獄道に転生する。
餓鬼への供養
1. 中元(旧暦の7月15日)の日、餓鬼道に堕ちた衆生のために食べ物を布施し、その霊を供養する施餓鬼(施餓鬼会)という法会が行われる。
2. 餓鬼に施しを与えて鎮める方法がある。地蔵菩薩の足元へ水やお粥を供え、経文をあげると餓鬼に飲ませたり食べさせたりできる。これを行うと、餓鬼にとりつかれても飢えが鎮まる。
民間信仰における餓鬼
仏教の布教とともに餓鬼が市井に広まると、餓鬼は餓鬼道へ落ちた亡者を指す仏教上の言葉としてではなく、飢えや行き倒れで死亡した人間の死霊、怨念を指す民間信仰上の言葉として用いられることが多くなった。こうした霊は憑き物となり、人間に取り憑いて飢餓をもたらすといい、これを餓鬼憑きという。 
俗語
子供は貪るように食べることがあるため、その蔑称・俗称として餓鬼が比喩的に広く用いられる。餓鬼大将・悪餓鬼など。
 
鬼子

 

(おにご) 親に似ていない子供、異様な姿で生まれた子供、特に歯が生えた状態で生まれた子供のこと。
民間信仰
日本各地の俗信においては、歯の生えた鬼子は良くないもの、縁起の悪いものとして生まれた後に殺害したり、捨てて他の誰かに拾ってもらうなどの事例が見られる。群馬県山田郡ではかつて、歯が生えて生まれた子供は捨て、近所の人に拾ってもらっていた。同県の別の地方では、生まれてすぐに歯の生えた子供は三つ辻に捨て、人に頼んで拾ってもらっていた。また長崎県久賀島でも、33歳のときに娘を産むと親に逆らう鬼子になるといい、別の親に拾わせる風習があった。
古典
古典においては異様な姿で生まれた子供が怪談として、怪異をなす怪物のように語られることが多い。
貞享時代の怪談本『奇異雑談集』には、京都東山の獅子谷という村で、ある女が異物を3度分娩した末に4度目に鬼子を産んだ話がある。この子供は生誕時にしてすでに3歳児ほどの大きさで、朱のように真っ赤な色で、両目に加えて額に目があり、耳まで裂けた口の上下に歯が2本ずつ生えていたという。この鬼子は、父に殺されそうになりながら噛みついて抵抗したものの、ついに殺害されて崖下に埋められるが、翌日になって生き返り、話を聞いていた周囲の人たちに殴りつけられ、ようやく息絶えたという。
明治中期の怪異小説『夜窓鬼談』では、ある酒屋夫婦が客の金を盗んだことでその客が自殺してしまうが、後に酒屋に生まれた子供は3か月で歯がすべて生えそろった上、顔が死んだ客そっくりの鬼子となり、怨みつらみを述べたために夫婦により殺害され、後に酒屋の妻は病気で死に、夫も家運に見放されて店を失ったという話がある。同様に親の因果により鬼子が産まれるという話は、寛文時代の『因果物語』などにも見ることができる。 
 
鬼瓦1

 

和式建築物の棟(大棟、隅棟、降り棟など)の端などに設置される板状の瓦の総称。略して「鬼」とも呼ばれる。厄除けと装飾を目的とした役瓦の一つ。
鬼瓦は、棟の末端に付ける雨仕舞いの役割を兼ねた装飾瓦で、同様の役割を持つ植物性や石、金属などの材料で葺かれた屋根に用いられるものを「鬼板(おにいた)」というが、鬼面が彫刻されていない鬼瓦も鬼板という。一般的に鬼瓦といえば、鬼面の有無にかかわらず棟瓦の端部に付けられた役瓦のことをいう。
鬼の顔を彫刻したものから、シンプルな造形の「州浜(すはま)」や「陸(ろく)」と呼ばれるものや蓮の華をあらわしたもの、また、家紋や福の神がついたものなどがある。
ルーツはパルミラにて入口の上にメドゥーサを厄除けとして設置していた文化がシルクロード経由で中国に伝来し、日本では奈良時代に唐文化を積極的に取り入れだした頃、急速に全国に普及した。寺院は勿論、一般家屋など比較的古い和式建築に多く見られるが、平成期以降に建てられた建築物には見られることが少なくなった。 鬼瓦を作る職人は、鬼師と呼ばれる。
鬼瓦2
建物の大棟や降り棟の端を飾る瓦を鬼瓦と呼んでいます。それは、とくに室町時代以降の鬼瓦が立体的な鬼面として作られるようになったからでしょう。飛鳥時代や白鳳時代の鬼瓦はまだ鬼面ではなく、蓮華文を飾っていました。おかしいようですが、それでも鬼瓦と呼んでいます。
邪鬼をあらわした瓦が使われるようになりますのは、奈良時代になってからのことです。悪霊が寄りつくのをさけるためなのでしょう。平城宮や、平城京の寺々でまず使われるようになります。平城宮の鬼瓦は顔を正面に向け、上唇を突出させ、舌を出し、両腕を膝においてうずくまった姿勢の全身像をあらわしたものです。まさに悪霊を強くこばむ形相です。
天平年間には顔面だけの鬼瓦、まさに鬼面文鬼瓦が作られるようになります。注意して見ますと、よく似た顔つきで大小ありますので、大棟用と降り棟用とが使い分けられたのでしょう。平城京の寺々の鬼瓦は額に鋸歯文をおいたり、眼がとび出したりしており宮殿のものと様相がちがいます。このような鬼瓦は、国分寺の造営とともに全国に広まっていきます。
鬼瓦が大きく変化するのは室町時代のことです。その前の鎌倉時代ではまだレリーフ状でしたが、これが立体的になり、しかも耳まで裂けた口、剥き出した牙、眼を吊り上げて天空を眺みつける形相になります。 
 
節分1 

 

雑節の一つで、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のこと。節分とは「季節を分ける」ことをも意味している。江戸時代以降は特に立春(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多い。この場合、節切月日の大晦日にあたる。本項目では、立春の前日の節分、およびその日に行われる伝統的な行事について述べる。大寒の最後の日であるため、寒さはこの日がピークである。
一般的には「福は内、鬼は外」と声を出しながら福豆(炒り大豆)を撒いて、年齢の数だけ(もしくは1つ多く)豆を食べる厄除けを行う。また、邪気除けの柊鰯などを飾る。これらは、地方や神社などによって異なってくる。
季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊ばらい行事が執り行われる。
節分の行事は宮中での年中行事であり、『延喜式』では、彩色した土で作成した牛と童子の人形を大内裏の各門に飾っていた。
「土牛童子」ともいわれ、大寒の日の前夜の夜半に立てられ、立春の日の前夜の夜半に撤去された。『延喜式』によれば、土偶(土人形の意)も土牛も、各門での大きさは同じで、土偶は高さ2尺で、方1尺5寸・厚さ2寸の板に立てる。土牛は高さ2尺・長さ3尺で、長さ3尺5寸・広さ1尺5寸・厚さ2寸の板に立てる。陽明門および待賢門には、青色のものを、美福門および朱雀門には、赤色のものを、郁芳門、皇嘉門、殷富門および達智門には、黄色のものを、藻壁門および談天門には、白色のものを、安嘉門および偉鑒門には、黒色のものを、立てる。『公事根源』十二月には、「青色は春の色ひんかしにたつ赤色は夏のいろ南にたつ白色は秋のいろ西にたつ黒色は冬の色北にたつ四方の門にまた黄色の土牛をたてくはふるは中央土のいろなり木火金水は土ははなれぬ理有」とある。
これは、平安時代頃から行われている「追儺」から生まれた。
『続日本紀』慶雲三年十二月の条によると706年にこの追儀が始まり(「是年天下諸国疫疾百姓多死始作土牛大儺」とある)、室町時代に使用されていた「桃の枝」への信仰にかわって、炒った豆で鬼を追い払う行事となって行った。
『臥雲日件録(瑞渓周鳳)』によると、1447年に「鬼外福内」を唱えたと記されている。
近代、上記の宮中行事が庶民に採り入れられたころから、節分当日の夕暮れ、柊の枝に鰯の頭を刺したもの(柊鰯)を戸口に立てておいたり、寺社で豆撒きをしたりするようになった。
豆まき
邪気を追い払う為に、節分には古くから豆撒きの行事が執り行われている。宇多天皇の時代に、鞍馬山の鬼が出て来て都を荒らすのを、祈祷をし鬼の穴を封じて、三石三升の炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちつぶし、災厄を逃れたという故事伝説が始まりと言われる。豆は、「穀物には生命力と魔除けの呪力が備わっている」という信仰、または語呂合わせで「魔目(豆・まめ)」を鬼の目に投げつけて鬼を滅する「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがある。
豆を撒き、撒かれた豆を自分の年齢(数え年)の数だけ食べる。また、自分の年の数の1つ多く食べると、体が丈夫になり、風邪をひかないという習わしがあるところもある。初期においては豆は後方に撒くこともあったと言う。
豆撒きの仕方
豆を撒く際には掛け声をかける。1447年の「臥雲日件録」には「散熬豆因唱鬼外福内」とあるように、掛け声は通常「鬼は外、福は内」である。しかし、地域や神社によってバリエーションがある。鬼を祭神または神の使いとしている神社、また方避けの寺社では「鬼は外」ではなく「鬼も内(鬼は内)」としている。新宗教の大本は鬼神を「艮の金神(国常立尊)」と解釈しているので、同じく「鬼は内」とする。家庭内での豆まきに於いても、「鬼」の付く姓(比較的少数だが「鬼塚」、「鬼頭」など)の家庭もしくは鬼が付く地名の地域では「鬼は内」の掛け声が多いという。大名九鬼家の領地でも、藩主に敬意を表して「鬼は内」としている。
使用する豆は、お祓いを行った炒った大豆(炒り豆)である。豆を神棚に供えてから撒く地方もある。炒り豆を使用するのは、節分は旧年の厄災を負って払い捨てられるものである為、撒いた豆から芽が出ては不都合であったためであるという。北海道・東北・北陸・南九州の家庭では 落花生を撒く場合もあるが、これは「落花生は大豆より拾い易く地面に落ちても実が汚れない」という合理性から独自の豆撒きとなった。
かつては、豆のほかに、米、麦、かちぐり、炭なども使用されたという。豆撒きとなったのは、五穀の中でも収穫量も多く、鬼を追い払うときにぶつかって立てる音や粒の大きさが適当だったからとする説もあるが定かではない。
近代の傾向
節分の時期になると、多くのスーパーマーケットでは節分にちなんだコーナーが設けられ、その中で福豆(ふくまめ)として売られている。厚紙に印刷された鬼の面が豆のおまけについている事があり、父親などがそれをかぶって鬼の役を演じて豆撒きを盛り上げる。しかし、元来は家長たる父親あるいは年男が豆を撒き鬼を追い払うものであった。豆のおまけとしてお多福の面がついてくることもある。
小学校では5年生が年男・年女にあたる。そのため、5年生が中心となって豆まきの行事を行っているところも多い。神社仏閣と幼稚園・保育園が連携している所では園児が巫女や稚児として出る所もある。相撲力士を招いて(醜・しこ・四股を踏む事により、凶悪な鬼を踏みつけ鎮める悪魔祓いをする)豆撒きをする社寺もある。 
 
節分2 

 

2月といえば節分ですね。節分は、もともと各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のことをいい、「季節を分ける」ことを意味しています。江戸時代以降からは「節分」といえば立春(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多く、これは旧暦の新年の始まりに相当する「立春」の前日にあたる節分がもっとも重要視されたためだと考えられています。そして、これが現在の節分のさまざまな行事に伝わっています。 今回は現在に伝わる節分行事の中から、食べ物に関連したものをご紹介します。
豆まき
節分といえば豆まきははずせませんね。豆をまき、豆を自分の年齢(数え年)の数だけ食べます。また、自分の年の数+1つの豆を食べると、体が丈夫になり、風邪をひかないというならわしがあるところもあります。豆は「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがあります。まく豆は主に炒り豆ですが、最近では落ちた豆も食べることができることから落花生をまく家庭も多いようです。豆をまく時は「鬼は外、福は内」が一般的ですが、地域や地方によってその掛け声もさまざまあるようです。ちなみに新潟の佐渡両津では昔、田植えが暴風雨に遭った時、鬼が助けてくれたという伝説があるため「福は内、鬼も内」というようです。
節分いわし
節分の習慣自体は中国から伝わったものとされていますが「鰯(いわし)の頭を柊(ひいらぎ)の枝に刺したものを玄関に飾る」という節分いわしの風習は近年になってからのもののようです。主に西日本では鰯を食べる習慣がありますが、これは節分いわしに由来しています。節分いわしは鰯を焼くと出る激しい煙と臭いで邪気を追い払い、そして柊の針で鬼の眼を刺すという魔よけの意味があります。また鰯にはDHAやカルシウムなど栄養が豊富なので、その鰯を節分に食べることで健康や無病を願うという意味合いもあるのかもしれませんね。
恵方巻き
節分の行事として今や豆まきと同じくらい有名になった恵方巻き。近畿地方で始まったとされている巻き寿司ですが、最近ではスーパーやコンビニでも売っていて、予約するほど人気の商品もあるようです。その年の「恵方」を向いて願い事を思い浮かべながら、包丁をいれずにそのまま食べるのは「縁を切らない」という意味が込められています。また、七福神にちなんでかんぴょうやきゅうり、伊達巻など7種類の具材が入れられていて「福を巻き込む」という意味も込められています。ちなみに今年の恵方は「南南東」です。

「節分」つまり季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うためにその地方でさまざまな悪霊ばらい行事が行われます。その土地の食環境や食習慣によってさまざまな行事がありますが、共通していることは自分たちの身近な食べ物を用いて邪気を追い払い、人々の健康や幸せを願っているということだと思います。私も今年の節分は、自分や家族の願いを込めて、今までやったことのない節分行事をやってみたいと思います。 
「鬼の子小綱」と豆まき
節分と言えば豆まき。豆まきと言えば鬼。「鬼は外、福は内。」とは言っても、福の話より鬼の話、お面も鬼。鬼って怖いけど、魅力的な存在なんですね。鬼と言う言葉は、「隠」に由来していて、姿を見せない超自然的存在と意味付けられています。鬼は人里離れた山奥、川や海の向こう側に棲み、人里にやって来て、物を略奪し、人をさらい、また時には喰ってしまう。雷を呼び、嵐を起こし、奇怪な現象を起こし、技を使う、神と同等の力を発揮する恐ろしい存在として描かれています。鬼のイメージの元型は、日本神話にあり、火の神を生んで亡くなった伊邪那美(いざなみ)の命を、黄泉の国へ迎えに行った伊邪那岐(いざなぎ)の命が、黄泉醜女(よもつしこめ)に追われる話があり、この黄泉醜女がオニのイメージの原型となっています。黄泉醜女に追われた伊邪那岐の命は、身に付けていたものを投げ、黄泉平坂(よもつひらさか)を地上へと逃亡するのですが、これを呪的逃走譚(じゅてきとうそうたん)と呼び、この話の類型に「鬼の子小綱」と言うお話があります。
「鬼の子小綱」は岩手県遠野市の話です。
鬼に誘拐された娘を探しにおじいさんが探しに出かけ、川の上流、山の奥の鬼の隠れ家にたどりつき、娘と再会します。娘はお爺さんを櫃の中に隠しますが、帰ってきた鬼は、人の数だけ花が咲く人花の花が咲いているのを見て、誰か他の人間がいるのではないか?と疑います。娘は妊娠したためだとうそをついて難を逃れ、お爺さんと娘は鬼の子小綱をつれて小舟で川を下ります。気づいた鬼は、船を吸い寄せようと川の水をどんどん呑み込みます。小綱は娘にお尻を叩けと言い、娘がその通りにすると鬼は笑って水を吐き出し、三人は無事に家に帰る事が出来ました。「鬼の子小綱」の話はほぼ全国に分布し、娘を姉、お爺さんを弟、夫、鬼の子の名前を片・片子・片角・デキボシと呼ぶ地方もあります。
この話の最後で、小綱は人間と暮らす事が出来ず、里から追われる事になるのですが、そのためこの話は豆まきの由来として語られています。 

節分3 

 

強欲(ごうよく)にたとうべき烈(はげ)しき火はなく
怒りにくらぶべき強き握力(あくりょく)はなく
愚痴(ぐち)になぞらうべき細かき網はなく
愛欲にまさる疾(はや)き流れはなし  [法句経251]
節分
季節の始まりを示す立春、立夏、立秋、立冬の前日はいずれも節分です。節分とは「季節を分ける」ことから「節分」といいますが、現在では節分といえば立春の前日だけを指すようになりました。特に立春の前日には厄払いの行事が各地で催されます。寺社の多い京都では、さまざまな節分行事が行われています、「四方詣」といって、東北の吉田神社、東南の稲荷大社、西北の北野天満宮、西南の壬生寺の四社寺へ参詣する風習もあります。
節分・立春の前日に鬼打ち豆をまき、鰯の頭を柊の枝にさし戸口につけ呪いとする風習もあります。農耕が主であった大昔は、旧暦の大晦日と春を告げる節分とは、ほぼ同時期であり、年があらたまり、万物が甦る春の訪れを告げる日である節分に、「邪気を払い、今年も元気で過ごそう」との思いから始まったのが、節分の豆まきです。
節分の豆まきについては、中国から渡来し宮中で行われていた「追儺(ついな)」の行事と寺社が邪気をはらうために行った「豆打ち」の儀式が融合したものだともいわれています。おにやらい・追儺(ついな)と称して、豆打ちで鬼を追い払う行事です。鬼を追い払うのは石ころとか、弓矢や鉄砲玉でなくて鬼打ち豆とか福豆 と呼ぶ豆(煎り豆)であるところがおもしろいです。豆を打つ音で見えない邪を払ったのです、「福は内」「鬼も内」と豆をまく寺もあります。
今日では、幼児でさえも鬼の実在をあまり信じませんが、大昔の人々は、さまざまな恐ろしい鬼が実在すると信じていたようです。節分の鬼にかぎらず、鬼の喩えが多いのも、人の心にひそむ悪を鬼として、また人間の欲望の化身としてもとらえているからです。それは仏教の影響だと思われますが、鬼を「欲望をあらわにして傷ついたもの」、「煩悩(ぼんのう)の化身」だというのです。結婚式の「角隠し」の風習も、こうした考え方の延長上のものといえるようです。
節分の鬼
「鬼」のルーツについては「隠」だといわれています、隠(おに)すなわち姿が見えないものをさしたようです。隠れているもの、目に見えず災厄をふりまくもの、人間の力を超えた不思議な出来ごとに、鬼を感じ、鬼のしわざだと考えたのです。伝説上の山男、巨人、山姥や種族の異なる者、そして死者の霊魂、亡霊、たたりをする怪物、もののけ、餓鬼、地獄の赤鬼・青鬼、さらには天つ神に対して、地上の悪神・邪神、はては、鬼のような人、無慈悲な人、借金取りまでをもイメージしているようです。
そもそも鬼というのは、その姿が見えないものであり、人の心の不安感に根ざして、つつしみの心、おそれの心がつくり出したものだともいえます。
古来より、人々は、つくり出した鬼の属性を巧みに使い分けて、強いもの、こわいもの、疫病のシンボル、時には山の神の化身として、また子どもたちの遊びの素材として、暮らしの戒めとして、等々、生活のアクセントとして活用してきたようです。それは鬼のことわざの多彩さが、よくそのことを物語っています。
鬼に金棒・・・・・・・・・・・・・・・・強いものが加わり、怖いものなし
鬼のいぬまに洗濯 ・・・・・・・・怖い人のいぬ間に、思う存分にくつろぐ、命の洗濯
鬼が住むか蛇が住むか・・・・人の心の底ははかりかねる 本音・本性はわからない
鬼が出るか仏が出るか・・・・・先のことはわからない 来年のことを言えば鬼が笑う
鬼の霍乱 ・・・・・・・・・・・・・・・丈夫な人が珍しく病気になる
鬼の首を取ったよう・・・・・・・・手柄を立て、得意になる
鬼の空念仏・・・・・・・・・・・・・・無慈悲な人が心にもない慈悲をよそおう
鬼の念仏・・・・・・・・・・・・・・・・みせかけだけの情け深さ
鬼も十八・・・・・・・・・・・・・・・・番茶も出花、年頃になると女性はみな魅力が出てくる
鬼の目にも涙・・・・・・・・・・・・冷酷・無慈悲なものでも情に感じて涙、
幸運
立春の前日の厄払いは、人々が神仏に祈って災難をとりのぞいてもらい、幸せの到来を願う行事です。運・不運というのは向こうからやってくるものですが、でもその運が自分の方に向かってくる何かがはたらいているはずです、それは、自分自身の日頃の生き方がそうさせているんだと思います。そして幸運に恵まれるということは、目の前の幸運をつかむことができる能力が自分にあるかどうか、ということでも、あるようです。
中国の昔話に仙人の話が多くありますが、その一つにこういうのがあります。ある寒い冬の日のことです、道士(道教の僧)が道観(道教のお寺)に帰ってきた時、衣はぼろぼろで泥に汚れた、見るからにみすぼらしい老人が門のところにうずくまって、さかんに菱の実をたべていました。近づくとその老人は汚れたあかぎれの両の手に菱の実をささげ持って、その道士に食べませんかというのです。あまりにも汚らしいので思わず道士は振り払うようにして、その場を立ち去り道観の中に入っていった。
そこでまてよ、この寒い冬に菱の実などあろうはずはない、先ほどの老人は仙人であったのかもしれないと思い、もう一度門のところに行ったけれど、その老人の姿はなく、食べ散らされた菱の実の皮だけが残っていた。先ほどのみすぼらしい老人は神仙(神通力を得た仙人)であったのかもしれない、せっかく出会えたものを惜しいことをした、と道士は思った。
そして道観の中にもどった時、あの老人が食べていた菱の実は不老不死の妙薬であったかもしれない、そうだ、せめて、食べ散らかした菱の実の殻でも拾っておこうと、急いでまた門のところへ行ったけれど、その菱の殻も消えてなくなっていた。道士は自分自身のものごとの判断能力のなさを思い悔しがったというお話です。これは幸せが目の前にあるのにそれに気づかず、幸せをのがしてしまうことが実に多いことの喩え話です。
幸せは「福」と「禄」と「寿」
幸運を授けてくれる仙人が目の前に現れて、幸せを授けてくれたとしても、それを幸せと受けとめる力が備わっていないと、幸せのチャンスを逃してしまう。幸せとは何かを見極める力を持つことが肝心です。幸せの基準は人によってさまざまです、幸運は日頃の生き方の善循環によりうまれるものです、生き方が悪いと悪循環します。また幸運を得たと有頂天になっていると、運に見放されてしまうから、これも心得なければいけないのでしょう。
人の願いは幸せになることです、では何をもって幸せであると言えるのでしょうか。それは「福」と「禄」と「寿」が揃って初めて幸せだということでしょう。すなわち「福」は不安なこともなく心がおだやかであるという精神的な幸せ、そして「禄」は、金や財、食べ物に不足していない、満ち足りているという物質的な幸せ、そして「寿」は、健康で長寿であるという肉体的な幸せです、この三つが揃っていると、幸であると実感できるのでしょう。
人は幸せを願うあまりに、それが満たされないと、欲望をあらわにして、人の心にひそむ邪悪な心が鬼と化してさまざまな恐ろしい行動に出ることがあります。長男の母親殺し、妻が夫を殺害、次男が妹を殺害、このような事件が昨年から今年にかけて相次いで起きています、そして凶悪な事件が後を絶ちません、まさに自制がきかない人間の悪の心による行動としか理解できません。昔の人々は、鬼を人間の欲望の化身としてもとらえています、ほんとうに恐い鬼は己の心に潜む邪悪な心です。
神仏からの賜り物、天から与えられるものを福分といいますが、幸せをつかむ努力をしているところに、運がめぐり、福分が授かるでしょう。幸せを自分だけのものとせず、おしまず他に福分けをしているところに、福分も大きくふくらむでしょう。幸せの種まきをしている限り、その人から福分が無くなることはないでしょう。 
 
節分4 

 

「鬼は〜外! 福は〜内!」――節分といえば豆まきですが、豆まきの風習には、実は東洋医学にも通じる歴史があるってご存知ですか?今月の元気通信では、節分の4大不思議や、鬼をめぐる4大ミステリー、地方によって異なる節分祭、豆まきに欠かせない大豆の健康効果まで、節分に秘められた数々の謎に迫ります!最近はバレンタインデーに押され気味の節分行事ですが、今年の節分はぜひ景気よく豆まきを!
節分の4大不思議
1.節分は年に4回もあった?!
そもそも「節分」とは、四季を分ける節目の日のこと。立春・立夏・立秋・立冬の各前日のことで、本来は1年に4度ありました。中でも大寒の最終日である立春は、厳冬が明けて草木が芽吹く1年の始まりとして重視されたことから、立春前日がいわゆる「節分」として定着したのです。つまり、節分は1年が始まる前日、すなわち大晦日に相当する日といえるのです。ちなみに、節分の日は必ずしも2月3日ではなく、閏年(うるうどし)には2月2日や4日になることもあります。
2.陰陽師の秘儀が節分になった?!
季節の変わり目には体調を崩すという人が少なくありませんが、古来、季節の変わり目には鬼(邪気)が生じるといわれており、奈良時代〜平安時代の宮中では、節分に陰陽師(おんみょうじ)によって旧年の鬼(厄)をはらう「追儺(ついな)式」が執り行われていました。これは俗名「鬼やらい」ともいわれ、中国で大晦日に行われていた儀式が7世紀頃に日本に伝来したようです。今でも節分祭で有名な京都の吉田神社では、四つ目の仮面をかぶった鬼を陰陽師が祭文を読み上げて追いはらう追儺式が行われています。
3.豆まきと陰陽五行の深い関係とは?
東洋医学の基本でもある「陰陽五行説」は、万物を「陰」「陽」に分け、「木・火・土・金・水」の5つの要素によって森羅万象が成立していると考えます。冬から春に向かう節分は、ちょうど陰から陽に移る節目です。陰陽五行説では、豆や鬼、疫病は「金」にあたり、「火」は「金」に勝つので、豆を火で炒ることで、鬼や病に打ち勝つという意味があります。つまり、炒り豆は「悪鬼退散・疫病退散」の象徴なのです。ちなみに、炒らずに生の豆をまくと、拾い忘れた豆から芽が出る可能性があり、縁起が悪いのでご注意を!
4.まくのは大豆じゃなきゃだめ?
豆まきの由来は、平安時代に京都の鞍馬山の鬼が都を荒らしにきた際、毘沙門天のお告げによって、炒り大豆を鬼の目に投げつけたところ、鬼を退治できたという逸話がもとになっているという説があります。鬼の魔の目=「魔目(まめ)」に豆を投げることは、魔を滅する=「魔滅(まめ)」に通じ、豆を炒ることは「魔を射る」につながると考えられていたのです。また、大豆は米や麦などと並ぶ五穀のひとつで、古来より穀霊(豊饒を司る精霊)が宿るといわれ、神事でも重用されてきました。ただし、近年では北海道、東北、北陸の6〜7割の人が、節分に大豆ではなく「殻つき落花生」をまいているようです(※ネオマーケティング2013年調査)。「掃除が簡単」「殻つきなので衛生的」というのがその理由のよう。ピーナッツで鬼退治ができるか否かは“神のみぞ知る”ですね!
鬼の4大ミステリー
1.「鬼は外」ならぬ「鬼は内」もあり?!
豆まきの口上といえば「鬼は外、福は内」が定番ですが、東京の浅草寺では、「観音さまの前に鬼はいない」として、「千秋万歳(せんしゅうばんぜい)福は内」といって豆をまきます。鬼をまつっている神社や、鬼が姓や地名につく地域では「鬼は内」ということも多いそう。寺社によっては、追い払われた鬼を迎え入れて改心させる“鬼の駆け込み寺”もあるのだとか。鬼が泣いて喜びそうですね?!
2.鬼はどうしてカラフルなの?
赤鬼や青鬼……鬼はなぜみんなカラフルなのでしょう?実はこれも陰陽五行説に由来するという説があります。京都の廬山寺(ろざんじ)では、節分祭にでっぷりした赤鬼、青鬼、黒鬼が踊りますが、三色の鬼たちは人間の煩悩の化身で、赤鬼は「貪欲」、青鬼は「怒り」、黒鬼は「愚痴」を表しているのだとか。また、五色の節分鬼踊りで知られる新潟県三条市の本成寺では、赤鬼は「全ての悪い心」、青鬼は「貧相」、黒鬼は「疑心」、黄鬼は「甘え」、緑鬼は「おごり」を意味するといわれています。
3.鬼はゴージャスな虎のふんどしがお好き?
鬼といえば、派手な黄色と黒の虎しま模様のふんどしがお決まり。なんとこれも陰陽五行説の「鬼門」と深い関係があるのだとか。鬼の出入りする鬼門は北東にあたり、十二支にあてはめると「丑(うし)」と「寅(とら)」の方角になります。そのため、鬼には牛の角があり、虎のふんどし姿なのだそう。節分で鬼の扮装をする際は、くれぐれも「ヒョウ柄」や「ゼブラ柄」とお間違えなきように!
4.鬼の泣き所はヒイラギとイワシ?
最近は少なくなりましたが、節分になるとヒイラギの小枝にイワシの頭を焼いて刺す「焼嗅(やいかがし)」を戸口や窓に吊るし、鬼を忌避する習慣があります。ヒイラギの尖った葉が鬼の目を刺し、イワシの頭の異臭が鬼避けになると考えられていたのです。「イワシの頭も信心から」――とるに足らぬものでも信ずれば救われるというシニカルなことわざの由来にもなりました。西日本では、今も焼いたイワシを節分に食べる風習が残っています。
正しい豆まきスタイル
1 福豆をスタンバイ
大豆を炒った「福豆」を、枡に入れて神棚にお供えしておきます。
2 豆まきは日暮れ後に
鬼は真夜中に現れるので、豆まきは夜にスタート。豆をまくのは家長または年男、年女、厄年の人が担当。家族全員でもOKです。
3 豆まきは奥の部屋から
まず胸の辺りで枡を持ち、奥の部屋から順番に鬼を追い出すように戸や窓を開けて「鬼は外」と豆をまき、次に鬼が戻らないよう即ドアや窓を閉めて「福は内」と室内に豆をまきます。(※口上や順番などは地方によって異なります)
4 豆をいただく
豆をまき終えたら、新年の厄払いを祈願して、数え年=「自分の年齢+1粒」の豆を食べます。食べきれない時は、炒った大豆3粒に塩昆布と梅干しを添えてお湯を注ぎ、「福茶」にしていただきます。(※食べる豆の数は地方によって異なります)  
 
邪鬼龍原寺三重塔 

 

(じゃき りゅうげんじさんじゅうのとう) 臼杵市平清水
平清水、龍原寺三重塔のそばを歩くことがありましたら、塔の一層目の軒裏にちょっと目をとめてみてください。(軒を支える柱上の軒受け材)の上に座って重そうな軒を肩で支えながら、ユーモラスな表情でこちらをみおろしている小さな鬼たちに気づかれることと思います。
この小さな鬼たちは、仏教の世界で邪鬼と呼ばれ、仏教を理解しようとせず、ひねくれて仏教信者にならない衆生(すべての動物)のことといわれています。天邪鬼ということばがあるようになかなかのひねくれ者たちなのですが、中には仏の説得によって仏教に帰依したいと改心する者もあらわれ、すすんで仏の役に立ちたいと灯火を捧げたり、その台座のかわりに我が身を投げ出したりするとされています。彫刻ではこうした仏に対する奉仕の様子をユーモラスな表情で表現しており、荘重な仏教彫刻の中にあって極めて人間臭い存在といえるでしょう。
この邪鬼像が龍原寺三重塔のように建築物の中にとり込まれていることは極めて珍しい例であるようです。この三重塔は京都や奈良の木造古塔を参考として、臼杵の名匠・高橋団内が設計し安政五年(1858)に完成したものですが、京都や奈良の塔で邪鬼をこのような位置にはめ込んだものは見あたりません。恐らく団内や、この三重塔の製作に携わった工匠たちの発想によるものと思われます。
この邪鬼像は、高橋団内の弟子である宇野定治の作と伝えられています。それぞれ表情やポーズは異なっていて、苦しげな表情で両手と肩で軒を支えるもの、かと思えば片手で軽々と垂木を持ち上げているものなど、確かな彫刻技術の中に軽やかな遊び心も感じられます。ただ残念なことに、東南隅の一体はすでに建築当時のものが失われており、現在その位置には、昭和四十三年度の塔の修理工事の際に他の三体をモデルとして新しく造られた模造像が置かれています。
建築構造の面からみれば、これらの邪鬼像は力学的に何の役割も持たない純粋な装飾だとのことですが、そのリアルな表情を見れば一心にこの塔を支え、仏に仕えようとする邪鬼達の奉仕の念が伝わってくるようです。 
 
大江山の鬼伝説1 / 神の里から鬼の山へ

 

はじめに
秋の1日、ゆっくり、のんびりと山道を歩きながら、先人たちが、きびしい暮らしの中で、神に祈り、仏に救いを求め、鬼に畏怖の情を託しながら、絆(きずな)を強めあい、生活のうるおいとした足跡を探ってみましょう。自然と共存しながら、肩を寄せあって生きた人々の声が聞こえてくるかもしれませんよ。
熊坂峠
KTR大江山口内宮駅から、毛原(けわら)の集落入り口まで約1・5km。府道9号のなだらかな坂道が続きます。この峠が熊坂峠です。こんな名前がついているのは、昔から毛原の棚田熊の出没するところだったのでしょうか。数年前の薄暮、この府道をノシノシと熊が歩いていて話題となったことがありました。私も朝夕の通勤途上、小動物が道を横切るのをよく見かけます。「けものみち」を人間さまが道路をつけて遮断してしまったのでしょう。
大江山連峰は、ツキノワグマをはじめ、シカ、イノシシ、タヌキ、キツネ、サルなど野生動物の多いところで、禁猟区になっています。しかし、最近のイノシシの被害は、目に余るものがあります。
酒呑童子の物語本を読んでいると、酒呑童子の家来の鬼に、熊童子、星熊童子、虎熊童子、金熊童子など、熊のつく鬼が多いのが目立ちます。やはり、大江山には大昔から熊がいたのでしょうか。
棚田の里、毛原
最近できた雪よけトンネルをくぐりぬけると、前面の谷あいに平地が広がります。毛原の集落です。昔から棚田が多く、近年「日本の棚田100選」にも選ばれました。「OZ(オズ)」という結婚式場を備えたイタリアンレストランも出来て、大江山の観光ポイントの一つになりました。
府道から少し入った旧道の道端に、そう大きくない自然石があり、「右ふけん 左なりあい」と彫りこんだ素朴な道標が残っています。「ふけん」は普賢で、現在の大江山スキー場下の「寺屋敷」(宮津市小田)にあった普甲寺のことで、本尊が普賢菩薩だったことから、その寺を「ふけん」と呼んでいたのでしょう。
戦国時代、若狭の武田氏と丹後の一色氏の戦場となり焼失しましたが、平安時代、棄世上人によって開山された大寺で、北の高野山とまで言われた古刹でした。今昔物語の中に、この元普甲道のことが出ています。この毛原は、古い時代、その元普甲道の入り口の村だったのです。明治時代まで、大きな旅籠(はたご=旅館)があったと伝えています。
元不(普)甲道
今回は元普甲道は歩きませんが、おもしろいところなので少し説明します。この道、歩きませんというより歩けません。廃道になって久しく、笹が背丈以上に茂っていますが、ところどころ見事な石畳が残っています。
この毛原から毛原峠を越えて栃葉(舞鶴市大俣)へ入り、辛皮(からかわ=宮津市)を経て普甲寺のあった寺屋敷を通り、普甲峠越えで宮津へ向かう道でした。
毛原峠の頂上には、首と胴を切られてバラバラになったお地蔵さんが祀(まつ)られています。昔、剣豪の岩見重太郎が橋立で親の仇討ちをしての帰途、ここで待ち伏せられて返り討ちになりそうになった時、このお地蔵さんが身代わりになって助かったということで、このお地蔵さんを「袈裟斬り(けさきり)地蔵」と呼ぶようになったということです。
普甲峠は大江山スキー場のあるところですが、昔、ここに不甲神社(延喜式内社)があって、その祭神を「天吹男命(あまのふくおのみこと)」と言ったので、この峠を「吹男越え(ふくおごえ)」と呼んだことに始まると伝えています。
如来院
府道9号の大きなS字状の急坂が終わるあたり、左手に古刹、如来院(にょらいいん)が望めます。今回は参詣する時間的な余裕がありませんが、麻呂子親王が鬼退治をしたあと、鬼たちの菩提を弔い、護持仏を納めて開基したと伝え、その由来を記した「佛性寺縁起」が残っています。奥付の部分が後年改編されており、成立年代がわかりませんが、漢文体であり、その内容からみて、この地方に残る麻呂子親王伝説を記す寺社の縁起書の中では、最も古いものではないかと思われます。
山号を鎌鞭山(かまむちざん)といいますが、麻呂子親王が護持仏と共に、兵法の鎌を納めたことに由来すると言われます。本尊の胎内仏は秘仏で、鉄製の薬師如来座像という珍しいものです。また完形の懸仏六面(その1つに応永10年=1403年=の銘)が残され、京都府の登録文化財に指定される優品です。その中に蔵王権現像を刻むものがあり、修験道とのかかわりを持った時期があったのではないかとも言われています。 
馬止めと赤坂
現在の府道9号のコースとなった旧道(宮津街道)は、宮津藩2代・京極高国の命によって開削され、元普甲道に対して普甲道とも呼びました。先年、文化庁の「歴史の道100選」に指定されましたが、部分的にしか残っていません。
二瀬川渓流 毛原から、その旧道を通って青少年センター(旧物成小学校)へ出たあたりは、小字「馬止め(うまどめ)」と言います。ここ仏性寺には麻呂子親王の鬼退治伝説が色濃く残っていて、親王の軍勢がここまで来ると、一天にわかにかきくもり、ものすごい嵐となって、馬が立ち往生したところから、ここを「馬止め」というようになったのだと言われています。
すると、そこへ額(ひたい)に鏡をつけた白犬があらわれ、嵐にむかって鏡を照らすと、明るい光がさし、道が開けました。その坂を「あかさか」と言い「赤坂」の地名が今に残っています。
鬼の足跡
現在の府道の山側に宮津街道の道筋が、はっきりと残っています。以前は見事な石畳道が続いていました。少し歩くと、「鬼の足跡」に出ます。左手の山(骨ケ嶽)の中腹にある「鬼飛岩」から飛びおりた時ついた足跡と伝えています。スケールの大きな話ですね。その横の巨岩が「頼光の腰掛け岩」。こんな大きな岩にどうして腰をかけたのかと首をかしげますが、鬼の話は大きい話の方がよかったのでしょう。与謝蕪村の名句「岩に腰我頼光のつつじかな」は、ここで詠んだ句だと思います。春になると、実に山ツツジが美しく咲き誇ります。
少し歩くと、先年完成した二瀬川渓流をひとまたぎする大吊り橋「新童子橋」へ出ます。ここから見下ろす渓流は、まさに絶景です。吊り橋から見える丸い渕が鎌渕(かまぶち)。地元の人々は「鎌渕さん」と呼びます。麻呂子親王が鬼を切った鎌を、鬼のたたりのないようにと投げ入れたところと伝えています。あたりは絶好の水遊び場でしたが、昔はこの鎌渕さんへは女の子は入れなかったということです。
吊り橋の左手、山側にある小祠が「美多良志荒神」です。地元の人々は「みたらしさん」と呼んでいます。麻呂子親王を助けた白犬のつけていた鏡をおまつりしたところと伝えています。
鬼ケ茶屋
大吊り橋の下、府道沿いに「鬼ケ茶屋」があります。帰途、時間があれば立ち寄りたいと思います。ここは江戸時代、西国三十三霊場の成相寺へむかう巡礼たちの峠の茶屋であり宿場でもあったのです。
歴代、桝屋と号しています。このあたりの鬼退治伝説関連地を開発したのは、この歴代の鬼ケ茶屋の主人ではなかったか−と思っています。巡礼たちの旅情を慰めようと、いろいろな工夫をしたのでしょう。
鬼ケ茶屋といえば、鬼退治のふすま絵です。これは幕末、丹後の三大画僧の1人といわれた黙知軒光研の筆によるものです。また鬼ケ茶屋が刊行した「大江山千丈ケ嶽 酒呑童子由来」(初版弘化年中)の版木も完在しています。きわめつけは「酒呑童子愛用の盃(さかずき)」。ご愛嬌の品と言ってしまえばそれまでですが、かなり古い越前焼系の優品のようです。その大きさは、直径15cmを超える大きいもの。酒呑童子にふさわしい盃です。
千丈ケ原
ゆるやかな坂を登りきると平地が開け、右手に大きな池がみえます。千丈ケ池、かつて仏性寺発電所の貯水池だったところです。このあたりの村が千丈ケ原。かつて十二、三戸の村と古文書にありますが、現存するのは1戸、廃村の危機にあります。ここから右手へ直角についている道は、鍋塚への登山路です。
鍋塚は、麻呂子親王が鬼退治に成功すると、愛用の白馬が死んだので、その馬を葬り、その場所を鍋塚と言いました。それが後世、山そのものの名となったようです。この鍋塚の鞍部を加悦へ越す峠が加悦峠で、藩政時代は、こちらも加悦も同じ宮津藩領で、結構往来があったようです。加悦側へ少し下りたところに池ケ平(いけがなる)というところがありますが、ここは、白犬を葬ったところと伝えています。
千丈ケ原をすぎると、植林の間を通りぬけ急坂にさしかかり、カーブも大きくなります。途中、緑の森のオーナー制度の「思い出の森」の大きな看板のあるあたりに、左手へ下りる新しい道がついています。大谷林道で、平家の落人が開いたと伝える北原(奥北原)へ通じています。その途中、木地屋(きじや)集落の跡や、多量の鉄滓(タタラで鉄をふいた残りかす)の散布している北原遺跡があります。昔、ここでタタラを吹いていたのでしょう。このあたり、大江山系で最も深い谷、幽すいな感じのするところです。地元の人々は、この谷を魔谷と呼んでいます。
河守鉱山
宮津街道を通りぬけると、大江山へむかう町道へ出ます。左手の山ぎわに、庚申塔や大きな地蔵と並んで、大きな石碑が立っています。鉱山のもとになった鉱石の発見者・藤原吉蔵氏の記念碑です。大正6年(1917)、千丈ケ原に発電用のダム工事中、藤原氏が鉱脈の露頭を発見したことが鉱山開発の引き金となりました。
同年、大江山鉱山と称して銅鉱採掘を始め、本格化したのは、昭和3年、日本鉱業河守鉱業所となってから。盛期は戦後で、日本鉱業のドル箱鉱山として栄え、昭和30年代竪坑の深度は地下500m、坑道の延総延長は70kmに達しており、昭和41年の「採鉱概要」によると、従業員219名とあります。従業員の住宅がたち並び、山内人口1000名を超える府下最大の鉱山だったのです。
主な採鉱物は黄銅鉱で、他に硫化鉱、クローム鉄鉱、銀鉱がありました。ここで精鉱し、大分県佐賀関製鉄所へ送られていました。昭和44年、折からの鉱山合理化策の一環として休山。残った鉱山諸施設を撤去し、昭和48年に完全閉山となりました。
なお、現在の青少年センターから山手へ約1kmのところ(及谷)には、昭和9年から20年の終戦まで、兵器生産に欠かすことのできなかったモリブデン(水鉛)を採掘していた仏性寺鉱山もありました。 
酒呑童子の里
閉山後、一時荒廃していた河守鉱山跡地は酒呑童子の里として再生、大江山観光開発の拠点として生まれ変わりました。その中核施設として、国や府の支援のもと建設されたのが日本の鬼の交流博物館と京都府青少年山の家グリーンロッジです。過疎化の進行によっ鬼嶽稲荷て崩壊の危機を迎えた村々を、先祖の残してくれた鬼伝説によって、衰退に歯止めをかけたいという山村振興策でもあったのです。
建物の方が先行した博物館でしたが、全国の鬼ファン、町民、町出身者など、多くの方々のご支援とご協力によって、豊富な鬼に関する資料や展示品を収集することができ、たくさんの方々を迎え賑わっています。先年、両陛下をお迎えするという栄に浴したことは、本当に大きな喜びでした。
今回のラジオウオーク、当館が昼食場となると思いますが、ひととき、ゆっくりと鬼に接し、先人が鬼に託したものを探って下さい。なお、このあたりで海抜は250mです。
大江山平成の大鬼
博物館の前庭に立つ巨大な大鬼瓦は、高さ5m、重さ10トン、ギネスブックにも記載されている日本一の大鬼瓦です。
製作は、日本鬼師の会(鬼瓦製作者有志の会)の会員のみなさん60名が、それぞれ分担して、130箇の部分品を、それぞれの地域の焼き方で仕上げ、ここで組み立てたものです。これは建設省の「手づくりふるさと賞」を受賞しました。
日本の鬼は、時に神となり、人となり、そして妖怪にもなりますが、日本の鬼の造型物で最もポピュラーで親しまれているのが鬼瓦です。古く飛鳥時代から屋根の守護神としてにらみをきかせてきました。「鬼もて魔を追う」という発想は、多神教国日本ならではの発想であろうと思います。
この大江山平成の大鬼は、鬼師さんたちの職人芸を芸術へと高める契機となると思います。将来、必ずや大江山の宝物となることでしょう。
大江山鬼のモニュメント
博物館から大江山へは、本部の準備されるバスで登る予定です。予定地の8合目にある鬼嶽稲荷まで5・2km、バスですと10分ほどです。もし、荒天で視界のきかない時は、博物館で地図上で説明します。
博物館から少し登ったところ、右手の小丘に、大江山鬼のモニュメントが見えます。大江山にたてこもった鬼の頭(かしら)たち、酒呑童子、茨木童子、星熊童子の像で、ウルトラマンの美術監督でもあった彫刻家、成田亨さんの製作です。酒呑童子は、きびしい表情で都の方向を指さしています。
このモニュメントのあたり、鉱山時代、ボタ山として廃土を埋めており、昔の面影はありませんが、江戸時代の地誌書「丹哥府志」によれば、このあたりに酒呑童子屋敷跡があると記され、その礎石、長さ70間、幅40間とあります。一体、何ものの住居跡だったのでしょうか。すぐ下の谷あいに、千丈ケ瀧があります。三段の瀑布状で、水量の多いときは壮観です。
鬼嶽稲荷
大きなカーブの左手に、大型バスの回転場があります。ここから700〜800mで鬼嶽稲荷へ着きます。海抜610m、大江山登山の八合目にあたり、主峰の千丈ケ嶽(833m)まで、あと1kmです。あたりはブナの原生林で、秋は紅葉の名所、そして雲海見物のポイントになります。
ここへ伏見の稲荷大社から鬼嶽稲荷の神号を受け、稲荷社を建てたのは、江戸中期、弘化年間(19世紀中頃)のことです。折から当地方で発展した養蚕の守り神として、農民たちの厚い信仰を受けていました。正面の鳥居の神号額は、最後の宮津藩主、本庄宗武の筆、寄進になるものです。
それ以前は、もっと頂上近くに社があったと伝え、御嶽大明神と呼んでいたようです。貝原益軒の「西北紀行」にも、「土地の人々は、この山を御嶽と呼んでいる」とあります。そういえば、地元の人々は、今も「オニタケ稲荷」でなく「オンタケ稲荷」と呼んでいます。
おもしろいのは、本殿前の狛犬ならぬ狛狐(?)の尻尾が男性のシンボルの形をしています。先人たちのご愛嬌の作なのでしょうが、道祖神信仰の名残なのかもしれません。
鬼嶽不動の滝
本殿下の手洗鉢の建物の少し右手に、山の方へむかう小道があります。ブナ林のまっただ中の坂道を4〜5分歩くと、正面に小さな滝が流れ落ち、そばにお不動さんの石像が立っています。近くにトチの巨木があり、秋になると、たくさんのトチの実が落ちます。流れ落ちる水は清冽そのもの、実に冷たいですが、こんな高い所でありながら、この滝の水が涸れることのないのは、ブナの保水力のすごさなのでしょう。すぐそばに、「睦姫さん」と地元の人々が呼んでいる小祠があります。こんな山深いところにおまつりされている女性、何かわけがありそうですが、どんな女性なのか、全く伝承も伝わらず、わかりません。
この道は昔、山頂へむかう旧道であったらしく、少し上へあがると、巨木の根が横たわっており、地元では、金太郎こと坂田公時が巨木を倒して谷に橋とした、その巨木の根っこと伝えています。ウソとわかっていても楽しい話です。
一方、鬼嶽稲荷の社務所の右手から下へ降りる道、天座へむかう旧道ですが、その途中に中を深くくりぬいたような巨岩があります。「大亀石」と呼び、昔、修験者たちの行場であったところと伝えています。また、すぐそばに無数に割れ目のついた岩があり、これを、頼光さんが鬼切り丸のためし切りをしたところといい、横に鬼丸稲荷がまつられています。  
天の岩戸
稲荷からバスで約10分下ると府道にもどる。そこから数分、ほとんど直角に近いカーブのあるところでバスを降り、天の岩戸への旧道を歩きます。道端に「元大神宮 天の岩戸」と記した古い石の道標があります。このあたり、マイノといいます。真井野と書かれていますが、昔、舞堂があったので舞野と呼んだという話に説得力を感じます。
しばらく歩くと、「真名井」と呼ばれる古い井戸があります。水は涸れてありません。立て札には、丹後の天女の降り立った真名井が池のような説明がしてありますが、地元の岩戸神社伝承では、大昔、元伊勢内宮のご神鏡を鋳造した時、水を汲んだ井戸だと伝えています。
しばらく歩くと、今も稼働している内宮発電所の貯水池があります。ここを通りすぎてカーブを曲がると天の岩戸です。何となく霊気のようなものを感ずる別天地です。晩秋になると紅葉が実に美しいところです。
私が説明するより、江戸中期、ここを旅した俳人、加賀千代の旅日記の一節をかりて紹介しましょう(現代かなづかいに改変)。
「此山大木数多有れども大昔より一本も杣入れず 産湯の釜 産だらいという岩あり 此岩何程湛水しても水増さず 百日の旱りにても一合も水干ることなし。 岩橋やわれ涼しくはぬるません」
日浦ケ嶽
今回のラジオウオークでは、表参道でなく天の岩戸側の裏参道から内宮へ向かいます。この裏参道のあたりは、岩戸山原生林で、カシを主体とした常緑広葉樹と落葉広葉樹が入り混じっています。神域とあって、古来から斧を入れることもなく、珍しい植生をとどめ、植物の宝庫で京都府歴史的自然環境地域に指定されています。
200〜300m歩くと、日浦ケ嶽遥拝所につきます。真っ正面のピラミッド型の山が日浦ケ嶽。古来、内宮の神体山として、一願成就(じょうじゅ)の山として信仰を集めてきました。
山頂には大きな磐座(いわくら=社のなかった頃の神のよりしろ)と、石を規則的に並べた謎の造型物があります。夏至の日、この遥拝所から眺めると、夕陽がとがった山頂に沈みます。神秘の光景です。みなさんも是非、欲張らずに「一願」を祈って下さい。必ず成就することでしょう。
元伊勢内宮
元伊勢内宮の正式名は皇大神社、祭神は伊勢の内宮と同じアマテラスオオミカミ(天照大神)。社伝によれば、崇神天皇の時、大和笠縫邑から、ここへ天照大神のご神鏡を移し、4年間おまつりした旦波吉佐宮(たにはよさのみや)の跡地と伝えています。正面の鳥居は、日本で2例しかない珍しい黒木(木の皮をつけたまま)の鳥居です。本殿の周りに約80社の境内社があり、古事記に出てくる神様は、すべて揃っているとのことです。
もともと60年毎の式年遷宮でしたが、明治以降とだえており、現在の本殿は、明治元年(1868)、宮津藩主・本荘氏の寄進になるもの。三間社神明造りです。前庭の神楽殿は文政6年(1823)の建立です。
近くを流れる川は五十鈴(いすず)川、鎮座する山は宮山。シイを中心とした原生林です。近くに宇治橋もあり、まさにミニ伊勢神宮の観があります。
平安時代の和名抄に、この内宮のある旧河守上村は、神戸郷(かんべごう=大社に仕え租税を納める人々の村)とありますから、古くから、かなりの社があったのでしょう。すぐ隣の台地、梅ケ平からは縄文時代の石鏃が出土しており、周辺に古墳があることからも、このあたりが古い歴史を持っていることを物語っています。
竜灯杉
本殿左にある巨木が竜灯杉(りゅうとうのすぎ)で内宮のご神木です。樹齢千年といわれますが、なお青々と緑をつけています。
節分の夜、この竜灯杉の梢に、竜が灯をともすという伝承が残っていますが、この竜神信仰は海人族(あまぞく)の信仰なのです。それに本殿のすぐ横に独立して三女神社があります。三女とは、これも宗像(むなかた)系海人族の祖神である宗像三女神のことです。境内社の中に浦島神社もありますが、祭神は白土翁とあります。府道沿いの田の中に、港石(みなといし)と呼ばれる巨石があり、これも航海民であった海人族を連想させます。元伊勢には海人族を感じさせるものが非常に多いのです。
表参道の最上段に麻呂子親王お手植えの杉という巨杉があり、3本あったうちの1本は健在です。この内宮、古くから、麻呂子親王勧請説があったことも付け加えておきます。表参道を下ると、KTRの駅はすぐ近くです。 
 
大江山の鬼伝説2

 

一 陸耳御笠(くがみみのみかさ) −日子坐王伝説−
大江山に遺る鬼伝説のうち、最も古いものが「丹後風土記残缺」に記された陸耳御笠の伝説である。 青葉山中にすむ陸耳御笠が、日子坐王の軍勢と由良川筋ではげしく戦い、最後、与謝の大山(現在の大江山)へ逃げこんだ、というものである。
「丹後風土記残缺」とは、8世紀に、国の命令で丹後国が提出」した地誌書ともいうぺき「丹後風土記」の一部が、京都北白川家に伝わっていたものを、15世紀に、僧智海が筆写したものといわれる。
この陸耳御笠のことは、「古事記」の崇神天皇の条に、「日子坐王を旦波国へ遺わし玖賀耳之御笠を討った」と記されている。
土蜘蛛というのは穴居民だとか、先住民であるとかいわれるが、土蜘蛛というのは、大和国家の側が、征服した人々を異族視してつけた賎称である。
一方の日子坐王は、記紀系譜によれば、第九代開化天皇の子で崇神天皇の弟とされ、近江を中心に東は甲斐(山梨)から西は吉備(岡山)までの広い範囲こ伝承が残り、「新撰姓氏録」によれば古代十九氏族の祖となっており、「日子」の名が示すとおり、大和国家サイドの存在であることはまちがいない。
「日本書紀」に記述のある四道将軍「丹波道主命」の伝承は、大江町をはじめ丹後一円に広く残っているが、記紀系譜の上からみると日子坐王の子である。 この陸耳御笠の伝説には、在地勢力対大和国家の対立の構図がその背後にひそんでいるように思える。
二 英胡(えいこ)・軽足(かるあし)・土熊(つちぐま) −麻呂子親王伝説−
用明天皇の時代というから六世紀の末ごろのこと、河守荘三上ケ嶽(三上山)に英胡・軽足・土熊に率いられた悪鬼があつまり、人々を苦しめたので、勅命をうけた麻呂子親王が、神仏の加護をうけ悪鬼を討ち、世は平穏にもどったというものである。 麻呂子親王伝説の関連地は70ヵ所に及ぷといわれている。
麻呂子親王は用明天皇の皇子で、聖徳太子の異母弟にあたる。 文献によっては、金丸親王、神守親王、竹野守親王などとも表記されているが、麻呂子親王伝説を書きとめた文献として、最古のものと考えられる「清園寺古縁起」には、麻呂子親王は、十七才のとき二丹の大王の嗣子となったとある。
この伝説について、麻呂子親王は、「以和為貴」とした聖徳太子の分身として武にまつわる活動をうけもち、仏教信仰とかかわり、三上ケ嶽の鬼退治伝説という古代の異賊征服伝説に登場したものであろうといわれているが、実は疫病や飢餓の原困となった「怨霊=三上ケ嶽の鬼神の崇り」を鎮圧した仏の投影でもあり、仏教と日本固有の信仰とが、農耕を通じて麻呂子親王伝説を育て上げたものであるともいわれる。 この麻呂子親王伝説は、酒呑童子伝説との類似点も多く、混同も多い。 酒呑童子伝説成立に、かなりの影響を与えていることがうかがえる。
三 酒呑童子(しゅてんどうじ) −源頼光の鬼退治−
平安京の繁栄−それはひとにぎりの摂関貴族たちの繁栄であり、その影に非常に多くの人々の暗黒の生活があった。 そのくらしに耐え、生きぬき抵抗した人々の象徴が鬼=酒呑童子であった。 酒呑童子物語の成立は、南北朝時代(14世紀)ごろまでに、一つの定型化されたものがあったと考えられており、のち、これをもとにして、いろいろな物語がつくられてきた。
酒呑童子という名が出る最古のものは、「大江山酒天童子絵巻」(逸翁美術館蔵)であるが、この内容をみると、まず「酒天童子」であり、童子は明らかに「鬼神」である。 また大江山は「鬼かくしの里」であり、「鬼王の城」がある。 あるいは、「唐人たちが捕らえられている風景」、「鬼たちが田楽おどりを披露する」など興昧深い内容がある。 そして頼光との酒宴の席での童子の語りの中に、「比叡山を先祖代々の所領としていたが、伝教大師に迫い出され大江山にやってきた。」とある。 また「仁明天皇の嘉祥2年(849)から大江山にすみつき、王威も民力も神仏の加護もうすれる時代の来るのを持っていた」とあるから、神仙思想の影響もうかがえる。
つまりは、酒呑童子は、山の神の化身とも考えられるわけだが、酒呑童子は仏教によって、もとすんでいた山を追われる。 それは山の神が仏教に制圧されていく過程であり、酒呑童子を迎えてくれる山は、仏教化されていない山−もっと古い時代から鬼のすんだ山−土着の神々が支配する山である大江山しかなかったのである。
酒呑童子は、中世に入り、能の発達と共に謡曲「大江山」の主人公として、あるいは「御伽草子」の出現により、広く民衆の心の中に入り込んでいった。
酒呑童子は頼光に欺し殺される。 頼光たちは、鬼の仲間だといって近づき、毒酒をのませて自由を奪い、酒呑童子一党を殺したのだ。 このとき酒呑童子は「鬼に横道はない」と頼光を激しくののしった。
酒呑童子は都の人々にとっては悪者であり、仏教や陰陽道などの信仰にとっても敵であり、妖怪であったが、退治される側の酒呑童子にとってみれば、自分たちが昔からすんでいた土地を奪った武将や陰陽師たち、その中心にいる帝こそが極悪人であった。 酒呑童子の最後の叫ぴは、土着の神や人々の、更には自然そのものが征服されていくことへの哀しい叫ぴ声であったのかもしれない。
酒呑童子の出生伝説
「御伽草子」は、酒呑童子の出生地を越後としているが、越後国(新潟県)には、酒呑童子出生にまつわる伝説が、かなり残っている。 中でも弥彦山系の国上山にある国上寺(分水町)には、「大江山酒呑童子」絵巻に、酒呑童子の生い立ちがくわしく記されている。
それは、垣武天皇の皇子桃園親王が、流罪となってこの地へ来た。
従者としてやってきた砂子塚の城主石瀬俊綱が、妻と共にこの地にきて、子がなかったので信濃戸隠山に参拝祈顕したところ懐妊し、三年間母の胎内にあってようやく生まれた。 幼名は外道丸、手のつけられない乱暴者だったので、国上寺へ稚児としてあずけられる。 外道丸は美貌の持ち主で、それゆえに多くの女性たちに恋慕された。
そうしたうちに、外道丸に恋した娘たちが、次々と死ぬという噂が立ち、外道丸がこれまでにもらった恋文を焼きすてようとしたところ、煙がたちこめ煙にまかれて気を失う−しばらくして気のついたとき、外道丸の姿は見るも無惨な鬼にかわっていた−外道丸は戸隠山の方へ姿をけしたのち、丹波の大江山に移りすんだというものである。
もう一つの酒呑童子出生についての異説は、近江国(滋賀県)伊吹山、井口とする説であり、奈良絵本(酒典童子)に描かれている。
嵯峨天皇(809−823)のとき比叡山延暦寺に、酒呑童子という不思議な術を心得た稚児がいた。 人々が怪しんで素性をしらぺたことろ、井口の住人須川殿という長者の娘王姫の子であり、伊吹山の山の神=伊吹大明神の申し子であっつたというもので、3才のころから酒を飲んだので酒呑童子と名づけ、十才のとき比叡山の伝教大師のもとへ稚児として弟子入りする。
帝が新しい内裏に移ったお祝いの祭日の日、「鬼踊り」をしようということで三千人の僧の鬼の面をつくり、とくに精魂こめて作った自分用の面をつけ京の都へくり出し、大変な人気であった。
山に戻って、大宴会ののち、酔いがさめ鬼面をとろうとしたが、肉にくいついてとれない。 伝教大師は、酒呑童子を山から追い出し国にもどすが、肉親からも見すてられ、山々を転々とし、ついに大江山にいたったというものである。
酒呑童子異聞
「福井の意外史」(読売新聞)では、この鬼退治は越前の出来事ではなかったかという。
「正史国司考」によれば、この頃、頼光の父、源満仲が越前国司(福井県武生市)として一族と共に入国していた。 当時大江山ならぬ丹生ヶ岳(この事件より 鬼ヶ岳となる)に鬼が棲み、付近を荒らし回っていたので、国司の威信にかけても討伐しなければならなかった。 そこで満仲は六人の子供に命じて、鯖江白鬼女の津(現 白鬼女橋)に出没したところを討ったという。(白鬼女というように女の鬼である)
鬼ヶ岳も大江山もどちらも鬼の岩屋と呼ぶ洞窟があり、討ち手が六人と似たところが多い。 鬼ヶ岳にまつわる伝説で、大江山の話を越前に付会したものかも分からない。
源頼光のあと、弟の頼親(二弟)と頼信(三弟)の二人が、跡目相続争いをし、頼親は負けて杣山城(福井県南条町)に入り、頼信が家系を継ぐことになるが、鯖江、武生にはこの一族たちの伝説が多い。 
 
桃太郎1

 

日本のおとぎ話の一つ。「桃太郎」が、お婆さんから黍団子(きびだんご)を貰って、イヌ、サル、キジを従えて、鬼ヶ島まで鬼を退治しに行く物語。
桃太郎の物語は、いくつかの場面で出典により違いがある。ただし、物語後半にある鬼との戦いの場面では、概ねどの書籍でも桃太郎側の視点での勧善懲悪物語となっている。桃太郎の出生に関しては、桃から生まれたとする場合や、桃を食べた老夫婦が若返って子供を産んだとする場合がある。桃太郎の成長過程については、お爺さんとお婆さんの期待通り働き者に育ったとする場合や、三年寝太郎のように力持ちで大きな体に育つが怠け者で寝てばかりいるとする場合がある。成長した桃太郎は、鬼ヶ島の鬼が人々を苦しめていることを理由に鬼退治に旅立つが、その決意を自発的に行う場合と、村人や殿などに言われて消極的に行う場合とがある。出征時には両親から黍団子を餞別に貰う。道中、遭遇するイヌ、サル、キジにその黍団子を分け与えて家来にする。鬼ヶ島での鬼との戦いで勝利をおさめ、鬼が方々から奪っていった財宝を持って帰り、最終的に郷里のお爺さん・お婆さんの元に帰って幸せに暮らしたとして物語は締めくくられる。
ゆかりの地
ゆかりの地とされる場所は全国にある。その中でも岡山県は桃太郎作中の「黍団子」と同音の江戸時代の地元土産品「吉備団子」をつなげさせるなど、全県を挙げての宣伝活動からゆかりの地として全国的に有名になったが、「吉備団子」と作中の「黍団子」との関係は証明されていない。以下は桃太郎サミットや日本桃太郎会連合会に参加する自治体とそのゆかりの場所。
岡山県岡山市・総社市 / 吉備津神社 / 吉備津彦神社 / 鬼ノ城 / 中山茶臼山古墳 / 矢喰宮 / 楯築遺跡 (倉敷市) / おかやま桃太郎まつり
香川県高松市 / 田村神社 (高松市) / 桃太郎神社 (高松市) / 女木島 (鬼ヶ島) / 鬼無
愛知県犬山市 / 桃太郎神社 (犬山市)
奈良県磯城郡田原本町 / 廬戸神社(孝霊神社) / 法楽寺 / 初瀬川 / 黒田廬戸宮(孝霊天皇の宮比定地)
成り立ち
物語の成立については諸説存在し、それぞれ争いのあるところである。
有力説の一つとしては、第7代孝霊天皇の第3皇子彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命)、稚武彦命兄弟の吉備国平定における活躍と、岡山県(吉備国)の温羅伝説に由来するものとする説がある。これは、古代の大和政権と吉備国の対立構図を、桃太郎と鬼の争いになぞらえたとするものである。 この説をもとに、桃太郎のモデルとなった人物が彦五十狭芹彦命であるとする見方が広く知られている。 これにちなんで、彦五十狭芹彦命の故郷である奈良県磯城郡田原本町では、桃太郎生誕の地として黒田庵戸宮(廬戸宮)を観光PRの一つとして取り上げている。田原本町の初瀬川 には、川上から男の子が甕に乗って流れてきて、西の方角に向かい神様となったという伝承が残る(本朝神社考)。西の方とは、『古事記』や『日本書紀』の孝霊天皇、彦五十狭芹彦命の記述から、吉備(岡山)や讃岐(香川)をさすと考えられている。
発生年代は正確には分かっていないが室町時代とされ、江戸時代以降に広まったとされる。草双紙の赤本による『桃太郎』『桃太郎昔話』などが出版により広まった最初の版であるとされる。
また赤本、豆本、黄表紙、青表紙などに登場した桃太郎は、曲亭馬琴の『童蒙話赤本事始』で五大昔噺の冒頭を飾る。
明治時代初期までは桃を食べて若返ったお爺さんとお婆さんの間に桃太郎が生まれたという回春型の話の方が主流であった。この他にも「赤い箱と白い箱が流れて来て、赤い箱を拾ったら赤ん坊が入っていた」、「川上から2つの桃が流れて来たのでお婆さんが『緑の桃はあっちゃいけ、赤い桃はこっちゃ来い』と言うと赤い桃が寄って来た」など、物語に差異のあるものが多数伝わっているが、巖谷小波により1894年(明治27年)に『日本昔話』としてまとめられたものがその後の語り伝えに大きく影響した。1887年(明治20年)に国定教科書に採用される際にほぼ現在の形のものを掲載して以降、これが定着した。因みに舞台の一つとされる岡山県で桃の栽培が始まったのも明治時代以降である。
桃太郎の姿が、日の丸の鉢巻に陣羽織、幟を立てた姿になり、犬や鳥、猿が「家来」になったのも明治時代からである。それまでは戦装束などしておらず、動物達も道連れであって、上下関係などはない。明治の国家体制に伴い、周辺国を従えた勇ましい日本国の象徴にされたのである。
またその誕生の仕方も「たんす」や「戸棚」や「臼」に入れておいた桃が自然に割れて男児が誕生するなど一様でない。
また、香川県では桃太郎が女の子だった、とする話がある(生まれてきた女の子があまりにも可愛らしいので鬼にさらわれないように桃太郎と名づけた)。
その後語り、絵共に様々な版が生まれ、また他の創作物にも非常に数多く翻案されたり取り込まれたりした。落語の『桃太郎』などもその一例である。
なお、太平洋近海の国に伝わるおとぎ話に「樽」や「果実」の中に入った子供が出てくる話が多数あり、日本人の先祖の一つに海洋民族があることを示している証拠だとする説もある。 また岡山県を中心とした地域には、横着な性格と大力を持った隣の寝太郎型の桃太郎も多い。鬼退治にしても鬼を海中に投げ宝物をとって帰ったり鬼に酒を飲ませて退治する例もある。
岩手県紫波郡には母親の腰近くに転がってきた桃を拾って帰り、綿に包み寝床に置いておいたら桃が割れ子供が生まれた桃の子太郎という伝承や、越後、佐渡(現・新潟県)の「桃太郎」だと桃の代わりに香箱が流れてきたとあり、この香箱は女性の陰部の隠語でもある。
南西諸島の沖永良部島(鹿児島県大島郡)では「桃太郎」は「ニラの島」へ行ったという。龍宮であるニラの島で島民はみな鬼に食われていたが、唯一の生存者の老人の家に羽釜があり、その蓋の裏に鬼の島への道しるべが書かれており、その道しるべどおり地下の鬼の島へ行き、鬼退治に行く筋書きである。
沖縄県宮古島の古謡「仲宗根豊見親八重山入の時のあやご」では、1500年のオヤケアカハチの乱に参戦した豪族の一人に桃多良(むむたらー)の名があり、この時期までの沖縄への桃太郎伝承の伝播の可能性が論議されている。
岩手県の桃太郎は父母が花見に行った時に拾った桃から誕生。地獄の鬼から日本一の黍団子を持って来いと命じられ、地獄へ行き鬼が団子を食べている隙に地獄のお姫様を救う。婚姻譚を伴う桃太郎である。福島県の桃太郎も山向こうの娘を嫁にする話。黍団子の代わりに粟・稗の団子の設定の高知県の話。またお供も猿・犬・雉ではなく石臼・針・馬の糞・百足・蜂・蟹などの広島・愛媛県の例もある。地方には多様なバリエーションがある。
東京北多摩(現・東京都多摩地域北部)地方には蟹・臼・蜂・糞・卵・水桶等を家来にする話があり、これは明らかに猿蟹合戦の変型とする見方もある。
山梨県大月市には「岩殿山(九鬼山という説もある)に住む鬼が里山の住民を苦しめていた」「百蔵山には桃の木が生い茂り、そこから川に落ちた桃をおばあさんが拾い持ち帰った」「上野原市の犬目で犬、鳥沢でキジ、猿橋でサルを拾った」等のいわゆる「大月桃太郎伝説」が存在する。
語り部によって、桃が川に流れている描写を「どんぶらこっこ すっこっこ」、「どんぶらこ どんぶらこ」などと表現する。
桃太郎の物語りはインドの有名な叙事詩「ラーマーヤナ」の影響を受けたという説もある。桃太郎に登場する猿は、西遊記に登場する孫悟空と同様に、ラーマーヤナの中のハヌマーンがモデルとする説である。
解釈

上流から流れてきた桃を食べて老夫婦が若返ったというくだりは、西王母伝説、あるいは日本神話のイザナギの神産み#黄泉の国にみられるように、桃は邪気を祓い不老不死の力を与える霊薬である果実とされている。また、山奥に住む仙人にも桃は欠かせない存在である。桃太郎を齎した桃は、こうした力のある桃が山から流れて来たものとも考えられる。世界的には霊力のある植物は桃とは限らず、古くはギルガメシュ叙事詩での不死の薬草、旧約聖書の『創世記』における生命の樹と知恵の樹、田道間守の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ、橘の実とされる)や徐福伝説の神仙薬などが挙げられる。桃太郎の対的説話としては瓜から生まれた瓜子姫が指摘され、沖縄県久高島には黄金の瓜から生まれた男子が後の琉球王(西威王とされる)となったという伝説のバリエーションもある。桃である理由は、桃は大昔より数少ない果物であり、匂いや味、薬用性および花の美しさがそろい、紅い小さな花と豊潤な果実を付けるところが不老不死のイメージにぴったりであり、人に利益を与え死の反対の生のシンボルを思わせ、その中でも特に桃の実が柔らかくみずみずしく産毛、筋目から命の源の女性器に似ているからであり、そのイメージには邪悪な鬼を退散させる力を感じさせるからであろう。桃そのものが女性であったという説もある。おばあさんが拾ってきたのは、大きな桃ではなく、若い娘であった。桃は若い娘のお尻の象徴であった。子供が出来ず悩んでいたおばあさんは、拾ってきた娘におじいさんの子供を孕ませた。おばあさんはその娘から、子供を取り上げた。それが、桃を割るということであった。

鬼は、風水では丑と寅の間の方角(北東)である「鬼門」からやって来ると考えられていることから、敵役である鬼が牛のような角を生やし、虎の腰巻きを履いているのも、風水の思想によるという解釈もある。
猿・雉・犬
桃太郎は「鬼門」の鬼に対抗して、「裏鬼門」に位置する動物(申(サル)、酉(キジ)、戌(イヌ))を率いた、という解釈がある(曲亭馬琴「燕石雑志」など)。しかし丑と寅(艮・ウシトラ)の逆の方位に当たるのは、未(ヒツジ)と申(坤・ヒツジサル)であり、申、酉、戌ではなく、この解釈には多少無理があるため、率いている動物には別の意味があるともされる。吉備津神社縁起物語によると、吉備津彦命が、犬飼部の犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)、猿飼部の楽々森彦命(ささもりひこのみこと)、鳥飼部の留玉臣命(とめたまおみのみこと)という三人の家来と共に、鬼ノ城に住む「鬼」である温羅を倒したとされているが、この家来たちを桃太郎の逸話に置き換えると「犬飼健=犬」「楽々森彦=猿」「留玉臣= 雉」となるとする説がある。
物語
桃太郎の深層に対して最初に学問的なメスを入れたのは民俗学者・柳田國男である。昔話に日本の固有信仰の姿を発見することにあった。桃から生まれた桃太郎の背後に異常誕生・成長の「小さ子」の物語の想定、一寸法師、瓜子姫、川上から流れる桃の展開から異界の存在と水辺との関連。それらを統率する存在として水辺の「小さ子」、「海神少童」伝承、カガイモの皮の船に乗り波の流れに沿って流れよったスクナヒコナ神話へとたどり着くのである。柳田はここで昔話とはかつての神話の零落した一つの姿であると言っている。視点を変えれば異常出生の神の子が共同体から除外されつつも異郷に赴く「英雄神話」が抽出できる。また『桃太郎の誕生』の中で、古代ローマのミトラ教神話には、少年の姿をしたミトラ神が犬やサソリを伴って猛牛を退治する話があり、同類型の話が日本以外にも存在すると述べている。
桃太郎を文化人類史的視点から見たのが文化人類学者・石田英一郎である。「桃太郎の母」に現れる「水界の小さき子」の影に付きまとう「水界の母子神」へと行き着き、南島の島々、太平洋周辺の諸民族に伝わる伝説の研究へと行き着く。浜辺に神の子を産み残していく「豊玉姫型の伝承」や南風に身を晒して子を産む「女護が島型の説話」などのユーラシア大陸、旧石器時代の文化との関連へと「桃太郎の母」探しは壮大に発展する。遠い昔に信仰された原始母神とその子神とにまつわる霊童の異常出生譚的な神話を想定している。
神話学者・高木敏雄の「桃太郎新論」では「英雄伝説的童話」と位置づけられ出自そのものの桃にこだわった所であり「梨太郎」・「林檎太郎」でなくなぜ桃太郎なのかに拘った所である。桃は前述のように邪気を祓う霊物であり長生不老の仙果であり太郎が老夫婦に育てられるのと桃が不老長寿の果物であることは無関係でないと述べている。
民俗学者・関敬吾は鬼が島征伐の冒険的行為に社会慣習としての通過儀礼である成年式が反映していると考えた。
評価・変遷
福澤諭吉は、自分の子供に日々渡した家訓「ひゞのをしへ」の中で、次のように非難している。
「もゝたろふが、おにがしまにゆきしは、たからをとりにゆくといへり。けしからぬことならずや。たからは、おにのだいじにして、しまいおきしものにて、たからのぬしはおになり。ぬしあるたからを、わけもなく、とりにゆくとは、もゝたろふは、ぬすびとゝもいふべき、わるものなり。もしまたそのおにが、いつたいわろきものにて、よのなかのさまたげをなせしことあらば、もゝたろふのゆうきにて、これをこらしむるは、はなはだよきことなれども、たからをとりてうちにかへり、おぢいさんとおばゝさんにあげたとは、たゞよくのためのしごとにて、ひれつせんばんなり。」
(桃太郎が鬼ヶ島に行ったのは宝を獲りに行くためだ。けしからんことではないか。宝は鬼が大事にして、しまっておいた物で、宝の持ち主は鬼である。持ち主のある宝を理由もなく獲りに行くとは、桃太郎は盗人と言うべき悪者である。また、もしその鬼が悪者であって世の中に害を成すことがあれば、桃太郎の勇気においてこれを懲らしめることはとても良いことだけれども、宝を獲って家に帰り、お爺さんとお婆さんにあげたとなれば、これはただ欲のための行為であり、大変に卑劣である)
現代でも「本当は鬼が島に押しかけた桃太郎らが悪者ではないか」と思う者もおり、裁判所等で行われる模擬裁判の事例やディベートの議題として取り上げられることがある。
芥川龍之介をはじめとして、尾崎紅葉、正岡子規、北原白秋、菊池寛などの作家たちも競って桃太郎を小説の題材にしている。桃太郎は「日本人」の深層の何かを伝えていたといえる。
太平洋戦争の際には桃太郎は軍国主義という思想を背景に、勇敢さの比喩として語られていた。この場合桃太郎は「鬼畜米英」という鬼を成敗する子としてスローガンに利用された。戦時中には孝行・正義・仁如・尚武・明朗などの修身の徳を体現した国民的英雄として、大正期の童心主義では童心の子として、プロレタリア主義では階級の子、また戦後になると民主主義の先駆として語られる。
「桃太郎」というネーミングはジェンダーバイアスを押し付けるものだとして主人公が「桃子」になっているものも存在する(次項に挙げられる『モモタロー・ノー・リターン』の主人公も「桃子」である)。男性であるお爺さんが「山へ柴刈りに」、女性であるお婆さんが「川で洗濯」をするという点についてもジェンダー的な作業分担の現れと見て、それに異を唱えている団体がある。例えば「北名古屋市女性の会男女共同参画委員会」は名古屋弁の創作劇『モモタロー・ノー・リターン』を作成しており、この作品の中では両者の役割を逆転させている(男性であるお爺さんが「川で洗濯」に、女性であるお婆さんが「山へ柴刈り」に行く)。
NHK教育テレビの番組「おはなしのくに」で放映されたものでは桃太郎は「乱暴者で親の手伝いをしない怠け者」であり、村を襲ってきた鬼に育ての親のお婆さんが襲われたことで目が覚め、鬼ヶ島の鬼たちを懲らしめる。現代的な問題提起要素を加え、「やればできる」という教訓付きのストーリーになっていた。
「暴力的な話」だとして、絵本や子供向けの書籍では「鬼退治」ではなく「話し合いで解決した」などと改変されている。しかし、この場合、どこからどうして金銀財宝が出てくるのか、判然としない。また、「金銀財宝」の獲得、つまり経済的成功こそが正義とする思想も価値観が多様化する現代においては受け入れられ難くなっている。
宝はすべて、もともとは村人のものであり、宝は「取り返しにいく」と改変されているDVDも存在する。このDVDでは、宝はすべて元の持ち主の村人に返している。そして、宝を取り返してもらった村人は、その一部をお礼として、桃太郎とお爺さんとお婆さんに渡している。桃太郎達は、お礼の宝をたくさんいただいて幸せに暮らした、となっている。
近年、桃太郎も他の日本の昔話、グリム童話同様に、『本当は怖い昔話』などで書籍化、出版され、官能話あるいは残酷話として、意図的に話が曲解されているものもある。
唱歌
唱歌「桃太郎」は、文部省唱歌の1つ。1911年(明治44年)の「尋常小学唱歌」に登場。作詞者不明、作曲・岡野貞一。
1. 桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけた黍団子、一つわたしに下さいな。
2. やりましょう、やりましょう、これから鬼の征伐に、ついて行くならやりましょう。
3. 行きましょう、行きましょう、貴方について何処までも、家来になって行きましょう。
4. そりや進め、そりや進め、一度に攻めて攻めやぶり、つぶしてしまへ、鬼が島。
5. おもしろい、おもしろい、のこらず鬼を攻めふせて、分捕物をえんやらや。
6. 万万歳、万万歳、お伴の犬や猿雉子は、勇んで車をえんやらや。
暴力性を感じさせるという理由からか、現在では歌詞が改変されたり、後半部を削除したりする場合が多い。これと似たような経緯で後半部を削除された童謡に、てるてる坊主がある。両者とも、歌詞の意外性・残酷性が『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』で取り上げられたことがある。
また、上記に比べ知名度は劣るが、作詞・田辺友三郎、作曲・納所弁次郎による「モモタロウ」もある。
1. 桃から生れた桃太郎、氣はやさしくて力持、鬼ケ島をばうたんとて、勇んで家を出かけたり。
2. 日本一の黍團子、情けにつきくる犬と猿、雉ももらうてお供する、急げ者どもおくるなよ。
3. 激しいいくさに大勝利、鬼ケ島をば攻め伏せて、取つた寶は何々ぞ、金銀、珊瑚、綾錦。
4. 車に積んだ寶もの、犬が牽き出すえんやらや、猿があと押すえんやらや、雉がつな引くえんやらや。
吉備団子
吉備団子は、黍団子に因んで江戸末期に売り出された物。吉備とは、備前・備中・備後・美作地方の古名で、現在の岡山県にあたる(備後は広島県)。 
桃太郎と鬼が島
桃太郎の話は日本の昔話の中でも最もポピュラーなものである。いまでも子供向けのキャラクターとして人気を集めているし、絵本の世界や母親のお伽話にとっては欠かせないものだ。小さな子どもが親元を離れて冒険の旅に出るというのは、世界中共通した児童文学のパターンであることからも、桃太郎の話には国や時代を超えた普遍性があるといえる。
川上の山の奥から桃に包まれてやってきた子どもが、大きくなってから鬼が島へ鬼退治に出かけ、鬼の宝物を持ち帰るという話である。中にはお姫様を連れて帰るというパターンもある。
ごく単純な話であるが、そこには日本の昔話にとって大事なモチーフがいくつか含まれている。
まず主人公の桃太郎は山の奥、つまり異界と目されるところから桃にくるまれてやってきた。古代の日本人にとって、山はこの世とあの世を結ぶ接点であり、そこには先祖の霊が漂っているとされた。その先祖の霊のうち、浮かばれぬ霊が怨霊となり、それが鬼という形をとって人間にさまざまな災厄をもたらす。だから山の奥からやってきたというのは、桃太郎が鬼の子であるとまではいえぬまでも、異種異形の人、つまり「まれびと」であることを意味する。
桃太郎は後に、お婆さんに黍団子をつくってもらい、それを持って鬼が島へ出かけるのであるが、子どもがそのような冒険をするという話の展開にとって、その子が「まれびと」としての強さを備えていることが必要だったのであろう。
次に、桃太郎が鬼退治に出かける先は鬼が島、つまり海の彼方にあるところである。日本の昔話には、浦島太郎のように海底を舞台にするものもあれば、その背景として記紀神話の山の幸の物語もある。だが普通の昔話で語られる鬼は山の中に住んでおり、山の神の化身であることをうかがわせる。その点で、桃太郎の出かける鬼が島の鬼は、通常の昔話に出てくる鬼とは聊か毛色が変わっているといえる。
しかも桃太郎の話に出てくる鬼は、ほかの物語に出てくる鬼のような荒々しい印象を与えない。桃太郎を一口で食ってやろうというような残忍さはなく、むしろ簡単に降伏して自ら進んで宝物を差し出す。
桃太郎の鬼が島遠征は、荒ぶる鬼の退治が目的なのではなく、祖霊の住むなつかしい国を訪問するというのが、そもそもの形だったのではないか。桃太郎が持ち帰る宝物は、先祖からの尊い贈り物だったのではないか。
柳田国男の説を始め、日本人の祖先を海洋民族に求める有力な説がある。記紀の神話にも、日本人の祖先の少なくとも一部が海洋民族であったと考えられる要素がある。山の幸の話もそうだし、オオクニヌシやスクナヒコナの話にも、南方起源と思われる要素が伺われる。
スサノオ神話には、母の住む根の国を訪ねる話が出てくるが、その根の国とは海の彼方にある国であった。またスクナヒコナは海の彼方から小さな舟に乗ってやってくる。沖縄では今でも海の彼方の国をニライカナイといって信仰することが行なわれているらしいが、この「ニライカナイ」とはとりもなおさず、根(ニ)の国の転化した形なのである。
こうしてみると、桃太郎の伝説には、日本人の間にある海洋民族としての想像力が紛れ込んでいるのではないか、そのように考えられるのである。
桃太郎の話には殆どの場合、猿、キジ、犬が従者として出てくる。何故これらの動物でなければならないのか、十分明らかにすることはむつかしいが、この話を鬼の話としてとらえると糸口が見えてくるかもしれない。鬼は方角からいうと、丑寅の方角に住むと、古来伝えられている。北東を鬼門というのはここから出ている。これに対して申、酉、戌はその対極に位置する。このあたりがヒントになるかもしれない。
桃太郎は黍団子を持参する。話によっては、団子を持って訪ねてくれと、鬼に呼びかけられるというパターンもある。団子には古来祖先の霊を供養する効用があると信じられていた。今日においても、お盆や節々の行事に団子を捧げて、祖先の霊を供養する風習が廃れずに続いている。だから、これは鬼を退治するのが目的なのではなく、祖先の霊に会いに行くことを物語っているのではないかとも思える。
最後に、桃太郎は何故桃から生まれたのかという疑問が残る。陶淵明が桃源郷を詩に歌ったように、中国では桃に霊力を見る見方があった。西王母の桃は長寿の霊力があると信じられていた。
あるいは中国の信仰が日本の説話の中に紛れ込んだのかもしれない。だが記紀の神話の中でも、イザナキが桃を投げつけて黄泉醜女を追っ払った話が出てくるから、日本でも古来桃に特別な霊力を見ていたのかもしれない。そんな霊力を持ったものから生まれたことを強調することで、「まれびと」としての桃太郎の力を際立たせたかったのだろう。
普通の物語では、お婆さんが川で拾った桃を持ち帰って二つに割ると、中から桃太郎が生まれてきたということになっているが、筆者が聞いた伯耆地方の話では、お婆さんは桃を食って若返ったことになっている。お爺さんにも残りの桃を食わせるとやはり若返って立派な若者になったので、二人は喜んで抱き合い、その結果子どもが生まれたというのである。
桃の形が人の尻を連想させることから思いついた、一つのエロチックなバリエーションなのであろう。 
 
桃太郎2

 

誰もに親しまれてきた日本昔話「桃太郎」。桃から生まれ、イヌ、キジ、サルを伴って鬼征伐に行く。童話や絵本のなかの架空のヒーローと思いきや、吉備に伝わる古代伝承のなかに、 桃太郎は姿を変えて実在した。  
桃太郎の起源と昔話・桃太郎の誕生
〜桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけたキビ団子、一つ私にくださいな〜
イヌ、キジ、サルはキビ団子をもらい、桃太郎とともに鬼征伐に赴く。岡山駅前広場には家来を従えた桃太郎が「鬼退治にいざ出発!」と言わんばかりの像が立っている。桃太郎といえば岡山、岡山といえば桃太郎とキビ団子のイメージが定着している。名実ともに桃太郎は岡山のシンボルだ。
ところが、桃太郎話は日本の各地に残っている。“我が町の桃太郎”は全国に20〜30カ所もあり、それぞれ物語の設定は微妙に異なる。必ずしも桃から生まれるという筋書きだけではなく、桃を食べて若返った夫婦が子どもを授かる設定や、家来が石臼や馬糞、蜂、百足だったりする。それに鬼退治ではなく嫁探しという話もある。
とはいえ日本人の誰もが、童話や絵本、童謡を通して脳裏に刻みつけているのは、桃から生まれてイヌ、キジ、サルと一緒に鬼を退治する桃太郎だ。「おじいさんとおばあさんが、川から流れてきた大きな桃を家に持ち帰り、割ってみると桃のなかから男の子が現れた。おじいさんとおばあさんに大切に育てられ、立派に成長した桃太郎は、キビ団子を腰にぶらさげ、鬼ケ島へ鬼征伐に向かう。道中、イヌ、キジ、サルが家来となり、悪らつな鬼を退治した」。
「勧善懲悪」のヒーロー譚は、子どもにも分かりやすい。正義のもとに皆が助けあって鬼=悪者に立ち向かうヒロイズムは海外でも人気が高い。このお馴染みのストーリーの起源を辿れば、古代ギリシャや古代インド、中国や朝鮮半島の古い類話に至り、渡来の話が日本各地の風土と擦りあわされ、その土地固有の桃太郎伝説が口承されていった。物語の原話が形成されたのは室町時代とされ、鬼ケ島に渡る源為朝の武勇を描いた『保元物語』(鎌倉時代初期)がその雛形ではと考えられているが、昔話の多くの原形は『御伽草子』(室町時代から江戸時代初期)にあるというのが通説だ。
江戸時代になると、桃太郎話は内容がより標準化され、元禄の頃(1688〜1703年)には庶民の間に広く普及する。この頃には50冊近い桃太郎の関連本が出版され、とりわけ人気があったのは絵入りの庶民本として親しまれた「赤本」や「黄本」だ。滝沢馬琴の『燕石雑志[えんせきざっし]』や、京都上賀茂神社の神官が著した『雛廼宇計木[ひなのうけぎ]』の筋書きは、出生の部分がいささか異なるものの筋書きは今日の桃太郎話に近い。明治時代には、巌谷小波[いわやさざなみ]が『日本昔噺』を刊行、シリーズ第一編に取り上げられた桃太郎は全国で読まれるようになった。教科書にも掲載され、「勇」「智」「義」など徳育の教材として使われた。
さて、ではなぜ、岡山が桃太郎話の最有力地となったのだろう。『おかやまの桃太郎』の著者で、岡山市在住の市川俊介氏は、「岡山には桃太郎話にまつわる条件が揃っていて共通点が多いのです」という。岡山の古名は「吉備」、キビ団子の「黍」に通じ、桃は岡山を代表する特産物。だが、何にもまして信憑性を裏付けるのが“吉備の古代史”だ。桃太郎の寓話をそこに重ねあわせると、物語のなかの桃太郎、イヌ、キジ、サル、そして鬼の姿が歴史上に実在したかのように浮かび上がってくる。  
古代史に実在した鬼神と桃太郎の戦い
桃太郎伝説の地、吉備路へ。岡山市とその西隣の総社市を結んで吉備線が走る。車窓から望む風景は、肥沃な平野が遠くの山裾まで広がり、のどかで清々しい。古代、この沿線周辺は、大和政権と並ぶ勢力を誇った吉備国の中心地であった。この地こそ、『日本書紀』や『古事記』に記される桃太郎伝説の舞台だ。
吉備国は奈良時代、律令制によって4カ国(備前、備中、備後、美作)に分割されるまで、現在の広島県東部から岡山県全域を含む広大な領土を有した大国だった。高梁川と足守川が形成する大穀倉地帯吉備平野と、豊かな海産物と塩をもたらす瀬戸内海に恵まれ、国は大いに栄えた。中国山地を擁した吉備国は、鉄の一大産出地でもあった。大和朝廷を凌ぐ製鉄技術を駆使して農具をつくり、驚くばかりの農業生産量をあげた。『古今和歌集』に詠まれている「まがねふく吉備の中山おびにせる細谷川のおとのさやけさ」の「まがね」とは鉄であり、高度な製鉄技術や土木技術は、朝鮮半島から渡来した人びとがもたらしたものとされる。そして歌に詠まれた「吉備の中山」には、吉備津彦命を祀る吉備国の総鎮守、吉備津神社がある。吉備津彦命は「桃太郎」のモデルといわれ、吉備津神社に伝わる『吉備津宮縁起』には「温羅[うら]退治伝説」が記されている。温羅とはもう一方の主役「鬼」のことだ。
温羅の姿は、「人皇第11代垂仁[すいにん]天皇(または第10代崇神[すじん]天皇)の御代に、異国の鬼神が飛行して吉備国にやってきた。その名を温羅と呼んだ。鬼神温羅の両眼はらんらんと輝いて虎や狼のようで、その顎髭や髪は燃えるように赤かった。身長は一丈四尺(約4.2m)もあり力は大変強く、性質は荒々しく凶暴であった。温羅はやがて新山(現在の総社市黒尾)に居城を築き、そばの岩屋に盾(城)を構えた…」と描かれている(『おかやまの桃太郎』より要約)。
温羅は大和朝廷への貢ぎ物や物資を載せて瀬戸内海を渡る船を襲い、婦女子をたびたび略奪した。人びとは恐れおののき、温羅の棲む居城を「鬼ノ城[きのじょう]」と呼び、温羅の悪行を朝廷に訴えた。それに応えた朝廷は武将を派遣するが、神出鬼没にして変幻自在の温羅に、武将たちはことごとく追い返される。そこで朝廷は、孝霊天皇の皇子で武勇に優れた五十狭芹彦命[いさせりひこのみこと](吉備津彦命)を温羅退治に遣わす。その際、温羅征伐の供をしたのが三随臣、犬飼健命[いぬかいたけるのみこと]、留霊臣命[とめたまおみのみこと](鳥飼部の家系)、そして道案内役を務めた吉備足守の豪族・楽々森彦命[さざもりひこのみこと](猿田彦命)だ。これで桃太郎にイヌ、キジ、サルの顔ぶれがそろった。
向かうは、いざ鬼ケ島。吉備津彦命が陣を構えた吉備中山から北西を望むと、小高い山々が連なっている。遠目に山肌が露出しているように見えるその山頂が、温羅の棲み家・鬼ノ城だ。標高約400m、急峻な斜面には花崗岩の巨石がいくつも転がっている。露出しているように見えた山肌は、じつは土や岩石を積み上げて築かれた強固な城壁だった。
この山城は日本では数例しかない古代朝鮮式山城の典型で、国内最大規模。今も山腹に数カ所残る城壁は壮観で、古代にこれだけ頑丈で大規模な城を築いた吉備国の技術に改めて驚かされる。山上からは、両腕を広げてあまりある風景が眼下に展開する。遠くは屋島や讃岐富士(飯野山)が望め、麓を見下ろせば、小高い山々が海原に浮かぶ大小の島々のように見えてくる。現在の肥沃な平野部の大部分は当時、「吉備の穴海」と呼ばれる海だったという。つまり、鬼ノ城山が「鬼ケ島」だったとしてもおかしくはない。  
鬼は大和朝廷を脅かす吉備国の大王か
吉備津彦命と温羅がいよいよ一戦を交える時がきた。「温羅退治伝説」はさらにこう続く。
「(温羅は)戦うこと雷のようにその勢いはすさまじく、豪勇の吉備津彦命もさすがに攻めあぐねた。命の射る矢は不思議なことにいつも温羅の放つ矢と空中で絡みあい、海へ落下。そこで命は神力を現し、強力な弓を持って一度に二本の矢を射た。一本は岩にあたり落下したが、一本は温羅の左目にみごとに命中し、血潮がこんこんと流水のようにほとばしった…」。
矢が刺さった温羅の目から流れ出た血は瞬く間に川となる。鬼ノ城山の麓を流れ、足守川に合流するその川の名は「血吸川[ちすいがわ]」。温羅はたまらず雉[きじ]と化し山中に隠れるが、吉備津彦命は鷹となり後を追う。すると温羅は鯉に姿を変え血吸川へ逃走、命は鵜に化身し温羅を捕らえる。そして、命はついに降参した温羅の首をはねる…。鬼をみごと成敗し、めでたしめでたしで“おしまい”となるはずの桃太郎話だが、「温羅退治伝説」にはまだ先がある。
はねられた温羅の首は、その後何年も恐ろしい唸り声を発し、その声は辺りに大きくこだました。吉備津彦命はその首を犬に食わせるよう犬飼健命に命じ、首は髑髏[どくろ]となったが、それでも唸り声は止まない。そこで吉備津彦命は、吉備津神社御釜殿の床下に髑髏と化した首を埋める。しかしその後も「13年間唸り止まず」と『吉備津宮縁起』には記されている。ところがある夜、夢枕に温羅の霊が現れ、吉備津彦命にこう告げた。「吾が妻、阿曾姫[あぞひめ]をして釜殿の釜を炊かしめよ。もし世の中に事あれば、釜の前に参り給え。幸いあれば裕[ゆた]かに鳴り、災いあれば荒らかに鳴ろう」。お告げどおりにすると、なんと唸り声は鎮まった。
以降、吉備津神社では「鳴釜神事[なるかましんじ]」が行われるようになる。鳴釜神事はじつに不思議だ。厳かな空気漂う御釜殿には大きな鉄釜が据えられた土の竃[かまど]があり、巫女が甑[こしき]に少量の玄米を入れ、片手で玄米を蒸すような仕草をする。そして、神官が祝詞をあげるとやがて、目の前の鉄釜が唸りはじめ、御釜殿は大音響に包まれる。その音の響きで吉凶を占う。つい最近まで、この神事を司る巫女は阿曾姫の里、鬼ノ城山麓にある阿曾郷出身の女性に限られていた。
かくして、温羅を征伐した吉備津彦命は長きにわたり吉備国を統治した。この吉備津彦命と犬飼健命、留霊臣命、猿田彦命が桃太郎と従者のモデルというわけだ。桃太郎こと吉備津彦命は、吉備中山の茶臼山御陵に今も眠っている。
桃太郎は吉備津彦命。鬼は人知の及び知れないもの、隠れたるもの、すなわち外敵。「温羅退治伝説」を古代史と摺りあわせると、勢力拡大をもくろむ大和朝廷にとって、吉備国の大王は脅威なる「鬼」だったに違いない。そこで、吉備津彦命が吉備国制圧に起ち、吉備国を平定した。吉備津彦命亡き後の律令制による吉備国分国は、強大すぎた勢力の分割とは考えられないか。しかし奇妙なことに、吉備津彦命を祭神とする吉備津神社は、敵[かたき]であるはずの温羅も大切に祀っている。温羅は決して悪行、乱暴を極めた暴君ではなく、国に高度な技術を伝え導き、繁栄をもたらした大王として、吉備の民から広く敬われる存在だったのではないだろうか。
『おかやまの桃太郎』を著した市川氏は話す。「桃太郎を古代史に関わる伝承や資料に基づいて検証してみると、調べるほどに吉備津彦命が桃太郎のモデルとされた根拠が出てきます。しかし、この話を通して私が多くの人に本当に伝えたいことは、吉備の深い歴史や文化です」と。
こうして吉備路を歩き、吉備の伝承や史跡、文化に触れながら桃太郎伝説を辿ると、桃太郎はやはりこの地に“実在した”という気になってくる。 
 
吉備津彦と桃太郎3

 

吉備津彦命
古代日本の皇族。孝霊天皇の第3皇子で、生母は妃倭国香媛(やまとのくにかひめ)とも(『日本書紀』)、意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おほやまとくにあれひめのみこと)(安寧天皇の皇曾孫)とも伝える(『古事記』)。また、本来の名は彦五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと。比古伊佐勢理毘古命にも作る)といい、亦の名前が吉備津彦命(『書記』)、大吉備津日子命(『古事記』)であったと伝える。吉備冠者(きびのかじゃ)ともいう。山陽道を主に制圧した四道将軍の一人。
1説に吉備国制圧の目的は同国の製鉄技術の掌握であったとされる。
また、同天皇60年には武渟川別(大彦命の王子)とともに出雲国へ出征して出雲振根を誅滅している。

備前の一宮
岡山市西部、備前国と備中国の境に立つ吉備の中山(標高175m)の北東麓に東面して鎮座する。吉備の中山は古来より神体山として信仰されており、北西麓には備中国一宮・吉備津神社が鎮座する。当社と吉備津神社とも、当地を治めたとされる大吉備津彦命を主祭神に祀り、命の関係一族を配祀する。
社伝では推古天皇の時代に創建されたとするが、初見の記事は平安後期である。神体山と仰がれる吉備の中山の裾の、大吉備津彦命の住居跡に社殿が創建されたのが起源と考えられている。
延喜5年(905年)から延長5年(927年)にかけて編纂された『延喜式神名帳』には、備前国の名神大社として安仁神社が記載されているが当社の記載はない。しかしながら、一宮制が確立し名神大社制が消えると、備前国一宮は吉備津彦神社となったとされている。これは天慶2年(939年)における天慶の乱(藤原純友の乱)の際、安仁神社が純友に味方したことに起因する。一方で吉備津彦神社の本宮にあたる吉備津神社が、朝廷による藤原純友の乱平定の祈願の御神意著しかったとして940年に一品の神階を授かった。それに伴い安仁神社は一宮としての地位を失い、備前の吉備津彦神社にその地位を譲る事となったとされる。
祭神は以下の12柱。
主祭神
大吉備津彦命 (おおきびつひこのみこと)
第7代孝霊天皇の皇子。大吉備津日子命とも記し、別名を比古伊佐勢理比古命とも。崇神天皇10年、四道将軍の一人として山陽道に派遣され、若日子建吉備津彦命と協力して吉備を平定した。その子孫が吉備の国造となり、古代豪族・吉備臣へと発展したとされる。
相殿神
吉備津彦命 (若日子建吉備津彦命、稚武彦命) – 大吉備津彦命の弟または子。なお、一般には「吉備津彦命」といえば主祭神の大吉備津彦命の方を指す。
孝霊天皇 – 第7代。大吉備津彦命の父
孝元天皇 – 第8代。大吉備津彦命の兄弟
開化天皇 – 第9代。孝元天皇の子
崇神天皇 – 第10代。開化天皇の子
彦刺肩別命 (ひこさしかたわけのみこと) – 大吉備津彦命の兄
天足彦国押人命 (あまたらしひこくにおしひとのみこと) – 第5代孝昭天皇の子
大倭迹々日百襲比売命 (おおやまとととひももそひめのみこと) – 大吉備津彦命の姉
大倭迹々日稚屋比売命 (おおやまとととひわかやひめのみこと) – 大吉備津彦命の妹
金山彦大神
大山咋大神

吉備津神社 備中一宮
岡山県岡山市に鎮座する備中国一宮、吉備津神社の社伝によると、その後、命は吉備の中山の麓に茅葺宮を造って住み、281歳で亡くなって中山の山頂(茶臼山)に葬られたとされている。この中山茶臼山古墳(正式名称は大吉備津彦命墓)は土地の人々には「御陵」や「御廟」とも呼ばれており、現在では陵墓参考地として宮内庁の管理下にある。
主祭神
大吉備津彦(おおきびつひこ)命
第7代孝霊天皇の第三皇子で、元の名を彦五十狭芹彦(ひこいせさりひこ)命(または五十狭芹彦命)。崇神天皇10年、四道将軍の一人として山陽道に派遣され、弟の若日子建吉備津彦命と吉備を平定した。その子孫が吉備の国造となり、古代豪族・吉備臣になったとされる。
相殿神
御友別(みともわけ)命 – 大吉備津彦命の子孫
仲彦(なかつひこ)命 – 大吉備津彦命の子孫
千々速比売(ちちはやひめ)命 – 大吉備津彦命の姉
倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命 – 大吉備津彦命の姉
日子刺肩別(ひこさすかたわけ)命 – 大吉備津彦命の兄
倭迹迹日稚屋媛(やまとととひわかやひめ)命 – 大吉備津彦命の妹
彦寤間(ひこさめま)命 – 大吉備津彦命の弟
若日子建吉備津日子(わかひこたけきびつひこ)命 – 大吉備津彦命の弟
古くは「吉備津五所大明神」として、正宮と他の4社の5社で一社を成した。

田村神社 讃岐 一宮
田村神社(たむらじんじゃ)は、香川県高松市一宮町にある神社。式内社(名神大社)、讃岐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社
祭神は以下の5柱で、「田村大神」と総称される。
倭迹迹日百襲姫命 (やまとととひももそひめのみこと)
五十狭芹彦命 (いさせりひこのみこと)別名を吉備津彦命(きびつひこのみこと)。
猿田彦大神 (さるたひこのおおかみ)
天隠山命 (あめのかぐやまのみこと)別名を高倉下命(たかくらじのみこと)。
天五田根命 (あめのいたねのみこと) – 別名を天村雲命(あめのむらくものみこと)。
田村大神について、中世の書物では猿田彦大神や五十狭芹彦命指すとされ、近世には神櫛別命・宇治比売命・田村比売命・田村命など様々で一定していない。社伝創建前は井戸の上に神が祀られていたことから、元々は当地の水神(龍神)であったとする説もある。

桃太郎伝説は、古事記・日本書紀で語られる孝霊天皇の息子、兄、大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)とその弟の若建吉備津日子命(わかたけきびつひこのみこと)が大和国から出て、西方を平定した話から成立したという説があります。
大吉備津日子命は播磨国から古代山陽道に入り、吉備国へ向かったとされています。
また、大吉備津日子命は吉備の上の道の臣の祖となり若建吉備津日子命は下の道の臣の祖となったとされていることから現在の岡山県に残る桃太郎伝説のモデルが大吉備津日子命香川県に残る桃太郎伝説のモデルが若建吉備津日子命ではないかと言われています。
昔、百済の皇子とされる温羅とその一派が吉備国にやってきました。
温羅はとても大きく、人並み外れて強く、また凶悪な性格で、辺りの人々を襲っていたとされます。
温羅を恐れた人々は、彼らの居城を鬼の城と呼んでいました。
そこで大和朝廷が、武勇に優れた五十狭芹彦命(=大吉備津日子命)を討伐のため派遣しました。
五十狭芹彦命は、犬飼健(いぬかいたける)・楽々森彦(ささもりひこ)・留玉臣(とめたまおみ)ら、三人の家来と共に温羅討伐を開始します。
五十狭芹彦命の放った矢と、温羅の放った矢(石ともされています)は、ことごとくぶつかり合い、相殺されてしまいます。
この矢がぶつかり合ったとされる位置に矢喰神社があります。実際、鬼ノ城と楯築遺跡のほぼ中間地点にあります。
五十狭芹彦命は、片岡山に石の盾を設置して、鬼ノ城の温羅へ向かって矢を放ったといいます。鬼ノ城から片岡山まで直線距離で約8キロあります。
互いに矢が届かない状況が続く中、五十狭芹彦命は、二つの矢を一緒に放つことを思いつき、強弓を用意して、二本同時に矢を放ちました。
すると、一つの矢は温羅の矢とぶつかりましたが、もう一本の矢はみごと温羅に当たったのです。
このとき、温羅から流れた血が赤く染めたため、この川を血吸川と呼ぶようになりました。
川が赤くなる現象の理由として挙げられるのは、染料もしくは鉄分の流出です。
昔、この地域は製鉄が盛んだったと言われています。そういったことから、桃太郎伝説は、当時の大和朝廷が製鉄技術者達を制圧したことを物語にしたのではないかという説もあります。
最終的に、温羅は五十狭芹彦命によって首を刎ねられ、その首は串に刺され晒されました。しかし、温羅の首はずっと唸り続け人々を長く悩ませたといいます。 また、温羅を討った五十狭芹彦命は、吉備津彦と呼ばれるようになります。
夜毎唸り続ける温羅の首を、吉備津神社のお釜殿の下に埋めてもみましたが、一向に治まるようすはありませんでした。
ある夜、吉備津彦が夢に温羅が現れ、温羅の妻、阿曽媛に釜を炊かせ、自分を祀って、その釜の音で吉凶を占わせるよう告げました。
吉備津彦がその通りにすると、唸り声は治まりました。このことが、吉備津神社で今も行われる鳴釜神事の起こりであるとされています。
吉備津彦は281歳の長寿を全うしたといいます。
中山茶臼山古墳は、大吉備津彦命墓として宮内庁の管理下にあります。
若建吉備津日子命(=稚武彦命(わかたけひこのみこと))は、地方開拓のため讃岐国にやってきます。当時、瀬戸内海には海賊達が出没して、鬼と呼ばれるほどの非道の限りを尽くし、周辺の住民達は大いに困っていました。
若建吉備津日子命は、この川で洗濯をしていた美しい女性(=のちの昔話ではお婆さんが洗濯していたとされています)にひとめぼれします。
そこで、海賊の悪さを知った若建吉備津日子命は、この女性に婿入りし、老夫婦の養子となって、海賊退治に乗り出します。
若建吉備津日子命は、三人の勇士を従えて、鬼ヶ島に住む海賊達の討伐に乗り出します。現在女木島と呼ばれる瀬戸内海に浮かぶ島は、人工大洞窟が発見されたことにより、
この昔話で語られる鬼ヶ島として広く知られることになりました。
みごと海賊を退治して鬼ヶ島より凱旋した若建吉備津日子命と三人の勇士
(彼らの出身は綾南町の猿王・岡山の犬島・鬼無の雉ガ谷とされ、これが犬・猿・雉の元となったとされます)ですが、海賊達は報復しようと彼らを追ってきます。
しかし、逆に返り討ちにし、海賊達は全滅しました。この海賊達の屍を埋めた里を「鬼無」と呼ぶようになったといいます。
ここには桃太郎と犬・猿・雉、爺婆の墓や石碑があります。
香川県の桃太郎伝説は、讃岐国守だった菅原道真が、漁師から若建吉備津日子命と三人の勇士が海賊討伐をした話を聞き、おとぎ話としてまとめられたものが全国に広まったとされています。 
 
鬼ヶ島

 

御伽話説話の桃太郎や一寸法師などに登場する鬼が住んでいる島。
説話には具体的場所、状態の説明はない。そのため一般的には岩で出来た島で、鬼の要塞としての砦が築かれていると想像されるのみである。
鬼が住むとされる島の記述は、古くは13世紀前後成立の『保元物語』において、「鬼島(諸本によって「鬼が島」「鬼の島」)」が文献上に見られ、源為朝が鬼の子孫を称する島人と会話をし、「鬼持なる隠蓑、隠笠、打ち出の履(くつ)」といった神通力を有する宝具を所持していた(が、為朝上陸時点ではなくなっている)ことが説明されている。この鬼ヶ島については、青ヶ島の古名であり、青島に鬼島の伝承があったことを示唆するものとされる。
なお、後述する日本各地にある伝承地・モデルとされる地においては、必ずしも島であるとは限らず、陸地であるものもある。
伝承地
岡山県 / 桃太郎伝説のある地方のひとつで、吉備津彦・温羅伝説が残る岡山県総社市・岡山市では、総社市東部にある鬼ノ城という城が築かれた鬼城山(きのじょうざん)が鬼ヶ島のモデルとされている。桃太郎に登場する鬼のモデルといわれる温羅という大男が、伝説内で居城としていたためである。同県は、桃太郎が県のマスコット的な位置付けになっていることで知られる。
香川県 / 桃太郎伝説のある地方のひとつ香川県高松市では、高松港の沖合い約4kmの瀬戸内海に浮かぶ女木島を鬼ヶ島の一部であると伝えられる。鬼ヶ島は、美世夜島といわれ杉沢村などの都市伝説はこの島の伝説がもととなっている。美世夜島の由来は、鬼が住む=あの世とされ死者を敬うためにあの世を美しい世界と表したもの。夜という字は夜が死者の世界とされていたため。鬼の世界ということで今では沈んでしまい残った部分が女木島とされているという。
岐阜県 / 桃太郎伝説のある地方のひとつ木曽川中地域(愛知県・岐阜県)では、岐阜県可児市塩字中島の可児川(木曽川支流)にある中州が鬼ヶ島であると伝えられている。中州であるが、約2000万年にこの付近に存在した火山の噴火で発生した火砕流でできた凝灰角礫岩でできた島である。かつて山賊の住処であったと推測されている。 
鬼ノ城
岡山県総社市の鬼城山(きのじょうざん、標高397メートル)に遺る日本の城(神籠石式山城)。城跡は国の史跡に指定されている。
すり鉢形の鬼城山の山頂周囲を石垣・土塁による城壁が周囲2.8キロメートルに渡って取り巻く。城壁によって囲まれた面積は約30ヘクタールを測る。城壁の要所に、門、城外への排水機能を持つ水門を配する。門は東西南北4ヶ所、水門は6か所に確認されている。城の内部には食料貯蔵庫や管理棟などと推定される礎石建物が7棟、烽火場の可能性が指摘される焚き火跡、水汲み場、鍛冶場、工事のための土取り跡などが確認されている。
歴史沿革
飛鳥時代
663年(天智天皇2年)の白村江の戦いに倭国が敗れた後、唐・新羅の侵攻に備え築城したと考えられている。『日本書紀』などには西日本の要所に大野城など12の古代山城を築いたと記されており、鬼ノ城も防衛施設の一つであろうと推測される。しかし、どの歴史書の類にも一切記されていないなど、その真相は未だに解明されていない謎の山城である。史書に記載が無く、12の古代山城に該当しないものは神籠石式山城と呼ばれる。
現代
山中に石垣などの遺構が存在することは古くから知られていたが、1971年(昭和46年)に城壁の基礎となる列石が見つかり、古代山城と認識された。1986年(昭和61年)3月25日に国の史跡に指定された。指定名称は「鬼城山(きのじょうざん)」。現在は総社市教育委員会が2001年(平成13年)より史跡整備を行っている。特に西門遺構は建造物・土塁・石垣の復元を進めている。2006年(平成18年)からは、岡山県教育委員会による7か年計画の城内確認調査も開始された。なお、城内には湿地を中心として希少植物も多く分布するため、1999年(平成11年)には発掘調査と自然保護との調整が問題となったことがある。
伝承
当地には温羅と呼ばれる鬼が住んでいたという伝承が残っている。それによると温羅は当地を拠点とし、討伐に赴いた吉備津彦命と戦って敗北したのち、吉備津神社の御釜殿の下に埋められたという。
温羅(うら/おんら)
岡山県南部の吉備地方に伝わる古代の鬼。
温羅とは伝承上の鬼・人物で、古代吉備地方の統治者であったとされる。「鬼神」「吉備冠者(きびのかじゃ)」という異称があり、中央の伝承によると吉備には吉備津彦命(きびつひこのみこと)が派遣されたというが、吉備に残る伝承では温羅は吉備津彦命に退治されたという。伝承は遅くとも室町時代末期には現在の形で成立したものと見られ、文書には数種類の縁起が伝えられている。また、この伝承は桃太郎のモチーフになったともいわれる。
伝承によると、温羅は吉備の外から飛来して吉備に至り、製鉄技術を吉備地域へもたらして鬼ノ城を拠点として一帯を支配したという。吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたため、これを救うべく崇神天皇(第10代)は孝霊天皇(第7代)の子で四道将軍の1人の吉備津彦命を派遣した。
討伐に際し、吉備津彦命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えた。そして温羅に対して矢を1本ずつ射たが矢は岩に呑み込まれた。そこで命は2本同時に射て温羅の左眼を射抜いた。すると温羅は雉に化けて逃げたので、命は鷹に化けて追った。さらに温羅は鯉に身を変えて逃げたので、吉備津彦は鵜に変化してついに温羅を捕らえた。そうして温羅を討ったという。
討たれた温羅の首はさらされることになったが、討たれてなお首には生気があり、時折目を見開いてはうなり声を上げた。気味悪く思った人々は吉備津彦命に相談し、吉備津彦命は犬飼武命に命じて犬に首を食わせて骨としたが、静まることはなかった。次に吉備津彦命は吉備津宮の釜殿の竈の地中深くに骨を埋めたが、13年間うなり声は止まず、周辺に鳴り響いた。ある日、吉備津彦命の夢の中に温羅が現れ、温羅の妻の阿曽媛に釜殿の神饌を炊かせるよう告げた。このことを人々に伝えて神事を執り行うと、うなり声は鎮まった。その後、温羅は吉凶を占う存在となったという(吉備津神社の鳴釜神事)。 
鬼無の桃太郎伝説
鬼無(きなし)は高松市北西部にある一地区で、高松市役所鬼無出張所の管内。鬼無町藤井、鬼無町是竹、鬼無町佐料、鬼無町佐藤、鬼無町山口、鬼無町鬼無の6町からなる。かつては全域が「香川郡上笠居村」(かみかさいむら)として存在し、1956年9月30日に高松市に編入された。
この鬼無地区は桃太郎伝説の地の1つであり、南西部の袋山山麓には「桃太郎神社」が存在する。
鬼無地区の桃太郎伝説、すなわち高松の桃太郎伝説が知られる所以になったのは、当時上笠居小学校(現・高松市立鬼無小学校)の訓導(教諭)であった橋本仙太郎が1930年(昭和5年)、四国民報(現・四国新聞)に掲載した論文『童話「桃太郎」の発祥地は讃岐の鬼無』に始まる。
彼は24歳であった1914年(大正3年)秋に、当時の内閣総理大臣兼外務大臣であった大隈重信が鬼無駅で行った演説「この駅はオニナシかと思えば、キナシと読むそうだ。なかなか面白い地名だと思う。とにかく、村人諸氏は地名のそれのように何とぞ心の中に鬼が無いように、個人も団体も皆ますます向上発展に努力されたい…」を聞いて郷土の歴史に興味を持ち、郷土研究を始めた。その後、古文書研究などから桃太郎伝説は実話で、鬼無という地名からその場所が現在の鬼無地区であることをまとめ、演説を聴いてから16年後、彼が40歳の時にその論文を発表するに至った。
その論文によると
桃太郎 / 第七代孝霊天皇(前342 - 215年)の第八皇子である稚武彦命。
鬼 / 高松市沖にある女木島を本拠としていた海賊。
お爺さん・お婆さん / 安徳(鬼無町)の大古家(おおふるや)に住んでいた宇佐津彦命の後裔。 お婆さんは実は年頃の美しい娘である。
2人は海賊を恐れ、約1.5km内陸にある神高(かんだか、鬼無町山口)に避難し、「やらい屋敷」と呼んだ。
犬・猿・雉:実在した勇士達で「犬」は岡山県犬島の住人、「猿」は香川県綾川町陶の陶芸師猿王(さるおう)、「雉」は鬼無町雉ヶ谷の住人。
お爺さんが芝刈りに行った山 / 高松市香西北町の「芝山」
お婆さんが洗濯に行った川 / 本津川
当時、鬼達は周辺各地に出没して非道の悪事を重ね、住民は恐怖の毎日を過ごしていた。その頃、地方開拓のためこのあたりに立ち寄った桃太郎は本津川で洗濯をしていた美しい娘(お婆さん)に一目惚れした。そこで、悪事を重ねる鬼の話を知ると2人の住む「神高」に養子入りして、鬼退治のため援軍を募り、犬・猿・雉をはじめ多くの強力な軍勢を仲間にした。桃太郎はお婆さんの作った「黍団子」を腰に鬼の本拠である女木島へ出撃し激戦の末、大勝利を収めて無事凱旋した。後日、鬼は桃太郎軍に逆襲してきたが、「せり塚」という場所で一人残らず返り討ちに遭い、全滅させられた。その鬼たちの屍を埋めたのが、今の「鬼ヶ塚」である。そこでこの里を「鬼無」と言うようになった。その後、当時讃岐国守であった菅原道真が漁師にこの海賊征伐の話を聞き、おとぎ話としてまとめ、全国に「桃太郎伝説」を広めた。
この論文が発表された翌年の1931年(昭和6年)には橋本仙太郎によって女木島に人工の大洞窟が発見され、論文の効果と相まって桃太郎伝説の信憑性は一気に高まった。鬼無地区やその周辺には桃太郎伝説にあやかった愛称が多数存在する。 
桃太郎神社
愛知県犬山市栗栖(くりす)にある神社。犬山市には桃太郎伝説が存在する。全国的にも珍しい桃型の鳥居があるほか、桃太郎のおばあさんが洗濯をした洗濯岩などがある。毎年、5月5日のこどもの日には桃太郎祭りが開かれる。祭りで披露される「桃太郎おどり」は、野口雨情が作詞したという桃太郎音頭のことである。神社周辺は桃太郎公園として整備されている。道路から、一の鳥居、二の鳥居を経て、石段を上ると、桃鳥居と拝殿がある。なお、一の鳥居と二の鳥居は、普通の神社にあるような鳥居である。地元では、子どもの健康を祈る神社としての認識が高く、大切にされている。
地域の桃太郎伝説
この地域(岐阜県・愛知県の木曽川中流域)に伝わる桃太郎伝説では、桃太郎は栗栖(現・愛知県犬山市栗栖)で育ち、鬼ヶ島(現・岐阜県可児市塩の可児川にある島)へ鬼退治へ行ったという。この地域では、桃太郎に関わる地名も多く残っている。
犬山(現・犬山市) / 家来の犬がいた地
猿洞(現・犬山市) / 家来の猿がいた地
雉ケ棚(現・犬山市) / 家来の雉がいた地
今渡(現・可児市) / 鬼が桃太郎が乗った船を見つけた地
取組(現・坂祝町) / 桃太郎と鬼が取っ組み合いをした地
勝山(現・坂祝町) / 桃太郎が勝どきをあげた地
宝積寺(現・各務原市) / 鬼から奪った宝を積み上げた地 
 
信州・鬼無里の伝説

 


鬼女紅葉1
その昔、会津の伴笹丸・菊世夫婦は第六天の魔王に祈って娘呉葉を授かりました。娘が才色備えた美しい女性に成長したとき、一家は都に上って小店を開き呉葉は紅葉と名を改めて琴の指南を始めました。
ある日、紅葉の琴の音に足を止めた源経基公の御台所は紅葉を屋敷に召して侍女といたしました。紅葉の美しさは経基公の目にも止まり、公は紅葉を召して夜を共にしました。経基公の子を宿した紅葉は公の寵愛を独り占めにしたいと思うようになり、邪法を使い御台所を呪い殺そうと計りましたが企てが露見してしまい、紅葉は捕らえられ信濃の戸隠へ流されてしまいました。
信濃に至り、川を遡ると水無瀬という山里に出ました。「我は都の者。御台所の嫉妬で追放の憂き目にあいなった。」と語る麗人に純朴な里人は哀れみ、内裏屋敷を建てて住まわせました。紅葉は喜び、里人が病に苦しむと占いや加持祈祷で直してあげたのでした。紅葉は付近の里に東京、西京、二条、三条、などの名をつけて都を偲んでいましたが、月満ちて玉のような男の子を産むと、その子を一目経基公に見せたいと思うようになり、兵を集め力づくでも都へ上ろうと考えました。
里人には「経基公より迎えが来たので都へ戻ります」と言い置き、戸隠荒倉山の岩屋に移ると、戸隠山中の山賊を配下とし、村々を襲い軍資金を集めました。
そのうわさが冷泉天皇の知るところとなり、天皇は平維茂に紅葉征伐を命じました。平維茂は山賊共を打ち破り、紅葉の岩屋へ攻め寄せますが、紅葉は妖術を使い維茂軍を道に迷わせます。妖術を破るには神仏の力にすがるほかないと別所温泉北向き観音に籠もり、満願の日に一振りの宝剣を授かりました。
意気上がる維茂軍を紅葉は又もや妖術で退けようとしましたが宝剣の前に術が効きません。やむなく雲に乗って逃げようとする紅葉に、維茂は宝剣を弓につがえて放つと、紅葉の胸に刺さり、地面に落ちて息絶えました。享年33歳と伝わります。
人々はこれより水無瀬の里を鬼のいない里・鬼無里と言うようになりました。
鬼女紅葉2
紅葉伝説(もみじでんせつ)は、信州戸隠(とがくし)、鬼無里(きなさ・現、長野県長野市)、別所温泉に伝わる鬼女にまつわる伝説で、紅葉は女主人公の名前である。紅葉の討伐に勅命を承けた平維茂が紅葉と戦い討ち捕る話として伝えられている。
北向山霊験記戸隠山鬼女紅葉退治之傳全からの要約
937年(承平7年)のこと、会津には子供に恵まれなかった夫婦、伴笹丸(とものささまる)と菊世(きくよ)がいた。2人が第六天の魔王に祈った甲斐があり、女児を得、呉葉(くれは)と名付けた。才色兼備の呉葉は豪農の息子に強引に結婚を迫られた。呉葉は秘術によって自分そっくりの美女を生み出し、これを身代わりに結婚させた。偽呉葉と豪農の息子はしばらくは睦まじく暮らしたが、ある日偽呉葉は糸の雲に乗って消え、その時すでに呉葉の家族も逃亡していた。呉葉と両親は京に上った。ここでは呉葉は紅葉と名乗り、初め琴を教えていたが、源経基の御台所の目にとまり、腰元となりやがて局となった。紅葉は経基の子供を妊娠するが、その頃御台所が懸かっていた病の原因が紅葉の呪いであると比叡山の高僧に看破され、結局経基は紅葉を信州戸隠に追放することにした。956年(天暦10年)秋、まさに紅葉の時期に、紅葉は水無瀬(みなせ・鬼無里の古名)に辿り着いた。経基の子を宿し京の文物に通じ、しかも美人である紅葉は村人達に尊ばれはしたものの、やはり恋しいのは都の暮らしである。経基に因んで息子に経若丸(つねわかまる)と名付け、また村人も村の各所に京にゆかりの地名を付けた。これらの地名は現在でも鬼無里の地に残っている。だが、我が身を思うと京での栄華は遥かに遠い。このため次第に紅葉の心は荒み、京に上るための軍資金を集めようと、一党を率いて戸隠山(荒倉山)に籠り、夜な夜な他の村を荒しに出るようになる。この噂は戸隠の鬼女として京にまで伝わった。ここに平維茂が鬼女討伐を任ぜられ、笹平(ささだいら)に陣を構え出撃したものの、紅葉の妖術に阻まれさんざんな目にあう。かくなる上は神仏に縋る他なしと、観音に参ること17日、ついに夢枕に現れた白髪の老僧から降魔の剣を授かる。今度こそ鬼女を伐つべしと意気上がる維茂軍の前に、流石の紅葉も敗れ、維茂が振る神剣の一撃に首を跳ねられることとなった。呉葉=紅葉33歳の晩秋であった。
一夜山の鬼
昔むかし、天武天皇は遷都を計画され、その候補地として信濃に遷都に相応しい地があるかを探るため、三野王、小錦下采女臣筑羅らを信濃に遣わしました。使者は信濃の各地を巡視して候補地を探し、水内の水無瀬こそ都に相応しい地相であるとの結論を得ました。そこで早速この地の地図を作り奉り天皇に報告いたしました。
これを知ったこの地に住む鬼たちは大いにあわて、「この静かなところに都なんぞ出来たら、俺たちの棲むところがなくなってしまう。」「都が出来ぬように山を築いて邪魔してしまえ。」と、すぐさま一夜で里の真ん中に大きな山を築いてしまいました。
これでは遷都は出来ません。怒った天皇は阿部比羅夫に命じて鬼たちを退治させてしまいました。
この時から、この水無瀬の地に鬼はいなくなったので 人々はこの地を鬼無里と、又真ん中に出来た山を一夜山と呼ぶようになりました。
 
鬼女紅葉1

 

戸隠に伝わる鬼女紅葉の物語  
紅葉の父
今から、千年以上も前、清和天皇(850〜880)御宇貞完八年(866)に皇居正面の応天門が、一夜にして炎上するという事件があり時の大納言、伴善男(とものよしお、万葉の歌人大伴家持の子孫)が放火の犯人とされ、その罪で伊豆へ流された。恵まれぬ境遇から身を起こして大納言までなれた切れ者で、政治的野心を持っていたと思われる伴善男の失脚によって時の太政大臣藤原良房の権力が一層強化されることになったという。伴善男は、その後大赦を受けた。
その子孫の伴笹丸というものが奥州会津に住んでいた。その妻菊世と云い、二人の間に子がなかったので、子が欲しいと神明仏陀に祈ったが効果がなかった。たまたま或人が第六天(欲界六天「欲六天」の第六で欲界の最高所、この天にうまれたものは他の楽事を以て自由自在に自己の楽とするから他自在天ともいう。なお欲六天とは、四大王衆天「四王天しおうてん」仞利天「とうりてん」、夜魔天「やまてん」、兜率天「とそつてん」、楽変化天「らくへんげてん」、他自在天「たけじざいてん」をいう。)の魔王に祈れば霊験あらたかであると教えたので、その教えに従って山谷に籠(こ)もって一心に祈ったところ、妻の菊世が身重となり、承平七年(937)の秋、女の子を出産した。
幼名呉葉
笹丸は喜んでその子の名前を呉葉とつけた、後の紅葉である。成長するに従い、その天性は自ずと現れて、近隣の大人も及ばぬ賢さとなった。読み書き、算用、琴、和歌、文章に至るまで才能を発揮して評判となる。呉葉が年頃になると美貌も評判となり、やがて遠近者達の噂に上るようになる。ファンレター、ラブレターを送るものも多く中には袖を引くものも現れたが、中でも会津の里に近い安賀寿村の富豪庄屋、河瀬源右衛門の一子源吉という者は呉葉の妖艶に心を迷わし、幾度かラブレターを送ったが呉葉は一向に相手にせず手紙の封も切らずに突き返したので、源吉は日々胸を焦がし、鬱々(うつうつ)と日を送るうちに朝夕の食事さえ進まなくなり、体は痩せ衰えて床につく日が多くなったので、これを憂いて源右衛門と、妻の岩里は使用人二人(勝丞、千代平)に金百両を持たせ笹丸のもとへ急いだ。ところが笹丸は我が子呉葉は無双の美貌で殊に才気尋常ではないから、早々に都(京都)に連れて行って高官貴氏に縁づけて、笹丸の身を起こそうと平素から望んでいたので、今この若者に嫁がせれば我が思いは果たすことができないと思い呉葉に相談すると、この金をだまし取ることを考え、呉葉は第六天の魔性を現わし、私を守る神様に頼みましょうといって庭先にでて天を仰いで呪文を唱えると、一天俄にかき曇り、髪型や衣服まで寸分違わぬ一人の娘が出現した。それは身代わりの魔性娘であった。それと知らぬ使用人二人は、その身代わりの娘を駕籠に乗せ安賀寿村へ急いだ。大金が入った三人は日暮れを待って人目を忍び都を目指して旅たった。これが天暦六年五月半ばと伝えられる。 一方身代わりの魔性娘の美貌に驚く両親とともに、うれし泣きする源吉に寄り添って身の回りの世話や看病に精出したので、源吉は見る見る良くなって元気を取り戻した。数日後源吉が庭先の木に蜘蛛が、糸を張っているのを見ていると、呉葉がそばに来て「私があの糸を取り払ってきましょう。」と言って箒を持って築山に登り枝に張られた蜘蛛の糸を払うと、不思議なことに箒に絡んだ蜘蛛の糸が見る見る大きくなって、雲となり、呉葉はその雲に乗って天上に昇っていってしまた。源吉が驚いて泣き叫ぶと皆が集まってきて不思議、不思議というばかりで他に声も出なかった。千代平ふと思いついて早速呉葉の里の会津へ急いでいって見ると、家は閉じられ空き家になっていた。
紅葉が京都へ
かくて笹丸親子三人は住み慣れた会津を後に都へ行き、四条通りの旅籠(はたご)に逗留して笹丸は伍輔、菊世は花田、呉葉は紅葉と名を改めた。しばらく都に住んで小さな店でも開いて生計を立てたいがと、宿の主人に相談を持ちかけたところ、宿の主人は、紅葉の容貌が尋常でないのを見て、必ず一度は世に出て栄えるであろうと思い、彼らのために四条通りのはづれに小さな店を借りてやった。 伍輔と花田は流行の髪道具や男女の履き物などを商いし紅葉は奥の一間で琴の指南を始めたところ、紅葉の容貌が美しいのでそれを見るために買い物に来る人も多く、店は賑わい、また琴の弟子入りする者も次第に多くなって来た。天暦七年の水無月の末の頃(陰暦の六月の末は今の八月に当たる)折からの暑さをさけて大勢の人が夕涼みに四条河原に出て居たが、その中に女中を交えた五人連れの客がいて、伍輔の店の前に立ち止まって紅葉のしらべる琴の音に聞き入っていた。 
これが源の経基(つねもと)公の御台所とお付きの女中達であって、御台は、老女深見に「このような賤しいあばらやで妙なる琴の音がするのは、或いは昔由緒ある人が落ちぶれて世を忍んでいるのかもしれない、立ち寄って見よう。」と言われたので、深見がこの家の妙なる琴の音が大変気に入ったので暫時休んでいきたいが、と申し入れると、伍輔はこんなあばら屋へようこそと引き入れた。さらに一曲所望されると紅葉は、未熟の芸でお恥ずかしいですけれども一時のお慰みにと言って、秘術を尽くして弾ずると、御台始め一同感に入って聞き入っていたが、聞き終わって御台は、「琴の音を聞いて身も心も澄み渡り、世の憂きことも忘れ大変楽しい一時を過ごすことが出来ました。これをご縁に今度は我が館にお招きしたいのでその節は是非お越しください。」と言って帰って行かれた。かくて御台は帰館後、紅葉の容貌骨柄が賤しくなく、琴の調べも素晴らしいので、賤しい商家においておくのは惜しいと思い、老女深見を使わしてその旨伝えた所、伍輔親子は渡りに船と喜んでお受けしたので、紅葉は支度料を賜って腰元として召し抱えられた。
経基公のもとへ
腰元に採用された紅葉は、まめまめしく仕えたので奥方に気に入られ、やがて先輩を追い出して早くも老女の待遇を受け、自分の局(つぼね)を持ち、下女まで召し使える身分に出世した。紅葉の才気芸能は誰言うとなく経基公の耳に届くようになる、公はある日の宴に紅葉を召して琴を調べさせよと言はれた。召し出された紅葉は末席の方から、公の前に進み出て、心にかの第六天を念じつつ、今日を晴れと力一杯弾じたので、連なる人々は皆紅葉の調べに感歓した。やがて一曲終わって経基公が紅葉を側近くに召されて御盃を賜った時、経基公は紅葉の艶麗さにふと心を動かされた。其の後公は紅葉のことが忘れらず、近習の侍三谷隼人の妻である百手(ももて)を局に使わして紅葉を誘った、はじめは断っていたが、お誘いが再三に及んだので遂に御意に従った。
紅葉の転落
かくて月日を経るうちに紅葉はいつしか経基公の御種を宿したが、そうなると紅葉は御台が次第に邪魔に思われるようになって、ついには御台を亡き者にしてその権勢を奪おうと考えるに至ったのは恐ろしいことである。紅葉は局の奥深く人目を忍んで壇を設け、怪しい魔術を行って御台を調伏したので、御台は始めは風邪のような症状で床に伏したが、典薬を召しても治療をしても一向に癒らず、病は日に日に重くなるばかりであった。ある時御台は、「我が病は不思議である昼間の苦しみは我慢できる程度だが、夜の丑満(午前三時)頃になると鬼の形をした者が多数現れて自分を悩ますが其の苦しみはたとえようもなく、さながら地獄に堕ちて鬼の阿責にあっているようである、仏に祈って何とかこの苦しみから逃れられないものなのだろうか。」と言われたので、老女深見は三谷隼人と相談し比叡山へ病悩平癒を祈願する事にした。三谷隼人は家に帰って妻の百手の弟、浅田伝蔵を呼び寄せて御台の病状を説明して、自分の代りに比叡山に行って病悩平癒を祈願するよう頼んだ。この時百手は傍らで其の話を聞いて、先刻所用があって紅葉の局へ立ち寄ったところ、下女だけが居て、下女が言うには、主人の紅葉は御台様の看護のため昼夜お側に詰めておいでになりますと言ったが、その時、局の奥で奇妙な音がしたので何事かと思って下女と二人で奥に入ると、紅葉が白い上衣を着て何か祈っている様子だった。しかし紅葉の体が自分の局と御台の部屋と同時に二人いるのはおかしいことではないかと申し述べた。かく百手の弟浅田伝蔵が比叡山に行くことになり、特に大行満の律師(千日回峰を満行した偉い僧)御台の病悩を詳しく説明してその全快祈念をお願いした。律師は早速壇に登り暫く祈念をこらしてから加持符(かじふ、お札のこと)を数枚持って来て浅田に渡し、是を館に持ち帰って御台を始め看護の者一同の襟に掛けさせて病悩全快を祈りなさい。また紅葉は非常の曲者で、姿は花のように美しいが、悪鬼羅刹(あっきらせつ)の如くで、御台を害し奉ってその権を奪わんが為に邪術を行っている。早く帰って私が言ったことを経基公に伝えよと言って奥に入った。浅田は帰って三谷と相談の上、律師の言を経基公に伝えると、公は不機嫌になって暫く言葉がなかったが、やがて、「紅葉は容貌は美しいが時々眼が鋭く光ることがある。或いは律師の言う通りかもしれぬ。」と言って、三谷に加持符を御台始め看護する者の襟に付けるよう命じるとともに時を同じくして浅田に紅葉の所に行かせ、もし怪しい行動があれば即刻召し取れと命じた。三谷は御台の病室に入り、皆に律師から渡された加持符を襟に掛けて病気全快を祈念せよとの経基公の命を伝えた所、一同皆ありがたく受けたのに、紅葉は我が身に穢れがあるから身が清らかになるまでそれを預かってくださいと深見に言って加持符に手を触れようとしなかったので、三谷は殿の命に背いて加持符をつけないのは不届きであると詰め寄ると紅葉の姿がフッと消えてしまった。一方紅葉の局に向かった浅田は、奥の室で白衣を着て怪しい行動をしてた本物の紅葉を見つけて取り押さえた。経基公は、深見と浅田から以上の報告を受け、また紅葉をとらえた後は御台の寝所に夜半、鬼の姿が現れることが無くなり、食も進んで回復も近いことを知って、やはり叡山(比叡山)の律師の言う通り紅葉は非常の曲者であったかと思ったが、経基過って一度愛した者を今になって其の科をとりたてて刑に処すれば帰って自分の恥となって、世の中の笑い者になるから、どこか遠い所へ追いやって隠してしまうのが良かろう。
都追放
ついてはどこがよいかと考えるに、「隠す」に縁がある戸隠が良かろうと言うことになって戸隠山の山奥に追いやれと命じた。三谷と浅田は、伍輔、花田、紅葉の、親子三人をそれぞれ、別々の駕籠に押し込めて自分たちで警護しつつ信濃路さして落ちて行った。伍輔と花田は、我が子紅葉の働きで身も家も起そうと思った事が思い通りに行かず、親子三人縄目とは何の因果かと泣き沈んだがどうにも成らなかった。天暦三年九月末(十一月始め)のことである。やがて三人が置き去りにされた場所は、戸隠山塊に源を発する裾花川の上流の奥裾花渓谷のあたりであった。方位方角も分からない山奥であったが、水の流れに沿って下っていけば必ず人里に出るであろうと思って三人がとぼとぼと下っていくとやがて思ったとおり人里にたどり着くことが出来た。
鬼無里に
そこは今の鬼無里村の根上りという部落で当時は戸数十三戸ほどであったという。そこで紅葉は村人を欺(あざむ)いて我こそは都の者、経基公の寵愛深い身であったが、一子を宿したため御台所に嫉妬され女中や侍が相謀って私に無実の罪を着せてこの山奥に捨てたのであるが、腹に宿した子が安産して成人すれば都に帰る身であると披露した。都の人がこんな山奥に来るのはきわめて珍らしいので、里人は栗やらそば粉やら持ち寄って紅葉達に与えたので、当面食事に不自由しなかった、やがて紅葉は占いや、加持祈祷のような事をして村人の病気を癒してやったり、女子には裁縫、男子には読書算用を教えたりして次第に里人との親しみを深め、お礼などの収入も増えてきて生活も楽になっていった。世間を知らない山里の人々は紅葉を敬い尊び、其の美しさに驚いて内裏様と名付けて紅葉のために館を作って住居とした。今も内裏屋敷跡として残されている。そのうちに紅葉に子が産まれたが、それが男子であったので紅葉親子の喜びは限りなく、身の憂きことも忘れ、蝶よ花よと慈しみ、また父経基の経の字をとって経若丸(つねわかまる)と名付けた。そうして平和な年月が過ぎたが、紅葉は楽しかった京都の時代を思い出してこの地を水無瀬と呼び東京(ひがしきょう)西京(にしきょう)二条(にじょう)三条(さんじょう)四条(しじょう)五条(ごじょう)高尾(たかお)東山(ひがしやま)清水(きよみず)加茂(かも)春日(かすが)などの都の地名をこの深山の里につけて、つれづれ(たいくつなこと)を慰めた。だが、紅葉の強い欲望はこのように静かで平和な生活をいつまでも続けていくことに満足できず、やがて経若丸が成長してくるに従い、もう一度都に上り、出来れば我が子を経基の跡継ぎとして、再び昔のような栄光を手に入れたいという欲望が芽生えてくるのを押さえることが出来なかった。
盗賊に
たまたま戸隠山をめぐる十四,五里の村里を荒らし回っていた盗賊の一団があったそれらは天慶三年に平貞盛等に滅ぼされた平将門の従類であった長狭(ながさ)七郎保時、鷺沼(さぎぬま)庄司光則の子孫と名乗る鬼武、熊武、鷲王、伊賀瀬の四人と其の部下達で、逆賊とされた将門の残党であるため本名を名乗って世に出ることが出来ず、仮り名を使って黒姫山や草津の山奥に隠れ住んで鬼武を兄分として手下を集めて盗賊となっていたが彼等は紅葉の噂を聞いて、あやしい者だが興味がある会ってみようと四人揃ってやって来た。紅葉は官女の装束を着飾って敷物の上に座して彼等と対面したので、四人はまず彼女の異様を見て気後れしたが、鬼武が勇気を出して、かねて噂によれば紅葉殿には医師、陰陽師、加持祈祷を一身に持ち切って多くの人をたぶらかして金銭を取って生活しているが、経基殿の妾と称するのも不審である本性は一体何者か、我々の手下となって夜盗の手助けをするならばよし、さもなくばこの家を明け渡せと迫った。紅葉は、世にも名高い経基様の若君はここにおられる。其の母である紅葉が、おまえ達の手下などになれるかと言って両手を胸において口に呪文を唱える、忽(たちま)ち山谷鳴動し、空かき曇って、吹き来る嵐に障子ばたばたと倒れ、庭を見れば、四,五寸ばかりの氷玉に火の球が混じって降ってきたので賊戸四人は驚いて刀の柄を握りしめたが忽ち黒煙が満ちきて暗闇となり、手足がしびれて動かすことが出きず、四人は一度に倒れ伏した。紅葉は大いに笑って再び口に呪文を唱えると空は晴れ渡り黒煙も消えて無くなった。鬼武は辺りを見回して隙を見て逃げ出そうとしたが体が動かなかった。紅葉は鬼武の傍らに立って鬼武が持っていた剣を奪って、覚悟せよと喉元に突きつけると鬼武はかかる尊き姫御前と知らずして失礼を働きましたことをお許しくださいと詫びたので、汝等が紅葉に召し使われるなら許してやるというと、鬼武は、我々は主君平将門が敗れてしまった今は信濃の仮住居で盗賊稼業をして世間をはばかりながら世を渡っているので、この世の辛さを痛切に感じている。今経基公の若君に使えることが出来れば願ってもない仕合わせであり、やがて若君が花の都へ御帰還あられるならば、永久に部下としてお仕えしたいと行った。かくして彼等は家来になったが、村人達には都から迎えの者が来たのだと称し、彼等が持参した物の一部を都からの土産物と言って村人達に分け与えた。彼等は昼はおとなしくしていて、夜の間に遠く離れた村落へ出かけていって富豪の家などをおそって略奪暴行をしたが、時には里の貧しい者に施し物をしたりしていたので、里人は紅葉の富貴を羨んだが彼等の悪事には気がつかなかった。しかし村里に住んでいては何かと不便なので、紅葉達は近くの荒倉山の山塞に移り、次第に豪華な暮らしをするようになった。やがてそれとなく紅葉達の噂を聞いて手引きを求めて賊の仲間入りをする者も出て来て、手下もだんだん増えてきた。その中で目立ったのは鬼のおまんという女で、年は二十三,四才七十人力の力を持ち、生まれつき強暴で力業を好み、山から薪を切り出したり、猪猿などを打ち殺したりしてそれを売りさばいて暮らしていたが、重い物を背負って山道を上り下りする事では彼女に敵う者は居なかったので紅葉達に重用された。
鬼女
地元はさけて遠くの村落へ出かけて略奪、暴行の悪事をしていても、それらの悪事は、やがて世間に漏れてきて、誰言うとなく戸隠に住む紅葉は鬼女であるとの噂が流れ出した。父伍輔は心配して娘の悪行をやめるよう何度も説得し、もしやめなければ俺は死ぬぞとまで言ったが、紅葉は是も父上や母上に楽な生活をしていただく為と、手下共の欲に迷った行為に応ぜざるを得ないからですと聞き入れず、そのうち伍輔は病気になり、昔夫婦に子供が無かった時に第六天の魔王に祈って我が子紅葉を儲けたのは間違いだったと後悔しながらこの世を去った。しかし、噂は次第に広まり、いつしか信濃の国守の耳に入るようになって、国守からこの旨上奏されるに至った。時の冷泉帝は深く宸襟を悩ませられ、急ぎ紅葉を退治して国民の憂を除くべき旨勅定(ちょくてい)あり、朝廷は平朝臣維茂(たいらのあそんこれもち)を召して信濃守に任じ、山賊退治を命じた。時に安和二年七月のことである。この情報は早くも紅葉方に伝わったので紅葉は、鬼武、熊武、鷲王、伊賀瀬などを集めてどう対処すべきかを相談した。鬼武が言うには、此度攻めてくる維茂は平貞盛の嫡男である。貞盛等は天慶三年我等古主平将門を討ち滅ぼし、我等が祖長狭、鷺沼をも亡ぼした者であるから我々にとって旧敵である。いまその繁盛の嫡男である維茂がこの戸隠を攻めてくるとは思いがけない好機会である。去る天慶三年より三十年目に当たる今日敵に巡り逢えることは願ってもない幸運で、いわば憂曇華の花(三千年に一度咲くと言われている架空の植物)咲く春とも言うべきである。皆力を尽くして維茂を討ち取り、将門様の霊を慰めようではないかと言ったので、居合わせたものは皆賛同し、鬼武と行動を共にすることを誓った。紅葉は維茂が攻めてくると聞いて鬼武等が恐れて逃げ出すのではないかと心配していたので、この言を聞いて大いに喜び、汝等が敵と戦うときに通力で火を降らし水を出せば、敵は恐れて逃げ惑うであろうから、その時に追い討ちをかけて維茂を討ち取れと言い、早速館の四方に豪を掘り、二重三重に柵を廻らし防備を固めることにした。紅葉の母花田はこの騒動を見て、夫伍輔が末期のときに、やがてこんな大事が起こってつらい目にあう日が来ると思うが、その時は覚悟を決めて、命惜しさに逃げ惑って恥をさらすなと言ったのはこのことかと思い、経若丸を呼び、やがて紅葉討伐の敵が攻めてくるが、おまえは経基様の子だからその父を頼みにここを逃げ出し、自分には罪がないことを訴えて命をながらえ、祖父母の菩提を弔いなさいというと、経若丸は首を振り、たとえ我経基の子であっても、悪事を重ねた母の手で育てられた身であるからいまさら逃げ惑ってみても誰が救ってくれましょう。しかも経基も既に死んだと聞いている。明日にでも敵が攻めて来たらば婆様も一緒にここで死のうと言った。花田はにっこり笑い、かわいい孫よ、よう言うた。もし敵が攻めてきたら恥じをさらさずこの様に潔く死ぬんだよと懐剣で咽喉を貫いてその場で果てた。
一方維茂は早速譜代の功臣金剛兵衛政景、金剛太郎政秀、成田左衛門長国、真菰(まこも)次郎家忠、河野三郎勝永に命じ、軍備を整え、総勢二百五十騎夜を日に急行し、信濃国の出浦の郷(現在の上田市塩田)に着いて守護の館の入った。そこで維茂は先づ戸隠の地理を知っている土地の若者を選んで紅葉の巣窟へひそかに斥候を入れてその報告を待つこととしたが、その時、近くの七久里の里の数箇所の温泉が湧き出していることを伝え聞いた老臣金剛兵衛が、維茂に物見が帰って来る迄の数日間を無駄に過ごすのはもったいないから温泉に入って長途の旅の疲れを癒したらと勧めたので、維茂も尤もと思って非番の兵を連れて七久里の湯(現在の別所温泉)に入浴し、その時次の歌を詠んだ。
七くりも八くりも返しゆあみして 身も心も清めつるかな
五日後に物見の者が帰ってきたので維茂は守護の館に戻ってその報告を聞いたが、敵は厳重な防備を固め抵抗の構えであることを知って大いに怒り、「我勅命を奉じて下向せしと聞くならば、前非を悔いて走せ来り、命乞いをもなすべきに、我と争わんとは身の程知らぬ物共なり。いで討ち破って国の憂いを除くべし。」と部下の河野三郎、真菰次郎を召し、兵百五十騎を与えて攻撃を命じた。河野、真菰の両名は裾花川の沿った道を進み、その上流にある紅葉等の篭もる山塞を正面から攻撃しようとしたが、裾花川の深みに掛かる藤橋のあたりまで進んだ時のこれを迎え撃つ紅葉方との間に戦斗が始まると、突如として谷鳴り出して大風あたりに吹き、一天俄かにかき曇り、火の雨どっと降り来ったので官兵あっと驚くや、足元俄かに洪水となったので、度を失って一斉に退却した。
この旨老武者江上四郎によって塩田の本陣に注進されると維茂は、これは天災地変ではない、賊の幻術であろうと成田左衛門、金剛太郎に応援に行くように命じた。両名は裾花川に沿った道を進まず、間道を通って山の尾根伝いに樹間を通り抜け敵の巣窟に近寄り、夜明けを待って一気に岩屋へ押し寄せ、柵を討破って一気に攻め込んだが、戦況が紅葉方に不利になってくるとまたもや山谷忽ち鳴り出し、暴風吹くと同時に一転俄かに掻き曇り、氷球火玉が降って来た。これは幻術によるものだから驚くことは無いと自らに言い聞かせてなおも強引に切り込むと、忽ち四方八方暗夜の如く暗くなって敵も見方も見分けられず、洪水頻り(しきり)に押し寄せてきたので流石の成田、金剛、河野、真菰も驚いて引き上げざるを得なかった。
再度敗北の報を受けて維茂は大いに怒って、如何に妖術に長けたりともたかが女の業、無二無三に討つ時は妖術は摧(くだ)けて行われぬ筈、いで維茂自ら打ち向かい、一踏むに踏み破らんと言えば、金剛兵衛これを諌(いさ)めて、「紅葉の妖術は学び伝えたものではなく生来備わっているもので、姿は女であっても心は羅刹鬼神であるから、これを討つには神明仏陀の力によるべきでしょう。」と言上すれば維茂早くも悟り、「我この出浦(でうら)に来て見ればここに天台の梵刹有り。殊に霊応あらたなる北向観音がましませば、この観音の力を頼み、妖賊紅葉を調伏せん。」といえば、金剛兵衛は、「昔、日の御子の神武天皇が日の光を脊にして北に向かって長髄彦を攻め滅ぼしたように、今此の北向観音に帰依し、その霊光を後に背負って、此所より北に位置する紅葉の巣窟を攻めるなれば、一挙に賊を亡ぼしましょう。」と賛同した。
北向観音の通力
かくて維茂は金剛兵衛を従えて急ぎ北向観音に参籠して紅葉の妖術破滅を祈り、十七日の満願を迎えたが、翌朝暁に霊夢を見た。それは白髪の老僧が維茂の手を取って「来れ」と言うので、ついて行くと戸隠山の上空まで雲に乗って連れて行き、空から紅葉の巣窟を見せ、四五寸程の短剣を出して、「これは降魔の剣であるから是で紅葉を討て」と言って維茂に授けたという夢で、目が覚めた時、その剣が維茂の手中にあった。維茂は帰館し、前二回の敗北は賊紅葉の妖術によるもので汝達の不覚によるものではないと兵達を慰め、また金剛兵衛は、主君維茂公は北向観音に参籠されて不思議な感応を得られたから、もはや賊の妖術を恐れることは無いと彼等を励ました。かくて維茂は全軍を率いて紅葉討伐に向かったが、川の流れに沿った道は要害を通るので、先に援軍として派遣した成田、金剛と同様に山の中の間道を抜けて密かに進み、山塞の直前に出て一挙に攻撃することとし、成田、眞菰、河野は正面から、維茂と金剛兵衛は裏手から攻撃することとした。
是に対し紅葉方は先ず伊賀瀬、鷲王を頭とし、一の木戸で、大木、巨岩等も使って防ぎ、それが破られた場合には二の木戸に退いて、一の木戸と二の木戸との間に進入した敵を両木戸の間に封じ込め、袋のネズミのようにして妖術による火水の助けを得て全滅させる作戦を取った。やがて戦斗が始まると先ず一の木戸が破られたが、維茂方は柵を全部打壊して壕へ投げ込んで壕を埋め、立ち木を倒して橋とし、進退自由な体制をとって、二の木戸へ攻撃をかけて来た。表の木戸を守っていた伊賀瀬は戦況が思わしくないので、自ら紅葉の居る奥の間に走り込んで来て状況を報告し、妖術による火水の助けを要請した。
紅葉敗れる
紅葉はカラカラと笑って、では術を行ってやろうと言って壇に登り術を行ったが、風も無いのに紅葉の居る密室の数百の燈火が一斉に消えたので、はっと驚き、これは不吉の兆ではないかと疑ったが、不安な気持ちを抑え、随従に命じてもう一度点火させるとそれもそばから次々と消えていった。やむを得ないのでそのまま秘文を唱えると、紅葉の体が寒気だって来て壇からはたと下に落ちた。鬼武に助け起こされ、今こそ大事な時だからと励まされて再び壇上に上ったが、身体氷のように冷え渡ったのでいたたまれなくなって壇より降り、鬼武と、伊賀瀬に対して、「我に火水の通力行われなくなった以上、この城は陥落するであろう。ついては汝等は早く逃げ去れ。自分は後から雲を呼び、空中を飛んでこの城から脱出しようと思う。」と覚悟を述べると、鬼武はたとえここを逃れても一時凌ぎに過ぎず、所詮助かる命とは思えない。今維茂が手勢まで繰り出してこの山塞を取り囲んでいる所を見ると、維茂の手元は案外手薄と考えられるから、我等二人秘密の抜け穴を通って敵方の囲みの外に出て後方にある維茂の本陣に近づき、一太刀恨みの刃を浴びせてから討死にしたいと言えば、紅葉はこれを許し、急げと命じたので、二人は土民の姿に身をやつし、短刀を隠し持って抜け穴から出て行った。経若はこの場の様子を陰から見ていて、もし敵が攻めてきたら恥じを欠かずに清く死ねといった祖母の花田の言葉を思い出し、今こそ我も死なんと思い、室から密かに抜け出して庭に行き花田を埋めた塚の前に座して死んだ。
鬼武、伊賀瀬は抜け穴を出るとすぐ、穴の入り口を木の枝等で隠そうとしたが、運悪くそれを金剛太郎に発見されたので、「我々二人は麓の貧しい土民であるが、紅葉の手下の賊共に娘を奪われたのでそれを取り返しに来たのだが防備が厳重で中に入れない。どうか早く賊を討ち取って娘を助け出してください。」などと偽って逃れようとしたが、金剛太郎に「怪しい奴だ、逮捕する。」といわれたので隠し持った短刀を抜いて切りかかったが、その場で討ち取られ、そのうえ山塞の内と外を結ぶ秘密の抜け穴まで相手方に知られてしまった。金剛太郎は、紅葉が居る奥の庭面に通じている抜け穴を発見したことを維茂に報告すると、維茂は大いに喜び、脱出しようとした賊徒が我々に秘密の抜け穴を教えることになったのは観音様のお引き合わせである我に続けと言って主従二十五騎が直ちに攻め入った。紅葉は鬼武、伊賀瀬を送り出した後も益々体が冷えて来たので女達を集めて酒など飲んで体を温めていると、維茂主従が発見した抜け穴を通って紅葉の居る山塞の奥の庭へ進入して来たので、紅葉の側近等は驚いて逃げ惑った。紅葉はすぐに立ち向かおうとしたが、その時維茂が、北向観音から授かった降魔の剣を矢の根(矢尻)にした矢を射るとそれが紅葉の右肩に当たったので、紅葉はもはやかなわぬと観念し、本性を現して、鬼の姿となり、雲に乗って空中に舞い上がり、怒れる目で睨みつけながら維茂めがけて火焔を吹き付けて来たが、このとき不思議や天井から金光さっと照り、それが鬼神の頭に触れると、鬼神は忽ち魔力を失って空中にいたたまれず、地上にどっと落ちて、ついに維茂に討ち取られた。維茂は、そこに居合わせた紅葉の側近等をすべて捕らえて部下に時の声を三度上げさせたので、表の木戸を守備していた賊徒らはそれを聞いて既に山塞の裏木戸が破られたことを知り気落ちして浮き足立ったところを、表の木戸を攻めていた、成田、眞菰、河野はこの時とばかり激しく攻め立てたので、遂に木戸は破られ、そこを守っていた鷲王、熊武は敵(かな)わじとしって逃げようとしたが、深手を負って捕らえれれた。
他の賊徒等も中には逃げ延びたものもいたが、多くは討たれたり、捕らわれたりして戦いは終わり、維茂は成田に命じ、勝軍(かちいくさ)の式を整え諸卒一同鬨(とき)の声を上げた後、自ら南の方角にある北向観音に対して再拝し、一首を詠んだ。
頼みつる北向山の風さそひ あやし紅葉はとく散りにける
是ぞ案和二年(969年)十月二十五日(11月末)紅葉三十三歳の時であった。
鬼のおまん
かくて維茂は成田左衛門を召して、妖怪紅葉並びに賊徒退治の次第を急ぎ京都へ奏聞させた。なお鬼のおまんはけなげにもより来る敵を切り払い、従う手下と共に逃げ延びてあちこち隠れていたが、紅葉始め大半の仲間が討ち取られたのを知って所詮助からないと観念し、どうせ助からないのならば捕らわれて憂い目を見て死ぬよりも淵瀬へでも身を投げて果てた方がよいと考え、その前にこれまでの悪事を懺悔して後の世の苦愚を薄くしたいと思い、善光寺の御堂に忍び込んで夜の闇にまぎれて救け給えと念じていた所、たまたまおまんを知る人が居て、「おまえはお尋ね者になっているからこんな所に居ると召し捕らわれるぞ」といったのでそこを出て死に場所を求めつつ山野をさまよい、遂に戸隠の寺坊に辿り着いて、「私は岩屋の紅葉に組した罪深いおまんという者であるが、せめて今から仏門の弟子になってわが罪を少しでも軽くして死にたい」と涙を流して頼んだので、住僧寛明(かんめい)は哀れに思い、得度の式を整え、三帰五戒(三宝即ち仏法僧に帰依して、殺生、偸盗(チュウトウ ぬすみぬすむこと)、邪淫、妄語、飲酒の五種の禁戒を守ること)を授け、髪を剃り落とし、有り合せの袈裟と衣を与えたので、おまんは深く歓び、三拝九拝し終って、隠し持った懐剣で喉笛を刺して果てた。寛明は事の次第を訴え出て、罪人であるおまんを仏門の弟子にしてその自滅を許した自らの罪を謝し、罪を受けんと申し出たが、維茂は寛明を許したので、寛明僧都は寺坊に帰り、おまんの長髪を箱に入れて仏間に置き、朝夕その菩提を弔った。この時に剃り落としたおまんの髪は戸隠権現の別当勧修院(現、久山旅館)に修められ、おまん坊の毛として伝えられている。今は久山旅館近くにある足神さんがその墓である。
 

 

 
鬼女紅葉 2

 

937年(承平7年)の秋、伴笹丸(ばんささまる)とその妻菊世が子供が居ない事悲しみ、「大六天の魔王」に祈願した結果、この世に生を受けた。大六天の魔王、正しくは他化自在天と言い、仏教で説く6つの欲望の世界の王で人間の欲望を支配する外道の神とされていた。2人は生まれた女の子を呉葉(くれは)となずけ、呉葉は才識兼備の美しい女性に成長し、紅葉と名をあらため京にのぼる。
953年(天歴7年)に源経基(みなもののつねもと)の御台所(正妻)が紅葉の琴の演奏を耳にとめ、1曲所望される。この時紅葉は大六天を念じつつ秘術を尽くして弾き、紅葉の演奏を気に入った御台所は後日、紅葉を奉公人(使用人)として屋敷に招く。やがて、紅葉は主人(経基)の目に止まりその寵愛を一身に受ける事になり、経基の子を宿し、彼女は自分が正室となるために御台所を呪い殺そうとするが、下女にその姿を見られてしまう。紅葉は御台所の側で看病しているのに、彼女の部屋の奥から物音が聞こえてくるのを不審に思った下女がのぞいてみると、壇(だん)を設け白い上衣をきた紅葉が何やら祈りを上げていた。そして、側使用人の三谷隼人が配下の者を引き連れ、御台所の側に居る紅葉を捕らえようと、かき消すようにきえてしまい、奥の部屋に居る紅葉の方はあっさりと捕らえられた。そして彼女は、鬼無里の里の一夜山へとついほうされる。
初めの内は、麓の村に自分は無実の罪でここに流されたのだと訴え、時にはその力で病人を治してやったりして、生き神様とたたえられていた。やがて、経基の子を産みその子を経若丸となずけた。この頃、再び紅葉は鬼としての本性をあらわしはじめ、男姿に身をやつし夜な夜な麓に忍び出て何十里も離れた富家に忍び込んでは金銀財宝を盗んでいた。そして、紅葉のうわさを聞きつけた平将門の家臣の子孫と言われている鬼武、熊武、鷲王、伊賀瀬らに率いられた盗賊団が彼女のところにやってくるが、逆に紅葉は妖術を使い彼らを自分の配かにしてしまいます。
そして、近隣の村村を荒らしまわり、京から討伐軍が派遣される事になります。討伐軍を率いたのは、平維茂(たいらのこれもち)ですが、山に立てこもった盗賊団と紅葉の妖術の前に敗れてしまい、紅葉を破るには武力だけではなく神仏の力を借りる必要が有ると思い、出浦の里にある常楽寺の北向観音に戦勝祈願をすることにした。
7日間、北向観音に参籠(さんろう)して満願の日、白髪の老僧が夢に現れ、雲に乗せて呉葉の住処を隈なく案内してくれ、「これぞ降魔(ごうま)の剣なり」と四、五寸(12〜15cm)の小剣を彼に持たせたところで夢から覚める。夢が覚めても彼の手には夢の中で渡された降魔の剣が握られていた。そして彼は、再び部下を率いて紅葉討伐に向い、降魔の剣の力により妖術を封じられた紅葉は討ち取られた。
維茂は、降魔の剣を矢の根とした白羽の矢を、紅葉めがけて放った。矢は紅葉の肩に刺さり、本性をあらわした紅葉は巨大な鬼神となり空中に舞いあがり、口から火を吐き、眼光を輝かせて維茂をにらむが、その時、天から金色の光が射し込み、鬼女の頭 部に触れた。これにたまりかねた鬼神が地面に落ちてきた所を武将達の刀に体を刺し貫かれ、維茂がその首を切り落とした。こうして、鬼女「紅葉」は討ち取られた。 
 
鬼女紅葉 3

 

それは、平安時代の中頃、朱雀帝承平7年秋11月、奥州会津の貧しい暮しの笹丸、菊世の夫婦に、それはそれは愛らしい女の子が生れたそうな。お七夜の晩に女の子は呉葉と命名された。
両親の深い愛に守られ、呉葉は愛くるしい上、とても利発な娘に育っていった。幼い頃から、読み書きを覚え、いろりの灰に字を書いたり、かかさんから聞き覚えた物語をそらんじ、両親の目を見はらせた。
また、母の膝の近くで、縫事を覚え、その針の運びは母の菊世を驚かせた。両親は貧しい中から金子を工面して琴や和歌を習わせた。呉葉は何をやっても、その上達ぶりはみごとで 「ただ物覚えがいいっつうだけじゃなし。別ぴんさんだし、だが、ただの別ぴんさんじゃあなく、気高さちゅうか、気品があるわいね。呉葉はただ者じゃねぇぞ。そう、つぅ、ことは親もただ者じゃなかろう」 と世間ではうわさし合った。
母の菊世は針仕事の手を休めては 「今はうらぶれた身ではありますが、わが一族はかつて都で永く位の高い役人でありました。が、御所の応天門が炎上した事件に巻き込まれ都を追われる身となったのです。いつか、都の地に帰りたいと、ととさんはきっと思っておいででしょう。その時のために呉葉、学問や芸事を身に着けましょうぞ」 と呉葉にくちが酸っぱくなるほど言い聞かせた。
都に上る夢を呉葉16歳の夏、天暦6年6月に実行したのだった。
京へ上った親子は、父を伍輔、母を花田、呉葉は紅葉(もみじ)と名を改めた。親切な人にも出会い、その人の紹介で四条わたりの町はずれに一軒の小間物屋を開いた。屋号を「鈴屋」と呼び、そこで紅葉は琴や針仕事や習字を子どもや町娘に教えたそうな。
鈴屋の看板娘紅葉の、都の姫方と競っても負けないほどの気高さは、たちまち京の町のうわさとなってひろがっていった。特に琴の腕前は優れていて、紅葉が琴を弾けば、ウグイスはその音を止めてしまうとか。また夏の蒸し暑い日に弾けば、聞く者みんな、なんとなんと、自然に涼しさを感じるそうな。
ふとしたことから紅葉は宮廷の守護役の源経基の御台所に見出だされ、その腰元となった。琴の名手である紅葉のうわさは経基の知るところとなり、琴がとり持つ縁で経基の側室となった。やがて経基の子を宿したが御台所との確執に「紅葉は妖術でもって御台さまを呪い殺そうと企んでいる」との疑いがかけられ、信濃国の水無瀬(今の鬼無里)へ追放となった。
そこは草深い里で、西に山を背負い、前を裾花川が流れていた。今の内裏屋敷に紅葉は両親とわずかな供と一緒に入ったのである。そして、そこで経基の子を生んだ。男の子であった。父親の一字をとり経若丸と命名された。
水無瀬の里での紅葉は、はるかな都をしのび、やがては経若丸を連れ、経基との親子の対面をしたいもの、それには経若丸を立派に育てねばと、子どもへの養育をおこたらなかった。叶うことならば仕官を、と願い、京に使いを何度となく出したが、経基からの返事はなかった。
そうした間も、紅葉は里の人々に裁縫や読み書きそろばんを教え、病に苦しむ者あれば妙薬を与えたりしてとっても喜ばれ崇められていたそうな。
ある日、京よりの使者として、平維茂が信濃入りをした。紅葉の喜びは大変なもので、酒宴を開き、それはそれは、厚くもてなした。が、紅葉はその席で初めて経基が10年以上も前に他界していたことを知った。
「維茂さま、経基さまの後をうけ任にあるご子息の満仲さまに仕官のこと、どうぞ、おとりなしを」 紅葉は必死に頼んだ。
「今の京は荒れており、経若丸さまはこの里で暮すがお幸せかと。満仲さまも御台所さまの手前、あなたさまが考えるようなわけにはいかないと存ずる」 と、維茂は言いながらも、酒の酔いの中で(紅葉殿のよきようにしてやりたいが、どうしたものか)頭をかかえる維茂であった。
その後も維茂は紅葉の館に出向き話し合ったが、経若丸の末を思うあまり言い放つ紅葉の言葉に、鬼心を見た思いがした。
維茂はいったん京に帰り返事をすることを約束し、信濃を去ったかに見えた。が、別所の七久里に着き、ここで、京の満仲の元に使者を飛ばし、紅葉との交渉の経過を報告、断を仰いだ。その頃、紅葉は京の楽しかった日々を経若丸に語ってきかせていた。
平維茂のことも紅葉は、「維茂さまは、剛胆にて沈着、武勇にすぐれ、その上礼節も正しく、情愛も深く花も実もあるお方です。きっとよきようにおはからいくださるでしょう」 と、そんなふうに言った。
当の維茂は郷里の越後に帰る道すがら、満仲から紅葉の説得を頼まれ軽く引き受けたが、ここまでくると引き下がるわけにはいかなかった。その上七久里に、満仲から、家門を乱す怖れあり紅葉一家を滅ぼしてほしい、との依頼状が届いた。維茂は引き下がるわけにいかず、とうとう紅葉討伐に腰を上げた。
維茂が去って20日目の明け方、紅葉は突然の乱入騒ぎに気付いた、が、時すでに遅く、紅葉は、つわ者どもの刃のさびとなって果てたのである。これを知り経若丸は、館を抜け出して祖父母の土塚の前に座り、自らの命を絶ったのだった。
解説
紅葉に関する説話は、古くより今日まで数多くある。今昔物語、太平記、謡曲「紅葉狩」「北向山霊験記」。それに、戸隠の荒倉山を中心として多くの遺跡と遺物が存在するが、いずれも紅葉は魔性を身に付けた「鬼女」であると伝えている。
しかし、鬼無里では、京の官女として貴ばれ、尊敬され、里人のために裁縫、読み書きそろばん等を教えた「貴女」として伝わっている。
再話では紙幅の都合もあり、紅葉の出生から、子を思う母性愛を主とした。が、地名や神社創立の伝承を読み取るうち、紅葉伝説には密かに隠された別の真実のあった気配を感じる。それには鬼の正体を知らねばならないし、紅葉の語源にも迫りたい。きっと意外な真相が見えてくるであろう。期待感を持って鬼無里、戸隠を訪ねてみた。
鬼無里には何回か足を運んだ。1回は、元信濃毎日新聞社報道部の丸山祥司さんが、いろは堂というおやきの店のお母さんをご紹介くださった。
お母さんは、水無瀬の里で穏やかな日々を暮した紅葉の化身かと思われるような、容姿も物腰もそれは美しく、つつましやかで、なおかつ、情の深いお人柄であった。
さて、いろは堂の庭の先には水量豊かな裾花川が流れている。裾花川は古くは煤(すす)花川といった。ススバナとは、濯(すす)ぎ(洗う)生む処と読める。スソバナは、鉄濯ぎ(洗う)生む処と読め、ススバナとスソバナは同訓同義語である。ついでに鬼無里は、鉄生みの城と読める。鬼無里の古名水無瀬はというと、水鉄生みと読める。つまり砂鉄生みの意である。前出の語源を証明するかのように、裾花川の砂鉄量は多いのである。地名を付けた先人方はきちっと真の意味をとらえていたのである。
鬼無里には京の都になぞらえた、東京(ひがしきょう)、西京、高尾、東山、清水、二条、三条、四条等の地名がある。これらは、紅葉が京を懐かしみ名付けたとの伝承もあるが、紅葉が生きたとされる10世紀以前すでに都人が鬼無里に入っている伝承がある。
1日影地区の小高い所に白髯神社がある。社歴によると、西暦685年、天武天皇がこの郷に皇居を移そうとして、その鬼門にこの社を創立したという。
2西京の春日神社も、やはり天武天皇が遷都の地検分のため三野王(みぬの)が来村し創建したとある。
3紅葉が都から来て直に入ったといわれる今の内裏屋敷の裏山には「月夜ノ陵」という墳墓がある。やはり天武天皇時代に地形検分に来た皇族(三野王の墳墓かは不明)が客死したという伝承を持つのである。
1に興味をいだくのは祭神が猿田彦命であるということである。李寧熙先生はサルタヒコを砂鉄の地を祈る子(男子の祭祀者)と解いておられた。白髯神社の下の方に砂鉄の採れる裾花川が流れている。
2の春日神社で興味のあることは、この神社は裾花川と天神川の合流点に位置する。こうした場所には砂鉄がよく集まるそうである。
3の「月夜ノ陵」で心ひかれるのは、月夜である。
月は古代、製鉄炉(露天たたら)の象徴だった。三日三晩燃え続ける火は遠くから月のように見えたのでは、との説もある。月は一ヵ月たつと再びめぐってくるものであるし、鉄もまた再生できるとの認識から製鉄炉の象徴としての「月」があったのではないだろうか。
「夜」は、李先生によると上・古代の韓国に「穢(ええ)」と呼ばれた製鉄の部族国家があり、早期に日本に進出。日本の古文献の「ハ」や「夜」のつく神名、地名、人名は「穢」との関わりがあるそうである。
「月夜ノ陵」に眠る主は、穢(ええ)系の製鉄技術者という推測もできるのである。
鬼無里の地名、神社等の伝承や語源を洗えば製鉄(鍛冶を含む)に繋がる。そうした事柄から見えてくることは、鬼無里は上古代には名だたる鉄処であった、と考えられるのである。
さぁ、表題の「鬼女紅葉」とは? 隠された素性があるのだろうか、そしてどんな意味があるのだろうか。
もしも「鬼」の絵を描くとすれば、まず頭に1本か2本の角を描き、眼は厳しくランランと光り、くちは裂け、全身は真っ赤で筋肉はこんもりと発達している。そうそう忘れちゃいけないわ、虎皮のふんどしと、いぼの沢山ある金棒も描かなくてはね。
日本の鍛冶師(かじし)の守り絵図の鬼は、鍛冶師の向こう槌を打つ。鍛冶屋さんと最も息の合う相棒である。また、韓国の鬼も鍛冶屋で正しくは「たたき屋」であったそうで、金棒は熱い鉄のかたまりを叩くハンマーを指すと李先生は言う。また、虎の皮のふんどしは火に強いそうな。虎は日本に棲息していないところをみると、「鬼」は渡来の鉄の精錬師であったろう。厳しい表情から仕事への真剣さが伺いしれる。
さて次は「紅葉」であるが、生身の紅葉を解く前に戒名を見てみよう。
鬼無里の松巖寺には、小さな五輪の紅葉の墓がある。戒名は、「竈厳紅葉(ふがんこうよう)大禅定尼」という。「竈」の一字を調べると、「竈(かま)」はくどであり、へっついである。また、竈将軍といえば、一家の中で思うままに権力をふるう人のことである。戒名には当人の生きざまがよく刻まれるところから、「竈」=「製鉄炉(鍛冶炉も)」の等式が考えられる。紅葉は宮廷から派遣された人物で、美しく教養もあり、なおカリスマ性をも持つ鉄処の管理者であったろう。
紅葉は都から追放されたのではない、鉄処の管理者なればこそ、里人が用意したとされる屋敷に直に入れたというのもうなずける。
紅葉は会津に居た時は呉葉といった。紅葉の名は、京に来てからとも、信濃に来てからとも言われているが、語源に迫れば様々なことが見えてくるのである。まず呉葉は本名で紅葉は討伐命令が出てからのニックネームではなかったかと考える。そして、ナゼ紅葉が討伐されねばならなかったのか、すべての重大な答えは「もみじ」の語源にある。
李寧熙先生は韓国語のモッミチ(行き届かない、または及ばないこと)が日本に来て「もみち」→「もみじ」になったと言っている。
鉄処の女親分の仕事は、砂鉄を沢山漉し精錬し大量の農具と武器の生産性を上げることであろう。だが、
生産能率が悪かったか、鉄の流用でもあったのか。管理者落第の烙印を押され、宮廷で「もみじ」とあだなされた。平維茂は紅葉に、「身分を去れ」と説得にやって来たが、紅葉は拒否したため討たれたのではないだろうか。
真相を隠すために御簾を掛けたが、御簾の間から透けて漏れる真実もあった。表題の物語の発生はそんなところにありはしなかったかという思いが強い。また、紅葉伝説を訪ね戸隠の志垣の鬼塚も訪ねた。謡曲「紅葉狩」では、打ち落とした鬼女の首は重すぎて都に持ち帰ることが出来ず、首を埋め墓を建てたそうな。志垣は鉄磨ぎ城と読める。裾花川近くにある柵地区のしがらみを広辞苑で調べると、水流を塞き止めるために杭を打ち並べこれに竹や木を渡したもの、とある。きっと鉄に関係あると見ていたが、砂を塞き止める仕掛けが「しがらみ」とわかった。紅葉伝説のある所の地名の語源も鉄と繋がる。
 
鬼女紅葉考

 

紅葉とは何者か  
鬼無里に伝わる別の鬼伝承
鬼無里が「まつろわぬ民」の地であった── それを如実に語る伝承が、鬼無里に残っている。それは先に少し述べた、「鬼無里」という地名の由来説話である。その内容は次の通りである。
壬申の乱に勝ち、律令国家の体制を固めていた天武天皇は、信濃に遷都することを計画した。そこで、三野王(みののおおきみ)という皇族が派遣され、その三野王が選び、図面を提出した場所が水無瀬だった。しかし、これを嫌がった水無瀬の鬼達は、その候補地の真ん中に山を置いて塞いでしまった。遷都計画を邪魔された天武天皇は、蝦夷征伐で名高い阿倍比羅夫(あべのひらふ)を派遣して、その鬼達を討ったという。それにちなみ水無瀬の地は「鬼無里」と呼ばれるようになった、というものである。突拍子もない話だが、天武天皇の信濃遷都計画自体は日本書紀にも明確に記されていて、三野王が派遣され、図面を献上したことも書かれている。また、その後に再度信濃に使者を遣わし、近隣の温泉地に行幸するための一時的な宮作りを命じたことも記されていて、まるっきり荒唐無稽な話でもないのである。
遷都伝説の伝承地
この話からすると、鬼無里とは紅葉以前から鬼の跋扈する土地だったらしい。鬼とは繰り返し述べてきたように「まつろわぬ民」の象徴なのである。しかも、ここでは征夷で有名な阿倍比羅夫に討たれている。これは鬼無里がもとより「まつろわぬ民」の根拠地であった証左であろう。
なお鬼無里には、その鬼が一晩で作ったという作った一夜山という山をはじめ、この信濃遷都にまつわる伝承地がいくつもある。先に述べた、加茂神社も、派遣された三野王が「加茂大神宮」の称を与えたといい、勅使の館を置き、それによってこの地を「東京」と呼んだという。同じく紅葉が建てたという春日神社、春日神社のある「西京」も同様に遷都伝説に由来するものだという。遷都に由来する神社としては、新都の鬼門鎮護として建てられた白髭神社という神社もあり、平維茂が紅葉退治の折に戦勝祈願をした神社でもあるという。その他、遷都伝説に由来する場所として印象深いのは「月夜の陵(はか)」と呼ばれる墳墓で、遷都候補地調査の際、この地で客死した皇族某の墓と伝わる。この墳墓は、内裏屋敷のすぐ裏手の山にあり、ほとんど同一の場所である。また一説によると、月夜の陵は紅葉の侍女「月夜」の墓で、よく仕えたが夭折してしまったため、紅葉がその死を悼み、手厚く葬った場所ともいう。ほか、紅葉が京を偲んでつけたという地名には遷都伝説にも関わっているものが多い。紅葉が住んだ内裏屋敷にしても、そもそも遷都計画の際に定められた内裏の場所であったという。
紅葉と鬼無里の遷都伝説
このように、鬼無里の遷都伝説は微妙な現実味を伴い、不思議な感じがするが、こうして俯瞰してみると、遷都伝説にまつわる地は、大方同時に紅葉伝説にまつわる地であることが分かる。これはまことに奇妙なことだが、その一致のしかたはさらに奇妙である。遷都伝説において皇族やその行動にちなむものが、ほとんどそのまま紅葉とその行動にちなむものになっているのだ。これを端的に見るならば、紅葉が皇族と同一視されてしまっているということになる。もっとも鬼無里では紅葉を官女であったもとし、貴女と呼んでいるくらいだからまったく故なきことではない。後世、異なる二つの伝承が部分的に混同された結果だといえばそれまでだが、完全には混同されることなく重複して伝わっているというのも奇妙な話である。思うに、この二つの異なる伝承の間には何か関連する事象があったのではないか。単純に考えれば、追放の憂き目にあった紅葉が、たまたまこの地にあった皇族客死伝承と自分を結びつけて生き延びようとしたか、村人の側で勝手に結びつけて神聖視したなどということがあろう。しかしそういった一時的・表層的なつながりとは思えないような根の深い結びつきを、二つの伝承は示しているように思われる。では、遷都計画の際に鬼無里で没した皇族某の血を引く者であったというのはどうだろうか。紅葉を地元の出身とする伝承もあるし、遷都伝説で「鬼」と呼ばれた土着民と交わって生まれた子孫であれば、一方で官女と呼ばれ尊ばれつつ一方で鬼と呼ばれて官軍に討たれたという両面性にもつながる。その子孫が流れ流れて会津に暮らしており、紅葉の代になって京に上るも追放されて祖先の地に帰ってきたのかもしれない。あるいは、紅葉が土着民と交わった皇族某の子孫と再婚したという可能性もある。
八面大王再考
再婚、ということで思い出すのは、八坂村の紅葉鬼人の話だ。彼女は安曇野の八面大王と結ばれて、金太郎を生んだ。この紅葉鬼人が紅葉と同一人物ならば、経基から追放されて後の再婚ということになる。八面大王は、坂上田村麻呂に討たれた鬼であり「まつろわぬ民」で、皇朝と反する立場だが、土着豪族安曇族の末裔とも言われている。安曇族は古代日本にやってきた海洋民族とされ、賀茂氏と同じように一方で皇朝にも仕えつつ、一方で全国に移住し、その移住地には安曇の名が残っている。八面大王が根拠地とした信州安曇野はその代表的な例だ。八面大王を「やめのおおきみ」と呼び、地方豪族ながら由緒ある一族としての誇りを持っていたというような説もある。実際、安曇族は皇室とも並ぶ古く由緒のある一族である。もしかすると皇朝以前に「大王」とされるような尊き一族であったかもしれない。皇朝支配が全国に及ぶ前の時代には、特定の地方の「大王」であった可能性は十分にあるだろう。信濃が皇朝の枠組みの中に入ったのは西国に比べれば後のことなので、そこそこ後の世まで皇朝支配に組み込まれていない地方の「大王」の政権下にあった可能性はある。八面大王の伝承は、安曇族かどうか分からないが、そうした地方の「大王」の最後の抵抗を物語るものかもしれない。
紅葉伝説の真相
鬼無里の遷都伝説にまつわる鬼退治も、そうした地方政権の抵抗と敗北の伝説化と思われる。少なくとも「まつろわぬ民」の征服譚ではあろう。史実とされる天武天皇の信濃調査も、「まつろわぬ民」の鎮撫が目的で、別の政権の「都」を征服せんがためであった可能性もある。本当は「まつろわぬ民」達の「都」であったものが、皇朝により滅ぼされ、世を憚りつつもその誇りを伝えていこうという意志の結果が、「遷都」という伝説を生んだのかもしれない。かつてここに我々の祖先が築いた都があり、我々はその都人の子孫であるということこそ、遷都伝説が伝えられた真の意図かもしれないのだ。月夜の陵の主はそうした地方政権の支配者の墓かもしれないし、鬼無里の「都」の滅亡後、監視役として留まった皇朝の皇族なのかもしれない。後者だとしても、村人に丁重に扱われてきたことを考えれば、やがて土着化していったものと思われる。紅葉のように、土着民を慈しんで、皇朝の文化を伝えたのかもしれない。それであれば、後に紅葉の伝承と重なるということもあり得る。
やがて、安曇野で地方政権の最後の蜂起があった。そのとき、間接的にかもしれないが、八坂村や鬼無里村も八面大王に協力体制を取ったのではないか。あるいは、八面大王討伐後の落人を匿ったのかもしれない。落ち延びてきた八面大王の親族が、紅葉であり、紅葉は鬼無里の人々の協力を得つつ、再戦に備えたが、村人を巻き添えにするに忍びなく、郎党のみ引き連れて荒倉山の岩屋に陣取った。が、結局は皇朝の軍に敗れた。あるいは滅ぼされた八面大王の親族が、再起のためか復讐のためか京へ潜入した。やがて産鉄の民とのつながりを求める源氏との関係を構築するに至るが、源氏としてもリスクが大きいため、結局関係は切れてしまった。そして故郷あるいは後援者のいる鬼無里にて力を蓄え、荒倉山にて再蜂起を試みるが、やはり敗れてしまった。だが、その子孫は生き延びて、やがて様々な因縁と利害から源氏の棟梁直属の部下となった。それが金太郎、坂田金時である。
鬼無里の義仲伝承
紅葉伝説の真相とは、以上のようなものだったかもしれない。無論これは散在する伝承を筆者が組み上げた素人の推測にしか過ぎないが、紅葉伝説は、ただの空想、おとぎ話ではないのは確かだろう。まず山姥的な太古神の零落、女性中心の太古の呪術宗教の零落譚であることは間違いないだろうが、それ以上に、何やら妙に現実味を帯びた政治的・歴史的背景を感じ取らずにはいられない。その一つは、山の民とのつながりである。だがそれだけなら、大方の「鬼退治」譚に見られる事柄だ。今一つは、その「鬼退治」に活躍した源氏との関係である。紅葉伝説では、結局紅葉は源氏に追放されはするものの、源氏に討たれはしなかった。討ったのは、平氏である。時代からして、後の世の源平争乱とは無縁のように思えるが、これが全くそうでもないようだ。
鬼無里には紅葉伝説・遷都伝説の他に、清和源氏・木曽義仲の伝説もある。一つは義仲挙兵の際に鬼無里を通ったという話。もう一つは、義仲敗氏後、その子・力寿丸(りきじゅまる)が隠れ住んだという話である。鬼無里の山奥、内裏屋敷のそばを流れる裾花川のはるか上流に、「木曽殿アブキ」(アブキとはアイヌ語で「岩穴」を意味するとされ、この地に縄文の末裔達がいたことを偲ばせる)と呼ばれる巨大な岩穴があるが、これが義仲が進軍の折野営した地であり、また力寿丸の隠れ家でもあったという。このあたりからは刀剣も発掘されていて、あながちただの伝承とも思えないものがある。また内裏屋敷の少し上流には文殊堂があって、そこには義仲進軍の際か、義仲敗死後に力寿丸を伴った郎党達が祀ったという、義仲の守護仏・文殊菩薩が祀られている。力寿丸はその後家を再興させたと伝えるが、郎党の一部は鬼無里に土着し、今もその後裔を名乗る人々が住む。この他、鬼無里には義仲にまつわる伝説が数多くある。信濃という義仲挙兵の地であることからすれば当然といえば当然なのだが、問題なのは平氏との関係である。義仲の北陸道進出の足がかりとなったのが、越後にいた城長茂(じょうながしげ)との戦だったが、この城氏は紅葉を退治した平維茂の子孫である。
源氏と山の民の関係、そして紅葉
こうなると、紅葉伝説はこのこととも全く無関係ではないだろう。平維茂を破った源氏方の子孫が今に残る村で、平維茂が退治した鬼女を貴女と崇めるのは自然なことでもあるだろうが、それ以前に鬼無里には源氏との関係があったかもしれない。
先に、鉱業利権を得るため、経基の子・満仲は山の民に近づいたという経緯があることを述べたが、そうした関係の一つが鬼無里にもあった可能性もある。ただ、満仲は後に山の民を裏切り、それがために妖怪達の恨みを買ったという話もあって、満仲が戸隠で鬼女退治をしたという注目すべき話が太平記にもある。もしかすると紅葉を討ったのは経基の子・満仲であるかもしれない(ちなみに経基は紅葉が討たれる前に没している)。こうなってくると収拾がつかなくなってくるが、結局この地の山の民も源氏に裏切られたことを示すものだろう。満仲の子・頼光も鬼退治と土蜘蛛退治で名を馳せた人物である。源氏は鬼・妖魔退治の一族なのだ。
だが、時に応じて協力というか、互いに利用する関係にはあったかと思われる。その結び目を象徴するものが経基の紅葉寵愛であり、その後の義仲伝承ではないだろうか。
結 赤き紅葉の伝承
そして、その鉱業利権という源氏とこの地の山の民の結びつきを示すのが、内裏屋敷の鉄である。この鉄が紅葉伝説を異様な政治的・歴史的現実味を感じさせる最大の原因となっている。紅葉が鬼無里に文化を伝えたのなら、この鉄は農機具や狩猟の道具の製作の跡とも考えられる。しかし、紅葉が郎党とともに激戦の末討ち取られたことから考えれば、武器製作の跡と考えるのが自然である。激戦の伝承があり、実際に製鉄の跡があるなら、それは本当にその時代に何らかの戦があったということだろう。このことが、紅葉伝説をただのおとぎ話ではない、血生臭い現実味を帯びたものにしている。そして、その戦いとは、皇朝による土着民征伐であったろう。と、同時に、その信仰である女性主導の太古的呪術宗教抹殺の戦いでもあった。
これまで紅葉伝説に対し様々なアプローチを試みたが、このあたりをもって結論としたい。
それにしても紅葉伝説というのは、単純には論じられない多くの要素を含む、何と広く深い伝承なのであろうか。紅葉という名は、鬼の顔を現す赤、怒りという感情の赤、戦で流れる血の赤、溶けた鉄と鉄錆の赤、女性という性別を示す赤、巫女の袴を彩る赤、女性が真実巫女として輝いた時代を偲ばせる太陽の赤、そしてその落日の赤── そうしたものが一時に爆発し紅葉のごとく赤色に燃えて、そして紅葉のごとく一時で散り土に埋もれた── ということを象徴するもののように思える。千年の時を経た現在も、山の神は戸隠や鬼無里の山々を赤く染めさせる。かの紅葉を偲ぶかのように── 。  
巫女・紅葉とその霊能 

 

平安時代の宗教
そうなると、問題になるのは、紅葉の守護神第六天魔王である。これについては伝説の冒頭で述べた通り、仏教世界の悪魔なのだが、日本土着の信仰ではないし、当然鬼無里の神でも荒倉山の神でもない。
ここでまず当時の主流の宗教観を考えてみる。平安時代には、既に仏教が普及して主流の宗教といえば当然仏教であった。そして、当時仏教といえば天台か真言か、どちらにしても密教であった。また仏教とともに当時隆盛を極めていたのが、安倍晴明で有名な陰陽道である。いずれにしろ、当時の支配的な宗教は、呪術的宗教であった。
これらはあくまで宮廷というか中央の話だが、しかし、実は密教や陰陽道などの外来の呪術的宗教は朝廷が正式に導入するよりも早く民間に流布していた。修験道の開祖と言われる役小角(えんのおづぬ)は既に飛鳥時代に雑密(ぞうみつ)という未整理な密教を体得している。役小角は修験道の開祖といわれるように山林で修行したのであり、密教は朝廷に導入されるよりも先に古来の山岳信仰と結びついて流布していった。日本密教の確立者空海も入唐して本格的に密教を学ぶ以前に山林を彷徨って雑密を身に付けている。
陰陽道も、その基盤となる道教は中国の民間信仰が起源だけにどれぐらい昔から入っているのか不明なぐらいである。奈良時代には、陰陽道の前身といわれた呪禁道(じゅごんどう)が確立されており、呪禁師という官職まで置かれている。だが呪禁道でも陰陽道でも民間に流布し各地で「勝手に」まじないを行っており、民間の呪禁師や陰陽師を何度か取り締まっている。密教にして役小角は流刑に遭っているし、そもそも僧侶となるには朝廷の認可が必要で、勝手に僧侶となることを禁じている。
在野の平安呪術
中央でこうした外来の呪術を勝手に行うことを禁じたのは、まずそれが外来の先進技術を伴う、あるいは先進技術そのものであったことが一つ。もう一つは、その呪力を恐れたからで、民間に強力な呪術があふれれば朝廷が危ういと考えたからだろう。そういう先進技術であり、また危険だが強力なものを、国家の統制下に置きたいというのは自然な発想である。だが、実際にはそうした呪術は取締りの対象となるほど巷にあふれた。
そうやって民間に広まる中でも、役小角に見られるように、山岳信仰とは早くから結びついた。日本古来の信仰を、中央で呪術的要素を切り捨てて天津神中心の国家祭祀へと変容させたものが神道だったが、その切り捨てられた呪術的要素や辺境での信仰も、外来の呪術を取り込んで変容していったのである。国家という後ろ盾もなく、ともすれば弾圧されかねないそういった信仰は、そうしなければ生き延びられなかったのかもしれない。また、そういう信仰と結びついたために、民間の外来呪術を禁止したのかもしれない。
平安時代には、そういう妖しげな呪術が民間で跋扈していた。紅葉が使った呪術というのも、そういう流れを汲む呪術であった可能性はかなりある。紅葉が経基の奥方を呪うのに護摩壇を設けたという伝承もある。護摩壇とは言うまでもなく密教や修験道で用いられるものである。平安時代も中期となれば修験道もかなり普及してきており、まして修験の聖地戸隠ともなれば、鬼無里や荒倉山の信仰もそういった呪術と習合しつつあったかもしれないし、紅葉が外来呪術を持ち込んで土着の神をともに祀ったのかもしれない。
紅葉と平安呪術
そういう外来呪術においても第六天魔王とはやはり魔王なのだが、日本の怨霊信仰と同じように恐ろしく力があるからこそ祀って強力な力を得る、という発想が密教にもある。特にヒンドゥー教から取り込まれた神々に関する呪術はそういったものが多い。まして、山岳修験は修行により霊力を得ようというものである。時に恐ろしい神を祀ることも大いにあり得る。実際第六天魔王の起源シヴァを祀る自在天法や大黒天法、シヴァの息子ガネーシャを祀る歓喜天法などは、危険だが上手くやれば強力な力を得られる呪法ということで大いに用いられた。
紅葉伝説においても第六天魔王にすがることで伴笹丸はようやく子を得たのである。そして一時は栄華を得た。しかしそれがために最終的には悲惨な結果を招いた。これはこういった神が強力で頼りがいがあるが危険であると認識されていた、伝承の上での証左であろう。実際に、第六天魔王の信仰というものもある。
紅葉は山岳系の非公式的な呪術を行っていた── 一応はこう考えることはできるだろう。しかし、そこで一つ重大な問題が生じる。修験道は女人禁制だということだ。現在でも、女性が踏み込むことのできない山や場所がいくつかあるくらい、修験道では女性を忌避している。当時、まだ修験道は成立過程にあったかもしれないが、それでも女の山伏の話などは聞いたことがない。陰陽師についても同様で、官職としての陰陽師に女性はいない。平安時代の呪術宗教で女性が関与できそうなものは、修験道ではない密教か、民間の陰陽道ということになるだろう。しかし、女性が関与できる整備された純密(天台・真言ともに尼僧はいる)は、国家あるいは宗派によってしっかり管理されている。
結果として、当時女性の呪い師が身に付けていそうな呪術といえば、日本古来の民間信仰と雑密や呪禁、陰陽道などが渾然一体となった妖しいもの、と言えるだろう。紅葉の使った術は邪術、妖術と言われているぐらいだから、こうしたいかがわしい呪術であった可能性は十分にある。その中に、修験道とは袂を分かってしまった山岳信仰が含まれていることもあったろう。紅葉が使用した護摩壇にしても別に密教に特有のものではなく、名称は別として呪術に火を用いるのは普遍的なことである。これが修験道やその他民間呪術に取り込まれた際に、以前から使用していたものの形式と名称が護摩壇になったのだということもできる。
古代シャーマンの末裔
しかし、かつて古代世界で活躍した女性シャーマンはどこに行ってしまったのだろうか。古代では霊力や神と交信する能力は女性の方が高いと確実に信じられていた。古代日本の祭祀王は卑弥呼だし、神道の最高神天照大神、シャーマン神天鈿女命はともに女神である。だが、整備された後の神道では、実際に神に一番近いところで祭祀を行う神職は戦後まで男性に限られていた。巫女は存続したものの、整備された神道の下ではシャーマンとしての能力を失っている。神道とは呪術的要素を大きく切り捨てて成立したものなのだから当然といえば当然であろう。南北朝期までは存続した斎宮の制度(皇室の女性が伊勢に赴いて一定期間神宮の祭祀を行うという制度)に、その名残を見るぐらいである。
事情は、既に見てきたように仏教や陰陽道でも変わらない。奈良時代くらいから、女性が呪術の世界から締め出されていった。それは女性シャーマンとは古代から世界的に見られただけに古代を意識させるものであって、未開の土俗文化と見られたのだ。中国の官制を取り入れ中央集権化をはかり当時の近代国家・法治国家を目指す皇朝としては、できるだけ排除したいものであった。また、古代国家が卑弥呼の如き神権政治から専制政治あるいは法治主義へと移ってゆく過程で、母権社会から父権社会への移行もともになされ、女性の社会的地位が堕ちていったということも大きい。呪術的・土俗的要素の価値の低下と、女性の社会的価値の低下は、表裏一体、シンクロしているのである。
では女性シャーマンの文化は死滅してしまったのかというと、そんなこともなかった。それこそ民間呪術に溶け込んでいったのである。その後も女性シャーマンは民衆に支持された。現代に残る典型的な例は、青森のイタコなどがそうである。イタコは神や死者と交信し霊媒となってそれらを自らに憑依させるが、そのイタコは基本的に女性である(男性イタコもいることはいるが女性に比べて相当に小規模である)。
これが千年も昔の平安時代であれば、女性シャーマンはまだまだ民間で十分に健在であった。体制に組み込まれた「神道」の巫女とは別に、「歩き巫女」などと呼ばれる漂泊の女性シャーマンや、「口寄巫女」などと呼ばれるいわゆる霊媒(まさしくイタコのようなものである)が日本各地で見られた。彼女らは、場合によっては寺社で祈祷することもあったようである。また神社の中には国家の体制に組み込まれていない小社もたくさんあって、そこでは古来からの「土俗的な」祭祀や外来の民間呪術がかなり好きなように行われていた。だからこそ、現在でも地方によって、しかもわずかな距離間でも大きな差異が生じるような、その土地特有の祭祀や信仰が残されているのである。
注目すべき歩き巫女
特に「歩き巫女」は、シャーマンとして各地をさすらううち、その際に行う歌舞音曲に注目されるようになった。神事に臨む人々にとって、その歌舞音曲は一種の娯楽と映り始めたのである。また、安定した経済基盤を持たない歩き巫女の方でも、歌舞音曲がもてはやされることは収入の増加につながった。やがてこうした芸能が神事から離れて独り歩きし、歩き巫女は漂泊の芸能者も兼ねるようになった。時代を下ればさらに職業的に独り歩きさえして旅芸人ともなっていく。
あるいは、歩き巫女は娼婦の役割も兼ねた。娼婦と巫女というと、対極にあるもののように思われるが、必ずしもそうではない。世界的に見れば、古代フェニキアの神殿には神聖娼婦というものが置かれていて、参拝にやってくる巡礼者に快楽を与えたという。そもそも、シャーマンとは神憑りにより能力を発揮するわけだが、その際にトランス状態に入らねばならない。これは恍惚、エクスタシーの状態でもある訳で、それは性行為によるエクスタシーに近いものがあると受け止められたのである。また神憑りとは神を自分に降ろし一体となる訳だが、それは男性を自らの体内に迎え入れ一体となることとある種通じるものがあるとも受け止められた。世界の宗教の中にはインドのタントラ密教など、男女の交合によって神との一体化を図ろうとするものさえある。古代バビロニアの大地母神イシュタルも大いなる娼婦と呼ばれ、バビロニアの王はイシュタルと一体化した巫女と交わることによって王位を継承したともいう。このように巫女と性交とは案外と近い関係にある訳だが、それは古代日本の巫女においてもあり得たことだろう。それが歩き巫女に受け継がれていたということもまた大いにあり得る。かくして漂泊の巫女が各地で儀式としての性交を行って、やがて性交だけが芸能と同じように独り歩きしていった。特に先にあげた経済的基盤ということであれば、芸能よりもはるかに簡便で多くの金銭を得ることができる。
紅葉は歩き巫女だった
このように、歩き巫女は次第に漂泊の旅芸人、娼婦をも兼ねていった。これが平安後期となり、動乱の世の中になってくると、さらに顕著になる、それが「白拍子」と呼ばれるような存在である。彼女らは「今様」と呼ばれる歌と踊りを披露した。その今様の歌の内容は、「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」という本にまとめられて今に伝わっているが、それをまとめた後白河法皇はそれほどまでに白拍子に夢中になった。もちろん彼女らは遊女としての役割も担っていた。白拍子といえば義経の側室「静御前」が有名であるが、この二人などは貴人と遊女という間柄を越えて愛し合った稀有な例だろう。それだけに後世まで美談、秘話として語り継がれているのである。本来は、法皇のような究極的な貴人から寵愛を受けることがあっても、それは貴人の私的な愛に過ぎず、また一時的なものに過ぎなかった。そこに、白拍子の華やかさと同時に哀れさがある。この、華やかさと哀れさ、紅葉に非常によく通じるものがあると思うのは、筆者だけではあるまい。
そう、紅葉は歩き巫女だったのではあるまいか。それも、歩き巫女が白拍子などに零落する前の、まだ呪術性を十分に保った、「漂泊のシャーマン」としての歩き巫女だったのではあるまいか。紅葉の生涯を追っていくとそれにもうなづける。まず、魔性の娘と言われほどの天性の霊力。しかも紅葉は鬼無里でそれを生業とした。そしてやはりそれを生業とできるほどの歌舞音曲の才能。また、会津に生まれ、京に上り、信濃に流されるという漂泊の生涯。まさに歩き巫女そのものであろう。さらに言えば、貴人からの一時の寵愛や、それが生む悲劇も、後の白拍子を髣髴とさせる。紅葉伝説とは、古代から続く女性シャーマン達が、漂泊の芸能者、娼婦に零落していく過程を象徴している物語なのかもしれない。紅葉という実在の人物の生涯に、その時代状況が重ねられて形成されたものと見ることができるのである。 
鬼女紅葉伝説  
長野県戸隠村。長野県北中部、新潟県にもほど近いこの場所は、古来より様々な神話・伝説に彩られた、信仰の地であった。そもそも「戸隠」の由来は、天照大神の岩戸隠れにおいて、天手力雄命(アメノタヂカオノミコト)が岩戸を取り除いた際、その岩戸が地上に降ちてきて山となったのにちなむという。中世には戸隠山とその周辺は山岳信仰のメッカとなり、修験道が栄えた。近隣の飯綱(いずな)山は、妖術「飯綱の法」で有名な飯綱信仰発祥の地でもある。それらを受けて、後には忍者の隠れ里ともなった。そうした戸隠の伝説・歴史の中でも、現在ではさほどの知名度はないが、かなり古い部類に入るのが鬼女「紅葉」の伝説だ。謡曲「紅葉狩」にうたわれ、歌舞伎の題材ともなった紅葉伝説。まずはその謡曲のあらすじから見てみよう。
秋も深まった戸隠山。そこに余五将軍平維茂(たいらのこれもち。平安中期の武将で、陸奥守、鎮守府将軍などを歴任。陸奥の豪族・藤原師種や山城の鬼女を討つなどの功績があった。桓武平氏・平貞盛の15番目の養子であることから、「余五(よご)」と呼ばれた)が鹿狩りにやってきた。すると、人里離れた山中に、どこぞの高貴な姫君達か奥方達が、幕を張って紅葉狩の酒宴を開いていた。不審に思った維茂だったが、酒宴の妨げにならぬよう、馬を下りた。すると、酒宴を開いていた貴婦人方に声を掛けられ、酒宴に招き入れられる。維茂は勧めらるまま酒を飲み、美しい舞に打ち興じているうち、酔いが回って寝てしまう。やがて貴婦人方は忽然と姿を消してしまった。寝ている維茂の夢には、八幡大菩薩が現れ警告する。驚いて目を覚ますと、貴婦人は鬼となって維茂に襲いかかって来た。維茂は少しも慌てず、八幡大菩薩を念じて刀を抜き、鬼女を退治したのだった。
これが、室町後期の能役者・能作者、観世信光(かんぜのぶみつ)が書いた(世阿弥作という説もある)、謡曲「紅葉狩」のあらすじである。なお、各地に伝わる歌舞伎や神楽の中には、紅葉の配下に赤蜘蛛、白蜘蛛という蜘蛛を加えているものもある。さて、信光は、この話を書くにあたって、戸隠に伝わる鬼女伝説に取材したという。次に、その伝説の概要を見てみよう。
第六天魔王の申し子・呉葉
平安時代の貞観八(866)年、大納言伴善男(とものよしお)が、応天門の変で失脚し、伊豆に流された。伴善男は、古代軍事豪族大伴氏の末裔であり、一族には万葉集の編纂者といわれる大伴家持もいる。やがて大赦により流刑を解かれ流浪の身となった伴善男は、奥州会津へたどり着きそこに根を下ろしたという。大伴氏は家持の時代に至っても軍事を担い、対蝦夷の関係で陸奥と縁が深かったので、その縁を頼ったのであろうか。
その子孫である伴笹丸(とものささまる)は、菊世(きくよ)という妻とともに会津で細々と暮らしていたが、この夫婦には子がなかった。そこで様々な神仏に祈った挙句、第六天魔王に祈願する。第六天魔王とは他化自在天(タケジザイテン)とも呼ばれ、起源はヒンドゥー教のシヴァ神ともいうが、いずれ仏教における欲望と快楽を司る悪魔である。その祈願の結果、一人の娘を授かった。承平七(937)年秋のことという。
笹丸はこの娘を呉葉(くれは)と名付けて育てた。呉葉は生まれつき利発で、長ずるに従って多方面で頭角を現した。筆から和歌、琴と、文にも芸にも秀でており、その美貌とともに近隣の評判となった。そうなれば当然、思いを寄せる者も多くなる。地元の豪農の息子・源吉も紅葉を見初め、言い寄るが、全く相手にされず、それがために病気になった。源吉の両親は金にものをいわせ強引に呉葉と源吉の縁組を迫ろうと、笹丸に大金を渡そうとする。しかし、呉葉はこの息子をよくは思っておらず、縁組も不本意だった。
さて親の笹丸の方は笹丸の方で、落ちぶれても大伴の末裔ゆえか、都で立身出世しようという望みがあった。それで前々から才色兼備の呉葉を都の貴族に嫁がせようと思っていた。その旨を呉葉に伝えると、呉葉は第六天魔王により「一人両身」の法を授かって自らの分身を嫁がせる。大金だけをまんまと手にし、笹丸親子は京へ旅立ったという。呉葉十四歳のときであった。なお、分身の方は、しばらくして、源吉の家の庭の木の蜘蛛の巣を払ったとき、その蜘蛛の巣が巨大化して雲となり、そのまま糸の雲に乗って飛び去ってしまったという。源吉は呉葉の家に急いだが、既にもぬけの殻だった。
京での栄華と転落
都に上り、笹丸は伍輔(ごすけ)、菊世は花田(はなだ)、呉葉は紅葉(もみじ)と名を改めた。そして親子は四条通りで髪飾りや履物を扱う店を営む。また紅葉は店の仕事の合間に、近所の娘に琴を教えていた。紅葉の美貌と琴の腕がものをいい、店は繁盛し、琴弾きの弟子入りも増えていった。やがて、夜涼みのため四条にやって来た源経基(みなもとのつねもと)の奥方にその琴の腕を買われ、呉葉はその下で仕えることになった。天暦七(953)年六月末のことである。なお、源経基は清和天皇の孫であり、いわゆる清和源氏の祖で、平将門の反乱を訴えたり、藤原純友の乱を鎮圧するなどといった功績がある。
経基の下でも、多才さは発揮され、主人経基の耳に入ることになる。そうして紅葉は経基の寵愛を受けた。経基の寵愛はそれはそれは厚いものであったという。しかし、その頃から奥方が正体不明の病に苦しむようになった。しかも、その苦しみは丑三つ時に最も烈しくなり、その時間になると夜な夜な鬼が現れて責め立てるというものであった。そこで比叡山の僧侶に相談し、病気平癒の加持祈祷を行うと、これは何か魔物の邪術のせいであるとのことであった。そして僧が護符を渡して言うには、それを奥方の看病に当たる者の襟にかければ魔物は退散する、だが拒む者があれば注意せよ、特に紅葉には、とのことだった。
その僧の言葉を伝え聞いた経基は紅葉が怪しいなどと馬鹿馬鹿しいと退けたが、時折紅葉の眼が妖しく光ることを思い起こし、もしやと思い護符を配ることにする。皆喜んで護符を受け取ったが、紅葉だけが頑なに拒んだ。それを経基が問い詰めると、紅葉は自分が奥方に呪詛をかけたことを白状したのだった。そうして、紅葉は捕らえられることになった。捕まった紅葉は本来死罪となるところだったが、既に経基の子を身籠っており、また一度寵愛した女を殺したとあっては世間の笑いものになるため、どこかへ追放して隠してしまおうと思った。それで隠すことに縁のあるということで、戸隠の山中に流すことにした。こうして紅葉は親子共々流罪となった。天暦十(956)年、紅葉十九歳のときのことであった。
水無瀬の民との交流、断ち難き京への思い
紅葉親子は人里離れた戸隠の山中に放置されたが、通りかかった村人の助けにより、水無瀬(みなせ。現在の戸隠村の隣村鬼無里(きなさ)村)の村にたどり着いた。村の人々は、哀れな身の上の紅葉に同情し、また都人ということで尊敬の念をもっても迎えた。紅葉のために収穫物を捧げたり、内裏屋敷という館を建てたりもした。紅葉の方でも、村人の優しさに打たれ、あるいはその教養を授け、あるいはその芸を授けして村人の面倒をみた。また、得意の呪術や占いによって村人を助けたこともあった。紅葉の持っていた檜扇は傷や病を癒す力があって、呪医のような役目をも担ったという。こうして紅葉は水無瀬の人々と平和に暮らしたという。しかし、京への思いも消えた訳ではなかった。
やがて、経基の子が生まれた。経基の一字を取って経若丸(つねわかまる)と名付けた。そうなってくると、京への思いもますます断ち難い。内裏屋敷の東を東京(ひがしきょう)、西を西京(にしきょう)などと呼んだのをはじめ、清水、二条、三条、四条、五条など、今も鬼無里に残る地名を付けて京を偲んだ。また東京には加茂神社、西京には春日神社を建てたりした。あるいは村人に京の文化を伝えもした。
そうしたところに、近隣の村々を荒らし回る鬼武(おにたけ)率いる盗賊の一団が、紅葉の話を噂に聞いて興味本位でやって来た。先年敗れた平将門の元郎党という彼らは何か脅し取るかさもなくば紅葉を部下に引き入れようと思ったが、逆に紅葉の呪術の前に圧倒され、紅葉の配下となった。ここに、紅葉の再上洛の夢は現実味を帯びてくる。彼らは夜になると離れた村の富豪の家を襲って京へ上る資金を稼いだのであった。もっとも水無瀬の村人には盗品を分け与えたりしたので、問題になることはなかったが、村にいては何かと差し障りがあったので、近くの荒倉山に拠点を移した。そこで豪奢な暮らしをしもしたという。
そうした盗賊団の噂を聞きつけ、新たに加わる者も増えてきた。その中にはお万(まん)という鬼もいて、二十三、四の年うら若き女ではあったけれども、怪力無双、性質凶暴で山に暮らしていたが、力において並ぶ者なく、紅葉の側近ともなった。お万は一夜のうちに鳥のごとく数十里を駆ける俊足の持ち主でもあったという。
平維茂 紅葉との死闘
しかし、悪事千里を走るとはよく言ったもの、やがて荒倉山に鬼女が住むという噂が近隣に広まった。それを苦にした父伍輔は死去してしまう。噂は鬼女が都を狙っているとまでに膨れ上がり、ついには国司によって朝廷に上奏された。これを受けた時の帝冷泉天皇は、平維茂に紅葉退治の勅命を下したのであった。安和二(969)年のことである。  平維茂は、平将門を討った平貞盛の養子であった。つまり、先に紅葉の配下になった将門の元郎党鬼武らにとっては主君を討った許し難い仇敵の養子であって、彼らはますますいきり立ち、紅葉とともに、戦いに備えたという。これを聞いた紅葉の母花田は自害した。
勅命を受けた維茂は、軍勢を整え信濃に向かい、上田に入った。まずは配下を紅葉の元へ先遣隊として向かわせたが、紅葉の術に翻弄され、暴風と火の雨に撃退されてしまう。さらにその勝利の宴を開いているところを後ろから攻めようとするが、氷玉、火玉、洪水の術によって返り討ちにあった。
そこで維茂は、配下金剛太郎の勧めによって、神武天皇が太陽を背にし北に向かって長脛彦を討伐した故事に基き、上田の天台寺院北向観音に祈願し、北上して紅葉を討とうと、十七日間参籠に入った。その参籠の最後の日の夜、白髪の老僧が夢に現れ、維茂の手を取り白雲に乗せ、紅葉の立て籠もる岩屋を示して「降魔の利剣」(不動明王などが持っている魔障降伏の剣)を授けた。そして、目が覚めてみると、実際にその剣を手にしていた。
こうして意気付いた維茂一行は、紅葉のいる戸隠へと向かう。しかし、地形が複雑で紅葉の根城がよく分からない。そこで維茂は八幡大菩薩に祈願し一本の矢を放つと、遠くへ飛んでいった。その矢の飛んだ方向へ向かうと、紅葉達の立て籠もる荒倉山の麓へ出た。
維茂一行は荒倉山にたどり着き、三度紅葉との戦に望んだ。紅葉は笑いながら術を使おうとするが、一向に効き目なく、それどころか体が震え目がくらむ。北向観音の霊力を得た維茂には、もはや紅葉の呪術も効かないのであった。危機を感じた紅葉は鬼武達に逃げるよう勧めるが、彼らは潔く散ることを望み、せめて一矢報いんと撃って出て、維茂らに討ち取られた。術が効かないことに焦る紅葉。そこに維茂は降魔の利剣に白扇をつけ矢羽とし、大弓につがえて放った。矢は見事紅葉の右肩に命中した。怒り狂った紅葉は鬼の形相となり、雲に乗って空に舞い上がり炎を吐いて抵抗した。
しかしそのとき、突如黄金の光が空を覆い、紅葉を照らし出した。力を失った紅葉は地に落ちる。そこをすかさず金剛太郎が渾身の力を込めて紅葉の胴腹をえぐる。紅葉は金剛太郎の腕をつかみ荒れ狂ったが、維茂とどめの一太刀、紅葉の首を刎ねた。が、紅葉の首は空を舞い上がりいずこかへ消えてしまった。維茂は紅葉の両腕を首桶に収めて、穴深く、埋めたという。ここにとうとう紅葉は討ち取られたのである。安和二年十月二十五日、紅葉三十三歳のことであった。
こうして勅命により鬼女を退治した維茂ではあったが、紅葉を慕っていた村人の気持ちを汲み、また維茂自身も紅葉を哀れに思って、里に塚を立て紅葉の供養とした。
お万のその後
紅葉の死とともに、その配下も大方は討ち取られ、生き延びた者達も皆逃げた。紅葉の息子も戦いの最中祖母を追って自害した。鬼のお万も岩を投げつけるなどして奮戦し、手下ともに逃げ延びたが、紅葉の敗北を知って諦め、自害する決心をする。しかしこれまでの罪を悔いこの世の最後にその罪を仏の前で懺悔したいと思い立つ。そして戸隠の寺にたどり着き涙を流して仏法への帰依を懇願した。
哀れに思った住職はお万を剃髪し得度させた。感涙にむせび泣いたお万は自害して最期を遂げる。住職は維茂にお万の罪を許してやってくれと乞い、維茂の許可を得て剃髪した際のお万の髪を安置して弔った。この髪は現在も伝わっており、その髪は伸ばせば江戸まで届くといわれた。あるいはその毛はお万の陰毛であるとも伝えられる。
反逆の民・紅葉 

 

紅葉の出自
さて、ここで紅葉の出自について考えてみたい。紅葉は、陸奥、会津の出身である。陸奥とは、当時どういう場所だったか。
延暦二十一(802)年、胆沢城築城。元慶二(878)年、元慶の乱勃発。天喜四(1056)年、前九年の役勃発。これらは何かといえば、陸奥における蝦夷、俘囚(ふしゅう。朝廷側に服属した蝦夷の呼称)の反乱である(乱の前までは朝廷の勢力圏外であったことからすれば、「乱」ではなくて朝廷の外征に対する防戦である)。陸奥、出羽、即ち東北地方は、平安時代当時、まだ朝廷の勢力圏外だった。そして平安時代とは、皇朝による対蝦夷東北征服戦争の時代だったのである。先に挙げた平安遷都間もない時期の胆沢城築城は、かの征夷大将軍・坂上田村麻呂が行ったもので、その築城中に、数十年に渡って朝廷軍を撃退し続けた岩手中央部の蝦夷の長・阿弖流爲(アテルイ、以下カタカナ表記)が降伏する(それより少し前の宝亀十一(780)年には朝廷に仕え官位を授与されていた蝦夷・伊治呰麻呂(これはりあざまろ)が宝亀の乱を起こし、陸奥国按察使(あぜち)の紀広純(きのひろずみ)を討って、国府多賀城が炎上。それから田村麻呂の胆沢城築城まで蝦夷と朝廷の緊張関係が続いた)。当地の蝦夷は、その後服属して俘囚となる。一方、出羽の蝦夷が蜂起して、朝廷の秋田城を落城させたのが元慶の乱である。この乱は同年中と短期間で終息するものの、津軽や北海道の蝦夷も支援に回り、派遣された鎮守府将軍・小野春風が武力制圧ではなく統治を緩めることでようやく沈静化をみる。そして、岩手の俘囚の長であった安倍頼時(あべのよりとき)とその息子貞任(さだとう)の反乱が前九年の役であり、源頼義(みなもとのよりよし)とその息子義家(よしいえ)によって鎮圧された。なお、このとき朝廷の官人だったにも関わらず、婚姻関係から蝦夷側についた藤原経清(ふじわらのつねきよ)と安倍頼時の娘の間の子が、後三年の役を経て、東北全土をその影響下に置き、平泉に金色堂を建てた奥州藤原氏初代・藤原清衡(ふじわらのきよひら)である。
紅葉が生きた937年〜969年というのは、上の元慶の乱と前九年の役のちょうど中間に当たる。つまり、当時の陸奥は一応は朝廷の勢力圏になったとはいえ、まだまだ政情不安定な場所だったのだ。もっとも、会津は陸奥の中でも南端に位置しているから、かなり早くに朝廷の勢力圏に入っていた(古事記の十代崇神天皇の段に、四道将軍大彦命(おおひこのみこと)と武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)がそれそれ日本海側、太平洋側を行軍しそこでお互い出会ったので「会津」と命名したとの記述がある)が、それでも陸奥は陸奥、服属したとはいえ蝦夷という異文化、異民族の民が住む地には違いなかった。
紅葉は蝦夷か
紅葉の父笹丸は大伴氏の末裔となっており、朝廷側の人間である。しかし、もはや中央政界から追放された人間であり、場合によっては追手がかかるような立場にいる訳で、その意味では蝦夷と変わらない。中央を追われた人間は古来より陸奥に逃れてくるという、史実・伝説も豊富にある。古くは、神武天皇に敗れた長脛彦。蘇我氏に敗れた物部氏。平将門の残党。源義経一行。時代が下れば、北畠氏など南朝方。伴善男が住み着いたというのもこうした史実・伝承の一環と見ることができる。まして、大伴氏は陸奥との結びつきが強かった。その子孫が落ちのびてくるならば、岩手のような紛争地域ではなく、早いうちから朝廷に恭順した会津あたりであれば、政情的にも言語などの環境的にも(北方の蝦夷ほど言葉が通じにくくなるという日本書紀の記述もある)、生活しやすかったのではないだろうか。そして、「貧しい暮らしを送っていた」笹丸の代には、すっかり現地に土着し、蝦夷の娘も娶って、蝦夷に同化してしまっていただろう。
これは、史実かどうかは問題ではない。伝承上の意味を探るものである。中央を追われ土着化し蝦夷と一体となっている者の血を引いている、という伝承上の意味を問題としている。紅葉の出自をこのように説明しているということは、紅葉に、追われた者、追われている者、まつろわぬ者ども(朝廷に服属しない蛮族)、という宿命を背負わせ、そこに意味を持たせているということである。これは紅葉伝説のほとんどに共通の事柄なのだから。
蝦夷=鬼
さて、ここで先に紅葉が「鬼」であることの意義を再び考えてみたい。「鬼」とは、先に述べたように皇朝に対する反社会分子、脱社会分子である。それは律令体制に組み込まれようとしない山の民、漂泊の民などであるが、体制に組み込まれていないという点では蝦夷などはその最たるものであった。服属し「俘囚」となった蝦夷にしても、いつ反乱を起こすか分からない不穏分子であったし、そもそも習俗が大きく異なる。「鬼」とは異界の存在であるが、俘囚、蝦夷という存在は異界の存在そのものであった。そういうことで、都の貴族にとっては蝦夷は鬼も同然だったのである。そうした思考を受け継ぐ地方の官吏や、場合によってはその体制に組み込まれている里の民からしても蝦夷とは鬼で有り得た。そういう中央の発想が持ち込まれた結果、蝦夷は鬼と見なされた。平安時代の絵画には蝦夷を角のある者として描いたものがあるし、前九年の役の安倍貞任を鬼とする伝承もある。また岩手の平泉近くで田村麻呂に討たれたという鬼の王・悪路王(あくろおう)は、先のアテルイが変化して伝わったものともされる。蝦夷が鬼と見なされるようなことはようなことはいくらでもあったのである。青森の岩木山には鬼を祀る神社もあるが、これなどは、蝦夷が古来より崇めた当地の神が朝廷視点で鬼と堕とされつつも、当地での信仰が絶えることはなかった結果かもしれない。平安時代にあってはほとんど朝廷の影響を受けずに終わった地であれば、そういったこともあり得る。
先に、歩き巫女のような漂泊のシャーマンは、中央の宗教政策とその観念の普及により、古来の女性シャーマンが権威を失い弾圧されることもあり得るようになって、地元での活動が制限された結果、零落して生まれたものだと述べた。それは陸奥でも同じだった。もちろん、未だ体制に組み込まれていない北東北では古来の宗教が自由に行われていたろうが、早くに体制に組み込まれた南東北などでは場合によっては厳しいものがあったはずだ。あまり頭ごなしに地元の信仰を弾圧したのではかえって反乱を招くが、さりとて全く放っておいても反乱の種となる。古来より続く女性シャーマンなどは、間違いなく活動の制限を受けたろう。
東北の巫女
先に出たきたイタコのように、東北は女性シャーマンの信仰が強い場所だ。彼女達が活動の制限を受け、地元では生計が立てられなくなったとき、やはり漂泊のシャーマンとなったろう。朝廷の対蝦夷政策が強硬化した平安時代には、東北出身の漂泊シャーマンがかなり増えたのではないか。もしかしたら、平安末期に白拍子などの漂泊シャーマンの活動が活発化したのは、東北が朝廷の勢力下に置かれ、職を失った東北の女性シャーマンやその子孫が漂泊シャーマン化した結果なのかもしれない。最も有名な白拍子・静御前は奥州とつながりがあり、静御前の伝説もある。また、三重県と滋賀県の境にある鈴鹿峠に住み、坂上田村麻呂に討たれたという鬼女・女賊の鈴鹿御前は、先のアテルイをモデルとするという悪路王の婚約者だったというが、その伝えられる姿は白拍子そのものである(鈴鹿御前の別名である立烏帽子は白拍子のまとう装束の一。鈴鹿御前は第四天魔王の娘と伝えられていて、紅葉との共通点も多く興味深い)。
東北における歩き巫女は、イタコが祀る神「オシラ様」を祀り、イタコが唱える「オシラ祭文」を唱える、ということもあったようだ。歩き巫女の中でも東北にルーツを持つ者は、東北以外の地で別の神を祀りながらも、自らのルーツの神を祀ることを忘れはしなかっただろう。あるいは、東北以外の地での公共の場でも、ルーツの神々を祀ることもあったかもしれない。そのようなとき、周囲には理解に苦しんだり、難色を示す者もあったろう。
ただ、東北の女性シャーマンが漂泊シャーマンと化すにしても、あまりに習俗が違いすぎては生業が成り立たない。ある程度中央の文化が流入し交流もある場所に生まれた者でないと、蝦夷の女性シャーマンも東北以外の他地域に出入りする漂泊シャーマンと化すことはできなかったであろう。まして白拍子のように都に上ることも稀でないのであれば。そういうことであれば、南東北などは漂泊シャーマンを輩出するには最適の地であったかもしれない。
やはり紅葉は鬼である
さて、紅葉は蝦夷の血を引くか、少なくとも蝦夷の地の出身であった。そして、漂泊のシャーマンとしての属性も強く持っている。つまり、陸奥出身の漂泊シャーマンと見ることができるのである。しかも、漂泊シャーマンを輩出するに適した地、南東北、会津の出身なのである。ちなみに、会津にはオシラ様の信仰やそれを祀る巫女の存在が確認されている。
蝦夷、漂泊民。これはどちらも当時、あるいは後世、鬼と見なされても全くおかしくない存在であった。そんな属性を持つ紅葉が霊力を発揮するとき、ルーツたる陸奥の神に祈ることも大いにあったに違いない。それが京でのことであれば、周囲は理解に苦しんだことだろう。あるいは「鬼」や「悪魔」を祀る者と映ったかもしれない。仏教世界から見ればそれは魔王の力を借りた業であったろうし、紅葉の霊能にどこか神道でも仏教でもない土俗的な呪術の雰囲気があるのは、そのせいではないか。紅葉が実在の人物だったとして、これら全ての事柄を鑑みれば、鬼の女と見なされるのも然るべきことなのである。
ずっと前に、紅葉は物の怪としての「鬼」の属性に乏しいと述べた。しかし伝承上はれっきとした鬼であって、それならば鬼であらねばならない理由があったとも。その理由こそ、皇朝の体制に組み込まれよとしない「蝦夷」「漂泊民」、さらには古来から続く女性シャーマン、それももしかすると蝦夷の神々を奉じたかもしれない「異端的宗教者」といった属性を持っていることなのである。限りなく人間の女性であるのに、やはり鬼であるのは、こうした属性によるものなのだ。
紅葉の実像
紅葉伝説は、つまるところ鬼退治の話であるにも関わらず、主人公は鬼自身で、その上とても物悲しい。それは、漂泊の身を余儀なくされ、時に都での栄達を手にすることがあっても、結局は鬼とされて迫害されてしまう、悲しい辺境の女性シャーマンの身の上がその原像にあるからではなかろうか。あるいは、紅葉という人物は実際にはいなかったかもしれない。記紀の日本武尊が当時朝廷の最前線で戦った幾人もの将軍達の反映だといわれるように、紅葉も幾人もの辺境の漂泊女性シャーマンの反映と見ることもできる。
しかし、日本武尊にしても、全ての武勲を一人で立てた訳ではなくとも、それらの話の核となった、群を抜いて功のあった皇子は実在したであろう。同様に、紅葉についてもそれに相当するそれなりに世を騒がせた実在の漂泊女性シャーマンがいて、それに幾人もの同じような境遇の人間達の話が重ね合わさって伝説が形成されたのだと思われる。
もちろん、本当に紅葉伝説の話は全て紅葉という一人の女性の話なのかもしれないが、ともかく、紅葉のような女性は全く突飛な存在であったのではなく、似たような境遇の女性はいたであろうということで、逆に全くの架空の話ではあり得ないということである。いずれにしても当時の時代状況を反映した話なのである。
紅葉は「まつろわぬ民」である
紅葉は、皇朝に征服された古代日本の土着民の血と文化を受け継ぐ者ととれる。「勅命」により討伐されたという、明らかに皇朝に仇なす存在であったこと。皇朝に仇なす者がそう呼ばれたように「鬼」であったこと。皇朝に征服された、あるいは服属しない「蝦夷」の地の出身であり、その血を受け継いでいたかもしれないということ。皇朝の体制に組み込まれない「漂泊民」であった可能性があること。皇朝の組み立てた国家宗教に漏れた古来からの「女性シャーマン」であること。「蝦夷」の神々を祀ったか、そうでなくとも「漂泊民」「女性シャーマン」が祀った「妖しげな神々」を祀った可能性があること。紅葉という山に関係ある名、険しい山の岩屋に籠ったなど、山の神を祀ったことを示唆する部分はいくらもあるが、「山」は異界の領域であり「鬼」「漂泊民」の活動の場で、狩猟採集を生業とした縄文系の土着民との関係も大いにありそうだということ。このように、紅葉が古代日本の土着民の血と文化を受け継ぐ者だということを暗示する要素がいくらもあるのである。
しかしさらに、紅葉が古代日本の土着民の末裔を思わせる要素がある。それが、皇朝に手向かった「女賊」であるということだ。
土着民の女首領達
実は、皇朝に手向かって討伐された賊徒というのは、女性を首領とするものがかなりあるのである。それも、土着民の首領か、それとつながりがあるものが非常に多い。
近い時代の伝承としては、先に出た鈴鹿峠の鬼女、鈴鹿御前。立烏帽子の別称を持ち白拍子の如き少女の姿で描かれ、悪路王の婚約者にして坂上田村麻呂に討たれたというこの女賊は、第四天魔王の娘でもあり紅葉と共通点の多いものだと述べた。
時代を遡ると、記紀において反逆の土着民とされた「土蜘蛛」の首領は女性が多い。殊に日本書紀では、名草戸畔 (ナグサトベ)、丹敷戸畔(ニシキトベ)、新城戸畔(ニキトベ) などといった女賊が紀伊半島の山中で神武東征軍に立ちはだかって誅されている。「戸畔」という名称は、女賊を表すという説があり、それならば土着民の首領に女性が多かったことを示すことになる。他にも神功皇后が手を焼いた九州は筑紫の土蜘蛛の首領・田油津姫(タブラツヒメ)、同じく九州の、皇朝に恭順した神夏磯姫(カムナツソヒメ)など多くの女首領が出てくる。
肥前国風土記には海松橿姫(ミルカシヒメ)、大山田女(オオヤマダメ)、狭山田女(サヤマダメ)、八十女(ヤソメ)、速来津姫(ハヤキツヒメ)など多くの土蜘蛛の女首領が出てくるし、近隣の豊後国風土記には五馬姫(イツマヒメ)という首領が出てくる。丹後国風土記残欠(いわゆる古風土記とは異なる)には匹女(ヒキメ)というこれまた土蜘蛛の女首領が出てくる。そしてまつろわぬ民の本場、陸奥国の風土記逸文でも土蜘蛛の首領として神衣姫(カムミゾヒメ)、阿邪爾那姫(アザニナヒメ)の名がある。その舞台も福島県の南部、陸奥の国の最南端である。
女首領と女性シャーマン
上に列挙したように、かなりの数の土蜘蛛の首領が女性なのである。土蜘蛛の首領で具体的に名が挙げられているものはそう多くはない。その中でもはっきりと女性と分かるものは半分近くあるし、それ以外でも女性のものもあったろう。土蜘蛛とは女性を首領に頂くという習俗があった言っても言い過ぎではないほどである。
しかも、これらの多くが女性シャーマンであった言われており、巫女集団の長であったと言われている。中には、卑弥呼の末裔だとか、卑弥呼そのものではないかと言われているものもあるのだ。土蜘蛛とは皇朝がそれに服属しない民を十把一絡げにしてつけた呼称だが、そういう土着民には女性を首領とするものが非常に多く、しかも巫女集団の長であることもしばしばだったようである。であればこそ、女性シャーマンというものは国家宗教の枠組みに漏れ、弾圧の対象ともなったのかもしれない。
紅葉も、こうした土蜘蛛の女首領の系譜に連なる、最後の末裔である可能性も高いのだ。それはこれまで見て来た通りだが、別に紅葉と土蜘蛛のつながりを示唆する要素もあるのである。 
土蜘蛛及び紅葉異伝 

 

紅葉と土蜘蛛
それは紅葉の会津時代の最後に出てくる、地元の豪農の息子源吉に対して行った「一人両身」の術の顛末である。紅葉の分身は庭の蜘蛛の巣を払ったところ、蜘蛛の糸が巨大化して雲になり、分身はそれに乗って飛び去ってしまったという話だ。ただの蜘蛛と雲の語呂合わせでもあるのだが、土蜘蛛はまた土雲と記したことを思い起こさせられる。またここで蜘蛛が突如として出てくることも、不可思議なことなのだが、それも紅葉が土蜘蛛の末裔であることを示唆するものとも取れるのである。もちろんこれは暗示的要素であって、魔的存在の紅葉に同じく魔的属性を持つ蜘蛛がイメージ的に重なっただけかもしれない。
しかし、紅葉と土蜘蛛との関係を暗示するものは他にも見られる。聖地戸隠には様々な神が祀られるが、そのうちでも最も古い土着神とされるのが九頭竜権現である。これは中国の風水思想に基づく一種の竜神信仰だが、日本ではもっと複雑な事情があるようだ。それは「クズ」という音にあって、それは土蜘蛛の別称でもあるのだ(国巣、国栖、国主、国津、などいう字を当てる)。即ち日本において九頭竜を祀る場所というのは、「クズ」の活動拠点だったというのである。確かに、奈良盆地周辺では九頭竜を祀る神社も多く、中には「国津神社」というものまである。奈良盆地といえば神武東征以前は土蜘蛛の根拠地だった。その九頭竜を祀る神社や「クズ」の名を関する神社が全国にあって、それは土蜘蛛の根拠地を示すものだというのだが、戸隠もその痕跡を留めるものだというのだ。奈良盆地での祀られ方を見るならば、これもあながち異説と退ける訳にもいかない。
ほかに、紅葉伝説の故郷、鬼無里には、山中に巨大な蜘蛛が住んでいた淵があったという民話も残されている。その場所は紅葉が住んだという内裏屋敷の上流に当たる。また、紅葉伝説を再現した歌舞伎の中には、紅葉の配下に赤蜘蛛、白蜘蛛という蜘蛛の妖魔がいたとするものもある。これも紅葉と土蜘蛛の関係を示唆するものであろう。
大伴氏と土蜘蛛
もっと言及すれば、大伴氏と土蜘蛛の関係というものもある。大伴氏と親類関係にあった氏族に佐伯氏というのがある。この氏族中最も活躍したのは佐伯真魚(さえきのまお)だが、彼こそ真言宗の開祖弘法大師空海である。
この佐伯氏、大伴の配下にあってそれを支えたというのだが、日本書紀には佐伯とは帰属した蝦夷だとはっきり書かれている。また常陸国風土記では、佐伯という名の土蜘蛛が悪さをして朝廷の軍に誅されている。佐伯とは間違いなく蝦夷、土蜘蛛であり、先住土着民なのだが、これと大伴氏が縁戚関係にあるというのはどういうことだろうか。
大伴氏とは古代の軍事豪族だが、その歴史は古い。その祖は天孫降臨で皇孫とともに天下ったという。その子孫は神武東征において紀伊半島での戦闘に大いに活躍した。その後も天皇に刃向かう諸豪族を次々と平らげ、朝鮮半島にも赴いた天皇の側近中の側近である。大伴、とは大いなる伴、即ちしもべなのである。土蜘蛛を最前線で斬り殺した一族であるはずなのだ。おかしなことなのだが、このあたりの事情が複雑なのが日本の古代史なのである。
天孫降臨の際、皇孫を武力によって守る役目を担ったのが、大伴氏祖の天忍日命(アメノオシヒノミコト)と天津久米命(アマツクメノミコト)だった。天久米命は天忍日命の部下とも言われ、その後の神武東征でも大伴氏の祖は久米部という部族を率いて土着民と戦う。このとき久米部が歌ったとされるのが「撃ちてしやまむ」でいう久米歌なのだが、その久米歌の内容などから久米部というのは狩猟・漁労民で九州南方の土着民・隼人と同族であろうといわれる。その久米というのは佐伯とともに大伴氏の軍事力を担っていたわけだが、大伴家持の歌では自らの祖を大来米主(オオクメヌシ。古事記において久米部の首領として神武東征で戦った)としていたりして、久米と大伴とは同一なのではないかとも思われる。大伴というのはあくまで天皇の大いなるしもべという尊称であるから、久米の首領を大伴といったのかもしれない。
夷を以って夷を制す
そういう土着民の痕跡を持つ大伴氏が、やはり土着民である佐伯を率いている。そうしてみると大伴氏というのは一方で土着民を征服させていく急先鋒でありながら、また一方で土着民とも強いつながりがあったようだ。最前線に立ったからこそ、相手の土着民とも関係が深かったとも言える。征服した土着民を取り込むことによって、大伴氏の軍事力が保ち得た可能性もある。「夷を以って夷を制す」という皇朝がよく取った戦法の一つである。蝦夷に対するには同じく蝦夷を用いるという戦法だ。戦略、戦術上、相手の出方も分かる訳だし、和平の道も開きやすい。また土着民との深いつながりによって皇朝内での権力を維持するという意味合いもあったろう。戦乱を引き起こすも平和な世を保つも彼ら次第ということになるのだから。
同じく軍事氏族であった物部氏なども同様であったかもしれない。物部氏の祖は神武天皇最大の敵・長脛彦と血縁関係にあった。物部氏も各地で皇朝の征服戦争に従事し、蘇我氏に敗北した後、多くは陸奥に逃れ長脛彦の末裔達と合同したという。なお古代、大伴氏を失脚に追い込んだのは物部氏だった。
以上のように大伴氏は土着民を倒しつつも土着民と深い関係にあったのだが、土着民と皇朝とて必ずしも常に対立関係にあったとは限らないのだ。佐伯のように帰属した土着民も多くいるし、大伴氏自身や物部氏もその類かもしれない。古代に遡っていくとそのあたりは明瞭でなくなる。
それは、そもそも皇室とて同じなのである。どのような出自があるにせよ、皇室とて支配権を確立するまでは一部族だったのだ。遡れば遡るほど征服被征服という関係が曖昧なのは当たり前なのである。皇室の支配権が確立されるに従い文化・民族も融合されて、より古い時代に一体となったものは区別が曖昧となっていくのだが、それでも固有の民族性を色濃く残すものはあった。佐伯というのはその典型なのではなかろうか。
記紀編纂の時代に至ってもはっきりと土蜘蛛と書かれるからには、佐伯氏、佐伯部というのは皇朝同化後も固有の民族性や文化を明瞭に保持していた一族なのであろう。何の後ろ盾もないはずの空海があっさりと入唐できたり、拠出先不明の莫大な資金を持っていたりするのは、山の民による援助があったからだともいう。空海と水銀鉱脈の関係が指摘されるのもその向きに着目したものが多い。佐伯部は皇朝同化後も同化していない土蜘蛛達と関係を持っていた集団だった思われる。
紅葉と大伴氏と土蜘蛛と
そういう集団と、大伴氏は深い関係にあった。土蜘蛛達にとっても、大伴氏というのは時に自らを討ちに来る敵であると同時に、皇朝へのパイプでもあったろう。大伴氏が佐伯部を通じて土蜘蛛の情報を入手し、時には戦を有利に進め、時には和平の道筋としたのなら、土蜘蛛の方でも事情は同じはずである。単なる敵ではなかったはずだ。日本史の陰に隠された複雑な部分だが、ともかくも大伴氏と土蜘蛛はつながりがあった。やがて末裔たる伴氏が落ちのびるようなことになれば、土蜘蛛を頼ったであろう。征服戦争を前線で戦った物部氏が、蝦夷と合同したといわれるように。
紅葉伝説における伴笹丸の話が実話であるなら、そこに土蜘蛛との関係も見出せることになる。しかも、紅葉には蜘蛛にまつわる話もある。伴笹丸が実在したかどうかは分からないが、紅葉伝説が形成される上で重要な要素ではあるのだろう。紅葉が陸奥に落ちてきた大伴氏の末裔であるというのは。現在の我々には別になくとも話は成り立つように思えるような事柄だが、だからこそ重要なのかもしれない。当時や少し後世の人々にとっては意味のある事柄だったのではないだろうか。笹丸紅葉親子の上京は伴氏の中央復帰活動の一環だったかもしれないし、あるいは蝦夷と合同した伴氏のスパイ活動だったのかもしれない。いずれにしても明るみに出ればただでは済まされない活動だ。結局その上京が悲惨な結果に終わったのも、そうした因果のあることなのかもしれないのである。だがとにかく、紅葉が陸奥に落ちた大伴の末裔であるということは、土蜘蛛との関係を暗示するものであるのは確かである。
ところで、清和源氏は地歩を固めるのに鉱産資源を求め、山の民に近づいたという。佐伯真魚、即ち空海のところで述べたように山の民は鉱産資源と深いかかわりがあったからだ(鉱産資源は山から採掘するもので山に詳しくなくては採り出せない)。武士なのだから刀の原料となる鉄を求めるのは当然なのだが、その地歩を固めたというのが源経基の子、満仲(みつなか)なのである。経基と紅葉の関係というのも、このあたりの事情と無関係ではないのかもしれない。
紅葉鬼人の伝承
さて、今度は全く別の観点から紅葉がまつろわぬ民の系譜であることを述べてみたい。これまで、蝦夷との関連や、鈴鹿御前のところで出てきた坂上田村麻呂。彼は蝦夷を平らげた名実ともに「征夷大将軍」であり、蝦夷征服の代名詞と言っても過言ではない。また鈴鹿御前に見られるように別の鬼や賊も討ったという伝承もある。しかし、紅葉には直接関係はない。ないのだが、もう少し近づくような話がある。
それは坂田金時(さかたのきんとき)、いわゆる金太郎の出生譚である。金太郎といえば神奈川県の足柄山が有名だが、同じような場所が全国にいくつかある。そのうちの一つが、鬼無里村の約15キロ南方、八坂村の大姥山に伝わるものである。この山に荒倉山の岩屋のような洞窟がある。金太郎はここで生まれ育ったというのだが、その母が紅葉鬼人という赤い顔をした女だったというのだ。紅葉鬼人は西の安曇野の八面大王と恋仲になり、金太郎を生んだ。この八面大王とは、大姥山のさらに西南15キロほど、穂高町の有明山の岩屋に住んだ大鬼だという。強大な魔力を持ち、天候を操り、天地を飛び歩いて、多くの手下の鬼とともに付近の村々を荒らし回っていた。その噂はやがて京へ伝わり、八面大王は坂上田村麻呂により討たれる。悲しみにくれた紅葉鬼人は鬼無里へ去って自害したという。
この伝承に出てくる紅葉鬼人とは紅葉伝説にある紅葉と同一の存在を指すものと思ってよいだろう。八面大王は、土着の豪族、安曇族の首領ではないかとも言われているが、いずれ朝廷に逆らった者であることは間違いない。田村麻呂に討たれているというのが何よりの証拠だ。田村麻呂に討たれた、という伝承の意味は、その真偽はどうあれ朝廷からすれば蝦夷と同類ということなのである。その蝦夷と同類を夫に持ち、子を設け、夫の死を追って自殺したという紅葉の伝承がある。これは紅葉もまた蝦夷と同類ということを意味するものである。つまり、紅葉は「鬼」であらねばならないような存在であった、ということなのだ。
この伝承は紅葉の異伝ともいうべきものだが、伝承だけあって時代の整合性には乏しい。田村麻呂の時代と戸隠の紅葉が愛された源経基の時代とは同じ平安時代とはいっても若干の隔たりがある。しかし伝承にそうした整合性を求めても詮無きことである。そこから伝承に込められた意味を読み解いていかねばならない。
この話の主眼は紅葉が金太郎の母親だということである。この金太郎、先に出た源経基の子、満仲の子の、さらにまた子である頼光に仕えて、頼光四天王と呼ばれる名将となる。紅葉が経基の子を宿したというのが真実なら、筋の通った話ではある。金太郎がもとより源氏の血を引く者ということになるのだから。いずれにしても清和源氏との浅からぬ因縁があるのは間違いない。また金太郎の人並み外れた怪力も、鬼の子ということなら納得のいく話ということになる。ただ皮肉なのは、その鬼の子金太郎は頼光に従い鬼の王酒呑童子を討伐しているということである。これは皇朝の「夷をもって夷を制す」というやり方を反映したものなのかもしれない。
紅葉と山姥、山の民
さて、その紅葉鬼人が住んだという大姥山だが、その名の通りこの山には大姥様という山姥が住んでいたという。山姥というのは、山中に住んで人を食うとされる鬼の一種だが、八坂村の大姥様は、犯せば祟るような禁忌こそあれ、基本的には人々に恩恵を与える存在として信仰されている。金太郎はまたこの大姥様の子ともされていて、はっきりとはしないが、おそらくは大姥様というのは紅葉鬼人の別称、あるいは尊称であろう。そして鬼無里に行って自害したという伝承からして、この紅葉鬼人と戸隠の鬼女紅葉とは同一の存在に対する別伝承だと思われる。大姥様が住んだ洞窟は大姥山と、もう一つは戸隠にもあったという伝承もある。異なるのは夫と、追われたのが夫か本人か、他殺か自殺かということだけである。山に住んで霊力を発揮し、人々から畏怖と尊崇の念を抱かれる女性であった点はもちろん、中央からの迫害、源氏との深い関係という点など、大きな共通点が見られる。
そもそも、戸隠の紅葉も、山に籠って妖しげな術を行い悪さをし鬼と呼ばれるという点で、非常に山姥に近い存在である。紅葉とは山姥という存在のより原型に近い存在だということもできよう。山姥は人を食う鬼とされているが、元来は山の民の女性シャーマンであろうといわれる。山の民は生活・行動様式の違いから里人に理解されず鬼と呼ばれることもしばしばだし、そのシャーマンとなればますますもって理解不能である。人を食う鬼と解されても不思議ではない。山の民の女性シャーマンとしての山姥、紅葉はその原型としての要素も多分に持っているようである。
なお戸隠、鬼無里と境を接する中条村の虫倉山には、優しい子育ての神様としての山姥の伝承もある。このあたり一帯には、中央や里ではとうに忘れられた太古の女性シャーマンの信仰が、長く息づいていたようだ。険しい山岳地帯でもあるから、山の民の主要な活動拠点でもあったのだろう。大姥山の洞窟は越後の別の洞窟までつながっていると言われているが、その真偽はともかくとしても、鉱産資源を糧とし鉱業を生業とした山の民とのつながりを示唆するものとも受け取ることができる。 
紅葉が祈りし神々 

 

第六天魔王の正体
ここで、振り返って、紅葉の守護神、第六天魔王についてもう少し言及したい。第六天魔王とは仏教における強大な魔王であり、起源はヒンドゥー教のシヴァ神であることは既に述べた。そしてたとえ魔王のような存在であっても、その力ゆえに信仰された経緯があることも。だが、この第六天魔王についてはそれだけでは終わらないような側面がある。
実は、この第六天魔王は意外に多くの場所で祀られている。「第六天さま」と呼ばれる神社が各地にあって、祭神は面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)とされている。この両神は日本神話における天地創造の神で、イザナギ・イザナミ両神の一代前に当たるのだが、最初の神から数えて六番目にあたる天の神である。それゆえに第六天と習合された。つまり後世の付会による。神仏習合が広まった中世と、神仏分離が行われた明治期になされたものであろう。そうした祭神が当てられる前から、確実に第六天信仰は存在した。その分布は、主に中部と関東である。そして奇妙なことに、仏教中の存在である第六天の信仰は、寺院とは関係が薄いところで成立しているようなのである。神社が建てられている場合もあるが、道祖神のような石碑として信仰されている場合もかなり多い。その起源を求めると── どうも、信州、長野県に行き当たるようなのだ。
信州は第六天信仰が最も集中している場所であり、特に諏訪地方では各集落ごとに第六天を祀る碑がある。中には、第六天を「御社宮司(ミシャグチ)」と規定しているものもあるのである。このミシャグチ神とは何者か。
諏訪には、信濃国一の宮・諏訪大社がある。一の宮というのはその国で最も篤く信仰されている神社だが、諏訪大社の信濃における信仰の篤さは、他国の比ではない。今も死人が出ることもある御柱祭の例を見るまでもなく、今なお熱烈に信仰されている神社で、長野県内をはじめ全国に数多くの分社がある。その諏訪大社の祭神を、建御名方神(タケミナカタノカミ)という。国津神の王、出雲大社の祭神大国主命の子で、天津神の国譲り要求に最も烈しく抵抗し、出雲から諏訪に逃れ、決して諏訪から出ないことを約束して、辛うじて命を救われたと記紀神話にはある。諏訪湖の神でもあって、龍神とも言われ、荒ぶる神として他の神から恐れられたという伝承もあるが、一方で威力ある神として朝廷に重んじられてもいる。その諏訪大社の祭神について、当の諏訪では記紀神話とは異なる伝承がある。
ミシャグチ神とは
はるか太古、諏訪には洩矢神(モレヤノカミ)という土着神がいた。そこに外部から建御名方神が侵入してくる。洩矢神は鉄の輪、建御名方神は藤のつるをもって戦ったが、洩矢神は敗北した。そうして洩矢神は子々孫々建御名方神を祀ることになり、その体制は明治まで続くのだが、その洩矢神の子孫・守矢家が祀っていたのがミシャグチ神なのである。ミシャグチ神は自然万物の精霊で、諏訪大社の祭祀は実際にはミシャグチ神の祭祀を中心としているし、地元諏訪でも信仰されている。またミシャグチ神には様々な別称があり、シャグジンなどとも呼ばれて、「石神」の字が当てられることもあるように、石の神でもある。その祭儀は動物を生贄に捧げるなど極めて狩猟民的な色合いも濃く、仏教流布後の殺生禁止の価値観の中で猟師に殺生を許す「鹿食免(かじきめん)」という免状を発行していたのも諏訪大社なのである。
そうしたことからミシャグチ神の信仰は、縄文時代にまで遡るという。縄文時代は狩猟文化であり、自然信仰であって、石棒などに見られるように石を敬う文化であった。またミシャグチ神は蛇体とも言われるが、縄文土器に蛇の文様をあしらったものが非常に多いように、蛇信仰という面でも共通するようである。特に縄文時代の信州は縄文文化が最も発達した地方の一つで、蛇文様の土器の出土は極めて多く、黒曜石の産地でもある。守矢家のある長野県茅野市の、八ヶ岳の麓には国宝・縄文のビーナスを出土した尖石遺跡があり、その尖石という名の由来となった縄文人が石を砥いだ石は、「尖石さま」と呼ばれて後世まで信仰の対象であった。同じく八ヶ岳の麓・長野県佐久町には日本最大の縄文時代の石棒も残る。そしてミシャグチ神の信仰は、諏訪を中心に中部から関東まで分布している。これは、同じ様式の縄文土器が出土する範囲なのである。即ち、縄文時代中期の文化興隆地域である。この地域には、太古から石を依代とする精霊ミシャグチ神を祀る文化があり、後世までその信仰が続いたのだ。
このミシャグチ神の信仰分布は第六天の信仰分布がほぼ重なっており、ミシャグチ神の故郷・諏訪では同一の存在だとも述べられている。先に述べたように、第六天は道祖神のように石に祀られていることもあるが、ミシャグチ神もまた石に祀られる。信州に見られる独特の信仰道祖神も、ルーツはミシャグチ神にあるともいわれるが、第六天の信仰もまた、ミシャグチ神にあるのであろう。
紅葉はミシャグチ神の巫女か
さて、話を紅葉に戻すが、紅葉伝説の主要な舞台である戸隠は紛れもない信州である。当然ながら諏訪信仰の圏内であり、紅葉が村人に慕われたという鬼無里の最も有力な神社には諏訪の神が祀られている、それは龍神として語られ、しかも鬼無里の発祥とも深く関わるような重要な存在である。そして、紅葉伝説と関わりのある神社であり、坂上田村麻呂との関わりさえあるのである。紅葉と諏訪の神とは、無関係ではないのだ。そして、紅葉の守護神第六天は、諏訪の土着の神、ミシャグチ神にルーツをもつ。即ち── 紅葉の守護神とは、ミシャグチ神なのではあるまいか。
ミシャグチ神は、縄文時代に遡る起源を持つ神であり、その後も狩猟文化と深く関わっている。狩猟免状を通じて、はっきり狩猟民とも関わっている。狩猟民とは、山の民だ。山の民がミシャグチ神を信奉していた可能性も大いにある。でなければ、狩猟免状が意味を成さないだろう。受け取る方も、諏訪大社に権威を認めていたのだ。そして山の民は狩猟を軸とした縄文の生活様式を続けた人々であり、縄文時代に起源を持つミシャグチ神を信奉していたとしても何ら不思議はないのである。
先に、紅葉が太古の信仰を伝える女性シャーマンであり、山の民の系譜に入るものだと繰り返し述べてきた。その山の民は、太古の信仰であるミシャグチ神を信奉していた可能性が大いにある。また紅葉の守護神第六天は、起源をミシャグチ神に持つ。そして戸隠の紅葉や大姥山の紅葉鬼人が籠った岩屋は、巨石信仰に結びついている。ミシャグチ神は、石に降りてくる精霊だ。これらのことから── 紅葉とは、ミシャグチ神の巫女だったのではないかとも思われるのである。
「夷の神」を以って夷を制す
紅葉と諏訪の神が直接関わるのは、鬼無里で諏訪の神を祀る鬼無里神社なのだが、それは奇妙な関わり方である。平維茂が、紅葉退治の戦勝を祈願したのが、鬼無里神社なのである。紅葉がミシャグチ神の巫女であり、それを守護神とするなら、平維茂は紅葉の守護神に戦勝を祈願したことになる。これはどういうことだろうか。
この神社は、それ以前に坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際戦勝を祈願したともされる。そして、本家である諏訪大社も、田村麻呂が蝦夷征伐の祈願をしたという。諏訪大社を代表する祭・御柱祭も田村麻呂の戦勝を祝って始められたという伝承もある(御柱祭は非常に原初的な信仰を伝えるもので、起源は縄文に遡るものといわれる)。
諏訪大社は、田村麻呂のはるか以前から朝廷の尊崇を受けているし、神話上でも荒ぶる武神であるのだから、勅命を受けた武人達が諏訪の神に戦勝祈願することはおかしなことではない。ただ、そこにはただの武神以上の意味合いがある。それは諏訪の神がもとより荒ぶる国津神であることが関係している。
皇朝は、その発祥から平安時代に至るまで、数多くの民族・部族間闘争を戦い抜いてきた。そして勝利した後、敗北した民の首領や武人、あるいはその民の崇めた神を、祟ることのないよう、またその民を鎮撫するため、神としてその土地に祀った。その際、その首領や武人、神の名をそのまま用いることもあったが、多くは出雲系の神を祭神とした。出雲系の神とは国津神であり、端的に言えば皇朝への反逆者である。もっと言ってしまえば、大いなる魔だ。その大いなる魔でもって、別の魔を霊的に封じようというものである。「夷を以って夷を制す」ということの霊的展開だ。もちろん、その反逆者たちが本当に出雲系の流れを組んでいたということも少なからずあるだろうが。あるいは、再蜂起を防ぐため、その反逆者や彼らが崇めた神の名を後世に残したくないという意図もあったろう。出雲系の神ならば、既に皇朝の神話体系に組み込まれてたものであるから、それが後世に名を残す分には支障がない。降伏した反逆者達も、勝利者側の神を押し付けられるよりは、まだ納得がいく。それこそ反逆者達が出雲系の流れを組んでいれば、尚更だろう。
かくしてこの方法は好んで皇朝に用いられた。やがて時代が下ると、あらかじめ出雲系の神に反逆者の鎮圧を祈願するということも行われた。「夷を以って夷を制す」ためである。夷の神が夷に味方することのないよう、鎮まってもらい、願わくば自分の味方をして夷を鎮めてくれるよう、祈願するのだ。
諏訪の神への戦勝祈願の意味
諏訪の神への戦勝祈願というのは、こうした意味合いが強いものだと思われる。しかも、諏訪の位置は皇朝から見れば夷の国の入り口に当たるのである。そして、諏訪の神は太古の東日本縄文文化圏の信仰の中心でもある。皇朝に取り込まれた夷の神とも言えるだろう。夷の側にとってもただの皇朝側の神ではない、自分達の崇める神そのものである場合もある。あるいは、諏訪の働きかけ次第では反逆者達も戦わずして降伏するかもしれない。逆に、諏訪が反逆者と手を組んでもらっては困る。皇朝が諏訪の神を重んじ、征夷の戦勝祈願をしたというのは、単なる精神的な意味合いだけでなく、そうした政治的な意味合いもあったと思われる。
こうしたことを考えるなら、平維茂が紅葉退治の祈願を諏訪の神にしたとしても少しも不思議ではない。そもそも鬼無里神社は土地の神であって、そこで戦をするのに土地の神に祈願するのはある意味当然ともいえるだろう。その神を戦う相手も拝んでいたとしても。また、鬼無里神社が戦勝祈願の場所ではなくて、紅葉退治後、紅葉の拝んでいた神を祀ることによって祟りを防ぎ封印したというのが実際だったかも知れない。紅葉を慕った人々を納得させるにも良い方法であるだろう。何しろ紅葉を慕った鬼無里のことなのであるから。あるいは、戦勝祈願の場にして封印の場であるという両方の可能性もある。何にせよ紅葉と諏訪の神の関連性を物語るものであることに違いはない。
諏訪の神と鉄の関係
話が前後してしまうが、諏訪と山の民の関連として、「鉄」というものも挙げておきたい。先に述べたように、諏訪の土着神洩矢神は、建御名方神との戦闘において「鉄の輪」をもって戦ったという。そして守矢家のミシャグチ神の祭儀には、鉄が重要視されている。佐奈伎(さなぎ)と呼ばれる銅鐸ならぬ鉄鐸、即ち鉄の鐘は今も守矢家に伝わっている。また諏訪大社は美濃の南宮大社と並ぶ冶金の神であったという。このように諏訪とは金属、鉄と非常に深い関わりのある神である。
一方、山の民達は山に住むだけに鉱脈を知り、鉱産資源を掘り出して加工することを生業とする産鉄民でもあったという。狩猟と冶金という二つの要素を通して、諏訪と山の民とは深いつながりがあった。また古代製鉄が盛んな場所といえば、出雲であり、もう一つは東北であった。どちらも皇朝への反逆者の土地である。出雲の製鉄は、八岐大蛇から出てきた草薙の剣の神話が産鉄民を征服した話だと見る向きもあるし、古代のたたら製鉄の跡が数多く見つかっている。東北の製鉄は、あまり有名ではないが、日本刀のルーツとされる、正倉院の宝物の中にある「舞草」銘の古代刀によって知られる。この「舞草」は岩手県にあり、非常に加工が容易で質の高い鉄を産出した。後世でも岩手は南部鉄器で知られるように鉄の産出地であり、現代でも新日鉄の釜石工場は有名である。
ミシャグチ神が縄文の信仰を伝えるものなら、鉄との結びつきは奇妙であるといえば奇妙である。なぜなら日本における鉄器の使用は弥生時代以降のこととされているからだ。後世、縄文の末裔達が山の民となり鉱業を生業としたことの反映であるといえばそれまでだが、実は製鉄の起源を縄文に遡る説もある。それこそ舞草で出るような加工のし易い磁鉄鉱石はそれほど高温でなくとも加工でき、大量生産は無理でも狩猟採集の道具ぐらいは簡単に作り出せたということだ。世界的にも、鉄青銅先行説というのものもある。鉄は青銅に比べて劣化しやすいため残っていないだけで、加工方法によっては鉄の方が温度が低くて済むから、という理由である。かつて、奈良時代以降中国から伝わったというのが常識だった漆が、縄文遺跡から大量に出土した漆器によって覆された。鉄器に関しても、同じようなことがいえるかもしれない。既に、学界で取り上げられつつあるようである。そして、貴重だったからこそ、鉄鐸のように信仰の対象となったのであろう。
紅葉と製鉄
この、諏訪と山の神を結びつける鉄── これが意外なことに、紅葉にも深い関係がある。鬼無里に残る、紅葉が住んだという内裏屋敷の跡で、九〜十世紀頃の土師器とともに、鉄滓(てっし、製鉄の際に生じる鉄屑)が発見されているのである。鉄滓は、製鉄を行わなければ生じない。そして、九〜十世紀とは、まさしく紅葉の生きた時代なのだ。ここから導き出される答えは一つ。紅葉は製鉄技術を持っていたということである。そしてそれは、産鉄民たる山の民と、鉄信仰を持つ諏訪の神との結びつきを示すものなのである。あるいは、製鉄技術を求めて産鉄民に近づいた清和源氏との関係すら、浮かび上がってくるのだ。さらに言うと、鉄滓を出土した内裏屋敷遺跡は縄文時代からの遺跡である。縄文時代から連続して人が住み続けた場所なのである。紅葉と縄文の末裔とのつながりをも、示唆するものだ。なお、先に出てきた八坂村の紅葉鬼人は赤い顔だったというが、これも産鉄民との関係を物語る。鬼が赤い顔であるのは伝承上一般的なことではあるが、それは繰り返しの溶鉱作業の末に赤く焼けた顔を持つ、産鉄民の特徴を表すものだという。
それにしても、内裏屋敷からの鉄滓の出土は、驚くべきことである。紅葉とは、ただの伝説上の悲劇のヒロインではないことは間違いない。太古からの信仰を受け継ぐ強力な女性シャーマンであるだけでなく、多彩な芸能と教養を身に付け、医者でもあり、先端技術の技術者でもあった紅葉。村人から尊崇の念を抱かれるのも当然なら、中央から危険人物とみなされるのもまた当然であろう。内裏屋敷の鉄滓は、そのような歴史的現実味を持つ考古学上の遺物である。 
「貴女紅葉」の坐しし鬼無里 

 

紅葉伝説を記述する「北向山霊験記」
紅葉が住んだという内裏屋敷の跡地が残り、そこから同時代の製鉄の跡が見つかった鬼無里村。そこで紅葉はその才知と霊能をもって村人に尽くし、村人にも慕われたという。実は、この鬼無里にまつわる紅葉伝説は、ほとんどが鬼無里村に独自に伝わったものである。
紅葉伝説には、大別して二つの系統がある。一つは、謡曲「紅葉狩」の系統で、戸隠の山中で平維茂が妖しい鬼女に出会い、これを討ったというもの。もう一つは、「北向山霊験記」と呼ばれる書物に書かれている物語の系統である。「北向山霊験記」とは、平維茂が紅葉退治の祈願のため参籠し、降魔の利剣を授かった、上田の北向観音の由来記のようなものだが、紅葉の生涯を詳細に語ったものはこちらの系統に入る。こちらの系統に入る、といっても、戸隠周辺に伝わる紅葉伝説はほぼこの「北向山霊験記」と話の筋が同じなのだが、鬼無里に伝わる伝承だけは大きく異なっている。大きく異なる部分というのは、当然ながら鬼無里が舞台となる村人のとの交流の部分である。もちろん、「北向山霊験記」でも紅葉と村人との描写はあるが、紅葉が高貴の身分と偽り邪術で村人を誑かし、昼は菩薩のように振る舞い、夜は夜叉の如き本性を現して悪事を働いたと、相当に悪しざまに書かれている。紅葉に対して多少とも感謝の念を伝えている伝承は、鬼無里の他では、荒倉山の麓、維茂の先遣隊が紅葉の術に翻弄されたり、維茂が岩屋を探すために放った矢が落ちたという場所、また紅葉の墓と菩提寺などのある、柵(しがらみ、現在の戸隠村栃原志垣あたり)に伝わるものぐらいのものである。柵での伝承には、紅葉は地元の出身だと伝えるものもある。
鬼無里の伝承の特異性
鬼無里に至っては、現在もなお、紅葉は人々に様々な施しをし、文化を伝え、慕われた、鬼女ならぬ「貴女」とし、恩人としている。神の如き尊崇の念を受けているのである。また、紅葉が住んだ内裏屋敷だとか、紅葉が名付けた京にちなんだ地名、紅葉が建てた加茂社や春日社などは、鬼無里独自の伝承である。「鬼無里」という地名についても、鬼無里では紅葉とは無関係な、全く別の由来を伝えている。鬼無里の伝承では、魔性の女性であったとか、鬼と化して討たれたとかいうことは、優先度がとても低いのだ。何よりも村人に厚く遇され、村人に恩恵をもたらした貴人であったことが強調されている。紅葉を宮中に仕えた官女(帝に仕える女官)であったともしているのだ。であればこそ、「内裏屋敷」という名も成り立つと言えるだろう。内裏とは他ならぬ天皇の住まう場所である。
この鬼無里での伝承は、他の伝承に比べ最も細部が詳細であるだけに、最も原型に近いものと言えるのではないだろうか。外部で形成された伝承に付け足したということはあるまい。外部で鬼と呼ばれ忌避されているものを、後からわざわざ鬼無里でだけ貴人とし崇めるような理由はないからだ。いかに伝承といえど、故なくして「内裏」などという名称を朝廷に征伐された「鬼」に結びつけることなど危険極まりなくて狂気の沙汰でしかない。故あることだとしても危険なことには違いないのだから、それでもそうした伝承を伝えるだけの意義があったということだ。意義とは紅葉を敬うことで、それほどまでに鬼無里の人々は紅葉を尊んできたということである。
鬼無里の伝承における紅葉のシャーマン性
鬼無里の伝承こそ紅葉伝説の原型だとするなら、それに合わせて紅葉伝説を再度省みてみる必要がある。これまでの検証の根幹は、紅葉が女性シャーマンであった、ということだ。これについては全く異存はない。紅葉が最もシャーマンらしい、呪医的役割を果たしたのは、鬼無里の伝承においてである。鬼無里には紅葉伝説を描いた絵もあるが、そこには白衣に緋袴という、明らかな巫女装束をまとった姿で紅葉が描かれている。その出で立ちで檜扇をもって人々を癒したり、神を祀る姿が描かれているのである。また紅葉が神社を建てたということにも注目したい。神社を建てるということは、神を招き、その礼拝所を建てるということである。これは神に仕える者にしかできない行為だ。シャーマンはシャーマンでも、万人が認めるような高レベルのシャーマンにしかできないことなのである。なお、紅葉と宗教文化ということでいえば、鬼無里にある紅葉の菩提寺・松巖寺(しょうがんじ)では紅葉の守護仏は地蔵菩薩であったとし、そもそも松巖寺も平維茂が紅葉の守護仏である地蔵菩薩を供養のため祀ったのが始まりという。実際松巖寺はもと鬼立山(きりゅうざん)地蔵院と称した。今でも松巖寺には空海作と伝えられる地蔵像があり、これが紅葉の守護仏だったという。紅葉の守護神を第六天とする一般の伝承とは大分異なるが、地蔵菩薩は冥界の管理者でありイタコのような死者を招くシャーマンを彷彿とさせられなくもない。
官女・紅葉
紅葉がシャーマンであったことは鬼無里の伝承においても揺るぎないどころか、ますます強固なものとなるほどである。では出自の問題はどうか。
鬼無里の伝承において特異なのは紅葉の鬼無里での行動であって、それ以外の部分に関しては、紅葉に同情的という他は特に目立った点はない。ただ紅葉が官女であったとするところが特異な点である。官女とは内裏で帝に仕える女性であって、経基の側室とは立場が異なる。このあたりは鬼無里の伝承でも明確に語られている訳ではない。もっとも、経基は源姓を賜った臣下とはいえ、それまでは経基王と称し、六孫王(清和天皇の第六皇子の子の意)とも称された、歴とした天皇の孫である。即ち元皇族なのだ。いずれ高貴な存在には違いないであろう。「源氏物語」でも光源氏は准太上天皇(太上天皇は譲位後の天皇の称号。光源氏は皇位に就いたことはなかったが、天皇の父であったため、これに準ずる称号を与えられた)の称号を授かっている。物語の話とはいえ、源氏物語は広く宮中から貴族達まで受け入れられたものであり、源姓が皇室に連なる高貴な姓であると認識されていた証左であろう。こうしたことまで考えるなら、経基の側室が官女とされることもあり得ない話ではない。都を遠く離れた信濃の山中であれば尚更である。
いずれにしろ紅葉が高貴な女性であったとすることは同じである。そして、白拍子の前身たる漂泊のシャーマン・芸能者であった可能性も依然として残るのである。また、蝦夷や土蜘蛛のような「まつろわぬ民」の系譜に連なる者であった可能性もまた残る。単なる追放された一官女であれば、勅命により討たれるということはない。皇朝にとって政治的に厄介であればこそであり、「鬼」と呼ばれるなどこれまで様々に検証してきたいくつもの事柄から、「まつろわぬ民」の系譜に連なる山の民、産鉄民であることはまず間違いがないのである。紅葉が住んだ内裏屋敷から出土した鉄滓は、そうした山の民、産鉄民との関係を如実に物語っている。
紅葉が建てた加茂神社
また、紅葉が建てたという神社のうち、内裏屋敷に最も近く、現在でも最も規模の大きなものが加茂神社であるが、この神社も土蜘蛛とのつながり示すものかもしれない。
この神社の祭神は建御雷男神(たけみかずちのおのかみ)で、国譲りの際、先述した諏訪大社の祭神・建御名方神を追い詰めた天津神であるが、これは京都の下鴨神社の祭神・賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ)を後世混同したものと思われる。京を偲んで建てたというなら尚更である。その賀茂別雷神の祖父を賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)といい、上賀茂神社の祭神であるが、この神は神武東征の際、八咫烏(ヤタガラス、三本足の霊鳥)となって天皇を助け、奈良の葛城に鎮まったという。
これを祖神として奉祭した古代豪族賀茂氏が京都に移って祀ったのが上賀茂・下賀茂神社であり、その根源たる高鴨神社という神社が奈良・葛城にある。しかし、その高鴨神社の祭神は味耜高彦根神(アジスキタカヒコネノカミ)という、大国主命の子神であり、そのことは古事記にも書かれている。それからすると、賀茂氏は出雲系の豪族ということになる。また葛城は神武天皇に討たれた土蜘蛛の一大根拠地でもあった。そのようなことから、賀茂氏は土蜘蛛と同じく当地の土着の豪族であり、そのうちの皇朝に組した一族とする説がある。
また、先に陸奥国風土記逸文に、土蜘蛛が暴れて討たれたという記述がある旨述べたが、それを討ったのは日本武尊で、討った後、そこに「土着の神」として味耜高彦根神を祀ったというのである。他にも、味耜高彦根神と土蜘蛛の関連を示すものがあるようで、賀茂氏というのは皇朝に組した元の土蜘蛛というだけでなく、先に述べた佐伯氏などと同じく、全国の土蜘蛛と交流を持ち、これを束ねるような役割を担っていたのではないかともいわれている。ただ、賀茂氏が隆盛を誇ったのは皇朝の黎明期であり、その後は没落気味であったようで、京都の賀茂神社は葛城を追われた賀茂氏が逃れて建てたものといわれる。もっとも、その後も呪術を行う一族として賀茂氏は一定の地位を保ってきた。修験道の開祖・役小角は賀茂氏であるし、安倍晴明が出るまで朝廷の陰陽道を独占していたのは賀茂氏で、晴明以後も陰陽師の家柄として続いている。
紅葉は賀茂氏に連なるか
そのような一族である賀茂氏は、一方で全国に移住開拓もした。そうした地には今でも「加茂」の地名や、加茂神社が残ったりしている。鬼無里の加茂神社も、そうしたものの一つである可能性は十分にある。紅葉の強力な呪術は、呪術師の一族たる賀茂氏と関係があるかもしれないし、紅葉が土蜘蛛に連なる者だったとして、その祖神を祀ったのが鬼無里の加茂神社なのかもしれない。
なお、鬼無里の加茂神社は、社伝によれば日本武尊が白鹿を撃ったときの矢を奉納し、加茂大神を祀ったのがはじまりとされている。これに近い話が日本書紀にあって、東国征伐を終えた日本武尊が、まだ反乱の気がある信濃に赴いたとき、山の神が邪魔しようと白い鹿となって現れ、尊がこれを撃ったという。加茂神社の創建にまつわる話は間違いなくこの系統に属するものだが、この白鹿は紛れもなく皇朝に敵対した「まつろわぬ民」であり、鬼無里にそうした勢力があったことを物語るものである。また、先の陸奥国風土記逸文の日本武尊の土蜘蛛退治では、退治した後「土着の神」として味耜高彦根神を祀ったとのことだが、同様に日本武尊が土着勢力を討った後に加茂大神を祀ったこの地は、土蜘蛛の根拠地であった可能性が高い。鬼無里はもともと「まつろわぬ民」の地であったのではないか。 
紅葉の都 幾千秋 

 

鬼無里に伝わる別の鬼伝承
鬼無里が「まつろわぬ民」の地であった── それを如実に語る伝承が、鬼無里に残っている。それは先に少し述べた、「鬼無里」という地名の由来説話である。その内容は次の通りである。
壬申の乱に勝ち、律令国家の体制を固めていた天武天皇は、信濃に遷都することを計画した。そこで、三野王(みののおおきみ)という皇族が派遣され、その三野王が選び、図面を提出した場所が水無瀬だった。しかし、これを嫌がった水無瀬の鬼達は、その候補地の真ん中に山を置いて塞いでしまった。遷都計画を邪魔された天武天皇は、蝦夷征伐で名高い阿倍比羅夫(あべのひらふ)を派遣して、その鬼達を討ったという。それにちなみ水無瀬の地は「鬼無里」と呼ばれるようになった、というものである。突拍子もない話だが、天武天皇の信濃遷都計画自体は日本書紀にも明確に記されていて、三野王が派遣され、図面を献上したことも書かれている。また、その後に再度信濃に使者を遣わし、近隣の温泉地に行幸するための一時的な宮作りを命じたことも記されていて、まるっきり荒唐無稽な話でもないのである。
遷都伝説の伝承地
この話からすると、鬼無里とは紅葉以前から鬼の跋扈する土地だったらしい。鬼とは繰り返し述べてきたように「まつろわぬ民」の象徴なのである。しかも、ここでは征夷で有名な阿倍比羅夫に討たれている。これは鬼無里がもとより「まつろわぬ民」の根拠地であった証左であろう。
なお鬼無里には、その鬼が一晩で作ったという作った一夜山という山をはじめ、この信濃遷都にまつわる伝承地がいくつもある。先に述べた、加茂神社も、派遣された三野王が「加茂大神宮」の称を与えたといい、勅使の館を置き、それによってこの地を「東京」と呼んだという。同じく紅葉が建てたという春日神社、春日神社のある「西京」も同様に遷都伝説に由来するものだという。遷都に由来する神社としては、新都の鬼門鎮護として建てられた白髭神社という神社もあり、平維茂が紅葉退治の折に戦勝祈願をした神社でもあるという。その他、遷都伝説に由来する場所として印象深いのは「月夜の陵(はか)」と呼ばれる墳墓で、遷都候補地調査の際、この地で客死した皇族某の墓と伝わる。この墳墓は、内裏屋敷のすぐ裏手の山にあり、ほとんど同一の場所である。また一説によると、月夜の陵は紅葉の侍女「月夜」の墓で、よく仕えたが夭折してしまったため、紅葉がその死を悼み、手厚く葬った場所ともいう。ほか、紅葉が京を偲んでつけたという地名には遷都伝説にも関わっているものが多い。紅葉が住んだ内裏屋敷にしても、そもそも遷都計画の際に定められた内裏の場所であったという。
紅葉と鬼無里の遷都伝説
このように、鬼無里の遷都伝説は微妙な現実味を伴い、不思議な感じがするが、こうして俯瞰してみると、遷都伝説にまつわる地は、大方同時に紅葉伝説にまつわる地であることが分かる。これはまことに奇妙なことだが、その一致のしかたはさらに奇妙である。遷都伝説において皇族やその行動にちなむものが、ほとんどそのまま紅葉とその行動にちなむものになっているのだ。これを端的に見るならば、紅葉が皇族と同一視されてしまっているということになる。もっとも鬼無里では紅葉を官女であったもとし、貴女と呼んでいるくらいだからまったく故なきことではない。後世、異なる二つの伝承が部分的に混同された結果だといえばそれまでだが、完全には混同されることなく重複して伝わっているというのも奇妙な話である。思うに、この二つの異なる伝承の間には何か関連する事象があったのではないか。単純に考えれば、追放の憂き目にあった紅葉が、たまたまこの地にあった皇族客死伝承と自分を結びつけて生き延びようとしたか、村人の側で勝手に結びつけて神聖視したなどということがあろう。しかしそういった一時的・表層的なつながりとは思えないような根の深い結びつきを、二つの伝承は示しているように思われる。では、遷都計画の際に鬼無里で没した皇族某の血を引く者であったというのはどうだろうか。紅葉を地元の出身とする伝承もあるし、遷都伝説で「鬼」と呼ばれた土着民と交わって生まれた子孫であれば、一方で官女と呼ばれ尊ばれつつ一方で鬼と呼ばれて官軍に討たれたという両面性にもつながる。その子孫が流れ流れて会津に暮らしており、紅葉の代になって京に上るも追放されて祖先の地に帰ってきたのかもしれない。あるいは、紅葉が土着民と交わった皇族某の子孫と再婚したという可能性もある。
八面大王再考
再婚、ということで思い出すのは、八坂村の紅葉鬼人の話だ。彼女は安曇野の八面大王と結ばれて、金太郎を生んだ。この紅葉鬼人が紅葉と同一人物ならば、経基から追放されて後の再婚ということになる。八面大王は、坂上田村麻呂に討たれた鬼であり「まつろわぬ民」で、皇朝と反する立場だが、土着豪族安曇族の末裔とも言われている。安曇族は古代日本にやってきた海洋民族とされ、賀茂氏と同じように一方で皇朝にも仕えつつ、一方で全国に移住し、その移住地には安曇の名が残っている。八面大王が根拠地とした信州安曇野はその代表的な例だ。八面大王を「やめのおおきみ」と呼び、地方豪族ながら由緒ある一族としての誇りを持っていたというような説もある。実際、安曇族は皇室とも並ぶ古く由緒のある一族である。もしかすると皇朝以前に「大王」とされるような尊き一族であったかもしれない。皇朝支配が全国に及ぶ前の時代には、特定の地方の「大王」であった可能性は十分にあるだろう。信濃が皇朝の枠組みの中に入ったのは西国に比べれば後のことなので、そこそこ後の世まで皇朝支配に組み込まれていない地方の「大王」の政権下にあった可能性はある。八面大王の伝承は、安曇族かどうか分からないが、そうした地方の「大王」の最後の抵抗を物語るものかもしれない。
紅葉伝説の真相
鬼無里の遷都伝説にまつわる鬼退治も、そうした地方政権の抵抗と敗北の伝説化と思われる。少なくとも「まつろわぬ民」の征服譚ではあろう。史実とされる天武天皇の信濃調査も、「まつろわぬ民」の鎮撫が目的で、別の政権の「都」を征服せんがためであった可能性もある。本当は「まつろわぬ民」達の「都」であったものが、皇朝により滅ぼされ、世を憚りつつもその誇りを伝えていこうという意志の結果が、「遷都」という伝説を生んだのかもしれない。かつてここに我々の祖先が築いた都があり、我々はその都人の子孫であるということこそ、遷都伝説が伝えられた真の意図かもしれないのだ。月夜の陵の主はそうした地方政権の支配者の墓かもしれないし、鬼無里の「都」の滅亡後、監視役として留まった皇朝の皇族なのかもしれない。後者だとしても、村人に丁重に扱われてきたことを考えれば、やがて土着化していったものと思われる。紅葉のように、土着民を慈しんで、皇朝の文化を伝えたのかもしれない。それであれば、後に紅葉の伝承と重なるということもあり得る。
やがて、安曇野で地方政権の最後の蜂起があった。そのとき、間接的にかもしれないが、八坂村や鬼無里村も八面大王に協力体制を取ったのではないか。あるいは、八面大王討伐後の落人を匿ったのかもしれない。落ち延びてきた八面大王の親族が、紅葉であり、紅葉は鬼無里の人々の協力を得つつ、再戦に備えたが、村人を巻き添えにするに忍びなく、郎党のみ引き連れて荒倉山の岩屋に陣取った。が、結局は皇朝の軍に敗れた。あるいは滅ぼされた八面大王の親族が、再起のためか復讐のためか京へ潜入した。やがて産鉄の民とのつながりを求める源氏との関係を構築するに至るが、源氏としてもリスクが大きいため、結局関係は切れてしまった。そして故郷あるいは後援者のいる鬼無里にて力を蓄え、荒倉山にて再蜂起を試みるが、やはり敗れてしまった。だが、その子孫は生き延びて、やがて様々な因縁と利害から源氏の棟梁直属の部下となった。それが金太郎、坂田金時である。
鬼無里の義仲伝承
紅葉伝説の真相とは、以上のようなものだったかもしれない。無論これは散在する伝承を筆者が組み上げた素人の推測にしか過ぎないが、紅葉伝説は、ただの空想、おとぎ話ではないのは確かだろう。まず山姥的な太古神の零落、女性中心の太古の呪術宗教の零落譚であることは間違いないだろうが、それ以上に、何やら妙に現実味を帯びた政治的・歴史的背景を感じ取らずにはいられない。その一つは、山の民とのつながりである。だがそれだけなら、大方の「鬼退治」譚に見られる事柄だ。今一つは、その「鬼退治」に活躍した源氏との関係である。紅葉伝説では、結局紅葉は源氏に追放されはするものの、源氏に討たれはしなかった。討ったのは、平氏である。時代からして、後の世の源平争乱とは無縁のように思えるが、これが全くそうでもないようだ。
鬼無里には紅葉伝説・遷都伝説の他に、清和源氏・木曽義仲の伝説もある。一つは義仲挙兵の際に鬼無里を通ったという話。もう一つは、義仲敗氏後、その子・力寿丸(りきじゅまる)が隠れ住んだという話である。鬼無里の山奥、内裏屋敷のそばを流れる裾花川のはるか上流に、「木曽殿アブキ」(アブキとはアイヌ語で「岩穴」を意味するとされ、この地に縄文の末裔達がいたことを偲ばせる)と呼ばれる巨大な岩穴があるが、これが義仲が進軍の折野営した地であり、また力寿丸の隠れ家でもあったという。このあたりからは刀剣も発掘されていて、あながちただの伝承とも思えないものがある。また内裏屋敷の少し上流には文殊堂があって、そこには義仲進軍の際か、義仲敗死後に力寿丸を伴った郎党達が祀ったという、義仲の守護仏・文殊菩薩が祀られている。力寿丸はその後家を再興させたと伝えるが、郎党の一部は鬼無里に土着し、今もその後裔を名乗る人々が住む。この他、鬼無里には義仲にまつわる伝説が数多くある。信濃という義仲挙兵の地であることからすれば当然といえば当然なのだが、問題なのは平氏との関係である。義仲の北陸道進出の足がかりとなったのが、越後にいた城長茂(じょうながしげ)との戦だったが、この城氏は紅葉を退治した平維茂の子孫である。
源氏と山の民の関係、そして紅葉
こうなると、紅葉伝説はこのこととも全く無関係ではないだろう。平維茂を破った源氏方の子孫が今に残る村で、平維茂が退治した鬼女を貴女と崇めるのは自然なことでもあるだろうが、それ以前に鬼無里には源氏との関係があったかもしれない。
先に、鉱業利権を得るため、経基の子・満仲は山の民に近づいたという経緯があることを述べたが、そうした関係の一つが鬼無里にもあった可能性もある。ただ、満仲は後に山の民を裏切り、それがために妖怪達の恨みを買ったという話もあって、満仲が戸隠で鬼女退治をしたという注目すべき話が太平記にもある。もしかすると紅葉を討ったのは経基の子・満仲であるかもしれない(ちなみに経基は紅葉が討たれる前に没している)。こうなってくると収拾がつかなくなってくるが、結局この地の山の民も源氏に裏切られたことを示すものだろう。満仲の子・頼光も鬼退治と土蜘蛛退治で名を馳せた人物である。源氏は鬼・妖魔退治の一族なのだ。
だが、時に応じて協力というか、互いに利用する関係にはあったかと思われる。その結び目を象徴するものが経基の紅葉寵愛であり、その後の義仲伝承ではないだろうか。
結 赤き紅葉の伝承
そして、その鉱業利権という源氏とこの地の山の民の結びつきを示すのが、内裏屋敷の鉄である。この鉄が紅葉伝説を異様な政治的・歴史的現実味を感じさせる最大の原因となっている。紅葉が鬼無里に文化を伝えたのなら、この鉄は農機具や狩猟の道具の製作の跡とも考えられる。しかし、紅葉が郎党とともに激戦の末討ち取られたことから考えれば、武器製作の跡と考えるのが自然である。激戦の伝承があり、実際に製鉄の跡があるなら、それは本当にその時代に何らかの戦があったということだろう。このことが、紅葉伝説をただのおとぎ話ではない、血生臭い現実味を帯びたものにしている。そして、その戦いとは、皇朝による土着民征伐であったろう。と、同時に、その信仰である女性主導の太古的呪術宗教抹殺の戦いでもあった。
これまで紅葉伝説に対し様々なアプローチを試みたが、このあたりをもって結論としたい。
それにしても紅葉伝説というのは、単純には論じられない多くの要素を含む、何と広く深い伝承なのであろうか。紅葉という名は、鬼の顔を現す赤、怒りという感情の赤、戦で流れる血の赤、溶けた鉄と鉄錆の赤、女性という性別を示す赤、巫女の袴を彩る赤、女性が真実巫女として輝いた時代を偲ばせる太陽の赤、そしてその落日の赤── そうしたものが一時に爆発し紅葉のごとく赤色に燃えて、そして紅葉のごとく一時で散り土に埋もれた── ということを象徴するもののように思える。千年の時を経た現在も、山の神は戸隠や鬼無里の山々を赤く染めさせる。かの紅葉を偲ぶかのように── 。 
 

 

 
信濃の伝承

 

謡蹟 紅葉狩(もみじがり)
秋も半ばの頃、戸隠山中で三、四人連れ立った美女が、宴を催して紅葉狩に興じています。そこへ、鹿狩りに来た平維茂の一行が通りかかります。維茂は興を妨げないようにと、馬から降り、道をかえて通り過ぎようとすると、美女は一樹一河の縁であるからと維茂の袂を引き、酒宴の仲間入りを勧めます。維茂は断りかね、勧めに応じて盃を重ね、美女の舞に見とれます。そのうち維茂は寝入ってしまい、女達はそれを見て「目を覚ますな」と言い捨てて山中に姿を消します。
維茂は、夢中に八幡宮の神より神剣を授かり、美女に化けていた鬼神を退治するよう神勅を受けます。そして目を覚ました維茂は、身支度をして待ちかまえます。やがて稲妻、雷とともに鬼女が現れ襲いかかって来ますが、維茂も神剣を抜いて応戦、激しい格闘の後、ついに鬼女を斬り伏せます。
鬼女紅葉伝説
紅葉は貞観8年(866)、平安時代中期、奥州会津の地で産まれ、幼名を「呉葉」といった。呉葉は成長し、その美しさと優れた才覚により、両親とともに上京することとなった。京の都では、名を「紅葉」と改め、源経基(つねもと)のもとに仕えた。経基の寵愛を受けた紅葉は、やがて子をもうけるが、経基の正妻に妖術を使って病にしたことが露呈し、その罪により北信濃の水無瀬の里(現在の鬼無里)に流された。
紅葉は、水無瀬の里で村人に様々なことを教え、妖術により病を治すなどしたので、やがて村人の信望を得た。その一方で、都を懐かしく思う気持ちで、内裏屋敷を構え、東京、西京、二条、五条など都にちなんだ地名をつけたり、加茂神社、春日神社等を祀った。
しかし、だんだん力を得てくるといつか都に向かいたいという気持ちが次第に強まり、次第に盗賊集団のようなものを形成するようになった。やがて、紅葉らは、戸隠の荒倉山中にある岩屋を活動の拠点とし、周囲に出向いて略奪を繰り返すようになった。その悪事は、都に聞こえ、朝廷の命により平維茂がこの地に向かった。紅葉を討伐するため、維茂は上田の別所北向き観音を訪れ、その力を授かった。北信濃のこの地は非常に地形が険しく、紅葉を探すのに難渋したが、維茂は願いを込めて一本の矢を放った。その矢が飛んだ方向に、維茂一行は向かった。
やがて、荒倉山麓へとたどり着いた維茂は、ここで酒宴をする一群と出会う。それが紅葉らであったのだが、維茂はその酒宴に加わることにした。やがて維茂は、毒酒により深い眠りに陥ってしまった。だが、これを案じた八幡菩薩の力により、一差しの刀を得て目を覚ました。力を得た維茂は、様々な難所を突破し、「龍虎が原」で鬼の姿を表した紅葉と最後の決戦に臨み、ついに紅葉を討伐した。
荒倉山、内裏屋敷跡、春日神社 (長野市鬼無里、戸隠)
京都からこの地に流された官女紅葉が最初に住んだのは、荒倉山の隣の鬼無里といわれ、鬼無里にはその住居跡といわれる「内裏屋敷跡」がある。
案内板によると紅葉のために村人たちが建てた屋敷跡で、東西70間、南北120間あったと伝えられている。草むらの中に「内裏屋敷跡」と記された木柱と案内板が立っているが、その後、「鬼女紅葉供養塔」も立てられ、背後には「内裏屋敷跡」と大きな丸い標識もたてられている。
鬼無里には、紅葉が都を偲んでつけたという、東京、西京、二条、五条等の地名が残っており、春日神社も紅葉が京を偲んで建てたものといわれる。加茂神社もある由だがまだ参詣していない。
紅葉の岩屋、朝(あした)ヶ原、山の神 (長野市戸隠)
紅葉は悪事を働くようになってから、紅葉の岩屋と呼ばれる岩窟に移った。荒倉山の山中、断崖の上に聳える巨大な岩屋である。ぽっかりあいた洞穴は不気味でいかにも鬼のすみかに似つかわしい。穴の中はかなり広く、驚いたことに大勢の謡曲の愛好者がここを訪ねて「紅葉狩」を謡ったとみえて、謡の会の名前や個人の名前を書いた札が沢山並んでいた。
鬼の岩屋から里へ出てきたあたりに「朝(あした)ケ原」という平坦地がある。飯綱山から遠くは浅間山まで見渡せる眺望のよい場所で、紅葉は朝な夕なここを散策したという。
その近くには「山の神」がある。紅葉が荒倉山にこもるに当たって、自らまつり祈願したところといい、下駄の歯の跡のついた岩や、維茂が紅葉退治の際残したという「駒の爪跡」がある。
将軍塚、安楽寺 (上田市別所温泉)
紅葉を攻め滅ぼした武将の名は平維茂である。維茂は平安末期の武将、鬼女紅葉を退治した功により信濃守に任ぜられた。上田市の別所温泉は維茂の別邸の地で将軍塚と呼ばれる維茂の供養塔があり、安楽寺も維茂の創建とも言われている。
柵神社、鬼無里神社 (長野市戸隠、鬼無里)
維茂は鬼女紅葉退治に出発したが、この地方の地理に明るくなく、紅葉の本拠を探しあぐね、弓矢によって占おうと見晴らしのよい場所に立ち、八幡大菩薩を念じて二本の矢を天に向かって放った。二本の矢は西北の方角に飛び、裾花川を越えてはるか志賀垣の里に落ちた。今この矢の落ちた所に矢先八幡(柵神社)がある。また、鬼無里神社は維茂が戦勝を祈願したところと伝える。
木戸、毒(ぶす)の平、能舞台 (長野市戸隠)
維茂はいよいよ軍勢をととのえて進発した。最初の激戦地は毒の平へ入る急傾斜地、木戸のあたり。上木戸・下木戸とあり嶮しい地形を利用し、木戸を置いて紅葉軍が守りを固めた場所といわれ、攻める側も守る側も入り乱れて戦ったところである。木戸を突破した維茂軍は勢いを得て更に進撃、そして毒(ぶす)の平で紅葉は維茂軍に討たれたという。現在この毒の平の地には能楽堂が建てられており、その鏡板には通常松の絵が描かれているが、ここの鏡板には松のかわりに紅葉が描かれている由。
鬼の塚 (長野市戸隠)
勝利をおさめた維茂は紅葉の遺体を、志垣の里は矢先八幡の近くの小高い丘に埋葬し、五輪の塔を建てて供養した。今ここには「鬼の塚」と呼ばれる立派な五輪の塔と傍らにはその家来の多数の塔が立っている。
大昌寺 (長野市戸隠)
鬼女紅葉伝説にちなんだ曹洞宗の名刹で、本堂には紅葉と維茂をひとつに祀った位牌が安置され、また狩野派の絵師、三村養益 による伝説鬼女紅葉の図が掲げられている。
松巌寺 (長野市鬼無里)
鬼女紅葉の守護仏といわれる地蔵尊をまつっている鬼女紅葉ゆかりの寺で、本堂には紅葉観音が祀られ、境内には「鬼女紅葉の墓」および「鬼女紅葉家臣の墓」がある。 
お善鬼様の伝説 / 白馬・青鬼集落
松本からのどかな安曇野の高原を通り、北へ昇ると青木湖のあたりで高瀬川が姫川に変わる附近で分水嶺となり、流れは日本海へと流れを変えます。糸魚川まで約30kmのところに白馬村はあります。白馬はアルプスの町と称されるように雄大な白馬連峰のパノラマを身近に仰ぐことができます。白馬は冬期オリンピックの開催地でもあり、交通の便もよく多くのスキーゲレンデや別荘地があります。八方ゴンドラではリフトを乗り継ぎ標高1830mまで登り、万年雪の白馬大雪渓遊歩道へ気軽に行くことができます。
ゲレンデなどの多い白馬の町から姫川を挟んだ対岸の南斜面の山裾に「青鬼集落」があります。青鬼集落へ行くには、白馬からさらにJR大糸線沿いの国道148号線を北へ、姫川第2ダムの東岸を川に落ち込む山肌の急斜面を上ります。一車線の狭い路を喘ぎながら2km程登りついたところが青鬼集落の入口です。戸数14戸のみの集落です。江戸末期から明治初期に建てられたものでその頃の土蔵、倉が8棟残されており、重要伝統的建造物群保存地区に指定されております。青鬼集落の東側には、物見山や八方山があり、背後の北側には、岩戸山(1356m)があり南から西に開け日本アルプスの山々を眺望できる明るい集落です。
集落内には、縄文時代中期・後期の善鬼堂遺跡・番場遺跡があり古くから人々の生活の場であったことがうかがえます。1860年頃3kmに及ぶ「青鬼上堰」開削が行われ水田が開かれました。
保存地区内には、平屋の建物と表側に中2階を造る建物があります。主屋は茅葺き(現在は鉄板被覆)の大型の民家で、現在も居住されています。これらの民家の特徴は、正面の軒を”せがい造り”とし、特に中2階の建物では、屋根の正面を”かぶと造り”にして、2階の壁面を白壁と化粧貫の意匠で統一しています。又、伝統的な土蔵、蔵が7棟あり、これらは、火災を考慮し主屋からは少し離れて建築されています。
集落の上部には、青鬼神社ががあり、又、集落の周りには「向麻石仏群」、「阿弥陀堂石仏群」など多くの石仏・道祖神があり、この地域独特の景観を造りだしています。
白馬は、松本から日本海側の糸魚川にかけて、かっては「塩の道」(千国街道)と呼ばれた沿道です。全長約120kmに及ぶ塩の道は、かつて番所が置かれた千国から親ノ原の近くの松沢にかけて石畳の道や石仏など街道の跡がよく残り、千国の源長寺から松沢までの6kmがハイキング道として整備されています。牛方宿や牛つなぎ石など往時の塩輸送の様子がうかがわれます。JR南小谷(おたり)駅近くには小谷村郷土館があり、街道関係の資料も多く保存展示されています。
お善鬼様伝説
青鬼集落は白馬村の北東端の岩手山の山腹に位置する農村集落で、この岩手山の東には戸隠村、鬼無里村があります。鬼の居ない鬼無里村に鬼のような大男がやってきて村人たちを苦していたため、村人はこの大男を岩手山の底なし穴に閉じ込めたそうです。その後一人の旅人が村に来て戸隠に鬼のような大男が来て村人を助けて喜ばれていると伝えたことから、穴を通じ戸隠の下を通ったときに魂が入れ替わったのだろうと思い、この鬼のような大男をお善鬼様としてあがめる様になったとのことです。
青鬼集落にはこのお善鬼様を祀る神社があります。青鬼はここでは「あおおに」とは呼ばれず、「あおに」としています。後から漢字で「青鬼」と表示するようになったのかも知れません。
石舟と女神
まだ石舟という地名もなかった頃のこと。
川っぷちで石工が朝から「かつん、こつん、かっかか」と、のみや槌をそりゃあうんまく操ってなぇ、石の舟を刻んでいたそうな。仕事にのめり込んでいたけれど、人を呼ぶ声にふっと顔を上げた。それから、声のする方へ目をやると、女の人が二人、杖を振り上げながら呼んでるようだ。
「う、うーん。なんだや?」
石工が手を休めながめていると、やがて二人が息を切らしてやって来た。見かけない母子連れだ。遠くからの旅人らしく、着物の裾も汚れ、足からは血を流し、目も真っ赤に充血している。
「ど、どうなすった?」 石工が聞くと、母子はおびえ顔でしきりに後ろを振り向き、振り向き 「助けてくだされ、わしは加賀の白山権現の女神で、連れているのは娘で、実は二人とも男神から逃げて来たところ」と、母神が言う。石工はただ、たまげてしまった。
「な、なんで男神さんから逃げなさったのかね?」 石工がたずねると
「男神は体のくされる病にかかってな。長年連れ添って子までなした仲だというのに、お互いに言葉も荒くなって、けんかばかり。あぁー。情けなや、情けなやぁ」
母親の嘆く姿を見て、娘神も涙ぐんでいる。「どうか、かくまっておくれ、頼みます」
拝まれても困るなぁと、石工は思った。
「あれっ、足音がする。男神の足音だ。わしにはわかる。かくまっておくれ」
毋神は神さんであることも忘れたように地に伏し、石工を仰ぎ見た。と、その時、石工に名案が浮かんだ。名案とは、今刻んでいる舟形の石をひっくり返し、その中に白山権現の毋子神をかくまうことだった。
「ささ、まずは身をちぢめ地に伏しておくんなすって」石工は身をかがめた二人を確認するやいなや、ありったけの力を出して舟形の石をかぶせた。それから、ひたひた走ってくる足音に耳をそばだてながら、石粉の付いた顔や手を洗い落した。と、急に野太い声がした。
「これこれ、ちとたずねるが、さいぜん、ここに二人の女人が来なかったか?」
石工が振り向くと、なるほど、女神が言っていた通りの病らしい。
「へぇ。女人ねぇ。知らんでぇ。わしゃ、朝っから石を刻んでいて、てめぇの手元を見てるばっかりだからなぇ」
「見なかったと? 気品のある女人をだ」
「へぇ。わしゃ石の舟の他は興味ごわせん」
木で鼻をくくったすげない物言いに男神は太いため息をついて
「あぁ、どこへ行ったか」と、せつなそうな顔をした。そして、懐から梅の花形の美しい杯を取り出し、いきなり川面めがけて投げ、流れに落ちるのを見届けると、木曽の白山へと帰っていった。
石工は、美しい杯は男神と女神の婚礼の時の杯であっただろうかと思いながら、男神の後ろ姿を見送ったと。
男神が杯を投げなさった川は神川と呼ばれ、この川に住むかじかのどこかに梅の花形がついているという。また、真田辺りでは胡麻を沢山作っていたが、女神が胡麻のさやで目をつかれたので、以後、胡麻を作る者がなかったそうである。それに女神はなぜかお湯がおきらいで、沢山湧いていたお湯を草の葉に包んで投げてしまわれた。落ちた所が群馬の草津だそうであるが女神のおきらいなものはまだあって、懐妊している人と2歳の子だという。
母と娘の神はこの地にとどまり、この辺りを守ってくれることになったそうな。
解説
表題のお話がいつの時代に成立したかさだかではないが、まずは、白山信仰が真田地方に伝えられて来たことを端的に示している伝承である。
お話の中で男神が白山の本宮ではなく木曽の白山に帰っていったとあるのが面白い。史実とは違うかもしれないが、白山信仰が木曽の大桑村の白山神社を経て伝播してきたひとつのルートを暗示しているように思える。また、男神が梅の花形の杯を神川に投げ捨てるのだが、この梅の花は白山本宮の神紋かと思ったが、本宮はもちろん大桑村の白山神社も「三つ子持亀甲瓜の花」で梅の花との関係はないようであるが、お話が成長する過程で、加賀百万石前田家の家紋が宿り木のように芽ぶいたものではないだろうか。
余談であるが、前田家の家紋をアレンジした「福梅」の名を持つ美味な銘菓が金沢市にある。立体的な紅白の最中の真ん中に金箔を一筆置いた、といった風情で、さすが茶道の盛んな町のお菓子だと感激して頂いたことがある。
さて、白山は地主神・水分神として一般的に崇拝されて、また、修験道の霊場として名高い。霊力を得ようと山岳をとそうしたのが山伏であるのだそうだが、皇学館名誉教授真弓常忠氏は、修験道発祥の根源にさかのぼる時、より現実的な動機があったに違いないと考えている。つまり修験道は、実は、高山幽谷に鉱床や鉄砂を求めて探査して歩いた採鉱者衆の宗教ではなかったかといっている。白山神が信仰の体系とは別に製鉄神ともいわれるゆえんであろうと得心している。
表題のお話の中に、女神が胡麻のサヤで目を突かれたとの伝承があるが、目を痛めたということは、溶鉄の状態を視つめて隻眼となったことを、また胡麻は砂鉄を暗示しているのではないだろうか。
男神から逃げてきた母神は石工が彫っていた石舟を伏せてその中に隠れたそうだが、その石舟は今は地中にあると風聞したことがある。実際にあった石舟だとするとなんのための石舟であろうか。かつて、岐阜県の南宮大社金床神社のご神体が平な金敷石と舟型の金床石であった。石舟の地名も製鉄炉(鍛冶炉)との関わりがあったのかもしれない。地中にあるかもしれないとのうわさのある石舟に、ひと目おめにかかりたいものである。
民俗学者・箱山貴太郎先生が生前、筆者を神川の生れと知っていて「神川ってどういう意味でしょう」と遠くを見ながら言われたことがあった。神が座す山を源流としているから神川、そうした答えを求めていないことははなからわかっていたので、「う〜ん」と心の中で唸るより他なかった。
数年前、3回ほど行った群馬県と埼玉県で、神川の語源と思われるものを得た。
群馬県鬼石(おにし)町の冬桜は有名である。標高591mの桜山に約7千本の桜が11月中旬から12月中旬まで咲き、紅葉と桜の花が同時に楽しめる。その桜山に向って吹き上げる谷風の強いこと強いこと、それも絶え間なく吹き上げる。3回目でとうとう叫んだ。「露天フイゴだっ」と。
鬼石町のどこかで製鉄が行われたのだろうか。資料には製鉄と関わりあるデーラボッチ伝説、鬼伝説がある。神流(かんな)川添いには製鉄神がぞろりと並び、おまけに鉄の場と読める諏訪の地名まである。決定的なことは神流川の「神流」である。
古代、鉄を採るのは鉄砂の多い山麓で、しかも河の流れのある所。土砂を崩し急流で洗うと土は去り、比重の重い鉄砂だけが残る。それを藤蔓のざるで漉す、これが「鉄穴流(かんなが)し」である。神流の語源はこの鉄穴にあるといわれている。
地名、伝説から見ると、鬼石町がかつては名だたる製鉄の地であったろうことは想像に難くないのであるが、今のところ鬼石町から製鉄跡は出ていない。
神流川を挟んで鬼石町の対岸の町、埼玉県神川(かみかわ)町も命名の元には鉄穴乱_流から神川が生まれたそうな。すごいことに神川町元阿保からは大鍛冶から小鍛冶までの製鉄遺跡が出ている。
「阿呆」とは最高の砂鉄とも読める、神流川はやがて坂東太郎のニックネームを持つ利根川に合流する。
以上のような経緯から、神川の語源の元には鉄穴の意があるのではないかと考えるようになった。
鬼石町と同じように真田町にも鬼伝説がある。
坂上田村麻呂将軍が、丸子町の鬼窪(荻窪)から鬼沢(神川)を通り角間(真田)の「毘耶(ひや)」という鬼を退治したそうな。その時、田村麻呂将軍、鬼を縛ったのが鉄縄だそう。傍陽の天台宗の寺、実相院の山号は金縄山(きんじょうさん)というそうであるが、筆者は小さい頃から「かなずなのお寺」と尊敬の念と親しみを込めて呼んでいた。8月初めの「りんご祭」は小さないとこ達と一緒に叔父が連れていってくれた。屋台を照らしていたアセチレンの火、ガスの臭いとアイスキャンデーの甘さが心に残っている。
地名も、菅平のスガは鉄磨ぎと読める。真田は鉄生みの地。長と書いて「お(を)さ」は、韓国語で大きな存在を表すウサ・ウシ・ウス。日本に来て「をさ」という大和ことばになったとされる。一方、をさ・うし・うすは丘鉄(鉄鉱石)のことだが、砂鉄まで含む「鉄」全般を指称する語であったと言われるのは、李寧熙先生である。
2月の初めに神川沿いの地域史を研究されている宮島武義さんを知る機会を得た。彼は地域の歴史を熱く語ってくれた。
3つ4つの子どもが「どうして?」を連発する時期があって、閉口した覚えがある。今の筆者も「なぜなの?」「どうしてかなぁ?」と首をひねることの多い日々を送っている。
郷土の素敵な場所や歴史を多くの人々に伝えたいと考えている宮島武義さんは、柔軟な考えをお持ちでも、やはり筆者と同様に前出の言葉を発している。
宮島さんの知人の半田姓と金子姓の家紋は諏訪大社上社本宮の神紋「梶」と同じであるそうな(半田姓、金子姓のすべてではない)。
半田姓も金子姓も金属に関わりある姓だと直感した。
半田はホムダの音と同根でフイゴの地の意である。
かつて、近所に半田姓の鍛冶屋さんがあった。姓と仕事の語源が合致する不思議さを思った。
また、全国に「金」の字のつく地名や姓は数多いそうだ。
筆者の古い縁者に金子姓があるが、いつの頃か定かではないが諏訪の金子村から移住してきたとの伝承がある。伝承は伝承として、では、なぜ金子という地名や姓が生れたのか、伝承ではそこまでを伝えていない。
金子の語源に迫る時、忘れてならないのは金屋子神のことである。
製鉄技術の文献に『鉄山必用記事』という書があるが、その中に金屋子神の降臨伝説が語られている。
金屋子神は、はじめ播磨国の岩鍋に矢降って鍋を作ったが、そこには住むべき山がなかったので、白鷺に乗って西に飛び、出雲国の非田に着き休んでいたところ、安部氏の祖の正重に発見された。(中略)朝日長者が宮を建て正重が神主となり、神みずから鍛冶となって朝日長者が炭と粉鉄を集めて吹けば鉄の湧くこと限りなし、とある。また、金屋子神はたたら炉の4本の押立柱の南方の柱に祀ることが記されている。
金子氏の出身との伝承がある現在の諏訪市中州には上・中・下金子地区があり、中金子の八竜神社の氏子は上社本宮と前宮の古い御柱休め(倒す事)や古い御柱の穴を掘ったり埋めたりすることに奉仕している。また、御柱はたたら炉の押立柱の名残りと見られる。しかも、押立柱の南の柱に祀られるのが金屋子神であることからして、金屋子雷燻qの地名や氏が生れたと考えるのは短絡すぎるだろうか。いずれにしても上古にたたら場の仕事に携わっていたのが金子氏とみて不思議はないと思う。「梶」の家紋もそれを語っている。
宮島武義さんが話してくださった金子姓について考察していくうち、古い縁者の住む上田市赤坂の金子萬英さん宅を訪ねた。ご多忙なのに、赤坂に伝わる伝承と伝承地を案内頂いた。赤坂には、塚穴古墳や将軍塚古墳があり開発の古さを示している。渡来系の臭いのする地名、小玉原(ばら)に瀧宮神社の前身の木魂(こだま)神社、そのご神体の兒玉(こだま)石等興味はつきないのである。特記すべきは、この地が上古の昔、名だたる鉄処であったろうと思われるお話を沢山してくださったことだ。まずは、旭さす/夕日輝く/へいじ岩/漆千樽/朱千樽/黄金千枚/二千枚 の伝承地へいじ岩へ、山道の悪路を金子さんの案内で行った。前出の俚謡は将軍塚等の高塚に伴うと伝承されているが、奇岩のへいじ岩には水酸化鉄かとおぼしき層があり、集落近くの崖は鉄砂の山である。集落内を流れる川には魚は住まないそうである。酸性度を示すペーハーは低いらしく水を飲んでも、酸味も渋味も感じなかった。
三重県美杉村の三坪山で謎の歌をたよりに掘ったら、山頂から経筒が出たそうな。へいじ岩の元からは土器の破片が出土したそうである。三坪山も赤坂の地も砂鉄の多い鉄砂の山である。
赤坂には鉄処によく伝承される竜のひっこし(小玉原の空池=からいけ)話や鬼伝説、それに鉄穴流しを連想させる降雨時だけに流れる不思議な川のこと等に加え、清らかな水の湧く瀧宮神社に伝わる片目の魚の話があり、身を引き込まれる。
神々の祭は、古くから行われてきた原初の状態をくり返し伝承すると『古代の鉄と神々』の著者はいうが、なるほどなるほどと再三得心する。瀧宮神社の秋の大祭(毎年は行われない)には、なんと舟が出て「うちわ振り」の奉納とケヤキの木に片方だけぞうりを縛り付ける行いがあるという。
舟の山車は諏訪社系の祭ではよく登場する。かつて下社秋宮でのお舟祭を見学したことがあった。
「うちわ振り」が「フイゴ」を象徴していることは明らかである。金子さんと意見が一致した。大木に片方だけぞうりを縛る話をしたときの金子さんは、いたずらっぽい目をしていた。筆者の反応や答えがわかっていたからであろう。
たたら場では身体に障害を起こす人が多いという。
例えば熔鉄の具合をホド穴から見つめ、そのため片目を失うというし、片足を悪くするのは足ぶみのフイゴを踏むからである。それに燃焼床の粘土を踏み固めるのも重労働である。
片方のぞうりはそうした行為の結果を暗示しているのであろうと、みごとに金子さんと思いが一致したのである。日本の祭は深い所で鉄に関わっていることに驚くばかりである。
さてさて、ずっと気になっていた延喜式内社の山家神社の由緒書きである。神社はもと、神社の裏山の古坊に鎮座していたが、西暦857年6月に大雨による山ぬけがあって社殿や神森が押し出し現在の地に遷ったとの伝承がある。それにより神主の姓を改称したと伝わる。
禾科の植物の生長には鉄分が必要であるという。粘土にはその鉄分が多く含まれる。それ故、粘土質の米はうまいとの定評があるのである。
山家神社裏の畑地は古坊とは地質が異なり、まずは驚くほど小石が多く耕作者のご苦労がしのばれるところである。土はさらさら感のある山砂で砂鉄量も多い。
さて山家神社の神官の旧姓は清原とある。「キヨハラ」なのか「スガハラ」なのか資料では訓じていないが、もしも「スガハラ」と訓めば古代韓国語では「鉄磨ぎ原」の意である。改姓の押森の押(ヲシ)は丘鉄から砂鉄までを意味するといわれる。森は頭領の意のモョリを森と表記した可能性も考えられるのである。
神官としては大雨により社叢が流されるということは一大事に違いないが、山ぬけ(自然の鉄穴流し)に比喩した出来事の真相は、元々鉄穴流しの仕事に関わっていたが実は「鉄漉しの長」になったと記事は伝えたかったのではないだろうか、長になる事もまた一大事件である。「長」は大きな存在の意である。旧長村の「長」でもある。
『鉄山必用記事』の中に「一に粉鉄、二に木山」とある。神川の砂鉄量も多い、それに真田の地は木(木炭)の補給力も充分である。そうした事を知って白山神はやって来たのだろう。白山神をかくまった石舟の石は継続の意のイッシ、舟は製鉄炉の意とすると白山神の想いはただ一つ、鉄作りを続けたくて真田に入ったといえはしまいか。
最後に、鬼(鍛冶師)を金縄で縛ったとの伝説の地、傍陽の実相院境内で風化した花崗岩を発見した。花崗岩の中に砂鉄はほぼ遍在しているそうである。洗馬(鉄の場の意と考える)川の地名もあることから、ここも名だたる鉄処であったことがうかがえる。 
旧望月町伝承
昨年、旧望月町の榊祭を見に行った。
暗くなる頃、東の山道から火をともした松明(たいまつ)の行列が次々にやってきて鹿曲川に架る橋の上から一斉に松明を川に投げこむ。その度に見物人から拍手が湧く。若者の中には松明を回す人もいるらしくその様はまるで「月」のように見えた。榊祭は火の祭りであることを実感した瞬間であった。
松明の投げ込みが終ると町の方へ移動をして次は御輿(みこし)見物である。御輿は背の高い二幹に分かれたナラの木が主体である。そして所々で「あおり」をすると御輿と見物人が一体化して盛り上がりをみせるのだ。T字型の大辻では御輿を激しく地に打ちつける。これを「どうずき」と言うそうな。にぎやかな掛声を背に受けながら大伴神社への参道を歩いた。そして、道々本来の榊祭ってどんな意味を持っているのか考えた。
この祭りの発生には三つの伝承があるようである。
一つは、昔、都から滋野親王が望月にお下りになっていたが、あまりに都のことを憧れなさったので、都の大文字山でかがり火をたくのをまねて、8月15日の夜東方の山上で大かがり火をお見せした。この山を松明山といっているそうな。
二つ目は、昔、望月三郎が武田信玄の軍に対してこちらも大軍ぞよとばかりに松明をたき、ついに武田勢を破った。戦勝を祝う祭りが榊祭であるとの伝承がある。
三つ目、延徳元年の中元の夜、大伴神社の榊祭を行おうとにぎわしい中、町の人と商人の他は通行を止めた。武田軍の斥候に備える意味もあった。武田軍にまだ占領されていない望月、芦田、香坂、志賀、平賀が烽火を合図に武田軍を夜討ちにしようと約束してあった。ところが榊祭のかがり火を合図かと各地一斉に火をたいたので武田軍は大軍かと驚き甲州へ退散した。
武田軍を引き退かせたことが例となって翌年から旧城址に松明をたき、若者が手に手に青葉のそだを持ち笛や太鼓で町内を練り獅子が舞ったそうな。
さてさて、榊祭とは滋野親王をお慰めしたことは別にして戦勝を祝う祭りなのだろうか。伝承を読めば、武田軍を甲州に引き退かせる以前から大伴神社に榊祭があったことがわかる。なぜ榊祭というのだろうか。
榊祭のいわれを探る前に大伴神社のことを記しておきたい。「延喜式」記載の「佐久三座」の一つが大伴神社である。(他の二つは長倉神社と英多神社)元は北よりの椀の木地籍にあったと伝えられている。祭神は武日連と月読命で、元は望月氏の祖大伴氏を祀ったとも考えられている。
大伴神社の金井宮司さんの紹介で松明山に行ったことがある。松明山には榊神社と書かれた小さな祠があった。祭神名を見て驚いた。製鉄神と考えられている木之花咲夜姫。すぐ近くには豊川稲荷大明神が座していた。明神は、日・月神、つまり火の神、製鉄神を指す。すると古い時代この地は製鉄の地ではなかったろうか、と考えてみた。
榊祭の中で地に御輿を打ちつける「どうずき」がある。「どうずき」とは「固め」の所作である。「どうずき」や「固め」は上古からの吉祥語である。思い出してほしい。家を建てる時地固めのどうずきをした。家が建てば屋固めの祝いをする。結婚することを身を固めると言ったではないか。「 固め」は幸せに通じる。かん天を煮溶かして冷ませば固まる。美味な羊かんに変身だ。羊かん一切れでお茶を頂くなぞ至福ここに極まるの感がある。そして、鋳造もまた固めである。何度でも話すが『古代の鉄と神々』の著者は、祭りというものは本来始源の状態を繰り返し伝承するものだと言っている。
「大伴神社注進状」を要約してみると、月夜見(月読)尊が竜馬に乗って、国々の川や谷をめぐり歩いている時、千曲川の川上に清水湧く谷川を見つけた。そしてこの霧湧く谷に永住しようと決めた。清水湧く谷川は、「角馬(つぬま)川」と記されていて、尊の乗った竜馬は「角馬(こま)」で、牧場の駒の種になったそうな。研究者は鹿曲川はつまり角馬川で元の意味は駒川であったと言っている。
前出で製鉄に関わりがあるかと考えられる個所がある。まずは、尊が清水湧く谷川を見つけたことだが、
つまり、砂鉄の採れる川を見つけたことを暗示しているのではないだろうか。実際鹿曲川の砂鉄量は多いのである。もう一つは、霧湧く谷の表現にある。製鉄(須恵器を焼くにしても、鍛冶をするにしても)には木炭が不可欠である。そして、大量の木が必要である。木がよく育つには霧が大切な役目をする。木は霧が与えてくれる水分を吸収し、早く生長するそうである。
また、民間の伝承として尊がゴマのサヤで目を突かれ負傷なさった。で、望月ではゴマを作らないそうな。
これは「ゴマを作らない話」の中に入る。なぜ、ゴマのサヤで目を痛めたのかを暗示することとして、まずゴマは砂鉄の状態を表し、目を痛めたことは、製鉄炉の熔鉄の状態を視つめて痛めたことを暗示しているのではなかろうかと推測するのである。
そして、延徳元年より前から大伴神社の祭として榊祭があったのだが、その榊祭の語源を解いてみると、
榊祭=鉄磨ぎ城祭となるのである。榊神社の祭神、木之花咲夜姫も製鉄の神とみなされているし、稲荷は火の神、大伴神社の祭神もまた「鉄」に関わりを持っていると、文献、伝承からそう読めるのである。伝承も決してあなどれないのである。
大伴神社の大伴と聞けば古代の豪族、大氏(多氏)を思い出す。それに、旧北御牧村の両羽神社の祭神のお一人、天太玉命と神殿内に座す、古木像の船代も大氏と深い関わりがあるように思える。
さぁ、両羽神社だが、中世には原宮、芝宮、八葉山大明神、望月氏の所領になってからは大宮大明神、そして両羽神社とまぁ、時代の諸事情あっての社名の変遷なのだろうと、想像に難くないのである。
『古語拾遺』に斎部の祖である太玉命が率いる五神の中に一つ目小僧で知られる天目一箇(あめのまひとつ)神がいる。製鉄炉の熔鉄状態を視(み)つめ隻眼となった鍛冶職を神格化した名であるが、目を痛めた月夜見(月読)尊と天目一箇神の姿が神名こそ違うがぴったりと重なる。
そして、太玉命の「太」の字は「多」の異表記である。太玉命は「大氏(多氏)」と同姓である。
前出の芝宮にしても、八葉山大明神にしても社名から「鉄の場」であったことが読めるのである。なお、両羽神社の神殿内には船代の像だとの伝承がある古木座像があるという。写真で見るかぎりではあるが、船代の容ぼうは、どんぐりまなこに、おっきな鼻、への字に結んだ口、厚手の衣を着ているというよりは太っているという表現の方がいいかもしれない。それに短驅の人であろう。座像丈とお顔の大きさからそう推測できるのである。
船代は勃海(ぼっかい)国からの渡来人で、調馬の師であったそうな。勃海国とは、高句麗の後身と言われ、今の中国北東部に国を建て聖武天皇の御代から日本と通交を始めた。なんと、勃海王の姓も大氏であるそうな。
鉄、馬飼、須恵器の技術に長けた集団が鹿曲川に上り、そこに住み、「鉄の場を守る」使命が各神々の仕事であったろうと推測する。
『佐久口碑伝説集』(北佐久編)に、土屋庄太郎さんが残した興味深い口碑があった。
それは「金山は望月町牧布施の一地名で、ここに沼がある。この沼底に鉄しょう色の土があって、明治21年頃まで、この土で白布を黒染にしたり、おはぐろに使ったという。一説に金山様の祠があるからだとも言われている」という内容である。
以前、牧布施での取材の折お世話になった土屋あさ子さんにお尋ねしておよその場所がわかったので、旧中山道の瓜生坂から歩いた。
畑で作業をしておいでの男性に金山を尋ねると、「この山が金山です。白い粘土の出る所があって、子どもの頃、粘土いじりをしたものです」と話してくださった。そして、沼はないが湿地ならあるそうで、その場所に近づいたが、なにしろ夏草とヨシの薮で、確認はできなかった。だが、ヨシ原の端で不思議な光景を見た。黄褐色の水が溜っていた。ええっ。ひょっとして鉄バクテリアかしらん、と思った。過去に佐久市平塚の西一里塚遺跡で鉄バクテリアを見たことがあった。
褐鉄鉱の塊は、沼沢や湿地に生える葦や茅、つまり禾科の植物の根に沈澱した水酸化鉄が鉄バクテリアの自己増殖によって外殻を形成する。そしてそれは弥生時代の貴重な原料であったと『古代の鉄と神々』の著者は言っているが、その原風景が目前にある。そうした雰囲気のある場所であった。
金山まで来たついでに、牧布施の山の中腹にある駒形社まで足を運んだ。
過去に土屋勝太郎さんと土屋春夫さんに牧布施の駒形社の祭神は猿田彦であること、社は昔、布施川に近い大門田にあったことを教えていただいている。
さぁ、駒形社の性格はどういうものだろうか。
筆者の母はお宮参りの折は必ず丘の中腹にある石祠の駒形社にも参った。その石祠は馬と蚕神の神さまだと話してくれた。
若い頃の母は、春蚕、夏蚕、秋蚕に晩秋蚕と年4回も蚕を養った。蚕室はもとより門の脇の長屋の二階、母屋の台所上の中二階に茶の間と座敷はすべてお蚕さまの養蚕室と化した。母はお蚕飼いが上手であった。病気も出さなかった。なにより養蚕仕事が丁寧であったように思えるが、お蚕の神さまと言われた裏のおじさんの指導を受けていたからかもしれない。細面で優し気な目をし、物静かなおじさんを見ては神さまって、きっとおじさんのような風ぼうなのだろうと、かなり大きくなるまでそう思っていた。
さて、その駒形社が望月の牧の推定地の範囲をまるで囲むかのように存在する。
小諸市駒形坂の駒形社は河岸段丘の中腹にあり、目の前の千曲川を渡れば御牧ヶ原の台地である。佐久市下塚原の駒形社はその脇を御代田町の血の池が源流の、赤い水の濁川が流れている。眼下には千曲川の流れがあり、はるか旧浅科村方面が見通せる。立科町には駒形社が2つある。外倉の小高い丘の見晴しのいい所と、藤沢の番屋川沿いの窪地にある。前出の社の祭神は保食神である。旧望月町の牧布施の駒形社は今でこそ山腹にあるが、元は布施川に近い平地にあったそうである。砂鉄量の多い布施川の縁にあり、祭神が猿田彦であるということでよけいに関心を深くする。
「牧」の冠を持つ牧布施にある駒形社なのだから馬の守り神の社と納得してしまいそうになるが、日韓の言語と歴史に詳しい李寧熙先生は、猿田彦を「砂鉄の地を祈る男子の祭祀者」を表すとしている。布施を古代韓国語に当てると、「鉄の火」と読める。なんと不思議なる一致であろうか。
牧布施の駒形社は正式には駒形大明神。明神と言えば製鉄神と学んでいる。無理に製鉄、鍛冶と結びつけようとしているのではなく、うなで(自然)に一致を見るのである。
李先生によれば「マガタ」とは「防ぐ所(防御の地)」の意であると言う。
「駒・マガタ」(馬防御の地)が転化して「コマガタ(駒形)」という意味不明の言語が生れ、「駒」の字を当てたことから駒形=馬の守り神化していったとの推測が可能であろう。
もう一つ、「小(コ)マガタ」から当て字の「駒形」が生れた可能性も考えられる。「小(コ)」は韓国式音読みで「ソ(ショ)」で牛または鉄の古語で高句麗など北方系の言葉である。とは、やはり李先生の見解である。つまり「小(コ)マガタ」とは「鉄防御の地」と読める。「駒、マガタ」にしても防御の地であればこそ、遠望のきく高台や重要地域の出入り口付近に設置され機能を果たしていたのではないだろうか。
さて、比田井の県道近くに遠目にも古墳かと見える彦狭嶋王の墳墓という伝承のある王塚がある。『日本書紀』の景行天皇55年2月の条に「彦狭嶋王を以って、東山道の都督(かみ)を拝(ま)け給ふ。是、豊城命の孫なり」の記事が見える。豊城命は豊城入彦のことで、上毛野(かみつけぬ・群馬)下毛野(しもつけぬ)君の始祖であるそうな。孫の彦狭嶋王が春日の穴咋邑(あなくいむら)に到り病に臥(ふ)して亡くなった。東国の百姓、この王が来なかったことを悲しんで、ひそかに王の亡きがらを盗んで上野国(かみつけののくに)に葬ったそうな。春日穴咋邑は今の奈良市古市町で猿田彦を祀る穴栗神社の一帯がその伝承地でもあるが、旧望月町では春日地区一帯に比定する考えが有力である。
王塚のある地字名は鹿島で、鉄磨ぎの場と学んでいるので伝承主は鉄に関わりがありそうである。
彦狭嶋王の祖父、豊城入彦命は御諸山(三輪山)から東に向って、槍と刀を8回ずつ振った。という夢占によって東国統治の任を得て上毛野朝日の原(群馬県榛名町)に居城を築いた。
命の事業の中に車川から水を引く堰造りがある。その堰は、くの字に折れ三角地を形成していると『榛名町誌』に記されていたので確かめに行ってみた。
S字形の地形は三角地帯といって、砂鉄が多く溜る場所である。確かにそれらしき地形は認められた。推測どおり堰跡の砂鉄量も多かったのである。
群馬県の古代の製鉄遺跡は赤城山方面にあるが、命は鉄塊の元になる砂鉄集めに力を注ぎ鉄処を治めた人物ではなかったろうか。
命の墳墓と伝承されるものは朝日の原を始め郷見区の諏訪や前橋市とあちこちにある。命が生きたとされる時代と伝承墳墓の時代差は『記紀』に登場する天皇が、重複して記された可能性があると見られている。遠い時代のことで推測の域を出ないが、伝承地に立ちその風景の中に身を置いてみると、伝承の真実性がそこはかとなく伝わってくるから不思議である。
また、榛名町には役行者が開山とされる通称白岩観音がある。
寺伝によると、行者は文武天皇の御代の人。大和葛城の生れで、藤の皮を身にまとい松の葉を食し葛城山の洞穴に籠って修行をして神通力を得、多くの鬼を使い水を汲ませたり薪を拾わせていた。ある年、諸国の峯々をめぐっていた時、上野国神州(からす・現烏)川の上空にさしかかると多くの天狗が出迎え、白岩山が優れた修行の適地であることを告げたという。
前出の藤、松、水、薪は製鉄には欠かせない物であるし、鬼や天狗もまたしかりである。寺伝から、鉄との深い関わりが見えてくる。
役行者(えんのぎょうじゃ)は、修験道の祖師と仰がれている。その身なりは、兜金(かぶとがね)をいただき、鈴懸(すずかけ)、結袈裟(ゆいげさ)を着け金剛杖をついている。そして、山から山へと跋渉(ばっしょう)する、そうした姿を思い浮かべる。
修験道は、古代からの山岳への崇拝と原始からあったとみられるシャーマニズムが結びついて発生したとするのが通説であるらしい。が、『古代の鉄と神々』(真弓常忠著)では「山伏が山林で修行し呪法を身につけるために自ら苦行を科し、呪法を修したについては、そもそもの発生にさかのぼるなら、より現実的な動機があったに違いないと思う」といっている。「より現実的動機」とはやはり、山に入り鉱物資源を探すことが修験者に課せられた任務の一つではなかっただろうか。
奇しくも、役行者伝説は旧望月町にもある。
瓜生坂の中腹に清水が湧き出している所があるが、昔役行者がこの地に来た時初めて身を清めるための水をとった場所だそうな。また、望月城跡の南方に鬼落しという急な谷があり、昔役行者が法力をもって鬼を使い、逆らう鬼がいればこの谷に追い落した。
立科町の雨境峠は望月側から「役行者越」の呼称がある。
かつて、旧望月町の古墳から出土したおびただしい鉄器類は、須恵器と同じに地産地消であったろうか。彦狭嶋王の祖父が活躍したとされる榛名町も鉄処と考えられるし、王の墳墓伝承地もまた鉄処である。地名の原意を推測してみよう。イ咋田=聖なる(または継承)焼物の地。あぐり山=最高焼きの山。百沢=集め集めの沢。比田井=刀の地の泉(池)。春日=鉄磨ぎ処。望月=(鉄)を集め嵌める(柄を付け加工する)製鉄地、と解ける。 
 
牛頭天王

 

昔、昔ここからはるかに遠い須弥山(しゅみせん)という山の北にケイロ界と言う所があって、そこを治めている方は白きの御門と言った。白きの御門には牛頭天王(ごずてんのう)とおっしゃる王子がおいでで、その天王にはまだお后がお決りではなかった。
ある日のこと。天王が庭の梅の木をながめていると一羽の山鳩が飛んできて梅の木に羽を休め、さえずりはじめた。
天王がそっとそのさえずりに耳を傾けると「釈迦羅龍宮には龍王の王女さまがいらっしゃいます。それはそれは美しいお方で、その王女さまこそ天王さまのお后にふさわしいお方でございます」
と、言っているように聞こえた。
山鳩のさえずりを聞いた時から天王はまだ見ぬ王女をいとおしく思い、王女を娶ろうと心に決め、南海の方面をめざして出発した。
やがて、午後になると天王はお疲れになられた。そうこうして日もとっぷりと暮れたころ、ちょうどそこにたいそう豊かそうな屋敷があったので、天王はその家の戸を叩いた。
主人の名は小丹長者と言うそうな。
天王が「一夜の宿をお貸しくだされ」と頼むと、長者は天王を見るなり「見ず知らずの者を泊めることはできん」とつっぱねてしまった。天王は「それでも、なんとか泊めてはくれまいか」と頼むのだが、長者は「だめだと言ったらだめだっ」と声を荒らげ、そばにいた者たちに「旅の者を追い出せっ」と命じた。
長者の屋敷を追われた天王が門の外に出ると女人がいたので、天王が「私に宿を貸してはくれまいか」と言うと、その女人は「わしは長者の家に仕える者です。主が貸さないと言っているのに、お貸ししたくてもお貸しできません」と目を伏せた。
「主の悪口を言うのはいやですが、長者は人の悲しみや困っている人がいても気の毒に思うこともありません……。そうそう、ここから東に一里(約4q)ほど行った所でお宿をお借りなさいませ」と、女人は言った。
一里ほど行くと松林があり、その中の一本はこんもりと繁っていて夜露がしのげそうであった。
その時、不意に木陰から品のいい女人が現れた。天王が「この木の下で一夜を過ごしたい」と言うと、「私は松の精です。ここから東に一万里(約4万q)ほど行きますと、とても親切な人がいますので、そこで宿をお借りなさいませ」と女人が教えてくれたので、そこに行くことにした。
そして、その家の戸を叩くと主が出てきた。
天王が「一夜の宿を貸してくだされ」と頼むと、主は「私は蘇民将来と申します。お見受けするところ、あなたさまは立派な身なりをしていらっしゃいます。私はそれはそれは貧しくて、あなたさまのようなお方にお出しする食事も寝所もありません」と言った。天王が「どうか宿をお貸しくだされ、あなたが食べている食事をいただけ、あなたと同じような布団でよろしいのです」と言うと、蘇民将来は「少しお待ちくださいませ」と言いながら急いで部屋をかたずけ、そこに粟がらを敷き干した莚を敷いて寝所の用意をし、夕飯は粟飯のごちそうをした。こうしたもてなしのお陰で天王は旅の疲れがすっかりとれたのだった。
翌朝、いざ出発という時に蘇民将来が、「あなたさまはどちらに行かれるのですか」と天王にお聞きになると、天王は「私は釈迦羅龍宮の王女に恋をしてしまいました。そこで、王女に会いたくて南海にある龍宮をめざして旅をしている者です」と、おっしゃった。
天王はなおも言葉を続けられた。「小丹長者は裕福な暮しをしているのに一夜の宿も貸してくれなかった。だから長者を罰し滅ぼしてしまおう」と言われた。すると蘇民将来は「長者のよ、よ、嫁は、私の娘です。どうか私の娘だけはお除きくださいますように」と強く頼んだところ、天王は「そうであったか。では、柳の木でお札を作り『蘇民将来之子孫也』と書いて、男は左側、女は右側に掛けておきなさい。それを目印として許してやろう」とおっしゃり、再び南海をめざして出発したのであった。
その後、天王は釈迦羅龍宮の王女に出会い結婚されて、12年のうちに8人の王子をもうけて南海からの帰国の途についた。
天王の従者は、なんと、9万8千人と、大所帯の数になっていた。
蘇民将来はこのうわさを聞いて、金の宮殿を造り天王が通られるのを待った。
いよいよ天王が到着され蘇民将来がお出迎えすると、天王はびっくりなさって「これはどうしたことなのですか」と尋ねられた。
「あなたさまがかつてお通りなされた後、天から宝が降り地から泉が湧き、とても裕福になりました。ですからあなたさまを3日間お泊めしたいのです」と蘇民将来は申し上げた。
天王はそこにお泊りの内に小丹長者の様子を窺わせた。すると、長者はやはり天王の帰国を聞き「魔王が通る」と言って、四方に鉄の塀を築き、上空には鉄の網を張り屋敷を守り固めていて、侵入するすき間はなかった。けれど、さすがの長者も水の出る所にはなんの防備もなかったので、天王の大勢の従者達はそこから侵入し、小丹長者の一族を滅ぼしてしまった。
小丹長者の子孫は一人も生き残れなかったが、その時から、蘇民将来の子孫は許され、繁栄したという。
解説
この物語は、信濃国分寺に伝わる「牛頭天王之祭文」を塩入法道住職が口語訳したものを元にしているが、お話を進める都合上、内容の一部を前後して再話をしている。
「牛頭天王之祭文」は、信濃国分寺所蔵のもので室町時代中期に書写されているということである。
さて、「祭文」とは、神仏に対して祈願や讃歎(さんたん)の心を述べる文章で、神社では祝詞と言い、天台宗では法則と言う。
また、牛頭天王は古代インドの国にあった、祇園精舎(釈尊やその弟子達のために造られた寺院)の守護神とされているが、この物語の主人公の牛頭天王は薬師如来の化身とも言われる一方で、牛の角をはやしたり、小さな牛を頭頂に掲げた憤怒の相の姿で表現され、除疫神として、京都市祇園の八坂神社などに祀られている。また、『日本書紀』や『古事記』に現れるスサノヲとも習合している。おそらく職能が共通していることが根底にあると思われるが、その事は後に記したい。
信濃国分寺は八日堂として広く知られている。1月7日の夜から8日にかけての縁日の賑わいは有名で、
小さい頃、縁日にはかならずと言っていいほど出掛けた。薬師如来さまに一年中の健康をお願いした後に蘓民将来符を買い求めた。その護符の姿は六角柱で頭頂部近くに切れ込みがあり、
その上は六角円錐型とでも言えばよいのかしらん、そうした形をし、寺の護符は蘓民将来子孫人也、大福、
長者等の文字だけである。檀信徒で作られるものには文字と七福人の絵が描かれている。
お気づきであろうか、お話の中の蘇民将来の「そ」を「蘇」と表し、寺の護符では「そ」を「蘓」と書いている。寺の伝統的な字使いなのであえてそう記した。
「蘓民将来子孫人也」と書かれた護符の材はドロヤナギだそうである。柳は薬木とする所もあるそうだが、 その生命力には驚かされることが多い。それをめでたいこととしてか、しなやかな印象をよしとしてかはわからないが、正月の床の間を結び柳がひっそりと飾る。
護符を持っている者は災難をまぬかれ、子孫も栄えたという説話が現在形としてとらえられ、青森県から長崎県壱岐島まで各地にこの信仰が残されている。
近くでは、佐久市下塚原の妙楽寺や同じく佐久市の新海三社神社に木札のものがある。また、三重県の二見町に旅をした時、将棋の駒形に文字が書かれてしめ縄に付けてあったのを見た。もう一つは、京都市祇園の八坂神社の祇園祭に出る各鉾町の粽にも紙の護符が付けてある。これは京都市出身の本山ケイ子さんから長いこと頂戴していた。
蘇民信仰は古くからのものであるが最古とされる護符は京都府長岡京市のもので、延暦10年と記された木簡と共に出土し、両面に「蘇民将来之子孫者」と墨書されていると言う。8世紀末にはすでにこの信仰があったことをこの木簡は教えている。
平成19年1月4日の信濃毎日新聞の朝刊に千曲市八幡の東条遺跡で「蘇民将来」と書かれた木簡が県内で初めて出土し、鎌倉後期から室町時代のものとみられると報じていた。その中で新発見があった。「蘇民」の「そ」の字が、国分寺伝統の「蘓」と書かれていたことであった。
お薬師さまのお参りの後は、母方の親類宅に寄るのが楽しみであった。当時は、玄関の大戸や障子は開け放たれ、清々しい部屋でコタツにあたり茶菓をごちそうになった。もてなしてくれたおばさんとその娘さんも母も、彼岸の里で思い出話をしているかもしれない。
『日本書紀』や『古事記』に現れるスサノヲの別称が牛頭天王であることは広く知られていることであるが、『記紀』に現れるスサノヲとはどのような神であったのだろうか、雑ぱくにまとめてみた。
イザナギが鼻を洗った時に生れたのがスサノヲである。そして「汝は海原を治めなさい」と命じられる。しかし、仰せつかった国を治めずに泣きわめき、青々とした山を枯らし、川や海をすっかり乾かしてしまったその様を見たイザナギが「どうしてお前は泣きわめくのだ」と問うと、「私は、亡き母の国、根の堅州(かたす)国に行きたい」と言って、イザナギから追放される。
スサノヲは姉のアマテラスに別れを告げるために高天原(たかまのはら)に行き、国を奪う邪心のないことを示す誓約をして勝つ。勝ちに乗じ乱暴のかぎりを尽くしたスサノヲは高天原から追放されて新羅国の曽尸茂梨(そしもり)に居たが、「この地に居たくない」と言って、とうとう赤土で舟を作り、それに乗って東に渡り、出雲国の斐伊川の川上にある鳥上の山に着いた。たまたまそこに人を呑む八岐大蛇(やまたのおろち)がいた。その八岐大蛇を退治し、国神の娘、奇稲田姫と結婚をし、ついに根の国に入る。
韓国に旅をした方はよくご存じであろう。韓国の地図を広げて見るとわかるのだが、慶尚北道と慶尚南道の境にそびえる山がかや山である。かや山は古くは牛頭山と呼ばれ、風化された花崗岩の岩壁が連なる古代の鉄の産地であったという。
スサノヲの別称が牛頭天王と言うからには、スサノヲは牛頭山(かや山)の辺りで製鉄を行い木々を採り尽くし、新たな進出の先としたのが出雲であったろう。
出雲の鳥上山から流れ出る斐伊川の砂は「真砂」と呼ばれるそうで「真砂」の原意は「上等鉄」と学んでいる。
李寧熙先生によれば、スサノヲは「鉄の頭領」の意であり、牛頭天王もまた「鉄王」を表すそうである。
ここで両者の職能の一致を見た思いがした。
牛頭天王物語に戻ろう。この物語には「鉄」を暗示するかと思われる事柄がいくつかある。
牛頭天王は前出の通り「鉄王」の意である。紙幅の都合上、牛頭天王の父王の別称であろうかと思われる武塔天神の名を割愛したが、「天神」もまた火や雷の神として製鉄に関わりを持っている。牛頭天王の妃「婆梨細女」も他に諸字が当てられるようであるが「細」を「セ」と読んだならば、古代韓国語の「鉄」の意となる。鉄と何かの関わりを持っていたであろう。
次に「牛頭天王祭文」の口語訳では「私が人間の姿に見えましょうか。雨風を着物として、松の木を本体として過ごしてきた者です」とある文章を、物語では「私は松の精です」と意訳させてもらった箇所がある。この「松」は製鉄、鍛冶にとって不可欠な物で、しかも上等材とされる松炭の「松」を暗示しているかと思われる。
また、小丹長者と蘇民将来を富める者と貧しい者、非情な人物と温情ある人物として対比させている。それは文学(昔話から創作まで)上、よく用いられる手法ではあるが、両者は互いに親戚関係にあることを思い出し、名前をよくよく見た。小丹長者の「小」も鉄の意がある。長者の「長」は大きな存在から、鉄鉱石から砂鉄までを表すと学んでいる。物語の中でも長者は防ぎょの為に鉄の加工品をふんだんに使っている。蘇民の「蘇」も「鉄」を表す「ソ」と同音である。
同じ職能であっても人生の浮き沈みのあったことを端的に表し、戒めの行為は魔除けにと繋がるのであろうか。 
牛頭天王伝説
牛頭天王をまつる信仰は、もともとインドから中国を経て伝わってきたものですが、わが国では、疫病や農作物の害虫そのほか邪気を払い流し去る神として、古代より定着したようです。牛頭天王は、八王子と八万四千の眷属を率いて、一族皆殺しの罰を与える、殺戮する恐ろしい神です。牛頭天王という名は、新羅に牛頭山という山があり、熱病に効果のある栴檀(センダン)を産したところから、この山の名を冠した神と同一視されました。素盞烏尊(すさのおのみこと)は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されていまして、「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語で、牛頭または牛首を意味し、韓国には各地に牛頭山という名の山や牛頭の名の付や島がある由です。
昔、天竺の北方に九相という国がありました。九相国の王、牛頭天王(こずてんのう)は、もうそろそろ嫁をとらねばと思っていると鳩がやってきて「竜宮城へ行きなさい」と教えてくれました。そこで、牛頭天王は竜宮城へ竜王の娘を娶るため、一族を連れて旅に出ました。
旅の途中、牛頭天王一行は泊めてもらうところを探しているとこの辺りで一番のお金持ちの、巨旦将来(こたんしょうらい)の家がありました。そこで、巨旦の屋敷に宿を請いました。ところが貧欲な巨旦将来は、その頼みをむげに断ります。天王は、次に蘇民将来(そみんしょうらい)という者に宿を請います。貧しいながらも心優しい蘇民は快く応じ牛頭天王に粟のご飯をたいておもてなしをしました。次の日、出発する前に牛頭天王は泊めてもらったお礼に宝物の珠を蘇民にわたしました。この珠は、心の優しい人が持つとお金がたまるものでした。
その後、牛頭天王は旅を続け、目的である竜王の娘を娶ります。旅の戻り道、天王は再びこの地を通り、蘇民将来の家に立ち寄ってこう言いました。「私は、これから疫病神となって荒れ狂うであろう。しかし、そなたの親切には報いたい。そなたの子孫のみは、親切にしてくれた御礼に助けるであろう。」そして、恨みを抱いている巨旦将来の屋敷へと向かいました。巨旦将来は相師の占いにより、牛頭天王の襲撃を察知していました。千人の僧に大般若経を購読させ、牛頭天王が館に入って来れないよう結界を張っていたのです。
ところが、僧のひとりが眠気から、一字を読み間違えてしまいました。牛頭天王はその隙を見逃さず、館に侵入すると巨旦将来の一族を皆殺しにしてしまったのです。そして、蘇民将来のもとに戻ってきて、こう言いました。「あなたの子孫にこう伝えなさい。もし後世に疫病が流行ることあらば、『私は蘇民将来の子孫である』と名乗って、茅の輪を腰に巻きなさい。されば疫病から免れ得るであろう。」 代々蘇民の家の人たちは、このとき牛頭天王が言われたように「蘇民将来」と書いた木を身に着けていました。それがお守りとなったので幸せに暮らしたという言い伝えが残っています。
その後、牛頭天王は疫病神として各地で怖れられ、後世に言い伝えられるのです。現在も各地で行われている茅の輪くぐりは、ここからきているのです。
時は移り、貞観11年(869)のこと。京の都に疫病が流行し多数の死者がでました。これはきっと、牛頭天王の祟りだという噂が都に広まりました。そこで祗園の社に牛頭天王をまつり、疫病退散を祈願して鉾をたて、祈願したのです。これが現在の祇園祭の始まりとされています。 その後牛頭天王は、さまざまの神と集合した。八王子は人体とその病に対応するばかりか、方角神との対応があり、陰陽道の考えも加わっている。仏教との習合では、牛頭天王は薬師如来、婆利采は千手観音菩薩のそれぞれ本地垂迹であったとされた。八王子にも各菩薩がもっともらしく充てられた。更に、前述のように牛頭天王は素盞烏尊(すさのおのみこと)とも習合した。鎌倉期に書かれた『備後国風土記』や『釈日本紀』では、牛頭天王の名はなく「武答神」となった同様の話があり、さらに神は「我はスサノオの神である」と名のっている。
また、八王子は、本来は、人体とその病に対応する八種類の疫病や災厄の象徴であったとも考えられる。しかし、一般に、神様は信仰されるにつれて「格」が上がって、おとなしくなるものだ。牛頭天王も、殺戮する神から、殺戮者=疫病をコントロールする神へ、更に、疫病を防ぐ神=薬師如来と同体の神へと昇格していくのです。こうやって中世には、その8人の子を眷属神(けんぞくしん)(主神に従属する神々)とし、あらゆる人間の吉凶を司る方位の神として全国に広がっていったといいます。  
牛頭天王
(ごずてんのう) 仏教における天部の一つ。インドのインドラ神の化身の一つ(もしくは別名)ゴーマヤグリーヴァデーヴァラージャ(gomaya-griva-deva-raja)が仏教に取り入れられ、釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた。これが中国に入り4世紀頃には神農とも習合して盛んに信仰されたが、唐以降は次第に衰えた。奈良時代までには日本にも入り、蘇民将来説話の武塔天神と同一視され神仏習合では薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた。京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた。また陰陽道では天道神と同一視された。
牛頭天王は、京都祇園社(現八坂神社)の祭神である。
『祇園牛頭天王御縁起』によれば、本地仏は東方浄瑠璃界の教主薬師如来であるが、かれは12の大願を発し、須弥山中腹にある「豊饒国」(日本のことか)の武答天王の一人息子として垂迹し、すがたを現した。太子は、7歳にして身長が7尺5寸あり、3尺の牛頭をもち、また、3尺の赤い角もあった。太子は王位を継承して牛頭天王を名乗るが、后をむかえようとするものの、その姿かたちの怖ろしさのために近寄ろうとする女人さえいない。牛頭天王は酒びたりの毎日を送るようになった。
3人の公卿が天王の気持ちを慰安しようと山野に狩りに連れ出すが、そのとき一羽の鳩があらわれた。山鳩は人間のことばを話すことができ、大海に住む沙竭羅龍王の娘のもとへ案内すると言う。牛頭天王は娘を娶りに出かける。
旅の途次、長者である弟の古単将来に宿所を求めたが、慳貪な古単(古端、巨端)はこれを断った。それに対し、貧乏な兄の蘇民将来は歓待して宿を貸し、粟飯をふるまった。蘇民の親切に感じ入った牛頭天王は、願いごとがすべてかなう牛玉を蘇民にさずけ、蘇民は富貴の人となった。
龍宮へ赴いた牛頭天王は、沙竭羅の三女の婆利采女を娶り、8年をそこで過ごすあいだに七男一女の王子(八王子)をもうけた。豊饒国への帰路、牛頭天王は八万四千の眷属をさしむけ、古単への復讐を図った。古端は千人もの僧を集め、大般若経を七日七晩にわたって読誦させたが法師のひとりが居眠りしたために失敗し、古単の眷属五千余はことごとく蹴り殺されたという。この殺戮のなかで、牛頭天王は古単の妻だけを蘇民将来の娘であるために助命して、「茅の輪をつくって、赤絹の房を下げ、『蘇民将来之子孫なり』との護符を付ければ末代までも災難を逃れることができる」と除災の法を教示した。
牛頭天王の神格
牛頭天王の神格についてはさまざまな説があり、江戸時代から明治時代にかけて復古神道の影響下で主張されたスサノオ・朝鮮半島起源説が知られるが、神仏分離と国家神道の政治的な影響が大きいともいわれ、定説は確立していない。牛頭天王は、平安京の祇園社の祭神であるところから祇園天神とも称され、平安時代から行疫神として崇め信じられてきたが、御霊信仰の影響から当初は御霊を鎮めるために祭り、やがて平安末期には疫病神を鎮め退散させるために花笠や山鉾を出して市中を練り歩いて鎮祭するようになった。これが祇園祭の起源である。これについて、当時は疫病は異国からの伝染と考えて、異国由来の疫病神として牛頭天王を祀る由来となったと考える立場もある。いずれにせよ、牛頭天王は、子の八王子権現や眷属とともに疫病を司る神とされたのである。
『備後国風土記』等にみえる牛頭天王
鎌倉時代後半の卜部兼方『釈日本紀』に引用された『備後国風土記』逸文(詳細後述)では牛頭天王は武塔神とも称され、スサノオと同一視されたうえで富貴な兄の巨旦将来と貧しい弟蘇民将来の説話を記している。それに対し、『先代旧事本紀』ではオオナムチノミコト(大国主)の荒魂が牛頭天王であると解説する。また、平安時代末期に成立した『伊呂波字類抄』(色葉字類抄)では、牛頭天王は天竺の北にある「九相国」の王であるとしている。
スサノオとの習合・朝鮮半島との関係
新羅に牛頭山という山があり、熱病に効果のある栴檀を産したところから、この山の名を冠した神と同一視する説がある。
また『日本書紀』巻第一神代上第八段一書に、スサノオ(素戔嗚尊)が新羅の曽尸茂利/曽尸茂梨(ソシモリ)という地に高天原から追放されて降臨し、「ここにはいたくはない。」と言い残し、すぐに出雲の国に渡ったとの記述があるが、この伝承に対して、「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう朝鮮語で、牛頭または牛首を意味し、朝鮮半島の各地に牛頭山という名の山や牛頭の名の付いた島がある由と関連するという説もある。ただし現代のハングル表記による朝鮮語と古代の新羅語では発音が異なっていたとして、この説に対する異論もある。
また、ソシモリのソは蘇民のソで、蘇民は「ソの民」であるとして、蘇民将来説話と『日本書紀』のスサノオのソシモリ降臨と関連づける説もある。
祇園神が鎮祭されたのは、奈良時代以前に遡るとされ、記録の上では詳細不明である。八坂神社が1870年(明治3年)に出版した『八坂社舊記集録』上中下(紀繁継 『八坂社旧記集録』『八坂誌』ともいう)巻頭に承暦3年(1079年)の年代の記された記載を謄写したという「八坂郷鎮座大神之記」には
八坂郷鎮座大神之記
齊明天皇即位二年丙辰八月韓國之調進副使伊利之使主再來之時新羅國牛頭山座須佐之雄尊之神御魂齋祭來而皇國祭始依之愛宕郡賜八坂郷並造之姓十二年後 天地天皇御宇六年丁 社號為威神院宮殿全造營而牛頭山坐之大神乎牛頭天王奉称祭祀畢 淳和天皇御宇天長六年右衞門督紀朝臣百繼尓感神院祀官並八坂造之業賜為受續   奉齋御神名記   神速須佐乃男尊  中央座
とあり、斉明天皇2年(656年)高句麗の使、伊利之使主(イリシオミ)が来朝したとき新羅国の牛頭山の須佐之雄尊を祭ると伝えられる。伊利之は『新撰姓氏録』山城国諸蕃の八坂造に、意利佐の名がみえ、祇園社附近はもと八坂郷と称していた。この伝承にそのまま従うと「日本における神仏習合以前に、朝鮮半島ですでに日本神話のスサノオが信仰されており、その信仰をもちこんだ渡来人が住みついた後になってから牛頭天王と習合した」ということになるが、川村湊や真弓常忠は「朝鮮半島より渡来した人々が住みついて牛頭天王を祀ったが、その後、日本神話のスサノオと習合した」と解釈している。
陰陽道の天刑星との習合
陰陽道では天道神とされ、天刑星、吉祥天の王舎城大王、商貴帝と同一視された。また、蘇民将来説話の伝播にあたっては陰陽師の活動も大きかったと考えられる。
その他
これらのほか、牛頭天王は薬宝賢明王と称し、本地を薬師如来とする説も有力であり、もっとも一般的には、多くの場合、天竺の祇園精舎の守護神であると説明される。また同じ牛頭の武神であり、秦氏が日本に伝えたとする道教の兵主神=蚩尤と関連するとの説もある。
歴史
牛頭天王は、古代にさかのぼる蘇民将来の説話が陰陽師などによって伝承されるうちに、日本古来の霊信仰とむすびついて行疫神とみられるようになり、その霊力がきわめて強力であるがゆえに、逆にこれを丁重に祀れば、かえって災厄をまぬがれることができると解されて除疫神としての神格をもつようになったものである。荒魂が和魂へと転換されたわけであるが、日本神話では天上を追放された「荒ぶる神」スサノオとの習合がこの過程においてなされたものと考えられる。
『備後国風土記』の蘇民将来説話
『釈日本紀』に引用された『備後国風土記』逸文に「武塔天神」と「蘇民将来」兄弟の話が出てくる。『備後国風土記』は奈良時代初期に編纂された備後国(広島県東部)の地理書であるが、現在は鎌倉時代の逸文として引用のかたちで伝存したものである。ここでは、牛頭天王は「武塔天神」と同一視され、親切に迎え入れた兄の「蘇民将来」に対して疫病を免れしめ、その一宿一飯の恩に報いるために蘇民とその娘に除難の法を教えたと記している。本文に「批則祇園社本縁也」と記述された説話がそれであり、これは文献にあらわれた「蘇民将来」説話の最古の例である。
平安時代
平安時代の絵画『辟邪絵』(奈良国立博物館蔵)には、疫神や牛頭天王をつかんで食べる天刑星(疫神を食べる道教の神『封神演義』では桂天禄が封神された)の絵と詞が描写されている。この時代には、都市部でさかんに信仰されるようになり、祇園社の御霊会(祇園祭)において祀られるようになったといわれる。祇園御霊会がさかんになったのは10世紀ころからで、夏に流行しがちな疫病を鎮める効果が求められた。京都では感神院祇園社に祀られ除疫神として尊崇され、祇園社のある地は「祇園」と称されるようになった。なお、当時辞書として編まれた『伊呂波字類抄』(上述)の「祇園」の項では、牛頭天王は天竺北方の「九相国」の出身で、またの名を武答天神といい沙竭羅竜女を后とし八王子ら84,654神が生まれたとしている。
八坂神社由来
鎌倉時代末に成立した『社家条々記録』には「別記云 貞観十八年 南都円如先建立堂宇 奉安置薬師千手等像 則今年夏六月十四日 天神東山之麓祇園林ニ令垂跡御座」とあり、また、『群書類従』神祇部所収の「二十二社註式」には「牛頭天皇 初垂迹於播磨明石浦 移広峰 其後移北白河東光寺 其後人皇五十七代陽成院元慶年中移感神院 託宣曰 我天竺祇園精舎守護神云々 故号祇園社」とある。これらによれば、牛頭天王は、天竺では祇園精舎の守護神であったが、日本では、最初は播磨国明石浦(兵庫県明石市)に垂迹、ついで広峰(兵庫県姫路市)に移り、その後、京都東山の北白川東光寺へ、陽成天皇の貞観18年(876年)に東山山麓に垂迹したため堂宇を建立、あるいは元慶年間(877年-885年)東山の感神院に移ったとされるのが祇園社(現在の八坂神社)である。
中世
牛頭天王は疫病の神であるところから「蘇民将来」説話と混淆し、牛頭天王は武塔神と同一視されたり父子関係とされたりして、スサノオとも習合した。『神道集』巻第3 祇園大明神事では「抑祇園大明神者、世人天王宮ト申、即牛頭天王是也、牛頭天王ハ武答天神王等ノ部類ノ神也、天形星トモ武答天神トモ、牛頭天王トモ崇ル」と牛頭天王は天刑星、武答天神、天道神とされた。
その結果、以下さまざまな説話のバリエーションが派生した。
赤地の紙に金色の文字で「蘇民将来子孫之門」と書かれた札の由来となった次の説話がある(赤い紙に金色の文字は陰陽道で「疫病神が嫌う色」とされているからとされる)。
“ 昔、牛頭天王が老人に身をやつしてお忍びで旅に出た時、とある村に宿を求めた。このとき弟の巨丹将来は裕福なのに冷淡にあしらい、兄の蘇民将来は貧しいのにやさしく迎え入れてもてなした。そこで牛頭天王は正体を明かし、「近々この村に死の病が流行るがお前の一族は助ける」とのたまった。果たせるかな死の病が流行ったとき、巨丹の一族は全部死んでしまったのに、蘇民の一族は助かったという。 ”
『三國相傳陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集』(略称『金烏玉兎集』、『簠簋内伝』とも)第1巻牛頭天王縁起に詳細な説話が記され、『祇園牛頭天王御縁起』(上述)では牛頭天王は武答天皇の太子として登場し、牛頭天皇とも表記され、八大竜王の一、沙竭羅竜王の娘の頗梨采女を妃として八王子を生んだという。その姿かたちは頭に牛の角を持ち、夜叉のようであるが、こころは人間に似ていると考えられた。
日本仏教では、薬師如来の垂迹とされた。牛頭天王に対する神仏習合の信仰を祇園信仰といい、中世までには日本全国に広まり、悪疫退散・水難鎮護の神として「祇園祭」「天王祭」「津島祭」などと称する祭礼が各地で盛んに催されるようになった。
近世・近代
祇園社、天王社で祀られていた。単に天王といえば、牛頭天王をさすことが多い。牛頭天皇と呼ばれることもあり、奈良県や滋賀県域に所在する天皇神社はスメラミコトとしての天皇ではなく牛頭天王が祭神である。天王洲アイルの「天王洲」など、各地にある「天王」のつく地名の多くは牛頭天王に因むものである。
江戸時代の国学者平田篤胤は著書『牛頭天王暦神弁』で天野信景の牛頭天王辨は偽経であると記述した。
天野信景の牛頭天王辨といふ物尓
牛頭天王出佛説秘密心点如意藏王陀羅尼經
凡天王有十種反身曰武塔天神曰牛頭天王曰
摩羅天王曰蛇毒氣神曰摩那天王曰
曰梵王曰玉女(中略)
天刑星秘密儀軌 有牛頭天王縛撃癘鬼禳除疫難之事 と云り
然れど此は共に一切經藏に載せざれば偽經なる
織田信長(織田家の紋は祇園神社の神紋と同じ木瓜紋 津嶋神社と関わる)が神社破壊をした際に自衛のため牛頭天王が盛んになったとの説を『豊島郡誌』(今西玄章 1736年(元文元年))、『摂津名所図会』(1798年(寛政10年))が記述した。
神仏分離・廃仏毀釈
明治維新の神仏分離によって、権現類と並んで通達で名指しされた。天台宗の感神院祇園社は廃寺に追い込まれ、八坂神社に強制的に改組された。また、織田信長が神社破壊をした際に自衛のために、織田信長が信仰した牛頭天王を祭神に変えた社が多かったとし、実は古来からの祭神ではなかったと故意に主張され、全国の牛頭天王を祀る祇園社、天王社は、スサノオを祭神とする神社として強制的に再編された。 
 
「牛頭天王縁起」に関する基礎的研究

 

はじめに
「神仏習合」「本地垂迹説」の研究を切り拓いた辻善之助の記念碑的論考、「本地垂迹の起源について」が『史学雑誌』誌上に発表され、一世紀近くが経とうとしている。当然この間、辻論考をいかに批判し、修正し、乗り越えるかが常に課題となってきた。その結果というべきか、今日の研究動向を見るに、「神仏習合」、「本地垂迹」の捉え方は辻が見たそれと大きく異なるものになっている。
「神」「仏」という存在の流動性、「神」「仏」の二項対立的な見方への批判、日本固有の宗教的特徴とは言い切れなくなった「神仏習合」―近年の「神仏習合」に関するこれらの論点からも、この研究が一つの転換期を迎えていることが分かる。そしてそれは、「神仏習合」「本地垂迹」という枠組みをも根本から見直すことにも繋がっている。
ところで、「神」「仏」に区分できない「カミ」の中には、牛頭天王も含まれる。近世中期の国学者、天野信景が指摘するように、牛頭天王の名称は『華厳経』始め、幾つかの経典類に見られる「牛頭栴檀」からの由来であろう。また、室町期成立と思われる『祇園社略記』では、祇園社祭神について仏家は牛頭天王、神家は素盞烏尊、暦家は天道神と称していたことが分かる。そのため、牛頭天王は仏菩薩に近い存在として、慶應四年(後に明治元年に改元・一八六八)三月の神祇官事務局通達、いわゆる「神仏分離令」にて、「中古以来」、「仏語ヲ以神号ニ相称候」ことを理由に名指しで排斥の対象とされたのである。
一方、『渓嵐拾葉集』では陰陽道の鬼神として牛頭天王が仏、如来と対比されていることや、陰陽道の神(暦神)である天道神が、『三国相伝簠簋内傳金烏玉兎集』(以下、『簠簋内傳』)で牛頭天王と同体視されていることなど、牛頭天王が単純に「仏」の類であったとも言い切れない。
ここに「神」でも「仏」でもない「カミ」の象徴的存在としての牛頭天王が浮かび上がってくる。もちろん、牛頭天王信仰の解明は、「神仏習合」研究において重要である。しかし一方で、従来の「神仏習合」という枠組みを脱却しなければ、その解明は難しい。
例えば信仰、祭儀の「場」をいかに捉えるかという課題がある。信仰を伝える各主体(宗教実践者)による祭儀の「場」の違い、さらには時間軸や地域性など物理的な違いを無視し、牛頭天王という「カミ」を一つの像に規定することには無理が生じる。牛頭天王は、それぞれの「場」において、それぞれ固有の姿を現していたのではないか。
ここで大きな鍵を握るのが、各地に残されている「牛頭天王縁起」である。北条勝貴は「縁起」に見られる「聖地」(場)との関連性について、「お互いがお互いを規定しつつ、常に新しい存在へと生まれ変わらせてゆく」ような「相関関係」が見られると説く。果たして「牛頭天王縁起」はどのような「場」で用いられ、またどのような「場」を物語るのか。
それら一つ一つの縁起を地道に読み解くことこそ、それぞれの「場」における信仰の在り方を解明することへと繋がるであろう。
ただし、本論はそのような個別具体的な縁起の読解、検討を目的とはしない。むしろ、これまでの先行研究を踏まえ、整理した上で、先行研究では余り重視されてこなかった、各縁起の読解に入る「前段階」の作業、考察に重きを置きたい。そうした基礎的とも思われる作業、考察を経なければ、各「牛頭天王縁起」本文の異同や「場」によって生じる信仰の差異への言及に終始することになりかねない。差異を前提とした上で、それぞれの縁起世界がどのように独自の「場」を創り出し、他方でそれぞれの縁起や「場」がどのように関係し、影響を及ぼしていくのかを検討することがまず求められる。
本論では、牛頭天王信仰、とりわけ「牛頭天王縁起」に関する先行研究を踏まえ、整理した上で、先行研究では殆どなされてこなかった「牛頭天王縁起」の定義に関して検討を加え、さらにその定義を踏まえた上で「牛頭天王縁起」を大まかにではあれ分類する。そして、これらの作業を経てどのような「場」で「牛頭天王縁起」が受容されたのか、大掴みであれ掴むことを目的としたい。 
一、先行研究の整理と課題
本節では、牛頭天王信仰、とりわけ「牛頭天王縁起」に関する先行研究を整理し、また現段階での課題を捉えたい。先行研究では、中世以降の牛頭天王信仰がいかに広がり、またその背景には何があったかを総論的に述べる機会はほぼなかった。もちろん、「広がり」といっても、牛頭天王を祭神とする祇園社や津島天王社などでの信仰、祭儀の「場」と、法師陰陽師や修験者、或いは「太夫」や「博士」といった民間の宗教者実践者を中心にしたの「場」とが同質であったとは考えにくい。そこには、牛頭天王信仰という一言では括りきれないバリエーションがあったといえよう。そのような中で、近世期では天野信景や平田篤胤、小林百枝、松浦道輔といった国学者たちが、牛頭天王という存在について検討してきた。そこで彼らが導き出した牛頭天王像こそ、仏菩薩に近い存在であり、あるいは暦神であった。不幸にも明治維新期において、そのような牛頭天王は排斥の対象となり、必然的に牛頭天王信仰について本格的に論じた研究も見られなくなるのである。
このような研究動向が変わるのは、アジア太平洋戦後終了後になる。中でも、三崎良周はいち早く牛頭天王に関する本格的な論考を発表した一人であろう。三崎は、『阿娑縛抄』、『覚禅抄』といった台密、真密の事相書などから牛頭天王に関する記述を拾い、整理した。その結果、中世期におけるそれら密教と陰陽道、宿曜道との密接な関係によって、牛頭天王の複雑な習合関係が生じたとの結論に至った。この三崎の研究は、牛頭天王の複雑な習合関係を仏典等から整理したという点で先駆的業績といえよう。ただし、仏典によって異なる習合関係を、牛頭天王という「共通項」を用いてイコールで結ぶかのような姿勢も同時に見られる。
また、牛頭天王の習合関係を述べたものとしては、吉井良隆による論考がある。吉井は、『釈日本紀』所収の『備後国風土記』逸文(「疫隅国社縁起」)のに登場する武塔神には、その信仰を物語る説話があったと推察し、また武塔神は牛頭天王とは別系統の異国神、疫神であり牛頭天王より早く日本で信仰されていた、との説を立てた。さらに、スサノヲと武塔神とが結びついた理由については、『日本書紀』巻第一第七段一書に見られるスサノヲ追放譚におけるスサノヲ像と武塔神とが重なる部分があったからではないか、と述べている。スサノヲと武塔神との重なりという点では、論拠に欠けているが、牛頭天王と武塔神とが別系統の神であり、それぞれ別に信仰があったのではないか、とする見解は重要である。この『備後国風土記』逸文は、後述するように牛頭天王が登場しないため、「牛頭天王縁起」として位置付けることは難しい。ただし、この縁起を用いて卜部兼文が講義を行なったことで、祇園社祭神とスサノヲとが結び付けられる素地が形成されたことは間違いない。斎藤英喜は、卜部兼文・兼方がスサノヲと祇園社祭神とを結びつけた後も、吉田兼倶が登場するまで祇園社祭神の呼称は流動的であった、と指摘している。兼倶は牛頭天王とも武塔天神とも呼ばれていた祇園社祭神を「皆素戔烏ソ」としてスサノヲであると捉え、一方、祇園社社僧はあくまで牛頭天王を祭神と見なしていたという。この斎藤の指摘は、後述する「牛頭天王縁起」を「中世神話」として捉えることで明確になるものであり、示唆深い。
次に本論で中心的に取り上げる「牛頭天王縁起」に関する先行研究について検討したい。
まず「牛頭天王縁起」研究では、西田長男の論考は見過ごせない。西田は、いわゆる「祇園牛頭天王縁起」のみならず、牛頭天王が登場する祭文類や『簠簋内傳』、さらには日本で成立したと思われる牛頭天王に関する偽経なども用いて、その信仰の広がりを論じた。各縁起の中から、それぞれの信仰の「場」が立ち現われることを示しており、「牛頭天王縁起」研究の嚆矢となった論考といって良い。
また西田をさらに補った論考が、松本隆信による論考であろう。松本は、西田が紹介しなかった『須佐神社縁起』なども含め、その縁起に見られる縁起説話の展開を論じた。また、偽経類が牛頭天王縁起の成立に深く関与しているとの指摘は、先の三崎の論考に通じるところもあり、今後さらなる検討が必要となる。ただし、松本が捉える「牛頭天王縁起」は、「話の大筋もほとんど変っていない」ものである。「話の大筋」とは恐らく、蘇民将来譚を指すのだろうが、果たして蘇民将来譚にそった縁起だけが「牛頭天王縁起」といえるかは、疑問である。さらにいえば、西田や松本含め「牛頭天王縁起」を用いた諸論考の中で、「牛頭天王縁起」とはどのようなものか、その定義を論じるものがないという大きな問題がそこから見えてくる。それ故に一つ一つの縁起に迫る個別具体的な視点と、各地に残る「牛頭天王縁起」を俯瞰的に眺め、それらの縁起の相互の影響を模索する俯瞰的視点とがクロスせず、総合的に論じられてこなかった。この点はまた次節に譲りたい。
他にも岩佐貴三や村上學、今堀太逸、八田達男、金賛會、宮家準などがある。岩佐や宮家による陰陽道、修験道祭文と牛頭天王信仰との繋がりを論じる視点や、或いは村上のように具体的に『神道集』の「祇園大明神事」という個別具体的「牛頭天王縁起」の検討、或いは金のように韓国の疫神説話と「牛頭天王縁起」とに共通点を見出す研究など、その方向は多岐にわたっている。一方でマクロとミクロの視点とを重ね、牛頭天王信仰を総合的に論じるまでには至っていない。
さらに先の松本や今堀の論考では、各地の「牛頭天王縁起」を紹介しつつ、最終的に考察の帰着点として祇園社祭神としての牛頭天王の信仰でまとめようとする、いわば牛頭天王を祇園社祭神へと収斂させていく傾向が顕著に見られる。これは祇園社の創祀や、さらに祇園社そのものの機能とも関連して語られるが現状においては、祇園社創祀やその機能を巡っては定説化するに足る史料もなく、断定することは難しい。そのため、祇園社の創祀と祇園社祭神とを結びつけて語ることは困難であると認めざるを得ない。祇園社の祭神としての牛頭天王にばかりフォーカスを当てるのではなく、別の側面からの検討を行なうべきといえよう。
確かに中世末期から近世期に至るまで、牛頭天王は祇園社祭神―或いは津島天王社や広峯社祭神―として語られることが圧倒的に多い。しかし、中世初期から中期にかけて、果たして牛頭天王が祇園社祭神として語られるばかりであったかは、検討せねばなるまい。例えば、『簠簋内傳』の内容が、祇園社祭神としての牛頭天王を浮かび上がらせるかといえば、やはり違う。祇園社祭神に留まらない牛頭天王像もまた見出さねばならない。
そこで着目されるのが、「牛頭天王縁起」を「中世神話」として見るという方法論である。先にあげた斎藤や山本ひろ子の研究は、そうした各「牛頭天王縁起」を「中世神話」として読み解くことで、縁起によって異なる世界を神話の「変貌」として捉え、また牛頭天王の「変貌」として捉えている。信仰、祭儀の「場」によって異なる牛頭天王とは、「神話」たる「牛頭天王縁起」が宗教実践者により読み替えられ、または新たに解釈された結果である。この視点に立てば、縁起の中で「場」そのものもまた、本質的な「変貌」を遂げることもあり得るのである。
以上、簡単ではあるが先行研究について触れてきた。なお、この他にも志賀剛や松前健、福田晃、真下美弥子らの研究にも言及すべきではあるが、これもまた稿を改め論じたい。 
二、「牛頭天王縁起」の定義
さて、縁起そのものにそれぞれの「場」の背景が記されているならば、当然、一つ一つの縁起にもそれぞれの世界観がある。従って、一言で「牛頭天王縁起」といっても、その様態は様々といえよう。ただ、前述の通り、何をもって「牛頭天王縁起」といえるのか、先行研究ではほぼ触れられていない。そこで本節では、「牛頭天王縁起」の定義を明らかにしたい。
さて、「縁起」の定義づけについては、まず桜井徳太郎の論考が挙げられる。桜井は、その定義に「寺社縁起」を用い、「仏教の根本義」に則り、「神社仏閣の草創・沿革、またはその霊験などを言い伝えた文書や詞章」の総称を「広義の寺社縁起」と、そして「草創や沿革とその霊験を強調するために「縁起」と称するタイトルをつけた、特定の文章」を「狭義の寺社縁起」と位置づけた。
この桜井の定義を「牛頭天王縁起」に当てはめると、どうなるか。例えば、先にあげた西田や松本らの論考では、いわゆる「祇園牛頭天王縁起」諸本と同様に、『簠簋内傳』や「牛頭天王祭文」類も「牛頭天王縁起」として位置づけている。しかし、これらは、特定の寺社の創始や霊験を示すものではなく、桜井の定義でいえば「広義の寺社縁起」の範疇にも入らない。必然的に、縁起の定義そのものから外れることになる。
一方、近年「縁起学」を提唱している橋本章彦は、桜井による「縁起」の定義とは異なる見解を示した。橋本は、「縁起」をいわゆる寺社縁起に限らず「「由来」に関わる言説のすべて」を広く「縁起」と見るべきと主張し、「モノとコトの関係性によって宗教的価値を創出する言説」には「縁起性」が見られる、即ち「縁起」研究の対象であると定義づけたのである。
『簠簋内傳』や「牛頭天王祭文」類は、もちろん牛頭天王を祀る宗教儀礼において用いられた。『簠簋内傳』であれば暦神である天道神と牛頭天王とは同体であり、かつ天道神(牛頭天王)が司る方角は「萬事大吉」と説いている。このような論理は、官人陰陽師による論理世界ではあり得ず、従って、民間の陰陽師(法師陰陽師)たちによって成立し、彼らによって用いられたものであることは、既に指摘されている。このように宗教者実践者の姿が明らかになれば、自ずとその「縁起」が用いられた信仰の「場」、宗教的空間が浮かび上がってくる。『簠簋内傳』のような非寺社縁起であっても、北条が説く聖地(場)との相互連動が見られるのである。
本論では、「牛頭天王縁起」の定義を寺社縁起に限定せず、その内容から牛頭天王の由来を語り、「場」を想起させる(絵巻含む)テクスト全般としたい。しかし、牛頭天王をどの程度、信仰対象として規定しているかは、「縁起」によって「濃淡」があることも念頭に置かねばならないのである。
例えば、いわゆる「祇園牛頭天王縁起」と『簠簋内傳』とでは、前者が祇園社祭神の牛頭天王の由来譚とその利益のみを描くのに対し、後者は牛頭天王のみならず盤古王や土公神など様々な暦神の由来や利益を説くものである。そこには、「縁起」の本質的な違いがあり、それは「場」が違うことにより起因する根本的差異であることをまず認めねばなるまい。
ところで、『備後国風土記』逸文については、先行研究の多くは「牛頭天王縁起」と見なしているが、先述の通り厳密には「牛頭天王縁起」と位置づけることは難しい。ただし、この縁起がいわゆる蘇民将来譚の文献上確認できる初出であり、この縁起を元に後世、「祇園牛頭天王縁起」などが創りだされたことは明白である。そのため、牛頭天王信仰を検討する上で考察が欠かせない縁起の一つには違いない。そのため、次節の「牛頭天王縁起」の分類においては、この縁起を「「牛頭天王縁起」に関連する縁起類」として、一線を画す形で掲載した。 
三、「牛頭天王縁起」の分類
さて、前節までの内容を踏まえ、以下に「牛頭天王縁起」を分類した。もちろん、この分類では、先述した「濃淡」を判断することは難しい。そのため、横並びで比較をするための材料ではなく、あくまでも、一つ一つの縁起を検討する上で必要な基礎作業であることを明記したい。なお、近世期に入ると各地に祇園社や天王社が勧請されており、その神社の略縁起などを含めればその数は膨大になり、ともすると煩雑になりかねない。そこで本論では、特徴的と見なせるものを除き、近世以降の略縁起類については対象から除外している。 
   「牛頭天王縁起」一覧
T 寺社縁起
【一】「祇園牛頭天王縁起」
(一)   「祇園牛頭天王縁起」諸本
@ 真名本
 1  『祇園社記』巻三所収「祇園牛頭天王縁起」 
 2 内閣文庫蔵林家旧蔵 江戸初期写本『祇園牛頭天王御縁起』
 3 内閣文庫蔵和学講談所旧蔵 江戸中期写本『祇園牛頭天王縁起』
 4 宮内庁書陵部蔵 続群書類従原本『祇園牛頭天王縁起』 
 5 刊本『続群書類従』所収 「祇園牛頭天王縁起」 
A 真名本(異種縁起を含む)
 1 天理大学図書館吉田文庫蔵 長享二年写本『牛頭天王縁起』
   (※最初に「牛頭天王縁起」本文を載せ、続いて「禅観和尚」なる人物の牛頭天王に関する「勘文」が引かれ、更に祇園社と浄土宗との関係性を述べる説話が続いている)
 2 神宮文庫蔵 天明四年写本『牛頭天王縁起』
   (※最初の「牛頭天王縁起」に続き「八王子祭文」が載せられている)
B 仮名本
 1 西田長男氏蔵 室町写巻子本 『牛頭天王縁起』
 2 『祇園社記』巻四所収 慶長三年写本「感神院祇園牛頭天王御縁起」
C 仮名本(片仮名本)
 1 東北大学附属図書館狩野文庫蔵 文明十四年写本『牛頭天王縁起』 
(二)   『神道集』所収 「祇園大明神事」
(三)   寛文・延宝年間頃刊本『祇園御本地』巻四所収 「祇園社縁起」
【二】非「祇園牛頭天王縁起」(祇園社祭神に関する「牛頭天王縁起」)
(四)   十巻本『伊呂波字類抄』所収 「祇園」
(五)   『二十一社註式』所載 祇園社縁起
【三】非「祇園牛頭天王縁起」(祇園社以外の祭神に関する「牛頭天王縁起」)
(六)   『峯相記』所収 「廣峯山縁起」
(七)   『神道集』所収 「赤山大明神事」
(八)   広島県三次市須佐神社蔵 『須佐神社縁起』
(九)   『神道雑々集』下巻所収 「牛頭天王日域応現時節事」
(一〇) 愛知県津島市興善寺蔵 天文九年写『牛頭天王講式』
(一一) 愛知県津島市津島神社蔵 室町末〜近世初期写か 『牛頭天王縁起並年紀』
(一二) 愛知県津島市津島神社蔵 室町末〜近世初期写か 『津島牛頭天王祭文』
(一三) 滋賀県田中神社蔵 『若林天王社牛頭天王縁起』
【四】非牛頭天王祭神縁起
(一四) 「感應寺縁起」
@ 非流布本系
 1 『阿娑縛抄』諸寺略記所収 「感應寺縁起」
A 流布本系
 1 『元亨釈書』寺像志所収 「感應寺縁起」
 2 金沢文庫蔵 『観音利益集』所収「河崎観音」
 3 『􄆶嚢鈔』七觀音事所収 「感應寺縁起」
 4 『塵添􄆶嚢鈔』七觀音事所収 「感應寺縁起」
 5 国会図書館蔵 明暦四年写本『観音縁起』
(一五) 兵庫県神戸市近江寺蔵 『播州近江山近江寺縁起』
U 牛頭天王に関する祭文
【一】陰陽道・修験道系祭文
(一六) 信濃国分寺蔵 文明十二年写本『牛頭天王祭文』
(一七) 醍醐寺三宝院蔵 文明十七年写本『牛頭天王祭文』
(一八) 宮地直一蔵 天文十九年書写巻子本『灌頂祭文』
(一九) 尾張三河花祭祭文 寛永十年書写『牛頭天王島渡り』
【二】神道系祭文
(二〇) 神宮文庫蔵 宝暦八年書写『牛頭天王之祭文』
    (※神宮文庫蔵 天明四年写本『牛頭天王縁起』所載「八王子祭文」)
【三】その他祭文
(二一) 高知県香美市物部町 「いざなぎ流祭文」
 1 小松キクジ太夫蔵 『天行正祭文』
 2 中尾計左清太夫蔵 『天下小察(祭)ノ文』
(二二) 広島県旧佐伯郡山田家蔵 室町末期書写か「天刑星祭文」
V その他(非寺社縁起・非祭文)
(二三) 『三国相伝簠簋内傳金烏玉兔集』
  @ 流布本系
  A 非流布本系
  B 『簠簋内傳』注釈書
(二四) 名古屋市立博物館蔵 『牛頭天王之本地』
(二五) 京都市妙法院蔵 観応元年写『神像絵巻』
(二六) 天文本『伊勢神楽歌』所収 「天わうの哥」
(二七) 陸奥遠野早池峰神社大出神楽 「式外八番 牛頭天皇」
(二八) 『備後東城荒神神楽能本集』 「祇園の能」
(二九) 謡曲 『祇園』
(三〇) 近世期成立 「河原由来書」
(三一) 近世期成立 「河原細工由緒記」
 「牛頭天王縁起」に関連する縁起類
(三二) 『釈日本紀』所収 「備後国風土記」逸文「疫隅国社縁起」
(三三) 奈良国立博物館蔵 増田家乙本『地獄草子』「辟邪絵 天刑星」
(三四) 高知県香美市物部町「いざなぎ流祭文」
 1 中尾計左清太夫蔵『山の神の察(祭)文』
 2 竹添喜譜太夫蔵『山王神代神官祭文』 
以下、分類についてごく簡単に説明したい。
まず、先述の通り、0が非「牛頭天王縁起」、即ち牛頭天王信仰と密接にかかわる縁起類を指す。先にあげた(三二)『備後国風土記』逸文の他に、(三三)「辟邪絵」の「天刑星」並びに(三四)「いざなぎ流祭文」二本を加えた。この(三三)は、天刑星が疫鬼であり悪鬼である牛頭天王を喰らい、退治する様が描かれており、牛頭天王と天刑星とが習合する前の姿であること、かつ疫鬼、悪鬼の類として牛頭天王が描かれていることなど、牛頭天王信仰を検討する上で重要な史料といえよう。
さて、「牛頭天王縁起」を見ていくが、Tの寺社縁起は、さらに【一】〜【四】と分けた。【二】・【三】の非「祇園牛頭天王縁起」とは、「祇園牛頭天王縁起」に共通して見られる縁起の話型、即ち蘇民将来譚を含まない「縁起」を指す。【二】(四)の十巻本『伊呂波字類抄』は、鎌倉初期頃成立と推定されており、当然そこに収められる縁起はそれ以前の成立であろう。従って、「牛頭天王縁起」の中では最古の成立と考えられる。この(四)に蘇民将来譚が含まれてない点に着目したい。ここでは、武塔神と牛頭天王との習合が見られる他、また牛頭天王の出自が天竺北方であり、父は東王父、母は西王母であるとするなど、完全な異国神として描かれているのである。この縁起がどのように創られたものかは定かではないが、(四)に収録する前から存在していたことは確かであろう。次に【三】だが、それぞれ(六)は広峯社、(八)は小童の祇園社(現須佐神社)、(九)〜(一二)までは津島天王社、(一三)は若林天王社(現田中神社)の祭神としての牛頭天王の由来が示されたものである。また、(七)「赤山大明神事」は、赤山大明神と牛頭天王との習合を示しており、ここでしか見られない記述である。これら【一】〜【三】は牛頭天王が特定社寺の祭神として祀られた縁起であったのに対し、【四】(一四)の感應寺縁起、(一五)の近江寺縁起は共に、地主神かつ、寺院の伽藍神としての牛頭天王が登場する縁起となっている。そして双方とも、寺院の本尊には観音菩薩が置かれており、(一四)ではその観音の利益を牛頭天王が内包している形となっている。なお、(一四)は非流布本、流布本とさらに二系統に分けているが、詳しくはまた稿を改め記したい。
次にUであるが、寺社縁起とは異なり、修験者や法師陰陽師らによって使用されたことを考えると、恐らくはここに掲載したもの以外にもまだ多くの縁起が存在していると考えられる。中でも【三】は、修験者や法師陰陽師以外の民間の宗教者実践者による祭文であり、その広がりは全国的なものではなかったかと推察できる。今回あげた(二一)、(二二)は共に「天刑星」と牛頭天王との習合を示すものであるが、(二一)の1などでは、「祇園牛頭天王大明神」と記されている。祇園社の由来を説くものでないにも関わらず、「祇園牛頭天王」と記す点から、祇園社祭神としての牛頭天王が、祇園社の縁起を離れて広がっていったことを示すものと考えられよう。
最後のVは、分類上、「その他」と大変雑駁な括り方になっているが、(二三)『簠簋内傳』や(二五)の神像絵巻、(二六)の神楽歌、(二七)の神楽、(二八)、(二九)の謡曲(能)と様々な形態で牛頭天王の由来が示されている。これらもまた、橋本が説く縁起性を持つもの、即ち「牛頭天王縁起」として検討していく必要があり、いずれ稿を改め論じたい。
以上、雑駁ではあるが従来、論じられてこなかった「牛頭天王縁起」に関する基礎的考察及び作業を述べてきた。基礎的研究と題しただけに、具体的考察に乏しくまた、消化不良な面もあり、課題も山積したままではあるが、本論の果たすべき役割を考えまずはここで擱筆したい。 
 
八面大王

 

安曇野には八面大王に関わる伝承地や伝説が沢山ある。また、八面大王を退治したといわれる坂上田村麻呂が中興したり祈願をした寺や神社の数も多くある。
坂上田村麻呂は桓武天皇が征夷大将軍として派遣した人物である。
さて、八面大王って何者なのだろうか。長いこと気になっていた。心に刻んだ大王伝説をかかえ、大王の真の姿を求めて伝承地を歩いた。
大町市の源汲(げんゆう)には次のようなお話がある。
昔々、鹿島川の上流に鬼が住んでいて、その名を八面大王と言った。大王は、時々子分を引き連れて村人の作った米や野菜を奪いに来るので村人達は毎日びくびくして暮していた。そんな時、田村将軍が通りかかり村人に大王を退治することを約束した。そして、源汲の上手(わで)にある鍛冶屋で剣を作らせていた。すると、
それを知った大王は住み処の石をつかみ取って鍛冶屋めがけて投げつけたそうな。
投げつけた石とは赤茶色の柱状節理の矢沢石で「立石」と呼ばれていたが、別荘の開発が進んだ時に「立石」の姿は無くなっている。
かつて、「立石」が立っていた近くの森に金山神社がある。
前出の場所を教えてくださったのは源汲の槌市さんであったが、槌市さんのご先祖は鍛冶師かしらんと思ったりした。帰り道、里山の風景につかり「村のかじや」の唱歌を口ずさんで歩いた覚えがある。
大町の八面大王伝説は、朝廷にそむいたとがで征伐されたとは言っていないが、田村将軍に退治されたとの伝承から朝廷との確執があったのだろうか。
旧穂高町にも八面大王伝説は沢山ある。魏石鬼八面大王という鬼がいて手下の鬼たちと村々を荒しまわっていたけれど、田村将軍に打ちとられてしまった。
退治された八面大王の体はバラバラにされ、足を埋めたとされるのが「立足」の地名として残り、胴を埋めた二つの「大王神社」(大王わさび田と狐島)耳を埋めた「耳塚」。この「耳塚」は「大塚」の別称のあることから、安曇地方の支配者の古墳説が有力である。
この他に大王が立てこもったと言われる「魏石鬼(ぎしき)の窟」が有明神社の隣の正福寺境内から続く山道を行った所にある。この窟の正体は6、7世紀頃の古墳で、巨大な花崗岩を天井にした横穴式石棺で全国的にも珍しい。この辺りは花崗岩の風化した砂だらけである。
その他、松本市の筑摩神社境内に「首塚」が、大王の頭を埋めたとされる明科の「塔の原」等まだ沢山の大王ゆかりの地がある。
ここ穂高の地に来たら、穂高神社に寄りたくなる。
烏川扇状地の末端に日本アルプスを背景に東向きに建つのが穂高神社である。祭神は穂高見命、瓊々杵尊、綿津見命としている。また延喜式内社で「穂高神社大明神」と記され、安曇氏が奉斎したと言う。
奥宮は上高地明神池畔に座している。大明神を奉斎したのは、海神(わたつみ)系の安曇族で北九州に栄え大陸とも交渉をもち、高い文化を持つ氏族であったと穂高神社略記にある。
境内の摂社の数がこれまた沢山ある。古代韓国語に当てはめると「鉄磨ぎの間」と読める鹿島社、「フイゴの地」と読める八幡社の祭神誉田別命、「砂鉄の野の男」と読める八坂社の素戔鳴尊等製鉄、鍛冶に関わる神々が揃っておられる。
また宝物の中に機織具と鉄製の鍬がある。先人達の生業状態を表している。
本宮と奥宮の例大祭は御船神事である。本宮では勇壮なお船祭で、奥宮は平安朝さながらに優雅に行われる。祭は来し方を残していると思われる。
穂高神社界わいを歩くうち等々力という地名に出っくわした。その刹那、等々力が鉄に関わる地名であろうと感じ、記憶のポケットを開けた。トドロキとは、古代韓国語の「打つ」「叩く」の意の「ドゥドゥリダ」(語幹はドゥドゥ)が日本語になった言葉であろうと直感したので直ぐに地形と小字名を調べた。
等々力は穂高川と万水川(よろずいがわ)の自然堤防上に発達した所で、背後には烏川が流れ、縄文式土器や弥生式土器が出土しており、古くから開発された所である。等々力城跡などは、穂高川とざぼり川の合流点近くにある。まさに城跡は砂鉄の採れる三角地帯にあるのには驚いた。また驚いたことには製鉄に関わるとみられる、半尾・牛喰・桜畑の小字名の他に等々力姓と望月姓までがあった。
三角地帯のど真ん中で製鉄、鍛冶の名残を見つけた。
後日、李寧熙先生の後援会報『まなほ』の編集長に電話し、等々力の地名を話すと、直ぐに、韓国語で「トドロキ」という言葉があり、その意味たるやなんと、「やかましい」だそうである。なぜ「やかましい」か。それはもう、鍛冶場の、ふいごを吹く音やテンテン、ドンドン槌打つ響きの騒音に違いないのである。
テレホンセミナーで小踊りするほどのお話が聞けた。
穂高神社は別称、穂高大明神とおっしゃる。「明神」とは製鉄の神の意だとすでに学んでいる。また、安曇氏の墳墓とされる上原古墳出土の鉄剣は成分分析の結果、砂鉄から鍛造したことが解明されている。
6世紀半頃、製鉄の技術を持った安曇氏により、中房川流域の砂鉄を採って作った、と主張する研究者もいる。穂高での製鉄炉の発見が待たれるところである。
八面大王伝説のある大町でも古代の鉄の史料はふえてきている。
大町市平新郷の積石塚は朝鮮半島からの渡来人の墓と考えられている。その1号墓から鉄器についてのみ言えば、5口の太刀(たち)と50本の鉄鏃(てつぞく)と10本の刀子(とうす)、1個の轡(くつわ)が出土している。鉄器類の成分分析が出来ていないので故地からの伝来であるか当地での作であるかはわからないのである。
大町市常盤の長畑(ながばたけ)遺跡(縄文時代〜中世まで)に製鉄遺跡としては平安時代後期から中世にかけての炉の跡やおびただしい鉄滓(かなくそ)と羽口(はぐち=鞴口・ふいごぐち)等が出ているという。炉に関しては製鉄炉と製錬炉の区別がつけ難いらしく、第一次的な製鉄炉は山の斜面に埋もれているのでは、との考えもある。
『鉄山秘書』に「一に粉鉄、二に木山」というように、この地を流れる高瀬川の砂鉄量は多くはないが、花崗岩には鉱石と違って砂鉄がほぼ遍在しているし質はいいそうである。そして、木山(木炭)も豊かである。
大町ではもう1ヵ所、五十畑(ごしょばたけ)遺跡から小鍛冶の鉄滓とは思われないかなくそと、麻の皮をむくオカキ鉋丁ではないかと思われる鉄器が出ている。
「鉄」に関することを雑ぱくに調べただけだが、安曇地方はやはり名だたる鉄の産地であったと推測する。
八面大王も「大王」の呼称があるところから「首長」と見て、まず間違いはなさそうである。
「八面」とは、まさか、8つの顔を持つ人物? ではないと考える。原意不明時の頼みの綱は古代韓国語で読んでみることである。
「八面」は「エェ・モ」と発音する。意味は「穢集め」で、八面大王=穢の集団の首長の等式が成り立つ。
さぁ「穢」とはなんのことだろうか。
日韓両国の古代の歴史や言語をきちっと認識しておられる李寧熙先生の論文をお借りする。
(注=「穢 」は原稿では“さんずい”です)
上古代の韓国に「穢(えぇ)」と呼ばれた強力な部族国家があり、紀元前8世紀以前から、朝鮮半島北端の豆満江岸茂山の嵌入地帯の砂鉄が豊富に集まる「三日月地帯」に製鉄国を築いていた。後代、今の韓国江原道一帯の砂鉄・鉄鉱石が産出された鉄産地に南下、「東穢」または「穢国」「鉄国」などの名で製鉄を続ける一方、早くから日本列島に進出し勢力を広げていた。
『古事記』や『日本書紀』に表れる「八」または「夜」の字のつく神名、地名、人名、神宝名のほとんどは「穢」に関わりがあると見做される。
つまり、「や」は または 人を指す日本語である。「弥」「八」「夜」「谷」「野」「矢」「耶」「陽」等の漢字で書き表されていた。
ついでに、韓国人の根幹を成してきた古代からの、もう一つの部族をも紹介しておきたい。
日本ではコマ・ゴモ・クマ・クモ等と呼ばれ、金・雲・隈・熊・興毛等と表記されたのは貊人である。主に高句麗及び高句麗人を指称したが、広く朝鮮半島と、そこに住む人々の総称としても使われた。
「八面大王」に戻る。
「八面大王」を「穢の集団の首長」の意としたが古代韓国語は多義語である。「八面」は「集め行く」の意もある。「八面大王」は「集め行く大王」である。
何を集めるのか。それは清らかな水の底っこに沈んでいる花崗岩の砂鉄であろう。
「穢」は別名「鉄国」とまで言われた部族である。その「穢の集団の首長」と「集め行く大王」の意は異なるものの、鉄の場の管理者としての「八面大王」の姿が浮かび上る。「八面大王」の管理する鉄の場を坂上田村麿(朝廷)が奪い取ったことが「八面大王」討伐の真相であろうか。 (注=「穢 」は原稿では“さんずい”です) 
八面大王と穂高の地名 民話
安曇野 穂高には、宮城耳塚、古慨(ふるまや)、立足、大王農場、合戦小屋、常念岳、中房温泉と言う地名がある。名前が付いたのは人武天皇の頃と言い伝之られている。
それじや、この地名にまつわる、おらほの昔話しをしてやるかいな……、人武天皇さまの頃にな、有明山の山麓に「ここは我が住む地なり」俺の城、宮城と名付けて鬼が住んでいたんじゃ。その鬼は八面大王と言って里に下っては穀物を盗み、娘達をさらい、わるさのひどうしでな、村人はそりゃあ困っていたんじゃ。この話しをエゾ征伐に行く坂上田村麿が聞きつけて鬼を退治しに来たんじゃ。ところが八面大王は、雲を呼び、風を起こし、雨を降らし、近づく事もできなんだんじゃ。弓を射っても魔力があるんで一本も八面大王を射ることもできなかったということじゃ。ほとほと坂上田村麿は困って、観音様に手を合せて祈ったんじゃ。そうすると観音様が夢枕に現れて、「三十三節ある山鳥の尾で弓矢を作り満願の夜に射たおしなさい」とお告げがあったんじゃ。坂上田村麿は信濃一国布令を出したが、三十三節ある山鳥の尾はなかなか見つからなかったんじゃよ。
……さて話しはそれをさかのぼる事三年前の事じやがのう、弥助が穂高の暮れ市へ年越の買物に出かけたんじゃ。雪の峠を越えて松林にさしかかった時に大きな山鳥が罠にかかって鳴いておったのじゃ。心のやさしい弥助は山烏を助けて、罠には買物するはずだった五百文をかわりに置いて来たんじゃ。家に帰ると母親のおさくもそれは良い事をした。おこるどころか、ニコニコ笑っておったんじゃ。大晦日の夜に年の頃、17・8才の娘が、道に迷ったといって弥助の家の戸をトントンとたたいたのじゃ。気のいいおさくは、火を燃してぬれた体を暖めてやったんじゃ。ちょうどこの年は、大雪で正月になっても雪が降りやまず、娘はおさくと弥助を手伝って年を越して正月を迎えたんじゃ。娘は美しいばかりでなく、良く働く娘で、おさくも弥助もすっかり気にいって、弥助の嫁にしたんじゃ。土地や財産もなかったけれど三人で助け合って笑いの絶えない、そりゃ幸せな家庭だったという事じゃ。
そして弥助の嫁が来て三年たった時に田村麿が八面大王を退治に来たんじゃ…山鳥のおふれの出た次の日、弥助の嫁が書き置きを残して出ていったんじや。「三年間楽しい日々でした。この山烏の尾を八面大王の鬼退冶に使って下さい。やっとこれで恩返しができます。」と記してあったそうじゃ。
弥助は丹念に矢を作リ、矢を田村麿に差し出したんじゃ。有明に矢村という村があるじゃろう。矢が出た村という事で矢村というんじゃ。田村麿はこの弓矢の勢いを得て八面大王をどんどん山中に追いあげたんじゃ。しかし八面大王は魔力を使うため苦戦のしどうしだったんじゃが泉でのどをうるおし力を得て、大王を沢に追い上げたのじゃ、(中房に行く途中に力水という沢があるが、田村麿がのどをうるおした所と言われている)そして満願の夜に八面大王が月を背に受けて立っている時に弥助の矢を用いると、今まであった魔力が薄れ、大王の胸に弓矢がささり鬼が退治されたという事じゃ。そして戦いのあった沢という事で合戦沢と名付けられたんじゃ。そこにあるのが合戦小屋で山登りの基地として使われてるんじゃ。
そして大王の胸に弓矢がささった時に大王の血が安曇野の空を染め、雨となって降りそそいだのじゃ。それを浴びた民百姓は病に伏し、万病がはびこったという事じゃ。これには田村麿困りはて、お寺を作り観音様を安置して祈ったんじやが、ほれ、それが満願寺じゃよ。そこにこもって祈願すると、七日の満願の夜に有明山の上に観音様が御光をさして現れて「この近くに温泉が湧くであろう、その湯につかって病いを治しなさい。」というお告があったんじや。この温泉が今の中房温泉なんじゃが、民、百姓は、この温泉で湯治し万病もなおったという事じゃ。だから今でも中房温泉につかると何の病いも冶るという事じゃ。
八面大王を伐った坂上田村麿は魔力で八面大王が生き帰ることをおそれて体を切リきざんで埋めたんじゃ。大王の耳を埋めた所が有明の耳塚。足を埋めた所が立足。首を埋めたのが国宝の筑八幡宮、現在の松本筑摩神社。胴体を埋めたのが御法田のわさび畑、別名大王農場とりいわれているんじゃ。そして八面大王の家来に常念坊という坊さんがいて、八面大王が倒された時空高く舞い上り、一つの山に庵(いおり)を結び八面大王をとむらって念仏を上げていたというんじゃ。常に念仏が聞える山、これが安曇の空に高くそびえる常念岳なんじゃよ。…。
八面大王を伐つことができ、病いも治され、里も平和になったし、弥助も長者になれたんじゃがのう、しかし、嫁を夫った弥助は毎日、暮れになると悲しみの顔で、雪空をながめ、嫁のけえってくるのを毎日毎日待ってたという話しじゃ・・・ 
魏石鬼 八面大王
(ぎしき はちめんだいおう) 長野県の安曇野に伝わる伝説上の人物。「八面大王」とは、「魏石鬼(義死鬼)」の別称である。出典となった『信府統記』に読み仮名がないため、正式な読み方は不明である。やめのおおきみ(八女大王)と読んで、福岡の八女との繋がりも考えられている。坂上田村麻呂に討伐されたという『信府統記』の記述に基づく伝説が、広く松本盆地一帯に残っている。『仁科濫觴記(にしならんしょうき)』に見える、田村守宮を大将とする仁科の軍による、「八面鬼士大王」を首領とする盗賊団の征伐を元に産まれた伝説であると考えられる。八面大王については二通りの見方がある。
英雄 / 坂上田村麻呂の北征の際、途上にある信濃の民に食料などの貢を強い、それを見かねた八面大王が立ち上がり、田村麻呂と戦った。
鬼 / 民に迷惑をかけ、鬼と呼ばれていた八面大王を、田村麻呂が北征の途上で征伐した。
『信府統記』による八面大王
松本藩により享保年間に編纂された地誌、『信府統記』(第十七)に記される伝承の概略は次のようなものである。
その昔、中房山という所に魏石鬼という名の鬼賊が居た。八面大王を称し、神社仏閣を破壊し民家を焼き人々を悩ましていた。延暦24年(805年)、討伐を命ぜられた田村将軍は安曇郡矢原庄に下り、泉小太郎ゆかりの川合に軍勢を揃え、翌大同元年(806年)に賊をうち破った。穂高神社の縁起では、光仁天皇のころ義死鬼という東夷が暴威を振るい、のち桓武天皇の命により田村利仁がこれを討ったという。
また、八面大王に関連した地名や遺跡に関する以下のような記述もある。
中房山の北、有明山の麓の宮城には「魏石鬼ヶ窟」がある。
討伐軍が山に分け入る際に馬を繋いだのが今の「駒沢」で、討ち取った夷賊らの耳を埋めたのが「耳塚」、賊に加わっていた野狐が討ち取られた場所が「狐島」であるという。
八面大王の社と称する祠もあるという。一説には、魏石鬼の首を埋めたのが「塚魔」であり、その上に権現を勧請したのが今の筑摩八幡宮(つかまはちまんぐう)とされる。
魏石鬼の剣は戸放権現に納められたというが、この社の所在は不明である。剣の折れ端は栗尾山満願寺にあり、石のような素材で鎬(しのぎ)があり、両刃の剣に見える。
この件に関する『信府統記』の記述はすこぶる表面的であり、上記のように坂上田村麻呂と藤原利仁の混同をはじめとするおとぎ話的な側面を多く含むことは否めない。決定的なことは、坂上田村麻呂は、延暦20年(801年)の遠征以降、征夷の史実はないという点である。加えて、文中のコメントは伝聞調で「云々(うんぬん)」、「とかや」が散見しているため、史実としての信頼性を疑わせる。
『仁科濫觴記』による「八面大王」
一方、『仁科濫觴記』にみられる記述には、1. おとぎ話的要素を含まず、2. 実見したように詳細で、3. 歴史的整合性があり、4. 部分的に典拠も示されている、ことから、史実としての信憑性は高いといえよう。ここでは「八面大王」という個人ではなく、8人の首領を戴く盗賊集団あるいはその首領の自称として「八面鬼士大王」の名で登場する。概略は次のようなものである。
神護景雲(767年 - 770年)末から宝亀年間(770年-780年)にかけて、民家や倉庫から雑穀や財宝を盗む事件がおきた。宝亀8年(777年)秋に調べたところ、有明山の麓に盗賊集団(「鼠(ねずみ)」、「鼠族」)の居場所を発見した。その後、村への入り口に見張りを立てたが、盗賊は隙を窺っているらしく、盗みの被害はいっこうにやまなかった。そのうち盗賊たちは、「中分沢」(中房川)の奥にこもって、8人の首領をもつ集団になった。山から出るときは、顔を色とりどりに塗り「八面鬼士大王」を名乗り、手下とともに強盗を働いた。これを憂いた皇極太子系仁科氏3代目の仁科和泉守は、家臣の等々力玄蕃亮(3代目田村守宮)を都(長岡京)に遣わして、討伐の宣旨を求めさせた。延暦8年(789年)2月上旬、朝廷より討伐命令が下ったため、等々力玄蕃亮の子の4代目田村守宮(生年25歳)を追手の大将とし、総勢200名ほどで偵察を行い、それに基づいて搦手の大将高根出雲と作戦計画を立てた後、まず退治の祈祷を行った。延暦8年2月23日(ユリウス暦3月24日/グレゴリオ暦3月28日)、作戦決行。まず、前々の夜から東の「高かがり山」(大町市鷹狩山)に火をたかせた。田村守宮率いる部隊は、夜半に「八面大王」一派のいる裏山に登り、明朝の決行を待った後、翌24日(3月25日/3月29日)、夜明けとともにほら貝を吹き時の声をあげながら一気に山を下った。搦手も太鼓を打ち鳴らし時の声をあげた。寝起きを襲われた盗賊団は驚いて四散したが、多くの者は逃げ切れなかった。大将の田村は大声で「鬼どもよく聞け。お前たちは盗賊を働き人々の家の倉庫を打ち壊して財宝を盗んだことは都にも知られている。勅命に従って討伐に来た。その罪は重いが、これまで人命は奪ってはいない。速やかに降参すれば、命だけは助けよう。手向かえば、一人残らず殺すが、返事はいかに」といった。すると盗賊団はしばらく顔を見合わせた後、長老が進み出て、太刀を投げ出し、考えてから両手を付いた。そして「貴君の高名はよく承知しております。私の命はともかくも、手下たちの命はお助け下さい」といった。そして、抵抗を受けずに全員が縄にかけられ、城に連行された。合議によって、長老一人を死罪とし、残りは耳をそいでこの地から追放することとなった。すると、村の被害者たちが地頭(この職も平安末期以降であり、当時は無かった)とともに、私刑にしたいので彼らを引き渡して欲しいと嘆願に来た。これを切っ掛けとし、等々力玄蕃亮は考え直し、もう一度合議して、長老の死罪を許し8人の首領を同罪として両耳そぎ、残りの手下は片耳そぎに減刑することに改めた。耳そぎの執行の日、田村守宮は罪状と判決を述べた後立ち去った。そのため、役人が耳をそぎだすと、恨みある村人が我も我もと争って、70人あまりの盗賊の耳そぎが執行された。そがれた耳は、血に染まった土砂とともに塚に埋められて、耳塚(安曇野市穂高有明耳塚)となった。その後、盗賊の手下たちは島立(松本市島立)にて縄を解かれ追放された。一方の残る8人の首領は、恨みを持った村人たちによって道をそれて山の方に連れて行かれた。そして口々に、「これまでは公儀の裁きであった。これからは我らの恨みをはらすぞ。天罰であると思い知れ」といって、掘った大穴に突っ込まれた後、石積みにされて殺された。そのために、この場所を「八鬼山」(松本市梓川上野八景山(やけやま))というようになった。その後追放された盗賊団の手下たちは、もともと安曇の地に産まれた者たちであったので、日が経つにつれて徐々に親兄弟、知人を頼って、秘かに故郷に戻りかくまわれていた。そのことを聞き知った仁科和泉守は、延暦24年(805年)、父の仁科美濃守の100歳の祝いにあわせて彼らを免じ、八鬼山の地と3年分の扶持を与えて、開墾を奨励した。
坂上田村麻呂伝説と『仁科濫觴記』
『仁科濫觴記』の話は、詳細で客観的であることから、史実として認め得るであろう。これを史実として認めるとすると、上記の「八面大王」と呼ばれた盗賊団を捕えた大将とは、田村守宮であった。この田村守宮の「田村」が征夷で著名な坂上田村麻呂の「田村」と混同され、さらに上述した藤原利仁との混同が起る形で、さまざまな伝説として残ることとなった可能性が、仁科宗一郎氏によって詳しく考察されている。 
 
狛犬1

 

獅子や犬に似た日本の獣で、想像上の生物とされる。像として神社や寺院の入口の両脇、あるいは本殿・本堂の正面左右などに一対で向き合う形、または守るべき寺社に背を向け、参拝者と正対する形で置かれる事が多く、またその際には無角の獅子と有角の狛犬とが一対とされる。
飛鳥時代に日本に伝わった当初は獅子で、左右の姿に差異はなかったが、平安時代になってそれぞれ異なる外見を持つ獅子と狛犬の像が対で置かれるようになり、狭義には後者のみを「狛犬」と称すが、現在では両者を併せて狛犬と呼ぶのが一般化している。
起源
古代インドで、仏の両脇に守護獣としてライオンの像を置いたのが狛犬の起源とされる。また、古代エジプトやメソポタミアでの神域を守るライオンの像もその源流とされる。明治神宮では、起源は古代オリエント・インドに遡るライオンを象った像で、古代オリエント諸国では、聖なるもの、神や王位の守護神として、ライオンを用いる流行があり、その好例がスフィンクスであるとしている。
伝来
日本には、中国の唐の時代の獅子が、仏教とともに朝鮮半島を経て伝わったとされている。明治神宮では、伝来の時期は示していないが、日本人が異様な形の生き物を犬と勘違いし、朝鮮から伝来したため、高麗犬と呼ばれるようになったとの説を紹介している。神道学者の梅田義彦は、朝鮮が日本の犬だから日本の神社を守るために配置したものだとしているという意見もあるようであるが、学問的な中立性からは嫌疑がもたれる意見であろう。「こまいぬ」の語義には諸説あり、魔除けに用いたところから「拒魔(こま)犬」と呼ばれるようになったとする説などがある。奈良県法隆寺の五重塔初重の壁面塑造に彫られている像のように、はじめは仏や仏塔入口の両脇に置かれ、獅子または大型の犬のような左右共通の姿であった。
角を持つという狛犬の由来についてはさまざまな説があり、『延喜式』巻第46「左右衛門府式」に「凡そ大儀の日に(左衛門府は)兕(じ)像を会昌門左に居(す)ゑ、事畢(おは)りて本府(左衛門府)へ返収せよ。右府(右衛門府)は(会昌門の)右に居えよ」と記され、この「兕(じ)」は獣医学者の吉村卓三によれば、正体は判然としないが水牛に似た一角獣で鎧の材料になるほどの硬皮を持ち角は酒盃に用いたというが、この「兕」が狛犬であるという説もその一つである。
変遷
平安時代に入ると、『うつほ物語』に記述されているように「大いなる白銀(しろがね)の狛犬四つ」に香炉を取り付け、宮中の御帳(御帳台)の四隅に置いて使われており、『枕草子』や『栄花物語』などにも調度品として「獅子」と「狛犬」の組み合わせが登場し、こちらは御簾(みす)や几帳(きちょう)を押さえるための重し(鎮子)として使われていたことが記されている。
獅子と狛犬の配置については、『禁秘抄』と『類聚雑要抄』に共通して獅子を左、狛犬を右に置くとの記述があり、『類聚雑要抄』ではさらにそれぞれの特徴を「獅子は色黄にして口を開き、胡摩犬(狛犬)は色白く口を開かず、角あり」と描いている。獅子または狛犬は中国や韓国にも同様の物があるが、阿(あ)・吽(うん)の形は日本で多く見られる特徴であり、仁王像と同様、日本における仏教観を反映したものと考えられている。
一般的に、獅子・狛犬は向かって右側の獅子像が「阿形(あぎょう)」で口を開いており、左側の狛犬像が「吽形(うんぎょう)」で口を閉じ、古くは角を持っていた。鎌倉時代後期以降になると様式が簡略化されたものが出現しはじめ、昭和時代以降に作られた物は左右ともに角が無い物が多く、口の開き方以外に外見上の差異がなくなっている。これらは本来「獅子」と呼ぶべきものであるが、今日では両方の像を合わせて「狛犬」と称することが多い。
近世から現代にかけて、各地の寺社に膨大な数が造られており、形態にもさまざまなものがある。獅子・狛犬の有無も神社によりさまざまで、たとえば京都府の京都市内の神社では狛犬がいるところが約半数である。現在、各地の寺社境内で見かける狛犬には石製のものが多く、ほかにも金属製や陶製のものがある。前述のように宮中の御帳台などで調度品として使用されるものは金属製であったと思われるが、一方で神仏の守護の役割を果たす獅子像、狛犬像については屋内に置かれたものは木製が多く、屋外に置かれるようになって石が使用されるようになった。現存する木製の獅子・狛犬例には、奈良県薬師寺の鎮守休ヶ岡八幡宮や、滋賀県の大宝神社、京都府高山寺、広島県厳島神社などのものがある(いずれも重要文化財)。石製の古い例では奈良県東大寺南大門に置かれている一対の像があるが、これらは宋の様式が新たに日本に伝えられ、「唐獅子(からじし)」と呼ばれる種類のもので、阿吽形ではなく、両方が獅子の姿をしている。
神使
獅子・狛犬と同様の役割を果たす神仏の守護獣として猪・龍・狐・狼・虎などもあり、これら動物は神使と呼ばれる。この神使は神社(祀られる神)によって特定の動物が採用されている場合が少なからずある。稲荷神に狐、春日神に鹿、弁財天には蛇、毘沙門天には虎などが代表的な物である。また、土地の伝承などに基づくものもある。例えば、岩手県の常堅寺では河童伝説に基づき狛犬の代わりに河童像が置かれている。京都府京丹後市の金刀比羅神社の境内社木島社には狛犬ならぬ狛猫像が置かれ、阿吽の配置も左右逆となっている。大阪府大阪市天王寺区の大江神社には狛虎があり、阪神タイガースの優勝を祈願する張り紙や木札や阪神ファンからメガホン、虎の小さい置物やぬいぐるみなどが供えられている。 
 
狛犬2

 

狛犬
神社に奉納、設置された空想上の守護獣像です。本来は「獅子・狛犬」といい、向かって右側が口を開いた角なしの「阿像」で獅子、左側が口を閉じた角ありの「吽像」で狛犬です。阿吽の形になっているのは日本特有の形式で、中国の獅子像などは、多くは阿吽になっていません。獅子・狛犬はもともと別の生き物?ですが、現在ではこの形式を残したもののほうが少なく、形としては阿吽共に獅子に近いでしょう。呼び方も単に「狛犬」に定着しています。
狛犬の起源
古くは古代オリエントにまで遡ります。国王が強大な力を得るために、地上最強の動物(と思われていた)獅子(ライオン)の力を王に宿らせるという思想があり、玉座(王の椅子)の肘掛けに獅子頭を刻んだりするようになりました。狛犬博物館(下呂温泉内)の上杉千郷館長は、これを「獅子座の思想」と呼んでいます。ライオンが守護獣として尊重される風習は世界各国でよく見られるものです。ヨーロッパの家紋にはライオンを象ったものが多いですし、インドでは、仏像の台座にライオンを刻み、「獅子座」と呼んでいます。
日本に狛犬が入ってきた
いろいろな説がありますが、現在有力視されているのは大体以下のようなものです。
インド・ガンダーラを経由して、獅子座思想は中国に入ります。中国人は、龍や麒麟など、様々な霊獣を生み出すのが得意で、獅子も羽をつけたり角を生やしたりしてどんどん空想上の生き物に変質しました。いわゆる「唐獅子」と呼ばれる派手な獅子像は、中国文化が生み出した独特のものです。中国でも、皇帝の守護獣として獅子像が定着しましたが、それを見た遣唐使が、日本に帰ってきてから、宮中に獅子座思想を持ち込みました。
しかし、日本に持ち込まれた直後に、一対の獅子像は日本独特の「獅子・狛犬」という形式に変わります。向かって右側が獅子、左側が狛犬。獅子は黄色で口を開け角はなし。狛犬は白色で口を閉じ、角がある……というものです。この「阿吽」形式は、恐らく寺の山門を守る仁王像の阿吽などを取り入れたものと思われます。仁王も狛犬も、神(君主)を守護するという役割は同じだということからでしょう。これが日本独特の「狛犬」の始まりで、時期は平安時代後期と言われています。
つまり、日本の狛犬は、天皇の玉座を守る守護獣像として誕生しました。これを「神殿狛犬」あるいは「陣内狛犬」と呼んでいます。
中国獅子と狛犬
中国の獅子像は一対あってもほとんどは相似形で同じものが並んでいます。それに対して、日本で生まれた「獅子・狛犬」は、獅子という動物と狛犬という動物(どちらも想像上の動物)、2つの異なるものが組み合わさっているという点で中国獅子とはまず違っています。
特に、頭に角のある狛犬は、日本の「発明」ではないかと言われています。これには、「左近の桜 右近の橘」のように、アシンメトリー(左右非対称)配列を好む日本文化特有の気風が関係していたと思われます。獅子を左右に置くのではなく、片方には別のものを配したい、という欲求が日本人の美感覚にはあるのでしょう。そこで、獅子と釣り合う想像上の生き物として「狛犬」が誕生しました。
しかし、時代を経るに従ってだんだんと獅子と狛犬の区別が曖昧になり、呼び方も単に「狛犬」になりました。現代ではむしろ獅子・獅子という構図の「狛犬」が主流ですから、ここにきて、「狛犬と唐獅子は同じじゃないか」という疑問も当然出てくるわけです。
もともと「狛犬」は獅子ではない別の動物として発明されたのですが、時代を経るに従って形の上では獅子のほうが主流となり、呼び方は「狛犬」が定着したわけです。ですから、現在、中国獅子と日本の狛犬は似てしまっていますが、「狛犬という文化」が定着し、独自に発展したという意味においては、「狛犬は日本独自の文化である」としておきたいところです。
狛犬のルーツは朝鮮半島
いいえ。高麗の文字をあてることからそうした説が根強くあるようですが、「高麗」と「こま」犬とは関係がありません。狛犬の「狛」という字については諸説あります。
1)「狛」は本来、中華思想(中国が世界の中心だとする思想)では「周辺の野蛮な地」を指していた。従って、狛犬は「中国の外(野蛮な異国の地)に棲む正体不明の怪しい犬」という意味で、想像上の霊獣。
2)「狛」は今では中国でも使われなくなった言葉だが、本来「神獣」の意味。犬に似ていて頭部に角があり、猛々しい姿をしている。
いずれにしても、中国のものであり、朝鮮とは関係ありません。日本では「こま」という音から「高麗」を連想し、「こま犬」=「高麗犬」=「朝鮮の犬」といった誤解が広まったようです。高麗は中国では「カオリー」と発音するので「こま」とは何の関係もありません。
また「こま」の「犬」ではなく、あくまでも「こまいぬ」という空想の動物なのです。「犬」ではありません。
その意味では、獅子(ライオン)も、昔の日本人は実物を見たことがありませんから、同じように空想上の動物だったのです。
このへんの誤解は広辞苑、大辞林などの辞書にもそのまま掲載されてしまっているようで、早めに訂正を徹底させたほうがいいと思われます。
もうひとつの説は、朝鮮にある「ヘテ(ヘチ)」が狛犬のルーツではないかというものです。ヘテは真贋を見極める能力がある霊獣で、魔除け、守護獣として愛されています。野球の「ヘテ・タイガーズ」の親会社である韓国の財閥グループの名前でもあります。ソウル特別市はヘチをシンボルにしています(右の図)。
しかし、このヘテのルーツは中国の「カイチ」という霊獣ですので、もし、日本の獅子・狛犬のうち、狛犬のほうがヘテを真似たものだったとしても、ヘテのルーツはカイチであり、中国が先ということになります。
沖縄のシーサーは「狛犬」
獅子像をルーツにしたものという意味では同じですが、沖縄のシーサーは阿吽になっていないものが多いようです。意味合いも、村を守る、家を守る、火事を避けるなど、より庶民的な信仰と結びついています。厳密に分類・定義したがるのは人間の習性で仕方がないのですが、狛犬の歴史を考えれば、狛犬という存在は非常に曖昧で自由なものなのですから、決めつけずに、現に存在する狛犬やシーサーをそのまま楽しむという姿勢が、疲れなくてよいと思っています。
狛犬が神社に置かれる
当初、狛犬は宮中のもので、次に天皇家とも縁のある有名な神社へと伝わりました。その後、さらに時代を経て、一般の神社に入ってくるようになります。きっかけは、神社に神像を置くようになったことだとも言われています。日本古来の神道では、必ずしも形のある神を祀るわけではなかったのですが、仏教の影響を受け、仏像に代わるものを欲しがるようになりました。そこで、神像が誕生するのですが、これは生き神としての天皇を模して作られることになりました。
神像が設置されたため、それを守る霊獣として狛犬も置くようになったのでしょう。すでに宮中では天皇の守護獣として獅子・狛犬が定着していましたから。
現在、私たちが慣れ親しんでいる狛犬は、江戸時代に入ってから急速に変化を見せ、多様な形に発展しました。また、呼び方も、単に「狛犬」となりました。
この時期には、そもそも「こまいぬ」を見たことがない石工が造る狛犬が増えたため、素朴な「犬」のような狛犬が全国各地で造られるようになりました。これは宮中の「獅子・狛犬」とは別に、新たに「こまいぬ」という言葉から発生した別起源の狛犬と呼ぶこともできます。そうした素朴な狛犬を狛犬ファンは「はじめタイプ」と呼んでいます。「はじめ」型狛犬は、やがて伝統的な狛犬の姿形・様式と融合していき、江戸を中心に、さらにバラエティに富んだ狛犬分化が開花していきます。現在、私たちが実に様々な形の狛犬を楽しめるのは、江戸時代の庶民パワーのおかげと言えます。
石造りの狛犬
日本最古の石造り狛犬は、東大寺南大門にある狛犬で、建久七年(1196)と言われています。鎌倉時代ですね。ただ、これは中国(宋)から呼んだ石工に宋の石を使って作らせたもので、形も阿吽になっていません。石造りの中国獅子であり、正確には「狛犬」ではありません。
石造りの国産狛犬で最古のものは、京都府宮津市の籠神社の狛犬(鎌倉時代説、安土桃山時代説などあり、年代は特定されていない)、山梨県旧三珠町の熊野神社の狛犬(応永12年2月の銘が腹部に刻まれている。1405年だから、600年以上前)あたりだと思われます。これより確実に古いという証拠がある石造り狛犬の情報がありましたらぜひお知らせください。
石造りの狛犬は、狛犬が神社の参道に置かれるようになった江戸時代以降に主流になりました。狛犬がバラエティに富んだものになっていくのもこれからです。
参道に置くようになると、庶民が奉納するという形になり、ここで狛犬は宮中から一般大衆の世界に降りてきたわけです。
石造りの狛犬に重文がほとんどないというのは、やはり年代が新しいからということがあるでしょう。
狛犬探しをしていて、偶然古い狛犬を見つけるのはわくわくしますが、かといって時代が新しいから大したことがないということはありません。デザインや技術の面では、むしろ大正から昭和初期くらいがいちばん円熟していたと思われます。芸術として狛犬を見たとき、逸品はこの時期のものに多いような気がします。
戦後になると、岡崎型の大量生産狛犬の時代になり、一気につまらなくなっていきます。現代では、新規に奉納される狛犬のほとんどは中国製です。
狛犬の雄雌
狛犬が大衆化してからは、様々な説が生まれました。最も多いのは、向かって右の獅子は雄、左側の狛犬は雌というもの。狛犬の中には、股間にくっきりと男根や女陰を刻んだものもあります。逆に、阿像は弱いから吠えているので雌だ、などという説もありますし、守護獣は戦う獣なのだから両方雄だ、などなど、諸説あります。こうした説は、理屈をつけたがる人間の業が生み出したもので、これが正しいと決めつけられるようなものではないと思っています。
狛犬の分類
形からの分類ができるのは主に江戸以降です。石造り狛犬の歴史が非常に浅いので、この分類方法もまだ確立されておらず、また、学術的にもなかなか認知されていません。狛犬が庶民の文化になってからは、実に多くの石工たちがいろいろな狛犬を彫りました。当然、誰も本物の獅子(ライオン)を見たことがありませんから、田舎に行くと、空想だけで彫ったと思われる狛犬がたくさんあります。狛犬を彫ってくれと注文されても、真似るものがなければ、どう彫っていいのか分からなかったでしょう。従って、地域ごと、時代ごとに、おのずと似た形の狛犬が作られるようになります。
狛犬分類 / 江戸と畿内(浪花)
円丈分類に出てくる類別呼称では、「江戸」と「京」(あるいは「なにわ」)にあたります。
円丈本には、江戸だけでも「江戸でぶっちょ」「江戸くちびる」「江戸たいら」「江戸尾立ち」「謎の江戸原」「江戸くずし」「江戸獅子山」「準江戸会津」「江戸犬」「江戸角」「江戸はじめ」「江戸招魂社系」「江戸唐草」「江戸ボタン」「江戸角尾立ち」……などなど、実に様々な分類?が出てくるのですが、そもそも「江戸」とはなんでしょうか?
また円丈分類に出てくる「京」(なにわ)タイプとはどういうものでしょうか?
関西の狛犬に関しては、小寺慶昭さんが非常に細かく調べていらっしゃいます。そこでは大阪狛犬の細かな分類や、大阪狛犬が京都に影響を与えたという流れが解説されています。
そこでまず、一般の人にも分かりやすいよう、乱暴であることを承知の上で、最初に「江戸」と「畿内(浪花)」という大分類を試みてみます。(なお、ここでいう「浪花」タイプは、大阪だけでなく、京都・奈良などを含む畿内エリア全般をさしています。私は「浪花」という分類名称より「畿内」のほうがいいのではないかと思っています。)
頭部・顔の特徴
江戸:
前髪&眉:カールしてほぼ中央分けのヘアスタイル。
目:やや小さめで、楕円形。目玉の瞳は描かない場合が多い。
耳:伏せ耳が基本。
鼻:それほど大きさを強調しない。
髭:顎髭があり、前髪に合わせてカールしている。
唇:極端な二重にはならない。
歯:あまり彫り込まないが、ある場合は犬型(犬歯状)が多い。左右二本の犬歯のみ彫り込むこともある。
全体の形:やや平べったいが彫りは浅くない。犬などの獣の頭部に近い印象。吽型にも角のあるものはそれほど多くない。  
畿内:
前髪&眉:前髪はほとんどなく、代わりに太い眉がある。
目:おおきなぎょろ目。ほぼ正円形。目玉の瞳を描く場合が多い。
耳:折れ耳、または横耳が基本。
鼻:大きく胡座をかいた獅子鼻や団子鼻。
髭:顎の真下にはなく、顎の両脇に瘤状に描かれる。
唇:二重に縁取りする。
歯:特に阿型は多くが歯をむき出しにしており、形状は人間型(入れ歯型・獅子頭型)が多い。
全体の形:縦長で彫りが浅い。人面、鬼面に近い印象。また、本来の「獅子・狛犬」の形式を踏襲しているため、吽型の狛犬の頭部には角がある場合が多い。
身体全体の特徴
江戸
たてがみ・体毛:長毛で流麗に流れる。
尾:江戸後期からは下がって身体に巻くように密着。初期のものは尾が立っている。
背中:猫背で、丸みのラインの美しさを強調。
子獅子:阿吽合わせて、たいてい1〜3頭付属している。
姿勢:前脚を上げていたり、立ち上がっていたりするものもある。構図的に自由度が大きい。
畿内
たてがみ・体毛:らほつのように瘤状に短く巻いているものが多い。
尾:団扇型が基本で直立、背中側に密着している。
背中:ほぼ真っ直ぐ背筋を伸ばしている
子獅子:いても1頭どまりであることが多い。
姿勢:お座り(蹲踞)が基本で、あまり自由度はない。
歴史の考察
なぜ近畿地方には破天荒な狛犬が少ないのでしょうか? 江戸時代のものも昭和のものも、みな似たような印象を与えます。近畿地方の人に「狛犬が趣味です」と言っても、「狛犬? みな同じやないの?」と切り替えされてしまいますが、それもある程度無理ないかもしれません。
これはどうも、石産業の成り立ちに関係しているようです。
江戸時代、大阪城下では、石工町が固定化し、石切場も比較的近くにあったそうです。こうした環境のもとで、石工たちは一か所に集まり、石細工製品をシステマティックに作っていきました。狛犬制作もそうしたギルド的な「制度」の中でパターン化してしまったようです。つまり、「狛犬とはこういうものである」という常識が確立され、代々、石工たちはその「常識」「パターン」を踏襲していったようです。
近畿の狛犬には江戸期のものがまだ数多く残っており、細部の違いをよく見ていくと多くのバリエーションがあるのですが、パッと見た印象はそれほど違わないのです。近畿の石工たち、あるいは奉納者たちが破綻・異端を嫌ったのかもしれません。
片や江戸では、石工の組織は火消しの組織のようにいくつかの組にわかれて腕を競い合い、石切場も江戸城下からは遠く離れていたので、石問屋と石工の集団も分かれていたそうです。また、風土としても、伝統と形式を重視する畿内に対して、新しいもの、より流麗なもの、豪華なもの、芸術的なものを作り出そうという「江戸っ子」の気風に支えられた華やかな文化がありました。
江戸唐獅子の流れるような線はこうして生まれ、時代を追うごとに洗練されていったのでしょう。
こうして考えていくと、「江戸」タイプの呼称は、あくまでも地域としての「江戸」、関西地方の固定化した狛犬文化に対しての、江戸っ子風俗的な流麗で華やかな狛犬文化という意味が強いということになります(もちろん江戸時代を中心に発達したという意味では時代をさしていると言っても間違いではないでしょうが)。 
 
狛犬3

 

私たちが神社の境内などでよく見かける狛犬は、だいたい石でできています。ところが古い時代の狛犬は、ほとんどが木でつくられています。それはなぜでしょう。平安(へいあん)・鎌倉(かまくら)という古い時代、神社やお寺で狛犬の置かれた場所といえば、門やお堂の中、つまり屋内でした。建物やそこにまつられる神像・仏像が日本ではほとんど木造なので、そこに置かれる狛犬も当然木でつくられたわけです。狛犬が屋外に置かれ、それにともなって、雨風にさらされても良いよう石造となるのは、もっとあとのことです。
さて、怖ろしげな顔をし、たてがみもあるこの動物を「狛犬」と言うのは少し変だと思いませんか。私たちの知っている愛らしい犬とは、よほど違っていて、むしろ猛獣と言う方がふさわしいようです。昔の人もこれには悩んだようで、狛(こま)(現在の朝鮮半島(ちょうせんはんとう))から来た犬だと考えたり、隼人(はやと)(むかしの九州南部(きゅうしゅうなんぶ)の人たち)が犬の声をまねて、天皇の警固したことにちなむと解釈したりしています。しかしその本当の起源は、仏像の前に2頭のライオン(獅子)を置いたことにあり、狛犬の形はそこから来ているのです。
仏教はインドにはじまり、シルクロードを通って中国に入り、やがて朝鮮半島を経て、日本にもたらされたことは、君たちもよく知っているでしょう。6世紀のことです。当時、仏教を伝えるということは、仏像を伝えるということでもあったのです。そして仏像とともに、その前に置かれた2頭のライオン(獅子)も日本に入って来ました。こうして仏像の前に2頭の獅子を置く習慣が始まったのです。
しかしこの段階では、置かれたのは「獅子」で、「狛犬」ではありませんでした。
上の写真の狛犬を、よく見てください。そう、左と右とでは形が少し違っていますね。一方は口を開け、もう一方は口を閉じています。そして口を閉じた方には頭に角(つの)があります(角のとれたものもあるので注意してください)。この違いが大切なのです。実は、口を開けているのが獅子で、閉じて角のあるのが狛犬なのです。
わたしたちはひと口に「狛犬」と言ってしまいますが、正しくは「獅子」と「狛犬」の組み合わせだったのです。もちろん「狛犬」という言い方でも間違いではありません。
この組み合わせが出来たのは、平安時代の初めです。奈良時代までは獅子2頭だったのですが、ここに新しいセットがつくり出されました。そしてそれが、前にも述べましたように、宮中(きゅうちゅう)、神社、お寺などに置かれました。私たちが今見る狛犬の起源はこんなに古いところにあるのです。
ところで、面白いことが一つあります。平安時代以後は、「獅子」と「狛犬」という組み合わせが定着したように見られがちですが、時々、「獅子」が2頭だけという古い形が顔を出すのです。なぜこのようなことが起こるのかは、今のところよくわかりません。 
 
白鬼女

 

越前の国 平泉寺の若い僧が京都見物を思い立ち、名所旧跡を巡っての帰り道、琵琶湖岸の海津の浦に泊まった。
同じ宿に女の旅人が泊まり合わせていて、僧が美しいのに惚れ込み、その寝部屋に忍んで行って、あれこれ誘惑した。
僧は、いけないことだと思いながら、結局その夜は女を抱いて寝た。
朝になって見れば、女は年齢六十歳くらいの巫女で、薄い髪をばさばさにした凄まじい姿であった。
「このうえは、どこまでも跡をお慕い申しましょうぞ」と、すっかりその気になっていて、次の日も同じ宿に付いてきて一緒に寝た。
そもそも女連れで寺に帰るわけにはいかない。そこで若い僧は、「しばらくここに逗留するつもりです」と女を騙して、翌明け方に宿を逃げ出した。
いったんは騙されたとはいえ、さすがに巫女である。行く先を占って跡を追い、やがて追いついて周辺を探すと、僧は大木の窪みに丸くなって隠れていた。
「さてもさても情けなや。もはやそなたとは離れられぬ身なのじゃ。命あるかぎり離れませぬぞ」
僧はがっくりして、「しかたありません。一緒にまいりましょう」と言ったが、やがて渡し場で舟に乗ると、川の途中で女を引き寄せ、そのまま深みに沈めてしまった。
平泉寺に帰り着いた若い僧は、あまりに疲れていたので、まず自分の部屋に入って昼寝した。
その部屋に僧の師匠が行ってみると、眠っている僧に体長三十mほどの白い大蛇が襲いかかって、今にも彼を呑まんとしていた。
ところが、部屋には僧の家に代々伝わるという吉光の脇差があって、その脇差が自ら鞘を抜け、空中に舞って大蛇を切り払う。大蛇はどうしても僧に近寄れない。
その様子を見て、師匠は急いで部屋を立ち去った。そして人々に僧を起こさせると、何食わぬ顔で都の物語などを尋ねた。
師匠は元々、かの吉光を手に入れたいと思っていたが、先ほど目の当たりに霊験を見て、いよいよ欲しくてたまらなくなっていたのである。
師匠も黄金作りの脇差を持っていたので、いろいろうまく言って吉光と交換させた。
これによって大蛇は、思いのままに若い僧の部屋に押し入り、彼を引き裂き喰らった。
この後、かの渡し場を「白鬼女」と呼ぶようになったということである。
『曾呂利物語』巻之二「越前の国白鬼女の由来の事」より  
白鬼女の渡し / 鯖江市
今から半世紀前の昭和37年(1962)3月、日野川の河川工事中に、白鬼女(しらきじょ)橋下流の川底、地下約3mのところから一体の石仏が発見されました。翌年、安置するためのお堂が、工事関係者と地元鯖江市舟津(ふなつ)地区の人たちによって橋のたもとに建てられ、以後、「白鬼女観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)」と呼ばれて大切にまつられてきました。つややかな赤銅(しゃくどう)色の石に浮き彫りにされたこの観音さまは、像高約120cm、光背(こうはい)を含む全体は約145cmと、やや大柄(おおがら)で、やさしく端整(たんせい)な顔だちをされています。その仏前には、「白鬼女観世音堂奉賛会」の方が、絶えず花や線香を供えられています。
お堂の前の道は、鯖江と旧武生(たけふ)の市街地中心部を結ぶ最短コースです。歴史をたどると、白鬼女橋のあたりは、古くから北陸道が日野川と交差する地点で、水陸交通の要衝(ようしょう)でした。
戦国大名朝倉氏の時代には、兵員を迅速(じんそく)に移動させるため、川幅いっぱいに舟を並べた舟橋(ふなばし)が設けられていました。江戸時代には、幕府の命令で橋が架けられず、現在の白鬼女橋から百数十m上流に舟渡(ふなわた)し場がありました。当時の絵図には、東西両岸に1本ずつ柱を立て、川をまたいで綱を張り、渡し守(もり)が綱をたぐって舟を操る様子が描かれています。
鯖江市史によると、通常、舟を2艘(そう)用意し、東岸の渡し守小屋に昼夜、人が詰めて、通行人を渡したそうです。舟渡し賃は、武士とその奉公人は無料、一般の旅人からは天候や時刻、濁水(だくすい)時の水深などに応じて、あらかじめ定めた料金を徴収しました。
白鬼女の渡しは、明治6年(1873)に全長約70mの橋(私営の賃取り橋)が架けられるまで存続しました。その後、洪水による流出や河川改修等に伴い、場所を移して何度か架け替えられており、現在の白鬼女橋(全長約178m、幅13m)は平成20年に竣工したものです。
また、江戸時代から明治にかけて、白鬼女は、九頭竜川河口の三国湊(みなと)まで約48kmの川筋を川舟(かわぶね)が往来した日野川水運の起点(荷を揚げ降ろしする舟着き場)でした。水量豊富な日野川は、年貢米(ねんぐまい)をはじめとする荷物や旅客の輸送に利用され、北陸道と交わるこの地には、水陸運送の中継を行う上(かみ)鯖江宿(じゅく)が置かれました。
福井藩は江戸後期に、川舟輸送の拠点として、白鬼女のほか、足羽(あすわ)川の九十九(つくも)橋下、竹田川の金津(かなづ)の3カ所を「三河戸(こうど)」と定めています。しかし、活況を呈した日野川の川舟輸送も、明治29年(1896)の北陸本線・敦賀−福井間の開通により、急速に衰退しました。
こうした歴史のある日野川の川底から掘り出された白鬼女観音について、お堂の脇に設置されている説明板には、「建立(こんりゅう)時期等については不明だが、『渡河(とか)往来の守り像』として、かつての渡し場にあり、17世紀末の大洪水により流出していた」と記されています。
川底での永い眠りから覚めた観音さまは、お参りする人や道行く人たちを見守り、両手を胸元で合わせて人々の安全を祈っています。  
 
綱の鬼退治

 

きんたろうの同僚で四天王の一人、渡辺綱は実在の人物で、945〜1025の平安中期の武士で、嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏宛の子です。源満仲の婿敦の養子となり、養母の居所、摂津の国渡辺にちなんで、渡辺姓を名のり、源頼光の郎党となり、渡辺党の祖となった人物です。渡辺党は、難波の渡辺の地を中心に、渡場、橋詰などで渡渉の力役に従事し、水霊鎮斎、水難防止の呪術に携わっていたと考えられています。綱という名前も、綱渡し、籠渡しに使われる渡渉具としての綱を意味するものとも考えられています。
綱の鬼退治の話は、屋代本「平家物語」剣巻にあります。頼光が用事を思い出し、渡辺綱を一条大宮に派遣します。深夜の事で名剣「髭切」を渡し、馬で向かわせます。そしてその帰り、一条堀川にかかる戻橋の橋の東のつめで若い女房が一人南へ向かうのを綱は見ます。女房は綱を見て「五条わたりのものです、送ってください。」と頼みます。綱は女を馬に乗せ南へ送ろうと馬をはしらせますが、女は今度は都の外に送って欲しいといいます。綱は「どこへでも、行きたいところへ送りますよ。」と答えます。
その時女はさっと形相を変え、恐ろしい鬼となり、「わが行くところは愛宕山ぞ」というと、綱の髻(もとどり)をつかんで、西北天へ飛びました。綱は「髭切」の太刀を抜き、鬼の腕を切り落としますが、北野社の廻廊の屋根に墜落します。鬼は片腕を失いながら、愛宕の方向へ飛び去りました。綱は頼光のところへ戻り、残された鬼の腕を見せます。鬼の腕は漆黒の肌色で、白銀のような毛がびっしりと生えていました。頼光は安倍晴明にこの事を占わせると大凶。綱は七日間の慎み、鬼の腕を櫃に封じて仁王経が読誦される事となりました。
そして慎みの六日目、綱の伯母で養母にあたる者が上洛、綱は潔斎を破って対面します。伯母は来し方話のついでに、この厳重な物忌みを綱に聞きます。綱は、伯母にいきさつをはなし、鬼の片腕をつい、見せてしまいます。伯母は鬼を腕を眺めていましたが、突然鬼となって、「これは吾が手だ、持っていくぞ。」と言うと飛び上がり、破風を蹴破って外に出、光るものとなって虚空に消えました。以上が綱の一条戻橋の鬼の話です。同書の別の下りで、この鬼は物ねたみから貴船明神に祈って鬼女となった宇治の橋姫であったと伝えています。
この話は渡辺党の住まいが東屋で、破風を持たない由来譚とも考えられています。
またこの鬼は本来は水神で、カッパが馬を水に引き込もうとして、腕を切り落とされ、それを取り返しに来る話と同原であったものが、鬼女、鬼へと変化していったとも考えられています。 
金太郎1 / 山から降りてきた雷神
「きんたろう」石原和三郎作詞 田村虎蔵作曲
一 まさかりかついで、きんたろう、
  くまにまたがり、おうまのけいこ、
  はい、しぃ、どぅどぅ、はい、どぅどぅ、
  はい、しぃ、どぅどぅ、はい、どぅどぅ。
二 あしがらやまの、やまおくで、
  けだものあつめて、すもうのけいこ、
  はっけよいよい、のこった、
  はっけよいよい、のこった。
これは有名なきんたろうの歌で、明治三十三年六月発行の「幼年唱歌(初の上)」に掲載されました。きんたろうのお話はこの歌のように、足柄山で山姥の母と動物と共に暮らしていたところを、源頼綱に見いだされて家来となり、都にのぼる途中、鈴鹿峠の鬼を一人で退治し、頼綱に褒美をもらって立派な武士となり、生まれ故郷の足柄山の母と動物達も喜ぶ、というお話です。
きんたろうは、源頼光の郎党で四天王の一人、坂田金時(公時)とされています。源頼光と四天王の三人、渡辺綱、平貞道、平季武は実在の人物ですが、坂田金時は伝説化されて、その本人、モデルとなった人物は特定出来ません。信頼性の高いものとして、「今昔物語集」巻二十八第二話に、坂田金時は平貞道、平季武とともに、加茂のお祭りに牛車に乗って出かけたが、初めて乗った牛車にすっかり酔いつぶれた、という話があり、また、「故事談」巻六には、藤原道長と競馬(くらべうま)をした、という話がのっているそうです。他には大江山の酒呑童子退治、渡辺綱の一条戻橋の鬼の手を切り落とす話に四天王の一人として登場しています。総合すると、年老いた母と足柄山中で生活しているところを、二十一歳の時、頼光に見いだされ、坂田金時と名付けられ、頼光に仕え、三十六歳の時、酒呑童子退治に参加、妻子をもたず、頼光の死後、足柄山中で消息不明になった、というのが史実に近いようです。
「前太平記」によれば、足柄山の上空に赤い雲がたなびき、それを見た源頼光が、「あれは傑出した人物が隠れ棲んでいるあかし」とし、郎党の渡辺綱に足柄山の探索を命じ、金太郎を発見し、母に当たる山姥が頼光に出仕させた、となっています。ここでのきんたろうはすでに伝説化されていて、きんたろうの出生は、山で寝ていた母の山姥の夢に赤竜が現れ、目が覚めると、あたりに雷鳴がとどろききんたろうを身ごもっていた、とされています。
山姥は山の神に仕える女性、赤竜は雷神と考えられます。そのため、きんたろうは雷神の子で、神霊の象徴の赤い肌で、怪力を持ち、雷神の武器、まさかりを持ち、山中誕生の象徴として熊に乗る、というイメージを持っています。
きんたろうの伝説は足柄山にあった雷神の信仰が、史実の坂田金時と結びつけられ、「まさかりを担いで熊にまたがったきんたろう」というイメージを生みだしたものではないかと考えられています。
金太郎2
童謡「金太郎」では、動物たちとほほえましい(?)交遊の姿が表現されています。でも、他の童謡では、「桃太郎」にしろ「うさぎとかめ」にしろストーリーがあるのに、「金太郎」にはそれがありませんね。よくよく考えてみると、童話「金太郎」のストーリーが頭に浮かんできません。「金太郎」って、どういう話だったのでしょうか。今回は、「金太郎」からそれにまつわる話へと展開していきます。
「金太郎」のお話のあらすじは次のようなものです。
むかしむかし、坂田義家という大変勢力が強いお侍がいました。ところが一族の所領争いから義家は殺され、身の危険を感じた妻は生まれたばかりの子、金太郎を連れて足柄山の山奥へ逃れました。こうして、金太郎は山奥で熊やうさぎを遊び相手に育ちました。ある日、動物たちと共に谷川にさしかかると、橋が流されていました。金太郎は、木を力まかせに押し倒し丸木橋にして渡ろうとしたところ、一緒に渡った狸が橋から足をすべらせ川に落ちました。金太郎は、ためらうことなく川に飛び込み狸を助けました。この様子を、通りかかった源頼光という都で一番と言われる大将が見ていたのです。「こんな山奥で、このような気がやさしくて力持ちの若者に出会えるとはどうしたことか。」頼光は、金太郎に自分の家来になるよう勧めました。母も大変よろこび、金太郎は頼光の家来となりました。名を坂田金時(さかたのきんとき)と改め、都に上がった金時は、毎日一生懸命文武に励み、頼光の家来の中の四天王の一人として大江山の鬼を退治するなど、その名を天下にとどろかせる立派な大将となったのでした。
この金太郎のお話の原型とも言えるのは、近松門左衛門作の人形浄瑠璃「嫗山姥(こもちやまうば)」です。「坂田の子を宿した遊女八重桐は、山中に隠れ住み山姥と化す。やがて産まれた男子は怪童丸と名づけられ、怪力無双の少年として成長し、頼光に出会う…」このようなストーリー展開となってきます。
また、頼光の四天王とよばれる家来としての活躍は、「今昔物語」「源平盛衰記」「平家物語」「御伽草子」に収められています。
江戸元禄に歌舞伎の初代市川団十郎が演じた「四天王稚立(おさなだち)」や、江戸浄瑠璃の「金平浄瑠璃」≪坂田金時の息子金平(かねひら)を主人公とした武勇伝。ちなみに、金平ごぼうは、食べると元気が出る材料を使っているところから、坂田金平のように強くなりますようにという意味で名づけられたとか…≫にも、登場します。
この様に、物語に色々登場しますが、金時は,実在の人物と考えられています。藤原道長の「御堂関白日記」の寛仁元年(1017年)8月24日の項に、「この時の金時は、「相撲使」という相撲取りのスカウト役であったが、18歳で亡くなった。道長の近衛兵の中で第一の人物であるので、憐れむ者が多い」という記録が残されています。
金太郎のストーリーに出てくる大江山の鬼を退治する話は、「御伽草子」に出てくる「酒呑童子」という有名な話です。
ここからは、「酒呑童子」の話へと移っていきましょう。
大江山に住む「酒呑童子」という鬼が、都に出ては姫君達をさらう等の悪行を重ねていました。帝は、鬼退治の勅命を源頼光と藤原保昌に下し、頼光は配下の四天王と呼ばれる渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武を引き連れ大江山へと向いました。途中、一行は石清水八幡・住吉明神・熊野権現の化身である三人の老翁に出会います。老人たちは頼光らに、隠れ蓑と神酒を授けました。隠れ蓑は着ると姿が見えなくなり、神酒は、善人が飲めば良薬だが鬼が飲むと神通力を失うというものです。そして、老翁たちは、山伏の姿に変装するとよいと助言したのでした。
さらに奥に進むと、元、都の貴族の妻という老婆と出会い、鬼の城への道筋や城の中の様子を知ったのでした。頼光らは、鬼の城で一夜の宿を頼み、そのお礼にと酒を差し出し、酒盛りが始まりました。鬼も寝静まったころ、頼光らは隠れ蓑をつけて酒呑童子に近寄り、首をはねました。酒呑童子は「おのれ、図ったか。鬼に横道なきものを(鬼は決して人をだましたりしないものを)」と叫び絶命したのでした。
この「酒呑童子」の話の中で、酒呑童子は自分の身の上話を語っています。
『自分は最初比叡山に住んでいたが、伝教大師(最澄)が延暦寺を建てて結界を張ってしまったので居れなくなり、大江山に住むようになったのだ。』と。
また、「御伽草子」や越後の古文書などによると、童子は、越後の生まれなのだそうです。
「越後国のある城主が、子供に恵まれず、信濃の戸隠山に祈願したところ、願いがかなって子供を授かった。子供は3年間胎内にあってから生まれ、幼名を外道丸と名づけられたが、手のつけられない乱暴者で、困り果てた両親は寺へ稚児として出した。しかし、外道丸は、ずば抜けた美貌であったため多くの美女に愛されたが、その外道丸を愛した女が次々と死ぬといううわさがたった。外道丸はそれまでもらった恋文を焼き捨てようと箪笥(たんす)を開けると、煙が立ちこめ、気がつくと鬼の姿に変わってしまったのだ…。」
戸隠山は鬼伝承で有名であり、また、九頭竜神を守護神とする信仰がさかんで、戸隠山の申し子として生まれた酒呑童子も、いわゆる山神や鬼、竜神に代表される土着の神なのです。仏教や陰陽道を信奉する都の人々にとっては、土着民族、土着の信仰は邪教であり、征服の対象であったといえます。
酒呑童子が殺される時に叫んだ「鬼に横道はない」という叫びは、「正義」の名の下に征服を続ける当時の権力に向けた「どちらが本当の正義なのか!」という怒りの叫びだったのでしょう。
現代にも繋がるような話しですよね。
ちょっとかわった酒呑童子にまつわるお話をひとつ。
「続 福井の意外史」(読売新聞福井支局編)では、この源頼光が酒呑童子を退治する「大江山の鬼退治」の舞台は、実は越前だった。越前で起こった事件が「酒呑童子」の物語のヒントになったというのです。
源頼光(948−1021)は、源氏の三代目の頭領であり、朝廷の高官に貢物を贈るなどをして立身出世したともいわれ、武家中心の鎌倉時代になって源氏の家系を美化するため、各地に伝わる盗賊退治を誇張して武勇伝にしたてたのが「酒呑童子」の真相ではないかというのです。
「正史国司考」によると、この頃、頼光の父、源満仲が越前国司(福井県武生市)兼鎮守府将軍として一族を引きつれて入国していました。福井県武生市大虫町の鬼ヶ岳(当時、丹生ヶ岳と呼ばれていたが、この事件により鬼ヶ岳と呼ばれるようになったとか。533m)には、鬼が住んでいて、村の若い娘が鬼にさらわれていくので、国司である満仲は、6人の子供たち「頼光」「頼親」「頼信」「頼範」「頼平」「美女丸」に討伐を命じたといいます。頼光らは鬼たちを捕まえて、日野川の現在の鯖江市にある白鬼女橋付近の川原で、首をはね処刑をしました。(そこからこの場所を白鬼女の津と呼ばれるようになりました。)
大江山の鬼退治とは共通点があり、どちらも鬼の岩屋と呼ぶ洞穴があること、討ち手が6人、若い娘をさらうことなど似たところが多くあります。
源頼光のあと、弟の頼親(二弟)と頼信(三弟)の二人が、跡目相続争いをし、頼親は負けて杣山城(福井県南条町)にたてこもり、頼信が四代目頭領になりましたが、鯖江、武生にはこの一族たちの伝説が多く残っているのです。
頼光の「鬼ヶ岳の鬼退治」の話が、大江山の酒呑童子の物語となったのでしょうか。真実は分かりません…。 
 
「鬼」の伝承・民話

 

大工と鬼六 
このお話、有名なわりに採取例はわずか七話、地域では六つしかありません。岩手県胆沢郡、山形県最上郡、上山市の三話、最近になって岩手県紫波町の出身者から一つ、福島県信夫郡水俣町出身者から二つ、岡山県阿哲郡からの採取報告があり、計七話となったそうです。すご〜く珍しいお話なんですよ。
「大工と鬼六」
岩手の丹沢と言う所に流れの早い川が流れていました。山からどっと水が流れ込み、少しの雨でも強い流れとなりました。その流れは、橋を押し流し押し流し、何度橋をかけなおしても流してしまいました。橋が無ければ市にも行けぬ。村の者も町の者も橋が流されるたびに、ずっと川の下に下って、浅瀬を歩いて渡りました。
渡って一日、帰るに一日、それは二日がかりの仕事でした。弱った村の者は相談して、大工に頼んで流されない橋をつくってもらう事にしました。話を聞いた大工の鴈治郎は村人の頼みを喜んで承知しました。
しかし承知したものの、不安になりました。橋を流す川とはどんな流れなのか?鴈治郎は雨が降りはじめると橋の架かっていた淵に、川へ流れを見に行きました。河の流れは初めは穏やかでしたが、あっという間に渦を巻きはじめると、ドウドウと音をたてて岸の岩にぶつかり、あちこちに身を当てながら川を押し下って行きました。
「こんな流れでは橋げたなぞ、いっぺんに流されてしまう。」 鴈治郎は雨の中ポツリとつぶやきました。<
次の日から鴈治郎はどうにかして水に流されない橋を建てられないかと、毎日壊れた橋のある淵に行き川の流れを見ては考え込んでいました。すると川の淵のそこから泡がブクブクわき上がると中から大きな鬼が出てきました。鬼は鴈治郎を見下ろすと、「何を困っておる?」と聞いてきました。鴈治郎は鬼をにらみ返し、「ここに橋を架けねばならん。」と答えました。「ブワッハッハッハッ!」 鬼は大きな声で笑うと、「わしが架けてやろう、ただしお前の目ん玉をもらうぞ。」と言って、また川の淵へと沈んでいきました。
鴈治郎は「鬼のヤツ、勝手な事を言いおって。」と、気に入らない様子で帰っていきました、次の日、鴈治郎がでかけてみると淵の側には大勢の人が集まっていました。なんと、そこには半分橋が架かっていたのです。その橋は橋げたが無く、木をたくみに組んだ虹のような橋でした。
村人は鴈治郎を見ると、「さすがに腕のいい大工じゃ、こんな不思議な橋は見た事が無い。」と口々にほめました。鴈治郎は自分ではないとも言えず弱ってしまいました。
村の人が帰り、鴈治郎が一人になると、淵の底から泡がブクブクわき上がり、昨日と同じように大きな鬼が現れ、鴈治郎を見下ろしました。そして「目ん玉はもらうぞ。」 と言うとニッと笑って淵の底に消えました。鴈治郎は驚きました。鬼は本気で自分の目玉を奪うかも知れない。鴈治郎は恐ろしくなり、鬼がどうするつもりなのか見てみようと、その夜、淵へこっそり出かけてみました。するとあの大きな鬼が、半分架かった橋のそばにたっていました。鬼はどこからか引き抜いて来た木に爪を当てると、カンナのようにシャーッと削りました。そして出来た材木をノコのような歯で切り、自分の髭を一本抜くとノミのように使い、木にほぞを作りました。それは大工の鴈治郎の目から見ても出来の良い仕上がりでした。
鬼はふと手を止めると、隠れている鴈治郎の方を見ました。「お前の目玉はもらうぞ。ただの、俺の名前がわかったら勘弁してやろう。」 鬼はそう言うと楽しそうにまた橋をつくりはじめました。鴈治郎は家に飛んで帰ると、わずかな荷物をまとめ山奥に逃げました。
山を三つ越えると日が昇って来ました。鴈治郎は後を鬼が追って来ないかと振り返り振り返り山道を走りました。ちょうど、山道を駆け降りた時です。葦原の中で声が聞こえました。
鴈治郎は慌てて身を隠し、耳を澄ませて、その声の主を探しました。それは小さな女の子の声でした。女の子は鞠を突きながら唄を歌っていました。
はぁやく鬼六 まなく玉。もってぇこぅばぁ えぇいなぁ。
鴈治郎はその女の子の顔を良く見ると頭の上に一本、小さな角がありました。はたと鬼の言う事が鴈治郎の胸に落ちました。鴈治郎はそっとそこを離れるとあの淵へと向かいました。
淵には橋が架かっていました。その橋は見事な出来栄えで、川の両岸を結んでいました。鴈治郎が橋のたもとにつくと、淵のそこから泡がブクブクわき立ち、大きな鬼が現れました。「わしの名前がわかったか?わからぬならお前の目玉をもらうぞ。」 鬼は鴈治郎を見下ろして笑いました。
「なんの、お前の名前なぞ。」と、鴈治郎は鬼を見上げて笑いました。「ならば見事答えてみよ。」 鬼は合わせるように言いました。「橋を架けたは何処の誰。」 鴈治郎は唄うように言うと、鬼も答えました。「みごとみごとに答えて見よ。」 鴈治郎は一息おくと答えました。「答えられねば、まなく玉。子供にもって帰られる。」 鬼はうっ!とうめくように身を引きました。
「橋を架けたは、鬼六!」 鴈治郎が大声で叫ぶと、大きな鬼は真っ黒なかたまりのようになって、淵の底へ消えていきました。鬼が消えると鴈治郎はそこに座り込みました。しばらくすると村の人が集まりでき上がった橋を見て大喜びしました。鴈治郎はその橋を見て、「鬼のヤツ、良い仕事をする。」とポツリとつぶやきました。

このお話の特徴は、鬼が水の中から出現するという水神の性格を持つ点、化け物と問答をする、「化け物問答」の形式を取っていて、名前を言い当てると化け物を退治する事が出来る、という言霊の信仰・概念を持っている点、子供の歌う唄に謎をとく鍵がある、という点です。 
鬼の片足 
こぶとり爺さんのもとのお話は、鬼にコブを取られた、という話がもとになったとされていますが、鬼からの授かり物、という反対の話もあります。鬼のする事ですから、さて、どんな授かり物でしょうか?
「鬼の片足」
むかし、鋳掛け屋の職人がありました。その職人は片足で、どこに行くにも倍の時がかかりました。ある時、仕事が遅くなってしまい、帰る途中で日がくれて、夜中となってしまいました。仕方ない、どこかで休む事とするか。職人は野宿しようと、辺りを見回すと、ちょうど近くにお寺があり、宿を貸してもらおうと入って行きました。そこは土間と板間の小さな庵で、線香の匂いが立ちこめていました。「こんばんは、申し訳ねけねぇが、一晩宿を貸してくだせぇ。」しかし、誰も答えません。職人は板間に上がると、隅の方へ横になりました。
目をつむってしばらくすると、なにか異様な気配とともに、大きな男がお堂の中に入ってきました。その男は、あたりをじっと見回したあと、板間にどっかとすわりました。職人はおそるおそるその顔を見ました。すると、その男の頭には角が二本。男は赤い顔の鬼だったのです。職人は凍ったようになり、鬼から目を話す事も出来ませんでした。どれくらい時間がたったのか、目をつむった赤鬼は、そのまま眠ったようでした。職人は赤鬼に気がつかれないように、そっと庵の天井へ登り、隠れました。
職人は、ほっとしましたが、突然外から物音が聞こえてきました。ずるっずるっ、ずるずるっ、と、何かを引きずる音がちかずいて来たのです。赤鬼が目を開けました。職人は梁の上から、入り口を見ました。すると、青い鬼が、白いかたびらを着た死人を引きずりながら入って来たのでした。赤鬼は青鬼に突っかかりました。「おい、それは俺のものじゃ、置いて行け。」「何を言う?これはわしのものじゃ。」「わしは、その死人が運ばれてくるのを待っておったのじゃ。」「わしは、この死人を迎えにいっておったのじゃ。」二匹の鬼は言い合い、怒鳴りあいました。職人は恐ろしくて仕方ありませんでした。鬼の声は腹の底から響き、庵をゆるがしました。職人は梁にしがみつき、目をつむりました。赤鬼がいいました。「そんなに言うなら、これが誰のものか上におるものに聞いてみよう。」職人はハッと息を呑みました。自分がここにいる事は知らないものと思っていたのです。「そこにおるお前、聞きたい事がある、降りてこい。」鬼が二匹、自分をにらんでいました。職人は恐ろしくて、思わず梁から落ちそうになり、やっと板間に降りました。「お前、さっきから、天井で見ていたろう?」「この死人がどちらのものか、お前はどう思う?」二人の鬼は、顔を突き出し職人に聞きました。
職人はへたな事を言ったら殺される、どうしたらええのじゃろうと困り果てました。鬼が、じっと見つけていました。体には冷たい汗がたらたらと流れました。「・・・あっ、赤鬼さんは死体を待っておったし、青鬼さんは死体を連れてこられた。どちらも自分のものとも言えるんじゃなかろうか?」鬼はどちらも顔を見あわせました。「どっちのものでもあると言うのじゃの?じゃが、死人は一人しかおらん、どうしたらええ?」職人は困りました。どちらか一方のものと言えば、自分がもう一匹の鬼に連れていかれるかもしれません。それでも、いい考えは浮かびませんでした。仲間がケンカした時、いつも言っていたように、言うしかありませんでした。「こ、こんな時は、仲よう二人で一つの仕事をしたらええ。」鬼はハタと目をぱちくりしました。「考えてみんかったの。」「ああ、考えてみんかった。」「お前、なかなか良い事を言う男じゃ。」「そうじゃのう。」二匹の鬼は大きな声で笑いました。「見れば足が一本しかない、礼にこれをつけてやろう。」そう言うと青鬼は、死体から一本足を引きはがすと、職人にくっつけました。そして二匹の鬼達は闇夜に消えて行ったのです。
しばらくして正気になった職人は、自分の足を見てみました。不思議に血が通って、ヒザもかかとも、指も動きました。立ってみると、足のあった頃のように自由に動く事が出来ました。しかし、何かが変です。「ひぃぃ!」職人は腰を抜かしてしまいました。それは女の足だったのです。職人は女の足を向こうへ捨てようとしましたが、くっついた足はもう取る事は出来ませんでした。そして、日がのぼるとすぐ、その庵から転びながら逃げ出したと言うことです。

鬼と出会った時、コブを取ってもらうのはいいのですが、コブをつけてもらったり、片足をつけてもらったりするのは、ん〜、やっぱ考え直した方が言いかもしれません。 
こぶとり爺さん 1 
日本での最古のものは「宇治拾遺物語」第三話ですが、これは当時、鬼にコブをとられた、と言う話が世間に流布していて、それが記録されたもの、と考えられています。
「こぶとり爺さん」
昔、ある所に顔にこぶしほどのコブがある爺が二人いました。一人の爺が、コブがじゃまでみっともないからと、山奥のお宮へ参って、「どうか神様、おらの顔のこぶを取ってくだせぇ。」と、願をかけて、夜籠もりしました。
爺がうとうとしていると遠くの方から音が聞こえて来ました。笛や太鼓や囃子の音が、どんどんお宮の方へ近づいて来ます。「こんな夜中に誰じゃ?」爺が格子から外を見ると、大男が五、六人、鳥居をくぐり抜けて階段をのぼりながら、やって来ていたのです。
これは大変じゃ、と爺はお堂の梁に登り、じっと息をひそめ隠れました。すると、身の丈六尺、七尺あるような、角が一つの、角が二つのと、赤鬼、青鬼がぞろぞろ入って来ました。
とれれ、と〜れれ、と〜ひゃら、とひゃら、すっとん、すととん、すっとっとん。
鬼達は笛や太鼓を打ち鳴らし、酒を飲み、ご馳走を食べ宴会をはじめました。最初はにぎやかにしていましたが、どうも何かたりません。
「誰か、踊りを踊らんか?」「俺は踊りは苦手での。」「誰か、踊りを踊らんか?」「俺も踊りが苦手での。」
興ざめしたのか鬼達は不機嫌になり暴れはじめました。 爺は梁の上で怖くてガタガタふるえました。
「ん?人間の匂いがするぞ。」
鬼達は梁の上の爺を見つけると、引きおろし、「爺、お前何か踊ってみろ。」と言いました。爺は怖くて怖くて、たまりませんでしたが、とれれ、と〜れれ、と〜ひゃら、とひゃら、すっとん、すととん、すっとっとん、と
笛や太鼓の囃子が聞こえると爺は体がうきうきして、調子にあわせて踊り出しました。爺の踊りは面白く、とれれ、と〜れれ、と〜ひゃら、とひゃら、すっとん、すととん、すっとっとん、と三度も繰り返し踊りました。
鬼達は喜んで、手をたたいてほめました。「せっかく、面白う踊ってくれたが、お前さんの頬のこぶは目障りじゃ、そのコブを取ってやろう。」鬼はそう言うと爺のコブを、ちょんと取ってくれました。爺は、顔が軽くなり、嬉しくて鬼達と一晩、踊りを踊ったり酒を酌み回して遊びました。
次の日、その話を聞いた隣の爺は、お宮に籠って夜を待ちました。すると話の通り、鬼達が五、六人、笛や太鼓を鳴らしながらやって来ました。隣の爺は梁の上に隠れていましたが、鬼達がやって来て、笛や太鼓を打ち鳴らし、酒を飲み、ご馳走を食べ宴会をはじめると、怖くて怖くてたまりませんでした。
「う〜ん、やはり踊り手がいないとおもしろくないのぉ。」「うむ、昨日の爺がまたこねぇかのぉ。」「うむ、またこねぇかなぁ。」「・・・うん?人間の匂いがするぞ。」
鬼達はそう言うと梁の上にいた隣の爺を引き下ろしました。
「さざ踊ってくれ、爺。」
鬼達は笛や太鼓を鳴らしました。
でででら、でらでら、でひゃろろろ、ずでん、ずででん、ずっでんでん、
隣の爺はヒザがガクガク、ちぢみあがって、声は震え、歯はガチガチ音を立て、ころぶわ、しりもちをつくわ、まったく踊りになりませんでした。鬼達はあきれて、笛太鼓をやめてしまいました。「お前のようなヘタな踊りは初めて見た。これをやるからもう帰れ。」そう言って鬼達は昨日とったコブを隣の爺の顔につけると、どこかへ消えてしまいました。
爺は顔にコブが二つとなって、すごすご家に帰りました。

こぶとりのお話は、世界的に分布しており、日本では顔のコブ、西洋では背中のコブが一般的です。また、コブを取ってくれる存在が、日本では鬼、天狗等、西洋では知っている限りでは、森、山の精霊となっています。このお話、古くはコブを取る、と言うものではなく、何らかの福を得る、博打を打つ鬼→鶏の鳴き声をマネする→鬼の残した博打のお金を得る、と言うのがもともとの形だそうです。 
こぶとり爺さん 2
鬼と山伏と延年の舞 / 宇治拾遺物語
瘤取り爺さんの話は日本の昔話の中でももっともよく語られたものである。顔に大きな瘤のある爺さんが山の中で一夜を明かすと鬼の集団が現れて宴会の踊りを始める、爺さんがつられて一緒に踊ると、鬼はいたく感心し、また来るようにといって、質物に爺さんの瘤をとった。この話を聞いた隣の爺さんは、自分も瘤を取ってもらおうと思い鬼のところに出かけるが、うまく踊ることができずに鬼をがっかりさせる、そのうえもう来ないでもいいといわれて、質物の瘤までつけられてしまうという話である。
この話のモチーフは色々に解釈することができる。瘤取り爺さんが主人公なので、爺さんの瘤の由来や隣の爺さんの欲に焦点を当てることもできようが、この話には大勢の鬼たちが出てきて、踊りや宴を繰り広げるので、むしろ鬼の話の一類型としてとらえたほうが面白い。
この話の原型は宇治拾遺物語に出ており、古い形を伝えている。そこでは鬼の親分のほかに多くの鬼が登場して、その姿や振舞などについて詳しく書かれている。それを読むと、昔の日本人が鬼についてどんなイメージを持っていたか、おぼろげながらわかるのである。
そこでまず、宇治拾遺物語の原典に当たってみよう。
(宇治拾遺物語:鬼にこぶとらるゝ事) 「これもいまはむかし。 右のかほに大なるこぶあるおきなありけり。 大よそ山へ行ぬ。 雨風はしたなくて帰にをよばで。 山の中に心にもあらずとまりぬ。 又木こりもなかりけり。 おそろしさすべきかたなし。木のうつぼの有けるにはひ入て。 目もあはずかがまりてゐたるほどに。 はるかより人の声おほくしてとゞめきくるをとす。」
爺さんは山の中で雨風にあって家に帰れなくなり、木のうろに入って一夜を明かそうとする。するとそこに鬼たちが現れる。それは古来山にひそむ妖怪であると思念されていたものである。その妖怪たちのさまを、物語は続けて語る。
「いかにも山の中にたゞひとりゐたるに人のけはひのしければ。 すこしいき出る心ちしてみいだしければ。 大かたやう\/さま\"/なる物どもあかき色には青き物をき。 くろき色にはあかきものをき。 たたうさきにかき。 大かた目一あるものあり。 口なき物など大かたいかにもいふべきにあらぬ物ども百人ばかりひしめきあつまりて。 火をてんのめのごとくにともして。 我ゐたるうつぼ木のまへにゐまはりぬ。 大かたいとゞ物おぼえず。 むねとあるとみゆる鬼よこ座にゐたり。 うらうへに二ならびに居なみたる鬼かずをしらず。 そのすがたおの\/いひつくしがたし。 酒まいらせあそぶありさま。 この世の人のする定なり。」
妖怪には赤鬼や黒鬼がいる。また一つ目小僧を思わせるものや、口のないのっぺらぼうのようなものもいる。百鬼夜行のイメージである。百人ばかりいる妖怪の中に「むねとある」つまり親分格の鬼がいて、「横座」すなわち主人用の席に収まっている。その前に子分の妖怪たちは二列に並んでかしこまり、恐らく杯を回し飲みながら宴会を始めるのである。
「たび\"/かはらけはじまりて。 むねとの鬼ことの外にゑひたるさまなり。 すゑよりわかき鬼一人立て。 折敷をかざしてなにといふにかくどきぐせざることをいひて。 よこ座の鬼のまへにねりいでゝくどくめり。 横座の鬼盃を左の手にもちてゑみこだれたるさま。 たゞこの世の人のごとし。 舞て入ぬ。 次第に下よりまふ。 あしくよくまふもあり。 あさましとみるほどに。 このよこ座にゐたる鬼のいふやう。 こよひの御あそびこそいつにもすぐれたれ。 たゞしさもめづらしからん。 かなでをみばやなどいふに。 この翁ものゝつきたりけるにや。 また神仏の思はせ給けるにや。 あはれはしりいでゝまはゞやとおもふを。 一どはおもひかへしつ。 それになにとなく鬼どもがうちあげたる拍子のよげにきこえければ。 さもあれたゞはしりいでゝまひてん。 死なばさてありなんと思とりて。 木のうつぼよりゑぼしははなにたれかけたる翁の。 こしによきといふ木きるものさして。 よこ座の鬼のゐたるまへにおどり出たり。」
若い鬼が折敷を捧げて前に出て、親分に捧げた後、舞を舞う。続いてほかの鬼どもも下のほうから順次舞をする。そのうち親分が「かなで」を見たいと言い出す。「かなで」とは演奏のことであろう。
様子を見ていた爺さんはすっかり浮かれてしまい、恐ろしさを忘れて木のうろから飛び出すと踊りを始める。
「この鬼どもをどりあがりて。 こはなにぞとさはぎあへり。 おきなのびあがりかゞまりてまふべきかぎり。 すぢりもぢりゑいごゑをいだして一庭をはしりまはりまふ。 よこ座の鬼よりはじめてあつまりゐたる鬼どもあざみ興ず。 よこ座の鬼のいはく。 おほくのとしごろこのあそびをしつれども。 いまだかゝるものにこそあはざりつれ。 いまよりこのおきなかやうの御あそびにかならずまいれといふ。 おきな申やう。 「さたにをよび候はずまいり候べし。 このたびにはかにておさめの手もわすれ候にたり。 かやうに御らむにかなひ候はゞ。 しづかにつかうまつり候はんといふ。 よこ座の鬼。 いみじう申たりかならずまいるべきなりといふ。 奥の座の三番にゐたる鬼。 この翁はかくは申候へども。 まいらぬことも候はんずらん。 おぼしゝしちをやとらるべく候らんといふ。 よこ座の鬼しかるべし\"/といひて。 なにをかとるべきとおの\/いひさたするに。 よこ座の鬼のいふやう。 かのおきながつらにあるこぶをやとるべき。 こぶはふくのものなればそれをやおしみおもふらんといふに。 おきながいふやう。 たゞ目はなをばめすともこのこぶはゆるし給候はん。 とし比もちて候ものを。 ゆへなくめされすぢなきことに候なんといへば。 よこ座の鬼。 かうおしみ申物なり。 たゞそれを取べしといへば。 鬼よりてさはとるぞとて。 ねぢてひくに大かたいたきことなし。 さてかならずこのたびの御あそびにまいるべしとて。 暁に鳥などもなきぬれば鬼どもかへりぬ。」
こうして踊りに感心した鬼は、爺さんに再び来るように伝える。その際に、約束を守らせるための質物として、爺さんの瘤をとるのである。
物語はこの後の後半の部では、隣の爺さん方の教訓譚に移る。
おきなかほをさぐるに年来ありしこぶあとかたなくかひのごひたるやうにつや\/なかりければ。 木こらんこともわすれていゑにかへりぬ。 妻のうばこはいかなりつることぞとゝへば。 しか\"/とかたる。 あさましき事かなといふ。 となりにあるおきな左のかほに大なるこぶありけるが。 このおきなこぶのうせたるをみて。 こはいかにしてこぶはうせ給たるぞ。 いづこなる医師のとり申たるぞ。 我につたへ給へ。 このこぶとらんといひければ。 これはくすしのとりたるにもあらず。 しか\"/の事ありて鬼のとりたるなりといひければ。 我その定にしてとらんとてことの次第をこまかにとひければをしへつ。 このおきないふまゝにしてその木のうつぼに入てまちければ。 まことにきくやうにして鬼どもいできたり。 ゐまはりて酒のみあそびて。 いづらおきなはまいりたるかといひければ。 このおきなおそろしと思ひながらゆるぎ出たれば。 鬼どもこゝにおきなまいりて候と申せば。 よこ座の鬼こちまいれとくまへといへば。 さきのおきなよりは天骨もなくおろ\"/かなでたりければ。 よこ座の鬼このたびはわろく舞たり。 かへす\"/わろし。 そのとりたりししちのこぶ返したべといひければ。 すゑつかたより鬼いできて。 しちのこぶかへしたぶぞとて。 いまかた\"/のかほになげつけたりければ。 うらうへにこぶつきたるおきなにこそなりたりけれ。 ものうらやみはせまじきことなりとか。
隣の爺さん型の話は花咲か爺さんの「ここほれわんわん」をはじめひろく分布しており、古来一種の教訓話として流通していたものを、この話にも取り入れたのであろう。だがこの話の眼目は上に述べたように、やはり鬼のほうにあると思える。
この話に描かれた鬼の宴会について、宗教民俗学者の五来重は山伏の延年の舞を描写しているのではないかと推測している。山伏は山の神の従者を自認しているが、修験者として山中を飛び回るその姿から、民衆の目には山の神の化身とも映ってもいた。そこから天狗や鬼が山伏の姿にオーバーラップされるに至ったのだというのである。
延年の舞というのは、山伏たちが正月の修正会、三月の法華会、六月の蓮華会などの行事において、酒盛りをして宴会をし、舞を踊るというものである。古代末期から中世にかけて、延年の舞は寺院の中で催されることが多かった。それは山伏が寺院に従属するようになったことの現れであって、もともとは山伏の間に伝わった伝統的な行事であったらしい。
この舞の中で、山伏たちは鬼や天狗の面をつけて舞ったらしい。また舞の途中で、見物人の即興的な参加を許すこともあったらしい。
瘤とり爺さんに描かれている鬼の宴会は、この山伏たちの延年の踊りが昔話として伝えられたのではないか、そのように五来重は推測している。  
日蔵上人と鬼 
吉野山の日蔵上人は、山中で修業中に、十尺ほどの青鬼に遭った。その髪は赤くて、体はあばらが浮き出るほどに痩せこけ、腹だけが膨れていた。そして、ただ泣いていた。上人が話しかけると、鬼は身の上を語りだした。
『わたくしは、四五百年前までは人でございました。しかし恨みを残して死んだために鬼になってしまいました。憎む相手を望みどおりに殺し、その子孫にも祟り続けて参りましたが、とうとう誰もいなくなってしまいました。
生まれ変わった彼らを呪おうとも考えましたが、その行き先が分かりません。憎しみの炎は燃え続けているのに、相手がおらず、おのれのみが苦しむばかり。こんな恨みを抱かなければ、今頃は極楽に生まれ変わっていたかも知れないと思うと、苦しくて堪らずこうして泣いております。
人への恨みは自分を滅ぼす上、敵を失ってもこの命は終わらぬ。もし知っていたなら、本当に恨みなど残さず死んだのに』鬼はさらに泣いた。
話している間、鬼の頭からは炎が燃え出ていた。鬼は山の奥へと去った。上人は鬼をあわれに思い、その罪がなくなるように尽力したという。 
瓜子姫と天邪鬼
昔話の瓜子姫は残酷な話である。天邪鬼という鬼が瓜子姫をだまして食ってしまい、その皮をかぶって姫になりすますが、最後には正体を見破られるというのが大方の荒筋である。中には、柳田国男が紹介している出雲の話のように、瓜子姫は殺されずに裏庭の柿の木に裸で吊るされるというパターンもあるが、鬼に食われてしまうというものが圧倒的に多く、聴耳草紙の話もそのようになっている。
話の内容は大方次のようなものである。
婆さんが川で洗濯をしていると川上から瓜が流れてきた。それを拾ってきて割ってみると中から可愛い女の子が生まれてきた。瓜から生まれたので瓜子姫と名付け大事に育てているうちに大きくなり、機織をしてお爺さんお婆さんを助けるようになった。
或る時、お爺さんとお婆さんが出かけて留守の間に、瓜子姫はいつもどおりに機を織っていたところ、天邪鬼が現れ、瓜子姫をだまして家の中に入ってきた。そして包丁と俎板を持ってこさせると、瓜子姫の皮をはいで、肉を切り刻んで食ってしまった。痕には指と血だけを残し、自分は皮をかぶって瓜子姫になりすまし、お爺さんたちが帰ってくると、指は芋、血は酒だと偽って食わせてしまうのである。
そのうち瓜子姫を嫁にしたいという長者が現れる。瓜子姫に化けた天邪鬼が馬に乗ってゆくと、烏が「瓜子姫の乗り物に天邪鬼が乗った」と鳴く。長者の家に着いた天邪鬼が顔を洗うと化けの皮がはがれ、もとの天邪鬼になる。そして山の中に逃げていく、というものである。
指と血を残すという部分は、人を食うのがあまりにも残酷なので、話の信憑性を持たせるためあえて添えられたのであろう。それにしても、外にあまり例を見ない残酷さである。このような話が子ども相手に語られたとは、俄かに信じられないほどだ。
この話に出てくる天邪鬼は鬼の一種であるが、古来意地悪であるとか、人の真似をして困らせるといったイメージをもたれてきた。もしかしたら山彦の擬人化だったのかもしれない。山彦も時に山の神に擬せられることがあるし、そこから山の神の化身たる鬼に転化するのもありえたことだ。
天邪鬼が瓜子姫の皮をはいで瓜子姫に化けるというテーマも、山彦と同じく人の真似をするということを表しているのではないか。
天邪鬼のルーツについては、外にさまざまな説がある。その一つに天孫降臨神話に出てくる話がある。天孫降臨に先立って高天原から遣わされた天若日子は、芦原中国に懐柔されていつまでも復命しなかった。そこで建御雷神が派遣されることとなるのであるが、天若日子のほうは、雉に向かって放った矢が舞い戻ってきて、それにあたって死んでしまうのである。そこで、任務を怠って寝返りをした報いから、後に天邪鬼となって四天王に踏まれる運命を甘受するようになったとの伝説が生まれた。
天若日子ではなく、天探女が天邪鬼になったのだとする説もある。天探女はその名のとおり高天原から使わされたスパイであるが、これが天若日子側に寝返って二重スパイになり、その情報によって、天の死者である雉が殺される。こんなところから天探女は邪悪な女スパイとされ、やがて天邪鬼になったとする説である。
いずれにしても、天邪鬼は古代の鬼のイメージが仏教と混交して生まれたものであるようだ。それはほとんどの場合女形をとっているが、そこには山の神たる鬼が老女の形をとるという点で、山姥と同じような事情が働いたのであろう。  
山姥にまつわる昔話  
山に漂うと考えられた死霊あるいは祖霊のうちでも、その荒ぶる霊としての恐ろしい姿が鬼としてイメージされた。その中でも、山姥は女の鬼として、通常の男の姿の鬼とは一風異なった雰囲気を醸し出している。安達が原に出没したとされる山姥は、通りがかる旅人をことごとく食らいつくす恐ろしい鬼であるが、その山姥の口が裂けたイメージは、あらゆるものを飲み込んで抱擁する母性のイメージをも感じさせる。
たとえば「食わず女房」に出てくる山姥は、上の口からも下の口からも、食えるものを次々とかき入れて食い尽くす。下の口が性的なものをイメージしていることはいうまでもない。それはあらゆるものを飲み込み、生み出す母性のイメージであっただろう。
山姥をテーマにした昔話には、さまざまなバリエーションがある。その一つに、牛方山姥という一群の物語がある。牛方が馬方になったり、鯖売りになったりと微細な差異はあるが、同じような構成の話が全国さまざまなところに伝わっている。大方次のような筋書きである。
牛方が牛に荷を積んで峠にさしかかると、山姥が現れてそれをよこせという。よこさなければ牛もお前も食ってしまうぞというので、牛方は積んでいた食い物の一部を投げる。山姥がそれを食う間に牛方は逃げようとするが、山姥はすぐに追いついてくる。牛方はひとつづつ投げては逃げ続けるが、ついに投げるものがなくなり、牛を置いて一人で逃げると、山姥はその牛を食ってなおも追いかけてくる。
この話のパターンを、宗教民俗学者の五来重はイザナキの冥界訪問神話と関連付けて解釈している。イザナキは黄泉国を訪ねた帰りにイザナミの遣わした黄泉醜女たちに追いかけられるが、黒鬘を投げつけるとそれが海老に変わり、醜女たちが食っている間に逃げ延びたという話である。
イザナキはその後、さまざまに智恵を働かして、イザナミの死霊に食われることを免れるのであるが、牛方山姥の話においても、牛方はさまざまに智恵を働かせて逃げ延び、最後には山姥を欺いて殺してしまう。
五来重はさらに、この話を峠の辺りにさまよう山の神に、供物を捧げて無事を祈ったという古来の風習を結びつけて解釈している。山姥の伝説とは別に鯖 大師の伝説というものが流布しているが、それは峠を越えようとするものに、山の神が通行料として鯖を要求するという内容のものである。鯖は仏教の行事の中では、施餓鬼のために施されるものであった。なぜ鯖なのかはわからぬが、鯖を与えることによって、餓鬼の祟りを逃れようとする心理が働いていたのであろう。
鯖大師とは、峠のあたりに大師の像を立て、それに鯖を供えることを内容としている。そうすることで、餓鬼ならぬ山の神の祟りを免れようとしたのであろう。
このように、牛方山姥の話は、人を食う恐ろしい鬼と、鯖を供えてその祟りを逃れようとした考えがどこかで結びついて成立したのではないか、五来重はそう推測する。
山姥をテーマにした昔話には、「山姥問答」という一群の説話もある。例えば次のような内容のものである。
猟師が山の中で焚き火をしていると山姥が現れる。猟師が「山姥は恐ろしい」と心の中で思うと、山姥は「お前は山姥が恐ろしいと思っているな」と言い当てる。「山姥に食われるのではないか」と思うと、「お前は山姥に食われるのではないかと恐れているな」と言い当てる。「どうしたら逃げられるだろうか」と思うと、「お前はどうしたら逃げられるかと考えているな」と言い当てる。
ここですっかり絶望した猟師がそのまま食われてしまうこともあるが、焚き火のそばにあったワッカをはじかせて火の粉を山姥に浴びせ、山姥が「人間というものは何を考えるかわからぬ」といって退散する話もある。
この山姥が童子の形に転化すると、「さとりのわっぱ」の話になる。
牛方山姥といい、山姥問答といい、山姥をテーマにしながら話の内容は次第に趣向を変えて、鯖大師に見られる施餓鬼の行事と結びついて交通安全の祈願を盛り込んだり、頓智話のような体裁にも発展している。その辺は、もともと民族の深層意識の中にあった祖霊への信仰が、昔話という形の中で、想像力という翼をともなって自由に飛翔していった証だととれないこともない。 
食わず女房 
食わず女房の昔話は、物を食わないと偽って嫁にしてもらった女が実は人食い鬼だったという話で、亭主はあやうく食われそうになるが、菖蒲の林に逃げ込んで助かったという内容のものである。菖蒲の季節を舞台にしているので、かつて全国各地でみられた菖蒲を吊るして厄除けをする民俗や、その背景にある女のふきごもり(女の家)の行事との関連が指摘されている。
典型的な話の筋は次のようなものである。
欲の深い男が飯を食わない女を女房にしたいと思っていると、一人の女が現れて「飯を食わないから女房にしてくれ」という。男は喜んで女房にするが、女は男のいないすきに一升飯を炊いて、頭髪を掻き分けて頭の中から大きな口を出すと、次々に握り飯を作っては、頭の上の口へも顔の中の口へも放り込む。話によっては、頭ではなく股の間の口へ放り込むというものもある。
怪しんだ男が「もうお前に用はないから出て行け」というと、女は手切れに何かくれという。男はそこにある桶をやるから持っていけという。すると鬼の正体を現した女は男を桶に入れて担いでいく。
女が山の中に入っていくと、男は桶から身を乗り出し、木の枝に手をかけて逃れ出る。そうとは知らず、女鬼は山奥にたどり着くと鬼の子を集めて男を食おうとする。しかし男の姿は跡形もない。
女鬼が男を追いかけて戻ってくると、男は菖蒲の陰に隠れて難を逃れようとする。女鬼はそこに男が隠れていることに気づくが、「菖蒲は鬼には毒で、触ると体がとける」といって帰ってしまう。
この話の眼目は二つある。人を食う恐ろしい鬼というイメージと、菖蒲が魔よけになるという観念である。
人を食う恐ろしい鬼は、安達が原の鬼婆を始め陰惨なイメージで描かれることが多いが、この話では「食わず女房」という反語的な表現がなされているとおり、ややひねった内容となっている。鬼としての恐ろしさは、頭の中から大きな口を出し、そこに飲み込むというイメージで表されているが、この話では男は機転を利かせて逃げ延びることになっている。
女鬼が桶を担いで山の中へ入っていくというイメージは、死者を棺桶に入れて、山中の墓場に葬りにゆくという、古代の葬送の儀式を反映しているのかもしれない。鬼は山にひそむ死霊としてイメージされていたものだから、そこに連れ込まれることは、死の隠喩でもあっただろう。
菖蒲は端午の節句が別名を菖蒲の節句ともいうように、昔から五月の節句に縁が深いものであった。菖蒲湯はいまでは夏至の日に入るものだが、陰暦では端午の節句は六月の半ば頃にあたっていたので、おそらく新暦に移り変わるに際して、端午の節句から夏至の行事へと変わったのかもしれない。いづれにしても、菖蒲には厄除けの意味が持たされていたのだろう。それが「食わず女房」の話の中では、鬼を追っ払う効用へとつながっている。
菖蒲はまた、それでもって屋根を葺いた小屋をつくり、端午の節句の前夜に女たちがその小屋に集まってこもるという風習が、かつての日本にはあちこちで見られた。女の家と呼ばれるものである。
宗教民俗学者の五来重は、この女の家を厄除けと関連させて考察している。旧暦の五月は陰湿で厄病が流行りやすい時期であるとともに、また田植えの時期でもあった。そこでこれから田植えをしようとするときに、大事な働き手である女たちを厄払いして、清浄な体にしよう、そういった思惑がこの行事には秘められているのではないかと考えたのである。
五月は「さつき」というが、それは「さ」つまり田の神を祭る月を意味する。そして女は「さおとめ」として田の神に仕える身でもある。女の家に集まって女たちがイミゴモリをするのは、田植えに先立って身を清浄にするための儀式だった。そのイミゴモリのための小屋に、菖蒲が用いられたのには、中国からの影響があったのかもしれない。
こうしてみると、「食わず女房」のような他愛ない昔話のうちにも、日本人の民族的な想像力が潜んでいることが察せられるのである。 
産女、南山科に行きて鬼に値ひて逃げし語 
[今昔物語集巻二七第十五]
今は昔、ある貴族の家に仕えていた女があった。父母類親もなく、知り合いもいなかったので、訪ねる場所もなく、ただ局にいて、「病気になったらどうしよう」と心細く思っていたが、そのうち決まった夫もいないのに、妊娠してしまった。いよいよ身の不運が嘆かれるのであったが、出産の準備をしようにも、相談できる人もなく、主人にも恥ずかしくて話せないでいた。
ところがこの女は、賢こくもこう思った。「産気づいてきたら、召使の童をつれて、どこへでも奥深い山の中に入って行き、木の下ででも産もう、もし死んでも、人に知られることもないし、生き残ったら、さりげない様子をして帰ろう。」こう思いつつ、産月近くなると、さすがに悲しく覚えたが、さりげない様子を装って、ひそかに身構え、食べ物を少々準備して、童によくいい聞かせて過ごすうちに、いよいよ産月になった。
そのうち、明け方になって産気づいたので、夜が明けぬ前にと思って、童に荷物を持たせて急いで出た。「東のほうが近いだろう」と、京を出て東の方角にいくうち、川原のあたりで夜が明けた。心細い限りではあったが、休み休みしつつ、粟田山のあたりまで行ってから、山深く入っていった。然るべきところを求めて歩くうち、北山科というところについた。見れば、山の斜面にそって、壊れがかった山荘が建っている、人が住んでいる気配はない、「ここで子を産んで、自分ひとりだけ出て行こう」女はこう思って、垣根を越えて中に入っていった。
放出の間(別棟)に上ると板敷きがところどころ腐っている。そこに横になって休んでいると、遠くより人が来る音がする。「ああ、人が住んでいたのか」と思っていると、遣り戸があいて、白髪頭の老婆が現れた。罵られるかと心配したが、やさしげに微笑んで、「どなた様がおいでですか」という。女はありのままに泣く泣く語ったところ、老婆は気の毒がって、「ここで産みなさい」といって、中に入れてくれたので、女はうれしくなり、「仏様が助けてくれるのだ」と思いながら中に入ると、程もなく子供が生まれた。
老婆は「めでたいことです、わたしは年老いてこんな田舎に住んでいますので物忌みもしません。七日ばかりゆっくりしていきなさい。」といって、お湯を沸かして子どもに湯浴みさせてくれたので、女はうれしくなり、捨てようと思った子がかわいくなって、乳を飲ませて寝かせつけたりした。
こうして二三日がたったあるとき、女が昼寝をしていると、老婆が現れ、寝ている子どもをみて、「ああうまそうだ」といった。驚いて老婆を見ると、たいそう恐ろしげな様子、「これは鬼に違いない、わたしも食われてしまう」そう思った女は、ひそかに身構えて逃げようと思ったのだった。
あるとき老婆が昼寝をしているすきに、女は子どもを童に背負わせ、自分は身軽ないでたちで、「仏様、おたすけ」と念じながら、その家を抜け出し、かつて来た道を走りに走って、程もなく粟田口まで戻った。そこからは川原沿いに行き、人家に立ち寄って着替えをし、夕刻主人の家に帰った。
利口な女ゆえ、このようなことをもしたのである。子どもは養子に出したそうだ。その後、この女は、老婆がどうなったか知らず、その老婆との間であったことを人に話すこともなかった。随分と年をとった後に、始めて語ったということだ。
これを思うに、旧いところには必ず物の怪が住んでいるものだ。だからあの老婆も、子どもをうまそうだなどといったのは、恐らく鬼であった証拠といえる。こんな場所に、一人で立ち寄るべきではないと、人びとは語り伝えたということだ。
この物語は、山に住む鬼である山姥に関連があるものだろう。山姥は一方では人を取って食う恐ろしい鬼であると考えられたが、他方では慈愛に満ちた山の神であるという側面を持っている。この物語は、そうした山姥の両義的な性格を、身寄りのない哀れな女の出産と関連付けながら述べていると考えられる。
女は誰ともわからぬ男の子を宿してしまったが、身寄りもなく、里に帰って出産することもかなわない、素性がわからぬ子なので、主人にも恥ずかしくて相談できぬ。そこで山の中に入っていって、そこで産み捨てようと思う。
産気づいてきたところで、童女とともに山中をさまよい歩き、一軒の小屋を見つけそこに入っていく。誰もいないと思っていると、老婆が現れて親切にしてくれる。そこで女は安心して子を産むのだが、その子とともに転寝をしているときに、老婆が子の寝顔をのぞきこんで「ああ、うまそう」とつぶやく。
ここで初めて女は老婆がおそろしい山姥であると気づくのだが、別に山姥によって危害を加えられるわけでもない。童女に子を負ぶわせて無事逃げることができるのだ。
この物語は、人食いの側面が強まる以前の山姥の姿を反映しているといえよう。中世以降の昔話の世界では、山姥はもっと恐ろしい姿で描かれることが多いのである。
今は昔、或る所に宮仕しける若き女有りけり。父母類親も無く、聊かに知りたる人も無かりければ、立ち寄る所も無くて、只局にのみ居て、「若し病などせむ時にいかがせむ」と心細く思ひけるに、指せる夫も無くて懐妊しにけり。然ればいよいよ身の宿世押量られて、心一つに歎きけるに、先づ産まむ所を思ふに、爲べき方無く、云ひ合はすべき人も無し。主に申さむと思ふも、恥かしくて申し出でず。
而るに、此の女、心賢しき者にて、思ひ得たりけるやう、「只我其の氣色有らむ時に、只獨り仕ふ女の童を具して、何方とも無く深き山の有らむ方に行きて、いかならむ木の下にても産まむ」と、「若し死なば、人にも知られで止みなむ。若し生きたらば、さりげ無き樣にて返り參らむ」と思ひて、月漸く近く成るままには、悲しき事云はむ方無く思ひけれども、さりげ無く持て成して、密かに構へて、食ふべき物など少し儲けて、此の女の童に此の由を云ひ含めて過ぐしけるに、既に月滿ちぬ。
而る間、暁方に其の氣色思えければ、夜の明けぬ前と思ひて、女の童に物どもしたため持たせて急ぎ出でぬ。「東こそ山は近かめれ」と思ひて、京を出でて東ざまに行かむとするに、川原の程にて夜明けぬ。哀れ、いづち行かむと心細けれども、念じて打休み打休み、粟田山の方ざまに行きて、山深く入りぬ。さるべき所々を見行きけるに、北山科と云ふ所に行きぬ。見れば、山の片沿ひに山荘のやうに造りたる所有り。旧く壞れ損じたる屋有り。見るに、人住みたる氣色無し。「ここにて産して我が身獨りは出でなむ」と思ひて、構へて垣の有りけるを超えて入りぬ。
放出の間に板敷所々に朽ち殘れるに上りて、突居て休む程に、奥の方より人來たる音す。「あな侘し、人の有りける所を」と思ふに、遣戸の有るを開くるを見れば、老いたる女の白髪生ひたる、出で來たり。「定めてはしたなく云はむずらむ」と思ふに、にくからず打ちゑみて、「何人のかくは思ひ懸けずおはしたるぞ」と云へば、女、有りのままに泣く泣く語りければ、嫗、「いと哀れなる事かな。只ここにて産し給へ」と云ひて、内に呼び入るれば、女、嬉しき事限り無し。「佛の助け給ふなりけり」と思ひて、入りぬれば、あやしの畳など敷きて取らせたれば、程も無く平らかに産みつ。嫗來て、「嬉しき事なり。己は年老いてかかる片田舎に侍る身なれば、物忌もし侍らず。七日ばかりはかくておはして返り給へ」と云ひて、湯などこの女の童に涌かさせて浴しなどすれば、女嬉しく思ひて、棄てむと思ひつる子もいといつくしげなる男子にて有れば、え棄てずして、乳打呑ませて臥せたり。
かくて二三日ばかり有る程に、女晝寢をして有りけるに、この子を臥せたるをかの嫗打見て、云ひける樣、「あな甘げ、只一口」と云ふと、ほのかに聞きて後、驚きてこの嫗を見るに、いみじく氣怖しく思ゆ。されば、「これは鬼にこそ有りけれ。我れは必ず食はれなむ」と思ひて、密かに構へて逃げなむと思ふ心付きぬ。
而る間、或る時に嫗の晝寢久しくしたりける程に、密かに子をば女の童に負はせて、我は輕びやかにして、「佛、助け給へ」と念じて、そこを出でて、來し道のままに、走りに走りて逃げければ、程も無く粟田口に出でにけり。そこより川原ざまに行きて、人の小家に立ち入りて、そこにて衣など着直してなむ、日暮して主の許には行きたりける。
心賢しき者なりければ、かくもするぞかし。子をば人に取らせて養はせてけり。 其の後、其の女、嫗の有樣を知らず。亦人にかかる事なむ有りしと語る事も無かりけり。さて、其の女の年など老いて後に語りけるなり。 此れを思ふに、さる旧き所には必ず物の住むにぞ有りける。されば、あの嫗も、子を「あな甘げ、只一口」と云ひけるは、定めて鬼などにてこそは有りけめ。これに依りて、さやうならむ所には、獨りなどは立ち入るまじき事なりとなむ、語り傳へたるとや。 
玄象の琵琶、鬼の爲に取らるる語 
[今昔物語集巻二十四第廿四]
今は昔、村上天皇の御世に、玄象という琵琶が突然なくなったことがあった。これは天皇家に代々伝わる大事な宝物であったので、天皇はたいそうお嘆きになり、「こんな大切な宝物を自分の代になくしてしまった」と悲しまれたのも、もっともなことであった。これは盗んだからといって、持っていられるようなものではなかったので、天皇に恨みがあるものが、持ち去って壊したのではないかと、思われたのであった。
この玄象を引く音が聞こえてきた。意外なことに思えたので、空耳かとその頃、源博雅という殿上人がいた。管弦の道を究めた人で、この玄象がなくなったことを人一倍嘆いていた。その博雅がある静かな夜、清涼殿にいると、南の方角から、も思ったが、よく聞けばやはり玄象の音である。
博雅はこの音を聞き誤ることもなかったので、怪しいとは思いながら、宿直姿のまま、靴だけを履き小舎人童一人を連れて、衞門の陣を出て南の方ほうへ歩いていった。音のするところはすぐ近くだろうと思いつつ歩き続けるうち、朱雀門に到った。だが音は更にさらに南の方角から聞こえてくる。
そこで朱雀門より更に南のほうへ歩いていきながら、「これは玄象を盗み出したものが、楼觀でひそかに弾いてひいているのであろう」とも思ったりした。だが楼觀についてみると、音は更に南の方ほうから聞こえてくる。そうこうするうち、羅城門にたどり着いた。
門の下にたって耳を傾けると、門の上で誰かが玄象を弾いている。博雅はその様子から、これは人ではなく鬼が弾いているに違いないと思った。音はいったん止んだかと思うと、また鳴りはじめた。
「これは誰が弾いておられるのだか、玄象が消えてしまって天皇は嘆いておられる、今夜清涼殿にいると、南の方角から音が聞こえてきたので、ここまで訪ねてきたのじゃ」
博雅がこういうと、音が止んで、天井から何かが降りてくるのが見えた。恐ろしくて立ち退いてみれば、玄象に縄をつけて下ろしているのだった。博雅は恐る恐るそれを手に取り、宮殿に持ち帰って、天皇に事情を話して献上した。天皇はたいそう関心なされ、「やはり鬼がとったのか」とおっしゃられた。他の人々はみな、博雅の行為を誉めそやした。
この玄象は公の宝として、今いまも尚なお伝えられている。まるで生きているかのようで、弾き方がまずいと、腹をたてて鳴らず、また手入れを怠っても、腹をたてて鳴らないのである。
あるとき内裏が火事で消失したことがあるが、その際誰が運ばずといえども、自分で庭に非難したということだ。まことに怪しいあやしいものだと、語り伝えられている。
源博雅は醍醐天皇の孫であるが、琵琶の名手として知られていた。その伝説上の人間が、玄象という、これもまた伝説上の琵琶の名器を、鬼の手から取り戻すという話である。
この物語の一つ手前に、博雅が琵琶の名人蝉丸から流泉、啄木という曲を習う話が出てくる。三年の間蝉丸の小屋に通って、やっとその曲を聴くことができたという気の長い話で、名人芸の伝承がたやすくないことが、語られている。
能では、蝉丸は延喜の帝つまり醍醐天皇の孫ということになっているが、それは蝉丸伝説が琵琶の名手博雅の伝説と混合した結果かも結果化もしれない。
この説話では、鬼から取り戻したといっておきながら、肝心の鬼の姿は現れない。玄象は何者かの手によって、下へ卸されるのだが、それが鬼の仕業であることが暗黙の了解事項になっている。
今は昔、村上天皇の御代に、玄象と云ふ琵琶俄かに失せにけり。此れは世の傳はり物にて、いみじき公の財にて有るを、此く失せぬれば、天皇極めて歎かせ給ひて、「かかるやんごと無き傳はり物の、我が代にして失せぬる事」と思ひ歎かせ給ふも理なり。此れは人の盗みたるにや有らむ。但し、人盗み取らば持つべきやう無き事なれば、天皇をよからず思ひ奉る者世に有りて、取りて損じ失ひたるなめりとぞ疑はれける。
而る間、源博雅と云ふ人、殿上人にて有り。此の人、管絃の道極めたる人にて、此の玄象の失せたる事を思ひ歎きける程に、人皆靜かなる後に、博雅、清涼殿にして聞きけるに、南の方に當りて彼の玄象を彈く音有り。極めて恠しく思へば、若し僻耳かと思ひて吉く聞くに、正しく玄象の音なり。博雅此れを聞き誤るべき事に非ねば、返す返す驚き恠しんで、人にも告げずして、宿直姿にて只一人、沓ばかりを履きて、小舎人童一人を具して、衞門の陣を出でて南樣に行くに、尚南に此の音有り。近きにこそ有りけれと思ひて行くに、朱雀門に至りぬ。尚同じ樣に南に聞ゆ。然れば朱雀の大路を南に向ひて行く。心に思はく、「此れは玄象を人の盗みて、□楼觀にして蜜かに彈くにこそ有りぬれ」と思ひて、急ぎ行きて楼觀に至り着きて、聞くに、尚南にいと近く聞ゆ。然れば尚南に行くに、既に羅城門に至りぬ。
門の下に立ちて聞くに、門の上の層に玄象を彈くなりけり。博雅此れを聞くにあさましく思ひて、「此れは人の彈くには非ず。定めて鬼などの彈くにこそは有らめ」と思ふ程に、彈き止みぬ。暫く有りて亦彈く。其の時に博雅の云はく、「此れは誰が彈き給ふぞ。玄象日來失せて、天皇求め尋ねさせ給ふ間、今夜清涼殿にして聞くに、南の方に此の音有り。仍つて尋ね來たれるなり」と。其の時に、彈き止みて、天井より下るる物有り。怖しくて立ち去きて見れば、玄象に繩を付けて下したり。然れば博雅、恐れ乍ら此れを取りて、内に返り參りて此の由を奏して、玄象を奉りたりければ、天皇いみじく感ぜさせ給ひて、「鬼の取りたりけるなり」となむ仰せられける。此れを聞く人、皆博雅をなむ讃めける。其の玄象、今に公の財として、世の傳はり物にて内に有り。此の玄象は、生きたる者のやうにぞ有る。つたなく彈きて彈きおほせざれば、腹立ちて鳴らぬなり。亦、塵すゑて拭はざる時にも、腹立ちて鳴らぬなり。其の氣色現はにぞ見ゆなる。或る時には、内裏に燒亡有るにも、人取り出ださずと云へども、玄象おのづから出でて庭に有り。此れ奇異の事共なりとなむ、語り傳へたるとや  
歌物語と鬼 
能「野守」は、大和国春日野に伝わる伝承をもとに、世阿弥が書いたものと思われている。鬼の能であるが、和歌をテーマにして上品な体裁になっている。
平安末期の歌論書「奥儀抄」(藤原清輔撰)によれば、雄略天皇が春日野に狩をした際、鷹が逃げたので、その行方を野守に追わせたところ、鷹の姿が池の水に映っているのを見て探し当てた。それ以来、この池は野守の鏡と呼ばれるようになった。新古今集に読み人知らずとある歌「箸鷹の野守の鏡得てしがな思ひ思はずよそながら見ん」は、この池を詠んだのであると。
世阿弥はこの野守を鬼に見立てた。古来日本人にとって鬼とは、死者の怨念が亡霊となった者をさしたが、世阿弥はそれを仏教的な荒ぶる鬼とした。ただその鬼は人間に危害を加える者としてではなく、池を守る精霊のような者として解釈し直されている。
曲の前半では、野守の翁が池にまつわる伝承を語り、後半では塚から鬼が現れて勇壮に舞うというもので、構成は単純であるが、小気味よいテンポで演じられれば、なかなか見所に富んだ作品である。
舞台にはまず、羽黒山の山伏を名乗るワキが現れる。舞台後方には塚の作り物が据えられている。(以下、テクストは「半魚文庫」を活用)
ワキ次第「苔に露けき袂にや。苔に露けき袂にや。衣の玉を含むらん。
ワキ詞「これは出羽の羽黒山より出でたる山伏にて候。われ大峰葛城に参らず候ふ程に。この度和州へと急ぎ候。
道行「この程の。宿鹿島野の草枕。宿鹿島野の草枕。子に臥し寅に起き馴れし床の眠も今さらに。仮寝の月の影ともに。西へ行方か足曳の。大和の国に着きにけり。大和の国に着きにけり。
詞「急ぎ候ふ程に。和州春日の里に着きて候。人を待ちてこのあたりの名所をも尋ねばやと存じ候。
そこへシテの翁が現れ、額田王の春日野の歌をもじって、自分が野守であることを紹介する。シテのいでたちは、笑尉の面に水衣である。
シテ一声「春日野の。飛火の野守出でて見れば。今幾程ぞ若菜摘む。
サシ「これに出でたる老人は。この春日野に年を経て。山にも通ひ里にも行く。野守の翁にて候ふなり。有難や慈悲万行の春の色。三笠の山に長閑にて。五重唯識の秋の風。春日の里に音づれて。真に誓も直なるや。神のまに/\行きかへり。運ぶ歩もつもる老の。栄行く御影仰ぐなり。
下歌「唐土までも聞えある。この宮寺の名ぞ高き。
上歌「昔仲麿が。昔仲麿が。我が日の本を思ひやり。天の原。ふりさけ見ると詠めける。三笠の山陰の月かも。それは明州の月なれや。こゝは奈良の都の。春日長閑けき気色かな。春日長閑けき気色かな。
ワキが、そこにある池のいわれを尋ねると、翁は野守の鏡だと答える。
ワキ詞「いかにこれなる老人に尋ぬべき事の候。
シテ詞「何事を御尋ね候ふぞ。
ワキ「御身は此処の人か。
シテ「さん候是は此春日野の野守にて候。
ワキ「野守にてましまさば。これに由ありげなる水の候ふは名のある水にて候ふか。
シテ「これこそ野守の鏡と申す水にて候へ。
ワキ「あら面白や野守の鏡とは。何と申したる事にて候ふぞ。
シテ「われら如きの野守。朝夕影を映し申すにより。野守の鏡と申し候。又真の野守の鏡とは。昔鬼神の持ちたる鏡とこそ承り及びて候へ 
ワキ「何とて鬼神の持ちたる鏡をば。野守の鏡とは申し候ふぞ。
シテ「昔此野に住みける鬼のありしが。昼は人となりてこの野を守り。夜は鬼となつてこれなる塚に住みけるとなり。されば野を守りける鬼の持ちし鏡なればとて。野守の鏡とは申し候。
ワキ「謂を聞けば面白や。さてはこの野に住みける鬼の。持ちしを野守の鏡とも云ひ。
シテ「又は野守が影を映せば。水をも野守の鏡と云ふ事。
ワキ「両説いづれも謂あり。
シテ「野守がその名は昔も今も。
ワキ「変らざりけり。
シテ「御覧ぜよ。
地上歌「立ち寄れば。げにも野守の水鏡。げにも野守の水鏡。影を映していとゞなほ。老の波は真清水の。あはれげに見しまゝの。昔のわれぞ恋しき。実にや慕ひても。かひあらばこそ古の。野守の鏡得し事も年古き世の例かや。年古き世の例かや。
ワキはなおも池のいわれについて訪ね、歌に歌われた野守の鏡とは、この池のことを言うのかと聞く。
シテはこれがあの野守の鏡の池であり、自分こそはここに住む鬼なのだと身分を明かす。そうして、鏡を見せてやるから待っていろと言い捨てて、塚の中に消える。
ワキ詞「いかに申すべき事の候。箸鷹の野守の鏡と詠まれたるも。この水につきての事にて候ふか。
シテ「さん候ふ此水につきての謂にて候。語つて聞かせ申し候ふべし。
ワキ「さらば御物語り候へ。
シテ詞「昔この野に御狩のありしに。御鷹を失ひ給ひ。彼方此方を御尋ありしに。一人の野守参りあふ。翁は御鷹の行方や知りてありけるぞと問はせ給へば。かの翁申すやう。さん候これなる水の底にこそ御鷹の候へと申せば。何しに御鷹の水の底にあるべきぞと。狩人ばつと寄り見れば。げにも正しく水底に。
地「あるよと見えて白斑の鷹。/\。よく見れば木の下の水に映れる影なりけるぞや。鷹は木居に在りけるぞ。さてこそ箸鷹の。/\。野守の鏡得てしがな。思ひ思はず。よそながら見んと詠みしも。木の鷹を映す故なり。真に畏き時代とて。御狩も繁き春日野の。飛火の野守出であひて。叡慮にかゝる身ながら老の思出の世語を。申せばすゝむ涙かな/\。
ロンギ「げにや昔の物語。聞くにつけても真の野守の鏡見せ給へ。
シテ「思ひよらずの御事や。それは鬼神の鏡なれば。いかにして見すべき。
地「さてや鏡のあり所。聞かまほしき春日野の。
シテ「野守といふもわれなれば。
地「鏡はなどか。
シテ「持たざらんと。
地「疑はせ給ふかや。鬼の持ちたる鏡ならば。見ては恐れやし給はん。真の鏡を見ん事は。かなふまじろの鷹を見し。水鏡を見給へとて。塚の内に入りにけり。塚の内にぞ入りにける。
中入では、春日野の里人に扮した間狂言が池のいわれや野守の鏡について説明する。するとワキの山伏は、法力を以て鬼の奇特を見んと、塚に向かって数珠をすりつづける。
ワキ「かゝる奇特にあふ事も。これ行徳の故なりと。思ふ心を便にて。鬼神の住みける塚の前にて。肝胆を砕き祈りけり。われ年行の功を積める。その法力の真あらば。鬼神の明鏡現して。われに奇特を見せ給へや。南無帰依仏。
後シテは塚の中から鬼の姿で現れる。手に持つ鏡の作り物は大きなもので、この作品にのみ使われる特別なものである。
後シテ出端「有難や天地を動かし鬼神を感ぜしめ。
地「土砂山河草木も。
シテ「一仏成道の法味に引かれて。
地「鬼神に横道曇なく。野守の鏡は現れたり。
ワキ「恐ろしや打火輝く鏡の面に。映る鬼神の眼の光。面を向くべきやうぞなき。
シテ「恐れ給はゞ帰らんと。鬼神は塚に入らんとす。
ワキ「暫く鬼神待ち給へ。夜はまだ深き後夜の鐘。
シテ「時はとら臥す野守の鏡。
ワキ「法味にうつり給へとて。
シテ「重ねて数珠を。
ワキ「押しもんで。
地「台嶺の雲を凌ぎ。台嶺の雲を凌ぎ年行の功を積む事。一千余箇日。屡々身命を惜まず採果。汲水にひまを得ず。一矜伽羅二制多伽。三に倶利伽羅七大八大金剛童子。
ワキ「東方。
(舞働)勇壮な仕草をして舞ったのち、舞働があって、キリの部分へと高まりながら進んでいく。
シテ「東方。降三世明王もこの鏡に映り。
地「又は南西北方を映せば。
シテ「八面玲瓏と明かに。
地「天を映せば。
シテ「非想非々想天まで隈なく。
地「さて又大地をかがみ見れば。
シテ「まづ地獄道。
地「まづは地獄の有様を現す。一面八丈の浄玻璃の鏡となつて。罪の軽重罪人の呵責。打つや鉄杖の数々。悉く見えたりさてこそ鬼神に横道を正す。明鏡の宝なれ。すはや地獄に帰るぞとて。大地をかつぱと蹈みならし。大地をかつぱと蹈破つて。奈落の底にぞ入りにける。
春日野は、いまでも春日大社周辺に広がる公園として存在しているが、この作品が取り上げたような池は残っていない。だだっ広い公園のあちこちに、鹿の姿を見るのみである。 
鬼退治 (京丹後の伝説・民話)  
推古天皇のころ、丹後の国三上ヶ嶽(現在の大江山)では英胡・軽足・土熊(土車)の3匹の鬼が首領となり、人々を苦しめていました。朝廷は用明天皇第三皇子(聖徳太子の異母弟)の麻呂子親王を大将軍に任命し、鬼の討伐に向かわせました。その道中、戦勝祈願のため大社に立ち寄ると、伊勢の神の化身である老人がどこからともなく現れて、「この犬が道案内をいたします」と白い犬を差し出しました。
やがて鬼との合戦が始まりました。『齋宮大明神縁起絵巻』【いつきのみやだいみょうじんえんぎえまき】には鬼に斬りかかる親王の姿や、鬼に噛みつく犬の姿が描かれています。山の奥深くに逃げ込む鬼。しかし、白い犬が持っていた鏡が鬼たちを照らし見つけ出し、英胡と軽足は官軍に討ち取られ、土熊は現在の竹野で生け捕りにされ、未代の証拠として、丹後の岩に封じ込められました。その岩が現在の立岩だと伝えられています。
親王は、鬼の平定は神仏のご加護によるものだと深く感謝し、7体の薬師如来像を彫刻し、7つの寺に納めたということです。 
仏と鬼が同居 
節分は毎年お話しています様に、心の中には鬼が住んでおり、同時に仏も鬼と同居しています。その力関係は、例えば男女が結婚して日々生活していくうちに、どちらかが主導権を握ります。ほとんど同じ力という事は少なく、どちらかに片寄るものです。心の中の鬼と仏、どちらの力が強いかにより皆様の幸せの度合いも変わってきます。しかし、この力の差を決めるのは自分自身の日常の行為に掛かっています。どの様にすれば仏の力の方が強くなるのか?皆様は先祖の供養を先祖や水子等、死者の霊魂を成仏に向かわせたいから行っていると思います。これに対し、御神仏は死人に対してだけではなく、今現世で生きている私達も、自分自身で成仏出来る様に日々行動する事が大切である、とおっしゃいます。子孫がいない人や、将来絶家になるであろう事を想定し、他人を頼りにするのではなく、自分自身で成仏に向かう為に手をあわせる心を持つ事が大切です。例えば自分を省みず、他人ばかりを見て人を罵倒したり、他人の責任を追及したりしますが、自分自身の心中に住むみ仏に礼拝する心を持ちだすと、自分の行為が正しくない時、自分自身を拝む事が恥ずかしくなります。毎日、自分自身の心を見つめ、反省し懺悔し、自分を正していかないと、なかなか自分自身を拝むという事は出来ないものです。この様に成仏とは死人に対しての言葉だけでなく、本来の人間の姿を考えると、生きているうちに成仏に近づく事が出来る様に努力をする事が大切です。
例えばおじいさんが亡くなりました。「成仏していますか?」と聞くのは少し違います。成仏とは仏に成る事であり、人が死んだら仏になるのではなく、ただの霊魂になるだけです。仏とは真に解脱された方であり、お釈迦様やお大師様のような方が仏様なのです。残された子孫が一生懸命供養して御神仏のお力をお借りして成仏に導きます。しかし全然信仰心のない方は、あの世へ行って成仏するのに相当の年月が掛かります。従って生きている今の行為が大切であり、この一瞬一瞬の積み重ねがあの世へ行った時、成仏に導いて頂けるのです。あの世を信じない人がいきなりあの世に行っても成仏出来ません。御神仏等いないと思っているのでうろたえ、存在を認めるところから始まります。今生きている元気な時に、御神仏の存在を信じ、霊界を信じて正しい信仰を続け、魂の向上の為に修行し、努力する事が大切です。その結果として心の中の鬼を退治する事が出来るのです。本当の意味での「鬼は外」を心がけて下さい。 合掌 
「般若」って、鬼の面? 
「“般若”ってなんですか?」と質問すると、きっと「鬼」とか「鬼の面」という答えが返ってくることでしょう。ところが、本来は仏教語で、「仏の智慧」のことなのです。
昔、いつの時代かは分かりませんが、ある所に能面作りの男がいたそうです。その能面師は優秀な人でしたが、あるとき自分の力の限界に達し、行き詰まったそうです。
「いくら頑張ってももうこれ以上の能面は作ることができない。何とか神仏に願をかけてもすばらしい能面を作り上げたいものだ。」
そう思った能面師は、自分の名を「般若」…つまり「仏の智慧」と名乗って、更に能面作りに励んだそうです。そうしたところ、努力の甲斐合ってか、あれほど苦しんでいたスランプを脱出し、すばらしい能面を完成させるようになったそうです。その中でも、とくに鬼の能面は、彼の右に出るものはいないほどの最高の傑作だったということです。そして、何時の間にか「般若坊の能面はすばらしい。」との評判になりました。
「般若坊の作る鬼の面はすばらしい。」「般若の鬼の面はすばらしい。」「般若の面(=鬼の面)はすばらしい。」ということで、般若の面=鬼の面と、同じ意味の言葉になったようです。
ですから、「般若」は「仏の智慧」のことであって、本来の意味は「鬼の面」ではないのです。 (今はもう「鬼の面」で定着してしまっておりますが…。)
このように、本来の重要な仏教語の意味が、何時の間にか別の意味に捉えられていることが多いのです。
たとえば、別項の「お布施」などもそうですね。 …「坊主」等は、あまり良い捉え方はされておりません。
ちなみに、「挨拶」「我慢」「四苦八苦」「大衆」「愛嬌」「有難い」「安心」「覚悟」「行儀」「工夫」「玄関」「現在」「差別」「邪魔」「出世」「正直」「実際」「食堂」「人事」「絶対」「醍醐味」「知識」「道具」「道理」「秘密」「愚痴」「平等」「非道い」「不思議」「蒲団」「分別」「迷惑」「律儀」「悪口」「融通」「不覚」「道場」「堂々」…等等。
全て仏教語です。私達日本人は、以前から仏教の言葉や生活に自然に馴染んで育ってきていたのです。
でも、言葉だけならまだしも、仏教自体も今では「葬式仏教」と陰口をたたかれる始末。よほどあくどい坊主や寺が、本来のイメージ? いや意味を変えてきてしまったのかもしれませんね。
でもでも、本来の坊主や仏教や寺は、元々そういう幻滅をもたらすものではありません。是非この機会に、多少臭いを嗅いだり、かじったり、足を踏み入れたりしていただきたいと思います。哲学、宗教、科学、色々な教えを勉強するのもいいものです。色々味わってみてはいかがでしょうか。 
前鬼山の伝説 
前鬼山は役行者の弟子だった前鬼・後鬼夫婦に「後世の大峯修行者のために、この地にとどまりて子孫の計を建て、峰中を守護し、修行者を誘導せよ」と言い残したと伝えられ、その子孫が住み継いできたのだそうです。五鬼継、五鬼上、五鬼童、五鬼熊、五鬼助の五家が連綿として山中に住み継いだとか。明治に神仏分離令と共に修験道廃止令が出てからはただ五鬼助家だけが小仲坊を守って残っているのです。 
人食い鬼と十団子
伝承によれば、天安年間(八五七−八五九)の頃、宇津ノ谷峠の奥に梅林院という寺があった。そこの住職に腫れ物ができ、時々小僧に血膿を吸わせていたところ、人の血肉の味を覚えた小僧は人を食う鬼になり、峠に住み着いて往来の人々を悩ますようになった。そのため、峠道を通る人も絶えてしまった。
その後、貞観年間(八五九−八七七)に在原業平が東国下向の勅命を受けて、この峠道を通ることになった。そこで、業平は下野国(栃木県)の素麺谷の地蔵に祈願して、この鬼を退治してくれることを願った。すると、地蔵は旅の僧となって宇津ノ谷峠にやって来た。そして、人間の姿に化けた鬼に向かって「正体を現せ」と言うと、鬼は六メートル位の姿を現した。そこで、僧が「お前の神通力は大したものだ。では、小さくなることができるか」と言うと、鬼は小さな玉になって僧の手のひらに乗った。僧はそれを杖でたたき、「今、お前は成仏した」と言いながら、十粒に砕けた鬼を飲み干した。以後、街道に鬼は出なくなったという。
一方、この地蔵は宇津ノ谷峠に移り、旅人の安全を見守ることになった。また、人々は昔の難事を忘れないために十団子を作り、それを食べたり、災難除けのお守りにしたりするようになったという。大永二年(一五二二)に連歌師の宗長が「むかしよりの名物十団子」と記していることからも、十団子の伝説と結び付いた峠の地蔵が、かなり古くから祀られていたことがうかがわれる。
現在、十団子は縁起物として、縁日の八月二三日と二四日に慶竜寺で売られている。また、この日には初盆供養のために遠近から多くの人々が参詣に訪れる。かつては地元の青年団が念仏供養を行ったというが、今は僧侶による供養である。だが、子供たちが花や線香を売る風習は、昔から変わることなく続いている。
ご詠歌 極楽の道をとうげの蔦の道 わけて尊き御堂なりけり 
病妻 鬼と化す 
江戸の中橋に住まいする庄右衛門という者の妻が、夫への嫉妬が積もり積もって、いつしか病みついた。日数を経るうちいよいよ衰えはて、もはや死も間近い容態となったので、夫もそばを離れず看病した。
そんなある夜、突然、妻ががばと起き上がり、「ええい、腹立たしい」と叫んで、両手の指をわが口に入れるや横に引いた。口は一気に耳の付け根まで裂け、髪が逆立ち棕櫚の葉のようなのを振り乱して、夫に襲いかかった。夫はとっさに前にある布団を投げかけて防ぎ、むんずと組み付くと、「みんな、来てくれ」と助けを呼んだ。下人どもも、隣家の者も駆けつけた。そこらの布団をかぶせ、五六人折り重なって、「えいや、えいや」と声を合わせ、ついに押し殺した。
殺しはしたものの、布団を取り除けるのが恐ろしい。布団ごと古い長櫃に詰め込み、寺に送った。寺の僧が髪を剃ろうと取り出してみると、死骸は眼をくわっと見開き、口は耳まで裂け、髪は絵に描いた悪鬼のようだ。怖れ慄いて蓋を閉め、長櫃のまま焼場へ送って火葬にした。
その後、夫も患って、百日ばかり後に死んだ。 
鬼面山 
いつの頃のことか、鬼面山という巨漢の相撲取りがいた。身の丈は二メートルを超え、体重百五十キロあまり、もちろん力も人並外れて強かった。この鬼面山が、江戸での相撲興行を終えて、どこかの国へ向けて旅立った。
旅には大勢の弟子も同道したが、道の途中、所用のことがあるからと言って、鬼面山は独りで立ち寄り先に向かった。行くのは山越えの道で、日暮れになると狼が出て旅人を悩ますという話だったけれども、少し酒に酔った勢いも手伝って、土地の人が止めるのも聞かないで出かけた。もとより大変な大男で、普通の人の十人や二十人よりは強かろうと思われたから、人々も無理に押しとどめなかった。ところが明くる朝になっても、鬼面山は戻ってこなかった。皆が心配して捜しに行くと、山からさらに山に分け入る道筋に小高いところがあって、そのあたりに狼が一頭、切り殺されて転がっていた。やはり狼に襲われたかと思って、さらに進むと、また打ち殺した狼の死骸があった。引き裂いたのもあった。そんな死骸が五つ六つもあっただろうか。そこらに草履や竹笠も落ちていた。しかし、鬼面山の姿はどこにもなかった。周辺を走り回って捜しても、血の滴りなどが少しずつ見つかるばかりで、その人の行方は知れない。「さては狼に食われてしまったのだ」と人々は言い合った。
これほどの猛者がむざむざ命を落としたからには、きっと数知れぬ狼が集まってきたのだろう。五頭や六頭は切ったり引き裂いたりもできようが、次々に襲いかかられ、しだいに弱り疲れ果てて、ついに食い殺されたにちがいない。その凄まじく無惨な場面を思い描くと、心が痛む。じつは私も、鬼面山という相撲取りを見たことがある。体重百五十キロと言われ、四谷に住んでいた。この話の鬼面山は、四谷の力士の師匠だろうか、あるいは師匠の師匠に当たるのだろうか。 
縊鬼 
麹町に屋敷をもつ組頭某の組内に、よく酒を飲み、落とし話や物真似などを得意とする同心がいた。春の日永の時分、組頭宅では同役の寄合があって、夕刻からは酒宴が予定され、その同心にも『接待の手伝いに来るように』と言って約束してあったのに、なかなか姿を見せなかった。皆がその芸を見るのを楽しみにして待っているのに来ないので、宴席がたいそう興ざめしてきたころ、やっと慌しく門をくぐって入ってきた。
「やむをえない用事が出来ました。今夜の手伝いは辞退させてください。門前に人を待たせておりますゆえ、これにて……」そう言ってすぐに立ち帰ろうとするのを、屋敷の家来が引き止めた。「まず主人および客人がたにお伝えするので、その間、待たれよ。」同心は、大変困った顔をしながらも、従うしかないと思った様子だった。
主人は家来の知らせを聞くと、「お頭衆が集まって、先刻来ずっと待っていたのだ。たとえ断れない急用であっても、顔も出さずに帰るということがあるか。」と怒って、無理に宴席へ呼び出し、何の用かを尋ねた。すると同心は、「それというのが、ほかでもありません。食違御門内にて首を吊る約束をいたしましたので、やむをえず……」と答えて、ひたすら退出したいと懇願した。
主人も客も怪しんだ。「どうやら乱心と見た。こういうときは、無理にでも酒を飲ますのがよい。」そこで座の中央へ引き出し、まず大杯で続けざまに七八杯飲ませた。「これにてお許しください。」と言うのを、さらに七八杯飲ませたところで、主人が声をかけ、「例の声色をやってくれ。」と所望すると、やむをえず一つ二つの芸を披露して、また退出しようとするところに、主人も客もそれぞれ盃を与えたから、見るからに酩酊してきた。
主客とも面白がって、さらに代わる代わる酒をすすめながら様子をうかがっていると、二時間ばかりたった頃には、退出を請うことは忘れたようで、乱心のふうも見えなくなった。
そのとき、家来がやってきて報告した。「ただ今、食違御門内で首吊り自殺があったとのこと。人を出すべきでしょうか。」聞いて主人は、「さては、人に取り憑いて首を吊らせる縊鬼というものが、この者を殺すことができなくて、ほかの者の命を取ったとみえる。もはやこの者の縊鬼は離れた。さあ、聞かせてくれ。おぬし、ここへ来る前、何があったのだ。」
問われて同心は、「はあ、まるで夢のようではっきりしませんが、食違門まで来たのは夕刻前でした。見知らぬ人がいて、『ここで首を吊って死ね』と言います。なぜか拒めない気がして、『わかりました。吊りましょう。しかし、今日は組頭のところで手伝いをする約束になっています。そちらをお断りしたうえで吊ります』と言うと、その人はこちらの門まで付いてきて、『早く断ってこい』と言いました。その言葉は、背きがたい義理があるもののように聞こえたのです。なぜそうだったのかは全くわかりません。」などと話した。
「今も首吊りする気があるか。」と尋ねると、首に縄をかける真似をしながら、「恐ろしや、恐ろしや。」と首を振った。皆、『先約を重んじたことと、酒を飲んだこととの徳によって命を助かったのだ』と言い合ったそうだが、こんなことも時にはあるものだろうか。 
勝鬼坊 
豊前ノ国 彦山の山伏に、勝鬼坊という者がいた。天正年間のこととかいう。勝鬼坊は罪に問われ、山伏の掟によって石子詰(いしこづめ)の刑に処せられた。
その生き埋めの塚は、道の傍らにある。通りかかった人が憐れんで一遍の念仏を唱え、回向をなすと、勝鬼坊は地中で法螺貝を吹き鳴らし、「ありがとう、ありがとう」と礼を言う。処刑が行われたのは随分な昔なのに、今も律儀に答礼するとのことだ。 
古墳女鬼 
江戸松前町家主吉兵衛のせがれ、五郎吉こと幸次郎、二十歳。この者は十年前の文化元年春、日本橋通り二丁目善兵衛の店(たな)、忠兵衛方に年季奉公に来て、今日まで勤めております。
一昨年の春のことかと思われます。幸次郎が堺町に勘三郎の芝居を見物にまいりましたところ、神田あたりに住まいするという十六七歳くらいの娘みよと同じ桟敷になりました。このときは、見知らぬ者どうしでもあり、芝居が終わるとともに別れただけでございます。その後、同じ年の秋と思われますが、幸次郎がまた勘三郎の芝居を見物に出かけました。すると、みよもまた芝居に来ており、やはり同じ桟敷に入り合わせました。しかしながら、このときも前回同様にして別れ、以後、まったく出会うこともなかったのでございます。
さて、幸次郎は今年八月ごろより疱疹を患い、気分悪く臥せっておりましたところ、同月二十六日の深夜、みよが幸次郎の寝ている枕元に来てあれこれ話などいたし、そのときは、夢でも見ているかのようだったそうにございます。ところが、翌二十七日から二十九日まで、毎晩みよが通って来ます。その不思議さに、住処を確かめようという気になり、幸次郎はあらかじめ支度をして待っておりました。みよが帰るとき、小用を装って店を出ると、みよに同道してどこまでも行きました。やがて浅草今戸町の某寺の垣を越え、墓場にまいりました。みよはそこで、石塔に水を手向けるとともに、ふとかき消えてしまいました。しかたがないので、ここまで来た証拠にと、寺が垣根にしていた卒塔婆を一本引き抜き、それを担いで帰ることにいたしました。途中、浅草田町にて夜が明けました。煮売酒屋に立ち寄って酒膾を買い、さらに堺町三味線屋の隣の蒲鉾屋で蒲鉾二枚を買い求め、主人方に帰り着きました。なお、同道する途次、幸次郎がいろいろ話しかけましたが、みよは受け答えしなかったそうにございます。
何かと取り沙汰されている件につき、当人を呼んで問いただしましたところ、このように申しました。以上、ご報告申し上げます。文化十年九月  
長善寺の霊鬼 
牧山(まぎやま)は陸奥の牡鹿郡に属し、山頂には長善寺という寺があった。長善寺の住職の永存は長州の生まれで、姪が孤児になったのを憐れみ、良縁を得て嫁に行くまでのつもりで、寺で養育していた。牧山の麓には、湊という村があった。笹町新左衛門という人の知行所で、笹町自身その村に住んでいた。
天文年間、永存は笹町と、山林の境界をめぐって争った。久しく決着を見ず、ついに訴訟沙汰となると、笹町は、村人に連署させた『山はもともと村に属する』との文書を提出した。さらに笹町は、永存は姪と姦淫していると訴え出た。これによって郡役所は永存を厳しく糾弾し、国家老の裁きで、藩の流刑地である江島(えのしま)に配流と決した。永存が悲憤慷慨したのは言うまでもない。
「山林の争いの件はともかく、姪を犯したなどというのは甚だしい誣告だ。嘘で人は騙せても、天は真実を知っている。この怨恨を晴らさずにおくものか。笹町を呪詛して、必ずや滅ぼしてみせる。もし姪を犯したのがまことなら、呪ってもなんの験もないだろう。無実であるからこそ、偽りで陥れた敵を呪い殺すことができるのだ」
それからは毎日、江島の海岸へ出て荒波に入り、呪詛することを止めなかった。みずから手指を打ち砕いて火を灯したので、やがて十指は全て燃え尽きた。
何年もの時が経った。石巻から江島に渡ってきた人があったので、永存が笹町の安否を尋ねると、その人は何気ないふうで言った。
「笹町どのなら、いたってご健勝で」「えっ、ほんとに?」「はい、ご家族もみなご無事でおられます」永存は激怒した。
「うぅ、くやしい。生きて笹町を苦しめ殺すことができないなら、死んで鬼となって恨みを報いてやる」これより後、常に自らの死を祈り、心も身体も徐々に衰弱して、いよいよ死のうというとき、島民にこう告げた。「死んだら、我が骸を逆さまに埋めてくれ。もしそうしなかったら、きっと祟ってやる」島民の長はこの遺命に従わず、ふつうに埋葬したが、家に帰るやいなや急病を発して倒れた。それで驚き恐れて、言われたとおりに埋め直した。二、三十日たつと、笹町の屋敷の裏山に、夜ごと光り輝くものが出現した。近くからよく見ると、それは逆さまになって浮遊する僧だった。
まもなく笹町新左衛門が病死した。新左衛門の子の彦三郎があとを継ぐも、これまた不治の病にかかって死んだ。ほかに男子はなかったので、中嶋氏の弟の九左衛門を婿養子として家を継がせた。その九左衛門は委細あって他国へ逃亡をはかり、藩主の命で捕縛されて、兄の中嶋氏方に拘禁された。これ以前に、彦三郎の母、祖母、幼い女子など、みな相次いで死んでおり、ここにいたって笹町の家は滅亡したのである。九左衛門もまた死んだ。湊村は遠山帯刀が賜ったが、やがて遠山も罪を得て、ついに湊村自体が消滅した。 
羽州の鬼 
出羽の国の小佐川というところに近づいたのは、もう午後四時をまわるころで山の色も暮れ、さらに昨日からしとしと雨が降っているので、日影もさだかでない。次の宿場までは十二キロもあるので、とても日のあるうちには着けそうになかった。
しかし、雨が降っているので暗いが、意外に時刻はまだ早いのではと思えたから、行き会った土地の老人に、「次の宿場まで行く間に、日は暮れないだろうか」と問うと、老人は眉をひそめ、「道を急げば着けるでしょうが、見れば遠国の人のようだ。最近このあたりには鬼が出て、人馬の区別なく取って喰う。ここまでの道にも鬼が出る場所があったのに、喰われなかったのは運がよかったのだ。ここから先はもっと鬼が多い。旅ができるのも命あってのこと。何をお急ぎか知らないが、日暮れに道を行くのは危ないことだ」と言う。
私も道連れの養軒も、これを聞くなり笑ってしまった。
「いくら僻地へ来たからといって、人を脅かすにもほどがある。鬼が人を取って喰うなんて、昔話の本にはあるが、今の時代、三歳の幼児でも信じない。その鬼は青鬼か赤鬼か、虎の皮のフンドシは古いのか新しいのか」
などと冗談を言い合いながら歩いたが、やっぱり時刻がはっきりしないのが気になったから、みすぼらしい藁葺の家があったので、「日のあるうちにむこうの宿場に行きつけますか」と尋ねた。すると主は驚いた様子で、「旅の人は大胆なことを言う。この先はやたらに鬼が多くて、無事に行き過ぎることはできない。昨日もこの里の八太郎が喰われた。今日も隣村の九郎助が取られた。ああ恐ろしい」と、時刻のことなど答えもしない。
「同じように人を驚かすものだな」と笑ってその家を出て、また人に問うと、これまた鬼のことを言う。不審に思いつつも、やっぱり可笑しかったが、三人まで同じように恐れるのは、どこかに本当のことがあるような気がして、「養軒、どう思う。話に不審の点がある。日も暮れかかっているようだ。雨がぼそぼそ降って景色も心細い。この先急ぐわけでもない旅だ。人里から離れて夜になってはまずいから、さらに尋ねても鬼のことを言うのだったら、今夜はこの里に泊まろう」養軒も同意して、それから家ごとに入って尋ねるに、口々に鬼のことを言って、舌を震わせて恐れるのであった。「さては、嘘ではないぞ。故郷を出て三百里にも及べば、こんな奇怪なことにも遭うのだ。それならここで宿をさがそう」と、あちこち宿を頼んで、やっと六十歳過ぎの老婆と二十四五の男の住む家に泊まることができた。
足をすすぎ、囲炉裏で木賃の飯を炊きながら、老婆に鬼のことを尋ねると、老婆は恐れおののいて、何事かを懸命に言う。僻地の女の言葉は容易に聞き取りがたく、何を言っているのかわからない。
「では、その鬼はどんな形ですか。額に角があって、腰に虎の皮のフンドシをしていますか」と聞くと、若い男のほうが首を振って、「そんなものではないよ」と言う。
「では、どんなものですか」「犬のようなものだ。ちょっと大きいが」「背が高くて口が大きいですか」「そう」「それは、狼ではありませんか」「狼ともいうらしいね」養軒と私は顔を見合わせ、「そいつは恐ろしい……」と叫んだが、先程来のいろんな人の話がにわかに真実味を帯びて、今さらながらに恐ろしいこと限りない。
だんだん詳しく聞くに、この小佐川の人も六七人喰い殺され、昨日もこの向こうのなんとかの関の者に飛びかかったが、豪勇の男だったので狼に組みつき、力の限り戦ってとうとう狼を組み伏せた。武器は何ももっていなかったが、やっと傍らの石を拾い、狼の頭を叩き砕いて殺した。しかしわが身にも重症を負っていて、家に帰りついた後死んだなど、最近の恐ろしい出来事を次々に語るのであった。
狼が狂犬病にかかって、そのせいで白昼に数十頭の群れで出没し、人を害するのであろうか。こんな辺境まで来て獣にやられて命を落とすのは、なんとも残念だと思うにつけても、その夜は目もあわない。
ここから引き返すのも危ないし、進むのもなお危ない。かといって、この里に住み着くわけにもいかない。盗賊相手なら衣服でも与えればすむ。仇討ちなら知恵をめぐらせて対抗しよう。ところが相手は獣である。そんなものに勇気をふるって立ち向かうのは、虎を手打ちにしようとするに似て、思慮分別ある者のすることではない。
そうはいっても、当面の問題をどうしよう。明日だけのことではなく、行く先は山また山の道であり、越えていく途中にどんな猛獣が出るかしれないと、そんなことまで心配するうち、やがて夜が明けた。
なかなか出立の決断ができない。
宿の男を呼んで、「この里に馬がいたら、二頭借りてください。賃銭は十分払います」とひたすら頼むと、「駄賃馬は、このあたりにはないが」などとぶつぶつ言いながら、それでも出かけて、まもなく馬二頭を次の宿場までということで借りてきてくれた。
その上、この近隣に泊まっていた秋田へ向かう商人二人が、やはり鬼を恐れて馬二頭借りていたので、私たちの話をすると、『よい道連れだ。同道してもらえないものか』と依頼してきたという。
「これはよい味方を得た。こっちから頼みたいくらいだ」と私たちも言って、それから商人たちと申し合わせ、二人ずつの四人に馬四頭、馬子四人、手に手に長い棒を携え、鹿狩りにでも出かけるようないでたちで出立した。
小唄を歌いながら多人数の勢いで賑やかに進んだので多少は安心しながら、『昨夜心配したほどでもない。しかしもし出てきたらどうしよう』と四方に目を配る。幸い無事に向こうの宿場に着いた。
話に聞いた場所では、昨日石で叩き殺されたという狼が、顎だけになって転がっていた。残りの体はどうなったのだろう。見るからに恐ろしいことである。
この道筋十二キロほどには人家もなく、背の高い芝の野原で、その中に細い道筋がたくさんある。狂犬病がはやっていなくても狼が出る土地と思われる。その先の宿場宿場も二人の商人と組になり、みな馬に乗って用心して進んだが、二十キロ以上行くと鬼の話も出なくなった。
まったく、人を取って喰うものなので、そのあたりでは狼を鬼というのだ。古風な呼び方である。時がたった今、思い出せば滑稽な話だが、その時の不安は、とても言葉に尽くせないものであった。 
島原殺鬼 
去年のことだ。肥前島原の北有村に住む二十七歳の農夫は、幼いときから癲癇で苦しんできた。ある人が『死人が火葬になる時、飯を握ってその火中に入れて焼き、それを食べれば病気が治る』と教えたので、両親が作って与えたけれども、最初は『厭な臭いがする』と言って食べようとしなかった。しかし、何度も無理にすすめて食べさせるうち、かえってひどく好むようになった。やがて、村に死人があれば掘り出して喰うようになった。また、三四歳の幼児を見ると、取って喰おうとするのであった。
あるとき、祭か何かで人が大勢集まることがあって、その中にひとり裸の人がいた。農夫はそれを両手で抱えて喰おうとした。周りの者が引き離そうとしたが、大変な怪力で、数人がかりでもかなわない。やっとのことで手をはずし、シュロで編んだ縄で縛り上げて家まで連れ帰った。父親は、斧で息子の喉を打ち破って殺した。その断末魔の声は天に響いて、まことに恐ろしいものであった。
国主から役人が派遣され、事情聴取をして帰ったが、その後の処分はなかったという。
このとき、人々は皆、「島原の人が鬼になった」と噂した。角が出て、牙が生えたとも言った。聞く者は、丹波の大江山の鬼のように思った者も多い。私がその村の人に尋ねたところ、「姿かたちは人でしたが、心が鬼と化したのは疑いありませんでした」とのことであった。仏法の鬼の図は、そんな心を形に現したものである。人々がかの農夫を鬼と言った事実が、それを証明している。 
山中の鬼女 
かつて、安威久太夫という武士がいた。野山で猟をするのが好きで、あるとき因幡ノ国多気郡鹿野辺りへ出かけ、犬を連れて深山に入った。
月の暗い夜がいつしか更けたころ、久太夫がふと見ると、木立の生い茂った崖の岩陰から、何ものかが駆け出したようだ。そいつは久太夫の犬を脅して追いかけ、深い谷の方へ追い落とすと、そのまま傍らの岩穴へ駆け込んだ。「今のはなんだろう?」久太夫は犬を呼び戻し、岩穴へ入るよう促したが、恐れて竦んでいるばかりだ。仕方がないので、供の若党に命じて、穴の中を探らせた。やがて若党は、人の女とも猿ともつかないものを引きずり出してきた。長く尖った爪で掻きむしってさんざん抵抗され、若党の手足はひどいことになっていた。「捕まえはしたものの、この暗さでは正体がよく分かりません。暴れる力が尋常でないのはたしかです」若党の言うのを聞いて、葛(かずら)で縛り上げ、村里まで連れて行くことにした。
里に着いて、あらためて火をともして見た。髪が長く伸びて膝にかかっている。よくよく見れば女だった。顔かたちはあくまで荒々しく、まるで夜叉のようだ。何を問い尋ねてもものを言うことはなく、ただニタニタと笑っている。食物を与えたが食わず、水を呑むだけだった。辺りの里人に尋ねても、知る者はなかった。集まった人々は、女を不思議そうに眺めるばかりだったが、そのうちの齢七十有余の老人が、こんなことを言った。
「その昔、近くの村で、産後まもない女がにわかに狂気して、鷲峰山へ駈け入ったと言い伝えている。その後数日、皆で捜索したけれども、とうとう見つからなかったそうだ。ざっと計算して百余年も前のことだが、おおかたその女ではないか」
結局、久太夫は里人に命じて、女を再び山へ追い入れさせた。縛めを解かれて逃げ走る速さは、驚くべきものだったという。以来、この女の姿を見た人はいない。 
人肉食って何が悪い 
享保のはじめ、三河の国の保飯郡舞木村でのこと。
新七という者の女房で、いわという歳二十五になる女がいた。新七が京都から連れ帰ったのだが、いつもヒステリックで狂人のようになる性質で、とうとう新七は耐えかねて出奔した。女はあとを慕って遠州の新井まで追いかけたけれども、関所を通ることができなかった。むなしく村に引き返して独りで暮らすうち、恨みつらみがいよいよまさり、ほとんど乱心の態となった。
そのころ、隣家に死人があって、田舎の風習どおり近辺の林で火葬にした。女はそこへ行って、半焼けの死人を火から引っぱり出した。腹を裂いて腸をつかみ出すと、持参のどんぶりに入れて、うどんなどを喰うようにずるずると喰った。施主が火の様子を見に来て、びっくり仰天。村じゅうの者が棒を手にして追い払おうとすると、女は大いに怒って、「こんなうまい物を喰わずにおられるか。くやしかったらおまえらも喰え!」と叫びつつ踊り狂い、蝶か鳥のように飛び駆けて行方知れずとなった。
その夜には、女は近くの山寺に入って、例の器から肉を出して喰っていた。寺の僧侶が驚き騒ぎ、早鐘をついて里へ知らせたので、村人が駆け集まってきた。女はそれを見て、「ここもまた、騒がしいことよ」と言って、裏の山の道もない崖を、平地を行くように駆け登って姿を消した。
このように生きながら鬼女となった次第、村より代官に届け出たので、代官所より他村に触れ知らせたということだ。  
奥の部屋から鬼が出た 
その昔、加賀中納言前田利長の死去のときのことだ。
加賀、越中、能登の三ヵ国の武士が残らず詰めている広間に、暮れ方、身の丈六メートルに及ぶ青鬼が、奥の間からぬっと現れた。鬼は、のさのさ歩いて広間から玄関に行き、表門をさして出ていった。
三ヵ国の武士は歴戦の勇士ばかりであったが、ただ、「あっ!」と言うばかりで、鬼が玄関を出るとき、やっと腰の刀に手をかけたのである。  
鬼の妙薬 
道中扇で朝風をあおぎながら、六月の初めに江戸伝馬町より乗掛馬を仕立て、斎藤徳元という人が京の都へ旅立った。夏のことゆえ玉の汗を流しながら多摩川を渡れば、さらし布が富士の雪かと思える涼しい風情だ。美保の松原にかかる夕虹は、伝説のとおり天女の帯かと眺められる。宇津の山蔦は青葉であるが、秋の紅葉より先に見るのも趣深い。このように旅の日を重ねて、逢坂の関を前にした大津の泊まり。もう京都が間近なのが嬉しく、翌朝は鶏の鳴く頃に急いで食事を済ますと、まだ人の顔もはっきり見えないほど薄暗いうちに出立した。大津馬を曳く馬子が、旅人の眠気覚ましにと小唄をうたうのも、酒機嫌らしくておもしろい。
ようやく京都に入る粟田口の蹴揚の水に至ると、そこには大勢の鬼がいた。鬼どもは曳いていた火の車をうちやり、胸が燃える苦しみに悶えあうようにして、懸命に清水をすくって呑んでいる。水を呑み終わると、次々に鉄棒を枕に横たわって、「ああ、苦しい」と、虎の皮のふんどしをした腰をよじりはじめた。「もはや命の終わりだ。昔から人が喩えに言うように、鬼は死んだら行くところがない。おお、どうなるんだ俺たちは」恐ろしい眼から涙を流し、青息吐息に角をうなだれている鬼どもの姿は、いかにも哀れであった。その中で頭が少し禿げて地獄の詐欺師みたいな風貌の、世慣れて分別ありげな鬼が、徳元が薬箱を持っているのに気づいて、馬の前に来てかしこまると、こう言った。
「ご覧のとおり、われらは罪人を苛む地獄の役人でござる。このたび大悪人の人殺しめが成敗になったのを見かけ、皆で火の車を飛ばして粟田口まで迎えに参って、さて試みにと、死骸を一口ずつ食べもうした。ところが思いもよらず死骸は塩漬け。食べ過ごしてひどく咽喉を渇かし、夢中でここの水を飲んだところ、今度は腹をこわしてこの難儀。地獄には懇意の医者もござるが、旅先ではいかんともしがたい。どうかお情けで療治を願いたい」
徳元は『これは普通の療治では駄目だろう』と考えて、塩漬けの死骸を食べ慣れている刑場周辺のカラスを捕らえさせ、それを煎じて呑ませた。薬が効いて危ない命を助かった鬼どもは、車を飛ばせ、鉄火を降らせ、「さらばさらば。このお礼は、あの世にお越しなされた時に」と声を掛けて去っていった。 
鬼を思え 
ある人が医者に、夜ごと淫夢を見て夢精するため、ことのほか疲れるのだが、どうしたらよいかと相談した。医者は、「女のことや若衆のことばかり考えながら寝るから、そんな夢を見るのです。これからは何か勇ましいことを考えたり、鬼のことなどを思って寝るようにしなさい」と助言した。
その後、医者がまたその人を診察したところ、以前よりいっそう疲れ果てている。どうしたのかと尋ねると、「おっしゃるとおり鬼のことを思って寝るようにしたところ、夜どおし夢で鬼に尻を犯られて、ものすごく疲れます。こんなことなら、前のように夢精していたほうがましですよ」と応えた。 
獅子谷の鬼子 
京都の東山 獅子谷の里で、明応七年ごろ、土地の者の妻が奇異なるものを産むこと、三度に及んだ。
最初の出産では、通常の男子を産んだ。これが嫡子である。二度目の出産で、異形のものを産んだ。ただし如何なるものだったか、さだかでない。三度目の出産では、ツチノコを産んだ。目・鼻・口のないもので、これはすぐに殺してしまった。
四度目の出産で、鬼子を産んだ。生まれ落ちたとき既に三歳児の大きさで、元気にあたりを走り歩いた。父親が追いかけて捕らえ、膝の下に押さえつけて見ると、全身が朱のごとく赤く、両目のほかに額にも目があった。耳までおよぶ大口で、上下に歯が二つずつ生えていた。父親は嫡子を呼んだ。「おい、横槌を持って来い」鬼子は父親に手に噛みついたが、槌でもって繰り返し殴打して、叩き殺した。その後は、大勢の人が入れかわり立ちかわり見物にやって来た。
鬼子の死骸は、西大路 真如堂の南の山ぎわ、岸ノ下に深く埋めた。翌日、農夫が三人、おのおの担い棒をかついで道を行くと、岸ノ下の土がむくむく蠢いている。モグラだと思って棒の先で突いたら、鬼子が現れた。三人は大いに驚いて、「これは噂に聞く獅子谷の鬼子だぞ。早々に打ち殺せ」と棒をふるった。しかし容易なことでは死なない。激しく打ちのめして、ついに殺した。縄をつけて京の町まで引きずっていったが、途中で多くの石に当たっても、皮膚が頑強で少しも破れない。これを見た京中の人は、寄ってたかって死骸をさんざん打ちひしぎ、ぼろぼろにして捨てたのだった。
このこと、常楽寺の栖安軒琳公が、まだ喝食(かっしき)のころに岸ノ下で打ち殺すのをまのあたりに見た、と話したとか。 
あまりな死に方 
江州日野谷の石原村に、道節という金持ちがいた。無類のけちで欲深く、慈悲の心など持ち合わせない者であった。道節は七十歳にして生きながら餓鬼となり、大食すること限りなかった。一日に飯を四五升食らいながら、ついにあがき死にした。死後六十日目、道節の霊が嫁にとり憑いた。嫁はまる十日間、「飯が食いたい。飯を食わせろ」と叫び続けたけれども、いろいろ供養したので、やがて本復することができた。道節の兄もまた、飢えの止まらない病に罹って、限りなく大食した。大桶に飯を入れ、昼夜を問わず食いたいだけ食わせたが、百日ほど際限なく食ったあげく死んだ。近隣の大塚村で確かに聞いた話である。
江州の綺田村に、孫右衛門という者がいた。剃髪して西源と名乗った。ある夜 大入道が現れて、西源を大いに折檻した。その後も毎夜 縛られて吊され、荒くれ男が火に入れ水に入れ、さんざん責め苛んだ。西源はたまらず、便所に隠れるなどしたが、探し出されて責められた。結局、五十日ほどで責め殺されたのであった。土地の代官の治右衛門から平右衛門という者が聞いて、語ったことである。
越前の敦賀に、名の知られた金持ちがいた。ことのほか貪欲な者であった。寛永二十年六月の末に難病に罹り、苦痛のあまり眼を皿ほどに大きく剥きながら、金銀を取り出して積ませ、「この金で療治してくれ。命を助けてくれ」と言って、さらに苦悶した。「今日死ぬ。今死ぬ」と騒いで、十日ほど猛烈にもがき苦しんだ末、恐ろしい有様で死んだ。死骸を棺に押し籠めておいたところ、生き返ってそこらを這い回った。打ち叩いても死なないので、やむをえず切り殺した。その死骸をどう捨てたのか、知っている者はいない。 
お婆さんは鬼になった 
丹波の国の野々口という所に住む与次という者の祖母は、したい放題のわがままで罪深い生き方をしてきて、いまや百六十歳を超えていた。与次も八十歳を過ぎ、子が多数、孫はさらに大勢いる身なのだが、この老婆は、与次はわが孫だからと、気に食わぬことがあると叱り飛ばすこと、小児に対するのと変わりない。それでも一家は、当主の祖母として孝養を尽くしていた。
たいへんな高齢でありながら、目はしっかり見えて、なんなく針の穴に糸を通す。耳もさとくて、内緒話をたやすく聞きつける。九十歳くらいのときに歯がみんな抜け落ちたが、百歳を超えるとまた元どおり生えてきた。世間の人は不思議がり、赤子に『この婆さんにあやかれ』とばかり名前をつけてもらって、ありがたがったりしていた。
老婆は、昼は家にいて麻をつむぐなどしている。ところが、夜になるとどこへともなく出かけていく。そういうことが続いたので、さすがに家族が怪しんで跡をつけたところ、老婆は気づいて振り返り、物凄い声で威嚇すると、杖をつきながらも飛ぶような足早で、どこへとも知れず歩み去った。このころになると、体から肉は消え落ちて骨ごつごつと太く現れ、両眼の白い部分が碧く変じていた。朝夕の食事はわずかに摂るだけなのに、気性はいちだんと激しく、若い者もとうてい及ばない。そのうち、昼にも出ていくようになった。孫、曽孫、その嫁などに向かって、「わしの留守に部屋の戸を開けるなよ。窓から覗き込むなよ。もし戸を開けたら呪ってやるぞぉ」と言って出かけるので、家人は、どんなわけがあるのかと怪しんだ。
ある日、昼に出かけて夜更けまで帰ってこなかったので、与次の末の子が酒に酔った勢いで部屋に入ってみたら、そこには、犬の頭、鶏の羽根、幼児の手首、人の髑髏や手足の骨など、数知れず積み重なっていた。愕然として酔いもたちまち醒め、走り出て父親の与次に告げた。一族が集まってどうしたものかと相談しているところに、老婆が帰ってきて、部屋の戸が開いているのを見て怒り狂った。裂けるほど見開かれた両眼がぎらぎら光る。大きくあいた口、罵り呪う声があたりをわななかせる。恐ろしさは言いようもない。そのまま走り出て、行方知れずとなった。
後に、大江山のあたりで、薪をとっていた者が出会ったらしい。白い帷子の裾を帯に挟んだ姿で、杖をついて山頂に向かっていく。飛ぶように速い。猪を捕まえてねじ伏せたのを見て、ぞっと身の毛がよだち、逃げ帰ったという。かの老婆、生きながら鬼になったに相違ない。 
鬼一管 
陸奥国宮城郡の本川内に、勝又弥左衛門という狐獲りの天才がいた。若いころから多くの狐を獲るうち、いよいよ腕を上げて、弥左衛門のために命を失った狐は数百をくだらない。獲られることを憂い嘆いたある狐が、老僧に化けて弥左衛門の前に現れ、「生き物の命をとることなかれ」と諌めたが、まるで耳を貸さずに、その狐を獲った。
また、何とかの明神と崇められていた白狐も獲ったという。弥左衛門のもとに浄衣を着けた者が来て、「明神のお告げなり。狐を獲ることをやめよ」と諭したが、それも聞かず罠を仕掛けたところ、白狐がかかったそうだ。このように並外れた名人だったので、世の人は「狐獲り弥左衛門」と呼びならわしていた。その狐の獲り方は、次のようなものである。
まず鼠を油で揚げて味付けする。同じ油鍋で粉に挽いた小豆を炒る。これらを袋に入れて持ち、狐の棲む野原へ行くと、揚げ鼠の匂いをひとしきり振りまく。戻りの道々では炒り小豆粉を一つまみずつ撒き、細流のあるところではちょっとした橋のようなものをかけたりする。家に帰ると、屋敷内に罠を仕掛ける。これで必ず、狐が来て罠にかかってくれる。
ある人が、「目に見えない狐の居所を、どのようにして知るのか」と問うと、弥左衛門いわく、「狐というものは、目に見えなくても、そのあたりに近寄れば必ず身の毛がよだつ。野を分けめぐって何となく身の毛がよだてば、狐がいると知れるのだ」なにしろ名人なので、狐除けには『勝又弥左衛門』と本人自筆の札を貼ればよいとも言われていた。
同じころ同国に、鯰江六大夫という笛の名手がいた。
国主の宝物に『鬼一管』という名笛があって、これはむかし鬼一という人が吹いた笛だが、余人には吹くことができなかったのを、六大夫は見事に吹きこなした。以来、『鬼一管』は六大夫が、我が笛のごとく預かっていた。ところが六大夫は、故あって罪に問われ、『網地二わたし』という遠島に流されることになった。ただし預かりの笛については特に沙汰がなかったので、流罪の島まで携えて行った。島での無聊の日々、笛だけを慰めとして吹いていた。するといつの頃からか、夕方になると、十四五歳くらいの少年が垣根の外に立って聴くようになった。
風が吹き、雨の降る折にもそうしていたので、「入って聴くがよい」と呼んでやると、それからはいつも家に入って聴いた。何日かが経った夜、少年は笛を聴き終わってから、悲しげに言った。「すばらしい笛を聴くのも、今宵が最後となりました」六大夫が不審に思って問うた。「何があったのだ。わけを話してごらん」「はい。じつは私は人間ではなく、千年を経た狐なのです。勝又弥左衛門が、この島に年を経た狐がいると知って、獲りに来ます。もはや命は助かりません」六大夫は思案した。
「危難が迫るのを知らずに命を失うのは、世の常のことで是非もない。しかしおまえは、勝又弥左衛門が来ると知っているではないか。知りながらなぜ命を諦めるのか。この島に弥左衛門がいる間、わしがおまえをかくまおう。この家にじっと隠れて、危難を逃れるがよい」
「いや、それがだめなのです。家に籠もって助かるようなら、自分の穴に籠もってでも凌ぐことができますが、弥左衛門の術の前では狐の神通を失うので、行けば命がないと承知しながら、自分で罠に近寄ってしまいます。どうにもなりません。さあ、今まで心を慰めてもらったお礼に、何でもお望みの珍しいものをお見せしましょう。なんなりとおっしゃってください」
「では、一の谷の逆落としから始めて、源平の合戦の様子を見たいものだな」
「たやすいことです」
少年が答えるやいなや、座敷の中はたちまち険しい山谷と変じ、いかめしくもきらびやかに装った将と兵馬が打ち合い駆け巡り、無数の矢が飛びちがい、大海に軍船が走り、追いついた船から次々乗り移るさまなど、面白さは言いようもないほどだった。やがて座敷は何事もなかったように元に戻り、少年はこんなことを言い残して去った。
「きたる某月某日、松が浜に国主がおいでになります。その折に『鬼一管』をお吹きなさい。きっと吉事があるでしょう。私の死後のことになりますが、今日までのお情けの礼に、お教えします」
弥左衛門が島に来て罠をかけると、くだんの狐は七度まで外して逃げたが、八度めにかかって獲られた。六大夫は、それを聞いて哀れさに涙しつつ、教えられたとおりの日に笛を吹いた。松が浜では、空晴れてのどかな海を眺めながら国主が昼の休みをとっていた。そこへ何処からともなく笛の音が、浦風に乗って聴こえてきた。
「誰だろう。今日、あのように笛を吹くのは」傍近くの者に尋ねても、誰も知らないので、浜の住人を呼んで問うと、「あれは『網地二わたし』の流人、鯰江六大夫が吹くのです。いつも風のまにまに聴こえてまいりますよ」と言う。
国主は、「ああ、見事なものだ。島からここまで、およそ三百里の海路を吹きとおす。六大夫こそ、まことの笛の名手というものだ」としきりに感動し、それゆえか、ほどなく六大夫は召し返された。 
餓鬼が憑く 
伊勢から伊賀へ越える道でのこと。一人の男が私に追いすがって、こんなことを言った。
「わたしは大阪の者です。途中の道で餓鬼に憑かれたものか、ひもじくて一歩も歩けないほどです。まことに難渋しておりますので、何か食い物をお持ち合わせなら、少しでも分けていただきたく……」変なことを言う人だと思いながら、旅の途中でこれといって食糧の持ち合わせもなかったが、刻み昆布を少々持っていたので、「こんなものでもよろしいか」と言って渡すと、大変喜んで、すぐさま食べてしまった。「餓鬼が憑くとは、どんなことなんですか」と尋ねると、男は応えた。「目には見えませんが、このあたりに限らず、あちこちであることです。路傍で餓死した乞食などの怨念が残って餓鬼となったものなのか、通行の者に取り憑くのです。これに憑かれると、とにかくむやみに腹が減って体の力も気力も抜けて、歩くこともできなくなります。わたしなどは、たびたびそんな目に遭っていますよ」
この者は薬種商で、注文をとって諸国をめぐり、旅から旅の暮らしなのだという。世の中には、この者の言うようなこともあるのだろうか。後日、播州の国分寺の僧に尋ねたところ、「拙僧も、まだ若輩のころ、伊予で餓鬼に憑かれたことがあります。以来、諸国を行脚するおりには、食事のたびに飯を少しずつ取り置き、紙などに包んで袂に入れております。餓鬼に憑かれたときの用心です」とのことだった。なかなかに理解しがたいことである。 
伊勢の国から鬼が来た 
応長年間のころ、伊勢の国から都に、女の鬼になったのを連れてきたということがあった。二十日ばかりのあいだ毎日、京都や近郊の人が鬼を見ようとしてやたらに出歩いたものである。
「昨日は西園寺に行ったらしい」「今日は上皇の御所へ行くらしいぞ」「今、どこそこにいるぞ」などと言い合ってはいるものの、実際に見たという人はいない。でも、嘘っぱちだと言い切る人もいなくて、身分の上下を問わず皆、ただ鬼のことばかり噂している。
ちょうどそのころ、私が東山から安居院のあたりへ出かけたとき、四条から北にいる人が皆、北の方角をさして走っていくのに出会った。「一条室町に鬼がいる」とわめいている。今出川のあたりから見ると、上皇が賀茂祭りを見物する桟敷の辺は、もう通行できないほど混み合っている。これほどの騒ぎなのだから、まったく根も葉もないことではあるまいと思って、人を遣って様子をたずねさせたところ、鬼に遭った人などいないのであった。日が暮れるまで空騒ぎし、しまいには喧嘩が始まるなど、どうにも呆れはてた話だったのである。
その後、たくさんの人が病気に罹って二三日寝込んでしまうようなことがあって、「あの鬼の流言は、この前兆だったのだ」などと言う人もいた。 
奥島に来た鬼 
承安元年の七月八日、伊豆の国奥島の浜に一艘の船が漂着した。
暴風に遭ったのだろうと、島民たちが様子を見に行くと、陸地から百メートルほどのところで、船を縄で海底の石につなぎ、鬼が八人、泳いで岸にやってきた。粟酒や食べ物を与えると、飲み食いすること、馬のようであった。鬼どもはものを言わない。身長二メートル半前後、髪は夜叉のごとく、目はまるくて猿の目のようだ。みな裸で、わすかに蒲を編んだものを腰に巻いているだけ。赤黒い肌に、いろいろな模様をくっきりと入墨している。それぞれ二メートルばかりの杖を持っていた。
そのうち、島民の一人の持っている弓矢を欲しがった。断ると、鬼どもは豹変し、にわかに鬨の声をあげて襲撃してきた。杖をふるって、まず弓矢を持った者を一撃に打ち殺した。そのほか打たれた者九人のうち、五人までが即死した。さらに鬼は、体から火を発して暴れ回った。このままでは島じゅう皆殺しかと思われたが、神物の弓矢を持ちだして立ち向かったところ、退却して海に入り、船は風に向かって走り去った。
その年の十月十四日、この事件を報告書に記し、鬼の落とした帯とともに国司に届け出た。帯は、蓮花王院の宝蔵に収められたということだ。 
水餓鬼 
仁和寺の第五世門跡 覚性法親王が、ある静かな夕べ、手水で身を清めた後ただ一人端座していると、怪しいものが御簾を上げて入り込んで、目の前にかしこまった。背丈は二尺に足りず、足は一本。いちおう顔や姿は人間のように見えるが、ひどく蝙蝠(こうもり)に似た面相だ。
「おまえは、いったい何者か」「はい、わっしは餓鬼でございます。いつも水に飢えて堪えがたく苦しみおる水餓鬼でございます。世間の病で、瘧(おこり)と申しますのは、わっしのすることでして、それというのも、わっしが水を求めましてもじかには得がたいので、人に憑いて、その人に飲ませるのでございます。ところが世の人々は、門跡様に願って御手跡やら御念珠やらを賜るようになりました。それが身に触れた者は、もうわっしに冒されることがありません。まして祈祷をいただいた者など、近くにも寄りつけません。これでは、わっしの渇えは耐え忍びようがないのです。どうかお助けください」
聞いて、いかにも可哀想だと思い、「それがまことなら、不憫なことだ。今後は心に留めておこう」と言って、たらいに水を入れて渡してやると、頭を突っ込むようにして、実にうまそうにごくこくと、全部飲み干した。
「もっと欲しいか」「はい、いくら飲んでも飽くことがありません」そこで水生の印を結んで、水の生じる指を口に差し当ててやると、嬉しそうに吸いついてきた。だが、しばらくそうするうちに、その指先から厭な痛みが生じ、しだいに全身に及ぼうとした。はっとして餓鬼を振り払い、火印を結ぶと、苦痛は去ってもとの静穏な心地に戻った。 
鬼の足跡 
延長七年四月二十五日の夜、宮中に鬼の足跡が発見された。玄輝門内外、桂芳坊のほとり、中宮庁・常寧殿のうちなどにあった。大きな牛の足跡に似ていた。ひづめのあとは青く、さらに赤い色が混じっていた。一二日たつうちに、次第に薄れていった。兵衛府の詰所にいた兵士の話では、当夜、大きな熊が入ってきたように見えて、そのまま失せたそうだ。
鬼の足跡に混じって、小児の足跡もあったという。不気味なことだ。 
吉野の山の変な鬼 
昔、吉野山の日蔵上人が奥山で修行していたとき、風変わりな鬼に出会った。身長二メートルを超える青鬼で、髪は火のごとくに赤いが、首はか細く、肋骨が浮いている一方で腹が出ており、足が細くてひょろひょろしている。そいつが、上人の姿を見ると、腕で顔をおおって激しく泣いたのである。
「うわあ、ぶさいくな鬼が出てきたなあ」と、 上人もさすがに唖然としながら、「おいおい、鬼よ。いったいどうしたのだ」と尋ねると、鬼は泣きながら、こんなことを語った。
「私は、もう四五百年も昔に恨みを残して死に、鬼となった者です。鬼となってから、まず仇敵を恨みにまかせて殺し、その子、孫、曽孫、曽孫の子と、ことごとく殺しました。それで今はもう、殺す相手がなくなってしまいました。殺されて生まれ変わった奴らを、また殺してやろうと思うのですが、生まれ変わり先がわからないので、どうしようもありません。憎しみと恨みは相変わらず胸を焦がすばかりなのに、仇の子孫は絶えてしまい、私ひとり、晴らしようのない怒りに悶々としているのです。あんな心を抱いて死んだのでなかったら、極楽や天上に生まれたかもしれないのに、恨みを残したばっかりに、果てしなく苦しまねばならない身となったのが、悲しくてなりません。他人に恨みを残せば、結局、我が身を苦しめるばかりなのです。仇の子孫は絶え、わが命は果てしない。ああ、こうと知っていたならば、……」
鬼は際限なく涙を流して泣き続ける。泣いているうち、頭から炎がちろちろ出てきて、しだいに大きくなった。やがて鬼は、燃えさかる頭のままよろよろと、山の奥へ立ち去っていった。上人は可哀想に思い、この鬼のために、さまざまの罪滅ぼしのための回向をしたということである。 
鬼の棲む島 
昔、インドに僧伽多(そうかた)という人がいた。五百人の商人を船に乗せて、財宝豊かな海外の港を目指して出帆したが、にわかに激しい嵐に遭遇した。船は南へ南へと矢のような速さで吹き流された。やがて見知らぬ陸地に寄りついたので、乗り組みの人々は『やれ、助かった』と、われがちに船を下りた。
上陸してしばらく休んでいると、たいそう美しい女たちが十人ばかり、歌をうたいながら通りかかった。知らぬ世界に漂着して心細いかぎりだったのが、こんな大勢の美女を見てすっかり嬉しくなり、口々に声をかけて呼んだ。呼ばれて女たちは寄ってきた。近くで見るといちだんと美しく、その愛らしさは比類ない。五百人すべてが女を見つめて、賛嘆すること限りなかった。商人たちは女に話しかけた。「我らは財宝を求めて船出した者ですが、嵐にあって見知らぬところへ流れ着き、途方に暮れていました。しかし、あなた方の様子を見たら、辛い気持ちは吹っ飛んでしまいました。どうか今すぐ我らを、あなた方の家に連れていってください。船が大破して、帰りようがないのです」
女たちは、「それなら、ついておいでなさい」と言って、先に立って歩きだした。女たちの家は、白く高い土塀を大きくめぐらし、厳めしい門をそなえていた。商人たちを中に入れると、すぐさま門が閉ざされた。敷地の中にはたくさんの家が建ち並んでいた。男の姿は一人も見かけない。女ばかりだったので、商人たちは思い思いに女を妻にして、そこにある家に住んだ。夫婦の情愛はすべて、限りなく深いものとなった。
僧伽多は、妻を片時も離れたくないほどいとおしんだ。しかし、そうして睦まじく暮らす中にも、変に思うところがあった。妻は毎日、長いこと昼寝をする。寝入っているときも美しい顔なのだが、なにか少し気味悪く、怖ろしげに変貌しているのだ。僧伽多は、これは何かわけがあるぞと思って、ある時そっと起きてあたりを調べて回ると、壁で隔てられたところが幾つもあった。うち一つの箇所は、高い土壁で囲まれたうえに、戸にも堅く錠がさされていた。壁の角をよじ登って中を覗くと、そこには多くの人の姿があった。ある者は既に死んでおり、ある者は生きてうめき声を洩らしていた。白骨死体や、血に染まった死体がたくさん転がっていた。
僧伽多は、まだ生きている一人を手招きして尋ねた。「あなたがたは何者ですか。なぜ、こんな目に遭っているのですか」その人の答えは、恐ろしいものだった。「私は南インドの者だ。貿易のために航海しているとき、暴風にあってこの島に吹き寄せられ、絶世の美女どもに騙されて、故郷に帰ることも忘れて暮らしていた。だが、あの女どもが産む子供は女ばかりだ。そして、男が自分たちをただただ可愛がって暮らしているうちに、別の商船が島に寄りつくと、その船の男を新たにたぶらかし、元の男をこのように捕らえて、毎日の食糧にするのだ。おまえたちも、また船が来たら、こんな目に遭うだろう。なんとかして早く逃げるがよい。鬼の女は昼、六時間ばかり昼寝をする。その間に、逃げられるなら逃げよ。私はもう駄目なのだ。ここは四方が鉄で固められているし、その上、膝の裏の筋を切られているから」このように泣く泣く言うのを聞いて、僧伽多は『おかしいとは思っていたが、そうだったのか』と急ぎ戻った。
他の商人たちに話すと、みな驚き慌てた。とにかく、こうしてはいられない。女の寝ている隙に浜まで逃げた。浜で全員が声をあげて、はるかな浄土に向かい観音の助けを祈願した。すると沖の方から巨大な白馬が、波を泳いで商人たちの前まで来て、うつぶせに伏した。ありがたい、願いが届いたのだと思って、みな白馬に取りついて乗った。
女どもが昼寝から起きてみると、男が一人もいない。「しまった、逃げたぞ!」みんなして浜まで出てみると、男たちが葦毛の馬に乗って海を渡っていくところだ。女どもはたちまち背丈三メートルあまりの鬼の姿になり、何十メートルも躍り上がって叫び罵った。商人たちの中に一人、相手の女がこの世にまたとないほど素晴らしかったことを思い出した者がいたが、その未練のせいだろうか、ふと馬の背から滑り落ちた。鬼はその男を奪い合い、引きちぎって喰らった。馬は商人たちを乗せて海を行き、やがて南インドの西の浜に上陸すると、身を伏せた。人々が喜び合いながら降りると、馬はかき消すようにいなくなった。
僧伽多はこうして辛くも助かったものの、あまりにも怖ろしい体験だったので、それを人には語らなかった。ところが二年後、かつて妻であった鬼の女が、僧伽多の家に訪ねてきた。以前よりもいっそう魅力的になっていて、言いようがないほど美しい。
女は語りかけた。「前世からの契りなのでしょうか、あなたを限りなくお慕いしておりましたのに、そんな私を捨ててお逃げになったのは、どうしてなのですか。私たちの国では、ときどき怪しい鬼が出て人を喰うことがあります。ですから門に厳重に錠をさし、塀を高く築いているのです。あのときも、大勢の人が浜に出て騒いでいる声を聞いて現れた鬼どもが、怒って暴れていたのです。決して私たちの仕業ではありません。あなたがお帰りになって後、あまりに恋しく悲しく思えて……。あなたも、同じ気持ちではないのですか」こう言ってさめざめと泣くのを聞けば、普通の人の心なら、言うとおり信じてしまうだろう。しかし僧伽多は激しく憤って、太刀を抜いて女を殺そうとした。
女はこの仕打ちを限りなく恨んだ。僧伽多の家を出ると、その足で宮廷に参上して、「僧伽多は、私の年来の夫であります。それなのに私を捨てて、夫婦として暮らそうとしません。この不正を、誰に訴えたらいいのでしょうか。どうか陛下、この是非を裁いてくださいませ」と申し出た。宮廷にいた公家や殿上人は一人残らず、女の美しさに心を奪われてしまった。皇帝もそれを聞いて物陰から覗いたが、なるほど、言葉で表せぬほど素晴らしい。玉のように美しいこの女に比べれば、大勢いる女御・后はすべて土くれのようなものに思えた。
皇帝は『これほどの女を拒む心が分からない。どういうわけか』と思って、僧伽多を呼んで尋ねさせた。
僧伽多は、「あれを宮廷にお入れになるなど、とんでもない。なんとも恐ろしい者なのです。必ず忌まわしい事件が起こるに違いありません」と言上したが、皇帝は意に介さなかった。「僧伽多は馬鹿なやつだな。もうよいわ。後ろの門から連れて来い」と蔵人を通して命じたので、女は夕暮れ方に参上した。
皇帝が女を近くに呼び寄せて見ると、容貌といい姿形といい物腰といい、すべて限りなく心惹かれるありさまである。皇帝は女と床に入って後、次の朝もその次の朝も起きて来ず、全く政務を怠ってしまった。
僧伽多が心配してやって来た。「忌まわしいことが起こりますぞ。ああ情けない。皇帝はもうすぐ殺されてしまう」しかし、誰も気に留める者はいなかった。そうして三日目の朝、まだ御格子も上がらぬ時刻に、女が皇帝の寝所から出てきた。女は目つきが一変して、世にも恐ろしげな顔で立っていた。口には血がついている。しばし周囲を見回してから、軒より高く飛び上がり、雲に入って消え失せた。驚いた人々が、この変事を報告しようと寝所に参上したところ、御帳の中から血が流れ出ていた。不審に思って内を見ると、血まみれの皇帝の頭が一つ転がっていた。ほかには何も残っていなかった。宮廷は目も当てられない大騒ぎとなった。臣下の男も女も、泣き悲しむことかぎりなかった。
亡帝の子であった皇太子が、やがて帝位につくと、僧伽多を呼んで、事の次第を問うた。「こんなことが起こると思って、恐ろしい者ですからただちに追い出されるようにと申し上げたのですが……。どうか陛下のご命令を下さいませ。あの者どもを討ち滅ぼしに参りたく存じます」と言上すると、「申すとおりに命ずる」とのことだった。
「それでは、帯刀の兵士百人と弓矢の兵士百人を早船に乗せて出発させるようはからってください」僧伽多は、この軍を率いて鬼の国に漕ぎ寄せた。まず商人のように装った者を十人ばかり浜におろすと、前と同様に玉のごとく美しい女どもが歌を歌いながら近づき、彼らを誘って女の城に連れて行った。その後をつけていった二百人の兵士が、城に乱入した。斬りかかり矢を射かけると、女どもは、しばし何か訴えるような哀れげな様子を見せていたが、僧伽多が大声を上げ、走りまわって兵に下知しつづけたので、ついに鬼の姿を現した。大口を開けて反撃してくる鬼の頭を太刀で叩き割り、手足を打ち斬り、空を飛んで逃げる鬼は弓で射落とし、一人も討ち洩らさなかった。その後、家に火をかけて焼き払い、まるで廃墟の国にしてしまった。
帰国して、朝廷に首尾を報告すると、かつての鬼の国は僧伽多に与えられた。僧伽多は、二百人の軍兵とともにその国に住み、たいそう豊かに暮らした。今はその子孫が主となっているということだ。 
鬼の手 
その昔、兄弟の猟師がいて、いつも連れ立って山へ行き、鹿や猪を射ていた。その猟のやり方は、「待(まち)」といって、高い木のまたに横木を取りつけ、そこに腰を据えて、鹿が木の下に来るのを待って射るのであった。
ある夜、兄弟は五十メートルばかり隔てて、向かい合って木の上にいた。陰暦九月、月末の闇夜できわめて暗く、何ひとつ見えるものはない。ただ鹿の来る音を聞き取ろうと待つうち、しだいに夜は更けたが、鹿はやって来ない。
そうするうち、兄のいる木の上から何者かが手を下ろして、髻をとって上に引っ張り上げようとする。驚いて、髻を掴んでいる手をさぐると、たいそう痩せ枯れて骨ばった人の手であった。
兄は、『鬼がおれを喰おうとして、引っ張り上げているのだな』と察して、弟に知らせようと呼びかけた。「おーい、聞こえるか」
闇の向こうから弟が応える。
「どうした、あにき」「なあ、もし今、おれの髻を引っ張る怪しいやつがいたとしたら、おまえ、どうするか」「それなら、見当をつけて射てやろう」「実はな、今、ほんとに髻を掴んで引っ張っているやつがいるんだ」「わかった。声を頼りに射よう」「よし、射ろ!」
弟がただちに雁股の矢を射放つと、兄の頭上をかすめて何者かに射当てた手応えが、確かにあった。
「当たったはずだ」そう弟が言ったとき、兄が手でさぐると、射切られた手首が髻を掴んだままぶら下がっていた。「うん、化け物の手を射切ったぞ。今、ここに持っている。やれやれだ。さあ、今夜はもう帰ろう」「そうだな。そうしよう」二人は木から下りて、連れ立って家へ向かった。家に帰りついたのは、夜半過ぎである。
さて、この兄弟には、年老いて立居もままならない母親がいて、その母親の部屋をまん中にし、両側に兄弟それぞれが住んでいた。帰ってみると、母親が部屋でひどく呻くのが聞こえた。「何をそんなに唸っているんだ」と声をかけたが、返事もない。
兄弟が火をともして、射切った手を見ると、母親の手によく似ている。たいそう怪しく思って、よくよく見るのだが、見れば見るほど母親の手である。そこで兄弟が、母親の部屋の戸を引き開けると、母親はやにわに起き上がり、「おのれら、よくも!」と叫んで飛びかかってきた。兄弟は、「おふくろ、あんたの手なのか!」と言いざま、手を部屋に投げ入れて、戸を引き閉じてしまった。
その後まもなく、母親は死んだ。亡骸の片手は、手首から射切られてなくなっていた。母親は、ひどく老いぼれたあげく鬼となり、子を喰おうとして、あとをつけて山へ行ったのである。
親が年をとってはなはだしく老いてしまうと、きっと鬼になって、このように我が子をも喰おうとするのである。兄弟は、母親を手厚く葬ったという。 
上人 淫鬼と化す 
むかし、文徳天皇の御母にあたる染殿后(そめどののきさき)という方がいた。太政大臣藤原良房公の娘で、その容姿は言いようがないほど際立って美しかった。しかし困ったことに、この后は常に物の怪に悩まされていた。霊験あらたかと評判の僧たちが呼ばれて様々の祈祷を行ったが、まったく効果がなかった。
その頃、大和葛城山系の金剛山というところに、一人の尊い上人が住んでいた。長い年月この山で修行を積み、鉢を飛ばして食べ物を得たり、甕を水汲みに遣ったりしていた。たゆまぬ修行の結果、上人は比類のない験力を得て、評判は次第に高まった。天皇と父親の大臣もそれを耳にして、『その僧を呼んで、后の病の祈祷をさせよう』と思い、参内させよとの命が下った。使者が何度となく赴いたが、上人はその都度辞退した。しかし結局、勅命には背きがたく、ついに参上することとなった。御前に召して祈祷を行わせると、たちまちしるしが現れた。后の侍女の一人が、にわかに錯乱したのだ。何かが乗り移って泣き喚きながら走り回るのを、上人がさらに力を込めると、女は縛られたように動けない。そこをさらに激しく祈祷で責めつけた。すると女のふところから、一匹の老狐が転げ出た。くるくる回ってその場に倒れ伏し、もう逃げ去ることもできない。上人は狐を縛り上げさせ、悪道を去るよう教えを垂れた。父親の大臣は、これを見て限りなく喜んだ。それから一両日のうちに、后の病はすっかり癒えたのである。
大臣が、 「当分の間、ここに居てくれ」と言ったので、上人はしばらく帰らずにいた。夏のことで、后は単衣物だけを着て几帳の内にいたが、そこに風がさっと吹いて、ひるがえった垂れ布の隙から、たまたま上人は后の姿を垣間見た。『なんということだろう。こんな美しい人を、いまだかつて見たことがない』。上人はたちどころに目がくらんで心乱れ、胸が張り裂けそうになって、深い愛欲の情の虜となった。しかし、相手が后ではどうしようもないから、ただ思い悩むばかりだ。胸は火に焼かれるがごとく苦しく、ちらりと見たばかりの面影が片時も瞼を去らない。ついに思慮も分別もなくして、人のいない隙をうかがって几帳の内に忍び込んだ。横になっている后の腰にやにわに抱きつくと、后はびっくりして、汗みずくになって逃れようとするが、女の力では抗しきれない。上人はありったけの力で抱き伏せる。だが女房たちが異変に気づいて、大声で騒ぎはじめた。まもなく、侍医の当麻鴨継(たいまのかもつぐ)がやって来た。この者は勅命で后の病の治療のため宮中に詰めていたのだが、后の御殿の方から大声がするので、驚いて駆けつけたのだ。鴨継が見ると、几帳の内から上人が出てきた。ただちに上人を捕らえ、天皇に事の次第を報告すると、天皇は激怒した。上人は縛り上げられ、牢獄に放り込まれた。
獄につながれた上人は、ひと言の弁明もせず黙していたが、あるとき天を仰いで泣く泣く誓いを立てた。「我は今ただちに死んで鬼となり、后が存命のうちに、必ずや思いを遂げてみせる」獄吏が聞き留めて父親の大臣に知らせたので、大臣は驚き、天皇に申し上げたうえで、上人を赦免して金剛山へ帰した。しかし、もとの山に帰っても、后への情欲は我慢できるものではなかった。なんとか再び近づきたいと、日ごろ頼みとしている三宝に願いを立てたが、結局現世では叶わぬと悟ったか、『やっぱり死んで鬼となろう。鬼となって思いを遂げよう』と決めて、一切の食を断った。十日あまり経って餓死すると、たちまち鬼になった。身の丈八尺ばかり、禿髪(かぶろ)にして裸体であった。赤いふんどしをして、小槌を腰に差している。膚は漆を塗ったように黒い。眼は金鉄の碗を入れたようにぎらぎら輝く。剣のような歯が生え並んだ口から、上下の牙を剥き出していた。
鬼は、后の几帳の傍らに忽然と現れた。これを見た人は、みな動転して逃げまどった。女房などは、ある者は気絶し、ある者は衣を頭からかぶってうずくまった。もっとも、后に近しい人しか入れない場所なので、多くの人が見たわけではない。人々が恐れる一方で、后はこの鬼に魅入られてしまった。すっかり正気を失って、綺麗に身づくろいした姿でにっこり笑うと、扇で顔を差し隠して几帳の内に入り、鬼と二人 抱き合って寝た。外で聞いていると、「いつもいつも恋しく思っていた。逢えなくてつらかった」などと鬼が睦言し、后は嬉しげに嬌声をあげている。あまりのことに、女房らはみな逃げ去った。しばらく時を経て日暮れになると、鬼が几帳から出て去って行ったので、女房らは『后はどうなさったのだろう』と思って急ぎ戻り、様子を伺った。后は一見いつもと全く同じで、『何か変なことがあったかも』と不審がる気配すらなく坐っていた。ただ、眼のあたりが少し恐ろしげになったように感じられた。この事件の報告を受けて天皇は、奇怪さに怖じ恐れるより先に、『后はこれから、どうなってしまうのか』と案じて深く嘆いた。じっさい鬼は、以後毎日同じように現れた。后はそのたびに心を奪われ、ひたすら鬼をいとしく思って交接した。宮中の人々はそれを見て、どうしようもなく悲しく、いたずらに嘆くばかりだった。
やがて、鬼はある人に憑いて、「鴨継には恨みがある。きっと思い知らせてやる」と言った。鴨継はそれを聞いて恐れおののいていたが、まもなく急死してしまった。三四人いた鴨継の息子たちも、みな気が狂って死んだ。天皇も父親の大臣も、この事態を見て甚だ恐怖し、鬼を取り鎮めるべく、大勢の高僧に懸命の祈祷を行わせた。祈祷の効果があったのか、鬼は三月ばかり来ず、后の心持も少し治って以前のようになった。天皇はそれを聞いて喜び、「一度、様子を見に行こう」とのことで、后の御殿に行幸の運びとなった。常よりも心のこもった行幸で、文武の百官が残らずお供した。
天皇は御殿に入り、后に対面して涙ながらにしみじみと語りかけた。后も深く感動した様子だった。天皇の目にはそんな后の姿が、かつてと少しも違って見えなかった。と、その時……。あの鬼が、部屋の隅から躍り出た。そのまま后の几帳に入っていく。天皇が驚いて見ているうちに、后は例によって正気を失い、鬼を追っていそいそと几帳に入った。しばらく間があって、鬼は今度は南面に躍り出た。大臣・公卿をはじめ百官の者が、真正面に鬼を見て恐れおののき、『とんでもないやつだ』と思っているところへ、后が続いて出てきて、多くの人々の目の前で鬼と一緒に横になった。后と鬼はその場で、言いようもなく見苦しい痴態を、誰はばかることなく繰り広げた。やがて終わって、鬼が起き上がると、后もまた起きて几帳に入った。天皇は、どうすることもできないと思い、嘆き悲しみながら帰っていった。
こういうことがあるから、高貴な女性は、怪しい僧に近づかないよう気をつけなければならない。この話は極めて不都合で、言えば何かと差し障るような内容であるが、後世の人にみだりに僧に近づくのを戒めるため、語り伝えているのである。 
早口沢 
秋田の早口沢は、二十七里にわたる渓流である。寛政九年七月、この沢の六里ほど入ったところに、一夜のうちに長大な堤が出来た。両方から山を崩して流れを堰き止めているのだが、見れば径十数メートルを超える大石で築かれていた。いったい何ものの仕業だろうか。この辺の山には錦織木(にしごり)という木があるので、山童(やまわろ)、鬼童などが群がり集まるともいう。鬼童とは、山中で時おり見かける、童子のような姿の怪物である。先年にある人が見た大きな鬼童は、十人がかりでも抱えられな い大石を背負ったまま、うつ伏して谷水を呑んでいたそうだ。
木こりが山中で退屈したときは、必ず錦織木を焼いて、いろいろな怪物を集めて遊ぶ。南部領との境の山奥で焼いたときには、怪しい女が出てきた。苔の衣を身に纏い、茨のように乱れた長髪は白い針金のようだったが、齢はまだ四十前に見えた。毛女郎とか雪女などの仲間なのかもしれない。にんまり笑って擦り寄ってきたので、木こりも変な気になって女を犯した。その後は、時々この怪女と逢って交わったという。いかがわしい話であるが、けっして偽りではないらしい。木こりなどというものは、ひとたび淫欲を起こせば、牛馬の類までも犯すのである。
また、こんな話を聞いた。「寛政七年の四月末のことだ。小阿仁の仏社村というところに沼があって、むかしから怪獣が棲むといわれていたが、ジュンサイ採りの農夫がその怪獣に殺された。農夫の弟は激しく怒って、阿仁の小沢鉱山の鉱石を運んできて火に燃やし、真っ赤に溶解した大量の鉱石を沼に打ち込んだ。怪獣はこらえきれなかったか、岸からだいぶ離れた場所に一夜にして大堤を造り上げ、その中へ移った」早口沢の堤もこれと似たようなことではないかと、人々は噂しているそうだ。 
農夫の妻が人を食う 
安房の国の農夫の妻が鬼になって、夫を喰い殺して出奔した。海を渡って相模の国、鎌倉の光明寺付近に現れたので、周辺は大恐慌をきたした。
墓地に赴いた鬼は、墓をあばいて死者を三人喰らい、そこから雪の下方面に駆けてゆく。大蔵、大町、小町、荏柄(えがら)、二階堂、宅間、小袋谷、建長寺前の十二坊も残らず門戸を閉ざし、太鼓を叩くわ鐘を鳴らすわ、拍子木の音響き渡って、いまにも鬼は由比ヶ浜にいたるかと、騒ぎ恐れること並たいていではない。
だれ一人退治に出る者などおらぬまま、夕方から夜を過ごして暁となり、鬼はどこへ行ったのだろう、行方はまるで知れなくなった。
これは七月初旬に、富士山に参詣する者が、当地において聞いた話である。 
 
「天狗」の伝承・民話

 

天狗のたたり 
ある国の主が、領内の山の木々をたくさん伐らせた。それより毎夜一人づつ、屋敷の女たちの髪の毛が切られる事件が発生し、女たちは集まっておびえるようになった。報告を受けた主は、山中に棲む天狗を怒らせてしまったと知り、樹木の伐採をやめるように指示した。以来、髪切り事件はぱったり止んだ。 
天狗つぶて1
寛永元年、大阪石町辺りのさる家の屋根に毎夜、つぶてが落ちてきていた。
五、六個の時もあれば十四、五個の時もある。音も無く落ちている日もあれば、騒々しく降りかかって来る日もある。しかしひさしより下に落ちていたことは無い。このふしぎな出来事は夏から秋にかけて続いた。
『天狗つぶてのある家は必ず火事に見舞われる』という迷信に隣家の者はおびえ、知人は御祓いをすすめたが、つぶての家の者は一向宗の門徒で祈祷を嫌っていたので、まったく取り合わなかった。
その後その家には特に何も起きず、気にしなければ祟りも効き目が無いのかもしれない。 
天狗つぶて2 
とある侍が日光普請奉行を任じられ、日光へ向かうことになった。
同じく赴任する者たちの中に、他家に婿入りして疎遠になっていた、侍の従弟の名もあった。かつてはとても仲がよかったので、侍は再会をとても楽しみにしていた。
しかし、日光への道中も着いてからも、従弟と話す時間はほとんど無かった。また、家の違う者同士は同じ小屋での寝泊りは禁止されていたため、二人でゆっくり昔話をする機会などほとんど得られず、侍は残念に思っていた。
それは従弟の方も同じ気持ちだったようで、ある日侍に使いを寄越した。数日後の仕事終わり、会ってゆっくり話をしようと誘う内容だった。
さてその日、二人は久しぶりの再会を喜んだ。積もる話は尽きず、日は暮れ、あかりを灯してさらに話し込んで、気が付けば亥の刻、もうすぐ日付も変わる時間になっていた。
まだまだ話し足りない二人だったが、さすがにそろそろ帰ろうと、重い腰をあげることにした。そこへ突然、大きな石が落ちてきた。あたりを見回しても、誰もいなかった。
さらに石はばらばらと降ってきて、敷物の上に置かれた挟み箱や刀になどが次々と壊された。提灯の火も消えてしまったので、荷物は諦め、二人は挨拶もそこそこに、自分の従者を連れてあわただしくその場から去った。小屋までの道すがらも石は降ってきたが、不思議なことに一つとして体には当たらなかった。
さらに不思議なことは、翌朝、置いてきた荷物を従者が取りに行くと、確かに目の前で壊れた物が、すべて元の姿で残っていたことだった。
従弟のほうも、帰るときに石が当たって刀の鞘が壊れてしまったはずなのに、朝になったら元に戻っていたという。 
天狗の石切り 
日光東照宮の修繕のため、筑紫の山で石が切り出されていた。現場で指揮する奉行は三人、それぞれ夜は別の小屋に寝泊りしていた。
ある夜、一人の奉行が小屋から出てみると、山に灯りが見え、石を切る音がした。その日の作業はすでに終了したはずだったので、他の二人が勝手に進めているのでは、と奉行は考えた。
疲れ果てている人足たちを夜も働かせて、そのことを自分には一言も知らせない。翌日には二人を問いただし、返答次第では討ち果たすことになるかも知れぬ。奉行はとても怒り、夜明けを待って、他の二人に使いを送った。
ところが、前夜の作業について、二人とも何も知らなかった。人足たちに確認したところ、夜に作業をした者は一人もいなかった。
その日の晩、三人の奉行が外に出てみると、昨晩のように火がともり、石を切る音がした。明るくなってから石切り場に行ってみると、夜に作業していた様子は無かった。
この夜中の石切りは、十日あまりの間ずっと続いたが、現実の作業には何の差しさわりも無く、やがて、必要な石はすべて切り出された。
山での作業は終わり、石は船に積まれて海に出た。ところが途中で船は遭難し、石は遠江灘に沈んでしまった。例の怪異は、この事故の前触れだったのかも知れない。 
萱野五郎太夫
享保の頃、信州松本藩の物頭に、萱野五郎太夫という二百石取りの侍がいた。武芸の鍛錬を怠らず、博識で勉強家だったが、他人を軽んじる傾向があった。
ある年の正月、五郎太夫は下僕に、大型の半切桶を指定の日までに用意するよう言いつけた。桶が届くと、五郎太夫はむしろを十枚座敷に敷かせ、桶をそこに置いた。さらに命じて、餅米十二斗分の赤飯を炊かせ、出来上がったものを桶に入れた。
そして、日暮れを待って五郎太夫は沐浴し、麻の裃(かみしも)に着替えると、人払いをして座敷にこもってしまった。妻は五郎太夫が乱心してしまったのではないかと心配しながらも、成り行きを見守った。
その夜遅く、三四十人が歩き回る音が座敷より聞こえてきた。しばらく続いたが話し声は無く、日の出前には何の音もしなくなった。
朝になり、家人がおそるおそる座敷をのぞいてみると、桶の中に赤飯は一粒もなく、それどころか五郎太夫の姿もなかった。家中を探したがどこにもおらず、親戚を呼んで相談し、目付けへ届けた。目付け・大目付は検分したがさっぱり分からず、そのまま領主に報告した。
普段まじめに勤めてきた五郎太夫が、みずから失踪したとは考えにくかったが、主人に届けを出さずにいなくなってしまったため、萱野家は家名断絶になった。しかし、代々の忠義をかんがみて、あらためて五郎太夫の息子を取り立て、同じ禄を受けて藩に仕えることを許された。
翌年正月、萱野家の床の間に、誰が置いたのか一通の書状があった。開いてみると、五郎太夫の筆跡で次のようなことがしたためてあった。《私は今愛宕山に住み、宍戸シセンと名乗っている。》追伸には、《二十四日には決して酒を飲んではならぬ》と記されてあった。
京都の愛宕山は愛宕権現を祭っており、また天狗が多く住むという。二十四日は愛宕権現縁日の日で、この日に酒を飲まなければ、火難を避けられるといわれている。それきり五郎太夫からは何の連絡もなかった。
その後、藩主の家も家名断絶となり、萱野家は主家を失った。 
天狗の縄
讃岐国に照本寺という日蓮宗の寺があり、真可(しんが)という小僧がいた。
あるとき、真可は歌津へ使いに出された。その帰り道、ばくち谷という谷に差し掛かると、突風にさらわれて、空に舞い上げられた。
真可は何者かに体をつかまれていると感じたが、勇気を奮って法華経の普門品を高らかに唱えた。すると、続けて唱える声がした。真可は経を終わりからはじめに向かって逆さまに唱えた。なぞの声はそれに続くことが出来なかった。
何者かは腹を立てたらしく、真可の帯をほどくと、でたらめに真可に巻きつけて強く縛った。そのまま照本寺の縁側に真可を投げ捨てた。
真可はそのまま経を唱え続けた。寺の者が出てきて真可を見つけ、住職を呼んだ。住職は真可をじっと見ていたが、静かに声を合わせて経を唱えた。すると、真可の体が帯からするりと抜けた。
帯は様々に結ばれて解けず、帯の端すら見つけられなかった。その帯は“天狗の縄”と呼ばれ、寺に今も伝わっているという。 
天狗僧
近江国の僧・智源のもとに毎日通ってくる若い僧がいた。二十二三歳くらいのこの僧・光党は、ある日いつものようにやってきて、遠くに行くことになったから会いにこれなくなる、と暇乞いをした。
そして、これまでの感謝の気持ちに贈り物をしたいから、何かあれば教えて欲しい、とたずねた。
智源は、老いた身に望むものなどもう無いが、若い頃にいろんな寺社に巡ったものの、行きそびれたところもあるので、何かと問われればそれぐらい、と答えた。
光党はそれなら簡単だと請け負った。今から参りましょうと、智源に自分の背に乗るように促した。
智源が光党の背に乗ると、しっかりつかまって目を閉じるように言った。『移動している間は決して目を開けぬ様に』
智源は目を閉じた。そのうち、さあさあと音が聞こえてきたが、どういう状況かまるで分からない。気になってつい、目を開けてしまった。
智源は光党に負ぶわれて湖の一町ほど上を飛んでいた。怖くなって慌ててまぶたをぎゅっと閉じた。
少しして光党に言われて智源が目を開けると、二人は伯耆の国・大山にいた。その後、言われた通りに目を閉じて、讃岐の金比羅、秋葉山、大峯、富士山を巡った。
ゆっくり見てまわり、途中で食事をし、光党の背で目を閉じればすぐに次の目的地、それはとても自由な旅だった。
出発して二日後、二人は元の寺に戻った。
旅から帰って四五日後、光党がたずねて来た。『いろいろ巡り望みが叶いましたでしょう。 もし他の者でしたら、湖の上で目を開けたときに引き裂いていたところでしたが』
光党の言葉に智源は肝を潰した。
『もし今後火災などが起こる時には、前もってお知らせ致します』光党はそういい残して去って行った。 
秋葉山の火
遠州秋葉山の山頂には、時々、夜に怪火の見えることがある。“天狗の遊火”と呼ばれている。雨の番に現れると、頂から川に移って水面を流れることもある。そんな時は、里の人々は家の戸締りをして、外に出歩くのを慎しむという。 
念仏の僧、魔往生の事
美濃の国伊吹山に、長く修行を続けている聖がいた。阿弥陀如来より他の事は知らず、ただひたすら念仏を唱え続けて年を取ってきた。
ある時、いつものように深夜になるまで念仏を唱えていると、どこからか声がした。『そなたは今までずっと私に祈りを捧げてきた。唱え続けた念仏はもう十分だから、明日の未の刻に必ず迎えに参る。念仏怠らぬように』
聖はいつも以上に丁寧に念仏を唱えると、沐浴をして身を清め、香を焚き散華(さんげ)をして場を清めた。弟子たちと共に西を向いて読経をしながら約束の時間を迎えると、西の空にだんだんと何かがまたたくのが見えた。手をすり合わせ念仏を唱えながら見れば、金色の光を放つ仏の姿であった。
まるで秋の月が雲間から現れ出たように美しい光景で、天からは花が降りそそぎ、仏の額の百毫(びゃくごう)から放たれる光は聖の体を明るく照らし出した。聖は頭を床にこすり付け、手にした数珠の緒が切れそうになるくらいこすり合わせて拝み続けた。
蓮華の台座を捧げ持つように観音菩薩が聖の前に立った。聖は促されるままに台座に乗ると、紫雲に包まれた寺を離れ、仏たちとともに西の彼方に去っていった。
寺に残った弟子たちは、聖の往生を尊びながらも悲しみ、弔いをした。
それから七、八日たった頃、寺の下級の僧たちが、上級の僧たちの湯浴みに使う薪を拾いに山に入った。すると、遠くの杉の梢に坊主が一人、縛り付けられて叫んでいるのが見えた。木登りの得意な僧が登ってみると、極楽へ去ったはずの聖であった。
『どうしてこのような目に』僧が縄を解こうとすると、『迎えに来るまでここで待て、と仏に言われている』と怒り出した。それでも僧が縄に手をかけると、『阿弥陀仏、阿弥陀仏、私を殺そうとする者がいる。をうをう』と叫んだ。
ほかの僧たちも木に登り、皆で聖を下に降ろし寺に運んだ。寺の者たちも驚き悲しんだが、聖は正気に戻らぬまま、数日後になくなった。
道を探求することなくただ念仏を唱えているだけの聖は、天狗に欺かれても仕方がないのである。
( 散華−読経しながら花などを撒いて場を清めること。) 
天狗が子をさらう
会津藩主加藤嘉成の家臣である小嶋伝八郎の子・惣九郎が十一歳の春、行方不明になった。あちこち探し回ったが見つからず、祈祷師も呼んで祈らせたが、何の効き目も無いまま何日も過ぎた。
そんなある日、惣九郎の手がかりを知る者が尋ねて来た。甲賀町で古手屋を営む甚七だった。
二十日ばかり前の日の早朝、甚七たちは都合があって店を早くに開けた。店の者たちと準備をしていると、目の前の通りを山伏が二人通り過ぎた。その間には子供が一人挟まれていて、それが惣九郎だったという。
そのとき、山伏の一人が店の前に引き返してきて、十歳くらいの子供用のわらじはあるかと尋ねたが、甚七は無いと答えた。山伏たちは東の方角へ急いで行ってしまったという。
惣九郎は天狗にさらわれたようだった。伝八郎夫婦は妙法寺の日覚上人を頼った。
五の町車川に護摩壇が用意され、上人と法華僧二十人が読経を始めた。
祈祷が始まって七日目、曇りの無い青空の高くに何かが見えてきた。また、東より大鳶が現れて、この小さい何かをさらおうと近づいた。するとさらに、金色のカラスがやって来て、大鳶と小さいものの間に割って入り、大鳶の邪魔を始めた。
小さいものは次第に地面に近づいて来て、やがて護摩壇の上に落ちた。惣九郎だった。
日覚上人は仏の再来と評判になった。しかし、伝九郎は心を抜かれてしまい、生涯元には戻らなかった。 
猪鼻山天狗 
蒲生秀貞は武将にして歌人であり、新撰莬玖波集にその歌が載せられているほどである。秀貞は後に剃髪し知閑と名乗った。その知閑が、魔所として知られた甲州・猪鼻山に陣を張った時の話である。
この知閑の陣に、天狗の仕業か、山の上から大石がたくさん転がり落ちてきたかと思うと、大勢の笑い声があたりに響いた。
知閑は言った。『山海経に、狸のような形して色白く、蛇を喰う天狗と言う獣あり。また和名抄には、“あまのくつね”と訓読みしてやはり獣の部に入れり。獣に陣を煩わされるのは甚だ心外なり。昔、この山に棲みつき人を喰う大頭(たいず)魔王が、空海により巌窟に封じられ、魔王堂というものあると聞く。訪ねて行って帰ってきた者はいない。誰かいないか。この山分け入り、魔王堂を見届ける者は』
この言葉に蒲生家無双の大力・土岐大四郎元貞が進み出て、『それがしが見届け罷り帰りもうすべし』と、白綾の鉢巻しめ、黒腹の鎧を着て、白柄の大長刀(おおなぎなた)を杖に山中へ向かった。
人の通わぬ山道は険しく、蔦を引き、木の根を伝い、岩を登って、元貞は魔王堂近くまでやってきた。すると、二丈ほどもある大山伏が、柿色の衣に鉄棒携えて、雷のような大いびきをかいて寝ているところに出くわした。
元貞は長刀の石突きで山伏を突いた。『道狭くして歩行不自由なるに、さらに塞ぐとは奇怪なり。早々起きて去れ』山伏はあくびしながら起き上がり、『汝は何者にて我が眠りを妨げるか、まずは名を名乗れ』元貞答えて、『我は蒲生家家臣・土岐大四郎元貞。日本無双の剛の者なり』それを聞いて山伏は、『そんなつわものならば我と勝負せよ』と元貞に挑みかかった。
元貞と山伏は、火花を散らし激しく切り結んだ。しかし山伏ごときに負けるはずはなく、元貞の長刀の切っ先は山伏をとらえ、その体と首を二つに切り離した。
元貞は勝利の証しである山伏の首を取ろうと手を伸ばした。するとたちまち首は一羽の大鳶に変じ、虚空へと飛び去った。
元貞は魔王堂にたどり着いた。堂の軒は崩れ落ち、壁は傾き倒れ、修理された気配は無く、ただ荒れるに任されていた。また、いかにも天狗の住むところと見え、堂のまわりには牛馬人畜の骨やらが投げ散らかされていた。
魔王堂の門前には仁王門があり、その戸が開いて中から二丈ばかりある仁王像が出てきて、元貞の前までやって来た。仁王像は目を見張り足を力強く踏みしめて、『いかに客人、相撲とるべし』と挑んだので、元貞も『望むところ』と応じ、兜の緒を強く締め鎧を揺り合わせると、仁王とがっぷり四つに組んだ。
引き合い、ねじり合い、双方強く組み合ったが、元貞の力が上回り、仁王を小脇に挟むと力強く締め上げ、横様になげ倒した。
もとより年久しく風雨にさらされていた仁王像は、五体ばらばらになってしまった。元貞は『これで懲りなん』と言うと一休みした。
そこへ奥山より、凄まじくわめき叫びながら何者かが駆けて来た。元貞は身を潜め様子を伺った。それは、真っ白な髪を前後に振り乱し、鏡のような眼(まなこ)に耳まで裂けた口の、一丈ほどの鬼婆だった。左の肩にはに毒蛇が十数匹も巻きつけられ、鬼婆は右の手でそれをつまみ切っては口に運んでいた。
鬼婆は散らばった仁王のそばに寄ると言った。『哀れむべし。万里鉄面鉄胴の仁王、人を食わんとして人に砕かれり』仁王の首は答えて、『人侮りてかくの如し。我が五体集めくれよ、今ひと勝負』
婆が仁王の体を集めると、ひとつにまとまってむっくりと起き上がり、残った首を両の手で持ち上げると元のところに押し据えて、力強い足取りで元貞の前にやって来た。
元貞は長刀を取り、振り払った。仁王の首は再び体から別れ、谷底へ転がり落ち、体は婆と共に奥山へ逃げ去った。 
突然堂が震動し、大音声が山河に響いた。
『我ここに留め置かれ、衆生済度をこころざすも、耳に読経の声聞かず、香花手向ける人も無く、大頭(だいず)魔王の勧めに自然と人を喰い習えり。かたちは柔和忍辱の姿、心は悪しき鬼の肝、腹は大蛇の腹となり。幸い今宵の黙心なし、いかがせんと思いけるに客人来給う。天の助け、さらばそれへ参らん』
声の主は、堂の中の丈六(たけろく)の阿弥陀仏だった。台座からゆっくりと降り立つと、元貞に襲い掛かってきた。『仏は人を助けるのが道なるに、その人を喰うとは何事ぞ』元貞はこぶしで仏の胸をついて押し倒した。地に倒れた仏からものすごいにおいが漂ったので、元貞はその横っ腹を思い切り蹴破った。すると、ごろごろと幾十もの骸骨が転がり出た。
仏はよろめきながらも立ち上がり、再び元貞に向かって来た。元貞が長刀(なぎなた)の柄で仏を散々に打ち砕くと、その破片は数百万の蝶となり元貞に群がった。兜や面頬(めんぼお)の隙に入り込もうとするたくさんの蝶は、まるで大雪が吹き付けるようで、目を開けられず、さすがの元貞もその場から逃げ出した。
山を駆け下りる元貞を、岩の上で仁王の首が待ち構えてた。首は飛び掛り、元貞の胸に喰らいついた。元貞は仁王の首を掴んで思い切り岩に叩きつけた。首は鞠のように弾んでまたどこかに行ってしまった。
元貞は陣に帰還した。知閑に事細かに魔王堂での出来事を語っていると、虚空が鳴動し、あの仁王の首が車輪のように光を発しながら、陣中に転がりこんできた。その途端、まるで百のいかづちが落ちたような音が響き、あたりはしばし闇に包まれた。
やがて再び雲が晴れ、月が顔を出した。そこに仁王の首は無く、代わりに金色に輝く美しい天女が一人立っていた。
知閑は刀に手を掛けながら女を睨みつけた。『汝何者ぞ。正体を現せ』
天女は答えた。
『我はこれ、唐の玄宗皇帝の妻・楊貴妃なり。玄宗皇帝とは宿世の契深くして、生まれ変わり死に変わり、その度夫婦の契りを結ぶ。玄宗皇帝、この山の天狗となり給えば我もまた従い来れり。しかるに我ら、大凡不浄の身をもってみだりに我住む山に入り、欲しいままに踏み荒らす。早々ここを立ち去らずんば、一人も生かして帰すまじ。覚悟せよ』
知閑は怒り、その刀が抜かれたと思う間もなく天女の首を刎ねた。頭を失った体はうつぶせに倒れた。一同が駆け寄って見ると、それは天女ではなく、なんと元貞だった。   
山の上から大勢の笑い声がどっとわいた。陣中に大石が雨あられのごとく転がり込み、つむじ風が巻き起こり、山嵐が吹き荒れた。立てかけていた槍に長刀、旗印、馬印、散々に吹き散らされ、さしもの知閑もほうほうの体で陣を引き払い、急ぎ国許へ帰還したという。 
* 新撰莬玖波集−室町時代の連歌集。1495年成立。
* 蒲生秀貞−室町後期〜戦国初期の武将。
* 山海経―中国の地理書。
* 和名抄―平安時代の漢和辞典
* 長刀(なぎなた)―薙刀と同じ。江戸時代には女性の武器になったが、それ以前は僧兵や武士の武器だった。
* 石突き-なぎなたの柄の先の部分。 
* 丈六(たけろく)−一丈六尺の仏像。参考記事「丈六(たけろく)の仏。」
* 面頬(めんぼお)―兜とともにつけるマスクのようなもの。 
牛若丸と大天狗 
能「鞍馬天狗」は、牛若丸が沙那王といった幼年時代を題材にして、大天狗が沙那王に武術を教え、平家を倒し源氏の再興を期するという内容の物語である。桜の季節を背景に、シテ(天狗)と子方(沙那王)がやりとりする光景は、色気を感じさせるものであり、これを男色の能と見る見方もある。
作者の宮増はほかに「接待」「大江山」「夜討曾我」などを作っており、わかりやすく大衆受けする作風である。この曲は、大天狗をシテにしているところから、「車僧」など一連の天狗ものに分類されることもあるが、ほかの作品の天狗たちが、どこかユーモラスで憎めないのに対し、この曲の大天狗は父性あふれる姿に描かれている。
曲の前半では、大勢の子方が花見見物に出てくる。これらの子方は「花見」と呼ばれ、能楽師の子どもが歩けるようになると最初に勤めるものだとされている。また中入では大勢の木葉天狗が出てくるが、これは狂言師の子どもたちである。こんな子どもたちの活躍もあって、全体がにぎにぎしく、楽しさあふれる作品になっている。
舞台にはまずシテが現れる。ほかの天狗もの同様前段では直面である。シテは鞍馬山から花見をするために比叡山までやってきた旨を口上した後、舞台前方右側の床几に腰掛ける。(以下、テクストは「半魚文庫」を活用)
シテ詞「かやうに候ふ者は。鞍馬の奥僧正が谷に住居する客僧にて候。さても当山において。花見の由うけたまはり及び候ふ間。立ち越えよそながら梢をもながめばやと存じ候。
そこへ西谷の能力に扮した間狂言が現れ、東谷まで花見の案内をしにゆくのだと述べる。続いてワキ方と花見の子方が大勢現れる。能力はワキの僧に案内の手紙を差し出す。
狂言「これは鞍馬の御寺に仕へ申す者にて候。さても当山において毎年花見の御座候。殊に当年は一段と見事にて候。さる間東谷へ唯今文を持ちて参り候。いかに案内申し候。西谷より御使にまゐりて候。これに文の御座候御らん候へ。
ワキ詞「何々西谷の花。今を盛と見えて候ふに。など御音信にもあづからざる。一筆啓上せしめ候ふ古歌にいはく。けふ見ずはくやしからまし花ざかり。咲きものこらず散りもはじめず。げにおもしろき歌の心。たとひ音づれなくとても。木蔭にてこそ待つべきに。
地歌「花咲かば。告げんといひし山里の。告げんといひし山里の。使は来たり馬に鞍。鞍馬の山の雲珠桜。たをり枝折をしるべにて。奥も迷はじ咲きつゞく。木蔭に並み居ていざ/\花をながめん。
ここで、花見に興を添えるために小歌を謡えと僧に命じられ、狂言が小謡を謡う。歌いおえた狂言(能力)は客僧の存在に気づき、追い払おうとするが、僧たちは引き上げようと言って、子方一人を残し、みな退場する。
狂言「いかに申し候。あれは客僧の渡り候。これは近頃狼藉なる者にて候ふ。追つ立てうずるにて候。
ワキ詞「しばらく。さすがに此御座敷と申すに。源平両家の童形達各御座候ふに。かやうの外人は然るべからず候。しかれども又かやうに申せば人を選び申すに似て候ふ間。花をば明日こそ御らん候ふべけれ。まづ/\此処をば御立ちあらうずるにて候。
狂言「いやいやそれは御諚にて候へども。あの客僧を追ひ立てうずるにて候。ワキ「いやただ御立あらうずるにて候。
ワキや子方が去って一人舞台に残った沙那王に向かって、シテはやおら立ち上がって近づき、何故一人だけ残ったのかと問いかける。それに対して沙那王は、平家一門のなかにまぎれて、自分だけ肩身の狭いをしているのだと応える。
シテ「遥に人家を見て花あれば即ち入る。論ぜず貴賎と親疎とを弁へぬをこそ。春の習と聞くものを。浮世に遠き鞍馬寺。本尊は大悲多聞天。慈悲に洩れたる人々かな。
子方「げにや花の下の半日の客。月の前の一夜の友。それさへ好みはあるものを。あら痛はしや近うよつて花御らん候へ。
シテ詞「思ひよらずや松虫の。音にだに立てぬ深山桜を。御訪の有難さよ此山に。
子方「ありとも誰かしら雲の。立ち交はらねば知る人なし。
シテ詞「誰をかも知る人にせん高砂の。
子方「松も昔の。
シテ「友烏の。
地「御物笑の種蒔くや。言の葉しげき恋草の。老をな隔てそ垣穂の梅さてこそ花の情なれ。花に三春の約あり。人に一夜を馴れそめて。後いかならんうちつけに心空に楢柴の。馴れは増らで恋のまさらん悔しさよ。
シテ詞「いかに申し候。唯今の児達は皆々御帰り候ふに。何とて御一人是には御座候ふぞ。
子方詞「さん候唯今の児達は平家の一門。中にも安芸の守清盛が子供たるにより。一寺の賞翫他山のおぼえ時の花たり。みづからも同山には候へども。よろづ面目もなき事どもにて。月にも花にも捨てられて候。
シテ「あら痛はしや候。さすがに和上臈は。常磐腹には三男。毘沙門の沙の字をかたどり。御名をも沙那王殿と付け申す。あら痛はしや御身を知れば。所も鞍馬の木蔭の月。
地「見る人もなき山里の桜花。よその散りなん後にこそ。咲かばさくべきにあら痛はしの御事や。
地歌「松嵐花の跡訪ひて。松嵐花の跡訪ひて。雪と降り雨となる。哀猿雲に叫んでは。腸を断つとかや。心凄のけしきや。夕を残す花のあたり。鐘は聞えて夜ぞ遅き。奥は鞍馬の山道の。花ぞしるべなる此方へ入らせ給へや。さても此程御供して見せ申しつる名所の。ある時は。愛宕高雄の初桜。比良や横川の遅桜。吉野初瀬の名所を。見のこす方もあらばこそ。
客僧があまりに親切なので、不思議に思った沙那王がその訳を聞くと、シテは自分こそ大天狗であると本性を明かし、明日改めて参会しようと言い含めて、ともに舞台を去る。
ロンギ子方「さるにても。如何なる人にましませば。我を慰め給ふらん。御名を名のりおはしませ。
シテ「今は何をか包むべき。我此山に年経たる。大天狗は我なり。
地「君兵法の。大事を伝へて平家を亡ぼし給ふべきなり。さも思しめされば。明日参会申すべし。さらばといひて客僧は。大僧正が谷を分けて雲を踏んで飛んでゆく。立つ雲を踏んで飛んでゆく。
(来序中入間)中入では、大勢の木葉天狗たちが現れる。大天狗が沙那王に武術を教えることになったので、自分たちも稽古に励もうと言って、たがいに槍をもってやりあう。
後段では、若武者姿になった子方と、大天狗になったシテが登場する。大天狗は供の天狗たちについて語り、天狗の威力を強調する。
後子方一声「さても沙那王がいでたちには。肌には薄花桜の単に。顕紋紗の直垂の。露を結んで肩にかけ。白糸の腹巻白柄の長刀。
地「たとへば天魔鬼神なりとも。さこそ嵐の山桜。はなやかなりける出立かな。
後シテ「そも/\これは。鞍馬の奥僧正が谷に。年経て住める。大天狗なり。
地「まづ御供の天狗は。誰々ぞ筑紫には。
シテ「彦山の豊前坊。
地「四州には。
シテ「白峯の。相模坊。大山の伯耆坊。
地「飯綱の三郎富士太郎。大峯の前鬼が一党葛城高間。よそまでもあるまじ。邊土においては。
シテ「比良。
地「横川。
シテ「如意が嶽。
地「我慢高雄の峯に住んで。人の為には愛宕山。霞とたなびき雲となつて。月は鞍馬の僧正が。
地「谷に満ち/\峯をうごかし。嵐こがらし滝の音。天狗だふしはおびたたしや。
大天狗は更に、黄石公の故事について語り、沙那王に武術を教える。
シテ詞「いかに沙那王殿。只今小天狗をまゐらせて候ふに。稽古の際をばなんぼう御見せ候ふぞ。
子方詞「さん候只今小天狗共来り候ふ程に。薄手をも切りつけ。稽古の際を見せ申したくは候ひつれども。師匠にや叱られ申さんと思ひ止まりて候。
シテ「あらいとほしの人や。さやうに師匠を大事に思しめすに就いて。さる物語の候語つて聞かせ申し候ふべし。
語「さても漢の高祖の臣下張良といふ者。黄石公にこの一大事を相伝す。ある時馬上にて行きあひたりしに。何とかしたりけん左の履を落し。いかに張良あの履とつてはかせよといふ。安からずは思ひしかども履を取つてはかす。又其後以前の如く馬上にて行きあひたりしに。今度は左右の履を落し。やあ如何に張良あの履取つてはかせよといふ。なほ安からず思ひしかども。よし/\この一大事を相伝する上はと思ひ。落ちたる履をおつとつて。
地「張良履を捧げつゝ。張良履を捧げつゝ。馬の上なる石公に。はかせけるにぞ心とけ兵法の奥儀を伝へける。
シテ「そのごとくに和上臈も。
地「そのごとくに和上臈も。さも花やかなる御有様にて姿も心も荒天狗を。師匠や坊主と御賞翫は。いかにも大事を残さず伝へて平家を討たんと思し召すかややさしの志やな。
地歌「抑武略の誉の道。
(舞働)盛り上がったところで、シテの舞働きがあり、曲はキリの部分へ向かって高まっていく。
地歌「抑武略の誉の道。源平藤橘四家にも取りわきかの家の水上は。清和天皇の後胤として。あらあら時節を考へ来るに。驕れる平家を西海に追つ下し。煙波滄波の浮雲に飛行の自在を受けて。敵を平らげ。会稽を雪がん。御身と守るべし。これまでなりや。御暇申して立ち帰れば。牛若袂に。すがり給へば実に名残あり。西海四海の合戦といふとも。影身を離れず弓矢の力を添へ守るべし。頼めやたのめと夕かげくらき。頼めやたのめと。夕かげくら馬の。梢に翔つて。失せにけり。  
鞍掛山の天狗 
出羽の国というから今の山形県だね。出羽三山といって、高い山が三つあって、その一つに羽黒山と呼ばれる有名な山があるのを知っているかな。
昔はそこにたくさんの天狗が住んでおった。天狗はみんな酒が好きだった。
ある酒盛の時だった。ちょっとしたことから、仲間げんかになり、余り威張ってたので、とうとう出羽の国を追い出されてしもうた天狗がいた。天狗はしかたなしに、山々を歩き回った末、下野国の古峯山(こぶさん)にやってきて 身をひそめていた。
だが、大水が出ると、鬼どもが怒かり狂ったように流れる鬼怒川に近い羽黒村にある羽黒山の方が、おもしろくなって、そこにやってきたんだね。
ある日のこと。人里から、近くの新里村には馬の鞍の形をしたいい山があるという話を聞いた天狗は、その鞍に乗って、空を飛んで見ようと思ったんだろうね。さっそく、鞍掛山にやってきて、ながめていたが、
「なーるほど。いい鞍だわい。それなら、わっしが乗ってもうまく飛るぞ。おもしろい。おもしろい。」 とひとり感心しながら、人里に下り始めた。
「出羽を追い出されてから、すきな酒を切らしているので、力がぬけてしもうた。ぐっと、いっぱい、ほしいもんだ。」
などと考えながら、坂道を歩いていくと、山仕事から帰える喜平という者に出会った。
喜平は一目みるなり、真青になり、驚きのあまり、足がすくんで、その場に座りこんでしもうた。そして、ふるえた声で、「天狗さま。天狗さま。命だけはお助けを・・・・・。おらあ、おらあ、なにも悪いことなんがしてねえだよ。」 手を合わせ拝むばかりだった。
「うっ はっ はっ はっ。」
天狗は大声で笑って言った。
「驚くのも無理がなかろ。でも、天狗さまは決っして、悪いことはいたさぬ。実はな、酒が飲たいのじゃ。酒がな。何の仕度にも及ばぬが、酒だけごちそうしてくれんかのおー。」
喜平は、やっとふるえがとまった。
「ここんところ、あまり飲んでおらんので、力がでなくて困っているでな。わっしは、この山を登る途中に、そら、大きな岩屋があるだろ。あそこに住んでいる天狗じゃよ。里人を苦しめようなどとは、思っておらんから、安心せい。」
喜平はいまさら逃出すこともできず、天狗を連て家に帰った。酒をふるまうと天狗は喜こんで夜道を山に帰っていった。
二日ばかりして、「喜平、酒はまだ残っておらんかの。」 と天狗がやってきた。喜平も酒好者だから 「天狗さまにあげる酒、とっておいたぜ。うーんと飲でおいでな。うんめぇ酒が好でな。天狗さんと酒が飲るなんて、こんないいことはそうあるもんじゃねえですだ。」
喜平は天狗とすっかり仲よしになってしもうて、毎晩、天狗が酒飲にくるのを楽しみに待ようになった。
秋風が吹き始めたある晩のことだった。しばらく姿を見せなかった天狗がやってきた。
「喜平、おるかい。」 ひとり酒を飲んでいた喜平の家の戸を開けて入ってきた。
「天狗さま。ずいぶん、しばらくでごぜえますだ。今夜は、ゆっくりと飲み明しあんしょ。」というと
「いや、喜平どん。その気持はありがたい。だがな、わけがあって夜の明けぬうちに出羽の国へ帰ることになりおったわ。わっしは天狗だから、すごい力を持っておるんだ。世話になったお礼に、喜平どんに何か困ったことができたら、一度だけ、わっしの力をかしてやることにした。
これは小さいけど、わっしが作った梵天だ。岩屋には、鞍掛の山の神を刻んでおいたから、これを持っていって、拝めばいい。ずいぶん、世話になったのう。喜平どん。いつまでも達者でな。」 と、言ったかと思うと天狗の姿は消てしもうたんだ。
喜平は夢でもみているような気がしてならなかったが、小さな梵天だけが、喜平の座っている前に残っていた。
「一度だけ、わっしの力を貸てやる。喜平どんに困ったことがあったら・・・。」喜平は何度か天狗の最後の言葉を、くり返してみた。そして前にある梵天を見ながら、天狗の言葉を信じた。
「一度だけのことだから、本当に困りごとができたときに、天狗さまの力を借ることにしよう。」 喜平はそう心に決めて、毎日仕事に精を出して働いた。やがてこの里で一番の働き者になった。その精か、来年も、来年も、作物がよく実のり、この里で一番のお金持になったそうだ。 
 
「黒塚」安達ヶ原の鬼婆

 

能の演目の一つ。観世流では「安達原(あだちがはら)」。四・五番目物、鬼女物、太鼓物に分類される。いわゆる「安達ヶ原の鬼婆」伝説に取材した曲である。作者については不詳。作者付の記述から、近江猿楽所縁の曲であったと見られる。
廻国巡礼の旅に出た熊野那智の山伏・東光坊祐慶(ワキ)とその一行は、陸奥国安達ヶ原で、老媼(前ジテ)の住む粗末な小屋に一夜の宿を借りる。老媼は自らの苦しい身の上を嘆きつつ、求められるまま枠桛輪で糸を繰りながら糸尽くしの歌を謡う。やがて夜も更け、老媼は「留守中、決して私の寝所を覗かないでください」と頼み、山伏たちのために薪を取りに出る。しかし、山伏に仕える能力(アイ)は、寝所の中が気になって仕方がない。山伏との攻防の末、ついに密かに部屋を脱け出して寝所を覗くが、そこには大量の死体が積み上げられていた。能力からの知らせを受けた山伏は、「黒塚に住むという鬼は彼女であったか」と家から逃げ出すが、正体を知られたと悟った鬼女(後ジテ)が怒りの形相で追ってくる。山伏は数珠を擦って何とか鬼女を調伏し、鬼女は己の姿に恥じ入りながら去っていく。

この曲では『拾遺和歌集』巻九の、陸奥の安達の原の黒塚に鬼こもれりといふはまことか
という平兼盛の歌が構想の核となっている。
同じく鬼女をシテとする「紅葉狩」と異なり、この曲ではシテは般若の面を着け、その本性は人間であるとされている。事実、自己の運命を慨嘆し、その正体を知られることを恐れる姿は弱々しく、また山伏のために薪を用意しようとするなど女性的な優しさも見せるが、その前場の人間的な言動はあくまで、本性を隠すための「演技」とも見ることが出来る。事実、結末も「葵上」のように成仏するのではなく、法力に屈服して退散するのみである。
また、「人の心の二面性を描いた能」という解釈もある。そういった意味では、この曲のシテは、いわば誰もが持つ心の奥の秘密を暴かれたのであり、観客はむしろその鬼女に同情さえしてしまう。人間としての側面と鬼としての側面のどちらを強調するかで、曲の趣は変化する。
作中では語られないシテの女性の前歴については、都の高貴な女性(馬場あき子)、六条御息所に自己同一化する女性(金関猛)、都の白拍子(松岡心平)などの説、またその造形上のモデルを『源氏物語』の六条御息所とし、この曲のシテは過去世の罪科を悔いる六条御息所の後身であるという説などが提示されている。
作者については『能本作者注文』が「近江能」、『自家伝抄』が「江州へ遣す、世阿弥」、また金春家書上およびそれを参照した『二百十番謡目録』が金春禅竹としている。近江猿楽の犬王は同じ般若物の「葵上」を得意曲としていることなどからも、この曲も近江猿楽所縁と見られる。 
安達が原
安達が原の人食い鬼伝説を能にしたものを、観世流では「安達が原」といい、他の流派では「黒塚」という。両者をあわせると「安達が原の黒塚」となり、鬼の住処を表すというわけである。しかし伝説と言っても、古来あったものではなく、能が先にあって、其れが民間に広まったということらしい。
前後の二段からなる。前段は、旅の山伏一行が人里離れたところで夜を迎え、老婆の住むあばら家に一夜の宿を借りる場面で、老女が糸車を繰りながら昔を懐かしみ、その後に、薪を取りに裏の山に消えていく。其の際老女は、自分の留守中に決して閨を覗かぬようにと言い残していく。そこで老女の言葉に関心をそそられた従者の能力が、主人の静止を振り切って覗いてみると、閨の中にはたくさんの死体が積み重なっていて、血を流したり腐乱しているのが見える。驚いて主人に報告すると、主人らは一目散に逃げていく。
後段は、老女が鬼の姿で現れ、約束を破った山伏たちに襲い掛かるところが描かれる。山伏たちは数珠を揉みながら呪文を唱え、その法力によって辛くも逃れるという筋書きである。
道成寺、葵の上とともに三鬼女と称されているが、ほかの二作がシテが脇に直接の恨みを持たないのに対して、この曲は、自分を裏切った脇に向かって、シテの老女が鬼となって襲い掛かるという、いわば復讐劇の形をとっている。
裏切られた老婆の恨みがテーマであるから、鬼は山伏たちをただ食おうというのではなく、懲らしめようという態度を取る。そこが他の鬼の話とは異なるこの曲の独特なところだ。
ここでは先日NHKが放送した喜多流の舞台を紹介する。シテは塩津哲生、ワキは福王茂十郎だった。
舞台には作り物が据えられ、その中にはシテの老婆があらかじめ潜んでいる。そこへワキの山伏とワキツレがやってくる。(以下テクストは「半魚文庫」を活用)
ワキ(那智の東光坊の阿闍梨祐慶)たちは熊野を旅立って諸国巡回(廻国行脚)をするうちに陸奥の安達が原で日が暮れる。
ワキ、ワキツレ二人 次第「旅の衣は篠懸の。旅の衣は篠懸の。露けき袖やしほるらん。
ワキサシ「これ那智の東光坊の阿闍梨。祐慶とは我が事なり。
ワキツレ二人「夫れ捨身抖藪の行体は。山伏修行の便なり。
   *捨身抖藪(しゃしんとそう。捨身行と抖藪行。断崖から身を投ずる行法と入峰修行)
ワキ「熊野の順礼廻国は。皆釈門の習なり。
三人「然るに祐慶此間。心に立つる願あつて。廻国行脚に赴かんと。
歌「我が本山を立ち出でて。我が本山を立ち出でて。分け行く末は紀の路がた塩崎の浦をさし過ぎて。錦の浜の。をり/\は。なほしほりゆく旅衣。日も重れば程もなく。名にのみ聞きし陸奥の。安達が原に着きにけり。安達が原に着きにけり。
脇たちは人里離れたところに立っている一軒家を見つけ、そこで一夜を過ごさんものと案内を乞う。すると作り物の中から老婆が出てきて、最初のうちは断るのだが、そのうちに相手に同情して宿を貸すことにする。
ワキ詞「急ぎ候ふ程に。これははや陸奥の安達が原に着きて候。あら笑止や日の暮れて候。このあたりには人里もなく候。あれに火の光の見え候ふ程に。立ちより宿を借らばやと存じ候。
シテサシ「実にわび人の習ほど。悲しきものはよもあらじ。かゝる憂き世に秋の来て。朝けの風は身にしめども。胸を休むる事もなく。昨日も空しく暮れぬれば。まどろむ夜半ぞ命なる。あら定めなの生涯やな。
ワキ詞「いかにこの屋の内へ案内申し候。
シテ詞「そも如何なる人ぞ。
ワキツレ「いかにや主聞き給へ。我等始めて陸奥の。安達が原に行き暮れて。宿を借るべき便もなし。願はくは我等を憐みて。一夜の宿をかし給へ。
シテ「人里遠き此野辺の。松風はげしく吹きあれて。月影たまらぬ閨の内には。いかでか留め申すべき。
ワキ「よしや旅寐の草枕。今宵ばかりの仮寐せん。ただ/\宿をかし給へ。
シテ「我だにも憂き此庵に。
ワキ「たゞ泊らんと柴の戸を。
シテ「さすが思へば痛はしさに。
地歌「さらばとゞまり給へとて。樞を開き立ち出づる。異草も交る茅莚。うたてや今宵敷きなまし。強ひても宿をかり衣。かたしく袖の露ふかき。草の庵のせはしなき。旅寐の床ぞ物うき。旅寐の床ぞ物うき。
家の中に通されたワキは、そこに置かれている糸車に興味を覚え、それは何の用をするのかと尋ねる。そこで老女は、その糸車を繰りながら、昔語りを始める。この部分がこの能の前半の見どころだ。
ワキ詞「今宵の御宿かへすがへすも有難うこそ候へ。またあれなる物は見馴れ申さぬ物にて候。これは何と申したる物にて候ふぞ。
シテ詞「さん候。これはわくかせわとて。いやしき賎の女のいとなむ業にて候。
ワキ「あらおもしろや。さらば夜もすがら営うでお見せ候へ。
シテ「実に愧かしや旅人の。見る目も恥ぢずいつとなき。賎が業こそものうけれ。
ワキ「今宵とどまる此宿の。主の情深き夜の。
シテ「月もさし入る。
ワキ「閨の内に。
地次第「真麻苧の絲を繰返し。真麻苧の絲を繰返し。昔を今になさばや。
シテ「賎が績苧の夜までも。
地「世わたる業こそものうけれ。
シテ「あさましや人界に生を受けながら。かゝる憂き世に明け暮らし。身を苦しむる悲しさよ。
ワキサシ「はかなの人の言の葉や。まづ生身を助けてこそ。仏身を願ふ便もあれ。
地「かゝる憂き世にながらへて。明暮ひまなき身なりとも。心だに誠の道にかなひなば。祈らずとても終になど。仏果の縁とならざらん。
糸車を座った姿勢で繰っていた老婆は、そのまま居グセに流れていく。地謡とのやりとりをしながら、老婆は昔の若かった頃のことを思い出して感慨にふける。老いの嘆きの一節である。
クセ「唯これ地水火風の仮にしばらくも纏りて。生死に輪廻し五道六道にめぐる事唯一心の迷なり。凡そ人間の。あだなる事を案ずるに人更に若きことなし終には老となるものを。かほどはかなき夢の世をなどや厭はざる我ながら。あだなる心こそ恨みてもかひなかりけれ。
ロンギ地「扨そも五条あたりにて夕顔の宿を尋ねしは。
シテ「日陰の糸の冠着し。それは名高き人やらん。
地「賀茂のみあれにかざりしは。
シテ「糸毛の車とこそ聞け。
地「糸桜。色もさかりに咲く頃は。
シテ「くる人多き春の暮。
地「穂に出づる秋の糸薄。
シテ「月に夜をや待ちぬらん。
地「今はた賎が繰る糸の。
シテ「長き命のつれなさを。
地「長き命のつれなさを思ひ明石の浦千鳥音をのみひとり泣き明かす音をのみひとり鳴き明かす。
クセのあと、老婆は、夜が寒いので裏山まで薪を取りに行こうという。そして立ち上がって橋掛かりの方へ歩いていくが、ふと立ちとまって振り返ると、自分の留守中に決して閨の中を覗いてはならぬと言い残す。
シテ詞「如何に客僧達に申し候。
ツレ詞「承り候。
シテ「あまりに夜寒に候ふ程に。上の山に上り木を取りて。焚火をしてあて申さうずるにて候。暫く御待ち候へ。
ワキ「御志ありがたうこそ候、さらば待ち申さうずるにて候。やがて御帰り候へ。
シテ「さらばやがて帰り候ふべし。や。いかに申し候。妾が帰らんまで此閨の内ばし御覧じ候ふな。
ワキ「心得申し候。見申す事は有るまじく候。御心安く思し召され候へ。
シテ「あらうれしや候。かまへて御覧じ候ふな。此方の客僧も御覧じ候ふな。ワキツレ「心得申し候。
中入では、能力の間狂言が活躍する。能力は、老婆が山伏に言った言葉が気になって仕方がない。人の閨を覗くななどということは、当たり前のことなのに、その当たり前のことを、わざわざ山伏のようなものに向かって云うのは、なにか事情が隠されているに違いないと思うのだ。そこで、どうにかして閨の中を覗こうとするが、そのたびに山伏にたしなめられてなかなかできない。立ち上がって見に行こうとすると、寝ていたはずの山伏が起きて、制止するからだ。
しかしやっと三回目で、能力は閨の中を覗くことができる。するとそこにはすさまじい光景が広がっていた。沢山の死体や骨が積み重ねられていたのである。驚いた能力は山伏に報告する。山伏たちも閨の中の光景を見て仰天する。
ワキ「ふしぎや主の閨の内を。物の隙よりよく見れば。膿血忽ち融滌し。臭穢は満ちて膨脹し。膚膩ことごとく爛壊せり。人の死骸は数しらず。軒とひとしく積み置きたり。いかさまこれは音に聞<。安達が原の黒塚に。籠れる鬼の住所なり。
ワキツレ二人「恐ろしやかゝる憂き目をみちのくの。安達が原の黒塚に。鬼こもれりと詠じけん。歌の心もかくやらんと。
三人歌「心も惑ひ肝を消し。心も惑ひ肝を消し。行くべき方は知らねども。足に任せてにげて行く。足に任せてにげて行く。
山伏たちが逃げようとするところに、老婆が鬼女の姿となって現れる。老婆の面は般若に変っている。
ここで鬼女は山伏たちに襲い掛かろうとするが、山伏たちは数珠を揉み呪文を唱えて難を逃れようとする。両者入り乱れるうちに、法力が効果を現し、鬼女は夜風と共に消え去っていく。
出端又ハ早笛後シテ「如何にあれなる客僧。詞とまれとこそ。さしもかくしゝ閨の内を。あさまになされ参らせし。恨申しに来りたり。胸を焦がす炎。咸陽宮の煙。紛々たり。
地「野風山風吹き落ちて。
シテ「鳴神稲妻天地に満ちて。
地「室かき曇る雨の夜の。
シテ「鬼一口に食はんとて。
地「歩みよる足音。
シテ「ふりあぐる鉄杖のいきほひ。
地「あたりを払って恐ろしや。
イノリ ワキ「東方に降三世明王。
ツレ「南方の軍荼利夜叉明王。
ワキ「西方に大威徳明王。
ツレ「北方に金剛夜叉明王。
ワキ「中央に大日大聖不動明王。
三人「おんころころせんだりまとうぎ(薬師如来に祈る呪文)、おんあびらうんけんそはか(大日如来に祈る呪文)、うんたらたかんまん(不動明王に祈る呪文)
地「見我身者。発菩提心。見我身者。発菩提心。聞我名者。断悪修善。聴我説者。得大智恵。知我心者。即身成仏。即身成仏と明王の。繋縛にかけて。責めかけ/\。祈り伏せにけりさて懲りよ。
シテ「今まではさしも実に。
地「今まではさしも実に。怒をなしつる。鬼女なるが。忽ちによわりはてゝ。天地に身をつゞめ眼くらみて。足もとは。よろ/\と。たゞよひめぐる。安達が原の。黒塚に隠れ住みしもあさまになりぬ。あさましや愧づかしの我が姿やと。云ふ声はなほ。物冷まじく。云ふ声はなほ冷まじき夜嵐の音に。立ちまぎれ。失せにけり夜嵐の音に失せにけり。  
安達ヶ原の鬼婆

 

伝説1 
歌舞伎や謡曲でも有名な黒塚である。ここ安達がヶ原の「鬼婆」は、その名前を岩手と言ったそうです。京都のある公卿屋敷の乳母であったそうな・・・・その姫が重い病気に罹ったので易者に聞 いてみると、「妊婦の生肝を飲ませれば治る」を信じ旅立ち、辿り着いた場所がここ安達がヶ原 の「岩屋」であった。
木枯らしが吹く晩秋の夕暮れ時、岩手が住まいに していた岩屋に、生駒の介・恋衣(こいぎぬ)と名のる若夫婦が宿を求めてきた。その夜更け身ごもっていた恋衣が急に産気づき、生駒の介は産婆を探 しに外に出て行った。岩手は待ちに待った生肝を取るのはこの時とばかり、出刃包丁を振るって苦しむ恋衣の腹を割き生肝を取ったが、苦しい息の下から「私達は小さい時京都で別れた母を探しているのです」と語り息をひきとった。ふと見ると恋衣はお守袋を持っていた。このお守袋を見てびっくり仰天。これこそ昔別れた自分の愛しい娘であることが分かり、気が狂い鬼と化してしまった。以来、宿を求めた旅人を殺して生き血を吸い、いつとはなしに「安達がヶ原の鬼婆」と言われて、全国にその名が知れ渡ったと いう。
数年後、熊野の僧・東光坊がここを訪れて、岩屋の秘密を知り逃げようとしたところ、鬼婆は凄い剣幕で追いかけてくる。東光坊はこれまでと思い如意輪観音が入った笈を下ろし祈願すると、観音像が遥かに舞い上がって大きな光明を放ち、白真弓で鬼婆を射殺してしまったという。その後東光坊の威光は後世に伝わり、「白真弓如意輪観音」 の功徳は、奥州仏法霊場の随一と称する「天台宗」の古刹となった。
鬼婆を埋めた塚を「黒塚」と呼び、今でも 阿武隈川 の畔にあり、その昔を物語っているようであります。また、この「鬼婆」伝説は能の『黒塚』や『安達原』(観世流)、歌舞伎の『黒塚』などの題材となっている。 
伝説2
その昔、奥州安達ヶ原は阿武隈川沿いに拡がる広大な原で、旅人がよく道に迷うところでもあった。
物語は『都のお屋敷で、病弱な姫の乳母「岩手」(後の鬼婆)が、「妊婦の生き肝を飲ませれば治る」という易者の言葉を信じ、姫の病気を治したい一心から遠く陸奥に旅立ち、たどり着いた場所が安達ヶ原の岩屋だった。ある晩、若夫婦が一夜の宿を請い、身ごもっていた若妻が急に産気づいて、夫が薬を求めて外へ出て行った。岩手は、妊婦の生き肝を取るのはこの時とばかりに出刃包丁をふるって襲いかかり、若妻の腹を裂き、生き肝を取り出した。今際の息の下で「私達は都で別れた母を探して旅をしています」と若妻から聞かされ、若妻の持っていたお守袋を見てびっくり。この若妻こそ、昔別れた愛しいわが娘であることが分かって、岩手は気が狂い、鬼と化してしまった。以来、道に迷って宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、肉を喰らう鬼婆となる。
ある日、安達ケ原を訪れた紀州の僧・東光坊が鬼婆の部屋の秘密を知り、急ぎ逃げると、出刃包丁を持った鬼婆がすさまじい剣幕で追いかけてきた。僧は最早これまでと観念し如意輪観音に祈願するや、尊像が虚空はるかに舞い上がって一大光明を放ち白真弓で鬼婆を射殺してしまった』という、おどろおどろしいお話。この鬼婆を埋めた塚を「黒塚」といい、衝撃的な運命をたどる母と娘の物語は歌舞伎や謡曲などでも知られている。
この物語が、今開催中の二本松城菊人形展の会場で「鬼婆伝説・奥州安達ヶ原(10段返し)」の演目で菊人形により演じられている。 
伝説3
福島県二本松市の阿武隈川東岸に、「安達ヶ原の黒塚」と呼ばれる場所があります。この安達ヶ原には、かつて人を喰らう鬼婆が棲んでいたと伝えられ、「黒塚」とはその鬼婆の墓のことです。真弓山観世寺の境内には、鬼婆が棲んでいたという巨岩が横たわっており、本堂には皺くちゃの乳房を垂れ下げた鬼婆の木像に、人殺しに使ったという出刃包丁や鍬なども飾られています。
名取郡黒塚に重之が妹あまたありと聞きつけていひつかしける
みちのくの安達ヶ原の黒塚に 鬼こもれりと聞くはまことか
という、平兼盛の歌を元に作者今春禅竹が謡曲「黒塚」を創作したと言われますが、この歌は大和物語(第五十八)によると、兼盛が陸奥の国にいたころ、閑院の王の娘で、黒塚に住み、藤原三男恒忠の妻となっていた女性を鬼女と詠んだのだといわれています。兼盛は、この女性の娘に求婚したのですが断られたので、腹いせに詠んだのではないかと考えられてもいます。「安達ヶ原の黒塚」は謡曲ばかりでなく、歌舞伎、文楽でも広く取り上げられている題材です。

安達ヶ原の鬼婆は、その元の名を「岩手の局」といい、京都のある公卿屋敷の乳母でありました。永年手塩にかけて育ててきた姫の唖を治したい一心から、『妊婦の生肝を呑ませれば治る』という易者の言葉を信じ、遠く陸奥に旅立ち、たどり着いた場所が、この安達ヶ原の岩屋だったのでした。
木枯らしの吹く晩秋の夕暮れ時、生駒之助、恋衣と名乗る若夫婦が一夜の宿を請うたが、その夜、妊っていた恋衣が俄に産気付き、生駒之助は薬を求めに出ていったのでした。
老婆岩手は、待ちに待った人間の生肝を取るのはこのときぞとばかり、出刃包丁を振るって、苦しむ恋衣の腹を裂き生肝を取ったのでしたが、苦しい息の下から、『私たちは小さい時京都で別れた母を探し歩いているのです』と語った恋衣の言葉を思い出し、持っていたお守袋を見てびっくり仰天。これこそ昔別れた自分の愛しい娘であることがわかり、気が狂い鬼と化してしまったのでした。
以来、宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、肉を喰らい、いつとはなしに「安達ヶ原の鬼婆」といわれるようになったのです。
数年後の今から千二百年前の聖武天皇の時代、紀伊の国那智の東光坊の阿闇梨祐慶は、同行の山伏を連れて諸国を巡歴する途中、安達ヶ原にさしかかったのです。すでに日は暮れ、行けども行けども薄原で人家もない。ようやく人里離れた安達太良山の山麓に灯りを見つけ、駆けつけてみると大きな岩窟がありました。宿を求めると、世にも恐ろしげな老婆が出てきたのですが、
僧侶は一夜の宿を願うと、主の老婆は『余りにも見苦しい我が家故、泊められぬ』と断るのですが、強いて泊めてもらうことになって、庵の中に招じ入れられました。ここで祐慶は、日頃見慣れないものを見つけ、不審に思って尋ねると、老婆は、『これは枠かせ輪といって我らのような賤しい女の扱うものである』と教えて、乞われるままに枠かせ輪を回し、糸繰りの業を見せながら、浮き世を渡ることの物憂さを嘆じ、あるいはまた人生の儚きことを、糸に縁のある言葉を連ねて語り、含蓄ある人生の哲理をしっとりと物語りするのでした。
糸櫻の盛りは人の多く出る春の暮れ、秋の糸薄は月夜が殊に美しいであろう。今又、賤女は、繰る糸のように長い命の辛さを思い、明石の浦千鳥の様に独り泣き明かすのみである。
夜も更けたとき老婆が、糸繰る手を止めて、余りに寒くなったので、上の山から薪を採ってきて、火を焚いておもてなしをしようと立ち上がり、『これから山へ薪を採りに行くから、ゆっくりお休みなされ。ただし、……。」
なうなうわらハが帰らんまで、此閨の内ばし御覧じ候な。さやうに人の閨などを見る客僧にてはなく候 此方の客僧も御覧じ候、な。と、しつこく念を押す。ただならぬ気配です。旅僧は、『とんでもない、人の寝室など覗く僧ではない』と約束するのですが、禁止されると覗いてみたくなるのが人の性で、供の山伏は見たくて仕方がない、そっと覗いてみて驚いてひっくり返る。祐慶がよく見ると、老婆の寝室の内は、人の死骸ハ数知らず、軒とひとしく積み置きたり。膿血忽ち融滌し、臭穢はみちて膨張し、膚膩悉く爛壊せり。
部屋の中に人間の手足や首が転がり、あたりは血の海だった。人間を切り刻む出刃包丁や煮炊きする鍋もあった。
という物凄い状態で、これこそ古歌に聞く鬼女の棲家と知り、気も転倒して逃げていくのでした。
そこへ老婆が帰ってきた。本性を知られた老婆は鬼女の姿となって現れ、怒りをあらわし、野山に風吹きあげ、雷鳴轟き、稲妻走り、空はかき曇り、一口に喰わんと、鉄杖を振り上げ迫ってくる。もはやこれまでと思ったとき、祐慶は、最後の望みを託して、行基菩薩の作といわれる如意輪観音菩薩を取り出し、秘密の呪文を唱え一心に祈り責めたてた。
今までハさしもげに。怒りをなしつる鬼女なるが。忽ちに弱り果てて。天地に身をつづめ眼くらみて。足もとハよろよろと。ただよひめぐる安達が原の。黒塚にかくれ住みしもあさまになりぬあさましや 恥ずかしの我が姿やと。いふ声ハ猶物凄まじく。いふ声ハなほすさまじき夜嵐の音に 立ち紛れ失せにけり 音に立ちまぎれ失せにけり
安達ヶ原の黒塚に隠れ住んでいたのに身顕されてしまった。浅ましいことだ。自分の姿が恥ずかしい、という声だけは猶物凄まじい。
ついに祈り伏せられ、流石の鬼女も弱り果てて、よろよろと夜嵐の音に紛れて消えていくのでした。
老婆は、こうして仏縁を得て、黒塚に葬られ、成仏したというのですが、その一方で、老婆に殺された旅人たちは、未だ成仏しきれず、安達ヶ原を幽鬼のようにさまよっているという話が伝わっています。  
伝説4
黒塚は、二本松市にある鬼婆の墓と、その近くに住んでいたといわれる鬼婆の伝説に基づくものです。安達ヶ原に棲み、人を喰らっていたという『安達ヶ原の鬼婆』として伝えられています。黒塚の名は、正確にはこの鬼婆を葬った塚の名を指すのですが、現在では鬼婆自身をも指すようになっています。能の『黒塚』に登場する鬼女も、この黒塚の鬼婆であるとされています。観世流の能の『黒塚』では『安達原』と題するようですが、これは平兼盛の『陸奥の安達ヶ原の黒塚に鬼こもれりといふはまことか』と言う歌と、安達ヶ原の鬼女伝説を基に舞台化されたものと言われます。
安達ヶ原と同様の鬼婆の伝承は、さいたま市にも『黒塚の鬼婆』として伝わっています。江戸時代の武蔵国の地誌『新編武蔵風土記稿』には、祐慶が東国足立ヶ原で黒塚の悪鬼を呪伏して東光坊と号したとあり、前述の平兼盛の短歌もこれを詠んだものだと記述されているそうです。東光寺(さいたま市)の撞鐘の銘文にも、かつて足立郡にあった黒塚という古墳で、人々を悩ませていた妖怪を祐慶が法力で伏したとあるそうです。寛保時代の雑書『諸国里人談』によればこちらが伝説の本家とされ、昭和以前には埼玉のほうが東京に近く知名度が上ということもあり、埼玉を本家とする意見が多かったと言われます。それもあってか、歌舞伎の『黒塚』を上演する際には、俳優がこちらを参詣することもあるそうです。
昭和初期には、二本松の安達ヶ原と埼玉の足立ヶ原の間で、どちらが鬼婆伝説の本家かをめぐる騒動が勃発しています。これに対し埼玉出身の民俗学者・西角井正慶氏が、埼玉側に対して、「自分たちの地を鬼婆発祥の地とすることは、この地を未開の蛮地と宣伝するようなものだから、むしろ譲ったほうが得」と諭して埼玉側を退かせ、騒動は幕を閉じたそうです。埼玉の黒塚があった場所は後の宅地造成により見る影もなくなり、かつて黒塚にあった東光寺も、後にさいたま市大宮区へ移転しています。また、埼玉の鬼婆伝説については、氷川神社の神職が、禁をやぶって魚や鳥を捕えて食べようとした際、鬼の面で素顔を隠したことが誤伝されたとの説もあるそうです。
この黒塚に似た鬼婆伝説は、この他の地にもあります。
用明天皇の時代(585〜587)の頃、(東京都台東区)花川戸周辺に『浅茅ヶ原(あさぢがはら)』と呼ばれる場所があり、そこには奥州や下総を結ぶ唯一の小道があったのですが、そこには宿泊できるような場所がまったくない荒地でした。しかし旅人たちは、唯一あったあばら家を、宿として借りていました。この家には老婆と若く美しい娘が2人で住んでいたのですが、実は老婆は旅人を泊めると見せかけ、寝床を襲って石枕で頭を叩き割って殺害し、亡骸は近くの池に投げ捨てて奪った金品で生計を 立てるという非道な鬼婆だったのです。娘はその行いを諌めていたのですが聞き入れられることはありませんでした。
また、岩手県盛岡市南方の厨川(くりやがわ)にも安達ヶ原の鬼婆伝説があります。ここでは鬼婆の正体は平安中期の武将・安倍貞任の娘とされています。
奈良県の宇陀地方にも同様の伝説があります。安政年間の土佐国(現・高知県)の妖怪絵巻『土佐お化け草紙』にも、「鬼女」と題して「安達が原のばヽこれ也」とあるそうです。
天狗研究家・知切光歳氏の著書『天狗の研究』によれば、東光坊祐慶は、熊野修験の本拠地である熊野湯の峯の東光坊に由来する名であると言われ、この地の山伏が修行で各地を回る際、「那智の東光坊祐慶」と名乗っていたらしいのです。このことから、山伏たちが祐慶を名乗りながら各地で語る鬼婆の伝説が元となって、日本各地に鬼婆伝説や黒塚伝説が生まれたものと見られています。
いずれにしても伝説の生まれる頃は人口も少なく、寂しい場所も多く、怪談めいた話も沢山あったのでしょうが、それ以上に不思議なのは、鬼婆が住んでいた所が安達(あだち)ヶ原や足立(あだち)ヶ原であったということです。 
異説
有名な鬼婆伝説に福島県の「安達ヶ原の鬼婆」がありますが、『諸国里人談』には武蔵国足立郡(現在のさいたま市大宮区)の足立ヶ原における話しが元であるとも記されています。
『埼玉県伝説集成』には、伝説の本所について、文献が紹介されまとめられています。
昔、大宮驛の森の中に鬼婆が棲んでいて、往来の女を誘って家に泊まらせ、その女を殺して血を吸い肉を食っていた。この鬼婆を退治したのが、旅の僧・東光坊阿闍梨祐慶で、武蔵坊弁慶の師匠と言われています。祐慶が法力によって石になった鬼婆を葬った塚は黒塚と呼ばれ、現在の黒塚山大黒院あたりとされており、「安達ヶ原」や「黒塚」の能や歌舞伎,浄瑠璃をされる方々が、上演の成功を祈りにやってくるそうです。祐慶は、鬼婆に殺された人々を葬る為に、鬼婆を呪伏した際の護身仏と伝えられる金銅薬師如来像を本尊とした東光寺を開創しています。
『日本伝説叢書 北武蔵の巻』では、別の話も紹介されています。
武蔵国足立郡箕田郷(現在の鴻巣市)に生まれた渡邉綱(渡辺氏の祖)は、源頼光に仕えた頼光四天王の一人で、剛勇で知られていた。ある時、大宮の森に鬼婆が住んでいて人間を食うと言う話を聞き行ってみると聞きしに勝る大怪事であった。怒った綱はうまく老婆の元に忍び込み、容易に鬼婆を退治してしまった。 
墓場の原風景
能「安達が原」は人食いの鬼婆を題材にした作品である。那智の東光坊の阿闍梨裕慶一行が山伏姿になって東国行脚に出かけ、陸奥の安達が原に差し掛かったとき、老婆の小屋に立寄って一夜の宿を借りる。老婆はもてなしのためにと裏山に薪を採りに出かけるが、そのさい奥の部屋を決してのぞいてはぬらぬと言い残す。裕慶らが好奇心からその部屋をのぞいたところ、そこには食われてしまった人々の残骸が累々と重なっていたというストーリーである。
その陰惨な場面を謡曲は次のように謡っている。
「ふしぎや主の閨の内を、物の隙よりよく見れば、膿血忽ち融滌し、臭穢は満ちて膨脹し、膚膩ことごとく爛壊せり、人の死骸は数しらず、軒とひとしく積み置きたり、いかさまこれは音に聞<、安達が原の黒塚に、籠れる鬼の住所なり。恐ろしやかゝる憂き目をみちのくの、安達が原の黒塚に、鬼こもれりと詠じけん、歌の心もかくやらん」
ここで歌の心と言及されているのは「みちのくの 安達が原の黒塚に 鬼こもれりと 聞くはまことか」という、古歌のことである。この歌の影響はあまりにも強かったとみえ、安達が原は陸奥にあって、そこには人を捕らえて食う女鬼が住むという伝説が広まったようだ。能はそれを取り上げて、鬼に食われた人々の残骸と、それを食った鬼婆のすさまじさを、おどろおどろしく描いているのである。
だが、安達が原はかならずしも陸奥のみにあったのではない。それは鬼が住み着いて人を食い、食われた人の残骸が累々と重なっているイメージで表されているが、それはとりもなおさず、死者たちを葬った墓場をイメージしているのであり、したがって日本中どこにもあったものだという趣旨のことを、宗教民俗学者の五来重が唱えている。
五来重によれば、古代の日本人は山のふもとに死者の遺骸を捨て去る風習をもっていた。いわゆる風葬である。そのような場所には腐乱した死骸が累々と重なり、その死骸からは妖気が漂っていると観念されただろう。また死体が腐乱していく過程は、鬼がそれを食っているからだという観念も生まれたことだろう。安達が原の鬼婆の伝説は、そうした古代の日本人がもっていた墓場に対するイメージを引き継いでいるのではないか、そういうのである。
安達が原という地名に含まれている「あだ」という言葉は、もともと「むなしい」という意味をもっている。今でも「あだになる」などという表現に、意味の一端が残されている。これは死者の葬られた墓場のイメージに重なるといえる。京都には「あだし野」という地名があるが、それは死者を弔う石塔を集めたとされる場所である。また、「あたご山」は東山の山麓をさすが、そこはもと鳥辺野といって、死者を葬る場所であった。
だから安達が原とは、日本人が墓場というものに対して抱いていた感情を、伝説の上に投影したものといえるのである。
この安達が原に鬼婆が住むというのは、墓場に漂う死者の霊が、生きているものに取り付くという恐怖を表しているものと考えられる。日本人は古来、人の霊魂というものに非常に敏感な民族であった。とりわけ怨霊は強烈な力をもって人びとにさまざまな影響を及ぼすと考えられた。菅原道真の怨霊などはその最たるもので、京都の祇園祭は道真の怨霊を鎮めることを主たる目的として始まったくらいである。
この怨霊が、安達が原の鬼婆のイメージへと発展したのであろう。
謡曲のほうに戻ると、秘密を見られた鬼婆は本性を表し、僧侶たちに襲い掛かる。「鳴神稲妻天地に満ちて、室かき曇る雨の夜の、鬼一口に食はんとて、歩みよる足音、ふりあぐる鉄杖のいきほひ、あたりを払って恐ろしや」
「鬼一口に食はんとて」の部分に、人を食う鬼の本性がよく描かれている。謡曲ではこの後、僧侶たちの唱える仏法の威力によって、鬼婆は成仏することになっている。
日本古来の死生観が仏教の思想と混交したところから、この伝説は生まれたのだろうと、推測される。
安達が原は日本人にとっての墓場の原風景であり、そこに漂う死者の霊が鬼婆の姿に投影されたのだともいえよう。  
 
鈴鹿御前

 

鈴鹿御前1
室町時代の紀行文『耕雲紀行』や御伽草子『田村の草子』などの物語に登場する伝説上の女性。立烏帽子(たてえぼし)、鈴鹿権現、鈴鹿姫ともいう。伝承によって、女盗賊、天女、鬼女であったりとその正体や描写は様々であるが、室町時代以降の伝承はそのほとんどが坂上田村麻呂の鬼退治譚と関連している。平安時代から盗賊が横行し、鬼の棲家として伝えられる三重・滋賀県境の鈴鹿山に棲んでいたとされる。盗賊として描かれる際には立烏帽子と呼ばれることが多い。
伝承の形成
鈴鹿山の立烏帽子の名は、承久の乱前後に成立したと見られる『保元物語』にあらわれる。そこでは、伊賀の武士山田是行の祖父行季が立烏帽子を捕縛したとされる。また『弘長元年(1261年)公卿勅使記』では、鈴鹿山のうち凶徒の立つところとして西山口を挙げ、「昔立烏帽子在所ノ辺也。件ノ立烏帽子崇神社者、鈴鹿姫坐。路頭之北辺也」と注す。ここでは盗賊の名が立烏帽子であり、鈴鹿姫はその崇敬した社の女神として現れる。そして立烏帽子を女性とする描写も、鎌倉時代の文献にははっきりとした形では残っていない。
この盗賊立烏帽子と鈴鹿姫が同一視され、田村将軍の英雄譚に組み込まれるのは室町時代と考えられる。14世紀に成立する『太平記』巻三十二において、田村将軍と鈴鹿ノ御前の剣合の記事が見られ、応永25年(1418年)の足利義持の伊勢参宮に随行した花山院長親の著になる『耕雲紀行』では、当時の鈴鹿山の様子が記されている。その昔勇を誇った鈴鹿姫が国を煩わし、田村丸によって討伐されたが、そのさい身に着けていた立烏帽子を山に投げ上げた。これが石となって残り、今では麓に社を建て巫女が祀るという。
鈴鹿姫を祀る社は、坂下宿の片山神社にあたると考えられている。南北朝時代以後、鈴鹿山の麓にある坂下では伊勢参宮の盛行を受けて宿場が整備され、往来の増加する中で、旅人を守護する存在として鈴鹿姫=立烏帽子が認識されるようになっていく。鈴鹿姫への信仰は江戸時代まで続き、延享3年(1746年)の明細帳(徳川林政史研究所蔵)では坂下宿の氏神を鈴鹿大明神とし、幕府代官や伊勢亀山藩主の寄進を受けている。当時さまざまな説が流布していたらしく、万治2年(1659年)ごろの成立とされる『東海道名所記』では、鈴鹿御前が「天せう太神(天照大神)の御母」と言いならわされていたことを記している。
鈴鹿御前の物語
現在一般に流布する鈴鹿御前の伝説は、その多くを室町時代後期に成立した『鈴鹿の草子』『田村の草子』や、江戸時代に東北地方で盛んであった奥浄瑠璃『田村三代記』の諸本に負っている。鈴鹿御前は都への年貢・御物を奪い取る盗賊として登場し、田村の将軍俊宗が討伐を命じられる。ところが2人は夫婦仲になってしまい、娘まで儲ける。紆余曲折を経るが、俊宗の武勇と鈴鹿御前の神通力 によって悪事の高丸や大嶽丸といった鬼神は退治され、鈴鹿は天命により25歳で死ぬものの、俊宗が冥土へ乗り込んで奪い返し、2人は幸せに暮らす、というのが大筋である。ただし、写本や刊本はそれぞれに本文に異同が見られ、鈴鹿御前の位置づけも異なる。
『鈴鹿の草子』『田村の草子』の描写
室町時代後期の古写本では、鈴鹿山中にある金銀で飾られた御殿に住む、16〜18歳の美貌の天人とされる。十二単に袴を踏みしだく優美な女房姿だが、田村の将軍俊宗が剣を投げるや少しもあわてず、立烏帽子を目深に被り鎧を着けた姿に変化し、厳物造りの太刀をぬいて投げ合わせる武勇の持ち主である。俊宗を相手に剣合わせして一歩も引かず、御所を守る十万余騎の官兵に誰何もさせずに通り抜ける神通力、さらには大とうれん・しょうとうれん・けんみょうれんの三振りの宝剣を操り、「あくじのたか丸」や「大たけ」の討伐でも俊宗を導くなど、田村将軍をしのぐ存在感を示す。また、情と勅命との板挟みとなった俊宗の裏切りに、その立場を思いやりあえて犠牲になることを決意したり、娘の小りんに対して細やかな愛情を見せるなど、情愛の深い献身的な女性として描写されている。
いっぽう流布本『田村の草子』の祖本となる寛永ごろの古活字本では、鈴鹿山で往来を妨げたのは鬼神大たけ丸となっており、鈴鹿御前は山麓に住む天女とされる。立烏帽子の盗賊・武装のイメージは薄れ、烏帽子は着けず、玉の簪をさし水干に緋袴という出で立ちである。鈴鹿御前は俊宗と契りを交わし、言い寄る大たけ丸から大とうれん・小とうれんの剣 を騙し取ってその討伐に力を貸す。
『田村三代記』の描写
『鈴鹿の草子』とその底流を同じくする『田村三代記』は、語り物の特色として多くの異本が存在するが、鈴鹿御前に関する筋書きはおおむね同様である。ただし、『鈴鹿の草子』に見られる登場人物の微妙な心理や葛藤の描写は省かれ、鬼神退治の活劇を主とする内容となっている。鈴鹿御前の名は「立烏帽子」とのみ呼ばれ、その出自も天竺より鈴鹿山に降臨した第四天魔王の娘とする。日本を魔国とするための同盟者を求めて奥州の大嶽丸に求婚するが返事はなく、やがて田村将軍利仁と夫婦となり、共に高丸や大嶽丸を退治する。
物語の影響
鈴鹿御前=立烏帽子にまつわる物語は、その舞台となった土地に浸透し、鈴鹿山周辺の鏡岩・旧田村社・片山神社・土山の田村神社などの伝承に足跡を残し、また東北地方においても『田村三代記』の影響を受けて各地の社寺縁起や本地譚に取り入れられた。
鈴鹿御前の宝剣
鈴鹿御前は三振りの宝剣「大とうれん(大通連)」「小とうれん(小通連)」「けんみょうれん(顕明連)」を持っていたとされる。このうち大とうれんは文殊の智剣(または化身)とされ、『鈴鹿の草子』では三尺一寸の厳物造りの太刀である。けんみょうれんについては、これを朝日にあてれば三千大千世界を見通すことが出来るという。鬼神を討ち果たしたのち天命を悟った鈴鹿御前は、大とうれん・小とうれんを俊宗に贈り、けんみょうれんを娘小りんに遺した。渡辺本『田村三代記』によれば、田村将軍の得た大通連・小通連は、やがて田村に暇乞いして天に登り黒金と化した。これを用いて箱根山の小鍛冶があざ丸・しし丸・友切丸の三振りの太刀を打ったという。
その他の伝説
御伽草子『立烏帽子』によれば、鈴鹿山の悪鬼「悪黒王」の妻であったが、討伐に来た田村の五郎利成と矢文を交わして計略により悪黒王を討たせ、田村とめでたく結ばれたという。
天明5年(1785年)湯沢に滞在した菅江真澄が土地の老人から聞いた話では、松岡の切畑山(現秋田県湯沢市内)に「あくる王」という鬼がおり、その妻立烏帽子は鬼の術で夜ごと鈴鹿山から通っていたが、夫婦ともに田村利仁に斬られたという。
祇園祭の山鉾のひとつ「鈴鹿山」は、鈴鹿御前が「悪摩」、或いは鈴鹿山の鬼「立ゑぼし」を退治した伝承に基づくという。
鈴鹿御前2
三重と滋賀の県境にある鈴鹿山に伝わる伝説の鬼女で、「立烏帽子(たてえぼし)」ともいう。『御伽草子』の『鈴鹿の草子』や『田村の草子』にもその名前が載っている。
伝説によっては盗賊、天女と姿を変えるが、美しい姿をしており、妖術を使ったといわれる。
鈴鹿山の大嶽丸、または悪路王と手を組んで日本転覆を企んでいたとも、求婚され困っていたともいわれている。
藤原俊宗――坂上田村麻呂がモデル――に討たれ改心し、共に大嶽丸や悪路王などの鬼を退治したといわれている。後に二人は夫婦となり、幸せに暮らしたという。
大嶽丸
さて、それでは大嶽丸について考えるに当たり、彼について書かれた物語を読み取らないことには話にならない。そこで、まずは『田村の草子』から、簡単に物語の概略を語ってみよう。
昔、伊勢の鈴鹿山に大嶽丸と言う鬼神がいた。鈴鹿山を拠点とし、この鬼は散々悪さを行ったためにその辺りの往来が絶えるほどになってしまった。
それを見かねた帝は藤原俊宗(幼名田村丸、17歳で征夷大将軍となったとされる架空の人物)に3万余期の軍勢を与え、大嶽丸を退治せよと勅命を下した。そこで、俊宗は鈴鹿山へと向かうのであるが、悪知恵の働く大嶽丸は暗雲の中に隠れ、俊宗の軍勢に対して暴風雨や雷鳴を轟かせ足止めを食わせいたずらに時を経るばかりであった。
そんなある晩、俊宗の夢の中に一人の老人が現われ「大嶽丸を退治するためにはこの山に住む鈴鹿御前の協力を得よ」と告げる。そこで、俊宗、3万余騎の軍勢を都へ返し、単身鈴鹿山へと乗り込んでいくのであった。
そして、俊宗は山中で一人のこの世の者とは思えぬほど美しい女に出会う。女は「私は貴方に協力し大嶽丸を討つために天から下った天女です」と告げる。俊宗とヒロイン鈴鹿御前との出会いである。
さて、この鈴鹿御前であるが大嶽丸からしつこく求愛されていた。そこで、鈴鹿御前は自らが囮となり、大嶽丸に完全なる防御を与えている3本の宝剣を奪い取り、その後俊宗に大嶽丸を討つと言う計画を立てる。
作戦は実行へと移され、鈴鹿御前は大嶽丸の屋敷に向かう。いままで散々に突っぱねられてきた大嶽丸であるので、鈴鹿御前の登場に大喜びし、屋敷内に招いたが鈴鹿御前が言うところによると「私は藤原俊宗と言う悪党に命を狙われています。身を守るために貴方の宝剣を貸してください」との事。大嶽丸は天竺に住む叔父に宝剣を一本貸していたので残りの2本を鈴鹿御前に素直に貸してしまった。
鈴鹿御前が自分に気を許したと考えた大嶽丸は次の夜、美しい貴公子の姿で鈴鹿御前の屋敷を訪れる。当然、そこで待ち構えている俊宗との激しい戦闘が始まるのである。
いままで、鈴鹿御前の前では貴公子姿を通してきた大嶽丸であるがこの時ばかりは身の丈十尺ばかりの鬼神に戻りて俊宗と激しい戦いを繰り広げる事となる。ここで俊宗は千手観音や毘沙門天の加護を受け、見事大嶽丸を討ち取るのである。
そして、都に戻った俊宗は朝廷より手柄として伊賀国を賜り、鈴鹿御前と幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。
と、本来であればここで物語は終了のはずであるが、大嶽丸はなんと復活を果たす。あの時、鈴鹿御前が宝剣を2本しか奪えなかったため、残り一本の宝剣の魔力を使い天竺で復活し、陸奥の霧山が岳に住み着き再び悪事を働き始めるのだ。そこで再度俊宗と鈴鹿は大嶽丸に挑む。そして、またも大嶽丸を討ち取るのであるが、今度は大嶽丸の首が俊宗の兜に食らいつく。急ぎ兜を脱ぐや、そのまま大嶽丸は息絶えていたと言う。
こうして、本来の鬼退治に二倍の労力をかけて行われた俊宗の活躍であるが、それは大嶽丸がそれだけ強力だったと言う事になる。このことにより、大嶽丸の首は戦利品として藤原氏の氏寺である平等院に祭られる事となった。これは酒呑童子・玉藻前と並ぶ程の戦利品としての価値であり、かの鵺でさえここの宝物殿に納められる事はなかったのだ。
こうして、やっと平和を得た俊宗は鈴鹿御前と末永く幸せに暮らしたとさ 
 
一寸法師

 

一寸法師の物語は、お伽草紙においては住吉明神の縁起譚として語られている。主人公を背丈一寸の小人としているのは、スクナヒコナ以来の小さ子伝説が反映しているのであろう。
スクナヒコナははるか海の彼方から小さな舟に乗ってやってきた。一寸法師もやはり舟に乗って冒険の旅に出る。こんなところに両者の共通点を見ることもできる。
この物語はしかし、昔話を彩る鬼の話の一つの変形としてとらえたほうが面白い。鬼の話では、鬼の恐ろしさがクローズアップされ、したがって実質的には鬼が話の主人公になっているものが多い。一寸法師においては鬼は脇役に甘んじ、一寸法師の懲らしめをうけて、打出の小槌を置いたまま逃げ去っていく。
昔話に描かれた鬼の恐ろしさは、古代中世の日本人が生活の中で実感していた感情であったと思われる。だからその鬼を退治するというテーマは、鬼を恐れる感情の裏返しであったと思われる。時代が進み、鬼に対するかかわり方が微妙な変化を起こしていたのかもしれない。
鬼が宝物を残すというのは、原始的な鬼にはありえなかったであろうが、それがここでは話の大きな糸口になっている。鬼の宝物というテーマは桃太郎の場合にもあるし、おむすびころりんを始め鬼の浄土ものといわれる一連の話にも共通する。
一寸法師が語られた時代には、鬼はただに災厄をもたらす妖怪であるばかりではなく、時には人間に福をもたらすものとしてのイメージも持つようになっていた、そうも考えられるのである。
ここで「お伽草紙」の原典に当たってみよう。
「中頃の事なるに、津の國難波の里に、おうぢとうばと侍り。うば四十に及ぶまで、子のなきことを悲しみ、住吉に參り、なき子を祈り申すに、大明神あはれと思召して、四十一と申すに、たゞならずなりぬれば、おうぢ喜びかぎりなし。やがて十月と申すに、いつくしき男子をのこをまうけけり。さりながら生れおちてより後、せい一寸ありぬれば、やがて其の名を一寸ぼうしと名づけられたり。年月をふる程に、はや十二三になるまで育てぬれども、せいも人ならず。つくづくと思ひけるは、「たゞ者にてはあらざれ、只化物風情〕にてこそ候へ、われらいかなる罪の報いにて、斯樣の者をば住吉より賜はりたるぞや、淺ましさよ。」と、見るめも不便なり。夫婦思ひけるやうは、「あの一寸法師めをいづ方へもやらばやと思ひける。」と申せば、やがて一寸法師、此の由承り、親にもかやうに思はるゝも、くちをしき次第かな、いづ方へも行かばやとおもひ、刀なくてはいかゞと思ひ、針を一つうばに乞ひ給へば、取出したびにける。すなはち麥稈むぎわらにて柄鞘つかさやをこしらへ、都へ上らばやと思ひしが、自然舟なくてはいかゞあるべきとて、又うばに「御器ごきと箸とたべ。」と申しうけ、名殘をしくとむれども、たち出でにけり。住吉の浦より御器を舟としてうち乘りて、都へぞ上りける。
すみなれし難波の浦をたちいでて都へいそぐわが心かな」
神仏に祈念して子宝を授かるというのは、説経はじめ中世に流行した語り物の世界に共通するテーマである。ところが生まれてきた子は十二三になっても背丈一寸ばかりの小人であった。そこで夫婦は一寸法師を追い出してしまう。
物語の主人公が家を出て冒険の旅に出るのは、桃太郎を始め他の説話にも多く見られるが、親によって追い出されるというのは珍しい。これは一寸法師という主人公の特性が、話をそのように着色させたものと思われる。
家を出る際に、一寸法師が刀の変わりに針を、船の変わりにお椀を貰うのは、後に鬼が島に鬼退治にいくことの伏線となっている。
「かくて鳥羽の津にもつきしかば、そこもとに乘り捨てて都に上り、こゝやかしこと見る程に、四條五條の有樣、心も詞に及ばれず。さて三條の宰相殿と申す人の許に立寄りて、「物申さむ。」といひければ、宰相殿は聞召し、面白き聲と聞き、縁のはなへたち出でて御覽ずれども人もなし。一寸法師かくて人にも蹈み殺されんとて、ありつる足駄の下にて、「物申さむ。」と申せば、宰相殿、不思議のことかな、人は見えずして、おもしろき聲にてよばはる、出でて見ばやと思召し、そこなる足駄をはかむと召されければ、足駄の下より、「人な蹈ませ給ひそ。」と申す。不思議に思ひてみれば、いつきやうなるものにて有りけり。宰相殿御覽じて、げにも面白き者なりとて、御笑ひなされけり。」
三條の宰相殿と出会うこの場面は、一寸法師のイメージを際立たせる効果をもっている。一寸法師は宰相の下駄の下から「物申そう」と、雄々しい男子として振舞うのである。また船に乗ってやってきた一寸法師は、宰相にとっては異界からの客と映ったかもしれない。
「かくて年月をおくる程に、一寸法師十六になり、せいは元のまゝなり。さる程に宰相殿に十三にならせ給ふ姫君おはします。御かたちすぐれ候へば、一寸法師姫君を見たてまつりしより思ひとなり、いかにもして案をめぐらし、わが女房にせばやと思ひ、ある時みつもののうちまき取り茶袋に入れ、姫君のふしておはしけるに、謀事はかりごとをめぐらし、姫君の御口にぬり、さて茶袋ばかりもちて泣きゐたり。宰相殿御覽じて、御尋ねありければ、「姫君の、わらはが此の程とり集めておき候うちまきを、取らせ給ひ御參り候」と申せば、宰相殿大きに怒らせ給ひければ、案の如く姫君の御口につきてあり、まことに僞ならず、「かかる者を都におきて何かせむ、いかにも失ふべし。」とて、一寸法師に仰せつけらる。一寸法師申しけるは、「わらはが物を取らせ給ひて候程に、とにかくにもはからひ候へ。」とありけるとて、心のうちに嬉しく思ふ事かぎりなし。姫君はたゞ夢の心地して、呆れはててぞおはしける。一寸法師とく\/とすゝめ申せば、闇へ遠く行くふぜいにて、都を出でて足にまかせて歩み給ふ、御心のうちおしはかられてこそ候へ。」
十六になった一寸法師は、背丈は以前のまま小さいが、心持は一人前の男子になり、宰相の姫に懸想する。ここに恋愛物語を忍び込ませることで、物が立ちは重層的な効果を持つようにもなっている。しかして一寸法師は知略を用いて、姫と二人で旅へ出ることに成功する。
「あら痛はしや、一寸法師は姫君をさきに立ててぞ出でにけり。宰相殿はあはれ此の事をとゞめ給ひかしと思しけれども、繼母の事なれば、さしてとゞめ給はず、女房たちもつき添ひ給はず。姫君あさましき事に思しめして、かくていづかたへも行くべきならねど、難波の浦へ行かばやとて、鳥羽の津より舟にのり給ふ。折ふし風あらくして、きようがる島へぞつけにける。舟よりあがり見れば、人住むとも見えざりけり。かやうに風わろく吹きて、かの島へぞ吹きあげける。とやせむかくやせむと思ひ煩ひけれども、かひなく舟よりあがり、一寸法師はこゝかしこと見めぐれば、いづくともなく鬼二人來りて、一人は打出の小槌を持ち、今一人が申すやうは、「呑みてあの女房とり候はむ。」と申す。口より呑み候へば、目のうちより出でにけり。鬼申すやうは、「是こは曲者かな。」口をふさげば目より出づる。一寸法師は鬼に呑まれては、目よりいでて飛びありきければ、鬼もおぢをののきて、「是はたゞ者ならず、たゞ地獄に亂こそいできたれ、只逃げよ。」と言ふまゝに、打出の小槌、杖しもつ、何に至るまで打捨てて、極樂淨土のいぬゐの、いかにも暗き所へ、やう\/逃げにけり。さて一寸法師は是れを見て、まづ打出の小槌をらんばうし、「われ\/がせいを大きになれ。」とぞ、どうと打ち候へば、程なくせいおほきになり、さて此の程つかれにのぞみたる事なれば、まづ\/飯を打ちいだし、いかにもうまさうなる飯、いづくともなく出でにけり。不思議なる仕合せとなりにけり。其の後金銀こがねしろがねうちいだし、姫君ともに都へ上り、五條あたりに宿をとり、十日許りありけるが、此の事隱れなければ、内裏に聞召されて、急ぎ一寸法師をぞ召されけり。即ち參内つかまつり、大王御覽じて、「まことにいつくしきわらはにて侍る、いか樣さまこれは賤しからず。先祖を尋ね給ふ。おうぢは堀河の中納言と申す人の子なり、人の讒言により、流され人となりたまふ。田舍にてまうけし子なり、うばは伏見の少將と申す人の子なり、幼き時より父母に後れ給ひ、かやうに心もいやしからざれば、殿上へ召され、堀河の少將になし給ふこそめでたけれ。父母をも呼びまゐらせ、もてなしかしづき給ふ事、世の常にてはなかりけり。」
一寸法師は姫を伴って舟に乗り、とある島にたどり着く。桃太郎の場合には、始めから鬼が島へ向けて旅立つという設定になっているが、ここではたまたまたどり着いたということになっている。また姫が家を出るのは自発的にではなく、とくに継母の意向によって追い出されたのだと書かれているが、これは継子いじめのテーマが持ち込まれたのであろう。
そこへ二人の鬼が出てくる。一人は打出の小槌を持ち、もう一人は一寸法師を食って姫を取ろうという。鬼が一寸法師を飲み込むと、一寸法師は鬼の目から飛び出てきて、鬼を恐れさせる。バージョンによっては、異の中に入った一寸法師が針で鬼の胃の壁を突き刺すなどというものもある。
魔物の体内に飲み込まれた英雄が、その腹を突き破って魔物を殺すという話は、世界中に分布している。お伽草紙ではそうしたイメージには描かれていないが、鬼が一口で人を飲み込むというのは、日本の鬼の説話に共通したイメージなのである。
「さる程に少將殿中納言になり給ふ。心かたちは初めよりよろづ人にすぐれ給へば、御一門のおぼえいみじく思しける。宰相殿きこしめし喜び給ひける。その後若君三人いできけり。めでたく榮え給ひけり。住吉の御誓ひに末繁昌に榮えたまふ。よのめでたきためし、これに過ぎたる事はあらじとぞ申し侍りける。」
物語の最後は、打出の小槌の威力で大きくなった一寸法師がめでたく出世し、姫とも結ばれて子どもにも恵まれ、住吉明神に感謝するところで終っている。縁起譚としても、鬼の話としても、また小人の出世物語としても、なかなか結構にとんだ話といえよう。 
 
おむすびころりんとオオクニヌシ神話

 

お爺さん或はお婆さんが転がり落したおむすびを追いかけて穴の中或は他界へと導かれ、そこで地蔵や鬼と出合って試練を潜り、最後には宝物を持ち帰るという「おむすびころりん」の昔話は、さまざまなバリエーションを伴って日本中に分布している。古来子供向けのお伽話として最もポピュラーなものである。
話の筋を整理すると、おおよそ次のような要素から成り立っている。
1 お爺さんまたはお婆さんが山へおにぎり或は団子を持っていき、これを手から落すと、ころころと転がって穴の中に入っていく。
2 お爺さん或はお婆さんはおにぎりを追いかけて穴の中に入っていくと、お地蔵さんと出会う。お地蔵さんにおにぎりのゆくへを尋ねると、お地蔵さんは自分が食べたという。そしてここは鬼のいる地獄であるから、お礼に鬼から逃れる方法を教えてやろうという。そして鬼が来たら鶏の声を出しなさいといって、自分の袖の中にお爺さんをかくまってやる。
3 鬼がやってきて博打をして遊び始めたので、お爺さんが鶏の鳴き声を出すと、鬼たちは宝物を置いて逃げていってしまう。おじいさんはその宝物を持参して地上へと戻り、幸福な暮らしを続ける。
4 これを聞いた隣のお爺さんが同じことを真似するが、うまくいかずに鬼に食われてしまう。
先ほど述べたように、この話にはさまざまなバリエーションがある。お爺さんは鼠の穴に鼠に導かれて入っていき、見知らぬ土地にさまよい出る、鬼に見つかったお婆さんが鬼の飯炊きとして仕えるうち、金の杓子を用いて一粒の米からたくさんの飯を炊く技を覚え、それを地上に持ち帰る、といったものもある。
隣の爺さんが出てこない話もあるが、これはむしろ教訓譚として後から付け加わったと見るべきで、もともとの話にはなかったのであろう。
この話は西日本では無尽蔵の米のモチーフが多く、東日本では鶏の鳴きまねのモチーフが多いという具合に、地域差があるようである。
さて枝葉を取り除いて、話の骨格をとらえてみると、この話が一種の冥界(異界)往来譚であることに気づく。
お爺さんやお婆さんが転げ込む穴の底の世界には、お地蔵様や鬼たちが出てくる。中には鼠が出てくる話もあるが、それは子供向けに話の内容が弱められた結果できたバリエーションであろう。ところでお地蔵様といい、鬼といい、昔の日本人にとっては地獄に結びつくものである。だからお爺さんたちはこの世と地獄との間を往来したと見ることができる。
地獄の観念は仏教の影響を受けておどろおどろしいイメージを持つようになったが、もともと古代の日本人にとっては祖霊の住む異界という観念があって、それが地獄のイメージと習合した歴史的な経緯がある。異界は恐ろしい世界であるとともに、一方では祖霊たちがこの世の子孫を見守っているというように、両義的な性格を持ったものであった。
こうした異界との間を往復する異界往来譚或は冥界訪問譚は、記紀神話の中にも出てくる。イザナキの黄泉国訪問やオオクニヌシの根の国訪問の話である。中でもオオクニヌシの話は、おむすびころりんの話に多大な影響を及ぼしているのではないかと考えられるふしがある。
オオクニヌシは大萱原の中で火に囲まれ万事窮すと言うときに、鼠に助けられて穴の中に入り火を逃れる。
「是に出でむ所を知らざる間に、鼠来て云はく、「内はほらほら、外はすぶすぶ」といひき。如此言ふ故に其処を蹈みしかば、落ち隠り入りましし間に、火は焼け過ぎき。爾に其の鼠、其の鳴鏑を咋ひ持ちて、出で来て奉りき。其の矢の羽は、其の鼠の子等皆喫ひたりき。」
穴の中でオオクニヌシが見たのはスサノオが支配する根の国である。ここでオオクニヌシはスサノオによってさまざまな試練を課されるが、スゼリヒメの助けによって試練を潜り、無事この世に生還することができた。このスサノオがおむすびころりんでは鬼となり、スゼリヒメはお地蔵さまとなったのではないか。
ねずみ浄土型の話では、お爺さんは鼠に導かれて穴に入っていくが、これはオオクニヌシ神話に出てくる鼠がそのまま取り入れられたとも考えられる。ともあれ、オオクニヌシは鼠の導きによってスゼリヒメと結ばれているのである。
おむすびころりんと記紀神話を結びつける要素はほかにもある。
雨の岩戸の部分で、世界が暗黒に陥ったとき、神々が天照大神を慰めるために祭を行い、その際に「常世の長鳴鳥を集へて鳴かしめた」とある。この常世の長鳴鳥とは鶏のことだろうといわれている。鶏というものは夜に鳴くことから、夜を象徴する「常夜の」鳥であると表象されていたようだ。同時にそれはまた、朝が近いことを告げる鳥でもある。そんなところから、暗黒を吹き払い日の光を復活させるための祭りに呼ばれたと考えられるのである。ところで鬼は日の光が苦手とされる。そこでおむすびころりんの話の中でも、鶏の声を聞かせることによって朝の訪れを告げ、鬼を追っ払おうとする観念に転化したのではないか。
おむすびころりんでは、お爺さんは鬼の宝物を持ち帰る。同じようにオオクニヌシもスサノオの持っていた宝物を盗んで地上に持ち帰る。
このようにおむすびころりんの昔話には、日本神話の要素があちこちに残存している。それが仏教的な観念と集合して、このような形になったのではないか。  
 
案山子

 

案山子のことは記紀の神話の中にも出てくるから、日本人にとっては悠久の昔から田んぼの中に立って、外敵から田んぼを守る役目を果たしていたと見える。しかもその形が今日と同じく一本足であったことは、スクナヒコナの神話のくだりから伺えるのである。そこには次のように記されている。
スクナヒコナがかがみ船に乗って波の彼方からやってきたとき、誰もその正体を知らなかったが、久延毘古(くえびこ)なら知っているだろうといって呼んでみたところが、果たしてそれが神産巣日神の御子スクナヒコナであることを言い当てた。この久延毘古のことを古事記は、「今に山田のそふどといふ者なり。此の神は足は行かねども、尽に天下の事を知れる神なり」と紹介している。
「山田のそふど」にいう「そふど」とは案山子という意味である。その案山子は「足は行かねども」、つまり一本足でうまく歩くことはできないけれども、長い間田んぼの中に立って世の中の動きを観察しているので、天下のことは何でも知っているのだといっている。
案山子を立てたからといって、それがカラスを追うのに大した効果もないことは、古代人もわかっていたに違いない。それでも、日本人は悠久の時間を越えて案山子を立て続けてきた。それにはそれなりの事情と背景がある。
昔話には一つ目一つ足の怪物が出てきて、人を食うという話がある。これがさらに一つ目小僧などに転化したりもするのだが、もともとは山の神の化身とされたものであった。山の民に伝わった風習に、山中に一本の棒を立て、これに目玉を一つ描いて、供え物を置くというものがある。これは山の神を静めるためのものであった。また比叡山には傘を山の神の化身とする伝承があるそうだが、その傘もやはり一本足の山の神の化身が本来の姿であったと思われる。
目一つの鬼の話は、出雲風土記にもあり、田んぼを耕していた男を一口で食ってしまったと書かれている。これは山の神が恐れられて、鬼と化したのである。それは他の鬼についても同様で、みなもともとは山の神であったものが、その恐ろしい部分が強調されて鬼と化したのである。
案山子はこの山の神が田に下りてきて、田を守る神に転じたと思われる。古事記には「そふど」とあるが、後に「案山子」とかかれるようになるのは、案山子が山中にあって、一本足あるいは一つ目の鬼であったときの、本来の姿に基づいた命名だったろう。
山の神は、恐ろしさにつけ、ご利益をもたらすものとしての保護者としての側面につけ、日本人にとっては信仰の原点をなすものだった。
だからその仮の姿としての案山子を田んぼに祭ることには、単にカラスを追うという意味を超えて、より根の深い感情が込められていると思われるのである。  
 
土蜘蛛

 

土蜘蛛は「大江山」や「羅生門」などと同じ系列に属する風流能である。派手なアクションが見世物になっており、初心者にもわかりやすく、人気のある曲だ。歌舞伎の演目としてもなじみが深い。
筋は源頼光の伝説に取材している。ごく単純な内容だ。頼光に妖術をかけて病に陥れている土蜘蛛がとどめをさそうとして襲ってくる。頼光は脇差の膝丸を抜いていったん撃退するが、部下の独武者に命じて逃げた後を追いかけさせ、塚の中に隠れている土蜘蛛を退治するというものである。
土蜘蛛は独武者らの追っ手に対して、千筋の糸を繰り出して反撃する。この時に土蜘蛛が次から次へと繰り出す糸が舞台一面を覆い隠し、ちょっとしたスペクタクルを現出する。この糸はもともとは、太くて短いものだったらしいが、徳川時代の末期に現在のように長くて細いものが考案された。
劇の構成は複式無限能はもとより、古風な現在能ともだいぶ異なっている。シテの土蜘蛛は前触れもなくいきなり登場するし、ワキの独武者も土蜘蛛と前後して途中から登場する。頼光がシテツレになっているところも独特だ。
ここで紹介するのは、先日NHKが放送した観世流の能。黒頭という小書を採用し、間狂言はササガニに扮していた。
舞台右手の脇座に台が据えられ、そこに頼光が登場して臥す姿勢をとる。枕元には脇差の膝丸をひそめさせて置く。そこへ典薬の頭から薬をもらった胡蝶が戻ってくる。(以下テクストは半魚文庫を活用)
胡蝶次第「浮き立つ雲の行くへをや。浮き立つ雲の行くへをや。風のこゝちを尋ねん。
サシ「これは頼光の御内に仕へ申す。胡蝶と申す女にて候。
詞「さても頼光例ならず悩ませ給ふにより。典薬の頭より御薬を持ち。唯今頼光の御所へ参り候。いかに誰か御入り候。
従者詞「誰にて御座候ふぞ。
胡蝶詞「典薬の頭より御薬を持ちて。胡蝶が参りたるよし御申し候へ。
従者詞「心得申し候。御機嫌を以つて申し上げうずるにて候。
胡蝶を迎え入れた頼光は、心身の具合が日ごとに悪くなっていくことを嘆くが、胡蝶は薬を飲めばきっと直りますからと慰める。
頼光サシ「こゝに消えかしこに結ぶ水の泡の。浮世に廻る身にこそありけれ。げにや人知れぬ。心は重き小夜衣の。恨みん方もなき袖を。かたしきわぶる思かな。
従者詞「いかに申し上げ候。典薬の頭より御薬を持ちて胡蝶の参られて候。
頼光詞「此方へ来れと申し候へ。
従者詞「畏つて候。此方に御参り候へ。
ツレ詞「いかに申し上げ候。典薬の頭より御薬を持ちて参りて候。御心地は何と御入り候ふぞ。
頼光詞「昨日よりも心地も弱り身も苦みて。今は期を待つばかりなり。
ツレ「いや/\それは苦しからず。病うは苦しき習ながら。療治によりて癒る事の。例は多き世の中に。
頼光「思ひも捨てず様々に。
地「色を尽して夜昼の。色を尽して夜昼の。境も知らぬ有様の。時の移るをも。覚えぬほどの心かな。げにや心を転ぜずそのまゝに思ひ沈む身の。胸を苦しむる心となるぞ悲しき。
独りで臥している頼光のもとへ、僧形に身を包んだ土蜘蛛が訪れる。直面である。土蜘蛛は「我がせこが。来べき宵なりさゝがにの」と歌うや、いきなり千筋の糸を繰り出して頼光を襲う。頼光の方も膝丸を取り出して反撃し、土蜘蛛を撃退する。
僧(土蜘蛛)一声「月清き。夜半とも見えず雲霧の。かゝれば曇る。心かな。「いかに頼光。御心ちは何と御座候ふぞ。
頼光「不思議やな誰とも知らぬ僧形の。深更に及んでわれを訪ふ。その名はいかにおぼつかな。
僧詞「愚の仰候ふや。悩み給ふも我がせこが。来べき宵なりさゝがにの。
頼光「くもの振舞かねてより。知らぬといふに猶近づく。姿は蜘蛛の如くなるが。
僧詞「かくるや千条の糸条に。
頼光「五体をつゞめ。
僧「身を苦しむる。
地上歌「化生と見るよりも。化生と見るよりも。枕にありし膝丸を。抜き開きちやうと切れば。そむくる所をつゞけざまに。足もためず。薙ぎ伏せつゝ。得たりやおうとのゝしる声に。形は消えて失せにけり。形は消えて失せにけり。
僧中入 早鼓。ここでいったんシテの土蜘蛛は中入し、代わって独武者が登場する。
頼光は先ほど僧に扮した土蜘蛛に襲われたこと、膝丸の力で土蜘蛛を撃退したこと、これからは膝丸の名を改めて蜘蛛切と名づけようと思うことなどを話して聞かせる。独武者は土蜘蛛の残した血のあとを追いかけて、退治にでかけようと誓う。
<早鼓>独武者詞「御声の高く聞え候ふ程に馳せ参じて候。何と申したる御事にて候ふぞ。
頼光詞「いしくも早く来たる者かな。近う来り候へ語つて聞かせ候ふべし。
物語「偖も夜半ばかりの頃。誰とも知らぬ僧形の来り我が心ちを問ふ。何者なるぞと尋ねしに。我がせこが来べき宵なりさゝがにの。蜘蛛の振舞かねてしるしもといふ古歌を連ね。即ち七尺ばかりの蜘蛛となつて。我に千条の糸を繰りかけしを。枕にありし膝丸にて切り伏せつるが。化生の者とてかき消すやうに失せしなり。これと申すもひとへに剣の威徳と思へば。今日より膝丸を蜘蛛切と名づくべし。なんぼう奇特なる事にてはなきか。
独武者詞「言語道断。今に始めぬ君の御威光剣の威徳。かたがた以つてめでたき御事にて候。また御太刀つけのあとを見候へば。けしからず血の流れて候。此血をたんだへ。化生の者を退治仕らうずるにて候。
頼光詞「急いで参り候へ。
独武者「畏つて候。
早鼓中入。ここで本格的な中入となり、頼光はじめすべての役者が退場した後で、二人の間狂言が登場する。蟹の面をかぶり、蟹のように横様にあるき、両手の指を鋏のように動かしながら、ユーモラスに振舞う。
先ほどからのいきさつを聞いた蟹は、自分たちが退治されるのではないかと心配する。というのも「我がせこが来べき宵なりさゝがにの蜘蛛の振舞」とある言葉を聞いて、土蜘蛛退治が自分たちにも及ぶのではないかと勘違いしたからだ。
だが「ささがに」という言葉と自分たちとは関係がないとわかって安心した蟹たちは、独武者に加勢しようといって、出かけていく。
後半は独武者とその配下たちによる土蜘蛛退治の場面である。独武者たちは、土蜘蛛が流した血の跡をたどって行くうち、それらしき塚に行き着く。舞台にはあらかじめ、土蜘蛛の入った塚の作り物が据えられている。
独武者立衆一声「土も木も。我が大君の国なれば。いづくか鬼の。やどりなる。独武者「其時独武者進み出で。彼の塚に向ひ大音あげていふやう。これは音にも聞きつらん。頼光の御内に其名を得たる独武者。いかなる天魔鬼神なりとも。命魂を断たん此塚を。
地「崩せや崩せ人々と。呼ばはり叫ぶ其声に。力を得たる。ばかりなり。
地ノル「下知に従ふ武士の。下知に従ふ武士の。塚を崩し石をかへせば。塚の内より火焔を放ち。水を出すといへども。大勢崩すや古塚の。怪しき岩間の陰よりも。鬼神の形は。顕れたり。
塚の中から姿を現した土蜘蛛は、独武者たちに対して千筋の糸を投げかけて迎え撃つ。最大の見せ場だ。
後シテ「汝知らずやわれ昔。葛城山に年を経し。土蜘蛛の精魂なり。猶君が代に障をなさんと。頼光に近づき奉れば。却つて命を断たんとや。
独武者「其時独武者進み出で。
ワキ地「其時独武者進み出でて。汝王地に住みながら。君を悩ます其天罰の。剣にあたつて。悩むのみかは。命魂を断たんと。手に手を取り組みかゝりければ。の精霊千条の糸を繰りためて。投げかけ投げかけ白糸の。手足に纏り五体をつゞめて。仆れ臥してぞ見えたりける。
舞働 土蜘蛛と独武者たちの攻防が、はでなパフォーマンスで繰り広げられるが、独武者たちはついに土蜘蛛退治に成功する。
独武者「然りとはいへども。
地「然りとはいへども神国王地の恵を頼み。かの土蜘蛛を中に取りこめ大勢乱れ。かゝりければ。剣の光に。少し恐るゝ気色を便に切り伏せ切り伏せ土蜘蛛の。首うち落し喜び勇み。都へとてこそ。帰りけれ。  
 
坂上田村麻呂と清水寺縁起 

 

能「田村」は、坂上田村麻呂を主人公にして、清水寺創建の縁起物語と田村麻呂の蝦夷征伐を描いた作品である。観音の霊力によって敵を蹴散らす武将の勇猛さがテーマとなっており、明るく祝祭的な雰囲気に満ちた作品である。屋島、箙とともに、三大勝修羅とされ、祝言の能としても演じられてきた。
坂上田村麻呂は奈良時代末期に活躍した武人。その功績については、改めて語るまでもあるまい。平安時代以降、武人の鏡として尊敬を集め、多くの伝説を生んだ。清水寺の創建もその一つといえるが、これには史実の裏づけがある。
今昔物語集巻十一や扶桑略記によれば、清水寺は、宝亀十一年(780)坂上田村麻呂が創建したことになっている。田村麻呂は妻の病気の薬になるという鹿の血を求めて、音羽山に入り込んだ際、そこで修行中の僧延鎮に出会い、殺生を戒められた。田村麻呂はそれを機に仏に帰依してこの寺を創建したという。
延鎮はもと大和国子島寺の僧侶であったが、夢のお告げに従って音羽山に入り、そこで何百年も修行しているという行叡居士と出会う。行叡居士は、後を延鎮に託して去り、延鎮は行叡居士の残していった霊木に観音の像を掘り込んで祀った。これが清水寺のそもそもの由来なのであるとされている。
能では、清水寺の創建を大同二年(806)、延鎮を賢心としているが、筋においては、今昔物語集などの記するところとおおむね異ならない。
構成は複式夢幻能の体裁。前段は清水寺創建の縁起物語、後段は坂上田村麻呂の蝦夷征伐の戦いぶりが描かれている。前段では童子の姿となった田村麻呂の幽霊が登場し、後段では若々しい武将姿の田村麻呂が勇壮な舞を運ずる。
なお、この能の作者については、世阿弥の作とする説や、世阿弥以前の作品に世阿弥が手を加えたとする説などがあるが、真偽は明らかでない。
舞台にはまず、東国方の僧とその従者合わせて三名が登場する。(以下、テキストは「半魚文庫」を活用。)
ワキ、ワキツレ二人次第「鄙の都路隔て来て。鄙の都路隔て来て。九重の春に急がん。
ワキ詞「これは東国方より出でたる僧にて候。我未だ都を見ず候ふ程に。此春思ひ立ちて候。
道行三人「頃もはや。弥生なかばの春の空。弥生なかばの春の空。影ものどかに廻る日の。霞むそなたや音羽山。瀧の響も静かなる。清水寺に着きにけり。清水寺に着きにけり。
ワキ詞「急ぎ候ふ程に。是は都清水寺とかや申すげに候。是なる桜の盛とみえて候。人を待ちて委しく尋ねばやと思ひ候。
ここで、童面に長髪の少年が箒を携えて現れ、木陰を掃くしぐさをする。修羅能の前段に童子が出てくるのはめずらしく、この曲の最大の特徴をなしている。少年を登場させることで、作品全体の雰囲気を明るいものにしようとの、作者の意図が働いたのだろう。
シテ一セイ「おのづから。春の手向となりにけり。地主権現の。花ざかり。
サシ「それ花の名所多しといへども。大悲の光色添ふ故か。この寺の地主の桜にしくはなし。さればにや大慈大悲の春の花。十悪の里に芳しく。三十三身の秋の月。五濁の水に。影清し。
下歌「千早振。神の御庭の雪なれや。
上歌「白妙に雲も霞も埋れて。雲も霞も埋れて。いづれ。桜の梢ぞと。見渡せば八重一重げに九重の春の空。四方の山なみ自ら。時ぞとみゆる気色かな。時ぞとみゆる気色かな。
ワキ詞「いかにこれなる人に尋ね申すべき事の候。
シテ詞「こなたの事にて候ふか何事にて候ふぞ。
ワキ「見申せばうつくしき玉箒を持ち。木蔭を清め候ふは。若し花守にて御入り候ふか。
シテ「さん候これはこの地主権現に仕へ申す者なり。いつも花の頃は木蔭を清め候ふほどに。花守とや申さん又宮つことや申すべき。いづれによしある者と御覧候へ。
ワキ「げに/\よしありげに見えて候。まづ/\当寺の御来歴。委しく語り給ふべし。
シテがいう地主権現とは、清水寺の鎮守のことで、今も寺の境内にある。だから、「花守とや申さん又宮つことや申すべき」と童子は言うのである。
ワキたちが、清水寺の由来を尋ねると、童子は清水寺創建にかかわる伝説を語る。
シテ詞「そも/\当寺清水寺と申すは。大同二年の御草創。坂上の田村丸の御願なり。昔大和の国子島寺といふ所に。賢心といへる沙門。正身の観世音を拝まんと誓ひしに。ある時木津川の川上より金色の光さしゝを。尋ね上つて見れば一人の老翁あり。かの翁語つていはく。我はこれ行叡居士といへり。汝一人の檀那を待ち。大伽藍を建立すべしとて。東をさして飛び去りぬ。されば行叡居士といつぱ。これ観音薩陀の御再誕。又檀那を待てとありしは。これ坂の上の田村丸。
地上歌「今もその。名に流れたる清水の。名に流れたる清水の。深き誓も数々に。千手の。御手のとりどり様々の誓普くて国土万民を漏らさじの。大悲の影ぞありがたき。げにや安楽世界より。今この娑婆に示現して。我らが為の観世音。仰ぐも愚かなるべしや。仰ぐも愚かなるべしや。
ついで、ワキに問われるまま、シテの名所案内がある。能「熊野」における名所巡りと同様の、観客サービスである。
ワキ詞「近頃おもしろき人に参り逢ひて候ふものかな。又見え渡りたるは皆名所にてぞ候ふらん。御教へ候へ。
シテ詞「さん候皆名所にて候。御尋ね候へ教へ申し候ふべし。
ワキ「まづ南に当つて塔婆の見えて候ふは。いかなる所にて候ふぞ。
シテ「あれこそ歌の中山清閑寺。今熊野まで見えて候へ。
ワキ「また北に当つて入相の聞え候ふはいかなる御寺にて候ふぞ。
シテ「あれは上見ぬ鷲の尾の寺。や。御覧候へ音羽の山の嶺よりも出でたる月の輝きて。この地主の桜に映る景色。まづ/\これこそ御覧じ事なれ。
ワキ「げに/\これこそ暇惜しけれ。こと心なき春の一時。
シテ「げに惜むべし。
ワキ「惜むべしや。
シテワキ二人「春宵一刻価千金。花に清香。月に影。
シテ「げに千金にも。かへしとは。今此時かや。
地「あら/\面白の地主の花の景色やな。桜の木の間に漏る月の。雪もふる夜嵐の。誘ふ花とつれて散るや心なるらん。
クセ「さぞな名にしおふ。花の都の春の空。げに時めける粧青楊の影緑にて。風邪のどかなる。音羽の瀧の白糸の。くり返しかへしても面白やありがたやな。地主権現の。花の色も異なり。
シテ「たゞ頼め。標茅が原のさしも草。
地「我世の中に。あらんかぎりはの御誓願。濁らじものを清水の。緑もさすや青柳の。げにも枯れたる木なりとも。花桜木の粧いづくの春もおしなめて。のどけき影は有明の。天も花に酔へりや。面白の春べや。あら面白の春べや。
山々を彩る桜を背景に、次々と名所を語っていくこの場面は、前半の趣向をなす部分で、謡曲として聞いても面白い部分だ。
童子のただならぬ様子に、いったい如何なる人かと謎が高まったとき、童子は思わせぶりな言葉を残して、田村堂のうちへと消えていく。
ロンギ地「げにやけしきを見るからに。たゞ人ならぬ粧のその名いかなる人やらん。
シテ「いかにとも。いさやその名も白雪の。跡を惜まば此寺に帰る方を御覧ぜよ。
地「帰るやいづくあしがきの。ま近きほどか遠近の。
シテ「たづきも知らぬ山中に。
地「おぼつかなくも。思ひ給はゞわが行く方を見よやとて。地主権現の御前より。下るかと見えしが。くだりはせで坂の上の田村堂の軒もるや。月のむら戸を押しあけて。内に入らせ給ひけり内陣に入らせ給ひけり。
(中入間)間狂言では、門前の者が現れて、清水寺の縁起を復唱して去り、その後、ワキたちによる待歌に乗って後シテが登場する。若者の面と長髪のいでたちである。
ワキ三人歌待謡「夜もすがら。ちるや桜の蔭に居て。ちるや桜の蔭に居て。花も妙なる法の場。迷はぬ月の夜と共に。此御経を。読誦するこの御経を読誦する。
後シテ一声「あら有難の御経やな。清水寺の瀧つ波。一河の流を汲んで。他生の縁ある旅人に。言葉を交す夜声の読誦。是ぞ則ち大慈大悲の、観音擁護の結縁たり。
ワキ「ふしぎやな花の光にかゝやきて。男体の人の見え給ふは。いかなる人にてましますぞ。
シテ「今は何をかつゝむべき。人皇五十一代。平城天皇の御宇に有りし。坂上の田村丸。
シテは、自分こそ田村麻呂その人だと名乗り、かつての戦いの様子を再現して舞う。
地「東夷を平げ悪魔を鎮め。天下泰平の忠勤たりしも。即ち当時の仏力なり。サシ「燃るに君の宣旨には。勢州鈴鹿の悪魔を鎮め。都鄙安全になすべしとの。仰によつて軍兵を調へ。既に赴く時節に至りて。此観音の仏前に参り。祈念を致し立願せしに。
シテ「不思議の瑞験あらたなれば。
地「歓喜微笑の頼を含んで。急ぎ凶徒に。打つ立ちけり。
クセ「普天の下。卒土の内いづく王地にあらざるや。やがて名にしおふ。関の戸さゝで逢坂の。山を越ゆれば浦波の。粟津の森やかげろふの。石山寺を伏し拝み是も清水の一仏と。頼はあひに近江路や。勢田の長橋ふみならし駒も足なみ勇むらん。
シテ「すでに伊勢路の山近く。
地「弓馬の道もさきかけんと。勝つ色みせたる梅が枝の。花も紅葉も色めきて。猛き心はあらがねの。土も木もわが大君の神国に。もとより観音の御誓仏力といひ神力も。なほ数数にますらをが。待つとは知らでさを鹿の。鈴鹿の禊せし世々までも。思へば嘉例なるべし。さるほどに山河を動かす鬼神の声。天に響き地に満ちて。万木青山動揺せり。
(カケリ)颯爽とした舞についでカケリがある。「祝言のカケリ」といわれ、祝祭的な雰囲気にあふれたカケリである。しかして、キリに向かって派手な所作が続き、局はシンフォニーの終末を思わせるように、異常な高まりを見せる。
シテ詞「いかに鬼神もたしかに聞け。昔もさるためしあり。千方といひし逆臣に仕へし鬼も。王位を背く天罰にて。千方を捨つれば忽ち亡び失せしぞかし。ましてやま近き鈴鹿耶麻。
地「ふりさけ見れば伊勢の海。ふりさけ見れば伊勢の海。阿濃の松原むらだち来つて。鬼神は。黒雲鉄火をふらしつゝ。数千騎に身を変じて山の。如くに見えたる所に。
シテ「あれを見よ不思議やな。
地「あれを見よ不思議やな。味方の軍兵の旗の上に。千手観音の。光をはなつて虚空に飛行し。千の御手ごとに。大悲の弓には。知恵の矢をはめて。一度放せば千の矢先。雨霰とふりかゝつて。鬼神の上に乱れ落つれば。ことごとく矢先にかゝつて鬼神は残らず討たれにけり。ありがたしありがたしや。誠に呪詛。諸毒薬念彼。観音の力をあはせてすなはち還着於本人。すなはち還着於本人の。敵は亡びにけり。これ観音の仏力なり。
このように、一曲は観音の仏力を称えながら終わる。曲にもあるように、清水寺の本尊は千手観音である。田村麻呂は、千手観音の千本の手がそれぞれに武器を繰り出し敵を討ったことによって、輝かしい勝利を収めえたのであった。 
 
「原体剣舞連」 (鬼剣舞)

 

(はらたいけんばいれん) 宮沢賢治が1922年岩手県奥州市江刺区原体地区に古くから伝わる民俗芸能の一つである原体剣舞を見て書き上げた詩歌である。詩集「春と修羅」収録。この詩に曲を付けた合唱曲や、題材とした絵本などもある。この詩歌は、賢治が1922年8月30日から31日にかけ種山ヶ原に地質調査に出かけたおり、下山途中で田原村原体(現・奥州市江刺区田原)で見た民俗芸能・原体剣舞を見たことが元になり、『春と修羅』に「原体剣舞連(はらたいけんばひれん)」という詩が収められている。原体剣舞は踊り手に「信坊子」「信者」「亡者」の役の全てを子供達が演じ、その純真無垢で清らかさにより先祖の霊を鎮めようと伝えられてきた念仏踊り(鬼剣舞)の一種と思われる。
鬼剣舞(おにけんばい)
岩手県北上市周辺に伝わる伝統芸能である。(鬼剣舞の地元の言葉では、鬼剣舞(おにけんばい)を、けんべぇ、とも言う。)北上・みちのく芸能まつりを初め、この地方の夏祭りなどで盛んに披露されるほか、小・中学校の運動会のアトラクションとしても演じられ、地元に根付いている。複数の踊り組団体がある。1993年に代表的な4地区の鬼剣舞が国の重要無形民俗文化財に指定された。
念仏踊りに分類。正式には念仏剣舞のひとつであるが、威嚇的な鬼のような面(仏の化身)をつけ勇壮に踊るところから、明治後期以降(1897年(明治30年)頃)に「鬼剣舞」と呼称されるようになったとみられる。かつては男性が演じることがほとんどであったが、最近では女性の演じ手も増えている。
この踊りの独特の歩行に、修験道の鎮魂の呪術のひとつ「反閇(へんばい)」がある。陰陽道で用いられる呪術的歩行のひとつで、「大地を踏み悪魔を踏み鎮め、場の気を整えて清浄にする目的で行われる舞い」の要素と、念仏によって御霊や怨霊を往生させて災厄を防ぐ浄土教由来の信仰的要素が見られる。
人首丸(ひとかべまる)伝説
−アテルイの子、人首丸(ひとかべまる)伝説−
日本紀略によると、延暦二十一年(802)八月十三日、蝦夷の総帥アテルイ(阿弖利為)は、副将モレ(母礼)と共に、河内国杜山(あるいは植山、椙山)において、坂上田村麻呂によって斬られた。しかし、その後も、蝦夷たちのゲリラ戦による抵抗は、いつまでも、いつまでも、続いた。
人首丸(ひとかべまる)はアテルイの子である。伝説は大武丸(おおたけまる)の子としているが、大武丸とは、伝説化したアテルイの名の一つであるから、アテルイの子と見て間違いない。伝えられるところによると、彼は年の頃十五・六才の美少年であった。江刺市米里の大森山に立て籠もって頑強に抵抗したが、大同元年(806)、遂に討ち取られたとされる。今も、大森山の西に「鬼っ子の墓」があり、彼が潜んだ洞窟には観音堂が立てられていた(今は麓の玉里に移されて大森観音と呼ばれている)。
恐らく、少年は、田村麻呂の言葉を信じて、彼に連れられて都へ行った父アテルイが、再び帰って来る日を待ち続けていたことであろう。しかし、幾ら待っても待っても、父は帰って来なかった。それに代わって、風の便りに伝えられて来たものは、父が河内で斬殺されたと云う悲報であった。少年は号泣し憤激した。そして、思いを共にする者たちと、駐屯している朝廷軍の宿営に夜襲をかけた。手に手に松明を振りかざしながら、怒濤のような鬨の声を上げながら、−−−、彼らはみんな一様に大粒の涙を流し続けていた。男たちだけではなかった。女たちもいた。少年たちもいた。
しかし、やがて、朝廷軍の兵たちに反撃され、累々とした屍を残したまま逃げ走らねばならなかった。彼らは東の山へ逃げ込む。伝承によると、北上川の支流伊手川を上り、田原の鬼渕に潜む。しかし、朝廷軍の兵たちは執拗に彼らを追う。彼らは更に川上の藤里の愛宕山の洞窟に身を潜ませては、ゲリラ戦を挑んで抵抗する。しかし、じりじりと、山峡を川上へ川上へと退かねばならなかった。遂に、山を越えて北側の人首川の上流に移り、人首(ひとかべ)の村落(現在は米里と改名している)から、さらに東の山に退き、種山高原に至る。
彼らは物見山(種山)の北西の大森山に入り、岩窟の中に立て籠もった。総勢わずかに二十人足らず。昼は洞窟に身を潜め、夜になると、数人の隊で険阻な山道を通って、朝廷軍を襲った。出撃するたびに、一人二人と討ち取られ、帰ってくるたびに人数が減ってくる。遂に、大同元年(806)、人首丸は、僅かに残った3人の手勢と共に、物見山に陣する朝廷軍に、最後の決死の斬り込みをする。そして、人首丸もその首を討ち取られる。その抵抗は四年に及んだのである。
それから今日まで、美少年人首丸のことは、地元の人たちの心の中に伝え続けられ、消えることはなかった。 
 
鬼剣舞の鬼

 

1.モッコ・モンコ・モウコ
岩手のあちこちで聞くことであるが、子供の頃、夕方遅くまで遊んでいて、なかなか家に帰らないと、モッコがきてさらわれてしまうぞ、と脅かされたものだそうだ。モッコがモンコ・アモンコ・モーコ・モウコなどと、呼称は変わっても、盛岡や北上のような内陸部でも、久慈や山田のような沿岸部でも同じだった。
モッコって何に、と聞けば、年配者の大半は、蒙古来襲だ、と教えてくれる。私は、山口県下関市で生まれ、阿武郡奈古町や島根県浜田市などの山陰の沿岸で育ったが、モッコなんて聞いたことないよ、蒙古来襲なら地元みたいなものだけどね。いわないね、サーカスにさらわれる、とは脅かされたがね。そんなふうに、再度、投げかけると、この得体の知れない化物に興味を示してもらえる。
柳田国男先生は『妖怪談義』で、化物を意味する児童語の代表として「モウコ」と「ガゴ」の二つをあげている。特に、モウコ系は、モッコ(岩手・秋田)、アモコ(外南部)、モウ・モウコ(山形)、モウカ(仙台)、マモウ(福島の岩瀬郡)、モカ(越後)、モモッコ(出雲崎から富山北部)、モウカ(金沢)、モウ・モンモウ(能登)、モッカ・モモカ(信州犀川上流)、モンモ(天竜川水系)、モンモ(甲州)、モーン・モーンコ・モモンガ(静岡以西)などと、枚挙のいとまもないほど、東日本の各地から呼称を採集している。
モウという言葉は子供が化物の真似をするときに発する言葉で、そこから妖怪をモウといい始めたのだろうと推測している。そして、先ず、「咬もうぞ」という言葉があって、それが猛獣などの真似をして相手を脅かすときに使われたのだが、東北の方では第一音節に力が入らないので、モウコとなり、西南日本ではカモウのカに力を入れてガと発音し、カモまたはガコとなったのだというのである。
これに対して、谷川健一さんは、田淵実夫さんの説をあげて柳田説より的を射ているという。田淵説とは、日暮れどきをモウモウ時というのは狼の鳴き声にあやかったもので、妖怪をガモウとかガガモウというが、そのガやガガは狼などの怪物がものを噛み砕いたり、ひっかいたりする音のまねだ、そうだ。
そうして、明治時代、遠野地方では子供が泣くと、「モウコがくるから泣くのをやめろ」とか、「オイヌがくるから泣くのをやめろ」といった。オイヌは東北地方で狼をさす言葉。信州の伊那や木曽で狼が「モウモウ」と大きな声で啼いたことが報告されている。富山地方では幼児を脅すのに「泣くとモウモウに噛ましてやるぞ」といった。モウコのコは東北ではベツコなどというように語尾につける愛称語であるからモウコは狼にほかならない、と谷川さんは補足している。
私は、小松和彦さんが「魔と妖怪」(日本民俗文化大系4『神と仏』)などで指摘していることでよいと思っている。
青森県下北半島で採集した子守唄に、
寝ろぢゃ寝ろぢゃ寝ろぢゃよ 寝ねば山からモコ来て取てたらどうするぞ
というのがある。
他の東北地方の子守唄として、たとえば、
泣けば山からモウコ来る、泣けば里から鬼来るァね
というのも報告されている。
ここで歌われているモコとか、モウコは、柳田先生が整理した「モウ」「モモンガー」などと同系統の妖怪の総称であって、得体の知れない妖怪の類をさしている。おそらく、古代のモノノケという語が転訛したものであろう。それが山からやって来て、泣く子を食べると脅かし、泣きやませ寝かしつけようとしているわけで、山の異界性=異界空間性をよく語り示している事例といえるであろう。そんなふうに、小松さんは説明しているのである。
子供には得体が知れないから怖い。具体性を欠いた闇のなかにひそむ正体不明のものだから、モッコ・モンコ・モウコと聞くだけで怖い。実体がわかると、意外と怖くないものだ。たとえば、水木しげる氏の妖怪漫画はいかにも怖そうに描いてあるが、実体がわかるだけに、慣れて怖くななくなる。ゲゲゲの鬼太郎も、ねずみ男も、みんな友だちになれる。モッコ・モンコ・モウコは、いつまでも怖かったのである。
民俗芸能に登場する鬼
岩手県は「民俗芸能の宝庫」といわれほど、1050団体を超えるおびただしい数の芸能が保存伝承されている。
鬼の登場する芸能も少なくない。たとえば、早池峰神楽や黒森神楽などの山伏神楽では、女舞が一つの見所だが、「鐘巻」「おだまき」「はたおり」のように、女が妄執によって身を狂わし、夜叉や蛇に変身して行くものがたくさんある。そのモチーフは、『源氏物語』で六条御息所がモノノケとなったり、『平家物語』で橋姫が鬼になったりしたのと同じ。変身後は般若面をつける。
昭和30年代まで伝承されていた盛岡市の多賀神楽は、文化3年に藩主から江戸に派遣されて習得して来た里神楽だが、その十二座(種目)の中で、「玉取り」(「剣玉誓約」)が最も人気があった。ストーリーは、鬼が姫の持つ玉を一度は奪うが、鍾馗に奪い返されて泣く話で、その玉を探す仕草が黙劇なので特に面白かったという。
多賀神楽面は、最後の神楽師となった斎藤正三郎家に所蔵されているが、鬼面は、丸顔で角がなく、どことなく愛敬がある。また、盛岡市大宮の大宮神社には、文化5年(1808)に榊山稲荷神社に奉納された「剣玉誓約」など十二座12枚の絵額が所蔵されている。
岩手の代表的な民俗芸能といえば、山伏神楽・鹿踊・剣舞である。剣舞は、風流念仏踊りで、一般には「ケンバイ」「ケンベェ」と呼ばれ、その芸態もよく知られている「鬼剣舞」のほかにも多種多様である。
たとえば、県中央部の盛岡から花巻地方にかけて分布する「大念仏剣舞」は、阿弥陀堂を表す大笠を頭の上にのせた笠ふりを中心となり、唐うちわ・太刀・ツボケなどを持った踊り子が円舞し、念仏回向・浄土欣求の意識が強い。盛岡市都南の永井大念仏剣舞(国指定)、同市太田の上鹿妻大念仏剣舞(県指定)、花巻市の宮野目大念仏剣舞などがある。
北上地方の「ひなこ剣舞」は、大念仏剣舞の構成から女児の踊り部分を独立させた感じの踊りで、華やかな舞踊と太鼓の曲打ちをするが、念仏回向の意識はやや薄れ、風流化している。北上市和賀町の煤孫ひなこ剣舞(県指定)、同町の道地ひなこ剣舞(県指定)などがある。
沿岸南部地方に分布する「鎧剣舞」は、仮面をつけ、身に鎧をまとって踊る剣舞で、戦乱後の亡霊済度の意識が強い。大船渡市日頃市町の甲子剣舞、同市大船渡町の赤沢剣舞、気仙郡三陸町の浦浜剣舞などがある。
これに対して、県南部地方に分布するのが「念仏剣舞」あるいは「鬼剣舞」で、胆沢郡衣川村の川西念仏剣舞(国指定)、胆沢郡胆沢町の朴ノ木沢念仏剣舞(国指定)、北上市和賀町の岩崎鬼剣舞(国指定)、同市江釣子の滑田鬼剣舞(国指定)などがある。
この中で、川西念仏剣舞は、念仏によって衆生を済度する意識がかなり強く、盆や中尊寺の施餓鬼法会などの際に、精霊供養として踊られてきた。
由来伝承によると、平泉初代藤原清衡の時、安倍一族の亡魂が夜ごとに現われ、人心を乱したので、清衡が亡魂済度の祈祷をしたところ、一匹のサルが出てきてモノノケの中に交わり、拍子よく念仏踊りを舞いながら、これらを浄土に導き成仏させたことに始まるという。それを表現したのが代表演目である「大念仏剣舞」で、サルがイカモノ(モノノケ・亡魂)を成仏させる筋立てで、イカモノは激しくおどろおどろしく抵抗する。そのさまはよく古態を保っているといわれ、特に足の組方など注目すべき点が多い。
朴ノ木沢念仏剣舞では、川西の「大念仏剣舞」を「本剣舞」と称し、一般には「高舘物怪(モッケ)」と呼ぶ。平泉の高館で倒れた源義経主従の亡霊を鎮めるために始まったといい、源義経主従の亡霊が高館城下に出没して暴れまわり人々を悩まし続けたので、泰衡が中尊寺・毛越寺一山の僧侶に命じて祈祷させたところ、七夜目にどこともなく現れた一匹の猿が荒れ狂う亡霊の中に交じり、面白く踊り始めたので、亡霊もつられて踊り、やがて心がやわらぎ、救われて退散したという伝承を持つ。
同種の剣舞を菅江真澄も見たらしく、「かすむ駒形」(天明6年(1785)2月14日条)に、胆沢郡徳岡(現在の胆沢町)滞在中の記事として書きとめている。長いが、興味深いので引用しておく。
きょうは空が晴れてのどかなので、積雪をふみならし、藁をまきちらしその上に莚を敷き、大ぜいの童が群れて遊んでいる。
笛を吹き、太鼓や銭太鼓、調拍子をならしてはやしたて、鹿踊のまねをしたり、また田植え踊のまねをしてみたり、箱の蓋を頭にのせて念仏舞のさまをし、また剣舞ということをしている。
この剣舞というものは、いかめしい仮面をかけ、袴を着て、たすきをし、髪をふりみだして、軍扇を持ち、また太刀をはき、つるぎを抜いて舞うのである。
この剣舞を高館もっけともいう。それはむかし、高館落城ののち、さまざまの亡霊現れたので、その荒ぶる亡霊をとむらいなだめようというので、物化の姿に身を飾って念仏をうたい、うら盆ごとに舞ったのである。
これとはさまがかわるが、遠江の国(静岡県)才が谷の念仏盆供養と同じである。それをここでは男の子の春遊びにしているのも奇妙なことであった。(『菅江真澄遊覧記2』)
真澄が注目したように、予祝芸能の田植踊、盆供養の鹿踊や剣舞を男の子たちは春遊びとして楽しんでいたのである。
それはともかくとして、ここでも高舘落城後にさまざまに現れる亡霊を「モッケ」と呼んでいる。つまり、「物怪(モッケ)」は、モノノケであり、先に触れた得体の知れないモッコやモンコなのである。
鬼と剣舞の由来
鬼剣舞は、北上川流域の農民達が守り伝えて来た芸能で、勇壮で激しい、厳粛で穏やかな所作の中にも、素朴さとたくましさを持ち合わせており、特に人気の高い剣舞である。盆の精霊供養としての風流念仏踊りで、「念仏剣舞」と称してきたが、威嚇的な仮面をつけて踊るところから、一般には「鬼剣舞」と呼ばれている。念仏による衆生済度とヘンバイ(反閇)による悪霊退散の意識が強いが、一方で風流化も進んでいる。
北上地方の13の踊組は、いずれも岩崎鬼剣舞を源としている。享保17年(1732)の「念仏剣舞由来録」や江戸末期から明治初期頃の「念仏根元秘書」によると、大宝年間(701ー704)、役の行者小角が吉野川上流で水垢離をとって大峰山上で苦行し、その万願の七夕の夕暮れに踊った念仏踊りに始まるという。また、葛城山に住む一言主という醜い容貌の鬼神が、役の行者に従って岩橋を架けるなどの善行を積んだ功徳で、角もとれ顔形も美しくなった、その喜びの踊りともいう。大同年間(806ー810)に、出羽国羽黒山で善行院という修験者が大日如来の化身から学んで広め、康平年間(1058ー65)、安倍貞任・正任がこの踊りを好んで領内に推奨したという。
その後、延文5年(1360)には岩崎城主岩崎弥十郎が主君の和賀政義を招き、城内で剣舞を踊らせたところ、政義は大いに喜び、家紋の一つ「笹リンドウ」(和賀氏は源氏)の使用を許可したと伝えられる。
役の行者と一言主の由来伝承がある岩崎剣舞の「念仏根元秘書」(江戸時代末期の成立か)には、「御免許七カ条に言、右之通」として、衣装や採り物・面を次ぎのように記している。
一、(毛ザイは)はね申す鬼神の頭をあらわす所なり。
一、面をかけること、鬼神の顔をあらわすところなり。
一、剣を持つこと、金峰山で働くとき悪魔降伏のために戴く剣なり。
一、金剛杖を持つこと、釈尊霊山で御修業のとき衆生済度のために戴く杖なり。
一、荷負いたすき、脱ぎ垂れ、大口、右三ケ条は、金峰山で岩橋働きのときの姿をあわせるなり。
これはおおむね現行の扮装に通ずる。毛ザイをかぶりと仮面をつけ、平口袖の格子模様のミゴロを着て、笹リンドウのついた胸当てをし、タスキがけ、腕には鎖カタビラに手甲、広口袴をはき、後腰にはゴザの裏打ちをした大口をつけ、その上に脱ぎ垂れをさげ、刀を帯びる。足には脚絆をまき、白足袋に切緒のゾウリ。右手に扇を持ち、左手の中指にV字型の赤い金剛杖をはさんでいる。広口袴は昭和になってからの工夫で、もとは川西念仏剣舞と同じサルペだったそうだ。
面は威嚇的な面で、一般には鬼面と呼ばれる。阿吽があり、鬼面四色とカッカタ面一色で、8人で踊るときには1人が白面、他は青面・赤面・黒面をつけ、カッカタは茶(黄)面。5色は陰陽五行説の五季(四季と土用)や五方位を表すとともに、仏教の五大明王を象徴している。
○白面〜秋・西・大威徳夜叉明王
○青面〜春・東・降三世夜叉明王
○赤面〜夏・南・軍荼利夜叉明王
○黒面〜冬・北・金剛夜叉明王
○茶(黄)面〜土用・中央・不動明王
カッカタは、道化役だが、本来は仏の化身で、川西念仏剣舞のサルコに相当と考えられる。
大口には「唐獅子ボタン」を描いている踊組もあるが、岩崎では「安倍貞任正任」をつけ、古い大口には「牛若弁慶」を描いたものもある。安倍貞任兄弟、源義経、いずれも中央の強権に追われ、非業の最期を遂げた勇者である。
各地の剣舞の由来は、大半が悪路王・安倍貞任・源義経などの亡霊を慰めるために始められたと伝承する。先に挙げた川西念仏剣舞の安倍氏の亡霊や朴ノ木沢念仏剣舞の義経主従の亡霊はその代表であるが、ほかにも多い。
たとえば、天保6年(1835)に和賀・稗貫両郡の見聞を集した『二郡見聞記』の巻七に「川岸剣舞」の項がある。北上市川岸の黒沢尻古舘は安倍貞任の弟である黒沢尻五郎正任の居城で、康平5年(1062)9月14日、源頼義によって攻略せられたが、そこに怪異があって剣舞によって鎮めた記事がある。
正任没落以前毎夜怪異の事あり、深更におよび座敷にて踊の音あり、行って見るに白装束にて皆女なり、人立て是を見るに、段々其形ち消て次の座敷にて音あり。亦其所へ往て見れは又消失て次の間へ行也。是より貴僧高僧祈願の者を召て祈祷を成しけれども其験しなし。
ある夜諏訪大明神、夢想の御告によって剣舞を修す。その形ちあらく鬼面へしゃくまをかむり惣身黒赤して腕首をあら縄にて結び白剣を持、踊の中へ入りて舞ふべしと也。その夢の如く成して踊けるに、怪異の踊消て次の座敷に行、追かけて行事三度にして出ずと也。これによって明神の御告悪魔降伏の踊なればとて今に絶へず。諏訪の御神事にこのをとりを修すなり。
川岸剣舞は現在では伝わってはいないが、この記述によって、諏訪神社(北上市黒沢尻町)の奉納芸能であったことや踊り手の装束を知ることができる。鬼面をつけ、しゃぐま(ザイ)をかぶり、全身を黒赤の衣装をつけ、腕首をあら縄で結んで、白剣を持つといういでたちで踊ったわけである。北上市の立花念仏剣舞は、この川岸剣舞の流れをくむという見方もあるが、確かなことはわからない。
沿岸部の気仙地方でさかんな鎧剣舞では、平家の亡霊を弁慶が鎮めたという伝承が圧倒的に多い。たとえば、大船渡市大船渡の赤沢鎧剣舞では、壇ノ浦の合戦後、破れた平家の亡霊が荒れまわるので、弁慶が念仏を唱えて鎮め済度したという口伝があり、また別に、平泉の高館没落後の亡霊の出現を高僧が7日間念仏を唱え踊り続けて退散させたことに由来するともいっている。そのほか、胆沢郡胆沢町の化粧坂剣舞では、坂上田村麻呂が悪路王の霊を慰めるために始めたと伝承している。
由来伝承は史実とは言いがたいものが多いが、その発想には興味深いものが少なくない。悪路王・安倍貞任・源義経など、いわゆる中央権力によって悲運な最期を遂げた者たちの亡魂を慰めるために踊られ始めたのが剣舞というのである。彼らは、強力な中央政府に、まさしく「鬼」となって戦った。その非業な死ののち、地元民たちは故郷をめざす悪路王の首の話や貞任・義経の北行伝説を生み語りついだ。地元民たちの心には、彼らはいつまでも生き続けるみちのくの英雄たちなのである。
鬼剣舞の演目「一人加護」「三人加護」「八人加護」は、別名「一人いかもの」「三人いかもの」「八人いかもの」というが、「いかもの」は「偉者」で、こうした英雄をさしているのである。
ところで、岩崎鬼剣舞で最も古い文書は、大師匠小田嶋昌悦家に所蔵される享保17年(1732)の「念仏剣舞傳」という秘伝書で、つい十数年前に発見された。
その内容は、さきに触れたように、大同年間(806ー810)に、羽黒山の法印善行院が荒沢鬼渡大明神で、大日如来の化身から悪霊退散・衆生済度の念仏踊りを伝授されたのが始まりという由来、七カ条の演目目録、念仏回向文、念仏讚、念仏作法のし方、笹リンドウ紋の由来など。その相傳日付は、「享保十七壬子年七月二十日」。伝授者名は、「十兵衛(血判)/利助(血判)/久内(血判)」、被伝授者名は、「万五郎/七郎右エ門/藤次郎/佐吉/源内」である。
解読のために私のもとに持ち込まれたこの「秘伝書」の、薄く黒ずんだ血判の痕と日付に、私は強い衝撃を覚えた。
というのは、前年の享保16年3月12日、盛岡藩鬼柳通の山口・煤孫・岩崎(以上現在の北上市和賀町)・鬼柳(北上市鬼柳町)の四カ村で、年貢や坪役銭(宅地税、1坪2文)の賦課に反対して百姓一揆を起こし、248名が盛岡に強訴した。途中、黒沢尻通などの村々を巻込んで、人数は6・700名に達した。そのため、藩では役銭の減免など十カ条の要求をすべて入れた。一揆側の一方的な勝利である。
しかし、その報復がすぐ来る。一揆の頭立者の処置は峻烈を極めた。13年後の延享元年(1744)の一揆で、打首獄門5人・追放の上打捨6人など37人の処分者を出していたが、これとほぼ同様な処罰だったようだ。また、この年藩の江戸屋敷が焼けたので、新築費用の過役金が課せられ、追い打ちをかけるように鬼柳通の検地のやり直しが行わた。もちろん、それに伴う夫役や賄方は地元負担である。
一揆の要求は通ったものの、生活は決して楽にならず、明けて正月、9軒39名が岩崎村を逃げだした。欠落は大罪だったから探索は厳しく、発見された10名は花巻・盛岡で入牢の上追放されている。数年に一度は凶作になり、2年も続けば、一揆を起こすしか術のなかった北国の農民。しかし、苛酷な処罰と報復的な重税賦課が待っており、逆に追いつめられて行ったのであろう。
鬼剣舞の伝授は、こうした状況の中で行われている。二十日盆の日を選んだのは決して偶然ではなく、亡き人々の菩提を弔いながら、その痛みを新たにし、村の人びとに共通の悲しみや憤りを確認し合って、平穏な世の到来を強く祈ったのだ。伝授者の筆頭十兵衛は庭元師匠で、同時に岩崎村の肝煎でもあった。彼は鬼剣舞の里人の切実な祈りを全身で受けとめ、欝屈した村の空気をはね飛ばすように、悪魔退散・衆生済度の踊りを力強く踊って、若者たちに伝授したことであろう。
剣舞は、剣を持って舞うところからの宛字だが、「バイ」は決して「マイ(舞)」がなまったものではなく、当初から「バイ」で、「ヘンバイ(反閇)」からきている。反閇は、陰陽師や修験者の用いる呪法で、悪魔を踏み鎮め、邪気を払うために行うのである。
愛知県の奥三河北設楽地方に伝わる「花祭り」は、冬から春にかけて夜を徹して行われる祭り。そのクライマックスの午前2時頃、全身を赤布で包んだ榊鬼がオオマサカリを携えて祭場に現れ、もうもうと煮えたぎる湯釜の回りで、東西南北中央の五方を順に踏みしめる。次いで、禰宜と問答を交わした後、再び、湯釜の前に敷いた新薦の上で、笛・太鼓の囃子にあわせて力強く足踏みを行い、マサカリを振りながら豪快に舞う。
また、祭場に登場する前に、新築の家や病人のいる家などから頼まれて、座敷や病人の身体を踏む。こうした足踏みを「ヘンベ」と称し、富貴繁栄をもたらせたり、悪気の追放をはたすという。
鬼と反閇と悪魔払い、剣舞の最も重要な要素がこの花祭りの榊鬼にある。剣舞の原初的な「かたち」と「こころ」を考える上で注目できる。
剣舞は、この反閇の呪術的性格と念仏によって衆生を済度する浄土信仰的性格とが結合したものである。そうして、その浄土信仰的性格のより濃く出ているものが大念仏剣舞で、反閇の呪術的性格がより強く出ているものが念仏剣舞、特にも鬼剣舞なのである。 
 
「ひとつのいのち」考
 宮沢賢治の「原体剣舞連」をめぐって

 

はじめに
その当時盛岡高等農林学校の学生であった宮沢賢治は、大正六(一九一七)年 の八月から九月にかけて、同級生らと地質調査のために江刺郡地方を訪れ、そ の際にその地方のさまざまな剣舞を目にすることになる。子供たちによって舞 われるその地方の剣舞は、賢治にある強い印象を与えたようである。その印象 は直ちに短歌に詠まれ、また後には物語に、詩に、そして歌曲に取り入れられ てゆくことになる。直ちに詠まれたと思われる短歌は、例えば次のものである (大正六年九月三日、保阪嘉内宛葉書)(1)。
   うす月にかゞやきいでし踊り子の異形のすがた見れば泣かゆも。
   剣まひの紅(あか)ひたゝれはきらめきてうす月しめる地にひるがへる。
   月更けて井手に入りたる剣まひの異形のすがたこゝろみだるゝ。
   うす月の天をも仰ぎ太鼓うつ井手の剣まひわれ見て泣かゆ。
彼は、思わず泣いてしまうほどの感銘を、この剣舞から受けたのだ。そして、 これらの歌から判断すると、彼が感銘を受けたのは、まず何よりも、踊り子た ちの「異形のすがた」であったようである。そして「紅ひたゝれ」が「地にひ るがへる」様も、うす月の差す時刻や、太鼓の音などの環境的な状況とともに 、彼には印象の深いものであったようである。さらにわれわれは、ここで、こ の剣舞が、「井手の剣まい」と呼ばれるものであったことにも、少し注意して おこう。「井手」とは、江刺地方のひとつの村落であり、今日普通には「伊手 」と表記される土地のことである。今日その土地では、「寺地剣舞」と呼ばれ る剣舞が踊られている(1)。そしてこのことは、大正六年の当時も同じであっ たと推察される。
詩集『春と修羅』に収められることになる、大正十一(一九二二)年八月三 一日作の詩「原体剣舞連(はらたいけんばひれん)」も、大正六年のその時の インパクトを源泉にした作品だと考えられる。そこでは、上に挙げた「井手の 剣舞」の印象深い情景のさまざまが、取り入れられている。この詩においては 、単に江刺郡「原体村の剣舞」に加わる人々が誉め、称え、歌われているばか りではないのである。詩のタイトルの「原体剣舞」は、むしろ江刺地方のさま ざまな剣舞の〈エッセンスとして〉、取り上げられ、名差されているようにみ えるのである。実際この江刺地方の剣舞は、北上地方の鬼剣舞とは異なって、 すべてが十二歳位までの子供たちによって舞われており、賢治がこの詩におい て行っている主要なことの一つは、剣舞を舞う〈子供たちを〉、詩中の言葉で 言って、「気圏の戦士」として捉え、そして彼らを自分の「朋(とも)たち」 として位置づけることである、と考えられるからである。そして、このような 同志的な共感の姿勢の、萌芽のようなものは、上掲の短歌の中にも、読み取ら れるのである(なぜ〈泣かれる〉のか)。
ところで剣舞を舞う子供たちが気圏の〈戦士〉として捉えられる時、そこには 当然或る〈戦い〉が存在している、と考えられねばならない。それは一体どん な戦いなのだろうか? それは確かに、容易には掴みがたい戦いであろう。気 圏の戦士たちは一体何と戦うのだろうか? ------その命名からして、おそらく こう言うことはできるだろう。彼らは、〈気圏を汚す者〉たちと戦う、と。そ して詩中では、「悪路王」の名が、彼らの戦いの相手として、挙げられている 、と考えられる。------ここにおいて、この名とともに、この詩は東北地方の 精神史の非常に重たい問題と関ることになるのではないだろうか。賢治がここ で「悪路王」を登場させる時、彼には確かに、或る安易な依りかかりがあった であろう。通説的な「悪路王」像への。しかし彼の詩作の力は、悪路王につい ての通俗的な問題系をすっと乗り越えていってしまう。そしてわたしたちを、 生きることの本質的な問題、つまり生殺の問題の場に、引き連れてゆくのであ る。彼の、「ひとつのいのち」という思想は、この問題に対して、賢治がわた したちに、〈解決〉として示してくれた思想である。それは何からの解決だろ うか? ------〈気圏を汚す病〉からの、つまりルサンチマンからの、と、われ われは答えてよいのではないだろうか?
そしてまたもう一つの問題は、賢治がここで示した解決が、本当に充分な答え になっているのか、ということである。これは慎重に検討されねばならないだ ろう。われわれはこれらの問題について、以下、若干の考察を試みることにし たい。
詩「原体剣舞連」のテクスト
すべての考察に先立って、宮沢賢治の詩「原体剣舞連」を、宮沢家本による最 終推敲の形で、全文引用紹介しておきたい。以下がそれである。
原体剣舞連(はらたいけんばひれん)
            (mental sketch modified)
   dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
こよひ異装(いさう)のげん月のした
鶏(り)との黒尾を頭巾(づきん)にかざり
片刃(かたは)の太刀をひらめかす
原体(はらたい)村の舞手(をどりこ)たちよ
若やかに波だつむねを
アルペン農の辛酸(しんさん)に投げ
ふくよかにかゞやく頬を
高原の風とひかりにさゝげ
菩提樹皮(まだかは)と縄とをまとふ
気圏の戦士わが朋(とも)たちよ
青らみわたる景頁気(かうき)をふかみ
楢と椈(ぶな)とのうれひをあつめ
蛇紋山地(じゃもんさんち)に篝(かがり)をかかげ
ひのきの髪をうちゆすり
まるめろの匂のそらに
あたらしい星雲を燃せ
  dah-dah-sko-dah-dah
肌膚(きふ)を腐植と土にけづらせ
筋骨はつめたい炭酸に粗(あら)び
月月(つきづき)に日光と風とを焦慮し
敬虔に年を累(かさ)ねた師父(しふ)たちよ
こよひ銀河と森とのまつり
(じゅん)平原の天末線(てんまつせん)に
さらにも強く鼓を鳴らし
うす月の雲をどよませ
  Ho! Ho! Ho!
     むかし達谷(たつた)の悪路王(あくろわう)
     まつくらくらの二里の洞(ほら)
     わたるは夢と黒夜神(こくやじん)
     首は刻まれ漬けられ
アンドロメダもかゞりにゆすれ
     青い仮面(めん)このこけおどし
     太刀を浴びてはいつぷかぷ
     夜風の底の蜘蛛(くも)をどり
     胃袋はいてぎつたぎた
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
さらにも強く刃(やいば)を合(あ)はせ
四方(しはう)の夜(よる)の鬼神(きじん)をまねき
樹液(じゆえき)もふるふこの夜(よ)さひとよ
赤ひたたれを地にひるがへし
雹雲(ひよううん)と風とをまつれ
  dah-dah-dah-dahh
夜風(よかぜ)とどろきひのきはみだれ
月は射(い)そそぐ銀の矢並
打つも果(は)てるも火花のいのち
太刀の軋(きし)りの消えぬひま
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
太刀は稲妻萱穂(いなづまかやぼ)のさやぎ
獅子の星座(せいざ)に散る火の雨の
消えてあとない天(あま)のがはら
打つも果てるもひとつのいのち
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah    (一九二二、八、三一)
詩「原体剣舞連」と原体剣舞
「原体剣舞連」と題されたこの詩は、確かに、当時江刺郡の原体村で舞われて いた剣舞を〈基準〉にして書かれている、と考えられるであろう。「異装」「 鶏の黒尾を頭巾にかざり」「片刃の太刀をひらめかす」「ひのきの髪をうちゆ すり」「青い仮面このこけおどし」「赤ひたたれを地にひるがへし」などの叙 述は、原体剣舞を踊る子供たちの姿を描いたもの考えて何の矛盾も生じないか らだ。頭巾にかざられる「鶏の黒尾」は、原体剣舞で用いられ、普通「鶏羽菜 (ザイ、「采」とも記す)」と呼ばれているものであろうし、「赤ひたたれ」 と言われたものは、普通「座衣・尾口」と呼ばれているもののことである、と 考えられるのである(2)。尤も、これらの道具立ては、ここに描かれている限 りにおいて、伊手(井出)の寺地剣舞と特に変わるところはなく、この詩の前 半部の、弦月の下に異装で踊る子供たちへの共感的な感銘は、むしろ、先述し たように、賢治が「井出の剣舞」、乃至は「上伊手剣舞」と呼ぶ「剣舞」から 受けた印象が基礎になっている、と考えられるのである(3)。われわれが「こ の詩は原体剣舞を基準にして書かれている」、と言うとき、われわれはそれを 、とりわけこの詩の後半部との関りにおいて言っているのである。この詩が後 半「Ho! Ho! Ho!」から、悪路王のテーマを導入してくるとき、そしてとりわ け「青い仮面このこけおどし」について語るとき、われわれはこれを、賢治独 自の、原体剣舞についての解釈、と考えるのである。と言うのも、原体剣舞を 見た賢治の印象は、それを記した彼の短歌からみて、青仮面の人物に集中され ているからである。『アザリア』第三号に掲載された「原体剣舞連」というタ イトルの歌は、次ような三首である(「歌稿A」の歌はこれらの内の初めの二 首の「異稿」とみられるものである)。
   やるせなきたそがれ鳥に似たらずや青仮面(メン)つけし踊り手の歌。
   若者の青仮面の下につくといき深み行く夜を出でし弦月。
   青仮面の若者よあゝすなほにも何を求めてなれは踊るや。
賢治はここで、青仮面(実際には「黒面」と思われる)をつけた人物(ペルソ ナ)のもつべき、やるせなく、苦しい内面に入り込み、そこで仮面踊りの舞そ のものに、謎を掛けられたようである(4)。つまり、この仮面のペルソナは、 何を表しているのか、何を意味しているのか、という謎に。詩「原体剣 舞連」、とりわけその後半部は、この謎に対して賢治が試みた、一つの解釈の 試みだ、と考えられねばならない。そして賢治は、この仮面の人物のペルソナ を、この東北の地に伝わる伝説の、悪路王だ、と解釈したのである。平 泉の西、達谷の窟に、城塞を構えて立て籠り、征夷の将軍・坂上田村麻呂ら に逆らい、そして滅ぼされた賊主、と伝えられる、あの悪路王、 として(5)。
     むかし達谷(たつた)の悪路王(あくろわう)
     まつくらくらの二里の洞(ほら)
     わたるは夢と黒夜神(こくやじん)
     首は刻まれ漬けられ
   アンドロメダもかゞりにゆすれ
     青い仮面(めん)このこけおどし
     太刀を浴びてはいつぷかぷ
     夜風の底の蜘蛛(くも)をどり
     胃袋はいてぎつたぎた
賢治はこの剣舞の一シーンを、悪路王に擬される「青仮面」の人物が、太刀を 浴びて、溺れかかった者のように、蜘蛛のような踊りをおどっているところ、 と捉えたのだ。このとき悪路王は、「黒夜神」とひそかな盟約を結ぶ悪虐人で あり、しかもその強さ、恐ろしさは「こけおどし」で、名将軍との戦いになれ ば、他愛もなく殺られてしまうのである。
原体剣舞の意味すること
しかし、この賢治による謎解きや解釈は、事実的な意味において、間違いであ ろう。剣舞そのものに即して考察するならば、原体剣舞や寺地剣舞には、悪路 王の影はほとんど差していない。
まず、原体剣舞の庭元に伝わる家伝書によると、「仏説にある釈迦の高弟、目 蓮尊者の母が死後餓鬼道におちいり、燃えさかる業火にさいなまれて地獄変に 苦しむ様を嘆き悲しみ、釈迦の教えに従って先祖を供養して踊ったのが『うら 盆』であり、剣舞の始めであるとされる。日本では天慶元年、密教の祖といわ れる空也上人が辻説法の際、四十八人の弟子に夜叉形の面をつけ、太刀・扇を 持って笛・太鼓・鐘・鉦・ササラで五音の曲を調べ、六字の名号を唱えて踊っ たのが始め」だとされている(6)。ここではこの剣舞が、先祖供養の趣旨のも のであること、目蓮尊者の願いに発していること、そして空也上人の先例にち なむ踊りだということ、が重要だと思われる。
また別の資料によれば、この稚児剣舞は、「奥州平泉初代の藤原清衡が、豊田 館(江刺市岩谷堂下苗代沢字餅田)に在ったとき、藤原家衡の襲撃を受け、一 族郎党皆殺しの目にあい、清衡のみが逃れ」た。後に清衡はその時に殺された 者たちの供養のために、「剣舞を演じさせたが、特に亡き妻と子の怨霊供養を 厚くするために女子と稚児の演ずる剣舞となった」ということである(7)。こ の伝承は、江刺の土地への密着性があること、及びこれが十二才くらいまでの 子供の舞手たちによって舞われる理由を説明していること、などによって、こ の剣舞の趣旨をよく語っているものだと、考えられる。
私が見聞したところを若干の資料と整合させて記せば、実際の原体剣舞の舞手 は、四つのカテゴリーに分けられる。夜叉の面を顔にはつけず腰の背につけ、 頭には鶏羽の采を縛り付け、腰に白帯を結び、扇・面棒(或は太刀)をもって 踊る、〈亡者〉とみなされる八人の剣士の一群。〈空也上人〉に擬される聖者 の仮の姿とされる、「信坊子(スボッコ)」と呼ばれる、黒面を付け杖と軍配 をもって踊る一人。彼だけは腰に青空色の帯を締める。そして採り物からとい うより、位置からして二類に分けられる、三人の少女たち。一方の類は〈目蓮 尊者〉とみなされる、鉦をもつ一人で、他方は〈信者〉とみなされる、鉦をも つ一人とささらをもつ一人。この二人は並んで踊る。少女は三人とも長衣に脚 絆・草履に編笠をかぶっている。そして舞の経過は、私の見るところでは、荒 くれ踊っている亡者たちが、信者の鉦とささらの音、これは経典の転読の音と みなされるだろう、によって徐々に慰められ、鎮められ、ついには戦いへの意 志を放棄して、太刀(面棒)を捨てる、という趣旨のものである(8)。亡者は 、踊りにおいてみずからの力と意志を充分に示た上で、はじめて仏教の教えに よって慰められ、そして空也上人の聖なる力の前に、みずからの怨念を捨てる 、というストーリーの踊りであると考えられる。この場合怨念をもつ「亡霊」 たちは、自らの姿を表すはずの〈亡者〉たちに、自らの様々な念を投入し、彼 らと同一化できなければならず、また、実際、充分強く、正しく舞われる場合 には、それがなされ、剣舞の舞が四方の「亡霊」たちを呼び寄せている、と感 じられるであろう。賢治はその様子を、端的にこう語っている。
   さらにも強く刃(やいば)を合(あ)はせ
   四方(しはう)の夜(よる)の鬼神(きじん)をまねき
   「鬼神」とは「亡霊」の別の名である。
そしてこの原体剣舞の場合、この怨念を慰められる亡霊とは、藤原清衡の妻子 、一族郎党の者たちであり、そういう者たちとしての、この村、この地方の、 先祖たちであろう。
「上伊手剣舞」
このように賢治は、原体剣舞の舞手たちの役を、大きく読み誤りながらも、剣 舞による供養の、非常に重要な、本質的なところは、充分に、いや充分以上に 、読み取っていた、と言うことが出来るであろう。本質的なところ、とは、戦 に滅びた亡霊たちが自らの依りつきどころ、を見出す、ということ、それを舞 手の舞において見出す、ということである。この〈依りつき〉があってはじめ て、恨みを残す霊たち(「四方の夜の鬼神」たち)の、慰撫や鎮魂が可能にな るであろう。賢治はそのような、真に〈招霊力〉のある剣舞の舞を見たのであ ろうし、そしてその〈招霊〉の働きを、「原体剣舞連」の詩において定着させ たのである。
ところで、賢治のこの剣舞に対する最大の読み誤りは、黒面をつけた〈空也上 人〉を〈悪路王〉と読み違えたことである。そして、この黒面の空也上人の姿 は実におどろおどろしく、実際、亡者たちの首領といった趣を持っているので ある。この剣舞で空也上人は亡者たちの中にあり、そのあり方をとおして亡者 たちを導いている。ここには確かに、黒面の少年を、亡者となった戦士たちの 首領としての悪路王、とする解釈を、誘う要素があるであろう。
しかし、ここには更にもう一つのファクターがひそんでいるかもしれない。そ れは昭和五十五年前後の江刺市の調査で、一部すでに廃れたものも含めて、確 認された十四の剣舞の中に、ただ一つ、悪路王との関係を、剣舞の起源として 語り継いでいる剣舞がある、ということである。それは熊野田剣舞である。そ の由来についての説明を、『江刺の芸能』からそのまま引用してみよう。「剣 舞の起原は大同三年(八〇八)と伝えられ、桓武天皇延暦年間に、坂上田村麻 呂が勅命を奉じ、霧山達谷に住む大武丸並に高丸の悪鬼討伐をしたが、其の際 、国土安穏万民全福の祈願を羽黒山峰中権大僧都法印善行印忠度に命じ、僧は 命を畏み、同年十月より鬼渡大明神の御堂に篭り、一千日の行に入る、而して 七百七十七日目の夜、不思議なる音と光の中に老、中、若、三人の客僧が現わ れ、一刻にして消え失せた、翌夜より五十日間、毎夜現われて悪魔退散菩提大 成のための大念仏剣舞を御示し給われた、と伝えられている。」ここには幾つ かの伝承が複合しているが、「達谷に住む大武丸並に高丸の悪鬼」とは、『吾 妻鏡』が「賊主悪路王ならびに赤頭が岩屋に塞を構える」と言っていたことの 、人物名だけの変更である。われわれは「大武丸」を、もともと固有名ではな かったと考えられる「悪路王」の、一人として伝承された人物、と考えること が出来るであろう(9)。そしてこの縁起において注目すべきことは、それが剣 舞を、〈悪路王〉討伐のための、〈悪魔退散の舞〉として意味付けていること である。これは〈気圏の戦士〉たちが悪路王をやっつける、という詩「原体剣 舞連」の筋立てと非常によく一致している。宮沢賢治は、このような縁起説を 、江刺郡地方の調査旅行の間に、どこかで見聞したのではないだろう か?
これは未だ突き止められていない問題だが、賢治の言う「上伊手剣舞」という ものは実在していたのだろうか? 実在していたとすればそれはどういう性格 の剣舞で、どういう消長の経過を辿ったものなのだろうか? それは、もしか して、熊野田剣舞と似た性格のもので、同じく〈悪路王討伐のための剣舞〉と いう性格をもった剣舞だったのだろうか? そして、ひょっとしたら、熊野田 剣舞が明治十年七月に伝授を受けた、と言われる、伝承元の「江刺郡伊手村漆 立屋敷、庭元」(10)というのが「上伊手剣舞」と呼ばれるものであって、それ が大正六年に賢治が見たものであったのだろうか? ------これらは私が未だ突 き止めていない問題であり、ここでその帰趨を定かに言うことはできない。し かし、賢治が江刺を旅した当時でも、熊野田剣舞という、剣舞を悪路王討伐の ための舞として意味付けている剣舞が存在していたのであり、そうした意味付 けを賢治がどこかで耳にし、それを剣舞一般の意味と考えた、ということは充 分ありうることだと思われる。賢治は、そうした背景の下に、原体剣舞をも、 悪路王討伐のための舞と理解したのではないだろうか?
そしてまた、賢治の言う「上伊手剣舞」とは、本当は何だったのだろう か?
「ひとつのいのち」
われわれはこのような問いを、当面、問いのまま置いておいて、詩「原体剣舞 連」が語っている最も深い思想の検討に進まなければならない。
この詩において最後に語られている願望は「雹雲と風とをまつれ」、である。 それは先に引用した「鬼神をまねき」につづいて、次のような3行として語 られる。
   樹液(じゆえき)もふるふこの夜(よ)さひとよ
   赤ひたたれを地にひるがへし
   雹雲(ひよううん)と風とをまつれ
鬼神たちがやってきている。おののくべき、きびしい夜である。樹液すらふ るえている。そこを一夜中、舞を舞い続け、鬼神たちを楽しませる。赤いひた たれのひるがえり。赤をひるがえして舞い続けることが、雹雲と風とをまつる ことになるように、そのように舞い続けること。赤い色が翻る。地には赤を翻 させる舞が続き、その赤の翻りが、天上の雹雲と、風のリズムに呼応する。地 と天の間、地の赤と天の黒雲との間に一つのリズムの呼応が生じるとき、鬼神 もまた怨恨の念を失い、亡霊たちの思念は、ことごとく、風のごとくに消失す る。そうしたリズムを生み出すまつり、舞い、としての〈気圏の戦士〉たちの 、鎮魂、慰霊の剣舞踊り。四方から呼び寄せられた亡霊、鬼神たちは、この天 地を結ぶリズムの動きの中に、慰められ、充足し、そして清らかに消え去るの だ、と賢治は語ろうとしているのではないだろうか。怨霊を鎮めうる〈験(げ ん)〉の力とは、こうして天地を遍くわたらしめるひとつのリズムを打ち立て る力に尽きるのだ、と賢治は言おうとしているのではないだろうか。恐らくこ ういう解釈だけが、「雹雲と風とをまつれ」という願望を、究極的な、充分な 願望として、打ち出すことの意味を説明するであろう。天地を呼応させるリズ ムの生産装置としての「原体剣舞」、こういうものを賢治は、〈気圏の戦士〉 としての舞手たちの舞いに読み取り、また期待したのであろう。
そうであるとすれば、「打つも果てるもひとつのいのち」という、詩行の末尾 に語られる思想は、生命というものは根源においては一つであるが、それが現 実の生においては必然的に異なった別々の形を取り、異なった立場を取り、あ い対立せざるをえないのだ、という思想、根源の一性にこの世の葛藤や対立か らの救済を見出そうとする思想、とは、はっきりと異なった思想を語っている ことになるであろう。つまり賢治においては、より実践的、実行的なことが問 題なのであり、現実に月が銀の矢並みを射そそぐリズムを見出し、生み出すこ とが重要なのであり、獅子座に火の雨を散らせるリズムを見出し、生み出すこ とが重要なのである。しかも、多くのいかさま師たちがやるように、そう見せ かけるのではなく、本当にそれを見出し、生み出すことが問題なのである。従 って、「打つも果てるもひとつのいのち」という思想は、単に前景であって、 本当の思想は、或るひとつの〈宇宙のリズム〉を把握することの内にあるので ある。そして、この捉えられた或るひとつの〈宇宙のリズム〉の中で、本質的 に多数であるいのちたちが、同じ時の流れを経験するのである。それが喜びで あり、歓喜であり、そして救済である、と賢治はわたしたちに語っているので ある。賢治が語っていることは、イデオロギーでもなく、またいかさまでもな い。
そして、ここにおいて、つまり生の本質的な多数性の、現実に把握され、生み 出され、享受される喜びにもとづく、承認と肯定において、宮沢賢治の思想は 、ニーチェの思想と非常によく似た場所にあるのである。ニーチェもまた、生 の本質的な多数性の、この承認と肯定によって、意志は根源において一つであ る、というまやかし的な思想を語る哲学者と対決したのである(11)。
ニーチェの思想との比較は、また後の機会にゆだねたいが、「ひとつのいのち 」という賢治の思想は、私の苦において誰かの快を肯定し、また私の快におい て誰かの苦を肯定する、相互性の交流、乃至は立場の相互的な交換、の〈場〉 を明示するが、それは決して、根源における自他の差異の解消、他者と自己の 根源における消滅、のようなことを語ろうとしているわけではない。これにつ いて例えば、「なめとこ山の熊」や「注文の多い料理店」などの作品において 追究される、立場の相互的交換の問題を思い浮かべていただきたい。前作にお いては相互的交流は美しく成立し、後者においては成立しないのであるが、こ のいずれの場合にも、根源的な一への自他の解消が問題なのではなく、常に多 数的である生の、交流をもつ再生産が問題なのである。そしてこの交流を可能 にする〈場〉がどこにあるかが問題であろう。そして私は、その最も厳密な思 索において、賢治は、その〈場〉を、天と地を結ぶリズムが生成するところに 認めていた、と考えるのである。原体剣舞連は、宮沢賢治によって、相互的交 流の〈場〉を形成する〈宇宙のリズム〉の生成装置として、把握され、そして 詩として定着された、と私は考えるのである。

(1)この他に、この時からほとんど時を隔てずに詠まれたと考えられる「剣舞 」の短歌には、「校本全集」の歌稿A中の「上伊手剣舞連」と題された四首、 「原体剣舞連」と題された二首、そして同年十月十七日発行の『アザリア 第 三号』に掲載された、「原体剣舞連」と題される三首がある。
(2)原体剣舞の用具の名称については、『江刺の芸能』、江刺市教育委員会、 昭和五六年、二二四---二二七頁に基づく。また、定村忠士『悪路王伝説』、日 本エディタースクール出版部、一九九二年、第一章の考察も参照された い。
(3)この「上伊手剣舞」という言い方は、注(1)で挙げた、「歌稿A」における 表現である。前掲の『江刺の芸能』(二一五---二七五頁)に拠る限り、「上伊 手剣舞」という呼び名の剣舞は今日現存せず、また賢治がそれを見たと想定さ れる時期においても、存在していたとは考え難いようである。
(4)賢治作品における、青の色彩イメージから黒のそれにかけての連続的関係 、そしてとりわけ黒イメージが「高揚」を示したり、「怒りの感情」を含んだ ものになってゆく、ということに関しては、板谷栄城氏の目覚ましい指摘を参 照されたい(『宮沢賢治の見た心象』、NHKブックス、一九九〇、二十一--- 二十三頁)。これらの短歌や詩においても、賢治は、黒イメージが作品表現中 に現れてしまうことを、無意識に避けているようにみえる。
(5)『吾妻鏡 第一』、吉川弘文館、平成元年、文治五(一一八九)年九月二 十八日の条、三五八---三五九頁、参照。この『吾妻鏡』の記述が、「悪路王 」の名の、文献上の初出である。
(6)『江刺の芸能』前掲書、二二四頁。
(7)『文化庁北海道・東北ブロック郷土芸能大会資料』平成二年。この記述は 、原体剣舞の伝承元である増沢剣舞の縁起に基づくものと考えられる。
(8)原体剣舞には「安剣舞」「卯平剣舞」「太刀入剣舞」「参入剣舞」の四つ の演目があるが、私のこれらの記述と印象は、私が見聞した、一九九三年八月 十五日に岩谷堂前で舞われた「卯平剣舞」についてのものである。実際、賢治 がどの演目を念頭に置いているのか、ということは突き止められるべきことの 一つである。私はそれを、「太刀入剣舞」ではないかと考えているが、近々の うちにそれを明らかにするつもりである。尚、参考にした資料の一つ(『ふる さと文化伝承の集い ---東北・北海道青少年郷土文化の交流---』パンフレッ ト、江刺市教育委員会保存、発行年未詳)は、賢治の念頭にある演目を「卯平 剣舞」と想定している。また、踊り手は慶応元年に原体村に伝授された時以来 、少年と少女が共に加わって踊り、とりわけ〈目蓮尊者〉の役は、必ず少女の ものとされていたが、賢治がそれを見たと思われる大正期には、原体剣舞の舞 手はすべて少年であったそうである((7)の資料による)。
(9)喜田貞吉氏は「悪路とは蝦夷地の地名である」という説を提出している。 それは「悪路王」を、特定の人物名ではなく、平泉以北の北上川流域地方と想 定される、「アクロ」乃至は「アクリ(阿久利)」地方の首長、という一般名 詞として捉える見方を提供する。この説に従って考えれば、伝承の中で、様々 な固有名が「悪路王の位置」に入ってくる、ということが、容易に理解される (『喜田貞吉著作集9』、平凡社、一〇〇---一〇三頁参照)。私は「悪路」 を、[われらの/彼らの/汝らの]を意味する、アイヌ語の[Akoro]と同様 の語とは考えられないか、という可能性を考えている(ジョン・バチラー『ア イヌ・英・和辞典第四版による)。「悪路王」についての『吾妻鏡』の記述が 、源頼朝が、藤原泰衡を滅ぼして、鎌倉に帰還する途中に、引き連れていた蝦 夷(えみし)の囚人たちに尋ねた答えとして記されている、ということから、 囚人たちが、達谷に滅ぼされた「王」を、「われらの王」、或は「彼らの王」 と言った可能性がないか、と考えているのである。この点に関しては更に考察 を進めたいが、いずれにせよ、東北の蝦夷たちにとっては、一般に、悪路王は 固有名とは考えられていなかった、と言えそうである。
(10)『江刺の芸能』前掲書、二三九頁。
(11)ニーチェのショーペンハウエルに対する対決。F. Nietzsche, Die Fröhliche Wissenschaft, 99(『歓ばしい知識』、九九)を参照。
補説
筆者の一九九五年八月の調査によって、江刺地方の剣舞について新たに判明し たことが幾つかあり、一部本稿の推測の修正を要するので、それをここで手短 にまとめて記しておきたい。
1.伊手地方は、伝統的に上伊手、下伊手、北伊手の三地区に分けられるが、 寺地剣舞の行われる寺地集落は、上伊手地区ではなく、北伊手地区にある。従 って、宮沢賢治が「上伊手剣舞」と呼んだ剣舞は、寺地剣舞とは別のものと考 えられる。
2.熊野田剣舞の伝承元である「漆立屋敷」はまさに上伊手地区にあり、そこ でも昭和三十年ころまで剣舞が踊られていた(漆立屋敷庭元夫人の談)。
3.漆立屋敷に伝承する剣舞の由来書は、ほとんど熊野田剣舞の由来書と同じ であるが、「悪路王(大武丸、高丸)」に関係する記述は漆立の由来書には記 されていない。しかし、それはやはり大同三年の由来とされており、この日付 から、この剣舞を、田村麻呂による「悪路王」討伐への祈願と関係づけた説明 が、賢治の見た当時、なされていた可能性はある。
4.漆立屋敷の剣舞が何と呼ばれていたかは、もはやはっきりとは分からない (漆立屋敷、および近在の人々の談)。しかし、それを人々が「上伊手剣舞」 と呼んでいた可能性は高いと思われる。
5.以上のことから、阿原高原から下りてきた賢治が上伊手地区で目にし、感 動した「上伊手剣舞」は、この「漆立屋敷」に伝承されていた剣舞であった可 能性は高く、また剣舞と「悪路王」とを結びつける解釈のヒントを、この剣舞 の連中から得た可能性もある、と考えられる。
6.原体剣舞の「太刀入剣舞」の演目には太刀を打ち合う所作はなく、賢治作 品に何ヶ所か出てくる「太刀を打ち合う所作」は、原体のものとは別の剣舞か ら着想を得たものであろうと推測される(漆立のものか、あるいは「兄和田剣 舞」などからか)。
7.賢治がそれを見て強い感銘を受けた「上伊手剣舞」が「漆立屋敷」伝承の 剣舞であったとして、それを追体験するには、今や、その伝承を受けた熊野田 剣舞によるしかない。目下中断されている熊野田剣舞が、再び開始される日が 訪れることを、期待したい。 以上、筆者に貴重な見学の機会をお与え下さったり、大切な情報や知識、資料 やご意見などを、懇切にお教え下さった多くの方々に、御礼申し上げま す。 
 
三鬼大権現

 

(さんきだいごんげん) 真言宗系の天狗信仰や山岳仏教の信仰対象となる鬼神である。別名、厳島三鬼坊。
主に広島県廿日市市宮島の弥山の三鬼堂と、同島の大聖院内魔尼殿(まにでん)等に祀られる。三鬼大権現は大小の天狗を眷属に従え、強大な神通力で衆生を救うとされ、地元では三鬼さんと親しまれている。初代総理大臣の伊藤博文も篤く信仰したといわれる。
   追帳鬼神(ついちょうきしん):「福徳」の徳を司る鬼神で、大日如来を本地仏とする。
   時眉鬼神(じびきしん):「知恵」の徳を司る鬼神で、虚空蔵菩薩を本地仏とする。※
   魔羅鬼神(まらきしん):「降伏」の徳を司る鬼神で、不動明王を本地仏とする。
(※弥山本堂にはその虚空蔵菩薩が本尊として祀られている。)
神仏分離令により元々祀られていた御山神社(みやまじんじゃ)から現在の三鬼堂へ遷された経緯がある。弘法大師空海が大同元年(806年)に弥山を開基した時、三鬼大権現を勧請し祀ったのが始まりとされる。 
 
鬼ごっこの起源

 

まずは、この絵をご覧ください。これは、寒川恒夫『遊びの歴史民俗学』明和出版を参考文献としたもので、『骨薫集』に描かれた比々女を表したものです。江戸時代には、「子をとろ子とろ」とも呼ばれました。1人が鬼、1人が親、他の者が子となり、親の後ろに子ども達が前者の腰を掴んで1列をつくると、親と対峙した鬼は、両手を広げて子を守りガードする親をかいくぐり、列の一番最後の子を鬼がさわるというもの(寒川恒夫)です。
時代は、さかのぼり1300年昔から言い伝えられてきた遊びであり、宮中行事として五穀豊穣を願う儀式「鬼事(おにごと)」として行われていた祭事事でした。これは、あまり知られていないことで、いつもとても驚かれます。
資料にある絵の、親とされる存在は「地蔵菩薩」で、鬼は天災や飢餓などを表します。そして子は、民衆を表しています。おそらく、読者の皆さんが一番分かりやすいのは鬼から、地蔵菩薩が民衆を守っているという意味付けだと思いますが、もちろん正解です。しかし、もうひとつ意義深い意味があり、鬼の存在はひとえに悪い存在ではなく、民衆に対して畏れのある存在であり、悪さをしたりだらけたりする者を諭したり、しかるなどする役回りでもあります。この3者の関係性は、「3すくみ」と言われます。
3すくみの発想は、じゃんけんがたとえ話として分かりやすいです。
この「ことろことろ」も、3すくみの世界で構成されています。親、鬼、子がいて始めて全ての存在が引き立つようにできています。鬼は親に弱くて子に強い、親は子に弱くて鬼に強い、子は鬼に弱くて親に強い。分かりやすく言うと、そんな意味合いで考えていただければと思います。
現在の日本の地域社会には、人と人のつながりや、地域コミュニティのつながりが希薄化してきているとよく言われます。そんな中、この鬼ごっこの「3すくみ」の発想をもとにした「ことろことろ」は、日本の忘れかけているものを思い出させてくれるものでもあります。
地域には恐い雷親父がいて、そして優しいおばあさんがいて、そして地域から見守られる子どもたちがいる。そんな情景も思い出させてくれます。鬼ごっこ的な、地域の子ども達が集まってきてする遊びは、そんな大切なものも育んでいたということが再興できて、私自身もいつも学んでいて、色々な世代の方々にこの大切さを伝えています。
まだまだ、この鬼ごっこの歴史性・文化性について、現代のソーシャルメディアと通ずるところもあり、それについての話も多々あります。
鬼ごっこの起源
宮廷の年中行事である修正会(しゅじょうえ)の中で、「追儺(ついな)」と呼ばれる鬼払いの儀式があるが、平安初期から行われているとされており、それが鬼ごっこの起源と言われています。
鬼ごっこの歴史
通称:ことろことろ(子とろ子とろ) (別称「比々女」(ひふくめ))
江戸時代には「子をとろ子とろ」とも呼ばれる。平安時代には貴族文化として、江戸時代には庶民文化に根ざしていた。1300年昔から始まったとされています。「1人が鬼、1人が親、他の者たちは子となり、親の後ろに子たちが前者の腰をつかんで1列をつくると、親に対面した鬼は、両手を広げて子を守る親のガードをなんとか切り抜て、列の最後の子にさわるというもの」
奉納鬼ごっこ
奉納鬼ごっこは、日本各地の神社にて、子ども達や家族の安泰や地域社会の発展を祈願するために実施する鬼ごっこの通称です。実施する鬼ごっこは、日本最古の鬼ごっこと言われる「ことろことろ」から、他にも神社の境内でできる複数種類の鬼ごっこを行います。 
 
なまはげの起源

 

なまはげの起源についてはいくつか説があるようです。
武帝の連れてきた鬼を祀った説
昔、中国・漢の武帝が不老不死の薬草を探しに日本へやって来ました。武帝は5匹の鬼を従えていたのですが、この鬼たちに一年に一度だけ自由になる日を与えます。自由になった鬼たちは里に現れ、畑を荒らしたり娘をさらったりと大暴れ。困った村人が鬼たちに賭けを挑みます。賭けの内容は、朝が来る前に鬼たちが石段を1000段作れるかどうかというもの。鬼たちは1000段を作り終えてしまいそうになるのですが、にわとりの声真似に騙されて朝が来たと勘違いし、逃げ帰ってしまいます。
鬼を追い払うことに成功した村人たちですが、騙された鬼たちの祟りを恐れ、鬼に扮して村を訪れた人をもてなして山に帰ってもらうという祭りを考えました。それがなまはげの起源です……という説。
異国人説
日本に流れ着いた異国人が寺に仕え、年に一度村人を訪れて回ったという話が元になっているのではないかという説。日本人とは体格も言語も髪・瞳・肌の色も違う異国人は、当時の日本人からは異形のように見え、それが鬼の起源になったのではないか。という話がありますからね。これがなまはげが鬼の姿をしている点と繋がるのでしょう。
修験者説
霊場として古くから知られる男鹿の山は修験者が多かったようです。修験者が山中で修行する姿や、祈祷するさいのものすごい形相がなまはげとして見られたという説。
役人説
農閑期でだらけていた農民の怠惰を戒めるべく、鬼の形相の役人が家々を訪問したのが起源とする説。  
男鹿のナマハゲ
大晦日の晩、それぞれの集落の青年たちがナマハゲに扮して、「泣く子はいねがー、親の言うこど聞がね子はいねがー」「ここの家の嫁は早起きするがー」などと大声で叫びながら地域の家々を巡ります。
男鹿の人々にとってナマハゲは、怠け心を戒め、無病息災・田畑の実り・山の幸・海の幸をもたらす、年の節目にやってくる来訪神です。
ナマハゲを迎える家では、昔から伝わる作法により料理や酒を準備して丁重にもてなします。
男鹿市内の「ナマハゲ行事」は、かつて小正月に行われていましたが、現在は12月31日の大晦日に行われています。後継者不足などで、年々行う地区は減っていましたが、近年、復活の動きもみせています。
ナマハゲの語源
冬、囲炉裏で長く暖をとっていると、手足に火型(火斑)ができます。これを方言で「ナモミ」と言いますが、怠け心を戒めるための「ナモミ剥ぎ」が「ナマハゲ」になったと言われています。「ナモミ剥ぎ」は新年を迎えるにあたっての祝福の意味もあり、子供や初嫁といった家の新しい構成員が対象とされます。
ナマハゲ伝説
漢の武帝説 / 漢の武帝に桃を捧げる図/赤神神社所蔵 中国の漢の時代、武帝は不老不死の薬草を求め五匹のコウモリを従えて男鹿にやってきた。五匹のコウモリは鬼に変身して武帝のために働いたが、ある日「一日だけ休みを下さい」と武帝に頼み、正月十五日だけの休みをもらい村里に降りて作物や家畜、村の娘たちまでさらい、あばれまわった。困り果てた村人は武帝に「毎年ひとりずつの娘を差し出すかわりに、一番どりが鳴く前のひと晩で、鬼たちに海辺から山頂にある五社堂まで千段の石段を築かせてくれ。これができなかったら鬼を再び村に降ろさないでほしい」とお願いした。ひと晩で千段は無理と考えた村人だったが、鬼たちはどんどん石段を積み上げていった。あわてた村人は、鬼が九九九段まで積み上げたところで、アマノジャクに「コケコッコ」と一番どりの鳴き声のまねをさせた。鬼たちは驚き、怒り、そばに生えていた千年杉を引き抜き、まっさかさまに大地に突き刺して山に帰って行き、二度と村へは降りてこなかった。
修験者説 / 男鹿の本山・真山は古くから修験道の霊場でした。時々、修験者は山伏の修行姿で村里に下りて、家々をまわり祈祷を行いましたが、その凄まじい修験者の姿をナマハゲとして考えたという説です。
山の神説 / 遠く海上から男鹿を望むと、日本海に浮かぶ山のように見え、その山には村人の生活を守る「山の神」が鎮座するところとして畏敬され、山神の使者がナマハゲであるという説です。
漂流異邦人説 / 男鹿の海岸に漂流してきた異国の人々は、村人にとってはその姿や言語がまさに「鬼」のように見えました。ナマハゲはその漂流異邦人であるという説です。
記録
ナマハゲに関する記録で最も古いのは江戸時代の紀行家、菅江真澄(1754〜1829)の「牡鹿乃寒かぜ」です。そのなかで、文化8年(1811)正月15日に訪れた男鹿の宮沢のナマハゲを生身剥ぎ(ナモミハギ)として詳細な解説と絵を残しています。そのほかナマハゲは、民俗学的見地から多くの研究の対象ともなり、柳田国男(1875〜1962)の「小正月の訪問者」や折口信夫(1887〜1953)の「まれびと」、また岡本太郎(1911〜1996)の「日本再発見―芸術風土記」などに取り上げられています。男鹿の民俗学研究者、吉田三郎(1905〜1979)は、昭和十年(1935)「男鹿寒風山麓農民手記」で地元の脇本村大倉のナマハゲについて詳しく紹介し、その後南秋田郡全域にわたるナマハゲ調査を実施しました。吉田三郎の著書は、その後のナマハゲに関する研究の先駆となりました。  
 
浅茅ヶ原の鬼婆

 

(あさぢがはらのおにばば) 東京都台東区花川戸に伝わる鬼婆の伝説。「一つ家の鬼婆(ひとつやのおにばば)」ともいう。
用明天皇の時代の頃。花川戸周辺に浅茅ヶ原と呼ばれる地があり、奥州や下総を結ぶ唯一の小道があったが、宿泊できるような場所がまったくない荒地で、旅人たちは唯一の人家であるあばら家に宿を借りていた。この家には老婆と若く美しい娘が2人で住んでいたが、実は老婆は旅人を泊めると見せかけ、寝床を襲って石枕で頭を叩き割って殺害し、亡骸は近くの池に投げ捨て、奪った金品で生計を立てるという非道な鬼婆だった。娘はその行いを諌めていたが、聞き入れられることはなかった。
老婆の殺した旅人が999人に達したある日、1人旅の稚児が宿を借りた。老婆は躊躇することなく、寝床についた稚児の頭を石で叩き割った。しかし寝床の中の亡骸をよく見ると、それは自分の娘だった。娘は稚児に変装して身代わりとなり、自分の命をもって老婆の行いを咎めようとしていたのだった。
老婆が自分の行いを悔いていたところ、家を訪れていた稚児が現れた。実は稚児は、老婆の行いを哀れんだ浅草寺の観音菩薩の化身であり、老婆に人道を説くために稚児の姿で家を訪れたのだった。その後は、観音菩薩の力で竜と化した老婆が娘の亡骸とともに池へ消えたとも、観音菩薩が娘の亡骸を抱いて消えた後、老婆が池に身を投げたとも、老婆は仏門に入って死者たちを弔ったともいわれている。
史跡
老婆が身を投げたという池は「姥ヶ池(うばがいけ)」と呼ばれて後に伝えられており、かつては隅田川に通じるほど大きな池だったが、明治時代に大部分が埋め立てられている。また浅草寺の子院・妙音院には、鬼婆が旅人を殺害する際に用いたといわれる石枕が寺宝として伝えられ、鬼婆の天井絵馬もあるが、ともに公開は行われていない。 
浅茅ケ原の鬼婆2
この話も初めて聞いたのは、馬道に住む古老からでした。今にして思えば、日本のあちこちにある鬼子母神伝説と同類のようで、この地元でさえいくつかのストーリーに分かれています。現在記念碑が建てられているので、いつでも思い出せるようになっていますが、馬道6丁目にあった妙音院の付近に、後世「姥が池」と呼ばれることになる大きな池がありました。この池は、時とともに次第に小さくなり、江戸末期から明治の頃には形ばかりの池となっていました。それでもまだ池の名残をとどめていたのですが、明治24年にいよいよ埋め立てられるということになった際、ここに伝わる昔話がすたれてしまうことを惜しんで碑文が建てられたのです。
浅茅ケ原の鬼婆
古歌があります。
日は暮れて野には臥すとも宿かるな 浅茅が原の一つ家のうち
日が暮れて野宿はしても、浅茅が原の一軒家に泊まってはいけないというのです。
この周辺は武蔵野からの続きで、隅田川まで浅茅生が茂る荒野でした。旅人がこのあたりで行き暮れると野宿するしかなく、隅田川の河原で困惑することになったのです。
この浅茅が原に、老女と美しい娘が二人だけで暮らす一軒のあばら家がありました。二人とも定まった仕事はなく、娘の美貌を売り物にして旅人を家に泊めては財物を奪っていました。
老女は、日暮れ時になると旅人を見つけては「これから先は人里がない。あばら家でよければ、今晩はここに泊って、明日の朝早く旅立てばよかろう」と、誘い込むのでした。
野宿を覚悟しなければいけないかと、困惑していた旅人は喜びます。しかも家に入ると美貌の娘もいて、それこそ地獄に仏の気分になったものです。
娘は旅人の足腰を揉んでやり、添い寝をすると旅人は安心し、旅の疲れに熟睡するのが常でした。老女は頃合いを見計らって、予め頭上に吊るしておいた石のひもを切り落とし、旅人の頭を打ち砕いては財物を奪うのです。死体は、後世「姥が池」と呼ばれることになる大きな池に沈めました。
犠牲となった旅人は999人、あと一人で1000人ということになりました。老女は、あと一人、1000人になったら観音様へお礼まいりをするのだと、その日も旅人を探します。
夕暮近くなったので表に出ていると、一人の稚児がやってきて今宵の宿を請いました。老女は、渡りに舟と二つ返事で家に入れ、いつものように娘に添い寝をさせたのです。
しかし娘は、稚児の気高いばかりの美しい横顔に見惚れ、この稚児を殺すにはしのびないという感情が湧きおこり、さらにはこれまでの母親の所業を憎み悲しむこととなりました。
娘は自分を犠牲にして、稚児を助けようと床を換えたのです。何も知らぬ老女は予定通り石を落しました。
老女は、これで1000人、南無観世音のご利益だと喜びながら部屋に入ります。しかしよくよく見入ると・・・そこには稚児の姿はありません。代わりにあるのは、頼りとする愛すべき娘で、朱に染まった無惨な死体となって横たわっているではありませんか。
老女は驚き、そしてひどく悲しみ慟哭したのです。初めて無明の世界から目覚めたかのように、これまでの悪行の報いの厳しさを悟ったのです。
遅まきながら自らの罪科を恐れると、ついに精神を病み、自分もこの池に身を投げ娘の後を追うこととなりました。

冒頭にも書いたように、この伝説にはいくつかあって、あるものは、老女は旅人の財貨を奪っていたのではなく、旅人を害する盗賊を退治していたのであって、1000人目の盗賊もめでたく退治できています。その後、老女は竜王となり娘は乙姫となるところが、弁天となって池に身を投じた、という話になっています。
また、今回紹介した話でも、稚児はお坊さんで、寝ているときに観音様に導かれて逃げ出していたという筋になっているものもあります。娘は、お坊さんが既に殺されたと思い、その場で悲しんでいるところへ石が落ちてきたというものです。老女は嘆いて池に身を投げたが、蛇に変わったとい話もあります。
また、浅草寺にはこの話に出てくる石が「石の枕」として保存されているそうです。 
浅茅ヶ原1
江戸浅草の橋場町あたりは、かつては浅茅ヶ原と呼ばれたさびしい場所であった。
人目さへ枯れてさびしき夕まぐれ、浅茅ヶ原の霜を分けつつ     道興
この近くに鏡が池といふ池があった。池のそばには袈裟懸松があり、采女うねめ塚もあった。采女塚は吉原の遊女を葬ったもので、寛文のころ、采女といふ名の遊女が、僧との悲恋の末に、この松に小袖をかけて、身を投げて死んだ。袖には歌が残してあったといふ。
名をそれと知らずとも知れ、猿沢のあとをかがみが池にしづめば   采女
「猿沢のあと」といふのは、奈良の猿沢の池に入水した采女(宮廷の女官)に、己をたとへたやうだ。 浅茅ヶ原には、姥が池、石の枕、一つ家の伝説があった。野寺とは観音様のこと。
武蔵には、霞が関や、一つ家の石の枕や、野寺あるてふ       伝白河院
むかし浅茅ヶ原に老夫婦がゐた。夫婦は、娘の器量の良いことに遊女に仕立て、道を行く男を誘った。男と娘が里のはづれの石を枕に共寝をしたころ、夫婦は男の頭を打ち砕いて殺し、衣類や持ち物などすべてを奪って、生計を立ててゐた。娘はかうした暮らしがいやになり、父母をだまさうと思って、客を取ったふりをして、自分は男のなりをしていつもの枕に寝た。いつもの通り夫婦が頭を打ち砕き、着物を脱がしてみれば、わが娘であったといふ。悪事を恥ぢた老婆は、竜に化身して池に身を投げた。その池は、姥が池(姥が淵)といふ。老婆の悪事を憐れんだ浅草の観音さまが、草刈の童の姿で笛を吹くと、その音は歌に聞えたといふ。
日は暮れて野には臥すとも、宿借らじ。浅草寺の一つ夜(家)のうち
不思議なこの笛の音は、道を行く旅人の行く末を守ったものといふ。 
浅茅が原2
浅草寺本坊の伝法院にある石棺は、明治二年に観音堂裏の熊谷稲荷社の塚をくずすときに発見されました。このことから古墳時代末期には浅草寺あたりに人が住んでいたことが確認されます。承応縁起に書かれた「浅茅ヶ原ひとつ家」は浅草寺創建の頃の話なので、浅茅ヶ原伝説もまたかなり古くからあったことがわかります。
室町時代に道興准后(どうこうじゅごう)が「この里のほとりに石枕といへるふしぎなる石あり」と『廻国雑記』(1487頃)に書いています。この石枕とは、老婆が美しい娘を使って旅人を招きよせ、石枕で客の頭をたたき割り、その金品を奪っていたという「浅茅ヶ原鬼婆伝説」の石枕のことです。
『江戸名所図会』によると、『廻国雑記』に書かれているエピソードは一般に流布しているものと異なります。鬼婆の単独犯ではなく、両親による共犯なのです。娘も美女というほどではなく、「容色おおかた世の常なり」となっています。美人すぎるとかえってあやしまれるのでしょう。
こうしてこの家族は悪事を重ねていくのですが、娘はしだいに耐えられなくなってきます。「あなあさましや、幾ほどもなき世の中に、かかるふしぎのわざをして、父母もろともに悪種に堕して、永劫沈淪せんことのかなしさ」と嘆き、「父母を出しぬこう」と決意をかためます。
「道行く人あり」と告げて、娘は石に臥せました。いつものように両親は旅人を殺します。しかしそこに人がひとりしかいないことに気づき、それが娘であることがわかったのです。後悔した両親はすみやかに発心し、たびたびの悪業をも慚愧懺悔して、娘の菩提を弔ったのでした。
鬼婆伝説は鬼子母神の説話とよく似ています。物語自体は仏教説話のバリエーションといえるでしょう。しかしこのことから、古くより(用明天皇の時代の6世紀となっている)浅草寺のあたりが交通の要衝であったことがわかります。
江戸時代の古地図を見ると、たしかに浅草寺の南に鬼婆が死体を投げ入れたという姥が池があります。かつては隅田川に通じていたというから、もとはもっと大きな池だったのでしょう。あたりは茅(かや)ばかりの原が広がり、そのなかの道を歩くのは怖かったでしょう。実際、旅人を襲う強盗は多かったのです。
『遊歴雑記』には「里諺にいいつたふ、日はくるる野には臥すとも宿からじ浅草寺の姥が庵に」という歌がのっています。浅草寺には賑わいがあっても、すぐその隣には鬼婆の潜む暗闇の世界があったのです。 
 
鬼の昔話

 

■東北地方 
三途の川の婆さ後家入り / 東北地方
むかしむかし、ある所にお爺さんとお婆さんが住んでいた。この二人は村でも評判の仲良し夫婦で、野良仕事するときも、食事も、寝るときもいつも一緒だった。そんな2人だったので、お互い後家入りはしない、後添えはもらわないと約束しあっていた。
ところが人間の命とはわからないもので、それからしばらくして、爺さまはぽっくりと逝ってしまった。婆さまはすっかり力を落としてしまったが、お茶が好きだった爺さまのことを思い出し、あの世の爺さまが不自由しないように、土瓶と湯のみをあの世に送ろうと思い立った。
そこで婆さまは、弓張り巫女(ゆみはりみこ)の所へ行き、どうしたらあの世に茶道具を送れるかと尋ねた。巫女はしばらく考えて、川に流せば川が運んでくれると言うので、婆さまは茶道具をお盆に載せて川に流した。
さて、季節は移り雪が舞い始める頃、婆さまは寒がりだった爺さまのことを案じ、今度は綿入れをあの世の爺さまに送ろうと思った。そしてまた弓張り巫女の所に行くと、巫女は木の枝に掛ければ、風が運んでくれるだろうと言う。そこで、婆さまは山の上の木の枝に綿入れを掛けておいた。
それから更に時は経ち、春のお彼岸がやってきた。この日は、弓張り巫女が口寄せをすると言うので、婆さまもあの世の爺さまに会いたい一心で、巫女に口寄せをお願いした。
巫女は、手に取った棒で弓に張った弦をはじき、あの世にいる爺さまの霊を降ろした。そこで婆さまは、茶道具や綿入れがちゃんと届いたかどうか爺さまに聞いた。爺さまが言うには、届くには届いたが、茶道具は川に流したのであっちこっちにぶつかり、土瓶の柄だけが届き、綿入れは木に掛けたのでボロボロになって届いたということだ。
それではあの世で爺さまは、茶も飲めず寒い思いをしているのだろうと思い、婆さまは爺さまのことが不憫でならず、思わず泣き出してしまう。ところが爺さまは、何も不自由はしていないと言う。実は爺さま、閻魔大王様の仲人で三途の川の婆さと一緒になるのだ。そういう訳で、何も心配は要らないという。この一言を聞いて婆さまは、「あんなに後家入りはしねえと、約束したでねえか!!あんまりだ!!」と巫女の胸ぐらに掴みかかるのだった。
婆さまは悔しくてならなかったが、三途の川の婆さというので、どうせ鬼のような女だろうと思うと少しはあきらめもついた。
さて、ちょうどその日はお祭りで、村の入り口には屋台やら見世物小屋などが並んでいた。婆さまがある小屋のそばと通ると、そこでは地獄、極楽などあの世の様子を描いた絵巻物が売られている。その絵巻物の1つには三途の川の婆さが描かれているではないか。そして、なんとそこに描かれた三途の川の婆さは、婆さまの予想に反して若く綺麗な娘だった。
爺さまがあんな若い娘と一緒にいると思うと、我慢が出来なくなった婆さまは、その絵を1枚買って家に帰り、「男というものは、いくつになってもしょうもない!!」と言いながら、三途の川の婆さの顔に墨で大きくバツ印をつけてしまった。
こぶとり爺さん / 東北地方
お爺さんが鬼に顔のこぶを取ってもらう。
顔に大きなこぶのある、のんきなお爺さんと心の狭いお爺さんがいた。
のんきなお爺さんが森に木を切りに行くと、突然雨が降ってきたので木のうろで雨宿りをすることにした。いつのまにか眠ってしまい、目が覚めると鬼たちが楽しそうに踊っていた。
お爺さんもついつい鬼たちの輪の中に入っていってしまった。お爺さんの踊りを気に入った鬼が、また明日も来るように、それまでこれを預かっておくと言って顔のこぶをとってくれた。
あくる日そのことをもう一人のお爺さんに話すと、その爺さんも、さっそくその夜に鬼の踊りの輪の中に飛び込んでいった。しかし陽気なお爺さんと違って、踊りが大嫌いでいやいや踊っていたものだから、鬼たちはすっかりしらけてしまった。
お爺さんはこぶをとってくれと嘆願するが、逆に昨日預かっていたこぶを顔につけられてしまい、両方の頬にこぶをつけて一生を送らなければならなくなってしまった。
恐山のおどり鬼 / 青森県
昔、恐山には鬼が住んでいて、人は誰も足を踏み入れようとしなかった。
麓の田名部(たなぶ)という村に、庄作という若者が爺様と二人で暮らしていた。庄作は村一番の踊り上手で、それは爺様譲りと言われていたが、今では爺様はすっかり耳も遠くなって寝たきりになっていた。
ある年、村を酷い日照りが襲った。対策を練るための寄り合いに誘いに来た村の若者に、爺様は恐山にいる踊り好きな鬼のことを話そうとした。しかし若者はそれどころではないと話を遮ってしまう。若者が帰った後、爺様はその鬼がいくらでも水の出る茶碗を持っていることをポツリとつぶやいた。それを聞いた庄作は寄り合いでその事を話し、自分がもらいに行くと言った。
爺さまの話を信じない村人達は皆で止めたが、庄作は恐山へ出かけていった。恐山で大きな赤鬼に出会った庄作は、下手に踊れば頭から食うぞと言われながら一生懸命踊った。その踊りがあまりにも楽しそうだったので、赤鬼は大勢の鬼たちを呼んできて皆で庄作を囲んで踊り出し、それは日暮れまで続いた。
鬼たちは大喜びで、褒美に何が欲しいかと聞いた。庄作は村を助けるために、水の出る茶碗が欲しいと申し出た。鬼たちは庄作の勇気に感心し、快く茶碗を渡してくれた。
心配する村人達の前に帰った庄作が、鬼に教わったとおりに茶碗の縁を擦ると、たちまち水が溢れ出して川に流れ込み、枯れかけていた作物も元気に生き返った。今でも田名部の水が満々と流れているのは、この茶碗からまだ水が流れ続けているからだそうな。
かくれんぼ / 青森県
仲良し老夫婦の、ある雨の一日
昔ある山里に、仲の良いおじいさんとお婆さんがいました。ある雨降りの日、おじいさんとお婆さんは外での畑仕事ができないので、久しぶりに家でやすんでいました。
退屈になった二人は、家の中で「かくれんぼ」をする事にしました。じゃんけんに負けたお婆さんが鬼になりおじいさんが隠れましたが、おじいさんの姿が見えない家の中はひんやりとして、いやに静かに感じました。お婆さんは少々心配になりましたが、長持(ながもち)の後ろにいるおじいさんを見つけてホッとしました。
次はおじいさんが鬼になりました。おじいさんがあちこち探してもお婆さんがなかなか見つからないので、そのうちおじいさんも心細くなってきました。
おじいさんは、「ひょっとして、お婆さんは自分一人を残してどこかへ消えてしまったんじゃなかろうか…」などと、不安でいっぱいになりました。台所を探していたおじいさんが、大釜のフタを開けて中を覗くと、お婆さんが待ちくたびれて眠り込んでいました。
今度はまた、お婆さんが鬼になりました。どうやら今日は一日、おじいさんとお婆さんはかくれんぼをして遊ぶつもりです。外はまだ雨がしとしと降っています。
鬼婆の糸つむぎ / 青森県
一人で生きていく幼い娘を応援する鬼婆
昔、津軽の村はずれに、両親を亡くした幼い娘がたった一人で暮らしていました。娘は毎日毎晩麻糸を紡ぎ、町に売りに行って生活をしていました。
しかし、幼い娘にとって麻は硬すぎて、なかなか上手に紡ぐ事ができません。ある夜、死んだ母親の事を思い出し、寂しくなって思わず「おっかあぁ…」と月に向かって叫びました。
すると強い風が吹く中、どこからか恐ろしい形相の鬼婆が現れました。鬼婆は「泣くワラシはいないか、いたら食ってまうぞ」と娘に言いました。怖くなった娘は家の中へかけ込みましたが、なぜか鬼婆は家の中で座っていました。
鬼婆は、娘の麻糸の束をモリモリと食べ「この麻糸を食ったら、次はお前を食う」と、娘を脅しました。娘が「もう泣かない」と約束すると、鬼婆は先ほど食った麻糸を一本一本お尻から出しはじめました。
鬼婆の尻から出た麻糸は、黄金色に輝きながらふんわりと宙を舞いました。この麻糸はまるで真綿のようなやわらかさで、幼い娘でも上手に紡ぐ事ができました。娘は、鬼婆の尻から出た麻糸のおかげで上手に紡ぐ事ができるようになり、もう決して泣く事はありませんでした。
あなほり長兵衛 / 青森県
昔、ある村に爺さまと婆さまが住んでいた。
ある秋の日、爺さまと婆さまは裏の畑に大根を掘りに行く。すると、畑には見たこともない大きな大根が植わっている。とても二人の手に負えないと思った爺さまは、穴掘り(井戸掘り)長兵衛どんを呼びに行った。
長兵衛どんは、畑に来るとさっそく大根の周りを掘り始めた。そして七日七晩掘り続けて、ようやく大根の頭に縄を結わいて引き抜こうとした時だった。もう少しで大根が抜けようかという所で大根のしっぽが折れてしまい、長兵衛どんは大根のしっぽと一緒に穴の中に真っ逆さま。地面の底を突き破って地獄まで落ちてしまう。
地獄に落ちてきた長兵衛どんを見た鬼たちは、長兵衛どんを悪人と間違えて閻魔大王様の前にしょっ引いて行く。もちろん長兵衛どんは悪いことなどしていない。閻魔様の調べで晴れて無罪になった長兵衛どんは、閻魔様から丸薬をもらい、地上に帰るように命じられた。この丸薬を一粒飲めば、体が浮き上がり穴の途中まで昇り、二粒飲めば地上まで昇る。閻魔様は二粒で効き目がなかった場合に、念のため三粒丸薬を渡し、一粒ずつ飲むように言った。
ところが長兵衛どん、嬉しさのあまり閻魔様の言う事も忘れ、三粒いっぺんに丸薬を飲みこんだものだから、体はどんどん上昇し、地面を通り越して雲の上に昇ってしまった。その時、雲の上では太鼓係が病気で雷様たちが困っていた。そこへ長兵衛どんが昇ってきたので、ちょうどいいとばかり雷様は長兵衛どんに太鼓を叩くように言う。
長兵衛どんは一所懸命太鼓を叩き、雷様は桶から水を汲んで地上に撒く。すると地上では、ゴロゴロと雷が鳴り、雨が降り始めた。ところが調子に乗った長兵衛どん、太鼓を叩きすぎて太鼓の皮を破ってしまう。怒った雷様は、長兵衛どんをとっちめようとする。長兵衛どんは、雷様から逃げてようとして足を滑らせ、今度は地上に真っ逆さま。
運よく岩木山のふもとに木の枝に引っかかるも、風で弘前の富田に飛ばされてしまった。富田が昔“とびた”と呼ばれたのは、こんな謂れがあるそうだ。
お萬の火 / 岩手県
ある村にお萬という身寄りの無い女が牛と一緒に暮らしていた。彼女は牛とともに毎日荷物運びの手伝いをして、生計を立てていた。
ある年、雨が降らず延々と日照り続きで、村は酷い飢饉状態だった。人々の心は荒み、農作物が盗まれる被害があちこちで出始めていた。そんな状況ゆえ、お萬も仕事を断られ続け、仕方なく牛とともに川で水を飲み続けて飢えをしのいでいた。
ある日、耐え切れなくなったのだろうか、牛が暴走し『うしくい淵』に足を滑らせて落ち、沈んでしまう。お萬は絶望しかけたが、「うしくい淵に沈んだ牛が、山を潜って反対側から姿を現した」と言う伝説を思い出し、「山を越えればべこに会える」と信じて山越えを決意する。
しかし、長らく満足に食事をしていないお萬に山越えをする体力などなく、近所の住民に「食料を分けて欲しい」と願うも受け入れられなかった。空腹に耐えられず、思わず大根を抜いてかじり始めたお萬の周囲を、見張っていた村人達が取り囲む。
先日から続いていた大根泥棒と間違えられたのだ。お萬はかじりかけの大根を差し出して詫びるが、村人達は彼女を大根泥棒と決めつけ、縛り上げて無理矢理『うしくい淵』に沈めてしまった。鈴のついた牛の手綱を最期まで握り締めた状態で。
しばらくして、村にはようやく雨が降り、翌年は豊作となった。豊作祭りの日、1人の酔っ払いが川縁を通りかかると、チリンと鈴の音がした。「鈴とは風流な・・・」と酔っ払いが感心しているのも束の間、無数の鬼火が川面に浮かび上がり、「べ〜〜こ〜〜〜」と恨めしげな声とともにお萬の姿が浮かび上がった。
この話を聞いた村人達は、自分達のした仕打ちを後悔しお萬の霊を供養したが、余程恨みが深かったのか、その後もしばらくの間鬼火は浮かび続けたと言う。村人達はこの鬼火を「お萬の火」と呼んだそうな。 
命びろいした犬 / 岩手県
昔、ある家に一匹の老犬(タロウ)と猫が飼われておった。
ある日家人は、一日中寝てばかりの老犬を嫌い「山に捨てるか、殺して皮を剥ぐか」と話していた。それを聞いた老犬は、同じく年取りのオオカミに相談すると、「ワシが家人の赤ん坊を誘拐するから、それを犬が取り返し手柄を立てろ」と提案した。この作戦は思いのほか成功し、感謝した家人は老犬を大切に扱うようになった。
それから一か月たったある日の事、オオカミが老犬のところにやってきた。「この間のお礼として家畜のニワトリを1匹よこせ」と、老犬を脅迫した。老犬が断ると、オオカミは「じゃあ明日、山へ来いや」と言い残し去って行った。
翌日、覚悟を決めた老犬が、付き添いの猫と一緒にオオカミの住む山に向かっていた。オオカミは、助っ人の鬼を伴い老犬がくるのを隠れて待っていたが、付き添いの猫がネズミと間違って鬼の耳に噛みついた。急に耳を噛みつかれた鬼は、びっくりして山奥へ逃げて行ってしまった。オオカミも、あわてて鬼を追いかけ山奥へ走り去っていった。
犬は訳がわからないまま茫然としていたが、猫はすくっと立ち上がり、得意げに言った。「ね!だから言ったじゃろ。大丈夫だって」
かっぱの淵 / 岩手県
昔、岩手の八戸(はちのへ)あたりに八太郎沼(はちろうぬま)という、ひっそりとした沼があった。
ある日の事、一人の男が八太郎沼のそばを通りかかると、淵の底から「のののののののー」という音とともに、沼からお公家様の身なりをした美男子があらわれた。
公家の男は「この文を、八戸の勘太郎堤(かんたろうづつみ)に住む、わしの仲間の所へ届けてくれ。」と頼み、手紙を男に差し出した。男は、淵から出てきた男を不審に思いながらも手紙を受け取り、その仲間の所へ向かった。
途中、山伏とすれ違った。山伏は男の顔を見るなり「おぬしが持っている手紙から殺気を感じる」と言った。驚いた男は、不気味な淵の前であった出来事などを山伏に打ち明けた。
山伏が手紙を開いてみると、手紙には何も書かれていない白紙だった。山伏が、手紙を川の水に浸してみると、文字が浮かび上がり「このおとこは、うまそうだから食ってしまえ。」と書かれた、かっぱの手紙だった。
怖がる男に、山伏が一計を案じた。山伏は、かぼちゃ畑からかぼちゃの茎(くき)を抜き取り、それを筆にして「この男に宝物をあげてくれ。」と、紙に書いた。そして男に新しい手紙を渡し、山伏は去って行った。
男は、どうにか勘太郎堤にたどり着き、公家の男に言われた通りに、手をパンパンと三回うった。すると、沼の中から今度は小姓の身なりをした男があらわれた。小姓は、受け取った手紙を読み、不審そうな顔をしながら宝物の玉手箱を投げよこした。
玉手箱の中には、たくさんの金銀財宝が入っていので、男は長者になった。さて宝物をあげた小姓のかっぱは、どうも納得できないので、公家のかっぱに聞いてみた。しかし、公家のカッパは覚えがないので、やがて大げんかになってしまった。
この時から、カッパたちは喧嘩別れしてしまい、それからというものどちらの沼でも人がカッパに襲われなくなった。
けちんぼ女房 / 岩手県
昔ある村に、心やさしい伊助が年老いた母親と住んでいた。伊助には自分勝手で意地悪く欲深な女房がいて、いつも母親に意地悪をしていた。
ある日のこと、伊助がいつものように釣りに出かけて帰ってくると、土間に置かれた小さな箱の前に嫁が立っていた。その箱には母親が入っていて、これから山に運んで焼いてしまおうというのだ。断りきれない伊助に片方の棒を担がせ、母親入りの箱を山まで運んだ嫁は、さっそく箱に火をつけようとした。伊助はすきをみて母親を箱から出し、こっそり岩かげに隠した。そうとも知らず嫁はためらうことなく箱に火を付け、さっさと伊助を引っ張って山を下りて行った。
母親は真っ暗な山の中に一人残されたが、どこからか大勢の声が聞こえてきた。おそるおそる見ると、そこには鬼たちが集まって宴会をしている最中だった。母親は震えながら岩かげに隠れていたが、鬼たちが下手くそに踊る調子に合わせて、ついつい踊り出してしまった。踊りの上手な母親はすっかり鬼たちに気に入られ、鬼たちと一緒に朝まで踊りあかした。鬼たちは楽しかった踊りのお礼にと、欲しい物がなんでも出てくる打ち出の小づちを母親に渡した。
一方、伊助はとうとう嫁から家を追い出され、母親のいる山へやってきた。伊助と母親は再会し、打ち出の小づちで立派な家を出し二人で幸せに暮らすようになった。それに引き換え嫁はますます貧乏になり、とうとう行方知れずになってしまったそうだ。
鬼の角 / 岩手県
自分の角を取り返しに来た鬼の話
昔、ある山の中に、美しい娘が猟師の父親と暮らしていました。この親子の家の近くにはきれいな池がありましたが、鬼がいるという噂があったので村人たちはあまり近づきませんでした。
ある時、娘は機織りがしたくて、父から機織り機を作ってもらいました。しかし、滑りが良く使いやすい杼(ひ、横糸を通す道具)が無いため、なかなか機織りが出来ずにいました。ある朝、池の底に杼を作るのに適した、牛の角ような形の木を見つけました。この木で作った杼はとてもすべりが良く、不思議な音を奏でるので村中で評判になりました。
ある日、娘が一人で機織りに夢中になっていると、一人の若者がやってきて、娘の杼を取り上げました。この男は池に住む鬼(牛鬼)で、杼になっている自分の折れた角を取り返しにやって来たのです。
男の正体を見破った父親が鉄砲を撃つと、男は鬼の姿になり、怪我した足を引きずりながら池に逃げ帰って行きました。
しばらくすると物寂しい夜などに、池の中から機織りの音が聞こえるようになりました。今までは怖がって近づかなかった村人たちも、池に集まり楽しく踊るようになりました。
節分の鬼 / 岩手県
独居老人が生きる希望を見つけた話
昔、ある山里に、妻も子供にも先立たれた一人暮らしの貧乏な爺さんがいました。爺さんは毎日二人のお墓にお参りすることだけが楽しみでした。
やがて冬になり、村はすっぽりと深い雪に埋もれ、爺さんもじっと家の中に閉じこもっていました。節分の日、寂しさに耐えられず、爺さんは雪に埋まりながら二人の墓参りに出かけました。村のどの家からも「鬼は外ー、福は内ー」と楽しそうな家族の声が聞こえてきました。爺さんはしみじみ一人ぼっちが身に染みて、涙があふれて止まりませんでした。
墓参りから帰った爺さんは、息子が生きていた頃に作ってくれた鬼のお面を取り出して、昔の楽しかった時を思い出していました。「妻も子供ももういない、ましてや福の神からはとっくに見放されている…」そう思った爺さんは、鬼の面をかぶり、わざとあべこべに叫びながら豆をまき始めました。「鬼は内ー!福は外ー!」
すると、爺さんの家に誰かが訪ねてきました。それは、節分の豆に追われた鬼たちでした。この家に客人とは何年ぶりでしょう、たとえ鬼でも爺さんは嬉しくなりました。鬼たちはみんな爺さんの家に集まり、持ってきた甘酒やらご馳走やらで大宴会が始まりました。やがて朝になると、鬼たちは「来年も来るから」と上機嫌で帰って行きました。
やがて春になった頃、爺さんは鬼の置いて行ったお金で二人の墓を立派に作り直しました。そして「おら、もう少し長生きすることにしただ。来年も鬼を呼ばないといけないからなぁ」と晴れ晴れした顔で言いました。
岩手 / 岩手県
昔々のそのまた昔、岩手県あたりの国がまだ出来上がっていなかった頃の、遠い昔の話です。この辺りに「三つ石の神」が住むようになり、気にいった三つの石の上でそのまま深い眠りにつきました。長い眠りの間に、草や木が生え土が積もって、とうとう姿が見えなくなりました。
この辺りに住んでいた人間は、動物たちとみんなで仲良く助け合って生きていましたが、ある日一匹の鬼がやってきて、辺り一帯の食べ物を一人占めするようになりました。わがままな鬼に腹をたてた人間と動物たちは、相談し合って鬼に戦いを挑むことにしました。
はじめは、人間の中で気の強い者が鬼退治に向かいましたが、誰ひとり帰って来ませんでした。次に熊が、狼が、鹿が、猿が鬼退治に向かいましたが、誰も帰って来ませんでした。勝ち誇った鬼は、毎日かめいっぱいの生き血を自分の岩屋に届けるようにと、人間と動物たちに命令しました。
鬼の悪行に我慢できない人間を年老いた熊がなだめながら、久しぶりに神さまに拝んでみる事にしました。人間が神さまに向かって手を打つと、寝ぼけ顔の神様がむっくりと起き上がりました。みんなから鬼の事を聞いた神さまは、鬼の岩屋めざしてドカドカと走り出しました。
神さまと鬼との対決が始まるかと思いきや、神さまの不思議な力によって、鬼は宙に浮いてしまいました。鬼は手も足も出す事ができず、神さまの掛け声どおりに可笑しな踊りを踊らされました。さんざん懲らしめられた鬼は、神さまの前で手を付いてこれまでの悪行を詫びました。
鬼はこの土地から永久に立ち退く事を約束し、その証のために神さまの三つ石に大きな手形を残しました。そして、さびしそうな顔をしながら振り返り振り返り、この土地を去っていきました。この岩に残された手形が「岩手」という地名の由来です、災いが二度と来ないというめでたい地名なのです。
大工と鬼六 / 岩手県
大雨が降るとすぐに橋が流されてしまう川があった。
困った村人たちは相談して橋造りの名人の大工に頼むことにした。大工が流れの速い川を眺めていると、川から鬼が現れて、目ん玉をよこせば立派な橋を架けてやるという。翌日大工が川にいくと、既に橋は半分できあがっていた。鬼は目ん玉をよこせば残り半分をつくってやると言うが、さすがに大工はうんと言えなかった。
また翌日川に行くと橋は完成しており、鬼が現れて、わしの名前をあてることができれば、目ん玉を諦めてやると言った。大工は家に帰ってからずっと考えていたが、どうしても名前がわからない。その時、隣の部屋でおかみさんが子どもに子守歌を歌っているのが聞こえた。「ねんねこ、ねろってばや。鬼にも名前はある。ねろってばや。はよねた子には、鬼六が目ん玉持ってやってくる。」
鬼の名前がわかった大工は翌日鬼にお前の名前は鬼六だ!と言うと鬼は姿を消してしまった。鬼六の架けた橋はどんな大雨でも流されることはなかった。
はたらく赤鬼 / 岩手県
みちのくのある村に、与作と言う野菜売りが暮らしていた。
ある日、街まで野菜を売りに出かけた帰り、村に続く道の傍らに異様な風体の大男が座っているのを見た。与作が近寄って見るとその男は赤鬼で、「はたらく鬼売り申す」と書かれた看板を手にしている。
値段を聞けば「16文」。人は喰わぬかと聞けば「喰わないから是非にも雇ってくれ」との答え。
与作はこの赤鬼を引き取って家に連れ帰る事にした。引き取って見ればこの鬼は本当に良く働く鬼で、畑仕事は愚か水汲み、薪割り、炊事に掃除と、与作が何もしなくても良い位くるくると良く働いてくれた。
ある日、街まで用事を済ませに出かけた与作は、鬼に仕事を言いつけるのを忘れた事に気がついたが「毎日働いてくれるのだ、たまには骨休めさせてやろう」と、 敢えてそのまま街まで出かけた。そして用事を終わらせて戻って来てみると、残された鬼は元気が有り余って休む事が出来ず、あろう事か与作の小さな家をぶち 壊して、木材を薪に、屋根の茅を焚きつけに作っていたのであった。
これでは一緒に暮らす事は出来ぬ、と思った与作は、次の日鬼を連れて街 へ行き「この鬼ただで譲り申す」とふれ歩いた。それをお殿様が聞き咎め、与作と鬼は城まで召される事になった。与作から事情を聞いたお殿様は大いに笑い、 「城には言いつける仕事が山ほどある。その鬼、わしに譲れ」と言って鬼を引き取り、与作には「これで家を建てるが良いぞ」と、小判を3枚下された。
以来、鬼は城で働く事になり、お殿様にも可愛がられて幸せに暮らした。一方の与作は貰った小判で家を建て直し、もう働く鬼など当てにはせず、また一生懸命働いたそうな。
意地くらべ / 岩手県
むかし、ある村に「赤鼻の悪衛門」と呼ばれる大層頑固者の男がおった。一方、その隣村には「青鼻の悪太郎」という、これまた大層頑固者の男がおった。両方の村人達は、それぞれこの頑固者達を愛しておって、自分の村の頑固者がこの世で一番の頑固者じゃと言うて譲らんかった。それで、とうとうある年の夏、悪衛門と悪太郎は我慢比べをして決着をつけることになったそうな。
真夏だというのに戸を閉め切った部屋の中で、悪衛門と悪太郎は綿入れを四枚着て、腹と背中に湯たんぽを入れ、胡椒をたっぷり入れた熱燗を飲み、唐辛子を山ほど入れた鍋を食って我慢比べを始めた。
じゃが、悪衛門が「ワシは今朝、地獄の釜湯の温泉に入って来たが、それでもまだ寒いくらいじゃ。」と言うと、悪太郎は「ワシは炭を敷き詰めてお天道様を枕にして寝てきたが、それでもまだゾクゾクしてのぅ。」と言い返すありさまで、なかなか勝負はつかんかった。
これを見て、見物人達は「どちらも天下一品の頑固者じゃ。じゃが、いくらあの二人でも大悪党の鬼松には敵わんじゃろう。」と噂した。これを聞いた二人は我慢比べを中断して、それぞれ鬼松退治に出かけることにしたそうな。
そうして二人は、ちょうど同じタイミングで鬼松の隠れ家に辿り着いた。鬼松は突然現れた二人組を見て一笑に付し、さっさと帰れと殴り飛ばした。じゃが、頑固で負けず嫌いの二人はあきらめず、やられてもやられても鬼松に立ち向かっていった。
そうして、この戦いは三日三晩続き、鬼松はとうとう根負けして降参した。こうして頑固者の二人は大悪党の鬼松を捕えることができたそうな。悪衛門と悪太郎がその後どうしているかというと、それからも毎年、庄屋の家で我慢比べをして意地を張り合っておるそうじゃ。
雨入道 / 宮城県
昔々あるところに、2人のばあさんが住んでいました。ばあさん2人が、畑で仕事をしていると雨が降ってきました。
その夜、顔の丸いばあさんの家は雨漏りがひどく、ばあさんは藁にくるまって寝ていました。すると、家の音をたたく音がして出てみると、黄金色の帽子をかぶった小さな爺さんが「飯を食わせてくれ」といってきました。そして、ありったけのかゆを爺さんに食べさせてやりました。その後、その不思議な爺さんは、礼と言って木の杓子を置いて行きました。その杓子で鍋をすくうと、山盛りのご飯が出てきて頭の上で振ると小判が出てきました。
それを知った顔の細いばあさんも、顔の丸いばあさんに教わった通り、藁にくるまっって寝ておりました。隣のばあさんが雨が降ったので、戸をあけると例の爺さんが立っていました。あまりにもばあさんがにやにやするので、爺さんは腰を抜かしてしまいました。爺さんをむりやり家に入れると、ご飯を差し出しました。
しかしばあさんは、ご飯を食べさせずに杓子を手に入れようとしていたため、爺さんは反抗しました。するとばあさんは、水がめのなかに爺さんを閉じ込め、無理やり杓子を差し出させました。
しかしばあさんがその杓子で、鍋をすくうと石が飛び出し、頭の上で振ると泥が飛び出してきました。ばあさんが爺さんを追いかけ首を絞めると、爺さんは鬼のような姿に変わり、口から大量の水を吐き出しました。ばあさんは家に逃げましたが、家ごと流されてしまいました。そして海でどうしようか途方にくれましたとさ。おしまい。
地蔵さまと鬼 / 宮城県
あるとき、亡者の家族3人が三途の川の渡し場にやって来ましたが、三途の川付近で暇をもてあましていた鬼たちに、「荷物を全部置いていけ!」とおどされました。家族達は必死に抵抗しますが、鬼の力にはかないません。鬼たちは、荷物を奪うと荷物の中にいたネコを遠くへ投げ飛ばしてしまいました。
ネコは地獄にいた地蔵さんのところに飛んでいきました。地蔵さんは、「地獄の鬼をなんとかしなければ。」と思い、御仏様におだんごをおそなえすることにしました。地蔵さんは早速ダンゴをこしらえ、御仏様のところに向かいますが、途中で転んでしまい、そのダンゴは鬼達のところへ…鬼達は地蔵さんをつかまえ、鶏 のカゴの中に押し込んでしまいました。
しばらくして鬼達は、1個のダンゴを賭けて、坊主抜きをはじめますが、なかなか勝負がつきません。 それもそのはず。先ほど投げ飛ばされたねこが、「坊主」の札を抜き取っていたからです。坊主抜きがなかなか終わらないため、鬼達は「一番鳥がなく前に決着 つけないとまずい。」とうっかり自分達の弱点を話してしまいました。鳥のカゴの中にいた地蔵さんはその話を聞き、鶏のまねをして鬼達を追い払ってしまい ました。
そして、奪われた金品は亡者の家族に返され、ダンゴはもう御仏様におそなえすることもないため、地蔵さんとネコで食べることになりました。
そんなことがあってから、お地蔵さんにはダンゴをお供えするという習慣がついたということです。
桶屋の夢 / 宮城県
昔ある所に、桶屋の男がいました。
ある日の事、桶屋は酒を入れる大きな桶のタガを直していました。すると突然、タガが勢いよくはじけて、桶屋は高い高い五重の塔のてっぺんまで飛ばされてしまいました。
桶屋が地上にいた四人の六部に助けを求めると、六部たちは大きな布を広げて桶屋を受け止める準備をしてくれました。桶屋がその布めがけて飛び降りようとすると、急にグラグラっと大きな地震がおきました。
地震により大きな地割れができて、桶屋は五重の塔のてっぺんから地割れの中に落っこちていきました。
落ちた先は地獄でした。桶屋は閻魔さまから地上に戻るための薬をもらいましたが、鬼に襲われた際に、一度にたくさんの薬を飲みすぎてしまいました。
すると今度は、地上を通り過ぎ、もっと天高くぶっ飛んでいきました。桶屋が着いたのは、雲の上に住む雷さまの所でした。
地獄からやって来た桶屋の事を気に入った雷さまは、桶屋に雨を降らせる手伝いをさせました。桶屋が水に浸した笹の葉を振ると、地上ではザーザーと大雨が降りました。
雨を降らす事につい夢中になった桶屋は、足を踏み外してしまい、雲からまっさかさまに落ちていきました。
桶屋は池に落ち、命は取り留めたものの、冷たい水に溺れそうになりました。池の中でもがく桶屋が目を覚ますと、おねしょで濡れた自分の布団の中でした。なんと、これまでの事は桶屋の見ていた夢でした。
万吉や首はずせ / 宮城県
盗んだ墓の柱を使って念願のマイホームを建てた男の話
昔、ある村に桶屋の万吉という男が住んでいました。万吉は物心ついた頃から自分の力で立派な家を建るという夢があり、せっせと働いてお金を貯めていました。幼い頃に聞いた「二十年間がんばれば自分の家が建つ」という話を信じて、20年が経ち、いよいよ自分の家を建てる時がきました。
大喜びの万吉でしたが、どうしても柱一本分だけのお金が足りませんでした。二十年目の今日に、是が非でも家を建て始めたかった万吉は、その夜こっそりと墓場へ行きました。中でも立派な施餓鬼柱(せがきばしら、木製の墓)を盗み出し、不要な部分をを削りとりました。墓から作った立派な柱のおかげで家は無事に完成し、万吉は大喜びで新居に移り住みました。
しかしその夜、万吉は何とも恐ろしい夢を見ました。「万吉や、首はずせぇ」 と、土の中からうめき声が聞こえるのです。毎夜続く悪夢で、万吉はみるみるうちにやせ衰え、仕事も出来なくなってしまいました。 そこで近くの流行り神様に拝んでもらうと「この家には死んだ者の恨みが柱についている」と告げられました。
万吉が確認すると、墓場から切り出した柱が家の大黒柱として使われていて、なぜか削ったはずの経文が浮かび出し、しかも上下逆さまに建てられていました。万吉はすぐにその柱を外して、墓場の元にあった場所に戻しましたが、万吉の新居は崩れ落ちていきました。その後の万吉は、一生涯、マイホームは持てなかったそうです。
鬼娘 / 秋田県
昔々、ある村にお爺さんとお婆さんが住んでおった。この老夫婦には、1人の気立てのよい娘っ子がいて、年老いた両親の世話をよくしていた。この娘、働き者の孝行娘であったが、1つだけ困ったことがあった。それは、普通の人の2倍も3倍も体が大きかったのだ。
この娘、さらに大変な力持ちで、ある時、言うことを聞かなくなった暴れ馬が道を突進してくると、なんとその馬を両手で高々と持ち上げてしまい、馬をおとなしくさせてしまったのだ。そんな訳で、村の子供たちからは毎日のように、「鬼娘、鬼娘」と囃し立てられ、からかわれていた。
そんなある日、娘が山に薪を取りに行った帰り道のこと。1人の村の若者が、薪を背負ったまま道端に腰を下ろしていた。若者は、薪を拾いすぎて歩けなくなってしまったと言うのだ。それを聞いた娘は、薪を背負ったままの若者をヒョイと自分の肩に乗せると、そのまま山道を降りて行った。
村の中で娘のことを馬鹿にしないのは、この若者だけであった。山道を下る途中、若者は、娘に自分のところに嫁に来てくれるように頼んだ。ところが娘は、「オラ、嫁になんか行かねえ!!こうして働いている方が性にあってるだ!!」といって、この話を断ってしまう。
娘は、実は若者のことが好きだったのだが、もし自分と夫婦になれば、若者は村の衆から鬼娘の亭主と馬鹿にされると思い、それが可愛そうで嫁入りの話を断ったのだ。
そうは言っても、やはり若者のことは頭から離れない。娘は次の日、物思いにふけりながら道を歩いていた。すると、娘は知らない間に山の奥深くにまで入り込んでいた。そこは、娘が一度も来たこともない場所で、娘の目の前には深い淵が広がっていた。
するとその時、どこからか娘を呼ぶ声がする。声は、淵の反対側の松と杉と檜(ひのき)から聞こえてくるようだった。不思議な声は言う。「これ娘や、我の影に向かって飛び込め。お前は心の優しい、感心な娘じゃ。我の影に向かって飛び込め。」
淵は深そうだったが、娘はこの声の言うとおり、水面に映る木々の影に飛び込んでみることにした。すると淵の水を浴びた娘は、不思議なほど心が素直になり、若者の申し出を受け入れて、若者の嫁になったそうだ。そして2人は子宝にも恵まれ、以後幸せに暮らしたそうな。
幽霊にもらった力こぶ / 山形県
昔、ある所に「げんごえもん」という男がいた。この男村でも評判のちから無しで、子供にもバカにされるほどだったので自分が嫌になり、ある日旅に出ることにした。
かなり歩くといつの間にか暗い森の中に立っていた。その森には沼があり、その沼の前に赤ん坊を抱いた女が立っていた。女は沼にはまって死んだ者で「南無阿弥陀仏」を100万回唱えないと成仏できないのだが、この子がすぐ泣くので唱えきることができないと話した。そして赤ん坊をお経を唱える間抱いててほしいと、げんごえもんに頼んだ。
気の優しいげんごえもんは、女の赤ん坊を抱いた。その赤ん坊はびっくりするほど軽かったが、女がお経を唱え始めるとだんだん重くなってきた。げんごえもんは必死で赤ん坊を抱き続け、女はとうとう100万回のお経を唱え終った。
お経を唱え終った女は赤ん坊を受け取ると、お礼に何でも願いを叶えてくれると言う。げんごえもんはちからが無いから、もう少しちから持ちになりたいな、と言った。 すると突然女の顔が鬼のように変わり、げんごえもんの手を取って空高く舞い上がり、げんごえもんを地上へ放り投げた。
げんごえもんは悲鳴を上げて地上に落ちていったが、地上にぶつかる寸前、自分の手で着地した。げんごえもんが驚いてちからこぶを見てみると、ものすごいちからこぶが出来た。 試しにその辺の石をにぎってみると素手で割れた。
こうしてげんごえもんは村はおろかその辺り一帯でも有名なちから持ちになり、そのちからを村のために存分に使ったそうだ。
猫とねずみ / 山形県
昔、ある村では、夜になると山から鬼たちが降りてきて、村人をさらっては喰うので大騒ぎになった。村人たちは日が暮れると、野良仕事もそこそこに切り上げて家に帰り、戸をピシャリと閉めて、家に中で家族寄り添いながら、ただ時が経つの待った。
この惨状を天上から眺めていた仏様は、村人たちを救うため、鬼たちの住む山奥の里に降りて行き、人をさらって喰うようなむごいことを止めるように諭した。しかし鬼たちは、人間以外の物は不味くて食えない。これからも人間を喰い続けると言って聞かない。
それではと、仏様は山裾の畑に豆を蒔いた。そして鬼たちに向かって、この豆が芽を出すまでは人間を喰うのは我慢しろと言った。鬼たちも豆から芽が出れば、これまで通り人間たちを喰えるのでこれを受け入れた。
しかし待てども暮らせど豆から芽は出てこない。鬼たちが試しに畑を掘ってみると、なんと出てきたのは香ばしい香りのする炒り豆であった。これではいくら待っても芽が出てくるはずは無い。鬼たちは怒り、「仏面(ほとけづら)してとんでもねえ野郎だ!!」「神も仏もねえでや!!」と悪態をつく。
鬼たちは、「仏様がその気なら鬼には鬼のやり方がある。」と言い、ある夜畑に集まる。そこで、一心不乱に豆から芽が出ることを念じながら「豆出ろ、豆出ろ、早く出ろ。芽を出せ、芽を出せ、早く出せ。」と歌いながら踊った。すると不思議なことに、夜が明ける頃には炒り豆から芽が出て、芽はすくすく伸び、青い葉を茂らせ豆をつけた。鬼たちは喜び、早速仏様を呼びにいく。仏様は、豆から芽が出たことが信じられず、今日は忙しいから明日見に行くと言う。
仏様がコッソリ畑を見に行くと、鬼たちが言う通り豆が芽を出し、青々とした葉を付けている。仏様は驚いて懐から炒り豆を一粒手に取り、「はて、どうしてこんな炒り豆から芽が出たのだろう?」と訝りながら豆を地面に投げた。豆は転がって鼠の巣穴に落ち、中から鼠が出てきてこれを拾う。ここで仏様は何かをひらめき、「今までに食ったこともないような美味いものが食いたくないか?」と鼠に耳打ちした。
その夜、どこからとも無く鼠の大群が畑に現れ、畑の豆を跡形もなく食い尽くしてしまった。朝になって、何も無い畑を見て鬼たちは愕然とした。「いったい誰がこんなことをしたんだ!?」畑の傍らには、腹を膨らませた鼠が一匹、大の字に寝ている。「こいつらがこんなマネをしたんだな!!」と怒った鬼たちは、近所の腹をすかせた猫たちを集めた。
そして猫たちに言う。「お前たち、いままでに食ったこともないような美味いもの食いたくないか?」鬼にそそのかされた猫たちは鼠の巣穴に入って、次々に鼠たちを襲った。このため、鼠の巣穴は大混乱になる。「思い知ったか、鼠ども!!」と溜飲を下げた鬼たちは、気が済んだのか、それ以降、山から下りて人を喰らうことは二度と無かった。こうして、鼠は仏様から豆という好物を教えられたが、一方、猫は鼠という好物を知ってしまった。
鬼婆の羽織 / 山形県
醜い老婆になった美しい娘は、本当に優しい男を見つけた
昔ある所に、それはそれは美しい娘がいました。この娘のいいなずけである弥九郎は、お金持ちでしたので、娘は不自由のない暮らしをおくっていました。
ある日、山仕事に出かけた娘は村人たちとはぐれてしまい、一人で山の中をさまよっていました。雪の降る中、どうにか一軒屋を見つけて戸口を叩くと、なんとそこは鬼婆の家でした。
へとへとに疲れていた娘は、それでも鬼婆の家に泊めてもらう事にしました。170年間生きてきたという鬼婆は、これまでこんなに美しい娘は見た事がありませんでした。すやすやと寝ている娘の寝顔を見ながら、鬼婆は恐ろしい考えを思いつきました。
翌朝、娘に命を助けてやるかわりに美しい羽織を着るようにと言いつけました。羽織を着た娘は、あっという間にしわくちゃの老婆の姿になってしまいました。どうしても羽織が脱げない娘は「こんな姿になる位ならいっそ殺して下さい」と懇願しましたが、鬼婆はその姿のままで村へ帰るように言いつけました。
醜い老婆になった娘は、泣きながら山をおりました。途中の炭焼き小屋の親父からは追い払われ、いいなずけの弥九郎も「こんな汚いババアは知るもんか」とせせら笑い、誰一人と助けてくれる人はいませんでした。老婆の娘は絶望し、いっそ川に身を投げて死のうとしていると、村一番貧乏な若者の八吉が自分の家に連れ帰ってくれました。
八吉が温かい芋粥を差し出すと、不思議な事に鬼婆の羽織は脱げ、老婆は元のような美しい娘に戻りました。娘は優しい八吉の嫁になり、二人で一生懸命働いたのでたちまち村一番の長者になりました。やがて可愛い赤ん坊も生まれ、鬼婆からもらった羽織を宝物とし、末永く幸せに暮らしたという事です。
あぶないあぶない / 福島県
昔、福島の郡山(こおりやま)は、水が乏しい荒れた土地だった。そんな村で、変な噂が広がった。夜中になると、鬼ババが「あぶない、あぶない」と叫びながら、街道を疾走するというのだ。
そこで、村の太助と和助という若い兄弟が、鬼ババを捕まえようと、夜中の街道で待ち伏せしていた。夜も更けたころ、兄弟の目の前をものすごい速さで駆け抜けていく鬼ババを見つけた。足に自信がある兄の太助は、鬼ババを追いかけて山の頂上の崖まで追いかけて行った。
崖の上には鬼ババの姿は無く、崖の下を覗きこんで見ると、今にも落ちそうな壺を発見した。兄はその壺の中から小判を見つけ、弟には内緒で一人占めにしようと、こっそりと崖を下りて帰って行った。
その頃、やっと弟の和助も崖の上に到着した。弟も崖の下を覗きこんだ際に、何か光るものを発見した。さっそく崖を下りて調べてみると、崖のくぼみから勢いよく水が噴き出した。この噴き出した水のおかげで、この村でも田んぼが作るれるようになった。弟も一生懸命働いて、田んぼを作り、結婚もして、子宝にも恵まれて、幸せに暮らした。
兄はと言うと、壺の小判で贅沢三昧の暮らしをして、すっかり財産を使い切り、体まで壊してしまった。ちなみに、あの消えた鬼ババについては、今でもわからない。
宝の川 / 福島県
昔、福島県の西会津、鬼光頭川(きこうずがわ)沿いのある村に、木こりの父親と娘が住んでいた。娘の名はおゆきといい、5年前におっかあが他界してから、おっとうと2人きりで暮らしていた。
そんなある日のこと、おゆきのおっとうは、木の下敷きなった仲間を助けるため、誤って自分も木の下敷きになってしまい、亡くなってしまった。村の者たちは、仲間を助けるために命を落としたおゆきのおっとうに、残されたおゆきの面倒は必ず見ると、墓の前で約束した。
ところが、おっとうが死んでしばらくは、あれこれとおゆきの面倒を見てくれた村の者も、次第におゆきに目をかけなくなった。仕方がなく、おゆきは川でシジミを採り、これを宿場に売りに行って生活していた。
そんなある夜、この辺りの村々の世話役の男がおゆきの家を訪ねてきた。世話役は、おゆきに会津の街で子守りの仕事を紹介すると言うが、おゆきは両親の墓があるこの土地を離れたくなかったので、この話を断った。すると世話役は、ここは元々自分の土地なので10日以内に出て行ってもらうと言う。子守の口を見つけたというのは口実で、世話役はおゆきを追い出そうとしていたのだ。
幼いおゆきのこと、なす術もなく10日が過ぎてしまった。次の日は、世話役が家を取り壊しに来ると言う。この日、おゆきは村ざかいのお不動様の祠の前に座り、これから先のことを思い、悲嘆にくれて泣いていた。すると、祠の中からなにやら声がする。おゆきが顔を上げると、なんと炎の中にお不動様が現れた。
お不動様は言う。「娘よ、案ずることはない。お前はこれからも川で採れる物を売るがよい。全ての裁きはワシがつける。」
次の日、おゆきはお不動様の言いつけどおり、川にシジミを採りに行った。すると、朝日が昇る頃、村を大きな地震が襲った。山津波は村の家々を押し流し、土砂の下に埋めてしまった。しかし、不思議なことにおゆきの家だけが、たった一軒山津波に呑まれずに残っていたのだ。そして世話役は、山津波に呑まれてしまったのか、それ以後二度と姿を見せることはなかった。
さらに、その後おゆきが川に行くと、川からシジミは消えており、代わりにキラキラ光るきれいな石が川から取れた。これを宿場に売りにいくと高値で売れ、おかげでおゆきは裕福になり、その後幸せに暮らしたということだ。そしてそれからというもの、光る石が取れたことから、この辺りを宝川(ほうかわ)と呼ぶようになったそうだ。
鬼っこ人っこ / 福島県
節分の日に飾る「やいかがし」にちなんだ話
昔、里の女が鬼にさらわれ、やがて「できぼし」という男の子が生まれた。
ある日、里の爺さんが娘に会うために鬼の家に訪ねてきて、その晩は鬼の家に泊まっていくことになった。しかし、美味しそうな爺さんを食べたくて仕方がなかった鬼は、皆が寝込んでから長い舌を爺さんの方に伸ばしてはできぼしにポカリと叩かれ、を一晩中くりかえした。
翌日、鬼が出かけている間に三人はこっそりと里へ逃げ帰る事にした。できぼしは家の中のあちこちにウンコをして、自分の代わりに返事するように言いつけた。しかし、鬼がみんな逃げ出している事に気が付き追いかけてきた。
川をイカダで逃げていく三人を見つけた鬼が、川の水を全部飲みほすとイカダは止まってしまった。腹がタブタプになって走って来る鬼に向かって、できぼしが尻をペチペチと叩くと、思わず笑い出した鬼が川の水を全部吐き出した。その水の勢いに乗って、三人は無事に逃げ延びた。
しばらくたった節分の夜、鬼ができぼしを探しに爺さんの家にやって来た。家の軒に、やいかがし(焼いたイワシの頭)が刺してあるのを見た鬼は、できぼしを焼いてしまったと勘違いして、恐ろしくなって山に逃げ帰った。
一安心した爺さんができぼしの頭を撫でると、できぼしの頭の角がポロリと落ちた。それからのできぼしは人間の子供として幸せに暮らした。
三つの願い / 福島県
坊さまからもらった願いの叶う玉を使った2つの家族は、明暗が分かれた。
昔、あるところに物持ちの家と貧乏な水車小屋の家とがあった。水車小屋の家は、麦や粟のもみ殻をとる貧しい商売だったが、一家で朝から晩までよう働いておった。一方、物持ちの家の商売はあこぎな金貸しで、貧乏な水車小屋の一家をいつもばかにしておった。
ある日、旅の坊さまがずぶぬれで通りがかった。坊さまは宿を求めたが、物持ちの家は断った。水車小屋の家はあたたかく迎え入れ、粗末ながらももてなした。坊さまは翌朝願いがかなうという3つの玉をお礼として置いていった。
水車小屋の一家はひとつずつ玉を手にしてそれぞれ願をかけることになった。じいちゃん、おっとう、おっかぁの順に黙って願をかけると、不思議なことにそれぞれの玉は消えた。実は3人とも同じ、「家族みんなが達者で暮らせますように」という願をかけたのだった。
これを見ていた物持ちの夫婦は、坊さまを追いかけ連れてきて、無理やりに食事を与え、3つの玉をくれるように坊さまに迫った。こうして玉を手に入れた2人はそれぞれに願をかけ、きれいな着物100枚と米が詰まった米蔵100棟を手に入れた。最後のひとつの玉は取り合いとなり、物持ちが玉を握ったまま「鬼ばばめ、角でも生やして鬼になればよいわ」と言った。すると玉は消え、ばばに角が生えて本当の鬼となってしまったのじゃった。
物持ちは鬼になったばばと暮らしたくなかったが米蔵を捨てることもできず、ばばとけんかしながら暮らしたとのことじゃ。一方、水車小屋の一家は相変わらず貧乏だったが、だれも病気になることなく、いつまでもまめに暮らしたということじゃ。
しゅのばん / 福島県
昔ある所に、なんとなく生きている男がいました。なんとなく生まれてなんとなく育って、なんとなく大工になってなんとなく嫁をもらって、なんとなく毎日を仕事して暮らしていました。
男は毎晩、客がいなくなる頃になると飲み屋に行って、なんとなく女将を口説きやんわりと断られる日々を過ごしていました。ある晩、男はいつものように飲み屋を訪れるも、女将は返事もしないし振り向きもしませんでした。
何かただ事ではない気配を感じた男に「お前さんが一晩中飲み明かしたい相手って、この私かい?」と、真っ赤な顔をした化け物が振り返りました。その顔は、角と牙をはやし大きな目はぎろりとむいて、なんとも恐ろしい赤鬼の顔でした。男ははじかれたように飛び上がり、店から悲鳴を上げて逃げ出しました。
息をきらせてもう一軒のなじみの飲み屋に駆け込むと、そこにもさっきの恐ろしい顔した赤鬼の化け物がいました。「しゅのばーん!」赤鬼が金切り声で叫ぶと、あまりの恐ろしさに男は腰を抜かして地面を這って逃げ出しました。
やっとこさ自宅に帰りつくと、そこにはいつもの優しい顔をした女房が待っていました。女房もしゅのばんになってしまったかと疑いましたが、女房だけはいつもの女房でした。次の日から、男はぷっつりと飲み屋通いをやめ、女房のために働こうと、大工仕事に精を出すようになりました。
雷さまと桑の木 / 福島県、群馬県
男の子が母親のいいつけで、茄子の苗を買ってきて植えると、苗はぐんぐん伸びて雲の上まで届いた。茄子の木を登って雲の上に行くと、大きな屋敷があった。
そこにいたおじいさんが、毎日おいしい茄子を貰っているお礼だと言って、二人の娘に男の子をもてなさせた。そのあと、おじいさんは仕事があると言って鬼の姿になり、太鼓をたたき、娘の一人が鏡で稲妻を、もう一人が柄杓で雨をふらせた。
男の子はおもしろがって、娘から柄杓を借りて雨を降らそうとするが、雲から足を踏み外してしまった。落ちたところは桑畑で、運良く桑の木にひっかかり助かった。
それ以来、雷さまは、男の子を助けてくれたお礼に、桑の木の側には雷を落とさなくなったという。 
■関東地方 

 

鬼のつめ / 栃木県
昔、物凄い嫌われ者の悪徳婆さんがいた。この婆さんは、村人から穀物を買い取るときは大きなマスで量り、物を売るときは小さなマスで量って売っていた。
そんな婆さんが、とうとう死んでしまった。それで、お寺の和尚さんが婆さんの葬式を担当することになったが、葬式の前夜、和尚さんの寺に赤鬼と青鬼がやってきた。
どうやら鬼達は地獄から来たらしく、婆さんは地獄行きが決まったから余計な手出しはするな、と和尚に警告する。しかし、和尚は断固拒否する。
葬式当日、お棺を運んで歩いていると、突然強い風が吹いて和尚の経文がさらわれる。すると黒雲が現れ、そこから鬼の手が出て来て婆さんの棺桶を持っていこうとする。和尚は必死で棺桶にしがみつき、婆さんを取り戻そうとるする。
村人は「あんな強欲婆さんだからかまわない」と思ったが、和尚が「死人に罪はない」と説き伏せ、村人に経文を大きな声で読むように言う。村人は和尚の言う通りお経を読むと、鬼はそれにまいって棺桶を置いていく。その棺桶には鬼の爪がささったままだった。
どうにか無事だった棺桶の中には、安らかな死に顔の婆さんがいて、村人はどんな人間も死ねばみな同じだと痛感した。
欲ばり喜伊 / 栃木県
ある村に、たいそう大金持ちでたいそう欲の深い金貸し業の喜伊(きい)という男がいた。
裕福そうな旅人が「水が欲しい」というので、喜伊はめずらしく文句も言わず水を与えた。おいしい水のお礼にと、旅人は大金を払った。旅人は「金は腐るほど持っている。なぜなら、金を増やす方法を知っているから」と言う。
それを聞いた喜伊は何とか頼みこんで、旅人から金が増える方法を教えてもらった。その方法とは、林の中にある祠(ほこら)にお金をお供えすると、翌日に倍になっている、との事だった。
疑心暗鬼だった喜伊は、ためしに少額のお金をその祠にお供えしてみた。翌日、祠の前にはちゃんと供えた金額の倍になっていた。欲を出した喜伊は、有り金を全部その祠にお供えした。翌日、ドキドキしながら確認しに行くと、お供えした全財産はきちんと倍に増えていた。
喜んだ喜伊は、夜中にこっそりと大金を自宅に持ち帰った。寝る前にもう一度お金を拝もうとして、金のはいった袋を開けてみると、なんと全て石に変わっていた。全財産が石コロになってしまった喜伊は、夜更けにいとわず旅人の豪邸に駆け付けたが、その豪邸は影も形もなくなっていた。
地獄めぐり / 栃木県
昔、日光に弘法大師(こうぼうだいし)が開いたといわれる寂光寺(じゃっこうじ)という寺があった。この寺に、人々から尊敬されている覚源上人(かくげんしょうにん)というお坊さんがいた。
ある日、上人は横になり休んだまま、息を引きとってしまった。だが上人の体はまるで生きているようにいつまでもあたたかいのだった。人々が困ってるうちに17日が過ぎた。すると、なんと上人が目をさましたのだ。上人は集まっていた人々を見て、「わしは今めいどの旅から戻ったところじゃ。皆さんにぜひこの話を聞かせたい。」と、世にも不思議な旅の話を語り始めた。
「わしは、雲に乗り闇の中をどこまでも進んでいった。すると炎に包まれた山門があった。鬼が立っていたので、これが地獄門だなと、わしは思った。門をくぐるとそこは閻魔堂。閻魔大王の前に、大勢の人々が引き据えられており、その人々を閻魔大王が裁くのじゃ。」
そうしてとうとう上人の番がきた。すると閻魔大王が上人にこう言った。「おまえをここへ呼んだのは罪人としてではない。この頃地獄へ落ちる人間の数が増えている。罪を犯せば、死後地獄へ落ちるということを忘れているからではないかと思ってな。それで、人々に説教する役目のおまえに、地獄の恐ろしさをよく見てもらって、人々に話してもらいたいのだ。」
こうして上人は地獄めぐりをすることになった。鬼に体を切り裂かれる人、重い荷物を持って針の山をのぼる人、血の池でもがき苦しむ人、鉄の棒でうち砕かれる人、熱く焼かれた鉄の縄で縛られる人・・・そんな地獄の様子を見て、上人は地獄から帰ってきたのだ。その後上人は、人々にこの地獄の話を説き続けたそうだ。
飛ぶ木 / 栃木県
享保8年(西暦1723年)8月8日に、宇都宮で大洪水が起こった。世にいう、五十里洪水(いかりこうずい)である。羽黒山明神(はぐろやまみょうじん)近くに住むお松ばあさんは、この大洪水をひと月も前に予言していた。
ひと月前、お松ばあさんが二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)の拝殿わきでウトウトしていると、何やら話し声を耳にした。それは、もうすぐこの一帯で起こる大洪水の被害を最小限にするため、神様たちが相談している声だった。神様たちは、羽黒山の銀杏の木と白沢明神(しらさわみょうじん)の大杉を使って、溢れる大水をせき止める作戦を話し合っていた。
お松ばあさんは、この神様の話を息子の与太(よた)に聞かせたが、与太は信じなかった。しかし現実に、このところの大雨の影響で鬼怒川の堤防が壊れ、川の水があふれ始めた。その時、羽黒山の銀杏の木が倒れ、大波が集落に流れ込む事を防いだ。そして、白沢の大杉が空を飛んできて、その銀杏を支える杭のようにズボっと突き刺さり、大水に耐えた。
こうして神様の計画通り、集落一帯は大した被害が出ることなく、夜になると水も引いた。
銀杏と杉の大木のおかげで、五十里洪水の被害は最小限に抑えられたそうだ。
鬼怒沼の機織姫 / 栃木県
弥十(やじゅう)という若者が姉の家に届け物をした帰り、道に迷って鬼怒沼にたどり着いてしまう。鬼怒沼の素晴らしい景色に見とれているうちに弥十は疲れて眠ってしまった。
しばらくして弥十が目を覚ますと、近くで美しい娘が機を織っているのに気づいた。「鬼怒沼には機織姫がいて、機を織るのを邪魔すると恐ろしい祟(たたり)がある」という言い伝えを思い出した弥十は、一度は隠れるものの機織姫の美しさに見惚れて近づいて彼女に触れ、機織姫が機を織るのを邪魔してしまう。
機織姫は弥十を突き飛ばし怪我をさせる。怒り心頭の機織姫に我に返った弥十は、祟りのことを思い出し血相を変えて逃げ出した。しかし、機織姫は弥十を許さず、杼(ひ)をなげて村に逃げ帰った弥十を捕まえ、糸を手繰り寄せて引きずって鬼怒沼へ連れ戻す。
殺されると思った弥十は反撃に出て、機織姫を杼で突き刺した。弥十は顔面蒼白・血と泥で汚れたぼろぼろの姿ながら、素晴らしい細工の杼を持って村へ帰ってきた。鬼怒沼の美しい沼には機織姫が住んでいて、うっかりのぞき見すると恐ろしい祟がある。
赤鬼からもらった力 / 群馬県
むかし、上州は川場村の立岩(たていわ)に清岸院というお寺があり、そこの和尚さんに拾われて、寺で育ったおのぶという娘がいた。
おのぶが9歳のある日、裏山に薪をとりに行くと、辺りが急に暗くなり強い風が吹き出した。やがて、地響きのような足音とともに、大きな赤鬼がおのぶの前に現れた。
赤鬼はおのぶを見て言う。「こえーげ?たまげたげ?(怖いだろ?たまげただろ?)」
普通の子供なら、驚いて腰を抜かしてしまうのだが、気の強いおのぶは赤鬼をにらみ返し、「うんにゃ、こわくねぇ!!」と言い返す。
おのぶの気丈なところが気に入った赤鬼は、自分が持っている鬼の力をおのぶに与えた。こうして、おのぶは鬼のような力を持つ大女になった。
おのぶの怪力のうわさは村中に知れ渡り、ある日、おのぶが川で洗濯をしていると、男がやってきて、おのぶに力比べを挑んだ。ところが男は、おのぶの怪力の前に簡単に吹き飛ばされてしまった。この男、実は近くの山に住む山賊の棟梁だったから大変なことになった。
その夜、手下の山賊を大勢引き連れて、おのぶに仕返しするために清岸院に攻めよせてきたのだ。ところが山賊が束になってかかっても、おのぶの怪力の前には歯が立たない。
とうとうコテンパンにやっつけられ、ほうほうの体で山に帰って行くのだった。
それから8年の歳月が経ち、おのぶが17になる秋、赤鬼は旅人の姿に化けて再びおのぶの前に現れた。実はこの赤鬼、初めて山でおのぶに会った時から、おのぶのことが好きだったのだ。
赤鬼はおのぶに言う。「おのぶさん、ワシの嫁になれ。」
「エーー!!」とおのぶが驚いていると、赤鬼は照れ隠しをするように言った。
「いや、あの、その・・・俺と力比べをしてくれ!!」
2人は近くにあった丸太を取り、力比べをすることにした。丸太の片方を持った赤鬼は「もし俺が勝ったら・・・」と言いかけるが、おのぶは「そんなわけはねぇ!!」と言い返す。
2人は渾身の力を込めて丸太を押し合う。すると、なんとしたことか、赤鬼はおのぶの力の前に吹っ飛ばされてしまった。これにはさすがの赤鬼も、「おのぶ、俺より強くなってしまった。」と言って泣くよりほかなかった。
今でも清岸院には、おのぶの洗濯石と言う大きな石がある。おのぶは毎日この大石を頭の上にヒョイとの乗せ、山門の下の小川に洗濯に行っていたそうだ。
赤城のへっぷり鬼 / 群馬県
北関東は群馬の「赤城のからっかぜ」にまつわるお話
昔々、群馬の赤城の山にたくさんの鬼がおった。大きいの小さいの合わせて100匹以上。なかでも赤鬼と青鬼がめっぽう力が強かった。どんな勝負をしても勝敗が付かんがった。年に一度お祭りの日、勝負を付けておった。
ある年、赤城の東に住む赤鬼は東の里で豊作だった山芋をたらふく食って力を付けた。一方、赤城の西に住む青鬼は西の里で豊作だった山芋をたらふく食って力を付けた。どちらも自分が一番力持ちだと思っていたし、今年こそ相手の鼻をあかそうと思っていたのでした。
祭りがやってきました。赤鬼青鬼大勝負の日。黒鬼の行司で相撲が始まった。いい勝負でなかなか勝負が付かない。必死で組み合っていたがどちらも困ったことに屁をしたくなった。屁で力が抜けては負けてしまう。
更に必死に組み合っていたが、黒鬼のかけ声で同時におならが出てしまった。食いに食った山芋のせいでそれはもうすごい屁だった。回りで応援していた小鬼たちもみな吹き飛ばされ、土煙とともに里の方へと飛んでいった。それはからっ風で飛んでくる木の葉のようにも見えたそうな。
それからも、秋になるとどっちが強いか決めたくて、赤鬼と青鬼は何度も勝負をするんじゃが、いまだに決着が付かないそうです。こんな歌があります。「赤城山から鬼がけつふん出して なたでぶっきるような屁をたれる〜略」
鬼と長イモ / 群馬県
群馬の白根山や四阿山(あずまやさん)には、昔、鬼が沢山住んでいて、旅人から荷を奪ったり娘をさらって食べたり、悪さばかりしていました。
ある五月の節句の日、鬼の内でも一番意気地無しで、まだ一度も人間を食べた事のない鬼が「今日こそは人間を食べてやろう」と思い立ち、里まで降りて来ました。一軒の農家に目星をつけて様子を伺ってますと、その家の女房が食事の支度をしておりました。その日の献立はとろろ汁らしく、女房は長イモをすり鉢で丁寧にすっています。ところが、女房がすりおろしている長イモが、意気地無しの鬼の目には鬼のツノに見えたのでした。
意気地無しの鬼は驚くと同時に「俺らのツノはいったいどんな味がするのだろう」と思い、近くの家からすり鉢を盗んで山に戻り、自分のツノを石でへし折って、すり鉢ですって見ました。しかし、ツノは少しもすれません。
その様子を見た仲間の鬼達が集まって、何をしているのかと問い詰めました。意気地無しの鬼は里での話をすっかり話して聞かせました。最初の内は誰もその話を信じませんでしたが、仲間の1匹が「実際に見に行ってみよう」と言いだしたので、鬼達は意気地無しの鬼を先頭に里へ降りて行き、さっきの農家をみんなで覗いて見ました。
丁度、その家では食事が始まったところで、主人と女房が出来たてのとろろ汁をごはんにかけて食べて居ました。やがて女房が「おかわりならいくらでもあるよ」と主人に向かって言いながら、かごの中に詰め込まれた沢山の長イモを取り出して見せました。覗いていた鬼達はそれを見てみんなびっくり仰天。
「あんなに沢山鬼のツノを集めてるぞ!」「うかうかしてると俺達もツノを取られてしまう!」「逃げろ!」驚き恐れた鬼達は即座に逃げ出してしまいました。
以後、白根山や四阿山から鬼は居なくなりました。後にこの話を伝え聞いた人々は鬼避けのまじないに、盛んに長イモを作るようになったと言う事です。
鬼からもらった力 / 群馬県
昔、山奥の村の小さな寺に、おのぶという少女がいた。
おのぶが七歳の頃、いつものようにおのぶは山で薪を拾っていたが、夜でもないのに急に辺りが暗くなった。おのぶが気味悪がっていると闇の中から、一匹の鬼が姿を現した。鬼はおのぶに脅しをかけるが、おのぶの方は怖がる様子は少しも見せなかった。
そんなおのぶの態度に鬼は感心し、「わしの持っているこの力をくれてやろう」と言って、握り拳をおのぶの前に出した。おのぶが両手で握り拳を握ると、鬼の力がおのぶに伝わり背丈は伸び、両腕は太くなり力こぶが出来ていた。
この出来事をさかいに、おのぶは百人力になりました。おのぶは、大きくて重たい洗濯石を軽々と持ち上げられるようになった。
ある日のこと、おのぶが川で洗濯をしていると、彼女の噂を聞きつけたひとりの侍が「力比べをしないか」と言ってきた。おのぶは「この洗濯石を持ち上げておくれ」と言ったが、侍は洗濯石を持ち上げられなかった。
今度は侍が「洗濯物を絞る勝負をしよう」と言うので、侍が大きな布を力一杯絞るが、絞りきることは出来なかった。対するおのぶは、あっという間に布を絞り切り、水は一滴も出なくなった。
しかしこの侍は、実は山賊の親分だったため、数日後仲間を引き連れ、おのぶのところに仕返しにやってきた。おのぶは山賊めがけて薪を投げつけて、山賊たちを撃退した。
この出来事のおかげで、おのぶの事はますます有名になった。その後も、大きな洗濯石を担いで洗濯をしたりと寺で働き続けた。おのぶがいた寺には、今でも大きな洗濯石が残っていて、大人が三〜四人がかりでも持ちあげることは出来ないそうだ。
食わず女房 / 群馬県
むかしむかし、あるところに、とてもけちな男が住んでいて、いつもこう言っていました。
「ああ、仕事は良くするが、ご飯んを食べない嫁さんが欲しいなあ」そんな人がいるはずないのですが、ある時、一人の女が男の家を訪ねて来て、「わたしはごはんを食べずに、仕事ばかりする女です。どうか、嫁にしてくださいな」と、言うではありませんか。それを聞いた男は大喜びで、女を嫁にしました。
男の嫁になった女は、とても良く働きます。そしてご飯を、全く食べようとしません。「ご飯は食べないし、良く仕事をするし、本当にいい嫁じゃ」ところがある日、男は家の米俵(こめだわら)が少なくなっているのに気がつきました。「おや? おかしいな。嫁はご飯んを食べないはずだし」とりあえず男は、嫁に聞いてみましたが、「いいえ。わたしは知りませんよ」と、言うのです。あんまり変なので、次の朝、男は仕事に行くふりをして、家の天井に隠れて見張っていました。すると嫁は倉(くら)から米を一俵かついで来て、どこからか持って来た大きなカマで一度にご飯を炊きあげました。そして塩を一升(いっしょう→1.8リットル)用意すると、おにぎりを次々と作って山の様に積み上げたのです。
(何じゃ? お祭りじゃあるまいし、あんなにたくさんのおにぎりを作って、どうするつもりだ?)
男が不思議そうに見ていると、嫁は頭の髪の毛をほぐし始め、頭のてっぺんの髪の毛をかきわけました。すると頭のてっぺんがザックリと割れて、大きな口が開いたのです。嫁はその口へ、おにぎりをポイポイポイポイと投げ込んで、米一俵分のおにぎりを全部食べてしまいました。
(あわわわわ。おらの嫁は、化物だ!)
怖くなった男はブルブルと震えましたが、嫁に気づかれない様に天井から降りると、仕事から帰った様な顔をして家の戸を叩きました。
「おい。今、帰ったぞ」すると嫁は、急いで髪の毛をたばねて頭の口を隠すと、「あら、おかえりなさい」と、笑顔で男を出迎えました。
「・・・・・・」男はしばらく無言でしたが、やがて決心して言いました。
「嫁よ。実は今日、山に行ったら山の神さまからお告げがあってな、『お前の嫁はええ嫁だが、家に置いておくととんでもない事になる。はやく家から追い出せ!』と、言うんじゃ。だからすまないけど、出て行ってくれんか?」
それを聞いた嫁は、あっさりと言いました。
「はい。出て行けと言うのなら、出て行きます。でもおみやげに、風呂おけとなわをもらいたいのです」
「おお、そんな物でいいのなら、すぐに用意しよう」
男が言われた物を用意すると、嫁さんが言いました。
「すみませんが、この風呂おけの底に穴が開いていないか、見てもらえませんか?」
「よしよし、見てやろう」
男が風呂おけの中に入ると、嫁は風呂おけになわをかけて男を入れたままかつぎ上げました。ビックリした男が嫁の顔を見てみると、嫁は何と鬼婆(おにばば)に変わっていたのです。鬼婆は男を風呂おけごとかついだまま、馬よりもはやくかけ出して山へと入って行きました。
(こ、このままじゃあ、殺される! じゃが、どうしたらいい?)
男はどうやって逃げようかと考えていると、鬼婆が木によりかかって一休みしたのです。
(今じゃ!)
男はその木の枝につかまって、何とか逃げ出す事が出来ました。さて、そうとは知らない鬼婆はまたすぐにかけ出して、鬼たちが住む村へ到着しました。そして大きな声で、仲間を集めます。
「みんな来ーい! うまそうな人間を持って来たぞー!」
仲間の鬼が大勢集まって来ましたが、風呂おけの中をのぞいて見ると中は空っぽです。
「さては、途中で逃げよったな!」
怒った鬼婆は山道を引き返し、すぐに男を見つけました。
「こら待てー!」
「いやじゃ! 助けてくれー!」
鬼婆の手が男の首にかかる寸前、男は草むらへ飛び込みました。すると鬼婆は男の飛び込んだ草むらが怖いらしくて、草むらの中に入ってこようとはしません。男はブルブル震えながら、一生懸命に念仏をとなえます。
「なまんだぶー、なまんだぶー」
鬼婆は草むらのまわりをウロウロしていましたが、やがてあきらめて帰って行きました。
「た、助かった。・・・しかし、何で助かったのじゃろう?」
実は男の飛び込んだ草むらには、菖蒲(しょうぶ→サトイモ科の多年生草本で、葉は剣状で80センチほど)がいっぱい生えていたのです。鬼婆は菖蒲の葉が刀に見えて、入ってこれなかったのです。
その日がちょうど五月五日だったので、今でも五月五日の節句には魔除(まよ)けとして、屋根へ菖蒲をさすところがあるのです。
榛名富士・ひともっこ山 / 群馬県群馬郡榛名町
昔、榛名と駿河の巨人が、ひと晩で山をつくる競争をした。榛名の巨人が、あともうひと盛り土を載せようとしたときに、一番鶏が鳴き、その土を落としてしまった。それが今のひともっこ山であり、できかけの山が榛名富士といわれている。ひと晩で、富士山を造った駿河の巨人に負けた榛名の巨人は、三日三晩泣きつづけ、その涙でしらじ池ができたという。
姑と鏡と悪者揃い / 茨城県
昔ある所に、とっても仲の悪い嫁と姑(しゅうとめ)が住んでいました。
姑は、嫁のやることなすこと全てが気に入りませんでした。今日も、嫁の朝起きの事やお茶の事でイライラした姑は、長者さん相手に愚痴をこぼしていました。
長者さんは姑に対して「鬼のような顔をせず、にっこりした顔で嫁に接すれば良い」と言いました。姑は、逆に長者さんからたしなめられたので、プンプン怒って長者さんの家を出ました。
姑は家に帰る途中、村でも評判の仲の良い嫁と姑が、川で洗濯している所を見かけました。楽しそうな二人に「どうして仲が良いのか?」と訊ねると、「私たちはお互いを責め合わず、自分が悪いと言い合って喧嘩にならない」と答えました。
姑は家に帰ってから、長者さんに言われた通り、鏡を見ながらにっこり笑った良い顔を作ってみました。そして、この良い顔のままで嫁に接してみると、なんと嫁もにっこり笑顔を返してくれました。
それからの嫁と姑は、いつまでも仲良く暮らしたそうです。
鬼子母神さま / 埼玉県
昔、狭山(さやま)にのどかな村がありました。
ある日、その村に子供をさらうという鬼女(おにおんな)が現れるようになりました。子供のにぎやかな声でにぎわっていた村は、子供が一人もいないさびしい村になりました。困った村人たちは、お釈迦様がいる山にのぼり、子供たちを取り返してくれるようお願いしました。
さっそくお釈迦様は、鬼女の所へ様子を見に行きました。鬼女の住む穴には、鬼女の子供が一万人もいて、一人一人を大切にかわいがっていました。しかし穴の横には、村からさらってきた子供たちが投げ込まれていて、みんな泣いていました。その様子に怒ったお釈迦様は、鬼女の子供を一人、手のひらに乗せて連れて帰りました。
鬼女は自分の子供が一人いない事に気が付き、あたりを狂ったように探し回りました。どうしても自分の子供が見つからない鬼女は、悲観に暮れていました。そこへ、お釈迦様が現れ「お前は一万人もの子どもがいるのに、一人でもいなくなるとそんなに悲しいのか。それは人間の親たちも同じではないのか?」と諭しました。
涙を流して反省した鬼女は、さらってきた子供達を全員村に返しに行きました。その後、鬼女はお釈迦様の弟子になり、鬼子母神(きしぼじん)という安産と子どもを病気から守る神様となりました。
上半分下半分 / 埼玉県
埼玉県秩父に働き者の百姓一家が暮らしていました。春三月にもなると小さい畑ながらもたくさんのじゃがいもがすくすく育ちました。
ある晩のこと、家の前にずしんずしんという地響きとともに山のように大きな赤鬼が現れて、ここらへんは俺の土地に決めたと言い出しました。百姓のおっとうは震えながらも、畑を取られては家族は飢え死にしてしまうと訴えると、赤鬼は確かに死なれては後々都合が悪いから、じゃあ畑の作物を半分よこせと言います。
おっとうは思案して地面から上半分をやると約束したので、鬼はじゃがいもの葉を全部むしって食べましたが不味いだけでした。地面の下においしい実があるのを見つけましたが、約束を破れない赤鬼は悔しがって、次も来ると言い残して帰っていきました。
おっとうはまた思案すると家族で野良仕事を続け、畑に作物がたわわに実った頃にやっぱり赤鬼がやって来ました。赤鬼は今度は俺が下半分の約束だと言って畑を全部ごっそり持ち上げると土の中の根っこをむしゃむしゃと食べました。
しかし植わっていたのはアワだったのでまたもやひどく不味い思いをしたものですから、もう人間の知恵にしてやられるのはかなわんと言って山に帰ると二度と来ることはありませんでした。
天狗のちょうちん / 埼玉県
武蔵の山を守る天狗が神通力で灯りをともす
昔、武蔵国飯能(はんのう)の山には天狗が住むといわれていた。突然山の中で呼び声がしたり木を切り倒すような音がするとそれは天狗の仕業とされていたが、実際に天狗の姿を見た者は誰もいなかったという。
そんな山の中に、もう何か月も小屋掛けをしている木こりの源さんという男がいた。源さんは山の木を切り倒す度に御幣(ごへい)を付けたてっぺんの梢(こずえ)を切り株に挿し、木への感謝とお詫びを欠かす事がなかった。
ある日の夕暮れ、源さんは今日の仕上げにと前から目を付けていた大木を切り倒しにかかった。しかしそこは足場が悪く中々仕事がはかどらなかったため、やっと大木を切り倒した頃には辺りは既に暗くなっていた。源さんは大木が倒れた時に飛ばされたてっぺんの梢を探すのを諦め、その日は小屋に戻ってしまう。
ところがその夜中、にわかに小屋が揺れ出し、目が覚めた源さんは地震かと思い外に飛び出したが、外は別に変わった様子もなかった。しかし源さんが小屋へ戻ると、再び小屋はぐらぐらと揺れ出したのである。
すると大揺れの中、拍子木を打つ音がしたので、これは噂に聞く天狗の仕業だと源さんは理解した。そして自分が大木の切り株に梢を挿さなかったのを天狗が怒っている事に気付いた源さんは、小屋を飛び出すと真っ暗な夜中の山の中を梢が落ちた辺りに急いだ。
しかし薄い月明かりの中ではいくら探しても梢は見つからず、源さんは仕方なく山の中で火を起こそうとした。その時不思議な事に、木々の合間に赤い鬼灯提灯(ほおずきちょうちん)が次々とつき出し、山一面を明るく照らし出したのである。源さんは天狗の神業に驚いたが、鬼灯提灯の灯りのおかげで難なく梢を見つける事ができた。
やがて冬近くになり源さんはその年の山の仕事を全て終え、女房子供の待つ里へ下りていった。この事があってから源さんは、天狗様が守っている山の木だと前にも増して木を大切にし、山を崇め奉ったという事だ。
椿の海 / 千葉県
椿の海の誕生秘話、のちに干潟八万石となる、というお話。
ずっと昔、日本中にいろんな神様が住んでいて、この辺には猿田彦(さるだひこ)と呼ばれる神様が住んでいました。
ある時、猿田彦が椿の苗木を植えると、やがてとてつもない大きさに成長しました。香取・朝日・匝瑳あたりの空一面を覆うように広がった枝葉のせいで、地上は太陽の光も届かないくらいでした。その代りに、春になると見事な花が咲き天を赤く染め、散れば地面は錦を敷いたような美しいものでした。
ところが、この椿の巨木に、鬼満国(おにみつくに)という鬼の国の魔王が住みつくようになりました。この魔王はとても薄気味悪く、笑い声を聞くだけで小鳥は枝から落っこちるし、息をかけられれば心臓が凍えてしまう程でしたので、近くに住む人々は毎日の仕事も手につかない有様でした。
その頃、伊勢の五十鈴川ちかくに暮らしていた猿田彦は、この魔王の話を聞いて、天女から借りた羽衣で空を飛び急いで椿の巨木に駆けつけました。丁度、昼寝中だった魔王に向かって、天の鹿児弓(かごゆみ)を張り天の羽々矢(はばや)を射ました。
魔王のヘソに羽々矢が突き刺さると、魔王の体がずんずん大きくなっていきました。ヘソが痛くてしゃくにさわった魔王は、怒りにまかせて椿の巨木を満身の力で引っこ抜きました。そこで猿田彦が、魔王に刺さっている矢を引き抜くと、膨らんだ体から風船の空気が抜けるように、魔王ははるか彼方へ吹っ飛んでいきました。
いつしか、引っこ抜いた椿の跡に水がたまり、そこを「椿の海」と呼び、倒れた椿の木の上の方を「上総」、下の方を「下総」と呼びました。今ではもう椿の海は干上がって「干潟八万石」と呼ばれるとてつもなく広い田んぼとなり、豊かな米処となっています。
東京都
夢の孝心 / 神奈川県
昔、鎌倉幕府があった時代の話です。鎌倉のある村に、大きな瓦屋根の家と小さなわらぶき屋根の家が寄り添うように建っていました。二つの家の主人はとても仲良しで、その息子の六助と千吉もやっぱり仲良しでした。
二人の主人が亡くなった頃、わらぶき家に住む千吉が、死後の世界でさまよう父親の姿を夢に見ました。なんでも、六助の親父から借りていた「銭一貫と麦三俵」を返さずに死んだため、閻魔(えんま)様の手下の鬼たちが許してくれず成仏できないでいる、との事でした。
そこで千吉は、一年間働きづめに働いてどうにか六助に借りた物を返す事が出来ました。しかし今度は、六助の親父が夢枕に立ち、「困った時はお互い様、貸したつもりもない物を受け取ってしまうとは、世間さまに顔向けできない」と、六助を叱りつけました。
二人の親孝行な息子たちは、父親の言いつけを守ろうと貸し借りを巡り、最後にはケンカになってしまいました。困った二人は、とうとう鎌倉のお奉行様に裁いてもらう事にしました。お奉行様は、親孝行な二人の話を聞き、銭一貫と麦三俵はいったん奉行所あずかりとし、あらためて二人の息子に返し、それを菩提寺に納めて父親の供養をするように提案しました。
二人の息子たちは、このお裁きに大満足してそれに従いました。この心温まる話を知った村人たちは、いつまでも二人の事を語り伝えたそうです。
金太郎 / 神奈川県
むかしむかし、足柄山に金太郎という元気な男の子が乳母と一緒に暮らしていました。
金太郎は小さい時からクマやサルやシカといった動物たちと仲良くなり、乳母の乳をいっぱい飲んで、よく眠り、よく遊んですくすくと育ちました。そして、金太郎が10歳くらいになるとクマの顔と同じ大きさの石をお手玉にして遊んだり、クマをはじめとする動物たちと相撲を取ったりして遊びました。もちろん、遊んでばかりではなく、イモ掘りをするなどして乳母の手伝いもよくしました。金太郎と乳母はたくさん取れたイモをおいしそうにたくさん食べました。
そして、ある日の朝、金太郎はサルと一緒に外へ出るとすぐにしゃがみこむと、お腹に力を入れて「うぅ〜んっ」と踏ん張りました。金太郎は乳母を呼ぶと、乳母はすぐに外に出て金太郎のところに行くと、金太郎の足元に出たばかりのでっかいウンコがありました。それを見た乳母はでっかいウンコは元気な証拠と金太郎を褒めていました。
金太郎は、谷川に水を汲みに行ってイモ畑へ戻りましたが、そのイモ畑は大イノシシの集団によって大きく荒らされていて、乳母は大イノシシによって顔に大きな傷を負わされた上に大事に育てたイモも大イノシシに食い荒らされました。怒った金太郎は大イノシシに立ち向かって行きました。そして、金太郎は大イノシシを隣の山の頂上の窪みへ投げ飛ばしました。
金太郎は、乳母を箱根の山奥にある傷や病によく効く露天風呂に連れて行きました。その露天風呂のお湯を乳母の顔にかけると乳母の顔にあった大きな傷はみるみるうちに消えました。そこへ、源頼光の一行がやってきました。源頼光は人々苦しめる鬼を退治するために都へ向かうところでした。金太郎のやさしさと怪力にほれ込んだ源頼光は力を貸してくれないかと言うと、金太郎は都へ出ることを決心しました。
こうして、乳母や動物たちとともに暮らした足柄山を後にした金太郎は、大人になって名前を坂田金時と改めて、頼光四天王の一人として大江山の酒天童子を退治したことが後々まで語り継がれていきました。
沢尻の鬼六郎 / 神奈川県
昔々、神奈川は松田の沢尻(さわじり)に六郎という男がいた。この六郎、体は人一倍大きかったが、怠け者だったので、人一倍働くという訳でもなかった。
ある時、六郎は年貢米を納めに小田原の城下に出かけることになった。六郎は米俵を馬の背に乗せ、馬を引きながら小田原へと向かう。途中で昼飯を食べたり、昼寝をしたりといった具合に、ゆったりゆったりと進んでいった。
さて、六郎が飯泉(いいずみ)の観音様のところまで来た時、ちょうどそこでは村人たちが、お堂の屋根を葺き替えていた。小さな藁束(わらたば)をお堂の屋根に放り投げている村人を見て、「そんなちっぽけな藁放り上げてたら、いつ終わるかわかんねえじゃ。」と六郎は言う。馬鹿にされたと思った村人は「そんなら、お前がやってみろ!!」と六郎に藁束を投げつける。そこで六郎は、年貢を納めた帰りに寄るから、大きな藁束を用意しとくように言った。
六郎はさらに進んで、飯泉の橋を渡っていた。すると、困ったことに前からお侍がやってきた。こんな小さな橋では、すれ違うことも馬を返すことも出来ない。「無礼者!!馬を戻せ!!口答えすると切り捨てるぞ!!」と息巻く侍をよそに、六郎は馬の下に潜り込むと、何と馬の四足をつかんで持ち上げてしまった。六郎はさらに馬の体を倒し、橋の欄干の外側に馬をどけて、侍が橋を通れるようにした。この様子を見た侍は肝を潰し、そそくさと六郎の後ろと通り過ぎていった。
さて、年貢米を納めた六郎は、飯泉の観音様まで戻ってきた。しかしそこでは村人が、人の背丈より大きい巨大な藁束を作って、六郎が戻るのを待ち構えていた。村人たちは、藁束の中に石をたくさん入れて、さらに水までかける念の入りようだ。この巨大な藁束をお堂の屋根に放り上げろと六郎に言うのだった。
六郎は、渾身の力で藁束を持ち上げると「オリャー!!」という掛け声とともに空に投げ上げた。すると藁束は、お堂の屋根をはるかに飛び越して、松田山の彼方へと飛んでいってしまった。あっけにとられる村人を尻目に、「あんな重てえ束をお堂に乗せたら、お堂がつぶれてしまうぞい。」と六郎は言い、笑いながら去っていく。
このことから六郎は、その後“沢尻の鬼六郎”と呼ばれるようになったそうだ。  
■中部地方 

 

地獄の鬼 / 中部地方
計量をごまかす強欲な父親の罪を、死んでも責められる娘の話
昔、一人の六部(巡礼の僧)が、山奥の古びたお堂の軒下で野宿することにしました。
すると、どこからか地獄の鬼どもが現れて、米屋の娘を鉄棒で殴り始めました。「升の目を盗んだことを思い知れ!」「秤の目を盗んだことを思い知れ!」と、娘を殴り倒すのです。
この様子を震えながら見ていた六部は、翌朝さっそく町へおり、最近娘が死んだ米屋を訪ねました。昨夜の様子を父親に話すのですが、「死んだ娘がナゼ鬼から責め苦を受けるのか?」と信じてもらえず、二人でもう一度、山のお堂へ行ってみることになりました。
夜が更けると、やはり鬼どもが出てきて、今度は娘を釜茹でにしていました。死んでもなお、鬼から攻め続けられる娘は、悲しい悲鳴をあげながら耐えていました。これを見た父親は、升や秤を小さく作って計量をごまかしていたことを告白し、心から反省しました。
翌日、町に戻った父親は、蔵の中から貯め込んだ米や味噌や反物などを町の人たちに無料で配りました。そしてお堂の前で一生懸命、娘のためにお祈りしました。この懺悔により、娘は無事に天国へのぼっていく事ができました。
山梨県
あずき峠 / 静岡県
昔、大賀茂(おおがも)の村に、親孝行な太助という男の子が母親と二人で暮らしていました。
ある日太助は、どんぐりのお告げで、食欲をなくした母親のために豆腐を買いに行くことにしました。「あずき峠」を通り抜け下田の町で豆腐を買った太助は、その帰り道に先ほどのどんぐりから「困ったときに使いなさい」と、不思議な徳利(とっくり)をもらいました。
太助は、日が暮れた頃に家に帰りつきましたが、母親が太助を心配してあずき峠まで探しに行った事を知りました。この頃のあずき峠は、夜になると人喰い鬼がでる危険な峠でした。太助が大急ぎで峠に駆けつけると、まさに人喰い鬼が母親に襲いかかろうとしていました。
そこで太助は、どんぐりからもらった徳利の栓を抜いてみると、大きな鬼の体がすっぽりと徳利の中に吸い込まれていきました。母親の無事を喜んだ太助は、鬼の入った徳利をあずき峠の土深く埋めました。それからというもの、大賀茂の人たちは安心してあずき峠を行き来できるようになったそうです。
あんばらやみの馬 / 静岡県
伊豆の民話(未来社,1957年11月25日)に、同タイトル名のお話があり「このお話かもしれない」ということであらすじを書いてみます。
昔、湯ヶ島の下の宿に平虎という馬方がいて、毎日、四里ばかり離れた吉田へ、荷駄をつけた馬を曳いて暮らしを立てていた。
ある夏の夕暮れ時、嵯峨沢の吊り橋まで帰ってきたときのこと。今まで元気だった馬が急に苦しがり、座り込んでしまった。平虎は「どうした。今日は久しぶりに湯に入れてやるから歩け」と声をかけて励ますと、やっとこさ、馬は苦しみながらも歩きだし、下の宿に荷を下ろすことができた。
平虎は馬をいたわりながら、西平の河原まで連れて行き、牛馬のための温泉で体を洗ってやった。馬は気持ちよさげに尻尾を振っていたが、ふと大きなクシャミを一つさせて、ぶるぶるっと身を震わせた。その時、何か小さいものが馬の鼻から飛び出し、たてがみにぶらーんとぶら下がった。
「ワハハハハ、危なく湯に落ちるところだったわい」
という声に、平虎が何かと見ると、それは黄色いしなびた顔をした小鬼だった。
「さきほどはすまなかった。お前さんの馬がちょうど通りかかったもんで、わけあって、お前さんの馬の腹に入らせてもらった」
「それじゃあ、さっき、わしの馬があんばらを病んだのはお前のせいか。わしのかわいい馬になんてことをしやがる」
「すまないすまない。生きものに優しい親父さんだな。私は牛や馬に憑いている鬼でね。牛や馬を粗末に扱う奴は嫌いじゃ」
「だったら出て行ってくれねぇか。あんばら病まれちゃあ困る」
「それなんだが、私はイタズラが過ぎて鬼神様に叱られてしまい、一年間は外に出られない身の上だ。お前さんの馬の腹を一年ばかり借りて寝て過ごそうと思うがどうだろう。その代わり、私が出て行った後は、お前さんの馬に今の十倍の力を授けてやろうじゃないか。そうすれば、お前さんの馬は疲れなくなり、たくさんの金を稼いでくれる。どうだね」
「牛や馬に子鬼がつくっちゅう話は聞いたことがあるが…」
「今までも親父さんの馬の耳垢を二度三度と取ってやったことはある。いたずらもするが、無事に出産させるのも仕事だし、死ぬ時に玉の緒を切るのも私たちの仕事だ。一年の間だけ、お前さんの馬の腹を借りて寝かしてくれるだけでいいんだ」
「今までにも世話になったことがあるんだなぁ。だったら、貸すとすべぇか」
「よしきた。一年きっかりだ」
小鬼はそういうと、湯につかって大あくびをした馬の口から、するりと腹の中に入っていった。
「そろそろ帰るか。とんだ災難だが、あんばら病んだりしたら勘弁してくれよ。約束だで」
平虎は馬の体を丁寧に拭いてやると、谷川のせせらぎを聞きながら、馬を曳いて帰っていった。
それからの平虎の仕事は大変なものだった。いつものように荷駄を積んで吉田まで往来しても、馬があんばらを病んでうずくまることがしばしば。時おり、小鬼が寝返りを打ったり暴れたりしているのだろうが、腹も以前よりも少し大きくなったようで、鼻息を荒げ提起するようなこともあった。それでも平虎は馬を大事にし、積み荷を減らしたり、荷を軽くしてやりした。そのため、実入りも少なくなり、暮らしも苦しくなっていった。
そんなある日、帰り道をとぼとぼと歩いていると、ふいに大岩の切通しの所で馬が苦しみだし、前足を着いて倒れた。平虎は、またあんばらやみかと、心配してかがみこむと、馬は突然に大きなクシャミを一つした。そのクシャミと一緒に飛び出してきたのは、一年前に見た小鬼だった。
「やぁ、親爺さん。今夜が約束の一年目だ。私は出ていくとするよ。長い間、お前さんにも馬にも迷惑をかけたからな。約束通り、前の十倍の力を授けてやった。荷駄を運ぶことにかけちゃあ天下一。今からはあんばらやみの馬じゃない。天下一の荷駄馬じゃ、そしてお前さんは天下一の馬方じゃ。ワハハハハハ」そういうと、小鬼は大岩の切通しを嬉しそうにピョンピョンと跳ねていった。
平虎はやれやれと溜息をつくと、「天下一の荷駄馬じゃとよ。天下一の馬方じゃとよ。あんばらやみで大変な思いしたが、それも今日限りだ。とっとと帰るべぇよ」
馬はその言葉に歩き始めたが、その足の速いこと速いこと。平虎は追いつかず「待ってくれぇ」と言いながら、後を追いかけ慌てて背中に飛び乗った。
それからというもの、平虎の馬は疲れを知らず、日に何十里もの道のりを行き来したが、どの馬よりも速いので、急ぎの荷駄は平虎の独り占めとなった。
「一体どうしたんだ。あんばらやみの馬だったのになぁ」
「平虎は馬で身上をこさえたなや」
人々は、街道を突っ走る平虎の馬を見て口々に噂した。平虎は馬のおかげで豊かな暮らしを愉しむことができたとさ。
鬼の嫁さん / 静岡県
節分の日に、よく炒った豆をまく理由
昔、ある所に百姓一家がいた。日照りが続き、困っていた父親が「雨を降らせてくれたら娘を嫁にやるがなぁ」とつぶやくと、それを鬼が聞いていた。
鬼は翌日に雨を降らせ、百姓一家の末娘のお福を嫁にもらって意気揚々と山へ帰っていった。お福は母親から手渡された菜の花の種を、道すがら一粒一粒落としていった。
鬼はなかなか親切だったが、お福は家に帰りたくて心細くて仕方がなかった。春になり、お福の落とした種から菜の花が咲き、実家までの道がわかるようになると、お福はまるで飛ぶように家に帰っていった。必死に追いかけた鬼がお福の実家にたどり着くと、母親から「この豆から芽が出た頃に迎えに来なさい」と、よく炒った豆を渡された。
鬼は豆から芽が出ることを楽しみにしていたが、一年たっても芽が出てこないので怒ってお福の実家に怒鳴り込んだ。すると父親から「鬼は外ー」と言いながら豆をぶつけられて、自分の豆からまだ芽が出ていなかった事を思い出した。鬼はトボトボと山へ戻っていった。
節分の時には、良く炒った豆を撒かないと、鬼が拾って芽を出すかもしれません。
極楽もどり / 静岡県
昔、ある村にたいそう漬け物を漬けるのが上手な婆さまが住んでいた。
この婆さま、爺さまと死に別れて一人暮らしだったが、人の助けを借りるのが嫌いで、婆さまの野良仕事を手伝おうものなら、婆さまは一人でやると言って聞かなかった。
そんな頑固者の婆さまであったが、おいしいと評判の漬物は村人に惜しげもなく分ける与える気立ての良さもあり、村人からたいそう親しまれていた。
そんなある夏の日、婆さまが畑で白瓜の収穫をしていると、どこからともなく不気味な出で立ちの男が現れた。男は鐘を叩きながら「極楽往生、極楽往生・・・」と呟くと、フッと煙のように姿を消してしまった。
すると、婆さまは突然その場に倒れ、そのまま息を引き取ってしまったのだ。婆さまは生前から村人に親しまれていたので、葬式にも多くの人が集まり、その死を惜しんだ。
ところが何としたことか、葬式の最中、棺桶から婆さまの声が聞こえたかと思うと、婆さまが棺桶から這い出してきたのだ。鬼が憑いたと思い、ほうきで婆さまを叩く村人だったが、間違いなく婆さまで、婆さまは生き返ったのだ。
そこで、どうして生き返ったのかと村人は婆さまに尋ねた。婆さまの話はこうだった。五色の雲に乗って極楽の入り口まで来たのだが、極楽へ通じる橋を渡っている途中で、何か忘れ物をしたような、腑に落ちない気分になった。こうなると頑固者の婆さまのこと、是が非でも思い出さないと気が済まない。橋の中ほどで立ち止まって考えていると、まだ白瓜を漬けていない事を思い出し、急いで下界に下りて来たのだと言う。
これを聞いた村の者たちは、呆れるやら感心するやらで言葉が出なかったそうだ。この婆さま、その後七年余りも生きたが、今度こそ本当に亡くなったしまった。その時に村人は、婆さまは今度こそ極楽に通じる橋を渡ってしまったのだろうと噂したそうな。
力ばあさま / 長野県
昔、長野は佐久の内山(うちやま)に、物凄く力持ちの婆さまが住んでいた。その怪力ぶりと言ったら、山で木を切れば、木の切り株を素手で掘り起こしてしまう程。
この婆さま、怪力の持ち主と言うだけではなく、気立てが良いので、村の皆からたいそう慕われていた。ある時など、米俵を積んだ馬が川に落ちて、村の者から助けを求められた。婆さまは川に入ると、米俵をポンポーンと軽く放り上げ、最後には馬を担いで川から上がって来てしまうのだった。
さて、そんなある年の年の瀬。お正月も近づき、村の家々では餅つきが始まった。婆さまの家でも、餅をつけない人に代わって、婆さまが餅をついていた。ところが怪力の婆さまのこと、婆さまが杵(きね)で餅をつく音は地の底の地獄まで響いた。
その音を聞いた鬼の総大将は、手下の鬼どもを集めて、地上から餅をくすねて来るよう命じる。この年は地獄に来る亡者が少なく、地獄では正月の餅が不足していたのだ。そして婆さまのいる村には、地獄でも一番の力持ち、万力(まんりき)という名の鬼がやって来た。
万力は村の家々を回っては餅を脅し取り、とうとう最後に婆さまの家に来た。鬼などに餅をやりたくない婆さま、何食わぬ顔で「もち米が不作で餅はついてない。」と言う。一方の万力も、どうにか餅を奪おうと「ワシの餅をやるから手を出せ。」と言う。
婆さまが窓から手を出すと、万力はすかさず婆さまの手を取り、「腕を抜かれたくなければ餅を出せ!」と脅す。「ワシと力比べをしたいと言うんか?」婆さまは思い切り万力の腕を引いた。こうして窓越しに、婆さまと万力の力比べが始まった。勝負はなかなかつかなかったが、最後は婆さまが万力の腕を抜けんばかりに引き、万力は泣きながら許しを乞う。
婆さまは、万力に二度と悪さをしないと誓わせ、手を放した。万力は奪った餅を村人に返し、ほうほうの体で逃げて行く。ところが、婆さまがあんまり強く腕を引いたものだから、途中で左腕が抜け落ちてしまった。平賀の村はずれの落手場(おってば)という所が、鬼の腕が落ちた場所だと伝えられている。
節分の福鬼 / 新潟県
昔、ある村に貧しい百姓のおじいさんとおばあさんが住んでおりました。この年まで一生懸命働いても、福の神にもめぐり会えず、働いても働いても貧乏でした。今日は節分だというのに、豆一粒買うお金もありません。そこで二人は着物を質に入れて、豆を買う金を工面しようとしました。しかし、街の質屋へ行くと二人の着物だけでは足りず、おばあさんの腰巻きまで質に入れるはめになります。
こうしてやっと豆を買うことができた二人は、家に帰ると早速豆を炒り、いつもの年のように豆まきを始めました。しかしおばあさんの腰巻きまで質に入れての豆まきです。二人はなんだか悲しくなってしまいます。そこでおじいさんは言います。
「この年まで一生懸命働いても福の神様は来られなかった。いっそのこと、「鬼は外、福は内」を反対に言ってみよう。」そこで二人は、「鬼は内、福は外」と言いながら豆を撒き始めました。
その瞬間、雷のような大きな音がして、気がつくと家の中に大きな赤鬼と青鬼がいました。鬼たちは、「節分の日に人間の家に招かれるのは有り難い。存分に楽しませてもらおう。」と言うと、おじいさんの案内で街の質屋まで飛んで行き、そこで自分のはいている虎のふんどしを質に入れ千両の大金を借ります。
ところが、そこには鬼退治で有名な鍾馗様(しょうきさま)の掛け軸があったので、鬼はこれを見て震え上がり千両箱を抱えて質屋を飛び出してしまいます。夜中なので店を閉めていた魚屋、米屋、酒屋を起こすと、そこでたくさんの酒や食べ物を買い、おじいさんの家に帰って飲めや歌えの大騒ぎをする鬼たち。この鬼たちのドンチャン騒ぎは、寝静まっていた近所の家々を起こしてしまい、とうとう我慢できなくなった隣家のおじいさんが苦情を言いに来ます。
隣家のおじいさんは戸をたたきながら言います。「うるさい、この酔っ払い!!」するとこれを聞いた鬼たちは「お主こそ、この夜中に大声を張り上げて酔っ払っておるんじゃろ?」隣のおじいさんがまた言います。「わしは酔ってなどおらぬ。わしは正気じゃ。」
これを聞いた鬼たちは、なぜか震え上がって怯えだしました。鬼たちは、隣のおじいさんの言った“正気”と鬼退治の“鍾馗様”を聞き間違えたのでした。鍾馗様に退治されてはかなわないと思った鬼たちは、天井を破り、家を飛び出し夜空を飛んで逃げて行きました。鬼たちは最後に、「じいさん、ばあさん達者で暮らせよ。千両箱の残りは世話になった礼じゃ。」と言って去って行きました。
これを見たおじいさんとおばあさんは、あの鬼たちは、福の神さまだったのかもしれないと思うのでした。その後、おじいさんとおばあさんは、鬼たちの言った通りいつまでも達者に長生きしたそうです。
鬼婆の仲人 / 新潟県
むかし、越後の国の与板(よいた)に、早くに両親を亡くした貧しい若者がおった。若者はぶっきらぼうで人付き合いが悪かったが、働き者で、年寄りにはたいそう優しく親切じゃった。
二十四節季のある一日、この辺りでは人喰いの『弥三郎婆』が出ると言われ、村人達は仕事を休むのが習わしじゃった。じゃが、若者はこの日も一人田んぼへ出かけ、稲を刈っておった。
やがて日が暮れる頃、薄気味の悪い風が吹き始めた。若者がふと顔を上げると、痩せさばらえ、ぼろぼろの着物を着て、恐ろしい弥三郎婆が立っておった。若者はしばらく、冷たい田んぼに裸足で立つ弥三郎婆を見つめていたが、一足しかない自分の草履を弥三郎婆に投げ渡した。
「一足しかないのに何でわしにくれるんじゃ?」と弥三郎婆が不思議そうに尋ねると、若者は「年寄は大事にして当り前じゃ。それにわしを食いたければ食え。死ねばおとうやおかあに会えるから、死ぬのは怖くないんじゃ。」と言うた。
弥三郎婆が草履を履くと、足元から若者の優しさが伝わってきて、体中がポカポカと温まった。弥三郎婆は大きく笑い「お前が気に入った、嫁を連れてきてやるから楽しみに待っておれ。」と言って、雷を呼び雲に乗って去っていった。
その夜、戸板をたたく音に、若者が戸を開けると、弥三郎婆が気を失った若い娘を抱えて立っておった。若者は驚いたが、弥三郎婆は先ほどの草履を返し、「もう死のうなどと考えるなよ!」と叫びながら、娘を残して去っていった。
こうして若者と娘は一緒に暮らし始めた。最初は泣いてばかりいた娘も、やがて若者の心根の優しさにだんだんと心を許し、二人は仲良く働くようになった。この娘、もともとは大阪の大商人の娘で、やがて二人は大阪屋という小さな酒屋を開いた。これが大繁盛して、しまいには与板の殿様一万石、大坂屋は二万石と盆踊り歌に歌われるほどの大商家になったという。
田植え鬼 / 新潟県
昔、佐渡の黒姫という所に、勘右衛門という長者がいました。
ある年の節分の夜に、「福は内、鬼は外」と大声を張り上げて家のあちこちで豆をまいておりました。すると、いきなり台所から「助けてぇ〜」と叫びながら、赤鬼が飛び出してきました。
最初は勘右衛門も驚き慌てましたが、赤鬼を奥の座敷に招いてご馳走をしてもてなしました。赤鬼は、すっかりご機嫌で帰っていきました。
やがて、田植えの季節になり、勘右衛門の家でも朝暗いうちから仕事に取りかかりました。ところが、急にはげしい雨が降り出し、仕方なく苗を田んぼに置いたままその日は家に帰りました。
すると翌日、勘右衛門の田んぼはすっかり田植えが終わっていました。こんな不思議な事が何年も何年も続くようになりました。
ある年の田植え時期、何世代も後の勘右衛門は「一体誰が田植えをしているのか」確かめようと、木の陰に隠れて様子をうかがっていました。すると、真っ暗な田んぼの中に、一人の早乙女が入っていきました。
そのうちに、早乙女はいい声で田植え歌を歌いながら、あっという間に苗を植えていきました。勘右衛門は、早乙女の良い歌声につられて、ついつい一緒に田んぼに入って踊り出してしまいました。
勘右衛門に見られていたことに気が付いた早乙女は、高く舞い上がり赤鬼の姿に変わり、風のようにお宮の裏山へ消えていきました。
それで、黒姫のお宮の裏山あたりを「鬼山」と呼ぶようになりました。この時から、勘右衛門の家では、節分の時に「福は内、鬼も内」と言うようになりました。
鬼の刀かじ / 新潟県
むかし、北の海辺の村に、一人の刀鍛冶の爺がいた。
爺には一人の娘がいた。色の白い気立てのいい娘だったので婿のなり手もずいぶんと有ったが、なかなか決まらなかった。
それというのも、爺が「娘の婿に迎える者は、一晩の内に刀千本を鍛えられる者でなくてはならん」と頑固に言い張っていたからだった。
初めのうちは何人かの若者が娘にほれるあまり鍛冶場にこもってみたが、夜が明けるまでに刀千本を鍛え上げることなど人の技で出来ることではなく、村の人は娘に同情していた。
そんなある日の夕方のこと。立派な見知らぬ若者が訪ねてきて、「私は遠い国の者だが、爺の娘を一目見て惚れてしまった。婿にして欲しい」と申し込んだ。
明日の朝、一番鳥が鳴くまでに刀千本鍛えるのが条件と話すと、若者は鍛冶場にこもっている間何があっても見ないでほしいと条件をだした。
こうして若者はその晩鍛冶場にこもって刀を打ち始めたが、若者が打つ槌の音が家をひっくり返すほど大きく、娘と婆は恐れたが、爺は逞しい音と顔をほころばせていた。
翌朝、爺が鍛冶場を覗くと刀千本を鍛え上げた若者が横になっていた。爺は一晩に刀千本を打ち上げる婿が見つかったと大喜びで若者を婿に迎えた。
爺は刀鍛冶を若者にまかせ、のんびりと暮らし始めた。若者の打つ刀のよく切れることはたちまち評判になったが、娘が日に日に痩せていく。爺が娘に話を聞くと、婿はどうも只者ではない。鍛冶場を見てみるという。
爺は止めたが、娘が鍛冶場を覗いて見ると、なんと鬼が刀を打っていた。爺がしかりつけると、鬼は刀を抱えて逃げ出した。
爺は追いかけて「一緒に暮らした仲だろう、一本くらい置いていけ」と声をかけると、鬼は一振り置いていった。ところが銘がないので再び爺が声をかけると、戻ってきた鬼は爪で「鬼神大王波平行安」と刻むと、海上へ逃げ去っていった。
子供の好きな神様 / 新潟県
昔、新潟県名立村の平谷に神社があった。
村の子供たちは毎日、神社の境内で楽しく遊んでおった。ある日のこと、村の子供たちはかくれんぼをしていて、鬼になった権太がかくれている子供たちを探そうと、いつもは閉じている神社の社の扉を開けた。
するとさらに扉があった。権太がそれを開けると、そこには古ぼけた汚れたご神体があった。 権太はご神体を持ち出し、他の子供たちにも見せた。そして汚れたご神体を洗おうと、みんなで近くの川にやって来た。
一生懸命洗ったので、ご神体はすっかりきれいになった。子供たちが喜んでいるところへ、勘助じいさんが通りかかった。勘助じいさんはこどもたちがご神体で遊んでいることに気が付き、ご神体を子供たちから取り上げ、「この罰当たりめ」ときつくしかった。そしてご神体を神社の元の位置に戻して、帰って行った。
翌日、あんなに元気な勘助じいさんは体が動かなくなり、布団から出られなくなってしまった。そこへ一匹の犬が入ってきた。犬は寝ている勘助じいさんの上に乗っかると、「罰当たりはお前だ。神様は子供が大好きで、子供と遊ぶのが楽しいのだ。それを取り上げたおまえに、神様はお怒りになっている」と言って去って行った。
しばらくすると、勘助じいさんは体が動くようになり、元の元気なじいさんに戻った。
それからは村人たちは子供たちが神社の境内で遊んでいるのを見ると、「神様が子供たちとあそんでいなさる。どうぞ子供たちをお守りください」と言って、決して子供たちが遊ぶのを邪魔しなかったそうである。
田代川の鬼 / 愛知県
昔、三河国の田代川を挟んで、三栗ノ谷(みぐりのたに)と川下ノ谷(かわしものたに)に、鬼の一家が住んでいた。
三栗の鬼と川下の鬼の一家は大変仲が悪く、いつも大きな岩を投げ合う喧嘩ばかりしていた。ところがある日、三栗の鬼の一人娘が川下の鬼の一人息子を好きになり、そのうち娘の腹が大きくなった。両家の鬼は、仕方なく結婚を認めてやり、やがて子供が生まれた。
しばらくして、大変な干ばつが起こり、田畑の作物は枯れ食べるものがなくなり、孫が病気になった。かわいい孫をどうにか助けてやろうと、三栗の鬼は祈祷師に拝んでもらった。祈祷師が「信州の伊那八幡の弁天様の水を飲ませれば孫は助かる」と言うので、さっそく三栗の鬼は伊那八幡まで走った。走り疲れた鬼の前に、弁天様が現れ「岩を掘って湧水を飲ませれば、孫は助かる。ただし道具を使ってはならない」と告げた。
急いで帰った三栗の鬼は、真言(マントラ)を唱えながら、素手で岩を掘り始めた。「おんぼろだやそわか、おんぼろだやそわか、おんぼろだやそわか、おんぼろだやそわか」爪は剥がれ肉はちぎれ白い骨が見えても、ガリガリと音を立てながら夜も昼も掘り続けた。
ようやく岩にくぼみができ、とうとう岩の穴から水が湧いてきた。三栗の鬼が、岩の井戸水をお椀に汲んで孫に飲ませると、すっかり元気を取り戻した。それからの両家の鬼たちは、仲も良くなり、湧水により畑も潤い、息子たちはめでたく結婚式を挙げた。
立花六角堂 / 岐阜県
昔、岐阜の立花に地蔵坂峠という峠があった。
ある日、飛騨からやって来た一人の大工がこの峠を通りかかった。すると突然霧が出てきて、その中に六角のお堂がぼんやりと現れた。よく見ると、お堂の前に一人の坊さんが、何か言いたげで寂しそうな顔をして立ちすくんでいた。
不思議に思いながら峠を下り、寺があったので住職に今の出来事を話した。その話を聞いた住職は「うんと昔、『たいちょう』という坊さんがあの峠の頂きにお堂を建てて、旅人の安全を願ったり茶の接待ををしていたそうだ。たいちょうさんが亡くなられてからは、とうとう朽ち果ててしまった」と話した。
それを聞いた大工は峠に戻り、峠の木で幻の中に見た六角堂を作り始めた。大工は鬼気迫るような勢いで六角堂を作りはじめ、次の日の昼、六角堂は出来上がった。住職は、これが話に聞く名大工「飛騨の匠」ではないかと思った。
それからしばらくした日のこと、一人の男が六角堂を眺めていた。男は「よほどすごい腕前の人が作ったのだろう」と感心していた。そこで住職は、旅の大工が丸一昼夜でこのお堂を建てたことを話して聞かせた。男と和尚が六角堂の中も見ていると、さっと風が吹いて六角堂の入り口の扉が閉まり、中に閉じ込められてしまった。
住職は扉を開けようとしたがまったく開かない。旅の男は「これは中からは開かない」と言って、ノミを取り出すと木片を削り始め、まるで生きているようなカラスを彫った。その木彫りのカラスは、男の手から飛び立つと、六角堂の外に飛び出し、大きな声で鳴き始めた。
そのカラスの声に呼び寄せられるように、たくさんのカラスが集まってきた。あまりのカラスの数に驚いた村人達はただごとではないと思い、地蔵坂峠の上に集まってきた。村人たちによって、住職と男は外に出ることができた。
住職は「この間の大工は飛騨の匠、あの男は話に聞く『左甚五郎』ではないか」と思った。こうして霧の中に現れたたいちょうさんの願いが叶い、人々に忘れられていた六角堂が再び地蔵坂峠に出来上がった。そしてこの六角堂は、旅人の安全を願って今も長良川の上流、立花の地蔵坂峠の頂上に建っているということだ。
新平さと牛鬼 / 岐阜県
相撲好きな牛鬼と力持ちの男の友情話
はるか昔のこと、岐阜の吉田川を遡った奥の宮の大池に、仲間からはぐれた一匹の雌の牛鬼がいた。この牛鬼、長いこと一人ぼっちで、話し相手や大好きな相撲を取ってくれる相手もいないので寂しい思いをしていた。
そんなある日、牛鬼は大池から川を下って人間と相撲を取ってみようと思いたった。牛鬼は、竜のいる竜宮淵をそっと通り過ぎ、さらに吉田川を下り、ひまたの淵までやってきた。牛鬼は、ここなら人間と相撲が取れるだろうと思い、人が通りかかるのを待った。しかし、角を生やした大きな牛鬼を見た村人は、腰を抜かしてしまい、とても相撲など取れるものではない。ここに来ても、やはり牛鬼は寂しい生活から抜け出せなかった。
ところが、ある日牛鬼は、村人が鶴佐(つるさ)に住む新平という大男の噂をしているのを耳にしたのだ。そこで牛鬼は、吉田川を鶴佐まで下り、新平の家の戸を叩いてみた。牛鬼を見た新平は、これがひまたで村人を驚かせている牛鬼かと思い、ひとつ相撲でやっつけてやろうと思った。長い間相撲を取ってくれる相手がいなかった牛鬼は嬉しくなり、何度新平に投げ飛ばされても、その度に鉄砲玉のように新平に向かっていった。
それからと言うもの、牛鬼は毎晩新平のところに来ては相撲を取るようになった。ところが、牛鬼が何度ぶつかっていっても、新平にかわされ、投げられて、どうしても四つに組むところまでいかない。一度でいいから新平と四つに組みたいと思った牛鬼は、新平を怒らせてみようと考えた。ある大雨の日、牛鬼は岩瀬山(いわせやま)から大岩を川に投げ落とし、吉田川をせき止めたのだ。このせいで、新平の田んぼは水浸しになってしまった。
さあ、今日こそ新平は顔を真っ赤にして当たってきてくれるはずだ。牛鬼は喜び勇んで新平の家に行った。ところが、新平は牛鬼をみるや、「ばかもの!!とっとと失せろ!!」と一喝して、戸をピシャリと閉めてしまった。牛鬼は一晩中泣き明かし、とうとう明け方に吉田川を下った五町(ごちょう)の大矢ケ淵に入ると、それっきり二度と姿を現さなくなった。
しかしそれ以後、一日に8升もの飯をペロリとたいらげていた新平もすっかり元気をなくし、とうとう寝込んでしまった。それからしばらくして、新平は静かに息を引き取った。人々は、あの世へ行った新平と牛鬼が、きっと仲良く相撲を取っていることだろうと噂しあった。
今でも、牛鬼が岩瀬山から投げた大岩は、茶釜岩といって1つだけ残っているそうだ。
消えた頭巾 / 岐阜県
失くした頭巾で乱暴者が改心する話
昔、飛騨の清見村三日町という所に源次という男が住んでいた。源次は人の物は自分の物という横暴な男で、そんな源次を村人達が怖がるのを見て、源次は益々捻くれ悪さのし放題となった。
ある日源次は、与平次が孫蔵と越中立山の地獄回りで留守なのをいい事に、与平次の家から薪をありったけ盗んだ。盗んだ薪を背負い山を下りかけた時、突然風も無いのに源次の頭巾が舞い上がり、頭巾は立山の方へ消えてしまった。
これを気味悪く思った源次は気を取り直し家に帰るが、家では何度も鬼の幻を見たりと、頭巾を失くしてから源次の身に妙な事が起こった。そして三日後、立山か ら帰ってきた与平次と孫蔵が珍しく源次の家を訪ねてきた。邪険にあしらう源次に対し、二人は立山で見た不思議な出来事を話した。
自分達が 地獄回りで焦熱地獄まで来た時の事、後ろから頭巾だけが浮いてやってくるが、よく見るとそれはなんと源次だった。しかし源次の様子がおかしく、声をかけて も見向きもしない。そのまま源次は焦熱地獄の方へ歩いて行くので自分達が止めようとするも、源次は焦熱地獄へ真っ逆さまに落ちていったという。
その時拾った頭巾を二人が見せると、源次は驚いた。それはまさに源次が薪を盗み帰ろうとした時に失くした頭巾であり、頭巾は立山にいた二人の所まで飛んでいったのである。そして自分だけが地獄に落ちた事に、源次はいたく反省した。
源次は今まで神も仏も信じず悪事の限りを尽くしたのだが、それを二十数里も離れた立山様は全て見られており、自分の浅ましさを悔いた源次は、二度と盗みや乱暴を働くまいと心に決めた。
それからの源次はまるで生まれ変わったような善人になり、こうした源次の姿を村人達は初めは怪訝そうに見ていたが、やがて本当に源次が変わった事を知ると、村人達も源次を受け入れるようになったという。
石川県
鬼をおがんだおばあさん / 富山県
ある村のお婆さんは、仏様を拝まず鬼を拝んでいたから閻魔様にけしからん!と怒られて、地獄に落とされてしまう。
おばあさんは閻魔大王のところへ向かう途中で、鬼達と出会い、ばあさんは大喜び。鬼たちも「ああっ!いつも俺を拝んでくれたばあ様だ!」と大喜び。早速、閻魔大王の下へ行きますが、おばあさんは生前に神仏を拝んでいなかったので、地獄行きになります。
まず最初に釜茹での刑になります。しかし「ばあ様安心せえ。ばあ様はこっちじゃ」と、鬼たちが指を差す方には小さな釜があり、程好いお湯が沸いていました。おばあさんは大喜びでお風呂に入り、歌を歌います。
歌を聴いた閻魔大王は、驚いて今度は針の山に刑を変えます。針の山に着くと、鬼たちが用意した鉄下駄をはいて、針の山の頂上まで行きます。 頂上からの景色は遠くに光り輝く極楽が見える絶景でした。感激したおばあさんは、山を降りて閻魔大王に「針の山に住みたい」とお願いをします。
閻魔大王は「なんというばあ様じゃ。これでは地獄にいても意味は無い」そういっておばあさんを極楽に送ることにしました。 極楽に向かう階段の入り口では鬼たちが悲しそうに見送ります。
「鬼さまたちと離れるのは寂しいが、極楽で暮らすのもよかんべ」こう言っておばあさんは極楽の階段を上っていきました。
福井県
■近畿地方 

 

牛鬼淵 / 三重県
鬼刃を怖がる顔が牛で体が鬼という化け物の話
昔、伊勢の山奥に牛鬼淵と呼ばれる深い淵があり、そこには顔が牛で体が鬼という恐ろしい化け物が住んでいると言われていました。この山奥に、二人の木こりが山がけして木を切り出していました。
ある夜の事、いつものように囲炉裏端で年寄りの木こりがノコギリの手入れをしていると、妙な男が戸口のむしろをめくり顔を出しました。「何しとるんじゃ?」と尋ねる男に、年寄りの木こりが「ノコギリの手入れをしている」と答えました。木を切るためのノコギリと知ると、妙な男は小屋の中へ入ってくる素振りを見せました。
そこで年寄りの木こりが「じゃがの、最後の32枚目の刃は鬼刃(おにば)といって鬼が出てきたら挽き殺すんじゃよ」と言うと、妙な男はどこかへ行ってしまいました。翌晩も、同じ男がやってきて同じ質問をして帰っていきました。
翌朝、木こり達が大木を切っていると、固い節の部分に鬼歯が当たりボッキリと折れてしまいました。折れた刃を修理するため、仕方なくふもとの村まで下りる事にしましたが、若い木こりは面倒くさがって一人で小屋で待つ事にしました。
その夜、また妙な男がやってきて同じ質問をしましたが、若い木こりは酒も入ってたせいか「鬼刃の修理に行っているんじゃ」と答えてしまいました。すると妙な男は「今夜は鬼刃は無いんじゃな」そう言いながら、小屋の中へヌーッと入ってきました。
次の日、ノコギリの修理を終えた年寄りの木こりが山に戻り、牛鬼淵のそばを通りかかると、若い木こりの着物がプカプカと浮いていました。牛鬼は確かにいるのです、月の明るい晩には「ウォーン、ウォーン」と悲しげに鳴くそうです。
爺婆かぼちゃ / 三重県
昔、三重県の桑名あたりの山の中に、早くに両親を亡くしたハナという女の子が住んでいた。
ある嵐のあとの朝のこと、一人の薬売りがハナの家を訪ねて来た。薬売りが家の中を見てみると、家の中は雨漏りだらけ。まだ小さいハナには屋根を直すこともできないのだ。「オラのお爺やったら上手に直してくれんやけどなー。」薬売りは屋根をながめて言う。
ハナはこの薬売りのおじさんにお茶を出したが、お茶うけのなすび(ナス)が何とも小さい。ハナが畑で作るなすびは、これより大きくならないのだった。これを見た薬売りは、自分のお婆が作るなすびはもっと大きくなったと言う。
ハナはこの話を聞いて、自分にもお爺やお婆がいれば、いろんなことを教えてもらえるので、どんなにかいいだろうと思うのだった。
そんなある日、ハナが夕飯を食べていると、裏の崖から何やら大きな物がドシーン!!と落ちてきた。ハナが戸を開けてみると、何とそこには大きな赤鬼がひざを擦りむいて泣いていた。ハナは赤鬼に傷の手当をしてあげ、またお腹を空かした赤鬼に畑で取れた瓜(うり)を食べさせてあげた。
ところがこの瓜もまた小さい。「どうして瓜がこんなに小さいんじゃ?」赤鬼が言う。そこでハナは、薬売りが言ったことを話して聞かせ、自分にもお爺やお婆がいたらと言う。
すると赤鬼は、お礼に南瓜(かぼちゃ)の種と小槌(こづち)を渡し、この種を畑に蒔き、実をつけた南瓜の中で一番大きなものを小槌でたたくようハナに言うと、山の中に帰っていってしまった。
ハナは赤鬼に言われた通り、その日の夜に南瓜の種を畑に蒔いた。すると驚いたことに、翌朝には南瓜は芽を出し、実をつけていたのだ。さらに、その中の一つの南瓜がみるみる大きくなり、とうとう家よりも大きくなってしまった。
ハナがこれを小槌でたたくと、大きな南瓜が割れ、なんと中からはお爺とお婆が出てきた。ハナは南瓜の中から出てきたこのお爺とお婆に、色々なことを教えてもらい、三人末永く幸せに暮らしたそうな。
奈良県
惚れぐすり / 和歌山県
昔、和歌山のある山里に、茂平と熊蔵という若者がいました。性格が正反対な二人はとても仲良しで、気弱でのんびり屋の茂平は熊蔵の事を「兄貴、兄貴」と言って慕っていました。
ある日、茂平は米問屋の娘を好きになってしまいました。うじうじしている茂平を見かねて、親分肌の熊蔵がイモリの黒焼きで作った惚れ薬を用意し「これを娘にふりかけるように」と、茂平に持たせました。
茂平は米問屋の前で娘が出てくるのを待ち伏せました。娘がようやく出てきたところで、茂平は惚れ薬の粉をふりかけました。ところが惚れ薬は、隣にいた鬼みたいな顔のお婆さんにかかってしまい、一度目は失敗に終わりました。
茂平は、熊蔵に促されて再び米問屋へ出かけました。やがて、娘が一人で出てきたところで惚れ薬をふりかけました。すると、たまたま目の前を横切った貧乏神に薬が降りかかってしまい、茂平は今度は貧乏に取り付かれてしまいました。
貧乏神に付かれた茂平は、もう娘どころではなくなってしまい、それはもう必死に働かないと生活できなくなりました。おかげで、茂平は立派な青年になって、大金持ちにもなって、米問屋の娘よりもっと美しい嫁を貰って幸せに暮らすことが出来ました。
クジラとモグラ / 和歌山県
昔、紀州の人里離れた海辺の寺に、ひとりの坊さまが修行をしていました。
ある日のこと、坊さまが観音様の前で念仏を唱えていると、観音様の声が聞こえてきました。「熊野へ行き、那智の滝で荒行をすることで悟りを開きなさい。しかし那智の滝に向かう人間を食う鬼がいるので気をつけなさい」
翌朝、坊さまは船に乗り込み海へ出ました。その途中、シャチの群れに追われているクジラを助けてあげました。熊野に近い海岸に到着した坊さまが、熊野に向けて歩いていると、子供たちにいじめられているモグラを見つけ、助けてあげました。
坊さまは、熊野に向けてどんどん山奥へ入って行くと、かすかに滝の音が聞こえてきました。もうすぐ那智の滝に着くと思った時、坊さまの目の前に恐ろしい鬼が姿を現しました。坊さまは必死に鬼と戦い、ありったけの念仏で鬼を溶かし、退治しました。
鬼との戦いに勝った坊さまの目の前には、那智の滝がありました。しかし那智の滝は、滝壺が深く広く落ちこみ、とても滝の落ち口まで行けそうにありませんでした。坊さまが困っているところに、助けたモグラが仲間を連れてやって来て「お礼にわたしがお坊さまを助けましょう」と言いました。
モグラたちは、穴を掘って滝の水を海まで流す方法を考えましたが、大量の水に対する良い方法が浮かびませんでした。海を見ながら困っているモグラの所へ、坊さんが助けたクジラが現れ「今度は私が坊さまを助ける番です」と言いました。
モグラたちが、滝壺から海の出口ぎりぎりまで穴を掘りました。そして、その穴の近くをクジラが思いっきり頭突きをし、滝壺から海までの排水道を作りました。滝壺の排水がうまくいったおかげで、滝壺の水はたちまち減り、荒行ができるくらいになりました。
坊さまはクジラとモグラに感謝し、来る日も来る日も荒行を続けました。やがて無事に荒行を終わらせ、偉い坊さまになりました。
酒買地蔵 / 滋賀県
昔、とある小さな村に小さな酒屋があった。この村は、この年は台風のせいで不作であり、酒飲みの村人たちはみんな愚痴をこぼしながら酒を飲んでいた。その酒飲みたちの中に、いつも笑いながら飲んでいる不気味な男がいた。
ある時、夜も深まった頃に酒屋に真っ赤な緋(ひ)の衣を着たお坊さんが酒を買いにやってきた。よく笑うお坊さんは「酒は、知恵がわく般若湯(はんにゃとう)よ」と言う。女主人はお坊さんが持ってきたお寺の台帳を信じて、酒を売ってやった。
酒屋には相変わらず日が暮れると、酒飲みの村人たちが集まってくる。夜も深まった頃、また緋の衣を着たお坊さんがやってきた。そこで、女主人は「酒が知恵の湧く般若湯だと言うのなら、困ってる村人を救ってやってくれないか」と頼んでみました。お坊さんは笑いながら承知すると、酒を飲み般若心経を唱え出した。
するとどうしたことか、不気味に笑っていた男が苦しみだして、ついに異形の姿を現して酒屋から逃げ出していった。お坊さんは「あれは酒鬼(さかおに)と言って、あれがとり憑くとみんな酒に溺れるようになる。もう去っていったので大丈夫だ」と言うと酒を買って帰っていった。
その年の大晦日。酒屋の女主人が酒代を貰いにお寺を尋ねると、住職は「わしは酒は飲まないのだが、確かにこれはお寺の台帳だ」と言う。住職はまさか…とお寺の上にある地蔵堂へ向かうと、そこには緋の衣をきたお地蔵さんが立っていた。住職は、「お酒を供えるので、もうふらふら出歩かないで座っていてください」と言うと、お地蔵さんは座って胡座をかいた。
それから、このお地蔵さんに「お神酒」ならぬ「般若湯」としてお酒を供えるようになり、酒鬼が居なくなった村は、うまくいくようになりみんな幸せに暮らしました。
羅生門の鬼 / 京都府
今から千年以上昔、京の都に伝わる恐ろしい鬼の話。
酒天童子の話を知っておろう。
大江山という山に立てこもり、表に出ては散々悪いことを重ねた鬼だ。
この酒天童子を征伐したのがあの有名な頼光の家来、四天王の面々だった。
渡辺綱(わたなべのつな)、卜部季武(うらべのすえたけ)、碓井貞光(うすいのさだみつ)、坂田金時(さかたのきんとき)、いずれ劣らぬ豪胆無比の面々だったが、この四人が山伏(やまぶし)姿に身を変えて大江山に立てこもる酒天童子を見事征伐したのは有名な話だった。
ある日のこと、この四人が一堂に集まって酒を飲んでいた。
蒸し暑い夏の夜のことだった。
話はいつしか最近頻繁に現れるという羅生門の鬼についてのことだった。
その頃京の都では、羅生門という所に又々恐ろしい鬼が現れ悪行の限りを尽くしているというもっぱらの噂だった。
「皆さんどう思われる。」大将格の貞光が口をきった。
「うーん、それは有り得ることじゃ。」季武と金時はそう言って頷(うなず)いたが、一人最も年の若い渡辺綱だけは異論をなして反対したそうだ。
「そんなことがあってたまるものか、だって鬼は大江山で退治したじゃありませんか」
「じゃが取り逃したということもあるかもしれん。」と貞光。
話は散々に分かれたが、それならいっそ今から羅生門に行って確かめたらどうだ、ということになった。
そうしてその代表に渡辺綱が選ばれた。
立ち上がった綱に仲間たちがこう言ったそうだ。
「いいか綱よ、本当に羅生門へ行ったかどうか証拠になる高札(こうさつ)を立ててこい。」
外はいつの間にか生温かい雨が降っていた。
綱はポッコリポッコリ馬に乗って出掛けた。
別に怖くも何ともない。
そのうち羅生門が見えてきた。
綱は羅生門に近づくと、しばらく楼(ろう)を見上げていた。
羅生門はさすがに黒々とそびえ立って気味悪く、柱の合間合間に見える景色も恐ろしげだったがそれでも確かに誰もいなかった。
「ふん、誰もおらんじゃないか、皆噂を聞いてビクビクしているだけじゃないか。」
綱は鼻先でそう笑うと、約束の高札に高い音立てて羅生門の門前に打ち立てた。
渡辺綱、約束の儀によりて羅生門門前にて参上す。
さて、こうして綱が再び戻ろうとした時のことだった。
綱はふと、誰やら人の気配を感じて後ろを振り向いた。
すると柱の暗い影から一人の若い娘が立っておった。
「はて、こんな夜更けに若い女がどこへ行くのじゃ。」
綱は不思議に思って聞いてみた。
「はい、わたくしはこれから五条の父の所へ戻らねばなりませぬ。」
「でも、雨は降るわ、道は抜かるわで困っているのでございます。」
「ほほう、五条なら私の帰る方角と同じじゃ。」
「ささ、それなら一緒にに乗って行かれるがよかろう。」
そう言って綱が若い娘に手を差し伸べた時のことだった。
突然若い娘は鬼の姿に変化(へんげ)したのかと思えば、綱の後ろに回ってものすごい力で綱の首を絞めつけた。
そしてあっという間に空中高く舞い上がった。
「ええいおのれ、貴様が羅生門の鬼であったか。」
「ええい!!」
「ぎゃあああああああ。」
綱は一瞬の隙を突いて鬼の腕を切り取った。
「綱よ覚えておれ、その腕七日の間に必ず取り戻しに行くからな。」
鬼はそう叫ぶと空高く舞い上がっていった。
ところで、鬼の腕はというたらそれはもう凄い腕だった。
鋼の様なゴツゴツした太い腕に針の様な毛が一面に生えていた。
「ほほう、これは凄い、綱、お主よくぞやったぞ。」仲間たちはそう言って褒めてくれた。
だが綱はこの腕を七日の間鬼から守らねばならなかった。
綱は七日の間警護を厳重にし、表に物忌みの札を貼って家に閉じ籠った。
鬼の腕は頑丈な木の箱に入れてこれを仕舞い、綱自身が四六時中これを見守った。
そうして、七日間というもの無事何事もなく過ぎようとしていた。
七日目の夜のことだった。
その夜は美しい月も昇り爽やかな夜だったが、一人の老婆が綱の門前を訪ねた。
家来たちはお婆さんに聞くと、お婆さんは綱の叔母に当たる人で遥々浪速(なにわ)から綱を訪ねに来たのだと言う。
家来たちは一旦は断ったが、「今夜会わねばいつ会えるともしれぬ身、どうかお願いですじゃ。」
こうしてとうとう老婆は綱の屋敷の中へ入ってしまった。
「綱や、覚えておいでかい、叔母さんじゃよ、お前を子供の頃母親代わりに育て上げた浪速の叔母さんじゃよ。」
「叔母さん?」と綱。
「そうじゃとも、ところでどうしたのじゃ、物忌みの札など貼って何か悪いことでもあったのかい。」
「いえ、別に。」
綱は叔母さんのことは中々思い出せませんでしたが問われるままにそれでも例の羅生門の鬼のことをお婆さんに話して聞かせました。
お婆さんは大層喜んで「そうかいそうかい、たとえ育ての子とはいえそのような手柄を立ててくれたとはのう。」
「ところでのう綱や、その鬼の腕とやらひと目だけ叔母さんにも見せてはくれんかのう。」
さすがに綱もそのことだけは断った。
明日ならまだしも今夜はまだ。
「わたしは今夜中にはどうしても浪速に帰らねばならんのじゃよ。」
こう言われてさすがの綱もとうとう心が緩んでしまった。
それならばちょっとだけと。
「叔母さん、これがその鬼の腕です。」
「ほうほう、ほうほう、何とも凄い腕じゃのう、どれどれちょっとこの手に触らせておくれ。」
こうして老婆に鬼の腕を差し出した時のことじゃった。
何とも恐ろしいことに優しい老婆の顔はみるみるうちに変化してあの恐ろしい羅生門の鬼の顔へと変わった。
「はっ、おのれ、貴様。」
「ははははははははは。」
「綱よ、よいか、七日目の夜しかとこの腕貰ったぞ、ぎゃはははははははは。」
「おのれ、はかりおったな。」
「ぎゃはははははははは。」
綱が刀を抜くのも間に合わず、鬼は空中高く舞い上がった。
「ぎゃはははははははは。」
そうして鬼はしっかと自分の腕を握ったまま、凄まじい音と稲光を残して雲の上高く消えていった。
約束通り自分の腕を取り戻したのだった。
あの鬼こわい / 京都府
京都の街並みに見る、鬼瓦と鍾馗さんが向かい合っている理由
昔、京の三条にある薬屋が、家を建て直すにあたって随分大きい鬼瓦を据えました。この鬼瓦の顔は、大江山の鬼も顔負けする程の恐ろしさでした。
この薬屋の向かいには、美人で気の優しい嫁さんがいましたが、鬼瓦の悪夢を見るようになりました。毎晩続く悪夢が原因で、嫁さんはとうとう病気になってしまいました。そこで、旦那が鬼瓦を降ろしてもらうようにお願いしましたが、薬屋の主人は取り合いません。
この話を聞いたお医者さんが、鬼を退治してくれる鍾馗(しょうき)さんを大きな瓦で作らせて、鬼瓦の向かいに据えました。しかし、どうしたわけか嫁さんの悪夢は続き、一向に具合は良くなりませんでした。そこでお医者さんが嫁さんの悪夢の中に入ってみると、そこには酒盛りに夢中になって鬼退治をさぼっている鍾馗さんがいました。
お医者さんからせかされた鍾馗さんが睨みをきかせるようになると、鬼も暴れなくなって、ようやく嫁さんの具合は良くなりました。こんな事があってから、京都では鬼瓦のある向かいの家では鍾馗さんを置くようになったそうです。
一寸法師 / 京都府
小指くらいの小さな男の子が都に出て、鬼を退治する愉快なお話
ある村に一人の男の子が産まれたが、その子は大人の小指ほどの大きさしかなかった。それでも両親は一寸法師と名付けて可愛がったが、何年経っても少しも大きくならなかった。
ある日、一寸法師は京に行って侍になると言い出した。両親は止めるが、決心が固いので、仕方なく針の刀とお椀の舟を用意して一寸法師を送り出した。何十日かしてようやく京の都に着いた一寸法師は、三条の大臣の屋敷に行き仕官を願った。大臣は小さな体なのに元気な一寸法師を見て気に入り、一人娘の春姫の家来として仕えるようにと言った。
それから何年か経ったある日、都を騒がしている赤鬼があらわれ、清水寺へお参りに行った帰り道の春姫をさらおうとした。他の家来たちは腰を抜かしたり逃げ出したりする中、一寸法師だけは鬼の前に立ちふさがって春姫を守ろうとした。しかしあっけなく鬼につままれて、食べられてしまった。
ところが一寸法師がお腹の中で針の刀でつつきまわるので、さすがの鬼も二度と乱暴しないから許してくれと嘆願し、泣きながら逃げていった。春姫は鬼の忘れた打ち出の小槌で、一寸法師の体を大きくした。
鬼退治の手柄を認められて名を堀川少将と改めた一寸法師は春姫と結婚し、故郷の両親も都に呼んでいつまでも幸せに暮らした。
初夢長者 / 大阪府
長者が使用人を集めて、それぞれの初夢を語るように命じた。
みんなが長者に初夢を話すのに、小僧だけがどんなにお金を出すと言われても話そうとはしなかった。怒った長者は小僧をくにに帰してしまった。父親も小僧がどんな夢を見たのか聞こうとしたが、がんとして答えないので、小僧をうつぼ船に乗せて蓋をして海へ流してしまった。
船は何十日も揺られて鬼ヶ島に流れ着いた。鬼たちは小僧を太らせてから食べようと牢屋へ入れて食べ物を与えた。まるまる太っていよいよ食べられるという時、小僧は死ぬ前に鬼の宝物を見せて欲しいといい、鬼から「千里棒」「聞き耳棒」「生き棒」の三つの宝を受け取る。
小僧はすぐに千里棒を使って鬼ヶ島から脱出すると、聞き耳棒を使って西の長者の娘が病気になっていることを知り、生き棒を使ってこれを治療し、娘の婿となった。また、川を隔てた東の長者の娘も病気になっており、これもまた治療した。
東の長者は小僧をずっと引き留めて帰そうとしなかったので、西の長者と大喧嘩になり、ついにお城のお殿様の裁きで決着をつけることにした。お殿様は月の前十五日は東の婿となり、後十五日は西の婿となるようにと命じた。
こうして小僧は何もかもうまくいった。これも初夢で金の大黒様を前と後ろに抱いている夢をみたおかげだった。初夢は人に話さないと叶うといわれている。
一寸法師 / 大阪府
むかしむかし、ある所に子供のいないおじいさんとおばあさんが住んでおりました。ある日のこと、二人は一寸(約3.03cm)の小さな赤ん坊を拾い、「一寸法師」と名付けて育てることにしました。一寸法師は賢く親孝行な子でしたが、いつまでたっても大きくなりませんでした。
一寸法師は十五歳頃になった時、広い世の中を見るために都へ出たいと言い出しました。おじいさんもおばあさんも心配でしたが、一寸法師の決心は固く、縫い針の刀と麦藁の鞘を持ち、お椀の舟に箸の櫂で川を下って、都へ旅立ちました。
一寸法師は一所懸命櫂をこぎ続け、ようやく都へ辿り着きました。そうして、都で一番立派な屋敷に行き、屋敷の主人に雇ってくれと頼んだのでした。屋敷の主人は小さい体に大きな志を持った一寸法師に感心して、姫様の家来として雇うことにしたそうです。
何年かたったある日、一寸法師は姫様のお伴をして観音様にお参りに行きました。その帰り道のこと、薄暗く人気のない道で突然二匹の鬼が現れ、姫様を攫って行こうとしたのです。一寸法師は刀を抜いて立ち向かいましたが、鬼は小さな一寸法師を馬鹿にして、一口で飲みこんでしまいました。
すると一寸法師は鬼のお腹の中で暴れまわり、たちまち鬼を降参させてしまいました。そして、一寸法師は鬼のお腹から飛び出すと、もう一匹の鬼の目を刀で突き刺して、これもたちまち降参させてしまいました。鬼どもはすっかり恐れ入って、なんでも願いの叶う「打ち出の小槌」という宝物を置いて逃げて行きました。
その後、一寸法師は打ち出の小槌を使って大きく立派な体になり、望まれて姫様の婿になりました。そうして故郷のおじいさんとおばあさんを都に迎えて、一生幸せに暮らしたということです。
くわばらの起り / 兵庫県
昔、兵庫県三田(さんだ)の桑原のあたりに、水が豊かで米もたくさん収穫できる村があった。
この空の上には雷様たちがいて、年に一度、にぎやかな嫁取り競争を行うのだった。嫁を取る資格を得るためには、大太鼓を大きく鳴らす事ができ、肉付きの良い人間のヘソを取ってくる事、そのヘソの数が多い事、この三つの条件をクリアしないといけなかった。
若い鬼たちは嫁取り競争に勝ち残るため、みな精いっぱい大太鼓を打ち鳴らしたが、その中でも赤鬼のピカ吉が一番上手に大太鼓を叩いてみせた。ピカ吉は、今年の嫁取り競争に勝てる手ごたえを感じながら、次の条件である「大きなヘソ」を取るため、雲の上から人間たちのヘソを物色した。
すると、大きなデベソを出して昼寝している寺の和尚さんを発見し、我先にヘソを取ろうと仲間と競り合っているうちに誤って雲から転落してしまった。落ちたところは寺の井戸で、ものすごい雷の音に集まってきた村人たちによって井戸の中に閉じ込められてしまった。
井戸の中から必死に助けを乞うピカ吉を可哀そうに思った和尚さんは、二度と桑原には雷を落とさない事を約束させて井戸から出してあげた。それから今でも雷が落ちそうになると「クワバラ、クワバラ」と言えば、落ちてこないそうだ。
三十五日目の山参り / 兵庫県
餓鬼達が握り飯で争う間に極楽へ行く話
昔、兵庫県淡路島の辺りでは亡くなった人が遠い極楽へ向かい何日も旅をすると思われていた。貧しい百姓の長助も働きづめだった父親を亡くしたばかりで深く悲しんでいたが、長助の叔父は極楽に着けば生きていた時よりも幸せに暮らせるだろうと長助を慰めた。
叔父に励まされ長助は安心して畑仕事に打ち込めるようになったが、ある夜長助の枕元に極楽に旅立ったはずの父親が現れる。父親は極楽への道を歩いていたのだが、歩き続けてから三十五日目頃にようやく極楽が見えたかと思うと、恐ろしい餓鬼(飢えと乾きに苦しむ亡者)達が食い物をせがみ襲ってくるので引き返してきたのだという。
極楽に辿り着くには餓鬼達の腹を満たすしかないと父親が言うので、早速長助は十三個の握り飯を作ったが霊となった父親にはこの世の物は渡せない。しかし父親が東山寺(とうざんじ)の裏山があの世とこの世に通じている事を思い出し、長助は大急ぎで東山寺に来ると閻魔堂に四つ、六地蔵に六つの握り飯を供え父親の無事を祈った。
そうして長助はいよいよ東山寺の裏山へ上ったが、ここが餓鬼達のいる難所に通じていると思うと恐ろしくなり、長助は後ろ向きになって残り三つの握り飯を坂へ転がした。三つの握り飯は長い坂を転がると、やがて餓鬼達の前に落ちてきた。すると餓鬼達が握り飯の奪い合いを始めたため、その隙に父親は餓鬼達の前を通り抜け無事極楽へ行く事ができたのであった。
長助がこの出来事を叔父に話すと、叔父もそれはぜひ村人達にも伝えるべきだと喜んだ。この事があってから淡路島では三十五日目の法要の際、親戚一同で寺にお参りした後持ってきた十三個の握り飯のうち四つは閻魔堂に、六つは六地蔵に、残った三つは紙に包んで東山寺の裏山から後ろ向きに転がし、振り返らずに帰る習わしとなった。この三つの握り飯を餓鬼達が追いかけているうちに、亡くなった人達は無事この難所を通り抜ける事ができると言われている。 
■中国地方 

 

豆つぶころころ / 中国地方、秋田県
正直じいさんと欲深じいさんが豆粒を追いかけ、不思議な冒険を体験
正直者のおじいさんがかまど(竈)の中に豆を一粒落としてしまった。
おじいさんが「一粒の豆でも粗末にできない」と言って竈の中を探すと、ぽっかりと穴が空いて中に落ちてしまった。そこにお地蔵さんがいて、豆は食べてしまったが、そのお礼にと、この先の赤い障子の家で米つきを手伝い、そのまた先の黒い障子の家の天井裏にのぼってニワトリのまねをすると良いことがあると言う。
最初の家はネズミの家だった。ネズミが「ニャーという声、聞きたくないぞ。」と言っていた。
おじいさんは米つきを手伝った。おじいさんはお礼に赤い着物を貰った。次は鬼の家で、金銀を前に鬼たちが博打をしていた。おじいさんがニワトリのまねをすると、鬼たちは朝が来たと勘違いして宝物を残して慌てて逃げ出してしまった。おじいさんは宝物をもって家に帰り、そのことをおばあさんに話した。
するとその話を盗み聞きしていた隣のよくばりなおじいさんは、ざるにたくさんの豆を入れて、おじいさんの家にやって来ると竈の中へそれをぶちまけ、穴の中へ飛び込んだ。そしてお地蔵さんに教わったとおりネズミの家へ行くと猫のまねをしてネズミを脅かして宝物をとってやろうと思ったが、びっくりしたネズミはおじいさんにむかって杵を投げつけた。
あわてて逃げ出して鬼の家に行ったが、鬼が怖かったため間違って「一番どり〜、二番どり〜」と叫んでしまい、怒った鬼たちによって谷底へ蹴飛ばされてしまった。
鬼と小娘 / 岡山県
今からずっと昔のこと、海が南に退いて、やっと備前平野が現れた頃の話。
吉備の祖先はこの平野に新しく村を作るため、笹ヶ瀬川を下って山の方から下りてきた。辺りは見渡すばかりの葦原。いったいどこに村を作ろうかと人々が思案していると、一匹のカニが現れ、人々の前で15×10メートルの四角形を描きながら歩いた。これが、作ろうとしていたお宮の寸法とぴったりだったので、人々はそこにお宮を建て、村を作ることにした。これが今の蟹八幡である。
さて、葦原を開拓した土地は豊かな土地となり、村はどんどん栄えていった、ところが村が栄えるにつれ、鬼が現れ、豊かな村を襲うようになった。鬼は決まって、きれい盛り、働き盛りの娘たちをさらっていくのだった。
そんなある夜のこと、一人の娘が家を抜け出して、北に向かって山道を歩いて行く。娘は、このままでは自分も鬼にさらわれてしまうと思い、鬼が苦手とするヒイラギを探しに家を出たのだった。そして、とうとう7日目に美作の国の久常(ひさつね)で、おおせの森と呼ばれるヒイラギの大木を見つけた。
娘は早速ヒイラギの子株を持ち帰って、村の中心に植えた。すると、ヒイラギの子株を植えた日から、鬼はパッタリと姿を現さなくなり、村人たちは安心して暮らすことができた。
鬼はこの忌々しいヒイラギが枯れてしまうのを待っていたが、ヒイラギはどんどん大きくなるばかり。とうとうある晩、鬼は大岩をヒイラギにぶつけて潰してしまおうと考えた。鬼は、長さ30メートル幅10メートルもある大岩を持ち上げると、左足をのどろ山にかけ、右足は花尻山(はなじりやま)にかけて久米のヒイラギ目がけて大岩を投げた。
ところが力が余って、大岩は久米のヒイラギを通り越し、今保(いまぼう)の田の中に落ち、そこからさらに跳ね上がって、1キロも離れた高尾の山の頂上に乗っかった。これが烏帽子岩(えぼしいわ)になり、今保の田には大きなくぼみが出来て、これが今の八幡沼になった。そして、のどろ山と花尻山には、今も鬼が足を踏ん張った跡が残っているそうだ。
その後、久米のヒイラギは大木に育ち、魔よけにヒイラギの枝を持って帰り、門ごとに打ち付ける風習が残った。そして、鬼は今でもヒイラギが駄目になるのを待っているのだという。
あまんじゃくの星とり / 岡山県
昔々、ある山にいたずら好きのあまんじゃくという小鬼が住んでいた。このあまんじゃく、ふもとの村に下りて来ては悪さばかりして、手のつけられないいたずら者だった。
ある晩のこと、あまんじゃくが村を歩いていると、1人の娘が外に出て空を見上げていた。あまんじゃくが何をしているのかと尋ねると、娘は流れ星に願い事をしているのだと言う。これを聞いたあまんじゃくは、すぐに消えてしまう流れ星に願い事をするより、いっそのこと空の星を全部落として、自分のものにすればいくらでも願い事が叶うと思った。
あまんじゃくは早速、箒(ほうき)を持って山のてっぺんに登った。山に登ってみると、星はすぐ頭の上で、手が届きそうに見えた。そこであまんじゃくは、箒を空に向かって振り回した。しかし星にはまだ届かない。それではと、今度は近くにあった石を積み上げて、その上に乗って箒を振り回してみた。だが、それでも星を落とすことは出来なかった。
もっと石を高く積み上げれば、必ず星が取れると思ったあまんじゃくは、とうとう川原や林の中の石、果ては石灯篭まで、石という石は全て山の上に積み上げた。こうして、あまんじゃくは、山のてっぺんに見上げるような石の塔を作った。
あまんじゃくはその石の塔に登ると、今度こそはと、箒を空に振り回した。しかし、やっぱり星には届かなかった。そのうちに東の空が明るくなり、夜が明け始めた。あまんじゃくは、悔しくなり石の塔の上で地団駄を踏んでしまった。すると、石の塔はグラグラと揺れ、とうとう崩れてしまった。
崩れた石は山から転げ落ち、山のてっぺんからふもとの村までずっと続いていたそうだ。そしてあまんじゃくは、その石の下敷きになってしまったのか、それから村には二度と姿を現さなかったということだ。
桃太郎 / 岡山県
桃から生まれた男の子が、犬と猿とキジと一緒に鬼を退治する。
おばあさんが川から拾った桃を切ろうとしたら、桃が自然に割れて中から男の子が飛び出してきた。桃太郎と名付けられた男の子は見る間にすくすく育ったが、一言も口をきかなかった。
しかしある日突然「鬼退治に行く」と言い、きびだんごを持って鬼退治に出かけた。
道中に犬と猿と雉を家来にした桃太郎は鬼の住む鬼ヶ島に上陸し、酒盛りしていた鬼どもを奇襲攻撃し、桃太郎の怪力と石頭、家来のかみつき、ひっかき、つつき攻撃により見事に鬼を退治し、村からうばった宝をとりもどした。
鬼の手がた岩 / 岡山県
大岩と鬼との仁義なき戦い
昔、岡山県の遥照山(ようしょうざん)に鬼が住んでおりました。
ある時、鬼は普段は山を通らない村人達が来て、何やらしきりに困っている様子を目にします。どうやら、村人達は隣村に行くのに使っていた加賀池のそばの道に、大岩が落ちてきて道を塞がれて困っているようでした。
実は大岩を加賀池のそばの道に落としてしまったのは、この赤鬼だったのです。一昨日の晩に腹を減らした赤鬼は加賀池で釣りをするのに大岩を投げたところ、池まで届かずに道に落としてしまいました。
鬼は、自分のしたことで村人が困っているのが可哀想になってきて、岩をどけてやることにしました。その晩、岩のところへ来た鬼は、村人の迷惑にならぬところへと思い、遠くの山に向かって大岩を投げつけました。
すると、なんということか大岩は山に跳ね返って元の位置に戻ってしまいました。鬼は少し唖然としましたが、気を取り直してもう一度山に投げつけましたが、またまた石は戻ってきます。それが繰り返されるうちに、鬼もだんだん意地になってきて、戻ってくる岩を何度も何度も同じ山に投げつけました。
この岩を投げ飛ばす音は、村まで響き渡り、村人たちは一体何が起こっているのかと震え上がりました。そんな事とは知らない鬼は、どうやっても戻ってくる大岩についにブチ切れて最大限の力をだして、山の中腹に思い切り岩をめり込ませました。
そして、大岩との戦いに勝った鬼がふと手をみると、なんと手の皮が破れていました。それをみた鬼は、そんなになってまでムキになった自分が馬鹿馬鹿しくなって帰って行きました。
翌朝、村人達が山へ行くと、遠くの山に大岩がめりこみ、その大岩には大きな手形がついていました。その岩は「加賀池の鬼の手形岩」と名付けられ、その後、岩を見に来る人で村はけっこう賑わったということです。
夫婦岩 / 岡山県
夫婦は仲良くしなさいよって話
昔、岡山の成羽町(なりわ)ところの山奥に木ノ村(きのむら)という村がありました。
この村には、とりわけ体が大きい清三郎(せいざぶろう)という力持ちで気の荒いの男がいました。清三郎には力持ちで気の強い嫁と、可愛い一人息子がいました。毎晩、大ゲンカをするような夫婦でしたが、この息子だけは大変な可愛がりようでした。
ある日、嫁が山瓜を取って帰って来ました。働きもせず家で嫁の帰りを待っていた清三郎は、山瓜を一人で食べようと、息子を連れて崖の上に登りました。それに気が付いた嫁が、崖をよじ登って追いかけていくと、清三郎は崖上から山瓜を投げつけました。次々に山瓜を投げつけるうちに、清三郎は誤って息子を崖の上から投げつけて殺してしまいました。
息子の死を後悔しきれなかった夫婦は、国司(くにし)神社の前にひれ伏して教えを乞いました。神さまは「死んだ者は生き返らない。供養のために下の谷から大岩を二つ運んできなさい」とお告げになりました。
夫婦は言われた通り、谷の大岩を持ち上げようと必死で格闘しました。やがて頭から角が生え、手には鋭い爪が生え、口からは牙が生えて、その姿は鬼になりました。鬼になった夫婦は、泣きながら大岩を持ち上げ、神社の境内に投げ上げました。
これを見た神様は、この岩を「夫婦岩」と名付け、岩に子供の姿を彫りました。そして「鬼になった姿で村人たちを驚かせないように、この岩を自分の子どもと思って遠くから供養するように」と言いつけました。
こうして、鬼の夫婦は中国山地の奥深くに引っ込み、遠くから息子の供養をしました。
桃太郎 / 岡山県
川に洗濯にでかけたおばあさんは、川上から流れてきた桃を家に持ち帰ります。
その桃を食べようと切ると中から元気な男の子が出てきました。おばあさんはその子に桃から生まれた桃太郎と名付けます。
桃太郎はすくすくと育ち、りっぱな青年になりました。ある日、鬼に金品を奪われ、困り果てる村人を見て、桃太郎は鬼退治に行くと言い出しました。
おばあさんとおじいさんは反対しますが、桃太郎の熱意についに折れ、きびだんごを作って送り出しました。
途中、犬・猿・雉に、鬼退治を手伝うかわりにきびだんごを欲しいといわれ、桃太郎は快くきびだんごをあげました。こうして、1人と3匹は鬼ヶ島に行き、村人たちの金品を取り戻したのでした。
広島県
鳥取県
高田六左衛の夢 / 島根県
出雲の片田舎、高田の予頃(よごろ)という所に、六左衛(ろくざえ)という名の鉄砲撃ちがいた。
六左衛は怖いもの知らずな男で、ある冬の日のこと“鬼の穴”へ行くと言い出した。鬼の穴とは、中に鬼が住んでいると言われる深い洞窟で、この辺りの者は誰一人として近づく者はいなかった。
六左衛は女房が止めるのも聞かず、翌朝早くに鬼の穴の中に入って行った。ところが、真っ暗な洞窟の中で、六左衛は深い穴に落ちてしまった。すると、落ちた穴の先にかすかな明かりが見える。六左衛が明かりに向って歩くと、そこは出口だった。
洞窟から出てみれば、そこには見事な田畑が広がる村があった。今日は村のお祭りと見えて、村のあちこちから楽しそうなお囃子が聞こえてくる。
ところが、一軒だけ家族が泣き悲しんでいる家がある。六左衛が事情を聞けば、この村では毎年、氏神様の祭りの夜に娘を人身御供に差し出さねばならず、今年はこの家の娘がクジに当ったのだと言う。豪胆な六左衛は、これを聞いて自分が娘の身代わりになると言い、長持の中に入った。
真夜中を過ぎた頃、果たして社の中から二匹の化け物が現れた。六左衛はここぞとばかり、長持に開けた穴から化け物に向って鉄砲を打った。夜が明けてみれば、社の裏手のほら穴の中には二匹の大むじなが息絶えている。これが化け物の正体だったのだ。
六左衛は村の人たちから感謝され、お土産をたくさんもらって自分の村に帰った。するとどうしたことか、村に帰ると六左衛の家が跡形も無く消えている。近くを通りかかった爺さまに話を聞けば、その爺さまの爺さまから聞いた話で、昔ここに六左衛という鉄砲撃ちがいたと言う。
こんなことなら鬼の穴なんかに行くんじゃなかったと、六左衛は庭の片隅にある女房の墓の前で泣いた。すると、女房が六左衛を呼ぶ声が聞こえる。気がつけば、六左衛は囲炉裏の前でうたた寝をしていた。そう、これまでの事は全部、六左衛がうたた寝で見た夢だったのだ。
このことがあってから、六左衛は「かかあの傍(そば)が一番。」と言い、鬼の穴に行くなどと言わなくなったそうだ。
牛鬼 / 島根県
島根のある漁村に隠棲する侍の夫婦があった。妻の方はとても出来た人で、「俺は侍を捨てた身だ」とうそぶく夫を支え、愚痴をこぼさず仕えていた。
村人も侍には親切で、獲れた魚やら野菜やらを届けては何くれと無く気を使い、侍の方も子供に読み書きを教えたり、村人の相談に乗ったりしていた。
ある日、米を切らせてしまい、村の誰かに米を少し借りようと侍が外に出ると、村人達が大破した漁船を囲んで恐ろしげに何やら話しあっている。聞けば「牛鬼が出た、船が襲われた」との答え。そして成り行きから、侍は村人と共に牛鬼退治に加担する羽目になってしまう。
そ の夜。嫌な事を引き受けた気晴らしに侍が夜釣りに出ると、その日は面白い位の入れ食いであった。どっさり魚を釣ってほくほく顔の侍の前に、突然妖しい女が 赤子を抱えて現れ「赤子に喰わせるから釣った魚をくれ」と言う。女のただならぬ雰囲気に驚きつつも侍が求めに応じて釣った魚を差し出すと、赤子は生の魚を 頭からぼりぼりと、一尾残さず貪り喰ってしまった。
更に女は「腰の物をくれ」と言い、侍が腰に差して居た刀を奪ってこれも赤子に食わせてしまった。侍が驚 いていると女は赤子を侍に押し付け、あっと言う間に海中に没してしまう。同時に海の水が盛り上がり、海の中から異形のものが姿を表して侍に襲いかかって来 た。それこそが牛鬼であり、女は牛鬼の化けた姿であったのだ。
同じ頃、家で一人待つ妻が針仕事をしていると、不意に指を針で突いてしまっ た。不吉な思いに駆られていると、突然奥の間に飾ってあった刀がかたかたと動き出し、ひとりでに鞘から抜け出して、風のように消えてしまった。その刀は夫 が「侍を捨てた身には不要」と売り飛ばそうとしていた物を、妻が押しとどめていた品であった。
一方、侍は押し付けられた赤子を捨てて逃げ ようとしていたが、赤子は大きな石になって侍の手に吸いつき、その重みで走る事が出来ない。迫る牛鬼。まさに進退きわまったその時、虚空からあの刀が飛んできて牛鬼の眉間を貫いた。牛鬼は夥しい血を流し、苦悶の内に海中に消えた。こうして、侍は一命を取り留めたのだった。
鬼のしゃもじ / 島根県
むかし、ある所にのんびり者の爺さんと婆さんが住んでおった。ある時、婆さんが団子の弁当を作って、畑で働く爺さんに届けに行ったそうな。婆さんが川のほとりを歩いていると、団子が一つ、ポチャンと川に落ちた。そうして次から次に団子は川に落ち、川下に流されていってしもうた。
婆さんが畑に着いた時には、団子は一つしか残っておらんかった。団子が大好きな爺さんが残念がるので、婆さんは落とした団子を探しに川下へ行ってみることにした。途中でお地蔵さんに会ったが、お地蔵さんは「この先は鬼が出るから行かん方がええ。」と言うたそうな。じゃが婆さんはお地蔵さんにお礼を言い、更に歩いて行った。
婆さんはやがて、深い山の中まで来てしもうた。すると、突然大きな赤鬼が現れた。婆さんが必死に命乞いをすると、鬼は飯炊きをするなら命だけは助けてやると言うたんじゃと。こうして婆さんは鬼のねぐらで飯炊きをすることになったそうな。
鬼は毎日毎日ねぐらで喰っちゃ寝しておったが、ある日、仲間が来るから飯を一杯炊いておけと命令して出かけて行った。その時、鬼は混ぜると飯が倍になるという“しゃもじ”を婆さんに渡したんじゃと。婆さんはこの時とばかり、しゃもじを抱えて逃げ出した。そうして家に帰って、爺さんに一部始終を話して聞かせた。爺さんと婆さんがしゃもじで飯を混ぜると、飯はたちまち倍になって、二人は大喜びしたそうな。
ところがこれを隣の欲深婆さんが見ておった。欲深婆さんは自分もしゃもじが欲しくなり、団子を川に流して川下に歩いて行ったそうな。途中、やっぱりお地蔵さんが忠告したが、欲深婆さんは構わず歩いて行った。そうして山の中までやってきた時、また突然赤鬼が現れた。じゃが鬼はすっかり怒っておって欲深婆さんをペロリと喰うてしもうた。こうして欲深婆さんは鬼の腹の中で暮らすことになったそうな。
そうして、のんびり者の爺さんと婆さんは、鬼のしゃもじのおかげでいつまでも幸せに暮らしたということじゃよ。
母の面と鬼の面 / 島根県
昔、ある山奥に母親と娘が住んでいた。
二人は、大変貧しい暮らしだったので、娘は長者の家へ奉公に出ることになった。娘は、町の職人に頼んで母の顔の面を作り、母の面をもって奉公に出た。
長者の家での仕事は、朝は暗いうちから炊事・昼になったら掃除・洗濯、風呂を沸かす仕事など重労働であった。それでも娘は、一日の仕事が終わると、自分の部屋の針箱の引き出しにしまってある、母親の面と話をすることを楽しみにしていた。
ところが、娘が母親の面と話をしているところを、いたずら好きの下男に見られてしまった。下男は娘を脅かしてやろうと、こっそりと母親の面を鬼の面に取り換えてしまった。
そうとは知らない娘が、いつものように針箱の引き出しを開けると、そこには鬼の面が入っていた。「これは母親の身に何かあったに違いない」と思った娘は、夜の暗い中を自分の家を目指して走った。
やがて、暗い山道の中にぽつんと明かりが見え、そこには体格のいい3人の男たちがいた。娘は男たちに捕まってしまい、母のことが心配でしたが逃げることもできず、一晩中たき火の番をすることになった。
そのうち、男たちは賭け事を始めた。火の番をしていた娘の顔は、だんだんほてって熱くなり、持っていた鬼の面をかぶった。そうとも知らない男たちは、娘が鬼になったと勘違いし、小判も持たずにあわてて逃げて行った。
娘は、無事に家に帰ることができ、もちろん母も無事だった。娘は、男たちが忘れて行った小判をすべて奉行所に届けたが、お奉行様は「おまえの親孝行に免じて神様がくださったんだろう」と、すべて小判を娘に与えた。
その後、娘は母と一緒にずっと幸せに暮らしたそうだ。
親子星 / 山口県
昔ある里のずっと奥の方に柿の木がある一軒の家があった。
家の中では3人の幼い兄弟達が原を空かせておっかあの帰りを待っていた。おっとうが亡くなってから子供達を抱えて、おっかの苦労は並み大抵のものではなかった。朝は子供が寝ている内から夜遅くまで、あちこちの手伝い仕事をして子供を養っていた。時々おっかあは帰り道、夜空の星を見上げては「あんた、オラ達を見守っていてくれろや」と言っていた。
子供達だけを残して仕事に出掛けなければいけないおっかあは「夕方はしっかり戸締まりをして、おっかあが声をかけるまで決して戸を開けてはいけないよ。さもないとななつ山の鬼が来るからな」と言い聞かせていた。
その日は庄屋さんの婚礼の手伝いで、たくさんの餅を作っていた。どんどんできていく餅を見ておっかあは、ひとつでもいい、子供達に食べさせてやりたいと思わずにはいられなかった。おっかあの気持ちが通じたのか、庄屋さんは手伝いに来た人達に心ばかりのお礼にと、餅をくれたのだった。おっかあは大変喜び、子供達がどんなに喜ぶだろうと想像しながら帰りの道を急いでいた。そして林のはずれに来た時のこと、突然目の前に大きな赤鬼が現れた。おっかあは腰を抜かして「餅は差し上げます、命ばかりはお助けを、わたしには子供達がいてわたしがいなくなったら生きていけません」と命乞いをしたが、赤鬼は「餅は嫌いじゃ、オラの好物は人間だ」と言った。
しばらく後、夜空に星がひとつ増えていた。その頃家では子供達が、おっかあの帰りを今か今かと待っていた。その時コトンという音がして、一番下の子がおっかあだと思い戸を開けて外に出た。だがそこには誰もいない。一番上のあんちゃんは急いで戸を閉め、鬼に食われたらどうすると下の子に言った。下の子はおっかあは帰って来ないと泣いていた。
その時外から「これこれ、おっかあだよ。開けておくれ」と声がした。だが上の子は何だかいつものおっかあの声と違う感じがしていた。外のおっかあは「窓を見てごらん、お土産の餅じゃよ」と言う。窓を見てみるとおっかあの風呂敷包みが見えた。3人の子供は安心して戸を開けた。子供達は大喜びで餅をほおばった。
おっかあを食って満腹の鬼はその様子を見ながら、明日の朝になったらどの子から食ってやろうか考えていた。上の子は下ばかり見ているおっかあを見てどうしたのかと聞いてみたが、鬼が化けたおっかあは何でもないと言う。鬼は「それより餅を食べたら早く寝なさい、おっかあもすぐに寝るで」と言い聞かせた。こうして一番下の子は、その夜鬼とも知らずいつものようにおっかあと一緒に布団に入った。だが上の子はどうも変だなと思い、つい立ての上からそっと寝ているおっかの顔を覗いてみた。
するとおっかあの口には大きな牙が生えていた。それを見た上の2人の子は驚いて、あれは鬼が化けているのだと気付き恐ろしくなった。そしてどうしようと考え、小便に行こうとして、下の子も小便に連れていった。何とか家から出ることができた子供達は、柿の木の上に隠れた。子供達が外に出たことに気付いたおっかあは外に出た。そしてあっと言う間に鬼の姿に変わり、子供達を捜しまわった。
その時柿の木の上の子供達の姿が木の下の池に写り、それを見た鬼は子供達が池の中に隠れたと思って池の水を棒でかき回した。だが子供達は出て来ない。鬼はしびれを切らして「やい出て来い。おっかあはもうオラが食ってしまったぞ」と叫んだ。それを聞いた下の子が「おっかあが食われてしもうた」と大声で泣いた。その声を聞いて柿の木の上の子供達を見付けた鬼は、柿の木を登り始めた。
子供達はもうどうしようもなくなり大声でおっかあに助けを求めた。その時、夜空に浮かぶ月がまぶしく光り始めた。そして天から鎖がガシャガシャと音を立てて下りてきた。鬼はあまりのまぶしさに何も見えなくなってしまった。鎖が柿の木まで下りてくると、子供達は急いでその鎖にしがみついた。すると鎖はゆっくりと天に登り始めた。だがその時鬼は逃がすものかと、鎖のはしを掴んだ。鎖は3人の子供と鬼がつかまったまま登っていった。鬼は何としても子供達を食ってやろうと手を伸ばした。
そしてその手があわや子供達に届こうとした時、鎖のはしがプツンと切れ、鬼はまっ逆さまに落っこちてしまった。3人の子供達はそのまま天へ登っていった。そして天に着いてみると、そこにはおっとうとおっかあが待っていた。そしておっとうとおっかあと3人の子供は5つの親子星となり、いつまでも離れることはなかったそうだ。 
■四国地方 

 

愛媛県
雷と月と日 / 徳島県
むかしむかし、ある夏のことじゃった。いつもは顔を合わせることもない『お日さん』と『お月さん』と『雷さん』が、お伊勢参りの旅をすることになったそうな。
道中の雷さんは鬼のパンツで元気いっぱい、背中の太鼓を打ち鳴らし、あたりに雷を落としながら、そりゃあ騒がしく歩くんじゃ。お日さんとお月さんが文句を 言っても、雷さんは「いやぁ、すまんすまん!」と、またうるさく笑い飛ばしたそうな。じゃが、まずまず、三人は仲良く旅を続けたそうな。
やがて日も暮れたので、三人は宿に入った。お日さんとお月さんはゆっくりとお風呂に入ったが、雷さんはお風呂が嫌いで、次々に酒を運ばせては飲んでおった。
お日さんとお月さんがお風呂から上がる頃には、雷さんはすっかり酔っ払っており、酒臭〜い息を吐きながら二人にさんざん酒をすすめ、太鼓をたたいて大声で歌いながら踊りだした。そのうるさいこと下手くそなこと。お日さんもお月さんもすっかり参ってしもうた。
そ うして騒ぐだけ騒いだ雷さんは酔いつぶれて眠ってしまったそうな。お日さんとお月さんはほっとして、雷さんを布団に寝かし、自分達も布団に入った。雷さん は初めのうちは静かにスースー眠っておったが、しばらくして、その『スー』が『ガー!』に変わったからたまらない。ほんに布団が吹っ飛ぶような大イビキ じゃった。
「眠らせてくれぇ〜!」お日さんとお月さんは布団をかぶって苦しんでおったが、とうとう「儂……、儂、先に行くわ。」と、お日さんが逃げ出した。お月さんもそれについて、二人はまだ夜も開けないうちに雷さんを置いて宿を出発したのじゃった。
一方の雷さんは夕方近くになって目を覚ました。お日さんとお月さんが先に出発したと聞いた雷さんは「月日のたつのは早いもんじゃなぁ。ほんなら儂は夕立とし ようかぁ!」と騒いで、直ぐに二人の後を追ったそうな。そうして雷さんが去った後には、稲光が走ってザーッと夕立が降ったということじゃ。
ふぐとひらめ / 香川県
昔むかし、徳島の海に仲の良いふぐとひらめがおりました。2匹ともたくさんの子供や孫に恵まれて長生きをした後、寿命がきてあの世にも一緒に仲良く旅立つ事になりました。
2匹が暗闇の中を光の方へ引き寄せられるように漂っていくと、穴の向こうに三途の川が開け、ほとりには川守のババがおりました。ババとあの世の極楽と地獄の話をしますが、2匹は正直に生きてきた自分達は極楽に行けるだろうと安心していました。
ババに借りた舟に乗って三途の川の向こう側に着くと、鬼たちに連れられて行き、閻魔様の前で2匹の裁きが始まりました。ひらめは人間によく食べられて良い魚だという事で極楽行きに決まりましたが、ふぐのほうは、鬼の入れ知恵でふぐ刺しをツマミに地獄で一杯やりたくなった閻魔様が、ふぐは毒で人を殺すなどと言って地獄行きにしてしまいました。
理不尽な理由に承知できないふぐは考え、地獄に行く前に一目極楽を見たいという願いをとりつけました。そして鬼に連れられて極楽の立派な門の前にくると、鬼が重い門を押すためにくふぐから手を放した隙に、門の開いた隙間を通ってするりと極楽の中に入りました。
ちょうどこの時日暮れの鐘とともに門が閉じ始め、ふぐは門の向こう側であわてる鬼に向かってこう言ってやりました。
「鬼は外、ふぐは内」
閉じてしまった門は朝まで開きませんので鬼はがっかりして諦め、ふぐは待っていたひらめと無事揃って極楽の中へ泳いでいきました。
舞の川の山んば / 高知県
毎年12月28日に餅をつくように、と念を押す老婆の話
昔、葉山村に清兵衛(せえべえ)という貧しい百姓が住んでいました。清兵衛には五人の子供がいて、貧しいながらも毎年12月28日になると餅をつき、ささやかながらお正月をお祝いしていました。
ある年の12月28日、例年通り一家で餅つきをしていると、突然見かけない老婆がやってきました。「餅つきの手伝いをしに来た」と言って、さっさと餅を丸めはじめ、あっという間にお餅が出来上がりました。あっけにとられていた清兵衛でしたが、老婆は「この家にはやがて幸せがやってくる、必ず毎年12月28日に餅つきをしなさい」と念をおして帰っていきました。
あの不思議な老婆の言う通り、翌年から仕事もうまくいき、子供たちも元気に成長していきました。そして毎年毎年、あの老婆が12月28日にやってきて餅つきを手伝っていくのでした。清兵衛一家も年々豊かになり、ついに十年後には長者になっていました。
しかし金持ちになった清兵衛は、村人から「鬼の清兵衛」と呼ばれる男になっていました。すっかり感謝の気持ちを忘れてしまい、あれだけ老婆から念を押されていた28日の餅つきの日を、一日だけ早めてしまいました。
翌日28日に、あの老婆がやってきて「約束を破ったな、もうこれまでじゃ」と言い残して、激しい風と共に消えていきました。この老婆は清水谷に住むという山姥だったのです。
この山姥の言った通り、清兵衛に不幸が続くようになりました。一人娘が病死し、商売もうまくいかなくなり、みるみるうちに没落していきました。もう今となっては、どうする事もできませんでした。
海に沈んだ鬼 / 高知県
むかし、土佐の山奥に、大鬼と子鬼が平和に暮らしておった。ある日、二匹の鬼が谷で遊んでいると、呟くような老人の声が聞こえてきた。
みれば、爺と小さな子供が壺を土の中に埋めながら神様に祈っておった。爺は久礼(くれ)の浜の者だといい、海が荒れて家族が皆波にさらわれたので、海が静まるように祈っているのだという。孫の手を引いてとぼとぼと山を降りる爺の姿が、大鬼の心にいつまでも残った。
それから何日かが過ぎた頃、嵐がやってきた。大鬼は岩屋にじいっと座って爺と孫のことを考えていたが、やがて金棒の両端に大岩を突き刺し、その上に子鬼を乗せ、久礼の浜へ降りていった。大鬼は子鬼に、山で待っておれと言うたが、子鬼はどうしてもついて行くと言って聞かんかったんじゃと。
浜では、荒れ狂う海を前に、村人が竹の先に鎌をつけ嵐を追い払おうとしておった。大鬼は子鬼に浜に残るよう言うたが、子鬼はどうしても大鬼から離れんかった。大鬼は子鬼に『ならば泣くな。』と言い聞かせ、大岩を担いだままざぶざぶと海の中に入っていった。波に押し戻されそうになりながらも、大鬼は湾の入り口へ向かって進んでいった。
じゃが、やがて大鬼の全身が海中に沈みはじめた。「おっ父!おっ父!」 子鬼が初めて大声で泣き叫んだが、ついに金棒の先の大岩二つとその上にちんまりと乗っかった子鬼を残し、大鬼の姿は海の中に消えていった。
荒れ狂う波は、大鬼の体と掲げた大岩に遮られて久礼の浜まで届かなくなった。子鬼は泣いて泣いて大鬼を呼び続け、とうとう小さな岩になってしもうたそうな。
大鬼が沈めたこの岩は双名島(ふたなじま)と呼ばれ、金棒に突き刺した穴が一つづつ開いているという。そうして、そのすぐそばに子鬼のなった岩も烏帽子岩と呼ばれて残っており、今も荒波から久礼の浜を守っている。
名刀の切れあじ / 高知県
むかし、土佐の土佐山村の中切(なかぎり)という所に、人にいたずらを仕掛けては喜ぶ庄屋がおった。
たとえば、夜中、庄屋は鬼の面をかぶって臆病な下男の恒平(つねへい)を驚かすのじゃった。障子に映った鬼の影を見て恒平は便所にも行けず、布団をかぶって一晩中震える始末。ほんに人を困らせるのが生きがいのような庄屋じゃった。
ある日、庄屋は夜中に恒平をお使いに出し、鬼の面をかぶって真っ暗な峠で驚かしてやろうと考えたそうな。
隣村(鏡村 穴川)の庄屋に手紙を届けて来いと命じられた恒平は、恐ろしくて仕方なかったが、守刀として庄屋屋敷の宝『名刀 青江祐定(あおえすけさだ)』を借りることにした。庄屋は気前良く、祐定を恒平に貸したが、こっそり中身を竹光にすり替えておいたのじゃった。
さて、恒平は刀の中身が竹光とも知らず、真っ暗な山道を隣村へと歩いて行った。恒平が、『伸び上がり坂』と呼ばれる急な坂道を登り切り、峠まで来た時、「人 かぁ〜喰おうかぁ〜」と、庄屋が化けた鬼が現れた。鬼が大石を投げつけてきたので、覚悟を決めた恒平は竹光をスラリと抜き大石を切り払った。すると驚いた ことに、確かに庄屋が入れ替えたはずの竹光が、大石をばらばらと切り裂いてしもうた。
「なんでじゃ、切れるはずのない竹光が……」庄屋は慌てて、竹光を持って斬りかかってくる恒平から逃げ回った。結局、庄屋はかぶった鬼の面を真っ二つに切られ、頭に怪我をおい、ほうほうのていで逃げ帰ったそうな。
翌朝、恒平は何も気づかないまま、鏡村の庄屋からの返事を無事に持ち帰った。そうして、鬼を退治した名刀青江祐定の切れ味を庄屋に報告したそうな。
それ以来、庄屋は人をからかって喜ぶことをしなくなったという。そうして、これはきっと名刀青江祐定の魂が、竹光に乗り移って庄屋を懲らしめたのじゃろうと、後々、村人たちは噂し合ったということじゃ。
島をはこんだ黒鬼 / 高知県
むかしむかし、遠い南の海にぽっかり浮かんだ鬼ヶ島があって、たくさんの鬼達がのんびり暮らしておった。鬼ヶ島から海を隔てたずうっと向こうには、土佐の国、久礼浦という漁師の村があって、近頃、その村から悲しい女の泣き声が鬼ヶ島まで聞こえてくるのじゃった。
不思議に思った鬼達は岩鏡に久礼浦で起こった出来事を映してみた。すると久礼浦では近頃海が荒れ、漁に出た亭主と子供を亡くした女が泣いておるのじゃった。鬼たちは貰い泣きし、久礼浦の港に岩を運んで波を防いでやろうと考えた。
「ようし、儂がやっちゃる。たとえ人間でも子を思う気持ちは鬼と同じじゃ。」と、大きな黒鬼が名乗り出た。黒鬼は大きな岩を二つ、鉄棒の両端に串刺しにして、肩に担いだ。黒鬼の小さな小鬼もその岩の上に乗ってついて来たそうな。
黒鬼が大岩を担ぎ、何人かの鬼がそれを支えながら、鬼達は久礼浦を目指して出発した。じゃが、久礼浦は遠く、風も出てきたため、鬼達は一人また一人と運ぶの を止めて鬼ヶ島に帰って行った。黒鬼は小鬼も連れて帰ってもらおうとしたが、小鬼は「おっとうと一緒に行く。」と言って聞かんかった。
こうして、日が暮れる頃には黒鬼と小鬼だけになってしもうた。やがて夜は更け、海はさらに荒れた。一人で運べると強がりを言った黒鬼じゃったが、鉄棒は重く 肩に食い込み、もう目も見えんようになっておった。黒鬼は最後の力を振り絞って、必死に久礼浦に向かって大岩を運んだ。
そうして、とうとう久礼浦の入口まで大岩を運んだ黒鬼は、そのまま海の中に沈んでしもうて、それっきり二度と姿を現すことはなかった。
「おっとう!おっとう!」小鬼は黒鬼を呼んで泣き続け、そのまま烏帽子岩という小さな岩になってしもうたそうな。
黒鬼が持ってきた二つの大岩は双名島と呼ばれ、鉄棒を突き刺した穴も残っているという。そうして今でも久礼の港を大波から守りながら、美しい姿を見せているということじゃ。 
■九州地方 

 

神さまの鬼退治 / 九州地方
ずっと大昔、二人の神様が人間の国を守るために、この世に下りていた時の事でした。
ある日、上ン国(うえんくに)の神は、中ン国(なかんくに)の神から、凶悪な大鬼を退治してくれるよう頼まれた。しぶしぶ引き受けた上ン国の神は、恐る恐る大鬼が住む島に乗り込んだが、大鬼の手下であるオオカミに八つ裂きにされ死んでしまった。
上ン国の神の嫁さんは、夫の無残な最期を知り、かたき討ちに鬼の島へ乗り込んだ。しかし、気の強い嫁さんも、鬼の家来たちにあっという間もなく殺されてしまった。
それから月日が流れ、山の神に預けられていた上ン国の神の子供(男の子)が、両親のかたき討ちに出かける事になった。空の神にとてつもない怪力パワーをもらった男の子は、恐ろしい大鬼たちが住む岩屋もろとも地獄の底まで蹴っ飛ばして退治した。
そして、中ン国の神の家にも乗り込み、命乞いする中ン国の神もやっつけた。それからは、上ン国も中ン国もこの男の子が立派に守り、人間界はだんだん住みやすい世界になったそうな。
くぬぎの精といり豆 / 福岡県
ある飛脚がその寺の付近を走っていて、ひと休みしていると、何だか生暖かい風が吹いてきた。飛脚は背筋が寒くなり辺りを見回した。するといきなり頭を何ものかに掴まれ、とっさに持っていた刀でその手を切り落とした。振り返るとそこには大きな鬼の化け物がいて、昼飯替わりに飛脚を食おうとしたのだった。
切り落とした手が再び生えてきて襲ってきた。飛脚は度胸を決め「待った!」と声をかけた。「食われる覚悟はできた。だがこの世の思いでに頼みがある」と鬼に言うと鬼は何でも言ってみろと言う。そこでもっと巨大に化けられるか?と聞くと鬼ははるか見上げる大きさになった。そして今度はもっと小さくなれるか?と聞くと鬼は豆粒ほどの大きさになった。飛脚はその鬼を手に乗せるとパっと飲み込んでしまった。
これで食われることはなくなったが、今度は鬼が腹の中で暴れてひどい腹痛にみまわれてしまった。そこで知り合いの寺の和尚に助けを求めると、和尚は小僧に言い付けて豆を煎らせて持ってきた。そして飛脚の身体に向かって「鬼は外ー!」と大声で叫ぶと男に大量の煎り豆を食わせた。それに押しつぶされたか鬼は静かになった。すると急に飛脚の尻がむずがゆくなり、屁を出したくなった。和尚はかまわんから思いっきり屁を出しなさいと言うと、飛脚はものすごく大きな屁をこいた。
すると屁が鬼の顔の形になり天井を通り抜けて寺の庭で鬼に戻った。そのまま鬼は息絶えてしまった。この鬼はくぬぎの精で、峠を通る旅人を長年悩ませていたが、その豪尽きて一生を終えた。それ以来、その寺では豆まきが恒例行事となり、病気回復や災難避けに持っていく人が後を絶たなかったそうだ。
背振山の石楠花 / 佐賀県
昔々、肥前と筑前にまたがる背振山(せふりやま)に“べんじゃあさん”という姫神様が住んでおられた。べんじゃあさんとは、弁天様のことである。
ある日のこと、べんじゃあさんは豊前の英彦山(ひこさん)で開かれる神様の寄合に招かれた。季節はちょうど五月の始め。英彦山には、辺り一面に薄桃色をした石楠花(しゃくなげ)の花が咲いていた。それは得も言われぬ美しさで、べんじゃあさんは思わず感嘆の声を上げ、背振山にもこの石楠花が欲しいと言うのだった。
ところが、これを聞いた英彦山の天狗は「この石楠花の花は、一本たりとも他所の山に持ち出すことはならん!!」と、すごい剣幕で怒る。
それでも、どうしても石楠花がほしいべんじゃあさんは、寄合の後、山の中腹から石楠花を一株つかみ、大急ぎで逃げ出した。これを見た天狗は、カンカンに怒って追いかけて来る。べんじゃあさんは、天馬にまたがり必死逃げるも、背振山まであと少しという所で、天狗に追いつかれてしまった。べんじゃあさんは、仕方なく石楠花を放り投げて逃げた。すると、放り出された石楠花は竹ノ屋敷の辺りへ落ちて行った。
一度は失敗したものの、べんじゃあさんは、まだ石楠花をあきらめてはいなかった。再び天馬にまたがると英彦山へと向う。今度は、天狗に見つからないように雲の中に隠れ、素早く石楠花を一株つかみ、背振山へと天馬を飛ばす。今度こそうまくいったと思ったのもつかの間、突然、雲の中から天狗が姿を現した。天狗は帰り道で待ち伏せしていたのだ。
こうして、べんじゃあさんは、またも天狗に捕まってしまい、石楠花を手放す羽目になった。そして、石楠花は背振山の尾根、鬼ヶ鼻の方へと落ちていった。
結局、べんじゃあさんは石楠花を手に入れることが出来ず、そんな訳で今に至っても、背振山には石楠花が一本も生えていないのだそうだ。一方、べんじゃあさんが落とした二株の石楠花は、それぞれ竹ノ屋敷と鬼ヶ鼻に根を降ろし、毎年薄桃色の花を咲かせるようになった。
いくら贅沢なべんじゃあさんでも、どうしても手に入らない物があったという話だ。
鬼の九十九塚 / 大分県
昔、大分県由布院に塚原という里があった。この里では作物もよくとれ、人々は平和に暮らしていた。ところが、毎日夜になるとこの里に恐ろしい鬼どもが現れ、家を踏みつぶし、畑を荒らし、村人を散々苦しめていた。
この様子を空から見ていた土の神は、何とかして村人を助けようと、あることを考えた。土の神は地上に降り、鬼どもにこう言った。「おまえたちは凄い勢力を持つと聞くが、一夜のうちに、百個の塚を作れるか?もしそれができたらこの土地はお前たちにやるが、できなかったら山の岩屋へ戻り二度と出てくるな。どうだ?」
これを聞いた鬼どもは、早速塚を作り始めた。そうして、99個の塚ができた時、土の神は鶏のまねをして叫んだ。夜明けまでに百個の塚を作れなかったと思った鬼どもは、山の岩屋へ帰って行った。
この事を知った村人は、鬼から村を救ってくれた神様に深く感謝した。そうして、塚の一つ一つに祠を作り、神様を祭った。鬼の作った99の塚すべてに、神様が宿ったのだった。それからこの里では、二度と鬼に襲われることはなかったそうだ。
壱岐のあまんしゃぐめ / 長崎県
昔国中は毎日暖かく、米、麦、あわ、ひえ、大豆、きびなどは根元から穂先までびっしりと実り、にわとりは毎日10個も卵を産み、魚は一年に何度も産卵するので、人間はろくに働かずとも食うに困ることはなかった。
だから寄ると触ると宴会ばかりしていた。食べ物もちょっと食べるとすぐ捨ててしまっていた(その時歌っていたのが「一生〜八月、常月(毎夜満月)よ〜、こうなの汁(酒)に米のめし〜」 という歌です)。しかしこれを快く思わない者がいた。
それは天に住むあまんじゃく(小鬼)である。あまんじゃくは人間が楽して暮らしているのが気に食わない。そこであまんじゃくは人間を苦しめようと天空を駆け巡り、まず太陽をずっと遠くに離し、いつも暖かかった国に雪を降らせ、冬という季節を作った。
月の満ち欠けも作り、真っ暗な夜も作った。次は地上に降り、人間の作物を荒らし、稲や麦は実のなるのを穂先だけにした。次に大豆をしごこうと思ったが、大豆は穂先が針のように尖っているので諦めた。だから大豆は今でも根元からびっしりと実がなるのだ。
最後にきびをしごいたが、きびの歯が細くので手を切ってしまい、あまんじゃくの血がきびの根元を赤く染めた。だからきびの根元は赤いのだという。あまんじゃくは海へ走り、血だらけの手を洗った。すると海の上では人間達が酒盛りをしている。
その頃の舟はこがずに舟底をたたくだけで進んだ。それを見たあまんじゃくは海に潜り、舟底にへばりつくとまじないをかけ、舟底を叩いても動かないようにしてしまった。
その後もあまんじゃくは悪さをし続け、にわとりは日に一個しか卵を産まなくし、魚も一年に一度しか産卵しないようにした。雨と風を一緒に起こして嵐を生み出した。
こんなことが続いた人間はとうとう怒り、あまんじゃくを捕まえると火あぶりにして殺してしまった。あまんじゃくは焼かれて灰になったが、その灰から蠅、蚊、ノミが生まれたそうだ。
亥の子まつり / 熊本県
地主のたくらみにはまって死んだイノシシの話
昔、天草のある村に、金貸しの地主とその娘が住んでいました。この地主が持つ土地にはでっかい大岩があって、動かすこともできずいつも苦々しく思っていました。
ある時、「大岩を動かした者には娘を嫁にやる」と、村中に触れ回りました。しかし、地主の娘など誰も欲しがらず、一匹のイノシシだけが集まってきました。怒った地主は「娘と全財産をやる」と村中に触れ回ると、今度は大勢の力自慢の男たちが大集合してきました。
しかし、どんな怪力の大男にもこの大岩を動かせず、結局あのイノシシだけが岩を動かしてしまいました。さずがの地主も今さら断るわけにもいかず、仕方なく娘に晴れ着をきせて、嫁に出すことにしました。
喜んだイノシシは、娘を背中に乗せて山に向かって走り出しました。しばらく走った所で、娘は晴れ着のたもとから火打石を取り出し、イノシシの背中に敷いていたワラに火をつけました。火だるまになったイノシシは、崖から落ちてそのまま死んでしまいました。
この話を聞いた村人たちは「いくらなんでもイノシシが可哀そうだ」と言って、旧暦10月最初の亥の日に、亥の子祭りを行うようになりました。
鬼が笑った話 / 熊本県
来年の事を言えば鬼が笑う、の元ネタ
昔、熊本の益城(ましき)に福田寺(ふくでんじ)というお寺がありました。ここの和尚さんはとても知恵者だったので、あちこちのお坊さんたちが教えを受けに集まってきました。
ある時、一匹の鬼がやってきて「わしゃ鬼ばってん、弟子にしてください」と頼みました。心の広い和尚さんは、他のお坊さんたちと一緒に弟子にしてやることにしました。
鬼は顔は恐ろしいものの、大変な働き者でした。しかし寝る時のいびきがすごいので、和尚さんは寺の近くに鬼専用の小屋を作ることを提案しました。鬼は大きな岩を積み上げて「岩屋」を作って、そこで一人で寝ることにしました。
さて、この頃、近くの上徳(じょうとく)という所にお堂を建てる事になりました。この時の鬼の働きは素晴らしく、思ったよりも早く仕事が進みました。喜んだ和尚さんは、みんなに「そばきりだんご汁」を振舞いました。
みんなは大喜びでだんご汁を食べ始めましたが、鬼があっという間に全部食べてしまい、みんなはほとんど食べられませんでした。
鬼はそれからも一生懸命働いたので、立派なお堂が完成しました。そしてまた、みんなでそばきりだんご汁を食べる事になりました。
和尚さんは「また鬼に全部食べられてしまう」と心配して、だんご汁の中に孟宗竹(もうそうだけ)を切って入れました。竹は汁の中で浮かぶので、おかわりが早い鬼が真っ先に竹を食べるだろうと考えたからです。
しかし、竹を噛んだ鬼の歯は、全部欠けてしまいました。鬼は「歯が痛い、だんご汁も食べられなくなった」と、オイオイと泣き続けました。それを見た和尚さんは「大丈夫、来年になったら良い歯が生えるから」と慰めました。
それを聞いた鬼は「それはよかった、来年になったら歯が生える!」と喜んで、にっこり笑いました。「来年の事を言うと鬼が笑う」という言葉は、この時から始まったそうです。
鬼の足かた / 熊本県
昔、吉田川の上流あたりの山奥に、小さな村がありました。その村には二つの悩みがあって、その悩みとは「洪水被害」と「人食い赤鬼」でした。
この人食い鬼は、村にやって来ては田畑を荒らしたり、牛や馬を食い殺したり、子供をさらったりしました。村人たちはあれこれ相談していましたが、鬼の力にはかなわず途方に暮れていました。
この村には、太一(たいち)という賢くて勇気のある男の子がいました。早くに両親を亡くした太一は、家族同然のように大切に飼っていたヤギを鬼に殺されてからは、いつかは鬼を退治してやろうと思っていました。
ある日、太一が山へ薪(たきぎ)を拾いに行くと、赤鬼が現れました。赤鬼は「これからお前を食べる」と言うので、太一は、怖いのを隠しつつ「鬼のおっさんがゆるぎ岳の上から飛び降るのを見せてくれたら、喜んで食べられますよ」と答えました。
赤鬼は「俺にできないことは無い」と言って、鉄の高下駄を履いて、ゆるぎ岳の頂上へかけ登って行きました。そして、大きな金棒を振りかざしながら、「いいかぁ、良く見ておけよ」と大声を出して、勢いよくジャンプしました。
赤鬼は、ゆるぎ岳から真下の大岩に向かって、一直線に落ちて行きました。その途中、赤鬼の鉄下駄は途中で片方が脱げ、片方の足だけ裸足で着地してしまいました。赤鬼は足の骨を折り、あまりの痛さに「ギャー!」と大きな悲鳴を上げて、山奥へ逃げて行きました。
赤鬼の着地した大岩には、下駄の足跡と鉄棒の跡と裸足の足跡がくっきり残っていました。今でも、この大岩のある吉田川の一の瀬周辺は「鬼の足かた」と呼ばれるそうです。
宮崎県
鬼と若者 / 鹿児島県
昔、五月節句の日のこと。
一人の若者が犬を連れて狩りへと出かけた。ところがどうしたことか、この日の森は気味が悪いほど静まり返って、小鳥の羽音ひとつしなかった。「妙なこともあるもんだな」若者はそう思いながら、せっかく狩りに出たのだからと、山の奥まで入って行った。
すると若者の前に兎が一匹飛び出してきた。若者は兎を矢で射とめ、捕まえにいこうとした時、突然、木の上から赤裸の大男が飛び出したかと思うと、あっという間に若者の狙った兎をゴクリと飲み込んだ。大男はギラギラとした目で若者を見た。見るとそれは、頭に角が生えた鬼だった。若者は驚いて逃げ出した。あんな恐ろしいものがいたのでは、利口な動物たちが出てくるはずがない。若者は食われては困ると、一目散に元来た道を走った。鬼は地鳴りの様な声を上げて追いかけてきた。
そうして鬼に捕まりそうになった時、若者は石につまずいてポーンと宙にほうりだされた。落ちたところは、ヨモギの草原(くさはら)だった。遠くで若者の犬の鳴く声がする。その内、鬼はゆっくりと若者の方へやってきた。ところが、ヨモギの草原までやってくると、なにやらぶつぶつ呟きはじめ、草原に入るのをためらっている。「火だ、火だ、火の中にいる」やがて鬼は草原を遠巻きにぐるぐると回りはじめた。
若者が鬼の言葉を聞いていると、ヨモギの葉が、火が燃えているように見えるので近づけないことがわかった。若者がじっとしていると、鬼はどこかへ姿を消してしまった。若者はこの隙に草原をぬけて駈け出した。
「待て!」するとまた鬼が追いかけてきた。今度捕まればもう命はない、若者は走って走ってやっと村の見えるほうまでやってきた。その時、また何かに足をとられ、若者は湖のほとりの菖蒲の茂みに転げ落ちた。若者が観念すると、鬼は菖蒲の茂みを遠巻きに、また何かぶつぶつ言っている。「刀だ、刀がいっぱいだ、どうにもならん」鬼の目には菖蒲の葉が刀に見えるとわかり、若者は菖蒲を持って歩きだした。
「それ刀だぞ!刀だぞ!」鬼はいっこうに飛びかかってくる様子がない。無事に家にたどり着いた若者は、さっそく戸口に菖蒲を刺すと、村中の家にも菖蒲を刺して回った。「目が回る、目が回る・・・」とうとう鬼は菖蒲が怖くて村に近づけず、すごすごと森へ帰って行った。
それからというもの、この村では毎年五月五日になると、戸口に菖蒲を刺すようになったそうだ。五月節句の昔話だったとさ。
鬼の面 / 鹿児島県
鬼の面が取れなくなった嫁と信心深いばあ様の話
昔、鹿児島の伊集院の野田という村に、信心深いばあ様がいました。毎朝、村はずれの山の上のお寺にお参りに行くのを日課にしていました。
ところがそのお参りを快く思っていない嫁がいて、いつも毎日ブツブツ文句を言っていました。もちろん、ばあ様は寺参りで一日を過ごしていたわけではなく、畑仕事や孫の世話などよく働いていました。
ある朝の事、今日も朝一番で寺参りに出かけたばあ様の後を、嫁がこっそり追いかけました。ばあ様の寺参りをやめさせようと考えた嫁は、道途中のお堂に先回りして、お面をかぶってばあ様を脅かしました。驚いたばあ様は山を転がるようにして、家に逃げ帰りました。
ところが、すっかり日も暮れてから、嫁が頭から布をかぶってコソコソと帰ってきました。鬼の面がとれなくなってしまい、暗くなるまで待ってから人目に付かないように帰って来たというのです。亭主とばあ様がどう引っ張っても鬼の面はとれませんでした。
嫁の事を心配したばあ様は、毎日お寺にお参りしました。すると、ある朝ポロリと鬼の面が外れました。それからというもの、嫁もばあ様と一緒に毎朝お寺に参りするようになり、ばあ様にも優しく接するようになりました。
ほていさん / 鹿児島県
昔、沖に鬼ケ島をのぞむ海辺のある村に、五分一(ごぶいち)どんという男がいた。
この五分一どん、その名の通り身長が普通の人の五分の一ほどしかなかったので、いつも村の衆から小男、小男と言われ馬鹿にされていた。それで悔しい思いをしていた五分一どん、いつか村の衆を見返してやろうと思っていた。
そんなある日、村の衆が集まり酒盛りをしていた。この席で五分一どんは、鬼ケ島には打出の小槌という宝があり、これさえあれば何でも望みがかなうという話を小耳にはさむ。そこで五分一どん、その打出の小槌を自分が持って帰って来て、皆をあっと言わせてやろうと決心。
五分一どんは早速恐ろしい鬼ケ島へと向かう。鬼ケ島に着くと、人間の匂いを嗅ぎつけた鬼どもが、すぐに近くに寄ってきた。恐ろしかった五分一どんだったが、機転を利かせて四つん這いになり、妙な声で鳴いてみせた。すると鬼どもは、小さな五分一どんを見てこれを人間とは思わず、珍しい生き物だと思い床の間に置いた。
こうしてまんまと鬼どもの屋敷に入った五分一どんは、打出の小槌を手に取ると、一目散に逃げ出した。ところがこれに気づいた鬼どもが後から追いかけてくる。そこで五分一どんは打出の小槌を振り、自分の体を怪力を持つ大男に変えて、追ってくる鬼どもをコテンパンにやっつけてしまった。
五分一どんは意気揚々と村に帰り、村人に打出の小槌を見せた。すると、村人は小槌から大判小判を出してくれと五分一どんにせがみ、ついには出てきた小判をめぐって取り合いをする始末。この醜態を見た五分一どん、こんな物を人間が持っていてはロクな事にならないと考え、打出の小槌を大黒様に預けることにした。
そこで五分一どんが大黒様の社の前でこれまでの経緯を話すと、社の中から大黒様が現れた。大黒様は五分一どんの誠意を褒め、七福神の一人になるように言う。こうして五分一どんは福の神の仲間入りをして、その名も布袋様と名付けられたということだ。
スズメどんの鬼征伐 / 鹿児島県
昔々、種子島にスズメどんが住んでいました。
スズメどんは毎年卵を生み、子を育てて居ましたが、子供を育てる度に恐ろしい鬼がやって来て、子供をみんな食べてしまうのでした。とうとう堪え切れなくなったスズメどんは鬼退治に出かける事にしました。
藁しべを1本鉢巻きの代わりに頭に巻いて、スズメどんが意気揚々と歩いて行くと、途中で仲間を鬼に踏みつぶされたマテバシイの実と、兄貴分のまち針を折られた縫い針と、兄弟を喰われたムカデと、更にモクズガニとべったぁ(牛のふん)と荒縄と臼が仲間に加わり、一緒に鬼退治に行く事になりました。
途中、川に行きあたると臼が船代わりになって皆を渡し、やっとの事で鬼のすみかである鬼が島に辿りつきました。鬼は出かけていて留守でした。スズメどんと仲間達は相談して、マテバシイの実は囲炉裏の灰の中に、縫い針は囲炉裏の縁に、ムカデは味噌瓶の中に、モクズガニは水桶の中に隠れ、べったぁは出入り口にへばりつき、荒縄と臼は出入り口の上に控えました。
やがて鬼が小脇に魚を抱えて戻って来ました。鬼が捕らえた魚を焼いて食べようと火をおこすと、灰の中からマテバシイの実がはじけて鬼の鼻っ面を潰しました。鬼が驚いているとスズメどんが現れ「喰われた子供の仇打ちだ、今日こそ思い知れ!」と叫びながら頭をつつきました。鬼が「何を小癪な!」とスズメどんを追うと、囲炉裏端の縫い針を踏みつけて大怪我をしました。傷口に味噌を塗ろうとするとムカデに指を噛まれました。水で冷やそうとするとモクズガニに挟まれました。
進退きわまった鬼が逃げようとするとべったぁを踏みつけて滑り、夢中で出入り口に下がっていた荒縄を掴んだ拍子に臼が頭上に転げ落ちてきて頭をしたたかに打ちました。流石の鬼もすっかり参ってしまい、「命ばかりは助けてくれ」と泣き叫びながら逃げてしまいました。
こうして、鬼退治はスズメどんと仲間達の勝利に終わりました。その後スズメどんは無事に子育てしたと言う事です。
今でも種子島にはスズメが沢山いますが、あれは御先祖様の武勇伝を語り継いでいるのかも知れません。 
■地方・田舎のある処 

 

くわず女房
メシを食わない女なら嫁にする、と言っていた男の元に飯をくわない女が嫁に来た。
確かに、この嫁は顔の口からはメシを食わなかったが、男が居ない間に頭のてっぺんにある大きなお口で米をがんがん消費した。
それを目撃した夫が女に離縁を突きつけると、嫁は鬼女に戻って夫を樽に入れて連れ去ろうとする。夫は何とか逃げ出し、菖蒲の葉の中に身を隠した。
追ってきた鬼女が菖蒲の葉を怖がり一命をとりとめた。それから、鬼は菖蒲に弱いとして、魔よけに菖蒲を飾るようになった。
おしろい花の谷
ある山村に貧しい婆に育てられた美しい娘「かえ」がいました。19歳の時、婆に先立たれとうとう一人になってしまいましたが、かえを以前から恋しく思っていた作三という青年が、これを機会に嫁になってくれぬかと、毎日かえを口説きました。
かえはお高くとまっているわけではないのですが、作三の言葉を受け入れる気は無いようでした。作三は「よし、おれも男だ。夜中に眠っているかえを布団ごとさらって来よう」と決心して、夜が更けるのを待ちました。やがて東の空が白み始めた頃、かえの家の戸がそっと開き、中から旅支度をしたかえが出てきました。
かえは、まだ暗い中をスタスタと歩き続け、やがて作三の知らない所へきました。こっそり後を付けていた作三は、少し気味悪く思いましたが、それでもかえの後を付けていきました。やがて、巨大な岩の割れ目に吸い込まれるように入っていったかえを見つけようと、作三も割れ目に頭を突っ込みました。
割れ目の先は、まるで昼間のように明るく、紅と白のおしろい花が咲き乱れる広い野原がありました。広場には、かえと全く同じ顔をした若い娘達が、舞うように動き回っていました。すると、すごい風が吹いて花が舞い上がり、恐ろしい顔をした鬼女が出てきました。
なんと、かえの父親は風で、母親は鬼女だったのです。作三はそれでもいいから嫁にしたいと、大きな声で叫びました。「おおい、かえさーん」こう叫んだ瞬間、目もくらむ大音響で岩が崩れ始めると、作三は気を失ってしまいました。
どれだけの時間がたったのでしょうか。気が付くと作三は見慣れた畑のそばで、かえの膝枕で寝ていました。「目が覚めましたか?そろそろ家に帰りましょう」まるで、かえと作三はもう何年も前から夫婦だったように、肩を並べて歩きました。うららかな良い日和で、おしろい花が咲いていました。
おにのたまご
昔、ある村に太郎べえと次郎べえという男がいた。
ある日のこと、二人は都見物を思い立ち、二人そろって京の都に向けて旅に出た。初めて見る京の街は、何を見ても珍しく、楽しく、二人は夢中で色々な所を見物した。そして、見物も終わりに差し掛かったころ、大きな寺の境内に人だかりが出来ているのを二人は見つけた。
門の外から境内をのぞくと、お坊さんが何やら白くて丸い物を人々に配っている。どうやら人々は、これを目当てに集まっているようだ。この坊さまが配っている物は、当時まだ都でも珍しい、唐渡りの饅頭(まんじゅう)という物であった。
二人が境内をのぞいていると、坊さまがやって来て、二人にも饅頭を一つずつ分けてくれた。ところが二人は、これが何であるか知る由もない。太郎べえは言う。「何かの卵だべか?」すると次郎べえは答える。「オラわかっただ!これはきっと極楽にいる天女の卵だべ!」饅頭を天女の卵だと思った二人は、温めれば中から天女が生まれると思い、さっそく饅頭を懐に入れて温めた。
こうして二人は期待に胸を膨らませながら帰路に着いた。ところが次の日、懐の“卵”から変な臭いがする。二人が取り出してみると、何と天女の卵の表面には青い斑点が現れ、何やら毛のようなものも生えている。こんなに臭くて、毛が生えた物が天女の卵であるはずがない。「これは、青鬼の卵じゃ!この青いボツボツがその証拠じゃ!」
鬼に食われては大変と、二人は卵を踏み潰してしまった。やれやれ、もう少しで卵から鬼が生まれるところだった。でも、これもいい土産話になる。二人は災難を避けたことを喜び合いながら、鬼の卵の話を土産に国に帰っていったそうじゃ。
寿命のロウソク
兄の寿命の蝋燭を再燃させた弟の話
むかし、ある村に仲の良い双子の兄弟がおった。二人はいつも一緒で、兄は弟を『おい』と呼び、弟は兄を『やい』と呼んでおった。
ところがある時、兄の『やい』が病気になった。弟の『おい』が必死に神様に祈ると、神様が現れて「お前に覚悟があるのなら兄の命を助けてやろう。」と言うたそうな。『おい』が神様に言われたとおり家の外に出て手を三回叩くと、天から梯子が降りて来た。
恐ろしさを堪えて『おい』が梯子を登ると、梯子は雲を突き抜けて、ぽかっと広い部屋にでた。部屋の隅には入口らしい扉が見え、その前に赤鬼が一匹いびきをかいて寝ておった。『おい』は恐る恐る扉に近付き、赤鬼のいびきに合わせてそろりと扉を開けた。
次の扉の前には、また鬼がおったが、その鬼は立ったまま目を開けて眠っておったので、『おい』はそっと次の部屋の扉を開けた。そこは暗い果てもない部屋で、数限りないロウソクが赤々と灯っておった。
よく見るとロウソク一本一本にことごとく人の名前が書かれておる。「これは寿命のロウソクじゃ!消える時は人間が死ぬ時に違いない!」と『おい』はうろたえ、無数のロウソクの中から兄のロウソクを探しまわった。やっとの思いで見つけた兄のロウソクは、横ざまに倒れており、今にも消えそうに瞬いておった。
『おい』は焦る気持ちと震える手を抑えつけて、そっと兄のロウソクを立てなおした。「消えるな、やい、生きるんだ。」と、『おい』が呼ぶと、兄のロウソクは大きく瞬きそれから赤く大きく燃え始めた。『おい』は涙を流して兄の名を何度も何度も呼んだ。
「ああ、腹が減った。」と、兄の『やい』が布団から起き上がった。いつの間にか、弟の『おい』は元の家に戻っておった。『おい』は元気になった兄を見て、泣きながら兄のために飯を炊き始めたそうな。 
 
牛鬼

 

(うしおに、ぎゅうき) 西日本に伝わる妖怪。主に海岸に現れ、浜辺を歩く人間を襲うとされている。
非常に残忍・獰猛な性格で、毒を吐き、人を食い殺すことを好む。伝承では、頭が牛で首から下は鬼の胴体を持つ。または、その逆に頭が鬼で、胴体は牛の場合もある。さらに別の伝承では、牛の首で蜘蛛の胴体を持っていたともされる。また、山間部の寺院の門前に、牛の首に人の着物姿で頻繁に現れたり、牛の首、鬼の体に昆虫の羽を持ち、空から飛来したとの伝承もある。海岸の他、山間部、森や林の中、川、沼、湖にも現れるとされる。特に淵に現れることが多く、近畿地方や四国にはこの伝承が伺える「牛鬼淵」・「牛鬼滝」という地名が多く残っている。
各地の伝承
三重県
三重県では牛鬼はひどく祟るとされた。かつて南伊勢・五ヶ所浦の洞穴に牛鬼がいるといわれ、五ヶ所城の城主・愛洲重明が弓で射たところ、その祟りで正室が不治の病となってしまった。これがもとで重明は正室を疎んじ、京から来た白拍子を溺愛するようになった。これにより正室の親元である北畠氏は愛洲氏と不仲となり、愛洲氏を滅ぼしてしまったという。
和歌山県
西牟婁郡の牛鬼淵は、底が海にまで通じており、淵の水が濁ると「牛鬼がいる」といわれた。ここの牛鬼は出会っただけで人を病気に至らしめるという。このようなときは「石は流れる、木の葉は沈む、牛は嘶く、馬は吼える」などと逆の言葉を言うと、命が助かるという。またこの地の牛鬼は、猫のような体と1丈(約3.3メートル)もの尾を持ち、体が鞠のように柔らかいので歩いても足音がしないという。上戸川では滝壺に牛鬼がいるといい、これに影を嘗められた人間は高熱を発して数日のうちに死ぬといわれ、それを避けるため毎年正月に、牛鬼の好物である酒を住処に備えたという。三尾川の淵の妖怪譚では、牛鬼が人間に化け、さらに人間を助けるというたいへん珍しい話がある。青年が空腹の女性に弁当を分けたところ、その女性は淵の主の牛鬼の化身で、2ヶ月後に青年が大水で流されたときに、牛鬼に姿を変えたその女性に命を救われた。だが牛鬼は人を助けると身代りとしてこの世を去るという掟があり、その牛鬼は青年を救った途端、真っ赤な血を流しながら体が溶けて、消滅してしまったという。
岡山県
牛窓町(現・瀬戸内市)に伝わる話では、神功皇后が三韓征伐の途中、同地にて塵輪鬼(じんりんき)という頭が八つの大牛姿の怪物に襲われて弓で射殺し、塵輪鬼は頭、胴、尾に分かれてそれぞれ牛窓の黄島、前島、青島となった。皇后の新羅からの帰途、成仏できなかった塵輪鬼が牛鬼に化けて再度襲い掛かり、住吉明神が角をつかんで投げ飛ばし、牛鬼が滅んだ後、体の部分がバラバラになって黒島、中ノ小島、端ノ小島に変化したという。牛窓の地名は、この伝説の地を牛転(うしまろび)と呼んだものが訛ったことが由来とされる。『作陽志』には、美作苫田郡越畑(現・苫田郡)の大平山に牛鬼(ぎゅうき)と名付けられた怪異が記されている。寛永年間に20歳ばかりの村民の娘が、鋳(カネ)山の役人と自称する男子との間に子供をもうけたが、その子は両牙が長く生え、尾と角を備えて牛鬼のようだったので、父母が怒ってこれを殺し、鋳の串に刺して路傍に暴した。民俗学者・柳田國男はこれを、山で祀られた金属の神が零落し、妖怪変化とみなされたものと述べている。
山陰地方
山陰地方から北九州にかけての沿岸では、牛鬼では濡女や磯女と共に海中から現れるといい、女が赤ん坊を抱いていて欲しいなどと言って人を呼びとめ、相手が赤ん坊を抱くと石のように重くなって身動きがとれなくなり、その隙に牛鬼に食い殺されるという。牛鬼自身が女に化けて人に近づくともいうが、姿を変えても水辺に写った姿は牛鬼のままであり、これによって牛鬼の正体を見破ることができるという。石見(現・島根県)でも同様に、釣り人のもとに赤ん坊を抱えた怪しげな女が現れ「この子を少しの間、抱いていて下さい」というので抱き取ったところ、女が消えたかと思うと海から牛鬼が現れ、しかも腕の中の赤ん坊が石に変わり、あまりの重さに逃げることができないでいたところ、彼の家にあった代々伝わる銘刀が飛来して牛鬼の首に突き刺さり、九死に一生を得たという。牛鬼はほかにも地名由来に関わっている場合もあり、山口県光市の牛島などは牛鬼が出たことに由来する。
高知県
明和3年(1776年)の大旱魃の年に岡内村(現・香美市)の次郎吉という男が、峯ノ川で牛鬼を目撃したという。また同県の民話では、ある村で家畜の牛が牛鬼に食い殺され、退治しようとした村人もまた食い殺されていたところへ、話を耳にした近森左近という武士が弓矢の一撃で退治した。村人たちは大喜びで、弓を引く真似をしながら左近の牛鬼退治の様子を話したといい、これが同県に伝わる百手祭の由来とされる。物部村市宇字程野(現・香美市)に伝わる話では、2-3間の深さのすり鉢状の穴に落ち抜け出せずに泣いている牛鬼を、屋地に住んでいる老婆が助け、それ以来牛鬼はその土地の者には祟りをしなかったという。
愛媛県
宇和島地方の牛鬼伝説は、牛鬼の伝承の中でも特に知られている。かつて牛鬼が人や家畜を襲っており、喜多郡河辺村(現・大洲市)の山伏が退治を依頼された。村で牛鬼と対決した山伏は、ホラガイを吹いて真言を唱えたところ、牛鬼がひるんだので、山伏が眉間を剣で貫き、体をバラバラに斬り裂いた。牛鬼の血は7日7晩流れ続け、淵となった。これは高知県土佐山、徳島県白木山、香川県根来寺にそれぞれ牛鬼淵の名で、後に伝えられている。別説では、愛媛県に出没した牛鬼は顔が龍で体が鯨だったという。同じ「牛鬼」の名の伝承でも地域によって著しく姿形が異なることから、妖怪研究家・山口敏太郎は、水から上がってくる大型怪獣はすべて「牛鬼」の名で呼ばれていたのではないかと述べている。
ツバキの根説
牛鬼の正体は老いたツバキの根という説もある。日本ではツバキには神霊が宿るという伝承があることから、牛鬼を神の化身とみなす解釈もあり、悪霊をはらう者として敬う風習も存在する。またツバキは岬や海辺にたどり着いて聖域に生える特別な花として神聖視されていたことや、ツバキの花は境界に咲くことから、牛鬼出現の場所を表現するとの説もある。共に現れる濡女も牛鬼も渚を出現場所としており、他の場所から出てくることはない。
古典
民間伝承上の牛鬼は西日本に伝わっているが、古典においては東京の浅草周辺に牛鬼に類する妖怪が現れたという記述が多い。
鎌倉時代の『吾妻鏡』などに、以下の伝説がある。建長3年(1251年)、浅草寺に牛のような妖怪が現れ、食堂にいた僧侶たち24人が悪気を受けて病に侵され、7人が死亡したという。『新編武蔵風土記稿』でもこの『吾妻鏡』を引用し、隅田川から牛鬼のような妖怪が現れ、浅草の対岸にある牛島神社に飛び込み、「牛玉」という玉を残したと述べられている。この牛玉は神社の社宝となり、牛鬼は神として祀られ、同社では狛犬ならぬ狛牛一対が飾られている。また「撫で牛」の像があり、自身の悪い部位を撫でると病気が治るとされている。この牛鬼を、牛頭天王の異名と牛鬼のように荒々しい性格を持つスサノオの化身とする説もあり、妖怪研究家・村上健司は、牛御前が寺を襲ったことには宗教的な対立が背景にあるとしている。
室町時代には、浄瑠璃で語られた『牛御前伝説』が知られる。平安時代の豪族・源満仲のもとに産まれた娘は、牛の角と鬼の顔を持つために殺害されかけるが、女官が救い出して山中で密かに育て、牛御前と呼ばれるようになる。満仲は息子で妖怪退治の勇者・源頼光に始末を命じる。牛御前は関東に転戦し徹底抗戦、隅田川に身を投げ体長30メートルの牛鬼に変身して頼光軍を滅ぼしたという。
『枕草子』において「おそろしきもの」としてその名があげられており(148段)、また『太平記』においては源頼光と対決した様子が描かれている。
怪火としての牛鬼
関宿藩藩士・和田正路の随筆『異説まちまち』には、怪火としての「牛鬼」の記述がある。それによれば、出雲国(現・島根県北東部)で雨続きで湿気が多い時期に、谷川の水が流れていて橋の架かっているような場所へ行くと、白い光が蝶のように飛び交って体に付着して離れないことを「牛鬼に遭った」といい、囲炉裏の火で炙ると消え去るという。これは新潟県や滋賀県でいう怪火「蓑火」に類するものと考えられている。
また因幡国(現・鳥取県東部)の伝承では、雪の降る晩に小さな蛍火のような光となって無数に蓑に群がり、払っても地に落ちまた舞い上がり着き、やがて蓑、傘ともに緑光に包まれるという。
実在する牛鬼の遺物
徳島県阿南市の賀島という家では、牛鬼のものと伝えられる獣類の頭蓋骨が祠に安置されている。これはかつて賀島家の先祖が、地元の農民たちの依頼で彼らを苦しめる牛鬼を退治し、その首を持ち帰ったのだという。
福岡県久留米市の観音寺にも牛鬼の手とされるミイラがある。康平年間(1063年)に現れた牛鬼のもので、牛の首に鬼の体を持ち、神通力を発揮して近隣住民を苦しめ、諸国の武士ですら退治をためらう中、観音寺の住職・金光上人が念仏と法力で退治したものという。手は寺へ、首は都へ献上され、耳は耳納山へ埋められたという。耳納山の名はこの伝説に由来する。
香川県五色台の青峰の根香寺には、牛鬼のものとされる角が秘蔵されている。これは江戸時代初めに青峰で山田蔵人高清なる弓の名手に退治された牛鬼とされ、同寺に残されている掛軸の絵によると、その牛鬼は猿のような顔と虎のような体を持ち、両前脚にはムササビまたはコウモリのような飛膜状の翼があったという。この掛軸と遺物は、現在では諸々の問題により一般公開されておらず、ネット上でのみ公開されている。
祭礼の牛鬼
愛媛県の南予地方、とくに宇和島市とその周辺の地域等においては、地方祭において牛鬼(うしおに)と呼ばれる山車が町を練り歩く。由来は前述のように牛鬼を神聖視する説のほか、伊予国の藤内図書と蔵喜兵ノ尉という人物が牛鬼を退治したという話、徳島県海部郡の牛鬼を伊予の人物が退治したという話、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に加藤清正が朝鮮の虎を脅すために亀甲車を作った話など、諸説ある。
形態 / 基本形は竹組みの亀甲型の本体に、頭(正式名称:「かぶ」)と尾(同:「剣」)を取り付けたものである。「かぶ」は、数メートルの竹の先に取り付けられ、反対側の先に取り付けられたT時型の取っ手(同:「しゅもく」)で自由に動かすことができる。これを扱うのは名誉とされる。「剣」は、本体内部でロープで結ばれている。これを大勢がかついで練り歩く。時に、「かぶ」と「剣」を激しく揺らぶらせ、また回転して、気勢を上げる。ただし、ぶつけあう、いわゆる「けんか」は全く行われない。本体は大別して、棕櫚をかぶせたもの(これが原始系とされる)と、黒・赤などの布をかぶせたもの(発展系とされる)の二つのタイプがある。大きさは棕櫚の方が小さめである。発展系の中には金色に輝くものもある。なお「子供が牛鬼に頭を噛んでもらうと、賢くなる」という言い伝えがあり、担ぎ手が休んでいるときなどは、近隣の者が子や孫を連れてきて、頭を噛んでもらっている。
祭りと牛鬼 / 牛鬼は宇和島地方の祭りの主役である。特に、7月22日〜24日に行われる和霊大祭では、宇和島市内のみならず、山間部や高知県側(西土佐村)からも牛鬼の出場がある。宇和島市の職員や、各地区で牛鬼保存会がつくられている。また、秋祭りにおいても牛鬼が出る(小規模な地方祭や、西予市明浜町など)。愛媛県を代表する祭りとして、新居浜市の太鼓台、西条市のだんじりとともに、各地のイベント等に出場することがある。宇和島市とハワイ州ホノルル市や愛媛県とハワイ州の友好姉妹都市の関係で毎年6月第1金・土・日にホノルル行われるまつりインハワイでは、丸穂牛鬼保存会と宇和島市役所牛鬼保存会の有志が宇和島牛鬼保存会として参加している。南予地方では神輿の先駆けと家の悪魔祓いの役をするという。また、佐田岬地域、西予市三瓶町などでも、祭礼に牛鬼が登場する。
歴史 / かつては、愛媛県の久万高原町の付近にも牛鬼はあったとの記録が残っているが、今日では残っていない。
その他
牛鬼の面(かぶ) / JR予讃線・宇和島駅の構内に牛鬼の「かぶ」が飾られている。このほか、宇和島地方の郷土料理店などに牛鬼の「かぶ」を模したものが飾られることがある。松山市内の宇和島料理店でも「かぶ」を見かけることがある。
菊間の牛鬼 / 今治市菊間町の加茂神社の秋の祭礼には東予地方では唯一、牛鬼が出場する。黒い布をかぶせた丸胴でやや大ぶりのものである。

愛媛県以外でも、奄美大島では「ナマトヌカヌシ」という牛神信仰祭があり、八角八足八尾の星形のまだら模様を無数にもつ牛の妖怪神(農耕神)が海から上がり、チャルメラのような大声で叫んで篝火の間を徘徊し、島人は地に頭をつけて迎えるという。だが実際には作り物の神であり、本土人に言われるのを島人は忌み嫌うという。
長崎県南高来郡(現・雲仙市)では「トオシモン」、愛媛県宇和島では「ウショウニン」、鹿児島県日置郡市来町(現・いちき串木野市)では「ツクイモン」の名で同様の牛鬼、牛神祭が行われている。また同じく大隅半島の鹿児島湾沿いの村では「ウンムシ(海牛)」の名で、黒い牛の化け物が海から這い上がり徘徊するという。このウンムシの現れる時期は盆の後の27日と決まっているため、その日にはこの地方の人々は海に出ることを避けるという。
妖怪漫画家・水木しげるは、牛鬼の背後には牛に関する古代インド神として、大自在天の化身である伊舎那天や閻魔天が関係しており、また近隣に菅原道真(= 天満大自在天)を祀った天満宮があることが関係していると推測している。 
 
百々目鬼 / 百目鬼

 

(とどめき、どどめき。百目鬼(どうめき)とも) 鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』(巻之下 明)に記された妖怪。石燕による解説文には「函関外史(かんかんがいし)云(いわく) ある女生れて手長くして つねに人の銭をぬすむ 忽(たちまち)腕に百鳥の目を生ず 是鳥目(ちょうもく)の精也 名づけて百々目鬼と云 外史は函関以外の事をしるせる奇書也 一説にどどめきは東都の地名ともいふ」とある。「ある女」から「百々目鬼と云」までは「盗癖のある女性の腕に、盗んだ鳥目(金銭)の精が鳥の目となって無数に現れたのでこれを百々目鬼と呼んだ」との意味だが、銅銭は中央の穴が鳥の目を髣髴させるために鳥目の異名で呼ばれており、「百目鬼」「百目貫」「百目木」などと書いて「どどめき」「どうめき」と読む地名が日本各地にあることから、百々目鬼はこの銅銭と地名から石燕が連想した創作妖怪と解釈されている。また、「鳥目」は、別に「御足」と呼ばれることもあり、「足が付く」という洒落から出来た妖怪と言う説もある。
また、栃木県宇都宮市には藤原藤太秀郷が百目鬼と呼ばれる鬼を退治したとする伝承がある。秀郷に致命傷を与えられた鬼は本願寺の智徳上人の引導によって成仏し、その最後の地を百目鬼と呼ぶようになったという。解説文の「どどめきは東都の地名ともいふ」の「東都」を宇都宮と仮定し、百々目鬼はこの百目鬼をモデルにしたとの可能性も示唆されている。この伝説にちなんだ百目鬼面と呼ぶ瓢箪を加工した郷土玩具があり魔除の面として親しまれている。
百目鬼伝説
平安時代中期、常陸国(現在の茨城県)、下総国(現在の千葉県)に領地を持つ平将門という地方領主がいた。将門は地方政治が乱れているのを嘆き、これを正して自ら新皇(天皇)を名乗るが、朝廷からは地方役所(国府)に逆らった者とみなされ全国に追討命令が出された(平将門の乱)。当時下野国の押領使であった藤原秀郷(田原藤太)はこの命令を受けて将門軍と幾度にも亘って剣を交えるが苦戦を強いられる。秀郷は下野国に戻った折、宇都宮大明神に戦勝祈願を行い一振りの聖剣を授かり、これを持って引き返し将門軍と再び戦闘を繰り広げ、ようやくこれを討ち取ることが出来た。この功績をもって、秀郷は朝廷から恩賞として下野国司に任ぜられ、さらに武蔵国司・鎮守府将軍を兼務することとなった。
秀郷は下野国・宇都宮の地に館を築き、ある日その近くで狩りを行った。狩りの帰り道、田原街道・大曽の里を通りかかると老人が現れ、「この北西の兎田という馬捨場に百の目を持つ鬼が現れる」ことを告げられた。秀郷が兎田に行って待っていると、丑三つ時の頃、俄かに雲が巻き起こり、両手に百もの目を光らせ、全身に刃のような毛を持つ身の丈十尺の鬼が現れ、死んだ馬にむしゃぶりついた。秀郷は弓を引いて最も光る目を狙って矢を放った。矢は鬼の急所を貫き、鬼はもんどりうって苦しみながら明神山の麓まで逃げたが、ここで倒れて動けなくなった。鬼は体から炎を噴き、裂けた口から毒気を吐いて苦しんだため、秀郷にも手が付けられない状態となった。仕方なく秀郷はその日は一旦館に引き上げることとした。翌朝、秀郷は鬼が倒れていた場所に行ったが、黒こげた地面が残るばかりで鬼の姿は消えていた。
それから400年の時が経って、室町幕府を立ち上げた足利氏が将軍となった時代、明神山の北側にある塙田村・本願寺の住職が怪我をするとか寺が燃えるといった事件が続いた。その中、智徳上人という徳深い僧が住職となると、その説教に必ず姿を見せる歳若い娘がいた。実はこの娘こそ400年前にこの辺りで瀕死の重傷を負った鬼の仮の姿で、長岡の百穴に身を潜め傷付いた体が癒えるのを待ち、娘の姿に身を変えてはこの付近を訪れて、邪気を取り戻すため自分が流した大量の血を吸っていたのであった。本願寺の住職は邪魔であったため襲って怪我を負わせたり、寺に火をつけては追い出していたという。智徳上人はそれを見破り、鬼は終に正体を現した。鬼は智徳上人の度重なる説教に心を改め、二度と悪さをしないと上人に誓ったのであった。
これ以降、この周辺を百目鬼と呼ぶようになったという。今も宇都宮の明神山の西側には「百目鬼通り」という名称で残る。
別説では秀郷が鬼を討った直後、火を吹きつつ苦しむ鬼に秀郷が近づけないでいるところへ智徳上人がやって来て、数珠を振るいつつ「汝、我が法力をもって得脱せよ」と唱えると、火がやむと共に鬼の百目が消えて人間の姿となったので、秀郷はその死体をその地に葬ったともいう。 
百目鬼2
現在の県庁の東側塙田の一部を「百目鬼」と呼んでいるが、百目鬼の地名の起りとして、「百六で有名な長岡に住んでいた鬼が、鬼の世界から抜け出したいと思い、塙田に現在もある本願寺へかよい仏門に帰依したところ、ついに人間界に人間として生まれかわることができた。ところが、その鬼は百匹の鬼の頭目であったことから「百目鬼」と呼ばれ、いつしか百目鬼が人間に生まれかわることができた本願寺周辺を百目鬼という地名で呼ぶようになった。」という話がある。
この話しを、もっと詳しくしたものと考えられる次のようを逸話がある。
平安時代のなかごろ、田原藤太藤原秀郷が宇都宮に館を築いたといわれるころの話しです。
ある日の夕方、秀郷が、田川の方へ歩いていくと、突然、白髪の老人が姿を現し大曽という部落の北西にある兎田という馬捨場で、待っていてほしいと告げました。秀郷は、その場所でしばらく待つと、3m余りもある大きな鬼が現われ、死馬に食いつきました。50mほど離れた所から様子を見ていた秀郷は、やがて満月のように弓を引きしぼり、鬼の胸板を射通した。逃げる鬼を追っていくと、明神山の後方に倒れ伏していました。鬼の体からは火炎が吹き出し、耳もとまで裂けた口からは黒い毒気を吐くため、近寄ることはできず、城へ引きあげた。翌朝、出向いてみるとその姿はなく、その場所は落雷に会ったように、ものすごいものでありました。
それから約400年後、足利将軍の時代に、塙田村の本願寺に、住職が定住すると火事がおこるとか、ケガをするということが必ず生じました。そこで、決まった住職はおかずにいましたが、智徳上人という徳の高い坊さんが住職として住むことになり、熱心に説教するようになりました。
すると、その説教に、毎日必ず姿を見せる若く美しい女性がいましたが、その正体を上人は見抜きました。秀郷に胸を射抜かれた鬼で、長岡の岩山で病気の治療をしていましたが、ようやく全快したので、むかしの威力を得るために、この場所で流した血を吸い取らねばと毎日釆ていたのでありました。住職が寺にいたのでは邪魔になるので、火をつけたり、坊さんを傷つけたりしていたということでした。正体を現した鬼は、毎日話を聞いているうちに上人を寺から追い出せなくをったと、角を折り、指の爪を取って上人に捧げました。
それから、この付近を「百目鬼」と呼ぶようになったのです。 
百々目鬼3
小銭を盗む女、腕に無数の鳥の目が!?
その昔、生まれつき腕の長い女性がいた。俗に手癖が悪く盗人を働く人間のことを「手長」などと言うことがあるが、彼女もその例に漏れず、腕が長いのをいいことに、スリを働いて荒稼ぎしていた。ところで、昔の銭は真ん中に丸い穴が開いていて、まるで鳥の目のように見えたことから「鳥目(ちょうもく)」と呼ばれていた。盗癖のあるこの女性だったが、やがて腕に次から次へと無数の鳥の目が現れたという。これは鳥目(=穴あき銭)の精の仕業であるとされ、それ以来、彼女は百々目鬼(ドドメキ)と呼ばれる妖怪になった。
百々目鬼は、鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』に登場する。そこには、着物の袖を捲りあげて、無数の目がついた腕を見せる女の絵が描かれている。
函関外史(かんかんがいし)云(いわく)ある女生れて手長くして、つねに人の銭をぬすむ。忽(たちまち)腕に百鳥の目を生ず。是鳥目(ちょうもく)の精也。名づけて百々目鬼と云。外史は函関以外の事をしるせる奇書也。一説にどどめきは東都の地名ともいふ。『函関外史』には「ある女性は生まれながらに手が長く、常に人の銭を盗んでいた。しばらくすると腕に100個の鳥の目が現れた。これは鳥目(銭)の精である。名付けて百々目鬼と呼ばれた」とある。『外史』は箱根よりも外側のことを記した奇書である。一説によれば「どどめき」は江戸の地名とも言う。鳥山石燕『今昔画図続百鬼』「百々目鬼」より
ちなみに、百々目鬼は、鳥山石燕の創作妖怪であると考えられている。また、『函関外史』という書籍も現存していない。もしかしたら、この本すらも鳥山石燕の創作かもしれない。
この鳥山石燕の描いた絵からの連想なのだと思うけれど、近年の妖怪関連の書籍などでは、百々目鬼は、鳥の目がたくさんついた腕を人々に見せて驚かせる妖怪と解説されている。水木しげるの描いている百々目鬼の絵にも、道すがら、彼女の腕を見せられて驚いて慌てふためく人々が描かれている。
ちなみに宇都宮には100個の目を持つ百目鬼(ドウメキ)という鬼の伝説が残されていて、この鬼との関連が議論されている。 
藤原秀郷 (ふじわら の ひでさと)
出自を藤原北家魚名流とするのが通説だが、「実際には下野国史生郷の土豪・鳥取氏で、秀郷自身が藤原姓を仮冒した」という説もある(あるいは古代から在庁官人を務めた秀郷の母方の姓とする)。
俵藤太(田原藤太、読みは「たわらのとうだ」、「たわらのとうた」、藤太は藤原氏の長、太郎」の意味)という名乗りの初出は『今昔物語集』巻25「平維茂 藤原諸任を罰つ語 第五」であり、秀郷の同時代史料に田原藤太の名乗りは見つかっていない。由来には、相模国淘綾郡田原を名字の地としていたことによるとする説、幼時に山城国近郊の田原に住んでいた伝説に求める説、近江国栗太郡田原郷に出自した伝説に求める説など複数ある。
秀郷は下野国の在庁官人として勢力を保持していたが、延喜16年(916年)隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族17(もしくは18)名とともに流罪とされた。しかし王臣子孫であり、かつ秀郷の武勇が流罪の執行を不可能としたためか服命した様子は見受けられない。さらにその2年後の延長7年(929年)には、乱行のかどで下野国衙より追討官符を出されている。唐沢山(現在の佐野市)に城を築いた。
天慶2年(939年)平将門が兵を挙げて関東8か国を征圧する(天慶の乱)と、平貞盛・藤原為憲と連合し、翌天慶3年(940年)2月、将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定。平将門の乱にあっては、藤原秀郷が宇都宮二荒山神社で授かった霊剣をもって将門を討ったと言われている。平将門の乱において藤原秀郷が着用したとの伝承がある兜「三十八間星兜」(国指定重要美術品)が現在宇都宮二荒山神社に伝わっている。
複数の歴史学者は、平定直前に下野掾兼押領使に任ぜられたと推察している。この功により同年3月従四位下に叙され、11月に下野守に任じられた。さらに武蔵守、鎮守府将軍も兼任するようになった。
百足退治伝説
近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。その夜、美しい娘が藤太を訪ねた。娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えたものであった。娘は龍神一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。
藤太は快諾し、剣と弓矢を携えて三上山に臨むと、山を7巻き半する大百足が現れた。藤太は矢を射たが大百足には通じない。最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治することができた。藤太は龍神の娘からお礼として、米の尽きることのない俵などの宝物を贈られた。また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたという。
秀郷の本拠地である下野国には、日光山と赤城山の神戦の中で大百足に姿を変えた男体山(または赤城山)の神を猿丸大夫(または猟師の磐次・磐三郎)が討つという話があり(この折の戦場から「日光戦場ヶ原」の名が残るという伝説)、これが秀郷に結びつけられたものと考えられる。
また類似した説話が下野国宇都宮にもあり、俵藤太が悪鬼・百目鬼を討った「百目鬼伝説」であるが、これも現宇都宮市街・田原街道(栃木県道藤原宇都宮線)側傍の「百目鬼通り」の地名になっている。
「三上山を7巻き半と聞けばすごいが、実は8巻き(鉢巻)にちょっと足りない」という洒落がある。これは古典落語「矢橋船」などで用いられている。 
 
阿久留王伝説

 

推理作家 内田康夫は、「中央に侵略される地方」といった構図を歴史的な背景として、幾つかの作品を作っている。最近では、『十三の冥府』(実業之日本社 2004年1月)などもその類である。いわゆる『記紀神話』をベースとした日本の歴史に対し、中央政権が国土を統一する過程で、駆逐されていった地方政権(その多くが「鬼」であったり、「土蜘蛛」であったりするが)の側から、その経過を見るとどうなるのか、まさにそれは「侵略」そのものではないか。内田作品は、名探偵浅見光彦が事件を解決していくおもしろさとともに、そんな視点を読者に与えてくれる。当君津地方にも、同様な言い伝えがあった。それが、阿久留王(「アクルオウ」と読む)の伝説である。
阿久留王とは、鹿野山を本拠地とする、まさに中央政権にとっては「鬼」にあたる、君津地方を支配する王であった。君津市六手(「むて」と読む。平成17年3月まで、筆者の通勤経路であった)に生まれ、別名六手王と言った。支配地域を拡大する阿久留王に対し、景行天皇の命令でかの有名な日本武尊が征伐のために登場してくるのである。
日本武尊については、弟橘姫命の悲劇的な話とともに、各地に吾妻神社があったり、木更津をはじめとして、各地の地名の由来となったりと、当地方と深い関係のある神話に登場する人物(神かな)である。

白鳥神社は、日本武尊・弟橘比売命を祭神とし、厄除開運、家内安全、生業繁栄をはじめ、吉凶禍福のお告げを授ける神として知られています。
伝説によれば、景行天皇の皇子である日本武尊が、天皇の命により、鹿野山を拠点として猛威をふるっていた阿久留王を征伐するため、東国へ下ったといわれます。
途中、相模から上総に渡ろうとして、走水(三浦半島浦賀付近)のあたりにさしかかったとき、暴風雨に遭遇し、船は先に進めなくなりました。このとき、妃の弟橘比売命が、波風の平穏を海神に祈りながら海中に身を投じたところ、海は静まり尊は無事上総国にたどり着き、阿久留王を征討して民生の安定をはかったといわれています。
日本武尊が亡くなったのち、白鳥となって鹿野山に飛翔してきたといわれ、住民がその徳をしのび、白鳥神社を創建したと伝えられています。(後略)

『千葉県の民話』の「鬼泪山の悪郎塚-君津市-」は、「むかしむかしのことだ。鹿野山のおく深く、鬼のようにおそれられている大男の悪郎がいた。ほんとの名まえはだれも知らないが、悪路王ともいった。人びとは米や麦をうばわれ、牛や馬までもぬすまれたりしたから、心の底からこの大男をにくんで、ただ『悪郎』とだけ呼んでいた」といった書き出しで始まり、以下、この「悪郎」を「正義の味方」日本武尊が退治する様子や地名の由来を数ページにわたって紹介している。しかし、考えようによっては、日本武尊は侵略者なのである。君津市六手では今でも、阿久留王は「鬼」ではなく、住民のことを思う大変優れた文武両道の豪族であったといい伝えられている。
話を戻そう。阿久留王と日本武尊軍との戦いは、最終的には日本武尊軍の勝利に終わるが、その戦いの跡が各地に地名となって残っている。いや、実際はその逆で、地名を伝説になぞらえているのかもしれない。袖ケ浦市吉野田を流れる小櫃川の支流である「鑓水川」は、日本武尊軍が血に染まった鑓を洗い流した川であるというし、また、同じく吉野田の「鬼塚」は、阿久留王軍の兵士を葬った場所であるという。富津市の「鬼泪山」は、阿久留王が涙を流し命乞いをした場所で、近くを流れる「染川」はもとは「血草川」あるいは「血染川」といい、阿久留王の流した血で真っ赤にそまったことから付けられたという話が伝わっている。富津市の「千種新田」の海辺は、もとは「血臭浦」といったらしいのだが、これは、戦いの後にこの海辺から血のにおいが立ち上ったからだという云い伝えによる。同じように、君津市周南地区の「皿引」は、もとは「血引」といい、傷ついた阿久留王が、血を流しながら通り、まるで血を引きずっているように見えたことから名づけられたという。
右下の写真は、神野寺から君津市福岡へ下る途中にある、阿久留王の胴体が葬られたといわれる「阿久留王塚」である。神野寺が管理していて、毎月十三日に法要が行われていると説明書きがあった。以前は気づかなかったのだが、道路沿いに左下の写真のように表示板があり、塚まで小道が整備されていた。二段目の右の写真は、阿久留王の頭部が葬られたといわれる「お八つが塚」のある鹿島台遺跡の写真である。ここは、現在館山道の下になってしまったのだが。阿久留王の墓がいくつもあるのは、日本武尊との戦いに敗れた阿久留王は、六手の地で八つ裂きにされたと言い伝えられているからである。二段目左の写真は、神野寺山門から下る坂で、「アクル坂」というらしい。
上総町(現君津市の亀山、松丘、久留里地区)の教育委員会編集の『上総町の民話』(昭和45年発行)にも、阿久留王伝説に絡んだ話が載っていた。それによると、日本武尊に追われた阿久留王の落武者が亀山地区の山中に逃げてきて、当時沢山いた亀を食い尽くしてしまい、あげくのはてに一人残らず飢え死にしてしまった。その悪霊が谷や山にこもって鬼神となり、亀山の地を不毛の地にしてしまった。そこで、不動明王が現れ、この悪霊を退治するという話である。この話は、『滝原不動尊縁起』に出てくるのだそうだ。なんとかわいそうなことに、阿久留王の兵士たちは、死んだ後も「悪霊」にされてしまっているのである(『君津地方の歴史PartX』「亀山神社と滝と不動明王について」にも関連する記事がある)。また、松丘地区にも阿久留王の敗残兵が逃れてきて、三本松の高台で鹿野山を見ながら自刃したという伝説があった。この地では、村人が哀れんで丁重に葬ったという。大戸見、見付にある「あざみ塚」(「えびず塚」とも)がその墓だといい、その地先には「えぞ掘り」(現在は「えごぼり」)という地名が残っているともいう。
鹿野山麓の鬼泪山(きなだやま)には、「阿久留王伝説」とは別の「九頭龍伝説」が存在しているという。それは、鬼泪山に全長10mで九つの頭と尾を持つ大蛇が棲みつき村人を襲っていた。その大蛇を日本武尊が3日かかって退治した。この時、退治された大蛇が流した血で染まった川が、血染川(今の染川)であるという伝説である。何とも、阿久留王伝説と酷似している話である。きっと、「阿久留王」と「大蛇」は、中央政権にとっては敵対する地方の豪族で、ひよっとしたら同じ豪族であったのかもしれない。こうした中央政権と敵対したか、あるいは戦争を通じて服属した、地方豪族が当地方の「国造」になったのかもしれない。
君津市六手には、阿久留王伝説が生まれる背景となった遺跡が存在しているのである。『周南の歴史PartU』で紹介する鹿島台遺跡である(右上の写真)。同遺跡は、筆者も発掘中に見学させてもらったが、標高40〜70mの地点に存在し、縄文から古墳時代にかけての複合遺跡である。縄文時代の住居址、弥生時代から古墳時代にかけての住居址、弥生時代の環濠、各時代の遺物などが多数出土している。とりわけ注目されるのは、弥生時代の環濠であろう。まさに、「戦争」から集落を守るための施設なのである。古墳時代に入りこの地は生活の場でなく、墓地のみの場所になったというが、この「戦争」の記憶が阿久留王伝説の下地になったと考えているのだが、どうなのだろうか。今でも君津市六手地区では、「鹿島台は六手地区の発祥の地」だと信じられていることを付け加えておく。
『君津郡誌』によると、この伝説は、桓武天皇の頃の坂上田村麻呂が東夷平定した時に、「賊主悪路王」を「誅斬」したことが、誤って伝えられたのかもしれないとあった。いずれにしても、構図は同じである。中央政権が地方を支配下に置く過程で、生まれた伝説であるという点で。
最近知ったのだが、岩手県平泉にある坂上田村麻呂が創建したといわれる窟毘沙門堂の縁起に「悪路王」が出てくる。以下、達谷窟毘沙門堂のホームページから縁起の冒頭部分を引用してみる。ここにも中央に反逆する「悪路王」が存在していたことが分かる。

一千二百年の昔、悪路王、赤頭、丸等の蝦夷がこの窟に塞を構へ、女子供を掠めるなど暴虐の限りをつくし、国府もこれを制することが出来なくなった。そこで人皇五十代桓武天皇は坂上田村麿公を征夷大将軍に命ぜられ、蝦夷征伐の勅を下された。對する悪路王等は達谷窟より三千余の族徒を率いて駿河国清見關まで進んだが、大将軍が京を発するの報せを聞くと、武威に恐れをなし窟に引き返し守を固くした。
延暦廿年(八0一)大将軍は窟に籠もり毒矢を雨らす蝦夷を激戦の末打ち破り、悪路王、赤頭、丸の首を刎ね、遂にこれを平定した。大将軍は戦勝は毘沙門天の御加護と感じ、その御禮に京の清水の舞台を模ねて、九間四面の精舎を創建し、百八躰の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所とし窟毘沙門堂(別名を窟堂)と名付け、桓帝御願の御寺とした。(以下略) 
 
妖怪百談

 

緒言
余、先年、古今の書籍をさぐり、東西の学説に考え、四百余種の妖怪を集めきたりて、これにいちいち説明を与え、両三年前その全部を編纂して、世に公にするに至れり。これを『妖怪学講義』と名づく。そのうちには実怪あり、虚怪あり、偽怪あり、誤怪あり、仮怪あり、真怪あり。人為的妖怪、これを偽怪と名づけ、偶然的妖怪、これを誤怪と名づけ、自然的妖怪、これを仮怪と名づけ、超理的妖怪、これを真怪と名づく。これ横的分類なり。もし縦的分類によらば、「総論」「理学部門」「医学部門」「純正哲学部門」「心理学部門」「宗教学部門」「教育学部門」「雑部門」の八大科となる。しかして今、余が『妖怪百談』一名「偽怪百談」と題して、ここに集録するところは、横的分類に従い、『妖怪学講義』中より偽怪、誤怪の種類に関する例証を抜抄せるものなれば、これを『妖怪百談』と称するより、むしろ「偽怪百談」と名づくるを適当となす。けだし、『妖怪百談』は総名にして、「偽怪百談」は別名なり。しかるに、世の妖怪は十中八九まで偽怪より成るをもって、ここに「偽怪百談」を題して『妖怪百談』と名づけり。今、もし「偽怪百談」を結了するを得ば、他日さらに、『妖怪学講義』中より真怪の種類を抄出して、「真怪百談」を編集すべし。
世人、あるいは余を目して極端の妖怪排斥家となすも、余はむしろ極端の妖怪主唱者にして、世界万有ことごとく妖怪なりと固執するものなり。ただ、余が世人とその見を異にするは、従来一般に認めて妖怪となすものは、真の妖怪にあらずして偽妖怪なり。しかして真の妖怪は、世人の全く知らざるところにありて存すべしというにあり。
それ、鏡面の塵を払わずんば、その真相を認むるを得ず、月下の雲を払わずんば、その清光に接するを得ざるがごとく、偽怪の妄を排せずんば、真怪の実をあらわすを得ず。ここにおいて、「真怪百談」にさきだちて、「偽怪百談」を編成するに至れり。ゆえに、「偽怪百談」を読むもの、誤りて余を消極一方の破壊論者となすなかれ。余は、一方において消極的に破壊するも、他方において積極的に建設せんことを期す。人、もしその実を知らんと欲せば、請う、「真怪百談」の出ずるを待て。 
第一談 天狗の奇話
民間の妖怪談中には、幽霊談、狐狸談、天狗談、最も多し。しかして、三種とも偽怪、誤怪の加わることことに多く、事実の真偽を鑑定することはなはだ難し。今その三者中、まず天狗の怪談につきて述ぶるに、天狗そのものは獣にもあらず、人間にもあらず、鬼神にもあらず、実に一種不測の怪物なり。これに関する怪談は古今の書中に散見せるも、その事実ははなはだ疑うべきもの多し。左に、『雲楽見聞書記』に出だせる天狗の奇話を示さん。(『雲楽見聞書記』は上下二巻より成り、写本にて世に伝わる。著者の号を雲楽と名づくるも、その姓名をつまびらかにせず。一説に、江戸日本橋辺りの差配人なりという。本書は随筆体の実事談を集めたるものにして、文化年中の筆記にかかる)
寛保の末つかたのことなりしが、江戸橋茅場町に有徳なる商人、手代、年季の者まで十二、三人も召しつかい、なに暗からず暮らせしあり。子供三人まで持ちしが、二人は早世して、当時ひとり息子にて、利発の生まれつき、親たちの寵愛おおかたならず。月よ花よと楽しみありしときに、この息子いったい器用にて諸芸通達し、中にも平生囲碁を好み、ただこれにのみ心をゆだねけるが、あまりに心を労しけるゆえにや、ふとわずらいつき、労痎のごとく引きこもり、人に逢うことさえいといける。よって両親心遣いして、医療さまざまに尽くしけれども、さらに験なし。しかるに親類のうちより、この病体に妙を得し医師を伴いきたり、この薬力にてしあわせにだんだんと平癒して、今は常体のとおり全快せしかば、両親のよろこび、とびたつばかり。連らなりし人々、召使等まで万歳を唱えけり。
この病体全く碁にこりかたまりてそれよりのことなれば、碁はまずやめにして、気を転ずることよしと、歌、三味線にかえしなり。息子の友達寄り集い申すよう、「われら二、三人申し合い、ゆさんがてら箱根へ湯治に赴く催しなり。貴所にも保養のため、連れはわれわれなれば、同道しかるべし」と勧めけり。なるほど、よろしかるべしと親たちへ達せしところ、行きたくば、ともかくも心任せにとあるゆえに、早速相談きまり、出立の用意とりどりにて、支度調い発足しけり。ほどなくかの地へ着せしところ、連れのうちに病人とてはなし。いずれも保養のことなれば、湯は付けたり、浄瑠璃、三味線のみにて、毎日の楽しみいうばかりなし。連れのうちにて申し出だしけるは、「この土地に地獄という所ありと聞く、見たし」と言うより、しからばとて、おのおの連れ立ち行く。この節、かの息子をも勧めしが、なに思いけん、行くまじとのことなり。よって後へ残りける。地獄めぐりに行きし人々は、帰りてそのはなしなどして興じける。
それより一両日過ぎて、息子ふと思いけるは、みなみな地獄を見物せしが、なんとかしてその節は行かざりしが、ここへ来て見ざるも残り多ければと思い、友だちにもはなさず、供をも連れず、ただ一人地獄をさして赴きしが、人にも問わず、心拍子に五七町のことなるべしと思い出でしところ、道を取り違え行きしが、問うべき人にも逢わざれば、これまで来たりむなしく帰らんもいかが、行きつかんことはよもあるまじと行くほどに、日は夕陽に及ぶ、空腹にはなる、コハいかにとはるかの岳に上り見渡せば、かすかに五七軒の家居の見ゆるさまなれば、なににもせよあの人家まで行きつくべしと、方角は分かたねども、もしくは三島の辺りにてもあらんと思い、まずその方を心がけ行くほどに、しあわせとその里と見し所もほど近く、二、三町にも見えければ、道を急ぎてようようにかしこに来たり。ここかしこと五七軒を見れども、餅、団子を売る体の家も見えず、いかにすべしと立ちたりしが、とある家に五、六人集まりて碁を打ちておる内へはいり、「御免下され、火を一つ借用」と、空腹にてタバコ機嫌はなけれども、寄りつくしおに言いければ、安きこととて差し出だす。かたじけなしと火をかり、腰打ちかけておれども、いずくにもある習い、碁に打ちかかりし人はもちろん、見物までも碁に見とれ、かの男に挨拶する者も、とがむる者もなし。
しかるに、われも元来好きの道なれば、その盤面を見るに下手どもにて、心の内に腹を抱えるほどのことにてありしが、じっと押しひかえておりしが、碁を打ち終わりければ、かの者申すよう、「あなた方にはよき御慰みなり」と申しければ、みなみな申すよう、「そのもとはいずくの人にて、なにとてここへは来たられしとぞ」と問う。答えていうよう、「拙者は江戸表の者、箱根へ湯治に来たりしが、地獄を見物せんと出でしが、道に踏み迷い、かくのしあわせなり」と答う。「それは気の毒なり。はや暮れも近ければ湯本までは帰られまじ。あなたも碁好きと見えたり、一ばん打ちたまえ」とあるを、「仰せのとおり好きには候えども、下手にて候」と例の卑下の言葉に、「下手とありても江戸衆のことなれば、さはあるまじ。われらお相手つかまつるべし」と申すに、一人進み出でて打ちかかりしが、まず客なればとて白石を渡し、打ちけるところ二目の勝ちなり。どれどれわれら替わるべしと入りかわり打ちしところ、またこのたびも二目の勝ちとなり。中に気の付く者申すは、「お客は知らぬ道を迷いあるき、さぞ空腹にもあるべし」と、あり合わせの膳を出だす。こなたにも望むところなれば、辞儀に及ばず。所望してまず腹内も丈夫になり、さてみなみな申すよう、「まず、今宵はここに止宿ありて打ちたまえ」とて、新手を入れかえ、七人を相手として打ちしところ、甲乙なしにみな二目の勝ちとなり。この者ども胆を消し、「誠に希代の碁打ちかな。とてもわれらが相手にはならず、先生を招きうたすべし」とて、そのうちより一両人迎いに行く。
この先生というは、ここより十町ほど脇に住んで、業は医師を立てて、近郷に続く方なき碁打ちと沙汰して、この者ども、みなかれが門弟なり。よって五里十里脇よりも聞き伝え、好きなる人は打ちに来たるとなり。かの者どもの告げによりて、先生は取るものも取りあえず、ここへ入りきたる。その形相、年のころは六十有余とも見えて、白頭の総髪、髭も白く、眼中するどくして、衣類は絹太織、浅黄小紋の単物、縮緬のはおりを着し、朱鞘の大小を横たえきたり、「珍客の御入来とて、招きに応じ参りたり」と、座中へもあいさつあり、客人へも初対面のあいさつ終わりて、「さて、囲碁をいたさるる由、お相手になり申すべし。承りしところ、ことのほか御能達のよし、まず初めてのことなれば、互い先にて参るべし」と、口には言えど、心にはなんのへろへろ碁、ただ一番に打ちつぶしくれんずと思い、盤面に向かい始めしところ、さしたる好味の手も見えねども、ややもすれば危うきことたびたびなり。負けてはすまずと一世の肺肝を砕き打ち上げしところ、先生の方一目の負けとなり。よって、先生も途方に暮れて言葉なし。
しかれども、碁の家筋というにもあらざれば、ぜひなく客の方へ白石を渡し、自身は黒石を取りて打ちけるが、また一目の負けとなり。それより、だんだん一目ずつ置き上げ打ちけるところ、八目まで置き打ちけるに、とかくして各一目ずつの負けとなり。ぜひなく井目置き、これにてはいかないかな負けることあらじと、一生懸命と日ごろ念ずる神々へ心願こめて打ちけるに、相かわらず一目の負けとなり。先生はじめ有り合う人々興をさまし、口を閉じ互いに顔を見合わせ、なににたとえん方もなく茫然たるありさまなり。かくするうち九つ過ぎにもなりければ、「まず休みたまえ、明日湯本へおくるべし」とて、その夜は止宿いたさせ、翌日になりて右の者ども四、五人にて道を送り行くほどに、とある所にて「あの見ゆる所湯本なれば、この道筋を直に行けば出ずるなり」とよくよく教え、「御縁あらば重ねて」といとまごいして別れけり。
それより湯本へ帰りしところ、旅宿にては大騒ぎ。大切の預り息子、昨日より出でて帰らざれば、手分けしてたずぬるといえども、地理をも知らぬ他国のこと、いずれを何国とわかつべし。連れの者どもはみな立ちかかりて、かの息子をしかるやらよろこぶやら、泣くやら笑うやら。生死のほども知らず、江戸へ飛脚を立つべしや、なんと言いてよかろうと、とやかくとみな打ち寄りて辛労せしこといくばくぞや。「かようなる迷惑なる目にあいしこと、これまで覚えず」などと口々に言い立てられ、あやまりいりていたりしなり。しかれども、まず別義なく帰られしとよろこび、後は笑いになりて事すみぬ。その後の言い合わせに、帰府してもこの沙汰は一向無言の申し合わせにて、湯治も相応していよいよ堅固にありしなり。
ときにその翌年に至り、その時節になりければ、右の友達訪いきたり、「去年の入湯相応せしことなれば、今年もまた迎い湯に立ち越えんと思うなり。貴所にはおぼしめしこれなきや」と勧めければ、「それは望むところなり」と親たちへ申しければ、ともかくもとあるゆえに、去年のとおり出足せり。かの地に至り四、五日過ぎ、かのことを思い出だし、まかるべしとだれにも相談せず、ある日立ち出でしが、過ぎつるころは難儀せしことなれば、今度はよく覚悟して食べ物等を用意し、かの道に赴き、なるほどかようなる所もありしと心にうなずき、道の分かりのおぼつかなく思う所は枝折りし、または鼻紙取り出だし引き裂き結い付け、または矢立てをとりて石などへ書き記して行くほどに、去年の出でし刻限より早く出でて、ことに食事はたしかなり。道には見覚え等もあれば、前に三島にてもあるべしと見極めしところの岳へは、昼時分に至りぬ。それより、かの所へ行きしは昼過ぎにて、その辺りの家居をのぞきおれども、碁を打ちておる家も見えず。
そこかここかと見回るうち、一軒の家居ここらにてあるべしと思う家を見れば、まず取り付きに一間ありて、そのつぎに広き中庭の体にて土間あり。その所の真ん中に一間半四方ほどの茅ぶきの東屋を建て、この内に四、五尺四方、高さ三、四尺ばかりに土をもて築き上げ、その上へ碁盤をおき、盤の上に碁器を二つならべ、軒には七五三飾り、賽銭箱を置き、この家へはいり、「火を借用申したし」と言い入るうちに、六十ばかりの老人一人ありて、ほかに人も見えず。「心安きことなり。腰かけてゆるゆると休まるべし」と、茶など与えければ、言い寄るしおに時候のあいさつして、そのうえ申すよう、「昨今ながら承り申したきことの候。向こうの方にかざり置かれしは碁盤、碁器と見えたり。自余と違い、神前のかざり付けのように見え候は、いかがのことなり」と不審しければ、あるじ答えて、「もっとものおたずねなり。これにこそしさいあり。この辺りに一人の碁打ちありて、名人の名を取り、近在近郷に並ぶ人なし。よってこの人、自賛に慢じて人を侮り、われならではと思う心絶えず。人々憎むほどなれども、だれあって足元へも寄り付くこともかなわねば、この道を好む者は門弟となりて指南をうけ、上見ぬ鷲の所業なりしが、去年今時分にもあらん、ちょうどあなたさまのようなる人、何国よりともなく忽然と来たって、かれと碁の勝負あり。続けて十番まで負けられ、それより後はぐうの音も出ず、その節人々申すよう、『これは全くただごとならず。
先生あまり高慢なるゆえに、かれが鼻をひしがんと、天狗さまの人に化けて来られしものなるべし』との評判にてありし。それよりのち、所の者、ぜひとらねばならぬと思う無尽か、勝たねばならぬ相撲、なにによらず勝負の願いには、この碁盤へ向かい祈るに、勝たずということなし。はてさて、そのはずなり。目前、天狗さまの御手にふれられしことなれば、そのはずのことなり」と、勢いにかかって物語る。ゆえに、「その天狗はわれなり」とも言われず、口を閉じて帰りしとなり。
これ、ひとり天狗談中に限るにあらず、狐狸、幽霊等の怪談中にも、この種の人怪の加わること必ず多かるべし。
第二談 西方塞がり
愚俗は方位の吉凶を信ずれども、英雄、豪傑に至りてはこれを信ぜず。その一例に、徳川家康公関ヶ原の役に、凶方を犯して勝利を得たることあり。すなわち、『草茅危言』に論ずるところ左のごとし。
関ヶ原大戦に関東御出陣のとき、ある人諌めて、「今年は西方塞がりなれば、方違えをして出でさせたまえ」といいしに、「西、今まさに塞がるゆえ、われゆきてこれを啓くなり」とて、ただちに門出したまい、めでたく御代となりたり、云云。
ちなみに唐太宗の例を掲げんに、太宗出陣のときに、ある人諌めて、「今日は往亡日とて、はなはだ不吉の日なれば、延引ありたし」といいしに、「われ往きて彼亡ぶる日なれば、心配するに及ばず」とて、すぐに軍を出だされ、果たして勝利を得られたりという(あるいは周武王出陣のときに、このことありともいう)。また、ちなみに武田信玄が軍士の迷信を破りたる故事を引用せん。このことは『武将感状記』に出ず。
信玄、信濃に発向のとき、鳩一つ庭前の樹上に来たる。衆、見て口々に私語して喜ぶ色あり。信玄そのゆえを問われければ、「鳩その樹上に来たるとき、合戦大勝にあらざることなし。御吉例に候」とこたう。信玄、鉄砲をもってたちまちその鳩を打ち落として、衆の惑いを解きたまう。
日本にてもシナにても、英雄はみなかくのごとし。世人むしろ英雄を学んで、愚俗を学ぶなかれ。
第三談 英雄の方便
古来、英雄、豪傑にして間々、時日、方位の吉凶を卜するものあり。これ、英雄自ら信ずるにあらざるも、無知の士卒を奨励するの一方便としてこれを利用するなり。ゆえに、『民生切要録』に、「古人、時日、方角の説あるは、多くは貪を使い、愚を使うの術なり。天時、地利の人和にしかざるは、聖賢の格言なり。しかれども、敵におもむく大将、多くの士卒を進退せしむるに、士卒は理を知らざるゆえに、わずかなることに疑いをなし信をなす。ゆえに、三軍の勇を励まさんために、時日の説を借りることあり。かつまた五行相生、相剋をもって事を定むるに、相生を吉とし、相剋を凶とす。しかれども、元来生剋に吉凶なし、云云」とあり。かくのごときは、余がいわゆる政略的偽怪なり。
第四談 疑心暗鬼を生ず
シナの諺に「疑心生暗鬼」(疑心暗鬼を生ず)といい、本朝の諺に「心の鬼が身をせむる」ということあり。『本朝俚諺』に、『〔大〕智度論』によりて解説していう。
『〔大〕智度論』にいう、「むかし山中に寺あり。そのうらの別房に鬼住んで住僧をなやますゆえ、みな房をすててにげ出でしかば、後には住せんというものなし。かかるところに、よそよりひとりの僧きたりて、この房にすまんという。所の人、『この房には鬼あり』といえば、『なにほどのことかあらん。われ、かれを伏すべし』とて、房に入りて住す。その折ふし、またある僧、この房に鬼ありとききて、『かれをしたがえん』といいて房にゆき、戸をひらきて入らんとす。前に来たりし僧、夜陰のことなれば、すはや、くだんの鬼よとおどろき、戸をおさえていれじとふせぐ。後に来たりし僧は、内に鬼ありてわれをこばむとこころえ、しきりにいらんとあらそうに、ついに戸をおしやぶり、双方こぶしをもってうちあいくみあうに、夜ようやくあけしかば、故旧同学の僧なり。たがいにおどろきはじて、あきれおりたり。人おおくあつまり見て、笑うことかぎりなし」とあり。
『謙徳公家集』に
わがために、うときこころのつくからに、かつは心の鬼も見しけり。
『新六帖』に
かくれみの、うきなをかくすかたもなし、心に鬼をつくる身なれば。
世の妖怪は大抵この類にして、心より出ずるものなり。ゆえに、妖怪の巨魁は我人の心にして、妖怪の巣窟もまたこの心なりと知るべし。
第五談 山間の呼び声
目には幻視あり、耳には幻聴ありて、幻聴は幻視より生じやすし。例えば、夜、渓声を聴きて風雨かと驚き、遠く砲声を認めて雷鳴かといぶかるは、みな幻聴なり。今、『民生切要録』に出ずる一例を挙ぐれば、
ある人、山中に呼ぶ声を聞く。その人、声を求めてゆきて渓間のほとりに至る。石間、木葉ふさがりて呼ぶ声のごとし。木葉をとればただ流水潺々たるのみ。また、はじめのごとく石間に置くときは、水すなわち木葉にふれて呼び声のごとし。世間の耳目をまよわして、奇を見、怪に遭うこと、この類なり。学者知らざるべからず。(この話は南秋江『鬼神論』中に出ず)
世のいわゆる妖怪には、この幻聴より出ずるもの必ず多かるべし。
第六談 死体の衄血
人の最も迷いやすきは生死の門にして、古来の妄説、多くは死の現象の解し難きにつきて起これり。まず死体に関する妄説の一種は、親戚もしくは縁故ある者、死体に触るるときは、必ず死人の上に感動を与えて、鼻孔より出血するを見ると伝うるものこれなり。しかるに医家の説明によれば、死体の出血は、親戚の死体に触れし場合に限らず、なにびとにてもこれに触れ、これを動かすときには往々あることなり。また、ことさらに動かさずとも、ときによりては自然に衄血の流れ出ずることありとす。しかるに、親戚にあらざれば死体に触るる場合極めて少なく、また、死体に接近してその面貌を熟視することなきをもって、死体の上にこのことあるを見ざるのみ。また、すでに死体を棺に納め、その体より衄血を出だすことあるも、親族の者にあらざればその蓋を開かざるをもって、そのことに気付かざるのみ。
ゆえに、親族にしてたまたま衄血を見ることあれば、これをもって、死人自ら親戚の来たれるを知るとなすがごとき妄説を生じたるものなるべしという。
第七談 炉中の菌怪
米飯中に味噌粒あれば、人これを怪とす。夜中婦人の孤行するを見れば、人またこれを怪とす。すべてその常に異なるものあれば、これを妖怪となす。これ、あえて不可なるにあらず。しかるに、ただにこれを妖怪視するのみならず、人多く吉凶禍福の前兆となす。これ、余が解することあたわざるところなり。『閑際筆記』に出だせる菌怪の一話は、参考に便なればここに掲ぐ。
古語にいわく、「怪を見て怪しまざれば、その怪おのずからやぶる」と。信なるかな言や。魏元忠、猿狗の異、伊川の尊人、官廨の妖のごとき、歴々見るべし。わが国にもその人なきにあらず。むかし、人家に菌、炉中に生ず。闔家これをみて驚惶す。主人曰く、「灰もまたこれ土なれば、土菌を生ずる、なんぞ怪しまんや。もし、これさかしまに生えば、もって怪とするに足らん」と。菌すなわち★(番+)倒す。主人笑って曰く、「なんじ、わが言を聞きてはじめて★(番+)倒することを知る。なんぞもって人にわざわいするに足らん」と。すなわち、左右をして抜きてこれを去らしむ。後、果たして事なし。
これによりて、草木の怪は怪とするに足らざるのみならず、家の興廃、人の吉凶に関係なきを知るべし。
第八談 御札、天より降る
明治維新の初年に、京阪地方より東海道筋へかけて、神様の御札の降りしことありて、一時世間の大評判となり、大いに騒ぎ立ちたることありき。当時、御札の降りきたりたる家にては、神の御下りになりたるものと思い、この上なきめでたきことに考え、毎日その祝いに来たる人々へ、だれかれの別なく、酒を出だして饗応すること流行せり。その御札の原因につきては、その当時はもちろん、今日に至るまで、実に奇怪、不思議に思いておるものあり。余、かつてこれを実視せる人に聞くに、「これみな人為に出でたるものなれば、毫も奇怪とするに足らず。その証跡は、第一に御札は決して士族の邸や、貧民の家に落ちたることなく、富有の家に限りて降れり。これ、富人は御札の降るを祝して、酒食を衆人に施すも、貧民はなしあたわざるによる。すなわち、酒食の饗応を得んと欲して、人の故意になしたるものなり」と。その後、同じく右の実況を目撃せる人に会し、さらにその原因をたずねしに、「これ全く人為なる証拠には、拙者らも二、三人申し合わせ、おもしろ半分に、夜分御札を降らせに出かけたることありし」と答えり。果たしてしからば、人間の狡知よく神を欺くというべし。後世あにおそれざるべけんや。
第九談 本来東西なし
方位家は方位のことを喋々すれども、方位はもと仮設のものにして、宇宙の体には本来その別なきことは、いずれの天文に考うるも明らかなり。古来、仏教家は左の偈文を唱えり。
迷故三界常、悟故十方空、本来無東西、何処有南北。
(迷うゆえに三界常、悟るゆえに十方空、本来東西なし。いずれの所に南北あらん)
果たしてしからば、方位説は迷いより生ずといわざるべからず。
第一〇談 五行の妄説
方位の可否を論ずるは、もとよりすでに愚なり。五行の吉凶を談ずるも、また愚なりといわざるべからず。五行とは木火土金水にして、その名目は『書経』の「洪範」に出ずるも、これを諸事諸物に配合して、吉凶禍福を判定するに至りたるは、漢以後のことなるべし。わが国にありては、今日なお民間にこれを信ずるもの多きは、余輩の解することあたわざるところなり。その、これを年に配し、日に配し、方位に配して吉凶を談ずるがごときは、いかに信ぜんと欲するも、信ずることあたわず。その判断はあたかも七曜の上において、水曜日には水難あるべし、火曜日には火難あるべし、金曜日には金もうけあるべしと断定するに似たり。だれか、あえてこれを信ぜんや。今、ここに五行家が相生、相剋に与えたる説明を述ぶるに、木生火、火生土等は、これを相生といい、水剋火、火剋金等は、これを相剋という。その相生の説明を見るに、火生土の下に、火にて物を焼けば、みな灰となりて土に帰す。これ、火より土を生ずる理なりとあれども、さらにその意を得ず。例えば、ここに枯れ葉ありとするに、これを火に投ずれば灰となり、灰は土となるをもって、火より土を生ずるといわんか。しかるに、枯れ葉は火に投ぜざるも、そのまま土にうずめて、よく土に化するを得べし。かつ、火はたとい枯れ葉を灰にする力ありとするも、ただその変化の媒介をなすのみにして、決して土を生ずる力を有するにあらず。あるいは火は水を温めて、よくこれを蒸気に変ずることを得るも、決してこれを土に変ずるあたわず。あるいはまた、火は金をとかすことを得るも、金はやはり金にして、火のために土となるにあらず。
果たしてしからば、火土を生ずの理いまだ知るべからず、土金を生ずの解に、土中より金を掘り出だす例を引けり。これ一理あるに似たれども、土をうがてば水をわき出だすをもって、土金を生ずと同時に、土水を生ずともいうことを得べき理なり。あるいは地震にて大地の裂けたるときは、土中より火を噴出するをもって、土金を生ずと同時に、また土火を生ずともいうことを得べき理なり。つぎに、金水を生ずの解に、金を火にてあぶれば、水のその上に浮かぶを見る。これ、金の水を生ずるゆえんなりとす。あるいは砂石をうがてば、水おのずから出ずるをもって、金水を生ずといい、あるいは金をとかせば、水のごとくになるによりて、金水を生ずという等の種々の説明あれども、一つとして理の信ずべきものなし。ある書に、金水を生ずを説明して曰く、「金銀や銅鉄ある所にはみな水あり。諸国の金山を掘るに、水のために妨げられて掘り難きゆえに、金の水を生ずるゆえんを知るべし」とあれども、だれかこれを読みて、一笑せざるものあらんや。その他の相生、相剋の説明、みなかくのごとし。
かかる不道理の説明をもって、今日の人知に満足を与えんと欲するは、今日の人に穴居巣栖を勧むるとなんぞ異ならんや。これを要するに、五行の吉凶鑑定は、その原理とするところの生剋の説明、すでに不道理を極む。なんぞその応用の確実なるを得んや。 
 

 

第一一談 夜、鬼物あり
藤井懶斎、自ら鬼を見たることをその著書中に掲げり。左にこれを転載すべし。
ある人曰く、「いうことなかれ、鬼なしと。われしばしばこれを見る」と。聞く者、もって怪となす。余が曰く、「必ずみな妄ならず。ただし、その見るところのものが己の心の影象にして、ほかより至るものにあらざることを知らざるのみ。余、幼きとき、郷人の子いいて曰く、『某の地、某の所に夜、鬼物あり』と。余、しばしばそこを過ぐるに、ついに見るところなし。この言を聞くに及んで後これを過ぐれば、すなわち聳然として一物を見るがごとし。十余歳にして後また見ることなし」と。晦翁〔朱熹〕、かつて怪を論じて曰く、「人心平鋪着なればすなわちよし。もし做弄すれば、すなわち鬼怪出ずることあり」と。信なるかな。一書に曰く、「人、鬼をおそるるがゆえに人に鬼あり、猪羊、鬼をおそれざるがゆえに猪羊に鬼なし」と。また併案すべし。
その末語、誠に妙なり。人に鬼あるは、人自らこれを迎うるによる。二、三歳の無神経の小児に鬼なきは、全くそのゆえなり。しかして懶斎が幼時鬼を見たるは、その心迎えて幻覚を起こせしに相違なし。
第一二談 幽霊の幻覚
本年一月発行の仙台『東北新聞』に、「内田医学士と幽霊」と題して左のごとく記せり。
第二高等学校医学部教授、医学士内田守一氏は、精神病学を専攻して有名の人なり。氏、かつて酒を被りて夜帰る。途中なんとなく戦慄し、後ろを顧みるに物あり。漠焉として人のごとし。俗にいう幽霊なるものか。学士おもえらく、世に幽霊なる具象的のものあるはずなし。いやしくも学理的の頭脳を有するもの、世の妄信者とともに怪を見て可ならんやと。顧眄数回、注視すれどもその物消えず。学士進めば幽霊また進む。家門に至りてたちまち消ゆ。後、学士このことを挙げて諸生に語りて曰く、「予の怪を見しは事実なり。思うに、こは急性幻覚性妄想と名づくる一種の精神病的現象ならん。この精神病的現象は、不意に急性にきたる。予、その精神の異状を自覚せざる瞬間にかかりたるにて、その去るや、また極めて急劇なる瞬間に去る。これをもって、予はわが精神に異状あるを自覚せず、しかも記憶その他の連続せるよりして、その幻視を忘れざるなり」と。
かく記しおわりて曰く、「思うに教授のこの説は、教授の実験せし現象のほか、多くの不思議、多くの幽霊を退治するに足る、云云」と、記者は評せり。
第一三談 日月の変光
『雑笈或問』に、日月星の光変じて国の凶事を示すということを聞けり。いかにとの問いに答えて、『扶桑異志』を引けり。その文、左のごとし。
大江惟時が弁に、「たとえば、病眼の者灯火を見れば、その光常に変じて見ゆ。正眼の者見れば、常に変わることなし。日月星の光もまたそのごとし。乱起こらんとする国の人見るときは、常に変わりて見ゆべし、治世の人見るときは、常に変わることなし。あに日月星の光に変わりあることあらんや」
これ、外象の変幻は、これをみる人の感覚、精神の状態いかんに応じて起こるとの意にて、ややおもしろき説なり。
第一四談 婚礼および正月の縁起
俗にいわゆる縁起をやかましく言い立つるは、婚礼の儀式と正月の祝賀に、ことにはなはだしとす。例えば結納の目録に、昆布を「子生婦」と書し、柳樽を「屋内喜多留」と書し、鯣を「寿留女」、鯛を「多居」、可被下を「下被可」と書くの類これなり。この「下被可」と書くゆえんは、いったん家を出でて他に稼したるものは、再び家にか{、}え{、}る{、}を不吉とするをもって、文面に返{、}り{、}点を付けて読むを嫌うによる。また、婚礼のときに銚子に蝶形を付くるを例とするは、蝶ののどかなる日に遊び戯るるがごとく、夫婦和合して日を送るを祝する意なりという。あるいは一説に、蚕の蝶になりたるときは、子を多く生むゆえ、子孫繁昌を祝うの意なりという。また、婚礼に蛤の吸い物を用うるは、蛤は数百千を集めても、ほかの貝に合わざるものとして、貞女は両夫にまみえずとの意を含むという。
その他、婚礼の贈り物に用うる水引は、結びきりにして返さざるは、ひとたび嫁したるものの帰らざるを祈るの意にして、婚礼の席に客の帰り去るを、御帰りといわずして御開きというも、帰{、}る{、}を避くるの意なりという。
正月の食品および飾り物もこれに同じ。食品には餅、昆布、煮豆、数の子の類を用う。餅は金持ち、子持ちのモチに通じ、昆布は子を生むと音相類し、豆はマメヤカのマメに通じ、健康の意を寓するなり。また、飾り物には苧、橙、小判、餅等を用う。これ、俗に親代々金持ち「緒や橙金餅」を祝する意なりという。これ、多くは俗人の付会に出ずるも、要するに、儀式の縁起は大抵みな迷信の一種に過ぎず。たとい儀式は迷信より出ずるも、別に利害のなきことなれば、なるべく古来の習慣を守るをよしとす。
第一五談 雪は豊年の瑞
『毛詩伝義』に「豊年の冬必ず積雪あり」といい、本朝の諺に「雪は豊年の瑞」という。朱子の説明によれば、「雪よく豊年をなすにあらず。そのしかるゆえんは、陽気を凝結して地にあり、来歳に至りて発達して万物を生長するをもってなり」というも、これ、陰陽説にもとづくをもって解し難きところあり。もし今日の学説に考うれば、化学上雪多きときは、田地に肥料をとどむるをもって、豊熟をきたすべしとの説明あれども、あえてかく考うるを要せず。およそ冬寒ければ夏暑し、冬多く雪ふれば夏雨少なくして、天候順を得べき理なり。また、冬多く雪ふり寒厳しければ、害虫自然に凍死して、翌年稲類の成長を妨げざるべき理なれば、雪は豊年の瑞と称して可なり。
第一六談 時日に吉凶なし
今日、愚民は一般に干支、五行を時日の上に配当して、吉凶禍福を談ずるも、これ俗間の妄説に過ぎざることは、『梅園叢書』に出だせる諸例につきて明らかなり。
(前略)「武王以甲子興、紂以甲子亡。」(武王は甲子をもって興り、紂は甲子をもってほろぶ)ということあり。周の武王殷をせめて、甲子の日にあたりて殷の紂王をほろぼしたまえり。同じ甲子なれども、武王のためには吉日にして、紂王のためには悪日なり。港にかかる船の東にゆくは、西風を順風といい、東風を悪風という。また、西にゆく船のためには、東風順にして西風不便なり。もとより風に順逆はなく、われゆくに順逆あり。日に吉凶なし、われに吉凶あり。とかく、あしきことをする日はすべて悪日なり、よきことをする日はすべて吉日なり。吉凶あにほかにもとむべけんや。(中略)明の太祖天下を得たまいてのち、朕と年月日時を同じくして生まれたらんものはいかがあるべしとおぼしめし、あまねくたずねたまいしに、一人をもとめきたれり。見たるところ、やせつかれたる野夫なり。「汝、なにを業とするぞ」と問いたまいければ、蜜十三篭をやしないて世をわたる由こたえけるに、このもの、なにごとをかなすべきとて、放しかえしたまいしとなり。(下略)
その文あまり長ければ前後を略す。世の迷信家は、すべからく本書につきて全文を通読すべし。
第一七談 盗難よけの御札と賽銭箱の鍵
ある人の話に、「某神社に盗難よけの御札を出だす所ありていわく、『だれにてもその身にこの札を所持し、もしくはその家に保存すれば、決して盗難にかかる恐れなし』と。しかして、堂内にかけたる賽銭箱に、かたく錠を下ろしてあるを見たり。これ自家撞着にあらずや」と。
第一八談 民間の狐狸談、信憑し難し
民間の狐狸談は、十中八九までは、無根、虚構に出ずるをもって、容易に信憑すべからず。今その一例を挙ぐれば、両三年前のことなるが、ある人突然、余に書を贈りて、栃木県に狐惑の事実ありしを報知せられたり。よって、余はただちにこれをその本人に問い合わせしに、全く無根の談なりき。今、左にその報道の次第を示すべし。
栃木県下某町、開業医某のもとに、真夜中急使来たりて請いらく、「産者、今まさに産せんとしてすこぶる苦悩せり、急ぎ来たりて一診せられたし」と。某、請いに応じ車を命じて、急使とともにその家に馳せてみれば、家は誠に立派なる大家なり。至りしときはすでに産み落とせし後なりしかば、某は事後の薬など与え、うどんの馳走を受け、かつ謝金をも受け取りて帰宅せり。翌朝、所用ありて紙入れの金を出ださんとして開きみれば、なんぞ図らん、謝金はことごとく木の葉ならんとは。怪しみて前夜の道をたどりてその家に至りみれば、車輪の跡は歴々存すれども、家はあらずして茶園のみ。しかして、その茶園に狐の赤子が死しておりたりという。ここにおいて、某は前夜のうどんを思い出だし、家にかえりて吐剤を服し、もってその吐出物を検するに、まさしくうどんなりしに相違なし。もっとも、その前日とか、その近傍に婚礼ありて、打ち置きしうどんが紛失せしことありし由なれば、けだし、このうどんなるべし。当時、この話遠近に伝わりて、人はみな、某は狐にばかされたりと称せり。
このことにつき、寄書者は疑問を掲げて曰く、「狐は果たして人を魅するの術を知るや。果たして狐に人を魅するの術ありとせば、いかなる術に候や。心意にいかなる変化を受くれば、かく狐を人と見、茶園を立派なる大家と見受くるに至るものに候や。魅術の心意上に及ぼす変化のぐあいを承りたし」
余、この報に接して大いにこれを怪しみ、速やかに某町に問い合わせしに、その返書に、御照会の件は全く事実無根につき、御取り消し相成りたし旨申しきたれり。ここにおいて、そのことの全く訛伝、虚構に出でたることを知る。
今日今時の伝説すら信拠すべからざること、それかくのごとし。いわんや昔時の伝説をや。これによりてこれをみるに、古来の狐狸談は、多くは狐狸そのものの人をたぶらかすにあらずして、人の人をたぶらかすものなるを知るべし。果たしてしからば、人間の魔術は狐狸の魔術に勝ること万々なり。ああ、狐狸の輩、なんぞ人間に加うることを得んや。
第一九談 神なお人間に使用せらる
狐狸いかに狡猾なるも、もとこれ獣類のみ。その人間にしかざるは、あえて怪しむに足らず。しかるに、人間以上に位せる神、なお人間に使用せらるること多し。今その一例を挙ぐるに、ある一種の教会にて神壇を設け、これに向かいて祈祷するときは、神その座にくだりきたることを衆人に示さんと欲し、祈祷のたけなわなるに当たり、神酒をいれたる器物に御幣をはさみ込みたるに、その幣たちまち左右に動揺するを見る。すなわち衆に告げて曰く、「これ今、神のくだりて御幣に憑りたるなり」と。衆みな大いに驚く。すでにして一陣の風北窓より吹き入りて、その器物をたおせしかば、その中より鰌の四、五ひき躍り出ずるを見たり。よって衆はじめて、御幣の動きたるは、神の憑りたるにあらずして、鰌の動きたるにもとづけるを知れりという。これ、人為的に属する一種の妖怪にして、いわゆる利己的偽怪なり。果たしてしからば、神仏の怪談も容易に信ずべからず。
第二〇談 投石の怪
民間の妖怪に、なにものか瓦石を投ずるも、さらにその原因を知るべからざるものあり。余はこれを投石の怪と名づく。『続日本紀』、光仁天皇宝亀七年にその怪ありしことを記せる以上は、古代より起こりし妖怪なるがごとし。その怪、近年ことに多きをおぼゆ。余は毎年二、三の地方にそのことあるを聞き、これを探知するに、その原因は大抵みな人為に出ず。
左に、『中央新聞』および『奥羽日日新聞』の雑報を転載して示すべし。
明治二十七年七月発行の『中央新聞』にいわく、「京都上京区元六組北町、織物職薮田喜七郎方にて、去る五日の夜十一時ごろより、毎夜同じ時刻に表裏のきらいなく、にわかに小石の雨を降らし、その所業者をたずぬるも一向見当たらぬにぞ、さては天狗か狐狸の所業か、近所近辺の一問題となりたるより、警察署でもすておき難く、上長者町の警官がわざわざ出張のうえ取り調べたるに、ただ疑わしきは同家の雇い女『おしな』が、その時刻に見えなくなりたるより、もしやと思いてその跡をつけゆくと、果たして『おしな』は、ほど近き竹薮の内に入り、小石を拾いては投げはじめるにぞ。さてこそ正体見届けたりと、ただちに引っ捕らえて取り調ぶるに、元来、この『おしな』は丹波国南桑田郡吉川村、平民菊島市松の妹にて、去る二十五年ごろより右の薮田方に雇われいたるが、ちょうど同家に寄留しおる荒木常太郎に通じおるゆえ、主人喜七郎はこのことをかぎつけて、それとなく小言をいうより、わが身の淫奔は思わず、主人の小言を恨んでいたところ、去る二日のこととか、仕事の不出来より、またまた厳しくしかられた〔る〕を根に持ち、去る五日の夕方、喜七郎が行水しておる折、そっと薮陰から小石を投げしも、喜七郎は『おしな』の所為と気付かず、狐狸のいたずらといいおるに、グッと乗りがきて、それより毎夜そっと脱け出だしては、小石をばらばら投げ付けて、ひそかに鬱憤を晴らせし由、包まず白状に及びたるにぞ。なおその不心得を説諭の上、主人喜七郎へ下げ渡されしとは、女に似合わぬ悪いたずらなり」
明治二十七年八月発行の『奥羽日日新聞』にいわく、「仙台市内良覚院町の石投げ怪聞につきて、再昨日の夜、某氏が実地探検したりというを聞くに、同夜は暑熱のはなはだしきにもかかわらず、納涼かたがた見物に来たるものおびただしく、ために良覚院の細横町は通りきれぬほどなりし。さて、今や怪石の降りきたるかと待つほどもなく、九時三十分ごろに至り二十二番地の地先にて、突然降下せしとて拾い上げたる石塊を見るに、あたかも数年間土中にうずまりおりたりとおぼしく、十分水気を含蓄せる縦四寸ばかりの楕円石なり。探検者はその拾い上げたる人に目星を付け、それとはなしに始終その人に尾行するに、彼はこれを気付きたる風なり。東西南北と群集の中をかけめぐる様子なれば、なおも尾行するに、三十分ほどをへだてその人の右手に当たり、ドシリという音せしが、彼はまたここにも降りたりと、自ら拾い上げて、さも珍しそうに諸人に示しおれり。探検者はますますこれを怪しみて、何気なく群集に押されたる風を装い、突然彼と衝突せしに、彼が左袂には、確かになにやらん堅きもの二、三個入れおけり。よって探検者は、怪聞の原因を左のごとく説明せりと。
一、降下せる石塊は、いつも同一の人間に拾い上げらるること。
一、拾い上げたる人の袂には、石塊の入れあること。
右によりて見るときは、なにも怪しむべきことはなく、営利のために摩利支天社を設立するを目的とするか、または要なきいたずらにて、諸人をさわがし自ら快とする悪者の所為なるべしとなり」
この二種の報道によりて、投石の怪は人為なることを知るべし。 
 

 

第二一談 精神作用の影響
余、これを聞く。某、生来毛虫を忌むことはなはだし。夏日、背をあらわして業を営みおりしに、一人あり、背後より黍の穂を取りて、その肩を撫して曰く、「これ毛虫なり」と。某、大いに驚き、声を発して戦慄せり。後その跡を検するに、毛虫に刺されたると同様に、はれ上がるを見る。精神作用の肉体の上に影響するは、この一例にても知るを得べし。
第二二談 人相見につきての疑念
ある人、一夕余が宅を訪い、談たまたま人相のことに及ぶ。某曰く、「われ、しばしば人相家を訪い、判断を頼みしことあるも、一としてあたりしことなく、人相は全く信ずるに足らずと思いしに、ある年、東京日本橋区の旅店に滞在したりし際、少々心頭にかかりしことありて困りおりたるに、旅店の者しきりに、『この近傍に名高き人相見あれば、一度試みに鑑定を願われてはいかが』と勧むるゆえ、無益のことと思いながら、折角の厚意に対しその家をたずねみるに、戸内に入るやいなやわが顔を見て、『足下は、かくかくのことに苦心しおらるるに相違なかるべし。今日、定めてそのことにつきて鑑定を頼みに来たられたるように見受けらる。足下の年齢は何歳なるべし。足下には郷里に老母あるべし』などと、その言一として的中せざるなく、その神妙に感服して帰舎せり。そののち再三熟考するに、神力ならばいざ知らず、人力にて決してかくのごとき鑑定のできるはずなし。想像するに、人相見と旅店の者と、互いに気脈を通じて、あらかじめ、かくかくの者が、かくかくの鑑定を頼みに来たるはずなることを伝えおきしものかと疑われ、今もってその疑念やまず」といえり。多くの人相見の中には、かくのごとき策略をなせるもの全くなしというべからず。
第二三談 鬼門の方角違い
民間にて迷信せる鬼門の妄説なることは、数書に見るところなるが、『本朝俚諺』に左のごとく記せり。
神異経云、東北有鬼星石室三百戸、共一門〔石牓〕題曰鬼門。広異記云、東海度朔山有大桃樹、蟠屈三千里、其東北曰鬼門。事文類聚云、交趾有鬼門関、其南多瘴癘、去者罕得生還。〔佩文〕韻府云、諺曰若度鬼門関、十去九不還。
(『神異経』にいう、「東北に鬼星の石室三百戸あり。ともに一門石牓に題して、鬼門という」と。『広異記』にいう、「東海の度朔山に大なる桃樹あり。蟠屈すること三千里、その東北を鬼門という」と。『事文類聚』にいう、「交趾に鬼門関あり。その南は瘴癘多く、去る者が生還するを得るはまれなり」と。『佩文韻府』にいう、「諺にいわく、『もし鬼門関をわたらば、十去って九はかえらず』と」)
これらの説をきき、あやまりて日本のこととし、東北のすみを鬼門と覚えたる人おおし。鬼門関とは交趾にある所の名なり。交趾は今の安南国なり。この鬼門というところ、はなはだしき湿地にて、ゆくものかならず病いだして、十に九つは死したるとかや。このゆえに、鬼門にゆくことをはなはだ嫌えり。日本にて忌み思うは、俗にいう方角違いなるべし。
これ、鬼門を日本にて談ずるは、方角違いなりとの説なり。
第二四談 読経の功徳
余が郷里の某、戊辰の際、ひとたび家を出でて軍隊に加わり、数年の間、書信を伝えずして諸方に奔走せしかば、家族はみな戦死せしならんと思い、その家を出立せし日を忌日と定め、毎年これを弔祭しおりしが、はやすでに七年の歳月を経るに至りしゆえ、一夕、故旧、親戚相集まり、僧を迎えて七年忌の法事を営めり。これにさきだちて、某は久しく関東に流浪せしも、一度故郷の父兄に逢わんと思い、まさしくこの日の晩方、読経の最中にその家に帰着せり。当夕集まれる人々は、みな法事、読経の功徳なりとて大いに喜べり。しかれども、これ偶然の出来事のみ。某の家に帰らんと欲して関東を去りたるは、法事にさきだつこと七日前なり。すでに帰路に上りたる以上は、その日に家に帰着すべきは、法事の有無に関せざること明らかなり。あに、これを読経の功徳というを得んや。
第二五談 妖、人によりて興る
『〔春秋〕左〔氏〕伝』に「妖由人興」(妖、人によりて興る)とありて、すべての妖怪は大抵みな人の呼び起こすところなり。すでにその起こるは人による以上は、その滅ぼすもまた人による理なり。ゆえに、『聖学自在』『駿台雑話』等に「妖由人興」の説を掲げ、『学山録』には「妖由人絶」(妖、人によりて絶ゆ)の説を出だせり。人よく妖怪をつくり、またよくこれを滅すとすれば、世の中に人ほどおそるべく、驚くべく、感ずべきものはあらじ。
これ、全く人に心と名づくる一大怪物が宿りおるゆえなり。『華厳経』に「心は巧みなる画師のごとし」とありて、鬼も蛇も神も仏も、みな心よりえがきあらわさざるはなし。あに不思議ならずや。これをもって、古来の聖賢は、もっぱら知をみがき心を正しくすることを教ゆ。『百物語評判』と題する書中に、この意を述べて曰く、
こちらの一心さえただしければ、わざわいにあうべからず。あるいは、武勇のさぶらいは、その武勇ゆえ心動かず、博学の学者は、その博学ゆえ内あきらかなり。戒律の出家は、その戒律によって邪魔きたらず。その道おなじからねども、みな内にまもりあれば、妖怪のものも害をなすことあたわざるべし。
ゆえに世の迷信家は、まずその心を治むることをつとむべし。
第二六談 精神と病勢との関係
一人あり、風邪にかかり、某医師の診察を請う。医師曰く、「これ肺患なり」と。患者大いに驚き、その翌日より病勢にわかに加わり、日一日より衰弱はなはだし。もし、この勢いをもって進まば、ついに危篤を免れず。よって、試みに医師を代えて診察を請いたるに、医師曰く、「これ肺病にあらず、胃病にあらず、脳病にもあらず、心臓病にもあらず、無病なり。自らその無病たるを知らずして重病と思えるのみ」と。患者また大いに驚き、その日より医師の命に従い、服薬を廃せしに、果たして翌日より病勢とみに減じ、大いに快方に進み、数日を出でずして全快せりという。諺に「薬人を殺さず、医師人を殺す」と。病にかかるものは医師を選ばざるべからず。
第二七談 火渡りの効験
一日、ある村に紛失物あり。村内の者の窃取せるに相違なきも、その人を知るを得ず。よって山伏に祈祷を請い、もってその人を発見せんことを求む。山伏、一策を案じていわく、「われ、火渡りの法を行い、村内のものをしてことごとくこれを渡らしむべし」と。かつ告げていわく、「無罪の者は火を渡りても、足を焼害することなく、有罪の者は必ず焼傷を免れず」と。けだし山伏の意は、かく予告して火渡りを行わば、窃取の罪を犯せるものは、自ら恐れてあえて渡らず、必ず最後に残るべし、ここにおいてその人を発見すべしと思えり。しかるに、火渡りを挙行するに当たり、窃盗犯の当人はさらに恐るる色なく、人にさきだちて第一番に火を渡りおわれり。よって、ついにその人を発見するを得ざりしという。山伏の秘術は、気の弱きものに効験ありて、強きものに効験なしと、友人某氏の話。
第二八談 利己的偽怪
世に、利己のために作為せる妖怪はなはだ多し。今、『荘内可成談』の一節を引きてその例を示すべし。
妖怪の家に出ずるというも、十に八九は虚言談なり。先年、近きあたりの寺にもこのことありし。よくよくたずぬれば、実は住持の妾を置き、日暮れよりは人の来たらざらんために、妖怪出ずるといいしとなり。また、白昼に妖怪出でしという家あり。これもその家の乳母、幼子を炉にてやけどしていいわけなく、妖怪出でしゆえ驚きて、かく怪我しはべると、病に臥したる年寄りの主人を欺きしとぞ。また、朝に妖怪出ずるといいし家あり。これは、その家の主人幼稚ゆえ、奴僕が塩、味噌、薪炭等を盗み取るに、下女、婢ども妨げになりしゆえ、早く起きざらんため、かくのごとくいいしとぞ。さあるときは、家のあるじたる婦人などは、ことさら気付くべきことなり。妖怪というは、狐狸の類よりは、人の所為こそ多きなるべし。
これによりて、世間の妖怪の信じ難きを知るべし。
第二九談 稲荷下ろしの拘引
昨年〔明治二十九年〕六月発行の『神戸又新日報』に、「稲荷下ろしの拘引」と題して、神に託して金円を詐取したりし話を掲げり。すなわち左のごとし。
石州者の田中太七というは、俗にいう稲荷下ろしにて、女房「おきぬ」とともに、本年の四月ごろより神戸へ来たり。湊村の内、石井村の島田平四郎が稲荷の信者なるを聞き込み、夫婦して同家へ出かけ、「私には諏訪稲荷が乗り移りおれば、私がいうとおりを守るときは、いかなる望みといえどもかなわざることなし。それが嘘と思うなら、この白紙に金を包みて稲荷に捧げ、一月ないし二月と一心に祈祷せしうえ開いて見れば、五円の金は必ず十円となり、百円のものはきっと二百円になりおること、さらに疑いあるべからず」と、まことしやかに述べ立てて、ついに平四郎を欺き、四十円の紙幣をくだんの白紙に包み、神前に供えさせ、それより太七夫婦は毎日同家に通いて、しきりに祈祷をなしおるうち、いつの間にか中なる四十円を抜き取りて、古新聞紙とすりかえ、知らぬ顔でおりしも、夫婦の金づかい近来メッキリ荒くなりしところから、その筋の目に止まり、一昨日、古港通りの木賃宿に酒を飲んでいる夫婦を拘引して取り調べると、平四郎方の四十円はもとより、このほか同じ手段すなわち稲荷をダシに使って、明石郡新保村の西田順蔵より十五円、津名郡江崎清七より二十円、明石郡前田村(姓不詳)梅吉より二十三円八十銭をせしめ込み、その他、各地の数十カ所において欺き取りしものを集むれば、数千円の金高に上りおりしという。
この事実の真偽は余輩のあずかり知るところにあらざれども、世間にはこの種の悪奸すくなからざるべきをもって、深く注意せざるべからず。
第三〇談 陰陽師身の上知らず
諺に「陰陽師身の上知らず」という。余、卜筮、方位、人相、家相等を家業となせるものを見るに、百人に九十九人までは貧困なるもののごとし。したがって、種々の災害のその身に及ぶこと、他人に異なるなし。これ、過去の宿業といわば、余あえて論ぜず。もし、世の吉凶禍福はその術によりて左右し得らるるものとなさば、余、一言なきあたわず。諺に「論より証拠」ということあり。陰陽師、もしその術を世にひろめんと欲せば、まず、その家運を起こして一身の幸福を円満ならしめ、しかして後に人に説くべし。しかるときは、人をしてその術を信ぜざらしめんと欲するも、天下みなこれに帰して、自然に世間に行わるるに至らん。なんぞ、その術を己の身に実施せざるや。 
 

 

第三一談 眉毛に唾を塗ること
世人、狐にあうときに眉毛に唾を塗れば、惑わさるることなしという。だれもそのなんの意たるを知らず。余、かつて『雑笈或問』と題する随筆を読みしとき、その説明を見たり。すなわち左のごとし。
『禁祠要略』巻二百九十七の五十三枚目に、「清和天皇御八歳のとき、南苑へ御出遊ありしに、狐、御前を走りける。このとき御後見なる忠仁公、『とく魔を伏せたまえ』と申し上げるを、天皇眉を伏せよと間違えたまいて、両の御手をもって両の眉を撫下し、御目をふさぎたまいける。これより、世人狐狸にあうときは、目をふさぐこととなりぬ」とあり。眉毛へ唾を塗ることは、後俗のなし始めしことならん。この忠仁公の辞は、悪魔を降伏したまえということを、魔を伏せたまえとのたまいしなり。
この説によれば、魔を伏せと、眉を伏せとの誤聞より起こるとなす。その果たしてしかるやいなやはしばらくこれをおき、すべて世間の禁厭は大抵みな、かくのごとき意味なきことより起こる。もし、その原因を明らかにせば、抱腹にたえざること定めて多からん。
第三二談 獺の妖
『荘内可成談』に「獺の妖」と題して、左のごとく記せり。
天明年中、鶴岡の内、上肴町の下七日町の橋脇に、髪結いを業とする者ありて、その妻死して七日という夜より、夜ごとに来たりぬ。祈祷などせしかど験なし。このことを聞きて、ある人の語りしは、「明和年中、大山海道、中島成徳院死して夜ごとに来たるゆえ、修験の家なり、さまざまと加持祈祷せしかども験なし。往古、本住持の申されしは、はらめる獺、死人の沐浴の湯を飲めば、必ずその怪異はべるものなり。砂か灰かをまいて足跡を見れば、その後来たらざるものと語られし。川所なり定めて、湯を川へ流せしものならん。足跡を見るべしと教えはべるに、灰を家内にまきおくに、その夜も来たり。翌朝見るに、おびただしく獺の足跡ありて、その後は来たらず。このたびも川端なり、定めて獺なん」と語りし。これをもって案ずるに、江戸本所、御旗本何某、死して夜ごとに来たる。その妻は美女なりしとかや。一年あまりも来たりて後、妻は一子をもうけしといえり。そのころ奇怪のことと沙汰せしに、よくよくたずぬれば、密夫の所為にてありしという。世間、妖怪というもこの類多し。人死して、また来たるの理あらんや。魂魄来たるとも人間のごとくならじ。狐狸などの所為か、多くは人の所為なるべし。
世に妖怪多きは、けだし、その源を究めざるによる。もしこれを究めば、必ずかくのごとき例多からん。
第三三談 白狐、蚕児を盗む
近来、狐狸の怪談中に、白狐、蚕児を盗むの怪あり。地方により、あるいは白狐といい、あるいはオサキといい、あるいは管狐というも、その実一なり。信州は多く白狐と称し、上州は一般にオサキと呼ぶ。これを白狐と称するは、その形狐に似て、その色白きにより、これをオサキと呼ぶは、その尾裂けて数尾を分出するによる。近年、この異獣蚕児を窃取するとの説、もっぱら上信二州の間に行われ、種々付会の説ようやくこれに加わる。これはなはだ疑うべし。第一に、かくのごとき獣の果たして存するやいなやはいまだ明らかならず、いわんやその作用をや。ただし、蚕児の往々その形を失うことあるより、かかる想像を呼び起こすに至れるのみ。余、これを上信二州の人に聞く。ある家にて一夜ゆえなくして蚕児を失えることあり。その翌日、室内を隅から隅までせんさくするに、鼠の驚き出でて逃れ走るを見たり。ある家にて、同様蚕児を失えることありて、警官出張のうえ検閲せるに、その失える場所に鼠糞の残れるを発見せり。よってこれ多く鼠の所為なりといえり。
ちなみに、数年前発行の『国会』新聞「雑報」を抜抄して参考に備う。
目にみるべからずして、この害を被るもの世に多しと聞くはオサキ狐なり。果たして幻妙不可思議の通力を有する動物中に、オサキ狐なるものありやいなやは、われ得て知らずといえども、狡黠鼠のごとき、狐のごとき、まれに見るところの動物なしとはいうべからず。前橋市の北岩神村にては、近年養蚕の時期に際し、一夜のうちに蚕児の夜な夜な減少すること前に異ならざるより、ある家にては断じて養蚕を廃するに至れり。その害を被るは、岩神の一部落通してしかるにはあらずして、ただ松本長吉方、二、三軒に過ぎず。しかして、松本方にては、本年も相変わらずその害にかかるより、ある人の勧めにまかせ、武州コブガ原より天狗を請ぜんとて、先方に至りてこれを祈りしに、その効ありてや、同夜の内に一匹の小動物、屋外にかみ殺されいたるを発見せり。その大きさは通常の鼠より小さく、鼻は豕のごとく、目をたてにしてさながら土竜のごとく、軟毛全身に密生して、尾頭二つに裂けたる奇獣にて、顕微鏡にてこれを検すれば、毛尖に一種の異彩を放てり、云云。オサキ狐とは果たしてかかるものかいなやを知らねど、天狗がこれをかみ殺せしと信ずるなどは笑うにたえたり。
この奇獣は余、某地において見しことあれども、蚕の失せる原因をこれに帰するは信ずべからず。むしろ、その原因を鼠もしくは人為に帰する方やや信ずべし。
第三四談 髪切虫の怪
古来髪切虫と称して、不意に人の髪の毛を截断するものあり。その事実は『宋書』『捜神記』等の書に見ゆるをもって、わが国のみならずシナにもありしに相違なし。わが国の事実は、『嬉遊笑覧』『善庵随筆』『諸国里人談』等の数書に出ず。近年にありて、往々、この怪にかかりし人あるを聞く。俗説によれば、あるいは老狐の所為なりと、あるいは一種の虫なりというも、みな妄説にして考うるに足らず。先年、佐々木政次郎氏はこれを一種の疾病と鑑定せられたり。その証跡および理由は、あまり長ければここに掲げず。よろしく『〔東京〕医学会雑誌』につきて一読すべし。かくして、すでに髪切りは一種の病的なるを知れば、理学の道理によりて説明するを得べく、したがってまた、妖怪とするに足らざるや明らかなり。
第三五談 死体の強直
民間にて人死すれば、おのおの自ら奉ずるところの寺院に行きて、土砂をもらいうけきたり、これを死体の上に載せ置くを例とす。けだし、土砂を載せざれば、死体の筋節強硬となりて、自由に屈伸せしむることを得ずして、入棺の際、差し支えを生ずるがゆえなり。これを死体の強直と名づく。しかして、この土砂は名僧、知識の多く集まりて土砂講なるものを行い、これによりて作りしものなりという。また一説に、土砂の代わりにモロコシ箒にて打つも、同じ効験ありという。また宗旨によりては、あるいは珠数を用い、あるいは袈裟を用うる等、その法あえて一定せるにあらず。すでにその法の一定せざる点より考うるときは、土砂の力によりて死体の軟化するにあらざること明らかなり。もし生理学の説明によれば、死体強直の原因は、筋肉中含むところのミオシン(筋素)の凝固せるによるとなす。ゆえに、一定の時間を経れば土砂をまたず、自然に軟化するものなりという。よろしく生理書につきて見るべし。
第三六談 幽霊の誤覚
余、かつて司馬江漢が『春波楼筆記』を読みしに、その中に幽霊の怪談を掲げたる一節あれば、左にこれを録す。
今より四十年以前のことなり。六郷の川上に毬子の渡りあり。すなわち、マリコ村なり。ここより二十町余行きて、郷地という所の染物屋の亭主は、かねて予に画を学びし弟子なり。九月の末、われをともないて郷地に至る。翌日は雨降りて四、五日も滞留す。そのとき五、六町かたわらに、江戸より来たりおりける者とて、手習いの師匠あり。主人と二人連れして、かの師匠の方へ行きける。夜に入りて帰る。その道に盥山洗足寺という寺あり。これはいにしえ、神祖源君公ここを御通行のとき、老婆の衣類をせんたくしけるを御覧じ、その寺号をお付けなされしとぞ、珍しき名の寺なり。その日の暮れ方、この寺に葬礼ありという。そのことも知らず、夜半ごろ染屋主人と二人通りかかりしに、その寺の門前とおぼしき所に、白き衣服を着けたるものの、腰より下は地よりも離れ、あなたこなたと動くものあり。世にいうところの幽霊なり。われも若年にて、このようなるもの今まで見たることなし。はなはだおそろしく思いけるが、その近辺に酒屋あり、寝入りたるを戸をたたき起こしければ、酒屋六尺棒を手に持ち、「イザござれ、世に化け物のあらんや」といいて、さきに立ちて行く。あとよりオズオズして付きてゆき見れば、葬礼のとき紙にて造りたるのぼりの、木の枝に掛かりたるなり。葬礼のとき、のぼりの木に引き掛けたるを、そのままにして置きける。昼もこの寺の前は樹木茂り、薄ぐらき所なり。ことさら夜分ゆえ、はなはだあやしく見えしもことわりなり。
これ、余がいわゆる誤怪の一種にして、その実、妖怪にあらざるものを認めて妖怪となすものなり。
第三七談 余の実験せし妖怪
光線と音響とは、最も多く妖怪の媒介をなすものなり。余が実験中にもその例あり。余、先年ある家に止宿せしに、夜半ごろ、戸外にあたりて柝声のかすかに聞こゆるあり。人みな狐狸の所為なりとなす。その声、夜ごとに聞こゆるにあらず、雨夜に限りて聞こゆるなり。余、これを試みんと欲し、一夕その声の方向を記憶して、翌朝これをたずねしに、まさしく簷下の雨滴の落つる所に筆立てのごとき竹の筒ありて、簷滴その中に落つるに、その声あたかも柝をうつがごとし。よってこれを取り除きたれば、その夜よりまた柝声を聞かざりき。また、余の一夕ある寺院に泊せしに、深夜、眠り突然としてさめたり。
ときに四隣寂寥として、小音、微響の耳朶に触るるなし。ただ、人の足音のようやく聞こゆるあり。その音、本堂の板の間を下駄にてそろそろと歩くものに似たり。余、ややこれを怪しみしも、必ず他に原因あるべしと想像し、ついに再び夢境に入れり。翌朝、目のさむるを待ち、本堂に至りてこれをみるに、柱にかかりたる大時計のカタカタと鳴る音あり。これ、まさしく余が前夕の妖怪なりしことを発見せり。また両三年前、余の宅にて夜十一時過ぎ、庭前に白色の怪物の横臥せるを見たるものあり。一家の者みな起きてこれを検するに、その夜極めて暗黒にして咫尺を弁ぜざる中に、朦朧たる色の庭の一隅に横たわるを見る。よって燭を携えきたりてこれを照らせば、さらに色も物もともに見えず。ここにおいて、余は光線の作用ならんと信じ、その原因をたずねしに、七、八間離れたる所のランプの光が、戸隙を通過して地上に落ちたるものなるを発見せり。
もし、他の一例を挙ぐれば、余が駒込蓬莱町の寓居は、寺の墓地と墓地との間を通過して出入りせざるを得ず。一夕、下婢出でて食品を買い、家に帰らんと欲して墓畔を通過せるに、墓間、白衣を着たる幽霊現出せるを見たりとて、驚き走りて倒れんとするばかりにて帰り、告ぐるにそのゆえをもってす。余、これを聞き不審にたえず、老僕を命じて実地を検せしむるに、その日埋葬せる死人ありて、墓前に白き提灯をつり、これにろうそくを点ぜしものなることを発覚せり。音響、光線の、妖怪現出の媒介となること、かくのごとし。
第三八談 哲学館の火災
昨年十二月、余が「鬼門退治」と題したる一編の論文を、二、三の新聞に掲載せしことあり。その文中に、「わが家は鬼門に向かいて再三増築せしものなれば、これを鬼門三度破りの家と名づく、云云」の一段あり。世人この段を読みて数日を出でざるに、たちまち哲学館の焼失に会せり。よって遠近、説をなしていわく、「哲学館の焼失はまさしく鬼門の祟なれば、鬼門は決して犯すべからず」と。かえって鬼門迷信家に迷信の兵糧を与うることとなれり。しかるに、当日の実状は全くこれに反せる次第なれば、一言もって世人の誤解を弁明せざるを得ず。まず、当夕火を発したるは郁文館にして哲学館にあらず。哲学館は郁文館に隣近せるをもって、類焼の不幸に会したるのみ。かつ、いわゆる鬼門三度破りの家は、依然として火災を免れ、鬼門に触れざる哲学館校舎および寄宿舎は、むなしく烏有に帰せり。この事実によりて考うれば、哲学館の焼失と鬼門とは全く関係なきこと明らかなり。
第三九談 鬼門の妄説
鬼門の妄説は、余ひとりこれを唱うるにあらず。山片子蘭〔蟠桃〕の『無鬼論弁』〔『夢之代』「無鬼上第一〇」〕の中に、左のごとく論ぜり。
『史記』「黄帝本紀」にいわく、「万国和、而鬼神山川封禅、与為多焉。」(万国和ぐ。しこうして、鬼神山川の封禅は与して多なりとなす)と。これ、鬼神をいうのはじめなり。同「顓頊本紀」に曰く、「依鬼神以制義。」(鬼神によりてもって義を制す)と。これみな山川の神をいうなり。同「注」にいう、「海外経引云、東海中有山焉、名曰度索、上有大桃樹、屈蟠三千里、東北有門、名曰鬼門、万鬼所聚也、天帝使神人守之、一名鬱塁、主閲領万鬼、若害人之鬼、以葦索縛之、射以桃弧、投虎食也。」(『海外経』を引いていう、「東海中に山あり。名づけて度索という。上に大桃樹あり、屈蟠すること三千里。東北に門あり、名づけて鬼門という、万鬼の集まるところなり。天帝、神人をして、これを守らしむ。一名は鬱塁、万鬼を閲領するを主る。人を害するの鬼のごときは葦索をもってこれを縛り、射るは桃弧をもってす。虎の食に投ずるなり)と。これは仏家にいう悪鬼に似たり。
桓武帝のとき、最澄なる僧、この鬼門の説をとりて、「王城の鬼門を守る」とののしりて叡山を開く。この鬼門は桃樹の東北なり。これをわが国の王城に用うべきにあらざるなり。
その余、『山海経』『列仙伝』『三才図会』『訓蒙図彙』のごときは、みな仙、仏、道家の述ぶるところにして、怪談、妄説、冊にあぶる。聖賢の書と同日に語るべからず。日本中世よりいい出だすところの鬼というもの、〔みな〕この悪鬼をさすものなり。
これによりて、鬼門の妄説たるを了すべし。
第四〇談 祥瑞は信ずるに足らず
和漢の書には往々、天象、気運等の人事の吉凶に関係あることを説き、種々の祥瑞あることを説明せり。その吉兆として、あるいは紫雲の見ゆるあり、あるいは甘露の降るあり、あるいは奇草の生じ、異獣の出ずるありと唱うるも、これあえて吉とするに足らず、またあえて凶とするに足らず、ただこれを天地の異象と見るべきのみ。今日の人は、かくのごとき祥瑞を信ずるものなしといえども、古代にありては、その異象のよって起こる原因を知らざりしをもって、上下一般にこれを信ぜり。余、かつて『三余清事』と題する書を読み、その中に甘露の妄説を駁したる一節あるを見たり。その文に曰く、
近事、京師また盛んに相伝う、甘露降ると。一樵夫あり、予に告げて曰く、「これすなわち猥妄なり。春夏の交、葉上の虫糞、夜中露のために濡らさるれば、微液黏滞して軟餳に似たるあり。これをねぶればやや甘し。一軽薄少年あり、これに戯れてもって甘露となせば、すなわち一口百に伝え、百口千に伝え、ついに川騰海沸に至るのみ」と。樵人告げ語ることかくのごとし。予おもえらく、古来、震旦、君臣指してもって甘露醴泉、朱草紫芝、白麟赤雁、神雀鳳凰となすとは、みなまさにこれに類すべし。
これ実に卓見なり。また同書に、祥瑞の信ずるに足らざることを弁じて曰く、「ある人、余に問うあり、曰く、『歴代祥瑞みな信ずべきか』と。余これに答えて曰く、『かの、多く妖妄にして誣に近し。ことごとく信ずべからざるなり』と。また曰く、『儒に真あり俗あり。真儒は祥瑞を説かず、また災異を説かず、孔子これなり』」と。これまた活眼というべし。人、もしその心天に一点の雲影をとどめず、ひとり理想の真月ありて、その清輝を放つときは、天地みな祥光瑞色を呈すべし。なんぞ、一、二の物象につきて吉凶を論ずるを要せんや。 
 

 

第四一談 夜中、大怪物を捕らう
余、先年ある学校に止宿せるとき、同舎の友人某が夜十二時過ぎ、出でて厠に行かんと欲せしに、廊下のそばに大怪物の無言にて立ちおるを見たり。その夜暗黒にして、その状態をつまびらかにするあたわず。怪しみてこれに向かい「なにもの」とたずぬれども、さらに答えなし。しかれども、またあえて去るの気色なし。よって奮然勇力を鼓し、両手を出だしてこれを捕らえ見れば、その物は鬼にもあらず、魔にもあらず、怪物にもあらず、盗賊にもあらずして、炭俵の二個相重なりて、廊下の一隅にありしものなるを知り、図らず自ら吹き出だしたりという。
第四二談 回向院の幽霊
去るころの『読売新聞』に、「回向院の幽霊」と題して、誤怪の一種を載せたり。すなわち左のごとし。
近来、回向院卵塔場辺りへ、白衣をまといたる年若き女の亡霊姿を現出することありとて、近傍の居住者、尾に鰭つけて風説するにぞ、夜更けには同院境内を通行するもの一人もなかりしが、境内居住者掛け茶屋の主人某なるもの、一両日前の夜、二つ目辺りよりの帰途、いまだようやく九時半ごろなりければ、かの幽霊の出ずる時刻にはよほど早し。表門へ迂回するも面倒なれば近道をとらんと、松坂町一丁目横丁裏門を入り、今しも本堂そばを横切らんとしたるとき、鼠小僧墓所石構えの裏手にあたり、女の泣く声聞こえけるに不審を起こし、恐る恐る星の光にすかしてうかがい見れば、このごろの人の噂に違わぬ幽霊なりしかば、さては十万八千の焼死人中、今に成仏せぬやからありと見えたりなど考えつつ、身を縮めてその場を逃げ去り、観音堂際なる同業者某方へ駈け込みて、ありし次第を告げ、幽霊なれば別に子細もなきことながら、万一自殺者などにもあらんには、明日の厄介面倒なり、いかがはせんとためらうところへ、同院台所男、足音高く通りかかるを呼び止め、今みてきたれることを語りたるに、寺男はなにげなくうなずきつつ提灯携え、本堂南方鼠小僧の墓所辺りを見回り、ほどなく某方に立ち戻り、「みなさん、御安心なさい。幽霊は幽霊なるが、生きた、しかも年若の男女二人にて、連れの女が酒に酔い過ぎて歩行もできぬ始末に、男が介抱しておったのだ。二人とも、ツイ近所で見掛ける顔です」と告げ、大笑いにてすみたりと。
いかに恐ろしき幽霊も、正体が分かれば大笑いとなる。
第四三談 臆病は妖怪の種因
臆病の人は、目にいろいろの妖怪を見るものなり。目に見るも、その体あるにあらず。これを幻視あるいは妄覚という。蛇を恐るるものは縄を踏みて驚き、狐を恐るるものは石を見て驚く。歌に「幽霊の正体見たり枯尾花」とあり、諺に「落武者は芒の穂におずる」とあり、俗に己の足音にだまさるるをいう。みな臆病より生ずるなり。昔、晋の謝玄が軍立てして、賊の大勢を討ち敗りてこれを追うに、賊の兵のがれ去れり。その後、八公山の草木の動くを見て、謝玄が軍兵進みきたると思い恐れしことあり。日本にては、平家の軍勢は水鳥の羽音に驚きて敗北せしという。その他、臆病より呼び起こす幻覚はいくたあるを知らず。ゆえに、臆病は妖怪の種因と知るべし。
第四四談 コックリ(狐狗狸)の名義
先年、都鄙の別なく、コックリと名づくる一種の妖術の大いに流行せしことあり。その法は細竹三本を束ね、その上に飯櫃の蓋を載せ、これに軽く三、四人の手を掛け置くに、暫時にしてその蓋動き出だし、竹脚をあげておどるがごとき状あり。これをコックリと名づく。これ、狐もしくは狸、もしくは天狗の来たりてこれに憑るものとなす。けだし、コックリは狐狗狸と国音相近きをもって、その原因を狐、狗、狸に帰するのみ。しかるにコックリの名義は、その動くやコックリコックリと傾くをもって得たるものにして、あるいは一名「御傾き」と名づくるも、その意一なり。これ、アメリカ人の帆走船に乗じて、豆州下田港にきたりしものの伝授せるところなりという。すなわち、その術たるやアメリカ伝来にして、西洋のいわゆるテーブル・ターニングなれば,もとより狐狸、天狗の所為にあらざること明らかなり。
第四五談 御伺いの石
感覚によりて物の軽重を判知するは、はなはだ難しとす。これを重きものと思えば重く感じ、軽きものと思えば軽く感じ、精神の予期のいかんによりて、大いに感ずるところを異にす。今その適例を挙ぐれば、豆州修善寺に源頼家の墓あり。石塔なり。その上石は一般に人の吉凶を卜するに用う。当所の温泉記にいわく、「近代、土人および入浴人も、御石塔の上石を手ずから持ち上げて、軽く上がると重く上がるとを試みて、諸事の吉凶を卜することあり。これを御伺いという」と。余、行きてこれを見るに、その重さおよそ二、三貫目ぐらいありと覚ゆ。ここに入浴するものは、まずその石に向かい、いずれの温泉最も己に適するかを問い、その軽重によりてこれが判断を下し、その最も適すと感ずるものに浴すという。この種のことは、山梨県にも栃木県にも秋田県にもこれありと見えて、余、その報道を得たり。しかるに、かくのごときはみな我人の精神作用より起こるものにして、あえて怪しむに足らざるなり。
第四六談 八幡知らず
下総国八幡村に「八幡知らず」と称する薮あり。この薮は名高きものにして、人ひとたびその中に入るときは、再び出ずることあたわずという。伝説によるに、かつて某侯その奇怪を信ぜず、自らこれを試みんと欲してその中に入りしに、ようやく歩を進むれば、細流あり。その水、清澄にして底を見るべく、潺々として音あり。たちまち官女のごとき者出できたり、侯に告げて曰く、「決してこの川を渡り内に入るべからず」と告げ終わりて立ち去れり。侯、これをあやしみ、ひそかに竹林の中をうかがいしに、その川の対岸に一つの宮殿ありて、人骨その前に山をなすを見、大いにおどろき、よっておもえらく、これ必ず往古よりこの薮に入りて、魔王のために虐殺せられし者の骨ならんと。ついに川を渡らずしてかえりしことありきという。この伝説は全く一種の怪談に過ぎざれば、もとより信ずるに足らずといえども、すでにいにしえよりかくのごとき伝説ある以上は、人みなこれを記憶せざるはなし。これをもって、この薮に入るものは、自己の精神をもってこれを迎え、自ら妖怪を構成するにほかならざるべし。この薮は今日なおその跡を存すといえども、一方は東京より千葉に通ずる往来に沿い、他の三方は田ならびに人家に接し、その薮はわずかに方一町に足らざる所なり。
されば、かかる狹隘なる場所にて道を失うがごときことは、万々あるべきはずなきに、再び出ずるもの少なきは、精神の作用というよりほかに説明の道なけん。しかるに『不思議弁妄』の著者はこれを説明して、この薮の中には有毒のガス鬱積するより、人命を失うものならんといえり。また、『陰陽外伝磐戸開』と題する書中にも、その穴より礜石の毒気を吐くとの説明なり。以上あわせて参考すべし。
第四七談 老樹の怒鳴
大樹の老い去りたるものには、往々怒鳴をなすことあれば、世間大いにこれを奇怪とす。しかれども、これ多くは樹そのものの怒鳴にあらずして、その体内に住する禽獣動物の発声なること明らかなり。今、その一例を挙ぐれば、明治二十八年、尾州丹羽郡青木村字天摩なる神社の境内に、古杉の大樹あり。その樹、毎夜怒鳴し、数日を経てやまず。ついに世間の大評判となり、あるいは樹に魂ありて叫ぶなり、あるいは神に霊ありて呼ぶなり等といいふらし、毎夜遠近より人集まり来たりて山を成す。かくして、ついに警察の探知するところとなり、その樹の体内に空洞ありて、その口を外部に開く所あれば、ここより種々の方法をもって洞内を探り、ついにその内部に梟の巣を作りて住みおるを発見し、数日間の怒鳴は全く樹魂にあらず、神霊にあらずして、梟なることを知れりという。
ちなみに仙台『東北新聞』の報ずるところを掲ぐるに、さる〔明治〕二十六年五月ごろ、福島県石川郡石川町字下泉、鎮守の古槻木にて呷り声せしことあり。人々怪しみしが、ある人朽ち穴の所に黏を塗りおきしに、やがてみみずく二羽捕らわれしという。
第四八談 日本中、犬神最も多き場所
四国および中国筋には、犬神と名づくる一種の妖怪あり。なお、他所の狐憑きのごとし。古来、四国には狐おらずという。ゆえに、その地には狐憑きの名なし。その代わりに犬神あり。これ、四国名物の一つに加えて可なり。けだし、他州に犬神の名を伝うるは、四国より伝播したるもののごとし。余、かつて犬神は日本中、四国最も多しと聞き、つぎに四国中、阿波最も多しと聞き、先年阿波に遊び、犬神を見んことを求む。人ありて告げて曰く、「犬神を見んと欲せば、当国三好郡池田町に至りて求むべし。池田は当国中、犬神の最も多き場所なり」と。よって余おもえらく、日本中犬神の最も多きは四国にして、四国中最も多きは阿波、阿波中最も多きは池田なれば、池田は日本中、最多の犬神地なること明らかなり。余、この町に至らずして、なんぞ東京に帰るを得んやと。よって道を池田に取りて土佐に入ることに決し、その地に至りてこれをたずぬるに、近年、小学教育普及のために、当所唯一の名物たる犬神も年々相減じて、今、容易に見るべからずと聞けり。これによりてこれをみるに、小学教育と犬神もしくは狐憑きとは、全く反比例をなし、二者両立することあたわざるを知るべし。果たしてしからば、教育の効力もまた偉なるかな。
第四九談 老僕自ら狐惑を招く
余が郷里に、人家を離れて一帯の森林あり。古来その中に老狐住すと伝う。その傍らを通過せるもの往々誑惑せられて、家に帰らざることありという。一日、ある老僕その村に使いして、帰路この森林の傍らを通過せるに、日いまだ暮れざるに忽然として四面暗黒となり、目前咫尺を弁ぜず、一歩も進むことあたわず。よって自ら思えらく、これ全く老狐の所為なり。しかず、老狐に謝してそのゆるしを得んにはと、すなわち地に座して三拝九拝するも、依然として暗夜のごとし。老僕当惑して、なさんところを知らず。すでにして、一人その道に来たり会するあり。はるかに一老体の地に座して頓首再拝するを見て、大いに怪しみ、近づきてこれを検するに、頭巾前に垂れて両眼を隠すを見る。よってその頭巾を取り去れば、老僕驚きて不審にたえざるの状あり。これにその次第をたずぬれば、答うるに、老狐のために誑惑せられしと信じたるゆえんをもってす。しかしてその実、老狐の所為にあらずして、自らこれをおそるるのあまり、頭巾の前に垂れて両眼をおおうに至れるを知らざるに出ず。ここにおいて、両人大いに笑って相別れたりという。世に狐惑談多きも、そのうちにはかくのごときの類、けだしすくなからざるべし。
第五〇談 易占を懸念して自殺を図る
新聞には迷信の適例はときどき見るところなれども、いちいち転載するにいとまあらず。今左に、『東京朝日新聞』に出でたる、易占のために自殺をはかりし事項を本文のまま掲載すべし。
婦女は気の小さきが常なれど、かくまで小気にても困ったもの。横浜市花咲町五丁目六十七番地、画工江口源太郎の女房「おきた」というは、十七、八年前、神奈川町字青木町の実家から源三郎のもとへ嫁入りなし、十七歳を頭に三人の子供をあげ、何不自由なく暮らしおる者なるが、至極気の小さきたちにて、つまらぬことをも気にかけ、深く心配するのが常なるところ、近ごろ現住居の地を地主へ引き渡すことになり、他へ移転せねばならぬので、諸所引っ越し先をたずねおるうち、つい裏手の方に空き家ができたを幸い、ひとまずそこへ仮越しをしようと、夫婦相談を取りきめ、ある親族へその話をすると、「引っ越すもよいが、方角というはよほど大切なものゆえ、よくその向きの人に判断してもらうがよかろう」と言われ、
なるほどそうだと、「おきた」は早速ある売卜者のもとへ赴き、方角の吉凶を判断してもらいしに、売卜先生小首を傾け、それは途方もない次第だ、全体、今住んでおる所でさへ鬼門と暗剣殺をおかしておるゆえ、始終よくないことのみあるのだが、今度引っ越して行く先は、一層悪い方角だから、以後、年中病人の絶えるおりはないだろうと、しかつめらしく判断したので、「おきた」は身震いしながら立ち帰り、「ああ、どうしたらよいだろう」と、例の神経を痛め、しきりに気を悩めしより、少し気が変になりしかば、家一同注意を加え、懇ろに介抱を尽くしおり。一昨夜のごときも、本夫源三郎が「おきた」のそばへ臥し、夜もすがら看護をなしおりしうち、翌朝の五時ごろに至り、看護づかれにてわれ知らずトロトロとまどろみ、ほどなく目を覚まして見しに、「おきた」の姿が見えぬよりびっくりし、早速つぎの方なる二畳の座敷へ行って見ると、「おきた」は鼠防棚のうちより出刃庖刀を取り出だし、すでに咽喉へ突き立ておるのでいよいよびっくりし、取りあえず家内一同を起こし、なお警察署へ急訴せしゆえ、ほどなく警官、医師等が出張し、うつぶしおる「おきた」を引き起こし、傷所に検せしところ、突き立つる際手元狂いしため、ただわずかに微傷を負いしのみなれど、なにゆえか、さらに口を利かぬので不審を立て、口中を開かせて検視すると、口の利かれざるも道理、舌先およそ七、八分ほどをたてにきり、出血をみなのみこみいたるものと知れしかば、手厚く治療に及び、そのまま本夫源三郎へ引き渡したるが、まず生命には別条なからんとのこと。
これ、迷信の害ある一例となすに足る。 
 

 

第五一談 天変は人事に関係なし
古来、天に日月星辰の変異あれば、必ず社会国家の上に治乱興亡の変動あるものと信じ、天変と人事とは密接の関係あるがごとくに考えしも、今日にありて、いやしくも知識のいくぶんを有するものは、全くその非なるを知る。『随意録』と題する書中に左のごとく論ぜり。
古今の人、日月星辰の変あれば、すなわち占ってもって人事に関すとなすは、みな惑いなり。すでに日月星辰の変異を見るとき、いまだ必ずしも地上災乱の起こるあらず。地上災乱を起こすのとき、いまだ必ずしも日月星辰の変異を見るにあらず。しかして、その変異と災乱と相会するは偶然のみ、必ず相応ずるにあらず。
また同書に、民間にて伝うるところの水旱予知法の信じ難き一例を示して曰く、
関東の気運、三冬雪ふらざれば明年必ず大水ありと、往々その験あり。しかして、去歳癸丑三冬雪ふらず、歳晩に至りてはなはだ暖かなり。人みないう、「来年必ず大水あり」と。しかして今ここに、甲寅春来雨少なく、夏より秋に至り旱す。秋来風雨、時をもってし、五穀豊熟、さらに三冬雪ふらざるの験を見ず。これまた気運の変なるか。
この論、いまだその理を尽くさずといえども、民間の俗説を説破するの参考となすに足る。
第五二談 偶合はあえて奇怪とするに足らず
世に偶合の例すこぶる多し。例えば、先年〔明治二十四年〕の大津不敬事件は津の字づくめなれども、別に津の字に意味あるにあらず。これ、自然の偶合のみ。その事件の起こりし場所は大津にして、津崎某氏の店前なり。凶徒の名は津田三蔵にして、その本籍は伊勢の津なり。なんぞ津の字の多きや。また、今一例は、近年の変難は、多く十一の数にちなみあることなり。かの大津不敬事件は五月十一日に起こり、大久保〔利通〕内務卿の遭難は明治十一年、大隈〔重信〕伯の難は十一月十一日、森〔有礼〕文部大臣の変は二月十一日なれば、いずれも十一の数に関係あるも、その数に決して変難の意あるにあらざること明らかなり。しかれども世の愚民は、かくのごとく凶事の引き続く場合には、必ず種々の縁起を付会するを常とす。
第五三談 恐情と酔眼より生じたる誤怪
『六橋紀聞』と題する書中に、誤怪に関するおもしろき一話を掲げたれば、左にこれを抄録す。
喜七なるものあり。日田(豊後)の人なり。その主命をもって肥前田代に使いす。これよりさき喜七筮者に逢い、今年の吉凶を筮せしむ。筮者曰く、「四方に利あらず」と。ここに至りて往西のことあり。喜七大いにおそる。母は神にいのり、妻は仏を祭り、涕泣嘆息す。訣飲をもって永別をなす。すでにして家を出でて、数里にして関村に至る。たまたま劇場あり、入りてこれをみる。すでに出ずれば、日暮れて四顧蒼然たり。すなわち酒店を過ぎ、数杯を傾けて陶々として行く。関より志波に至るの間、山高く谷深く、樹木鬱然たり。俗、伝えて魔の住する所となす。ときに月色朦々として、曲逕分かち難し。ここにおいて筮者の言を思い、魔所の名をおそれ、独行悄々として心定まらず。
すなわち奮然として自ら思うに、身はこれ男子にして、かつ一刀を帯ぶ。妖怪ありといえども、なんのおそれかこれあらん。臂をはらってもって進む。たちまちにして陰風颯然たるを覚ゆ。物あり樹間に見ゆ。近づきてこれをみれば一婦人なり。もって魔となし、刀を抜きてこれをうつに、誤りて石に当たる。自ら驚きて地にたおる。人、己の名を呼ぶを聞く。目を開きてこれを望むに、一僧の端厳美麗にして、その頭畔に立つを見る。身、金光を発す、皎として明月のごとし。おもえらく、これ仏菩薩なりと。頭をたたきて命を求む。僧曰く、「よいかな喜七、汝の命は風前の灯より危うし。われもし須叟にして来たらずんば、汝ほとんど鬼吻に罹らん」と。懐を探りて一丸を出だし、これを服せしむ。香気馥郁として、精神とみにさわやかなり。僧曰く、「なんぞ、その創をみざるや」と。これをみれば右手創を被り、鮮血淋漓たり。僧これをして刀を収めて血をぬぐい、これに命じて前行せしむ。喜七慄々として行く。僧、珠を捻じて誦呪し、後よりこれに従う。数里にしてはじめて大路に出ず、云云(以上取意)。
以上は『六橋紀聞』に記せる前半なり。もし後半の意を約して述ぶれば、喜七は樹間に見るところの婦人は魔物となし、後に己を呼び起こせる僧は仏の来現せるものと信じ、人に逢うごとにその不思議を語れりという。しかるに、同書の末段に記するところによれば、関村に医師元遂なる者あり。白ル美秀にして円頂なり。かつて人に語りて曰く、「夜、路上によぎるに、一人の地に臥するを見る。近づきてこれをみるに、酒臭、人に薫ず。刀を持して倒る。右手朱殷、刀傷を被るものに似たり。たまたま丸薬をもたらす。これに一丸を与え、これを大路に送りて帰る」と。また、その村に夫婦相鬩ぐあり。婦、独行して父の家に帰る。途中、賊にあってくるしめらるという。この前後の文を照合すれば、喜七の見るところの婦人は、魔物にあらず、逢うところの僧は、仏の現霊にあらざること明らかなり。しかして、同書の結文に至りていわく、
これによりてこれをみるに、さきに逢うところの者は、みな酔眼糢糊のいたすところにして、これを霊異に託するのみ。世の霊験を説くもの、みなかくのごとし。
これを要するに、喜七の霊異は、恐情と酔眼との二者によりて自ら呼び起こすものなりしは疑いなし。
第五四談 地蔵尊の変位
世の妖怪は、あるいは利欲のため、あるいは政略のために人の作為せるもの多し。しかるに、ときによりては、政略にもあらず、利欲にもあらず、ただ一種の好奇心より生ずるものあり。今、その一例を示さば、ある村落の路傍に石造りの大地蔵ありて、数人の力をあわすにあらざれば動かすべからず。あるときこの地蔵尊、一夜のうちにその向きを変じ、道路を背にして立てり。翌朝、村民らこれを見て不思議に思い、相集まりて故位に復せしに、その夜またその向きを変じたり。かくのごときこと数回に及びしかば、村民らははじめは不思議に思い、なにか地蔵尊の意に適せざることありてしかるなりと考えしも、ようやく疑いを起こして吟味せしに、全く村内に膂力人に絶したるものありて、一種の好奇心より、毎朝、人のいまだ起きざる間になしたることを知るを得たりという。これ、好奇的偽怪の一例なり。
第五五談 不動金縛り
古来、わが国には不動の金縛りと称して、人をして随意に動くことを得ざらしむる術あり。この秘術は神仏の力に帰して、人為にあらずとなせしも、これ、今日のいわゆる催眠術にして、別に多年の修業を積まざるも、その方法だけ一とおり心得ておれば、だれにもできることなり。余、再三、催眠術を施せるものが不動金縛りを行いしを見たり。もし、これを催眠術とすれば、心理学上説明するを得べく、したがって奇怪とするに足らざるなり。
第五六談 二十六夜
俗に六夜待ちと称して、旧暦七月二十六日夜、月出ずるに三体同時に上がるという。これを三尊の来迎と称す。余、いまだ一回も実視したることあらず。友人某の話を聞くに、「二十六夜ごろは月の形弓のごとく、その両端上へ向かい、あたかも角の立ちたる状あり。その初めて海面に現るるや、角の両端まず見え、両体並び立つがごとし。かくして、すでに上がる瞬間に、両体たちまち合して一つとなる。すなわち最初の両体と、つぎの一体とを合して、三体同時に上がると伝うるなり」と。これ、もっともの説なり。
第五七談 わが国のブロッケン山
深山幽谷には、往々光線の反射によりて、空中に一大幻影を生ずることあり。その一例はドイツのブロッケン山の妖怪なり。その山には人の影空中に現出して、忽然一大怪物となり、その人と幻影とは挙動進止を同じくするという。これ、その山上の雲霧いたって密にして、あたかも鏡面のごとく、その面に人影を反射するによるとなす。わが国にも、深山幽谷には必ずこのことあるべし。余、かつて高山に登りし人より、巨大の異人を見、あるいは大達磨、大入道を見たりとの話を聞けり。これ、ブロッケンの怪物と同一の原因によるものならん。山形県人黒沢鼎氏の報知に、月山の仏像のことにつきて、左の説を示されたり。
月山に仏像の現出すると申す所は、俗に御来迎場ととなうる谷間にて、その時間は朝に限りて現る。しかしてその原因は、全く見る人の影なること疑いなし。なんとなれば、一人にて望めば一像を見、十人にて望めば十像を見るなり。けだしその理由は、谷間に濃霧の通過するとき、これに旭光の映ずるありて、人はその間に立つをもって、その霧あたかも鏡面の作用をなし、朦朧たる人影を映出するによる。アメリカのナイアガラ瀑布にもこの現象あり。また他の瀑布にても、ときにこれを見ることあり、云云。
これ、必ずしかるべき道理なり。月山は実にわが国のブロッケン山なるが、ブロッケン山は夕陽によりて人影を東方に見、月山は旭光によりて人影を西方に見る。誠に好一対なり。
第五八談 欠伸の説明
ある人、余に問いて曰く、「俗に欠伸は移ると申して、座中の一人欠伸すれば、必ずこれに応じて数人欠伸するは実に不思議なり。あえてその説明を請う」と。余、これに答うるに、精神に反射作用と連合作用あることをもってするも、毫も解する色なし。よって余は、解しやすき例を挙げて示すにしかずと思い、さらに一問を起こして曰く、「足下は欠伸の移るを知りて、笑いの移るを知らざるか。座中一人笑いを発すれば、満座これに応じて一時に笑うはなんぞや。欠伸にして不思議ならば、笑いは一層大不思議にあらずや」と。彼、すなわち手を撫して曰く、「なるほど、わかった」と。また問いを発せず。
第五九談 死体に毛髪長生すること
人の死体につきては、古来俗間に伝うるところの妄説すこぶる多し。その一例に、爪甲、毛髪は死後といえどもよく生長すという。その説の妄なることは、三宅秀氏の著書に左のごとく弁ぜり。
愚俗の説に、死後においても毛髪、爪甲長生し、あるいは棺内にありてその体勢を変え、あるいは壙中にありて発声することありといい、もってその生活力のなお存せるを埋葬せりとなすは、はなはだ妄説なり。けだし死後、表皮萎銷脱落すれば毛髪長生せるがごとき観をなし、また強直によりてその体勢を変じ、また胃中のガス口内より逬出し、あたかも発声するがごときものあるをもって、この訛言あるなり。
今日、愚民の間には、かくのごとき死体の迷信を固執するものなお多きは、嘆ずべきの至りなり。
第六〇談 神仏の霊験
神仏の霊験はすべて精神作用より起こるというも、また多少物理上の原因なきにあらず。例えば、婦人のごときは平常運動せざるをもって、種々の病症を醸すに至るも、もし朝夕運動の習慣を養わば、必ずその病も平癒すべき理なり。けだし、婦人が病気をいやせんと欲し、毎日神社仏閣へ参詣して、大いに効験を見るがごときは、これを精神作用に帰せざるも、物理の規則に照らして説明するを得べし。例えば、神社仏閣には百度参りと称し、その門より堂内まで百回往返して祈願する法あり。仮にここに胃病の婦人ありと定むるに、一週間あるいは一カ月間、毎日百度参りを行わば、その病も必ず平癒せざるを得ざる理なり。眼病をうれうるものが薬師へ参詣し、清浄の霊水をもってその目をひたさば、これまた多少の効験あるべきは当然なり。毎朝早く起きて神仏に向かい、あるいは礼拝し、あるいは供養し、あるいは高声にて読経するがごときは、知らず識らず養生長寿の術に合す。なかんずく、高声読経は肺を強くするの効ありて、身体の健康に利あるは決して疑うべからず。果たしてしからば、神仏祈念は物理上に考うるも、実際の益あること、すでにかくのごとし。 
 

 

第六一談 地獄の画
古来、世間に伝うる地獄の画あり。これ、画工や小説家の工夫、方便によりて種々に付会せるにもかかわらず、愚民はこれを見て地獄の実景と信ぜり。ゆえに、『出定笑語附録』には左のごとく批評を下せり。
地獄の図というものに、罪人を釜いりにしたるなど種々の仕置きが見えるが、これは漢画史を見るに、呉道子がかきはじめたる趣だが、いかにもそう思われることは、鬼がみな虎の皮の褌をしめておる。されば、川柳に「地獄には虎がしたたか有ると見へ」といってあるごとく、みんな虎の皮だ。しかるに、その罪人はみな日本人にちがいない。これにつきて、また川柳に「唐人を入込にせぬ地獄の画」ともいってあるが、鬼ばかりは唐から雇いにでもするものか、ちとおかしな取り合わせでござる。いずれに〔して〕も釈迦はもとより、天竺人の一向に見たことのないはずの図じゃ。
地獄の説、最初よりかくのごとく奇怪なるにあらず。後の人付会を重ねて、ついに妄誕を極むるに至れり。
第六二談 人為誤りて神異と認めらる
余、一日、依田〔学海〕翁の『(譚の正字)海』を披見せしに、その中に人為的偽怪の一例を載せたるあり。曰く、
田中丘隅(武州八王子の人)、かつて岳母の病を訪う。鱨魚一つを買い、携えて山路を過ぐ。(罾の正字)にて雉を羅するを見る。喜びて曰く、「魚肉は鳥肉にしかず。余、しばらくこれに代えん」と。すなわち魚を(罾の正字)に置き、雉を取りて去る。猟夫、後に至る。驚きて曰く、「(罾の正字)中魚あり、大いに奇なり」と。その徒に与え、謀りて曰く、「神ありて、これに憑るにあらざるを得んや」と。巫を召してこれを問う。巫、ことさらにそのことを張大にす。愚民これを信ず。魚を瓶に飼い、貨を集めて祠を建つ。すでにして風雷大いにおこる。里人、震駭す。巫、ますますおびやかすに神異をもってす。曰く、「享祀をさかんにせざれば、まさにもって大いにその民を害せんとす」と。民ますます恐れ、巫に請うてこれをまつらしむ。すでに期あり。丘隅これを聞きて村民にいいて曰く、「僕に術あり。よく神瞋を鎮す。ただわれのなすところ、これ見よ」と。すなわち、夜ゆきて祠を毀ちて魚を取る。その材を折りて薪となし、あぶってこれを食す。村民大いに驚き、みな丘隅をとがむ。よってそのゆえを告げ、かつ笑って曰く、「世に神と称するもの、多くはこの類なり。神、あに信ずるに足らんや」と。
その事実の有無に至りては、余の知るところにあらずといえども、世間のいわゆる不思議中には、かくのごとき人為的妖怪の加わることなしというべからず。凡百の妖怪中より真怪を発見するは、あに難中の難事にあらずや。
第六三談 山伏の偽怪
『閑際筆記』に、天狗礫の怪を載す。その文に曰く、
近世、東武〔の〕士人の家に夜々飛礫あり。月をこえてやまず。家人数輩、ひそかに舎外にありて終宵これをうかがう。一物黟然として門を過ぐるに、礫すなわち飛ぶことしきりなり。数輩前後ひとしく起こり、そのものをとらえ得、灯をあげてみれば、すなわち人なり。相識るところの山伏が、その家にもって怪あるがために、己をして、呪祷せしめんと欲してしかり。
飛礫の原因は、ついに狐狸にあらず天狗にあらず、人怪なるを知る。
第六四談 盲筮の的中
余、卜筮を知らず、しかして、よく的中するを得。先年、病を熱海の温泉に養いたるとき、楼主いわく、「わが家、近日出産あるべし。請う、筮をとりて男子か女子かを判定せられんことを」と。余、すなわち碁石を握りて、その数偶ならば女、奇ならば男として卜せしに、偶数を得たり。よって判じて曰く、「女子なり」と。その後四、五日を経て出産あり。果たして女子なり。
また両三年前、相州大磯町松林館(今の長生館)に滞在したる際、館主、余に対して、しきりに近来来客の少なきを憂う。一日、余まさに大磯を辞して東京に帰らんとし、戯れに楊子をつかみて筮竹に擬し、本日来客の有無を卜定せしに、十名以上あるべきを知るを得たり。よって余は、館主に告げて曰く、「今日、十余名の来客あらんとす。客室必ず満たん。ゆえに余、早く去りて新客にこの室を譲らん」と。ときに館主は余が言を信ぜずして戯言なりとせしが、余が去りたる当夕、果たして十一名の来客ありたるという。ここにおいて、館主大いに驚き、余に謝状を送れり。余、もとより卜筮家にあらず、また、これを信ずるものにあらず。ゆえに、その卜するや一定の方式によるにあらず。ただ自己流によりてみだりに行いしも、なおよくかくのごとき符合を得る以上は、卜筮の的中はあえて驚くに足らざるなり。
第六五談 暦書の妄誕
『草茅危言』に、民間にて用いきたれる暦書に、上中下の三段を分かち、八将神をはじめ、日の吉凶、方位の開塞等を出だせるは無稽の妄誕なりとて、これを痛論していわく、
(前略) 八将軍などいつの時より書き出だせることにや、暦法にかつてあずかるものなし。多分、道士の方の名目にてもあらんか、ひたすら無稽の妄誕なり。世に中段と称する建、除の名は、暦法に古く見えたることなれども、これまたはなはだ曲説にて、そのほか下段と称する吉日凶日、みないうに足らざることどもとす。また方角の開塞をいうこと、大いに世間の害をなす妄誕なり。さなきだに天下愚昧の民、惑いやすくしてさとしがたきに、暦書にしかと書きあらわし示すゆえ、ますます惑いの深くして、一向にさとされぬことになりゆきけり。嘆ずるに余りあることなり。先王の四誅の一つに、「鬼神、時日をかりてもって衆を疑わすは殺す」とあり。今の暦書の八将〔軍〕、金神は鬼神をかり、中段、下段は時日をかり、みなもって衆人を疑惑せしむるのとがなれば、まさしく先王の誅を犯したるものなり。実に深く制禁を加え、大いに暦書を改めたきものなり。まず巻首の八将軍のところを残らず削りすてて、「期年三百六十日、一切是吉、昼夜百刻十二時未嘗有凶。」(期年三百六十日、一切これ吉、昼夜百刻十二時、いまだかつて凶あらず)と大書し、つまびらかにかな付けをし、そのかたわらに、「天下の人、その家の親、先祖の年に、一度の忌日を凶日として吉事を行うべからず」など、ことわりがきあるべし。あとは毎月の干支、大小、二十四気、土用、日月食など、年分入用のことのみにして、余事をさらりと削りたらば、浄潔の暦書なるべし、云云。
これ、実に卓見なり。今日なお、民間にて古暦のごとく時日の吉凶を記入せるものは、かえって大いに用いらるると聞く。あに驚き入りたる次第ならずや。
第六六談 政略的偽怪
世のいわゆる英雄豪傑は愚民を篭絡し、人心を収攬せんために、ことさらに奇怪なる現象を作為せるものなり。古来、その実例すくなしとせず。今、その一を挙ぐれば、往時、豊太閤秀吉まさに朝鮮を征討せんとし、厳島に至り、百文銭を神前に投じ、もってその勝敗を占いしと伝うるがごときこれなり。そのとき、秀吉自ら祝して曰く、「われにして彼に勝ち得るならば、面するもの多きにおれ」と、すなわち百文銭を投ず。その銭みな面せり。よって衆大いに喜ぶ。これ、あに奇といわざるべけんや。しかるにその実、あらかじめ両銭を糊合して投ぜしなりという。果たしてしからば、あえて驚くに足らず。もし、この類の怪事にして、政略上作為せるものなるを知らざるにおいては、永く不思議となりて世に存するに至らん。
第六七談 鬼髪束針の怪
わが国の史談中に、往時平忠盛、白川上皇に従い、雨夜祇園の社前を過ぎんとして、鬼髪束針のごとき怪物を見し一話あることは、みな人の知るところなり。これ、真の怪物にあらずして、一僧の麦藁を束ねて笠に代え、火を携えて行くところを誤り認めて妖怪と見しものなれば、偶然的妖怪の好適例というべし。
第六八談 下谷の怪談
先年の『都新聞』に、下谷三怪談の一つとして、偽怪の一例を掲げり。
下谷下車坂町三十番地の日蓮宗蓮華寺の裏手なる墓所へ、火の玉が出ずるといい出だしたるより、同寺の住職松田宏盤師がその正体を見届けんとて、一昨夜下僕を従え、午前二時ごろ墓場へ行き見しに、無縁塚よりボンヤリ光の現れしに、さてはと題目唱えながらよくよく見れば、ランプらしきように見ゆるにぞ、近寄れば、果たしてランプに紙を覆いありしと。なにものの悪戯にや。
かくのごときは、人の悪戯に出でたるに相違なかるべし。世に悪戯より起こりたる妖怪定めて多かるべしと考うるをもって、ここにその一例を示せり。
第六九談 妖怪の組み打ち
東江楼主人の『珍奇物語』の中に、妖怪の信ずるに足らざるおもしろき一話あれば、ここに転載せん。
往古より日本にても、西洋にても、冤鬼あるいは妖怪の説ありて、人も往々これを見しなどというものも最も多けれども、これはみな、誑惑癖をなすの妄念より出ずるか、あるいは夢か、あるいは戯造か、さもなければ、暗夜に墓地〔など〕を経過るとき、恐怖のあまり一像を思い出だすかによるものにて、決して真の怪しきものあるべき理なし。ここに一つの奇談あり。某地の野外に土橋ありけるが、この辺りは人家もなく最もすさまじき所ゆえ、往古よりこれを幽霊橋と唱え、雨夜には幽霊の出でしこと、往々ありしなどいい伝え、雨夜にはだれあってここを過る者もなかりしが、ある人よんどころなき用事ありて、雨夜にこの橋を渡り、ものすさまじく思いし折から、たちまち向こうより、頭長く体には毛のごとき白衣を着たる奇怪物現れ出でて、急にわが方へ襲いきたるの様子ゆえ、もはやのがれんとするもかなうまじ、むなしく彼に食わるるより、むしろ力の及ぶ限り防ぐべし、にくき妖怪の所業なりやとひとりささやき、諸手を抜き、不意に躍りかかりて、むずと組み付きければ、妖怪は驚きたる様子にて〔大いに〕さけび、互いに押し合いけるが、妖怪はあやまちて足を踏み外し河中に落ちたり。
ゆえに、人は疾く走りて家に帰り、大いに誇りていう、「われ今、かの幽霊橋にて妖怪に出あい、すでに食われんとせしが、われ、わが力に任せて河中に投げ込みたり」 いまだ話も終わらざるうちに、外より一人びっしょりぬれて入りきたり、色青ざめ声震えていうに、「〔いま〕余、かの幽霊橋を通りかかりければ、妖怪不意に飛びかかりしゆえ、余も大いに驚きたれども、なんぞ恐るるに足らんと、暫時〔は〕組み合いしが、なかなか敵し難く、ついに河中に投げ込まれ、危うき命を助かりたり」と物語りす。ここにおいて、初めてその妖怪にあらず、かえってわが朋友なることを知れり。もし、両人ここに〔て〕あわずんば、互いに鬼となし怪となして、人また人にこれを伝えん。
これ、偶然的誤怪の一種なるが、暗黒と恐怖とは最も誤怪を生じやすき事情なり。もし、真に妖怪の実在せるならば、なんぞ青天白日、虚心平気のときに起こらざるや。ゆえに余は、恐怖と暗黒とは妖怪を産出する母なりといわんとす。
第七〇談 幽霊は見るべからず
世人、往々幽霊を見たりという。幽霊果たして見るべきか、見るべからざるか。幽霊にして人目に触るるものあらば、これ真の幽霊にあらずして偽幽霊なるべし。かつて神原精二氏の言に、「幽霊は見るべからざるをもって幽霊と名づく。もし幽霊にして見るべきものならば、よろしく顕霊というべし。しかるに、世人幽霊を見たりというは、論理の撞着を免れず」と。この一言、世人の幽霊談の非なるを看破するに足る。 
 

 

第七一談 雷、臍を取るということ
民間にて、夏日、小児の裸体になりて遊びいるに際し、雷の鳴り出だすを聞けば、たちまち驚きて衣類をきて臍を隠すを例とす。けだし、雷は人の臍を取るものとなすによる。しかして、そのなんの意たるを知るものなし。しかるに、菅茶山の『筆のすさび』にこれを弁じて曰く、
雷の臍をとるといいて小児などをいましむるは、雷震のときは、俯伏するものは死せず、仰仆する者はかならず死するによってなり。失火の煙たちこめて息をつぎがたきときは、土を舐れというも同じおしえなり。
これ一説なり。けだし、自然の経験によりて得たるものならん。その他、迅雷のときには、あるいは炉に煙を起こし、あるいは軒に鎌を立てて、あるいは蚊帳をつり、あるいは線香を点ずる等、みな自然の経験より得たるものなれば、あえて怪しむに足らざるなり。
第七二談 為朝、竜宮にいたる説
古来、竜宮の説、数書に見えたり。昔時は、海中に実に竜宮城ありと信ぜしも、今日よりみれば、古人が海上の孤島を誤り認めたるものなるべし。人、もし風波のために流されてここに至るもの、異人の住せるを見て相伝えて竜宮となすのみ。かくのごとき事実は、古代の出来事としてはあえて怪しむに足らず。『〔広益〕俗説弁』に、鎮西八郎為朝〔源為朝〕の竜宮にいたるといえる話は、琉球に至るの誤聞なることを弁明せり。その文、左のごとし。
今、案ずるに、『南浦文集』にいう、「為朝公鎮西将軍となるの日、(中略)遠く海に航し島峙を征伐す。このときに至りてや、舟潮流に従って一島を海中に求む。ゆえをもって、はじめて流求と名づく、云云」『琉球記』にいう、「琉球、竜宮、音相同じ。王宮の榜に竜宮城と書す、云云」これらの説をもって見れば、為朝、竜宮城にゆくとは、琉球国にいたること疑いなし。
とにかく、竜宮は海外異人の住める孤島のことなるべし。
第七三談 筑波山の天狗
余は最初に天狗の怪談を掲げしが、世に、山間にありて老人に会し、夜中巨人を見るときは、たちまちこれを仙人と誤認せるの例はなはだ多し。先年、箱根にて猟師が駒ヶ岳へ登らんと欲して、途中山賊の潜みおるを見て、ただちに天狗なりと誤解し、帰りてこれを人に伝えたりしことあり。これに類したる一話が、先年『東京日日新聞』上に見えしことあり。そはいかんというに、
明治十八年ごろのことなりしが、千葉県下某村の海浜に、貝を拾わんとて出できたりし一人の壮漢あり。これ、すなわち同村の柏木某と称する柔術家にして、薄暮に至るまで貝を拾いて楽しみおりしが、夕刻に至り近村の青年四、五名相伴いて来たり。これも同じく貝を拾わんと衣をかかげて水中に入り、かしこここと探りもとむるうち、いかにしたりけん、柏木氏過ちてある青年の足を踏めり。よって柏木氏はその粗忽を謝せしに、青年ら、その柏木氏なるを知らざりしにや、大いに怒りて、いかほど謝するも聞き入れず。かれこれするうち、青年ら相ともに柏木氏にうってかかりければ、柏木氏も今はぜひに及ばずとて、日ごろ熟練の柔術にて、みごとに数人の者どもをなげつけたるに、青年どもはじめの大言にも似ず、一目散に逃げ失せたり。その後その辺りにては、某村の海浜にて数名の青年を苦しめしは、筑波山の天狗なりと風聞せりとぞ。
これ、余がいわゆる誤怪なり。かく尋常の人すら、ときとしては天狗のごとく誤認せらるることある上は、身体長大、白髪白髯ありて、すこぶる異様の観ある人にして、しかも深山幽谷のごとき無人の境にて出会うことあらんには、その人を天狗の怪と誤認するも、あえて怪しむに足らず。
第七四談 狸の腹鼓
世に狸の腹鼓の怪ありと伝う。余、いまだ実験せざれば、その真偽を判定し難しといえども、深更になれば遠方の物音手近く聞こえ、誤りて狸の腹鼓と認むることなしというべからず。その一例には、ある書(『荘内可成談』)に、「狸の腹鼓」と題して左のごとく記せり。
安永末のころ、初秋の末より季秋のころまで、狸の腹鼓打つとて、奇怪のことにいい触れぬ。二、三日、四、五日あいにして、天気快晴の夜は、丑の半刻ごろより打ちはじめて、その音はとんとんと絶えず、遠くなり近くなり、寅の半刻までにて打ちやみぬ。聞きし人もあまたなり。予、季秋の初め磯釣りに思い立ちて、夜ふけに起きて刻限をはかれば、丑三つ過ぎにもやと思いながら、支度して門へ出でぬれば、その音聞こえ、立ち止まりおれば、東南の方にて、かねてはなしを聞きしにたがわず。すは、かの狸の腹鼓ござんなれ、よくよく聞かばやと、釣り具など取り置き、音を失わざるように静かに歩み行くに、行くほど遠ざかり、御小姓町芝田氏のさき、加藤氏の辻にてしばらく休らい考うれば思い出だしぬ。三日町銅屋にて鋳踏む音にてありける。予も狸にたばかられけるやとおかしく、立ち戻りて釣りの調度取り持ち、新潟口より出でて行くに、大山海道町端までかの音せり。それよりは釣り人も多く、うたなどうたいどよめくゆえ、音も聞こえざりし。丑の半ばより打ちはじむるは、ふいごを吹きはじめしなるべし。寅の半ばに至れば、世間起き出でて、それぞれの業あるゆえ、物音に紛れて聞こえざるなるべし。その音、遠くなり近くなるは、その日の風合によりしなるべし。快晴の夜ばかり聞こえしは、風雨などすれば、それに紛れて聞こえぬなるべし。いかなる人の聞きはじめて、かくいい触らしけるにや、「一犬虚をほゆれば万犬実を伝う」なるべし。
これに例して腹鼓の怪を知るべし。
第七五談 怪火の原因
世に怪火の種類すこぶる多し。燐火、陰火、鬼火、狐火、竜灯、火車、火柱、簑虫等、みな怪火なり。しかして、これを発する原因また一ならず。まず古書に考うるに、『荘子』には、「馬血、燐となり、人血、野火となる」とあり。『淮南子』には、「老槐、火を生じ、久血、燐となる」とあり。王充『論衡』には、「人の兵死するや、世言う、その血、燐となる」と。『博物志』にも、「闘戦死亡の所、その人馬の血、年を積んで化して燐となる」とあり。また『和漢三才図会』にいわく、「蛍火は常なり、狐火またまれならず、鼬、鵁★(鶄の正字)、蜘蛛、みな火を出だすあり」と。またいわく、「比叡山の西麓、夏日、闇夜ごとに燐火多く南北に飛ぶ。人もって愛執の火となす。恐らくはこれ鵁★(鶄の正字)の火なり」と。これ、古代の説明なり。近世は西洋理学の力によりて、大いにその原因をつまびらかにするを得たり。明治の初年に『天変地異』と題する一書世に行われしが、その中にも怪火の説明を出だせり。すなわち左のごとし。
光あれば熱く、熱ければ光あるは一般の法なれども、熱くして光なく、光ありて熱からざるものあり。湯のごときはなにほど熱くとも光なく、蛍火、朽ち木、生の海魚、海水、不知火、陰火などの類は、光あれども熱からず。この種の火はみな、ポスポルというもの水素と調合し、燐化水素となり、自然の理合をもって光を放つものなり。同じ種類の中にても、蛍火は王公貴人より婦人、小児に至るまで、だれも愛弄せざるはなし。ことに宇治川の蛍狩りは、京洛間の諸人、見物のため市をなすほどなりと聞こえしが、かつてこれを恐れし人あるを聞かず。また、朽ち木より光を放つことあり。
柊などの朽ち腐れたるものに最も多く、怪しげなるものに見ゆれども、もと朽ち木なれば、児童の輩、暗所に持ち行き、朋友に奇を誇るの具とするのみ。また、生の海魚ことに海老などを暗所に持ち行きなば、白き光を放つべし。また、夜中海水をゆすらば、水に光あるを見るべし。これ全く水の光にあらず、極めて細小なる魚ありて、水の動くに従い、ひれをふるい揺動するより起こるものなり。肥後、肥前の海に不知火あり、周防洋に平家の怨霊火と唱うる火あるは、両ながらかかる小さき魚の莫大に群集し、波の浮沈を追い、あるいは現れあるいはきえ、あるいは集まりあるいは離れて、奇怪の状をなしぬれど、みなポスポルの光にて、蛍火も同様のものなれば、見物の諸人、酒をくんでこれを楽しむも、幽趣を得たるものというべし。狐火、人魂などと唱うる陰火の類も、また同じくポスポルの火なれども、沼あるいは墓所などの間に現れ、いかにもものすごく見ゆるゆえ、人々おそろしきもののように取りざたし、あるいは怨霊の火などと唱え、婦人、小児はかかる火に行きあうとき震い恐れ、はなはだしきは気絶するものありと、実に気の毒なることなり。
ある人、夜深く沼を渡り、ものすごく思いし折から、たちまち青き火の近く輝くを見たるに、ようやくわが方へ寄りきたれば、にくき妖怪の所業なりやとひとりつぶやき行くほどに、これを捕らえんと思い立ち、急に歩みを進めければ、追うものありてのがるるがごとく、急ににげ去り、われ止まれば彼止まり、われ行けば彼行きて、わが動静をうかがう様子あり。いよいよ怒り、力を極め追いかけ行きしに、たちまちきえて跡を失えり。しばらくありて、はるかに葦茅を隔てて鮮やかに現れしゆえ、こんどは息をのみ身を潜め、間近く寄りて急にこれを襲わんと決意し、しずかに進み寄りしに、火、現然として少しも動く様子なし。ますます沈黙し火の傍らに歩み寄り、急に手をあげて打ち落とし見れば、一片の燐化水素にて、なにも怪しげなるものなし。畢竟、前ににげ隠れしは、自己の動きより空気を動かし、火もこれがためにその居所を動かすなり。
これを物に例えば、池水の面に浮かぶものあるを、にわかに水に飛び入りこれを捕らえんとせば、その物必ず水にせかれてさきの方へゆき、われ帰れば、また水につれわが方へ来たるべし。しかるに静かに水を押し分け、これをつかまばたやすかるべし。空気の動くもこれと異なることなし。元来、ポスポルとは天地の間にそなわりたる六十八色の物の一つにて、生物に多く、草木なども多少この気を含まざるは少なし。人もこの気あればこそ生命を保ち得るものなるが、死して骨肉腐り土に返るとき、この気離れ、水素という、また六十八色の物の一つと合い、前にいえる燐化水素とはなるなり。かかる理より、墓所などは自然この気も多く、ついに怨霊の火などと唱えきたりしも、種なき話にはあらざれど、もとポスポルの光なれば、蛍火、朽ち木と異ならず。なんぞ、おそるることあるべけん。
この説明によるも、怪火の怪しむに足らざるを知るべし。
第七六談 火柱の話
俗に、火柱のたつときは必ず火災あり、その柱のたおれたる方位において起こるという。真偽定め難しといえども、なにか火の立ち上りて消ゆることあるは事実なるがごとし。けだし、燐火の一種なるべし。しかるに、余かつてこれを聞く。某町にて火柱立つとの評判ありて、間もなく火災あり。ついてその評判のよって起こりし本源を糾問せるに、その辺りに放火の賊ありて放火せんと欲して、あらかじめ火柱立つといい触らしたることを知れりという。よって火柱の評判も怪しきものなり。
第七七談 雨ごい 
七、八月の候、連日炎晴旱魃をきたすときは、農家、隊を結びて高山に登り、雨ごいをなす。しかるときは山神の力によりて、天たちまち雲を起こし雨を降らすという。これを今日の学説に考うるに、山神の力をからざるも、多人数にて高山を跋渉すれば、自然に気象の上に変化を起こし、雨を降らすに至るという。
第七八談 呪文の効験
世間に呪文を唱えて病気を治するものあり。人のこれを信ずる点より考うれば、多少の効験あるもののごとし。しかれども、その効験は呪文そのものの力にあらずして、信仰の力なりとは余が持論なり。かつて、ある地方においてその旨趣を演説したりしとき、人あり、余に一例を授けて曰く、「己の近寺の住持にて、呪文を唱えて小児の虫歯を治するものあり。ある日その寺に大法会ありて、隣村の老婆も参詣せしに、住僧、小児の歯痛を訴うるものを呼びて、その頬に手を触れ、一心に『アビラウンケンソワカ』を三度繰り返して唱うれば、小児たちまち歯痛を忘れ、その妙ほとんど神のごとし。老婆これを見て大いに感服し、家に帰り自らその法を試みんと思いおりしが、たまたま隣家の小児、歯痛をうれうるを聞き、早速その子を呼びて呪文を唱えんとせしに、『アビラウンケンソワカ』を誤り伝えて『アブラオケソワカ』(油桶ソワカ)と記憶せるにもかかわらず、三度繰り返せしに、たちまち治するを得たり。このことを聞きて、一村中、老となく少となく、歯痛をうれうるものあれば、みなきたりて老婆の治療を求む。老婆はその都度『油桶ソワカ』を唱えてこれを治せり。もし、虫歯の癒ゆるは全く呪文の力ならば、『油桶ソワカ』を唱えて治すべき理なし。しかるに、『油桶ソワカ』にても、『味噌桶ソワカ』にても、『酒徳利ソワカ』にても、唱うる文言に関係せずして、ただ一心にこれを唱え、人をして癒ゆるに相違なきことを信ぜしむれば、必ずその効験ありとす。これ、信仰作用の適例なり」と。
これに準じて、愚俗間に行わるる種々の禁厭療法の効験あるゆえんを知るべし。
第七九談 人凶なり、宅凶なるにあらず
民間に往々凶宅と称して、その家に亡者あるいは怨霊の祟あれば、これに住するものは必ず病みわずらうと唱うる家あり。これに住するに、果たして病人出ずるという。しかれども、これ全く人の精神よりよび起こすものにして、亡霊のなすところにあらず。その一例に、『先哲叢談』の一節を転載して示さん。
藤井懶斎(名〔は〕臧、筑後人)かつて官舎におる。人ひそかに告げて曰く、「この家祟多し、子おるなかれ。人のこれに住する、災厄に遭わざる者なし。予また、子の他日患いにかかるを見るに忍びず」と。懶斎もって意となさず。これにおること二十年、ついにつつがなし。すなわち曰く、「白居易の凶宅の詩ありいう、『寄語家与国、人凶非宅凶』(語を寄す、家と国とに、人凶なり、宅凶なるにあらず)と。信なるかな。
これによりてこれをみるに、凶事も吉事も多く人より生じて、妖も怪もみな人心より起こるを知るべし。
第八〇談 鬼門の吉凶
鬼門の吉凶に関し、『百物語評判』に左のごとく論ぜり。
鬼門ということは、東方朔が『神異経』に、「東方度朔の山に大なる桃の木あり。その下に神あり。その名を神荼鬱塁といいて、もろもろの悪鬼の人に害をなすものをつかさどりたまえり。ゆえに、その山の方を鬼門という」と見えたり。かくはいえども、これまさしき聖賢の書に出ずるにもあらず、そのうえ、その書にも鬼門をいむということ見えはべらず。もとより、わが朝のならわしに丑寅の方をもっぱらいむこと、いずれの御時よりはじまれりともさだかならず。(中略)たとい鬼門へむきても善事をなさばよかるべく、辰巳へ向かいても悪事をなさばあしかるべし。なお鬼門にかぎらず、軍家にもてはやしはべる日取り、時取りのよしあしもかくのごとし。悪日たりとも善をなせば、行くさきめでたく、善日たりとも悪をなさば、後にわざわいあるべし。また、その家々にて用いきたれる吉例の日もあることに候。
むかし、周の武王と申す聖人、天下のために殷の紂王と申す悪人を討ちたまうに、その首途の日、往亡日なりければ、群臣いさめけるよう、「きょうは往亡日とて、ゆきてほろぶる日なれば、暦家に深くいみ候。さ候えば御〔出〕陣無用」のよし申し上げるを、太公望きかずしていわく、「往亡ならば、これゆきてほろぼす心にて、いちだん〔と〕めでたき日なり」とて、ついにその日陣立ちして、もっとも紂王を討ちほろぼし、周の世八百年治まりけり。このゆえに、武王は往亡日をもてさかえ、紂王は往亡日をもてほろびたり。
これ、迷信家の一読すべき文章なり。 
 

 

第八一談 迷信のために数百金を失う
東京の某区内に住せる商業家にして、すこぶる迷信の強きものあり。ある年、近傍に古土蔵の売り物あれば、これをわずかに数百金にて買い入れ、取り崩して見れば、木材といい石材といい、いずれも今日にては得難きほどの品なれば、主人大いに喜び、早速己の邸内に建てんと欲して、まずその吉凶を家相家にたずねしに、相者曰く、「この土蔵は三年過ぎてのち建つるにあらざれば、必ず家主の身に災害を招くことあるべし。よって、今より三年間そのままに捨て置くべし」と。主人これを聞きてにわかにおそれ出だし、しばらく建築を見合わせることに決せり。かくして、せっかく持ち運びたる木材も、久しく雨ざらしとなりて庭前にありしが、三年の後これを検し見るに、大抵みな朽ちて木材の用をなすものなかりき。ここにおいて、土蔵建築の一事は廃止せざるを得ざるに至れりという。これ、迷信のために数百金を失いたる一例なり。
第八二談 筮者の遁辞
余、かつてこれを聞く。ある一人の妄信家ありて、卜筮の大家に就き、自己の生命を予知せられんことを請う。筮者すなわち判断して曰く、「今より幾年の後、某月某日に必ず死すべし」と。妄信家固くこれを信じて、某年某月までことごとく財産を消費し、ついに当日に至りては一銭の余財なく、ただ自らその身を棺中におさめて絶命を待てり。しかるにその日ついに死せず、翌日に至るもなお依然として存命せり。ときに飲食を欲するも、余資のもってこれを購求するなく、ほとんど飢渇に迫らんとせり。ここにおいて、はじめて自ら卜筮家に欺かれたるを知り、にわかにその家に至り、「なにゆえにわれを欺きしや」と詰問せしに、筮者曰く、「余、決して欺きたることなし。足下は某月某日に死すべきことは、天運によりて定められたるものなり。しかるに、某日に死せざりしは、けだし他に原因あるべし。足下は人を救助したりしことなきや」と。妄信者曰く、「すでに死の定まれるを知りしをもって、財産を残すの必要なきを悟り、これをことごとく人に施与して貧民を救助せり」と。筮者すなわち曰く、「これにてその理を解せり。足下は人を救助せし余徳をもって、天は特に、そのひとたび必定せる寿命を延長したるなり」と。この一話はもとより作為せる虚談に相違なきも、卜筮家の説明中に、これにひとしきもの必ずなしというべからず。
第八三談 射利的偽怪
世の山師連が、無知の愚民を篭絡して金銭をむさぼり取らんと欲し、神仏に託して種々の不思議を偽造することあり。その一例に、ある村にて一人の詐欺師あり。ひそかに渓間の湿地に深き穴をうがち、その底に豆俵数個を積み重ね、その上に石地蔵を置き、これを土にてうずめ、豆の水を吸収して膨脹するに従い、石地蔵は自然に土中より現れ出ずるように装置し、もって世間に言い触らして曰く、「某の渓間より石地蔵生まれ出でて、だんだん高く上がり、あたかも生活あるもののごとし」と。ここにおいて、人みな生き仏現出せりと信じ、四方より参詣するもの、山のごとく雲のごとし。その後日ならずして、たちまち詐欺手段に出でしを発覚したりという。これ、いずれの地方の出来事なるやは余の知らざるところなるも、幼少のとき、ある老人より聞き込みたる話なり。
第八四談 衣類の切断
本年六月ごろ、東京市内京橋采女町の怪談と称して、一時世間の評判となりし一怪事あり。こは活版業木村某の居宅にて起こりし妖怪にして、箪笥、葛篭等に納め置きし衣類が、いつの間にか怪しの穴あきて着ることのできぬようになりおり、また、柱に掛けて置きたる衣類が、ゆえなくして中央より切断してあり、実に不思議にたえぬとて、主人自ら来たりて余に相談せられたることあり。余、怪事の顛末を聞くに、その家に奉公せる下女の身の上に疑わしき点あるを認め、一案を授けて曰く、「速やかに下女を親戚に託してその家を遠ざけ、しかしてのち怪事の有無を試むべし」と。主人諾して去り、余が告ぐるとおりを実行せしかば、その翌日より怪事全くやみたりという。
その他にも、余が先年来これに類したる試験を行いたる二、三の例あるも、これを略す。俗間にては、かくのごとき怪事あれば、ただちに狐狸の所為となすも、多くは人為にして、婦人、児童もしくは愚鈍者の所為に出ずること多し。
第八五談 誤怪の一話
余、幼時、誤怪の一話を人より聞きしことあり。これ、偶然に起これる妖怪の一例となすに便なれば、ここに掲ぐ。
維新以前のこととかや、ある城内に毎朝鶏鳴にさきだちて、「トウテンカ」と叫ぶ声あり。おもうに鳥の声なり。その語、解すべからずといえども、「トウテンカ」はけだし、東天下あるいは当天下ならん。果たしてしからば、妖鳥ありて天下に大変動あることを告ぐるものとなせり。しかるに、一人ありてその原因を探知せんと欲し、その声のきたる方をたずねて行けば、城内にはあらずして城外なることを発見せり。さらに城外に出でてこれをたずぬるに、市に鍛冶屋ありて毎朝三時ごろ起き鍛工に従事し、「トウテンカ」とはすなわちその声なることを知れり。
これ、その原因を発見したる人ありしによりて、世間もその誤怪たることを了するに至れり。もしその人なかりせば、永く無実の怪談を後世に伝うるならん。
第八六談 犬、鴉の前知
古来民間にて、鴉の鳴き声、犬の鳴き声等によりて、吉凶を前知し得るものと信じ、人のまさに死なんとするときには、必ず鴉や犬は、あらかじめこれを知りて鳴きさわぐことを伝う。これを実際にたずぬるに、多少事実なきにあらざるがごとし。案ずるに、これ必ず道理の存するところならん。余が考うるところによるに、鴉あるいは犬がただちに人の死を予知する力なきも、天気の晴雨そのものがこれが媒介をするによる。語を換えていわば、鴉も犬も天気によりて鳴き、長く病床に臥したる人も天気によりて絶命に及ぶなり。すなわち通例、重症の患者が息を引き取るときは、天気濛々として暗く、精神鬱々として晴れざるときに多し。かかる陰鬱せる天気のときは、健康無病の人にても気分おのずから快からず、いわんや病者をや。犬の声のもの憂く、鴉の声のすさまじげに聞こゆるも、またかかる天気の日にありとす。しからば、犬、鴉の鳴くは人間の死に直接の関係あるにあらずして、人の死すべき気候、天気に関係を有するなるべし。
第八七談 七不思議
遠州に七不思議あり、越後にも七不思議あり。これ、多くは気象、地味より生ずる変化にほかならず。ゆえに、今日にありてはあえて怪とするに足らず。その一例に、遠州七不思議の一つなる片葉の葭のごとき、一方にのみ葉を生じて他方になきより不思議の一つに加えしも、その地方は風力強く、かつ始終一定の方位より吹くに起因せることは疑うべからず。越後にも中蒲原郡新津地方に同種の葭あり。その理もとより同一なり。その他の七不思議も、大抵これに準じて知るべし。
第八八談 カマイタチの怪
民間にて伝うるところのカマイタチの怪は、北国筋に往々聞くところなるが、他の地方にてはまれなるもののごとし。左に、『百物語評判』と題する書によりて、その実況を示さん。
それがし召しつかい候者の中に越後者ありしが、高股によほどなる疵あとみえ候ゆえ、いかなることにか逃げ疵おいたると、おぼつかなくおもいて様子をたずねけるに、かの者申すよう、「生国または秋田、信濃などにも多く御座候、かまいたちと申すものにきられ候疵なり」と申す。あやしみ思いてくわしくたずねしに、「たとわば所の者、旅の者にかぎらず、遠近を経めぐりし折から、にわかにたかもも、こぶらなどに、かまもてきれるようにしたたかなる疵でき、口ひらけども血ながれず、そのままきえいり、臥しけるとき、そのことになれたる薬師を求めて薬つけぬれば、ほどなくいえはべる。命にささわりなし。それがしも新潟より高田へまいり候とき、このかまいたちにあい申したる疵にて候」
その説明については、今日一般に唱うるところによれば、空気の変動によりて空気中に真空を生じ、もし人体の一部その場所に触るるときは、外部の気圧を失うより、人体内部の気の外部に逬発せんとして、わが皮肉を破裂せしむるものなりという。
第八九談 幻々居士の霊符
東京府下に幻々居士と名づくる一奇人あり。業務の余暇、幻術を行うをもって楽しみとなす。余、かつてその寓居を訪う。居士曰く、「われ最初幻術に志せしは、世間多く神にいのりて病を治するものあれども、これ必ずしも神力に限るにあらず、人工をもって同一の効験を試みんと欲し、友人の胃病に悩めるものあれば、まずこれを招きて試験を行えり。その方法は、己の名刺を麗々しく白紙に包み、その表に霊符と書し、これを座敷の床の上に安置し、その前に香を薫じ、例の病者をしてこれに向かい、一心に合掌祈念せしむ。この方法によりて、ついにその病を治するを得たり。これより、人の精神を利用して幻術を施行するを得べしと考え、多年研究の結果、一種の幻術を発見せりという。居士の名刺、よく人の病を治するの力ありとは、あに不思議ならずや。これ、精神作用にあらずしてなんぞや。
第九〇談 武士、瓢箪をきる
『珍奇物語』に誤怪の一例を出だせり。その記事、左のごとし。
ある臆病なる武士あり。夜中ものすごき道を帰りければ、傍らの籬の上より、首の長き、頭の巨なる妖怪、人に向かいて動揺する状なり。かの武士、大いにおどろき、ただちに長刀を引き抜き、躍りかかって切り付けたれば、巨頭は真っ二つにきれて地に落ちたり。ゆえに、はしりて家に帰り、大いに誇りていう、「今、われ某地において妖怪をきりしが、手に応えてたおれたり」と。翌日、朋友を伴いその地に至り見れば、瓢箪の二つにきれて地に落ち、半分はなお籬の上に掛かりいたり。これを見て、かの武士は大いにはじ、初めて妖怪にあらざることを知りたりと。これも、もし翌日ゆきて見ざれば、鬼となし怪となすこと疑いなし。
世にこの種の妖怪ことに多きは、余が弁をまたず。 
 

 

第九一談 呪術は今日の催眠術
古来、魔法、呪術と名づくるものあり。人みな奇怪となせしが、今日これをみるに一種の催眠術なれば、あえて怪しむに足らず。『資治通鑑綱目』に、「貞観中、僧あり西域より来たる。呪術をよくして、よく人をしてたちどころに死せしむ。後にこれを呪して、また蘇せしむ。太宗、すなわち飛騎中の壮者を選んでこれを試むるに、みなその言のごとし。よってもって傅奕に問う。奕曰く、『これ邪術なり。臣聞く、邪は正をおかさず。請う、臣を呪せしめよ。必ず行うことあたわず』と。太宗、僧に命じて奕を呪せしむるに、さらに感ずるところなかりしこと」を記せり。すべて魔法にても幻術にても、自らその心に迎うることなくんば、感ぜざるものなり。今日の催眠術もまたしかり。これを要するに、古代の呪術は今日の催眠術なりと知るべし。
第九二談 人相術の批評
世に人相術ありて、人の顔面手足を鑑定して、吉凶禍福を予知す。けだし、人の精神と肉体とは密接の関係あるをもって、人相によりてその人の性質を鑑定することは、決してでき難きことにあらざるべし。しかれども、今日の人相家が信ずるごとく、人相のいかんによりて、その人その家の運不運を予知するの理あるべからず。人の賢愚利鈍は人相によりて察知し得べく、したがってその人の功業の成敗は多少予想し得べきも、運不運は人力の関せざるところなれば、これを予知するは聖人といえども難しとするところなり、いわんや人相家においてをや。人相家は古来、生理学も解剖学も開けざりしときに定めたる規則により、ここにかかる斑点あるは剣難の相なり、あるいは火難、あるいは盗難の相なりとして判断するは、多少知識を有するものの信ぜざるところなり。すでに古代にありても、聖人、賢人と呼ばるる人は、かくのごとき判断の道理なきを知りて、これを排斥したり。けだし、人相の法はシナより伝来せるものなるが、その本国にありて、孔子のごとき大聖人は、「怪力乱神を語らず」といいてこれを遠ざけ、荀子のごとき賢人は、ことさらに「非相篇」〔『荀子』巻第三〕を著してこれを駁せり。その言に曰く、
人の形状、顔色を相してその吉凶、妖祥を知る、世俗これを称す。いにしえの人はあることなきなり、学者いわざるなり。ゆえに、形を相するは心を論ずるにしかず、心を論ずるは術を選ぶにしかず。形は心に勝たず、心は術に勝たず、術正しければ心これにしたがう。形相悪ししといえども、心術よければ君子たるに害なし、形相よしといえども、心術悪しければ小人たるに害なし。
長短、大小、善悪、形相は吉凶にあらざるなり。
実に卓見というべし。余はわが国民に対して、シナ愚民の迷信を崇拝せずして、孔子、荀子のごとき聖賢の金言を遵守せられんことを望む。
第九三談 月の大小
人は目にて見たるものは確実なるように考うれども、目には変覚、幻覚、妄覚等ありて、実物を誤り認むることすくなからず。その最も分かりやすき例は、同じ日月を見ながら、昇るときは大きく見え、中するときは小さく見ゆ。また、月の大小は人々見るところ異なり、『筆のすさび』に「月を見る説」と題する一章あり。曰く、
友人橋本吉兵衛、名は祥、来たり語る、「人の月見るに、人によりて大小あり。おのれは径二、三寸のまろき物を見しが、人によりて径六、七尺にも見ゆるあり。六寸ばかりに見ゆるは尋常の人の目なり、云云」
他の物におけるも、これに準じて知るべし。
第九四談 精神作用の影響
精神によりて病気を起こすことあり、また治することあり。世にその例はなはだ多し。その一例に、八幡太郎〔源〕義家「鳴弦」の故事あり。左に、『〔広益〕俗説弁』に記するところを転載すべし。
俗説にいう、「寛治年中に堀川院御悩のとき、八幡太郎義家、勅をこうぶり、甲胄を着し弓矢をたずさえ、南庭に立ちはだかり、殿上をにらんで高声に、『清和帝に四代の孫、多田〔源〕満仲に三代の後胤、伊予守〔源〕頼義が嫡男、前陸奥守源義家、大内を守護し奉る。いかなる悪魔、鬼神なりともいかで望みをなすべき、速やかに退け』と名乗りかけて、弓の弦を三度ならしければ、殿上も階下も身の毛よだちて、御悩たちまちいえさせたまう」
これ、精神によりて病気の癒えたる適例なり。
第九五談 夢は多く感覚より起こる
古代は夢をもって不思議の一種となせしも、今日は心理学の研究によりて、毫も不思議とするに足らざるを知るに至る。およそ夢の起こるに種々の原因あるうち、感覚より起こる例を挙ぐれば、一夕、余が傍らに熟眠せる友人の唇に一滴の水を点ぜしに、当人は一酔ののち眠りに就き、すこぶる酒渇を感じたるありさまにて、その点じたる水を喜びて口中にて味わいたるもののごとく見えたり。暫時にして目をさませしゆえ、「君は夢を見しやいなや」を問えり。当人答えて曰く、「夢にイタリアに遊び、暑気のはなはだしきを感じ、ブドウ酒一杯を傾け、実に甘露のごとき味を呈せり」と。また、和歌山県人久保某氏の書翰中に、余に報道して曰く、「一夕、夢中にて己の傍らにある者、棒をふりまわす。余、その棒の己が身体にあたらんことを恐れしに、やや久しくして、果たして己の頭にあたれり。よって驚きさむれば、たまたま己の傍らに臥したる者が手を伸ばして、誤りて己の頭に触れたるなり」と。その他、足を衾外にあらわして冷を感じたる場合には、氷上をわたるがごとき夢を結び、両脚を重ねて眠りしときには、高所を渡るがごとく夢み、その脚を落とすや、高所より飛降せるを覚ゆるの類、枚挙にいとまあらず。
第九六談 惑病同源論
原坦山翁、かつて仏仙会を東京の寓所に設け、喋々、惑病同源論を唱えて曰く、「我人の煩悩と疾病とはその源同じきをもって、ひとたび煩悩を断滅したらば、再び百病にかかることなし。ゆえに、己坦山は四十年来一病空し」と。その後、東京にコレラ病の大いに流行するに会し、賢なるも愚なるも、俗物も上人も、続々その病の襲うところとなり、一時の勢いは仏仙会員を襲い、さらに進みて坦山翁自身をも襲わんとす。よって、ある人翁に、「コレラ病はいかん」と問いたれば、翁曰く、「惑病もとより同源なり。ただし、コレラ病はこの限りにあらず」と。
第九七談 仏教は吉日良辰を選ばず
仏教中には往々、吉日良辰の選ぶに足らざることを説けり。今、その例を示さば、
『涅槃経』にいわく、「如来法中、吉日良辰を選択することあるなし」と。
『般舟経』にいわく、「優婆夷、この三昧を聞きて学ばんと欲すれば、自ら仏に帰命し、法に帰命し、比丘僧に帰命し、余道につかうるを得ず、天を拝するを得ず、鬼神をまつるを得ず、吉良日をみるを得ず」と。
『大集経』にいわく、「正見を得ば、歳時日月、吉凶を選ばず」と。
孔子は「怪力乱神を語らず」という。釈迦も孔子もその致一なり。
第九八談 卜筮は聖人の制作にあらず
古来の学者、多く卜筮を信ぜず。そのはなはだしきは、これを排して好事者の付会せるものとなす。近年、井上毅氏も排易者の一人にして、その「易論」に左のごとく論ぜり。
卜筮は太古の俗なり、聖人の制作にあらず。邈古蒙昧神人分かたず、その民茫々失うことあるがごとし。やや才知あるもの、神異の説を創作して曰く、「人生吉凶の定まらざる、悔吝のひとしからざる、冥々のうち、これを主宰するものあり。至誠これを求むれば、もって前知すべし」と。卜筮のはじめとなす。好事者したがってその辞を修めて、これを聖人に託す。ここにおいてか、易の書あり。ゆえに、儒者の易あるは、なお仏の天堂地獄の説あるがごとく、上知の取るところにあらず。
余も排筮者の一人なるが、諺に「あたるも八卦あたらぬも八卦」とは、よくその意を尽くすというべし。
第九九談 蒲生翁の妖怪
当世、老儒の聞こえある蒲生〔褧亭〕翁は、余に一文章を贈りて、妖怪のことを論ぜられたり。その妖怪は余が妖怪と別種類のものなれども、もし、これを妖怪に入るれば、偽怪の一種となるべし。ゆえに、ここにその全文を掲ぐ。
聞井上君円了、始学於浮屠氏、博学多識、有幕乎吾儒、建学館、育学生、好文章、君生平持論曰、世無妖怪、此孔子不語怪之意、志行皆已与吾儒符、如君所謂墨名而儒行者、余窃観乎今世極多妖怪、君偶未之察而已、請試挙其二三、今夫堂堂法官、而暮夜貪賄賂、一旦事露而已呻吟于獄中者、是不官中妖怪乎、端坐皋皮、口講聖経、而曲学阿世、以叨禄位、如安昌侯張禹者、是不儒中妖怪乎、衲衣念珠、口説慈悲、而欲火炎炎、紛争不已者、是不僧中妖怪乎、大車肥馬、巧言啽娿、咫尺于貴権門、而不顧乎貧賎病家、不知其職為仁術者、是不医中妖怪乎、方日清交兵之時、巨商奉命、輸軍食、多供薄酒敗肉不可食、以自利、恬然不慙者、是不商中妖怪乎、若夫藍面蓬髪映燐火、見其形貎于垂柳蕭疎之下者、則余亦未之見也、君曰無妖怪、豈此類之謂邪、余既嘉君之学於浮屠氏而終帰吾儒、迨其請学館雑誌題言書此以贈。
(聞くならく、井上君円了。はじめは浮屠氏を学び、博学多識、わが儒を慕うあり。学館〔哲学館〕を建て、学生を育て、文章を好む。君、生平の持論に曰く、「世に妖怪なし。これ、孔子怪を語らざるの意なり」と。志行みなすでにわが儒と符す。君のごときはいわゆる墨名にして儒行なる者なり。余、ひそかに今世をみるに、極めて妖怪多し。君、たまたまいまだこれを察せざるのみ。請う、試みにその二、三を挙げん。今それ堂々たる法官にして、暮夜賄賂をむさぼり、いったんこと露われて、獄中に呻吟する者、これ官中の妖怪にあらずや。端座皋皮、口には聖経を講じて、曲学阿世、もって禄位をむさぼる安昌侯、張禹のごとき者、これ儒中の妖怪にあらずや。衲衣念珠、口には慈悲を説きて、欲火炎々、紛争してやまざる者、これ僧中の妖怪にあらずや。大車肥馬、巧言啽娿、貴権門に咫尺し、貧賎病家を顧みず、その職の仁術たるを知らざる者、これ医中の妖怪にあらずや。日清交兵の時にあたりて、巨商命を奉じて軍食を輸すに、多く薄酒、敗肉の食うべからざるを供し、もって自ら利して、恬然として慙じざる者、これ商中の妖怪にあらずや。もしそれ、藍面にして蓬髪の燐火に映じ、その形貌を垂柳蕭疎の下に見わる者は、すなわち余もまたいまだこれを見ざるなり。君曰く、「妖怪なし」と。あにこの類の謂か。余すでに君の浮屠氏に学び、ついにわが儒に帰するを嘉し、その学館雑誌の題言を請めらるるにおよんで、これを書してもって贈る)
もし、この種の妖怪をかぞえきたらば、人間社会ことごとく妖怪となるべし。
第一〇〇談 天地万有悉皆妖怪
蒲生翁は、人間社会ことごとく妖怪なりとなす。余は、ひとり人間社会のみならず、天地万物ことごとく妖怪なりとなす。これ、人の容易に首肯せざるところなれば、余はおもしろき一話を挙げてこれをたとえん。
ある富める人あり。その里に貧しき人ありて、往々富を得べき道を問う。富人告げて曰く、「われ、よく盗をなして富めり。およそわがなすところ、物をぬすみ、取りてわが有とせずということなし。これによって、家巨万をかさねたり」と。貧人喜びて家にかえり、みだりに人家の垣をこえ、室をうがちて財宝を奪いとる。その家、この人をとらえて官に送る。すなわち、貧人を放逐して家財を没取せらる。貧人、さきに富人のわれを欺きたるを恨みて、ゆきてかたる。富人のいう、「ああ汝、盗の術を知らず、罪にあう、うべなり。それ、天には時あり、地には利あり。われ、天の時と地の利を盗んで、五穀を生じ、桑麻を植えてその利を得たり。水にしては魚鼈を盗み、山にしては禽獣をぬすみて、この生を利す。それ、五穀、魚鼈、禽獣は天地の有なり。われ、これを盗みて罪なし。金銀珠玉は人の宝とする物なり。汝、これをぬすみて科を得たり」と。貧人、茫然としてかえる。道にして龐眉の丈人にあいてこのことを語る。丈人のいう、「およそ人のなすところ、いずれが盗にあらざるや。汝が一身もまた盗めり、天地陰陽の和を盗みて形となす、五常百行の理をそなえて性となす。なんぞ天地の有を盗むときは罪なしといわんや。暖かに衣、飽くまで食い、孝弟仁義の道を行わざるときは、天道たちまちその身に禍をくだして、その責を免るることなし。なんぞ、人の宝をむさぼるをのみ盗といわん」と。貧人、怳然として自失す。
これ、人みな盗なりとの説なり。その説、決して一理なきにあらず。一方よりこれを見れば盗と非盗との別あり、他方よりみれば悉皆これ盗なるがごとく、天地万有も一方より見れば妖怪と非妖怪との別あり、他方よりみれば一切みな妖怪なり。しかして一切みな妖怪の説は、余は「真怪百談」に入りて証明せんと欲す。 
結言
『妖怪百談』、ここに終わりを告ぐ。しかるに、なおいまだ偽怪の種類を尽くすに至らず。他日、『妖怪学講義』中より、さらに偽怪の残類を拾集して『続妖怪百談』を編成し、しかしてのち真怪に及ばんとす。余がかつて『妖怪学講義』中に集めたる妖怪の種類は四百余種ありて、その各種に偽怪の加わるあれば、偽怪四百談を重ぬるにあらざれば、その種類を尽くすべからず。しかるにその中には、おもしろきもあり、おもしろからざるもあり、益あるもあり、益なきもあれば、なるべくおもしろくしてしかも益あるものを選び、さらに『妖怪百談』続編を纂輯して、世人の批評を請わんとす。読者、これを了せよ。 
『妖怪百談』評語 

 

加藤弘之  
カント曰く、「吾人は、自ら奇怪をつくりて自らこれに驚く」と。井上博士が偽怪と称するもの、すなわちこれなり。吾人、奇怪に真偽の二種あるを知らず。ゆえに、真怪に驚かずしてかえって偽怪に驚く、あに愚ならずや。井上博士これを慨嘆し、真怪の実に驚くべくして、偽怪のあえて驚くに足らざるゆえんを説き、もって吾人の迷信を掃除せんと欲す。これ、『偽怪百談』の著なかるべからざるゆえんなり。その、吾人知識の開発を裨益する、決して浅きにあらざるを信ず。
内藤耻叟  
わが国、妖怪の説あるや古し。そのもと、『古事記』『日本書紀』に始まれり。これ、実にそのことあるにはあらず、ただこれを伝うる者の昏昧なるによりて起これり。それ、高天原の天上にある、夜見国の地底にある、その他百般の怪事、みな古人敬上の念厚きより、この巨多の妄談をなすものにして、一として、妄想、冥信のいたすところにあらざるはなし。しかるに、史をつくる者、これを弁析することを知らず、またしたがって、これを神異にす。姦にあらざるは、あるいは愚なるなり。なお、かの邪教の一神を妄想し出だしきたりて、人を誣惑するに異ならず。古今東西、なんぞその妖怪談の人に入ることの深きや。果たして、もってこれを解くべからざるか。曰く、しからず。いやしくも人をして、その耳目の見聞するところを信じて、その耳目の及ばざるところは、ことごとくこれ天地の間になきものとするときは、世、決して妖怪の談あることなし。
これ、実は天地の間、もと絶えて怪事なきをもってなり。ただ、その見聞の及ばざるところ、特に怪事ありとす。これ、その怪の千生百出して、際涯なきゆえんなり。それ、わが国はもと怪事なし。天御中主神以降、天神地祇、みなこれ上におわすの人なり。ゆえにカミという。ただその人の功徳あり、神聖なるがゆえに、わが民これを崇敬してやまず、ついにこれを誣いるに、神怪奇幻をもってするに至るのみ。もとより、かの儒者のいわゆる昊天上帝、仏者のいわゆる如来菩薩の類、烏有者と同じからず。しかるに、今世の学者、また惑って古史を信じ、わが祖宗を汚辱して、かの神仏に同じとす。これ、その妖怪談の大いに起こるゆえんなり。
わが畏友井上君、頃者『偽怪百談』の著あり、世に妖怪なきの理を弁ず。鑿々として依拠あり、明白精密、議論もっとも確実なりとす。余、深くその弁説の最も世人に益あるを信ず。すなわち数言を陳じて、もってその巻後に付くという。
依田百川  
奇怪妖妄之談無世不有焉。而不独田夫野老蒙昧之人信之。雖博学宏聞之士。時或遭事物之変。愕然謂。吾親見之。斥為怪誕非也。遂筆之書。著之論。以伝後世。其惑人也深矣。不知其事物之変者。非理化作用。認幻影於外。則精神昏迷。現想像於内耳。非実有其事物也。井上円了先生。博聞強識。広通内外之書。嘗好研究物怪変異数年。謂世信妖怪為有之。皆非也。因著偽怪百談。拠実直書。縷分糸析。瞭如指掌。其言鑿鑿有証。非如宋儒説空理縦弁駁也。余嘗読韓文公原鬼。窃疑高明俊偉如公猶且信鬼。何也。蓋風気未開。人懼禍福。妖怪之談易入其耳。是賢哲之所以信鬼也。使公読此書必憬然而悟惜夫。余性迂僻吉凶禍福妖怪之説。尽斥為妄誕。一日見洋人所演催眠術頗疑之。挙以問君。君為詳説其術。蓋其人精神昏迷。現想像於内者也。乃知妖怪之果不可信矣。及読此書。益悟其然。乃題一言。警世妄信妖怪者。
(奇怪妖妄の談、世にあらざるなし。ひとり田夫、野老、蒙昧の人のみこれを信ずるにあらず。博学宏聞の士といえども、ときに事物の変に遭うあり。愕然としていう、「われ親しくこれを見たり。斥けて怪誕となすは非なり」と。ついにこれを書に筆し、これを論に著し、もって後世に伝う。その人を惑わすや深し。その事物の変を知らざる者、理にあらず化して用と作し、幻影を外に認む。すなわち精神昏迷し、想像を内に現ずるのみ。実にその事物あるにあらざるなり。井上円了先生、博聞強識、広く内外の書に通じ、かつて好んで物怪変異を研究すること数年なり。いえらく、「世の妖怪を信じてこれありとなすは、みな非なり」と。よりて『偽怪百談』を著し、実によりて直書す。縷分糸析、瞭として掌を指すがごとし。その言、鑿々として証あり。宋儒の空理を説き、弁駁をほしいままにするがごときにあらざるなり。余、かつて韓文公〔韓愈〕の『原鬼』を読む。ひそかに高明俊偉の公のごときも、なおかつ鬼を信ずるかと疑う。
なんぞや。けだし、風気未開にして、人は禍福を懼れ、妖怪の談はその耳に入りやすし。これ賢哲の鬼を信ずるゆえんなり。公をしてこの書を読ましめば、必ず憬然として悟らん、惜しいかな。余の性、吉凶、禍福、妖怪の説に迂僻にして、ことごとく斥けて妄誕となす。一日、洋人が演ずるところの催眠術を見て、すこぶるこれを疑う。挙げてもって君に問えば、君はためにその術を詳説す。けだし、その人の精神昏迷し、想像を内に現ずる者なり。すなわち、妖怪の果たして、信ずべからざるを知る。この書を読むに及んで、ますますそのしかるを悟る。すなわち一言を題して、世の妄りに妖怪を信ずる者を警しむ)
関根正直  
妖怪変化の物語をかき集めしもの、和漢その類に乏しからず。しかれども、一つもその妄を弁じたるはなく、かえって蛇に足を添え、いよいよ狐の疑いを結ばしむるくさわい〔種〕とぞなりにし。これら多くは仏家、道家のわざなるこそうたてけれ。さすが儒家といわるる人の、怪しきを語らざるはさることながら、進みてその妄を断じ妖を破らんとせしはまれなるに、井上博士の懇ろなる志をもって、年ごろ、人の惑いをとき、世のわざわいを除かんとつとめらるる功徳のほど、あに浅からめや。
またおもうに、近古経学にくわしき儒者の修身斉家の旨を和解し、仮名文にかきあらわして人をさとししが多かりき。その書は一見卑俗なるがごとくなれど、世を益せしこというべくもあらず。しかるに、その後の儒者たち、もっぱら文辞の雕琢にふけるあり、経義に異説を立つるもあり、あるいは折衷といい考証と唱え、学はすなわち高尚に進みためれど、まま新奇に誇り博覧を衒う風となりて、ついに昔日の通俗的教訓書はあとをたつに至りにき。井上博士がこの著は、かの教訓書の類には異なれども、事を凡近にとりてひろく衆人を教化する趣、またやや似たるところあり。なまじいに幽玄の道、高妙の理を説きて意気雲表に昇らんよりは、卑近の言によりて、あまねく人知を開かんとせらるるこそ、世に益あるわざなりけれ、と感じ思いけるままをかき添えたるは、関根正直 
付録・鬼門論 

 

大政一新以来ここに三十年、その間、社会百般の事物みなその面目を改め、これを昔日の日本に比するに、ほとんど別世界の観を呈し、その勢い東洋の上に雄飛するのみならず、泰西二、三の諸国を凌駕せんと欲す。その進歩の速やかなること驚くべし。しかりしこうして、ひとり依然として旧色を存し、なお徳川末路の積弊をとどめ、さらに改新の緒に就かざるものは宗教界の実情なり。換言すれば、宗教の腐敗と国民の迷信なり。この二者、その面目を一変するにあらずんば、いずくんぞ世界に対して自ら文明国と誇称するを得んや。これ、余がつねにわが国明治の大業、一半すでに成りて、一半いまだ成らず、第一の維新すでにきたりて、第二の維新いまだきたらずと唱うるゆえんなり。その今日の文明は、諺にいわゆる「頭隠して尻隠さざる」がごとき観なきあたわず。今や条約改正も大半その局を結び、内地雑居もようやくその期に迫らんとするに当たり、宗教の腐敗かくのごとく、国民の迷信かのごときにおいては、いずくんぞよく外人の帰化を迎えんや。これ、国家の一大汚辱にあらずしてなんぞや。人あり、余に語りて曰く、「宗教の雪隠と迷信の下水と、この二者の大掃除をなすにあらずんば、到底、内地雑居の新年を迎うることあたわず」と。宗教をもって一家の雪隠に比するはやや酷に過ぐるがごときも、その内部の醜態、今日のごとくはなはだしきにおいては、雪隠の不潔と同日に論ぜらるるも、けだしこれに答うる辞なかるべし。
余は不幸にして明治の維新に後れて長じ、その際、一事の国家に尽くすことなかりしは、今日に至るもなお遺憾とするところなり。しかるに、幸いにして宗教の革新にさきだちて出でて、大業の前半すでに成りて、後半いまだ成らざるときに会したるは、自らその革新の一部分に加わり、いささか微力を国家のためにいたさんと欲す。これ、余が積年の素志にして、数年前より多少心思をそのことに注ぎ、他日時機の熟するを待ちてひろく社会に訴え、ともに力をあわせ、よく維新の後半を大成し、もって内地雑居の暁を迎うる目的なりしが、その時節、今すでに到来せるを覚ゆ。ここにおいて、愚考の一端を開陳して、識者の高評を仰がんと欲す。
そもそも、余がいわゆる宗教の革新とは、宗教道徳上の腐敗と国民信仰上の迷妄を一新するをいう。昨今、宗教腐敗の一条はようやく社会の問題となり、革新の声四方に起こり、まさに一大変動を見んとする勢いなり。しかしてその問題は、真宗大谷派二、三の改革論者より起こりしも、その影響するところ決して一宗一派にとどまらず、これよりようやく他宗他派に及ぼし、ついに日本宗教全体の一大革新を見るに至るべきは、識者をまたずして知るべし。これ、機運のしからしむるところなりというも、その実、人知進歩の結果にあらざるはなし。ゆえにその革新は、社会のため国家のため、賀すべく祝すべき一大快事なり。いやしくも社会の改良、道徳の拡張に志ある者は、あにこれを歓迎せざるを得んや。それ、宗教は勧善懲悪の道にして、宗教家は道徳の標準、模範なり。今日の宗教家中、果たして国民道徳の模範となり得べきもの幾人かある。けだし、晨星を数うるよりなお寥々たるを覚ゆ。飲酒、喫煙のごときはあえてとがむるに及ばず、蓄妻、噉肉もなおゆるすべし。尋常一般の俗人すら、なお恥じてなさざる醜行を犯せるものいくたあるを知らず。しかるに、世間これを見て怪しまざるはなんぞや。従来、因襲の久しき不道徳とは僧侶の代名詞のごとくに考え、彼は僧侶なれば、かくのごとき不道徳の行為あるは当然なりとみなすによる。
しかれども、国民一般の識見進みたる暁には、決してこれを黙々に看過する理なし。なんとなれば、僧侶の不品行と国民の知識とはあたかも反比例をなし、決して並進両立すべからざるものなればなり。ゆえに、宗教革新の起こるは勢いの免るべからざるところにして、その一日も早くきたるは、国民知識の進歩を徴するものなり。今や全国の新聞に雑誌に、大谷派の改革を促してやまざるは、国民すでに宗教革新の急要を感じ、かつ仏教諸宗中、積弊腐敗の最もはなはだしきは大谷派本山なるを知り、その改革をもって日本宗教革新の第一着手と信ずるによる。輿論すでにかくのごとく大勢すでに定まる、一宗一派の改革なんの難きかこれあらん。さらに進みて各宗各派の革新を実行し、他日、内地雑居の暁には、宗教室内に一点の塵影を見ざるに至らしめんこと、これ余輩の熱望するところなり。
宗教の腐敗の一新せざるべからざるは、天下みなこれを知る。ひとり国民の迷信を一掃せざるべからざるは、輿論のいまだ認めざるところなり。ゆえに余は、これよりもっぱら迷信を論ぜん。広く社会の状態を観察するに、あるいは日の吉凶を卜し、あるいは身の禍福を占い、人相、家相、方位、鬼門、五行、干支、九星、淘宮、墨色、夢判じ等、種々の迷信に属する諸術、近来ようやく流行し、これを明治の初年に比するに、今日は大いにその勢力を加えたるを覚ゆ。これ、実に怪しまざるを得ざる一大現象、いな一大幻象なり。無知不学の愚民にして、かくのごとき迷信を守るはなおゆるすべし、堂々たる貴顕紳士にして社会の上流に位するもの、なおこの迷信に安んずるは解すべからざる一大怪事なり。上流者ひとたびこれを信ずれば、下流の者争ってこれを信ずるは自然の勢いなり。上下みなこの迷信の五里霧中に彷徨す、いずくんぞこれを文明国の民と称するを得んや。知識の程度、なおかくのごとし、いずくんぞよく内地雑居を迎えんや。ゆえに、この迷信を一掃するは、実に内地雑居の準備にして、維新の鴻業を大成するゆえんなり。余、積年ここに意あり。さきに『妖怪学講義』を編述してその理由を詳説細論せるも、その書二千五百頁余の大部なれば、これを通読するものはなはだ少なし。ゆえに、ここにその一端を開陳して、迷信の果たして迷信たるやいなやを略示せんと欲す。
今まず迷信の利害を一言せんに、民間多数のものは時日、方位、人相、家相等の吉凶を迷信するをもって、結婚、祝賀、旅行、転居、造作等に大いなる妨害をなす。例えば、病人ありて医師を聘するも、まずこれを方位家に問うてその可否を決し、すでに聘したる医師の診察を受けながら、方位の不吉なるを聞くときは、たちまちこれを廃して他の医師を聘す。児童を学校に送るにも、まずその方位をただし、自ら官署に奉職するにも、まずその方位を卜す。あるいはひとたび迎えたる妻と相離れ、ひとたび建てたる家をたちまち毀つがごとき例は、ほとんど枚挙にいとまあらず。今より社会ようやく多事、外人とともに活劇を演ずるに当たり、かくのごとき迷信をもって、いずくんぞ競争場裏に勝ちを制することを得んや。その利害の影響するところ、決して少々にあらず。ゆえに、迷信は社会の進歩上、一大障害物たること明らかなり。これを除き去るにあらずんば、国家将来の隆盛は到底望むべからざるなり。
それ、迷信の種類はなはだ多し。余が『妖怪学講義』中に掲ぐるもの、およそ四百余種の多きに及べり。ゆえに、いちいちその種類を挙示すべからず。ただ、ここに鬼門の一論を掲げてこれを説破し、その他は『妖怪学講義』に譲る。これをここに鬼門退治という。まず鬼門の由来を考うるに、シナの俗説より起こりたること明らかなり。これを古書中にたずねたるに、『神異経』中に鬼門のことあり、また『黄帝宅経』の中に鬼門のことあり、また『海外経』にも鬼門の説あり。今、『海外経』によるに、「東海の中に山あり、その名を度索という。その上に大いなる桃樹ありて、蟠屈すること三千里なり。その東北に門あり、これを鬼門と名づく。万鬼の集まる所なり。天帝、神人をしてこれを守らしむ」とあり。これ、シナ古代の神話あるいは俗間の妄説にほかならず。しかれども、その説相伝えて日本に入り、上下一般にその方位を忌み、かつ恐るることとなり、その方に向かって移転しあるいは家作することをいとい、なかんずく便所、塵塚の類をその方に置くことを固く禁ずるに至れり。古来伝うるところによるに、比叡山は皇城の鬼門にあたるをもって、ここに精舎を建てて鬼門の防ぎとなし、東都も上野に寛永寺を置きて鬼門の固めとなせりという。
あるいは、シナにては日本を指して鬼門関と称し、日本にては奥州白河関を指して鬼門関と称すという。しかりしこうして、かくのごとき風習の起因につきて種々の説明あり。陰陽家の説くところによれば、この方角は陰悪の気の集まる所なれば、極めて凶方なりという。また一説に、北方は万物極まりてまた生ずる方なれば、天地の苦しむ方角なるゆえ、これを避くるという。あるいは古来鬼門を忌み嫌うは、日の出ずる方なるゆえ、これを尊びて避くるなりという。あるいは日本古代の風として、みだりに家造りするときは山林を荒すゆえに、方角を忌みて伐木せざらしめたるなりという。
以上の諸説は一つも信ずるに足らず。これ、シナ古代の『神異経』あるいは『黄帝宅経』に出ずる神話にもとづき、迷信、妄想のこれを助くるありて次第に伝播して、民間一般の風習を成すに至れるなり。約言すれば、古代の神話と愚民の迷信と相合して、この風習を成すに至れるなり。
これより、鬼門の迷信を退治せんには、まず、その説の信ずるに足らざるゆえんを弁明すべし。
第一に、鬼門の起源はシナ古代の神話に過ぎず。しかして、その神話たるや、毫も信ずべき道理あるを見ず。『海外経』の「東海中に山あり」とはいずれの山をいうか。「山上の桃樹はいたって大にして三千里にまたがる」とあれども、だれかこれを信ずるものあらんや。「その東北に門ありて万鬼ここに集まる」というも、その妄誕なること言をまたず。あたかも桃太郎の鬼退治の昔話と同一般なり。いかなる鬼門迷信家といえども、必ずこの妄誕を信ずることあたわざるべし。かつ、その説たるや、東海の一孤島のことのみ。なんぞこれを、わが日本において談ずる理あらんや。
第二に、その説はシナ愚民の信ずるところにして、迷信、妄想によりて発達せるものなれば、わが国民にしてこれを奉信するがごときは、シナの愚民を崇拝するものと評して可なり。孔子のごとき孟子のごときはシナ古代の人物なるも、今日にありては実に世界の聖賢にして、万国みなこれを尊崇す。ゆえに、わが国においてその教えを奉信するも、決してシナ崇拝というべからず。今、鬼門の妄説のごときは、もとより孔孟聖賢の書中に見ざるところにして、かえってシナの聖賢の排斥せるところなり。しかるにわが国民にして、聖賢の排斥して愚民の奉信するところの妄説を固守するにおいては、これを愚の極みといわずしてなんぞや。ことに一昨年以来、わが上下こぞってシナ人を敵視し、かつこれを軽賎せるにもかかわらず、その愚民の迷信を神仏の啓示のごとく崇拝するは、余輩その意を解することあたわず。これ、あに国民の一大恥辱にあらずや。
鬼門の妄説は、その根源すでにかくのごとし。ゆえに、わが国にありても、古来、学者、知者をもって目せらるるものは、決してこれを信ぜざるのみならず、いたく排斥せり。ただ、愚民の間にこれを信ずるものありて今日に存するのみ。しかるに今日にありては、わが国は自ら称して文明国といい、自ら誇りて文明の民という。しかして、なお古代の愚民と同じく鬼門の妄説を信ずるにおいては、文明の実いずれのところにあるかを怪しまざるを得ず。けだし、有名無実の文明なるか、虚名詐称の文明なるか、余輩の大いに惑うところなり。しかれども、文明なにほど進むも、世に愚民の跡を絶つことあたわざれば、今日、下流の人民にして鬼門を信ずるはなおゆるすべしといえども、中等以上の公民あるいは上流の紳士貴人にして、往々これを信ずるものありという。これ、余輩の大いにその非を鳴らさんと欲するところなり。およそ貴人紳士とは、錦衣玉食するもののみをいうにあらず、その識見よく世の迷信を破り、その言行よく人の模範となるものならざるべからず。しかるに、なお鬼門を信ずるにおいては、愚民となんぞ選ばん。貴人紳士の実、いずれによりて存するや。古代、人知のいまだ開けざりしときにありては、あえて責むるに及ばざれども、文明のすでに進みたる今日にありて、上流社会なおこの迷信の霧中に彷徨するは、これまた国家の体面を汚すものといわざるを得ず。
さらにこれを近代の学説に考うるに、東北隅の方位の不吉なる理、決してあるべからず。地球上には東西南北の別あるも、これもとより仮定のみ。もし出でて地球外に立たば、いずれが東西にして、いずれが南北なるや。もしまた地球上に住するも、その位置の異なるに従い、方位もまた異なり、赤道直下にあるときと、北極付近にあるときと、南極付近にあるときとは、もとより鬼門そのものの方位、大いに異ならざるを得ず。もし、まさしく北極あるいは南極の中点に立つときは、いずれを指して東北隅と定むるを得るや。果たしてしからば、東西南北の方位は仮定のものたること明らかなり。しかるに、仮定の方位に対して吉凶を論ずるがごときは、迷信のはなはだしきものといわざるべからず。ことに地球は昼夜回転してとどまらざるものなれば、東西南北の方位も、これとともに時々刻々その方向を転ぜざるべからず。前刻の東北隅と後刻の東北隅とは、その指すところ全く異なるべき理なり。しかるに、いわんやこれに対して方位の吉凶を論ずるをや。これを迷信といわずしてなんぞや。畢竟するに、かくのごとき妄説は古代の地平説にもとづき、本来方位の確定せるものと信ずるより起これり。ゆえに、その説は今日、地球説を信ずるもののもとより取らざるところなり。
もし仮に一歩を譲り、方位は一定して動かざるものとし、東北隅はいずれの位置にありても変ぜざるものと許すも、東北隅の方位に限りて不吉なるの理あるべからず。もし、東北隅にして凶方ならば、西北隅もまた凶方なるべし。また、その凶方をおかせば必ず災害ありとする説に至りては、一層信じ難し。その方位に鬼神もしくは悪魔の住することを信ずるよりほかに、その理を解する道なし。これをわが国の上に考うるに、その東北隅は北海道にして、北海道の東北隅は千島なり。千島の東北隅はベーリング海峡を経てついに北極に達すべし。北海道にも千島にも千島以外にも、別に鬼神、悪魔の住する所あるを見ず。なんぞこれを恐るるの理あらんや。鬼門説の迷信なること、いよいよ明らかなり。
鬼門の吉凶は、シナ、日本のみに限るの理なし。東洋にありて東北隅凶方ならば、西洋にありても東北隅は凶方ならざるべからず。しかるに、西洋にはその伝説なきのみならず、古来その方位をおかして災害を招きたる実例あるを聞かず。もし、西洋にはその害なくして、ひとりシナ、日本にその害ありとするときは、鬼門の人に災禍を下すこと、実に偏頗なりといわざるべからず、かつ、そのしかるゆえんの道理ありて存せざるべからず。鬼門家は、よくこれを説明し得るやいかん。余、察するに、鬼門家は必ずこれに答えていわん、「西洋にも東洋にも同じく鬼門の凶方あれども、西洋人はその凶方たるを知らざるをもって、実際これをおかして禍災のその身に及ぶことありながら、自ら知らざるなり」と。果たしてしからば、余はこれに一言をたださんと欲す。西洋人は鬼門の凶方たるを知らざるをもって、これを避くることをなさず、わが国人はその凶方たるを知るをもって、これを避くる法を講ず。しかしてその結果は、統計上西洋人に禍害多くして日本人に少なきかいかん。余、いまだ比較上西洋人に禍害の多きを見ず。
しかるに、西洋は一般に家も富み国も隆んなること、わが国の比にあらざる以上は、鬼門方位を恐るる国民は貧弱にして、これを恐れざる国民は富強なりと論定して可なり。もしまた、これをわが国民の間に考うるに、鬼門方位を恐るるものと恐れざるものとの別あるも、余いまだ、これを恐るる家に禍害のきたること少なく、恐れざる家に禍害の起こること多き事実あるを見ず。実際上、かえってこれを恐るる家に禍害のきたること多きがごとし。古来、一代にしてよく家を興し富をいたせるものは、大抵みなかくのごとき迷信に心を傾けざるものにして、家をほろぼし産をやぶり、もしくは貧困に苦しむものは、多くこの迷信を有するものなり。これによりてこれをみるに、わが国民もし泰西諸邦と富強を争わんと欲せば、まずこの迷信を去らざるべからず。しからずんば、到底貧弱の国たるを免れざるべし。
余おもえらく、わが国人にして鬼門説を信ぜんか。これすなわち、己が国をもって大凶国と信ずるとなんぞ異ならん。なんとなれば、鬼門に向かい突出する国は、日本よりはなはだしきはなければなり。しかして、鬼門に突出したる家に凶害多しとすれば、鬼門に突出したる国もまた凶害多しと想定してしかるべし。しかるに、わが国は建国以来一統連綿として、天長地久一種無類のめでたき神国にあらずや。この一例によりても、鬼門説の妄なるを証するに余りありというべし。余は年来、鬼門方位の妄説なるゆえんを己の身に試みんと欲し、ことさらに悪方凶位を選びてこれを移転し、あるいは家作するも、いまだなんらの凶変の己の身に起こりたるを覚えず。今、その一例を挙ぐるに、余が住家は八年前に新築せしところなるが、ことさらに鬼門の方位に向かって作れり。ゆえに、自らこれを称して鬼門破りの家という。その後、さらに鬼門に向かって書斎を増築して自らこれにおり、その後また、さらに鬼門に向かって土蔵を増築して書類をここにおさむ。よって前後三回鬼門を破れり。よろしくこれを鬼門三度破りの家と名づくべし。爾来、すでに三年以上経過せるも、いまだなんらの凶災の己の身上に下るを見ず。鬼門、もし果たして人に禍害を与うる力あるならば、余のごときは、五、六年前に早く冥土の客とならざるべからず。しかるに今なお依然たるは、鬼門説の信ずるに足らざる明証なり。ひとり家作のみならず、余は旅行、転居等、今日までことさらに凶日凶方を選びてこれに就きしも、いまだなんらの凶害の一身上に及びしを検せず。これみな、鬼門方位説の迷信たるゆえんを証するに足る。
鬼門説の迷信たることすでに明らかなり。迷信は文明の敵なり。文明進めば迷信退かざるを得ず、迷信増長すれば文明減縮せざるべからず。これによりてこれをみるに、わが国に鬼門方位説の今日なお行わるるは、その野蛮なるを示すものにして、日本男児の深く恥じざるを得ざるところなり。ゆえに、この迷信を退治するはすなわち国家文明の経営にして、内地雑居の準備なり。これ、あたかも新年を迎うるに、座敷はもちろん、雪隠、下水の掃除までを要するがごとし。しかして、迷信の起こるゆえんと、これを退治する方法とにつきて、さらに一言を費やすべし。
およそ人の迷信を起こすは、知識の明らかならざると思想の定まらざるとにより、これに加うるに利己心の強きによらざるはなし。知識明らかならざれば、吉凶禍福の起こる理を弁ずるあたわず、思想定まらざれば、吉凶禍福のためにその心をうごかさるるを免れず。しかして、利己心のこれに加わるありて、凶を避け福を得んとする欲情禁ずるあたわず。
かくして、ひとたび迷いふたたび迷い、再三再四ついに迷海中に沈溺して、これを脱するゆえんを知らざるに至る。もし、これを療せんと欲せば、一には、百科の学術によりて知識を進め、二には、真正の宗教によりて信仰を高め、三には、高等の道徳によりて利己心を制するを要するなり。しかれども、これすこぶる難事にして、一朝一夕のなし得るところにあらず。ここにおいて、余は直接に迷信を医する方法を考出せり。すなわち、世人の最も多く迷うところの事柄につきて、いちいちその理由を説明解釈し、これを一読するものをして再び迷わざらしめんと欲し、先年来『妖怪学講義』を編述せるに至れり。かつ余は、己の田に水を引くようなれども、普通教育上に妖怪学の一科を設けて、これを小学教育に応用するにしかずと考うるなり。すでに老い去りたるものは、積年の間、迷いに迷いを重ねたるものなれば、到底一朝一夕にその迷信をいやし難しといえども、もし小学児童に妖怪学の一端を授け、さらに中学においてその全科を授くるに至らば、国民の迷信を払い去りて、文明の民たるに恥じざる人物をつくることを得べし。余が『妖怪学講義』の本意もまた、その準備の便を与うるにほかならざるなり。 
 

 

 
 

 

 
 

 

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「太平記」に見る「鬼」表記

 

『太平記』は、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。全40巻。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。
作者と成立時期は不詳であるが、今川貞世の『難太平記』に法勝寺の恵鎮上人(円観)が足利直義に三十余巻を見せたとの記事があり、14世紀中ごろまでには後醍醐天皇の崩御が描かれる巻21あたりまでの部分が円観、玄慧など室町幕府との密接な関わりを持つ知識人を中心に編纂されたと考えられている。これが小島法師(児島高徳と同一人物か?)などの手によって増補改訂されてゆき、1370年ころまでには現在の40巻からなる太平記が成立したと考えられている。室町幕府3代将軍足利義満や管領細川頼之が修訂に関係していた可能性も指摘されている。
いずれにせよ一人の手で短期間に出来上がったものではないだろうと考えられている。この点については『難太平記』のほか、『太平記評判秘伝理尽鈔』でも、あくまで根拠の乏しい伝説の域を出ないが、実に10人を超える作者を列挙している。
また、玄恵作者説については、古態本の一つである神宮徴古館本の弘治元(1555)年次の奥書に「独清再治之鴻書」とある。(「独清」は玄恵の号である「独清軒」のことか 「再治」は再び編集すること、「鴻書」とは大部の書の意味)
『太平記』の外部の史料で『太平記』の名が確認できる最古のものは、『洞院公定日記』の応安7(1374)年5月3日条である。(『太平記』の作中記事で年代のもっとも新しいものは応安4(1371)年以降の斯波義将追討の件である)
伝へ聞く 去んぬる二十八九日の間 小嶋法師円寂すと 云々 是れ近日 天下に翫(もてあそ)ぶ太平記作者なり 凡(およ)そ卑賤の器なりと雖(いへど)も名匠の聞こえ有り 無念と謂ふべし(原漢文 ただし「天下」と「太平記」の間に改行があり、「近日天下に翫ぶ太平記」は「近日翫ぶ天下太平記」と読むべきだという意見もある なおこの記事と『太平記』との関連が指摘されたのは明治19年に重野安繹によってである)
『難太平記』を別にすれば、同時代、またはそれに近い時代の史料で作者に擬されているのはこの「小嶋法師」だけであるが、この人物が何ものであるかは既述の「児島高徳」説(明治期から)ほか、備前児島に関係のある山伏説(和歌森太郎、角川源義)、近江外嶋の関係者(後藤丹治)など諸説あり、未だに決着を見ていない。
『洞院公定日記』に見える『太平記』の本文は全く不明であるが、後述する永和本の本文が現存『太平記』本文にほぼ一致することを考えると、『太平記』作中最新(最終)記事の事件から10年ほどで現存本文が成立したとも考えられる。
一貫して南朝よりであるのは、南朝側の人物が書いたとも南朝方への鎮魂の意味があったとも推測されている。また、「ばさら」と呼ばれる当時の社会風潮や下剋上に対しても批判的に書かれている。

全体の構想にあるのが儒教的な大義名分論と君臣論、仏教的因果応報論が基調に有り、宋学の影響を受けたとされる。この考え方にもとづき、後醍醐天皇は作中で徳を欠いた天皇として描かれるが、水戸光圀は修史事業として編纂していた『大日本史』において天皇親政をめざした後醍醐天皇こそ正統な天皇であると主張した。これにより足利尊氏は逆賊であり南朝側の楠木正成や新田義貞などは忠臣として美化され(徳川将軍家は新田氏の末裔を称していた)、これがのちに水戸学として幕末の尊王攘夷運動、さらに太平洋戦争前の皇国史観へと至る。
中盤の後醍醐天皇の崩御が平清盛の死に相当するなど、随所に『平家物語』からの影響が見られ、また時折本筋を脱線した古典からの引用も多く、脚色も多い。
有名な「呉越合戦」「漢楚合戦」などは巻一つの何分の一かを占める長文のものである。もっともこの二つは『太平記』漢籍由来故事でも他を圧して長大であるのだが。ただし、すでに江戸時代以前の古注釈の頃から指摘されているように、『太平記』の引く故事は時に単純な勘違い以上に漢籍(あるいは『日本書紀』など日本の史書)と相違するものがあり、しばしば不正確とされる。ただし、漢籍については増田欣の研究などによって、いわゆる「変文」と言われる通俗読み物などが素材としてかなりの量、用いられているのも理由の一つとされている。また、巻25の伊勢宝剣説話にはかなり奇妙な(奇怪な)神代説話が載せられているが、これも『日本書紀』本文によったものではなく、中世日本紀を素材としたのであろうと考えられている。
なお、この脱線の多さの理由については大隅和雄の説の様に『太平記』は軍記物語の体裁を取ってはいるものの実際には往来物として作られた物であり、中世の武士達が百科事典として使う事を主目的に作られたからではないかという見解も存在する。 
 

 

10 僧徒六波羅召捕事付為明詠歌事
事の漏安きは、禍を招く媒なれば、大塔宮の御行事、禁裡に調伏の法被行事共、一々に関東へ聞へてけり。相摸入道大に怒て、「いや/\此君御在位の程は天下静まるまじ。所詮君をば承久の例に任て、遠国へ移し奉せ、大塔宮を死罪に所し奉るべき也。先近日殊に竜顔に咫尺奉て、当家を調伏し給ふなる、法勝寺の円観上人・小野の文観僧正・南都の知教・教円・浄土寺の忠円僧正を召取て、子細を相尋べし。」と、已に武命を含で、二階堂下野判官・長井遠江守二人、関東より上洛す。両使已に京着せしかば、「又何なる荒き沙汰をか致さんずらん。」と、主上宸襟を悩されける所に、五月十一日の暁、雑賀隼人佐を使にて、法勝寺の円観上人・小野の文観僧正・浄土寺の忠円僧正、三人を六波羅へ召取奉る。此中に忠円僧正は、顕宗の碩徳也しかば、調伏の法行たりと云、其人数には入らざりしかども、是も此君に近付き奉て、山門の講堂供養以下の事、万直に申沙汰せられしかば、衆徒与力の事、此僧正よも存ぜられぬ事は非じとて、同召取れ給にけり。是のみならず、智教・教円二人も、南都より召出されて、同六波羅へ出給ふ。又二条中将為明卿は、歌道の達者にて、月の夜雪の朝、褒貶の歌合の御会に召れて、宴に侍る事隙無りしかば、指たる嫌疑の人にては無りしかども、叡慮の趣を尋問ん為に召取れて、斉藤某に是を預らる。五人の僧達の事は、元来関東へ召下して、沙汰有べき事なれば、六波羅にて尋窮に及ばず。為明卿の事に於ては、先京都にて尋沙汰有て、白状あらば、関東へ註進すべしとて、検断に仰て、已嗷問の沙汰に及んとす。六波羅の北の坪に炭をゝこす事、湯炉壇の如にして、其上に青竹を破りて敷双べ、少隙をあけゝれば、猛火炎を吐て、烈々たり。朝夕雑色左右に立双で、両方の手を引張て、其上を歩せ奉んと、支度したる有様は、只四重五逆の罪人の、焦熱大焦熱の炎に身を焦し、牛頭馬頭の呵責に逢らんも、角社有らめと覚へて、見にも肝は消ぬべし。為明卿是を見給て、「硯や有。」と尋られければ、白状の為かとて、硯に料紙を取添て奉りければ、白状にはあらで、一首の歌をぞ書れける。
思きや我敷嶋の道ならで浮世の事を問るべしとは常葉駿河守、此歌を見て感歎肝に銘じければ、泪を流して理に伏す。東使両人も是を読て、諸共に袖を浸しければ、為明は水火の責を遁れて、咎なき人に成にけり。詩歌は朝廷の翫処、弓馬は武家の嗜む道なれば、其慣未必しも、六義数奇の道に携らねども、物相感ずる事、皆自然なれば、此歌一首の感に依て、嗷問の責を止めける、東夷の心中こそやさしけれ。力をも入ずして、天地を動し、目にみへぬ鬼神をも哀と思はせ、男女の中をも和げ、猛き武士の心をも慰るは歌也と、紀貫之が古今の序に書たりしも、理なりと覚たり。 
22 赤坂城軍事
遥々と東国より上りたる大勢共、未近江国へも入ざる前に、笠置の城已に落ければ、無念の事に思て、一人も京都へは不入。或は伊賀・伊勢の山を経、或は宇治・醍醐の道を要て、楠兵衛正成が楯篭たる赤坂の城へぞ向ひける。石河々原を打過、城の有様を見遣れば、俄に誘へたりと覚てはか/゛\しく堀をもほらず、僅に屏一重塗て、方一二町には過じと覚たる其内に、櫓二三十が程掻双べたり。是を見る人毎に、あな哀の敵の有様や、此城我等が片手に載て、投るとも投つべし。あはれせめて如何なる不思議にも、楠が一日こらへよかし、分捕高名して恩賞に預らんと、思はぬ者こそ無りけれ。されば寄手三十万騎の勢共、打寄ると均く、馬を蹈放々々、堀の中に飛入、櫓の下に立双で、我前に打入んとぞ諍ひける。正成は元来策を帷幄の中に運し、勝事を千里の外に決せんと、陳平・張良が肺肝の間より流出せるが如の者なりければ、究竟の射手を二百余人城中に篭て、舎弟の七郎と、和田五郎正遠とに、三百余騎を差副て、よその山にぞ置たりける。寄手は是を思もよらず、心を一片に取て、只一揉に揉落さんと、同時に皆四方の切岸の下に着たりける処を、櫓の上、さまの陰より、指つめ引つめ、鏃を支て射ける間、時の程に死人手負千余人に及べり。東国の勢共案に相違して、「いや/\此城の為体、一日二日には落まじかりけるぞ、暫陣々を取て役所を構へ、手分をして合戦を致せ。」とて攻口を少し引退き、馬の鞍を下し、物の具を脱で、皆帷幕の中にぞ休居たりける。楠七郎・和田五郎、遥の山より直下して、時刻よしと思ければ、三百余騎を二手に分け、東西の山の木陰より、菊水の旗二流松の嵐に吹靡かせ、閑に馬を歩ませ、煙嵐を捲て押寄たり。東国の勢是を見て、敵か御方かとためらひ怪む処に、三百余騎の勢共、両方より時を咄と作て、雲霞の如くに靉ひたる三十万騎が中へ、魚鱗懸に懸入、東西南北へ破て通り、四方八面を切て廻るに、寄手の大勢あきれて陣を成かねたり。城中より三の木戸を同時に颯と排て、二百余騎鋒を双て打て出、手崎をまわして散々に射る。寄手さしもの大勢なれども僅の敵に驚騒で、或は維げる馬に乗てあをれども進まず。或は弛せる弓に矢をはげて射んとすれども不被射。物具一領に二三人取付、「我がよ人のよ。」と引遇ける其間に、主被打ども従者は不知、親被打共子も不助、蜘の子を散すが如く、石川々原へ引退く。其道五十町が間、馬・物具を捨たる事足の踏所もなかりければ、東条一郡の者共は、俄に徳付てぞ見たりける。指もの東国勢思の外にし損じて、初度の合戦に負ければ、楠が武畧侮りにくしとや思けん。吐田・楢原辺に各打寄たれども、軈て又推寄んとは不擬。此に暫引へて、畿内の案内者を先に立て、後攻のなき様に山を苅廻、家を焼払て、心易く城を責べきなんど評定ありけるを、本間・渋谷の者共の中に、親被打子被討たる者多かりければ、「命生ては何かせん、よしや我等が勢許なりとも、馳向て打死せん。」と、憤りける間、諸人皆是に被励て、我も我もと馳向けり。
彼赤坂の城と申は、東一方こそ山田の畔重々に高して、少し難所の様なれ、三方は皆平地に続きたるを、堀一重に屏一重塗たれば、如何なる鬼神が篭りたり共、何程の事か可有と寄手皆是を侮り、又寄ると均く、堀の中、切岸の下まで攻付て、逆木を引のけて打て入んとしけれども、城中には音もせず、是は如何様昨日の如く、手負を多く射出て漂ふ処へ、後攻の勢を出して、揉合せんずるよと心得て、寄手十万余騎を分て、後の山へ指向て、残る二十万騎稲麻竹葦の如く城を取巻てぞ責たりける。卦けれども城の中よりは、矢の一筋をも不射出更人有とも見へざりければ、寄手弥気に乗て、四方の屏に手を懸、同時に上越んとしける処を、本より屏を二重に塗て、外の屏をば切て落す様に拵たりければ、城の中より、四方の屏の鈎縄を一度に切て落したりける間、屏に取付たる寄手千余人、厭に被打たる様にて、目許はたらく処を、大木・大石を抛懸々々打ける間、寄手又今日の軍にも七百余人被討けり。東国の勢共、両日の合戦に手ごりをして、今は城を攻んとする者一人もなし。只其近辺に陣々を取て、遠攻にこそしたりけれ。四五日が程は加様にて有けるが、余に暗然として守り居たるも云甲斐なし。方四町にだに足ぬ平城に、敵四五百人篭たるを、東八箇国の勢共が責かねて、遠責したる事の浅猿さよなんど、後までも人に被笑事こそ口惜けれ。前々は早りのまゝ楯をも不衝、責具足をも支度せで責ればこそ、そゞろに人をば損じつれ。今度は質てを替て可責とて、面々に持楯をはがせ、其面にいため皮を当て、輒く被打破ぬ様に拵て、かづきつれてぞ責たりける。切岸の高さ堀の深さ幾程もなければ、走懸て屏に着ん事は、最安く覚けれ共、是も又釣屏にてやあらんと危みて無左右屏には不着、皆堀の中にをり漬て、熊手を懸て屏を引ける間、既に被引破ぬべう見へける処に、城の内より柄の一二丈長き杓に、熱湯の湧翻りたるを酌で懸たりける間、甲の天返綿噛のはづれより、熱湯身に徹て焼爛ければ、寄手こらへかねて、楯も熊手も打捨て、ばつと引ける見苦しさ、矢庭に死るまでこそ無れども、或は手足を被焼て立も不揚、或は五体を損じて病み臥す者、二三百人に及べり。寄手質を替て責れば、城の中工を替て防ぎける間、今は兔も角も可為様なくして、只食責にすべしとぞ被議ける。かゝりし後は混ら軍をやめて、己が陣々に櫓をかき、逆木を引て遠攻にこそしたりけれ。是にこそ中々城中の兵は、慰方もなく機も疲れぬる心地しけれ。楠此城を構へたる事暫時の事なりければ、はか/゛\しく兵粮なんど用意もせざれば、合戦始て城を被囲たる事、僅に二十日余りに、城中兵粮尽て、今四五日の食を残せり。懸ければ、正成諸卒に向て云けるは、「此間数箇度の合戦に打勝て、敵を亡す事数を不知といへども、敵大勢なれば敢て物の数ともせず、城中既食尽て助の兵なし。元来天下の士卒に先立て、草創の功を志とする上は、節に当り義に臨では、命を可惜に非ず。雖然事に臨で恐れ、謀を好で成すは勇士のする所也。されば暫此城を落て、正成自害したる体を敵に知せんと思ふ也。
其故は正成自害したりと見及ばゞ、東国勢定て悦を成て可下向。下らば正成打て出、又上らば深山に引入、四五度が程東国勢を悩したらんに、などか退屈せざらん。是身を全して敵を亡す計畧也。面々如何計ひ給。」と云ければ、諸人皆、「可然。」とぞ同じける。「さらば。」とて城中に大なる穴を二丈許掘て、此間堀の中に多く討れて臥たる死人を二三十人穴の中に取入て、其上に炭・薪を積で雨風の吹洒ぐ夜をぞ待たりける。正成が運や天命に叶けん、吹風俄に沙を挙て降雨更に篠を衝が如し。夜色窈溟として氈城皆帷幕を低る。是ぞ待所の夜なりければ、城中に人を一人残し留て、「我等落延ん事四五町にも成ぬらんと思はんずる時、城に火を懸よ。」と云置て、皆物の具を脱ぎ、寄手に紛て五人三人別々になり、敵の役所の前軍勢の枕の上を越て閑々と落けり。正成長崎が厩の前を通りける時、敵是を見つけて、「何者なれば御役所の前を、案内も申さで忍やかに通るぞ。」と咎めれけば、正成、「是は大将の御内の者にて候が、道を踏違へて候ひける。」と云捨て、足早にぞ通りける。咎めつる者、「さればこそ怪き者なれ、如何様馬盜人と覚るぞ。只射殺せ。」とて、近々と走寄て真直中をぞ射たりける。其矢正成が臂の懸りに答て、したゝかに立ぬと覚へけるが、す膚なる身に少も不立して、筈を返して飛翻る。後に其矢の痕を見れば、正成が年来信じて奉読観音経を入たりける膚の守に矢当て、一心称名の二句の偈に、矢崎留りけるこそ不思議なれ。正成必死の鏃に死を遁れ、二十余町落延て跡を顧ければ、約束に不違、早城の役所共に火を懸たり。寄手の軍勢火に驚て、「すはや城は落けるぞ。」とて勝時を作て、「あますな漏すな。」と騒動す。焼静まりて後城中をみれば、大なる穴の中に炭を積で、焼死たる死骸多し。皆是を見て、「あな哀や、正成はや自害をしてけり。敵ながらも弓矢取て尋常に死たる者哉。」と誉ぬ人こそ無りけれ。 
57 谷堂炎上事
千種頭中将は西山の陣を落給ひぬと聞へしかば、翌日四月九日、京中の軍勢、谷の堂・峰の堂已下浄住寺・松の尾・万石大路・葉室・衣笠に乱入て、仏閣神殿を打破り、僧坊民屋を追捕し、財宝を悉く運取て後、在家に火を懸たれば、時節魔風烈く吹て、浄住寺・最福寺・葉室・衣笠・三尊院、総じて堂舎三百余箇所、在家五千余宇、一時に灰燼と成て、仏像・神体・経論・聖教、忽に寂滅の煙と立上る。彼谷堂と申は八幡殿の嫡男対馬守義親が嫡孫、延朗上人造立の霊地也。此上人幼稚の昔より、武略累代の家を離れ、偏に寂寞無人の室をと給し後、戒定慧の三学を兼備して、六根清浄の功徳を得給ひしかば、法華読誦の窓の前には、松尾の明神坐列して耳を傾け、真言秘密の扉の中には、総角の護法手を束て奉仕し給ふ。かゝる有智高行の上人、草創せられし砌なれば、五百余歳の星霜を経て、末世澆漓の今に至るまで、智水流清く、法燈光明也。三間四面の輪蔵には、転法輪の相を表して、七千余巻の経論を納め奉られけり。奇樹怪石の池上には、都卒の内院を移して、四十九院の楼閣を並ぶ。十二の欄干珠玉天に捧げ、五重の塔婆金銀月を引く。恰も極楽浄土の七宝荘厳の有様も、角やと覚る許也。又浄住寺と申は、戒法流布の地、律宗作業の砌也。釈尊御入滅の刻、金棺未閉時、捷疾鬼と云鬼神、潛に双林の下に近付て、御牙を一引て是を取る。四衆の仏弟子驚見て、是を留めんとし給ひけるに、片時が間に四万由旬を飛越て、須弥の半四天王へ逃上る。韋駄天追攻奪取、是を得て其後漢土の道宣律師に被与。自尓以来相承して我朝に渡しを、嵯峨天皇御宇に始て此寺に被奉安置。偉哉大聖世尊滅後二千三百余年の已後、仏肉猶留て広く天下に流布する事普し。かゝる異瑞奇特の大加藍を無咎して被滅けるは、偏に武運の可尽前表哉と、人皆唇を翻けるが、果して幾程も非ざるに、六波羅皆番馬にて亡び、一類悉く鎌倉にて失せける事こそ不思議なれ。「積悪の家には必有余殃」とは、加様の事をぞ可申と、思はぬ人も無りけり。 
59 山崎攻事付久我畷合戦事
両六波羅は、度々の合戦に打勝ければ、西国の敵恐るに不足と欺きながら、宗徒の勇士と被憑たりける結城九郎左衛門尉は、敵に成て山崎の勢に加りぬ。其外、国々の勢共五騎十騎、或は転漕に疲て国々に帰り、或は時の運を謀て敵に属しける間、宮方は負れ共勢弥重り、武家は勝共兵日々に減ぜり。角ては如何可有と、世を危む人多かりける処に、足利・名越の両勢叉雲霞の如く上洛したりければ、いつしか人の心替て今は何事か可有と、色を直して勇合へり。かゝる処に、足利殿は京着の翌日より、伯耆の船上へ潛に使を進せて、御方に可参由を被申たりければ、君殊に叡感有て、諸国の官軍を相催し朝敵を可御追罰由の綸旨をぞ被成下ける。両六波羅も名越尾張守も、足利殿にかゝる企有とは思も可寄事ならねば、日々に参会して八幡・山崎を可被責内談評定、一々に心底を不残被尽さけるこそはかなけれ。「大行之路能摧車、若比人心夷途。巫峡之水能覆舟、若比人心是安流也。人心好悪苦不常。」とは云ながら、足利殿は代々相州の恩を戴き徳を荷て、一家の繁昌恐くは天下の肩を可並も無りけり。其上赤橋前相摸守の縁に成て、公達数た出来給ぬれば、此人よも弐はおはせじと相摸入道混に被憑けるも理也。四月二十七日には八幡・山崎の合戦と、兼てより被定ければ、名越尾張守大手の大将として七千六百余騎、鳥羽の作道より被向。足利治部大輔高氏は、搦手の大将として五千余騎、西岡よりぞ被向ける。八幡・山崎の官軍是を聞て、さらば難所に出合て不慮に戦を決せしめよとて、千種頭中将忠顕朝臣は、五百余騎にて大渡の橋を打渡り、赤井河原に被扣。結城九郎左衛門尉親光は、三百余騎にて狐河の辺に向ふ。赤松入道円心は、三千余騎にて淀・古河・久我畷の南北三箇所に陣を張。是皆強敵を拉気、天を廻し地を傾と云共、機を解き勢を被呑とも、今上の東国勢一万余騎に対して可戦とはみへざりけり。足利殿は、兼て内通の子細有けれ共、若恃やし給ふ覧とて、坊門少将雅忠朝臣は、寺戸と西岡の野伏共五六百人駆催して、岩蔵辺に被向。去程に搦手の大将足利殿は、未明に京都を立給ぬと披露有ければ、大手の大将名越尾張守、「さては早人に先を被懸ぬ。」と、不安思ひて、さしも深き久我畷の、馬の足もたゝぬ泥土の中へ馬を打入れ、我先にとぞ進みける。尾張守は、元より気早の若武者なれば、今度の合戦、人の耳目を驚す様にして、名を揚んずる者をと、兼て有増の事なれば、其日の馬物の具・笠符に至まで、当りを耀かして被出立たり。花段子の濃紅に染たる鎧直垂に、紫糸の鎧金物重く打たるを、透間もなく着下して、白星の五枚甲の吹返に、日光・月光の二天子を金と銀とにて堀透して打たるを猪頚に着成し、当家累代重宝に、鬼丸と云ける金作の円鞘の太刀に、三尺六寸の太刀を帯き添、たかうすべ尾の矢三十六指たるを、筈高に負成、黄瓦毛の馬の太く逞きに、三本唐笠を金具に磨たる鞍を置き、厚総の鞦の燃立許なるを懸け、朝日の陰に耀して、光渡てみへたるが、動ば軍勢より先に進出て、当りを払て被懸ければ、馬物具の体、軍立の様、今日の大手の大将は是なめりと、知ぬ敵は無りけり。されば敵も自余の葉武者共には目を不懸、此に開き合せ彼に攻合て、是一人を打んとしけれども、鎧よければ裏かゝする矢もなし。打物達者なれば、近付敵を切て落す。其勢ひ参然たるに辟易して、官軍数万の士卒、已に開き靡きぬとぞ見へたりける。爰に赤松の一族に佐用佐衛門三郎範家とて、強弓の矢継早、野伏戦に心きゝて、卓宣公が秘せし所を、我物に得たる兵あり。態物具を解で、歩立の射手に成、畔を伝ひ、薮を潛て、とある畔の陰にぬはれ臥、大将に近付て、一矢ねらはんとぞ待たりける。尾張守は、三方の敵を追まくり、鬼丸に着たる血を笠符にて推拭ひ、扇開仕ふて、思ふ事もなげに扣へたる処を、範家近々とねらひ寄て引つめて丁と射る。其矢思ふ矢坪を不違、尾張守が冑の真甲のはづれ、眉間の真中に当て、脳を砕骨を破て、頚の骨のはづれへ、矢さき白く射出たりける間、さしもの猛将なれ共、此矢一隻に弱て、馬より真倒にどうど落、範家箙を叩て矢呼を成し、「寄手の大将名越尾張守をば、範家が只一矢に射殺したるぞ、続けや人々。」と呼りければ、引色に成つる官軍共、是に機を直し、三方より勝時を作て攻合す。尾張守の郎従七千余騎、しどろに成て引けるが、或は大将を打せて何くへか可帰とて、引返て討死するもあり。或は深田に馬を馳こうで、叶はで自害するもあり。されば狐河の端より鳥羽の今在家まで、其道五十余町が間には、死人尺地もなく伏にけり。 
69 新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事
懸ける処に、新田太郎義貞、去三月十一日先朝より綸旨を給たりしかば、千剣破より虚病して本国へ帰り、便宜の一族達を潛に集て、謀反の計略をぞ被回ける。懸る企有とは不思寄、相摸入道、舎弟の四郎左近大夫入道に十万余騎を差副て京都へ上せ、畿内・西国の乱を可静とて、武蔵・上野・安房・上総・常陸・下野六箇国の勢をぞ被催ける。其兵粮の為にとて、近国の庄園に、臨時の天役を被懸ける。中にも新田庄世良田には、有徳の者多しとて、出雲介親連、黒沼彦四郎入道を使にて、「六万貫を五日中可沙汰。」と、堅く下知せられければ、使先彼所に莅で、大勢を庄家に放入て、譴責する事法に過たり。新田義貞是を聞給て、「我館の辺を、雑人の馬蹄に懸させつる事こそ返々も無念なれ、争か乍見可怺。」とて数多の人勢を差向られて、両使を忽生取て、出雲介をば誡め置き、黒沼入道をば頚を切て、同日の暮程に世良田の里中にぞ被懸たる。相摸入道此事を聞て、大に忿て宣けるは、「当家執世已に九代、海内悉其命に不随と云事更になし。然に近代遠境動ば武命に不随、近国常に下知を軽ずる事奇怪也。剰藩屏の中にして、使節を誅戮する条、罪科非軽に。此時若緩々の沙汰を致さば、大逆の基と成ぬべし。」とて、則武蔵・上野両国の勢に仰て、「新田太郎義貞・舎弟脇屋次郎義助を討て可進す。」とぞ被下知ける。義貞是を聞て、宗徒の一族達を集て、「此事可有如何。」と評定有けるに、異儀区々にして不一定。或は、沼田圧を要害にして、利根河を前に当て敵を待ん。」と云義もあり。又、「越後国には大略当家の一族充満たれば、津張郡へ打超て、上田山を伐塞ぎ、勢を付てや可防。」と意見不定けるを、舎弟脇屋次郎義助暫思案して、進出て被申けるは、「弓矢の道、死を軽じて名を重ずるを以て義とせり。就中相摸守天下を執て百六十余年、于今至まで武威盛に振て、其命を重ぜずと云処なし。されば縦戸祢川をさかうて防共、運尽なば叶まじ。又越後国の一族を憑たり共、人の意不和ならば久き謀に非ず。指たる事も仕出さぬ物故に、此彼へ落行て、新田の某こそ、相摸守の使を切たりし咎に依て、他国へ逃て被討たりしかなんど、天下の人口に入らん事こそ口惜けれ。とても討死をせんずる命を謀反人と謂れて、朝家の為に捨たらんは、無らん跡までも、勇は子孫の面を令悦名は路径の尸を可清む。先立て綸旨を被下ぬるは何の用にか可当。各宣旨を額に当て、運命を天に任て、只一騎也共国中へ打出て、義兵を挙たらんに勢付ば軈て鎌倉を可責落。勢不付ば只鎌倉を枕にして、討死するより外の事やあるべき。と、義を先とし勇を宗として宣しかば、当座の一族三十余人、皆此義にぞ同じける。さらば軈て事の漏れ聞へぬ前に打立とて、同五月八日の卯刻に、生品明神の御前にて旗を挙、綸旨を披て三度是を拝し、笠懸野へ打出らる。相随ふ人々、氏族には、大館次郎宗氏・子息孫次郎幸氏・二男弥次郎氏明・三男彦二郎氏兼・堀口三郎貞満・舎弟四郎行義・岩松三郎経家・里見五郎義胤・脇屋次郎義助・江田三郎光義・桃井次郎尚義、是等を宗徒の兵として、百五十騎には過ざりけり。此勢にては如何と思ふ処に、其日の晩景に利根河の方より、馬・物具爽に見へたりける兵二千騎許、馬煙を立て馳来る。すはや敵よと目に懸て見れば、敵には非ずして、越後国の一族に、里見・鳥山・田中・大井田・羽川の人々にてぞ坐しける。
義貞大に悦て、馬を扣て宣けるは、「此事兼てより其企はありながら、昨日今日とは存ぜざりつるに、俄に思立事の候ひつる間、告申までなかりしに、何として存ぜられける。」と問給ひければ、大井田遠江守鞍壷に畏て被申けるは、「依勅定大儀を思召立るゝ由承候はずば、何にとして加様に可馳参候。去五日御使とて天狗山伏一人、越後の国中を一日の間に、触廻て通候し間、夜を日に継で馳参て候。境を隔たる者は、皆明日の程にぞ参着候はんずらん。他国へ御出候はゞ、且く彼勢を御待候へかし。」と被申て、馬より下て各対面色代して、人馬の息を継せ給ける処に、後陣の越後勢並甲斐・信濃の源氏共、家々の旗を指連て、其勢五千余騎夥敷く見へて馳来。義貞・義助不斜悦て、「是偏八幡大菩薩の擁護による者也。且も不可逗留。」とて、同九日武蔵国へ打越給ふに、紀五左衛門、足利殿の御子息千寿王殿を奉具足、二百余騎にて馳着たり。是より上野・下野・上総・常陸・武蔵の兵共不期に集り、不催に馳来て、其日の暮程に、二十万七千余騎甲を並べ扣たり。去ば四方八百里に余れる武蔵野に、人馬共に充満て、身を峙るに処なく、打囲だる勢なれば、天に飛鳥も翔る事を不得、地を走る獣も隠んとするに処なし。草の原より出る月は、馬鞍の上にほのめきて冑の袖に傾けり。尾花が末を分る風は、旗の影をひらめかし、母衣の手静る事ぞなき。懸しかば国々の早馬、鎌倉へ打重て、急を告る事櫛の歯を引が如し。是を聞て時の変化をも計らぬ者は、「穴こと/゛\し、何程の事か可有。唐土・天竺より寄来といはゞ、げにも真しかるべし。我朝秋津嶋の内より出て、鎌倉殿を亡さんとせん事蟷螂遮車、精衛填海とするに不異。」と欺合り。物の心をも弁たる人は、「すはや大事出来ぬるは。西国・畿内の合戦未静ざるに大敵又藩籬の中より起れり。是伍子胥が呉王夫差を諌しに、晋は瘡にして越は腹心の病也。と云しに不異。」と恐合へり。去程に京都へ討手を可被上事をば閣て、新田殿退治の沙汰計也。同九日軍の評定有て翌日の巳刻に、金沢武蔵守貞将に、五万余騎を差副て、下河辺へ被下。是は先上総・下総の勢を付て、敵の後攻をせよと也。一方へは桜田治部大輔貞国を大将にて、長崎二郎高重・同孫四郎左衛門・加治二郎左衛門入道に、武蔵・上野両国の勢六万余騎を相副て、上路より入間河へ被向。是は水沢を前に当て敵の渡さん処を討と也。承久より以来東風閑にして、人皆弓箭をも忘たるが如なるに、今始て干戈動す珍しさに、兵共こと/゛\敷此を晴と出立たりしかば、馬・物具・太刀・刀、皆照耀許なれば、由々敷見物にてぞ有ける。路次に両日逗留有て、同十一日の辰刻に、武蔵国小手差原に打臨給ふ。爰にて遥に源氏の陣を見渡せば、其勢雲霞の如くにて、幾千万騎共可云数を不知。桜田・長崎是を見て、案に相違やしたりけん、馬を扣て不進得。義貞忽に入間河を打渡て、先時の声を揚、陣を勧め、早矢合の鏑をぞ射させける。平家も鯨波を合せて、旗を進めて懸りけり。初は射手を汰て散々に矢軍をしけるが、前は究竟の馬の足立也。何れも東国そだちの武士共なれば、争でか少しもたまるべき、太刀・長刀の鋒をそろへ馬の轡を並て切て入。
二百騎・三百騎・千騎・二千騎兵を添て、相戦事三十余度に成しかば、義貞の兵三百余騎被討、鎌倉勢五百余騎討死して、日已に暮ければ、人馬共に疲たり。軍は明日と約諾して、義貞三里引退て、入間河に陣をとる。鎌倉勢も三里引退て、久米河に陣をぞ取たりける。両陣相去る其間を見渡せば三十余町に足ざりけり。何れも今日の合戦の物語して、人馬の息を継せ、両陣互に篝を焼て、明るを遅と待居たり。夜既に明ぬれば、源氏は平家に先をせられじと、馬の足を進て久米河の陣へ押寄る。平家も夜明けば、源氏定て寄んずらん、待て戦はゞ利あるべしとて、馬の腹帯を固め甲の緒を縮め、相待とぞみへし。両陣互に寄合せて、六万余騎の兵を一手に合て、陽に開て中にとり篭んと勇けり。義貞の兵是を見て、陰に閉て中を破れじとす。是ぞ此黄石公が虎を縛する手、張子房が鬼を拉ぐ術、何れも皆存知の道なれば、両陣共に入乱て、不被破不被囲して、只百戦の命を限りにし、一挙に死をぞ争ひける。されば千騎が一騎に成までも、互に引じと戦けれ共、時の運にやよりけん、源氏は纔に討れて平家は多く亡にければ、加治・長崎二度の合戦に打負たる心地して、分陪を差して引退く。源氏猶続て寄んとしけるが、連日数度の戦に、人馬あまた疲たりしかば、一夜馬の足を休めて、久米河に陣を取寄て、明る日をこそ待たりけれ。去程に桜田治部大輔貞国・加治・長崎等十二日の軍に打負て引退由鎌倉へ聞へければ、相摸入道・舎弟の四郎左近大夫入道恵性を大将軍として、塩田陸奥入道・安保左衛門入道・城越後守・長崎駿河守時光・左藤左衛門入道・安東左衛門尉高貞・横溝五郎入道・南部孫二郎・新開左衛門入道・三浦若狭五郎氏明を差副て、重て十万余騎を被下、其勢十五日の夜半許に、分陪に着ければ、当陣の敗軍又力を得て勇進まんとす。義貞は敵に荒手の大勢加りたりとは不思寄。十五日の夜未明に、分陪へ押寄て時を作る。鎌倉勢先究竟の射手三千人を勝て面に進め、雨の降如散々に射させける間、源氏射たてられて駈ゑず。平家是に利を得て、義貞の勢を取篭不余とこそ責たりけれ。新田義貞逞兵を引勝て、敵の大勢を懸破ては裏へ通り、取て返ては喚て懸入、電光の如激、蜘手・輪違に、七八度が程ぞ当りける。されども大敵而も荒手にて、先度の恥を雪めんと、義を専にして闘ひける間、義貞遂に打負て堀金を指て引退く。其勢若干被討て痛手を負者数を不知。其日軈て追てばし寄たらば、義貞爰にて被討給ふべかりしを、今は敵何程の事か可有、新田をば定て武蔵・上野の者共が、討て出さんずらんと、大様に憑で時を移す。是ぞ平家の運命の尽ぬる処のしるし也。 
 

 

93 大内裏造営事付聖廟御事
翌年正月十二日、諸卿議奏して曰、「帝王の業、万機事繁して、百司設位。今の鳳闕僅方四町の内なれば、分内狭して調礼儀無所。四方へ一町宛被広、建殿造宮。是猶古の皇居に及ばねばとて、大内裏可被造。」とて安芸・周防を料国に被寄、日本国の地頭・御家人の所領の得分二十分一を被懸召。抑大内裡と申は、秦の始皇帝の都、咸陽宮の一殿を摸して被作たれば、南北三十六町、東西二十町の外、竜尾の置石を居へて、四方に十二の門を被立たり。東には陽明・待賢・郁芳門、南には美福・朱雀・皇嘉門、西には談天・藻壁・殷富門、北には安嘉・偉鑒・達智門、此外上東・上西、二門に至迄、守交戟衛伍長時に誡非常たり。三十六の後宮には、三千の淑女飾妝、七十二の前殿には文武の百司待詔。紫宸殿の東西に、清涼殿・温明殿。当北常寧殿・貞観殿。々々々と申は、后町の北の御匣殿也。校書殿と号せしは、清涼殿の南の弓場殿也。昭陽舎は梨壺、淑景舎は桐壺、飛香舎は藤壺、凝花舎は梅坪、襲芳舎と申は雷鳴坪の事也。萩戸・陣座・滝口戸・鳥曹司・縫殿。兵衛陣、左は宣陽門、右陰明門。日花・月花の両門は、対陣座左右。大極殿・小安殿・蒼龍楼・白虎楼。豊楽院・清署堂、五節の宴水・大嘗会は此所にて被行。中和院は中院、内教坊は雅楽所也。御修法は真言院、神今食は神嘉殿、真弓・競馬をば、武徳殿にして被御覧。朝堂院と申は八省の諸寮是也。右近の陣の橘は昔を忍ぶ香を留め、御階に滋る竹の台幾世の霜を重ぬらん。在原中将の弓・胡を身に添て、雷鳴騒ぐ終夜あばらなる屋に居たりしは、官の庁の八神殿、光源氏大将の、如物もなしと詠じつゝ、朧月夜に軻しは弘徽殿の細殿、江相公の古へ越の国へ下しに、旅の別を悲て、「後会期遥也。濡纓於鴻臚之暁涙」と、長篇の序に書たりしは、羅城門の南なる鴻臚館の名残なり。鬼の間・直盧・鈴の縄。荒海の障子をば、清涼殿に被立、賢聖の障子をば、紫宸殿にぞ被立ける。東の一の間には、馬周・房玄齢・杜如晦・魏徴、二の間には、諸葛亮・遽伯玉・張子房・第伍倫、三の間には、管仲・禹・子産・蕭何、四の間には、伊尹・傅説・太公望・仲山甫、西の一の間には、李勣・虞世南・杜預・張華、二の間には、羊・揚雄・陳寔・班固、三の間には、桓栄・鄭玄・蘇武・倪寛、四の間には、董仲舒・文翁・賈誼・叔孫通也。画図は金岡が筆、賛詞は小野道風が書たりけるとぞ承る。鳳の甍翔天虹の梁聳雲、さしもいみじく被造双たりし大内裏、天災消に無便、回禄度々に及で、今は昔の礎のみ残れり。尋回禄由、彼唐尭・虞舜の君は支那四百州の主として、其徳天地に応ぜしか共、「茆茨不剪、柴椽不削」とこそ申伝たれ。矧や粟散国の主として、此大内を被造たる事、其徳不可相応。後王若無徳にして欲令居安給はゞ、国財力も依之可尽と、高野大師鑒之、門々の額を書せ給けるに、大極殿の大の字の中を引切て、火と云字に成し、朱雀門の朱の字を米と云字にぞ遊しける。小野道風見之、大極殿は火極殿、朱雀門は米雀門とぞ難じたりける。大権の聖者鑒未来書給へる事を、凡俗として難じ申たりける罰にや、其後より道風執筆、手戦て文字正しからざれども、草書に得妙人なれば、戦て書けるも、軈て筆勢にぞ成にける。遂に大極殿より火出て、諸司八省悉焼にけり。
無程又造営有しを、北野天神の御眷属火雷気毒神、清涼殿の坤柱に落掛給し時焼けるとぞ承る。抑彼天満大神と申は、風月の本主、文道の大祖たり。天に御坐ては日月に顕光照国土、地に降下ては塩梅の臣と成て群生を利し玉ふ。其始を申せば、菅原宰相是善卿の南庭に、五六歳許なる小児の容顔美麗なるが、詠前栽花只一人立給へり。菅相公怪しと見給て、「君は何の処の人、誰が家の男にて御坐ぞ。」と問玉に、「我は無父無母、願は相公を親とせんと思侍る也。」と被仰ければ、相公嬉く思召て、手から奉舁懐、鴛鴦の衾の下に、恩愛の養育を為事生育奉り、御名をば菅少将とぞ申ける。未習悟道、御才学世に又類も非じと見給しかば、十一歳に成せ給し時父菅相公御髪を掻撫て、「若詩や作り給ふべき。」と問進せ給ければ、少しも案じたる御気色も無て、月耀如晴雪。梅花似照星。可憐金鏡転。庭上玉芳馨。と寒夜の即事を、言ば明に五言の絶句にぞ作せ玉ける。其より後、詩は捲盛唐波瀾先七歩才、文は漱漢魏芳潤、諳万巻書玉しかば、貞観十二年三月二十三日対策及第して自詞場に折桂玉ふ。其年の春都良香の家に人集て弓を射ける所へ菅少将をはしたり。都良香、此公は無何と、学窓に聚蛍、稽古に無隙人なれば、弓の本末をも知玉はじ、的を射させ奉り咲ばやと思して、的矢に弓を取副て閣菅少将御前に、「春の始にて候に、一度遊ばし候へ。」とぞ被請ける。菅少将さしも辞退し給はず、番の逢手に立合て、如雪膚を押袒、打上て引下すより、暫しをりて堅めたる体、切て放たる矢色・弦音・弓倒し、五善何れも逞く勢有て、矢所一寸ものかず、五度の十をし給ければ、都良香感に堪兼て、自下て御手を引、酒宴及数刻、様々の引出物をぞ被進ける。同年の三月二十六日に、延喜帝未だ東宮にて御坐ありけるが、菅少将を被召て、「漢朝の李は一夜に百首の詩を作けると見たり。汝盍如其才。一時に作十首詩可備天覧。」被仰下ければ、則十題を賜て、半時許に十首の詩をぞ作せ玉ける。送春不用動舟車。唯別残鴬与落花。若使韶光知我意。今宵旅宿在詩家。と云暮春の詩も其十首の絶句の内なるべし。才賢の誉・仁義の道、一として無所欠、君帰三皇五帝徳、世均周公・孔子治只在此人、君無限賞じ思召ければ、寛平九年六月に中納言より大納言に上、軈て大将に成玉ふ。同年十月に、延喜帝即御位給し後は、万機の政然自幕府上相出しかば、摂禄の臣も清花の家も無可比肩人。昌泰二年の二月に、大臣大将に成せ給ふ。此時本院大臣と申は、大織冠九代の孫、昭宣公第一の男、皇后御兄、村上天皇の御伯父也。摂家と云高貴と云、旁我に等き人非じと思ひ給けるに、官位・禄賞共に菅丞相に被越給ければ、御憤更無休時。光卿・定国卿・菅根朝臣などに内々相計て、召陰陽頭、王城の八方に埋人形祭冥衆、菅丞相を呪咀し給けれども、天道私なければ、御身に災難不来。さらば構讒沈罪科思て、本院大臣時々菅丞相天下の世務に有私、不知民愁、以非為理由被申ければ、帝さては乱世害民逆臣、諌非禁邪忠臣に非ずと被思召けるこそ浅猿けれ。
「誰知、偽言巧似簧。勧君掩鼻君莫掩。使君夫婦為参商。請君捕峰君莫捕。使君母子成豺狼。」さしも可眤夫婦・父子の中をだに遠くるは讒者の偽也。況於君臣間乎。遂昌泰四年正月二十日菅丞相被遷太宰権帥、筑紫へ被流給べきに定りにければ、不堪左遷御悲、一首の歌に千般の恨を述て亭子院へ奉り給ふ。流行我はみくづとなりぬとも君しがらみと成てとゞめよ法皇此歌を御覧じて御泪御衣を濡しければ、左遷の罪を申宥させ給はんとて、御参内有けれ共、帝遂に出御無りければ、法皇御憤を含で空く還御成にけり。其後流刑定て、菅丞相忽に太宰府へ被流させ玉ふ。御子二十三人の中に、四人は男子にてをわせしかば、皆引分て四方の国々へ奉流。第一の姫君一人をば都に留め進せ、残君達十八人は、泣々都を立離れ、心つくしに赴せ玉ふ御有様こそ悲しけれ。年久く住馴給し、紅梅殿を立出させ玉へば、明方の月幽なるに、をり忘たる梅が香の御袖に余りたるも、今は是や古郷の春の形見と思食に、御涙さへ留らねば、東風吹ば匂をこせよ梅の花主なしとて春な忘れそと打詠給て、今夜淀の渡までと、追立の官人共に道を被急、御車にぞ被召ける。心なき草木までも馴し別を悲けるにや、東風吹風の便を得て、此梅飛去て配所の庭にぞ生たりける。されば夢の告有て、折人つらしと惜まれし、宰府の飛梅是也。去仁和の比、讚州の任に下給しには、解甘寧錦纜、蘭橈桂梶、敲舷於南海月、昌泰の今配所の道へ赴せ玉ふには、恩賜の御衣の袖を片敷て、浪の上篷の底、傷思於西府雲、都に留置進せし北御方・姫君の御事も、今は昨日を限の別と悲く、知ぬ国々へ被流遣十八人の君達も、さこそ思はぬ旅に趣て、苦身悩心らめと、一方ならず思食遣に、御泪更に乾間も無れば、旅泊の思を述させ給ける詩にも、自従勅使駈将去。父子一時五処離。口不能言眼中血。俯仰天神与地祇。北御方より被副ける御使の道より帰けるに御文あり。君が住宿の梢を行々も隠るゝまでにかへり見しはや心筑紫に生の松、待とはなしに明暮て、配所の西府に着せ玉へば、埴生の小屋のいぶせきに、奉送置、都の官人も帰りぬ。都府楼の瓦の色、観音寺の鐘の声、聞に随ひ見に付ての御悲、此秋は独我身の秋となれり。起臥露のとことはに、古郷を忍ぶ御涙、毎言葉繁ければ、さらでも重濡衣の、袖乾く間も無りけり、さても無実の讒によりて、被遷配所恨入骨髄、難忍思召ければ、七日、間御身を清め一巻の告文を遊して高山に登り、竿の前に着て差挙、七日御足を翹させ給たるに、梵天・帝釈も其無実をや憐給けん。黒雲一群天より下さがりて、此告文を把て遥の天にぞ揚りける。
其後延喜三年二月二十五日遂に沈左遷恨薨逝し給ぬ。今の安楽寺を御墓所と定て奉送置。惜哉北闕春花、随流不帰水、奈何西府夜月、入不晴虚命雲、されば貴賎滴涙、慕世誇淳素化、遠近呑声悲道蹈澆漓俗。同年夏の末に、延暦寺第十三の座主、法性坊尊意贈僧正、四明山の上、十乗の床前に照観月、清心水御坐けるに、持仏堂の妻戸を、ほと/\と敲音しければ、押開て見玉ふに、過ぬる春筑紫にて正しく薨逝し給ぬと聞へし菅丞相にてぞ御坐ける。僧正奇思して、「先此方へ御入候へ。」と奉誘引、「さても御事は過にし二月二十五日に、筑紫にて御隠候ぬと、慥に承しかば、悲歎の涙を袖にかけて、後生菩提の御追善をのみ申居候に、少も不替元の御形にて入御候へば、夢幻の間難弁こそ覚て候へ。」と被申ければ、菅丞相御顔にはら/\とこぼれ懸りける御泪を押拭はせ給て、「我成朝廷臣、為令安天下、暫下生人間処に、君時平公が讒を御許容有て、終に無実の罪に被沈ぬる事、瞋恚の焔従劫火盛也。依之五蘊の形は雖壊、一霊の神は明にして在天。今得大小神祇・梵天・帝釈・四王許、為報其恨九重の帝闕に近づき、我につらかりし佞臣・讒者を一々に蹴殺さんと存ずる也。其時定て仰山門可被致総持法験。縦雖有勅定、相構不可有参内。」と被仰ければ、僧正曰、「貴方与愚僧師資之儀雖不浅、君与臣上下之礼尚深。勅請の旨一往雖辞申、及度々争か参内仕らで候べき。」と被申けるに、菅丞相御気色俄に損じて御肴に有ける柘榴を取てかみ摧き、持仏堂の妻戸に颯と吹懸させ給ければ、柘榴の核猛火と成て妻戸に燃付けるを、僧正少も不騒、向燃火灑水の印を結ばれければ、猛火忽に消て妻戸は半焦たる許也。此妻戸今に伝て在山門とぞ承る。其後菅丞相座席を立て天に昇らせ玉ふと見へければ、軈雷内裡の上に鳴落鳴騰、高天も落地大地も如裂。一人・百官縮身消魂給ふ。七日七夜が間雨暴風烈して世界如闇、洪水家々を漂はしければ、京白河の貴賎男女、喚き叫ぶ声叫喚・大叫喚の苦の如し。遂に雷電大内の清涼殿に落て、大納言清貫卿の表の衣に火燃付て伏転べども不消。右大弁希世朝臣は、心剛なる人なりければ、「縦何なる天雷也とも、王威に不威哉。」とて、弓に矢を取副て向給へば、五体すくみて覆倒にけり。近衛忠包鬢髪に火付焼死ぬ。紀蔭連は煙に咽で絶入にけり。本院大臣あはや我身に懸る神罰よと被思ければ、玉体に立副進せ太刀を抜懸て、「朝に仕へ給し時も我に礼を乱玉はず、縦ひ神と成玉ふとも、君臣上下の義を失玉はんや。金輪位高して擁護の神未捨玉、暫く静りて穏かに其徳を施し玉へ。」と理に当て宣ひければ、理にやしづまり玉けん、時平大臣も蹴殺され給はず、玉体も無恙、雷神天に上り玉ぬ。去ども雨風の降続事は尚不休。角ては世界国土皆流失ぬと見へければ、以法威神忿を宥申さるべしとて、法性坊の贈僧正を被召。一両度までは辞退申されけるが、勅宣及三度ければ、無力下洛し給けるに、鴨川をびたゝしく水増て、船ならでは道有まじかりけるを、僧正、「只其車水の中を遣れ。」と下知し給ふ。
牛飼随命、漲たる河の中へ車を颯と遣懸たれば、洪水左右へ分、却て車は陸地を通りけり。僧正参内し給ふより、雨止風静て、神忿も忽に宥り給ぬと見へければ、僧正預叡感登山し玉ふ。山門の効験天下の称讚在之とぞ聞へし。其後本院大臣受病身心鎮に苦み給ふ。浄蔵貴所を奉請被加持けるに、大臣の左右の耳より、小青蛇頭を差出して、「良浄蔵貴所、我無実の讒に沈し恨を為散、此大臣を取殺んと思也。されば祈療共に以て不可有験。加様に云者をば誰とかしる。是こそ菅丞相の変化の神、天満大自在天神よ。」とぞ示給ける。浄蔵貴所示現の不思議に驚て、暫く罷加持出玉ければ、本院大臣忽に薨じ給ぬ。御息女の女御、御孫の東宮も軈て隠れさせ玉ぬ。二男八条大将保忠同重病に沈給けるが、験者薬師経を読む時、宮毘羅大将と打挙て読けるを、我が頚切らんと云声に聞成て、則絶入給けり。三男敦忠中納言も早世しぬ。其人こそあらめ、子孫まで一時に亡玉ける神罰の程こそをそろしけれ。其比延喜帝の御従兄弟に右大弁公忠と申人、悩事も無て頓死しけり。経三日蘇生給けるが、大息突出て、「可奏聞事あり、我を扶起て内裏へ参れ。」と宣ければ、子息信明・信孝二人左右の手を扶て参内し玉ふ。「事の故何ぞ。」と御尋有ければ、公忠わな/\と振て、「臣冥官の庁とてをそろしき所に至り候つるが、長一丈余なる人の衣冠正しきが、金軸の申文を捧て、「粟散辺地の主、延喜帝王、時平大臣が信讒無罪臣を被流候き。其誤尤重し、早被記庁御札、阿鼻地獄へ可被落。」と申しかば、三十余人並居玉へる冥官大に忿て、「不移時刻可及其責。」と同じ給しを、座中第二の冥官、「若年号を改て過を謝する道あらば、如何し候べき。」と宣しに、座中皆案じ煩たる体に見へて、其後、公忠蘇生仕候。」とぞ被奏ける。君大に驚思召て、軈て延喜の年号を延長に改て、菅丞相流罪の宣旨を焼捨て、官位を元の大臣に帰し、正二位の一階を被贈けり。其後天慶九年近江国比良の社の袮宜、神の良種に託して、大内の北野に千本の松一夜に生たりしかば、此に建社壇、奉崇天満大自在天神けり。御眷属十六万八千之神尚も静り玉ざりけるにや、天徳二年より天元五年に至迄二十五年の間に、諸司八省三度迄焼にけり。角て有べきにあらねば、内裏造営あるべしとて、運魯般斧新に造立たりける柱に一首の蝕の歌あり。造とも又も焼なん菅原や棟の板間の合ん限りは此歌に神慮尚も御納受なかりけりと驚思食て、一条院より正一位太政大臣の官位を賜らせ玉ふ。勅使安楽寺に下て詔書を読上ける時天に声有て一首の詩聞へたり。昨為北闕蒙悲士。今作西都雪恥尸。生恨死歓其我奈。今須望足護天皇基。其後よりは、神の嗔も静り国土も穏也。偉矣、尋本地、大慈大悲の観世音、弘誓の海深して、群生済度の船無不到彼岸。垂跡を申せば天満大自在天神の応化の身、利物日新にして、一来結縁の人所願任心成就す。是を以て上自一人、下至万民、渇仰の首を不傾云人はなし。誠奇特無双の霊社也。去程に、治暦四年八月十四日、内裏造営の事始有て、後三条院の御宇、延久四年四月十五日遷幸あり。文人献詩伶倫奏楽。目出かりしに、無幾程、又安元二年に日吉山王の依御祟、大内の諸寮一宇も不残焼にし後は、国の力衰て代々の聖主も今に至まで造営の御沙汰も無りつるに、今兵革の後、世未安、国費へ民苦て、不帰馬于花山陽不放牛于桃林野、大内裏可被作とて自昔至今、我朝には未用作紙銭、諸国の地頭・御家人の所領に被懸課役条、神慮にも違ひ驕誇の端とも成ぬと、顰眉智臣も多かりけり。 
97 神泉苑事
兵革の後、妖気猶示禍。銷其殃無如真言秘密効験とて、俄に神泉苑をぞ被修造ける。彼神泉園と申は、大内始て成し時、准周文王霊囿、方八町に被築たりし園囿也。其後桓武の御世に、始て朱雀門の東西に被建二寺。左をば名東寺右をば号西寺。東寺には高野大師安胎蔵界七百余尊守金輪宝祚。西寺には南都の周敏僧都金剛界五百余尊を顕して、被祈玉体長久。斯りし処に、桓武御宇延暦二十三年春比、弘法大師為求法御渡唐有けり。其間周敏僧都一人奉近竜顔被致朝夕加持ける。或時御門御手水を被召けるが、水氷て余につめたかりける程に、暫とて閣き給ひたりけるを、周敏向御手水結火印を給ける間、氷水忽に解て如沸湯也。御門被御覧て、余に不思議に被思召ければ、態火鉢に炭を多くをこさせて、障子を立廻し、火気を内に被篭たれば、臘裏風光宛如春三月也。帝御顔の汗を押拭はせ給て、「此火滅ばや。」と被仰ければ、守敏又向火水の印をぞ結び給ひける。依之炉火忽に消て空く冷灰に成にければ、寒気侵膚五体に如灑水。自此後、守敏加様の顕奇特不思議事如得神変。斯しかば帝是を帰依渇仰し給へる事不尋常。懸りける処に弘法大師有御帰朝。即参内し給ふ。帝異朝の事共有御尋後、守敏僧都の此間様々なりつる奇特共をぞ御物語有ける。大師聞召之、「馬鳴帷、鬼神去閉口、栴檀礼塔支提破顕尸と申事候へば、空海が有んずる処にて、守敏よもさやうの奇特をば現し候はじ。」とぞ被欺ける。帝さらば両人の効験を施させて威徳の勝劣を被御覧思召て、或時大師御参内有けるを、傍に奉隠置、守敏応勅御前に候す。時に帝湯薬を進りけるが、建盞を閣せ給て、「余に此水つめたく覚る。例の様に加持して被暖候へかし。」とぞ被仰ける。守敏仔細候はじとて、向建盞結火印被加持けれども、水敢て不成湯。帝「こは何なる不思議ぞや。」と被仰、左右に目くわし有ければ、内侍の典主なる者、態熱く沸返たる湯をついで参たり。帝又湯を立させて進らんとし給ひけるが、又建盞を閣せ給ふ。「是は余に熱て、手にも不被捕。」と被仰ければ、守敏先にもこりず、又向建盞結水印たりけれ共、湯敢不醒、尚建盞の内にて沸返る。守敏前後の不覚に失色、損気給へる処に、大師傍なる障子の内より御出有て、「何に守敏、空海是に有とは被存知候はざりける歟。星光は消朝日蛍火は隠暁月。」とぞ咲れける。守敏大に恥之挿欝陶於心中、隠嗔恚於気上被退出けり。自其守敏君を恨申す憤入骨髄深かりければ、天下に大旱魃をやりて、四海の民を無一人飢渇に合せんと思て、一大三千界の中にある所の竜神共を捕へて、僅なる水瓶の内に押篭てぞ置たりける。
依之孟夏三月の間、雨降事無して、農民不勤耕作。天下の愁一人の罪にぞ帰しける。君遥に天災の民に害ある事を愁へ思召て、弘法大師を召請じて、雨の祈をぞ被仰付ける。大師承勅、先一七日の間入定、明に三千界の中を御覧ずるに、内海・外海の竜神共、悉守敏の以呪力、水瓶の中に駆篭て可降雨竜神無りけり。但北天竺の境大雪山の北に無熱池と云池の善女竜王、独守敏より上位の薩にて御坐ける。大師定より出て、此由を奏聞有ければ、俄に大内の前に池を掘せ、清涼の水を湛て竜王をぞ勧請し給ける。于時彼善女龍王金色の八寸の竜に現じて、長九尺許の蛇の頂に乗て此池に来給ふ。則此由を奏す。公家殊に敬嘆せさせ給て、和気真綱を勅使として、以御幣種々物供龍王を祭せらる。其後湿雲油然として降雨事国土に普し。三日の間をやみ無して、災旱の憂永消ぬ。真言の道を被崇事自是弥盛也。守敏尚腹を立て、さらば弘法大師を奉調伏思て、西寺に引篭り、三角の壇を構へ本尊を北向に立て、軍荼利夜叉の法をぞ被行ける。大師此由を聞給て、則東寺に炉壇を構へ大威徳明王の法を修し給ふ。両人何れも徳行薫修の尊宿也しかば、二尊の射給ける流鏑矢空中に合て中に落る事、鳴休隙も無りけり。爰に大師、守敏を油断させんと思召て、俄に御入滅の由を被披露ければ、緇素流悲歎泪、貴賎呑哀慟声。守敏聞之、「法威成就しぬ。」と成悦則被破壇けり。此時守敏俄に目くれ鼻血垂て、心身被悩乱けるが、仏壇の前に倒伏て遂に無墓成にけり。「呪咀諸毒薬還着於本人」と説給ふ金言、誠に験有て、不思議なりし効験也。自是して東寺は繁昌し西寺滅亡す。大師茅と云草を結で、竜の形に作て壇上に立て行はせ給ける。法成就の後、聖衆を奉送給けるに、真の善女龍王をば、軈神泉園に留奉て、「竜華下生三会の暁まで、守此国治我法給へ。」と、御契約有ければ、今まで迹を留て彼池に住給ふ。彼茅の竜王は大龍に成て、無熱池へ飛帰玉ふとも云、或云聖衆と共に空に昇て、指東を、飛去、尾張国熱田の宮に留り玉ふ共云説あり。仏法東漸の先兆、東海鎮護の奇瑞なるにや。大師言、「若此竜王他界に移らば池浅く水少して国荒れ世乏らん。其時は我門徒加祈請、竜王を奉請留可助国。」宣へり。今は水浅く池あせたり。恐は竜王移他界玉へる歟。然共請雨経の法被行ごとに掲焉の霊験猶不絶、未国捨玉似たり、風雨叶時感応奇特の霊池也。代々の御門崇之家々の賢臣敬之。若旱魃起る時は先池を浄む。然を後鳥羽法皇をり居させ玉ひて後、建保の比より此所廃れ、荊棘路を閉るのみならず、猪鹿の害蛇放たれ、流鏑の音驚護法聴、飛蹄の響騒冥衆心。有心人不恐歎云事なし。承久の乱の後、故武州禅門潛に悲此事、高築垣堅門被止雑穢。其後涼燠数改て門牆漸不全。不浄汚穢之男女出入無制止、牛馬水草を求る往来無憚。定知竜神不快歟。早加修理可崇重給。崇此所国土可治也。 
99 龍馬進奏事
鳳闕の西二条高倉に、馬場殿とて、俄に離宮を被立たり。天子常に幸成て、歌舞・蹴鞠の隙には、弓馬の達者を被召、競馬を番はせ、笠懸を射させ、御遊の興をぞ被添ける。其比佐々木塩冶判官高貞が許より、竜馬也とて月毛なる馬の三寸計なるを引進す。其相形げにも尋常の馬に異也。骨挙り筋太くして脂肉短し。頚は鶏の如にして、須弥の髪膝を過ぎ、背は竜の如にして、四十二の辻毛を巻て背筋に連れり。両の耳は竹を剥で直に天を指し、双の眼は鈴を懸て、地に向ふ如し。今朝の卯刻に出雲の富田を立て、酉剋の始に京著す。其道已に七十六里、鞍の上閑にして、徒に坐せるが如し。然共、旋風面を撲に不堪とぞ奏しける。則左馬寮に被預、朝には禁池に水飼、夕には花廏に秣飼。其比天下一の馬乗と聞へし本間孫四郎を被召て被乗、半漢雕梁甚不尋常。四蹄を縮むれば双六盤の上にも立ち、一鞭を当つれば十丈の堀をも越つべし。誠に天馬に非ずば斯る駿足は難有とて、叡慮更に類無りけり。或時主上馬場殿に幸成て、又此馬を叡覧有けるに、諸卿皆左右に候す。時に主上洞院の相国に向て被仰けるは、「古へ、屈産の乗、項羽が騅、一日に千里を翔る馬有といへども、我朝に天馬の来る事を未だ聞ず。然に朕が代に当て此馬不求出来る。吉凶如何。」と御尋ありけるに、相国被申けるは、「是聖明の徳に不因ば、天豈此嘉瑞を降候はんや。虞舜の代には鳳凰来、孔子の時は麒麟出といへり。就中天馬の聖代に来る事第一の嘉祥也。其故は昔周の穆王の時、驥・・驪・・駟とて八疋の天馬来れり。穆王是に乗て、四荒八極不至云所無りけり。或時西天十万里の山川を一時に越て、中天竺の舎衛国に至り給ふ。時に釈尊霊鷲山にして法華を説給ふ。穆王馬より下て会座に臨で、則仏を礼し奉て、退て一面に坐し給へり。如来問て宣く、「汝は何の国の人ぞ。」穆王答曰、「吾は是震旦国の王也。」仏重て宣く、「善哉今来此会場。我有治国法、汝欲受持否。」穆王曰、「願は信受奉行して理民安国の施功徳。」爾時、仏以漢語、四要品の中の八句の偈を穆王に授給ふ。今の法華の中の経律の法門有と云ふ深秘の文是也。穆王震旦に帰て後深心底に秘して世に不被伝。此時慈童と云ける童子を、穆王寵愛し給ふに依て、恒に帝の傍に侍けり。或時彼慈童君の空位を過けるが、誤て帝の御枕の上をぞ越ける。群臣議して曰、「其例を考るに罪科非浅に。雖然事誤より出たれば、死罪一等を宥て遠流に可被処。」とぞ奏しける。群議止事を不得して、慈童を県と云深山へぞ被流ける。彼県と云所は帝城を去事三百里、山深して鳥だにも不鳴、雲暝して虎狼充満せり。されば仮にも此山へ入人の、生て帰ると云事なし。穆王猶慈童を哀み思召ければ、彼八句の内を分たれて、普門品にある二句の偈を、潛に慈童に授させ給て、「毎朝に十方を一礼して、此文を可唱。」と被仰ける。慈童遂に県に被流、深山幽谷の底に被棄けり。爰に慈童君の恩命に任て、毎朝に一反此文を唱けるが、若忘もやせんずらんと思ければ、側なる菊の下葉に此文を書付けり。其より此菊の葉にをける下露、僅に落て流るゝ谷の水に滴りけるが、其水皆天の霊薬と成る。慈童渇に臨で是を飲に、水の味天の甘露の如にして、恰百味の珍に勝れり。加之天人花を捧て来り、鬼神手を束て奉仕しける間、敢て虎狼悪獣の恐無して、却て換骨羽化の仙人と成る。
是のみならず、此谷の流の末を汲で飲ける民三百余家、皆病即消滅して不老不死の上寿を保てり。其後時代推移て、八百余年まで慈童猶少年の貌有て、更に衰老の姿なし。魏の文帝の時、彭祖と名を替て、此術を文帝に授奉る。文帝是を受て菊花の盃を伝へて、万年の寿を被成。今の重陽の宴是也。其より後、皇太子位を天に受させ給ふ時、必先此文を受持し給ふ。依之普門品を当途王経とは申なるべし。此文我朝に伝はり、代々の聖主御即位の日必ず是を受持し給ふ。若幼主の君践祚ある時は、摂政先是を受て、御治世の始に必君に授奉る。此八句の偈の文、三国伝来して、理世安民の治略、除災与楽の要術と成る。是偏に穆王天馬の徳也。されば此龍馬の来れる事、併仏法・王法の繁昌宝祚長久の奇瑞に候べし。」と被申たりければ、主上を始進せて、当座の諸卿悉心に服し旨を承て、賀し申さぬ人は無りけり。暫有て万里小路の中納言藤房卿被参。座定まて後、主上又藤房卿に向て、「天馬の遠より来れる事、吉凶の間、諸臣の勘例、已に皆先畢ぬ。藤房は如何思へるぞ。」と勅問有ければ、藤房卿被申けるは、「天馬の本朝に来れる事、古今未だ其例を承候はねば、善悪・吉凶勘へ申難しといへども退て愚案を回すに、是不可有吉事に。其故は昔漢の文帝の時、一日に千里を行馬を献ずる者あり。公卿・大臣皆相見て是を賀す。文帝笑て曰、「吾吉に行日は三十里凶に行日は十里、鸞輿在前、属車在後、吾独乗千里駿馬将安之乎。」とて乃償其道費而遂被返之。又後漢の光武時、千里の馬と宝剣とを献ずる者あり。光武是を珍とせずして、馬をば鼓車に駕し、剣をば騎士に賜ふ。又周の代已に衰なんとせし時、房星降て八匹の馬と成れり。穆王是を愛して造父をして御たらしめて、四荒八極の外瑶池に遊び碧台に宴し給ひしかば、七廟の祭年を逐て衰へ、明堂の礼日に随て廃れしかば、周の宝祚傾けり。文帝・光武の代には是を棄て福祚久く栄へ、周穆の時には是を愛して王業始て衰ふ。拾捨の間、一凶一吉的然として在耳。臣愚窃に是を案ずるに、「由来尤物是非天、只蕩君心則為害。」といへり。去ば今政道正からざるに依て、房星の精、化して此馬と成て、人の心を蕩かさんとする者也。其故は大乱の後民弊へ人苦で、天下未安れば、執政吐哺を、人の愁を聞、諌臣上表を、主の誤を可正時なるに、百辟は楽に婬して世の治否を不見、群臣は旨に阿て国の安危を不申。依之記録所・決断所に群集せし訴人日々に減じて訴陳徒に閣けり。諸卿是を見て、虞の訴止て諌鼓撃人なし。無為の徳天下に及で、民皆堂々の化に誇れりと思へり。悲乎其迷へる事。元弘大乱の始、天下の士卒挙て官軍に属せし事更に無他。只一戦の利を以て勲功の賞に預らんと思へる故也。されば世静謐の後、忠を立賞を望む輩、幾千万と云数を知ず。然共公家被官の外は、未恩賞を給たる者あらざるに、申状を捨て訟を止たるは、忠功の不立を恨み、政道の不正を褊して、皆己が本国に帰る者也。諌臣是に驚て、雍歯が功を先として、諸卒の恨を散ずべきに、先大内裏造営可有とて、諸国の地頭に二十分一の得分を割分て被召れば、兵革の弊の上に此功課を悲めり。
又国々には守護威を失ひ国司権を重くす。依之非職凡卑の目代等、貞応以後の新立の庄園を没倒して、在庁官人・検非違使・健児所等過分の勢ひを高せり。加之諸国の御家人の称号は、頼朝卿の時より有て已に年久しき武名なるを、此御代に始て其号を被止ぬれば、大名・高家いつしか凡民の類に同じ。其憤幾千万とか知らん。次には天運図に膺て朝敵自亡ぬといへども、今度天下を定て、君の宸襟を休め奉たる者は、高氏・義貞・正成・円心・長年なり。彼等が忠を取て漢の功臣に比せば、韓信・彭越・張良・蕭何・曹参也。又唐の賢佐に譬ば、魏徴・玄齢・世南・如晦・李勣なるべし。其志節に当り義に向て忠を立所、何れをか前とし何れをか後とせん。其賞皆均其爵是同かるべき処に、円心一人僅に本領一所の安堵を全して、守護恩補の国を被召返事、其咎そも何事ぞや。「賞中其功則有忠之者進、罰当其罪則有咎之者退。」と云へり。痛哉今の政道、只抽賞の功に不当譏のみに非ず。兼ては綸言の掌を翻す憚あり。今若武家の棟梁と成ぬべき器用の仁出来て、朝家を褊し申事あらば、恨を含み政道を猜む天下の士、糧を荷て招ざるに集らん事不可有疑。抑天馬の用所を案ずるに、徳の流行する事は郵を置て命を伝るよりも早ければ、此馬必しも不足用。只大逆不慮に出来る日、急を遠国に告る時、聊用に得あらんか。是静謐の朝に出で、兼て大乱の備を設く。豈不吉の表事に候はずや。只奇物の翫を止て、仁政の化を致れんには不如。」と、誠を至し言を不残被申しに、竜顔少し逆鱗の気色有て、諸臣皆色を変じければ、旨酒高会も無興して、其日の御遊はさて止にけりとぞ聞へし。 
125 将軍筑紫御開事
建武三年二月八日、尊氏卿兵庫を落給ひし迄は、相順ふ兵僅七千余騎有しか共、備前の児嶋に著給ける時、京都より討手馳下らば、三石辺にて支よとて、尾張左衛門佐氏頼を、田井・飽浦・松田・内藤に付て留られ、細川卿律師定禅・同刑部大輔義敦をば、東国の事無心元とて返さる。其外の勢共は、各暇申て己が国々に留りける間、今は高・上杉・仁木・畠山・吉良・石塔の人々、武蔵・相摸勢の外は相順兵も無りけり。筑前国多々良浜の湊に著給ひける日は、其勢僅に五百人にも足ず、矢種は皆打出・瀬川の合戦に射尽し、馬・物具は悉兵庫西宮の渡海に脱捨ぬ。気疲れ勢尽ぬれば、轍魚の泥に吻き、窮鳥の懐に入ん風情して、知ぬ里に宿を問ひ、狎れぬ人に身を寄れば、朝の食飢渇して夜の寝醒蒼々たり。何の日か誰と云ん敵の手に懸てか、魂浮れ、骨空して、天涯望郷の鬼と成んずらんと、明日の命をも憑れねば味気無思はぬ人も無りけり。斯処に、宗像大宮司使者を進て、「御座の辺は余りに分内狭て、軍勢の宿なんども候はねば、恐ながら此弊屋へ御入有て、暫此間の御窮屈を息られ、国々へ御教書を成れて、勢を召れ候べし。」と申ければ、将軍軈て宗像が館へ入せ給ふ。次日小弐入道妙恵が方へ、南遠江守宗継・豊田弥三郎光顕を両使として、恃べき由を宣遣されければ、小弐入道子細に及ばず、軈嫡子の太郎頼尚に、若武者三百騎差添て、将軍へぞ進せける。 
132 備中福山合戦事
福山に楯篭る処の官軍共、此由を聞て、「此城未拵るに不及、彼に付此に付、大敵を支へん事は、可叶共覚へず。」と申けるを、大江田式部大輔、且く思案して宣ひけるは、「合戦の習、勝負は時の運に依といへども、御方の小勢を以て、敵の大勢に闘はんに、不負云事は、千に一も有べからず。乍去国を越て足利殿の上洛を支んとて、向ひたる者が、大勢の寄ればとて、聞逃には如何すべき。よしや只一業所感の者共が、此所にて皆可死果報にてこそ有らめ。軽死重名者をこそ人とは申せ。誰々も爰にて討死して、名を子孫に残さんと被思定候へ。」と諌められければ、紀伊常陸・合田以下は、「申にや及候。」と領状して討死を一篇に思儲てければ、中々心中涼くぞ覚へける。去程に、明れば五月十五日の宵より、左馬頭直義三十万騎の勢にて、勢山を打越へ、福山の麓四五里が間、数百箇所を陣に取て、篝を焼てぞ居たりける。此勢を見ては、如何なる鬼神ともいへ、今夜落ぬ事はよも非じと覚けるに、城の篝も不焼止、猶怺たりと見へければ、夜已に明て後、先備前・備中の勢共、三千余騎にて押寄せ、浅原峠よりぞ懸たりける。是迄も城中鳴を静めて音もせず。「さればこそ落たりと覚るぞ。時の声を挙て敵の有無も知れ。」とて、三千余騎の兵共、楯の板を敲き、時を作る事三声、近付て上んとする処に、城中の東西の木戸口に、大鼓を打て時の声をぞ合せたりける。外所に磬たる寄手の大勢是を聞て、「源氏の大将の篭りたらんずる城の、小勢なればとて、聞落にはよもせじと思つるが、果して未怺たりけるぞ。侮て手合の軍し損ずな。四方を取巻て同時に責よ。」とて国々の勢一方々々を請取て、谷々峯々より攻上りける。城中の者共は、兼てより思儲たる事なれば、雲霞の勢に囲まれぬれ共少も不騒、此彼の木隠に立隠れて、矢種を不惜散々に射ける間、寄手稲麻の如に立双びたれば、浮矢は一も無りけり。敵に矢種を尽させんと、寄手は態射ざりければ、城の勢は未だ一人も不手負。大江田式部大輔是を見給て、「さのみ精力の尽ぬさきに、いざや打出て、左馬頭が陣一散し懸散さん。」とて、城中には徒立なる兵五百余人を留て、馬強なる兵千余騎引率し、木戸を開かせ、逆木を引のけて、北の尾の殊に嶮き方より喚てぞ懸出られける。一方の寄手二万余騎是に被懸落、谷底に馬を馳こみ、いやが上に重り臥臥す。式部大輔是をば打捨、「東のはなれ尾に二引両の旗の見るは、左馬頭にてぞ有らん。」とて、二万余騎磬へたる勢の中へ破て入り、時移るまでぞ闘れける。「是も左馬頭にては無りける。」とて、大勢の中を颯と懸抜て御方の勢を見給へば、五百余騎討れて纔に四百騎に成にけり。爰にて城の方を遥に観れば、敵早入替りぬと見へて櫓・掻楯に火を懸たり。式部大輔其兵を一処に集めて、「今日の合戦今は是迄ぞ、いざや一方打破て備前へ帰り、播磨・三石の勢と一にならん。」とて、板倉の橋を東へ向て落給へば、敵二千騎・三千騎、此彼に道を塞で打留んとす。
四百余騎の者共も、遁ぬ処ぞと思ひ切たる事なれば、近付敵の中へ破て入り、懸散し、板倉川の辺より唐皮迄、十余度までこそ闘ひけれ。され共兵もさのみ討れず、大将も無恙りければ、虎口の難を遁て、五月十八日の早旦に、三石の宿にぞ落著ける。左馬頭直義は、福山の敵を追落して、事始よしと悦給事不斜。其日一日唐皮の宿に逗留有て、頚の実験有けるに、生捕・討死の頚千三百五十三と註せり。当国の吉備津宮に参詣の志をはしけれ共、合戦の最中なれば、触穢の憚有とて、只願書許を被篭て、翌の日唐皮を立給へば、将軍も舟を出されて、順風に帆をぞあげられける。五月十八日晩景に、脇屋右衛門佐三石より使者を以て、新田左中将の方へ立て、福山の合戦の次第、委細に註進せられければ、其使者軈て馳返て、「白旗・三石・菩提寺の城未責落ざる処に、尊氏・直義大勢にて舟路と陸路とより上ると云に、若陸の敵を支ん為に、当国にて相待ば、舟路の敵差違て帝都を侵さん事疑なし。只速に西国の合戦を打捨て、摂津国辺まで引退、水陸の敵を一処に待請、帝都を後に当て、合戦を致すべく候。急其よりも山の里辺へ出合れ候へ。美作へも此旨を申遣し候つる也。」とぞ、被仰たりける。依之五月十八日の夜半許に、官軍皆三石を打捨て、舟坂をぞ引れける。城中の勢共、是に機を得て、舟坂山に出合ひ、道を塞で散々に射る。宵の間の月、山に隠れて、前後さだかに見へぬ事なれば、親討れ子討るれども、只一足も前へこそ行延んとしける処に、菊池が若党に、原源五・源六とて、名を得たる大剛の者有りけるが、態と迹に引さがりて、御方の勢を落さんと、防矢を射たりける。矢種皆射尽ければ、打物の鞘をはづして、「傍輩共あらば返せ。」とぞ呼ける。菊池が若党共是を聞て、遥に落延たりける者共、「某此に有。」と名乗懸て返合せける間、城よりをり合せける敵共、さすがに近付得ずして、只余所の峯々に立渡て時の声をぞ作りける。其間に数万の官軍共、一人も討るゝ事なくして、大江田式部大輔、其夜の曙には山の里へ著にけり。和田備後守範長・子息三郎高徳、佐々木の一党が舟よりあがる由を聞て、是を防がん為に、西川尻に陣を取て居たりけるが、福山已に落されぬと聞へければ、三石の勢と成合んが為に、九日の夜に入て、三石へぞ馳著ける。爰にて人に尋れば、「脇屋殿は早宵に播磨へ引せ給ひて候也。」と申ける間、さては舟坂をば通り得じとて、先日搦手の廻りたりし三石の南の山路を、たどるたどる終夜越て、さごしの浦へぞ出たりける。夜未深かりければ、此侭少しの逗留もなくて打て通らば、新田殿には安く追著奉るべかりけるを、子息高徳が先の軍に負たりける疵、未愈けるが、馬に振れけるに依て、目昏く肝消して、馬にもたまらざりける間、さごしの辺に相知たる僧の有けるを尋出して、預置ける程に、時刻押遷りければ、五月の短夜明にけり。去程に此道より落人の通りけると聞て、赤松入道三百余騎を差遣して、名和辺にてぞ待せける。備後守僅に八十三騎にて、大道へと志て打ける処に、赤松が勢とある山陰に寄せ合て、「落人と見るは誰人ぞ。
命惜くば弓をはづし物具脱で降人に参れ。」とぞかけたりける。備後守是を聞て、から/\と打笑ひ、「聞も習はぬ言ば哉、降人に可成は、筑紫より将軍の、様々の御教書を成してすかされし時こそ成んずれ。其をだに引さきて火にくべたりし範長が、御辺達に向て、降人にならんと、ゑこそ申まじけれ。物具ほしくばいでとらせん。」と云侭に、八十三騎の者共、三百余騎の中へ喚て懸入り、敵十二騎切て落し、二十三騎に手負せ、大勢の囲を破て、浜路を東へぞ落行ける。赤松が勢案内者なりければ、被懸散ながら、前々へ馳過て、「落人の通るぞ、打留め物具はげ。」と、近隣傍庄にぞ触たりける。依之其辺二三里が間の野伏共、二三千人出合て此の山の隠、彼の田の畷に立渡りて、散々に射ける間、備後守が若党共、主を落さんが為に、進では懸破り引下ては討死し、十八より阿弥陀が宿の辺迄、十八度まで戦て落ける間、打残されたる者、今は僅に主従六騎に成にけり。備後守或辻堂の前にて馬を引へて、若党共に向て申けるは、「あはれ一族共だに打連れたりせば、播磨の国中をば安く蹴散して通るべかりつる物を、方々の手分に向られて一族一所に不居つれば、無力範長討るべき時刻の到来しける也。今は可遁共覚ねば、最後の念仏心閑に唱へて腹を切らんと思ぞ。其程敵の近付かぬ様に防げ。」とて、馬より飛でをり、辻堂の中へ走入、本尊に向ひ手を合せ念仏高声に二三百返が程唱て、腹一文字に掻切て、其刀を口に加て、うつぶしに成てぞ臥たりける。其後若党四人つゞきて自害をしけるに、備後守がいとこに和田四郎範家と云ける者、暫思案しけるは、敵をば一人も滅したるこそ後までの忠なれ。追手の敵若赤松が一族子共にてや有らん。さもあらば引組で、差違へんずる物をと思て、刀を抜て逆手に拳り、甲を枕にして、自害したる体に見へてぞ臥たりける。此へ追手懸りける赤松が勢の大将には、宇弥左衛門次郎重氏とて、和田が親類なりけり。まさしきに辻堂の庭へ馳来て、自害したる敵の首をとらんとて、是をみるに袖に著たる笠符皆下黒の文也。重氏抜たる太刀を抛て、「あら浅猿や、誰やらんと思たれば、児嶋・和田・今木の人々にて有けるぞや。此人達と疾知ならば、命に替ても助くべかりつる物を。」と悲て、泪を流して立たりける。和田四郎此声を聞て、「範家是に有。」とて、かはと起たれば、重氏肝をつぶしながら立寄て、「こはいかに。」とぞ悦ける。軈て和田四郎をば同道して助をき、備後守をば、葬礼懇に取沙汰して、遺骨を故郷へぞ送りける。さても八十三騎は討れて範家一人助りける、運命の程こそ不思議なれ。 
 

 

139 新田殿湊河合戦事
楠已に討れにければ、将軍と左馬頭と一処に合て、新田左中将に打て懸り給ふ。義貞是を見て、「西の宮よりあがる敵は、旗の文を見るに末々の朝敵共なり。湊河より懸る勢は尊氏・直義と覚る。是こそ願ふ所の敵なれ。」とて西宮より取て返し、生田の森を後ろを当て四万余騎を三手に分て、敵を三方にぞ受られける。去程に両陣互に勢を振て時を作り声を合す。先一番に大館左馬助氏明・江田兵部大輔行義、三千余騎にて、仁木・細川が六万余騎に懸合て、火を散して相戦ふ。其勢互に討れて、両方へ颯と引のけば、二番に中院の中将定平・大江田・里見・鳥山五千余騎にて、高・上杉が八万騎に懸合て、半時許黒烟を立て揉合たり。其勢共戦疲れて両方へ颯と引退けば、三番に脇屋右衛門佐・宇都宮治部大輔・菊池次郎・河野・土居・得能一万騎にて、左馬頭・吉良・石堂が十万余騎に懸合せ、天を響かし地を動して責戦ふ。或は引組で落重て、頚を取もあり、取るゝもあり。或は敵と打違て、同く馬より落るもあり。両虎二龍の闘に、何れも討るゝ者多かりければ、両方東西へ引のきて、人馬の息をぞ休めける。新田左中将是を見給て、「荒手の兵已に尽て戦未決せず。是義貞が自当るべき処也。」とて、二万三千騎を左右に立て、将軍の三十万騎に懸合せ、兵刃を交へて命を鴻毛よりも軽せり。官軍の総大将と、武家の上将軍と、自戦ふ軍なれば、射落さるれども矢を抜隙なく、組で下になれ共、落合て助くる者なし。只子は親を棄て切合、朗等は主に離れて戦へば、馬の馳違ふ声、太刀の鐔音、いかなる脩羅の闘諍も、是には過じとをびたゝし。先に一軍して引しさりたる両方の勢共、今はいつをか可期なれば、四隊の陣一処に挙て、敵と敵と相交り、中黒の旗と二引両と、巴の旗と輪違と、東へ靡き西へ靡き、礒山風に翩翻して、入違ひたる許にて、何れを御方の勢とは見へ分かず。新田・足利の国の争ひ今を限りとぞ見へたりける。官軍は元来小勢なれば、命を軽じて戦といへども、遂には大敵に懸負て、残る勢纔五千余騎、生田の森の東より丹波路を差てぞ落行ける。数万の敵勝に乗て是を追事甚急なり。され共何もの習なれば、義貞朝臣、御方の軍勢を落延させん為に後陣に引さがりて、返し合せ/\戦れける程に、義貞の被乗たりける馬に矢七筋迄立ける間、小膝を折て倒けり。義貞求塚の上に下立て、乗替の馬を待給共、敢て御方是を不知けるにや、下て乗せんとする人も無りけり。敵や是を見知けん、即取篭て是を討んとしけるが、其勢に僻易して近は更不寄けれ共、十方より遠矢に射ける矢、雨雹の降よりも猶繁し。義貞は薄金と云甲に、鬼切・鬼丸とて多田満仲より伝たる源氏重代の太刀を二振帯れたりけるを、左右の手に抜持て、上る矢をば飛越、下る矢には差伏き、真中を指て射矢をば二振の太刀を相交て、十六迄ぞ切て被落ける。其有様、譬ば四天王、須弥の四方に居して同時に放つ矢を、捷疾鬼走廻て、未其矢の大海に不落著前に、四の矢を取て返らんも角やと覚許也。小山田太郎遥の山の上より是を見て、諸鐙を合て馳参て、己が馬に義貞を乗奉て、我身徒立に成て追懸る敵を防けるが、敵数たに被取篭て、遂討れにけり。其間に義貞朝臣御方の勢の中へ馳入て、虎口に害を遁給ふ。 
143 日本朝敵事
夫日本開闢の始を尋れば、二儀已分れ三才漸顕れて、人寿二万歳の時、伊弉諾・伊弉冊の二の尊、遂妻神夫神と成て天の下にあまくだり、一女三男を生給ふ。一女と申は天照太神、三男と申は月神・蛭子・素盞烏の尊なり。第一の御子天照太神此国の主と成て、伊勢国御裳濯川の辺、神瀬下津岩根に跡を垂れ給ふ。或時は垂迹の仏と成て、番々出世の化儀を調へ、或時は本地の神に帰て、塵々刹土の利生をなし給ふ。是則迹高本下の成道也。爰に第六天の魔王集て、此国の仏法弘らば魔障弱くして其力を失べしとて、彼応化利生を妨んとす。時に天照太神、彼が障碍を休めん為に、我三宝に近付じと云誓をぞなし給ひける。依之第六天の魔王忿りを休めて、五体より血を出し、「尽未来際に至る迄、天照太神の苗裔たらん人を以て此国の主とすべし。若王命に違ふ者有て国を乱り民を苦めば、十万八千の眷属朝にかけり夕べに来て其罰を行ひ其命を奪ふべし」と、堅誓約を書て天照太神に奉る。今の神璽の異説是也。誠に内外の宮の在様自余の社壇には事替て、錦帳に本地を顕はせる鏡をも不懸、念仏読経の声を留て僧尼の参詣を許されず。是然当社の神約を不違して、化属結縁の方便を下に秘せる者なるべし。されば天照太神より以来、継体の君九十六代、其間に朝敵と成て滅し者を数ふれば、神日本磐余予彦天皇御宇天平四年に紀伊国名草郡に二丈余の蜘蛛あり。足手長して力人に超たり。綱を張る事数里に及で、往来の人を残害す。然共官軍勅命を蒙て、鉄の網を張り、鉄湯を沸して四方より責しかば、此蜘蛛遂に殺されて、其身分々に爛れにき。又天智天皇の御宇に藤原千方と云者有て、金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼と云四の鬼を使へり。金鬼は其身堅固にして、矢を射るに立ず。風鬼は大風を吹せて、敵城を吹破る。水鬼は洪水を流して、敵を陸地に溺す。隠形鬼は其形を隠して、俄敵を拉。如斯の神変、凡夫の智力を以て可防非ざれば、伊賀・伊勢の両国、是が為に妨られて王化に順ふ者なし。爰に紀朝雄と云ける者、宣旨を蒙て彼国に下、一首の歌を読て、鬼の中へぞ送ける。草も木も我大君の国なればいづくか鬼の棲なるべき四の鬼此歌を見て、「さては我等悪逆無道の臣に随て、善政有徳の君を背奉りける事、天罰遁るゝ処無りけり。」とて忽に四方に去て失にければ、千方勢ひを失て軈て朝雄に討れにけり。是のみならず、朱雀院の御宇承平五年に、将門と云ける者東国に下て、相馬郡に都を立、百官を召仕て、自平親王と号す。官軍挙て是を討んとせしかども、其身皆鉄身にて、矢石にも傷られず剣戟にも痛ざりしかば、諸卿僉議有て、俄に鉄の四天を鋳奉て、比叡山に安置し、四天合行の法を行せらる、故天より白羽の矢一筋降て、将門が眉間に立ければ、遂に俵藤太秀郷に首を捕られてけり。其首獄門に懸て曝すに、三月迄色不変、眼をも不塞、常に牙を嚼て、「斬られし我五体何れの処にか有らん。此に来れ。頭続で今一軍せん。」と夜な/\呼りける間、聞人是を不恐云事なし。時に道過る人是を聞て、将門は米かみよりぞ斬られける俵藤太が謀にてと読たりければ、此頭から/\と笑ひけるが、眼忽に塞て、其尸遂に枯にけり。此外大石山丸・大山王子・大友真鳥・守屋大臣・蘇我入鹿・豊浦大臣・山田石川・左大臣長屋・右大臣豊成・伊予親王・氷上川継・橘逸勢・文屋宮田・江美押勝・井上皇后・早良太子・大友皇子・藤原仲成・天慶純友・康和義親・宇治悪左府・六条判官為義・悪右衛門督信頼・安陪貞任・宗任・清原武衡・平相国清盛・木曾冠者義仲・阿佐原八郎為頼・時政九代の後胤高時法師に至迄、朝敵と成て叡慮を悩し仁義を乱る者、皆身を刑戮の下に苦しめ、尸を獄門の前に曝さずと云事なし。去ば尊氏卿も、此春東八箇国の大勢を率して上洛し玉ひしかども、混朝敵たりしかば数箇度の合戦に打負て、九州を差て落たりしが、此度は其先非を悔て、一方の皇統を立申て、征罰を院宣に任られしかば、威勢の上に一の理出来て、大功乍に成んずらんと、人皆色代申れけり。去程に東寺已に院の御所と成しかば、四壁を城郭に構へて、上皇を警固し奉る由にて、将軍も左馬頭も、同く是に篭られける。是は敵山門より遥々と寄来らば、小路々々を遮て、縦横に合戦をせんずる便よかるべしとて、此寺を城郭にはせられけるなり。 
145 山攻事付日吉神託事
主上二度山門へ臨幸なりしかば、三千の衆徒去ぬる春の勝軍に習て、弐ろなく君を擁護し奉り、北国・奥州の勢を待由聞へければ、将軍・左馬頭・高・上杉の人々、東寺に会合して合戦の評定あり。事延引して義貞に勢付なば叶まじ。勢未だ微なるに乗て山門を可攻とて、六月二日四方の手分を定て、追手・搦手五十万騎の勢を、山門へ差向らる。追手には、吉良・石堂・渋河・畠山を大将として、其勢五万余騎、大津・松本の東西の宿・園城寺の焼跡・志賀・唐崎・如意が岳まで充満したり。搦手には、仁木・細河・今川・荒河を大将として、四国・中国の勢八万余騎、今道越に三石の麓を経て、無動寺へ寄んと志す。西坂本へは、高豊前守師重・高土佐守・高伊予守・南部遠江守・岩松・桃井等を大将として三十万騎、八瀬・薮里・しづ原・松崎・赤山・下松・修学院・北白川まで支て、音無の滝・不動堂・白鳥よりぞ寄たりける。山門には、敵是まで可寄とは思も寄ざりけるにや、道々をも警固せず、関・逆木の構もせざりければ、さしも嶮しき道なれ共、岩石に馴たる馬共なれば、上らぬ所も無りけり。其時しも新田左兵衛督を始として、千葉・宇都宮・土肥・得能に至るまで東坂本に集居て、山上には行歩も叶はぬ宿老、稽古の窓を閉たる修学者の外は、兵一人も無りけり。此時若西坂より寄る大勢共、暫も滞りなく、四明の巓まで打挙りたらましかば、山上も坂本も、防に便り無して、一時に落べかりしを、猶も山王大師の御加護や有けん、俄に朝霧深立隠して、咫尺の内をも見ぬ程なりければ、前陣に作る御方の時の音を、敵の防ぐ矢叫の声ぞと聞誤て、後陣の大勢つゞかねば、そゞろに時をぞ移しける。懸る処に、大宮へをり下て三塔会合しける大衆上下帰山して、将門の童堂の辺に相支て、こゝを前途と防ける間、面に進みける寄手三百人被討、前陣敢て懸らねば、後陣は弥不得進、只水飲の木陰に陣をとり、堀切を堺て、掻楯を掻、互に遠矢を射違て、其日は徒に暮にけり。西坂に軍始りぬと覚へて、時声山に響て聞へければ、志賀・唐崎の寄手十万余騎、東坂本の西穴生の前へ押寄て、時声をぞ揚たりける。爰にて敵の陣を見渡せば、無動寺の麓より、湖の波打際まで、から堀を二丈余に堀通して処々に橋を懸け、岸の上に屏を塗、関・逆木を密しくして、渡櫓・高櫓三百余箇所掻双べたり。屏の上より見越せば、是こそ大将の陣と覚へて中黒の旗三十余流山下風に吹れて、竜蛇の如くに翻りたる其下に、陣屋を双て油幕を引、爽に鎧たる兵二三万騎、馬を後に引立させて、一勢々々並居たり。無動寺の麓、白鳥の方を向上たりければ、千葉・宇都宮・土肥・得能・四国・中国の兵こゝを堅めたりと覚へて、左巴・右巴・月に星・片引両・傍折敷に三文字書たる旗共六十余流木々の梢に翻て、片々たる其陰に、甲の緒を縮たる兵三万余騎、敵近付かば横合にかさより落さんと、轡を双て磬たり。
又湖上の方を直下たれば、西国・北国・東海道の、船軍に馴たる兵共と覚て、亀甲・下濃・瓜の紋・連銭・三星・四目結・赤幡・水色・三、家々の紋画たる旗、三百余流、塩ならぬ海に影見へて、漕双べたる舷に、射手と覚へたる兵数万人、掻楯の陰に弓杖を突て横矢を射んと構へたり。寄手誠に大勢なりといへども、敵の勢に機を被呑て、矢懸りまでも進み得ず、大津・唐崎・志賀の里三百余箇所に陣を取て、遠攻にこそしたりけれ。六月六日、追手の大将の中より西坂の寄手の中へ使者を立て、「此方の敵陣を伺見候へば、新田・宇都宮・千葉・河野を始として、宗との武士共、大畧皆東坂本を堅たりとみへて候。西坂をば嶮きを憑て、公家の人々、さては山法師共を差向て候なる。一軍手痛く攻て御覧候へ。はか/\しき合戦はよも候はじ、思図に大岳の敵を追落されて候はゞ、大講堂・文殊楼の辺に引へて、火を被挙候へ。同時に攻合せて、東坂本の敵を一人も余さず、湖水に追はめて亡し候べし。」とぞ牒せられける。西坂の大将高豊前守是を聞て、諸軍勢に向て法を出しけるは、「山門を攻落すべき諸方の相図明日にあり。此合戦に一足も退たらん者は、縦先々抜群の忠ありと云とも、無に処して本領を没収し、其身を可追出。一太刀も敵に打違へて、陣を破り、分捕をもしたらんずる者をば、凡下ならば侍になし、御家人ならば、直に恩賞を可申与。さればとて独高名せんとて抜懸すべからず。又傍輩の忠を猜で危き処を見放つべからず。互に力を合せ、共に志を一にして、斬共射共不用、乗越々々進べし。敵引退かば、立帰さぬさきに攻立て、山上に攻上り、堂舎・仏閣に火を懸て、一宇も不残焼払ひ、三千の衆徒の頚を一々に、大講堂の庭に斬懸て、将軍の御感に預り給へかし。」と、諸人を励まして下知しける、悪逆の程こそ浅猿けれ。諸国の軍勢等此命を聞て、勇み前まぬ者なし。夜已に明ければ、三石・松尾・水飲より、三手に分れて二十万騎、太刀・長刀の鋒を双べ、射向の袖を差かざして、ゑい/\声を出してぞ揚たりける。先一番に中書王の副将軍に被憑たりける千種宰相中将忠顕卿・坊門少将正忠、三百余騎にて被防けるが、松尾より攻上る敵に後を被裹て一人も不残討れてけり。是を見て後陣に支へて防ぎける護正院・禅智坊・道場坊以下の衆徒七千余人、一太刀打ては引上暫支ては引退、次第々々に引ける間、寄手弥勝に乗て、追立々々一息をも継せず、さしも嶮き雲母坂・蛇池を弓手に見成て、大岳までぞ攻あがりける。去程に院々に早鐘撞て、西坂已に被攻破ぬと、本院の谷々に騒ぎ喚りければ、行歩も叶はぬ老僧は鳩の杖に携て、中堂・常行堂なんどへ参て、本尊と共に焼死なんと悲み、稽古鑽仰をのみ事とする修学者などは、経論聖教を腹に当て、落行悪僧の太刀・長刀を奪取て、四郎谷の南、箸塚の上に走挙り、命を捨て闘ける。爰に数万人の中より只一人備後国住人、江田源八泰氏と名乗て、洗革の大鎧に五枚甲の緒を縮、四尺余の太刀所々さびたるに血を付て、ましくらにぞ上たりける。是を見て、杉本の山神大夫定範と云ける悪僧、黒糸の鎧に竜頭の甲の緒をしめ、大立挙の髄当に、三尺八寸の長刀茎短に取て乱足を蹈み、人交もせず只二人、火を散してぞ斬合ける。源八遥の坂を上て、数箇度の戦に腕緩く機疲れけるにや、動ればうけ太刀に成けるを、定範得たり賢しと、長刀の柄を取延源八が甲の鉢を破よ砕よと、重打にぞ打たりける。
源八甲の吹返を目の上へ切さげられて、著直さんと推仰きける処を、定範長刀をからりと打棄て、走懸てむずと組。二人が蹈ける力足に、山の片岸崩て足もたまらざりければ、二人引組ながら、数千丈高き小篠原を、上になり下になり覆けるが、中程より別々に成て両方の谷の底へぞ落たりける。此外十四の禅侶、法花堂の衆に至るまで、忍辱の衣の袖を結て肩にかけ、降魔の利剣を提て、向ふ敵に走懸々々、命を風塵よりも軽して防ぎ戦ける程に、寄手の大勢進兼て、四明の巓・西谷口、今三町許に向上て一気休てぞゆらへける。爰に何者か為たりけん、大講堂の鐘を鳴して、事の急を告たりける間、篠の峯を堅めんとて、昨日横川へ被向たりける宇都宮五百余騎、鞭に鐙を合て西谷口へ馳来る。皇居を守護して東坂本に被坐ける新田左中将義貞、六千余騎を率して四明の上へ馳上て、紀清両党を虎韜にすゝませ、江田・大館を魚鱗に連ねて真倒に懸立られけるに、寄手二十万騎の兵共、水飲の南北の谷へ被懸落て、馬人上が上に落重りしかば、さしも深き谷二つ死人に埋て平地になる。寄手此日の合戦に討負て、相図の支度相違しければ、水飲より下に陣を取て、敵の隙を伺ふ。義貞は東坂本を閣て、大岳を陣に取り、昼夜旦暮に闘て、互に陣を不被破、西坂の合戦此侭にて休ぬ。其翌日高豊前守大津へ使を立て、「宗との敵共は、皆大岳へ向たりと見へて候。急追手の合戦を被始て東坂本を攻破り、神社・仏閣・僧坊・民屋に至るまで、一宇も不残焼払て、敵を山上に追上、東西両塔の間に打上て、煙を被挙候はゞ、大岳の敵ども前後に心を迷はして、進退定て度を失つと覚へ候。其時此方より同攻上戦の雌雄を一時に可決。」とぞ牒せられける。吉良・石堂・仁木・細川の人々是を聞て、「昨日は已に追手の勧に依て高家の一族共手の定の合戦を致しつ。今日は又搦手より此陣の合戦を被勧事誠に理に当れり、非可黙止。」とて、十八万騎を三手に分て、田中・浜道・山傍より、態夕日に敵を向て、東坂本へぞ寄たりける。城中の大将には、義貞の舎弟脇屋右衛門佐義助を被置たりければ、東国・西国の強弓・手足を汰へて、土矢間・櫓の上にをき、土肥・得能・仁科・春日部・伯耆守以下の四国・北国の懸武者共二万余騎、白鳥が岳に磬へさせ、船軍に馴たる国々の兵に、和仁・堅田の地下人共を差添て五千余人、兵船七百余艘に掻楯を掻て、湖水の澳に被浮たり。敵陣の構密くして、人の近付べき様なしといへども、軍をせでは敵の落べき様やあるとて、三方の寄手八十万騎相近付て時を作りければ、城中の勢六万余騎、矢間の板を鳴し、舷を敲て時声を合す。大地も為之裂、大山も此時に崩やすらんとをびたゝし。寄手已に堀の前までかづき寄せ、埋草を以て堀をうめ、焼草を積で櫓を落さんとしける時、三百余箇所の櫓・土さま・出屏の内より、雨の降如射出しける矢、更に浮矢一つも無りければ、楯のはづれ旗下に射臥られて、死生の堺を不知者三千人に余れり。
寄手余に射殺されける間、持楯の陰に隠んと、少色めきける処を、城中より見澄して、脇屋・堀口・江田・大館の人々六千余騎、三の関を開せて、驀直に敵の中へ懸入る。土肥・得能・仁科・伯耆が勢二千余騎、白鳥より懸下て横合にあふ。湖水に浮べる国々の兵共、唐崎の一松の辺へ漕寄て、さし矢・遠矢・すぢかひ矢に、矢種を不惜射たりける。寄手大勢なりといへ共、山と海と横矢に射白され、田中・白鳥の官軍に被懸立、叶はじとや思けん、又本陣へ引返す。其後よりは日夜朝暮に兵を出し、矢軍許をばしけれ共、寄手は遠攻に為たる許を態にし、官軍は城を不被落を勝にして、はか/゛\しき軍は無りけり。同十六日熊野の八庄司共、五百余騎にて上洛したりけるが、荒手なれば一軍せんとて、軈て西坂へぞ向ひたりける。黒糸の鎧甲に、指のさきまで鎖りたる篭手・髄当・半頬・膝鎧、無透処一様に裹つれたる事がら、誠に尋常の兵共の出立たる体には事替て、物の用に立ぬと見へければ、高豊前守悦思事不斜、軈て対面して、合戦の意見を訪ければ、湯河庄司殊更進出て申けるは、「紀伊国そだちの者共は、少きより悪処岩石に馴て、鷹をつかひ、狩を仕る者にて候間、馬の通はぬ程の嶮岨をも、平地の如に存ずるにて候。ましてや申さん、此山なんどを見て、難所なりと思事は、露許も候まじ。威毛こそ能も候はね共、我等が手づから撓拵て候物具をば、何なる筑紫の八郎殿も、左右なく裏かゝする程の事はよも候はじ。将軍の御大事此時にて候へば、我等武士の矢面に立て、敵矢を射ば物具に請留め、斬らば其太刀・長刀に取付、敵の中へわり入程ならば、何なる新田殿共のたまへ、やわか怺へ候や。」と傍若無人に申せば、聞人見人何れも偏執の思を成にけり。「さらば軈て是をさき武者として攻よ。」とて、六月十七日の辰刻に、二十万騎の大勢、熊野の八庄司が五百余人を先に立て、松尾坂の尾崎よりかづきつれてぞ上たりける。官軍の方に綿貫五郎左衛門・池田五郎・本間孫四郎・相馬四郎左衛門とて、十万騎が中より勝出されたる強弓の手垂あり。池田と綿貫とは、時節東坂本へ遣はされて不居合ば、本間と相馬と二人、義貞の御前に候けるが、熊野人共の真黒に裹つれて攻上けるを、遥に直下し、から/\と打笑ひ、「今日の軍に御方の兵に太刀をも抜せ候まじ。矢一をも射させ候まじ。我等二人罷向て、一矢仕て奴原に肝つぶさせ候はん。」と申、最閑に座席をぞ立たりける。猶も弓を強引ん為に、著たる鎧を脱置て、脇立許に大童になり、白木の弓のほこ短には見へけれ共、尋常の弓に立双べたりければ、今二尺余ほこ長にて、曲高なるを大木共に押撓、ゆら/\と押張、白鳥の羽にてはぎたる矢の、十五束三臥有けるを、百矢の中より只二筋抜て弓に取副、訛歌うたふて、閑々と向の尾へ渡れば、跡に立たる相馬、銀のつく打たる弓の普通の弓四五人張合たる程なるを、左の肩に打かたげて、金磁頭二つ箆撓に取添て、道々撓直爪よりて一村茂る松陰に、人交もなく只二人、弓杖突てぞ立たりける。爰に是ぞ聞へたる八庄司が内の大力よと覚へて、長八尺許なる男の、一荒々たるが、鎖の上に黒皮の鎧を著、五枚甲の緒を縮、半頬の面に朱をさして、九尺に見る樫木の棒を左の手に拳り、猪の目透したる鉞の歯の亘一尺許あるを、右の肩に振かたげて、少もためらふ気色なく、小跳して登る形勢は、摩醯脩羅王・夜叉・羅刹の怒れる姿に不異。
あはひ二町許近付て、本間小松の陰より立顕れ、件の弓に十五束三臥、忘るゝ許引しぼり、ひやうと射渡す。志す処の矢坪を些も不違、鎧の弦走より総角付の板まで、裡面五重を懸ず射徹して、矢さき三寸許ちしほに染て出たりければ、鬼歟神と見へつる熊野人、持ける鉞を打捨て、小篠の上にどうど臥す。其次に是も熊野人歟と覚へて、先の男に一かさ倍て、二王を作損じたる如なる武者の、眼さかさまに裂、鬚左右へ分れたるが、火威の鎧に竜頭の甲の緒を縮、六尺三寸の長刀に、四尺余の太刀帯て、射向の袖をさしかざし、後を吃とみて、「遠矢な射そ。矢だうなに。」と云侭に、鎧づきして上ける処を、相馬四郎左衛門、五人張に十四束三臥の金磁頭、くつ巻を残さず引つめて、弦音高く切て放つ。手答とすがい拍子に聞へて、甲の直向より眉間の脳を砕て、鉢著の板の横縫きれて、矢じりの見る許に射篭たりければ、あつと云声と共に倒れて、矢庭に二人死にけり。跡に継ける熊野勢五百余人、此矢二筋を見て、前へも不進後ろへも不帰、皆背をくゝめてぞ立たりける。本間と相馬と二人ながら是をば少しもみぬ由にて、御方の兵の二町許隔たりける向の尾に陣を取て居りけるに向て、「例ならず敵共のはたらき候は、軍の候はんずるやらん。ならしに一矢づゝ射て見候はん。何にても的に立させ給へ。」と云ければ、「是を遊ばし候へ。」とて、みな紅の扇に月出したるを矢に挟て遠的場だてにぞ立たりける。本間は前に立、相馬は後に立て、月を射ば天の恐も有ぬべし。両方のはづれを射んずるぞと約束して、本間はたと射れば、相馬もはたと射る。矢所約束に不違、中なる月をぞ残しける。其後百矢二腰取寄て、張がへの弓の寸引して、「相摸国の住人本間孫四郎資氏、下総国の住人相馬四郎左衛門尉忠重二人、此陣を堅て候ぞ。矢少々うけて、物具の仁の程御覧候へ。」と高らかに名乗ければ、跡なる寄手二十万騎、誰追としも無れども、我先にとふためきて、又本の陣へ引返す。如今矢軍許にて日を暮し夜を明さば、何年責る共、山落る事やは可有と、諸人攻あぐんで思ける処に、山徒金輪院の律師光澄が許より、今木の少納言隆賢と申ける同宿を使にて、高豊前守に申けるは、「新田殿の被支候四明山の下は、山上第一の難所にて候へば、輒く攻破られん事難叶とこそ存候へ。能物馴て候はんずる西国方の兵を四五百人、此隆賢に被相副、無動寺の方より忍入り、文殊楼の辺四王院の傍にて時声を被揚候はゞ、光澄与力の衆徒等、東西両塔の間に、旗を挙時声を合て、山門をば時の間に、攻落し候べし。」とぞ申ける。あわれ山徒の中に御方する者の一人なり共出来あれかしと、念願しける処に、隆賢忍やかに来、夜討すべき様を申ければ、高豊前守大に喜で、播磨・美作・備前・備中四箇国の勢の中より、夜討に馴たる兵五百余人を勝て、六月十八日の夕闇に四明の巓へぞ上せける。隆賢多年の案内者なる上、敵の有所無所委見置たる事なれば、少しも道に迷べきにては無りけるが、天罰にてや有けん、俄に目くれ心迷て、終夜四明の麓を北南へ迷ありきける程に、夜已に明ければ紀清両党に見付られて、中に被取篭ける間、迹なる武者共百余人討れて、谷底へ皆ころび落ぬ。隆賢一人は、深手数箇所負て、腹を切んとしけるが、上帯を解隙に被組て生虜れにけり。大逆の張本なれば、軈てこそ斬らるべかりしを、大将山徒の号に宥如して、御方にある一族の中へ遣はされ、「生て置ん共、殺されんとも意に可任。」と被仰ければ、今木中務丞範顕畏て、「承候。」とて、則使者の見ける前にて、其首を刎てぞ捨たりける。
忝も万乗の聖主、医王山王の擁護を御憑有て、臨幸成たる故に、三千の衆徒悉仏法と王法と可相比理を存じて、弐なく忠戦を致す処に、金輪院一人山徒の身として我山を背き、武士の家に非して将軍に属し、剰弟子同宿を出し立て、山門を亡んと企ける心の程こそ浅猿けれ。されば悪逆忽に顕て、手引しつる同宿ども、或は討れ或は生虜れぬ。光澄は無幾程して、最愛の子に殺されぬ。其子は又一腹一生の弟に討れて、世に類なき不思議を顕ける神罰の程こそ怖しけれ。去程に越前の守護尾張守高経・北陸道の勢を率して、仰木より押寄て、横川を可攻と聞へければ、楞厳院九谷の衆徒、処々のつまり/\に関を拵へ逆木を引て要害を構へける。其比大師の御廟修造の為とて、材木を多く山上に引のぼせたりけるを、櫓の柱、矢間の板にせんとて坂中へぞ運ける。其日、般若院の法印が許に召仕ける童、俄に物に狂て様々の事を口走けるが、「我に大八王子の権現つかせ給たり。」と名乗て、「此御廟の材木、急本の処へ返し運ぶべし。」とぞ申ける。大衆是を不審して、「誠に八王子権現のつかせ給たる物ならば、本地内証朗にして諸教の通儀明かなるべし。」とて、古来碩学の相承し来る一念三千の法門、唯受一人の口決共を様々にぞ問たりける。此童から/\と打笑て、「我和光の塵に交る事久して、三世了達の智も浅く成ぬといへ共、如来出世の御時会座に列て聞し事なれば、あら/\云て聞かせん。」とて、大衆の立てつる処の不審、一々に言に花をさかせ理に玉を聯ねて答へける。大衆皆是に信を取て、重て山門の安否、軍の勝負を問ふに、此物つき涙をはら/\と流して申けるは、「我内には円宗の教法を守り、外には百王の鎮護を致さん為に、当山開基の初より跡を垂し事なれば、何にも吾山の繁昌、朝廷の静謐をこそ、心に懸て思ふ事なれ共、叡慮の向ふ所も、富貴栄耀の為にして、理民治世の政に非ず、衆徒の願ふ心も、皆驕奢放逸の基にして、仏法紹隆の為に非ざる間、諸天善神も擁護の手を休め、四所三聖も加被の力を不被回。悲哉、今より後朝儀久く塗炭に落て、公卿大臣蛮夷の奴となり、国主はるかに帝都を去て、臣は君を殺し、子は父を殺す世にならんずる事の浅猿さよ。大逆の積り却て其身を譴る事なれば、逆臣猛威を振はん事も、又久しからじ。嗚呼恨乎、師重が吾山を攻落して堂舎・仏閣を焼払はんと議する事、看々人々、明日の午刻に早尾大行事を差遣して、逆徒を四方に退けんずる者を。此上は吾山に何の怖畏か可有。其材木皆如元運返せ。」と託宣して、此童自四五人して持程なる大木を一つ打かつぎ、御廟の前に打捨、手足を縮めて振ひけるが、「明日の午刻に、敵を追払ふべしと云神託、余りに事遠からで、誠共覚へず、一事も若相違せば、申処皆虚説になるべし。暫く明日の様を見て思合する事あらば、後日にこそ奏聞を経め。」と申して、其日の奏し事を止めければ、神託空く衆徒の胸中に蔵れて、知人更に無りけり。
山門には西坂に軍あらば、本院の鐘をつき、東坂本に合戦あらば、生源寺の鐘を鳴すべしと方々の約束を定たりける。爰に六月二十日の早旦に早尾の社の猿共数群来て、生源寺の鐘を東西両塔に響渡る程こそ撞たりけれ。諸方の官軍、九院の衆徒是を聞て、すはや相図の鐘を鳴すは。さらば攻口へ馳向て防がんとて、我劣らじと渡り合ふ。東西の寄手此形勢を見て、山より逆寄に寄するぞと心得て、水飲・今路・八瀬・薮里・志賀・唐崎・大津・松本の寄手共、楯よ物具よと、周章色めきける間、官軍是に利を得て、山上・坂本の勢十万余騎、木戸を開、逆木を引のけて打て出たりける。寄手の大将蹈留て、「敵は小勢ぞ、引て討るな。きたなし返せ。」と下知して、暫支たりけれ共、引立たる大勢なれば一足も不留。脇屋右衛門佐義助の兵五千余騎、志賀の炎魔堂の辺に有ける敵の向ひ城に、五百余箇所に東西火を懸て、をめき叫で揉だりける。敵陣こゝより破て、寄手の百八十万騎、さしも嶮しき今路・古道・音無の滝・白鳥・三石・大岳より、人雪頽をつかせてぞ逃たりける。谷深して行さきつまりたる所なれば、馬人上が上に落重て死ける有様は、伝聞治承の古へ、平家十万余騎の兵、木曾が夜討に被懸立て、くりから谷に埋れけるも、是には過じと覚へたり。大将高豊前守は太股を我太刀に突貫て引兼たりけるを、舟田長門守が手者是を生虜り白昼に東坂本を渡し、大将新田左中将の前に面縛す。是は仏敵・神敵の最たれば、「重衡卿の例に任すべし。」とて、山門の大衆是を申請て、則唐崎の浜に首を刎てぞ被懸ける。此豊前守は将軍の執事高武蔵守師直が猶子の弟にて、一方の大将を承る程の者なれば、身に替らんと思者共幾千万と云数を不知しか共、若党の一人も無して、無云甲斐敵に被生取けるは、偏に医王山王の御罰也けりと、今日は昨日の神託に、げにやと被思合て、身の毛も弥立つ許なり。 
147 山門牒送南都事
官軍両度の軍に討負て、気疲れ勢ひ薄く成てげれば、山上・坂本に何なる野心の者か出来て、不慮の儀あらんずらんと、主上玉を安くし給はず、叡襟を傾けさせ給ければ、先衆徒の心を勇しめん為に、七社の霊神九院の仏閣へ、各大庄二三箇所づゝを寄附せらる。其外一所住とて、衆徒八百余人早尾に群集して、軍勢の兵粮已下の事取沙汰しける衆の中へ、江州の闕所分三百余箇所を被行て、当国の国衙を山門永代管領すべき由、永宣旨を成て被補任。若今官軍勝事を得ば、山門の繁昌、此時に有ぬと見へけれ共、三千の衆徒悉此抽賞に誇らば、誰か稽古の窓に向て三諦止観の月を弄び、鑽仰の嶺に攀て一色一香の花を折らん。富貴の季には却て法滅の基たるべければ、神慮も如何有らんと智ある人は是を不悦。同十七日三千の衆徒、大講堂の大庭に三塔会合して僉議しけるは、「夫吾山者当王城之鬼門、為神徳之霊地。是以保百王之宝祚、依一山之懇誠。鎮四夷之擾乱、唯任七社之擁護。爰有源家余裔尊氏・直義者。将傾王化亡仏法。訪大逆於異国、禄山比不堪。尋積悪於本朝、守屋却可浅。抑普天之下無不王土。縦使雖為釈門之徒、此時蓋尽致命之忠義。故北嶺天子本命之伽藍也。何運朝廷輔危之計略。南都博之氏寺也。須救藤氏類家之淹屈。然早牒送東大・興福両寺、可被結義戦戮力之一諾。」、三千一同に僉議して、則南都へ牒状を送りける。其詞に云、延暦寺牒興福寺衙請早廻両寺一味籌策、御追罰朝敵源尊氏・直義以下逆徒、弥致仏法・王法昌栄状。牒、仏法伝吾邦兮七百余歳、祝皇統益蒼生者、法相円頓之秘最勝。神明垂権跡兮七千余座、鎮宝祚耀威光者、四所三聖之霊験異他。是以先者淡海公建興福寺、以瑩八識五重之明鏡、後者桓武帝開比叡山、以挑四教三観之法灯。爾以降南都北嶺共掌護国護王之精祈。天台法相互究権教実教之奥旨。寔是以仏法守王法濫觴、以王法弘仏法根源也。因茲当山有愁之時、通白疏而談懇情。朝家有故之日、同丹心而祈安静。五六年以来天下大乱民間不静。就中尊氏・直義等、起自辺鄙之酋長、飽浴超涯之皇沢。未知君臣之道、忽有犲狼之心。樹党而誘引戎虜、矯詔而賊害藩籬。倩思王業再興之聖運、更非尊氏一人之武功、企叛逆無其辞。以義貞称其敵、貪天功而為己力、咎犯之所恥也。仮朝錯挙逆謀、劉之所亡也。為臣犯君忘恩背義、開闢以来未聞其迹。遂乃去春之初、猛火甚於燎原、九重之城闕成灰燼。暴風扇于区宇、無辜之民黎堕塗炭。論其濫悪誰不歎息。且為避当時之災、且為仰和光之神助、廻仙蹕於七社之瑞籬、任安全於四明之懇府。衆徒之心、此時豈敢乎。爰三千一揆、忘身命扶義兵。老少同心、代冥威伏異賊。王道未衰、神感潜通之故也。逆党巻旗而奔西、凶徒倒戈而敗北。喩猶紅炉之消雪、相似団石之圧卵。昔晉之祈八公也。早覆符堅之兵、唐之感四王也。乍却吐蕃之陣。蓋乃斯謂歟。遂使儼鸞輿之威儀促鳳城之還幸。天掃搶、上下同見慶雲之色。海剪鯨鯢、遠近尽歇逆浪之声。然是学侶群侶之精誠也。豈非医王山王之加護哉。而今賊党再窺覦帝城、官軍暫彷徨征途。仍慣先度之朝儀、重及当社之臨幸。山上山下興廃只在此時。仏法王法盛衰豈非今日乎。天台之教法、七社之霊験、偏共安危於朝廷。法相之護持、四所之冥応、盍加贔屓於国家。貴寺若存報国之忠貞者、衆徒須運輔君之計略矣。満山之愁訴、猶通音問而成合体。一朝之治乱、何随群議、而無与力。仍勒事由、牒送如件。敢勿猶予。故牒。延元々年六月日延暦寺三千衆徒等とぞ被書たる。状披閲の後、南都大衆則山門に同心して返牒を送る。
其状云、興福寺衆徒牒延暦寺衙来牒一紙牒、夫観行五品之居勝位也。学円頓於河淮之流。等覚無垢之円上果也。敷了義於印度之境。是以隋高祖之崇玄文、玉泉水清。唐文皇奮神藻、瑶花風芳。遂使一夏敷揚之奥遥伝于叡山。三国相承之真宗、独留于吾寺以降、及于千祀、軌垂百王。寔是弘仏法之宏規、護皇基之洪緒者也。彼尊氏・直義等、遠蛮之亡虜、東夷之降卒也。雖非鷹犬之才、屡忝爪牙之任。乍忘朝奨還挿野心。討揚氏兮為辞、在藩渓兮作逆。劫略州県、掠虜吏民。帝都悉焼残、仏閣多魔滅。軼赤眉之入咸陽、超黄巾寇河北。濫吹之甚、自古未聞。天誅之所覃、冥譴何得遁。因茲去春之初、鋤棘矜一摧関中焉、匹馬倚輪纔遁海西矣。今聚其敗軍擁彼余衆、不恐雷霆之威、重待斧鉞之罪。六軍徘徊、群兇益振。是則孟津再駕之役、独夫所亡也。城濮三舎之謀、侍臣攸敗也。夫違天者有大咎。失道者其助寡。積暴之勢豈又能久乎。方今廻皇輿於花洛之外、張軍幕於猶渓之辺。三千群侶、定合懇祈之掌、七社霊神、鎮廻擁護之眸者歟。彼代宗之屯長安也。観師於香積寺之中。勾践之在会稽也。陣兵天台山之北。事叶先蹤、寧非佳摸乎。爰当寺衆徒等、自翠花北幸、抽丹棘中庭。専祈宝祚之長久、只期妖之滅亡。精誠無弐、冥助豈空乎。就中寺辺之若輩、国中之勇士、頻有加官軍之志、屡廻退凶徒之策。然而南北境阻、風馬之蹄不及、山川地殊、雲鳥之勢難接矣。矧亦賊徒構謀、寇迫松之下。人心未和、禍在蕭牆之中。前対燕然之虜、後有宛城之軍、攻守之間進退失度。但綸命屡降、牒送難黙止。速率鋭師、早征凶党、今以状牒。々到准状。故牒。延元々年六月日興福寺衆徒等とぞ書たりける。南都已に山門に与力しぬと聞へければ、畿内・近国に軍の勝負を計かねて何方へか著べきと案じ煩ひける兵共、皆山門に志を通じ、力を合せんとす。雖然堺敵陣を隔てければ、坂本へ馳参事不可叶、「大将を給て陣を取て京都を攻落し候べし。」とぞ申ける。「さらば。」とて、八幡へは四条中納言隆資卿を被差遣。真木・葛葉・禁野・片野・宇殿・賀島・神崎・天王寺・賀茂・三日の原の者共馳集て、三千余騎大渡の橋より西に陣を取て、川尻の道を差塞。宇治へは、中院中将定平を被遣。宇治・田原・醍醐・小栗栖・木津・梨間・市野辺山・城脇の者共馳集て、二千余騎、宇治橋二三間引落て、橘の小島が崎に陣をとる。北丹波道へは、大覚寺の宮を大将とし奉て、額田左馬助を被遣。其勢三百余騎、白昼に京中を打通て、長坂に打上る。嵯峨・仁和寺・高雄・栂尾・志宇知・山内・芋毛・村雲の者共馳集て、千余騎京中を足の下に直下して、京見峠・嵐山・高雄・栂尾に陣をとる。此外鞍馬道をば西塔より塞で、勢多をば愛智・信楽より指塞ぐ。
今は四方七つの道、纔に唐櫃越許あきたれば、国々の運送道絶て洛中の士卒兵粮に疲れたり。暫は馬を売、物具を沽、口中の食を継けるが、後には京白川の在家・寺々へ打入て、衣裳を剥取、食物を奪ひくう。卿相雲客も兵火の為に焼出されて、此の辻堂、彼の拝殿に身を側め、僧俗男女は道路に食を乞て、築地の陰、唐居敷の上に飢臥す。開闢以来兵革の起る事多しといへ共、是程の無道は未記処也。京勢は疲れて、山門又つよる由聞へければ、国々の勢百騎・二百騎、東坂本へと馳参る事引もきらず。中にも阿波・淡路より、阿間・志知・小笠原の人々、三千余騎にて参りければ、諸卿皆憑しき事に被思けるにや、今はいつをか可期、四方より牒し合せて、四国の勢を阿弥陀が峯へ差向て、夜々篝をぞ焼せられける。其光二三里が間に連て、一天の星斗落て欄干たるに不異。或夜東寺の軍勢ども、楼門に上て是をみけるが、「あらをびたゝしの阿弥陀が峯の篝や。」と申ければ、高駿河守とりも敢ず、多く共四十八にはよも過じ阿弥陀峯に灯す篝火と一首の狂歌に取成して戯ければ、満座皆ゑつぼに入てぞ笑ける。今一度京都に寄せて、先途の合戦あるべしと、諸方の相図定りにければ、士卒の志を勇めんが為に、忝も十善の天子、紅の御袴をぬがせ給ひ、三寸づゝ切て、所望の兵共にぞ被下ける。七月十三日、大将新田左中将義貞、度々の軍に、打残されたる一族四十三人引具して先皇居へ参ぜらる。主上龍顔麗しく群下を照臨有て、「今日の合戦何よりも忠を尽すべし。」と被仰下ければ、義貞士卒の意に代て、「合戦の雌雄は時の運による事にて候へば、兼て勝負を定めがたく候。但今日の軍に於ては、尊氏が篭て候東寺の中へ、箭一つ射入候はでは、罷帰るまじきにて候なり。」と申て、御前をぞ被退出ける。諸軍勢、大将の前後に馬を早めて、白鳥の前を打過ける時、見物しける女童部、名和伯耆守長年が引さがりて打けるを見て、「此比天下に結城・伯耆・楠木・千種頭中将、三木一草といはれて、飽まで朝恩に誇たる人々なりしが、三人は討死して、伯耆守一人残たる事よ。」と申けるを、長年遥に聞て、さては長年が今まで討死せぬ事を、人皆云甲斐なしと云沙汰すればこそ、女童部までもか様には云らめ。今日の合戦に御方若討負ば、一人なり共引留て、討死せん者をと独言して、是を最後の合戦と思定てぞ向ける。 
152 立儲君被著于義貞事付鬼切被進日吉事
暫有て、義貞朝臣父子兄弟三人、兵三千余騎を召具して被参内たり。其気色皆忿れる心有といへ共、而も礼儀みだりならず、階下の庭上に袖を連ねて並居たり。主上例よりも殊に玉顔を和げさせ給て、義貞・義助を御前近く召れ、御涙を浮べて被仰けるは、「貞満が朕を恨申つる処、一儀其謂あるに似たりといへ共、猶遠慮の不足に当れり。尊氏超涯の皇沢に誇て、朝家を傾んとせし刻、義貞も其一家なれば、定て逆党にぞ与せんと覚しに、氏族を離れて志を義にをき、傾廃を助て命を天に懸しかば、叡感更に不浅。只汝が一類を四海の鎮衛として、天下を治めん事をこそ思召つるに、天運時未到して兵疲れ勢ひ廃れぬれば、尊氏に一旦和睦の儀を謀て、且くの時を待ん為に、還幸の由をば被仰出也。此事兼も内々知せ度は有つれ共、事遠聞に達せば却て難儀なる事も有ぬべければ、期に臨でこそ被仰めと打置つるを、貞満が恨申に付て朕が謬を知れり。越前国へは、川島の維頼先立て下されつれば、国の事定て子細あらじと覚る上、気比の社の神官等敦賀の津に城を拵へて、御方を仕由聞ゆれば、先彼へ下て且く兵の機を助け、北国を打随へ、重て大軍を起して天下の藩屏となるべし。但朕京都へ出なば、義貞却て朝敵の名を得つと覚る間、春宮に天子の位を譲て、同北国へ下し奉べし。天下の事小大となく、義貞が成敗として、朕に不替此君を取立進すべし。朕已に汝が為に勾践の恥を忘る。汝早く朕が為に范蠡が謀を廻らせ。」と、御涙を押へて被仰ければ、さしも忿れる貞満も、理を知らぬ夷共も、首を低れ涙を流して、皆鎧の袖をぞぬらしける。九日は事騒き受禅の儀、還幸の装に日暮ぬ。夜更る程に成て、新田左中将潜に日吉の大宮権現に参社し玉ひて、閑に啓白し給けるを、「臣苟も和光の御願を憑で日を送り、逆縁を結事日已に久し。願は征路万里の末迄も擁護の御眸を廻らされて、再大軍を起し朝敵を亡す力を加へ給へ。我縦不幸にして命の中に此望を不達と云共、祈念冥慮に不違ば、子孫の中に必大軍を起者有て、父祖の尸を清めん事を請ふ。此二の内一も達する事を得ば、末葉永く当社の檀度と成て霊神の威光を耀し奉るべし。」と、信心を凝して祈誓し、当家累代重宝に鬼切と云太刀を社壇にぞ被篭ける。 
 

 

166 春宮還御事付一宮御息所事
去程に夜明ければ、蕪木の浦より春宮御座の由告たりける間、島津駿河守忠治を御迎に進せて取奉る。去夜金崎にて討死自害の頚百五十一取並べて被実検けるに、新田の一族には、越後守義顕・里見大炊助義氏の頚許有て、義貞・義助二人の首は無りけり。さては如何様其辺の淵の底なんどにぞ沈めたらんと、海人を入て被かせけれ共、曾不見ければ、足利尾張守、春宮の御前に参て、「義貞・義助二人が死骸、何くに有とも見へ候はぬは、何と成候けるやらん。」と被尋申ければ、春宮幼稚なる御心にも、彼人々杣山に有と敵に知せては、軈て押寄る事もこそあれと被思召けるにや。「義貞・義助二人、昨日の暮程に自害したりしを、手の者共が役所の内にして火葬にするとこそ云沙汰せしか。」と被仰ければ、「さては死骸のなきも道理也けり。」とて、是を求るに不及。さてこそ杣山には墓々敷敵なければ、降人にぞ出んずらんとて、暫が程は閣けれ。我執と欲念とにつかはれて、互に害心を発す人々も、終には皆無常の殺鬼に逢ひ、被呵責ことも不久。哀に愚かなる事共なり。新田越後守義顕・並一族三人、其外宗徒の首七を持せ、春宮をば張輿に乗進せて、京都へ還し上せ奉る。諸大将事の体、皆美々敷ぞ見へたりける。越後守義顕の首をば、大路を渡して獄門に被懸。新帝御即位の初より三年の間は、天下の刑を不行法也。未河原の御禊、大甞会も不被遂行先に、首を被渡事は如何あるべからん。先帝重祚の初、規矩掃部助高政・糸田左近将監貞吉が首を被渡たりしも、不吉の例とこそ覚ゆれと、諸人の意見共有けれ共、是は朝敵の棟梁義貞の長男なればとて、終大路を被渡けり。春宮京都へ還御成ければ、軈楼の御所を拵へて、奉押篭。一宮の御頚をば、禅林寺の長老夢窓国師の方へ被送、御喪礼の儀式を引繕る。さても御匣殿の御歎、中々申も愚也。此御匣殿の一宮に参り初給し古への御心尽し、世に類なき事とこそ聞へしか。一宮已に初冠めされて、深宮の内に長せ給し後、御才学もいみじく容顔も世に勝れて御座かば、春宮に立せ給なんと、世の人時明逢へりしに、関東の計ひとして、慮の外に後二条院の第一の御子春宮に立せ給しかば、一宮に参り仕べき人々も、皆望を失ひ、宮も世中万づ打凋たる御心地して、明暮は只詩哥に御心を寄せ、風月に思を傷しめ給ふ。折節に付たる御遊などあれ共、差て興ぜさせ給ふ事もなし。さるにつけては、何なる宮腹、一の人の御女などを角と仰られば、御心を尽させ給ふまでもあらじと覚へしに、御心に染む色も無りけるにや、是をと被思召たる御気色もなく、只独のみ年月を送らせ給ける。或時関白左大臣の家にて、なま上達部・殿上人余た集て、絵合の有けるに、洞院の左大将の出されたりける絵に、源氏の優婆塞の宮の御女、少し真木柱に居隠て、琵琶を調べ給しに、雲隠れしたる月の俄に最あかく指出たれば、扇ならでも招べかりけりとて、撥を揚てさしのぞきたる顔つき、いみじく臈闌て、匂やかなる気色云ばかりなく、筆を尽してぞ書たりける。一宮此絵を被御覧、無限御心に懸りければ、此絵を暫被召置、みるに慰む方もやとて、巻返々々御覧ぜらるれ共、御心更に不慰。昔漢李夫人甘泉殿の病の床に臥して無墓成給しを、武帝悲みに堪兼て返魂香を焼玉しに、李夫人の面影の烟の中に見へたりしを、似絵に書せて被御覧しかども、「不言不笑令愁殺人。」と、武帝の歎給けんも、現に理と思知せ給ふ。我ながら墓なの心迷やな。
誠の色を見てだにも、世は皆夢の中の現とこそ思ひ捨る事なるに、是はそも何事の化し心ぞや。遍照僧正の哥の心を貫之が難じて、「歌のさまは得たれ共実少し。譬へば絵に書ける女を見て徒に心を動すが如し。」と云し、其類にも成ぬる者哉と思棄給へ共、尚文悪なる御心胸に充て、無限御物思に成ければ、傍への色異なる人を御覧じても、御目をだにも回らされず。況て時々の便りにつけて事問通し給ふ御方様へは、一急雨の過る程の笠宿りに可立寄心地にも思召さず。世中にさる人ありと伝聞て御心に懸らば、玉垂の隙求る風の便も有ぬべし。又僅に人を見し許なる御心当ならば、水の泡の消返りても、寄る瀬はなどか無るべきに、是は見しにも非ず聞しにも非ず、古の無墓物語、化なる筆の迹に御心を被悩ければ、無為方思召煩はせ給へば、せめて御心を遣方もやと、御車に被召、賀茂の糾の宮へ詣させ給ひ、御手洗河の川水を御手水に結ばれ、何となく河に逍遥せさせ給ふにも、昔業平中将、恋せじと御祓せし事も、哀なる様に思召出されて、祈る共神やはうけん影をのみ御手洗河の深き思をと詠ぜさせ給ふ時しもあれ、一急雨の過行程、木の下露に立濡て、御袖もしほれたるに、「日も早暮ぬ。」と申声して、御車を轟かして一条を西へ過させ給ふに、誰が栖宿とは不知、墻に苔むし瓦に松生て、年久く住荒したる宿の物さびし気なるに、撥音気高く青海波をぞ調べたる。「怪しや如何なる人なるらん。」と、洗墻に御車を駐めさせて、遥に見入させ給ひたれば、見る人有とも不知体にて、暮居空の月影の、時雨の雲間より幽々と顕れ出たるに、御簾を高く巻上て、年の程二八許なる女房の、云ばかりなくあてやかなるが、秋の別を慕ふ琵琶を弾ずるにてぞ有ける。鉄砕珊瑚一両曲、氷写玉盤千万声、雑錯たる其声は、庭の落葉に紛つゝ、外には降らぬ急雨に、袖渋る許にぞ聞へたる。宮御目も文に熟々と御覧ずるに、此程漫に御心を尽して、夢にもせめて逢見ばやと、恋悲み給ひつる似絵に少しも不違、尚あてやかに臈闌て、云はん方なくぞ見へたりける。御心地空に浮て、たど/\しき程に成せ給へば、御車より下させ給て、築山の松の木陰の立寄せ給へば、女房見る人有と物侘し気にて、琵琶をば几帳の傍らに指寄せて内へ紛れ入ぬ。引や裳裾の白地なる面影に、又立出る事もやとて、立徘徊はせ給たれば、怪げなる御所侍の、御隔子進する音して、早人定りぬれば、何迄角ても可有とて、宮還御成ぬ。絵にかきたりし形にだに、御心を悩されし御事也。まして実の色を被御覧て、何にせんと恋忍ばせ給も理哉。其後よりは太すらなる御気色に見へながら、流石御詞には不被出けるに、常に御会に参り給ふ二条中将為冬、「何ぞや賀茂の御帰さの、幽なりし宵の間の月、又も御覧ぜまぼしく被思召にや。其事ならば最安き事にてこそ侍るめれ。彼の女房の行末を委尋て候へば、今出河右大臣公顕の女にて候なるを、徳大寺左大将に乍申名、未皇太后宮の御匣にて候なる。切に思召れ候はゞ、歌の御会に申寄て彼亭へ入せ給て、玉垂の隙にも、自御心を露す御事にて候へかし。」と申せば、宮例ならず御快げに打笑せ給て、「軈今夜其亭にて可有褒貶御会。」と、右大臣の方へ被仰出ければ、公顕忝と取りきらめきて、数寄の人余た集て、角と案内申せば、宮は為冬許を御供にて、彼亭へ入せ給ぬ。哥の事は今夜さまでの御本意ならねば、只披講許にて、褒貶はなし。
主の大臣こゆるぎの急ぎありて、土器もて参りたれば、宮常よりも興ぜさせ給て、郢曲絃歌の妙々に、御盃給はせ給ひたるに、主も痛く酔臥ぬ。宮も御枕を傾させ給へば、人皆定りて夜も已に深にけり。媒の左中将心有て酔ざりければ、其案内せさせて、彼女房の栖ける西の台へ忍入せ給て、墻の隙より見給へば、灯の幽なるに、花紅葉散乱たる屏風引回し、起もせず寝もせぬ体に打濡、只今人々の読たりつる哥の短冊取出して、顔打傾けたれば、こぼれ懸りたる鬢の端れより、匂やかに幽なる容せ、露を含める花の曙、風に随へる柳の夕の気色、絵に書共筆も難及、語るに言も無るべし。外ながら幽に見てし形の、世に又類ひもやあらんと、怪しきまでに思ひしは、尚数ならざりけりと御覧じ居給ふに、御心も早ほれ/゛\と成て、不知我が魂も其袖の中にや入ぬらんと、ある身ともなく覚させ給ふ。時節辺に人も無て、灯さへ幽なれば、妻戸を少し押開て内へ入せ給たるに、女は驚く貌にも非ず、閑やかにもてなして、やはら衣引被て臥たる化妝、云知らずなよやかに閑麗なり。宮も傍に寄伏給て、有しながらの心尽し、哀なる迄に聞へけれ共、女はいらへも申さず、只思にしほれたる其気色、誠に匂深して、花薫り月霞む夜の手枕に、見終ぬ夢の化ある御心迷に、明るも不知語ひ給へ共、尚強顔気色にて程経ぬれば、己が翅を並べながら人の別をも思知ぬ八声の鳥も告渡り、涙の氷解やらず、衣々も冷やかに成て、類も怨き在明の、強顔影に立帰せ給ぬ。其後より度々御消息有て、云ばかりなき御文の数、早千束にも成ぬ覧と覚る程に積りければ、女も哀なる方に心引れて、のぼれば下る稲舟の、否には非ずと思へる気色になん顕れたり。され共尚互に人目を中の関守になして、月比過させ給けるに、式部少輔英房と云儒者、御文談に参じて、貞観政要を読けるに、「昔唐の太宗、鄭仁基が女を后に備へ、元和殿に冊入んとし玉ひしを、魏徴諌て、「此女は已に陸氏に約せり」と申せしかば、太宗其諌に随て、宮中に召るゝ事を休め給き。」と談じけるを、宮熟々と聞召て、何なれば古の君は、かく賢人の諌に付て、好色心を棄給けるぞ。何なる我なれば、已に人の云名付て事定りたる中をさけて、人の心を破るらん。古の様を恥、世の譏を思食て、只御心の中には恋悲ませ給ひけれ共、御詞には不被出、御文をだに書絶て、角とも聞へねば、百夜の榻の端書、今は我や数書ましと打侘て、海士の刈藻に思乱給ふ。角て月日も過ければ、徳大寺此事を聞及、「左様に宮なんどの御心に懸られんを、争でか便なうさる事可有。」とて、早あらぬ方に通ふ道有と聞へければ、宮も今は無御憚、重て御文の有しに、何よりも黒み過て、知せばや塩やく浦の煙だに思はぬ風になびく習ひを女もはや余りに強顔かりし心の程、我ながら憂物に思ひ返す心地になん成にければ、詞は無て、立ぬべき浮名を兼て思はずは風に烟のなびかざらめや其後よりは、彼方此方に結び置れし心の下紐打解て、小夜の枕を河島の、水の心も浅からぬ御契に成しかば、生ては偕老の契深く、又死ては同苔の下にもと思召通して、十月余りに成にけるに、又天下の乱出来て、一宮は土佐の畑へ被流させ給しかば、御息所は独都に留らせ給て、明るも不知歎き沈せ給て、せめてなき世の別なりせば、憂に堪ぬ命にて、生れ逢ん後の契を可憑に、同世ながら海山を隔てゝ、互に風の便の音信をだにも書絶て、此日比召仕はれける青侍・官女の一人も参り通はず、万づ昔に替る世に成て、人の住荒したる蓬生の宿の露けきに、御袖の乾く隙もなく、思召入せ給ふ御有様、争でか涙の玉の緒も存へぬ覧と、怪き程の御事也。宮も都を御出有し日より、公の御事御身の悲み、一方ならず晴やらぬに、又打添て御息所の御名残、是や限と思召しかば、供御も聞召入られず、道の草葉の露共に、消はてさせ給ぬと見へさせ給ふ。
惜共思食ぬ御命長らへて、土佐の畑と云所の浅猿く、此世の中とも覚へぬ浦の辺に流されて、月日を送らせ給へば、晴るゝ間もなき御歎、喩へて云ん方もなし。余りに思くづほれさせ給ふ御有様の、御痛敷見奉りければ、御警固に候ける有井庄司、「何か苦く候べき。御息所を忍で此へ入進せられ候へ。」とて、御衣一重し立て、道の程の用意迄細々に沙汰し進せければ、宮無限喜しと思召て、只一人召仕れける右衛門府生秦武文と申随身を、御迎に京へ上せらる。武文御文を給て、急京都へ上り、一条堀川の御所へ参りたれば、葎茂りて門を閉、松の葉積りて道もなし。音信通ふものとては、古き梢の夕嵐、軒もる月の影ならでは、問人もなく荒はてたり。さては何くにか立忍ばせ給ぬらんと、彼方此方の御行末を尋行程に、嵯峨の奥深草の里に、松の袖垣隙あらはなるに、蔦はい懸て池の姿も冷愁く、汀の松の嵐も秋冷く吹しほりて、誰栖ぬらんと見るも懶げなる宿の内に、琵琶を弾ずる音しけり。怪しやと立留て、是を聞ば、紛ふべくもなき御撥音也。武文喜しく思ひて、中々案内も不申、築地の破れより内へ入て、中門の縁の前に畏れば、破れたる御簾の内より、遥に被御覧、「あれや。」と許の御声幽に聞へながら、何共被仰出事もなく、女房達数たさゞめき合ひて、先泣声のみぞ聞へける。「武文御使に罷上り、是迄尋参りて候。」と申も不敢、縁に手を打懸てさめ/゛\と泣居たり。良有て、「只此迄。」と召あれば、武文御簾の前に跪き、「雲井の外に想像進らするも、堪忍び難き御事にて候へば、如何にもして田舎へ御下り候へとの御使に参て候。」とて、御文を捧たり。急ぎ披て御覧ぜらゝるに、げにも御思ひの切なる色さもこそと覚て、言の葉毎に置露の、御袖に余る許なり。「よしや何なる夷の栖居なりとも、其憂にこそ責ては堪め。」とて、既に御門出有ければ、武文甲斐々々敷御輿なんど尋出し、先尼崎まで下し進せて、渡海の順風をぞ相待ける。懸りける折節、筑紫人に松浦五郎と云ける武士、此浦に風を待て居たりけるが、御息所の御形を垣の隙より見進せて、「こはそも天人の此土へ天降れる歟。」と、目枯もせず守り居たりけるが、「穴無端や。縦主ある人にてもあれ、又何なる女院・姫宮にても坐ませ。一夜の程に契を、百年の命に代んは何か惜からん。奪取て下らばや。」と思ける処に、武文が下部の浜の辺に出て行けるを呼寄て、酒飲せ引出物なんど取せて、「さるにても御辺が主の具足し奉て、船に召せんとする上臈は、何なる人にて御渡あるぞ。」と問ければ、下臈の墓なさは、酒にめで引出物に耽りて、事の様有の侭にぞ語りける。松浦大に悦で、「此比何なる宮にても御座せよ、謀反人にて流され給へる人の許へ、忍で下給はんずる女房を、奪捕たり共、差ての罪科はよも非じ。」と思ければ、郎等共に彼宿の案内能々見置せて、日の暮るをぞ相待ける。夜既に深て人定る程に成ければ、松浦が郎等三十余人、物具ひし/\と堅めて、続松に火を立て蔀・遣戸を蹈破り、前後より打て入。武文は京家の者と云ながら、心剛にして日比も度々手柄を顕したる者なりければ、強盜入たりと心得て、枕に立たる太刀をゝつ取て、中門に走出て、打入敵三人目の前に切臥せ、縁にあがりたる敵三十余人大庭へ颯と追出して、「武文と云大剛の者此にあり。取れぬ物を取らんとて、二つなき命を失な、盜人共。」とて、仰たる太刀を押直し、門の脇にぞ立たりける。
松浦が郎等共武文一人に被切立て、門より外へはつと逃たりけるが、「蓬し。敵は只一人ぞ。切て入。」とて、傍なる在家に火を懸て、又喚てぞ寄たりける。武文心は武しといへ共、浦風に吹覆はれたる烟に目暮て、可防様も無りければ、先御息所を掻負進せ、向ふ敵を打払て、澳なる船を招き、「何なる舟にてもあれ、女性暫乗進せてたび候へ。」と申て、汀にぞ立たりける。舟しもこそ多かるに、松浦が迎に来たる舟是を聞て、一番に渚へ差寄たれば、武文大に悦で、屋形の内に打置奉り、取落したる御具足、御伴の女房達をも、舟に乗んとて走帰たれば、宿には早火懸て、我方様の人もなく成にけり。松浦は適我舟に此女房の乗せ給たる事、可然契の程哉と無限悦て、「是までぞ。今は皆舟に乗れ。」とて、郎等・眷属百余人、捕物も不取敢、皆此舟に取乗て、眇の澳にぞ漕出したる。武文渚に帰来て、「其御舟被寄候へ。先に屋形の内に置進せつる上臈を、陸へ上進せん。」と喚りけれども、「耳にな聞入そ。」とて、順風に帆を上たれば、船は次第に隔りぬ。又手繰する海士の小船に打乗て、自櫓を推つゝ、何共して御舟に追著んとしけれ共、順風を得たる大船に、押手の小舟非可追付。遥の沖に向て、挙扇招きけるを、松浦が舟にどつと笑声を聞て、「安からぬ者哉。其儀ならば只今の程に海底の竜神と成て、其舟をば遣まじき者を。」と忿て、腹十文字に掻切て、蒼海の底にぞ沈ける。御息所は夜討の入たりつる宵の間の騒より、肝心も御身に不副、只夢の浮橋浮沈、淵瀬をたどる心地して、何と成行事共知せ給はず。舟の中なる者共が、「あはれ大剛の者哉。主の女房を人に奪はれて、腹を切つる哀さよ。」と沙汰するを、武文が事やらんとは乍聞召、其方をだに見遣せ給はず。只衣引被て屋形の内に泣沈ませ給ふ。見るも恐ろしくむくつけ気なる髭男の、声最なまりて色飽まで黒きが、御傍に参て、「何をかさのみむつからせ給ふぞ。面白き道すがら、名所共を御覧じて御心をも慰ませ給候へ。左様にては何なる人も船には酔物にて候ぞ。」と、兎角慰め申せ共、御顔をも更擡させ給はず、只鬼を一車に載せて、巫の三峡に棹すらんも、是には過じと御心迷ひて、消入せ給ぬべければ、むくつけ男も舷に寄懸て、是さへあきれたる体なり。其夜は大物の浦に碇を下して、世を浦風に漂ひ給ふ。明れば風能成ぬとて、同じ泊りの船共、帆を引梶を取り、己が様々漕行けば、都は早迹の霞に隔りぬ。九国にいつか行著んずらんと、人の云を聞召すにぞ、さては心つくしに行旅也と、御心細きに付ても、北野天神荒人神に成せ給し其古への御悲み、思召知せ給はゞ、我を都へ帰し御座せと、御心の中に祈せ給。其日の暮程に、阿波の鳴戸を通る処に、俄に風替り塩向ふて、此船更に不行遣。舟人帆を引て、近辺の礒へ舟を寄んとすれば、澳の塩合に、大なる穴の底も見へぬが出来て、舟を海底に沈んとす。水主梶取周章て帆薦なんどを投入々々渦に巻せて、其間に船を漕通さんとするに、舟曾不去。渦巻くに随て浪と共に舟の廻る事、茶臼を推よりも尚速也。「是は何様竜神の財宝に目懸られたりと覚へたり。
何をも海へ入よ。」とて、弓箭・太刀・々・鎧・腹巻、数を尽して投入たれ共、渦巻事尚不休。「さては若色ある衣裳にや目を見入たるらん。」とて、御息所の御衣、赤き袴を投入たれば、白浪色変じて、紅葉を浸せるが如くなり。是に渦巻き少し閑まりたれ共、船は尚本の所にぞ回居たる。角て三日三夜に成ければ、舟の中の人独も不起上、皆船底に酔臥て、声々に呼叫ぶ事無限。御息所は、さらでだに生る御心地もなき上に、此浪の騒になを御肝消て、更に人心も坐さず。よしや憂目を見んよりは、何なる淵瀬にも身を沈めばやとは思召つれ共、さすがに今を限と叫ぶ声を聞召せば、千尋の底の水屑と成、深き罪に沈なん後の世をだに誰かは知て訪はんと思召す涙さへ尽て、今は更に御くしをも擡させ給はず。むくつけ男も早忙然と成て、「懸る無止事貴人を取奉り下る故に、竜神の咎めもある哉らん。無詮事をもしつる者哉。」と誠に後悔の気色なり。斯る処に梶取一人船底より這出て、「此鳴渡と申は、竜宮城の東門に当て候間、何にても候へ、竜神の欲しがらせ給ふ物を、海へ沈め候はねば、いつも加様の不思議ある所にて候は、何様彼上臈を龍神の思懸申されたりと覚へ候。申も余に邪見に無情候へ共、此御事独の故に若干の者共が、皆非分の死を仕らん事は、不便の次第にて候へば、此上臈を海へ入進せて、百余人の命を助させ給へ。」とぞ申ける。松浦元来無情田舎人なれば、さても命や助かると、屋形の内へ参て、御息所を荒らかに引起し奉り、「余に強顔御気色をのみ見奉るも、無本意存候へば、海に沈め進すべきにて候。御契深くば土佐の畑へ流れよらせ給ひて、其宮とやらん堂とやらん、一つ浦に住せ給へ。」とて、無情掻抱き進せて、海へ投入奉んとす。是程の事に成ては、何の御詞か可有なれば、只夢の様に思召して、つや/\息をも出させ給はず、御心の中に仏の御名許を念じ思召て、早絶入せ給ぬるかと見へたり。是を見て僧の一人便船せられたりけるが、松浦が袖を磬て、「こは如何なる御事にて候ぞや。竜神と申も、南方無垢の成道を遂て、仏の授記を得たる者にて候へば、全く罪業の手向を不可受。而るを生ながら人を忽に海中に沈められば、弥竜神忿て、一人も助る者や候べき。只経を読み陀羅尼を満て法楽に備られ候はんずるこそ可然覚へ候へ。」と、堅く制止宥めければ、松浦理に折て、御息所を篷屋の内に荒らかに投棄奉る。
「さらば僧の儀に付て祈りをせよや。」とて、船中の上下異口同音に観音の名号を唱奉りける時、不思議の者共波の上に浮び出て見へたり。先一番に退紅著たる仕丁が、長持を舁て通ると見へて打失ぬ。其次に白葦毛の馬に白鞍置たるを、舎人八人して引て通ると見へて打失ぬ。其次に大物の浦にて腹切て死たりし、右衛門府生秦武文、赤糸威の鎧、同毛の五枚甲の緒を縮、黄毛なる馬に乗て、弓杖にすがり、皆紅の扇を挙げ、松浦が舟に向て、其舟留まれと招く様に見へて、浪の底にぞ入にける。梶取是を見て、「灘を走る舟に、不思議の見ゆる事は常の事にて候へ共、是は如何様武文が怨霊と覚へ候。其験を御覧ぜん為に、小船を一艘下して此上臈を乗進せ、波の上に突流して、竜神の心を如何と御覧候へかし。」と申せば、「此儀げにも。」とて、小船を一艘引下して、水手一人と御息所とを乗せ奉て、渦の波に漲て巻却る波の上にぞ浮べける。彼早離・速離の海岸山に被放、「飢寒の愁深して、涙も尽ぬ。」と云けんも、人住島の中なれば、立寄方も有ぬべし。是は浦にも非ず、島にも非ず、如何に鳴渡の浪の上に、身を捨舟の浮沈み、塩瀬に回る泡の、消なん事こそ悲けれ。されば竜神もゑならぬ中をや被去けん。風俄に吹分て、松浦が舟は西を指して吹れ行と見へけるが、一の谷の澳津より武庫山下風に被放て、行方不知成にけり。其後浪静り風止ければ、御息所の御船に被乗つる水主甲斐々々敷舟を漕寄て、淡路の武島と云所へ著奉り、此島の為体、回一里に足ぬ所にて、釣する海士の家ならでは、住人もなき島なれば、隙あらはなる葦の屋の、憂節滋き栖に入進せたるに、此四五日の波風に、御肝消御心弱りて、軈て絶入せ給ひけり。心なき海人の子共迄も、「是は如何にし奉らん。」と、泣悲み、御顔に水を灑き、櫓床を洗て御口に入なんどしければ、半時許して活出させ給へり。さらでだに涙の懸る御袖は乾く間も無るべきに、篷漏る滴藻塩草、可敷忍旅寝ならねば、「何迄角ても有佗ぶべき。土佐の畑と云浦へ送りてもやれかし。」と、打佗させ給へば、海士共皆同じ心に、「是程厳敷御渡候上臈を、我等が舟に乗進せて、遥々と土佐迄送り進せ候はんに、何の泊にてか、人の奪取進せぬ事の候べき。」と、叶まじき由を申せば、力及ばせ給はずして、浪の立居に御袖をしぼりつゝ、今年は此にて暮し給ふ。哀は類ひも無りけり。さて一宮は武文を京へ上せられし後は、月日遥に成ぬれ共、何共御左右を申さぬは、如何なる目にも逢ぬる歟と、静心なく思食て、京より下れる人に御尋有ければ、「去年の九月に御息所は都を御出有て、土佐へ御下り候しとこそ慥に承りしか。」と申ければ、さては道にて人に被奪ぬるか、又世を浦風に被放、千尋の底にも沈ぬる歟と、一方ならず思ひくづほれさせ給けるに、或夜御警固に参たる武士共、中門に宿直申て四方山の事共物語しける者の中に、「さるにても去年の九月、阿波の鳴渡を過て当国に渡りし時、船の梶に懸たりし衣を取上て見しかば、尋常の人の装束とも不見、厳かりし事よ。是は如何様院・内裏の上臈女房なんどの田舎へ下らせ給ふが、難風に逢て海に沈み給けん其装束にてぞ有らん。」と語て、「穴哀や。」なんど申合ければ、宮墻越に被聞召、若其行末にてや有らんと不審多く思食て、「聊御覧ぜられたき御事あり。其衣未あらば持て参れ。」と御使有ければ、「色こそ損じて候へ共未私に候。」とて召寄進せたり。宮能々是を御覧ずるに、御息所を御迎に武文を京へ上せられし時、有井庄司が仕立て進せたりし御衣也。穴不思議やとて、裁余したる切れを召出して、差合せられたるに、あやの文少も不違続きたれば、二目共不被御覧、此衣を御顔に押当て、御涙を押拭はせ給ふ。
有井も御前に候けるが、涙を袖に懸つゝ罷立にけり。今は御息所の此世に坐す人とは露も不被思召、此衣の橈に懸りし日を、なき人の忌日に被定、自御経を書写せられ、念仏を唱へさせ給て、「過去聖霊藤原氏女、並物故秦武文共に三界の苦海を出て、速に九品の浄刹に到れ。」と祈らせ給ふ。御歎の色こそ哀なれ。去程に其年の春の比より、諸国に軍起て、六波羅・鎌倉・九国・北国の朝敵共、同時に滅びしかば、先帝は隠岐国より還幸成り、一宮は土佐の畑より都へ帰り入らせ給ふ。天下悉公家一統の御世と成て目出かりしか共、一宮は唯御息所の今世に坐さぬ事を歎思食ける処に、淡路の武島に未生て御坐有と聞へければ、急御迎を被下、都へ帰上らせ給ふ。只王質が仙より出て七世の孫に会ひ、方士が海に入て楊貴妃を見奉りしに不異。御息所は、「心づくしに趣し時の心憂さ、浪に回りし泡の消るを争そう命の程、堪兼たりし襟は御推量りも浅くや。」とて、御袖濡る許なり。宮は又「外渡る舟の梶の葉に、書共尽ぬ御歎、無跡問し月日の数、御身に積りし悲みは、語るも言は愚か也。」と書口説せ給ひける。さしも憂かりし世中の、時の間に引替て、人間の栄花、天上の娯楽、不極云事なく、不尽云御遊もなし。長生殿の裏には、梨花の雨不破壌を、不老門の前には、楊柳の風不鳴枝。今日を千年の始めと、目出きためしに思食たりしに、楽尽て悲み来る人間の習なれば、中一年有て、建武元年の冬の比より又天下乱て、公家の御世、武家の成敗に成しかば、一宮は終に越前金崎の城にて御自害有て、御首京都に上て、禅林寺長老夢窓国師、喪礼被執行など聞へしかば、御息所は余りの為方なさに御車に被助載て、禅林寺の辺まで浮れ出させ給へば、是ぞ其御事と覚敷て、墨染の夕の雲に立煙、松の嵐に打靡き、心細く澄上る。さらぬ別の悲さは、誰とても愚ならぬ涙なれ共、宮などの無止事御身を、剣の先に触て、秋の霜の下に消終させ給ぬる御事は、無類悲なれば、想像奉る今はの際の御有様も、今一入の思ひを添て、共に東岱前後の烟と立登り、北芒新丘の露共消なばやと、返る車の常盤に、臥沈ませ給ける、御心の中こそ哀なれ。行て訪旧跡、竹苑故宮月心を傷しめ、帰臥寒閨、椒房寡居の風夢を吹、著見に順聞に、御歎日毎に深く成行ければ、軈御息所も御心地煩ひて、御中陰の日数未終先に、無墓成せ給ひければ、聞人毎に押並て、類ひ少なき哀さに、皆袂をぞ濡しける。 
176 青野原軍事付嚢沙背水事
坂東よりの後攻の勢、美濃国に著て評定しけるは、「将軍は定て宇治・勢多の橋を引て、御支あらんずらん。去程ならば国司の勢河を渡しかねて、徒に日を送べし。其時御方の勢労兵の弊に乗て、国司の勢を前後より攻んに、勝事を立ろに得つべし。」と申合れけるを、土岐頼遠黙然として耳を傾けゝるが、「抑目の前を打通る敵を、大勢なればとて、矢の一をも射ずして、徒に後日の弊に乗ん事を待ん事は、只楚の宋義が「蚊を殺には其馬を撃ず。」と云しに似たるべし。天下の人口只此一挙に有べし。所詮自余の御事は知ず、頼遠に於ては命を際の一合戦して、義にさらせる尸を九原の苔に留むべし。」と、又余儀もなく申されければ、桃井播磨守、「某も如此存候。面々はいかに。」と申されければ、諸大将皆理に服して、悉此儀にぞ同じける。去程に奥勢の先陣、既垂井・赤坂辺に著たりけるが、跡より上る後攻の勢近づきぬと聞へければ、先其敵を退治せよとて、又三里引返して、美濃・尾張両国の間に陣を取らずと云処なし。後攻の勢は八万余騎を五手に分、前後を鬮に取たりければ、先一番に小笠原信濃守・芳賀清兵衛入道禅可二千余騎にて志貴の渡へ馳向ば、奥勢の伊達・信夫の兵共、三千余騎にて河を渡てかゝりけるに、芳賀・小笠原散々に懸立られて、残少に討れにけり。二番に高大和守三千余騎にて、州俣河を渡る所に、渡しも立ず、相摸次郎時行五千余騎にて乱合、互に笠符をしるべにて組で落、々重て頚を取り、半時ばかり戦たるに、大和守が憑切たる兵三百余人討れにければ、東西に散靡て山を便に引退く。三番に今河五郎入道・三浦新介、阿字賀に打出て、横逢に懸る所を、南部・下山・結城入道、一万余騎にて懸合、火出程に戦たり。今河・三浦元来小勢なれば、打負て河より東へ引退く。四番に上杉民部大輔・同宮内小輔、武蔵・上野の勢一万余騎を率して、青野原に打出たり。爰には新田徳寿丸・宇都宮の紀清両党三万余騎にて相向ふ。両陣の旗の紋皆知りたる兵共なれば、後の嘲をや恥たりけん、互に一足も引ず、命を涯に相戦ふ。毘嵐断て大地忽に無間獄に堕、水輪涌て世界こと/゛\く有頂天に翻へらんも、かくやと覚るばかり也。され共大敵とりひしくに難ければ、上杉遂に打負て、右往左往に落て行。五番に桃井播磨守直常・土岐弾正少弼頼遠、態と鋭卒をすぐつて、一千余騎渺々たる青野原に打出て、敵を西北に請てひかへたり。是には奥州の国司鎮守府将軍顕家卿・副将軍春日少将顕信、出羽・奥州の勢六万余騎を率して相向ふ。敵に御方を見合すれば、千騎に一騎を合すとも、猶当るに足ずと見ける処に、土岐と桃井と、少も機を呑れず、前に恐べき敵なく、後に退くべき心有とも見へざりけり。時の声を挙る程こそ有けれ、千余騎只一手に成て、大勢の中に颯と懸入、半時計戦て、つと懸ぬけて其勢を見れば、三百余騎は討れにけり。相残勢七百余騎を又一手に束ねて、副将軍春日少将のひかへたる二万余騎が中へ懸入て、東へ追靡、南へ懸散し、汗馬の足を休めず、太刀の鐔音止時なく、や声を出てぞ戦合たる。
千騎が一騎に成までも、引な引なと互に気を励して、こゝを先途と戦けれ共、敵雲霞の如くなれば、こゝに囲れ彼に取篭られて、勢もつき気も屈しければ、七百余騎の勢も、纔に二十三騎に打成され、土岐は左の目の下より右の口脇・鼻まで、鋒深に切付られて、長森の城へ引篭る。桃井も三十余箇度の懸合に七十六騎に打成され、馬の三図・平頚二太刀切れ、草摺のはづれ三所つかれて、余に戦疲ければ、「此軍是に限るまじ、いざや人々馬の足休ん。」と、州俣河に馬を追漬て、太刀・長刀の血を洗て、日も暮れば野に下居て、終に河より東へは越給はず。京都には奥勢上洛の由、先立て聞へけれ共、土岐美濃国にあれば、さりとも一支は支へんずらんと、憑敷思はれける処に、頼遠既に青野原の合戦に打負て、行方知らずとも聞へ、又は討れたり共披露ありければ、洛中の周章斜ならず。さらば宇治・勢多の橋を引てや相待つ。不然ば先西国の方へ引退て、四国・九州の勢を付て、却て敵をや攻べきと異議まち/\に分て、評定未落居せざりけるに、越後守師泰且く思案して申されけるは、「古より今に至まで、都へ敵の寄来る時、宇治・勢多の橋を曳て戦事度々也。然れ共此河にて敵を支て、都を落されずと云事なし。寄る者は広く万国を御方にして威に乗り、防ぐ者は纔に洛中を管領して気を失故也。不吉の例を逐て、忝く宇治・勢多の橋を引、大敵を帝都の辺にて相待んよりは、兵勝の利に付て急近江・美濃辺に馳向ひ、戦を王城の外に決せんには如じ。」と、勇み其気に顕れ謀其理に協て申されければ、将軍も師直も、「此儀然べし。」とぞ甘心せられける。「さらば時刻をうつさず向へ。」とて、大将軍には高越後守師泰・同播磨守師冬・細川刑部大輔頼春・佐々木大夫判官氏頼・佐々木佐渡判官入道々誉・子息近江守秀綱、此外諸国の大名五十三人都合其勢一万余騎、二月四日都を立、同六日の早旦に、近江と美濃との堺なる黒地河に著にけり。奥勢も垂井・赤坂に著ぬと聞へければ、こゝにて相まつべしとて、前には関の藤川を隔、後には黒地川をあてゝ、其際に陣をぞ取たりける。抑古より今に至まで、勇士猛将の陣を取て敵を待には、後は山により、前は水を堺ふ事にてこそあるに、今大河を後に当て陣を取れける事は又一の兵法なるべし。昔漢の高祖と楚の項羽と天下を争事八箇年が際戦事休ざりけるに、或時高祖軍に負て逃る事三十里、討残されたる兵を数るに三千余騎にも足ざりけり。項羽四十余万騎を以て是を追けるが、其日既に暮ぬ。夜明ば漢の陣へ押寄て、高祖を一時に亡さん事隻手の内に在とぞ勇みける。爰に高祖の臣に韓信と云ける兵を大将に成して、陣を取らせけるに、韓信態と後に大河を当て橋を焼落し、舟を打破てぞ棄たりける。是は兎ても遁るまじき所を知て、士卒一引も引心なく皆討死せよと、しめさん為の謀也。
夜明ければ、項羽の兵四十万騎にて押寄、敵を小勢也と侮て戦を即時に決せんとす。其勢参然として左右を不顧懸けるを、韓信が兵三千余騎、一足も引ず死を争て戦ける程に、項羽忽に討負て、討るゝ兵二十万人、逃るを追事五十余里なり。沼を堺ひ沢を隔て、こゝまでは敵よも懸る事得じと、橋を引てぞ居りける。漢の兵勝に乗て今夜軈て項羽の陣へ寄んとしけるに、韓信兵共を集て申けるは、「我思様あり。汝等皆持所の兵粮を捨てゝ、其袋に砂を入て持べし。」とぞ下知しける。兵皆心得ぬ事哉と思ながら、大将の命に随て、士卒皆持所の粮を捨て、其袋に砂を入て、項羽が陣へぞ押寄たる。夜に入て項羽が陣の様を見るに、四方皆沼を堺ひ沢を隔て馬の足も立ず、渡るべき様なき所にぞ陣取たりける。此時に韓信持たる所の砂嚢を沢に投入々々、是を堤に成て其上を渡るに、深泥更に平地の如し。項羽の兵二十万騎終日の軍には疲れぬ。爰までは敵よすべき道なしと油断して、帯紐とひてねたる処に、高祖の兵七千余騎時を咄と作て押寄たれば、一戦にも及ばず、項羽の兵十万余騎、皆河水にをぼれて討れにけり。是を名付て韓信が嚢砂背水の謀とは申也。今師泰・師冬・頼春が敵を大勢也と聞て、態水沢を後に成て、関の藤川に陣を取けるも、専士卒心を一にして、再び韓信が謀を示す者なるべし。去程に国司の勢十万騎、垂井・赤坂・青野原に充満して、東西六里南北三里に陣を張る。夜々の篝を見渡せば、一天の星計落て欄干たるに異ならず。此時越前国に、新田義貞・義助、北陸道を順て、天を幹らし地を略する勢ひ専昌也。奥勢若黒地の陣を払ん事難儀ならば、北近江より越前へ打越て、義貞朝臣と一つになり、比叡山に攀上り、洛中を脚下に直下して南方の官軍と牒し合せ、東西より是攻めば、将軍京都には一日も堪忍し給はじと覚しを、顕家卿、我大功義貞の忠に成んずる事を猜で、北国へも引合ず、黒地をも破りえず、俄に士卒を引て伊勢より吉野へぞ廻られける。さてこそ日来は鬼神の如くに聞へし奥勢、黒地をだにも破えず、まして後攻の東国勢京都に著なば、恐るゝに足ざる敵也とぞ、京勢には思ひ劣されける。顕家卿南都に著て、且く汗馬の足を休て、諸卒に向て合戦の異見を問給ひければ、白河の結城入道進て申けるは、「今度於路次、度々の合戦に討勝、所々の強敵を追散し、上洛の道を開といへども、青野原の合戦に、聊利を失ふに依て、黒地の橋をも渡り得ず、此侭吉野殿へ参らん事、余に云甲斐なく覚へ候。只此御勢を以て都へ攻上、朝敵を一時に追落す歟、もし不然ば、尸を王城の土に埋み候はんこそ本意にて候へ。」と、誠に無予義申けり。顕家卿も、此義げにもと甘心せられしかば、頓て京都へ攻上給はんとの企なり。其聞へ京都に無隠しかば、将軍大に驚給て、急ぎ南都へ大勢を差下し、「顕家卿を遮り留むべし。」とて討手の評定ありしかども、我れ向んと云人無りけり。角ては如何と、両将其器を撰び給ひけるに、師直被申けるは、「何としても此大敵を拉がん事は、桃井兄弟にまさる事あらじと存候。其故は自鎌倉退て経長途を、所々にして戦候しに、毎度此兵どもに手痛く当りて、気を失ひ付たる者共なり。其臆病神の醒めぬ先に、桃井馳向て、南都の陣を追落さん事、案の内に候。」と被申しかば、「さらば。」とて、頓て師直を御使にて桃井兄弟に此由を被仰しかば、直信・直常、子細を申に及ばずとて、其日頓て打立て、南都へぞ進発せられける。
顕家卿是を聞て、般若坂に一陣を張、都よりの敵に相当る。桃井直常兵の先に進んで、「今度諸人の辞退する討手を我等兄弟ならでは不可叶とて、其撰に相当る事、且は弓矢の眉目也。此一戦に利を失はゞ、度々の高名皆泥土にまみれぬべし。志を一に励して、一陣を先攻破れや。」と下知せられしかば、曾我左衛門尉を始として、究竟の兵七百余騎身命を捨て切て入る。顕家卿の兵も、爰を先途と支戦しかども、長途の疲れ武者何かは叶ふべき。一陣・二陣あらけ破て、数万騎の兵ども、思々にぞ成にける。顕家卿も同く在所をしらず成給ぬと聞へしかば、直信・直常兄弟は、大軍を容易追散し、其身は無恙都へ帰上られけり。されば戦功は万人の上に立、抽賞は諸卒の望を塞がんと、独ゑみして待居給たりしかども、更に其功其賞に不中しかば、桃井兄弟は万づ世間を述懐して、天下の大変を憑にかけてぞ待れける。懸る処に、顕家卿舎弟春日少将顕信朝臣、今度南都を落し敗軍を集め、和泉の境に打出て近隣を犯奪、頓て八幡山に陣を取て、勢ひ京洛を呑。依之京都又騒動して、急ぎ討手の大将を差向べしとて厳命を被下しかども、軍忠異于他桃井兄弟だにも抽賞の儀もなし。況て其已下の者はさこそ有んずらんとて、曾て進む兵更に無りける間、角ては叶まじとて、師直一家を尽して打立給ける間、諸軍勢是に驚て我も我もと馳下る。されば其勢雲霞の如にて、八幡山の下四方に尺地も不残充満たり。されども要害の堀稠して、猛卒悉く志を同して楯篭たる事なれば、寄手毎度戦に利を失ふと聞へしかば、桃井兄弟の人々、我身を省みて、今度の催促にも不応、都に残留られたりけるが、高家氏族を尽し大家軍兵を起すと云ども、合戦利を失と聞て、余所には如何見て過べき。述懐は私事、弓矢の道は公界の義、遁れぬ所也とて、偸かに都を打立て手勢計を引率し、御方の大勢にも不牒合、自身山下に推寄せ、一日一夜攻戦ふ。是にして官軍も若干討れ疵を被りける。直信・直常の兵ども、残少に手負討れて、御方の陣へ引て加る。此比の京童部が桃井塚と名づけたるは、兄弟合戦の在所也。是を始として厚東駿河守・大平孫太郎・和田近江守自戦て疵を被り、数輩の若党を討せ、日夜旦暮相挑。かゝる処に、執事師直所々の軍兵を招き集め、「和泉の堺河内は故敵国なれば、さらでだに、恐懼する処に、強敵其中に起ぬれば、和田・楠も力を合すべし。未微〔な〕るに乗て早速に退治すべし。」とて、八幡には大勢を差向て、敵の打て出ぬ様に四方を囲め、師直は天王寺へぞ被向ける。顕家卿の官軍共、疲れて而も小勢なれば、身命を棄て支戦ふといへども、軍無利して諸卒散々に成しかば、顕家卿立足もなく成給て、芳野へ参らんと志し、僅に二十余騎にて、大敵の囲を出んと、自破利砕堅給ふといへども、其戦功徒にして、五月二十二日和泉の堺安部野にて討死し給ければ、相従ふ兵悉く腹切疵を被て、一人も不残失にけり。顕家卿をば武蔵国の越生四郎左衛門尉奉討しかば、頚をば丹後国の住人武藤右京進政清是を取て、甲・太刀・々まで進覧したりければ、師直是を実検して、疑ふ所無りしかば、抽賞御感の御教書を両人にぞ被下ける。哀哉、顕家卿は武略智謀其家にあらずといへども、無双の勇将にして、鎮守府将軍に任じ奥州の大軍を両度まで起て、尊氏卿を九州の遠境に追下し、君の震襟を快く奉休られし其誉れ、天下の官軍に先立て争ふ輩無りしに、聖運天に不叶、武徳時至りぬる其謂にや、股肱の重臣あへなく戦場の草の露と消給しかば、南都侍臣・官軍も、聞て力をぞ失ける。 
185 義貞自害事
燈明寺の前にて、三万余騎を七手に分て、七の城を押阻て、先対城をぞ取られける。兼ての廃立には、「前なる兵は城に向ひ逢ふて合戦を致し、後なる足軽は櫓をかき屏を塗て、対城を取すましたらんずる後、漸々に攻落すべし。」と議定せられたりけるが、平泉寺の衆徒のこもりたる藤島の城、以外に色めき渡て、軈て落つべく見へける間、数万の寄手是に機を得て、先対城の沙汰をさしおき、屏に著堀につかつてをめき叫でせめ戦ふ。衆徒も落色に見へけるが、とても遁るべき方のなき程を思ひ知けるにや、身命を捨て是を防ぐ。官軍櫓を覆て入んとすれば、衆徒走木を出て突落す。衆徒橋を渡て打て出れば、寄手に官軍鋒を調て斬て落す。追つ返つ入れ替る戦ひに、時刻押移て日已に西山に沈まんとす。大将義貞は、燈明寺の前にひかへて、手負の実検してをはしけるが、藤島の戦強して、官軍やゝもすれば追立らるゝ体に見へける間、安からぬ事に思はれけるにや、馬に乗替へ鎧を著かへて、纔に五十余騎の勢を相従へ、路をかへ畔を伝ひ、藤島の城へぞ向はれける。其時分黒丸の城より、細川出羽守・鹿草彦太郎両大将にて、藤島の城を攻ける寄手共を追払はんとて、三百余騎の勢にて横畷を廻けるに、義貞覿面に行合ひ給ふ。細川が方には、歩立にて楯をついたる射手共多かりければ、深田に走り下り、前に持楯を衝双て鏃を支て散々に射る。義貞の方には、射手の一人もなく、楯の一帖をも持せざれば、前なる兵義貞の矢面に立塞て、只的に成てぞ射られける。中野藤内左衛門は義貞に目加して、「千鈞の弩は為鼠不発機。」と申けるを、義貞きゝもあへず、「失士独免るゝは非我意。」と云て、尚敵の中へ懸入んと、駿馬に一鞭をすゝめらる。此馬名誉の駿足なりければ、一二丈の堀をも前々輒く越けるが、五筋まで射立られたる矢にやよはりけん。小溝一をこへかねて、屏風をたをすが如く、岸の下にぞころびける。義貞弓手の足をしかれて、起あがらんとし給ふ処に、白羽の矢一筋、真向のはづれ、眉間の真中にぞ立たりける。急所の痛手なれば、一矢に目くれ心迷ひければ、義貞今は叶はじとや思けん、抜たる太刀を左の手に取渡し、自ら頚をかき切て、深泥の中に蔵して、其上に横てぞ伏給ひける。越中国の住人氏家中務丞重国、畔を伝て走りより、其首を取て鋒に貫き、鎧・太刀・々同く取持て、黒丸の城へ馳帰る。義貞の前に畷を阻てゝ戦ける結城上野介・中野藤内左衛門尉・金持太郎左衛門尉、此等馬より飛で下り、義貞の死骸の前に跪て、腹かき切て重り臥す。此外四十余騎の兵、皆堀溝の中に射落されて、敵の独をも取得ず。犬死してこそ臥たりけれ。此時左中将の兵三万余騎、皆猛く勇める者共なれば、身にかはり命に代らんと思はぬ者は無りけれ共、小雨まじりの夕霧に、誰を誰とも見分ねば、大将の自ら戦ひ打死し給をも知らざりけるこそ悲けれ。只よそにある郎等が、主の馬に乗替て、河合をさして引けるを、数万の官軍遥に見て、大将の跡に随んと、見定めたる事もなく、心々にぞ落行ける。漢高祖は自ら淮南の黥布を討し時、流矢に当て未央宮の裡にして崩じ給ひ、斉宣王は自楚の短兵と戦て干戈に貫れて、修羅場の下に死し給き。されば「蛟竜は常に保深淵之中。若遊浅渚有漁綱釣者之愁。」と云り。此人君の股肱として、武将の位に備りしかば、身を慎み命を全してこそ、大儀の功を致さるべかりしに、自らさしもなき戦場に赴て、匹夫の鏑に命を止めし事、運の極とは云ながら、うたてかりし事共也。軍散じて後、氏家中務丞、尾張守の前に参て、「重国こそ新田殿の御一族かとをぼしき敵を討て、首を取て候へ。誰とは名乗候はねば、名字をば知候はねども、馬物具の様、相順し兵共の、尸骸を見て腹をきり討死を仕候つる体、何様尋常の葉武者にてはあらじと覚て候。これぞ其死人のはだに懸て候つる護りにて候。」とて、血をも未あらはぬ首に、土の著たる金襴の守を副てぞ出したりける。尾張守此首を能々見給て、「あな不思議や、よに新田左中将の顔つきに似たる所有ぞや。若それならば、左の眉の上に矢の疵有べし。」とて自ら鬢櫛を以て髪をかきあげ、血を洗ぎ土をあらひ落て是を見給ふに、果して左の眉の上に疵の跡あり。是に弥心付て、帯れたる二振の太刀を取寄て見給に、金銀を延て作りたるに、一振には銀を以て金膝纏の上に鬼切と云文字を沈めたり。一振には金を以て、銀脛巾の上に鬼丸と云文字を入られたり。是は共に源氏重代の重宝にて、義貞の方に伝たりと聞れば、末々の一族共の帯くべき太刀には非と見るに、弥怪ければ、膚の守を開て見給ふに、吉野の帝の御宸筆にて、「朝敵征伐事、叡慮所向、偏在義貞武功、選未求他、殊可運早速之計略者也。」と遊ばされたり。さては義貞の頚相違なかりけりとて、尸骸を輿に乗せ時衆八人にかゝせて、葬礼の為に往生院へ送られ、頚をば朱の唐櫃に入れ、氏家の中務を副て、潜に京都へ上せられけり。 
189 結城入道堕地獄事
中にも結城上野入道が乗たる舟、悪風に放されて渺渺たる海上にゆられたゞよふ事、七日七夜也。既に大海の底に沈か、羅刹国に堕かと覚しが、風少し静りて、是も伊勢の安野津へぞ吹著られける。こゝにて十余日を経て後猶奥州へ下らんと、渡海の順風を待ける処に、俄に重病を受て起居も更に叶はず、定業極りぬと見へければ、善知識の聖枕に寄て、「此程まではさり共とこそ存候つるに、御労り日に随て重らせ給候へば、今は御臨終の日遠からじと覚へて候。相構て後生善所の御望惰たる事無して、称名の声の内に、三尊の来迎を御待候べし。さても今生には、何事をか思召をかれ候。御心に懸る事候はゞ仰置れ候へ。御子息の御方様へも伝へ申候はん。」と云ければ、此入道已に目を塞んとしけるが、ゝつぱと跂起て、から/\と打笑ひ、戦たる声にて云けるは、「我已に齢七旬に及で、栄花身にあまりぬれば、今生に於ては一事も思残事候はず。只今度罷上て、遂に朝敵を亡し得ずして、空く黄泉のたびにをもむきぬる事、多生広劫までの妄念となりぬと覚へ候。されば愚息にて候大蔵権少輔にも、我後生を弔はんと思はゞ、供仏施僧の作善をも致すべからず。更に称名読経の追賁をも成すべからず。只朝敵の首を取て、我墓の前に懸双て見すべしと云置ける由伝て給り候へ。」と、是を最後の詞にて、刀を抜て逆手に持ち、断歯をしてぞ死にける。罪障深重の人多しといへ共、終焉に是程の悪相を現ずる事は、古今未聞の所也。げにも此道忠が平生の振舞をきけば、十悪五逆重障過極の悪人也。鹿をかり鷹を使ふ事は、せめて世俗の態なれば言ふにたらず。咎なき者を殴ち縛り、僧尼を殺す事数を知ず。常に死人の頚を目に見ねば、心地の蒙気するとて、僧俗男女を云ず、日毎に二三人が首を切て、態目の前に懸させけり。されば彼が暫も居たるあたりは、死骨満て屠所の如く、尸骸積で九原の如し。此入道が伊勢にて死たる事、道遠ければ故郷の妻子未知る事無りけるに、其比所縁なりける律僧、武蔵国より下総へ下る事あり。日暮野遠して留るべき宿を尋ぬる処に、山伏一人出来て、「いざ、ゝせ給へ。此辺に接待所の候ぞ。其所へつれ進せん。」と云ける間、行脚の僧悦て、山伏の引導に相順ひ、遥に行て見に、鉄の築地をついて、金銀の楼門を立たり。其額を見れば、「大放火寺」と書たり。門より入て内を見るに、奇麗にして、美を尽せる仏殿あり。其額をば「理非断」とぞ書たりける。僧をば旦過に置て、山伏は内へ入ぬ。暫く有て、前の山伏、内より螺鈿の匣に法花経を入たるを持来て、「只今是に不思議の事あるべきにて候。いかに恐しく思召候共、息をもあらくせず、三業を静めて此経を読誦候べし。」と云て、己は六の巻の紐を解て寿量品をよみ、僧には八の巻を与て、普門品をぞ読せける。僧何事にやとあやしく思ひながら山伏の云に任て、口には経を誦し、心に妄想を払て、寂々としてぞ居たりける。夜半過る程に、月俄にかき陰り、雨あらく電して、牛頭馬頭の阿放羅刹共、其数を知らず、大庭に群集せり。天地須臾に換尽して、鉄城高く峙ち、鉄綱四方に張れり。烈々たる猛火燃て一由旬が間に盛なるに、毒蛇舌をのべて焔を吐き、鉄の犬牙をといで吠いかる。
僧是を見て、あな恐ろし、是は無間地獄にてぞあるらんと恐怖して見居たる処に、火車に罪人を独りのせて、牛頭馬頭の鬼共、ながへを引て虚空より来れり。待て忿れる悪鬼共、鉄の俎の盤石の如なるを庭に置て、其上に此罪人を取てあをのけにふせ、其上に又鉄の俎を重て、諸の鬼共膝を屈し肱をのべて、ゑいや声を出、「ゑいや/\。」と推すに、俎のはづれより血の流るゝ事油をしたづるが如し。是を受て大なる鉄の桶に入れあつめたれば、程なく十分に湛へて滔々たる事夕陽を浸せる江水の如也。其後二の俎を取のけて、紙の如に推しひらめたる罪人を、鉄の串にさしつらぬき、炎の上に是を立てゝ、打返々々炮る事、只庖人の肉味を調するに不異。至極あぶり乾して後、又俎の上に推ひらめて、臠刀に鉄の魚箸を取副て、寸分に是を切割て、銅の箕の中へ投入たるを、牛頭馬頭の鬼共箕を持て、「活々。」と唱へて是を簸けるに、罪人忽に蘇て又もとの形になる。時に阿放羅刹鉄のを取て、罪人にむかひ、忿れる言を出して、罪人を責て曰、「地獄非地獄、汝が罪責汝。」と、罪人此苦に責られて、泣んとすれども涙落ず。猛火眼を焦す故に、叫ばんとすれ共声出ず。鉄丸喉を塞故に、若一時の苦患を語るとも、聞人は地に倒れつべし。客位の僧是を見て、魂も浮れ骨髄も砕ぬる心地して、恐しく覚へければ、主人の山伏に向て、「是は如何なる罪人を、加様に呵責し候やらん。」と問ければ、山伏の云、「是こそ奥州の住人結城上野入道と申者、伊勢国にて死して候が、阿鼻地獄へ落て呵責せらるゝにて候へ。若其方様の御縁にて御渡候はゞ、跡の妻子共に、「一日経を書供養して、此苦患を救ひ候へ。」と仰られ候へ。我は彼入道今度上洛せし時、鎧の袖に名を書て候し、六道能化の地蔵薩にて候也。」と、委く是を教へけるに、其言未終、暁をつぐる野寺の鐘、松吹く風に響て、一声幽に聞へければ、地獄の鉄城も忽にかきけす様にうせ、彼山伏も見へず成て、旦過に坐せる僧ばかり野原の草の露の上に惘然として居たりけり。夢幻の境も未覚へね共夜已に明ければ、此僧現化の不思議に驚て、いそぎ奥州へ下り、結城上野入道が子大蔵権少輔に此事を語に、「父の入道が伊勢にて死たる事、未聞及ばざる前なれば、是皆夢中の妄想か、幻の間の怪異か。」と、真しからず思へり。其後三四日あつて、伊勢より飛脚下て、父の上野入道が遺言の様、臨終の悪相共委く語りけるにこそ、僧の云所一も偽らざりけりと信を取て、七々の忌日に当る毎に、一日経を書供養して、追孝の作善をぞ致しける。「「若有聞法者無一不成仏。」は、如来の金言、此経の大意なれば、八寒八熱の底までも、悪業の猛火忽に消て、清冷の池水正に湛ん。」と、導師称揚の舌をのべて玉を吐給へば、聴衆随喜の涙を流して袂を沾しけり。是然地蔵菩薩の善巧方便にして、彼有様を見せしめて追善を致さしめんが為也。結縁の多少に依て、利生の厚薄はあり共、仏前仏後の導師、大慈大悲の薩に値遇し奉らばゝ真諦俗諦善願の望を達せん。今世後世能引導の御誓たのもしかるべき御事也。 
192 法勝寺塔炎上事
康永元年三月二十日に、岡崎の在家より俄失火出来て軈て焼静まりけるが、纔なる細一つ遥に十余町を飛去て、法勝寺の塔の五重の上に落留る。暫が程は燈篭の火の如にて、消もせず燃もせで見へけるが、寺中の僧達身を揉で周章迷けれ共、上べき階もなく打消べき便も無れば、只徒に虚をのみ見上て手撥てぞ立れたりける。さる程に此細乾たる桧皮に焼付て、黒煙天を焦て焼け上る。猛火雲を巻て翻る色は非想天の上までも上り、九輪の地に響て落声は、金輪際の底迄も聞へやすらんとをびたゝし。魔風頻に吹て余煙四方に覆ければ、金堂・講堂・阿弥陀堂・鐘楼・経蔵・総社宮・八足の南大門・八十六間の廻廊、一時の程に焼失して、灰燼忽地に満り。焼ける最中外より見れば、煙の上に或は鬼形なる者火を諸堂に吹かけ、或は天狗の形なる者松明を振上て、塔の重々に火を付けるが、金堂の棟木の落るを見て、一同に手を打てどつと笑て愛宕・大岳・金峯山を指て去と見へて、暫あれば花頂山の五重の塔、醍醐寺の七重の塔、同時に焼ける事こそ不思議なれ。院は二条河原まで御幸成て、法滅の煙に御胸を焦され、将軍は西門の前に馬を控られて、回禄の災に世を危めり。抑此寺と申は、四海の泰平を祈て、殊百王の安全を得せしめん為に、白河院御建立有し霊地也。されば堂舎の構善尽し美尽せり。本尊の錺は、金を鏤め玉を琢く。中にも八角九重の塔婆は、横竪共に八十四丈にして、重々に金剛九会の曼陀羅を安置せらる。其奇麗崔嵬なることは三国無双の鴈塔也。此塔婆始て造出されし時、天竺の無熱池・震旦の昆明池・我朝の難波浦に、其影明に写て見へける事こそ奇特なれ。かゝる霊徳不思議の御願所、片時に焼滅する事、偏に此寺計の荒廃には有べからず。只今より後弥天下不静して、仏法も王法も有て無が如にならん。公家も武家も共に衰微すべき前相を、兼て呈す物也と、歎ぬ人は無りけり。 
 

 

197 畑六郎左衛門事
去程に京都の討手大勢にて攻下しかば、杣山の城も被落、越前・加賀・能登・越中・若狭五箇国の間に、宮方の城一所も無りけるに、畑六郎左衛門時能、僅に二十七人篭りたりける鷹巣の城計ぞ相残りたりける。一井兵部少輔氏政は、去年杣山の城より平泉寺へ越て、衆徒を語ひ、挙旗と被議けるが、国中宮方弱して、与力する衆徒も無りければ、是も同く鷹巣城へぞ引篭りける。時能が勇力、氏政が機分、小勢なりとて閣きなば、何様天下の大事に可成とて、足利尾張守高経・高上野介師重、両大将として、北陸道七箇国の勢七千余騎を率して、鷹巣城の四辺を千百重に被囲、三十余箇所の向ひ城をぞ取たりける。彼畑六郎左衛門と申は、武蔵国の住人にて有けるが、歳十六の時より好相撲取けるが、坂東八箇国に更に勝者無りけり、腕の力筋太して股の村肉厚ければ、彼薩摩の氏長も角やと覚て夥し。其後信濃国に移住して、生涯山野江海猟漁を業として、年久く有しかば、馬に乗て悪所岩石を落す事、恰も神変を得るが如し。唯造父が御を取て千里に不疲しも、是には不過とぞ覚へたる。水練は又憑夷が道を得たれば、驪龍頷下の珠をも自可奪。弓は養由が迹を追しかば、弦を鳴して遥なる樹頭の栖猿をも落しつべし。謀巧にして人を眤、気健にして心不撓しかば、戦場に臨むごとに敵を靡け堅に当る事、樊・周勃が不得道をも得たり。されば物は以類聚る習ひなれば、彼が甥に所大夫房快舜とて、少しも不劣悪僧あり。又中間に悪八郎とて、欠脣なる大力あり。又犬獅子と名を付たる不思議の犬一疋有けり。此三人の者共、闇にだになれば、或帽子甲に鎖を著て、足軽に出立時もあり。或は大鎧に七物持時もあり。様々質を替て敵の向城に忍入。先件の犬を先立て城の用心の様を伺ふに、敵の用心密て難伺隙時は、此犬一吠々走出、敵の寝入、夜廻も止時は、走出て主に向て尾を振て告ける間、三人共に此犬を案内者にて、屏をのり越、城の中へ打入て、叫喚で縦横無碍に切て廻りける間、数千の敵軍驚騒で、城を被落ぬは無りけり。「夫犬は以守禦養人。」といへり。誠に無心禽獣も、報恩酬徳の心有にや、斯る事は先言にも聞ける事あり。昔周の世衰へんとせし時、戎国乱て王化に不随、兵を遣して是を雖責、官軍戦に無利、討るゝ者三十万人、地を被奪事七千余里、国危く士辱しめられて、諸侯皆彼に降事を乞。爰に周王是を愁てを安じ給はず。時節御前に犬の候けるに魚肉を与、「汝若有心、戎国に下て、窃に戎王を喰殺して、世の乱を静めよ。然らば汝に三千の宮女を一人下て夫婦となし、戎国の王たら[し]めん。」と戯て被仰たりけるを、此狗勅命を聞て、立て三声吠けるが、則万里の路を過て戎国に下て、偸に戎王の寐所へ忍入て、忽に戎王を喰殺し、其頚を咆へて、周王の御前へぞ進ける。等閑に戯れて勅定ありし事なれ共、綸言難改とて、后宮を一人此狗に被下て、為夫婦、戎国を其賞にぞ被行ける。后三千の列に勝れ、一人の寵厚かりし其恩情を棄て、勅命なれば無力、彼犬に伴て泣々戎国に下て、年久住給しかば、一人の男子を生り。其形頭は犬にして身は人に不替。子孫相続て戎国を保ちける間、依之彼国を犬戎国とぞ申ける。
以彼思之、此犬獅子が行をも珍しからずとぞ申ける。されば此犬城中に忍入て機嫌を計ける間、三十七箇所に城を拵へ分て、逆木を引屏を塗ぬる向城共、毎夜一二被打落、物具を捨て馬を失ひ恥をかく事多ければ、敵の強きをば不顧、御方に笑れん事を恥て、偸に兵粮を入、忍々酒肴を送て、可然は我城を夜討になせそと、畑を語はぬ者ぞ無りける。爰に寄手の中に、上木九郎家光と云けるは、元は新田左中将の侍也けるが、心を翻して敵となり、責口に候けるが、数百石の兵粮を通して畑に内通すと云聞へ有しかば、何なる者か為けん、大将尾張守高経の陣の前に、「畑を討んと思はゞ、先上木を伐。」と云秀句を書て高札をぞ立たりける。是より大将も上木に心を被置、傍輩も是に隔心ある体に見ける間、上木口惜事に思て、二月二十七日の早旦に、己が一族二百余人、俄に物具ひし/\しと堅め、大竹をひしいで楯の面に当、かづき連てぞ責たりける。自余の寄手是を見て、「城の案内知たる上木が俄に責るは、何様可落様ぞ有らん。上木一人が高名になすな。」とて、三十余箇所の向城の兵共七千人、取物も不取敢、岩根を伝ひ、木の根に取付て、差も嶮しき鷹巣城の坂十八町を一息に責上り、切岸の下にぞ著たりける。され共城には鳴を静めて、「事の様を見よ。」とて閑り却て有けるが、已に鹿垣程近く成ける時、畑六郎・所大夫快舜・悪八郎・鶴沢源蔵人・長尾新左衛門・児玉五郎左衛門五人の者共、思々の物具に、太刀長刀の鋒を汰へ、声々に名乗て、喚て切てぞ出たりける。誠に人なしと由断して、そゞろに進み近づきたる前懸の寄手百余人、是に驚散て、互の助を得んと、一所へひし/\と寄たる処を、例の悪八郎、八九尺計なる大木を脇にはさみ、五六十しても押はたらかしがたき大磐石を、転懸たれば、其石に当る有様、輪宝の山を崩し磊石の卵を圧すに不異。斯る処に理を得て左右に激し、八方を払、破ては返し帰ては進み、散々に切廻りける間、或討れ或疵を被る者、不知其数。乍去其後は、弥寄手攻上る者も無て、只山を阻川を境て、向陣を遠く取のきたれば、中々兎角もすべき様無し。懸し程に、畑つく/゛\と思案して、此侭にては叶ふまじ、珍しき戦ひ今一度して、敵を散すか散さるゝか、二の間に天運を見んと思ければ、我城には大将一井兵部少輔に、兵十一人を著て残し留め、又我身は宗徒の者十六人を引具して、十月二十一日の夜半に、豊原の北に当たる伊地山に打上て、中黒の旌二流打立て、寄手遅しとぞ待たりける。尾張守高経是を聞て、鷹巣城より勢を分て、此へ打出たるとは不寄思、豊原・平泉寺の衆徒、宮方と引合て旌を挙たりと心得て、些も足をためさせじと、同二十二日の卯刻に、三千余騎にてぞ押寄られける。寄手初の程は敵の多少を量兼て、無左右不進けるが、小勢也けりと見て、些も無恐処、我前にとぞ進みたりける。畑六郎左衛門、敵外に引へたる程は、態あり共被知ざりけるが、敵已一二町に責寄せたりける時、金筒の上に火威の胄の敷目に拵へたるを、草摺長に著下て、同毛の五枚甲に鍬形打て緒を縮、熊野打の肪当に、大立揚の脛当を、脇楯の下まで引篭て、四尺三寸太刀に、三尺六寸の長刀茎短に拳り、一引両に三の笠符、馬の三頭に吹懸させ、塩津黒とて五尺三寸有ける馬に、鎖の胄懸させて、不劣兵十六人、前後左右に相随へ、「畑将軍此にあり、尾張守は何くに坐すぞ。」と呼て、大勢の中へ懸入、追廻し、懸乱し、八方を払て、四維に遮りしかば、万卒忽に散じて、皆馬の足をぞ立兼たる。
是を見て、尾張守高経・鹿草兵庫助旗の下に磬て、「無云甲斐者共哉。敵縦鬼神也とも、あれ程の小勢を見て引事や有べき。唯馬の足を立寄せて、魚鱗に引へて、兵を虎韜になして取篭、一人も不漏打留よや。」と、透間も無ぞ被下知ける。懸しかば三千余騎の兵共、大将の諌言に力を得て、十六騎の敵を真中にをつ取篭、余さじとこそ揉だりけれ。大敵雖難欺、畑が乗たる馬は、項羽が騅にも不劣程の駿足也しかば、鐙の鼻に充落され蹄の下にころぶをば、首を取ては馳通り、取て返しては颯と破る。相順ふ兵も、皆似るを友とする事なれば、目に当敵をば切て不落云事なし。其膚不撓目不瞬勇気に、三軍敢て当り難く見へしかば、尾張守の兵三千余騎、東西南北に散乱して、河より向へ引退く。軍散じて後、畑帷幕の内に打帰て、其兵を集るに、五騎は被討九人は痛手を負たりけり。其中に殊更憑たる大夫房快舜、七所まで痛手負たりしが、其日の暮程にぞ死にける。畑も脛当の外、小手の余り、切れぬ所ぞ無りける。少々の小疵をば、物の数とも不思けるに、障子の板の外より、肩崎へ射篭られたりける白羽の矢一筋、何に脱けれ共、鏃更に不脱けるが、三日の間苦痛を責て、終に吠へ死にこそ失にけれ。凡此畑は悪逆無道にして、罪障を不恐のみならず、無用なるに僧法師を殺し、仏閣社壇を焼壊ち、修善の心は露許もなく、作悪業事如山重しかば、勇士智謀の其芸有しか共、遂に天の為にや被罰けん、流矢に被侵て死にけるこそ無慙なれ。君不見哉、舁控弓、天に懸る九の日を射て落し、盪舟、無水陸地を遣しか共、或は其臣寒に被殺、或は夏后小康に被討て皆死名を遺せり。されば開元の宰相宋開府が、幼君の為に武を黷し、其辺功を不立しも、無智慮忠臣と可謂と、思合せける許也。畑已に討れし後は、北国の宮方気を撓して、頭を差出す者も無りけり。 
203 大森彦七事
暦応五年の春の比、自伊予国飛脚到来して、不思議の註進あり。其故を委く尋れば、当国の住人大森彦七盛長と云者あり。其心飽まで不敵にして、力尋常の人に勝たり。誠に血気の勇者と謂つべし。去ぬる建武三年五月に、将軍自九州攻上り給し時、新田義貞兵庫湊河にて支へ合戦の有し時、此大森の一族共、細川卿律師定禅に随て手痛く軍をし、楠正成に腹を切せし者也。されば其勲功異他とて、数箇所の恩賞を給りてんげり。此悦に誇て、一族共、様々の遊宴を尽し活計しけるが、猿楽は是遐齢延年の方なればとて、御堂の庭に桟敷を打て舞台を布、種々の風流を尽さんとす。近隣の貴賎是を聞て、群集する事夥し。彦七も其猿楽の衆也ければ、様々の装束共下人に持せて楽屋へ行けるが、山頬の細道を直様に通るに、年の程十七八許なる女房の、赤き袴に柳裏の五衣著て、鬢深く削たるが、指出たる山端の月に映じて、只独たゝずみたり。彦七是を見て、不覚、斯る田舎などに加様の女房の有べしとは。何くよりか来るらん、又何なる桟敷へか行らんと見居たれば、此女房彦七に立向ひて、「路芝の露払べき人もなし。可行方をも誰に問はまし。」とて打しほれたる有様、何なる荒夷なりとも、心を不懸云事非じと覚ければ、彦七あやしんで、何なる宿の妻にてか有らんに、善悪も不知わざは如何がと乍思、無云量わりなき姿に引れて心ならず、「此方こそ道にて候へ。御桟敷など候はずば、適用意の桟敷候。御入候へかし。」と云ければ、女些打笑て、「うれしや候。さらば御桟敷へ参り候はん。」と云て、跡に付てぞ歩ける。羅綺にだも不勝姿、誠に物痛しく、未一足も土をば不蹈人よと覚へて、行難たる有様を見て、彦七不怺、「余に露も深く候へば、あれまで負進せ候はん。」とて、前に跪たれば、女房些も不辞、「便なう如何が。」と云ながら、軈て後ろにぞ靠ける。白玉か何ぞと問し古へも、角やと思知れつゝ、嵐のつてに散花の、袖に懸るよりも軽やかに、梅花の匂なつかしく、蹈足もたど/\しく心も空にうかれつゝ、半町許歩けるが、山陰の月些暗かりける処にて、さしも厳しかりつる此女房、俄に長八尺許なる鬼と成て、二の眼は朱を解て、鏡の面に洒けるが如く、上下の歯くひ違て、口脇耳の根まで広く割、眉は漆にて百入塗たる如にして額を隠し、振分髪の中より五寸許なる犢の角、鱗をかづひて生出たり。其重事大磐石にて推が如し。彦七屹と驚て、打棄んとする処に、此化物熊の如くなる手にて、彦七が髪を掴で虚空に挙らんとす。彦七元来したゝかなる者なれば、むずと引組で深田の中へ転落て、「盛長化物組留めたり。よれや者共。」と呼りける声に付て、跡にさがりたる者共、太刀・長刀の鞘を放し、走寄て是を見れば、化物は書消す様に失にけり。彦七は若党・中間共に引起されたれ共、忙然として人心地もなければ、是直事に非ずとて、其夜の猿楽は止にけり。さればとて、是程まで習したる猿楽を、さて可有に非ずとて、又吉日を定め、堂の前に舞台をしき、桟敷を打双べたれば、見物の輩群をなせり。猿楽已に半ば也ける時、遥なる海上に、装束の唐笠程なる光物、二三百出来たり。海人の縄焼居去火か、鵜舟に燃す篝火歟と見れば、其にはあらで、一村立たる黒雲の中に、玉の輿を舁連ね、懼し気なる鬼形の者共前後左右に連なりたり。其迹に色々に胄たる兵百騎許、細馬に轡を噛せて供奉したり。近く成しより其貌は不見。黒雲の中に電光時々して、只今猿楽する舞台の上に差覆ひたる森の梢にぞ止りける。見物衆みな肝を冷す処に、雲の中より高声に、「大森彦七殿に可申事有て、楠正成参じて候也。」とぞ呼りける。彦七、加様の事に曾恐れぬ者也ければ、些も不臆、「人死して再び帰る事なし。
定て其魂魄の霊鬼と成たるにてぞ有らん。其はよし何にてもあれ、楠殿は何事の用有て、今此に現じて盛長をば呼給ぞ。」と問へば、楠申けるは、「正成存命の間、様々の謀を廻して、相摸入道の一家を傾て、先帝の宸襟を休め進せ、天下一統に帰して、聖主の万歳を仰処に、尊氏卿・直義朝臣、忽に虎狼の心を挿み、遂に君を傾奉る。依之忠臣義士尸を戦場に曝す輩、悉く脩羅の眷属に成て瞋恚を含む心無止時。正成彼と共に天下を覆さんと謀に、貪瞋痴の三毒を表して必三剣を可用。我等大勢忿怒の悪眼を開て、刹那に大千界を見るに、願ふ処の剣適我朝の内に三あり。其一は日吉大宮に有しを法味に替て申給りぬ。今一は尊氏の許に有しを、寵愛の童に入り代て乞取ぬ。今一つは御辺の只今腰に指たる刀也。不知哉、此刀は元暦の古へ、平家壇の浦にて亡し時、悪七兵衛景清が海へ落したりしを江豚と云魚が呑て、讃岐の宇多津の澳にて死ぬ。海底に沈で已に百余年を経て後、漁父の綱に被引て、御辺の許へ伝へたる刀也。所詮此刀をだに、我等が物と持ならば、尊氏の代を奪はん事掌の内なるべし。急ぎ進せよと、先帝の勅定にて、正成罷向て候也。早く給らん。」と云もはてぬに、雷東西に鳴度て、只今落懸るかとぞ聞へける。盛長是にも曾て不臆、刀の柄を砕よと拳て申けるは、「さては先度美女に化て、我を誑さんとせしも、御辺達の所行也けるや。御辺存日の時より、常に申通せし事なれば、如何なる重宝なり共、御用と承らんに非可奉惜。但此刀をくれよ、将軍の世を亡さんと承つる、其こそえ進すまじけれ。身雖不肖、盛長将軍の御方に参じ、無弐者と知れ進せし間、恩賞厚く蒙て、一家の豊なる事日比に過たり。されば此猿楽をして遊ぶ事も偏に武恩の余慶也。凡勇士の本意、唯心を不変を以て為義。されば縦ひ身を寸々に割れ、骨を一々に被砕共、此刀をば進すまじく候。早御帰候へ。」とて、虚空をはたと睨で立たりければ、正成以外忿れる言ばにて、「何共いへ、遂には取ん者を。」と罵て、本の如く光渡り、海上遥に飛去にけり。見物の貴賎是を見て、只今天へ引あげられて挙る歟と、肝魂も身に添ねば、子は親を呼び、親は子の手を引て、四角八方へ逃去ける間、又今夜の猿楽も、二三番にて休にけり。其後四五日を経て、雨一通降過て、風冷吹騒ぎ、電時々しければ、盛長、「今夜何様件の化物来ぬと覚ゆ。遮て待ばやと思ふ也。」とて、中門に席皮敷て胄一縮し、二所藤の大弓に、中指数抜散し、鼻膏引て、化物遅とぞ待懸たる。如案夜半過る程に、さしも無隈つる中空の月、俄にかき曇て、黒雲一村立覆へり。雲中に声有て、「何に大森殿は是に御座ぬるか、先度被仰し剣を急ぎ進せられ候へとて、綸旨を被成て候間、勅使に正成又罷向て候は。」と云ければ、彦七聞も不敢庭へ立出て、「今夜は定て来給ぬらんと存じて、宵より奉待てこそ候へ。初は何共なき天狗・化物などの化して候事ぞと存ぜし間、委細の問答にも及候はざりき。今慥に綸旨を帯したるぞと奉候へば、さては子細なき楠殿にて御座候けりと、信を取てこそ候へ。事長々しき様に候へ共、不審の事共を尋ぬるにて候。先相伴ふ人数有げに見へ候ば、誰人にて御渡候ぞ。
御辺は六道四生の間、何なる所に生てをわしますぞ。」と問ければ、其時正成庭前なる鞠の懸の柳の梢に、近々と降て申けるは、「正成が相伴人々には、先後醍醐天皇・兵部卿親王・新田左中将義貞・平馬助忠政・九郎大夫判官義経・能登守教経、正成を加へて七人也。其外泛々の輩、計るに不遑。」とぞ語ける。盛長重て申けるは、「さて抑先帝は何くに御座候ぞ。又相随奉る人々何なる姿にて御座ぞ。」と問へば、正成答て云、「先朝は元来摩醯首羅王の所変にて御座ば、今還て欲界の六天に御座あり。相順奉る人人は、悉脩羅の眷属と成て、或時は天帝と戦、或時は人間に下て、瞋恚強盛の人の心に入替る。」「さて御辺は何なる姿にて御座ぬる。」と問へば、正成、「某も最期の悪念に被引て罪障深かりしかば、今千頭王鬼と成て、七頭の牛に乗れり。不審あらば其有様を見せん。」とて、続松を十四五同時にはつと振挙たる、其光に付て虚空を遥に向上たれば、一村立たる雲の中に、十二人の鬼共玉の御輿を舁捧たり。其次には兵部卿親王、八竜に車を懸て扈従し給ふ。新田左中将義貞は、三千余騎にて前陣に進み、九郎大夫判官義経は、混甲数百騎にて後陣に支らる。其迹に能登守教経、三百余艘の兵船を雲の浪に推浮べ給へば、平馬助忠政、赤旗一流差挙て、是も後陣に控へたり。又虚空遥に引さがりて、楠正成湊川にて合戦の時見しに些も不違、紺地錦胄直垂に黒糸の胄著て、頭の七ある牛にぞ乗たりける。此外保元平治に討れし者共、治承養和の争に滅し源平両家の輩、近比元弘建武に亡し兵共、人に知れ名を顕す程の者は、皆甲胄を帯し弓箭を携へて、虚空十里許が間に無透間ぞ見へたりける。此有様、只盛長が幻にのみ見へて、他人の目には見へざりけり。盛長左右を顧て、「あれをば見ぬか。」と云はんとすれば、忽に風に順雲の如、漸々として消失にけり。只楠が物云ふ声許ぞ残ける。盛長是程の不思議を見つれ共、其心猶も不動、「「一翳在眼空花乱墜す」といへり。千変百怪何ぞ驚くに足ん。縦如何なる第六天の魔王共が来て謂ふ共、此刀をば進ずまじきにて候。然らば例の手の裏を返すが如なる綸旨給ても無詮。早々面々御帰候へ。此刀をば将軍へ進候はんずるぞ。」と云捨て、盛長は内へ入にけり。正成大に嘲て、「此国縱陸地に連なりたり共道をば輒く通すまじ。況て海上を通るには、遣事努々有まじき者を。」と、同音にどつと笑つゝ、西を指てぞ飛去にける。其後より盛長物狂敷成て、山を走り水を潜る事無休時。太刀を抜き矢を放つ事間無りける間、一族共相集て、盛長を一間なる所に推篭て、弓箭兵杖を帯して警固の体にてぞ居たりける。或夜又雨風一頻通て、電の影頻なりければ、すはや例の楠こそ来れと怪む処に、如案盛長が寝たる枕の障子をかはと蹈破て、数十人打入音しけり。警固の者共起周章て太刀長刀の鞘を外して、夜討入たりと心得て、敵は何くにかあると見れ共更になし。こは何にと思処に、自天井熊の手の如くなる、毛生て長き手を指下して、盛長が本鳥を取て中に引さげ、破風の口より出んとす。盛長中にさげられながら件の刀を抜て、化物の真只中を三刀指たりければ、被指て些弱りたる体に見へければ、むずと引組で、破風より広庇の軒の上にころび落、取て推付け、重て七刀までぞ指たりける。化物急所を被指てや有けん、脇の下より鞠の勢なる物ふつと抜出て、虚空を指てぞ挙りける。
警固の者共梯を指て軒の上に登て見れば、一の牛の頭あり。「是は何様楠が乗たる牛か、不然ば其魂魄の宿れる者歟。」とて、此牛の頭を中門の柱に結著て置たれば、終夜鳴はためきて動ける間、打砕て則水底にぞ沈めける。其次の夜も月陰風悪して、怪しき気色に見へければ、警固の者共大勢遠侍に並居て、終夜睡らじと、碁双六を打てぞ遊びける。夜半過る程に、上下百余人有ける警固の者共、同時にあつと云けるが、皆酒に酔る者の如く成て、頭べを低て睡り居たり。其座中に禅僧一人眠らで有けるが、灯の影より見れば、大なる寺蜘蛛一つ天井より下て、寝入たる人の上を這行て、又天井へぞ挙りける。其後盛長俄に驚て、「心得たり。」と云侭に、人と引組だる体に見へて、上が下にぞ返しける。叶はぬ詮にや成けん、「よれや者共。」と呼ければ、傍に臥たる者共起挙らんとするに、或は柱に髻を結著られ、或は人の手を我足に結合せられて、只綱に懸れる魚の如く也。此禅僧余りの不思議さに、走立て見れば、さしも強力の者ども、僅なる蜘のゐに手足を被繋て、更にはたらき得ざりけり。されども盛長、「化物をば取て押へたるぞ。火を持てよれ。」と申ければ、警固の者共兎角して起挙り、蝋燭を灯て見に、盛長が押へたる膝を持挙んと蠢動ける。諸人手に手を重て、逃さじと推程に、大なる土器の破るゝ音して、微塵に砕けにけり。其後手をのけて是を見れば、曝たる死人の首、眉間の半ばより砕てぞ残りける。盛長大息を突て、且し心を静めて腰を探て見れば、早此化物に刀を取れ、鞘許ぞ残にける。是を見て盛長、「我已に疫鬼に魂を被奪、今は何に武く思ふ共叶まじ。我命の事は物の数ならず、将軍の御運如何。」と歎て、色を変じ泪を流して、わな/\と振ひければ、聞者見人、悉身毛よ立てぞ候ける。角て夜少し深て、有明の月中門に差入たるに、簾を高く捲上て、庭を見出したれば、空より毬の如くなる物光て、叢の中へぞ落たりける。何やらんと走出て見れば、先に盛長に推砕かれたりつる首の半残たるに、件の刀自抜て、柄口まで突貫てぞ落たりける。不思議なりと云も疎か也。軈て此頭を取て火に抛入たれば、跳出けるを、金鋏にて焼砕てぞ棄たりける。事静て後、盛長、「今は化物よも不来と覚る。其故は楠が相伴ふ者と云しが我に来事已に七度也。是迄にてぞあらめ。」と申ければ、諸人、「誠もさ覚ゆ。」と同ずるを聞て、虚空にしはがれ声にて、「よも七人には限候はじ。」と嘲て謂ければ、こは何にと驚て、諸人空を見上たれば、庭なる鞠の懸に、眉太に作、金黒なる女の首、面四五尺も有らんと覚たるが、乱れ髪を振挙て目もあやに打笑て、「はづかしや。」とて後ろ向きける。是を見人あつと脅て、同時にぞ皆倒臥ける。加様の化物は、蟇目の声に恐るなりとて、毎夜番衆を居て宿直蟇目を射させければ、虚空にどつと笑声毎度に天を響しけり。さらば陰陽師に門を封ぜさせよとて、符を書せて門々に押せば、目にも見へぬ者来て、符を取て棄ける間、角ては如何すべきと思煩ける処に、彦七が縁者に禅僧の有けるが来て申けるは、「抑今現ずる所の悪霊共は、皆脩羅の眷属たり。是を静めん謀を案ずるに、大般若経を読に不可如。其故は帝釈と、脩羅と須弥の中央にて合戦を致す時、帝釈軍に勝ては、脩羅小身を現じて藕糸の孔の裏に隠れ、脩羅又勝時は須弥の頂に座して、手に日月を握り足に大海を蹈。加之三十三天の上に責上て帝釈の居所を追落し、欲界の衆生を悉く我有に成さんとする時、諸天善神善法堂に集て般若を講じ給ふ。
此時虚空より輪宝下て剣戟を雨し、脩羅の輩を寸々に割切ると見へたり。されば須弥の三十三天を領し給ふ帝釈だにも、我叶ぬ所には法威を以て魔王を降伏し給ふぞかし。況乎薄地の凡夫をや。不借法力難得退治。」と申ければ、此義誠も可然とて、俄に僧衆を請じて真読の大般若を日夜六部迄ぞ読たりける。誠に依般若講読力脩羅威を失ひけるにや。五月三日の暮程に、導師高座の上にて、啓白の鐘打鳴しける時より、俄に天掻曇て、雲上に車を轟かし馬を馳違る声無休時。矢さきの甲胄を徹す音は雨の下よりも茂く、剣戟を交る光は燿く星に不異。聞人見者推双て肝を冷して恐合へり。此闘の声休て天も晴にしかば、盛長が狂乱本復して、正成が魂魄曾夢にも不来成にけり。さても大般若経真読の功力に依て、敵軍に威を添んとせし楠正成が亡霊静まりにければ、脇屋刑部卿義助、大館左馬助を始として、土居・得能に至るまで、或は被誅或は腹切て、如無成にけり。誠哉、天竺の班足王は、仁王経の功徳に依て千王を害する事を休め、吾朝の楠正成は、大般若講読の結縁に依て三毒を免るゝ事を得たりき。誠鎮護国家の経王、利益人民の要法也。其後此刀をば天下の霊剣なればとて、委細の註進を副て上覧に備しかば、左兵衛督直義朝臣是を見給て、「事実ならば、末世の奇特何事か可如之。」とて、上を作直して、小竹作と同く賞翫せられけるとかや。沙に埋れて年久断剣如なりし此刀、盛長が註進に依て凌天の光を耀す。不思議なりし事共也。 
204 就直義病悩上皇御願書事
去程に諸国の宮方力衰て、天下武徳に帰し、中夏静まるに似たれ共、仏神三宝をも不敬、三台五門の所領をも不渡、政道さながら土炭に堕ぬれば、世中如何がと申合へり。吉野の先帝崩御の後、様々の事共申せしが、車輪の如くなる光物都を差して夜々飛度り、種々の悪相共を現じける間、不思議哉と申に合せて、疾疫家々に満て貴賎苦む事甚し。是をこそ珍事哉と申に、同二月五日の暮程より、直義朝臣俄に邪気に被侵、身心悩乱して、五体逼迫しければ、諸寺の貴僧・高僧に仰て御祈不斜。陰陽寮、鬼見・泰山府君を祭て、財宝を焼尽し、薬医・典薬、倉公・華佗が術を究て、療治すれ共不痊。病日々に重て今はさてと見へしかば、京中の貴賎驚き合ひて、此人如何にも成給なば、只小松大臣重盛の早世して、平家の運命忽に尽しに似たるべしと思よりて、弥天下の政道は徒事なるべしと、歎ぬ者も無りけり。持明上皇此由を聞召し殊に歎き思食しかば、潜に勅使を被立て八幡宮に一紙の御願書を被篭て、様々の御立願あり。其詞云、敬白祈願事右神霊之著明徳也。安民理国為本。王者之施政化也。賞功貴賢為先。爰左兵衛督直義朝臣者、匪啻爪牙之良将、已為股肱之賢弼。四海之安危、偏嬰此人之力。巨川之済渉、久沃眇身之心。義為君臣。思如父子。而近日之間、宿霧相侵、薬石失験。驚遽無聊。若非幽陵之擁護者、争得病源之平愈乎。仍心中有所念、廟前将奉祷請。神霊縦有忿怒之心、眇身已抽祈謝之誠、懇棘忽酬、病根速消者、点七日之光陰、課弥天之碩才、令講讃妙法偈、可勤修尊勝供。伏乞尊神哀納叡願、不忘文治撥乱之昔合体、早施経綸安全之今霊験。春秋鎮盛、華夏純煕。敬白。暦応五年二月日勅使勘解由長官公時、御願書を開て宝前に跪き、泪を流て、高らかに読上奉るに、宝殿且く振動して、御殿の妻戸開く音幽に聞へけるが、誠に君臣合体の誠を感じ霊神擁護の助をや加へ給けん。勅使帰参して三日中に、直義朝臣病忽平愈し給ひけり。是を聞者、「難有哉、昔周武王病に臥て崩じ給はんとせし時、周公旦天に祈て命に替らんとし給しかば、武王の病忽痊て、天下無為の化に誇に相似たり。」と、聖徳を感ぜぬ者こそ無りけれ。又傍に吉野殿方を引人は、「いでや徒事な云そ。神不享非礼、欲宿正直頭、何故か諂諛の偽を受ん。只時節よく、し合せられたる願書也。」と、欺く人も多かりけり。 
208 依山門嗷訴公卿僉議事
同八月に上皇臨幸成て、供養を可被逐とて、国々の大名共を被召、代々の任例其役を被仰合。凡天下の鼓騒、洛中の壮観と聞へしかば、例の山門の大衆忿をなし、夜々の蜂起、谷々の雷動無休時。あはや天魔の障碍、法会の違乱出来ぬるとぞみへし。三門跡是を為静御登山あるを、若大衆共御坊へ押寄て、不日に追下し奉り、頓て三塔会合して大講堂の大庭にて僉議しける。其詞に云、「夫王道之盛衰者、依仏法之邪正、国家之安全者、在山門之護持。所謂桓武皇帝建平安城也。契将来於吾山、伝教大師開比叡山也。致鎮守於帝城。自爾以来、釈氏化導之正宗、天子本命之道場偏在真言止観之繁興。被専聖代明時之尊崇者也。爰頃年禅法之興行喧於世、如無顕密弘通。亡国之先兆、法滅之表事、誰人不思之。吾山殊驚嘆也。訪例於異国、宋朝幼帝崇禅宗、奪世於蒙古。引証於吾朝、武臣相州尊此法、傾家於当今。覆轍不遠、後車盍誡。而今天竜寺供養之儀、既整勅願之軌則、可及臨幸之壮観云々。事如風聞者、奉驚天聴、遠流踈石法師、於天竜寺以犬神人可令破却。裁許若及猶予者、早頂戴七社之神輿、可奉振九重之帝闕。」と僉議しければ、三千大衆一同に皆尤々とぞ同じける。同七月三日谷々の宿老捧款状陳参す。其奏状に云、延暦寺三千大衆法師等、誠恐誠惶謹言請特蒙天裁、因准先例、忽被停廃踈石法師邪法、追放其身於遠島、至天竜寺者、止勅供養儀則、恢弘顕密両宗教迹、弥致国家護持精祈状。右謹考案内、直踏諸宗之最頂、快護百王之聖躬、唯天台顕密之法而已。仰之弥高、誰攀一実円頓之月。鑽之弥堅、曷折四曼相即之花。是以累代之徳化、忝比叡運於当山。諸刹之興基、多寄称号於末寺。若夫順則不妨、建仁之儀在前。逆則不得、嘉元之例在後。今如疎石法師行迹者、食柱蠧害、射人含沙也。亡国之先兆、大教之陵夷、莫甚於此。何以道諸、纔叩其端、暗挙西来之宗旨、漫破東漸之仏法。守之者蒙缶向壁、信之者緘石為金。其愚心皆如斯矣。加旃、移皇居之遺基、為人処之栖界、何不傷哉。三朝礼儀之明堂云捐、為野干争尸之地、八宗論談之梵席永絶、替鬼神暢舌之声。笑問彼行蔵何所似。譬猶調達萃衆而落邪路、提羅貪供而開利門。嗚呼人家漸為寺、古賢悲而戒之、矧於皇居哉。聞説岩栖澗飲大忘人世、道人之幽趣也。疎石独背之。山櫛藻、自安居所、俗士之奢侈也。疎石尚過之。韜光掩門、何異踰墻之人。垂手入市倉、宛同執鞭之士。天下言之嗽口、山上聞之洗耳処、剰今儼臨幸之装、将刷供養之儀。因茲三千学侶忽為雷動、一紙表奏、累奉驚天聴。於是有勅答云、天竜寺供養事、非厳重勅願寺供養、准拠当寺、奉為後醍醐天皇御菩提、被建立訖。而追善御仏事、武家申行之間、為御聴聞密々可有臨幸歟之由、所有其沙汰也。
山門訴申何篇哉云云。就綸宣訪往事、捨元務末、非明王之至徳。軽正重邪、豈仏意所帰乎。而今九院荒廃、而旧苔疎補侵露之隙、五堂回禄而昨木未運成風之斧。吾君何閣天子本命之道場、被興犢牛前身之僧界。偉哉、世在淳朴四花敷台嶺、痛乎、時及澆薄、五葉為叢林。正法邪法興廃粲然而可覿之。倩看仏法滅尽経文、曰我滅尽期、五濁悪世、魔作沙門、壊乱吾道、但貪財物積集不散。誠哉斯言、今疎石是也。望請天裁急断葛藤、於天竜寺者、須令削勅願之号停止勅会之儀、流刑疎石、徹却彼寺。若然者、法性常住之灯長挑、而耀後五百歳之闇、皇化照耀之自暖、而麗春二三月之天。不耐懇歎之至矣。衆徒等誠恐誠惶謹言。康永四年七月日三千大衆法師等上とぞ書たりける。奏状内覧に被下て後、諸卿参列して此事可有如何と僉議あり。去共大儀なれば満座閉口の処に、坊城大納言経顕卿進で被申けるは、「先就山門申詞案事情、和漢の例を引て、此宗を好む世は必不亡云事なしと申条、愚案短才の第一也。其故は異国に此宗を尊崇せし始を云ば、梁武帝、対達磨聞無功徳話を、大同寺に禅坐し給しより以来、唐代二百八十八年、宋朝三百十七年、皆宝祚長久にして国家安静也。我朝には武臣相摸守此宗に傾て、九代累葉を栄へたり。而に幼帝の時に至て、大宋は蒙古に被奪、本朝には元弘の初に当て、高時一家を亡事は、全非禅法帰依咎、只政を乱り驕を究し故也。何必しも治りし世を捨て、亡びし時をのみ取んや。是濫謀訴也。豈足許容哉。其上天子武を諱とし給ふ時は、世の人不謂武名、況乎此夢窓は三代の国師として四海の知識たり。山門縱訴を横すとも、義を知礼を存せば、過言を止て可仰天裁。漫疎石法師を遠島へ遣し、天竜寺を犬神人に仰て可破却と申条、奇怪至極也。罪科不軽。此時若錯刑者向後の嗷訴不可絶。早三門跡に被相尋、衆徒の張本召出し、断罪流刑にも可被行とこそ存候へ。」と、誠に無余儀被申ける。此義げにもと覚る処に、日野大納言資明卿被申けるは、「山門聊嗷訴に似て候へ共、退て加愚案一義有と存候。其故は日本開闢は自天台山起り、王城の鎮護は以延暦寺専とす。故に乱政行朝日は山門是を諌申し、邪法世に興る時は衆徒是を退る例其来尚矣。先後宇多院御宇に、横岳太応国師嘉元寺を被造時、山門依訴申其儀を被止畢。又以往には土御門院御宇元久三年に、沙門源空専修念仏敷演の時、山門訴申て是を退治す。後堀河院御宇嘉禄三年尚専修の余殃を誡て、法然上人の墳墓を令破却。又御鳥羽院御宇建久年中に、栄西・能忍等禅宗を洛中に弘めし時、南都北嶺共起て及嗷訴。而に建仁寺建立に至て、遮那・止観の両宗を被置上へ、開山以別儀可為末寺由、依被申請被免許候き。惣て仏法の一事に不限。
百王の理乱四海の安危、自古至今山門是を耳外に不処、所謂治承の往代に、平相国清盛公、天下の権を執て、此平安城を福原の卑湿に移せし時も、山門独捧奏状、終に遷都の儀を申止畢ぬ。是等は皆山門の大事に非ずといへども、仏法与王法以相比故、被裁許者也。抑禅宗の摸様とする処は、宋朝の行儀、貴ぶ処は祖師の行迹也。然に今の禅僧之心操法則、皆是に相違せり。其故は、宋朝には西蕃の帝師とて、摩訶迦羅天の法を修して朝家の護持を致す真言師あり。彼れ上天の下、一人の上たるべき依有約、如何なる大刹の長老、大耆旧の人も、路次に行会時は膝をかゞめて地に跪き、朝庭に参会する時は伸手沓を取致礼といへり。我朝には不然、無行短才なれども禅僧とだに云つれば、法務・大僧正・門主・貫頂の座に均からん事を思へり。只今父母の養育を出たる沙弥喝食も、兄を超父を越んと志あり。是先仁義礼智信の法にはづる。曾て宋朝に無例我朝に始れり。言は語録に似て、其宗旨を説時は、超仏越祖の手段有といへども、向利に、他之権貴に媚る時は、檀那に諂ひ富人に不下と云事なし。身には飾五色食には尽八珍、財産を授て住持を望み、寄進と号して寄沙汰をする有様、誠に法滅の至りと見へたり。君子恥其言過其行と云り。是豈知恥云乎。凡有心人は信物化物をみじと可思。其故は戒行も欠、内証も不明ば、所得の施物、罪業に非と云事なし。又道学の者に三機あり。上機は人我無相なれば心に懸る事なし。中機は一念浮べ共、人我無理を観ずる故に二念と相続で無思事。下機は無相の理までは弁ぜね共、慙愧懺悔の心有て諸人を不悩慈悲の心あり。此外に応堕地獄者有べしと見へたり。人の生渡を失はん事を不顧、他の難非を顕す此等也。凡寺を被建事も、人法繁昌して僧法相対せば、真俗道備て尤可然。宝堂荘厳に事を寄、奇麗厳浄を雖好と、僧衆無慈悲不正直にして、法を持し人を謗して徒に明し暮さば、仏法興隆とは申難かるべし。智識とは身命を不惜随逐給仕して諸有所得の心を離て清浄を修すべきに、今禅の体を見るに、禁裏仙洞は松門茅屋の如くなれば、禅家には玉楼金殿をみがき、卿相雲客は木食草衣なれば、禅僧は珍膳妙衣に飽けり。祖師行儀如此ならんや。昔摩羯陀国の城中に一人の僧あり。毎朝東に向ては快悦して礼拝し、北に向ては嗟嘆して泪を流す。人怪みて其謂を問に答て云、「東には山中に乗戒倶に急なる僧、樹下石上に坐して、已に証を得て年久し。仏法繁昌す。故に是を礼す。北には城中に練若あり。数十の堂塔甍を双べ、仏像経巻金銀を鏤たり。此に住する百千の僧俗、飲食衣服一として乏しき事なし。雖然如来の正法を究めたる僧なし。仏法忽に滅しなんとす。故に毎朝嗟傷す。」と、是其証也。如何に寺を被造共人の煩ひ歎のみ有ては其益なかるべし。朝廷の衰微歎て有余。是を見て山門頻に禁廷に訴ふ。言之者無咎、聞之者足以誡乎。然らば山門訴申処有其謂歟とこそ存候へ。」と、無憚処ぞ被申ける。此両義相分れて是非何れにかあると諸卿傾心弁旨かねたれば、満座鳴を静めたり。
良有て三条源大納言通冬卿被申けるは、「以前の義は只天地各別の異論にて、可道行とも不存。縦山門申処雖事多、肝要は只正法与邪法の論也。然らば禅僧与聖道召合せ宗論候へかしとこそ存候へ。さらでは難事行こそ候へ。凡宗論の事は、三国の間先例多く候者を。朝参の余暇に、賢愚因縁経を開見候しに、彼祇園精舎の始を尋れば、舎衛国の大臣、須達長者、此国に一の精舎を建仏を安置し奉らん為に、舎利弗と共に遍く聚落園林を廻て見給ふに、波斯匿王の太子遊戯経行し給ふ祇陀園に勝れたる処なしとて、長者、太子に此地を乞奉る。祇陀太子、「吾逍遥優遊の地也。容易汝に難与。但此地に布余す程の金を以て可買取。」とぞ戯れ給ける。長者此言誠ぞと心得て、軈て数箇の倉庫を開き、黄金を大象に負せ、祇陀園八十頃の地に布満て、太子に是を奉る。祇陀太子是を見給て、「吾言戯れ也。汝大願を発して精舎を建ん為に此地を乞。何の故にか我是を可惜。早此金を以て造功の資に可成。」被仰ければ、長者掉首曰、「国を可保太子たる人は仮にも不妄語。臣又苟不可食言、何ぞ此金を可返給。」とて黄金を地に棄ければ、「此上は無力。」とて金を収取て地を被与。長者大に悦で、軈て此精舎を立んと欲する処に、六師外道、波斯匿王に参て申けるは、「祇陀太子、為瞿曇沙門須達に祇陀園を与て精舎を建んとし給。此国の弊民の煩のみに非ず。世を失ひ国を保給ふまじき事の瑞也。速に是を停給へ。」とぞ訴へける。波斯匿王、外道の申処も有其謂、長者の願力も難棄案じ煩ひ給て、「さらば仏弟子と外道とを召合せ神力を施させ、勝負に付て事を可定。」被宣下しかば、長者是を聞て、「仏弟子の通力我足の上の一毛にも、外道は不及。」とぞ欺給ひける。さらばとて「予参の日を定め、通力の勝劣を可有御覧。」被宣下。既其日に成しかば、金鼓を打て見聞の衆を集め給ふ。舎衛国の三億悉集、重膝連座。斯る処に六師外道が門人、如雲霞早参じて著座したるに、舎利弗は寂場樹下に禅座して定より不出給。外道が門徒、「さればこそ、舎利弗我師の威徳に臆して退復し給ふ。」と笑欺ける処に、舎利弗定より起て衣服を整へ、尼師壇を左の肩に著け、歩む事如師子王来り給ふ。此時不覚外道共五体を地に著て臥ける。座定て後外道が弟子労度差禁庭に歩出て、虚空に向ひ目を眠り口に文咒したるに、百囲に余る大木俄に生出て、花散春風葉酔秋霜。見人奇特の思をなす。後に舎利弗口をすぼめて息を出し給ふに、旋嵐風となり、此木を根より吹抜て地に倒ぬ。労度差又空に向て呪する。周囲三百里にみへたる池水俄に湧出して四面皆七宝の霊池となる。舎利弗又目を揚て遥に天を見給へば、一頭六牙の白象空中より下る。一牙の上に各七宝の蓮花を生じ、一々の花の上に各七人の玉女あり。此象舌を延て、一口に彼池水を呑尽す。外道又虚空に向て且咒したるに、三の大山出現して上に百余丈の樹木あり。其花雲を凝し、其菓玉を連たり。舎利弗爰に手を揚て、空中を招き給ふに、一の金剛力士、以杵此山を如微塵打砕く。
又外道如先呪するに、十頭の大龍雲より下て雨を降雷を振ふ。舎利弗又頭を挙て空中を見給ふに、一の金翅鳥飛来、此大龍を割喰。外道又咒するに、肥壮多力の鉄牛一頭出来て、地をて吼へ忿る。舎利弗一音を出して咄々と叱し給ふに、奮迅の鉄師子走出て此牛を喰殺す。外道又座を起て咒するに、長十丈余の一鬼神を現ぜり。頭の上より火出て炎天にあがり、四牙剣よりも利にして、眼日月を掛たるが如し。人皆怖れ倒れて魂を消処に、舎利弗黙然として座し給ひたるに、多門天王身には金色の胄を著し、手に降伏の鋒をつきて出現し給ふに、此鬼神怖畏して忽に逃去ぬ。其後猛火俄に燃出、炎盛に外道が身に懸りければ、外道が門人悉く舎利弗の前に倒れ臥て、五体を地に投、礼をなし、「願は尊者慈悲の心を起して哀愍し給へ。」と、己が罪をぞ謝し申ける。此時舎利弗慈悲忍辱の意を発し、身を百千に化し、十八変を現して、還て大座に著給ふ。見聞の貴賎悉宿福開発し、随喜感動す。六師外道が徒、一時に皆出家して正法宗に帰服す。是より須達長者願望を遂て、祇園精舎建しかば、厳浄の宮殿微妙の浄刹、一生補処の菩薩、聖衆此中に来至し給へば、人天大会悉渇仰の頭を傾ける。又異朝に後漢の顕宗皇帝、永平十四年八月十六日の夜、如日輪光明を帯たる沙門一人、帝の御前に来て空中に立たりと御夢に被御覧、夙に起て群臣を召て御夢を問給に、臣傅毅奏曰、「天竺に大聖釈尊とて、独の仏出世し給ふ。其教法此国に流布して、万人彼化導に可預御瑞夢也。」と合せ申たりしが、果して摩騰・竺法蘭、仏舎利、並四十二章経を渡す。帝尊崇し給事無類。爰に荘老の道を貴で、虚無自然理を専にする道士列訴して曰、「古五帝三皇の天下に為王より以来、以儒教仁義を治め、以道徳淳朴に帰し給ふ。而るに今摩騰法師等、釈氏の教を伝へて、仏骨の貴き事を説く。内聖外王の儀に背き、有徳無為の道に違へり。早く彼法師を流罪して、太素の風に令復給べし。」とぞ申ける。依之、「さらば道士と法師とを召合せて、其威徳の勝劣を可被御覧。」とて、禁闕の東門に壇を高く築て、予参の日をぞ被定ける。既其の日に成しかば、道士三千七百人胡床を列て西に向ひ座す。沙門摩騰法師は、草座を布て東に向ひ座したりけり。其後道士等、「何様の事を以て、勝負を可決候や。」と申せば、「唯上天入地擘山握月術を可致。」とぞ被宣下ける。道士等是を聞て大に悦び、我等が朝夕為業所なれば、此術不難とて、玉晨君を礼し、焚芝荻呑気向鯨桓審、昇天すれども不被上、入地すれども不被入、まして擘山すれども山不裂、握月すれども月不下。種々の仙術皆仏力に被推不為得しか、万人拍手笑之。道士低面失機処に、摩騰法師、瑠璃の宝瓶に仏舎利を入て、左右の手に捧て虚空百余丈が上に飛上てぞ立たりける。
上に著所なく下に踏所なし。仏舎利より放光明、一天四海を照す。其光金帳の裏、玉の上まで耀きしかば、天子・諸侯・卿大夫・百寮・万民悉金色の光に映ぜしかば、天子自玉を下させ給て、五体を投地礼を成し給へば、皇后・元妃・卿相・雲客、悉信仰の首を地に著て、随喜の泪を袖に余す。懸りしかば確執せし道士共も翻邪信心銘肝つゝ、三千七百余人即時に出家して摩騰の弟子にぞ成にける。此日頓て白馬寺を建て、仏法を弘通せしかば、同時に寺を造事、支那四百州の中に一千七百三箇所なり。自是漢土の仏法は弘りて遺教于今流布せり。又我朝には村上天皇の御宇応和元年に、天台・法相の碩徳を召て宗論有しに、山門よりは横川慈慧僧正、南都よりは松室仲已講ぞ被参ける。予参日に成しかば、仲既南都を出て上洛し給けるに、時節木津河の水出て舟も橋もなければ、如何せんと河の辺に輿を舁居させて、案じ煩給たる処に、怪気なる老翁一人現して、「何事に此河の辺に徘らひ給ぞ。」と問ければ、仲、「宗論の為に召れて参内仕るが、洪水に河を渡り兼て、水の干落る程を待也。」とぞ答給ひける。老翁笑て、「水は深し智は浅し、潜鱗水禽にだにも不及、以何可致宗論。」と恥しめける間、仲誠と思て、十二人の力者に、「只水中を舁通せ。」とぞ下知し給ひける。輿舁、「さらば。」とて水中を舁て通るに、さしも夥しき洪水左右にと分れて、大河俄に陸地となる。供奉の大衆悉足をも不濡渡けり。慈慧僧正も、比叡山西坂下松の辺に車を儲させて下洛し給ふに、鴨河の水漲出、逆浪浸岸茫茫たり。牛童扣轅如何と立たる処に、水牛一頭自水中游出て車の前にぞ喘ぎける。僧正、「此牛に車を懸替て水中を遣。」とぞ被仰ける。牛童随命水牛に車を懸け一鞭を当たれば、飛が如く走出て、車の轅をも不濡、浪の上三十余町を游あがり、内裏の陽明門の前にて、水牛は書消様に失にけり。両方の不思議奇特、皆権者とは乍云、類少き事共也。去程に清涼殿に師子の座を布て、問者・講師東西に相対す。天子は南面にして、玉に統を挑げさせ給へば、臣下は北面にして、階下に冠冕を低る。法席既に定て、僧正は草木成仏の義を宣給へば、仲は五性各別の理を立て難じて曰、「非情草木雖具理仏性、無行仏性、無行仏性何有成仏義。但有文証者暫可除疑。」と宣しかば、慈慧僧正則円覚経の文を引て、「地獄天宮皆為浄土、有性無性斉成仏道。」と誦し給ふ。仲此文に被詰て暫閉口し給処に、法相擁護の春日大明神、高座の上に化現坐て、幽なる御声にて此文点を読替て教させ給けるは、「地獄天宮皆為浄土、有性も無性も斉成仏道。」と、慈慧僧正重て難じて曰、「此文点全法文の心に不叶。一草一木各一因果、山河大地同一仏性の故に、講答既に許具理仏性。若乍具理仏性、遂無成仏時ば、以何曰仏性耶。若又雖具仏性、言不成仏者、有情も不可成仏、有情の成仏は依具理仏性故也。」難じ給しかば、仲無言黙止給けるが、重て答て曰、「草木成仏無子細、非情までもあるまじ。先自身成仏の証を顕し給はずば、以何散疑。」と宣ひしかば、此時慈慧僧正言を不出、且が程黙座し給ふとぞ見へし。
香染の法服忽に瓔珞細の衣と成て、肉身卒に変じて、紫磨黄金の膚となり、赫奕たる大光明十方に遍照す。されば南庭の冬木俄に花開て恰春二三月の東風に繽紛たるに不異。列座の三公九卿も、不知不替即身、至華蔵世界土、妙雲如来下に来かとぞ覚ける。爰に仲少欺る気色にて、揚如意敲席云、「止々、不須説、我法妙難思。」と誦し給ふ。此時慈慧僧正の大光明忽消て、本の姿に成給ひにけり。是を見て、藤氏一家の卿相雲客は、「我氏寺の法相宗こそ勝れたれ。」と我慢の心を起して、退出し給ける処に、門外に繋たる牛、舌を低て涎を唐居敷に残せるを見給へば、慥に一首の歌にてぞ有ける。草も木も仏になると聞時は情有身のたのもしき哉是則草木成仏の証歌也。春日大明神の示給ひけるにや。何れを勝劣とも難定。理哉、仲は千手の化身、慈慧は如意輪の反化也。されば智弁言説何れもなじかは可劣、唯雲間の陸士竜、日下の荀鳴鶴が相逢時の如く也。而ば法相者六宗の長者たるべし。天台者諸宗の最頂也と被宣下、共に眉目をぞ開ける。抑天台の血脈は、至師子尊者絶たりしを、緬々世隔て、唐朝の大師南岳・天台・章安・妙楽、自解仏乗の智を得て、金口の相承を続給ふ。奇特也といへども、禅宗は是を髣髴也と難じ申。又禅の立る所は、釈尊大梵王の請を受て、於利天法を説給ひし時、一枝の花を拈じ給ひしに、会中比丘衆無知事。爰摩訶迦葉一人破顔微笑して、拈花瞬目の妙旨を以心伝心たり。此事大梵天王問仏決疑経に被説たり。然るを宋朝の舒王翰林学士たりし時、秘して官庫に収めし後、此経失たりと申条、他宗の証拠に不足と、天台は禅を難じ申て邪法と今も訴へ候上は、加様の不審をも此次に散度こそ候へ。唯禅与天台被召合宗論を被致候へかし。」とぞ被申ける。此三儀是非区に分れ、得失互に備れり。上衆の趣何れにか可被同と、閉口屈旨たる処に、二条関白殿申させ給けるは、「八宗派分れて、末流道異也といへども、共に是師子吼無畏の説に非と云事なし。而るに何れを取り何れを可捨。縦宗論を致す共、天台は唯受一人の口決、禅家は没滋味の手段、弁理談玄とも、誰か弁之誰か会之。世澆季なれば、如摩騰虚空に立人もあらじ、慈恵大師の様に、即身成仏する事もあるべからず。唯如来の権実徒に堅石白馬の論となり、祖師の心印空く叫騒怒張の中に可堕。凡宗論の難き事我曾听ぬ。如来滅後一千一百年を経て後、西天に護法・清弁とて二人の菩薩坐き。護法菩薩は法相宗の元祖にて、有相の義を談じ、清弁菩薩は三論宗の初祖にて、諸法の無相なる理を宣給ふ。門徒二に分れ、是彼非此。或時此二菩薩相逢て、空有の法論を致し給ふ事七日七夜也。共に富楼那の弁舌を仮て、智三千界を傾しかば、無心の草木も是を随喜して、時ならず花を開き、人を恐るゝ鳥獣も、是を感嘆して可去処を忘れたり。而れども論義遂に不休、法理両篇に分れしかば、よしや五十六億七千万歳を経て、慈尊の出世し給はん時、臨会座可散此疑とて、護法菩薩は蒼天の雲を分ち遥に都率天宮に上り給へば、清弁菩薩は青山の岩を擘、脩羅窟に入給にけり。其後花厳の祖師香象、大唐にして此空有の論を聞て、色即是空なれば護法の有をも不嫌、空即是色なれば清弁の空をも不遮と、二宗を会し給けり。
上古の菩薩猶以如斯、況於末世比丘哉。されば宗論の事は強に無其詮候歟。とても近年天下の事、小大となく皆武家の計として、万づ叡慮にも不任事なれば、只山門の訴申処如何可有と、武家へ被尋仰、就其返事聖断候べきかとこそ存候へ。」とぞ被申ける。諸卿皆此義可然と被同、其日の議定は終にけり。さらばとて次日軈て山門の奏状を武家へ被下、可計申由被仰下しかば、将軍・左兵衛督諸共に、山門の奏状を披見して、「是はそも何事ぞ。建寺尊僧とて山門の所領をも不妨、衆徒の煩にもならず、適公家武家帰仏法大善事を修せば、方袍円頂の身としては、共に可悦事にてこそあるに、障碍を成んとする条返々不思議也。所詮神輿入洛あらば、兵を相遣して可防。路次に振棄奉らば、京中にある山法師の土蔵を点じ、造替させんに何の痛か可有。非拠の嗷訴を被棄置可被遂厳重供養。」と奏聞をぞ被経ける。武家如斯申沙汰する上は、公家何ぞ可及異儀とて、已に事厳重なりしかば、列参せし大衆、徒に款状を公庭に被棄て、失面目登山ず。依之三千の大衆憤不斜。されば可及嗷訴とて、康永四年八月十六日、三社の神輿を中堂へ上奉り、祇園・北野の門戸を閉、師子・田楽庭上に相列り、神人・社司御前に奉仕す。公武の成敗拘る処なければ、山門の安否此時に有と、老若共に驚嘆す。角ては猶も不叶とて、同十七日、剣・白山・豊原・平泉寺・書写・法花寺・多武峯・内山・日光・太平寺、其外の末寺末社、三百七十余箇所へ触送り、同十八日、四箇の大寺に牒送す。先興福寺へ送る。其牒状云、延暦寺牒興福寺衙。可早任先規致同心訴被停止天竜寺供養儀令断絶禅室興行子細状。右大道高懸、均戴第一義天之日月、教門広開互斟無尽蔵海之源流。帝徳安寧之基、仏法擁護之要、遐迩勠力彼此同功、理之所推、其来尚矣。是以対治邪執、掃蕩異見之勤、自古覃今匪懈。扶翼朝家修整政道之例、貴寺当山合盟専起先聖明王之叡願、深託尊神霊祇之冥鑑。国之安危、政之要須、莫先於斯。誰処聊爾。爰近年禅法之興行喧天下、暗証之朋党満人間。濫觴雖浅、已揚滔天之波瀾。火不消、忽起燎原之烟。本寺本山之威光、白日空被掩蔽、公家武家之偏信、迷雲遂不開晴。若不加禁遏者、諸宗滅亡無疑。伝聞、先年和州片岡山達磨寺、速被焼払之、其住持法師被処流刑、貴寺之美談在茲。今般先蹤弗遠。而今就天竜寺供養之儀、此間山門及再往之訟。今月十四日院宣云、今度儀非勅命云云。仍休鬱訴属静謐之処、勅言忽有表裏、供養殊増厳重。院司公卿以下有限之職掌等、悉以可令参行之由有其聞。朝端之軌則、理豈可然乎。天下之謗議、言以不可欺。吾山已被処無失面目。神道元来如在、盍含忿怒。於今者再帰本訴、屡奉驚上聞。所詮就天竜寺供養、院中之御沙汰、公卿之参向以下一向被停止之、又於御幸者、云当日云翌日共以被罷其儀。凡又為令断絶禅法興行先被放疎石於遠島、於禅院者不限天竜一寺、洛中洛外大小寺院、悉以破却之、永掃達磨宗之蹤跡宜開正法輪之弘通。是専釈門之公儀也。尤待貴寺之与同焉。綺已迫喉、不可廻踵。
若有許諾者、日吉神輿入洛之時、春日神木同奉勧神行、加之或勧彼寺供養之奉行、或致著座催促之領掌藤氏月卿雲客等、供養以前悉以被放氏、其上猶押而有出仕之人者、貴寺山門放遣寺家・社家之神人・公人等、臨其家々可致苛法之沙汰之由、不日可被触送也。此等条々衆儀無令停滞。返報不違先規者、南北両門之和睦、先表当時之太平、自他一揆之始終、欲約将来之長久、論宗旨於公庭則、雖似有兄弟鬩墻之争、寄至好於仏家則、復須共楚越同舟之志。早成当機不拘之義勢、速聞見義即勇之歓声。仍牒送如件。康永四年八月日とぞ書たりける。山門既に南都に牒送すと聞へしかば、返牒未送以前にとて、院司の公卿藤氏の雄臣等参列して被歎申けるは、「自古山門の訴訟者以非為理事不珍候。其上今度の儀は、旁申処有其謂歟存候。就中行仏事貴僧法事も天下無為にてこそ其詮も候へ。神輿神木入洛有て、南都北嶺及嗷訴者、武家何と申共、静謐の儀なくば法会の違乱なるべし。角て又叡願も徒に成ぬと存候。只速に有聖断衆徒の鬱訴を被宥、其後御心安く法義大会をも被行候へかし。」と様々に被申しかば、誠にも近年四海半は乱て一日も不安居、此上に又南北神訴に及び、衆徒鬱憤して忿らば、以外の珍事なるべしとて、枉諸事先院宣を被成下、「勅願の義を被停止、為御結縁翌日に御幸可成。」被仰ければ、山門是に静りて、神輿忽に御帰座有しかば、陣頭警固の武士も皆馬の腹帯を解て、末寺末社の門戸も参詣の道をぞ開きける。 
226 田楽事付長講見物事
今年多の不思議打続中に、洛中に田楽を翫ぶ事法に過たり。大樹是を被興事又無類。されば万人手足を空にして朝夕是が為に婬費す。関東亡びんとて、高時禅門好み翫しが、先代一流断滅しぬ。よからぬ事なりとぞ申ける。同年六月十一日抖薮の沙門有りけるが、四条橋を渡さんとて、新座本座の田楽を合せ老若に分て能くらべをぞせさせける。四条川原に桟敷を打つ。希代の見物なるべしとて貴賎の男女挙る事不斜、公家には摂禄大臣家、門跡は当座主梶井二品法親王、武家は大樹是を被興しかば、其以下の人々は不及申、卿相雲客諸家の侍、神社寺堂の神官僧侶に至る迄、我不劣桟敷を打。五六八九寸の安の郡などら鐫貫て、囲八十三間に三重四重に組上、物も夥しく要へたり。已時刻に成しかば、軽軒香車地を争ひ、軽裘肥馬繋に所なし。幔幕風に飛揚して、薫香天に散満す。新本の老若、東西に幄を打て、両方に橋懸りを懸たりける。楽屋の幕には纐纈を張、天蓋の幕は金襴なれば、片々と風に散満して、炎を揚るに不異。舞台に曲縄床を立双べ、紅緑の氈を展布て、豹虎の皮を懸たれば、見に眼を照れて、心も空に成ぬるに、律雅調冷く、颯声耳を清処に、両方の楽屋より中門口の鼓を鳴し音取笛を吹立たれば、匂ひ薫蘭を凝し、粧ひ紅粉を尽したる美麗の童八人、一様に金襴の水干を著して、東の楽屋より練出たれば、白く清らかなる法師八人、薄化粧の金黒にて、色々の花鳥を織尽し、染狂たる水干に、銀の乱紋打たる下濃の袴に下結して拍子を打、あやい笠を傾け、西の楽屋よりきらめき渡て出たるは、誠に由々敷ぞ見へたりける。一の簓は本座の阿古、乱拍子は新座の彦夜叉、刀玉は道一、各神変の堪能なれば見物耳目を驚す。角て立合終りしかば、日吉山王の示現利生の新たなる猿楽を、肝に染てぞし出したる。斯る処に新座の楽屋八九歳の小童に猿の面をきせ、御幣を差上て、赤地の金襴の打懸に虎皮の連貫を蹴開き、小拍子に懸て、紅緑のそり橋を斜に踏で出たりけるが高欄に飛上り、左へ回右へ曲り、抛返ては上りたる在様、誠に此世の者とは不見、忽に山王神託して、此奇瑞を被示かと、感興身にぞ余りける。されば百余間の桟敷共怺兼て座にも不蹈、「あら面白や難堪や。」と、喚叫びける間、感声席に余りつゝ、且は閑りもやらず。浩処に、将軍の御桟敷の辺より、厳しき女房の練貫の妻高く取けるが、扇を以て幕を揚るとぞ見へし。大物の五六にて打付たる桟敷傾立て、あれや/\と云程こそあれ、上下二百四十九間、共に将碁倒をするが如く、一度に同とぞ倒ける。若干の大物共落重りける間、被打殺者其数不知。斯る紛れに物取共、人の太刀々を奪て逃るもあり、見付て切て留るもあり。或は腰膝を被打折、手足を打切られ、或は己と抜たる太刀長刀に、此彼を突貫れて血にまみれ、或は涌せる茶の湯に身を焼き、喚き叫ぶ。只衆合叫喚の罪人も角やとぞ見へたりける。
田楽は鬼の面を著ながら、装束を取て逃る盜人を、赤きしもとを打振て追て走る。人の中間若党は、主の女房を舁負て逃る者を、打物の鞘をはづして追懸る。返し合て切合処もあり。被切朱に成者もあり。脩羅の闘諍、獄率の呵責、眼の前に有が如し。梶井宮も御腰を打損ぜさせ給ひたりと聞へしかば、一首の狂歌を四条川原に立たり。釘付にしたる桟敷の倒るは梶井宮の不覚なりけり又二条関白殿も御覧じ給ひたりと申ければ、田楽の将碁倒の桟敷には王許こそ登らざりけれ是非直事。如何様天狗の所行にこそ有らんと思合せて、後能々聞けば山門西塔院釈迦堂の長講、所用有て下りける道に、山伏一人行合て、「只今四条河原に希代の見物の候。御覧候へかし。」と申ければ、長講、「日已に日中に成候。又用意の桟敷なんど候はで、只今より其座に臨候共、中へ如何が入候べき。」と申せば、山伏、「中へ安く入奉べき様候。只我迹に付き被歩候へ。」とぞ申ける。長講、げにも聞る如くならば希代の見物なるべし。さらば行て見ばやと思ければ、山伏の迹に付て三足許歩むと思たれば、不覚四条河原に行至りぬ。早中門口打程に成ぬれば、鼠戸の口も塞りて可入方もなし。「如何して内へは入候べき。」とわぶれば、山伏、「我手に付せ給へ。飛越て内へ入候はん。」と申間、実からずと乍思、手に取付たれば、山伏、長講を小脇に挟で三重に構たる桟敷を軽々と飛越て、将軍の御桟敷の中にぞ入にける。長講座席座中の人々を見るに、皆仁木・細河・高・上杉の人々ならでは交りたる人も無ければ、「如何か此座には居候べき。」と、蹲踞したる体を見て、彼山伏忍やかに、「苦かるまじきぞ。只それにて見物し給へ。」と申間、長講は様ぞあるらんと思て、山伏と双で将軍の対座に居たれば、種々の献盃、様々の美物、盃の始まるごとに、将軍殊に此山伏と長講とに色代有て、替る替る始給ふ処に、新座の閑屋、猿の面を著て御幣を差挙、橋の高欄を一飛々ては拍子を蹈み、蹈ては五幣を打振て、誠に軽げに跳出たり。上下の桟敷見物衆是を見て、座席にもたまらず、「面白や難堪や、我死ぬるや、是助けよ。」と、喚き叫て感ずる声、半時許ぞのゝめきける。此時彼山伏、長講が耳にさゝやきけるは、「余に人の物狂はしげに見ゆるが憎きに、肝つぶさせて興を醒させんずるぞ。騒ぎ給ふな。」と云て、座より立て或桟敷の柱をえいや/\と推と見へけるが、二百余間の桟敷、皆天狗倒に逢てげり。よそよりは辻風の吹とぞ見へける。誠に今度桟敷の儀、神明御眸を被廻けるにや、彼桟敷崩て人多く死ける事は六月十一日也。其次の日、終日終夜大雨降車軸、洪水流盤石、昨日の河原の死人汚穢不浄を洗流し、十四日の祇園神幸の路をば清めける。天竜八部悉霊神の威を助て、清浄の法雨を潅きける。難有かりし様也。 
 

 

239 錦小路殿落南方事
将軍、已明日西国へ可被立と聞へける其夜、左兵衛督入道慧源は、石堂右馬助頼房許を召具して、いづち共不知落給にけり。是を聞て世の危を思ふ人は、「すはや天下の乱出来ぬるは、高家の一類今に滅ん。」とぞ囁ける。事の様を知らぬ其方様の人々女姓なんどは、「穴浅猿や、こはいかに成ぬる世中ぞや。御共に参たる人もなし。御馬も皆厩に繋れたり。徒洗にては何くへか一足も落させ給ふべき。是は只武蔵守の計として、今夜忍やかに奉殺者也。」と、声も不惜泣悲む。仁木・細川の人々も執事の尾形に馳集て、「錦小路殿落させ給ひて候事、後の禍不遠と覚候へば、暫都に御逗留有て在所をも能々可被尋や候らん。」と被申ければ、師直、「穴こと/゛\し、縦何なる吉野十津河の奥、鬼海高麗の方へ落給ひたり共、師直が世にあらん程は誰か其人に与し奉べき。首を獄門の木に曝し、尸を匹夫の鏃に止め給はん事、三日が内を不可出。其上将軍御進発の事、已に諸国へ日を定て触遣しぬ。相図相違せば事の煩多かるべし。暫も非可逗留処。」とて、十月十三日の早旦に師直遂に都を立て、将軍を先立奉り、路次の軍勢駆具して、十一月十九日に備前の福岡に著給ふ。爰にて四国中国の勢を待けれ共、海上は波風荒て船も不通山陰道は雪降積て馬の蹄も立ざれば、馳参る勢不多。さては年明てこそ筑紫へは向はめとて、将軍備前の福岡にて徒に日をぞ送られける。 
241 慧源禅巷南方合体事付漢楚合戦事
左兵衛督入道、都を仁木・細川・高家の一族共に背かれて浮れ出ぬ。大和・河内・和泉・紀伊国は、皆吉野の王命に順て、今更武家に可付順共不見ければ、澳にも不著礒にも離たる心地して、進退歩を失へり。越智伊賀守、「角ては何様難儀なるべしと覚へ候。只吉野殿の御方へ御参候て、先非を改め、後栄を期する御謀を可被廻とこそ存候へ。」と申ければ、「尤此儀可然。」とて、軈て専使を以て、吉野殿へ被奏達けるは、元弘初、先朝為逆臣被遷皇居於西海、宸襟被悩候時、応勅命雖有起義兵輩、或敵被囲、或戦負屈機、空志処、慧源苟勧尊氏卿企上洛、応勅決戦、帰天下於一統皇化候事、乾臨定被残叡感候歟。其後依義貞等讒、無罪罷成勅勘之身、君臣空隔胡越之地、一類悉残朝敵之名条歎有余処也。臣罪雖誠重、天恩不過往、負荊下被免其咎、則蒙勅免綸言、静四海之逆乱、可戴聖朝之安泰候。此旨内内得御意、可令奏聞給候。恐惶謹言。十二月九日沙弥慧源進上四条大納言殿と委細の書状を捧て、降参の由をぞ被申たる。則諸卿参内して、此事如何が可有と僉議ありけるに、先洞院左大将実世公被申けるは、「直義入道が申処、甚以偽れり。相伝譜代の家人、師直・師泰が為に都を被追出身の措処なき間、聊借天威己為達宿意、奉掠天聴者也。二十余年の間一人を始進せて百司千官悉望鳳闕之雲、飛鳥之翅事、然直義入道が不依悪逆乎。而今幸軍門に降らん事を請ふ、此天の与る処也。乗時是を不誅後の禍噛臍無益。只速に討手を差遣て首を禁門の前に可被曝とこそ存候へ。」と被申ける。次に二条関白左大臣殿暫思案して被仰けるは、「張良が三略の詞に、推慧施恩士力日新戦如風発といへり。是己謝罪者は忠貞に不懈誠以尽事、却て無弐故也。されば章邯楚に降て秦忽に破れ、管仲許罪斉則治事、尤今の世に可為指南。直義入道御方に参る程ならば、君天下を保せ給はん事万歳是より可始。只元弘の旧功を不被捨、官職に復して被召仕より外の義は非じとこそ覚へ候へ。」と異儀区にこそ被申けれ。諌臣両人の異儀、得失互に備ふ。是非難分。君も叡慮を被傾、末座の諸卿も言を出さで良久ある処に、北畠准后禅閤喩を引て被申けるは、「昔秦の世已に傾かんとせし時、沛公は沛郡より起り項羽は楚より起る。六国の諸候の秦を背く者彼両将に付順しかば、共に其威漸振て、沛公が兵十万余騎、漢の濮陽の東に軍だちし、項羽が勢は四十万騎、定陶を攻て雍丘の西に至る。沛公、項羽相共に古の楚王の末孫心と云し人、民間に下て羊を飼しを、取立義帝と号し、其御前にて、先咸陽に入て秦を亡したるらん者、必天下に王たるべしと約諾して、東西に分れて責上る。角て項羽已に鉅鹿に至時、秦の左将軍章邯、百万騎にて相待ける間、項羽自二十万騎にて河を渡て後、船を沈め釜甑を破て盧舎を焼。是は敵大勢にて御方小勢也。一人も生ては不返と心を一にして不戦ば、千に一も勝事非じと思ふ故に、思切たる心中を士卒に為令知也。於是秦の将軍と九たび遇て百たび戦。忽に秦の副将軍蘇角を討て王離を生虜しかば、討るゝ秦の兵四十余万人、章邯重て戦ふ事を不得、終に項羽に降て還て秦をぞ責たりける。
項羽又新安城の戦に打勝て首を切事二十万、凡て項羽が向ふ処不破云事なく、攻る城は不落云事無りしか共、至所ごとに美女を愛し酒に淫し、財を貪り地を屠しかば、路次に数月の滞有て、末だ都へは不責入。漢の元年十一月に、函谷関にぞ著にける。沛公は無勢にして而も道難処を経しか共、民を憐み人を撫する心深して、財をも不貪人をも不殺しかば、支て防ぐ城もなく、不降云敵もなし。道開けて事安かりしかば、項羽に三月先立て咸陽宮へ入にけり。而共沛公志天下に有しかば、秦の宮室をも不焼、驪山の宝玉をも不散、剰降れる秦の子嬰を守護し奉て、天下の約を定めん為に、還て函谷へ兵を差遣し、項羽を咸陽へ入立じと関の戸を堅閉たりける。数月有て項羽咸陽へ入らんとするに、沛公の兵函谷関を閉て項羽を入ず。項羽大に怒て当陽君に十二万騎の兵を差副、函谷関を打破て咸陽宮へ入にけり。則降れる子嬰皇帝を殺奉て咸陽宮に火を懸たれば、方三百七十里に作双たる宮殿楼閣一も不残焼て、三月まで火不消、驪山の神陵忽に灰塵と成こそ悲しけれ。此神陵と申は、秦始皇帝崩御成し時、はかなくも人間の富貴を冥途まで御身に順へんと思して、楼殿を作瑩き山川をかざりなせり。天には金銀を以て日月を十丈に鋳させて懸け、地には江海を形取て銀水を百里に流せり。人魚の油十万石、銀の御錠に入て長時に灯を挑たれば、石壁暗しといへ共青天白日の如く也。此中に三公已下の千官六千人、宮門守護の兵一万人、後宮の美人三千人、楽府の妓女三百人、皆生ながら神陵の土に埋て、苔の下にぞ朽にける。始作俑人無後乎と文宣王の誡しも、今こそ思知れたれ。始皇帝如此執覚様々の詔を被残神陵なれば、さこそは其妄執も留給らんに、項羽無情是を堀崩して殿閣悉焼払しかば、九泉の宝玉二度人間に返るこそ愍なれ。此時項羽が兵は四十万騎新豊の鴻門にあり。沛公が兵は十万騎咸陽の覇上にあり。其間相去事三十里、沛公項羽に未相見。於是范増といへる項羽が老臣、項羽に口説て云けるは、「沛公沛郡に有し時、其振舞を見しかば、財を貪美女を愛する心尋常に越たりき。今咸陽に入て後、財をも不貪美女をも不愛。是其志天下にある者也。我人を遣して窃に彼陣中の体を見するに、旗文竜虎を書けり。是天子の気に非や。速に沛公を不討ば、必天下為沛公可被傾。」と申ければ、項羽げにもと聞ながら、我勢の強大なるを憑て、何程の事か可有と思侮てぞ居たりける。斯る処に沛公が臣下曹無傷と云ける者、潜に項羽の方へ人を遣して、沛公天下に王たらんとする由をぞ告たりける。項羽是を聞て、此上は無疑とて四十万騎の兵共に命じて、夜明ば則沛公の陣へ寄せ、一人も不余可討とぞ下知しける。爰に項羽が季父に項伯と云ける人、昔より張良と知音也ければ、此事を告知せて落さばやと思ける間、急沛公の陣へ行向ひ張良を呼出して、「事の体已に急也。今夜急ぎ逃去て命許を助かれ。」とぞ教訓したりける。張良元来義を重じて、節に臨む時命を思ふ事塵芥よりも軽せし者也ければ、何故か事の急なるに当て、高祖を捨て可逃去とて、項伯が云処を沛公に告ぐ。
沛公大に驚て、「抑我兵を以て項羽と戦ん事、勝負可依運や。」と問給へば、張良暫く案じて、「漢の兵は十万騎、楚は是四十万騎也。平野にて戦んに、漢勝事を難得。」とぞ答へける。沛公、「さらば我項伯を呼て、兄弟の交をなし婚姻の義を約して、先事の無為ならんずる様を謀らん。」とて項伯を帷幕の内へ呼給て、先旨酒を奉じ自寿をなして宣ひけるは、「初我と項王と約を成て先咸陽に入らん者を王とせんと云き。我項王に先立て咸陽に入事七十余日、而れ共約を以て我天下に王たらん事を不思、関に入て秋毫も敢て近付処に非ず。吏民を籍し府庫を封じて項王の来給はん日を待。是世の知る処也。兵を遣して函谷関を守らせし事は、全く項王を防に非ず。他盜人の出入と非常とを備へん為也き。願は公速に帰て、我が徳に不倍処を項王に語て明日の戦を留給へ。我則旦日項王の陣に行て自無罪故を可謝。」と宣ば、項伯則許諾して馬に策てぞ帰にける。項伯則項王の陣に行て具に沛公の謝する処を申けるは、「抑沛公先関中を破らざらましかば、項王今咸陽に入て枕を高し食を安ずる事を得ましや。今天下の大功は然沛公にあり。而るを小人の讒を信じて有功人を討ん事大なる不義也。不如沛公と交を深し功を重じて天下を鎮めんには。」と、理を尽して申ければ、項羽げにもと心服して顔色快く成にけり。暫あれば沛公百余騎を随へて来て項王に見ゆ。仍礼謝して曰、「臣項王と力を勠て秦を攻し時、項王は河北に戦ひ臣は河南に戦ふ。不憶き、万死を秦の虎口に逋れて、再会を楚の鴻門に遂んとは。而るに今佞人の讒に依て臣項王と胡越の隔有らん事豈可不悲乎。」と首を著地宣へば、項羽誠に心解たる気色にて、「是沛公の左司馬曹無傷が告知せしに依て頻に沛公を疑き。不然何以てか知事あらん。」と、忽に証人を顕して誠に所存なげなる体、心浅くぞ見へたりける。項羽頻に沛公を留めて酒宴に及ぶ。項王項伯とは東に嚮て坐し、范増は南に嚮たり。沛公は北に嚮て坐し、張良は西嚮て侍り。范増は兼てより、沛公を討ん事非今日ば何をか可期と思ければ、項羽を内へ入て、沛公と刺違へん為に、帯たる所の太刀を拳て、三度まで目加しけれ共、項羽其心を不悟只黙然としてぞ居たりける。范増則座を立て、項荘を呼て申けるは、「我為項王沛公を討んとすれ共項王愚にして是を不悟。汝早席に帰て沛公を寿せよ。沛公盃を傾ん時、我与汝剣を抜て舞ふ真似をして、沛公を坐中にして殺ん。而らずは汝が輩遂に沛公が為に亡されて、項王の天下を奪はれん事は、一年の中を不可出。」と涙を流て申ければ、項荘一義に不及。則席に帰て、自酌を取て沛公を寿す。沛公盃を傾る時、項荘、「君王今沛公と飲酒す。軍中楽を不為事久し。請臣等剣を抜て太平の曲を舞ん。」とて、項荘剣を抜て立。
范増も諸共に剣を指かざして沛公の前に立合たり。項伯彼等が気色を見、沛公を討せじと思ければ、「我も共に可舞。」とて同又剣を抜て立。項荘南に向へば項伯北に向て立。范増沛公に近付ば項伯身を以て立隠す。依之楽已に徹んとするまで沛公を討事不能。少し隙ある時に張良門前に走出て誰かあると見るに、樊つと走寄て、坐中の体如何と問ければ、張良、「事甚急也。今項荘剣を抜て舞ふ。其意常に沛公に在。」と答ければ、樊、「此已に喉迫る也。速に入て沛公と同命を失んにはしかじ。」とて、胄の緒を縮め、鉄の楯を挟て、軍門の内へ入んとす。門の左右に交戟の衛士五百余人、戈を支へ太刀を抜て是を入じとす。樊大に忿て、其楯を身に横へ門の関の木七八本押折て、内へつと走入れば、倒るゝ扉に打倒され、鉄の楯につき倒されて、交戟の衛士五百人地に臥して皆起あがらず。樊遂に軍門に入て、其帷幕を掲て目を嗔し、項王をはたと睨で立けるに、頭の髪上にあがりて胄の鉢をゝひ貫き、師子のいかり毛の如く巻て百千万の星となる。眦逆に裂て、光百練の鏡に血をそゝぎたるが如、其長九尺七寸有て忿れる鬼鬚左右に分れたるが、鎧突して立たる体、何なる悪鬼羅刹も是には過じとぞ見へたりける。項王是を見給て、自剣を抜懸て跪て、「汝何者ぞ。」と問給へば、張良、「沛公の兵に樊と申者にて候也。」とぞ答ける。項羽其時に居直て、「是天下の勇士也。彼に酒を賜はん。」とて、一斗を盛る巵を召出して樊が前にをき、七尾許なるの肩を肴にとつて出されたり。樊楯を地に覆剣を抜ての肩を切て、少も不残噛食て巵に酒をたぶ/\と受て三度傾け、巵を閣て申けるは、「夫秦王虎狼の心有て人を殺し民を害する事無休時。天下依之秦を不背云者なし。爰に沛公と項王と同く義兵を揚、無道の秦を亡して天下を救はん為に、義帝の御前にして血をすゝりて約せし時、先秦を破て咸陽に入らん者を王とせんと云き。然るに今沛公項王に先立て咸陽に入事数月、然共秋毫も敢て近付る所非ず。宮室を封閉して以て項王の来給はん事を待、是豈沛公の非仁義乎。兵を遣して函谷関を守しめし事は、他の盜人の出入と非常とに備へん為也き。其功の高事如此。未封侯の賞非ずして剰有功の人を誅せんとす。是亡秦の悪を続で自天の罰を招く者也。」と、少も不憚項王を睨て申せば、項王答るに言ば無して只首を低て赤面す。樊は加様に思程云散して、張良が末座に著。暫有て沛公厠に行真似して、樊を招て出給ふ。潜に樊に向て、「先に項荘が剣を抜て舞つる志偏に吾を討んと謀る者也。座久して不帰事危に近し。是より急我陣へ帰らんと思ふが、不辞出ん事非礼。如何すべき。」と宣へば、樊、「大行は不顧細謹、大礼は不必辞譲、如今人は方に為刀俎、我は為魚肉、何ぞ辞することをせんや。」とて、白璧一双と玉の巵一双とを張良に与て留置き、驪山の下より間道を経て、竜蹄に策を進め給へば、強・紀信・樊・夏侯嬰四人、自楯を挟み戈を採て、馬の前後に相順ふ。其道二十余里、嶮きを凌ぎ絶たるを渡て、半時を不過覇上の陣に行至りぬ。初め沛公に順ひし百余騎の兵共は、猶項王の陣の前に並居て、張良未鴻門にあれば人皆沛公の帰給へるを不知。暫有張良座に返て謝して曰、「沛公酔て坏を酌に不堪、退出し給ひ候つるが、臣良をして、謹で足下に可献之と被申置。」とて、先白璧一双を奉て、再拝して項王の前にぞ置たりける。項王白璧を受て、「誠に天下の重宝也。」と感悦して、坐上に置て自愛し給ふ事無類。其後張良又玉斗一双を捧て范増が前にぞ置たりける。
范増大に忿て、玉斗を地に投剣を抜て突摧き、項王をはたと睨て、「嗟豎子不足与謀奪項王之天下者必沛公なるべし。奈何せん吾属今為之虜とならん事。白璧重宝也といへ共豈天下に替んや。」とて、怒る眼に泪を流し半時ばかりぞ立たりける。項王猶も范増が心を不悟、痛く酔て帳中に入給へば、張良百余騎を順て覇上に帰りぬ。沛公の軍門に至て、項王の方へ返忠しつる曹無傷を斬て、首を軍門に被懸。浩りし後は沛公項王互に相見ゆる事なし。天下は只項羽が成敗に随て、賞罰共に明ならざりしかば、諸侯万民皆共、沛公が功の隠れて、天下の主たらざる事をぞ悲みける。其後項羽と沛公と天下を争気已に顕れて、国々の兵両方に属せしかば、漢楚二に分れて四海の乱無止時。沛公をば漢の高祖と称す。其手に属する兵には、韓信・彭越・蕭何・曹参・陳平・張良・樊・周勃・黥布・盧綰・張耳・王陵・劉賈・商・潅嬰・夏侯嬰・傅寛・劉敬・強・呉食其・董公・紀信・轅生・周苛・侯公・随何・陸賈・魏無知・斉孫通・呂須・呂巨・呂青・呂安・呂禄以下の呂氏三百余人都合其勢三十万騎、高祖の方にぞ属しける。楚の項羽は元来代々将軍の家也ければ、相順ふ兵八千人あり。其外今馳著ける兵には、櫟陽長史欣・都尉董翳・塞王司馬欣・魏王豹・瑕丘申陽・韓王・成・趙司馬・趙王歇・常山王張耳・義帝柱国共敖・遼東韓広・燕将臧荼・田市・田都・田安・田栄・成安君陳余・番君将梅・雍王章邯、是は河北の戦ひ破れて後、三十万騎の勢にて項羽に降て属せしかば、項氏十七人、諸侯五十三人、都合其勢三百八十六万騎、項王の方にぞ加りける。漢の二年に項王城陽に至て、高祖の兵田栄と戦ふ。田栄が軍破れて降人に出ければ、其老弱婦女に至るまで、二十万人を土の穴に入て埋て是を殺す。漢王又五十六万人を卒して彭城に入る。項羽自精兵三万人を将て胡陵にして戦ふ。高祖又打負ければ、楚則漢の兵十余万人を生虜て水の淵にぞ沈めける。水為之不流。高祖二度戦負て霊壁の東に至る時、其勢纔に三百余騎也。項王の兵三百万騎、漢王を囲ぬる事三匝、漢可遁方も無りける処に、俄に風吹雨荒して、白日忽に夜よりも尚暗かりければ、高祖数十騎と共に敵の囲を出て、豊沛へ落給ふ。是を追て沛郡へ押寄ければ、高祖兵共爰に支へ彼こに防で、打死する者二十余人、沛郡の戦にも又漢王打負給ひければ、高祖の父大公、楚の兵に虜れて項王の前に引出さる。漢王又周呂侯と蕭何が兵を合せて二十万余騎、陽に至る。項王勝に乗て八十万騎彭城より押寄て相戦ふ。此時漢の戦纔に雖有利、項王更に物共せず。漢楚互に勢を振て未重て不戦、共に広武に張陣川を隔てぞ居たりける。或時項王の陣に高き俎を作て、其上に漢王の父大公を置て高祖に告て云く、「是沛公が父に非や。沛公今首を延て楚に降らば太公と汝が命を助ん。沛公若楚に降らずは、急に大公を可烹殺。」とぞ申ける。漢王是を聞て、大に嘲て云、「吾項羽と北面にして命を懐王に受し時、兄弟たらん事を誓き。然れば吾父は即汝が父也。今而に父を烹殺さば幸に我に一盃の羹を分て。」と、欺れければ、項王大に怒て即大公を殺さんとしけるを、項伯堅諌ければ、「よしさらば暫し。」とて、大公を殺事をば止めてけり。
漢楚久相支て未勝負を決、丁壮は軍旅に苦み老弱は転漕に罷る。或時項羽自甲胄を著し戈を取、一日に千里を走る騅と云馬に打乗て、只一騎川の向の岸に控て宣けるは、「天下の士卒戦に苦む事已に八箇年、是我と沛公と只両人を以ての故也。そゞろに四海の人民を悩さんよりは、我と沛公と独身にして雌雄を決すべし。」と招て、敵陣を睨でぞ立たりける。爰に漢皇自帷幕の中より出て、項王をせめて宣けるは、「夫項王自義無して天罰を招く事其罪非一。始項羽と与に命を懐王に受し時、先入て関中を定めたらん者を王とせんと云き。然を項羽忽に約を背て、我を蜀漢に主たらしむ。其罪一。宋義、懐王の命を受て卿子冠軍となる処に、項羽乱に其帷幕に入て、自卿子冠軍の首を斬て、懐王我をして是を誅せしめたりと偽て令を軍中に出す。其罪二。項羽趙を救て戦利有し時、還て懐王に不報、境内の兵を掃て自関に入る。其罪三。懐王堅く令すらく、秦に入らば民を害し財を貪る事なかれと。項羽数月をくれて秦に入し後、秦の宮室を焼き、驪山の塚を堀て其宝玉を私にせり。其罪四。又降れる秦王子嬰を殺して、天下にはびこる。其罪五。詐て秦の子弟を新安城の坑に埋て殺せる事二十万。其罪六。項羽のみ善地に王として故主を逐誅たり。畔逆是より起る。其罪七。懐王を彭城に移して韓王の地を奪、合せて梁楚に王として自天下を与り聞く。其罪八。項羽人をして陰に懐王を江南に殺せり。其罪九。此罪は天下の指所、道路目を以てにくも者也。大逆無道の甚事、天豈公を誡刑せざらんや。何ぞいたづがはしく、項羽と独身にして戦ふ事を致さん。公が力山を抜といへ共我義の天に合るには如じ。而らば刑余の罪人をして甲兵金革をすて、挺楚を制して、項羽を可撃殺。」と欺て、百万の士卒、同音に箙を敲てどつと笑ふ。項羽大に怒て自強弩を引て漢王を射る。其矢河の面て四町余を射越して漢王の前に控たる兵の、鎧の草摺より引敷の板裏をかけず射徹し、高祖の鎧の胸板に、くつまき責てぞ立たりける。漢の兵に楼煩と云けるは、強弓の矢継早、馬の上の達者にて、三町四町が中の物をば、下針をも射る程の者也けるが、漢王の当の矢を射んとて矢比過て懸出たりけるを、項羽自戟を持て立向ひ、目を瞋かし大音声を揚て、「汝何者なれば、我に向て弓を引んとはするぞ。」と怒てちやうどにらむ。其勢に僻易して、さしもの楼煩目敢て物を不見、弓を不引得人馬共に振ひ戦て、漢王の陣へぞ逃入ける。漢王疵を蒙て愈を待程に、其兵皆気を失ひしかば、戦毎に楚勝に不乗云事なし。是只范増が謀より出て、漢王常に囲まれしかば、陳平・張良等、如何にもして此范増を討んとぞ計りける。或時項王の使者漢王の方に来れり。陳平是に対面して、先酒を勧めんとしけるに、大の具へを為て山海の珍を尽し旨酒如泉湛て、沙金四万斤、珠玉・綾羅・錦綉以下の重宝、如山積上て、引出物にぞ置たりける。陳平が語る詞毎に、使者敢て不心得、黙然として答る事無りける時に、陳平詐驚て、「吾公を以て范増が使也と思て密事を語、今項王の使なる事を知て、悔るに益なし。是命を伝る者の誤也。」と云て、様々に積置ける引出物を皆取返し、大の具へを取入て、却て飢口にだにもあきぬべき、悪食をぞ具へける。使者帰て此由を項王に語る。項王是より范増が漢王と密儀を謀て、返忠をしけるよと疑て、是が権を奪て誅せん事を計る。
范増是を聞て、一言も遂に不陳謝。「天下の事大に定ぬ。君王自是を治め給へ。我已に年八十余、命の中に君が亡んを見ん事も可悲。只願は我首を刎て市朝に被曝歟、不然鴆毒を賜て死を早せん。」と請ければ、項王弥瞋て鴆毒を呑せらる。范増鴆を呑て後未三日を不過血を吐てこそ死にけれ。楚漢相戦て已に八箇年自相当る事七十余度に及ぶまで、天下楚を背といへ〔共〕、項羽度ごとに勝に乗し事は、只楚の兵の猛く勇めるのみに非ず。范増謀を出して民をはぐゝみ、士を勇め敵の気を察し、労せる兵を助け化を普く施して、人の心を和せし故也。されば范増死を賜し後、諸侯悉楚を負て漢に属せる者甚多し。漢楚共に陽の東に至て久相支へたる時に、漢は兵盛に食多して楚は兵疲れ食絶ぬ。此時漢の陸賈を楚に使して曰、「今日より後は天下を中分して、鴻溝より西をば漢とし東をば楚とせん。」と和を請給ふに、項王悦て其約を堅し給ふ。仍先に生取て戦の弱き時には、是を烹殺さんとせし漢王の父太公を緩して、漢へぞ送られける。軍勢皆万歳を呼ふ。角て楚は東に帰り漢は西に帰らんとしける時、陳平・張良共に漢王に申けるは、「漢今天下の太半を有て諸侯皆付順ふ。楚は兵罷て食尽たり。是天の楚を亡す時也。此時不討只虎を養て自患を遺侯者なるべし。」漢王此諌に付て即諸候に約し、三百余万騎の勢にて項王を追懸給ふ。項羽僅十万騎の勢を以て固陵に返し合て漢と相戦ふ。漢の兵四十余万人討れて引退く。是を聞て韓信、斉国の兵三十万騎を卒して、寿春より廻て楚と戦ふ。彭越、彭城の兵二十万騎を卒して、城父を経て楚の陣へ寄せ、敵の行前を遮て張陣。大司馬周殷、九江の兵十万騎を卒して、楚の陣へ押寄せ水を阻て取篭る。東南西北悉百重千重に取巻たれば、項羽可落方無て、垓下の城にぞ被篭ける。漢の兵是を囲める事数百重、四面皆楚歌するを聞て項羽今宵を限と思はれければ、美人虞氏に向て、泪を流し詩を作て悲歌慷慨し給ふ。虞氏悲に不堪、剣を給て自其刃に貫れて臥ければ、項羽今は浮世に無思事と悦て、夜明ければ、討残されたる兵二十八騎を伴ふて、先四面を囲みぬる漢の兵百万余騎を懸破り、烏江と云川の辺に打出給ひ、自泪を押て其兵に語て曰、「吾兵を起してより以来、八箇年の戦に、自逢事七十余戦、当る所は必破る、撃つ所は皆服す。未嘗より一度も不敗北遂に覇として天下を有てり。然共今勢ひ尽力衰へて漢の為に被亡ぬる事、全非戦罪只天我を亡す者也。故に今日の戦に、我必快く三度打勝て、而も漢の大将の頚を取、其旗を靡かして、誠に我言処の不誤事を汝等にしらすべし。」とて、二十八騎を四手に分、漢の兵百万騎を四方に受て控へたる処に、先一番に漢の将軍淮陰侯、三十万騎にて押寄たり。項羽二十八騎を迹に立て、真前に懸入て、自敵三百余騎斬て落し、漢大将の首を取て鋒に貫て、本の陣へ馳返り、山東にして見給へば、二十八騎の兵、八騎討れて二十騎に成にけり。其勢を又三所に控へさせて、近く敵を待懸たるに、孔将軍二十万騎、費将軍五十万騎にて東西より押寄たり。
項王又大に呼て山東より馳下、両陣の敵を四角八方へ懸散し、逃る敵五百余人を斬て落し、又大将都尉が頭を取、左の手に提て、本の陣へ馳返り、其兵を見給ふに纔七騎に成にけり。項羽自漢の大将軍三人の頭を鋒に貫て指揚、七騎の兵に向て、「何に汝等我言所に非ずや。」と問給へば、兵皆舌を翻て、「誠に大王の御言の如し。」と感じける。項羽已に五十余箇所疵を被てければ、「今は是までぞ、さらば自害をせん。」とて、烏江の辺に打臨給ふ。爰に烏江の亭の長と云者、舟を一艘漕寄せて、「此川の向は項王の御手に属して、所々の合戦に討死仕りし兵共の故郷にて候。地狭しといへ共其人数十万人あり。此舟より外は可渡浅瀬もなく、又橋もなし。漢の兵至る共、何を以てか渡る事を得ん。願は大王急ぎ渡て命をつぎ、重て大軍を動かして、天下を今一度覆し給へ。」と申ければ、項王大に哈て、「天我を亡せり。我何んか渡る事をせん。我昔江東の子弟八千人と此川を渡て秦を傾け、遂に天下に覇として賞未士卒に不及処に、又高祖と戦ふ事八箇年、今其子弟一人も還る者無して、我独江東に帰らば、縦江東の父兄憐で我を王とすとも、我何の面目有てか是に見ゆる事を得ん。彼縦不言共、我独心に不愧哉。」とて、遂に河を不渡給。され共、亭の長が其志を感じて、騅と云ける馬の一日に千里を翔るを、只今まで乗給ひたるを下て、亭の長にぞたびたりける。其後歩立に成て、只三人猶忿て立給へる所へ、赤泉侯騎将として二万余騎が真前に進み、項王を生取んと馳近付。項王眼を瞋し声を発して、「汝何者なれば我を討んとは近付ぞ。」と忿て立向給ふに、さしもの赤泉侯其人こそあらめ、意なき馬さへ振ひ戦て、小膝を折てぞ臥たりける。爰に漢の司馬呂馬童が遥に控たりけるを、項王手を挙て招き、「汝は吾年来の知音也。我聞、漢我頭を以て千金の報万戸の邑に購と、我今汝が為に頭を与て、朋友の恩を謝すべし。」と云。呂馬童泪を流して敢て項羽を討んとせず。項羽、「よしやさらば我と我頚を掻切て、汝に与へん。」とて、自剣を抜て己が首を掻落し、左の手に差挙て立すくみにこそ死給ひけれ。項王遂に亡て、漢七百の祚を保し事は、陣平・張良が謀にて、偽て和睦せし故也。其智謀今又当れり。然れば只直義入道が申旨に任て先御合体あらば、定て君を御位に即進せて、万機の政を四海に施されん歟。聖徳普して、士卒悉帰服し奉らば、其威忽に振て逆臣等を亡されんに、何の子細か候べき。」と、次での才学と覚へて、言ば巧に申されければ、諸卿げにもと同心して、即勅免の宣旨をぞ被下ける。被綸言云、温故知新者、明哲之所好也。撥乱復正者、良将之所先也。而不忘元弘之旧功奉帰皇天之景命、叡感之至、尤足褒賞。早揚義兵可運天下静謐之策。者綸旨如此、仍執達如件。正平五年十二月十三日左京権大夫正雄奉足利左兵衛督入道殿とぞ被成ける。是ぞ誠に君臣永不快の基、兄弟忽向背の初と覚へて、浅猿かりし世間なり。 
244 将軍親子御退失事付井原石窟事
将軍都へ立帰給て、桃井合戦に打負ぬれば、今は八幡の御敵共も、大略将軍へぞ馳参らんと、諸人推量を廻して、今はかうと思れけるに、案に相違して、十五日の夜半許に、京都の勢又大半落て八幡の勢にぞ加りける。「こはそも何事ぞ。戦に利あれば、御方の兵弥敵になる事は、よく早尊氏を背く者多かりける。角ては洛中にて再び戦を致し難し。暫く西国の方へ引退て、中国の勢を催し、東国の者共に牒し合て、却て敵を責ばや。」と、将軍頻に仰あれば、諸人、「可然覚へ候。」と同じて、正月十六日の早旦に丹波路を西へ落給ふ。昨日は将軍都に立帰て桃井戦に負しかば、洛中には是を悦び八幡には聞て悲む。今日は又将軍都を落給て桃井軈て入替ると聞へしかば、八幡には是を悦び洛中には潜に悲む。吉凶は糾る縄の如く。哀楽時を易たり。何を悦び何事を可歎共不定め。将軍は昨日都を東嶺の暁の霞と共に立隔り、今日は旅を山陰の夕の雲に引別て、西国へと赴き給ひけるが、名将一処に集らん事は計略なきに似たりとて、御子息宰相中将殿に、仁木左京大夫頼章・舎弟右京大夫義長を相副て二千余騎、丹波の井原石龕に止めらる。此寺の衆徒、元来無弐志を存せしかば、軍勢の兵粮、馬の糟藁に至るまで、如山積上たり。此所は岸高く峯聳て、四方皆嶮岨なれば、城郭の便りも心安く覚へたる上、荻野・波波伯部・久下・長沢、一人も不残馳参て、日夜の用心隙無りければ、他日窮困の軍勢共、只翰鳥のを出、轍魚の水を得たるが如くにて、暫く心をぞ休めける。相公登山し給し日より、岩室寺の衆徒、坐醒さずに勝軍毘沙門の法をぞ行ける。七日に当りたりし日、当寺の院主雲暁僧都、巻数を捧げて参けり。相公則僧都に対面し給て、当寺開山の事の起り、本尊霊験顕し給ひし様など、様々問ける次に、「さても何れの薩を帰敬し、何なる秘法を修してか、天下を静め大敵を亡す要術に叶ひ候べき。」と宣ひければ、雲暁僧都畏て申けるは、「凡、諸仏薩の利生方便区々にして、彼を是し此を非する覚へ、応用言ば辺々に候へば、何れをまさり何れを劣たりとは難申候へども、須弥の四方を領して、鬼門の方を守護し、摧伏の形を現じて、専ら勝軍の利を施し給ふ事は、昆沙門の徳にしくは候べからず。是我寺の本尊にて候へばとて、無謂申にて候はず。古玄宗皇帝の御宇、天宝十二年に安西と申所に軍起て、数万の官軍戦ふ度毎に打負ずと云事なし。「今は人力の及処に非ず如何がすべき。」と玄宗有司に問給ふに、皆同く答て申さく、「是誠に天の擁護に不懸ば静むる事を難得。只不空三蔵を召れて、大法を行せらるべき歟。」と申ける間、帝則不空三蔵を召て昆沙門の法を行せられけるに、一夜の中に鉄の牙ある金鼠数百万安西に出来て、謀叛人の太刀・々・甲・胄・矢の筈・弓の弦に至まで、一も不残食破り食切、剰人をさへ咀殺し候ける程に、凶徒是を防ぎかねて、首をのべて軍門に降しかば、官軍矢の一をも不射して若干の賊徒を平げ候き。又吾朝に朱雀院の御宇に、金銅の四天王を天台山に安置し奉て、将門を亡されぬ。聖徳太子昆沙門の像を刻て、甲の真甲に戴て、守屋の逆臣を誅せらる。此等の奇特世の知処、人の仰ぐ処にて候へば、御不審あるべきに非ず。然るに今武将幸に多門示現の霊地に御陣を召れ候事、古の佳例に違まじきにて候へば、天下を一時に静られて、敵軍を千里の外に掃はれ候ん事、何の疑か候べき。」と、誠憑し気に被申たりければ、相公信心を発れて、丹波国小川庄を被寄附、永代の寺領にぞ被成ける。 
251 師直以下被誅事付仁義血気勇者事
同二十六日に、将軍已に御合体にて上洛し給へば、執事兄弟も、同遁世者に打紛て、無常の岐に策をうつ。折節春雨しめやかに降て、数万の敵此彼に控たる中を打通れば、それよと人に被見知じと、蓮の葉笠を打傾け、袖にて顔を引隠せ共、中々紛れぬ天が下、身のせばき程こそ哀なれ。将軍に離れ奉ては、道にても何なる事かあらんずらんと危て少しもさがらず、馬を早めて打けるを、上杉・畠山の兵共、兼て儀したる事なれば、路の両方に百騎、二百騎、五十騎、三十騎、処々に控へて待ける者共、すはや執事よと見てければ、将軍と執事とのあはいを次第に隔んと鷹角一揆七十余騎、会尺色代もなく、馬を中へ打こみ/\しける程に、心ならず押隔られて、武庫川の辺を過ける時は、将軍と執事とのあはひ、河を隔山を阻て、五十町許に成にけり。哀なる哉、盛衰刹那の間に替れる事、修羅帝釈の軍に負て、藕花の穴に身を隠し、天人の五衰の日に逢て、歓喜苑にさまよふ覧も角やと被思知たり。此人天下の執事にて有つる程は、何なる大名高家も、其えめる顔を見ては、千鍾の禄、万戸の侯を得たるが如く悦び、少しも心にあはぬ気色を見ては、薪を負て焼原を過ぎ、雷を戴て大江を渡が如恐れき。何況将軍と打双て、馬を進め給はんずる其中へ、誰か隔て先立人有べきに、名も知ぬ田舎武士、無云許人の若党共に押隔られ/\、馬ざくりの水を蹴懸られて、衣深泥にまみれぬれば、身を知る雨の止時なく、泪や袖をぬらすらん。執事兄弟武庫川を打渡て、小堤の上を過ける時、三浦八郎左衛門が中間二人走寄て、「此なる遁世者の、顔を蔵すは何者ぞ。其笠ぬげ。」とて、執事の著られたる蓮葉笠を引切て捨るに、ほうかぶりはづれて片顔の少し見へたるを、三浦八郎左衛門、「哀敵や、所願の幸哉。」と悦て、長刀の柄を取延て、筒中を切て落さんと、右の肩崎より左の小脇まで、鋒さがりに切付られて、あつと云処を、重て二打うつ、打れて馬よりどうど落ければ、三浦馬より飛で下り、頚を掻落して、長刀の鋒に貫て差上たり。越後入道は半町許隔たりて打けるが、是を見て馬を懸のけんとしけるを、迹に打ける吉江小四郎、鑓を以て胛骨より左の乳の下へ突徹す。突れて鑓に取付、懐に指たる打刀を抜んとしける処に、吉江が中間走寄、鐙の鼻を返して引落す。落れば首を掻切て、あぎとを喉へ貫、とつ付に著馳て行。高豊前五郎をば、小柴新左衛門是を討。高備前守をば、井野弥四郎組で落て首を取る。越後将監をば、長尾彦四郎先馬の諸膝切て、落る所を二太刀うつ。打れて少弱る時、押へて軈て首を切る。遠江次郎をば小田左衛門五郎切て落す。山口入道をば小林又次郎引組で差殺す。彦部七郎をば、小林掃部助後より太刀にて切けるに、太刀影に馬驚て深田の中へ落にけり。彦部引返て、「御方はなきか、一所に馳寄て、思々に討死せよ。」と呼りけるを、小林が中間三人走寄て、馬より倒に引落し踏へて首を切て、主の手にこそ渡しけれ。梶原孫六をば佐々宇六郎左衛門是を打。山口新左衛門をば高山又次郎切て落す。梶原孫七は十余町前に打けるが、跡に軍有て執事の討れぬるやと人の云けるを聞て、取て返して打刀を抜て戦けるが、自害を半にしかけて、路の傍に伏たりけるを、阿佐美三郎左衛門、年来の知音なりけるが、人手に懸んよりはとて、泣々首を取てけり。鹿目平次左衛門は、山口が討るゝを見て、身の上とや思けん、跡なる長尾三郎左衛門に抜て懸りけるを、長尾少も不騒、「御事の身の上にては候はぬ者を、僻事し出して、命失はせ給ふな。」と云れて、をめ/\と太刀を指て、物語して行けるを、長尾中間にきつと目くはせしたれば、中間二人鹿目が馬につひ傍て、「御馬の沓切て捨候はん。」とて、抜たる刀を取直し、肘のかゝりを二刀刺て、馬より取て引落し、主に首をばかゝせけり。
河津左衛門は、小清水の合戦に痛手を負たりける間、馬には乗得ずして、塵取にかゝれて、遥の迹に来けるが、執事こそ已に討れさせ給つれと、人の云を聞て、とある辻堂の有けるに、輿を舁居させ、腹掻切て死にけり。執事の子息武蔵五郎をば、西左衛門四郎是を生虜て、高手小手に禁て、其日の暮をぞ相待ける。此人は二条前関白太臣の御妹、無止事御腹に生れたりしかば、貌容人に勝れ心様優にやさしかりき。されば将軍も御覚へ異于他、世人ときめき合へる事限なし。才あるも才なきも、其子を悲むは人の父たる習なり。況乎最愛の子なりしかば、塵をも足に蹈せじ荒き風にもあてじとて、あつかい、ゝつき、かしづきしに、いつの間に尽終たる果報ぞや。年未十五に不満、荒き武士に生虜て、暮を待間の露の命、消ん事こそ哀なれ。夜に入ければ、誡たる縄をときゆるして已に切んとしけるが、此人の心の程をみんとて、「命惜く候はゞ、今夜速に髻を切て僧か念仏衆かに成せ給て、一期心安く暮らさせ給へ。」と申ければ、先其返事をばせで、「執事は何と成せ給て候とか聞へ候。」と問ければ、西左衛門四郎、「執事は早討れさせ給て候也。」と答ふ。「さては誰が為にか暫の命をも惜み候べき。死手の山三途大河とかやをも、共に渡らばやと存候へば、只急ぎ首を被召候へ。」と、死を請て敷皮の上に居直れば、切手泪を流して、暫しは目をも不持上、後ろに立て泣居たり。角てさてあるべきにあらねば、西に向念仏十遍許唱て、遂に首を打落す。小清水の合戦の後、執事方の兵共十方に分散して、残る人なしと云ながら、今朝松岡の城を打出るまでは、まさしく六七百騎もありと見しに、此人々の討るゝを見て何ちへか逃隠れけん、今討るゝ処十四人の外は、其中間下部に至るまで、一人もなく成にけり。十四人と申も、日来皆度々の合戦に、名を揚力を逞しくしたる者共なり。縦運命尽なば始終こそ不叶共、心を同して戦はゞ、などか分々の敵に合て死せざるべきに、一人も敵に太刀を打著たる者なくして、切ては被落押へては頚を被掻、無代に皆討れつる事、天の責とは知ながら、うたてかりける不覚哉。夫兵は仁義の勇者、血気の勇者とて二つあり。血気の勇者と申は、合戦に臨毎に勇進んで臂を張り強きを破り堅きを砕く事、如鬼忿神の如く速かなり。然共此人若敵の為に以利含め、御方の勢を失ふ日は、逋るに便あれば、或は降下に成て恥を忘れ、或は心も発らぬ世を背く。如此なるは則是血気の勇者也。仁義の勇者と申は必も人と先を争い、敵を見て勇むに高声多言にして勢を振ひ臂を張ざれ共、一度約をなして憑れぬる後は、弐を不存ぜ心不変して臨大節志を奪れず、傾所に命を軽ず。如此なるは則仁義の勇者なり。今の世聖人去て久く、梟悪に染ること多ければ、仁義の勇者は少し。血気の勇者は是多し。されば異朝には漢楚七十度の戦、日本には源平三箇年の軍に、勝負互に易しか共、誰か二度と降下に出たる人あるべき。今元弘以後君と臣との争に、世の変ずる事僅に両度に不過、天下の人五度十度、敵に属し御方になり、心を変ぜぬは稀なり。故に天下の争ひ止時無して、合戦雌雄未決。是を以て、今師直・師泰が兵共の有様を見るに、日来の名誉も高名も、皆血気にほこる者なりけり。さらずはなどか此時に、千騎二千騎も討死して、後代の名を挙ざらん。仁者必有勇、々者必不仁と、文宣王の聖言、げにもと被思知たり。 
260 新田起義兵事
吉野殿武家に御合体有つる程こそ、都鄙暫く静也つれ。御合体忽に破て、合戦に及し後、畿内・洛中は僅に王化に随といへ共、四夷八蛮は猶武威に属する者多かりけり。依之諸国七道の兵彼を討ち是を従へんと互に威を立る間、合戦の止時もなし。已闘諍堅固に成ぬれば、是ならずとも静なるまじき理也。元弘建武の後より、天下久く乱て、一日も未不治。心あるも心無も、如何なる山の奥もがなと、身の穏家を求ぬ方もなけれど、何くも同じ憂世なれば、厳子陵が釣台も脚を伸るに水冷く、鄭大尉が幽栖も薪を担ふに山嶮し。如何なる一業所感にか、斯る乱世に生れ逢て、或は餓鬼道の苦を乍生受、或は脩羅道の奴と不死前に成ぬらんと、歎かぬ人は無りけり。此時、故新田左中将義貞の次男左兵衛佐義興・三男少将義宗・従父兄弟左衛門佐義治三人、武蔵・上野・信濃・越後の間に、在所を定めず身を蔵て、時を得ば義兵を起さんと企て居たりける処へ、吉野殿未住吉に御坐有し時、由良新左衛入道信阿を勅使にて、「南方と義詮と御合体の事は暫時の智謀也と聞ゆる処也。仍節に迷ひ時を過すべからず。早義兵を起て、将軍を追討し、宸襟を休め奉るべし。」とぞ被仰下ける。信阿急ぎ東国へ下て、三人の人々に逢て事の子細を相触ける間、さらば軈て勢を相催せとて、廻文を以て東八箇国を触廻るに、同心の族八百人に及べり。中にも石堂四郎入道は、近年高倉殿に属して、薩山の合戦に打負て、無甲斐命計を被助、鎌倉に有けるが、大将に憑たる高倉禅門は毒害せられぬ。我とは事を不起得。哀謀反を起す人のあれかし、与力せんと思ひける処に、新田兵衛佐・同少将の許より内状を通じて、事の由を知せたりければ、流れに棹と悦て、軈て同心してけり。又三浦介・葦名判官・二階堂下野二郎・小俣宮内少輔も高倉殿方にて、薩山の合戦に打負しかば、降人に成て命をば継たれども、人の見る処、世の聞処、口惜き者哉、哀謀反を起さばやと思ける処に、新田武蔵守・同左衛門佐の方より、憑み思ふよしを申たりければ、願ふ処の幸哉と悦て、則与力して、此人々密に扇谷に寄合て評定しけるは、「新田の人々旗を挙て上野国に起り、武蔵国へ打越ると聞へば、将軍は定て鎌倉にてはよも待給はじ、関戸・入間河の辺に出合てぞ防ぎ給はんずらん。我等五六人が勢何にと無とも、三千騎はあらんずらん。将軍戦場に打出給はんずる時、態と馬廻りに扣て、合戦已に半ばならんずる最中、将軍を真中に取篭奉り、一人も不残打取て後に御陣へは参候べし。」と、新田の人々の方へ相図を堅く定て、石堂入道・三浦介・小俣・葦名は、はたらかで鎌倉にこそ居たりけれ。諸方の相図事定りければ、新田武蔵守義宗・左兵衛佐義治、閏二月八日、先手勢八百余騎にて、西上野に打出らる。是を聞て国々より馳参ける当家他門の人々、先一族には、江田・大館・堀口・篠塚・羽河・岩松・田中・青竜寺・小幡・大井田・一井・世良田・篭沢、外様には宇都宮三河三郎・天野民部大輔政貞・三浦近江守・南木十郎・西木七郎・酒勾左衛門・小畑左衛門・中金・松田・河村・大森・葛山・勝代・蓮沼・小磯・大磯・酒間・山下・鎌倉・玉縄・梶原・四宮・三宮・南西・高田・中村、児玉党には浅羽・四方田・庄・桜井・若児玉、丹の党には安保信濃守・子息修理亮・舎弟六郎左衛門・加治豊後守・同丹内左衛門・勅使河原丹七郎・西党・東党・熊谷・太田・平山・私市・村山・横山・猪俣党、都合其勢十万余騎、所々に火を懸て、武蔵国へ打越る。依之武蔵・上野より早馬を打て鎌倉へ急を告る事、櫛の歯を引が如し。
「さて敵の勢は何程有ぞ。」と問へば、使者ども皆、「二十万騎には劣候はじ。」とぞ答ける。仁木・細川の人々是を聞て、「さてはゆゝしき大事ごさんなれ。鎌倉中の勢、千騎にまさらじと覚也。国々の軍勢は縦参る共、今の用には難立。千騎に足らぬ御勢を以て、敵の二十万騎を防ん事は、可叶共覚候はず。只先安房・上総へ開せ給て、御勢を付て御合戦こそ候はめ。」と被申けるを、将軍つく/゛\と聞給て、「軍の習、落て後利ある事千に一の事也。勢を催さん為に、安房・上総へ落なば、武蔵・相摸・上野・下野の者共は、縦尊氏に志有共、敵に隔られて御方に成事あるべからず。又尊氏鎌倉を落たりと聞かば、諸国に敵に成者多かるべし。今度に於ては、縦少勢なりとも、鎌倉を打出て敵を道に待て、戦を決せんには如じ。」とて、十六日の早旦に、将軍僅に五百余騎の勢を率し、敵の行合んずる所までと、武蔵国へ下り給ふ。鎌倉より追著奉る人々には、畠山上野・子息伊豆守・畠山左京大夫・舎弟尾張守・舎弟大夫将監・其次式部大夫・仁木左京大夫・舎弟越後守・三男修理亮・岩松式部大夫・大島讃岐守・石堂左馬頭・今河五郎入道・同式部大夫・田中三郎・大高伊予守・同土佐修理亮・太平安芸守・同出羽守・宇津木平三・宍戸安芸守・山城判官・曾我兵庫助・梶原弾正忠・二階堂丹後守・同三郎左衛門・饗庭命鶴・和田筑前守・長井大膳大夫・同備前守・同治部少輔・子息右近将監等也。元より隠謀有しかば、石堂入道・三浦介・小俣少輔次郎・葦名判官・二階堂下野次郎、其勢三千余騎は、他勢を不交、将軍の御馬の前後に透間もなくぞ打たりける。久米河に一日逗留し給へば、河越弾正少弼・同上野守・同唐戸十郎左衛門・江戸遠江守・同下野守・同修理亮・高坂兵部大輔・同下野守・同下総守・同掃部助・豊島弾正左衛門・同兵庫助・土屋備前守・同修理亮・同出雲守・同肥後守・土肥次郎兵衛入道・子息掃部助・舎弟甲斐守・同三郎左衛門・二宮但馬守・同伊豆守・同近江守・同河内守・曾我周防守・同三河守・同上野守・子息兵庫助・渋谷木工左衛門・同石見守・海老名四郎左衛門・子息信濃守・舎弟修理亮・小早河刑部大夫・同勘解由左衛門・豊田因幡守・狩野介・那須遠江守・本間四郎左衛門・鹿島越前守・島田備前守・浄法寺左近大夫・白塩下総守・高山越前守・小林右馬助・瓦葺出雲守・見田常陸守・古尾谷民部大輔・長峯石見守・都合其勢八万余騎、将軍の陣へ馳参る。已に明日矢合と定められたりける夜、石堂四郎入道、三浦介を呼のけて宣ひけるは、「合戦已に明日と定められたり。此間相謀つる事を、子息にて候右馬頭に、曾て知せ候はぬ間、此者一定一人残止て、将軍に討れ進せつと覚候。一家の中を引分て、義卒に与し、老年の頭に胄を戴くも、若望み達せば、後栄を子孫に残さんと存ずる故也。されば此事を告知せて、心得させばやと存ずるは如何が候べき。」と問給ひければ、三浦、「げにも是程の事を告進せられざらんは、可有後悔覚候。急知せ進らせ給へ。」と申ける間、石堂禅門、子息右馬頭を呼て、「我薩山の合戦に打負て、今降人の如くなれば、仁木・細川等に押すへられて、人数ならぬ有様御辺も定て遺恨にぞ思らん。明日の合戦に、三浦介・葦名判官・二階堂の人々と引合て、合戦の最中将軍を討奉り、家運を一戦の間に開かんと思也。相構て其旨を心得て、我旗の趣に可被順。」と云れければ、右馬頭大に気色を損じて、「弓矢の道弐ろあるを以て恥とす。人の事は不知、於某は将軍に深く憑れ進せたる身にて候へば、後矢射て名を後代に失はんとは、えこそ申まじけれ。兄弟父子の合戦古より今に至まで無き事にて候はず。何様三浦介・葦名判官、隠謀の事を将軍に告申さずは大なる不忠なるべし。父子恩義已に絶候ぬる上は、今生の見参は是を限りと思召候へ。」と、顔を赤め腹を立て、将軍の御陣へぞ被参ける。父の禅門大に興を醒して、急ぎ三浦が許に行て、「父の子を思ふ如く、子は父を思はぬ者にて候けり。此事右馬頭に不知、敵の中に残て討れもやせんずらんと思ふ悲さに、告知せて候へば、以外に気色を損じて、此事将軍に告申さでは叶まじきとて、帰候つるは如何。此者が気色、よも告申さぬ事は候はじ、如何様軈て討手を向られんと覚候。いざゝせ給へ。今夜我等が勢を引分て、関戸より武蔵野へ回て、新田の人々と一になり、明日の合戦を致候はん。」と宣ひければ、多日の謀忽に顕れて、却て身の禍に成ぬと恐怖して、三浦・葦名・二階堂手勢三千余騎を引分、寄手の勢に加らんと関戸を廻て落行。是ぞはや将軍の御運尽ざる所なれ。 
 

 

272 直冬上洛事付鬼丸鬼切事
南方に再往の評定有て、足利右兵衛佐直冬を大将として京都を可攻由、綸旨を被成ければ、山名伊豆守時氏・子息右衛門佐師氏、五千余騎の勢を卒して、文和三年十二月十三日伯耆国を立給ふ。山陰道悉順付て兵七千騎に及びしかば、但馬国より杉原越に播磨へ打て出、先宰相中将義詮の鵤の宿にをはするをや打散す、又直に丹波へ懸て、仁木左京太夫頼章が佐野の城に楯篭て、我等を支へんとするをや打落すと、評定しける処へ、越中の桃井播磨守直常・越前修理大夫高経の許より飛脚同時に到来して、只急ぎ京都へ攻上られ候へ。北国の勢を引て、同時に可攻上由を牒せられける間、さらば夜を日に継で上んとて、山名父子七千六百余騎、前後十里に支て丹波国を打通るに、仁木左京大夫頼章当国の守護として敵を支ん為に在国したる上、今は将軍の執事として勢ひ人に超たれば、丹波国にて定て火を散す程の合戦五度も十度もあらんずらんと覚へけるに、敵の勇鋭を見て戦ては中々叶はじとや思ひけん、遂に矢の一をも不射懸して城の麓をのさ/\と通しければ、敵の嘲るのみならず天下の口遊とぞ成にける。都に有とある程の兵をば義詮朝臣に付て播磨へ被下、遠国の勢は未上らず。将軍僅なる小勢にて京中の合戦は中々悪かりぬと、思慮旁深かりければ、直冬已に大江山を超ると聞へしかば、正月十二日の暮程に、将軍主上を取奉て江州武作寺へ落給ふ。抑此君御位に即せ給て後、未三年を不過、二度都を落させ給ひ、百官皆他郷の雲に吟ひ給ふ、浅猿かりし世中なり。去程に同十三日、直冬都に入給へば、越中の桃井・越前修理大夫、三千余騎にて上洛す。直冬朝臣此七八箇年、依継母讒那辺這辺漂泊し給つるが、多年の蟄懐一時に開けて今天下の武士に仰れ給へば、只年に再び花さく木の、其根かるゝは未知、春風三月、一城の人皆狂するに不異。抑山名伊豆守は、若狭所領の事に付て宰相中将殿に恨あり。桃井播磨守は、故高倉禅門に属して望を不達憤あれば、此両人の敵に成給ひぬる事は少し其謂も有べし。尾張修理大夫高経は忠戦自余の一門に超しに依て、将軍も抽賞異于他にして世其仁を重くせしかば、何事に恨有べし共覚ぬに、俄に今敵に成て将軍の世を傾んとし給ふ事、何の遺恨ぞと事の起りを尋ぬれば、先年越前の足羽の合戦の時、此高経朝敵の大将新田左中将義貞を討て、源平累代の重宝に鬼丸・鬼切と云二振の太刀を取給ひたりしを、将軍使者を以て、「是は末々の源氏なんど可持物に非ず、急ぎ是を被渡候へ。当家の重宝として嫡流相伝すべし。」と度々被仰けるを、高経堅く惜て、「此二振の太刀をば長崎の道場に預置て候しを、彼道場炎上の時焼て候。」とて、同じ寸の太刀を二振取替て、焼損じてぞ出されける。此事有の侭に京都へ聞へければ、将軍大に忿て、朝敵の大将を討たりつる忠功抜群也といへ共さまでの恩賞をも不被行、触事に面目なき事共多かりける間、高経是を憤て、故高倉禅門の謀叛の時も是に与し、今直冬の上洛にも力を合て、攻上り給ひたりとぞ聞へける。抑此鬼丸と申太刀は、北条四郎時政天下を執て四海を鎮めし後、長一尺許なる小鬼夜々時政が跡枕に来て、夢共なく幻共なく侵さんとする事度々也。修験の行者加持すれ共不休。陰陽寮封ずれ共不立去。剰へ是故時政病を受て、身心苦む事隙なし。或夜の夢に、此太刀独の老翁に変じて告て云く、「我常に汝を擁護する故に彼夭怪の者を退けんとすれば、汚れたる人の手を以て剣を採りたりしに依て、金精身より出て抜んとすれ共不叶。早く彼夭怪の者を退けんとならば、清浄ならん人をして我身の金清を拭ふべし。」と委く教へて、老翁は又元の太刀に成ぬとぞ見たりける。
時政夙に起て、老翁の夢に示しつる如く、或侍に水を浴せて此太刀の金精を拭はせ、未鞘にはさゝで、臥たる傍の柱にぞ立掛たりける。冬の事なれば暖気を内に篭んとて火鉢を近く取寄たるに、居たる台を見れば、銀を以て長一尺許なる小鬼を鋳て、眼には水晶を入、歯には金をぞ沈めたる。時政是を見るに、此間夜な/\夢に来て我を悩しつる鬼形の者は、さも是に似たりつる者哉と、面影ある心地して守り居たる処に、抜て立たりつる太刀俄に倒れ懸りて、此火鉢の台なる小鬼の頭をかけず切てぞ落したる。誠に此鬼や化して人を悩しけん、時政忽に心地直りて、其後よりは鬼形の者夢にも曾て見へざりけり。さてこそ此太刀を鬼丸と名付て、高時の代に至るまで身を不放守りと成て平氏の嫡家に伝りける。相摸入道鎌倉の東勝寺にて自害に及ける時、此太刀を相摸入道の次男少名亀寿に家の重宝なればとて取せて、信濃国へ祝部を憑て落行。建武二年八月に鎌倉の合戦に打負て、諏防三河守を始として宗との大名四十余人大御堂の内に走入、顔の皮をはぎ自害したりし中に此太刀有ければ、定相摸次郎時行も此中に腹切てぞ有らんと人皆哀に思合へり。其時此太刀を取て新田殿に奉る。義貞不斜悦て、「是ぞ聞ゆる平氏の家に伝へたる鬼丸と云重宝也。」と秘蔵して持れける剣也。是は奥州宮城郡の府に、三の真国と云鍜冶、三年精進潔斎して七重にしめを引、きたうたる剣なり。又鬼切と申は、元は清和源氏の先祖摂津守頼光の太刀にてぞ有ける。其昔大和国宇多郡に大森あり。此陰に夜な/\妖者有て、往来の人を採食ひ、牛馬六畜を掴裂く。頼光是を聞て、郎等に渡辺源五綱と云ける者に、彼の妖者討て参れとて、秘蔵の太刀をぞたびたりける。綱則宇多郡に行き甲胃を帯して、夜々件の森の陰にぞ待たりける。此妖者綱が勢にや恐たりけん、敢て眼に遮る事なし。さらば形を替て謀らんと思て、髪を解乱して掩ひ、鬘をかけ、かね黒に太眉を作り、薄衣を打かづきて女の如くに出立て、朧月夜の明ぼのに、森の下をぞ通りける。俄に空掻曇て、森の上に物の立翔る様に見へけるが、虚空より綱が髪を掴で中に提てぞ挙たりける。綱、頼光の許より給りたる太刀を抜て、虚空を払斬にぞ切たりける。雲の上に唖と云声して、血の颯と顔に懸りけるが、毛の黒く生たる手の、指三有て爪の鉤たるを、二の腕よりかけず切てぞ落しける。綱此手を取て頼光に奉る。頼光是を秘して、朱の唐櫃に収て置れける後、夜々をそろしき夢を見給ける間、占夢の博士に夢を問給ければ、七日が間の重き御慎とぞ占ひ申ける。依之堅門戸を閉て、七重に七五三を引四門に十二人の番衆を居て、毎夜宿直蟇目をぞ射させける。物忌已に七日に満じける夜、河内国高安の里より、頼光の母義をはして門をぞ敲せける。物忌の最中なれ共、正しき老母の、対面の為とて渺々と来り給たれば、力なく門を開て、内へいざなひ入奉て、終夜の酒宴にぞ及びける。頼光酔に和して此事を語り出されたるに、老母持たる盃を前に閣き、「穴をそろしや、我傍の人も此妖物に取れて、子は親に先立、婦は夫に別れたる者多く候ぞや。さても何なる者にて候ぞ。哀其手を見ばや。」と被所望ければ、頼光、「安き程の事にて候。」とて、櫃の中より件の手を取出して老母の前にぞ閣ける。母是を取て、暫く見る由しけるが、我右の手の臂より切られたるを差出して、「是は我手にて候ける。」と云て差合、忽に長二丈計なる牛鬼と成て、酌に立たりける綱を左の手に乍提、頼光に走蒐りける。
頼光件の太刀を抜て、牛鬼の頭をかけず切て落す。其頭中に飛揚り、太刀の鋒を五寸喰切て口に乍含、半時許跳上り/\吠忿りけるが、遂には地に落て死にけり。其形は尚破風より飛出て、遥の天に上りけり。今に至るまで渡辺党の家作に破風をせざるは此故也。其比修験清浄の横川の僧都覚蓮を請じ奉て、壇上に此太刀を立、七五三を引、七日加持し給ければ、鋒五寸折たりける剣に、天井よりくりから下懸て鋒を口にふくみければ、乍に如元生出にけり。其後此の太刀多田満仲が手に渡て、信濃国戸蔵山にて又鬼を切たる事あり。依之其名を鬼切と云なり。此太刀は、伯耆国会見郡に大原五郎太夫安綱と云鍜冶、一心清浄の誠を至し、きたひ出したる剣也。時の武将田村の将軍に是を奉る。此は鈴鹿の御前、田村将軍と、鈴鹿山にて剣合の剣是也。其後田村丸、伊勢大神宮へ参詣の時、大宮より夢の告を以て、御所望有て御殿に被納。其後摂津守頼光、太神宮参詣の時夢想あり。「汝に此剣を与る。是を以て子孫代々の家嫡に伝へ、天下の守たるべし。」と示給ひたる太刀也。されば源家に執せらるゝも理なり。 
275 八幡御託宣事
爰にて落集たる勢を見れば五万騎に余れり。此上に伊賀・伊勢・和泉・紀伊国の勢共、猶馳集るべしと聞へしかば、暫此勢を散さで今一合戦可有歟と、諸大将の異見区也けるを、直冬朝臣、「許否凡慮の及ぶ処に非ず。八幡の御宝前にして御神楽を奏し、託宣の言に付て軍の吉凶を知べし。」とて、様々の奉幣を奉り、蘋を勧て、則神の告をぞ待れける。社人の打つ鼓の声、きねが袖ふる鈴の音、深け行月に神さびて、聞人信心を傾たり。託宣の神子、啓白の句、言ば巧みに玉を連ねて、様々の事共を申けるが、たらちねの親を守りの神なれば此手向をば受る物かはと一首の神歌をくり返し/\二三反詠じて、其後御神はあがらせ給にけり。諸大将是を聞て、さては此兵衛佐殿を大将にて将軍と戦はん事は、向後も叶まじかりけりとて、東山・北陸の勢は、駒に策をうち己が国々へ馳下り、山陰・西海の兵は、舟に帆を揚て落て行。誠に征罰の法、合戦の体は士卒に有といへ共、雌雄は大将に依る者也。されば周の武王は木主を作て殷の世を傾け、漢高祖は、義帝を尊て秦の国を滅せし事、旧記の所載誰か是を不知。直冬是何人ぞや、子として父を攻んに、天豈許す事あらんや。始め遊和軒の朴翁が天竺・震旦の例を引て、今度の軍に宮方勝事を難得と、眉を顰て申しを、げにも理なりけりとは、今社思ひ知れたれ。東寺落て翌の日、東寺の門にたつ。兔に角に取立にける石堂も九重よりして又落にけり深き海高き山名と頼なよ昔もさりし人とこそきけ唐橋や塩の小路の焼しこそ桃井殿は鬼味噌をすれ 
279 将軍御逝去事
同年四月二十日、尊氏卿背に癰瘡出て、心地不例御坐ければ、本道・外科の医師数を尽して参集る。倉公・華他が術を尽し、君臣佐使の薬を施し奉れ共更無験。陰陽頭・有験の高僧集て、鬼見・太山府君・星供・冥道供・薬師の十二神将法・愛染明王・一字文殊・不動慈救延命の法、種々の懇祈を致せ共、病日に随て重くなり、時を添て憑少く見へ給ひしかば、御所中の男女機を呑み、近習の従者涙を押へて、日夜寝食を忘たり。懸りし程に、身体次第に衰へて、同二十九日寅刻、春秋五十四歳にて遂に逝去し給けり。さらぬ別の悲さはさる事ながら、国家の柱石摧けぬれば、天下今も如何とて、歎き悲む事無限。さて可有非ずとて、中一日有て、衣笠山の麓等持院に葬し奉る。鎖龕は天竜寺の竜山和尚、起龕は南禅寺の平田和尚、奠茶は建仁寺の無徳和尚、奠湯は東福寺の鑑翁和尚、下火は等持院の東陵和尚にてぞをはしける。哀なる哉、武将に備て二十五年、向ふ処は必順ふといへ共、無常の敵の来るをば防ぐに其兵なし。悲哉、天下を治て六十余州、命に随ふ者多しといへ共、有為の境を辞するには伴て行く人もなし。身は忽に化して暮天数片の煙と立上り、骨は空く留て卵塔一掬の塵と成にけり。別れの泪掻暮て、是さへとまらぬ月日哉。五旬無程過ければ、日野左中弁忠光朝臣を勅使にて、従一位左大臣の官を贈らる。宰相中将義詮朝臣、宣旨を啓て三度拝せられけるが、涙を押へて、帰べき道しなければ位山上るに付てぬるゝ袖かなと被詠けるを、勅使も哀なる事に聞て、有の侭に奏聞しければ、君無限叡感有て、新千載集を被撰けるに、委細の事書を載られて、哀傷の部にぞ被入ける。勅賞の至り、誠に忝かりし事共なり。 
283 新田左兵衛佐義興自害事
去程に尊氏卿逝去あつて後、筑紫は加様に乱れぬといへ共、東国は未静也。爰に故新田左中将義貞の子息左兵衛佐義興・其弟武蔵少将義宗・故脇屋刑部卿義助子息右衛門佐義治三人、此三四年が間越後国に城郭を構へ半国許を打随へて居たりけるを、武蔵・上野の者共の中より、無弐由の連署の起請を書て、「両三人の御中に一人東国へ御越候へ。大将にし奉て義兵を揚げ候はん。」とぞ申たりける。義宗・義治二人は思慮深き人也ければ、此比の人の心無左右難憑とて不被許容。義興は大早にして、忠功人に先立たん事をいつも心に懸て思はれければ、是非の遠慮を廻さるゝまでもなく、纔に郎従百余人を行つれたる旅人の様に見せて、窃に武蔵国へぞ越られける。元来張本の輩は申に不及、古へ新田義貞に忠功有し族、今畠山入道々誓に恨を含む兵、窃に音信を通じ、頻に媚を入て催促に可随由を申者多かりければ、義興今は身を寄る所多く成て、上野・武蔵両国の間に其勢ひ漸萌せり。天に耳無といへ共是を聞に人を以てする事なれば、互に隠密しけれ共、兄は弟に語り子は親に知せける間、此事無程鎌倉の管領足利左馬頭基氏朝臣・畠山入道々誓に聞へてげり。畠山大夫入道是を聞しより敢て寝食を安くせず、在所を尋聞て大勢を差遣せば、国内通計して行方を不知。又五百騎三百騎の勢を以て、道に待て夜討に寄て討んとすれば、義興更に事共せず、蹴散しては道を通り打破ては囲を出て、千変万化総て人の態に非ずと申ける間、今はすべき様なしとて、手に余りてぞ覚へける。さても此事如何がすべきと、畠山入道々誓昼夜案じ居たりけるが、或夜潜に竹沢右京亮を近付て、「御辺は先年武蔵野の合戦の時、彼の義興の手に属して忠ありしかば、義興も定て其旧好を忘れじとぞ思はるらん。されば此人を忻て討んずる事は、御辺に過たる人可有。何なる謀をも運して、義興を討て左馬頭殿の見参に入給へ。恩賞は宜依請に。」とぞ語れける。竹沢は元来欲心熾盛にして、人の嘲をも不顧古への好みをも不思、無情者也ければ、曾て一義をも申さず。「さ候はゞ、兵衛佐殿の疑を散じて相近付候はん為に、某態御制法候はんずる事を背て御勘気を蒙り、御内を罷出たる体にて本国へ罷下て後、此人に取寄り候べし。」と能々相謀て己が宿所へぞ帰ける。兼て謀りつる事なれば、竹沢翌日より、宿々の傾城共を数十人呼寄て、遊び戯れ舞歌。是のみならず、相伴ふ傍輩共二三十人招集て、博奕を昼夜十余日までぞしたりける。或人是を畠山に告知せたりければ、畠山大に偽り忿て、「制法を破る罪科非一、凡破道理法はあれども法を破る道理なし。況や有道の法をや。一人の科を誡るは万人を為助也。此時緩に沙汰致さば、向後の狼籍不可断。」とて、則竹沢が所帯を没収して其身を被追出けり。竹沢一言の陳謝にも不及、「穴こと/゛\し、左馬頭殿に仕はれぬ侍は身一は過ぬ歟。」と、飽まで広言吐散して、己が所領へぞ帰にける。角て数日有て竹沢潜に新田兵衛佐殿へ人を奉て申けるは、「親にて候し入道、故新田殿の御手に属し、元弘の鎌倉合戦に忠を抽で候き。某又先年武蔵野の御合戦の時、御方に参て忠戦致し候し条、定て思召忘候はじ。
其後は世の転変度々に及て、御座所をも存知仕らで候つる間、無力暫くの命を助て御代を待候はん為に、畠山禅門に属して候つるが、心中の趣気色に顕れ候けるに依て、差たる罪科とも覚へぬ事に一所懸命の地を没収せらる。結句可討なんどの沙汰に及び候し間、則武蔵の御陣を逃出て、当時は深山幽谷に隠れ居たる体にて候。某が此間の不義をだに御免あるべきにて候はゞ、御内奉公の身と罷成候て、自然の御大事には御命に替り進せ候べし。」と、苦にぞ申入たりける。兵衛佐是を聞給て、暫は申所誠しからずとて見参をもし給はずして、密儀なんどを被知事も無りければ、竹沢尚も心中の偽らざる処を顕して近付奉らんため、京都へ人を上せ、ある宮の御所より少将殿と申ける上臈女房の、年十六七許なる、容色無類、心様優にやさしく坐けるを、兔角申下して、先己が養君にし奉り、御装束女房達に至まで、様々にし立て潜に兵衛佐殿の方へぞ出したりける。義興元来好色の心深かりければ、無類思通して一夜の程の隔も千年を経る心地に覚ければ、常の隠家を替んともし給はず、少し混けたる式にて、其方様の草のゆかりまでも、可心置事とは露許も思給はず。誠に褒一たび笑で幽王傾国、玉妃傍に媚て玄宗失世給しも、角やと被思知たり。されば太公望が、好利者与財珍迷之、好色者与美女惑之と、敵を謀る道を教しを不知けるこそ愚かなれ。角て竹沢奉公の志切なる由を申けるに、兵衛佐早心打解て見参し給ふ。軈て鞍置たる馬三疋、只今威し立てたる鎧三領、召替への為とて引進す。是のみならず、越後より著き纏奉て此彼に隠居たる兵共に、皆一献を進め、馬・物具・衣裳・太刀・々に至まで、用々に随て不漏是を引ける間、兵衛佐殿も竹沢を異于也。思をなされ、傍輩共も皆是に過たる御要人不可有と悦ばぬ者は無りけり。加様に朝夕宮仕の労を積み昼夜無二の志を顕て、半年計に成にければ、佐殿今は何事に付ても心を置給はず、謀反の計略、与力の人数、一事も不残、心底を尽て被知けるこそ浅猿けれ。九月十三夜は暮天雲晴て月も名にをふ夜を顕はしぬと見へければ、今夜明月の会に事を寄て佐殿を我館へ入れ奉り、酒宴の砌にて討奉らんと議して、無二の一族若党三百余人催し集め、我館の傍にぞ篭置ける。日暮ければ竹沢急ぎ佐殿に参て、「今夜は明月の夜にて候へば、乍恐私の茅屋へ御入候て、草深き庭の月をも御覧候へかし。御内の人々をも慰め申候はん為に、白拍子共少々召寄て候。」と申ければ、「有興遊ありぬ。」と面々に皆悦て、軈て馬に鞍置せ、郎従共召集て、已に打出んとし給ける処に、少将の御局よりとて佐殿へ御消息あり。披て見給へば、「過し夜の御事を悪き様なる夢に見進て候つるを、夢説に問て候へば、重き御慎にて候。七日が間は門の内を不可有御出と申候也。御心得候べし。」とぞ被申たりける。佐殿是を見給て、執事井弾正を近付て、「如何可有。」と問給へば、井弾正、「凶を聞て慎まずと云事や候べき。只今夜の御遊をば可被止とこそ存候へ。」とぞ申ける。
佐殿げにもと思給ければ、俄に風気の心地有とて、竹沢をぞ被帰ける。竹沢は今夜の企案に相違して、不安思けるが、「抑佐殿の少将の御局の文を御覧じて止り給つるは、如何様我企を内々推して被告申たる者也。此女姓を生て置ては叶まじ。」とて、翌の夜潜に少将の局を門へ呼出奉て、差殺して堀の中にぞ沈めける。痛乎、都をば打続きたる世の乱に、荒のみまさる宮の中に、年経て住し人々も、秋の木葉の散々に、をのが様々に成しかば、憑む影なく成はてゝ、身を浮草の寄べとは、此竹沢をこそ憑給ひしに、何故と、思分たる方もなく、見てだに消ぬべき秋の霜の下に伏て、深き淵に沈られ給ひける今はの際の有様を、思遣だに哀にて、外の袖さへしほれにけり。其後より竹沢我力にては尚討得じと思ひければ、畠山殿の方へ使を立て、「兵衛佐殿の隠れ居られて候所をば委細に存知仕て候へ共、小勢にては打漏しぬと覚へ候。急一族にて候江戸遠江守と下野守とを被下候へ。彼等に能々評定して討奉候はん。」とぞ申ける。畠山大夫入道大に悦て、軈て江戸遠江守と其甥下野守を被下けるが、討手を下す由兵衛佐伝聞かば、在所を替て隔る事も有とて、江戸伯父甥が所領、稲毛の庄十二郷を闕所になして則給人をぞ被付ける。江戸伯父甥大に偽り忿て、軈て稲毛の庄へ馳下り、給人を追出城郭を構へ、一族以下の兵五百余騎招集て、「只畠山殿に向ひ一矢射て討死せん。」とぞ罵りける。程経て後、江戸遠江守、竹沢右京亮を縁に取て兵衛佐に申けるは、「畠山殿無故懸命の地を没収せられ、伯父甥共に牢篭の身と罷なる間、力不及一族共を引卒して、鎌倉殿の御陣に馳向ひ、畠山殿に向て一矢射んずるにて候。但可然大将を仰奉らでは、勢の著く事有まじきにて候へば、佐殿を大将に憑奉らんずるにて候。先忍て鎌倉へ御越候へ。鎌倉中に当家の一族いかなりとも二三千騎も可有候。其勢を付て相摸国を打随へ、東八箇国を推て天下を覆す謀を運らし候はん。」と、誠に容易げにぞ申たりける。さしも志深き竹沢が執申なれば、非所疑憑れて、則武蔵・上野・常陸・下総の間に、内々与力しつる兵どもに、事の由を相触て、十月十日の暁に兵衛佐殿は忍で先鎌倉へとぞ被急ける。江戸・竹沢は兼て支度したる事なれば、矢口の渡りの船の底を二所えり貫て、のみを差し、渡の向には宵より江戸遠江守・同下野守、混物具にて三百余騎、木の陰岩の下に隠て、余る所あらば討止めんと用意したり。跡には竹沢右京亮、究竟の射手百五十人勝て、取て帰されば遠矢に射殺さんと巧たり。「大勢にて御通り候はゞ人の見尤め奉る事もこそ候へ。」とて、兵衛佐の郎従共をば、兼て皆抜々に鎌倉へ遣したり。世良田右馬助・井弾正忠・大島周防守・土肥三郎佐衛門・市河五郎・由良兵庫助・同新左衛門尉・南瀬口六郎僅に十三人を打連て、更に他人をば不雑、のみを差たる船にこみ乗て、矢口渡に押出す。是を三途の大河とは、思寄ぬぞ哀なる。倩是を譬ふれば、無常の虎に追れて煩悩の大河を渡れば、三毒の大蛇浮出て是を呑んと舌を暢べ、其餐害を遁んと岸の額なる草の根に命を係て取付たれば、黒白二の月の鼠が其草の根をかぶるなる、無常の喩へに不異。
此矢口の渡と申は、面四町に余りて浪嶮く底深し。渡し守り已に櫓を押て河の半ばを渡る時、取はづしたる由にて、櫓かいを河に落し入れ、二ののみを同時に抜て、二人の水手同じ様に河にかは/\と飛入て、うぶに入てぞ逃去ける。是を見て、向の岸より兵四五百騎懸出て時をどつと作れば、跡より時を合せて、「愚なる人々哉。忻るとは知ぬか。あれを見よ。」と欺て、箙を扣てぞ笑ける。去程に水船に涌入て腰中許に成ける時、井弾正、兵衛佐殿を抱奉て、中に差揚たれば、佐殿、「安からぬ者哉。日本一の不道人共に忻られつる事よ。七生まで汝等が為に恨を可報者を。」と大に忿て腰の刀を抜き、左の脇より右のあばら骨まで掻回々々、二刀まで切給ふ。井弾正腸を引切て河中へかはと投入れ、己が喉笛二所さし切て、自らかうづかを掴み、己が頚を後ろへ折り付る音、二町許ぞ聞へける。世良田右馬助と大島周防守とは、二人刀を柄口まで突違て、引組で河へ飛入る。由良兵庫助・同新左衛門は舟の艫舳に立あがり、刀を逆手に取直して、互に己が頚を掻落す。土肥三郎左衛門・南瀬口六郎・市河五郎三人は、各袴の腰引ちぎりて裸に成、太刀を口えくわへて、河中に飛入けるが、水の底を潜て向の岸へかけあがり、敵三百騎の中へ走入り、半時計切合けるが、敵五人打取り十三人に手負せて、同枕に討れにけり。其後水練を入て、兵衛左殿並に自害討死の頚十三求出し、酒に浸して、江戸遠江守・同下野守・竹沢右京亮五百余騎にて、左馬頭殿の御坐武蔵の入間河の陣へ馳参。畠山入道不斜悦て、小俣少輔次郎・松田・河村を呼出して此を被見に、「無子細兵衛佐殿にて御坐し候けり。」とて、此三四年が先に、数日相馴奉し事共申出て皆泪をぞ流しける。見る人悦の中に哀添て、共に袖をぞぬらしける。此義興と申は、故新田左中将義貞の思ひ者の腹に出来たりしかば、兄越後守義顕が討れし後も、親父猶是を嫡子には不立、三男武蔵守義宗を六歳の時より昇殿せさせて時めきしかば、義興は有にも非ず、孤にて上野国に居たりしを、奥州の国司顕家卿、陸奥国より鎌倉へ責上る時、義貞に志ある武蔵・上野の兵共、此義興を大将に取立て、三万余騎にて奥州の国司に力を合せ、鎌倉を責落して吉野へ参じたりしかば、先帝叡覧有て、「誠に武勇の器用たり。尤義貞が家をも可興者也。」とて、童名徳寿丸と申しを、御前にて元服させられて、新田左兵衛佐義興とぞ召れける。器量人に勝れ謀巧に心飽まで早かりしかば、正平七年の武蔵野の合戦、鎌倉の軍にも大敵を破り、万卒に当る事、古今未聞処多し。其後身を側め、只二三人武蔵・上野の間に隠れ行給ひし時、宇都宮の清党が、三百余騎にて取篭たりしも不討得。其振舞恰も天を翔地を潜る術ありと、怪き程の勇者なりしかば、鎌倉の左馬頭殿も、京都の宰相中将も、安き心地をばせざりつるに、運命窮りて短才庸愚の者共に忻られ、水に溺れて討れ給ふ。懸りし程に江戸・竹沢が忠功抜群也とて、則数箇所の恩賞をぞ被行ける。「あはれ弓矢の面目哉。」と是を羨む人もあり、又、「涜き男の振舞哉。」と爪弾をする人もあり。竹沢をば猶も謀反与同の者共を委細に尋らるべしとて、御陣に被留置、江戸二人には暇たびて恩賞の地へぞ下されける。
江戸遠江守喜悦の眉を開て、則拝領の地へ下向しけるが、十月二十三日の暮程に、矢口の渡に下居て渡の舟を待居たるに、兵衛佐殿を渡し奉し時、江戸が語らひを得て、のみを抜て舟を沈めたりし渡守が、江戸が恩賞給て下ると聞て、種々の酒肴を用意して、迎の舟をぞ漕出しける。此舟已に河中を過ける時、俄に天掻曇りて、雷鳴水嵐烈く吹漲りて、白波舟を漂はす、渡守周章騒で、漕戻んと櫓を押て舟を直しけるが、逆巻浪に打返されて、水手梶取一人も不残、皆水底に沈みけり。天の忿非直事是は如何様義興の怨霊也と、江戸遠江守懼をのゝきて、河端より引返、余の処をこそ渡さめとて、此より二十余町ある上の瀬へ馬を早めて打ける程に、電行前に閃て、雷大に鳴霆めく、在家は遠し日は暮ぬ。只今雷神に蹴殺されぬと思ひければ、「御助候へ兵衛佐。」と、手を合せ虚空を拝して逃たりけるが、とある山の麓なる辻堂を目に懸て、あれまでと馬をあをりける処に、黒雲一村江戸が頭の上に落さがりて、雷電耳の辺に鳴閃めきける間、余りの怖さに後ろを屹と顧たれば、新田左兵衛佐義興、火威の鎧に竜頭の五枚甲の緒を縮て、白栗毛なる馬の、額に角の生たるに乗、あひの鞭をしとゝ打て、江戸を弓手の物になし、鐙の鼻に落さがりて、わたり七寸許なる雁俣を以て、かひがねより乳の下へ、かけずふつと射とをさるゝと思て、江戸馬より倒に落たりけるが、やがて血を吐き悶絶僻地しけるを、輿に乗て江戸が門へ舁著たれば、七日が間足手をあがき、水に溺たる真似をして、「あら難堪や、是助けよ。」と、叫び死に死にけり。有為無常の世の習、明日を知ぬ命の中に、僅の欲に耽り情なき事共を巧み出し振舞し事、月を阻ず因果歴然乍に身に著ぬる事、是又未来永劫の業障也。其家に生れて箕裘を継弓箭を取は、世俗の法なれば力なし。努々人は加様の思の外なる事を好み翔ふ事有べからず。又其翌の夜の夢に、畠山大夫入道殿の見給ひけるは、黒雲の上に大鼓を打て時を作る声しける間、何者の寄来るやらんと怪くて、音する方を遥に見遣たるに、新田左兵衛佐義興、長二丈許なる鬼に成て、牛頭・馬頭・阿放・羅刹共十余人前後に随へ、火車を引て左馬頭殿のをはする陣中へ入と覚へて、胸打騒て夢覚ぬ。禅門夙に起て、「斯る不思議の夢をこそ見て候へ。」と、語り給ひける言ばの未終ざるに、俄に雷火落懸り、入間河の在家三百余宇、堂舎仏閣数十箇所、一時に灰燼と成にけり。是のみならず義興討れし矢口の渡に、夜々光物出来て往来の人を悩しける間、近隣の野人村老集て、義興の亡霊を一社の神に崇めつゝ、新田大明神とて、常盤堅盤の祭礼、今に不絶とぞ承る。不思議なりし事共なり。 
287 新将軍南方進発事付軍勢狼籍事
去程に足利新征夷大将軍義詮朝臣、延文四年十二月二十三日都を立て、南方の大手へ向給ふ。相順ふ人々には、先一族細川相摸守清氏・舎弟左近大夫将監・同兵部太輔・同掃部助・同兵部少輔・尾張左衛門佐・仁木右京大夫・舎弟弾正少弼・同右馬助・一色左京大夫・今河上総介・子息左馬助・舎弟伊予守、他家には、土岐大膳大夫入道善忠・舎弟美濃入道・同出羽入道・同宮内少輔・同小宇津美濃守・同高山伊賀守・同小里兵庫助・同猿子右京亮・厚東駿河守・同蜂屋近江守・同左馬助義行・同今峰駿河守・同舟木兵庫助・同明智下野入道・同戸山遠江守・同修理亮頼行・同出羽守頼世・同刑部少輔頼近・同飛弾伊豆入道・佐々木判官信詮・佐佐木六角判官入道崇永・舎弟山内判官・河野一族・赤松筑前入道世貞・舎弟帥律師則祐・甥大夫判官光範・舎弟信濃五郎直頼・同彦五郎範実・諏防信濃守・禰津小次郎・長尾弾正左衛門・浅倉弾正、此等を始として、都合其勢七万余騎、大島・渡辺・尼崎・鳴尾・西宮に居余て、堂宮までも充満たり。畠山大夫入道々誓は搦手の大将として、東八箇国の勢二十万騎引卒して、翌日の辰刻に都を立て、八幡の山下・真木・葛葉に陣を取。是は大手の勢渡辺の橋を懸ん時、敵若川に支て戦ば、左々良・伊駒の道を経て、敵を中に篭んと也。大手の寄手赤松判官光範は、摂津国の守護にて、敵陣半ば我領知を篭たれば、人より先に渡辺の辺に、五百余騎にて打寄たり。河舟百余艘取寄て、河の面二町余に引並べ、柱をゆり立、もやいを入て、上にかぶ木を敷並べたれば、人馬打並て渡れ共曾て不危。和田・楠爰に馳向て、手痛く一合戦せんずらんと、人皆思ひて控たりけれ共、如何なる深き謀か有けん、敢て河を支ん共せざりけり。去間大手・搦手三十万騎、同日に河より南へ打越、天王寺・安部野・住吉の遠里小野に陣を取る。され共猶大将宰相中将殿は河を越不給、尼崎に轅門を堅してをはすれば、赤松筑前入道世貞・同帥律師則祐は、大渡に打散て、斥候の備へを全し、仁木右京大夫義長は、三千余騎を一所に集め、西宮に陣を取て、先陣若戦負ば、荒手に成て入替、天下の大功を我一人の高名に称美せられんとぞ儀せられける。南方の兵の軍立、始は坂東の大勢の程を聞て、「城に篭て戦はゞ、取巻れて遂に不被責落云事有べからず。只深山幽谷に走散て敵に在所を知れず、前に有かとせば後へ抜て、馬に乗かとせば野伏に成て、在々所々にて戦はんに、敵頻に懸らば難所に引懸て返合せ、引て帰らば迹に付て追懸け、野軍に敵を疲かして、雌雄を労兵の弊に決すべし。」と議したりけるが、東国勢の体思ふにも不似、無左右敵陣へ懸入ん共せず、爰に日を経、彼こに時をぞ送りける。さらば此方も陣を前に取り、城を後に構へて合戦を致せとて、和田・楠は、俄に赤坂の城を拵て、三百余騎にて楯篭る。福塚・川辺・佐々良・当木・岩郡・橋本判官以下の兵は、平石の城を構て、五百余騎にて楯篭る。真木野・酒辺・古折・野原・宇野・崎山・佐和・秋山以下の兵は、八尾の城を取り繕て、八百余騎にて楯篭る。此外大和・河内・宇多・宇智郡の兵千余人をば、竜泉峯に屏を塗り、櫓を掻せて、見せ勢になしてぞ置たりける。去程に寄手は同二月十三日、後陣の勢三万余騎を、住吉・天王寺に入替させて、後を心安く蹈へさせ、先陣の勢二十万騎は、金剛山の乾に当りたる津々山に打上て陣を取。敵御方其あはい僅に五十余町を隔たり。互に時を待て未戦ざる処に、丹下・俣野・誉田・酒勾・水速・湯浅太郎・貴志の一族五百余騎、弓を弛し甲を脱で、降人に成て出たりければ、津々山の人々皆勇罵て、さればこそ敵早弱りにけり。和田・楠幾程か可怺と、思はぬ人も無りけり。され共未騎馬の兵懸合て、勝負をする程の事はなし。只両陣互に野伏を出合せて、矢軍する事隙なし。元来敵は物馴て、御方は案内を知ねば、毎度合戦に寄手の手負、討るゝ事数を不知。角ては只和田・楠が、兼て謀る案の内に落されたる事よと云ながら、止事を不得ける。去程に始のほどこそ禁制をも用ひけれ。兵次第に疲れければ、神社仏閣に乱入て戸帳を下し神宝を奪ひ合ふ。狼籍手に余て不拘制止、師子・駒犬を打破て薪とし、仏像・経巻を売て魚鳥を買ふ。前代未聞の悪行也。先年高越後守師奉が、石川々原に陣を取て、楠を攻て居たりし時、無悪不造の兵共が塔の九輪を下て、鑵子に鋳たりし事こそ希代の罪業哉と聞しに、是は猶其れに百倍せり。浅猿といふも疎也。「為不善于顕明之中者、人得誅之、為不善乎幽暗之中者、鬼得討之。」いへり。師泰已に是を以て亡き。前車の轍未遠。畠山今是を取て不誡、後車の危き事在近。今度の軍如何様にも墓々しからじと、私語く人も多かりけり。 
 

 

291 龍泉寺軍事
竜泉の城には和田・楠等相謀て、初は大和・河内の兵千余人を篭置たりけるが、寄手敢て是を責ん共せざりける間、角ては徒に勢を置ても何かせん、打散してこそ野軍にせめとて、竜泉の勢をば皆呼下て、さしもなき野伏共百人許見せ勢に残し置き、此の木の梢、彼この弓蔵のはづれに、旗許を結付、尚も大勢の篭りたる体を見せたりける。津々山の寄手是を見て、「あなをびたゝし。四方手を立たる如くなる山に、此大勢の篭りたらんずるをば、何なる鬼神共いへ、可責落者に非ず。」とろ々に云恐て、責んと云人は一人もなし。只徒に旗許を見上て、百五十余日過にけり。或時土岐桔梗一発の中に、些なま才覚ありける老武者、竜山の城をつく/゛\と守り居たりけるが、其衆中に語て云く、「太公が兵書の塁虚篇に、望其塁上飛鳥不驚、必知敵詐而為偶人也といへり。我此三四日相近て竜泉の城を見るに、天に飛鳶林に帰る烏、曾て驚事なし。如何様是は大勢の篭りたる体を見せて、旗許を此彼に立置たりと覚ゆるぞ。いざや人々他の勢を不交此一発許向て竜泉を責落し、天下の称歎に備ん。」と云ければ、桔梗一発の衆五百余騎、皆、「可然。」とぞ同じける。さらば軈て打立とて、閏四月二十九日の暁、桔梗一揆五百余騎、忍やかに津々山より下て、まだ篠目の明はてぬ霧の紛れに、竜泉の一の木戸口に推寄、同音に時をどつと作る。細川相摸守清氏と、赤松彦五郎範実とは、津々山の役所を双べて居たりけるが、竜泉の時の声を聞て、「あはや人に前を懸られぬるは。但城へ切て入んずる事は、又一重の大事ぞ。夫をこそ誠の先懸とは云べけれ。馬に鞍置け旗差急げ。」と云程こそ有けれ。相摸守と彦五郎と、鎧取て肩に投懸、道々高紐堅て、竜泉の西の一の城戸、高櫓の下へ懸上たり。爰にて馬を蹈放し、後を屹と見たれば、赤松が手の者に、田宮弾正忠・木所彦五郎・高見彦四郎、三騎続ひたり。其迹を見れば、相摸守の郎従六七十、かけ堀共云はず我先にと馳来る。其旗差、高岸に馬の鼻を突せて、上かねたるを見て、相摸守自走下て、其旗をおつ取て、切岸の前に突立て、「先懸は清氏に有。」と高声に名乗ければ、赤松彦五郎城の中へ入、「先懸は範実にて候。後の証拠に立て給り候へ。」と声々に名乗て、屏の上をぞ越たりける。是を見て桔梗一揆の衆に日吉藤田兵庫助・内海修理亮光範、城戸を引破て込入る。城の中の兵共、暫く支へて戦けるが、敵の大勢に御方の無勢を顧て、叶はじとや思けん、心閑に防矢射て、赤坂を差して落行ける。暫くあれば、陣々に集り居たる大勢共、「すはや桔梗一揆が竜泉へ寄て責けるは。但し輙くはよも責落さじ。楯の板しめせ、射手を先立よ。」と、最騒ず打立て、其勢既に十万余騎、竜泉の麓へ打向ひたれば、城は早已に責落されて、櫓掻楯に火を懸けり。数万の軍勢頭を掻て、「安からぬ者哉、是程まで敵小勢なるべしとは知らで、土岐・細川に高名をさせつる事の心地あしさよ。」と、牙を喫ぬ者は無りけり。 
293 吉野御廟神霊事付諸国軍勢還京都事
南方の皇居は、金剛山の奥観心寺と云深山なれば、左右なく敵の可付所ならね共、斥候の御警固に憑思召れたる龍泉・赤坂も責落されぬ。又昨日一昨日まで御方せし兵共、今日は多く御敵と成ぬと聞へしかば、山人・杣人案内者として、如何様何くの山までも、敵責入ぬと申沙汰しければ、主上を始進せて、女院・皇后・月卿・雲客、「こは如何すべき。」と、懼恐れさせ給ふ事無限。爰に二条禅定殿下の候人にて有ける上北面、御方の官軍加様に利を失ひ城を落さるゝ体を見て、敵のさのみ近付ぬ先に妻子共をも京の方へ送り遣し、我身も今は髻切て、何なる山林にも世を遁ればやと思て、先吉野辺まで出たりけるが、さるにても多年の奉公を捨はてゝ主君に離れ、此境を立去る事の悲さに、せめて今一度先帝の御廟へ参り、出家の暇をも申さんと思て、只一人御廟へ参りたるに、近来は洒掃する人無りけりと覚て、荊棘道を塞ぎ、葎茂て旧苔扉を閉たり。何の間にかくは荒ぬらんと此彼を見奉るに、金炉香絶草残一叢之煙、玉殿無灯、蛍照五更之夜。思有て聞く時は、心なき啼鳥も哀を催す歟と覚へ、岩漏水の流までも、悲を呑音なれば、通夜円丘の前に畏て、「つく/゛\と憂世の中の成行く様を案じつゞくるに、抑今の世何なる世なれば、有威無道者は必亡ぶと云置し先賢の言にも背き、又百王を守らんと誓ひ給し神約も皆誠ならず。又いかなる賎き者までも、死ては霊となり鬼と成て彼を是し此を非する理明也。況君已に十善の戒力に依て、四海の尊位に居し給ひし御事なれば、玉骨は縦郊原の土と朽させ給ふとも、神霊は定て天地に留て、其苗裔をも守り、逆臣の威をも亡さんずらんとこそ存ずるに、臣君を犯せ共天罰もなし、子父を殺せども神の忿をも未見。こはいかに成行世の中ぞや。」と泣々天に訴て、五体を地に投礼をなす。余りに気くたびれて、頭をうな低て少し目睡たる夢の中に、御廟の震動する事良久し。暫有て円丘の中より誠にけたかき御声にて、「人やある/\。」と召れければ、東西の山の峯より、「俊基・資朝是に候。」とて参りたり。此人々は、君の御謀叛申勧たりし者共也とて、去る元徳三年五月二十九日に、資朝は佐渡国にて斬れ、俊基は其後鎌倉の葛原が岡にて、工藤二郎左衛門尉に斬れし人々也。貌を見れば、正く昔見たりし体にては有ながら、面には朱を差たるが如く、眼の光耀て左右の牙銀針を立たる様に、上下にをひ違たり。其後円丘の石の扉を排く音しければ遥に向上たるに、先帝袞竜の御衣を召れ、宝剣を抜て右の御手に提げ、玉の上に坐し給ふ。此御容も昔の竜顔には替て、忿れる御眸逆に裂、御鬚左右へ分れて、只夜叉羅刹の如也。誠に苦し気なる御息をつがせ給ふ度毎に、御口より焔はつと燃出て、黒烟天に立上る。暫有て、主上俊基・資朝を御前近く召れて、「さても君を悩し、世を乱る逆臣共をば、誰にか仰付て可罰す。」と勅問あれば、俊基・資朝、「此事は已に摩醯脩羅王の前にて議定有て、討手を被定て候。」「さて何に定たるぞ。」「先今南方の皇居を襲はんと仕候五畿七道の朝敵共をば、正成に申付て候へば、一両日の間には、追返し候はんずらん。仁木右京大夫義長をば、菊池入道愚鑑に申付て候へば、伊勢国にてぞ亡び候はんずらん。細川相摸守清氏をば、土居・得能に申付て候へば、四国に渡て後亡候べし。東国の大将にて罷上て候畠山入道・舎弟尾張守をば、殊更嗔恚強盛の大魔王、新田左兵衛佐義興が申請候て、可罰由申候つれば、輙かるべきにて候。道誓が郎従共をば、所々にて首を刎させ候はんずる也。中に江戸下野守・同遠江守二人は、殊更に悪ひ奴にて候へば、竜の口に引居て、我手に懸て切候べしとこそ申候つれ。」と奏し申ければ、主上誠に御心よげに打咲せ給て、「さらば年号の替らぬ先に、疾々退治せよ。」と被仰て、御廟の中へ入せ給ぬと見進せて、夢は忽に覚にけり。上北面此示現に驚て、吉野より又観心寺へ帰り参り、人々に内々語ければ、「只あらまほしき事ぞ、思寝の夢に見へつらん。」とて、信ずる人も無りけり。げにも其験にてや有けん、敵寄せば尚山深く主上をも落し進せんと、逃方を求て戦はんとはせざりけり。観心寺の皇居へは敵曾不寄来、剰へさしてし出したる事もなきに、「南方の退治今は是までぞ。」とて、同五月二十八日、寄手の総大将宰相中将義詮朝臣尼崎より帰洛し給しかば、畠山・仁木・細川・土岐・佐々木・宇都宮以下、都て五畿七道の兵二十万騎、我先にと上洛して各国へぞ下りける。さてこそ上北面が見たりしと云夢も、げにやと思合せられて、如何様にも、仁木・細川・畠山も、滅ぶる事やあらんずらんと、夢を疑し人々も、却て是をぞ憑ける。 
297 北野通夜物語事付青砥左衛門事
其比日野僧正頼意、偸に吉野の山中を出て、聊宿願の事有ければ、霊験の新なる事を憑奉り、北野の聖廟に通夜し侍りしに、秋も半過て、杉の梢の風の音も冷く成、ぬれば、晨朝の月の松より西に傾き、閑庭の霜に映ぜる影、常よりも神宿て物哀なるに、巻残せる御経を手に持ながら、灯を挑げ壁に寄傍て、折に触たる古き歌など詠じつゝ嘯居たる処に、是も秋の哀に被催て、月に心のあこがれたる人よと覚くて、南殿の高欄に寄懸て、三人並居たる人あり。如何なる人やらんと見れば、一人は古へ関東の頭人評定衆なみに列て、武家の世の治りたりし事、昔をもさぞ忍覧と覚て、坂東声なるが、年の程六十許なる遁世者也。一人は今朝廷に仕へながら、家貧く豊ならで、出仕なんどをもせず、徒なる侭に、何となく学窓の雪に向て、外典の書に心をぞ慰む覧と覚へて、体縟に色青醒たる雲客也。一人は何がしの律師僧都なんど云はれて、門迹辺に伺候し、顕密の法灯を挑げんと、稽古の枢を閉ぢ玉泉の流に心を澄すらんと覚へたるが、細く疲たる法師也。初は天満天神の文字を、句毎の首に置て連歌をしけるが、後には異国本朝の物語に成て、現にもと覚る事共多かり。先儒業の人かと見へつる雲客、「さても史書の所載、世の治乱を勘るに、戦国の七雄も終に秦の政に被合、漢楚七十余度の戦も八箇年の後、世漢に定れり。我朝にも貞任・宗任が合戦、先九年後三年の軍、源平諍三箇年、此外も久して一両年を不過。抑元弘より以来、天下大に乱て三十余年、一日も未静る事を不得。今より後もいつ可静期共不覚。是はそも何故とか御料簡候。」といへば坂東声なる遁世者、数返高らかに繰鳴し、無所憚申けるは、「世の治らぬこそ道理にて候へ。異国本朝の事は御存知の前にて候へば、中々申に不及候へども、昔は民苦を問使とて、勅使を国々へ下されて、民の苦を問ひ給ふ。其故は、君は以民為体、民は以食為命、夫穀尽ぬれば民窮し、民窮すれば年貢を備事なし。疲馬の鞭を如不恐、王化をも不恐、利潤を先として常に非法を行ふ。民の誤る処は吏り科也。吏の不善は国王に帰す。君良臣を不撰、貪利輩を用れば暴虎を恣にして、百姓をしへたげり。民の憂へ天に昇て災変をなす。災変起れば国土乱る。是上不慎下慢る故也。国土若乱れば、君何安からん。百姓荼毒して四海逆浪をなす。されば湯武は火に投身、桃林の社に祭り、大宗呑蝗、命を園囿の間に任す。己を責て天意に叶、撫民地声を顧給へと也。則知ぬ王者の憂楽は衆と同かりけりと云事を、白楽天も書置侍りき。されば延喜の帝は、寒夜に御衣をぬがれ、民の苦を愍み給しだに、正く地獄に落給けるを、笙の岩屋の日蔵上人は見給けるとこそ承れ。彼上人、承平四年八月一日午時頓死して、十三日ぞ御在しける。其程夢にも非ず、幻にも非ず、金剛蔵王の善巧方便にて、三界流転の間、六道四生の棲を見給けるに、等活地獄の別処、鉄崛地獄とてあり。火焔うずまき黒雲空に掩へり。觜ある鳥飛来て、罪人の眼をつゝきぬく。又鉄の牙ある犬来て、罪人の脳を吸喰ふ。獄卒眼を怒して声を振事雷の如し。狼虎罪人の肉を裂、利剣足の蹈所なし。其中に焼炭の如なる罪人有四人。叫喚する声を聞ば、忝も延喜の帝にてぞ御在ける。不思議やと思て、立寄て事の様を問へば、獄卒答曰、「一人は是延喜帝、残は臣下也。」とて、鋒に指貫て、焔の中へ投入奉りけり。在様業果法然の理とは云ながら、余りに心憂ぞ覚ける。良暫有て上人、「さりとては延喜の帝に少の御暇奉宥、今一度拝竜顔本国へ帰らん。」と、泣々宣ければ、一人の獄卒是を聞て、いたはしげもなく鉄の鉾に貫て、焔の中より指出し、十丈計差上て、熱鉄の地の上へ打つけ奉る。
焼炭の如なる御貌散々に打砕れて、其御形共見へ給はず。鬼共又走寄て以足一所にけあつむる様にして、「活々。」と云ければ、帝の御姿顕給ふ。上人畏て只泪に咽給ふ。帝の宣く、「汝我を敬事なかれ。冥途には罪業無を以て主とす。然れば貴賎上下を論ずる事なし。我は五種の罪に依て此地獄に落たり。一には父寛平法皇の御命を背き奉り久く庭上に見下し奉りし咎、二には依讒言、無咎才人を流罪したりし報ひ、三には自の怨敵と号して、他の衆生を損害せし咎、四には月中の斎日に、本尊を不開咎、五には日本の王法をいみじき事に思て人間に著心の深かりし咎、此五を為根本、自余の罪業無量也。故に受苦事無尽也。願は上人為我善根を修してたび給へ。」と宣ふ。可修由応諾申す。「然らば諸国七道に、一万本の卒都婆を立て、大極殿にして仏名懺悔法を可修。」と被仰たりける時、獄卒又鉾に指貫、焔の底へ投入る。上人泣々帰給時、金剛蔵王の宣く、「汝に六道を見する事、延喜帝の有様を為令知也。」とぞ被仰ける。彼帝は随分愍民治世給しだに地獄に落給ふ。況て其程の政道もなき世なれば、さこそ地獄へ落る人の多かるらめと覚たり。又承久より已降武家代々天下を治し事は、評定の末席に列て承置し事なれば、少々耳に留る事も侍るやらん。夫天下久武家の世と成しかば尺地も其有に非と云事なく、一家も其民に非と云所無りしか共、武威を専にせざるに依て地頭敢て領家を不侮、守護曾て検断の外に不綺。斯りしか共尚成敗を正くせん為に、貞応に武蔵前司入道、日本国の大田文を作て庄郷を分て、貞永に五十一箇条の式目を定て裁許に不滞。されば上敢て不破法下又不犯禁を。世治り民直なりしか共、我朝は神国の権柄武士の手に入り、王道仁政の裁断夷狄の眸に懸りしを社歎きしか。されども上代には世を治んと思志深かりけるにや、泰時朝臣在京の時、明慧上人に相看して法談の次に仰られけるはく、「如何してか天下を治め人民を安じ候べき。」と被申ければ、上人宣く、「良医能く脈を取て、其病の根源を知て、薬を与へ灸を加れば、病自ら愈る様に、国を乱る源を能く知て可治給。乱世の根源は只欲を為本。欲心変じて一切万般の禍と成る。」と宣へば、泰時云、「我雖存此旨、人々無欲に成ん事難し。」と宣へば、上人云、「太守一人無欲にならん事を思給はゞ、其に恥て万人自然に欲心薄成べし。人の欲心深訴来らば我欲の直らぬ故ぞと我を恥しめ可給。古人云、其身直にして影不曲、其政正して国乱るゝ事なしと云云。又云、君子居其室其言を出事善なる則、千里の外皆応之。善と云は無欲也。伝聞、周文王の時一国の民畔を譲るも、文王一人の徳諸国に及す故、万人皆やさしき心に成し也。畔を譲ると云は、我田の堺をば人の方へは譲与れども、仮にも人の地をして掠取事はなかりけり。今程の人の心には違たり。かりにも人の物をば掠取共、我物を人に遣事不可有。其比他国より為訴詔此周の国を通るとて、此有様を道畔にて見て、我欲の深事を恥て、路より帰りけり。されば此文王我国を収るのみならず、他国まで徳を施すも只此一人の無欲に依てなり。剰此徳満て天下を一統して取り百年の齢を持き。太守一人小欲に成給はゞ天下皆かゝるべし。」と宣ければ、泰時深く信じて、父義時朝臣の頓死して譲状の無りし時倩義時の心を思に、我よりも弟をば鍾愛せられしかば、父の心には彼者にぞ取せ度思給て譲をばし給はざるらんと推量して、弟の朝時・重時以下に宗徒の所領を与て、泰時は三四番めの末子の分限程少く取られけれ共、今までは聊不足なる事なし。如此万づ小欲に振舞故にや、天下随日収り、諸国逐年豊也き。
此太守の前に、訴訟の人来れば、つく/゛\と両人の顔を守て云く、「泰時天下の政を司て、人の心に無姦曲事を存ず。然ば廉直の中に無論。一方は定て姦曲なるべし。何の日両方証文を持て来べし。姦謀の人に於ては、忽に罪科に可申行。姦智の者一人国にあれば万人の禍と成る。天下の敵何事か如之。疾々可帰給。」とて被立けり。此体を見るに、僻事あらば軈而いかなる目にも可被合とて、各帰て後両方談合して、或は和談し或僻事の方は私に負て論所を去渡しける。凡無欲なる人をば賞し欲深き者をば恥しめ給しかば、人の物を掠め取んとする者は無りけり。されば寛喜元年に、天下飢饉の時、借書を調へ判形を加へて、富祐の者の米を借るに、泰時法を被置けるは、「来年世立直らば、本物計を借り主に可返納。利分は我添て返すべし。」と被定て、面々の状を被取置けり。所領をも持たる人には、約束の本物を還させ、自我方添利分、慥に返し遣されけり。貧者には皆免して、我領内の米にてぞ主には慥に被返ける。左様の年は、家中に毎事行倹約、一切の質物共も古物を用ふ。衣裳も新しきをば不著、烏帽子をだに古きをつくろはせて著し給ふ。夜は灯なく、昼は一食を止め、酒宴遊覧の儀なくして、此費を補給けり。仍一度食するに、士来れば不終に急ぎ是にあひ一たび梳にも訴来れば先是をきく。一寝一休是を不安して人の愁を懐て待んことを恐る。進では万人を撫ん事を計り、退ては一身に失あらん事を恥づ。然に太守逝去の後、背父母失兄弟とする訴論出来て、人倫の孝行日に添て衰へ、年に随てぞ廃たる。一人正ければ万人夫に随事分明也。然る間猶も遠国の守護・国司・地頭・御家人、如何なる無道猛悪の者有てか、人の所領を押領し人民百姓を悩すらん。自諸国を順て、是を不聞は叶まじとて、西明寺の時頼禅門密に貌を窶して六十余州を修行し給に、或時摂津国難波の浦に行到ぬ。塩汲海士の業共を見給に、身を安しては一日も叶まじき理を弥感じて、既に日昏ければ、荒たる家の垣間まばらに軒傾て、時雨も月もさこそ漏らめと見へたるに立寄て、宿を借給けるに、内より年老たる尼公一人出て、「宿を可奉借事は安けれ共、藻塩草ならでは敷物もなく、磯菜より外は可進物も侍らねば、中々宿を借奉ても甲斐なし。」と佗けるを、「さりとては日もはや暮はてぬ。又可問里も遠ければ、枉て一夜を明し侍ん。」と、兔角云佗て留りぬ。旅寝の床に秋深て、浦風寒く成侭に、折焼葦の通夜、臥佗てこそ明しけれ。朝に成ぬれば、主の尼公手づから飯匙取音して、椎の葉折敷たる折敷の上に、餉盛て持出来たり。甲斐々々敷は見へながら、懸る態なんどに馴たる人共見へねば不審く覚て、「などや御内に被召仕人は候はぬやらん。」と問給へば、尼公泣々「さ候へばこそ、我は親の譲を得て、此所の一分の領主にて候しが、夫にも後れ子にも別て、便なき身と成はて候し後、惣領某と申者、関東奉公の権威を以て、重代相伝の所帯を押取て候へ共、京鎌倉に参て可訴詔申代官も候はねば、此二十余年貧窮孤独の身と成て、麻の衣の浅猿く、垣面の柴のしば/\も、ながらふべき心地侍らねば、袖のみ濡る露の身の、消ぬ程とて世を渡る。朝食の烟の心細さ、只推量り給へ。」と、委く是を語て、涙にのみぞ咽びける。
斗薮の聖熟々と是を聞て、余に哀に覚て、笈の中より小硯取出し、卓の上に立たりける位牌の裏に、一首の歌をぞ被書ける。難波潟塩干に遠月影の又元の江にすまざらめやは禅門諸国斗薮畢て鎌倉に帰給ふと均く、此位牌を召出し、押領せし地頭が所帯を没収して、尼公が本領の上に副てぞ是を給たりける。此外到る所ごとに、人の善悪を尋聞て委く注し付られしかば、善人には賞を与へ、悪者には罰を加られける事、不可勝計。されば国には守護・国司、所には地頭・領家、有威不驕、隠ても僻事をせず、世帰淳素民の家々豊也。後の最勝園寺貞時も、追先蹤又修行し給しに、其比久我内大臣、仙洞の叡慮に違ひ給て、領家悉被没収給しかば、城南の茅宮に、閑寂を耕てぞ隠居し給ひける。貞時斗薮の次でに彼故宮の有様を見給て、「何なる人の棲遅にてかあるらん。」と、事問給処に、諸大夫と覚しき人立出て、しかしかとぞ答へける。貞時具に聞て、「御罪科差たる事にても候はず、其上大家の一跡、此時断亡せん事無勿体候。など関東様へは御歎候はぬやらん。」と、此修行者申ければ、諸大夫、「さ候へばこそ、此御所の御様昔びれて、加様の事申せば、去事や可有。我身の無咎由に関東へ歎かば、仙洞の御誤を挙るに似たり。縦一家此時亡ぶ共、争でか臣として君の非をば可挙奉。無力、時刻到来歎かぬ所ぞと被仰候間、御家門の滅亡此時にて候。」と語りければ、修行者感涙を押て立帰にけり。誰と云事を不知。関東帰居の後、最前に此事を有の侭に被申しかば、仙洞大に有御恥久我旧領悉く早速に被還付けり。さてこそ此修行者をば、貞時と被知けれ。一日二日の程なれど、旅に過たる哀はなし。況乎烟霞万里の道の末、想像だに憂物を、深山路に行暮ては、苔の莚に露を敷き、遠き野原を分佗ては、草の枕に霜を結ぶ。喚渡口船立、失山頭路帰る。烟蓑雨笠、破草鞋底、都べて故郷を思ふ愁ならずと云事なし。豈天下の主として、身富貴に居する人、好で諸国を可修行哉。只身安く楽に誇ては、世難治事を知る故に、三年の間只一人、山川を斗薮し給ける心の程こそ難有けれと、感ぜぬ人も無りけり。又報光寺・最勝園寺二代の相州に仕へて、引付の人数に列りける青砥左衛門と云者あり。数十箇所の所領を知行して、財宝豊なりけれ共、衣裳には細布の直垂、布の大口、飯の菜には焼たる塩、干たる魚一つより外はせざりけり。出仕の時は木鞘巻の刀を差し木太刀を持せけるが、叙爵後は、此太刀に弦袋をぞ付たりける。加様に我身の為には、聊も過差なる事をせずして、公方事には千金万玉をも不惜。又飢たる乞食、疲れたる訴詔人などを見ては、分に随ひ品に依て、米銭絹布の類を与へければ、仏菩薩の悲願に均き慈悲にてぞ在ける。或時徳宗領に沙汰出来て、地下の公文と、相摸守と訴陳に番事あり。理非懸隔して、公文が申処道理なりけれ共、奉行・頭人・評定衆、皆徳宗領に憚て、公文を負しけるを、青砥左衛門只一人、権門にも不恐、理の当る処を具に申立て、遂に相摸守をぞ負しける。公文不慮に得利して、所帯に安堵したりけるが、其恩を報ぜんとや思けん、銭を三百貫俵に裹て、後ろの山より潜に青砥左衛門が坪の内へぞ入れたりける。青砥左衛門是を見て大に忿り、「沙汰の理非を申つるは相摸殿を奉思故也。全地下の公文を引に非ず。若引出物を取べくは、上の御悪名を申留ぬれば、相摸殿よりこそ、悦をばし給ふべけれ。沙汰に勝たる公文が、引出物をすべき様なし。」とて一銭をも遂に不用、迥に遠き田舎まで持送せてぞ返しける。
又或時此青砥左衛門夜に入て出仕しけるに、いつも燧袋に入て持たる銭を十文取はづして、滑河へぞ落し入たりけるを、少事の物なれば、よしさてもあれかしとてこそ行過べかりしが、以外に周章て、其辺の町屋へ人を走らかし、銭五十文を以て続松を十把買て下、是を燃して遂に十文の銭をぞ求得たりける。後日に是を聞て、「十文の銭を求んとて、五十にて続松を買て燃したるは、小利大損哉。」と笑ければ、青砥左衛門眉を顰て、「さればこそ御辺達は愚にて、世の費をも不知、民を慧む心なき人なれ。銭十文は只今不求は滑河の底に沈て永く失ぬべし。某が続松を買せつる五十の銭は商人の家に止まて永不可失。我損は商人の利也。彼と我と何の差別かある。彼此六十の銭一をも不失、豈天下の利に非ずや。」と、爪弾をして申ければ、難じて笑つる傍の人々、舌を振てぞ感じける。加様に無私処神慮にや通じけん。或時相摸守、鶴岡の八幡宮に通夜し給ける暁、夢に衣冠正しくしたる老翁一人枕に立て、「政道を直くして、世を久く保たんと思はゞ、心私なく理に不暗青砥左衛門を賞翫すべし。」と慥に被示と覚へて、夢忽覚てげり。相摸守夙に帰、近国の大庄八箇所自筆に補任を書て、青砥左衛門にぞ給ひたりける。青砥左衛門補任を啓き見て大に驚て、「是は今何事に三万貫に及ぶ大庄給り候やらん。」と問奉りければ、「夢想に依て、先且充行也。」と答給ふ。青砥左衛門顔を振て、「さては一所をもえこそ賜り候まじけれ。且は御意の通も歎入て存候。物の定相なき喩にも、如夢幻泡影如露亦如電とこそ、金剛経にも説れて候へば、若某が首を刎よと云夢を被御覧候はゞ、無咎共如夢被行候はんずる歟。報国の忠薄して、超涯の賞を蒙らん事、是に過たる国賊や候べき。」とて、則補任をぞ返し進せける。自余の奉行共も加様の事を聞て己を恥し間、是までの賢才は無りしか共、聊も背理耽賄賂事をせず。是以平氏相州八代まで、天下を保し者也。夫政道の為に怨なる者は、無礼・不忠・邪欲・功誇・大酒・遊宴・抜折羅・傾城・双六・博奕・剛縁・内奏、さては不直の奉行也。治りし世には是を以て誡とせしに、今の代の為体皆是を肝要とせず。我こそ悪からめ。些礼義をも振舞、極信をも立る人をば、「あら見られずの延喜式や、あら気詰の色代や。」とて、目を引、仰に倒笑ひ軽謾す。是は只一の直なる猿が、九の鼻欠猿に笑れて逃去けるに不異。又仏神領に天役課役を懸て、神慮冥慮に背かん事を不痛。又寺道場に懸要脚僧物施料を貪事を業とす。是然上方御存知なしといへ共、せめ一人に帰する謂もあるか。角ては抑世の治ると云事の候べきか。せめては宮方にこそ君も久艱苦を嘗て、民の愁を知食し候。臣下もさすが知慧ある人多候なれば、世を可被治器用も御渡候覧と、心にくゝ存候へ。」と申せば、鬢帽子したる雲客打ほゝ笑て、「何をか心にくゝ思召候覧。宮方の政道も、只是と重二、重一にて候者を。某も今年の春まで南方に伺候して候しが、天下を覆へさん事も守文の道も叶まじき程を至極見透して、さらば道広く成て、遁世をも仕らばやと存じて、京へ罷出て候際、宮方の心にくき所は露許も候はず。先以古思候に昔周の大王と申ける人、と云所に御坐しけるを、隣国の戎共起て討んとしける間、大王牛馬珠玉等の宝を送て、礼を成けれ共尚不止。早く国を去て不出、以大勢可責由をぞ申ける。
万民百姓是を忿て、「其儀ならば、よしや我等身命を捨て防ぎ戦んずる上は、大王戎に向て和を請ふ事御坐すべからず。」と申けるを、大王、「いや/\我国を惜く思ふは、人民を養はんが為許也。我若彼と戦はゞ、若干の人民を殺すべし。其を為養地を惜て、可養民を失ん事何の益か有べき。又不知隣国の戎共、若我より政道よくは、是民の悦たるべし。何ぞ強に以我主とせんや。」とて、大王の地を戎に与へ、岐山の麓へ逃去て、悠然として居給ける。の地の人民、「懸る難有賢人を失て、豈礼義をも不知仁義もなき戎に随ふべしや。」とて、子弟老弱引連て、同く岐山の麓に来て大王に付順ひしかば、戎は己と皆亡はてゝ、大王の子孫遂に天下の主と成給ふ。周の文王・武王是也。又忠臣の君を諌め、世を扶けんとする翔を聞に、皆今の朝廷の臣に不似。唐の玄宗は兄弟二人坐しけり。兄の宮をば寧王と申し、御弟をば玄宗とぞ申ける。玄宗位に即せ給て、好色御心深りければ、天下に勅を下して容色如華なる美人を求給しに、後宮三千人の顔色我も我もと金翠を餝しかども、天子再びと御眸を不被廻。爰に弘農の楊玄が女に楊貴妃と云美人あり。養れて在深窓人未知之。天の生せる麗質なれば更に人間の類とは不見けり。或人是を媒して、寧王の宮へ進せけるを、玄宗聞召て高力士と云将軍を差遣し、道より是を奪取て後宮へぞ冊入奉りける。寧王無限無本意事に思召けれ共、御弟ながら時の天子として振舞せ給事なれば、不及力。寧王も同内裏の内に御坐有ければ、御遊などのある度毎に、玉の几帳の外金鶏障の隙より楊貴妃の容を御覧ずるに、一度び笑める眸には、金谷千樹の花薫を恥て四方の嵐に誘引れ、風に見たる容貌は、銀漢万里の月妝を妬て五更の霧に可沈。雲居遥に雷の中を裂ずは、何故か外には人を水の泡の哀とは思消べきと、寧王思に堪兼て、臥沈み歎かせ給ける御心の中こそ哀なれ。天子の御傍には、大史の官とて、八人の臣下長時に伺候して、君の御振舞を、就善悪注し留め、官庫に収る習也。此記録をば天子も不被御覧、かたへの人にも不見、只史書に書置て、前王の是非を後王の誡に備る者也。玄宗皇帝今寧王の夫人を奪取給へる事、何様史書に被注留ぬと思召ければ、密に官庫を開せて、大夫の官が注す所を御覧ずるに、果して此事を有の侭に注付たり。玄宗大に逆鱗あつて、此記録を引破て被捨、史官をば召出して、則首をぞ被刎ける。其より後大史の官闕て、此職に居る人無りければ、天子非を犯させ給へども、敢て憚る方も不御坐。爰に魯国に一人の才人あり。宮闕に参て大史の官を望みける間、則左大史に成して天子の傍に慎随ふ。
玄宗又此左大史も楊貴妃の事をや記し置たる覧と思召て、密に又官庫を開せ記録を御覧ずるに、「天宝十年三月弘農楊玄女為寧王之夫人。天子聞容色之媚漫遣高将軍、奪容后宮。時大史官記之留史書云云。窃達天覧之日、天子忿之被誅史官訖。」とぞ記したりける。玄宗弥逆鱗有て、又此史官を召出し則車裂にぞせられける。角ては大史の官に成る者非じと覚たる処に、又魯国より儒者一人来て史官を望ける間、軈て左大史に被成。是が注す処を又召出して御覧ずるに、「天宝年末泰階平安而四海無事也。政行漸懈遊歓益甚。君王重色奪寧王之夫人。史官記之或被誅或被車裂。臣苟為正其非以死居史職。後来史官縦賜死、続以万死、為史官者不可不記之。」とぞ記したりける。己が命を軽ずるのみに非ず、後史官に至まで縦万人死する共不記有べからずと、三族の刑をも不恐注留し左大史が忠心の程こそ難有けれ。玄宗此時自の非を知し食し、臣の忠義を叡感有て、其後よりは史官を不被誅、却て大禄をぞ賜りける。人として死不痛云事なければ、三人史官全く誅を非不悲。若恐天威不注君非、叡慮無所憚悪き御翔尚有ぬと思し間、死罪に被行をも不顧、是を注し留ける大史官の心の中、想像こそ難有けれ。国有諌臣其国必安、家有諌子其家必正し。されば如斯君も、誠に天下の人を安からしめんと思召し、臣も無私君の非を諌申人あらば、是程に払棄る武家の世を、宮方に拾て不捕や。か程に安き世を不取得、三十余年まで南山の谷の底に埋木の花開く春を知ぬ様にて御坐を以て、宮方の政道をば思ひ遣せ給へ。」と爪弾をしてぞ語りける。両人物語、げにもと聞居て耳を澄す処に、又是は内典の学匠にてぞある覧と見へつる法師、熟々と聞て帽子を押除菩提子の念珠爪繰て申けるは、「倩天下の乱を案ずるに、公家の御咎共武家の僻事とも難申。只因果の所感とこそ存候へ。其故は、仏に無妄語と申せば、仰で誰か信を取らで候べき。仏説の所述を見に、増一阿含経に、昔天竺に波斯匿王と申ける小国の王、浄飯王の聟に成んと請ふ。浄飯王御心には嫌はしく乍思召辞するに詞や無りけん、召仕はれける夫人の中に貌形無殊類勝たるを撰で、是を第三の姫宮と名付給て、波斯匿王の后にぞ被成ける。軈此后の御腹に一人の皇子出来させ給ふ。是を瑠璃太子とぞ申ける。七歳に成せ給ける年、浄飯王の城へ坐して遊ばれけるが、浄飯王の同じ床にぞ坐し給たりける。釈氏諸王大臣是を見て、「瑠璃太子は是実の御孫には非、何故にか大王と同位に座し給べき。」とて、則玉の床の上より追下し奉る。瑠璃太子少き心にも不安事に思召ければ、「我年長ぜば必釈氏を滅して此恥を可濯。」と深く悪念をぞ被起ける。さて二十余年を歴て後、瑠璃太子長となり浄飯王は崩御成しかば、瑠璃太子三百万騎の勢を卒して摩竭陀国の城へ寄給ふ。摩竭陀国は大国たりといへ共、俄の事なれば未国々より馳参らで、王宮已に被攻落べく見へける処に、釈氏の刹利種に強弓共数百人有て、十町二十町を射越しける間、寄手曾不近付得、山に上り河を隔て徒に日をぞ送りける。斯る処に釈氏の中より、時の大臣なりける人一人、寄手の方へ返忠をして申けるは、「釈氏の刹利種は五戒を持たる故に曾て人を殺事をせず。
縦弓強して遠矢を射る共人に射あつる事は不可有。只寄よ。」とぞ教へける。寄手大に悦て今は楯をも不突鎧をも不著、時の声を作りかけて寄けるに、げにも釈氏共の射る矢更に人に不中、鉾を仕ひ剣を抜ても人を斬事無りければ、摩竭陀国王宮忽に被責落、釈氏の刹利種悉一日が中に滅んとす。此時仏弟子目連尊者、釈氏の無残所討れなんとするを悲て、釈尊の御所に参て、「釈氏已に瑠璃王の為に被亡て、僅に五百人残れり。世尊何ぞ以大神通力五百人の刹利種を不助給や。」と被申ければ、釈尊、「止々、因果の所感仏力にも難転。」とぞ宣ける。目連尊者尚も不堪悲に、「縦定業也共、以通力是を隠弊せんになどか不助や。」と思召て、鉄鉢の中に此五百人を隠入て、利天にぞ被置ける。摩竭陀国の軍はてゝ瑠璃王の兵共皆本国に帰ければ、今は子細非じとて目連神力の御手を暢て、利天に置れたる鉢を仰けて御覧ずるに、以神通被隠五百人の刹利種、一人も不残死けり。目連悲て其故を仏に問奉。仏答て宣く、「皆是過去の因果也。争か助る事を得ん。其故は、往昔に天下三年旱して無熱池の水乾けり。此池に摩羯魚とて尾首五十丈の魚あり。又多舌魚とて如人言ふ魚あり。此に数万人の漁共集て水を換尽し、池を旱て魚を捕んとするに、魚更になし。漁父共求るに無力空く帰んとしける処に、多舌魚岩穴の中より這出て、漁父共に向て申けるは、『摩羯魚は此池の艮の角に大なる岩穴を掘て水を湛、無量の小魚共を伴ひて隠居たり。早く其岩を引除て隠居たる摩羯魚を可殺。加様に告知せたる報謝に、汝等我命を助よ。』と委く是を語て、多舌魚は岩穴の中へぞ入にける。漁父共大に悦て件の岩を掘起して見に、摩羯魚を始として五丈六丈ある大魚共其数を不知集居たり。小水に吻く魚共なれば、何くにか可逃去なれば、不残漁父に被殺、多舌魚許を生たりけり。されば此漁父と魚と諸共に生を替て後、摩羯魚は瑠璃太子の兵共と成り、漁父は釈氏の刹利種となり、多舌魚は今返忠の大臣と成て摩竭陀国を滅しける。又舎衛国に一人の婆羅門あり。其妻一りの男を産り。名をば梨軍支とぞ号しける。貌醜く舌強くして、母の乳を呑する事を不得。僅に酥蜜と云物を指に塗り、舐せてぞ命を活けたりける。梨軍支年長じて家貧く食に飢たり。爰に諸の仏弟子達城に入て食を乞給ふが、悉鉢に満て帰給を見て、さらば我も沙門と成て食に飽ばやと思ひければ、仏の御前に詣でゝ、出家の志ある由を申に、仏其志を随喜し給て、『善来比丘於我法中快修梵行得尽苦際。』と宣へば、鬢髪を自落て沙門の形に成にけり。角て精勤修習せしかば軈阿羅漢果をぞ得たりける。さても尚貧窮なる事は不替。長時に鉢を空くしければ仏弟子達是を憐て、梨軍支比丘に宣ひけるは、『宝塔の中に入て坐よ。参詣の人の奉んずる仏供を請て食んに不足あらじ。』とぞ教られける。梨軍支悦て塔の中に入て眠居たる其間に、参詣の人仏供を奉りたれ共更に是を不知。時に舎利弗五百人の弟子を引て、他邦より来て仏塔の中を見給に、参詣の人の奉る仏供あり。是を払集て、乞丐人に与へ給ふ。其後梨軍支眠醒て、食せんとするに物なし。足摺をしてぞ悲ける。舎利弗是を見給て、『汝強に勿愁事、我今日汝を具して城に入り、旦那の請を可受。』とて伽耶城に入て、檀那の請を受給。二人の沙門已に鉢を挙て飯を請けんとし給ける処に、檀那の夫婦俄喧をし出して、共に打合ける間、心ならず飯を打こぼして、舎利弗・梨軍支共に餓てぞ帰給ける。其翌の日又舎利弗、長者の請を得て行給ひけるが、梨軍支比丘を伴ひ連給ふ。長者五百の阿羅漢に飯を引けるが、如何して見はづしたりけん。
梨軍支一人には不引けり。梨軍支鉢を捧て高声に告けれども人終に不聞付ければ、其日も飢て帰にける。阿難尊者此事を憐て、『今日我仏に随奉て請を受るに、汝を伴て飯に可令飽。』と約し給。阿難既に仏に随て出給時に、梨軍支に約束し給つる事を忘て、連給はざりければ、今日さへ鉢を空して徒然としてぞ昏しける。第五日に、阿難又昨日梨軍支を忘たりし事を浅猿く思召て、是に与ん為に或家に行て飯を乞て帰給。道に荒狗数十疋走進ける間、阿難鉢を地に棄て、這々帰給しかば、其日も梨軍支餓にけり。第六日に、目連尊者梨軍支が為に食を乞て帰給に、金翅鳥空中より飛下て、其鉢を取て大海に浮べければ、其日も梨軍支餓にけり。第七日に、舎利弗又食を乞て、梨軍支が為に持て行給に、門戸皆堅く鎖して不開。舎利弗以神力其門戸を開て内へ入給へば、俄に地裂て、御鉢金輪際へ落にけり。舎利弗、伸神力手御鉢を取上げ飯を食せんとし給に、梨軍支が口俄に噤て歯を開く事を不得。兔角する程に時已に過ければ、此日も食はで餓にけり。此に梨軍支比丘大に慚愧して、四衆の前にして、『今は是ならでは可食物なし。』とて、砂をかみ水を飲て即涅槃に入けるこそ哀なれ。諸の比丘怪て、梨軍支が前生の所業を仏に問奉る。于時世尊諸の比丘に告曰、『汝等聞け、乃往過去に、波羅奈国に一人の長者有て名をば瞿弥といふ。供仏施僧の志日々に不止。瞿弥已に死して後、其妻相続て三宝に施する事同じ。長者が子是を忿て其母を一室の内に置き、門戸を堅く閉て出入を不許。母泣涕する事七日、飢て死なんとするに臨で、母、子に向て食を乞に、子忿れる眼を以て母を睨て曰、「宝を施行にし給はゞ、何ぞ砂を食ひ水を飲で飢を不止。」と云て遂に食物を不与。食絶て七日に当る時母は遂食に飢て死ぬ。其後子は貧窮困苦の身と成て、死して無間地獄に堕す。多劫の受苦事終て今人中に生る。此梨軍支比丘是也。沙門と成即得阿羅漢果事は、父の長者が三宝を敬し故也。其身食に飢て砂を食て死せし事は、母を飢かし殺したりし依其因果也。』」と、釈尊正に梨軍支過去の所業を説給しかば、阿難・目連・舎利弗等作礼而去給。加様の仏説を以て思ふにも、臣君を無し、子父を殺すも、今生一世の悪に非ず。武士は衣食に飽満て、公家は餓死に及事も、皆過去因果にてこそ候らめ。」と典釈の所述明に語りければ、三人共にから/\と笑けるが、漏箭頻に遷、晨朝にも成ければ、夜も已に朱の瑞籬を立出て、己が様々に帰けり。以是安ずるに、懸る乱の世間も、又静なる事もやと、憑を残す許にて、頼意は帰給にけり。 
315 諸国宮方蜂起事付越中軍事
山陽道には同年六月三日に、山名伊豆守時氏五千余騎にて、伯耆より美作の院庄へ打越て国々へ勢を差分つ。先一方へは、時氏子息左衛門佐師義を大将にて、二千余騎、備前・備中両国へ発向す。一勢は備前仁万堀に陣を取て敵を待に、其国の守護勢、松田・河村・福林寺・浦上七郎兵衛行景等、皆無勢なれば、出合ては叶はじとや思けん。又讃岐より細河右馬頭頼之、近日児島へ押渡ると聞ゆるをや相待けん。皆城に楯篭て未曾戦。一勢は多治目備中守、楢崎を侍大将にて、千余騎備中の新見へ打出たるに、秋庭三郎多年拵すまして、水も兵粮も卓散なる松山の城へ、多治目・楢崎を引入しかば、当国の守護越後守師秀可戦様無して、備前の徳倉の城へ引退く刻、郎従赤木父子二人落止て、思程戦て遂に討死してけり。依之敵勝に乗て国中へ乱入て、勢を差向々々責出すに、一儀をも可云様無れば、国人一人も順ひ不付云者なし。只陶山備前守許を、南海の端に添て僅なる城を拵て、将軍方とては残りける。備後へは、富田判官秀貞が子息弾正少弼直貞八百余騎、出雲より直に国中へ打出たるに、江田・広沢・三吉の一族馳著ける間、無程二千余騎に成にけり。富田其勢を合て、宮下野入道が城を攻んとする処に、石見国より足利左兵衛佐直冬、五百騎許にて富田に力を合戦と、備後の宮内へ被出たりけるが、禅僧を一人、宮下野入道の許へ使に立て被仰けるは、「天下の事時刻到来して、諸国の武士大略御方に志を通ずる処に、其方より曾承る旨なき間に、遮て使者を以て申也。天下に人多といへ共、別して憑思奉る志深し。今若御方に参じて忠を被致候はゞ、闕所分已下の事に於ては毎事所望に可随。」とぞ宣ひ遣れける。宮入道道山先城へ使者の僧を呼入て点心を調、礼儀を厚して対面あれば、使者の僧今はかうと嬉しく思ふ処に、彼禅門道山、僧に向て申けるは、「天下に一人も宮方と云人なく成て、佐殿も無憑方成せ給ひたらん時、さりとては憑ぞと承らば、若憑れ進する事もや候はんずらん。今時近国の者共多く佐殿に参りて、勢付せ給ふ間、当国に陣を召れて参れと承らんに於ては、えこそ参り候まじけれ。悪し其儀ならば討て進せよとて、御勢を向られば、尸は縦御陣の前に曝さる共、魂は猶将軍の御方に止て、怨を泉下に報ぜん事を計ひ候べし。抑加様の使などには御内外様を不云、可然武士をこそ立らるゝ事にて候に、僧体にて使節に立せ給ふ条、難心得こそ覚て候へ。文殊の、仏の御使にて維摩の室に入り、玄奘の大般若を渡さんとて流沙の難を凌しには様替りて、是は無慚無愧道心の御挙動にて候へば、僧聖りとは申まじ。御頚を軈て路頭に懸度候へ共、今度許は以別儀ゆるし申也。向後懸る使をして生て帰るべしとな覚しそ。御分誠に僧ならば斯る不思議の事をばよもし給はじ。只此城の案内見ん為に、夜討の手引しつべき人が、貌を禅僧に作立られてぞ、是へはをはしたるらん。やゝ若党共、此僧連て城の有様能々見せて後、木戸より外へ追出し奉れ。」とて、後の障子を荒らかに引立て内へ入れば、使者の僧今や失はるゝと肝心も身にそはで、這々逃てぞ帰りける。「此使帰らば佐殿定て寄せ給はんずらん。先ずる時は人を制するに利ありとて、逆寄に寄て追散せ。」とて、子息下野次郎氏信に五百余騎を差副、佐殿の陣を取て御坐宮内へ押寄せ、懸立々々責けるに、佐殿の大勢共、立足もなく打負て、散々に皆成にければ、富田も是に力を落して、己が本国へぞ帰りにける。直冬朝臣、宮入道と合戦をする事其数を不知。然共、直冬一度も未打勝給ひたる事なければ、無云甲斐と思ふ者やしたりけん、落書の哥を札に書て、道の岐にぞ立たりける。
直冬はいかなる神の罰にてか宮にはさのみ怖て逃らん侍大将と聞へし森備中守も、佐殿より前に逃たりと披露有ければ、高札の奥に、楢の葉のゆるぎの森にいる鷺は深山下風に音をや鳴らん但馬国へは、山名左衛門佐・舎弟治部太輔・小林民部丞を侍大将にて、二千余騎、大山を経て、播磨へ打越んとて出たりけるが、但馬国守護仁木弾正少弼・安良十郎左衛門、将軍方にて楯篭たる城未落ざりける間、長九郎左衛門尉・安保入道信禅已下の宮方共、我国を閣て、他国へ越ん事を不心得。さらば小林が勢許にても、播磨へ打越んと企る処に、赤松掃部助直頼大山に城を構て、但馬の通路を差塞ぎける程に、小林難所を被支丹波へぞ打越ける。丹波には当国の守護仁木兵部太輔義尹、兼て在国して待懸たる事なれば、軈て合戦有ぬとこそ覚けるに、楚忽に軍しては中々悪かりぬとや被思けん、和久の郷に陣を取て、互に敵の懸るをぞ相待ける。「丹波は京近き国なれば暫くも非可閣、急大勢を下して義尹に力を合せよ。」とて、若狭の守護尾張左衛門佐入道心勝・遠江守護今河伊予守・三河守護大島遠江守三人に、三箇国の勢を相副て三千余騎、京都より差下さる。其勢已に丹波の篠村に著しかば、当国の兵共、心を両方に懸て、何方へか著ましと思案しける者共、今は将軍方ぞ強からんずらんと見定て、我先にと馳付ける程に、篠村の勢は日々に勝て無程五千余騎に成にけり。山名が勢は纔に七百余騎、国遠して兵粮乏く馬・人疲れて城の構密しからず。角ては如何怺べき、聞落にぞせんずらんと覚ける処に、小林右京亮伯耆国を出しより、「今度天下を動す程の合戦をせずは、生て再び本国へ帰らじ。」と申切て出たりしかば、少も非可騒、一所にて討死せんと、気を励し心を一にする兵共、神水を飲て已に篠村を立と聞しかば、何くにても広みへ懸合せて、組打に討んと議しける間、篠村の大勢是を聞て、却て寄られやせんずらんと、二日路を隔たる敵に恐て一足も先へは不進、木戸を構へ逆木を引て、用心密くては居たりけれ共、小林兵粮につまりて、又伯耆へ引退ければ、「御敵をば早追落て候。」とて、気色ばうてぞ帰洛しける。越中には、桃井播磨守直常信濃国より打越て、旧好の兵共を相語ふに、当国の守護尾張大夫入道の代官鹿草出羽守が、国の成敗みだりなるに依て、国人挙て是を背けるにや、野尻・井口・長倉・三沢の者共、直常に馳付ける程に、其勢千余騎に成にけり。桃井軈て勢ひに乗て国中を押すに手にさわる者なければ、加賀国へ発向して富樫を責んとて打出ける。能登・加賀・越前の兵共是を聞て、敵に先をせられじと相集て、三千余騎越中国へ打越て三箇所に陣を取る。桃井はいつも敵の陣未取をほせぬ所に、懸散を以て利とする者なりければ、逆寄に押寄て責戦に、越前の勢一陣先破て、能登・越中の両陣も不全、十方に散てぞ落行ける。日暮れば桃井本の陣へ打帰て、物具脱で休けるが、夜半計に些可評定事ありとて、此陣より二里許隔たる井口が城へ、誰にも角とも不知して只一人ぞ行たりける。此時しも能登・加賀の者共三百余騎打連て、降人に出たりける。執事に属して、大将の見参に入んと申間、同道して大将の陣へ参じ、事の由を申さんとするに、大将の陣に人一人もなし。近習の人に尋ぬれ共、「何くへか御入候ぬらん。未宵より大将は見へさせ給はぬ也。」とぞ答ける。陣を並べたる外様の兵共是を聞て、「さては桃井殿被落にけり。」と騒て、「我も何くへか落行まし。」と物具を著もあり捨るもあり、馬に乗もあり、乗ぬもあり、混ひしめきにひしめく間、焼捨たる火陣屋に燃著て、燎原の焔盛なり。是を見て、降人に出たりつる三百余騎の者共、「さらばいざ落行敵共を打取て、我が高名にせん。」とて、箙を敲き時を作て、追懸々々打けるに、返合せて戦んとする人なければ、此に被追立彼に被切伏、討るゝ者二百余人生虜百人に余れり。桃井は未井口の城へも不行著、道にて陣に火の懸りたるを見て、是は何様返忠の者有て、敵夜討に寄たりけりと心得て、立帰る処に、逃る兵共行合て息をもつきあえず、「只引せ給へ、今は叶まじきにて候ぞ。」と申合ける間不及力、桃井も共に井口の城へ逃篭る。昼の合戦に打負て、御服峯に逃上りたる加賀・越前の勢共、桃井が陣の焼るを見て、何とある事やらんと怪く思ふ処に、降人に出て、心ならず高名しつる兵共三百余騎、生捕を先に追立させ、鋒に頭を貫て馳来り、「如鬼神申つる桃井が勢をこそ、我等僅の三百余騎にて夜討に寄て、若干の御敵共を打取て候へ。」とて、仮名実名事新しく、こと/゛\しげに名乗申せば、大将鹿草出羽守を始として国々の軍勢に至迄、「哀れ大剛の者共哉。此人々なくは、争か我等が会稽の恥をば濯がまし。」と、感ぜぬ人も無りけり。後に生捕の敵共が委く語るを聞てこそ、さては降人に出たる不覚の人共が、倒るゝ処に土を掴む風情をしたりけるよとて、却て悪み笑れける。 
319 細川相摸守討死事付西長尾軍事
讃岐には細川相摸守清氏と細川右馬頭頼之と、数月戦けるが、清氏遂に討れて、四国無事故閑りにけり。其軍の様を伝聞に、相摸守四国を打平げて、今一度都を傾て、将軍を亡し奉らんと企て、堺の浦より船に乗て讃岐へ渡ると聞へしかば、相摸守がいとこの兵部太輔淡路国の勢を卒して、三百余騎にて馳著。其弟掃部助、讃岐国の勢を相催て五百余騎にて馳加る。小笠原宮内大輔、阿波国の勢を卒して、三百余騎にて馳著ける間、清氏の勢は無程五千余騎に成にけり。其比右馬頭頼之は、山陽道の蜂起を静んとて、備中国に居たりけるが、此事を聞て、備中・備前両国の勢千余騎を卒し、讃岐国へ押渡る。此時若相摸守敵の船よりあがらんずる処へ、馳向て戦はゞ、一戦も利あるまじかりしを、右馬頭飽まで心に智謀有て、機変時と共に消息する人也ければ、兼て母儀の禅尼を以て、相摸守の許へ言遣けるは、「将軍群少の讒佞を不被正、貴方無科刑罰に向はせ給ひし時、陳謝に言無して寇讐に恨有し事、頼之尤其理に服し候き。乍去、故左大臣殿も、仁木・細川の両家を股肱として、大樹累葉の九功を光栄すべしとこそ被仰置候しに、一家の好を放て敵に降り、多年の忠を捨、戦を被致候はん事、亡魂の恨苔の下まで深く、不義の譏り世の末までも不可朽。頼之苟も此理を存ずる故に、全く貴方と合戦を可致志を不廻。往者不尤と申事候へば、御憤今は是までにてこそ候へ。枉て御方へ御参候へ。御分国已下、悉日来に不替可申沙汰にて候。若又其れも御意に叶はで、御本意を天下の反覆に達せんと被思召候はゞ、頼之無力四国を捨て備中へ可罷返候。」言を和げ礼を厚して、頻に和睦の儀を請れけるを、相摸守心浅信じて、問答に日数を経ける間に右馬頭中国の勢を待調へ城郭を堅く拵て、其後は音信も無りけり。相摸守の陣は白峯の麓、右馬頭の城は歌津なれば、其あはひ僅に二里也。寄やする待てや戦ふと、互に時を伺て数日を送りける程に、右馬頭の勢、太略遠国の者共なれば、兵粮につまりて窮困す。角ては右馬頭は讃岐国には怺じと見へける程に、結句備前の飽浦薩摩権守信胤宮方に成て、海上に押浮、小笠原美濃守、相摸守に同心して、渡海の路を差塞ける間、右馬頭の兵は日々に減じて落行き、相摸守の勢は国々に聞へて夥し。只魏の将司馬仲達が、蜀の討手に向て、戦はで勝事を得たりけん、其謀に相似たり。七月二十三日の朝、右馬頭帷帳の中より出て、新開遠江守真行を近付て宣ひけるは、「当国両陣の体を見るに、敵軍は日々にまさり、御方は漸々に減ず。角て猶数日を送らば、合戦難儀に及ぬと覚る。依之事をはかるに宮方の大将に、中院源少将と云人、西長尾と云所に城を構てをはすなる。此勢を差向て可攻勢を見せば、相摸守定て勢を差分て城へ入べし。其時御方の勢城を攻んずる体にて、向城を取て、夜に入らば篝を多く焼捨てこと道より馳帰り、軈て相摸守が城へ押寄せ、頼之搦手に廻りて先小勢を出し、敵を欺く程ならば、相摸守縦一騎なり共懸出て、不戦云事有べからず。是一挙に大敵を亡す謀なるべし。」とて、新開遠江守に、四国・中国の兵五百余騎を相副、路次の在家に火を懸て、西長尾へ向られける。如案相摸守是を見て、敵は西長尾の城を攻落して、後へ廻らんと巧けるぞ。中院殿に合力せでは叶まじとて、舎弟左馬助、いとこの掃部助を両大将として、千余騎の勢を西長尾の城へ差向らる。新開元来城を攻んずる為ならねば、態と日を暮さんと、足軽少々差向て、城の麓なる在家所々焼払て、向陣をぞ取たりける。城は尚大勢なれば、哀れ新開が寄て責よかし。
手負少々射出して後、一度にばつと懸出て、一人も不残討留んとぞ勇ける。夜已に深ければ、新開向陣に篝を多く焼残して、山を超る直道の有けるより引返して、相摸守の城の前白峯の麓へ押寄る。兼て定めたる相図なれば、同二十四日の辰刻に、細川右馬頭五百余騎にて搦手へ廻り、二手に分れて時の声をぞ挙たりける。此城元来鳥も難翔程に拵たれば、寄手縦如何なる大勢なり共、十日二十日が中には、容易可攻落城ならず。其上新開、西長尾より引帰ぬと見へば、左馬助・掃部助軈て馳帰て、寄手を追掃はん事、却て城方の利に成べかりけるを、相摸守はいつも己が武勇の人に超たるを憑て、軍立余りに大早なる人なりければ、寄手の旗の手を見ると均く、二の木戸を開かせ、小具足をだにも堅めず、袷の小袖引せたをりて、鎧許を取て肩に抛懸て、馬上にて上帯縮て、只一騎懸出給へば、相順ふ兵三十余騎も、或はほうあてをして未胄をも不著、或は篭手を差して未鎧を不著、真前に裹連たる敵千余騎が中へ破て入る。哀れ剛の者やとは乍見、片皮破の猪武者、をこがましくぞ見へたりける。げにも相摸守敵を物とも思はざりけるも理り哉。寄手千余騎の兵共、相摸守一騎に懸分られて、魚鱗にも不進鶴翼にも不囲得、此の塚の上彼の岡に打上りて、馬人共に辟易せり。相摸守は鞍の前輪に引付て、ねぢ頚にせられける野木備前次郎・柿原孫四郎二人が首を、太刀の鋒に貫て差挙げ、「唐土・天竺・鬼海・太元の事は国遠ければ未知、吾朝秋津島の中に生れて、清氏に勝る手柄の者有とは、誰もやはいふ。敵も他人に非ず、蓬く軍して笑はるな。」と恥しめて、只一騎猶大勢の中へ懸入給。飽まで馬強なる打物の達者が、逃る敵を追立々々切て落せば、其鋒に廻る者、或は馬と共に尻居に打居られ、或は甲の鉢を胸板まで被破付、深泥死骸に地を易たり。爰に備中国の住人真壁孫四郎と備前国の住人伊賀掃部助と、二騎田の中なる細道をしづ/\と引けるを、相摸守追付て切んと、諸鐙を合せて責られける処に、陶山が中間そばなる溝にをり立て、相摸守の乗給へる鬼鹿毛と云馬の、草脇をぞ突たりける。此馬さしもの駿足なりけれ共、時の運にや曵れけん一足も更に動かず、すくみて地にぞ立たりける。相摸守は近付て、敵の馬を奪はんと、手負たる体にて馬手に下り立ち、太刀を倒に突て立れたりけるを、真壁又馳寄せ、一太刀打ち当倒んとする処に、相摸守走寄て、真壁を馬より引落し、ねぢ頚にやする、人竜礫にや打つと思案したる様にて、中に差上てぞ立れたる。伊賀掃部助高光は懸合する敵二騎切て落し、鎧に余る血を笠符にて押拭ひ、「何くにか相摸殿のをはすらん。」と東西に目を賦る処、真壁孫四郎を中に乍提、其馬に乗んとする敵あり。「穴夥し。凡夫とは不見、是は如何様相摸殿にてぞをはすらん。是こそ願ふ処の幸よ。」と思ければ、伊賀掃部助畠を直違に馬を真闇に馳懸て、むずと組で引かづく。相摸守真壁をば、右の手にかい掴で投棄、掃部助を射向の袖の下に押へて頭を掻んと、上帯延て後に回れる腰の刀を引回されける処に、掃部助心早き者なりければ、組と均く抜たりける刀にて相摸守の鎧の草摺はねあげ、上様に三刀さす。刺れて弱れば刎返して、押へて頚をぞ取たりける。さしもの猛将勇士なりしか共、運尽て討るゝを知人更に無りしかば、続て助る兵もなし。森次郎左衛門と鈴木孫七郎行長と、討死をしける外は、一所にて打死する御方もなし。其身は深田の泥の土にまみれて、頚は敵の鋒にあり。只元暦の古、木曾義仲が粟津の原に打れ、暦応二年の秋の初、新田左中将義貞の足羽の縄手にて討れたりし二人の体に不異。西長尾の城に向られたりつる左馬助、二十四日の夜明て後、新開が引帰したるを見て、「是は如何様相摸殿御陣の勢を外へ分させて、差違ふて城へ寄んと忻けるを。軍今は定て始りぬらん。馳返て戦へ。」とて、諸鐙に策をそへて、千里を一足にと馳返り給へば、新開道に待受て、難所に引懸て平野に開合せ、入替々々戦たり。互に討つ討れつ、東西に地を易へ、南北に逢つ別つ、二時許戦て、新開遂に懸負ければ、左馬助・掃部助兄弟、勝時三声揚させて、気色ばうたる体にて、白峯城へ帰給ふ。斯る処に笠符かなぐり捨て、袖・甲に矢少々射付られたる落武者共、二三十騎道に行合たり。迹に追著て、「軍の様何と有けるぞ。」と問給へば、皆泣声にて、「早相摸殿は討れさせ給て候也。」とぞ答へける。「こは如何。」とて、城を遥に向上たれば、敵早入替ぬと覚て、不見し旗の紋共関櫓の上に幽揚す。重て戦んとするに無力、楯篭らんとするに城なければ、左馬助・掃部助、落行勢を引具して、淡路国へぞ被落ける。其国に志有し兵共、此事を聞て、何しか皆心替しければ、淡路にも尚たまり得ず、小船一艘に取乗て、和泉国へぞ落られける。是のみならず、西長尾城も被攻ぬ前に落しかば、四国は時の間に静りて、細川右馬頭にぞ靡順ひける。 
 

 

326 神木入洛事付洛中変異事
尾張修理大夫入道々朝は、将軍御兄弟合戦時、慧源禅門の方に属して打負しかば、鬱陶を不散、暫くは宮方に身を寄けるが、若将軍義詮朝臣より様々弊礼を尽して頻に招請し給ける間、又御方に成て、三男治部大輔義将を面に立て執事の職に居、武家の成敗をぞ意に任られける。去程に越前国は多年の守護にて、一国の寺社本所領を半済して家人共にぞ分行ける。其中に南都の所領河口庄をば、一円に家中の料所にぞ成たりける。此所は毎年維摩会の要脚たるのみに非ず、一寺の学徒是を以て、朝三の資を得て、僅に餐霞の飢を止、夜窓の燈挑て聚蛍の光に易ふ。而るを近年は彼依押領諸事の要脚悉闕如しぬれば、維摩の会場には、柳条乱て垂手の舞を列ね、講問の床の前には、鴬舌代て緩声の哥を唱ふ。是一寺滅亡の基、又は四海擾乱の端たるべし。早く当社押領の儀を止て、大会再興の礼に令復給べしと、公家に奏聞し武家に触訴ふ。然共公家の勅裁はなれ共人不用、武家の奉書は憚て渡す人なし。依之嗷儀の若輩・氏人の国民等、春日の神木を奉餝、大夫入道々朝が宿所の前に奉振捨。其日軈て勅使参迎して、神木をば長講堂へぞ奉入ける。天子自玉を下させ給て、常の御膳を降ださる。摂家皆高門を掩て、日の御供を奉り給ふ。今澆末の風に向て大本の遠を見るに、政道は棄れて無に似たりといへ共、神慮は明にして如在。哀とく裁許あれかしと人々申合けれども、時の権威に憚て是をと申沙汰する人も無りけり。禰宜が鈴振る袖の上に、託宣の涙せきあへず、社人の夙夜する枕の上に、夢想の告止時なし。同五月十七日、何くの山より出たり共知ず、大鹿二頭京中に走出たりけるが、家の棟・築地の覆の上を走渡て、長講堂の南の門前にて四声鳴て、何の山へ帰る共見へずして失にけり。是をこそ不思議の事と云沙汰しける処に、同二十一日月額の迹有て、目も鼻も無て、髪長々と生たる、なましき入道頚一つ、七条東洞院を北へ転ありくと見へて、書消す様に失にけり。又同二十八日長講堂の大庭に、こま廻して遊ける童の内に、年の程十許なるが、俄に物に狂て、二三丈飛上々々、跳る事三日三夜也。参詣の人怪て、何なる神の託せ給たるぞと問に、物づき口うち噤て、其返事をばせで、人や勝つ神や負ると暫しまて三笠の山のあらん限はと、数万人の聞所にて、高らかに三反詠じて物付は則醒にけり。見るも懼しく、聞に身の毛も竪神託共なれば、是に驚て、神訴を忽に裁許有ぬと覚へけれ共、混ら耳の外に処して、三年まで閣れければ、朱の玉垣徒に、引人もなき御注連縄、其名も長く朽はてゝ、霜の白幣かけまくも、賢き神の榊葉も、落てや塵に交らんと、今更神慮の程被計、行末如何と空をそろし。今程国々の守護、所々の大名共、独として寺社本所領を押へて、不領知云者なし。然共叶はぬ訴詔に退屈して、乍歎徒に黙止ぬれば、国々の政に僻事多けれ共、其人無咎に似たり。然るに此人独斯る大社の訴詔に取合ふて、神訴を得、呪咀を負けるも、只其身の不祥とぞ見へたりける処に、同十月三日道朝が宿所、七条東洞院より俄に失火出来て、財宝一も不残、内厩の馬共までも多焼失ぬ。是こそ春日明神の御祟よと、云沙汰せぬ人も無りけり。されども道朝やがて三条高倉に屋形を立て、大樹に咫尺し給へば、門前に鞍置馬の立止隙もなく、庭上に酒肴を舁列ねぬ時もなし。夫さらぬだにも、富貴の家をば鬼睨之云り。何況や神訴を負へる人也。是とても行末如何が有んずらんと、才ある人は怪しめり。 
327 諸大名讒道朝事付道誉大原野花会事
抑此管領職と申は、将軍家にも宗との一族也ければ、誰かは其職を猜む人も可有。又関東の盛なりし世をも見給たりし人なれば、礼儀法度もさすがに今の人の様にはあるまじければ、是ぞ誠に武家の世をも治めんずる人よと覚けるに、諸人の心に違ふ事のみ有て、終に身を被失けるも、只春日大明神の冥慮也と覚へたり。諸人の心に違ける事は、一には近年日本国の地頭・御家人の所領に、五十分一の武家役を毎年被懸けるを、此管領の時に二十分一になさる。是天下の先例に非ずと憤を含む処也。次に将軍三条の坊門万里小路に御所を立られける時、一殿一閣を大名一人づゝに課て被造。赤松律師則祐も其人数たりけるが、作事遅して期日纔に過ければ、法を犯す咎有とて新恩の地、大庄一所没収せらる。是又赤松が恨を含む随一也。次には佐々木佐渡判官入道々誉、五条の橋を可渡奉行を承て京中の棟別を乍取、事大営なれば少し延引しけるを励さんとて、道朝他の力をも不仮、民の煩をも不成、厳密に五条の橋を数日の間にぞ渡にける。是又道誉面目を失ふ事なれば、是程の返礼をば致さんずる也とて、便宜を目に懸てぞ相待ける。懸処に、柳営庭前の花、紅紫の色を交て、其興無類ければ、道朝種々の酒肴を用意して、貞治五年三月四日を点じ、将軍の御所にて、花下の遊宴あるべしと被催。殊更道誉にぞ相触ける。道誉兼ては可参由領状したりけるが、態と引違へて、京中の道々の物の上手共、独も不残皆引具して、大原野の花の本に宴を設け席を妝て、世に無類遊をぞしたりける。已に其日に成しかば、軽裘肥馬の家を伴ひ、大原や小塩の山にぞ趣きける。麓に車を駐て、手を採て碧蘿を攀るに、曲径幽処に通じ、禅房花木深し。寺門に当て湾渓のせゞらきを渉れば、路羊腸を遶て、橋雁歯の危をなせり。此に高欄を金襴にて裹て、ぎぼうしに金薄を押し、橋板に太唐氈・呉郡の綾・蜀江の錦、色々に布展べたれば、落花上に積て朝陽不到渓陰処、留得横橋一板雪相似たり。踏に足冷く歩むに履香し。遥に風磴を登れば、竹筧に甘泉を分て、石鼎に茶の湯を立置たり。松籟声を譲て芳甘春濃なれば、一椀の中に天仙をも得つべし。紫藤の屈曲せる枝毎に高く平江帯を掛て、頭の香炉に鶏舌の沈水を薫じたれば、春風香暖にして不覚栴檀林に入かと怪まる。眸を千里に供じ首を四山に廻、烟霞重畳として山川雑り峙たれば、筆を不仮丹青、十日一水の精神云に聚り、足を不移寸歩、四海五湖の風景立に得たり。一歩三嘆して遥に躋ば、本堂の庭に十囲の花木四本あり。此下に一丈余りの鍮石の花瓶を鋳懸て、一双の華に作り成し、其交に両囲の香炉を両机に並べて、一斤の名香を一度に焚上たれば、香風四方に散じて、人皆浮香世界の中に在が如し。其陰に幔を引曲を立双て、百味の珍膳を調へ百服の本非を飲て、懸物如山積上たり。猿楽優士一たび回て鸞の翅を翻し、白拍子倡家濃に春鴬の舌を暢れば、坐中の人人大口・小袖を解て抛与ふ。興闌に酔に和して、帰路に月無れば、松明天を耀す。鈿車軸轟き、細馬轡を鳴して、馳散り喚き叫びたる有様、只三尸百鬼夜深て衢を過るに不異。華開花落る事二十日、一城の人皆狂ぜるが如しと、牡丹妖艶の色を風せしも、げにさこそは有つらめと思知るゝ許也。此遊洛中の口遊と成て管領の方へ聞へければ、「是は只我申沙汰する将軍家の華下の会を、かはゆ気なる遊哉と欺ける者也。」と、安からぬ事にぞ被思ける。乍去是は心中の憤にて公儀に可出咎にもあらず。「哀道誉、何事にても就公事犯法事あれかし。辛く沙汰を致さん。」と心を付て被待ける処、二十分一の武家役を、道誉両年まで不沙汰間、管領すはや究竟の罪科出来すと悦て、道誉が近年給りたりける摂州の守護職を改め、同国の旧領多田庄を没収して政所料所にぞ成たりける。依之道誉が鬱憤不安。如何にもして此管領を失ばやと思て、諸大名を語ふに、六角入道は当家の惣領なれば無子細。赤松は聟也。なじかは可及異儀。此外の太名共も大略は道誉に不諛云者無りければ、事に触此管領天下の世務に叶まじき由を、将軍家へぞ讒し申ける。
魯叟有言、曰、衆悪之必察焉、衆好之必察焉。或は其衆阿党比周して好ずる事あり。或は其人特立不詳にして悪るゝ事あり。毀誉共に不察あるべからず。諸人の讒言遂に真偽を不糾しかば、道朝無咎して忽に可討に定けり。此事内々佐々木六角判官入道崇永に被仰て、江州の勢をぞ被召ける。道朝此由を伝聞て、貞治四年八月四日晩景に、将軍の御前に参じて被申けるは、「蒙御不審由内々告知する人の候つれ共、於身不忠不儀の事候はねば、申人の謬にてぞ候らんと、愚意を遣候つるに、昨日江州の勢共、合戦の用意にて、罷上り候ける由承及候へば、風聞の説早実にて候けりと信を取て候。抑道朝以無才庸愚身、大任重器の職を汚し候ぬれば、讒言も多く候覧と覚候。然るを讒者の御糺明までも無て、御不審を可蒙にて候はゞ、国々の勢を被召までも候まじ。侍一人に被仰付て、忠諌の下に死を賜て、衰老の後に尸を曝さん事何の子細か候べき。」と、恨の面に涙を拭て被申ければ、将軍も理に服したる体にて、差たる御言なし。良久黙然として涙を一目に浮べ給ふ。暫有て道朝已に退出せんとせられける時、将軍席を近付給て、「条々の趣げにもさる事にて候へ共、今の世中我心にも任たる事にても無ければ、暫く越前の方へ下向有て、諸人の申処をも被宥候へかし。」と宣へば、道朝、「畏て承ぬ。」とて軈被退出ぬ。去程に崇永兼て用意したる事なれば、稠くよろひたる兵八百余騎を卒して将軍の御屋形へ馳参り、四門を警固仕る。是より京中ひしめき渡て、将軍へと馳参る武者もあり、管領へと馳る人もあり。柳営家臣の両陣のあはひ僅に半町許あれば、何れを敵何れを御方共不見分。道朝始は一箭射て腹を切らんと企けるが、将軍より三宝院覚済僧正を御使にて、度々被宥仰ける間、さらばとて北国下向の儀に定りぬ。乍去をめ/\と都を出て下る体ならば悪かりなん。敵共に被追懸事もこそあれとて、八月八日の夜半許に、二宮信濃守五百余騎、高倉面の門より、将軍家に押寄る体を見せて、鬨をぞ揚たりける。是を聞て、将軍家へ馳参りたる大勢共、内へ入んとするもあり、外へ出んとするもあり。何と云事もなくせき合ふ程に、鎧の袖・胄を奪れ、太刀・長刀を取られ、馬・物具を失ふ者数を不知。未戦先に、禍蕭墻の中より出たりとぞ見へたりける。此ひしめきの紛れに、道朝は三百余騎の勢を卒し、長坂を経て越前へぞ被落ける。先陣今は一里許も落延ぬらんと覚る程に成て、二宮は迹を追て落行く。諸大名の勢共、疲れに乗て打止めんと追懸たり。二宮長坂峠に控て少も漂へる機を不見、馬に道草かふて嘲たる声ざしにて申けるは、「都にて軍をせざりつるは敵を恐るゝにはあらず、只将軍に所を置奉る故也。今は都をも離れぬ。夜も明ぬ。敵も御方も只今まで知り知られたる人々也。爰にては我人の剛臆の程を呈さでは何れの時をか可期。馬の腹帯の延ぬ先に早是へ御入候へ。我等が頚を御引出物に進するか、御頚共を餞に給るか、其二の間に自他の運否を定め候ばや。」と高声に呼て、馬の上にて鎧の上帯縮直して、東頭に引へたり。其勇気誠に節に中て、死を軽ずる義有て、前に可恐敵なしと見へければ、数万騎の寄手共、よしや今は是までぞとて、長坂の麓より引返しぬ。道朝、二宮を待付て、越前へ下著し、軈て我身は杣山の城に篭り、子息治部大輔義将を栗屋の城に篭て、北国を打随へんと被議ける間、将軍、「さらば討手を下せ。」とて、畠山尾張守義深・山名中務大輔・佐々木治部大輔高秀・土岐左馬助・佐々木判官入道崇永・舎弟山内判官入道崇誉・赤松大夫判官・同兵庫助範顕、能登・加賀・若狭・越前・美濃・近江の国勢、相共に七千余騎、同年の十月より二の城を囲て、日夜朝暮に攻けれ共、此城可被落とも不見けり。斯る処に翌年七月に道朝俄に病に被侵逝去しければ、子息治部大輔義将様様に歎申されけるに依て、同九月に宥免安堵の御教書を被成、京都へ被召返。無幾程越中の討手を承て、桃井播磨守直常を退治したりしかば、軈越中の守護職に被補。是より北国は無為に成にけり。此濫觴抑道朝が僻事は何ぞや。唯依諸人讒言失身給し者也。されば楚の屈原が泪羅の沢に吟て、「衆人皆酔、我独醒たり。」と、世を憤しを、漁父笑て、「衆人皆酔らば、何ぞ其糟を喰て其汁をすゝらざる。」と哥て、滄浪の舟に棹しも、げにさる事も有けりと、被思知世と成にけり。 
330 自太元攻日本事
倩三余の暇に寄て千古の記する処を看るに、異国より吾朝を攻し事、開闢以来已に七箇度に及べり。殊更文永・弘安両度の戦は、太元国の老皇帝支那四百州を討取て勢ひ天地を凌ぐ時なりしかば、小国の力にて難退治かりしか共、輙く太元の兵を亡して吾国無為なりし事は、只是尊神霊神の冥助に依し者也。其征伐の法を聞けば、先太元の大将万将軍、日本王畿五箇国を四方三千七百里に勘へて、其地に兵を無透間立双て是を数るに、三百七十万騎に当れり。此勢を大船七万余艘に乗て、津々浦々より推出す。此企兼てより吾朝に聞へしかば、其用意を致せとて、四国・九州の兵は筑紫の博多に馳集り、山陽・山陰の勢は帝都に馳参る。東山道・北陸道の兵は、越前敦賀の津をぞ堅めける。去程に文永二年八月十三日、太元七万余艘の兵船、同時に博多の津に押寄たり。大舶舳艫を双て、もやいを入て歩の板を渡して、陣々に油幕を引き干戈を立双べたれば、五島より東、博多の浦に至るまで、海上の四囲三百余里俄に陸地に成て、蜃気爰に乾闥婆城を吐出せるかと被怪。日本の陣の構は、博多の浜端十三里に石の堤を高く築て、前は敵の為に切立たるが如く、後は為御方平々として懸引自在也。其陰に屏を塗り陣屋を作て、数万の兵並居たれば、敵に勢の多少をば見透されじと思ふ処に、敵の舟の舳前に、桔槹の如くなる柱を数十丈高く立て、横なる木の端に坐を構て人を登せたれば、日本の陣内目の下に直下されて、秋毫の先をも数つべし。又面の四五丈広き板を、筏如に畳鎖て水上に敷双たれば、波の上に平なる路数た作出されて、恰三条の広路、十二の街衢の如く也。此路より敵軍数万の兵馬を懸出し、死をも不顧戦ふに、御方の軍勢の鉾たゆみて、多くは退屈してぞ覚ける。皷を打て兵刃既に交る時、鉄炮とて鞠の勢なる鉄丸の迸る事下坂輪の如く、霹靂する事閃電光の如くなるを、一度に二三千抛出したるに、日本兵多焼殺され、関櫓に火燃付て、可打消隙も無りけり。上松浦・下松浦の者共此軍を見て、尋常の如にしては叶はじと思ければ、外の浦より廻て、僅に千余人の勢にて夜討にぞしたりける。志の程は武けれ共、九牛が一毛、大倉の一粒にも当らぬ程の小勢にて寄せたれば、敵を討事は二三万人なりしか共、終には皆被生捕、身を縲紲の下に苦しめて、掌を連索の舷に貫れたり。懸りし後は重て可戦様も無りしかば、筑紫九国の者共一人も不残四国・中国へぞ落たりける。日本一州の貴賎上下如何がせんと周章騒ぐ事不斜。諸社の行幸御幸・諸寺の大法秘法、宸襟を傾て肝胆を砕かる。都て六十余州大小の神祇、霊験の仏閣に勅使を被下、奉幣を不被捧云所なし。如此御祈祷已に七日満じける日、諏訪の湖の上より、五色の雲西に聳き、大蛇の形に見へたり。八幡御宝殿の扉啓けて、馬の馳ちる音、轡の鳴音、虚空に充満たり。日吉の社二十一社の錦帳の鏡動き、神宝刃とがれて、御沓皆西に向へり。住吉四所の神馬鞍の下に汗流れ、小守・勝手の鉄の楯己と立て敵の方につき双べたり。凡上中下二十二社の震動奇瑞は不及申、神名帳に載る所の三千七百五十余社乃至山家村里の小社・櫟社・道祖の小神迄も、御戸の開ぬは無りけり。此外春日野の神鹿・熊野山の霊烏・気比宮の白鷺・稲荷山の名婦・比叡山の猿、社々の仕者、悉虚空を西へ飛去ると、人毎の夢に見へたりければ、さり共此神々の助にて、異賊を退け給はぬ事はあらじと思ふ許を憑にて、幣帛捧ぬ人もなし。浩る処に弘安四年七月七日、皇太神宮の禰宜荒木田尚良・豊受太神宮の禰宜度会貞尚等十二人起請の連署を捧て上奏しけるは、「二宮の末社風の社の宝殿の鳴動する事良久し。六日の暁天に及て、神殿より赤雲一村立出て天地を耀し山川を照す。其光の中より、夜叉羅刹の如くなる青色の鬼神顕れ出て土嚢の結目をとく。
火風其口より出て、沙漁を揚げ大木を吹抜く。測ぬ、九州の異狄等、此日即可滅と云事を。事若誠有て、奇瑞変に応ぜば、年来申請る処の宮号、被叡感儀可火宣下。」とぞ奏し申ける。去程に大元の万将軍、七万余艘のもやひをとき、八月十七日辰刻に、門司・赤間が関を経て、長門・周防へ押渡る。兵已に渡中をさしゝし時、さしも風止み雲閑なりつる天気俄に替て、黒雲一村艮の方より立覆ふとぞ見へし。風烈く吹て逆浪大に漲り、雷鳴霆て電光地に激烈す。大山も忽に崩れ、高天も地に落るかとをびたゝし。異賊七万余艘の兵船共或は荒磯の岩に当て、微塵に打砕かれ、或は逆巻浪に打返されて、一人も不残失にけり。斯りけれ共、万将軍一人は大風にも放たれず、浪にも不沈、窈冥たる空中に飛揚りてぞ立たりける。爰に呂洞賓と云仙人、西天の方より飛来て、万将軍に占しけるは、「日本一州の天神地祇三千七百余社来て、此悪風を起し逆浪を漲しむ。人力の可及処に非ず。汝早く一箇の破船に乗て本国へ可帰。」とぞ申ける。万将軍此言を信じて、一箇の破船有けるに乗て、只一人大洋万里の波を凌て、無程明州の津にぞ著にける。舟より上り、帝都へ参らんとする処に、又呂洞賓忽然として来て申けるは、「汝日本の軍に打負たる罪に依て、天子忿て親類骨肉、皆三族の罪に行はれぬ。汝帝都に帰らば必共に可被刑。早く是より剣閣を経て、蜀の国へ行去れ。蜀王以汝大将として、雍州を攻ばやと、羨念ふ事切なり。至らば必大功を建べしと云て別れたるが、我汝が餞送の為に嚢中を探るに、此一物の外は無他。」とて、膏薬を一付与へける。其銘に至雍発とぞ書付たりける。万将軍呂洞賓が言に任て、蜀へ行たるに、蜀王是を悦給ふ事無限。軈て万将軍に上将の位を授け、雍州をぞ攻させける。万将軍兵を卒し旅を屯て雍州に至るに、敵山隘の高く峙たるに、石の門を閉てぞ待たりける。誠に一夫忿て臨関に、万夫も不可傍と見へたり。此時に万将軍、呂洞賓が我に与し膏薬の銘に至雍発せよと書たりしは、此雍州の石門に付よと教へけるにこそと心得て、密に人をして、一付有ける膏薬を、石門の柱にぞ付させたりける。付ると斉く石門の柱も戸も如雪霜とけて、山崩れ道平になりければ、雍州の敵数万騎、可防便を失て、皆蜀王にぞ降りける。此功然万将軍が徳也とて、軈て公侯の位に登せられける。居る事三十日有て、万将軍背に癰瘡出たりけるが、日を不経して忽に死にけり。雍州の雍の字と癰瘡の癰字と声通ぜり。呂洞賓が膏薬の銘に至癰発と書けるは、雍州の石門に付よと教けるか、又癰瘡の出たらんに付よと占しけるか、其二の間を知難し。功は高して命は短し。何をか捨何をか取ん。若休事を不得して其一を捨ば、命は在天、我は必功を取ん。抑太 
334 中殿御会事
貞治六年三月十八日、長講堂へ行幸あり。是は後白河法皇の御遠忌追賁之御為に、三日まで御逗留有て法花御読経あり。安居院の良憲法印・竹中僧正慈照、導師にぞ被参ける。難有法会なれば、聴聞の緇素不随喜云者なし。惣じて此君御治天の間、万づ継絶、興廃御坐す叡慮也しかば、諸事の御遊に於て、不尽云事不御座。故に中殿御会は、累世の規摸也。然るを此御世に未無其沙汰。仍連々に思食立しかば、関白殿其外の近臣内々被仰合、中殿の宸宴は大儀なる上、毎度天下の凶事にて先規不快由、面々一同に被申ければ、重て有勅定けるは、聖人有謂、詩三百一言思無邪と。されば治れる代の音は安して楽む。乱れたる代の音は恨て忿るといへり。日本哥も可如此。政を正して邪正を教へ、王道の興廃を知は此道也。されば昔の代々の帝も、春の花の朝・秋の月の夜、事に付つゝ哥を合せて奉らん人の慧み、賢愚なるをも知食けるにや。神代の風俗也。何れの君か是を捨給ん。聖代の教誡也。誰人か不哢之。抑中殿の宸宴と申侍るは、後冷泉院天喜四年三月画工の桜花を叡覧有て土御門大納言師房卿に勅して、「新成桜花。」と云題を令献、清涼殿に召群臣御製を被加、同糸竹の宴会あり。自爾以来、白河院応徳元年三月左大弁匡房に勅して「花契多春。」と云題を令献、於中殿被講之。又堀河院御代永長元年三月権大納言匡房卿に課て、「花契千年。」と云題を令献、宴遊を被伸。又崇徳院御宇天承元年十月、権中納言師頼に勅して、「松樹緑久。」と云題を令献、宸宴有き。其後建保六年八月順徳院光明峯寺の関白に勅して、「池月久澄。」と云題を令献被講き。次後醍醐院御宇元徳二年二月、権中納言為定卿に勅して、「花契万春。」と云題にて、中殿の御会を被行之。此外承保二年四月・長治二年三月・嘉承二年三月・建武二年正月、清涼殿にして和哥の宴雖在之、非一二度、中殿の御会先規には不加侍にや。加様の先蹤皆聖代洪化なり。何ぞ不快の例といはんや。然に今年の春は九城の裏の花香く、八島の外に風治れる時至れり。早く尋建保芳躅、題並序の事。関白可被献之由強て有勅定しかば、中殿の御会の事内々已に定りにけり。征夷将軍も、此道に数奇給ふ事なれば、勅撰なんど被申行上、近比は建武の宸宴、贈左府の嘉躅非無由緒、被仰出しかば、不及子細領掌被申けり。因此蔵人左少弁仲光を奉行にて、三月二十九日を被定。勅喚の人々に賦題。「花多春友。」と云題を、任建保例兼日に関白被出けるとかや。既に其日に成しかば、母屋の廂の御簾を捲て、階の西の間より三間北にして、二間に各菅の円座を布て公卿の座とす。長治元年には雖為二行、今度は関白殿の加様に座を被設。御帳の東西には三尺の几帳を被立、昼の御座の上には、御剣・御硯箱を被措たり。大臣の座末、参議の坐の前には、各高灯台を被立たり。関白直廬より御参あれば、内大臣已下相随ひ給ふ。任保安例今日既に直衣始の事あり。前駆・布衣・随身の褐衣如常なれば、差たる見事は無りけり。丑刻許に将軍已に参内あり。其行妝見物の貴賎皆目を驚かせり。公家家礼の人々には、為秀・行忠・実綱卿・為邦朝臣なんど庭上に下て礼あり。左衛門の陣の四脚に、将軍即参入あり。先帯刀十人左右に相番て曳列。左は佐々木佐渡四郎左衛門尉時秀、地白の直垂に金銀の薄にて四日結を挫たる紅の腰に、鰄の金作の太刀を帯く。右は小串次郎左衛門尉詮行、地緇の直垂に、銀薄にて二雁を挫白太刀を佩く。次伊勢七郎左衛門貞行、地白の直垂に、金薄にて村蝶を押て白太刀を佩て左に歩む。右は斉藤三郎左衛門尉清永、地香の直垂に、二筋違の中に、銀薄にて菱を押たる黄腰に、鰄の太刀を佩たり。次に大内修理亮、直垂に金薄にて大菱を押す。打鰄に金作の太刀を帯く。右は海老名七郎左衛門尉詮季、地黒に茶染直垂に、金薄にて大笳篭を押して、黄なる腰に白太刀帯たり。次本間左衛門太郎義景、地白紫の片身易の直垂に金銀の薄にて十六目結を押、紅の腰に白太刀を佩く。右に山城四郎左衛門尉師政、地白に金泥にて州流を書たる直垂に、白太刀佩て相随ふ。次に粟飯原弾正左衛門尉詮胤、地黄に銀泥にて水を書、金泥にて鶏冠木を書たる直垂に、帷は黄なる腰に白太刀を帯たり。由々敷ぞ見へたりける。
此次に征夷大将軍正二位大納言源朝臣義詮卿、薄色の立紋の織物の指貫に、紅の打衣を出し、常の直垂也。左の傍に山名民部少輔氏清、濃紫の指貫に款冬色の狩衣著して帯剣の役に随へり。右は摂津掃部頭能直、薄色の指貫、白青織物の狩衣著て沓の役に候す。佐々木備前五郎左衛門尉高久、二重狩衣にて御調度の役に候す。本郷左近大夫将監詮泰は、香の狩衣にて笠の役に随ふ。今河伊予守貞世は侍所にて、爽かに胄たる随兵、百騎許召具して、轅門の警固に相随。此外土岐伊予守直氏・山城中務少輔行元・赤松大夫判官光範・佐々木尾張守高信・安東信濃守高泰・曾我美濃守氏助・小島掃部助詮重・朝倉小次郎詮繁・同又四郎高繁・彦部新左衛門尉秀光。藤民部五郎左衛門盛時・八代新蔵人師国・佐脇右京亮明秀・藁科新左衛門尉家治・中島弥次郎家信・後藤伊勢守・久下筑前守・荻野出羽守・横地山城守・波多野出雲守・浜名左京亮・長次郎、是等の人々思々の直垂にて、飼たる馬に厚総係て、折花尽美。将軍堂上の後、帯刀の役人は、皆申門の外に敷皮を布て列居す。先依別勅御前の召あり。関白殿御前に被参。其後刻限に至て、人々殿上に著座あり。右大臣・内大臣・按察使実次・藤中納言時光・冷泉中納言為秀・別当忠光・侍従宰相行忠・小倉前宰相実名・二条宰相中将為忠・富小路前宰相中将実遠なんどぞ被参ける。関白殿奉行職事仲光を召て、事の具否を尋らる。軈て被伺出御。御衣は黄直衣・打の御袴也。関白殿著座有て後、頭左中弁嗣房朝臣を召て、公卿可著坐由を仰す。嗣房於殿上諸卿を召す。右大臣・内大臣以下、次第に著座有しかば、将軍は殿上には著座し給はで、直に御前に進著せらる。爾後嗣房朝臣・仲光・懐国・五位殿上人伊顕なんど、面々の役に随て、灯台・円座・懐紙等を措く。為敦・為有・為邦朝臣・為重・行輔なんど迄著座ありしか共、右兵衛督為遠は御前には不著、殿上の辺に徘徊す。是は建保に定家卿如此の行迹たりし其例とぞ申合ける。富小路前宰相中将・冷泉院中納言・藤中納言・鎌倉大納言・内大臣・右大臣・関白なんど懐紙の名、膝行皆思々也。関白は依建保之例雖為序者、任位次置之。又直衣蹈哺て膝行あり。故太閤元徳の中殿の御会に被参しに此作法侍りけるとかや。右大臣依為読師、直に御前の円座に著し給て、講師仲光を召す。又序を為講、由別勅時光卿を被召。右大弁為重を召て懐紙を令重。序より次第に是を読上たり。春日侍中殿同詠花多春友応製和歌一首並序関白従一位臣藤原朝臣良基上。夫天之仁者春也。地之和者花也。則天地悠久之道、而施於不仁之仁、玩煙霞明媚之景、而布大和之和。黄鴬呼友、遷万年之枝、粉蝶作舞、戯百里之囿。鑠乎聖徳、時哉宸宴。爰騰哥詠於五雲之間、忽興治世之風。奏簫韶於九天之上、再聞大古之調。況又玉笙之操、高引紫鸞之声焉。奎章之巧、新素鵝之詞矣。盛乱之世、未必弄雅楽、兼之者此時也。好文之主、未必携和語、兼之者我君也。一場偉観千載之徽猷者耶。小臣久奉謁竜顔、忝佐万機之政。親奏鳳詔、聊記一日之遊。其辞曰、つかへつゝ齢は老ぬ行末の千年も花になをや契らん此次に右大臣正二位藤原朝臣実俊・内大臣正二位臣藤原朝臣師良・正二位行陸奥出羽按察使藤原朝臣実継、此次は征夷大将軍正二位臣源朝臣義詮・正二位行権中納言臣藤原朝臣時光・正二位行権中納言藤原朝臣為秀・権中納言従三位兼行左衛門督臣藤原朝臣忠光、此次参議従三位兼行侍従兼備中権守臣藤原朝臣行忠・従三位兼右兵衛督臣藤原朝臣為遠・蔵人内舎人六位上行式部大丞臣藤原朝臣懐国等に至迄、披講事終て、講師皆退給ければ、講誦の人々、猶可祗候由、依天気関白読師の円座に著給しかば、別勅にて権中納言時光卿を被召、御製の講師として、開匂ふ雲居の花の本つ枝に百代の春を尚や契覧講誦十返許に及しかば、日已に内樋に耀く程也。されば物の色合さだかに、花の薫も懐しく、霞立気幸も最艶なるに、面々の詠哥の声も雲居に通る心地して、身に入許ぞ聞へける。御製の披講終て、各本坐に退けば、伶人にあらざる人々も座を退く。其後軈て御遊始り、笛は三条大納言実知卿、和琴は左宰相中将実綱、篳篥は前兵部卿兼親、笙は前右衛門督刑時、拍子は綾小路三位成方、琴は公全朝臣、付歌者宗泰朝臣也。呂には此殿・鳥の破・席田・鳥の急、律には万歳楽・伊勢海・三台急也けり。玉笙の声の中には鳳鳥も来儀し、和琴の調の間には鬼神も感動するかとぞ覚し。此宸宴に有御所作事邂逅也。建保には御琵琶にて有ける也。爾後は稀なる御事なるを、今此御宇に詩哥両度の宸宴に、毎度の御所作難有事とぞ聞へし。懸る大会は聊の故障もある事なるに、一事の違乱煩なく無為に被遂行ぬれば、万邦磯城島の政道に帰し、四海難波津の古風を仰て、人皆柿本の遺愛を恋るのみならず、世挙て柳営の数奇を感嘆し、翌日午刻許に人々被退出しかば、目出なんど云ふ許りなし。さても中殿の御会と云事は、吾朝不相応宸宴たるに依て、毎度天下に重事起ると人皆申慣せる上、近臣悉眉を顰て諌言を上たりしか共、一切無御承引終に被遂行けり。さるに合せて、同三月二十八日丑刻に、夥敷大変西より東を差て飛行と見へしが、翌日二十九日申刻に天竜寺新造の大廈、土木の功未終、失火忽に燃出て一時の灰燼と成にけり。故に此寺は、公家武家尊崇異于他して、五山第二の招提なれば、聊爾にも攘災集福の懇祈を専にする大伽藍なるに、時節こそあれ、不思議の表示哉と、貴賎唇をぞ翻しける。因慈将軍御参内の事は可有斟酌由、再三被経奏聞しか共、是寺已に勅願寺たる上者、最天聴を驚す所なれ共、如此の拠災殃、臨期宸宴を被止事無先規。早諸卿に被仰下しかば、此問答に時遷て、御参内も夜深過る程になり、御遊も翌日に及びけるとかや。浅猿かりし事共なり。