■先代旧事本紀1 概説 | |
(せんだいくじほんぎ、先代舊事本紀) 日本の史書である。『旧事紀』(くじき)、『旧事本紀』(くじほんぎ)ともいう。全10巻からなり、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている。序文に聖徳太子、蘇我馬子らが著したとあるが、現在では大同年間(806年〜810年)以後、延喜書紀講筵(904年〜906年)以前に成立したとみられている。
本書は度会神道や室町時代の吉田神道でも重視され、記紀と並ぶ「三部の本書」とされた。また江戸時代には『先代旧事本紀大成経』など古史古伝の成立にも影響を与えたが江戸時代の国学者多田義俊や伊勢貞丈らによって偽書とされた。現在の歴史学では、物部氏の氏族伝承など部分的に資料価値があると評価されている。 |
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■成立時期
序文には推古天皇の命によって聖徳太子と蘇我馬子が著したもの(『日本書紀』推古28年(620年)に相当する記述がある)とある。このことなどから、平安中期から江戸中期にかけては日本最古の歴史書として『古事記』・『日本書紀』より尊重されることもあった。しかし、江戸時代に入って偽書ではないかという疑いがかけられるようになり、多田義俊や伊勢貞丈らの研究によって偽書であることが明らかにされた。 本書の実際の成立年代については『古語拾遺』(807年成立)からの引用があること、藤原春海による『先代旧事本紀』論が承平(931年〜938年)の日本紀講筵私紀に引用されていることから、『先代旧事本紀』は藤原春海による延喜の『日本書紀』講書の際(904年〜906年)には存在したと推定され、従って、『先代旧事本紀』の成立は大同年間(806年〜810年)以後、延喜書紀講筵(904年〜906年)以前と推定されている。 また、貞観年間(859年〜876年)に編纂された『令集解』に『先代旧事本紀』からの引用があるとして、『先代旧事本紀』の成立時期を807年〜859年〜876年とみる説がある。 また『令集解』に引用される、穴太内人(あのうのうちひと)の著『穴記』(弘仁(810年〜823年)天長(824〜833年)年間に成立か。)に『先代旧事本紀』からの引用があるとして成立時期を807年〜833年とみる説がある。ただし、『穴記』の成立年代は弘仁4年以後ということのみが特定できるにとどまるため、推定の根拠としては有効ではないともいわれる。 |
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■編纂者
■興原敏久 編纂者の有力な候補としては、平安時代初期の明法博士である興原敏久(おきはらのみにく)が挙げられる。これは江戸時代の国学者・御巫清直(みかんなぎきよなお、文化9年(1812年) - 1894年(明治27年))の説で、興原敏久は物部氏系の人物(元の名は物部興久)であり、彼の活躍の時期は『先代旧事本紀』の成立期と重なっている。編纂者については、興原敏久説の他に、石上神宮の神官説、石上宅嗣説、矢田部公望説などがある。 ■物部氏 佐伯有清は「著者は未詳であるが、「天孫本紀」には尾張氏および物部氏の系譜を詳細に記し、またほかにも物部氏関係の事績が多くみられるので、本書の著者は物部氏の一族か。」とする。 ■矢田部公望 御巫清直は序文は矢田部公望が904〜936年に作ったものとする。安本美典は『先代旧事本紀』の本文は興原敏久が『日本書紀』の推古天皇の条に記された史書史料の残存したものに、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』などの文章、物部氏系の史料なども加えて整え、その後、矢田部公望が「序」文と『先代旧事本紀』という題名を与え、矢田部氏関係の情報などを加えて現在の『先代旧事本紀』が成立したと推定している。 |
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■資料価値
本文の内容は『古事記』・『日本書紀』・『古語拾遺』の文章を適宜継ぎ接ぎしたものが大部分であるが、それらにはない独自の伝承や神名も見られる。また、物部氏の祖神である饒速日尊(にぎはやひのみこと)に関する独自の記述が特に多く、現存しない物部文献からの引用ではないかと考える意見もある。 巻三の「天神本紀(てんじんほんぎ)」の一部、巻五の「天孫本紀(てんそんほんぎ)」の尾張氏、物部氏の伝承(饒速日尊に関する伝承等)と巻十の「国造本紀(こくぞうほんぎ)」には、他の文献に存在しない独自の所伝がみられる。 「天孫本紀」には現存しない物部文献からの引用があるとする意見もあり、国造関係史料としての「国造本紀」と共に資料的価値があるとする意見もある。 ●青木和夫は巻五の「天孫本紀」は尾張氏,物部氏の古来の伝承であり、巻十の「国造本紀」も古い資料によっているとする。 ●新野直吉は「国造本紀」について「畿内大倭から多鳥(たね)までの大化前代の地方官豪族である国造(くにのみやつこ)名を掲げ、その系譜と任命設置時を示している。後世の国造である律令国造の名や国司名も混入しているが、他に例のないまとまった国造関係史料なので、独自の価値を持ち古代史研究の史料となっている。」とする。 ●佐伯有清は「天孫本紀」「国造本紀」は史料として重要とする。 ●上田正昭は『先代旧事本紀』には注目すべき内容が多々あると述べている。 ●安本美典は物部氏の伝承や国造関係の情報は貴重であり、推古朝遺文(推古天皇の時代に書かれたとされる文章)のような古い文字の使い方があり相当古い資料も含まれている可能性があるとする。 ●蓮沼啓介も資料価値を認めている。 |
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■影響
本書は序文に聖徳太子、蘇我馬子らが著したものとあるため、中世の神道家などに尊重された。 鎌倉時代の僧・慈遍は、『先代旧事本紀』を神道の思想の中心と考えて注釈書『舊事本紀玄義』を著し、度会神道に影響を与えた。 室町時代、吉田兼倶が創始した吉田神道でも『先代旧事本紀』を重視し、記紀および『先代旧事本紀』を「三部の本書」としている。 『先代旧事本紀大成経』(延宝版(潮音本、七十二巻本))、およびその異本である『鷦鷯(ささき、さざき)伝本先代旧事本紀大成経(大成経鷦鷯伝)』(三十一巻本、寛文10年(1670年)刊)、『白河本旧事紀』(伯家伝、三十巻本)などはすべて『先代旧事本紀』を基にして江戸時代に創作されたと言われ、後に多数現れる偽書群「古史古伝」の成立にも影響を与えた。 |
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■偽書説
序文に書かれた本書成立に関する記述に疑いが持たれることから、江戸時代に多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らに、偽書とされて以来、偽書であるとの評価が一般的である。 ●多田義俊は『旧事記偽書明証考』(1731年)で偽書説を主張。 ●伊勢貞丈は『旧事本紀剥偽』(1778年)を著し、「舊事本紀(先代旧事本紀)は往古の偽書なり」と記している。 ●栗田寛は『国造本紀考』(文久元年、1861年)のなかで徳川光圀が「後人の贋書」とし、信用できないと述べたと記録している。 明治以降、序文に書かれた本書成立に関する記述に関してはともかく、本文内容に関しては偽書ではないとする学者もあったが、近年の研究では、内容そのものの整合性や、他の文献との整合性から、全体的には偽書とする評価が固まりつつある。藤原明(ノンフィクションライター)は『旧事紀』は聖徳太子勅撰として、承平6年(936年)日本紀講(『日本書紀』講)の席で矢田部公望によって突如持ち出された書物であり、その後、本書は『日本書紀』の原典ともいうべき地位を獲得したが、矢田部公望が物部氏の権威付けのために創作した書物である可能性が高く(矢田部公望は物部氏であり、当時の朝廷内では、対立する氏族との権力争いがあったと指摘している)、実際に創作したのは別の人物の可能性もあるが、物部氏か矢田部公望に近い筋の者であろうと推定して、本書は偽書であるとしている。 ただし、本書に記載された部分的な伝承は歴史学者によって資料価値が認められている。 |
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■先代旧事本紀2 概説 | |
略して『旧事紀くじき』『旧事本紀くじほんぎ』と通称されています。
その序文によると、推古天皇の二十八年(620)に勅によって、聖徳太子が蘇我馬子とともに撰定したものとされます。近世になるまでこれが信じられ、強い影響力をもっていました。 しかし、本文の大部分が『古事記』『日本書紀』『古語拾遺こごしゅうい』からの引用で成っていることや、天皇謚号などのはるか後代でなければ知りえないことに関する記載があること、序文と本文との間に不備があることなどから、現在では聖徳太子らが編纂に携わったことは否定されています。また、『古事記』『続日本紀』『弘仁格式』などと比べて序文の形式が当時のものにかなっていないことも指摘されています。 そのため、『日本書紀』推古二十八年条に、「皇太子・嶋大臣、共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部并て公民等の本記を録す」という記事に付会して成立年代をさかのぼらせた「偽書」であるといわれます。 実際の成立年代は、平安初期と考えられます。 その上限は、本文中に加我国かがのくにが「嵯峨朝の御世、弘仁十年(十四年の誤りか)に越前国を割て、加賀国と為す」とあり、823年以降とみられます。また下限は、藤原春海が『日本書紀』の講書を行ない、その中で『先代旧事本紀』に言及した延喜四年(904)〜延喜六年のころまでとみられます。 『古事記』『古語拾遺』『藤氏家伝』『高橋氏文』『新撰姓氏録』といった、諸氏の家記に関連する書が先んじて編纂され、これに刺激を受ける形で『先代旧事本紀』も作成されたようです。 「偽書」の評価を下されたのは上記の「聖徳太子の撰」を騙ったと見られているためで、内容的には、全体に物部氏に関する独自の伝承が織りこまれています。これには拠るべき古伝があったのではないかとみられ、物部氏伝承自体がすべて偽作されたわけではないと考えられます。 編纂の目的は、「物部氏は由緒正しい家柄で、神武天皇以来、代々石上神宮いそのかみじんぐうの神を祀ってきた」ことを主張することにあるとみられます。この目的と直接関係しない部分には、多く重複・矛盾がみられます。そのため、未完成説もあるようです。 作成者は不明ながらも、物部氏との同族意識を持った人物だったと思われます。 構成は、全十巻から成ります。 第一巻は「神代本紀」および「陰陽本紀」で、天地のはじまりから、天照太神ら三貴子の誕生まで。 第二巻は「神祇本紀」で、天照太神と素戔烏尊の誓約から、素戔烏尊の高天原追放まで。 第三巻は「天神本紀」で、物部氏の祖神である饒速日尊の天降りから、出雲国譲りまで。 第四巻は「地祇本紀」で、素戔烏尊・大己貴命ら出雲神の神話。 第五巻は「天孫本紀」で、饒速日尊の後裔とする尾張氏と物部氏について。 第六巻は「皇孫本紀」で、瓊々杵尊の天降りから、神武東征まで。 第七巻は「天皇本紀」で、神武天皇の即位から、神功皇后まで。 第八巻は「神皇本紀」で、応神天皇から、武烈天皇まで。 第九巻は「帝皇本紀」で、継体天皇から、推古天皇まで。 第十巻は「国造本紀」で、大倭国造から、多ネ嶋国造まで、135の国造の由来について記されています。 物部氏の祖神・饒速日尊にぎはやひのみことについて、『日本書紀』は神武天皇の東征以前に大和に天降り、「天神の子」を称して、神武天皇もそれを認めたとしています。しかし、饒速日尊がいつ天降り、神々の系譜上どこに位置するのかには触れていません。 これに対し、先代旧事本紀は「神代本紀」において、中臣氏や忌部氏、阿智祝部氏らを、皇室に連なる神世七代天神とは別の独化天神の後裔として、皇室と距離を取らせる一方、「天神本紀」などでは、饒速日尊を尾張氏の祖神である天火明命と同一神にして、瓊々杵尊と同じ「天孫」に位置づけ、物部氏の格の高さを主張しています。 また、物部氏の人物が、「食国おすくにの政まつりごとを申す大夫」「大臣」「大連」といった執政官を多く出し、代々天皇に近侍してきたことを強調します。 『先代旧事本紀』の作成者が、もっとも語りたかったのは、物部氏と石上神宮のつながりと思われます。 石上神宮の神のうち、「布都御魂ふつのみたま」は、出雲国譲りと神武東征に登場する、天皇にまつろわぬモノをことむける剣神であり、「布留御魂ふるのみたま」は、タマシヅメ・タマフリの力を持つ、十種の天璽瑞宝の霊威のことで、饒速日尊が天神御祖てんじんのみおやから授けられて天降ったものとされています。 なお、現在の主祭神には「布都斯魂ふつしみたま」もありますが、これは物部首もののべのおびと(ワニ氏族。のちの布留宿禰)が関与するようになった後、フツノミタマから派生した神と思われます。 「布都御魂」「布留御魂」は両者とも、物部氏の職掌に密接に関係する性格を持ちます。 物部氏は、大和王権に従わない人たち=ツチグモを、富を生み出すオホミタカラに変換することを任務にしていたと考えられます。各地の豪族を、ときに武力も用いて屈服させた後、彼らの神を象徴する神宝・瑞宝を没収し、石上神宮に集めて、祟り神と化さないよう魂を鎮める呪術を行ないました。 魂の状態をあやつる力は、逆に、天皇国家の霊を活性化することにも用いられました。 また、これらに必要な武器・祭器を製作する技術者集団としての性格も、物部は持っていたといわれています。 しかし、『先代旧事本紀』が作成された時代には、こういった役割を物部氏は終えており、また石上宅嗣いそのかみのやかつぐの亡き後、中央政界の表舞台にも物部氏の人物が登場することは無くなっていきました。 「天孫本紀」の物部氏系譜は、十七世孫に物部麻呂もののべのまろ(元明朝の左大臣・石上麻呂。宅嗣の祖父)のみを記します。そして、物部守屋すら麻呂の曽祖父である物部大市御狩もののべのおおいちのみかりの弟という傍流に位置づけ、また石上神宮が蘇我氏支配下にあった時期も、物部鎌姫大刀自かまひめおおとじらの手によって、連綿と物部氏による祭祀が続けられたとしています。 旧来の職掌に変化が生じ、本宗家の貴族としての力が衰退していった後、物部氏に残されていたのは、宮廷祭祀のひとつである鎮魂祭に取り入れられた鎮魂呪術と関係する、石上神宮とのつながりを主張することだったのです。 |
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■本居宣長からみた『先代旧事本紀』 | |
江戸時代の国学者、本居宣長は、『古事記伝』一之巻のなかの「旧事紀といふ書の論」という一節で、先代旧事本紀についての見解を述べています。次のとおりです。
「世に旧事本紀と名づけたる、十巻の書あり。此は後の人の偽り輯めたる物にして、さらにかの聖徳太子命の撰び給し、真の紀には非ず。[序も、書紀の推古の御巻の事に拠て、後の人の作れる物なり。] 然れども、無き事をひたぶるに造りて書るにもあらず。ただ此の記と書紀とを取り合せて、集めなせり。其は巻を披きて一たび見れば、いとよく知らるることなれど、なほ疑はむ人もあらば、神代の事記せる所々を、心とどめて看よ。事毎に此記の文と書紀の文とを、皆本のままながら交へて挙たる故に、文体一つ物ならず。諺に木に竹を接りとか云が如し。又此記なるをも書紀なるをも、ならべ取りて、一つ事の重なれるさへ有て、いといとみだりがはし。すべて此記と書紀とは、なべての文のさまも、物の名の字なども、いたく異なるを、雑へて取れれば、そのけぢめいとよく分れてあらはなり。又往々古語拾遺をしも取れる、是れも其文のままなれば、よく分れたり。[これを以て見れば、大同より後に作れる物なりけり。さればこそ中に、嵯峨の天皇と云ことも見えたれ。] かくて神武天皇より以降の御世御世は、もはら書紀のみを取て、事を略てかける、是れも書紀と文全く同じければ、あらはなり。且歌はみな略けるに、いかなればか、神武の御巻なるのみをば載たる、仮名まで一字も異ならずなむ有るをや。さて又某本紀某本紀とあげたる、巻々の目どもども、みなあたらず。凡て正しからざる書なり。但し三の巻の内、饒速日の命の天より降り坐す時の事と、五の巻尾張の連物部の連の世次と、十の巻国造本紀と云ふ物と、是等は何書にも見えず、新に造れる説とも見えざれば、他に古書ありて、取れる物なるべし。[いづれも中に疑はしき事どもはまじれり。そは事の序あらむ処々に弁ふべし。] さればこれらのかぎりは、今も依り用ひて、助くることおほし。又此記の今の本、誤字多きに、彼の紀には、いまだ誤らざりし本より取れるが、今もたまたまあやまらである所なども稀にはある、是れもいささか助となれり。大かたこれらのほかは、さらに要なき書なり。[旧事大成経といふ物あり。此は殊に近き世に作り出たる書にして、ことごとく偽説なり。又神別本紀といふものも、今あるは、近き世の人の偽造れるなり。そのほか神道者といふ徒の用る書どもの中に、これかれ偽りなるおほし。古学をくはしくして見れば、まこといつはりはいとよく分るる物ぞかし。]」 ■ 世に『旧事本紀』とよばれる十巻の書がある。これは後世の人が偽り集めたものであって、決して聖徳太子のお選びになった書ではない。 [序文も、『日本書紀』の推古天皇の巻の記事に拠っていて、後世の人が作った物である。] しかし、そうはいっても、事実無根の話をひたすらに造作して書いたわけでもない。 『古事記』と『日本書紀』とを取り混ぜて、集めている。そのことは、巻を開いて一たび見れば、とてもよく分かることであるが、なお疑い深いような人は、神代のことを記した部分を、注意深く見るがよい。『古事記』の文と『日本書紀』の文とを、皆もとのままで交ぜて挙げているので、文体が一つに統一されていない。「木に竹を接ぐ」といった感じである。 また、『古事記』の記事も『日本書紀』の記事も、いっしょに取りあげ、なかには重複している部分まであって、本当に粗雑である。『古事記』と『日本書紀』とは、全体の文体も、物の名前の表記なども、ひどく異なっているので、まざって取られていても、区別ははっきりしている。 また、ところどころ『古語拾遺』から取られた部分もある。これも原文のままなので、はっきりしている。[このことを考えると、旧事本紀は大同年間より後に作られたものである。そのため、書中に「嵯峨天皇」のことがみえるのである。] このようにして神武天皇より以降の時代は、もっぱら『日本書紀』のみを引用し、省略して書いている。これも『日本書紀』とまったく同じ文なので、明らかである。そのうえ、歌はみな省略しているのに、どういうわけか、神武天皇の巻にあるもののみを載せている。仮名まで一字も異ならずに有るのである。 さて、某本紀、某本紀などという、巻々の名前なども、みな内容と合致せず、すべて正しくない書である。 ただし、第三巻のうちの饒速日命の天降りのときの記事と、第五巻の尾張連・物部連の系譜と、第十巻の国造本紀などは、どの書物にもみえず、新たに創作した記事とも思えないので、他に古文献があって、そこから取ったものであろう。[古文献から取ったと思われる中にも、疑わしい記事は混じっている。それは疑わしい記事のある各々の箇所で見分けるべきである。] だから、これらの記事だけは、今も参考にして用いて、助けとなることが多い。 また、『古事記』の現在伝わっている写本には誤字が多いのに対し、『旧事本紀』には、昔の誤字のない本から取っているため、今になっても誤字の無いところがまれにあるので、これもいささか助けになる。 しかし、大かたこれらのほかは、まったく必要のない書である。 [『旧事大成経』という物がある。これは特に近い世に作り出された書で、ことごとく偽りである。また、『神別本紀』というものも、いま存在しているのは、近い時代の人が偽造したものである。そのほか、神道者と称する連中が用いている書の中に、あれこれ偽っているものは多い。古学にくわしくなって見れば、真書か偽書かは、とてもよく分かる物である。] |
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■神代本紀 | |
巻第一は神代本紀と陰陽本紀から成ります。このうち神代本紀は、『記』『紀』における、いわゆる天地開闢と神代七代の部分に相当します。
『古事記』で最初に生まれる神は天之御中主神、『日本書紀』では国常立尊とされていますが、ここでは天譲日天狭霧国禅日国狭霧尊とされます。他の書には見られない、独自の記述です。 とはいえ、天御中主尊と国常立尊も存在を否定されるわけではなく、続いて誕生した神々の中に名前が見えます。 つまり、『記』『紀』それぞれの元初の神よりも、さらに前段階を設けることによって、網羅と一元化が図られているといえます。 天譲日天狭霧国禅日国狭霧尊には、「天祖」であるとの表記がありますが、陰陽本紀で伊弉諾尊と伊弉冉尊に豊葦原の地を修めるよう命じるのも、「天祖」とされています。 ところで、『旧事本紀』の神代に関する記述には、日本紀講筵で議論になったような不審点を解消しようとする方向で、アレンジされている場合が多数見られます。 津田博幸氏が指摘した神代本紀の冒頭部分では、元になった『日本書紀』とは、次のような違いがあるといいます。 ・ 「鶏子」が「鶏卵子」に改められている。 →雛の意に誤読するのを回避し、卵であることを明瞭にする。 ・ 「清陽者薄靡而為天」が「清気漸登薄靡為天」に改められている。 →「清陽がたなびいて天となる」よりも、「清気がたち登ってからたなびいて天となる」のほうがイメージしやすい。 ・ 「洲壤浮漂」が「州壤浮漂」に改められている。 →「洲」の字義は「水中地=中洲」が本来であり、「くに」と訓むことに疑問が持たれたが、「州」とすることで解消できる。 以上の三例は、現存の日本書紀私記(承平私記や釈日本紀所引私記)に議論が記されている論点でもありました。 日本紀講筵を頂点とする平安時代前期の学界と、『旧事本紀』との関係を考える上での好例といえるでしょう。 |
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■天神本紀 | |
巻第三「天神本紀」は、物部氏祖神の饒速日尊の天降り記事の載ることで著名です。『旧事本紀』全体の中でも、最もよく読まれているのではないでしょうか。
ここでの饒速日尊は、天押穂耳尊の子で、瓊々杵尊の兄という位置づけで登場します。 『古事記』は天照大御神が天忍穂耳命に葦原中国の統治を命じるものの、準備する間に忍穂耳命には子の迩迩芸命が生まれ、天降りの主体が迩迩芸命へ変更になったとします。『旧事本紀』では、これがそのまま迩迩芸命から饒速日尊へ置き換えられ、瓊々杵尊は饒速日尊の死後に天降るという筋書きへ改変されます。 饒速日命の系譜的位置は、『記』『紀』では明らかにされていません。 瓊々杵尊の兄という位置づけは、天火明命と同一神とすることで実現されたものです。天火明命は、『記』および、『紀』の第九段一書第六・一書第八に見える瓊々杵尊の兄で、尾張氏の祖とされる神です。 同一神化については、六世紀(継体欽明朝)の物部氏と尾張氏の政治的連携を背景として成立したものとする、吉井巌氏の説があります。 しかしながら、『旧事本紀』は『記』『紀』に見える天押穂耳尊の妃(瓊々杵尊の母)、「万幡豊秋津師比売命」「万幡豊秋津姫命」「万幡姫」「栲幡千千姫」「栲幡千千姫万幡姫命」などを一元化するために、「万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命」という名称を新たに作り出しています。これは、尾張氏の祖「天照国照彦天火明命」と、物部氏の祖「櫛玉饒速日命」とを合体させ「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」としたのと同様の手法であり、同時期に同一人物によって行われた操作と見るのが妥当です。 『旧事本紀』には、『日本書紀』を読むだけでは不詳・不明になる点を、明確化しようとしている箇所が散見します。 饒速日命の明確化もその一例といえますが、物部氏族に出自を持つと推定される編纂者にとって、饒速日命に天照大神の孫という位置を与え、自氏の尊貴性を主張することは、『旧事本紀』の編纂の重要な目的のひとつだったと考えられます。 『記』『紀』で系譜的位置の不明瞭な氏の始祖は、物部氏と饒速日命に限りません。 たとえば、大伴氏の祖・天忍日命でもこれは同様ですが、『新撰姓氏録』では高皇産霊尊の系統として明確化しています。また、磯城県主の祖・弟磯城(黒速)についても『記』『紀』は語りませんが、『姓氏録』の磯城県主は物部氏の同族という位置を得ています。 饒速日命の天火明命との同一神化も、このような動きを受けたものと見られますが、『姓氏録』は両神を、それぞれ神別の天神部と天孫部に分類し、別神であるとしました。 「饒速日=天火明」説は、『旧事本紀』や『姓氏録』が編まれた平安時代前期の当時、公的な承認の得られない、あまり有力ではない言説だったといえます。 |
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■地祇本紀 | |
巻第四「地祇本紀」は、その表題のとおり地祇(国つ神)について扱われた巻です。地祇の代表的・典型的な存在とされる出雲神が主な対象となっています。
その内容は、巻第二「神祇本紀」を受けて宗像三女神の誕生から始まり、素戔嗚尊の出雲降臨、八岐大蛇退治、大己貴神と少彦名神の国造り、大己貴神の天羽車大鷲に乗っての妻覓ぎ、素兎、根国訪問、沼河姫への求婚というように、素戔嗚尊と大己貴神の事績が語られ、その後、両神の後裔を記す系譜が載せられています。 このうち、大己貴神が天羽車大鷲に乗り、茅渟県で大陶祇の娘と婚する話は他書には見えないものです。 『日本書紀』には既に大物主神と大己貴神を同一視する見解が示されており、『旧事本紀』もそれを踏襲しますが、ここに大物主神を介することなく「三輪山の神=大己貴神」がより明確化されることが注目されます。 また、少彦名神が去った後の三輪神顕現の段に、その性格について「幸魂」「奇魂」だけでなく、「術魂」も加えられ、姿についても「素き装束を為し天の蕤槍持ちて」と具体的な記述が書紀の文に付け加えられています。 後半の系譜においても、大己貴神は「倭国城上郡大三輪神社」に鎮座するとありますが、他にも葛木一言主神は「倭国葛上郡」、味鉏高彦根神は「倭国葛木郡高鴨社(捨篠社)」、下照姫命は「倭国葛木郡雲櫛社」、都味歯八重事代主神は「倭国高市郡高市社・甘南備飛鳥社」、高照光姫大神命は「倭国葛木郡御歳神社」とあるように、畿内に鎮座する神々が出雲神の系譜の中に位置づけられます。 これらの神々を祖とする三輪氏・賀茂氏らが、出自の明確化を図って系譜・伝承の整理を行っていたと考えられます。物部氏における饒速日命と天火明命の同一視に通じるものがうかがわれ、平安時代前期の氏族伝承の動向の一端を示すようです。 旧事本紀の編纂者は、畿内の三輪氏族の伝承を入手し、利用していたと見られます。大己貴神の別名を八嶋士奴美神・清之湯山主三名狭漏彦八嶋野とする所伝なども、これに拠ったものでしょうか。 |
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■天孫本紀 | |
巻第五「天孫本紀」は、尾張氏の系譜と物部氏の系譜について記されています。
両系譜は、記述内容の項目や記述形式が、物部氏系譜に石上神宮の奉斎記事のあることを除けば、ほぼ共通し、原資料の同時代性、もしくは編纂者による整理の行われたことを推測させます。 一方で、『旧事本紀』全体にみられる物部氏重視の姿勢は、ここでも貫かれており、両系譜の質に影響を与えています。 たとえば、尾張氏系譜では九世孫までの尊称を「命(みこと)」とし、以降を「連(むらじ)」としますが、物部氏系譜では七世孫までを同様に「命」とするものの、以降は「連公(むらじのきみ)」とします。物部氏への顕彰意識がより強く表れていることがわかります。 また、尾張氏側の伝承で当然重視されていたであろう、『記』『紀』に登場する人物(宮簀媛や目子媛など)が、ここでは脱落しています。『旧事本紀』と同じ平安時代前期に成立した『新撰姓氏録』にみえる尾治宿祢の祖・阿曽祢連も漏れており、目子媛ともども、重要人物を収録するだけの十分な世数が確保できていない点が指摘できます。 この傾向は、時代表記にもみられます。 尾張氏系譜で「某宮御宇天皇(二例)」「某宮御宇・和風諡号・天皇(一例)」「和風諡号・天皇(二例)」「和風諡号・朝(一例)」「漢風諡号・天皇(一例)」とバラつきがあり、数も限られているのに対し、物部氏系譜は三十七例中三十一例が「某宮御宇・和風諡号・天皇」で統一されています。 このように、『旧事本紀』編纂者の原資料からの取捨の仕方、整理する際の力の入れ方には、違いが見られます。 尾張氏系譜は、饒速日命を天火明命と同一視することで物部氏を天孫系に位置づけ、高倉下を天香語山命と同一視することで石上神宮への奉仕の根源の前提を語るために、利用されたと考えることができます。 物部氏系譜の原資料については不明ですが、十七世孫の物部連公麻呂が、天武朝の事績しか記されていない点が成立時期を推測させます。 この人物は、文武朝の慶雲元年(704年)に右大臣、元明朝には左大臣となった石上朝臣麻呂です。天孫本紀物部氏系譜は、大連・大臣・大祢・宿祢・足尼など、官職的地位に特に関心を払っており、麻呂の大臣就任という名誉だけが偶然に漏れたとは考えがたいです。 また、古代の人々に画期的時代と捉えられていた雄略朝の扱いにおいても、石上氏が氏族内部で絶対的な権力を確立する以前の伝承を反映したと見られる部分があります。 『日本書紀』は物部目を雄略朝の大連とし、それは麻呂の薨伝(『続日本紀』養老元年三月三日)も同様で、石上氏の祖とします。しかし『旧事本紀』は物部目を、清寧朝の大連とします。 代わって雄略朝の大連にあてられるのが、依網(依羅)氏の祖である物部布都久留です。依網氏は、推古朝に冠位十二階の第二位である小徳冠を帯びて新羅征副将軍となった物部依網連乙等、隋使の導き役となった物部依網連抱といった高官を輩出し、大連家が滅亡した六世紀末以降、大化改新以前の有力氏でした。 『日本書紀』が編纂され、石上氏においても持統五年八月に墓記の上進を求められた、七世紀末〜八世紀初頭ころに、天孫本紀物部氏系譜の原資料は成立し、その後の追記や改変を経たものと考えられます。 |
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■天皇・神皇・帝皇本紀 | |
巻七、巻八、巻九が、天皇本紀、神皇本紀、帝皇本紀で、神武天皇から推古天皇までの事績が記されています。
大半は、日本書紀からの抄略により成っていますが、神武天皇の即位に関する部分には、古語拾遺が利用されたことが見て取れます。 これらの中に、宇摩志麻治命を起源とする鎮魂祭の由来や、その他物部氏の人物の官職的地位への補任記事が配され、代々の物部氏が重要な位置にあったことが主張されます。 日本書紀からの抄出は、天皇の名・出自・特徴、即位と経緯、立太子・立后・立皇太后、皇妃・皇子女、天皇崩御・御陵、が主なもので、いわゆる帝紀的記事に偏っています。 これ以外のエピソードは大胆に捨てられることが多く、物部氏関連の記事(物部目の朝日郎征伐、磐井の乱と物部麁鹿火、物部守屋の滅亡など)であっても例外ではありません。 一方で、日本書紀ではワニ氏の出自を持つ応神妃・宮主宅媛を、神皇本紀は物部多遅麻大連の娘・香室媛へ改変しています。これは妃所生の矢田皇女の子代部とされる、矢田部の伴造に、物部氏族矢田部造(のちに連)のあることと関係するでしょう。 帝皇本紀推古段にみえる、遣隋使・矢田部造御嬬の記事と合わせて、矢田部氏の伝承に取材したものと見られます。 帝皇本紀は、推古天皇の治世二十九年二月、聖徳太子の死の記事で、その叙述を終えます。日本書紀によれば、推古朝は三十六年まで続いたとあり、旧事本紀が聖徳太子の撰と偽って成立したことを、顕著に示す部分といえます。 |
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■国造本紀 | |
巻第十「国造本紀」は、巻第一から巻第九までがおおむね神代から推古朝までの流れを歴史的に叙述してきたのと異なり、地方官豪族「国造」のリストとでもいうべき記述の列挙で成っています。
本文中に144ヶ国に国造が任じられたとありますが、実際の項目数は135条になります。うち国司の設置や国の分置のみを記す、和泉・摂津・出羽・丹後および美作、項目名のみの多褹嶋を除外すれば、129の国造が載せられています。 その各国造について、設置時期や初代国造の系譜の伝承を記したものです。 国造に関して、これだけ包括的な記事を持つ史料は他に存在せず、高い価値が認められます。 用字に7世紀的特徴のあるものが含まれ、記紀等にも見えない国造が多数記されていることなどから、『旧事本紀』の成立した平安前期ににわかに造作されたのではなく、何らかの原資料を元に作られたと考えられています。 『続日本紀』大宝二年四月庚戌条に、「詔定諸国国造之氏。其名具国造記。」とある、“大宝の国造記”をその原資料と見る説があります。 内容となる伝承の古さについての定説はありませんが、6世紀中葉に大連が失脚する大伴氏や、7世紀後半になって有力化する中臣氏(藤原氏)の同族に連なる国造が皆無である点、おおよその形成時期を示唆するようです。 初代国造の任命時期については、129国造(うち胸刺国造は時期の記述を欠く)中、半数の64例が成務朝で占められ、第二位の応神朝(20例)や第三位の崇神朝(12例)とは大きな差が認められます。 これは、成務紀四年春二月条・同五年秋九月条や、古事記成務段が、国造制の開始を成務朝にあてていることと、同様の意識に拠っていると見られます。 物部氏顕彰を目的のひとつとして編まれた『旧事本紀』においては、物部氏同族の国造が注目されますが、天穂日命系国造が15例、天津彦根命系が10例あるなど、必ずしも饒速日命系の12例だけが特別に目立っているわけではありません。 他氏族と併記することで基準を設け、その中で物部氏系国造の存在を認知させようとするに留まったと見るべきでしょうか。 珠流河(駿河)国造の祖としてみえる片堅石命は大新川命の子とされますが、天孫本紀での物部片堅石連公は十市根大連の子とされ、調整が図られていません。この点は、『旧事本紀』編纂者が各原資料を尊重したと見られます。 ただし一方では、古事記が天穂日命系とする遠江(遠淡海)国造を、物部氏同族として齟齬のある点、編纂者の手が加えられたと疑われることがあります。物部氏系国造に関しては、他氏族系国造と比べて、系譜の世代対応などの乱れが少ないことが指摘されています。ある程度の整理は行われていたようです。 |
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■『先代旧事本紀』 | |
■先代旧事本紀の序 | |
大臣蘇我馬子宿祢らが、勅をうけたまわって撰修したてまつる。
そもそも、『先代旧事本紀』は、聖徳太子がかつて撰ばれたものである。 ときに小治田豊浦宮で天下を治められた推古天皇の治世二十八年春三月五日、摂政の上宮厩戸豊聡耳聖徳太子尊が編纂を命じた。大臣蘇我馬子宿祢らは、よく先代旧事、上古国記、神代本紀、神祇本紀、天孫本紀、天皇本紀、諸王本紀、臣連本紀、伴造・国造・百八十部の公民本紀を記せ、という勅をうけたまわって撰定した。つつしんで勅により、古い文献に従い、太子が導き手となって解釈と説明をしたが、記録し撰修することがいまだ終わらないうちに、太子はお亡くなりになった。編纂は中断し、続けることができなかった。 このような経緯により、かつて撰定された神皇系図一巻、先代国記、神皇本紀、臣・連・伴造・国造本紀の十巻を、名づけて『先代旧事本紀』という。 いわゆる『先代旧事本紀』は、天地開闢より当代までの過去について述べたものである。漏れた諸皇王子、百八十部の公民本紀は、さらに後の勅を待って編纂するべきである。 ときに、推古三十年春二月二十六日のことである。すべて、その題目を修め撰び、記録することは次のとおりである。 神皇系図 一巻 先代旧事本紀 十巻 第一巻 神代本紀 陰陽本紀 第二巻 神祇本紀 第三巻 天神本紀 第四巻 地祇本紀 第五巻 天孫本紀[また皇孫本紀ともいう] 第六巻 皇孫本紀[また天孫本紀ともいう] 第七巻 天皇本紀 第八巻 神皇本紀 第九巻 帝皇本紀 第十巻 国造本紀 |
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■巻第一 神代本紀 | |
■神代本紀
昔、自然の気は混沌として、天と地とはいまだ分かれていなかった。鶏卵の中身のように固まっていなかった中には、ほのかにぼんやりと何かが芽生えを含んでいた。やがて、そのうちの澄んだ気は、立ち昇ってからたなびいて天となり、浮き濁ったものは、重く沈み滞って大地となった。いわゆる、国土が浮き漂い、開け別れたというのはこのことである。 たとえていえば、泳ぐ魚が水の上のほうに浮いているようなものである。そのため、天がまず出来上がって、大地はその後に出来た。 そしてその後に、高天原に生まれた一柱の神の名を、天譲日天狭霧国禅日国狭霧尊(あまゆずるひあまのさぎりくにゆずるひくにのさぎりのみこと)と申しあげる。それより以降、ひとりでに生じられる神の他に、共に生じられる二代、二柱並んで生じられる五代の、あわせて「神世七代」とは、この神々である。 ■神代系紀 天祖・天譲日天狭霧国禅日国狭霧尊。 第一代の、ともにお生まれになった天つ神 天御中主尊(あまのみなかぬしのみこと)[または天常立尊(あまのとこたちのみこと)という]。 可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと)。 第二代の、ともにお生まれになった天つ神 国常立尊(くにのとこたちのみこと)[または国狭立尊(くにのさだちのみこと)、または国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、または葉木国尊(はこくにのみこと)という]。 豊国主尊(とよくにぬしのみこと)[または豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)、または豊香節野尊(とよかふぬのみこと)、または浮経野豊買尊(うきふぬとよかいのみこと)、または豊齧尊(とよくいのみこと)という]。 天八下尊(あまのやくだりのみこと)[一柱で化生された天つ神の、第一世の神である]。 第三代の並んでお生まれになった天つ神 角杙尊(つのくいのみこと)[または角龍魂尊(つのたつたまのみこと)という]。 妹、活杙尊(いくくいのみこと)。 別、天三降尊(あまのみくだりのみこと)[一柱で化生された天つ神の、第二世の神である]。 第四代の並んでお生まれになった天つ神 埿土煮尊(ういぢにのみこと)[または埿土根尊(ういぢねのみこと)という]。 妹、沙土煮尊(すいぢにのみこと)[または泥土根尊(すいぢねのみこと)という]。 別、天合尊(あまあいのみこと)[または天鏡尊(あまのかがみのみこと)という。一柱で化生された天つ神の、第三世の神である]。 第五代の並んでお生まれになった天つ神 大苫彦尊(おおとまひこのみこと)[または大戸之道(おおとのぢ)、または大富道(おおとむぢ)、または大戸麻彦(おおとまひこ)という]。 妹、大苫辺尊(おおとまべのみこと)[または大戸之辺(おおとのべ)、または大富辺(おおとむべ)、または大戸麻姫(おおとまひめ)という]。 別、天八百日尊(あまのやおひのみこと)[一柱で化生された天つ神の、第四世の神である]。 第六代の並んでお生まれになった天つ神 青橿城根尊(あおかしきねのみこと)[または沫薙尊(あわなぎのみこと)、または面足尊(おもたるのみこと)という]。 妹、吾屋惶城根尊(あやかしきねのみこと)[または惶根尊(かしこねのみこと)、蚊雁姫尊(かがりひめのみこと)という]。 別、天八十万魂尊(あまのやよろずたまのみこと)[一柱で化生された天つ神の、第五世の神である]。 第七代の並んでお生まれになった天つ神 伊弉諾尊(いざなきのみこと)[天降陽神(あまくだるおかみ)]。 妹、伊弉冉尊(いざなみのみこと)[天降陰神(あまくだるめかみ)]。 別、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)[または高魂尊、または高木尊という。一柱で化生された天つ神の、第六世の神である]。 高皇産霊尊の児、天思兼命(あまのおもいかねのみこと)[信濃国に天降られた、阿智祝部(あちのはふりべ)らの祖である]。 次の児、天太玉命(あまのふとたまのみこと)[忌部首(いみべのおびと)らの祖である]。 次の児、天忍日命(あまのおしひのみこと)[大伴連(おおとものむらじ)らの祖である。または神狭日命(かむさひのみこと)という]。 次の児、天神立命(あまのかむたちのみこと)[山代久我直らの祖である]。 高皇産霊尊の次に、神皇産霊尊(かむみむすひのみこと)[または神魂尊という]。 神皇産霊尊の児、天御食持命(あまのみけもちのみこと)[紀伊直らの祖である]。 次の児、天神玉命(あまのかむたまのみこと)[葛野鴨県主(かどののかものあがたぬし)らの祖である]。 次の児、生魂命(いくむすひのみこと)[猪使連らの祖である]。 神皇産霊尊の次に、津速魂尊(つはやむすひのみこと)。 津速魂尊の児、市千魂命(いちぢむすひのみこと)。 市千魂命の児、興登魂命(こごとむすひのみこと)。 興登魂命の児、天児屋命(あまのこやねのみこと)[中臣連(なかとみのむらじ)らの祖である]。 天児屋命の児、武乳遺命(たけちのこりのみこと)[添県主(そふのあがたぬし)らの祖である]。 津速魂尊の次に、振魂尊(ふるむすひのみこと)。 振魂尊の児、前玉命(さきたまのみこと)[掃部連(かもりのむらじ)らの祖である]。 次の児、天忍立命(あまのおしたちのみこと)[纏向神主(まきむくのかんぬし)らの祖である]。 振魂尊の次に、万魂尊(よろずむすひのみこと)。 万魂尊の児、天剛川命(あまのこわかわのみこと)[高宮神主(たかみやのかんぬし)らの祖である]。 上記の第七代の天つ神、伊弉諾尊・伊弉冉尊、および第八代の天つ神はともに、天降った神である。 |
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■巻第一 陰陽本紀 | |
■陰陽本紀
天の祖神が伊奘諾尊(いざなきのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)に詔して仰せられた。 「豊葦原(とよあしはら)の豊かに稲穂の実る国がある。お前たちが行って治めなさい」 そうして、天瓊矛(あまのぬぼこ)を授けてご委任になった。 伊奘諾尊と伊弉冉尊とが詔を受けて、天浮橋(あまのうきはし)の上に立って、語り合って仰せになった。 「何か脂のようなものが浮かんでいる。そのなかに国があるだろうか」 そうおっしゃって、天瓊矛で下界を探って海原を得られた。そしてその矛を投げ下ろして海をかき回し、引き上げるとき、矛の先からしたたり落ちる潮が固まって島となった。 これを名づけて磤馭盧島(おのころしま)という。 そうして、天瓊矛を磤馭盧島の上にさし立てて、これをもって国の天の御柱とした。 伊奘諾尊・伊弉冉尊はその島に天降り、大きな御殿を造られて、共に住まわれた。 伊奘諾尊が伊弉冉尊に尋ねて仰せられた。 「あなたの体は、どのようにできているのか」 伊弉冉尊は答えて仰せられた。 「私の体はだんだん成りととのって、成り合わないところが一か所あります」 伊奘諾尊は仰せになった。 「私の体はだんだん成りととのって、成り余ったところが一か所ある。だから、私の成り余っているところを、お前の成り合わないところにさしふさいで、国土を生み出そうと思うがどうだろう」 伊弉冉尊は答えて仰せられた。 「それはよろしゅうございます」 そこで伊奘諾尊は仰せになった。 「それでは私とあなたと天の御柱を回って、出会って結婚しよう」 そう約束して仰せられた。 「あなたは左から回って、私は右から回って会おう」 約束どおり天の柱を分かれてめぐって行きあった。 伊弉冉尊が先に唱えて仰せられた。 「まぁ、何とすばらしい男の方に出会えたのでしょう」 伊奘諾尊がつぎに答えて仰せられた。 「おお、何とすばらしいおとめに出会えたのだろう」 伊奘諾尊が伊弉冉尊に告げて仰せられた。 「私は男子だ。順序は男から先にいうべきである。女が先に唱えるはよくないことだ。しかし、共に夫婦となって子を生もう」 こうして陰陽が始めて交合して、夫婦となって子を産んだ。 最初に生まれたのが水蛭子(ひるこ)である。この子は葦船に乗せて流し棄てた。次に淡島(あわしま)を生んだ。この子もまた御子の数には入れなかった。 伊奘諾尊、伊弉冉尊の二神が相談して仰せられた。 「いま、私たちの生んだ子は不吉だった。天に帰り上って、この様子を申しあげよう」 そこで、二人して天に上り、申し上げた。天の祖神は太占で占って詔された。 「女性が先に声をかけたのが良くなかったのだ。また改めて天降りなさい」 そうしていつがよいかを占って再び降った。 伊奘諾尊が仰せになった。 「私とあなたとで、改めて柱を回ろう。私は左から、お前は右から柱を回ってお互いが会ったところで交わろう」 こう約束されて、二神は約束どおり天の御柱を回り、同じところに出会われた。この時に伊奘諾尊が、まず唱えて仰せられた。 「おお、何とすばらしいおとめだろう」 伊弉冉尊は後に答えて仰せられた。 「まぁ、何とすばらしい男の方でしょう」 伊奘諾尊が伊弉冉尊に尋ねて仰せられた。 「あなたの体はどんなになっているか」 そして、仰せになった。 「私の体は、つくりあげられて成り余った、雄の元という所がある」 伊弉冉尊は答えて仰せられた。 「私の体は、つくりあげられて成り合わない、雌の元という所があります」 伊奘諾尊は仰せになった。 「私の体の成り余ったところで、お前の成り合わないところにさしふさいで、国土を産もうと思うが、どうだろう」 伊弉冉尊は答えて仰せられた。 「よろしゅうございます」 ここに、はじめて陰陽の神が交合し、国土を産もうとしたが、その方法を知らなかった。 このとき、鶺鴒(せきれい)が飛んできて、その頭と尻尾を振った。二神はそれを見習われて、交合の方法をお知りになった。 まず、淡路州(あわじのしま)をお産みになったが、不満足な出来だった。そのため淡路州という。「吾恥(あはじ)」の意である。 次に、伊予(いよ)の二名の州をお生みになった。ある書は「州」をみな「洲」と記している。 次に、筑紫(つくし)州をお生みになった。 次に、壱岐(いき)州をお生みになった。 次に、対馬州(つしま)をお生みになった。 次に、隠岐(おき)州をお生みになった。 次に、佐渡(さど)州をお生みになった。 次に、大日本豊秋津州(おおやまととよあきつしま)をお生みになった。 これによって、以上の生んだ島々を大八州(おおやしま)という。 その後、大八州を生んで帰られるときに、吉備(きび)の児島(こじま)をお生みになった。 次に、小豆島(あづきしま)をお生みになった。 次に、大島(おおしま)をお生みになった。 次に、姫島(ひめしま)をお生みになった。 次に、血鹿島(ちかのしま)をお生みになった。 次に、両児島(ふたこしま)をお生みになった。 あわせて六島になる。 合計十四の島をお生みになった。その他の所々にある小島は、すべて元は水の泡の潮が固まってできたものである。 まず、大八州をお生みになった。 兄として淡路の州をお生みになった。淡道の穂の狭別島(あわじのほのさわけのしま)という。 次に、伊予の二名島、この島は身体は一つで顔が四つあるという。それぞれの顔に名前がある。 伊予国を愛比売(えひめ)という。[西南の隅] 讃岐国を飯依比古(いいよりひこ)という。[西北の隅] 阿波国を大宜都比売(おおげつひめ)という。[東北の隅] 土佐国を速依別(はやよりわけ)という。[南東の隅] 次に、隠岐の三つ子の島を天の忍許呂別(あまのおしころわけ)という。 次に、筑紫の島、この島も身体は一つで顔が四つあるという。それぞれの顔に名前がある。 筑紫国を白日別(しらひわけ)という。 豊国を豊日別(とよひわけ)という。 肥国を建日別(たけひわけ)という。 日向国を豊久士比泥別(とよくしひねわけ)という。 次に、熊襲の国を建日別という。[一説には佐渡島を建日別という] 次に、壱岐島を天比登都柱(あまひとつはしら)という。 次に、津島を天の狭手依比売(あまのさてよりひめ)という。 次に、大倭豊秋津島を天御虚空豊秋津根折別(あまのみそらとよあきつねわけ)といいう。 次に、六つの小島をお生みになった。 兄の吉備の児島を建日方別(たけひかたわけ)という。 次に、小豆島を大野手比売(おおのてひめ)という。 次に、大島を大多麻流別(おおたまるわけ)という。 次に、姫島を天一根(あまひとつね)という。 次に、血鹿島を天の忍男(あまのおしお)という。 次に、両児島を天両屋(あまのふたや)という。 大八島すべてをお産みになった。続けて生まれた六つの小島と合わせて十四の島になる。その所々にある小島は、すべて水の泡の潮が固まってできたものである。 伊奘諾・伊弉冉の二神は、国を生み終えられて、さらに十柱の神をお生みになった。 まず大事忍男神(おおことおしおのかみ)をお生みになった。 次に、石土毘古神(いわつちひこのかみ)をお生みになった。 次に、石巣比売神(いわすひめのかみ)をお生みになった。 次に、大戸日別神(おおとひわけのかみ)をお生みになった。 次に、天の吹上男神(あまのふきかみおのかみ)をお生みになった。 次に、大屋比古神(おおやひこのかみ)をお生みになった。 次に、風木津別の忍男神(かざもつわけのおしおのかみ)をお生みになった。 次に、海神、名は大綿津見神(おおわたつみのかみ)[またの名を小童命(わたつみのみこと)]をお生みになった。 次に、水戸神(みなとのかみ)、名は速秋津彦神(はやあきつひこのかみ)[またの名を速秋田命(はやあきたのみこと)]をお生みになった。 次に、妹・速秋津姫神(はやあきつひめのかみ)をお生みになった。 また、この速秋津彦・速秋津姫の二神が、河と海を分担して十柱の神をお生みになった。 まず、沫那芸神(あわなぎのかみ)をお生みになった。 次に、泡那美神(あわなみのかみ)をお生みになった。 次に、頬那芸神(つらなぎのかみ)をお生みになった。 次に、頬那美神(つらなみのかみ)をお生みになった。 次に、天の水分神(あまのみくまりのかみ)をお生みになった。 次に、国の水分神(くにのみくまりのかみ)をお生みになった。 次に、天の久比奢母道神(あまのくひざもちのかみ)をお生みになった。 次に、国の久比奢母道神(くにのくひざもちのかみ)をお生みになった。 次に、山神、名は大山津見神(おおやまつみのかみ)[一説には大山祇神(おおやまつみのかみ)という]をお生みになった。 次に、野神、名は鹿屋姫神(かやのひめのかみ)[またの名を野推神(のつちのかみ)という]をお生みになった。 また、この大山祇神と野稚神(のつちのかみ)が山と野を分担して八柱の神をお生みになった。 まず、天の狭土神(あまのさづちのかみ)をお生みになった。 次に、国の狭土神(くにのさづちのかみ)をお生みになった。 次に、天の狭霧神(あまのさぎりのかみ)をお生みになった。 次に、国の狭霧神(くにのさぎりのかみ)をお生みになった。 次に、天の闇戸神(あまのくらとのかみ)をお生みになった。 次に、国の闇戸神(くにのくらとのかみ)をお生みになった。 次に、大戸或子神(おおとまといこのかみ)をお生みになった。 次に、大戸或女神(おおとまといめのかみ)をお生みになった。 |
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また神をお生みになった。名を鳥の石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)という。[または天鳥船神(あまのとりふねのかみ)という]。
また、大宜都比女神(おおげつひめのかみ)をお生みになった。 伊奘諾尊が仰せられた。 「私が生んだ国は、ただ朝霧がかかっているが、よい薫りに満ちている」 そうして霧を吹き払われると、その息が神になった。これを風神という。 風神を名づけて級長津彦命(しなつひこのみこと)という。 次に、級長戸辺神(しなとべのかみ)、 次に、飢えて力のない時にお生みになった御子を、稲倉魂命(うかのみたまのみこと)と名づけた。 次に、草の祖をお生みになって、名づけて草姫(かやのひめ)という[またの名を野槌(のつち)という]。 次に、海峡の神たちをお生みになった。速秋日命(はやあきひのみこと)と名づけた。 次に、木の神たちをお生みになった。名づけて句々廼馳神(くくのちのかみ)という。 次に、土の神をお生みになった。名づけて埴山姫神(はにやまひめのかみ)という[また、埴安姫神(はにやすひめのかみ)ともいう]。 その後、ことごとくの万物をお生みになった。 伊奘諾尊・伊弉冉尊の二神は、共に相談して仰せになった。 「私たちはもう、大八州や山川草木を生んだ。どうして天下の主たる者を生まないでよかろうか」 そこでまず、日の神をお生みになった。 大日孁貴(おおひるめむち)という。または天照太神(あまてらすおおみかみ)といい、大日孁尊という。 この御子は、華やか光りうるわしくて、国中に照りわたった。それで、二柱の神は喜んで仰せられた。 「わが子たちは沢山いるが、いまだこんなにあやしく不思議な子はなかった。長くこの国に留めておくのはよくない。早く天に送り、天上の仕事をしてもらおう」 この時、天と地とはまだそれほど離れていなかった。そのため、天の御柱をたどって、天上に送り上げた。 次に、月の神をお生みになった。 名づけて月読尊(つくよみのみこと)という。または月夜見(つくよみ)、月弓(つくゆみ)という。 その光りうるわしいことは、太陽に次いでいた。それで日に副えて治めさせるのがよいと、天に送り上げた。 次に、素戔烏尊(すさのおのみこと)をお生みになった。 このかたは天下を治められるべきだったが、勇ましく荒々しくて、残忍なことも平気だった。 また、常に泣きわめくことがあった。そこで、国内の人々が若死にさせられた。また、青々とした山を枯れた山に変え、川や海の水をすっかり泣き乾してしまうほどだった。 そのために、禍いをおこす悪神のさわぐ声は、むらがる蠅のように充満し、あらゆる禍いが吹く風のごとく一斉に発生した。 次に、蛭児(ひるこ)をお生みになった。 三歳になっても脚が立たなかった。はじめ伊奘諾尊・伊弉冉尊が柱を回られた時に、女神が先に喜びの声をあげられた。それが陰陽の道理にかなっていなかった。そのため、終わりにこの御子が生まれた。 次に、鳥磐櫲樟船(とりのいわくすふね)をお生みになり、この船に蛭児を乗せて放流し棄てた。 伊弉冉尊が、火産霊迦具突智(ほのむすひかぐつち)[または火焼男命神(ほのやけおのみことのかみ)、または火々焼炭神(ほほやけずみのかみ)という]を生もうとされたとき、この子を生んだために、陰部が焼けて病の床にお伏しになった。 そうしてお亡くなりになろうとされるときに、熱に苦しめられた。そのため嘔吐し、これが神となった。名を金山彦神(かなやまひこのかみ)、次に金山姫神(かなやまひめ)という。 次に小便をされ、それが尿神となった。名を罔象女神(みつはのめのかみ)という。 次に大便をされ、それがまた屎神となった。名を埴安彦(はにやすひこ)と、埴安姫(はにやすひめ)という。 次に、天吉葛(あまのよさつら)をお生みになった。 次に、稚産霊神(わかむすひのかみ)をお生みになった。この稚産霊神の子を、豊宇気比女神(とようけひめのかみ)という。 火の神の軻遇突智(かぐつち)は土の神の埴安姫をめとって、稚皇産霊神(わかむすひのかみ)をお生みになった。この神の頭の上に蚕と桑が生じた。臍の中に五穀が生まれた。 伊弉冉尊は、火の神を生むときに、身体を焼かれてお亡くなりになった。 伊奘諾・伊弉冉の二神が共にお生みになった島は十四。神は四十五柱になる。ただし、磤馭盧島はお生みになったものではない。また、水蛭子(ひるこ)と淡島(あわしま)は子の数には入れない。 伊奘諾尊が深く恨んで仰せられた。 「愛しい私の妻は。ただ一人の子のために、愛しい私の妻を犠牲にしてしまった」 そして頭のあたりや、脚のあたりを這いずって、泣き悲しみ涙を流された。 涙は落ちて神となった。これが香山(かぐやま)の畝尾(うねお)の丘の樹の下にいらっしゃる神で、名を綺沢女神(なきさわのめのかみ)という。 伊奘諾尊はついに、腰に帯びた十握(とつか)の剣を抜いて軻遇突智の頸を斬り、三つに断たれた。また、五つに断たれた。また、八つに断たれた。 三つそれぞれが神になった。 そのひとつは雷神(いかつちのかみ)となった。 ひとつは大山祇(おおやまつみ)となった。 ひとつは高寵(たかおかみ)となった。 五つそれぞれが五つの山の神になった。 第一は首で、大山祇となった。 第二は胴体で、中山祇(なかやまつみ)となった。 第三は手で、麓山祇(はやまつみ)となった。 第四は腰で、正勝山祇(まさかやまつみ)となった。 第五は足で、雜山祇(しぎやまつみ)となった。 八つそれぞれが八つの山の神になった。 第一は首で、大山祇となった。[または正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ)という] 第二は胴体で、中山祇となった。[または胸に生じた神で、瀬勝山津見神(せかつやまつみのかみ)という] 第三は腹で、奥山祇(おくやまつみ)となった。[または奥山上津見神(おくやまかみつみのかみ)という] 第四は腰で、正勝山祇となった。[または陰部に生じた神で、闇山津見神(くらやまつみのかみ)という] 第五は左手で、麓山祇となった。[または志芸山津見神(しぎやまつみのかみ)という] 第六は右手で、羽山祇(はやまつみ)となった。[または羽山津見神(はやまつみのかみ)という] 第七は左足で、原山祇(はらやまつみ)となった。[または原山津見神(はらやまつみのかみ)という] 第八は右足で、戸山祇(へやまつみ)となった。[または戸山津見神(へやまつみのかみ)という] また、剣のつばからしたたる血がそそいで神となった。湯津石村(神聖な岩の群れ)に飛び散って成り出た神を、天尾羽張神(あまのおはばりのかみ)という。[またの名を稜威雄走神(いつのおはしりのかみ)、または甕速日神(みかはやひのかみ)、または熯速日神、または槌速日神(つちはやひのかみ)という] 今、天安河(あまのやすかわ)の上流にいらっしゃる、天窟之神(あまのいわとのかみ)である。 天尾羽張神の子が建甕槌之男神(たけみかつちのおのかみ)である。[またの名を建布都神(たけふつのかみ)、または豊布都神(とよふつのかみ)] 今、常陸国(ひたちのくに)の鹿島にいらっしゃる大神で、すなわち石上(いそのかみ)の布都大神(ふつのおおかみ)がこれである。 また、剣の先からしたたる血がそそいで神となった。血が湯津石村に飛び散って、成り出た神を、磐裂根裂神(いわさくねさくのかみ)という。 磐裂根裂神の子の、磐筒男(いわつつお)・磐筒女(いわつつめ)の二神が共に生んだ神の子が、経津主神(ふつぬしのかみ)である。 今、下総国(しもつふさのくに)の香取にいらっしゃる大神がこれである。 また、剣の柄頭からしたたる血がそそいで三柱の神となった。 名を、闇寵(くらおかみ)、次に闇山祇(くらやまつみ)、次に闇罔象(くらみつは)という。 このとき斬られた血がそそいで、石や砂や草木が染まった。これが砂や石自体が燃えることのある由来である。 伊奘諾尊(いざなきのみこと)は、妻の伊弉冉尊(いざなみのみこと)に会いたいと思われて、後を追って黄泉の国に行かれ、殯斂(もがり)のところにおいでになった。 伊弉冉尊は御殿の戸を上げ出で向かい、生きていたときのように出迎えられて共に語りあわれた。 伊奘諾尊は仰せられた。 「あなたが愛しくてやってきた。愛しいわが妻のみことよ、私とあなたとで造った国は、まだ造り終えていない。だから私のもとへ帰ってきておくれ」 伊弉冉尊が答えて仰せになった。 「残念なことです、わが夫のみこと。いらっしゃるのが何とも遅すぎました。私はもう、黄泉の国の食べ物を食べてしまいました。そして私はもう眠ろうとするところです。けれども愛しいあなたが、わざわざ訪ねてきてくださったことは恐れいります。ですから帰りたいと思いますので、しばらく黄泉の神と相談してみましょう。私を見ないでください」 こうおっしゃって女神は、その御殿の中に入っていかれたが、その間が大変長く、男神は待ちきれなくなってしまった。 伊奘諾尊は見てはならないという願いを聞かれなかった。そのとき暗かったので、左の御髻(みずら)に挿していた湯津爪櫛(神聖な爪櫛)の、太い歯の一本を折り取って、手灯として一片の火をともしてご覧になった。 今の世の人が、夜ひとつの火をともすことを忌み、また夜、櫛を投げることを忌むのは、これがその由来である。 伊弉冉尊は、死体がふくれ上がって蛆がたかっていた。 その上に八種類の雷があった。 頭には大雷(おおいかずち)、胸には火雷(ほのいかずち)がおり、腹には黒雷(くろいかずち)がおり、陰部には列雷(さくいかずち)がおり、左手には稚雷(わかいかずち)がおり、右手には土雷(つちいかずち)がおり、左足には鳴雷(なきいかずち)がおり、右足には伏雷(ふしいかずち)がいた。 伊奘諾尊はたいへん驚いて仰せられた。 「私は思いがけないひどく汚い国にやってきた」 そうして、急いで逃げ帰られました。 伊弉冉尊は恨んで仰せられた。 「約束を守らず、私を辱しめましたね。あなたは私の本当の姿を見てしまわれた。私もまた、あなたの本当の心を見ました」 伊奘諾尊は恥じられて、出て帰ろうとするとき、ただ黙って帰らないで誓って仰せになった。 「縁を切ろう」 |
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伊弉冉尊は泉津醜女(よもつしこめ)を遣わして、追いかけさせて留めようとした。
伊奘諾尊は剣を抜いて後ろを振り払いながら逃げた。そして髪に巻いていた鬘草(かつら)の飾りを投げられると、これは葡萄になった。醜女はこれを見て、採って食べた。食べ終わると、また追いかけてきた。 伊奘諾尊はまた、右の髪に挿していた湯津爪櫛を投げた。これは筍(たけのこ)になった。醜女はそれを抜いて食べた。食べ終わるとまた追いかけてきた。 伊奘諾尊はそこから逃げられたが、その後には、八種の雷神が千五百の黄泉の兵を率いて追跡してきた。そこで帯びている十握の剣を抜いて、後ろ手に振りながら逃げ走られた。 伊奘諾尊は、大樹にむかって放尿された。これが大きな川となった。泉津日狭女(よもつひさめ)がこの川を渡ろうとする間に、伊奘諾尊は逃げて黄泉平坂(よもつひらさか)に着かれた。 そこに生っていた桃の木の陰に隠れて、その実を三つ取って待ちうけ、投げつけたところ、黄泉の雷の兵はことごとく退散した。これが、桃を使って鬼を防ぐ由来である。 伊奘諾尊は、桃の実に詔して仰せられた。 「お前が私を助けたように、葦原の中国に生きるあらゆる現世の人々がつらい目にあって、憂い苦しんでいるときに助けてやるように」 そういわれて、意富迦牟都美命(おおかむつみのみこと)という名前をお与えになった。 最後に、伊弉冉尊自身が、泉都平坂(よもつひらさか)へ追いかけて来たときに、伊奘諾尊はその杖を投げて仰せられた。 「ここからこちらへは、雷の兵は来ることができない」 伊奘諾尊はまた、泉津平坂に千人引きの岩で、その坂道をふさぎ、岩を間に置いて伊弉冉尊と向かい合って、ついに離婚の誓いを立てられた。 その離別の言葉を交わされるとき、伊弉冉尊は誓って仰せられた。 「あなたには負けません」 そして唾をはかれた。そのとき生じた神を、名づけて日速玉之男神(ひはやたまのおのかみ)という。次に、掃きはらって生まれた神を泉津事解之男神(よもつことさかのおのかみ)と名づけた。 伊弉冉尊が仰せられた。 「愛しいわが夫のみこと、あなたがそのように別れの誓いをいわれるのならば、私はあなたが治める国の民を、一日に千人ずつ絞め殺しましょう」 伊奘諾尊は答えて仰せられた。 「愛しいわが妻よ、そのようにいうのならば、私は一日に千五百人ずつ生ませることにしよう」 こういうわけで、一日に千人の人が必ず死ぬ一方、一日に千五百人の人が必ず生まれるのである。 伊奘諾尊がこれによって仰せられた。 「これより入ってはならぬ」 そうして、三柱の神をお生みになった。その杖を投げられた。これを岐神(ふなとのかみ)という。名づけて来名戸神(くなとのかみ)という。 また、その帯を投げられた。これを長道磐神(ながちいわのかみ)という。 また、その履(くつ)を投げられた。これを道敷神(ちしきのかみ)という[または煩神(わずらいのかみ)といい、または開歯神(あきくいのかみ)という]。 伊弉冉尊を、黄泉津大神という。また、伊奘諾尊に追いついてきたので、道敷大神(ちしきのおおかみ)と呼ぶ。 また、その黄泉の坂を塞ぐ岩を、道反大神(ちがえしのおおかみ)と呼ぶ。また、塞いでいる岩を、泉門塞之大神(よみどもさやりますおおかみ)という。また、塞坐黄泉戸大神(さやりますよみどのおおかみ)という。 伊奘諾・伊弉冉の二神が、また、その妻と泉津平坂で相争ったとき、伊奘諾尊が仰せになった。 「はじめあなたのことを悲しみ慕ったのは、私の気が弱かったからだ」 このとき泉守道者(よもつちもりびと)が申しあげていった。 「伊弉冉尊からのご伝言があります。“私はあなたと既に国を生みました。どうして更にこの上生むことを求めましょうか。私は、この国にとどまって、ご一緒には参りません”といわれました」 このとき、菊理媛神(くくりひめのかみ)もまた、申しあげることがあった。 伊奘諾尊は、これをお聞きになり、ほめられた。そうして去られた。 今の人が忌むことに、先に妻が死んだとき、夫が殯(もがり)のところを避けるのは、これが始まりであろうか。 そのいわゆる泉津平坂というのは、また別のところにあるのではない。ただ死に臨んで息絶えそうなときをこういうのであろうか。出雲国の伊賊夜坂(いふやさか)であるともいう。 伊弉冉尊は、出雲国と伯耆国との境にある、比婆之山(ひばのやま)に葬った。 伊弉冉尊は、紀伊国の熊野の有馬村に葬った。土地の人がこの神の御魂を祀るのには、花の時期に花をもってお祀りし、鼓・笛・旗を使って歌舞してお祀りする。 伊奘諾尊(いざなきのみこと)は、みずから黄泉の国をご覧になった。これは不祥であった。帰って悔いて仰せられた。 「私はさきに、ひどく穢れたところへ行ってきた。だから、私の体についた汚れたものを洗い捨て、すすぎ除こう」 出かけられて粟門(あわのと)と速吸名門(はやすいなと)をご覧になった。ところが、この二つの海峡は潮の流れがとても急だった。 そこで、日向の橘の小戸(川の落ち口)の、檍原(あわぎはら)に帰られて祓ぎはらわれた。 身体の汚いところをすすごうとして、言葉に出していわれて男神は黄泉の穢れを祓おうとした。日向の橘の小戸の、檍原に行かれて、身体を祓ぎはらわれた。 このとき、十二柱の神が生まれた。 まず、投げ捨てた杖から成った神の名は、衝立船戸神(つきたてふなとのかみ)。 次に、投げ捨てた帯から成った神の名は、道長乳歯神(ちのながちはのかみ)。 次に、投げ捨てた裳から成った神の名は、時置師神(ときおかしのかみ)。 次に、投げ捨てた衣から成った神の名は、和内良比能宇斯能神(わづらひのうしのかみ)。 次に、投げ捨てた袴から成った神の名は、道股神(ちまたのかみ)。 次に、投げ捨てた御冠から成った神の名は、飽咋の宇斯能神(あきぐいのうしのかみ)。 次に、投げ捨てた左の御手の腕輪から成った神の名は、奥疎神(おきざかるのかみ)。 名づけて奥津那芸佐彦神(おきつなぎさひこのかみ)という。 次に、奥甲斐弁羅神(おきつかひべらのかみ)。 次に、投げ捨てた右の御手の腕輪から成った神の名は、辺疎神(へざかるのかみ)。 名づけて辺津那芸佐彦神(へつなぎさひこのかみ)という。 次に、辺津甲斐弁羅神(へつかひべらのかみ)。 伊奘諾尊が仰せになった。 「上の瀬は流れが速い。下の瀬は流れがおそい」 はじめ、中ほどの瀬で穢れを洗い清められたときに、二柱の神が成り出た。 その神の名は、八十禍津日神(やそまがつひのかみ)。 次に、大禍津日神(おおまがつひのかみ)。 また、その禍を直そうとして三柱の神が成り出た。 その神の名は、神直日神(かむなおびのかみ)。 次に、大直日神(おおなおびのかみ)。 次に、伊豆能売神(いづのめのかみ)。 また、水に入って磐土命(いわつつのみこと)を吹き出された。 次に、水から出て大直日命(おおなおびのみこと)を吹き出された。 また入って、底土命(そこつつのみこと)を吹き出された。 次に出て、大綾津日神(おおあやつひのかみ)を吹き出された。 また入って、赤土命(あかつつのみこと)を吹き出された。 次に出て、大地と海原の諸々の神を吹き出された。 また、海の底にもぐってすすいだときに、それによって二柱の神が生まれた。 名づけて、底津少童命(そこつわたつみのみこと)という。 次に、底筒男命(そこつつおのみこと)という。 また、潮の中にもぐってすすいだことによって二柱の神が生まれた。 名づけて、中津少童命(なかつわたつみのみこと)という。 次に、中筒男命(なかつつおのみこと)という。 また、潮の上に浮かんですすいだことによって二柱の神が生まれた。 名づけて、表津少童命(うわつわたつみのみこと)という。 次に、表筒男命(うわつつおのみこと)という。 あわせて六柱の神がいらっしゃる。 この底津少童命、中津少童命、表津少童命の三神は、阿曇連(あずみのむらじ)らがお祀りする、筑紫の斯香神(しかのかみ)である。 底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神は、津守連(つもりのむらじ)がお祀りする、住吉の三社の神である。 伊奘諾尊が身体をすすがれたときに三柱の神が生まれた。 左の御目を洗われたときに成った神の名は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)。 右の御目を洗われたときに成った神の名は、月読命(つくよみのみこと)。 この二柱の神は、並びに五十鈴川の河上にいらっしゃる。伊勢にお祀りする大神という。 御鼻を洗われたときに成った神の名は、建速素戔烏尊(たけはやすさのおのみこと)。 出雲国の熊野神宮と杵築(きつき)神宮にいらっしゃる。 伊奘諾尊はたいそう喜ばれて仰せになった。 「私が生んだ子を生み終わるときに、三柱の尊い子を得た」 その御首の首飾りの玉の緒を、ゆらゆらと揺り鳴らしてお授けになった。その御首飾りの珠に詔して名を授け、御倉板挙神(みくらたなあげのかみ)という。 伊奘諾尊が天照大御神に詔して、 「あなたは高天原を治めなさい」 とご委任になった。 次に、月読命に詔して、 「あなたは夜の世界を治めなさい」 とご委任になった。 次に、素戔烏尊に詔して、 「あなたは海原を治めなさい」 とご委任になった。 こうして、それぞれご委任になられたお言葉にしたがってお治めになったが、その中で速素戔烏尊だけは、委任された国を治めずに、長い顎髭が胸元にとどくようになるまで、ずっと泣きわめいていた。 伊奘諾尊は仰せになった。 「私は天下を治めるべきすぐれた子を生もうと思う」 そうして三柱の神が成り出た。 左手で白銅鏡をお取りになったときに、生まれた神を大日孁尊という。 右手で白道鏡をお取りになったときに、生まれた神を月弓尊(つくゆみのみこと)という。 首を回して後ろをご覧になったときに、生まれた神を素戔烏尊という。 このうち、大日孁尊と月弓尊は共にひととなりが麗しいのに対して、素戔烏尊は性質が物をそこない壊すのを好むところがあった。そこで、くだして根の国を治めさせた。 伊奘諾尊は三柱の子に任じて仰せられた。 「天照太神は高天原を治めなさい。月読尊は青海原の潮流を治めなさい」 月読尊は後に、日の神に副えて天のことを掌り、夜の世界を治めさせた。 素戔烏尊には、天下および青海原を治めさせた。 素戔烏尊は歳もたけ、また、長い髭が伸びていた。けれども、統治を委任された天下を治めず、いつも泣き恨んでいた。 伊奘諾尊がそのわけを尋ねて仰せられた。 「お前はなぜ、いつもこんなに泣いているのか」 素戔烏尊は答えて申しあげられた。 「私は母のいる根の国に従いたいと思って、ただ泣くのです」 伊奘諾尊は、これを憎んで仰せられた。 「勝手にしろ」 そうして素戔烏尊は親神のもとを退いた。 伊奘諾尊が、素戔烏尊に詔して仰せられた。 「どうゆうわけで、私の委任した国を治めないで、泣きわめいているのか」 素戔烏尊は申しあげた。 「私は亡き母のいる根の堅州国に参りたいと思うので、泣いているのです」 伊奘諾尊は、ひどく怒って仰せになった。 「お前はたいへん無道だ。だから天下に君臨することはできない。この国に住んではならない。必ず遠い根の国に行きなさい」 そしてついに追いやられた。 素戔烏尊が請い申しあげて仰せになった。 「私はいま、ご命令に従って、根の国に参ろうとします。そこで高天原に参って、姉のみことにお目にかかり、その後お別れしようと思います」 伊奘諾尊が「許す」と仰せになったので、天に昇られた。 伊奘諾尊は、お仕事をすでに終えられ、徳も大きかった。神としての仕事を終えられて、天に帰られてご報告され、日の少宮(わかみや)に留まりお住みになられた。 また、あの世に赴こうとされた。そこで、幽宮(かくれのみや)を淡路の地に造って、静かに永く隠れられた。また、淡路の多賀(たが)にいらっしゃるともいう。 |
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■巻第二 神祇本紀 | |
素戔烏尊(すさのおのみこと)が申しあげて仰せになった。
「私は今、ご命令にしたがって、根の国に参ろうとします。そこで高天原に参って、姉のみことにお目にかかった後にお別れしたいと思います」 伊奘諾尊(いざなきのみこと)は仰せになった。 「許す」 そこで、天に昇られた。 素戔烏尊が天に昇ろうとする時、一柱の神がいた。名を羽明玉(はあかるたま)という。この神がお迎えして、瑞の八坂瓊(やさかに)の勾玉を献上した。 素戔烏尊がその玉を持って天に昇られる時、大海はとどろき渡り、山岳も鳴りひびいた。これはその性格が猛々しいからである。 天に昇られる時に、天鈿売命(あまのうずめのみこと)がこれを見て、日の神に告げ申しあげた。 天照太神(あまてらすおおみかみ)は、もとからその神の荒くよからぬことをご存知で、やってくる様子をご覧になると、たいへん驚いて仰せられた。 「我が弟がやってくるのは、きっと善い心ではないだろう。きっと我が高天原(たかまがはら)を奪おうとする心があるのだろう。父母はすでにそれぞれの子供たちに命じて、それぞれの境を設けられた。どうして自分の行くべき国を棄ておいて、あえてこんなところに来るのか」 そうして、御髪を解いて御髻(みずら)にまとめ、御髪を結いあげて御鬘(みかつら)とし、裳の裾をからげて袴(はかま)とし、左右の御鬘、左右の御手および腕にもそれぞれ大きな玉をたくさん緒に貫いた御統(みすまる)を巻きつけた。また、背には千箭(ちのり)の靱(ゆき)を負い、腕には立派な高鞆(たかとも)をつけ、弓弭(やはず)を振り立て、剣の柄を握りしめ、堅い地面を股まで踏みぬいて、土を沫雪のように踏み散らし、勇猛な振る舞いと厳しい言葉で詰問して仰せになった。 「どういうわけで上って来たのか」 素戔烏尊は答えて仰せられた。 「私にははじめから汚い心はありません。ただすでに父のみことの厳命があって、永く根の国に去ろうとするのに、もし姉のみことにお目にかかれなければ、私はどうしてよくおいとまできましょう。また、珍しい宝である八坂瓊の勾玉を献上したいと思うだけです。あえて別の心はありません。そのため雲霧を踏み渡って、遠くからやって来たのです。思いがけないことです、姉のみことの厳しいお顔に会おうとは」 すると天照太神がまた尋ねて仰せられた。 「もしそうなら、何をもってお前の清く明るい心を証明するのか。お前のいうことが嘘か本当か、何をもって証拠とするのか」 素戔烏尊が答えて仰せられた。 「どうか私と姉のみこととで、ともに誓約(うけい)しましょう。誓約の中に必ず子を生むことを入れましょう。もし私の生んだ子が女だったら、汚い心があると思ってください。もし男だったら、清い心であるとしてください」 そして天の真名井(まない)の三ヶ所を掘って、天照太神と素戔烏尊は天の安河をへだてて向かい合い、誓約して仰せになった。 「お前にもし悪い心があるのならば、お前の生む子はきっと女だろう。もし男を生んだならば、私の子として、高天原を治めさせよう」 天照太神は、素戔烏尊と誓約して仰せられた。 「私が身につけている玉をお前に授けよう。お前が帯びている剣を私に授けなさい」 このように約束してお互いに取り替えられた。 天照太神が、素戔烏尊の帯びていた三ふりの剣を[また十握剣(とつかのつるぎ)を三つにして、生じた三神]、天の真名井[または去来の真名井という]で振りすすいで、噛み砕いて吹きだされると、息吹の霧の中から三柱の女神が生まれた。 十握剣から生まれた神の名を、瀛津嶋姫命(おきつしまひめのみこと)という。[また田心姫(たごりひめ)、または田霧姫(たぎりひめ)という] 九握剣(ここのつかのつるぎ)から生まれた神の名を、瑞津嶋姫命(たぎつしまひめのみこと)という。 八握剣(やつかのつるぎ)から生まれた神の名を、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)という。 素戔烏尊が、天照太神の御手と髻鬘(みずら)に巻いておられた八咫瓊の五百筒の玉の御統を、天の真名井[または去来の真名井という]にすすぎ浮かべて、噛み砕いて吹きだされると、息吹の霧の中から、六柱の男神が生まれた。 すなわち、左の御鬘(みかつら)の玉を含んで左の手のひらの中に生まれた神の名を、正哉吾勝々速天穂別尊(まさかあかつかちはやあまのほわけのみこと)という。 また、右の御鬘の玉を含んで右の手のひらの中に生まれた神の名を、天穂日命(あまのほひのみこと)という。 また、左の御髻(みもとどり)の玉を含んで左の肘につけて生まれた神の名を、天津彦根命(あまつひこねのみこと)という。 また、右の御髻の玉を含んで右の肘につけて生まれた神の名を、活津彦命(いくつひこのみこと)という。 また、左の御手の玉を含んで左足の中に生まれた神の名を、熯速日命(ひはやひのみこと)という。 また、右の御手の玉を含んで右足の中に生まれた神の名を、熊野豫樟日命(くまのくすひのみこと)という。 天照太神が仰せられた。 「その元を尋ねれば、玉は私の物である。だから、この成り出た六柱の男神は全部私の子である。よって引き取って、子として養い、高天原を治めさせよう。その剣はお前の物である。だから、私が生んだ三柱の女神はお前の子である」 素戔烏尊に三柱の女神たちを授けて、葦原(あしはら)の中国(なかつくに)に降らせられた。まさに筑紫国の宇佐嶋(うさのしま)に降らせられた。北の海路の中においでになり、名を道主貴(みちぬしのむち)という。 そして教えて仰せられた。 「天孫を助け申しあげ、天孫のために祀られなさい」 これがすなわち、宗像君(むなかたのきみ)が祀る神である。一説には、水沼君(みぬまのきみ)らが祀る神がこれである。 瀛津嶋姫命は、遠沖にいらっしゃる田心姫命のことである。 辺津嶋姫命(へつしまひめのみこと)は、海浜にいらっしゃる瑞津嶋姫命のことである。 中津嶋姫命(なかつしまひめのみこと)は、中嶋にいらっしゃる神で、市杵嶋姫命のことである。 伊奘諾(いざなき)・伊弉冉(いざなみ)の二神は、火の神の迦具突智(かぐつち)と、土の神の埴安姫(はにやすひめ)をお生みになった。この火土の二神は、稚皇産霊命(わかみむすひのみこと)をお生みになった。 稚皇産霊命の頭には桑と蚕が生じ、臍の中には五種類の穀物が生じた。この神が、保食神(うけもちのかみ)か。 天照太神(あまてらすおおみかみ)が天上で仰せになった。 「葦原の中国(なかつくに)に保食神がいると聞く。月読尊(つくよみのみこと)よ、お前が行って見てきなさい」 月読尊は、詔を受けて保食神のもとへお降りになった。 保食神が、首を回して陸に向かわれると、口から飯が出てきた。 また海に向かわれると、大小の魚が口から出てきた。 また山に向かわれると、毛皮の動物たちが口から出てきた。 そのいろいろな物をすべて揃えて、沢山の机にのせておもてなしした。 このとき、月読尊は憤然として色をなして仰せられた。 「けがらわしいことだ。いやらしいことだ。口から吐き出した物を、私に食べさせようとするのか」 そして剣を抜いて、保食神を撃ち殺された。 その後に復命して、詳しくそのことを申しあげられた。 天照太神は、非常にお怒りになって仰せられた。 「お前は悪い神だ。もうお前とは会いたくない」 そこで、月読尊とは、昼と夜とに分かれて、離れてお住まいになった。 この後、天照太神はまた、天熊人命(あまのくまひとのみこと)を遣わして様子を見させられた。 保食神の頭には桑と蚕が生じ、目には馬と牛が生じ、胸には黍(きび)と粟が生じ、腹には稲種が生じ、臍・尻には麦と豆が生じ、陰部には小豆が生じていた。 そこで天熊人は、それをすべて取って持ち帰り献上した。 このとき、天照太神は喜んで仰せられた。 「この物は人民が生きていくのに必要な食べ物だ」 そこで粟・稗・麦・豆を畑の種とし、稲を水田の種とした。天の邑君(むらきみ)を定めて、その稲種をはじめて天の狭田(さだ)と長田(ながた)に植えた。 その秋の垂穂は、八握りもあるほどしなって、とても気持ちよく実った。 また、口の中に蚕の繭を含んで糸をひく方法を得た。これによって養蚕が出来るようになり、絹織の業が起こった。 天照太神は、天の垣田(かきた)を御田とされた。 また、御田は三ヶ所あり、名づけて天の安田・天の平田・天の邑并田(むらあわせだ)という。これらはみな良田だった。長雨や旱魃にあっても、損なわれることはなかった。 素戔烏尊にも三ヶ所の田があった。 名づけて天の樴田・天の川依田・天の口鋭田(くとだ)という。これらはみなやせ地だった。雨が降れば流れ、日照りになると旱魃になった。 素戔烏尊の行いは、とてもいいようがないほどで、妬んで姉神の田に害を与えた。 春には種を重ね蒔きしたり、畔を壊したり、串をさしたり、樋を放ったり、用水路を壊したり、溝を埋めたりした。秋には天の斑馬を放って、田の中を荒した。 何度も絡縄(さなわ)を使って串をさして自分の田にしようとしたり、馬で荒した。 また、天照太神が神嘗・大嘗、または新嘗の祭りをされるときに現れて、新宮のお席の下に放尿脱糞された。日の神はそれを知らずに席に着かれた。 これらいろいろの仕業は、一日も止むことはなく、いいようのないほどであった。しかし日の神は、親身な気持ちでとがめられず恨まれず、すべてお赦しになった。 天照太神が神衣を織るために斎服殿(神聖な機殿)へおいでになった。そこへ素戔烏尊は、天の斑馬を生きたまま皮を逆に剥いで、御殿の屋根に穴をあけてその皮を投げ入れた。 このときに天照太神はたいへん驚いて、機織の梭で身体をそこなわれた。 一説には、織女の稚日姫尊(わかひひめのみこと)が驚かれて機から落ち、持っていた梭で身体を傷つけられて亡くなったという。その稚日姫尊は、天照太神の妹である。 天照太神は素戔烏尊に仰せになった。 「お前はやはり悪い心がある。もうお前と会いたいとは思わない」 そうして、天の岩屋に入り、磐戸を閉じ隠れられた。 そのため、高天原はすっかり暗くなり、また葦原の中国も真っ暗になって、昼夜の区別も分からなくなった。 そのため、あらゆる邪神の騒ぐ声は、夏の蠅のように世に満ち、あらゆる禍いがいっせいに起こることは、常世の国に居るようだった。諸神は憂い迷って、手も足もうち広げて、諸々のことを灯りをともしておこなった。 |
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八百万(やおよろず)の神々は、天の八湍河(やすかわ)の河原に集まって、どのようなお祈りを奉るべきかを相談した。
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子の思兼神(おもいかねのかみ)は思慮深く智にすぐれていた。深謀遠慮をめぐらせていった。 「常世の長鳴鳥(ながなきどり)を集めて、互いに長鳴きさせましょう」 そして集めて鳴き合わせた。 また、日の神のかたちを作って、招き出す祈りをすることにした。 また、鏡作の祖、石凝姥命(いしこりとめのみこと)を工として、天の八湍河の河上の天の堅石を採らせた。また、真名鹿(まなしか)の皮を丸剥ぎにして、天の羽鞴(はたたら)を作り、天の金山の銅を採って、日の矛を作らせた。 このとき作った鏡は多少不出来だった。紀伊国にいらっしゃる、日前神(ひのくまのかみ)がこれである。 また、鏡作の祖の天糠戸神(あまのぬかとのかみ)[石凝姥命の子である]に、天の香山の銅を採らせて日の形の鏡を作らせた。そうして出来上がった鏡の姿は美麗だったが、岩戸に触れて小さな傷がついた。その傷は今なおある。 この鏡が伊勢にお祀りする大神である。いわゆる八咫鏡(やたのかがみ)、またの名を真経津鏡(まふつのかがみ)がこれである。 また、玉作の祖の櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)に、八坂瓊の五百筒の(大きな玉をたくさん貫いた)御統(みすまる)のための玉を作らせた。 櫛明玉神は、伊奘諾尊の子である。 また、天太玉神(あまのふとたまのかみ)に、諸々の部の神を率いて幣帛を作らせた。 また、麻積の祖の長白羽(ながしらは)の神に麻を植えさせて、これを青和幣(あおにぎて)とした。いま、衣を白羽と言うのはこれがその由来である。 また、津咋見神(つくいみのかみ)に穀木綿を植えさせ、これで白和幣(しろにぎて)を作らせた。 どちらも一晩で生い茂った。 また、阿波の忌部の祖の天日鷲神(あまのひわしのかみ)に、木綿を作らせた。 また、倭文造(しどりのみやつこ)の祖の天羽槌雄神(あまのはづちおのかみ)に、文布を織らせた。 また、天棚機姫神(あまのたなはたひめのかみ)に、神衣を織らせた。いわゆる和衣である[またニギタエという]。 また、紀伊の忌部の遠祖の手置帆負神(たおきほおいのかみ)を、作笠(かさぬい)とした。 [ともに職業とした] また、彦狭知神(ひこさしりのかみ)に、楯を作らせた。 また、玉作部の遠祖の豊球玉屋神(とよたまのたまやのかみ)に、玉を作らせた。 また、天目一箇神(あまのまひとつのかみ)に、諸々の刀・斧・また鉄鐸を作らせました[鉄鐸はいわゆるサナギという]。 また、野槌(のつち)の神に、たくさんの野薦(のすず)・玉をつけた木を集めさせた。 また、手置帆負と彦狭知の二神に、天の御量(みはかり)で大小の様々な器類を量り、名をつけさせた。 また、大小の谷の材木を伐って、瑞殿を造らせた[古語にミヅノミアラカという]。 また、山雷の神に、天の香山の枝葉のよく茂った賢木を堀りとらせた[掘り取ることを古語にサネコジノネコジという]。 賢木の上の枝には八咫鏡を掛けた[またの名を真経津の鏡という]。中ほどの枝には八坂瓊の五百箇の御統の玉を掛けた。下の枝には青和幣・白和幣を掛けた。 およそ、その様々な諸物を設け備えることは、打ち合わせどおりにいった。 また、中臣の祖の天児屋命(あまのこやねのみこと)と忌部の祖の天太玉命に、天の香山の牝鹿の肩の骨を抜きとり、天の香山の朱桜を取って占わせた。 また、手力雄神(たぢからおのかみ)に、岩戸のわきに隠れ侍らせた。 また、天太玉命にささげ持たせて、天照太神の徳をたたえる詞を申しあげさせた。また、天児屋命と共に祈らせた。 天太玉命が広く厚く徳をたたえる詞を申しあげていった。 「私が持っている宝鏡の明るく麗しいことは、あたかもあなた様のようです。戸をあけてご覧ください」 そこで、天太玉命と天児屋命は、共にその祈祷をした。 このとき、天鈿売命(あまのうずめのみこと)は、天の香山の真坂樹(まさかき)を髪に纏い、天の香山の天の日蘿懸(ひかげ)を襷とした。また、天鈿売命は天の香山の天蘿(かげ)を襷として掛け、天の香山の真坂樹を髪に纏い、天の香山の笹の葉を手草とし、手に鐸をつけた矛を持って、天の岩戸の前に立ち、庭火を焚いて巧みに踊りをした。 火を焚いて、桶を伏せてこれを踏み鳴らし、神がかりになったように喋り、胸乳をかき出だし裳の紐を陰部まで押し下げると、高天原が鳴りとどろくばかりに八百万の神々がいっせいに笑った。 天照太神はふしぎに思われ仰せられた。 「私がここに籠っているから、天下は全て暗闇になり、葦原の中国はきっと長い夜だろう。それなのに、どうして天鈿売命はこんなに喜び笑い、八百万の神々もみな笑っているのだろう」 そしてあやしまれて、岩戸をわずかに開いて、このようにしているわけを問われた。 天鈿売命が答えて申しあげた。 「あなた様よりも、素晴らしく尊い神がおいでになっているので、喜び笑っているのです」 天太玉命と天児屋命がその鏡をそっと差し出して、天照太神にお見せすると、天照太神はいよいよふしぎに思われ、少し細めに岩戸をあけて、これをご覧になった。 そのとき手力雄神に、天照太神の御手をとって引き出させ、その扉を引きあけ、新殿にお移し申しあげた。 そこで、天児屋命と天太玉命は、日の御綱縄(みつな)を、その後ろの境界にめぐらし掛けて、注連縄とした。 また、大宮売神(おおみやのめのかみ)に、天照太神の御前へ侍らせた。天太玉命が奇跡的に生んだ神である。 現代の宮中の女官内侍が優美な言葉や端麗な言葉を用いて、君主と臣との間をやわらげて、天皇の御心を喜ばせ申しあげるようなものである。 また、豊磐間戸命(とよいわまどのみこと)と櫛磐間戸命(くしいわまどのみこと)の二神に、御殿の門を守らせた。この二神はともに天太玉命の子である。 天照太神が天の岩屋から出られたために、高天原と葦原の中国は、自然と日が照り明るくなることができた。 そのときになって、天ははじめて晴れた。 「あはれ」といったその意味は、天が晴れるということである。 「あなおもしろ」は、古語に事態が最高潮に達したことを、すべて「あな」といい、神々の顔が明るく白くなったため「おもしろ」というのである。 「あなたのし」は、手を伸ばして舞うことである。今、楽しいことを指して、「たのし」というのはこの意味である。 「あなさやけ」は、笹の葉の「ささ」と鳴る音がその由来である。 「おけ」は、木の名前か。その葉を揺り動かすときの言葉である。 そうしてすぐさま、天太玉命と天児屋命の二神は申しあげていった。 「もう、天の岩屋にはお戻りになりませんように」 八百万の神々は、一同相談して素戔烏尊の罪を追求し、その罪を負わせるために、千座の置戸にたくさんの捧げ物で賠償させた。そして、髭を抜き、爪を抜いてその罪のあがないをさせた。また、手の先の爪、足の先の爪を出させ、唾を白和帛(しらにぎて)とし、よだれを青和帛(あおにぎて)とした。 そうして天児屋命(あまのこやねのみこと)に、その罪の祓いの祝詞(のりと)をあげさせた。 今の世の人が、自分の切った爪を他人に渡らないようにするのは、これがその由来である。 諸神は、素戔烏尊を責めていった。 「あなたの行いは、たいへん無頼です。だから、天上に留まって住むべきではありません。また、葦原の中国にも居てはいけません。すみやかに根の国へ行ってください」 そうして、皆で追いやった。 追いやられて去るとき、食べ物を御食都姫神(みけつひめのかみ)に乞うた。 大御食都姫神が鼻や口、尻から様々な美味しい食べ物を取り出して、いろいろに調理して差し上げるときに、素戔烏尊はそのしわざを立ち伺って、汚らわしいものを差し出すのだと思った。そのため、大御食都姫神を殺してしまった。 その殺された神の体から生まれ出た物は、頭には蚕が生じ、二つの目には稲種が生じ、二つの耳には粟が生じ、鼻には小豆が生じ、陰部には麦が生じ、尻には大豆が生じた。そこで、神皇産霊尊(かみむすひのみこと)は、これらを取らせて種となさった。 素戔烏尊は、青草を編んで笠蓑として身につけ、神々に宿を借りたいと乞うた。神々はいった。 「あなたは自分の行いが悪くて追われ責められているのです。どうして宿を我々に乞うことが許されましょう」 皆で宿を断った。 それで風雨がはなはだしいものの、留まり休むことができず、苦労して降っていかれた。 これ以後、世に笠蓑を着たままで、他人の家の中に入るのを忌むようになった。また、束ねた草を背負って、他人の家の中に入るのを忌むようになった。もしこれを犯す者があると、必ず罪のつぐないを負わされる。これは大昔からの遺法である。 素戔烏尊が日の神に申しあげて仰せになった。 「私がまたやって来ましたのは、諸神が私の根の国行きを決めたので、今から行こうとするのです。もし姉のみことにお目にかからなかったら、こらえ別れることもできないでしょう。本当に清い心をもってまた参上したのです。もうお目にかかる最後です。神々の意のままに、今から永く根の国に参ります。どうか姉のみことよ、天上を治められて、平安であられますように。また私が清い心で生んだ子供たちを、姉のみことに奉ります」 また帰り降っていかれた。 大日孁貴(おおひるめむち)。またの名を天照太神(あまてらすおおみかみ)、またの名を天照大日孁尊、またの名を大日孁尊という。 高天原(たかまがはら)を治められる。また高天の原を治められる。治められているのは高天原である。 月夜見尊(つくよみのみこと)。またの名を月読尊、またの名を月弓尊(つくゆみのみこと)という。 日の神に副えて天上の世界を治められている。また、青海原の潮の八百重を治められている。また、夜の世界を治められている。 素戔烏尊(すさのおのみこと)。[またの名を神素戔烏尊。または建素戔烏尊という。またの名を建速素戔烏尊] 青海の原を治められている。また青海の原を治められ、天下を治められている。 |
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■巻第三 天神本紀 | |
正哉吾勝勝速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)。
天照太神(あまてらすおおみかみ)が仰せになった。 「豊葦原の千秋長五百秋長(ちあきながいほあきなが)の瑞穂(みずほ)の国は、わが御子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊の治めるべき国である」 と仰せになり命じられて、天からお降しになった。 ときに、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子の思兼神(おもいかねのかみ)の妹・万幡豊秋津師姫栲幡千千姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと)を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)をお生みになった。 このとき、正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が、天照太神に奏して申しあげた。 「私がまさに天降ろうと思い、準備をしているあいだに、生まれた子がいます。これを天降すべきです」 そこで、天照太神は、これを許された。 天神の御祖神は、詔して、天孫の璽(しるし)である瑞宝十種を授けた。 瀛都鏡(おきつかがみ)、一つ 辺都鏡(へつかがみ)、一つ 八握(やつか)の剣、一つ 生玉(いくたま)、一つ 死反(まかるかえし)の玉、一つ 足玉(たるたま)、一つ 道反(ちかえし)の玉、一つ 蛇の比礼(ひれ)、一つ 蜂の比礼、一つ 品物(くさぐさのもの)の比礼、一つ というのがこれである。 天神の御祖神は、次のように教えて仰せられた。 「もし痛むところがあれば、この十種の宝を、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十といってふるわせなさい。ゆらゆらとふるわせよ。このようにするならば、死んだ人は生き返るであろう」 これが“布留(ふる)の言(こと)”の起源である。 高皇産霊尊が仰せになった。 「もし、葦原の中国の敵で、神をふせいで待ち受け、戦うものがいるならば、よく方策をたて、計略をもうけ平定せよ」 そして、三十二人に命じて、みな防御の人として天降しお仕えさせた。 天香語山命(あまのかごやまのみこと)、尾張連(おわりのむらじ)らの祖。 天鈿売命(あまのうずめのみこと)、猿女君(さるめのきみ)らの祖。 天太玉命(あまのふとたまのみこと)、忌部首(いむべのおびと)らの祖。 天児屋命(あまのこやねのみこと)、中臣連(なかとみむらじ)らの祖。 天櫛玉命(あまのくしたまのみこと)、鴨県主(かものあがたぬし)らの祖。 天道根命(あまのみちねのみこと)、川瀬造(かわせのみやつこ)らの祖。 天神玉命(あまのかむたまのみこと)、三嶋県主(みしまのあがたぬし)らの祖。 天椹野命(あまのくぬのみこと)、中跡直(なかとのあたい)らの祖。 天糠戸命(あまのぬかとのみこと)、鏡作連(かがみつくりのむらじ)らの祖。 天明玉命(あまのあかるたまのみこと)、玉作連(たまつくりのむらじ)らの祖。 天牟良雲命(あまのむらくものみこと)、度会神主(わたらいのかんぬし)らの祖。 天背男命(あまのせおのみこと)、山背久我直(やましろのくがのあたい)らの祖。 天御陰命(あまのみかげのみこと)、凡河内直(おおしこうちのあたい)らの祖。 天造日女命(あまのつくりひめのみこと)、阿曇連(あずみのむらじ)らの祖。 天世平命(あまのよむけのみこと)、久我直(くがのあたい)らの祖。 天斗麻弥命(あまのとまねのみこと)、額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)らの祖。 天背斗女命(あまのせとめのみこと)、尾張中嶋海部直(おわりのなかじまのあまべのあたい)らの祖。 天玉櫛彦命(あまのたまくしひこのみこと)、間人連(はしひとのむらじ)らの祖。 天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)、安芸国造(あきのくにのみやつこ)らの祖。 天神魂命(あまのかむたまのみこと)[または三統彦命(みむねひこのみこと)という]、葛野鴨県主(かどののかものあがたぬし)らの祖。 天三降命(あまのみくだりのみこと)、豊田宇佐国造(とよたのうさのくにのみやつこ)らの祖。 天日神命(あまのひのかみのみこと)、対馬県主(つしまのあがたぬし)らの祖。 乳速日命(ちはやひのみこと)、広沸湍神麻続連(ひろせのかむおみのむらじ)らの祖。 八坂彦命(やさかひこのみこと)、伊勢神麻続連(いせのかむおみのむらじ)らの祖。 伊佐布魂命(いさふたまのみこと)、倭文連(しどりのむらじ)らの祖。 伊岐志迩保命(いきしにほのみこと)、山代国造(やましろのくにのみやつこ)らの祖。 活玉命(いくたまのみこと)、新田部直(にいたべのあたい)の祖。 少彦根命(すくなひこねのみこと)、鳥取連(ととりのむらじ)らの祖。 事湯彦命(ことゆつひこのみこと)、取尾連(とりおのむらじ)らの祖。 八意思兼神(やごころのおもいかねのかみ)の子・表春命(うわはるのみこと)、信乃阿智祝部(しなののあちのいわいべ)らの祖。 天下春命(あまのしたはるのみこと)、武蔵秩父国造(むさしのちちぶのくにのみやつこ)らの祖。 月神命(つきのかみのみこと)、壱岐県主(いきのあがたぬし)らの祖。 また、五部(いつとものお)の人が副い従って天降り、お仕えした。 物部造(もののべのみやつこ)らの祖、天津麻良(あまつまら)。 笠縫部(かさぬいべ)らの祖、天曽蘇(あまのそそ)。 為奈部(いなべ)らの祖、天津赤占(あまつあかうら)。 十市部首(とおちべのおびと)らの祖、富々侶(ほほろ)。 筑紫弦田物部(つくしのつるたもののべ)らの祖、天津赤星(あまつあかぼし)。 五部の造が供領(とものみやつこ)となり、天物部(あまのもののべ)を率いて天降りお仕えした。 二田造(ふただのみやつこ)。 大庭造(おおばのみやつこ)。 舎人造(とねりのみやつこ)。 勇蘇造(ゆそのみやつこ)。 坂戸造(さかとのみやつこ)。 天物部ら二十五部の人が、同じく兵杖を帯びて天降り、お仕えした。 二田物部(ふただのもののべ)。当麻物部(たぎまのもののべ)。 芹田物部(せりたのもののべ)。鳥見物部(とみのもののべ)。 横田物部(よこたのもののべ)。嶋戸物部(しまとのもののべ)。 浮田物部(うきたのもののべ)。巷宜物部(そがのもののべ)。 足田物部(あしだのもののべ)。須尺物部(すさかのもののべ)。 田尻物部(たじりのもののべ)。赤間物部(あかまのもののべ)。 久米物部(くめのもののべ)。狭竹物部(さたけのもののべ)。 大豆物部(おおまめのもののべ)。肩野物部(かたののもののべ)。 羽束物部(はつかしのもののべ)。尋津物部(ひろきつのもののべ)。 布都留物部(ふつるのもののべ)。住跡物部(すみとのもののべ)。 讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)。相槻物部(あいつきのもののべ)。 筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)。播麻物部(はりまのもののべ)。 筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)。 船長が同じく、梶をとる人たちを率いて、天降りお仕えした。 船長・跡部首(あとべのおびと)らの祖 天津羽原(あまつはばら)。 梶取・阿刀造(あとのみやつこ)らの祖 天津麻良(あまつまら)。 船子・倭鍛師(やまとのかぬち)らの祖 天津真浦(あまつまうら)。 笠縫らの祖 天津麻占(あまつまうら)。 曽曽笠縫(そそかさぬい)らの祖 天都赤麻良(あまつあかまら)。 為奈部(いなべ)らの祖 天津赤星(あまつあかぼし)。 饒速日尊は、天神の御祖神のご命令で、天の磐船にのり、河内国の河上の哮峯(いかるがみね)に天降られた。さらに、大倭国の鳥見の白庭山にお遷りになった。 天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られた。すなわち、“虚空見つ日本(やまと)の国”といわれるのは、このことである。 饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶って妃とした。御炊屋姫は妊娠した。まだ子が生まれないうちに、饒速日尊は亡くなられた。 その報告がまだ天上に達しない時に、高皇産霊尊は速飄神(はやかぜのかみ)に仰せになった。 「私の神の御子である饒速日尊を、葦原の中国に遣わした。しかし、疑わしく思うところがある。だから、お前は天降って復命するように」 このようにご命命になった。速飄神は勅を受けて天降り、饒速日尊が亡くなっているのを見た。そこで、天に帰りのぼって復命して申しあげた。 「神の御子は、すでに亡くなっています」 高皇産霊尊はあわれと思われて、速飄の神を遣わし、饒速日尊のなきがらを天にのぼらせ、七日七夜葬儀の遊楽をし、悲しまれた。そして天上で葬った。 天照太神は仰せになった。 「豊葦原の千秋長五百秋長の瑞穂の国は、我が御子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が王となるべき国である」 とご命令されて、天からお降しになったときに、天押穂耳尊は、天の浮橋に立たれ、下を見おろして仰せられた。 「豊葦原の千秋長五百秋の瑞穂の国は、まだひどく騒がしくて、その地は平定されていない。常識はずれな連中のいる国だ」 そこで、再び帰りのぼって、天に上って詳しく天降れない訳を述べられた。 高皇産霊尊は八百万の神々を天の八湍河(あまのやすかわ)に集めて、思兼神(おもいかねのかみ)にお尋ねになった。 「天照太神がみことのりして仰せになるには“この葦原の中国は我が御子の支配すべき国である”というご命令の国だ。それなのに、私が思うに多くの暴威を振るう乱暴な国つ神がいる。また、岩や草木もみなよく物をいう。夜は蛍火のように輝いたり、昼は蠅のように騒がしいよくない神がいる今、葦原の中国の悪しき神を平定しようと思うが、それには誰を遣わしたらよいだろう。どの神を遣わして平定すべきだろうか」 思兼神と八百万の神はみな申しあげた。 「天穂日命(あまのほひのみこと)をお遣わしになるべきです。この神は、勇ましい方です」 そこで、みなの言葉のままに、天穂日命を遣わし平定させた。しかし、この神は大己貴神(おおなむちのかみ)におもねって、三年たっても復命しなかった。 高皇産霊尊は、さらに諸神を集めてお尋ねになった。 「どの神を遣わすべきか」 みなは申しあげた。 「天津国玉神(あまつくにたまのかみ)の子の、天稚彦(あまのわかひこ)は立派な若者です。試してみてはいかがでしょう」 高皇産霊尊は、天稚彦に天の鹿児弓(あまのかごゆみ)と天の羽羽矢(あまのははや)を授けられて、遣わされた。 しかし、この神もまた忠実ではなかった。 |
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天稚彦は、その国に降り着いて、大国主神の娘の下照姫を妻とし、また、その国を得ようと思って、その国に留っていった。
「私も治めようと思う」 そうして、八年たっても復命申しあげなかった。 天照太神と高皇産霊尊は、諸神たちにお尋ねになった。 「昔、天稚彦を葦原の中国に遣わしたが、いまに至るまで戻らないのは、国つ神のなかに反抗して防いでいる者がいるからだろう。私はまた、どの神を遣わし、天稚彦が留まっている訳を尋ねようか」 思兼神や諸神は答え申しあげた。 「名無しの雉か、または鳩を遣わすべきです」 そこで、名無しの雉と鳩を遣わした。 この雉と鳩は降っていったが、粟の田や豆の田を見て、留まって戻らなかった。これがいわゆる“雉の片道使い”または“豆みて落ち居る鳩”という由来である。 高皇産霊尊が、再びお尋ねになった。 「以前に名無しの雉と鳩を遣わしたが、ついに復命することはなかった。今度はどの神を遣わそうか」 思兼神や諸神は申しあげた。 「雉、名は鳴女を遣わすべきです」 そこでまた、名無しの雌雉(めきぎし)を遣わすことになった。 高皇産霊尊は仰せになった。 「おまえは行って、天稚彦が八年も戻らず復命しない理由を問いなさい」 そこで、鳴女は天から降って葦原の中国に着いて、天稚彦の門の湯津楓(神聖な桂)の木の梢にとまり、鳴いていった。 「天稚彦よ、どうして八年もの間、いまだに復命しないのですか。」 このとき、国つ神の天探女(あまのさぐめ)がいた。この雌雉のいうことを聞いて、天稚彦にいった。 「鳴き声の悪い鳥がこの木の梢にいます。射殺してしまいましょう」 天稚彦は天神から賜った弓矢をとって、その雉を射殺した。その矢は雉の胸をとおりぬけて、逆さまに射上げられて、天の安河の河原においでになる天照太神と高皇産霊尊の御前に到った。高皇産霊尊がその矢をとってご覧になると、矢の羽に血がついていた。それで仰せになった。 「この矢は昔、私が天稚彦に与えた矢だ。いま、どういう訳か血がついて戻ってきた。きっと国つ神と闘ったのだろう」 諸神に見せ、まじないしていわれた。 「もし、悪い心で射ったのなら、天稚彦は必ず災難にあうだろう。もし、良い心で射ったのなら、天稚彦には当たらない」 そうしてその矢をとって、穴から衝き返してお下しになったら、その矢は落ち下って、天稚彦の胸に当たり、稚彦は死んでしまった。世の人がいわゆる“返し矢は恐ろしい”ということの由来である。 ときに、天稚彦の妻の下照姫の泣き悲しむ声は、風に響いて天まで届いた。そこで、天にいた天稚彦の父の天津国玉神、また天稚彦の天にいた妻子たちがその声を聞いて、稚彦が亡くなったことを知り、疾風を送って亡がらを天に上げさせた。 そうして、喪屋を造って、河雁を持傾頭者(きさりもち)とし、鷺を持掃者(ははきもち)とし、翠鳥を御食人(みけびと)とし、雀を碓舂女(つきめ)とし、雉を哭女(なきめ)とし、鷄を尸者(ものまさ)とし、鷦鷯を哭者(なきめ)とし、鵄を造綿者(わたつくり)とし、烏を宍人(ししびと)とした。すべての諸々の鳥をこのように定めて、八日八夜というもの泣き悲しみ歌った。 これより以前、天稚彦が葦原の中国にいたとき、味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)とは親しい間柄だった。それで、味耜高彦根神は、天に上って喪をとむらった。 このとき、天稚彦の父や妻がみな泣いて、 「私の子は死なずにいた」「私の夫は死なずにいらっしゃった」 と、このようにいった。手足に取りすがって泣き悲しんだ。その間違ってしまったのは、高彦根神の姿が天稚彦の生前の姿とよく似ていたためである。そのため天稚彦の親族や妻子はみな「わが君はまだ死なないで居られた」といって、衣の端をつかんで、喜び、また驚いた。しかし、高彦根神は憤然として怒りいった。 「友人の道としてはお弔いすべきだ。私は親友だ。それでけがれるのもいとわず遠くからお悔やみにやってきた。それなのに、死人と私を間違えるとは」 そうして、腰にさしている十握の剣“大葉刈”を抜いて、喪屋を切り倒した。その喪屋が下界に落ちて山になった。 すなわち、今の美濃国の藍見川の河上にある喪山がこれである。 天照太神は仰せられた。 「また、どの神を遣わしたらよいだろうか」 思兼神および諸神がみな申しあげた。 「天の安河の川上の天の岩屋においでになる、稜威尾羽張神(いつのおはばりのかみ)を遣わすべきです。もしこの神でなければその神の子の武甕雷の神(たけみかづちのかみ)を遣わすべきです。 その天尾羽張神は、天の安河の水を逆さまに塞き上げて道を塞いでおります。そのため、他の神は行く事ができません。特別に天迦具神(あまのかぐのかみ)を遣わして、お尋ねするとよいでしょう」 そこで、天迦具神を使わして、尾羽張神に尋ねた。 その時答えて申しあげた。 「お仕えしましょう。しかし、この度は、私の子の武雷神を遣わしましょう」 そうして差し上げた。 高皇産霊尊は、さらに諸神を集めて、葦原の中国に遣わすべき者を選ばれた。 みなが申しあげた。 「磐裂根裂(いわさくねさく)の子で磐筒男・磐筒女が生んだ子の、経津主神(ふつぬしのかみ)。この神を将軍にするとよいでしょう」 その時、天の岩屋に住む神・稜威雄走神(いつのおばしりのかみ)の子の武甕槌神が進んで申しあげた。 「どうして経津主神だけが丈夫で、私は丈夫ではないのだ」 その語気が激しかったので、経津主神にそえて武甕槌神を遣わした。 ある説によると、天鳥船神(あまのとりふねのかみ)を武甕槌神にそえて遣わした。 天照大神と高皇産霊神は、経津主神と武甕槌神を遣わされ、先行して討ち払わせ、葦原の中国を平定させられた。 ときに、二神が申しあげた。 「天に悪い神がいます。名を天津甕星といいます。またの名を天香々背男です。どうか、まずこの神を除いて、その後、葦原の中国に降って平定させていただきたい」 このとき、甕星を征する斎主をする神を、斎の大人といった。この神は、いま東国の楫取(かとり)の地においでになる。 経津主神・武甕槌神の二神は、出雲の国の五十狭(いたさ)の小汀に降って、大己貴神に尋ねていった。 「天つ神・高皇産霊尊は、“天照大神は詔して、葦原の中国は我が御子の治めるべき国である、といわれている”とおっしゃっています。あなたはこの国を天神に奉るかどうか、いかに」 大己貴命は答えていった。 「あなたがいうことは、どうも怪しい。あなたがた二神は、私が元から居るところにやってきたではないか。これは何かの間違いではないのか」 二神はそこで、十握の剣を抜き、地に逆さまに突き立て、その切っ先に坐って大己貴神に問いかけられた。 「皇孫を天降したてまつって、この地の王に戴こうというのだ。そこでまず、我ら二神を遣わし、平定させる。あなたの心はどうだ。去るか、どうか」 大己貴命は答えていった。 「私の子の事代主神にこのことを尋ね、しかる後ご返事しよう」 このとき、その子の事代主神は、出雲国の三穂の岬に遊びにいっていた。魚釣りや鳥を捕るのを楽しみとしていた。そこで、熊野の諸手船を使い、使者の稲背脚を乗せて、天鳥船神を遣わし、八重事代主神を召還して、ご返事する言葉を尋ねた。 ときに、事代主神がその父に仰せられた。 「今回の天つ神の仰せごとには、我が父はすみやかに去るべきです。私もまた、逆らうことはいたしません」 そのため、海の中に八重蒼柴籬をつくって、船のへりを踏んで、逆さまに手を打って、青柴垣を打って隠れた。 そうしてさらに、大己貴神に尋ねて仰せられた。 「今、あなたの子の事代主神は、このように申してきた。まだ申すべき子はいるか」 答えていった。 「必ずお答えする者に、我が子・建御名方神がある。これ以外にはおりません」 このように申している間に、建御名方神は千引の大石を手の上にさし上げ来て、いった。 「誰だ。我が国にやって来て、こそこそいっている奴は。それなら、力くらべをしよう。私がまず、その手を取ろう」 そこで、その手を取らせると、立っている氷のようになり、また剣のようになった。そのため恐れて退いた。 今度は建御名方神の手を取ろうとしてこれを取ると、若い葦をつかむようにつかみひしいで、投げうたれたので、逃げ去っていった。 それを追って科野(しなの)国の洲羽(すわ)の海に追い攻めて、まさに殺そうとしたとき、建御名方神が恐れていった。 「私を殺しなさいますな。この地以外には、他の土地には参りません。また、我が父・大国主神の命に背きません。兄の八重事代主神の言葉にもそむきません。この葦原の中国は、天神の御子の仰せのままに献上いたしましょう」 そこで、更に帰ってきて、大国主神に尋ねていった。 「あなたの子達、事代主神、建御名方神は、天神の御子の仰せに背かないと申した。あなたの心はどうか」 答えていった。 「私の子供の二神が申したとおりに、私も違いません。この葦原の中国は仰せのとおり献上いたします。ただ、私の住む所を、天神の御子の皇位にお登りになる壮大な御殿のように、大磐石に柱を太く立てて、大空に棟木を高くあげておつくりくださるならば、私はずっと隠れておりましょう。また、私の子達の多くの神は、事代主神を導きとしてお仕えいたしましたら、背く神はございますまい」 大己貴神、および、子の事代主神は、みな去ることになった。 「もし、私が抵抗したら、国内の諸神も必ず同じく抵抗するでしょう。私が身を引けば、誰もあえて反抗する者はいないでしょう」 そこで、国を平らげたとき用いた広矛を、二神に授けて仰せられた。 「私はこの矛を使ってことを成し遂げました。天孫がもしこの矛を用いて国を治められたら、必ず平安になるでしょう。今から私は、かの幽界へ去ります」 いい終わるとついに隠れてしまった。 二神は、諸々の従わない鬼神達を誅せられた。 |
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そうして出雲国の多芸志(たぎし)の小浜に、天の御舎を造って、水戸(みなと)の神の子孫の櫛八玉神(くしやたまのかみ)を膳夫として、ご馳走を差し上げたときに、櫛八玉神は、祝い言を唱え鵜になって海底に入り、底の埴土をくわえ出て、たくさんの神聖なお皿を作って、また、海藻の茎を刈り取って燧臼(ひきりうす)を作り、ホンダワラの茎を使って燧杵(ひきりきね)を作って、火をつくり出して申しあげた。
「この、私のつくる火は、大空高く神産巣霊(かみむすひ)の御祖尊の、命の富み栄える新しい宮居の煤の長く垂れ下がるように焼き上げ、地の下は底岩に堅く焼き固まらせて、緒の長い綱を延ばして釣りをする海人の釣り上げた大きな鱸(すずき)をさらさらと引き寄せあげて、割り竹でたわむほど打って捕らえた、立派な魚料理を献上します」 そうして、経津主神と武甕槌神は天上に帰り上って、復命した。 高皇産霊尊は、経津主神と武甕槌神の二神を再び遣わして、大己貴神に詔して仰せられた。 「いま、お前がいうことを聞くと、深く理にかなっている。そこで、詳しく条件を申そう。お前の治めている現世の事は、わが子孫が治めよう。お前は幽界の事を受け持つように。 また、お前の住むべき宮居をいま造ろう。そのために、千尋もある栲の縄でゆわえて、しっかりと結び、また、その宮を造るきまりは、柱は高く太く、板は広く厚くしよう。 また、豊かな供田をつくり、祭りのお供えとして実り多きことを祈ろう。 また、お前が行き来して海に遊べるために、高い橋や浮き橋、鳥のように速くはしる船を造り供えよう。 また、天の安河にかけ外しのできる橋を造ろう。 また、いく重にも縫い合わせた白楯を造ろう。 また、お前の祭祀を掌るものは、天穂日命である」 大己貴神が答えて仰せられた。 「天つ神のおっしゃることは、こんなに行き届いている。どうして仰せに従わないことがありましょうか。 私が治めるこの世のことは、皇孫がまさに治められるべきです。私は退いて、幽界の神事を担当しましょう」 そこで、岐神(ふなとのかみ)を経津主神と武甕槌神に勧めていった。 「これが私に代わってお仕えするでしょう。私はこれから退去します」 そうして、体に八坂瓊の大きな玉をつけて、永久に隠れてしまった。 そのため、経津主神は、岐神を先導役として、方々をめぐって平定した。命令に従わない者がいれば、斬り殺した。 帰順した者には褒美を与えた。このときに帰順していた首長は、大物主神と事代主神である。 そこで、八十万の神を、天の高市に集めて、この神々を率いて天に上って、その誠の心を披歴した。 高皇産霊尊が大物主神にみことのりして仰せられた。 「お前がもし、国つ神を妻とするならば、私はお前がなお心を許していないと考える。それで、いま私の娘の三穂津姫命(みほつひめのみこと)をお前に娶わせて妻とさせたい。八十万の神々をひきつれて、永く皇孫を守って欲しい」 そうして還り降らされました。 紀伊の国の忌部の遠祖・手置帆負神(たおきほおいのかみ)を笠作りの役目とした。 彦狭知神(ひこさちのかみ)を盾作りの役目とした。 天目一筒神(あまめひとつのかみ)を鍛冶の役とした。 天日鷲神(あまのひわしのかみ)を布作りの役目とした。 櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)を玉作りの役目とした。 天太玉命(あまのふとたまのみこと)を弱肩に太い襷(たすき)をかけるように、天孫の代わりとして、この神を祀らせるのは、ここから始まった。 また、天児屋命(あまのこやねのみこと)は神事を掌る元締めの役である。そこで太占の卜いを役目として仕えさせた。 高皇産霊尊が仰せになった。 「私は天津神籬(あまつひもろぎ)と天津磐境(あまついわさか)を、葦原(あしはら)の中国(なかつくに)につくりあげて、わが孫のためにつつしみ祭ろう」 そうして、天太玉命(あまのふとたまのみこと)と天児屋命(あまのこやねのみこと)の二神を、天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)につき従わせて降らせられた。 このときに、天照太神は、手に宝鏡を持って、天忍穂耳尊に授け、祝っていわれた。 「わが子がこの宝鏡を見るのに、ちょうど私を見るようにすべきである。共に床を同じくし、部屋をひとつにして、つつしみ祭る鏡とせよ。天つ日嗣の隆盛は、天地が無窮であるのと同様である」 すなわち、八坂瓊(やさかに)の勾玉、八咫の鏡、草薙の剣の、三種類の宝物を授けて、永く天孫のしるしとされた。矛と玉は、鏡と剣に自然と従った物である。 天児屋命と天太玉命に仰せられた。 「お前たち二神は、共に同じ建物の中に侍って、よくお守りの役をせよ」 天鈿売命(あまのうずめのみこと)にも詔して、同じくそえ侍らさせた。 常世(とこよ)の思金神(おもいかねのかみ)、手力雄命(たぢからおのみこと)、天石戸別神(あまのいわとわけのかみ)に仰せられた。 「この鏡は、ひたすらに私の御魂として、私を拝むのと同じように敬ってお祀りしなさい。そして、思金神は私の祭りに関することをとり扱って、政事を行いなさい」 この二神は、五十鈴宮(いすずのみや)に丁重に祀ってある。 次に豊受神(とようけのかみ)は、外宮の渡会(わたらい)にいらっしゃる神である。 次に天石戸別神は、またの名を櫛石窓神(くしいわまどのかみ)、または豊石窓神(とよいわまどのかみ)という。この神は、宮門を守る神である。 次に手力雄神は、佐那(さな)県にいらっしゃる神である。 次に天児屋命は、中臣(なかとみ)氏の遠祖である。 次に天太玉命は、忌部(いんべ)氏の遠祖である。 次に天鈿売命は、猿女(さるめ)氏の遠祖である。 次に石凝姥命(いわこりとめのみこと)は、鏡作氏の遠祖である。 次に玉祖屋命は、玉作氏の遠祖である。 以上の五部の伴を率いた神々をそえ侍らせた。 次に、大伴連(おおとものむらじ)の遠祖の天忍日命(あまのおしひのみこと)は、来目部(くめべ)の遠祖の天櫛津大来目(あまのくしつおおくめ)を率いて、背に天の磐靫(いわゆき)を負い、臂には稜威の高鞆(たかとも)をつけて、手には天の杷弓(はじゆみ)と天の羽々矢をとり、八目の鏑矢を取りそえ、また頭槌(柄頭が槌のような形)の剣を帯びて、天孫の前に立たせて先駆けとした。 高皇産霊尊は仰せになった。 「私は天津神籬と天津磐境をつくりあげて、わが子孫のためにつつしみ祭ろう」 「お前たち、天児屋命と天太玉命の二神は、よろしく天津神籬を持って葦原の中国に降り、また、わが孫のためにつつしみ祭りなさい」 また仰せられた。 「どうぞ、お前たち二神は、共に御殿の中に侍って、よく皇孫を防ぎ守りなさい。わが高天原にある、神聖な田の稲穂を、稲の種とし、わが子孫に食べさせなさい。天太玉命は部下の諸々の神を率いて、その職に仕えて、天上での慣例のとおりにしなさい」 そこで、諸神に命じて、また一緒に降臨に随行させた。 大物主神(おおものぬしのかみ)に仰せになった。 「よろしく八十万の神々を率いて、永く皇孫のために守り申しあげなさい」 正哉吾勝々速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)は、高皇産霊尊の娘の栲幡千々姫万幡姫命(たくはたちぢひめよろずはたひめのみこと)を妃として、天上界にいらして子をお生みになった。 天津彦々火瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)と名づけられた。よって、この皇孫を親に代えて降らせようと思われた。天照太神がみことのりしていわれた任務に、天降らせた。 天児屋命、天太玉命、および諸々の部の神たちを、すべてお伴として授けられた。またそのお召し物は、前例のごとく授けられた。その後、天忍穂耳尊は、また天上にお帰りになった。 太子・正哉吾勝々速日天押穂耳尊は、高皇産霊尊の娘の万幡豊秋津師姫命、またの名を栲幡千々姫命を妃として、二柱の男児をお生みになった。 兄は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)。 弟は、天饒石国饒石天津彦火瓊々杵尊。 |
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■巻第四 地祇本紀 | |
素戔烏尊(すさのおのみこと)が、天照太神(あまてらすおおみかみ)と共に誓約(うけい)をして、生じた三柱の神は、瀛津嶋姫命(おきつしまひめのみこと)、湍津嶋姫命(たぎつしまひめのみこと)、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)。
素戔烏尊の行いはいいようがないほどで、八十万の諸神は、千座の置戸の罰を科して追放した。 素戔烏尊は、その子である五十猛神(いたけるのかみ)を率いて、新羅の曽尸茂梨(そしもり)のところに天降られた。そこで不満の言葉をいわれた。 「この地には、私は居たくないのだ」 ついに土で船を造り、それに乗って東へ渡り、出雲国の簸(ひ)川の川上で安芸国の可愛川(えのかわ)の川上にある、鳥上の峰についた。 素戔烏尊が出雲国の簸川の川上の、鳥髪というところにおいでになったとき、その川上から箸が流れ下ってきた。素戔烏尊は、人がその川上に住んでいるとお思いになって、たずね捜して上って行くと、川上から泣き声が聞こえてきた。そこで、声の主を探して行き上ると、一人の翁と媼が真中にひとりの少女をおいて泣いていた。 素戔烏尊が尋ねて仰せられた。 「お前たちは誰だ。どうしてこのように泣いているのか」 翁は答えて申しあげた。 「私は国つ神です。名は脚摩乳(あしなづち)、妻は手摩乳(てなづち)といいます。この童女は私の子で、名を奇稲田姫(くしなだひめ)といいます。泣いているわけは、以前私どもには八人の娘がおりましたが、高志の八岐(やまた)の大蛇(おろち)が毎年襲ってきて、娘を喰ってしまいました。今、残ったこの娘が呑まれようとしています。それで悲しんでいるのです」 素戔烏尊はお尋ねになった。 「その大蛇はどんな形をしているのか」 答えて申しあげた。 「大蛇は、一つの胴体に八つの頭と尾がそれぞれ八つに分かれてあります。眼は赤酸漿(あかほおずき)のようで、その体には、蔦や松、柏、杉、檜が背中に生え、長さは八つの谷と八つの山にわたっておりました。その腹を見ると、一面にいつも血がにじんで爛れています」 素戔烏尊はその老夫に仰せられた。 「そのお前の娘を、私に献じぬか」 答えて申しあげた。 「恐れ入ります。しかしお名前を存じません」 素戔烏尊が仰せになった。 「私は天照太神の弟である。今、天から降ってきたところだ」 そこで答えて申しあげた。 「仰せのままにいたします。どうかまず、あの大蛇を殺して、それから召されたらよいでしょう」 素戔烏尊は、たちまちに奇稲田姫を湯津爪櫛へと変えて、御髻(みずら)にお挿しになった。 そして、脚摩乳と手摩乳によく醸した酒を八つの甕に用意させ、また垣を作り廻らせて、その垣に八つの門を作り、八つの桟敷を作った。それぞれに槽ひとつを置き、酒を盛らせた。 そのように、ご命令のままに準備をして待ち受けているとき、八岐の大蛇が脚摩乳の言うとおり八つの丘、八つの谷の間を這ってやって来た。 素戔烏尊は、大蛇に仰せられた。 「あなたは恐れ多い神です。おもてなし申しあげよう」 そこで八つの甕の酒を、八つの頭ごとに得て、大蛇は酔って眠り伏してしまった。 素戔烏尊は、腰に帯びていた十握(とつか)の剣を抜いて、その蛇をずたずたに斬った。蛇は八つに斬られ、斬られた部分ごとに雷となった。その全ての八つの雷は飛び上がって天に昇った。これは神異のはなはだしいものである。 簸川の水は赤い血となって流れた。 その大蛇の尾を斬ったとき、剣の刃が少し欠けた。そこで、その尾を割いてご覧になると、中に一つの剣があった。名を天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)という。大蛇がいる上には常に雲があったので、そう名づけられた。 素戔烏尊は仰せられた。 「これは不思議な剣だ。私はどうして私物にできようか」 そうして、五世孫の天葺根神(あまのふきねのかみ)を遣わして、天上に献上された。 のちに、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征をされたとき、その剣を名づけて草薙剣(くさなぎのつるぎ)といった。今、尾張国の吾湯市村(あゆちのむら)にある。すなわち、熱田神社でお祀りしている神である。 また、その蛇を斬った剣は今、吉備の神部のところにある。出雲の簸川の川上にやって来て、大蛇を斬った剣はこれである。 または、蛇を斬った剣の名は、蛇の麁正(あらまさ)という。今、石上神宮にある。 素戔烏尊は先に行かれ、結婚によい所をお探しになり、ついに出雲の清(すが)の地に着かれた。また、須賀須賀斯(すがすがし)ともいう。そうして仰せになった。 「私の心はすがすがしい」 そこで宮を建てられた。 このとき、その地から盛んに雲が立ちのぼったので、御歌を作られた。 「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣は」 (盛んに湧きおこる雲が、八重の垣をめぐらす。新妻をこもらせるために、八重の垣をめぐらすことよ、あの八重垣は) そうして結婚して妃とされた。生まれた子が大己貴神(おおなむちのかみ)である。 大己貴神のまたの名を八嶋士奴美神(やしましぬみのかみ)、またの名を大国主神(おおくにぬしのかみ)、またの名を清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠(すがのゆやまぬしみなさろひこやしましの)、またの名を清之繋名坂軽彦八嶋手命(すがのかけなさかかるひこやしまでのみこと)、またの名を清之湯山主三名狭漏彦八嶋野(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまぬ)という。 素戔烏尊が仰せになった。 「わが子の宮の首長は、脚摩乳と手摩乳である」 そして、名をこの二神に与えた。稲田宮主神(いなだのみやぬしのかみ)という。 出雲国にいらっしゃる神がこれである。 また、大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘の神大市姫(かむおおいちひめ)を娶って、二柱の神をお生みになった。子は大年神(おおとしのかみ)、次に稲倉魂神(うかのみたまのかみ)である。 素戔烏尊は仰せられた。 「韓国の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」 そこで、髭を抜いて放つと松の木になった。 また、胸毛を抜いて放つと檜になった。 また、眉毛を抜いて放つと樟の木になった。 また、尻の毛を抜いて放つと槙の木になった。 また、その用途を決められていわれた。 「杉と樟、この二つの木は舟をつくるのがよい。また、檜は宮殿を造る木にするのがよい。また、槙は現世の人民の寝棺を作るのによい。そのための沢山の木の種子を皆蒔こう」 素戔烏尊は、熊成峯(くまなりのみね)においでになって、ついに根の国にお入りになった。 子の五十猛神は天降られるときに、沢山の樹の種や、子供たちが食べるための種を、韓国には植えないで、すべて持ち帰り、筑紫からはじめて大八州の国中に蒔き増やして、青山にならないところはなかった。 このため五十猛命は有功の神とされる。紀伊国にいらっしゃる大神がこれである。 ある説には、素戔烏尊の子の名は五十猛命という。妹は大屋姫命(おおやひめのみこと)、次に抓津姫命(つまつひめのみこと)である。この三神がよく沢山の種を蒔いた。そして紀伊国に渡られた。この国にお祀りしている神がこれである。 大己貴神は国を平らげ、出雲国の御大(みほ)の御崎に行かれて、食事をされようとした。このとき、海上ににわかに人の声がして、驚いて探したが、まったく見えるものがなかった。 このとき、波頭の上から天の羅摩船(かがみのふね)に乗った、一人の小人がいた。蘿藦(ががいも)、の皮で船をつくり、鷦鷯(みそさざい)の羽を衣にし、また鵞の皮を剥いて衣服として、潮水にゆられて、大己貴命のところへ漂ってきた。 大己貴命が拾って手のひらにのせ、これをもてあそんでいると、跳ねて頬に噛みついた。 そこでそのかたちをあやしんで、名を尋ねたが、答えなかった。また、お伴に従っている神々に尋ねても、みな「知りません」といった。 そのとき、多迩具久(たにぐぐ:ひきがえる)が申しあげていった。 「これは久延彦(くえびこ)がきっと知っているでしょう」 すぐさま久延彦を呼んでお尋ねになると、答えていった。 「これは、神皇産霊神(かみむすひのかみ)の御子の少彦名神です」 そこで、その天神にこのことを申しあげると、神皇産霊尊はこれをお聞きになっていわれた。 「私が生んだ子は合わせて千五百ほどある。そのなかの一人の子で、もっとも悪く教えに従わない子がいた。指の間からもれ落ちたのは、きっと彼だろう。だから、あなた葦原色男(あしはらのしこお)の兄弟として可愛がってくれ」 これが少彦名命である。 その少彦名神であることを顕し申しあげた、いわゆる久延彦は、今では山田の曽富騰(そほど)という神である。この神は、自分で赴くことはないけれども、ことごとく天下のことを知っている神である。 大己貴神と少彦名神とは、力を合わせ、心を一つにして天下を造られた。 また、現世の人民と家畜のためには、病気治療の方法を定めた。また、鳥獣や昆虫の災いを除くために、まじないの法を定めた。 このため人民は、今に至るまでその恵みを受けている。 大己貴神が少彦名神に語って仰せられた。 「われらが造った国は、よく出来たといえるだろうか」 少彦名命は答えていった。 「あるいはよく出来たところもあるけれど、あるいは不出来のところもある」 この会話は、思うに深いわけがあるようである。 その後、少彦名命は熊野の御崎に行かれて、ついに常世の国へ去られた。また、淡嶋に行って粟茎によじのぼり、弾かれて常世の郷に行かれたともいう。 大己貴命は、はじめは少彦名命と二柱で葦原の中国にいらっしゃった。国は水母(くらげ)のように浮き漂っていたが、造り名づけることをついに終わらせた。 少彦名命が常世に行かれて後、国の中でまだ出来あがらないところを、大己貴命は一人でよく巡り造られた。 ついに出雲国の五十狭々の小浜に至って、揚言(ことあげ)して仰せられた。 「そもそも葦原の中国は、もとから荒れて広いところだった。岩石や草木に至るまで、すべて強かった。けれども私が皆くだき伏せて、今は従わない者はいない」 そして、これによって仰せになった。 「今この国を治めるものは、ただ私一人のみである。その私と、共に天下を治めることができる者が他にあるだろうか」 |
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そのとき、不思議な光が海を照らし、忽然と波の上におどり出て、白装束に天の蕤槍を持ち、やって来ていった。
「もし私がいなかったら、あなたはどうしてこの国を平らげることができたでしょうか。もし私が無ければ、どうして国を造り堅めることができて、大きな国を造る功績を立てることができたでしょうか」 大己貴命は尋ねて仰せられた。 「あなたは何者ですか。名を何というのですか」 答えていった。 「私はあなたの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)・術魂(じゅつみたま)の神です」 大己貴命は仰せになった。 「わかりました。あなたは私の幸魂・奇魂です。今どこに住みたいと思われますか」 答えていった。 「日本(やまと)国の青垣の三諸山(みもろやま)に住みたいと思います」 大倭国の城上郡に鎮座される神がこれである。そのため、神の願いのままに、青垣の三諸山にお祀りしました。そして宮をそこに造って、行き住まわせた。 これが大三輪(おおみわ)の大神である。 その神の子孫は、甘茂君(かものきみ)、大三輪君らである。 大己貴神は、天の羽車である大鷲に乗って、妻となる人を探し求めた。茅渟県(ちぬのあがた)に降って行き、大陶祇(おおすえつみ)の娘の活玉依姫(いくたまよりひめ)を妻として、かよった。 人に知られずに通っているうちに、娘は身ごもった。このとき娘の父母は疑いあやしんで尋ねた。 「誰が来ているのか」 娘は答えていった。 「不思議な人の姿で来られます。家の上から降りて入っていらっしゃって、床をいっしょにするだけです」 父母は、その神人が何者なのかを明らかにしようと思い、麻をつむいで糸をつくり、針で神人の衣の裾につけた。 そうして翌朝、糸にしたがって求めて行ったところ、鍵穴をこえて、茅渟山を経て吉野山に入り、三諸山に留った。そのため、神人が三輪山の大神であることがわかった。 その糸の残りを見ると、ただ三つの輪だけ残っていた。そこで、三諸山を三輪山と名づけて、大三輪神社という。 大己貴神(おおなむじのかみ)の兄には、事八十神(ことやそがみ)がおられた。その八十神が、この国を大己貴神に譲ったわけは、兄弟二神がそれぞれ稲羽の八上姫(やがみひめ)に求婚しようと思う心があった。共に稲羽に出かけたとき、大己貴神には袋を背負わせて、従者として連れて行った。 ところが気多(けた)の岬にやってきたときに、丸裸になった兎が横たわっていた。 兄の事八十神がその兎にいった。 「お前がその体を直すには、この海の潮水を浴びて、風の吹くのにあたって、高い山の上で寝ていなさい」 兎は八十神の教えのままに、山の上で横になった。すると浴びた海水が乾くにつれて、兎の体の皮膚はすっかり風に吹かれて裂けてしまった。 そのため、兎は痛み苦しんで、泣き伏していると、神の最後にやってきた大穴牟遅神[大己貴神]が、兎を見て仰せられた。 「どういうわけで、お前は泣き伏しているのか」 兎は答えていった。 「私は於岐(おき)の嶋にいて、この地に渡りたいと思いましたが、渡る方法がありませんでした。そこで、海にいる鰐(和迩:わに)をだまして、“私とお前とくらべて、どちらの同族が多いかを数えたいと思う。だからお前はその同族を、ありったけ全部連れてきて、この島から気多の岬まで、みな一列に並んで伏せていてくれ。そうしたら、私がその上を踏んで、走りながら数えて渡って、私の同族とどちらが多いかを知ることにしよう”と、このようにいいました。そして鰐がだまされて並んで伏しているとき、私はその上を踏んで、数えながら渡って来て、今まさに地上におりようとするとき、私が、“お前は私にだまされたんだよ”といい終わるやいなや、一番端に伏していた鰐が私を捕らえて、私の着物をすっかり剥ぎ取りました。そのために泣き悲しんでいたところ、先に行った事八十神がおっしゃるには、“潮水を浴びて、風にあたって寝ていろ”とお教えになりました。それで教えのとおりにしましたら、私の体は全身傷だらけになりました」 大己貴神はその兎に教えて仰せになった。 「今すぐに、この河口に行って、真水でお前の体を洗って、その河口の蒲(がま)の穂を取って敷き散らし、その上に寝ころがれば、お前の体はもとの膚のようにきっと治るだろう」 それで教えのとおりにしたところ、兎の体は元どおりになった。この兎を今、稲羽の素兎(しろうさぎ)という。今の兎神がこれである。 このときその兎は、大己貴神に申しあげていった。 「八十神は、きっと八上姫を娶ることができないでしょう。袋を背負ってはおられますが、あなた様が娶られるでしょう」 求婚を受けた八上姫は八十神に答えていった。 「私はあなた達の言うことは聞きません。大己貴神と結婚します」 これを聞いた事八十神は、大己貴神を殺そうと思い、みなで相談して伯耆国の手向山(たむきやま)のふもとにやって来ていった。 「赤い猪がこの山にいる。我らがいっせいに追いおろしたら、お前は下で待ち受けて捕らえなさい。もし待ち受けて捕らえなかったら、きっとお前を殺すぞ」 こういって、火を使い猪に似た大石を焼いてころがし落した。そこで、追いおろしたのを捕らえようとしたので、大己貴神はその石に焼きつかれて、死んでしまった。 これを知った大己貴神の御親神は、泣き憂いて天に上り、神皇産霊尊(かみむすひのみこと)に救いを請うた。神皇産霊尊は、黒貝姫(くろがいひめ)と蛤貝姫命(うむがいひめのみこと)とを遣わして、蘇生させた。 すなわち、黒貝姫は貝を削って粉にして集めて、蛤貝姫はこれを待ち受けて、母乳の汁を塗ったところ、立派な男子となって出て行かれた。 ところが事八十神はまた、大己貴神をあざむいて山に連れ込み、大木を切り倒し、楔をその木に打って、その割れ目に入らせるやいなや、楔を引き抜いて打ち殺してしまった。 そこでまた、御親神が泣きながら大己貴神を捜したところ、見つけ出すことができて、ただちにその木を折って取り出して復活させた。 御親神は、その子である大己貴神に告げて仰せになった。 「あなたはここにいたら、ついには八十神によって滅ぼされてしまう」 そこで、すぐに紀国の大屋彦神(おおやひこのかみ)のもとにお遣わしになった。 ところが、八十神は捜し求めて追いかけて来て、矢で射て大己貴神を殺そうとしたので、木の股をくぐって逃れた。 御親神は、子神に告げて仰せられた。 「速素戔烏尊(はやすさのおのみこと)のいらっしゃる、根の堅州国(かたすくに)へ行きなさい。きっとその大神がよいように図ってくださるでしょう」 そこで、その仰せに従って、素戔烏尊のもとにやって来ると、その娘の須勢理姫命(すせりひめのみこと)が出て、大己貴神とお互いに目を見かわし結婚なさって、御殿の中に戻って、その父神に、申しあげた。 「とても素敵な神がおいでになりました」 そこで大神は出て、大己貴神を見て仰せられた。 「この者は、葦原色許男(あしはらのしこお)という神だ」 そうして呼び入れて、蛇のいる室に寝させた。 このとき、その妻の須勢理姫命は、蛇の比礼を夫に授けていった。 「蛇が噛みつこうとしたら、この比礼を三度振って、打ちはらってください」 そこで、教えられたとおりにしたところ、蛇は自然と鎮まったので、やすらかに眠ってその室を出ることができた。 また、翌日の夜は、蜈蚣と蜂のいる室にお入れになった。 今度も蜈蚣と蜂の比礼を授けて、前のようにした。そのため、無事に出られた。 また、鏑矢を広い野の中に射込んで、その矢を拾わせた。 そこでその野に入ったとき、ただちに火を放ってその野を周りから焼いた。出る所がわからず困っていると、鼠がやって来て、 「内は広く、外はすぼまってます」 と、このようにいった。 そこで、そこを踏んだところ、下に落ち込んで、穴に隠れ入っている間に、火は上を焼け過ぎていった。 そしてその鼠は、その鏑矢をくわえて出てきて大己貴神に献じた。その矢は鼠の子どもが皆食いちぎっていた。 須勢理姫命は、葬式の道具を持って泣きながら来て、父の大神は大己貴神がすでに死んだと思って、その野に出で立たれた。 ところがこうして、大己貴神は矢を持って大神に奉ったので、家の中に連れて入って、広い大室に呼び入れて、その頭の虱を取らせた。 そこでその頭を見ると、蜈蚣がたくさんいた。このとき妻の須勢理姫命は、椋の実と赤土を取ってその夫に与えた。 そこで、その木の実を食い割って、赤土を口に含んで唾をはき出されると、素戔烏の大神は蜈蚣を噛み砕いて、吐き出しているのだとお思いになって、心の中でかわいい奴だと思って、眠ってしまわれた。 このとき大己貴神は、素戔烏尊の髪をつかんで、室の垂木ごとに結びつけて、五百引の大岩をその室の戸口に据えて塞いでしまった。そしてその妻の須勢理姫命を背負い、ただちに大神の権威の象徴である生大刀(いくたち)と生弓矢、および天の詔琴を持って逃げ出されるとき、その天の詔琴が樹に触れて、大地が鳴り動くような音がした。 そのため、眠っておられた大神が、この音を聞いて驚き目を覚まし、その室を引き倒してしまわれた。けれども、垂木に結びつけた髪を解いておられる間に、大己貴神は遠くへ逃れて行った。 そこで、素戔烏尊は黄泉平坂(よもつひらさか)まで追いかけて来て、はるか遠くに大己貴神と娘の姿を望み見て、大声で呼びかけて仰せられた。 「お前が持っているその生大刀・生弓矢で、お前の腹違いの兄を坂のすそに追い伏せ、また川の瀬に追い払え。お前が大国主(おおくにぬし)の神となり、また顕見国主(うつしくにぬし)の神となって、その私の娘・須勢理姫を正妻として、宇迦の山のふもとに太い宮柱を深く掘り立て、空高く千木をそびやかした宮殿に住め。こやつめ」 そこで、その大刀と弓でもって、八十神を追いやられるとき、坂のすそごとに追い伏せ、川の瀬ごとに追い払って、国つくりを始められた。 八上姫は大己貴神のもとへ連れて来られたけれども、その本妻の須勢理姫を恐れて、生んだ子は木の股にさし挟んで帰られた。 それでその子を名づけて木俣神(きまたのかみ)といい、またの名を御井神(みいのかみ)という。 大己貴命が、高志国の沼河姫(ぬなかわひめ)に求婚しようとして、お出かけになったとき、その沼河姫の家に着いて、云々とそのように歌われた。 杯をかわして、お互いに首の手をかけあって、現在に至るまで鎮座しておられる。これを神語(かむがたり)という。 |
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■素戔烏尊(すさのおのみこと)
この尊が天照大神(あまてらすおおみかみ)と共に誓約(うけい)して、そのために生まれた三柱の娘は、「あなたの子にしなさい」と天照大神が仰せになった。 名は田心姫命(たごりひめのみこと)。またの名を奥津嶋姫命(おきつしまひめのみこと)、または瀛津嶋姫命(おきつしまひめのみこと)で、宗像(むなかた)の奥津宮に鎮座されている。これが遠い沖の島にいらっしゃる神である。 次に、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)。または佐依姫命(さよりひめのみこと)、または中津嶋姫命(なかつしまひめのみこと)といい、宗像の中津宮に鎮座されている。これが中間の島にいらっしゃる神である。 次に、湍津嶋姫命(たぎつしまひめのみこと)。またの名を多岐都姫命(たぎつひめのみこと)、またの名を辺津嶋姫命(へつしまひめのみこと)といい、宗像の辺都宮(へつみや)に鎮座されている。これが海浜にいらっしゃる神である。 以上の三神は、天照大神がお生みになった三柱の女神で、 「これはあなたの子だ」 とされたため、素戔烏尊に授けて、葦原の中国に天降らせた。 筑紫国の宇佐嶋(うさのしま)に降られて、北の海の道中にあって、その名は道中貴(みちなかむち)という。 それでこの神に教えて仰せられた。 「天孫をお助けして、天孫のために祀られなさい」 すなわち、宗像君がお祀りしているところである。また、水沼君(みぬまのきみ)も同じくこの三神をお祀りするという。 宗像君の斎き祀る三前(みさき)の大神である。 素戔烏尊の子の次は、五十猛神(いたけるのかみ)である。[または大屋彦神(おおやひこのかみ)という] 次に、大屋姫神(おおやひめのかみ)。 次に、抓津姫神(つまつひめのかみ)。 以上の三柱の神は、紀伊国に鎮座されている。すなわち、紀伊国造が斎き祀る神である。 次に、事八十神(ことやそのかみ)。 次に、大己貴神(おおなむちのかみ)。倭国城上郡の大三輪神社に鎮座されている。 次に、須勢理姫神(すせりひめのかみ)[大三輪大神の嫡后である]。 次に、大年神(おおどしのかみ)。 次に、稲倉魂神(いねくらのみたまのかみ)[または宇迦能御玉神(うがのみたまのかみ)という]。 次に、葛木一言主神(かずらきのひとことぬしのかみ)[倭国葛木上郡に鎮座されている]。 ■素戔烏尊の子、大己貴神。 またの名を、大国主神(おおくにぬしのかみ)、または大物主神(おおものぬしのかみ)という。 または、国造大穴牟遅命(くにつくりしおおなむぢのみこと)という。 または、大国玉神(おおくにたまのかみ)という。または、顕見国玉神(うつしみくにたまのかみ)という。 または、葦原醜雄命(あしはらのしこおのみこと)という。または、八千矛神(やちほこのかみ)という。 これら八つの名がある。 その大己貴神の子は、合わせて百八十一柱の神がいらっしゃる。 まず、宗像の奥都嶋にいらっしゃる神の田心姫命を娶って、一男一女をお生みになった。 子の味鉏高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)は、倭国葛木郡の高鴨社に鎮座されている。捨篠社(すてすすのやしろ)ともいう。 味鉏高彦根神の妹は下照姫命。倭国葛木郡の雲櫛社に鎮座されている。 次に、辺都宮にいらっしゃる高津姫神(たかつひめのかみ)を娶って、一男一女をお生みになった。 子の都味歯八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)は、倭国高市郡の高市社(たけちのやしろ)に鎮座されている。または甘南備飛鳥社(かんなびのあすかのやしろ)という。 都味歯八重事代主神の妹は高照光姫大神命(たかてるひめのおおかみのみこと)。倭国葛木郡の御歳(みとし)神社に鎮座されている。 次に、稲羽の八上姫(やがみひめ)を娶って、一人の子をお生みになった。 子の御井神(みいのかみ)。またの名を木俣神(こまたのかみ)。 次に、高志(こし)の沼河姫(ぬなかわひめ)を娶って、一男をお生みになった。 子の建御名方神(たけみなかたのかみ)は、信濃国諏方郡の諏方(すわ)神社に鎮座されている。 素戔烏尊の孫、都味歯八重事代主神。 大きな熊鰐となって、三嶋溝杭(みしまのみぞくい)の娘・活玉依姫(いくたまよりひめ)のもとへ通い、一男一女をお生みになった。 子の天日方奇日方命(あまひかたくしひかたのみこと)。 この命は、神武朝(橿原朝)の御世に詔を受けて、政事を行う大夫となり、お仕え申しあげた。 天日方奇日方命の妹の姫鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)。 この命は、神武朝に皇后となり、二人の子をお生みになった。すなわち、神渟河耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと:綏靖天皇)と、次に彦八井耳命(ひこやいみみのみこと)がこれである。 次の妹の五十鈴依姫命(いすずよりひめのみこと)。 この命は、綏靖朝に皇后となり、一人の子をお生みになった。すなわち、磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと:安寧天皇)である。 三世孫、天日方奇日方命。またの名は阿田都久志尼命(あたつくしねのみこと)。 この命は、日向の賀牟度美良姫(ひむかのかむとみらひめ)を娶って、一男一女をお生みになった。 子は建飯勝命(たけいいかちのみこと)。 建飯勝命の妹の渟中底姫命(ぬなそこひめのみこと)。 この命は、安寧天皇のときに皇后となり、四人の子をお生みになった。すなわち、大日本根子彦耜友天皇(おおやまとねこひこすきとものすめらみこと:懿徳天皇)。次に常津彦命(とこつひこのみこと)。次に磯城津彦命(しきつひこのみこと)。次に研貴彦友背命(たきしひこともせのみこと)。 四世孫、建飯勝命。 この命は、出雲臣の娘・沙麻奈姫(さまなひめ)を娶り、一男をお生みになった。 五世孫、建甕尻命(たけみかじりのみこと)。またの名は建甕槌命(たけみかつちのみこと)、または建甕之尾命(たけみかのおのみこと)。 この命は、伊勢の幡主の娘・賀貝呂姫(がかいろひめ)を妻として、一男をお生みになった。 六世孫、豊御気主命(とよみけぬしのみこと)。またの名を建甕依命(たけみかよりのみこと)。 この命は、紀伊の名草姫(なくさひめ)を妻として、一男をお生みになった。 七世孫、大御気主命(おおみけぬしのみこと)。 この命は、大倭国の民磯姫(たみいそひめ)を妻として、二男をお生みになった。 八世孫、阿田賀田須命(あたがたすのみこと)。 和迩君(わにのきみ)たちの祖である。 次に、弟の建飯賀田須命(たけいいがたすのみこと)。 この命は、鴨部(かもべ)の美良姫(みらひめ)を妻として、一男をお生みになった。 九世孫、大田々祢古命(おおたたねこのみこと)。またの名は大直祢古命(おおただねこのみこと)。 この命は、出雲の神門臣の娘・美気姫(みけひめ)を妻として、一男をお生みになった。 十世孫、大御気持命(おおみけもちのみこと)。 この命は、出雲の鞍山祇姫(くらやまつみひめ)を妻として、三男をお生みになった。 十一世孫、大鴨積命(おおかもつみのみこと)。 この命は、崇神朝(磯城瑞垣朝)の御世に賀茂君(かものきみ)の姓を賜った。 次に、弟の大友主命(おおともぬしのみこと)。 この命は、同じ崇神朝に大神君(おおみわのきみ)の姓を賜った。 次に、田々彦命(たたひこのみこと)。 この命は、同じ崇神朝に神部直(かむべのあたい)・大神部直の姓を賜った。 ■素戔烏尊の子の次として、大年神。 この神の御子は、合わせて十六柱の神がいらっしゃる。 まず、須沼比神(すぬまひのかみ)の娘の伊怒姫(いぬひめ)を娶り妻として、五柱の子をお生みになった。 子の大国御魂神(おおくにみたまのかみ)は、大和(おおやまと)の神である。 次に、韓神(からかみ)。 次に、曽富理神(そほりのかみ)。 次に、白日神(しらひのかみ)。 次に、聖神(ひじりのかみ)。 次に賀用姫(がよひめ)と娶り妻として、二児をお生みになった。 子の大香山戸神(おおかやまとのかみ)。 次に、御年神(みとしのかみ)。 次に天知迦流美豆姫(あまのちかるみづひめ)を娶り妻として、九児をお生みになった。 子の奥津彦神(おきつひこのかみ)。次に、奥津姫神(おきつひめのかみ)。この二神は、皆が拝み祀っている竈の神である。 次に、大山咋神(おおやまくいのかみ)。この神は、近淡海の比叡山に鎮座されている。また、葛野郡の松尾にいらっしゃる、鏑矢を持たれる神である。 次に、庭津日神(にわつひのかみ)。 次に、阿須波神(あすはのかみ)。 次に、波比岐神(はひきのかみ)。 次に、香山戸神(かやまとのかみ)。 次に、羽山戸神(はやまとのかみ)。 次に、庭高津日神(にわたかつひのかみ)。 次に、大土神(おおつちのかみ)、またの名を土之御祖神(つちのみおやのかみ)。 次に、大年神の子として羽山戸神。 合わせて八柱の御子がいらっしゃる。 大気都姫神(おおげつひめのかみ)を妻として、八柱をお生みになった。 子の若山咋神(わかやまくいのかみ)。 次に、若年神(わたとしのかみ)。 妹の若沙那売神(わかさなめのかみ)。 次に、弥豆麻岐神(みづまきのかみ)。 次に、夏高津日神(なつたかつひのかみ)、またの名を夏之女神(なつのめかみ)。 次に、秋比女神(あきひめのかみ)。 次に、冬年神(ふゆとしのかみ)。 次に、久久紀若室葛根神(くくきわかむろかづらねのかみ)。 |
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■巻第五 天孫本紀 | |
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)。
またの名を天火明命、またの名を天照国照彦天火明尊、または饒速日命という。またの名を胆杵磯丹杵穂命(いきいそにきほのみこと)。 天照孁貴(あまてらすひるめむち)の太子・正哉吾勝々速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)は、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘の万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと)を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊をお生みになった。 天照太神と高皇産霊尊の、両方のご子孫としてお生まれになった。そのため、天孫といい、また皇孫という。 天神の御祖神は、天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)十種を饒速日尊にお授けになった。 そうしてこの尊は、天神の御祖先神のご命令で、天の磐船に乗り、河内国の川上の哮峰(いかるがのみね)に天降った。さらに、大倭(やまと)国の鳥見(とみ)の白庭山へ遷った。 天降ったときの随従の装いについては、天神本紀に明らかにしてある。 いわゆる、天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られ、“虚空(そら)見つ日本(やまと)の国”といわれるのは、このことである。 饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶り妃として、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)をお生みになった。 これより以前、妊娠してまだ子が生まれていないときに、饒速日尊は妻へ仰せられた。 「お前がはらんでいる子が、もし男子であれば味間見命(うましまみのみこと)と名づけなさい。もし女子であれば色麻弥命(しこまみのみこと)と名づけなさい」 産まれたのは男子だったので、味間見命と名づけた。 饒速日尊が亡くなり、まだ遺体が天にのぼっていないとき、高皇産霊尊が速飄神(はやかぜのかみ)にご命令して仰せられた。 「我が御子である饒速日尊を、葦原の中国に遣わした。しかし、疑わしく思うところがある。お前は天降って調べ、報告するように」 速飄命は天降って、饒速日尊が亡くなっているのを見た。そこで天に帰りのぼって復命した。 「神の御子は、すでに亡くなっています」 高皇産霊尊はあわれと思われて、速飄命を遣わし、饒速日尊の遺体を天にのぼらせ、七日七夜葬儀の遊楽をし悲しまれ、天上で葬った。 饒速日尊は、妻の御炊屋姫に夢の中で教えて仰せになった。 「お前の子は、私のように形見のものとしなさい」 そうして、天璽瑞宝を授けた。また、天の羽羽弓・羽羽矢、また神衣・帯・手貫の三つのものを登美の白庭邑に埋葬して、これを墓とした。 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、天道日女命を妃として、天上で天香語山命(あまのかごやまのみこと)をお生みになった。 天降って、御炊屋姫を妃として、宇摩志麻治命をお生みになった。 饒速日尊の子の天香語山命(あまのかごやまのみこと)。[天降って後の名を手栗彦命(たぐりひこのみこと)、または高倉下命(たかくらじのみこと)という]。この命は、父の天孫の尊に随従して天から降り、紀伊国の熊野邑にいらっしゃった。 天孫・天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊の孫の磐余彦尊(いわれひこのみこと)が、西の宮から出発して、みずから船軍を率いて東征されたたとき、ご命令にそむくものが蜂のように起こり、いまだ服従しなかった。中つ国の豪雄・長髓彦(ながすねひこ)は、兵をととのえて磐余彦尊の軍をふせいだ。天孫(磐余彦)の軍はしきりに戦ったけれども、勝つことができなかった。 先に紀伊国の熊野邑に至ったとき、悪神が毒気をはき、人々はみな病んだ。天孫はこれに困惑したが、よい方法がなかった。 高倉下命はこの邑にいて、夜中に夢をみた。 天照大神が武甕槌神(たけみかづちのかみ)へ仰せになった。 「葦原の瑞穂国は、聞くところによるとなお騒がしいという。お前は出かけていって、これを討ちなさい」 武甕槌神は答えて申しあげた。 「私が出向かずとも、私が国を平らげたときの剣を下したならば、自然に平定されるでしょう」 そうして高倉下命に語っていった。 「我が剣の韴霊の剣を、いまお前の家の庫(くら)の内に置いておく。それをとって、天孫に献上するように」 高倉下命は、このように夢をみて、「おお」といって目が覚めた。翌日、庫を開けてみると、はたして剣があって庫の底板に逆さまに立っていた。そこで、それをとって天孫に献じた。 そのとき天孫はよく眠っておられたが、にわかに目覚めていわれた。 「私はどうしてこんなに長く眠っていたのか」 ついで毒気に当たっていた兵士達も、みな目覚めて起きあがった。 皇軍は中つ国に赴いた。天孫は神剣を得て、日に日に威光と軍の勢いが増した。 高倉下に詔して褒め、侍臣とした。 天香語山命(あまのかごやまのみこと)は、異腹の妹の穂屋姫(ほやひめ)を妻として、一男をお生みになった。 饒速日尊の孫・天村雲命(あまのむらくものみこと)[またの名を天五多手(あまのいたて)]。 この命は、阿俾良依姫(あひらよりひめ)を妻として、二男一女をお生みになった。 三世孫・天忍人命(あまのおしひとのみこと)。 この命は異腹の妹の角屋姫(つぬやひめ)、またの名は葛木(かずらき)の出石姫(いずしひめ)を妻として、二男をお生みになった。 次に天忍男命(あまのおしおのみこと)。 この命は葛木の国つ神・剣根命(つるぎねのみこと)の娘・賀奈良知姫(がならちひめ)を妻として、二男一女をお生みになった。 妹に忍日女命(おしひひめのみこと)。 四世孫・瀛津世襲命(おきつよそのみこと)[または葛木彦命(かずらきひこのみこと)という。尾張連らの祖である]。天忍男命の子。 この命は孝昭朝の御世、大連となってお仕えした。 次に建額赤命(たけぬかあかのみこと)。 この命は葛城の尾治置姫(おわりのおきひめ)を妻として、一男を生みました。 妹に世襲足姫命(よそたらしひめのみこと)[またの名を日置日女命(ひおきひめのみこと)]。 この命は、腋上池心宮に天下を治められた孝昭天皇(観松彦香殖稲天皇:みまつひこかえしねのすめらみこと)の皇后となり、二人の皇子をお生みになった。すなわち、天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)と、次に孝安天皇(日本足彦国押人天皇:やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)がこれである。 同じく四世孫・天戸目命(あまのとめのみこと)。天忍人命の子である。 この命は葛木の避姫(さくひめ)を妻として二男をお生みになった。 次に天忍男命(あまのおしおのみこと)。 大蝮壬生連(おおたじひみぶべのむらじ)らの祖である。 五世孫・建箇草命(たけつつくさのみこと)[建額赤命の子。多治比連(たじひのむらじ)、津守連(つもりのむらじ)、若倭部連(わかやまとべのむらじ)、葛木厨直(かずらきのみくりやのむらじ)の祖である]。 同じく五世孫・建斗米命(たけとめのみこと)。天戸目命の子である。 この命は、紀伊国造の智名曽(ちなそ)の妹の中名草姫(なかつなくさひめ)を妻として、六男一女をお生みになった。 次に妙斗米命(たえとめのみこと)。 六人部連(むとりべのむらじ)らの祖である。 六世孫・建田背命(たけたせのみこと)。 神服連(かむはとりのむらじ)、海部直(あまべのあたい)、丹波国造(たにはのくにのみやつこ)、但馬国造(たじまのくにのみやつこ)らの祖である。 次に建宇那比命(たけうなひのみこと)。 この命は、城嶋連(しきしまのむらじ)の祖の節名草姫(ふしなくさひめ)を妻として、二男一女をお生みになった。 次に建多乎利命(たけたおりのみこと)。 笛吹連(ふえふきのむらじ)、若犬甘連(わかいぬかいのむらじ)らの祖である。 次に建弥阿久良命(たけみあぐらのみこと)[高屋大分国造(たかやおおきたのくにのみやつこ)らの祖である]。 次に建麻利尼命(たけまりねのみこと)[石作連(いしつくりのむらじ)、桑内連(くわうちのむらじ)、山辺県主(やまのべのあがたぬし)らの祖である]。 次に建手和迩命(たけたわにのみこと)[身人部連(むとべのむらじ)らの祖である]。 妹に宇那比姫命(うなひひめのみこと)。 七世孫・建諸偶命(たけもろずみのみこと)。 この命は、腋上池心宮で天下を治められた孝昭天皇の御世に、大臣となってお仕えした。葛木直の祖の大諸見足尼(おおもろみのすくね)の娘の諸見己姫(もろみこひめ)を妻として、一男をお生みになった。 妹に大海姫命(おおあまひめのみこと)[またの名は葛木高名姫命(かずらきのたかなひめのみこと)]。 この命は、磯城瑞垣宮で天下を治められた崇神天皇の皇妃となり、一男二女をお生みになった。すなわち、八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)、次に渟中城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)、次に十市瓊入姫命(とおちにいりひめのみこと)がこれである。 八世孫・倭得玉彦命(やまとえたまひこのみこと)[または市大稲日命(いちのおおいなひのみこと)という]。 この命は、淡海国の谷上刀婢(たにかみとべ)を妻として、一男をお生みになった。また、伊我臣の祖・大伊賀彦(おおいがひこ)の娘の大伊賀姫(おおいがひめ)を妻として、四男をお生みになった。 九世孫・弟彦命(おとひこのみこと)。 妹に日女命(ひめのみこと)。 次に玉勝山代根古命(たまかつやましろねこのみこと)[山代水主の雀部連(さざきべのむらじ)、軽部造(かるべのみやつこ)、蘇&博(そがべのおびと)らの祖である]。 次に若都保命(わかつほのみこと)[五百木部連(いおきべのむらじ)の祖である]。 次に置部与曽命(おきべよそのみこと)。 次に彦与曽命(ひこよそのみこと)。 十世孫・淡夜別命(あわやわけのみこと)[大海部直(おおあまべのあたい)らの祖。弟彦命の子である]。 次に大原足尼命(おおはらのすくねのみこと)[筑紫豊国(つくしのとよのくに)の国造らの祖で。置津与曽命の子である]。 次に大八椅命(おおやつきのみこと)[甲斐国造らの祖。彦与曽命の子である]。 次に大縫命(おおぬいのみこと)。 次に小縫命(おぬいのみこと)。 十一世孫・乎止与命(おとよのみこと)。 この命は、尾張大印岐(おわりのおおいみき)の娘の真敷刀俾(ましきとべ)を妻として、一男をお生みになった。 |
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十二世孫・建稲種命(たけいなだねのみこと)。
この命は、迩波県君(にわのあがたのきみ)の祖・大荒田(おおあらた)の娘の玉姫(たまひめ)を妻として、二男四女をお生みになった。 十三世孫・尾綱根命(おづなねのみこと)。 この命は、応神天皇の御世に大臣となってお仕えした。 妹に尾綱真若刀婢命(おづなまわかとべのみこと)。 この命は、五百城入彦命(いおきいりひこのみこと)に嫁いで、品陀真若王(ほむだまわかのきみ)をお生みになった。 次の妹に金田屋野姫命(かなだやぬひめのみこと)。 この命は、甥の品陀真若王に嫁いで、三人の王女をお生みになった。すなわち、高城入姫命(たかきいりひめのみこと)、次に仲姫命(なかひめのみこと)、次に弟姫命(おとひめのみこと)である。 この三王女は、応神天皇のもとへ共に后妃になり、合わせて十三人の皇子女をお生みになった。 姉の高城入姫命は皇妃となり、三人の皇子をお生みになった。額田部大中彦皇子(ぬかたべのおおなかひこのみこ)、次に大山守皇子(おおやまもりのみこ)、次に去来真稚皇子(いざまわかのみこ)。 妹の仲姫命は皇后となり、二男一女の御子をお生みになった。荒田皇女(あらたのひめみこ)、次に仁徳天皇(大雀天皇:おおさざきのすめらみこと)、次に根鳥皇子(ねとりのみこ)。 妹の弟姫命は皇妃となり、五人の皇女をお生みになった。阿倍皇女(あべのひめみこ)、次に淡路三原皇女(あわぢのみはらのひめみこ)、次に菟野皇女(うののひめみこ)、次に大原皇女(おおはらのひめみこ)、次に滋原皇女(しげはらのひめみこ)。 応神天皇(品太天皇:ほむだのすめらみこと)の御世に、尾治連(おわりのむらじ)の姓を賜り、大臣大連となった。 天皇は、尾綱根連に詔していわれた。 「お前の一族から生まれた十三人の皇子達は、お前が愛情を持って養い仕えなさい」 このとき尾綱根連は、とても喜んで、自分の子の稚彦連(わかひこのむらじ)と、従兄妹の毛良姫(けらひめ)の二人を壬生部の管理者に定めてお仕えさせることにした。そして、ただちに皇子達のお世話をする人を三人奉った。 連の名は請。もうひとりの連の名は談である。二人の字の辰技中から、今この民部の三人の子孫を考えると、現在は伊与国にいる云々という。 十四世孫・尾治弟彦連(おわりのおとひこのむらじ)。 次に尾治名根連(なねのむらじ)。 次に意乎巳連(おおみのむらじ)。 この連は、仁徳朝の御世に大臣となってお仕えした。 十五世孫・尾治金連(かねのむらじ)。 次に尾治岐閉連(きへのむらじ)[即連(つくのむらじ)らの祖である]。 次に尾治知々古連(ちちこのむらじ)[久努連(くぬのむらじ)の祖である]。 この連は、履中朝(去来穂別朝)の御世に功能の臣としてお仕えした。 十六世孫・尾治坂合連(さかあいのむらじ)。金連の子である。 この連は、允恭天皇の御世に寵臣としてお仕えした。 次に尾治古利連(こりのむらじ)。 次に尾治阿古連(あこのむらじ)[太刀西連(おおとせのむらじ)らの祖である]。 次に尾治中天連(なかぞらのむらじ)。 次に尾治多々村連(たたむらのむらじ)。 次に尾治弟鹿連(おとかのむらじ)[日村(ひむら)の尾治連らの祖である]。 次に尾治多与志連(たよしのむらじ)[大海部直らの祖である]。 十七世孫・尾治佐迷連(さめのむらじ)。坂合連の子である。 妹に尾治兄日女連(えひめのむらじ)。 十八世孫・尾治乙訓与止連(おとくによどのむらじ)。佐迷連の子である。 次に尾治粟原連(あわはらのむらじ)。 次に尾治間古連(まふりのむらじ)。 次に尾治枚夫連(ひらふのむらじ)。 紀伊尾張連らの祖である。 天香語山命の弟、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)。 または味間見命(うましまみのみこと)といい、または可美真手命(うましまでのみこと)という。 天孫天津彦火瓊々杵尊の孫の磐余彦尊は、天下を治めようと思われて、軍をおこして東征されたが、所々にご命令に逆らう者たちが蜂のように起こり、従わなかった。 中つ国の豪族・長髄彦は、饒速日尊の子の宇摩志麻治命を推戴し、主君として仕えていた。天孫の東征に際しては、 「天神の御子が二人もいる訳がない。私は他にいることなど知らない」 といい、ついに兵をととのえてこれを防ぎ、戦った。天孫の軍は連戦したが、勝つ事ができなかった。 このとき、宇摩志麻治命は伯父の謀りごとには従わず、戻ってきたところを誅殺した。そうして衆を率いて帰順した。 天孫は、宇摩志麻治命に仰せになった。 「長髄彦は性質が狂っている。兵の勢いは勇猛であり、敵として戦えども勝つ事は難しかった。しかるに伯父の謀りごとによらず、軍を率いて帰順したので、ついに官軍は勝利する事ができた。私はその忠節を喜ぶ」 そして特にほめたたえ、神剣を与えることで、その大きな勲功にお応えになった。 この神剣は、韴霊(ふつのみたま)剣、またの名は布都主神魂(ふつぬしのかむたま)の刀、または佐士布都(さじふつ)といい、または建布都(たけふつ)といい、または豊布都(とよふつ)の神というのがこれである。 また、宇摩志麻治命は、天神が饒速日尊にお授けになった天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)十種を天孫に献上した。天孫はたいへん喜ばれて、さらに寵愛を増された。 また、宇摩志麻治命は、天物部(あまのもののべ)を率いて荒ぶる逆賊を斬り、また、軍を率いて国内を平定して復命した。 天孫磐余彦尊は、役人に命じてはじめて宮殿を造られた。 辛酉年の一月一日に、磐余彦尊は橿原宮(かしはらのみや)に都を造り、はじめて皇位につかれた。この年を、天皇の治世元年とする。皇妃の姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を立てて皇后とした。皇后は、大三輪の神の娘である。 宇摩志麻治命がまず天の瑞宝をたてまつり、また、神盾を立てて斎き祭った。五十櫛という、または斎木を、布都主剣のまわりに刺し巡らして、大神を宮殿の内に奉斎した。 そうして、天つしるしの瑞宝を納めて、天皇のために鎮め祀った。 このとき、天皇の寵愛は特に大きく、詔していわれた。 「殿内の近くに侍りなさい」 (近く殿の内に宿せよ 〈すくせよ〉) そのためこれを足尼(すくね)と名づけた。足尼という号は、ここから始まった。 高皇産霊尊の子の天富命(あまのとみのみこと)は、諸々の斎部を率い、天つしるしの鏡と剣を捧げて、正殿に安置した。 天児屋命の子の天種子命(あまのたねこのみこと)は、神代の古事や天神の寿詞を申しあげた。 宇摩志麻治命は内物部を率いて、矛・盾を立てて厳かでいかめしい様子をつくった。 道臣命(みちのおみのみこと)は来目部を率いて、杖を帯びて門の開閉をつかさどり、宮門の護衛を行った。 それから、四方の国々に天皇の位の貴さと、天下の民に従わせることで朝廷の重要なことを伝えられた。 ときに、皇子・大夫たちは、臣・連・伴造・国造を率いて、賀正の朝拝をした。 このように都を建てて即位され、年の初めに儀式をするのは、共にこのときから始まった。 宇摩志麻治命は十一月一日の庚寅の日に、はじめて瑞宝を斎き祀り、天皇と皇后のために奉り、御魂を鎮め祭って御命の幸福たることを祈った。鎮魂(たまふり)の祭祀はこのときに始まった。 天皇は宇摩志麻治命に詔して仰せられた。 「お前の亡父の饒速日尊が天から授けられてきた天璽瑞宝をこの鎮めとし、毎年仲冬の中寅の日を例祭とする儀式を行い、永遠に鎮めの祭りとせよ」 いわゆる“御鎮祭”がこれである。 およそ、その御鎮祭の日に、猿女君らが神楽をつかさどり言挙げして、 「一・二・三・四・五・六・七・八・九・十」 と大きな声でいって、神楽を歌い舞うことが、瑞宝に関係するというのはこのことをいう。 治世二年春二月二日、天皇は論功行賞を行われた。宇摩志麻治命に詔して仰せられた。 「お前の勲功は思えば大いなる功である。公の忠節は思えば至忠である。このため、先に神剣を授けて類いない勲功を崇め、報いた。いま、股肱の職に副えて、永く二つとないよしみを伝えよう。今より後、子々孫々代々にわたって、必ずこの職を継ぎ、永遠に鑑とするように」 この日、物部連らの祖・宇摩志麻治命と、大神君(おおみわのきみ)の祖・天日方奇日方命(あまひかたくしひかたのみこと)は、ともに食国の政事を行う大夫に任じられた。 その天日方奇日方命は、皇后の兄である。食国の政事を行う大夫とは、今でいう大連・大臣にあたる。 そうして宇摩志麻治命は、天つしるしの瑞宝を斎き祀り、天皇の長寿と幸せを祈り、また布都御魂の霊剣をあがめて国家を治め護った。このことを子孫も受け継いで、石上の大神をお祀りした。 詳しくは以下に述べる。 饒速日尊の子・宇摩志麻治命。 この命は、橿原宮(かしはらのみや)で天下を治められた神武天皇の御世の、はじめに足尼(すくね)になり、ついで食国の政事を行う大夫となって、大神をお祀りした。活目邑(いくめむら)の五十呉桃(いくるみ)の娘・師長姫(しながひめ)を妻として、二人の子をお生みになった。 饒速日尊の孫・味饒田命(うましにぎたのみこと)。 阿刀連(あとのむらじ)らの祖である。 弟に、彦湯支命(ひこゆきのみこと)[またの名は木開足尼(きさきのすくね)]。 この命は、葛城高丘宮(かずらきのたかおかのみや)で天下を治められた綏靖天皇の御世の、はじめに足尼になり、ついで寵を得て食国の政事を行う大夫となって、大神をお祀りした。日下部(くさかべ)の馬津(うまつ)・名は久流久美(くるくみ)の娘の阿野姫(あぬひめ)を妻として一男を生み、出雲色多利姫(いずものしこたりひめ)を妾として一男を生み、淡海川枯姫(おうみのかわかれひめ)を妾として一男をお生みになった。 三世孫・大祢命(おおねのみこと)[彦湯支命の子である]。 この命は、片塩浮穴宮(かたしおのうきあなのみや)で天下を治められた安寧天皇の御世に、侍臣となって、大神をお祀りした。 弟に、出雲醜大臣命(いずものしこおおみのみこと)。 この命は、軽の地の曲峡宮(まがりおのみや)で天下を治められた懿徳天皇の御世の、はじめは食国の政事を行う大夫となり、ついで大臣となって、大神をお祀りした。その大臣という号は、このとき初めて起こった。倭(やまと)の志紀彦(しきひこ)の妹・真鳥姫(まとりひめ)を妻として、三人の子をお生みになった。 弟に、出石心大臣命(いずしこころのおおみのみこと)。 この命は、掖上池心宮(わきかみのいけこころのみや)で天下を治められた孝昭天皇の御世に、大臣となって、大神をお祀りした。新河小楯姫(にいかわのおたてひめ)を妻として、二人の子をお生みになった。 |
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四世孫・大木食命(おおきけのみこと)[三河国造の祖で、出雲醜大臣の子である]。
弟に、六見宿祢命(むつみのすくねのみこと)[小治田連(おはりだのむらじ)らの祖である]。 弟に、三見宿祢命(みつみのすくねのみこと)[漆部連(ぬりべのむらじ)らの祖である]。この命は、秋津嶋宮(あきつしまのみや)で天下を治められた孝安天皇の御世に、共に天皇のおそば近くに仕えたため、はじめは足尼となり、ついで宿祢(すくね)となって、大神をお祀りした。その宿祢の号は、このとき初めて起こった。 同じく四世の子孫・大水口宿祢命(おおみなくちのすくねのみこと)。 穂積臣(ほずみのおみ)、采女臣(うねめのおみ)らの祖で、出石心命の子である。 弟に、大矢口宿祢命(おおやくちのすくねのみこと)。 この命は、盧戸宮(いおどのみや)で天下を治められた孝霊天皇の御世に、並んで宿祢となって、大神をお祀りした。坂戸由良都姫(さかとのゆらつひめ)を妻として、四人の子をお生みになった。 五世孫・欝色雄命(うつしこおのみこと)。 この命は、軽境原宮(かるのさかいばらのみや)で天下を治められた孝元天皇の御世に、拝命して大臣となり、大神をお祀りした。活馬長砂彦(いこまのながさひこ)の妹の芹田真若姫(せりたのまわかひめ)を妻として、一人の子をお生みになった。 妹に、欝色謎命(うつしこめのみこと)。 この命は、孝元天皇の皇后となり、三人の皇子をお生みになった。すなわち、大彦命(おおひこのみこと)、つぎに春日宮で天下を治められた開化天皇、つぎに倭迹迹姫命(やまととひめのみこと)がこれである。 開化天皇は、皇后を尊んで皇太后とし、磯城瑞籬宮(しきのみずがきみや)で天下を治められた崇神天皇は、皇太后を尊んで太皇大后とされた。 弟に、大綜杵命(おおへそきのみこと)。 この命は、孝元天皇の御世に大祢となり、春日率川宮で天下を治められた開化天皇の御世に大臣となった。そうして皇后と大臣は、大神をお祀りした。大綜杵命は高屋阿波良姫(たかやのあわらひめ)と妻として、二人の子をお生みになった。 弟に、大峯大尼命(おおみねのおおねのみこと)。 この命は、開化天皇の御世に、大尼となって奉仕した。その大尼がお仕えする起源は、このとき初めて起こった。 六世孫・武建大尼命(たけたつおおねのみこと)。欝色雄大臣の子である。 この命は、大峯大尼命と同じく開化天皇の御世に、大尼となってお仕えした。 同じく六世の子孫・伊香色謎命(いかがしこめのみこと)。大綜杵大臣の子である。 この命は、孝元天皇の御世に皇妃となり、彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)をお生みになった。孝元天皇が崩ぜられた後、開化天皇は庶母の伊香色謎命を立てて皇后とし、皇子をお生みになった。すなわち、崇神天皇である。 崇神天皇は、伊香色謎命を尊んで皇太后とされた。纏向に天下を治められた垂仁天皇の御世に追号して、太皇大后を贈られた。 弟に、伊香色雄命(いかがしこおのみこと)。 この命は、開化天皇の御世に、大臣となった。崇神天皇の御世、この大臣に詔して、神に捧げる物を分かたせ、天社(あまつやしろ)・国社(くにつやしろ)を定めて、物部が作った神祭りの供物で八十万の神々を祀った。 このとき、布都大神(ふつのおおかみ)の社を、大倭国山辺郡石上邑に遷して建てた。天の祖神が饒速日尊に授けられた天つしるしの瑞宝も、同じく共に収めて、石上大神と申しあげた。 これをもって、国家のために、また物部氏の氏神として、崇め祀り、鎮めとした。 そこで、伊香色謎皇后と伊香色雄大臣は石上神宮をお祀りした。 伊香色雄命は、山代県主(やましろのあがたぬし)の祖・長溝(ながみぞ)の娘の真木姫(まきひめ)を妻として、二人の子をお生みになった。また、山代県主の祖・長溝の娘の荒姫(あらひめ)と、その妹の玉手姫(たまてひめ)を共に妾として、それぞれ二男をお生みになった。また、倭志紀彦の娘の真鳥姫を妾として、一男をお生みになった。 七世孫・建胆心大祢命(たけいこころのおおねのみこと)。 この命は、崇神天皇の御世に、はじめて大祢となりお仕えした。 弟に、多弁宿祢命(たべのすくねのみこと)[宇治部連(うじべのむらじ)、交野連(かたののむらじ)らの祖である]。この命は、同じ天皇の御世に宿祢となってお仕えした。 弟に、安毛建美命(やすけたけみのみこと)。 六人部連(むとりべのむらじ)らの祖である。この命は、同じ天皇の御世に侍臣となってお仕えした。 弟に、大新河命(おおにいかわのみこと)。 この命は、纏向珠城宮(まきむくのたまきみや)で天下を治められた垂仁天皇の御世、はじめに大臣となり、ついで物部連公(もののべのむらじのきみ)の姓を賜った。そのため、改めて大連となって、神宮をお祀りした。大連の号は、このとき初めて起こった。 紀伊の荒川戸俾(あらかわとべ)の娘の中日女(なかひめ)を妻として、四男をお生みになった。 弟に、十市根命(とおちねのみこと)。 この命は、垂仁天皇の御世に、物部連公の姓を賜った。はじめ五大夫の一人となり、ついで大連となって、神宮をお祀りした。 この物部十市根大連に、天皇は詔して仰せになった。 「たびたび使者を出雲国に遣わして、その国の神宝を検めさせたが、はっきりとした報告をする者がいない。お前がみずから出雲国に行って、調べて来なさい」 そこで十市根大連は、神宝をよく調べてはっきりと報告した。このため、神宝のことを掌らされることになった。 同じ天皇の御世に、五十瓊敷入彦皇子命(いにしきいりひこのみこのみこと)は河内国の幸(さい)の河上宮(かわかみみや)で、剣一千口を作らせられた。これを名づけて、赤花の伴(あかはなのとも)といい、または裸伴(あかはだかのとも)の剣という。現在は納めて石上神宮にある神宝である。 この後、五十瓊敷入彦皇子に詔して、石上神宮の神宝を掌らせられた。 同じ天皇の御世の治世八十七年を経たとき、五十瓊敷入彦皇子が、妹の大中姫命(おおなかひめのみこと)に語って仰せられた。 「私は老いたから、神宝を掌ることができない。これからはお前がやりなさい」 大中姫命は辞退して仰せられた。 「私はかよわい女です。どうしてよく神宝を収める高い神庫に登れましょうか」 五十瓊敷入彦命はいわれた。 「神庫が高いといっても、私が神庫用に梯子を作るから、登るのが難しいことはない」 ことわざにもいう“天の神庫は樹梯(はしだて)のままに”というのは、このことが元である。 その後、ついに大中姫命は物部十市根大連に授けて、石上の神宝を治めさせた。物部氏が石上の神宝を掌るのは、これがその起源である。 十市根命は、物部武諸隅連公(もののべのたけもろずみのむらじのきみ)の娘の時姫を妻として、五男をお生みになった。 弟に、建新川命(たけにいかわのみこと)[倭の志紀県主(しきのあがたぬし)らの祖である]。 弟に、大燈z命(おおめふのみこと)[若湯坐連(わかゆえのむらじ)らの祖である]。 この二人の命は、同じ垂仁天皇の御世、共に侍臣となってお仕えした。 八世孫・物部武諸隅連公(もののべのたけもろずみのむらじきみ)。新河大連(にいかわのおおむらじ)の子である。 崇神天皇の治世六十年、天皇は群臣に詔して仰せられた。 「武日照命(たけひなでりのみこと)が天から持ってきた神宝が、出雲大神の宮に収めてある。これを見たい」 そこで、矢田部造(やたべのみやつこ)の遠祖の武諸隅命を遣わして、はっきりと調査させて復命申しあげさせた。 武諸隅命は大連となって、石上神宮をお祀りした。物部胆咋宿祢(もののべのいくいのすくね)の娘の清姫(きよひめ)を妻として、一男をお生みになった。 弟に、物部大小市連公(もののべのおおおちのむらじきみ)[小市直(おちのあたい)の祖である]。 弟に、物部大小木連公(もののべのおおおきのむらじきみ)[佐夜部直(さやべのあたい)、久奴直(くぬのあたい)らの祖である]。 弟に、物部大母隅連公(もののべのおおもろずみのむらじきみ)[矢集連(やつめのむらじ)らの祖である]。 以上の三人の連公は、志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや)で天下を治められた成務天皇の御世に、並んで侍臣となってお仕えした。 同じく八世孫・物部胆咋宿祢(もののべのいくいのすくね)。十市根大連(とおちねのおおむらじ)の子である。 この宿祢は、成務天皇の御世に、はじめ大臣となり、石上神宮をお祀りした。その宿祢の官号は、このときはじめて起こった。 市師宿祢(いちしのすくね)の祖の穴太足尼(あなほのすくね)の娘・比東テ命(ひめこのみこと)を妻として、三人の子をお生みになった。 また、阿努建部君(あとのたけべのきみ)の祖・太玉(ふとたま)の娘・鴨姫(かもひめ)を妾として、一人の子をお生みになった。 また、三川穂国造(みかわのほのくにのみやつこ)の美己止直(みことのあたい)の妹・伊佐姫(いさひめ)を妾として、一人の子をお生みになった。 また、宇太笠間連(うだのかさまのむらじ)の祖の大幹命(おおとものみこと)の娘・止己呂姫(ところひめ)を妾として、一人の子をお生みになった。 弟に、物部止志奈連公(もののべのとしなのむらじきみ)。 杭田連(くいだのむらじ)らの祖である。 弟に、物部片堅石連公(もののべのかたがたしのむらじきみ)。 駿河国造(するがのくにのみやつこ)らの祖である。 弟に、物部印岐美連公(もののべのいきみのむらじきみ)。 志紀県主(しきのあがたぬし)、遠江国造(とおつうみのくにのみやつこ)、久努直(くぬのあたい)、佐夜直(さやのあたい)らの祖である。 弟に、物部金弓連公(もののべのかなゆみのむらじきみ)。 田井連(たいのむらじ)、佐比連(さひのむらじ)らの祖である。 以上の四人の連公は、同じく成務天皇の御世に、共に侍臣となってお仕えした。 九世孫・物部多遅麻連公(もののべのたじまのむらじきみ)。武諸隅大連の子である。 この連公は、纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)で天下を治められた景行天皇の御世に、拝命して大連となり、石上神宮をお祀りした。物部五十琴彦連公(もののべのいことひこのむらじきみ)の娘の安媛(やすひめ)を妻として、五人の子をお生みになった。 物部五十琴宿祢連公(もののべのいことのすくねのむらじきみ)。胆咋宿祢の子である。 この連公は、磐余稚桜宮(いわれのわかさくらのみや)で天下を治められた神功皇后摂政の御世の、はじめ大連となり、ついで宿祢となって、石上神宮をお祀りした。 物部多遅麻大連の娘の香児媛(かこひめ)を妻として、三人の子をお生みになった。 妹に、物部五十琴姫命(もののべのいことひめのみこと)。 この命は、景行天皇御世に皇妃となり、一人の子をお生みになった。すなわち、五十功彦命(いごとひこのみこと)である。 弟に、物部五十琴彦連公(もののべのいことひこのむらじきみ)。 この連公は、物部竹古連公(もののべのたけこのむらじきみ)の娘の弟媛(おとひめ)を妻として、二人の子をお生みになった。 弟に、物部竺志連公(もののべのつくしのむらじきみ) 奄智蘊連(あんちのかつらのむらじ)らの祖である]。 弟に、物部竹古連公(もののべのたけこのむらじきみ)[藤原恒見君(ふじわらのつねみのきみ)、長田川合君(おさだのかわいのきみ)、三川蘊連(みかわのかつらのむらじ)らの祖である]。 弟に、物部椋垣連公(もののべのくらがきのむらじきみ)[磯城蘊連(しきのかつらのむらじ)、比尼蘊連(ひねのかつらのむらじ)らの祖である]。 以上の三人は、同じく景行天皇の御世に、並んで侍臣となってお仕えした。 十世孫・物部印葉連公(もののべのいにはのむらじきみ)。多遅麻大連の子である。 この連公は、軽嶋豊明宮(かるしまのとよあかりのみや)で天下を治められた応神天皇の御世、拝命して大連となり、石上神宮をお祀りした。 姉に、物部山無媛連公(もののべのやまなしひめのむらじきみ)。 この連公は、応神天皇の皇妃となり、太子・莵道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)、矢田皇女(やたのひめみこ)、雌鳥皇女(めどりのみこ)をお生みになった。その矢田皇女は、難波高津宮(なにわのたかつのみや)で天下を治められた仁徳天皇の皇后となられた。 弟に、物部伊与連公(もののべのいよのむらじきみ)。 弟に、物部小神連公(もののべのおかみのむらじきみ)。 以上の二人は、同じ仁徳天皇の御世、共に侍臣となってお仕えした。 弟に、物部大別連公(もののべのおおわけのむらじきみ)。 この連は、仁徳天皇の御世に、詔をうけて侍臣となり、石上神宮をお祀りした。 応神天皇の太子である莵道稚郎子皇子の同母妹・矢田皇女は、仁徳天皇の皇后になったが、皇子は生まれなかった。このとき、侍臣の大別連公に詔して、御子代を設けさせた。皇后の名をウヂの名とし、大別連公を氏造として、改めて矢田部連公(やたべのむらじきみ)の姓を賜った。 |
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同じく十世孫・物部伊莒弗連公(もののべのいこふつのむらじきみ)。五十琴宿祢の子である。
この連公は、稚桜宮(わかさくらのみや)で天下を治められた履中天皇と柴垣宮(しばがきのみや)で天下を治められた反正天皇の御世に大連となって、石上神宮をお祀りした。 倭国造(やまとのくにのみやつこ)の祖・比香賀君(ひかがのきみ)の娘の玉彦媛(たまひこひめ)を妻として、二人の子をお生みになった。また、姪の岡陋媛(おかやひめ)を妾として、二人の子をお生みになった。 弟に、物部麦入宿祢連公(もののべのむぎりのむらじきみ)。 この連公は、遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)で天下を治められた允恭天皇の御世に、はじめ大連となり、ついで宿祢となって、石上神宮をお祀りした。 物部目古連公(もののべのめこのむらじきみ)の娘の全能媛(またのひめ)を妻として、四人の子をお生みになった。 弟に、物部石持連公(もののべのいわもちのむらじきみ)。 佐為連(さいのむらじ)らの祖である。 同じく十世孫・物部目古連公(もののべのめこのむらじきみ)[田井連(たいのむらじ)らの祖で、五十琴彦の子である]。 弟に、物部牧古連公(もののべのまきこのむらじきみ)[佐比佐連(さひさのむらじ)らの祖である]。 十一世孫・物部真椋連公(もののべのまくらのむらじきみ)[巫部連(かんなぎべのむらじ)、文島連(ふみしまのむらじ)、須佐連(すさのむらじ)らの祖で、伊莒弗宿祢の子である]。 弟に、物部布都久留連公(もののべのふつくるのむらじきみ)。 この連公は、雄略朝(大長谷朝:おおはつせのみかど)の御世に大連となり、石上神宮をお祀りした。 依羅連柴垣(よさみのむらじしばがき)の娘の太姫(ふとひめ)を妻として、一人の子をお生みになった。 弟に、物部目大連公(もののべのめのおおむらじきみ)。 この連公は、磐余甕栗宮(いわれのみかぐりのみや)で天下を治められた清寧天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。 弟に、物部鍛治師連公(もののべのかぬちのむらじきみ)。 鏡作(かがみつくり)小軽馬連(おかるまのむらじ)らの祖である。 弟に、物部竺志連公(もののべのつくしのむらじきみ)。 新家連(にいのみのむらじ)らの祖である。 同じく十一世孫・物部大前宿祢連公(もののべのおおまえすくねのむらじのきみ)[氷連(ひのむらじ)らの祖である]。麦入宿祢の子である。 この連公は、石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)で天下を治められた安康天皇の御世に、はじめ大連となり、ついで宿祢となって、石上神宮をお祀りした。 弟に、物部小前宿祢連公(もののべのおまえすくねのむらじきみ)[田部連(たべのむらじ)らの祖である]。 この連公は、近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや)で天下を治められた顕宗天皇の御世に、はじめ大連となり、ついで大宿祢となって、石上神宮をお祀りした。 弟に、物部御辞連公(もののべのみことのむらじきみ)[佐為連(さいのむらじ)らの祖である]。 弟に、物部石持連公(もののべのいわもちのむらじきみ)[刑部垣連(おさかべのかきのむらじ)、刑部造(おさかべのみやつこ)らの祖である]。 十二世孫・物部木蓮子連公(もののべのいたびのむらじきみ)。布都久留大連の子である。 この連公は、石上広高宮(いそのかみのひろたかのみや)で天下を治められた仁賢天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。 御大君(みおおのきみ)の祖の娘・里媛(さとひめ)を妻として、二人の子をお生みになった。 弟に、物部小事連公(もののべのおごとのむらじきみ)[志陀連(しだのむらじ)、柴垣連(しばがきのむらじ)、田井連(たいのむらじ)らの祖である]。 弟に、物部多波連公(もののべのたはのむらじきみ)[依網連(よさみのむらじ)らの祖である]。 同じく十二世孫・物部荒山連公(もののべのあらやまのむらじきみ)[目大連の子である]。 この連公は、桧前盧入宮(ひのくまのいおよりのみや)で天下を治められた宣化天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。 弟に、物部麻作連公(もののべのまさのむらじきみ)[借馬連(かるまのむらじ)、笶原連(やはらのむらじ)らの祖である]。 十三世孫・物部尾輿連公(もののべのおこしのむらじきみ)。荒山大連の子である。 この連公は、磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)で天下を治められた欽明天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。 弓削連(ゆげのむらじ)の祖・倭古連(やまとこのむらじ)の娘の阿佐姫(あさひめ)と加波流姫(かはるひめ)を妻として、それぞれ姉は四人の子を生み、妹は二人の子を生んだ。 弟に、物部奈洗連公(もののべのなせのむらじきみ)。 同じく十三世孫・物部麻佐良連公(もののべのまさらのむらじきみ)。木蓮子大連の子である。 この連公は、泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)で天下を治められた武烈天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。 須羽直(すわのあたい)の娘の妹古(いもこ)を妻として、二人の子をお生みになった。 弟に、物部目連公(もののべのめのむらじきみ)。 この連公は、継体天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。 弟に、物部長目連公(もののべのおさめのむらじきみ)[軽馬連(かるまのむらじ)らの祖である]。 弟に、物部金連公(もののべのかねのむらじきみ)[借馬連(かるまのむらじ)、野馬連(ぬまのむらじ)らの祖である]。 弟に、物部呉足尼連公(もののべのくれのすくねのむらじきみ)[依羅連らの祖である]。 この連公は、欽明天皇の御世に、宿祢となった。 弟に、物部建彦連公(もののべのたけひこのむらじきみ)[高橋連(たかはしのむらじ)、立野連(たちののむらじ)、都刀連(つとのむらじ)、横広連(よこひろのむらじ)、勇井連(ゆいのむらじ)、伊勢荒比田連(いせのあらひたのむらじ)、小田連(おだのむらじ)らの祖である]。 十四世孫・物部大市御狩連公(もののべのおおいちのみかりのむらじきみ)。尾輿大連の子である。 この連公は、譯語田宮(おさだのみや)で天下を治められた敏達天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。 弟の贄古大連(にえこのおおむらじ)の娘の宮古郎女(みやこのいらつめ)を妻として、二人の子をお生みになった。 弟に、物部守屋大連公(もののべのもりやのおおむらじきみ)。または弓削大連(ゆげのおおむらじ)という。 この連公は、池辺双槻宮(いけのべのなみつきのみや)で天下を治められた用明天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。 弟に、物部今木金弓若子連公(もののべのいまきのかなゆみわくごのむらじのきみ)。 今木連(いまきのむらじ)らの祖である。 妹に、物部連公(もののべのむらじきみ)布都姫夫人(ふつひめのおおとじ)。字は御井夫人(みいのおおとじ)、または石上夫人(いそのかみのおおとじ)という。 倉梯宮(くらはしのみや)で天下を治められた崇峻天皇の御世に夫人となった。また、朝政に参与して、神宮をお祀りした。 弟に、物部石上贄古連公(もののべのいそのかみのにえこのむらじきみ)。 この連公は、異母妹の御井夫人を妻として、四人の子をお生みになった。 小治田豊浦宮(おはりだのとゆらのみや)で天下を治められた推古天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。 弟に、物部麻伊古連公(もののべのまいこのむらじきみ)。 屋形連(やかたのむらじ)らの祖である。 弟に、物部多和髪連公(もののべのたわかみのむらじきみ)。 同じく十四世孫・物部麁鹿火連公(もののべのあらかいのむらじきみ)。麻佐良大連の子である。 この連公は、勾金橋宮(まがりのかなはしのみや)で天下を治められた安閑天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。 弟に、物部押甲連公(もののべのおしかいのむらじきみ)。 この連公は、檜前盧入宮で天下を治められた宣化天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。 弟に、物部老古連公(もののべのおゆこのむらじきみ)[神野入州連(かみののいりすのむらじ)らの祖である]。 同じく十四世孫に、物部金連公(もののべのかねのむらじきみ)[野間連(のまのむらじ)、借馬連らの祖で、目大連の子である]。 弟に、物部三楯連公(もののべのみたてのむらじきみ)[鳥部連(とりべのむらじ)らの祖である]。 弟に、物部臣竹連公(もののべのおみたけのむらじきみ)[肩野連(かたののむらじ)、宇遅部連(うじべのむらじ)らの祖である]。 弟に、物部倭古連公(もののべのやまとこのむらじきみ)[流羅田部連(ならたべのむらじ)らの祖である]。 弟に、物部塩古連公(もののべのしおこのむらじきみ)[葛野韓国連(かどののからくにのむらじ)らの祖である]。 弟に、物部金古連公(もののべのかねこのむらじきみ)[三島韓国連(みしまのからくにのむらじ)らの祖である]。 弟に、物部阿遅古連公(もののべのあじこのむらじきみ)[水間君(みぬまのきみ)らの祖である]。 十五世孫・物部大人連公(もののべのうしのむらじきみ)[御狩大連の子である]。 この連公は、物部雄君連公(もののべのおきみのむらじきみ)の娘の有利媛(ありひめ)を妻として、一人の子をお生みになった。 弟に、物部目連公[大真連(おおまのむらじ)らの祖である]。この連公は、磯城嶋宮で天下を治められた欽明天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りしました。 同じく十五世孫に、内大紫冠位・物部雄君連公(もののべのおきみのむらじのきみ)。守屋大連の子である。 この連公は、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で天下を治められた天武天皇の御世に、物部氏の氏上を名のることを許され、内大紫冠の位を賜って、石上神宮をお祀りした。 物部目大連の娘の豊媛(とよひめ)を妻として、二人の子をお生みになった。 同じく十五世孫・物部鎌束連公(もののべのかまつかのむらじきみ)。贄古大連の子である。 弟に、物部長兄若子連公(もののべのながえのわくごのむらじきみ)。 弟に、物部大吉若子連公(もののべのおおよしのわくごのむらじきみ)。 妹に、物部鎌姫大刀自連公(もののべのかまひめのおおとじのむらじきみ)。 この連公は、推古天皇の御世に、参政となって、石上神宮をお祀りした。 宗我嶋大臣(そがのしまのおおみ)の妻となって、豊浦大臣(とゆらのおおみ)をお生みになった。豊浦大臣の名を、入鹿連公(いるかのむらじきみ)という。 同じく十五世孫・物部石弓連公(もののべのいわゆみのむらじきみ)。 今木連らの祖で、麁鹿火大連の子である。 弟に、物部毛等若子連公(もののべのもとのわくごのむらじきみ)。 屋形連(やかたのむらじきみ)らの祖である。 同じく十五世孫・物部奈西連公(もののべのなせのむらじきみ)。 葛野連らの祖で、押甲大連の子である。 同じく十五世孫・物部恵佐古連公(もののべのえさこのむらじきみ)。麻伊古大連の子である。 この連公は、推古天皇の御世に、大連となって、神宮をお祀りした。 十六世孫・物部耳連公(もののべのみみのむらじきみ)。 今木連らの祖で、大人連公の子である。 同じく十六世孫・物部忍勝連公(もののべのおしかつのむらじきみ)。雄君連公の子である。 弟に、物部金弓連公(もののべのかなゆみのむらじきみ)。 今木連らの祖である。 同じく十六世孫・物部馬古連公(もののべのうまこのむらじきみ)。目大連の子である。 この連公は、孝徳朝(難波朝:なにはのみかど)の御世に、大華上の位と氏のしるしの大刀を授かり、食封千烟を賜って、神宮をお祀りした。 同じく十六世孫・物部荒猪連公(もののべのあらいのむらじきみ)。 榎井臣(えのいのおみ)らの祖で、恵佐古大連の子である。 この連公は、同じ孝徳朝の御世に、大華上の位を賜った。 弟に、物部弓梓連公(もののべのあづさのむらじきみ)。 榎井臣らの祖である。 弟に、物部加佐夫連公(もののべのかさふのむらじきみ)。 榎井臣らの祖である。 弟に、物部多都彦連公(もののべのたつひこのむらじきみ)。 榎井臣らの祖である。 この連公は、天智朝(淡海朝:おうみのみかど)の御世に、大連となって、神宮をお祀りした。 十七世孫・物部連公(もののべのむらじきみ)麻呂(まろ)。馬古連公の子である。 この連公は、天武朝の御世に天下のたくさんの姓を八色に改め定めたとき、連公を改めて、物部朝臣(もののべのあそん)の姓を賜った。さらに、同じ御世に改めて、石上朝臣(いそのかみのあそん)の姓を賜った。 |
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■巻第六 皇孫本紀 | |
天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊(あまにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)。
または天饒石国饒石尊といい、または天津彦々火瓊々杵尊という。 天の祖神が詔され、天つしるしの鏡と剣を授けられて、諸神を副い従わせられたことは、天神本紀にある。 高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、真床追衾(まとこおうふすま)で皇孫・天津彦火瓊々杵尊を包み、お伴と先払いの神を遣わされた。そして、皇孫が天の磐座(いわくら)を離れ、天の八重雲を押しひらき、勢いよく道をふみ分けて天降ろうとされるとき、先払いの神が戻ってきて申しあげた。 「一柱の神が天の八達之衢(やちまた)にいて、上は高天原(たかまがはら)から下は葦原の中国(なかつくに)までを照らしています。その鼻の高さは十咫(とあた)、背の高さは七咫あまり、まさに七尋(ななひろ)というべきでしょう。また、口の端は明るく光り、目は八咫鏡(やたのかがみ)のようで、照り輝いていることは赤酸漿(あかほおずき)に似ています」 そのため、お伴の神を遣わして詰問させようとしたが、たくさんの神がいるものの、みな眼光が鋭く険悪な雰囲気になってしまって、尋ねることはできなかった。 そこで、手弱女(たおやめ)ではあったが、天鈿売(あまのうずめ)に命じて仰せられた。 「お前は眼力が人に勝れた者である。行って尋ねなさい」 天鈿売命は、その胸をあらわに出し、腰ひもを臍(へそ)の下まで押しさげて、あざ笑って向かい立った。 衢(ちまた)の神は、天鈿売命に尋ねた。 「あなたはなぜ、こんなことをするのか」 天鈿売命は答えていった。 「天照大神の御子がおいでになる道に、このようにいるのは誰なのか、あえて問います」 街の神はこれに答えていった。 「天照大神の御子が、今降っておいでになると聞きました。それで、お迎えしてお待ちしているのです。わが名は猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)です」 そこで天鈿売がまた尋ねていった。 「あなたが私より先に立って行くべきですか、それとも私があなたより先に立って行くべきですか」 猿田彦の神は答えていった。 「私が先に行きましょう」 天鈿売はまた尋ねていった。 「あなたはどこへ行こうとするのですか。皇孫はどこへおいでになることになりますか」 猿田彦の神は答えていった。 「天神の御子は、筑紫の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)の、槵触之峯(くしふるのたけ)に到られるでしょう。私は伊勢の狭長田(さなた)の五十鈴(いすず)の川上に行くでしょう」 そしていった。 「私を顕したのはあなたですから、あなたは私を送って行ってください」 天鈿売命は、天に帰って報告した。皇孫は天鈿売命に命じて仰せられた。 「この先導の役に奉仕した猿田彦大神は、その正体を明らかにして報告した、お前がお送りしなさい。また、その神の御名は、お前が負ってお仕えしなさい」 こうして猿女君(さるめのきみ)らは、その猿田彦神の名を負って、女性を猿女君と呼ぶことになった。 猿田彦神は、阿耶訶(あざか)におられるときに、漁をしていて、比良夫貝にその手をはさまれて、海に沈み溺れてしまった。それで、海の底に沈んでおられるときの名を、底度久御魂(そこどくみたま)といい、その海水が泡粒になって上がるときの名を、都夫立御魂(つぶたつみたま)といい、その沫が裂けるときの名を、沫佐久御魂(あわさくみたま)という。 さて、天鈿売命は、猿田彦神を送って帰ってきて、ただちに大小の魚たちを追い集め、尋ねていった。 「お前たちは、天神の御子にお仕え申しあげるか」 このとき、多くの魚はみな、 「お仕え申します」 といったが、その中で海鼠(なまこ)だけが答えなかった。 そこで、天鈿売命が海鼠に、 「この口が答えない口か」 といって、細小刀でその口を切った。そのため、今でも海鼠の口は裂けているのである。 各天皇の御代ごとに、初物の魚介類を献上するとき、猿女君らに分かち下されるのは、これがその由来である。 天津彦々火瓊々杵尊は天降って、筑紫の日向の襲の槵触二上峯にいらっしゃった。 このとき、天の浮橋から、浮島のある平らな所にお立ちになって、痩せた不毛の地を、丘続きに良地を求めて歩かれ、吾田(あた)の笠狭(かささ)の崎にお着きになった。 長屋の竹嶋に登り、その地を見わたすと、そこには一柱の神がいて、みずから事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)と名のった。この事勝国勝神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子で、またの名を塩土老翁(しおつちのおじ)という。 皇孫は事勝国勝長狭に尋ねて仰せられた。 「ここは誰の国なのか」 これに答えて申しあげた。 「私、長狭がいる国で、住んでいる国です。しかし、まずはごゆっくりなさいませ。国は詔のままに、奉りましょう」 そこで、皇孫はそこに赴かれ、留まることにした。 そうして仰せになった。 「この地は韓国(からくに)に相対していて、まっすぐ道が笠沙の御崎に通じており、朝日のよくさす国であり、夕日の明るく照らす国である。だから、ここはよい土地だといえる」 詔して、地底の磐に太い宮柱を立てて、高天原に向かって千木を高くそびえさせた宮殿にお住まいになった。 天孫はひと休みされた後に、浜辺においでになり、長狭に尋ねて仰せになった。 「あの波頭の立っている波の上に、大きな御殿を立てて、手玉ももゆらに機を織る美少女は誰の娘か」 答えて申しあげた。 「大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘たちです。姉を磐長姫(いわながひめ)といい、妹を木花開姫(このはなさくやひめ)といいます。またの名は豊吾田津姫(とよあたつひめ)、またの名を鹿葦津姫(かあしつひめ)です」 皇孫が美しい乙女に尋ねて仰せられた。 「お前は誰の娘か」 乙女は答えていった。 「私は大山祇の娘で、名は神吾田鹿葦姫、またの名を木花開耶姫といいます」 そして、 「また、私の姉に磐長姫がいます」 といった。 皇孫は仰せられた。 「私はお前を妻にしたいと思うが、どうか」 答えていった。 「私の父・大山祇神がいます。どうか父にお尋ねください」 そのため皇孫は、大山祇神に仰せになった。 「私はお前の娘を見そめた。妻にしたいと思うがどうか」 大山祇神は、大変喜んで、二人の娘に数多くの物を並べた机を持たせて奉った。 ときに、皇孫は姉のほうを醜いと思われ、召さずに返された。妹は美人であるとして、召して結婚された。すると、一夜で妊娠した。 そのため、この姉の磐長姫は、大変恥じ恨んでいった。 「もし天孫が私を退ずにお召しになったら、生まれる御子は命が長く、岩のようにいつまでも死なないでしょう。でも、そうではなく、ただ妹一人を召されました。だから、その生む子はきっと木の花のように、散り落ちてしまうことでしょう」 また、磐長姫は恥じ恨んで、唾を吐き呪って泣きながらいった。 「この世に生きている人民は、木の花のようにしばらくで移ろって、衰えてしまうでしょう」 これが、世の人の命がもろいことの由来である。 父の大山祇神が、申し送っていった。 「私の娘を二人並んで奉りましたわけは、磐長姫をお召しになって、天神の御子の命が、雪や雨が降り風が吹いても、つねに岩のように永遠に変わらず、ゆるぎなくいらっしゃるように、また、木花開姫をお召しになって、木の花が咲き栄えるように、ご繁栄になるように、祈誓して奉りました。しかるに磐長姫を返させて、木花開姫ひとりをお留めになりましたから、天神の御子の寿命は、木の花のようにわずかな時間となるでしょう」 そのため、これをもって、今に至るまで天皇がたのご寿命は長久ではなくなったのである。 神吾田鹿葦津姫が、皇孫を見ながら申しあげた。 「私は、天孫の子を身ごもりました。ひそかに産むわけにはまいりません」 皇孫は仰せられた。 「天神の子であるといっても、どうして一夜で孕ませられるだろうか。思うに、お前が身ごもったのは、私の子ではなく、国つ神の子だろう」 神吾田鹿葦津姫は、一夜にして子を宿した。そして、四人の子を生んだ。[ある書には、三人の子という] 竹の刀をつかい、その子のへその緒を切った。それを棄てた所は、竹の刀が後に竹林になった。そのため、その地を名づけて、竹屋という。 このとき神吾田鹿葦津姫は、卜定田(うらへだ)を狭名田(さなだ)と名づけ、その田で収穫した稲をもって、天の甜酒(たんさけ)を醸して、お供えした。また、渟浪田(ぬなた)の稲を使って、飯をたいて、お供えした。 神吾田鹿葦津姫が子を抱いてやってきて申しあげた。 「天神の子を、どうしてひそかに養うべきでしょうか。だから様子を申しあげて、知っていただきます」 このとき天孫は、その子らを見てあざわらって仰せられた。 「なんとまぁ、私の皇子たち、こんなに生まれたとは本当に嬉しいな」 そこで、吾田鹿葦津姫は怒っていった。 「どうして私をあざけりなさるのですか」 天孫は仰せになった。 「心に疑わしく思う。だから、あざけったのだ。なぜなら、いくら天神の子でも、どうして一夜のうちに、人に孕ませることができるのか。絶対にわが子ではない」 神吾田鹿葦津姫は、ますます恨んで、戸の無い大きな御殿を作ってその中にこもり、誓っていった。 「私の孕んだ子が、もし天神の御子でなかったら、必ず焼け滅べ。もし、天神の御子ならば、炎で損なわれることがないでしょう」 そして火をつけて室を焼いた。 その火が初め明るくなったとき、ふみ出して出てきた子は、自ら名のっていった。 「私は天神の子、名前は火明命(ほあかりのみこと)。私の父はどこにおられるのか」 次に火の盛んなときにふみ出して出てきた子は、また名のっていった。 「私は天神の子、名前は火進命(ほすすみのみこと)。私の父と兄はどこにおられるのか」 次に火の衰えるときにふみ出して出てきた子は、また名のっていった。 「私は天神の子、名前は火折命(ほおりのみこと)。私の父と兄たちはどこにおられるか」 次に火熱がひけるときにふみ出して出てきた子はいった。 「私は天神の子、名前は彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)。私の父と兄たちはどこにおられるのか」 |
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その後に、母の吾田鹿葦津姫が、燃え杭の中から出てきて、いった。
「私が生んだ御子と私の身は、みずから火の災いに当たりましたが、少しも損なわれるところがありませんでした。天孫はご覧になられましたか」 天孫は答えて仰せられた。 「私は最初から、これがわが子であると知っていた。ただ一夜で孕んだということを疑う者があると思って、衆人にこれが皆、わが子であると知らせようと思った。あわせて天神はよく一夜で孕ませられることを示そうとしたのだ。また、お前に不思議な勝れた力があり、子らもまた、人に勝れた力があることを明らかにしようと思った。このため、先の日にあざけりの言葉をのべたのだ」 こうして、母の誓いの結果を知ることができた。本当にこの子らが皇孫の御子であると。 豊吾田鹿葦津姫は、皇孫を恨んで言葉を交わさなかった。 皇孫は憂いて歌を詠んでいわれた。 御子、火明命[工造たちの祖]。 次に、火進命[または火闌命(ほすそりのみこと)、または火酢芹命(ほすせりのみこと)という。隼人たちの祖]。 次に、火折命。 次に、彦火々出見尊。 彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)。 天孫・天津彦々火瓊々杵尊の第二子で、母は大山祇の娘の木花開姫である。 兄の火酢芹命(ほすせりのみこと)は、よく海の幸を得ることができたので、海幸彦命(うみさちひこのみこと)と呼ばれた。 弟の火折命(ほおりのみこと)は、または火々出見尊という。山の幸を得ることができたので、山幸彦尊(やまさちひこのみこと)と呼ばれた。 兄は風が吹き雨が降るたびにその幸を失った。弟は風が吹き雨が降っても、その幸は変わらなかった。 ときに、兄が弟に語っていった。 「私はためしに、お前と幸を取り替えてみたいと思う」 弟は、承諾して取り替えられた。 兄は弟の弓矢をもって山に入り獣を狩ったが、ついに獣を捉えることができなかった。 弟は兄の釣り針をもって海に行き魚を釣ったが、魚を得ることはできず、ついにはその釣り針を失ってしまった。 どちらも幸を得られずに、空手で帰ってきた。 兄は弟の弓矢を返して、自分の釣り針を返すように求めた。しかし、弟は釣り針を海の中に紛失して、捜し求めるすべがなかった。 そこで、別に新しい釣り針を作って、兄に与えたが、兄は受け取らず、もとの針を返すように責めた。 弟は悩んで、自分の太刀で新しい針を鍛えて、器いっぱいに盛って、これを贈った。兄が怒っていった。 「私はもとの針でなければ、たくさんあるといっても受け取らない」 と、ますますまた責めた。 それで弟の火折尊は憂い苦しむことが深く、海辺に行ってさまよい、たたずみ嘆かれた。 このとき、川雁がいて、罠にかかって苦しんでいた。それをご覧になり、憐れみの心を起こして解き放ってやった。 しばらくして、塩土老翁がやってきて、老翁は尋ねた。 「何のために、こんなところで悲しんでいるのですか」 答えて事の始終を告げると、老翁は申しあげた。 「心配なされるな。私があなたのために、考えてさしあげましょう」 そして袋の中から櫛をとって、地に投げると、それはたくさんの竹林になった。 その竹をとって、目の粗い籠を作った。これをまたは堅間(かたま)という。現在の籠のことである。 そうして火折尊を竹籠の中に入れて、海に沈めた。 また、塩土老翁は申しあげた。 「私が計りごとをしましょう」 計って申しあげた。 「海神の乗る駿馬は、八尋鰐(やひろわに)です。その鰐が背を立てて橘の小戸におります。私が彼とともに、計りましょう」 そうして、火折尊をつれてともに行き、鰐に会った。 鰐が計っていった。 「私は八日の後に、確かに天孫を海神の宮にお送りできます。しかし、わが王の駿馬は、一尋鰐です。これはきっと一日のうちにお送りするでしょう。ですから今、私が帰って彼を来させましょう。彼に乗って、海にお入りください。海に入られたら、海中によい小浜があるでしょう。その浜に沿って進まれたら、きっとわが王の宮につくでしょう。宮の門の井戸の上に、神聖な桂の木があります。その木の上に乗って居られませ」 こう言い終わって、すぐに海中に入って去っていった。 そこで、天孫は、鰐のいったとおりに留まって、八日間待った。 しばらくして、一尋鰐がやってきた。それに乗って、海中に入った。 すると、おのずとちょうどよい小浜の道があり、すべてさきの鰐の教えの従って、道に沿って進んでいくと、ひとりでに海神の宮についた。 その宮は、城門高く飾り、楼閣壮麗だった。 門の前にひとつの井戸があり、井戸の上には神聖な桂の木があって、枝葉がよく茂っていた。 火折尊は、この木の下に行き、跳ね上がってのぼっておられた。 しばらくして、一人の美人があらわれた。井戸の底に笑顔がうつるその容貌は絶世であった。これが、海神の娘の豊玉姫(とよたまひめ)である。 従者を多く従えて中から出てきた。そして従者が玉の壷で井戸の水を汲もうとすると、井戸の中に人影が映っているのを見て、汲みとることができず、上を仰ぐと天孫の姿が見えた。 そのため驚いて扉を開いて戻り、その父王に申しあげた。 「私はわが王だけが、ひとりすぐれて美しいと思っていました。ですが、貴い客人が門の前の井戸のそばの木の上にいて、その姿は並みではなく、海神よりも勝れています。もし天から降れば天のかげがあり、地下から上れば地のかげがあるでしょう。これは本当に妙なる美しさです。虚空彦(そらつひこ)というのでしょうか」 そこで海神豊玉彦(とよたまひこ)は、人を遣わして、尋ねて申しあげた。 「客人はどなたですか。なぜここにおいでになったのですか」 天孫は答えて仰せられた。 「私は天神の孫です」 そうして、おいでになったわけを話された。 海神はこれを聞いて、 「ためしに会ってみよう」 といって、三つの床を設け、何枚もの畳をしいて、迎え拝んで中に引き入れた。 このとき、天孫は入り口の床では両足を拭かれた。次の床では両手を拭われた。内の床では真床覆衾(まとこおうふすま)の上に、ゆったりと座られた。 海神はこれを見て、この方が天神の孫であることを知り、ますます尊敬して懇ろにお仕えした。 そして、たくさんの物を並べた机を用意し、主人としての礼を尽くした。 海神がおもむろに尋ねて申しあげた。 「天孫は、何故かたじけなくもおいでくださいましたか。このころ、わが子が語りますに、天孫が海辺で悲しんでおられるというのですが、本当かどうかわからない、と申しておりました」 天孫は答えて、ことのわけを詳しく話された。 海神は、憐れみの心を起こして、大小の魚をすべて集めて尋ねたが、皆、 「知りません」 といった。 ただ、口女(くちめ)だけが口に病があった。そこでただちに呼びよせて、その口を探ると、紛失した釣り針がすぐに見つかった。 その口女は、すなわち鯔魚(いな)である。また、赤女ともいわれていて、鯛のことである。 海神は命じていった。 「お前口女は、これから餌を食べてはならぬ。また、天孫にすすめる御膳に加わることはできない」 鯔魚を御膳に進めないのは、これがその由来である。 そうして天孫は、海神の娘の豊玉姫を娶られた。 二人は愛情こまやかに過ごされて、海の宮に過ごすこと三年が経った。安らぎ楽しまれてはいたが、やはり故郷を想われる心があった。それで、またひどく嘆かれた。 豊玉姫はこれを聞き、父神にいった。 「ここにいらっしゃる貴人は、上つ国に帰りたいと思っておられます。ひどく悲しんで度々嘆かれるのは、きっと郷土を想って悲しまれるのでしょう」 海神はそこで、天孫におもむろに語って申しあげた。 「今、天神の孫が、かたじけなくも私のところにおいでくださいました。心の中の喜びは、忘れることができません。天孫がもし国に帰りたいと思われるなら、お送り申しあげます」 海神はそうして、釣り針を授け奉った。 潮溢の玉(しおみつのたま:思いのままに潮を満たせる玉)と、潮涸の玉(しおひのたま:潮をひかせる玉)を、この針に添え献じて申しあげた。 「皇孫よ、遠く隔たっても、どうか時々は思い出して、忘れてしまわないようにしてください」 そして教えて申しあげた。 「この針をあなたの兄に返し与えられるときに、“貧乏のもと。飢えのはじめ。苦しみのもと”とおっしゃりなさい。そしてひそかにこの針を呼んで、“お前が生まれる子の末代まで、貧乏の針、滅びの針、おろかの針、うまくいかない針”とおっしゃって、後ろのほうへ投げ捨てて与えなさい。向かいあって授けてはなりません。それから三度唾を吐いてください。 また、あなたの兄が海を渡ろうとするときには、私は必ず疾風を送り波を立てて、兄を溺れさせ苦しめましょう。もし、兄が怒ってあなたを損なおうとするなら、潮溢の玉を出して溺れさせ、苦しんで助けてくれと乞うたら、潮涸の玉を出して救ってください。このように責め悩ませれば、自然と服従するでしょう。 また、兄が海で釣りをするときに、天孫は海辺におられて風招(かざおぎ)をなさい。風招とは、口をすぼめて息を吹き出すことです。そうすると、私は瀛(おき)つ風・辺(へ)つ風を立てて、速い波で溺れさせましょう」 また教えて申しあげた。 「兄が高いところの田を作ったら、あなたはくぼんだ低い田をお作りなさい。兄がくぼんだ田を作ったら、あなたは高いところの田をお作りなさい」 このように、海神は誠実をつくして、火折尊をお助けした。 海神は、鰐を呼び集め、尋ねていった。 「天孫が今お帰りになる。お前達は、何日間のうちにお送りできるか」 たくさんの鰐がそれぞれに、長く、あるいは短かい日数をのべた。中に一尋鰐がいて、みずからいった。 「一日でお送りすることができます」 そこで、一尋鰐に命じてお送りさせた。 |
天孫は、帰ってきて、海神の教えのとおりに、まずその針を兄に与えられた。兄は怒って受け取らなかった。
そこで、弟は潮溢玉を出すと、潮が大きく満ちてきて、足を浸した。これは足占(あしうら)の意味がある。膝に水が至ったときには、足をあげた。股に至ったときには、走り回った。腰に至ったときには、腰をなで回した。脇に至ったときには、手を胸におき、首に至ったときには手を上げてひらひらさせた。 このため兄は助けを求めて申しあげた。 「私はあなたにお仕えして奴となりましょう。どうかお助けください」 弟の尊が潮涸玉を出すと、潮は自然と引いて、兄はもとに返った。 兄の命が釣りをする日に、弟の尊は浜辺におられて、うそぶきをした。すると、疾風が急に起こり、兄は溺れ苦しんだ。生きられそうもないので遥かに弟の尊に救いを求めていった。 「お前は長い間、海原で暮らしたから、きっと何かよい術を知っているだろう。どうか助けてくれ。もし私を助けてくれたら、私の生む子の末代まで、あなたの住居の垣のあたりを離れず俳優(わざおぎ)の民となろう」 そこで、弟はうそぶくことをやめて、風もまた止んだ。 そのため兄は弟の徳を知り、みずから服従しようとした。しかし、弟の尊は怒って口をきかれなかった。 そこで兄はフンドシをして、土を手のひらに塗って、その弟の尊に申しあげた。 「私はこのとおり身を汚しました。永くあなたのための俳優となりましょう」 そうして足をあげて踏み鳴らし、その溺れ苦しむ様を真似した。 兄の命は、日々にやつれていき、憂いていった。 「私は貧乏になってしまった」 そして弟に降伏した。弟が潮溢玉を出すと、兄の命は手を挙げて溺れ苦しんだ。潮涸玉を出すと、元のようにもどった。 後になると兄の命は、前言をあらためていった。 「私はお前の兄である。どうして人の兄として、弟に仕えることができようか」 弟の尊はそのとき潮溢玉を出した。兄はこれを見て、高い山に逃げ登った。しかし、潮は山を水没させた。兄は高い木に登った。潮はまた、木を水没させた。 兄の命はとても困って、逃げ去るところもなく、罪に伏して申しあげた。 「私は過ちをしました。今後は私の子孫の末まで、あなたの俳人(わざひと)となり、また狗人(いぬひと)となりましょう。どうか哀れんでください」 弟の尊が潮涸玉を出すと、潮は自然と引いた。そこで兄は弟の尊が、神の徳を持っていることを知って、ついにその弟の尊に服従してお仕えした。 このため、兄の命の子孫である諸々の隼人(はやと)たちは、今に至るまで、天皇の宮の垣のそばを離れないで、吠える犬の役をしてお仕えしているのである。 世の人が失った針を催促しないのは、これがその由来である。 これより以前、別れようとするときに、豊玉姫がゆっくりと語って申しあげた。 「私はもう妊娠しています。天孫の御子を遠からず産み奉ります。しかし、どうして海の中に生むことができましょうか。ですから子を生むときには、きっとあなたのもとへ参ります。風波の盛んな日に海辺に出ていきますから、どうか私のために産屋を作って待っていてください」 その後、弟の尊は郷(くに)に帰って、鵜(う)の羽で屋根を葺いて産屋を作った。屋根がまだ葺き終わらないうちに、豊玉姫は大亀に乗り[または龍に乗ったという]、妹の玉依姫をつれ、海を照らしてやって来た。 もう臨月で、子は産まれんばかりだった。そのため葺き終わるのを待たないで、すぐに産屋へ入られた。 静かに天孫に申しあげていった。 「私は今晩、子を生むでしょう。どうかご覧にならないでください」 天孫は、心中そのことばを怪しんで、いわれたことを聞かずに、ひそかに覗き見られた。 すると、姫は八尋の大鰐に変わって、這い回っていた。見られて辱められたのを深く恥じ、恨みを抱いた。 子が生まれてから後に、天孫が行って尋ねられた。 「この子の名前は何とつけたらよいだろう」 豊玉姫は答えて申しあげた。 「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と名づけましょう」 このようにいわれたわけは、その海辺の産屋に、鵜の羽を草の代わりにして屋根を葺くのに、まだ葺き終わらないうちに子が生まれられたので名づけたのである。 天孫は、豊玉姫の言葉に従われず、出産を覗き見られた。 豊玉姫は、そのことを大いに恨んでいった。 「私のいうことを聞かないで、私に恥をかかせられました。ですから今後は、私の召使いがあなたの所に行ったら返しなさいますな。あなたの召使いが私のもとに来てもまた返しませんから」 これが、海と陸との相通わないことの由来である。 ついに、真床覆衾(まとこおうふすま)と草で、生まれた御子をつつみ渚に置いてから、豊玉姫命はみずから抱いて海の郷に去った。 また、妹の玉依姫(たまよりひめ)を留めて、抱かせ養育させて去ったともいう。 しばらくして、 「天孫の御子を、海の中においていてはいけない」 といって、玉依姫命に抱かせて送り出した。 天孫は、婦人を召して、乳母(ちおも)および飯噛(いいかみ)、湯坐(ゆひと)とされ、すべて諸々の役目を備えて養育した。ときには、仮に他の女を使って、乳母として皇子を養うこともあった。 これが世の中で乳母をきめて、子を育てることの始まりである。 この後、豊玉姫命は、その子が美しくかわいらしいのを聞いて、憐れみの心がつのり、また帰って育てたいと思った。しかし、義にかなわないので、妹の玉依姫命を遣わして養わせた。 そこで、召されて一児を生んだ。武位起命(たけくらいおきのみこと)である。 はじめ、豊玉姫は別れるときに、恨み言をしきりにいった。 それで天孫は、また会うことのないのを知られて、歌を一首贈られた。 豊玉姫命は、玉依姫命に託して、返歌を奉った。 この贈答の二首を名づけて挙歌(あげうた)という。 彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)は、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊をお生みになった。 次に、武位起命をお生みになった。大和国造(やまとのくにのみやつこ)らの祖である。 彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊。 天孫・彦火々出見尊の第三子である[また火折尊ともいう]。 母を豊玉姫命という。海神の上の娘である。 豊玉姫命の妹の玉依姫命を立てて皇妃とされた。すなわち、海神の下の娘で、鸕鷀草葺不合尊の叔母にあたる。 四人の御子をお生みになった。 子の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)[賊の矢にあたって亡くなった]。 次に、稲飯命(いなひのみこと)[海に没して鋤持神となった]。 次に、三毛野命(みけいりぬのみこと)[常世の郷に行かれた]。 次に、磐余彦命(いわれひこのみこと)。 磐余彦尊(いわれひこのみこと)。 磐余彦尊は、天孫・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の第四子である。母は玉依姫命(たまよりひめのみこと)といい、海神(わだつみ)の下の娘である。 天孫・磐余彦尊は、生まれながらに賢い人で、気性がしっかりとしておられた。十五歳で太子となられた。 成長されたのち、日向国の吾田邑(あたのむら)の吾平津媛(あびらつひめ)を妃とされた。妃との間に、手研耳命(たぎしみみのみこと)、次に研耳命(きすみみのみこと)がをお生みになった。 四十五歳になられたとき、兄や御子たちに仰せられた。 「昔、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)と大日孁尊(おおひるめのみこと)が、この葦原の瑞穂国を我が祖先の彦火瓊々杵尊(ひこほのににぎのみこと)に授けられた。そこで瓊々杵尊は天の戸を押し開き、雲路を押し分け先払いを走らせて降臨された。このとき、世は未開で、まだ明るさも十分ではなかった。その暗い中にありながら、正しい道を開き、この西のほとりを治められた。皇室の祖先は神であり、また聖であったので、人々によろこびをもたらし、光をなげかけ、多くの年月を経た。天祖が降臨されてから、百七十九万二千四百七十余年になる。しかし、遠いところの国では、まだ帝王の恵みが及ばず、邑々はそれぞれの長があり村々に長があって、土地に境を設けて相争っている。 ところで、また塩土老翁(しおつちのおじ)に聞くと、“東のほうに良い土地があり、青々とした山が取りまいている。その中へ、天の磐船に乗ってとび降ってきた者がある”という。思うにその土地は、広く統治をおこない、天下を治めるのにふさわしいであろう。きっとこの国の中心だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日(にぎはやひ)という者であろうか。そこに行って、都をつくるにかぎる」 諸皇子たちも答えて申しあげた。 「そのとおりです。私たちもそう思うところです。すみやかに実行しましょう」 この年は大歳の甲寅である。 その年の冬十月五日に、天孫は自ら諸皇子・船軍を率いて、東征に向かわれた。 速吸(はやすい)の門においでになると、一人の漁人(あま)がいて、小舟に乗ってやってきた。天孫は、呼び寄せ尋ねて仰せられた。 「お前は誰か」 答えて申しあげた。 「私は国津神で、珍彦(うずひこ)と申します。曲(わだ)の浦で釣りをしており、天神の御子がおいでになると聞いたので、お迎えに参りました」 また、天孫は尋ねて仰せられた。 「私のために、水先案内をするつもりはないか」 珍彦は答えて申しあげた。 「ご案内しましょう」 天孫は命じて、漁人に椎竿(しいさお)の先を差し出し、つかまらせて船の中に引き入れ、水先案内とされた。 そこで、とくに名を賜って椎根津彦(しいねつひこ)とされた。これが倭直部(やまとのあたいら)の始祖である。 進んで、筑紫の莵狭(うさ)に着いた。 すると、莵狭の国造の先祖で、莵狭津彦(うさつひこ)・莵狭津姫という者があった。莵狭の川上に、足一つあがりの宮を造っておもてなしをした。 このときに命じて、莵狭津姫を侍臣の天種子命(あまのたねこのみこと)に娶あわされた。天種子命は、中臣氏(なかとみし)の遠祖である。 十一月九日、天孫は、筑紫国の岡水門(おかのみなと)に着かれた。 十二月二十七日、安芸国に着いて、埃宮(えのみや)においでになった。 乙卯年の春三月六日、吉備国に移られ、行宮(かりみや)を造ってお入りになった。これを、高嶋宮(たかしまのみや)という。三年のうちに船舶をそろえ、兵器や糧食を蓄えて、一挙に天下を平定しようと思われた。 |
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戊午年の春二月十一日、皇軍はついに東に向かった。船はたがいに接するほどであった。
まさに難波碕(なにわのみさき)に到ろうとするとき、速い潮流があって、大変早く着いた。よって、浪速国(なみはやのくに)と名づけた。また浪花(なみはな)ともいう。今、難波というのはなまったものである。 三月三十日、川をさかのぼって、河内国草香邑(くさかのむら)の青雲の白肩津(しらかたのつ)に着いた。 夏四月九日、皇軍は兵をととのえ、龍田に向かった。 その道は狭くけわしくて、人が並んで行くことはできなかった。そこで引き返して、さらに東のほうの胆駒山を越えて内つ国に入ろうとした。 そのときに、長髄彦(ながすねひこ)がそれを聞いていった。 「天神の子たちがやってくるわけは、きっと我が国を奪おうとするのだろう」 そうして、全軍を率いて孔舎衛坂(くさえのさか)で戦った。 流れ矢が当たって、天孫の兄の五瀬命(いつせのみこと)の肘脛(ひじはぎ)に当たった。 皇軍は、進み戦うことが出来なかった。天孫はこれを憂いて、計りごとをめぐらして仰せになった。 「いま、自分は日神の子孫であるのに、日に向かって敵を討つのは天道にさからっている。一度退却して弱そうに見せ、天神地祇をお祀りし、背に太陽を負い、日神の威光をかりて敵に襲いかかるのがよいだろう。そうすれば、刃に血ぬらずして、敵はきっとおのずから敗れるだろう」 皆は申しあげた。 「そのとおりです」 そこで、軍中に告げて仰せられた。 「いったん止まり、ここから進むな」 そして、軍兵を率いて帰られた。敵もあえて後を追わなかった。 草香の津に引き返し、盾をたてて雄たけびをして士気を鼓舞された。それでその津を、改めて盾津(たてづ)と名づけた。今、蓼津(たでつ)というのは、なまったものである。 はじめ、孔舎衛の戦いに、ある人が大きな樹に隠れて、難を免れることができた。 それで、その木を指していった。 「恩は母のようだ」 時の人はこれを聞き、その地を名づけて母木邑といった。 今、“おものき”というのは、なまったものである。 五月八日、軍は茅渟(ちぬ)の山城水門(やまきのみなと)に着いた。 そのころ五瀬命の矢傷がひどく痛んだ。そこで命は剣を撫で、雄たけびして仰せられた。 「残念だ。丈夫(ますらお)が賊に傷つけられて、報復しないまま死ぬとは」 時の人は、よってそこを雄水門(おのみなと)と名づけた。 進軍して、紀伊国の竃山(かまやま)に到り、五瀬命は軍中に亡くなった。よって、竃山に葬った。 六月二十三日、軍は名草邑(なくさのむら)に着いた。 そこで名草戸畔(なくさとべ)という者を誅した。 ついに狭野(さぬ)を越えて、熊野の神邑に至り、天の磐盾に登った。 軍を率いて、だんだんと進んでいった。しかし海の中で急に暴風に遭い、船は波に翻弄されて進まなかった。天孫の兄の稲飯命(いなひのみこと)がなげいて仰せになった。 「ああ、わが先祖は天神であり、母は海神であるのに、どうして私を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか」 いい終わって、剣を抜いて海に入り、鋤持神となられた。 もうひとりの兄の三毛入野命(みけいりぬのみこと)もまた恨んで仰せられた。 「わが母と伯母は二人とも海神である。それなのに、どうして波を立てて溺れさすのか」 そして波頭を踏んで、常世の国へおいでになった。 天孫は兄たちを失われてひとり、皇子の手研耳命(たぎしみみのみこと)と、軍を率いて進み、熊野の荒坂の津に着かれた。そこで、丹敷戸畔(にしきとべ)という者を誅された。 そのとき神が毒気を吐いて、軍兵は病みつかれた。このため、皇軍はまた振るわなかった。 するとそこに、熊野の高倉下(たかくらじ)という人がいた。 この人の夜の夢に、天照大神(あまてらすおおみかみ)が武甕雷神(たけみかづちのかみ)に語って仰せになった。 「葦原の中国は、なお乱れ騒がしい。お前がまた行って、討ちなさい」 武甕雷神は答えて申しあげた。 「私が行かなくても、私が国を平らげた剣を降らせたら、国はおのずと平らぎましょう」 天照大神は、 「よろしい」 と仰せられた。 そこで、武甕雷神は、高倉下に語って仰せられた。 「わが剣は、名を韴霊(ふつのみたま)という。今、お前の倉の中に置こう。それを取って天孫に献上しなさい」 高倉下は、 「おお」 といって目が覚めた。 あくる朝、夢の中の教えに従って、倉を開いてみると、果たして落ちてきた剣があり、庫の底板に逆さまにささっていた。それを取って天孫に献じた。 そのときに天孫はよく眠っておられたが、にわかに目覚めて仰せになった。 「自分はどうしてこんなに長く眠ったのだろう」 次いで、毒気に当たっていた兵士たちも、みな目覚めて起き上がった。 皇軍は内つ国に赴こうとした。しかし、山の中は険しくて、行くべき道もなかった。 進みあぐねているとき、夜、夢を見た。 天照大神が天孫に教えて仰せられた。 「私は今、頭八咫烏(やたからす)を遣わすから、これを案内としなさい」 はたして頭八咫烏が大空から飛び降ってきた。天孫は仰せられた。 「この烏のやってくることは、瑞夢にかなっている。偉大なことだ、さかんなことだ。わが先祖の天照大神が、われわれの仕事を助けようとしてくださる」 このときに大伴氏の遠祖の日臣命(ひのおみのみこと)は、大来目を率いて、大軍の将軍として、山を越え路を踏み分けて、烏の導きのままに、仰ぎ見ながら追いかけた。 ついに莵田(うだ)の下県に着いた。よって、その着かれたところを名づけて菟田の穿邑(うがちのむら)という。 そのとき、詔して日臣命をほめて仰せられた。 「お前には忠と勇があり、またよく導いた手柄がある。それでお前の名を改めて、道臣(みちのおみ)としよう」 秋八月二日、兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)をお呼びになった。この二人は、菟田の県の人々のかしらである。 ところが、兄猾はやって来ず、弟猾だけやって来た。 そして軍門を拝んで申しあげた。 「私の兄の兄猾の悪い計画は、天孫がおいでになると聞いて、兵を起こして襲おうとしています。皇軍の軍勢を眺めると敵しがたいことを恐れて、ひそかに兵を隠して、仮に新宮を造り、御殿の中に仕掛けを設けて、おもてなしをするように見せかけて、事を起こそうとしています。どうか、この謀りごとを知って、よく備えてください」 天孫は、道臣命を遣わして、その悪計を調べさせた。道臣命は詳しく調べて、彼に殺害しようという心があったことを知り、大いに怒って叱責していった。 「卑しいやつめ。お前の造った部屋に、自分で入るがいい」 そして、剣を構え、弓をつがえて中へ追いつめた。 兄猾は、天をあざむいたので、言い逃れすることもできなかった。みずから仕掛けに落ちて圧死した。 その屍を引き出して斬ると、流れる血はくるぶしが没するほどに溢れた。それで、その地を名づけて、菟田の血原(ちはら)という。 弟猾は、たくさんの肉と酒を用意して、皇軍をねぎらいもてなした。天孫は酒肉を兵士たちに分け与え、歌を詠んで仰せられた。 宇陀の 高城に鴫(しぎ)罠張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし 鷹等障り 前妻(こなみ)が 肴乞はさば 立稜麦の 実の無けくを 幾しひゑね 後妻(うわなり)が 肴乞はさば 斎賢木 実の多けくを 幾多ひゑね 宇陀の高城に鴫をとる罠を張って、待っていると鴫がかからず鷹がかかった。これは大猟だ。古女房が獲物をくれといったら、ヤセそばの実のないところをうんとやれ。若女房が獲物をくれといったら、斎賢木のような実の多いところをうんとやれ。 これを来目歌(くめうた)という。いま、楽府でこの歌を歌うときは、手の拡げかたの大小や声の太さ細さの別があります。これは、いにしえの遺法である。 この後、天孫は吉野の地を見たいと思われて、菟田の穿邑から軽装の兵をつれて巡幸された。 吉野に着いたとき、人がいて井戸の中から出てきた。その人は、体が光って尻尾があった。 天孫は、これに尋ねて仰せになった。 「お前は何者か」 答えて申しあげた。 「私は国つ神で、名は井光(いひか)といいます」 これは、吉野の首部(おびとら)の始祖である。 さらに少し進むと、また尾のある人が岩をおしわけて出てきた。 天孫は、 「お前は何者か」 と尋ねられた。 「私は磐排別(いわおしわく)の子です」 と答えて申しあげた。 これは、吉野の国栖部(くずら)の始祖である。 川に沿って西においでになると、また梁を設けて漁をする者があった。 天孫がお尋ねになると、答えて、 「私は苞苴担(にえもつ)の子です」 と申しあげた。 これは、阿太の養鵜部(うかいら)の始祖である。 九月五日、天孫は菟田の高倉山の頂きに登って、国の中を眺められた。 そのころ、国見丘の上に、八十梟師(やそたける)がいた。女坂(めさか)には女軍を置き、男坂(おさか)には男軍を置き、墨坂(すみさか)には熾(おこ)し炭をおいていた。女坂・男坂・墨坂の地名は、これから起きた。 また、兄磯城(えしき)の軍がいて、磐余邑(いわれのむら)に満ちていた。 敵の拠点はみな要害の地である。そのため、道は絶えふさがれて通るべきところがなかった。 天孫はこれを憎まれて、この夜、神に祈って寝られた。 夢に天神が現れて、教えて仰せられた。 「天の香山(かぐやま)の社の土を取って、天の平瓦八十枚をつくり、同じく神聖な瓮をつくり、天神地祇をお祀りしなさい。また、厳粛に行う呪詛をしなさい。このようにすれば、敵は自然と降伏するだろう」 天孫は、夢の教えをつつしみ承り、これを行おうとした。 |
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そのとき、弟猾がまた申しあげた。
「倭の国の磯城邑に、磯城の八十梟師がいます。また高尾張邑(たかおわりのむら)[ある書には高城邑という]に、赤銅(あかがね)の八十梟師がいます。この者たちは、みな天孫にそむき、戦おうとしています。私はひそかに天孫のために憂いております。今、天の香山の赤土をとって天の平瓦をつくり、天神地祇をお祀りください。それから敵を討たれたら、討ちやすいでしょう」 天孫は、やはり夢のお告げは吉兆であると思われた。弟猾の言葉を聞かれて心中喜ばれた。 そこで、椎根津彦(しいねつひこ)に、着古した衣服と蓑笠をつけさせ、老人のかたちにつくり、また弟猾に蓑を着せて、老婆のかたちにつくり、命じていわれた。 「お前たち二人、天の香山に行って、ひそかに頂きの土を取ってきなさい。大業がなるかならぬかは、お前たちで占おう。しっかりやってこい」 このとき敵兵は道を覆い、通ることも難しかった。椎根津彦は神意を占っていった。 「わが君が、よくこの国を定められるものなら、行く道はおのずとひらけ。もしできないのなら、敵がきっと道を塞ぐだろう」 いいおわって、ただちに出かけた。 そのとき敵兵は二人の様子を見て、大いに笑っていった。 「みっともない爺と婆だ」 そうして道をあけて行かせた。 二人は無事に山に着くことができて、土を取って帰った。 天孫は大いに喜び、この土で多くの平瓦や、手抉(たくじり)、厳瓮(いつへ)をつくり、丹生の川上にのぼって、天神地祇を祀られた。 その菟田川の朝原で、ちょうど水沫のようにかたまり着くところがあった。天孫はまた神意を占って、仰せになった。 「私は今、たくさんの平瓦で、水なしで飴を造ろう。もし飴ができれば、きっと武器を使わないで、居ながらに天下を平らげるだろう」 飴づくりをされると、たやすく飴はできた。 また神意を占って仰せになった。 「私は、いま神聖な瓮を、丹生の川に沈めよう。もし魚が大小となく全部酔って流れるのが、ちょうど槙(まき)の葉の浮き流れるようであれば、自分はきっとこの国を平定するだろう。もしそうでなければ、ことを成し遂げられぬだろう」 そして、瓮を川に沈めた。するとその口が下に向いた。しばらくすると、魚はみな浮き上がって、水のまにまに流れながらあえいだ。 椎根津彦はそのありさまを見て報告した。 天孫は、大いに喜ばれて、丹生の川上のたくさんの榊を根こそぎにして、諸神をお祀りされた。このときから祭儀の神聖な瓮が据え置かれるようになった。 道臣命に命じて仰せられた。 「今、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)を、私自身が顕斎しよう。お前を斎主とし、厳媛(いつひめ)の名を与えよう。そこに置いた土瓮を厳瓮(いつへ)とし、また火の名を厳香来雷(いつのかぐつち)とし、水の名を厳罔象女(いつのみつはのめ)、食物の名を厳稲魂女(いつのうかのめ)、薪の名を厳山雷(いつのやまづち)、草の名を厳野椎(いつののづち)とする」 冬十月一日、天孫は、その厳瓮の供物を召し上がられ、兵を整えて出発された。 まず、八十梟師を国見丘で撃って破り、斬られた。 この戦いに天孫は必ず勝とうと思われていた。そこで、次のように歌われた。 神風の 伊勢の海の 大石にや い這ひ廻る 細螺の 吾子よ 吾子よ 細螺の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ 神風吹く、伊勢の海の大石に這いまわる細螺のように、わが軍勢よ、わが軍勢よ。細螺のように這いまわって、必ず敵を討ち負かしてしまおう。 歌の意は、大きな石をもって国見丘に例えている。 残党はなお多く、その情勢は測ることが難しかった。そこで、ひそかに道臣命に命じて仰せられた。 「お前は大来目部を率いて、大室を忍坂邑(おさかのむら)に造り、盛んに酒宴を催し、敵をさそって討ち取れ」 道臣命はこの密命を受け、室を忍坂に掘り、味方の強者を選んで、敵と同席させた。ひそかにしめし合わせていった。 「酒宴がたけなわになった後、自分は立って歌おう。お前たちはわが声を聞いたら、一斉に敵を斬れ」 みな座について、酒を飲んだ。敵は陰謀のあることも知らず、心のままに酒に酔った。その道臣命は立って歌った。 忍坂の 大室屋に 人多に 入り居りとも 人多に 来入居りとも みつみつし 来目の子等が 頭椎い 石椎い持ち 撃ちてし止まむ 忍坂の大室屋に、人が多勢はいっているが、はいっていても、御稜威を負った来目部の軍勢の頭椎(くぶつち)・石椎(いしつち)で敵を討ち負かそう。 味方の兵は、この歌を聞き、一斉に頭椎の剣を抜いて、敵を皆殺しにした。 皇軍は大いに喜び、天を仰いで笑った。よって歌をよんだ。 今はよ 今はよ ああしやを 今だにも 吾子よ 今だにも 吾子よ 今はもう今はもう、ああしやを、今だけでも今だけでも、わが軍よわが軍よ。 今、来目部が歌って後に大いに笑うのは、これがその由来である。また歌っていった。 夷を 一人 百な人 人は云へども 抵抗ませず 夷を、ひとりで百人にあたる強い兵だと、人はいうけれど、手向かいもせず負けてしまった。 これは皆、密旨をうけて歌ったので、自分勝手にしたことではない。 そのときに天孫が仰せられた。 「戦いに勝って、おごることのないのは良将である。いま、大きな敵はすでに滅んだが、同じように悪い者は、なお十数群いる。その実状はわからない。長く同じところにいて、難に会うまい」 そこを捨てて別のところに移った。 十一月七日、皇軍は大挙して磯城彦(しきひこ)を攻めようとした。 まず、使者を送って兄磯城(えしき)を呼んだ。しかし兄磯城は答えなかった。 さらに頭八咫烏(やたからす)を遣わして呼んだ。そのとき、烏は軍営に行って鳴いていった。 「天神の御子が、お前を呼んでおられる。こずや、こずや」 兄磯城は怒っていった。 「天神が来たと聞いて腹立たしく思っているときに、なんで烏がこんな悪い声で鳴くのか」 そして、弓を構えて射た。烏は逃げ帰った。 次いで、弟磯城(おとしき)の家に行き、鳴いていった。 「天神の御子がお前を呼んでいる。こずや、こずや」 弟磯城はおじてかしこまり、いった。 「私は天神が来られたと聞いて、朝夕畏れかしこまっていました。烏よ、お前がこんなに鳴くのは良いことだ」 そこで、木の葉を編んだ皿八枚に、食べ物を盛ってもてなした。 そして烏に導かれてやってきて、申しあげた。 「わが兄の兄磯城は、天神の御子がおいでになったと聞いて、八十梟師(やそたける)を集めて、武器を整え決戦しようとしています。すみやかに対策すべきです」 天孫は、諸将を集めて仰せられた。 「兄磯城はやはり逆らうつもりらしい。呼びにやっても来ない。どうすべきか」 諸将は申しあげた。 「兄磯城は悪賢い敵です。まず弟磯城を遣わして教えさとし、あわせて兄倉下(えくらじ)・弟倉下(おとくらじ)を遣わして説得させましょう。どうしても従わないならば、それから兵を挙げて臨んでも遅くないでしょう」 そこで、弟磯城を遣わして利害を説かせた。しかし、兄磯城らは、なお愚かな計りごとを守って承服しなかった。 椎根津彦(しいねつひこ)が謀りごとを立てて申しあげた。 「今はまず、女軍(めいくさ)を遣わして、忍坂(おさか)の道から出しましょう。敵はきっと精兵を出してくるでしょう。私は強兵を走らせて、ただちに墨坂(すみさか)を目指し、菟田川(うだがわ)の水をとって、敵兵が起こした炭の火にそそぎ、驚いている間にその不意をつきます。敵は必ず敗れるでしょう」 天孫はその計りごとをほめて、まず女軍を出してごらんになった。敵は大兵が来たと思って、力を尽くして迎え討った。 このあとは、皇軍は攻めれば必ず取り、戦えば必ず勝った。しかし、兵士たちは疲弊しなかったわけではない。そこで、将兵の心を慰めるために歌を作られた。 楯並めて 伊那瑳の山の 木の間ゆも い行き胆らひ 戦へば 我はや飢ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が徒 今助けに来ね 楯をならべ、伊那瑳(いなさ)の山の木の間から、敵をじっと見つめて戦ったので、われらは腹がすいた。 鵜飼をする仲間たちよ。いま、助けに来てくれよ。 はたして男軍が墨坂を越え、後方から挟み討ちにして敵を破り、その梟雄(たける)・兄磯城らを斬った。 十二月四日、皇軍はついに長髄彦(ながすねひこ)を討つことになった。 戦いを重ねたが、なかなか勝つことができなかった。 そのとき、急に空が暗くなってきて、雹(ひょう)が降ってきた。そこへ金色の不思議な鵄(とび)が飛んできて、天孫の弓の先にとまった。その鵄は光り輝いて、そのさまは雷光のようだった。 このため、長髄彦の軍勢は、みな眩惑されて力戦できなかった。 長髄彦の長髄というのは、もと邑の名であり、それをとって人名とした。皇軍が鵄の瑞兆を得たことから、時の人はここを鵄邑と名づけた。今、鳥見(とみ)というのはなまったものである。 昔、孔舎衛(くさえ)の戦いで、五瀬命(いつせのみこと)が矢に当たって亡くなられた。天孫はそれ以来、常に憤りを抱いておられた。 この戦いにおいて、仇をとりたいと思われた。そして、歌って仰せられた。 みつみつし 来目の子らが 粟生には 韮一本 其根が本 其ね芽繋ぎて 撃ちてし止まむ 天孫の御稜威(みいつ)を負った来目部の軍勢が、日頃たがやす粟畑。その中に、くさい韮が一本まじっている。その邪魔な韮の根元から芽までつないで、抜き取るように、敵の軍勢をすっかり討ち破ろう。 また歌って仰せられた。 みつみつし 来目の子らが 垣本に 植ゑし山椒 口びひく 我は忘れず 撃ちてし止まむ 天孫の御稜威を負った来目部の軍勢のその家の垣のもとに植えた山椒(さんしょう)、口に入れるとひりひり辛い。そのような敵の攻撃の手痛さは、今も忘れない。今度こそ必ず討ち破ってやろう。 また兵を放って急迫した。 すべて諸々の御歌を、みな来目歌という。これは、来目部が歌い伝えてきたからである。 ときに、長髄彦は使いを送って、天孫に申しあげた。 「昔、天神の御子がおられて、天の磐船(いわふね)に乗って天降られました。名を櫛玉饒速日尊(くしたまにぎはやひのみこと)と申しあげます。このかたが、わが妹の三炊屋姫(みかしきやひめ)を娶って御子をお生みになりました。御子の名を宇摩志麻治命(うましまちのみこと)と申しあげます。そのため、私は饒速日尊、次いで宇摩志麻治命を君として仕えてきました。 いったい、天神の御子は二人もおられるのですか。どうしてまた、天神の子と名のって、人の土地を奪おうとするのですか。饒速日尊以外に天神の御子がいるなど、聞いたことがありません。私が思うに、あなたは偽者でしょう」 天孫は仰せになった。 「天神の子は多くいる。お前が君とするものが、本当に天神の子ならば、必ずしるしの物があるだろう。それを示しなさい」 長髄彦は、饒速日尊の天の羽羽矢(ははや)一本と、歩靫(かちゆき)を天孫に示した。天孫はご覧になって、 「いつわりではない」 と仰られて、帰って所持の天の羽羽矢一本と、歩靫を長髄彦に示された。 長髄彦は、その天つしるしを見て、ますます恐れを感じた。けれども、兵器の用意はすっかり構えられ、その勢いは途中で止めることはできなかった。 そしてなおも、間違った考えを捨てず、改心の気持ちもなかった。 宇摩志麻治命は、もとより天神が深く恵みを垂れるのは、天孫に対してだけであることを知っていた。また、かの長髄彦は、性質がねじけたところがあり、天神と人とは全く異なるのだということを教えても、分かりそうもないことを見て、伯父である長髄彦を殺害した。 そして、その部下たちを率いて帰順された。 己未年の春の三日、天孫は詔して仰せられた。 「天孫饒速日尊の子の宇摩志麻治命は、伯父の長髄 (※ 以下脱文) |
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■巻第七 天皇本紀 | |
■神武天皇
彦波瀲武鸕鷀草不葺合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の第四子である。諱(いみな)は神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)、または彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)という。年少のときは、狭野尊(さぬのみこと)と呼ばれた。 母は玉依姫(たまよりひめ)といい、海神の下の娘である。 天皇は、生まれながらに賢い人で、気性がしっかりしておられた。十五歳で皇太子となられた。 成長されて、日向国吾田邑の吾平津媛(あびらつひめ)を娶り妃とされ、手研耳命(たぎしみみのみこと)をお生みになった。 太歳甲寅年の冬十二月五日、天皇はみずから諸皇子を率いて西の宮を立たれ、船軍で東征された。[くわしくは、天孫本紀に見える] 己未年の春二月五十日に、道臣命(みちのおみのみこと)は、軍兵を率いて逆賊を討ち従えた様子を奏上した。 二十八日、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)は、天の物部を率いて逆賊を斬り平らげ、また、軍兵を率いて天下を平定した様子を奏上した。 三月七日、天皇は、令(のり)をくだして仰せになった。 「私が東征についてから六年になった。天神の勢威のお陰で凶徒は殺された。しかし、周辺の地はいまだ静まらない。残りのわざわいはなお根強いが、内つ国の地は騒ぐものはない。皇都をひらきひろめて御殿を造ろう。 しかし、いま世の中はまだ開けていないが、民の心は素直である。人々は巣に棲んだり穴に住んだりして、未開の習俗が変わらずにある。そもそも聖人が制を立てて、道理は正しく行われる。民の利益となるならば、どんなことでも聖の行うわざとして間違いはない。まさに山林を開き払い、宮室を造って謹んで貴い位につき、民を安んじるべきである。上は天神が国をお授けくださった御徳に答え、下は皇孫の正義を育てられた心を広めよう。その後、国中をひとつにして都をひらき、天の下を覆ってひとつの家とすることは、また良いことではないか。 見れば、かの畝傍山(うねびやま)の東南の橿原(かしはら)の地は、思うに国の真中か」 同月二十日に、役人に命じて都造りに着手された。 そこで、天太玉命(あまのふとたまのみこと)の孫の天富命(あまのとみのみこと)は、手置帆負(たおきほおい)と彦狭知(ひこさしり)の二神の子孫を率いて、神聖な斧と神聖な鋤を使って、はじめて山の原材を伐り、正殿を構え建てた。 これが所謂、畝傍の橿原に、御殿の柱を大地の底の岩にしっかりと立てて、高天原へ千木高くそびえ、はじめて天下を治められた天皇が、天皇による国政を創められた日である。 このため、皇孫のみことのおめでたい御殿を造り、お仕え申しあげているのである。 この手置帆負・彦狭知の末裔の忌部がいるところは、紀伊国の御木(みき)郷と麁香(あらか)郷の二郷である。材木を伐る役目を持った忌部がいるところを御木といい、御殿を造る忌部のいるところを麁香という。これが、その由来である。 古い語では、御殿(みあらか)のことを麁香という。 庚申年の秋八月十六日、天孫は正妃を立てようと思われた。改めて、広く貴族の娘を探された。 ときに、ある人が奏して申しあげた。 「事代主神(ことしろぬしのかみ)が、三島溝杭耳神(みしまのみぞくいみみのかみ)の娘の玉櫛媛(たまくしひめ)と結婚して、生まれた子を名づけて、媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)と申しあげます。このかたは容色すぐれた人です」 これを聞いた天皇は喜ばれた。 九月二十四日、媛蹈鞴五十鈴媛命を召して、正妃とされた。 辛酉を元年とし、春正月一日に、橿原宮に都をつくり、はじめて皇位に即かれた。正妃の媛蹈鞴五十鈴媛命を尊んで、皇后とされた。皇后は大三輪の大神の娘である。 宇摩志麻治命は天の瑞宝をたてまつり、神盾をたてて斎き祀った。また、斎木を立て、五十櫛を布都主剣(ふつぬしのつるぎ)のまわりに刺し巡らせて、大神を宮殿の内に崇め祀った。 そして十種の瑞宝を収めて、天皇に近侍した。そのため、足尼(すくね)といわれた。足尼の号は、このときから始まった。 天富命は、諸々の忌部を率いて天つしるしの鏡と剣を捧げ、正安殿に安置した。 天種子命(あまのたねこのみこと)は、天神の寿詞(よごと)を奏上した。この内容は、神代の古事のようなものである。 宇摩志麻治命は内物部(うちのもののべ)を率いて、矛・盾をたてて厳かでいかめしい様子をつくった。 道臣命は来目部を率いて、宮門の護衛し、その開閉を掌った。 それから、四方の国々に天皇の位の尊貴さを伝え、天下の民を従わせることで朝廷が重要であると示された。 このとき諸皇子と大夫は、郡官・臣・連・伴造・国造らを率いて、年のはじめの朝拝をした。 現在まで続く、即位・賀正・建都・践祚などの儀式は、みなこのときに起こった。 また、このとき高皇産霊尊と天照太神の二柱の祖神の詔に従って、神座として神籬(ひもろぎ)を立てた。 高皇産霊神、神皇産霊(かみむすひ)、魂留産霊(たまるむすひ)、生産霊(いくむすひ)、足産霊(たるむすひ)、大宮売神(おおみやのめのかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)、御膳神(みけつかみ)の神々は、いま御巫がお祀りしている。 櫛磐間戸神(くしいわまどのかみ)、豊磐間戸神(とよいわまどのかみ)の神々は、共にいま御門の御巫がお祀りしている。 生島(いくしま)の神は大八洲(おおやしま)の御魂で、いま生島の御巫がお祀りしている。 坐摩(いかすり)の神は大宮の立つ地の御魂で、いま坐摩の御巫がお祀りしている。 また、天富命は斎部(いんべ)の諸氏を率いて、諸々の神宝の鏡・魂・矛・楯・木綿・麻などを作った。 櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)の子孫は、御祈玉(みほぎたま)を作った。古い語に美保伎玉(みほきたま)という。“みほき”は祈祷のことをいう。 天日鷲命の子孫は、木綿と麻、織布を作った。古い語では荒妙(あらたえ)という。 また、天富命は天日鷲命の子孫を率いて、肥えた土地にそれぞれ遣わし、穀物や麻を栽培させた。また、天富命はさらに肥沃な土地を探して、良い麻や綿を分かち植えた。このように、永く麻を大嘗祭に献じることの由来である。 また、天富命は安房の地に太玉命を祀る神社を立てた。安房社というのがこれである。 手置帆負命の子孫は、矛竿を作った。いま、讃岐から永くたくさんの矛が献じられるのは、これがその由来である。 天児屋命の孫の天種子命は、天つ罪・国つ罪を祓い清めた。 日臣命(ひのおみのみこと)は来目部を率いて、宮門を守り、その開閉を掌った。 饒速日命(にぎはやひのみこと)の子の宇摩志麻治命は、内物部を率いて、矛・楯を作り備えた。 天富命は、諸々の斎部を率いて、天つしるしの鏡・剣を捧げ、正殿に安置した。さらに玉をかけ、幣物を並べて大殿で祭りを行った。次に、宮門で祭りをした。 また天富命は、幣物を並べて祝詞をとなえて皇祖の天神を祀り、国つ神たちを祀って、天神地祇の恵みに応えた。 また、中臣氏と忌部氏の二氏に命じて、ともに祭祀の儀式を掌らせた。 また、猿女君氏に命じて、神楽をもって仕えさせた。 そのほかの諸氏にも、それぞれその職がある。 この時代には、天皇と神との関係は、まだ遠くなかった。同じ御殿に住み、床を共にするのを普通にしていた。そのため、神の物と天皇の物は、いまだはっきり分けられていなかった。 そこで、宮の中に神宝を収める倉を建てて斎蔵と名づけ、斎部氏に命じて永くその管理の職に任じた。 十一月十五日、宇摩志麻治命は、御殿の内に天璽瑞宝を斎き祀り、天皇と皇后のために御魂を鎮めて、御命の幸福たることを祈った。いわゆる鎮魂祭はこの時に始まった。 およそ天の瑞宝とは、宇摩志麻治命の父・饒速日尊が天神から授けられて来た天つしるしの十種の瑞宝のことである。 十種の瑞宝とは、瀛都鏡(おきつかがみ)ひとつ、辺都鏡(へつかがみ)ひとつ、八握剣(やつかのつるぎ)ひとつ、生玉(いくたま)ひとつ、足玉(たるたま)ひとつ、死反玉(まかるがえしのたま)ひとつ、道反玉(ちがえしのたま)ひとつ、蛇比礼(へびのひれ)ひとつ、蜂比礼(はちのひれ)ひとつ、品物比礼(くさぐさのもののひれ)ひとつ、のことである。 天神は饒速日尊に教えて仰せられた。 「もし痛むところがあれば、この十種の神宝を、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十といってふるわせなさい。ゆらゆらとふるわせなさい。このようにするならば、死んだ人でも生き返るであろう」 これが「布留(ふる)の言(こと)」の起源である。 鎮魂祭は、これがその由来である。 その鎮魂祭のときには、猿女君らは、たくさんの歌女を率いてこの布留の言を唱え、神楽を歌い舞う。これがその由来である。 治世二年の春二月二日、天皇は論功行賞をされた。 宇摩志麻治命に詔して仰せられた。 「お前の勲功は思えば大いなる功である。公の忠節は思えば至忠である。このため、さきに神霊の剣を授けて類いない勲功を称え、報いた。いま、股肱の職にそえて、永く二つとないよしみを伝えよう。今より後、子々孫々代々にわたって、必ずこの職を継ぎ、永遠に鑑とするように」 そこで、宇摩志麻治命と天日方奇日方命(あまひかたくしひかたのみこと)は共に拝命して、食国の政事を行う大夫になった。この政事を行う大夫とは、今でいう大連、または大臣のことである。 天日方奇日方命は、皇后の兄で、大神君の祖である。 道臣命に詔して仰せられた。 「お前には忠と勇があり、またよく導いた功績がある。そのため、さきに日臣を改めて、道臣の名を与えた。それだけでなく、大来目を率いて、たくさんの兵士たちの将として密命を受け、よく諷歌(そえうた)、倒語(さかしまごと)をもって、わざわいを払い除いた。これらのような功績でつくした。将軍に任命して、後代の子孫に伝えよう」 その倒語の用いられるのは、ここに始まった。道臣命は、大伴連らの祖である。 また、道臣に宅地を賜り、築坂邑(つきさかのむら)に住ませて、特に寵愛された。 また、大来目を畝傍山の西の川辺の地に住ませた。いま、来目邑と呼ぶのはこれがその由来である。大来目は久米連(くめのむらじ)の先祖といわれる。 椎根津彦(しいねつひこ)に詔して仰せられた。 「お前は天皇の船を迎えて導き、また、功績を天香山の山頂に現した。よって、誉めて倭国造(やまとのくにのみやつこ)とする」 大和の国造は、このときから始まった。これが大倭連らの祖である。 弟磯城(おとしき)黒速(くろはや)に詔して仰せられた。 「お前には、逆賊の長の兄磯城(えしき)のくわだてを告げた勇気があった。よって、子孫を磯城県主(しきのあがたぬし)とする」 頭八咫烏(やたがらす)に詔して仰せられた。 「お前には皇軍を導いた功績がある。よって、賞の内に入る」 頭八咫烏の子孫は、葛野県主(かどののあがたぬし)らである。 四年の春二月二十三日、天皇は正安殿で詔して仰せになった。 「わが皇祖の霊が、天から威光を降してわが身を助けてくださった。いま、多くの敵はすべて平らげて、天下は何ごともない。そこで、天神をお祀りし、大孝を申しあげたい」 そこで、神々の祀りの場を、鳥見山(とみやま)の中に立てて、そこを上小野(かみつおの)の榛原(はりはら)・下小野(しもつおの)の榛原といった。そして、皇祖の天神をお祀りになった。 ときに、天皇の巡幸があった。腋上(わきかみ)の嗛間丘(ほほまのおか)に登られ、国のかたちを望んで見て仰せられた。 「なんと素晴らしい国を得たことか。狭い国ではあるけれども、蜻蛉(あきつ)が交尾(となめ)しているようである」 これによって、はじめて秋津州(あきつしま)の名ができた。 昔、伊奘諾尊(いざなきのみこと)がこの国を名づけて仰せられた。 「日本は、心安らぐ国、よい武器がたくさんある国、優れていて整った国」 また、大己貴(おおなむち)の大神は名づけて仰せられた。 「玉垣の内つ国」 また、饒速日命は、天の磐船に乗って大空を飛びめぐり、この国を見てお降りになったので、名づけて 「虚空(そら)見つ日本(やまと)の国」 と仰せになった。 四十二年の春正月三日、皇子・神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を立てて皇太子とされた。 七十六年の春三月十一日、天皇は、橿原宮で崩御された。このとき、年は百二十七歳だった。翌年の秋九月十二日、畝傍山の東北の陵に葬った。 神武天皇には、四人の皇子がおられた。 手研耳命[子孫は無い]。 次に、神八井耳命(かむやいみみのみこと)。意保臣(おおのおみ)、島田臣(しまだのおみ)、雀部造(さざきべのみやつこ)らの祖である。 次に、神渟名川耳尊。天皇に即位された。 次に、彦八井耳命(ひこやいみみのみこと)[茨田連(まんだのむらじ)らの祖である]。 ■綏靖(すいぜい)天皇 神武天皇の第三子で、諱は神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)。謚(おくりな)を綏靖天皇と申しあげる。母は媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)といい、事代主神(ことしろぬしのかみ)の上の娘である。 天皇は、風采が整い、立派であった。幼いころから気性が雄々しく、壮年になって容貌すぐれて堂々とされていた。武芸は人にすぐれ、志は高くおごそかだった。 四十八歳になられたとき、神武天皇が崩御された。そのとき神渟名川耳尊は、孝行の気持ちが大変深くて、悲しみ慕う心がやまなかった。特に、その葬儀に心を配られた。 その腹違いの兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)は、年が大きくて長らく朝政の経験があった。そこで、政事を任せられていたが、その王の心ばえは、もともと仁義に背いていた。ついに、服喪の期間に、権力をほしいままにした。よこしまな心を包み隠して、二人の弟を殺そうと図った。 太歳己卯の冬十一月、神渟名川耳尊は、兄の神八井耳命(かむやいみみのみこと)と共に、その謀りごとをひそかに知られて、よく防がれた。 先の天皇の山陵を造ることが終わると、弓部雅彦(ゆげのわかひこ)に弓を作らせ、倭鍛部(やまとのかぬち)の天津真浦(あまつまうら)に鹿を射るための鏃(やじり)を作らせ、矢部(やはぎべ)に箭(や)を作らせた。弓矢の準備がすっかり出来上がって、神渟名川耳尊は、手研耳命を射殺そうと思われた。たまたま手研耳命は、片丘(かたおか)の大室の中でひとり床にふせっていた。 そのとき、渟名川耳尊は神八井耳命に語って仰せられた。 「今こそ好機です。そもそも密事はひそかに行わなければなりません。だから、わが陰謀も誰にも相談していません。今日のことは私とあなただけでやりましょう。私がまず家の戸を開けますから、あなたはすぐそれを射てください」 それで、二人は一緒に進入した。渟名川耳尊がその戸を突き開いた。神八井耳命は、手足が震えおののいて、矢を射ることができない。 このとき神渟名川耳尊は、兄の持っていた弓矢を引きとって、手研耳命を射られた。一発で胸に命中して、二発めを背中にあて、ついに殺した。 そこで神八井耳命は、恥じて自分から弟に従った。渟名川耳尊に譲って申しあげた。 「私はあなたの兄ではあるが、気が弱くてとてもうまくはできない。ところが、あなたは武勇にすぐれ、みずから敵を誅した。あなたが天位に即いて、皇祖の業を受けつぐのが当然である。私はあなたの助けとなって、神々のお祀りを受け持ちましょう」 すなわち、これが多臣(おおのおみ)の始祖である。 治世元年庚辰の春正月八日、神渟名川耳尊は即位された。 葛城に都を造られた。これを高丘宮という。先の皇后を尊んで、皇太后と申しあげた。 二年、五十鈴依姫(いすずよりひめ)を立てて皇后とした。天皇の母方の叔母である。皇后は、磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと:安寧天皇)をお生みになった。 三年春正月、宇摩志麻治命の子の彦湯支命(ひこゆきのみこと)を、食国の政事を行う大夫とされた。 四年夏四月、神八井耳命が亡くなられた。 二十五年、皇子・磯城津彦玉手看尊を立てて、皇太子とした。[皇子はこのとき年二十一歳] 三十三年夏五月、天皇は病気になられ、癸酉の日に崩御された。 倭の桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのうえのみささぎ)に葬った。[十月のことである] 皇太子は磯城津彦玉手看尊。 |
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■安寧(あんねい)天皇
綏靖天皇の皇太子、磯城津彦玉手看尊は、母を五十鈴依媛命と申しあげる。事代主神の下の娘である。 先の天皇の二十五年、立って皇太子となられた。ときに年は二十一歳である。 三十三年、綏靖天皇は崩御された。 治世元年癸丑に、太子は天皇に即位された。先の皇后を尊んで、皇太后と申しあげた。 二年、都を片塩(かたしお)に遷した。これを浮穴宮(うきあなのみや)という。 三年の春正月、渟名底中媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)を立てて皇后とされた。皇后は、三人の皇子をお生みになった。息石耳命(おきそみみのみこと)、次に日本彦耜友尊(やまとひこすきとものみこと:懿徳天皇)、次に磯城津彦命(しきつひこのみこと)である。 四年の夏四月、出雲色命(いずものしこのみこと)を政事を行う大夫とされた。また、大祢命(おおねのみこと)を侍臣とした。二人はともに宇摩志麻治命の孫である。 十一年の春正月、日本彦耜友皇子を立てて、皇太子とされた。 三十八年の十二月、天皇は崩御された。翌年八月に、畝傍山(うねびやま)の南の御陰井上陵(みほどのいのえのみささぎ)に葬った。 天皇に、皇子は三人おられた。 長兄の息石耳命[またの名を常津彦命(とこつひこのみこと)という。子孫は無い]。 次に、日本彦耜友尊。 次に、磯城津彦命[猪使連(いつかいのむらじ)らの祖、新田部(にいたべ)らの祖]。 次に、手研彦奇友背命(たぎしひこくしともせのみこと)[父努別(ちぬわけ)らの祖]。 |
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■懿徳(いとく)天皇
安寧天皇の太子、日本彦耜友尊は第二子としてお生まれになった。母を皇后・渟名底中媛と申しあげる。事代主神の孫の鴨王(かものきみ)の娘である。 先の天皇の十一年、立って皇太子となられた。年は十六歳であった。 三十八年の十二月、先の天皇は崩御された。 治世元年・辛亥年の春正月四日、皇太子は天皇に即位された。 九月、先の皇后を尊んで、皇太后と申しあげた。 二年の春正月、都を軽の地に遷した。これを曲峡宮(まがりおのみや)という。 二月、天豊津媛命(あまとよつひめ)を立てて、皇后とされた。皇后は、観松彦香植稲命(みまつひこかえしねのみこと:孝照天皇)をお生みになった。 三月、食国の政事を行う大夫だった出雲色命を大臣とされた。 二十二年の春二月十二日、観松彦香植稲尊を立てて皇太子とされた。[太子の年は十八歳] 三十四年の秋九月、天皇は崩御された。翌年の冬十月、畝傍山の南の繊沙渓上陵(まなごのたにのえのみささぎ)に葬った。 天皇は、皇太子・観松彦香植稲尊をお生みになった。 [次に、武彦奇友背命(たけひこくしともせのみこと)。子孫は無い] |
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■孝照(こうしょう)天皇
諱は観松彦香植稲尊。安寧天皇の皇太子である。母は皇后・天豊津媛命といい、息石耳命の娘である。 治世元年の春正月九日、皇太子は天皇に即位された。 夏四月、先の皇后を尊んで、皇太后と申しあげた。 秋七月、都を掖上(わきがみ)に遷した。これを池心宮(いけごころのみや)という。 宇摩志麻治命の後裔の出石心命(いずしこころのみこと)を、大臣とされた。 二十九年の春正月、世襲足姫命(よそたらしひめのみこと)を立てて、皇后とされた。皇后は、二人の皇子をお生みになった。天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)と、日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと:孝安天皇)である。 三十一年の春正月、瀛津世襲命(おきつよそのみこと)を大臣とされた。 六十八年の春正月、日本足彦押人尊を立てて、皇太子とされた。[太子の年は二十歳] 八十三年、天皇は崩御された。翌年八月に、掖上博多山上陵(わきがみのはかたのやまのえのみささぎ)に葬った。 天皇は、二人の皇子をお生みになった。 兄の天足彦国押人命[大春日臣(おおかすがのおみ)らの祖]。 次に、日本足彦国押人尊。 |
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■孝安天皇
諱は日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)。孝照天皇の第二子である。 母は皇后・世襲足姫命(よそたらしひめのみこと)といい、大臣・瀛津世襲命(おきつよそのみこと)の妹である。[尾張氏] 治世元年・己丑年の春正月、皇太子は天皇に即位された。八月、先の皇后を尊んで、皇太后とされた。 二年の十月、都を室(むろ)の地に遷した。これを秋津嶋宮(あきつしまのみや)という。 三年の八月、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)の子孫の六見命(むつみのみこと)と三見命(みつみのみこと)をともに足尼(すくね)とし、次いで宿祢(すくね)とされた。 二十六年、姪の押媛(おしひめ)を立てて、皇后とされた。皇后は大日本根子彦太瓊命(やまとねこひこふとにのみこと:孝霊天皇)をお生みになった。 七十六年、大日本根子彦太瓊尊を立てて、皇太子とした。[皇太子の年は二十六歳] 百二年の春正月、天皇は崩御された。秋九月に、玉手丘上陵(たまてのおかのえのみささぎ)に葬った。 天皇は、大日本根子彦太瓊尊をお生みになった。 |
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■孝霊天皇
諱は大日本根子彦太瓊尊。孝安天皇の皇太子である。母は皇后・押媛命と申しあげる。 治世元年・癸未年の春正月、皇太子は天皇に即位された。先の皇后を尊んで、皇太后とされた。 二年二月、細媛命(ほそひめのみこと)を立てて皇后とされた。皇后は、一人の皇子をお生みになった。大日本根子彦国牽皇子命(おおやまとねこひこくにくるのみこのみこと:孝元天皇)である。 妃の倭国香媛(やまとのくにかひめ)、またの名を紐某姉(はえいろね)は、三人の御子をお生みになった。倭迹迹日百襲姫命(わまとととびももそひめのみこと)、次に彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)[またの名を吉備津彦命(きびつひこのみこと)]、次に倭迹稚屋姫命(やまととわかやひめのみこと)である。 次の妃の紐某弟(はえいろど)は、四人の御子をお生みになった。彦狭嶋命(ひこさしまのみこと)、次に稚武彦命(わかたけひこのみこと)、次に弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと)である。 三年の春正月、宇摩志麻治命の子孫の、大水口命(おおみなくちのみこと)と大矢口命(おおやくちのみこと)をともに宿祢とされた。 二十六年の春正月、彦国牽皇子を立てて、皇太子とされた。[太子の年は十九歳] 七十六年の春二月、天皇は崩御された。次の天皇の治世四年に、片岡馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)に葬った。 天皇は、五人の皇子をお生みになった。 大日本根子彦国牽尊。 彦五十狭芹彦命[またの名を吉備津彦命。吉備臣らの祖]。 次に、彦狭嶋命[海直(あまのあたい)らの祖]。 次に、稚武彦命[宇自可臣(うじかのおみ)らの祖]。 次に、弟稚武彦命。 |
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■孝元天皇
諱は大日本根子彦国牽皇太子尊。孝霊天皇の皇太子である。 母は皇后・細媛命といい、磯城県主の大目(おおめ)の娘である。 治世元年・丁亥年の春正月、皇太子は天皇に即位された。先の皇后を尊んで、皇太后とされた。 四年の春二月、都を軽の地に遷した。これを境原宮(さかいばらのみや)という。 七年の春二月、欝色謎命(うつしこめのみこと)を立てて、皇后とされた。皇后は、二男一女をお生みになった。大彦命(おおひこのみこと)、次に稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこおおひびのみこと:開化天皇)、次に倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)である。 妃の伊香色謎命(いかがしこめのみこと)は、彦太忍信命(ひこふとおしのまことのみこと)をお生みになった。 次の妃の河内の青玉繋(あおたまかけ)の娘・埴安姫(はにやすひめ)は、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)をお生みになった。 八年の春正月、物部連公の祖・宇摩志麻治命の子孫、欝色雄命(うつしこおのみこと)を大臣とされた。また、大綜杵命(おおへそきのみこと)を大祢(おおね)とされた。 二月に、皇后を尊んで皇太后と申しあげた。また、皇太后に追号して大皇太后を贈った。 二十二年正月、稚日本根子彦大日日尊を立てて、皇太子とされた。[皇太子の年は十六歳] 五十七年の秋九月、天皇は崩御された。次の天皇の治世六年に、剣池島上陵(つるぎいけのしまのえのみささぎ)に葬った。 天皇は、四男一女をお生みになった。 大彦命[阿倍臣、高橋臣らの祖]。 次に、稚日本根子彦大日日尊。 次に、彦太忍信命[紀臣(きのおみ)らの祖]。 次に、武埴安彦命[岡屋臣(おかやのおみ)らの祖]。 次に、倭迹迹姫命[伊勢の神を斎き祀られた]。 |
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■開化天皇
諱は稚日本根子彦大日日尊。孝元天皇の第二子である。 母は、皇后の欝色謎命といい、物部連公の祖の出石心命(いずしこころのみこと)の孫である。 治世元年・癸未年の春二月、皇太子は天皇に即位された。 二年の春正月、先の皇后を尊んで、皇太后と申しあげた。また皇太后を尊んで、追号して大皇太后を贈られた。 冬十月、都を春日(かすが)の地に遷した。これを率川宮(いざかわのみや)という。 七年の春正月、伊香色謎命を立てて、皇后とされた[皇后は、天皇の庶母である]。皇后は、御間城入彦五十瓊殖命(みまきいりひこいにえのみこと:崇神天皇)をお生みになった。 これより先に、天皇は丹波の竹野媛(たけのひめ)を召して妃とされた。竹野姫は、彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)を生んだ。 次の妃、和迩臣(わにのおみ)の遠祖・姥津命(おけつのみこと)の妹の姥津姫は、彦坐王(ひこいますのきみ)を生んだ。 八年の春正月、大祢の大綜杵命を、大臣とされた。また、武建命(たけたつのみこと)と大峯命(おおみねのみこと)をともに大祢とされた。二月、伊香色雄命(いかがしこおのみこと)を大臣とされた。 これらは皆、物部連公の遠祖・宇摩志麻治命の子孫である。 二十八年の春正月、御間城入彦命を立てて、皇太子とされた[皇太子の年は十九歳]。 六十年の夏四月、天皇は崩御された。十月に、春日の率川坂本陵(いざかわのさかもとのみささぎ)に葬った[または坂上陵(さかのえのみささぎ)という]。ときに、年は百十五歳。 天皇は、四人の皇子をお生みになった。 御間城入彦五十瓊殖尊。 次に、彦坐王[当麻坂上君(たぎまのさかのえのきみ)らの祖]。 次に、彦小将簀命(ひここもすのみこと)[品治部君(ほむちべのきみ)らの祖、彦湯産隅命]。 次に、武歯頬命(たけはづらのみこと)[道守臣(ちもりのおみ)らの祖]。 |
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■崇神(すじん)天皇
諱は御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりひこいにえのみこと)。開化天皇の第二子である。 母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)といい、物部氏の遠祖の大綜杵命(おおへそきのみこと)の娘である。 天皇は、十九歳で立って皇太子となられた。善悪を判断する力に勝れ、若くから大きい計りごとを好まれた。壮年に至り心広く慎み深く、天神地祇をあがめられた。つねに天皇としての大業を治めようと思われる心をお持ちであった。 先の天皇の六十年夏四月、開化天皇は崩御された。 治世元年・甲申年の春正月十三日、皇太子は天皇に即位された。先の皇后を尊んで皇太后と申しあげ、皇太后を尊んで大皇太后の号を贈られた。 二月十六日、御間城姫(みまきひめ)を立てて皇后とされた。これより後、皇后は、活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと:垂仁天皇)、次に彦五十狭茅命(ひこいさちのみこと)、次に国方姫命(くにかたひめのみこと)、次に千千衝倭姫命(ちちつくやまとひめのみこと)、次に倭彦命(やまとひこのみこと)、五十日鶴彦命(いかつるひこのみこと)をお生みになった。 妃の、紀伊国の荒河戸畔(あらかわとべ)の娘・遠津年魚眼眼妙姫(とおつあゆめまくはしひめ)は、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)、次に豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)を生んだ。 またの妃、尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)は、八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)、次に渟中城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)、次に十市瓊入姫命(とおちにいりひめのみこと)を生んだ。 三年の秋九月、都を磯城(しき)に遷した。これを瑞籬宮(みずがきのみや)という。 四年の春二月四日、建胆心命(たけいこころのみこと)を大祢(おおね)とし、多弁命(たべのみこと)を宿祢とし、安毛建美命(やすけたけみのみこと)を侍臣とされた。これらは物部連の祖である。 四十八年の春正月十日、天皇は豊城命と活目尊に詔して仰せになった。 「お前たち二人の子は、どちらも同じように可愛い。いずれを跡継ぎとするのがよいかわからない。それぞれ夢を見なさい。夢で占うことにしよう」 二人の皇子はご命令をうけたまわって、沐浴して祈り、寝た。そして、それぞれ夢をみた。 夜明けに兄の豊城命は、夢のことを天皇に申しあげた。 「三諸山に登って、東に向かって八度槍を突き出し、八度刀を振りました」 弟の活目尊も、夢のことを申しあげた。 「三諸山の頂きに登って、縄を四方に引き渡し、粟を食べる雀を追い払いました」 そこで、天皇は夢の占いをして、二人の子に仰せられた。 「兄はもっぱら東に向かっていたので、東国を治めるのによいだろう。弟はあまねく四方に心を配っているので、わが位を継ぐのによいだろう」 夏四月十九日、活目尊を立てて皇太子とされた。豊城命には東国を治めさせた。 六十年の春二月、天皇は群臣に詔して仰せられた。 「武日照命(たけひなてりのみこと)が天から持って降臨した神宝は、出雲大神の宮に収めてある。これが見たい」 そこで、矢田部造(やたべのみやつこ)の遠祖の武諸隅命(たけもろずみのみこと)を遣わし、詳細に検め定めて、報告させた。 六十五年の春正月、武諸隅命を大連とした。物部氏の祖である。 六十八年の冬十二月五日、天皇は崩御された。ときに年は百二十歳であった。 翌年の秋八月十一日、山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)に葬った。 天皇は御子として、六男五女をお生みになった。 活目入彦五十狭茅尊。 次に、彦五十狭茅命。 次に、国方姫命。 次に、千千衝倭姫命。 次に、倭彦命。 次に、五十日鶴彦命。 次に、豊城入彦命。 次に、豊鍬入姫命[はじめて天照大神(あまてらすおおみかみ)につけて、斎き祀った]。 次に、八坂入彦命。 次に、渟中城入姫命[はじめて大国魂神(おおくにみたまのかみ)につけて、斎き祀った]。 次に、十市瓊入姫命。 |
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■垂仁(すいにん)天皇
諱は活目入彦五十狭茅尊。崇神天皇の第三子である。 母は皇后の御間城入姫(みまきいりひめ)という。大彦皇子命(おおひこのみこのみこと)の娘である。 先の天皇の治世二十九年春一月一日、瑞籬宮でお生まれになった。生まれながらにしっかりとしたお姿で、壮年になってからはすぐれて大きな度量であった。人となりが正直で、まがったり飾ったりするところがなかった。父の天皇は可愛がられて、身辺に留めおかれた。 二十四歳のとき、夢のお告げにより、立って皇太子となられた。 六十八年の冬十二月、崇神天皇は崩御された。 元年の春正月二日、皇太子は天皇に即位された。皇后を尊んで皇太后と申しあげ、皇太后を尊んで大皇太后と申しあげた。 二年の春二月九日、狭穂姫命(さほひめのみこと)を立てて皇后とされた。皇后は、誉津別命(ほむつわけのみこと)をお生みになった。天皇は、誉津別命を生まれたときから愛して、常に身辺に置かれた。命は大きくなっても物をいわれなかった。 冬十月、さらに都を纏向(まきむく)に遷した。これを珠城宮(たまきのみや)という。 四年の秋九月二十三日、皇后の同母兄の狭穂彦王(さほひこのきみ)は、謀反を企てて国を傾けようとした。このことは別の書にある。 五年の冬十月一日、狭穂彦は妹の皇后とともに、城中で死んだ。 十五年の春二月十日、丹波の五人の女性を召して、後宮に入れた。長女を日葉酢媛(ひばすひめ)といい、次を渟葉田瓊入媛(ぬはたにいりひめ)といい、次を真砥野媛(まどのひめ)といい、次を薊瓊入媛(あざみにいりひめ)といい、次を竹野媛(たけのひめ)という。ともに開化天皇の皇子・彦坐皇子命(ひこいますのみこのみこと)の子、丹波道主王(たにはのみちのうしのきみ)の子である。 秋八月一日、日葉酢媛命を立てて、皇后とされた。また、渟葉田瓊入媛、真砥野媛、薊瓊入媛をならびに皇妃とされた。 ただし、竹野媛だけは容姿が醜かったので故郷に返した。その返されたことを恥じて、竹野媛は葛野でみずから輿から落ちて死んだ。そこで、その地を名づけて堕国(おちくに)という。今、乙訓(おとくに)というのはなまったものである。 皇后は、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)、大足彦尊(おおたらしひこのみこと:景行天皇)、大中姫命(おおなかつひめのみこと)、倭姫命(やまとひめのみこと)、稚城瓊入彦命(わかきにいりひこのみこと)をお生みになった。 妃の渟葉田瓊入媛は、鐸石別命(ぬでしわけのみこと)、胆香足姫命(いかたらしひめのみこと)を生んだ。 次の妃の真砥野媛は、磐撞別命(いわつくわけのみこと)、稲別命(いなわけのみこと)を生んだ。 次の妃の薊瓊入媛は、池速別命(いけはやわけのみこと)、五十速石別命(いとしわけのみこと)、五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)を生んだ。 二十三年の秋八月四日、大新河命(おおにいかわのみこと)を大臣とされ、十市根命(とおちねのみこと)を五大夫の一人とされた。ともに宇摩志麻治命(うましまちのみこと)の子孫である。 同じ月の二十二日、大臣の大新河命に物部連公の姓を賜った。そうして、大臣を改めて大連と名づけた。 九月二日、天皇は群卿に詔して仰せになった。 「誉津別王は三十歳になり、長い髭が伸びるまでになっても、なお子供のように泣いてばかりいる。そして声を出して物を言うことができないのは何故か。皆で考えよ」 冬十月八日、天皇は大殿の前にお立ちになり、誉津別王子はそのそばにつき従っていた。そのとき、白鳥が大空を飛んでいった。 王子は空を仰ぎ白鳥を見て仰せられた。 「あれは何物か」 天皇は、王子が白鳥を見て、口をきくことができたのを知り喜ばれた。側近の者たちにご命じになった。 「誰か、この鳥を捕らえて献ぜよ」 そこで、鳥取造(ととりのみやつこ)の祖の天湯河板挙(あまのゆかわたな)が申しあげた。 「わたくしが必ず捕らえて参りましょう」 天皇は湯河板挙に仰せになった。 「お前がこの鳥を捕らえたら、必ず十分に褒美をやろう」 湯河板挙は、遠く白鳥が飛んでいった方向を追って、出雲まで行き、ついに捕らえた。ある人は「但馬国で捕らえた」ともいう。 十一月二十四日、湯河板挙は白鳥を献じた。誉津別命はこの白鳥をもてあそび、ついに物がいえるようになった。これによって、あつく湯河板挙に賞を賜り、姓を授けられて、鳥取造と名づけた。また、鳥取部(ととりべ)、鳥養部(とりかいべ)、誉津部(ほむつべ)を定めた。 三十年の春正月六日、天皇は五十敷命と大足彦尊に詔して仰せられた。 「お前たち、それぞれに欲しいものをいってみよ」 兄王は、 「弓矢が欲しいです」 と申しあげた。弟王は、 「天皇の位が欲しいです」 と申しあげられた。 そこで、天皇は詔して仰せられた。 「それぞれ望みのままにしよう」 弓矢を五十敷命に賜り、大足彦尊には詔して、 「お前は必ずわが位を継げ」 と仰せになった。 三十二年の秋七月四十二日、皇后・日葉酢媛命が亡くなられた。 三十七年の春一月一日、大足彦命を立てて、皇太子とされた。 八十一年の春二月一日、五大夫の一人の十市根命に、物部連公の姓を賜った。そして、大連とした。 九十九年の秋七月一日、天皇は纏向宮で崩御された。ときに年百四十歳であった。 冬十二月十日、菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)に葬った。 天皇がお生みになった子は、十男三女であった。 兄を、誉津別命[鳥取造らの祖]。 次に、五十瓊敷入彦命。 次に、日本大足彦忍代別尊。 次に、大中姫命。 次に、倭姫命[天照大神をお祀りし、はじめて斎宮になった]。 次に、稚城瓊入彦命。 次に、鐸石別命。 次に、胆香足姫命。 次に、磐撞別命[三尾君(みおのきみ)らの祖]。 次に、稲別命。 次に、池速別命。 次に、五十速石別命。 次に、五十日足彦命。 |
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■景行天皇
諱は日本大足彦忍代別尊(やまとおおたらしひこおしろわけのみこと)。垂仁天皇の第三子である。 母は皇后・日葉洲媛命といい、丹波道主王の娘である。 治世元年・辛未年の秋七月、皇太子は天皇に即位された。皇后を尊んで皇太后と申しあげ、皇太后を尊んで大皇太后を追号された。 二年の二月、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)を立てて、皇后とされた。皇后は、三人の皇子をお生みになった。第一子が大碓命(おおうすのみこと)、次が小碓命(おうすのみこと)、次が稚根子命(わかねこのみこと)である。 その大碓命と小碓命は、同じ腹に双子としてお生まれになった。天皇はこれをいぶかって、碓(臼)に向かって叫び声をあげられた。そのため、この二人の皇子を大碓・小碓の尊と申しあげる。 小碓尊は幼いときから雄々しい性格であった。壮年になると、容貌はすぐれて逞しかった。身長は一丈、力は鼎(かなえ)を持ち上げられるほどであった。 四年、天皇は美濃国においでになった。側近の者が奏上した。 「この国に、美人がいます。弟媛(おとひめ)といい、容姿端麗で八坂入彦皇子(やさかいりひこのみこ)の娘です」 天皇は、妃に召そうと思い、弟媛の家に行かれた。弟媛は天皇が来られたと聞いて、竹林に隠れた。 天皇は、弟媛を引き出そうと計られて、泳宮(くくりのみや)におられ、鯉(こい)を池に放って、ご覧になって遊ばれた。あるとき、弟媛はその鯉の遊ぶのを見ようと思って、ひそかにやってきて池を見た。 天皇はそれを引きとめて召された。 弟媛は、夫婦の道は昔も今も通じておこなわれるものであるが、自分にとっては無用であると考えた。 そこで、天皇に請うて申しあげた。 「私の性質は交接のことを望みません。いま、恐れ多い仰せのため、大殿の中に召されましたが、心の中は快くありません。また、私の顔も美しくなく、長く後宮にお仕えすることはできません。ただ、私には姉がいて、名を八坂入媛(やさかいりひめ)といい、美人で志も貞潔です。どうぞ後宮にお召し入れください」 そのため、天皇はこれを許し、八坂入媛を呼んで妃とされた。八坂入媛は七男六女を生んだ。第一子を稚足彦(わかたらしひこ ) 、次が五百城入彦(いおきいりひこ ) 、次が忍之別(おしのわけ ) 、次が稚倭根子(わかやまとねこ ) 、次が大酢別(おおすわけ ) 、次が五十狭城入彦(いさきいりひこ ) 、次が吉備兄彦(きびのえひこ ) 、次が渟熨斗姫(ぬのしひめ ) 、次が渟名城姫(ぬなきひめ ) 、次が五百城入姫(いおきいりひめ )、次が麛依姫(かごよりひめ ) 、次が高城入姫(たかきいりひめ ) 、次が弟媛(おとひめ ) である。 またの妃、三尾氏の磐城別(いわきわけ)の妹の水歯郎媛(みずはのいらつめ)は、五百野皇女(いおのひめみこ)を生んだ。 またの妃、五十河媛(いかわひめ)は、神櫛皇子(かむくしのみこ)と稲背入彦皇子(いなせいりひこのみこ)を生んだ。 またの妃、阿部氏の木事(こごと)の娘の高田媛(たかたひめ)は、武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこ)を生んだ。 またの妃、日向髪長大田根(ひむかのかみながおおたね)は、日向襲津彦皇子(ひむかのそつひこのみこ)を生んだ。 またの妃、襲武媛(そのたけひめ)は、国乳別皇子(くにちわけのみこ)、次に国凝別皇子(くにこりわけのみこ)、次に国背別皇子(くにせわけのみこ)、またの名は宮道別皇子(みやじわけのみこ)、次に豊戸別皇子(とよとわけのみこ)を生んだ。 またの妃、美人を御刀媛(みはかしひめ)という。豊国別皇子(とよくにわけのみこ)を生んだ。 冬十一月、纏向に都を造られた。これを日代宮(ひしろのみや)という。 天皇は、美濃国造で名は神骨(かむほね)という者の娘で、兄遠子(えとうこ)と弟遠子(おととおこ)の二人が、ともに美人であると聞かれ、大碓命を遣わされて、その娘の容姿を見させられた。このとき、大碓命はひそかに娘に通じて復命されなかった。それで天皇は大碓命をお恨みになった。 十二年の秋七月、熊襲(くまそ)がそむいて貢物を奉らなかった。 八月、天皇は筑紫においでになり、諸国の命に従わない者たちを巡り討たれた。 十三年、日向国に美人があり、御刀媛という。これを召して妃とされた。妃は豊国別皇子を生んだ。 二十年の春二月四日、五百野皇女を遣わして、天照太神(あまてらすおおみかみ)を祀らせられた。 冬十月、日本武尊(やまとたけるのみこと)を遣わして、熊襲を討たせられた。このとき、尊の年は十六歳であった。 四十六年の八月、大臣・物部胆咋宿祢(もののべのいくいのすくね)の娘の五十琴姫命(いことひめのみこと)を妃とされた。妃は五十功彦命(いごとひこのみこと)を生んだ。 五十一年の春正月七日、群卿を召して宴を催され、何日も続いた。このとき、皇子の稚足彦尊と、武内宿祢(たけしうちのすくね)は、その宴に出席しなかった。天皇はそのわけを尋ねられた。そこでお答えして申しあげた。 「宴楽の日には、群卿百寮がくつろぎ遊ぶことに心が傾き、国家のことを考えていません。もし狂った者があって、警護のすきを窺ったらと心配です。それで垣の外に控えて非常に備えています」 天皇は、 「立派なものだ」 と仰せられた。そして特に目をかけられた。 秋八月、稚足彦命を立てて皇太子とされた[皇太子の年は二十四歳]。また、武内宿祢に詔して棟梁之臣(むねはりのまえつきみ)とされた。天皇と武内宿祢とは、同じ日に生まれた。それで特に重用された。 日本武尊は東の蝦夷を平らげて、帰ろうとされたが帰ることができず、尾張国で亡くなった。 日本武尊は、はじめ両道入姫皇女(ふたじいりひめのひめみこ)を娶って妃とし、稲依別王(いなよりわけのきみ)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)、布忍入姫命(ぬのおしいりひめのみこと)、稚武王(わかたけひこのきみ)を生んだ。また、吉備武彦(きびのたけひこ)の娘の吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ)を妃として、武卵王(たけかいこのきみ)と十城別王(とおきわけのきみ)を生んだ。また、穂積氏の忍山宿祢(おしやまのすくね)の娘・弟橘媛(おとたちばな)は、稚武彦王(わかたけひこのきみ)を生んだ。 五十二年の夏五月二十八日、皇后・播磨大郎姫命が亡くなられた。 秋七月、八坂入姫命を立てて、皇后とされた。 五十八年の春二月十一日、近江国においでになり、志賀にお住みになること三年。これを高穴穂宮(たかあなほのみや)という。 六十年の冬十一月七日、天皇は高穴穂宮で崩御された。ときに年百六歳であった。 次の天皇の治世二年、山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)に葬った。 天皇がお生みになった皇子女は計八十一人で、このうち男子は五十五人、女子は二十六人であった。 このうち六人の御子、皇子五人と皇女一人を残して、ほかの御子は皆、各地の国・県に封じた。皇子五十人、皇女二十六人、合わせて七十六人がそれぞれ国・県に封じられた。国史には記されていない。 稚倭根子命(わかやまとねこのみこと)。 大酢別命(おおすわけのみこと)。 吉備兄彦命(きびのえひこのみこと)。 武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)[筑紫水間君(つくしのみぬまのきみ)の祖]。 神櫛別命(かむくしわけのみこと)[讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ)の祖]。 稲背入彦命(いなせいりひこのみこと)[播磨別の祖]。 豊国別命(とよくにわけのみこと)[喜備別(きびわけ)の祖]。 国背別命(くにせわけのみこと)[水間君の祖]。 忍足別命(おしたらしわけのみこと)。 日向襲津彦命(ひむかのそつひこのみこと)[奄智君(あむちのきみ)の祖]。 国乳別命(くにちわけのみこと)[伊与宇和別(いよのうわわけ)の祖]。 豊門入彦命(とよといりひこのみこと)[大田別(おおたわけ)の祖]。 五十狭城入彦命(いさきいりひこのみこと)[三河長谷部直(みかわのはせべのあたい)の祖]。 稚屋彦命(わかやひこのみこと)。 彦人大兄命(ひこひとおおえのみこと)。 武国皇別命(たけくにすめわけのみこと)[伊与御城別(いよのみきわけ)、添御杖君(そうのみつえのきみ)の祖]。 真稚彦命(まわかひこのみこと)。 天帯根命(あまたらしねのみこと)[目鯉部君(めこいべのきみ)の祖]。 大曽色別命(おおそしこわけのみこと)。 五十河彦命(いかわひこのみこと)[讃岐直(さぬきのあたい)、五十河別(いかわけ)の祖]。 石社別命(いわさわけのみこと)。 大稲背別命(おおいなせわけのみこと)[御杖君の祖]。 武押別命(たけおしわけのみこと)。 豊門別命(とよとわけのみこと)[三嶋水間君(みしまのみぬまのきみ)、奄智首、壮子首(わかこのおびと)、粟首(あわのおびと)、筑紫火別君(つくしのひわけのきみ)の祖]。 不知来入彦命(いさくいりひこのみこと)。 曽能目別命(そのめわけのみこと)。 十市入彦命(とおちいりひこのみこと)。 襲小橋別命(そのおはしわけのみこと)[菟田小橋別(うだのおはしわけ)の祖]。 色己焦別命(しこしょうわけのみこと)。 息前彦人大兄水城命(おきさきのひこひとおおねみずきのみこと)[奄智白幣造(あむちのしらしでのみやつこ)の祖]。 熊忍津彦命(くまのおしつひこのみこと)[日向穴穂別(ひむかのあなほわけ)の祖]。 櫛見皇命(くしみこのみこと)[讃岐国造の祖]。 武弟別命(たけおとわけのみこと)[立知備別(たてちびわけ)の祖]。 草木命(くさきのみこと)[日向君の祖]。 稚根子皇子命(わかねこみこのみこと)。 兄彦命(えひこのみこと)[大分穴穂御埼別(おおきだのあなほのみさきわけ)、海部直(あまべのあたい)、三野之宇泥須別(みののうねすわけ)らの祖]。 宮道別命(みやじわけのみこと)。 手事別命(たことわけのみこと)。 大我門別命(おおがとわけのみこと)。 三川宿祢命(みかわのすくねのみこと)。 豊手別命(とよたわけのみこと)。 倭宿祢命(やまとのすくねのみこと)[三川大伴部直(みかわのおおともべのあたい)の祖]。 豊津彦命(とよつひこのみこと)。 五百木根命(いおきねのみこと)。 弟別命(おとわけのみこと)[牟宜都君(むげつのきみ)の祖]。 大焦別命(おおしょうわけのみこと)。 五十功彦命(いごとひこのみこと)[伊勢刑部君(いせのおさかべのきみ)、三川三保君(みかわのみほのきみ)の祖]。 櫛角別命(くしつのわけのみこと)[茨田連(まんだのむらじ)の祖]。 各地の領主として派遣されなかった、六人の御子のうちの男子五人、女子一人。 大碓命(おおうすのみこと)[守君(もりのきみ)らの祖]。 次に、小碓命(おうすのみこと)。後に日本武尊(やまとたけるのみこと)と名づけられた。 次に、豊国別命(とよくにわけのみこと)[日向諸県君(ひむかのもろあがたのきみ)の祖]。 次に、稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)。 次に、五百城入彦尊(いおきいりひこのみこと)。 次に、五百野姫皇女命(いおののひめみこのみこと)[伊勢の天照太神を斎き祀った]。 以上、五十人の皇子。このほかの二十五人の皇女については、記載しなかった。 |
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■成務天皇
諱は稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)。景行天皇の第四子である。 母の皇后は八坂入姫命(やさかいりひめのみこと)で、八坂入彦皇子の娘である。 景行天皇の治世四十六年、立って皇太子となられた。ときに年は二十四歳。 六十年の冬十一月、景行天皇は崩御された。 治世元年・辛未年の春正月甲申朔戊子の日、皇太子は天皇に即位された。さきの皇后を尊んで皇太后と申しあげ、皇太后を尊んで大皇太后を追号された。 物部胆咋宿祢(もののべのいくいのすくね)を大臣として、志賀高穴穂宮に都を置かれた。 二年の冬十一月十日、景行天皇を倭国(やまとのくに)の山辺道上陵に葬った。 三年の春七日、武内宿祢(たけしうちのすくね)を大臣とされた。 四十八年の春三月一日、甥の足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を立てて皇太子とされた。足仲彦尊は、景行天皇の皇子・日本武尊(やまとたけるのみこと)の第二皇子である。 日本武尊は、両道入姫皇女(ふたぢいりひめのひめみこ)を娶って妃とし、三男一女を生んだ。 稲依別王(いなよりわけのきみ)[犬上君、武部君らの祖]、次に足仲彦尊、次に布忍入姫命(ぬのおしいりひめのみこと)、次に稚武王(わかたけのみこ)[近江建部君の祖、宮道君の祖]である。 またの妃、吉備武彦(きびのたけひこ)の娘の吉備穴戸武姫(きびのあなとのたけひめ)は、二男を生んだ。 武卵王(たけかいこのみこ)[讃岐綾君らの祖]、次に十城別王(とおきわけのみこ)[伊予別君らの祖]である。 またの妃、穂積氏の祖・忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘、弟橘媛(おとたちばなひめ)は一男を生んだ。 稚武彦王命(わかたけひこのみこのみこと)[尾津君、揮田君(ふきだのきみ)、武部君らの祖]、 次に稲入別命(いないりわけのみこと)、 次に武養蚕命(たけこがいのみこと)[波多臣らの祖]、 次に葦敢竈見別命(あしかみのかまみわけのみこと)[竈口君(かまのくちのきみ)らの祖]、 次に息長田別命(おきながのたわけのみこと)[讃岐君らの祖]、 次に五十日彦王命(いかひこのきみのみこと)[讃岐君らの祖]、 次に伊賀彦王(いがひこのみこ)、 次に武田王(たけたのみこ)[尾張国の丹羽建部君の祖]、 次に佐伯命(さえきのみこと)[三川の御使連らの祖]、である。 六十年の夏六月十一日、天皇は崩御された。[年は百七歳] 御子十五人のうち、十四人は男王、一人は女王であった。 |
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■仲哀天皇
景行天皇の第二皇子の日本武尊、幼名は小碓命(おうすのみこと)の第二王子。諱を足仲彦王尊と申しあげる。 母は両道入姫皇女といい、垂仁天皇の皇女である。 天皇は容姿端正で、身の丈は十尺あった。 成務天皇には御子が無かった。そのため、成務天皇の治世四十八年、立って皇太子となられた。ときに年は三十一歳。 治世元年壬申の春正月十一日、皇太子は天皇に即位された。 母の皇后を尊んで皇太后とし、皇太后を尊んで大皇太后を追号された。 気長足姫尊(おきながのたらしひめのみこと)を立てて皇后とされた。開化天皇の子の、彦坐皇子(ひこいますのみこ)の御子の、山代大筒城真若王(やましろのおおつつきのまわかのみこ)の御子の、迦爾米雷王(かにめづちのみこ)の御子の、気長宿祢(おきながのすくね)の娘の、気長足姫命(開化天皇五世孫)がこのかたである。 天皇は、群臣に詔して仰せられた。 「私がまだ成人しないうちに、父王の日本武尊はすでに亡くなっていた。魂は白鳥になって天に上った。慕い思うことは一日も休むことがない。 それで、白鳥を獲て陵のまわりの池に飼い、その鳥を見ながら父を偲ぶ心を慰めたいと思う」 そこで、諸国に命令して白鳥を献上させた。これは天皇が父王を恋しく思われて、飼いならそうとされたものである。 それなのに、天皇の弟の蒲見別王はいった。 「白鳥といっても、焼いたら黒鳥になるだろう」 天皇は弟王が不孝であることを憎まれ、兵を遣わして殺させた。 天皇はこれよりさきに、叔父である彦人大兄(ひこひとおおえ)の娘の大中姫を娶って妃とし、二児をお生みになった。麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)である。 また、天熊田造(あまのくまたのみやつこ)の祖・大酒主(おおさかぬし)の娘の弟媛を妃とし、一児を生んだ。誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)である。 二月、角鹿へおいでになり、行宮を建ててお住まいになった。これを笥飯宮(けひのみや)という。 三月、南の国を巡視し、熊襲の叛乱を討とうとされた。 七月、皇后は豊浦津に泊まられた。その後、皇后は如意珠を海中から得られた。 九月、宮室を穴門にたてて住まわれた。これを、穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)という。 八年の春正月、天皇は筑紫においでになり、熊襲を討つことを諮られた。 このとき、ある神が皇后に託して神託をして仰せられた。 「天皇は、どうして熊襲が従わないことを憂えられるのか。そこは荒れて痩せた地だ。 しかし西には宝の国があり、新羅国という。もし、よく我を祀るならば、きっとその国はおのずから服従するだろう。云々」 ところが天皇は西には国は無いといわれた。神の教えられたことを信じず、なおみずから熊襲を討って、賊の矢で傷を負われた。 九年の春二月五日、武内大臣が天皇のおそばに控え、皇后のために琴を弾くことを乞うた。皇后が神がかりして神に問うも、教えは得られなかった。 そして神がかりして仰せられた。 「皇后がみごもっている皇子は、宝の国を得るだろう。云々」 武内大臣は、天皇につつしんで琴を弾くように懇ろにすすめ申しあげ、その神の名を求め乞うた。 ときに、日が暮れて、明かりを灯そうとしたとき、琴の音が聞こえなくなった。 そこで、火をかかげて見ると、天皇は急に病気になられ、翌日に亡くなられた。ときに年五十二歳。 すなわち、神のお告げを信じられなかったので、賊の矢にあたって早く亡くなられたことがうかがわれる。 皇后と大臣は、天皇の喪を隠して、天下に知らされなかった。そして、皇后は大臣と中臣烏賊津連(なかとみのいかつのむらじ)、大三輪大友主君(おおみわのおおともぬしのきみ)、物部胆咋連、大伴武以連(もののべのたけもつのむらじ)、物部多遅麻連に詔して仰られた。 「いま、天下の人は天皇の亡くなられたことを知らない。もし人民が知ったら、気がゆるむ者がいるかもしれない」 そこで、四人の大夫に命ぜられ、百寮を率いて宮中を守らせた。 ひそかに天皇の遺骸を収めて、武内宿祢に任せ、海路で穴門にお移しした。そして、豊浦宮で、灯火を焚かずに仮葬した。 甲子の日、武内宿祢は穴門から帰って、皇后に報告申しあげた。 この年は新羅国の役があって、天皇の葬儀は行われなかった。 天皇は、后妃との間に四人の皇子をお生みになった。 麛坂皇子、忍熊皇子、誉屋別皇子、誉田別尊(ほむたわけのみこと:応神天皇)である。 |
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■神功皇后
気長足姫命は、開化天皇の曾孫・気長宿祢王の娘である。母を葛城高額姫(かずらきのたかぬかひめ)と申しあげる。 仲哀天皇の治世二年、立って皇后となられた。幼いときから聡明で、容貌もすぐれて美しく、父の王もいぶかしがられるほどであった。 九年の春二月、仲哀天皇は筑紫橿氷宮(つくしのかしひのみや)で崩御された。 皇后は、天皇が神のお告げに従わないで、早くに亡くなられたことを傷んで思われるのに、祟られる神を知って、群臣百寮に命ぜられ、罪を払い過ちを改めて、さらに斎殿をつくって、そこで神がかりされた。皇后が、さきに神託をくだした神に祈り乞われたことなどは、別の書に詳しくある。 十月三日、神々の荒魂を別の船にお祀りし、また和魂を皇后の乗る船にお祀りして、船軍を率いて和珥津から船出された。新羅国を巡られた様子は、征服された三韓の国の書に詳しくある。 十二月十四日、皇后は新羅から戻られた。 そして、応神天皇を筑紫でお産みになった。そのため、時の人はその出産の地を名づけて、宇弥(うみ)といった。 翌年の春二月、皇后は群臣と百寮を率いて、穴門豊浦宮に遷った。天皇の遺骸をおさめて、海路で京に向かわれた。 そのとき、麛坂王と忍熊王は、天皇が崩御され、皇后は新羅を討ち、皇子が新たに生まれたと聞いて、ひそかに謀っていった。 「いま、皇后には子がいて、群臣はみな従っている。きっと共に議って幼い王を立てるだろう。私たちは兄であるのに、どうして弟に従うことができよう」 そして兵を集めて敵対した。このため、その後、殺された。これらのことは別の書に詳しくある。 神功摂政元年冬十月八日、群臣は皇后を尊んで、皇太后と申しあげた。太歳辛巳年に改めて、摂政元年とした。 物部多遅麻連(もののべのたぢまのむらじ)を大連とされた。 二年の冬十一月八日、仲哀天皇を河内国の長野陵に葬った。 三年の春正月三日、誉田別皇子を立てて、皇太子とされた。 磐余に都を造り、これを稚桜宮(わかさくらのみや)という。 物部五十琴宿祢(もののべのいことのすくね)を大連とされた。 六十九年の夏四月十七日、皇太后は稚桜宮で亡くなられた。 冬十月十五日、狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬った。この日に皇太后を尊んで諱をたてまつり、気長足姫命と申しあげた。 |
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■巻第八 神皇本紀 | |
■応神天皇
誉田(ほむた)皇太子尊は、仲哀天皇の第四皇子である。 母は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、すなわち開化天皇の五世孫である。 天皇は、母である皇后が新羅を討たれた年、庚辰年の冬十二月に、筑紫の蚊田でお生まれになった。幼くして聡明で、物事を遠くまで見通された。立居振る舞いに聖帝のきざしがあった。 皇太后の摂政三年に、立って皇太子となられた。ときに年三歳。 天皇が皇太后の胎中におられるとき、天神地祇は三韓を授けられた。お生まれになったとき、腕に上に盛り上がった肉があった。その形がちょうど鞆(ほむた)のようであった。これは、皇太后が男装して、鞆をつけられたのに似られた。そのため名を称えて誉田尊と申しあげる。 摂政六十九年夏四月、皇太后が亡くなられた。 治世元年一月一日、皇太子は天皇に即位された。軽嶋の地に都を造り、豊明宮といった。 二年春三月三日に、仲姫命(なかつひめのみこと)を立てて皇后とされた。皇后は三児をお生みになった。荒田皇子(あらたのみこ)、次に大鷦鷯尊(おおさざきのみこ:仁徳天皇)、次に根鳥皇子(ねとりのみこ)である。 これより先に天皇は、皇后の姉の高城入姫(たかきのいりひめ)を妃として、四児をお生みになった。額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)、次に大山守皇子(おおやまもりのみこ)、次に去来真稚皇子(いざのまわかのみこ)、次に大原皇子(おおはらのみこ)である。 またの妃、皇后の妹の弟姫(おとひめ)は、三児を生んだ。阿倍皇女(あべのひめみこ)、次に淡路三原皇女(あわじのみはらのひめみこ)、次に菟野皇女(うののひめみこ)。 次の妃、物部多遅麻大連(もののべのたじまのおおむらじ)の娘・香室媛(かむろひめ)は三人の御子を生んだ。菟道稚郎子皇子尊(うじのわきいらつこのみこのみこと)、次に矢田皇女(やたのひめみこ)、次に雌鳥皇女(めとりのひめみこ)。 次の妃、香室媛の妹・小甂媛(おなべひめ)は、菟道稚郎姫皇女(うじのわきいらつひめのひめみこ)を生んだ。 次の妃、河派仲彦(かわまたのなかつひこ)の娘・弟媛は稚野毛二派皇子(わかのけふたまたのみこ)を生んだ。 次の妃、桜井田部連男鉏(さくらいたべのむらじおさい)の妹・糸媛(いとひめ)は、隼別皇子(はやぶさわけのみこ)を生んだ。 次の妃、日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)は、大葉枝皇子(おおはえのみこ)、次に小葉枝皇子(おはえのみこ)を生んだ。 すべて天皇の皇子女は、合わせて二十人おいでになる。 四十年の春一月八日に、天皇は大山守命と大鷦鷯尊を呼んでお尋ねになられた。 「お前たちは、自分の子が可愛いか」 二人の皇子は答えて申しあげられた。 「とても可愛いです」 天皇はまた尋ねて仰せられた。 「大きくなった子と、小さい子では、どちらが可愛いか」 大山守命が答えて仰せられた。 「大きい子の方が良いです」 それを聞いた天皇は喜ばれない様子であった。大鷦鷯尊は天皇の心を察して申しあげられた。 「大きくなった方は、年を重ねて一人前になっているので、もう不安はありません。年若い方はそれが一人前になれるか、なれないかも分からないので、若い方は可愛そうです」 天皇はとても喜んで仰せになった。 「お前の言葉は、まことに我が心にかなっている」 このとき天皇は、常に菟道稚郎子を立てて、皇太子にしたいと思われる心があった。そこで二人の皇子の心を知りたいと思われていた。そのためにこの問いをされたのであった。 このため大山守命の答えを喜ばれなかった。 そうして、菟道稚郎子を立てて日嗣とされた。大山守命を山川林野を掌る役目とされ、大鷦鷯尊をもって、太子の補佐として国事を見させた。 物部の印葉連公を大臣とした。 四十一年の春二月十五日、天皇は豊明宮で崩御された。[ときに年百十歳] 天皇がお生みになった御子は十七人で、うち皇子は十二人、皇女は五人であった。 荒田皇子、次に大鷦鷯尊、次に根鳥皇子[大田君らの祖]、次に額田大中彦命皇子、次に大山守皇子[土方公らの祖、榛原君の祖]、次に去来真稚皇子[深河別らの祖]、次に大原皇子、次に菟道稚郎子太子尊、次に稚沼笥二股皇子尊[三国君らの祖]、次に隼別皇子、次に大葉枝皇子、次に小葉枝皇子、次に矢田皇女[仁徳天皇の皇后]、次に阿倍皇女、次に淡路御原皇女、次に紀の菟野皇女、次に雌鳥皇女。 |
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■仁徳天皇
諱は大鷦鷯尊。応神天皇の第四皇子である。母を皇后・仲媛命と申しあげる。五百城入彦皇子命の孫である。 天皇は幼いときから聡明で、英知であられた。容貌が美しく、壮年に至ると心広くめぐみ深くいらっしゃった。 先の天皇の治世四十一年春二月、応神天皇は崩御された。皇太子の菟道稚郎子皇子は、位を大鷦鷯尊に譲ろうとされて、まだ即位されなかった。そうして大鷦鷯尊に仰られた。 「天下に君として万民を治める者は、民を覆うこと天のごとく、受け入れることは地のごとくでなければなりません。上に民を喜ぶ心があって人民を使えば、人民は欣然として天下は安らかです。 私は弟です。またそうした過去の記録も見られず、どうして兄を越えて位を継ぎ、天業を統べることができましょうか。 大王は立派なご容姿です。仁孝の徳もあり、年も上です。天下の君となるのに十分です。先帝が私を太子とされたのは、特に才能があるからというわけではなく、ただ愛されたからです。 宗廟社稷に仕えることは、重大なことです。私は不肖でとても及びません。兄は上に弟は下に、聖者が君となり、愚者が臣下となるのは、古今の定めです。どうか王はこれを疑わず、帝位に即いてください。私は臣下となってお助けするばかりです」 大鷦鷯尊は答えて仰せられた。 「先帝も”皇位は一日たりとも空しくしてはならない”とおっしゃった。それで前もって明徳の人をえらび、王を皇太子として立てられました。天皇の嗣にさいわいあらしめ、万民をこれに授けられました。寵愛のしるしと尊んで、国中にそれが聞こえるようにされました。私は不肖で、どうして先帝の命に背いて、たやすく弟王の願いに従うことができましょうか」 固く辞退して受けられず、お互いに譲り合われた。 このとき、額田大中彦皇子が、倭の屯田と屯倉を支配しようとして、屯田司の出雲臣の祖・淤宇宿祢(おうのすくね)に語っていった。 「この屯田はもとから山守の地だ。だから自分が治めるから、お前は掌ってはならない」 淤宇宿祢は太子にこのことを申しあげた。太子は仰られた。 「大鷦鷯尊に申せ」 そこで、淤宇宿祢は大鷦鷯尊に申しあげた。 「私がお預かりしている田は、大中彦皇子が妨げられて治められません」 大鷦鷯尊は、倭直の祖・麻呂にお尋ねになった。 「倭の屯田は、もとから山守の地というが、これはどうか」 麻呂が答えて申しあげた。 「私には分かりませんが、弟の吾子籠(あごこ)が知っております」 このとき、吾子籠は韓国に遣わされて、いまだ還っていなかった。大鷦鷯尊は淤宇宿祢に仰せられた。 「お前はみずから韓国に行って、吾子籠をつれて来なさい。昼夜を問わず急いで行け」 そして淡路の海人八十人を差し向けて水手とされた。淤宇は韓国に行って、吾子籠をつれて帰った。屯田のことを尋ねられると、答えて申しあげた。 「伝え聞くところでは、垂仁天皇の御世に、太子の大足彦尊に仰せられて、倭の屯田が定められたといいます。このときの勅旨は”倭の屯田は、時の天皇のものである。帝の御子といえども、天皇の位になければ掌ることはできない”といわれました。これを山守の地というのは、間違いです」 大鷦鷯尊は、吾子籠を額田大中彦皇子のもとに遣わして、このことを知らされた。大中彦皇子は、この上いうべき言葉がなかった。その良くないことをお知りになったが、許して罰せられなかった。 大山守皇子は、先帝が太子にしてくださらなかったことを恨み、重ねてこの屯田のことで恨みを持った。陰謀を企てて仰せられた。 「太子を殺して帝位を取ろう」 大鷦鷯尊はその陰謀をお知りになり、ひそかに太子に知らせ、兵を備えて守らせられた。太子は兵を備えて待ち構えた。大山守皇子は、その備えのあることを知らず、数百の兵を率いて夜中に出発した。明け方に菟道(宇治)について河を渡ろうとしました。そのとき太子は粗末な麻の服をつけられて、舵をとって、ひそかに渡し守にまじられ、大山守皇子を船にのせてこぎ出された。河の中ほどに至って、渡し守に船を転覆させられた。大山守皇子は河に落ちてしまった。 浮いて流されたが、伏兵が多くいて、岸につくことができなかった。そのため、ついに沈んで亡くなった。屍を探すと、哮羅済(かわらのわたり)に浮かんでいた。太子は屍をご覧になり、歌にしていわれた。云々。別に和歌の書がある。 太子は宮を菟道にたててお住まいになったが、位を大鷦鷯尊に譲っておられるので長らく即位されなかった。皇位は空いたままで三年が過ぎた。 ある漁師がいて、鮮魚の献上品を菟道宮に献じた。太子は漁師に仰せられた。 「自分は天皇ではない」 そうして、返して難波に奉らさせられた。大鷦鷯尊は、また返して菟道に奉らさせられた。漁師の献上品は両方を往復している間に、古くなって腐ってしまった。それでまた、あらためて鮮魚を奉ったが、譲り合われることは前と同様であった。鮮魚はまた腐ってしまった。漁師は途方にくれて鮮魚を捨てて泣いた。ことわざに、「海人でもないのに、自分の物から泣く」というのは、これが由来である。 太子は、 「私は兄王の心を変えられないことを知った。長く生きて天下を煩わせたくない」 と仰せられて、ついに自殺された。大鷦鷯尊は太子が亡くなられたことを聞いて、驚いて難波の宮から急遽、菟道宮に来られた。太子の死後三日を経ていた。大鷦鷯尊は胸を打ち泣き叫んで、なすすべを知らなかった。髪を解き死体にまたがって、 「我が弟の皇子よ」 と三度お呼びになった。するとにわかに生き返られた。大鷦鷯尊は太子へ仰せになった。 「悲しいことよ。悔しいことよ。どうして自殺などなさいますか。もし死なれたと知れたら、先帝は私を何と思われますか」 すると、太子は大鷦鷯尊に申しあげられた。 「天命です。誰もとめることはできません。もし先帝のみもとに参ることがありましたら、詳しく兄王が聖で、度々辞退されたを申しあげましょう。あなたは私の死を聞いて、遠路駆けつけてくださった。お礼を申しあげねばなりません」 そうして、同母妹の矢田皇女を奉って仰せられた。 「お引きとりいただくのも迷惑でしょうが、なにとぞ後宮の数に入れていただけますように」 そしてまた、棺に伏せって亡くなられた。大鷦鷯尊は麻の服を着て、悲しみ慟哭されることはなはなしかった。遺体は菟道の山の上に葬った。 治世元年の春一月三日、大鷦鷯尊は即位された。先の皇后を尊んで皇太后と申しあげた。都を難波に遷し、高津宮といった。 この天皇がお生まれになった日に、木菟(つく:みみずく)が産殿に飛び込んできた。翌朝、父の応神天皇が大臣の武内宿祢を呼んで仰せられた。 「これは何のしるしだろうか」 宿祢は答えて申しあげた。 「めでたいしるしです。昨日、私の妻が出産するとき、鷦鷯(さざき:みそさざい)が産屋に飛び込んできました。これもまた不思議なことです」 そこで、天皇は仰せられた。 「我が子と宿祢の子は、同じ日に産まれた。そして両方ともしるしがあったが、これは天のお示しである。その鳥の名をとって、お互いに交換し子供に名づけ、後代へのしるしとしよう」 それで鷦鷯の名を取って太子につけ、大鷦鷯皇子といわれた。木菟の名を取って大臣の子につけ、木兎宿祢といった。これが平群臣の祖である。 二年春三月八日、磐媛命を立てて皇后とされた。皇后は四児をお生みになった。大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと:履中天皇)、次に住吉皇子(すみのえのみこ)、次に瑞歯別尊(みずはわけのみこと:反正天皇)、次に雄朝津間稚子宿祢尊(おあさづまわくごのすくねのみこと:允恭天皇)。 妃の日向の髪長媛は、大草香皇子(おおくさかのみこ)、次に幡梭皇女(はたびのひめみこ)を生んだ。 二十二年の春一月、天皇は皇后に「矢田皇女を召し入れて妃にしたい」と仰せになった。しかし、皇后は許されなかった。 三十一年春一月十五日、去来穂別尊を立てて皇太子とされた。 三十五年夏六月、皇后の磐之媛命は筒城宮で亡くなった。 三十七年冬十一月十二日、皇后を乃羅山(ならやま)に葬った。 三十八年春一月六日、矢田皇女を立てて皇后とされた。 八十二年の春二月乙巳朔の日に、侍臣の物部大別連公(もののべのおおわけのむらじのきみ)に詔して仰せられた。 「皇后には、長い間経ても皇子が生まれなかった。お前を子代と定めよう」 皇后の名を氏として、氏造に改め、矢田部連公(やたべのむらじのきみ)の姓を賜った。 八十三年丁卯の八月十五日に、天皇は崩御された。 冬十月七日に、百舌鳥野陵に葬った。 天皇のお生みになった皇子は五男一女。 大兄去来穂別尊、次に住吉仲皇子、次に瑞歯別皇子、次に雄朝嬬稚子宿祢尊、次に大草香皇子、次に幡梭皇女。 |
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■履中天皇
諱は去来穂別尊。仁徳天皇の第一皇子である。母を皇后の磐之媛と申しあげる。葛城襲津彦の娘である。 先の天皇の治世三十一年春一月、皇太子となられた。ときに年は十五歳。 八十七年春一月、仁徳天皇が崩御された。 治世元年春二月一日、皇太子は即位された。先の皇后を尊んで皇太后と申しあげ、皇太后に尊んで大皇太后と追号された。磐余に都を造り、これを稚桜宮(わかさくらのみや)といった。物部伊莒弗連(もののべのいこふつのむらじ)を大連とした。 秋七月四日、葦田宿祢の娘の黒媛を皇妃とした。妃は二男一女をお生みになった。磐坂市辺押羽皇子(いわさかのいちのべのおしはのみこ)、御馬皇子(みまのみこ)、青海皇女(あおみのひめみこ)である。 次の妃、幡梭皇女(はたびのひめみこ)は、中磯皇女(なかしのひめみこ)をお生みになった。 二年春一月四日、瑞歯別皇子(みずはわけのみこ)を立てて皇太子とした。 五年の秋九月十八日に、皇妃の黒媛は亡くなった。 六年春一月六日、草香幡梭皇女を立てて皇后とされた。 三月十五日、天皇は病になられ、体の不調から臭みが増してきた。稚桜宮で崩御された。ときに年は七十歳[また、壬申年の一月三日に亡くなられたともいう。年七十歳]。 冬十月四日に、百舌鳥耳原陵に葬った。 天皇のお生みになった御子は二男二女。兄に磐坂市辺押羽皇子尊、次に御馬皇子、次に青海皇女尊、次に中磯皇女。 |
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■反正天皇
諱は瑞歯別尊。履中天皇の同母弟である。 先の天皇の治世二年に、立って皇太子となった。ときに年は五十一歳。 天皇は淡路宮でお生まれになった。生まれながらに歯が一つの骨のようで、うるわしい容姿であった。瑞井という井戸があって、その水を汲んで太子を洗われた。そのとき多遅(たじ)の花が井戸の中に落ちた。よって太子の名とした。多遅の花とは今の虎杖(いたどり)の花のことである。それでたたえて多遅比と申し上げたのである。 先の天皇の治世六年春三月、履中天皇が崩御された。 治世元年の夏四月二日に、皇太子は即位された。 秋八月六日に、大宅臣の祖の木事(こごと)の娘・津野媛(つのひめ)を立てて皇夫人とした。香火姫皇女(かひひめのひめみこ)、次に円皇女(つぶらのひめみこ)を生んだ。 また、夫人の妹の弟媛を入れて、財皇女、次に高部皇子を生んだ。 冬十月、河内の丹比に都を造った。これを柴垣宮(しばがきのみや)という。 五年の春一月二十三日に、天皇は崩御された。年は六十歳。毛須野陵に葬った。 天皇がお生みになった御子は二男二女。兄に高部皇子、次に円皇女、次に財皇女、次に香火姫皇女。 |
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■允恭天皇
諱は雄朝嬬稚子宿祢尊。反正天皇の同母弟である。 天皇は幼いころから、成長された後も、恵み深くへりくだっておられた。壮年になって重い病をされ、動作もはきはきとすることができなかった。 先の天皇の治世五年春一月、反正天皇が崩御された。 群卿たちが相談していった。 「今、仁徳天皇の御子は、雄朝嬬稚子宿祢皇子と大草香皇子がいらっしゃるが、雄朝嬬稚子宿祢皇子は年上で情け深い心でいらっしゃる」 そこで吉日を選んで、ひざまずいて天皇の御しるしを奉った。 雄朝嬬稚子宿祢皇子は仰せられた。 「私の不幸は、長い間重い病にかかって、よく歩くこともできないことだ。また私は病を除こうとして、奏し申しあげることなくひそかに荒療治もしてみたが、なお少しもよくならない。それで先帝も私を責めて、“お前は病気なのに、勝手に体をいためるようなことをした。親に従わぬ不幸はこれ以上はなはだしいことはない。もし長生きしたとしても、天つ日嗣をしらすことはできないだろう”とおっしゃった。また私の兄の二人の天皇も、私を愚かであると軽んじられた。群卿も知っていることである。天下というものは大器であり、帝位は大業である。また、人民の父母となるのは、賢聖の人の職である。どうして愚かな者に堪えられようか。もっと賢い王を選んで立てるべきである。自分は適当ではない」 群臣は再拝して申しあげた。 「帝位は長く空しくしてあってはなりません。天命はこばむことはできません。大王が時にさからい、位につくことをされなければ、臣らは人民の望みが絶えることを恐れます。願わくはたとえいとわしいと思し召すとも、帝位におつきください」 雄朝嬬稚子宿祢皇子は、 「国家を任されるのは重大なことである。自分は重い病で、とても耐えることはできない」 と承知されなかった。 そこで群臣は固くお願いして申しあげた。 「私たちが伏して考えますのに、大王が皇祖の宗廟を奉じられることが、最も適当です。天下の万民も、皆そのように思っています。どうかお聞きとどけください」 治世元年壬子の冬十二月、妃の忍坂大中姫命が、群臣の憂いなげくのをいたまれて、みずから洗手水をとり捧げて、皇子の前にお進みになった。そして申しあげて仰せられた。 「大王は辞退なさって即位をされません。空位のままで年月を経ています。群臣百寮は憂えて、なすべきを知りません。願わくば、人々の願いに従って、強いて帝位におつきくださいませ」 しかし、皇子は聞き入れられず、背を向けて物もいわれなかった。 大中姫命は畏まり、退こうとされないでお侍りになること四、五刻以上を経た。時は師走のころで、風も烈しく寒いころであった。大中姫の捧げた鋺の水が、溢れて腕に凍るほどで、寒さに耐えられずほとんど死なんばかりであった。 皇子は驚き顧みられて、これを助け起こし仰せになった。 「日嗣の位は重いことである。たやすく就くことはできないので、今まで同意しなかった。しかし、いま群臣たちの請うこともあきらかな道理である。どこまでも断りつづけることはできない」 大中姫命は仰ぎ喜び、群卿たちに告げて仰せられた。 「皇子は、群臣の請いをお聞き入れくださることになりました。いますぐ天皇の御璽を奉りましょう」 ここに及んで皇子は仰せになった。 「群臣は、天下のために自分を請うてくれた。自分もどこまでも辞退してばかりいられない」 そうして、ついに帝位におつきになった。 二年春二月十四日、忍坂大中姫を立てて皇后とされた。皇后は、木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)、名形大娘皇女(ながたのおおいらつめのひめみこ)、境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)、穴穂天皇(あなほのすめらみこと:安康天皇)、軽大娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)、八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)、大泊瀬幼武天皇(おおはつせのわかたけのすめらみこと:雄略天皇)、但馬橘大姫皇女(たじまのたちばなのおおいらつめのひめみこ)、酒見皇女(さかみのひめみこ)をお生みになった。 五年冬十一月十一日、反正天皇を耳原陵に葬った。 二十三年春三月七日、木梨軽皇子を立てて太子とされた。物部麦入宿祢(もののべのむぎりのすくね)と物部大前宿祢(もののべのおおまえのすくね)を、ともに大連とした。 四十二年春一月十四日、天皇は崩御された。年は七十八歳。 冬十月十日、天皇を河内の長野原陵に葬った。 天皇のお生みになった御子は、五男四女。 木梨軽太子尊、次に名形大娘皇女、次に境黒彦皇子、次に穴穂皇子尊、次に軽大娘皇女、次に八釣白彦皇子、次に大泊瀬稚武皇子尊、次に但馬橘大娘皇女、次に酒見皇女。 |
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■安康天皇
諱は穴穂尊。允恭天皇の第二子である。 母は、皇后・忍坂大中姫といい、稚渟毛二岐皇子の娘である。 先の天皇の治世四十二年の春一月、允恭天皇が崩御された。 冬十月に葬礼が終わった。このときに、太子の木梨軽皇子は、乱暴で婦女に淫らな行いをしていたので、国人はこのことをそしった。群臣も心服せず、みな穴穂皇子についた。 そこで太子は、穴穂皇子を襲おうとして、ひそかに兵士を集めさせた。 穴穂皇子もまた兵を興して、戦おうとされた。そこで、穴穂矢・軽矢はこのとき始めて作られた。 ときに太子は、群臣が自分に従わず、人民もまた離れていくことを知った。そのため宮を出て、物部大前宿祢の家に隠れられた。 穴穂皇子はそれを聞いて、大前宿祢の家をお囲みになった。 大前宿祢は、門を出てきて、穴穂皇子をお迎えした。 穴穂皇子が歌を詠んでおっしゃったこと云々が、別の書に記されている。 そうして大前宿祢が皇子に申しあげていった。 「どうか太子を殺さないでください。私がお図りいたしましょう」 こうして太子は、大前宿祢の家で自殺された。一説には、伊予国に流したともいう。 治世元年十二月十四日に、穴穂皇子は即位された。 先の皇后を尊んで皇太后と申しあげ、皇太后に追号して太皇太后を贈られた。 物部木蓮子連公(もののべのいたびのむらじきみ)を大連とした。 都を石上に遷した。これを穴穂宮という。 二年春一月十七日、中蒂姫命を立てて皇后とされ、よく寵愛された。 はじめ中蒂姫命は、眉輪王(まゆわのきみ)を大草香皇子との間にお生みになっていた。そこで眉輪王は、母の縁で、父の罪を免れることになり、常に宮中で育てられた。詳しくは別の書にみえる。眉輪王は七歳であった。 三年秋八月九日、天皇は眉輪王のために殺された。ときに天皇は年五十六歳。眉輪王は七歳。 三年後、菅原伏見陵に葬った。 天皇に御子はいらっしゃらない。 |
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■雄略天皇
諱は大泊瀬幼武尊。允恭天皇の第五子である。 天皇がお生まれになったとき、神々しい光が御殿に満ちた。成長されてから、そのたくましさは人に抜きん出ていた。 先の天皇の治世三年八月、安康天皇は、湯浴みをしようと思われ、山の宮においでになった。 そして、楼(たかどの)に登られて眺めわたされた。酒を持ってこさせ、宴をされた。そして、心くつろがれて楽しさが極まり、いろいろな話を語り出されて、ひそかに皇后に仰せられた。 「妻よ、あなたとは仲むつまじくしているが、私は眉輪王を恐れている」 眉輪王は幼くて、楼の下でたわむれ遊んでいて、すべてその話を聞いてしまった。 そのうち、安康天皇は、皇后の膝を枕にして昼寝をしてしまわれた。 そこで、眉輪王は、その熟睡しているところを伺って、刺し殺してしまった。 この日、大舎人が走って、天皇(雄略)に申しあげた。 「安康天皇は、眉輪王に殺されました」 天皇は大いに驚いて、自分の兄達を疑われて、甲(よろい)をつけ、太刀を佩き、兵を率いて、みずから将軍となって、八釣白彦皇子を責め問いつめられた。皇子は危害を加えられそうなのを感じて、ただ座って声も出せなかった。 天皇は即座に刀を抜いて、斬ってしまわれた。 また、坂合黒彦皇子を問い責められた。皇子もまた、害されそうなのに気づいて、すわったまま物をいわれなかった。 天皇はますます怒り狂われた。 そして、眉輪王もあわせて殺してしまおうと思われたので、事の訳を調べ尋ねられた。眉輪王は申しあげた。 「私は皇位を望んだのではありません。ただ、父の仇を報いたかっただけです」 坂合黒彦皇子は深く疑われることを恐れて、ひそかに眉輪王と語り、ついに共に隙をみて、円大臣(つぶらのおおみ)の家に逃げこんだ。 天皇は使いを遣わせて、引き渡しを求められた。大臣は使いを返して申しあげた。 「人臣が、事あるときに逃げて王宮に入るということは聞きますが、いまだ君主が臣下の家に隠れるということを知りません。まさに今、坂合黒彦皇子と眉輪王は、深く私の心をたのみとして、私の家に来られました。どうして強いて差し出すことができましょうか」 これによって、天皇はまた、ますます兵を増やして、大臣の家を囲んだ。 大臣は庭に出て立たれて、脚結を求めた。 大臣の妻は脚結を持ってきて、悲しみに心もやぶれ、歌っていうには[云々と別の書にある]。 大臣は装束をつけ、軍門に進み出て拝礼し、申しあげた。 「私は誅されようとも、あえて命を受けたまわることはないでしょう。古の人もいっています。“賤しい男の志も奪うことは難しい”とは、まさに私にあたっています。伏して願がわくは、私の娘・韓媛(からひめ)と、葛城の領地七ヶ所を献上し、罪をあがなうことをお聞きいれください」 天皇は許されないで、火をつけて家をお焼きになった。 ここに、大臣と黒彦皇子、眉輪王はともに焼き殺された。 ときに、坂合部連贄子宿祢(さかいべのむらじにえこすくね)は、黒彦皇子の亡き骸を抱いて、ともに焼き殺された。 その舎人たちは、焼けた遺体を取り収めたが、骨を選び分けるのが難しかった。ひとつの棺に入れて、新漢(いまきのあや)の擬本(つきもと)の南丘に合葬した。 冬十月一日、天皇は安康天皇が、かつて、従兄弟の市辺押磐皇子に皇位を伝え、後事をゆだねようと思われたのを恨んだ。人を市辺の押磐皇子のもとへ遣わし、偽って狩りをしようと約束して、野遊びを勧めて仰せられた。 「近江の佐々城山君・韓袋がいうには、“今、近江の来田綿の蚊屋野に、猪や鹿がたくさんいます。その頂く角は枯れ木の枝に似ています。その集まった脚は、灌木のようで、吐く息は朝霧に似ています”と申している。できれば皇子と初冬の風があまり冷たくないときに、野に遊んでいささか心を楽しんで、巻狩りをしたい」 市辺押磐皇子は、そこで勧めに従って、狩りに出かけた。 このとき大泊瀬天皇は、弓を構えて馬を走らせだまし呼んで、「猪がいる」と仰って、市辺押磐皇子を射殺してしまわれた。 皇子の舎人・佐伯部売輪(さえきべのうるわ)は、皇子の亡き骸を抱き、驚きなすすべを知らなかった。叫び声をあげて、皇子の頭と脚の間を行き来した。 天皇はこれを皆殺した。 治世元年十一月十三日、天皇は司に命じられて、即位のための壇を泊瀬の朝倉に設け、皇位に即かれた。宮を定めて、朝倉宮といった。 二年丁酉の春三月三日、草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)を立てて皇后とされた。 妃の葛城円大臣の娘を、韓媛という。白髪武広国押稚日本根子皇子尊(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのみこのみこと:清寧天皇)と、稚足姫皇女(わかたらしひめのひめみこ)とをお生みになった。 つぎの妃、吉備上道臣の娘の稚姫(わかひめ)は、二男を生んだ。兄を磐城皇子(いわきのみこ)といい、弟を星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)という。 つぎの妃を、春日和珥臣深目(かすがのわにのおみふかめ)の娘の童女君(おみなぎみ)という。春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)を生んだ。 平群真鳥臣(へぐりのまとりのおみ)を大臣とし、大伴連室屋(おおとものむらじむろや)と物部連目(もののべのむらじめ)を大連とした。 二十二年春一月一日、白髪皇子を立てて皇太子とし、物部布都久留連公(もののべのふつくるのむらじきみ)を大連とした。 二十三年己巳の秋八月七日、天皇は病いよいよ重く、百官と別れのことばを述べられ、手を握って嘆かれた。 大殿において崩御された[ときに年百二十四歳]。 御陵は河内の多治比高鷲原にある。 天皇がお生みになった御子は、三男二女。 白髪武広国押稚日本根子皇子尊、次に稚足皇女[伊勢大神に侍り祀った]。次に磐城皇子。次に星川皇子。次に春日大娘皇女。 ■清寧天皇 諱は白髪武広国押稚日本根子皇子尊。雄略天皇の第三子である。 母を葛城韓媛といい、葛城円大臣の娘である。 天皇は、生まれながらにして白髪であった。成長されてからは、人民をいつくしまれた。雄略天皇の多くの子の中で、特にふしぎな、変わったところがあった。 先の天皇の治世二十二年、白髪武広国押稚日本根子皇子を立てて、皇太子とされた。 二十三年八月に、雄略天野が崩御された。 雄略天皇の妃の吉備稚媛は、ひそかに幼い星川皇子に語っていった。 「皇位に登ろうと思うのなら、まず大蔵の役所を取りなさい」 長子の磐代皇子は、母夫人がその幼い皇子に教える言葉を聞いて仰せられた。 「皇太子は我が弟であるけれども、どうして欺くことができようか。してはならないことだ」 星川皇子はこれを聞かないで、たやすく母夫人の意に従い、ついに大蔵の役所を取った。 外門を閉ざし固めて、攻撃に備えた。権勢をほしいままにし、官物を勝手に使った。 大伴室屋大連は、東漢掬直(やまとのあやのつかのあたい)にいった。 「雄略天皇の遺詔のことが、今やって来ようとしている。遺詔にしたがって皇太子を奉じなければならない」 そうして兵士を動かして大蔵を取り囲んだ。 外から防ぎ固めて、火をつけて焼き殺した。 このとき、吉備稚媛と磐城皇子の異父兄の兄君と、城丘前来目(きのおかさきのくめ)も星川皇子と共に焼き殺された。 この月、吉備上道臣らは、朝廷に乱ありと聞いて、吉備の姫に所生の星川皇子を救おうと思い、船軍四十艘を率いて海上にやって来たが、すでに皇子が焼き殺されたと聞いて、海路を帰った。 天皇は使いを遣わして、上道臣らを咎め、その管理していた山部を召し上げられた。 冬十月四日、大伴室屋大連は、臣・連たちを率いて、皇位のしるしを太子に奉った。 治世元年春一月十五日、司に命じて、壇を磐余の甕栗(みかくり)に設け、即位された。宮を定め、甕栗宮といった。 葛城韓媛を尊んで、皇太夫人とした。葛城円大臣の娘である。 大伴室屋大連と平群真鳥大連(へぐりのまとりのおおむらじ)を大連に任じることは元の通りであった。臣、連、伴造らも、それぞれもとの位のままお仕えした。 冬十月九日、雄略天皇を丹比高鷲原陵に葬った。 二年冬十一月、大嘗祭の供物を調えるため、播磨国に遣わした使者、山部連の祖・伊予来目部小楯(いよのくめべのおたて)が、赤石郡において縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)である忍海部造細目(おしぬみべのみやつこほそめ)の家の新築の宴で、市辺押磐皇子の子の億計、雄計を見出した。この方たちを、君としてあがめ奉ろうと思い、大いに謹んで養い、私財を供して柴宮を立てて、仮にお住みいただいた。早馬を走らせ、天皇にお知らせした。 天皇は驚き、歎息してしばらく悼まれてから仰せられた。 「めでたいことだ、悦ばしいことだ。天は大きな恵みを垂れて、二人の子を賜った」 このことは、顕宗天皇の記にある。 三年春一月一日、小楯は億計・雄計を奉じて摂津国にきた。臣・連にしるしを持たせて、王の青蓋車にお乗せして、宮中に迎え入れられた。 夏四月二十七日に、億計王を皇太子とし、雄計王を皇子とした。 秋七月、飯豊皇女が角刺宮で、はじめて男と交合をされた。人に語って仰せられた。 「人並みに女の道を知ったが、別に変わったこともない。今後は男と交わりたいとは思わない」 五年春一月十六日に、天皇は宮で崩御された。 冬十一月九日に、河内の坂戸原陵に葬った。 天皇に御子はいらっしゃらない。 |
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■顕宗天皇
諱は雄計皇子尊。履中天皇の孫で、市辺押磐皇子の子である。またの名を来目稚子(くめのわくご)という。 雄計王の母は荑媛(はえひめ)といい、蟻臣の娘である。その蟻臣は葦田宿祢の子である。 『譜第』に、市辺押磐皇子は荑媛を娶って、三男二女を生んだという。第一を居夏媛(いなつひめ)という。第二を億計(おけ)王、またの名を嶋稚子、またの名を大石尊という。第三を雄計王、またの名を来目稚子という。第四を飯豊(いいどよ)女王、またの名を忍海郎女王(おしぬみのいらつめのきみ)という[ある書では、億計王の上に入れている]。第五を橘王という。 天皇は長く辺境の地にいらっしゃって、人民の憂い苦しみをよく知っておられた。常に虐げられるものを見ては、自分の身体を溝に投げ入れられるように感じられた。徳を敷き、恵みをほどこして、政令をよく行われた。貧しい者に恵み、寡婦を養い、天下の人々は天皇に親しみなついた。 安康天皇の治世三年十月、天皇の父の市辺押磐皇子と、舎人の佐伯部仲子は、近江国の蚊屋野で、雄略天皇のために殺された。そのため、二人は同じ穴に埋められた。 そこで天皇(顕宗)と億計王は、父が射殺されたと聞いて、恐れてともに逃げ、身を隠された。舎人の日下部連使主と、その子の吾田彦は、ひそかに天皇と億計王を連れて難を丹波国の余社郡に避けた。 使主は名前を改めて田疾来(たとく)とした。なお殺されることを恐れて、ここから播磨の縮見山の石屋に逃れ、みずから首をくくって死んだ。 天皇は使主の行き先を知られなかった。兄の億計王を促して、播磨国の赤石郡に行き、ともに名前を変えて丹波の小子といった。縮見屯倉首に仕えた。吾田彦はここに至るまで、離れず長く従い仕えた。 清寧天皇の治世二年冬十一月、播磨国司で山部連の先祖の伊予来目部小楯が、赤石郡でみずから新嘗の供物を調えた。たまたま縮見屯倉首が新築祝いにきて、夜通しの遊宴に会った。 そのとき天皇は兄の億計王に語って仰せになった。 「わざわいをここに避けて何年にもなりました。名を明かして尊い身分であることを知らせるのには、今宵はちょうどいい」 億計王は、嘆きながら仰せられた。 「そうやって自分から暴露して殺されるのと、身分を隠して災いを免れるのと、どちらがよいだろう」 天皇は仰せられた。 「私は履中天皇の孫です。それなのに苦しんで人に仕えて、牛馬の世話をしている。名前を明らかにして、殺されるのなら殺されたほうがましだ」 億計王と抱き合って泣き、自分を抑えることができなかった。億計王は仰せられた。 「弟以外に、誰も大事を明かして人に示すことのできる者はいない」 天皇は否定して仰せになった。 「私は才がなく、大業を明らかにすることはできようか」 億計王が仰せられた。 「弟は賢く徳があり、これに優る人はない」 このように譲り合われること、二度三度に及んだ。ついに天皇がみずから述べられることを許され、共に部屋の外に行き、座の末席にお着きになった。 屯倉首は竈のそばに座らせて、左右に火を灯させた。夜がふけて、宴もたけなわになり、つぎつぎに舞いも終わった。 屯倉首は小楯にいった。 「私がこの火を灯す係りの者を見るに、人を尊んで己を賤しくし、人に先を譲って己を後にしています。謹み敬って節に従い、退き譲って礼節を明らかにしています。君子というべきでしょう」 小楯は琴をひき、火灯しをしていた二人に命じて、「立って舞え」といった。兄弟は譲り合ってなかなか立たなかった。 小楯は責めていった。 「何をしている。遅すぎるではないか。早く立って舞え」 億計王は立って、舞い終わった。天皇は次に立って、衣装を整え、家褒めの歌をうたわれた。 築き立つる稚室葛根、築立つる柱は、この家長の御心の鎮まりなり。 採りあぐる棟梁は、この家長の御心の林なり。 採りおける椽橑は、この家長の御心の斉なり。 採りおける蘆雚は、この家長の御心の平なるなり。 採りはべる結縄は、この家長の御寿の堅なり。 採り葺ける草葉は、この家長の御富の余りなり。 出雲は新饗。新饗の十握稲の穂。浅甕に醸める酒、美に飲喫ふるかわ。吾が子たち。脚日木のこの傍山に、牡鹿の角ささげて吾が舞いすれば、旨酒、餌香の市に、直もて買はぬ。手掌もやららに拍上げ賜つ、吾が常世たち。 築き立てる新しい室の綱、柱は、この家の長の御心を鎮めるものだ。 しっかり上げる棟や梁は、この家の長の御心をはやすものだ。 しっかり置く垂木は、この家の長の御心を整えるものだ。 しっかり置くえつりは、この家の長の御心を平らかにするものだ。 しっかり結んだ縄は、この家の長の寿命を堅くするものだ。 しっかり葺いた茅は、この家の長の富の豊かさを表すものだ。 出雲の新饗の十握の稲穂や、浅い甕に醸んだ酒を、おいしく飲食することよ、我が友達。この山の傍で、牡鹿の角のように捧げて私が舞えば、この旨い酒は、餌香市でも値段がつけられない。手を打つ音もさわやかにいただいた、我が永遠の友達よ。 家褒めが終わって、曲の節に合わせて歌っていわれた云々と別の書にある。 小楯がいった。 「これは面白い。また聞きたいものだ」 天皇はついに殊舞(たつづのまい)をされました。そして叫び声をあげて歌われた。 倭は、そそ茅原、浅茅原、弟日、僕らま。 倭はそよそよとした茅の原。その浅茅原の弟王だ、私は。 小楯はこれによって深く怪しみ、さらに歌わせた。天皇はまた叫び歌われた。 石上振るの神杉。本伐り末おしはらい、市辺宮に、天下治しし、天万国万押磐尊の御裔、僕らま是なり。 石上の布留の神杉を本を伐り末を押し払うように威を現した、市辺宮で天下をお治めになった押磐尊の御子であるぞ、私は。 小楯は大いに驚いて席を離れ、いたみいりながら再拝申しあげた。一族を率いて謹みお仕えし、ことごとく郡民を集めて宮造りに従った。日ならずして出来た宮に、仮にお入りいただき、都に申しあげて、二人の王をお迎えいただくように求めた。 清寧天皇はこれを聞いてお喜びになり、感激して仰せになった。 「自分には子がない。これを後継ぎとしよう」 そうして大臣・大連と策を禁中に定め、播磨国司の来目部小楯にしるしを持たせて、左右の舎人をつれて明石に行き、お迎えさせた。 清寧天皇三年春一月、天皇は兄の億計王に従って、摂津国においでになった。臣・連がしるしを捧げ、青蓋車にお乗りになって、宮中にお入りになった。 夏四月、億計王を立てて皇太子とし、天皇を皇子とした。 五年一月、清寧天皇は崩御された。 ときに、皇太子億計王と天皇とが皇位を譲りあわれて、長らく位につかれなかった。このため天皇の姉の飯豊青皇女が、忍海角刺宮で仮に朝政をご覧になった。みずから忍海飯豊青尊と称された。 冬十一月、飯豊青尊は崩御された。葛城埴口丘陵に葬った。 十二月、百官が集った。億計皇太子は、天皇のしるしを天皇の前に置かれた。再拝して臣下の座について仰せられた。 「この天子の位は、功のあった人が居るべきです。尊い身分であることを明らかにして、迎え入れられたのはみな弟の考えによるものです」 そして天下を天皇に譲られた。天皇は弟であるからと、あえて位につかれなかった。 また、清寧天皇がまず兄に伝えようと思われて、皇太子に立てられたことをおっしゃって、何度も固く辞退して仰せになった。 「太陽や月が昇って、灯りをつけておくと、その光はかえって災いとなるでしょう。恵みの雨が降って、その後もなお水をそそぐと、無意味につかれることになります。人の弟として尊いところは、兄によく仕えて、兄が難をのがれられるように謀り、兄の徳を照らし、紛争を解決して、自分は表に立たないことにあります。もし表面に立つことがあれば、弟として恭敬の大義にそむくことになります。私はそんな立場にいるが忍びない。兄が弟を愛し、弟が兄を敬うのは、常に変わらない定めです。私は古老からこのように聞いています。どうしてひとりでみずから定めを軽んじられましょう」 億計皇太子が仰せられた。 「清寧天皇は、私が兄だからと天下の事をまず私にさせなさったが、自分はそれを恥ずかしく思います。思えば大王がはじめに、たくみに逃れる道をたてられたとき、それを聞くものはみな歎息しました。帝の子孫であることを明らかにしたときには、見る者は恐懼のあまり涙を流しました。心配に耐えなかった百官たちは、天をともに頂く喜びを感じました。哀しんでいた人民は、喜んで大地をふんで生きる恩を感じました。これによって、よく四方の隅までも固めて、長く万代に国を栄えさせるでしょう。その功績は天地の万物を創造した神に近く、清明なお考えは、世を照らしています。その偉大さは何とも表現しがたいことです。ですから、兄だからといって、先に位につくことができましょうか。功あらずして位にあるときは、咎めや悔いが必ずやってくるでしょう。天皇の位は長く空けてはならないと聞いています。天命は避け防ぐことはできません。大王は国家を経営し、人民のことをその心としてください」 言葉を述べるうちに、激して涙を流されるに至られた。 天皇はそこに居るまいと思われたが、兄の心に逆らえないと思われ、ついにお聞き入れになった。けれどもまだ御位にはつかれなかった。 世の人は、心からよくお譲りになったことを美しいこととして、「結構なことだ、兄弟が喜びやわらいで、天下は徳によっている。親族が仲睦まじいと、人民にも仁の心が盛んになるだろう」といった。 治世元年春一月一日、大臣・大連らが申しあげた。 「億計皇太子は聖明の徳が盛んで、天下をお譲りになりました。陛下は正統でいらっしゃいます。日嗣の位を受けて、天下の主となり、皇祖の無窮の業を受け継いで、上は天の心に沿い、下は人民の心を満足させてください。ですから、践祚をご承知いただけませんと、金銀を産する隣りの諸国の群僚など、遠近すべてのものが望みを失います。皇太子の推し譲られることによって、聖徳はいよいよ盛んとなり、幸いは大変明らかであります。幼いときからへりくだり敬い、いつくしみ順う御心でおられました。兄のご命令をお受けになって、大業を受け継いでください」 ついに詔をして、「ゆるす」と仰せられた。 そこで公卿百官を、近飛鳥八釣宮に召されて、天皇に即位された。お仕えする百官はみな喜んだ。甕栗宮に都を造った。 難波小野女王を皇后に立てられた。允恭天皇の曾孫・磐城王の孫、丘稚子王の娘である。 物部小前宿根を大連とされた。 三年四月二十五日、天皇は八釣宮で崩御された。 天皇に御子はいらっしゃらない。 |
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■仁賢天皇
億計天皇は、諱は大脚。またの名は大為(おおす)。字は嶋郎(しまのいらつこ)。顕宗天皇の同母兄である。 天皇は幼い時から聡明で、才に敏く多識であった。壮年になられてめぐみ深く、へりくだった穏やかな方であった。 安康天皇の崩御で、難を避けて丹波国の余社郡においでになった。 清寧天皇の元年冬十一月に、播磨の国司の山部連小楯(やまべのむらじおたて)が京に行き、お迎え申しあげることを求めた。清寧天皇は小楯を引き続き遣わし、しるしを持たせて左右の舎人をつけ、赤石に至り迎え奉った。 二年夏四月、仁賢天皇を立てて皇太子とされた。顕宗天皇の紀に詳らかである。 五年に清寧天皇が崩御されたことにより、天下は顕宗天皇に譲られた。皇太子であることは元のままであった。 三年夏四月に、顕宗天皇は崩御された。 元年戊辰の春一月五日に、皇太子尊は即位された。石上広高宮に都を造られた。 二月二日、以前からの妃の春日大娘皇女を立てて皇后とされた。春日大娘皇女は、雄略天皇が和珥臣の深目の娘・童女君を娶ってお生みになった方である。 皇后は、一男六女をお生みになった。第一を高橋大娘皇女(たかはしのおおいらつめのひめみこ)といい、第二を朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)といい、第三を手白香皇女(たしらかのひめみこ)[継体天皇の皇后である]といい、第四を奇日皇女(くしひのひめみこ)といい、第五を橘皇女(たちばなのひめみこ)といい、第六を小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)といい、第七を真稚皇女(まわかのひめみこ)という。 次に、和珥臣日爪の娘の糖君娘(あらきみのいらつめ)は、春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)を生んだ。 冬十月三日、顕宗天皇を傍丘磐坏陵に葬った。 七年の春正月二十三日、小泊瀬稚鷦鷯尊を立てて皇太子とされた。 十一年秋八月八日に、天皇は大殿で崩御された。 冬十月五日に、埴生坂本陵に葬った。 天皇がお生みになった御子は、一男七女。小泊瀬稚鷦鷯尊。 |
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■武烈天皇
諱は小泊瀬稚鷦鷯尊。仁賢天皇の皇太子である。母を春日大娘という。 仁賢天皇の治世七年に、立って皇太子になられた。 天皇は長じて裁きごとや処罰を好まれ、法令に詳しかった。日の暮れるまで政務に励まれ、知らないでいる無実の罪などは、必ず見抜いて明らかにされた。訴えを処断されることが上手であった。 また、しきりにいろいろな悪事をなされた。一つも良いことを修められず、およそさまざまの極刑を親しくご覧にならないことはなかった。国中の人民はみな震え恐れた。 十一年八月に、仁賢天皇が崩御された。 治世元年冬十一月十一日、皇太子は司に命じて壇を泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)に設けて、即位された。そしてここを定めて都とし、列城宮といった。 二年己卯の春三月二日、春日娘女を立てて皇后とされた。物部麻佐良連公(もののべのまさらのむらじのきみ)を大連とした。 八年の冬十二月八日に、天皇は列城宮で崩御された。 天皇に御子はいらっしゃらない。 |
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■巻第九 帝皇本紀 | |
■継体天皇
諱は男大迹天皇(おほどのすめらみこと)。またの名を彦太尊は、応神天皇の五世孫で、彦主人王(ひこうしのきみ)の子である。 母を振媛(ふるひめ)という。振媛は垂仁天皇の七世孫である。天皇の父は、振媛が容貌端正ではなはだ美人であることを聞いて、近江国高島郡の三尾の別邸から、使いを遣わして越前国三国の坂中井に迎え、召しいれて妃とされた。そして天皇をお生みになった。 天皇が幼年のうちに、父王は亡くなった。振媛は嘆いていった。 「私はいま、遠く故郷を離れてしまいました。どうやってよく天皇を養いたてまつることができましょうか」 成人された天皇は、人を愛し賢人を敬い、心が広く豊かでいらっしゃった。 武烈天皇は八年冬十二月八日に崩御されたが、もとより男子も女子もなく、跡継が絶えてしまうところであった。 大伴金村大連が皆にはかっていった。 「いま絶えて継嗣がない。天下の人々はどこに心をよせたらよいであろう。古くから今に至るまで、禍はこういうことから起きている。仲哀天皇の五世孫の、倭彦王が丹波国桑田郡にいらっしゃる。試みに兵士を遣わし、御輿をお守りしお迎えして、大王として奉ろう」 大臣・大連らは皆これに従い、計画のごとくお迎えすることになった。 ところが倭彦王は、遥かに迎えに来た兵士を望んで恐れ、顔色を失った。そして山中に逃れて行方がわからなくなってしまった。 元年丁亥の春一月四日、大伴金村大連はまたはかっていった。 「男大迹王は、ひととなりが情け深く親孝行で、皇位を継がれるのに相応しいかたである。ねんごろにお勧め申しあげて、皇統を栄えさせようではないか」 物部麁鹿火大連(もののべのあらかいのおおむらじ)、許勢男人大臣(こせのおひとのおおみ)らは皆いった。 「皇孫を調べ、選んでみると、賢者は確かに男大迹王だけらしい」 六日に臣・連たちを遣わし、しるしを持って御輿を備え、三国にお迎えに行った。 兵士が囲み守り、容儀いかめしく整え、先ばらいして到着すると、男大迹天皇はいつもどおり落ち着いて床几にかけておられた。侍臣を整列させて、すでに天子の風格を具えておられた。しるしをもった使いたちは、これを見てかしこまり、心を傾け、命を捧げて忠誠を尽くすことを願った。 しかし、天皇はこの願いに裏のあることを、なお疑われて、すぐには承知されなかった。 天皇は、たまたま河内馬飼首の荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)をご存知であった。荒籠は密かに使いを差し上げて、詳しく大臣・大連らがお迎えしようとしている本意をお伝えした。 使いは二日三晩留まっていて、ついに天皇は立たれることになった。そして歎息して仰せられた。 「よかった、馬飼首よ。もしお前が使いを送って知らせてくれることがなかったら、私は天下の笑いものになるところだった。世に“貴賎を論ずることなく、ただその心だけを重んずるべし”というのは、思うに荒籠のようなものをいうのであろう」 皇位につかれてから、厚く荒籠を寵愛された。 十二日に天皇は樟葉宮においでになられた。 二月四日、大伴金村大連はひざまずいて、天子の御しるしである鏡と剣を奉って拝礼した。男大迹天皇は辞退して仰せられた。 「民をわが子として国を治めることは重大な仕事である。自分は才能がなく、天子を称するには力不足である。どうかよく考えて、真の賢者を選んでほしい。自分では到底できないから」 大伴大連は地に伏して固くお願いした。男大迹天皇は西に向かって三度、南に向かって二度、辞譲の礼を繰り返された。大伴大連らは皆願い申しあげた。 「臣らが伏して計るに、大王は民をわが子同様に思って国を治められる、最も適任のかたです。私達は国家のため、思い図ることを決しておろそかに致しません。どうか多数の者の願いをお聞き入れください」 男大迹天皇は仰せになった。 「大臣・大連・将相・諸臣すべてが私を推すのであれば、私も背くわけにはいかない」 そして天子の御しるしを受けられて天皇に即位された。また、皇妃を尊んで皇大夫人媛とされた。 十日、大伴大連が奏請して申しあげた。 「臣が聞くところでは、古来の王が世を治められるのに、確かな皇太子がおられないと、天下をよく治めることができず、睦まじい皇妃がないと、よい子孫を得る事ができない、といいます。その通り清寧天皇は、跡継がなかったので、私の祖父の大伴大連室屋を遣わせて、国ごとに三種の白髪部を置かせ、ご自分の名を後世に残そうとされました。何といたましいことではありませんか。どうか手白香皇女を召して皇后とし、神祇伯らを遣わして、天神地祇をお祭りし、天皇の御子が得られるようにお祈りして、人民の望みに答えてください」 天皇は「よろしい」と仰せられた。 三月一日、詔して仰せられた。 「天神地祇を祀るには神主がなくてはならず、天下を治めるには君主がなくてはならない。天は人民を生み、元首を立てて人民を助け養わせ、その生を全うさせる。大連は朕に子の無いことを心配し、国家のために世々忠誠を尽している。単に朕の世だけのことではない。礼儀を整えて手白香皇女をお迎えせよ」 甲子の日、手白香皇女を立てて皇后とし、後宮に関することを修められた。 そして皇后との間に、一人の男子をお生みになった。天国排開広庭尊(あまくにおしはららきひろにわのみこと:欽明天皇)である。この方が嫡子であるが、まだ幼かったので、二人の兄が国政を執られた後に、天下を治められた。二人の兄とは、兄が広国排武金日尊(ひろくにおしたけかなひのみこと:安閑天皇)、次が武小広国押盾尊(たけおひろくにおしたてのみこと:宣化天皇)である。 十四日、八人の妃を後宮に召し入れられた。それぞれの妃に前後があるが、この日に入れられるのは、即位をされ良い日を占い選んで、はじめて後宮に定められたので、文をつくったのである。他も皆これにならっている。 初めの妃、尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘を目子媛(めのこひめ)という。二人の子を生んだ。兄を勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)で、広国排武金日尊と申しあげる。次を檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)で、武小広国押盾尊と申しあげる。 次の妃、三尾角折君(みおのつのおりのきみ)の妹を稚子媛(わかこひめ)といい、一男一女を生んだ。大郎皇子(おおいらつこのみこ)と出雲皇女(いずものひめみこ)である。 次の妃に、坂田大跨王(さかたのおおまたのきみ)の娘の広媛(ひろひめ)は、三女を生んだ。神前皇女(かむさきのひめみこ)、茨田皇女(まむたのひめみこ)、馬来田皇女(うまくたのひめみこ)である。 次の妃、息長真手王(おきながのまてのきみ)の娘の麻積娘子(おみのいたつめ)は、一女を生んだ。荳角皇女(ささげのひめみこ)である。皇女は伊勢大神を斎き祀った。 次の妃、茨田連小望(まむたのむらじこもち)の娘を関媛(せきひめ)といい、三女を生んだ。茨田大娘皇女(まむたのおおいらつめのひめみこ)、白坂活日姫皇女(しらさかのいくひひめのひめみこ)、小野稚娘皇女(おののわかいらつめのひめみこ)である。 次の妃、三尾君堅拭(みおのきみかたひ)の娘を倭媛(やまとひめ)といい、二男二女を生んだ。大娘子皇女(おおいらつめのひめみこ)、椀子皇子(まろこのみこ)、耳皇子(みみのみこ)、赤姫皇女(あかひめのひめみこ)である。 次の妃、和珥臣河内(わにのおみかわち)の娘を荑媛(はえひめ)といい、一男二女を生んだ。稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ)、円皇女(つぶらのひめみこ)、厚皇子(あつのみこ)である。 次の妃、根王の娘の広媛は、二男を生んだ。兄が菟皇子(うさぎのみこ)、次が中皇子(なかつみこ)である。 二年の冬十月三日に、武烈天皇を傍丘磐坏丘陵に葬った。 五年の冬十月、都を山背に遷し、筒城宮といった。 八年の春一月、勾大兄皇子に命じていわれた。 「春宮にいて、朕を助けて仁愛を施し、政事を補え」 二十八年春二月、天皇の病は重く、磐余玉穂宮で崩御された。年八十二歳。 冬十二月五日に、藍野陵に葬った。 天皇がお生みになった御子は八男十二女。 皇子女の名は上の文に明らかなので、さらにまた記すことはしない。 兄に勾大兄広国排武金日尊。次に檜隈高田武小広国押盾尊。次に荳角皇女。皇女は伊勢大神を斎き祀った。 |
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■安閑天皇
諱は広国押武金日尊。継体天皇の長子である。 母を目子媛といい、尾張連草香の娘である。 天皇の人となりは幼少のころから器量すぐれ、はかることができないほどであった。いつまでも奢らず寛大で、人君としてふさわしい人柄であった。 先の天皇の治世二十五年の春二月七日に、継体天皇は大兄を立てて天皇とされた。その日に継体天皇は崩御された。 治世元年甲寅の春正月に、都を倭の勾に遷した。金橋宮という。 三月六日、役人に命じて、即位された。 春日山田皇女をむかえて皇后とされた。皇后のまたの御名は山田赤見皇女。仁賢天皇の皇女である。 別に三人の妃を立てた。許勢男人大臣の娘の紗手媛(さてひめ)。紗手媛の妹の香香有媛(かかりひめ)。物部木蓮子大連の娘の宅媛(やかひめ)である。 二年の冬十二月十七日に、天皇は、勾金橋宮で崩御された[年七十歳]。 この月、天皇を河内の古市高屋丘陵(ふるいちのたかやのおかのみささぎ)に葬った。皇后春日山田皇女と、天皇の妹の神前皇女も、この陵に合葬した。 天皇に御子はいらっしゃらない。 |
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■宣化天皇
諱は武小広国押盾尊。継体天皇の第二子で、安閑天皇の同母弟である。 二年十二月、安閑天皇は崩御されたが、跡継がなかった。 群臣達が奏上して、神器の鏡剣を武小広国押盾尊に奉った。 治世元年丁巳に即位され、天皇の元年とされた。 天皇のひととなりは、清らかで心がすっきりとしていらっしゃった。才智で人に対して驕り王者ぶる顔をされることがなく、君子らしい方であった。 二年の春正月に、都を檜隈(ひのくま)に遷し、廬入宮(いおりのみや)といった。 三月一日、役人たちは皇后を立てていただきたいと申しあげた。 それに答え詔して仰せられた。 「以前からの正妃の、仁賢天皇の娘・仲皇女を立てて皇后としたい」 皇后は一男三女をお生みになった。長女を石姫皇女(いしひめのひめみこ)。次を小石姫皇女(こいしひめのひめみこ)。次を稚綾姫皇女(わかやのひめみこ)。次を上殖葉皇子(かみつうえはのみこ)といい、またの名を椀子(まろこ)といった。 前からの庶妃の大河内稚子姫(おおしこうちのわくこひめ)は、火焔皇子(ほのおのみこ)を生んだ。 三年の春二月十日、天皇は廬入宮で崩御された[年七十三歳]。 冬十一月十七日、天皇を大倭国の身狭の桃花鳥坂上陵(つきさかのうえのみささぎ)に葬った。皇后の橘仲皇女と、その孺子をこの陵に合葬した。孺子は成人せずに亡くなったものか。 天皇がお生みになったのは二男三女。 長女を石姫皇女。次に小石姫皇女。次に稚綾姫皇女。次に上殖葉皇子、またの名を椀子[丹比・椎田君の祖]。次に火焔皇子[偉那君(いなのきみ)の祖]。 |
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■欽明天皇
諱は天国排開広庭尊。継体天皇の嫡子である。 母を手白香皇后といい、清寧天皇の皇女である。 父の天皇は、この皇子を可愛がって常にそばに置かれた。 まだ幼少のとき、夢に人が現れて申しあげた。 「天皇(欽明)が秦大津父(はたのおおつち)という者を寵愛されれば、壮年になって必ず天下を治められるでしょう」 夢がさめて、驚いて使いを遣わし、広く探されたら山背国紀伊郡の深草里にその人を見つけた。名前は果たして見られた夢のとおりであった。珍しい夢であると喜ばれ、大津父に告げて仰せられた。 「お前に何か思い当たることはあるか」 答えて申しあげた。 「特に変わったこともございません。ただ、私が伊勢に商いに行き、帰るとき、山の中で二頭の狼が咬み合って、血まみれになっているのに出会いました。そこで馬をおりて、手を洗い口をすすいで祈請し、“あなた方は恐れ多い神であるのに、荒々しい行いを好まれます。もし猟師に出会えば、たちまち捕らえられてしまうでしょう”といいました。そして咬み合うのをおしとどめて、血にぬれた毛を拭き、洗って逃がし、命を助けてやりました」 天皇は仰せられた。 「きっとこの報いだろう」 そうして大津父を近くに侍らせて、手厚く遇された。大津父は大いに富を重ねることになったので、皇位につかれてからは、大蔵卿に任じられた。 宣化天皇の治世四年冬十月、先の天皇は崩御された。 天国排開広庭皇子尊は、群臣に命じて仰せられた。 「自分は年若く知識も浅くて、政事に通じない。山田皇后は政務に明るく慣れておられるから、皇后に政務の決裁をお願いしなさい」 山田皇后は恐れかしこまって辞退され申しあげられた。 「私は山や海も及ばぬほどの恩寵をこうむっております。様々な政事の難しいことは、婦女の預かれるところではありません。今、皇子は老人を敬い、幼少の者を慈しみ、賢者を尊んで、日の高く昇るまで食事もとらず、士(ひと)をお待ちになります。また幼いときから抜きんでてすぐれ、声望をほしいままにし、人となりは寛容で、あわれみ深くいらっしゃいます。諸臣よ、早く天下に光を輝かせていただくようにお願いしなさい」 治世元年己未の冬十二月五日に、皇太子は即位された。 先の皇后を尊んで皇太后と申しあげ、皇太后を尊んで太皇太后の号を贈られた。 物部尾輿連公(もののべのおこしのむらじきみ)を大連にし、物部目連公(もののべのめのむらじきみ)を大臣とされた。 二年春一月十五日、役人たちは皇后を立てるようにとお願いした。天皇は詔して仰せられた。 「前からの正妃である宣化天皇の娘の石姫を立てて皇后としよう」 皇后は二男一女をお生みになった。長子を箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつのおおえのみこ)といい、次を訳語田渟中倉太珠敷尊(おさたのぬなくらのふとたましきのみこと)といった。一番下を笠縫皇女(かさぬいのひめみこ)といい、またの名を狭田毛皇女(さたけのひめみこ)という。 秋七月十四日、都を磯城に遷し、金刺宮(かなさしのみや)といった。 三年の春二月、五人の妃を召し入れられた。 前からの妃で皇后の妹を、稚綾姫皇女(わかあやひめのひめみこ)といい、一男を生んだ。石上皇子(いそのかみのみこ)である。 次の妃で皇后の妹を、日影皇女(ひかげのひめみこ)という。倉皇子(くらのみこ)を生んだ。 次の妃、堅塩姫(きたしひめ)は七男六女を生んだ。蘇我大臣稲目宿祢の娘である。第一を大兄皇子といい、橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)という。第二を磐隈皇女(いわくまのひめみこ)といい、またの名は夢皇女(ゆめのひめみこ)である[はじめは天照大神を祀り仕え、後に茨木皇子と通じて任を解かれた]。第三を臘嘴鳥皇子(あとりのみこ)という。第四を豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)という。第五を椀子皇子(まろこのみこ)という。第六を大宅皇女(おおやけのひめみこ)という。第七を石上部皇子(いそのかみべのみこ)という。第八を山背皇子(やましろのみこ)という。第九を大伴皇女(おおとものひめみこ)という。第十を桜井皇子(さくらいのみこ)という。第十一を肩野皇女(かたののひめみこ)という。第十二を橘本稚皇子(たちばなのもとのわかのみこ)という。第十三を舎人皇女(とねりのひめみこ)という。 次の妃で堅塩姫の同母妹である小姉君(おあねのきみ)は、四男一女を生んだ。第一を茨木皇子(うまらきのみこ)という。第二を葛城皇子(かずらきのみこ)という。第三を泥部穴穂部皇子(はしひとのあなほべのみこ)という。第四を泥部穴穂皇女(はしひとのあなほのひめみこ)という。第五を泊瀬部皇子(はつせべのみこ)という。 十五年の春一月七日、渟名倉太珠敷尊を立てて皇太子とされた。 三十二年の夏四月十五日に、天皇は病に臥せられた。皇太子は他に赴いて不在だったので、駅馬を走らせて呼び寄せた。大殿に引き入れて、その手を取り、詔して仰せられた。 「自分は重病である。後のことをお前にゆだねる。お前は新羅を討って、任那を封じ建てよ。またかつてのように両者が夫婦のような間柄になるなら、死んでも思い残すことはない」 天皇はついに大殿で崩御された。時に年は若干。 五月、河内の古市に殯した。九月、檜隈坂合陵(ひのくまのさかいのみささぎ)に葬った。 天皇のお生みになった皇子女は二十三人で、うち男子が十五人、女子が八人である。 |
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■敏達天皇
諱は渟中倉太珠敷尊。欽明天皇の第二子である。母を石姫皇后といい、宣化天皇の皇女である。 天皇は仏法を信じられず、文学や史学を好まれた。欽明天皇の治世二十九年、立って皇太子となられた。三十二年四月に、欽明天皇は崩御された。 治世元年夏四月三日、皇太子は即位された。先の皇后を尊んで皇太后といい、皇太后には太皇太后の号を贈られた。物部大市御狩連公(もののべのおおいちのみかりのむらじきみ)を大連とされた。 四年春一月九日、広姫(ひろひめ)を立てて皇后とされた。皇后は一男二女をお生みになった。第一が押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとおおえのみこ)、またの名を麻呂子皇子(まろこのみこ)。第二を逆登皇女(さかのぼりのみこ)といい、第三を莵道磯津貝皇女(うじのしつかいのひめみこ)という。 次に、春日臣仲君(かすがのおみなかつきみ)の娘の老女子(おみなこ)を立てて夫人とされた。三男一女を生んだ。第一を難波皇子(なにわのみこ)といい、第二を春日皇子(かすがのみこ)といい、第三を桑田皇女(くわたのひめみこ)といい、第四を大派皇子(おおまたのみこ)という。 次に采女で、伊勢大鹿首小熊(いせのおおかのおびとおぐま)の娘を莵名子(うなこ)夫人という。二女を生んだ。姉を大娘皇女(おおいらつめのひめみこ)、またの名を桜井皇女(さくらいのひめみこ)といい、妹を糠手姫皇女(ぬかてひめのひめみこ)、またの名を田村皇女(たむらのひめみこ)という。 この年、卜部に命じて、海部王(あまべのきみ)の家地と糸井王(いといのきみ)の家地を占わせたら結果は吉と出た。そこで、宮を沢語田(おさだ)に造り、幸玉宮(さきたまのみや)といった。 五年春三月十日、役人が皇后を立てるように申しあげた。そこで詔して、豊御食炊屋姫尊を立てて皇后とされた。皇后は二男五女をお生みになった。第一を莵道貝鮹皇女(うじのかいたこのひめみこ)といい、東宮・聖徳太子尊の妃となった。第二は竹田皇子(たけだのみこ)。第三を小墾田皇女(おはりだのひめみこ)といい、彦人大兄王に嫁いだ。第四は鸕鷀守皇女(うもりのひめみこ)、またの名を軽守皇女(かるもりのひめみこ)。第五を尾張皇子(おわりのみこ)という。 十四年秋八月十五日、天皇は大殿で崩御された。よって葬殯(もがり)をした。 天皇がお生みになった皇子女は十五人で、男子が八人、女子が七人である。 |
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■用明天皇
諱は橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)。欽明天皇の第四子である。母は皇后の堅塩媛という。 天皇は仏法を信じられ、神道を尊ばれた。先の天皇の治世十四年秋八月、敏達天皇が崩御された。九月五日に、天皇は即位された。磐余の地に都を造り、池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)といった。物部弓削守屋連公(もののべのゆげのもりやのむらじきみ)を大連とされ、また大臣とされた。 治世元年丙午の春一月一日、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を立てて皇后とされた。皇后は四人の男子をお生みになった。 第一を厩戸皇子(うまやとのみこ)、またの名を豊聡耳聖徳皇子(とよとみみのしょうとくのみこ)、あるいは豊聡耳法大王(とよとみみののりのおおきみ)という。あるいは法主王(のりのうしのきみ)。この皇子ははじめ、上宮にお住みになった。のち斑鳩(いかるが)に移られた。 推古天皇の御世に皇太子となられ、すべての政務を統括されて天皇の政事を行われたことは、推古天皇の記に見える。 第二を来目皇子(くめのみこ)という。三番目を殖栗皇子(えぐりのみこ)という。第四を茨田皇子(まんだのみこ)という。 蘇我大臣稲目宿祢(そがのいなめすくね)の娘の石寸名(いしきな)を嬪とされた。嬪は一男を生んだ。田目皇子(ためのみこ)、またの名を豊浦皇子(とゆらのみこ)である。 葛城直磐村(かずらきのあたいいわむら)の娘の広子(ひろこ)は、一男一女を生んだ。男子を麻呂子皇子(まろこのみこ)という。当麻公の祖である。女子は酢香手皇女(すかてのひめみこ)という。 二年夏四月二日、磐余の河上で、新嘗の祭りが行われた。この日、天皇は病にかかられて宮中に帰られた。群臣がおそばに侍った。天皇は群臣に詔して仰せられた。 「私は仏法僧の三宝に帰依したいと思う。卿らにこのことを考えてほしい」 群臣は参内して相談した。物部守屋大連と中臣勝海連(なかとみのかつみのむらじ)は勅命の会議で反対していった。 「どうして国の神に背いて、他の神を敬うのか。もとより、このようなことは聞いたことがない」 蘇我馬子宿祢大臣はいった。 「詔に従って、お助けすべきである。誰がそれ以外の相談をすることがあろうか」 九日、天皇は大殿で崩御された。 秋七月二十一日、磐余池上陵(いわれのいけのえのみささぎ)に葬った。 天皇のお生みになった皇子女は七人。男子が六人で女子が一人である。 |
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■崇峻天皇
諱は泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)。欽明天皇の第十二子である。母を小姉君(おあねのきみ)といい、稲目宿祢の娘である。 先の天皇の治世二年夏四月九日、用明天皇は崩御された。この時、穴穂部皇子らが謀反をおこした。 秋八月癸卯朔甲辰の日、炊屋姫尊と群臣が天皇に勧めて、即位の礼を行った。 この月に倉梯(くらはし)に宮殿を造った。 治世元年春三月、大伴糠手連(おおとものあらてのむらじ)の娘・小手子(こてこ)を立てて妃とされた。妃は一男一女を生んだ。蜂子皇子(はちこのみこ)と錦代皇女(にしきでのひめみこ)である。 四年夏四月十三日、敏達天皇を磯長陵に葬った。これは、その母の皇后の葬られていた陵である。 五年冬十月四日、猪が献上されることがあった。天皇は猪を指して仰せになった。 「いつの日にか、この猪の首を斬るように、自分が嫌いに思う人を斬りたいものだ」 多くの武器を集めることが、いつもと違っていることがあった。大伴嬪・小手子は天皇の寵愛の衰えたことを恨み、人を蘇我馬子宿祢に使いを出して告げた。 「この頃、猪が献じられることありました。天皇は猪を指差して、“猪の首を斬るように、いつの日にか、自分の思っているあの人を斬りたい”といわれました。また、内裏に多くの武器を集めておられます」 馬子宿祢は、それを聞いて驚いたという。 十日に、蘇我馬子宿祢は、天皇が仰せになったという言葉を聞いて、自分を嫌っておられることを恐れ、一族の者を招集して、天皇を弑することを謀った。 十一月三日、馬子宿祢は群臣をあざむいていった。 「今日、東国から調が献上されてくる」 そして東漢直駒を使って、天皇を弑したてまつった。 この日、天皇を倉梯岳陵に葬った。 |
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■推古天皇
諱は豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)は、欽明天皇の娘で、用明天皇の同母妹である。幼少のときは額田部皇女と申しあげた。容姿端麗で立ち居ふるまいにもあやまちがなかった。 十八歳のとき、敏達天皇の皇后となられた。三十四歳のとき、敏達天皇が崩御された。三十九歳の崇峻天皇五年十一月、天皇は大臣馬子宿祢(うまこのすくね)のために弑され、皇位が空いた。 群臣は敏達天皇の皇后である額田部皇女に、皇位を嗣がれるように請うたが、皇后は辞退された。百官が上奏文をたてまつって、なおもおすすめしたので、三度目になって、ついに従われた。そこで皇位の印である神器をたてまつって、冬十二月八日に、皇后は豊浦宮(とゆらのみや)で即位された。 治世元年の夏四月十日、厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)を立てて皇太子とされ、摂政として国政をすべて任せられた。 太子は用明天皇の第二子で、母の皇后を穴穂部間人皇女と申しあげる。母の皇后はご出産予定日に、禁中を巡察して諸官司をご覧になっていたが、馬司のところにおいでになったとき、厩の戸にあたられた拍子に、難なく出産された。太子は生まれながらにものをいわれ、聖人のような知恵をお持ちであった。成人してからは、一度に十人の訴えをお聞きになっても、誤られることなく、先の事までよく見通された。また、仏法を高麗の僧・慧慈(えじ)に習い、儒教の経典を覚(かくか)博士に学ばれた。そしてことごとくそれをお極めになった。 父の天皇が可愛がられて、宮殿の南の上宮(かみつみや)に住まわせられた。そこでその名をたたえて、上宮厩戸豊聡耳太子と申しあげる。 秋九月、用明天皇を河内磯長陵(かわちのしながのみささぎ)に改葬した。 二年の春三月一日、皇太子と大臣に詔して、仏教の興隆を図られた。このとき、多くの臣・連たちは主君や親の恩に報いるため、きそって仏舎を造った。これを寺という。 九年春二月、皇太子ははじめて宮を斑鳩(いかるが)に建てられた。 十一年十二月五日、はじめて冠位十二階を制定した。それぞれ適当な位が定められた。 十二年の春一月一日に、はじめて冠位を諸臣に賜り、それぞれ位づけされた。 夏四月三日、皇太子はみずから十七条憲法を作られた。 十三年冬十月に皇太子は斑鳩宮に移られた。 十五年秋七月三日、大礼小野臣妹子(おののおみいもこ)を大唐に遣わした。鞍作福利(くらつくりのふくり)を通訳とした。これが、唐の国に遣使する始めである。 十六年夏四月、小野妹子は大唐の国から帰国した。唐では妹子臣を名づけて、蘇因高(そいんこう)と呼んだ。 大唐の使者・裴世清(はいせいせい)と下客十二人が妹子臣に従って筑紫についたと別の書にある。 秋九月十一日、唐からの客人・裴世清は帰ることになった。そこでまた大仁小野妹子臣を大使とし、小仁吉志雄成(きしのおなり)を小使とし、小礼福利を通訳として随行させた。 物部鎌姫大刀自連公(もののべのかまひめのおおとじのむらじきみ)を参政とした。 十七年秋九月、小野妹子らは大唐から戻った。 二十年春二月二十日、皇太夫人堅塩媛(きたしひめ)を檜隈大陵(ひのくまのおおみささぎ)に改葬した。 この日、軽の街中で誄(しのびごと)をたてまつった。第一に阿部内臣鳥(あべのうちのおみとり)が天皇のお言葉を読みたてまつり霊に物をお供えした。お供えした物は祭器、喪服の類いが一万五千種もあった。第二に諸皇子が序列に従ってそれぞれ誄され、第三に中臣宮地連烏摩侶(なかとみのみやところのむらじおまろ)が大臣の言葉を誄した。第四に馬子大臣が多数の支族らを率いて、境部臣摩利勢(さかいべのおみまりせ)に氏姓のもとについて誄を述べさせた。 時の人は、「摩利勢、鳥摩侶の二人はよく誄を述べたが、鳥臣だけはよく誄をすることができなかった」といった。 二十二年夏六月十三日、大仁矢田部御嬬連公(やたべのみつまのむらじきみ)に詔して、姓を改め造とした。そうして大唐への使いに遣わした。また、大礼犬上君御田鍬(いぬがみのきみみたすき)を小使として遣わした。 物部恵佐古連公(もののべのえさこのむらじきみ)を大連とした。 二十三年秋九月、矢田部造御嬬、犬上御田鍬らが大唐から戻った。 二十七年冬三日、太子が定めて仰せられた。 「君に仕えることに忠を尽くす臣を探せば、まさに両親を愛しむ子と同じである。なぜなら、父は天であり、天に従うことを孝という。また、君は日であり、君に従うことを忠という。その后は月であり、また母である。ゆえにこれに従うのは臣といい、また親に従うことをいう。孝経に“忠臣を求めるならば、必ず孝行息子のいる家にいる”という。これは孝の道から至る。 幸福は流れ落ちる泉のようであり、この理は春雨が万物を成長させるようなものである。もし、この道に逆らえば大禍をうけ、福を減じることは塩を水の中に捨てるようなものである。 すべてこのようなことを道という。 別にこれを名づけて八義という。いわゆる八義とは、孝・悌・忠・仁・礼・義・智・信を指す。また、天地・日・月・星辰・聖・賢・神・祇は、人倫が重んじるものである。それこそが寿称・官爵・福徳・栄楽である。 貧しい人生にとって貴いものは、孝道をいくことである。栄祥を格し、礼儀を勤めて身を立てる者である。これゆえ、八義になぞらえて、爵位を定める。 孝は天であり、紫冠を第一とする。 忠は日であり、錦冠を第二とする。 仁は月であり、繍冠を第三とする。 悌は星であり、纏冠を第四とする。 義は辰であり、緋冠を第五とする。 礼は聖であり、深緑を第六とする。 智は賢であり、浅緑を第七とする。 信は神であり、深縹を第八とする。 祇は祇であり、浅縹を第九とする。 地は母であり、よって立身と名づけて、黄冠を第十とする。 今より後、永く常の法とせよ」 二十八年春二月十一日、上宮厩戸豊聡耳皇太子命と大臣蘇我馬子宿祢は、詔を受けたまわって、代々の古事である、天皇紀および国記、臣・連・伴造・国造および多くの部民公民らの本紀を撰録した。 春三月一日、定めて仰せられた。 「君后に対して不忠をする者、また父母に対して不孝をする者について、もし声を上げずこれを隠す者は、同じくその罪を担い重く刑法を科す」 二十九年春二月五日、夜半に、皇太子上宮厩戸豊聡耳尊は斑鳩宮で薨去された。 このとき、諸王・諸臣および天下の人民は皆、老いた者は愛児を失ったように悲しみ、塩や酢の味さえも分からないほどであった。若い者は慈父を失ったように、泣き悲しむ声がちまたに溢れた。農夫は耕すことも止め、稲つき女は杵音もさせなかった。皆がいった。 「日も月も光も失い、天地も崩れたようなものだ。これから誰を頼みにしたらいいのだろう」 この月、皇太子を磯長陵に葬った。ときに高麗の僧・慧慈は、上宮の皇太子が亡くなったことを聞き、大いに悲しみ、太子のために僧を集めて斎会を催した。そしてみずから経を説く日に誓願していった。 「日本の国に聖人がおられました。上宮豊聡耳皇子と申しあげます。天からすぐれた資質を授かり、大きな聖の徳をもって日本の国にお生まれになりました。中国の三代の聖王をも越えるほどの、大きな仕事をされ、三宝をつつしみ敬って、人民の苦しみを救われました。真の大聖です。その太子が亡くなられました。自分は国を異にするとはいえ、太子との心の絆を断つことは出来ません。自分一人生き残っても何の益もありません。 来年の二月五日には、自分もきっと死ぬでしょう。上宮太子に浄土でお会いして、共に衆生に仏の教えを広めたいと思います」 そして、慧慈は定めた日に丁度死んだ。これを見て、時の人は誰もが「ひとり上宮太子だけが聖人でなく、慧慈もまた聖人である」といった。 |
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■巻第十 国造本紀 | |
天孫・天饒石国饒石天津彦火瓊々杵尊(あまにぎしくににぎしあまつひこほのににぎのみこと)の孫の磐余彦尊(いわれひこのみこと)が、日向から出発され倭国(やまとのくに)に向かわれて、東征されたとき、大倭国で漁夫(あま)を見つけられた。側近の人たちに尋ねて仰せになった。
「海のなかに浮かんでいる者は何者だろうか」 そこで、粟の忌部首(いみべのおびと)の祖の天日鷲命(あまのひわしのみこと)を遣わして、これを調べさせた。天日鷲命が戻ってきて報告した。 「これは、椎根津彦(しいねつひこ)という者です」 椎根津彦を呼んで連れてきて、天孫はお尋ねになった。 「お前は誰か」 椎根津彦は答えて申しあげた。 「私は、皇祖・彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)の孫で、椎根津彦です」 天孫は詔して仰せられた。 「私に従って、水先案内をするつもりはないか」 答えて申しあげた。 「私はよく海陸の道を知っていますので、道案内としてお仕えいたします」 天孫は、詔して椎根津彦を案内とし、ついに天下を平定された。 はじめて橿原に都を造り、天皇に即位された。 詔して、東征に功績のあった者を褒めて、国造に定められた。また、逆らう者は誅し、県主を定められた。 これが、国造・県主の由来である。 椎根津彦命を大倭国造(やまとのくにのみやつこ)とした。すなわち、大和直(やまとのあたい)の祖である。 剣根命(つるぎねのみこと)を葛城国造(かずらきのくにのみやつこ)とした。すなわち、葛城直(かずらきのあたい)の祖である。 彦己蘇根命(ひここそねのみこと)を凡河内国造(おおしこうちのくにのみやつこ)とした。すなわち、凡河内忌寸(おおしこうちのいみき)の祖である。 天一目命(あまのまひとつのみこと)を山代国造(やましろのくにのみやつこ)とした。すなわち、山代直(やましろのあたい)の祖である。 天日鷲命を伊勢国造とした。すなわち、伊賀・伊勢国造の祖である。 天道根命(あまのみちねのみこと)を紀伊国造とした。すなわち、紀河瀬直(きのかわせのあたい)の祖である。 宇陀県主の兄猾(えうかし)を誅した弟猾(おとうかし)を、建桁県主(たけたのあがたぬし)とした。 志貴県主(しきのあがたぬし)の兄磯城(えしき)を誅した弟磯城(おとしき)を、志貴県主とした。 およそ三人の臣を選び遣わして、治めるに良いか悪いかを巡察して調べさせた。そのうえで、功績のある者を、その能力のままに国造にお定めになった。 逆らう者を誅殺し、その功績を計って、県主を定められた。 あわせて、百四十四の国に国造を任命した。 大倭国造 神武朝の御世に、椎根津彦命をはじめて大倭国造とした。 葛城国造 神武朝の御世に、剣根命をはじめて葛城国造とした。 凡河内国造 神武朝の御世に、彦己曽保理命(ひここそほりのみこと)を凡河内国造とした。 和泉国司(いずみのこくし) もとは河内国に含まれていた。霊亀二年、割いて茅野監(ちぬのつかさ)を設置し、改めて国とした。もとは珍努宮(ちぬのみや)で治めたものである。 摂津国司(せっつのこくし) 法令を見ると、摂津職(せっつしき)とある。はじめは京師であった。桓武天皇の御代に、職を改めて国とした。 山城国造(やましろのくにのみやつこ) 神武朝の御世に、阿多振命(あたふりのみこと)を山代国造とした。 山背国造(やましろのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、曽能振命(そのふりのみこと)を国造に定められた。 伊賀国造 成務朝の御世に、皇子・意知別命(おちわけのみこと)の三世孫の武伊賀都別命(たけいがつわけのみこと)を国造に定められた。 孝徳朝の御世に伊勢国に合併され、その後、天武朝の御代にもとのように割いて設置された。 伊勢国造 神武朝に、天降る神・天牟久努命(あまのむくぬのみこと)の孫の天日鷲命を、詔して国造に定められた。 嶋津国造(しまつのくにのみやつこ) 成務朝に、出雲臣の祖・佐比祢足尼(さひねのすくね)の孫の出雲笠夜命(いずもかさやのみこと)を国造に定められた。 尾張国造(おわりのくにのみやつこ) 成務朝に、天別・天火明命(あまのほあかりのみこと)の十三世孫の小止与命(おとよのみこと)を国造に定められた。 参河国造(みかわのくにのみやつこ) 成務朝に、物部連の祖・出雲色大臣(いずものしこおおみ)の五世孫の知波夜命(ちはやのみこと)を国造に定められた。 穂国造(ほのくにのみやつこ) 雄略朝に、生江臣(いくえのおみ)の祖・葛城襲津彦命(かずらきのそつひこのみこと)の四世孫の菟上宿祢(うなかみのすくね)を国造に定められた。 遠淡海国造(とおつおうみのくにのみやつこ) 成務朝に、物部連の祖・伊香色雄命(いかがしこおのみこと)の子の印岐美命(いにきみのみこと)を国造に定められた。 久努国造(くぬのくにのみやつこ) 仲哀朝の御代に、物部連の祖・伊香色男命(いかがしこおのみこと)の孫の印幡足尼(いなばのすくね)を国造に定められた。 素賀国造(そがのくにのみやつこ) 神武朝の御世、はじめて天下が定められたときに、天皇のお供として侍ってきた人で、名は美志印命(うましいにのみこと)を国造に定められた。 珠流河国造(するがのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、物部連の祖・大新川命(おおにいかわのみこと)の子の片堅石命(かたがたしのみこと)を国造に定められた。 盧原国造(いおはらのくにのみやつこ) 成務朝の御代に、池田坂井君(いけだのさかいのきみ)の祖・吉備武彦命(きびのたけひこのみこと)の子の思加部彦命(おかべひこのみこと)を国造に定められた。 伊豆国造 神功皇后の御代に、物部連の祖・天蕤桙命(あまのぬぼこのみこと)の八世孫の若建命(わかたけのみこと)を国造に定められた。 孝徳朝の御世に駿河国に合併され、天武朝の御世にもとのように分けて設置された。 甲斐国造 景行朝の御世に、狭穂彦王(さほひこのきみ)の三世孫の臣知津彦公(おみしりつひこのきみ)と、その子の塩海足尼(しおみのすくね)を国造に定められた。 相武国造(さがむのくにのみやつこ) 成務朝に、武刺国造(むさしのくにのみやつこ)の祖・伊勢都彦命(いせつひこのみこと)の三世孫の弟武彦命(おとたけひこのみこと)を国造に定められた。 師長国造(しながのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、茨城国造の祖・建許呂命(たけころのみこと)の子の意富鷲意弥命(おおわしおみのみこと)を国造に定められた。 无邪志国造(むさしのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、出雲臣の祖・二井之宇迦諸忍之神狭命(ふたいのうがもろおしのかむさのみこと)の十世孫の兄多毛比命(えたもひのみこと)を国造に定められた。 胸刺国造(むさしのくにのみやつこ) 岐閉国造(きへのくにのみやつこ)の祖・兄多毛比命の子の伊狭知直(いさちのあたい)を国造に定められた。 知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ) 崇神朝の御世に、八意思金命(やごころおもいかねのみこと)の十世孫の知々夫命(ちちぶのみこと)を国造に定められ、大神をお祀りした。 須恵国造(すえのくにのみやつこ) 成務朝に、茨城国造の祖・建許侶命(たけころのみこと)の子の大布日意弥命(おおふひおみのみこと)を国造に定められた。 馬来田国造(うまくだのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、茨城国造の祖・建許侶命の子の深河意弥命(ふかがわおみのみこと)を国造に定められた。 上海上国造(かみつうなかみのくにのみやつこ) 成務朝に、天穂日命(あまのほひのみこと)の八世孫の忍立化多比命(おしたてけたひのみこと)を国造に定められた。 伊甚国造(いじみのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、安房国造の祖・伊許保止命(いこほとのみこと)の孫の伊己侶止直(いころとのあたい)を国造に定められた。 武社国造(むさのくにのみやつこ) 成務朝に、和邇臣(わにのおみ)の祖・彦意祁都命(ひこおけつのみこと)の孫の彦忍人命(ひこおしひとのみこと)を国造に定められた。 菊麻国造(きくまのくにのみやつこ) 成務朝の御代に、无邪志国造(むさしのくにのみやつこ)の祖・兄多毛比命の子の大鹿国直(おおかくにのあたい)を国造に定められた。 阿波国造(あわのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、天穂日命の八世孫・弥都侶岐命(みつろぎのみこと)の孫の大伴直大瀧(おおとものあたいおおたき)を国造に定められた。 印波国造(いにばのくにのみやつこ) 応神朝の御代に、神八井耳命(かむやいみみのみこと)の八世孫の伊都許利命(いつこりのみこと)を国造に定められた。 |
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下海上国造(しもつうなかみのくにのみやつこ)
応神朝の御世に、上海上国造の祖の孫の久都伎直(くつぎのあたい)を国造に定められた。 新治国造(にいばりのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、美都呂岐命(みつろぎのみこと)の子の比奈羅布命(ひならふのみこと)を国造に定められた。 筑波国造(つくばのくにのみやつこ) 成務朝に、忍凝見命(おしこりみのみこと)の孫の阿閉色命(あへしこのみこと)を国造に定められた。 茨城国造(うばらきのくにのみやつこ) 応神朝の御世に、天津彦根命(あまつひこねのみこと)の孫の筑紫刀祢(つくしとね)を国造に定められた。 仲国造(なかのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、伊予国造と同祖の建借馬命(たけかしまのみこと)を国造に定められた。 久自国造(くじのくにのみやつこ) 成務朝の御代に、物部連の祖・伊香色雄命の三世孫の船瀬足尼(ふなせのすくね)を国造に定められた。 高国造(たかのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、弥都侶岐命の孫の弥佐比命(みさひのみこと)を国造に定められた。 淡海国造(おうみのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、彦坐王(ひこいますのきみ)の三世孫の大陀牟夜別(おおたむやわけ)を国造に定められた。 額田国造(ぬかたのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、和邇臣の祖・彦訓服命(ひこくにぶくのみこと)の孫の大直侶宇命(おおただろうのみこと)を国造に定められた。 三野前国造(みののみちのくちのくにのみやつこ) 開化朝に、皇子・彦坐王の子の八瓜命(やつりのみこと)を国造に定められた。 三野後国造(みののみちのしりのくにのみやつこ) 成務朝の御代に、物部連の祖・出雲大臣命(いずもおおみのみこと)の孫の臣賀夫良命(おみかぶらのみこと)を国造に定められた。 斐陀国造(ひだのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、尾張連の祖・瀛津世襲命(おきつよそのみこと)の子の大八椅命(おおやはしのみこと)を国造に定められた。 上毛野国造(かみつけののくにのみやつこ) 崇神朝の皇子・豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の孫の彦狭嶋命(ひこさしまのみこと)が、はじめて東方の十二国を治め平らげて、国造に封ぜられた。 下毛野国造(しもつけののくにのみやつこ) 仁徳朝の御世に、もとはひとつだった毛野国を分けて、上毛野・下毛野とした。豊城命の四世孫の奈良別(ならわけ)をはじめて国造に定められた。 道奥菊多国造(みちのくのきくたのくにのみやつこ) 応神朝の御代に、建許侶命の子の屋主乃祢(やぬしのね)を国造に定められた。 道奥岐閉国造(みちのくのきへのくにのみやつこ) 応神朝の御世に、建許侶命の子の宇佐比乃祢(うさひのね)を国造に定められた。 阿尺国造(あさかのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、阿岐国造と同祖・天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)の十世孫の比止祢命(ひとねのみこと)を国造に定められた。 思国造 成務朝の御世に、阿岐国造(あきのくにのみやつこ)と同祖の十世孫の志久麻彦(しくまひこ)を国造に定められた。 伊久国造(いくのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、阿岐国造と同祖の十世孫の豊嶋命(としまのみこと)を国造に定められた。 染羽国造(しめはのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、阿岐国造と同祖の十世孫の足彦命(たるひこのみこと)を国造に定められた。 浮田国造(うきたのくにのみやつこ) 成務朝に、崇神天皇の五世孫の賀我別王(かがわけのきみ)を、国造に定められた。 信夫国造(しのぶのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、阿岐国造と同祖・久志伊麻命(くしいまのみこと)の孫の久麻直(くまのあたい)を国造に定められた。 白河国造(しらかわのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、天から降った天由都彦命(あまのゆつひこのみこと)の十一世孫の塩伊乃己自直(しおいのこじのあたい)を国造に定められた。 石背国造(いわせのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、建許侶命の子の建弥依米命(たけみよりめのみこと)を国造に定められた。 石城国造(いわきのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、建許呂命を国造に定められた。 那須国造(なすのくにのみやつこ) 景行朝の御代に、建沼河命(たけぬなかわのみこと)の孫の大臣命(おおみのみこと)を国造に定められた。 科野国造(しなののくにのみやつこ) 崇神朝の御世に、神八井耳命の孫の建五百建命(たけいほたつのみこと)を国造に定められた。 出羽国造(でわのくにのみやつこ) 元明朝の御世の和銅五年、陸奥・越後の二国から割いて、はじめてこの国を設置した。 若狭国造(わかさのくにのみやつこ) 允恭朝の御代に、膳臣(かしわでのおみ)の祖・佐白米命(さしろよねのみこと)の子の荒砺命(あらとのみこと)を国造に定められた。 高志国造(こしのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、阿閉臣(あべのおみ)の祖・屋主田心命(やぬしたごころのみこと)の三世孫の市入命(いちいりのみこと)を国造に定められた。 三国国造(みくにのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、宗我臣(そがのおみ)の祖・彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)の四世孫の若長足尼(わかなのすくね)を国造に定められた。 角鹿国造(つぬがのくにのみやつこ) 成務朝の御代に、吉備臣の祖・若武彦命(わかたけひこのみこと)の孫の建功狭日命(たけいさひのみこと)を国造に定められた。 加我国造(かがのくにのみやつこ) 雄略朝の御代に、三尾君(みおのきみ)の祖・石撞別命(いわつくわけのみこと)の四世孫の大兄彦君(おおえひこのきみ)を国造に定められた。 孝徳朝の御代には、越前国に合併した。嵯峨朝の御世の弘仁十年に、越前国を割いて加賀国とした。 加宜国造(かがのくにのみやつこ) 仁徳朝の御世に、能登国造(のとのくにのみやつこ)と同祖の素都乃奈美留命(そつのなみるのみこと)を国造に定められた。 江沼国造(えぬまのくにのみやつこ) 反正朝の御世に、蘇我臣(そがのおみ)と同祖・武内宿祢(たけしうちのすくね)の四世孫の志波勝足尼(しはかつのすくね)を国造に定められた。 能等国造(のとのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、垂仁天皇の皇子・大入来命(おおいりきのみこと)の孫の彦狭嶋命(ひこさしまのみこと)を国造に定められた。 羽咋国造(はくいのくにのみやつこ) 雄略朝の御世に、三尾君の祖・石撞別命の子の石城別王(いわきわけのきみ)を国造に定められた。 伊弥頭国造(いみづのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、宗我(そが)と同祖・建内足尼(たけしうちのすくね)の孫の大河音足尼(おおかわとのすくね)を国造に定められた。 久比岐国造(くびきのくのにみやつこ) 崇神朝の御世に、大和直と同祖の御戈命(みほこのみこと)を国造に定められた。 高志深江国造(こしのふかえのくにのみやつこ) 崇神朝の御世に、道君(みちのきみ)と同祖の素都乃奈美留命(そつのなみるのみこと)を国造に定められた。 佐渡国造 成務朝に、阿岐国造と同祖・久志伊麻命(くしいまのみこと)の四世孫の大荒木直(おおあらきのあたい)を国造に定められました。 丹波国造(たにはのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、尾張国造と同祖・建稲種命(たけいなだねのみこと)の四世孫の大倉岐命を国造に定められた。 丹後国司 元明朝の御世の和銅六年に、丹波国を割いて丹後国を設置した。 但遅馬国造(たじまのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、竹野君(たけののきみ)と同祖・彦坐王の五世孫の船穂足尼(ふなほのすくね)を国造に定められた。 二方国造(ふたかたのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、出雲国造と同祖・遷狛一奴命(うつしこまひとぬのみこと)の孫の美尼布命(みねふのみこと)を国造に定められた。 稲葉国造(いなばのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、彦坐王の子の彦多都彦命(ひこたつひこのみこと)を国造に定められた。 |
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波伯国造(ははきのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、牟邪志国造と同祖・兄多毛比命の子の大八木足尼(おおやきのすくね)を国造に定められた。 出雲国造(いずものくにのみやつこ) 崇神朝の御世に、天穂日命の十一世孫の宇迦都久努(うがつくぬ)を国造に定められた。 石見国造(いわみのくにのみやつこ) 崇神朝の御世に、紀伊国造と同祖・蔭佐奈朝命(かげさなあさのみこと)の子の大屋古命(おおやこのみこと)を国造に定められた。 意岐国造(おきのくにのみやつこ) 応神朝の御代に、観松彦伊呂止命(みまつひこいろとのみこと)の五世孫の十埃彦命(とおあいひこのみこと)を国造に定められた。 針間国造(はりまのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、稲背入彦命(いなせいりひこのみこと)の孫の伊許自別命(いこじわけのみこと)を国造に定められた。 針間鴨国造(はりまのかものくにのみやつこ) 成務朝の御世に、上毛野君と同祖・御穂別命(みほのわけのみこと)の子の市入別命(いちりわけのみこと)を国造に定められた。 明石国造 応神朝の御世に、大倭直と同祖・八代足尼(やしろのすくね)の子の都弥自足尼(つみじのすくね)を国造に定められた。 美作国造(みまさかのくにのみやつこ) 元明朝の御世の和銅六年に、備前国を割いて美作国を設置した。 大伯国造(おおくのくにのみやつこ) 応神朝の御世に、神魂命(かむむすひのみこと)の七世孫の佐紀足尼(さきのすくね)を国造に定められた。 上道国造(かみつみちのくにのみやつこ) 応神朝の御世に、元からの領主・中彦命(なかひこのみこと)の子の多佐臣(たさのおみ)を、はじめて国造に定められた。 三野国造(みののくにのみやつこ) 応神朝の御世に、元からの領主・弟彦命(おとひこのみこと)を、次いで国造に定められた。 下道国造(しもつみちのくにのみやつこ) 応神朝の御世に、元からの領主・兄彦命(えひこのみこと)、またの名を稲速別(いなはやわけ)を国造に定められた。 加夜国造(かやのくにのみやつこ) 応神朝の御世に、上道国造と同祖で元からの領主の中彦命を、あらためて国造に定められた。 笠臣国造(かさのおみのくにのみやつこ) 応神朝の御世に、元からの領主・鴨別命(かもわけのみこと)の八世孫の笠三枝臣(かさのさいぐさのおみ)を国造に定められた。 吉備中県国造(きびのなかつあがたのくにのみやつこ) 崇神朝の御世に、神魂命の十世孫の明石彦(あかしひこ)を国造に定められた。 吉備穴国造(きびのあなのくにのみやつこ) 景行朝の御世に、和邇臣と同祖・彦訓服命(ひこくにぶくのみこと)の孫の八千足尼(やちのすくね)を国造に定められた。 吉備風治国造(きびのほむじのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、多遅麻君(たじまのきみ)と同祖・若角城命(わかつのきのみこと)の三世孫の大船足尼(おおふなのすくね)を国造に定められました。 阿岐国造(あきのくにのみやつこ) 成務朝に、天湯津彦命の五世孫の飽速玉命(あきはやたまのみこと)を国造に定められた。 大嶋国造 成務朝に、无邪志国造と同祖・兄多毛比命の子の穴委古命(あなわこのみこと)を国造に定められた。 波久岐国造(はくきのくにのみやつこ) 崇神朝に、阿岐国造と同祖・金波佐彦命(かなはさひこのみこと)の孫の豊玉根命(とよたまねのみこと)を国造に定められた。 周防国造(すおうのくにのみやつこ) 応神朝の御世に、茨城国造と同祖・加米乃意美(かめのおみ)を国造に定められた。 都努国造(つぬのくにのみやつこ) 仁徳朝に、紀臣と同祖・都努足尼(つぬのすくね)の子の男嶋足尼(おしまのすくね)を国造に定められた。 穴門国造(あなとのくにのみやつこ) 景行朝の御世に、桜井田部連(さくらいのたべのむらじ)と同祖・迩伎都美命(にぎつみのみこと)の四世孫の速都鳥命(はやつどりのみこと)を国造に定められた。 阿武国造(あむのくにのみやつこ) 景行朝の御世に、神魂命の十世孫の味波波命(うましははのみこと)を国造に定められた。 紀伊国造(きいのくにのみやつこ) 神武朝の御世に、神皇産霊命(かむむすひのみこと)の五世孫の天道根命(あまのみちねのみこと)を国造に定められた。 熊野国造(くまののくにのみやつこ) 成務朝の御世に、饒速日命の五世孫の大阿斗足尼(おおあとのすくね)を国造に定められた。 淡道国造(あわじのくにのみやつこ) 仁徳朝の御世に、神皇産霊尊の九世孫の矢口足尼(やぐちのすくね)を国造に定められた。 粟国造(あわのくにのみやつこ) 応神朝の御世に、高皇産霊尊の九世孫の千波足尼(ちはのすくね)を国造に定められた。 長国造(ながのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、観松彦色止命(みまつひこいろとのみこと)の九世孫の韓背足尼(からせのすくね)を国造に定められた。 讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ) 応神朝の御世に、景行天皇の子・神櫛王(かみくしのきみ)の三世孫の須売保礼命(すめほれのみこと)を国造に定められた。 伊余国造(いよのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、印幡国造と同祖・敷桁波命(しきたなはのみこと)の子の速後上命(はやのちのえのみこと)を国造に定められた。 久味国造(くみのくにのみやつこ) 応神朝に、神魂尊の十三世孫の伊与主命(いよぬしのみこと)を国造に定められた。 小市国造(おちのくにのみやつこ) 応神朝の御世に、物部連と同祖・大新川命の孫の子致命(おちのみこと)を国造に定められた。 怒麻国造(ぬまのくにのみやつこ) 神功皇后の御代に、阿波国造と同祖・飽速玉命の三世孫の若弥尾命(わかみおのみこと)を国造に定められた。 風速国造(かざはやのくにのみやつこ) 応神朝に、物部連の祖・伊香色男命の四世孫の阿佐利(あさり)を国造に定められた。 都佐国造(とさのくにのみやつこ) 成務朝の御代に、長阿比古(ながのあびこ)と同祖・三嶋溝杭命(みしまのみぞくいのみこと)の九世孫の小立足尼(おたちのすくね)を国造に定められた。 波多国造(はたのくにのみやつこ) 崇神朝の御世に、天韓襲命(あまのからそのみこと)を神の教えによって国造に定められた。 筑志国造(つくしのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、阿倍臣と同祖・大彦命(おおひこのみこと)の五世孫の日道命(ひのみちのみこと)を国造に定められた。 筑志米多国造(つくしのめたのくにのみやつこ) 成務朝に、息長公(おきながのきみ)と同祖・稚沼毛二俣命(わかぬけふたまたのみこと)の孫の都紀女加命(つきめかのみこと)を国造に定められた。 豊国造(とよのくにのみやつこ) 成務朝の御代に、伊甚国造と同祖・宇那足尼(うなのすくね)を国造に定められた。 宇佐国造(うさのくにのみやつこ) 神武朝の御代に、高魂尊(たかみむすひのみこと)の孫の宇佐都彦命(うさつひこのみこと)を国造に定められた。 国前国造(くにさきのくにのみやつこ) 成務朝に、吉備臣と同祖・吉備都命の六世孫の午佐自命(うまさじのみこと)を国造に定められた。 比多国造(ひたのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、葛城国造と同祖・止波足尼(とはのすくね)を国造に定められた。 火国造(ひのくにのみやつこ) 崇神朝に、大分国造(おおきたのくにのみやつこ)と同祖・志貴多奈彦命(しきたなひこのみこと)の子の遅男江命(ちおえのみこと)を国造に定められた。 松津国造(まつつのくにのみやつこ) 仁徳朝の御世に、物部連の祖・伊香色雄命の孫の金連(かねのむらじ)を国造に定められた。 末羅国造(まつらのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、穂積臣と同祖・大水口足尼(おおみなくちのすくね)の孫の矢田稲吉命(やたのいなきちのみこと)を国造に定められた。 阿蘇国造(あそのくにのみやつこ) 崇神朝の御世に、火国造と同祖・神八井耳命(かむやいみみのみこと)の孫の速瓶玉命(はやみかたまのみこと)を国造に定められた。 葦分国造(あしきたのくにのみやつこ) 景行朝の御代に、吉備津彦命の子の三井根子命(みいねこのみこと)を国造に定められた。 天草国造(あまくさのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、神魂命の十三世孫の建嶋松命(たけしままつのみこと)を国造に定められた。 日向国造(ひむかのくにのみやつこ) 応神朝の御世に、豊国別皇子(とよくにわけのみこ)の三世孫の老男(おいお)を国造に定められた。 大隈国造(おおすみのくにのみやつこ) 景行朝の御世に隼人と同祖の初小(そお)を平定し、仁徳天皇の御代に伏布(ふしぬの)を長(おさ)として国造に定められた。 薩摩国造(さつまのくにのみやつこ) 景行朝に、薩摩の隼人らを討ち鎮めた。仁徳天皇の御代に、長をあらためて直とした。 伊吉嶋造(いきのしまのみやつこ) 継体朝に、磐井(いわい)に従った新羅の海辺の人を征伐し、天津水凝(あまつみずこり)の後裔の上毛布直(かみつけぬのあたい)を造とした。 津嶋県直(つしまのあがたのあたい) 神武朝に、高魂尊の五世孫の建弥己己命(たけみここのみこと)を、改めて直にした。 葛津立国造(ふじつのたちのくにのみやつこ) 成務朝の御世に、紀直と同祖・大名茅彦命(おおなかやひこのみこと)の子の若彦命(わかひこのみこと)を国造に定められた。 多褹嶋(たねのしま) ・・・ |
■物部氏 1 | |
本拠地には、河内国渋川郡・若江郡の一帯をあてるのが有力です。
五世紀代の大阪平野中央部の開発において技術集団の掌握に関与し、その地位を上昇させることに成功。五世紀後半に入ると大和国山辺郡の石上にも強固な拠点を持つに至り、雄略朝には最高執政官のひとつ「大連」を出すようになりました。皇位継承争いにおける、軍事的な活躍がその背景ともいわれます。 物部の伴造として軍事・刑罰を掌り、ヤマト王権の勢力伸張に寄与したことは、諸豪族連合体から中央集権型国家へ向かう古代史の流れのなかで、物部氏が小さからぬ歴史的役割を果たしたものと見られます。 六世紀中葉の大伴大連失脚により全盛期をむかえましたが、六世紀末に蘇我氏と対立して敗れ、以後勢力は衰えました。 七世紀末に台頭する石上氏は、天武朝に物部氏の一流が改めたもので、大臣を輩出し氏族復興を成し遂げています。 その祖神をめぐっては、降臨・国見の伝承を持つことで知られ、王権内における位置づけはやや特異といえます。新撰姓氏録に載る石上氏同祖系氏族は113氏を数え、全体の9.6%を占めるなど、同族が多く存在します。また、広範な地域分布でも知られます。 まさに、古代最大の氏族と呼ばれるのにふさわしいのが、物部氏です。 |
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■物部氏 2 | |
(もののべうじ) 「物部」を氏の名とする氏族。河内国の哮峰(現 大阪府交野市か)に神武天皇よりも前に天磐船により大和入りをした饒速日命を祖先と伝えられる氏族である。饒速日命は登美夜須毘売を妻とし物部氏の初代の宇摩志麻遅命(可美真手命)をもうけた。穂積氏が本宗家とされ、熊野国造とは先祖を同じくする同族とされる。
■特徴と歴史 元々は兵器の製造・管理を主に管掌していたが、しだいに大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長していった。5世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになった。物部氏は解部を配下とし、刑罰、警察、軍事、呪術、氏姓などの職務を担当し、盟神探湯の執行者ともなった。物部氏は528年継体天皇22年に九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられた。これを鎮圧した物部麁鹿火(あらかい)は宣化天皇の元年の7月に死去している。 ■蘇我氏との対立 宣化天皇の崩御後、欽明天皇の時代になると物部尾輿(生没年不詳)が大連になった。欽明天皇の時代百済から仏像が贈られた仏像を巡り、大臣・蘇我稲目を中心とする崇仏派と大連・物部尾興や中臣鎌子(中臣氏は神祇を祭る氏族)を中心とする排仏派が争った。 稲目・尾興の死後は蘇我馬子、物部守屋に代替わりした。大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。天皇は排仏派でありこれを許可したが、このころから疫病が流行しだした。大連・物部守屋と中臣勝海は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。 こうした物部氏の排仏の動き以後も疫病は流行し続け、敏達天皇は崩御。崇仏・排仏の議論は次代の用明天皇に持ち越された。用明天皇は蘇我稲目の孫でもあり、敏達天皇とは異なり崇仏派であった。しかし依然として疫病の流行は続き、即位してわずか2年後の587年5月21日(用明天皇2年4月9日)に用明天皇は崩御した(死因は天然痘とされる)。守屋は次期天皇として穴穂部皇子を皇位につけようと図ったが、同年6月馬子は炊屋姫(用明天皇の妹で、敏達天皇の后。後に推古天皇となる)の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺した。同年7月、炊屋姫の命により蘇我氏及び連合軍は物部守屋に攻め込んだ。当初、守屋は有利であったが守屋は河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の本拠地で戦死した(丁未の乱)。同年9月9日に蘇我氏の推薦する崇峻天皇が即位し、以降物部氏は没落する。 ■天武朝 連の姓(かばね)、684年天武天皇による八色の姓の改革の時に朝臣姓を賜る。 ■石上氏 686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみうじ)が本宗家の地位を得た。石上の姓はもと物部守屋の弟である贄子が称していたが、のちに守屋の兄・大市御狩の曾孫とされる麻呂が石上の家を継いだとする説がある。 石上麻呂は朝臣の姓が与えられて、708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位の位階を贈られた。息子の石上乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は文人として淡海三船と並び称され、日本初の公開図書館・芸亭を創設した。 石上氏は宅嗣の死後公卿を出すことはなく、9世紀前半以降中央貴族としては衰退した。また、石上神宮祠官家の物部氏を宅嗣の弟・息嗣の子孫とする近世の系図がある。 ■枝族・末裔 物部氏の特徴のひとつに広範な地方分布が挙げられ、無姓の物部氏も含めるとその例は枚挙にいとまがない。長門守護の厚東氏、物部神社神主家の長田氏・金子氏(石見国造)、廣瀬大社神主家の曾禰氏の他、穂積氏、采女氏をはじめ、同族枝族が非常に多いことが特徴である。江戸幕府の幕臣・荻生徂徠は子孫といわれる。 ■東国の物部氏 石上氏等中央の物部氏族とは別に、古代東国に物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録がある。扶桑略記、陸奥話記などには陸奥大目として物部長頼という人物が記載されている。いわゆる「古史古伝」のひとつである物部文書に拠ると出羽物部氏は物部守屋の子孫と称しているが証拠はない。一方で六国史に散見する俘囚への賜姓例の中には、吉弥候氏が物部斯波連を賜ったという記録も見える。 ■下総物部氏 下総国匝瑳郡に本拠を持つ物部匝瑳連の祖先伝承に、布都久留 の子で木蓮子の弟の物部小事が坂東に進出し征圧したというものがある。また平安中期に作られた和名類聚抄には下総国千葉郡物部郷〈四街道市物井〉の記述があり、これらについては常陸国信太郡との関連を指摘する説があり、香取神宮と物部氏の関連も指摘されている。 ■尾張物部氏 古代尾張の東部に物部氏の集落があり、現在は物部神社と、武器庫であったと伝えられる高牟神社が残っている。 ■石見物部氏 石見国の一の宮「物部神社」(島根県大田市)は、部民設置地説以外に出雲勢力に対する鎮めとして創建されたとする説もあり、社家の長田家・金子家は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。金子家は、戦前は社家華族として男爵に列している。 ■備前物部氏 岡山県には備前一宮として知られる石上布都御魂神社がある。縁起によると、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した「十握劒」(あるいは「韓鋤(からさひ)の剣)を山上の磐座に納めたのが始まりといわれる。江戸期には岡山藩の池田家から尊崇を受け「物部」姓を名乗ることを許されたといい、今の宮司も物部氏をついでいる。大和の石上神宮の本社ともいわれているが、神宮側は公認していない。 |
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■物部氏 3 | |
■中国伝来の鬼 | |
鬼は古代中国の神秘思想から誕生し、時代や人によって解釈が異なる複雑な存在だが、神秘思想は蜃気楼が頻繁に発生する山東半島を起源とすることから、太古の人々にとって不可思議な現象や異常事象を「鬼」と呼んだものと思われる。
ただし、仏教思想が導入されると鬼は邪鬼に変貌する。 『墨子・明鬼篇』 / 昔の聖王は必ず鬼神が存在すると信じ、鬼神に仕えることは厚かった。鬼神は、人の悪行を罰する存在で、天下の混乱は人々が鬼神の実在と、鬼神の持つ超自然的能力を信じない結果、生じるのである。 『論語』孔子 / 子路が鬼神に仕える方法を問うと、いまだ人に仕えることもできないのに、どうして鬼神に仕える事ができようかと老師は申された。(先進篇) 鬼神は尊敬すべきだが、遠ざけておく存在である。(雍也篇) このように、春秋戦国時代(紀元前770〜前403)の思想家である墨子や孔子は、鬼を神(鬼神)と位置づけている。 『三国志魏書』東夷伝倭人条 / 其國本亦以男子為王、住七八十年。倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王。名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫婿、有男弟佐治國。 その国、本来は男性を王としたが、住(とどまる)こと七〜八十年。倭国は擾乱、互いの攻伐が何年も続くに及んで、一人の女性を王として共立した。名を卑彌呼といい、鬼道(きどう)に仕え、(呪術で)巧みに人々を幻惑(誘導)した。年齢は既に高齢で夫はなく、弟がおり、国の統治を補佐している。 上記は通称『魏志倭人伝』と呼ばれている史書の1節だが、文中の鬼道は、現代中国語の鬼道「利口・賢明」とは違い、道教の源流となる後漢末期の方士(ほうし)の宗教結社『五斗米道(ごとべいどう)』の別名である。 方士とは、仙人となることを希求し、神仙方術を修道する巫術者(シャーマン)をいい、日本神道は朝鮮半島を経由した方士の神秘思想や呪法、儀式を基盤としているが、これは巫術のもつ神秘な力を『鬼』とする古来の思想の伝承である。 従って、邪馬台国の時代の『鬼』は怨霊などではなく、鬼神だと考えられる。 だが、後漢時代(1世紀〜2世紀末)の王充は、人間の行為の都合の悪い部分を隠蔽するため、単なる自然現象に対し、特別な意味を附持させるための存在であるとして、鬼を否定している。 中国語での鬼(gui)の用法も、鬼話「うそ」、鬼混「不真面目」、鬼胎「陰謀」、鬼怪「邪悪な勢力」、鬼主意「悪知恵」など、あまり良い意味では使われていない。 また、程度の酷さを形容する場合に用いられ、「色鬼」は日本語の好色(スケベエ)に該当し、戦争中の日本人を中国では「鬼子」や「東洋鬼」と蔑称していた。このことから、神秘的なエネルギーの『鬼』は、時代とともに不気味な魔力、邪悪な力に評価が変貌したことがわかる。 『風俗通義』伝奇書 / 「桃の木の下で、兄弟がトラを使い、鬼を退治した」 『神農本草経』中国最古の薬学事典 / 「桃の種子(核仁)は汚血や膿(うみ)を取り去り、百鬼を殺す」 上記は、ともに後漢時代の書籍であることから、やはり後漢時代には中国の鬼は退治したり殺したりすべき存在になっている。そして、鬼は桃の木を恐れるという伝承が一般に広がっていたたようだ。 『古事記』黄泉(ヨミ)国 / 伊邪那岐命(イザナギ)は、黄泉国(あの世)と現世の境界である黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)のまで逃げて来て、そこに熟っていた桃の実を投げつけると、黄泉醜女(ヨモツシコメ)は恐れて逃げ帰った。そこで、桃に意富加牟豆美命(オオカムズミノミコト)の名を与えた。 『記紀』(古事記と日本書紀)の編纂に当たった奈良時代の初期(8世紀初頭)には、すでに桃と鬼の関係が倭国にも伝わっていたことが上記の一節から読み取れる。 そして、神秘的な現象としての鬼神、怨念によって生者にたたる邪霊としての鬼、この二種の異質な概念が、倭国にも伝来していたと思われる。 ただし、日本の神話時代には「桃」は存在しない。柑橘類、桃、梅、銀杏などは中国伝来の果樹類だが、「梅」は遣唐使によって薬用の烏梅(ウバイ)として伝来したとされることから、「桃」も同時期に伝来したと推定される。 ただ、「桃」は弥生時代から日本列島にもあったが、鑑賞用の桃で、食用の桃はアーモンドと同種(種がそっくり)の中国原産のバラ科の桃である。 『古事記』は黄泉醜女。『日本書紀』は冥界の鬼女、あるいは泉津日狭女(ヨモツヒサメ)と記しているが、「醜女」「鬼女」は同じ意味である。 |
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■もののけ(物の怪) | |
鬼という漢字の伝来は6世紀頃とされるが、それまでは魔物や怨霊を物(もの)や
醜(しこ)、鬼は「もの」と呼ばれ、そこから「もののけ」になったとする説もあるが、幽霊や妖怪を意味する『鬼物』という漢字が伝来したことで、鬼と物とが一体化し、そこから物の怪(もののけ)が誕生したと思われる。 また、平安時代に成立しれた日本最古の辞書『和名抄』には、「不可視の存在を隠(おん)と言うが、それが転音してオニになった」とあるので、おそらく奈良時代には「おん」や「おに」と呼ばれていたものと想像する。 『出雲風土記』阿用郷 / 昔或る人、此処に山田を佃りて守りき。その時、目一つの鬼来たりて、佃る男を食らう。その時男の父母、竹原に隠れて居りき、時に竹の葉動(アヨ)けり。その時食らわれる男、動(アヨ)く、動(アヨ)くといいき。故れ阿欲と云う。神亀三年字を阿用とあらたむ。 出雲国の郷に「一目の鬼」が来て、農夫を食べたというのだが、鍛冶神とされる天目一箇神のことだとする説もあるが、天目一箇神の御神体は蛇体で、八岐大蛇の物語がある出雲では、天目一箇神を大国主神(オオクニヌシ=伊和大神)と戦った天之日矛(アメノヒボコ)と同一神としていたのかもしれない。 ただ、どちらか片方を女性に置き換えれば、男女交合の場面にも転用できる妙な描写になっており、怨霊としての鬼ではない。 なぜか日本では鬼を「一つ目」で象意する伝承が多い。 これは、製鉄炉で鉄原料の鉱石を溶かすとき、炉の火処穴(ほどあな)を覗いて、火色の加減で鉱石の溶解度を確認する作業が必要とされるが、その作業を長年続けていると、火勢に侵されて視力を損なう。いわば鍛冶職人の職業病である。 そんな彼らが、自分たちの鉱山資源を強奪に来た朝廷軍に対し、各地で攻防戦を繰り広げた。従って、服従しない鬼には、片目が多かったのだろう。 『もののけ姫』に登場するアシタカは、エミシ一族の末裔とされるが、エミシは古代土蜘蛛(つちぐも)の一族で、天皇軍に侵略され、辺境へ追いやられた東北地方の先住勢力とされる。室町時代のアシタカの村では、占い師の老婆ヒイ様の「あらぶる神」を信奉しており、土蜘蛛の末裔として『もののけ姫』に共感できる下地をアシタカはもちあわせていたのだ。古代は鬼を「もの」と読んでいたという。土蜘蛛を率いて京都の住人を悩ませたとされる大江山の酒呑童子も、同じような境遇だったのだろう。『もののけ姫』フォーラムより 『日本書紀』斉明天皇 / 宮殿建築用に神社の木を切って神の怒りに触れ、不審な火事や病で、近習の者が大勢死んだ。さらに斉明が死ぬと、その葬儀を、雨具を着た鬼が覗きにきた。 『扶桑略記』には、斉明天皇の時代、朝廷の臣下が多数死亡したことを記述するが、それは「豊浦大臣(トヨノウラノオオオミ)」の霊魂の仕業だと説明している。 豊浦大臣とは「乙巳(いつし)の変」で殺された蘇我蝦夷(ソガノエミシ)のことである。そもそも蘇我蝦夷とは『日本書紀』が創作したもので、曽我毛人・喇加大臣・蘇我大臣・豊浦大臣が本来の呼び名である。 怨霊は怨みがあるから祟る(タタル)のだが、それは互に怨み怨まれるだけの原因があることを自覚していなければ、怨霊の存在はありえない。従って、斉明天皇には彼に怨念を抱かせる行為をした覚があるのだろう。 また、雨具を着た鬼は「なまはげ=粛慎」、蝦夷とは「えみし=鬼」を連想して創作したのだろう。これは、現実に東北の蝦夷は鬼と呼ばれ、怨霊「もののけ」と化しても当然な、冷酷な仕打ちを受けることになる前兆に思える。 宮崎駿氏の『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』の根底に流れる主テーマは、弱者の美学とも感じられるが、弱者としての鬼は朝廷の命に服従せぬ先住民として『まつろわぬ民(不服従者)』と蔑まれ、理不尽にも故地から駆逐される。 彼らこそ、時の権力者を邪悪な魔物と感じたことだろう。 ちなみに平安時代中期、有名な陰陽寮の「安倍清明」が登場するが、彼は東北の鬼と恐れられた安倍氏の同族、安倍比羅夫を祖とするが、その彼が怨霊退治をするのだから、世の中は皮肉なものである。ただ、清明の子孫によって、安倍氏は明治維新まで土御門(つちみかど)家として公卿の座を継承することになる。 |
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■土蜘蛛(つちぐも) | |
『日本書紀』には各地の土蜘蛛が登場するが、蜘蛛のことではない。先住の縄文人とする説もあるが、鉱山の坑道で働く人々を「土蜘蛛」や「穴居民」と蔑称したもので、国栖(くす)・国樔(くず)・佐伯(さへき)・八束脛(やつかはぎ)・隼人(はやと)、いずれも土蜘蛛であり穴居民を意味しており、土蜘蛛の分布地と丹生(ニュウ)・砂金・砂鉄など鉱山資源の産地が合致する。というより、合致するからこそ冷酷に駆逐されたのである。
『古事記』神武紀 / 伊波禮毘古は言葉に従い八咫烏(やたがらす)の後についていいと、 阿陀(あだ)で朝廷に魚などを献上する国津神と出会い、国栖 (くす)で穴居民の迎えを受けた。 『日本書紀』神武紀 / 高尾張邑(タカオワリムラ)に土蜘蛛(つちくも)がいた。その人態は、身丈が低く、手足が長かった。磐余彦尊(いわれひこ=後の神武天皇)の軍は葛(桂)の網を作り、罠をはって捕らえ、これを殺した。そこで邑の名を変えて葛城とした。 『日本書紀』応神紀 / 吉野宮に行幸。国樔人(くずひと)が醴酒(こざけ)を天皇に奉り、歌を詠んだ。国樔の人は、人となりが純朴であり、常は山の木の実を取って食べている。また、カエルを煮て上等の食物としていて、名付けて毛瀰(もみ)という。 上記から、大和地方にも多くの土蜘蛛がいたのだろうが、竪穴式住居の大王家の人々も「アリ」のようなもの。なにやら「目クソ、鼻クソを笑う」の感じがするが、劣悪な連中だとしなければならない理由があるのだ。それは後述する。 『日本書紀』景行紀に、筑紫の土蜘蛛討伐と熊襲討伐の話があり、景行天皇が大和に帰還すると、東国から戻ってきた武内宿禰が、次のように言上したという。 「東国のいなかの中に、日高見(ひたかみ)国があり、その国の人は蝦夷(えみし)と呼ばれ、男も女も髪を椎(つち)のような形に結って、体には刺青(いれずみ)をした勇敢な者達です。また土地は肥えていて広大です。是非攻略すべきです」 肥沃で広大な土地があるから略奪すべきだと言われ、すぐに景行天皇は日本武尊(ヤマトタケル)に東国の蝦夷征伐を命じている。これでは、蝦夷は西部劇に登場する北米インディアンのようなもの。ただし、この段階では蝦夷と呼んでいるが、蝦夷とは「辺境の野蛮な異国人」を意味しており、まだ、『鬼』とはされていない。 『日本書紀』は日本武尊(古事記では倭建)の蝦夷征伐を記しているが、『古事記』には、蝦夷征伐は一行も記されていない。だが、『常陸国風土記』には日本武尊が登場するので、それをみてみよう。 『常陸国風土記』 / ● 行方郡(なめかたのこおり)・当麻(たぎま)郷 / 倭武(ヤマトタケル)天皇が巡行して、この郷を通られたとき、佐伯(さへき)の鳥日子という者があった。天皇の命令に逆らったため、すぐに殺された。 ● 行方郡・芸都(きつ)里 / 昔、芸都里に国栖(くず)の寸津毘古(きつひこ)、寸津毘賣(きつひめ)という二人がいた。その寸津毘古は天皇の命令に背き、教化に従わず、無礼であった。そこで、御剣を抜いて、すぐに斬り殺された。寸津毘賣は恐れおのき、白旗を掲げてお迎えして拝んだ。天皇は哀れに思って恵みを垂れ、住むことをお許しになった。 ● 小城郡(おきのこおり) / 昔、この村に土蜘蛛(つちぐも)がいて、小城(城壁)を造って隠れ、天皇の命令に従わなかった。日本武尊が巡行なさった時、ことごとく誅罰した。 この『常陸国風土記』に対して、茨城県潮来市には次のような伝承がある。 『潮来伝説』 / 崇神天皇の頃、霞ヶ浦の一帯で先住民に対する大掛かりな攻撃が行われた。 東海地方を古代は「ウミノミチ」と呼び、船でなければ辿り着けない土地だった。 霞ヶ浦の国栖(くず)に対する攻撃は海からの上陸作戦がとられた。朝廷の船団は伊豆から房総半島を回り、当時まだ小さな半島だった『鹿島』を望みながら、浮島に上陸した。国栖の抵抗はもろかった。大和朝廷は出雲の勢力を借りて鹿島を征定し、砂鉄の産地を手中に治めたのである。 『常陸国風土記』の編纂は、養老年間(717−723年)に常陸国守の藤原宇合(うまかい)によってされたが、大和朝廷で権勢を誇る藤原氏四家の一人である藤原宇合が国守として派遣されるほど、常陸国は重要視されていたことがわかる。 辰砂常陸国の辰砂(左の写真)・砂金・砂鉄の確保、これは大和朝廷にとっては死活問題だったのである。常陸の国造(クニノミヤツコ)には、筑波国造の壬生連・那珂国造の壬生直・上野国造の壬生公と、壬生(にゅう)氏が三名もいるが、壬生とは丹生(にゅう=辰砂・水銀)のことである。 これが潮来の伝承を裏付けているのではないだろうか。 ちなみに、壬生氏は壬生古志の一族で、『新選姓氏録』には「吉志、難波忌寸と同祖、大彦命之後也」となっている。要するに安倍貞任と同族の安倍氏である。 |
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■丹生(にゅう) | |
日本には丹(に・たん)のつく地名が各地にあるが、いずれも丹砂(タンシャ=硫化水銀)の産地であることを示している。中国の辰州が一大産地だったことで辰砂(シンシャ)とも呼ばれる水銀と硫黄の化合物で、朱砂や丹朱とも呼ばれる。
『史記』封禅書や『十八史略』に、次のような一説が記載されている。 「灶(かまど=竈)の神を祀れば、丹沙(タンシャ=丹砂)を黄金に変えられ、その黄金でつくった容器から物を食せば寿命がのばせる。それで長寿をえたなら伝説の蓬莱島(ホウライトウ)へ航海し、不死の神仙に会い、天地を祀って自ら不死になれる」 これは、方士の李少君が前漢の武帝に上奏した煉丹(レンタン)術の効用である。 これが日本伝来すると、竈の神は台所の神として「荒神さん」と呼ばれ、それが今日に至っているが、古代の東北地方では製鉄の神様として祀った。こちらが正解である。竈の神とは「炉の神」のことで、丹砂を高温で溶解させ、蒸気から水銀を抽出することを意味している。 『魏志倭人伝』 / ● 倭の地は温暖、皆が裸足で歩いている。朱丹を身体に塗り、中国の白粉のように用いている。山には丹が有る。 ● 倭王は、奴隷・倭錦・綿衣・帛布・丹・木弣(弓柄)・短い弓矢を献上した。 ● 銅鏡を百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を賜う。 朱丹(シュタン)を身体に塗りとあるが、朱丹とは丹砂から採った赤色顔料のことで、考古学では色を構成する物質によって、鉄分系と水銀系に大別される。 鉄分系の赤色顔料は、焚き火の跡の土が赤くなったことをヒントに、鉄分の多い土を焼いて赤色をつくる知識を得たものと思われ、縄文時代にも使われている。 水銀系の赤色顔料は、偶然の産物ではありえず、弥生時代の遺跡からは検出されるが、縄文時代の遺跡での検出例がないことから、水銀朱の製法は中国大陸から伝来したと考えられている。 山には丹(に)があり、それを献上しているが、丹とは赤い土(鉄分系の赤色顔料)を意味している。 鉛丹(エンタン)を賜うとあるが、鉛丹(左の写真)とは酸化鉛のことで、現在も錆止(さびどめ)剤に使われているが、これは煉丹術で服用する不老不死の仙薬の原材料である。 忠衛王朝の皇帝は、唐代まで仙薬を珍重したため、多くが水銀中毒で怪死している。卑弥呼の死因は不明だが、水銀中毒でなければよいが。 |
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■丹生と真言宗「空海」
『丹生都比売神社』(和歌山県伊都郡かつらぎ町) 丹は朱砂を意味し、その鉱脈のあるところに丹生の名前がある。朱砂を精錬すると、水銀となる。金鉱石は丹生によって精錬されてはじめて純金となる。 丹生都比売大神とは、この地に本拠を置く全国の朱砂を採掘する古代部族の祀る女神とされる。全国に丹生神社は88社、丹生都比売を祀る神社は108社、摂末社を入れると180社余を数え、その総本社である。 この丹生都比売と、空海(弘法大師)には密接な関係がある。 唐から帰国した空海が、密教の根本道場を建てる場所を探すため、高野山の山中深く分け入ったところ、白と黒の紀州犬を連れた狩人姿の狩場明神の導きで、天野の地で丹生明神に出会い、高野にたどり着いたといいう伝承がある。 高野山は真言宗の総本山で、その中核は根本大塔を中心とする壇上伽藍である。この壇上伽藍の西端に御社(ミヤシロ)と呼ばれる「丹生明神と高野明神」を祀る神社と十二王子百二十伴神も同じく祀られている。 空海は壇上伽藍建築に際し、この御社を最初に建てたとされる。ただし、空海は御社のことについては一切記録を残していない。地主神を祀ることに不思議はないが、寺院の中核となる壇上伽藍の一角に主要な堂宇に比肩する規模の神社を建てるのは不可解である。 『日本書紀』景行天皇51年条 / 日本武尊が熱田神宮に献上した蝦夷らは昼夜を問わずうるさく騒ぎ(サエギ)立て、礼儀も悪かったので、倭媛(ヤマトヒメ)命は、蝦夷らを神宮に近づけないように命じ、朝廷に奏上した。そこで三輪山の辺りに置かれることになったが、幾日も立たないうちに三輪山の木を伐ったり、大声を上げて村人を脅かしたりした。これを聞いた天皇は、その蝦夷たちを遠方に置くことにした。これが播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波の五つの国の佐伯部(サエキベ)の先祖となった。 空海は宝亀五年(774年)、讃岐国屏風浦(香川県善通寺市)の佐伯氏に生まれている。つまり上記の蝦夷の末裔で、土蜘蛛の系統である。そして、丹生明神は丹砂を採取する土蜘蛛の一族が祀る神。両者に同族意識があっても不思議はない。 30歳まで空海は高野山周辺で山岳修行をしており、その一帯が水銀の産地であることは承知していたはず。丹砂の利権を有する彼らに資金援助をさせたのではないかと思われる。そもそも空海が唐に渡ったのは私費留学であり、莫大な渡航費用を弱小豪族の佐伯氏が負担できたとは思えない。すでに、その段階からスポンサーになっていた可能性もある。 |
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■丹生と天台宗「円仁」
東北には芭蕉の「しずけさや 岩にしみいる 蝉の声」で有名な山形市「立石寺」、岩手県平泉町「中尊寺」「毛越寺」、秋田県象潟町「蚶満寺」、青森県恐山「円通寺」等々、天台宗座主『慈覚大師円仁』が開祖とされる寺が数多くあり、特に山形県には、柏山寺・千歳山万松寺、薬師寺など10を越える寺を開いている。これは、慈覚大師が天長六年(829年)から天長九年(832年)まで東国巡礼の旅に出た折に、天台宗の教学を広く伝播させたことによるが、鳥海山も慈覚大師円仁が開祖とされる。 空海が唐から密教経典を持ち帰り真言密教を立てるが、仏教界の君臨する天台宗開祖の最澄は、空海の密教経典に執着するあまり、空海と確執を生じた。どうしても密教経典を入手したい最澄は、弟子の円仁を唐に派遣した。 そして、円仁が唐から密教経典を将来したことで天台密教が成立し、後に円仁は天台宗三代座主『慈覚大師』となるのだが、円仁は安倍氏族の下野国壬生(ミブ)氏の出身。壬生(ミブ)は丹生(ニフ)の転音。従って、円仁も土蜘蛛の系統である。 承和十四年(847年)、故郷下野国(栃木県)の二荒山(日光山)に修験場を開き、そこから西の阿武山中の金砂山に「東西の金砂神社」を開基する。その名の通り、近くには金鉱山があり、丹生沢の地もある。 さらに、東大寺大仏の建立に銅を献上した摂津国(大阪府北部)の多田鉱山に東光寺を建立するが、そこは朝廷に帰順した蝦夷(俘囚と呼ばれる)が労働者として送られた鉱山で、この多田鉱山が後の清和源氏となる多田源氏の金蔵となる。後に酒呑童子を退治したのは、ここ多田源氏の頼光である。 その一方で、円仁は魔多羅(マタラ)神を日本に伝来している。 円仁は唐代の五台山に念仏三昧の法を学び,帰朝後,叡山東塔虚空蔵尾に初めて常行三昧堂を建てたことで、各地の天台寺院に三昧堂の建立が広がり、それと同時に、摩多羅神を後戸に祀ることも伝承された。 平泉の毛越寺にも阿弥陀如来の背後には、もうひとつ後戸(ウシロド)と呼ばれる壇(ダン)が存在し、そこに摩多羅神の神像が安置されており、阿弥陀如来を拝めば、同時に背後に秘められた摩多羅神を拝むことになる。 このような仕掛けをした理由について円仁は、なにも語っていないが、真言宗の空海、天台宗の円仁、ともに土蜘蛛の一族で、蝦夷に密接につながっていることに不思議な縁を感じるが、二人の蝦夷に対する態度が極端に違う。 それは、独力で真言宗という宗教組織を作り上げた空海と、国家の庇護を受けて成立した天台宗のエリート僧である円仁との立場の違いから生じたもので、空海も自分に流れている蝦夷の血を嫌悪していたとは思えない。朝廷の意思に反する言動を取る訳にはいかなかったのだと推察する。 |
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■鬼の神「荒脛巾(アラハバキ)」 | |
丹生は、塗料、顔料、防磨剤、研磨材、水銀精製原料と用途は広く、水銀は薬用、金銀精製、メツキ用に不可欠の素材として珍重され、王権を強固にした大和王朝が大規模な建造物を続々と建て、遷都を繰り返したことや化粧用の「おしろい」としても需要が急増した。
古代の権力者には、必要な物は差し出せる、拒絶すれば土地ごと奪い取るという実に簡便な発想しかなかったようだが、土蜘蛛は朝廷の庇護下にある訳でも、奴隷でもない。恩も義理もない相手から献上を迫られ、「はい、喜んで」と応じるはずがない。結局、本来なら富を得るべき土蜘蛛が極悪非道な悪鬼とされ、故地を追い払われることになった。 そんななかでも、蝦夷と組んだ東北地方の土蜘蛛は「アラハバキ神」という神を信奉していたとする説がある。極めて史料の少ない古代信仰を考察するのは困難だが、概要を追ってみよう。 『荒脛巾神社』宮城県大崎市岩出山町 荒脛巾神社は「みずいぼ」の治癒にも霊験あらたか、といわれて、願掛けをする人が遠くからもお参りにきます。治癒した場合は、穴のあいた自然石やタコの脚2本を奉納しお礼参りをします。なんじゃ、こりゃ(*_*; 由来は、古代先住民(アラハバキ族)の祖神、守護神として祀ったもので、ある文献によると、東北、関東の地に600余社数え、平安期のアラハバキ系中心王侯は南部衣川『安倍氏』が後裔と言われる。 前九年の役後、改神或いは合祀の憂き目にあい、現在県内にのこるアラハバキ社は当社ほか数社の御鎮座が見られます。祭祀年は定かではないが、アラハバキ族の王城の地を西暦前に米山町朝来に、また西暦後、多賀城へ、そして古川市宮沢(302年)に移したとある。これを証とすれば、このいずれかの時代、この地に一族集団が安住の地をもとめ守護神として祀ったものと推定される。 由来では奥州安倍氏がアラハバキ系の大王だったようだが、神殿もなくあぜ道の片隅で寂しくたたずんでいる姿は無常を感じさせるが、他の荒脛巾神社も同様で、たいていは摂社、末社として小さな祠に祭られている状況にある。 アラハバキには様々な漢字をあてるが、彼らが信奉したとされるアラハバキの神には、いまだに定説がない。もともと土地の精霊であり、地主神であったものが、侵入者が待ちこんだ後来の神に地位を奪われ、主客を転倒されて『客人(マロウド)神』としての扱いを受けているとも思える。 『アラハバキ神社』(推定を含む)63社 青森県5社、岩手県2社、秋田県4社、宮城県2社、福島県2社。 栃木県1社、茨城県3社、埼玉県20社、東京都10社、千葉県1社、神奈川県1社。新潟県2社、山梨県1社、静岡県2社、愛知県7社。 『客人(マロウド)神社』92社 三重県1社、兵庫県1社、大阪府1社、和歌山県1社。 鳥取県1社、島根県40社、広島県7社、山口県8社。 愛媛県26社、高知県2社。長崎県2社。 三重県を境に以東はアラハバキ神社、以西はほとんどが客神社(客人神社)である。 大和王朝の本拠地の奈良県や京都府には存在せず、従って、近畿地方も少ない。 ただし、上記分布からアラハバキ神の信仰は全国的な広がりをみせており、単に東北地方ということではなく、特に出雲と物部に密接に関連しているようだ。 出雲系=島根県40社、埼玉県20社、東京都10社。 无邪志(ムサシ)国造は、出雲臣の子孫・兄多毛比(エタモヒ)命。 胸刺(ムサシ)国造は、兄多毛比命の子の伊狭知直(イサチノアタイ)。 物部系=茨城県3社、静岡県2社、愛知県7社、愛媛県26社、長崎県2社。 小市国造(愛媛県)は、物部連の祖の大新川命の孫の小致命。 松津国造(長崎県)は、物部連の祖の伊香色雄命の孫の金連。など 出雲系が70社。物部系が40社。全体155社のうち、110社を占めている。 ここから考えれば、物部氏と出雲族との間に、なんらかの関係があるはずだと推察される。その鍵が『東日流外三郡誌』にいう外物部かもしれない。 『東日流外三郡誌』 / 耶馬台族(邪馬台国の残党か)が逃れて奥州に住み着き、現地人と一緒になって、アラハバキ族と称して新しい国造りを始め、初代の国王には安日彦が就任した。 まさに鬼首の鬼たちをアラハバキ族だと言っているが、アラハバキに脚光をあてさせた東日流外三郡誌(ツガルソトサングンシ)には様々な論争があったが、現在では偽書だとする説に傾いている。だが、アラハバキ神を祀る神社(客人神を含め)150カ所にのぼることから、アラハバキ神がいたのは確実である。 そして、アラハバキ神が物部氏や出雲族と関係することも確かだと思われるが、これは別の章で述べる。 |
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■魔多羅(マタラ)神 | |
天台宗三代座主『慈覚大師』円仁が将来した魔多羅神について、梅原猛氏は次のように述べている。
私は摩多羅神にディオニソスの神の面影を見る。ディオニソスの特徴は性的放縦であり、その祭に人々は酒に酔って性器をかたどった張りぼてをもって、しきりに猥褻(ワイセツ)なことを言って町を練り歩く。私はこの広隆寺の牛祭にディオニソスの神の祭を見る思いであった。摩多羅神は、はるばると日本にやって来たディオニソスではないだろうか。(梅原猛著『京都発見二路地遊行』より) ディオニソスはギリシャ神話における酒と享楽の神で、ローマ神話ではバッカスと呼ばれ、芸能神でもあり、他に「雄牛・秘技受けし者・二度生まれた・騒々しい」など、多くの名前がつけられているが、ゼウスの庶子とされる。 ディオニソスの狂宴は、ディオニソスを祝うと同時に、広場に陽石(まら石)を立てて豊饒を祝い、飲み歌い踊ったが、しはしば多数の男女が淫行に及ぶことからローマ元老院に禁止されたという。江戸末期、真言密教立川流が同様の宗教儀式を催し、幕府に弾圧されている。 うおおおおおお! 古来、日本でも祭りの神輿に鎮座する御神体が陰陽石である場合が多いが、これは子種を植え付ける陽石、子宝を生み出す陰石は豊穣の象徴とされたのである。 左は「金山神社」神奈川県川崎市の金魔羅(かなまら)祭だが、今は豊穣祈願より安産や妊娠祈願が主となっている。 このディオニソスに近似する魔多羅神を日本に普及させた天台宗が、魔多羅神は荒神だと指摘している。丹生で既述したように、台所の神様として親しまれている『荒神(コウジン)さん』は、本来は土蜘蛛の「炉の神」だが、天台宗は荒振(アラブル)神だというのだ。なにやらアラハバキに音が似ている。 荒神の起源は、ヒンズー教の摩訶迦羅(マハーカーラ)で、シヴァ神の夜の姿(性的性質)だという。これもディオニソスである。 しかし、なぜ円仁は魔多羅神を荒神だとしたのだろう。 奥州安倍氏の滅亡は1062年のこと。従って、円仁の時代(794年〜864年)には、安倍氏族の全盛期は過ぎていたが、大和から難波に本拠地(阿倍野の一帯)を移して勢力を保っており、安倍氏族のための配慮だとは思えない。やはり土蜘蛛に対する供養だと思われるのだが、東北蝦夷の反乱で滅ぼされた大竹丸が安倍氏であれば、大竹丸の供養ではないだろうか。これも後述する。 魔多羅神は客人神と同様に、本来は外来の邪霊を撃退するために置かれた「サエの神(道祖神)」とも考えられている。 |
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■道祖神(どうそしん)
魔多羅神はディオニソス同様、多様性を秘めた神で、その性質のひとつが道祖神だが、日本の道祖神の原型は『記紀』の黄泉国の話にある。 黄泉国までイザナミを探しに行ったイザナギは、イザナミの腐乱した遺体に恐れをなして逃げ出した。侮辱されたイザナミは冥界の鬼女に追わせたが、黄泉の境の平坂を、イザナギが障害物で塞いだ。用いた磐石を道返大神(さえのかみ)、杖を岐神(ふなとのかみ)という。 そして、黄泉の汚れを洗っていたイザナギの左目から天照大御神(アマテラス)、右目から月読尊(ツクヨミノミコト)。鼻から素戔鳴尊(スサノオ)が産まれるのだが、これは古代苗(ミャオ)族の『盤古神話』を起源としている。 道祖神は塞(さい)の神とも言い、村の外れに置き、外部から悪霊が村に侵入するのを防いでいたが、子を産んだイザナギに由来して、道祖神も男女両性とされ、神社に陰陽石が祀られるようになり、供物も男女の性器の形状のものとされ、豊穣祈願や子宝祈願の神となる。 |
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■大黒天
魔多羅神は「戦い、闇の世界、祟り、性的」という多面性もつ荒振神とされるが、それが大黒天となると一転して守護神となり、財産や仏法を護る神様となる。 帝釈天・毘沙門天(多聞天)などと同様に、仏教の天部に所属する神で、忿怒神・戦闘神・夜叉神とされるが、マハー(大いなる)カーラ(黒)の漢訳が『大黒天』または大黒神という。それが仏教に採りいれられ、悪鬼と戦う勇猛な護法の軍神に変身した。阿修羅の逆パターンである。 高天原の神々に従わず、高天原に帰順しない邪悪な神々で、人々に災いをもたらし、苦しめるとされる荒振神としての面が、朝廷からみた蝦夷『鬼』の姿と重なるように感じられる。 摩訶迦羅が道教と習合すると、商売繁盛の福の神に変身して、日本では『大黒様』と呼ばれるようになるが、平安時代の大黒天の像(左の写真)には、鎌倉時代からの大黒様とは異なり、優しい表情はしていない。 円仁が魔多羅神を伝来したのは、国家権力に付着して鎮護国家に専心し、衆生救済を無視した日本仏教に対する無言の批難で、権力の非道に泣く人々を護る神を、後戸に隠して秘仏としたのではないだろうか。 今の仏教は発祥の国インドでも衰退し、東南アジアと日本に残るだけだが、大寺院は観光、他の寺院は葬式と法要、ただこれだけに専念しているようでは、円仁が泣いていることだろう。 |
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■能・狂言への発展
金春禅竹の『明宿集』には,摩多羅神は猿楽者の芸能神(宿神)だとしている。これもディオニソスに類似しているが、道祖神は領域の境を護る神で、いわば外敵に対する霊威だが、宿神も本来は同一の役割を果たす神とされている。 かつては歌舞伎役者が「河原乞食」と侮蔑されたが、猿楽師も良民以下の下賎な身分とされ、地理的境界である坂(さか)や宿(すく)に居住を強いられた。そんな彼らの神である。境とは差別の境界でもあり、土蜘蛛の鬼も当然、この仲間である。 大和朝廷は散楽師の養成機関「散樂戸」を設けて、保護をしていたが、延暦元年(782年)、桓武天皇によって散楽戸は廃止される。 散楽とは古代ローマやギリシャの芸能がシルクロードを経由して中国に伝わり、大陸文化とともに日本に伝来した雑芸師の総称で、散楽が猿楽の前身である。 散楽のうちの物真似芸を起源とする猿楽は、後に観阿弥、世阿弥らによって能へと発展し、曲芸的な部分は後の歌舞伎に引き継がれ、滑稽芸は狂言や漫才芸になり、奇術は今日のマジック(手品)となった。人形を使った諸芸は傀儡(くぐつ)となり、人形浄瑠璃(文楽)へと引き継がれていった。 このように、散楽が後世の芸能に及ぼした影響には計り知れないものがあるが、朝廷の保護をなくした散楽師は寺社や街角で芸を披露するようになり、他の芸能とも融合して独自の発展を遂げていったが、なかには社寺の庇護を得て、その祭礼の際などに自分たちの芸を披露する者たちもいた。 最初は余興的なものとして扱われていたが、やがて社寺の祭礼には猿楽が不可欠とされるようになり、社寺の由来や神仏と人々の関わり方を解説するために猿楽の座が寸劇を演じるようにもなる。これがやがて「猿樂の能」となり、公家や武家の庇護をも得て、「能」や「狂言」に発展していった。 「御能狂言図巻」より 後に節分会と呼ばれる宮中行事の追儺(ついな)には、「鬼」を払う役割の法呪師が欠かせない。それを担ったのが「猿楽呪師」である。 天台宗系の常行三昧堂の後戸に摩多羅神が祀られていたが、天台寺院に庇護された後戸猿楽(猿楽呪師の後身)は、この後戸で六十六番の滑稽芸をもって奉祭していたが、それを縮めて三番にしたのが「翁猿楽」で、翁猿楽には猿楽本来の滑稽性がなく、除魔や祝祷性のある呪師の面影が強く出ているとされる。 |
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■福は内、鬼は内
中国仏教は道教と習合し、七福神や閻魔(えんま)大王を誕生させた。 閻魔大王が次に死者となるべき人物の姓名を記した戸籍台帳を『鬼籍』といい、死者は鬼籍に編入されることから、死ぬことを「鬼籍に入る」というが、奈良時代に、この閻魔大王の話が広がり、死と鬼が一体化し、いつしか鬼は不吉な物として忌み嫌われる風習が生じたのだろう。 さらに、人は生前の業の善悪によって「天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄」の六道いずれかの世界に入るとされる六道輪廻(ロクドウリンネ)の思想が浸透し、地獄の牢役人「獄卒」、罪人を苛烈に罰する牛頭(ごず=牛頭人身の鬼)、馬頭(めず=馬頭人身の鬼)が、『鬼』の典型とされるようになる。 このように、仏教の普及によって鬼のイメージは下落したが、大和王朝が中央集権国家を目指すまでは、鬼と土蜘蛛が同一視されることはなかった。 それが、奈良時代に入ると大和王朝に服従しない「服(まつろ)わぬ民」即、『鬼』だとされるようになる。だが、記紀(古事記と日本書紀)に記された日本武尊の事績、土蜘蛛・熊襲・出雲の討伐、また『常陸国風土記』を読んでも、日本武尊の戦法は、強者に対しては卑怯・陰険、弱者に対しては非道・無慈悲としかいえない。 それでも服従しろとは不条理な要求である。当然、理不尽な侵略に対して、相手側の首長は必死の徹底抗戦を試みる。それが「邪鬼」にされるのだから、「勝てば官軍、負ければ賊軍」は世の常とはいえ、あまりにも無情だといえる。 節分に「福は内、鬼は外」と豆をまいて鬼を追い払う風習は、慶雲二年(705年)頃に始まった厄払いの儀式『追儺(ついな)』が起源だとされるが、神秘の力を象徴するはずの『鬼』が、奈良時代には退治される魔物に凋落している。 写真だが、全国には頑として「鬼は神様」とする節分もある。元興寺(奈良市中院町)、天河神社蔵王堂(奈良県吉野市)、千蔵寺(川崎市)、鬼鎮神社(埼玉県武蔵嵐山市)などでは、「福は内、鬼は内」と唱え、大原神社(京都府三和町) の節分にいたっては「福は外、鬼は内」と唱えている(左は大原神社の節分『京都新聞』)。 そんな民衆のささやかな反発が「福は内、鬼は内」にこめられているのではないだろうか。ただ、鬼とされた蝦夷の国、東北地方には「福は内、鬼は内」を唱える節分会がないのは、なんとも残念ではある。 なぜ大和王朝が不条理な施策を生み出したのかといえば、白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗し、国家存亡の危機に陥ったことが要因と考えられる。次の項目では、それについて解説をする。 |
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■鬼と粛慎(みしはせ) | |
仏教の伝来によって鬼が神(鬼神)から妖怪(邪鬼)に貶められ、奈良時代になると、厳密に言えば日本国(天武朝廷)の時代になると、朝廷に服従しない民は「非道で、悪辣な鬼」だとされた。
しかも朝廷に反抗する地域の神々は、『日本書紀』によって時代を遥かに遡って、正統な天神から邪神だとされたとする神話や歴史物語を意図的に付加され、それが正史として代々伝承していくよう万全の対策を施された。 そして、1300年後の今日、『記紀』に記載されたこと歴史的事実であり、これに記された神々であれば、太古から信奉されてきたのだろうという、一種のブランド証明ともなっている。 天武さんは、エライ(^_^;) 日本国(天武朝廷)によって『鬼』とされるのは、天武朝廷の支配下に組み込まれなかった「まつろわぬ民」で、彼らに共通するのは「土蜘蛛」と呼ばれたことだが、そもそも土蜘蛛とは何人なのだろう。 |
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■土蜘蛛は倭鍛冶か
土蜘蛛を縄文人、倭人を弥生人だとする説がある。 縄文文化に対し、弥生文化には渡来文化の影響が強く、北部九州には縄文遺跡が極端に少ないことから、この一帯に弥生文化をもつ多数の渡来人がいたことは確実だが、考古学的には、「両文化には連続性がみられ」、人類学的には、「人骨の形質変化から、少なからぬ渡来人の存在が想定される」。 つもり、弥生人が縄文人を駆逐した訳ではなく、少数派の縄文人と多数派の弥生人が穏やかな交流を進め、混血児が誕生。やがて圧倒的多数の弥生系の文化と遺伝子が北部九州に広がり、そこから日本列島を東進していったと思われることから、土蜘蛛を縄文人だとは断定できない。では、穴居民とはなんだろう。 土蜘蛛を土着の穴居民だと記すが、奈良時代の民衆は竪穴式住居で暮しており、現代人には全員が穴居民に思えるが、『記紀』の穴居民とは、丹生や鉄鉱石などを掘る鉱夫のことだと思われる。 作金者(カナダクミ)が製鉄技術を伝来したが、鉄器製造は朝鮮半島からの鍛冶職人に頼っていた。彼らは韓鍛冶(カラカヌチ)と呼ばれた。それ以前は銅鐸や銅剣などの銅器を倭鍛冶(ヤマトカヌチ)が製造しており、なかでも鉱石の識別をする鐸石別(ヌテシワケ)は、先進技術者とされ、崇神天皇の孫に鐸石別命の名があるように人々に崇敬されたが、鍛冶は部民(べみん)とされた。 部民とは、領主に隷属する様々な技術者集団をいい、奴婢ではないが、賎民と良民の中間的身分で、居住地での生活の自由は認められた。だが、時代を経ると彼らも奴隷階級に落とされ、結婚も禁じられ、売買されるようになる。 奴隷は人間の屑(くず)として扱われたが、屑とは国栖(くず)、すなわち土蜘蛛である。当然、そんな悲惨な生活を強いる権力者に対し、反抗する者も現われる。 従って、鬼や土蜘蛛が登場する土地は、鉄や丹生の産地と一致する。 良質の鉄を産出した常陸国も本来は蝦夷の領域だったが、鹿島神宮を拠点とした大和朝廷によって常陸から駆逐され、東北に逃れるが、なかには徹底抗戦した蝦夷部族もいる。それが都から遠く離れた常陸に土蜘蛛や鬼の物語が多い原因である。このことから、鬼とは、倭鍛冶の部民(土蜘蛛)の長だとも考えられる。 『日本書紀』天地開闢神話には、国常立尊(クニトコタチ)、国狭槌尊(クニサツチ)、豊斟渟尊(トヨクムヌ)が登場するが、豊斟渟尊の実際の発音は「ボシントイ」であり、パイカル湖一帯のブリヤート族伝承の「鉄鍛冶神」の名だとされる。つまり、北廻りに東北へ渡来して陸奥に独自の製鉄王国を立てたオホーツク文化圏の人々の神と同一神格だというのである。 |
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■オホーツク文化
倭国は青銅器文化と鉄器文化がほぼ同時に始まるという異質な文化をもち、同時期に両文化が伝来したことを物語っているが、青銅器製造は紀元前2世紀頃と推定されるが、紀元前一千年にアムール川流域に発展した匈奴鉄器文明の影響を受けたオルドス文化が密接に関与していると思われる。 『韓国考古学概論』金元龍 / オルドス文化とは、タガール文化(前700年−前200年)がオルドス地方(内蒙古自治区)で中国青銅器文化と混合した結果、出現した独特の遼寧青銅器文化だが、中国東北部から朝鮮半島の無文土器人が使用していた青銅器がオルドス文化様式とされる。朝鮮半島の遺跡から出土した無文土器は、年代測定で紀元前559年から前280年とされる。 『オホーツク文化概説』市立函館博物館 / およそ6世紀から13世紀にかけて、樺太・北海道オホーツク海沿岸・千島列島を中心に、陸獣・海獣狩猟、漁撈、採集活動を生業とする民族集団が居住しており、彼らの形成した北方の文化形態こそ、謎を秘めた「オホーツク文化」です。 一般にオホーツク文化は、鉄器や青銅器を有する沿海州靺鞨文化(4〜10世紀)、女真文化(10〜12世紀)の系統をひいており、本州の土師器文化(7〜11世紀)の影響を受けて発生した擦文文化(8〜13世紀)と融合、吸収されていったと考えられています。 上記の説明では、紀元前の銅器や鉄器は朝鮮半島から、4世紀頃の古墳時代にはロシア沿岸州からも入ってきたことが窺われる。 オルドス文化もオホーツク文化も、ともにアムール川流域に端を発していることから、ツングース系の粛慎や扶余が、両文化の伝来に関与していると推察する。 九州から西日本には朝鮮半島経由の扶余系、北日本にはアムール川流域やロシア沿岸州から豊斟渟尊(ボシントイ)を信奉する粛慎系、それぞれの渡来人が銅器と鉄器の両文化を一緒に持ってきたのではないだろうか。そのなかに『東北の鬼』の先祖がいたのかもしれない。 |
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■見慣れぬ異国人
『日本書紀』斉明紀には、頻繁に粛慎「みしはせ」の記事が登場するが、その記述からでは、彼らの実像が見えない。少し追究してみよう。 『日本書紀』 / ● 欽明天皇五年(544年)12月条 / 越(こし=北陸)の国からの報告によれば、佐渡島の北の御名部(みなべ)の海岸に粛慎(みしはせ)の人がおり、一艘の船に乗ってきて留まっている。春夏の間は魚を捕って食料にしている。かの島の人は人間ではないと言う。また鬼魅(おに)であるとも言って、敢えてこれに近づかない。 ● 持統天皇十年(696年)3月条 / 越の度嶋(わたりしま)の、蝦夷の伊奈理武志(いなりむし)と、粛慎の志良守叡草(シラスエソウ)に、錦でできた袍(上着)と袴・赤い太絹・斧などを下賜した。 上記では粛慎の概要もつかめないが、中国の史籍は、次のように記している。 『晋書』粛慎伝 / 粛慎(シュクシン)氏、一名に挹婁(ユウロウ)。不咸山(ふかんざん=長白山・朝鮮の白頭山)の北にあり、扶余(ふよ)から六十日の行程。東は大海(日本海)に沿い、西は寇漫汗国と接し、北は弱水(アムール川)に極まる。(中略) 気が向いたときに船に乗り、巧みに略奪を働くので、隣国は畏れて患うが、兵を派遣しても(兵士が彼らの毒矢を恐れるので)服させることはできない。東夷の扶余は飲食には皆、俎豆(お膳)を用いるが、挹婁だけは使用しない。その法俗は、最も綱紀が無い者(最悪の無法者)たちである。 『三国志魏書』挹婁伝 / 挹婁は扶余の東北千余里、大海に沿い、南に北沃沮と接し、いまだにその北の極まる所を知らない。多くの険山がある。その姿形は扶余に似ているが、言葉は扶余や句麗(高句麗)と同じではない。五穀、牛、馬、麻布がある。人の多くは勇猛で力がある。大君長はいない。各々の部落に大人がいる 『日本書紀』にいう粛慎は、ツングース語系諸族の粛慎のことだと思われるが、粛慎はツングース族の部族集団名で、「みしはせ」が、どの部族を指すのかは不明だが、オホーツク文化に靺鞨文化、女真文化とあるが、靺鞨も女真も粛慎の末裔である。彼らが日本海を渡ってきたのだろう。そして、彼らの武装した風貌が、鬼のイメージ「大柄、赤い目、紅毛、角がある」に似ていたのだろう。 |
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■阿倍比羅夫
次に、『日本書紀』斉明紀での「阿倍比羅夫」の記事をみてみよう。 ちなみに、阿倍比羅夫は『鬼切城』の主、俘囚の長『安倍頼良』の遠祖である。 [ 阿倍比羅夫─安麿─小島─家麿─富麿─宅良─安倍頼良─貞任 ] 655年、北の蝦夷99人、東の蝦夷95人、百済(クダラ)の調使150人に饗応。 658年、4月、阿倍比羅夫が軍船180艘を率いて蝦夷に遠征。降伏した蝦夷の恩荷を渟代(能代)、津軽二郡の郡領に定め、有馬浜で渡島の蝦夷を饗応した。 7月、蝦夷二百余が朝献した。常よりも厚く饗応し、位階を授け、物を与えた。 11月、この年、越の国守の阿倍引田臣(アヘノヒキタノオミ)比羅夫が粛慎を討ち、生羆二つ・羆皮七十枚を献上した。 659年、3月、阿倍比羅夫に蝦夷国を討たせた。阿倍比羅夫は一つの場所に飽田(秋田)・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏の蝦夷20人を集めて饗応し、禄を与えた。 後方羊蹄に郡領を置いた。粛慎と戦って帰り、虜49人を献じた。 660年、3月、阿倍比羅夫に粛慎を討たせた。比羅夫は大河のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められ、粛慎を幣賄弁島まで追って、戦い破った。 5月、阿倍引田臣が夷50人余りを献じた。石上池で粛慎47人を饗応した。 粛慎は挹婁・勿吉(モツキツ)と国号を改め、7世紀初期には靺鞨(マツカツ)と名を変え、高句麗や突厥に服属し、後に渤海を建国した南の粟末靺鞨と、後の女真となる北の黒水靺鞨に二分されている。 724年頃に建立された奥州多賀城の石碑に「西に靺鞨国」との文字がみえるが、『日本書紀』編纂時には粛慎の改号を知らなかったようだ。 612年、隋の煬帝は高句麗に遠征し、高句麗に服従していた靺鞨粟末部の大部分を帰順させ、現在の朝陽市に移住させた。隋に帰順しなかった靺鞨粟末部の残余は、高句麗側で抵抗を続け、668年に唐が高句麗を滅ぼした後、朝陽市に強制移住させられている。 従って、日本書紀に登場する粛慎とは、高句麗と共闘していた粟末靺鞨ではなく、アムール川中流域の黒水靺鞨のことになるが、中国の史籍には、黒水靺鞨は「東夷最強」とあり、当時の倭国水軍が敵うような相手ではない。 『日本書紀』では阿倍比羅夫が何度も「饗応」しているが、敵を饗応するのは和議が成立した場合で、実際は討伐ではなく、蝦夷や中国大陸の部族と交易をした記録を歪曲したとも考えられるが、この時期の倭国は風雲急を告げる国際情勢にあり、東北に水軍を派遣するような余裕があったとは思えない。 642年、百済が高句麗と結んで新羅を攻めると、新羅は唐に救援を求めた。 645年、647年、648年、唐の太宗は3回の高句麗遠征を行ったが失敗した。 645年、倭国で皇室クーデター「乙巳の変」が起こる。 653年、百済義慈王が倭国と国交を結んだ。 655年、唐の高宗が高句麗遠征を再開、以後、高句麗が滅亡するまで継続する。 この年、阿倍比羅夫は北の蝦夷99人、東の蝦夷95人、百済(クダラ)の調使150人を饗応しているが、これは阿倍比羅夫が支配する越国の港が、百済使節が渡来するときの玄関口だったことを表しているのではないだろうか。 別の章で後述するが、この当時、安部氏族は大和国を本拠地としているが、その氏族の支配地は筑紫国(北九州)、若狭国(福井県)から越国(新潟県)、常盤国という広大な領域を有する中央政権でも屈指の大豪族である。 655年から660年は、百済・高句麗と新羅・唐の熾烈な戦いが起きていた時期であり、この状況下に阿倍比羅夫が水軍を動かしたとすれば、新羅侵攻の上陸作戦を想定してのものだと想像する。 それほど事前から軍事訓練を重ねていたが、中大兄皇子は軍師としての資質には欠けていたのだろう。白村江で簡単に撃沈されてしまった。 660年、唐は高句麗と結んだ百済に矛先を転じ、新羅と連合して百済を滅ぼす。 7月、鬼室福信が百済復興の兵をあげ、倭国に救援と王子の豊璋の帰還を要請。 中大兄皇子(後の天智天皇)はこれを承諾。遠征の軍備をはじめた。 このような情勢下で、阿倍比羅夫がのんびりと粛慎を討ったり、饗応したりする余裕はなかったと思われる。『日本書紀』は精一杯の虚飾を施したのだろう。 661年、前線基地の大宰府に親征した女帝『斉明天皇』が急死(暗殺説あり)。 5月、安曇(あづみ)比羅夫を指揮官とする170余隻を、百済王子の扶余豊璋を護送する先遣隊として送った。 662年、3月、阿倍比羅夫らが二万七千人の兵を率いて朝鮮半島に進軍する。 ここに安曇比羅夫と阿倍比羅夫の二人の将軍が登場するが、安曇氏も安倍氏も、ともに海人系の氏族である。ここでは安倍氏が水軍力を有していたことを記憶していただきたい。 |
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■倭国の滅亡(新生日本国) | |
阿倍比羅夫の朝鮮出兵によって、結果的に旧来の倭国は滅び、日本国が登場する契機となる。そして、それは「東北の鬼」の誕生につながっていく。
663年、倭国は百済復興のため大軍を派遣したが、白村江の海戦で新羅と唐の連合軍に壊滅的な惨敗をきした。 664年5月、唐軍の総責任者である百済鎮将の劉仁願が使者を派遣してきた。 12月、劉仁願の使者が戻っていった。 665年9月、唐国が朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高らを派遣してきた。 12月、唐の使節が大和王朝の送使らを伴って戻っていった。 667年、中大兄皇子は九州北部から瀬戸内海にかけて国防施設を配置したが、ついに飛鳥を離れ、近江大津(滋賀県大津市)の近江宮へ遷都した。琵琶湖の東岸から鈴鹿に出れば伊勢湾、湖東から敦賀に出れば日本海、当時の大津は陸海路の要衝の地で、連合軍が迫った場合に備えた遷都である。 11月 9日、唐軍の劉仁願が熊津都督府の熊山県令の法聰等を派遣してきた。 11月13日、戻っていった。 668年、中大兄皇子が天智天皇となり、同母弟の大海人皇子を皇太弟に任じた。 この年の9月、高句麗が唐によって滅ぼされた。 669年、遣唐使として小錦中河内直鯨らが大唐に派遣された。 671年、天智天皇は、大友皇子を太政大臣にして後継者とする意思を示した。 天智天皇は亡命百済人らに免税などの優遇をして、東国の開拓を委ねた。陸奥国から朝廷に黄金を献上する「百済王敬福」は、このとき陸奥国に入植した百済王族の一員である。 11月、大唐の郭務悰が軍線47隻、2,000名を率いて大宰府に寄港した。 12月、天智天皇が死去、大友皇子(弘文天皇)が跡を受け継いだ。 672年3月、阿曇連稲敷を筑紫に遣して、天皇崩御を郭務悰に告げた。郭務悰らは、みな喪服を着て、三度哀の礼を奉じ、東に向って首を垂れた。 5月、郭務悰らが戻っていった。 6月、粛清の危機を感じた大海人皇子は、吉野から伊賀、鈴鹿関(三重県亀山市)を経由して美濃に逃れ、不破関(岐阜県不破郡関ヶ原町)で叛旗を掲げ、東国の豪族に挙兵を求めた。壬申の乱の勃発である。 瀬田橋(滋賀県大津市唐橋町) の戦いで朝廷軍が大敗、弘文天皇が自決した。 673年、大海人皇子は『天武天皇』として即位する。 676年、新羅が朝鮮半島を統一。倭国の半島への介入の道が閉ざされる。 690年、白村江で捕虜となった倭人たちが唐から帰還。 天武王朝は、彼らの情報に刺激を受け、律令制を布いた中央集権国家の構築を目指し、亡命百済高官らの知識を活用して律令制の成立に着手した。 701年、大宝律令が制定。国号を日本と定める。天皇制もこの時期と思われる。 この激動の40年が、井の中の蛙になっていた倭国を、新たな日本国を誕生させるための「生みの苦しみ」の期間だったともいえるが、白村江での敗戦以降の大唐の動きはなんだろう。 天智天皇の死去の直前に多勢で寄港し、まるで「壬申の乱」の勃発を未然に察知していたかのような帰還。 『唐会要』倭国・日本国伝 / 日本国の国号は、則天武后(624〜705年)の時代に改号したという。日本は倭国の別種である。その国は日辺に在る故に、日本国を以て名と為した。あるいは倭国は自らの国名が優雅ではないことを憎み、日本に改名した、あるいは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併呑したという。そこの人が入朝したが多くは自惚れが強く、不実な対応だったので、中国は(倭国とは無関係ではと)疑う。 このように唐王朝も従来の倭国と日本国の関係に疑問を感じており、『倭の五王』の時代の倭国と、新生日本国は関連性がなかったことをうかがわせる。 なにはともあれ、唐の先進的な統治制度に習った律令国家とするためにも、王朝の歴史を記録した『正史』の編纂が必須とされた。 ただし、天武天皇は正統な天皇であり、天武朝廷につながる代々のヤマト王朝が信奉した神の系譜につながる神々だけが日本国の正統な神であること。これを明記することが『天皇家の正史』の絶対的要件だった。 その根拠は、天武天皇が皇位簒奪者ではないことを説明するのに『日本書紀』は最大のページ数を費やしており、大海人皇子は皇太弟(こうたいてい)に任じられたとするのも『日本書紀』の創作だとされる。 ちなみに、皇位継承者とされた子女は「皇太子」、弟の場合は「皇太弟」という。大友皇子を正規の天皇「弘文天皇」であると認めたのは明治以降のことである。 『日本書紀』 / ● 天武天皇の十年(682年)条 / 天皇は大極殿にお出ましになり、川嶋皇子ら12人に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し校定させられた。大島・子首が自ら筆をとって記した。 ● 持統天皇の五年(691年)条 / 大三輪、上毛野、膳部、紀、大伴、石上、雀部、藤原、石川、巨勢、春日、平群、羽田、阿部、佐伯、采女、穂積、安曇の18氏に命じて、先祖からの事績を記した『墓記』を奉らせた。 このように『記紀』の編纂に先立って、「帝紀」や墓記(氏族史)に類する歴史書を作成させているが、ほとんどが現存しない。 後世、多くの氏族が秘匿していた残存記録を元に系譜を復元したようだが、上古の系譜が不鮮明な家系が多いのは、提出された纂記を焼却したことが原因だと推察される。『続日本紀』には次のような一文がある。 『続日本紀』元明天皇 / ● 慶雲四年(707年)7月条 / 山沢に亡命して、軍器を挟蔵して、百日首せずんば、罪に復すること初の如くす。 ● 和銅元年(708年)正月条 / 山沢に亡命して、禁書を挟蔵して、百日首せずんば、罪に復すること初の如くす。 軍器とは軍隊に要する器物のことだが、慶雲四年の軍器は禁書の誤写とされる。 禁書を秘匿し、天皇家の命令を拒否して王朝の支配地域外に逃亡した者は、百日以内に自首しなければ、本来の罰を科すぞと言っている。半年後にも同文の勅詔が出されていることから、百日以内に自首する者がいなかったのだろう。 禁書とは、天皇家に禁じられた本のことで、天皇家の大義名分に相反する書籍、すなわち「諸家の帝紀や本紀」や上記の『日本書紀』に記された『墓記』である。 このことから、天武と持統の夫婦が命じて提出させた歴史書の内容は、彼らには不都合な記述があったものと推察できる。 そこで登場するのが『古事記』である。 |
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■『古事記』
天武朝廷は代々朝廷に仕える語部(かたりべ)である稗田阿礼が暗誦していた帝紀(天皇の系譜)・旧辞(古い伝承)を、太安万侶(オホノヤスマロ)に書き写させ、それを献上させた。それが、和銅五年(712年)頃に成立した『古事記』である。 前述の天武紀に「帝紀及び上古の諸事を記し」とあり、これこそが『古事記』の原本ではないかとする説があるが、それを参考に天武朝廷に都合のよいストーリーを創作したものが『古事記』だと推察される。 ちなみに、天武朝廷という呼称はないが、天智天皇までの従前の大和王朝に対し、天武天皇による新しい王朝だということを強調するため使用したものです。 『古事記』序文 / 聞くところによると諸家に伝わっている帝紀及び本辞の類がすでに正実に違い、多くの虚偽を加えたものになっている。これを改めないと史実が滅びる。帝紀を正確に書物にまとめあげ、旧辞を良く調べ上げ正しいものに偽削実定して後の世に伝えたいと思う。 このように、天武天皇の詔が記してあり、『古事記』は勅撰(チョクセン)ではないとはいえ、朝廷公認の最古の歴史書になるはずだが、正史にもなれず、『日本書紀』をはじめ、六国史では『古事記』の存在は完全に無視している。 このことから『古事記』は偽書だとする説もあるが、上記の『偽削実定して後の世に伝えたいと思う」との意図が、思い通りにはならなかったのだろう。そこで、藤原不比等が無価値としただけのことで、偽書は言いすぎだろう。 |
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■『風土記』
『古事記』が献上された翌年の和銅六年(713年)、元明天皇は諸国に官撰の地誌『風土記(ふどき)』の編纂を命じ、各国国庁から提出させた。 なぜ『古事記』完成の翌年に『風土記』の編纂を命じたのか。その理由を示した史籍はないが、全国各地の旧辞の内容を検証するのが目的だった。そして、案の定、日本国(天武朝廷)にとって不都合な伝承が大量に記されていた。 従って、『風土記』は禁書の扱いにさせたものと推察される。 現在、諸国の『風土記』は、出雲国風土記がほぼ完本、播磨国風土記、肥前国風土記、常陸国風土記、豊後国風土記が大部分を残しているだけで、その他の風土記は逸文(後世の書物に引用されている)が残っているだけというのが現状である。 これでは、諸国からの『風土記』を、長年の間に宮中で散逸したというよりは、故意に廃棄したと考えるほうが妥当だろう。 実は『古事記』と『風土記』の記述に相異があり、さらに編纂中の『日本書紀』の記述とは完全にかけ離れた内容だったので、日本国(天武朝廷)は諸国に『風土記』を廃棄するよう命じたものと推察される。いわゆる禁書処分である。 現存する『風土記』が国津神系の国々だけで保管されていたことからも、『記紀』(古事記と日本書紀)の記述に怒りを覚えた国々の人が、秘匿していたものが現在に残ったと考えられる。 |
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■『日本書紀』(神の評価基準)
日本国(天武朝廷)は中国語の天神地祇(テンシンチギ)を、天神は天津神(アマツカミ)、地祇は国津神(クニツカミ)と訳し、律令制で祭祀を司る神祇官を設置し、『日本書紀』神話に記載する神々を意図的に、高天原に鎮座あるいは天降った神々を『天津神』、地上で出現した神々を『国津神』に大別させた。 端的には、皇族や有力氏族が信奉する神々を『天津神』、大和王朝に平定された地域で信奉されていた神々を『国津神』に位置づけ、『国津神』は記紀神話に取り入れる際に『天津神』に従う神として、その神の本来の姿を変容させている。 養老四年(720年)、『日本書紀』が完成すると、日本国(天武朝廷)は『日本書紀』に記載された神だけが国家公認の神だと黙示的に位置づけた。 明文化しなくとも、天津神が天皇家、国津神が帰服者の神々であることは明白である。「日本書紀の神は内、その他の鬼神は外」、節分の豆のようなものだ。 そして、『日本書紀』に記載のない神を祀ることは、日本国(天武朝廷)に対する不服の表明だと疑われる危険があり、それらの神々は諸国で隠蔽、もしくは排除され、『日本書紀』の神々だけが全国で奉祀されるようになっていったと思われる。 これが正史である『日本書紀』に秘められた裏の一面である。 |
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■『延喜式・神名帳』(神々の番付表)
延喜五年(905年)に醍醐天皇の命により編纂に着手、延長5年(927年)に完成、康保四年(967年)から施行された神社の一覧表を『神名帳』という。 それも単なる一覧表ではなく、神祇祭祀をどのように行うかを、朝廷が規定した延喜式に付随したもので、朝廷の庇護を条件に、神に官位制度や社格を導入した、いわば祭神の階級表で、一般に『延喜式・神名帳』と称される。 これを裏面からみれば、社格の決定調査を口実に、全国各地の祭神の実地検分をしたともいえる。豪族のなかには一族が代々信奉してきた氏神を秘かに祀っていた可能性もあるが、これを機に『日本書紀』の神々に転換されたと想像できる。 『延喜式・神名帳』に記載された神社を「式内社」といい、式内社は祈年祭奉幣を受けるべき神社で、平安時代の神社約三万社のうち、式内社は2,861社。記載はないが『六国史』に社名のある神社を国史現在社といい、石清水八幡宮(京都府)など全国に391社。これ以外は、すべて『式外社』とされた。 当初は、神祇官が全国の式内社を巡回して奉幣(供物を神祇に献上する)を受けたが、国司が代理するようになり、神祇官より奉幣を受ける「官幣社」、国司より奉幣を受ける「国幣社」の別ができ、社格の順は、官幣大社・国幣大社・官幣小社・国幣小社とされました。また、国司が任地に赴任したときは「神拝」といって、任地内の神社を巡拜することが定められ、最初に神拝すべきとされる神社が『一の宮』と呼ばれるようになる。 このように、全国各地に約八万社を超える神社に祀られている神々は、いずれも『日本書紀』によって天津神と国津神に大別され、『延喜式・神名帳』によって個々に格付けがなされた、いわば朝廷の定めた階級制で識別された神々だといえる。 |
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■内物部と外物部(そともののべ) | |
物部氏は磐余彦尊(イワレビコ=神武天皇)より前に、河内国の哮峰(大阪府交野市)に天孫降臨したとされる饒速日(ニギハヤヒ)命を祖先とする大豪族だが、用明天皇二年(587年) 物部守屋は蘇我馬子らに攻められて戦死し、一族は離散し、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなったともいわれる。
ただし、物部氏族はこの後も物部氏を名乗って活躍しており、物部宗家も守屋の弟が石上氏を賜ったとされ、後には左大臣も出している。 また、このときに中臣氏(宗家)も物部守屋に連座して衰退するが、なぜかこの後、忽然と中臣鎌足が歴史上に現れ、彼の次男とされる藤原不比等によって、藤原氏は強固な基盤をつくることになる。 既述したが、この藤原不比等が中央政権で権勢を握り、天皇家の『正史』として『日本書紀』を編纂させたが、実体は藤原家のための歴史書だとする説が有力で、『記紀』での藤原氏の関する記述部分は、それを留意して読む必要がある。 『先代旧事本紀』は、序文に推古天皇の命によって聖徳太子と蘇我馬子が著したと記し、古事記・日本書紀・古語拾遺の引用部分が多いが、物部氏の祖神である饒速日尊に関する独自の記述が特に多く、物部氏の書いた書ではないかと考えられ、通説では、平安時代初期の成立とされ、序文以外は偽作ではないと考えられている。 鎌倉時代には慈遍が神道の思想の中心と考えて注釈書『舊事本紀玄義』を著し、「度会神道」に影響を与え。室町時代には、吉田兼倶の吉田神道でも、『記紀』と『先代旧事本紀』を「三部の本書」として重視している。 |
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『日本書紀』神武紀
/ ● 長髄彦(ナガスネヒコ)は、昔、天神の御子が天磐船に乗って天降られた。名を櫛玉饒速日(クシタマニギハヤヒ)命といい、我が妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を娶り、生んだ子が可美真手命(ウマシマデ)であるといった。 ● 磐余彦尊(イワレビコ=神武天皇)は、饒速日(ニギハヤヒ)命が天から降りてきた事が事実だと知り、いま忠誠を示した(長髄彦を殺して帰順した)ので、これをほめて、臣下に加えて寵愛した。この饒速日命が物部氏の先祖である。 『古事記』神武紀 邇芸速日(ニギハヤヒ)命が参上して、天神の御子(磐余彦尊)に「天神の御子が天降りされたと聞きおよび、後を追って降って参りました」と申し上げ、天の神宝を献上してお仕えした。邇芸速日命が登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ=登美毘古トミヒコ)の妹の登美夜毘売(トミヤヒメ)を娶って、生んだ子は宇麻志麻遅(ウマシマヂ) 命。これは物部連、穂積臣、采女臣らの祖先である。 『先代旧辞本紀』天孫本紀 / ● 饒速日 (ニギハヤヒ) 尊は天神の御祖の命令を受け天磐船(アメノイワフネ)にのって、河内の国の河上の哮峰(イカルガノミネ)に天下った。大倭の国の鳥見(トミ)の白庭山(シラニワノヤマ)に移った。饒速日尊は長髄彦(ナガスネヒコ)の娘の御炊屋姫(ミカシキヤヒメ)を娶り、懐妊させた。だが、生まれる前に饒速日尊はお亡くなりになった。 ● 天孫の天津火瓊瓊杵 (アマツホノニニギ) 尊の孫「磐余彦尊」が天下を治めようと、軍を興して東征されたが、往々に命令に従わない者が鉢のごとく起り、中州(ナカツクニ)の豪雄の長髄彦は、饒速日尊の御子の宇摩志麻治 (ウマシマチ) 命を推戴して、君として仕えていた。 |
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『記紀』と『先代旧事本紀』では、ニギハヤヒの扱いがまったく違う。
先住の天孫族のニギハヤヒを討伐したとなると、大和王朝が侵略者だったことが明白になる。ニギハヤヒの存在を無視して、一切記載しないのが最善の方法だが、現にニギハヤヒを祖とする氏族がおり、それではあまりにもバレバレである。 そこで、ニギハヤヒを神武天皇の臣下に仕立て上げた。もし、これに異議を唱えれば天皇に対する反逆として誅罰するぐらいの腹積もりだったのだろう。 ただし、物部氏が大和王朝に出仕していたのは歴史的事実であることから、先住のニギハヤヒ系とは別の針路を選んだことは間違いない。だとすれば、ニギハヤヒ系にとって、物部氏は「裏切者」だったことになる。 一説には、大和地方の王「ニギハヤヒ」は、後に九州から侵攻してきたニニギに大和地方から駆逐され、東へ東へと逃れ、さらに東北へと追われたが、そのとき、侵攻勢力に迎合した「内物部」と、大和地方の土蜘蛛や蝦夷とともに東国に奔った「外物部」に分かれたとする説がある。 祭神は饒速日 (ニギハヤヒ) 命。 岩船の地名の由来は「昔、饒速日命という神様が、磐樟(イワクス)舟に乗って、この浜に上陸された」という伝説にある。 饒速日命は古代大和王朝の大豪族「物部氏」の祖先神で、天津国より天磐船(アマノイワフネ)に乗って、河内の国に天降ったとされる神で、明神山の上に鎮座する石船神社は『石船(いわふね)神社』新潟県村上市岩船三日市 饒速日命を祀った神社ある。大同2年(807年)北陸道観察使、秋篠朝臣安人が下向のおり、京都貴船町より貴船明神を勧請して石船神社に合祀し、社殿を建立した。 村上市教育委員会は「伝説から考え、饒速日命の大和朝廷に恭順したさい、一部はよしとせずに安住の地を求めて来た人達か、蘇我氏との崇仏排仏の争いに敗れた物部氏の一統がたどり着いて遠祖饒速日命を祀り、天の石樟舟の伝説を残したのではないか」としている。いわゆる「外物部」である。 |
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■物部氏系の国造 | |
大和王朝はその土地の支配者を国造(クニノミヤツコ)に任じていることから、物部氏の国造を『先代旧事本紀』国造本紀でみてみよう。ただし、当時の大和王朝の支配権は福島県までとされるので、国造本紀から「秋田物部氏」の存在を確認することはできないが、物部氏の全容を知るには参考になるので列記する。
● 第13代 成務天皇の時代 遠淡海 (トオツアウミ) 国造(静岡県浜松市周辺) 物部連の先祖の伊香色雄 (イカシコオ) 命の子の印岐美(イキミ)命 珠流河(スルガ)国造(静岡県富士川下流、富士市・沼津市・裾野市) 物部連の先祖の大新川(オオニイカワ)命の子の片堅石(カカシ)命 久自(クジ)国造(茨城県久慈郡) 物部連の先祖の伊香色雄 (イカシコオ) 命の三世孫の船瀬足尼(フナセノスクネ) 三野後(ミノノシリ)国造(岐阜県美濃) 物部連の先祖の出雲大臣(イズモオオオミ)命の孫の臣賀夫良(オミカフラ)命 尾張(オワリ)国造(愛知県西部) 天別の天火明(アメノホノアカリ)命十世の孫の小止與(オトヨ)命 参河(ミカワ)国造(愛知県三河地方) 物部連の先祖の出雲色大臣(イズモシコオノオオオミ)命の五世の孫の知波夜(チハヤ)命 熊野(クマノ)国造(和歌山県熊野地方) 饒速日命の五世孫の大阿斗足尼 末羅(マツラ)国造(長崎県松浦) 物部氏の同族・穂積臣の同祖の大水口足尼の孫の矢田稲吉命 ● 第14代 仲哀天皇の時代 久努(クヌ)国造(静岡県袋井市磐田市の中間) 物部連の先祖の伊香色雄 (イカシコオ) 命の孫の印播足尼(イナバノスクネ) ● (15代)神功皇后の時代 伊豆(イズ)国造(静岡県伊豆半島) 物部連の先祖の天御桙(アメノミホコ)命の八世の孫の若建命(ワカタケ)命 ● 第15代 応神天皇の時代 小市 (オイチ)国造(愛媛県越智) 物部連と同祖の大新川(オオニイカワ)命の孫の子致(コチ)命 風速(カゼハヤ)国造(愛媛県) 物部連の先祖の伊香色雄 (イカシコオ) 命の四世孫の阿佐利(アサリ) ● 第16代 仁徳天皇の時代 松津(マツツ)国造(長崎県) 物部連の先祖の伊香色雄 (イカシコオ) 命の孫の金弓連(カネユミノムラジ) |
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■物部氏ゆかりの神社
物部氏系の国造は、南から長崎県、愛媛県、和歌山県、岐阜県、愛知県、静岡県、茨城県に分布し、その半数が東海地方に集中している。ただし、史書や古文書類が常に正しい記録を記載しているとは限らない。 全国各地の物部氏に関わる神々を祭神とする神社を列記すると次のようになる。 『東北地方』 37社 福島県18社、山形県6社、秋田県5社、宮城県4社、岩手県2社、青森県2社。 『関東地方』 60社 『久自国造』茨城県13社、千葉県22社、 栃木県3社、群馬県5社、埼玉県10社、東京都3社、神奈川県2社、山梨県2社。 『中部地方』 85社 『尾張国造、参河国造、三野後国造』 愛知県50社、岐阜県18社、 『遠淡海国造、珠流河国造、久努国造、伊豆国造』 静岡県6社。長野県11社。 『北陸地方』 73社 新潟県60社、富山県5社、石川県5社、福井県3社。 『関西地方』 295社 三重県45社、大阪府70社、奈良県60社、京都府30社、兵庫県40社、滋賀県25社。 『熊野国造』和歌山県25社。 『中国地方』 41社 鳥取県7社、島根県20社、岡山県8社、広島県4社、山口県2社。 『四国地方』 55社 『小市国造、風速国造』愛媛県30社、徳島県8社、香川県10社、高知県7社。 『九州地方』 65社 『末羅国造、松津国造』長崎県10社 福岡県40社、佐賀県4社、熊本県2社、宮崎県7社、鹿児島2社。 全国の合計711社に対して、物部氏系の国造の支配地の合計は174社である。 本拠地とした畿内はともかく、国造がいないのに「新潟県60社、福岡県40社」という数字(数字は約数である)は異常である。 北陸地方には、高志国造、高志深江国造、加宜国造、能登国造、若狭国造がおり、福岡県には筑志国造、兵庫県には針間国造、針間鴨国造がいるが、これらは全員が安倍氏の国造である。この安倍氏の国造の支配地での神社数は次のようになる。 福島県18社、栃木県3社、群馬県5社、新潟県60社、富山県5社、石川県5社、 福井県3社、兵庫県40社、福岡県40社。合計179社になる。 物部氏系の国造の支配地に174社、安倍氏系国造の支配地に179社。この合計で全体の半数を占めている。物部氏は出雲族だけではなく、安倍氏族とも密接な関係があるとしか思えない。 まずは出雲族との関係を調べてみよう。 |
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■秋田物部氏
現存する物部氏の系譜からは「外物部」の検証は難しいが、『唐松神社』(秋田県仙北郡協和町)に保管されていたという『物部文献』には、通説とはまったく異なる伝承が記録されている。 天日宮PHOTO『唐松神社』由来 / 秋田物部氏の遠い祖先は饒速日命(ニギハヤヒノミコト)で、天の鳥船に乗って千樹五百樹が繁茂する鳥見山(鳥海山)の山上湖に天降り、逆合(協和町)の日殿山に「日の宮」を造り天地の神々を祀ったと言われています。(左は唐松神社の『天日宮』) ニギハヤヒの降臨地は、奈良の鳥見山ではなく、出羽の鳥海山だとするが、鬼首で「前九年の乱」を戦った安倍宗任は『鳥海弥三郎』とも称しており、この鳥海が鳥海山の山名になったと思われるが、奈良の鳥見山に由来するのかもしれない。 当時の荒雄岳と鳥海山は、物部氏と蝦夷にとっての聖地だったのだろう。ただ、『日本書紀』には天磐船に乗って大和に飛来した。『先代旧辞本紀』には河内国哮峰(大阪府交野市私市)に天降ったとあり、いずれも関西だとしている。 『物部文献』 / ニギハヤヒは東国を平定した後、大和まで進み、畿内に留まったが、神武天皇の東征が始まるや、神武に帰順し、畿内だけでなく自ら平定した東国をも神武に献上した。神武はその恭順の意を容れ、ニギハヤヒの子・真積命(ウマシマヂ)を神祭と武の長に任じた。物部氏はここに始まる。(中略) こうして物部氏は祭祀と軍事の両面から大和朝廷を補佐し、その威勢を振るってきたが、蘇我氏との戦争(587年)に敗れ、物部氏はその勢力を一気に失った。物部守屋は敗死、守屋の一子「那加世」が鳥取男速という臣下に守られ、蝦夷の地へと落ちのびた。東北に逃れた那加世は、物部氏発祥の地である仙北郡に隠れ、日の宮の神官に納まった。現在の唐松神社宮司家は、この那加世の子孫である。 宮城県には『賀茂小鋭(おと)神社』『雄鋭(おどの)神社』、岩手県にも天照御祖神社摂社鎮魂殿神社(釜石市)、止止井神社(胆沢郡前沢町) など、ニギハヤヒに由来する神社があるが、これだけでは東北を降臨地とする確証にはならない。 『稲村神社』茨城県常陸太田市 / 創立年代は不詳。一説には高倉天皇の御宇の鎮座。あるいは、景行天皇の御宇、日本武尊によるとも。当社近くに佐竹寺が存在し、佐竹郷の中心地であった。佐竹の名は、饒速日尊に随った狭竹物部に由来すると考えられ、また、久自国造は物部系氏族であったということから、明治以降、現在の主祭神は饒速日尊とされた。 『天速玉姫(アメノハヤタマヒメ)命神社』茨城県日立市 / 泉神社由来 崇神天皇の四十九年、久自国造の船瀬宿禰の奉請で、大臣伊香色雄命を、勅命を奉じて此に鎮祭りしたという。古くは天速玉姫命神社という。享禄三年九月、佐竹義篤が社殿を造営、社号を泉大明神という。 佐竹氏系図では河内源氏の流れとするが、実際は物部氏だったのだろう。だが、佐竹氏は徳川家康によって秋田県に移封されただけで、唐松神社がいうところの「秋田物部氏」ではない。 そもそも物部氏系の神々を祀る神社は、近畿地方に集中しており、その他では、愛知県、新潟県に多くみられるが、東北地方には数えるほどしかない。だから東北地方には物部氏はいなかったと断言はできないが、氏神を祀れるほどの勢力はいなかったと推察できる。ただ、東北蝦夷のアテルイ、後には奥六郡の安倍氏が反逆者とされたことから、祭神が変更された可能性も考えられる。 ただし、荒脛巾(アラハバキ)神を祀る神社の分布が、出雲族や物部氏に関連しているようにおもえることから、出雲・物部氏・安倍氏には、複雑な相関関係があるのだろう。ただ、出羽(秋田県)で物部氏を名乗った氏族の史料がないので、詳細はわからない。 |
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■出雲族と物部氏 | |
物部氏の東国の拠点が常陸であったことは、鹿島神宮や香取神宮の存在が明白に証明しているが、この常陸には出雲神話や出雲の神々を祭神とする神社が多いことでも知られている。物部氏と同様に、出雲や熊野もニギハヤヒを祖神とする氏族の勢力範囲であったことから当然ではあるが、なぜ常陸に集中しているのだろう。 | |
■天津瓱星(あまつみかぼし)
『日本書紀』神代 / 一書に、天神は経津主神(フツヌシノカミ)と武瓱槌神(タケミカツチノカミ)を派遣して、蘆原中国(アシハラナカツクニ)を平定されたが、二神が言うには「まだ天に悪神がおり、名は天津瓱星(アマツミカボシ)、またの名を天香香背男(アメノカカセオ)といいます。先に楫取(カトリ)の地にいるこの神を誅して、その後に天降りなさいますように」と請うた。 『鹿島神宮誌』 / その昔、星神香々背男(ホシガミノカカセオ)一族は、駿河国の富士山麓の海岸にあって、暴力で人民を悩まし、天尊系の大和民族の発展とともに北へ北へと駆遂させられ、常陸国の海岸の一隅である三日星の浜辺に専住することになった。鹿島神宮の祭神「武瓱槌神」は、出雲の国譲りの後、各地を平定されて国の統一をはかり、未開の東国に入って星神香々背男を討ち、国中を平定された。星神香々背男は常陸国の先住民の頭領だったのです。天津瓱星の荒魂を封じ込めた宿魂石の上に建葉槌(タケハツチ)神を祀る奥宮が鎮座しているのが当社です。常陸国に悪神がおり、名を『大瓱倭文(オオミカ シトリ)神社』(茨城県日立市久慈町)天津瓱星またの名を天香々背男といい、大瓱上に陣取り東国地方の陸地はおろか海上にまで一大勢力をもっておりました。さすがの鹿島・香取の神も、この勇猛なる大勢力の前に為す術がありませんでした。その時、この武神である二神に代って瓱星香々背男討伐の大任を負わされたのが、当社の御祭神武葉槌命でありました以後、建羽雷神は星山に永住し、織物製紙の業を興したので諸神の崇敬を集め当社に祭られました。 上記から、富士山周辺には星神という先住部族の首領がいたが、大王家の勢力に故地を追われ、ついには常陸国まで移動し、星神香々背男の時代には久慈郡大瓱山を拠点とする王国を立て、霞ヶ浦を海上交通の基地として北日本の制海権を握ったということのようたが、駿河国から常陸国にかけての関東地方で、星神香々背男を祀る神社があるのは当然としても、なぜか全国各地で祭神として祭られている。 『天香香背男を祀る神社』 『東北地方』 秋田県1社 『関東地方』 栃木県7社、群馬県3社、茨城県7社、千葉県5社、神奈川1社 『中部地方』 静岡県3社、愛知県5社、岐阜県7社、 『北陸地方』 石川県2社、 『関西地方』 三重県4社、京都府1社、和歌山3社、 『中国地方』 島根県9社、岡山県5社、広島県3社、 『四国地方』 徳島県4社、香川県2社、愛媛県4社、高知県10社、 『九州地方』 福岡県1社、熊本県1社、大分県1社、宮崎県1社、鹿児島2社。 平田篤胤は、天津瓱星の神名の瓱「ミカ」を厳「いか」の意であるとし、天津瓱星は「金星」のことであるとする。また、香香背男の「カガ」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したものだとする意見もあるが、「カカ・ハハ・ヌカ」は蛇を意味しており、香香背「カカセ」は、山カガシ(左の写真)というように「カカシ(蛇)」であり、出雲神を象徴しているものと考える。 |
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■天瓱津姫(あめのみかつひめ)
上記の他に天香香背男(天津瓱星)の妻と思われる天瓱津姫を祀る神社がある。 『出雲国風土記』から天瓱津姫を調べてみよう。 ● 「秋鹿郡伊農郷」 / 出雲の郡伊農の郷に鎮座される赤衾伊農意保須美比古佐和気能 (アカフスマ イヌノ オオスミヒコ サワケ) 命の后である天瓱津比女命(アメノミケツヒメ)命が国内をご巡行になった時、ここにお着きになって「わが夫よ、伊農(イヌ)よ」と申されたのが伊農郷の由来である。 なんとも長い名前だが、『出雲国風土記』には、次のような記述がある。「出雲郡の条」に、赤衾伊努意保須美比古佐倭気能 (アカフスマ イヌノ オオスミヒコ サワケ) 命は、意美豆努 (オミツヌ) 命の御子とある。八束水臣津野 (ヤツカミズオミツヌ) の別名である。『古事記』では、淤美豆怒(オミツヌ)神と記され、須佐之男(スサノオ)命の五世孫であり、大国主(オホクニヌシ)神の祖父だとしている。 ● 「国引き神話」意宇郷の由来 / 八束水臣津野命は、「八雲立つ出雲の国は小さい国だ。余った国を引き寄せて、大きくしよう」と言われ、志羅の辺りの四島を引き寄せられ、島根半島を造られたが、最後に「おう(意宇)、やれやれ」と安堵の声をだされ、持っていた杖を道ばたに突き休まれた。その杖から根が出て、意宇(オウ)杜になった。 上記から、スサノオの時代の出雲は小国にすぎず、八束水臣津野命(意美豆努命)が志羅(新羅)から四部族を率いて出雲に上陸し、出雲国を大国に成長させたものと考えられる。 『新撰姓氏録』皇別に記載された新良貴(シラキ)は、瀲武鵜葺草葺不合尊の男稲飯命の子孫とし、稲飯命を新羅国王の祖と伝えている。『記紀』によれば、鵜茅葺不合尊(ウガヤフキアエズ)は神武天皇の父であり、稲飯命は神武天皇の兄に当る。このように神武天皇も新羅国と関係があり、当時は三韓との関係は密だったと思われる。 この「国引き神話」は、出雲の真の建国者は八束水臣津野命だと言っているが、なぜ「出雲大社」では赤衾伊努意保須美比古佐倭気能を祭神にしないのだろう。また、『出雲国風土記』伊農郷の条は、天瓱津比女(アメノミケツヒメ)は意美豆努 (八束水臣津野)の妻だとするが、楯縫郡の条に天御梶日女(アメノミカジヒメ)命は、阿遅須枳高日子(アヂスキタカヒコ)命の后(キサキ)だと記している。名前の類似が気になる。 ● 「嶋根郡の条」 / 御穂須須美(オホススミ)命は、奴奈宜波比賣(ヌナガハヒメ)命と所造天下大神(アメノシタツクラシシオオカミ)の御子である。 所造天下大神とは大国主神のこと。奴奈宜波比賣は沼河比売とも記され、高志(越)の国の姫神で、大己貴命(大国主神)の妻。『先代旧辞本紀』は諏訪大社の祭神の建御名方神(タケミナカタノカミ)の母とする。新潟県糸魚川市「奴奈川神社」の祭神。従って、御穂須須美命とは諏訪大社の建御名方神のことだが、阿遅須枳高日子も大国主神の子であり、天瓱津比女は彼らの曽祖父の妻にあたる。 今度は『尾張国風土記』に目を移してみよう。 『尾張国風土記』吾縵(アヅラ)郷 / 垂仁天皇に品津別(ホムツワケ)と云う御子がいたが、七歳になっても言葉が出ないので、天皇が心配していると、皇后の夢に、多具の国の神で阿麻乃弥加都比売(アメノミケツヒメ=天瓱津姫)という女神が現れ「今後、祠を立て私を神として祭るなら、御子はすぐに口が利けるようになり、天寿を全うするだろう」と告げた。そこで、建岡の君に祭神の事を御委せになった。 垂仁天皇は、安倍氏の始祖「大彦命」の娘の御間城姫(ミマキヒメ)命と崇神天皇の子。 品津別(ホムツワケ=誉津別)の母は、兄の沙本毘古(サホヒコ)王に命じられて夫の垂仁を小刀で刺そうとするが、垂仁がヘビの夢を見て発覚。兄と共に稲城に篭り、天皇軍に皇子だけを手渡して、兄と共に火をかけて没する。 一説には、品津別は大人になっても口が利けず、泣いてばかりいたが、ある日、白鳥が飛んでいくのを見て初めて言葉を発した。そこで天皇はその鳥を捕えるように命じるが、鳥は出雲で捕まえられたとある。 ちなみに、品津別は元気になると、とたんに美女のもとに夜這いに行くのだが、相手の姫の正体は大蛇だったので必死に逃げたとされるが、大神神社も出雲大社も御神体は「蛇=大物主神(オオモノヌシ)=大国主神」である。 『日本書紀』崇神天皇 / 天照大神、倭大国魂神(ヤマトオオクニタマノカミ)の二神を天皇の御殿の中に祀っていたが、その神の威光に畏れ、共に住むことに不安を持ち、豊鍬入姫 (トヨスキイリヒメ) 命に命じ、天照大神を大和の笠縫邑(カサヌイノムラ)に祀り、さらにその地に堅固な石の神籬(ヒモロギ)を造った。また倭大国魂は、渟名城入姫(ヌナキノイリヒメ) 命に預けて祀った。ところが渟名城入姫命は髪が抜け落ち、体は痩せ衰えてお祀りすることが出来なかった。 その名が示す通り崇神天皇は、神に祟られる天皇のようで、それも出雲の神とは犬猿の仲だったのだろう。祭祀が気に入らなかった倭大国魂とは大国主神のこと。そして、渟名城入姫命は尾張大海媛の娘である。天瓱津比女命の話が「出雲・尾張・美濃」に登場するのは、物部氏が「尾張国造、参河国造、三野後国造」だったことに関連していると推察する。 『尾張大國霊神社』(愛知県稲沢市国府宮) / 社伝によれば、神職には古くから尾張族の遠祖・天背男命の子孫が代々奉仕して来たが、後に久田氏を名乗った。 また、『前田家系図』(金沢市立図書館加越能文庫所蔵)は、加賀藩主前田氏の虚飾された系図を整理して、神代(遠祖を天照大神とせず、意美豆努 (オミツヌ) 命とする)から説き起こし、出雲国造の野見宿禰から出たと記している。 『日本書紀』では、天津瓱星(天香香背男)は天神の一人なのに、天孫族から悪神にされている。おそらく天津瓱星の存在を記載したくなかったのだが、無視するには存在が大きすぎたのではないか。だとすれば、『記紀』『出雲国風土記』がともに、出雲建国の主あるいは中興の祖であるはずの意美豆努命の事績には触れず名前を記しただけであることに結びつくと想像する。 「出雲大社」で奉祭されていないのは、スサノオの出雲国を侵略したからで、大和王朝に不都合なのは、意美豆努命の御子とされる赤衾伊努意保須美比古佐倭気能命こそが悪神に貶めた天津瓱星(天香香背男)、彼の妻が天瓱津比女(阿麻乃弥加都比売)だったからではないだろうか。 大和王朝に攻められた天津瓱星は、物部氏や土蜘蛛と組んで出雲を離れ、駿河に富士王国をつくり、常陸に勢力を延ばして筑波王国を立てたが、東進して来た大和王朝との戦いに敗れて東北に逃げ、東北の蝦夷と合体した。それが「外物部」と呼ばれた原初の「東北の鬼」の集団ではないだろうか。出雲から常陸までの経路は、物部氏の国造の勢力範囲と妙に合致しているのは、それが原因だと推理する。 |
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■物部氏は扶余人 | |
『秀真伝(ほつまつたえ)』 / 筑波王朝に睨みを利かせるために、大国主神の息子である建御名方(タケミナカタ)神を諏訪に駆逐することで武功のあった建御雷之男神(武瓱槌神・建御雷神・建羽雷神)を鹿島大社の祭神とした。そして、物部氏はこの建御雷神を氏神とした。
『鹿島神宮』由緒 / 祭神の武瓱槌神は香取神宮の経津主神と同体と見なされており、これから見ても藤原氏の隆盛には、往古からの物部氏の蓄積を活用した様子がわかる。鹿島神宮の神々と河内の枚岡神社の神々とは、物部氏の拠点に鎮座していたが、藤原氏の氏神として春日大社に迎えられていることが、それを物語っている。 栄華を誇った藤原氏の礎を築いたのは藤原不比等だが、その足がかりを作った父の中臣鎌足は、神職者の家系というだけで、出自不明とされる人物だが、物部氏に連座して中央政権から追われた中臣の宗家に代わって中央に登場した鎌足は、蘇我氏に取り入り、鹿島神宮の祭祀権を手中にしている。 蘇我氏との政権争いに敗れ、滅亡した物部氏の莫大な資産は、半分が四天王寺の建立費用、残り半分が蘇我氏に分配されたが、その財産を築いた源泉は常陸国から得たと考えられることから、常陸は物部氏の「打出の小槌」だったのだろう。 『鹿島神宮』では、「鹿」を神の使いとして現在も境内で飼っており、鹿島神宮の神々を分奉した奈良の春日大社も大々的に鹿を飼っている。(左の写真は、春日大社の鹿) 物部氏が奉祀した鹿島神宮が、鹿を「神鹿」として扱うことから、物部氏は鹿をトーテムとする氏族だと思われる。 だとすれば、ニギハヤヒは扶余族の王族である可能性が高い。 ちなみにトーテムとは、社会の構成単位となっている親族集団が神話的な過去において神秘的・象徴的な関係で結び付けられている自然界の事物で、集団の祖先と同定されることが多いと『広辞苑』は記しているが、端的には特定の部族内で共通の象徴として崇拝する、始祖神話に関与した動植物や岩などである。 扶余国は、燕国(前燕)の慕容(ボヨウ)氏から二度の壊滅的被害を受けている。 285年には武宣帝・慕容廆(カイ)、346年には文明帝・慕容皝(コウ)によって、国を破られ、その後は高句麗の従属国として命運をつないだが、410年に高句麗に併呑され、歴史から姿を消している。 従って、285年前後か遅くとも346年までに、その遺民が倭国に渡来したものと思われるので、その足跡を探してみよう。 |
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■扶余系部族連合
秦の始皇帝の大帝国が出現した紀元前3世紀、中国遼寧省から朝鮮半島の北部に扶余(フヨ)・高句麗・獩貊(ワイハク)・沃沮(ヨクソ)が登場するが、それらは扶余族を宗族とする同族系国家連合、いわば扶余系部族連合である。 扶余系部族連合は、粛慎国に帰属する穢(ワイ)族系部族の連合体で、獩族(ワイ)・貊族(ハク)・狛族(コマ)などが包含されていたものと想像するが、その連合体の王を出す主要部族が扶余族であり、扶余とはツングース語の鹿を意味する「プヨ」を漢字にあてたものと思われる。 古代中国大陸では、トーテムによって各自の帰属する部族を明示したが、扶余族は「鹿トーテム」部族だが、扶余系部族でも狛族(高句麗)のトーテムは「鳥」で、始祖神話に「南方系の卵生型」と「北方系の日光感精型」が混合していることから、北方の扶余系部族と南方の部族とが混血融合した部族だと思われる。 蛙御手水 高句麗の始祖神話には、扶余王「金蛙」が登場するが、日本でも「淡嶋神社」では少彦名命の使い神、伊勢「二見興玉神社」では猿田彦命の使い神として、参道に蛙が鎮座しており、松本市には「蛙明神社」がある。 中国の神話では「弓の名手が女神の西王母(セイオウボ)から得た不老不死の仙薬を、密かに盗んで月に逃げた妻がヒキガエルにされ、月に住み続けることになった」とされ、この話から中国では「兎は雄がいなくても、月を見るだけで子ができる」と言われ、兎は子孫をつくり永遠に生き続けることができ、ヒキガエルは前述の不老不死の仙薬を飲んだので永遠の命を持つとの伝承がある。 熊野速玉大社は熊野三山のひとつとして「熊野新宮」とも称されるが、山上にはゴトビキ岩と呼ばれる巨岩が鎮座している。このゴトビキ岩が神々の御神体とされるが、ゴトビキとは「ヒキガエル」のことである。 また、『摂津國風土記逸文』には垂仁天皇の御代の末頃、榎津は不細工で強欲、かつ悪逆非道な「イボガエル」に支配されていたと記されている。 古代の神話では、ヘビやカエルなど様々な動物が登場するが、坑道で鉱石の採掘を担っていた人々が朝廷から「土蜘蛛」と呼ばれたように、そこになにかの象徴が秘められていることもある。 悪逆非道なイボガエルは高句麗で、蛙の天敵はヘビだが、三輪山の御神体は蛇。大和の大王家が摂津に侵攻してきた高句麗系の部族を撃退したという物語なのかもしれない。あるいは少彦名や猿田彦が高句麗系渡来人だったとも考えられる。 |
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■扶余王・依羅(イリ)
『渤海国・国書』 / 渤海の前身である高句麗の旧領土を回復し、扶余の伝統を継承した。わが渤海国と日本国は昔から本枝(兄弟)の関係である。 神亀四年(727年)、平城京に渤海国の使節が訪れ、大武芸王の国書を聖武天皇に奉呈した。そこには、日本と渤海国はともに扶余を同祖とする兄弟国だと述べ、高句麗と靺鞨で共立した渤海国では、日本の王統を、扶余の王族の末裔とみていたことが示されている。国書に記すだけの確たる根拠があったと思われる。285年、前燕の慕容廆に侵攻された扶余は、国王の依慮が海に投身自殺したほどの潰滅的な打撃を受け、王族は沃沮に避難するが、翌年、再び慕容廆の侵略を受け、王子の依羅(イリ)が晋王朝(西晋)の援助で扶余国を再建するのだが、高句麗系の史書『朝鮮史』には驚くべき記事が載っている。 『朝鮮史』 / 依慮王、鮮卑(センピ)の為に敗れ、逃れて海に入りて還らず。子弟走りて、北沃沮を保つ。明年、子の依羅立つ。自後、慕容廆、また復(フタタ)び国人を掃掠す。依羅、衆数千を率い、海を越え、遂に倭人を定めて王と為る。 この記述の信憑性はともかく、名前の「イリ」から、いり(渡来)系王朝とも呼ばれる御間城入彦 (ミマキイリヒコ)五十瓊殖尊。第10代の崇神天皇だろうと推察される。崇神天皇を『日本書紀』では御肇国(ハツクニシラス)天皇。『古事記』では初国知らしし御真き(ミマキ)天皇とし、ともに初めて国家を立ち上げた大王だとしている。『記紀』神話でも、大倭(やまと)王朝の初の天皇はニニギ(神武天皇)のはずなのに、なぜか「初めて国を統治した」として、神武ではなく、嵩神天皇の方を「初の天皇」として扱っている。 扶余王の依羅が倭国に渡来したのが285年前後とすれば、『魏志倭人伝』の記事からして、邪馬台国の二代目女王『壹與』が50歳前後の頃で、おそらく神武東征の前後の時期かもしれない。アマテラス(天照大神)を女王「壹與」だと仮定すれば、彼女から十種の神宝を授かったニギハヤヒとは『扶余王の依羅』の可能性がある。 なお、依羅との関係は不明だが、依羅連(ヨサミノムラジ)という氏族がいる。 |
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■依羅連(ヨサミノムラジ)
『旧天孫本紀』 / 物部木蓮子大連 (イタビノオオムラジ)。ニギハヤヒ(饒速日命)十二世の孫。父は布都久留、母は依羅連柴垣の娘の全姫。仁賢天皇の代に大連となり、石上神宮を奉斎し、御大君の祖の娘の里媛を妻にして、二児を生んだ。 『姓氏録』では、依羅連は百済人の素彌志夜麻美(ソミシヤマミ)の君の後裔とあり、大阪府松原市天美は依羅連が居住した依羅郷で、現在も依羅宿禰を祭神とする田坐神社、酒屋神社、阿麻美許曽神社がある。『新撰姓氏録』では、日下部宿彌と同祖、彦坐命の後、百済人の素彌志夜麻美乃君より出ずる、また饒速日命十二世の孫の懐大連の後とある。万葉歌人の柿本人麻呂の妻は依羅娘子(ヨサミノオトメ)といい、『万葉集』に短歌3首を載せているが、依羅娘子もやはり百済系渡来氏族の出である。 『大依羅神社』由緒 / 依羅氏は、丹比郡依羅郷に繁栄した百済系渡来氏族で、後に住吉区庭井に移住したことから大依羅郷と称された。依羅吾彦が祖先の建豊波豆羅別命(系譜では崇神天皇の兄弟)を祀るため、大依羅神社を建てたが、別名は『毘沙門の宮』、崇神天皇62年、ここに農業灌漑用の依羅(依網)池を造った。 ここでは崇神天皇の兄弟を依羅連の祖先だとしているが、物部氏の系譜では一族諸氏に「物部依羅連」の名があり、物部氏の系譜につながっている。物部氏が扶余系であるなら、なぜ依羅連は百済系だとなっているだろう。 中華王朝の史書には、「百済とは扶余の別種で、仇台(キュウダイ)という者がおり、帯方郡において国を始めた。その尉仇台を始祖とする」とある。 『三国史記』百済本紀は「温祚(おんそ=高句麗の始祖の庶子)が百済を建国した」とするが、それでは百済の王姓が「扶余」であることの説明がつかない。 百済では、支配階級は扶余語を使い、庶民は馬韓語を使うというように、言語や風習が二重構造の社会だと記録されており、王族の姓は、後に漢風に一字姓の余に改姓するが、代々が扶余を名乗っていることからも、扶余族が馬韓を統一したことものと思われる。扶余王の依羅は、倭国では百済王族だと名乗ったのだろう。 『晋書』馬韓伝 / 太康元年(280年)と二年(281年)、その君主は頻繁に遣使を入朝させ、方物を貢献した。同七年(286年)、八年(287年)、十年(289年)、また頻繁に到った。太熙元年(290年)、東夷校尉の何龕に詣でて献上した。 これが中国史籍での馬韓に関する最後の記述で、この後は百済が登場する。そして、東夷校尉の何龕に献上したとの記述があるが、扶余王の依羅が扶余国の再興を嘆願した相手が、この東夷校尉の何龕であることから、おそらくこの段階ですでに馬韓は扶余の分国になっていたものと考えられる。 『通典』百済条 / 晋の時代(265年−316年)、高句麗は遼東地方を占領し、百済もまた遼西、晋平の二郡を占拠した。今の柳城(龍城)と北平の間である。晋より以後、諸国を併呑し、馬韓の故地を占領した。 上記は、朝鮮古代史の研究者を悩ませる記述だが、扶余が一時的に滅亡するのが285年、その前後の期間に渤海を渡って遼寧省の西部を占領支配していたとすれば、百済が二国あったことになる。 『日本書紀』は、朝鮮半島の百済を「百済」、遼西の百済を「呉」と区別している。 この「呉」を中国江南の三国時代の「呉」と錯覚している人も多いが、倭の五王の時代に、現在の上海まで簡単に渡航できる船も航海技術もない。従って、呉服は中国伝来ではなく、遼西百済からの伝来である。 ちなみに、『梁書』百済伝には「百済では全土が王族に分封され、その領地を檐魯(タンロ)という」とある。これは国内に止まらず、異国にも檐魯を有している。 中国の広西壯族自治区に百済郷があり、ここの住民は大百済(テバクジェ)と韓国語で呼んでおり、済州島の古名も耽羅(タンロ)国で、常に百済の支配下にあった。 また、大阪府の南端には百済の大門王が統治したという淡輪(タンノワ)があり、田村(たむら)や外村(とむら)などの姓は「檐魯」の住民だったことの名残とされる。 このことから、坂上「田村」麻呂も、百済系だったことになる。 |
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■物部は扶余の神官
万葉仮名では、物は鬼「もの」、部は「伴(とも)のう」である。物部氏は兵馬を担当する氏族とされるが、扶余国では神官、すなわち王族だったのではないだろうか。 『石上神宮』縁起 / 神武天皇東征のおり、国土平定に偉功をたてた霊剣(平国之剣=フツノミタマ)とその霊力を布都御魂大神と称し、また饒速日命降臨に際し、天神から授けられた鎮魂の主体である天璽瑞宝十種と、その起死回生の霊力を布留御霊大神と称し、この二神を物部連の遠祖の宇摩志麻治命をして宮中に奉斎せしめた。 布都(フツ)=スサノオの父、布都斯(フツス)=スサノオ、布留(フル)=ニギハヤヒ。このスサノオ家三代を祀った宗廟が石上坐布留御魂神社(石上神宮)である。 ニギハヤヒが長脛彦(ナガスネヒコ)の妹を娶って、生まれたのが宇摩志麻治命(ウマシマジノミコト)。この物部氏の遠祖とされる宇摩志麻治命(事代主神)は十種の瑞宝を献上してニニギに帰順した。これらの品々は十種神宝(トクササンタカラ)と言われ、布留魂大神(フルノミタマノオオカミ=ニギハヤヒ)の御霊である。 スサノオが紀伊国熊野に上陸したときに持っていた神宝剣を、佐士布都神(サジフツノカミ)、瓱布都神(ミカフツノカミ)、布都御魂(フツノミタマ)とも言う。 当時の神剣は王権の象徴であり、それを石上(イソノカミ)神宮が祀ることは、物部氏が王統だと表している。古代には王権が祭祀権に統括されており、物部氏が祭祀に関わる一族であることを意味している。 現に石上神宮では、魂振りの呪術、鎮魂(フルミタマ)や布留倍祝詞(フルベノノリト)が継承されているが、これを『物部の呪術』と呼んでいる。鎮魂とは身体から遊離した霊魂を戻すことで、これは古代の『鬼』の神霊力とされたもの。 また、高句麗の始祖神話では、東扶余国王の夫婁(フル)の庶子「朱蒙」は、卒本扶余の沸流(フル)国で高句麗を建国し、沸流(フル)という息子を得ている。まさにニギハヤヒの布留(フル)に合致している。 『常陸風土記』香島郡の条 / 大坂山(場所不明)の頂上に、白細(しろたえ)の大御服を着て、白鉾を杖とした香島の神が現れ、自分を祀るなら、国々を統治させるであろうと託宣した。崇神天皇は恐縮して、いろいろな御供物を香島(鹿島)神宮に奉納した 土着民の首長が崇神に国譲りした伝承にも思えるが、白い服を着るのは、扶余の風俗であり、鹿島神宮の権威付けのための話かも知れない。 『日本書紀』は次のような、崇神天皇の奇妙な行動を記述している。 崇神天皇は即位してまもなく疫病が流行り、これを鎮めるため、宮中に祭られていた天照大神と倭大国魂神を皇居の外に移し、更に大物主命を祭った。 天照大神は、現在の檜原神社に移し、その後60年をかけて各地を移動し、次の垂仁天皇の時代に、現在の伊勢神宮内宮に鎮座した。 倭大国魂神も、何度も場所を移動し、最終的に現在の大和神社に鎮座した。 大物主命は占いにより祟りをなしている事が判明したため、大物主の子孫である太田田根子に託して祀らせた。現在の大神神社で、三輪山を御神体としている。 皇居の外に移したとは宮中から排除したことで、しかも、物部の八十平瓮(ヤソヒラカ)をもって大物主大神を祀るとも記している。 八十平瓮は重要な神事、祭祀で用いられる多数の平皿だが、その材料となる土に重要な意味がある。その土を用いて平瓮を作り、呪詛をかけるのだが、これは出雲の流儀であり、大物主は出雲大社の祭神の大国主の別名とされる。 さらに、天照大神からニニギに授けられ、歴代の天皇に継承されてきた神器も、このときに鏡と剣を大和の笠縫邑の檜原神社に移し、後に鏡は伊勢神宮の御神体、剣は熱田神宮の御神体になる。そして宮中には模造の鏡と剣を置いたという。 これでは前政権の全面否定である。やはり扶余王だとしか思えない。 日本海に現れた粛慎「みしはせ」と呼ばれた異国の鬼は、物部氏が扶余の出身であれば、物部氏とは同祖関係にあたり、秘められた同盟関係を感じさせる『物部・安倍・出雲」には友好関係を結ぶのに苦労はなかったと思われる。 だとすれば、阿倍比羅夫は粛慎を退治したのではなく、彼らと交易をしたものと推定できる。そして、蝦夷・粛慎・物部・安倍・出雲・東北の土蜘蛛が東北地方で密かな団結をしていたと想像する。 |
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■日高見国の鬼『大竹丸』 | |
大竹丸の記述をする前に、先に申し上げておくが、筆者は膨大に史料に目を通した結果、大竹丸は安倍氏だと確信している。詳細は別称で述べるが、蝦夷で有名なのは「アテルイ」唯一人と言ってもいいほど、他には名前が知られていない。「前九年の役」の安倍頼良も蝦夷だとされるが、実際はそうではない。
下の絵図を見ていただきたい。 日本の正史には、日本書紀・続日本紀・日本後紀・続日本後紀・日本文徳天皇実録・日本三代実録があり、一般に「六国史」と呼ばれています。 『日本書紀』 (? 〜697年) 720年完成。撰者は舎人親王など。 『続日本紀』 (697〜791年) 797年完成。撰者は藤原継縄など。 『日本後紀』 (792〜833年) 840年完成。撰者は藤原冬嗣など。 『続日本後紀』 (833〜850年) 869年完成。撰者は藤原良房など。 『日本文徳天皇実録』(850〜858年) 879年完成。撰者は藤原基経など。 『日本三代実録』 (858〜887年) 901年完成。撰者は藤原時平など。 『日本書紀』は藤原不比等が権勢を誇っていた時代であることを考慮すれば、『六国史』の編纂すべてに藤原氏が関与していることになり、さらには『日本書紀』の撰者の舎人(とねり)親王は、安倍氏の中興の祖である『安倍倉梯麻呂』の孫にあたります。 中臣氏(藤原氏)も安倍氏も神事に関わる氏族で、倉梯麻呂は中臣鎌足とともに中大兄皇子の下で『大化改新』に参画しており、両氏は友好関係にあったと思われ、安倍氏の娘が藤原武智麻呂や藤原良継夫に嫁いでいます。 このような事情から、『古事記』も含め、藤原氏が関与する『六国史』では、安倍氏を蝦夷や鬼と結びつける記述はありません。また、『六国史』の完成までの間が、安倍氏族の全盛期とも重なっており、それが、坂上田村麻呂と蝦夷との戦いにアテルイらの記述はあっても「大竹丸」が登場しない理由ではないかと筆者は推理しています。 安倍氏族の始祖「大彦命・建沼河別命」親子の足跡が、奇妙に鬼の伝承地とも重複しており、この親子の戦の伝承は意外と少なく、先住の土蜘蛛を同化吸収して平穏に定着していったと考えられます。その安倍氏族の族長の一人が「大竹丸」だと直感するのですが、それを本章のなかで追究していきます。 |
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■鬼切部
日本全国の鬼に関連する地名を網羅した『おもしろ鬼学』(北斗書房)が出版されているが、全国津々浦々まで鬼の物語や鬼に関連した神社仏閣が多い。 『岩手県の由来』 / 盛岡市三ツ割の東顕寺に注連縄が張られた三つの大石がある。岩手山が噴火した時に飛んできた石で、「三ツ石様」と呼ばれて人々の信仰を集めていた。当時、羅刹鬼(らせつき)という鬼が、里人や旅人に悪さをするので、困りはてた里人は三ツ石様に「どうか悪い鬼をこらしめてください」とお願いしたところ、たちまち三ツ石の神様が羅刹鬼を大石に縛りつけてしまった。羅刹鬼は「もう二度と悪さはしませんから、どうぞお許しください」というので、三ツ石の神様は「二度と悪さをしないというシルシをたてるなら」といわれ、羅刹鬼は三ツ石にペタンペタンと手形を押して南昌山の彼方に逃げ去った。この地を、岩に手形を遺したことから『岩手』と呼ぶようになった。このように隣接の岩手県も『鬼』に由来するが、当然、鬼首の地名には古代史にその名が遺されている。 『(財)東北電気保安協会のHP』 / 栗駒国定公園の標高300mの高原にあり、全国随一の湯量と自然の豊かさを誇る鬼首温泉は、応神天皇六年(270年)頃に、すでに発見されていたと伝えられていますが、歴史に初めて登場するのは、平安時代の寿永・文治年間(1182−1189年)、奥州平泉の藤原氏によって開かれたのが起源とされます。鬼首の名の由来は、延暦二十年(801年)、坂上田村麻呂が蝦夷平定に東征した際に、『鬼』と呼ばれ、恐れられていた大竹丸を追い詰め、この地で首をはねたことから、ここの地名を鬼切辺と呼び、それが後に鬼首に変わったと伝えられています。 宝亀五年(774年)、朝廷に帰順した蝦夷として俘囚(フシュウ)と呼ばれた蝦夷部族の宇漢迷公宇屈波宇(ウカメノキミウクハウ)が蜂起し、780年には伊治公痣麻呂(イジノキミアザマロ)の反乱を起こった。ここから30年にわたる朝廷軍との攻防戦が始まる。 日高見国の英雄として、アテルイは史籍にも記されている。『続日本紀』には紀古佐美の詳細な報告があり、『日本紀略』にはアテルイの降伏に関する記述がある。ただし、蝦夷の軍事指導者だったこと以外、彼の詳細は記されていない。 天応元年(781年)の征東大使の藤原小黒麻呂の奏状では「一をもって千にあたる賊中の首として、「伊佐西古、諸絞、八十島、乙代」らを挙げているが、アテルイの名はない。まだ、その時期には頭角を現していなかったのかもしれない。 『日本紀略』はアテルイ降伏時の記事に、彼を大墓公と記している。大墓の意味も、読みも不明だが、公を付していることから尊称であることは確実だろう。 アテルイでさえこの程度での状況では、歴史的には無名に近い「大竹丸」の実像を追究するのは難しいが各種史料から追ってみよう。 『陸奥話記』 / 六箇郡の司に安倍頼良という者あり。安倍忠良が子なり。父祖忠頼は東夷の酋長、威風大いに奮って、村落は皆服す。六郡に横行し、人民を劫略し、子孫を滋蔓し、漸く衣川の外に出る。(納税すべき産品を献上してこず、労働奉仕に勤めることをしない。代々驕奢にして、誰も敢えてこれを制することができない。永承の頃、太守藤原朝臣登任、数千の兵を発して、これを攻めた。出羽の秋田城の介平朝臣重成を前鋒として、太守夫士を率いて後続を為す。頼良、諸部の俘囚を以て、これを拒み、大いに鬼切部に戦う。太守の軍は何度も敗れ、死者は甚大。 元慶二年(878年)、北海道の夷狄(いてき=東方の野蛮人)が秋田城を襲撃するという出羽元慶の乱が勃発したが、国府が折れて、秋田河(雄物川)以北は蝦夷が支配し、国府側は北上平野に六郡(岩手、稗貫、斯波、和賀、江刺、胆沢)を置くことで決着した。ここから六郡は『奥六郡』と呼ばれる。 永承六年(1051年)、俘囚の長『安倍頼良』の時代には、奥六郡の南限であった衣川を越え、国府領の岩井郡の支配に着手し、国府多賀城との摩擦が生じた。 陸奥守の藤原登任は、秋田の平重成の軍を動員して安倍頼良を攻撃するが、安倍頼良は玉造郡鬼切部(鳴子町)で迎え撃ち、大勝する。 この「鬼切部の戦い」を契機に、ここから「前九年の役」が始まる。 鬼首周辺には鏑矢が飛び交い、軍勢が攻防戦を繰り広げたことに由来する鏑(カブラ)、軍(イクサ)など、古戦場らしい地名が残っており、禿岳(小鏑山)の山麓が、鬼切部城があったのかもしれない。(写真はホテル・オニコウベからの展望) ただ、鬼切部の地名に関し、奥州の相原友直という人物が平泉三部作(平泉実記・平泉旧蹟志・平泉雑記)と呼ばれる平泉の歴史書を著しているが、そのなかの安永二年(1773年)に完成した「平泉雑記」には、鬼功部(こうべ)と書くべきところを、鬼切部(きりべ)と誤記したものだと記している。 その後、鬼功部(こうべ)が、鬼首(こうべ)に漢字表記が変わったのだろう。 『平泉雑記』巻之二・鬼首村 / 前太平記ニ、鬼切部ト云所アリ、鬼首村ノ事ナルベシ。愚按ズル(愚考する)ニ、功ノ字ヲ誤テ切ノ字書ルナルベシ。 |
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■錯綜する大竹丸
坂上田村麻呂が鬼と呼ばれた大竹丸を鬼首に追い詰め、その首をはねたというが、大竹丸(大丈丸・大岳丸・大武丸・大猛丸・大滝丸・大高丸)様々な漢字表記があるが別人ではない。平安時代の万葉仮名(一種のルビ)は、大和言葉に応じた読みの漢字を、どれでも適当に書けばよいとされていた。 大竹丸の大は尊称、丸は男子を表し、名前の部分は「たけ」だけ。従って、普段は「たか・たけ・たき・たく・たこ」のいずれかで呼ばれていたのだろう。ただ、後の安倍頼良の一族に「高星丸」という人物がいることから、高と丸の間に漢字が一文字入っていたかもしれない。 『宮城の伝説』 / 征夷大将軍坂上田村麻呂の東征のとき、牧山で賊将大岳丸を退治し、死体を首・胴・手足に分け、牧山・富山・箆岳の三ヶ所に埋葬し、そこに観音堂を建立した。そして、牧山には魔鬼(まき)山寺を建立した。また、田村麻呂が退治したのは、石巻地方にいた魔鬼一族の酋長の妻、魔鬼女(まきめ)であるともいう。 宮城県の牧山(魔鬼山)・富山・箆岳(ののだけ)の三山には、観音堂が建立(跡地だけのもある)されており、「奥州三観音」と呼ばれている。(左上から牧山観音像・富山観音堂・箟岳観音堂) 田村麻呂が退治した鬼の体を分け、それぞれに埋葬しているとのことだが、富山(松島町)の鬼は『大竹丸』、箟岳(湧谷町)の鬼は『高丸』、牧山(石巻市)の鬼は『魔鬼女』と、鬼の名前が錯綜している。 宮城県遠田郡涌谷町箟岳の無夷山「箟峯寺」の伝承では、蝦夷征伐の時、田村麻呂は敵味方双方の戦死者を葬った上に観音堂を建てたのが寺院の始まりだと案内書に記している。 ただし、この地で黄金が採集されたことに留意を要する。 『東日流外三郡誌中の宮城県遺跡』 / 坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征伐で苦戦に陥った時、田道の神霊が現れ大勝に導いたので、此の地に祠を造って祀った。それを桓武天皇の奏上し、勅許により、大同二年(807年)奥州猿賀深砂(しんしゃ=神蛇)大権現として勧請した。石巻の地名は、湊の背後にある牧山と呼ばれる石山によると考えられます。 『岩手の伝説を歩く』 / 平安時代初期、坂上田村麿は胆沢城造営前、蝦夷の首領だった『高丸』を征伐し、現在の水沢市佐倉河の地に葬った。そのとき田村麿は自分のマゲの中に入れていた毘沙門天像を本尊に、堂を建立したという。 |
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■ネブタ祭と大丈丸
ネブタ(侫武多・倭武多)祭りでは、大丈丸が登場するが、同一人物である。 各地に「ネブタ祭」があり、ネブタの語源は一般に「眠た」が語源とされるが、ネブタ祭りには「ネブタ流れろ」「まめの葉残れ」という囃子(ハヤシ)がある。ネブタとは「賊・土着人」で、まめの葉とは「忠義な味方」だとする説が有力である。 『侫武多(ネブタ)の由来』 / 昔、陸奥きっての悪者の頭であった大丈丸は、遠くは駿河の国から伊勢の国までやってきて、都に上る人々に悪事を働いていた。そこで武勇の名高い坂上田村麻呂を征夷大将軍として、大丈丸を討伐することになった。田村麻呂に撃破された大丈丸は陸奥に逃げ込み、平内山(浅虫温泉)の砦に隠れた。この砦は海中に突き出て、三方は海だったので田村麻呂も容易に攻撃できなかった。そこで、部下の一人が「里の人々に太鼓や鉦を打ち鳴らさせれば、悪者の大丈丸とて賑やかな祭りだと思い、物珍しさに気を許すはずです」と言上した。早速、紙を張って魚や鳥などの形をつくり、たくさんの山車(だし)の上に載せ、その内部に大勢の兵を隠した。張子のなかに火を灯し、太鼓や笛の音を響かせて、砦へ近づいていくと、案の定、大丈丸は砦から出て、華やかな祭り行列にみとれていた。突如、兵士らが紙を破って躍り出ると、不意をつかれた大丈丸には応戦する暇もなく戦いに敗れた。こうして田村麻呂は大丈丸を征伐して都へ帰っていった。 『ネブタはトロイの木馬』 / 大丈丸をイリアス軍、田村麻呂をギリシャ軍に置き換えれば、ネブタはギリシャ神話の「トロイエ戦争」に登場する『トロイの木馬』の日本版だといえる。従って、『田村麻呂の張子祭り』と呼ぶほうがリアルだと思われる。 大竹丸(ネブタ)討伐を祝う祭りであれば、征服された人々が侵略者の勝利を祝うという悲惨な祭りだといえるが、江戸時代の藩主が景気づけに考案した祭りだとのことなので、深い意味はなさそうだ。 大丈丸には『大嶽丸伝説』があり、こちらでは青森県の霧山(場所不明)に城を築いたとしており、ネブタと青森県の関係が分かりやすい。 できれば、近い将来、鬼首地区で大竹丸の鎮魂祭としての『ネブタ祭り』をしてもらいたいものである。 |
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■祇園祭と大嶽丸
『大嶽丸伝説』 / 伊勢の国の鈴鹿山に住む大嶽丸という鬼が、旅人や商人から略奪をするため、鈴鹿山付近の往来が途絶えたと聞いた天皇は、藤原俊宗に大嶽丸討伐の命を下した。彼は三万の軍勢を率いて鈴鹿山に攻め込んだが、大嶽丸を討つことができなかった。そこで、藤原俊宗が天に祈願すると、美しい天女(鈴鹿御前)が鈴鹿に降臨し、その色香で大嶽丸を惑わせ、藤原俊宗は色情に溺れた大嶽丸の隙を突き、彼の首を刎ねた。しかし、大嶽丸の叔父が持つ宝剣によって、魂を呼び戻された大嶽丸は、肉体を再生させると、陸奥の霧山(青森県)に城を築き、再び世を乱した。再び、藤原俊宗と鈴鹿御前は大嶽丸討伐のため陸奥に向かい、大嶽丸が蝦夷ヶ嶋の鬼のもとに行った留守に館に忍び込み、帰還した大嶽丸を殺した。大嶽丸の首は、酒天童子の首、玉藻前の遺骸と同じく「三大妖怪」として、宇治の平等院に封印された。 上記の藤原俊宗とは将軍藤原利仁のことだが、坂上田村麻呂をモデルとしたもので、大嶽丸(大竹丸)と坂上田村麻呂の史実に由来する物語となっている。 ネブタ祭りの由来と同様に、伊勢にまで略奪に行ったとするのは、実は大竹丸は近畿地方まで領域としていたのを、徐々に大和王朝に駆逐された名残ではないかとも考えられる。 祇園祭の山鉾(やまぼこ)巡行に『鈴鹿山』が参加している。伊勢国の鈴鹿山で道ゆく人々を苦しめた悪鬼『大嶽丸』を退治した鈴鹿権現「瀬織津姫尊」の話を趣向した山である。御神体の瀬織津姫尊は、金の烏帽子をかぶり能面を付け、腰に錺太刀、左手に長刀、右手に中啓を持ち、山洞には悪鬼の首の象徴として、赤熊の頭が置かれている。 大竹丸(大嶽丸)の首は『宇治平等院』に封印されたとあるが、何ヶ所にも墓所があることから、大竹丸には九頭竜のように首が何本も生えていたのだろうかとの疑問を少しは感じるが、あくまでも物語は物語として楽しむべきなのだろう。 ただ、ここに登場した鈴鹿御前「瀬織律姫」は、荒雄川神社の御祭神である。 なぜ大竹丸の終焉の地である鬼首地区に、この瀬織律姫が祀られているのかは、瀬織律姫の章で記述する。 |
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■諏訪大明神と高丸
『諏訪大明神の秋山祭の事』 / 桓武天皇の御代、奥州に悪事の高丸(悪路王あるいは安部高丸)がおり、人民を苦しめていた。そこで坂上田村丸が討伐に出かける。田村丸は清水寺に詣で、願をかけると、「山道を行け」という啓示を受ける。その通り山道を進み、信濃を通りかかると、梶の葉の紋様(諏訪明神の社紋)をつけた武者と、藍染の紋様(住吉大明神の社紋)をつけた武者と遭遇する。高丸の居城に到着し、戦闘を行うが、田村丸は苦戦する。そこへ信濃で出会った二人の武者が現れ、助勢する。見事、高丸を討ち取り、都へ凱旋する途上、信濃に到着した所、梶の葉の武者は、「我は諏訪の明神である。清水観音の指示によりお供した。我は、狩猟を好むので、狩の祭を希望する」と言った。それに対し、田村丸は「どうして菩薩でありながら、殺生を好むのでしょう」と問うと、次のように答える。「我は殺生を生業とするものに利益を施す。また、有情の畜生は、神前の贄として成仏がかなうのだ」このようにして、諏訪の秋山の祭が行われた。この日は必ず大雨大風が起る。なぜなら十悪の高丸が滅んだことにより、国内が騒動し、畜生の成仏により、神仏が感動するためである。ちなみに、もう一人、藍染紋様の武者は「王城鎮護の住吉の大明神」であった。 さて、高丸の娘は、その時、諏訪大明神によって捕らえられていたが身篭っており、一人の王子を産んだ、明神は憐憫をもって、「自分には姿がないから自分の代わりに、神姓をあたえ祝(はふり)とする」これが大祝(おおほうり)の始めである。『神道集』より 『諏訪市博物館』 / 大祝とは、諏訪明神の依り代(よりしろ=現人神)として諏訪社の頂点に位置していた役職で、「上社大祝」は、古代から江戸時代末に至るまで代々世襲され、「諏方」または「神」姓を名乗った。中世までは諏訪の領主として、基本的には同家で政治権力も握っていた。江戸時代に入り藩主諏訪家と、大祝諏方家ができ、完全な政教分離がなされた。明治時代を迎え、神官の世襲制度が廃止されるにより大祝職も廃止された。全国でも生き神様が存在し続けた神社は珍しいといわれる。 神政時代の祝(ハフリ)は領主の血族が就く司祭職で、後世には禰宜の制度ができるが、常識的には罪人とされた高丸の遺児が就ける身分ではない。諏訪大明神とは、諏訪地方の祭祀権をもつ領主で、表向きは捕虜としたが、安倍高丸の娘と愛し合い、妻として、生まれた男児に地位を譲ったのだろう。 諏訪大明神は出雲の神を祭っており、物部氏ゆかりの神社ともいえる。安倍氏・安曇氏・物部氏・諏訪氏・出雲氏の連携による救済ではないかと思われる。 |
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■鈴鹿御前と諏訪大明神
鈴鹿御前とは「鈴鹿権現」であり、瀬織津姫尊ともいう。鬼首の荒雄山上には瀬織津姫を祀った荒雄川神社奥宮があり、かつて荒雄川流域には36社もの荒雄川神社が祀られていたとされる。神奈川県の海老名市に「有鹿(あるか)神社」があり、隣の座間市には「鈴鹿明神社」があるが、「鈴鹿明神社」の説話伝説に次のような記述がある。 『鈴鹿明神社』 / 由緒には「伝説によると、伊勢の鈴鹿郷の神社例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風に襲われ、漂流して相模国入海の東峯に漂着した。里人が社を創立してこれを鎮守とし、鈴鹿大明神と崇め奉ったと伝えられている」 説話伝説として「欽明天皇の御代(539〜571年)、伊勢国鈴鹿から座間に移られた鈴鹿神は多くの財宝を持ち、豊かな暮らしを送っていた。当時、相模国勝坂にいた有鹿神(あかる)は、それを横取りしようとしてやってきた。これがもとで争いとなり、急を聞いて駆け付けた諏訪明神と弁財天の応援で鈴鹿神が勝ち、有鹿神を海老名の上郷へ追い払った」 伊勢国から移住した鈴鹿神を、諏訪明神と弁財天が助けに来る。なぜだろう。 日本書紀と伊勢国風土記に、これに関連する記述がある。『日本書紀』国譲り「出雲の大国主神の息子、建御名方神(タケミナカタ)は建御雷神(タケイカヅチ)との争いに敗れ、信濃の国の諏訪湖に逃れた」 『伊勢国風土記』には、神武天皇に故地を奪われた地主神『伊勢津彦』は、東国に行くと言って、海に嵐を起こして姿を消した。彼が逃げ落ちた先は信濃の国だったと伝えられる」 朝敵は信濃を目指す傾向があるようだが、漂着した鈴鹿郷の神輿とは伊勢津彦だとすれば、信濃の諏訪明神が救援に来る理由になる。また、弁財天とはインダス川の水神で、瀬織律姫の血族である市寸島比売 (イチキシマヒメ) のことである。 有鹿神社の由緒には、天平勝宝八年 (756年)、郷司の藤原廣政の寄進により5百町歩の懇田が神領となったとある。中臣鎌足が藤原氏に改姓するが、藤原廣政も藤原氏の一員だと思われるので、有鹿神社は鹿島神宮系の神社だと思うが、祭神には有鹿神は記されていない 話の筋からすれば、有鹿神は藤原氏(朝廷側)の神、鈴鹿神は敗者(出雲)の神だと思えるが、鈴鹿明神社は「イザナギ・イザナミ」を祭神とすることから、逆に鈴鹿神が資金力で有鹿神を駆逐したのかもしれない。 神奈川の県名は神奈備(かんなび=霊地)に由来し、古代は相模国と称したが、相模(さがみ)とは「さの神=宿(すく)の神」の意味で、蝦夷の守護神である。坂東武者を都の人々は「東(あずま)夷(えびす)」と呼ぶが、往時は蝦夷の勢力範囲である。 |
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■阿曇(あづみ)の鬼
信濃の国には、さらに阿倍氏と同系の阿曇氏に由来する長野県安曇野郡の穂高町に在る大王農場に「魏石鬼八面大王」を祀る神社があるが、そこに『鬼』に関わる社伝が記されている。 『魏石鬼八面大王』 / 全国統一を目指す大和朝廷が、東北に侵略するにあたり、信濃の国を足がかりに 沢山の貢物や無理難題を押し付け、住民を苦しめていました。そんな住民を見るに見かねて、安曇野の里に住んでいた魏石鬼八面大王は立ち上がり、坂上田村麻呂の率いる軍と一歩もひけをとることなく戦いました。最後は山鳥の尾羽で作った矢にあたり倒れてしまいました。しかし、あまりにも強かったので、再び生き返ることのないように、大王の遺体は方々に分けて埋められました。その胴体が埋められたとされる塚が農場の中にあったことから、大王農場と名づけられました。そして、塚は大王神社に祀られています。ここに佇む八面大王は、大王農場の守護神でもあり、安曇野を守った勇士でもあります。 穂高町の公式サイトにも、この魏石鬼八面大王の伝説が掲載されているが、物語の内容は完全に逆転しており、八面大王は住民を苦しめる悪鬼だと書かれている。そして、八面大王の本拠地は「宮城」と呼ばれていたが、思い上がって付けた名だともある。どちらの話が真実になのかは分からない。 物事は片面だけではなく、両面からみるべきだとの訓示の標本ように感じるが、これと同様の現象は他にもみられる。 悪鬼「塵輪」には翼があり、空を自在に駆けめぐることができ、神通力、軍術に長けた悪鬼が我が国に攻めてきたとき、仲哀天皇が安倍高(竹)丸、安倍助丸を従え、十禅万乗の徳に神変不測の弓矢をもって、これを退治するという物語である。 『諏訪大明神絵詞』 / 安倍高丸が謀叛したとき、坂上田村麿が伊那郡と諏訪郡との境の、大田切という所で梶葉の藍摺りの水干を着て、鷹羽の矢を負い、葦毛の馬に乗った諏訪大明神に行き遭ったことが記されてある。安倍高丸が官軍と賊軍に登場するが、大竹丸と安倍貞任を混同しているようにも思えるが、実は大竹丸とは「安倍高丸」の通称ではないだろうか。安倍氏は中央政権における大族『阿倍氏』の氏族で阿倍比羅夫の直系、安倍頼良は六世孫とされるが、300年間で六代のはずがなく、系譜が欠落していると思われるが、そこに安倍高丸、おそらく安倍高麿(麻呂)がいるのではないだろうか。 |
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■大竹丸と高丸
『寿々賀(すずか)』奈良絵本 / 藤原俊重将軍の子の俊祐が益田ヶ池の大蛇の化身である美女と契り、日竜丸が誕生する。日竜丸は近江国の大蛇を退治して、後に俊仁将軍を名乗る。十七歳で照日の前と結婚し、二人の姫が誕生するが、照日の前を陸奥高山の悪路王に奪われた為、奥州に赴いてこれを退治し、照日の前を救出する。奥州行の途中では、初瀬の郡、田村の賤女と契り、ふせり殿(俊宗)が誕生し、長じて父子の対面を果たす。俊仁は唐土に遠征して戦死し、その跡を継いだ俊宗は奈良坂山の霊山坊を退治。宣旨を受けて鈴鹿山の大嶽丸を退治し、鈴鹿御前と結ばれて一子をもうけるが、再び近江国の悪事高丸征討の宣旨を受け、これを退治する。 上記は古書販売目録でみつけた『寿々賀絵巻』(価格は三巻で1,200万円)の一巻だが、奥浄瑠璃『田村三代記』の絵巻だと推察する。この物語では、陸奥高山の『悪路王』、鈴鹿山の『大嶽丸』、近江国の『高丸』とされており、三人は別人だとしている。もっとも物語の話である。 謡曲『田村』 / 田村麻呂は伊勢国の鈴鹿山にいた妖術を使う鬼の美女「悪玉(あくたま)」と結婚し、その助けを得て悪路王(あくじおう)や大武王(おおたけおう)のような鬼の頭目を、陸奥の辺りまで追って討つ。 ここでは、鈴鹿御前『瀬織律姫』は鬼にされ、しかも田村麻呂が夫だとする。 瀬織律姫が「ひど〜い!」と怒りそうだが、『田村草紙』などで語られる田村麻呂伝説も大筋は似ている。あくまでも創作であり、歴史的事実とは無縁のものです。 ただし、謡曲は当時から観世流が独占しており、その創始者の世阿弥は大竹丸とアテルイの違いは承知している(理由は後述)。従って、瀬織律姫を鬼とする根拠があるのかもしれないが、いまのところ未詳である。 |
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■世界遺産になった鬼ヶ城
平成16年7月に、熊野古道や鬼ヶ城を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されたが、この鬼ヶ城の鬼も、実は『大竹丸』である。 『鬼ケ城伝説』 / その昔、桓武天皇(737〜806)のころ、この地に隠れて熊野の海を荒らし廻り、鬼と恐れられた海賊多娥丸(たがまる)を、天皇の命を受けた坂上田村麻呂が征伐したという伝説が残っており、その伝説に基づいて鬼の岩屋と呼ばれていましたが、後に鬼ケ城といわれるようになりました。 多娥丸(たがまる)となっているが、伊勢と熊野は伊勢路でつながっており、坂上田村麻呂に成敗されたとすることから、伊勢国で暴れたとされる「日本三大妖怪」の一人『大嶽丸』に間違いない。 ここでは海賊とあるが、秋田県の鬼「なまはげ」と長崎県五島列島の久賀島の鬼は同一だと考えられる。そして、佐渡島の人々に鬼と恐れられた粛慎(みしはせ)の容貌は「なまはげ」そのものである。 ツングース族の粛慎は紀元1世紀に挹婁(ゆうろう)と名を変えるが、中国の史籍に次のような記事がある。 『三国志魏書』挹婁伝 / 漢代(前漢)以来、扶余(ふよ)に臣従していたが、扶余の賦課が重いので、黄初年間(220年-226年)には、これに叛いた。扶余はこれを何度も討伐するが、人口は少ないけれど、場所が険しい山中で、隣国の人々も、その矢(毒矢)を畏れるほどで、兵(軍事力)では帰服させることができず、隣国はこれを患いとしている。 『後漢書』挹婁伝 / 彼らは気の向くままに船に乗って、巧みに略奪を働くので、隣國ではこれを畏れ、患うが、兵をもってしても服させることはできない。 上記から、粛慎(みしはせ=挹婁)は、東アジア最古の海賊だったと思われる。扶余については別紙に記述したが、高句麗や百済の宗族でもあり、朝鮮半島の 平壌からアムール川までという広大な領地を有した大族である。その扶余ですら手に負えない彼らに、当時の倭人も略奪を受けたのだろう。 鬼首の鬼達は、後に「安東水軍、伊予水軍、松浦水軍」となることから、海運にも優れていた事実が推察できる。また、大竹丸が陸奥の山中で隠遁していた訳ではなく、安倍水軍をもって都に近い伊勢国や紀伊国まで攻め上っていたとも思える。 また、後世のアイヌは粛慎の楛矢(コシ)の名残だと思われる「毒矢」を交易品としている。 |
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■大多鬼丸と白鳥伝説
『鬼五郎と幡五郎伝説』 / その昔、早稲川の里には、里の長である鬼五郎と、弟の幡五郎の兄弟が住んでいました。二人は力を合わせ、先祖から受け継がれてきた故里の田畑を守り、さらに豊かにしようと、里の人々の先頭に立って働いていました。政府の蝦夷討伐が始まったのはちょうどこの頃、陸奥の平定を大義に掲げる政府軍を率いた坂上田村麻呂が、この地にも攻め入ってきました。これに猛然と立ち上がったのが阿武隈山系一帯に勢力をふるっていた大多鬼丸。もちろん彼の部下であった鬼五郎も秀でた武術を発揮し、政府軍を迎え撃ちました。しかし、ねばる政府軍を前に戦いは長期戦へともつれこみました。激しく長い戦いの中で奮闘を重ねた大多鬼丸軍にしだいに敗色が濃くなり、仙台平まで追い込まれてしまいました。「お前は生きのびて立派に守ってくれ。わしは死んでも鬼となってこの地を見守るぞ」と鬼五郎は弟に言い残し、壮絶な最期を遂げました。愛する故郷のため、勇敢に戦い抜いた鬼五郎と、兄の遺志を継ぎ豊かな早稲川の里づくりに励んだ弟の幡五郎。故郷を愛した兄弟の想いは、今も人々の胸に脈々と生き続けています。 『坂上田村麻呂と白鳥伝説』 / 昔々、大越町(福島県田村市)の辺りは千島大多鬼丸という人が治めていたのだが、ある時、蝦夷を平定すると言って都からやってきた坂上田村麻呂が、その大多鬼丸と戦をはじめた。田村麻呂は大軍を連れてやってきたが、その頃、この辺りは深い山の中で、木々や草々がうっそうとして、昼間も暗かった。田村麻呂の軍が進むことができなくて困っていると、一羽の白鳥が飛んできた。見ると、鳥は「こっちさこ」というように羽をバサバサさせて飛んでいた。田村麻呂は、その白鳥についていった。すると、広い野原に出た。軍隊は思わず「ワァーッ」と大声を上げて駆けだした。すると、また鳥は「こっちさこ」というように山の方に飛んでいく。またついていくと、大多鬼丸のところにたどり着いた。田村麻呂たちはそこへ攻めていって、大多鬼丸を滅ぼしてしまった。田村麻呂は「あの白鳥は日本武尊命様の化身に違いない」と考え、この地に神社を造り祀った。それが白鳥神社なのだ。白鳥が飛んできたところを鳥生平(とりんだいら)、軍隊が駆け入った場所を欠入(かけいり)といい、大声をあげて軍隊がやってきたので「大声」と呼んだ。それが今の「大越」となった。 ともに旧大越町(福島県田村市)に伝わる大多鬼丸(大竹丸)の伝説である。田村市の名称は、田村麻呂に由来すると思われるが、地元では敗者である大多鬼丸のほうに人気があるようだ。 |
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■悪路王(あくろおう) | |
『鳴子町史』に、延暦八年(797年)に紀古佐美を征東大使に任じ、兵五万余をもって征伐に向かわせ、衣川まで進んだが、食料不足と寒気に悩まされ、結果的に阿弖流為(アテルイ)に破られ、数千人の戦死者をだして惨敗したことを示す『日本後記』が掲載されているが、そこには、当時の道がいかに悪路だったかが明記されており、アテルイが悪路王と呼ばれた理由が想像できる。
明治時代、遠野民俗学の先駆者である伊能嘉矩(かのり)氏が「悪路・赤頭・高丸・大竹丸・岩武」などの伝承を収集、更に関連する地名伝説にも触れ、悪路王を検証した「悪路王とは何ものぞ」(「遠野の民俗と歴史」・三一書房)など、資料や史料が多いが、代表的なものを列記する。 『中尊寺西光院の毘沙門堂縁起』 / およそ1200年の昔、悪路王・赤頭・高丸らの蝦夷がこの窟に塞を構え、良民を苦しめ、女子供を掠める等の乱暴な振舞い多く、国府もこれを抑える事が出来ない。そこで、人皇五十代桓武天皇は坂上田村麻呂公を征夷大将軍に命じ、蝦夷征伐の勅を下された。対する悪路王等は達谷窟より3千余の賊徒を率い駿河国清見関まで進んだが、大将軍が京を発する報を聞くと、武威を恐れ窟に引き返し守りを固めた。延暦20年(801)、大将軍は窟(達谷窟)に篭る蝦夷を激戦の末に打ち破り、悪路王・赤頭・高丸の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。大将軍は、戦勝を毘沙門天の御加護と感じ、その御礼に京の清水の舞台を摸ねて、九間四面の精舎を建て、108躰の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所として達窟毘沙門堂(別名をいわや窟堂)と名付けた。 大竹丸の名がなく、高丸となっているが、両者を同一人物としているのだろう。 『吾妻鏡』 / 源頼朝が平泉を攻め、藤原泰衡らを討伐した後、鎌倉への帰路にある青山に目をとめ、その名を案内役の奥州人の豊前介実俊に尋ねると、「それは、田(達)谷窟で、田村麻呂、利仁らの将軍が、綸旨を受け賜って夷を征する時、賊主である悪路王や赤頭らが、城塞を構えていた岩屋」だと実俊が教えた。そして、田村麻呂は、この田谷窟の前に九間四面の精舎を建て、鞍馬寺をまねて多聞天の像を安置し、西光寺と名づけたということを語る、という場面がある。 『平泉舊蹟志』 / 達谷窟は岩井郡達谷村に有り、東鑑(吾妻鏡)には田谷窟と記す。中尊寺より未申の方奥道十二里、東鑑に「田谷窟は、田村麻呂・利仁の将軍綸命を奉り、征夷の時、賊王悪路王ならびに赤頭らが塞を構えた岩室なり……(中略)……坂上将軍、この窟の前において、九間四面の精舎を建立し、鞍馬寺を模し多門天の像を安置し、西光寺と号して水田を寄附す」と述べている。 毘沙門堂縁起だけに高丸の名があるが、悪路・赤頭・高丸は別人であろう。 悪路王が坂上田村麻呂の戦った蝦夷の酋長とすれば、史実に照合すれば、悪路王は阿弖流為(アテルイ)、赤頭は母礼(モレ)のことになる。事実、毘沙門堂境内の碑は「アテルイの碑」と呼ばれている。 鹿島神宮に高丸(悪路王)の面とされる木像(左の写真)があるが、『桂村教育委員会』は、文化財の由来として、次のように解説している。 当鹿島神社の社宝として伝わるものである。延歴(ママ)年間(782〜805)坂上田村麻呂が北征の折、下野(ママ)達谷窟で賊将高丸(悪路王)を誅し、凱旋の途中この地を過ぎ、携えてきた首級を納めた。最初はミイラであつたが、これを模型化したものといわれる。高さ五〇cmほどで形相物凄く優れた彫刻である 達谷窟において悪路王を誅した田村麻呂が、凱旋の途中、東茨城郡桂村の鹿島神社に立ち寄り、その首級をこの社に納めた、その木乃伊(ミイラ)があったというが、現在はない。また、この首の切り口のところには「悪路王頭形 源光圀印」とあり、徳川光圀が、この像を修理させたものだという。 上記の写真と、前掲の水沢市の写真が酷似していると感じられた人は鋭い眼力の持ち主である。「鹿島神宮」の社宝とされた高丸(悪路王)の首像は鹿島神宮から「水沢市埋蔵文化財調査センター」に寄贈されたのである。 『水沢市埋蔵文化財調査センター』 / 蝦夷と胆沢城跡の展示・研究施設展示室は2000年前から栄えていた文化を見せる「蝦夷の登場」、城造営関係や官人の生活などを見せる「胆沢城跡」、発掘情報の紹介を行う「発掘の現場」、「歴史・考古学クイズQ&A」、胆沢城の「機能」「食」「信仰」、「古代東北からのメッセージ」、100インチの大画面で見せる「古代東北蝦夷の世界」の9つのコーナーからなる。 |
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■悪路王はツングース族
ロシア連邦ハバロフスク地方のアムール川流域、沿海州、サハリン州などに、エベンキ族、ナーナイ族、ウリチ族、ニブフ族、エベン族、ウデゲ族、ネギダール族、オロチ族、サハリン・アイヌ族などツングース語系諸族が現住している。 日本史に登場するツングース族は、粛慎・靺鞨(マツカツ)・女真(ジョシン)・高句麗・百済・扶余・渤海国などである。 弘仁六年(815)正月、小野朝臣岑守が陸奥守に任じられた時、空海(弘法大師)が彼に贈った歌があるが、そこには当時の人々の蝦夷に関する印象が明記されている。 『遍照発揮性霊集』(野陸州に送る歌) / 時々、人の里に来住して千万の人と牛とを殺食す。髻(モトドリ)の中に毒箭(ドクヤ)を挿し、手を上げる毎に刀と矛を執り、田(デン)せず、衣(イ)せず。鹿やと麋(トナカイ)を逐う。馬を走らせ、刀を弄すること電撃の如く、弓を彎(ヒ)き、箭(ユミヤ)を飛ばす。誰か敢えて囚(トラ)えん。 この歌から、当時の蝦夷の生活は狩猟民族そのものだと思える。空海は唐に留学していた経験があり、蝦夷と粛慎(当時は靺鞨)が同じツングース族であると知っていたのではないかと推察する。さらにいえば、空海は天台宗が嫌いだから、天台座主の円仁も嫌い、円仁が庇護する蝦夷も嫌いである。文面にも蝦夷を嫌悪する感覚が現れている。 鹿島神宮の宝物館に「悪路王の首」について、次のような説明がある。 鹿島神宮『宝物館』 / 平安時代、坂上田村麻呂将軍が奥州において征伐した悪路王(アテルイ)の首を、寛文年間に口伝に基づいて木製で復元奉納したもので、悪路王は大陸系の漂着民族とみられる。オロチョン族の首領で、悪路(オロ)の主(チョン)とみる人もいる オロチョン族は、内蒙古自治区の黒竜江(アムール川)領域に暮らす中国少数民族で、紀元前15世紀頃には中国の東北部にツングース系の粛慎がいたが、その集団の一員と思われる。 オロチョン族の固有言語は、「アルタイ語系、満州・ツングース語派、ツングース語」に属する。 オロチョン族はシャーマニズムを信奉し、自然界の事物を崇拝し、万物には霊魂があると信じ、祖先崇拝が盛んに行われている(左はオロチョン族の民族衣装)。 『ツングース(通古斯)』 / ツングースの名は、中国の北方を領域とした鬼方(キホウ)が紀元前12世紀に消滅し、そこに東胡(トウコ)が登場するのだが、ロシア人には中国語の発音の東胡が「ツングース」と聞こえたことに由来する。それ以前の呼称は不明。ツングース語は、アルタイ諸語に分類され、モンゴル語系、チュルク(トルコ)語系、ツングース語系に大別される。 日本語が、どの言語系に属するかの定説はないが、比較言語学的にはアルタイ諸言語に類似しており、韓国語と同様に扶余語の系統に属すとする説や、ウラル語族(ハンガリー語、フィンランド語)を併せたウラル・アルタイ語系だとする説もある。 いずれにせよ、古代の倭族や韓族の言語はツングース語に大きな影響を受けてきたことに異論はない。 出雲神話に登場する「やまたのおろち」(日本書紀は八岐大蛇・古事記は八俣遠呂智)の「おろち」とは、ツングース族のオロチ族のことだとする考えがある。 『古事記』神代の巻 / 天照大神の弟の素戔鳴命(スサノウ)は高天原から追放され、出雲の国に降った。出雲の簸の川を歩いていると、川上から箸が流れてきたので、上流には人が住んでいると思って歩いて行くと、美しい少女と老夫婦が泣いていた。その理由を尋ねると、老人は「私は大山津見神の子の足名椎(あしなづち)で、妻は手名椎、娘の名は櫛名田比売(くしなだひめ)といいます。私たちには八人の娘がいましたが、この地には恐ろしい高志(こし)の八俣遠呂智(やまたのおろち)と云う大蛇が毎年出てきて、娘を一人ずつ食べてしまうのです。 スサノオ(素戔鳴)を祭神とする八坂神社『祇園祭』の神輿行列には、スサノオが転生した『牛頭大王』、稲田比売命(いなだひめのみこ)が転生した『婆利女』が登場する。稲田比売とは櫛名田比売のことである。 ちなみに、常陸国新治郡に八岐大蛇伝説があり、笠間市稲田に奇稲田姫を奉った「稲田姫神社」があり、稲田姫の父母「手名椎(てなつち)足名椎」の住居跡が「関戸神社」で、笠間市内にはスサノオを奉った八坂神社がある。 祇園祭ではスサノオがヒンズー教の『牛頭天王』に模した『牛頭大王』とされているが、八坂神社も秦氏に由来する神社とされるので『牛』の登場も当然だが、上記の物語で重要なのは「高志」である。 斉明紀に「越国守(こしのくにのかみ)阿倍引田臣比羅夫」とあるが、高志とは越のことである。越国(越前・越中・越後)は古志や高志と表記されたが、大化の改新(645年)の後、越で統一される。 『晋書』粛慎伝 / 周の武王の時代(紀元前11世紀)、楛矢(こし)と石砮を献じた。周公が成王の補佐していた時代に再び遣使が朝賀に来た。その後千余年、秦漢の隆盛時といえども来貢しなかった。三国魏の文帝が丞相となるに及び、景元5年(264年)、楛矢、石砮、弓甲、貂皮の類をもって来貢した。 楛は中国原産の植物の名、幹が矢幹(やがら)に適しており、それで作った矢を楛矢という。この楛矢の漢音はhushi(フシ)、楛をhu(フ)と発音するが、日本語はko(コ)と読む。一矢(イッシ)を報いるというように、矢「ヤ」は「シ」とも読む。従って、日本語では楛矢は「コシ(koshi)」となる。 この楛矢を持って日本海沿岸に渡来した粛慎を、当時の人々は「古志、高志」と呼んだのではないだろうか。そうであれば「おろち」とはツングース族の部族名の『オロチ』だとしても頷ける。 ちなみに、粛慎は1世紀には悒婁。4世紀には勿吉。6世紀末には靺鞨。9世紀には渤海国と黒水靺鞨。10世紀には女真。10世紀末に金王朝。13世紀後半に金が滅亡。14世紀後半には女真を再統一。17世紀には清王朝を立て、満州族に改名。このように何度も国号や族名を変えるが、日本とは密接な関係がある。 既述のオルドス文化・オホーツク文化も、アムール川流域に端を発しており オロチョン族もオロチ族も、この粛慎の支族だったと考えられる。 上毛野君の先祖の竹葉瀬を遣わして、貢ぎ物を奉らないことを問うた。その途中で白鹿を獲ったので、帰って天皇に奉った。さらにまた日を改めて行った。しばらくして竹葉瀬の弟田道を遣わした。治世55年蝦夷が叛いたので田道を遣わして討たせた。しかし、蝦夷のために破られて伊峙(イジ)の港(石巻)で死んだ。従者が田道の手に巻いていた玉を持ち帰ってその妻に渡した。妻はそれを抱いて縊死(いし)した。時の人はこれを聞いて悲しんだ。この後また蝦夷が襲ってきて人民を掠めた。そして田道の墓を掘った。すると大蛇がいて、目を怒らして墓から出て喰いついた。蝦夷は蛇の毒気にやられて沢山死に、一人、二人が免れただけであった。時の人は「田道は死んでも仇を討った。死者でもよく知っているものだ」と噂した。 『三国遺事』竹葉軍 / 第十四代儒理王の時代(283年)、伊西国人が金城に攻め寄せた。我が国は大挙して防いだが、長く抗戦すること不可能だったが、突如、異兵が出来して助けてくれた。皆が竹葉を耳輪にしていた。我軍と合力して賊を撃破した。軍が退去した後、どこに帰ったかは不明。ただ末鄒陵の前に竹葉が積まれていた。そこで先王が陰隲(インシツ=天が人の功罪を判定し禍福を下す)して功ありと判断されたことを知った。因って竹現陵と呼ぶ。 |
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■阿弖流為(アテルイ)
宮沢賢治の詩『原体剣舞連』に「むかし達谷の悪路王」とあり、悪路王の首像と棺桶(鹿島神宮所収)のことを詠っているが、悪路王が大竹丸ではなく、アテルイであることはほぼ確実だろう。 少しアテルイを取り巻く時代環境を年表にして列記する。 天平勝宝元年(749年) 国家事業である東大寺大仏建立の鋳造は完成したが、日本には仏像に塗る大量の金(約59kg)がなかった。そんなとき陸奥守であった百済王敬福が陸奥国の小田郡(遠田郡涌谷町)で、我が国で初めて産出された黄金九百両(約12 kg)を献上した。朝廷は年号を天平から天平感宝と改めたほど狂喜乱舞し、万葉歌人の大伴家持は「天皇の御代栄えんと、東なる陸奥の山に黄金の花咲く」と詠んで寿いだが、これが蝦夷に災難を招く大きな要因となった。 陸奥国小田郡は、大竹丸の遺体を埋葬したとする奥州三観音の箆岳観音(湧谷町)が在ることから大竹丸の支配地である。いずれ朝廷は砂金の占有を狙って、彼らを小田郡から追い出すことは目に見えていた。だが、幸いにもこの後、大和王朝では朝廷内の権力闘争による内乱が続出した。 宝亀元年(770年) 道鏡事件を最後に平穏を取り戻した朝廷は、坂上苅田麻呂(坂上田村麻呂の父)を奥鎮守将軍に任命し、多賀城政庁に派遣した。 『続日本記』には、この当時、現地での戦死報告がしばしばあり, その原因は常に蝦夷の側が「野心馴れ難く」悪の軍団として、攻めて来たと記録されている。 宝亀五年(774年) 蝦夷が反乱を起した。紀広純に鎮守副将軍兼任の命が発令され, 蝦夷地の征服が具体化した。だが、紀広純は伊治公砦麻呂( いじのきみあざまろ) の反乱で、780年に非業の死を遂げることになる。 延暦八年(789年) 桓武天皇の蝦夷征討の決意は固く、過去の失敗を教訓として、征夷大勝軍の紀古佐美に東海、東山、坂東の五万余の精鋭を与え、官軍を三軍に分割し、果敢に攻撃させたが、アテルイは胆沢(いさわ)平野での巣伏の戦いで、見事に官軍を撃退した。 延暦十六年(797年) 首塚部分拡大征夷大勝軍に任命された坂上田村麻呂は十万の大軍を率いて北上、彼は武力衝突を避け、胆沢に城を築き、国府を多賀城から胆沢に移すという周到な策をとって、人心の懐柔や仏教文化の伝播に努めた。 延暦二十一年(802年) アテルイは母礼と部下500人を引き連れて降伏。 同年8月、田村麻呂に従って上京した二名は、河内国杜山(大阪府枚方市)で処刑されたという。(左の写真は、二人の首塚) |
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■人首丸(ひとかべまる)
大墓公(たものきみ)阿弖利為(アテリイ)と 盤具公(いわぐのきみ)母礼(もれ)が河内国で処刑されたが、そこに鬼首の大竹丸はいなかったのだろうか。 『宮沢賢治と種山ヶ原』 江刺市の種山ヶ原には約1200年前、蝦夷の将軍『悪路王』とその弟『大岳丸』が政府軍の将軍坂上田村麻呂によって討たれた。 大岳丸の子には人首丸という美少年がいたが、人首川に沿って遡り、種山近くの大森山に逃れ、要塞を築いてたてこもったが、政府軍の田村阿波守兼光によって首を切られてしまった。兼光は大森山に堂を建て、観音像を安置した。堂はその後、山火事で何度も焼け、仏像はついに人首川に流され、玉里の大森部落で拾われ大森観音として祀られた。 『大森観音』 / 坂上田村麻呂が人首丸を米里の大森山で討ち、その地に観世音を祭ったのが大森観音ですが、大森山が再三山火事に遭い、御堂を度々消失したことや、里から遠く離れており、訪れる人が少なかったなどの理由で、現在の場所に移されたと言い伝えられています。 『麓山神社本殿』 / 延暦14年(795年)、坂上田村麻呂の東夷征討の折、国家安全、東夷鎮護のため奉祀したのに始まり、さらに大同元年(806年)に人首丸を討ち、聖観音を祭ったといわれ、地名の麓山を冠して、麓山大権現と称し、明治になってから麓山神社と改称したとされています。 『人首丸の墓』 / 阿弖流為(アテルイ)の弟・大岳丸と、その子の人首丸は、延歴20(801)年、米里大森山に逃れ、頑強に抵抗したが、大同元(806)年に討ちとられました。大森山山頂に石碑を建て、その傍らに観音堂を建立し供養したといわれる。 今度、大竹丸(大岳丸)の息子まで登場してきたが、その真偽はともかくとして、免罪符として坂上田村麻呂の名前を掲げ、里人たちが墳墓を守ってきたとすれば、人々にとって大竹丸は地元のヒーローだったと思わざるを得ない。 『人首村風土記』 (麓山神社由来) / ● 大嶽丸は鬼死骸村で討たれ、一迫鬼首村に葬る。 ● 大嶽丸の弟の大武丸は、栗原郡大武村にて討たれる。 ● その息子の人首は、大森山・麓山神社付近で討たれる。 『人首村風土記』(笠森稲荷由来) / ● 悪露王は、鬼死骸村で討たれた。 ● 悪露王の弟の大武丸は、栗原郡大武村にて討たれる。 ● その息子人首は、大森山の山中で討たれる。 この『人首村風土記』によれば、アテルイが「大嶽丸・悪露王」、その弟が大竹丸「大武丸」、諏訪明神の大祝の叔父が「人首丸」に位置づけられる。 だが、そうすると「伊勢・熊野・近江」などにも出没したとされる「大竹丸」は別人だとなる。 既述したように安倍高丸(竹丸)の名前が島根県にまで残っているが、アテルイは有名ではあるが、陸奥以外での足跡が遺されていない。 阿倍比羅夫の系統で東北地方に勢力を張った安倍氏の存在を考えれば、この当時、すでに定住しているはずで、蝦夷の大酋長はアテルイだと思うが、彼の率いる部族集団とは別に、安倍氏の勢力が存在していたのではないだろうか。 国威を賭けた白村江の海戦に、阿倍比羅夫と安曇比羅夫という阿倍氏族の二人が水軍の指揮官に任命されており、阿倍氏独自の水軍力を有している。 この水軍力がなければ、大竹丸が陸奥の外を駆け巡ることは不可能である。 筆者の推論では、大竹丸とは安倍氏だと推定する。 ちなみに、源頼朝の幼名は『鬼武丸、鬼武者』というが、安倍氏の勇猛さからの命名ではないかと想像する。 いずれにせよ、鬼の大竹丸は、古代史のベールに隠されていたほうが、ロマンがあっていいのかもしれない。そんな気がするので、探求を終わりにします。 安倍氏については別章で記述するが、本章の最後に阿部宗任を祀る神社の紹介をして閉めにする。 『宗任神社』茨城県結城郡千代川村本宗道 / (祭神は、阿部宗任公・阿部貞任公) 当社は、平安時代後期に陸奥国でおこった前九年の役(1051〜61年)で、源頼義の軍勢に敗れた阿部宗任公を祀った神社です。縁起記によれば、天仁2年、阿部氏の臣松本七郎秀則・息八郎秀元が亡君宗任公の神託により旧臣二十余名と共に公着用の青龍の甲胄・遺物を奉じて奥羽の鳥海山の麓から当地に来往して鎮齊した。鎮座するにあたって宗任公の霊は、「天の道、人の道を行くを宗とする意味で宗道と地名を改めれば、人はすこやかに、地は栄えるようになるであろう」と告げる。以来この地は宗道となった。 |
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■物部氏 4 | |
そら見つ日本(やまと)の国。この名はニギハヤヒによって作られた。そのニギハヤヒを祖とする物部氏。かれらは、古代日本に何をもたらしたのか。蘇我氏と崇仏の是非を争っただけではなかった。それ以前から、ヤマトの建国にかかわっていた。いや、天皇家よりも前にヤマトを治めていたのかもしれない。いや、大和以前に出雲や吉備にいたのかもしれない。
物部の謎は、日本の謎である。 |
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数ある古代日本の謎のなかでも物部(もののべ)の謎ほど、深くて怪しいものはない。
研究者たちも、こと物部をめぐっては百花繚乱というよりも、むしろお手上げの状態だ。ぼくもかつて直木孝次郎や鳥越憲三郎のものや、70年代後半に出版された黛弘道の『物部・蘇我氏と古代王権』とか、畑井弘の『物部氏の伝承』などを読んでこのかた、物部氏をめぐる謎をずうっと気にしてきたのだが、どうにも埒があいてはいなかった。 いろいろ理由があるのだが、なかでも、和銅3年(710)の平城京遷都のおりに、石上(物部)朝臣麻呂が藤原京の留守役にのこされてからというもの、物部一族は日本の表舞台からすっかり消されてしまったということが大きい。この処置を断行したのは藤原不比等だった。このため、物部をめぐる記録は正史のなかでは改竄されてしまった。物部の足跡そのものを正確に読みとれるテキストがない。 だから物部の歴史を多少とも知るには、『古事記』はむろんのこと、不比等の主唱によって編纂された『日本書紀』すらかなり読み替える必要がある。のちに『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)という物部氏寄りの伝承をまとめたものが出るのだが、これも偽書説が強く、史実として鵜呑みにすることは、ほとんどできない。 なぜ物部はわかりにくいのか。なぜ物部一族は消されたのか。たんに藤原氏と対立しただけなのか。その物部氏はなぜ『先代旧事本紀』を書かざるをえなかったのか。こういうことはまだあきらかにはされていないのだ。 いったい物部は歴史を震撼とさせるような何かを仕出かしたのだろうか。それとも、物部の足跡を辿られては困るようなことが、日本史の展開のなかや、記紀の編纂者たちの事情にあったのだろうか。こういうこともその全貌はわかってはいない。 けれども、記紀、古代歌謡、『先代旧事本紀』、各地の社伝などを徹底的に組み直していけば、何かは見えてくる。その何かは、ひょっとしたらとんでもないことなのである。とくに神武東征以前における物部の祖にあたるニギハヤヒ(饒速日命)の一族の活躍は、古代日本の本質的な謎を暗示する。 |
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一方、畑井弘の研究がすでに示唆していたことであるが、実は物部一族とよべるような氏族はいなかったという説もある。
物部とは、「物具」(もののぐ=兵器)を中心とする金属生産にかかわった者たち、「フツノミタマ」を祀っていた者たち、「もののふ」として軍事に従った者たちなどの、幾多の「物部八十伴雄」(もののふのやそとものお)と、その後に「物部連」(もののべのむらじ)としてヤマト王権の軍事・警察・祭祀をつかさどった職掌にあった者たちとの、すべての総称であったのではないかというのだ。 まあ、そういう説があるのはいいだろう。しかし、仮にそうだとしても、やはりそこにはフツノミタマを奉じる一族がいたであろうし、石上神宮の呪術を司る一族がいたはずなのだ。そして、その祖をニギハヤヒと認めることを打擲するわけにはいかないはずなのだ。ぼくは、やはり物部一族が“いた”と思いたい。 では、物部とはどんな一族だったのか。出自はどこなのか。物部が仕出かしたこととは何なのか。ヤマト朝廷と物部の物語はどんな重なりをもっていたのか。 |
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一般には、物部氏の名は、蘇我氏の「崇仏」に反旗をひるがえした物部守屋の一族だというふうに知られてきた。神祇派が物部氏で、崇仏派が蘇我氏だと教えられてきた。
しかし、こんなことは古代日本史が見せたごくごく一部の幕間劇の出来事にすぎず、そのずっとずっと前に、物部の祖先たちがヤマトの建国にあずかっていたはずなのである。このことについてはあとで詳しくのべるけれど、いまそれを端的にいえば、神武やヤマトタケルの東征に先立って、すでに「物部の祖」たるニギハヤヒのヤマト君臨があったのだろうということになる。 本書は、この謎にかかわって、類書にない仮説を展開してみせた。著者の関裕二には、これ以前に『蘇我氏の正体』『藤原氏の正体』があって、その総決算としてごく最近に本書が綴られた。1998年にも、本書の前身にあたる『消された王権・物部氏の謎』を書いた。 著者は歴史作家という肩書になっているが、1991年に『聖徳太子は蘇我入鹿である』を発表して以来、つねに古代日本の語られざる謎の組み上げをめざして知的踏査を試みてきた。最近は『かごめ歌の暗号』で、例の「籠の中の鳥」の正体を追いかけた。その姿勢と鋭い推理力は、そんじょそこいらのアカデミシャンの顔色をなさしむるところがある。お偉いさんたちの学説にも惑わされていない。むろん、お偉いさんの成果もそれなりに咀嚼している。 とはいえ、これから紹介する著者の仮説が全面的に当たっているかどうかは、わからない。いろいろ齟齬もあるし、まだ論証が薄いところも少なくない。なにしろ物部氏の謎は、古代史の謎のなかの謎なのだ。けれども、ぼくが類書を読んできたかぎりでは、いまのところはこの仮説が一番おもしろい。まあ、覗いてみてほしい。 |
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仮説のクライマックスに入る前に、古代日本の最も重大な前史にあたるところを、予備知識として理解しておいたほうがいいだろう。記紀神話に属するものだ。
したがって、これから書くことには史実とはいえないところが多いのだが、あるいはまだ確証されていないことも多いのだが、それならそれらのすべてデタラメかというと、必ずしもそうとは言い切れない。そこを忖度して、まずは読まれたい。大事なのは、アブダクションの効いた想像力をはたらかせることだ。 時代は天皇初代の神武のころの話に一気にさかのぼる。『日本書紀』には、こう書いてある。 |
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出雲に国譲りを強制したアマテラスの一族は、使節や息子たちを「地上」に降臨させることを思いつく。何度かの失敗のあと、ホノニニギノミコトが全権を担った。ホノニニギは猿田彦らに導かれて真床覆衾(まどこおうふすま)にくるまり、日向の高千穂に降りた。
ホノニニギはその後、長屋の笠狭碕(野間岬)に赴き、さらに南九州の各地で子孫を落とすと、そのなかからヒコホホデミ(山幸彦)が衣鉢を継承し、その子にウガヤフキアエズが生まれた。さらにその子にイワレヒコが育った。これが『書紀』によって初代天皇とされたカムヤマトイワレヒコこと、神武天皇である。 神武は45歳のときに、こんなことを側近たちに洩らした。「わが天祖(あまつおや)が西のほとりに降臨して179万2470余年が過ぎた。しかし遠く遥かな地では、われらの徳も及ばず、村々の長(おさ)も境を分かって互いに争っている。ついては、シオツチノオジ(塩土老翁)に聞いたところ、東のほうに四方を山に囲まれた美しい土地があって、そこに天磐船(あまのいわふね)に乗って飛び降りた者がいるらしい。 思うに、そここそわれらの大業を広めるにふさわしいのではないか。その飛び降りた者はニギハヤヒノミコト(饒速日命)という名だとも聞いた。私はその地に赴いてみようかと思う」。 |
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神武は、この年の10月5日、もろもろの皇子や軍団を率いて東をめざした。神武東征のスタートである。
北九州の遠賀川付近から瀬戸内に入り、ついに難波碕に辿り着いた。そこから淀川をさかのぼって河内の草香邑(くさかのむら)に寄り、ついで竜田(奈良県葛城郡王子)へ向かおうとしたところ、あまりに道が狭く、生駒山に方向転換をした。 このとき、この神武の動向を聞きつけた者がいた。長髄彦(ナガスネヒコ)である。どうやらそのあたり(河内・大和一帯)を押さえている土着の首長らしい。 長髄彦は「天神(あまつかみ)がやってくるというのは、わが領域を奪おうとしているにちがいない」と判断し、兵をあげて神武一行と対峙した。両軍は孔舎衛坂(くさえのさか=東大阪日下町)で激突し、神武の兄のイツセノミコト(五瀬命)が負傷した(その後、イツセは紀の国で亡くなった)。 苦戦を強いられた神武一行は、「私は日神(ひのかみ)の子孫なのに、まっすぐ東に向かったのはまちがいだった」と言い(太陽の運行に逆らったと言い)、タギシミミノミコト(手研耳命)を先頭に、迂回して熊野からヤマトに入ることにした。 熊野にはタカクラジ(高倉下)という者がいて、あるとき夢を見た。アマテラスがタケミカヅチ(武甕雷神・建御雷神)に語って、「葦原中ツ国はまだ乱れている。お前が行って和ませなさい」と言われたというのである。タケミカヅチは自分が行かなくとも、私のもっている立派な剣があれば平定は可能だろうから、これを天孫(神武)に提供しようと判断した。 この剣は「フツノミタマ」というものだった。タカクラジが夢からさめると、はたして「フツノミタマ」が蔵にある。さっそく神武に差し上げた。 |
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かくて神武は進軍を始めるのだが、道が険しくて難渋する。そのとき八咫烏(ヤタノカラス)が飛んできて、神武の一行を導いた。そこにヒノオミノミコト(日臣命)が加わった(ヒノオミは大伴氏の祖。道臣命ともいわれる)。
それでも一行はやはり苦戦を強いられたのだが、なんとかヤマトに近づき、莵田(うだ)の高倉山(奈良県大宇陀)にのぼって周囲を見渡すことができた。国見丘にヤソタケル(八十梟師)が軍団を従えて陣取っているのが見えた(『古事記』ではヤソタケルは土蜘蛛とされる)。これではヤマト入りは難しい。どうするか。 するとその晩、神武は夢を見た。天神(あまつかみ)があらわれ、こう告げた。「天香具山の社のなかの土をとって、天平瓦(あまのひらか)を80枚つくり、あわせて厳甕(いつへ)をつくり、天神地祇を敬って祇り、厳呪詛をおこないなさい。そうすれば敵は平伏するだろう」。 神武はさっそく、シイネツヒコ(椎根津彦)に蓑笠をかぶらせて老父の恰好をさせ、弟には老婆の恰好をさせ、天香具山の土をとりにいかせた。案の定、敵兵が道を埋めていたが、二人の姿を見ると「みっともないやつらだ」と笑い、口々に罵声を浴びせた。その隙をついて二人は山に入り、土をとって帰ってきた。神武は丹生の川上(吉野あたり)で八十平瓦(やそひらか)と厳甕をつくって、天神地祇に祈って敵の調伏をした。 |
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事態は突破できそうだった。神武たちはいよいよ長髄彦を攻めた。すると長髄彦が使いをよこして、こんなことを言ってきた。
「すでにこの地には天神(あまつかみ)のクシタマニギハヤヒノミコト(櫛玉饒速日命)が降りてこられ、わが妹のミカシギヤヒメ(三炊屋媛)を娶り、ウマシマジノミコト(宇摩志麻治命=可美真手命)をお生みになり、この地をヤマトと名付けられました。そこで私はニギハヤヒを主君として仕えているのです。いったい天神はお二人いるのでしょうか。ひょっとしたらあなたは天神の名を騙り、この地を乗っ取ろうとしているのではないですか」。 神武が答える。「天神の子はたくさんいるのです。もし、あなたが主君と仰ぐニギハヤヒが天神の子であるというなら、必ずその証拠の品があるはずでしょう。それを示してほしい」。 さっそく長髄彦は天羽羽矢(あまのははや)と歩靫(かちゆき)を差し出した。神武は納得する。ところが、長髄彦は戦さをやめる気はなかった。これを察知したニギハヤヒは事態がねじれていくのをおそれて、長髄彦を殺してしまった。 神武はニギハヤヒのこの処置を見て、ニギハヤヒが自分に忠誠を誓っていると判断し、和睦し、寵愛することにした。かくしてニギハヤヒは物部氏の祖となった。神武は、初代天皇ハツクニシラススメラミコトとして即位した。 |
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これが、『日本書紀』が伝えている物部氏の物語の発端のあらましである。それは、神武のヤマト入りと即位の物語を決定づけるストーリーとプロットをもっていた(ちなみに『古事記』にもニギハヤヒの一族が神武に恭順を示した話は載っているが、長髄彦の誅殺にはまったくふれていない)。
この、すこぶる曰く付きの物語で見逃せないのは、ヤマトにはすでに神武以前にニギハヤヒが降りていた(入っていた)だろうということ、そして、その地を「そら見つ日本(ヤマト)」と名付けていたということ、かつ、ニギハヤヒは神武同様のなんらかの神宝を持っていたということだ。 この記述にしたがうと、『日本書紀』はなんと物部氏と天皇家を同等にみなしていたということになる。つまりニギハヤヒは天津神の一族の祖か、さもなくばアナザー天孫族の一族のリーダーなのだ。それだけではなく、ニギハヤヒのほうが神武のヤマト入りより先なのだ。 これは天皇家に先行する「もうひとつの天皇家」を想定させるものとして、驚くべきことではあるが、ただし、これだけでは合点がいかないことも多々ある。 ヤマトを守るために戦おうとしていた長髄彦の勢力からすると、神武一行を蹴散らすのは容易だったはずなのに、それをしなかったのはなぜなのか。のみならず、ニギハヤヒは長髄彦を殺してまで、神武に対する恭順を示したのはなぜなのか。長髄彦がニギハヤヒを守って神武に対決した理由も、これだけでは意味がよくわからない。 いや、そもそも二人の天神(天津神)がいることの理由がわかりにくくなっている。天皇家の祖先にあたるホノニニギ以下の天孫族が九州を基盤に東に上ってきたのに対して、なぜにまたニギハヤヒは単独で直接にヤマトに入っていたのか、その事情も見えない。『日本書紀』はニギハヤヒがヤマト(大和=日本)の命名者だと書いているのだから、ヤマト朝廷のルーツもニギハヤヒにありそうなのであるが、その関係が見えにくい。 |
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このような謎を解くには、さまざまな物部伝承を調べなければならない。本書もさまざまな伝承から仮説の鍵を持ち出している。
たとえばそのひとつ、島根県の大田(おおだ)に物部神社がある。ウマシマジを祀っている。 ここの社伝では、ウマシマジは神武東征にあたって神武を助け、その功績が認められてフツノミタマの剣を賜ったとある。ウマシマジはその後、天香山命(ウマシマジの腹違いの兄)とともに兵を率いて尾張・美濃・越を平定し、さらに西に進んで播磨・丹波をへて石見に入り、そこの鶴降山(つるぶせん)で国見をして、八百山が天香具山に似ていたので、そこに居を構えたというふうにある。 神武に恭順したのはニギハヤヒの子のウマシマジのほうで、そのウマシマジこそが各地の平定を引き受けたというのだ。この社伝通りだとすると、物部氏はずいぶん動きまわっていたことになる。しかし、この話でいささか解せないのは、それほどに統一ヤマトの成就に功績のあるウマシマジが、いったいなぜ大和から遠い石見あたりに逼塞するかのように収まってしまったのかということだ。 また、ひとつ。さっきも示しておいたように、物部系の事跡については『先代旧事本紀』という一書がある。平安期の延喜年間に書かれた。誰が書いたかはわかっていない。それはともかくとして、ここにはウマシマジは神武がヤマトに入ったのちに、天物部(あまのもののべ)を率いて各地を平定したことになっている。これは何なのか。 古代日本でアマという言葉をもつのは、「天なるもの」か「海なるもの」を示している。天ならば天孫系(天皇家ないしは渡来系)で、海ならば海洋部族の系譜だ。しかし、記述にはそのどちらとも言明されてはいない。こういうことはよくある。日本の事跡記述はデュアルなのである。 いずれにしても、天物部による各地の平定があらかた終わったあと、神武は即位し、ヤマト建国がなされた。『先代旧事本紀』はそのあとの出来事についても、気がかりなことを書いていた。 ウマシマジは天瑞宝(あまみつのたから)を奉献して、天皇のための鎮祭(しずめまつり)をとりおこなったというのだ。この天瑞宝が、物部氏の神宝として有名な「十種神宝」(とくさのかんだから)となったともある。このとき、ヤマト朝廷の「践祚」などに関する儀礼や行事が整ったというふうにも書いてある。 物部が天皇家に「十種神宝」を贈って、それが即位儀礼の中核になったとは、にわかに肯定しがたいけれど、では、ほかに初代天皇の即位に関する記述がどこかにあるかといえば、まったくお手上げなのだ。 |
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天物部やウマシマジの地方での活躍は、『日本書紀』にも『古事記』にも載っていないことだった。しかし、こうした記述をそのまま認めるとすると、これは物部氏の儀式を天皇家が踏襲したというふうになろう。
これは聞きずてならない。いや、胸躍ることである。なぜなら、『日本書記』神武紀は、ニギハヤヒの貢献をあえて重視したわけだ。物部氏の祖が初代天皇即位にあずかっていることは、認めたのである。聞きずてならないにもかかわらず、無視はできなかったのだ。 いいかえれば、古代日本の中央に君臨する記紀テキストと、傍系にすぎない物部氏の記述とは、互いに不備でありながら、互いに補完しあっていると言わざるをえないのだ。ただし、そこには奇妙な「ねじれ」がおこっている。その「ねじれ」の理由こそ、おそらくは「天皇家の謎」にも「物部氏の正体」にもかかわっている。そう見ていくと、いろいろの事跡や記録が気になってくる。 こういうこともある。天皇即位後の最初の新嘗祭では、造酒童女(さかつこ)が神事をしたあと、物部氏が参加する。こういう例は数ある他の豪族には見られない。物部氏だけが関与しているトップシークレットなのだ。 また、ひとつ。こういうこともある。『先代旧事本紀』には、ニギハヤヒがヤマトに入ったときに、そこに猿女君(サルメノキミ)が同行していて、その猿女がその後の天皇の即位や鎮魂にあたって祝詞をあげたというふうにも書いているのだ。 猿女とは天の岩屋の前で踊ったアメノウズメの一族をいう。アマテラスによっては高天原パンテオンの収拾がつかなくなったとき(スサノオとの対立で)、これを救ったのが猿女たちだった。実はホノニニギの天孫降臨のときも猿女がかかわっている。その猿女がニギハヤヒの降臨にかかわっていた。 まあ、こういった話がいくらでも出てくるのだ。しかしながら、このような断片をたんに寄せ集めても、なぜ物部氏の儀式を天皇家が踏襲するのか、その真意はあいかわらずはかりがたい。「ねじれ」も浮上してこない。 |
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まだまだ物部に関する記述は各方面にいろいろあるけれど、とりあえずはこのくらいにして、ごく基本的な材料は提供したということにしておく。
それでもすでに予想がつくように、これらの材料からはどうみても、物部氏が天皇家の君臨以前の王朝づくりにかかわっているのは確実なのである。ただ、「ねじれ」の原因が見えてこないのだ。 ぼくが本書をとりあげたのは、この「ねじれ」を暗示する出来事に関裕二が着目していたからだった。その着目点は一首の「歌」と「弓」にかかわっていた。 元明天皇が和銅元年(708)に詠んだ歌がある。『万葉集』に載っている。こういう歌だ。「ますらをの鞆(とも)の音(ね)すなり もののふの大臣(おほまへつきみ)楯立つらしも」。 元明天皇が誰かが弓の弦を鳴らしているのに脅えているらしい。岩波の『万葉集』の注解では、これから東北の争乱などを制圧するために、武人たちが軍事訓練をしているのを元明天皇は気になさっている。そういう解釈になっている。 しかし、東北の争乱を平定するための武人たちの訓練を天皇が脅えるというのは、おかしい。むしろ頼もしく思ってもいいくらいであろう。だからこの解釈は当たっていない。そこで、上山春平は「もののふ」は武人たちのことではなく、特定の物部氏のことだと見た。それなら「もののふの大臣」とは、石上朝臣麻呂のことなのである。当時の大臣だった。 石上は物部の主流の家系にあたる。石上神宮は物部氏を祀っている。数々の不思議な儀式もあって、しばしば「物部の呪術」ともいわれている。 たとえば「一二三四五六七八九十」(ひふみよいむなやこと)と唱えて、そのあとに「布瑠部由良由良止布瑠部」(ふるべゆらゆらとふるべ)と呪詞を加える。これは宮中で旧暦11月におこなわれてきた鎮魂祭(たましずめのまつり)とまったく同じ呪詞で、天皇家のオリジナルとは思えない。物部の呪詞がまじっていった。 そういう物部一族の頂点にいる石上朝臣麻呂が、兵士が弓の弦を鳴らすのとあわせて、楯を立てているというのだ。デモンストレーションである。おそらく天皇はそのデモンストレーションの真意に脅えているにちがいない。関はそのように推理した。 なぜそんな推理がありうるのか。実は、元明天皇は藤原不比等によって擁立された天皇だった。その元明天皇のあと、平城京の遷都がおこる。これによって不比等の一族の繁栄が確立する(857夜)。一方逆に、石上麻呂は、この歌の2年後に平城京が遷都されたときは、藤原京に置き去りにされた。そういう宿命をもつ。つまり中央から切られたのだ。不比等の仕業であったろう。 こういう事情を勘案していくと、元明天皇が恐れたのは、石上麻呂に代表される物部一族やその残党がおこしそうな「何か」を恐れていたということになる。その「何か」がデモンストレーションとしての「ますらをの鞆の音」に象徴されていたのであろう。それがつまり、弓の弦を鳴らす音だった。 |
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古代日本では、弓の弦を鳴らすことはきわめて重要な呪術であった。その呪術を石川麻呂が宮中で見せたのだ。天皇はギョッとした。いや、もっとギョッとしたのは藤原不比等だったろう。
なぜなら、この呪術はもともとは三輪山の神を呼び出す呪術だったからである。タマフリの一種と見ればいい。しかし天皇と藤原氏には、こんなところで三輪の神が威力を見せてもらっては困るのだ。 三輪の神とは何かというと、言わずと知れた化け物じみたオオモノヌシ(大物主神)である。そのオオモノヌシを石川麻呂が宮中で持ち出した。オオモノヌシの呪術は、すでに藤原体制が整いつつあった現行天皇家にとっては、持ち出されては困る「何か」であった。 かくて話はいよいよクライマックスにさしかかる。ニギハヤヒは三輪の神の謎にかかわっていたのだ。 |
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オオモノヌシについては、日をあらためて大いに議論しなければならないほど重大な神格をもっている。
いまはそこを省いて物部伝承の核心に向かっていくことにするが、それでも次のことを知っておく必要がある。オオモノヌシは古代日本形成期の時と所をこえて(時空をこえて)、二重三重に重要場面の中心人物になっているということだ。少なくとも二通りの重大なオオモノヌシがいる。出雲神であって、三輪神であるというデュアル・キャラクターとしてのオオモノヌシだ。A面とB面としておく。 A面のほうのオオモノヌシは出雲パンテオンで大活躍する。スサノオの6世孫にあたる。ただし名前がいくつもある。『古事記』ではオオクニヌシ(大国主命)、あるいはアシハラシコヲ(蘆原醜男)、ヤチホコ(八千矛)などとして、『日本書紀』では主としてオオナムチ(大己貴神・大穴牟遅神)として出てくる。 これらはまったく一緒だとはいわないが、まずは同格神ないしは近似神と見ていいだろう。しかも、これらには別名としてオオモノヌシの名も当てられている。いまはとりあえず「大国主」の名に統一しておいて話をすすめるが、それでも出雲神話における大国主は5つものストーリー&プロットに出てくる主人公のため、複雑をきわめる。 (1)因幡の素兎伝説、(2)根の国の物語、(3)八千矛の物語、(4)国作り神話、(5)国譲り神話、だ。出雲パンテオンは大国主だらけなのだ。 このうち、今夜の話にかかわってくるのは(4)と(5)である。(4)の「国作り」においては、大国主はスクナヒコナ(少名彦神)と協力して「蘆原中ツ国」を作ったということになる。「蘆原中ツ国」はヤマト朝廷ないしは原日本国のモデルだと思えばいい。もうちょっとわかりやすくいえば、いわば「出雲王朝」とでもいうべき国を確立させた。高天原の天孫一族(つまりは天皇の一族)に先行して、出雲近辺のどこかに国のモデルを作ったということだ。 ただし、この先行モデルがはたして本当に出雲地方の国のことだったのかどうかははっきりしない。別の地方の話かもしれないし、別のモデルが混じっているかもしれない。 |
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(5)の「国譲り」においては、大国主はその国を、アマテラスあるいは神武、あるいはその後に続く天皇一族のヤマト朝廷作りのために、ついに譲ってしまったというふうになる。
話はこうだ。アマテラスは出雲をほしがった。そのためアメノオシホミミ(天忍穂耳命)を遣わしたが、戻ってきた。次に使者にたったアメノホヒノは大国主の威力に感化されて帰ってこない。そこでアメノワカヒコ(天稚彦)を使者とするのだが、殺されてしまった。その弔問のため、今度はアジシキタカヒコネが訪れたのだが、埒はあかない。 ついにタケミカヅチ(前出=のちの春日・鹿島の神)とフツヌシ(経津主命)が出向くことになった。タケミカヅチは大国主に出会うと、十拳剣(とつかのつるぎ)を抜いて、これを逆さまに波がしらに突き立てて脅し、「お前の領有する蘆原中ツ国は、アマテラスの支配すべき土地だ。どう思うか」と問いつめた。大国主は、その返事はわが子のコトシロヌシ(事代主神)が答えると言う。コトシロヌシは中ツ国をアマテラスに献上してもいいと言う。 やむなく大国主は、ついでタケミナカタ(建御名方神=のちの諏訪の神)を交渉にあたらせた。が、タケミナカタはタケミカヅチに押し切られた。こうして出雲は「国譲り」されることになった。 かくてアメノオシシホホミにあらためて降臨の命令がくだるのだが、オシホホミは自分のかわりに息子のホノニニギを行かせることにした。これが真床追衾による天孫降臨になる。 こういう展開になっているのだが、ここでイミシンなのは、国譲りをしたA面の大国主が、国を提供するかわりに出雲神をちゃんと祀りなさいと約束させていることである(これが出雲大社のおこりだとされている)。このことは、実は大国主が実はオオモノヌシであって、三輪の神でもあるということにつながっていく。 |
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そこでB面のオオモノヌシのことになる。これは三輪にまつわっている。ずばり三輪の大神としてのオオモノヌシだ。
この三輪の神話もいくつかにまたがる。蛇体にもなるし、オオナムチの和魂(にぎみたま)にもなる。神武記では、オオモノヌシは丹塗りの矢と化して、セヤダラタラヒメ(勢夜蛇多良比売)に通じたし、『古事記』崇神記では、イクタマヨリヒメのもとに通う素性の知れない男としてあらわれ、実はその正体が三輪山のオオモノヌシだったという話になる。いろいろなのだ。 なかで注目すべきなのは『日本書紀』の崇神紀にのべられている話で、ここに古代日本の天皇崇拝から伊勢信仰にいたる、まことに重要な秘密の数々が暗示されている。そこから物部の秘密も派生する。大略、こういう話だ。 ミマキイリヒコこと崇神天皇は、神武から数えれば第10代にあたる。都を大和の磯城(しき)の瑞籬宮(みずがきのみや)に移した。ところが疫病が多く、治世の困難が続く。 いろいろ考えてみると、アマテラスとヤマトノオオクニタマの二神を一緒くたにして、しかも天皇の御殿内部に祀っていたのが問題なのだろうという気になってきた。 そこでトヨスキイリヒメ(豊鋤入姫)に託して、アマテラスを大和の笠縫に祀った。またヌナキイリヒメ(淳名城入姫)にオオクニタマを託した。けれどもヌナキイリヒメは病気になった。どうもいけない。このとき、崇神の大叔母のヤマトトビモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)が激しく神懸かった。トランス状態になった。 驚いた崇神はさっそく神占いをした。ヤマトトビモモソヒメの口を借りた神託は、「三輪の大神オオモノヌシを敬って祀りなさい」という意外なものだった。崇神はまだ納得がいかない。するとオオモノヌシは「わが子の太田田根子を祭主として祀れ」と言ってきた。 いったい大物主とか太田田根子とは何者なのか。けれども崇神は従った。太田田根子を捜しだしもした。こうして事態がしだいにおさまってきた。 やがてモモソヒメはオオモノヌシのもとに嫁いだ。けれどもオオモノヌシは昼のあいだは姿を見せず、夜に忍んでくるだけである。モモソヒメは堪えられずに、姿が見たいとせがむと、オオモノヌシは「翌朝の櫛匣を見よ」と言う。モモソヒメはそこに、おぞましい蛇の姿があるのを見た。オオモノヌシは蛇体だったのである。やがてモモソヒメは陰部を突かれ、死ぬ。巨大な箸墓(はしはか)に祀られた。いま、纏向(まきむく)遺跡のなかにある。 オオモノヌシによって大和が安泰になったので、崇神は次には、各地に四道将軍を派遣した。各地を平定しようというのだ。 北陸を大彦命に、武淳川別(たけぬなかわわけ)を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命(たにわのちぬし)を丹波に託した。なかでも吉備津彦は山陰山陽をよく支配した。のちの吉備の国である。かくて万事が治まってきた。こうして崇神はハツクニシラススメラミコト(御肇国天皇)となった。 |
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ざっとこういう話なのだが、ここで周知の大事なことをあきらかにしておかなくてはいけないのは、記紀神話においてはハツクニシラススメラミコトは二人になっていて、それが神武と崇神であるということだ。
もっともこれにはすでに決着がついていて、実際の初代天皇ハツクニシラススメラミコトは崇神だったということになっている。ということは、神武の話や東征の話はあとから付会したものだということになる。神武天皇とはフィクションなのである。架空の人物なのだ。 つまり、これまでのべてきた神武がヤマト入りするにあたって、ニギハヤヒの力を譲ってもらったり、長髄彦を殺害したという話は、あとから辻褄をあわせた出来事だったのだ。さっきいろいろ書いておいた神武の話は、そのままか、ないしはそのうちのかなりの部分を、崇神やそれ以降の天皇家の出来事にあてはめなくてはいけない。 ということを断っておいて、さて、ここまでの話で、何が見えてくるかというと、こういうことになる。 |
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まずは物部=石上の一族は「弓の弦を鳴らす呪術」を通じて、三輪に結びついていたということだ。物部氏は三輪と深い縁をもっていた。
これは、物部が三輪を支配していたことを物語る。いいかえればニギハヤヒは三輪の地の支配者だったということになる。先行ヤマトの支配者だ。そのニギハヤヒは三輪の大神オオモノヌシを奉じていた。 ところが、三輪の神のオオモノヌシは、もともと出雲(あるいはその近辺)と結びついていた。大国主とはオオモノヌシのデュアル・キャラクターだった。そして、その大国主が「蘆原中ツ国」という国のモデルをつくっていた。このモデルをアマテラスに象徴される天孫一族がほしがった。 すったもんだのすえ、大国主は国譲りを承認した。そのかわり、出雲と三輪にまたがる威力を称えつづけること、祀りつづけることを約束させた。天孫一族はこれを受容した。つまりヤマトは、こうして出雲を通してオオモノヌシを最重要視することになったのだ。 これらの事情が、のちに神武のヤマト入りにニギハヤヒがかかわった話に組みこまれた。おそらく、このような複雑な事情をもつ文脈を整えざるをえなくなったのが、崇神天皇なのである。だから、崇神まではヤマト朝廷はあきらかにオオモノヌシを大神と仰いだのだ。 いま、大神といえばアマテラスにしか使えない称号になっている。しかし、少なくとも崇神の時代前後は大神はオオモノヌシのことだった。しかしその後、アマテラスを大神(おおみかみ)と称することになると、オオモノヌシは「おおみわ」と称ばれる大神に格下げされた。これがいま、三輪山の麓にある大神(おおみわ)神社である。今夜はそのあたりの説明は省くけれど、これは天皇(大王=おおきみ)の称号が「イリ彦」から「別(わけ)」に変わっていくあたりの変質で、もっと言うなら継体王朝以降に改変されたことだったろう。 さらにはっきりいえば、藤原氏が王権を牛耳ることになって、失われた歴史書『帝起』と『旧辞』(蘇我氏が焼亡させたということになっているが、これも真相ははっきりしない)を、新たに正史『日本書記』にまとめる段になって、アマテラスを一挙にオオモノヌシの優位においたのであったろう。そして、このとき、いっさいの「ねじれ」が生じることになったのだ。 |
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だいたいは、こういうことだったのではないかと思われる。さあ、ここからは、さまざまな話を重ねて考えることができてこよう。
そもそもは、やっと崇神の時代にヤマト朝廷の基礎が築かれたのだろうということだ。それも、三輪を治めていた“オオモノ氏”の協力によるものだったろう。 その“オオモノ氏”の一族は、それでは最初から大和にいたのかというと、どうもそうではなく、出雲か山陰か山陽から来て大和の三輪山周辺に落ち着いたのであろう。そのことを暗示するひとつの例が、崇神による四道将軍・吉備津彦の派遣になっていく。吉備津彦がわざわざ山陰山陽の平定に派遣されたということは、そこにはすでに先行の国のモデルがあったということになる。 本書も、ここからは「三輪のオオモノヌシ」が実のところは「出雲のオオモノヌシ」(大国主)からの転身であること、しかし実際の国作りのモデルは大和ではなく、それに先行して出雲や吉備にもあったのではないかというふうになっていく。 さて、そうだとすると、出雲の国作りや国譲りの物語も考えなおすべきところがあるということになる。 そうなのである。本書は物部氏の本貫を吉備ないしは出雲にもっていく仮説だったのだ。なるほどそうであるのなら、太田の物部神社の伝承や、ウマシマジが丹波をへて石見に入ったという話もいささか合点がいく話になってくる。ニギハヤヒの一族は石見に逼塞したのではなくて、もとからその地方の勢力に深く関係していたわけだ。 そして、神武以前にニギハヤヒが長髄彦を伴ってヤマトを治めていたという、あのストーリー&プロットは、実は出雲を含む山陰山陽の出来事の投影だったということなのだ。 なお、大国主をめぐっては881夜で紹介したように、オオクニヌシ系とアメノヒボコ集団の対立と抗争という見方もあるのだが、ここではその視点は外してある。 |
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それでは、いったい以上のような「物部氏の先行モデル」はいつごろヤマトに入ってきたのであろうか。いいかえれば「物部の東遷」とは、どういうものだったのか。天物部のような物部集団が移動したのだろうか。
それともモデルだけが動いたのか。そのモデル自体(システム?)のことをニギハヤヒとかフツノミタマというのだろうか。それこそは「神武の東遷」という物語そのもののモデルだったのか。今度は、こういう問題が浮上してこよう。 すでにのべておいたように、物部氏の祖のニギハヤヒは天磐船に乗ってヤマトに降臨したという。そして「そら見つ日本(ヤマト)の国」と、そこを呼んだ。 このいきさつが何を物語っているかといえば、ニギハヤヒは神武のように西からやってきたか(天のアマ)、そうでなければ朝鮮半島や南方からやってきた(海のアマ)という想定になる。いったい物部はどこからヤマトに入ってきたというのだろうか。 そのひとつの候補が、出雲や吉備に先行していた物語だったのではないかというのが、本書の推論だ。これは十分に想定できることだ。 もっとも、このことについては、すでに原田常治の『古代日本正史』という本がセンセーショナルに予告していた。「ニギハヤヒは出雲から大和にやってきたオオモノヌシだ」という仮説だった。 しかしここで、もっと深くアブダクションしていくと、その出雲や吉備よりもさらに先行する出来事があるとも予想されてくる。神武がそうであったように、すべての物語は実は九州あるいは北九州から始まっていた(そうでなければ朝鮮半島であるが、この視点はここでは省略する)。 そうなのである。ここにはもっと大きな謎がからんでくるのかもしれない。古代史の最大の論争の標的になっている「邪馬台国はどこにあったのか」という論争が浮上してくるのだ。その邪馬台国のモデルが、いつ、どのように、誰によってヤマトに持ち込まれたのかという話が、根底でからんでくることになる。 |
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これについては、もはや今夜に予定した話題をこえるので差し控えるが、すでに谷川健一の『白鳥伝説』や太田亮の『高良山史』などにも、いくつかのヒントが出ていた。
その仮説の大略は、邪馬台国を北九州の久留米付近の御井郡や山門郡あたりに想定し、そこにある高良山と物部氏のルーツを筑後流域に重ねようというものである。 手短かにいえば、1011夜の『日本史の誕生』でも書いたように、中国の後漢が朝鮮半島をいよいよ制御できなくなったとき、日本に「倭国の大乱」がおこった。このとき卑弥呼が擁立されて邪馬台国ができたのであろうが、この擁立期ないしは、そのあとの邪馬台国と狗奴国との争闘後のトヨ(台与)の擁立のころに、物部氏とともに邪馬台国のモデルが東遷していったのではないかというのである。その時期こそ崇神天皇の時代にあたるのではないかというのだ。 これはヤマトトビモモソヒメの箸墓が、最近になって、とみに卑弥呼の墓ではないかという仮説ともつながって、はなはだ興味深い(ぼくはこの説に70パーセントは賛成だ)。しかし、どこまでが確実な推理なのかは、決めがたい。まあ、こんな仮説もあって、邪馬台国問題が大きく浮上してくるわけだった。 |
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長くなってきましたね。このあたりで閉じましょう。
だいぶんはしょって話を進めてきたが、本書は物部と吉備の関係については、さらに詳しい推理を展開している。それは本書を読んでのたのしみにされたい。 ぼくとしては、これで、長年気になっていながらなかなか埒があかなかった「物部氏の謎」についての、とりあえずの封印を切ったということにする。 が、実のところは、これではまさに封印の結びをちょっと切っただけのことで、ここからはもっと驚くべき謎や仮説が結びの下の匣の中から飛び出てくるはずなのだ。物部の謎はパンドラの匣なのである。 そこには、まずはオオモノヌシをめぐる大問題がある。オオモノヌシの「祟り」は、古代日本の最初にして最大の祟りだが、それは崇神紀だけではなくて、たとえば出雲振根(いずものふるね)の悲劇などにもあらわれている。 ヤマト朝廷の確立は、ヤマト作りに貢献した者たちに必ずしも報いてはこなかった。そこには「ねじれ」があった。応神天皇に従っていた武内宿彌(たけのうちのすくね)がヤマト朝廷確立ののちに裏切られたという謎もある。これも「ねじれ」のひとつであった。 ねじれたというなら、出雲の物語の大半がヤマト朝廷をどのように優位におくかという編纂によって、すべてがねじれてしまったといっていいだろう。そこには「出雲オオモノヌシのヤマト的三輪神化」というテキスト変換による巧妙な説明はあるにせよ、そしてそこには「ニギハヤヒとは結局はオオモノヌシではないか」という、本書にすら示されなかった大仮説も潜むことになるのだが、それ以外にもいくらでも仮説は出てくるはずなのである。 いや、そうということだけではないほどに、「ねじれ」は古代日本の出発にかかわる巨大な謎になっている。そしてそこに、そもそもは物部氏の一族が藤原氏によって徹して裏切られたという、今日につづく天皇家の謎があったのである。 おそらく正史『日本書紀』が大問題なのだ。もとより『日本書記』は不備だらけなのであるが、この不備は、もともとは意図的だったかもしれないのだ。その意図を誰が完遂しようとしたかといえば、これはいうまでもなく、藤原氏だった。だとすれば、藤原氏は何によって改竄のコンセプトを注入したのかという、こちらの大問題がこのあと、どどっと控えているということになる。 |
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■物部氏 5 「物部文献」が語るニギハヤヒの東北降臨 | |
■ニギハヤヒの出羽降臨
『日本書紀』神武天皇の条は、神武東征に先立ち、天磐船に乗って大和に飛来した者があ り、その名をニギハヤヒ(饒速日)というと伝える。ニギハヤヒは大和の土豪・ナガスネ ヒコ(長髄彦)の妹を娶り、当初はナガスネヒコと共に神武の侵攻に抗した。だが、神武 とニギハヤヒはそれぞれの天羽羽矢を見せあうことで、互いに天神の子であることを認め 、結局、ニギハヤヒはナガスネヒコを殺して神武に降伏した。ニギハヤヒは物部氏の遠祖 となったという。そのニギハヤヒは『古事記』では、磯城攻略後、疲れと飢えで動けなく なった神武への救援者として登場する。記紀を見る限り、ニギハヤヒが飛来した所は畿内 にあると考えるしかない。『先代旧辞本紀』は、ニギハヤヒを天孫ニニギの兄とし、高千 穂への天孫降臨以上の威容をもって河内国哮峰(現在の大阪府交野市私市の哮ケ峰)に天 降ったとする。同地にはニギハヤヒを祀る磐舟神社もある。 ところがこのニギハヤヒ降臨地が畿内ではなく、東北地方にあったと伝える文献がある 。それが本論稿で問題とする『物部文献』なのである。 秋田県仙北郡協和町の唐松神社(天日宮)に古代史に関する文献があるという噂はすで に戦前からあり、同社に伝わる神代文字の祝詞が公表されたこともあった(小保内樺之介 『天津祝詞の太祝詞の解説』)。しかし、その歴史関係の文書はなかなか公開されること がなく、ついに一九八四年、物部長照名誉宮司の英断で、その内容の一部が示されること になったのである(新藤孝一『秋田「物部文書」伝承』)。 それによると、ニギハヤヒは豊葦原中ツ国、千樹五百樹が生い茂る実り豊かな美しき国 を目指して鳥見山の山上、潮の処に降臨したという。この鳥見山とは出羽国の鳥海山であ った。ニギハヤヒはその国を巡ると、逆合川の日殿山に「日の宮」を造営した。これが唐 松神社のそもそもの由来である。ニギハヤヒは御倉棚の地に十種の神宝を奉じ、一時、居 住したが、その跡は現在の協和町船岡字合貝の三倉神社として残されている。 |
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■物部氏の興亡
ニギハヤヒは東国を平定した後、大和まで進み、ニギハヤヒと和睦して畿内に留まった 。だが、神武東征が始まるやナガスネヒコを裏切り、神武に帰順するというのは『日本書 紀』とほぼ同様の筋書きである。『物部文献』によると、ニギハヤヒは畿内だけではなく 自ら平定した東国をも神武に献上してしまった。神武はその恭順の意を容れ、ニギハヤヒ の子・真積命(ウマシマヂ)を神祭と武の長に任じた。物部氏はここに始まる。 神功皇后のいわゆる三韓征伐の時、物部瞻咋連はこれを助け、懐妊した皇后のために腹 帯を献じた。その後、神功皇后は朝鮮半島から日本海を渡って蝦夷の地に至り、日の宮に 詣でた上、これと対になる月の宮の社殿を造営した。神威によって韓国を服ろわせたこと を記念しての社殿造営から、以来、その社を韓服宮(唐松宮)という。この神功皇后の蝦 夷巡行は、記紀にはなく、『物部文献』独自の伝承として注目される。 こうして物部氏は祭祀と軍事の両面から大和朝廷を補佐し、その威勢を振るってきた。 だが、崇峻天皇の御代、『日本書紀』にも語られる崇仏排仏戦争に敗れ、物部氏はその勢 力を一気に失った。『物部文献』は物部守屋の戦死後、守屋の一子、那加世が鳥取男速と いう臣下に守られ、蝦夷の地へと落ちのびたことを伝える。『日本書紀』は守屋の近侍で 崇仏排仏戦争の勝敗が決した後も果敢なゲリラ戦を続けた鳥取部万の勇猛を記している。 鳥取男速はこの鳥取部万の一族か、もしくは鳥取部万をモデルに造作された人物だろう。 それはさておき、東北に逃れた那加世は、物部氏発祥の地、仙北郡に隠れ、日の宮の神官 としておさまることになる。現在の唐松神社宮司家はこの那加世の子孫である。 |
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■天日宮の不思議
唐松神社の構造は一見して不思議な印象を与える。社殿を支える土台として、玉石で固 めた丘が築かれ、さらにその周囲には堀が廻らされているのである。 その形はいわば前方後円墳のミニチュアであり、造営当初、玉石が輝いていた頃には、 まさに「天日宮」と呼ばれるにふさわしい偉容だったろうと思わせる。もっとも社殿その ものは近代に入ってから、古伝に基づき建てられたものだという。 ニギハヤヒは天より降りる際、十種の神宝を持ってきたという。『先代旧辞本紀』は、 十種の神宝について、死者をも蘇生させる霊力があると伝える。現在、唐松神社にはその 内の五種、奥津鏡・辺津鏡・十握剣・生玉・足玉が残されているという。 進藤孝一はそれを実見した印象として、次のように述べる。 「十握の剣は鎌倉時代になって作られた物のようである。鏡は黒曜石製、玉は玄武岩のよ うな固い、黒い色をした石でできている」(『秋田「物部文書」伝承』) 唐松神社には、さまざまな祈祷禁厭の作法や、呪言を記すための文字なども伝わってい る。この文字はいわゆる神代文字のアヒル文字草書体で、他にも豊国文字らしきものなど 数種あるという。これらの神宝や祈祷禁厭は、この神社の祭祀が古代以来のシャーマニズ ムの伝統を引き継いだものであることを示している。 |
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■神霊としてのニギハヤヒ
私たちは『物部文献』のニギハヤヒ東北降臨伝承をどのように考えればよいのだろうか 。それは孤立した伝承であり、記紀などから裏付けることはできない。 降臨地が鳥海山だというのも、「鳥海」をトミと読み、『古事記』でナガスネヒコの別 名とする登美毘古の名や、『先代旧辞本紀』でニギハヤヒが住んだとする大和の鳥見白庭 山の地名と関連付けただけとも思われる。しかし、そのように断じてはこの伝承独自の価 値が見失われてしまう。 物部氏の「物」はもともと、霊を意味していたらしい。そのなごりは大物主命(三輪山 の神)などの神名や、モノノケなどの語彙に見ることができる。「物」に関わる部民の長 たる物部氏が、シャーマニズムを奉じるのは当然のことだった。 鳥海山に降臨したニギハヤヒとは、東北に寓居する物部氏の祖霊召喚に応じた、神霊と してのニギハヤヒだったのではないか。そう考えれば、畿内に降臨したはずのニギハヤヒ が東北の地にも降臨したとしておかしくはない。 物部那加世の蝦夷亡命は、他の史料で裏付けることができず、この地方への物部氏移住 が本当のところ、いつのことだったかは判然としない。しかし、物部氏はそのシャーマニ ズムを媒介として、地元の古い祭祀をも引き継いでいったのだろう。唐松神社の神宝の内 、鏡と玉が石製であることは、その祭祀の起源が弥生時代以降の金属器文化とは異質の文 化に属するものであることを暗示している。 また、東北地方の日本海側では古くから大陸との交流の伝統があった。鳥海山の南麓に あたる山形県遊佐町の三崎山A遺跡からは縄文後期末の土器とともに中国製の青銅刀子が 出土している。川崎利夫の発表によると、その刀は商(殷)王朝中期の作品だという。大 陸からの船が東北地方に向かう時、鳥海山は恰好の目標となっていた。ニギハヤヒ降臨や 神功皇后来訪の伝承には、大陸からの船を迎えた記憶が反映しているとも考えられる。 物部家では、代々の当主が文献を一子相伝で継承し、余人に見せることを禁じてきたと いう。現在でも『物部文献』はその一部が公表されたとはいえ、その大部分は依然、未公 開のままになっている。古代以来の祭祀を伝える貴重な史料として、いつの日にか、その 全貌が明らかになるよう望む次第である。 |
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■物部氏 6 隠された物部王国「日本(ひのもと)」 | |
● 中国の西晋(二六五〜三一六年)の時代に書かれた、通常『魏志倭人伝』と呼ばれている、『魏志』「東夷伝」の「倭人の条」に、いわゆる「倭」が初めて登場します。
当時の「日本」の呼称は「倭=わ」ですね。「倭」はのちに「ヤマト」と読むようになりますが、私は「倭」から「日本」へと呼称が変遷するその間には、大変重要な問題が存在していると思うのです。 中国から「倭」と呼ばれていた弥生時代でも、すでに「ヒノモト」という、日本国号の基礎になる呼称があったと考えております。 では、当時「倭国」とは、日本列島のどのあたりを指していたのかが大切なポイントになります。・・・・・ 「ヒノモト」と「日本」の国号の関係を調べるには、いくつかに問題点を絞ってみる必要があります。それに関連して言いますと、 (1)「日本」という国号が使用されはしめた時期はいつ頃からか? (2)わが国で「日本」と号するのは自称か他称か? (3)「日本」という文字は何に由来するのか? を問わねばなりません。 (1)に関していえばわが国の存在が対外的に知られるようになるのは、有名な「邪馬台国」が三世紀後半に中国の歴史書に初めて登場して以来のことです。先ほど申しました『魏志倭人伝』に「倭国」と紹介されています。「倭人」というのは「倭国」に住んでいると書かれております。「邪馬台国」はその傘下の九州の小国から盛んに使者を派遣していたようです。 中国では、その後、いろいろな時代の「東夷伝」で東のほうの蛮族である「倭」について書かれております。たとえば、宋の時代の『宋書倭国伝』、隋の時代の『隋書倭国伝』というふうに、いずれも「倭国」という言葉を使っているのです。 統一国家として正式に中国に参るのが、「遣隋使」「遣唐使」でおなじみの「隋」や「唐」の時代です。推古時代に聖徳太子が隋に始めて使節を派遣したのが六〇〇(推古八)年です。『隋書』(隋の歴史書)の記述のみで、このことは『日本書紀』には記載されていません・・・・・ 先の(I)(2)に関して説明を加えますと、隋が滅んだあと、七〇二(大宝―)年に派遣された「遣唐押使」の粟田朝臣真人が初めて「日本」という呼称を用いた結果、『唐書』の「東夷伝」では「倭国日本伝」となったといいます。「倭国」の下に「日本」がくっついている。つまり、「倭国」と「日本」が併記された、これまでになかった特徴をもっています。・・・・・ じつは、国内で初めて「日本」が登場するのはずっとあとの『続日本紀』(七九七年編纂)ですが、七世紀後半から八世紀前半にかけてすでに日本の支配者層には使われていたとみて間違いないでしょうね。 「唐書」の「東夷伝」というのは二つあります。古いほうを『旧唐書』、新しいほうを『新唐書』といっております。その『旧唐書』というのは、九世紀の後半から十世紀の前半に作られたといわれていて、『新唐書』はそれから数十年たってできたものです。 この『旧唐書』では先ほど述べたように「倭国日本伝」ですが、次の「新唐書」から先はずっと「日本伝」になるわけです。 ですから、『魏志倭人伝』から始まり、隋までは「倭人伝」、あるいは「倭国伝」ですが、「旧唐書』になって初めて「倭国日本伝」という名前で登場します。その数十年後の『新唐書』では今度は「日本伝」になりまして、「倭人」とか「倭国」という名前が消えていきます。 『日本書紀』には「日本」という文字を書いて「ヤマト」と読ませることがありますが、これは『日本書紀』を撰するときに、「日本」と書き改めたものであって、もとの文字ではない。『古事記』には、「日本」を「ヤマト」と読ませる事例はありません。・・・・・ 先ほど述べたように、正式には七〇二年に呼称変更を宣言するわけですが、「大化の改新」(六四五年)の翌年、詔が発せられます。その前後の皇極―天智―天武天皇の間に“日本という国号”が決まったのではないかと推測されます。七世紀の終わりから八世紀の始まりにかけてですね。・・・・・ ・・・漢字の「倭」は「曲がった」とか「顔が醜い」、「普通じゃない」、「まっすぐじゃない」といった散々な意味をもっている・・・。別の解釈では「倭」を分解すると、「人偏に禾(のぎ)、つまり稲と女性」、女がかがんで稲を刈り取る姿をさし「曲がる」。これは決していい意味ではない。 そういう経緯でわが国では「倭」という名を非常に嫌っていた。中国や朝鮮南部にも同じ倭名地名があったようです。他国を蔑視する中華思想の表れですね。 そこで、わが国では「倭」を訓読みした「ヤマト」が一般化していたようです。 この後で紹介する『日本書紀』のニギハヤヒの条に出てきます。広く使われるようになるのは、大化の改新以降からだと考えられています。・・・・・ 『魏志倭人伝』のあとに『末書倭国伝』というのが出てきます。その中に「倭」の王の「武」、これは雄略天皇と比定されていますが、その「武」が「東は毛人を征すること五十五国」という報告を中国に出しています。 「毛人を征すること五十五国」、ここに出てまいります毛人が『旧唐書』の「毛人の国」と一致します。私は、この「毛人の国」が「蝦夷(えみし)」であろうと考えるわけです。 そこで、日本列島には、九州を中心とした「倭国」、近畿を中心とした「日本」と、それからまた東北を中心とした「毛人の国」と、少なく見積もっても三つの国があったと考えられます。それはおそらく日本列島がまだ十分に統一されていなかった時代の話に違いありません。『魏志倭人伝』は、弥生時代後期(三世紀後半)の頃です。『末書倭国伝』の時代は雄略帝、五世紀後半の古墳時代の頃です。 |
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● ニギハヤヒが天降ったときに乗っていた天磐船の乗務員が、『旧事本紀』に記されています。・・・・・
天磐船(あまのいわふね)は空から降ってきたとなっているのに、そこに船長や梶取の名がみえるのは、奇異に思われるかもしれません。しかし、天磐船という言葉からして明らかなように、天磐船というのは誇張であって「天磐樟船(あめのいわくすぶね)」を省略したものです。「磐」はかたいという意味で、波浪に耐える堅牢な樟船が、磐樟船にほかなりません。ニギハヤヒー行は水路を使い大阪湾から大和川を上って草香江へ向かったのです。 ● 銅鐸は物部氏を代表する祭祀道具で畿内の弥生社会を象徴するものであり、物部氏は銅鐸祭祀をとおしてゆるやかな連合体を結成していたのではないかと推測されます。 ところが、そこへ外来勢力の侵入、すなわち「邪馬台国=倭国」の軍隊が攻め込んできた。物部氏と同盟を結んだ蝦夷の兵士は勇敢で敵を散々なやましたが、物部氏の主力は屈服した。これは「ヒノモト」王国の終焉を意味するものでした。『新唐書』に「倭国」が「日本」を併合したとあるのは、このときの戦闘による「日本=ヒノモト」の敗北を述べていると思われます。 整理すると、神武東征説話の第一の特徴は、ことごとく物部氏に関係していることです。そして第二の特徴は、金属の精錬にかかわる記事がすこぶる多いことです。・・・・・ 「ヒノモト」の国の村々では、祭器である銅鐸を破砕するか人知れぬ丘かげに埋納するかして敵の目から隠した。銅鐸は物部王国のシンボルであって、王国が崩壊した以上、それらを祭祀のために使用することは許されるはずもなかったのでしょう。 神武東征は弥生文化の終焉を告げるとともに、これ以降、古墳文化の時代が始まるのです。 ● ・・・『日本書紀』で「草香」という字を書いたのを、『古事記』ではその字を使わないで「日下」と書いて「くさか」と読ませたことに、これまで何人もの学者が思いをめぐらせてまいりました。 ・・・たとえば「飛ぶ鳥」と書きまして、「飛鳥」を「あすか」と読ませることはご存知だと思います。それからまた「春の日」と書いて「かすが」と読ませる。これは、「飛ぶ鳥の」というのは「あすか」の枕詞であったことから、「飛ぶ鳥」と書いて「あすか」と読ませるようになった。これらと同様に、「くさか」の枕詞が「日の下」であったと推測できるのではないかと思われます。 読み方は、「日の下の草香」は「ひのもとのくさか」が正しい読み方です。・・・・・ ・・・「日の下(ヒノモト)」という言葉は非常に古くからあり、「日の下の草香」という地名が存在した。そして「草香」を「日下」と書いて「くさか」と読ませるようになった。 「日の下(ヒノモ上)という言葉は、物部氏の主力が畿内へ移動した二世紀頃からそろそろ始まったのではないかと思うわけです。 ● 直越の道(ただごえのみち) ● ・・・「難波の海」の難波には枕詞が二つございまして、一つは「葦が散る難波」というものです。もう一つは「押し照る難波」というのです。「押し照る」という言葉はどう考えましても、太陽が照るということ以外に考えられません。そういたしますと、難波も何か太陽を意味する言葉でなくてはならない。それでは、この「押し照る」という枕詞をつけた難波の「なにわ」というのは何に由来する言葉であろうかということになるのです。 「なにわ」の由来を考える上では、まず古代の渡来人の存在を考えなくてはなりません。二世紀から四世紀にわたる中国王朝の分裂とその余波によって、朝鮮半島の政治の混乱を避けて半島からたくさんの渡来人がやってまいります。 日本の地名の中にも、彼らの古代朝解語でつけられた地名がままあります。「難波」の「難」は古代朝鮮語の「奈勿=nar」という言葉で、「太陽」をあらわします。一日、二日という「日」もあらわすといわれています。・・・ この「nar」というのが朝鮮語で「太陽」をあらわすというなら、上に「押し照る」という言葉がついていてもいっこうにおかしくありません。「ニワ」という言葉は朝鮮語で「口、門、窓、出口」の意ですから、ナルニハは「日の出」「日の門」、あるいは「日の庭」のことであり、「日の出る聖なる場所」だと解釈する韓国学者もおります。それがつづまって「なにわ」となったと考えられます。つまり、「ナニワ」の地名を太陽の降り注ぐ生成の土地だと解釈できると思われます。 大阪市に西成区、東成区という地区があります。これらの地名は非常に古い地名でして、すでに奈良時代にその地名がつけられ、郡を設けた。そうしますと、この「成」もまた太陽に関係するのではないか。そこで、「押し照る」が「難波」の枕詞であるという理由も正しく理解されると思われます。 不思議なことに、この「ナル」は沖縄の言葉にも入っておりまして、伊是名(いぜな)島と伊平屋(いへや)島に「ナルコ」「テルコ」という神様がいます。・・・ 古代東アジアでは、西から東へと大きな民族移動が行われました。その中に、朝鮮半島から北九州に渡来して、さらに瀬戸内海、あるいは出雲の山陰道を通って、いまの近畿地方にやってきた渡来人たちもたくさんいただろうと思うのです。その人たちはこの「難波」を太陽の出るところだと考えたに違いありません。・・・ 瀬戸内海を通って東へむかった渡来人たちは、「難波」を日本列島の水路の東の果てだと考え、「太陽が出る庭」と呼び、生駒山脈の西のふもとにあるもっとも東に位置するところを「日下」、太陽の出るところであると考えたのではないかと思うのです。 中国や朝鮮からみますと、日本列島は東に位置しておりますが、日下はさらにその東の果てになります。そういうことから「日の下(ヒノモト)の「くさか」、すなわち「日の下」という枕詞をつけた「くさか」という地名が誕生いたしました。それがやがて「日下」と書いて「くさか」と詠ませるようになったのではないでしょうか。「ヒノモト」は河内の日下の付近、また「ヤマト」は大和国原というように局限された土地を指したものが次第にその呼称の範囲を拡大し、ついには「日本国」を指すものになったと思われます。はじめは小地域につけられた地名が、大地域の呼称となっていくのはごくふつうのことといっていいと思われます。 ● ニギハヤヒという神様ですが、大和地方の「登美(とみ)」におりました豪族、ナガスネヒコの妹を妻としたということも『日本書紀』に書かれています。そういうことから考えますと、ニギハヤヒとナガスネヒコとは何らかの関係を結んでいたように思われます。 ナガスネヒコというのは「スネの長い」異族の形容詞であったと思われます。「なかすね」、「中洲根」とも表現されており、日本列島の真ん中の美しい地味の肥えた大和を支配していた。 そして、ニギハヤヒの神を先祖とする氏族は物部氏です。物部氏がニギハヤヒを奉斎しながら九州から東へ移った。そして大和に住みついたという歴史的な事実が、『日本書紀』の中のニギハヤヒの「天磐船」による降臨という説話に反映しているのではないでしょうか。 ● ・・・四世紀の初頭、「邪馬台国」の東遷によって、それまで河内、大和にわだかまっていた物部氏族の一派が、近江を経て東海地方に東進を余儀なくさせられたのではないかということです。物部氏の一部は、おそらくナガスネヒコに代表される蝦夷と共に東を目指したと考えられるのです。 ● ・・・阿倍氏とはいかなる出自なのでしょうか。 ずばり、「邪馬台国」が東征して河内、大和を掌握する以前、畿内に先住していた蝦夷と、物部氏に代表される倭種とが婚姻を通じて形成された氏族、それが阿倍氏であったと私は推定しております。 阿倍氏が蝦夷と倭種との混血氏族であるとすれば、両者の間に並々ならぬ関係がつづいたとするのは無理からぬ想定であります。 ● ここにまことに興味深い資料があります。現在、奥州安倍氏とその一統に関する「秋田系図」と「藤崎系図」の二つが残されています。双方とも安倍氏の始祖は「安日(あび)」と称してはばかることがない。このうち、「秋田系図」には奇妙な始祖伝来が記されている。その経緯について喜田貞吉(1871-1939/歴史学者)はつぎのように説明を行っております。 「安藤氏はみずから安倍貞任の後と称し、その遠祖を長髄彦の兄安日なるものに擬している。これは万治年間(一六五八〜六一)、秋田実季編纂の『秋田系図』の有力に主張するところであるが、その説の由来はすこぶる古い。永禄十年の津軽館越北畠家の日記にその説を録している。さらに松前下国氏の系図によれば、その遠祖を安日長髄(あびのながすね)なるものに帰し、いわゆる安日をもって長髄彦の姓と見倣しているのである。けだし『永禄日記』以下のものに安日をもって長髄彦の兄となすゆえんのものは、長髄彦は神武天皇に抗して大和で誄戮せられ、したがってその子孫の奥州にありとすることが実らしからぬがために、その姓名を分かって兄弟の二人となし、もって合理的説明を下すに至ったものであろう。しからばその説の由来はさらにいっそう古きものとなる。後世奥州の一大名たる豪族秋田氏が、他の諸大名のそれぞれ立派な系図を有して、源氏と称し、藤原と号し、古代名家の因縁を語るものとは大いにその趣を異にして、みずから先住民の後裔をもって任ずる点は注目に値する」と喜田はいっております。 ご周知のように、世の系図なるものは近世以降作られたものがほとんどで、また書き改められた例がおびただしい。その場合には、自分の家の先祖の出自を中央の貴姓むすびつけるのが常套であります。日本人に特有な貴種への憧憬がそうさせるのであって、先祖伝来の系図は信用できるかどうかを疑ってかかる必要があります。 しかし、喜田の紹介した「秋田系図」では、秋田家の先祖は奥州安倍氏につながり、長髄彦の兄の「安日」を始祖とすると称している。そのことは永禄十(一五六七)年、すなわち信長入京前年の奥州北畠家の日記にたしかめることができる。さらにさかのぽって、松前下国家の列伝の系図には、「安日長髄」と記されており、「安日」は長髄の姓となっております。 喜田は長髄彦が神武との戦いで死んだということから、その子孫が奥州にあるのはおかしいということになって、安日長髄の「安日」という姓を長髄彦の兄として作り上げたのだろうという。とすれば、奥州安倍氏の血脈をひくと称する安藤氏や秋田氏は、最初には長髄彦の末裔という意識をもっていたにちがいない。長髄彦は伝説中の人物とはいえ、神武の軍に敵対して殺された。いわばその朝敵を先祖と仰いで恥じないというのは、いったいどうしたことだろうか。ややもすれば中央の貴姓に自己の先祖の出自を結びつけたがる風潮のなかで、これは異例に属するといわねばならないでしょう。 ● ・・・「安日」なる人物を創作した根拠はおそらく一つしか考えられない。 それは奥州の安倍氏が権勢を誇っていた時代、神武帝の軍隊と勇敢に戦ったナガスネヒコの武勇にたいして、同じ蝦夷族としての共感と誇りをおぼえた。ナガスネヒコが蝦夷であったという伝承が古くから存在し、それをプライドとして待ち続けてきたからだと思われます。 しかしそればかりでなく、ナガスネヒコの兄を創り出した心理の底には、物部氏とナガスネヒコが連合していたというかつての史実への親近感がひそんでいたのではないか。東国における物部氏と蝦夷の関係は親密なものであったと考えられますから、それが強調されたのではないだろうかと思われます。 問題はそれだけにとどまりません。ナガスネヒコの兄なる人物を創作した際に、それを「安日」と命名したのはなぜか。たやすく考えられることは、「安日」=「安倍」という風につなげていくためであったということです。 しかしここにも奇妙な事実があって、宣教師でアイヌ学者でもあるバチェラーの『アイヌ・英・日辞典』(第四版)を引くと、アイヌ語で「火」をあらわす単語は、「abe(アベ)」または「abi(アビ)」である。とすれば、「安日」も「安倍」もおなじく、アイヌ語の「火」をあらわしているようです。 ナガスネヒコが蝦夷であったとすれば、その兄として創作された「安日」もまた蝦夷とみなすのはとうぜんでしょう。そうすればその「安日」という名がアイヌ語の「火」に由来するのも、まことに合点がいくのであります。 また「秋田系図」によると、「安日」は胆駒岳に住んでいたのでそのあたりを安日野と呼んだ。神武帝が日向の国から中洲(大和)に入ろうとしたとき、「安日」とナガスネヒコは、中洲はわがウマシマジ(物部氏の祖)の国と主張して、胆駒岳のあたりで十数年戦った、とある。つまり、今日でも大阪市にその名の残っている「阿倍野」はそこに「安日」なる人物が住んでいて、一帯を支配していたからつけられた地名であるということになります(阿倍野を「安日野」と記した伝承記録もある)。 ● 安部氏が蝦夷の首長とみなされたのはたしかです。それはまぎれもない事実で安部氏としても否定しようがなかった。夷の源流をたどれば、中央の歴史においては異族の元祖ともいうべきナガスネヒコに辿りつきます。正史の『日本書紀』にもナガスネヒコの妹は、物部氏の祖神のニギハヤヒと婚を通じたと記されています。ここに「安日」なる人物を創作して、ナガスネヒコの兄とすれば、物部氏の祖神と奥州安部氏の始祖は外戚の関係で結ばれることになります。奥州安部氏はそうした細工を施すことで、自分の地歩を有利にしようと計った。この安日なる人物は奥六郡の物部氏との接触なしに生まれ得なかったと思われます。 ところが、その名前の「アビ」までは創作ではなかった。すなわち、四世紀前半にみられた物部氏と異族のナガスネヒコとの連合関係はきわめて古い伝承として、みちのくの蝦夷の中にもながく生き残ったのです。そうしたことが、安日なる人物を誕生させたのです。 だが、神武東征の際にナガスネヒコは殺され、その兄の安日は津軽の安東浦に流されたという伝承の部分は、奥州の安部氏が前九年の役に敗退して、奥六郡から一掃され、その残党が津軽に落ち延びていったあとに作られた話に相違ないでしょう。 ● 『唐書』の最後の一節が、非常に大切なことをいっている・・・・・。東の方に「日本」があって、西の九州の方に「倭国」があった。東の「日本」は小さな国であったが、この「倭国」を併呑してしまった、というのです。これは、『旧唐書』の記述ですが、数十年後の『新唐書』では、逆に「倭」の方が「日本」を併呑した、となっています。 この記述については、二世紀の大乱のときに東遷した物部王国は「日本」を称し、その後、四世紀初頭に東遷した邪馬台国は「倭国」を名乗っていた、そして、その邪馬台国が物部王国を併呑した、と理解していいのではないかと思います。 和辻をはじめとする論者が認める四世紀の「邪馬台国東遷」説は当時の社会変動、もしくは文化変動を説明するのにもっとも合理的な解釈であると思われます。 しかし、私か不満に思うのは、これらの論者は、ただ一点重要なことを見逃しているのです。神武東征の際に河内の生駒山麓で頑強に抵抗した先住民とは一体何者であったのか、ということです。この点を不問にしているため、さまざまな重要な問題が不明のままに歴史の闇に葬りさられてしまっている。 私か主張するように、さきに物部氏の東遷が行われ、ついで「邪馬台国」の東遷があったとするならば、神武東征説話から具体的な歴史の把握がいっそう可能になると考えております。 ● 七世紀半ば頃が、一つの変わり目といえます。たとえば、「日本」という国号が中国に対して初めて用いられたのも、遣随使・遣唐使を送っていた頃だと思います。しかしまだ、東北地方や西南日本は、日本の版図に入っていません。とくに勇猛なのは蝦夷と隼人で、この両者は「異人雑類(いじんぞうるい)」と、『令義解(りょうのぎげ)』(養老令の公定注釈書/833年成立)に書かれています。「雑類」とは、日本の中央に強制的に移住させられた蝦夷や隼人をいいます。彼らはなかなか朝廷のいうことを聞かない。・・・・・水田耕作についてはなかなか実行できない。蝦夷も隼人も縄文時代以来、狩猟をもっぱら生業としていますから、水田耕作はもちろん、蚕を飼ってマユをつむいで糸をとり、それではたを織る、ということは非常に苦手なのです。そのため、律令体制下の租庸調をかけようとしても、律令制度に従わない。 |
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■物部氏 7 八咫烏と物部氏 | |
『記・紀』神話の「神武東征」説話では、神武軍が「熊野」から「ヤマト」へ出ようと山道を進みあぐねていたとき「高倉下(たかくらじ)」と「八咫烏」が現れたとあります。彼らは葛城地方の土豪であった可能性が高いと思われます。
『山城国風土記』や『新撰姓氏録』『古語拾遺』などによれば、「八咫烏」は賀茂氏の祖加茂建角身(かもたけつのみ)の化身であったといいます。つまり八咫烏は加茂氏の祖先であり、さらに明確に言うならばいくつかの系統がある賀茂氏のうち、山城国葛野(かどの)の鴨氏が八咫烏の子孫であると考えられます。 ではつぎに高倉下について見てみましょう。まず記・紀の叙述を詳しく見てみましょう。神武東征の折りに現在の熊野の辺りで、突然大きな熊が出てきて、すぐさま消え失せてしまいました。その姿を見た神武天皇とその軍隊は、熊の毒気に当たって昏睡状態に陥ってしまいます。その時、熊野の土豪の高倉下が一振り剣を天皇に奉ると天皇は失神から目覚め、剣を受け取り熊野の山に住む荒ぶる神を切り倒しました。そこで天皇は高倉下に剣の由来を尋ねると、「夢に天照大神と高御産巣日神が建御雷神を召し出し、『葦原中津国は騒々しいため、神武天皇の群も芳しくない。汝降りて平定せよ』と命じたが、『私が行かなくとも、私が平定した剣があるので、それを降ろしましょう』といいました。」と高倉下は答えたのです。この剣は甕布都神とも布都御魂ともいい、現在、石上神宮の祭神となっています。 高倉下とは、神を祀る高い庫の主という意味と思われます。『先代旧事本紀』によると、高倉下は物部氏の祖神、饒速日命の子となっています。熊野の神話は石上神社の神剣をもって神武天皇の御魂鎮(みたましずめ)(鎮魂儀礼)をはかったことを表現していると推察します。なぜならば物部氏は古来、鎮魂儀礼を伝承している氏族であり、天皇家の祭祀に深く関ってきたからです。「高倉下」は葛城のオワリ氏の祖でもあります。これを信じるならば、尾張氏と物部氏は同族ということになります。 さらに同じ熊野の地において、同じ様に天皇を高倉下と八咫烏がお助けしていることから高倉下と八咫烏の間にはなにか深いつながりがあったのではないかと考察します。もっと言うならば賀茂氏と物部氏は古代においてなにか深いつながりがあったのではないかということです。 私は以前に次のような仮説を立てました。失われたイスラエルの十支族と秦氏は一緒に弓月国(クルジア)から朝鮮半島にやってきて、いっしょに日本に渡来した。そのいっしょに渡来した部族はスサノオに象徴される物部氏と八咫烏に率いられた秦氏の先発隊である葛城氏であると。(今までの話の中で葛城氏は登場していませんが葛城氏についての説明は紙幅を要するため次章以降にゆずることにします。)次に興味深い事実をいくつか挙げましょう。 ● 物部氏はまず北九州に漂着したと思われます。根拠は旧事記で32神と25部族の物部氏が北九州に渡来したことが記載されており、しかも彼らの個々の名前がしるされていて、現代の筑紫地方に彼らの名前が地名として残っていることです。(さらに付け加えると後に秦氏も北九州を日本侵入の足がかりにしています。) ● もっとも原始的な銅鐸が北九州で発見され、その後大和でもっと発展した銅鐸が見つかっています。銅鐸は明らかに大陸文化と縄文文化の融合でもたらされたものです。 私はこの銅鐸の進化を調べることにより、物部氏が日本においてどのように勢力を拡大したのか分かるのではないかと考えます。 ● そしてもっとも衝撃的なのが熊野神社は昔スサノオを祭ってたという事実です。熊野神社は八咫烏の根拠地であり、熊野神社がスサノオを祭っていた。物部氏の祖神はニギハヤヒであり、ニギハヤヒはスサノオの息子であるという伝承があります。このことから私は八咫烏と物部氏は同盟関係にあったという仮説を立てました。 やはり、八咫烏と物部氏はともに日本に渡来したのではないでしょうか。記紀の編者がは天津神と国津神をごちゃ混ぜにして史実を抹殺し、古代の日本歴史を曖昧な神話にしてしまいました。なぜそんなことをする必要があったのか。天津神とはイエスとその12使徒の子孫を意味し、国津神はイスラエルの支族や土着の豪族を表しているのではないか。そして国津神のなかでもイスラエルの支族は天津神に近く位置づけられているのではないでしょうか。 |
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■九州の物部氏 雑話 | |
筑紫君 磐井より以前の九州の物部氏を探る。
太田亮博士などのいうように、物部氏の淵源をなす地が筑後川中下流域の御井郡を中心とする地域(邪馬台国や高天原の主領域と重なる地域)であった。当地域における物部の分布は、例えば『日本の神々』の奥野正男氏の記述(二〇八〜二一一頁)に見えるように、物部関係神社の分布が稠密であり、配下の諸物部に縁由の地名も多くある。この地から、北九州筑前の遠賀川の中下流域へまず移遷し、そこから近畿の河内、さらには大和へと氏族(部族)が移遷した。筑前から河内への移遷が直接かある経由地を経てのものであったかは、決めがたいという。 ■ 物部、蘇我、大伴氏は、越前の王(26継体天皇)を日本の支配者に選んだ。 外物部である物部麁鹿火、巨勢男人らの活躍により、狗奴国後裔「磐井君」を滅ぼした。この時物部氏は、自らの発祥の地である九州の統治権を得た。ここに一度は九州勢に屈服した日子坐王を祖とする王権が復活した。 ■ 物部胆咋連 (もののべのいくいのむらじ) 物部連胆咋、物部胆咋宿禰。 仲哀九年二月、天皇が神意による死をとげた時、神功皇后と武内宿禰は天皇の喪を秘密にして、中臣烏賊津、大三輪大友主、物部胆咋、大伴武以の四大夫と善後策を協議している。この結果、皇后は四大夫に橿日宮(香椎宮)を守らせ、武内宿禰をして密かに天皇の遺骸を穴門の豊浦宮へ運ばせたという。(『紀』) 『旧』天孫本紀では、宇摩志麻治命の八世孫。十市根大連の子。 成務天皇の時代に大臣になり、ついで宿禰になり、神宮(石上)を奉斎した。 市師宿禰の祖穴太足尼の娘・比東テ命を妻として三児を生み、また阿努建部君の祖太王の娘・鴨姫を妻として一児を生み、三川の穂国造美己止直の妹・伊佐姫を妻として一児を生み、さらに宇太笠間連の祖大幹命の娘・止己呂姫を妻として一児を生んだとある。天皇本紀にも成務元年正月に大臣に任じられたことがみえる。 妻妾の氏については、宇太笠間(大和国宇多郡笠間郷)→市師(伊勢国壱志郡)→阿努建部(伊勢国安濃郡建部郷)→三川穂(参河国宝飯郡)と大和から東海地方へ展開しており、この地域と物部氏との繋がりを物語るだろう。 景行四十六年八月に物部胆咋宿禰の娘・五十琴姫命が天皇妃となり、五十功彦命を生したとする ■ 「肥前国風土記」 昔景行天皇(12代)が九州巡行のとき、筑紫国御井郡の高羅山(高良山)に行宮(仮官)を建て、国見をされたという。そのとき基肆(きい)の山が霧におおわれていたので、天皇は「この国ば霧の国と呼ぷがよい」といわれた。後世、改めて基肆国と名づけた。 同じく天皇が、高羅の行宮から還幸の途中、酒殿の泉で食事中に天皇の鎧が光った。お供の占師、ト部殖坂が判じて、「土地の神が鎧を欲しがっています」と申し上げた。天皇は、「鎧を奉納するから、永き世の財宝にせよ」といわれた。それで永世社と名づけ、後の人は改めて長岡社(いまの鳥栖市永世神社、酒殿の泉は同市飯田町重田池だという)とした。また御井郡の川(筑後川)の渡り場の瀬が非常に広かったため、人々が難渋していたので、天皇は筑後国生葉山を船山(造船用の木材)、高羅山を梶山(舵用の木材)としたので、人々は救われた。この地を後の人は日理(わたり;亘理)の郷といった、という。この三つの説話は、景行天皇の行跡伝承で、その後この地方を支配した水沼県主、水沼君(水間君)らが、景行天皇の神霊を「山の神」、「川・泉の神」、合せて筑後国の開拓神、鎮守の神と仰ぎ、高羅山を神霊の依りどころにして、その行宮址、また水沼君の本貫地(筑後国三瀦郡)にそれぞれ祭祀したものである、とする説である。 高良の神名については、前述のとおり「記紀」「続紀」には記事がない。元寇の役以前までは、不詳の神ということができるが、さて景行天皇の名を大足彦(おおたらしひこ)といい、現在の神名が玉垂神(たまたれのかみ)という。「足」も「垂」も、神功皇后の大帯姫(おおたらしひめ)の「帯」と同義語であることから、「日足らし育てる」の意に通じ、景行天皇と、高良山の神は相共通するという説がある。 景行天皇を筑後国の開拓神として、高良山に祭祀したという県主の水沼君は、また自らを景行天皇の孫裔だと称している。 ■ 八武者大権現 / 長崎市茂木町 応神天皇、仲哀天皇、神巧皇后、武内宿弥大臣(たけのうちのすくねのおおかみ)、大伴武持大連(おおともたけもちのおおむらじ)、物部膽咋連(もののべのいくいのむらじ)、中臣烏賊津連(なかとみのいかつむらじ)、大三輪大友主君(おおみわおおともぬしのきみ)の八神を祀る。社伝によると明治維新前は八武者大権現といった。一八六八年(明治元)四月裳着神社と改称。 昔、神巧皇后三韓征伐の帰途、この裳着の浦に上陸され、御衣の裳を着けられたことで裳着の地名が起こったという。いつのころからか「茂木」と書くようになった。キリシタン宗徒に焼かれてほとんど廃絶に帰した。肥前国高来群の領主・松倉豊後守(ぶんごのかみ)重政は神仏の再興を計り、一六二六年(寛永三)当社を再建し茂木の鎮守とした。特殊神事に湯立(ゆだて)神事がある。 ■ 一書に、宗像の三女神は筑紫の水沼君が祀る神であると記されている。一方、『旧事本紀』の「天孫本紀」に、物部阿遅古連は水間君等の祖なり、とある。水間君と水沼君は同じである。 「天孫本紀」にはまた物部阿遅古連の姉妹として、物部連公布都姫夫人、字は御井夫人、また石上夫人と註記されている人物の名が記されている。布都とか石上とかの名が物部氏に関連することは明らかである。字を御井夫人というからには、筑後の御井とゆかりのある名前であろう。そこからとうぜん高良山との関係が推定される。 物部阿遅古と同一の人物ではないかと想像されている珂是古という名前が、『肥前国風土記』の基肄(きい)郡姫社(ひめこそ)の郷の条に見える。 それによると姫社の郷の中に山道(やまじ)川が流れて、筑後川と合体しているが、昔はこの川の西に荒ぶる神がいて、通行する旅人を殺害していた。そこで神託をあおぐと筑前の宗像郡の人の珂是古に自分の神社を祀らせよと託宣が出た。珂是吉は幡をささげて神に析り、この幡が風に吹かれてとんでいき、落ちたところが自分を求める神の所在地であるときめた。するとその幡は御原(みはら)郡の姫社の森に落ちた。そこで珂是吉はそこに神が住んでいることを知った。その夜の夢に、糸くり道具が出てきて舞い、珂是古をおどろかしたので、その神が女神であることが分かった。やがて社殿をたて女神を祀った。それ以来、通行人も殺されなくなった。珂是古が社殿をたてて女神をまつったのは鳥栖市(佐賀県)の姫方(ひめかた)にある姫古曾神社であるとされているが、幡が風にふかれて落ちたところはそこから東方2キロのところにある福岡県の小郡市大崎という。この大崎にはいまでは通称「たなばたさま」と呼ばれている媛社(ひめこそ)神社がある。祭神は媛社神と織女神である。 ところでこの神社の嘉永七年(1854)に奉納された石鳥居の額には、磐船神社と棚機(たなばた)神社の名が併記されている。 ■ 「雄略紀」には、身狭村主青(むさのすぐりあお)が呉(くれ)からもってきた鵞鳥が水間君の犬にくわれたことを伝えているが、一説には筑紫の嶺県主泥麻呂(みねあがたぬしなまろ)の犬にくわれたとなっている。ここから、筑後川をはさんでむきあう水間県と嶺県とはもともと同一の県であって、後世二つに分かれたのであろうと太田亮は推定している。 ■ 嶺県はのちの肥前国三根郡である。物部氏が筑後の三井郡や肥前の三根郡だけでなく、その南につらなる山門郡や三瀦郡にも勢力を扶植していたことは、天慶七年(944)すなわち、平将門の乱の直後につくられた『筑後国神名帳』によってもうかがわれる。 ■ 『日本書紀』に継体帝の二十二年、物部鹿鹿火が磐井と筑紫の御井郡(三井郡) にたたかうとあるところから、大功をたてた物部氏がそこにとどまったのかも知れないとの見方がある。 ■ 現在に伝わる香取氏の系図(『続群書類従』等に所収)では、「経津主尊−苗益命−若経津主命−武経津主命−忌経津主命−伊豆豊益命−斎事主命−神武勝命……」と続けます。 ■ 『姓氏録』では唯一、未定雑姓河内に掲げる矢作連が祖を「布都奴志乃命」とする。 「布都奴志乃命」は一般に経津主神に比定され、河内国若江郡の矢作氏でも経津主命十四世孫伊波別命の後と伝えます(『姓氏家系大辞典』ヤハギ条)。この河内の矢作氏の具体的な系譜は知られないのですが、矢作部の分布が東国の両総・伊豆・甲斐・相模などに多く見えます。この辺の事情を考えると、「布都奴志乃命」は安房・阿波等の忌部の祖の由布津主命(天日鷲翔矢命の孫で、神武朝の人)に比定するほうが妥当ではないかと思われます。同族の阿波忌部が阿波国阿波郡に式内社の建布都神社を奉斎したことにも通じます。 ■ 高良玉垂宮神秘書・同紙背(高良大社刊)によれば、祭神玉垂宮は「太政大臣物部ノ保連(やすつら)」と号し、神宮皇后が三韓征討に向ったおり、「藤大臣」と名乗って助けたという。5人の子どもも物部であったが、物部を秘するために別の姓を定めた、と記する |
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■日本統一国家の誕生 | |
■1.伊勢神宮の謎
日本古代史の謎に挑んでみたい。きっかけは伊勢神宮だ。皇祖神であるアマテラスを祀る日本国家の総本山とも言うべき伊勢神宮が、なぜ長く大和朝廷の本拠であった大和になく、伊勢にあるのだろうかということがずっと謎だった。謎は他にもいくつもある。 (1) アマテラスを祀る内宮は非常に不便なところにあり、もともと丹後宮津の神だった豊受大神を祀る外宮が便利なところにあり、「外宮先祭」という伝統もあり、実は外宮こそ伊勢神宮のメインなのではないかと言われている。(丹後宮津の籠神社は元伊勢と言われている。) (2) 伊勢の人々は1年中注連縄を飾り、そこには「蘇民将来の子孫」と書いてある。この蘇民将来とは『備後風土記』に登場する人物で、スサノオ(出雲の神)との良好な関係が語られる人物である。 (3) 天皇が伊勢神宮に参拝したという記録は明治天皇が初めてで、それ以前にはない(ということは参拝していない)と言われている。その代わり、未婚の皇女あるいは女王を長らく斎宮として送り続けている。 こうした事実を総合的に考えると、伊勢神宮は本来大和朝廷の神を祀っていた神社ではなく、大和朝廷が滅ぼした(あるいは取り込んだ)前支配勢力である出雲系の神の祟りを怖れて祀った神社ではないかと推測されるのである。斎宮が未婚の皇女あるいは女王でなければならなかったのは、クシナダヒメがヤマタノオロチの生け贄になっていたというのと同じ構図で、荒ぶる神への生け贄としての意味を持っていたからであろう。天皇が参拝しなかったのも祟りを怖れてのことと考えれば納得がいく。 斎宮制度や式年遷宮を定め、伊勢神宮を格の高い神社にしたのは天武・持統天皇の時だが、これは彼らが天智天皇後の継承争いに身の危険を感じ、吉野に隠遁した後、東国に抜け尾張氏(出雲系氏族)の武力を借りて大友皇子との壬申の乱で勝利し、政権を勝ち取ったため、その感謝の意を表するためにも、尾張にほど近く関係も深い伊勢神宮を重視したのではないかと考えられる。 『日本書紀』によれば、崇神天皇以前は、神と天皇が同床であったが、崇神以降、神を別のところに奉斎することとし、まず崇神天皇の娘である豊鍬入姫に巡行させる。豊鍬入姫は丹波(籠神社)、紀伊、吉備などを経て、大和の大神(おおみわ)神社に落ち着く。次に、垂仁天皇の娘である倭姫が後を継ぎ、伊賀、近江、美濃、尾張を経て、伊勢の内宮に落ち着く。この逸話を分析的に見るなら、新勢力として大和に入った崇神は、旧来の勢力が奉っていた神を大和から排除したいと思い、未婚の皇女を生け贄に祀る先を探させたと解釈できよう。豊鍬入姫は結局大和に戻ってくるが、大神神社に祀られている主神は出雲系の神・オオモノヌシ(大物主)であり、アマテラスではない。(大神神社を造営したのは、祟りを怖れてのことである。)次いで、倭姫にアマテラスの奉斎先を求めさせるが、これも自分たちの祖神であれば、大和から出す必要はなく、やはり伊勢に祀られている本当の主神もアマテラスではないと考えた方が自然である。また、この2人の姫が立ち寄った先というのは、すべて崇神天皇以前に大和を支配していたと考えられる出雲勢力の影響下にあった地域ばかりである。つまり、旧勢力の神を旧勢力の影響下にあるところに戻そうとしたのかもしれない。 また、太陽は「陽」であるので、陰陽説では太陽神は男神と考えるのが普通であるのに、アマテラスを女神としたのは、『記紀』を編纂した時代が、持統天皇という女帝から始まる王朝とも位置づけられるためで、持統天皇を暗喩するためにアマテラスを女神にしたという説もある。三輪山にオオモノヌシを祀る大神神社と伊勢神宮の奉斎場所先探しの話の連続性、そして三輪山自体が奈良盆地の東にあり、太陽の昇る山であることを考えると、実はオオモノヌシこそが太陽神(=天照アマテラス)であったと考えるのは無理のない推測ではないだろうか。つまり、伊勢神宮に祀られているアマテラスという神は、本来は出雲系の太陽神・オオモノヌシである。 |
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■2.スサノオが日本の最初の大王
神話上はアマテラスの弟とされ、あまりの乱暴さ故に高天原を追放され、出雲に来たとされるスサノオだが、全国にある彼を祀る神社の多さなどを考えると、彼こそ古代日本に最初に大きな勢力を築きあげた大王であったと考えるのが妥当である。スサノオという名前も長姉のアマテラス(天照)や次姉のツクヨミ(月読)が、太陽神と月神のわかりやすい表示名であるのに対し、まったく違う名のつけ方であり、まったく別種の神と考えざるをえない。普通に考えれば、「荒(すさ)の王」と字を当てたくなる。 出雲は朝鮮半島から船出して、海流に乗ってたどり着きやすい地域であるので、スサノオは朝鮮半島から渡ってきた勢力のリーダーあるいはその子孫と考えられる。その後の任那(伽耶国)への大和朝廷の固執ぶりを考えると、伽耶から渡ってきた勢力である可能性が高い。出雲を出発点として、越前、伯耆、因幡、但馬、丹波(丹後を含む)、若狭、近江、山城、瀬戸内の吉備、播磨、摂津、河内、大和、紀伊、尾張、美濃などにまで勢力を拡大したと考えられる。 スサノオの逸話でもっとも有名なヤマタノオロチは、「越」(越前?朝鮮半島からたどりつきやすい地域のひとつ)から毎年やってきて娘たちを奪っていったという話であるから、これは当時出雲が越前に対して劣位の立場にあったのを、スサノオの力で逆転したと読むことができる。 紀伊の熊野大社も源流は出雲の熊野大社と言われているし、京都の八坂神社を筆頭に各地に存在する祇園神社はすべてスサノオを祀っている神社である。(備後のえのくまで蘇民将来と出会った逸話があり、スサノオに礼を尽くした蘇民将来一家を助けるために、茅の輪を贈り疫病から逃れさせたことから、全国各地の祇園神社では夏に「茅の輪くぐり」という行事を行うようになっている。) 出雲勢力との関係が深いと考えられる物部の地名が北部九州周辺に多くあることから、出雲勢力が北部九州に進出した後、畿内に移動し、一大勢力になったという見方を取る論者もいるが、元伊勢神社の位置などから考えると、出雲勢力は出雲、伯耆、因幡、但馬、丹後、丹波、摂津、河内、大和というルートと、出雲、吉備、播磨、摂津、河内、大和というルート(ともに陸上ルート)のいずれかあるいは両方を辿って、畿内に入ったのではないだろうか。(この出雲勢力は大和には入らず、河内に拠点を据えていた可能性もある。) 筑紫は朝鮮半島に近く高度な文化の取り入れ口になっていたため、進出あるいは協力関係構築の必要性があっただろうが、出雲神話の逸話には、海上ルートを利用するようなエピソードはなく、スサノオを中心とする出雲勢力は、西は出雲・備後から、東は尾張・美濃・越前あたりまでを影響力下に置いていたのではないかと推測する。 |
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■3.崇神朝以前の大和の王・ニギハヤヒ
先にも述べた大神神社は、日本一古いと言われているが、ここに祀られているのが出雲系の神である大物主大神である。箸墓古墳や崇神天皇陵などがある三輪地域にあり、初期大和朝廷発祥の地でもあるが、そこに出雲系の神が最初の神として祀られているのは興味深い。 大和の地は、瀬戸内海を東に東にと進んでくるとたどりつく地であるため、九州からは幾度も東遷してきた勢力があったと考えられる。『古事記』では、イワレビコ(神武?崇神?)が日向から東遷してきたことになっているわけだが、そこにはすでにニギハヤヒという王がおり、その王に仕えるナガスネヒコが激しく抵抗したため東からは入れずに、南の熊野から北へ上がる形で入っていく。しかし、ナガスネヒコは戦いで打ち破られたのではなく、ニギハヤヒとイワレビコが同じ神から遣わされたものだと知り、困惑しているうちに、ニギハヤヒによって殺害され、ニギハヤヒはイワレビコに国を譲るという形で戦いは終息を迎える。同じ神から遣わされたものとわざわざ記されているのは、出雲勢力も日向勢力ももともとは朝鮮半島南部にあった伽耶国(任那)から渡ってきた同族であることが暗に語られているのではないかと考えられる。(ちなみに、4世紀後半にやってきて応神朝を作り上げる勢力は、百済系勢力であり出自をやや異にすると推測している。) ニギハヤヒを祖神とする物部氏の由来を示した『先代旧事本紀』によれば、ニギハヤヒは娘をイワレビコに嫁がせている。『古事記』では、神武東征の前にオオクニヌシ(スサノオの子孫で出雲勢力のシンボル的存在)の国譲りの話があり、これとの類似性が気になるところである。ニギハヤヒをオオクニヌシ(大国主)という名で登場させ、日向勢力が大和に定着する以前の国の主だったことを示しているという解釈は十分可能な気がする。 神武と崇神は和名が同じで同一人物ではないかという説も根強いし、そうでなくとも大和入りの経緯はどちらかのものであろう。いずれにしろ、九州から入ってきた勢力がすでに大和に勢力を持っていたニギハヤヒとナガスネヒコの勢力と戦わざるをえなかったことは確かである。私はかつて闕史8代(2代〜9代)を架空の存在と見る立場に賛同していたが、崇神が神武の事跡(神武東征)をなした王であると考えるなら、それ以前に強大な勢力が大和にあったことは確かなので、その勢力の存在を神武以下の9代として描いていると考えることもできるだろう。そして、この勢力が出雲系である可能性は大きいのである。 ニギハヤヒの正体は明確ではないのだが、『日本書紀』や古代神社の伝承などを総合的に考えると、出雲系の王であったことはほぼ間違いないだろう。このニギハヤヒの子孫が物部氏であるということは、実は物部氏自身が最初に畿内強力な勢力を確立した王であったと考えることもできるのである。 |
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■4.大和は邪馬台国から
ここまで大和という地名で呼んできたが、「大和(ヤマト)」という名は「邪馬台(ヤマタイ)」(重箱読みであり、もともと「ヤマト」と呼ぶのが正しいという主張がある)から来ており、もともと九州にあった邪馬台国が東遷して以降(神武=崇神東征)の呼び名だと考えている。では、その邪馬台国の東遷はいつかということだが、『魏志倭人伝』によれば、2世紀後半に倭国に大乱起こるという記録があるので、それが大和の旧勢力(出雲系)と新勢力(日向系)の争いとみるならば、この時期が邪馬台国の東遷時期ではないかと考えられる。つまり、3世紀前半の『魏志倭人伝』に登場する卑弥呼は、邪馬台国東遷後の人物と見た方が自然であろう。 ではなぜ邪馬台国は九州を出る必要があったのだろうか。人は一般的には生まれた土地を出て行きたくないものである。にもかかわらず出て行かなければならないとしたら、それだけの理由があるはずだ。一番単純な理由は、なんらかの状況変化によって住み心地が悪くなり、よりよい土地を求めるということである。九州の場合、独立勢力として現在の地名で言えば、鹿児島と熊本南部を中心に熊襲(クマソ)がおり、北部九州には対馬、壱岐を経て、朝鮮半島から新しい勢力が次々に入ってきていたため、先に渡来していた勢力はより安全な地を求めて移動をしたと考えられる。そもそも、日向という九州の中で東部に位置する場所から旅立たなくてはならなくなったのも、上記の勢力に押し出されたことによると考えることもできる。(ヤマトという名は「山門」から来ているという見方に立てば、もともとの邪馬台国は、筑後か肥後北部あたりにあったと考えられる。) 次に、逃避や移動ではなく領土拡大戦略ということも考えられなくはない。九州王朝説を唱える人などはこの立場を取るだろう。すなわち、九州に本拠を残しつつ、瀬戸内海沿岸から河内、大和まで支配下に置いたという考え方である。確かに、邪馬台国の東遷後も大和と北部九州の関係は密であったことは間違いない。しかし、邪馬台国の本拠はやはり大和に移動したと考えるべきである。ただし、出雲系にしても日向系(崇神朝)にしても、その後の応神朝、継体朝も、みなルーツは朝鮮半島にあると知っていただろうから、北部九州という窓口を通して朝鮮半島情勢には我が事として関心を持っていたと考えられる。 ところで、大乱状態だった倭を治めた歴史上の実在人物と認定される卑弥呼がなぜ『記紀』に登場しないのだろうか。いや登場していないはずはない。女性で、政治能力のある弟がおり、「卑弥呼」を「日の巫女」と読むなら、太陽信仰とも関連のある人物である。考え得る人物は2人である。1人は、崇神の姉あるいは伯母と位置づけられる倭迹迹日百襲姫である。彼女は神懸かりとなってお告げをしたと言われており、その墓は巨大な箸墓古墳であると言われていることから、時代から言っても卑弥呼に比定するのは適切であろう。実在の怪しい神武朝の第8代孝霊あるいは第9代の孝元の娘という位置も、大和に新勢力としてやってきた崇神朝の開祖的な立場にあり、卑弥呼に比定しやすい。もう1人の有力候補は、アマテラスとして描かれた神である。スサノオという弟を持ち、「天照」という太陽神そのもののイメージを与えられている人物だからである。ただし、アマテラスは大和に入っていないので、卑弥呼が大乱後の国を治めているということなら、やはり倭迹迹日百襲姫の方が有力であろう。神宮皇后に比する説もあるが、その事跡からすると、卑弥呼とは類似点が少なすぎるので、神宮皇后はありえないだろう。 |
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■5.「出雲と日向」は古代史の核
改めていろいろ調べていると、出雲勢力が強大な勢力であり、日向勢力が近畿圏に進出してくるまで、日本のかなりの領域を支配していた勢力だったのだという考えは確信的なものになっていく。イザナギ・イザナミの夫婦神話でも、火の神を産んで死んでしまったイザナミが葬られた場所は出雲と伯耆の境だったと述べられているが、ここが黄泉の国の入口と考えれば、黄泉の国を出雲と想像するのは容易である。そして、イザナギはその黄泉の国(出雲)に妻恋しさで訪ねていくものの、醜く変貌した妻を見て恐れをなし妻と戦いながら逃げていき、筑紫の日向で、黄泉の国の穢れを禊ぎ、その際に、アマテラスやスサノオを生みだすのである。この話は実際に戦ったかどうかは別として、日向勢力に対抗する強力な勢力が出雲にあったことを示唆していることは間違いない。 出雲の力の源は鉄であったと想定される。奥出雲は良質の鉄の産地であり、固く鋭い刃を作れる鉄の武器は圧倒的な力を持っていたと考えられる。弥生時代には日本では製鉄技術がなかったという説もあるが、鉄は農耕にとっても不可欠な素材なので、朝鮮半島から渡ってきた勢力の中に技術をもった人は必ずおり、鉄器を生産したに違いないと考えている。ちなみに、スサノオが南に下って備後にやってきて蘇民将来と出会ったという話も砂鉄や鉄鉱石の産地を求めての出雲勢力の行動だったと考えられるのではないだろうか。奥出雲の南に位置する備後地方も鉄の産地である。 他方、日向勢力の力の源は何だろうか。朝鮮半島から入ってくる先進技術・文化は持っていただろうが、その力だけに頼るなら、北部九州にいた勢力の方が有利だったはずだ。ここで私が提示したい仮説は、日向まで来ていた勢力は、一部の海洋民族勢力を味方につけるのに成功したという説である。そうした歴史的事実を示すために、『古事記』では出雲神話の後に続く天孫降臨の話がすぐに神武東征につながらず、間に海幸彦・山幸彦の逸話を入れていると考えられる。 海洋民族が島づたいに日本に入ってきた先住民族であることは間違いないが、九州最南部の鹿児島に着いた後、鹿児島西部とさらに西上して有明海沿いの熊本南部に定着した勢力(クマソ)と鹿児島東部から東上して宮崎(日向)に定着した勢力(隼人)に分かれたと考えられる。このうち、西南に居住したクマソは邪馬台国の支配下には入らなかったが、隼人の方は日向勢力の東遷以前にその支配下に入り、むしろ船による東遷の水先案内人的な役割を果たしたのではないだろうか。瀬戸内海は多島海であり、操船技術や海洋に関する知識なしではなかなか越えにくい海である。海洋民族であり、かつ勇猛な隼人族の協力を得て、日向勢力の畿内進出は可能になったと考える。 日向勢力で最初に畿内の支配権を握ったと考えられる崇神の事跡を読むと、出雲が影響力を持っていた地域をひとつずつ味方にしていかなければならなかったことがよくわかる。先に述べた皇女によるオオモノヌシとアマテラスを奉斎する地を求めさせた巡行の旅もその一例であるが、それ以外にも四将軍を越の国(越前?)、東国(尾張、美濃、信濃?)、丹波、吉備につかわしている。また、味方になった証の意味がある女性(后として)の提供を、紀伊、尾張、丹波(崇神の子・垂仁の后)、吉備(垂仁の子・景行の后)がしている。時期のずれは、まさに日向勢力がそれぞれの地域を支配下に置くのにかかった時間の長さを示していると見ることができるだろう。 この崇神の事跡には、出雲派兵が出てこない。また、出雲には荒神谷遺跡のような弥生時代の遺跡はあるが、古墳時代の遺跡にはこれといったものがない。ここから推測できるひとつの有力な仮説は、出雲で生まれて力をつけた勢力は、雪が多く暮らしにくい出雲は比較的早い時期に出て、ほぼ真南にあたる気候の温暖な瀬戸内側の吉備に入り、ここで力をさらにつけたのではないかという説である。日向勢力が大和に進出してきた頃までに出雲勢力はすでに出雲地域を捨て、吉備を本拠とした勢力となっていた。つまり、出雲勢力=吉備勢力という仮説である。出雲大社が造られたのは日向勢力に畿内の支配権を譲った後であり、中心地である畿内を譲る代わりに、出雲=吉備勢力の原点である出雲を、出雲勢力自体も再度見直したという見方も可能ではないだろうか。 |
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■6.騎馬民族の応神新王朝
『魏志倭人伝』によって歴史が知れる3世紀の日本に対して、4世紀の日本は記録がほとんど残されておらず「謎の世紀」と呼ばれる。好太王の碑によって、4世紀終わりから5世紀のはじめに日本が朝鮮半島へ攻め入ったことが史実として確認される以外は記録がない。しかし、5世紀にはいると、倭の五王として『宋書』に登場してくる。年代を考えれば、4世紀の後半には応神が畿内河内に入り、強力な勢力となっていたことは間違いないだろう。 応神は、神話上の人物としか考えられないヤマトタケルの孫で、同じく神話的人物である神宮皇后の息子ということになっているので、前王朝である崇神王朝とは直接の血縁関係はない新たな王朝を建てた人物と考えるのが妥当である。この勢力がどこから来たかと言うと、朝鮮半島、特に百済(ツングース系扶余族が南下して建てた国)から渡ってきたという見方がもっとも説得力がある。この応神王朝以後、馬が使用されるようになり、高い技術を必要とする鉄製の武具もふんだんに使われ、文化レベルの高い帰化人も多数渡来し、漢字文化なども、この応神朝から始まる。このような見方に立てば、応神朝が朝鮮半島からの渡来勢力であり、それゆえに朝鮮への出兵も自らのルーツである母国を守る戦いとして当然の選択であったと考えられる。 応神朝の陵は、応神、仁徳、履中、反正、允恭までが河内にあり、それ以降は大和にある。これは、新王朝である応神朝が大和の旧勢力の抵抗を受け、なかなか大和に入れなかったか、朝鮮半島に近い北部九州との連絡の容易さを考えて、河内に留まったかのどちらかであろう。仁徳陵や応神陵の巨大さを見ると、応神王朝はかなり早い時期から畿内では圧倒的な力を誇っていたと見るべきなので、後者の解釈の方が妥当だと思われる。自らのルーツである百済をはじめとする朝鮮半島に対するアンテナの感度をよくするために、最初の数代は大和に引っ込まなかったのだろう。この時期、大和は応神朝の協力者であった葛城氏が支配下に置いていたのかもしれない。葛城の地盤は河内との境目の葛城山麓なので、河内と大和の媒介にはちょうどよい位置であった。河内(および以西)は応神から始まる一族が、大和は葛城氏が見るという形で、うまく分権体制ができていたのだろう。 応神朝も時が経ち、王自身の能力もあまり高くない者がその地位に就くようになると、朝鮮半島情勢よりも足元の畿内を固めることの方が重要になり、旧勢力の中心地であった大和に政権の中心を移動させることを望んだのであろう。しかし、大和に移動して以降、最大の協力者であった葛城氏との関係も悪くなり、それがこの王朝の衰退につながった。この間隙をつき、平群氏が力をつけ、大王の地位すら伺うようになったという『日本書紀』には書いてある。応神一族、葛城、平群などの権力闘争が激化し、混乱に陥っていたというのが応神朝の最終局面であった。 |
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■7.政権奪取に成功した地方豪族の継体新王朝
継体は、応神朝の最後の大王・武烈(あまりにも残虐すぎるエピソードばかり残された大王であり、それゆえに存在も疑われている)から10親等も離れた応神の5代の孫であり、一般的には大王の継承資格がない。越前にいた継体は、混乱した大和朝廷の後継者になるように、大伴氏に促されて畿内をめざすが、抵抗を受け大王即位から20年も大和に入れなかった(その間、樟葉に5年、筒城に7年、弟国(乙訓)に8年いた)と『日本書紀』は記す。これは、血のつながりのない地方豪族が大和征服に20年かかったと見るのが、常識的な解釈であろう。 20年かかってようやく大和に入った(北摂高槻に陵墓があることを考えると、本当に継体は大和に入れたのかどうか疑問も残る)継体に待ち受けていたのは、筑紫の磐井の反乱だった。これも、新政権の正統性を認めない北九州勢力による政権奪取の戦いだったと解釈されよう。崇神朝も、応神朝も九州から畿内に行き、政権を取っているので、九州勢力には、自分たちの方に正統性があると考える十分な理由はあった。この戦いにおいて、物部氏が継体から派遣されて活躍しているので、継体が大和に入った時点では古くからの有力豪族(もしかしたら崇神朝以前の支配勢力?)である物部氏が味方についていたことは明らかである。 継体のあと、天皇家の系図上では安閑、宣化、欽明の順で王位が継承されたことになっているが、むしろ尾張氏を母に持つ越前時代の継体の子である安閑と宣化の兄弟が、応神朝(大和旧勢力)の血をひく母を持つ欽明によって倒されたと考える方が無理がない。この争いの中で、継体の即位に力を貸し、朝鮮半島の任那経営に失敗した大伴金村は、政権中枢から追われ、欽明を推した蘇我稲目が台頭してきたと考えられる。それゆえ、この王朝は旧勢力の血を引く欽明から本格的に始まると見た方がいいかもしれない。継体の年齢(欽明が生まれた時、継体は58歳以上)から言うと、欽明は継体の子ではない可能性も高い気もするが、それは私の推測にすぎない。しかしいずれにしろ、欽明は大和の旧勢力に推された新王朝の大王という位置づけであったことは間違いないだろう。大和の旧勢力からすれば、地方豪族であった継体やその子孫から、再び権力を奪い返したという思いだったのではないだろうか。 蘇我氏は葛城氏から分かれたとも言われるが、新しい信仰である仏教への肩入れ具合や稲目の父の名が高麗であることなどから、彼ら自身もそう遠くない昔に日本にやってきた渡来氏族である可能性も高いように思われる。であるならば、大和の旧勢力と言っても、蘇我氏という新たな勢力が中心ということになる。物部氏は継体の協力者になり勢力を伸ばしたが、安閑・宣化と欽明の対立の中では、朝鮮経営に失敗した大伴氏と心中する道は選ばず、欽明側についた。結果として、この後しばらく、蘇我氏と物部氏が2大勢力として拮抗する時期が続く。 |
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■8.大和朝廷とは豪族による連合政権
ここまで見てきてわかる通り、大和朝廷とはこの時期(6世紀)に来ても、豪族たちの権力をめぐる闘争と連合の歴史と言える。この後、7世紀の終わりから8世紀にかけての(天武・)持統朝で唐をまねて律令体制を整え、大王を天皇と呼ぶようになるまで、大王というのは大和連合政権のトップに与えられた称号(今で言えば大統領のようなもの)に過ぎなかったのではないかという仮説も十分立てられる。天皇家の系図というものが存在する今から見ると、系図のつながりの不自然さが明らかなところから3〜4の王朝交代があったと語るのがせいぜいだが、本当はもっともっとトップは代わっていたのかもしれない。物部氏も三輪氏も葛城氏も平群氏も蘇我氏も、本当はある時期は大王であったのかもしれない。俗に「大化の改新」(厳密には「乙巳の変」)と呼ばれる、中大兄皇子と中臣鎌足による蘇我入鹿の暗殺事件も、当時の政権トップだった蘇我氏を引きずり降ろして、自分たちが取って代わろうという個別氏族の私的利益をめざした行動だったと解釈した方が納得がいく。 こうした大和朝廷の歴史を書き変え、神から続く天皇家という特別な一族の存在を創作し、それを操ることによって実利を得ようとしたのが、藤原氏(特に藤原不比等)の戦略だったという仮説は傾聴に値する。各地の豪族の反乱や、恵美押勝や弓削道鏡のような皇位を狙う人物の登場も、藤原氏によって書き換えられた歴史の中では、「反乱」であり「怪僧」ということになってしまうが、もしも大和朝廷がもともと力のあるものをトップに立てる連合政権であったのなら、彼らの試みは決して特異な事件ではなく、たまたま政権奪取に失敗しただけのケースとも見ることができる。 |
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■9.桓武の新王朝意識はなぜ生まれたか?
奈良から京都に都を移した桓武天皇には父の光仁天皇(天智の孫)から始まる新王朝を建てたという意識が強かったようだが、これについて、しばしば天武系から天智系に戻ったといった説明がなされている。しかし、私はそうした単純な天智系、天武系の争いでは説明がつかないと考えている。むしろ、桓武天皇の新王朝意識は、持統から始まる怨念の女帝政権からの決別と解釈すべきと考える。持統から始まる女帝政権は8代のうち6代が女帝(持統→(文武)→元明→元正→(聖武)=光明子→孝謙→(淳仁)→称徳)という日本の歴史でも稀な異常な時代である。聖武の皇后は藤原不比等の娘で政治的力のあった光明子であったこと、また淳仁の時代は、実質的権力は太上天皇と称していた孝謙が握っていたことを考え合わせると、見方によってはこの8代(奈良時代と重なる)はずっと女帝の時代であったと言えるのかもしれない。 怨念の歴史と呼ぶのは、まず持統が夫であった天武に多くの優秀な息子がいたにも関わらず、自らの血を引いた子・孫を天皇の地位につけるために、多くの天武の息子たち(大津皇子、高市皇子)を排除してきたことに始まる。この持統の戦略がみずからの立場を確立する上で好都合だった不比等とその子孫(藤原氏と光明皇后、孝謙・称徳天皇)はこれに協力し、持統なき後も、天武系の男系子孫を次々と排除してきた(長屋王、塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王)。 桓武の父で光仁天皇となる白壁王も、天皇就任への誘いを非常に警戒したという話が伝わるが、この流れを知っていれば当然だろう。平城京はこうした歴史から怨念と祟りの渦巻く場となっていたからこそ、桓武は遷都が必要だと考えたのだろう。(それは、女帝時代から短期的に独立をはかった聖武も必要と考えたことであり、聖武自身も紫香楽、恭仁と遷都を繰り返した。)桓武の意識の中では、天智系に戻したというより、持統から始まる怨念の渦巻く血統を断ち切り、父・白壁王(光仁天皇)と母である百済系渡来人高野新笠から始まる新王朝を建てるという認識だったのだろう。持統朝最後の天皇である称徳と光仁では8親等も離れており、一般的には親族扱いもされないほどの血の薄さである。現天皇が、桓武天皇の母が百済系渡来人だったことに言及して韓国に対する親近感を語ったことがあるが、これも光仁・桓武から始まる新王朝だという意識が、現天皇家の人々も含めて、面々と伝わってきている表れと言えよう。 桓武天皇となり、平安京に都をおいて、天皇を特別な存在とし、藤原氏がそれを支えるという体制が確立し、ようやく日本統一国家は安定したと言えよう。この後は、10世紀前半に平将門が「新皇」を称する例外的な事件が起こるが、基本的には天皇の特別な地位は万人の認めるところとなり、権力をめざすものはすべからく、天皇に取って代わるのではなく、天皇をシンボルとして利用して実質を取るという「藤原氏方式」を踏襲していくことで、日本の政治は動いていくのである。 |
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■蘇我氏の時代 | |
■歴史の表舞台に
蘇我氏が歴史の舞台に登場してくるのはずいぶん時代がくだってからの話で、同じ飛鳥の大貴族といっても、物部氏や大伴氏などのように神話・伝説の時代からさまざまな場面にエピソードを残し、連綿とした系譜を誇る諸豪族とどこか違っている。 これについて一つの考え方は、それまで目立たなかった日本在来の一族が次第に力を蓄え、飛鳥時代の直前になって政治の表舞台に躍り出たのだという意見だろう。 相対するもう一つの見方は、朝鮮半島から日本にやってきた渡来人が、新しい知識と技術を武器として経済的な基盤を固め、権力の中枢に座を占めるようになったととらえる。 武内宿弥という伝説上の人物を祖先とする、あるいは河内の石川流城を本拠とした在地の豪族の流れというにしても蘇我氏のはじまりを「日本人」とするのか、それとも百済から渡来人した一族とするのか、どちらにも決定的な証拠があるわけではない。 どっちでも構わないと言ってしまえぱそれまでのことなのかも知れないが、蘇我氏在来種説と渡来人説の間には、大和朝廷の性格や当時の社会の仕組みについての認識の違いが、横たわっていそうな気配も感じられる。 起源の問題はどうあれ、蘇我氏の力が渡来系の人々に支えられたものだったこと、権力への道が外来の技術と知識によって開かれたものだったことは確かといえる。 5世紀の末ごろ、蘇我氏の先祖は、現在の橿原市曽我町のあたりに本拠を置く。現在の近鉄真管駅のそばには、延喜神名式にいう宗我坐宗我都比吉神社がある。また、近くの今井町には入鹿神社があり、この地域に後々まで蘇我氏の伝承が残っていたことを示している。6世紀にはいると曽我川に沿って南に勢力を広げ、畝傍山の南をまわりこんで桧隈・身狭(見瀬)・飛鳥といった地域を支配するようになる。そして、この地域には古くから多くの渡来入が住み着いていた。 渡来系の一族坂上氏の伝承や、日本書紀の記述によれぱ、倭漢氏の祖先となる阿知使主は、応神天皇の時代に多くの人民を連れで渡来し桧隈に住んだという。雄略紀にも新しく渡来した技術者、陶工、馬具職人、画工、錦綾の職工、を桃原・真神原に移住させたという記事や、身狭村主青と桧隈民使博徳が呉から連れ返った技術者たちを呉原に住まわせたとする記事がある。 5世紀中頃から6世紀後半にかけてつくられた、橿原市川西町付近の新沢千塚も、この地に定者した渡来人たちの様子を物語っている。他の地域にさきがけて400基に近い群集墳を造りはじめた人々が、相当の人口を擁し高い経済力を誇っていたであろうことはいうまでもない。発掘調査によって装身具・鏡・武器・馬具・農具・工具など多くの副葬品がみつかってている。長方形の墳丘をもつ126号墳は首長の墓と考えられるが、ここからはこの上ない貴重品だったガラスの椀・皿、冠を飾る金具・耳飾り・帯飾りなどの黄金製品、衣服のしわを伸ばすアイロンなどが出土した。墓の主は、当時日本では作れなかったざまざまな宝物を手にいれているわけで、この土地の住人が朝鮮半島と密接な交渉を保っていたことが知られる。新沢千塚古墳の一部は、蘇我氏の先祖によって営まれたと考える学者も多い。 飛鳥地城に進出した蘇我氏は、当然、そこに根をおろしていた渡来人の集団を自分の勢力下におさめていく。いったい、この一族のどういった性格、あるいはどんな政略が渡来人の支持を集めるもととなったのか定かではないが、蘇我氏は東西漢氏とよばれる大和・河内に住み着いていた渡来系氏族全部の統領とでもいった地位を占めるようになる。舒明14年(553)馬子の父親稲目は、百済からの渡来人王辰爾に船にかんする税務を司らせている。王辰爾は敏達元年(573)の有名な逸話、東西漢氏のだれにも読み解けなかった高句麗からの国書を読んだという記事が示すように、新しい知識をもって日本に渡ってきた新来の渡来人だった。旧来の渡来系氏族だけでなく、新たにやってきた渡来人も蘇我氏の配下に組み入れられる体制ができ上がっていた。 日木書紀、宣化元年(536〉条に、「又蘇我稲目宿爾を以て大臣とす」という。新旧の渡来人の知識と経済力を土台として、政治の表舞台に蘇我氏が登場してくるのだ。 宣化天皇は、桧隈慮入野を宮殿とした。渡来人の拠点、桧隈という土地柄を考えれば天皇の擁立、宮地の選定に蘇我氏が深くかかわっていたことは想像にかたくない。この稲目の時代に、蘇我氏は天皇家と関係を強め、その諸分家もそれぞれの勢力を確立していく。馬子・蝦夷・入鹿と続く蘇我氏の権力と繁栄との基礎は、このときに用意されることになる。 |
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■天皇家との絆
蘇我氏は、有力な各豪族、とりわけ天皇家との政略結婚をつうじて権力の基盤を固めようとした。この親戚筋を作って絆を固めようというやり方は、蘇我氏の専売特許でもなんでもなく、古来行われ、いまだに政治家から庶民にいたるまでが好んでとろうとする常套手段なのだろう。 馬子は、推古32年(624)「葛城県は自分の本居なので領地として賜わりたい」と申し出ている。また聖徳太子伝暦には葛木寺を蘇我葛木臣に賜うと記す。馬子の母親は葛城氏の出だったのだろう。また崇峻即位前紀(587)には、「蘇我大臣の妻は、是物部守屋大連の妹なり。云々」の記事があって、馬子が物部氏とも姻戚関係を結んでいたことが知られる。 蘇我氏と天皇家とのかかわりを、大ざっばに整理してみれば以下のようになる。欽明朝に初めて、馬子の姉妹、堅塩媛と小姉君の二人が天皇の夫人となっている。欽明のつぎの敏達天皇は、堅塩媛の子供・額田部皇女〈後の推古)を后とした。 つぎの天皇は堅塩媛の子供・用明天皇で、小姉君の子供・穴穂部間人皇女を后とし、稲目の娘・石寸名を夫人とした。用明と穴穂部間人皇女の間の子供に聖徳太子がいる。 用明の次代、崇峻天皇は小姉君の子供に当たる。馬子の娘・河上娘を妃とした。 推古天皇は、舒明と堅塩媛の子供、馬子の姪となる。推古の後継者の地位にあった聖徳太子は馬子の娘・刀自古郎女を夫人としている。推古のつぎが舒明天皇、この天皇は馬子の娘・法提郎媛を夫人とした。もうこれだけで十分にややこしいが、敏達を例外として、蘇我本宗家の当主が、娘を天皇の嫁にするという方針を貫いていることは読み取れるだろう。 |
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■物部氏の滅亡
このように、蘇我本宗家は天皇の義理の親という地位を確保するが、それだけで安定した権力の座が保証されるわけではなかった。后・妃・夫人と何人も配偶者がいるのが普通だから、天皇の義理の親だって一人ではない。天皇の代がかわるごとに衝突がおきる可能性がある。天皇の兄弟そして母親を異にする何人かの皇子と、後継の資格をもった者は多い。諸豪族の勢力と、後継を望む皇子の思惑は複雑に絡み合っている。すべての次期天皇候補者と姻戚関孫を結んでおくことも、出未ない相談だ。 伝続的な大豪族・物部氏は、新輿の実力者に立場を脅かざれるという危機感から、当然のように蘇我氏と対立していた。権力の座をめぐる争いは、外国から渡ってきた新しい神をどう受け入れるのかという間題をとおして表面化する。仏教を国の正式な宗教としようという蘇我氏と、物部氏を旗頭とするこれに反対の立場の旧勢力とは、ことあるごとに小競り合いを繰り返してきた。 そして585年、敏達天皇の死で事態は波乱に向かって動きはじめる。一応は、大臣馬子の狙い通り堅塩媛と舒明の子供・大兄皇子が即位して用明天皇となった。しかし、これに不満をもった用明の異母兄弟・穴穂部皇子は王位を窺い、これを後押しする大連物部守屋は蘇我氏との軍事的対決色を強めていく。暴行未遂事件、暗殺事件、呪誼事件が相続き、両豪族の緊迫した呪み合いが続く中、即位4年目の用明がこの世を去り、第一の破局が訪れる。 物部氏が戦の準備を整えている間に、馬子は先手を打って、まず争いの主役とも言える大穂部皇子を殺してしまう。守屋の戴くべき大義名分を取り除いた馬子は、故敏達天皇の妃・炊屋姫(後の椎古天皇)と諮って、蘇我系の皇族・蘇我系の豪族の勢力を結集する。守勢にまわらざるをえなくなった守屋は渋川の邸宅で必死の抵抗をこころみるが、結局は馬子の攻撃をささえきれず戦死、物部氏は滅亡する。守屋の屋敷のあった渋川は河内国渋川郡、現在の大阪府八尾市にあたるという。 最大の政敵・物部氏を倒した蘇我氏は、穴穂部と同じ母をもつ弟・小姉君と欽明の子供・泊瀬部皇子を崇峻天皇とした。事態は落ち着いたかに見え、蘇我氏の長はまさにキング・ノーカーと呼ぶにふさわしい地位を占めて外交・内政の主導権を握る。ところが、崇峻天皇は大臣の存在を煙たがり、その力を取り除こうとする動きをみせる。 馬子は592年、朝廷内の最大にして唯一の対立者となった天皇を殺してしまう。天皇暗殺を、有無をいわせない既成事実として王族・諸臣につきつけられるほど、この時点ですでに馬子の支配体制が揺るぎないものとなっていたとも言える。 こうして第一の披局は、蘇我氏が結束して対立勢力を一掃するかたちで決着を見、推古天皇の36年に亙る安定した時代がはじまる。推古は飛鳥豊浦に最初の宮殿を置いた。この地はもともとは稲目の屋敷があった場所で、後には馬子の子供・蝦夷が豊浦大臣と呼ばれている。天皇と蘇我氏との強い絆を読み取ることができる。 馬子は、引き続き大臣として朝廷の中枢に腰を据え、境部臣、田中臣、石川臣といった稲目の息子たちも、それぞれが政権に参画する大貴族となっていく。天皇の後継者にも蘇我氏とつながりの深い聖徳太子がすえられた。蘇我氏を中軸とした政権は、中国までを視野にいれた積極的な外交、屯倉の整備と治水事業などの農業振興策を通じての朝廷の経済力の強化、そして仏教を中心とする先進諸国の例にならった文化政策をおしすすめる。まさに蘇我氏の黄金時代が実現したと言うことができるのではないだろうか。 しかし、何事にも終りはある。馬子は推古34年(626)に死に、二年後には推古もあの世へと旅だつ。推古の後を継ぐはずだった聖徳大子もすでに早世しており、ぷたたぴ大騒動がもちあがる。 付け加えておけば、馬子は76才で死んだといわれる。推古は治世の36年に75才で亡っている。叔父と姪といっても二人の歳の差は三つほどしかなかった。物部守屋を討って蘇我氏の時代の幕が開いたとき、推古は35才ぐらい、馬子は40才すこし前、聖徳大子は15・6才だったことになる。 |
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■内紛のはじまり
馬子の後を継いで大臣の地位についていた蝦夷は、推古の死で蘇我氏にとっての第二の破局に直面する。天皇の後継者をめぐる争いが再燃したのだ。推古の遺志は、敏達天皇と広姫の孫・田村皇子を跡継ぎにということだったらしい。けれど、遺言はそれほど明確なものではなかった。馬子の弟つまり蝦夷の叔父・境部摩理勢は聖徳太子の子供・山背皇子を天皇に推して、田村皇子を戴こうとする蝦夷と鋭く対立する。 これは、蘇我のどの家系とも血のつながりの強い山背皇子を天皇にたてて蘇我氏全体の立場を守ろうという摩埋勢の方針と、本宗家と天皇の関係を常に卓越したものとしておこうという蝦夷の思惑との衝突だったと考えるのが一番自然だろう。 さらに言えぱ、馬子亡きあと蘇我氏の長老の位置にあった境部摩理勢と、本家の甥・蝦夷との相譲れないプライドの問題もあったかもしれない。双方の言い分はどちらにももっともな理屈があり、双方の勢力も拮抗していたのだろう。群臣の意見も二つに分かれて纏まりがつかない。この時ちょうど、蘇我の諸家は共同して馬子の墓を造っていた。摩理勢は墓所の仕事場から引き上げて、本宗家の方針を批判。さらに聖徳太子の一族・上宮王家との連携を強める姿勢をしめす。 族長の蝦夷は、40年前の馬子のひそみに倣って強行手段にうったえ、言うことをきかない境部摩埋勢とその息子たちを殺してしまう。結局、蝦夷が武力にものをいわせて反対派を黙らせた後、田村皇子が即位して舒明天皇となった。舒明の皇后は宝皇女、二人の間の子供に葛城皇子(中大兄)と大海人皇子がいる。馬子の娘・法提郎媛が夫人となり古人皇子(大兄)を生む。 蝦夷は大臣として馬子の地位を継ぎ、本宗家はその方針をつらぬいて権力の座を確保したかのようにみえる。しかし、第一の破局の時と情勢は大きく違っていた。馬子の場合は物部氏を倒すことによって唯一といってもいい対抗勢力を取り除き、蘇我一族の結束を固めることができた。馬子には、口うるさい金持ちの叔父さんたちもおらず、弟たちは兄の力が強くなれぱ自分たちの地位もあがることをよく心得ていた。 蝦夷の場合、境部臣を片付けても対抗者を一掃したことにはならなかった。馬子の兄弟は、既にそれぞれが有力な貴族として一家をなしているのだ。その一つを仇敵のように攻め滅ぼすという強引なやりかたは、一族内に大きな不満と危機感とを残したに違いない。境部を倒した蝦夷の一撃は、蘇我氏のまとまりに深刻なひぴ割れをつくって、馬子の下で一枚岩の結束を誇っていた強大な蘇我の力に分裂のきざしが見えはじめる。 舒明天皇は仮宮とはいえ、一時、田中臣の本拠、田中に宮殿をうつしている。また、舒明の大療に際して、誅をしたのは法提郎媛の子・古人大兄ではなく葛城皇子だったいう。 どうやら、舒明朝を通じて何もかもが蘇我本宗家の思い通りに動いていたわけではないようだ。蘇我氏の内紛と、これを睨んだ王家、他豪族の水面下の動きが渦巻く中で、舒明天皇13年の在位は終わりを告げる。 |
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■第三の破局
629年舒明が死に、后の宝皇女が即位して大波乱をふくんだ皇極朝4年の幕が開く。この頃には病気がちの大臣・蝦夷はすでにひきこもりぎみで、政治の実権は入鹿に移ろうとしていた。皇極2年の「蘇我入鹿臣・・・古人大兄をたてて天皇とせむとす」という記事を見るまでもなく、本宗家がここで身内の古人皇子を天皇にして、立場を固めたいと望んでいたことは明白たろう。しかし、どういう事情からかその願いは実現しなかった。一族内の亀裂がさらに広がることを恐れた蝦夷が、古人擁立を見送った可能性も十分考えられる。間題の決着を棚上げする形で皇極が登位したものの、後継者をめぐる部族間の争いは、時が経つにつれますます複雑になっていく。 本人の意思はさておきこの時点では、山背大兄、古人大兄、中大兄と三人の有力な次期天皇候補がいる。皇極の弟・軽皇子も加えると四人ということになるが、単純に図式化してしまえば、蘇我の諸分家は山背を後援、蝦夷・入鹿は古人を推し、いままで脇役の地位の甘んじていた旧勢力代表の中臣氏は中大兄に将来を賭けようというところだ。 本宗家側は、思うに任せないことの成り行きに焦っていたのだろう。さしあたって、蝦夷・入鹿は権力を誇示する行動にでる。日本書紀皇極元年の条はこういっている。「大臣の子供の入鹿が国の政務を執って、その威令は父親を凌いでいた。そのため、盗賊は怖れをなし、道に落ちているものを拾おうともしなかった」と。また同じ年、蝦夷は葛城に祖先を祭る廟をつくり、中国の天子の特権とされる八併舞を奉納。さらに全国から大勢の人夫を徴集し、大々的に蝦夷・入鹿親子の寿陵の建設にかかる。こういった大デモンストレーションともいえそうな動きは、あまり評判が良くなかったらしい。 やがて、天皇後継問題に決着をつけようと、入鹿は乾坤一槨、蘇我本宗家の伝統ともいえる武力行使に踏み切る。とうとう事態は第三の破局を迎え、急速に大団円・木宗家の終末へと動きはじめることになる。皇極3年(644)11月、入鹿は配下に命じて、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃ざせた。山背はいったんは家族を連れて宮殿を脱出し、生駒山中に難をのがれる。これに従った三輪君は、東国の領土に入って兵を集め入鹿を討とうと勧めるが、山背は戦闘を望まなかった。蘇我の諸分家がどういう対応をとるのか、情勢はひどく緊追していたのだろう。自ら出陣して山背大兄を殺そうとした入鹿は、古人のやたらに出歩くと危ないという忠告をきいて家に止まり、将軍たちを遣わして山背の行方を追わせる。山背大兄は結局斑鳩寺に戻り、入鹿の軍勢に包囲されると一族もろともに自殺する途を選ぷ。 おそらく、入鹿は時宣を待とうという蝦夷の方針に反して山背を攻撃している。蝦夷は山背大兄を殺しても間題は解決しないことを察知していたようで、ことの顛末を知って入鹿を愚かものと罵ったという。 かねてから情勢の分析を続けていた中大兄と中臣鎌子(鎌足)にして見れぱ、二つのことに気付かざるをえなかっただろう。一つは、蘇我諸分家と本宗家とは表立って鉾を交えこそしなかったものの、たいへん険悪なにらみ合いの状態にあるということ。 そしてもう一つは、中大兄がきわめて徴妙な立場に置かれたということだ。本人が天皇の地位を望もうと望むまいと、本宗家をこころよくく思わない勢力が中大兄を担ぎ出そうとするのは目に見えている。もし中大兄が本当に邪魔になるようなら、入鹿はどう動くだろうかこれまでの経緯をみれぱ、入鹿はいつでも最後の手段に訴える用意を整えていると考えておかねばなるまい。手をこまねいていれぱ殺される恐れがある。 馬子、蝦夷、入鹿の物語は、こうした状況に押し流されるように最後の幕を迎える。 軍勢同士の衝突では入鹿をうち倒すことは難しいかもしれない。しかし、強大な権威を握っていても、入鹿は朝廷内では孤立している。中大兄、中臣鎌子はひそかに入鹿の従兄弟・蘇我倉山田麻呂を味方にひきいれ、宮殿の中で無防備な入鹿を暗殺する計画を進めた。本宗家と敵対している蘇我の諸分家は入鹿の死を喜ぴこそすれ、複讐などの騒ぎをおこす気遣いはない。 皇極4年(645)6月、中大兄たちは、外国からの重要な便者が来たと偽って入鹿を飛鳥板蓋宮に呼ぴ出し、切り殺してしまう。蘇我氏全体の利権を代表する立場を、とうにほうりだしていた本宗家は、入鹿という跡継ぎを失ったとたんに、その優勢な武力を結集して守るべき何ものもない状態に直面したのだろう。蝦夷は抵抗をあきらめて自殺、本宗家はあっけなく滅亡してしまう。こうして飛鳥の臭雄・蘇我三代の時代はおわった。 入鹿の後ろ楯をなくした古人大兄は譲位の申し出を固辞、皇極の異母弟・軽皇子が即位して考徳天皇となり、皇太子の地位に座った中大兄が政治の主導権を握る。もちろん、考徳朝の右大臣の蘇我倉山田石川麻呂の例、天智朝の左大臣になった馬子の孫にあたる蘇我赤兄の例をみても明らかなように、蘇我氏の諸家はまだ政府の要職を占め続ける。 しかし、天皇を凌ぐような力をふるって外交・内政そして文化の全ての動きを左右するという意味での「蘇我氏の時代」は入鹿の死で幕を閉じる。 |
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■まとめ
古墳時代の終りから飛鳥時代にかけての時期に、日本は一つの国家としての体裁を整えていく。わが国の社会の骨組みが、いわゆる日本風文化と呼ばれるようになる上着をまといはじめるのも、この時期のことと考えていいだろう。 日本の歴史が大きな転換期にさしかかり、新しい形をとろうとしていたこの時代に、国家の舵取り役として大活躍したのが蘇我氏だった。後代の日本文化に計り知れない影響を与えた仏教の導入に、蘇我氏が密接にかかわっていたことは言うまでもないだろう。6世紀の初め仏教はすでに渡来人を中心に信仰され、社会に根付こうとしていた。馬子はこれを国教とし、その最大の庇護者となる。建築・美術そして儀式など、仏教文化を集大成したお手本ともいえる大寺院も、蘇我氏の手で作られる。この島国に最初に建てられた本格的な寺院は、伽藍配置、規模、設計の精度などさまざまな面で、朝鮮半島各地の第一級の寺院に決して劣らないほどの完成度を持っていた。寺司には馬子の子供・善徳が任ぜられており、蘇我氏がこの寺院造営をいかに重要視していたかを窺い知ることができる。外国の最新技術・知識を総動員して作り上げられた飛鳥寺は、蘇我氏と朝鮮半島との強い繋がりとを示すと同時に、当時の日本が広い国際的視野を持ち合わせていたことを物語ってもいる。 石舞台と島庄(西国三十三所名所図絵)蘇我氏が、かって大伴氏の掌握していた外交の分野でも異彩を放ったのは当然のことともいえる。百済、新羅、高句麗の複雑な関係、巨大な統一国家を完成してゆく中国、激動する国際情報を一早くつかむと言う点で、蘇我氏に匹敵する者はありえなかったろう。 推古朝には隋との交渉がはじまり、中国の文物が直接日本に入ってくるようになった。こうした積極的な外国への働きかけも、蘇我氏の関与なしに実現したものとは思われない。 推古8年(600)と同31年(623)には境部臣が、対新羅派遣軍の大将軍に任命されている。馬子は外交交渉や政策の決定に関わるだけではなく、実際の軍事行動の面にも蘇我一族を責任者として参加させている。 皇極元年(642)の「蘇我大臣、畝傍の家にして、百斉の翹岐等を喚ふ。云々」つまり、大臣が個入的に外国使節をもてなす、といった日本書紀の記事が示すように、蘇我氏は最後まで外交上の待別な権限を主張していたのだろう。もっとも、入鹿は三韓の使者が来たという嘘で宮殿におぴき出され、殺されたというから、最後には本宗家の絶対的な外交権も、実質を失い空洞化していたのかも知れない。 内政についても、蘇我氏は渡来人の能力の助けを借りて国家の実務制度の整備・改卒を進めていった。日木書紀の記事をざっと並べてみよう。 舒明16年(555)「蘇我大臣稲目宿禰・・・等を遣わして古備の五郡に屯倉をおかせた」「備前の児島郡に屯倉をおかせた」「倭国の高市郡に遣わして大身狭屯倉、小身狭屯倉をおかせた」「紀国に海部屯倉を置く」。舒明30年(569)「(渡来人・王辰爾の甥の)膽津を遣わして白猪屯倉の人民の戸籍を作り直した」。 敏達3年〈574)「蘇我馬子大臣を古備国に遣わして白猪屯倉を拡張させた。戸籍を膽津に管理させた。」 推古15年(607)「倭国に、高市池・藤原池・肩岡池・菅原池を作る。山背国の栗隈(宇治付近)に、大きな水路を掘る。河内国に、戸刈池・依網池を作る。亦、国毎に屯倉を置く。」 といったように、蘇我氏の主導のもとに、朝廷の経済的基盤となる屯倉が全国に置かれ、農業用水の建設などの国家事業がおこなわれている。また、この時代に国家税収の基本になる、戸籍の制度が整えられていったこともわかる。 さらに、推古12年の冠位十二階や、その翌年の聖徳太子の十七条の憲法に象徴的に現われてくるように、法律制度の体系も次第に整備される。その細部は、蘇我氏を中核とした渡来系の官僚グループの手によって定められていったにちがいない。 こうした国の土台となる機構ができ上がっていく中で、国の歴史を纏め記述しようという試みがはじまる。これこそ、徐々に形作られてきた日本という国家の国としての意識が、成熟期を迎えたまぎれもない証拠だろう。日本書紀、推古28年(620)の条は「聖徳太子と鳴大臣(馬子)が相談して天皇・国記・・・公民等の本記をしるす」と言う。その後、入鹿の死を知った蝦夷は、この歴史の草稿に人を放って自殺を図る。草稿は危うく炎の中から助け出されるのだが、どうしたわけか宮廷ではなく、甘橿丘の本宗家の邸宅に置かれていたのだ。そうなると、このはじめての日本の歴史は、見方によっては蘇我氏のものだったと言うこともできるのではないだろうか。 |
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■日本書紀 概説 | |
『日本書紀』とは、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体をとる。全三十巻。系図一巻が付属したが失われた。 | |
■成立過程 | |
■日本書紀成立の経緯
『古事記』と異なり、『日本書紀』にはその成立の経緯の記載がない。しかし、後に成立した『続日本紀』の記述により成立の経緯を知ることができる。『続日本紀』の養老4年5月癸酉条には、 「先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」とある。その意味は 「以前から、一品舍人親王、天皇の命を受けて日本紀の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」ということである(ここに、『日本書紀』ではなく『日本紀』とあることについては書名を参照)。 また、そもそもの編集開始の出発点は、天武天皇が川島皇子以下12人に対して、「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたことにあるとされる。 |
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■記紀編纂の要因
乙巳の変で中大兄皇子(天智天皇)は蘇我入鹿を暗殺する。 これに憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。 この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上する。 『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ「国記」は難を逃れ中大兄皇子(天智天皇)に献上されたとあるが、共に現存しない。 天智天皇は白村江の戦いの敗北で唐と新羅連合に敗北し記紀編纂の余裕はなかった。そのために『天皇記』や焼けて欠けてしまった「国記」に変わる古事記や日本書紀の編纂が天智天皇の弟である天武天皇の命により行われる。まずは稗田阿礼の記憶を元に古事記が編纂された。その後に焼けて欠けた歴史書や朝廷の書庫以外に存在した歴史書や伝聞を元に更に日本書紀が編纂された。 |
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■記述の信頼性
日本書紀は史料批判上の見地から信憑性に疑問符がつく記述をいくつか含んでいる、以下はその例を示す。 ●『隋書』、『晋書』との対応 中国の史書『晋書』安帝には、266年に倭国の関係記事があり、その後は5世紀の初めの413年(東晋・義熙9年)に倭国が貢ぎ物を献じたと記載がある。この間は中国の史書に記述がなく、考古学的文字記録はないことから、「謎の4世紀」と呼ばれている(4世紀後半以前の皇室の成立過程についてはヤマト王権の項を参照)。倭王武の上表文や隅田八幡神社鏡銘、千葉県稲荷台1号古墳出土の鉄剣銘文、埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘文などから、5世紀代には文字が日本で使用されていると考えられている。しかし、当時、朝廷内で常時文字による記録がとられていたかどうかは不明である。また『隋書』卷八十一・列傳第四十六 東夷には次のようにある。 「無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字」文字なく、ただ木を刻み縄を結ぶのみ。仏法を敬わば、百済に於いて仏経を求得し、初めて文字あり。 ●稲荷山古墳鉄剣銘文との対応 稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の発見により、5世紀中頃の雄略天皇の実在を認めた上で、その前後、特に仁徳天皇以降の国内伝承に一定の真実性を認めようとする意見も存在する。 金錯銘鉄剣からは、5世紀中頃の地方豪族が8世代にもわたる系図を作成していたことがわかる。その銘文には「意富比垝(オホヒコ)」から「乎獲居臣(ヲワケの臣)」にいたる8人の系図が記されており、「意富比垝(オホヒコ)」を記紀の第八代孝元天皇の第一皇子「大彦命」(四道将軍の一人)と比定する説がある。 また、川口勝康は「乎獲居(ヲワケ)」について、「意富比垝(オホヒコ)」の孫「弖已加利獲居(テヨカリワケ)」とし、豐韓別命は武渟川別の子と比定しているが、鉄剣銘文においては弖已加利獲居(テヨカリワケ)は多加利足尼の子であるとする。 ●『上宮記』『帝紀』『旧辞』『国記』『天皇記』との関連 聖徳太子による国史の成立以前にも各種系図は存在した。これらを基礎にして、継体天皇の系図を記した『上宮記』や、『古事記』、『日本書紀』が作られたとする説もある。仮に、推古朝の600年頃に『上宮記』が成立したとするなら、継体天皇(オホド王)が崩御した継体天皇25年(531年)は当時から70年前である。なお、記紀編纂の基本史料となった『帝紀』、『旧辞』は7世紀ごろの成立と考えられている。 『日本書紀』には、推古天皇28年(620年)に、「是歲 皇太子、島大臣共議之 錄天皇記及國記 臣 連 伴造 國造 百八十部并公民等本記」(皇太子は厩戸皇子(聖徳太子)、島大臣は蘇我馬子)という記録がある。当時のヤマト王権に史書編纂に資する正確かつ十分な文字記録があったと推定しうる根拠は乏しく、その編纂が事実あったとしても、口承伝承に多く頼らざるを得なかったと推定されている。なお、『日本書紀』によれば、このとき、聖徳太子らが作った歴史書『国記』・『天皇記』は、蘇我蝦夷・入鹿が滅ぼされたときに大部分焼失したが、焼け残ったものは天智天皇に献上されたという。 ●百済三書との対応 現代では、継体天皇以前の記述、特に、編年は正確さを保証できないと考えられている。それは、例えば、継体天皇の没年が記紀で三説があげられるなどの記述の複層性、また、『書紀』編者が、『百済本記』(百済三書の一つ)に基づき、531年説を本文に採用したことからも推察できる。 百済三書とは、『百済本記』・『百済記』・『百済新撰』の三書をいい、『日本書紀』に書名が確認されるが、現在には伝わっていない逸書である(『三国史記』の『百済本紀』とは異なる)。百済三書は、6世紀後半の威徳王の時代に、属国としての対倭国政策の必要から倭王に提出するために百済で編纂されたとみられ、日本書紀の編者が参照したとみられてきた。それゆえ、百済三書と日本書紀の記事の対照により、古代日朝関係の実像が客観的に復元できると信じられていた。三書の中で最も記録性に富むのは『百済本記』で、それに基づいた『継体紀』、『欽明紀』の記述には、「日本の天皇が朝鮮半島に広大な領土を有っていた」としなければ意味不通になる文章が非常に多く、また、任那日本府に関する記述(「百済本記に云はく、安羅を以て父とし、日本府を以て本とす」)もその中に表れている。 また、『神功紀』・『応神紀』の注釈に引用された『百済記』には、「新羅、貴国に奉らず。貴国、沙至比跪(さちひこ)を遣して討たしむ」など日本(倭国)を「貴国」と呼称する記述がある。山尾幸久は、これまでの日本史学ではこの「貴国」を二人称的称呼(あなたのおくに)と解釈してきたが、日本書紀本文では第三者相互の会話でも日本のことを「貴国」と呼んでいるため、貴国とは、「可畏(かしこき)天皇」「聖(ひじり)の王」が君臨する「貴(とうとき)国」「神(かみの)国」という意味で、「現神」が統治する「神国」という意識は、百済三書の原文にもある「日本」「天皇」号の出現と同期しており、それは天武の時代で、この神国意識は、6世紀後半はもちろん、「推古朝」にも存在しなかったとしている。 現在では、百済三書の記事の原形は百済王朝の史籍にさかのぼると推定され、7世紀末-8世紀初めに、滅亡後に移住した百済の王族貴族が、持ってきた本国の史書から再編纂して天皇の官府に進めたと考えられている。山尾幸久は、日本書紀の編纂者はこれを大幅に改変したとして、律令国家体制成立過程での編纂という時代の性質、編纂主体が置かれていた天皇の臣下という立場の性質(政治的な地位の保全への期待など)などの文脈を無視して百済三書との対応を考えることはできないとしている。このように日本書紀と百済記との対応については諸説ある。 |
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■書名
もとの名称が『日本紀』だったとする説と、初めから『日本書紀』だったとする説がある。 『日本紀』とする説は、『続日本紀』の上記養老四年五月癸酉条記事に、「書」の文字がなく日本紀と記載があることを重視する。中国では紀伝体の史書を「書」(『漢書』『後漢書』など)と呼び、帝王の治世を編年体にしたものを「紀」(『漢紀』『後漢紀』)と呼んでいた。この用法にならったとすれば、『日本書紀』は「紀」にあたるので、『日本紀』と名づけられたと推測できる。『日本書紀』に続いて編纂された『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』がいずれも書名に「書」の文字を持たないこともこの説を支持しているといわれる。この場合、「書」の字は後世に挿入されたことになる。 『日本書紀』とする説は、古写本と奈良時代・平安時代初期のように成立時期に近い時代の史料がみな『日本書紀』と記していることを重視する。例えば、『弘仁私記』序、『釈日本紀』引用の「延喜講記」などには『日本書紀』との記述がみられる。初出例は『令集解』所引の「古記」とされる。「古記」は天平10年(738年)の成立とされる。『書紀』が参考にした中国史書は、『漢書』・『後漢書』のように、全体を「書」としその一部に「紀」を持つ体裁をとる。そこで、この説の論者は、現存する『書紀』は中国の史書にあてはめると『日本書』の「紀」にあたるとして、『日本書紀』と名づけられたと推測する。 また、読みについても、「にほんしょき」なのか「にっぽんしょき」なのか、正確な答えは出されていない。当時、「やまと」と訓読されることもあった「日本」という語を、どのように音読していたかは不明であり、また、奈良・平安時代の文献に「日ほん」という記述があっても、濁音も半濁音もなかった当時の仮名遣いからは推測ができないからである。主な例として、岩崎小弥太は著書『日本の国号』(吉川弘文館、ISBN 4642077413)のなかで「にっぽんしょき」の説を主張している。この議論は未だに決着していないが、現在では一般的に「にほんしょき」が通用している。 なお、一部には『日本紀』と『日本書紀』を別の書と考える研究者もいる。『万葉集』には双方の書名が併用されている。 |
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■原資料
『日本書紀』の資料は、記事内容の典拠となった史料と、修辞の典拠となった漢籍類(『三国志』、『漢書』、『後漢書』、『淮南子』など)にわけられ、さらに、史料には以下のようなものが含まれると考えられている。 帝紀 / 旧辞 / 古事記 / 諸氏に伝えられた先祖の記録(墓記) / 地方に伝えられた物語(風土記) / 政府の記録 / 個人の手記(『伊吉連博徳書』、『難波吉士男人書』、『高麗沙門道顯日本世記』、(釈日本紀に挙げられている『安斗宿禰智徳日記』、『調連淡海日記』)) / 寺院の縁起 / 日本国外(特に、百済の記録(『百済記』、『百済新撰』、『百済本記』)) / その他 なお『日本書紀』によれば、推古天皇28年(620年)に聖徳太子や蘇我馬子に編纂されたとされる『天皇記』・『国記』の方がより古い史書であるが、皇極天皇4年(645年)の乙巳(いつし)の変とともに焼失した。『日本書紀』は本文に添えられた注の形で多くの異伝、異説を書き留めている。「一書に曰く」の記述は、異伝、異説を記した現存しない書が『日本書紀』の編纂に利用されたことを示すといわれている。また『日本書紀』では既存の書物から記事を引用する場合、「一書曰」、「一書云」、「一本云」、「別本云」、「旧本云」、「或本云」などと書名を明らかにしないことが多い。ただし、一部には、次に掲げるように、書名を明らかにしているものがあるが、いずれの書も現存しない。 『日本旧記』(雄略天皇21年〈477年〉3月) / 『高麗沙門道顯日本世記』(斉明天皇6年〈660年〉5月、斉明天皇7年〈661年〉4月、11月、天智天皇9年(669年)10月) / 『伊吉連博徳書』(斉明天皇5年〈659年〉7月、斉明天皇7年〈661年〉5月) / 『難波吉士男人書』(斉明天皇5年〈659年〉7月) / 『百済記』(神功皇后摂政47年〈247年〉4月、神功皇后摂政62年〈250年〉2月、応神天皇8年〈277年〉3月、応神天皇25年〈294年〉、雄略天皇20年〈476年〉) / 『百済新撰』(雄略天皇2年〈458年〉7月、雄略天皇5年〈461年〉7月、武烈天皇4年〈502年〉) / 『百済本記』(継体天皇3年〈509年〉2月、継体天皇7年〈513年〉6月、継体天皇9年〈515年〉2月、継体天皇25年〈531年〉12月、欽明天皇5年〈544年〉3月) / 『譜第』(顕宗天皇即位前紀) / 『晋起居注』(神功皇后摂政66年〈267年〉) |
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■編纂方針 | |
『日本書紀』の編纂は国家の大事業であり、皇室や各氏族の歴史上での位置づけを行うという極めて政治的な色彩の濃厚なものである。編集方針の決定や原史料の選択は政治的に有力者が主導したものと推測されている。 | |
■文体・用語
『日本書紀』の文体・用語など文章上のさまざまな特徴を分類した研究・調査の結果によると、全三十巻のうち、巻第一・巻第二の神代紀と巻第二十八・二十九・三十の天武・持統紀の実録的な部分を除いた後の25巻は、大別してふたつにわけられるとされる。その一は、巻第三の神武紀から巻第十三の允恭・安康紀までであり、その二は、巻第十四の雄略紀から巻第二十一の用明・崇峻紀まである。残る巻第二十二・二十三の推古・舒明紀はその一に、巻第二十四の皇極紀から巻第二十七の天智紀まではその二に付加されるとされている。巻第十三と巻第十四の間、つまり、雄略紀の前後に古代史の画期があったと推測されている。 |
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■倭習による分類
『日本書紀』は純漢文体であると思われてきたが、森博達の研究では、語彙や語法に倭習(和習・和臭)が多くみられ、加えて使用されている万葉仮名の音韻の違いなどの研究からα群(巻第十四〜二十一、巻第二十四〜二十七)とβ群(巻第一〜十三、巻第二十二〜二十三、巻第二十八〜二十九)にわかれるとし、倭習のみられない正格漢文のα群を中国人(渡来唐人であり大学の音博士であった続守言と薩弘恪)が、倭習のみられる和化漢文であるβ群を日本人(新羅に留学した学僧山田史御方)が書いたものと推定している。またα群にも一部に倭習がみられるがこれは原資料から直接文章を引用した、もしくは日本人が後から追加・修正を行ったと推定されている。特に巻第二十四、巻第二十五はα群に分類されるにもかかわらず、乙巳の変・大化の改新に関する部分には倭習が頻出しており、蘇我氏を逆臣として誅滅を図ったクーデターに関しては、元明天皇(天智天皇の子)、藤原不比等(藤原鎌足の子)の意向で大幅に「加筆」された可能性を指摘する学者もいる。 『日本書紀』は欽明13年10月(552年)に百済の聖明王、釈迦仏像と経論を献ずるとしている。しかし、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』は欽明天皇の戊午年10月12日(同年が欽明天皇治世下にないため538年(宣化3年)と推定されている)に仏教公伝されることを伝えており、こちらが通説になっている。このように、『日本書紀』には改変したと推測される箇所があることがいまや研究者の間では常識となっている。 |
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■紀年・暦年の構成
●那珂通世の紀年論 古い時代の天皇の寿命が異常に長いことから、『日本書紀』の年次は古くから疑問視されてきた。明治時代に那珂通世が、神武天皇の即位を紀元前660年に当たる辛酉(かのととり、しんゆう)の年を起点として紀年を立てているのは、中国の讖緯(陰陽五行説にもとづく予言・占い)に基づくという説を提唱した。三善清行による「革命勘文」で引用された『易緯』での鄭玄の注「天道不遠 三五而反 六甲爲一元 四六二六交相乗 七元有三變 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」から一元60年、二十一元1260年を一蔀とし、そのはじめの辛酉の年に王朝交代という革命が起こるとするいわゆる緯書での辛酉革命の思想によるという。この思想で考えると斑鳩の地に都を置いた推古天皇9年(601年)の辛酉の年より二十一元遡った辛酉の年を第一蔀のはじめの年とし、日本の紀元を第一の革命と想定して、神武の即位をこの年に当てたとされる。この那珂による紀年論は、定説となっている。 日本書紀の紀年がどのように構成されているか明らかにしようとする試みが紀年論で、様々な説がある。 ●元嘉暦と儀鳳暦 小川清彦の暦学研究によれば、『日本書紀』は完全な編年体史書で、神代紀を除いたすべての記事は、干支による紀年で記載されている。記事のある月は、その月の一日の干支を書き、それに基づいて、その記事が月の何日に当たるかを計算できる。 また、小川清彦は中国の元嘉暦と儀鳳暦の2つが用いられていることを明らかにした。神武即位前紀の甲寅年十一月丙戌朔から仁徳八十七年十月癸未(きび)朔までが儀鳳暦、安康紀三年八月甲申(こうしん)朔から天智紀六年閏十一月丁亥(ていがい)朔までが元嘉暦と一致するという。元嘉暦が古く、儀鳳暦が新しいにもかかわらず、『日本書紀』は、新しい儀鳳暦を古い時代に、古い元嘉暦を新しい時代に採用している。これは、二組で撰述したためと推測されている。 応神紀には『三国史記』と対応する記述があり、干支2順、120年繰り下げると『三国史記』と年次が一致する。したがって、このあたりで年次は120年古くに設定されているとされる。しかし、これも『三国史記』の原型となった朝鮮史書を参考にした記事だけに該当するもので、前後の日本伝承による記事には必ずしも適用されないし、その前の神功紀で引用される『魏志』の年次との整合性もない。 ●古事記の崩御年干支 一方、『古事記』は年次を持たないが文注の形で一部の天皇について崩御年干支が記される。『日本書紀』の天皇崩御年干支と、古い時代は一致しないが、 第27代 - 安閑天皇(乙卯、安閑天皇4年〈535年〉) / 第31代 - 用明天皇(丁未、用明天皇2年〈587年〉) / 第32代 - 崇峻天皇(壬子、崇俊天皇5年〈592年〉) / 第33代 - 推古天皇(戊子、推古天皇36年〈628年〉)は一致する。 |
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■本文と一書(あるふみ)
本文の後に注の形で「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めている。中国では清の時代まで本文中に異説を併記した歴史書はなく、当時としては世界にも類をみない画期的な歴史書だったといえる。あるいは、それゆえに、現存するものは作成年代が古事記などよりもずっと新しいものであるという論拠ともなっている。 なお、日本書紀欽明天皇2年3月条には、分注において、皇妃・皇子について本文と異なる異伝を記した後、『帝王本紀』について「古字が多くてわかりにくいためにさまざまな異伝が存在するのでどれが正しいのか判別しがたい場合には一つを選んで記し、それ以外の異伝についても記せ」と命じられた事を記している。この記述がどの程度事実を反映しているのかは不明であるが、正しいと判断した伝承を一つだけ選ぶのではなく本文と異なる異伝も併記するという編纂方針が、現在みられる『日本書紀』全般の状況とよく合っていることはしばしば注目されている。 |
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■系図一巻
続日本紀にある日本書紀の完成記事には「紀卅卷系圖一卷」とあり、成立時の日本書紀には現在伝えられている三十巻の他に系図一巻が存在したと考えられている。日本書紀の「紀卅卷」が現在までほぼ完全に伝わっているのに対して系図は全く伝わっていない。弘仁私記にはこの系図について、「図書寮にも民間にも見えない」としてすでに失われたかのような記述があるが、鎌倉時代に存在する書物を集めた記録では「舎人親王撰 帝王系図一巻」とあり、このころまでは存在したとも考えられる。 「新撰姓氏録」には「日本紀合」という記述が散見されるが、現存の「日本書紀」に該当する記述が存在しない。これは失われた系図部分と照合したものであると考えられている。この「系図一巻」の内容については様々に推測されている。例えば日本書紀では初出の人物の系譜を記すのが通例なのに、系譜の記されない人物が若干存在するが、これらについては系図に記載があるために省略されたと考えられている。また、記紀ともに現存の本文には見えない応神天皇から継体天皇に至る系譜についてもこの失われた「系図1巻」は書かれていた可能性を指摘する説がある。 |
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■太歳(大歳)記事
『日本書紀』には各天皇の即位の年の末尾に「この年太歳(大歳)」としてその年の干支を記した記事があり、「太歳(大歳)記事」と呼ばれている。日本書紀が参考にした中国の史書にも「続日本紀」などのこれ以後の日本の史書にもこのような記事は無く、この記事の意義は不明である。ほとんどの天皇については即位元年の末尾にこの大歳記事があるが、以下のようにいくつか例外が存在する。このような例外が存在する理由については諸説があり、中には皇統譜が書き換えられた痕跡ではないかとする見解もあるが、広い賛同は得ていない。 神武天皇については東征を始めた年にあり、即位元年にはない。綏靖天皇については即位前紀の神武天皇崩御の年と自身の即位元年にある。神功皇后については摂政元年、摂政三九年、摂政六九年にある。継体天皇については元年と二五年にある。天武天皇については元年にはなく二年にある。 |
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■諱と諡
天皇の名には、天皇在世中の名である諱(いみな)と、没後に奉られる諡(おくりな)とがある。現在普通に使用されるのは『続日本紀』に記述される奈良時代、天平宝字6年(762)〜同8年(764)、淡海三船による神武天皇から持統天皇までの41代、及び元明天皇・元正天皇へ一括撰進された漢風諡号であるが、『日本書紀』の本来の原文には当然漢風諡号はなく、天皇の名は諱または和風諡号であらわされている。 15代応神天皇から26代継体天皇までの名は、おおむね諱、つまり在世中の名であると考えられている。その特徴は、ホムタ・ハツセなどの地名、ササギなどの動物名、シラカ・ミツハなどの人体に関する語、ワカ・タケなどの素朴な称、ワケ・スクネなどの古い尊称などを要素として単純な組み合わせから成っている。 |
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■『日本書紀』目次 | |
■巻第一、神代上(慶長勅版)卷第一 神代上(かみのよのかみのまき)
第一段、天地開闢と神々 天地のはじめ及び神々の化成した話 第二段、世界起源神話の続き 第三段、男女の神が八柱、神世七世(かみのよななよ) 第四段、国産みの話 第五段、黄泉の国、国産みに次いで山川草木・月日などを産む話(神産み) 第六段、アマテラスとスサノオの誓約 イザナギが崩御し、スサノオは根の国に行く前にアマテラスに会いに行く。アマテラスはスサノオと誓約し、互いに相手の持ち物から子を産む。 第七段、天の岩戸スサノオは乱暴をはたらき、アマテラスは天の岩戸に隠れてしまう。神々がいろいろな工夫の末アマテラスを引き出す。スサノオは罪を償った上で放たれる。(岩戸隠れ) 第八段、八岐大蛇 スサノオが出雲に降り、アシナヅチ・テナヅチに会う。スサノオがクシイナダヒメを救うためヤマタノオロチを殺し、出てきた草薙剣(くさなぎのつるぎ)をアマテラスに献上する。姫と結婚し、オオナムチを産み、スサノオは根の国に行った。大己貴神(おおあなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと) ■卷第二 神代下(かみのよのしものまき) 第九段、葦原中国の平定、オオナムチ父子の国譲り、ニニギの降臨、サルタヒコの導き、ヒコホホデミらの誕生。(葦原中国平定・天孫降臨) 第十段、山幸彦と海幸彦の話 第十一段、神日本盤余彦尊(かむやまといはれびこのみこと)誕生 [ 卷第三より以降の漢風諡号は、『日本書紀』成立時にはなく、その後の人が付け加えたものと推定されている。] ■卷第三 ●神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)神武天皇 東征出発 / 五瀬命の死 / 八咫烏 / 兄猾(えうかし)、弟猾(おとうかし) / 兄磯城(えしき)、弟磯城(おとしき) / 長髄彦と金し / 宮殿造営 / 橿原即位 ■卷第四 ●綏靖天皇〜開化天皇 神渟名川耳天皇(かむぬなかはみみのすめらみこと)綏靖天皇 磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)安寧天皇 大日本彦耜友天皇(おほやまとひこすきとものすめらみこと)懿徳天皇 観松彦香殖稲天皇(みまつひこすきとものすめらみこと)孝昭天皇 日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)孝安天皇 大日本根子彦太瓊天皇(おほやまとねこひこふとにのすめらみこと)孝霊天皇 大日本根子彦国牽天皇(おほやまとねこひこくにくるのすめらみこと)孝元天皇 稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおほひひのすめらみこと)開化天皇 ■卷第五 ●御間城入彦五十塑殖天皇(みまきいりびこいにゑのすめらみこと)崇神天皇 天皇即位 / 大物主大神を祀る / 四道将軍 / 御肇国天皇の称号 / 神宝 ■卷第六 ●活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)垂仁天皇 即位 / 任那、新羅抗争の始まり / 狭穂彦王の謀反 / 角力の元祖 / 鳥取の姓 / 伊勢の祭祀 / 野見宿祢と埴輪 / 石上神宮 / 天日槍と神宝 / 田道間守 ■卷第七 ●大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)景行天皇 天皇即位 / 諸賊、土蜘蛛 / 熊襲征伐 / 日本武尊出動 / 日本武尊の再生征 / 弟橘媛 / 日本武尊病没 ●稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと)成務天皇 天皇即位と国、県の制 ■卷第八 ●足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)仲哀天皇 天皇即位 / 熊襲征伐に神功皇后同行 / 神の啓示 ■卷第九 ●気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)神功皇后 神功皇后の熊襲征伐 / 新羅出兵 / 麛坂皇子、忍熊王の策謀 / 誉田別皇子(ほむたわけのみこ)の立太子 / 百済、新羅の朝貢 / 新羅再征 ■卷第十 ●誉田天皇(ほむだのすめらみこと)応神天皇 天皇の誕生と即位 / 武内宿祢に弟の提言 / 髪長媛(かみながひめ)と大さざきの命 / 弓月君、阿直岐、王仁 / 兄媛の歎き / 武庫の船火災 |
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■卷第十一
●大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)仁徳天皇 菟道稚郎子の謙譲とその死 / 仁徳天皇の即位 / 民の竈の煙 / 池堤の構築 / 天皇と皇后の不仲 / 八田皇女の立后 / 鷹甘部(たかかいべ)の定め / 新羅、蝦夷などとの抗争 ■卷第十二 ●去来穂別天皇(いざほわけのすめらみこと)履中天皇 仲皇子(なかつみこ)黒媛を犯す / 磐余(いわれ)の稚桜宮(わかさくらのみや) ●瑞歯別天皇(みつはわけのすめらみこと)反正天皇 ■卷第十三 ●雄朝津間稚子宿禰天皇(をあさづまわくごのすくねのすめらみこと)允恭天皇 即位の躊躇 / 闘鶏(つげ)の国造り / 氏、姓を糾す / もがりの玉田宿祢(たまたのすくね)と最古の地震記録 / 衣通郎姫(そとおしのいらつめ) / 阿波の大真珠 / 木梨軽皇子と妹 ●穴穂天皇(あなほのすめらみこと)安康天皇 木梨軽皇子の死 / 大草香皇子の災厄 ■卷第十四 ●大泊瀬幼武天皇(おほはつせのわかたけるのすめらみこと)雄略天皇 眉輪王の父の仇 / 市辺押磐皇子を謀殺 / 即位と諸妃 / 吉野の猟と宍人部の貢上 / 葛城の一事主 / 嶋王(武寧王)誕生 / 少子部(ちいさこべ)スガル / 吉備臣(きびのおみ)たち / 今来(いまき)の才伎(てひと) / 高麗軍の撃破 / 新羅討伐 / 月夜の埴輪馬 / 鳥養部(とりかいべ)、韋那部(いなべ) / 根使王(ねのおみ)の科(とが) / 秦のうずまさ / 朝日郎 / 高麗、百済を降ろす / 天皇の遺言 ■第十五 ●白髪武広国押稚日本根子(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)清寧天皇 星川皇子の叛 / 天皇の即位と億計(おけ)、弘計(をけ)の発見 / 飯豊皇女 ●弘計天皇(をけのすめらみこと)顕宗天皇 弘計、億計兄弟の苦難 / 二皇子身分を明かす / 皇位の譲り合い / 弘計王の即位 / 老婆置目の功績 / 復讐の思い / 任那、高麗との通交 ●億計天皇(おけのすめらみこと)仁賢天皇 億計天皇の即位 / 日鷹吉士高麗に使す ■卷第十六 ●小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせのわかさざきのすめらみこと)武烈天皇 影媛(かげひめ)としび / 武烈天皇の暴逆 ■卷第十七 ●男大述天皇(おほどのすめらみこと)継体天皇 継体天皇の擁立 / 那四県の割譲 / こもん帯沙(たさ)をめぐる争い / 磐井の反乱 / 近江野毛の派遣 / 近江野毛の死 / 継体天皇の崩御 ■卷第十八 ●広国押武金日天皇(ひろくにおしたけかなひのすめらみこと)安閑天皇 天皇即位と屯倉の設置 / 大河内味張の後悔 / 武蔵国造の争い及び屯倉 ●武小広国押盾天皇(たけをひろくにおしたてのすめらみこと)宣化天皇 那津(筑紫)宮家の整備 ■卷第十九 ●天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにはのすめらみこと)欽明天皇 秦大津父(はたのおおつち) / 大伴金村の失脚 / 聖明王(せいめいおう)、任那(みまな)復興の協議 / 任那日本府の官人忌避 / 任那復興の計画 / 日本への救援要請 / 仏教公伝 / 聖明王の戦死 / 任那の滅亡 / 伊企なの妻大葉子 / 難船の高麗使人 ■卷第二十 ●渟中倉太珠敷天皇(ぬなかくらのふとたましきのすめらのみこと)敏達天皇 烏羽(からすば)の表 / 吉備海部直難波の処罰 / 日羅の進言 / 蘇我馬子の崇仏 / 物部守屋の排仏 |
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■卷第二十一
●橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)用明天皇 用明即位 / 三輪逆の死 / 天皇病む ●泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)崇峻天皇 穴穂部皇子の死 / 物部守屋敗北と捕鳥部万 / 法興寺の創建 / 天皇暗殺 ■卷第二十二 ●豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)推古天皇 額田部皇子(ぬかたべのひめみこ) / 聖徳太子の摂政 / 新羅征伐 / 地震で舎屋倒壊、地震の神の祭 / 冠位十二階の制定と憲法十七条 / 名工鞍作鳥 / 遣隋使 / 菟田野(うだの)の薬猟(くすりがり) / 太子と飢人 / 聖徳太子の死 / 新羅征伐の再開 / 寺院僧尼の統制 / 蘇我馬子の葛城県(あずらのあがた)の要請とその死 / 天皇崩御 ■卷第二十三 ●長足日広額天皇(おきながたらしひひぬかのすめらみこと)舒明天皇 皇嗣問題難航 / 山背大兄王の抗議 / 境部麻理勢(さかいべのまりせ)の最期 / 天皇の即位 / 遣唐使 / 災異多発 ■卷第二十四 ●天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらのみこと)皇極天皇 皇后即位 / 百済と高句麗の政変 / 異変頻発 / 上宮大娘(かみつみやのいらつめ)の怒り / 蘇我入鹿、斑鳩急襲 / 中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と中臣鎌子(なかとみのかまこ) / 謡歌流行 / 秦河勝と常世の神 / 蘇我蝦夷、入鹿の滅亡 ■卷第二十五 ●天万豊日天皇(あめよろづとよひのすめらみこと)孝徳天皇 皇位の互譲 / 新政権の発足 / 東国国司の派遣 / 鐘櫃及び男女の法 / 古人大兄の死 / 大化の改新の詔 / 鐘櫃の反応 / 朝集使 / 厚葬と旧俗の廃止 / 品部(しなじなのとものお)の廃止 / 新冠位制 / 蘇我倉山田麻呂(そがのくらのやまだのまろ) / 白雉の出現 / 皇太子、飛鳥に移る ■卷第二十六 ●天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)斉明天皇 斎明天皇重祚 / 岡本宮造営 / 阿倍比羅夫の遠征 / 有馬皇子の変 / 伊吉博徳の書 / 安倍臣と粛慎(みしはせ) / 百済滅亡と遺臣 / 西征と天皇崩御 ■卷第二十七 ●天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)天智天皇 救援軍渡海 / 白村江の戦い / 冠位の増設 / 西海防備 / 近江遷都と天智天皇の即位 / 藤原鎌足の死 / 大友皇子(おおとものみこ)太政大臣に / 天智天皇崩御 ■卷第二十八 ●天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみことのかみのまき)天武天皇[上] 大海人皇子(おおあまのみこ)吉野入り / 挙兵決意 / 東国への出発 / 近江朝廷の対応 / 大伴吹負の奇計 / 大津京陥落 / 大和の戦場 / 大海人皇子の大和回復 ■卷第二十九 ●天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみことのしものまき)天武天皇[下] 天武天皇即位 / 広瀬、竜田の神祭り / 論功行賞と和漢氏 / 筑紫大地震 / 吉野の会盟 / 律令編纂と帝紀の記録 / 銀の停止と銅銭使用の令 / 服装その他の改定 / 八色の姓と新冠位制 / 諸国大地震と伊予温泉停止、土佐の田畑海没 / 天皇の発病と崩御 ■卷第三十 ●高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)持統天皇 皇后称制 / 大津皇子の変 / もがりの宮、国忌 / 天武天皇の葬送 / 草壁皇子の死 / 浄御原令の施行 / 持統天皇の即位 / 朝服礼儀の制 / 捕虜博麻(はかま)の帰還 / 食封(へひと)の加増 / 藤原宮造営 / 大三輪高市麻呂の諫言と伊勢行幸 / 班田大夫(たたまえのまえつきみ)の派遣 / 益須(やす)のこさけの泉 / 金光明経 / 藤原宮に遷る / 天皇譲位 |
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■書紀講筵と書紀古訓
『日本書紀』は歌謡部分を除き、原則として純粋漢文で記されているため、そのままでは日本人にとっては至極読みづらいものであった。そこで、完成の翌年である養老5年(721年)には早くも『日本書紀』を自然な日本語で読むべく、宮中にて時の博士が貴族たちの前で講義するという機会が公的に設けられた。これを書紀講筵(こうえん)という。開講から終講までに数年を要する長期講座であり、承平年間に行なわれた講筵などは、天慶の動乱のために一時中断したとは言え、終講までに実に七年を要している。代々の講筵の記録は聴講者の手によって開催された年次を冠する私記(年次私記)の形でまとめられるとともに、『日本書紀』の古写本の訓点(書紀古訓)として取り入れられた。 以下に過去の書紀講筵(年次は開講の時期)の概要を示す。 養老五年(721年)博士は太安万侶。私記は現存しないが、現存『弘仁私記』および一部の書紀古写本に「養老説」として引用の形で見える。弘仁四年(813年)博士は多人長。唯一、成書の形で私記が現存する(いわゆる私記甲本)が、書紀古写本(乾元本神代紀)に「弘仁説」として引用されている『弘仁私記』(和訓が万葉仮名で表記され上代特殊仮名遣も正確)と比べると、現在の伝本(和訓の大半が片仮名表記)は書写の過程ではなはだしく劣化したものであり、原型をとどめていないと見られる。承和六年(839年)博士は菅野高平(滋野貞主とも)。私記は現存しない。元慶二年(878年)博士は善淵愛成。私記は現存しないが、卜部兼方の『釈日本紀』に「私記」として引用されているのはこれではないかと言われている。私記作者は矢田部名実か。延喜四年(904年)博士は藤原春海。私記作者は矢田部公望。私記は現存しないが、『和名類聚抄』に「日本紀私記」として、また卜部兼方の『釈日本紀』に「公望私記」として、それぞれ引用されている。承平六年(936年)博士は矢田部公望。現在断片として伝わっている私記丁本がその私記であると推測されている。康保二年(965年)博士は橘仲遠。私記は現存しない。 なお、書紀古写本には単に「私記説」という形で引用されているものも多い。これらは上記年次私記のいずれかに由来すると思われるが、特定はできない。その他にも、書紀古写本に見られる声点付きの傍訓は何らかの由緒ある説に基づくと見られるから、上記私記の末裔である可能性がある。 ちなみに、現在成書の形で存在する『日本紀私記』には、上述した甲本・丁本の他に、僚巻と見られる乙本(神代紀に相当)と丙本(人代紀に相当)の二種類が存するが、こちらはある未知の書紀古写本から傍訓のみを抜き出し、適宜片仮名を万葉仮名に書き換えてそれらしく装ったもの(時期は院政〜鎌倉期か)と推定されており、いわゆる年次私記の直接の末裔ではない。 |
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■竟宴和歌
元慶の講筵から、終講の際に竟宴が行なわれ、「日本書紀」に因む和歌が詠まれた。歌題は、神、王、英雄、貴族などであった。元慶、延喜、承平の講筵の竟宴和歌が「日本紀竟宴和歌(にほんぎきょうえんわか)」(943年(天慶6年)成立)に編纂された。 |
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■日本書紀 | |
■神代 [上] | |
■第一段 世界のはじまり
古天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子、溟A而含牙。及其C陽者、薄靡而爲天、重濁者、淹滯而爲地、精妙之合搏易、重濁之凝竭難。故天先成而地後定。然後、神聖生其中焉。故曰、開闢之初、洲壞浮漂、譬猶游魚之浮水上也。于時、天地之中生一物。狀如葦牙。便化爲神。號國常立尊。至貴曰尊。自餘曰命。並訓美舉等也。下皆效此。次國狹槌尊。次豐斟渟尊。凡三神矣。乾道獨化。所以、成此純男。 |
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昔、まだ天と地が分かれておらず陰と陽が分かれておらず混沌としていて鶏の卵のようでした。そこにほんのちょっと兆しがありました。その澄んで明るいものは薄く広がって天となりました。重く濁ったものは地となりました。
天となるものは動きやすく地となるものは固まりにくかったのです。なので天が先に生まれ、次に地が固まりました。その後、その中に神が生まれました。 世界が生まれたとき国は漂っていました。それは魚が水に浮かんでいるようでした。 天地の中に一つのものが生まれました。アシの芽に似ていました。 國常立尊(クニノトコタチノミコト)です。(とても尊いものを「尊(ミコト)」と書きます。そのほかは「命(ミコト)」と書きます) 次に國狹槌尊(クニノサツチノミコト)、次に豐斟渟尊(トヨクムヌノミコト=トヨクモノミコト)が生まれました。 これらの三柱は対となる配偶者の居ない男神でした。 ●古事記の対応箇所 / 天地開闢と造化三神の登場 / 特別な五柱の天津神 |
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■陰と陽
中国の陰陽思想が混じっています。陽は「清らかで澄んでいるもの」、陰は「重く濁った暗黒の気」。というと陰陽は善悪という分け方、のような気がしますが、陰と陽は互いを補完する関係で、対となるものが無ければ存在も出来ない関係です。一元の善とは違うってのが味噌です。 ■道教 陰陽は道教の考え方の一つ。道教が日本に入ってきたのは3-4世紀頃(三角縁神獣鏡から推測)。つまり神功皇后が朝鮮征伐を行い、百済から中国の文化が流入してきた頃。もしくは卑弥呼の時代。ところが道教の思想はあまり日本には馴染まなかった。結局断片的なものが入ってきたものの、強い影響を残すことはなかった…というのがとりあえずの一般的な考え。 ●三角縁神獣鏡は中国では似たものも出土されていない。日本オリジナル。 ●卑弥呼は中国に朝貢していたのでつながりがあった。そこから思想が入った可能性。魏志倭人伝に卑弥呼は「鬼道」を使う、とある。鬼道は「呪術」とする場合もあるが、「道教」とする説も。 |
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■第一段 天地が分かれて、その虚空に
一書曰、天地初判、一物在於虛中。狀貌難言。其中自有化生之~。號國常立尊。亦曰國底立尊。次國狹槌尊。亦曰國狹立尊。次豐國主尊。亦曰豐組野尊。亦曰豐香節野尊。亦曰浮經野豐買尊。亦曰豐國野尊。亦曰豐囓野尊。亦曰葉木國野尊。亦曰見野尊。 |
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ある書によると……天地が分かれて、その虚空に何かがありました。その形を表現することは難しいようなものでした。その中に神が現れました。
国常立尊(クニノトコタチ)です。別名を国底立尊(クニノソコタチ)と言います。 次に国狭槌尊(クニノサツチ)。別名を国狭立尊(クニノサタチ)です。 次に豊国主尊(トヨクニヌシ)です。別名を豊組野尊(トヨクムノ)です。またの別名を豊香節野尊(トヨカフシノ)です。またの別名を浮経野豐買尊(ウカフノノトヨカヒ)です。またの別名を豐国野尊(トヨクニノ)です。またの別名を葉木国野尊(ハコクニノ)です。またの別名を見野尊(ミノ)です。 ●古事記の対応箇所 / 天地開闢と造化三神の登場 / 特別な五柱の天津神 / 神世七代 ●登場神様のまとめ 国常立尊クニノトコタチ / 国底立尊クニノソコタチ / 国狭槌尊クニノサツチ / 国狭立尊クニノサタチ / 豊国主尊トヨクニヌシ / 豊組野尊トヨクムノ / 豊香節野尊トヨカフシノ / 浮経野豐買尊ウカフノノトヨカヒ / 豐国野尊トヨクニノ / 葉木国野尊ハコクニノ / 国見野尊クニミノ |
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ややこしいようですが、実質神様は三柱しか出ていません。ほとんどが「別名」です。これだけの多くの名前があるということは、それだけ豊かな神話があったということ、かもしれませんし、単に編纂時の権力者の都合かもしれません。
日本書紀の編纂時はまだ天皇の権力は曖昧だったとされていて、中央集権国家をなすには至っていませんでした。 |
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■第一段 葦の芽が生えるように
一書曰、古國稚地稚之時、譬猶浮膏而漂蕩。于時、國中生物。狀如葦牙之抽出也。因此有化生之~。號可美葦牙彦舅尊。次國常立尊。次國狹槌尊。葉木國、此云播舉矩爾。可美、此云于麻時。 |
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ある書によると……昔、国も地も出来上がっていないときは、例えるならば水に浮かぶ油のように漂っていました。
その時、その国の中から、葦の芽が生えるように、一つの物が生まれました。そうして生まれた神を可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコヂ)と言いました。 次に生まれたのがクニノトコタチ尊。次がクニノサツチ尊。 葉木国(ハコクニ)を「播舉矩爾(ハコクニ)」といい、可美(ウマシ)を「于麻時(ウマジ)」という。 ●古事記の対応箇所 / 天地開闢と造化三神の登場 / 特別な五柱の天津神 |
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水に浮かぶ油のよう、という表現は秀逸な感じがします。古事記では「クラゲが漂うよう(特別な五柱の天津神)」という表現がありました。古事記の編纂者と日本書紀のこの段の編纂者が同じ人物でないならば、「日本人にとっての世界のはじまり」に共通のイメージがあったことになります。日本人にとって世界は海に浮かぶもの。陸地などは海に囲まれているもの。日本人の世界観が大陸由来ではないことが分かります。 | |
■第一段 初めに「神人」が居ました
一書曰、天地混成之時、始有~人焉。號可美葦牙彦舅尊。次國底立尊。彦舅、此云比古尼。 |
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ある書によると……天地が混沌としていたとき、初めに「神人」が居ました。名前は可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコヂ)です。次に国底立尊(クニノソコタチ)です。彦舅(ヒコヂ)を比古尼(ヒコジ)と言います。
●古事記の対応箇所 / 天地開闢と造化三神の登場 / 特別な五柱の天津神 |
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この書では、これまで三柱だった神が二柱にリストラ。ウマシアシカビとクニノソコタチのみです。ウマシアシカビは「第一段一書(二)葦の芽が生えるように」から登場。クニノソコタチはクニノトコタチと同一と考えるならば「第一段本文世界のはじまり」から。ウマシアシカビが「葦の生える豊かさ」、クニノソコタチが国土そのものと考えると、「天」というニュアンスが薄い。また「神人」が天地が分かれたときに生まれていて、その神がウマシアシカビだというならば、ウマシアシカビが世界の中心になります。「葦」がいかに日本人にとって「特別」な植物だったか分かります。 | |
■第一段 高天原に生まれた神
一書曰、天地初判、始有倶生之~。號國常立尊。次國狹槌尊。又曰、高天原所生~名、曰天御中主尊。次高皇産靈尊。次~皇産靈尊。皇産靈、此云美武須毗。 |
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ある書によると……天地が初めに別れて、神が生まれた。それがクニノトコタチ尊次にクニノサツチ尊。また、高天原に生まれた神が天御中主尊(アメノミナカヌシ)です。次に高皇産靈尊(タカミムスビ)。次に神皇産靈尊(カミムスビ)です。
●皇産靈(ミムスビ)は美武須毗(ミムスビ)といいます ●古事記の対応箇所 / 天地開闢と造化三神の登場 / 特別な五柱の天津神 / 神世七代 |
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天地が分かれて生まれた神と、高天原に生まれた神は別の口伝なのか?それとも天地に別れたうちの天に生まれたという意味か。それはともかくとして、古事記に登場した最初の神であるアメノミナカヌシ・タカミムスビ・カミムスビが本文ではなく一書の4でやっと登場というのは、どういう意味を持つのか。 | |
■第一段 海の上で根づくところが無いでいる浮雲
一書曰、天地未生之時、譬猶海上浮雲無所根係。其中生一物。如葦牙之初生埿中也。便化爲人。號國常立尊。 |
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ある書によると…天と地がまだ区別がつかないときのこと。それは例えるならば、海の上で根づくところが無いでいる浮雲のようだった。そこにひとつの物が生まれた。葦の芽が初めて泥の中から生えて来たようだった。やがて人の形となった。それがクニノトコタチ尊です。
●古事記の対応箇所 / 天地開闢と造化三神の登場 / 特別な五柱の天津神 / 神世七代 |
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泥から生える葦がいかに日本人にとって魅力的な…というか魔力に満ちた存在か?と分かる。ところで、これまでの中でも「ひとつの物が生まれた」という表現があって、現代の私たちから見ると「神」を「物」と表現するのが何処か、味気ないというか、失礼な感じすらします。でも「物」とは「モノノケ」の物です。そもそも「物」には「霊」が宿るものという感覚が日本人にはあります。刀鍛冶の執着心が刀に宿ったものが「妖刀」となる、なんて設定の話をよく聞きます。長く使ったモノには愛着がわくものです。「物には魂が宿る」……それは日本人にとっては当たり前のことです。
■擬人化 日本文化のおかしさ、妙なものの例として外国の人は「擬人化」を挙げます。最近ではウィンドウズなどのOSを擬人化します。またゆるキャラの多くは特産品の擬人化です。モノが魂を持つことを日本人はなんら不思議に思いません。かといっても、日本書紀での「物」が「神」というニュアンスを持っているわけではありません。物と神は繋がっていて、分けられないのです。岩や木に神がいると感じる日本人には「物」という表現は冷たい表現ではないってことです。 |
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■第一段 空中に葦の芽と脂
一書曰、天地初判、有物。若葦牙、生於空中。因此化~、號天常立尊。次可美葦牙彦舅尊。又有物。若浮膏、生於空中。因此化~、號國常立尊。 |
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ある書によると……天地が分かれて何か物がありました。葦の芽が空中に生え、これが神となりました。これがアメノトコタチ尊です。次にウマシアシカビヒコヂ尊が生まれました。また物がありました。脂が空中に生まれ、それが神となりました。それがクニノトコタチ尊です。
●古事記の対応箇所 / 天地開闢と造化三神の登場 / 特別な五柱の天津神 / 神世七代 |
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ここでは「空中」という要素が登場します。天と地があり、その中で生まれたものが「空中」に発生します。第一段一書(六)に限らず、第一段では「天」と「地」となっていて、上下の構造となっています。日本古来の世界観は「里→山(異界)」や「里→海→海の向こうの常世の国(異界)」という水平の世界観と思われるので、この天地の世界観は大陸から伝わったとよく言われます。
「第一段一書(二)葦の芽が生えるように」では天地という分け方は無く、国と地という別の価値観が提示されています。 「国」という言葉が「天」に対応しているのならば、単に「国」が「天」にすげ変わったのが「天地」で、「天」という思想は上下を表しているとは限らないかもしれません。 つまり天とは特定の集団や、特定の地域を挿しているか、連想させるものだったのではないでしょうか。それはつまり「高天原」でしょう。 |
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■第二段と第三段 神代七代
第二段本文 次有~。埿土煑尊(埿土、此云于毗尼)。沙土煑尊(沙土、此云須毗尼)。亦曰埿土根尊・沙土根尊。次有~。大戸之道尊。一云、大戸之邊。大苫邊尊。亦曰大戸摩彦尊・大戸摩姬尊。亦曰大富道尊・大富邊尊。次有~。面足尊・惶根尊。亦曰吾屋惶根尊。亦曰忌橿城尊。亦曰青橿城根尊。亦曰吾屋橿城尊。次有~。伊弉諾尊・伊弉冉尊。 第三段本文 凡八~矣。乾坤之道、相參而化。所以、成此男女。自國常立尊、迄伊弉諾尊・伊弉冉尊、是謂~世七代者矣。 |
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次に現れた神は泥土煮尊(ウヒジニ)です。別名を埿土根尊(ウヒジネ)と言います。
次に現れた神は沙土煑尊(スヒジニ)です。別名を沙土根尊(スヒジネ)と言います。 次に現れた神は大戸之道尊(オオトノジ)です。一説によると大戸之邊(オオトノベ)とも言われます。 次に現れた神は大苫邊尊(オオトマベ)です。この二柱の神は別名を大戸摩彦尊(オオトマヒコ)と大戸摩姬尊(オオトマヒメ)と言います。また別名を大富道尊(オオトミヂ)と大富邊尊(オオトミベ)と言います。 次に現れた神は面足尊(オモタル)・惶根尊(カシコネ)といいます。別名を吾屋惶根尊(アヤカシコネ)、忌橿城尊(イミカシキ)、青橿城根尊(アオカシキネ)、吾屋橿城尊(アヤカシキネ)と言います。 次に現れたのが伊弉諾尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ)です。 これらの八柱の神は天の道と地の道が交わって生まれました。それで男女となっています。クニノトコタチ尊からイザナギ・イザナミまでを神代七代と呼びます。 ●古事記の対応箇所 / 神世七代 |
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古事記の「神世七代」に対応しています。
ここでは二段と三段をまとめています。三段に「天の道と地の道が交わって生まれたから男女の神となっている」とあるように、天と地があることが男女が生まれた理由づけとなっています。 ■中国の影響とは限らない 天と地が交わって生まれるという考えを「中国の陰陽思想の影響」と見ることが多いですが、天地の思想はそもそも神話ではよくある形なので、「中国から」というのは必ずしも正しいとは限らないです。 ■天と地は神話のステレオタイプ 同様の神話はエジプトや他の地域でもあります。珍しいものではありません。天から雨が降り、地に植物が生える。これを雨を精子と考えると、大地が妊娠して植物が生える、という図式になります。そして大地は地母神として崇められます。 ●エジプトの場合は地の神ゲブと天の女神ヌト。この場合天が女神となっている。 ●中国では伏羲と女媧。 ●ギリシャ神話ではガイア(地母神)が自らウラノス(天)を生み、この母子の間に生まれたのがティターン(タイタン=巨人)。ティターンの一人であるクロノスの子供がゼウス。 ●一神教では神が天も地も想像している。 日本では上記の男女の神の対が「イザナギとイザナミ」にあたるのかというと、ちょっと違う。天地は自然と別れ、その過程で神が生まれています。それとは別にイザナギとイザナミは日本を作り、八百万の神を生んでいるわけです。つまり天地が分かれることと、日本という島々を作った神が別々になるわけです。それは、複数の神話が重なっているためです。日本人は海洋民族で、地形上神々が最後に流れ着くところです。神話が重なることはむしろ自然です。 ●7日掛けて世界を作ったという聖書の創世記が有名ですが、それは第一章で、第二章にはアダムとイブが関わる別の創世記が語られます。神話はいくつもの神話が重なり出来上がるもので、多少の矛盾は消えていった(消されたというべきか)神話の残りがのようなものです。 |
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■第二段と第三段の一書
第二段 一書曰、此二~、青橿城根尊之子也。 一書曰、國常立尊生天鏡尊。天鏡尊生天萬尊。天萬尊生沫蕩尊。沫蕩尊生伊弉諾尊。沫蕩、此云阿和那伎。 第三段 一書曰、男女耦生之~、先有埿土煑尊・沙土煑尊。次有角樴尊・活樴尊。次有面足尊・惶根尊。次有伊弉諾尊・伊弉冉尊。樴橛也。 |
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ある書によると、この二柱の神(イザナギとイザナミ)は青橿城根尊(アオカシキネ)の子供です。
ある書によると、クニノトコタチ尊は天鏡尊(アメカガミ)を生みました。天鏡尊が天万尊(アメノヨロズ)を生みました。天万尊が沫蕩尊(アワナギ)を生み、沫蕩尊がイザナギを生みました。沫蕩は阿和那伎(アワナギ)と言います ある書によると……男女は並んで耕すように生まれた。先に埿土煑尊(ウヒジニ)・沙土煑尊(スヒジニ)があって、角樴尊(ツノクイ)・活樴尊(イククイ)が生まれました。次に面足尊(オモタル)・惶根尊(カシコネ)が生まれました。次にイザナギとイザナミが生まれました。樴は「杭(クイ)」です ●古事記の対応箇所 / 神世七代 |
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古事記では神代七代の神々はかなり漠然とした存在で、名前だけしか出ていませんでしたが、イザナギとイザナミがアオカシキネ尊の子供だったり、イザナギがクニノトコタチの子孫にあたるという「人間っぽい」存在になっています。まぁ、日本の神話は十分人間臭いのですが。
クニノトコタチ(国)から、アメノカガミ(鏡)→アメノヨロズ(万)→アワナギ(泡)→イザナギと、天・鏡・国・海と後の神話の要素を強く含んだ系譜は面白い。ただしどういう意味かは分からないけど。 |
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■第四段 大八洲の誕生
伊弉諾尊・伊弉冉尊、立於天浮橋之上、共計曰、底下豈無國歟、廼以天之瓊(瓊、玉也。此云努。)矛、指下而探之。是獲滄溟。其矛鋒滴瀝之潮、凝成一嶋。名之曰磤馭慮嶋。二神、於是、降居彼嶋、因欲共爲夫婦、産生洲國。便以磤馭慮嶋、爲國中之柱(柱、此云美簸旨邏。)而陽神左旋、陰神右旋。分巡國柱、同會一面。時陰神先唱曰、憙哉、遇可美少男焉。(少男、此云烏等孤。)陽神不ス曰、吾是男子。理當先唱。如何婦人反先言乎。事既不祥。宜以改旋。於是、二神却更相遇。是行也、陽神先唱曰、憙哉、遇可美少女焉(少女、此云烏等)。因問陰神曰、汝身有何成耶。對曰、吾身有一雌元之處。陽神曰、吾身亦有雄元之處。思欲以吾身元處、合汝身之元處。於是、陰陽始遘合爲夫婦。 及至産時、先以淡路洲爲胞。意所不快。故名之曰淡路洲。廼生大日本(日本、此云耶麻騰)。下皆效此。豐秋津洲。次生伊豫二名洲。次生筑紫洲。次雙生億岐洲與佐度洲。世人或有雙生者、象此也。次生越洲。次生大洲。次生吉備子洲。由是、始起大八洲國之號焉。卽對馬嶋、壹岐嶋、及處處小嶋、皆是潮沫凝成者矣。亦曰水沫凝而成也。 |
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イザナギとイザナミは天浮橋の上に立ち、話し合いました。「この下に国があるはずなのに、無い!」宝石(=玉)の飾りのついた天之瓊矛(アメノヌボコ)を挿しこんで、下の方を探ってみると、海が生まれました。その矛から滴り落ちた塩が、固まって島となりました。
その島を磤馭慮嶋(オノコロ島)と言います。 イザナギとイザナミはこの島に降りて、夫婦となって国を生もうとしました。そこでオノコロ島を國中之柱(クニナカノミハシラ)とし、その島をイザナギが左に、イザナミが右に回りました。国の柱を回って出会って顔を見合わせたときに、イザナミが先に「あなにえやうましおとこにあいつ」(あぁ、なんという素敵な男性に会ったのでしょう!)と言いました。 イザナギは面白くない顔をして言いました。「私は男子であり、先に私から言うべきことだ。女子が先に言うべきではない。これは良くないことだ。もう一度やり直そう」それでイザナギとイザナミは引き返して出会いなおしました。イザナギは今度は先に「あな、にえやうましおとめにあいつ」(あぁ、美しい乙女に出会えた!)と言いました。 それでイザナミに「お前の体はどうなっている?」と聞くと「私の体には『女の元(はじめ)の処』があります」と答えました。 イザナギは「私には『男の元(はじめ)の処』がある。私の体の元の処と、お前の体の元の処を合わせよう」と言いました。 この陰陽を初めて合わせて夫婦となりました。 まず淡路島がエナ(胎盤)として生まれたが、エナは不愉快なものなので、吾恥(=アワジ)と名付けました。 すぐに大日本豊秋津洲(オオヤマトトヨアキツシマ)が生まれました。 次に生まれたのが伊予二名洲(イヨノフタナシマ)が生まれました。 次に筑紫洲(ツクシシマ)が生まれました。 次に隠岐洲(オキノシマ)と佐渡洲(サドノシマ)の双子を生みました。人間が双子を生むことがあるのはこのためです。 次に越洲(コシノシマ)が生まれました。 次に大洲(オオシマ)が生まれました。 次に吉備子洲(キビコジマ)が生まれました。 以上、八つの島が生まれたのが大八洲国(オオヤシマグニ)の名の由来です。対馬島(ツシマ)、壱岐島や他のもろもろの島は潮の泡が固まったり、水の泡が固まって出来たものです。 ●古事記の対応箇所 / オノゴロ島誕生 / イザナギのプロポーズ / イザナギとイザナミ、初めての… / 失敗した原因究明 / 国産み / 細かい島を産む |
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■陽神と陰神
訳文ではイザナギとイザナミと書いていますが、本文には「イザナギ」「イザナミ」ではなく「陽神」「陰神」と書かれています。これは陰陽思想の影響と考えられます。 ■海も作っている! 古事記では日本を生んだというイザナギイザナミの夫婦ですが、冒頭でアメノヌボコを突っ込んで「海」を生みだしています。天と地から生まれた二柱は海を作った、ということになります。前段までの天地創造とイザナギ・イザナミの海を作り、日本を作る作業はおそらくは別の神話をつなぎ合わせたものと推察されます。 ■オノコロ島は柱 日本では神を数えるときに「柱」を使います。柱は大事な概念です。このオノコロ島が日本の柱ということはとても大事な存在のはず、なのですが、その具体的な場所は今もハッキリとは分かりません。 ■淡路島とエナ 赤ん坊は母親の胎盤に包まれて生まれます。この胎盤のことを「エナ」と言います。母と子を結ぶモノではありますが、ルックスから言っても気持ちのいいものではありません。日本では「血」はケガレとみられ、神聖な山や島が女人禁制になっているのは月経の血がケガレているからとも。そこで胎盤として排出された島を「吾恥(あわじ=私は恥ずかしい)島」としました。でも、島の名前に植物の「粟(アワ)」を冠したと考えた方がスッキリするので、この伝承の意味がどういう意味なのかはよく分かりません。 ■吉備も同様に植物から名前が そのせいで淡路島は大八洲の「八つ」には入れてもらえませんでした。 |
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■第四段 天つ神とイザナギとイザナミ
一書曰、天神謂伊弉諾尊・伊弉冉尊曰、有豐葦原千五百秋瑞穗之地。宜汝往脩之、廼賜天瓊戈。於是、二神立於天上浮橋、投戈求地。因畫滄海、而引舉之、卽戈鋒垂落之潮、結而爲嶋。名曰磤馭慮嶋。二神降居彼嶋、化作八尋之殿。又化竪天柱。陽神問陰神曰、汝身有何成耶。對曰、吾身具成而、有稱陰元者一處。陽神曰、吾身亦具成而、有稱陽元者一處。思欲以吾身陽元、合汝身之陰元、云爾。卽將巡天柱、約束曰、妹自左巡。吾當右巡。既而分巡相遇。陰神乃先唱曰、姸哉、可愛少男歟。陽神後和之曰、姸哉、可愛少女歟。遂爲夫婦、先生蛭兒。便載葦船而流之。次生淡洲。此亦不以充兒數。故還復上詣於天、具奏其狀。時天神、以太占而卜合之。乃教曰、婦人之辭、其已先揚乎。宜更還去。乃卜定時日而降之。故二神、改復巡柱。陽神自左、陰神自右、既遇之時、陽神先唱曰、姸哉、可愛少女歟。陰神後和之曰、姸哉、可愛少男歟。然後、同宮共住而生兒。號大日本豐秋津洲。次淡路洲。次伊豫二名洲。次筑紫洲。次億岐三子洲。次佐度洲。次越洲。次吉備子洲。由此謂之大八洲國矣。瑞、此云彌圖。姸哉、此云阿那而惠夜。可愛、此云哀。太占、此云布刀磨爾。 |
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ある書によると、天津神がイザナギとイザナミにいいました。「豊葦原(トヨアシハラ)の千五百秋に瑞穂の地がある。おまえたちはそこに行って治めなさい」そこでイザナギとイザナミは天の浮橋から矛を降ろして地を求めた。
海をかき回して引き上げると、矛の先から滴り落ちた潮が固まって島になりました。これを「オノコロ島」と言います。 イザナギとイザナミはそのオノコロ島に降り立って、大きな神殿を作り、柱を立てました。 イザナギは言いました。「お前の体はどうなっているか?」イザナギは答えました。「私の体には出来上がっていて、陰元(ホト)と呼ばれる場所があります」イザナギは言いました。「私の体も出来上がっていた、陽元と呼ばれる場所がある。その陽元と陰元を合わせたいと思う」それで柱を回る約束をしました。 「妹(=イザナミ)は左に回れ。私は右を回る」二柱は別れてすぐに出会いました。 イザナミが「あな、にえやえおとこを」(あぁ、なんと美しい少年なんでしょう!!)と言いました。イザナギが「あなにえやおとめを」(あぁ、なんと美しい少女か!)と言いました。 二柱は夫婦となり、生まれた子どもは蛭子(ヒルコ)でした。その子は葦の船にのせて流してしまいました。次に生まれたのは淡洲(アワシマ)でした。これも生まれた子の数には入れませんでした。 イザナギとイザナミは神生みに失敗したことを、天に帰って伝えました。天つ神は太占(フトマニ=占い)をして、吉凶を調べて言いました。「女性が先に声をかけたのがいけない。イザナミが言ったことをお前が先に言いなさい。もう一度戻ってやり直しなさい」そうして、また天つ神は太占(フトマニ)をして、地上に降りる期日を調べてました。その日にイザナギとイザナミは地上に降り立ち、改めて、オノコロ島の柱の周りを回りました。 イザナギは左にから、イザナミは右から回り、イザナギが言いました。「あなにえやえおとめを」(あぁ、なんて美しい少女か!)イザナギが言いました。「あなえにやえおとこを!」(あぁ、なんて美しい少年なんでしょう!) その後、宮殿に住み、子どもが生まれました。大日本豐秋津洲(オオヤマトトヨアキツシマ)です。次が淡路洲(アワジシマ)、次が伊予二名洲(イヨノフタナノシマ)、筑紫洲(ツクシノシマ)、億岐三子洲(隠岐の三つ子島)、佐度洲(サドノシマ)、越洲(コシノシマ)、吉備子洲(キビノコシマ)、以上の八つの島を生んだので、これを大八洲国といいます。 ●瑞を彌圖(ミズ)といいます。姸哉を阿那而惠夜(アナシエヤ)といいます。可愛を哀(アイ)といいます。太占を布刀磨爾(フトマニ)といいます。 ●古事記の対応箇所 / オノゴロ島誕生 / イザナギのプロポーズ / イザナギとイザナミ、初めての… / 失敗した原因究明 / 国産み / 細かい島を産む |
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古事記に近い物語となっています。「第四段本文大八洲の誕生」では海すら無かった状態から海を引き出したイザナギ・イザナミですが、ここでは海はあった模様。海からアメノヌボコでオノコロ島を作り、そこに降り立ち、「神殿」を作ります。本文では島を「国の柱」と見立てて、周囲を回りましたが、ここではオノコロ島に神殿と柱を立てて、その周囲を回っています。歩く距離が短くなって、より「人っぽい」です。
■蛭子 ヒルコは当てられた字があまりに異常なので、忌むべき存在のようですが、もともとは「日る子」ではないか?とも言われます。天照大神の妹とも原型ともされる「ワカヒルメ」の「男版」という感じでしょうか。 ●三年たっても足腰の立たない不完全な神とされました。 ともかく最初の神生みは、本文でもここでも失敗です。ちなみに最初の神生みが失敗するというのも神話のパターンです。 ■イザナギとイザナミより偉い天つ神 一書では神生みに失敗したイザナギとイザナミが天の神に相談して再挑戦します。つまりイザナギとイザナミには上司がいるのです。ともかく「最高神」ではないということです。 |
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■第四段 オノコロ島
一書曰、伊弉諾尊・伊弉冉尊、二神、立于天霧之中曰、吾欲得國、乃以天瓊矛、指垂而探之、得磤馭慮嶋。則拔矛而喜之曰、善乎、國之在矣。 一書曰、伊弉諾・伊弉冉、二神、坐于高天原曰、當有國耶、乃以天瓊矛、畫成磤馭慮嶋。 一書曰、伊弉諾・伊弉冉、二神、相謂曰、有物若浮膏。其中蓋有國乎、乃以天瓊矛、探成一嶋。名曰磤馭慮嶋。 |
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ある書によると…イザナギとイザナミの二柱は天界の霧の中で「わたしは国が欲しい」と言いました。そこでアメノヌボコを天から垂らして探ると、オノコロ島を見つけ出しました。二柱の神は「よかった!国があった!」と言いました。
ある書によると…イザナギとイザナミの二神は高天原に座って、「国がある!」と言いました。そしてアメノヌボコでかき回すとオノコロ島が出来ました。 ある書によると…イザナギとイザナミの二神は互いに言いました。「油のようなものが浮いている」その中をかき回したら国があるかもしれないと、アメノヌボコでかき回すと、島が出来ました。それがオノコロ島です。 ●古事記の対応箇所 / オノゴロ島誕生 |
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大して差が無いのですが、ちょっとづつ確かに違う。オノコロ島の発生説話です。オノコロ島が生まれる経緯には「アメノヌボコ」が大事な要素となっています。古代において矛は武器ではなく呪具です。魔法のアイテムです。島が出来たり引き当てるくらいだから、魔法のアイテムなのは間違いないです。矛を海に突っ込んで、島が生まれるというのが、男性と女性のセックスを表している……というのが、よくあるフロイト的見解です。でも、それだけで説明するのは無理があるかなとも思います。
●アメノヌボコの「ぬ」は「宝石とか玉」を表しています。矛に玉がついている。確かに男性のそれ、そのものです。 ●神話は性的なニュアンスが多く含まれるのが普通です。 ■(二)の吾欲得国・(三)の当有国耶 この二つと本文の「底下豈無國歟」は「クニアラム」という大和言葉あって、それを漢文に直したのではないか?と思われます。この文言は古事記にはありません。ポリネシアの神話に「島よあれ」と発言する事で島や国や鳥が生まれたという神話があるので関係があるかもしれない。 |
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■第四段 海鳥に学ぶ
一書曰、陰~先唱曰、美哉、善少男。時以陰~先言故、爲不祥、更復改巡。則陽~先唱曰、美哉、善少女。遂將合交。而不知其術。時有鶺鴒、飛來搖其首尾。二~見而學之、卽得交道。 |
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ある書によると…イザナミが先に言いました。「あなえにえやえおとこを」イザナミが先に言ったことが良くないので、やり直すことにしました。今度はイザナギが先に言いました。「あなえにえやえおとめを」
そうして夫婦の交わりをしようとしたが、方法が分からなかった。そのとき、二羽の鶺鴒(セキレイ=海鳥)が飛んできました。そして体を揺すりました。それを見て、イザナギとイザナミは交わる方法を知ることが出来ました。 ●古事記の対応箇所 / イザナギのプロポーズ / イザナギとイザナミ、初めての… |
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あんまり書くとアレなので、細かいことは割愛しますが、アレの方法が分からなかったイザナギとイザナミが途方に暮れていると、海鳥が飛んできて、アレを始めちゃったので、それを見て、アレの仕方を知った、というもの。神様なのに何にも知らないというのが、かわいい。 | |
■第四段 島の成り立ち
一書曰、二~合爲夫婦、先以淡路洲・淡洲爲胞、生大日本豐秋津洲。次伊豫洲。次筑紫洲。次雙生億岐洲與佐度洲。次越洲。次大洲。次子洲。 一書曰、先生淡路洲。次大日本豐秋津洲。次伊豫二名洲。次億岐洲。次佐度洲。次筑紫洲。次壹岐洲。次對馬洲。 一書曰、以磤馭慮嶋爲胞、生淡路洲。次大日本豐秋津洲。次伊豫二名洲。次筑紫洲。次吉備子洲。次雙生億岐洲與佐度洲。次越洲。 一書曰、以淡路洲爲胞、生大日本豐秋津洲。次淡洲。次伊豫二名洲。次億岐三子洲。次佐度洲。次筑紫洲。次吉備子洲。次大洲。 |
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ある書によると…イザナギとイザナミは夫婦となり、まず淡路洲・淡洲がエナ(=胎盤)として生まれました。次に大日本豐秋津洲。次に伊予洲。次に筑紫洲。次に億岐洲と佐度洲。次に越洲。次に大洲。次に子洲が生まれました。
ある書によると…先に淡路洲。次に大日本豐秋津洲。次に伊予二名洲。次に億岐洲次に佐度洲。次に筑紫洲。次に壱岐洲。次に対馬洲。 ある書によると…オノコロ島をエナ(胎盤)として生まれ、淡路洲が生まれました。次に大日本豐秋津洲。次に伊予二名洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に億岐洲と佐度洲。次に越洲。 淡路洲がエナ(胎盤)として生まれ、大日本豐秋津洲が生まれました。次に淡洲。次に伊予二名洲。次に億岐三子洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に大洲。 ●古事記の対応箇所 / 国産み / 細かい島を産む |
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どうやら淡路島のことを相当に嫌っている様子。しかし名前が最初に出るということは神話の中で非常に重要な位置にあったということであり、古代に何かしら重要な役割を担っていたのではないか?と思われます。
イザナギ・イザナミ夫婦はそもそも淡路島近海の海洋民族の神だったと推察されます。古代において瀬戸内海はかなり重要な土地だったハズです。淡路島も同様です。 |
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■第四段 女性が告白して男が受け入れる
一書曰、陰神先唱曰、姸哉、可愛少男乎。便握陽神之手、遂爲夫婦、生淡路洲。次蛭兒。 |
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ある書によると…イザナミが先に言いました。「あな、にえやえおとこを」するとイザナギは手を握り、夫婦となりました。そして淡路島が生まれ、次に蛭子(ヒルコ)が生まれました。
●古事記の対応箇所 / イザナギのプロポーズ / イザナギとイザナミ、初めての… / 失敗した原因究明 / 国産み |
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■積極的なイザナミ
「第四段一書(五)海鳥に学ぶ」では海鳥に夫婦となる方法を学んだイザナギとイザナミでしたが、ここでは、手をつないだだけで夫婦となり、淡路島と蛭子が生まれます。それだけでなく、「女性が先に話しかけるなんて!」という女性蔑視とも取れる物語もなく、イザナミが誘ってそのままゴールインです。女性が積極的というよりは、女性がリードするのが、本来の日本の性意識でしょう。この物語が日本の古代の原初の匂いを残している、ような気がします。日本では豪族のトップが女性というのも珍しくありませんでした。しかし律令国家を目指す過程で、(システム上で必要なので)中国の男尊女卑という考えに移行していったと思われます。 ●卑弥呼が女性であることを中国の使者はとても驚いています。卑弥呼の時代は3世紀。日本が律令国家を目指すのが7−8世紀で、記紀の成立が8世紀初頭。 ●イザナギとイザナミが柱の周囲を回って夫婦となるというのは中国の少数民族ミャオ族に見られるもので、いつかは分からないが日本に伝わったと思われます。 ●神話で第一子が失敗である理由は胎盤を第一子と見るため |
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■第五段 神々を生む
次生海。次生川。次生山。次生木祖句句廼馳。次生草祖草野姬。亦名野槌。既而伊弉諾尊・伊弉冉尊、共議曰、吾已生大八洲國及山川草木。何不生天下之主者歟。於是、共生日~。號大日孁貴。(大日孁貴、此云於保比屢灯\武智。孁音力丁反)。一書云、天照大~。一書云、天照大日孁尊。此子光華明彩、照徹於六合之內。故二~喜曰、吾息雖多、未有若此靈異之兒。不宜久留此國。自當早送于天、而授以天上之事。是時、天地相去未遠。故以天柱、舉於天上也。次生月~。一書云、月弓尊、月夜見尊、月讀尊。其光彩亞日。可以配日而治。故亦送之于天。次生蛭兒。雖已三歲、脚猶不立。故載之於天磐櫲樟船、而順風放棄。次生素戔鳴尊。一書云、~素戔鳴尊、速素戔鳴尊。此~、有勇悍以安忍。且常以哭泣爲行。故令國內人民、多以夭折。復使青山變枯。故其父母二~、勅素戔鳴尊、汝甚無道。不可以君臨宇宙。固當遠適之於根國矣、遂逐之。 |
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イザナギとイザナミは次に海を生みました。次に山を生みました。次に木の祖先となる句句廼馳(ククノチ)を生みました。次に草の祖先となる草野姬(カヤノヒメ)を生みました。別名を野槌といいます。
イザナギとイザナミは話し合いました。「私たちは大八洲国と山や川や草木を生んだ。どうして天下を治めるものを生まれないのか?」そこでイザナギとイザナミは太陽の神を生みました。名前を大日孁貴(オオヒルメノムチ)といいます。 ある書には天照大神(アマテラスオオミカミ)と言います。ある書には天照大日孁尊(アマテラスオオヒルメ)と言います。 この子(=オオヒルメ)の体が光輝いて、天地を照らしました。それを見てイザナギとイザナミは喜んで「子を沢山作ったけども、これほど霊力の強い子はいなかった。この国に長く置いておくわけにはいかない」 イザナギとイザナミはオオヒルメを天に挙げて、天上のことを教え込むことにしました。 このときはまだ、天と地が遠くは離れていなくて、近かった。オノコロ島に立てた柱から手でオオヒルメを天に上げました。 次に月の神が生まれました。ある書によると月弓尊(ツクユミ)、月夜見尊(ツキヨミ)、月読尊(ツキヨミ)と言います 月の神の光は日の神の次に明るく、日に添えて天を治めることが出来ると考えて、同じように天に送りました。 次に蛭子(ヒルコ)が生まれました。 三歳になっても足が立ちませんでした。そこで天磐櫲樟船(アメノイワクスフネ)に乗せて風のままに流して捨ててしまった。 次に素戔鳴尊(スサノオ)が生まれました。ある書によると神素戔鳴尊(カムスサノオ)、速素戔鳴尊(ハヤスサノオ)といいます スサノオは勇敢でしたが、我慢がきかず、いつも泣き喚いていました。そのため国の人間は死んでしまい、青い山々は枯れ果てました。 そこでイザナギとイザナミはスサノオに 「お前は道に外れている。宇宙に君臨することは出来ない。遠い根の国へ行ってしまえ」と言い、追放しました。 ●古事記の対応箇所 / 神を生み始める / 河口に関する神が産まれる / 風と山の神が産まれる / オオヤマヅミの子供たち / 三貴神の誕生 / 三貴神の分割統治 / 荒ぶる速須佐之男命は母恋しく |
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■古事記とはいろいろと違う
ヒルコが三貴神(アマテラス・ツキヨミ・スサノオ)と同じタイミングで生まれた兄弟となっています。古事記では三貴神が生まれたタイミングはイザナミの死後に黄泉の国に行って、そのケガレを落とした時でした。 ■ヒルメという言葉 大日孁貴(オオヒルメノムチ)の「貴(ムチ)」は「霊威がある」という意味。「大(オオ)」も「とても」という意味です。日孁(ヒルメ)は「日」「ル」「女」という意味で太陽の女神といったところ。問題はこの「孁」で漢字としては別に似たようなもので下の女が「巫」の「靈」という字もあります。ヒルメという表記をするのはどちらでもよかったはずです。これを「孁」としたのはオオヒルメノムチが「女性」であったことと、同時に「巫女」とは違う。特別な存在だった、という意味かもしれません。 ■スサノオの霊威 スサノオは優秀なオオヒルメ(=天照大神)と地味ながらも問題の無いツキヨミ。そして不完全な存在のヒルコの弟として生まれました。霊力は周囲の人が死に、山が枯れるほど。なのに、そのコントロールが効かないという、理性の無い赤ん坊のような神です。しかし、これが日本のスタンダードな「英雄像」とも言えます。奇妙な出生、手がつけられない子供時代、親に捨てられて、最後は英雄となる。 |
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■第五段 三貴神の誕生
一書曰、伊弉諾尊曰、吾欲生御宇之珍子、乃以左手持白銅鏡、則有化出之神。是謂大日孁尊。右手持白銅鏡、則有化出之神。是謂月弓尊。又廻首顧眄之間、則有化神。是謂素戔鳴尊。卽大日孁尊及月弓尊、並是質性明麗。故使照臨天地。素戔鳴尊、是性好殘害。故令下治根國。珍、此云于圖。顧眄之間、此云美屢摩沙可梨爾。 |
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ある書によると……イザナギは言いました。「わたしは天下を治めるべき子を産みたい」それで左手に白銅の鏡を持つと、それが変化して神が生まれました。それが大日孁尊(オオヒルメ)です。
次に右手に白銅の鏡を持つと、変化して神が生まれました。これが月弓尊(ツキヨミ)です。 また首を回して、よそ見をしている間に生まれたのが素戔鳴尊(スサノオ)です。 オオヒルメとツキヨミはどちらも明るく美しいものでした。両者は天地を照らしました。しかしスサノオは残虐なので、根の国(=死者の国)を収めました。 ●珍は于圖(ウズ)といいます。顧眄之間は美屢摩沙可梨爾(ミルマサカリニといいます) ●古事記の対応箇所 / 三貴神の誕生 / 三貴神の分割統治 / 荒ぶる速須佐之男命は母恋しく |
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後に天照大神が「鏡を私だと思って祭りなさい」とニニギに託すとされる「鏡」から天照大神ことオオヒルメが生まれています。鏡は太陽の象徴ということになります。しかし鏡の語源は「カガメ」で「蛇の目」とする説もあります。鏡餅が白い蛇がとぐろを巻いていることを模していること、また、蛇が古代においてネズミ避けの力を持ち、豊穣の象徴だったからです。
鏡と蛇が繋がったとしてもおかしくはありません。つまり、穀物を育む太陽(=鏡)と、収穫した穀物を守る蛇は、セットということです。 ■スサノオの残虐さと出生 イザナギとイザナミのハッキリとした意志から生まれたオオヒルメとツキヨミに対して、よそ見している間に生まれたスサノオ。衝動的な欲望を表しているんでしょう。 |
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■第五段 三貴神からワクムスビまで
一書曰、日月既生。次生蛭兒。此兒年滿三歲、脚尚不立。初伊弉諾、伊弉冉尊、巡柱之時、陰~先發喜言。既違陰陽之理。所以、今生蛭兒。次生素戔鳴尊。此~性惡、常好哭恚。國民多死。青山爲枯。故其父母勅曰、假使汝治此國、必多所殘傷。故汝可以馭極遠之根國。次生鳥磐櫲樟橡船。輙以此船載蛭兒、順流放棄。次生火~軻遇突智。時伊弉冉尊、爲軻遇突智、所焦而終矣。其且終之間、臥生土~埴山姬及水~罔象女。卽軻遇突智娶埴山姬、生稚産靈。此~頭上、生蠶與桑。臍中生五穀。罔象、此云美都波。 |
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ある書によると……オオヒルメとツキヨミが生まれた後に、ヒルコが生まれました。ヒルコは3歳になっても足で立つことができませんでした。
これはイザナギとイザナミが柱を回ったときにイザナミから話しかけたためです。世界の道理に反したことをしたからです。だからヒルコが生まれたのです。 次に生まれたのはスサノオです。スサノオは鳴きわめき、怒り狂うばかりでした。そのため国民が沢山死んでしまい、山は枯れ果てました。 イザナギとイザナミはスサノオに「もしもお前がこの国をおさめたら、必ず多くのものが傷つけられる。だからおまえは遠い根の国へ行け」と言いました。 次に鳥磐櫲樟橡船(トリノイワクスフネ)が生まれました。この船に蛭子を乗せて流してしまいました。 次に火の神の軻遇突智(カグツチ)が生まれました。このときにイザナミは焼け焦げて死んでしまいました。 イザナミが焼け死んでしまうまでに、土の神の埴山姫(ハニヤマヒメ)と水の神の罔象女(ミズハノメ)が生まれました。 カグツチがハニヤマヒメを娶って稚産霊(ワクムスヒ・ワクムスビ)が生まれました。 ワクムスビの頭から蚕と桑が生まれました。へそから五穀が生まれました。 ●罔象を美都波(みつは)といいます ●古事記の対応箇所 / イザナギとイザナミ、初めての… / 失敗した原因究明 / 三貴神の誕生 / 荒ぶる速須佐之男命は母恋しく / 次に生める神の名は / イザナミの苦しみ / 五穀が生まれる |
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■ここの一書はなかなか濃厚
●ヒルコは3歳まで足腰が立たず捨てられる ●蛭子を乗せた船もイザナギとイザナミが生んだ。 ●カグツチでイザナミが火傷を負う。 ●イザナミはハニヤマヒメとミズハノメを生んで死亡。 ●カグツチはハニヤマヒメと結ばれてワクムスビが生まれる(古事記ではイザナギに剣で切られて殺される)。 ●ワクムスビから蚕と桑と五穀が生まれる。 という具合に短いながらも要素がてんこ盛りで、かなりはしょっていると思われます。 防火の神としてまつられるカグツチ。古事記では殺されているのに、現代の神社に祭られるってなんか変。つじつまが合わない、と思っていましたが、こうやって一書を見ていると、「死なない話もたくさんあったんだろうな」と考えが変わりました。 ■鳥磐櫲樟橡船 トリノイワクスフネは古事記でタケミカヅチが葦原中国に降りるときにも乗っていた「天鳥船」と同一とされます(名前は違う)。他にも事代主神に意見を聞くためにタケミカヅチが稲背脛命(イナセハギ命)を熊野諸手船(別名を天鳩船)に乗せて派遣しています。 ●空を飛ぶ船…と書かれているわけではないのですが、名前からどうしてもそれを連想してしまうので、そういう書かれ方をすることが多い。オカルトではUFOや宇宙人と重ねることもある。 ●クスノキで出来ているとされます。クスノキは腐りにくく、固く、丈夫で、船の材料として古代に日本に持ち込まれた。日本に昔から自生する植物ではありません。クスノキの大半は九州に自生しています。 ■ワクムスビとハイヌウェレ神話 神から五穀が生まれるという物語はハイヌウェレ神話といいます。このハイヌウェレ神話は焼き畑農業を神話化したもので、火の神カグツチ+土の神ハニヤマヒメ→ワクムスビのハイヌウェレ神話は出来すぎだと思うほどです。 |
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■第五段 火産靈
一書曰、伊弉冉尊、生火産靈時、爲子所焦、而~退矣。亦云、~避。其且~退之時、則生水~罔象女及土~埴山姬、又生天吉葛。天吉葛、此云阿摩能與佐圖羅。一云、與曾豆羅。 一書曰、伊弉冉尊、且生火~軻遇突智之時、悶熱懊悩。因爲吐。此化爲~。名曰金山彦。次小便。化爲~。名曰罔象女。次大便。化爲~。名曰埴山媛。 一書曰、伊弉冉尊、生火~時、被灼而~退去矣。故葬於紀伊國熊野之有馬村焉。土俗祭此~之魂者、花時亦以花祭。又用鼓吹幡旗、歌舞而祭矣。 |
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ある書によると…イザナミはホムスヒ(火産靈・ホムスビ)を生んだときに、その子のために焼け死んでしまい、神ではなくなってしまいました。イザナミの死後、水の神の罔象女(ミズハノメ)と土の神の埴山姬(ハニヤマヒメ)が生まれました。また天吉葛(アマノヨサヅラ)が生まれました。
ある書によると…イザナミは火の神カグツチを生んだときに、熱に悶え苦しみました。その痛みのあまりに吐いたものが神となりました。名前を金山彦(カナヤマヒコ)と言います。小便が神となったものが罔象女(ミズハノメ)といいます。大便が神となったものが埴山姬(ハニヤマヒメ)といいます。 ある書によると…イザナミは火の神を生んだときに、その火に焼かれて死んでしまいました。紀伊国熊野の有馬村に葬られました。この土地では神の魂を、花が咲くときに花をささげて祀り、太鼓を馴らし、笛を吹き、旗を振って、歌い踊ります。 ●天吉葛は「阿摩能與佐圖羅(アマノヨサヅラ)」といいます。もしくは與曾豆羅(ヨソヅラ)といいます。 ●古事記の対応箇所 / 刀(剣)から生まれた神 |
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■吐しゃ物が神に?
吐しゃ物がカナヤマヒコという「鉱山・鉱物」の神と変化したのは、金属を溶かしたものが吐しゃ物に似ているから、というのがもっともらしい説明となっています。でも、どうもピンと来ませんね。 農業にとって「金属器」は耕作を簡単にする「農業革命」でした。カナヤマヒコという金属系の神がミズハノメ・ハニヤマヒメと共に語られるのは、農具としてなのかも ■ミズハノメとハニヤマヒメ ミズハノメは名前からして水でありつつ、尚且つ「おしっこ」の神。ハニヤマヒメは「山」かと思えば「うんこ」の神。どちらの解釈としても「農業」に関わる神です。 ■カグツチの価値 カグツチは火の神ですが、火の神がミズハノメ・ハニヤマヒメという農業の神と関わって語られるのは「焼き畑農業」の名残ではないか?と考えるのは突飛でしょうか。 火の神なのに名前に「土(ツチ)」が入っているのも偶然とは思えないんですよね。 |
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■第五段 冥土めぐり
一書曰、伊弉諾尊與伊弉冉尊、共生大八洲國。然後、伊弉諾尊曰、我所生之國、唯有朝霧而、薫滿之哉、乃吹撥之氣、化爲~。號曰級長戸邊命。亦曰級長津彦命。是風~也。又飢時生兒、號倉稻魂命。又生海~等、號少童命。山~等號山祇。水門~等號速秋津日命。木~等號句句廼馳。土~號埴安~。然後、悉生萬物焉。至於火~軻遇突智之生也、其母伊弉冉尊、見焦而化去。于時、伊弉諾尊恨之曰、唯以一兒、替我愛之妹者乎、則匍匐頭邊、匍匐脚邊、而哭泣流涕焉。其淚墮而爲~。是卽畝丘樹下所居之~。號啼澤女命矣。遂拔所帶十握劒、斬軻遇突智爲三段。此各化成~也。復劒刃垂血。是爲天安河邊所在五百箇磐石也。卽此經津主~之祖矣。復劒鐔垂血、激越爲~。號曰甕速日~。次熯速日~。其甕速日~、是武甕槌~之祖也。亦曰甕速日命。次熯速日命。次武甕槌~。復劒鋒垂血、激越爲~。號曰磐裂~。次根裂~。次磐筒男命。一云、磐筒男命及磐筒女命。復劒頭垂血、激越爲~。號曰闇龗。次闇山祇。次闇罔象。 |
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ある書によると…イザナギとイザナミは共に大八洲国を生みました。するとイザナギは「生まれた国は、まだ朝霧に包まれて、朝霧の香りが立ち込めている」と言いました。そして朝霧を吹き飛ばそうとして吐いた息が神となりました。その神の名は級長戸辺命(シナトベ)といいます。別名を級長津彦命(シナツヒコ)といいます。風の神です。
するとイザナギはお腹が空いてしまいました。 そうして生まれたのが倉稲魂命(ウカノミタマ)です。 その後は様々なものが生まれました。 海の神の名前は少童命(ワタツミ)です。 山の神の名前は山祇(ヤマツミ)です。 水門(ミナト=港)の神の名前は速秋津日命(ハヤアキツヒ)です。 木の神の名前は句句廼馳(ククノチ)です。 土の神の名前は埴安神(ハニヤス)です。 そして火の神の軻遇突智(カグツチ)が生まれました。 イザナミはカグツチの火で焼け死んでしまいました。イザナギはその死を悲しみ、恨みました。「たった一児のを愛する妹(=妻)と引き換えにしたのか!!」と言いました。そしてイザナミの頭の周囲で腹ばいになり泣き、足の周囲でまた腹ばいになって鳴きました。 その涙が神となりました。畝丘の木の下に居る神で、名前を啼澤女命(ナキサワメ)といいます。 イザナギは十握剣(トツカノツルギ)でカグツチを三段に切りました。それらの部位がそれぞれ神となりました。 剣の刃からカグツチの血が垂れて、天安河の500個の磐石となりました。これが経津主神(フツヌシ)の祖先となりました。 剣の鍔(ツバ)からも血が垂れて神となりました。その神の名前を甕速日神(ミカハヤヒ)といいます。次に生まれたのが熯速日神(ヒノハヤヒ)といいます。ミカハヤヒノカミは武甕槌神(タケミカヅチ)の祖先です。 もしくは甕速日命(ミカハヤヒ)が生まれ、次に熯速日~(ヒノハヤヒ)、次に武甕槌神(タケミカヅチ)が生まれとも言われています。 剣先からしたたる血が神になりました。名前を磐裂神(イワサク)といいます。次に根裂神(ネサク)、次に磐筒男命(イワツツノヲ)です。 一説には、磐筒男命(イワツツノヲ)と磐筒女命(イワツツノメ)が生まれました 次に剣の柄から血がしたたり、神となりました。名前を闇龗(クラオカミ)といいます。次に闇山祇(クラヤマズミ)が生まれました。次に闇罔象(クラミズハ)が生まれました。 ●古事記の対応箇所 / 神を生み始める / 河口に関する神が産まれる / 風と山の神が産まれる / オオヤマヅミの子供たち / 次に生める神の名は / イザナミの苦しみ / イザナギ、妻を失い、涙を流す / 刀(剣)から生まれた神 / 火の神の死体から産まれた神 |
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細かい部分はさておいても、古事記の本編に近い内容になっています。カグツチが生まれて、イザナミが死に、イザナギがカグツチを殺し、その後イザナミを迎えに行く、というもの。 | |
■第五段 黄泉の国
然後、伊弉諾尊、追伊弉冉尊、入於黃泉、而及之共語時。伊弉冉尊曰、吾夫君尊、何來之晩也。吾已湌泉之竈矣。雖然、吾當寢息。請勿視之。伊弉諾尊不聽、陰取湯津爪櫛、牽折其雄柱、以爲秉炬、而見之者、則膿沸蟲流。今世人夜忌一片之火、又夜忌擲櫛、此其緣也。 時伊弉諾尊、大驚之曰、吾不意到於不須也凶目汚穢之國矣、乃急走廻歸。于時、伊弉冉尊恨曰、何不用要言、令吾恥辱、乃遣泉津醜女八人、一云、泉津日狹女、追留之。故伊弉諾尊、拔劒背揮以逃矣。因投K鬘。此卽化成蒲陶。醜女見而採噉之。噉了則更追。伊弉諾尊、又投湯津爪櫛。此卽化成筍。醜女亦以拔噉之。噉了則更追。後則伊弉冉尊、亦自來追。是時、伊弉諾尊、已到泉津平坂。 一云、伊弉諾尊、乃向大樹放尿。此卽化成巨川。泉津日狹女、將渡其水之間、伊弉諾尊、已至泉津平坂。 故便以千人所引磐石、塞其坂路。與伊弉冉尊相向而立、遂建絶妻之誓。 |
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その後、イザナギはイザナミの跡を追って黄泉の国に入り、話し合いました。
イザナミは「わたしの夫イザナギよ。どうしてもっと早く来なかったのですか?わたしはもう、この黄泉の国の竈(カマド)で炊いた食べ物を口にしてしまったのです。私は今から寝るところです。どうか、見ないでください」と頼みました。 しかしイザナギは聞き入れずに、髪に挿していた神聖な櫛「湯津爪櫛(ユツツマクシ)」を手に取り、櫛の端の太い歯(=男柱)を折って、火をつけて松明の代わりにして、イザナミの寝姿を見ました。 イザナミの体にはウジ虫が這いまわり、膿が噴出していました。現在の人が、夜に一本の明かりを灯す「ひとつ火」を嫌い、夜に櫛を投げるのを嫌うのは、このためです。 イザナギは驚きました。「私は何も知らないうちに、とんでもなく嫌な、汚らわしいところに来てしまっていた!!」と言うと大急ぎで走り去りました。それを聞いたイザナミはイザナギを恨みました。「どうして、あなたはわたしに恥をかかせるのですか!!!」と言うと、イザナミは泉津醜女(ヨモツシコメ)を8人さし向けました。一説によると泉津日狹女(ヨモツヒサメ)がヨモツシコメが追うのを止めた、とも。 イザナギは追ってくるヨモツシコメに気づいて、剣を抜き、振って逃げました。イザナギが黒いカツラ(髪留めのこと)を投げると、それが野葡萄の実になりました。ヨモツシコメたちはそれを摘んで食べました。食べ終わると更に追いかけました。イザナギが湯津爪櫛(ユツツメクシ)を投げると、これがタケノコになりました。ヨモツシコメはタケノコを引き抜いて食べました。食べ終わると更に追いかけました。イザナミも追いかけ始めました。このとき、イザナギはあの世とこの世の境にあるという泉津平坂(ヨモツヒラサカ)にたどり着きました。 一説によると、イザナギが大きな木におしっこをしました。これが大きな川になり、それをヨモツシコメが渡っている間にイザナギは泉津平坂にたどり着いた、とも言われています。 イザナギは、千人が引っ張ってやっと動くような大きな石で坂道を塞いでしまいました。そこで岩を挟んでイザナミと向かい合い、絶縁の申し出をしたのです。 ●古事記の対応箇所 / 黄泉の国へ / イザナミは既に… / 逃げろ! / 日本最初の離婚・死の呪い |
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■オルフェウスの冥土巡り
明治時代に日本を訪れた学者が驚いたのが、日本の神話がギリシャ神話に似ていることでした。その中で特異なのが「イザナギとイザナミ」のこの物語と「オルフェウスの冥土巡り」でした。 ■ヨモツヒサメについて ヨモツヒサメのくだり(一云、泉津日狹女、追留之。)は本によって書き方が違います。ヨモツヒサメがヨモツシコメの別名という書き方をしている人もいます。漢文の知識はないのでこの訳が正しいかは分かりません。 ●日本書紀の神代の漢文は文法が無茶苦茶という指摘がある。漢文として成立していないらしいです。よって私の訳が正しいのかもしんない。 ■野葡萄とタケノコ 野葡萄は食用としてだけでなく、ツルで編んで道具を作ることが出来ます。タケノコも同様に食べられて、道具の材料として便利です。どちらも「人間を助ける」ということから、特別視されていたのではないか?と思われます。 |
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■第五段 千人殺し、千五百人生ませる
時伊弉冉尊曰、愛也吾夫君、言如此者、吾當縊殺汝所治國民日將千頭。伊弉諾尊、乃報之曰、愛也吾妹、言如此者、吾則當産日將千五百頭。 因曰、自此莫過、卽投其杖。是謂岐神也。又投其帶。是謂長道磐神。又投其衣。是謂煩神。又投其褌。是謂開囓神。又投其履。是謂道敷神。 其於泉津平坂、或所謂泉津平坂者、不復別有處所、但臨死氣絶之際、是之謂歟。 所塞磐石、是謂泉門塞之大神也。亦名道返大神矣。 |
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イザナミは言いました。「愛おしい私の夫(イザナギ)が『別れる!』と言うのであれば、私はこれから毎日、あなたの治める国の千人の人間の首を絞め殺してやりましょう!」
するとイザナギは「愛おしい私の妻よ。おまえがそう言うならば、私は一日に千五百人を生ませよう」と答えました。 それで「ここから先に来てはいけない」と言い、杖を投げました。この杖が岐神(フナド)となりました。 帯も投げました。この帯が長道磐神(ナガチハ)となりました。 衣を投げました。この衣が煩神(ワズライ)となりました。 褌(フンドシ)を投げました。この褌が開囓神(アキクイ)となりました。 靴を投げました。その靴が道敷神(ミチシキ)となりました。 泉津平坂というものは、引き返すことのできない場所というが、死ぬ間際のことをそう呼んだのだろうか? 泉津平坂を岩で塞いだ処を泉門塞之大神(ヨミドノサエノオオカミ)といいます。別名を道返大神(チガエシノオオカミ)といいます。 ●古事記の対応箇所 / 日本最初の離婚・死の呪い |
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■人間の生と死
これ以降、人間には死が訪れるようになった、のかどうかは、分からないけど、「死」の起源がこれ。 まぁそれ以前に、イザナミが死んで黄泉の国へ行っているわけで、神に「死」はあったのですね。それはつまり、「死」は神の特権だったのかもしれない。それは考え過ぎか。 ■離婚するのも一苦労 イザナギとイザナミはこれに晴れて離婚。その離婚の中で、岐神(フナド)、長道磐神(ナガチハ)、煩神(ワズライ)、開囓神(アキクイ)、道敷神(ミチシキ)、道返大神(チガエシノオオカミ)が生まれます。 これらの神様はどうも「道」に関わる神で、煩神(ワズライ)は服を脱ぐ=「煩わしさから解放される」ということで、一見関係ないような、いや、旅を終えて一息つくというイメージなら「道」に繋がるかと。 ■オトタチバナ 小戸で「小さい港」の意味なので、「オトタチバナ」という地名かというと、よくわからない。 |
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■第五段 海の神々
伊弉諾尊既還、乃追悔之曰、吾前到於不須也凶目汚穢之處。故當滌去吾身之濁穢、則往至筑紫日向小戸橘之檍原、而秡除焉。遂將盪滌身之所汚、乃興言曰、上瀬是太疾、下瀬是太弱、便濯之於中瀬也。因以生神、號曰八十枉津日神。次將矯其枉而生神、號曰神直日神。次大直日神。又沈濯於海底。因以生神、號曰底津少童命。次底筒男命。又潛濯於潮中。因以生神、號曰表中津少童命。次中筒男命。又浮濯於潮上。因以生神、號曰表津少童命。次表筒男命。凡有九神矣。其底筒男命・中筒男命・表筒男命、是卽住吉大神矣。底津少童命・中津少童命・表津少童命、是阿曇連等所祭神矣。 |
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イザナギは黄泉の国から帰ってくるとイザナミを追ったことを後悔して言いました。
「私は、なんという酷く汚く穢れた所に行ってしまっていたのか!!わたしの身についた穢れを洗い落とそう」 すぐに筑紫の日が当たる小戸橘(オトタチバナ)の檍原(アハギハラ)で禊(ミソギ)をしました。 汚れを祓おうと、声をあげました。 「上の瀬は流れが速いが、下の瀬は流れがゆるやかだなぁ中の瀬で洗おう!」 そこで生まれた神は八十枉津日神(ヤソマガツヒ=災厄の神)です。 次にその災厄を直そうとして生まれたのが神直日神(カムナオシヒ)です。 次に大直日神(オオナオシヒ)です。 海の底で潜って身を洗って生まれたのが底津少童命(ソコツワタツミ)です。次に底筒男命(ソコツツノオ)です。 潮の中で潜って身を洗って生まれたのが表中津少童命(ウワナカツワタツミ)です。次に中筒男命(ナカツツオ)です。 潮の上に浮かんで身を洗って生まれたのが表津少童命(ウワツワタツミ)です。次に表筒男命(ウワツツオ)です。 合わせて九柱の神が生まれました。 底筒男命(ソコツツノオ)、中筒男命(ナカツツオ)、表筒男命(ウワツツオ)は住吉大神(スミノエノオオカミ)です。 底津少童命(ソコツワタツミ)、表中津少童命(ウワナカツワタツミ)、表津少童命(ウワツワタツミ)は阿曇連(アズミノムラジ)達の祀る神です。 ●古事記の対応箇所 / 現世に帰還・ケガレを祓う |
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お話としては古事記とほぼ同じとなっています。
■三人組の理由 住吉大神や宗像三女神が3人組となっているのは、古代に於いて船の移動の際、位置や方角を知るために「星」が利用されたためと言われています。その方角を知るための星が「オリオン座」のアルニタク・アルニラム・ミンタカの腰のベルトの三連星です。 ●世界各国で三つ星は特別視されていた。 ●エジプトのギザの三大ピラミッドはこの三つ星を表しているとも。 ●毛利家の家紋の一文字三つ星はオリオン座の腰の三つ星を表しているとも。 ●マンガ「あぁ女神さま」の「ウルド・スクルド・ベルダンディ」は北欧神話の海の女神で三姉妹。これも宗像三女神と同様の理由と思われる。 ■三貴神も、もしかすると これまで三貴神(アマテラス・ツキヨミ・スサノオ)は「太陽+月」と「スサノオ(←意味不明ナニコレ?)」と考えがちでしたが、上記の住吉大神が「三つ星」をルールにしているならば、三貴神も同様に「海」に関わる神だったのかもしれません。 海というよりは「海運業」でしょう。 太陽と月は昼と夜の航海にとっては、自分の位置を知るために重要だったでしょう。スサノオは…風でしょうね。では古代では風を帆で受けて進んでいたか??それは分かりません。単に風で海が荒れるのを恐れたのかもしれません。 もしかすると、帆で風を受けて前に進むという「良い力」と、海が荒れるという「恐ろしい力」の二律背反(アンビバレンツ)な力を表したのが、高天原での乱暴狼藉とその後の出雲での英雄像になったのかもしれません。 |
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■第五段 三貴神の誕生と統治
然後、洗左眼。因以生神、號曰天照大神。復洗右眼。因以生神、號曰月讀尊。復洗鼻。因以生神、號曰素戔鳴尊。凡三神矣。已而伊弉諾尊、勅任三子曰、天照大神者、可以治高天原也。月讀尊者、可以治滄海原潮之八百重也。素戔鳴尊者、可以治天下也。是時素戔鳴尊、年已長矣。復生八握鬚髯。雖然不治天下、常以啼泣恚恨。故伊弉諾尊問之曰、汝何故恆啼如此耶。對曰、吾欲從母於根國、只爲泣耳。伊弉諾尊惡之曰、可以任情行矣、乃逐之。 |
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イザナギが左目を洗うと神が生まれました。名前を天照大神(アマテラス)といいます。右目を洗うと神が生まれました。名前を月読尊(ツキヨミ)といいます。鼻を洗うと神が生まれました。名前を素戔鳴尊(スサノオ)といいます。合わせて三柱の神です。
イザナギは三柱の神に仕事を与えました。 「天照大神は高天原を治めなさい。月読尊は蒼海原を治めなさい。スサノオは天下を治めなさい」 この時、スサノオはすでに大人になっていて、長いヒゲも生えていました。ところが、天下を治めず、泣き喚いて駄々をこねました。 そこでイザナギが聞きました。「どうして、いつも泣いているのか?」 スサノオは答えました。「わたしは根の国の母(=イザナミ)を慕っているのです。それで泣いているのです」 イザナギは不愉快になり、「好きにしろ!!」とスサノオを追放してしまいました。 ●古事記の対応箇所 / 三貴神の誕生 |
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■三貴神の関係
太陽と月と風。太陽は昼、月は夜。それだけでなく、海に居る時に自分の位置と方角を示す存在です。スサノオが表す「風」は、帆船があったかどうかはともかく、推進力であり、同時に海が荒れて転覆する原因ともなる恐ろしい存在です。 ■日本人はタタリを恐れる 日本人の宗教は基本的に「タタリを鎮める」ものです。怖いから、「まぁまぁ、そうおっしゃらずに、お怒りを鎮めてくださいよー」とお供え物をして機嫌を取るのが日本の宗教です。つまり、恐ろしい存在がより強い霊威を持つことになります。 縄文人も弥生人も海を伝って日本にやってきました。遺伝子の分布を考えると縄文人は確実に台湾沖縄を経由しています。弥生人も中国から直接来た可能性もありますが、縄文人と同じルートをたどったのではないか、と思われます。 その当時の日本人にとって海と船が生活の基盤でした。その生活では、何より恐ろしいのは「風」でした。風が波を起こし、嵐を起こし、船をひっくり返すのです。恐ろしい霊威を感じたでしょう。確かに太陽と月は方角を示す頼れる存在でしたが、それよりも風の恐怖は凄まじいものだったハズです。 スサノオが根の国(死者の国)の母を思い泣き喚くのはスサノオに風が嵐を呼び船をひっくり返し、人々を殺すという「死」の匂いがあったからだと考えています。 イザナミ・イザナギも海の民族の神と言われています。 ■海運から稲作へ 海の民の縄文人弥生人が日本で農業を始め、ついに水田稲作を行うようになると、重要な存在は風から太陽に移ります。相変わらず月は影が薄いです。 |
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■第五段 三段切り
一書曰、伊弉諾尊、拔劒斬軻遇突智、爲三段。其一段是爲雷~。一段是爲大山祇~。一段是爲高龗。 又曰、斬軻遇突智時、其血激越、染於天八十河中所在五百箇磐石。而因化成~、號曰磐裂~。次根裂~、兒磐筒男~。次磐筒女~、兒經津主~。 倉稻魂、此云宇介能美拕磨。少童、此云和多都美。頭邊、此云摩苦羅陛。脚邊、此云阿度陛。熯火也。音而善反。龗、此云於箇美。音力丁反。吾夫君、此云阿我儺勢。湌泉之竈、此云譽母都俳遇比。秉炬、此云多妣。不須也凶目汚穢、此云伊儺之居梅枳枳多儺枳。醜女、此云志許賣。背揮、此云志理幣提爾布倶。泉津平坂、此云餘母都比羅佐可。尿、此云愈磨理。音乃弔反。絶妻之誓、此云許等度。岐~、此云布那斗能加微。檍、此云阿波岐。 |
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ある書によると……イザナギは剣を抜き、カグツチを三段に斬りました。
一段は雷神となりました。一段は大山祇神(オオヤマヅミ)となりました。一段は高龗(タカオカミ)となりました。 別の書によると……カグツチを斬ったときに、血が激しく飛び散って、天八十河(アマノヤソガワ)の500個の磐石を染めて、神となりました。 その神の名は磐裂神(イワサク)です。次に生まれたのが根裂神(ネサク)です。その子が磐筒男神(イワツツオ)です。次に生まれたのが磐筒女神(イワツツメ)です。その子が経津主神(フツヌシ)です。 ●倉稻魂は宇介能美拕磨(ウカノミタマ)と読みます。少童は和多都美(ワタツミ)と読みます。頭邊は摩苦羅陛(マクラヘ)と読みます。脚邊は阿度陛(アトヘ)と読みます。熯は火(ヒ)です。音は而善の反切り法です。龗は於箇美(オカミ)と読みます。音は力丁の反切り法です。吾夫君は阿我儺勢(アガナセ)と読みます。湌泉之竈は譽母都俳遇比(ヨモツヘグヒ)と読みます。秉炬は多妣(タヒ)と読みます。不須也凶目汚穢は伊儺之居梅枳枳多儺枳(イナシコメキキタナキ)と読みます。醜女は志許賣(シコメ)と読みます。背揮は志理幣提爾布倶(シリヘデブフク)と読みます。泉津平坂は餘母都比羅佐可(ヨモツヒラサカ)と読みます。尿は愈磨理(ユマリ)と読みます。音は乃弔の反切法です。絶妻之誓は許等度(コトド)と読みます。岐~は布那斗能加微(フナトノカミ)と読みます。檍は阿波岐(アハキ)と読みます。 ●対応する古事記 / 風と山の神が産まれる / オオヤマヅミの子供たち / 刀(剣)から生まれた神 / 火の神の死体から産まれた神 |
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■前半
前半は雷神とオオヤマヅミとタカオカミが生まれています。雷神は黄泉の国ではイザナミの死体に絡みついていたタタリ神でしたが、本来は穀物神です。 雷の後は雨が降ることで水神であり、雷は別名が稲妻(イナヅマ)というように夏の終わりに稲を妊娠させて米を生むという有難い神です。 オオヤマヅミは山の神です。山に雨が降り、その雨が山から川となって流れ出ます。また穀物の生育は山から神が里に下りてきて畑に宿ることで実るという信仰もあります。 タカオカミは山から流れる川、そのものを神格化したものです。 ■後半 イワサク・ネサク・イワツツ・イワツツメ・フツヌシと並んでいます。最後のフツヌシが剣の神となっていて、パっと見、岩・根とは関係ないような気がします。が、フツヌシは剣ではなく、そもそもは「鉄」、というよりは「鉄の農機具」を表しているんでしょう。 |
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■第五段 山の神が生まれ火が生まれる
一書曰、伊弉諾尊、斬軻遇突智命、爲五段。此各化成五山祇。一則首、化爲大山祇。二則身中、化爲中山祇。三則手、化爲麓山祇。四則腰、化爲正勝山祇。五則足、化爲䨄山祇。是時、斬血激灑、染於石礫・樹草。此草木沙石自含火之緣也。麓、山足曰麓、此云簸耶磨。正勝、此云麻沙柯、一云麻左柯豆。䨄、此云之伎、音鳥含反。 |
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ある書によると……イザナギはカグツチを五段に斬りました。この五つがそれぞれ五柱の山祇(山の神)になりました。
まず首は大山祇(オオヤマズミ)となりました。次に体は中山祇(ナカヤマズミ)となりました。次に手が麓山祇(ハヤマヤマズミ?)となりました。次に腰が正勝山祇(マサカヤマズミ)となりました。次に足が䨄山祇(シギヤマズミ)となりました。 斬った時に血が激しく飛び散って、石礫樹草を染めました。草木砂石が燃えるのはこのためです。 ●麓は山の下の方のことで簸耶磨(ハヤマ)といいます。正勝は麻沙柯(マサカ)と読みます。もしくは麻左柯豆(マサカツ)と読みます。䨄は之伎(シギ)と読みます。音は鳥・含の反切法です。 ●対応する古事記 / 火の神の死体から産まれた神 |
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■山を擬人化
日本人のお家芸「擬人化」です。山の頂点から首がオオヤマズミ、体がナカヤマズミ、手がハヤマヤマズミ、腰がマサカヤマズミ、足がシギヤマズミ。古代の日本人は山を大きな「人」に見立てていたってことです。大きな神様だと。 第五段一書(七)三段切りでは雷神・オオヤマズミ・タカオカミ(=水神・龍神)でした。 火の神、カグツチが斬られて「山」になったのは間違いなく「火山の噴火」を表していいます。「第五段一書(七)三段切り」でカグツチの死から農業関係の神を生まれているのとは捉え方がかなり違います。 ■是時、斬血激灑、染於石礫・樹草。此草木沙石自含火之緣也について カグツチの血が岩・石・砂・木・草などに散ったために、自然物は燃えるようになった。という「火の起源」とわたしは捉えました。つまり日本書紀では「創世神話」が続いているということ。まだ世界は出来上がってはいない、ということです。 |
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■第五段 殯斂の宮へ
一書曰、伊弉諾尊、欲見其妹、乃到殯斂之處。是時、伊弉冉尊、猶如生平、出迎共語。已而謂伊弉諾尊曰「吾夫君尊、請勿視吾矣。」言訖忽然不見、于時闇也。伊弉諾尊、乃舉一片之火而視之、時伊弉冉尊、脹滿太高。上有八色雷公、伊弉諾尊、驚而走還、是時、雷等皆起追來、時道邊有大桃樹、故伊弉諾尊、隱其樹下、因採其實、以擲雷者、雷等皆退走矣、此用桃避鬼之緣也。時伊弉諾尊、乃投其杖曰「自此以還、雷不敢來。」是謂岐神、此本號曰來名戸之祖神焉。所謂八雷者、在首曰大雷、在胸曰火雷、在腹曰土雷、在背曰稚雷、在尻曰K雷、在手曰山雷、在足上曰野雷、在陰上曰裂雷。 |
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ある書によると……イザナギは死んだ妻であるイザナミに会いたいと、遺体を安置する「殯斂(アラキ)の宮」に行きました。
イザナミは生きていた時と同じように訪ねてきたイザナギを出迎え、話し合いました。 「愛する夫、イザナギ。どうか私の姿を見ないでください」と言い終わると、忽然と見えなくなり、辺りは闇に包まれました。 イザナギは一つ火(ヒトツビ)をつけて照らして見ました。 するとイザナミの体が腐って膨れ、その体の上には八種の雷神が憑いていました。 驚いたイザナギは走り帰りました。雷神たちは気がついて追いかけてきました。 逃げる途中に桃の木があったのでイザナギは樹に隠れて、桃の実を取って雷神たちに投げつけました。すると雷神たちは逃げてしまいました。 「桃を用いて鬼を避ける」というのはこの為です。イザナギは杖を投げて「ここからこっちには雷神は来られない!」と言いました。 これを岐神(フナトノカミ)と言います。本来の名前は来名戸之祖神(クナトノオヤカミ)です。 俗に言う「八種の雷神」というのは首にあるのを大雷(オオイカヅチ)、胸にあるのを火雷(ホノイカヅチ)、腹にあるのを土雷(ツチイカヅチ)、背にあるのを稚雷(ワクイカヅチ)、お尻にあるのを黒雷(クロイカヅチ)、手にあるのを山雷(ヤマイカヅチ)、足にあるのを野雷(ノノイカヅチ)、女性器にあるのを裂雷(サクイカヅチ)といいます。 ●古事記の対応箇所 / 黄泉の国へ / イザナミは既に… / 逃げろ! |
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古代の豪族は古墳をつくりました。古墳は一般的には「墓」ですが、同時に宗教施設でもあります。遺体は殯斂(アラキ)の宮に安置され、白骨化するまで放置します。これが「殯(モガリ)」です。白骨化すると古墳に埋葬されます。モガリの時期は随書によると3年とされますが、事情によって期間は変わるようです。
憤死した場合(例えば暗殺された、自殺に追い込まれた)は、モガリの期間が短くなります。これは憎しみのあまり、黄泉から復活し祟ることを恐れ、さっさと土の下に埋めたいという欲求からだと思われます。 イザナミが恥をかかされたこと(見るなと言ったのに見た)で、夫イザナギを憎み、タタリ神の雷神を指し向けるパターンはこの「黄泉の国編」では決まりごとになっています。 これはイザナギという神ですら「死」の世界は恐ろしいものという意味もあります。また、イザナミ同様に出産によって死んだ女性は古代では珍しくなかったでしょう。集落を豊かにする「出産」。それに失敗し死に、その死体が腐り疫病を呼ぶ恐怖。 その穢れを退けるものとして「桃」があり、「杖」による結界があります。桃はどうやら中国の思想の影響ではないか?というのが一般的です。 ■杖について 杖が結界を作るという考えは鳥居などのように二本の柱とそこを結ぶ線が境目となる考えの元かもしれません。または「第五段一書(六)−3千人殺し、千五百人生ませる」で杖・帯・衣服・靴が投げられて神となったように、外部からやってきて病気を持ち込む可能性のある「旅人」の象徴だったのかもしれません。 ●どちらにしても「杖」は「穢れ」に関わる「モノ」として特別視されたと思います。 |
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■第五段 負けない!
一書曰、伊弉諾尊、追至伊弉冉尊所在處、便語之曰「悲汝故來。」答曰「族也、勿看吾矣。」伊裝諾尊、不從猶看之、故伊弉冉尊恥恨之曰「汝已見我情。我復見汝情。」時、伊弉諾尊亦慙焉、因將出返、于時、不直默歸而盟之曰「族離。」又曰「不負於族。」乃所唾之~、號曰速玉之男。次掃之~、號泉津事解之男。凡二~矣。及其與妹相鬪於泉平坂也、伊弉諾尊曰「始爲族悲、及思哀者、是吾之怯矣。」時、泉守道者白云「有言矣、曰、『吾、與汝已生國矣、奈何更求生乎。吾則當留此國、不可共去。』」是時、菊理媛~亦有白事、伊弉諾尊聞而善之。 乃散去矣、但親見泉國、此既不祥。故、欲濯除其穢惡、乃往見粟門及速吸名門、然此二門、潮既太急。故、還向於橘之小門而拂濯也。于時、入水吹生磐土命、出水吹生大直日~、又入吹生底土命、出吹生大綾津日~、又入吹生赤土命、出吹生大地海原之諸~矣。不負於族、此云宇我邏磨穊茸。 |
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ある書によると……イザナギはイザナミを追いかけて辿りついて、言いました。
「わたしは、お前を失って悲しいから来たのだ」 するとイザナミは答えました。 「つながる者よ(=夫)。わたしを見ないでおくれ」 イザナギは従わずに、イザナミを見てしまいました。 イザナミはそれを恨み、恥じて「あなたはわたしの心を見た。わたしもあなたの心を見てしまった」と言いました。 それでイザナギは申し訳なく思い、引き返そうとしました。そのときイザナミは黙って帰らせず 「別れましょう」と言いました。 イザナギは「負けない!」と言いました。 その時吐いた唾が神となったのが速玉之男(ハヤタマノオ)といいます。次に穢れを払うと泉津事解之男(ヨモツコトサカノオ)といいます。二つの神が生まれました。 イザナミと黄泉平坂で言い争ったときにイザナギは「はじめは妻を失った悲しみから、恋しいと思っていたが、それは自分の心が弱いだけだった!」と言いました。 黄泉の道の番をしている泉守道者(ヨモツモリビト)がイザナミに向かって言葉を促すと 「わたしは、あなた(=イザナギ)とともに国を生みました。どうしてこれ以上、子を産むことを求めるのですか……わたしはこの国にとどまります。一緒に行くことは出来ません」 このとき菊理媛神(ククリヒメカミ)が言葉を漏らしました。 イザナギはそれを聞いて褒め称え、黄泉の国を去りました。 イザナギは黄泉の国に悪い印象を持たなかったが、その理由はハッキリしません。 黄泉の国に言ったことで穢れを洗い流さないといけません。 そこで粟門(アワト=現在の鳴門海峡)や速吸名門(ハヤスイノミナト=現在の豊後水道)に行って禊をするに良いか様子を見ました。ところがこの二か所は流れが速すぎてやめて、橘之小門(タチバナノオト)で体をお洗って穢れを落としました。 そこで水に入って息を吐くと磐土命(イワツチノミコト)が生まれました。水から出て息を吐くと大直日神(オオナオヒノカミ)が生まれました。また水に入り息を吐くと底土命(ソコツチノミコト)が生まれました。水から出て息を吐くと大綾津日神(オオアヤツヒノカミ)が生まれました。また水に入り息を吐くと赤土命(アカツチノミコト)が生まれました。また水から出て息を吐いて大地海原の神を生みました。 ●不負於族は宇我邏磨穊茸(ウガラマケジ)と読みます ●古事記の対応箇所 / 黄泉の国へ / イザナミは既に… / 逃げろ! / 日本最初の離婚・死の呪い / 現世に帰還・ケガレを祓う / 穢れから産まれた神 / 住吉三神が産まれる |
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■ここではイザナミは腐乱死体ではない
イザナミが見ないでというのを無視してイザナギは妻を見てしまいます。今までの記紀では「イザナミは腐っていた」→「逃げる」のですが、ここでは別れ話を切り出されてトボトボと帰ることになります。 帰る途中にまた言い争いになるのですが、なぜ言い争いになるのかは省略されています。この話の流れは曖昧です。坂まで二人でとぼとぼと別れ話をしながら帰ったのかもしれないし、他の話のように追いかけっこがあったのを省略しているだけかもしれない。 ■別れを切り出したのは男か女か 漢文に詳しくありませんが、物語の流れ上では、イザナミが別れを切り出したと考えた方が、すんなりと頭に入るので、ハッキリと「イザナミが」と書きました。訳本によっては曖昧にしています。 古事記・日本書紀の記述のほとんどがイザナミがイザナギを引き留めるのですが、この書ではイザナギがイザナミを引き留めるようになっているのは面白いです。 ■死を受け入れるための儀式 人が死ぬのは悲しい。家族ならば猶更。イザナミを失ったイザナギは、黄泉の国で「死の現実」を突き付けられ、「悲しいという気持ちは恋しさから来たのではない。わたしの心が弱いからだ!」と悟ります。 ■夫を拒むイザナミ もう子供は産めないと現世の帰還を拒むイザナミ。黄泉の国の食べ物を食べたから現世に帰れないというほかの物語とは違い、ハッキリとした意志をもって黄泉の国にとどまることを誓います。 出産は女性を疲弊させる。という考えが古代人にかなりしっかりとあり、それに対する罪悪感があったのではないか?とも思いますね ■ククリヒメカミとヨモツモリビト この二柱の神が口にした言葉は結局、ひとつも残っていません。ククリヒメカミは白山神社の祭神で「イタコ」の元祖とされます。 |
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■第五段 ウツシキアオヒトクサ
一書曰、伊弉諾尊、勅任三子曰「天照大神者、可以御高天之原也。月夜見尊者、可以配日而知天事也。素戔鳴尊者、可以御滄海之原也。」既而、天照大神在於天上曰「聞、葦原中國有保食神。宜爾月夜見尊就候之。」月夜見尊、受勅而降。已到于保食神許、保食神、乃廻首嚮國則自口出飯、又嚮海則鰭廣鰭狹亦自口出、又嚮山則毛麁毛柔亦自口出。夫品物悉備、貯之百机而饗之。是時、月夜見尊、忿然作色曰「穢哉、鄙矣。寧可以口吐之物敢養我乎。」廼拔劒擊殺。然後復命、具言其事、時天照大神、怒甚之曰「汝是惡神。不須相見。」乃與月夜見尊、一日一夜、隔離而住。是後、天照大神、復遣天熊人往看之、是時、保食神實已死矣、唯有其神之頂化爲牛馬、顱上生粟、眉上生蠒、眼中生稗、腹中生稻、陰生麥及大小豆。天熊人、悉取持去而奉進之、于時、天照大神喜之曰「是物者、則顯見蒼生可食而活之也。」乃以粟稗麥豆爲陸田種子、以稻爲水田種子。又因定天邑君、卽以其稻種、始殖于天狹田及長田。其秋、垂穎、八握莫莫然甚快也。又口裏含蠒、便得抽絲、自此始有養蠶之道焉。保食神、此云宇氣母知能加微。顯見蒼生、此云宇都志枳阿鳥比等久佐。 |
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ある書によると……イザナギは三貴神(=アマテラス・ツキヨミ・スサノオ)に言いました。
「アマテラスは高天原を治めなさい。ツキヨミは『日』と共に天を治めなさい。スサノオは海を治めなさい」 アマテラスは天上で言いました。 「葦原中国には保食神(ウケモチ)がいると聞きました。ツキヨミよ、行って様子を伺って来てください」 ツキヨミは勅命を受けて地上に降り、ウケモチ神のもとへと出向きました。 ウケモチ神は首を回しました。国に向くと口からご飯を出ました。海に向くと鰭(ヒレ)の大きな魚、鰭(ヒレ)の小さな魚が口から出てきました。山に向くと毛の固い獣から毛の柔らかい獣が口から出てきました。ウケモチ神は口から出した品物を机に並べました。 それを見たツキヨミは顔色を変えて怒り、「なんと汚い!卑しい!!口から吐き出したものを食べさせようとするとは!!!」と言いました。 ツキヨミはすぐに剣を抜き、切り殺しました。 ツキヨミは高天原に帰り、事情を報告しました。 するとアマテラスは怒り、「あなたは悪い神だ!顔も見たくない!!」と言い、それ以降、昼と夜は別々になりました。 アマテラスは天界の料理人の天熊人(アメノクマヒト)を地上に下ろして様子を見に行かせました。 ウケモチ神はすでに死んでいました。 ウケモチの髪が牛馬に成っていました。頭からは粟が生えました。眉からは蚕が産まれました。眼には稗(ヒエ)が生えました。腹には稲が生えました。女性器には麦と大豆と小豆が生えていました。天熊人(アメノクマヒト)はそれらを全て持ち帰りました。 アマテラスはとても喜び、「これらのものは、地上に生まれた人民を生かすための食料となる」と言いました。 それで粟・稗・麦・豆は畑の種子とし、稲を水田の種子としました。 天邑君(アメノムラキミ=村長)を定めました。 稲の種子を天狭田(アマノサナダ)に初めて植えると、その秋になると沢山に実った穂が垂れ下がるほどになって、とても見事だった。 また口に蚕を含んで糸を引くことができました。養蚕の道が開けました。 ●保食神は宇氣母知能加微(ウケモチノカミ)と読みます。顯見蒼生は宇都志枳阿鳥比等久佐(ウツクシキアオヒトクサ)と読みます。 ●古事記の対応箇所 / 三貴神の分割統治 / オオゲツヒメのおもてなし |
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■ウケモチは女なんですね
ウケモチの「ホト(=女性器)」から麦・大豆・小豆が生まれたということは、ウケモチ神は「女」なのですね。食物起源の物語のハイヌウェレ神話と同じです。 ■高天原と天は違うもの? アマテラスが高天原担当で、ツキヨミは『日と共に天を治める』とされているので、高天原と天は別の場所を表しているか、どちらかがどちらかを含んでいるんでしょう。 |
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■第六段 幽宮を淡路島に作って
於是、素戔鳴尊請曰「吾今奉教、將就根國。故欲暫向高天原、與姉相見而、後永退矣。」勅許之。乃昇詣之於天也。是後、伊弉諾尊、~功既畢、靈運當遷、是以、構幽宮於淡路之洲、寂然長隱者矣。 亦曰、伊弉諾尊、功既至矣、コ文大矣、於是、登天報命、仍留宅於日之少宮矣。少宮、此云倭柯美野。 |
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子供のように「母に会いたい」と駄々をこねるスサノオを、イザナギは「勝手にしろ」と追放してしまう……
スサノオは言いました。 「わたしは今から(父イザナギの言うとおりに)、根の国に行きます。その前に、高天原に向かい、姉であるアマテラスと会います。それから永遠に根の国に退きます」 イザナギはこの申し出を許しました。 すぐにスサノオは天に向かいました。 その後イザナギは神として成すべきことを終えていて、熱病に掛かって死んでしまいそうになったので、幽宮(カクレノミヤ)を淡路島に作って、そこに静かに眠りました。 別の言い伝えでは…イザナギは神として成すべきことを終え、徳が優れていたので、天に昇って報告をして、日之少宮(ヒノワカミヤ)にとどまりました。 ●少宮は倭柯美野(ワカミヤ)と読みます。 ●古事記の対応箇所 / 荒ぶる速須佐之男命は母恋しく / 須佐之男を迎え撃つアマテラス |
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■イザナギは死んだか?
イザナギは熱病で死んでしまう前に幽宮を作って、そこで永遠の眠りにつきます。本文の中の別の言い伝えでは、死なずに「日之少宮(ヒノワカミヤ)」にとどまります。 日之少宮(ヒノワカミヤ)のくだりではイザナギは「死んだ」というニュアンスの書き方が無いので死んで無いですが、もしかすると省略しただけかも。でも、「留宅」と書いてあるので死んで無いのでしょう。 |
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■第六段 海は荒れ、山が泣く
始、素戔鳴尊昇天之時、溟渤以之鼓盪、山岳爲之鳴呴、此則神性雄健使之然也。天照大神、素知其神暴惡、至聞來詣之狀、乃勃然而驚曰「吾弟之來、豈以善意乎。謂當有奪國之志歟。夫父母既任諸子各有其境、如何棄置當就之國而敢窺窬此處乎」乃結髮爲髻、縛裳爲袴、便以八坂瓊之五百箇御統(御統、此云美須磨屢)纒其髻鬘及腕、又背負千箭之靫(千箭、此云知能梨)與五百箭之靫、臂著稜威之高鞆(稜威、此云伊都)振起弓彇、急握劒柄、蹈堅庭而陷股、若沫雪以蹴散(蹴散、此云倶穢簸邏邏箇須)、奮稜威之雄誥(雄誥、此云鳥多稽眉)、發稜威之嘖讓(嘖讓、此云舉廬毗)、而俓詰問焉。 |
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スサノオが天に昇ろうとした時です。海は轟いて揺れ、山は鳴り響きました。これはスサノオという神の素質があまりに粗暴だったからです。
アマテラスは弟スサノオが粗暴であると知っていたので、天に昇ってくる様子を聞いて、驚きました。 「わたしの弟(=スサノオ)が来る!!善良な心によって天に上がってくるはずがない!きっと私の国(=高天原)を奪おうとしているに違いない!!父母(=イザナギとイザナミ)が子供たち(=アマテラス・ツキヨミ・スサノオ)それぞれに治める場所を分けたというのに、どうして治めるべき自分の国を捨ててまで、高天原を奪おうとするのか!!」 アマテラスは髪を解いて、男のように角髪(髻=ミズラ)に結い、腰にまとっていた裳を、やはり男のように袴(ハカマ)にしました。また、大きな勾玉を500個も紐で連ねてまとめた御統(ミスマル)を頭(ミズラとカツラ)や腕に巻きつけ、背中には1000本の矢が入る靭(=矢立て、矢を入れる筒)と500本の矢が入る靭を背負い、肩から肘・手首までを守る稜威之高鞆(イズノタカトモ)を身につけ、弓の上弭(ウワハズ)を振り起こし、太刀の柄を握り締め、固い地面を腿まで沈むほど踏みしめ、その土を蹴りあげて泡雪のように撒き散らし、雄たけびを上げ、スサノオを責め、問い詰めました。 ●古事記の対応箇所 / 須佐之男を迎え撃つアマテラス |
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■稜威は神聖な?
稜威は神聖なとか勢いがあるという意味です。日本人には「神聖」なものとは「人外ではない強い力」というニュアンスで、「正義」か「悪」か?というものさしとはちょっと違う。 ■ウワハズ ウワハズは弓の上部のこと。 |
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■第六段 赤心を証明するための誓約
素戔鳴尊對曰「吾元無K心。但父母已有嚴勅、將永就乎根國。如不與姉相見、吾何能敢去。是以、跋渉雲霧、遠自來參。不意、阿姉翻起嚴顏。」 于時、天照大神復問曰「若然者、將何以明爾之赤心也。」對曰「請與姉共誓。夫誓約之中(誓約之中、此云宇氣譬能美儺箇)必當生子。如吾所生是女者則可以爲有濁心、若是男者則可以爲有C心。」 於是、天照大神、乃索取素戔鳴尊十握劒、打折爲三段、濯於天眞名井、噛然咀嚼(噛然咀嚼、此云佐我彌爾加武)而吹棄氣噴之狹霧(吹棄氣噴之狹霧、此云浮枳于都屢伊浮岐能佐擬理)所生神、號曰田心姬。次湍津姬、次市杵嶋姬、凡三女矣。 |
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スサノオは言いました。
「わたしには元から悪い心はありません。ただ父と母(イザナギとイザナミ?)から厳しい命令を受けて、これから永久に根の国に行こうと思っております。姉(=アマテラス)と会わずにこの国から去れるでしょうか??そこで雲や霧をかき分けて、遠いこの高天原までやってきたのです。姉がこのように厳しい顔をしているとは思いもよりませんでした」 それに対してアマテラスは問い返しました。 「もしそうであるならば、清らかな心を持っていると、どうやって証明するのか??」 それに対してスサノオは答えました。 「それでは姉さんと共に誓約(ウケイ)をしましょう。誓約の中で子を生みましょう。わたしが生んだ子が女ならば邪心があると考えてください。もし私が生んだ子が男ならば、清らかな心だと考えてください」 それでアマテラスはスサノオが持っていた十拳釼(トツカノツルギ)を受け取り、これを三段に折って、天眞名井(アメノマナイ)の井戸水で濯(すす)いで清めて、カリカリと噛んで砕いてフっと噴出しました。すると生まれたのが田心姬(タコリヒメ)湍津姬(タギツヒメ)市杵嶋姬(イチキシマヒメ)の三姉妹です。 ●古事記の対応箇所 / 身の潔白の証明、誓約 / 宗像三女神の誕生 |
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■父と母
イザナミは死んだはずなのに、ここでは「父と母の命令(父母已有嚴勅)」と書いてあります。死んで無いのでしょうか? ■赤心と書いて清らかな心 日本では赤は「魔を払う聖なる色」です。神社の鳥居が赤いのもそのせいです。では何故「赤」が「聖なる色」なのか?というと、これも南方系文化が関わってきます。 魏志倭人伝には日本人は肌に朱や丹を塗っていたとされます。これは紫外線および皮膚病を防ぐものです。アフリカの人が泥を体に塗っているのと同じことです。紫外線を防ぎ皮膚病を防ぎます。古代において病気は「魔物」が起こすものとされていましたので、魔を防ぐ「朱・丹」は「聖なるもの」とされたのが理由です。 ■誓約が成立する理由 日本は言霊の国です。言葉を発すると言うことはその言葉が「現実」になる可能性があります。つまり言葉が現実になるものほど神威が強いということになります。ということは神同志での争いには「言いあい」があります。宣言して実現した方が「強い」のです。 「第五段負けない!」ではイザナミが「別れましょう」と言うとイザナギは「負けない!」と答えます。別れましょうというのは意志の表明ではなく、現実化する可能性のある呪いのようなものだからです。だからこそ、その返答は「嫌だ」ではなく「負けない!」なのです。 |
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■第六段 誓約の結果は?
既而、素戔鳴尊、乞取天照大~髻鬘及腕所纒八坂瓊之五百箇御統、濯於天眞名井、??然咀嚼、而吹棄氣噴之狹霧所生~、號曰正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊。次天穗日命是出雲臣・土師連等祖也、次天津彦根命是凡川内直・山代直等祖也、次活津彦根命、次熊野?樟日命、凡五男矣。是時、天照大~勅曰「原其物根、則八坂瓊之五百箇御統者是吾物也。故、彼五男~、悉是吾兒。」乃取而子養焉。又勅曰「其十握劒者、是素戔鳴尊物也。故、此三女~、悉是爾兒。」便授之素戔鳴尊、此則筑紫胸肩君等所祭~是也。 |
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アマテラスが頭や腕に身に着けていた八坂瓊(ヤサカニ)の500個の御統(ミスマル=玉飾り)を受け取って、天眞名井(アマノマナイ)の水で進んで、カリカリと噛んで噴出した息が霧となって生まれた神が正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)です。
次に生まれたのが天穗日命(アメノホヒ)です。 この神は出雲臣(イズモノオミ)や土師連(ハニシノムラジ)の祖先です。 次に生まれのが天津彥根命(アマツヒコネ)です。 この神は凡川內直(オオシカワチノアタエ)や山代直(ヤマシロノアタエ)の祖先です。 次に生まれのが活津彥根命(イクツヒコネ)です。次に生まれのが熊野櫲樟日命(クマノクスビ)です。以上の五柱の神が生まれました。 このときアマテラスは言いました。 「生まれた神の元となったのは、八坂瓊(ヤサカニ)の五百箇の御統(ミスマル)であり、それは私の持ち物だった。だからこの五柱の男神は私の子供だ」 アマテラスはこれらの男神を育てました。 またアマテラスは言いました。 「その十拳釼(トツカノツルギ)はスサノオのものだ。よってこの三女神はお前(=スサノオ)のものだ」と、スサノオに女神を授けました。 筑紫の胸肩君(ムナカタノキミ)が祀る神です。 ●古事記の対応箇所 / 男神五柱の誕生 / 子供たちを分ける |
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古事記の男神五柱の誕生で語られる物語とほぼ同じ内容になっています。 | |
■第六段 天孫によって祀られなさい
一書曰、日神、本知素戔鳴尊有武健凌物之意、及其上至、便謂「弟所以來者、非是善意。必當奪我天原。」乃設大夫武備、躬帶十握劒・九握劒・八握劒、又背上負靫、又臂著稜威高鞆、手捉弓箭、親迎防禦。 是時、素戔鳴尊告曰「吾元無惡心。唯欲與姉相見、只爲暫來耳。」於是、日神共素戔鳴尊、相對而立誓曰「若汝心明淨、不有凌奪之意者、汝所生兒、必當男矣。」言訖、先食所帶十握劒生兒、號瀛津嶋姬。又食九握劒生兒、號湍津姬。又食八握劒生兒、號田心姬。凡三女神矣。 已而素戔鳴尊、以其頸所嬰五百箇御統之瓊、濯于天渟名井(亦名去來之眞名井)而食之、乃生兒、號正哉吾勝勝速日天忍骨尊。次天津彥根命、次活津彥根命、次天穗日命、次熊野忍蹈命、凡五男神矣。 故素戔鳴尊、既得勝驗。於是、日神、方知素戔鳴尊固無惡意、乃以日神所生三女神、令降於筑紫洲、因教之曰「汝三神、宜降居道中、奉助天孫而爲天孫所祭也。」 |
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ある書によると……日神(=アマテラス)は、スサノオが武勇に優れており、誰にも負けない心を持っていると知っていました。なのでスサノオが高天原に昇ってくるのを見て、すぐに言いました。
「弟(=スサノオ)が昇ってくる理由は、良い心持からのことではないだろう。私の高天原を奪おうと考えてのことに違いない!」 すぐに男のように身支度をして、十拳剣(トツカノツルギ)、九拳剣(ココノツカノツルギ)、八拳剣(ヤツカノツルギ)を身につけ、背には靭(ユギ=矢を入れる筒)を負い、腕には稜威之鞆(イズノタカトモ=神聖な腕の防具)を身につけ、手に弓矢を握り、スサノオの侵略を防ごうとしました。 このときスサノオがアマテラスに言いました。 「私(=スサノオ)は元々から悪い心を持っておりません。ただ、姉(=アマテラス)とお会いしたいと思って来たのです」 これに対してアマテラスはスサノオと対峙して言いました。 「もしも、お前(=スサノオ)の心が綺麗であり、高天原を奪う気持ちが無いのであれば、お前が生んだ子は『男神』になるだろう」 そう言ってまず、腰の十拳剣を噛んで生んだ子供が瀛津嶋姬(オキツシマヒメ)です。九拳剣を噛んで生まれた子供は湍津姬(タギツヒメ)です。八拳剣を噛んで生まれた子供は田心姬(タゴリヒメ)です。以上三柱の女神です。 今度はスサノオが首に掛けた五百箇御統之瓊(イホツミスマルノタマ)を取り、天渟名井(アメノヌナマイ・別名去來之眞名井【イザノマナイ】)の綺麗な水で濯いで噛んで生んだ子供が正哉吾勝勝速日天忍骨尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホネノミコト)です。次に生まれたのが天津彥根命(アマツヒコネ)です。次が活津彥根命(イクツヒコネ)です。次が天穗日命(アメノホヒ)です。次が熊野忍蹈命(クマノオシホム)です。以上の五柱の男神です。 スサノオは既に誓約の勝利の証拠を得ました。 これで日神(=アマテラス)はスサノオが悪い心を持っていないと知りました。すぐに日神が生んだ三柱の女神を筑紫に降臨させ、言いました。 「お前たち三柱の神は天より降臨して天孫を助けなさい。そして天孫によって祀られなさい」 ●古事記の対応箇所 / 須佐之男を迎え撃つアマテラス / 身の潔白の証明、誓約 / 宗像三女神の誕生 / 男神五柱の誕生 / 子供たちを分ける / 誓約の神々の系譜 |
剣を噛んだと訳しましたが、本文には「食」という字が当てられています。六段本文では「食」ではありません。
■宗像の神が違う 今回の三柱の女神はオキツシマヒメ・タギツヒメ・タゴリヒメで、その後宗像三女神のセンターになるイチキシマヒメが居ません。 また三女神が生まれた「物」も違います。六段本文では十拳剣(トツカノツルギ)を三段に折りましたが、今回は十、九、八拳剣をそれぞれ噛み砕いて生んでいます。 どちらにしても「武器」から女神を生んだことは何か意味があったのではないかと思います。 女神は天孫を助ける側ではありますが、天孫に祀られる側でもあります。この辺りは主従がハッキリしていません。日本において神と人(=天孫、つまり天皇)の関係が「どちらが上とは明確ではない」という意味でしょう。これは天皇、というか大王(オオキミ)が、大和朝廷という「組織のリーダー」というよりは神を祭る役割だったためではないかと思われます。 また古事記の系譜などではスサノオ系とされるのですが「天孫を助け、祀られなさい」とアマテラスに言われているのを見ると、天つ神属性もある様子。 ■一方スサノオが生んだ神は? 正哉吾勝勝速日天忍骨尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホネノミコト)天津彥根命(アマツヒコネ)活津彥根命(イクツヒコネ)天穗日命(アメノホヒ)熊野忍蹈命(クマノオシホム)です。 ほぼ六段本文と同じです。ちなみに生まれた物は五百箇御統之瓊(イホツミスマルノタマ)ですが、この持ち主が「スサノオ」なのかは疑問。六段本文ではアマテラスが身につけている物品だからです(参考:第六段本文−2海は荒れ、山が泣く)。 |
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■第六段 羽明玉と瑞八坂瓊之曲玉
一書曰、素戔鳴尊、將昇天時、有一神、號羽明玉、此神奉迎而進以瑞八坂瓊之曲玉。故、素戔鳴尊、持其瓊玉而到之於天上也。是時、天照大神、疑弟有惡心、起兵詰問。素戔鳴尊對曰「吾所以來者、實欲與姉相見。亦欲獻珍寶瑞八坂瓊之曲玉耳、不敢別有意也。」時天照大神、復問曰「汝言虛實、將何以爲驗。」對曰「請吾與姉共立誓約。誓約之間、生女爲K心、生男爲赤心。」乃掘天眞名井三處、相與對立。是時、天照大神、謂素戔鳴尊曰「以吾所帶之劒、今當奉汝。汝、以汝所持八坂瓊之曲玉、可以授予矣。」如此約束、共相換取。已而、天照大神、則以八坂瓊之曲玉、浮寄於天眞名井、囓斷瓊端、而吹出氣噴之中化生神、號市杵嶋姬命、是居于遠瀛者也。又囓斷瓊中、而吹出氣噴之中化生神、號田心姬命、是居于中瀛者也。又囓斷瓊尾、而吹出氣噴之中化生神、號湍津姬命、是居于海濱者也。凡三女神。於是、素戔鳴尊、以所持劒、浮寄於天眞名井、囓斷劒末、而吹出氣噴之中化生神、號天穗日命。次正哉吾勝勝速日天忍骨尊、次天津彥根命、次活津彥根命、次熊野櫲樟日命、凡五男神、云爾。 |
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ある書によると……スサノオが天に昇ろうとしていたとき、一柱の神が現れました。名前を羽明玉(ハアカルタマ)といいます。
この神がスサノオを出迎えて、瑞八坂瓊之曲玉(ミズノヤサカニノマガタマ)をスサノオに渡しました。 スサノオはその勾玉を持って天に昇りました。 そのときアマテラスは弟(=スサノオ)が悪い心を抱いていると疑って、兵隊を集めて問い詰めました。 スサノオは答えました。 「わたしが天に来た理由は、姉(=アマテラス)さんと会いたいと思ったからです。また珍しい瑞八坂瓊之曲玉(ミズノヤサカニノマガタマ)を挿し上げようと思ったからです。悪意はありません」 アマテラスはまた問いました。 「あなたの言葉が嘘か本当が、どうやって証明するのですか?」 スサノオは答えました。 「わたしと姉さんで、誓約をしましょう。誓約で女神が生まれたならば悪意があるとしてください。男神が生まれたならば清らかな心があるとしてください」 すぐに天眞名井(アメノマナイ)を三カ所掘って、アマテラスとスサノオは向かい合って立ちました。 この時、アマテラスはスサノオに言いました。 「私が腰に帯びた剣を、あなたに渡します。あなたはあなたが持つ八坂瓊之曲玉(ヤサカニノマガタマ)をわたしに渡しなさい」 そう約束して、持ち物を交換しました。 アマテラスは八坂瓊之曲玉(ヤサカニノマガタマ)を天眞名井(アメノマナイ)に浮かべて洗い、勾玉の端を噛み切って噴き出すと、その中に神が生まれました。 神の名前は市杵嶋姫命(イチシキシマヒメ)です。この神は遠瀛(オキツミヤ=沖つ宮)に居る神です。 次に勾玉の中央を噛み切って噴き出すと、神が生まれました。神の名前は田心姫命(タコリヒメ)です。この神は中瀛(中つ宮)に居る神です。 次に勾玉の尾を噛み切って噴き出すと、神が生まれました。神の名前は湍津姫命(タギツヒメ)です。この神は海濱(ヘツミヤ=辺つ宮)に居る神です。 以上三柱の女神です。 続いてスサノオが剣を天眞名井(アメノマナイ)に浮かべて洗い、剣の先を噛み切って噴き出して生まれた神が天穗日命(アメノホヒ)です。 次に正哉吾勝勝速日天忍骨尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホネ)です。 次に天津彦根命(アマツヒコネ)です。 次に活津彦根命(イクツヒコネ)です。 次に熊野櫲樟日命(クマノクスヒ)です。 以上五柱の男神です。 ●古事記の対応箇所 / 須佐之男を迎え撃つアマテラス / 身の潔白の証明、誓約 / 宗像三女神の誕生 / 男神五柱の誕生 / 子供たちを分ける / 誓約の神々の系譜 |
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■羽明玉(ハアカルタマ)
初登場。天に向かおうとするスサノオを出迎えて、瑞八坂瓊之曲玉(ミズノヤサカニノマガタマ)を渡した神。そういう意味では宗像の女神たちの出生に関わったことになるのか。 ■勾玉と息 勾玉は霊体を表わしているんでしょう。しかし、なぜあのような形をしているのかは、「イメージ」としては理解できますが、元は何なのか?は分かりません。 その勾玉をアマテラスが噛み砕き、吐き出すと女神たちが生まれました。古事記でも日本書紀でも「息」が神に変異するケースが多いです。これは、日本人が「息」を特別視したからです。 例えば、神社で人型に切った紙に自分の穢れを移して払ってもらう「大祓形代」があります。この人型の神に穢れを移すためにする所作の一つが「息を吹きかける」というもの。つまり息には魂がこもっていると日本人は考えているってことです。他にも、お母さんが子供にゲンコツと食らわせる時に拳に「はぁ〜!」と息を吹きかけるのも多分同じ意味です。 つまり息そのものにも魂があるということであり、息は本体の分身の意味もあります。勾玉+息で女神が生まれるのは、実は必然なんです。 剣+息で男神が生まれるのもなんとなく分かりますね。 |
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■第六段 六柱の男神
一書曰、日神與素戔鳴尊、隔天安河、而相對乃立誓約曰「汝若不有奸賊之心者、汝所生子必男矣。如生男者、予以爲子而令治天原也。」於是、日神、先食其十握劒化生兒、瀛津嶋姬命、亦名市杵嶋姬命。又食九握劒化生兒、湍津姬命。又食八握劒化生兒、田霧姬命。巳而素戔鳴尊、含其左髻所纒五百箇御統之瓊而著於左手掌中、便化生男矣、則稱之曰「正哉吾勝。」故因名之曰勝速日天忍穗耳尊。復、含右髻之瓊、著於右手掌中、化生天穗日命。復、含嬰頸之瓊、著於左臂中、化生天津彥根命。又、自右臂中、化生活津彥根命。又、自左足中、化生熯之速日命。又、自右足中、化生熊野忍蹈命、亦名熊野忍隅命。其素戔鳴尊所生之兒皆已男矣、故日神方知素戔鳴尊元有赤心、便取其六男以爲日神之子、使治天原。卽以日神所生三女神者、使隆居于葦原中國之宇佐嶋矣、今在海北道中、號曰道主貴、此筑紫水沼君等祭神是也。熯、干也、此云備。 |
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ある書によると……日の神(=アマテラス)がスサノオと天安河(アメノヤスカワ)を挟んで相対して誓約をして言いました。
「あなたがもし賤(イヤ)しい心が無いのならば、あなたが生む子は必ず男となるでしょう。もし男神が生まれたならば、わたしの子供として天原(アマハラ)を治めさせましょう」 そこで日神はまず十拳釼(トツカノツルギ)を食べて生まれた子は瀛津嶋姫命(オキツシマヒメ)、別名を市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)といいます。また九拳釼(ココノツカノツルギ)を食べて生まれた子は湍津姫命(タギツヒメ)です。八握劒(ヤツカノツルギ)を食べて生まれた子が田霧姫命(タキリヒメ)です。 スサノオは左の髪留めの五百箇統之瓊(イホツミスマルノタマ)を口に含んで、左の掌に置いて男神を生みました。 そこで「まさに私が勝った!」と言いました。それで、その男神を勝速日天忍穗耳尊(カチハヤヒアメノオシホミミ)といいます。 また、右の髪留めの玉を口に含んで右の掌に置くと天穗日命(アメノホヒ)が生まれました。 また首に下げた玉を口に含んで左腕に置くと天津彦根命(アマツヒコネ)が生まれました。また右腕に置くと活津彦根命(イクツヒコネ)が生まれました。左足からは熯之速日命(ヒノハヤヒ)が生まれました。右足からは熊野忍蹈命(クマノオシホミ)、別名、熊野忍隅命(クマノオシクマ)が生まれました。 スサノオが生んだ子は全て男神でした。 そこで日神はスサノオが清らかな心であると知り、すぐに六柱の男神を引き取り、日の神の子として天原(アマハラ)を治めさせました。 そして日の神が生んだ三柱の女神は葦原中國(アシハラナカツクニ)の宇佐嶋(ウサノシマ)に降ろしました。現在は北海路の途中にあります。道主貴(ミチヌシノムチ)と言います。これは筑紫の水沼君(ミヌマノキミ)などが祀る神です。 ●熯は「干」です。「ひ」と読みます。 ●古事記の対応箇所 / 須佐之男を迎え撃つアマテラス / 身の潔白の証明、誓約 / 宗像三女神の誕生 / 男神五柱の誕生 / 子供たちを分ける / 誓約の神々の系譜 |
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■六柱の男神
まずスサノオが生む男神が六柱に増えてます。アメノオシホミミ、アメノホヒ、アマツヒコネ、イクツヒコネ、ヒノハヤヒ、クマノオシホミです。 今まで五柱だったところに一つ増えたのか?というとおそらく元々六柱だったところを、「奇数がいい」という中国の考えを入れて五柱に加工したと考えた方がいいでしょう。ちなみにハブられたのはヒノハヤヒです。 |
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■第七段 常闇の世界。昼と夜の区別が無くなる。
是後、素戔鳴尊之爲行也、甚無狀。何則、天照大~以天狹田・長田爲御田、時素戔鳴尊、春則重播種子(重播種子、此云璽枳磨枳)且毀其畔(毀、此云波那豆)、秋則放天斑駒使伏田中、復見天照大~當新嘗時、則陰放屎於新宮、又見天照大~・方織~衣・居齋服殿、則剥天斑駒、穿殿甍而投納。是時、天照大~、驚動、以梭傷身、由此發慍、乃入于天石窟、閉磐戸而幽居焉。故六合之內常闇而不知晝夜之相代。 |
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誓約の後のスサノオの行動は酷いものでした。
例えば……アマテラスは天の大小様々な水田を自分の田としていました。春にはその田にスサノオは重播種子(シキマキ=種子を蒔いた上から、重ねて種子を蒔くこと)したり、畦を壊したりしました。 秋には天斑駒(アメノブチゴマ=マダラ模様の馬)を田に放して邪魔をしたり、アマテラスの新嘗(ニイナエ=収穫祭)を見て、神殿でウンコをしたり、衣服を織る齋服殿(イミハタドノ)にアマテラスが居るを見ると天斑駒(馬)の皮を剥いで、建物の屋根に穴を空けて投げ入れました。するとアマテラス驚いて、機織りの機械の部品の「梭(ヒ)」で傷を負ってしまいました。 ついにアマテラスは怒り、天石窟(アメノイワヤ=天岩屋)に入って、岩戸を閉じて隠れてしまいました。それで国は常闇(トコヤミ=常に夜)となり昼も夜も分からない状態となりました。 ●古事記の対応箇所 / 調子に乗る弟神 / アマテラスはポジティブシンキング / 素行不良が過ぎる / 天岩戸に籠る |
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■スサノオの罪
重播種子(シキマキ)……既に蒔いた種子の上に種子を更に蒔いてしまうことで、生育を妨害する意味、もしくはその土地を自分のものと主張するための行為とも言われます。 あとは畦を壊すとか、馬を放つとか、神殿でウンコをするとか、皮を剥いだ馬を放り込むとか、実に子供っぽい。あきれるほど。 ■ワカヒルメの代わりにアマテラスが被害に 古事記では皮を剥いだ馬を放り込まれて、機織り機械の部品の「ヒ」で傷ついてしまうのは「ワカヒルメ」です。 これからヒルメは「日る女」であり、ヒルメはアマテラスの原型ではないか?とされます。 |
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■第七段 八十万とも言われる多数の神々は
于時、八十萬神、會於天安河邊、計其可禱之方。故、思兼神、深謀遠慮、遂聚常世之長鳴鳥使互長鳴。亦、以手力雄神、立磐戸之側、而中臣連遠祖天兒屋命・忌部遠祖太玉命、掘天香山之五百箇眞坂樹、而上枝懸八坂瓊之五百箇御統、中枝懸八咫鏡(一云、眞經津鏡)、下枝懸和幣(和幣、此云尼枳底)・白和幣、相與致其祈禱焉。又、猨女君遠祖天鈿女命、則手持茅纒之矟、立於天石窟戸之前、巧作俳優。亦、以天香山之眞坂樹爲鬘、以蘿(蘿、此云此舸礙)爲手繦(手繦、此云多須枳)而火處燒、覆槽置(覆槽、此云于該)、顯神明之憑談(顯神明之憑談、此云歌牟鵝可梨)。 |
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八十万とも言われる多数の神々は天にある川辺(天安河邊=アメノヤスノカワラベ)に集まって、対応策を話し合いました。
その神の一人である思兼神(オモイカネ)はよくよく考えてよくよく計画を練りました。 まず常世の国の長鳴き鳥を集めて鳴かせました。 次に手力雄神(タヂカラオ)に岩戸の前に立たせました。 中臣連(ナカトミノムラジ)の遠い祖先の天兒屋命(アメノコヤネ)と忌部(イムベ)の遠い祖先の太玉命(フトダマ)が、天香山(アメノカグヤマ)の五百箇の眞坂樹(イホツノマサカキ=よく茂った榊【サカキ・樹木名】)を掘り出し、上の枝には八坂瓊の五百箇御統(ヤサカニノイホツミスマル=大きな勾玉をたくさん紐で連ねたもの)を掛け、中ほどの枝には八咫鏡(ヤタノカガミ)を掛け、別名を眞經津鏡(マフツノカガミ)と言う 下の枝には青和幣(アオニキテ=蒼い麻の布)と白和幣(シロニキテ=白い木綿の布)を掛けて、皆でアマテラスが岩戸から出てくるように祈りました。 また猨女君(サルメノキミ)の遠い祖先である天鈿女命(アメノウズメ)は手に茅纏の矛(チマキノホコ=ススキ【カヤ】を巻いた矛)を持って、天石窟戸(アメノイワヤト)の前に立って、見事に踊って見せました。 また天香山(アメノカグヤマ)の眞坂樹(マサカキ)を頭に巻いて鬘(カズラ=頭の飾り)としました。蘿(ヒカゲ【植物名】)を手繦(タスキ)に掛けて、焚火をして、桶を伏せて置いて、神が乗り移ったトランス状態となりました。 ●蘿は此舸礙(ヒカゲ)と読みます。手繦は多須枳(タスキ)と読みます。覆槽は于該(ウケ)と読みます。 ●古事記の対応箇所 / 思金神の策 / なにごとかと覗く |
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日本らしいことに、スサノオの暴走の結果、アマテラスがご機嫌を損ねてしまった対応策を、神々が天の川辺で話し合います。
話し合いですよ。 神様だからといって絶対的な力を持っているのはなく、それぞれの性質をうまく使って、困難を打開していくというのは実に日本的。それを集まって話し合いで決めるのです。現代の会社の会議みたい。 ■長鳴き鳥 鶏のこととされます。朝にコケコッコーと鳴く鶏は、アマテラスが岩戸に引きこもって永遠の夜となった現状にはピッタリ。 ■アメノウズメは神ではないのでしょう アメノウズメはカヤを巻いた矛を持って、日陰カズラというシダのようなコケのような植物をタスキに掛けて、サカキの木を髪飾りにし、火を焚いて、桶を台にして踊り狂い、神がかります。 神様なのにカミガカルって変です。 アメノウズメは元々は巫女だったんでしょう。当時の巫女さんって、乳房をあらわにしてアソコも晒して踊り狂う、大変なお仕事だったのですねぇ(古事記にはそう書いてあります)。 ■桶について オケではなく「ウケ」と書いてあります。オケというと水を貯めるものですが、この場合の「ウケ」はおそらく、儀式に使う太鼓のようなものではなかったかと。 |
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■第七段 中臣神と忌部神はお願いしました。
是時、天照大神、聞之而曰「吾比閉居石窟、謂當豐葦原中國必爲長夜。云何天鈿女命㖸樂如此者乎。」乃以御手、細開磐戸窺之。時、手力雄神、則奉承天照大神之手、引而奉出。於是、中臣神・忌部神、則界以端出之繩(繩、亦云、左繩端出。此云斯梨倶梅儺波)、乃請曰「勿復還幸。」然後、諸神、歸罪過於素戔鳴尊而科之以千座置戸、遂促徵矣、至使拔髮以贖其罪。亦曰「拔其手足之爪贖之。」已而竟逐降焉。 |
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このときアマテラスは、外の騒がしいのを聞いて言いました。
「わたしは最近、岩屋に籠っている。豊葦原中国(トヨアシハラナカクニ=地上)は長い夜となっていると思うのだけど……どうして天鈿女命(アメノウズメ)はこんなに楽しそうにしているのでしょう?」 アマテラスは手で岩戸をちょっとだけ開いて覗き見ました。 その時、手力雄神(タヂカラオ)がアマテラスの手を取り、岩屋の外に引っ張り出しました。 そこで中臣神(ナカトミノカミ=天兒屋命【アメノコヤネ】)、忌部神(イムベノカミ=太玉命【フトダマ】)がすぐに端出之繩(シリクメナワ)を張りました。 縄を張ると、中臣神と忌部神はアマテラスにお願いしました。「もう、岩屋に帰らないでください」 その後、神々はスサノオの罪を責め、罰を与えました。沢山の台に罪に見合うだけの宝を乗せて差し出させました。また髪を抜き、その罪をあがなわせました。もしくは手足の爪を剥いで罪をあがなわせたとも言います。そして最後には神々はスサノオを高天原を追い出してしまいました。 ●縄は別名を左繩端出。斯梨倶梅儺波(シリクメナワ)と読みます。 ●古事記の対応箇所 / なにごとかと覗く / 日の光が戻る / 罰を与える八百万の神々 |
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■一連の儀式は太陽を呼ぶ
長鳴き鳥に鳴かせ、サカキの木に勾玉、鏡、布をぶら下げて、アメノウズメを躍らせ、宴会をする。それに焚火を炊いているということは、夜から夜明けに掛けての儀式です。 儀式っていうか宴会ですよね。 神々が集まって、アマテラス…つまり、太陽が出てくるまで宴会する。岩屋が少し開いたら、太陽を引っ張り出し、ここで宴会終了。 あとは太陽が籠る原因となったスサノオに罰を与えて、高天原を追放です。 |
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■第七段 稚日女尊の死と日矛と鏡
一書曰、是後、稚日女尊、坐于齋服殿而織~之御服也。素戔鳴尊見之、則逆剥斑駒、投入之於殿內。稚日女尊、乃驚而墮機、以所持梭傷體而~退矣。故、天照大~謂素戔鳴尊曰「汝猶有K心。不欲與汝相見。」乃入于天石窟而閉著磐戸焉。於是、天下恆闇、無復晝夜之殊。故、會八十萬~於天高市而問之、時有高皇産靈之息思兼~云者、有思慮之智、乃思而白曰「宜圖造彼~之象、而奉招禱也。」故卽、以石凝姥爲冶工、採天香山之金、以作日矛。又、全剥眞名鹿之皮、以作天羽韛。用此奉造之~、是卽紀伊國所坐日前~也。 石凝姥、此云伊之居梨度刀B全剥、此云宇都播伎。 |
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ある書によると…誓約の後のことです。
稚日女尊(ワカヒルメ)が齋服殿(イミハタドノ)で神の服を織っていました。スサノオはこれを見て、斑駒(マダラコマ=マダラ模様の馬)の皮を逆に剥いで、建物に投げ込みました。 ワカヒルメは驚いて、機織り機から転げ落ちて、持っていた機織りの道具の「梭(ヒ、もしくはカビ)」で体を突いて死んでしまいました。 それでアマテラスはスサノオに言いました。 「お前には、まだ汚らわしい心がある。お前とは会いたくない!」 すぐに天石窟(アメノイワヤ)に入って岩戸を閉じてしまいました。世界はずっと夜になってしまい、昼と夜の境が無くなってしまいました。そこで八十萬~(ヤオヨロズノカミ)が天高市(アメノタケチ)に集まって話し合いました。 そのときに高皇産靈(タカミムスビ)の息子の思兼~(オモイカネ)が居ました。思慮深く、知恵がある神です。 そのオモイカネがよく考えて言うには 「アマテラスの神の形を描いて作って、祀り、招きましょう」とのこと。 そこで石凝姥(イシコリドメ)が鍛冶士となって、天香山から金を採って来て、日矛(ヒボコ)を作りました。 また立派な鹿の皮を剥いで、天羽鞴(アメノハブキ)という火を起こすフイゴを作りました。このフイゴで作った鏡が紀伊の国の日前~(ヒノクマ)です。 ●石凝姥は伊之居梨度(イシコリドメ)といいます。全剥は宇都播伎(ウツハギ)といいます。 ●古事記の対応箇所 / 調子に乗る弟神 / アマテラスはポジティブシンキング / 素行不良が過ぎる / 天岩戸に籠る / 思金神の策 / なにごとかと覗く / 日の光が戻る / 罰を与える八百万の神々 |
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■ワカヒルメ
スサノオが誓約に勝利した後にこの話が続くのならば、スサノオがやった種子を蒔いた後にまた種子を蒔いて農業を邪魔する(もしくは耕作地の所有を主張するためとも)や、畦を壊す、神殿でウンコをするといった狼藉は無かったことになるのか、それとも、機織り小屋に馬を放り込んだ所だけが上書きされるのか?? どちらにしてもこの「書」のひとつのポイントは「ワカヒルメ」です。ワカヒルメがスサノオの狼藉によって死んでしまったことが、大事な要素です。 ■アマテラスの形を描く アマテラスが岩屋に消え、夜の世界となったので、オモイカネが『「彼の~の象」を作ろう』と提案します。その結果、作られたのが「日矛」と「鏡」です。 ただし、この書では「鏡」という表現が無く、「日前~」とだけあります。古語拾遺には「イシコリドメが作った鏡の失敗作が日前神」と書いてあり、日前神宮の神体が「鏡」となので、鏡と訳されます。 これはつまり、古代の日本人にとって「神は人型ではない」ということです。私たちは漠然とスサノオとかアマテラスというと「人」としてイメージしますが、初期の信仰では間違いなく「モノ」でした。そこに人型のキャラ付けが後に追加されたわけです。 ■歴史背景 『古語拾遺』「石凝姥神をして日の像の鏡を鋳らしむ。初度に鋳たるは少に意に合はず。是、紀伊国の日前神なり。次度に鋳たるは、其の状美麗し。是、伊勢大神なり」 |
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■第七段 日神が臭くなる
一書曰、日神尊、以天垣田爲御田。時、素戔鳴尊、春則塡渠毀畔、又秋穀已成、則冒以絡繩、且日神居織殿時、則生剥斑駒、納其殿內。凡此諸事、盡是無狀。雖然、日神、恩親之意、不慍不恨、皆以平心容焉。及至日神當新嘗之時、素戔鳴尊、則於新宮御席之下陰自送糞。日神、不知、俓坐席上、由是、日神、舉體不平、故以恚恨、廼居于天石窟、閉其磐戸。于時、諸神憂之、乃使鏡作部遠祖天糠戸者造鏡、忌部遠祖太玉者造幣、玉作部遠祖豐玉者造玉、又使山雷者、採五百箇眞坂樹八十玉籤、野槌者、採五百箇野薦八十玉籤。凡此諸物、皆來聚集。 |
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ある書によると……日神尊(ヒノカミノミコト)は天垣田(アマノカキタ)を自分の田としていました。
スサノオは春になると溝を埋め畦を壊しました。また秋には穀物が実った田に縄を張って自分のものとしてしまいました。 また日神(ヒノカミ)が織物の神殿に居る時に、斑模様の馬を生きたままに皮を剥いで、その神殿に投げ込んでしまいました。 スサノオはこうした手のつけられないことを散々しましたのですが、日神は優しくて、心が広かったので、怒らず恨まずに安らかな心で許していました。 日神の新嘗(ニイナエ=収穫祭)のときのことです。スサノオは神殿の座席に、ウンコをしてしまいました。日神は何も知らないで、席に座ってしまったので、日神の体はウンコ臭くなってしまいました。 それでついに日神は怒り恨み、天石窟(アメノイワヤ)に籠って、その岩戸を閉じてしまいました。 それで神々は心配して、すぐに鏡作部(カガミツクリベ)の遠い祖先である天糠戸(アメノヌカト)に鏡を作らせ、忌部(イムベ)の遠い祖先である太玉(フトダマ)に幣(ニキテ)という麻や木綿で出来た布を作らせ、玉作部(タマツクリベ)の遠い祖先の豐玉(トヨタマ)に玉を作らせました。 また、山雷(ヤマツチ)という神によく茂ったサカキで八十玉籤(ヤソタマクシ)を用意させ、野槌(ノヅチ)という神によく茂ったススキで八十玉籤(ヤソタマクシ)を用意させました。 これらのモノと神々を集めました。 ●古事記の対応箇所 / 調子に乗る弟神 / アマテラスはポジティブシンキング / 素行不良が過ぎる / 天岩戸に籠る / 思金神の策 |
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■スサノオの泥棒
スサノオの悪行にもう一つ、「穀物が実った田に縄を張って自分のものとする」というのが加わります。泥棒ですね。 「第七段本文−1常闇の世界。昼と夜の区別が無くなる。」で登場する「重播種子(シキマキ)」はすでに蒔いた種子の上から種子を更に蒔く事です。このシキマキも、土地を奪うという意味があったのではないか??と言われています。 ■ウンコまみれか?病気か? スサノオは神殿に忍び込んでウンコをします。そのウンコに気が付かずにアマテラスはウンコまみれになってしまいます――と書いたのですが、大抵の訳本では「ウンコまみれ」では無く、「体調を崩した。病気になった」と書かれています。 日本書紀の原文には「舉體不平」とあり、「不平」で「健康ではない」というニュアンスに取るのでしょう。でも、前後の文から推察すると素直に「臭くなった」という意味で良いと思っています。 日本人はケガレを嫌います。穢れの本質は病気への恐怖。では穢れを具体的に言うと何かというと、「腐食」です。ここでの「臭い」と「病気」は近いニュアンスを持っていると思われます。 ■山雷と野槌 山の雷神(ヤマツチ)がサカキの玉櫛。玉櫛は神社で見かける枝にギザギザの白い紙をつけたアレ。サカキというのは神棚に飾るあの常緑樹のことです。 そんで、野の雷神(野槌)がススキの玉櫛。ススキ、つまりカヤはかなり生活に密着した植物でした。カヤを刈って家畜のえさにしたり、屋根をふくのにも使いました。なによりススキは連作障害を起こさない。放置していても毎年生えて、使い勝手のいい便利な植物でした。 |
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■第七段 吉棄物・凶棄物・白和幣・青和幣
時、中臣遠祖天兒屋命、則以~祝祝之。於是、日~、方開磐戸而出焉。是時、以鏡入其石窟者、觸戸小瑕、其瑕於秡今猶存、此卽伊勢崇祕之大~也。已而、科罪於素戔鳴尊而責其秡具、是以、有手端吉棄物、足端凶棄物。亦以唾爲白和幣、以洟爲和幣、用此解除竟、遂以~逐之理逐之。送糞、此云倶蘇摩屢。玉籤、此云多摩倶之。秡具、此云波羅閉都母能。手端吉棄、此云多那須衞能餘之岐羅毗。~祝祝之、此云加武保佐枳保佐枳枳。遂之、此云波羅賦。 |
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中臣氏の遠い祖先の天兒屋命(アメノコヤネ)はこれらの準備したもので、神を祀り祝いました。
これで日の神は岩戸を開いて出てきました。そのときに鏡を岩屋に入れたのですが、戸に当たって傷が付いてしまいました。その傷は今でも在ります。この鏡が現在の伊勢神社の大神です。 神々はスサノオの罪を問い、その罪をあがなうにふさわしいものを出させました。手の爪を吉棄物(ヨシキライモノ)、足の爪を凶棄物(アシキライモノ)、唾を白和幣(シラニキテ=木綿の布)、鼻水を青和幣(アオニキテ)として出させ、それで罪を祓ったとし、そして高天原から追放するべきとして、追放してしまいました。 ●古事記の対応箇所 / 思金神の策 / なにごとかと覗く / 日の光が戻る / 罰を与える八百万の神々 |
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■アマテラスと鏡
鏡はアマテラスの代替なのか?それとも鏡そのものが神宝であり、神なのか?これは両方です。まずアマテラスの信仰は古事記が成立する数十年前に始まったもので古いものではありません。それ以前に伊勢に祀られていたのはアマテラスではない太陽神です。 それよりもっと前では、太陽そのものを信仰し、鏡は太陽の象徴であり、神でした。それがアマテラス信仰と重なり、鏡はアマテラスの象徴とか代替となってしまいました。 ■スサノオの爪とツバと鼻水 吉棄物(ヨシキライモノ)は罪を清めるためのもので福を招くものとか。凶棄物(アシキライモノ)は罪を祓うためのもの。これといった分かりやすい説明ってのが本やサイトには無く、ハッキリとは分からないみたいです。 私はもっとストレートに、イザナギが目を洗ってアマテラスとツキヨミが生まれたように、スサノオの霊威が強いがために、爪やツバ・鼻水には特別な力があり、それが吉棄物・凶棄物・白和幣・青和幣になった、という解釈です。 しかしそれではおかしいところがあります。爪はともかく、ツバと鼻水が白和幣・青和幣となるのはおかしい。なにせサカキを玉櫛にする件で和幣が登場しているからです。 スサノオのツバや鼻水が和幣になったのならば、つじつまが合わない…気がします。「第七段 日~が臭くなる」では白和幣・青和幣とは書かれていませんが、「幣」と本文には書かれています。もちろん幣と白和幣・青和幣が全く別のものという可能性はあります。 |
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■第七段 云々
一書曰、是後、日~之田有三處焉、號曰天安田・天平田・天邑幷田、此皆良田、雖經霖旱無所損傷。其素戔鳴尊之田、亦有三處、號曰天樴田・天川依田・天口鋭田、此皆磽地、雨則流之、旱則焦之。故、素戔鳴尊、妬害姉田、春則廢渠槽及埋溝・毀畔・又重播種子、秋則捶籤・伏馬。凡此惡事、曾無息時、雖然、日~不慍、恆以平恕相容焉、云々。 |
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ある書によると…日の神の田んぼは三カ所ありました。
天安田(アメノヤスダ)・天平田(アメノヒラタ)・天邑并田(アメノムラアワセダ)と言います。 これらは全てとても良い田です。 長雨があっても、日照りがあっても、損害はありません。 一方、スサノオの田んぼも三カ所ありました。天樴田(アメノクイタ)天川依田(アメノカワヨリタ)天口鋭田(アメノクチトタ)と言います。 これらは全てとても痩せた土地でした。雨が降ると、田は流れ、日照りがあるとカラカラになりました。 それでスサノオは妬んで姉の田に乱暴なことをしました。 春になると水路の板を剥がし、溝を埋めて、畦を壊し、重播種子(シキマキ)をしました。 秋になると、杭を立てて自分の収穫物だと主張したり、馬を放って無茶苦茶にしました。 こうした悪い事をスサノオは一向に止めませんでしたが、日神は怒らずに平常心で許してしまいました。 ●古事記の対応箇所 / 調子に乗る弟神 |
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■田の名前について
天安田(アメノヤスダ)不作が無い田のこと。 天平田(アメノヒラタ)平らな田のこと。 天邑并田(アメノムラアワセダ)多くの村を合わせた大きな田のこと。 天樴田(アメノクイタ)切り株が多い田のこと。 天川依田(アメノカワヨリタ)川沿いで雨が降ると氾濫に巻き込まれる田のこと。 天口鋭田(アメノクチトタ)流れ込む水いの勢いが急な田のこと。 ■アマテラスとスサノオ アマテラスが「日神」と呼ばれるのに対してスサノオは「スサノオ」と名前で呼ばれています。アマテラスが日の神と呼ばれるのは、云わば「通称」であり、本名を呼ぶのは恐れ多い、ということかもしれません。それか、アマテラスの役割はアマテラスではない太陽神が行っていた名残なのかもしれません。 スサノオが通称で呼ばれずただスサノオと呼ばれるのは、罪深く穢れているのが原因ではないかとも思いますが、まぁ、それはハッキリしません。 ■云々? このページの続きである、第七段の間には省略されたものがあります。それはアマテラスがスサノオにブチ切れた事件です。 それまでの乱暴狼藉を許してきたアマテラスでしたが結局、怒って岩戸に籠るのですが、第七段では描かれていません。 ■なぜか?? なんて大した話ではないですよ。第七段日~が臭くなるでの、アマテラスがウンコがあると知らずに座ってブチ切れる話を省略しただけでしょう。 |
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■第七段 これほど素晴らしい歌は聞いたことが無い
至於日神閉居于天石窟也、諸神遣中臣連遠祖興台産靈兒天兒屋命而使祈焉。於是、天兒屋命、掘天香山之眞坂木、而上枝縣以鏡作遠祖天拔戸兒石凝戸邊所作八咫鏡、中枝懸以玉作遠祖伊弉諾尊兒天明玉所作八坂瓊之曲玉、下枝懸以粟國忌部遠祖天日鷲所作木綿、乃使忌部首遠祖太玉命執取、而廣厚稱辭祈啓矣。于時、日神聞之曰「頃者人雖多請、未有若此言之麗美者也。」乃細開磐戸而窺之。 |
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日の神は天の岩屋に籠ってしまいました。神々の中は、中臣連(ナカトミノムラジ)の遠い祖先である興台産靈(コゴトムスビ)の子供の天兒屋命(アメノコヤネ)に祈らせました。
そのとき、アメノコヤネは天香具山(アメノカグヤマ)の眞坂木(マサカキ=植物名)を掘り出して、上の枝には鏡作(カガミツクリ)の遠い祖先の天拔戸(アマノヌカト)の子供の石凝戸邊(イシコリトベ)が作ったが作った八咫鏡(ヤタノカガミ)を掛け、 中ほどの枝には玉作(タマツクリ)の遠い祖先である伊奘諾尊(イザナギ)の子供の天明玉(アメノアカルタマ)の作った八坂瓊之曲玉(ヤサカニノマガタマ)を掛け、 下の枝には粟國(アワノクニ)の忌部の遠い祖先である天日鷲(アメノヒワシ)が作った木綿を掛け 忌部首(イミベノオビト)の遠い祖先である太玉命(フトダマ)が取り仕切って、厚く祝詞(ノリト)を歌い、奉りました。 そのとき、日の神がこの祝詞を聞いて 「この頃、沢山の人が歌うのだけど、これほど素晴らしい歌は聞いたことが無い」と言い、岩戸をほんのちょっと開いて、岩戸の外の様子を伺いました。 ●古事記の対応箇所 / 天岩戸に籠る / 思金神の策 / なにごとかと覗く |
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■歌が天変地異を鎮め、世界を救う
サカキに括りつけた玉とか布とか鏡の作者に関してはまだ細かいチェックをしていないので、割愛。きっといろいろと推測が出来るのでしょうけど。 問題は、祝詞を聞いた日の神ことアマテラスが、「すげぇ!感動した!」と岩戸の外を覗くというのが、このページの特殊さです。 古事記では「なにごとかと覗く」で、アメノウズメの「アマテラスよりも優れた神がやってきたから」というハッタリに騙されて引っ張り出されます。 日本書紀の「第七段本文−3中臣神と忌部神はお願いしました。」では、アマテラスが岩屋を少し開ける動機は「岩屋の外で宴会をしているから、なんだろう?と思って」です。 日本書紀の「第七段一書(二)−1日神が臭くなる」「第七段一書(二)−2吉棄物・凶棄物・白和幣・青和幣」ではアマテラスが岩屋の外に出る動機はハッキリしません。儀式をしたから、日の神が帰ってきた、と言う程度です。 ■歌謡が神を動かす 万葉集や古今和歌集といった「歌」や源氏物語・竹取物語といった「文学」が、世界の隅っこであり、決して文明国ではないはずの古代日本で発達した理由がここにあります。 歌や文学は魔力を持ち、天変地異を鎮める力があると考えているからです。その根っこを一言で言うと「言霊(コトダマ)」ということになります。 |
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■第七段 旅人・雨・笠・蓑
是時、天手力雄~、侍磐戸側、則引開之者、日~之光、滿於六合。故、諸~大喜、卽科素戔鳴尊千座置戸之解除、以手爪爲吉爪棄物、以足爪爲凶爪棄物。乃使天兒屋命、掌其解除之太諄辭而宣之焉。世人愼收己爪者、此其緣也。既而、諸~、嘖素戔鳴尊曰「汝所行甚無頼。故不可住於天上、亦不可居於葦原中國。宜急適於底根之國。」乃共逐降去。于時、霖也。素戔鳴尊、結束草、以爲笠蓑、而乞宿於衆~。衆~曰「汝、是躬行濁惡而見逐謫者。如何乞宿於我。」遂同距之。是以、風雨雖甚、不得留休、而辛苦降矣。自爾以來、世諱著笠蓑以入他人屋內、又諱負束草以入他人家內。有犯此者必債解除、此太古之遺法也。 |
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このとき天手力雄~(アメノタヂカラオ)は岩戸の傍に居て、すぐに岩戸を引いて開きました。すると日の神の光は国に満ちました。
それで神々は喜び、すぐにスサノオをに千の台座に乗せた罪をあがなう宝物を差し出させ、手の爪を吉爪棄物(ヨシキライモノ)、足の爪を凶爪棄物(アシキライモノ)として抜きました。 また神々は天兒屋命(アメノコヤネ)に祓いの太諄辭(フトノリト=太祝詞)を歌わせました。 世の中の人が爪を大事にするのはそのせいです。 神々はスサノオを責めて言いました。 「お前がやったことは、とてもじゃないが許せるようなことではない。だから、天上(アメノウエ)に住むことは許されない。また葦原中国にも住んではいけない。すぐに底根之國(ソノツネノクニ)へ行ってしまえ!」と神々は皆でスサノオを追放してしまいました。 追放されたのは長雨の時だったので、スサノオは青草を束ねて、それを笠・蓑にして、道中に住んでいた神に一休みする宿を求めました。 しかし神々が言うには「お前がやったことが酷く悪くて穢れているから、追い出されたんじゃないか。どうして私に宿を求めるのか?」神々は皆、拒みました。 スサノオは風や雨が強かったのですが、一休みすることもできず、苦しみながら、天から降りて行きました。 これ以来、笠や蓑を身に付けて、他人の家の中に入るのを嫌うようになりました。また草を束ねた物を背負って家の中に入るのを嫌います。これを破ると必ず祓いをしなくてはいけません。これは古くから残る掟です。 ●古事記の対応箇所 / 日の光が戻る / 罰を与える八百万の神々 |
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■六合
東西南北と天地を合わせて六合で「クニ」と読みます。 ■爪を大事にする 爪が無いのは罪を犯したから。という感覚が古代にはあったのでしょう。実際に「罰」として爪を抜いていたのかもしれません。 ■旅人・雨・笠・蓑 長雨の時季というと梅雨。どこからともなくやってきた旅人が笠と蓑をつけたままで屋内に入ると「罪」として、罰があったようです。 日本の梅雨は蒸し暑く、物が腐る時期。集落の外からやってくる旅人は「病気」を持っている可能性があります。彼らの身につけている笠や蓑を室内に入れることは感染に繋がります。 当時は当然、科学の感覚は無く、病気は魔が起こすと考えていました。日本では天変地異は「罪」が起こすと考えていたようなので、罪を犯さないようにするのが、災厄を避ける大事な掟です。 それが旅人の笠・蓑を屋内に入れることは「罪」へとつながったのでではないか?と考えています。 |
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■第七段 悪行・岩戸・追放・誓約
是後、素戔鳴尊曰「諸~逐我、我今當永去。如何不與我姉相見而擅自俓去歟。」廼復扇天扇國、上詣于天。時、天鈿女見之而告言於日~也、日~曰「吾弟所以上來、非復好意。必欲奪之我國者歟。吾雖婦女、何當避乎。」乃躬裝武備、云々。 於是、素戔鳴尊誓之曰「吾、若懷不善而復上來者、吾今囓玉生兒、必當爲女矣、如此則可以降女於葦原中國。如有C心者、必當生男矣、如此則可以使男御天上。且姉之所生、亦同此誓。」於是、日~先囓十握劒、云々。 |
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スサノオは言いました。「神々は私を追放した。私は今まさに永遠に天を去る。ならばどうして最後に我が姉に会わないで勝手に行ってしまえるだろうか!」
それでまた、天を震わせ、地を震わせ、天に昇っていきました。その昇ってくる様子を見て天鈿女(アメノウズメ)は日の神にスサノオがやってくることを報告しました。 すると日の神は「わたしの弟が天に昇ってくる理由は、善い心からではないだろう。わたしの国(=高天原)を奪おうと考えているのでしょう。わたしは女ですが、どうして逃げられるか!」 すぐに武具を身につけました。(略) スサノオは誓約をして言いました。「わたしがもし、善からぬ気持ちを持って天に昇って来たのならば、勾玉を噛んで生まれる子供は女神になるでしょう。そうなれば、女神を中原中国に降ろしてください。もし清らかな心ならば、男神が生まれるでしょう。それならば男神に天界を治めさせてください。姉(=アマテラス)が生む子供も同じルールにしましょう」 それで日の神はまず十拳釼(トツカノツルギ)を噛みました。 ●古事記の対応箇所 / 須佐之男を迎え撃つアマテラス / 身の潔白の証明、誓約 |
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■順番が違う!
この書では、まずスサノオの悪行があり、その結果として天の岩戸事件が起き、その解決の結果としてスサノオは罪を問われ、天上界を追放されます。その追放後、根の国へと向かう前にアマテラスにあいさつに行き、そこで「天界を侵略に来たのか!」と疑われて誓約となり、宗像三女神やオシホミミなどの男神が生まれることになります。 ■つまり普通は 誓約→悪行→岩戸→追放なのに ここでは悪行→岩戸→追放→誓約となっています。 おそらくこの順番が物語としては正しいのでしょう。この順番がシックリ来ますから。誓約の後に調子こいて悪行って、物語としておかしいです。 ■順番を変えたのは、犯罪者の子孫にしないため 誓約のときに女神やオシホミミといった神が生まれます。これらの神々は、後の有力者の祖先ですし、古事記成立のときであっても、非常に有力な神でした。 その神が、悪行を犯し、罪を背負わされた状態で誓約をしたときに生まれたのと、まだ罪を犯していない状態で生まれたのとでは意味が違う。 つまり、罪の穢れを宗像の女神やオシホミミに付けないために、「誓約→悪行→岩戸→追放」の順番に改編したのだと思われます。 そう考えると「ケガレ信仰」は古事記の時点では全国的な信仰では無かったのかもしれませんね。 |
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■第七段 姉君は、天の国を照らしてください。
素戔鳴尊、乃轠轤然、解其左髻所纒五百箇御統之瓊綸、而瓊響瑲瑲、濯浮於天渟名井。囓其瓊端、置之左掌而生兒、正哉吾勝勝速日天忍穗根尊。復囓右瓊、置之右掌而生兒、天穗日命、此出雲臣・武藏國造・土師連等遠祖也。次天津彥根命、此茨城國造・額田部連等遠祖也。次活目津彥根命、次熯速日命、次熊野大角命、凡六男矣。於是、素戔鳴尊、白日~曰「吾所以更昇來者、衆~處我以根國、今當就去、若不與姉相見、終不能忍離。故、實以C心、復上來耳。今、則奉覲已訖、當隨衆~之意、自此永歸根國矣。請、姉照臨天國、自可平安。且吾以C心所生兒等、亦奉於姉。」已而、復還降焉。廢渠槽、此云祕波鵝都。捶籤、此云久斯社志。興台産靈、此云許語等武須毗。太諄辭、此云布斗能理斗。轠轤然、此云乎謀苦留留爾。瑲瑲乎、此云奴儺等母母由羅爾。 |
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スサノオは左のまとめた髪に巻いていた五百箇統之瓊(イホツノミスマルノタマ)の紐をほどきました。そして、勾玉がぶつかって音がするほどに、紐をユラユラとするくらいに、ジャブジャブと天渟名井(アメノヌナイ=井戸の名前)で洗いました。
その玉の端を噛んで、左手に置いて生まれた子供は 正哉吾勝勝速日天忍穗根尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホネノミコト)です。 また右の髪飾りの勾玉を噛んで右手に置いて生まれた子供は天穗日命(アメノホヒ)です。この髪は出雲臣(イズモノオミ)・武蔵国造(ムサシノクニノミヤツコ)・土師連(ハジノムラジ)などの遠い祖先です。 次に天津彦根命(アマツヒコネ)が生まれました。この神は茨城国造(イバラキノクニノミヤツコ)・額田部連(ヌカタベノムラジ)などの遠い祖先です。 次に活目津彦根命(イクメツヒコネノミコト)が生まれました。 次に熯速日命(ヒノハヤヒ)が生まれました。 次に熊野大角命(クマノオオクマノミコト)が生まれました。 以上で六柱の男神です。 スサノオは日の神に言いました。 「わたしがもう一度、天に昇って来たのは、神々が根の国にわたしを行かせるからです。もう根の国へと去ろうと思ったのですが、姉(=アマテラス)に会わないで行ってしまうのは、耐えられませんでした。わたしは本当に清らかな心で天に昇って来たのです。もう、十分です。神々の望み通りに、永遠に根の国へと行きましょう。姉君は、天の国を照らしてください。そして健康でいてください。また私が清らかな心で生んだ子供たちは、姉君にささげましょう」 そうしてまたスサノオは天を降りて行きました。 ●廃渠槽を秘波鵝都(ひはがつ)と読みます。捶籤を久斯社志(くしざし)と読みます。興台産靈を許語等武須毘(こごとむすひ)と読みます。太諄辞を布斗能理斗(ふとのりと)と読みます。讄轤然を乎謀苦留留爾(をもくるるに)と読みます。瑲瑲乎を奴儺等母母由羅爾(ぬなとももゆらに)と云う ●古事記の対応箇所 / 男神五柱の誕生 |
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■宗像の女神は生まれず
この第七段では宗像三女神は生まれませんでした。宗像の神は後進の氏族(宗像君)の神であり、古来から大和朝廷に関わった神ではないということでしょう。 ■讄轤然 オモクルルニと読むと注釈があるこの部分。どういう意味なのかよく分かりませんでした。 |
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■第八段 あなたたちの娘をわたしに差し出しなさい
是時、素戔鳴尊、自天而降到於出雲國簸之川上。時、聞川上有啼哭之聲、故尋聲覓往者、有一老公與老婆、中間置一少女、撫而哭之。素戔鳴尊問曰「汝等誰也。何爲哭之如此耶。」對曰「吾是國~、號脚摩乳、我妻號手摩乳、此童女是吾兒也、號奇稻田姬。所以哭者、往時吾兒有八箇少女、毎年爲八岐大蛇所呑、今此少童且臨被呑、無由脱免。故以哀傷。」素戔鳴尊勅曰「若然者、汝、當以女奉吾耶。」對曰「隨勅奉矣。」 |
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スサノオは自ら天から下って、出雲の簸之川(ヒノカワ=肥の川)の川上に降り立ちました。
そのとき、川上から呻き泣く声が聞こえました。 その声の聞こえる方へと行くと、老人と老女がいて、その間に一人の少女を置いて、その少女を撫でさすり泣いていました。 スサノオは聞きました。 「あなたたちは、誰だ?なぜそのように泣いている?」 老人は答えました。 「わたしはここの国津神の脚摩乳(アシナヅチ)といいます。わたしの妻は手摩乳(テナヅチ)といいます。この少女はわたしたちの子供で、奇稻田姫(クシイナダヒメ)といいます。泣いている理由というのが――元々私たちには八人の娘がいました。その娘たちを毎年、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)に呑まれていました。今、この少女(=クシイナダヒメ)が呑まれるところです。免れる方法がありません。それで悲しんでいるのです」 スサノオは言いました。「それならば、あなたたちの娘をわたしに差し出しなさい」 アシナヅチは答えました。「仰せのままに、差し上げましょう」 ●古事記の対応箇所 / 出雲に降りたった / テナヅチ・アシナヅチ / 大蛇への生贄 |
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スサノオ、勅して曰く
スサノオがアシナヅチに「娘をくれ」という発言(命令)を「勅(ミコトノリ)」という言葉で表現しています。この勅は天皇やアマテラス・イザナギといった命令を指しています。 スサノオは罪を犯し、その罪のために葦原中国へと落とされたために出雲にやってきたのですから、この「勅」という字は不適切な感じがします。 スサノオはその経緯はどうあれ、そもそも三貴神としてアマテラスに並ぶ神ですから、「勅」が当てられるのはおかしくないと言えば、おかしくありません。 |
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■第八段 酒造り・オロチ・草薙の剣
故、素戔鳴尊、立化奇稻田姬、爲湯津爪櫛、而插於御髻。乃使脚摩乳・手摩乳釀八醞酒、幷作假庪(假庪、此云佐受枳)八間、各置一口槽而盛酒以待之也。至期果有大蛇、頭尾各有八岐、眼如赤酸醤(赤酸醤、此云阿箇箇鵝知)、松柏生於背上而蔓延於八丘八谷之間。及至得酒、頭各一槽飲、醉而睡。時、素戔鳴尊、乃拔所帶十握劒、寸斬其蛇。至尾劒刃少缺、故割裂其尾視之、中有一劒、此所謂草薙劒也。 草薙劒、此云倶娑那伎能都留伎。一書曰「本名天叢雲劒。蓋大蛇所居之上、常有雲氣、故以名歟。至日本武皇子、改名曰草薙劒。」素戔鳴尊曰「是~劒也、吾何敢私以安乎。」乃上獻於天~也。 |
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スサノオは奇稻田姬(クシイナダヒメ)を湯津爪櫛(ユツツマグシ)という櫛に変えて、自分の髪に挿しました。
それから脚摩乳(アシナヅチ)と手摩乳(テナヅチ)に何度も醸造したアルコールの濃い酒を作らせ、 八つの一段高い舞台を作らせ(=桟敷)、 そのそれぞれの桟敷にお酒の桶を置いて、酒を注いで待っていました。 時間になると大蛇(オロチ)がやって来ました。 頭と尾は八本に別れています。目は赤く熟れたホウズキのようです。松やヒノキが背中に生え、胴体は八つの丘と八つの谷くらいありました。 オロチが酒を置いた桟敷のところにやってくると、頭はそれぞれの酒桶を飲み、酔っ払って眠ってしまいました。 そのとき、スサノオは腰に挿している十拳釼(トツカノツルギ)を抜いて、八本の尾をズタズタに斬り裂きました。 ある尾を切っていると剣の歯が少し欠けてしまいました。それでその尾を割って裂いてみると、中に一本の剣がありました。 これが草薙剣(クサナギノツルギ)です。 草薙剣…これを倶娑那伎能都留伎(クサナギノツルギ)といます。 ある書によると、本当の名前は天叢雲劒(アメノムラクモノツルギ)といいます。思うに、大蛇の居るところの上には常に雲があります。そのために名付けられたのではないでしょうか。 日本武皇子の時代に名前を草薙剣と呼ばれるようになりました。 スサノオは言いました。「これは神の剣だ。自分のものにするわけにはいかない」そうして天津神に剣を献上しました。 ●古事記の対応箇所 / ヤマタノオロチについて / ヤマタノオロチの姿形について / 老夫婦に名乗る / 大蛇退治の妙案 / 酒を飲んで寝る大蛇 / 刀が欠けてしまう / クサナギの剣があらわれる |
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■櫛を髪に
スサノオはクシイナダヒメを櫛に変え、自分の髪に挿します。当時の男性はオシャレだったとよく言われます。 ■酒には神聖な力がある 酒を何度も醸造して、より強いお酒を作り、それをオロチにささげます。これはまず、「酒」がオロチという天変地異を鎮めるほどの力のある「飲料」ですよ、という意味があり、また酒を作ることは天変地異を鎮めるために必要な「神聖な仕事」ですよ、という意味を持ちます。 実際、酒造りは神社の仕事でした。 もうひとつ、生贄として捧げていたクシイナダヒメの代わりに酒を捧げたということは、かつては「人間」を儀式の中で捧げていたものを、「酒」で代用したという意味もあるのでしょう。 人間、特に女性は子供を生むことのできる「特殊な力」を持った存在です。生贄にするには適していたと考えたのでしょうが、生贄にするより、生きて子供を生んだ方がずっと合理的かつ、結果の出ることだ!と誰かが気づいた。 そこで酒と女性の入れ替えがあったのではないでしょうか。 ■オロチと天叢雲剣 オロチは川の氾濫の象徴であり、オロチ退治は治水事業を表していると言われています。首と尾が8つにわかれていることも「川」を想像させますし。オロチの上にはいつも雲があるという注釈も「大雨・氾濫・洪水」を連想させます。それに大体、デカイ。胴体が8つの丘と8つの谷ほどあるというのだから、オロチという言葉では物足りないです。自然災害とか天変地異というカテゴリです。 そのオロチの尾が「剣」が出てくるのは、タタラ製鉄で山の木を大量に切った結果、山の保水力が落ちて洪水がおきやすくなったから…という説があります。 この説が正しいとなると、古代人は木の根によって山が保水していると「知っていた」ことになります。「知っていた」が極端なら「うすうす感づいていた」ことになります。神と魔が現実に存在すると考えていた古代人にここまでを期待するのは酷ではないか?と。もちろん分かりっこないというわけではなく、経験的に知っていた可能性もありますが。 わたしは「剣」というものが、そもそも単に「鉄器」を象徴しているだけ、だろうと思っています。つまり、鍬(クワ)や鋤(スキ)や鎌(カマ)といった金属製の農機具を漠然と「剣」という名で呼んでいたのではないかってことです。 だって草薙の剣って言葉、おかしいと思いませんか?だからオロチの尾から剣が出て来たことは、出雲で鉄器を生産していたことと関わりはあるでしょう。でも、「武器」としての鉄器ではなく、「農機具」としての川と農業との関わりからではないかと考えています。 |
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■第八段 出雲の清地で清々しい
然後、行覓將婚之處、遂到出雲之C地焉。(C地、此云素鵝。)乃言曰「吾心CC之。」此今呼此地曰C。於彼處建宮。或云「時、武素戔鳴尊歌之曰、夜句茂多兔、伊弩毛夜覇餓岐、兔磨語昧爾、夜覇餓枳都倶盧、贈廼夜覇餓岐廻。」乃相與遘合而生兒大己貴~。因勅之曰「吾兒宮首者、卽脚摩乳・手摩乳也。」故、賜號於二~曰稻田宮主~。已而素戔鳴尊、遂就於根國矣。 |
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その後、スサノオはクシイナダヒメと結婚生活を送る場所を探していました。遂に出雲の清地(スガ)にたどり着きました。スサノオは言いました。「私の心は清々しい」それでこの土地を「清(スガ)」といいます、この場所に宮殿を立てました。
別書によると……スサノオは歌いました。 八雲たつ出雲八重垣妻ごみに 八重垣作るその八重垣へ スサノオとクシイナダヒメは結ばれて生まれた子供が大己貴~(オオナムチノカミ)です。 スサノオは命令を下しました。「私の子(=オオナムチ)の宮殿の首長は脚摩乳(アシナヅチ)・手摩乳(テナヅチ)だ」 それで二柱の神(=アシナヅチ・テナヅチ)を稻田宮主~(イナダミヤヌシノカミ)と名付けました。 その後、スサノオはついに根の国へと行ってしまいました。 ●C地は素鵝(スガ)と読みます。 ●古事記の対応箇所 / すがすがしいなぁ / 日本最初の歌 |
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■スサノオは死んだ
高天原で罪を犯し、その罪のために根の国へと追放されたスサノオ。まぁ、本文では「母の国へ行きたい」から、根の国へ行くことになっているんですが。 この罪のために根の国へ行く、というストーリー展開ならば、スサノオのオロチ退治は、出掛けの駄賃ということになります。根の国行く途中に、チャチャっと解決した、という程度のことです。スサノオの霊威から考えると、それもおかしくない話です。 そもそも三貴神なんです。アマテラスと同等のエネルギーを持っていて誓約に勝利すらしています。駄々をこねると山が泣き、地が轟いて、魔がはびこるくらいの、強い神様なんです。オロチが8つの丘と8つの谷にまたがるくらいの大きさの怪物だったとしても、大したこと無いんです。 しかし、単に高天原を追い出されて、葦原中国の出雲に落ちて来た、となると、スサノオは出雲で生活するために人助けをして居場所を作ったということになります。そして子孫を残した。まぁ、ストーリー展開上、そういうニュアンスになるって意味です。 |
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■第八段 三名狹漏彦八嶋篠
一書曰、素戔鳴尊、自天而降到於出雲簸之川上。則見稻田宮主簀狹之八箇耳女子號稻田媛、乃於奇御戸爲起而生兒、號C之湯山主三名狹漏彥八嶋篠。一云、C之繋名坂輕彥八嶋手命、又云、C之湯山主三名狹漏彥八嶋野。此~五世孫、卽大國主~。篠、小竹也。此云斯奴。 |
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ある書によると……スサノオは天から降りてきて、出雲の肥の川の川上に辿り着きました。
そこで稻田宮主(イナダノミヤヌシ)の簀狹之八箇耳(スサノヤツミミ)の娘の稻田媛(イナダヒメ)を娶って、生んだ子を清(スガ)の湯山主(ユヤマヌシ)の三名狹漏彦八嶋篠(ミナサルヒコヤシマシノ)といいます。 別書によると…清(スガ)の繋名坂輕彦八嶋手命(ユイナサカカルヒコヤシマデノミコト)と言います。 また別書によると…清(スガ)の湯山主(ユヤマヌシ)の三名狹漏彦八嶋野(ミナサルヒコヤシマノ)といいます。 この神の五世孫は大國主~(オオクニヌシ)です。 篠は小さい竹のことです。斯奴(シノ)と呼びます。 ●古事記の対応箇所 / 出雲に降りたった |
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話の流れからいうと、稻田宮主(イナダノミヤヌシ)の簀狹之八箇耳(スサノヤツミミ)がアシナヅチ・テナヅチにあたるのでしょうね。 | |
■第八段 安芸国の可愛川での大蛇との戦い
一書曰、是時、素戔鳴尊、下到於安藝國可愛之川上也。彼處有~、名曰脚摩手摩、其妻名曰稻田宮主簀狹之八箇耳、此~正在姙身。夫妻共愁、乃告素戔鳴尊曰「我生兒雖多、毎生輙有八岐大蛇來呑、不得一存。今吾且産、恐亦見呑、是以哀傷。」素戔鳴尊乃教之曰「汝、可以衆菓釀酒八甕、吾當爲汝殺蛇。」二~隨教設酒。至産時、必彼大蛇、當戸將呑兒焉。 素戔鳴尊勅蛇曰「汝、是可畏之~、敢不饗乎。」乃以八甕酒、毎口沃入。其蛇飲酒而睡。素戔鳴尊、拔劒斬之、至斬尾時、劒刃少缺、割而視之、則劒在尾中、是號草薙劒、此今在尾張國吾湯市村、卽熱田祝部所掌之~是也。其斷蛇劒、號曰蛇之麁正、此今在石上也。是後、以稻田宮主簀狹之八箇耳生兒眞髮觸奇稻田媛、遷置於出雲國簸川上、而長養焉。然後、素戔鳴尊、以爲妃而所生兒之六世孫、是曰大己貴命。大己貴、此云於褒婀娜武智。 |
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ある書によると……スサノオは安芸の国の可愛の川(エノカワ)の川上に天から降りてきました。
そこに神が居ました。神の名前は脚摩手摩(アシナヅテナヅ)といいます。その妻の名前は稻田宮主簀狹之八箇耳(イナダノミヤヌシスサノヤツミミ)といいます。この神は妊娠していました。 夫婦が心配そうにして、スサノオに言いました。 「わたしが生んだ子供は多かったのですが、生むたびにすぐに八岐大蛇(ヤマタノオロチ)が来て、飲み込んでしまいます。それで一人も残っていません。今からわたしは出産しますが、おそらくはまた呑まれてしまいます。それで悲しんでいるのです」 スサノオは教えました。 「お前たちはたくさんの木の実を集めて、八個の甕(カメ)だけ酒を醸造しろ。そうしたら、私がお前たちのために大蛇を殺してやろう」 夫婦はスサノオに言われるように酒を用意しました。 それで出産のときになると、やはり大蛇がやってきて子供を飲もうとした。スサノオは大蛇に向かって言いました。 「お前は恐るべき力を持った神だ!そこで御馳走をしよう!!」 八個の甕(カメ)の酒をヤマタノオロチの8個の口にそれぞれ注いで飲ませました。それでオロチは酒を飲んで酔っ払って眠ってしまいました。 スサノオは眠った大蛇を剣を抜いて切ってしまいました。尾を切るときに剣の刃が少し欠けてしまいました。 尾を割って見ると、中には剣がありました。 これを草薙剣(クサナギノツルギ)と言います。 草薙の剣は現在尾張の国の吾湯市村(アユチノムラ)にあります。熱田神宮の祝部(ハフリベ)が祀っている神はこれです。 その大蛇を切った剣は蛇之麁正(オロチノアラマサ)といいます。これは今は石上神社(イソノカミ)にあります。 稻田宮主簀狹之八箇耳(イナダノミヤヌシスサノヤツミミ)が生んだ子の眞髪觸奇稻田媛(マカミフルクシイナダヒメ)は、出雲の簸の川(ヒノカワ)の川上に引っ越して、長い間養育しました。 のちにこの姫はスサノオの妃(キサキ=后)となって生んだ六世孫が大己貴命(オオナムチ)といいます。 ●古事記の対応箇所 / 出雲に降りたった / テナヅチ・アシナヅチ / 大蛇への生贄 / ヤマタノオロチについて / ヤマタノオロチの姿形について / 老夫婦に名乗る / 大蛇退治の妙案 / 酒を飲んで寝る大蛇 / 刀が欠けてしまう / クサナギの剣があらわれる |
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■可愛の川(エノカワ)
広島県北東部を流れる江の川(ゴウノカワ)のこと。可愛川という広島で現在でも呼ばれているとネットに書いてあるが、広島在住の私は知らない。関係する神社が清神社(スガジンジャ)です。 ■特異点 この話では本文のテナヅチにあたる稻田宮主簀狹之八箇耳(イナダノミヤヌシスサノヤツミミ)が妊娠中でクシイナダヒメはまだお腹の中です。 また、大蛇ではありますが、スサノオが瓶を口に注げる程度の大きさであり、スサノオがオロチの口に注ぐという、ちょっと宴会っぽいというか、大蛇には強大な力がありますが、割と頑張れば勝てそうな感じがします。 ■神社や関連する土地 清神社(スガジンジャ)清神社にはこの八段(二)に関係する神々が祀られています。 |
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■第八段 大蛇の頭には石や松があり、両脇には山があり
一書曰、素戔鳴尊、欲幸奇稻田媛而乞之、脚摩乳・手摩乳對曰「請先殺彼蛇、然後幸者宜也。彼大蛇、毎頭各有石松、兩脇有山、甚可畏矣。將何以殺之。」素戔鳴尊、乃計釀毒酒以飲之、蛇醉而睡。素戔鳴尊、乃以蛇韓鋤之劒、斬頭斬腹、其斬尾之時、劒刃少缺。故裂尾而看、卽別有一劒焉、名爲草薙劒、此劒昔在素戔鳴尊許、今在於尾張國也。其素戔鳴尊斷蛇之劒、今在吉備~部許也、出雲簸之川上山是也。 |
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ある書によると…スサノオは奇稻田媛(クシイナダヒメ)を妻にしようと思って頼み込みました。
すると脚摩乳(アシナヅチ)・手摩乳(テナヅチ)は答えました。 「お願いですから、まず、あの大蛇を殺してください。それから嫁にしてください。大蛇の頭には石や松があり、両脇には山があり、とても恐ろしい力があります。どうやって殺すのですか?」 スサノオは策略を練りました。毒の酒を醸造して、これを大蛇に呑ませました。大蛇は酔って眠ってしまいました。 スサノオは蛇韓鋤之劒(オロチノカラサビノツルギ)で、大蛇の頭を斬り、腹を斬りました。そしてその尾を切るときに、剣が少し欠けてしまいました。尾を裂いてみると、そこに一本の剣がありました。名前を草薙剣(クサナギノツルギ)といいます。この剣は、以前はスサノオの元にありましたが、今は尾張国(=愛知県)にあります。そのスサノオがオロチを斬った剣は、現在は吉備の~部(カンベ)の元にあります。出雲の簸川(ヒノカワ)の川上にあるのがその山です。 ●古事記の対応箇所 / テナヅチ・アシナヅチ / 大蛇への生贄 / ヤマタノオロチについて / ヤマタノオロチの姿形について / 老夫婦に名乗る / 大蛇退治の妙案 / 酒を飲んで寝る大蛇 / 刀が欠けてしまう / クサナギの剣があらわれる |
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■吉備の~部
吉備の神部は岡山の石上布都魂神社とされますが、それではヒノカワの川上というのと合致しません。これは「古代の認識はそうだった」のか、それとも「吉備の神部」が別の神社を指しているのか、それは分かりません。正直、後者のような気が。 ■特異点 他の一書・本文と違う点は…アシナヅチ・テナヅチが若干上から目線、ちょっとだけスサノオに上から目線です。大蛇を殺したら、嫁にやってもいいぞ、という条件付きです。 ■大蛇のディテールが若干ごつい 本文に近い表現です。「頭には岩や松が生えていて、両脇には山がある」。まぁ凄いのか、よく分かりませんが、ここでのオロチは「川」というよりは「自然」とか「山々」というイメージのような。 ■毒の酒 オロチに毒の酒を飲ませます。腹まで裂く、今までは尾と首でしたが、今回はお腹まで裂いています。 ■神社や関連する土地 石上布都魂神社。 |
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■第八段 新羅国・曾尸茂梨(ソシモリ)に
一書曰、素戔鳴尊所行無狀、故諸~、科以千座置戸而遂逐之。是時、素戔鳴尊、帥其子五十猛~、降到於新羅國、居曾尸茂梨之處。乃興言曰「此地、吾不欲居。」遂以埴土作舟、乘之東渡、到出雲國簸川上所在、鳥上之峯。時、彼處有呑人大蛇。素戔鳴尊、乃以天蠅斫之劒、斬彼大蛇。時斬蛇尾而刃缺、卽擘而視之、尾中有一~劒。素戔鳴尊曰「此不可以吾私用也。」乃遺五世孫天之葺根~、上奉於天。此今所謂草薙劒矣。初、五十猛~、天降之時、多將樹種而下、然不殖韓地、盡以持歸。遂始自筑紫凡大八洲國之內、莫不播殖而成山焉。所以、稱五十猛命、爲有功之~。卽紀伊國所坐大~是也。 |
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ある書によると……スサノオの行いは酷いものでした。よって神々は千の台座に乗るほどの宝を提出させて、最後には追放してしまいました。
このときにスサノオは息子の五十猛~(イタケルノカミ)を連れて、新羅国に降り、曾尸茂梨(ソシモリ)に辿り着きました。 そこでスサノオが言いました。「この土地に、わたしは居たくない」それで土で船を作って、それに乗って東に渡り、出雲の簸の川(ヒノカワ)の川上にある鳥上之峯(トリカミノミネ)に辿り着きました。 そのときその土地に人を飲む大蛇が居ました。 スサノオは天蠅斫之劒(アメノハハキリノツルギ)を使い、この大蛇を斬りました。大蛇の尾を斬ったとき刃が欠けてしまいました。 それで尾を裂いて見ると、尾の中に一本の神剣がありました。 スサノオは言いました。 「これは私のものにしてはいけない」 スサノオの五世孫の天之葺根~(アメノフキネノカミ)によってこの神剣は天に捧げられました。 これは現在でいうところの草薙剣(クサナギノツルギ)です。 元に五十猛~(イタケルカミ)が天界を下った時に、多くの木の種を持っていました。これを韓(朝鮮半島)には植えずに、すべてを持ち帰りました。それで筑紫(九州の北部)から初めて、大八洲國(オオヤシマクニ)に蒔いたので、日本に青々としていない山は無いのです。 紀伊国に居る大神はこの五十猛~(イタケルカミ)です。 ●古事記の対応箇所 / 罰を与える八百万の神々 / 出雲に降りたった / ヤマタノオロチについて / ヤマタノオロチの姿形について / 刀が欠けてしまう / クサナギの剣があらわれる |
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■五十猛~
スサノオは誓約だけでなく子供をもうけていたようですね。しかもどの子(オオヤツヒメ・ツマツヒメ)も「林業」に関わる。またスサノオも第八段一書(五)では体毛を木に変えるという林業の神になっています。五十猛~という名前の「五十」は「勢いが強い」という意味か、それとも「神聖な」という意味の「忌(イ)」を表わしているのか。漢字を見ると武神という印象ですが、ストーリーと合わせて考えると、「猛」という文字は樹木の生育する様・勢いを表していると考えた方が良いかも。 ■曾尸茂梨(ソシモリ) ソシモリは朝鮮のどこか?は分かりません。ソシモリは都市の名前かもしれませんし、地形を表しているのかもしれません。日本の神は「海の向こうから来るもの」という共通認識があります。深い意味はありません。神武天皇・神宮皇后(朝鮮征伐後・応神天皇と)・エビス・ヒルコ・コトシロヌシ・スクナヒコナという代表的なものから、タマヨリヒメ・トヨタマヒメといったものを含めるとかなりの量になります。これは日本の地形が「様々な文化が最後にやってくる場所」という事情もあります。ここにスサノオもこの段で海来神の仲間入りということです。なのでこの話を持って「スサノオは朝鮮出身」というのは飛躍しています。 ■五十猛~(イタケルカミ)が朝鮮半島に種を蒔かない理由 日本は自然が豊かな土地です。日本にある植物の種類は欧州の植物の種類と同じくらいです。面積にこれだけ差があるのに、です。それだけ多様性に富み、豊かな土地です。雨も多いですしね。朝鮮半島は日本に比べると土地も痩せていますし、寒い。よって樹木は決して豊かではないし、剥げ山が多いです。というと朝鮮半島がダメ、みたいな感じですが、日本が異常に自然が豊かなんです。この話はその差を表しているだけでしょう。 ■朝鮮半島は古代からハゲ山だったのか? 現在朝鮮半島の山がハゲ山なのは「オンドル」という床下暖房に木を使っていたから、とされます。このオンドルを三国時代(百済・高句麗・新羅の時代)から使っていたというので、この物語はそのころに思いついた話かもしれません。しかし、現在のオンドルでは木を燃やしていませんから、今の朝鮮半島に緑が少ないのは単に植生の問題であって、オンドルとは関係ありません。元々木が少ないのに暖房に使ったからハゲが進んだんでしょう。この八段(四)では、スサノオが新羅に行ったとしていますが、本当に新羅だったのか、新羅以前の朝鮮半島の事情(というか単に植生)を表しているだけかもしれない。つまりオンドルを使用する以前から、日本と朝鮮との植生に大きな差があった、その話が八段(四)という可能性も十分あります。 ●新羅の成立は紀元前とされますが、実際にはもっと遅かった可能性は高いです。4世紀かも。 朝鮮半島は緑が少ない、日本は青々としている、その理由づけにスサノオやその子供たちの神の活躍があったり、「このくらい神の力は凄いですよ」と、神の力を示したかったのかもしれません。 ただし、日本は白村江の戦いで新羅・唐連合軍に敗れて、その後、日本は新羅を目の敵にしている時期があります。新羅をおとしめる記述はその影響と言う意見もあります。まぁ、それでも朝鮮半島と日本で植生が違うのは当たり前なので、この記述をフィクションと言うのは無理があるでしょう。 |
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■第八段 浮宝が無ければ困るだろう
一書曰、素戔鳴尊曰「韓ク之嶋、是有金銀。若使吾兒所御之國、不有浮寶者、未是佳也。」乃拔鬚髯散之、卽成杉。又拔散胸毛、是成檜。尻毛是成艨A眉毛是成櫲樟。已而定其當用、乃稱之曰「杉及櫲樟、此兩樹者、可以爲浮寶。檜可以爲瑞宮之材。芍ツ以爲顯見蒼生奧津棄戸將臥之具。夫須噉八十木種、皆能播生。」于時、素戔鳴尊之子、號曰五十猛命。妹大屋津姬命、次枛津姬命、凡此三~、亦能分布木種、卽奉渡於紀伊國也。然後、素戔鳴尊、居熊成峯而遂入於根國者矣。 棄戸、此云須多杯。艨A此云磨紀。 |
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ある書によると…スサノオは言いました。「韓国の島には金銀がある。もしもわたしの子孫が納める国に、浮宝(ウキタカラ=船)が無ければ、困るだろう」
それでヒゲを抜くと杉の木に成りました。胸毛を抜くとヒノキになりました。お尻の毛を抜くとマキとなりました。眉毛はクスノキになりました。スサノオはこれらの木々の用途を決めました。 「杉とクスノキは船に使え。ヒノキは宮殿を作るのに使え。マキは人民の奧津棄戸(オキツスタエ=棺桶)に使え。その他の食べる八十木種(ヤソコダネ=沢山の種子)はよく蒔いて、育てなさい」 スサノオの子は、五十猛命(イタケルノミコト)と妹の大屋津姫命(オオヤツヒメ)、もう一人の妹の枛津姫命(ツマツヒメ)といいます。 この三柱の神は、よく木の種を蒔きました。この三柱の神は、紀伊国に祀ってあります。 スサノオはその後、熊成峯(クマナリノミネ)に居て、やがて根の国に行きました。 ●棄戸は須多杯(スタヘ)といいます。艪ヘ磨紀(マキ)といいます。 |
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■ウキタカラ
「浮・宝」で船のことです。古代の日本人は船をそういう風に見ていたんですね。豊かなもの、便利なもの、素晴らしい何かは、海の向こうからやってくるという感覚があったということです。今でも日本人は外来のものを有難がります。そこから吸収し、最後は自分の文化に取り込んでしまうのです。 ■韓国の金銀 金銀というのは「鉄鉱石」のことです。韓国、つまり朝鮮半島には現在でも鉄鉱石が取れます。古代の日本人は朝鮮半島に鉄鉱石を取りに行っていました。これは魏志倭人伝にも乗っています。 しかし日本では昔からタタラ製鉄があり、鉄鉱石を必ずしも必要としていませんでした。またタタラによる錬成した鉄器は非常に丈夫で、当時の朝鮮半島の型に流し込む鉄器なんておもちゃみたいなものです。 タタラ製鉄の成立は不明。日本のタタラ製鉄はどうやら鉄鉱石による製鉄よりもかなり古いと見られています。その技術が何処から来たのか????当然朝鮮半島は経由していないと思われます。大きな謎です。 鉄鉱石からの製鉄は効率が良い。タタラは手間が掛かり、量が作れない。日本でも徐々に鉄鉱石による製鉄が主流になったと思われます。その中で力を持ったのが吉備。吉備から鉄鉱石が取れたからです。しかしそれも掘りつくすと衰退しました。 平安・鎌倉時代には鉄鉱石の輸入は行っていません(あったとしても少量)。ということは、国内の鉄器はタタラ製鉄だけでも十分な量が取れたということではないでしょうか? |
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■第八段 百姓は現在までその恩恵を受けています
一書曰、大國主~、亦名大物主~、亦號國作大己貴命、亦曰葦原醜男、亦曰八千戈~、亦曰大國玉~、亦曰顯國玉~。其子凡有一百八十一~。夫大己貴命與少彥名命、戮力一心、經營天下。復、爲顯見蒼生及畜産、則定其療病之方。又、爲攘鳥獸昆蟲之災異、則定其禁厭之法。是以、百姓至今、咸蒙恩頼。 |
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ある書によると…大國主~(オオクニヌシ)、別の名を大物主~(オオモノヌシ)、もしくは國作大己貴命(クニツクリシオオナムチノミコト)、もしくは葦原醜男(アシハラシコオ)、もしくは八千戈~(ヤチホコノカミ)、もしくは大國玉~(オオクニタマノカミ)もしくは顯國玉~(ウツシクニタマノカミ)といいます。オオクニヌシの子供は一百八十一~(モモハシラアマリヤソハシラアマリヒトハシラノカミ=181柱の神々)いました。
そのオオナムチと少彦名命(スクナヒコナノミコト)は力を合わせ、心を一つにして、天下を治めました。 また顯見蒼生(ウツシキアオヒトクサ=人間)と畜産(ケモノ)のために、その病気を治療する方法を定めました。 また鳥・獣・虫の災害を防ぐ方法を定めました。 以上のことで百姓(オオミタカラ)は現在までその恩恵を受けています。 ●古事記の対応箇所 / ガマの花粉でウサギの傷を癒す(医療) / クエビコについて(害虫避け) |
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■經營天下
「經營天下」で天下を経(おさめ)営(いとなむ)としています。当時の世界観には権力者は世界を支配するものではなく、権力者には義務があるという感覚があったよう。 ■治療には獣も 人間だけでなく畜産(ケモノ)の治療をなぜするのか??????当時の日本では動物を農業の動力として利用していたためと思われます。 もちろん食用かもしれません。7世紀に天武天皇が肉食を禁じています。だからそれ以前は食べていた、と言う可能性もあります。しかし、ケガレを嫌う日本人が積極的に食べていたかは正直、疑問。 馬の伝来は古事記によると「国主照古王牡馬壱疋牝馬壱疋」の応神天皇の時代(推測では4世紀)となっています。では、牛は??? ■鳥獸昆蟲之災異 鳥・獣・虫の災害というのはおそらくは「農業への被害」という意味かと思われます。 |
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■第八段 粟の茎に昇ったら、はじかれて常世の国へ
嘗大己貴命謂少彥名命曰「吾等所造之國、豈謂善成之乎。」少彥名命對曰「或有所成、或有不成。」是談也、蓋有幽深之致焉。其後、少彥名命、行至熊野之御碕、遂適於常世ク矣。亦曰、至淡嶋而緣粟莖者、則彈渡而至常世ク矣。自後、國中所未成者、大己貴~、獨能巡造、遂到出雲國、乃興言曰「夫葦原中國、本自荒芒、至及磐石草木咸能强暴。然、吾已摧伏、莫不和順。」遂因言「今理此國、唯吾一身而巳。其可與吾共理天下者、蓋有之乎。」 |
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かつて、大己貴命(オオナムチ)は少彦名命(スクナヒコナ)に言いました。「わたしたちが作った国は、良くなったと言えるだろうか??」スクナヒコナは答えました。「あるところは良く成りました。あるところは良く成ってないところがあります」
この会話には、非常に深い意味があるのでしょう。 その後、スクナヒコナは熊野の御崎に行って、そこから常世郷(トコヨノクニ)に行ってしまいました。 別伝によると淡嶋(アワノシマ)へ行って、粟の茎に昇ったら、はじかれて常世の国へ行ってしまったとも言わています。 スクナヒコナが居なくなってしまいましたが、まだ国は未完成のところがあります。オオナムチは一人でよく国を回り、出雲の国に辿り着き、云いました。 「葦原中国(アシハラナカクニ=日本)は元々は荒れ果てていた。岩から草木まで何もかも、酷いものだった。しかし、わたしが砕いて、従わないものは無くなった。」 さらに言葉をつづけました。「今、この国を治めるのは、ただ私だけ。わたしと共に国を天下を治めるものがどこにいるか??!」 ●古事記の対応箇所 / スクナヒコナは常世の国へ / 国つくりのパートナーが欲しい |
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■スクナヒコナと淡島
粟島神社とか淡島神社と呼ばれる神社が祀っているのはスクナヒコナ。ただし、これは明治の国家神道の中で神仏が分離したときに無理くり「スクナヒコナ」にされたという面もあり、元々は「淡島神」という民間信仰の神だったと思われる。ただし淡島神がなんのかはハッキリしない。 ■熊野之御碕 島根県松江市八雲町熊野の熊野大社と言われています。 ■淡嶋 鳥取県米子市彦名町の粟嶋神社と言われています。 ■この会話には深い意味が なぜこの会話に深い意味があるとされたのかは、よく分かりません。記紀の編者の感想とも言われますが、当時としては分かって当然というのような何かの意味があったのかもしれないです。 |
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■第八段 三諸山に住もう
于時、~光照海、忽然有浮來者、曰「如吾不在者、汝何能平此國乎。由吾在故、汝得建其大造之績矣。」是時、大己貴~問曰「然則汝是誰耶。」對曰「吾是汝之幸魂奇魂也。」大己貴~曰「唯然。廼知汝是吾之幸魂奇魂。今欲何處住耶。」對曰「吾欲住於日本國之三諸山。」故、卽營宮彼處、使就而居、此大三輪之~也。此~之子、卽甘茂君等・大三輪君等・又姬蹈鞴五十鈴姬命。又曰、事代主~、化爲八尋熊鰐、通三嶋溝樴姬・或云玉櫛姬而生兒、姬蹈鞴五十鈴姬命。是爲~日本磐余彥火火出見天皇之后也。 |
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すると、神々しい光が浮かび、海を照らして、たちまちやって来ました。その光が言いました。
「もしも、わたしが居なければ、お前はこの国を平定出来なかっただろう。わたしが居てこそ、この大きな結果を出すことが出来たのだ」 このときオオナムチは言いました。「では、お前は誰だ??」 光は答えました。「わたしはお前の幸魂(サキミタマ)奇魂(クシミタマ)だ」 オオナムチは言いました。「なるほど。そうか。お前は、わたしの幸魂奇魂だ。これから何処に住みたいと思うか??」 すると答えました。「わたしは日本国(ヤマトノクニ)の三諸山(ミモロヤマ)に住もうと思う」それで宮殿を作り、祀りました。それが大三輪(オオミワ)の神です。この神の子は甘茂君(カモノキミ)、大三輪君(オオミワノキミ)、また姫蹈鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメノミコト)です。 別伝によると、事代主神(コトシロヌシ)は八尋熊鰐(ヤヒロノクマワニ)となって、三嶋の溝樴姬(ミゾクイヒメ)、別名を玉櫛姫(タマクシヒメ)という姫のところに通って出来た子供が姫蹈鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメノミコト)です。この姫は~日本磐余彦火火出見天皇(カムヤマトイワレヒコホホデミノスメラミコト)の后となりました。 ●古事記の対応箇所 / 海の向こうから光の神が |
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■幸魂(サキミタマ)奇魂(クシミタマ)
神の性質は和魂(にきみたま)と荒魂(あらみたま)に分けられます。和魂が人々に富をもたらしたり幸福にする性質で、荒魂が逆に災害や病気や争いをもたらす性質です。心理学の「グッドマザー・バッドマザー」でしょうね。 この和魂を更に分類したのが幸魂・奇魂です。幸魂は幸福をもたらすもの。奇魂は神秘的な力です。 ■お前の幸魂奇魂だ! この部分は、どういう意味を持っているのか?というとちょっと分かりません。素直に「古代の日本人は和魂(幸魂+奇魂)と荒魂が別々の人格を持っていて、しかも本体(和魂+荒魂)とは別の人格を持っていた」と考えていたのか。 それともオオモノヌシとオオナムチが似た性質を持っていて、同一視したという経緯を表しているだけなのか? 大物主神の「物」は「物の怪」の物です。漠然とした「神」という意味を持っています。オオナムチも同様に「霊威が強い」という意味です。 ■大物主神とは? 祟神天皇のときに「タタリ神」として登場することで有名ですが、本来はタタリ神ではなく、機嫌がいいと富をもたらし、粗末に扱うと祟るという、日本では極々一般的な神様だったのでしょう。 ■事代主神の政略 コトシロヌシはオオナムチ(オオクニヌシ)の子供とされる神です。おそらくは託宣の神だったのでしょう。この神の子供の姫蹈鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメノミコト)が~日本磐余彦火火出見天皇(カムヤマトイワレヒコホホデミノスメラミコト)…つまり後の神武天皇の妃となるということは、ちょっと凄いことです。 御存じの通り、オオクニヌシの国は高天原の勢力に国譲りをするのですが、その中でオオクニヌシの子孫の姫が神武天皇の妻になっているのです。 コトシロヌシが初期大和朝廷の有力者の葛城氏が祀る「一言主(ヒトコトヌシ)」と同一視されています。それはつまり、出雲の衰退と大和の成立は必ずしも、大和が出雲を征服したということではない…という可能性はあります。 ■八尋熊鰐 ヤヒロは「大きい」という意味です。「熊」は「神」と同義。ワニは魚の「サメ」のことか、もしくはあの爬虫類の「ワニ」です。ワニが「サメ」か「ワニ」という謎は古代日本の話題ではよくあるものです。 どちらにしても事代主神が「海神(ワダツミ)」の要素を持っているという意味でしょう。国譲りの後に海に消えてますし。 |
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■第八段 出雲の五十狹々小汀
初、大己貴~之平國也、行到出雲國五十狹々小汀、而且當飲食。是時、海上忽有人聲。乃驚而求之、都無所見、頃時、有一箇小男、以白蘞皮爲舟、以鷦鷯羽爲衣、隨潮水以浮到。大己貴~、卽取置掌中而翫之、則跳囓其頰。乃怪其物色、遣使白於天~、于時、高皇産靈尊聞之而曰「吾所産兒、凡有一千五百座。其中一兒最惡、不順教養。自指間漏墮者、必彼矣。宜愛而養之。」此卽少彥名命是也。顯、此云于都斯。蹈鞴、此云多多羅。幸魂、此云佐枳彌多摩。奇魂、此云倶斯美拕磨。鷦鷯、此云娑娑岐。 |
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(今までのお話の前……)オオナムチが国を平定した頃の話です。出雲の五十狹々小汀(イササノオハマ)に辿り着き、食事をしようとしました。
その時、海の上から人の声が聞こえてきました。オオナムチは驚いてその声の主を探したのですが、どこにも船も人も見えませんでした。 しばらくして、一人の小さな男が、ガガイモ(植物名)の実の皮で出来た船に乗り、ミソサザイ(鳥の名前)の羽で出来た服を着て、波のまにまに浮かんでやって来ました。 オオナムチはすぐにその神を掌に乗せて玩具にしました。 すると小さな男は怒って、オオナムチの頬にかみつきました。 その形に驚いて、使者を天神に報告すると、これを聞いた高皇産霊尊(タカミムスビ)が言いました。 「わたしが生んだ子は1500座ある。その中の一人の子は最悪で、教育しても従わなかった。そのうちに指の間からこぼれ落ちてしまった。それが彼だろう。大事にして、育ててなさい」 これが少彦名命(スクナヒコナノミコト)です。 ●顯を于都斯(ウツシ)といいます。蹈鞴は多多羅(タタラ)といいます。幸魂は佐枳彌多摩(サキミタマ)といいます。奇魂は倶斯美拕磨(クシミタマ)といいます。鷦鷯は娑娑岐(ササキ)といいます。 ●古事記の対応箇所 / ガガイモの船に乗り、蛾の服を着た名も無き神 / アシハラシコオと兄弟となって |
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■スクナヒコナ
スクナヒコナは古事記ではカミムスビの子とされ、日本書紀ではタカミムスビの子とされます。ホワイ?もしかするとカミムスビとタカミムスビには大きな違いが無かったのかもしれません。 スクナヒコナは最悪の悪戯っ子であるが故に、タカミムスビの元から逃れ、葦原中国でオオナムチ(オオクニヌシ)と共に国づくりをすることになります。これってスサノオの経緯(高天原の狼藉→追放→大蛇退治)に似ている、と思いませんか?? おそらく、何かしらの罪を犯してしまうような「鬼」が後に成果を出す、という物語が日本の英雄の原型なんでしょう。 ■1500座 なぜ?神を数える単には「柱」なのに、ここでは「座」なのでしょうか? |
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■神代 [下] | |
■第九段 葦原中国の邪神を追い払って平定したい
天照大神之子正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、娶高皇産靈尊之女栲幡千千姬、生天津彥彥火瓊瓊杵尊。故、皇祖高皇産靈尊、特鍾憐愛、以崇養焉、遂欲立皇孫天津彥彥火瓊瓊杵尊、以爲葦原中國之主。然、彼地多有螢火光神及蠅聲邪神、復有草木咸能言語。故、高皇産靈尊、召集八十諸神而問之曰「吾、欲令撥平葦原中國之邪鬼。當遣誰者宜也。惟爾諸神、勿隱所知。」僉曰「天穗日命、是神之傑也。可不試歟。」於是、俯順衆言、卽以天穗日命往平之、然此神侫媚於大己貴神、比及三年、尚不報聞。故、仍遣其子大背飯三熊之大人大人、此云于志、亦名武三熊之大人。此亦還順其父、遂不報聞。 |
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天照大神(アマテラスオオミカミ)の子の正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)は、高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)の娘の栲幡千千姬(タクハタチヂヒメ)を娶って天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)を生みました。
高皇産靈尊(タカミムスビ)は特にこの孫を可愛がり、大切に育てました。ついには、天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)を葦原中国(アシハラナカツクニ)の君主にしようと考えました。 しかし、その葦原中国にはホタル日のように輝く神々や、蠅のようにうるさい邪神が多く居ました。 また草や木のすべてがよく、言葉を話していました。 そこで高皇産靈尊は八十諸神(ヤソモロカミタチ=沢山の神々)を集めて言いました。 「わたしは、葦原中国の邪神を追い払って、平定したいと思っている。誰を派遣させればいいだろうか??ここに居る神々よ、知ってることは隠さず言ってくれ」 神々が答えるには「天穗日命(アメノホヒノミコト)が優れています。試してみるべきですよ」 そこでタカミムスビは神々の意見に従って、アメノホヒを葦原中国に送って、平定しようとしました。 しかし、このアメノホヒは大己貴神(オオナムチ=オオクニヌシ)にご機嫌を取るばかりで3年たっても、報告しませんでした。 そこでアメノホヒの子の大背飯三熊之大人(オオソビノミクマノウシ)を派遣しましたが、父親に従って報告しませんでした。 ●大人は于志(ウシ)と読みます。別名を武三熊之大人(タケミクマノウシ) ●古事記の対応箇所 / 豊葦原之千秋長五百秋之水穂国 / 地上がひどく騒がしい / 乱暴な国津神を静かにさせる神は? / 復命しないアメノホヒ |
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■皇祖の高皇産靈尊
タカミムスビの前に「皇祖」とあるので、タカミムスビは天皇家の祖先という意味になります。アマテラスの子供とあれるオシホミミとタカミムスビの娘のタクハタチヂヒメが結ばれて出来た子供が「天孫ニニギ」ですから、血統上は「タカミムスビ=皇祖」は間違い無い。 ●高皇産靈尊(タカムムスビノミコト)に「皇」という字が当てられているのもそこに理由があるのかもしれない。 ■草木が話す!! 国津神の世界では草木がものを話していたよう。想像すると楽しいですが、言霊の世界では「言葉」が「現実化」する可能性があるので、草木までが話が出来るの「世が乱れる」原因となるので困ります。 ■話し合いが正義! タカミムスビというと造化三神のひとりで、かなり原初から存在する神です。また今後もこの記紀の中で大きな役割を果たす神です。ところが、そんなタカミムスビであっても、絶対的な権力を持っているわけでは無く、問題が発生したときは「話し合い」です。話し合いで決まったことに従うのです。この性質は現代でもあります。 |
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■第九段 反矢(カエシヤ)、畏(オソ)るべし
故、高皇産靈尊、更會諸~、問當遣者、僉曰「天國玉之子天稚彥、是壯士也。宜試之。」於是、高皇産靈尊、賜天稚彥天鹿兒弓及天羽羽矢以遣之。此~亦不忠誠也、來到卽娶顯國玉之女子下照姬(亦名高姬、亦名稚國玉)、因留住之曰「吾亦欲馭葦原中國。」遂不復命。是時、高皇産靈尊、怪其久不來報、乃遣無名雉伺之。其雉飛降、止於天稚彥門前所植(植、此云多底婁)湯津杜木之杪。(杜木、此云可豆邏也)。時、天探女天探女、此云阿麻能左愚謎見而謂天稚彥曰「奇鳥來、居杜杪。」天稚彥、乃取高皇産靈尊所賜天鹿兒弓・天羽羽矢、射雉斃之。其矢、洞達雉胸而至高皇産靈尊之座前也、時高皇産靈尊見其矢曰「是矢、則昔我賜天稚彥之矢也。血染其矢、蓋與國~相戰而然歟。」於是、取矢還投下之、其矢落下則中天稚彥之胸上。于時、天稚彥、新嘗休臥之時也、中矢立死。此世人所謂反矢可畏之緣也。 |
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高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は更に神々を集めて、派遣すべき神を話し合いました。すると神々は「天國玉(アマツクニタマ)の子供の天稚彦(アメノワカヒコ)は立派な神だ。試してみましょう」と言いました。
それで高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は天稚彦(アメノワカヒコ)に天鹿兒弓(アメノカゴユミ=鹿の骨で作った弓)と天羽羽矢(アメノハハヤ)を授けて、派遣しました。 ところがこの天稚彦(アメノワカヒコ)も、使命をほったらかして、下界に降りると顯國玉(ウツシクニタマ=オオクニヌシ=オオナムチ)の娘の下照姫(シタテルヒメ)を娶りました。別名を高姫(タカヒメ)、もしくは稚國玉(ワカクニタマ)といいます。 そしてそこに住み、居付いてしまい「葦原中国(アシハラナカツクニ)を治めてみたいなぁ」と言いました。 ついには天稚彦(アメノワカヒコ)は高天原に報告しなくなりました。 このとき高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は長く報告が来ないことを怪しんで、無名雉(ナナシキギシ=名も無いキジという意味)という鳥を、天稚彦(アメノワカヒコ)にどういうことか尋ねに行かせました。 その雉(キジ)が飛んで地上に降りて、天稚彦(アメノワカヒコ)の門の前に立てる湯津杜木(ユツカツラ…葉の茂った桂の木)の梢に止まりました。 すると天探女(アメノサグメ)が、そのキジを見て、天稚彦(アメノワカヒコ)に言いました。「奇妙な鳥が来て、カツラの木の梢に停まっております」すると天稚彦(アメノワカヒコ)は高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)から授かった天鹿兒弓(アメノカゴユミ)と天羽羽矢(アメノハハヤ)を手に取り、そのキジを射殺してしまいました。 その矢はキジの胸を貫通して、そのまま飛んで行って高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)が居る場所まで飛んで行きました。高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)はその矢を見て言いました。「この矢は昔、私が天稚彦(アメノワカヒコ)に授けた矢だ。矢は血に染まっている。国津神と戦ってついた血だろうか??」そこで矢を取り、地上へと投げ返しました。するとその矢は天稚彦(アメノワカヒコ)の胸に当たり、死んでしまいました。打ち抜かれたとき、天稚彦(アメノワカヒコ)は新嘗祭をして休んで寝ているときでした。 これが、世の人が言う「反矢(カエシヤ)、畏(オソ)るべし」という所以です。 ●植は多底婁(タテル)と読みます。杜木は可豆邏(カツラ)と読みます。 ●古事記の対応箇所 / 乱暴な国津神を静かにさせる神は? / 復命しないアメノホヒ / アメノワカヒコに弓と矢を持たせて地上へ / キジを派遣しよう / ナキメを射殺すアメノワカヒコ / キジを射抜いた矢が天安河の河原に / アメノワカヒコの死 |
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■湯津杜木
この杜という字は「桂」の移し間違えではないかと言われています。日本書紀や古事記は原本は残っておらず、全部写本だからです。 ■反矢(カエシヤ)、畏(オソ)るべし ようは不正や不忠を働くと、手痛いしっぺ返しが来るよ、という「諺(ことわざ)」でしょう。 |
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■第九段 鳥の葬儀
天稚彥之妻下照姬、哭泣悲哀、聲達于天。是時、天國玉、聞其哭聲則知夫天稚彥已死、乃遣疾風、舉尸致天、便造喪屋而殯之。卽以川鴈、爲持傾頭者及持帚者(一云、以鶏爲持傾頭者、以川鴈爲持帚者)、又以雀爲舂女。(一云「乃以川鴈爲持傾頭者、亦爲持帚者、以鴗爲尸者、以雀爲春者、以鷦鷯爲哭者、以鵄爲造綿者、以烏爲宍人者。凡以衆鳥任事。」)而八日八夜、啼哭悲歌。 |
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天稚彥(アメノワカヒコ)の妻の下照姬(シタテルヒメ)が泣き悲しむ声が天に届きました。このとき天國玉(アマツクニタマ=アメノワカヒコの親)がその泣く声を聞いて、天稚彥(アメノワカヒコ)が死んだことを知りました。
すぐに疾風(ハヤテ)を派遣して、遺体を引き揚げて天に運ばせました。そして喪屋(モヤ=仮の遺体安置所)を作り、殯(モガリ=埋葬するまでに行う葬式)を行いました。 川雁(=鳥の種類)を、持傾頭者(キサリモチ=?)とし、また持帚者(ハハキモチ=ホウキで穢れを祓う役)としました。 一説には「鶏」を持傾頭者(キサリモチ)とし、川雁を持帚者(ハハキモチ)としたとされます。 また、雀を舂女(ツキメ)としました。 一説には川鴈(カワガリ)を持傾頭者(キサリモチ)として、持帚者(ハハキモチ)とし、鴗(ソビ)を尸者(モノマサ=使者に代わってあいさつをする)としました。雀を舂者(ツキメ)としました。鷦鷯(サザキ)を哭者(ナキメ)としました。鵄(トビ)を造綿者(ワタツクリ=死者の服を作る)としました。烏(カラス)を宍人者(シシヒト)としました。全ての鳥に仕事を分担させました。 八日八夜の間、嘆き悲しみ歌いました。 ●古事記の対応箇所 / アメノワカヒコの葬式 |
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■持傾頭者
キサリモチは本居宣長によって「死者に提供する食べ物を運ぶ役」とされますが、どうしてこんな解釈になったのかは、ハッキリしません。また「死者に食べ物を運ぶ役」は宍人者と重なるので、別の役ではないかと思われます。 ■持帚者 ハハキモチは「ホウキ」を持つ神です。ホウキは塵取りとセットのあれです。ゴミを履いて捨てることが「ケガレ」を祓うことに繋がったみたいです。 ■舂女 ツキメは、まだハッキリとはしませんが、「舂」が臼とか臼で穀物をつくことを指すので、葬儀のときの食料をつく役割のことでしょう。それが死者へのものか、参加者のものかは分かりませんが、まぁ常識的に言って死者でしょう。 ■尸者 神が石や木に宿るときは、その石や木のことを依代(ヨリシロ)といいますが、神ではなく死者が人間に乗り移るときは尸者(モノマサ)と言います。 モノマサに死者を乗り移らせて、モノマサがあいさつをする?みたいです。なんかシュール。 ■哭者 ナキメは葬儀の際に大声で泣いて、葬儀をある意味で盛り上げる役割のこと。アジアには現在でも泣き女(ナキオンナ)の風習が残っている地域が多いです。 ■造綿者 ワタツクリは死者の衣服を造るか、綿で死者の体を拭く仕事とされます。両方かもしれません。 ■宍人者 シシヒトは死者の食べ物を運ぶ役とされます。シシヒトにはカラスを任じたので、道案内をさせるのかと思ったんですが違うのか……。神武天皇を道案内した八咫烏の熊野の信仰とは違う神話の系統なんでしょうね。 |
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■第九段 天稚彥の弔い
先是、天稚彥、在於葦原中國也、與味耜高彥根~友善。(味耜、此云婀膩須岐)。故、味耜高彥根~、昇天弔喪。時此~容貌、正類天稚彥平生之儀。故、天稚彥親屬妻子皆謂「吾君猶在。」則攀牽衣帶、且喜且慟。時、味耜高彥根~、忿然作色曰「朋友之道、理宜相弔。故、不憚汚穢、遠自赴哀。何爲誤我於亡者。」則拔其帶劒大葉刈(刈、此云我里、亦名~戸劒)以斫仆喪屋、此卽落而爲山、今在美濃國藍見川之上喪山是也。世人、惡以生誤死、此其緣也。 |
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天稚彥(アメノワカヒコ)が返し矢で死んでしまう前……天稚彥(アメノワカヒコ)は葦原中國(アシハラナカツクニ)の居た時に味耜高彦根~(アジスキタカヒコネ)と友情を育んでいました。
そこで味耜高彦根~(アジスキタカヒコネ)は天に昇って、天稚彥(アメノワカヒコ)を弔(とむら)いました。 この味耜高彦根~(アジスキタカヒコネ)の姿形が天稚彥(アメノワカヒコ)が生きていたときに、そっくりでした。 それで天稚彥(アメノワカヒコ)の親族・妻子が皆、「生きていた!!!」と言いました。そして服にすがりついて喜び、驚きました。 味耜高彦根~(アジスキタカヒコネ)は怒って言いました。 「友達だから、弔うべきだと思ったから死の汚穢(ケガレ)を受けるのも覚悟して、遠くから来て悲しんでいるのだ。どうして私を死者と間違うのか!!!」 そして持っていた剣の大葉刈(オオハガリ)を抜いて喪屋(モヤ=葬式のために立てた小屋)を斬り伏せてしまいました。これが(下界に)落ちて山と成りました。その山が美濃國(ミノノクニ)の藍見川(アイミノカワ)の上流にある喪山(モヤマ)です。 世間の人が生きた人間と死んだ人を間違えるのを嫌うのは、これが理由です。 ●味耜は婀膩須岐(アジスキ)と読みます。刈は我里(ガリ)と読みます。別名は~戸劒(カムトノツルギ)です。 ●古事記の対応箇所 / アメノワカヒコの葬式 / アメノワカヒコが生き返った?! / タカヒコネが喪屋を破壊 / 飛びさるタカヒコネ |
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■神は入れ替わる
日本は神が異界からやってきて、田畑に宿り、穀物を生育させて、収穫を終えるとまた異界へと帰っていくと考えていました。異界とは「山」や「海の向こう」です。おもに山です。では、異界へと帰って行った神はどうなるのでしょうか???次の年にやってくる神は同じ神でしょうか?? ■昨年の神と今年の神は違う神 昨年の神と今年の神は違う神です。同じように見えても違います。毎年、門松を立てて「歳神(=オトシガミ・オオトシガミ)」を門松に降ろします。その神は前の年の神とは違う神です。同じ「オトシガミ」という名前だとしても、別人です(もしくは別神です)。同じ神なら、門松は飾りっぱなしでいいのです。それで、最初の異界へと帰って行った神はどうなるのか?です。それがこの話に集約されています。おそらく「異界に帰った神」は死にます。そういうイメージを古代の日本人は持っていたのでしょう。 ■農業関係の名前 味耜高彦根~(アジスキタカヒコネ)には「鋤(スキ=農具)」があります。喪屋を切り倒した剣が大葉刈(オオハガリ)です。この話は農業に関する挿話だと考えるべきだと思います。 |
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■第九段 丈夫(マスラオ)ではないのですか!
是後、高皇産靈尊、更會諸~、選當遣於葦原中國者、曰「磐裂(磐裂、此云以簸娑窶)根裂~之子磐筒男・磐筒女所生之子經津(經津、此云賦都)主~、是將佳也。」時、有天石窟所住~稜威雄走~之子甕速日~、甕速日~之子熯速日~、熯速日~之子武甕槌~。此~進曰「豈唯經津主~獨爲丈夫而吾非丈夫者哉。」其辭氣慷慨。故以卽配經津主~、令平葦原中國。 |
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高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は神々を集めて葦原中国(アシハラナカツクニ)に誰を派遣するか選びました。
皆が言うには……「磐裂根裂~(イワサクネサクノカミ)の子供の磐筒男(イワツツノオ)と磐筒女(イワツツノメ)が生んだ子供の經津主~(フツヌシノカミ)が良いでしょう」…とのことでした。 天石窟(アメノイワヤ)に住んでいる神の稜威雄走~(イツオハシリノカミ)の子の甕速日~(ミカハヤヒ)、甕速日~(ミカハヤヒ)の子の熯速日~(ヒノハヤヒカミ)、熯速日~(ヒノハヤヒカミ)の子の武甕槌~(タケミカヅチノカミ)が居ました。 この武甕槌~(タケミカヅチノカミ)が、進み出て言いました。「どうして、經津主~(フツヌシノカミ)だけが丈夫(マスラオ)なのですか???わたしは丈夫(マスラオ)ではないのですか!」その言葉がとても勇ましいかったので、經津主~(フツヌシノカミ)に武甕槌~(タケミカヅチノカミ)を添えて、葦原中国に派遣することになりました。 ●磐裂は以簸娑窶(イワサク)と読みます。經津は賦都(フツ)と読みます。 ●古事記の対応箇所 / 第三の案について / オハバリ神とタケミカヅチ神 / タケミカズチの方が適任 |
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■フツヌシの系譜
磐裂根裂~(イワサクネサクノカミ) > 磐筒男(イワツツノオ)・磐筒女(イワツツノメ) > 經津主~(フツヌシノカミ) ■タケミカヅチの系譜 稜威雄走~(イツオハシリノカミ) > 甕速日~(ミカハヤヒ) > 熯速日~(ヒノハヤヒカミ) > 武甕槌~(タケミカヅチノカミ) |
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■第九段 出雲の三穗之碕にて
二~、於是、降到出雲國五十田狹之小汀、則拔十握劒、倒植於地、踞其鋒端而問大己貴~曰「高皇産靈尊、欲降皇孫、君臨此地。故、先遣我二~驅除平定。汝意何如、當須避不。」時大己貴~對曰「當問我子、然後將報。」是時、其子事代主~、遊行、在於出雲國三穗(三穗、此云美保)之碕、以釣魚爲樂、或曰、遊鳥爲樂。故、以熊野諸手船亦名天鴿船載使者稻背脛、遣之、而致高皇産靈尊勅於事代主~、且問將報之辭。時、事代主~、謂使者曰「今天~有此借問之勅、我父宜當奉避。吾亦不可違。」因於海中造八重蒼柴柴、此云府璽籬、蹈船(船竅A此云浮那能倍)而避之。使者既還報命。 |
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この二柱の神(フツヌシとタケミカヅチ)は天から出雲の五十田狹之小汀(イサタノオハマ)に降りました。そこで十握劒(トツカノツルギ)を抜いて、地に逆さまに突き刺し、立てて、その剣先に胡坐(アグラ)をかいて座り、大己貴~(オオアナムチノカミ=オオクニヌシ)に問いました。
「高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は皇孫(スメミマ)を天から下して、この土地(=葦原中国=出雲)に君臨しようと思っている。だから、まず私たち二柱の神(=フツヌシとタケミカヅチ)が、従わない神を追い払い、平定するために派遣された。おまえはどう考えている??(国を譲り)ここを去るか??」 すると大己貴~(オオアナムチノカミ)は答えました。「我が子に相談してみましょう。それで答えます」 このとき、事代主~(コトシロヌシノカミ)は出雲の三穗之碕(ミホノサキ)に遊びに出掛けていました。そこで事代主~(コトシロヌシノカミ)は魚釣りを楽しんでいました。一説には鳥を狩っていました 二柱の神(フツヌシとタケミカヅチ)は事代主~(コトシロヌシノカミ)の元へと熊野諸手船(クマノノモロタノフネ=櫂のたくさんついた船?)に使者の稻背脛(イナセノハギ)を乗せて派遣しました。別名を天鴿船(アマノハトフネ=鳩のように速く飛ぶ船?)といいます。 そして高皇産靈(タカミムスビノカミ)の「国譲り」の命令を事代主神(コトシロヌシノカミ)に伝え、返事を求めました。 事代主神(コトシロヌシノカミ)は使者に言いました。「今、天津神の命令がありました。私の父(=オオナムチ・オオクニヌシ)は国を譲り、去るでしょう。わたしもそれに従います」事代主神(コトシロヌシノカミ)は海の中に八重蒼柴籬(ヤエアオフシカキ=青葉の垣の神座)を作り、船(フナノヘ=船の端)を踏んで、姿を消しました。 使者は帰って報告しました。 ●三穗は美保(ミホ)と読みます。 |
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■皇孫を天から下して……
アマテラスが皇祖なのですが、ニニギから見るとタカミムスビもやはり祖父なのだから皇祖になるかもしれません。でも、タカミムスビがまるで主導者であるかのような行動です。 おそらくこの物語が成立した時点ではタカミムスビが「皇祖」だったのではないか?と思います。アマテラスの信仰が成立したのは古事記の成立の数十年前程度とされるからです。 ■事代主神は死んだ? 日本書紀では事代主神の娘の姫踏鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)が神武天皇の皇后になります。 古事記では大物主神がヒメタタライスズヒメの父親。 また二代目天皇の綏靖天皇の皇后の五十鈴依媛命(イスズヨリヒメノミコト)も事代主神の娘で、姫踏鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)の妹にあたる。ただし、古事記では五十鈴依媛命(イスズヨリヒメノミコト)は登場しない。 上記の今後を踏まえると、事代主神(コトシロヌシ)は死んだとは考えにくい。姿を消しただけで、今後の方がより強い影響力(権力)を持つことになります。 事代主神が葛城の神の一言主(ヒトコトヌシ)と同一、もしくは一言主(ヒトコトヌシ)が事代主神になった、と考えられるのはそのためです。 |
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■第九段 百不足之八十隈に隠居
故、大己貴~、則以其子之辭、白於二~曰「我怙之子、既避去矣。故吾亦當避。如吾防禦者、國內諸~、必當同禦。今我奉避、誰復敢有不順者。」乃以平國時所杖之廣矛、授二~曰「吾、以此矛卒有治功。天孫若用此矛治國者、必當平安。今我當於百不足之八十隅、將隱去矣。」(隅、此云矩磨泥)。言訖遂隱。於是、二~、誅諸不順鬼~等、一云「二~、遂誅邪~及草木石類、皆已平了。其所不服者、唯星~香香背男耳。故加遣倭文~建葉槌命者則服。故二~登天也。倭文~、此云斯圖梨俄未。」果以復命。 |
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大己貴~(オオナムチノカミ=オオクニヌシ)は息子(=コトシロヌシ)の言葉を受けて、二柱の神(=フツヌシとタケミカヅチ)に言いました。「私が頼りにしている子供(=コトシロヌシ)は、去りました。わたしも、その子供と同様に去りましょう。もしも私が抵抗するならば、国内の神々も同じように抵抗するでしょう。今、私が去れば、誰も歯向かう者は無いでしょう」
そして(オオナムチが)国を平定したときに突いた廣矛(ヒロホコ=幅の広い矛?)を二柱の神(=フツヌシとタケミカヅチ)に授けて言いました。「わたしはこの矛で、事を成しました。天孫(アメミマ)がこの矛を使って国を納めれば、必ず平定出来るでしょう。今からわたしは百不足之八十隈(モモタラズヤソクマデ)に隠居しましょう」 と言い終えて、(オオナムチは)姿を消しました。これで二柱の神は沢山の従わない鬼の神々を処罰し終えると、高天原に帰って報告しました。 一説によると…二柱の神は邪神と草木・石などを処罰して、全てを平定しました。そのとき従わなかったのは星~香香背男(ホシノカガセオ)だけでした。 そこで倭文~(シトリガミ)の建葉槌命(タケハヅチノミコト)を派遣すると、従いました。それで二柱の神は天に昇りました。 ●隅は矩磨泥(クマデ)と読みます。倭文~は斯圖梨俄未(シトリガミ)と読みます。 |
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■百不足之八十隈
「百にはいかない八十くらいの曲がりくねった道を行った先の……」という言葉で、一般に「幽界」「黄泉の国」というニュアンスがあると考えられています。つまりオオクニヌシは死んだ。ということです。 オオクニヌシの物語がすべてではないにしろ、幾らか実在の人物をモデルにしているのならば、確かに死んだ、ということになりますが、それでもオオクニヌシは神です。事代主神も神です。日本人にとって神はもともと見えないもの。 神ならば、単に「ここから居なくなった」程度のことです。そもそも日本の神は一カ所に定住するものではなく、山から里に降りてきて、里から山に帰っていくものです。 それに居なくなったといっても、実際には出雲大社という、(記紀編纂時には)伊勢神宮よりも大きく、高い神殿に鎮座していたのです。 「死んだ」や「黄泉の国に行った」という意訳はあまりに掛け離れています。 |
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■第九段 吾田の長屋の笠狭の岬へ
于時、高皇産靈尊、以眞床追衾、覆於皇孫天津彥彥火瓊瓊杵尊使降之。皇孫乃離天磐座、(天磐座、此云阿麻能以簸矩羅)。且排分天八重雲、稜威之道別道別而、天降於日向襲之高千穗峯矣。既而皇孫遊行之狀也者、則自槵日二上天浮橋立於浮渚在平處、(立於浮渚在平處、此云羽企爾磨梨陀毗邏而陀陀志)。而膂宍之空國、自頓丘覓國行去、(頓丘、此云毗陀烏。覓國、此云矩貳磨儀。行去、此云騰褒屢)。到於吾田長屋笠狹之碕矣。 |
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高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は眞床追衾(マトコオフスマ=古代の掛け布団)を皇孫(スメミマ)の天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)に着せて、天から地上に降しました。
天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)は天盤座(アマノイワクラ)を後にすると、天八重雲(アメノヤエクモ=幾重にも折り重なった雲)を押し分け、いくつもの別れ道を抜けて、日向の襲高千穗峯(ソノタカチホノタケ)に降り立ちました。 そこから天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)は槵日二上(クシヒノフタガミ)の天浮橋(アメノウキハシ)から立於浮渚在平處(ウキジマリタヒラニタタシ)に降り立ち、膂宍空國(ソシシノムナクニ)を頓丘(ヒタオ)から良い国を探して通り抜けて、ついに吾田(アダ)の長屋の笠狭(カササ)の岬に着きました。 ●天盤座は阿麻能以簸矩羅(アマノイワクラ)と読みます。立於浮渚在平處は羽企爾磨梨陀毗邏而陀陀志(ウキジマリタヒラニタタシ)と読みます。頓丘は毗陀烏(ヒタオ)と読みます。覓國は矩貳磨儀(クニマギ)と読みます。行去は騰褒屢(トホル)と読みます。 |
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■眞床追衾(マトコオフスマ)
なんで掛け布団を着せたのか?というと、ニニギがまだ子供だからです。 ■日向の襲高千穗峯 日向という名前は「日が当たる場所」という意味で、特定の土地を表わしているとは限りません。また高千穂嶺という名前も、「高い」「実りの多い」「山」という程度の意味で、固有名詞とは言いきれません。 ■槵日二上(クシヒノフタガミ)の天浮橋(アメノウキハシ) 槵日二上(クシヒノフタガミ)は頂点が二つあるという訳仕方をされますが、いまいち、よく分かりません。天浮橋(アメノウキハシ)は天の橋立のような中海に出来た中州ともされますが、ハッキリしません。 ■立於浮渚在平處(ウキジマリタヒラニタタシ) 海の浮島の平らな所のこと、とされます。 ■膂宍空國(ソシシノムナクニ) 膂宍(ソシシ)は背中の肉。背中の肉は食べるところが少ないので、痩せたという意味です。空國(ムナクニ)は同様に空っぽの国という意味です。ムナクニと読まずに「カラクニ」と読む場合もあります。現在の朝鮮半島を指しているとも言われています。 ■頓丘(ヒタオ) 中国の濮陽の近くに頓丘という都市がありました(現在は分からない)。これが頓丘(ヒタオ)なのかもしれませんが、漢字の成り立ち(頓丘でなだらかな丘とか凄い丘とか)から考えても中国の都市と考えるのは無理がある。 ■覓國(クニマギ) クニマギは「良い土地を探して歩くこと」を指しています。ニニギが天から降り立ちながら、あちこちを探してあるいているということです。出雲はどうなったのやら。 ■吾田(アダ)の長屋の笠狭(カササ)の岬 鹿児島の西部に笠狭(カササ)の岬があり、ここだろうということになっています。 ということは最終的に鹿児島に降り立ったということになります。まぁ、本当に鹿児島の西部かはともかく、この後、九州南部出身の隼人族のコノハナサクヤヒメことカムアタツヒメが登場することを考えれば、ここがニニギが到着した土地で無かったとしても、九州南部にやってきたことは間違いないのです。 ということは出雲はどうなった?と考えるのが筋。物語の時系列としてはニニギが降り立つより出雲の国譲りは後の物語なんじゃないか?とも思います。 |
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■第九段 事勝國勝長狹の国
其地有一人、自號事勝國勝長狹。皇孫問曰「國在耶以不。」對曰「此焉有國、請任意遊之。」故皇孫就而留住。時彼國有美人、名曰鹿葦津姬。亦名神吾田津姬。亦名木花之開耶姬。皇孫問此美人曰「汝誰之女子耶。」對曰「妾是、天神娶大山祇神、所生兒也。」皇孫因而幸之、卽一夜而有娠。皇孫未信之曰「雖復天神、何能一夜之間、令人有娠乎。汝所懷者、必非我子歟。」故、鹿葦津姬忿恨、乃作無戸室、入居其內而誓之曰「妾所娠、非天孫之胤、必當 ●(隹を三つに火)滅。如實天孫之胤、火不能害。」卽放火燒室。始起烟末生出之兒、號火闌降命。是隼人等始祖也。火闌降、此云褒能須素里。次避熱而居、生出之兒、號彥火火出見尊。次生出之兒、號火明命。是尾張連等始祖也。凡三子矣。久之、天津彥彥火瓊瓊杵尊崩、因葬筑紫日向可愛此云埃之山陵。 |
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その地(=吾田長屋笠狹之碕【アタノナガヤノカササノサキ】)に一人の人間が居ました。
彼は事勝國勝長狹(コトカツクニカツナガサ)と名乗りました。 皇孫(スメミマ=ニニギ)は事勝國勝長狹(コトカツクニカツナガサ)に問いました。「ここに国は在るか?無いか?」 事勝國勝長狹(コトカツクニカツナガサ)が答えるには、「ここに国があります。お好きなようにしてください」 皇孫(スメミマ)はそこに留まり、住みました。 さて、この国に美しい少女が居ました。名前を鹿葦津姫(カシツヒメ)と言います。別名を神吾田津姫(カムアタツヒメ)、もしくは木花之開耶姫(コノハナサクヤヒメ)と言います。 皇孫(スメミマ)はこの美しい少女に聞きました。「お前は誰の子か?」 少女は答えました。「私は天神(アマツカミ)が大山祇神(オオヤマツミノカミ)を娶って生んだ子です」 皇孫(スメミマ)はこの少女(=コノハナサクヤヒメ)と結ばれたところ、一晩で妊娠してしまいました。 皇孫(スメミマ)は妊娠が信じられず「いくら私が天神だからといって、どうして一晩で身重に出来るわけがない。お前が妊娠した子は、絶対に私の子ではない」 それで鹿葦津姫(カシツヒメ=コノハナサクヤヒメ)は怒り恨んで、出入り口の無い小屋を作って、その中に入り、誓約をしました。「わたしが身ごもったのが天孫(アメミマ=ニニギ)の子で無ければ、必ず焼け死ぬ!もしも本当に天孫(アメミマ)の子供であれば、どんな火も傷つけることが出来ない!!」そうして小屋に火を放ちました。 最初の煙が立ち上る頃に生まれた子が火闌降命(ホノスソリノミコト)です。火闌降命(ホノスソリノミコト)は隼人の始祖です。 次に火の熱を避けて小屋の端に居た時に生まれた子が彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)です。次に生まれた子は火明命(ホノアカリノミコト)です。火明命(ホノアカリノミコト)は尾張連の始祖です。 以上三柱の子です。長い月日経ち、天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)は亡くなりました。筑紫(ツクシ)の日向(ヒムカ)の可愛之山(エノヤマ))のお墓に埋葬されました。 ●火闌降は褒能須素里(ホノスソリ)と読みます。可愛は埃(エ)と読みます。 ●古事記の対応箇所 / カムアタツヒメとの出会い / サクヤヒメとニニギの契り / 俺の子供じゃないでしょ / 出産の誓約 / 火の三兄弟 |
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■え?オオヤマヅミって女なの?
勝手にオオヤマズミって「男」だと思い込んでいました。でも訳文を見る限り、「天神がオオヤマズミを娶って」とあります。他の訳本を見てもこうなってます。 よく考えると自分の奥さんのことを「山の神」と言うように、山の神は本来「女」です。女神というよりは山姥(ヤマンバ)なんですが、とにかく女です。 記紀では天皇の妻・妾に沢山の氏族の娘が当てられています。この妻・妾の出生についていくらか記述がありますが、その中に女親の名前しかないものがあります。つまり、女性が首長の氏族が当たり前にあったということです。 女性は子供が生めます。古代ではその不可思議に強烈な印象があったはずです。女性は特別に霊力が強い、と考えていました。日本は単位面積あたりの収穫量が多い水耕稲作です。子供は生まれるほどに家・集落は豊かになるもの。女性は集落の発展のカギを握るものでした。 だからオオヤマヅミが女神だったとしてもおかしくないってわけです。 狩猟民族は男の腕力が大事ですが、農耕民族では男と女は大差ありません。腕力より手数が有利。農耕民族では女性が神聖視されます。しかし、人口が増え、耕作地が不足してくると、戦争がはじまります。こうなると男性の腕力がものを言うようになります。 |
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■第九段 天鹿兒弓と天眞鹿兒矢
一書曰、天照大~、勅天稚彥曰「豐葦原中國、是吾兒可王之地也。然慮、有殘賊强暴横惡之~者。故汝先往平之。」乃賜天鹿兒弓及天眞鹿兒矢遣之。天稚彥、受勅來降、則多娶國~女子、經八年無以報命。故、天照大~、乃召思兼~、問其不來之狀。時思兼~、思而告曰「宜且遣雉問之。」於是、從彼~謀、乃使雉往候之。其雉飛下、居于天稚彥門前湯津杜樹之杪而鳴之曰「天稚彥、何故八年之間未有復命。」時有國~、號天探女、見其雉曰「鳴聲惡鳥、在此樹上。可射之。」天稚彥、乃取天~所賜天鹿兒弓・天眞鹿兒矢、便射之。則矢達雉胸、遂至天~所處。時天~見其矢曰「此昔我賜天稚彥之矢也。今何故來。」乃取矢而呪之曰「若以惡心射者、則天稚彥必當遭害。若以平心射者、則當無恙。」因還投之、卽其矢落下、中于天稚彥之高胸、因以立死。此世人所謂返矢可畏緣也。 |
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ある書によると…天照大~(アマテラスオオミカミ)は天稚彦(アメノワカヒコ)に命令しました。「豐葦原中國(トヨアシハラナカツクニ=地上)はわが子(=オシホミミ)が納めるべき土地です。お前がまず行って、平定しなさい」
天鹿兒弓(アマノカゴユミ)と天眞鹿兒矢(アマノマカゴヤ)を与えて地上に派遣しました。 天稚彦(アメノワカヒコ)は命令を受けて、地上に降りました。 すると天稚彦(アメノワカヒコ)は地上の国津神の娘たちを妻に貰い、八年経っても高天原に報告をしませんでした。 天照大~(アマテラスオオミカミ)は思兼~(オモイカネノカミ)を呼んで、「どうして天稚彦(アメノワカヒコ)が帰ってこないのか?」を考えさせてみました。 思兼~(オモイカネノカミ)が言うには…「雉(キギシ=鳥のキジ)を派遣して、天稚彦(アメノワカヒコ)に聞かせましょう」 思兼~(オモイカネノカミ)の計画に従ってキジを天稚彦(アメノワカヒコ)の元へ行かせてみました。 キジは地上へと飛び降り、天稚彦(アメノワカヒコ)の屋敷の門の前の湯津杜樹(ユツカツラ=よく茂った桂の木)の枝に停まり、鳴きました。 「天稚彦(アメノワカヒコ)はどうして、八年もの間、報告が無いのか??」 その時、国津神が居ました。天探女(アマノサグメ)といいます。そのキジを見て言いました。 「鳴き声の悪い鳥が、この木の上にいます。これを射殺しましょう」 天稚彦(アメノワカヒコ)は天津神から貰った天鹿兒弓(アマノカゴユミ)と天眞鹿兒矢(アマノマカゴヤ)を手に取ってキジを射ち殺しました。 矢はキジの胸を貫通して、天津神のところに行きました。天津神はその矢を見て言いました。 「これは私が天稚彦(アメノワカヒコ)に与えた矢だ。今、どうして飛んできたのだろうか」 天津神は矢を手にとって呪いを掛けました。 「もし汚い心をもって矢を射ったのならば、天稚彦(アメノワカヒコ)は必ず酷い目にあうだろう。もし安らかな心で射ったのならば、何も悪いことは起きないだろう」 天津神は返し投げました。するとその矢は地上に落ちて天稚彦(アメノワカヒコ)の胸に当たりました。そして即死しました。これが世間の言うところの「返矢(カエシヤ)畏(オソ)るべし」の元です。 ●古事記の対応箇所 / 乱暴な国津神を静かにさせる神は? / 復命しないアメノホヒ / アメノワカヒコに弓と矢を持たせて地上へ / キジを派遣しよう / ナキメを射殺すアメノワカヒコ / キジを射抜いた矢が天安河の河原に / アメノワカヒコの死 |
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ほとんど日本書紀「第九段本文―2反矢(カエシヤ)、畏(オソ)るべし」と一緒。
■本文との相違点 ●本文ではタカミムスビが勅命を下したのが、ここではアマテラスになっている。 ●弓と矢を与えたところは同じだが、本文では天羽羽矢(アメノハハヤ)のところが、天眞鹿兒矢(アマノマカゴヤになっている。 ●天稚彦(アメノワカヒコ)が貰った妻は本文ではシタテルヒメだけだが、ここでは国津神の複数の娘となっている。 ●本文では天稚彦(アメノワカヒコ)が地上を治める欲望を吐露しているが、ここでは無い。 ●本文では登場しないオモイカネが登場している。本文ではタカミムスビが解決策を出す。 ●本文では返し矢をするのはタカミムスビだが、ここでは「天津神」という表現になっている。物語から言うとアマテラスだが、高天原の神々で行ったこと、なのかもしれない。 ●本文では天稚彦(アメノワカヒコ)が矢に射抜かれて死んだのは新嘗祭の休んでいるとき。 |
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■第九段 妻子「生きてらっしゃった!!」
時、天稚彥之妻子、從天降來、將柩上去而於天作喪屋、殯哭之。先是、天稚彥與味耜高彥根~友善。故味耜高彥根~、登天弔喪大臨焉。時此~形貎、自與天稚彥恰然相似、故天稚彥妻子等見而喜之曰「吾君猶在。」則攀持衣帶、不可排離、時味耜高彥根~忿曰「朋友喪亡、故吾卽來弔。如何誤死人於我耶。」乃拔十握劒、斫倒喪屋。其屋墮而成山、此則美濃國喪山是也。世人惡以死者誤己、此其緣也。 |
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天稚彦(アメノワカヒコ)の妻と子は天から降りて来て、柩(ヒツギ)を持って、また天上に帰り、天に喪屋(モヤ=葬儀の小屋)を立てて、声をあげて泣きました。
天稚彦(アメノワカヒコ)と味耜高彦根~(アジスキタカヒコネノカミ)はとても仲良くしていました。なので味耜高彦根~(アジスキタカヒコネノカミ)は天に昇って、葬儀に参加して、激しく泣きました。 この味耜高彦根~(アジスキタカヒコネノカミ)の姿形が天稚彦(アメノワカヒコ)ととてもよく似ていました。 すると天稚彦(アメノワカヒコ)の妻子たちは、味耜高彦根~(アジスキタカヒコネノカミ)を見て喜んで言いました。「生きてらっしゃった!!」そして妻子は味耜高彦根~(アジスキタカヒコネノカミ)の衣服にすがりついて離れませんでした。 すると味耜高彦根~(アジスキタカヒコネノカミ)は怒って言いました。「友達が亡くなったから、ここに来て弔ったというのに、どうして私を死人と間違えるのか!」 すぐに十握劒(トツカノツルギ)を抜いて喪屋(モヤ=葬儀の小屋)を斬り倒しました。その喪屋が天から落ちて山と成りました。それが美濃国(ミノノクニ)の喪山(モヤマ)です。 世間で死者を自分と間違えるのを嫌うのはこのためです。 |
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■シタテルヒメは出ず
日本書紀の9段本文ではオオクニヌシの娘の下照姫(シタテルヒメ)を妻に貰い、葦原中国に居付いてしまいます。それで殺されて、葬儀をしたのは下照姫(シタテルヒメ)と天稚彦(アメノワカヒコ)の父親の天國玉(アマツクニタマ)でした。ところがここでは、下照姫(シタテルヒメ)は出ず、天稚彦(アメノワカヒコ)の柩を天へと持っていくのは「天上界の妻子」です。下照姫(シタテルヒメ)や国津神の娘ではありません。 |
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■第九段 石川片淵
時、味耜高彥根、~光儀華艶、映于二丘二谷之間、故喪會者歌之曰、或云、味耜高彥根~之妹下照媛、欲令衆人知映丘谷者是味耜高彥根~、故歌之曰、 阿妹奈屢夜乙登多奈婆多廼汚奈餓勢屢多磨廼彌素磨屢廼阿奈陀磨波夜彌多爾輔柁和柁邏須阿泥素企多伽避顧禰 又歌之曰、 阿磨佐箇屢避奈菟謎廼以和多邏素西渡以嗣箇播箇柁輔智箇多輔智爾阿彌播利和柁嗣妹慮豫嗣爾豫嗣豫利據禰以嗣箇播箇柁輔智 此兩首歌辭、今號夷曲。 |
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(喪屋を斬った)味耜高彦根~(アジスキタカヒコネノカミ)はとても輝いていて麗しいほどで、二つの丘と二つの谷に渡って輝いていました。なので、葬式に参加したものが歌いました。
もしくは味耜高彦根~(アジスキタカヒコネノカミ)の妹の下照媛(シタテルヒメ)は集まった人達に「丘谷(オタニ)で輝くモノは味耜高彦根~(アジスキタカヒコネノカミ)ですよ」と教えようと思って、歌ったとも あまなるや(天なるや) おとたなばたの(弟織女の) うながせる(頸がせる) たまのみすまるの(玉の御統の) あなたまはや(穴玉はや) みたに(み谷) ふたわたらす(二渡らす) あぢすきたかひこね(味耜高彦根) 訳 / 天の布を織る少女の首に掛けた勾玉の首飾りの玉が輝くように、谷を二つ越えるのは味耜高彦根です!また、歌いました。 あまさかる(天離る) ひなつひめの(鄙つ女の) いわたらすせと(い渡らす瀬戸) いしかわかたふち(石川片淵) かたふちに(片淵に) あみはりわたくし(網張り渡し) めろよしに(目ろ寄しに) よしよりこね(寄し寄り来ね) いしかわかたふち(石川片淵) 訳 / とても空気の澄んだ、天が高い片田舎の少女が川に行く。その川の淵(川の深いところ)。川の淵に網を張って、さかなを取る。網を引き寄せるよ。どんどん引くよ。川の淵で。 この二つの歌は夷曲(ヒナウタ)といいます。 |
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■なんだろう
最初の歌は分かる。アジスキタカヒコネが飛んでいく様子を歌っている。元々は別の意味を持った歌謡曲なんだろうけども、一応は物語としても辻褄が合う。 でも二つ目の石川片淵の歌は物語上は関係なさそう。どういう意図があってねじ込んだのでしょう?? 辻褄が合わないのに、入れたということは、それだけこの歌の意味が大きかったということなんでしょう。この第九段一書(一)を伝承した氏族にとって意味のある歌なんでしょう。 |
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■第九段 天津日嗣は天地の在る限り永遠です
既而天照大~、以思兼~妹萬幡豐秋津媛命、配正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊爲妃、令降之於葦原中國。是時、勝速日天忍穗耳尊、立于天浮橋而臨睨之曰「彼地未平矣、不須也頗傾凶目杵之國歟。」乃更還登、具陳不降之狀。故、天照大~、復遣武甕槌~及經津主~、先行駈除。時二~、降到出雲、便問大己貴~曰「汝、將此國、奉天~耶以不。」對曰「吾兒事代主、射鳥遨遊在三津之碕。今當問以報之。」乃遣使人訪焉、對曰「天~所求、何不奉歟。」故、大己貴~、以其子之辭、報乎二~。二~乃昇天、復命而告之曰「葦原中國、皆已平竟。」時天照大~勅曰「若然者、方當降吾兒矣。」且將降間、皇孫已生、號曰天津彥彥火瓊瓊杵尊。時有奏曰「欲以此皇孫代降。」故天照大~、乃賜天津彥彥火瓊瓊杵尊、八坂瓊曲玉及八咫鏡・草薙劒、三種寶物。又以中臣上祖天兒屋命・忌部上祖太玉命・猨女上祖天鈿女命・鏡作上祖石凝姥命・玉作上祖玉屋命凡五部~、使配侍焉。因勅皇孫曰「葦原千五百秋之瑞穗國、是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。行矣、寶祚之隆、當與天壤無窮者矣。」 |
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天照大~(アマテラスオオミカミ)は思兼~(オモイカネノカミ)の妹の萬幡豐秋津媛命(ヨロズハタトヨアキツヒメノミコト)と正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)と会わせて妻として、葦原中国(アシハラナカツクニ)に降ろしました。
そのとき勝速日天忍穗耳尊(カチハヤヒアメノオシホミミノミコト)は天浮橋(アマノウキハシ)に立って地上を見て言いました。「この土地はまだ、騒がしく乱れている。不須也頗傾凶目杵之國(イナカブシシシコメキクニ=気に入らない醜い国)だ」 それですぐに、天上に昇って帰って来て、地上に降りない理由を説明しました。 そこで天照大~(アマテラスオオミカミ)は武甕槌~(タケミカヅチノカミ)と經津主~(フツヌシノカミ)をまず地上に行かせて、従わない神々を蹴散らそうと派遣しました。 その二柱の神は出雲に降りました。大己貴~(オオナムチノカミ)に尋ねました。「お前はこの国を天神(アマツカミ)に譲るか?」大己貴~(オオナムチノカミ)は答えました。「わたしの子の事代主(コトシロヌシ)は鳥を狩りをしに三津之碕(ミツノサキ)に行っています。相談して返事をします」それで使者を派遣して訪ねさせました。 事代主神(コトシロヌシ)は答えました。「天神(アマツカミ)の求める土地をどうして譲らないことがありましょうか?」大己貴~(オオナムチノカミ)はその子供(=事代主神)の言葉で二柱の神(=タケミカヅチとフツヌシ)に返事をしました。 二柱の神はすぐに天に昇って報告しました。「葦原中国の神々は皆、従いました」 天照大~(アマテラスオオミカミ)は命じました。「それならば、さっそく私の子(=オシホミミ)を地上に降ろそう」それで地上に降りようというときに皇孫(スメミマ=アマテラスの孫)が生まれました。名前を天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)といいます。 それで天忍穗耳尊(アメノオシホミミノミコト)が言いました。「この皇孫(スメミマ=ニニギ)を私の代わりに地上に降ろそうと思います」 天照大~(アマテラスオオミカミ)は天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)に八坂瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)と八咫鏡(ヤタノカガミ)と草薙劒(クサナギノツルギ)の三種の寶物(タカラ)を与えました。 また、中臣氏の先祖の天兒屋命(アメノコヤネノミコト)、忌部(イムベ)の先祖の太玉命(フトダマノミコト)、猿女の先祖の天鈿女命(アメノウズメノミコト)、鏡作(カガミツクリ)の先祖の石凝姥命(イシコリドメノミコト)、玉作(タマツクリ)の先祖の玉屋命(タマノヤノミコト)、以上の五部(イツトモノオ)の神をニニギに同伴にさせました。 天照大~(アマテラスオオミカミ)は皇孫(スメミマ)に命じました。 「葦原千五百秋之瑞穗國(アシハラノチイホアキノミズホノクニ=葦の生える豊かな水耕稲作の国)は私の子孫が王となるべき土地です。あなたは皇孫(スメミマ)なのだから行って地上を治めなさい。寶祚(アマツヒツギ=天津日嗣=皇位が引き継がれること)は天地の在る限りは永遠です」 ●古事記の対応箇所 / タケミカヅチの恫喝 / コトシロヌシ神は魚釣りへ / 国譲りを再度問う / オシホミミ神、地上に降りなさい / 息子ニニギを地上に / オシホミミの提案どおりにニニギが降る / 五柱と共に降臨 / 三種の神器と神々をさらに追加 / 五伴緒の子孫 |
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長いのですが、古事記の対応箇所と「第九段本文―6出雲の三穗之碕にて」あたりとほとんど同じで、同じ話をもう一回、書いているような錯覚になります。 | |
■第九段 男も女も猨女君と呼ぶ理由
已而且降之間、先驅者還白「有一~、居天八達之衢。其鼻長七咫、背長七尺餘、當言七尋。且口尻明耀、眼如八咫鏡而赩然似赤酸醤也。」卽遣從~往問。時有八十萬~、皆不得目勝相問。故特勅天鈿女曰「汝是目勝於人者、宜往問之。」天鈿女、乃露其胸乳、抑裳帶於臍下、而咲㖸向立。是時、衢~問曰「天鈿女、汝爲之何故耶。」對曰「天照大~之子所幸道路、有如此居之者誰也、敢問之。」衢~對曰「聞天照大~之子今當降行、故奉迎相待。吾名是猨田彥大~。」時天鈿女復問曰「汝將先我行乎、抑我先汝行乎。」對曰「吾先啓行。」天鈿女復問曰「汝何處到耶。皇孫何處到耶。」對曰「天~之子、則當到筑紫日向高千穗槵觸之峯。吾則應到伊勢之狹長田五十鈴川上。」因曰「發顯我者汝也。故汝可以送我而致之矣。」天鈿女、還詣報狀。皇孫、於是、脱離天磐座、排分天八重雲、稜威道別道別、而天降之也。果如先期、皇孫則到筑紫日向高千穗槵觸之峯。其猨田彥~者、則到伊勢之狹長田五十鈴川上。卽天鈿女命、隨猨田彥~所乞、遂以侍送焉。時皇孫勅天鈿女命「汝、宜以所顯~名爲姓氏焉。」因賜猨女君之號。故、猨女君等男女、皆呼爲君、此其緣也。(高胸、此云多歌武娜娑歌。頗傾也、此云歌矛志。) |
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(ニニギが地上に)降りる前に、先に様子を見に行ったものが帰って来て、報告しました。
「一柱の神が居ました。天八達之衢(アマノヤチマタ=幾つもの別れ道の辻)のところに居ます。鼻の長さが七咫(ナナアタ=指七本分)。背の高さは七尺(ナナサカ=210センチ)以上。まさに七尋(ナナヒロ=大きいという意味)です。また口の端は明るく光っている。目は八咫鏡(ヤタノカガミ)のように光り輝いている。まるで赤酸醤(アカカガチ=ホオズキ)に似ていました。」 それで同伴した神を派遣してその神に尋ねようとしました。八十萬~(ヤオヨロズノカミ=沢山の神)がいたのですが、誰も目を合わすのが怖くて尋ねられませんでした。 そこで天鈿女(アメノウズメ)に命じました。「お前は物怖じしない。だから行って訪ねて来なさい」天鈿女(アメノウズメ)はその乳房をあらわにして、上着の紐をヘソまで押し下げて、嘲笑(アザワラ)いながら、向かって行きました。 衢~(チマタノカミ=別れ道に立つ神のこと)は天鈿女(アメノウズメ)に問いました。「天鈿女(アメノウズメ)よ。どうしてそんなことをするのですか?」 天鈿女(アメノウズメ)は答えました。「天照大~(アマテラスオオミカミ)の子(ミコ=ニニギ…実際は孫)が通る道路(ミチ)に居るものがあるというが、お前は誰だ?」 衢~(チマタノカミ)は答えました。「天照大~(アマテラスオオミカミ)の子(ミコ)が地上に降りると聞きました。そこで迎えに来て、お会いしようと待っておりました。わたしの名は猨田彥大~(サルタヒコノオオカミ)です」 天鈿女(アメノウズメ)はまた問いました。「お前が私より先を行くか?それとも私がお前より先を行くか?」 猨田彥大~(サルタヒコノオオカミ)は答えました。「わたしが先に行き、道案内をしましょう」 天鈿女(アメノウズメ)はまた問いました。「お前はどこに行こうとしている?皇孫(スメミマ)はどこに行くのだ?」 猨田彥大~(サルタヒコノオオカミ)は答えました。「天神(アマツカミ)の子は筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯(クジフルノタケ)に行くべきでしょう。わたしは伊勢の狹長田(サナダ)の五十鈴(イスズ)の川上に行きます」 さらに「わたしを發顯(アラワ)したのはあなたです。あなたは私を(伊勢まで)送ってください」 天鈿女(アメノウズメ)は帰って状況を報告しました。 皇孫(スメミマ)は天磐座(アメノイワクラ=天にある石の台座)から離れて、天八重雲(アメノヤエグモ=幾重にも重なる雲)を押し分けて、幾つもの別れ道を通り、天から降りました。 天孫は猨田彥大~(サルタヒコノオオカミ)が約束した通り、筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯(クジフルノタケ)に着きました。 その猨田彥大~(サルタヒコノオオカミ)は伊勢の狹長田(サナダ)の五十鈴(イスズ)の川上に着きました。 天鈿女命(アメノウズメノミコト)は猨田彥~(サルタヒコノカミ)が願うままに送って行ったのです。 その時、皇孫(スメミマ)は天鈿女命(アメノウズメノミコト)に命じました。「お前は顯(アラワ)した神の名を姓氏(ウジ)としなさい」 それで猨女君(サルメノキミ)という名を授けました。猨女君(サルメノキミ)は(本来は女の氏族名だが)、男も女も皆、猨女君(サルメノキミ)と呼ぶのはこういった理由からです。 ●高胸は多歌武娜娑歌(タカムナサカ)と読みます。頗傾也は歌矛志(カブシ)と読みます。 |
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■發顯…あらわすとは?
日本人にとって神は「見えないもの」です。神を偶像と言う形で表現するようになったのは仏教が伝来してからえす。それまで日本人には神に明確な「人格」も無かったとされます。 しかし、神の意志を伺わないといけません。なにか天変地異が起きたり、疫病が流行して死者が増えたら、これを鎮めるために神の理由を聞き、対処法を教えてもらわないといけません。そのときに神の声を聞くのが「巫女」です。 巫女に神が宿った状態なら、神を見ることが出来ます。神の言葉を聞く事が出来ます。「カミガカリ」の状態がおそらく「發顯(アラワ)す」ということです。 つまり、猨田彥大~(サルタヒコノオオカミ)と天鈿女命(アメノウズメノミコト)は最初からセットでした。天鈿女命(アメノウズメノミコト)は元々が猨田彥大~(サルタヒコノオオカミ)の巫女だったのでしょう。それが、天鈿女命(アメノウズメノミコト)の地位が上がり、重要な役割をするようになったのだと思われます。 |
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■第九段 天津甕星(アマツミカホシ)征伐とオオアナムチの説得
一書曰、天~、遣經津主~・武甕槌~、使平定葦原中國。時二~曰「天有惡~、名曰天津甕星、亦名天香香背男。請先誅此~、然後下撥葦原中國。」是時、齋主~、號齋之大人、此~今在于東國檝取之地也。既而二~、降到出雲五十田狹之小汀而問大己貴~曰「汝、將以此國、奉天~耶以不。」對曰「疑、汝二~、非是吾處來者。故不須許也。」於是、經津主~、則還昇報告、時高皇産靈尊、乃還遣二~、勅大己貴~曰「今者聞汝所言深有其理、故更條而勅之。夫汝所治顯露之事、宜是吾孫治之。汝則可以治~事。又汝應住天日隅宮者、今當供造、卽以千尋 ●(木偏に孝の子が丁、「栲」の誤字と思われる)繩結爲百八十紐、其造宮之制者、柱則高大、板則廣厚。又將田供佃。又爲汝往來遊海之具、高橋・浮橋及天鳥船、亦將供造。又於天安河、亦造打橋。又供造百八十縫之白楯。又當主汝祭祀者、天穗日命是也。」 |
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ある書によると…天神(アマツカミ)は經津主~(フツヌシノカミ)と武甕槌~(タケミカヅチノカミ)を派遣して葦原中国(アシハラナカツクニ)を平定させようとしました。
この時、二柱の神(=フツヌシとタケミカヅチ)は言いました。「天に悪い神が居る。その名前を天津甕星(アマツミカホシ)。またの名を天香香背男(アマノカカセオ=金星)という。まずこの神を倒してから、天から降りて葦原中国(アシハラナカツクニ)の神を一掃しよう」 この戦いのときの門出を祝う齋主(イワイ)の神を齋之大人(イワイノウシ)といいました。 注:戦争の前に神に祈り、戦勝を祈願します。その役割が「イワイノウシ」です。ここではフツヌシのことを指しています。 この神(=フツヌシ)は現在、東國(アズマノクニ)の檝取(カトリ)の地に在ります。 二柱の神は地上に降りて、出雲の五十田狹(イサダ)の小汀(オハマ)に辿り着いて、大己貴~(オオアナムチ=オオクニヌシ)に問いました。「お前は、この国を天~(アマツカミ)に譲るか?どうか???」 大己貴~(オオアナムチ)は答えました。「どうゆうことだ??お前たち、二柱の神が、私の所に来たのではないか??(国を譲るなど)許さない」 これを聞いて經津主~(フツヌシノカミ)はすぐに天に昇って帰って報告しました。 報告を聞いた高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は二柱の神をまた地上に派遣して大己貴~(オオアナムチ)に伝えるよう命じました。 「今、あなた(=オオナムチ=オオクニヌシ)が言ったことは、なるほど道理が通っている。そこで、一つ一つ細かく説明いたしましょう。あなたが納めているこの現世のモノはすべて私(=タカミムスビ)の孫(=ニニギ)が治めるべきです。あなたは~事(カムコト)を治めてください。あなたが住むべき天日隅宮(アマノミスミノミヤ)は今から造りましょう。千尋(チヒロ=尋は長さの単位。「千尋」でとても長い)もある栲縄(タクナワ)を180箇所も結んで組み立て、宮を作るにあたり、柱は高く大きく、板は広く厚くしましょう。また、田も作りましょう。あなたが海に遊びに行くために、高い橋(=長い階段のこととも)や浮橋(ウキハシ)や天鳥船(アマノトリフネ)もまた造りましょう。天安河(アマノヤスカワ)に打橋(ウチハシ)を作りましょう。また、百八十縫(モモアマリヤソヌイ)の白盾(シラタテ)も作ろう。またあなたが祭祀を司るのは天穗日命(アメノホヒノミコト)です」 |
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■惑星は悪い星
「星」はその場所を動く事がありません。地球の自転によって動くのですが、そのほかの星との位置関係自体は変わりません。 ところが惑星は違います。見るたびに違う位置に星が動いています。古代では星の位置から方角や位置を推測していましたから(参考:宗像三女神)、惑星が混じると方角や自分の位置が分からない。方角や位置が分からなくなるのは船にとって致命的です。 だから惑星は天の悪い神だった、のでしょう。 ■オオアナムチ、強し! タカミムスビが必死になって説得。この書を見る限り、オオアナムチ(オオクニヌシ)は非常に強い神だったよう。多くの人に信仰されたのでしょう。 でも、だからといって、オオアナムチ>タカミムスビとは限らない。 日本人は「争い」を「ケガレ」と考えていて、出来るだけ話し合いで決定しようとしています。天安河で様々な対策を考える時も「合議制」でした。そんな神話ありますか? だからタカミムスビが弱い、オオアナムチが強いということではなく、単に古代の日本人の価値観が武力よりも話し合いだった、のかもしれません。 ■戦いを避けること タカミムスビやアマテラスは国譲りを「力づく」で行ったと思われがちですが、「力づく」を行ったのは「フツヌシとタケミカヅチ」であって、カミムスビやアマテラスでは無いです。言い方を変えると、汚い仕事はフツヌシとタケミカヅチに押し付けたということです。 |
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■第九段 現世から退いて幽界の世界を
於是、大己貴神報曰「天神勅教、慇懃如此。敢不從命乎。吾所治顯露事者、皇孫當治。吾將退治幽事。」乃薦岐神於二神曰「是當代我而奉從也。吾將自此避去。」卽躬披瑞之八坂瓊、而長隱者矣。故經津主神、以岐神爲ク導、周流削平。有逆命者、卽加斬戮。歸順者、仍加褒美。是時、歸順之首渠者、大物主神及事代主神。乃合八十萬神於天高市、帥以昇天、陳其誠款之至。 |
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大己貴神(オオアナモチ)は答えました。「天神(アマツカミ)の申し出はあまりに懇切丁寧です。命令に従わない訳にはいかないでしょう。私が治める現世のことは、皇孫(スメミマ)が治めるべきでしょう。わたしは現世から退いて、幽界(カクレコト)の世界を治めましょう」
そして岐神(フナトノカミ=道の神)を二柱の神(=フツヌシとタケミカヅチ)に推薦して言いました。「この神は、私の代わりにお仕えするでしょう。わたしはここから去ります」 すぐに瑞之八坂瓊(ミヅノヤサカニ)を依り代として、永久に身を隠してしまいました。 經津主神(フツヌシノカミ)は岐神(フナトノカミ)を道の先導役として、葦原中国の各国を廻って平定しました。 逆らうものがいれば、斬り殺し、歸順(マツロ=従う)うものには褒美を与えました。このときに従った首渠(ヒトゴノカミ=集団の首長)は大物主神(オオモノヌシノカミ)と事代主神(コトシロヌシ)です。 八十萬神(ヤオヨロズノカミ)を天高市(アマノタケチ)に集めて、それらを率いて天に昇り、正道を説きました。 |
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■はっきりしない上下関係
天津神たちは地上に降り立ち、そこで国津神たちを従わせました。言う事を聞かないやつは殺し、従ったやつには褒美を与えました。 しかし、負けたはずの大国主(オオクニヌシ)は手厚く祀られ、また大物主(オオモノヌシ)も「まつろう神」で、敗者であるはずなのに、この後、タカミムスビによって手厚く祀られます。 これではどちらが勝者なのか分かりません。 ■祟りを恐れた? 日本の神は祟ります。負けたから、それで御終いではありません。敗者こそが祟ります。そういった神々を蔑(ナイガシ)ろにすると、後々に杞憂を残すことになります。 そこで日本の政治の勝者は敗者を丁寧に祀る。それがこの物語の本質ではないか??と思われます。 実際、大物主はこの後、崇神天皇の時代になって祟り神となり、疫病と飢餓で日本を襲う事になります。 |
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■第九段 大物主神を祀った始まり
時高皇産靈尊、勅大物主神「汝若以國神爲妻、吾猶謂汝有疏心。故今以吾女三穗津姬、配汝爲妻。宜領八十萬神、永爲皇孫奉護。」乃使還降之。卽以紀國忌部遠祖手置帆負神定爲作笠者、彥狹知神爲作盾者、天目一箇神爲作金者、天日鷲神爲作木綿者、櫛明玉神爲作玉者。乃使太玉命、以弱肩被太手繦而代御手、以祭此神者、始起於此矣。且天兒屋命、主神事之宗源者也、故俾以太占之卜事而奉仕焉。高皇産靈尊因勅曰「吾、則起樹天津神籬及天津磐境、當爲吾孫奉齋矣。汝、天兒屋命・太玉命、宜持天津神籬、降於葦原中國、亦爲吾孫奉齋焉。」乃使二神、陪從天忍穗耳尊以降之。 |
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高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は大物主神(オオモノヌシノカミ)に命令しました。「お前がもしも、國神(クニツカミ=国津神)を妻とするならば、私はお前に反抗する心があると思うだろう。だから、私の娘の三穗津姫(ミホツヒメ)をお前と会わせて妻としよう。八十萬神(ヤオヨロズノカミ)を率いて永遠に皇孫(スメミマ)をお守りしなさい」そして地上に(オオモノヌシを)降ろしました。
紀國(キノクニ)の忌部(イムベ)が遠い祖先の手置帆負神(タオキホオイノカミ)を、笠を作る「作笠者(カサヌイ)」としました。 彦狹知神(ヒコサチノカミ)を盾を作る「作盾者(タテヌイ)」としました。 天目一箇神(アマノマヒトツノカミ)を「作金者(カナダクミ)」としました。 天日鷲神(アマノヒワシノカミ)を作木綿者(ユウツクリ)としました。 櫛明玉神(クシアカルタマノカミ)を作玉者(タマツクリ)としました。 太玉命(フトタマノミコト)の弱々しい肩に太手繦(フトダスキ)を掛けて「御手代(ミテシロ)」としました。 そうして大物主神(オオモノヌシ)を祀ったのは、これが始まりです。 天兒屋命(アマノコヤネノミコト)は神事を司る宗源者(モト=取り仕切る人?)です。だから、天兒屋命(アマノコヤネノミコト)は太占(フトマニ=占いの名前)の卜事(ウラゴト=占い)をして神事に参加しました。 高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は命じました。「わたしは神が宿る『樹』の天津神籬(アマツヒモロキ)と神が宿る『岩』の天津磐境(アマツイワサカ)を立てて、私の子孫(オシホミミ?)を祝い祀ろう。お前たち、天兒屋命(アマツコヤネノミコト)・太玉命(フトダマノミコト)は天津神籬(アマツヒモロギ)を大切にし、葦原中國(アシハラナカツクニ=地上)に降りて、私の孫を祝い祀りなさい」 それで二柱の神(アマツコヤネとフトダマ)を天忍穗耳尊(アメノオシホミミ)に従わせて、地上に降ろしました。 |
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■御手代(ミテシロ)
榊の木に白いギザギザの紙を掛けた「玉串」というのを神社で見たことがあると思います。あれを持つものを「御手代」と言います。御手代はつまり、その手に「神」を宿す「依り代」です。 ■高皇産靈尊とオシホミミの関係は? オシホミミはアマテラスの子であり、スサノオの子でもありますが、高皇産靈尊は関係ありません。ではなぜ、ここで「吾が孫」と書いているのでしょうか?? 高皇産靈尊はオシホミミに娘を嫁がせていますので、義理の親子ですが、「吾が孫」ではありません。ニニギは高皇産靈尊から見て「孫」ですが、オシホミミは違います。 なぜこういう記述になったのかは分かりません。 |
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■第九段 齋庭の穂を、我が子オシホミミに
是時、天照大神、手持寶鏡、授天忍穗耳尊而祝之曰「吾兒、視此寶鏡、當猶視吾。可與同床共殿、以爲齋鏡。」復勅天兒屋命・太玉命「惟爾二神、亦同侍殿內、善爲防護。」又勅曰「以吾高天原所御齋庭之穗、亦當御於吾兒。」則以高皇産靈尊之女號萬幡姬、配天忍穗耳尊爲妃、降之。故時居於虛天而生兒、號天津彥火瓊瓊杵尊、因欲以此皇孫代親而降。故、以天兒屋命・太玉命及諸部神等、悉皆相授。且服御之物、一依前授。然後、天忍穗耳尊、復還於天。故、天津彥火瓊瓊杵尊、降到於日向槵日高千穗之峯、而膂宍胸副國、自頓丘覓國行去、立於浮渚在平地、乃召國主事勝國勝長狹而訪之。對曰「是有國也、取捨隨勅。」 |
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天照大神(アマテラスオオミカミ)は持っていた寶鏡(タカラカガミ)を天忍穗耳尊(アメノオシホミミノミコト)に授けて、祝って言いました。「我が子よ。この寶鏡(タカラカガミ)を見るときには、私(=アマテラス)を見ていると思いなさい。住まいを同じにして、宮殿を同じにして、この鏡を神として祀りなさい」
また、天兒屋命(アマノコヤネノミコト)・太玉命(フトダマノミコト)に命じました。「お前たち二柱の神(=アマノコヤネとフトダマ)は、宮殿に(アメノオシホミミと)共に居て、守っておくれ」 また命じて言いました。「私が高天原(タカマガハラ)で食べている齋庭の穂(ユニワノイナホ)を、我が子(=オシホミミ)に授けましょう」 そして高皇産靈尊(タカミムスビ)の娘の萬幡姫(ヨロズハタヒメ)を天忍穗耳尊(アメノオシホミミ)に嫁がせて、妃として、地上に降ろしました。 しかし、まだ天に居るときに子供が生まれました。名前を天津彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコホノニニギノミコト)といいました。 それでこの皇孫(=ニニギ)を親(=オシホミミ)の代わりに地上に降ろそうと思いました。それで天兒屋命(アマノコヤネノミコト)・太玉命(フトダマノミコト)や諸部神(モロトモノオノカミ=その他大勢の神々)を同様に授けました。また服御之物(ミソツモノ=身の回りの品々)を一つも前と変わらず、授けました。 そうして天忍穗耳尊(アメノオシホミミ)はまた天に帰りました。 天津彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコホノニニギノミコト)は地上に降りて、日向の槵日(クシヒ)の高千穂の峰にたどり着き、膂宍(ソシシ)の胸副國(ムナソウクニ)を丘から眺め見て、通り過ぎ、浮渚在平地(ウキジマリタヒラ=海上の浮き島の平らなところ?)に立って、国主(クニヌシ)の事勝國勝長狹(コトカツクニカツナガサ)を呼び寄せて、訪ねました。事勝國勝長狹(コトカツクニカツナガサ)が答えるには 「ここに国があります。得るも、捨てるも、あなたの思い通りに」 |
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第九段吾田の長屋の笠狭の岬へとほぼ同じ内容。細かい事を言えば、ニニギが降臨する直前に生まれた事。
ちなみに、日本人は農耕民族で、種子が秋には何倍にも増えることを知っていて、成熟した大人よりも、子供の方が「将来性がある」と考えていました。それはつまり、「魔力が強い」ということです。 だから生まれたばかりのニニギの方が、親のオシホミミよりも、「適任者」ということです。これは伊勢神宮を20年に一回立て替えることにも繋がる感覚です。幼いもの・新しいものは「強い」ということです。 ●よく持統天皇が孫の文武天皇に譲る「理由付け」のためにオシホミミが入れられたと言われますが、これは後付け、もしくは無関係と思います。 ■峰に降りる意味 ニニギは名前から言っても「穀物神」です。日本人は、春に山から神霊が畑にやってきて、そこに宿って霊威を注いで穀物を育ててくれると考えていました。そして、秋になり実ると山に帰っていきます。 つまり穀物神は山に住んでいるものです。日本人としては当たり前の「神の設定」です。だから「日向(=日のあたる)」「槵日(クシは強い、よって強い日の)」「高い」「千(たくさんの)」「穂」の「峰」は、特定の土地の名前ではなく、ニニギという穀物神が降りるにふさわしい場所という意味と考えた方がいいでしょう。 |
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■第九段 磐長姫の呪い
時皇孫因立宮殿、是焉遊息。後遊幸海濱、見一美人。皇孫問曰「汝是誰之子耶。」對曰「妾是大山祇神之子、名神吾田鹿葦津姬、亦名木花開耶姬。」因白「亦吾姉磐長姬在。」皇孫曰「吾欲以汝爲妻、如之何。」對曰「妾父大山祇神在。請、以垂問。」皇孫因謂大山祇神曰「吾見汝之女子、欲以爲妻。」於是、大山祇神、乃使二女、持百机飲食奉進。時皇孫、謂姉爲醜不御而罷、妹有國色引而幸之、則一夜有身。故磐長姬、大慙而詛之曰「假使天孫、不斥妾而御者、生兒永壽、有如磐石之常存。今既不然、唯弟獨見御、故其生兒、必如木花之移落。」一云、磐長姬恥恨而唾泣之曰「顯見蒼生者、如木花之、俄遷轉當衰去矣。」此世人短折之緑也。 |
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皇孫(スメミマ=ニニギ)は宮殿を建てて、ここで休みました。その後、海辺に遊びに行くと、一人の美人(オトメ)を見ました。皇孫(スメミマ)はその少女に尋ねました。「お前は、誰の子だ?」
少女は答えました。「わたしは大山祇神(オオヤマズミ)の子で、名前を神吾田鹿葦津姫(カムアタカシツヒメ)、別名を木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)と言います」 更に「また私には姉が居ます。磐長姫(イワナガヒメ)といいます」 皇孫は言いました。「私は、お前を妻にしたいと思うが、どうか?」 木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)は答えました。「わたしの父の大山祇神(オオヤマズミ)が居ます。父に相談してください」 皇孫(スメミマ)は大山祇神(オオヤマズミ)に言いました。「わたしは、お前の娘を見た。妻にしたいと思う」 大山祇神(オオヤマズミ)は二人の娘(=コノハナサクヤヒメとイワナガヒメ)に百机飮食(モモトリノツクエモノ=たくさんの御馳走)を皇孫の元へと送りました。 皇孫(スメミマ)は、姉(=イワナガヒメ)は醜いと思って、拒否して避けました。妹(=コノハナサクヤヒメ)は有國色(カオヨシ=美人)として近くに置いて可愛がりました。 それで一晩で妊娠しました。 磐長姫(イワナガヒメ)は恥ずかしく思い、呪いの言葉を吐きました。 「もしも、天孫(スメミマ)が私を斥(シリゾ)けず、かわいがれば、生まれる子供は命が長く、磐石(イワ)のようになったでしょうが、今、そうは成りませんでした。妹だけを可愛がったことで、生まれた子の命は必ず木の花のように、(美しい花が時間とともに変わるように)変わり、(木から花が落ちるように)落ちてしまうでしょう。」 ある書によると、磐長姫(イワナガヒメ)は恥ずかしく思い、恨んで唾を吐いて泣いて、「顯見蒼生(ウツシキアオヒトクサ=地上の人間)は木の花のように移ろいやすく、衰えてしまうでしょう」と言いました。 これが世の中の人の命が短い所以(ユエン)です。 |
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■オオヤマヅミは男か女か
「第九段事勝國勝長狹の国」ではコノハナサクヤヒメは「天神(アマツカミ)が大山祇神(オオヤマツミノカミ)を娶って生んだ子」とされているので、オオヤマヅミは女です。 でも、ここではハッキリと「父」と書かれています。男なのやら、女なのやら。 ●ただ、山の神は本来女神です。 ■イワナガヒメの呪い 美人の妹を選んだ事で「寿命」が生まれました。古事記では呪いではなく、オオヤマヅミが「姉妹を送ったのは、花のように長く、花のように栄えるようにと願ったからなのに。妹だけを娶ったから、長生きは出来ないなぁ」と語っただけで、呪いではなく、オオヤマヅミから与えられる予定だった「岩のように長い命」が「与えられなかった」という物語になっています。 しかし、この書ではハッキリとイワナガヒメによる呪いと書かれています。まぁ、呪われてもしょうがない気もするのですが。 ■顯見蒼生(ウツシキアオヒトクサ)について ウツシキは、霊力が高まることで見えなかったものが現れるという意味です。「青人草」は「人民」という意味の言葉です。 日本人は「人間」も霊力が高まった「モノ」と考えていたようです。つまり、人間も「神」の一種ということです。 |
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■第九段 一晩だけで妊娠させられるのか??
是後、神吾田鹿葦津姬、見皇孫曰「妾孕天孫之子。不可私以生也。」皇孫曰「雖復天神之子、如何一夜使人娠乎。抑非吾之兒歟。」木花開耶姬、甚以慙恨、乃作無戸室而誓之曰「吾所娠、是若他神之子者、必不幸矣。是實天孫之子者、必當全生。」則入其室中、以火焚室。于時、燄初起時共生兒、號火酢芹命。次火盛時生兒、號火明命。次生兒、號彥火火出見尊、亦號火折尊。齋主、此云伊播毗。顯露、此云阿羅播貳。齋庭、此云踰貳波。 |
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神吾田鹿葦津姫(カムアタカシツヒメ)は皇孫(スメミマ=ニニギ)を見て言いました。「わたしは天孫(アメミマ=ニニギ)の子を妊娠しました。個人的に生んではいけない(ので報告・相談に来ました)」
皇孫(スメミマ)は言いました。「天神(アマツカミ)の子といっても、どうやったら、一晩だけで妊娠させられるのか??その子はわたしの子ではないだろう」 木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)はとても情けなく恥ずかしく思い、腹を立てました。そこで、すぐに窓も戸も無い小屋を造って誓約をしました。 「わたしが妊娠したこの子が、もしも天津神以外の子供ならば、必ず不幸になる。この子が本当に天孫の子ならば、必ず何の問題も無く生まれるだろう!!」 そしてその小屋の中に入って、火をかけて小屋を焼きました。そのとき、燄(ホノオ)の起こり始めで生まれた子供を火酢芹命(ホノスセリノミコト)といいます。次に火が盛んになったときに生まれた子供を火明命(ホノアカリノミコト)といいます。次に生まれた子供を彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)といいます。別名を火折尊(ホノオリノミコト)といいます。 ●齋主は伊播毗(イワヒ)といいます。顯露は阿羅播貳(アラワニ)といいます。齋庭は踰貳波(ユニワ)といいます。 |
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■処女か否か
古事記と記述がほとんど同じなので書く事が無いなぁ。そこでちょっと古代の人の恋愛について。 コノハナサクヤヒメがニニギに「その子は俺の子じゃないんじゃね?」と言われてブチ切れて誓約をして、最後はコノハナサクヤヒメが勝利を収めてしまいます。ニニギって天孫って言われてるけど、嫁に完敗。 個人的に問題にしたいのは、コノハナサクヤヒメの処女性が問題になっていないところです。つまり、コノハナサクヤヒメも前に男が居たこと自体は明確に否定していないのです。 ●字数制限もあるだろうから、そこまで書かなかっただけ、ということもありますが。 古代では男と女の結婚は通い婚でした。別のいい方では「夜ばい」です。 現代では嫁が夫の家に入るものですが、古代では主体は嫁の家でした。嫁の家に夫が通い、嫁の家で子供が生まれて、子供は嫁と嫁の両親によって育てられます。 それはひっくり返すと、夫は嫌になったら簡単に疎遠になってしまうということです。となると嫁は不利、な気がしますが、その代わり、古代の方が女性の再婚には寛容でした。 そういう古代の結婚観がでている場面なのでしょうね。多分。 |
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■第九段 天甜酒と渟浪田の稲を新嘗祭に
一書曰、初火燄明時生兒、火明命、次火炎盛時生兒、火進命、又曰火酢芹命。次避火炎時生兒、火折彥火火出見尊。凡此三子、火不能害、及母亦無所少損。時以竹刀、截其兒臍、其所棄竹刀、終成竹林、故號彼地曰竹屋。時神吾田鹿葦津姬、以卜定田、號曰狹名田。以其田稻、釀天甜酒嘗之。又用淳浪田稻、爲飯嘗之。 |
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ある書によると……最初に火燄(ホノオ)が明るくなったときに生まれた子供が火明命(ホアカリノミコト)です。
次に火炎(ホムラ)が盛んになったときに生まれたのが火進命(ホノススミノミコト)です。別名を火酢芹命(ホノスセリノミコト)といいます。 次に火炎を避けたとくに生まれた子供が火折彦火火出見尊(ホノオリヒコホホデミノミコト)です。 以上で三柱です。この子供たちを火が焼き殺すことは出来ませんでした。また母体も少しも傷つけることはありませんでした。 そのときに竹の刀でその子たちの臍(ヘソノオ)を切りました。その竹の刀を捨てたところは、後に竹林と成りました。それで、その土地を「竹屋(タカヤ)」と言います。 神吾田鹿葦津姫(カムアタカシツヒメ)は占いで定めた神に供えるための「卜定田(ウラヘタ)」を狹名田(サナダ)と名付けました。その稲で天甜酒(アメノタムサケ)を醸造して収穫の新嘗祭で奉納しました。また、渟浪田(ヌナタ)の稲を炊いて新嘗祭で奉納しました。 |
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■地上で初めて作られた稲?
今では出雲で稲作の跡(遺跡)が見られるわけですから、この書で稲作をしていることに、大した意味は無いのかもしれませんが…… アマテラスがオシホミミ、オシホミミからニニギへと伝えられた「稲」が、天孫降臨によって地上にもたらされ、そしておそらくは初めての「稲の収穫」となります。 これまでも稲作は登場していますが、それは高天原での稲作であって地上ではこれが初めてです。 ニニギが「笠狭(カササ)の岬」に辿り着いたこと。コノハナサクヤヒメがここで地上初めての稲作を行い、酒を造り、新嘗祭で奉納したことを考えると、日本の稲作の到達点は九州南部だったのだと思います。 ●海幸・山幸の物語も九州南部に伝わった物語と思われます。 ●これらの九州南部の神話が日本神話の重要な部分に入っているのは、九州南部が大和朝廷に参加するのが遅かったから?という説がよく言われますが、ちょっと辻褄が合わない。 ●九州南部は沖縄・台湾・中国南部、そして東南アジアからインド、果ては中東やギリシャ・ヨーロッパまでを繋ぐ非常に大きな海運交易の入り口であり、文化・技術が流入する窓口だったのではないでしょうか? |
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■第九段 天忍日命の先導
一書曰、高皇産靈尊、以眞床覆衾、裹天津彥國光彥火瓊瓊杵尊、則引開天磐戸、排分天八重雲、以奉降之。于時、大伴連遠祖天忍日命、帥來目部遠祖天槵津大來目、背負天磐靫、臂著稜威高鞆、手捉天梔弓・天羽羽矢、及副持八目鳴鏑、又帶頭槌劒、而立天孫之前、遊行降來、到於日向襲之高千穗槵日二上峯天浮橋、而立於浮渚在之平地、膂宍空國、自頓丘覓國行去、到於吾田長屋笠狹之御碕。時彼處有一神、名曰事勝國勝長狹、故天孫問其神曰「國在耶。」對曰「在也。」因曰「隨勅奉矣。」故天孫留住於彼處。其事勝國勝神者、是伊弉諾尊之子也、亦名鹽土老翁。 |
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ある書によると高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は眞床覆衾(マドコオフスマ)を天津彦國光彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコクニテルヒコホノニニギノミコト)に着せて、天磐戸(アマノイワト)を引き開け、天八重雲(アマノヤエグモ)を押し分けて、地上に降ろしました。
その時、大伴連(オオトモノムラジ)の遠い祖先の天忍日命(アマノオシヒノミコト)が、來目部(クメベ)の遠い祖先の天槵津大來目(アマノクシツノオオクメ)を率いて、背中には天磐靫(アマノイワユキ【靫=矢を射れる筒】)を負い、腕には稜威高鞆(イツノタカトモ=防具)を身につけ、手には天梔弓(アマノハジユミ)と天羽羽矢(タマノハハヤ)を持ち、八目鳴鏑(ヤツメノカブラ【鏑は音が出るヤジリ】)も持ち、頭槌劍(カブツチノツルギ)を腰に差し、天孫(スメミマ=ニニギ)の前に立って、先導して地上に降りました。 そして日向の襲(ソ)の高千穂の槵日(クシヒ)の二上峯(フタガミノミネ)の天浮橋(アマノウキハシ)にたどり着き、浮渚在之平地(ウキジマタイラ)に立たせ、膂宍(ソシシ)の空國(ムナクニ)を頓丘(ヒタオ)から眺め見て、通り過ぎ、吾田(アタ)の長屋(ナガヤ)の笠狹之御碕(カササノミサキ)にたどり着きました。 そこに一柱の神が居ました。事勝國勝長狹(コトカツクニカツナガサ)といいます。天孫(アメミマ)はその神に尋ねました。「國があるか?」答えました。「有ります」続けて言いました。「(天孫の)命ずるままに、御譲りしましょう」 それで天孫はこの土地にとどまって住む事にしました。 ●事勝國勝神(コトカツクニカツノカミ)は伊奘諾尊(イザナギノミコト)の子です。別名を鹽土老翁(シオツチオジ)といいます。 |
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■ニニギは天岩戸の向こう
ニニギが天岩戸と天八重雲を分けて、降臨します。つまりニニギは岩戸の向こうに居た訳です。わたしは天岩戸は「雨雲」を指していると思います。アマテラスを隠していたのはおそらくは梅雨の雨雲。日食や冬至をしているならば、この表現は成立しないでしょう。 ■天忍日命がすごい 大伴氏の祖先とされる天忍日命が、完全武装かつ、来目部(久米氏)を従え、ニニギを先導しています。古事記では久米氏とは同列関係。 ●しかし、大伴氏の名前と、大伴氏の別の祖神として「道臣命」という名前があるあたり、大伴氏というものがそもそも「先導役」という「役職」だったのではないか?とも思います。 ●また久米氏には「米」という字が当てられているので、この久米氏の原型は穀物神だったのかもしれない。 ●日本人は山から穀物神が降りてくると思っていました。その神は猿田彦といった道案内の神が連れて来た。つまり「先導」と「穀物神」はセットだった。それが大伴氏と久米氏なのではないか? |
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■第九段 天孫の苦しい言い訳
一書曰、天孫、幸大山祇神之女子吾田鹿葦津姬、則一夜有身、遂生四子。故吾田鹿葦津姬、抱子而來進曰「天神之子、寧可以私養乎。故告狀知聞。」是時、天孫見其子等嘲之曰「姸哉、吾皇子者。聞喜而生之歟。」故吾田鹿葦津姬、乃慍之曰「何爲嘲妾乎。」天孫曰「心疑之矣、故嘲之。何則、雖復天神之子、豈能一夜之間、使人有身者哉。固非我子矣。」是以、吾田鹿葦津姬益恨、作無戸室、入居其內誓之曰「妾所娠、若非天神之胤者必亡、是若天神之胤者無所害。」則放火焚室、其火初明時、躡誥出兒自言「吾是天神之子、名火明命。吾父何處坐耶。」次火盛時、躡誥出兒亦言「吾是天神之子、名火進命。吾父及兄何處在耶。」次火炎衰時、躡誥出兒亦言「吾是天神之子、名火折尊。吾父及兄等何處在耶。」次避火熱時、躡誥出兒亦言「吾是天神之子、名彥火火出見尊。吾父及兄等何處在耶。」然後、母吾田鹿葦津姬、自火燼中出來、就而稱之曰「妾所生兒及妾身、自當火難、無所少損。天孫豈見之乎。」報曰「我知本是吾兒。但一夜而有身、慮有疑者。欲使衆人皆知是吾兒、幷亦天神能令一夜有娠。亦欲明汝有靈異之威・子等復有超倫之氣。故、有前日之嘲辭也。」梔、此云波茸、音之移反。頭槌、此云箇步豆智。老翁、此云烏膩。 |
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ある書によると…天孫(=ニニギ)は大山祇神(オオヤマヅミ)の娘の吾田鹿葦津姫(アタカシツヒメ)に出会って、すぐに一晩で妊娠しました。そして四人の子を生みました。
吾田鹿葦津姫(アタカシツヒメ)は子供たちを抱いて、(天孫の元へと)来て言いました。「天神(アマツカミ)の子をどうして、私の一存で育てられましょうか??だから出産の報告をお知らせに来ました」 このとき、天孫(アメミマ=ニニギ)はその子供たちを見て、笑って言いました。「怪しげなことだ。わたしの皇子は沢山生まれたものだなぁ」 吾田鹿葦津姫(アタカシツヒメ)は怒りました。「どうして私を笑うのですか?」 天孫(アメミマ)は言いました。「心に疑念があるからだ。だから笑うのだ。わたしがいくら天神(アマツカミ)の子と言っても、どうして一晩で妊娠させられるだろうか??その子供は私の子供ではないだろう」 それを聞いて、吾田鹿葦津姫(アタカシツヒメ)はますます恨んで、窓や戸の無い小屋を造り、その中に入って誓約をして言いました。「わたしが妊娠したのが、もしも天神(アマツカミ)の子でなければ、必ず死んでしまう。この子がもし、天神(アマツカミ)の子であれば、傷一つ負わない」そして火をつけて小屋を焼きました。 その火のつき始めに声を上げて飛び出した子が居ました。その子が言うには「わたしは天神(アマツカミ)の子!名前は火明命(ホノアカリノミコト)!!わたしの父は何処にいるのですか!!」 次に火が盛んになったときに、声を上げて飛び出した子がまた言いました。「わたしは天神(アマツカミ)の子!!名前は火進命(ホノススミノミコト)!わたしの父と兄はどこにいるのですか!!」 次に火が衰えて来たときに声を上げて飛び出した子がまた言いました。「わたしは天神(アマツカミ)の子!!名前は火折尊(ホノオリノミコト)!わたしの父と兄たちはどこですか!!」 次に火の熱が冷めて来たときに声を上げて飛び出した子がまた言いました。「わたしは天神(アマツカミ)の子!!名前は彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)!わたしの父と兄たちはどこですか!!」 その後に母の吾田鹿葦津姫(アタカシツヒメ)は燃え残りの中から出て来て、天孫の前に出て言いました。「わたしは生んだ子も私の体も、自分から火の中に入っても、全く傷つく事がありませんでした。あなたはそれを見ていましたよね」 天孫(アメミマ=ニニギ)は答えました。「私は我が子と知っていた。ただの一晩で妊娠したということを疑うものが、この中に居ると思い、衆人に、子供たちが私の子であるということと、天神(アマツカミ)は一晩で妊娠させられることを知らせたいと思ったのだ。あなた(=吾田鹿葦津姫)はとても強い霊力を持っていて、子供たちも同じように、優れた霊力を持っていると、この衆人にハッキリさせたいと思ったから、先ほどのように嘲笑した言葉を言ったのだ」 ●梔は波茸(ハジ)と言います。音は「之移」の返しです。頭槌は箇歩豆智(カブツチ)と読みます。老翁は烏膩(オヂ)と読みます。 |
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■かっこわるいなぁ
子供を抱えて出て来た吾田鹿葦津姫に対して、「え、それ、俺の子じゃないでしょ?だって一回しかしてないじゃん!」と言ったがために、怒らせ、火の誓約をすることになります。そして誓約に成功して火の中から子供たちと吾田鹿葦津姫が帰還すると、 「あぁ、ま、実は知っていたんだよね。部下が疑ってるだろうから、あぁ言ったんだけど、俺は最初から信じてたよ。だって天孫なんだもん!知らないわけないよね!!」 |
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■第九段 天火明と天津彦根火瓊瓊杵根尊
一書曰、天忍穗根尊、娶高皇産靈尊女子 ●(木編と考えるの上部分と下に丁【誤字と思われる】)幡千千姬萬幡姬命・亦云高皇産靈尊兒火之戸幡姬兒千千姬命、而生兒天火明命、次生天津彥根火瓊瓊杵根尊。其天火明命兒天香山、是尾張連等遠祖也。及至奉降皇孫火瓊瓊杵尊於葦原中國也、高皇産靈尊、勅八十諸神曰「葦原中國者、磐根・木株・草葉、猶能言語。夜者若熛火而喧響之、晝者如五月蠅而沸騰之」云々。 |
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ある書によると…天忍穗根尊(アメノオシホネノミコト)は高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)の娘の栲幡千千姬萬幡姬命(タクハタチジヒメヨロズハタヒメノミコト)…別名を高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)の子の火之戸幡姫(ホノトハタヒメ)の子の千千姬命(チヂヒメノミコト)を娶って生んだ子が、天火明命(アマノホノアカリノミコト)、次に天津彦根火瓊瓊杵根尊(アマツヒコネホノニニギノミコト)を生みました。
その天火明命(ホノアカリノミコト)の子の天香山(アマノカグヤマ)は尾張連(オワリノムラジ)の遠い祖先です。 皇孫(スメミマ)の火瓊瓊杵尊(ホノニニギノミコト)を葦原中国(アシハラナカツクニ)に降ろされたときに、高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は八十諸神(ヤソモロカミ=たくさんの神)に命じました。「葦原中國は大きな岩、木の株、草葉もよく言葉を話す。夜は火の粉のように騒がしく、昼は五月の蠅のようにうるさい」 云々(シカシカ)。 |
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■火明命がニニギの兄として
日本書紀の他のページでは、ニニギの子として登場する火明命がここではニニギの兄弟。ということは立場上は火明命も「天孫」となります。 |
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■第九段 雉頓使(キギシノヒタヅカイ)
時高皇産靈尊勅曰「昔遣天稚彥於葦原中國、至今所以久不來者、蓋是國神有强禦之者。」乃遣無名雄雉、往候之。此雉降來、因見粟田・豆田、則留而不返。此世所謂、雉頓使之緣也。故、復遣無名雌雉、此鳥下來、爲天稚彥所射、中其矢而上報、云々。是時、高皇産靈尊、乃用眞床覆衾、裹皇孫天津彥根火瓊瓊杵根尊、而排披天八重雲、以奉降之。故稱此神、曰天國饒石彥火瓊瓊杵尊。于時、降到之處者、呼曰日向襲之高千穗添山峯矣。及其遊行之時也、云々。 |
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高皇産靈尊は言いました。「昔、天稚彦(アメノワカヒコ)を葦原中國(アシハラナカツクニ)に派遣した。長い時間が経った今でも、報告に来ないのは、國神(クニツカミ)にひどく強禦之者(イムカウモノ)があるのだろうか」
それで無名雄雉(ナナシメノキギシ=名も無いキジ)を地上に派遣して、様子を見に行かせました。このキジが地上に降りて、粟や豆を育てる畑を見ると、ここに(粟や豆を食べるために)留まってしまいました。これが俗に言う「雉頓使(キギシノヒタヅカイ)」です。 それでまた、無名雌雉(ナナシメノキギシ)を派遣しました。この鳥が地上に下り、天稚彦(アメノワカヒコ)が弓と矢で射る事に成ります。その矢にキジが当たり、天に戻って報告しました。云々… |
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■雉頓使
派遣したキジが本来の役割を果たさずに、そのまま居なくなってしまう。馬鹿は当てに出来ない。という意味なのか、どうなのか。日本人は山から穀物の神が里にやってきて、田畑に宿り、その田畑に神の力を注ぎ入れることで、実ると考えていました。 その穀物神がどうやって山から地上へと来るのか?その手法の一つが「鳥」です。鳥に乗ってやってきたり、鳥の形になって山からビューンと里にやってきます。高皇産靈尊が鳥を派遣したことには、そういう側面があります。 |
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■第九段 玉飾りを揺らして機織りをする少女
到于吾田笠狹之御碕、遂登長屋之竹嶋。乃巡覽其地者、彼有人焉、名曰事勝國勝長狹。天孫因問之曰「此誰國歟。」對曰「是長狹所住之國也。然今乃奉上天孫矣。」天孫又問曰「其於秀起浪穗之上、起八尋殿、而手玉玲瓏、織經之少女者、是誰之子女耶。」答曰「大山祇神之女等、大號磐長姬、少號木花開耶姬、亦號豐吾田津姬。」云々。皇孫因幸豐吾田津姬、則一夜而有身。皇孫疑之、云々。 |
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(ニニギの一行は)吾田(アタ)の笠狹之御碕(カササノミサキ)にたどり着きました。それで長屋の竹嶋(タカシマ)に上りました。
その周囲の土地を見てみると、人がいました。名前を事勝國勝長狹(コトカツクニカツナガサ)といいます。天孫(アメミマ=ニニギ)は近寄って訪ねました。「ここは誰の国か?」 事勝國勝長狹(コトカツクニカツナガサ)は答えました。「ここは長狹(ナガサ)が住んでいる国です。しかし、今、天孫(アメミマ)に御譲りしましょう」 天孫(アメミマ)はまた問いました。「その波の上に大きな宮殿を建てて、手に巻いた玉飾りを揺らして、機織りをする少女は、誰の娘か?」 事勝國勝長狹(コトカツクニカツナガサ)は答えました。「大山祇神(オオヤマヅミノカミ)の娘たちです。姉を磐長姫(イワナガヒメ)といいます。妹を木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)といいます。もしくは豐吾田津姫(トヨアタツヒメ)といいます」云々。 |
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■長狹(ナガサ)とは?
文意から考えると長狹とは「民族」や「氏族」の名前と思われます。さて、長狹と言われるものに「長狹国」があります。この長狹が何処にあるかというと、現在の千葉です。千葉の鴨川市にあたります。九州の話かと思っていたら、千葉??まぁ、あまり突っ込むまい。でも、安房国長狹、つまり房総半島は、九州南部の大隅半島に形状が似ているし、笠狹之御碕の意外とこの千葉なのかもしれない。 ちなみに安房国長狹の長狹国造の祖先は神武天皇の子で綏靖天皇の兄の神八井耳命。「神武天皇とイスケヨリヒメの子孫」を読めば分かりますが、神八井耳命の子孫と言っても色んな臣・造・連・直がいるので、長狹国造が特別じゃないです。 |
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■第九段 皇孫は悲しくて歌を歌う
遂生火酢芹命、次生火折尊、亦號彥火火出見尊。母誓已驗、方知、實是皇孫之胤。然、豐吾田津姬、恨皇孫不與共言。皇孫憂之、乃爲歌之曰、 憶企都茂播陛爾播譽戻耐母佐禰耐據茂阿黨播怒介茂譽播磨都智耐理譽 熛火、此云裒倍。喧響、此云淤等娜比。五月蠅、此云左魔倍。添山、此云曾褒里能耶麻。秀起、此云左岐陀豆屢。 |
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火酢芹命(ホノスセリノミコト)を生みました。次に火折尊(ホノオリノミコト)を生みました。別名を彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)といいます
母(=吾田鹿葦津姫)の誓約が証明され、その子供たちが皇孫(スメミマ=ニニギ)の子だと分かりました。しかし、豐吾田津姬(トヨアタツヒメ)は皇孫(スメミマ)を恨んで口を聞かなくなりました。皇孫(スメミマ)はこれを悲しく思って、歌を歌いました。 沖つ藻は 辺には寄れども さ寝床も あたはぬかもよ 浜つ千鳥よ 訳海の藻は浜に寄ってくるのに、嫁は寝床にも全然寄ってこないなぁ。千鳥だって番(ツガイ)でいるのになぁ。 ●熛火は裒倍(ホホ)と読みます。喧響は淤等娜比(オトナヒ)と読みます。五月蠅は左魔倍(サバヘ)と読みます。添山は曾褒里能耶麻(ソホリノヤマ)と読みます。秀起は左岐陀豆屢(サキタツル)と読みます。 |
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■ここでは二人兄弟
火の兄弟は大体が三人兄弟なのに、ここでは二人。 ■ニニギくん、弱い 妻の不貞を疑って、その疑惑を妻自らの誓約で晴らすのですが、それが原因で不仲になり、ニニギは妻に口を利いてもらえなくなります。なんというか妻の方が強い。イザナギとイザナミの黄泉の国でのやり取りといい、女性が強い。 |
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■第九段 日向神話の系譜異伝
一書曰、高皇産靈尊之女天萬栲幡千幡姬。 一云、高皇産靈尊兒萬幡姬兒玉依姬命、此神爲天忍骨命妃、生兒天之杵火火置瀬尊。 一云、勝速日命兒天大耳尊、此神娶丹舄姬、生兒火瓊瓊杵尊。 一云、神高皇産靈尊之女栲幡千幡姬、生兒火瓊瓊杵尊。一云、天杵瀬命、娶吾田津姬、生兒火明命、次火夜織命、次彥火火出見尊。 |
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ある書によると…高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)の娘は天萬栲幡媛命(アマヨロヅタクハタチハタヒメ)です。
別伝によると…高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)の娘の萬幡姫(ヨロズハタヒメ)の娘が玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)です。この女神は天忍骨命(アメノオシホネノミコト)の妃となって、天之杵火火置P尊(アメノギホホオキセノミコト)を生みました。 別伝によると…勝速日命(カチハヤヒノミコト)の子が天大耳尊(アマノオオミミノミコト)です。この神は丹舄姬(ニツクリヒメ)を娶って、火瓊瓊杵尊(ホノニニギノミコト)を生みました。 別伝によると…天杵P命(アマノキセノミコト)は吾田津姫(アタツヒメ)を娶って、火明命(ホノアカリノミコト)を生みました。次に火夜織命(ホノヨリノミコト)を生みました。次に彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)を生みました。 |
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■神話の変遷?
系譜が書かれています。これを見る限りニニギやオシホミミやヒコホホデミといった皇統となる神の出生がかなり曖昧で、口伝が多かったよう。つまり、本文や古事記もこれらの中から選ばれた「一書」と思われます。 |
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■第九段 天照國照彦火明命
一書曰、正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、娶高皇産靈尊之女天萬栲幡千幡姬、爲妃而生兒、號天照國照彥火明命、是尾張連等遠祖也。次天饒石國饒石天津彥火瓊瓊杵尊、此神娶大山祇神女子木花開耶姬命、爲妃而生兒、號火酢芹命、次彥火火出見尊。 |
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ある書によると…正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)は高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)の娘の天萬栲幡千幡姬(アマヨロズタクハタチハタヒメ)を娶って妃として生んだ子が天照國照彦火明命(アマテルクニテルヒコホノアカリノイコト)といいます。
この神が尾張連(オワリノムラジ)の娘の木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)を妃として生んだ子は、火酢芹命(ホノスセリノミコト)と言います。次に生んだ子が彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)です。 |
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■火明命は太陽神
オシホミミがタクハタチハタヒメを娶って生んだ子が「天照國照彦火明命(アマテルクニテルヒコヒアカリノミコト)」。どうやらこの火明命は太陽神だったよう。つまり「火」は「日」を意味しているのでしょう。まぁ、大和言葉には「漢字」は無く、漢字の意味に合わせて当てたのが「訓読み」ですから、古代の日本人に「火」と「日」の区別は無かったのでしょう。「ヒ」という音は「火」と「日」の両方を指していた。指しているのは当たり前だった。 |
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■第十段 海の幸と山の幸
兄火闌降命、自有海幸(幸、此云左知)、弟彥火火出見尊、自有山幸。始兄弟二人相謂曰「試欲易幸。」遂相易之、各不得其利、兄悔之、乃還弟弓箭而乞己釣鉤、弟時既失兄鉤、無由訪覓、故別作新鉤與兄。兄不肯受而責其故鉤、弟患之、卽以其横刀、鍛作新鉤、盛一箕而與之。兄忿之曰「非我故鉤、雖多不取。」益復急責。故彥火火出見尊、憂苦甚深、行吟海畔。時逢鹽土老翁、老翁問曰「何故在此愁乎。」對以事之本末、老翁曰「勿復憂。吾當爲汝計之。」乃作無目籠、內彥火火出見尊於籠中、沈之于海。卽自然有可怜小汀。(可怜、此云于麻師。汀、此云波麻。) |
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兄の火闌降命(ホノスソリノミコト)には海で魚を採る…「海の幸」がありました。
弟の彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)には山で鳥や獣を採る…「山の幸」がありました。 兄弟二人はお互いに言いました。「試しにお互いの『幸』を取り替えてみよう」それでお互いに『幸』を取り替えました。 ところが『幸』をうまく扱えませんでした。そこで兄(ホノスソリ)は取り替えたことを後悔し、弟(ヒコホホデミ)の弓矢を返して、釣り針を返してくれと申し出ました。弟(ヒコホホデミ)はこの時、既に兄(ホノスソリ)の釣り針を失くして、探しようにもどうしようもありませんでした。 そこで弟(ヒコホホデミ)は新しい釣り針を造って兄(ホノスソリ)に渡しました。しかし兄(ホノスソリ)はそれを受け取らず、『失くした釣り針』を返せと求めて来ました。 弟(ヒコホホデミ)は困って、刀を壊して新しい釣り針を造って、ザル一杯に盛って渡そうとしたのですが、兄(ホノスソリ)は怒って言いました。「もとの釣り針でなければ、多くても受け取らない!」ますます、弟(ヒコホホデミ)を責めました。 彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は困り果てて、海辺でさまよっているときに鹽土老翁(シオツチノオジ)と出会いました。 老翁(オジ)は彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)に聞きました。「どうして、こんなところで悩んでいるのですか?」彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は事情を説明しました。老翁(オジ)は言いました。「心配することはありませんよ。わたしが良い案を授けましょう」それで無目籠(マナシカタマ=継ぎ目が無いくらいに細かいカゴ)を作って、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)をカゴの中に入れて海に沈めました。すると可怜小汀(ウマシオハマ)に出ました。 ●幸は左知(サチ)と読みます。可怜は于麻師(ウマシ)と読みます。汀は波麻(ハマ)と読みます。 |
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■東南アジアに類似の物語が
日向神話に限らず日本神話は東南アジアの神話によく似ています。。この海幸山幸も東南アジアに非常に似た物語が残っています。おそらくそこから伝わったのでしょう。 ■カゴの能力 カゴなんて大したモノではないと思いがちですが、カゴは鉄器同様に生活に革命を起こしたものとされます。一度に大量のモノを運ぶことが出来るからです。ただカゴは植物で作られる為に、金属のように後世に残らない為に「どういうものだったか?」が分かりません。なのでイマイチ話題にならない。 |
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■第十弾 高垣姫垣が整い、高楼小殿が照り輝く
於是、棄籠遊行、忽至海神之宮。其宮也、雉堞整頓、臺宇玲瓏。門前有一井、井上有一湯津杜樹、枝葉扶疏。時彥火火出見尊、就其樹下、徒倚彷徨。良久有一美人、排闥而出、遂以玉鋺、來當汲水、因舉目視之、乃驚而還入、白其父母曰「有一希客者、在門前樹下。」海神、於是、鋪設八重席薦、以延內之。坐定、因問其來意、時彥火火出見尊、對以情之委曲。海神乃集大小之魚逼問之、僉曰「不識。唯赤女赤女、鯛魚名也比有口疾而不來。」固召之探其口者、果得失鉤。 |
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山幸彦(=ヒコホホデミ)はカゴを捨てて、行くと海神(ワダツミ)の宮殿に到着しました。その宮殿は雉堞(タカガキヒメガキ=高垣姫垣)が整い、高楼小殿が照り輝いていました。
訳高垣姫垣の「垣」は宮殿を取り囲む敷居、姫は「小さい」を表す言葉。よって「大小さまざまな垣に覆われた、という意味。臺宇(タカドノ)は、高い建物のこと。高楼小殿と訳したのは、「高垣姫垣」を受けての意訳。 その門の前にひとつの泉がありました。泉のほとりに一つの湯津杜(ユツカツラ)の樹がありました。その枝・葉はとても茂っていました。彦火火出見尊(ヒコホホデミ)はその樹の下に行って、ウロウロとしていました。しばらくすると、一人の少女が扉を押し開いて出て来ました。宝石で出来たお椀を持っていて、それで泉の水を汲もうとしました。それで見上げると、彦火火出見尊(ヒコホホデミ)を見つけました。驚いて、宮殿に帰り、両親に言いました。「一人の珍しい客人がいます。門の前の樹の下にいます」海神(ワダツミ)はここに八重に敷物を敷いて、宮殿内に彦火火出見尊(ヒコホホデミ)を招き入れました。彦火火出見尊(ヒコホホデミ)が席について落ち着くと、ココに来た理由を尋ねました。彦火火出見尊(ヒコホホデミ)は事情の全てを答えました。海神(ワダツミ)は、すぐに大小の魚を集めて、問いました。魚たちは答えました。「知りません」ただ、赤女(アカメ)は最近の口の病気があって、その場に来てませんでした。 赤女は鯛魚(タイ)の名前です。 そこで赤女を呼び寄せて、口を探すと、失くした釣り針がありました。 |
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■湯津杜(ユツカツラ)
はカツラの樹のことです。中国では「桂の樹」は月の中にある理想を表しているとか。ただし中国では「桂」という字は「木犀(モクセイ)」という別の樹のことを指します。ここでのカツラが「桂」か「木犀」かは不明。ちなみに木犀は室町時代に日本に伝来し、奈良時代には日本には無いので、その理屈から言うとこの桂は日本に自生している方の「桂の木」となる。ただし、海幸山幸神話は東南アジアが源流の神話で、そこから海の交易路を伝って日本に来た神話と思われますら、その伝来の過程の中で「中国原産の木犀」が神話に混入した可能性もあります。 ■玉鋺 玉で出来た「椀」と訳しました。玉は宝石、椀の篇が「鉄」なので、金属の器と考えるべきでしょう。それで、玉とは具体的には何を表すのか? ■海神の宮殿は海の底か海の向こうか 竜宮城のように海の底にあると解釈する事が多いですが、文意から考えると、海の向こうではないか?と。海人族の神格化と考えた方がスッキリします。 |
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■第十段 貧鉤と呼んでから
已而彥火火出見尊、因娶海神女豐玉姬。仍留住海宮、已經三年。彼處雖復安樂、猶有憶ク之情。故時復太息、豐玉姬聞之、謂其父曰「天孫悽然數歎、蓋懷土之憂乎。」海神乃延彥火火出見尊、從容語曰「天孫若欲還ク者、吾當奉送。」便授所得釣鉤、因誨之曰「以此鉤與汝兄時、則陰呼此鉤曰貧鉤、然後與之。」復授潮滿瓊及潮涸瓊而誨之曰「漬潮滿瓊者則潮忽滿、以此沒溺汝兄。若兄悔而祈者、還漬潮涸瓊則潮自涸、以此救之。如此逼惱、則汝兄自伏。」及將歸去、豐玉姬謂天孫曰「妾已娠矣、當産不久。妾必以風濤急峻之日、出到海濱。請爲我作産室相待矣。」 |
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彥火火出見尊(ヒコホホデミ)は海神(ワダツミ)の娘の豊玉姫(トヨタマヒメ)を娶って、海宮(ワタツミノミヤ)に住んでいました。
三年経ちました。 彥火火出見尊(ヒコホホデミ)は安らかで楽しいとは思っていたのですが、故郷を思う気持ちがありました。それで時折、大きなため息を漏らしていました。それを豊玉姫(トヨタマヒメ)が聞いて、父に言いました。「天孫(アメミマ=ヒコホホデミ)は困り顔で、しばしばため息をついています。土(クニ)を懐かしんでいるのでしょう」海神(ワダツミ)はすぐに彥火火出見尊(ヒコホホデミ)を招いて、おもむろに言いました。 「天孫(アメミマ)。もしも故郷(=地上)に帰りたいと思っているのならば、送りましょう」それで鯛の赤女の口から得た釣り針を彥火火出見尊(ヒコホホデミ)に授けて、教えました。 「この釣り針を、あなたが兄に返すときは、コッソリとこの釣り針を『貧鉤(マヂチ=貧しい釣り針)』と呼んでから、兄に与えなさい」 また潮滿瓊(シオミツタマ・シオミツニ)と潮涸瓊(シオヒノタマ・シオヒルニ)を渡して教えました。「潮滿瓊(シオミツタマ・シオミツニ)を海の水に漬ければ、潮がたちまち満ちる。これであなたの兄を溺れさせなさい。もし兄が悔い改めて哀れみを乞うたら、潮涸瓊(シオヒノタマ・シオヒルニ)を海の水に漬ければ、潮は自然と引く。これで救いなさい。そうして、攻め悩ませれば、兄はきっと従うでしょう」 それで地上に帰ろうとするときになって、豊玉姫は天孫(アメミマ)に言いました。「わたしはすでに妊娠しています。もうすぐ生まれるでしょう。わたしは必ず風や波の荒い日に海辺に出ます。お願いです。わたしのために産屋を立てて待っていてください」 |
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■『貧鉤』と呼んで力が無くなるのは言霊の力
マヂチとは「貧しい」「チ」。この「チ」はこの場では「釣り針」を挿しますが、「海の幸」の「サチ」の「チ」と同様に「霊威」を表しています。道具にも霊威があり、その霊威が無くなると、道具の役割を果たせなくなる。その霊威を削ぐ為に「貧しい釣り針」と呼びます。 「貧しい」と呼んだだけで、その霊威が無くなるというのは、言霊信仰があってのこと。 ■浦島太郎に似てる このページの前半部分、地上が恋しくなって地上に帰るあたりは浦島太郎に似ています。浦島太郎って実は日本書紀の中で「浦島太郎には一冊、特別に書くよー」と宣言されています。実際にはその本は見つかっていないのですが、浦島太郎が大和にとって特別な神話だったのは間違いなさそうです。なので、この海神神話が似ているのも、そこいらへんが関係している可能性は高いです。 ■玉の力 今まで高天原や出雲の神話で見て来た「玉」と、ちょっと性質が違います。言葉は同じでも、今までは装飾品というイメージ、こちらはマジックアイテムです。水に漬けることで効果を発するのですから、海に関わるモノでしょう。 日向神話が出雲や高天原とは性質を異にするのが分かります。 |
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■第十段 俳優の民となるから命だけは助けて
彥火火出見尊已還宮、一遵海神之教。時兄火闌降命、既被厄困、乃自伏罪曰「從今以後、吾將爲汝俳優之民。請施恩活。」於是、隨其所乞遂赦之。其火闌降命、卽吾田君小橋等之本祖也。 |
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彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は地上の自分の宮殿に帰って一から海神(ワダツミ)に教えられた通りにしました。すると兄の火闌降命(ホノスソリノミコト)はすっかりと酷い目にあって懲らしめられて、自分から罪を白状して言いました。「これ以降、わたしはあなたの俳優(ワザオギ)の民となります。だから命だけは助けてください」
それで、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は言うがままに兄を許しました。その兄の火闌降命(ホノスソリノミコト)は吾田君(アタノキミ)の小橋などの祖先です。 |
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■兄ホノスソリはそんなに悪いか?
海幸・山幸の話ってあまりにヒコホホデミに都合が良いというか、あまりに兄が理不尽な感じが。確かに、釣り針を失くしただけで、無茶苦茶な理屈をこねたから、善人とは言いがたいのだけども、それでも、その結果がこれでは。 |
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■第十段 海と陸との間を永遠に行き来出来る道
後豐玉姬、果如前期、將其女弟玉依姬、直冒風波、來到海邊。逮臨産時、請曰「妾産時、幸勿以看之。」天孫猶不能忍、竊往覘之、豐玉姬方産化爲龍。而甚慙之曰「如有不辱我者、則使海陸相通・永無隔絶。今既辱之、將何以結親昵之情乎。」乃以草裹兒、棄之海邊、閉海途而俓去矣。故因以名兒、曰彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊。後久之、彥火火出見尊崩、葬日向高屋山上陵。 |
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豊玉姫(トヨタマヒメ)は以前約束した通りに、妹の玉依姫(タマヨリヒメ)を釣れて、波風の荒い日に海辺に訪れました。子供を産もうとしたときに言いました。「わたしが子を生むところを、あなた(=ヒコホホデミ)は見ないでください」
天孫(アメミマ=ヒコホホデミ)は我慢出来ずにこっそりと産屋に行って覗いてしまいました。豊玉姫(トヨタマヒメ)は子を産むために龍になっていました。 豊玉姫(トヨタマヒメ)はとても恥に思い言いました。「もし私を辱(ハズカシ)めなければ、海と陸との間に永遠に行き来出来る道を作ったのに。こうして辱めてしまいました。どうして仲睦まじくできるでしょうか」そしてすぐに茅(カヤ)で子供を包み、海辺に捨ててしまい、海の道を閉ざして豊玉姫(トヨタマヒメ)は去ってしまいました。 その子の名前を彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)といいます。その後、長い時間が経って彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト=山幸彦)は亡くなりました。日向の高屋山の上の陵(ミササギ=墓)に葬りました。 |
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■ウガヤフキアエズの名に由来は?
ウガヤフキアエズという名前は鳥の鵜の羽で作った屋根の産屋を造っていた途中に産気づいて、出産してしまったから、「鵜の羽の屋根をふき終えてない」で「ウガヤフキエアズ」だったのに、ここでは「鵜」も「作る途中」も出てこないのに、「ウガヤフキアエズ」という名前だけはしっかりと残ってます。 ■龍 古事記では八尋和爾(ヤヒロワニ)でした。ヤヒロワニは大きなワニという意味か、大きなサメという意味です。和爾がそのまま「ワニ」なのか、古代の言い方が「ワニ」なだけで、サメを指しているのか?は分かりません。で、このページでは「龍」に成っています。龍は皇帝を表すモチーフで、朝鮮では龍をモチーフにすることは許されませんでした。 ●龍をモチーフにするということは「皇帝」が存在することになり、同時に反逆を意味します。 ●朝鮮で許されたのは鳳凰まで。 ●1897年に皇帝の居ない李氏朝鮮が大韓帝国となり皇帝が出来ると最初にやったことは龍をモチーフにした絵やオブジェを作る事だった、とか。 日本では天皇が居るので龍をモチーフに出来ます。それは天皇が皇帝であり、日本が独立国家であることの証明でもあります。 ●龍を政治的に見ればそうなりますが、龍自体は珍しいモチーフではないです。 ●龍が現在のように長いものになったのは12世紀。ソレ以前は胴体の短い「ワニ」に似たものだった。 ●龍はヨウスコウワニ(体長4m)ではないか?という説は結構信憑性がある。 ●よって、古事記で和爾がここで龍になっているのは、あながち「書き換え」や「政治的意図」があってとは限らない。「龍」=「ワニ」ということも十分ある。 |
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■第十段 わたしは幸鉤が欲しいのだ
一書曰、兄火酢芹命能得海幸、弟彥火火出見尊能得山幸。時兄弟欲互易其幸、故兄持弟之幸弓、入山覓獸、終不見獸之乾迹。弟持兄之幸鉤、入海釣魚、殊無所獲、遂失其鉤。是時、兄還弟弓矢而責己鉤、弟患之、乃以所帶横刀作鉤、盛一箕與兄、兄不受曰「猶欲得吾之幸鉤。」於是、彥火火出見尊、不知所求、但有憂吟、乃行至海邊、彷徨嗟嘆。 |
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ある書によると…兄の火酢芹命(ホノスセリノミコト)は海の幸を上手に採る事が出来ました。弟の彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は山の幸を採る事が出来ました。
あるとき兄弟は、お互いの「幸」を交換しようと思いました。それで兄は弟の幸弓(サチユミ)を持って山に入って獣(シシ)を探しました。ところが、探しまわっても獣(シシ)が通った痕跡も見つけられませんでした。 弟は兄の幸鉤(サチチ=幸のある釣り針)を持って、海で魚を釣りました。何も釣れませんでして、その上、その幸鉤(サチチ)を失くしてしまいました。 その後、兄は弟に弓矢を返して、自分の釣り針を求めました。弟は困りました。そこで腰に差していた横刀で釣り針を作り、箕(=ミ=ザルのようなもの)に山盛りにして兄に渡しました。しかし兄は受け取らず言いました。 「わたしは幸鉤(サチチ)が欲しいのだ」 彦火火出見尊(ヒコホホデミ)はどこを探せばいいのかも分かりません。ただただ困り果てて歩き回り、ついには海辺にたどり着き、嘆いていました。 ●古事記の対応箇所 / ホデリ命とホオデリ命 / 海と山の道具交換 / 釣り針を無くす / 釣り針を無くした / 元の釣り針を返して欲しい |
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■火闌降命・火酢芹命
本文が火闌降命(ホノスソリ)で、ここでは火酢芹命(ホノスセリ)です。 ■幸の扱いの違い 本文では「自有海幸」とあります。読み下しにすると、「自ずと海の幸が有り」となります。現代語にすると、「海の幸を生まれながらに持っていた」という意味になります。 それがこの第十段では「能得海幸」です。読み下しにすると「海の幸を能く得る」で、現代語にすると「海の幸を得る事が出来る」となります。 つまり本文では「幸」とは神の性質です。しかし第十段では現代の私たちが言う所の「海の幸」と同じ意味になっています。 ■幸とは?? 海や山で採れるものは神の気まぐれによって質も量は変化します。客観的には違いますが、古代の人はそう考えていました。だから神に霊威を感じ、敬い崇めました。 また便利な道具(弓矢や釣り針など)にも霊威を感じていましたし、道具を扱うにも熟練が必要で、その熟練技術そのものにも霊威を感じていました。神の気まぐれも、道具も、その熟練も、「サチ」という言葉に集約する事が出来ます。そして、それらの霊威で得た獲物も「サチ」と呼んでいたのでしょう。 |
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■第十段 玄櫛が五百箇竹林に
時有一長老、忽然而至、自稱鹽土老翁、乃問之曰「君是誰者。何故患於此處乎。」彥火火出見尊、具言其事。老翁卽取嚢中玄櫛投地、則化成五百箇竹林。因取其竹、作大目麁籠、內火火出見尊於籠中、投之于海。一云、以無目堅間爲浮木、以細繩繋著火火出見尊、而沈之。所謂堅間、是今之竹籠也。 |
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そのとき、長老(オキナ)がいて、いつのまにか現れました。その長老は自分から鹽土老翁(シオツチノオジ)と名乗りました。それで彦火火出見尊(ヒコホホデミ)に尋ねました。「あなたは誰ですか??どうしてここで悲しんでいるのですか??」
彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)はこれまでの経緯を詳細に話しました。老翁(オジ=シオツチオジ)は袋の中の玄櫛(クロクシ)を取り出し、地面に投げました。すると五百箇竹林(イツホタカハラ=鬱蒼とした竹林)に成りました。それでのその竹を採り、大目麁籠(オオマアラコ=目の粗い竹籠)を作って、火火出見尊(ホホデミノミコト)をカゴの中に入れて海に投げ入れました。 別の伝によると…無目堅間(マナシカタマ)を造り、浮木(ウケキ=船)として、細縄(ホソナワ)で火火出見尊(ホホデミノミコト)を結びつけて、沈めました。堅間(カタマ)とは現在の竹籠のことです。 |
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■竹の籠
竹はアジアにしか無い、草でも木でもない「竹」という特殊な植物です。実は竹が草なのか木なのかは現在でも分かっていません。時期によっては一晩で2mも生育し、堅く、なおかつ、曲がり、加工も出来る。タケノコは食べられる。繁殖力旺盛。とにかく奇妙な植物です。 この竹の皮で様々なものを作る事が出来ました。しかし竹が少々頑丈とて、時間が経てば朽ちてしまいます。なので遺物としては残らないのです。だから、「竹の道具」は物語の中でしか語られません。それでも竹で作った道具は古代では非常に便利なものだったハズなのです。 鉄器と並んで竹細工は生活を良くする道具だったはずです。その最たるものが「籠」です。籠を編むと必然編み目は「亀の甲羅」の形になります。これが「浦島太郎」の「亀」に繋がると考えられています。 |
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■第十段 天垢と地垢
于時、海底自有可怜小汀、乃尋汀而進、忽到海神豐玉彥之宮。其宮也城闕崇華、樓臺壯麗。門外有井、井傍有杜樹、乃就樹下立之。良久有一美人、容貌絶世、侍者群從、自內而出。將以玉壼汲玉水、仰見火火出見尊、便以驚還而白其父神曰「門前井邊樹下、有一貴客、骨法非常。若從天降者當有天垢、從地來者當有地垢、實是妙美之、虛空彥者歟。」 一云、豐玉姬之侍者、以玉瓶汲水、終不能滿、俯視井中、則倒映人咲之顏。因以仰觀、有一麗神、倚於杜樹、故還入白其王。 |
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海の底を進むと、いつのまにか可怜小汀(ウマシオハマ)に出ました。
浜辺に沿って進んで行くと、たちまち海神豊玉彦(ワダツミトヨタマヒコ)の宮殿に到着しました。その宮殿は周囲の垣(城壁)は高く華やかに飾ってあり、高楼は壮大ですばらしいものでした。その門の外に泉がありました。その泉のそばに杜樹(カツラノキ)がありました。火火出見尊(ホホデミノミコト)はその樹の下に立っていました。そしてしばらくして一人の少女がやってきました。少女はこの世の者とは思えないほどに美しかった。その後に御付きの者が付き従って、宮殿内から出て来ました。少女は玉壷(タマノツボ)で水を汲みました。それで顔を起こして火火出見尊(ホホデミノミコト)を見つけました。少女は驚いて宮殿内に帰り、父の神に言いました。 「門の前の泉のそばの樹の下に一人の、高貴なお客様がいらっしゃいます。普段、見かけるような御方ではありません。もしも天から降臨したのであれば、天垢(アマノカワ=天界の匂い)があるでしょう。地から来られたならば地垢(チノカワ=地の匂い)があるでしょう。とてもすてきな方です。虛空彥(ソラツヒコ)という神でしょう」 別の伝によると…豊玉姫(トヨタマヒメ)の侍者は玉瓶(タマノツルベ)で水を汲みました。なぜか、この器を一杯にすることは出来ませんでした。泉を覗いて見ると、逆さまに人が笑う顔が映っていました。それで見上げてみると、一柱の美しい神がいました。杜樹(カツラノキ)に寄りかかって立っていました。それで帰って王に報告したといいます。 |
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■海神の宮殿は海の底か、海の向こうか
竹で編んだ籠に押し込まれたヒコホホデミは沈んだあと、海の底を進んで、浜辺にたどり着きます。そこには大きな海神の宮殿があったのです。 それで海神の宮殿は海の中か?それとも海の向こうの浜か??って、どう考えても「海の向こうの浜」ですよね。泉があるくらだから、海の底ってことは無いでしょう。まぁ、神話ですから、多少の矛盾は問題にしないという考えもありますが、いや、さすがに古代の人でも、海の底に「井(=泉)」があるという設定はしないでしょう。 海神とは海に関わる神ではあるが、あくまで地上に住んでいる「海人」の人種です。そう考える方が自然です。 |
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■第十段 貧窮の本、飢饉の始め、困苦の根
於是、豐玉彥遣人問曰「客是誰者、何以至此。」火火出見尊對曰「吾是天神之孫也。」乃遂言來意、時海神迎拜延入、慇懃奉慰、因以女豐玉姬妻之。故留住海宮、已經三載。是後火火出見尊、數有歎息、豐玉姬問曰「天孫、豈欲還故ク歟。」對曰「然。」豐玉姬卽白父神曰「在此貴客、意望欲還上國。」海神、於是、總集海魚、覓問其鉤、有一魚、對曰「赤女久有口疾。或云、赤鯛。疑是之呑乎。」故卽召赤女、見其口者、鉤猶在口。便得之、乃以授彥火火出見尊。因教之曰「以鉤與汝兄時、則可詛言『貧窮之本、飢饉之始、困苦之根。』而後與之。又汝兄渉海時、吾必起迅風洪濤、令其沒溺辛苦矣。」於是、乘火火出見尊於大鰐、以送致本ク。 |
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豐玉彥(トヨタマヒコ=海神)は人を遣わせて尋ねさせました。「客人。あなたは誰ですが?どうしてここにいるのですか??」
火火出見尊(ホホデミノミコト)は答えました。「わたしは天神(アマツカミ)の子孫です」火火出見尊(ホホデミノミコト)はここに来た経緯を説明しました。海神(ワダツミ)は迎え出て、拝礼して宮殿に招き、丁寧にもてなしました。娘の豊玉姫を妻に召し上げました。それから海宮(ワダツミノミヤ)に住み、三年が経ちました。 火火出見尊(ホホデミノミコト)はしばしば溜め息を漏らす事がありました。豊玉姫(トヨタマヒメ)が尋ねました。「天孫(アメミマ)はもしかして故郷(モトノクニ)に帰りたいと思っているのですか??」火火出見尊(ホホデミノミコト)は答えました。「そうです」豊玉姫(トヨタマヒメ)はすぐに父の神に報告しました。「ここに居る高貴な客人は上國(ウハツクニ=地上の国)に帰りたいと思っています」海神は海の魚の全てを集めて、火火出見尊(ホホデミノミコト)が失くしたという釣り針を探しました。すると一つの魚が居ました。その魚が答えました。「赤女(アカメ)は長い事、口の病に罹っています。もしかすると赤女(アカメ)が飲んだのかもしれません」 別伝によると赤鯛 すぐに赤女(アカメ)を呼び寄せて口の中を見ると、釣り針はまだ口の中にありました。これを取り出しました。火火出見尊(ホホデミノミコト)に渡し、教えました。 「釣り針を兄に返すときは、呪いを掛けなさい。『貧窮之本、飢饉之始、困苦之根。』貧窮(マジ)の本(モト)、飢饉(ウエ)の始め、困苦(クルシミ)の根(モト)と言ってから、兄に返しなさい。また兄が海を渡るときにあなたは迅風(ハヤチ)洪濤(オオナミ)を起こして、溺れ苦しませなさい」 それで火火出見尊(ヒコホホデミ)を大きな鰐(ワニ)に似せて、本郷(モトツクニ)に帰しました。 |
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■玉は無い
第十段貧鉤と呼んでからに登場する潮滿瓊(シオミツタマ・シオミツニ)と潮涸瓊(シオヒノタマ・シオヒルニ)や塩満珠と塩乾珠に出て来る塩満珠(シオミツダマ)と塩乾珠(シオヒダマ)といった、マジックアイテムは無く、ただ「兄が海を行くときは波風を起こして苦しめなさい」と助言します。これはヒコホホデミは海神のサポートを得た、という意味です。ヒコホホデミには海の神の威光が備わったことで、天津神(天神)と国津神(地祇)に海神の血統が交わった事になり、皇統はこの世界の支配者として相応しいものになります。 |
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■第十段 櫛に火をつけて出産の様子を
先是且別時、豐玉姬從容語曰「妾已有身矣。當以風濤壯日、出到海邊。請爲我造産屋以待之。」是後、豐玉姬果如其言來至、謂火火出見尊曰「妾、今夜當産。請勿臨之。」火火出見尊不聽、猶以櫛燃火視之、時豐玉姬、化爲八尋大熊鰐、匍匐逶虵。遂以見辱爲恨、則俓歸海ク、留其女弟玉依姬、持養兒焉。所以兒名稱彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊者、以彼海濱産屋、全用鸕鷀羽爲草葺之而甍未合時、兒卽生焉、故因以名焉。上國、此云羽播豆矩儞。 |
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(彦火火出見尊が本国に帰る前の事)別れるときに豊玉姫(トヨタマヒメ)はおもむろに語りました。「わたしはすでに妊娠しています。風と波が早い日にこの海の国から出て浜辺に伺います。お願いです。私の為に産屋(出産の為の小屋)を作って待っていてください」その後、豊玉姫(トヨタマヒメ)が言った通りに(浜辺に)来ました。火火出見尊(ホホデミノミコト)に言いました。「わたしは今夜出産します。お願いですから、見ないでください」ところが火火出見尊(ホホデミノミコト)は願いを聞かず、櫛に火をつけて(出産の様子)を見てしまいました。
豊玉姫(トヨタマヒメ)は八尋(ヤヒロ)の大きな熊鰐(ワニ)となって、腹這いになってのたうち回っていました。豊玉姫(トヨタマヒメ)はその様子を見られて恥をかかされたと恨んで、海郷(ワダツミノクニ)へと帰りました。 豊玉姫(トヨタマヒメ)はその妹の玉依姫(タマヨリヒメ)を残してその赤ん坊を育てさせました。その子の名前は彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)といいます。名前の由来は、この海辺の産屋の屋根の全てを鸕鷀(ウ)の羽で葺いたのですが、甍(イラカ=屋根の一番てっぺんの部分)を作り終えないうちに生んでからです。 ●上國は羽播豆矩儞(ウワツクニ)と読みます。 ●古事記の対応箇所 / 天津神の皇子は海で産むべきではありません / 鵜萱の産屋を建てていると陣痛が / 本来の姿で出産する / 奥さまはワニ! / 逃げる夫と子供を置き去りにする妻 / 天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命 / 妹を養育係に送る |
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■第十段 天皇は口女(=ボラ)を召し上がらない
一書曰、門前有一好井、井上有百枝杜樹、故彥火火出見尊、跳昇其樹而立之。于時、海神之女豐玉姬、手持玉鋺、來將汲水、正見人影在於井中、乃仰視之、驚而墜鋺、鋺既破碎、不顧而還入、謂父母曰「妾見一人於井邊樹上、顏色甚美、容貌且閑。殆非常之人者也。」時父神聞而奇之、乃設八重席迎入、坐定、因問來意。對以情之委曲、時海神便起憐心、盡召鰭廣鰭狹而問之、皆曰「不知。但赤女有口疾不來。亦云、口女有口疾。」卽急召至、探其口者、所失之針鉤立得。於是、海神制曰「儞口女、從今以往、不得呑餌。又不得預天孫之饌。」卽以口女魚所以不進御者、此其緣也。 |
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ある書によると……門の前に良い泉(井)がありました。その泉のそばに沢山の枝の桂の木がありました。彥火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)はその木に飛んで昇って、立っていました。そこに海神(ワダツミ)の娘の豊玉姫(トヨタマヒメ)が手に玉鋺(タマノマリ=宝石で出来た椀)を持って、これに水を汲もうとしました。すると泉に人の影が映っているのが見えたので、見上げると驚いて、鋺(マリ=椀)を落としてしまいました。鋺(マリ)が砕けてしまいましたが、それに気を止める事も無く宮殿に帰り、両親に言いました。
「わたしは一人の人間が、泉のそばの木の上に居るのを見ました。顔がとても美しい人です。姿は高貴でした。全く普通の人ではありませんでした」 父の神がその話を聞いて興味を持ち、すぐに敷物を沢山敷いて、迎え入れました。座ると、父の神は来た理由を彥火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)に尋ねました。彥火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は事情を説明しました。海神(ワダツミ)は可哀相に思い、鰭廣(ハタノヒロモノ=ヒレの大きな魚)鰭狹(ハタノサモノ=ヒレの小さな魚)を集めて尋ねました。魚たちは皆、「知らない」と答えました。ただ、赤女(アカメ)だけが口の病気があって来ていませんでした。 別伝では口女(クチメ=ボラ)は口の病気があったと…すぐに口女(クチメ)を呼び寄せて、その口を探すと失くした釣り針がありました。海神は言いました。「口女(クチメ)はこれよりずっと、餌を飲んではならない。また天孫(アメミマ)の食事にはしない」口女(クチメ)が天皇の食事に上がらないのはこのためです。 |
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■赤女(アカメ)は鯛・口女(クチメ)はボラ
天皇はボラを食べないようです。鯛は食べてますもんね。どちらも「女」なんですね。魚=女という感覚があったのでしょうか。 ■口女が食卓に出ないということは ボラが天皇に食べられない、という文章があるということは「天皇に食べられることは幸福」という感覚があったということのようです。これは母親が子供によく言う「おいしく全部食べると、食べ物が喜ぶ」という理屈と一緒です。 |
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■第十段 貧鉤・滅鉤・落薄鉤
及至彥火火出見尊、將歸之時、海神白言「今者、天神之孫、辱臨吾處。中心欣慶、何日忘之。」乃以思則潮溢之瓊・思則潮涸之瓊、副其鉤而奉進之曰「皇孫、雖隔八重之隈、冀時復相憶而勿棄置也。」因教之曰「以此鉤與汝兄時則稱『貧鉤、滅鉤、落薄鉤。』言訖、以後手投棄與之、勿以向授。若兄起忿怒、有賊害之心者、則出潮溢瓊以漂溺之。若已至危苦求愍者、則出潮涸瓊以救之。如此逼惱、自當臣伏。」 |
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彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)が帰ろうとするときになって、海神(ワダツミ)は言いました。「今、天神(アマツカミ)の孫が、このわたしの宮殿に訪れた事は、心からの喜びです。いつまでも忘れないでしょう」そして、思則潮溢之瓊(オモエバシオミチノタマ)・思則潮涸之瓊(オモエバシオヒノタマ)をその釣り針に添えて渡し、言いました。「皇孫(スメミマ)は何重もの隈(クマ)が間にあっても(遠くはなれても、という意味)、どうか時には思い出して、忘れないで欲しい」そして教えました。「この釣り針をあなたの兄に渡すときに、『貧鉤(マヂチ)・滅鉤(ホロビノチ)・落薄鉤(オトロエノチ)』と唱えて、言い終わえたら後ろ手に投げ捨てて渡してください。面と向かって渡してはいけません。
それで、もし兄の怒りを買ってしまって、危害を加えようとするなら、潮溢瓊(シオミチノタマ)を出して、溺れさせ、もし困って許しを乞うならば、潮涸之瓊(シオヒノタマ)を出して救いなさい。そうやって攻め悩ませれば、自らあなたに従うでしょう」 |
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■八重の隈
クマってなんだと。隈は熊でもあり「神」の語源でもあります。見えないとか隠れるという意味です。では「八重もの隈」とは何か??「谷」じゃないかと思うのです。 ■後ろ手に投げ捨てて渡す 面と向かわずに、後ろに投げるわけですから、そりゃ兄は怒りますよね。当然ですよ。想像するに、日本人は道具を「霊威のあるもの」と考えていました。道具が便利なのは霊威があるからです。面と向かわずに道具を渡すということが「霊威を渡さない」ことになるのではないか?と思います。 |
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■第十段 子孫八十連屬まで俳人(狗人)に
時彥火火出見尊、受彼瓊鉤、歸來本宮。一依海神之教、先以其鉤與兄、兄怒不受。故弟出潮溢瓊、則潮大溢、而兄自沒溺。因請之曰「吾當事汝爲奴僕。願垂救活。」弟出潮涸瓊、則潮自涸而兄還平復。已而兄改前言曰「吾是汝兄。如何爲人兄而事弟耶。」弟時出潮溢瓊、兄見之走登高山、則潮亦沒山。兄緣高樹、則潮亦沒樹。兄既窮途、無所逃去、乃伏罪曰「吾已過矣。從今以往、吾子孫八十連屬、恆當爲汝俳人。一云、狗人。請哀之。」弟還出涸瓊、則潮自息。於是、兄知弟有神コ、遂以伏事其弟。是以、火酢芹命苗裔、諸隼人等、至今不離天皇宮墻之傍、代吠狗而奉事者矣。世人不債失針、此其緣也。 |
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彥火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)はこの瓊(タマ=玉)と鉤(チ=釣り針)を持って、本宮(モトツミヤ=自分の宮殿)に帰って来ました。そしてまず、海神(ワダツミ)に教えられた通りに、その釣り針を兄に渡そうとしました。兄は怒って受け取りませんでした。そこで弟は潮溢瓊(シオミチノタマ)を出すと、潮が溢れて、兄は溺れました。兄は救いを求めて言いました。「わたしはあなたに仕えて奴僕(ヤッコ)となります。お願いだから助けてください」弟が潮涸瓊(シオヒノタマ)を出すと、潮は自然と引いて兄は助かりました。
しかし兄はさっきの言葉を撤回して言いました。「わたしはお前の兄だ。どうして兄が弟に仕えるのか??」弟はまた潮溢瓊(シオミチノタマ)を出しました。兄はそれを見て、高い山に走って逃げました。潮が山を沈めてしまいました。兄は高い木に昇りました。潮は木を沈めてしまいました。兄は逃げ道を失い、逃げるところが無くなりました。兄は罪を認めて言いました。「わたしが間違っていました。これからずっと、わたしの子孫八十連屬(ウミノコノヤソツヅキ=子々孫々)まで、常にあなたの俳人(ワザヒト)となります。ある書によると『狗人(イヌヒト)』です。どうか哀れんでください」弟は潮涸瓊(シオヒノタマ)を出しました。すると潮は自然と引きました。 これで兄は弟に神の加護があると知り、ついにはその弟に従って仕えることになりました。これ以降、火酢芹命(ホノスセリノミコト)の末裔である隼人などは、現在に至るまで天皇(スメラミコト)の宮墻(ミヤカキ)のそばから離れず、代々、吠える犬のように仕えています。世の中の人が針を失っても責めないのはこの話が所以です。 |
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■兄と弟
日本の古来では家督を継ぐのは「末子」と言われています。細かいことを言うと、末子相続は説であって、まだハッキリとはしていないのですが、確実なのは現在のように「長子相続」が決まっていないということです。 これは冷静に考えるとおかしなことです。現在のように兄弟の年齢が数歳程度で収まるなら良いのですが、古代では兄弟間で親子ほど年齢が違っていることだって、ままあるのです。ましてや権力者の子息だとその傾向は強い。それでも「末子相続かもしれない」と思わせる記述があるだけでも「変」な訳です。まぁ、ともかく日本の古代は末子相続の傾向があるよ、ってことがまず一つ。 その末子相続が発生しやすいのが「海洋民族(=海人族)」です。海洋民族は年齢が一定に達すると、海へと飛び出して行きますから、長子は一番最初に家から出て行き、最後に家を継ぐのが結果的に末子になるからです。これは実際、現在の日本でも漁業が生計になっている地域では慣習として残っています。 ■この神話 あと、この「海幸山幸」の神話は明らかに東南アジアに残る神話とほぼ同じ内容です。つまり、東南アジアと九州南部は文化的につながりがあった。台湾・沖縄と、それより西のインド、中東までを結ぶ海運航路あったのではないか?と思われます。 |
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■第十段 天候が悪いと幸を得られないから
一書曰、兄火酢芹命、能得海幸、故號海幸彥。弟彥火火出見尊、能得山幸、故號山幸彥。兄則毎有風雨、輙失其利。弟則雖逢風雨、其幸不忒。時兄謂弟曰「吾試欲與汝換幸。」弟許諾因易之。時兄取弟弓失、入山獵獸。弟取兄釣鉤、入海釣魚。倶不得利、空手來歸。兄卽還弟弓矢而責己釣鉤、時弟已失鉤於海中、無因訪獲、故別作新鉤數千與之。兄怒不受。急責故鉤、云々。 |
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ある書によると……兄の火酢芹命(ホノスセリノミコト)は巧く海の幸を得る事が出来ました。よって海幸彦といいました。弟の彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は巧く山の幸を得る事が出来ました。よって山幸彦といいました。兄は、海に風が吹いたり雨が降ったりして天候が悪くなると海の幸を得られなくなります。弟は風が吹こうが雨が降ろうが山の幸を得るのに問題がありません。そこで兄は弟に言いました。「私は試しに、お前と幸を交換したいと思う」
弟はこれを承諾し、交換しました。 兄は弟の弓矢を持って、山に入って獣(シシ)を狩りました。弟は釣鉤(チ=釣り針)を持って、海に入って魚を釣りました。どちらも、獲物を得ることができず、空手(ムナデ=何も持たずに)帰りました。兄は弟に弓矢を還して、「釣鉤(チ=釣り針)を還せ」と求めました。弟は鉤(チ=釣り針)を海中(ウミナカ)に失くしてしまい、探す事も出来ないでいました。そこで新しい鉤(チ=釣り針)を沢山作って兄に渡しました。ところが兄は怒ってこれを受け取らず、元の鉤(チ=釣り針)を還せと責めました。云々 |
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■古事記では弟が提案
古事記では弟ホオリが兄ホデリに「道具を交換してみませんか?」と提案し、弟が針を失くして兄はキレるという物語になっています。日本書紀の第十段海の幸と山の幸と第十段わたしは幸鉤が欲しいのだでは「お互いに交換しよう」となっています。そしてこの第十段では兄が提案しています。 ■幸とチ 「サチ」とは「海山から得られる食べ物」なのか、「道具」のことなのか?はたまた「海山から食べ物を得る事の出来る霊威(もしくは能力)」なのか??第十段わたしは幸鉤が欲しいのだに「幸鉤(サチチ)」という言葉があります。「サチ」と道具の表す「チ」ですから、「サチ」は道具ではないという見方も出来ます。 |
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■第十段 罠に掛かっていた川雁を助ける
是時、弟往海濱、低徊愁吟。時有川鴈、嬰羂困厄。卽起憐心、解而放去。須臾有鹽土老翁來、乃作無目堅間小船、載火火出見尊、推放於海中。則自然沈去、忽有可怜御路、故尋路而往、自至海神之宮。是時、海神自迎延入、乃鋪設海驢皮八重、使坐其上、兼設饌百机、以盡主人之禮、因從容問曰「天神之孫、何以辱臨乎。」一云「頃吾兒來語曰『天孫憂居海濱、未審虛實。』蓋有之乎。」彥火火出見尊、具申事之本末、因留息焉。海神則以其子豐玉姬妻之。遂纒綿篤愛、已經三年。 |
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弟は海辺に行ってうな垂れ、あちこち歩いて、鬱々と彷徨っていました。そのとき、川雁(カワカリ=鳥の名前)が居て、罠に掛かって困っていました。弟は可哀相に思って、それを解放してから去りました。
しばらくして鹽土老翁(シオツチオジ)が来て、無目堅間(マナシカタマ=竹で編んだ目のキツイもの)で船を造り、火火出見尊(ホホデミノミコト)を乗せて、海の中に押し放ちました。船は自然と沈んでいきました。 たちまち可怜御路(ウマシミチ=良い道)がありました。そこでこの道の行くままに進んで行きました。すると海神(ワダツミ)の宮殿に到着しました。このときに海神(ワダツミ)自身が迎え、招き入れ、海驢(ミチ=アシカ)の皮をたくさん敷いてその上に座りました。また御馳走をたくさんの机に乗せて、主人(=海神)は禮(イヤ=礼)を尽くしました。そしておもむろに尋ねました。 「天神(アマツカミ)の孫(ミマ)はどうして、こちらにおいでになったのですか??」 ある伝によると、「最近、わたしの娘から聞いたのです。『天孫(アメミマ)が海辺で憂えんでいる』…と。本当ですか?」と尋ねた。 彥火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は詳細に事情を説明しました。それでこの海神の宮殿に留まって住む事になりました。彥火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は海神の子供の豊玉姫(トヨタマヒメ)を妻にしました。二人は仲睦まじく愛し合い、三年が過ぎました。 |
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■ウマシミチとウマシオハマ
このページでは竹で編んだ小舟に入れられたヒコホホデミがたどり着く場所が「ウマシミチ」で、ウマシミチを通っていると「海神の宮殿」にたどり着きます。 ウマシオハマと書かれているのは第十段本文−1海の幸と山の幸と第十段一書(一)−3天垢と地垢です。これらのページでもやはり、「ウマシオハマ」を通り、宮殿へとついています。「ウマシ」は異界のもののよう。美味しいじゃないみたいです。ただし訳本には大抵「良い道」「良い浜」と書いてあります。まぁ、「良い」=「異界」という感覚もあったのではないかとも思います。 ■雁を助ける意味 雁はこの後、なんの関係もありません。なぜ「雁を助ける」くだりが出て来たのか?「浦島伝説」を連想させます。助けた亀に連れられて、竜宮城に…… |
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■第十段 大鉤、踉䠙鉤、貧鉤、癡騃鉤
及至將歸、海神乃召鯛女、探其口者、卽得鉤焉。於是、進此鉤于彥火火出見尊、因奉教之曰「以此與汝兄時、乃可稱曰『大鉤、踉䠙鉤、貧鉤、癡騃鉤。』言訖、則可以後手投賜。」已而召集鰐魚問之曰「天神之孫、今當還去。儞等幾日之內、將作以奉致。」時諸鰐魚、各隨其長短、定其日數、中有一尋鰐、自言「一日之內、則當致焉。」故卽遣一尋鰐魚、以奉送焉。復進潮滿瓊・潮涸瓊二種寶物、仍教用瓊之法、又教曰「兄作高田者、汝可作洿田。兄作洿田者、汝可作高田。」海神盡誠奉助、如此矣。時彥火火出見尊、已歸來、一遵神教依而行之、其後火酢芹命、日以襤褸而憂之曰「吾已貧矣。」乃歸伏於弟。弟時出潮滿瓊、卽兄舉手溺困。還出潮涸瓊、則休而平復。 |
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(ホホデミが)本国に帰ろうというときになって、海神(ワダツミ)は鯛女(タイ)を呼び寄せて、口を探すと、釣り針がありました。それでこの釣り針を彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコオト)に献上しました。そして海神は(ホホデミに)教えました。
「この釣り針をあなたの兄に渡すときに『大鉤(オオチ)、踉䠙鉤(ススノミヂ)、貧鉤(マヂチ)、癡騃鉤(ウルケヂ)』と言いなさい。言い終わって、手を嘘路にして投げてください」 (海神は)鰐魚(ワニ)を呼び寄せて、問いました。「天神(アマツカミ)の孫(ミマ)が今から本国に帰る。お前たちは何日で送る事が出来るか?」 もろもろの鰐魚(ワニ)はそれぞれの長短に合わせて日数を申告しました。その中に一尋鰐(ヒトヒロワニ…一尋は長さの単位で1.8m)がいて、自ら言うには「一日のうちに、到着します」それですぐに一尋鰐魚(ヒトヒロワニ)を派遣して、(ホホデミを)送りました。 また、潮滿瓊(シオミチノタマ)・潮涸瓊(シオヒノタマ)の二種の宝物を(ホホデミに)渡し、玉の使い方を教えました。また、こうも教えました。「兄が高いところに田を作ったら、あなたは低い土地に田を作りなさい。兄が低い土地に田を作ったら、あなたは高い土地に田を作りなさい」海神(ワダツミ)は誠意を尽くして(ホホデミを)助けることを約束しました。 それで彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は本国に帰り、海神の言うように一から従って行動しました。すると兄の火酢芹命(ホノスセリノミコト)は日に日にやつれて悩み苦しむようになり、言いました。「わたしは貧しくなってしまった」それで弟の彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)に従いました。 弟が潮滿瓊(シオミチノタマ)を出すと、兄は手を挙げて溺れ苦しみました。潮涸瓊(シオヒノタマ)を出せば、すぐに水は引いて元通りになりました。 |
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冷静に考えたら、海神がヒコホホデミを援助する理由は、婿ってことだけだよね、婿って偉いのだろうか。 | |
■第十段 八尋のおおきな鰐
先是、豐玉姬謂天孫曰「妾已有娠也。天孫之胤豈可産於海中乎、故當産時必就君處。如爲我造屋於海邊以相待者、是所望也。」故彥火火出見尊、已還ク、卽以鸕鷀之羽、葺爲産屋。屋蓋未及合、豐玉姬自馭大龜、將女弟玉依姬、光海來到。時孕月已滿、産期方急、由此、不待葺合、俓入居焉、已而從容謂天孫曰「妾方産、請勿臨之。」天孫心怪其言竊覘之、則化爲八尋大鰐。而知天孫視其私屏、深懷慙恨。既兒生之後、天孫就而問曰「兒名何稱者當可乎。」對曰「宜號彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊。」言訖乃渉海俓去。 |
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これ(弟が兄を従えた件)より先のことです。豊玉姫(トヨタマヒメ)は天孫(アメミマ)に言いました。「わたしはすでに妊娠しています。天孫(アメミマ)の子をどうして海中(ウミナカ)で産めますでしょうか???だから産む時は、必ずあなたの所へと行きます。もしも私のために海辺に小屋を作って待ってくれるなら、望ましい事です」
そこで彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は故郷に帰って、すぐに鸕鷀(ウ)の羽で屋根を葺(フ)いた産屋を立てました。その蓋(イラカ=甍=屋根の天辺部分)が出来上がる前に、豊玉姫は大きな亀に乗って、妹の玉依姫(タマヨリヒメ)を連れ、海を照らして来ました。 臨月は既に過ぎ、産まれるときが迫って来た。そこで屋根を葺き終えるのを待たずに、産屋に入りました。そしておもむろに天孫(アメミマ)に言いました。「お産のときに、お願いですから見ないでください」天孫(アメミマ)は内心、その言葉を怪しんでこっそり、お産の様子を覗いてしまいました。すると豊玉姫は八尋(ヤヒロ=18m)の大きな鰐(ワニ)に化けていました。しかも天孫(アメミマ)が覗いているのを知って、とても恥ずかしく思い、恨みを抱きました。 すでに子は産まれた後に、天孫(テンソン)は問いました。「子の名前は何にするとよいか?」豊玉姫は答えました。「彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)と名付けるべきです」豊玉姫はいい終えると海を渡り、去って行きました。 |
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■親子二代の嫁との確執
父親のニニギは妻のコノハナサクヤヒメが妊娠した際に「え?一回しかシテないじゃん!絶対、俺の子じゃないよね??どこかの国津神の子だよね!!!」と発言し、サクヤヒメにブチ切れられ、「産屋に火をつけて出産の誓約」という現代人にはよく分からない荒行を見せられます。その後は、ほとんど口も聞いてくれなくなり、悲しいを歌を残しています。 そしてニニギの子のヒコホホデミは嫁の「見るなよ、見るなよ」を見てしまい、愛想を尽かされます。まぁ、こっちの方はダチョウ倶楽部的な「見ろ」の逆説なのかもしれないし、「見るなよ」と言われると見ちゃう気持ちは分かるので、可哀相な気も。嫁が鰐になってたらびっくりするだろうし。 この「見るなよ」→「見る」というパターンはツルの恩返しでも見られますし、イザナミの死後にイザナギが黄泉の国へ行ったときにも同様のことが起きていますので、「神話の決まり事」ではあります。 ■竜と鰐 (第十段海と陸との間を永遠に行き来出来る道)では豊玉姫は龍になっていました。ここでは鰐です。この竜と鰐に関しては、「同一のもの」を指している可能性はあります。中国南部に生息していた「鰐」が「竜」のモチーフになったという説はありますし、かなり有力です。 日本神話にこの「竜と鰐」の神話が異伝として残っていることは、史料として貴重なのではないかと思います。 ちなみに第十段櫛に火をつけて出産の様子をでは「熊鰐」と書かれています。 |
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■第十段 沖つ鳥鴨着く島に我が率寝し妹は忘らじ世のことごとも
于時、彥火火出見尊、乃歌之曰、 飫企都ケ利軻茂豆勾志磨爾和我謂禰志伊茂播和素邏珥譽能據ケ馭㔁母 亦云、彥火火出見尊、取婦人爲乳母・湯母・及飯嚼・湯坐、凡諸部備行、以奉養焉。于時、權用他婦、以乳養皇子焉。此世取乳母、養兒之緣也。是後、豐玉姬、聞其兒端正、心甚憐重、欲復歸養。於義不可、故遣女弟玉依姬、以來養者也。于時、豐玉姬命、寄玉依姬而奉報歌曰、 阿軻娜磨廼比訶利播阿利登比ケ播伊珮耐企弭我譽贈比志多輔妬勾阿利計利 凡此贈答二首、號曰舉歌。海驢、此云美知。踉䠙鉤、此云須須能美膩。癡騃鉤、此云于樓該膩。 |
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その時(豊玉姫が海へと去って行って)、彥火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は歌いました。
沖つ鳥(オキツシマ) 鴨着く島に(カモツクシマニ) 我が率寝し(ワガイネシ) 妹は忘らじ(イモハワスラジ) 世のことごとも(ヨノコトゴトモ) 訳 / 沖の島の鴨が着く島で、私が添い寝した少女のことが忘れられない。わたしが生きている限り。 別伝によると……彥火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は赤ん坊に乳をあげる乳母、湯を飲ます湯母、ご飯を噛んで柔らかくする飯嚼(イイガミ)、湯で体を洗う湯坐(ユエビト)を女性から選びました。すべての役目を万事整えて、養育しました。 このように他家の女性を雇って、乳をやるなどして皇子を養育しました。これが世の人が乳母に頼んで子を育てるようになった所以です。 この後のことです。豊玉姫(トヨタマヒメ)は自分の子がかわいらしいと聞いて、恋しいと思う気持ちが強くなり、子の元へと行って育てたいと思うようになりました。しかし、義理からそれは出来ません。そこで妹の玉依姫(タマヨリヒメ)を送り、養育させました。その時に豊玉姫(トヨタマヒメ)は玉依姫(タマヨリヒメ)に返し歌を言付けました。 赤玉の 光はありと 人は言えど 君が装いし 貴くありけり 訳 / あなたには赤い玉のような光があると、人は言います。あなたのお姿はとても高貴で、今でも忘れられません。 以上のこの贈り・答えた二首(フタウタ)を挙歌(アゲウタ)といいます。 ●海驢を美知(ミチ)といいます。踉䠙鉤を須須能美膩(ススノミヂ)といいます。癡騃鉤を于樓該膩(ウルケヂ)といいます。 |
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■海神の宮殿は島にある!
「沖の島の鴨が着く島で、添い寝した少女」と歌うのであれば、海神があったのは海中ではなく、「島」ということになります。ただこれらの「歌」は物語とは無関係に氏族に伝わった物が採用されていることが多く、案外関係していないということも。それでも、海神の宮殿が海の中にあるとしたら、この歌は採用されないだろうと。 |
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■第十段 八尋鰐は鰭背を立てて橘之小戸に
一書曰、兄火酢芹命、得山幸利。弟火折尊、得海幸利、云々。弟愁吟在海濱、時遇鹽筒老翁、老翁問曰「何故愁若此乎。」火折尊對曰、云々。老翁曰「勿復憂、吾將計之。」計曰「海神所乘駿馬者、八尋鰐也。是竪其鰭背而在橘之小戸、吾當與彼者共策。」乃將火折尊、共往而見之。 |
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ある書によると……兄の火酢芹命(ホノスセリノミコト)は山の幸利(サチ)を得ました。弟の火折尊(ホオリノミコト)は海の幸利(サチ)を得ました。云々。
弟は悩み彷徨って、海辺に居ました。そのときに鹽筒老翁(シオツツノオジ)に会いました。老翁(オジ)が尋ねました。「どうして、あなたはこれほどに困っているのですか?」火折尊(ホオリノミコト)は答えました。云々。 老翁(オジ)は言いました。「もう心配することはありません。わたしがどうにかしましょう」そして言いました。「海神(ワダツミ)が乗る駿馬(=優れた馬)は、八尋鰐(ワヒロワニ=大きな鰐)です。八尋鰐は鰭背(ハタ=背びれ)を立てて橘之小戸(タチバナノオド)にいます。その鰐に相談してみましょう」火折尊を連れて、鰐に会いに行きました。 |
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■古事記と同じホオリに
この第十段一書(四)ではヒコホホデミのポジションが古事記と同じホオリになりました。兄はホノスセリです。古事記の兄はホデリ(ホオデリ)でした。 ■鰐に背びれが 実際の「は虫類の鰐」には背びれは無いので、ここで言っている鰐は「サメ」をイメージしていると考えた方がいいでしょう。 ■橘之小戸 小戸橘(オドタチバナ)という記述でこれ以前にも登場。「橘の小戸」は「地名」ではなく「地形」と考えた方が適切かもしれない。 |
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■第十段 湯津杜樹に昇って居てください
是時、鰐魚策之曰「吾者八日以後、方致天孫於海宮。唯我王駿馬、一尋鰐魚、是當一日之內、必奉致焉。故今我歸而使彼出來、宜乘彼入海。入海之時、海中自有可怜小汀、隨其汀而進者、必至我王之宮。宮門井上、當有湯津杜樹。宜就其樹上而居之。」言訖卽入海去矣。故、天孫隨鰐所言留居、相待已八日矣、久之方有一尋鰐來、因乘而入海、毎遵前鰐之教。 |
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鰐魚(ワニ)は考えてから言いました。
「わたしは八日で天孫(アメミマ)を海宮(ワダツミノミヤ)に送り届けることができます。ただ私の王の駿馬は一尋鰐魚(ヒトヒロワニ)です。これならば一日で必ず送り届けられます。なので、私が帰って彼(=ヒトヒロワニ)を寄越します。それで彼に乗って海に入ると良いでしょう。海に入るときに、海の中には可怜小汀(ウマシオハマ)があります。その浜に沿って進むと必ず我が王の宮に到着します。宮殿の門の井(=泉)のほとりに湯津杜樹(ユツカツラノキ)があります。その木の上に昇って居てください」 言い終わると(八尋鰐は)海に入って去っていきました。 天孫(アメミマ)は鰐の言葉のとおりにその場に留まり、待つ事、八日。一尋鰐魚(ヒトヒロワニ)がやって来ました。それに乗って海に入りました。その後も八尋鰐の言う通りにしました。 |
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■八尋鰐より一尋鰐
8倍大きいはずの八尋鰐よりも、小さな一尋鰐の方が、早い。その八尋鰐の謙虚な姿勢を讃えるべきなのかもしれない。 ■天孫が木に昇る動機付けをした八尋鰐 記紀ではヒコホホデミ(ホオデリ)が海神の宮殿の前の泉のそばのカツラの木に昇って居ました。なんだか突拍子もないのですが、これは八尋鰐の入れ知恵と判明。 |
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■第十段 三床を設けて
時、有豐玉姬侍者、持玉鋺當汲井水、見人影在水底、酌取之不得、因以仰見天孫、卽入告其王曰「吾謂我王獨能絶麗、今有一客、彌復遠勝。」海神聞之曰「試以察之。」乃設三床請入。於是、天孫於邊床則拭其兩足、於中床則據其兩手、於內床則寛坐於眞床覆衾之上。海神見之、乃知是天神之孫、益加崇敬、云々。 |
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豊玉姫(トヨタマヒメ)の侍者(マカタチ=従者)が居ました。侍者は玉鋺(タマノマリ=宝石のお碗)を持って、泉(井戸)の水を汲もうとすると人の影が水底に映っているのが見えて、驚いて水を汲み取る事が出来ませんでした。それで天孫(アメミマ)を見上げました。それすぐに宮殿に帰って、王に報告しました。「わたしは我が王、一人だけが優れて美しいと思っていたのですが、今、一人の客人を見ました。その方は、比べ物にならないほどに美しいのです」
海神(ワダツミ)はそれを聞いて言いました。「それでは、その人物を見てみよう」 それで、三床(ミツノユカ=三つの床)を設けて、招き入れました。天孫は外側の床で両足を拭い、次の中の床では両手をついて、最後の内の床に眞床覆衾(マドコオフスマ)の上にアグラをかいて座りました。海神はこの様子を見て、この人物が天神(アマツカミ)の孫と知りました。それで、ますます崇敬(アガメウヤマウ)ようになりました。云々。 |
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■美しいはすばらしい
海神の従者が「うちの王様は美しいけど、その王様より美しい人がいるんです!」と報告します。では美しいってどんな意味があるのかと思いませんでしたか?? 日本では天岩戸での神事のように、「歌がうまい」「踊りがうまい」「にぎやかに太鼓を打ち鳴らす」といった心を動かすものが、天変地異すら沈めるという考えがあります。これは日本人に限った話ではないです。だから美しいってことにも「霊威」がある、のかもしれません。 ■見た目は大事 上に挙げた理由もありますが、それとは別にあります。 古代では権力者の顔はハッキリとはしていません。ネットも無いし新聞も雑誌も無いので、部外者や下々のものにとっては、誰がどのくらいの権力を持っているのかを「知る」のは非常に難しいことです。しかし、他国の使者や下々の者たちが「え?誰がえらいの?」とオタオタすると、失礼ですし軋轢もあるでしょう。そこで、誰の目にもハッキリと分かるようにしておくのが、何かと便利。業務遂行がスムーズになります。そこで、「見た目」=「地位」を表すことになります。「立派な服、立派なアクセサリー」=「地位」であり「権力」なわけです。 だから見た目、つまり「美しい」「麗しい」ってのは、権力者にとっては大事なわけです。 ■三床ってなんだ?? 海神が用意した床のうち眞床覆衾(マドコオフスマ)に座ります。この眞床覆衾(マドコオフスマ)が「王の証明」です。ここに無意識に座っちゃうんだから「すごい」ってことです。 |
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■第十段 隼人の溺れる所作
海神召赤女・口女問之、時口女、自口出鉤以奉焉。赤女卽赤鯛也、口女卽鯔魚也。 時、海神授鉤彥火火出見尊、因教之曰「還兄鉤時、天孫則當言『汝生子八十連屬之裔、貧鉤・狹々貧鉤。』言訖、三下唾與之。又兄入海釣時、天孫宜在海濱、以作風招。風招卽嘯也、如此則吾起瀛風邊風、以奔波溺惱。」火折尊歸來、具遵神教。至及兄釣之日、弟居濱而嘯之、時迅風忽起。兄則溺苦、無由可生、便遙請弟曰「汝久居海原、必有善術、願以救之。若活我者、吾生兒八十連屬、不離汝之垣邊、當爲俳優之民也。」於是、弟嘯已停而風亦還息。故、兄知弟コ、欲自伏辜、而弟有慍色、不與共言。於是、兄著犢鼻、以赭塗掌塗面、告其弟曰「吾汚身如此、永爲汝俳優者。」乃舉足踏行、學其溺苦之狀、初潮漬足時則爲足占、至膝時則舉足、至股時則走廻、至腰時則捫腰、至腋時則置手於胸、至頸時則舉手飄掌。自爾及今、曾無廢絶。 |
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海神(ワダツミ)は赤女(アカメ=鯛)と口女(クチメ=ボラ)を呼び寄せて問いました。その時、口女(クチメ)の口から釣り針を出して、献上しました。赤女(アカメ)は赤鯛です。口女(クチメ)は鯔魚(ナヨシ=ボラ)です。
海神(ワダツミ)は鉤(チ=釣り針)を彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)に授け、そして教えました。「兄にこの釣り針を返す時に天孫(アメミマ)はこう言いなさい。『お前の生子(ウミノコ)八十連屬(ヤソツヅキ)の末裔まで貧鉤(マヂチ=貧乏針)狹狹貧鉤(ササマヂチ=もっともっと貧乏針)』と言い、いい終えたら、三回唾を吐いて、これ(=釣り針)を与えなさい。また、兄が海に入ってつりをするときに、天孫は浜辺に行き、風招(カザオキ)をしなさい。風招(カザオキ)は嘯(ウソブク=口をすぼめて息を吐く、吠える)ことです。そうすれば私(=海神)が瀛風(オキツカゼ)・邊風(ヘツカゼ)を吹いて速い波を起こし溺れさせて困らせましょう」 火折尊(ホオリノミコト)は故郷に帰って来て、海神に教えられた通りにしました。兄は釣りをする日になり、弟は浜に居て嘯きました。すると速い風がたちまち起こり、兄は溺れ苦しみ、今にも死にそうになりました。それで遠い浜辺の弟に哀願しました。 「お前は永く海原に居たのだろう。必ずや良い方法があるだろう。頼むから助けて欲しい。もしも、私を助けれくれれば、わたしの生兒(ウミノコ)八十連屬(ヤソツヅキ)にお前の宮殿の外壁のそばを離れず、俳優(ワザオサ)の民となろう」 それ弟は嘯(ウソブ)くことを止めました。すると風もまた止まりました。兄は弟に徳(=不思議な力)があると知って、自分から従いたいと思いました。ところが弟はそれでもまだ怒っていて、口を聞いてくれませんでした。そこで兄は著犢鼻(タフサギ=上半身裸のふんどし一丁)になって、赭(ソホニ=赤土)を手や顔に塗って、弟に言いました。 「私はこのように体を汚しました。永遠にあなたの俳優者(ワザオサヒト)になります」 それで足を挙げてバタバタとさせ、その溺れ苦しむ様子を演じました。初め塩水が足に浸かったときに足占(アシウラ)をするようにします。塩水が膝まできたときは足を挙げ、股に至る時は走り回り、腰に至ったときは腰を撫で、脇に至ったときは手を胸に置き、首に至ったときは手を挙げて飄掌(タヒロカス=ヒラヒラ)させました。それから今日まで、この舞は絶えず続いています。 |
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■魏志倭人伝の記述と
魏志倭人伝には「倭人は身に朱丹を塗っている」とあります。この朱丹というのは赤い土のことで、体に赤土を塗るのは皮膚病予防のためです。皮膚病予防の為に赤土を塗るのは南方の文化で、倭人が南方の文化を強く受けている証拠です。 ここでは隼人の先祖であるホノスセリが俳優者となった証として全身を汚しました。その様子として「上半身に赤土を塗った」とあります。 これから考えると隼人は南方系文化に影響を受けた集団で、この神話も皇統とは無関係に存在したものを皇統に取り込んだだけと考えた方がいいでしょう。 ■散りばめられる儀式 ●貧鉤(マヂチ)の呪い ●風招(カザオキ)・嘯(ウソブ)く ●俳優の民 ●溺れる所作 |
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■第十段 眞床覆衾と草でその赤ん坊を包んで波瀲に
先是、豐玉姬、出來當産時、請皇孫曰、云々。 皇孫不從、豐玉姬大恨之曰「不用吾言、令我屈辱。故自今以往、妾奴婢至君處者、勿復放還。君奴婢至妾處者、亦勿復還。」遂以眞床覆衾及草、裹其兒置之波瀲、卽入海去矣。此海陸不相通之緣也。一云、置兒於波瀲者非也、豐玉姬命、自抱而去。久之曰「天孫之胤、不宜置此海中。」乃使玉依姬持之送出焉。初、豐玉姬別去時、恨言既切、故火折尊知其不可復會、乃有贈歌、已見上。八十連屬、此云野素豆豆企。飄掌、此云陀毗盧箇須。 |
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(兄が弟に従う前の話)豊玉姫(トヨタマヒメ)が海から来て、子を産むときに皇孫(スメミマ)に御願いして言いました。云々…
皇孫(スメミマ)はその言葉に従わず豊玉姫の出産の様子を覗きみてしまいました。豊玉姫はとても恨み「わたしの言葉を無視してわたしに恥を掻かせましたね。これより、わたしが奴婢(ツカイヒト)をあなたのところに送れば、無事に帰さないでも結構。あなたが奴婢(ツカイヒト)を私の元に送ってもまた、帰さないでも結構です」そして眞床覆衾(マドコオフスマ)と草(カヤ)でその赤ん坊を包んで波瀲(ナギサ)に置いて、海に入って行きました。これが海と陸が交わらない理由です。 別伝によると……赤ん坊を波瀲(ナギサ)に置かなかった。豊玉姫は自分で抱いて、赤ん坊とともに去って行きました。 しばらくたって、豊玉姫が言いました。「天孫(アメミマ)の子供をこの海の中で育てるのは、おかしい」それで玉依姫(タマヨリヒメ)に赤ん坊を送らせました。 豊玉姫が天孫と別れるときに、恨み言があまりにキツいものでした。それで火折尊(ホオリノミコト)は「二度と遭えないのだな」と知り、歌を送りました。その歌はすでにあげてあります。 ●八十連屬は野素豆豆企(ヤソツヅキ)と読みます。飄掌は陀毗盧箇須(タヒロカス)と読みます。 |
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■訳に関して
訳本を読むと、「別れるときに豊玉姫は悲しんだ」「その様子を見てホオリは二度と遭えないと知った」とあるのですが、物語としても、文章上もおかしいので、「別れるときの豊玉姫の恨み言があまりにキツかったから」「ホオリは二度と遭えないと知った」と変更しました。 ■眞床覆衾(マドコオフスマ) マドコオフスマは敷き布団です。ニニギの天孫降臨の際にも登場しました。ようは産まれたばかりの嬰児をつつむものです。よってニニギも嬰児だったということになります。 ちなみに「草(カヤ)」は強い植物で日本人は茅に霊力があると考えていました。穢れを祓う「夏越の祓い」で利用するのもカヤです。 また、農耕民族で「種子」が何倍にも増える性質を持っていることを特別視していた日本人にとって「嬰児」とは「種子」であり、将来大きく育つ魔力を持った特別な存在です。茅と嬰児をセットにするのは農耕民族だからでしょう。 ■神話の意味 海と陸が交流を持たなくなった…という書き方をしましたが、「天」「地」が別れるのと同様に、元々は「海」「陸」が別れたという神話なのかもしれません。 ■ホオリが歌った恋の歌 第十段沖つ鳥鴨着く島に我が率寝し妹は忘らじ世のことごともにあります。 |
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■第十一段 彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊の系譜
彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊、以其姨玉依姬爲妃、生彥五瀬命、次稻飯命、次三毛入野命、次神日本磐余彥尊、凡生四男。久之彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊、崩於西洲之宮、因葬日向吾平山上陵。 |
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彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)はその叔母(母の豊玉姫の妹)の玉依姫(タマヨリヒメ)を妃として、彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)を産みました。
次に稻飯命(イナイイノミコト=稲飯命)を産みました。次に三毛入野命(ミケイリノノミコト)を産みました。次に神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)を産みました。すべて男の子でした。 しばらくして彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)は西洲之宮(ニシノシマノミヤ)で亡くなりました。そこで日向の吾平山(アヒラノヤマ)の山野の上にある稜(=墓)に葬りました。 |
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■第十一段 系譜の異伝
一書曰、先生彥五瀬命、次稻飯命、次三毛入野命、次狹野尊、亦號神日本磐余彥尊。所稱狹野者、是年少時之號也、後撥平天下奄有八洲、故復加號曰神日本磐余彥尊。 一書曰、先生五瀬命、次三毛野命、次稻飯命、次磐余彥尊、亦號神日本磐余彥火火出見尊。 一書曰、先生彥五瀬命、次稻飯命、次神日本磐余彥火火出見尊、次稚三毛野命。 一書曰、先生彥五瀬命、次磐余彥火火出見尊、次彥稻飯命、次三毛入野命。 |
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ある書によると……まず彥五瀬命(ヒコイツセノミコト)が生まれ、次に稻飯命(イナイイノミコト)が生まれ、次に狹野尊(サノノミコト)…別名・神日本磐余彥尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)が産まれました。狹野(サノ)というのは少年の頃の名です。後に天下を平定し八洲(ヤシマ=日本)を納めました。それで名を神日本磐余彥尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)と変えました。
ある書によると……まず五瀬命(イツセノミコト)が産まれました。次に三毛野命(ミケイリノミコト)が産まれました。次に稻飯命(イナイイノミコト)が産まれました。次に磐余彥尊(イワレヒコノミコト)…別名神日本磐余彥尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)が産まれました。 ある書によると……まず彥五瀬命(ヒコイツセノミコト)が産まれました。次に稻飯命(イナイイノミコト)が産まれました。次に神日本磐余彥尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)が産まれました。次に稚三毛野命(ワカミケノノミコト)が産まれました。 ある書によると……まず彥五瀬命(ヒコイツセノミコト)が産まれました。次に磐余彥火火出見尊(イワレヒコホホデミノミコト)が産まれました。次に 彥稻飯命(ヒコイナイイノミコト)が産まれました。次に三毛入野命(ミケイリノノミコト)が産まれました。 |
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■曖昧な出生
イワレヒコつまり神武天皇は神の血統を引き継ぎつつ、明らかな「人間」なのですが、この出生を見ると「創造された人物」という印象を受けます。 ちなみに、神武天皇の実在に就いては諸説入り乱れていて、実在・創造とどちらもありますが、現在の所は「実在した可能性もあるが、物証は無い」といったところです。まぁ、物証なんてなかなか出てくるものではないので、永遠の謎と成る可能性が高いです。 |
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■神武天皇 | |
■十五歳で太子(=日嗣の皇子)となり
神日本磐余彥天皇神武天皇 神日本磐余彥天皇、諱彥火火出見、彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊第四子也。母曰玉依姬、海童之少女也。天皇生而明達、意礭如也、年十五立爲太子。長而娶日向國吾田邑吾平津媛、爲妃、生手硏耳命。 |
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神日本磐余彥天皇(カムヤマトイワレヒコノスメラミコト)…諱(イミナ)は彥火火出見(ヒコホホデミ)は、彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)の第四子です。母は玉依姫(タマヨリヒメ)という海童(ワダツミ)の少女(ムスメ)です。天皇(スメラミコト)は生まれながらにして頭が良く、心が強い人物でした。15歳で太子(=日嗣の皇子)となりました。その後、日向の国の吾田邑(アタノムラ)の吾平津媛(アヒラツヒメ)を娶って妃として手硏耳命(タギシノミミノミコト)が産まれました。 | |
■諱(イミナ)について
言霊信仰の日本人にとって「名前」とはその人物の本質にあたります。よって、一般的な名前…通称(字【アザナ】)とは別に「本当の名前」であるイミナを持っていました。当然この名前は親や目上といった限られた人物しか口にしてはいけないものです。失礼にあたるとされたからです。 またこのイミナは「死後」の名前でもあります。現代でいうと「戒名」という側面もあるってことです。 昔は漢字文化圏、つまり中国の風習とされていましたが、現在では世界各地に点在する文化で、日本にも古来からあったと思われます。 |
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■一百七十九萬二千四百七十餘歲
及年卌五歲、謂諸兄及子等曰「昔我天神、高皇産靈尊・大日孁尊、舉此豐葦原瑞穗國而授我天祖彥火瓊々杵尊。於是火瓊々杵尊、闢天關披雲路、驅仙蹕以戻止。是時、運屬鴻荒、時鍾草昧、故蒙以養正、治此西偏。皇祖皇考、乃神乃聖、積慶重暉、多歷年所。自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歲。而遼邈之地、猶未霑於王澤、遂使邑有君・村有長・各自分疆用相凌躒。抑又聞於鹽土老翁、曰『東有美地、山四周、其中亦有乘天磐船而飛降者。』余謂、彼地必當足以恢弘大業・光宅天下、蓋六合之中心乎。厥飛降者、謂是饒速日歟。何不就而都之乎。」諸皇子對曰「理實灼然、我亦恆以爲念。宜早行之。」是年也、太歲甲寅。 |
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年齢が卌五歲(ヨソアマリイツツ=45歳)になったときに、イワレビコは兄たちと子供に言いました。
「昔、天津神と高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)と大日孁尊(オオヒルメムチノミコト)はこの豐葦原瑞穗國(トヨアシハラミズホノクニ)を、天祖(アマツオヤ)の彥火瓊々杵尊(ヒコホノニニギノミコト)に授けた。火瓊々杵尊(ホノニニギノミコト)は天關(アマノイワクラ)を開き、雲路(クモヂ)をかき分け、仙蹕(ミサキハライ=先駆けの神)を走らせて、地上に降りました。そのときはまだ世界は開けていなかった。草昧(ソウマイ)の世だった。その暗い世の中で、正しい道を養い、この西の偏(ホトリ)の土地を治めた。皇祖皇考(ミオヤ=父・祖父・先祖)は乃神乃聖(カミヒジリ=神であり聖人)であり、慶(ヨロコビ=結婚や出産などの祝い事)を積み、暉(ヒカリ=尊敬されるような事)を重ね、多くの年月を経た。天祖(アマツミオヤ)が降臨してから、今、一百七十九萬二千四百七十餘歲(モモヨロズトセアマリ・ナナソヨロズトセアマリ・ココノヨロズトセアマリ・フタチトセアマリ・ヨホトセアマリ・ナナソトセアマリ)だ。遥か遠くの地はまだ(天津神の)恩恵を得られていない。その地の邑(=大きい集落)には君(キミ)がいて、村(=小さい集落)には長(オサ)がいて、境界をつくって分かれて、互いに侵し合っている。ところで鹽土老翁(シオツチノオジ)から聞いたのだが、『東に美(ウマ)し国がある。青い山を四方に囲まれて、その中に天磐船(アマノイワフネ)に乗って飛んで降りた者が居る』とのこと。思うに、その土地は必ずこの大きな事業を広め、天下に威光を輝かせるに相応しい場所だろう。六合(クニ=国)の中心となるだろう。その飛び降りた者とは饒速日(ニギハヤヒ)だろう。その土地へと行って、都にしようではないか」 皇子たちは答えました。 「理實(コトワリ)灼然(イヤチコ)です(=もっともなことです)。わたしたちもそう思っていました。早く行きましょう」 |
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■急に言い訳がましいな
イワレビコが自分の正当性を急に主張。つまり、神の子だから、機内へと向かう。なぜ機内に向かうか?それはシオツチオジが「東に良い国がある」と言うし、アメノイワフネに乗って誰かが山の上に降り立った、しかもそれはニギハヤヒという遠い親戚だから。 つまり親戚を頼って、遠いヤマトの地を目指すわけですね。かなり穿(ウガ)った見方ではありますが。意外と本当かもしれません。 そして、後にはニギハヤヒの裏切りによって土地の名士であるナガスネヒコを倒します。ニギハヤヒはナガスネヒコの妹トミヤスビネ(登美夜須毘売)を娶っていたのに、裏切ったのです。ニギハヤヒ様々ですよ。 |
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■椎の木の竿の先を渡して
其年冬十月丁巳朔辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征。至速吸之門、時有一漁人乘艇而至、天皇招之、因問曰「汝誰也。」對曰「臣是國神、名曰珍彥、釣魚於曲浦。聞天神子來、故卽奉迎。」又問之曰「汝能爲我導耶。」對曰「導之矣。」天皇、勅授漁人椎㰏末、令執而牽納於皇舟、以爲海導者。乃特賜名、爲椎根津彥(椎、此云辭毗)、此卽倭直部始祖也。 |
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その年(太歳甲寅)の冬10月の5日。天皇は自ら、皇子たちと船の先導を連れて、東へと向かいました。まず、速吸之門(ハヤスイノト)にたどり着きました。そのとき一人の漁人(アマ=漁師)がいて、小舟に乗っていました。天皇(スメラミコト)はこの漁人を呼び寄せて、尋ねました。「お前は誰だ?」答えて言いました。「わたしは、国津神(地祇)です。名は珍彦(ウズヒコ)といいます。曲浦(ワニノウラ)で魚を釣っています。天神子(アマツカミノミコ)が来ると聞いて、迎えに来ました」また天皇(スメラミコト)は尋ねました。「お前は、私を案内できるか?」答えて言いました。「案内しましょう」
天皇(スメラミコト)は命じて、椎の木の竿(=船のオールのことか?)の先を渡して、皇船(ミフネ)に招き入れました。そして海の導者(ミチビキヒト=先導)となりました。このことにちなんでこの海人を椎根津彥(シヒネツヒコ)といいます。 ●椎は「辭毗(シヒ)」と読みます。この人物は倭直部(ヤマトアタイラ)の始祖(ハジメノオヤ)です。 |
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椎根津彥は神武天皇にこの後も付いて行き、「九月甲子朔戊辰(二)椎根津彥と弟猾に変装させて」で登場します。倭直(ヤマトアタイ)の先祖とされるのも、このままついていって大和に居着いたから、じゃないでしょうか。
■太歳甲寅冬十月 太歳は木星のことで、木星の位置から暦を表現するという方法は、中国の史書でもなく、日本書紀独特の手法となっています。朝鮮の歴史書の三国史記の百済本紀にも同様の暦表記があるので、朝鮮の影響と言うこともありえます。 ただし、三国史記の成立は12世紀で、日本書紀の成立は8世紀と、三国史記が日本書紀の記述を参考にした可能性もありますし、仮に三国史記のネタ本として百済本紀が非常に古い史書であったとしても、このあたりはハッキリしない。 また、朝鮮史観特有の「朝鮮は発展していた」「朝鮮は正しい」が前提とした歴史観が非常に強いので、このあたりのことは、本当に眉唾です。 |
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■菟狹津媛と天種子命
行至筑紫國菟狹。菟狹者地名也、此云宇佐。時有菟狹國造祖、號曰菟狹津彥・菟狹津媛、乃於菟狹川上、造一柱騰宮而奉饗焉。一柱騰宮、此云阿斯毗苔徒鞅餓離能宮。是時、勅以菟狹津媛、賜妻之於侍臣天種子命。天種子命、是中臣氏之遠祖也。 |
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筑紫國(ツクシノクニ)の菟狹(ウサ)にたどり着きました。そのとき菟狹國造(ウサノクニノミヤツコ)の祖先の菟狹津彥・菟狹津媛(ウサツヒコ・ウサツヒメ)が居ました。菟狹の川上に一柱騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)を作って、(神武天皇を)奉り、宴会をしました。
そのとき菟狹津媛(ウサツヒメ)を(神武天皇の)家臣である天種子命(アメノタネコノミコト)に娶らせました。天種子命(アメノタネコノミコト)は中臣氏の遠い祖先です。 ●菟狹(ウサ)は地名です。宇佐(ウサ)と読みます。一柱騰宮は阿斯毗苔徒鞅餓離能宮(アシヒトツアガリノミヤ)といいます。 |
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■ウサツヒコとウサツヒメの関係
「ウサ」は地名、「津」は港か、もしくは「の」…英語でいうところの「of」のようなもの。彦と姫は元々は「日」「子」と「日」「女」で、その土地の統治者という意味合いを持ちます。 ところで、ウサツヒコとウサツヒメというのは、夫婦なんじゃないのか?と何となく思うのですが、ちょっと違う。例えば、邪馬台国の卑弥呼の場合、卑弥呼が女王で、その弟が補佐でした。補佐といっても、おそらくは政治権力を持っていたのは弟だったのでしょう。つまり宗教権力者が卑弥呼で、政治権力者が弟です。こういった政治構造が古代では一般的だったのかもしれません。この形式だと、古代日本の女系家族というのがなんとなく理解出来ます。表舞台(=宗教的な場面)に女性が立ち、裏方の政治は男がする。女性が表舞台に立つのは、古代では子供を産む女性の方が霊力が強いという感覚があったのでしょう。 その一方で神話では、征服した土地の「姫神」を妻に迎えるというのが一般的です。これは日本だけでなく、多神教で有名なギリシャ神話もそうです。ゼウスがやたらと浮気をするのは、ゼウスを祀る都市が他の都市を侵略していったという経緯の反映だからです。 ウサツヒメとウサツヒコが神武天皇一行を迎え、ウサツヒメが神武天皇の家臣の一人である天種子命(アメノタネコノミコト)と結ばれたというのは、史実なのかもしれませんし、侵略したという経緯が神話になったのかもしれません。神武天皇という神と人の境目の人物では、このお話がどういう意味を持っているのかは微妙というのが正直なところでしょう。 |
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■太歳甲寅11月〜戊午年春3月
十有一月丙戌朔甲午、天皇至筑紫國岡水門。 十有二月丙辰朔壬午、至安藝國、居于埃宮。 乙卯年春三月甲寅朔己未、徙入吉備國、起行館宮以居之、是曰高嶋宮。積三年間、脩舟檝、蓄兵食、將欲以一舉而平天下也。 戊午年春二月丁酉朔丁未、皇師遂東、舳艫相接。方到難波之碕、會有奔潮太急。因以名爲浪速國、亦曰浪花、今謂難波訛也。訛、此云與許奈磨盧。 三月丁卯朔丙子、遡流而上、徑至河內國草香邑雲白肩之津。 |
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太歳甲寅11月
11月の9日に神武天皇は筑紫國(ツクシノクニ)の岡水門(オカノミナト=福岡県遠賀郡の遠賀川河口)に到着しました。 太歳甲寅12月 12月の27日に安芸國の埃宮(エノミヤ=広島県府中町)に滞在しました。 乙卯年春3月 乙卯年(キノトウノトシ)の春三月の6日に吉備國(キビノクニ)に入り、行館(カリミヤ=仮宮)を作って滞在しました。これを高嶋宮(タカシマノミヤ)といいます。三年滞在している間に、船を揃え、兵食(カテ)を備え、ひとたび兵を挙げて天下(アメノシタ)を平定しようと神武天皇は思っていました。 戊午年春2月 戊午年(ツチノエウマノトシ)の春2月の11日。皇師(ミイクサ)はついに東へと向かいました。舳艫(ジクロ=船首と船尾)がぶつかり合うほどに沢山の船団でした。難波之碕(ナニワノサキ)に到着すると、潮が速いところがあった。それでこの場所を浪速國(ナミハヤノクニ)といいます。また浪花(ナミハナ)といいます。今、難波と呼ばれるのはこれらが訛ったものです。 戊午年春3月 三月の10日。流れを遡(サカノボ)って、河内國(カワチノクニ)草香邑(クサカムラ)雲(アオクモ)白肩之津(シラカタノツ)に到着しました。 ●訛は與許奈磨盧(ヨコナマル)と読みます。 |
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■難波はこの頃からナニワだったのですねぇ
浪(ナミ)が速(ハヤイ)で、ナミハヤ。それが徐々に訛ってナニワとなり、そこに難波という字が当てられたわけです。ところで、「ナミ」という音は日本語です。大和言葉というやつです。「ハヤ」もそうです。中国語ではありません。そこに漢字が入って来て、同じ意味を持つ「浪」=「ナミ」となったわけですが、だとすると、漢字は表意文字として入って来た事に成ります。イラストに近い感覚です。 ●もしかすると、古事記で送り仮名もすべて漢字の「表音文字」で表現したのは当時としては画期的なことだったのかもしれません。 ●朝鮮半島では漢字をまるまる受け入れたのに対して、日本は漢字を道具として利用しています。その後、日本は漢字から純粋な表音文字である「ヒラガナ」「カタカナ」を生み出します。 |
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■戊午年夏四月退却の判断
夏四月丙申朔甲辰、皇師勒兵、步趣龍田。而其路狹嶮、人不得並行、乃還更欲東踰膽駒山而入中洲。時、長髄彥聞之曰「夫天神子等所以來者、必將奪我國。」則盡起屬兵、徼之於孔舍衞坂、與之會戰。有流矢、中五瀬命肱脛。皇師不能進戰、天皇憂之、乃運神策於沖衿曰「今我是日神子孫而向日征虜、此逆天道也。不若、退還示弱、禮祭神祇、背負日神之威、隨影壓躡。如此、則曾不血刃、虜必自敗矣。」僉曰「然。」於是、令軍中曰「且停、勿須復進。」乃引軍還。虜亦不敢逼、却至草香之津、植盾而爲雄誥焉。(雄誥、此云烏多鶏縻。)因改號其津曰盾津、今云蓼津訛也。初、孔舍衞之戰、有人隱於大樹而得兔難、仍指其樹曰「恩如母。」時人、因號其地曰母木邑、今云飫悶廼奇訛也。 |
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戊午年夏四月
夏四月の九日。皇師(ミイクサ)は兵を整えて、歩いて龍田(タツタ)に向かいました。その道は狭く険しく、人が並んで行けないほどでした。そこで引き返して、東の膽駒山(イコマヤマ)を越えて、中洲(ウチツクニ=大和)に入ろうとしました。 そのとき長髄彥(ナガスネヒコ)が(神武天皇が大和へ来るという話を)聞いて言いました。「それは天神子等(アマツカミノミコタチ)が来るのは、我が国を奪おうとしているに違いない」それで(長髄彦は)侵略に対する兵を集めて、孔舍衞坂(クサエノサカ)で迎え撃ち、戦いになりました。その戦いで流れ矢が神武天皇の兄の五瀬命(イツセノミコト)の肱脛(ヒジハギ=ヒジのこと)に当たりました。皇師(ミイクサ)はこれ以上、進軍し戦うことは出来ませんでした。そこて天皇(スメラミコト)は残念に思い、神策(アヤシキハカリゴト=名案)を沖衿(ミココロノウチ=心の中)で廻らし、言いました。「今、わたしは日の神の子孫(ウミノコ)なのに、日に向いて敵に向かったのは、天道(アメノミチ)に逆らうことだ。ここは一旦、退却し弱いと思わせ、神祇をよくよく祀り、背に日の神の勢いを背負い、日陰が挿すように敵を襲い倒そう。そうすれば剣を血で汚さずとも、敵は必ず自然と破れるだろう」 皆(=部下)は、言いました。「その通りです」そこで軍中(イクサ)に令(ミコトノリ)して言いました。「しばらく止まれ、もう進軍するな!」すぐに軍(イクサ)を率いて退却しました。敵もまた攻めて来なかった。(神武天皇の軍は)退却して草香之津(クサカノツ)に到着して、盾を揃え、並べ、雄誥(オタケビ)をあげました。 それでその津(=港)を盾津(タテツ)と名付けて言うようになりました。今は蓼津(タデツ)というのは訛ったからです。初めの孔舍衞(クサエ)の戦いで、ある人物が大きな木に隠れて難を逃れました。それでその木を指して「母のように恩がある」といいました。 それで世の人はその場所を「母木邑(オモノキノムラ)」といいます。今、飫悶廼奇(オモノキ)というのは、それが訛ったものです。 ●雄誥は烏多鶏縻(オタケビ)といいます。 |
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難波から上陸した神武天皇は大和を目指します。ちなみに「ヤマト」という言葉は「山門」で、周囲が山に囲まれている地形の事で、本来は特定の土地を指した言葉ではありませんでした。
そんな大和を目指すのですが、すでに大和を支配していた長髄彦(ナガスネヒコ)が反抗します。当然です。侵略に対して兵を立てて守るのは極々当たり前のことです。それで神武天皇は破れてしまいます。 もともと海を通って来た「海のプロ」なので、陸での戦いに不慣れだったのかもしれません。この記述で初めて「歩いて移動」しているくらいです。 そこで五瀬命(イツセノミコト)が負傷し、太陽を背にすれば勝てるに違いないという言い訳をして、一旦退却します。まぁ、戦争では太陽を背にして戦うというのはセオリーですから、間違ってはいません。しかし「東征」なのだから、ここに至るまでずっと太陽を背にしていたんですよね。まぁ、戦闘はここが初めてなので、その突っ込みには意味が無いのですが。 ■オタケビとは 隼人のところでも、「犬のように吠える」とは「魔を祓う」という意味があったわけで、単に鼓舞する意味よりも、敗戦という「穢れ」を祓う儀式だったのではないか?とも。 |
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■五月丙寅朔癸酉五瀬命の雄叫びと死
五月丙寅朔癸酉、軍至茅淳山城水門。(亦名山井水門。茅淳、此云智怒。)時五瀬命矢瘡痛甚、乃撫劒而雄誥之曰(撫劒、此云都盧耆能多伽彌屠利辭魔屢)「慨哉、大丈夫慨哉、此云宇黎多棄伽夜被傷於虜手、將不報而死耶。」時人因號其處、曰雄水門。進到于紀伊國竈山、而五瀬命薨于軍、因葬竈山。 |
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五月の八日。イワレビコの軍隊は茅淳(チヌ)の山城(ヤマキ)の水門(ミナト)…別名を山井水門(ヤマノイノミナト)に到着しました。その時、五瀬命(イツセノミコト)の矢の傷がとても痛みました。撫劒(ツルギノタカミトリシバリ=剣の柄を握って)して雄叫びしました。
「なんてことだ!!!!男が、敵に傷を負わされて、やり返さずに死んでしまうのか!」世の人たちは、それからこの(イツセ命が雄叫びした)場所を「雄水門(オノミナト)」と呼ぶようになりました。軍を進めて紀伊國の竃山(カマヤマ)に到着したとき、五瀬命(イツセノミコト)は亡くなってしまいました。なので竈山で葬りました。 ●茅淳は智怒(チヌ)と読みます。撫劒は都盧耆能多伽彌屠利辭魔屢(ツルギノタカミトリシバル)と読みます。 ●古事記の対応箇所 / 紀伊国の男乃水門で死亡 |
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■稻飯命と三毛入野命の死
六月乙未朔丁巳、軍至名草邑、則誅名草戸畔者。戸畔、此云妬鼙。遂越狹野而到熊野神邑、且登天磐盾、仍引軍漸進。海中卒遇暴風、皇舟漂蕩、時稻飯命乃歎曰「嗟乎、吾祖則天神、母則海神。如何厄我於陸、復厄我於海乎。」言訖、乃拔劒入海、化爲鋤持神。三毛入野命、亦恨之曰「我母及姨並是海神。何爲起波瀾、以灌溺乎。」則蹈浪秀而往乎常世ク矣。 |
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6月23日。神武天皇の軍隊は名草邑(ナクサノムラ=和歌山市名草山)に到着しました。それで名草戸畔(ナクサノトベ)という人物を殺しました。
狹野(サノ=和歌山県新宮市佐野)を越えて熊野の神邑(ミワノムラ=新宮市三輪崎)に到着しました。また天磐盾(アメノイワタテ=新宮市熊野速玉神社の神倉山か?)に登り、軍を率いて進みました。その後、海で暴風雨に遭い、皇舟(ミフネ=天皇の乗った舟)は波間に漂いました。そのとき稻飯命(イナイノミコト)は嘆き悲しんで言いました。 「あぁ!わたしの祖先は天神(アマツカミ)で、母は海神(ワダツミ)です。どうしてわたしは陸で酷い目に逢い、海でも酷い目に逢うのか!!!」そう言い終わると、剣を抜いて海に入って鋤持神(サイモチノカミ)となりました。 三毛入野命(ミケイリノノミコト)は恨んで言いました。「わたしの母と叔母は海神(ワダツミ)です。どうして波を起こして溺れさせようとするのか!!」そういって波を踏んで常世の国へと渡りました。 ●戸畔は妬鼙(トベ)と読みます。 ●古事記の対応箇所 / ウガヤフキアエズの子供達 / 熊野で意識を失う |
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■まだまだ続く艱難辛苦
長男のイツセ命が死んでも、まだ不幸は続きます。名草村という場所でそこの権力者を倒したのですが、その土地では物足りなかったのか、もしくはその土地の住人に受け入れてもらえなかったのか?、ともかく旅は続きます。 物語は「大和」へと行き着くと我々は知っているので、ここは「途中」だと思っていますが、神武天皇一行は九州を出たときには「どこか良い所を」と思っていたはずです。神武天皇は隼人出身の海洋民族ですから、この名草邑(ナクサムラ)や神邑(ミワムラ)といった「海に近い」場所が、適しているハズです。ところが、拒否されたか、すでに近隣に強い氏族が居たのか…ともかく諦めざるを得なかった。それで旅は続きます。 ■稻飯命と三毛入野命の死 古事記ではハッキリと描かれなかった二人の死が書かれています。二人の名前は「稲」と「ミケ=食料」から付けられた名前で、稻飯命が海に身を投げて変化した神は鋤持神(サイモチ)…鋤(スキ)という文字が入っているようにやはり農業関係の神です。 |
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■高倉下の夢
天皇獨與皇子手硏耳命、帥軍而進、至熊野荒坂津亦名丹敷浦、因誅丹敷戸畔者。時、神吐毒氣、人物咸瘁、由是、皇軍不能復振。時彼處有人、號曰熊野高倉下、忽夜夢、天照大神謂武甕雷神曰「夫葦原中國猶聞喧擾之響焉。(聞喧擾之響焉、此云左揶霓利奈離。)宜汝更往而征之。」武甕雷神對曰「雖予不行、而下予平國之劒、則國將自平矣。」天照大神曰「諾。(諾、此云宇毎那利。)」時武甕雷神、登謂高倉下曰「予劒號曰韴靈。(韴靈、此云赴屠能瀰哆磨。)今當置汝庫裏。宜取而獻之天孫。」高倉下曰「唯々」而寤之。明旦、依夢中教、開庫視之、果有落劒倒立於庫底板、卽取以進之。 |
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神武天皇は一人息子の手硏耳命(タギシノミミノミコト)と軍を率いて進み、熊野荒坂津(クマノアラサカツ)に到着しました。別名を丹敷浦(ニシキノウラ)と言います
そこで丹敷戸畔(ニシキトベ)という者を殺しました。その時、神が毒を吐いて、兵士もモノも全部、病んでしまいました。これで、天皇の軍隊は元気がなくなりました。この土地にある人が居ました。その人の名前は熊野高倉下(クマノノタカクラジ)といいます。熊野高倉下(クマノノタカクラジ)は夢を見ました。夢の中で天照大神(アマテラスオオカミ)が武甕雷神(タケミカヅチ)に言っていました。「その葦原中国(アシハラナカツクニ)はまだひどく騒がしく、乱れている。あなた(=タケミカヅチ)がまた行って静かにさせなさい」 武甕雷神(タケミカヅチ)は答えました。「わたしが行かなくとも、わたしが国を平定した『剣』を降ろせば、すぐに国は静かになりますでしょう」天照大神は言いました。「そうするが良い」 武甕雷神(タケミカヅチ)は高倉に言いました。「わたしのこの剣は名付けて韴靈(フツノミタマ)と言う。今、この剣をお前の蔵の中に置いておく。これを受け取って天孫に献上しなさい」 高倉下(タカクラジ)は言いました。「はい。分かりました」答えると、目が覚めました。翌日に夢の教えのとおりに、蔵を開けてみると、おそらく天から落ちて来たとおぼしき「剣」が、蔵の床の板に突き刺さっていました。 すぐに剣を取って、神武天皇に献上しました。 ●聞喧擾之響焉は左揶霓利奈離(サヤゲリナリ)と読みます。諾は宇毎那利(ウベナリ)と読みます。韴靈は赴屠能瀰哆磨(フツノミタマ)といいます。 |
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■ヤタノカラスと日臣と道臣
于時、天皇適寐。忽然而寤之曰「予何長眠若此乎。」尋而中毒士卒、悉復醒起。既而皇師、欲趣中洲、而山中嶮絶、無復可行之路、乃棲遑不知其所跋渉。時夜夢、天照大神訓于天皇曰「朕今遣頭八咫烏、宜以爲ク導者。」果有頭八咫烏、自空翔降。天皇曰「此烏之來、自叶祥夢。大哉、赫矣、我皇祖天照大神、欲以助成基業乎。」是時、大伴氏之遠祖日臣命、帥大來目、督將元戎、蹈山啓行、乃尋烏所向、仰視而追之。遂達于菟田下縣、因號其所至之處、曰菟田穿邑。穿邑、此云于介知能務羅。于時、勅譽日臣命曰「汝忠而且勇、加能有導之功。是以、改汝名爲道臣。」 |
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神武天皇はよく眠っていました。すぐに目を覚まして言いました。「わたしはどうして、こんなに長く眠っていたのか?」そう言うと、毒に当たっていた兵士達もすぐに目を覚まして起きました。それで皇軍は中洲(ウチツクニ=大和のこと)へと向かおうとしました。しかし山が険しくて通る道がありません。それで行ったり来たりしていたのですが、それでも山を越えることが出来ません。その夜に夢を見ました。天照大神は天皇に教えました。「わたしが今から頭八咫烏(ヤタノカラス=ヤタガラス)を送ろう。それを郷導者(クニノミチビキヒト)としなさい」頭八咫烏(ヤタノカラス)が空より駆け下りて来ました。
天皇は言いました。「この鳥がやって来ると、夢にお告げがあった。天照大神は偉大であり、すばらしい神だ。わたしの祖先の天照大神は天下を治めるこの仕事を助けようと思ってらっしゃる」 この時、大伴氏(オオトモノウジ)の祖先の日臣命(ヒオミノミコト)は大來目(オオクメ)を率いて、元戎(オオツワモノ)督將(イクサノキミ=将軍の意味)として、山を踏み開いて進み、鳥(=ヤタノカラス)の向かう所を探し、見上げて追いかけました。 ついに菟田下縣(ウダノシモツコオリ)に達しました。道を穿(ウガ=かき分けて進むこと)ってたどり着いたので菟田穿邑(ウダノウガチノムラ)といいます。 神武天皇は日臣命(ヒノオミノミコト)を褒めて言いました。「お前は、忠心があり、勇敢。それに先導をつとめた。これより、お前の名前を改めて道臣(ミチノオミ)としよう」 ●穿邑は于介知能務羅(ウガチノムラ)といいます。 |
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■ヤタガラスは三本足ではない
日本のサッカーのマークに三本足のカラスが描かれていますが、古事記・日本書紀には「三本足」という記述は一切ありません。三本足というカラスは、『中国の太陽神話』の『楚辞』天問篇に見られます。中国の神話と日本のヤタガラスが関係しているかは、ハッキリしない。 |
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■兄猾と弟猾
秋八月甲午朔乙未、天皇使徵兄猾及弟猾者。(猾、此云宇介志。)是兩人、菟田縣之魁帥者也。(魁帥、此云比ケ誤廼伽瀰。)時、兄猾不來、弟猾卽詣至、因拜軍門而告之曰「臣兄々猾之爲逆狀也、聞天孫且到、卽起兵將襲。望見皇師之威、懼不敢敵、乃潛伏其兵、權作新宮而殿內施機、欲因請饗以作難。願知此詐、善爲之備。」天皇卽遣道臣命、察其逆狀。時道臣命、審知有賊害之心而大怒誥嘖之曰「虜、爾所造屋、爾自居之。」(爾、此云飫例。)因案劒彎弓、逼令催入。兄猾、獲罪於天、事無所辭、乃自蹈機而壓死、時陳其屍而斬之、流血沒踝、故號其地、曰菟田血原。已而弟猾大設牛酒、以勞饗皇師焉。天皇以其酒宍、班賜軍卒、乃爲御謠之曰、謠、此云宇哆預瀰。 |
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秋八月の二日。天皇は兄猾(エウカシ)と弟猾(オトウカシ)を呼び寄せました。
この二人は菟田縣(ウダノアガタ=地名)の魁帥(ヒトゴノカミ=長)です。 ところが兄猾(エウカシ)は現れませんでした。弟猾(オトウカシ)だけがすぐにやって来ました。そして軍門(=軍の入り口)で拝んで言いました。「わたくしめの兄の兄猾(エウカシ)は逆(サカシマナルワザ=反逆の心)を持っています。天孫がこの土地に来ると聞いて、すぐに兵を集めて襲おうとしていますた。しかし、遠くから皇軍の勢いを見ていると、真正面から当たっても勝てないと思って、密かに兵を隠して、仮の宮殿を建てて、宮殿の中に(天皇を殺す)罠を起き、宴会を開いて、だまし討ちをしようとしています。お願いですから、このような企みがあると知った上で、よく準備してください」 天皇はすぐに道臣命(ミチノオミノミコト)を派遣して、その逆(サカシマゴト=反逆)の状況を調べました。それで道臣命(ミチノオミノミコト)は兄猾(エウカシ)に敵対すると心があることを確信して、とても怒り、兄猾(エウカシ)に叫びました。 「野郎!!お前が作った小屋に、お前自らが入ってみろ!」 道臣命(ミチノオミノミコト)は剣の柄を握り、弓を引いて、兄猾(エウカシ)を追い立て小屋に無理矢理に脅して入れた。兄猾(エウカシ)は天に罪を見抜かれて、良い訳も出来ませんでした。兄猾(エウカシ)は自分から小屋で罠を踏んで、死んでしまいました。そのときに死体を引っ張り出して斬ったところ、血が流れ出、踝(ツブナギ=くるぶしのこと)まで浸かるほどだった。それで、この土地を菟田血原(ウダノチハラ)と言います。 弟猾(オトウカシ)は沢山の牛の肉と酒を献上して、皇軍をねぎらう宴会を開きました。天皇はこれらの酒と肉で兵に分けました。 それとき歌を歌いました。 ●猾を「宇介志(ウカシ)」と読みます。魁帥は比ケ誤廼伽瀰(ヒトゴノカミ)と言います。爾は飫例(オレ)と読みます。 ●古事記の対応箇所 / 兄宇迦斯・弟宇迦斯 / 訶夫羅前 / エウカシの罠と謀略と密告 / 道臣命と大久米命 / 宇陀の血原 |
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■來目歌
于儾能多伽機珥辭藝和奈陂蘆和餓末菟夜辭藝破佐夜羅孺伊殊區波辭區旎羅佐夜離固奈瀰餓那居波佐麼多智曾麼能未廼那鶏句塢居氣辭被惠禰宇破奈利餓那居波佐麼伊智佐介幾未廼於朋鶏句塢居氣儾被惠禰 |
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菟田の高城(タカキ)に 鴫(シギ)罠張る 我が待つや 鴫は障(サヤ)らず いすくはし 鷹等(クヂラ)障(サヤ)り 前妻(コナミ)が 肴(ナ)乞(コ)はさば 立ち稜麦(ソバ)の 実の無けくを 幾多聶(コキダヒ)ゑね 後妻(ウワナリ)が 肴乞はさば 斎賢木(イチサカキ) 実の多けくを 幾多聶ゑね
意訳 / 宇陀の高城にシギ(鳥の種類)を取る罠を仕掛けたら、シギじゃなくて、鷹が掛かった。 鷹をクヂと言うので鷹等で「クジラ」、あの海のクジラと引っ掛けている駄洒落 古い女房がおかずをねだったら、蕎麦の実みたいに栄養の無い所を削り取って食べさせよう。若い女房がおかずをねだったら、イチサカキの実のように栄養のあるところを削り取って食べさせよう。 ●古事記の対応箇所 / えーシヤシコヤ 古事記には合いの手のような「エーシコヤ、エーシコヤ」という記述があります。これがあるので古事記は「民謡」っぽい。 |
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■シギとクジラ
シギの罠を仕掛けたら、クジラが掛かった。という古代期最高のジョーク。というのはともかく、日本人が山の獲物と海の獲物の両方を日常的に得ていたからこそのジョークです。 ちなみに「イスクハシ」はクジラに掛かる枕詞と思われます。語源は不明。このクジラに関しては「クジラ」ではなく「鷹等(クチラ)」で「鷹」という説も。 ■蕎麦とイチサカキ 蕎麦は土地が痩せていても実がなるのですが、実が小さく粉のように小さく、『蕎麦のように実がない』という書き方はまさに、という感じ。イチサカキは現在ではヒサカキのこととされますが、サカキは常緑樹を指していて、この古代でのイチサカキは別の植物を指しているのではないかとも。 この二つの植物を対比させ、古い女房には栄養が少ないところを、新しくて若い女房には栄養価の多い部分を食べさせます。これはジョークもあるでしょうが、子供を産む確率の高い「若い女房」を優先させたという意味でしょう。それだけ日本が古代から「子供優先主義」だったためではないかと。 |
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■吉野の先住民
是謂來目歌。今樂府奏此歌者、猶有手量大小、及音聲巨細、此古之遺式也。是後、天皇欲省吉野之地、乃從菟田穿邑、親率輕兵巡幸焉。至吉野時、有人出自井中、光而有尾。天皇問之曰「汝何人。」對曰「臣是國神、名爲井光。」此則吉野首部始祖也。更少進、亦有尾而披磐石而出者。天皇問之曰「汝何人。」對曰「臣是磐排別之子。」(排別、此云飫時和句。)此則吉野國樔部始祖也。及緣水西行、亦有作梁取魚者。(梁、此云揶奈。)天皇問之、對曰「臣是苞苴擔之子。」(苞苴擔、此云珥倍毛菟。)此則阿太養鸕部始祖也。 |
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これを來目歌(クメウタ)といいます。
現在、樂府(オオウタドコロ)でこの歌を演奏するときには、手を大きく打ったり、小さく打ったりして拍子を取って、太い声や細い声で歌います。これは古(イニシエ)から残っているやり方です。 この後に神武天皇は、吉野の地を見たいと思い、菟田穿邑(ウダノウガチノムラ)の地から僅かな兵を率いて出発しました。吉野に到着するときに、泉の中から人が出て来ました。その人は光っていて尾がありました。 天皇は聞きました。「お前は誰だ?」答えました。「わたしは国神(クニツカミ)です。名前を井光(イヒカ)といいます」この人物が吉野首(ヨシノノオビト)などの始祖です。更に進むと、また尾があって磐岩(イワ)を押し分けて現れました。そこで天皇が聞きました。「お前は誰だ?」答えました。「わたしは磐排別(イワオシワケ)の子です」 この人物は後の吉野國樔(ヨシノノクズ)などの祖先です。吉野川に沿って西に進んで行きました。すると梁(ヤナ=魚を捕る罠)を作って魚を捕る人が居ました。 天皇は聞きました。その人は答えました。「わたしは苞苴擔(ニエモツ)の子です」 ●排別は飫時和句(オシワク)と読みます。梁は揶奈(ヤナ)と読みます。苞苴擔は珥倍毛菟(ニエモツ)と読みます。この人物は阿太養鸕(アダノウカイ)などの始祖です。 ●古事記の対応箇所 / 吉野川の鵜飼 / 国津神のヰヒカ / その人は岩を押し分けて / 吉野国巣の祖先 |
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■天平瓮と嚴瓮と酒と嚴呪詛
九月甲子朔戊辰、天皇陟彼菟田高倉山之巓、瞻望域中。時、國見丘上則有八十梟帥(梟帥、此云多稽屢)、又於女坂置女軍、男坂置男軍、墨坂置焃炭。其女坂・男坂・墨坂之號、由此而起也。復有兄磯城軍、布滿於磐余邑。(磯、此云志。)賊虜所據、皆是要害之地、故道路絶塞、無處可通。天皇惡之、是夜自祈而寢、夢有天神訓之曰「宜取天香山社中土(香山、此云介遇夜摩)以造天平瓮八十枚(平瓮、此云毗邏介)幷造嚴瓮而敬祭天神地祇(嚴瓮、此云怡途背)、亦爲嚴呪詛。如此、則虜自平伏。」(嚴呪詛、此云怡途能伽辭離。) |
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9月5日。神武天皇は菟田(ウダ)の高倉山(タカクラヤマ)の嶺に登って、国中を眺めました。そのときに国見丘(クニミノオカ)の上に敵の八十梟帥(ヤソタケル)が居ました。
また、八十梟帥(ヤソタケル)は女坂(メサカ)に女軍(メイクサ=女子の軍隊)を置きました。男坂(オサカ)に男軍(オイクサ=男の軍隊)を置きました。墨坂(スミサカ)に焃炭(オコシズミ=炭火)を置きました。この女坂・男坂・墨坂の地名はこういう由来です。また敵対する兄磯城軍(エシキノイクサ)が磐余邑(イワレノムラ)に大勢、滞在していました。 賊虜(アタ=敵軍)が陣を張った所は、要衝でしたから、道路は塞がって通ることが出来ません。神武天皇は困りました。この晩、天皇は誓約(ウケイ)をして眠りました。夢に天神(アマツカミ)が現れ、言いました。「天香山(アマノカグヤマ)の神社の土(ハニ)を取って、天平瓮(アマノヒラカ=酒杯)を八十枚作り、嚴瓮(イツヘ=酒瓶)を造り、天津神と国津神を祀り、嚴呪詛(イツカノカシリ=強い呪い)をかけなさい。それで敵軍は自然と従うだろう」 ●梟帥は多稽屢(タケル)と読みます。磯は志(シ)と読みます。香山は介遇夜摩(カグヤマ)と読みます。平瓮は毗邏介(ヒラカ)と読みます。嚴呪詛は怡途能伽辭離(イツノカシリ)と読みます。 |
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ヤソタケルのヤソは「沢山」という意味で、タケルは「強い」で「沢山の強い男」という意味とされます。ですが、次のページに「磯城のヤソタケル」「赤銅のヤソタケル」と出て来ることを考えるとヤソタケルは「とても強い男」という意味で、名前ではなく「武人」といった意味合いかと思われます。
■誓約と天皇 例えば、戦争の前に「わたしが戦争に勝つなら、狩りがうまく行く」と宣言してから、狩りをします。その狩りの獲物の次第で戦争の吉凶を占うといったものが「誓約」です。 誓約は言葉が現実化する「言霊信仰」を根本にしています。霊威が強いほどに言葉は現実化しやすいので、誓約によって自分の霊威を計るわけです。 ■ちなみに誓約に負けたらどうなるか? 神功皇后が朝鮮征伐から帰って来ると本妻の息子たちが皇后と応神天皇を殺そうと仕掛けて来ます。その仕掛けるまえに誓約をして狩りで吉凶を占っています。結果はなんと「逆にイノシシに食い殺される」というもの。 |
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■椎根津彥と弟猾に変装させて
天皇、祇承夢訓、依以將行、時弟猾又奏曰「倭國磯城邑、有磯城八十梟帥。又高尾張邑(或本云、葛城邑也)、有赤銅八十梟帥。此類皆欲與天皇距戰、臣竊爲天皇憂之。宜今當取天香山埴、以造天平瓮而祭天社國社之神、然後擊虜則易除也。」天皇、既以夢辭爲吉兆、及聞弟猾之言、益喜於懷。乃使椎根津彥、著弊衣服及蓑笠、爲老父貌、又使弟猾被箕、爲老嫗貌、而勅之曰「宜汝二人到天香山潛取其巓土而可來旋矣。基業成否、當以汝爲占。努力愼歟。」 |
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神武天皇はまさに夢の教えを聞いて、その通りにしようとしました。すると弟猾(オトウカシ)が天皇に言いました。
「倭国(ヤマトノクニ)の磯城邑(シキノムラ)には磯城八十梟帥(シキノヤソタケル)がいます。また、高尾張邑(タカオハリノムラ)には赤銅八十梟帥(アカガネノヤソタケル)がいます。これらの者たちは皆、天皇に抵抗して戦おうと思っています。密かに天皇がこれに困っているのを知り、わたしも心配していました。そこで天香山(アマノカグヤマ)の土を取って、それで天平瓮(アマノヒラカ)を作って、天社(アマツヤシロ)や国社(クニツヤシロ)の神を祀り、その後に敵を討てば、簡単に撃破出来るでしょう」 天皇は弟猾(オトウカシ)がそう進言する前に、既に夢で神の言葉を受けて良い兆しと考えていましたから、その弟猾(オトウカシ)の言葉でますます喜びました。 すぐに椎根津彥(シイネツヒコ)を呼んで卑しい服を着せ、箕笠を身につけさせ、老人に変装させました。また弟猾(オトウカシ)には蓑を着せ、老女に変装させました。 そして命令しました。「お前たち二人は、天香山(アマノカグヤマ)に行き、密かにその嶺の土を取って来てくれ。私の基業(モトイノワザ…国づくりのこと)が旨く行くかどうかの正否を占うことにする。油断するなよ」 |
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■椎根津彥
椎根津彥は神武天皇が九州を出発して速吸之門で出会った漁をしていた人「珍彦(ウズヒコ)」が改名した名前です。倭直部(ヤマトアタイ)の先祖とされます。 |
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■誓約による飴作りと漁
是時、虜兵滿路、難以往還。時、椎根津彥、乃祈之曰「我皇當能定此國者行路自通、如不能者賊必防禦。」言訖徑去。時、群虜見二人、大咲之曰「大醜乎大醜、(此云鞅奈瀰爾句老父老嫗)。」則相與闢道使行、二人得至其山、取土來歸。於是、天皇甚ス、乃以此埴、造作八十平瓮・天手抉八十枚(手抉、此云多衢餌離嚴瓮)、而陟于丹生川上、用祭天神地祇。則於彼菟田川之朝原、譬如水沫而有所呪著也。天皇又因祈之曰「吾今當以八十平瓮、無水造飴。飴成、則吾必不假鋒刃之威、坐平天下。」乃造飴、飴卽自成。又祈之曰「吾今當以嚴瓮、沈于丹生之川。如魚無大小悉醉而流、譬猶范t之浮流者艨A此云磨紀、吾必能定此國。如其不爾、終無所成。」乃沈瓮於川、其口向下、頃之魚皆浮出、隨水噞喁。 |
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このとき敵の兵が沢山居て、老夫婦に変装していても天香山(アマノカグヤマ)の土を取りに行くのは難しかった。それで椎根津彥(シイネツヒコ)は誓約をしました。「わたしの皇(オオキミ)がこの国を治めるべきならば、道を当然のように通れるだろう!!もし治められないならば、敵は私たちを邪魔するだろう!」言い終わって、ただ進みました。
すると群れた敵が二人(=椎根津彥と弟猾)を見て大笑いして言いました。「なんてみっともない爺さんと婆さんなんだ!!」それで道を開けて、二人を通しました。二人はその山に到着して土を取って帰りました。 天皇はとても喜び、すぐにこの土で八十平瓮(ヤソヒラカ)、天手抉(アマノタクジリ)を80枚、嚴瓮(イツヘ)を作って丹生(ニウ)の河の上流に登って、天津神や国津神を奉って、菟田川(ウダガワ)の朝の河原に水の泡のように(敵軍が儚いものになる)呪いを掛けて、浸けました。 天皇はまたここで誓約をしました。「わたしは今、八十平瓮(ヤソノヒラカ)で水無しに飴(タガネ=アメ)を作ろう。飴が出来たならば、私は必ず武力を使わずに天下を平定できるだろう」 それで飴を作りました。飴が自然と出来ました。 また誓約をしました。「わたしは今、嚴瓮(イツヘ)を丹生之川(ニウノカワ)に沈めよう。もし魚の大小にかかわらず、マキ(=植物名)の葉っぱが流れるように酔っぱらって浮かび上がって流れたら、私は必ずこの国を治めるだろう。もし、そうならなかったら全ては失敗する」 すぐに瓮(ヘ)を川に沈めました。その瓶の口が下に向きました。 しばらくして、魚が皆浮かび上がり、水面のまにまに噞喁(アギト=魚が水面に口を出してパクパクすること)しました。 |
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■飴
どうやら米から作るもので、現在の飴とは違うものですが、それでも「甘いもの」を求める感覚があったのかなとも。それにしてもどうして、天皇が「飴」を作るのか?杯と酒瓶をつくり、今度は飴。 日本では神のご機嫌を取るということが政治の大きな仕事でした。「政」と書いて「まつりごと」と読むのはそのためです。ではご機嫌を取る為に何をするか?というと、踊ったり、歌を歌ったり、神楽だったり、相撲だったり、そういう楽しい事をすれば、機嫌が良くなって、天変地異が無くなり、稲が沢山実ると考えていた訳です。 その機嫌を取る方法の一つが「料理」でした。 料理がおいしいと人間も感動しますが神様も感動します。だから調理は、世界を安定させる大事な技能でした。コックは世界を変える力がったのです。その大事な仕事を天皇も関わっていた。というか、天皇という仕事は神を祀る事、その中に料理も当然ながら入っているということでしょう。 このページでの飴と魚はこの料理を重視する古代の感覚のためではないかと。 |
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■嚴媛と名付ける
時、椎根津彥、見而奏之。天皇大喜、乃拔取丹生川上之五百箇眞坂樹、以祭諸神。自此始有嚴瓮之置也。時勅道臣命「今、以高皇産靈尊、朕親作顯齋。(顯齋、此云于圖詩怡破毗。)用汝爲齋主、授以嚴媛之號。而名其所置埴瓮爲嚴瓮、又火名爲嚴香來雷、水名爲嚴罔象女罔象女、此云瀰菟破廼迷、糧名爲嚴稻魂女稻魂女、此云于伽能迷、薪名爲嚴山雷、草名爲嚴野椎。」 |
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椎根津彥(シイネツヒコ)はこれ(=魚が浮かび上がった事)を見て報告しました。
天皇はとても喜び、すぐに丹生川の川上の五百箇眞坂樹(イホツノマサカキ=よく茂ったマサカキ)を抜き取り、神々に祀りました。これ以降、神に嚴瓮(イツヘ)を神に供えるようになりました。 天皇は道臣命(ミチノオミノミコト)に命令しました。 「今、高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)を私自らが、祀ろう。お前(=道臣命)を齋主(イワイノヌシ=祀るもの…神主のこと)として、嚴媛(イツヒメ)と名付けよう。この土の瓶(カメ)を嚴瓮(イツヘ)としよう。この火の名前を嚴香來雷(イツノカグツチ)としよう。水の名を嚴罔象女(イツノミツハノメ)としよう。食べ物の名前を嚴稻魂女(イツノウカノメ)としよう。薪の名前を嚴山雷(イツノヤマツチ)としよう。草の名前を嚴野椎(イツノヅチ)としよう」 |
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あ、女だったんだ、道臣命、つまり元「日臣命」は女だったんですね。ちなみに道臣命は「大伴連」の祖先とされます。 | |
■神風の伊勢の海の大石にやい這い廻る細螺
冬十月癸巳朔、天皇嘗其嚴瓮之粮、勒兵而出。先擊八十梟帥於國見丘、破斬之。是役也、天皇志存必克、乃爲御謠之曰、 伽牟伽筮能伊齊能于瀰能於費異之珥夜異波臂茂等倍屢之多儾瀰能之多儾瀰能阿誤豫阿誤豫之多太瀰能異波比茂等倍離于智弖之夜莽務于智弖之夜莽務 |
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冬10月の1日に天皇はその嚴瓮(イツヘ=土器の皿)の粮(オモノ=食べ物)を食べ、兵を整えて出発しました。まず八十梟帥(ヤソタケル)を國見丘(クニミノオカ)で撃破して、斬り殺しました。この役(エダチ=戦い)で神武天皇には必ず勝利する意気込みがありました。そこで歌を歌いました。
神風の伊勢の海の 大石にやい這い廻る細螺(シタダミ)の細螺の 吾子(アゴ)よ吾子よ 細螺のい這い廻り撃ちして止まむ撃ちして止まむ 意訳 / 神風の吹く伊勢の海の、大きな石に這い廻る、小さな扁螺(キサゴ=巻貝の一種)よ。扁螺よ。お前たち!お前たち!!扁螺みたいに這い廻り、敵を撃ち取ってやろう!撃ち取ってやろう! |
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■神風の吹く伊勢
神風の…というのは伊勢の枕詞です。伊勢には風が吹き込むというのが古代の日本人の常識だったのでしょう。伊勢は貿易港という性質もあったんじゃないか?と。サルタヒコもこの辺りの神さまですし。なぜ小さな貝を戦争に例えるの?もっと強いもので例えればいいのに。小さいし、弱そうだし、早くもないし、なぜ? 実際、料理担当の久米氏が同時に軍事担当ですし、天皇はこの前の段で河原で飴を作っています。これから戦争ってのに呑気な話です。またおいしい食材が取れる地域が神社の格でも優遇されている傾向もあります。それで「貝」で例えたのではないかと。貝っていい出汁が取れますからね。 |
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■道臣命の密命と歌
謠意、以大石喩其國見丘也。既而餘黨猶繁、其情難測、乃顧勅道臣命「汝、宜帥大來目部、作大室於忍坂邑、盛設宴饗、誘虜而取之。」道臣命、於是奉密旨、掘窨於忍坂而選我猛卒、與虜雜居、陰期之曰「酒酣之後、吾則起歌。汝等聞吾歌聲、則一時刺虜。」已而坐定酒行、虜不知我之有陰謀、任情徑醉。時道臣命、乃起而歌之曰、 於佐箇廼於朋務露夜珥比苔瑳破而異離烏利苔毛比苔瑳破而枳伊離烏利苔毛瀰都瀰都志倶梅能固邏餓勾騖都都伊異志都々伊毛智于智弖之夜莽務 |
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歌の心は大きな石を国見丘に例えています。(既に敵は撃破したのですが)残りの敵がまだ多くて、その数が解りませんでした。そこで密かに道臣命(ミチノオミノミコト)に命じました。
「お前は大來目部(オオクメラ)を引き連れて、大室(オオムロ)を忍坂邑(オシサカノムラ)に作り、そこで宴饗(トヨノアカリ=宴会のこと)を盛大に催して、敵を誘い寄せて討ち取れ」 道臣命(ミチノオミノミコト)は密命を受けて、忍坂(オシサカ)を掘って室(ムロ)を立てて、勇猛な兵士を選んで、敵兵を混ざって座りました。そして陰で命じました。 「酒酣(サケタケナワ…今で言う所の『宴もたけなわ』)の後、わたし(=道臣命)は立ち上がり、歌を歌う。お前たちは、私の声を聞いたらすぐにいっせいに敵を刺せ」 座る場所に座って酒盛りしました。敵は密命を知らず、心のままに、ほしいままに酔いました。そして道臣命(ミチノオミノミコト)は立ち、歌を歌いました。 忍坂の大室屋に人多に 入り居りとも人多に 来入り居りともみつみつし 来目の子等が頭椎(クブツツ)い石椎(イスツツ)い持ち 撃ちてし止まむ 訳 / 忍坂の大室に沢山の人が入っている。沢山の人が来ているが、強い強い来目の兵士が頭椎(太刀の種類)や石椎(太刀の種類)で討ち倒すぞ。 |
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■來目部の勝利の歌
時、我卒聞歌、倶拔其頭椎劒、一時殺虜、虜無復噍類者。皇軍大ス、仰天而咲、因歌之曰、 伊莽波豫伊莽波豫阿阿時夜塢伊莽儾而毛阿誤豫伊莽儾而毛阿誤豫 今、來目部歌而後大哂、是其緣也。又歌之曰、 愛瀰詩烏毗儾利毛々那比苔比苔破易陪廼毛多牟伽毗毛勢儒 此皆承密旨而歌之、非敢自專者也。時天皇曰「戰勝而無驕者、良將之行也。今魁賊已滅、而同惡者、匈々十數群、其情不可知。如何久居一處、無以制變。」乃徙營於別處。 |
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私たちの兵士は歌(冬十月癸巳朔(二)道臣命の密命と歌の歌)を聴くと、いっせいにその頭椎劒(クブツチノツルギ)を抜いて、敵を斬り殺してしまいました。敵は噍類者(ノコルモノ=生き残り)は居ませんでした。皇軍(ミイクサ)はとても悦び、天を仰いで咲(ワラ)いました。そして歌を歌いました。
今はよ今はよああしやを 今だにも吾子よ今だにも吾子よ 訳 / 今のところは、勝利したぞ、今だけでも我が兵よ、今だけでも我が兵よ! 今でも來目部(クメラ)が歌ったあとに大きく笑うのは、このためです。また歌を歌いました。 蝦夷を一人百(モモ)な人 人は言えども抵抗(タムカヒ)もせず 訳 / 夷が一人で百人分の強さと言うが、抵抗もできやしないじゃないか!!! これらの歌は天皇の命令によって歌ったものです。勝手に自分たちが歌ったのではありません。そのとき天皇は言いました。 「戦いに勝って、驕(オゴ)らないのが良い将軍というものだ。今、敵の親玉は滅んだが、同様に刃向かうものが皇軍を恐れているとはいえ十数群ほどある。実情(このまま従うか刃向かうかどうか?)は分からない。このままずっと同じ場所に居て、待っていてはいけない」 そうして、軍を移動させました。 |
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■蝦夷
蝦夷は後には東北地方の民族ということになりますが、漠然とした「異民族」という意味でしょう。今で言うところの「外国人」みたいな。白人も黒人もインド人も中国人も全部「外国人」という言葉でひっくるめるのと一緒かと。 |
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■兄磯城と弟磯城
十有一月癸亥朔己巳、皇師大舉、將攻磯城彥。先遣使者徵兄磯城、兄磯城不承命。更遺頭八咫烏召之、時烏到其營而鳴之曰「天神子召汝。怡奘過、怡奘過。(過、音倭。)」兄磯城忿之曰「聞天壓神至而吾爲慨憤時、奈何烏鳥若此惡鳴耶。(壓、此云飫蒭。)」乃彎弓射之、烏卽避去、次到弟磯城宅而鳴之曰「天神子召汝。怡奘過、怡奘過。」時弟磯城惵然改容曰「臣聞天壓神至、旦夕畏懼。善乎烏、汝鳴之若此者歟。」卽作葉盤八枚、盛食饗之。葉盤、此云毗羅耐。因以隨烏、詣到而告之曰「吾兄々磯城、聞天神子來、則聚八十梟帥、具兵甲、將與決戰。可早圖之。」 |
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十一月の七日。皇師(ミイクサ=天皇の軍)は大挙して磯城彥(シキヒコ=磯城の首長)を攻めようとしました。まず、使者を派遣して兄磯城(エシキ)を呼び寄せました。しかし、兄磯城(エシキ)は命に背いて、出て来ません。そこで頭八咫烏(ヤタノカラス)を派遣してまた呼び寄せました。その時、カラスが(兄磯城の)陣営で鳴いて言いました。
「天津神(アマツカミ)の子がお前を呼んでいる。さぁ!!!さぁ!!!」 兄磯城(エシキ)は怒って言いました。「天壓神(アメオスノカミ=天から強い力で圧迫する神)が居ると聞いて、わたしは妬んでいるというのに、どうして烏鳥(カラス)はこんな嫌な声で鳴くのか!」 すぐに弓を引いて射った。するとカラスは立ち去りました。次に弟磯城(オトシキ)の家に行き、鳴いて言いました。「天津神(アマツカミ)の子がお前を呼び寄せている。さぁ!さぁ!!!」弟磯城(オトシキ)は怖がって言いました。「わたしは天圧神(アメオスノカミ)が(この土地に)到着したと聞いて、朝から晩まで恐れ畏まっていました。鳥がわたしのところでこのように鳴くのは良い事ですよ」 すぐに葉盤八枚(ヒラデヤツ=木の葉で編んだ平たい皿を八枚)を作って、食べ物を盛って(カラスに)食べさせました。 カラスが導くままに天皇の元にやってきた言いました。「私の兄の兄磯城(エシキ)には、天津神が来たと聞いて、八十梟帥を集め、兵甲(ツワモノ=武防具)を準備して、戦おうとしています。すぐに対策を取ってください」 ●過は倭(ワ)と読みます。壓は飫蒭(オシ)と読みます。葉盤は毗羅耐(ヒラデ)と読みます。 |
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兄猾と弟猾 と細かいところは違いますが、兄弟のうち、弟は従い、兄は反抗して、兄が殺されるというパターンが同じです。また「鳥」が伝令をして、矢で射たれるというのは出雲の天稚彦(アメノワカヒコ)の件と似ています。
古事記の場合はキジを派遣しようナキメを射殺すアメノワカヒコキジを射抜いた矢が天安河の河原に(日本書紀の場合は第九段天鹿兒弓と天眞鹿兒矢)、また「兄」「弟」がセットになっているのはヤマトタケルのクマソタケル(兄弟)退治や、出雲風土記にある「兄の出雲振根と弟の飯入根の剣を取り替えての殺害」、ヤマトタケル自身も双子で兄のオオウスを殺害しているなど、兄弟というのが物語の中で特別扱いになっていて、弟が「善側」になっている。 出雲振根と飯入根の場合は朝廷に宝を差し出した弟が兄に殺されるが、その後、朝廷に兄が殺される。よって弟は朝廷から見て「善い人」。 日本の神話のステレオタイプが見えて来る。ただ、エシキ・オトシキにしろクマソタケルにしろ、神話だから史実ではないということではなく、史実が神話となったものが残ったのだと思われ、「創作」とは限らないし、まるきりの創作というのは無理がある。 |
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■椎根津彥の進言
天皇乃會諸將、問之曰「今、兄磯城、果有逆賊之意、召亦不來。爲之奈何。」諸將曰「兄磯城、黠賊也。宜先遣弟磯城曉喩之幷說兄倉下・弟倉下。如遂不歸順、然後舉兵臨之、亦未晩也。(倉下、此云衢羅餌。)」乃使弟磯城、開示利害。而兄磯城等猶守愚謀、不肯承伏。時、椎根津彥、計之曰「今者宜先遣我女軍、出自忍坂道。虜見之必盡鋭而赴。吾則駈馳勁卒、直指墨坂、取菟田川水、以灌其炭火、儵忽之間出其不意、則破之必也。」天皇善其策、乃出女軍以臨之。虜謂大兵已至、畢力相待。先是、皇軍攻必取、戰必勝、而介胃之士、不無疲弊。 |
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天皇はすぐに沢山の将軍を集めて、問いました。「今、兄磯城(エシキ)はどうやら逆らう心がある。呼び寄せても来ない。どうしたらよいだろうか?」将軍たちは言いました。「兄磯城(エシキ)は賢い賊(アタ=敵)です。まず弟磯城(オトシキ)を派遣して教え諭し、同時に兄倉下・弟倉下(エクラジ・オトクラジ)に説得させましょう。もし、ついに帰順(まつろ=従う)わないならば、後に兵をあげて攻めても、遅くはないでしょう」
弟磯城(オトシキ)に利害(ヨキモアシキモ)を示させたのですが、兄磯城(エシキ)はそれでも愚かな謀(ハカリゴト=反逆の行動)を続け、従いませんでした。 椎根津彥(シイネツヒコ)が計略を言いました。「今はまず、我らの女軍(メイクサ)を派遣して、忍坂(オシサカ)の道から出陣させます。すると敵はそれを見て、必ず鋭(トキツハモノ=先鋭部隊のこと?)を攻めて来るでしょう。わたしは強い兵を率いて、すぐに墨坂を目指し、宇陀川の水を取り、その炭の火に注いで(火を消して)、儵忽(ニハカ=わずかな)な間に、敵の意表をつけば打ち破るのは間違いありません」 天皇はその策を褒め、すぐに女軍(メイクサ)を出兵させました。敵は皇軍の主力がそちらへと移動したと考えて、全兵力で迎え撃とうとしました。それで皇軍は攻めれば討ち取り、戦えば必ず勝った。(簡単に勝ったとはいえ)介胃之士(イクサノヒトドモ=甲冑の兵士)が疲れない訳ではなかった。 ●倉下は衢羅餌(クラジ)と読みます。 |
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■天皇は意見を求める
天岩戸事件、国譲りの際でも、神々は話し合ってどうするのかを決めます。トップが全権を掌握するのではなく、意見を出し合って決めて、その決まり事を実行に移すのが、「天皇」だったり「アマテラス」や「高皇産靈尊(タカミムスビ)」のよう。これが「和」なんでしょうね。 ■宇陀川の水で火を消す? 九月甲子朔戊辰(一)天平瓮と嚴瓮と酒と嚴呪詛に「八十梟帥(ヤソタケル)は女坂(メサカ)に女軍(メイクサ=女子の軍隊)を置きました。男坂(オサカ)に男軍(オイクサ=男の軍隊)を置きました。墨坂(スミサカ)に焃炭(オコシズミ=炭火)を置きました。」とあります。 この炭火を消したということです。 ということは、道を遮るように大量の「炭火」があって、それが燃えてて通れなかった、ということでしょう。しかし、このヤソタケルが炭火を置いたのが9月5日。椎根津彥(シイネツヒコ)が消したのは11月7日。二ヶ月も燃えっぱなしだったのかと。 うーん、違う解釈があるのかもしれない。 ■女軍(メイクサ) 女は巫女。古代では神の意志によって戦争の勝敗が決められるので巫女は戦争においては大事だったと思われる。つまり女軍は戦争の「主力」。これが移動するということは軍全体が移動するというのが古代の「常識」だったのでしょう。 |
■楯並めて伊那佐の山の
故、聊爲御謠、以慰將卒之心焉、謠曰、 哆々奈梅弖伊那瑳能椰摩能虛能莽由毛易喩耆摩毛羅毗多多介陪麼和例破椰隈怒之摩途等利宇介譬餓等茂伊莽輸開珥虛禰 果以男軍越墨坂、從後夾擊破之、斬其梟帥兄磯城等。 |
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(兵士が疲れているので)天皇は歌を読んで謡(ウタ)を作って將卒(イクサノヒトドモ=将兵たち)の心を慰めようとしました。それで歌を歌いました。
楯(タテ)並(ナ)めて 伊那佐(イナサ)の山の 木の間ゆもい行き目守(マモ)らひ 戦へば我はや飢む 島つ鳥鵜養(ウカイ)が伴今助けに来ね 訳 / 楯を敵軍に対して並べて、伊那佐(イナサ)の山の木々の間を行き来し、見張りをしたり、戦ったりしていたから私もお腹がすいてしまった。島の鳥、鵜飼たち。助けに来てくれよ。 それで男軍(オイクサ)は墨坂を越えて、後ろから敵軍を挟み撃ちにして撃破しました。その梟帥(タケル)である兄磯城等(エシキラ)を斬りました。 |
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山で戦っていたら、お腹がすいたよね。だから鵜飼のひとたちは来てくれよ、というのが内容です。どうも「食」というものが大和朝廷にとってとても大事だったのだと思われます。 | |
■長髄彦との再戦へ
十有二月癸巳朔丙申、皇師遂擊長髄彥、連戰不能取勝。時忽然天陰而雨氷、乃有金色靈鵄、飛來止于皇弓之弭、其鵄光曄U、狀如流電。由是、長髄彥軍卒皆迷眩、不復力戰。長髄、是邑之本號焉、因亦以爲人名。及皇軍之得鵄瑞也、時人仍號鵄邑、今云鳥見是訛也。昔孔舍衞之戰、五瀬命中矢而薨、天皇銜之、常懷憤懟、至此役也、意欲窮誅、乃爲御謠之曰、 |
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12月4日。皇師(ミイクサ=天皇の軍)は長髄彦(ナガスネヒコ)を攻撃しました。何度も戦ったが、勝つ事は出来ませんでした。そのとき不意に、天陰(ヒシケ=空が暗くなる)て、氷雨(ヒサメ=冷たい雨もしくはヒョウやアラレ)が降りました。また金色の不思議な鳶(トビ)が現れて、飛んで来て、皇弓(ミユミ=天皇の弓)の弭(ハズ=弓の先端)に止まりました。その鳶は光り輝き、まるで流電(イナビカリ)のようでした。それで長髄彦(ナガスネヒコ)と軍卒(イクサノヒトドモ)は迷い惑って、戦意を失くしてしまいました。
長髄(ナガスネ)は元々は邑(ムラ)の名前です。それでそこの首長の名前になったのです。 皇軍(ミイクサ)が鳶の吉兆を得てからは、この土地を「鳶の邑(トビノムラ)」と名付けるようになりました。今、「鳥見(トミ)」というのはこれ(=トビノムラ)が訛ったものです。 以前、孔舍衞(クサエ)での戦いで、五瀬命(イツセノミコト)は矢に当たって薨(カムサ=神となって去った…つまり死んだ)りました。神武天皇はそのことをずっと忘れずにいて、常に憤懟(イクミウラムルコト=腹を立て恨んでいる)を抱いていました。この役(エダチ=戦闘)では怒りのままに窮誅(コロ=殺)そうと思っていました。それで歌を歌いました。 |
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よく神武天皇が立ち、弓のトビが止まっている絵がありますが、その場面です。古事記にはトビが止まるシーンはありませんね。かっこいいのに。 | |
■みつみつし
瀰都瀰都志倶梅能故邏餓介耆茂等珥阿波赴珥破介瀰羅毗苔茂苔曾廼餓毛苔曾禰梅屠那藝弖于笞弖之夜莽務 又謠之曰、 瀰都々々志倶梅能故邏餓介耆茂等珥宇惠志破餌介瀰句致弭比倶和例破涴輸例儒于智弖之夜莽務 因復縱兵忽攻之、凡諸御謠、皆謂來目歌、此的取歌者而名之也。 |
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みつみつし来目の子らが 垣本に粟生(アハフ)には 臭韮(カミラ)一本 其のが本其根芽つなぎて撃ちて止まむ
訳 / 天皇の威勢を負う強い久米の兵が、家の垣根に植えた粟の畑に、臭いの強い韮(ニラ)が一本生えている、それを根元から根も芽も根こそぎ引っこ抜くように、敵を打ち破ろう! また歌いました。 みつみつし来目の子らが 垣本に植えし椒(ハジカミ) 口ひびく我は忘れず撃ちてし止まむ 訳 / 天皇の威勢を負う強い久米の兵が、家の垣根の畑に植えた山椒を、食べると口がいつまでもヒリヒリするように、私は(敵にやられたことを)忘れない、敵を撃ち倒そう!!! それでまた兵士を送って急いで攻めました。これら全ての歌は皆、「来目歌(クメウタ)」といいます。これは歌った人(=来目部のこと)を指して名付けたものです。 ●古事記の対応箇所 / そね芽繋ぎて撃ちてし止まむ / 植ゑし椒口ひひく |
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古事記の対応箇所と同じ内容です。古事記では冬十月癸巳朔(一)神風の伊勢の海の大石にやい這い廻る細螺と十有一月癸亥朔己巳(三)楯並めて伊那佐の山のの歌がほぼ並列されています。古事記より日本書紀の方が神武東征が細かく描かれています。 | |
■櫛玉饒速日命を君主に
時、長髄彥乃遣行人、言於天皇曰「嘗有天神之子、乘天磐船、自天降止、號曰櫛玉饒速日命。(饒速日、此云儞藝波揶卑。)是娶吾妹三炊屋媛(亦名長髄媛、亦名鳥見屋媛)遂有兒息、名曰可美眞手命。(可美眞手、此云于魔詩莽耐。)故、吾以饒速日命、爲君而奉焉。夫天神之子、豈有兩種乎、奈何更稱天神子、以奪人地乎。吾心推之、未必爲信。」天皇曰「天神子亦多耳。汝所爲君、是實天神之子者、必有表物。可相示之。」 |
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そのとき、長髄彦(ナガスネヒコ)はすぐに使者を派遣して、天皇に告げました。
「昔、天津神(アマツカミ)の子(ミコ)がいました。天磐船(アマノイワフネ)に乗って天より降りて来ました。その名を櫛玉饒速日命(クシタマニギヤハヒノミコト)といいます。この人物は私(=長髄彦)の妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を娶って子供をもうけました。ミカシキヤヒメの別名は長髄媛(ナガスネヒメ)、またの別名を鳥見屋媛(トミヤヒメ)といいます。その子供の名前を可美眞手命(ウマシマデノミコト)といいます。わたしは饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を君主として仕えています。天神の子がどうして両種(フタハシラ=神が二人)あるものでしょうか??どうして更に天神(アマツカミ)の子と名乗って、ひとの国を奪おうとするのか?私が考えるに、未必爲信(イツワリ=偽り=偽物)では無いでしょうか?」 天皇は言いました。「天神の子は多く居るものだ。お前のところの君主が本物の天神の子ならば、必ず『表(=シルシ)』があるはずだ。それを見せなさい」 ●饒速日は「儞藝波揶卑(ニギハヤヒ)」と読みます。可美眞手は于魔詩莽耐(ウマシマデ)と読みます。 |
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■ニギハヤヒとは?
ニギハヤヒは神武天皇と同じように天神の子とされます。長髄彦は「天神の子は一人」と思っていたようですが、天皇にしてみれば天神の子は複数居て良いみたい。長髄彦の言う方がごもっともな気もしますが、天皇自身が「複数居る」と言うんだからしょうがない。 長髄彦としては天神の子であるニギハヤヒと妹を結婚させて、子供までもうけた。それに天皇とはすでに戦い、天皇の兄の五瀬命(イツセノミコト)に怪我を負わせ、殺している。今更、天皇が「俺も天神の子なんだぜ!」と言って来ても困りますよね。許してくれそうにも無いし。 それでも兄猾(エウカシ)や兄磯城(エシキ)のようにだまし討ちもしないし、この会話の中に長髄彦にも同情の余地を残すあたりは理由があるのかもしれない。 |
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■饒速日命は物部氏の祖先
長髄彥、卽取饒速日命之天羽々矢一隻及步靫、以奉示天皇。天皇覽之曰「事不虛也。」還以所御天羽々矢一隻及步靫、賜示於長髄彥。長髄彥、見其天表、益懷踧踖、然而凶器已構、其勢不得中休、而猶守迷圖、無復改意。饒速日命、本知天神慇懃唯天孫是與、且見夫長髄彥禀性愎佷、不可教以天人之際、乃殺之、帥其衆而歸順焉。天皇、素聞鐃速日命是自天降者而今果立忠效、則褒而寵之。此物部氏之遠祖也。 |
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長髄彦(ナガスネヒコ)はすぐに饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の天羽々矢(アメノハハヤ)を一隻(ヒトハ=矢を一本)と步靫(カチユキ=矢を射れる筒がユキ、これを歩行用にしたものがカチユキ)を天皇(スメラミコト)に見せました。
天皇はそれを見て「本物だ」と、言いました。 それでお返しにと、天羽々矢(アメノハハヤ)と步靫(カチユキ)を見せました。 長髄彦はその表(シルシ)を見て、ますます天皇を恐れ畏まりました。しかし凶器(ツワモノ=武器)を準備して、今更、途中で止めてしまうわけにはいかない。それで血迷った計画を変えず、改心しませんでした。 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は天神が最も大事だと思っているのは天孫(=アマテラスの子孫)であると知っていました。それに長髄彦はその禀性(ヒトトナリ=人と成り)がとても気難しいので、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が天人(キミヒト=君主と人の上下関係のこと)の関係を教えても、理解出来そうにないので、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は長髄彦を殺してしまいました。そして人々と共に天皇に従いました。 天皇はもともと饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が天から降りたと知っていました。今、忠效(タダシキマコト=忠義の意思)を示したので、褒めてもてなしました。この饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が物部氏の祖先です。 |
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■言い訳がましく裏切る神
長髄彦の妹を嫁にもらいながら、なんやかんやと理由をつけて裏切っちゃうニギハヤヒ。それでも天皇から見れば、兄の敵を討ってくれた「英雄」なのでしょう。 ところがニギハヤヒは物部氏の祖先とされます。物部の「モノ」は「物の怪」のモノと取って、祭祀関係の氏族とされたり、武器を管理する氏族とも言われます。日本では「モノ」は「霊」と「物体」の両方を意味するので、祭祀と武器のどちらか一方ではなく両方と考えた方がいいでしょう。 大活躍の物部氏ですが、ご存知の通り、蘇我氏との政争に破れて氏族は滅亡しています。また蘇我氏は藤原氏の始祖の中臣鎌足に殺されています。両氏族とも親戚筋は残っていたのでしょうが、滅亡したのに先祖の活躍を描く必要があったのか?と思うのですよね。よく古事記成立の有力者の藤原氏を立ててタケミカヅチやアメノコヤネを優遇しているとか言いますが、それならニギハヤヒではなく、古事記成立時の有力者の先祖を当てればいいじゃないですか。 わたしは古事記や日本書紀は別のロジックで書かれていると思っています。それは鎮魂です。嘘を書くと死者の魂が祟ると考えていたから、本当を書いて鎮めたのだろうということです。それなら蘇我氏や物部氏といった滅亡した氏族のことこそ、書かなくちゃいけないことになるのです。 |
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■土蜘蛛の誅殺
己未年春二月壬辰朔辛亥、命諸將、練士卒。是時、層富縣波哆丘岬、有新城戸畔者。(丘岬、此云塢介佐棄。)又和珥坂下、有居勢祝者。(坂下、此云瑳伽梅苔。)臍見長柄丘岬、有猪祝者。此三處土蜘蛛、並恃其勇力、不肯來庭。天皇乃分遺偏師、皆誅之。又高尾張邑、有土蜘蛛、其爲人也、身短而手足長、與侏儒相類、皇軍結葛網而掩襲殺之、因改號其邑曰葛城。夫磐余之地、舊名片居(片居、此云伽哆韋)、亦曰片立(片立、此云伽哆哆知)、逮我皇師之破虜也、大軍集而滿於其地、因改號爲磐余 |
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二月二十日。天皇の命によって、もろもろの将兵から精鋭を選びました。
このとき層富縣(ソホノアガタ=生駒市)の波哆丘岬(ハタノオカサキ=奈良市赤膚町)には新城戸畔者(ニイキノトベ)という人物がいました。 また和珥坂下(ワニノサカモト)には居勢祝(コセノハフリ)という人物がいました。 臍見(ホソミ=天理市?)の長柄丘岬(ナガラオカサキ=奈良県御所市長柄神社?)に猪祝(イノハフリ)という人物がいました。この三カ所の土蜘蛛は武力に頼んで、天皇に従いませんでした。天皇は兵の一部を派遣して、全員を誅殺しました。 また、高尾張邑(タカオハリノムラ)にも土蜘蛛が居ました。その人と成りはこうでした。身長は低く、手足は長い。侏儒(サキヒト=小人=バカ)と似ていました。皇軍は葛(カズラ=ツタ植物)を編んで、それを使って襲って殺しました。それでその村を葛城(カズラキ)と名付けました。磐余(イワレ)の土地の古い名前は片居(カタイ)といいます。 皇軍はそうして敵を破り、大軍が集まって満たされました。それで磐余(イワレ)と改名しました。 注「満ちる」が古代日本語では「満(イ)はる」だったから ●丘岬は塢介佐棄(オカサキ)と読みます。坂下は瑳伽梅苔(サカモト)と読みます。片居は伽哆韋(カタイ)と読みます。または片立(カタタチ)といいます。片立は伽哆哆知(カタタチ)と読みます。 |
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■土蜘蛛とは?
大和の人たちは高床式の家に住んでいました。これは全員がそうだったというわけでは無いのでしょうが、それでも穀物を溜める倉庫はネズミ避けもあって、高床式で、権力者もやはり高床式だったのでしょう。それに対して、竪穴式住居しか無かった民族を、見下す意味で土蜘蛛と呼んだよう。 |
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■磐余邑の別説、と猛田・城田・頰枕田・埴安の地名説話
或曰「天皇、往嘗嚴瓮粮、出軍而征、是時、磯城八十梟帥、於彼處屯聚居之。(屯聚居、此云怡波瀰萎)。果與天皇大戰、遂爲皇師所滅。故名之曰磐余邑。」又皇師立誥之處、是謂猛田。作城處、號曰城田。又賊衆戰死而僵屍、枕臂處、呼爲頰枕田。天皇、以前年秋九月、潛取天香山之埴土、以造八十平瓮、躬自齋戒祭諸神、遂得安定區宇、故號取土之處、曰埴安。 |
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ある人は言いました。「天皇は昔、嚴瓮(イツヘ=皿)に粮(オモノ=食べ物)を乗せて、神に捧げ物をして、軍を出して西の敵を征伐しました。このときに磯城八十梟帥(シキノヤソタケル)がこの土地に屯聚(イワ=集まって、満ちて)み居ました。天皇と大きな戦いをしました。ついに皇軍に敗れて滅んでしまいました。それで磐余邑(イワレノムラ)と言うようになった」
天皇は前の年の秋九月をもって、天香山(アマノカグヤマ)の埴土(ハニツチ=粘土質の土)を取って、八十平瓮(ヤソノヒラカ)を作り、自ら齋戒(モノイミ=血や死の穢れや女性に触れずに清らかな生活をすること)をして、諸々の神を祀りました。それで区宇(アメノシタ)を静めました(=安定させました)。そこで土を取った場所を埴安(ハニヤス)といいます。 ●屯聚居は怡波瀰萎(イワミイ)と読みます。また皇師(ミイクサ)が立誥(タチタケビ=大声を出すこと)した場所を「猛田(タケダ)」といいます。城を造った所を「城田」といいます。また敵たちが戦い死んで伏せた屍(カバネ=屍体)が臂(タダムキ=「ひじ」のこと)を枕にしていた所を頰枕田(ツラマキダ)といいます。 |
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■前段との違い
己未年春二月壬辰朔辛亥(一)土蜘蛛の誅殺には、「土地に皇軍が集まっていたから磐余になったよ」と書いてあるのに対してこのページでは「土地に敵の磯城八十梟帥(シキノヤソタケル)が集まっていたから磐余になったよ」と書いてあります。同じように見えてちょっと違う。皇軍が…というと地名が天皇に関わってついたことになりますが、磯城八十梟帥(シキノヤソタケル)が…というと天皇とは関係ありません。 でも天皇がその後は勝利したのだから、そんな別伝を残す必要は無いんじゃないか?と思うのですよ。勝利者が歴史を書き換えるのが世の常ってものですからね。ということは、磐余は単に「人が集まった賑やかな場所」という程度の意味で戦争とは関係なく、もともとそう言う名前があったじゃないか?と。 それで、どうして別伝を残したのかと言うと、嘘を書くと恨まれるから、ではないかと思うのです。日本人は死者を鎮魂しないと怨霊と成って呪うと考えていました。だから死人に口無しとばかりに嘘を書いて自分の手柄にしにくかったんじゃないか?と。この感覚が記紀の成立に大きく関わっていると思います。 |
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■三月辛酉朔丁卯六合を一つにして八紘までを家にする
三月辛酉朔丁卯、下令曰「自我東征、於茲六年矣。頼以皇天之威、凶徒就戮。雖邊土未C餘妖尚梗、而中洲之地無復風塵。誠宜恢廓皇都、規摹大壯。而今運屬屯蒙、民心朴素、巣棲穴住、習俗惟常。夫大人立制、義必隨時、苟有利民、何妨聖造。且當披拂山林、經營宮室、而恭臨寶位、以鎭元元。上則答乾靈授國之コ、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而爲宇、不亦可乎。觀夫畝傍山(畝傍山、此云宇禰縻夜摩)東南橿原地者、蓋國之墺區乎、可治之。」 是月、卽命有司、經始帝宅。 |
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三月七日。天皇は言いました。
「わたしが東征に出発して、6年になります。天津神の霊威によって凶徒(アタ=敵)は殺されました。周辺の国はまだ静まっていませんし、敵の残党はまだ勢いのあるものがあるが、中洲之地(ナカスノクニ=大和の国)は騒がしくない。皇都(ミヤコ)を広く広く取り、大きな宮殿を造ることにしよう。国はまだ出来たばかりで若く、民は素直で、穴の中に住んで、古い習俗が変わらず残っている。聖人のやり方でしっかりと行えば、結果はおのずと付いてくる。民の利益になることならば、聖人のやることを阻むものは無いだろう。そこで山林を開き、宮殿を造って、天皇の地位について、民を静めよう。乾靈(アマツカミ=天津神)の国を授けられた徳に答え、皇孫の正しい道を広めよう。その後に六合(クニノウチ=東西南北と天と地を合わせて六合)を一つにして都を開き、八紘(アメノシタ=北・北東・東……と合わせて八方向のこと)の隅々まで「宇(イヘ…家)」にすることは、良いことだ。見ると畝傍山の東南の橿原(カシハラ)は国の墺(モナカ…真ん中)だろうから、ここを治めよう」 この月に有司(ツカサ=役人)に命じて帝宅(ミヤコ=天皇の家=都)を作り始めました。 |
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天皇が東征を振り返り、この土地に国を作ることを宣言するシーン。6年しか経ってないのか。 | |
■庚申年秋八月媛蹈韛五十鈴媛命を皇后に
庚申年秋八月癸丑朔戊辰、天皇當立正妃、改廣求華胄、時有人奏之曰「事代主神、共三嶋溝橛耳神之女玉櫛媛、所生兒、號曰媛蹈韛五十鈴媛命。是國色之秀者。」天皇ス之。九月壬午朔乙巳、納媛蹈韛五十鈴媛命、以爲正妃。 |
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秋八月の16日に天皇は皇后を迎えようと思いました。それで広く皇后に相応しい華胄(ヨキヤカラ=貴族の子孫=人材)を求めました。そのときある人物が言いました。
「事代主神(コトシロヌシノカミ)が三嶋溝橛耳神(ミシマノミゾクヒミミノカミ)の娘の玉櫛媛(タマクシヒメ)を娶って生んだ子が媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)といいます。この姫は國色(カオ)が優れています」 天皇は喜びました。九月24日に媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)を皇后に迎え入れました。 |
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■皇后選び
8月16日に探し始めて9月24日に見つけるのだから早い。大事な伴侶をそんな風に決めていいのか??とも思いますが、まぁそこは置いておいて。 私はこの日付が問題だと考えています。8月16日はお盆。9月に24日は収穫の時期。もちろんこれは旧暦の太陰暦ですから、現在の8月と9月ではないのですが、無関係と言うのも無理があるんじゃないか?と。 お盆に盆踊りをします。 日本人はお盆を仏教のものだと思っていますが、仏教には霊体はありません。49日で別の何かに生まれ変わる「輪廻」が基本だからです。よってお盆に先祖の霊が帰って来るというのは仏教でありません。霊そのものが存在しないのですから。というわけでお盆と言うのは旧来の風習です。 それで盆踊りは実際には、顔見せです。男と女の出会いの場です。この祭りのときに男女は出会い、恋に落ちる。そして子供が生まれます。日本人にとって、子供は宝です。集落が発展するか否かは子供の数に掛かっています。だからこのお盆から収穫祭までの期間は日本人にとって「恋」の季節。 |
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■辛酉年春正月庚辰朔神武天皇が帝位に
辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮、是歲爲天皇元年。尊正妃爲皇后、生皇子神八井命・神渟名川耳尊。故古語稱之曰「於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、號曰神日本磐余彥火々出見天皇焉。」初、天皇草創天基之日也、大伴氏之遠祖道臣命、帥大來目部、奉承密策、能以諷歌倒語、掃蕩妖氣。倒語之用、始起乎茲。 |
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春1月の1日の元旦に、神武天皇は橿原宮(カシハラノミヤ)で帝位につきました。この年を天皇の元年としました。正妃(=ヒメタタライスズヒメノミコト)を皇后としました。皇子の神八井命(カムヤイノミコト)と神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)が生まれました。
それで褒めて言いました。 「畝傍(ウネビ)の橿原(カシハラ)に宮柱(ミヤハシラ=宮殿の柱)を底磐(シタツイワ=柱を支える岩)の根元にしっかりと立てて、高天原(タカマガハラ)に峻峙(チギ=宮殿の屋根で木材が交差する部分)が届くくらいに高くしよう。始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト=初めて国を治めた天皇)である私は、神日本磐余彥火々出見天皇(カムヤマトイワレビコホホデミノスメラミコト)と名乗ることにしよう」 初めて天皇は天基(アマツヒツギ=天津日嗣=皇統)をはじめた日に大伴氏の遠祖の道臣命(ミチノオミノミコト)が、大來目部(オオクメラ)を率いて、密かに命じられて、諷歌倒語(ソヘウタ・サカシマゴト)を行って、妖気(ワザワイ)を祓いました。倒語(サカシマゴト)を使ったのはこれが初めてでした。 |
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■建国年日
日本では2月11日が建国記念日です。これは神武天皇が即位した旧暦の一月一日を太陽暦の現在の暦に換算すると「2月11日」だからです。 ■諷歌倒語(ソヘウタ・サカシマゴト) ソヘ歌は、そのものズバリを言わずに、別のものに例えば言い換えること。倒語は味方だけに分かるようにした暗号のようなもの、らしいです。ちょっと詳細はわたしもピンと来てないです。ともかく、言葉に「災い」を祓う力があるという言霊信仰のなせる技です。 |
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■二年春二月甲辰朔乙巳定功行賞
二年春二月甲辰朔乙巳、天皇定功行賞。賜道臣命宅地、居于築坂邑、以寵異之。亦使大來目居于畝傍山以西川邊之地、今號來目邑、此其緣也。以珍彥爲倭國造。(珍彥、此云于砮毗故。)又給弟猾猛田邑、因爲猛田縣主、是菟田主水部遠祖也。弟磯城、名K速、爲磯城縣主。復以劒根者、爲葛城國造。又、頭八咫烏亦入賞例、其苗裔卽葛野主殿縣主部是也。 |
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神武天皇が即位して二年の春二月の二日。天皇は論功行賞(イサヲシキヲサダメタマヒモノヲオコナイタマフ=東征に貢献したものに報償を与えること)を行いました。道臣命(ミチノオミノミコト)に宅地(イエドコロ)を与えました。それは築坂邑(ツキサカノムラ=橿原市鳥屋町)で、特に道臣命の功績を評価しました。大來目(オオクメ)には畝傍山(ウネビヤマ)の西の川原の土地に住まわせました。それで今、そこ土地を來目邑(クメノムラ)と呼ぶのはそのためです。珍彥(ウズヒコ)は倭國造(ヤマトノクニノミヤツコ)に任じました。
また、弟猾(オトウカシ)に猛田邑(タケダノムラ)を与え、猛田縣主(タケダノアガタヌシ)としました。菟田主水部(ウダノモヒトリラ)の遠祖です。弟磯城(オトシキ)は名前を黒速(クロハヤ)といいます。弟磯城(オトシキ)を磯城縣主(シキノアガタヌシ=桜井市)に任じました。劒根(ツルギネ)という人物を葛城國造(カヅラキノクニノミヤツコ)としました。頭八咫烏(ヤタノカラス)にも報償がありました。頭八咫烏の子孫は葛野主殿縣主部(カズノノトノモリノアガタヌシラ)です。 ●珍彥は于砮毗故(ウズヒコ)と読みます。 |
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■珍彦は誰?
神武天皇が九州から出て直後、海で迷っていると出会ったのが「珍彦」で、海の道案内をしてくれたことから、それ以降は「椎根津彥」という名前で活躍。ここで倭國造になります。出世しましたねー。ようは会社創立から関わる古参の役員が社長から株を譲り受けるみたいな、イメージでしょうか。 |
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■四年春二月壬戌朔甲申天神を祀り大孝をのべる
四年春二月壬戌朔甲申、詔曰「我皇祖之靈也、自天降鑒、光助朕躬。今諸虜已平、海內無事。可以郊祀天神、用申大孝者也。」乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原。用祭皇祖天神焉。 |
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神武天皇が即位して四年の春2月23日。天皇は言いました。
「わたしの皇祖(ミオヤ=祖先)の霊(ミタマ)が天より降りて来て、私の体を照らして助けてくれました。今、もろもろの敵たちを静かにさせて、海内(アメノシタ)は平穏になりました。天神(アマツカミ)を、祀って、それで大孝(オヤニシタガウコト)を果たしましょう」 靈畤(マツリノニワ)として鳥見山(トミノヤマ)の中に立ちました。そこでその場所を上小野榛原(カミツオノハリハラ)・下小野榛原(シモツオノハリハラ)といいます。それで皇祖(ミオヤ)の天神(アマツカミ)を祀りました。 |
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■海内で
海内と書いて「アメノシタ」となっているように、ここでは「天下」ではありません。なぜか?よく分かりませんが、この部分は古い伝承を元にして書いているからではないかと推測。 ■儒教の影響について 儒教は後では「政治学」のようになってしまいますが、元々は中国の一般的な「先祖崇拝」といった「常識」を体系化したものです。その中で「親を敬うこと」…「孝」はとても大事だとされました。また先祖を祀ることは子孫の義務でもありました。このページでは儒教の影響が見られます。 |
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■卅有一年夏四月乙酉朔日本の美称
卅有一年夏四月乙酉朔、皇輿巡幸。因登腋上嗛間丘而 |