古代日本 異説

古代史国内資料年代推定神社祭神神社伝承
大和朝廷の国家統一方法戦乱からの国家統一平和的国家統一
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諸説 / 邪馬台国と卑弥呼古史古伝八咫烏「倭」「大和」の語源東日流外三郡誌鉄と神上古の硬外交国号の由来秦氏の正体日本武尊伝承天日槍勾玉の女神
中国史書に見る倭国 / 倭の形成期倭体制の発展期倭国の転換期魏志倭人伝宋書好太王碑隋書
 

雑学の世界・補考   

第1章 古代史の復元

第1節 国内資料
一般に古代史を探る資料としてよく使われているのは、次のようなものである。
1 古事記・日本書紀・神社古伝承などの日本国内資料。
2 魏志倭人伝・後漢書東夷伝などの外国史料。
3 遺跡・遺物の出土状況。
日本国内資料は、他の資料に比べて詳しいのであるが、都合によって書き換えられている可能性もあり、その信憑性に疑問があるというのが一般的見解である。しかし、より正確であるといわれている外国史料や遺跡・遺物は、断片的であるために、全体の流れをつかむことができにくく、複数の解釈を生じている。このような状況であるから、いつまでたっても古代史の謎は解決しないのである。
信憑性に疑問があると雖も、最も詳しいのは国内資料である。例えば、戦国時代において、今川義元が上洛の兵を挙げてから、徳川家康が幕府を建てるまでの国内の記録がすべて失われていて、それを、遺跡・遺物と外国の資料だけで正しく復元できる人がいるだろうか。このようなことは、まず不可能である。このように、国内資料を無視した状態では、複数の解釈が可能となり、正解を得ることはまず不可能と考えられる。全体の流れをつかむには、日本国内資料に頼るしかないと判断し、日本国内資料のうち、正確である可能性の高いものを基に古代史を復元し、その内容を、外国史料や遺跡遺物と照合することによって確認し、矛盾を生じるものはその伝承が正しくないと判断するという方法で論を進めたいと思う。
古伝承に関して、多くの人の書物を拝見した中で、真実に近いのではないかと個人的に判断したのが、栗原薫著の「日本上代の実年代」、原田常治著の「古代日本正史」「上代日本正史」そして、小椋一葉著の「消された覇王」「女王アマテラス」である。
「日本上代の実年代」は、古事記・日本書紀の年代が古代の半年一年暦で決められており、その後の通常の暦との間で、混乱が生じたために、年代が合わなくなっているという仮定の下で、年代復元をしたものである。この復元年代を用いると、古事記と日本書紀の間の年代の違いを説明できるばかりか、中国史書や、好太王碑文、朝鮮半島の史書などとほぼ完璧に一致しているという結果が得られた。偶然で一致することはとても考えられないので、この仮定は正しいと考えられる。それと同時に、古事記・日本書紀は意外に正しい情報を伝えている証にもなる。しかし、一致しているのは開化天皇の没年(245年)以降のことであり、それ以前は、単純に日本書紀の年代を半分にしただけで、他資料との年代不一致がかなり見受けられる。そのため、崇神天皇以降について、「日本上代の実年代」は、概ね正しいと判断したい。
次に、「古代日本正史」「上代日本正史」「消された覇王」「女王アマテラス」であるが、これらは、著者が日本全国に散らばる神社に伝わる古伝承を調べ上げ、その古伝承につながりがあることを発見して、古代史を復元したものである。
離れた場所にある複数の神社が、互いを裏付けるような伝承を持っていることが多い。このように複数の神社で裏付けられた伝承をつないでいくと、古事記・日本書紀とは別の古代史が浮き出てくるのである。そして、各神社の伝承の食い違いを調べていくと、古事記・日本書紀に沿うように、伝承の改竄が行われていると言った事実も浮上してくる。
たとえば、古事記・日本書紀では、イザナギ・イザナミが国生みをしたとあるが、神話に記録されている場所の神社を調べてみると、イザナギやイザナミが祭られているものはほとんどなく、あっても具体的な行動を示す伝承を伴っていない。しかし、相当数の神社が代わりにスサノオやニギハヤヒを祭っていて、国土の統一をしたという伝承を伝えている。一つや二つの神社がこのようなことを伝えているのであったら、何かの間違いということも考えられるが、非常に広範囲に分布する数多くの神社が、古事記や日本書紀にはない具体的な各地における業績を伝えているのである。これは国土統一をしたのはスサノオやニギハヤヒで、古事記・日本書紀では、その業績をイザナギやイザナミにすり替えたものと判断することができる。
これらの伝承を伝える神社は数が多い上に、古事記や日本書紀が編纂される前に建てられたものが多いために、古伝承を故意に作ったとか、偶然一致するとか言うことは考えにくく、真実を伝えていると考えた方が自然である。
しかし、これら書物の復元古代史は、大和朝廷の成立を241年としており、中国史書や遺跡・遺物との照合が不十分で、その年代設定に矛盾が生じていて、「日本上代の実年代」とも繋がらない。そこで、神社古伝承の年代を何年か遡らせて修正し、「日本上代の実年代」と繋いだ古代史を復元したいと思う。  
 
第2節 年代推定

 

第一項 平均在世年数
「古代日本正史」では、天皇一代平均在位年数を約10年として計算したために、神武天皇の即位年代が241年頃になるというものである。ところが天皇に即位するのは親から子へ相続することもあれば、兄弟相続のこともあるし、従兄弟相続もあり得るのである。そのため、どの相続をするかによって平均年代が違ってくる。一代平均の誤差は代を重ねるごとに累積するのである。なるべく誤差の少ない推定法を採らなければならない。
そこで、天皇に即位するかしないかに関係なしに、系図から年代を推定してみようと思う。まず、父の没年から本人の没年までを在世年数と呼ぶことにし、この在世年数がどれぐらいであるかを検討してみよう。父と子の年齢差が嫡子誕生時の年齢であるから、系図上の各人物の平均在世年数は、嫡子誕生時の平均年齢と等しくなる。嫡子誕生時の年齢は、医学的にある範囲に限られており、父が没する年齢が上がれば、子の在世年数は短くなり、下がれば長くなるため、何世かの合計として考えれば、そのばらつきは小さくなるものと考えられる。そして、実際に系図から年代を推定する場合は、何代かの合計年数を使うのである。はっきりしている範囲での天皇系図から、平均在世年数を求めると一世平均28年ほどになる。
一世あたりを計算すると、標準偏差約21年、平均に対する標準偏差の割合は74%で、平均に比べばらつきが大きいのであるが、七世程の合計で考えると195年程となり、その標準偏差は26年程で、平均に対する標準偏差の割合は14%となり、ばらつきは小さくなる。世数に比例して合計年数が増えるが、何世間の年数をとろうとも、標準偏差は大きくは変わらないのである。これにより、系図を用いて実年代を推定するには、何世かの合計を使うと、ばらつきが少なく、より正確な推定ができることが分かる。上の表は天皇系図における1世〜10世までの各世間の年数を計算し、その年数ごとの場合の数を示したものである。これをもとに古代の年代推定をしてみよう。
正確な年代推定をするには天皇系図が正しいものでなければならないが、古事記・日本書紀の系図は、大和朝廷初期ですべて直系になっており不自然である。そこで、まず、系図の確認をする。
第二項 天皇系図の修正
皇統譜の人物の没年から直系の各世代間の年数を調べて、古代の年代を推定しようと思う。
「日本上代の実年代」により崇神天皇の没年が279年になっており、神武天皇から崇神天皇までの世数がわかれば、神武天皇の即位年つまり、大和朝廷の成立時期が推定できる。「上代日本正史」によると、崇神天皇は神武天皇七世にあたり、古事記・日本書紀とは異なる系図を示している。第二代綏靖天皇・第三代安寧天皇・第四代懿徳天皇が兄弟であるということと、第八代孝元天皇は神武天皇の次男の彦八井耳命の曾孫に当たり、第七代孝霊天皇とは別系統同世代になっている。
著者の原田氏が、旧家に伝わる孝元天皇の系図を手に入れられたそうであるが、綏靖・安寧・懿徳三天皇が兄弟であることの裏付けに乏しい。そこで、別資料から確認してみることにする。丹後の篭神社に保存されている国宝の海部氏系図によると、第五代孝昭天皇の皇后(世襲足姫)は、神武天皇と同世代の天村雲命の孫となっており、神武天皇と孝昭天皇も祖父と孫の関係ぐらいでなければならない。つまり、「上代日本正史」にあるとおり、綏靖・安寧・懿徳三天皇が兄弟と考えなければ説明が難しい。
また、阿蘇神社を創建した人物は、神武天皇の孫にあたる武磐竜命の子であるから、神武天皇四世である。これが孝霊天皇の時代であると記録されていることから、この人物は孝霊天皇と同世代と考えられ、孝霊天皇は神武天皇四世あたりと判断される。綏靖・安寧・懿徳三天皇が兄弟であれば、孝霊天皇は神武天皇五世となる。
このようにして、いろいろな豪族の系図と比較したのが豪族系図である。これを見ると、ほぼ完全に皇室の推定系図と世数が一致していることがわかる。
これらより、「上代日本正史」の系図は大体正しいと判断してよい。

推定皇室系図
   1    2       3         4    5    6    7    8    9    10    11    12     13    14
  素盞嗚━━饒速日━━┳━宇麻志麻治
            ┃
            ┗━伊須気依姫━┓ ┏━八井耳━━雀部━━雀部━━孝元━━開化━━崇神━━垂仁━━景行━━日本武━━仲哀━━応神
                    ┣━┫
  天照大神━━鵜茅草葺不合尊━━神武━┛ ┗━綏靖━━━孝昭━━孝安━━孝霊

第三項 一年2歳論
魏志倭人伝には「倭人は春耕秋収を数えて年数としている。」「人の寿命は倭人の計算で百年あるいは八、九十年という。」とある。当時の平均寿命は発掘した人骨から30年を少し超えるぐらい、日本書紀の年代のはっきりした頃の天皇の平均寿命は54歳である、このことから考えると、当時の一年は今の半年に相当するようである。日本書紀の日付を調べてみると、綏靖天皇から開化天皇までは孝安天皇の即位期日を除いてすべて各月15日未満である。それ以外の天皇についても15日未満が圧倒的に多い。このことは、当時の1ヶ月が15日までであったことを想像させる。
第四項 「日本上代の実年代」による年代推定
栗原薫氏は、5世紀を中心とする上代は半年で1年とした紀年があったという仮定の元で朝鮮半島史書・宋書・好太王碑文などとの照合を図ることにより、その年代を復元された。この復元年代では朝鮮半島史書・宋書・好太王碑文及び日本書紀・古事記の年代のずれがきれいに説明できる。要点をまとめると次のようなものである。
1 允恭天皇の没年までに通常紀年と半年一年紀年が国内に存在し、それぞれ干支で持って記載された資料があった。
2 日本書紀はそれぞれの干支から推定される年代を矛盾があるまま記載した。
3 通常紀年による年代と半年一年紀年による干支を区別せずそのまま記載した。
4 通常紀年と半年一年紀年の間に16年のずれがあり、半年一年紀年は通常紀年より16年さかのぼっている。
5 崇神天皇から仲哀天皇までは古事記または日本書紀の寿命から百を引いた数字を在位年数とすると、古事記の崩年干支及び、住吉大社神代記に伝えられている垂仁天皇の没年干支(辛未)と一致する。
6 通常紀年と半年一年紀年の双方を使うことにより古事記と日本書紀の宝算のずれが説明できる。
これによると、開化天皇以降の各天皇の没年は次のようになる。
        崩年 修正 書紀 記
           干支 干支 干支
  9 開化天皇 245 庚午 癸未
10 崇神天皇 279 戊寅 辛卯 戊寅
11 垂仁天皇 307 辛未 庚午
12 景行天皇 325 戊申 庚午
13 成務天皇 328 乙卯 庚午 乙卯
14 仲哀天皇 331 壬戌 庚辰 壬戌
15 応神天皇 394 甲午 庚午 甲午
16 仁徳天皇 427 丁卯 己亥 丁卯
17 履中天皇 432 壬申 乙巳 壬申
18 反正天皇 437 丁丑 庚戌 丁丑
19 允恭天皇 459 己亥 癸巳 甲午
これによると倭の五王は讃(仁徳天皇)、珍(反正天皇)、済(允恭天皇)、興(安康天皇)、武(雄略天皇)となる。
この年代は朝鮮半島史書・宋書・好太王碑文などと合理的に一致しているため、この古代史の復元にこの説を用いることにする。この説を用いると、卑弥呼の邪馬台国時代は崇神天皇の時代となる。栗原氏は卑弥呼を開化天皇の皇后に比定しているが、倭迹迹日百襲姫にすると、卑弥呼の没年が250(崇神10)年となり、前後の日本書紀の記事と魏志倭人伝の記事がほぼ完全に一致していることが分かった。また、天文ソフトで計算された日食の日時(248年9月)と天岩戸神話のときに作られたという八咫の鏡の製作年(崇神6年=248年後半)と見事な一致が見られる。
第五項 大和朝廷の成立年
この系図を使うと崇神天皇は神武天皇七世となり、神武天皇即位から崇神天皇の没年までの年数は上の表より七世193年程となるので、神武天皇の即位年は、「日本上代の実年代」による崇神天皇没年の279年から逆算して86±27年となる。よって、大和朝廷成立は紀元80年頃と推定され、弥生時代後期前葉の終わり頃と考えられる。弥生時代後期前葉から中葉への変化は、大和朝廷成立によってもたらされたものと推定され、後でその変化を確認してみたいと思う。
栗原説によると神武天皇即位年は紀元前98年となっている。これは、開化天皇以前もそのまま半年一年紀年でつながっているとした仮定で計算されたものであるが、この復元古代史とは一致しない。栗原説を利用した神武天皇の即位年を推定してみると、神武天皇は辛酉年に即位したと記録されている。この辛酉が正しいかどうかの議論もあるが正しいとすれば、半年一年紀年で紀元91年となる。しかし、「日本上代の実年代」によると半年一年紀年は16年さかのぼっている。そのため通常紀年に直した8年をさかのぼらせて紀元83年となる。これは先に推定した即位年に極めて近い数値である。
第六項 初期天皇の在位年数
古事記と日本書紀の年数の違い
崇神天皇以降の各天皇の在位時期は「日本上代の実年代」でほぼ間違いないと推定するが、それ以前の天皇については「日本上代の実年代」ではなかなか一致しない。そこで初代から第10代までの天皇の在位時期を推定してみる事にする。
表は古事記と日本書紀の年齢と在位年数を比較したものである。アンダーラインが入っているのは古事記の年齢と関連が深いと考えられる在位年数または年齢を示している。これによると、古事記の年齢に関連が深いのは、崇神天皇以前は日本書紀の年齢よりも在位年数である。表のa−cは古事記の年齢と日本書紀の在位年数との差を取ったものであるが、1の位が0〜3にかぎられ、きわめて作為的である。この二つのデータは関連が深いと考えてよいようである。また、各天皇の即位時の年齢は表のb−cであるが、崇神天皇まではこれも極めて作為的である。よって、崇神天皇以前の日本書紀の年齢はほとんど無意味であり、在位年数に意味があると考えられる。
孝霊天皇の没年
崇神天皇の即位を246年とすると、卑弥呼と考えられる百襲姫の没年は崇神10年(250年)となる。その前後の訪問記事が年表にあるとおり日本書紀と魏志倭人伝で一致していることから開化天皇の没年も「日本上代の実年代」が正しいと考えられる。
また、「日野郡誌」によると、孝霊天皇が孝霊45年に鳥取県日野郡周辺にやってきて同71年まで賊徒を退治したと伝えられているが、私はこれが倭の大乱であると推定している。日本書紀のとおりに半年一年暦で年代を計算すると孝霊45年が170年、71年が184年となり梁書に言う倭の大乱の時期である光和年間(178〜183)とぴったりと一致し、孝霊天皇の没年までは日本書紀の年代はそのままでよいことがわかる。
孝元天皇の在位年数は日本書紀で57年である。これは古事記の宝算の57年に等しい。日本上代の実年代でも古事記の宝算は寿命というよりは在位年数と関連が深いことが指摘されている。孝元天皇の場合はそのものずばりである。問題は開化天皇にある。開化天皇は日本書紀における在位年数は60年で、古事記の宝算は63年である。「日本上代の実年代」によると、開化・景行・成務の三天皇の在位年数は不明であったがために平均の60年(通常紀年の30年)にしたとされている。それであるならば開化天皇の在位年数60年は怪しいことになる。ここでは倭の大乱があった頃と孝霊天皇の在位時期が一致するためにそのまま開化天皇の60年を採用しているが、あるいは古事記の63年が正しいかもしれない。しかし、その差は半年一年暦で3年であるから、63年を採用しても孝霊天皇時代に合致し矛盾は生じない。どちらが正しいかを判断する方法が今のところ存在しないので日本書紀の年代をそのまま使うことにする。
開化天皇の没年から推定される孝霊天皇の没年は1世代前であるから前表より245年−28年±21年である。つまり、196年〜238年となり、孝霊76年=187年より少しずれるようである。吉備津彦の謎の項で詳しく述べるが、吉備津彦の年代から推定して孝霊天皇の没年は200年頃以降と考えられる。
日本書紀の紀年は天皇誕生年からの年数
神武天皇の即位が80年頃ということから、孝昭天皇の在位83年や孝安天皇の在位102年は半年一年暦としても42年と51年となり長すぎる。日本書紀の年代はそのままでは正しくないようである。
上の表は孝昭天皇と孝安天皇の日本書紀の記述を年代ごとにまとめたものである。これを見ると、孝安38年に孝昭天皇を葬ったとある。死後38年(実は19年)もたってからの埋葬とは異常である。孝霊天皇や孝元天皇が死後5・6年(実は2.3年)たってから埋葬されているが、ほかの天皇はその年か次の年には埋葬されている。孝安天皇は孝昭天皇の死後即位したのではなく、生前に譲位されたものと考えれば、この矛盾が説明可能である。ということは、日本書紀の紀年は在位中の紀年ではないことになる。
また孝昭天皇も孝安天皇も皇后を決めたのが即位後29年と26年でいずれもかなり経ってからとなっている。古代は平均寿命も短く、流行り病などでいつ死ぬかわからない状態であり、後継者を早めに育てるのは大変重要なことと思われる。そのため皇后の決定は早くなければならない。このことは、この2天皇がかなりの若年で即位したか、紀年が即位からのものでないということを示している。前天皇が死亡したのならともかく、生前譲位で若年即位というのは考えにくい。その結果、日本書紀のこの2天皇に関する紀年は、即位年を基準としているのではないと考えられる。それでは何が基準になっているのであろうか。
孝昭天皇が没したのは孝安38年の少し前と仮定してみる。孝安天皇が誕生したのは孝昭48年であるが、その35年後に孝昭天皇が没している。この仮定によると日本書紀の孝安天皇元年は、孝安天皇誕生年とほぼ一致することになるのである。孝安天皇の紀年を誕生年を基準とするものとすれば、孝安35年(実は18年)に孝昭天皇が没し孝安38年(実は19年)に葬ったことになり、自然につながる。崇神天皇以前は古事記の年齢と日本書紀の在位年数の関連が深いのもこのことを裏付けている。日本書紀の初期天皇の紀年は天皇誕生年からのものと 考えられるのである。これによると孝昭天皇誕生から孝安天皇没までの年数は149年(実は75年)となる。
神武天皇即位が辛酉年であることはよく知られているが、これが正しいかどうかは定かでない、しかし、半年一年暦であることから計算した辛酉年は83年であり、推定した神武天皇即位年に極めて近く、誤差の範囲内で一致している。これが偶然である可能性は低く、神武天皇の即位年は83年が正しいと考えられる。神武天皇の在位年数の76年(実は38年)は初代天皇であるため、即位後のものと考えられる。これにより、神武天皇の没年は121年となる。孝霊天皇の倭の大乱までの年数が50年ほどとなり、「上代日本正史」にあるように神武天皇も生前譲位していたものと考えられる。
懿徳天皇の誕生は安寧天皇の即位5年前となるが、それは安寧天皇14歳(実は7歳)で、しかも懿徳天皇は第2子である。これは医学的にありえないことである。綏靖天皇(33年)、安寧天皇(38年)、懿徳天皇(34年)の在位年数を実年齢に直すと17年、19年、17年となる。他の天皇に比べて在位が非常に短いことと合わせて、この3天皇が兄弟相続であることの裏付けの一つである。しかし、兄弟相続なのに3人合わせて53年とは長すぎる。この3天皇の紀年も年齢と判断する。その結果、いずれも早く没したことになる。神武天皇即位後朝廷の体制が固まるまで譲位はありえないし、3天皇の死後即位ということも考えられないため、神武天皇の即位後15年前後してから譲位したものと考える。綏靖天皇の在位は100〜102程度、安寧天皇は103〜106程度、懿徳天皇が107〜110程度と考えられる。いずれも3〜4年在位である。後の時代の兄弟相続にしてもそのようなものであるから妥当といえよう。3天皇とも若すぎる死であるため、嫡子の誕生は難しかったと考えられるが、いずれも皇后がいたようである。奈良時代の貴族の平均結婚年齢は15歳であるという報告もある。当時は15歳あたりで一人前といった考え方があったのではないだろうか。この3天皇はいずれも短命であったために、兄弟相続となったと考えられる。
次の第5代孝昭天皇はある程度の年齢であることが必要とされ、懿徳天皇の子であるとすれば誕生直後の即位となり、「上代日本正史」にあるとおり、おそらく綏靖天皇の子であろう。孝昭天皇は綏靖天皇の死と入れ替わる様にして誕生したものと考えられる。よって孝昭天皇の誕生は102年頃となり、孝昭天皇の没年は144年頃、孝安天皇の没年は177年頃となる。
孝霊天皇と孝元天皇の関係
「上代日本正史」によると、孝霊天皇と孝元天皇はいずれも神武天皇5世であるが、別系統であるとなっている。後でも述べるが、このことのはっきりとした裏付けは取れていない。しかし、年代を調べていくとこの2天皇が父子相続とは思えない面が出てくるのである。
「魏志倭人伝」によると250年頃卑弥呼が没しているがそれは「年長大」と記録されている。80〜90歳であったと仮定すると、卑弥呼の誕生は160〜170年となる。卑弥呼は倭迹迹日百襲姫と推定しており、孝霊天皇の長女である。また、弟の若建吉備津彦命も180年頃吉備国や出雲国との戦乱で活躍している。この兄弟はいずれも160〜170年頃誕生していると思われる。孝霊天皇はこの年代論で計算していくと149年誕生となる。孝霊天皇が20歳前後のときこの姉弟が誕生していることになる。後で述べるとおり、孝霊天皇は210年頃まで生存していたふしがあり、215年没の孝元天皇の生存期間とほとんど重なるのである。孝元天皇、開化天皇の紀年は誕生年からではなく、即位年からと思われ、在位年から推定すると平均的寿命であったと思われる。孝霊天皇と孝元天皇が親子であると考えられなくもないが、同世代である可能性が高い。
各天皇の没年と年代推定
第一代神武天皇の即位年を83年として開化天皇の没年(245年)までの各天皇の没年を「上代日本正史」をもとにしてまとめると次のようになる。
これを見るとほとんどの天皇が推定範囲に入っている。崇神天皇以降で範囲から外れているのは、短命であったと推定されている天皇のみである。崇神天皇以前では綏靖天皇から懿徳天皇までと孝霊天皇の没年が推定領域から外れている。綏靖天皇から懿徳天皇までは早世と考えられる。孝霊天皇については同世代への生前譲位であるためと思われる。また、孝安天皇と孝霊天皇が同世代という可能性もあるが、孝霊天皇が210年頃まで生存した可能性を考えると、やはり、孝元天皇と同世代と考える方が良いようである。
神武天皇以前の年代設定
神武天皇即位はAD83年頃となったが、それ以前の人物の年代を推定してみよう。
神武天皇の父である鵜茅草葺不合尊は1世前でAD50〜AD80ごろ、その母である天照大神(ムカツヒメ)はAD20〜AD50ごろで、イザナギはさらにその1世前でBC10からAD20頃となる。スサノオはイザナギと同世代と考えられBC10からAD20頃が活躍時期となる。ここにあげた年代はその人物の活躍時期であり生誕はその20〜30年前となる。
「上代日本正史」「古代日本正史」の年代を160年ほど溯らせて、「日本上代の実年代」に接続すると以後に述べるとおり、中国史書、考古学的事実、神社伝承が驚異的に照合するのである。
各種資料との照合
ここで導かれた推定年代が考古学的事実及び中国文献と一致しなければ、この年代推定は間違いということになる。以下の年表が考古学的事実と推定年代を照合したものである。これを見ると、伝承における人々の動きと外来系土器の出土状況、倭国、日本国、大和朝廷の各時期における伝承上の勢力範囲と各種青銅器、外来系土器、墳墓、鉄器などいずれもきれいに一致していることが分かる。ここで確認しておきたいことは、考古学的事実に照合するように伝承を組み合わせたのではなく、この年代推定の元で伝承を一本の線につないだら考古学的事実とこれだけ一致したということである。
伝承・中国文献・考古学的事実の対照年表
この推定年代を統計的に分析した。継体天皇を基準とした布都御魂から継体天皇没年までと開化天皇没年を基準とした表である。継体天皇以後は日本書紀の各天皇の没年がほぼ正しいと推定されているので、継体天皇以降昭和天皇までの天皇以外も含む直系の人物の没年を調べ、各人物の世数と年数の関係を統計分析し、その結果と継体天皇以前の各天皇の推定没年が統計上のどの位置に当たるかを調べたものである。これによると、没年を推定したすべての人物が統計上自然な時期であることが分かる。
下の表は各豪族の世数と天皇系図の世数の対照表である。水色がついているセルの人物はその世数の天皇とほぼ同世代と確認できるものである。
この表より海部氏、大伴氏、吉備氏はすべての世代において天皇家と世代が一致している。これに対して物部氏、出雲氏、三輪氏は応神、仁徳朝における対応人物が見当たらない。大伴氏も一般には大伴武持の子が大伴室屋といわれているが、和泉国神別によるとここに佐彦、山前が存在し、きれいにその前後がつながる。また、景行・成務朝も該当する人物がいない豪族もあるが、この期間は短期間(20年ほど)であるためにありうることと判断する。
履中・反正・允恭朝以降はどの豪族も不自然な箇所なく継続している。
応神・仁徳朝で何系統かの豪族に空白(赤色)が見られるのは神功皇后・応神天皇が大和を制圧したとき、旧大和朝廷側についた豪族が処罰を受け、履中朝までの間中央から遠ざけられていたためではないかと想像する。
 

世数

皇室

 

物部氏

海部氏

大伴氏

出雲氏

三輪氏

吉備氏

    最終代没年          

0

布都御魂

0

           

1

素盞嗚尊

30

           

2

鵜茅草葺不合尊

75

饒速日命

天火明命

 

天穂日

大国主命

 

3

神武

121

宇麻志麻治命

天香語山命

道臣命

武夷鳥

事代主命

 

4

綏靖・安寧
・懿徳

110

彦湯支命

天村雲命

味日命

伊佐我

天日方奇日方命

 

5

孝昭

144

出石心大臣命

天忍人命

稚日臣命

(7)

健飯勝命

 

6

孝安

175

大矢口宿禰

天戸目命

大日命

 

健甕尻命

 

7

孝霊・孝元

215

大綜杵

建斗米命

角日命

飯入根命

豊御気主命

 

8

開化

245

伊香色雄命

建宇那比命

 

鵜濡渟命

健飯賀田須命

 

9

崇神

279

十市根

建諸隅命

豊日命

襲髄命

大田田根子

五十狭芹彦

10

垂仁

307

胆咋

倭得玉命

武日

来目田維穂命

 

若建吉備津彦命

11

景行

325

 

弟彦命

 

三島足奴命

大御気持命

御鉏友耳建彦命

12

成務

328

 

小縫命

     

吉備建彦命

13

仲哀

331

五十琴

乎止与命

武持

意宇足奴命

大友主命

御友別命

14

応神

394

 

建稲種命

佐彦

   

稲速別

15

仁徳

427

 

尾綱根命

山前

   

饒別彦

16

履中・反正
・允恭

459

伊莒弗

弟彦

室屋

宮向

志多留

速津彦

17

安康・雄略

485

目大連

 

布奈

石床

窪屋・前津屋

18

清寧・賢宗
・仁賢

499

   

布禰

身狭

 

19

武烈・継体

531

荒山

坂合

金村

意波苦

特牛

津布子

20

安閑・宣化
・欽明

571

尾興

佐迷

阿被比古

美許

香斐

21

敏達・用明
・崇峻・推古

628

守屋

 

咋子

 

小鷦鷯

勝鹿戸

22

聖徳太子

622

片野田

栗原

 

叡屋

文屋

古瀬

23

舒明

641

薦何見

多々見

長徳

帯許

利金

鹿瀬男

24

天智・天武

686

 

大隅

安麿

果安

高市麿

圀勝

25

元明

722

櫛麻呂

 

旅人

広島

 

真備


この表から判断して、皇室系図は各豪族の世数との間に整合性が見られ、1世30年程度での年代計算が正しいことを示している。
下の表は神武天皇即位から崇神天皇没までの年代推定の結果を年表にしたものである。〜のついたものは年代がはっきりしないものである。
 

西暦

外国

和暦

日本

BC38

布流国滅亡(百済本紀)

   

BC35

   

〜スサノオ誕生

BC15

   

〜ヤマタノオロチ事件
〜出雲国建国

AD5

   

〜瀬戸内地方統一

15

   

〜九州地方統一

20

   

〜スサノオ出雲帰還

25

   

〜初代倭王スサノオ没
〜ニギハヤヒ大和統一

30

   

〜東日本統一

45

   

〜第2代倭王オオクニヌシ没

50

   

〜国譲り事件

57

委奴国王漢へ朝貢

 

〜神武天皇誕生

60

   

〜ニギハヤヒ没

70

   

〜第3代倭王ムカツヒメ没

75

   

〜第4代倭王フキアヘズ没

83

 

神武1

神武天皇即位(大和朝廷成立)

102

   

綏靖天皇没(8510233)

106

   

安寧天皇没(8710638)

107

生口160人献ず(後漢書)

   

110

   

〜い徳天皇没(9311034)

120

   

神武天皇没

137

 

考昭83

考昭天皇没

160

この頃倭の大乱発生

考安80

大乱発生(富士古文書)

170

 

考安102

考安天皇没(120170)

171

 

考霊44

 

考霊45

考霊天皇西海親征(日野郡誌)〜考霊71

185

この頃倭の大乱終結

考霊72

吉備国平定(片山神社社記)

考霊73

〜出雲国平定

187

この頃卑弥呼共立

考霊76

考霊天皇没

孝元1

孝元天皇即位

216

 

開化1

開化天皇即位

開化2

 

238

難升米遣使(倭人伝)

開化50

 

240

帯方郡太守倭王に詔書を渡す(倭人伝)

開化54

 

243

倭王遣使(倭人伝)

開化56

 

開化57

 

245

難升米に軍旗を賜る(倭人伝)

開化59

 

開化60

開化天皇没

246

 

崇神1

崇神天皇即位

   

崇神2

 

247

狗奴国と戦う(倭人伝)
倭王遣使(倭人伝)

   
   

248

 

崇神5

疫病蔓延、国民多数死

崇神6

豊鍬入姫天照大神を祭る

249

     

崇神8

大田田根子大物主神を祭る

250

張政等派遣(倭人伝)
卑弥呼没(倭人伝)
国中争う(倭人伝)

崇神9

 

崇神10

武埴安彦の乱
百襲姫死
四道将軍派遣

251

 

崇神11

外国人多数(張政等)来日

崇神12

戸口調査、課役

265

魏の司馬炎が魏を滅して晋を興し武帝となる。

崇神42

 

266

倭人が方物献ず(晋書)/ 張政が帰るのを送り、朝貢(倭人伝)

崇神44

 

279

 

崇神68

崇神天皇没

280

 

垂仁1

垂仁天皇即位

281

 

垂仁3

新羅王の子天日槍来日

垂仁4

狭穂彦王の乱〜垂仁5年

287

新羅人、倭に行き要職に就く

   

290

武帝崩。太子恵、汝南王、弟楚王殺害。

   

292

 

垂仁25

天照大神を倭姫に託す

301

超王倫、恵を退けて帝位につく
八王の乱〜306

垂仁32

陵墓に埴輪を納める

302

高句麗玄菟郡を攻める

   

303

 

垂仁35

池や溝をたくさん作る

304

西方蛮族氏が成を興して皇帝を称し、北方蛮族匈奴も同じく漢を興して皇帝を称した。

   

306

懐帝(武王の子、恵帝の弟)即位

垂仁41

景行1

垂仁天皇没

景行天皇即位

307

 

景行4

美濃巡幸

311

匈奴の漢、懐帝を捕え、三万余人を殺害。財宝や宮人が略奪され、諸陵が発掘され、宮廂官府が焼かれた。

景行9

景行10

 

312

 

景行11

 

景行12

九州に向かう
周防→豊前→豊後で土蜘蛛退治
日向で行宮(高屋宮)

313

高句麗により楽浪郡滅亡

景行13

襲国平定

314

帯方郡滅亡

   

315

玄菟郡滅亡。新羅高句麗百済三国時代に入る

景行18

九州西側巡幸

316

懸帝、漢に長安を包囲され降伏。

景行19

九州より帰還

景行20

 

317

西晋滅亡。

   

318

東晋おこる

   

319

 

景行25

武内宿祢・日本武尊を北陸・東方諸国に派遣

320

 

景行27

武内宿祢東北より帰還

景行28

日本武尊伊勢にて没

322

張統が楽浪・帯方二郡によって高句麗王乙仏利と相攻防。

   

325

 

景行39

景行天皇没

成務2

成務天皇即位

328

 

成務6

成務天皇没

仲哀2

仲哀天皇長門行宮(豊浦宮)

熊襲との戦い(〜331

331

高句麗美川王没

仲哀7

仲哀天皇没

神功皇后朝鮮出兵

366

百済、日本と連合

   

369

高句麗、百済を攻める

   

370

燕滅亡

   

371

百済、高句麗を破る

 

神功皇后没

372

東晋、百済王を冊封

 

千熊長彦七枝刀献上

383

 

応神13

王仁来日

391

倭高句麗を責める(碑文)

   

392

高句麗広開土王即位、百済を攻める

   

394

   

応神天皇没

396

高句麗百済を攻める

 

仁徳天皇即位

397

百済倭へ人質を送る

仁徳4

課税免除

399

高句麗、百済を征服

日本百済を救い新羅を制圧

   

400

高句麗、新羅を回復

   

402

新羅、倭国と通好、未斯欣を人質に出す
高句麗、新羅に進入

仁徳11

新羅人朝貢
難波堀江・茨田堤築造

仁徳12

栗隈県の大溝工事
高麗国が鉄の盾、鉄の的を奉る

403

百済、高句麗と戦う

仁徳13

和珥池等工事

仁徳14

感玖の大溝工事

404

日本、高句麗と戦う(碑文)

   

406

百済高句麗に敗れる

仁徳17

新羅が朝貢しなかったので責めさせた

407

   

外国人多数来日、韓人池を作る(応神)

408

高句麗南を攻める(碑文)

   

413

広開土王没

   

420

宋たつ

   

421

讃宋に朝貢(宋書)

   

425

倭王讃朝貢(宋書)

   

427

   

仁徳天皇没

430

 

履中4

諸国に国史を置いた
用水路を作った

432

 

履中6

履中天皇没

436

北燕滅亡
高句麗新羅に侵入
日本高句麗を追う

 

新羅が背く、高麗と戦う(雄略8)

437

 

反正5

反正天皇没

438

   

允恭天皇即位

441

   

盟神探湯を始める

443

倭王済朝貢(宋書)

   

459

   

允恭天皇没

462

興朝貢(宋書)

 

安康天皇暗殺さる

468

高句麗新羅を攻める

   

475

 

雄略13

吉備上道臣田狭新羅に通じる(雄略7

476

高句麗百済を滅ぼす

   

477

 

雄略15

朝鮮出兵(雄略9)

478

倭王武朝貢(宋書)

   

479

宋滅亡

   

485

   

雄略天皇没

     

清寧天皇没5

488

   

顕宗天皇没3

498

   

仁賢天皇没11

502

武寧王たつ

武烈4

 

506

   

武烈天皇没8

507

   

継体天皇即位

527

   

筑紫国造磐井の反乱〜528
継体天皇没

529

   

安閑天皇没

531

   

宣化天皇没

571

   

欽明天皇没


第3節 神社でまつられている神

 

第一項 スサノオ
スサノオは全国の神社で「天王さん」と通称されている。「天皇神社」の祭神はスサノオである。天王社の総本社は愛知県津島市の津島神社である。津島神社の記録に、
「素尊(スサノオ)は則ち皇国の本主なり、故に日本の総社と崇め給いしなり」とある。
これはスサノオが神々の頂点に位置していることを意味している。
また、大山祇命を祭る神社は全国に一万一千社あるといわれているが、その総本社は愛媛県大三島にある大山祇神社である。ここでは大山祇を日本総鎮守として祭ってある。
奈良県の山口神社は大山祇を祭る神社ということでたくさん存在し、いずれも、大和とその周辺の国を結ぶ要路の境界点に建っている。山口神社の中には祭神が大山祇命・須佐之男命と併記されている神社や須佐之男命のみになっている神社もある。これは、大山祇命がスサノオであることを意味している。 また、スサノオの霊廟といわれている島根県の熊野大社でもスサノオはすべての神々の親神であると記録されている。
このようにして、全国の各神社の祭神の関係を調べてみると、その他にスサノオは、タカオカミ・イカズチ・フツシミタマ・ハヤタマオ・シラヒワケ・カミムスビ・オオワタツミ・カグツチ・ホムスビ・ヤチホコ・八幡大神等として祭られていることが分かる。
スサノオは地域の守護神として、あちこちに祭られており、神々の中で最高位に位置している。これは、古事記・日本書紀に書かれている暴れん坊のスサノオ像とは全くかけ離れたものである。全国の神社を調べても、元あった神に違う神を祭らせられたり、祭神を消させられたりといったことが出てくる。スサノオは古代において大変な事業を成し遂げ、全国の神社に日本最高神として祭られたが、後の権力者が都合が悪いと抹殺したものと考えられる。  
第二項 ニギハヤヒ
古代より代々の天皇が頻繁に参拝した神社は、大和の「石上神社」、「大神神社」、「大和神社」が挙げられる。いずれも神話上の最高神である天照大神とは別の人物が主祭神として祭られているのである。日本最高の神社といわれる伊勢神宮には、日本書紀以前に参拝した形跡がほとんどない。そもそも、神話上の最高神を祭った神社が大和にないこと自体がおかしなことである。
古代大和朝廷にとって重要な神社は上に挙げた三神社で、ここに祭られている神は、朝廷にとって重要な人物であるということになる。その祭神とは、それぞれ、「布留御魂神」、「大物主神」、「大和大国魂大神」である。これらはいったいどういった人物なのであろうか。
地方の三輪神社を調べてみると、
栃木市 大神神社  倭大物主櫛甕玉命
桐生市 美和神社 建速須佐之男尊 大物主奇甕玉尊
島根県 来待神社 大物主櫛瓶玉命
大物主はスサノオの近親者で櫛瓶玉という別名があることが分かる。
櫛玉という名で神社を探してみると、
愛媛県北条市 国津比古命神社 天照国照彦火明櫛玉饒速日尊
兵庫県龍野市 井関三神社 天照国照彦火明櫛玉饒速日尊
福岡県鞍手郡 天照神社 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
福岡県久留米市 伊勢天照御祖神社 天火明命
京都府 篭神社(元伊勢一宮) 主祭神 彦天火明命 相殿 天照大神 豊受大神
兵庫県龍野市 粒座天照神社 天照国照彦火明神
鏡作坐天照御魂神社 天照国照彦火明命
饒速日という人物が出てくるが、この人物の別名であることが分かる。篭神社でも分かるとおり伊勢神宮の神の上に位置し、天照という名を持つ神である。「天照」という名の付いた神社の祭神は大抵この饒速日を祭っているのである。「天照」とは天照大神を指すのであるから、天照大神を祭っていなければならないはずである。饒速日は大和朝廷にとって大変重要な人物で、古代の天照大神は、この饒速日を指していたようである。このようなことから、大物主は天火明命であり、饒速日命であることが分かる。
京都の大原野灰方町にある大歳神社は祭神は大歳神であり、石作連がその祖神を祭った神社であるが、次のような記録がある。
「石作連は火明命の子孫で、火明命は石作連の祖神という。」
これは、火明命が大歳であることを意味している。大歳は、西日本各地で祭られており、中には「大歳御祖」とか「大歳御祖皇大神」という名で祭られているところも多い。「御祖」とか「皇大神」とかいうのは、他に「天照皇大神」と「豊受皇大神」ぐらいしかなく、ともに伊勢神宮の神である。この尊称はこの人物が皇祖であることを意味している。
スサノオの出身地である島根県に大歳を祭る神社が多く、飯石郡三刀屋町に大歳神社があり、「神国島根」によると、「須佐之男命出雲に於いて大歳を生み給い...」と書かれており、大歳神はスサノオの子であることが分かる。つまり、饒速日命はスサノオの子ということになる。
スサノオの住んでいた島根県の須我神社を調べてみると、その摂社にスサノオの子が列記してあり、その三番目に「琴平 大歳」と書いてある。琴平の神といえば大物主神であり、大物主神は大神神社の祭神である。
次に、大国魂神であるが、
名古屋市 国玉神社 祭神 大物主神
国内神名帳に「従二位大国魂神」と記録されている。その他、全国の「国玉神社」「国魂神社」は、いずれも大物主神を祭っている。これより、大国魂神は饒速日であることが分かる。
次に布留御魂大神であるが、茨城県の総社神社に布留大神はスサノオの子であると書かれていた。これも饒速日と考えられる。
饒速日は、そのほかに、クラオカミ・ワケイカズチ・コトサカオ・トヨヒワケ・アメノミナカヌシ・クニトコタチ・カナヤマヒコとして全国に神社に祭られている。
古代から大和に祭られて、朝廷が頻繁に参拝している神社には、いずれもニギハヤヒが祭られており、スサノオの子である。ニギハヤヒは大歳御祖皇大神として祭られていることが多く、皇祖であるらしい。皇祖であるからこそ、大和の大きな神社にはすべて祭られており、歴代の天皇も参拝を欠かさなかったという事実が説明できるのである。
この人物は大和朝廷にとって大変重要な人物ということになるが、古事記や日本書紀ではほとんど登場しない影の薄い存在である。日本書紀はニギハヤヒをオシホミミの子であるとしているが、全国のどの神社を調べてもそのような伝承はない。
全国の神社に伝わっている伝承は、古事記や日本書紀とは別のものであり、複数の神社の関連を調べていって浮き出てくるものであるので、これこそ真実を伝えていると判断する。ニギハヤヒは、後の歴史改竄作業によって全国の神社から消されたが、完全に抹殺できず、方々に消し漏れがあり、それによって真の古代史を判明させることができるのである。  
 
第4節 神社伝承を基にした復元古代史

神社伝承を分析することにより、判明した復元古代史のあらすじを「古代日本正史」「上代日本正史」「消された覇王」「女王アマテラス」と先程の年代推定の結果と総合して述べると、次のようになる。  
スサノオ出雲国建国
紀元前37年朝鮮半島北端部(現北朝鮮と中国の国境付近)にあった布留国が滅亡し、その王家の一族であるフツ(布都御魂命)が戦乱をのがれ朝鮮半島南端部から、朝鮮半島の先進技術を携えて船出をした。
フツ一族は対馬海流に乗って島根半島の河下湾に流れ着いた。36年ごろ、平田市塩津町石上神社の地でフツを父としてスサノオ(素盞嗚尊)が誕生した。スサノオは沼田郷で成長し出西の久武神社の地に住んでいた。
紀元前20年頃、スサノオは、恋人イナダヒメ(稲田姫)を土地の豪族ヤマタノオロチ(八岐大蛇)に横取りされたことから、酒の席でヤマタノオロチを殺害した。 スサノオはイナダヒメを奪って八重垣神社(現松江市)の地まで逃避行し、すぐそばの須我神社(現大東町)で彼女と結婚した。嫌われ者の豪族ヤマタノオロチを倒したその力を買われ、 スサノオは周りの人々から国王に祭り上げられた。ここに須我神社を中心とした出雲国が誕生した。
瀬戸内海沿岸地方統一(倭国の誕生)
スサノオは父から受け継いだ朝鮮半島の先進技術を人々に示すことにより出雲国を統治した。先進技術が生活の安定を生み、 周辺の小国家が次々と出雲国に加盟し出雲国は次第に巨大化していった。スサノオは出雲国が次第に巨大化するのを見て、朝鮮半島のような戦乱時代が来るのを避けるため日本列島を先進技術でもって統一することを決意した。
国家統一するために必要な先進技術は今手元にあるフツから受け継いだ技術だけでは不十分に感じ、朝鮮半島に渡って更なる高度な技術を輸入することを考えた。 出雲国と朝鮮半島の交易ルートを安定確保するために、紀元前10年ごろ、国がなかった対馬に渡り、対馬国を造り出雲国に加盟させた。スサノオは対馬から、朝鮮半島に渡り先進技術を次々と取り入れた。
スサノオはその技術を用いて、 瀬戸内海沿岸地方におもむき、日本列島統一の必要性を人々に訴え、西暦紀元ごろ、瀬戸内海沿岸地方及び紀伊半島は統一された。大阪湾沿岸地方は有力豪族がおり、彼らに追い返されてしまった。スサノオは統一した連合国家を倭国と命名した。大三島の大山祇神社を宮処として瀬戸内海沿岸地方を治めた。中細銅剣を統一のシンボルとして銅剣祭祀をはじめた。
北九州統一
紀元10年頃、スサノオは更なる先進技術を朝鮮半島から取り入れ、その一族と共に、宇佐地方を統一した。そこを基点とし、中広銅矛を統一のシンボルとして北九州統一に出発した。北九州には有力豪族がおり、その有力豪族は周辺小国家を虐げていた。スサノオは安全確保と食料安定供給を交換条件として次々と小国家を倭国に加盟させた。スサノオの第4子オオトシ(大歳)も協力して北九州を統一していった。統一できなかったのは球磨国(現熊本県)及び伊都国(現福岡県前原市)のみであった。スサノオが統一した地域には中広銅矛祭祀が始まった。
南九州統一
北九州を統一したスサノオ一族は南九州を目指して侵攻した。阿波岐原(現宮崎市)に上陸し、南九州統一の拠点とした。木花を拠点としていた中国の呉の太伯の子孫イザナギ(伊邪那岐)一族と出合った。イザナギに倭国に加盟するように要求した。イザナギはスサノオが娘のムカツヒメ(日向津姫)と結婚することを条件に倭国に下命することを承知した。イザナギは一族を挙げて倭国の拡大に協力することにした。
スサノオはムカツヒメと共に、現宮崎市から都城市一帯を統一後、高千穂山を越えて国分市付近を統一し、国分(現鹿児島神宮の地)に南九州統治の拠点を作った。イザナギは東霧島神社の地を拠点として都城盆地一帯を統治した。
紀伊半島統一
紀元15年ごろ、スサノオは協力者イザナギ、イザナミ及び五十猛命、大屋津姫、爪津姫をひきつれて紀伊半島の統一に向かった。スサノオは五十猛命、大屋津姫、爪津姫に和歌山市周辺の統一を任せ、自らはイザナギ、イザナミを引き連れて、熊野地方まで進出した。
紀伊半島統一後、スサノオは九州に戻り、ムカツヒメと妻垣神社(現大分県安心院町)の地で新婚生活をし、イザナギは大阪湾岸地方の統一準備のために淡路島に拠点を造り、イザナミは出雲で製鉄技術の革新のために出雲に渡った。イザナギ、イザナミはそれぞれの地で亡くなった。
倭国の分治
スサノオはムカツヒメとし、妻垣神社(現大分県安心院町)の地で新婚生活をし、ここで、宗像三女神、オシホミミ(天忍穂耳命)、ホヒ(穂日命)が誕生した。スサノオは巨大化しすぎた倭国の情勢が不安定化してしてきているのを感じ、出雲に帰還することにした。倭国は大きくなりすぎているので各地方をスサノオ一族で統治することにした。
南九州はムカツヒメ、北九州西部地方はオオトシの子であるサルタヒコ(猿田彦)、瀬戸内海沿岸地方は琴平を中心としてオオトシ、紀伊半島はイソタケ(五十猛)、 北九州東部地方はスサノオの倭国統治に協力的であったタカミムスビに長子オシホミミを預けて統治させた。 スサノオはムカツヒメに南九州の未統一地域を統一することを頼み、25年ごろ、彼女と別れた。
出雲に帰還したスサノオは佐田神社(島根県佐田町)に隠棲し、倭国全体の後継者(第二代倭国王)を育てようとした。後継者に選ばれたのは、末子スセリヒメ(須勢理姫)と結婚した出雲古来の豪族クナト(岐戸神・天冬衣神)の子であるオオクニヌシ(大国主)である。スサノオは北陸地方の統一を始めとした試練を与え、彼もそれに答えた。オオクニヌシは三屋神社(現島根県三刀屋町)を中心として出雲国を統治した。 ムカツヒメもスサノオの指示を受けるために何度か出雲を訪れている。
スサノオの死
スサノオは出雲に帰還して10年ほどたったころ、自分の死期を感じていた。オオトシを琴平から呼び寄せ、東日本地域の統一を託し、まもなく息を引き取った。 AD30年ごろであろう。御陵は熊野山である。
出雲国譲り騒乱
AD25年ごろムカツヒメは安心院より南九州へ旅立った。途中球磨国の様子を探るために高千穂に立ち寄った。ここでニニギ(瓊々杵尊)が誕生した。南九州に戻ったムカツヒメは東霧島神社の地を都として、南九州の地固めをした。このときヒコホホデミ(彦火火出見尊)、ウガヤフキアエズ(鵜茅草葺不合尊)が誕生した。
南九州未統一地域の統一には第二代倭国王であるオオクニヌシが欠かせないことを悟ったムカツヒメはオオクニヌシを南九州に呼んだ。 オオクニヌシは南九州で球磨国や、その他の未統一地域を倭国に加盟させるように努力をしたが、志半ばにしてコトシロヌシ(言代主)誕生後まもなく、南九州で病のため息を引き取った。 紀元40年ごろのことである。第二代倭国王の突然の死により、倭国王が空位になり、たちまち相続争いが起こった。タカミムスビはこの状態を憂い、倭国を東西に分割することを提案した。
東倭は出雲・瀬戸内海沿岸地方・紀伊半島で、出雲国を中心とする。西倭は九州地方・南四国地方で、東霧島を都とする。 そして、全体を統括するために出雲で大々的にスサノオ祭祀を行い、その祭祀者にコトシロヌシをあてるようにした。コトシロヌシはまだ幼いので、サルタヒコをその協力者とするという計画である。ホヒを出雲に派遣し、根回しをした。出雲国王は大国主とトリミミ命との子であるトリナルミであり、政治はトリナルミ、祭祀はコトシロヌシという体制を造ろうとした。
ホヒの活躍により出雲は大体納得したが、 タケミナカタだけは反対したので、タケミカヅチ、フツヌシを出雲に派遣しタケミナカタを諏訪まで追い詰め降参させた。南九州では国分の出雲屋敷をニニギを総大将として急襲することにより南九州一帯には反対勢力がいなくなった。 西倭国王としてオシホミミを即位させようとしていた矢先、オシホミミが急死した。急遽ニニギを派遣し北九州が騒乱に巻き込まれるのを防いだ。ニニギの活躍により北九州西部統治権をサルタヒコから受け継いだ。サルタヒコは北九州で青銅器祭祀(銅鐸・銅矛)を行っていた。サルタヒコは青銅器を携えて、ホヒの子タケヒナドリとともに出雲に旅立った。
ムカツヒメの南九州統一事業
オシホミミの急死によりムカツヒメが西倭国王(第三代倭国王)に即位した。45年ごろのことである。都を国分に移し、ニニギに引き続き北九州を納めさせ、 ヒコホホデミとフキアエズに南九州各地を巡回させ、地方の情報を集めた。50年ごろ、フキアエズには宇都(宮崎県高原町)で内政をまかせた。58年ここでサヌ(後の神武天皇)が誕生している。 ヒコホホデミには対馬や東倭を巡回させた。
ムカツヒメはスサノオに習い南九州の統一には外国の先進技術が欠かせないことを悟り、ヒコホホデミに後漢を訪問させた。 ヒコホホデミは57年後漢にわたり、先進技術とともに玉璧、漢委奴国王の金印を携えて戻ってきた。ヒコホホデミは帰国後、金印を携えて伊都国に渡り伊都国を倭国に加盟させた。ムカツヒメはその先進技術を示し、南九州の未統一地域に自分の子供たちを派遣した。
ニニギを北九州から呼び戻し薩摩半島北西部に、フキアエズを大隅半島に、ヒコホホデミを串間に派遣した。 ムカツヒメ自身も倭国に加盟することを拒み続けている曽於族を加盟させるために串間のヒコホホデミの元に行った。65年ごろのことである。 70年ごろムカツヒメは串間で亡くなった。墓は王の山で、後漢からの玉璧が副葬された。 75年ごろ後を継いだフキアエズも西州宮(桜迫神社の地)で亡くなり、サヌが後を継いだ。彼らの活躍により、球磨国と曽於国を残し南九州は統一された。
ニギハヤヒの日本国建国
オオトシは琴平で平形銅剣祭祀を行って瀬戸内沿岸地方を統治していたが、スサノオの遺命を受けることにより、近畿地方統一に乗り出すことにした。30年ごろと思われる。有力豪族がひしめく近畿地方を統一するために、オオトシはマレビトを近畿地方の各国々に送り込み、その子孫の協力によって国を統一することを考えた。オオトシは、自らが統一した北九州各国から有能な若い男子(マレビト)をかき集め、集団として大阪湾岸地方に乗り込んだ。各マレビトは、それぞれの国に分け入り、子孫を繁栄させた。
オオトシ自身はは日下から大和に入り、国王のナガスネヒコの妹ミカシヤヒメと結婚し、ニギハヤヒと名乗り、大和国王となった。このため、倭国とは別の国を作ることになったのである。新しい国の名をヒノモト(日本)とした。ニギハヤヒが日下から大和に入るとき生駒山山頂から昇る太陽の姿の感動したため、この名をつけたようである。
ニギハヤヒは大和国王になってから、石切神社の地を拠点として、大阪湾岸地方のマレビトと協力してそれぞれの国を統一していった。AD40年ごろ大阪湾岸地方が統一されたので、ニギハヤヒは葛城一族にマレビトとして入り込みそこを拠点として大和盆地南部に進出した。倭国に属していた紀伊半島地方を五十猛命より日本国に譲り受け、近畿地方一帯が日本国に所属するようになった。日本国の都を三輪山山麓に造り、大阪湾岸地方の豪族(マレビトの子)たちを東日本各地に派遣し、共同生活をしながら先進技術を示すことにより、東日本各地(福島県以南)を統一させた。ニギハヤヒ自身は関東地方中心に活躍した。
AD55年ごろ東日本地方が日本国に加盟したので、ニギハヤヒは帰国した。日本国王を葛城一族の娘(御歳姫)に生ませた事代主命に譲り、自らは初瀬地方で隠棲した。事代主は三輪一族の娘と結婚し三輪山の麓を拠点として日本国を統治した。このような中、AD60年ごろニギハヤヒは初瀬で亡くなり、三輪山に葬られた。
生前、 ニギハヤヒは三輪山の形が大変気に入り三輪山山頂から昇る太陽の姿をシンボルとして祭祀を始めた。その中心施設が冬至の日に三輪山山頂から昇る太陽を拝むことのできる唐古鍵遺跡である。その姿が銅鐸であり、三輪山の形は鋸歯紋として以後の大和朝廷のシンボルとなるのである。ニギハヤヒは需要の増した銅鐸生産を九州のサルタヒコに依頼していた。
大和朝廷成立
ニギハヤヒの死後、AD70年ごろ第二代日本国王事代主命もまもなく亡くなった。事代主命が若くして亡くなったので、後継者は幼少のイスケヨリヒメのみであった。後見人を誰にするかでまとまらず、各豪族間で主導権争いがおこり、日本国は乱れ始めた。その状態を憂えたオオクニヌシの子アジスキタカヒコネは倭国の狭野命と日本国のイスケヨリヒメとの政略結婚による両国の大合併を提案した。日本列島統一はスサノオ・ニギハヤヒの夢であり、そのことを当時の人々は知っていたのでヒノモトの人々も倭国の人々もその多くは賛成した。しかし、大和国の三輪一族以外は反対派となった。反対派が賛成に回る気配がないのでアジスキタカヒコネは強引に話を進めた。。
西倭のサヌがヒノモトのイスケヨリヒメに婿入りする形で大合併をし、合併後の都は大和、国名はヒノモト(日本国)とする。 ただし対外的には倭国を用いることにした。東倭・日向地方は大和朝廷の聖地として自治を認める。以上のような条約が交された。
ヒノモトの人々は反対派を説得したが納得しない。時機を逸してはならないので、78年、サヌが大和に行くことになった。サヌは南九州各地の一族に挨拶を済ませ、美々津海岸より出港した。
西倭・ヒノモトの大合併にはもうひとつ課題があった。北九州と大和の間にある瀬戸内海は大和朝廷にとって最も重要な交易路であるが、その全域が東倭に所属していたのである。 サヌは、安芸国に長期滞在し出雲のコトシロヌシと交渉を行った。その結果安芸国と吉備国西部(備後国)の割譲に成功した。サヌは割譲地を安定化させるためにさらにしばらく滞在(高嶋宮)した。
サヌは日下から大和に入ろうとしたがナガスネヒコに追い返された。サヌは紀伊半島南部に迂回し、吉野川流域、宇陀市周辺の豪族たちを味方に付け、反対派を打ち破り、AD81年大和進入に成功した。
サヌは大和に入り吉日(AD83年冬至の日・当時の1月1日)を選びイスケヨリヒメと結婚式を挙げ、大和朝廷初代神武天皇として即位した。 神武天皇は15年ほど在位した後、三皇子を第二代綏靖天皇・第三代安寧天皇・第四代懿徳天皇と即位させた。第四代懿徳天皇(倭国王帥升等・107年)のとき、後漢に生口(技術者)160人を派遣し先進技術を学ばせた。 その技術者を地方に派遣して、地方を開発し朝廷の技術を普及させた。これにより、地方は朝廷の下にまとまっていった。
倭国大乱
日本列島は大和朝廷の技術指導の下、安定化してきたが、2世紀半ばごろから始まった寒冷期により不作が続き、政情不安定になっていった。特に朝廷からの技術指導を受けなかった自治区であった東倭は凶作であった。その影響で、各地に略奪集団(鬼)が出没するようになった。東倭王の出雲振根はサルタヒコが九州から持ち込んだ祭器を使った祭礼強化で人々の心を安定化しようとしたが、鬼の出没はひどくなる一方であった。
第六代孝安天皇はこのことを憂えて、皇太子楽楽福(ささふく)命に祭礼に使う祭器を没収することを命じた。楽楽福命は伯耆国孝霊山麓に滞在して出雲と交渉したが埒が明かなかった。このようなとき(175年)に孝安天皇が大和で崩御した。楽楽福命は大和に戻り第七代孝霊天皇として即位した。天皇として即位した孝霊天皇は兄の子である吉備津彦・吉備武彦兄弟に鬼が出没している吉備国平定を命じた。
吉備津彦兄弟は吉備中山を拠点として吉備国平定を行なった。孝霊天皇自身は吉備国から伯耆国に入り吉備津彦兄弟の協力を得ながら、鬼住山・大倉山・鬼林山と鬼退治を行なった。 185年吉備国伯耆国の平定が完了したので、出雲本国に侵入することになった。
出雲との激戦は続いたが出雲軍は強く戦いはこう着状態に陥った。このとき、大天才として知られていた 当時讃岐国に派遣されていた倭迹迹日百襲姫が調停を行い、東倭は大和朝廷の支配下に下ることで倭の大乱が終結した。
人々は倭迹迹日百襲姫の指導力に驚き、彼女が日本国を治めることを臨んだ。 倭迹迹日百襲姫は大和最高神ニギハヤヒの妻となることにより、大和朝廷最高権力者となった。邪馬台国女王卑弥呼である。
古墳時代の始まり
倭国大乱の直接の原因が出雲と大和での祭礼形式が異なることであった。旧東倭を平穏に治めるためには大和と出雲の祭祀の統一がどうしても必要であった。その中間にある吉備国で祭祀の試行錯誤が行なわれた。そのなかで、大和系の前方後円墳、出雲系の前方後方墳にまとまってきた。
大和では、倭迹迹日百襲姫の指示の元、三輪山山頂から春分の日に太陽が昇る位置に日本国最初の巨大都市巻向遺跡が作られ始めた。 その祭礼施設として前方後円系の巻向石塚が作られた。前方後円墳は三輪山から昇る太陽の姿である。 倭迹迹日百襲姫は人々の心を安定化させるために祭礼強化を図った。そのシンボルとして 三角形(三輪山の形)の縁をもつ鏡を作ろうと魏に使いを出し技術者を日本に呼び寄せた。この技術者が三角形の縁を持つ鏡(三角縁神獣鏡)を作った。
大和朝廷が地方に国造を任命し地方に課税を始めた。課税を確実にするためには球磨国が朝廷の支配下でないのは甚だ不都合であり、この頃より、球磨国との戦いが始まった。球磨国とは狗奴国のことである。このような時250年(崇神10年)倭迹迹日百襲姫が亡くなった。魏からの技術者の指導の下、最大級の墳丘墓である箸墓を作った。古墳時代の始まりである。
大和朝廷は三角縁神獣鏡を作るための青銅不足を補うために各地の青銅祭器(銅剣・銅矛・銅鐸)を没収した。人々は没収されるのを逃れるために 土に埋めた。
曽於国は第12代景行天皇が、球磨国は第14代仲哀天皇がそれぞれ平定した。
古事記・日本書紀の編纂
大和朝廷の創始者であるスサノオとニギハヤヒは人々から敬われ大和朝廷でも大々的に祭られていたが、後になって仏教を広めるにあたり、この二人が邪魔になり、この二人の業績をイザナギやオオクニヌシのものとすり替えて全国の神社から抹殺し、それに合わせて、古事記・日本書紀を編纂した。これらの出来事があった跡には、いずれも現在神社が建っていて、これらの出来事を裏付ける伝承を伝えている。この復元古代史は、国内資料のみを基にしたものである。そのため、中国史料や考古学的事実と照合する必要がある。どのような統一方法を採ったかを吟味した後、照合をしてみたいと思う。  
 
第2章 国家統一の方法

第1節 武力統一 / 日本史の謎 
この復元古代史が真実だとすると、大和朝廷の成立が一世紀後半と、一般に言われている四世紀に比べると300年以上早い。また、大和朝廷は成立直後に関東地方から九州地方までの、大変広い領域を支配していたことになる。なぜ、このようなことが可能だったのかが大きな疑問として残る。そこで、国家統一の方法を吟味してみることにする。
まず、日本史の疑問点を挙げてみると、次のようなものがある。
1 銅鐸...銅鐸は、3世紀中頃に関東地方から九州地方まで一斉に姿を消している。一斉の変化が起こるということは、これらの地域が同一勢力圏に入っていることを意味している。
2 古墳...3世紀後半頃より、古墳が関東地方から九州地方までの地域で、ほぼ一斉に分布するようになっている。墓制というものは変化しにくいものであるが、それが一斉に変化しているということは、これらの地域が、かなり強力な共通の何かの影響を受けたことになる。
3 祭祀型墳墓...後期初頭以前は北九州中心に権力君臨型と考えられる王墓が存在していたが、それ以降このような王墓は消えている。権力で君臨するタイプの王は、周辺の小国を併合して次第に勢力を伸ばしていくと考えられるが、このタイプの王が消えているのである。その後に発生する比較的大きな墳墓(四隅突出型墳丘墓や方形周溝墓)は祭祀を重要視した墳墓で、副葬品が少ない。被葬者は権力君臨型ではなくて、宗教上の王のようである。人々を力で押さえつけたのでは、祭祀を行うことは無理である。
4 三角縁神獣鏡...三角縁神獣鏡も古墳と同じく関東から九州まで分布しており、その分布の中心は畿内である。畿内勢力によって配布されたものと考えられるが、この鏡の分布はその勢力範囲を示している。
5 方形周溝墓...方形周溝墓等の畿内系の墓制が関東から九州まで広がっている。
6 征服伝説...「大和朝廷に征服された。」という伝承もなければ、「征服した」という伝承もない。国をまとめあげるときの物語は、権力者が統治を正当化するためにも是非必要なもので、世界のどの王朝でも、その成立神話は存在し、しかも宣伝しているのである。しかし、日本の場合、各地域はいつのまにか大和朝廷の支配下に組み込まれており、どのようにして組み込まれたのか伝わっていない。
7 宮城...宮城は、古来から外敵に対して全くといってもいいほど無防備である。世界中どこの国へ行っても権力者というのは、自分の身を守るために防備を固めるものであるが、そのような気配は全くない。誰も攻めてくるはずがないといった安心感があったためとしか考えられない。なぜなのであろうか。
8 万世一系...世界史の常識では、王家の勢力が弱くなってきて、他に新勢力が現れると、間違いなく前の王朝が倒されて新王朝が成立するのである。過去に皇室よりも力を持った勢力は数多く存在するが、皇室を倒して権力を振るうということはせずに、皇室を形の上で立てて権力を振るっている。なぜ、皇室を倒し、新王朝を建てるといったことをしなかったのだろうか。日本では伝承上万世一系である。王朝交替があったという説は存在するが、それを決定づける証拠はない。これは、大変不自然である。
9 錦の御旗...日本での戦乱時代(戦国時代・幕末)において、錦の御旗を受ければ反対派が急激に勢力を失い、一挙に決着が付いている。どうしてこのようなことになるのであろうか。
10 祭政一致...古代大和朝廷は祭政一致で神を祭ることで国を治めていた。そして、全国各地にスサノオやニギハヤヒを祭る神社が圧倒的に多い。その一族までを含めると、七割以上がこの二人に関係した神社である。神社に神を祭るというのは、古今東西、権力に強制されて、ということはほとんどない。朝廷も人民も主体的に祭っているのである。そして、神道には教義も教典もないのである。教義や教典がなければ布教すらできないはずである。この二人が民衆から相当尊敬を集めていたからと解釈されるが、何か相当な実績がないとこのようなことにならない。
11 団結力...「好太王碑文」や朝鮮半島の史料によると、五世紀初頭あたり、倭人が数万という大軍を率いて、高句麗などの軍と戦っている。高句麗軍の方が地理的・物質的に圧倒的に有利であるはずなのに、倭人に対して大変に苦戦している。これは、倭人の団結力が異常に強かったためと考えられるが、なぜ、こんなに団結力が強かったのか。
12 戦乱遺跡...戦乱の跡と考えられる遺跡が少ない。矢じりが突き刺さっている人骨が出土することもあるが、多くは単独である。戦乱があった跡ならば数十体はまとめて出てくるはずで、焼かれた住居跡なども出てこなければならない。そのようなものはほとんどないのである。古代でも殺人事件ぐらいあったはずで、これと戦乱とは別物である。戦乱の跡と考えられる遺跡が少ないことは古代が平和な時代であったことを意味している。
1〜5までの内容は、九州地方から関東地方までが、同一の支配体制に組み込まれていることを意味し、その支配力は墓制を変化させていることから相当強力なものと考えられる。つまり、大和朝廷は成立とほぼ同時に、広大な範囲を強力に支配していたことになる。
6〜12までは、大和朝廷の支配が力の上に成り立っているのではないことを意味しているようである。大和朝廷が力で地方を締め付けているのであれば、宮城の警備は厳重であり、被支配者の反抗伝説がもっと残っても良さそうである。どうみても民衆が朝廷を崇拝しているといった感じである。
これらの内容は、あり得ないこととして、事実関係がはっきりしているものを除いて、一般には無視されているか、否定されているものである。しかし、事実関係がはっきりしているものもあり、すべてを否定することはできない。この謎は大和朝廷の成立の仕方にあるものと判断し、これらのことを、自然に説明できるような大和朝廷の成立方法を考えてみることにする。 
 
第2節 平和的統一

第一項 武力統一ではない
武力統一は人々の反発を招く
「古代日本正史」を初め多くの人の説が、大和朝廷が戦乱の末に全国統一をしたとしているが、このように考えると、先の日本史の特徴はすべて矛盾点となって返ってくる。「古代日本正史」を初めとする神社伝承を元とした書物は、スサノオが統一者となっていて、彼が、武力平定したように考えられがちであるが、武力平定したのでは、人々の反発をさけることができないはずである。全国におびただしく存在する神社は、そのほとんどがスサノオを祭っている。これは、この人物が全国で尊敬され、決して、恨みを買うことのなかったことを意味している。武力統一をしたのでは、このようなことはあり得ない。人の恨みが簡単に消えるものでないことは、豊臣秀吉に対する朝鮮半島の人々の感情を見てもわかる。スサノオが全国至る所で、神として祭られているということは、彼が神と見えるような統一方法を採ったということである。
王朝交替の証拠なし
武力統一したのであれば、統一王朝が衰退したとき、かつて征服された勢力が、王朝を倒そうと謀り、王朝交替が何度も起こるはずである。そして、権力者もそれを防止するために、堅固な守りをするはずである。しかし、宮城はほとんど無防備で、王朝交替が起こった証拠はない。
王朝交替は起こったという説は存在するが、それにしては、周りの豪族にほとんど変化が見られず、継続しているのはなぜだろうか。王朝交替が起こると周りの豪族に大きな変化が起こるはずである。前王の血筋が絶えて、代わりにどこからか遠縁の王を招いたということは考えられるが、はっきりとした形での王朝交替があったとは考えられない。
集団戦の跡と思われる遺跡がほとんど存在しない
また、弥生時代における集団戦の跡と考えられる遺跡が少なく、かなり平和な時代だった。さらに、武力統一の場合、中心域から徐々に周辺に勢力を拡大していくために、日本全土を統一するには大変な年月がかかり、少人数ではできることではないので、中心になる国が相当な国家体制を充実させておかなければできることではない。一世紀はまだ国家体制も十分に整っていない時期であり、武力統一はあり得ないことである。
畿内に九州系の土器や墳墓がほとんど存在しない
統一国家の中心地である大和は、朝廷成立以前には、北九州地方に比べて未開の地であり、遺跡・遺物も貧弱である。このような地になぜ中心地ができるのであろうか。武力統一なら北九州勢力が中心となっておこなわれたと考えるのが自然である。北九州勢力が統一事業を行い、畿内に東遷したという説もあるが、それならば、畿内に九州系の土器や墳墓が多く見つからなければならないが全くと言っていいほど見つかっていない。これは、九州からは少人数しかきていないことを意味している。少人数では、武力制圧は不可能である。武力を使う以上、それ相当の人数や装備をそろえなければならず、それならば、多量の九州系土器の持ち込みがあるはずであり、また武力制圧後も九州系の持ち込まれた文化が強く残るはずである。それが全く出土しないことはとても考えられない。畿内にどこかの地域の土器や墓制が集中して多いということはない。これは、どこか外部の勢力が大挙して畿内に侵入し、そこを中心として、全国統一をしたのではないことを意味している。侵入があったとすれば、あくまでも少人数である。
宗教統一
弥生時代後期初頭を最後に権力君臨型の王墓というものが消滅し、かわりに、祭祀型の王墓と考えられる四隅突出型墳丘墓や方形周溝墓が広がっている。これは、権力によって支配していた小国家群が何らかの宗教によって統一されたと見るべきであろう。宗教統一ならば、少人数で遺跡・遺物の少ない大和を中心として国家統一をすることも可能である。
古代の大和朝廷による政治は祭政一致であったらしい。古墳築造にしても労働力を確保するには、権力にものを言わせるか、信仰の力を使うしかないが、古墳上で祭礼が行われていることから判断して、明らかに後者である。これは、古墳が分布している範囲に同一の強力な信仰が存在したということを意味し、大和朝廷が宗教によって統一されていて、権力によって君臨していたのではないということである。大和朝廷が武力統一をしたのなら、被征服者には朝廷に対する反発心が強く残り、信仰によって人々を動かすことは不可能で、権力にものを言わせて人々を押さえつけるしかなくなる。そうすれば、宮城は反乱に備えて、警備が厳重になり、また地方の権力者の邸宅も厳重な警備の上に成り立っているはずであり、それが全く出土しないことはあり得ない。出土した地方の権力者の住居跡と思われる所もほとんど無防備である。これは大和朝廷の性格と全く異なる。古代は地方までも神に対する信仰心が浸透しており、地方権力者も神の扱いを受けて政治を行っていたと考えるべきである。
武力統一によって大和朝廷が成立したとすると、このように矛盾点が多いのである。大和朝廷は宗教によって全国統一したと見るべきである。 
第二項 平和的統一
宗教統一の条件
宗教統一と言っても、ある人物がある教えを広めても、地域差の大きい当時の日本列島に住んでいる人々が、単純に「はいそうですか」と一つの信仰に走るとは思われない。また侵入先に別の宗教が存在すれば、今度は宗教同士の戦いとなる。宗教的に国家統一をするには、他地方が宗教的に未開である必要があるが、弥生時代といえども、各地方に若干の宗教的なものは存在したであろう。それらを取り込んでしまうためには、人々に神の存在を信じさせるよほど具体的な何かが必要である。
人々の不安の解消
紀元前後の日本列島は、小国が分立する状態にあり、それぞれの小国はまだ国としての体制も十分には整えていない頃である。このような頃に住んでいる人々は、いつ、どこで、略奪や攻撃を受けるかわからない。事実、この頃は、北九州を中心として、防備のためと考えられる環壕で囲まれた集落が多く、鉄鏃や鉄剣・鉄刀等の鉄製武器の出土が多い。また、食糧やその他の物品も、安定して手に入れることが難しく、もし、多量にそれらのものを手に入れても、今度は、近くの集団からの略奪を警戒しなければならない。現在のような警察権力は存在しないのである。
当時の人々は、このように、治安や食糧に関して不安の多い生活を送っていたと考えられる。このようなときに、人望のある人物が「我が連合国家に加入しなさい。そうすれば、誰からも攻められることもなく、食糧や物品を安定して供給できることを保障する。」等と言って相談を持ちかければ、ほとんどの集団は喜んで参加するのではないだろうか。そして、人民を苦しめている夜盗集団のようなものを退治すれば、ますます強く信頼するようになるのではないだろうか。
「古代日本正史」でもスサノオがまとめて回ったとされている北九州各地で、大きな戦争をした形跡もなく、簡単に統一されているのである。当時、北九州地方は、日本列島内で最も強力な武力を持っていたと考えられ、武力で簡単に併合されるはずがない。物資の安定供給や治安維持を条件に加入したものと考えられる。スサノオの国家統一は、一世紀当時、北九州にかなりの規模の王墓が存在していたことから考えて、併合というよりも、連合国家と考えた方がいいようである。期が熟してから、王から中央の役人に政権移譲が起こったと考える。跡を継いだニギハヤヒも、近畿以東を同じ様な方法で統一したと考えられる。
先進技術の導入
また、地方に住んでいる人々にとって、朝鮮半島や中国の高度な技術を何者かに見せられたとすると、その不思議な現象故、人々がその人物を神と信じ込むことは十分にあり得ることである。おそらくスサノオやニギハヤヒは大陸の高度な技術を示して国家統一をしたのではあるまいか。通常高度な技術は最初に手に入れた人物が独占することにより、周辺の人々を従え、権力欲を満たすものであり、滅多なことでは他に伝えることはないのである。中期までは鏡などが特定の地域に集中するといった状態にあったが、中期末以降の大陸の高度な技術の地方への浸透が異常に速いことからこのように考えるのである。
このような統一をするためには、統一者はかなりの人格者であることが要求され、物欲があって、交換条件として何かを要求するような人物ではとても無理である。スサノオ・ニギハヤヒが純粋に人々の幸せを願って国家統一を実行したということでなければ、多くの人々はついてこないであろう。 
第三項 日本史の謎の解明
このような方法で統一したのであれば、一般民衆の目には、この二人が、自分たちの生活を保障してくれた神のように見えるであろうから、多くの地方で、人々がこの二人を祭るというのもうなずけるし、二人の実績があるから、教義も教典もない神道という特殊な宗教が発生し、全国に広まったのもうなずける。そして、副葬品の多い権力君臨型の王墓が消滅し、副葬品の少ない方形周溝墓や四隅突出型墳丘墓のような祭礼を重要視した墳墓が出現するのも説明できる。
倭国と日本国が、跡継ぎの政略結婚で合併することができたのも、共にスサノオの勢力を受けていたから、と解釈されるし、歴代の天皇がこの二人の系統の人物でなければ、人々が納得しなくなり、天皇にとって変わろうと言う人物が出てこないのも納得できる。そのため、歴代天皇は自己防衛を考える必要が全くなく、宮城が無防備であるというのも説明でき、万世一系という世界史の常識では考えられない歴史を残すことになったということも説明できる。そして、古代の天皇はこの二人を祭っていさえすれば、人心は安定し、徳によって人々を治めることも可能だったのである。
大和朝廷が成立した直後から、関東から九州までの広い範囲を支配していたのも説明可能である。さらに、このような統一方法は、中心になる国の国家体制が十分である必要はなく、少人数での統一が可能である。そして、大和という未開の地が中心地になることも可能であり、朝廷に武力がなくても、全国一斉に古墳という新しい墓制を広めることも、銅鐸を消滅させることも、神の力を使えばできることである。
また、「好太王碑文」にあるように倭人の軍が不利な条件にも関わらず強かったのは、平和統一がなされた結果、当時の人々には、「神によって造られた国」というような意識があったはずで、朝廷軍の団結力は、相当、強かったことがうかがわれる。事実、このような考え方は、近代の戦争にも使われている。実際に、神社史料によると、戦いの前に、あちこちで神を祭っている。神を祭ることで、志気を高めたのである。
このような方法での統一をするには、統一される側の国家体制が十分でないことが必要である。この方法での統一は、一世紀という時期であったからこそできたもので、定説である四世紀以降では、国家体制がしっかりしているため、国家間の利害が対立し、大戦争なしでは到底不可能と考えられる。
このように、平和統一といった考えをすれば、前に挙げた日本史の特異性が、否定しなくても、ことごとく自然に説明可能となる。 
 
第3章 歴史資料との照合

第1節 呉太伯子孫到来 (ごたいはく)
弥生時代の始まり
紀元前三世紀頃、日本列島は、それまで長く続いていた縄文時代が終わりを告げ、弥生時代が始まった。弥生時代には、出土人骨に大きな変化が急激に表れている。これは、大陸から多くの人々の流入があったことを示している。朝鮮半島からというのが普通考えられるが、頭示指数や血液型の分布から判断して、中国大陸(特に江南地方)からと考えた方がいいようである。
なぜ、この時期に大量の人々が、日本列島にやってきたのであろうか。当時、外洋航海は、大変危険なもので、出航した人々の一部しか、日本列島にたどり着けなかったものと考えられる。平和時に、多くの人々が、このような危険なことをするということは考えられず、中国に、何か大事件が起こったためと考えられる。中国の歴史を調べてみると、この時期は、春秋戦国時代の終わり頃で、秦の始皇帝が、西方から東方へと侵略し、多くの国を滅ぼしていた頃である。滅ぼされた国の上流階級の人々は、ほとんど皆殺しにされたようで、その難から逃れた人々が、一斉に、外洋航海に出たのではないかと推定する。北九州を中心とする弥生人骨を分析すると、縄文人とはかけ離れ、中国の山東半島の人骨とかなり似ているとの結果がでている。また、魏志倭人伝に書かれているように、中国を訪問した倭人は「呉の太伯の子孫である。」と言っているが、この国は、春秋戦国時代に江南地方にあった国である。春秋戦国時代の呉はBC473年に滅亡している。
弥生人が緊急避難でなく、態勢を整えて日本列島にやってきたのであれば、先住民と対立し、奴隷としたり、追い出したりすることが考えられるが、弥生時代の遺跡を見ても縄文人と対立したような様子は見られず、縄文式土器に継続して弥生式土器が出土しているところもあることから、やはり緊急避難であったと考える。緊急避難で日本列島に上陸した人々は命辛々であったと推定され、死にそうなところを縄文人に救われたということも考えられる。このように緊急避難の場合、縄文人との対立は考えにくい。
日本列島にわたってきた弥生人は、住めるところを探して移動していったために、海岸近くを中心に弥生文化が速く伝わることになり、考古学的事実と一致している。
このような人々によって、多くの技術がもたらされ、弥生時代が始まったと考えるのである。しかし、これを証拠立てる遺物は見つかっていない。これは、このような状態で逃げてきたわけであるから、ほとんど体一つで来たものと考えられ、物質的には影響を与えなかったと判断される。  
弥生中期の始まり
弥生前期末から中期にかけて、多くの変化が起こっている。北九州地方では、細型の銅剣や銅矛が出土するようになり、甕棺墓が出現する。大阪湾沿岸地方では、方形周溝墓が見られだす、時期的には、紀元前二世紀末頃と推定されている。甕棺墓にしても、銅剣にしても、朝鮮半島と関係が深いものであるから、朝鮮半島から多くの人々がやってきたものと考えられる。紀元前108年、漢の武帝が朝鮮を滅ぼしていることから、この難を逃れた人々が日本列島にやってきたものではないだろうか。
中国史書を見ると、この後あたりから、倭人が中国へ朝貢を始めたようである。博多湾岸を中心に小国家が誕生し、中国から手に入れた漢鏡や銅剣銅矛が、宝器として使われてきている。そして、これらの品は伝世されることなく、副葬品として治められている。
先年、朝鮮半島北部で相当数の方形周溝墓が発見された。日本から朝鮮半島に出かけていって、墓を造ったとは考えられないから、この時期、方形周溝墓を持った一団が日本列島にやってきたことを意味している。北九州と近畿地方では出土遺物がかなり異なることから判断して、彼らは北九州に先にやってきていた一団とは別の集団で、彼らを避けて、瀬戸内海を東進し、大阪湾岸にやってきたようである。これらの人々によって、大阪湾岸の大規模な建物や近畿地方の鉄器や古式銅鐸がもたらされたものと判断される。
北九州に渡ってきた一団は朝鮮半島南部から、近畿地方に渡ってきた一団は中国東北地方または朝鮮半島北部から来たと思われる。  
史記の記録
呉太伯はBC1000年頃の伝説上の人物と言われている。司馬遷の『史記』に記録されている。
呉太伯の父は古公亶父(ここうたんぽ)といい、3人の子があった。長男が太伯(泰伯)、次男が虞仲(ろちゅう)、三男が季歴(きれき)といった。末子・季歴は英明と評判が高く、この子の昌(しょう)は、聖なる人相をしており後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されており、古公もそれを望んでいた。太伯、虞仲は季歴に後継を譲り南蛮の地、呉にながれて行った。呉では周の名門の子ということで現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたという。後に季歴は兄の太白・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み断髪し、全身に分身(刺青)を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないことを示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという。<司馬遷『史記』「呉太伯世家」>
太伯(句呉を建国)→虞仲→季簡→叔達→周章→熊遂→柯相→彊鳩夷→余橋疑吾→柯盧→周?→屈羽→夷吾→禽処→転→頗高→句卑→去斉→
寿夢(BC585年国名を句呉から呉に改名)→諸樊→余祭→余昧→僚→闔閭→夫差(BC495年 - BC473年)
BC480年頃より、呉は越による激しい攻撃を受けていた。BC473年、ついに呉の首都姑蘇が陥落した。呉王夫差は付近にある姑蘇山に逃亡し、大夫の公孫雄を派遣して和睦を乞わせた。公孫雄は夫差の命乞いをし、夫差を甬東の辺境に流すという決断が下された。公孫雄は引き返して、夫差にその旨を伝えたが、夫差は「私は年老いたから、もう君主に仕えることはできない」とこれを断り、顔に布をかけて自害した。夫差は丁重に厚葬され、呉は滅亡した。  
松野連系図
日本側資料にも松野連に伝わる系図と言うのが存在している。中国の史書には「周の元王三年、越は呉を亡し、その庶(親族)、ともに海に入りて倭となる」と記されている。「松野連系図」によると、この夫差の子「忌」が、生まれ育った江南地方を離れ、日本列島にやってきたと伝わっている。この系図によると「忌」のところに「孝昭三年来朝。火の国山門に住む。菊池郡」と記されている。孝昭3年は皇紀ではBC473年に当たる。これは記紀の年代に合わせて挿入したものであろう。系図は以下のようになっている。
夫差→忌→順→景弓→阿岐→布怒之→玖賀→支致古→宇閉→阿米→熊鹿文→厚鹿文→宇也鹿→(子)→謄→讃→珍→済→興→武→哲→満→牛慈→長提→廣石→津萬→大田満呂→猪足
「日本書紀・景行紀」には「厚鹿文」「?鹿文」が登場する。景行天皇によって暗殺された熊襲の王である。また、忌の住んでいたという火の国山門(菊池郡)は熊襲の本拠地である。また、宇閉のとき、漢の宣帝に遣使した(BC68年)と記されている。この系図は熊襲王系を示しているようである。
この系統に倭の五王とされている讃→珍→済→興→武が記されている。「讃」は古代史の復元では仁徳天皇であると推定しているので、「謄」が応神天皇となる。正史では応神天皇は仲哀天皇と神功皇后との間に誕生した天皇となっているが、仲哀天皇の崩御から応神天皇の誕生まで10カ月となっており、不自然な点も多い。応神天皇は仲哀天皇の子ではない可能性を秘めている。しかし、当時熊襲は仲哀天皇の敵であり、神功皇后にとっては夫の仇でもある。熊襲の系統とは考えられない。この頃熊襲は大和朝廷に服属しており、後に挿入したものではないかと思われる。
忌から宇閉まで、8世。1世30年として240年となる。しかし、忌はBC473年、宇閉はBC68年でその間405年である。通常では14世ほど必要となり、かなり代数欠落があると推定される。また、厚鹿文が第12代景行天皇(AD310年頃)と同世代と考えられるので、宇閉との間は380年ほどの開きがあるがその間3世である。厚鹿文から倭の五王までは欠落はないようである。
BC473年呉が滅亡したのを機会としてその子「忌」は東シナ海に出て、現熊本県玉名市近辺の菊池川河口付近に到達し、菊池川を遡って現在の菊池市近辺に定住したものであろう。一族はそこを拠点として繁栄し、後の球磨国(狗奴国)となったと推定される。  
狗奴国との関連
「呉」を称した句呉の裔は「鯰」をトーテムにするという。
後漢書倭伝に「会稽の海外に東(魚是)人あり。分かれて二十余国を為す。」とある。(魚是)は鯰の意。東(魚是)人とは鯰をトーテムとする民であるという。(魚是)は一つの文字。そして「会稽の海外の東(魚是)人」とは、漢の会稽郡の東、日本列島の二十余国であるという。
呉人の風俗が「提冠提縫」と表される。提とは鯰。呉人は鯰の冠を被っているとされる。BC473年に「呉」は長江の下流域に在って「越」に滅ぼされる。呉人は東シナ海から列島へと渡った。
そして阿蘇に住んでいた一族も鯰をトーテムとしている。阿蘇に下向した健磐龍命は大鯰を退治して阿蘇の開拓を成した。阿蘇の古い民も鯰をトーテムとしていたのである。
鯰を祀る「阿蘇国造神社」は阿蘇神社の元宮である。本来は阿蘇の母神とされる「蒲池媛」を祀るといわれる。「蒲池媛」は八代海、宇城の地より阿蘇に入ったと言われており、蒲池媛は満珠干珠の玉を操り、海人の血をひいている。「蒲池媛」はのちに筑後、高良神の妃ともされ、宗像三女神の「田心姫」に習合した。隼人である「狗呉」が、熊襲の裔、「肥人」をも含んで八代海、阿蘇、有明海周辺を支配したのが「狗奴国」であったのかもしれない。  
宮崎県諸塚山伝承
諸塚山は高千穂町と諸塚村との境界にある標高1342mの山である。この一帯でもっとも高い山で、東の日向灘まで直線で約40kmあるが、おそらく日向灘が直接望める最も西の山である。山頂近くに多くの塚があることから諸塚山と呼ばれている。標高1342mの頂上付近に、誰が、何のために築いたのか謎である。そして、さまざまな伝承を持っているのである。
1 イザナギ、イザナミの御神陵である
2 天孫降臨の地である。
3 神武天皇巡幸の地である。
4 太伯山とも云い、句呉の太伯が生前に住んでいて、死後に葬られたという。
古代中国に朝貢した倭の使者は「我々は呉太伯の子孫である。」と言っている。そこから、日本の皇室の祖は、呉(中国)の祖ともされる太伯であるとされ、諸塚山は、その太伯を祀ったことから太伯山とも呼ばれていたという。呉の祖、太伯は、高天原や天孫降臨と関連していることが分かる。
日向風土記逸文に書かれた二上山からこの諸塚山までの10キロ弱は、1000メートル級の峰続きで、六峰街道と言われている。かなり古くよりその形があって、降臨をはたした天孫瓊々杵尊はこの道を通って笠沙山(延岡市愛宕山)にむかったと伝えられている。
一つ一つの伝承を検証してみよう。
1 イザナギ・イザナミの御神陵。イザナミ神の御陵は広島県比婆郡の比婆山、イザナギ御陵は兵庫県淡路市一宮の伊弉諾神宮裏であり、この山が二神の御陵とはならない。しかし、これだけの伝承を持つ山なので、イザナギ一族と深い関係があるのは間違いないであろう。北麓の高千穂町は宇佐にいた日向津姫(ムカツヒメ)が一時滞在しており、ここで、瓊々杵尊が誕生している。イザナギ・イザナミは素盞嗚尊が九州統一した時、宮崎県南部の加江田神社の地に住んでいたと思われる。そこから考えても、高千穂町は全く縁のない地に思えるのであるが、イザナギ・イザナミの御神陵伝説を始め高千穂町には高天原関連の伝承が多い。日向津姫が一時滞在していたにしては、その伝承があまりにも多いのに不自然さを感じる。イザナギ・イザナミ一族の祖先の滞在地と考えれば、一連の伝承に筋が通ってくる。イザナギ・イザナギ一族の祖先も伝承では呉の太伯であり、熊襲の祖先と同じとなる。呉王夫差の子「忌」が熊本県菊池市周辺を拠点として、その一族が周辺に広がっていく中、その一派が阿蘇山麓を経て高千穂町に到達したのではないだろうか。ここがイザナギ一族の古里となるのであろう。諸塚山はこの周辺で最も高い山であっる。周辺の地理を探るためにはこの山に登るのが最もよく、しだいにこの山は聖山となったものと考えられる。この頃の支配者の墓が諸塚山山頂付近の塚なのではあるいまいか。それが、後の世、イザナギ・イザナミの御神陵と言い伝えられるようになったものとすれば、納得がいく。
2 天孫降臨の地。高千穂町を流れる五ヶ瀬川は峡谷地帯であり、延岡市に達するのに川沿いに下るのは危険である。そこで、延岡周辺に進んでいくのに、二上山から諸塚山と通って、速日峰に至るまで峰沿いを通って、延岡市近辺に至る経路ができたものと思われる。長らく高千穂に住んでいた一族は延岡の方に移住する必要が生まれ、この経路を通って延岡に至ったものであろう。BC20年頃ではあるまいか。延岡に至った一族は海路南に下り、素盞嗚尊がやってきたころ(AD15年頃)には、宮崎市木花の加江田神社の地に住んでいたのであろう。イザナギ一族が宮崎市の方に移って行った後もこの高千穂町はイザナギ一族の始祖の地として大切にされていたのであろう。この移動こそが本来の天孫降臨ではないだろうか。そのために、日向津姫が一時この地に立ち寄り瓊々杵尊がこの地で誕生したと言える。
3 1,2のようなことがあり、高千穂町が聖地となっていたことは神武天皇が大和に東遷する時も、天皇自身が承知しており、東遷途中に神武天皇が訪問してくることは十分に考えられる。
4 呉太伯自身がこの地に住んでいたというのは考えられないが、太伯の子孫がここに住んでいたということは十分にあり得る。太伯の子孫であるイザナギ一族の古里であるために、太伯が滞在していたという伝承につながったと考えられる。
また、呉太伯は鹿児島神宮で祀られている。鹿児島神宮は国内で太伯を祀る唯一つの神社である。この神宮の地は日向津姫が南九州の拠点としていた処で、イザナギ一族にとっては聖地とも云う場所である。これもイザナギ一族が呉太伯の子孫であることを意味しているのではないだろうか。  
幣立宮
幣立神宮には以下のような由緒がある
「高天原神話発祥の神宮である。悠久の太古、地球上で人類が生物の王者に着いたとき、この人類が仲良くならないと宇宙自体にヒビが入ることになる。これを天の神様がご心配になって、地球の中心・幣立神宮に火の玉に移ってご降臨になり、その所に芽生えた万世一系(日の木・霊の木)(一万五千年の命脈を持つ日本一の巨檜)にご降臨の神霊がお留まりなった。これがカムロギ・カムロミの命という神様で、この二柱を祀ったのが日の宮・幣立神宮である。大祓いのことばにある、高天原に神留ります、カムロギ・カムロミの命という言霊の、根本の聖なる神宮である。通称、高天原・日の宮と呼称し、筑紫の屋根の伝承がある。神殿に落ちる雨は東と西の海に分水して地球を包むという、地球の分水嶺である。旧暦十一月八日は、天照大御神が天の岩戸籠りの御神業を終えられ、日の宮・幣立神宮へご帰還になり、幣立皇大神にご帰還の報告が行われた日で、この後神徳大いに照り輝かれた。よってこの天照大御神の和御魂は、ここ高天原・日の宮の天神木にお留まり頂くという、御霊鎮めのお祭り巻天神祭を行う。しめ縄を天神木に引き廻らしてお鎮まりいただく太古から続く祭りである。太古の神々(人類の大祖先)は、大自然の生命と調和する聖地としてここに集い、天地、万物の和合なす生命の源として、祈りの基を定められた。この歴史を物語る伝統が「五色神祭」である。この祭りは、地球全人類の各々の祖神(大祖先)(赤・白・黄・黒・青(緑)人)がここに集い、御霊の和合をはかる儀式を行ったという伝承に基づく、魂の目覚めの聖なる儀式である。 」
神話では、神々は高天原で生まれたとされている。熊本県蘇陽町の幣立宮は、最初の神天御中主神が鎮座し、神漏岐命、神漏美命を祀っている。この神社は以下のような伝承を持つ。
1 神武天皇は大和遷都後、7回この宮に参拝し、民族の繁栄と平和を祈願したという。 
2 天照大神は天岩戸より出御のとき、天の大神を神輿に奉じ日の宮(幣立宮)に御還幸になった。
3 瓊々杵尊が天村雲命を皇祖天御中主尊がおられるこの宮に参らせた。
4 建磐龍命が阿蘇に下向した時、ここに幣を立てて天の神を祀られたので、幣立宮という。
5 瓊々杵尊はここより立ちて、高千穂に下る。
如何にも神話の最高の聖地と言うような伝承を複数持っている。どこまで真実かは定かでないが、神々の中心地であったという核になる部分は真実ではないかと思える。最も自然な成り行きとして考えられるのは、イザナギ一族が高千穂に行く前に住んでいた所ではないかということである。 
その説を検証してみよう。古事記に最初に登場する神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神の三神であり、造化三神と言われており、独神であり、その姿を隠している。これは後に検証するが、大和朝廷を構成する三系統の血筋を表しているものと考えている。天御中主神はイザナギ一族を指し、高皇産霊神は秦徐福の系統を指し、神皇産霊神は朝鮮系統を指しているようである。
次に神世7代が続くが最初の2代(国常立尊・豊斟渟尊)はいずれも饒速日尊を意味していると推定している。しかし、元来はイザナギ一族の先祖であったが、饒速日尊と同化したのではあるまいか。次の5代がイザナギ一族の先祖ではないだろうか
神世第一代 国常立尊
神世第二代 豊斟渟尊
神世第三代 宇比邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ)
神世第四代 角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)
神世第五代 大戸之道尊(おおとのじのみこと)・大苫辺尊(おおとまべのみこと)
神世第六代 面足尊 (おもだるのみこと) ・惶根尊 (かしこねのみこと)
神世第七代 伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)・伊弉冉尊 (いざなみのみこと) 
幣立宮に祭られている神の大宇宙大和神は「おおとのちおおかみ」と読むそうである。神世第5代大戸之道尊と同じである。イザナギ一族はこの神の時代にこの地に住んでいたということではないだろうか。BC60年頃と推定する。
幣立宮は分水嶺上にあり、ここより東に降った雨水は五ヶ瀬川となり日向灘に流れ、西に降った雨水は大矢川から緑川となり、有明海に流れ込んでいる。呉太伯の子孫である「忌」は有明海を経て菊池市近辺を本拠とした。その一族は次第に周辺に広がっていき、球磨族となった。その一派が緑川を遡り、幣立宮の地に住んだ。ここからさらに東に進み、高千穂に下ったのであろう。この神社が九州の屋根と言われるのは分水嶺にあるためであろうが、ここを頂点としてイザナギ一族が東へ降ったためではないかと考える。
イザナギ一族と球磨族は共に同系統の一族のはずであるが、「忌」の正統な系統は球磨族の方である。幣立宮が始原となっているが、それ以前に住んでいた地があるはずである。それが全く伝わっていないことからして、イザナギ一族は球磨族から仲たがいして分派したのではあるまいか。当初菊池市近辺に住んでいたが、球磨族と意見の相違があって、その地を離れ、緑川を遡り幣立宮の地に移り住んだのではないかと思う。その人物が神漏岐命・神漏美命であろう。その時期は定かではないが神世七代から推察してBC200年頃か。この頃は秦徐福が菊池市一帯のすぐ近くの佐賀平野に上陸しており、徐福一族とのかかわりが一族分裂の一因かもしれない。
イザナギ一族が球磨族から仲たがいで分裂したため、幣立宮以前の滞在地が全く伝わっておらず、この幣立宮が始原の地となり、他の神社には見られないような特殊な祭祀が行われるようになったのであろう。
イザナギ一族が素盞嗚尊による倭国に加盟し、倭国統一に熱心になったのも、球磨族を意識してのことではあるまいか。球磨族にしてみれば、けんか別れした一派の支配下に下ることなど、絶対に許されないことであったろうから、新技術を示されても、倭国に参加せず、大和朝廷成立後も熊襲として最後まで抵抗することになったと思われる。  
秦徐福上陸
中国の歴史書「史記」によると、斉国・琅邪(ろうや・現在の山東省)の方士「徐福」が、不老不死の妙薬をほしがっていた秦始皇帝に対して「遥か東の海のかなたに三神山があり、そこに住む仙人が不老不死の霊薬を作っております」と申し出た。始皇帝は五穀・百工・童男童女三千人を乗せた大船団を徐福に与えた。大船団を率いて出港した徐福は、平原広沢の地にたどり着き、その地の王となり中国には戻らなかった。
これに対する日本側の伝承に徐福上陸関連の者があり、徐福はこの日本列島に上陸したようである。小山修三氏の弥生時代人口推計より推定すると、弥生時代は年平均50人から100人程度の渡来があったと思われるBC300頃から紀元前後までは1万〜3万の人々の流入と推定される。秦徐福が一挙に3000人を連れてきたと伝えられています。当時の人口規模からすると徐福の一団は相当な勢力となるのである。また、徐福は当時の最先端の技術を持った人々を多量に連れてきていますし、童男童女を主体として連れてきていますので日本列島上陸後一族の人口が増大していると推定されます。徐福のもたらした人々及び先進技術は後の大和朝廷成立に大きく影響を与えているはずです。ここでは、日本列島上陸後の徐福一族の行動について調べてみようと思う。
弥生時代になってから日本列島に多量の人々の流入が起こっているが、その渡来人の大半は中国の山東半島から江南地方にかけての地域からと思われる。このことは弥生遺跡から発掘された人骨とこの地方の人々の人骨が同等のものであることからわかる。この時代は中国の春秋戦国時代であり、争いを避けて流入した者、国が滅び逃げ出した者などが中心と思われる。いわゆるボートピープルと考えられる。ボートピープルの場合、日本列島に流れ着いてもこれら人々の間に組織力・技術力はほとんどないと思われる。そのため、縄文人と徐々に融合しながら生活を送っていたと思われる。
それに対して集団で渡航した場合には、技術力・組織力は維持できているはずで、これは、上陸後の日本列島の統一過程に大きな影響を与えていると思われる。このために、徐福一族の上陸は組織力・技術力において他のボートピープルとは状況が全く違うと考えてよい。
徐福の出自
徐福の先祖は春秋戦国時代の穀倉であった山東・江蘇・安徽の三省にかけて支配していた徐国(BC512年呉によって滅ぼされる)の偃王(えんおう)の子孫であった。同時に徐福の父は秦王に仕えていた。
徐福は神仙思想・医学・薬学・農業・気象学・天文学・航海術の諸学に通じた方士である。また、インドに留学したという説もあり、インダス文明や仏教にも通じていたようである。徐国王の子孫という名門出身というだけではなく、その国際的な英知によって、始皇帝から重用されていた。
徐福の計画した渡航計画は童男童女三千人、楼船85隻という大がかりなもので仙薬探しにしては大規模すぎ、巨額の資金も必要としたであろう。また、童男童女三千人というのは、長期間にわたって滞在することを意味し、徐福の亡命を疑ってもおかしくはない。実際に徐福は亡命に成功し再び秦に戻ることはなかった。徐福は最初から亡命を計画していたと思われる。徐福が渡航を計画しそれを始皇帝に進言し、始皇帝から認可されたものと思われるが、始皇帝ほどの権謀術策にたけた人物が徐福の亡命をなぜ疑わなかったのだろうか。
始皇帝には別の計画があったと思われる。始皇帝は万里の長城の統合に苦労していた。その東北にいた燕が朝鮮半島と通行していることに注目し、燕が日本列島を狙っていると思っていたのではあるまいか。そのために、徐福を先遣隊として日本列島に定住させ、自らが日本列島を支配する足掛かりとしたのではないだろうか。徐福に日本列島征服の含みを持たせたとすれば、これほどの大部隊を徐福に与えたのもうなずけるのである。
徐福渡航
大船団を渡航させるとなると、前もって調査が必要である。危険な外洋航海に大船団で向かうのはあまりに無謀である。安全に航海ができる様に用意周到な準備をしたであろう。当時考えられていた航路は朝鮮半島経由の北航路と黒潮に乗る南航路である。徐福伝承が佐賀平野をはじめとして太平洋岸に多いことから判断して徐福の渡航は南航路と思われる。
記録に残っている遣隋使・遣唐使の北航路・南航路の成功率は次のようである。
北航路・・・往航(6隻中2隻遭難 遭難率33%)、復航(4隻中1隻遭難 遭難率25%)、太陽暦で5月の遭難が多い。
南航路・・・往航(26隻中4隻遭難 遭難率15%)、復航(22隻中2隻遭難 遭難率9%)、太陽暦の10月の成功率が高い
中国には徐福の一団は太陰暦2月19日、6月19日、10月19日の三回にわたって渡航し、最後の10月の渡航が徐福自身であるという伝承が伝わっている。出港はいずれも19日であり、潮汐の「大潮」にあたり、徐福の船団は引潮に乗って船出したものと思われる。
2月19日の出港(太陽暦4月上旬)は北風が吹かない時期に当たるので、北航路が容易である。しかし、南風であるので、朝鮮半島から対馬海峡を渡るのは至難の業である。この航路をとれば、流されて、日本海岸に漂着するであろうが、日本海岸に徐福伝承はほとんどない。
6月19日の出港(太陽暦8月中旬)は済州島→五島列島の航路が可能であるが、このルート沿岸にやはり徐福伝承がない。
10月19日の出港(太陽暦12月上旬)は北航路は北風が吹くので不可能である。南航路となる。この航路なら、秋に収穫できた穀物を多量に積み込んで、寧波で風待ちをし、春の偏西風に乗って日本列島に漂着するのはかなり楽である。南航路の出港地と思われる寧波や舟山群島には徐福伝承が残っており、徐福がこの航路を通ったのは間違いないであろう。
10月19日の出港が正しいと思われるが、その前の2回の出港は何なのか?航海の成功率を上げるには、前もって調査研究が必要である。先遣隊を出向させ航路の状況を把握したものであろうと考えられる。徐福ほどの人物であるので、先遣隊が日本列島に上陸し、もどってきた先遣隊から日本列島のどこに上陸させたらよいかなどの情報を得ていたと思われる。その調査の結果、成功率の高いのが10月19日の出港であることが分かり、BC210年10月19日に徐福村に近い江蘇省海州湾を出港したのであろう。徐福の出港は他の渡来人と違ってボートピープルではなく、計画的出港であった。
海州湾を出港した徐福一行は北風に乗り、中国大陸沿岸を南下し、途中で食糧・飲料水などを補給し寧波に到着した。ここで、船を修理しながら春を待って、偏西風に乗って東シナ海を渡ったものと考えられる。
徐福の渡航目的
徐福は始皇帝に不老不死の仙薬を探しに行くとして許可されているが、これは渡航するための方便と思われる。真の目的は何であろうか。始皇帝は中国を統一後斉国の滅亡、領民の苦しみ、万里の長城建設の苦役、焚書坑儒などの暴政が目立ち始めた。この圧政から逃れユートピアを建設するための集団移民だったととらえたい。その根拠は一団に含まれている3000人もの童男童女である。総勢4000人のうち3000人が童男童女だったのである。童男童女を3000人も一団に加える目的は何であろうか。不老不死の仙薬を探すのだけが目的であれば専門技術者を増やした方がよいと思われる。童男童女の目的は一つしか考えられない。それは将来性である。成人が子供を産む数よりも童男童女が将来にわたって子供を産む数の方が多い。新天地に着いた後、国を建設するにあたって最も必要なのは人である。人口が多ければ多いほど安定した国を作ることができる。外洋航海で一度に何万人も送ることはできないので最少人数で最大の人口を養成しようと思えば童男童女が最も適任である。童男童女を3000人により国を作るのが目的と考えられるのである。
国を作るとなれば、農業に適した立地の場所に効率よく到達しなければならない。先遣隊を送ってその地を探らせていたと思われる。大人数の上陸となれば、最大の問題点が食料の安定確保である。持ちこめる食料には限りがあり、上陸してから農耕に適した場所を探している暇はないのである。上陸するとすぐに農耕を始めなければ、大人数を養うことはできない。その選ばれた場所こそ徐福上陸伝承のある佐賀平野であろう。
「徐福は平原広沢に達して王になった」と記録されているが、この平原広沢とはどこであろうか?当時の日本列島はまだ水田耕作が主流とはなっていなかった。現地の人々と衝突することなく土地さえあれば、水田耕作ができたと思われる。その土地とは、中国の江南地方とよく似た低湿地であろう。佐賀平野・筑後平野はこの少し前の時期に起こった「縄文小海退」によって、海水面が上昇しており、佐賀平野一帯が低湿地となっていた。また、北の脊振山地によって北風が遮られ、まさに水田耕作の条件にうってつけの場所であった。また、有明海沿岸の農耕遺跡から出土した炭化米は徐福の古里の炭化米とよく似たジャポニカ米とは異なる長粒米である。
徐福はこのほか百工と呼ばれている技術者を多量に連れてきており、当時の中国の最先端技術がそのまま日本列島にやってくることになったのである。徐福の渡航目的は圧政から逃れて国を作ることに間違いがないであろう。
佐賀平野以外に徐福の移住目的にあった場所はあるだろうか?朝鮮半島や台湾は秦始皇帝の影響が及びやすいところであり、そこを移住地として選ぶのは危険である。温暖で中国江南地方と似た環境にあり、大人数を養うことのできる土地は日本列島以外にない。日本列島内となれば、遠くの東日本は候補から外れ、上陸してすぐの地となれば九州の西海岸以外に考えられない。南の方は低湿地が少なく、熊本平野は呉の後裔が作った球磨国(狗奴国)が既にできていた。徐福の先祖が支配していた徐国は呉に滅ぼされており、互いに敵どおしであったと思われる。また、玄界灘一帯は渡来人が多く、専従者との対立が起きやすい場所である。この点から考えて、佐賀平野或いは筑後平野に勝るものはない。徐福の一団は最初から佐賀平野を目指してやってきたものと考えられる。
徐福は始皇帝から許可を得て人選、航海、上陸後の食糧確保、建国まですべて中国にいるときに綿密に計画を立てて準備していたのである。一般人にこのようなことはとてもできないであろう。徐福のその素晴らしい知識のなせる技であった。  
上陸伝承
日本各地に徐福上陸伝承が残されている。その中で最初の上陸と思われるのが佐賀の伝承である。
徐福一行は途中様々な苦難を乗り越えて、杵島の竜王崎(佐賀県佐賀市白石町)に最初にたどり着いた。ここは上陸するには困難な場所であった。上陸が困難なので、徐福一行は海岸線をたどって佐賀県の諸富町大字寺井津字搦(からみ)に初めて上陸したとされている。一行が上陸した場所は筑後川河口にあたり、当時は一面の葦原で、それを手でかき分けながら進んだという。
一行はきれいな水を得るために井戸を掘り、上陸して汚れた手をその水で洗ったので「御手洗井戸」と呼んだ。この井戸は今でも寺井地区の民家の庭に残っている。寺井の地名は「手洗い」が訛ったものと言われている。この井戸は言い伝えに基づいて大正時代に調査が行われ、井の字型の角丸太と5個の石が発見され、徐福の掘った井戸に間違いはないとされた。
しばらく滞在していた徐福一行は、漁師が漁網に渋柿の汁を塗るため、その臭いにがまんができず、この地を去ることにした。去るとき、何か記念に残るものはと考え、中国から持ってきた「ビャクシン」の種を植えた。樹齢2200年以上経った今も元気な葉をつけている。この地域では、新北神社のご神木でもあるビャクシンは国内ではここと伊豆半島の大瀬崎一帯にしかないと言われ、共に徐福伝説を持っている。このことも徐福伝説が真実であることを証明している。
一行は北に向かって歩き始めたが、この地は広大な干潟地であり、とにかく歩きにくい所だったので、持ってきた布を地面に敷いてその上を歩いた。ちょうど千反の布を使い切ったので、ここを「千布」と呼んだ。使った布は、千駄ヶ原又は千布塚と言うところで処分したという。
千布に住む源蔵という者が、金立山への道を知っていると言ったので、不老不死の薬を探すために、徐福は源蔵の案内で山に入ることにした。
百姓源蔵屋敷は田の一角にあった。現在その場所は不明だが、源蔵には阿辰(おたつ)という美しい娘がいました。徐福が金立町に滞在中、阿辰が身の回りの世話をしていたが、やがて徐福を愛するようになった。徐福は金立山からもどったら、「5年後にまた帰ってくるから」と言い残して村を去ったが、阿辰は「50年後に帰る」と聞き間違え、悲しみのあまり入水してしまった。村人はそんな阿辰を偲んで像をつくり、阿辰観音として祀った。
徐福はいよいよ金立山に入った。金立山の木々をかき分けて不老不死の薬を探したが見つけることは出来なかった。
やがて徐福は釜で何か湯がいている白髪で童顔の仙人に出会った。この仙人に不老不死の薬を探し求めて歩き回っていることを伝え、薬草はどこにあるかと尋ねると、「釜の中を見ろ」と言われた。そこには薬草があり、仙人は「私は1000年も前から飲んでいるから丈夫だ。薬草は谷間の大木の根に生えている」と言うと、釜を残して徐福の目の前から湯気とともに一瞬に消えてしまった。こうして徐福はついに仙薬を手に入れることに成功した。
仙人が釜で湯がいていたのはフロフキという薬草だった。フロフキは煎じて飲めば腹痛や頭痛に効果があると言われているカンアオイという植物で、金立山の山奥に今でも自生している。
金立山には金立神社がある。祭神は保食神、岡象売女命と徐福である。以前は徐福だけを祭神としていたそうである。
徐福は金立山で不老不死の仙薬を探し求めたが結局見つけることができなかったので、ここを出発し、各地方に人々を派遣し薬を探し求めた。徐福は山梨県の富士吉田市までたどり着いたが、薬は見つからなかった。このまま国へ帰ることができず、徐福はここに永住することを決意した。連れてきた童子300〜500人を奴僕として河口湖の北岸の里で農地開拓をした。この地の娘を妻として帰化し、村人には養蚕・機織り・農業技術などを教えたが、BC208年ここで亡くなったという。亡くなって後も鶴になって村人を護ったので、ここの地名を都留郡と呼ぶようになった。
富士吉田市には「富士古文書(宮下古文書)」が残っており、徐福の行動が詳しく記されている。
「甲斐絹」は山梨の織物として知られている。富士吉田市を含む富士山の北麓は千年以上前から織物が盛んだった。この技術を伝えたのが、中国からやってきた徐福であったと伝えられているのであっる。富士山北麓地域の人たちは富士吉田市の鶴塚を徐福の墓としている。 
吉野ヶ里遺跡
徐福自身は山梨県の富士吉田市で亡くなっているようであるが、佐賀県の金立山周辺には一行の大半が残ったと思われる。この徐福伝承地のすぐそばに吉野ヶ里遺跡がある。両者は直線距離で8km程離れている。
吉野ヶ里遺跡は徐福が来日した紀元前3世紀ごろに急に巨大化している。吉野ヶ里遺跡は発掘されている巨大遺跡であるが、神話伝承とのつながりが全くない。出土した人骨を分析した結果によると、中国の江南の人骨と吉野ヶ里の人骨とが非常に似ているということが分かった。また、吉野ヶ里から発見された絹は、前二世紀頃江南に飼われていた四眠蚕の絹であり、当時の中国は養蚕法をはじめ、蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じていた。それが日本国内で見つかったということは、吉野ヶ里遺跡を形成した一族は単なるボートピープルではなく、余程の大人物が中国から最初に持ちだしたことを意味する。時期、場所を考えるとその人物が徐福一行である可能性は高い。徐福と別れ、この地に残った人々が吉野ヶ里遺跡を形成したと考えられるのである。
吉野ヶ里遺跡はかなり戦闘を意識した遺跡である。弥生時代最大級の環濠集落であり、巨大な物見櫓、高床式倉庫群、そしてひしめく住居跡や、幾重にもめぐらした環濠跡ある。また、埋葬されたおびただしい数の甕棺墓の中には、頭部のないものや矢を打ち込まれたものなど戦死者と考えられる人骨が多数存在している。
弥生時代中期までは戦闘を目的とした武器が出土する。北九州は集落どおしの戦闘状態にあったことは確かであろう。
高良大社との関係
吉野ヶ里遺跡から直線で16km程離れた位置に筑後国一宮の高良大社がある。現在でも高良大社は吉野ヶ里遺跡付近に住む人々の信仰対象となっているのである。高良大社の背後にある高良山は筑紫平野一帯を一望できる山である。吉野ヶ里遺跡に住んでいる人たちは、その持っている先進技術のためか、周辺の集落から襲撃をよく受けていたのではないだろうか、出土状況はそれを裏付けている。そのような時、周辺の集落の動向を探るには高良山は理想の位置にある。吉野ヶ里遺跡に住んでいる人々が高良山を支配下に置こうとするのは理解できる。高良山から四方を見渡して、周辺の集落の動向を探っていたことは十分に考えられるのである。
徐福一行は童男童女3000人が主体である。成人集団より人口増加率は高かったと思われる。西暦紀元前後には数万人規模になっていたのではないだろうか。佐賀平野だけでは収まらず、筑後平野にも進出していったと思われる。この一族の墓制は中国長江流域と同じく甕棺墓であると思われる。甕棺墓こそ佐賀平野・筑後平野一帯に広がっており、徐福の子孫が筑後平野にも進出していったことがうかがわれる。佐賀平野・筑後平野を一望できるのが高良山(高良大社)である。
高良大社(福岡県久留米市御井町1番地)は式内社・名神大社で筑後国一宮である。福岡県久留米市の高良山にある。古くは高良玉垂命神社、高良玉垂宮などとも呼ばれた。主祭神の高良玉垂命は、武内宿禰説や藤大臣説、月神説など諸説あるが、古えより筑紫の国魂と仰がれていることから饒速日尊と思われる。筑後一円はもとより、肥前にも有明海に近い地域を中心に信仰圏を持つ。高良山にはもともと高皇産霊神(高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。高牟礼から音が転じ、「高良」山と呼ばれるようになったという説もある。現在もともとの氏神だった高木神は麓の二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座する。
ここで、徐福一行と高皇産霊神がつながった。徐福伝承は大和朝廷成立にかかわる神話伝承には全く出てこない。しかし、これほどの技術者集団が大和朝廷成立に全く関わっていないということは考えにくく、神話上のどの神かにつながっているのではないかと思っていたが、その神が高皇産霊神であったようである。
徐福一団は佐賀平野から筑後平野に広がっていき、一つの国を形成したこの国名を仮に高良国と呼ぶことにする。高良国王は高皇産霊神の神である。高皇産霊神は筑紫平野一帯を主体的に統一し、自らの持つ先進技術を周辺の人々にも伝えていった。高皇産霊神の尽力により北九州は一部を除いて統一されたのである。
狗奴国との関係
高良国が勢力を持ちだすと南の球磨国(狗奴国)と衝突するようになってきた。球磨国はBC473年に滅亡した呉の子孫が日本列島に漂着して作った国である。その呉は徐福の先祖の国である徐国を滅ぼしているのである。たがいにそのことは意識していたと思われ、徐福一行の高良国と球磨国は対立関係になったと思われる。甕棺墓をはじめとする徐福一行のものと思われる遺跡・遺物はいずれも熊本県最北端で止まっており、そこから南には全く見えない。これも両国の深い対立関係がうかがわれる。吉野ヶ里遺跡にも戦争を思わせるものが出土しているが、その相手国は球磨国であったのではないだろうか。
北九州沿岸諸国との関係
玄界灘沿岸地方の伊都国・奴国は朝鮮半島との関係が非常に深いようである。BC108年漢武帝が朝鮮を滅ぼして帯方郡を設置しているが、その頃より、発達してきている。朝鮮半島からの移民団によって建国されたものとも考えられるが、発掘された遺骨の分析では頭示指数・ABO式血液型分析による結果が、朝鮮半島のものとは大きく異なっている。この地域も中国の江南地方の影響が強いようである。日本列島で朝鮮半島の血筋に近い人々が多いのが近畿地方である。大阪湾岸に来た人々が朝鮮半島からの大量移民団と思われる。それ以外の地方の弥生人は、中国からの大量移民団が主流と考えられる。おそらく朝鮮半島からBC108年頃多量の移民団が北九州に上陸しようとしたが、先に上陸していた江南地方からの移民団によって阻まれたのではあるまいか。この集団はやむなく、瀬戸内海を東進し大阪湾岸に上陸したのであろう。この集団は戦闘的性格が強かったようで、大阪湾岸の縄文人との間で戦闘が行われたようである。この集団は方形周溝墓の墓制を持っており、拡張意識が強く、100年ほどの間に近畿地方一帯はもとより、北陸地方・東海地方まで進出していった。
弥生時代前期から中期の初め頃まで、伊都国に朝鮮半島系の支石墓が出現するが、埋葬されている人々が縄文人なので、この頃には朝鮮半島からの文化の導入はあっても人の大量移民はなかったものと考えられる。
BC210年頃秦徐福が一挙に3000人を連れてきて高良国を建国した。高良国は暫らくのち、佐賀平野から筑後平野一帯に進出した。南の球磨国との衝突が起き、北の方に移動していったようである。この時点で遠賀川流域には甕棺墓がほとんど見られず、遠賀川流域までは進出していなかったのであろう。このようにこの当時の渡来人の大半は中国の山東半島から江南地方にかけての地域からと思われる。
北部九州の戦闘遺跡を分析すると、弥生人どおしの戦いのようで、縄文人との戦いの形跡はほとんど見当たらない。最古の王墓と考えられているのが福岡市早良区にある吉武高木遺跡で中期初頭(紀元前2世紀)頃のものと思われる。この周辺の遺跡には朝鮮半島系の青銅武器が多量出土していると同時に戦死者と思われる人骨も多量に見つかっている。この遺跡の衰退と入れ替わるようにして伊都国の中心遺跡である三雲遺跡が発達している。これらの王墓には副葬品が多く、権力集中型の王墓と考えられる。
戦闘遺跡が最も多いのがBC2世紀から1世紀にかけての筑紫野近辺である。その南北において勢力の拮抗があったものと考えられる。
伊都国王は周辺の小国を従えた連合国を形成していたのではないかと考えている。武力により周辺を併合して行った様で、権力集中型の王だったと思われる。
これらのことより以下のように推定される。
BC473年中国呉最後の王夫差の子「忌」が熊本県菊池市近辺に上陸し狗奴国を建国、BC209年秦徐福が佐賀県佐賀市近辺に上陸し高良国を建国した。また、ほぼ同じころ中国の山東半島付近から(済州島経由?)で北九州北西部沿岸に人々が多量に上陸。これらの人々は秦の始皇帝によって滅ぼされた国の人々であると思われ、ボートピープルであるため組織力がなく、北九州上陸後、出身地ごとに小国乱立状態を作り、それぞれの小国間での争いが頻発する状態となったが、次第に伊都国に集約されていったとおもわれる。
高良国は北に伊都国を中心とする小国家連合、南に球磨国に挟まれた中で独立を保っていたのであろう。遠賀川流域、豊国地方はまだ未開の地で国としてのまとまりはなかったものと考えられる。これが紀元前後の北九州一帯の状況であった。 
 
第2節 スサノオの父フツ

第一項 フツの出自
スサノオが、国家統一事業を行ったと推定されるが、これは相当に難題で、これを実現するためには、相当の知識と知恵と行動力がなければできないことである。スサノオは、これらの能力を、どこで養ったのであろうか。
スサノオは、島根県平田市の宇美神社の地でフツを父として生まれている。フツという名は日本人らしくない名前である。「古代日本正史」によると、スサノオの本名はフツシで、ニギハヤヒの本名はフルである。どうも、同系統の名前のようである。
これについて、百済本紀を見てみると、紀元前一世紀頃の記録に、権力争いに敗れた「布流」という人物が出てくる。要約すると次のようになる。
「紀元前一世紀頃、高句麗王朝の朱蒙という王に二人の王子がいて、その弟の方の温祚王というのが王位につき、その子孫が百済王朝を築いた。この兄の方は名前を布流といい、海に面したミスコモルという場所に弟とは別の国を作ったが、布流の国は土地が悪くて住み難く、布流はそれを恥じて死んでしまった。」
ここに登場する布流は、スサノオ一族と同系統の名で、ニギハヤヒの本名と同じである。布流はスサノオ一族と関係があるのではなかろうか。
また、ほぼ同じ頃、高句麗の始祖伝承によると、始祖・朱蒙は現在の中国と北朝鮮の国境付近にあった布流国を滅ぼして高句麗を建国したことになっている。BC37年のことである。
この伝承の真実性は定かでないが、この頃「フル」という系統の地名なり、人名なりが、朝鮮半島北部にあったのは確かであろう。スサノオ一族の祖(フツ)はこのあたりに住んでいたのではないだろうか。あるいは、布流国王家の一族かもしれない。偶然かもしれないが、スサノオが誕生したと推定される時期(BC40頃)と朝鮮半島の伝承による布流国の滅亡の時期(BC37)がほとんど重なるのである。
朝鮮半島の権力争いに敗れたフツ一族は、紀元前40年頃、朝鮮半島南端部から船出をしたということが考えられる。実験によると朝鮮半島南端部から漂流した場合、対馬海流に流されて、島根半島北側の河下湾に漂着する可能性が高いことがわかっている。スサノオの生まれたといわれている平田市の宇美神社は、河下湾のすぐ近くである。そして、河下湾周辺には、朝鮮半島から上陸した人々のものと考えられる遺跡が、伝承と共に存在している。この一族の一人にフツがいたのではあるまいか。
韓国側にもこれに相当する神話が伝えられている。ヨノランとセオニョの物語である。三国遺事に記録されている。
「今から1850年以上の昔、新羅という国があり、その国の海岸の村、今の浦項市の迎日湾あたりに、ヨノランとセオニョという夫婦が仲良く暮らしていました。ある日ヨノランが浜辺で海草を採っていると、急に1つの岩があらわれ、彼を乗せ日本の「出雲」と呼ばれる国へ運んでいきました。セオニョは夫が帰ってこないので浜辺に探しに行ったところ、夫の履物が岩の上にありました。それをとろうとして岩にあがると、またその岩も動き出し、日本へ向かい、その国の人たちは2人を丁重に迎え、夫婦はそこで再会することができたのです。ヨノランはその土地の人たちに、製鉄の技術と米を作る技術を教え、セオニョは桑を植え、蚕を育て、絹を造る技術を教えた。」
この話をもとに、渡来人がどのようなルートで、どんな方法でわたってきたのか、実証しようというプロジェクト「日韓 古代の道をたどる会(からむし会)」が立ち上がっている。
この物語が真実を伝えているとすれば、後世の別の人物である可能性もあるが、神話上の人物と重なるなら、ヨノランはフツに相当することになる。関連論文ではスサノオとのかかわりを説いているが、スサノオは日本で生まれており、伝承上対馬経由のルートを通って何回も往復している。浦項-出雲間は直線300km程で、対馬経由に比べると危険性がはるかに高く、この経路を通るのは緊急避難的要素が強いと思われる。実際伝承でも計画的に移動したのではなく、流されて移動したことになっている。 
第二項 出雲王朝
古事記にはスサノオを初めとする出雲王朝が15代続いたことが記録されている。古代出雲において出雲王朝は影が薄いのではあるが、要所要所に出てくるのではっきりとさせなければならない。

■出雲王朝系図
スサノオ─1ヤシマジヌミ─2フハノモジクヌスヌ─3フカブチミズヤレハナ─4オミズヌ─5アメノフニギヌ ─┐
    ┌────────────────────────────────────────────┘
    └6オオクニヌシ─7トリナルミ─8クニオシドミ─9ハヤミカノタケサハヤジヌミ─10ミカヌシ─┐
        ┌──────────────────────────────────────┘
        └11タヒリキシマルミ─12ミロナミ─13ヌノシトリナルミ─14アメノヒベラオオシナドミ─15トオツヤマザキタラシ

■出雲王朝系図(古事記)
大山津見──木花知流比賣
          ├───布波能母遅久奴須奴
素盞嗚尊──八島士奴美     ├───深淵之水夜禮花  
          淤迦美──日河比賣      ├────淤美豆神
               布怒豆怒──天之都度閇知泥神   ├──天之冬衣神
                          刺国大─布帝耳神    ├───大国主
                                   刺国若比賣   ├──鳥鳴海
                                    八島牟遅──鳥耳   ├───国忍富
                                        名照額田毘道男伊許知邇
 国忍富
  ├───佐波夜遅奴美
 葦那陀迦   ├────甕主日子
 天之甕主─前玉比賣    ├────多比理岐志麻流美
        淤加美──比那良志毘賣  ├────美呂浪
       比比良木之其花麻豆美──活玉前玉比賣   ├────布忍富鳥鳴海
                     敷山主──青沼馬沼押比賣  ├────天日腹大科度美
                                 若尽女      ├────遠津山岬多良斯
                            大山津見神──天狭霧──遠津待根

 

代数

王名

王妃名

王妃の父

王妃の祖父

よみ

推定
没年

八島士奴美

木花知流比賣

大山津見

 

ヤシマジヌミ

 

布波能母遅久奴須奴

日河比賣

淤迦美

 

フハノモジクヌスヌ

BC80

深淵之水夜禮花

天之都度閇知泥神

布怒豆怒

 

フカブチミズヤレハナ

BC50

淤美豆神

布帝耳神

刺国大

 

オミズヌ

BC20

天之冬衣神

刺国若比賣

   

アメノフニギヌ

AD10

大国主

鳥耳

八島牟遅

 

オオクニヌシ

AD40

鳥鳴海

日名照額田毘道男伊許知邇

   

トリナルミ

AD70

国忍富

葦那陀迦

   

クニオシドミ

AD100

佐波夜遅奴美

前玉比賣

天之甕主

 

ハヤミカノタケサハヤジヌミ

AD130

10

甕主日子

比那良志毘賣

淤加美

 

ミカヌシ

AD160

11

多比理岐志麻流美

活玉前玉比賣

比比良木之其花麻豆美

 

タヒリキシマルミ

AD190

12

美呂浪

青沼馬沼押比賣

敷山主

 

ミロナミ

AD220

13

布忍富鳥鳴海

若尽女

   

ヌノシトリナルミ

AD250

14

天日腹大科度美

遠津待根

天狭霧

大山津見神

アメノヒベラオオシナドミ

AD280

15

遠津山岬多良斯

     

トオツヤマザキタラシ

AD310


1 のヤシマジヌミはスサノオの長男でスサノオが国家統一事業を始めて倭国の経営に乗り出しているとき、出雲国を治めていたといわれている。また、 4オミズヌは出雲風土記によれば国引きをしたことで知られている。さらに、オオクニヌシはスサノオの末子であるスセリヒメと結婚している。すなわちヤシマジヌミとオオクニヌシは同世代となるのである。また5天之冬衣神は天葺根ともいいスサノオのおろち退治のアマテラス大神に剣を献上する使者になっている。このようなことから1から6までは同世代とも考えることができるが、 古事記にある通り直系だとするとどのようなことになるのであろうか?
出雲朝第6代大国主命は素盞嗚尊の娘スセリヒメの婿になっている。吉田大洋氏「出雲帝国の謎」で大国主はクナト大神の子であり、クナト大神は出雲本来の神として扱われている。出雲の神社では本来クナト大神を祀っていたものが素盞嗚尊に取って代わったと言い伝えられている。素盞嗚尊は朝鮮半島から渡来した父布都より誕生しているので出雲としてはよそ者となる。そのため、出雲国風土記では扱いが小さくなっており、大国主が大きく扱われていることになる。また、出雲王朝の人物を古事記では「命」ではなく「神」という尊称を使っている。このことも出雲王朝が特別な存在であることを意味している。出雲王朝は本来の出雲の王家の系統を表わしているのではあるまいか?古事記編纂において素盞嗚尊の系統につないだため、このような不自然な系図になったものと推定される。この出雲王朝の王をクナト大神と表現しているものと推察する。
それでは出雲王朝初代は誰なのであろうか?それを明確に表現することが難しいが、出雲朝第二代布波能母遅久奴須奴が古事記編纂時記憶にあった最初の出雲国王だったのでは ないだろうか?直系であるとすればBC100年ごろの人物となる。BC108年に漢の武帝が朝鮮を滅ぼした時、朝鮮半島から多数の人々が日本列島に流れ着いているが、布波能母遅久奴須奴は活躍時期から推察するに、 そのなかの一人かもしれない。 これを元にオロチ退治以前の出雲の状態を推定してみよう。 
第三項 国引き神話
出雲国風土記によると出雲朝第4代淤美豆神の時国引きをしている。活躍時期はBC30年ごろで、素盞嗚尊の父布都の活躍時期と重なるのである。 出雲風土記の国引きとは一体何であろうか。これについて検討してみよう。 
国引き神話あらすじ
『古事記』や『日本書紀』には記載されておらず、『出雲国風土記』の冒頭、意宇郡の最初の部分に書かれている。
八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと・淤美豆神)は、出雲の国は狭い若国(未完成の国)であるので、他の国の余った土地を引っ張ってきて広く継ぎ足そうとした。
そして、佐比売山(三瓶山)と火神岳(大山)に綱をかけ、以下のように「国来国来(くにこ くにこ)」と国を引き、できた土地が現在の島根半島であるという。
国を引いた綱はそれぞれ薗の長浜(稲佐の浜)と弓浜半島になった。
そして、国引きを終えた八束水臣津野命が叫び声とともに大地に杖を突き刺すと木が繁茂し「意宇の杜(おうのもり)」になったという。
・ 新羅の岬→去豆の折絶から八穂爾支豆支の御埼(やほにきづきのみさき。杵築崎)
・ 北門の佐伎(さき)の国(隠岐の島・島前)→多久の折絶から狭田(さだ)の国
・ 北門の良波(よなみ)の国(隠岐の島・道後)→宇波の折絶から闇見(くらみ)の国
・ 越国の都都(珠洲)の岬→三穂埼
神話伝承
長浜神社 主祭神 八束水臣津野命
国富の要石 国引きで引き寄せた土地が地滑りするのを防ぐために立てた石・出雲市国富町旧木佐家敷地内
帆筵石(ほむしろいし) 旅伏山の山頂、都武自神社の境内にある。八束水臣津野命が韓国へ航海した時の帆が石になったもの
岩船石 出雲市唐川町。八束水臣津野命が韓国に航海した時の船が石になったもの
帆柱石 出雲市別所町。八束水臣津野命が韓国に航海した時の帆が石になったもの
国引きとは一体何なのであろう。実際に土地を引き寄せたとは当然ながら考えられない。八束水臣津野命が韓国に航海したということが地域伝承に言い伝えられていることから、ほかの土地との交流を意味していると思われるが、これを技術者の輸入と仮説を立ててみた。
天之冬衣神はスサノオが八岐大蛇退治をするときに協力した神であり、スサノオと同世代と考えられる。オオクニヌシはスサノオより1世代後と考えられるので、天之冬衣神の父である八束水臣津野命はフツと同世代となる。出雲王朝はこの当時杵築(出雲大社周辺)に本拠地を置いていた一豪族と考えている。出雲本来の豪族であり、クナト大神、オオクニヌシと共通名で呼ばれることもあるようである。以下は推測である。
フツが河下湾に上陸し平田市近辺に住みついたとき、その世話をしたのが八束水臣津野命ではないだろうか、フツとしては見知らぬ土地で困っているところをいろいろと助けてくれたのである。フツのほうも八束水臣津野命に朝鮮半島の新技術を伝授した。八束水臣津野命は遠くの国には我々の知らない技術があることに驚いたであろう。知識欲が旺盛だった八束水臣津野命はフツにもっと技術はないものかと相談した。フツは韓国にはもっとすごい技術があると伝えたことであろう。
フツから韓国には素晴らしい技術があることを聞いて八束水臣津野命は韓国からその技術を取り入れようと決心し、船を造ってその技術を輸入しようとした。すぐには学べない技術もあったので、韓国の技術者を出雲に呼び寄せた。先ほどのヨノランとセオニョもその技術者に含まれるかもしれない。韓国から戻ってくるときの目標が三瓶山だったのではあるまいか。そして、その上陸地が長浜と考えられる。これが国引き神話の実相ではないだろうか。
韓国から技術導入の後、八束水臣津野命はほかの土地からの技術導入を思いつき、次は北陸地方能登半島の珠洲地方から技術者を呼び寄せた。能登半島は東の縄文文化と西の弥生文化の接点であり、出雲にはなかった技術があったのであろう。その帰り道、大山を目標とし、上陸地が弓ヶ浜だったと思われる。後に隠岐の島の島前・道後を訪問しここからも技術者を呼び寄せた。土地が違えば人々の生活形態も異なるものであり、出雲の人が知らない何かがあるのが当然であろう。フツは八束水臣津野命の支援のもと、平田近辺の一豪族として勢力を拡大していった。そして、この事業が後にスサノオが統一事業を始める試金石となったものであろう。 
第四項 スサノオの誕生
スサノオ誕生伝説地と思われる場所が島根県下に存在している。当初平田市の宇美神社ではないかと推定していたがその後の調査によりもっと可能性の高い場所が見つかった。
平田市塩津町の石上神社である。この神社は風土記に宇美社と記載されており、誰か重要人物が誕生した地であるように思われる。祭神は布都魂命である。古代の神名帳には「宇美神社塩津村海童」と記されており、海童とは海神(スサノオ)を意味している。この地は平田市の北側の日本海岸にあたり絶壁のような狭いところに人家が集まっている。今は道路が開通しているが古代においては海からではないとこの地にたどり着くのは難しかったのではあるまいか。古代において人々が常時住むところとはとても思えない。BC37年布流国滅亡に際して朝鮮半島を船出した布流国王の血筋のフツが臨月の妻とともに日本海を漂流しているとき、命からがらこの海岸にたどり着き、そこで出産した。そのような物語がぴったりと来るような土地である。
スサノオはフツが日本海から上陸した直後に誕生したのではないかと思える。フツ夫妻はしばらく後産まれたばかりのスサノオを抱きかかえて、この地の少し西にある河下湾に上陸し、住みやすい地を探しながら沼田郷のほうへ移動したものと考えられる。
フツがわざわざ日本列島まで来るのは緊急避難的要素が強く、その必要性がある人々というのは、滅亡した国の王の系統であると思われる。また、スサノオは、ヤマタノオロチを退治するときに使った布都御魂剣(鉄剣で石上神宮に現存)という、当時としては、大変珍しい鉄剣を持っていた。この剣は父フツのものであり、当時の日本列島では大変珍しいものである。こういう物を持っているというのもフツが王家の系統である証である。
フツは朝鮮半島の王家の系統であるため、日本列島や、朝鮮半島の地理・情勢・人心のつかみ方・政治のあり方などをよく知っていたと考えられ、スサノオは父からそれを学び、それを実行に移したと考えることができる。また、父から、朝鮮半島での権力抗争の話も聞いていたであろうから、人々が権力抗争することの愚かさや、それによって起こる不幸な出来事を知っていて、権力抗争を憎む気持ちがあっても不思議ではない。
また、スサノオが統一事業開始前に朝鮮半島に渡って、色々な技術を採り入れていることも、フツからその知識を得ていたからと解釈する。
このようにスサノオが日本列島統一事業を始めることができたのは、朝鮮半島からやってきた人物を父に持ったからできたことであり、日本列島生まれの列島育ちでは統一事業はできなかったことであろう。
斐川町出西に久武神社がある。この東方300mの地にヤマタノオロチ退治の後稲田姫を娶り、ともに住んだ住居跡の伝承地がある。稲田姫との新婚生活をした場所は松江市の八重垣神社及び大東町の須我神社にある。周辺伝承とのつながりは松江市の方が強いため、久武神社のほうはヤマタノオロチ退治する前にスサノオが住んでいた地ではないかと推定している。ここは沼田郷に近いところであり、17歳ほどに成長したスサノオが生活するには良い土地であろう。この地に一目ぼれした稲田姫を呼び寄せたこともあったと思われる。そのような時、木次の豪族ヤマタノオロチの横恋慕が入り、稲田姫を奪われた。スサノオはオロチを退治して稲田姫を奪い、オロチ一族の追撃を恐れていたわけであるから、スサノオも自分の家に戻るとは考えにくい。オロチ退治後は知り合いの青幡佐草彦を頼って松江市の八重垣神社の地に隠れ住んだとするほうが自然である。 
第五項 フツの御陵
島根県の日御崎神社の裏山に御陵がある。神社の記録によると、安寧天皇の時代に御陵の上にあった社を現在の位置に動かしたとあるので、この御陵は一世紀には存在していたようである。日御碕周辺にはその他にいくつかの朝鮮半島系のものと考えられる墳墓が見つかっている。スサノオは父のフツを尊敬しているはずであるから、その御陵は意味のあるところに存在するはずである。日御崎は朝鮮半島を向いた位置である上に、日御崎神社上の宮(祭神スサノオ)も朝鮮半島を向いている。フツが、彼の故郷である朝鮮半島を思う気持ちから、この地に作られたのではあるまいか。この御陵はスサノオのものと伝えられているが、スサノオの御陵は別に存在するので、この御陵をフツのものと推定するのである。そうなれば上之宮の真の祭神はフツである可能性も出てくる。 
 
第3節 瀬戸内海沿岸地方の統一

 

第一項 ヤマタノオロチ退治
スサノオはBC36年ごろ平田市塩津町石上神社の地で誕生したと推定した。スサノオの父フツは生まれたばかりのスサノオを連れて沼田郷に移動しそこに根付いた。スサノオはここで成長し、BC20年ごろには出西の久武神社の地に住んでいたと思われる。この直後にヤマタノオロチ事件が起きるのであるが、その事件の概要を伝承を元に探ってみようと思う。
ヤマタノオロチ関連伝承地は斐伊川沿いを中心として数多く存在しているが、3系統ぐらいに分けられる。第一の系統は木次を中心とする伝承で斐伊川と赤川の合流地点がスサノオとヤマタノオロチの決戦場となっている。第二の系統は斐伊川河口付近でヤマタノオロチが退治されたというもので、この伝承は周辺の伝承とあまりつながらない。第三の系統は木次町日登を中心とした伝承である。第一の系統に属する伝承の特徴はヤマタノオロチが巨大であるということである。また、出雲振根や吉備津彦の伝承地と重なっており、後の時代の倭の大乱を意味しているものと推定する。この関連伝承は倭の大乱の項で詳説する。第二の系統はヤマタノオロチが斐伊川上から大軍で押し寄せてくる類のものであり、斐伊川の洪水か、たたら製鉄の人々と農民との争いを意味しているように読み取れる。第三の系統がスサノオと稲田姫のつながりが深く感じられ、ヤマタノオロチと酒とのかかわりが深い伝承でヤマタノオロチは一人の人間を意味しているようである。スサノオのヤマタノオロチ退治はこの第三の系統のヤマタノオロチ関連伝承で説明できる。
ここでは、第三の系統の伝承に絞って検討してみようと思う。
ヤマタノオロチの実態
ヤマタノオロチの本拠地はどこであろうか。古事記の伝承によると、足名椎・手名椎の屋敷からは離れているようで、また、相当な権力をもった大豪族のように読み取れる。稲田姫一族の屋敷は仁多郡仁多町佐白の地で「長者邸」という屋敷跡であろう。ここから離れたところで、しかも、大豪族たる立地の場所を探すと日登の地が考えられたが、この周辺にヤマタノオロチ関係の伝承地が見当たらない。ヤマタノオロチは毒酒を飲んで苦しんでいるところをスサノオに刺殺されているので、ヤマタノオロチ終焉の地である木次の八本杉の位置かとも考えたが、この地は低地であり、斐伊川の洪水に流されてしまう場所である。しかし、八本杉のすぐ近くに斐伊神社がある。この神社は孝昭天皇5年に創建された神社で、かなり古いものである。
境内の略記には以下のように記されている
須佐之男尊、稲田比売命、伊都之尾羽張命
合殿 樋速夜比古神社 祭神 樋速夜比古命
本社の創立は甚だ古く孝昭天皇五年にご分霊を元官幣大社氷川神社に移したと古史伝に記載してゐる。
出雲風土記の「樋社」で延喜式に「斐伊神社同社坐樋速夜比古神社」とある。天平時代に二社あったのを一社に併合したのであろう。他の一社は今の八本杉にあったと考えられる。「樋社」を斐伊神社と改稱したのはこの郷の名が「樋」といったのを神亀三年民部省の口宣により「斐伊」と改めたことによる。延喜の制国幣小社に列せられ清和天皇達観貞観十三年十一月十日神位従五位上を授けられた。本社は中世より宮崎大明神と稱えられ地方九ヶ村の崇敬厚く明治初年までその総氏神としてあがめられた。明治四年五月郷社に列せられた。
明治十六年馬場替をし、仝四十年五月日宮八幡宮稲荷神社を本社境内に移転し、境内末社とした。
昭和五十六年九月一日島根県神社庁特別神社に指定された。
昭和六十三年八月廿五日社務所を改築した。
また、この地はスサノオが仮宮を作って稲田姫を隠した地とも言われている。
八本杉の位置とこの神社はペアの関係にある。この神社の位置は高台にあり、ヤマタノオロチの本拠地との条件はすべて兼ね備えている。この位置がヤマタノオロチの屋敷跡とすれば、ヤマタノオロチの実態がかなり明確に想像できるのである。
この地は斐伊川沿いにあり、ここから下流はしばらく急流が続く、当時の人々は斐伊川を利用し船で他地域との交流を図っていたと思われる。斐伊神社のある里方の地はその入り口にあたり、急流を遡ってきた船はほぼ確実にこの地で休息を取るであろう地である。また、肥沃な日登、三刀屋方面からの合流点でもあり、この地を統治していた豪族は、ここから上流一帯の物資の流れを一挙に握っていたことになり、強大な権力があったことが予想される。この大豪族こそヤマタノオロチであったのであろう。
稲田姫一族の屋敷
稲田姫一族の屋敷は仁多郡仁多町佐白の地で「長者邸」という屋敷跡がある。アシナツチ・テナツチ二神の遊興の場「茶屋場」、馬を飼っていた「厩谷」、オロチ退治の毒酒を醸した「和泉谷」などの地名が残っている。周辺伝承とのかかわりから推定して、ここが稲田姫の実家であろう。長者屋敷跡は山岳地帯にあり、足名椎は地方の一農民といった感じである。久武に住んでいたスサノオも奥出雲地方との交流を盛んに行なうため、しばしばこの地方にもやってきていたようである。そのなかでスサノオは稲田姫と親しくなっていったようである。
ヤマタノオロチも稲田姫が気に入り、たびたび通ってきたようである。長者屋敷周辺数百m以内にはオロチが住んでいたという伝承をもつ地「八頭」、「大蛇池」、「大蛇瀑」、「八頭坂」などがある。稲田姫が気に入ったオロチは頻繁に通ってきて、周辺に滞在したものと考えられる。オロチが木次から通ったルートも大体想像がつく。木次から斐伊川を遡り、北原字川平の岸辺に船をつけ、布施川を遡り、オロチが来ると波が起こったといわれている波越坂を経由して長者屋敷から北東へ700m程離れた「大蛇池」、「八頭坂」に滞在するコースと、佐白の上布施の上陸し八代川に沿って遡り、長者屋敷から南東に200m程離れた「八頭」に滞在するコースが考えられる。ヤマタノオロチの滞在地が長者屋敷のすぐ近くに複数個所存在することから判断して、ヤマタノオロチの稲田姫に対する思い入れは相当強かったと思われる。
オロチ・スサノオ・稲田姫の三角関係
スサノオ一族はフツから教えてもらった朝鮮半島の先進技術を周辺の人々に伝えて出雲地方で人々に慕われていた。それに対して、ヤマタノオロチは権力をほしいままにしていた大豪族であった。斐伊川沿いの天ヶ淵の近くに福竹があり、足名椎・手名椎が稲田姫とともにオロチから逃げている様子が伝えられている。おそらく、稲田姫は激しく求愛するオロチを嫌って長者屋敷を逃げ出したのであろう。このようなとき人々から慕われているスサノオから求婚の申し込みがあった時喜んでその申込みを受けた。二人は佐白の八重垣神社地で結婚式を挙げ、久武の地の稲城でスサノオとの新婚生活を送ることになった。久武神社の伝承に詳しい。
久武神社の伝承
「命は出雲国に来たり、此邊りを跋渉せられると、偶然にも川中へ食箸が流れてきた。そこで、命は此川上に住んで居る者があることを知られ、川を遡って足摩槌手摩槌に遭ひ給ひ、稲田姫を娶られ、今の出西村稲城と云ふ森に堅固な城を築かれ、姫を入らしめ給ひ、大蛇退治の準備をせられ、次で追討に向はれた。大蛇はそれまで、出西まで出て来つたので、今の字来原は大蛇の来たところであって、大蛇はそれから上船津の蛇越という地を経て再び川上に至ったもので、命は川上の地で大蛇を討伐し給ふ。」
しかし、権力を笠にする性格のヤマタノオロチは納まらず、久武のスサノオを襲い稲田姫を奪った。伝承によると、オロチは斐伊川を下り久武と対岸となる来原の地に上陸して様子を探り、一挙に稲城の稲田姫を奪い去ったことが分かる。船津を経由して川上に連れ去ったものであろう。オロチは木次から斐伊川を下り出西で上陸すればすぐ近くに、スサノオ・稲田姫の新婚生活をしている屋敷がある。おそらく、このコースでオロチはスサノオから稲田姫を奪ったのであろう。
オロチ刺殺事件
八岐大蛇関連伝承地
稲城の森 出雲市出西 スサノオが稲田姫と新婚生活した地。オロチの襲撃を恐れ堅固な城にしたという。
来原 出雲市大津町 大蛇が来たところと伝える。
上船津 出雲市舟津町 大蛇が川上に戻る時、立ち寄った処。
布須神社 木次町守谷 「八塩折の酒」を作るための御室を設けて宿泊した。室山の麓には「釜石」があり、ここで毒酒を作った。
八口神社 木次町西日登 八岐大蛇退治の時の仮宮を立てた処。この時の酒壺が壺神様として祀られている。
斐伊神社 木次町里方 稲田姫を隠した所
八本杉 木次町里方 オロチ館跡。オロチが最後を遂げた処。
三社神社 木次町西日登 オロチ退治の成功を祝って「祝賀の舞」をしたところ
大森神社 木次町西日登 オロチ退治後暫らく隠れて居た処。
佐世神社 大東町下佐世 スサノオがオロチ退治後海潮の須我に向かう途中に立ち寄り、佐世の木の葉を頭に挿して踊った時、刺した木の葉が落ちた処。
宝山 大東町中湯石室田 海潮温泉の裏山で御室山とも云う。「郡家の東北一十九里一百八十歩。神須佐乃袁命、御室造ら令め給ひて、宿りし所なり。故、御室と云ふ。」と伝える。
八重垣神社 松江市佐草町 背後の佐久佐の森に稲田姫を匿い、八つの垣を作ってオロチの追撃を防ごうとした。
八雲山 大東町須賀 スサノオノミコトが八岐大蛇退治後に稲田姫を娶り宮を作るためにこの地に来て「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣つくるその八重垣を」と詠まれた所。
須我神社 大東町須賀 スサノオ最初の宮跡。館の前で交換市を開いた。
稲田姫を奪われたスサノオは、なんとか取り返したいと思ったが、オロチは大豪族であり、まともに立ち向かったのでは勝ち目はない。そこで、稲田姫の実家のアシナツチ・テナツチの協力を得て強力な毒酒を作らせた。そのときの毒酒を作った地が木次町宇谷の布須神社、そのときの酒壺が木次町西日登の八口神社に壺神様として祀られている。その毒酒を木次の八本杉の地で宴会をしていたヤマタノオロチに飲ませた。ヤマタノオロチが毒酒に苦しんでいるときに父の鉄剣(布都御魂剣)で刺し殺した。
スサノオは稲田姫を連れてオロチの屋敷を飛び出した。スサノオはオロチの配下による復讐を恐れていた。もう出西には戻れないと思ったスサノオはその逆方向にある西日登の三社神社はオロチ退治の成功を祝って「祝賀の舞」をしたところで、東日登の大森神社の地にしばらく隠れていたと言われている。この神社の伝承によりスサノオがオロチを退治した後の逃避経路が判明する。八本杉のところから斐伊川を4km程遡り、能間より支流に沿って遡るとすぐに三社神社があり、峠を越えると大森神社がある。スサノオは宇谷の布須神社の地に移った後、様子をうかがいながら、大東町の佐世神社の地に移動した。この神社はオロチ退治後海潮の須我に向かう途中に立ち寄ったと伝えられている。そこから八雲村を経由して佐草の八重垣神社の地の青幡佐草比古をたずねていった。
八重垣神社の地で一時身を隠し、八重垣を作ってオロチ一族の追っ手を防ごうとした。オロチ一族の残党はスサノオを追うことはせずに、そのまま解散したようである。オロチの館跡には八本杉が植えられ、スサノオがこの事件に関連した場所には、神社が建てられ、これらの伝承を詳細に伝えている。権力をほしいままにしていたオロチであるから、人々はスサノオの行動に感謝をした。統一政権のない弱肉強食の時代にすんでいる人々は権力欲のある豪族にいじめられており、自分たちの生活を守ってくれる人物の登場を願っていた。彼らは人望のあるスサノオを中心として団結すれば、それらの豪族たちに立ち向かえると考えた。人々は、彼に王になってくれと嘆願した。スサノオも民衆のためになるのならと承諾し、彼を国王とした出雲国が誕生した。
ヤマタノオロチ伝承は、スサノオが国家統一事業を引き起こすきっかけになったもので、重要なことから、古事記・日本書紀でも無視できず、大蛇退治として記録された。しかし、出雲風土記には触れられていないのである。朝廷は、おそらく、ヤマタノオロチ事件を大蛇退治として記録するように要求してきたであろうが、出雲国造はスサノオの大事な事件を大蛇退治にしてしまうのに抵抗を感じ、風土記に書き込むのを拒否したと考える。出雲風土記にはスサノオに関する記述が非常に少ないが、これも朝廷の検閲の結果、朝廷に都合のよい記述をすることに抵抗を示して、スサノオ記述が少なくなったものと考える。 
第二項 出雲国王就任
紀元前20年頃、土地の豪族ヤマタノオロチを倒したスサノオは、周りの人々に推されて出雲国を建国し、国王となった。大原郡大東町の須我神社の地で政務を司った。須我神社は日本初之宮と伝えられており、日本で最初の宮跡といわれる。その周辺で、市を開いたり近郷の豪族を集めて会議をしたりといった伝承が伝わっている。古代にしては珍しく合議制だったようである。スサノオは権力で勝ち取った国王の座ではなく、人々から推されて国王になったのであるから、人々のことを考える気持ちが強かったと推察される。そして、スサノオは出雲各地を巡回し、人々の生活に心を配ったらしく、島根県各地の神社にこの巡回の模様が伝えられている。スサノオはこのように民衆に心を配ったために、出雲国の人々の生活は潤い、彼は民衆から慕われた。そのうわさを聞いた周辺の集落も、出雲国に加入するようになり、出雲国は次第に大きくなっていった。
来阪神社 出雲市矢尾 背後の鼻高山に登った。本殿傍らの岩はスサノオの腰掛岩と云われている。
山狭神社 安来市広瀬町 スサノオがこの地を巡視した時、仮の宿を立てた処。熊野山を経由して、熊野との間を往復していたという。
都弁志呂神社 安来市広瀬町 スサノオが置き忘れて云った杖と腰かけた岩を奉祀した神社
多賀神社 松江市朝酌町 スサノオ命が新羅国より埴土の舟に乗り出雲国に渡り、この地に船を留め宮を作った。
出雲国は、当初現在の島根県松江市南部およびその周辺の領域であったが、島根県東部地域一帯にまで広がるようになった。国が広くなると周辺地域まで心配りがなかなか行き届かず、佐田町の須佐神社の地に支庁を作ったようである。スサノオの名は「須佐の王」からきたものではあるまいか。
出雲国王としての成功がスサノオに自信をつけさせ、スサノオは日本列島を統一しようと考えるようになったのではないだろうか。 
第三項 国家統一の動機
スサノオが国家統一をするに至った動機はどのように考えられるであろうか。
伝承によると出雲国王時代には、スサノオは出雲各地から毎年代表者を呼び寄せ、会議を開いていたようであり、その会議によって重要なことを決めていた。つまり合議制だったのである。古代の権力者は独裁になりやすいのであるが、スサノオはかなり民衆のことを考えた政治をしていたようである。神社伝承でも、出雲国王としてのスサノオは人々からかなり慕われていたことが伝えられている。スサノオは常に民衆のことを考える性格の人物であり、その性格が次のようなことを感じさせたのではあるまいか。
スサノオの父フツは、おそらく朝鮮半島の権力抗争に敗れた人物で、スサノオはその話を聞いていたと考えられる。また、出雲の豪族ヤマタノオロチの横暴をみるにつけ、日本列島が統一されていないために、このまま時が過ぎると出雲国はいずれどこかの国と戦争をしなければならなくなり、多くの人々の血が流されることになろう。
このように、各地の有力豪族が権力を欲しいままにしていた状況に「今のうちに、何とかしなければ」というものを感じたのではあるまいか。
有力豪族の権力抗争を憎み、
「今のように、小国家が分立した状態で、それぞれの王が、権力欲をむき出しにしている状態では、いずれ朝鮮半島のように列島内至る所で戦争が始まり、人々は苦しむ状態になる。幸い日本列島は小国家乱立状態で、それぞれの国家は烏合の衆である。今のうちに統一してしまえば、未来永劫、争いのない世界がやってくるのではないだろうか。」
とでも考えたのではないだろうか。この考えは日本書紀の「八紘一宇」「六合一都」の考え方で、初代神武天皇が大和で即位するときに人々に示したとされている。これは、戦前に強調され、太平洋戦争の口実になったものである。しかし、古代にしては考えられないほど理想的な考え方である。スサノオの実践があったからこそ、この考え方が存在していたのではあるまいか。おそらく、スサノオの考えを受け継いだ神武天皇が大和で即位するときに、この考え方を示したものであろう。
最初に統一された瀬戸内海沿岸地方から、出雲系土器が出土するが、その数はまばらで少ない。このことはスサノオのこの地方統一は少人数だったことを意味し、少人数での統一は平和統一しかあり得ない。スサノオは、瀬戸内海沿岸地方の人々に国家統一の必要性を説いて回り、その協力者を募ったものと考える。古代と雖も人々は戦いを好まず、平和な生活を望むであろうから、協力者はかなり多かったのではあるまいか。そして、彼らの協力を得て次の地域を統一していくという方法を使ったのであろう。
これは、スサノオが権力欲や支配欲なしで、純粋に国家統一を目指していたことを意味している。もし、スサノオが権力欲を持っていたのなら、瀬戸内地方を統一した後は、この地方を出雲勢力の勢力下に置くであろう。そして、統一に武力を用い、あくまでも出雲勢力を中心に動くはずである。統一した地方の人々を動かして、次の地域を統一するといった手法は、統一された側に支配されるという感情を持たせず、目的意識を持って積極的に国家統一事業に参加させるといった効果をもたらせたと考える。そのため、統一される側も、抵抗感が少なくなったのであろう。実際にその後の九州統一でも、遺物から判断して、出雲勢力よりも瀬戸内勢力がかなり活躍している。
このような気持ちで統一事業をやったからこそ、多くの人々が協力し、後に日本最高の神として崇められるようになったと考える。 
第四項 対馬統一
当時の人々に生活苦があった状態では、生きるのに精一杯でとても理想的な行動をしようという気にならないが、この時期は温暖期にあたり生活はやや持ち直した時期であったようである。時期的にも統一にはよかったようである。
日本列島統一をするには、他の地域に対する売り物として、多くの先進技術や高い文化が必要である。各地の人々に統一国家に加入せよと言っても、そのメリットがなければ、従う者はいないし、加入した地域もそのメリットが継続していなければ、また離れて行くであろう。朝鮮半島の先進技術を手に入れ、統一国家に加入した人々に伝えれば、人々の生活水準は上昇し、加入地域も増えるであろう。
父であるフツや八束水臣津命が国引きで朝鮮半島から持ち込んだ剣などの金属器の輝きに人々が驚き、また、農業技術で人々の生活が楽になっていくのを見て、スサノオは外国の最新技術が国の経営に欠かせないことに気づいた。また、出雲国が豊かになるにつれて、周りの小国がどんどん加盟を申し出てくることから、国を豊かにすることが国家統一に必要なことであることも気づいた。
スサノオは、朝鮮半島から来た父のアドバイスをもとにして、国家統一の前に、まず、その先進技術や高い文化を入手するルートを恒常的に確保しようとした。
そのルート上にあるのが対馬である。出雲国王になったスサノオは、日本列島統一に絶対必要な最新技術を恒常的に手に入れるため、対馬を出雲国の支配下に入れることを考えた。紀元前10年ごろのことであろう。
対馬では弥生時代中期末(西暦紀元前後)になると、多量の副葬品を所有した墳墓が三根湾の一角に出現する。ガヤノキ、タカマツノダン、サカドウといった首長級の墳墓の出現である。副葬品としては前漢鏡、楽浪系銅釧、半島産小銅鏡などの青銅製品が多い。この周辺が対馬国の発祥の地であろう。
対馬に伝わる伝承では対馬はスサノオが開祖で代々スサノオの子孫が対馬を統治しているとされている。対馬では中期末以前には王墓らしき墳墓は存在しないので、伝承と照合すると、スサノオが対馬にやってきて国を作ったということになる。対馬は山が多い島であり、スサノオがやって来るまでは、まとまった国としての存在はなく、スサノオはここに国を作ることにより出雲と朝鮮半島の交流拠点を確保したものと考えられる。その拠点を三根湾沿岸に作ったものであろう。そして、対馬から朝鮮半島に渡り、先進技術の導入を謀ったのである。そのため、対馬には出雲系神社が多く出雲と同じ神在月伝承が残っていると推定する。
対馬の最北端には嶋頭神社(那祖師神社に合祀)があり、この地は、その昔スサノオが韓地ソシモリにわたったときの行宮の足跡といわれている。また、那祖師神社の伝承では素盞嗚尊は三韓経営のため対馬と朝鮮半島を往復した、とある。スサノオの朝鮮半島訪問は1回ではなく複数回に及んだものと推定される。そして、神話では、朝鮮半島に渡ったスサノオは全国に木の種を配って回ったとされている。木の種を配っても生長して実が成るまでには年数がかかり、実際上の効果がほとんどないと考えられ、木の種というのが新技術を示しているのではないだろうか。
対馬には出雲系の神社が非常に多く、神無月伝承に関わる神迎え儀式が伝わっており、出雲との間を、毎年、神が往復していたと伝えられている。これらから、対馬は他の地方よりも、出雲との間に深い関わりがあることがわかる。これは、他の地域よりも早い時期に出雲の勢力下に入っていたためと考える。
スサノオは、次に、朝鮮半島南端部を統一したようである。「尾張名所図絵」等の資料によると、愛知県の津島神社の創始について、
「朝鮮半島に祭られていた素盞嗚尊の御魂が、七代孝霊天皇の時に、西海の対馬に遷された。」とある。
スサノオが、朝鮮半島に祭られていたということは、その地を統一していたということになる。那祖師神社の記録にも「朝鮮半島東南部の経営のために対馬と朝鮮半島を往復した」と記録されている。朝鮮半島南端部(狗邪韓国)は魏志倭人伝によっても倭人の国に属していた節があり、中国の認識する倭国の領域に朝鮮半島南端部が含まれていたようである。また、後の時代の任那日本府にしても、その起源は不明である。スサノオが統一していたとすれば、説明できる。おそらくスサノオは、外国交易の基点として重要視したい朝鮮半島南端部を、統一していたのであろう。スサノオは、ここを基点として、朝鮮半島の先進技術をかき集め、日本列島に持ち込んだものと考える。考えられる先進技術は、鉄器製造技術・青銅器製造技術(銅剣・銅矛・銅鐸)・農耕技術・暦・新作物の種などであり、いずれも以後瀬戸内沿岸で変化が起こっているものである。
大石武氏著「伝説散歩・八幡の島」p191に次のような記述がある。
峰町の竜造寺辰馬氏の言葉として「私は戦前長く朝鮮にいましたが、北朝鮮江原道の春川郡春川面というところに「ソシモリ」と呼ばれているところがありました。ちょっとした丘が聖地になっていて、土地の人はそこの神様のことを大昔日本から来た神様だと伝わっていると申していました。その丘をソシモリの丘と呼んでいました。」
また、現地では次のような言い伝えもある。
「素盞嗚尊が五十人の兵士と妹を連れて出雲へ渡ったと云う」
日本側の伝承とつなぎ合わせると、50人の兵士とは五十猛命、妹とは抓津姫、大屋津姫と考えられる。
また、日本書紀一書(第四)「素盞嗚尊の行いはひどいものであった。そこで、神々が、千座の置戸の罪を科せられて追放された。 この時素盞嗚尊は、その子五十猛神をひきいて、新羅の国に降られて、曽尸茂梨(ソシモリ)の所においでになった。そこで不服の言葉をいわれて「この地には私は居たくないのだ。」と。 ついに土で舟を造り、それに乗って東の方に渡り、出雲の国の簸の川の上流にある、鳥上の山についた。」
一書(第五)「素盞嗚尊が言われるのに、韓郷の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」と。 そこで鬢を抜いて杉、胸毛から檜、尻毛から槙、眉毛を樟となしたとある。」
根國へ放逐せられたる素戔鳴尊は身から出た錆の報いで所々方々を流浪しながら其の子の五十猛命と共に 今の朝鮮へ渡られ、新羅國の曾戸茂梨と言う所に居られた。
此の曾戸と言うのは朝鮮の古い言葉で牛のことであり茂梨は頭と言う事であって今の江原道春川府の牛頭山であろう。よってスサノオの別名を牛頭天王とも書いてある。
此の牛頭天王が朝鮮に居られる間に「此の國には金銀が沢山有る。これを日本に運ぶ船が無くては叶わぬ」と仰せられて髯を抜いて散かれると杉の木となり胸毛は桧(ひのき)となり臀毛(しりげ)は披(まき)となり眉毛は樟(くす)となった。そこで杉と桶とは船にせよと仰せられた。桧は御殿を作れ披は棺桶(くわんおけ)にせよと仰せられた。御子の五十猛命は此等の木々の苗を沢山朝鮮から持ち歸って九州からだんだんと東へ植え付けられた。
その木が紀伊の國で一番繁殖したので昔は紀伊は木國と言ったと伝えられてる。
牛頭天王の素戔鳴尊は吾は最早朝鮮に止まる事を好まないと仰せられて土で船を作り再び日本に帰って来られたのが 出雲の國安来であった。ああこれで心安くなったわいと申されたので安来の名が着いたとの事である。
これらの伝承をつなぎ合わせるとスサノオが出雲から朝鮮半島に渡り、朝鮮半島の先進技術を学び再び日本に帰ってきたことが伺える。
このことは考古学的にも裏付けられる。後の北九州統一のシンボルとして使われた中広銅矛をはじめとする倭国関連遺物が朝鮮半島の加羅国の領域から出土するのである。そのほかの領域からは全く出土していないので、この領域がスサノオの統一した領域と考えられる。しかし、統一したのは中広銅矛の出土から考えて北九州統一後のことであろう。この段階では朝鮮半島の先進技術を学んだものと考えられる。
スサノオは、五十猛と抓津姫、大屋津姫を引き連れ、朝鮮半島に渡った。 先進技術習得後の日本列島への帰還コースは、対馬−壱岐の伊宅郷−筑紫−長門の須佐−岩見の神主−温泉津−仁摩の韓島を経て五十猛町の韓浦に上陸した、と伝えられている。」
ここでいう壱岐の伊宅郷とは旧湯岳村を指し原の辻遺跡がある。スサノオは原の辻遺跡に立ち寄っていると思われる。壱岐は対馬と違って国としての形態がすでに出来上がっていたためにスサノオが入り込む余地がなく、その中心地である原の辻遺跡を寄港地として利用したものと考えられる。 
第五項 瀬戸内海沿岸地方統一
対馬を通して、朝鮮半島から先進技術を導入したスサノオは、瀬戸内海沿岸地方に赴き、新技術を示して、国家統一の必要性を説いて回った。この地方の人々は、新技術を駆使して、当時の人々にとって信じられないような現象を引き起こしているスサノオを見て、スサノオを神と感じ、スサノオの考え方に同調した。そして、スサノオの統一国家に加入し、他の地域に加入を勧めるのに協力した。
この当時日本列島に住んでいた弥生人は、中国大陸や朝鮮半島の戦いに敗れて逃げてきた人々の子孫で、中国文献に「呉の太伯の子孫」とあるように、まだそのことを記憶していたようであるから、権力抗争の悲劇は知っていたはずである。この日本列島にも同じ様な悲劇が起こるのを恐れ、容易にスサノオの考え方に同調し、協力したのではあるまいか。彼らの協力により、多くの地域が次々と統一国家に加入し、瀬戸内海沿岸地方は西暦紀元頃統一された。
スサノオが統一したと考えられる地域にスサノオを祭った神社及びその伝承が伝えられているが、スサノオの行動を伝える伝承を持つ神社は、瀬戸内海沿岸地方から兵庫県南部、紀伊半島南部にまで広がっている。しかし、大阪や、奈良地方にはみられない。大阪や奈良地方は別の有力豪族がおり、入り込めなかったものと考える。有力豪族は、豊かな生活を送っていたであろうから、簡単にはスサノオの統一国家には加入しなかったものと考えられる。
スサノオの行動を伝える伝承を持つ神社の分布から判断して、スサノオは瀬戸内海の制海権を完全に把握していたものと考える。この頃瀬戸内沿岸地方に高地性集落が登場するが、瀬戸内航路の安全を願う見張り台と考える。
当時の瀬戸内海沿岸地方は、文化的にかなり後れており、有力豪族の国らしきものもほとんどなかったと考えられ、簡単に統一できたのではないだろうか。スサノオは、大三島の大山祇神社(「消された覇王」によると、大山祇=スサノオ)の地を拠点として活動し、芦田川を使って出雲往復をしたようである。芦田川沿いにこの頃(弥生時代中期末〜後期初頭)の出雲系土器が出土する遺跡が集中していると共に、スサノオと深いかかわり合いのある伝承を持つ神社が点在している。 スサノオは統一した地域内の交流を活発にして、新技術の普及に努め、人々の生活水準の向上に努めた。人々は生活水準の向上などにより、スサノオをますます強く信頼するようになり、後の九州統一の強力な協力者となるのである。
山陽地方統一の伝承 
清神社 安芸高田市吉田町 「須佐之男命」がこの地に居つかれて、「吾が心清清し」と言われたためつけられた。「日本書紀」の一書に、「須佐之男命、安芸国の可愛の川上に到ります」と記録されており、その至った地であり、須佐之男命が八岐大蛇を退治されたところを安芸国の可愛川(江の川)の上流としている。八面荒神という八岐大蛇を封祭した小祠があり、吉田町の入江で江の川に合流する川を簸の川と呼び、大蛇ケ淵という深い淵もあります。いずれも須佐之男命の大蛇退治にちなむ名前で、この神社は神代からの鎮座と伝えられている。
御神山 スサノオ命は母イザナミ命を訪ねて幾山河。ついに此の御神山山頂の三郡岩までたどり着き母神が比婆山におわすことを知ったという。昔は山頂にスサノオ命を祀った社があったそうだが、今は朽ち果てている。命は比婆山に母神をたづねた後鳥髪山より出雲に下った。
沼名前神社 広島県鞆町後地  延喜式神名帳に、『備後国沼隈郡 沼名前神社(ヌナクマ)』とある式内社だが、式内社の後継と称する「渡守神社」(ワタシ)と「鞆祇園宮」を合祀したもので、今、「鞆祇園社 沼名前神社」と称している。俗称:祇園宮。
崇神天皇5年全国に疫病がはやったとき、此処に勅使を派遣して祈願した所、疫病が下火になり、吉備津彦にお礼代参させ、神号を「疫隅ノ国社」と命名した。
素盞鳴神社 福山市新市町戸毛 スサノオ命がやってきて疫病を退散させたと伝える。出雲国への往来の途次、スサノオ命が数年間滞在したという。
素盞鳴神社 福山市木之庄町 スサノオ命の遺跡に建立したと伝える。
素盞鳴神社 福山市駅家町 八岐大蛇退治の酒瓶を御神体とする。
王子神社 福山市東深津町 「備後国風土記によれば、スサノヲ命が朝鮮より八王子と共に帰朝し、吾等を信仰すれば、その子孫を疫病から守ると申されたので、深津郡の人々はこの深津島山に王子神社を建て
矢野 上下町矢野 スサノオがこの地で暫らく休息し、傍らの泉の水でのどを潤し、多くの里人に送られて隣の甲奴町小童に入ったと伝える。
須佐神社 広島県三次市甲奴町小童 スサノオ命がやってきて疫病を退散させたと伝える。
福山市周辺にはスサノオ命が滞在したという伝承をもつ神社が多い。スサノオ命は朝鮮半島から戻ってきて、このあたりを拠点として瀬戸内海沿岸地方を統一したものであろう。スサノオ命関連の神社は鞆から芦田川流域を中心として出雲まで分布している。同じ地域に弥生中期末から後期初頭にかけて出雲系土器の出土が見られる。この経路で出雲地方と瀬戸内地方を往復していたものであろう。
スサノオの出雲・鞆往復経路を推定してみよう。
鞆から芦田川沿いに遡り、東深津町、木之庄町、駅家町を通過し、戸手の素盞鳴神社の地に滞在。この距離、川に沿って約28km。
更に芦田川を遡り、府中市篠根町を経由し福塩線に沿って北上し、 世羅町の甲斐村(福塩線びんごみかわ駅周辺)より、矢多田川を遡ると上下町矢野に着く。この距離、川に沿って約35km。
そこから西へ峠を越えて甲奴町小童につく。此処に須佐神社があり、 この地に滞在したと思われる。この間約7kmである。
ここから小童川に沿って下ると本郷郷がある。ここより上下川に沿って下ると三良坂につく。三良坂から馬洗川に沿って下ると、 三次市畠敷町に着く。此処にある熊野神社の地が滞在地ではあるまいか。ここまで川に沿って約40kmである。
この周辺は馬洗川、西城川、神野瀬川、可愛川、美波羅川が合流して江の川になっている所で、 水上交通の拠点となる最重要地である。スサノオがこの地に拠点を作ったのは間違いがないであろう。伝承は残っていないが、後世の神武天皇の滞在地が畠敷町の熊野神社の地なので、この地が拠点であったと推定する。ここから西城川に沿って遡れば、比婆山連峰、三井野原(畠敷から川に沿って約64km)があり、三井野原から出雲国の斐伊川沿いに出ることができる。また、神野瀬川に沿って遡れば高野町南より、王貫峠を越えて出雲国仁多に出る(畠敷から川に沿って約85km)。可愛川を遡れば清神社(畠敷から約30km)がある。これらの川沿いに後世の神武天皇が出雲往復のために滞在した神社があることから、スサノオもここを拠点として出雲を往復したものと考えられる。このすぐ近くに後に出雲地方で盛んに築造されるようになる最古の四隅突出型墳丘墓が存在している陣山墳丘墓群がある。最古の四隅突出型墳丘墓が築造されたのは紀元前1世紀に当たるまさにこの頃である。この三次拠点の支配者の墓であろう。
三次からは西城川を遡ったと思われる。西城川に沿って遡ると、三井野原に着き、そこから出雲国の室原川に沿って下ると、横田で斐伊川に合流する。後は斐伊川に沿って下れば、出雲国の中心地である。 
第六項 倭国という国名
中国史書では、紀元前後から、日本のことを倭国と呼んでいたようである。最初に記録されているのは「山海経」であるが、はっきりしたものは、「漢書・地理誌」である。これは一世紀に書かれた書物であるから、日本を倭国と呼び始めたのは紀元前後ということになる。それ以前に倭国という表現は存在しない。倭国の領域の一般的見解は、中国・四国・九州地方を指すようで、近畿地方以東は含まれていないようである。誕生時期といい、領域といい、倭国とスサノオが統一した連合国家とは一致しているのである。倭国の語源にはいろいろと説があるが、倭国という名はスサノオが自分の統一した連合国家につけた名ではないかと考える。出雲国王時代の国名はスサノオがヤマタノオロチ退治をした後、最初の宮殿の地である須我神社の地で日本最初の和歌を読んでいる。「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を」この歌から国名が出雲になったようである。出雲国王時代はそれでよかったが、瀬戸内海沿岸地方を統一したとき名前を新しく考える必要が出てきた。そうして選んだのが「ワノクニ」=「ワコク」であろう。
中国語の「倭」と同じ発音をする漢字は「環」または「輪」である。瀬戸内海を取り囲み環のように国が連合を組んだという意味で「環国」と命名したのではないだろうか。中国がその発音を聞いて「倭国」と記録したのであろう。「倭」とは中国人が付けた名で、日本側ではその意味を嫌い、「和」としたと記録されているが、「倭」の意味が気に入らないのなら、日本の国名を元から使われていた「ヒノモト」にすればいいことで、「和食」「和室」「和紙」など、現在まで「和」を日本の意味として使う必要はない。古代日本人にとって「ワ」という読みは大切なものであったからこそ、「和」と書き変えてもその読みを残したものと考える。「ワ」とはスサノオが統一した統一国家に付けられた名で、中国に朝貢したときに、日本人が自分の国を「ワ」と言っているのを聞いて「倭」と当て字をしたものと考える。
素盞嗚尊の行動を伝える神社は神戸以西の瀬戸内沿岸地方、紀伊半島部であり、大阪湾沿岸地方にはない。また、紀伊半島における素盞嗚尊の伝承の中にはイザナギ、イザナミを伴っているものも含まれているために、紀伊半島部を統一したのは、この後の九州統一の後と考えられる。よって、この当時の倭国の領域は山陰及び淡路島以西の瀬戸内沿岸地域と考えられる。
中期の大阪湾岸地方は池上曾根遺跡をはじめとして、技術的に進んだ有力豪族の国があり、朝鮮半島からの新技術では統一できなかったものと考えられる。おそらく、スサノオは大阪湾岸地域の統一を後回しにして、先に九州統一に取り組んだものと考えられる。 
第七項 考古学的変化
中期末に当たるこの頃、瀬戸内海沿岸地方に起こった考古学的変化を挙げてみると次のようなものがある。
銅剣祭祀の始まり
中細銅剣が異形化し、銅剣祭祀が始まった。この頃までの北九州での銅剣は、細型銅剣が中心でステイタスシンボルとして使われていたものであり、祭器としての使用の形跡はない。祭器として使われた形跡のある中細銅剣b類・c類は中国・四国地方中心に分布し、中期末の瀬戸内海沿岸部で製作されたと考えられている。そして、岡山県からその原型になったと思われる木製の細型銅剣が見つかっている。青銅器の埋納祭祀が始まったのは、中期末の瀬戸内海沿岸地方と考えられている。これは、外部からの技術導入によって、新しい技術と共に宗教が誕生したことを意味している。また、実戦用武器の出土がないことから、これは、平和裡に行われたと考えられる。
青銅器の広がり
これ以前は銅剣・銅矛などは北九州周辺に限られていたものが、徐々にではなく、急激に大阪湾沿岸地方まで広がっている。さらに同笵関係にあると考えられる銅剣が大分県から大阪府の範囲で見つかっている。これらは、青銅器の瀬戸内海沿岸での東西交流が急激に盛んになったことを意味している。これも中期末に瀬戸内海沿岸地域の統一が進んだことを意味している。
瀬戸内の銅戈
広島、岡山で銅戈が見つかっているが、これは形式からして北九州の鉄戈を模して作ったものと判断されている。鉄戈は北九州のみから出土しており、朝鮮半島の銅戈を模して作ったものと考えられている。この鉄戈を模して作った銅戈が広島.岡山で見つかっているということは、瀬戸内勢力が、北九州から銅戈を直接輸入せず、わざわざ鉄戈から銅戈を作っているということであり、最初から祭器として作ったものと考えられ、副葬されていた北九州とは明らかに別の文化である。これも中期末の瀬戸内地方に高度な技術革新があったことを裏付けている。
瀬戸内系土器の広がり
中期末に九州地方や畿内地方に瀬戸内系土器が一方的に入り込んでいる。これは瀬戸内勢力の拡張主義が起こったことを意味し、相互の交流ではない。瀬戸内系土器が一方的に他地方へ入り込んでいると言うことは、瀬戸内勢力がまとまり、そして、他地方よりも高い文化を持っていたと考えるべきである。また、瀬戸内海沿岸地方で始まったと推定されている祭器化した銅剣は、北九州地方に逆に流れ込んでいる。大阪湾型銅戈が大阪湾地方に出現するが、これも瀬戸内海地方から持ち込まれたと考えられる。
瀬戸内系土器の周辺地域への広がりは何を意味しているのであろうか。実践用武器が伴えば侵略が考えられるが、武器は伴っていない。そのかわり、青銅祭器を伴っているのである。どちらかといえば宗教の進入といった感じである。
瀬戸内系祭祀の広がり
中期までは高坏の出土がほとんどないが、後期になると高坏が多く出土するようになる。これは中期末あたりに祭祀が盛んになったことを意味している。また、瀬戸内系の高坏や器台が九州地方や近畿地方に見られることから、瀬戸内系の祭祀が周辺に広がっていると判断され、瀬戸内勢力は、祭祀と共に周辺に勢力を伸ばしたことがうかがわれる。祭祀というものは保守的なものであり、一つの祭祀のあるところに別の祭祀が入り込むのは大変難しく、必ずといってもよいほど戦乱を伴う。大きな戦乱の形跡がないということは、この祭祀がそのまま大和朝廷の祭祀に継続している ということである。
Bタイプ槍鉋の出土
槍鉋はA型とB型がある。Aタイプは九州を中心とするタイプで、Bタイプは中国地方が発祥の地である。グラフは出土した槍鉋を地域と型で分類したものである。中期末の瀬戸内海沿岸地方に今までに存在しなかったBタイプの槍鉋が急激に出土するようになる。それまでは、九州からAタイプの槍鉋のみ出土していることから、瀬戸内勢力が独自に朝鮮半島から輸入したものらしい。Bタイプの槍鉋は、以後九州や近畿地方へ広がる傾向を示しているが、九州のAタイプの槍鉋は、九州からほとんど外へは広がっていない。これは瀬戸内勢力が九州や近畿地方へ勢力を伸ばした証であろう。また、後期中葉にAタイプの槍鉋が広島に出土しているが、これは、後で述べるような伝承(広島県の大分系土器)とつながっている。
出雲系土器の分布
広島県地方に出雲系土器(出雲中心域の土器)が見られる。広島県地方の出雲系土器は、広島県北部と芦田川流域で、いずれも弥生中期末に一斉に出現し、後期中葉になると一斉に姿を消し、畿内系土器と入れ替わる。芦田川流域はスサノオが訪問したという伝承を持つ神社が点在していて、スサノオが出雲往復に通った地域であると思われ、時期もスサノオが瀬戸内海沿岸地方を統一してから大和朝廷が成立するまでの間で、伝承と完全に一致している。瀬戸内系の文化が周辺領域に広がっているが、その中心ともいうべき場所に出雲系土器が出土するということは、この瀬戸内の文化は出雲の影響を受けたものであることになる。瀬戸内から出雲に文化が流れたのであれば、出雲地方に瀬戸内系土器の出土が見られるはずであるが、出雲地方に瀬戸内系土器が出土し始めるのは後期後葉になってからであり、この頃に瀬戸内系土器の出土はない。これらより、中期末の瀬戸内に始まった考古学的変化は出雲地方からもたらされたものと推定され、これも伝承を裏付けている。 
第八項 考古学的変化の理由
高度な文化の流入経路
これらの変化は、この時期、瀬戸内海沿岸地方が急激に一つの勢力圏に組み込まれ、その勢力が周辺に広がっていったことを意味している。この瀬戸内勢力は、独自の銅剣を製造する技術やBタイプの槍鉋を製造する技術を身につけており、瀬戸内系の土器が北九州や近畿地方に流れていっていることと併せて考えると、この当時の瀬戸内の文化は、ある面において、北九州や近畿地方よりも高いものであったことがうかがわれる。
その高度な瀬戸内の文化はどこから来たのであろうか。大陸からと考えられるが、北九州とは異なる高い文化であるから、北九州経由とは別のルートを通ってきたことになる。朝鮮半島南端部から山陰を経由して瀬戸内海地方へ流れたと考えるべきであろう。それと、出雲系土器が瀬戸内海沿岸地方で出土していることから、この文化は出雲経由でやってきたものと考えられる。
日本側から輸入した技術
瀬戸内勢力が朝鮮半島から流れてくる文化を待っていて受け入れたのでは、北九州経由で流れ込む文化が多くなり、西部を中心として、北九州の文化が流れ込むはずである。北九州とは明らかに異なる文化であるから、出雲か瀬戸内の何者かが直接朝鮮半島に行き、高度な技術を直接輸入したためと考えられる。
出雲地方に生まれ育った人物がまったく知らない朝鮮半島に出かけていって技術習得するというのは当時の状況からして不可能であると考えられる。しかし、スサノオの場合父のフツが朝鮮半島出身であり、朝鮮半島のことを熟知しており、スサノオにとって、朝鮮半島に赴くことはそれほどの抵抗感はなかったと考えられる。これも、伝承と考古学的事実をスムーズにつなぐ要素となっている。
遺物の集中度
中期末に起こった瀬戸内地方の技術革新が、北九州地方の高度な文化と大きく違う点は、北九州の文化がその中心域に限られていて、そこから他の地方に広がる傾向は全くみられないのにたいして、瀬戸内周辺の文化は、中心というものがはっきりとせず、関連遺物がまばらに出土するといった点である。北九州の場合は、外国との交易で得た宝物をある特定の豪族が独占し、権力を誇示するために用いたためと判断されるが、瀬戸内地方のものはどう考えればよいのであろうか。もし、権力者が存在して、その権力を誇示していたのであれば、中心域が存在し、その周辺のみから多量の遺物が出土するはずであり、現実と大きく異なる。統率者が全く存在しない未開の地であるならば、周辺地域よりも高度な文化を持っているのが説明つかない。瀬戸内地方には偉大な統率者が存在し、その統率者が、高度な文化を輸入し、周辺にばらまいたということ以外には説明できない。
技術導入の目的
それではその先進技術を積極的にばらまく目的は何であろうか。権力欲や支配欲では自分で独占した方がよいために明らかに異なる。技術を受け入れた側では、技術を伝えてくれた人物に対する畏敬の念がわき上がるはずであり、この地方で銅剣埋納祭祀が広まっていることと、高坏の出土が増えることと考えあわせると、宗教的支配を目的としたものと考えられる。
では、なにを目的として宗教支配したのであろうか。権力欲や支配欲でないことは明らかである。銅剣埋納祭祀はこの地方独自のものであり、どこかの宗教が流れ込んだものとは異なることから、瀬戸内地方で発生したものと考えられる。また、同じ様な変化が、九州や近畿地方にも広がっているが、その形態は瀬戸内地方とは異なるため、何かある目的のために宗教支配をしたと考えた方が良さそうである。
この後、瀬戸内系の土器が九州や近畿地方に広がっていること、急激に西日本地域での流通が盛んになることから考えて、国家統一が進んだと考えられる。伝承、考古学的事実から考えて、その目的は、平和的国家統一であると考えられる。
このように、考古学的変化を調べると、神社伝承における、スサノオの統一行動を完全に裏付けることができ、同時にその他の説明は難しい。
銅剣埋納祭祀
スサノオは瀬戸内海地方統一後、人心を統一するために、朝鮮半島から導入した技術を使い、交流を活発化し、銅剣の異形化を進め、その銅剣を使った祭りを始め、祭礼を広めた。その当時の瀬戸内地域に住んでいた人々は金属というものを見たことがなく、スサノオが持ち込んだと思われる銅剣の輝きを見て、人々はさぞ驚いたことであろう。スサノオはその驚きを利用し、銅剣を魔除けの意味に使ったということは充分に考えられる。人々は祭の後、その銅剣を自分達の集落の外れに埋めることにより、五穀豊穣・家内安全を願ったものと思われる。スサノオは銅剣を配るとともに、朝鮮半島の先進技術を伝えることにより、瀬戸内地方の人々の心をつかみ、あわせて、国家統一の必要性を説いてまわったのであろう。
それにより、青銅器などが瀬戸内海沿岸の広い領域に急激に広まるようになり、瀬戸内海沿岸地方が堅固な国家体制になり、以後の瀬戸内勢力圏拡張の礎になったものと考える。 
第九項 広島県三次地方の土器
広島県三次地方には、弥生中期末頃から、出雲系土器が出土するようになる。このころの住居跡の特徴を調べると、出雲系土器は集落内の特定の住居に集中し、その周辺の住居跡にもちらほらとみられる。山陰地方からやってきた集団が、在地の集落で共同生活をし、「お近づきの印に」ということで何かを配ったような様子である。山陰系の祭祀器具である分銅型土製品も出土していることから、山陰地方から、集団でやってきたようである。この土器の出土の仕方は、瀬戸内海沿岸の他の地方と異なるようである。
神社の祭神を調べてみると、この地方は大歳神社が非常に(兵庫県に次いで二番目)多い。大歳(ニギハヤヒ)がこの地方を統一したものと考えられる。スサノオが瀬戸内地方を統一した後は、瀬戸内系の勢力を率いて統一事業を行っていることから考えて、三次地方を大歳が統一したのは、極初期の段階であると推定される。
この地方の出雲系土器は、後期前葉までみられるが、後期中葉になると姿を消す(大和朝廷の誕生により、政権を引き渡したと考えられる。)。また、この地に四隅突出型墳丘墓が出現している。これらは、統一後も山陰地方との激しい交流があったことを示している。大歳は、この地方統一後、ここに出雲国支庁を作ったのではあるまいか。
紀元頃、スサノオが40歳ぐらいの時、瀬戸内地方を統一に出発したのと同じ頃、スサノオは10代半ば頃の大歳に、統一事業に参加させようと思ったが、まだ幼いために、不安を感じ、出雲国の有力者を従えさせて、三次地方の統一を命じたのではなかろうか。そのために出雲系土器が多くなったと考える。
この出雲系土器が、ここから先には広がっていないことから考えて、大歳が三次地方を統一している間に、スサノオは瀬戸内沿岸地方を統一してしまったと推定する。スサノオは瀬戸内勢力に国家統一の重要性を説き、協力者を率いて、次々と統一をしていったと考える。そして、倭国に加入した地域には、朝鮮半島の先進技術を伝えたのである。
瀬戸内海沿岸地方を統一したスサノオは、大三島に拠点を移し、瀬戸内海の制海権を握り、大歳には、琴平に拠点を持たせ、親子で、瀬戸内海の東西を支配した。 
第十項 統一経路の推定
紀元前10年ごろ石見国を統一し、壱岐国(未統一)を経由して対馬に渡った。この当時の対馬は国が存在しなかったので、スサノオ一族(天狭手依姫)を配置し対馬国を建国した。紀元前5年ごろ朝鮮半島で植林法や青銅器製造法、造船技術などを学んで戻ってきたスサノオは、伯耆国、因幡国を統一して出雲国に戻り、斐伊川沿いを遡り奥出雲から中国山地を超え、江の川流域(三次地方)に入り、三次盆地を統一した。芦田川沿いに川を下り福山の鞆地方に瀬戸内海沿岸地方統一の拠点を作った。スサノオは以後もここと出雲を何回も往復しており、この流域にスサノオ関連神社が多く、出雲系土器が出土する。山陽沿岸を東進し吉備国、播磨国を統一し、淡路島から、讃岐国、伊予国(東部)と統一していったものと推察する。伊予国から鞆に戻ってから、安芸国、周防国、長門国、最後に豊国を統一し、豊国の宇佐の地に拠点を移したものと考える。宇佐の地に拠点を構えたのが西暦紀元ごろと推定する。
この当時の瀬戸内沿岸地方には有力豪族もなく、ばらばらの状態であったからこそ簡単に統一されたのではあるまいか。スサノオは以後5年間ほど瀬戸内海沿岸地方の人々に対して高度な技術供与、他地域との交流促進、銅剣祭祀等を推し進め倭国の国家体制を堅固なものに固めた。そして、今後の九州統一の協力者を募っていったのである。
体制が固まり九州統一の協力者も充分に確保できた。また、充分に成長した五十猛命、抓津姫、大屋津姫を引きつれ、再び朝鮮半島に渡り、更なる新技術を学んで戻ってきた。紀元5年ごろいよいよ九州統一に乗り出すことになるのである。 
 
第4節 北九州統一

 

第一項 北九州統一の伝承
紀元10年頃、スサノオは、オオトシや瀬戸内勢力を率いて、大分県の宇佐地方を統一し、そこを起点として北九州の統一に乗り出した。中期末頃より、福岡県東部から大分県にかけて瀬戸内系土器が多く出土するようになっている。また、大分県地方はスサノオやオオトシを祭る神社の割合が全国一高く、この二人が相当長期間に渡ってこのあたりにいたものと考えられる。その神社の中心に位置するのが宇佐神宮である。
宇佐神宮は全国の八幡神社の総本社で八幡大神を祭っている。周辺の神社がほとんどスサノオやオオトシを祭っているのにその中心にある神社が別の人物を祭っているのはどうも解せない。八幡大神はスサノオのことであると考えられる。宇佐の地は瀬戸内から九州への足がかりとなりうる地であり、スサノオ一族はこの地を拠点にして北九州地方を統一したものと考えられる。
北九州地方は当時の日本列島内で最も文化の進んだ地域であった。この地域を統一するのは至難の業と考えるが、どのようにして統一したのだろうか。これに関し、次のような伝承がある。
日本書紀の葦原中国平定の条
そして、大己貴のひろほこ神はかつて国を平定したときに杖とされた広矛を二柱の神に授けていわれた。
「私は、この矛でもってこの国を平らげるという功業を成し遂げました。天孫が、もし、この矛で国を治められれば、必ず無事に治めることができましょう。」
古事記・日本書紀国生みの条
伊邪那岐・伊邪那美の二神が天の浮橋に立って天の沼矛を、海に刺して引き揚げたところ、その矛の先から滴り落ちた塩が積もって島となった。
古事記によると、伊邪那岐・伊邪那美が国生みしたのは、淡路島、四国地方、九州地方、壱岐、対馬、隠岐、佐渡、本州の順番である。このうち、国名が記されているのは、四国地方(伊予・讃岐・阿波・土佐)と北九州地方(筑紫・肥・豊・熊曾)のみである。この国名が記されている地方と、中広銅矛の分布している地方が一致している。
八千矛神
古事記・日本書紀ではオオクニヌシの別称と記録されているが、「消された覇王」によると、スサノオの別名が八千矛神(多くの矛を持った神の意)である。諏訪の八剣神社を始め方々の神社にスサノオの別称であると記されている。
ここにある大己貴と伊邪那岐の業績をスサノオのものと考えると神社伝承と繋がる。おそらく、スサノオの業績とすり替えたものであろう。
統一事業を行うには、何かシンボルになるものが必要であるが、これらの内容から判断して、スサノオは、中広銅矛をシンボルとして、北九州地方を統一したと考えられる。次に、このことを考古学的事実から裏付けてみることにする。その後に具体的な統一方法を考えることにする。
佐賀県有明町稲佐神社社記
祭神...天神、五十猛命、大屋津姫命
縁起...「天神は、その昔草木言語の時にこの地にやってきて国を創造された大神、稲佐大明神のことで、彼が着岸したところを、焼き天神といい、北御所に今も小祠あり、御園天神と呼ばれている。また五十猛命は韓国より帰国されたとき、ここ稲佐山麓八艘帆ヶ崎に着岸され、全山に植林し、農耕開拓の道を教えられた。よって住民は、その神徳をたたえて、天神の社に五十猛命と妹の大屋津姫を合祀し、三所大明神として崇敬した。」
共に祭られている人物が共にスサノオの子であることと、スサノオは彼らと共に朝鮮半島に渡っていること、周辺にスサノオを祭った神社が多いことから、天神とはスサノオのことと思われる。
日本で木々を植えようとした素盞嗚尊と御子の五十猛命がこの国を経由した時に豊日別命が出迎えて接待した。この伝承もその事実を裏付けている。 
第二項 考古学的事実
中期末から後期初頭にかけて、北九州地方で大きな変化が起こっている。それをまとめてみると次のようである。
銅矛・銅戈の祭器化
それまで北九州地方でステイタスシンボルであった銅矛・銅戈が祭器化し、墓の副葬品であったものが埋納されるようになった。瀬戸内海沿岸地方で始まった中細型銅剣祭祀と、北九州地方で盛んになる中広型銅矛祭祀は、埋納形態から推察して、同系統のものと考えられている。宝器であった細型銅剣が、瀬戸内海地方で祭器としての中細銅剣に変わり、再び北九州地方に流れたものと考えられる。
ところが、北九州地方は、銅矛・銅戈は祭祀がおこなわれるようになったが、銅剣は廃れている。銅矛・銅戈の需要が高まったために銅剣は廃れてしまったと考える。
祭器化の流れ
銅矛も中期までは、細型銅矛が北九州地方で宝器として扱われていたが、中期末頃、中細銅矛が瀬戸内地方と北九州地方に出現する。瀬戸内系の銅剣と同じように埋納されていることから、瀬戸内海沿岸地方からの流れと推定される。その後、中広型銅矛に変わった。この銅矛は分布範囲が最も広い。しかし、この銅矛祭祀は北九州の周辺部で著しく、中心部(唐津・糸島・博多地方)では盛んでない。これは、中心部では外部勢力に対する抵抗感があったためと推定されている。後に、広型銅矛に変わるが、その分布範囲は少しせばまって、南四国地方と北九州地方である。
青銅器がステイタスシンボルであった時代は、青銅器が特定の地域に集中して、そこから周辺に広がる様子はほとんど見えないが、祭器化した後の分布領域は急激に広がっている。有力豪族が外国との交易で手に入れた青銅器を権力の象徴として、周りの人々を従える手段としていたため広がらなかったと解釈され、王が権力の元で君臨していたことが伺われる。しかし、埋納祭器の方は、急激に広い分布をし、しかも、中心域を避けて周辺地域で広がっている。中心域の王が勢力を伸ばしたのなら、中心地域に祭祀が盛んであるはずである。これらの地域が外部勢力によって宗教的に統一されたためとしか考えられない。
このことについて岩永省三氏は、「中細型青銅器の祭器化は北九州周辺地域で始まったとされ、その根元は中国、四国地域から流入した可能性を考えられている。そして、その中心部で祭器化が遅れるのは、前期末以来の首長層の青銅器に対する執着が、その阻止要因として働いたため。」とされている。まさに、そのとおりである。
漢鏡の分布範囲
この頃の漢鏡は、伝世されることなく墓に副葬されていることから、宝器であったようである。それまで、北九州の博多湾沿岸地方の一部有力者が独占していた漢鏡が、北九州の広い範囲に分布するようになった。北九州内の交流が盛んになったことがうかがわれ、北九州地方が統一されたことを意味している。
小型国産鏡の分布
鏡の国産はこの時期に始まったと考えられているが、その分布範囲が九州地方と瀬戸内沿岸地方である。九州地方と瀬戸内沿岸地方に激しい交流があったことを裏付けていて、スサノオの統一した領域と一致している。
鉄製武器の変化
鉄剣を除き、鉄矛・鉄戈・鉄鏃などの鉄製武器が激減する。しかし、鉄剣のみはその傾向が見られない。この当時、大陸では鉄剣よりも、武器として優れている鉄刀の方が主力武器になっているのにも関わらず、鉄剣の生産は継続されている。しかも実戦に向かない短剣が多い。鉄剣はステイタスシンボルとなったと考えられ、このことは、混乱の時代から安定の時代に変わった事を意味し、北九州内の交流が盛んになったことと会わせて、統一国家ができたことをうかがわせる。
甕棺墓の激減 
甕棺墓は、北九州の中心地域で後期初頭には衰退し、その周辺部でも後期中葉になって衰退している。佐賀県で中期後葉に甕棺墓からの鏡の出土が少なく、後期初頭になって増加する。これは中期には鏡自体が回ってこなかったが中期末の北九州統一により回ってくるようになったと考えられる。
その他の特徴をまとめてみると、
1 甕棺墓は中期中頃から後半にかけて多く存在しているが、後期前半を最後に北九州地方の多くの地域で消滅する。
2 甕棺墓自体は古墳時代初め頃まで作られているが、単発的に作られ、集団墓地としては存在しなくなる。
3 中期後半頃の王墓と見られる墓はすべて甕棺墓である。このことは、甕棺墓がそれ以前の高い割合で人々を埋葬したものから、特定権力者の墓制に集約していったものであることを示している。
4 後期前半の井原遺跡と桜馬場遺跡が甕棺王墓の最後といわれている。
5 甕棺墓から土壙墓・石棺墓に変化しているが、埋葬の仕方は甕棺時代とよく似ていて、共同墓地に双方が共存しているところもあるので、同一集団の墓制が変化していったことがうかがわれる。
6 甕棺墓と土壙墓が共存する地域で、副葬品を比較すると、甕棺墓に乏しいのに対して、土壙墓に多い。
7 中期末までは多かった鉄剣を副葬する甕棺墓は、今の所、後期になると皆無である。
甕棺墓の減少の原因については、甕棺が作れなくなったからだといわれているが、それならば、一般の人々の墓制が変化しても王墓は残るはずで、さらに、副葬品が少なくなるということは考えられない。墓制は簡単には変化しないはずであるから、外部からの何者かの侵入以外には考えられない。墓制が急激に変化するというのは、権力者が強制的に行ったためか、宗教の力で変化させるかであるが、祭祀が盛んになっていることから判断して明らかに後者である。外部から侵入した宗教によって変化したものと考えられる。
北九州地方に畿内系の方形周溝墓や畿内系土器が出土するようになるのは、後期中頃以降であるから、畿内勢力の侵入というのは時期がずれる。甕棺の衰退は、後期初頭あたりから始まっているのである。どうやら、2段階の侵入があったようである。
甕棺墓が激減し、箱式石棺墓や土壙墓が多くなる。箱式石棺墓は、石の材質や形式から判断して、瀬戸内沿岸地方から入ってきたものと判断される。
王墓の激減
中期には多かった王墓と考えられる墓が激減している。副葬品が多く、特定の墳墓に集中していることから、これらの王墓はいずれも権力君臨型である。副葬品が伝世されている形跡もなく、被葬者が手にいれたものをそのまま副葬しているようである。被葬者は自らの持つ交易ルートを使って、外国から手に入れた宝物を、独占し、他に与えることはなかったようである。
ところが、後期初頭になってからは、井原鑓溝と桜馬場遺跡のみ確認されている。権力君臨型の王は、周りの王を武力で従え、それらの中で最強と考えられるものが最後まで残り、統一王朝を造ることになるはずである。しかし、中葉になると全国の権力君臨型と考えられる王墓がことごとく姿を消している。武力統一するのであれば、権力君臨型の王墓が消えることは考えられないのである。それと入れ替わるようにして広まるのが、方形周溝墓や四隅突出型墳丘墓である。これらの墳墓は、祭祀系土器が多いが副葬品は少ない。そして、複数の埋葬施設がある。これは被葬者が宗教上の王であり、被葬者個人を祭祀しているのではなく、共通の神を祭祀していることを意味している。墳墓は墓であると同時に斎場でもあった。この形式の墳墓が広まることは、これらの地域が宗教的に統一されたことを意味している。
副葬品の変化
北九州中心部では、特定個人墓を除き、甕棺墓からの副葬品が少なくなっているが、その他の墓からの副葬品は増えてきている。墓は違っても、集団墓の中に甕棺墓とそれ以外が混在するようになり、甕棺墓以外の埋葬形態に、甕棺墓と似た埋葬がなされていることから、墓制が変化したものと考えられる。そして、その変化は、王墓を残してその周辺から変化が起こっている。甕棺墓の激減の理由として、甕棺を作ることができなくなったというのがあるが、これでは、甕棺墓の副葬品がその他の墳墓に比べて少なくなったことを説明できない。外部からの侵入があって、墓制に変化が起こったものと考えられる。
後期初頭になると、北九州中心域の甕棺墓に鏡の副葬は激減するが、周辺地域の甕棺墓には鏡の副葬が増加する。北九州中心域の鏡は一つの墳墓から多量に出土する傾向があるが、周辺の墳墓からは少しずつ出土する。周辺の墳墓の被葬者は自ら集めたのではなく、何者かによって配布されるようになったと考えるべきである。
銅矛の出土地
銅矛が集中出土しているのは、対馬と宇佐地方、それに有明海沿岸地方である。対馬は最初に統一し、朝鮮半島との交流の拠点としたところで、宇佐地方は九州地方統一の拠点としたところで、有明海沿岸地方は、西九州統一の拠点である。いずれも、スサノオが長期間滞在した伝承のある地方でスサノオを祭る神社の割合が異常に高い地域である。
瀬戸内系土器の流入
弥生中期末から後期初頭にかけて、北九州の西北部沿岸地方で、瀬戸内系の土器が増加している。それに反し、北九州系の土器はこの時期を境に、分布範囲の縮小化の傾向がある。北九州を初め、その周辺地域での北九州系土器は、瀬戸内系土器に圧倒されている。瀬戸内沿岸地域に北九州系土器が増加したということはないので、相互交流ということは考えられない。北九州勢力は外部勢力を受け入れたため、衰退したと考える。
須玖坂本遺跡で後期初頭の分銅型土製品が出土しているが、これはその形式から、愛媛県北部に出土するものと同じことがわかった。スサノオが愛媛県北部の大三島から、九州にやってきているという伝承とぴたり符合する。
北九州から出土する瀬戸内系土器は高坏が主流を占めている。これは瀬戸内系の祭祀を受け入れたという事を意味し、北九州が瀬戸内勢力によって宗教的に支配されたと考えてよいのではあるまいか。
熊本県地方
熊本県地方は、これらの影響を全く受けず、独自の文化を築いている。これは、北九州を中心とする遺物の分布は、熊本県北部地方で止まっており、そこから南部には見られないことから分かる。
神社伝承の方も熊本県はスサノオ・大歳系の神社が最も少ない県の一つで、彼らの足跡を示す伝承もまったく見つからない。熊本地方に住んでいた人々の抵抗にあったためかあっさりと手を引いているようである。 
第三項 考古学的変化の解釈
外来系土器の侵入・墓制の変化・外来の祭祀の受け入れなどの変化は、自然に起こったものとは考えられない。また、在地系土器の衰退・甕棺墓の衰退・北九州勢力の外部地域に与える影響の衰退等と併せて考えると、外部勢力との交流によって起こったというのも成り立たない。外部から何者かが侵入してきて、その外部勢力によってもたらされた変化としか考えられない。
そして、鉄製武器の減少・漢鏡の広域分布化等から、北九州地方が安定化し、北九州の交流が急激に盛んになったということが判断される。北九州地方が統一されていない状態では、鏡などは特定の地域に集中すると考えられるので、これは、北九州地方が統一されたことを意味している。以上の二点を総合して考えると、弥生中期末に外部から侵入者があり、その一団によって北九州地方が統一されたということになる。
それでは、その外部勢力はどこからやってきたものだろうか。瀬戸内系の異形銅剣が見つかっていること、瀬戸内系と考えられる箱式石棺墓が増えてきていること、青銅器の埋納祭祀が始まっていること、瀬戸内系の土器が増加していることから判断して、瀬戸内海沿岸地方からの侵入としか考えられない。
瀬戸内勢力はどのような形で北九州地方に侵入したのだろうか。武力侵攻をした場合、制圧した地域を押さえ込むのに防備をかねた城を築き、力による政治を行うはずである。制圧された人々は、反抗を企てるはずであり、戦闘を意味する遺物が多く出土しなければおかしい。また、高度な文化を持っている北九州の豪族が簡単に瀬戸内勢力に破れるとも思えない。また、この時期以降、防衛のためと思われる環豪集落や鉄製武器は衰退している。これらのことは、瀬戸内勢力は武力侵入をしたのではないことを意味している。
変化が、北九州の周辺部から起こっていること、祭祀が盛んになっていること、実践的武器の出土が減少していること、戦闘遺跡と思われるものがないこと等から、平和裡の侵入と考えられる。瀬戸内地方が銅剣埋納祭祀であるのに対して、北九州地方は銅矛銅戈埋納祭祀である。埋納形式が瀬戸内地方とよく似ていることから、この形態は瀬戸内地方からの侵入と考えられる。しかし、それまで、北九州地方での出土率の高い銅剣は衰退していることから、瀬戸内系の祭祀が直接侵入したのではなく、瀬戸内系の何かが侵入し、その影響を受けて北九州地方に新しい別の祭祀が始まったと考えた方が良さそうである。それは銅矛銅戈をシンボルとするものと考えられる。
これらの変化と、伝承とをつなぎ合わせて、スサノオによる北九州地方の統一方法を考えてみよう。 
第四項 統一方法
シンボル
北九州の玄界灘沿岸地方には有力豪族がひしめいており、権力を振るっていたと考えられる。伝承によると、このような状況にある北九州地方をスサノオが統一しているのである。彼らは簡単に倭国に加入するとは思えない。彼はどのようにして倭国に加入させたのであろうか。
銅矛埋納祭祀などのように、北九州地方に侵入した結果生じた変化と思われるものは、玄界灘沿岸地方の北九州中心域と思われる地域以外で起こっていることから、スサノオはまず周辺国家に手をのばしたと考えられる。周辺国家を倭国に加入させ、中心域の有力豪族を孤立させて、北九州地方を統一したものと判断される。
それでは、どのようにすれば、周辺地域を倭国に加入させることができるであろうか。スサノオが瀬戸内地方を統一したときは青銅器の神秘性を見せてそれを魔除けとして広めたが、北九州地方の人々は青銅器を見たことがあり、その手は通用しなかったようである。彼らが最も欲しているものを与えるのを交換条件にして加入させるのがベストであろう。彼らが最も欲しているのは、中期末という時代から考えて、食糧の安定供給と、治安ではないかと考えられる。周辺の小国家は有力豪族との力関係により、強制労働や搾取など、かなりいじめられていたと考えられるのである。武器の出土率が高いのはこれを裏付けている。
スサノオが治安と食糧を交換条件にして倭国に加入させるには、何か倭国加入のシンボルとなるものが必要となってくる。これが中広銅矛ではないかと考える。銅剣は掲げるタイプのものではないので瀬戸内地方で使った銅剣ではなく、大き目の銅矛を高く掲げてシンボルとしたのではないだろうか。スサノオは周辺の小国家に中広銅矛をシンボルとして訪れ、「この銅矛を小国家の入口において起きなさい。そうすれば、倭国に加入した証となり、倭国は小国家の安全と食糧の安定供給を保証しよう。」などと言ったのではなかろうか。当時の北九州の人々にも瀬戸内地方を統一した倭国のことは知れ渡っていたであろうから、倭国の援護を受けて、有力豪族の横暴に対抗しようとしたと考えられる。
生活上の不安解消
当時には現在のような警察権力はなく、有力豪族の横暴があると同時に夜盗集団のようなものもいたと思われる。このような賊が小国家を襲おうとしても、そこに銅矛がおいてあったら、倭国に加入している証であるから、この小国家を襲うと倭国が総力を挙げて反撃をしてくることになる。銅矛のおいてある国を襲うことは、倭国に宣戦布告するようなもので、とうてい勝ち目はない。スサノオは、初期の段階において、倭国に加入した国を襲った一族を徹底的に叩き潰して、倭国に加入している国々を安心させ、同時に非加入国からは倭国が恐れられるようにしたものと考える。スサノオが全国で武神・守護神として祭られているのも、このようなことからと推定する。このようにして、小国家の安全は確保され、このことが、次々に加入する国を増やす結果になったと考える。
そして、人々が旅をするときも、中広銅矛をシンボルとして掲げていれば、倭国に加入している勢力であるということになり、旅の安全は確保されるのである。見知らぬ者が、訪問してきても、中広銅矛をシンボルとしていれば、安心して交流することができ、小国家間の交流は活発なものとなり、中広銅矛は広い範囲に広まることになる。このようにして、倭国に加入する国どおしでの交流が活発になり、それまで、特定の王に集中していた宝物が、多くの人々に行き渡るようになったと考える。
交易ルートの確保
スサノオは対馬を統一して、外国との交易ルートを確保しているため、倭国に加入している小国家に鏡等の宝器を配布したり、外国の先進技術などを伝えることができたものと考える。さらには不作で作物がとれなかった時でも他の地域から回すことができ、またスサノオの広めた新農法により作物の生産量は飛躍的にのび、小国家の生活は潤い、今までいじめていた有力豪族も手を出せなくなり、人々の不安は大幅に解消するのである。
小国家の加入
このようなことが周辺に知れ渡ると、周辺の小国家は生活上の不安を解消するため、我先にと加入を申し出たのではないかと想像する。スサノオは、北九州の要所要所に役所をもうけ、瀬戸内勢力の協力の下、加入した国々の治安維持や、食糧の安定供給、新技術の伝達などを行ったのではあるまいか。しかし、瀬戸内系土器の量が少ないことから考えて、その直接の運営は、地元の人々だったのではないかと考えられる。
有力豪族の消滅
北九州の有力豪族は、初めは抵抗を試みたが、周りの小国家がことごとく倭国に加入するようになってしまえば、外国交易ルートもたたれ、小国家から搾取することもできなくなり、孤立してしまい、小国家が次第に豊かになるのを見て、彼らも倭国に加入せざるを得ないようになってくる。加入してしまうと、その豪族は権力を振るえなくなる。このようにして、北九州地域から王墓が消えていったと考える。
銅戈について
銅戈については、ニギハヤヒのシンボルである鋸歯文を持つものがあること、熊本県北部や、宮崎県北部などスサノオよりもオオトシの行動の形跡を伝える神社の多い地域に銅矛よりも多く見られることなどから、スサノオと行動を共にしたニギハヤヒ(当時は大歳と呼んでいた)のシンボルであったのではないかと推定している。
ニギハヤヒはスサノオの死後、九州地方同様に銅戈をシンボルとして近畿地方統一に乗り出している。そのため、近畿地方から銅戈(大阪湾型銅戈)が出土することになるのである。
銅矛をシンボルとした理由
次にスサノオが瀬戸内海沿岸地方を統一したのと統一の手法が違う理由を考えてみることにする。瀬戸内海沿岸地方は、有力豪族がほとんどいなかったと思われ、青銅器を見たこともないという人々がほとんどであったと思われるので、その輝きの神秘性を利用して、統一の必要性を訴え、人々の団結心を強化するために銅剣祭祀をしたが、北九州地方は有力豪族がひしめいている上に、青銅器は見慣れている人々が多いと思われるので、銅剣祭祀で倭国に加入させることができなかったものと判断する。有力豪族は自らの生活の豊かさから倭国には参加しないのである。有力豪族がいるということは、その豪族たちに虐げられている人々がいることを意味し、彼らを取り込むために、中広銅矛を倭国のシンボルとして利用することを考えついたのではあるまいか。シンボルとして使うためには、長い年月が経っても変化しない青銅器が最良である。しかし、個人が手で持つタイプの銅剣では不都合で、棒に取り付けて高く掲げるタイプの銅矛や銅戈の方が都合がよかったためと考えられる。そのため、シンボルらしく、次第に巨大化するのである。
国家統一の結果
スサノオが北九州を統一した結果、後期初頭の漢鏡が、広い範囲に広まるようになり、生活の不安が解消し、武器を持つ必要がなくなり、後期初頭の鉄製武器が急激に衰退した。
このように技術力・行動力に優れたスサノオは、周りの人々の目には神として写るのではないだろうか。北九州の人々は、スサノオの行動に感謝をし、統一者スサノオの持っていた中広型銅矛を使って、スサノオ祭祀をするようになった。スサノオの保障してくれた五穀豊穣や家内安全の願いを銅矛に込めて祭礼の後に埋めたのではないだろうか。
瀬戸内系の祭祀を受け入れた結果、北九州の墓制である甕棺墓は姿を消し、箱式石棺墓を中心とするその他の墓制が広まるようになった。後期初頭に存在する糸島地方の井原鑓溝遺跡被葬者は、甕棺墓であり、スサノオの倭国に最後まで抵抗を示していたと考えられる。
スサノオが鉄剣を所持していたために、鉄剣がステイタスシンボルとなり、他の鉄製武器が衰退する中で、鉄剣のみが生産され続けるようになったと判断される。また北九州中心部と考えられている地域(博多湾沿岸地域)の銅剣・銅矛祭祀が盛んでないのは、この地域の有力豪族が倭国に加入するのを渋っていたためと判断される。さらに、後に、銅矛祭祀の盛んでない南九州勢力や畿内勢力に支配されたのも影響しているのではあるまいか。 
第五項 熊曾について
熊本県地方はスサノオの統一に失敗した地域のようである。それは、スサノオが祭られた神社がほとんどなく、スサノオの行動を伝える伝承もないことから判断される。そのため、この地方が独自の文化を保ち続けることができたと考える。しかし、このことが、後の時代、大和朝廷との激しい戦いを繰り広げる原因となっているのである。 
第六項 統一経路の推定
スサノオ関連伝承・遺物が優勢な領域は中津平野、大分県地方、南四国地方、佐賀平野であり、大歳関連伝承・遺物が優勢な領域は遠賀川流域、筑後川流域、熊本県北部地方であり、五十猛命関連伝承が優勢な領域は長崎県地方である。これら、中広銅矛・銅戈の集中出土地域、神社伝承を考慮すると、北九州地方の統一順路は次のようになる。
スサノオは最初、宇佐の地を出発して南下し大分川流域、大野川流域を統一した。その後豊後水道を渡り、佐田岬半島から、宇和海沿岸を南下し、土佐地方を統一した。大歳は北上し遠賀川流域、冷水峠を抜けて筑後川流域を統一した。また、五十猛命は長崎県地方に伝承地が多いことから、唐津市あたりに上陸し海岸線に沿って現在の長崎県領域を統一して回ったと推定される。ここまでは順調に統一が進んだが、それぞれ行く手を阻まれることになる。
南四国地方を統一したスサノオは、再び北九州地方に戻り最も有力豪族がひしめいている北九州北西部沿岸地方に入った。奴国・伊都国領域である。スサノオの持っている新技術も北九州北西部の有力豪族たちには魅力的なものに移らず、また、倭国に加入してしまえば現在持っている権力をすべて失ってしまうのであるから、倭国に加入するはずもなく、スサノオ一行に頑強に抵抗した。スサノオはやむなく、有力豪族に虐げられている弱小豪族に目を向け、周辺小国を倭国に加盟させていった。
筑後川流域地方から南下し菊池川流域から、阿蘇盆地から流れ出る白川流域(熊本市近辺)に入ると球磨一族と衝突するようになった。球磨一族は「よそ者は全く受け入れない」といった考え方が強く、大歳が如何に説得しようが倭国にはまったく加入しない。そういった小国が増えてきた。
スサノオも大歳も加入を拒否する小国家はそのままにして、加入してくる小国家を次第に増やすという手法で統一を勧めていった。倭国に加盟した小国家には瀬戸内沿岸地方から連れてきた人々を連絡役として配置し、先進技術を伝えるとともに、他の加盟国との交流を密にするようにしていった。
スサノオは伊都国・奴国の有力豪族を倭国に加盟させるのをあきらめ、福岡平野を宇美川、那珂川沿いに南下し筑後川流域に出て、有明海沿岸地方を西へ統一してまわり、佐賀県有明町の稲佐神社周辺で長崎川を統一してきた五十猛命と出合った。佐賀平野(吉野ヶ里遺跡周辺)に拠点を構えて、南の球磨国、北の奴国・伊都国との交渉を継続すると同時に倭国に加盟した小国家の技術指導・交流促進に力を注いだ。また、銅矛、銅戈による祭祀も広めた。
このような過程を経て北九州地方の大半の領域が統一されたのであろう。小国家の中には最初加盟するといいながら脱退する領域もあるだろうし、逆に最初拒否しておきながら周辺の状況をみて加入を申し入れた領域(おそらく奴国)もあったと思われる。しかし、次第に加盟領域が増えてきて、北九州地方が統一されたのである。奴国領域はサルタヒコ関連神社が多く、青銅生産が行なわれていたところで最初加盟拒否したが、後で加盟したものと考えられる。この時点での未統一領域は伊都国、球磨国である。紀元5年ごろのことであろう。以後5年ほど佐賀平野を拠点として北九州地方の国家体制の確立に努めたものと考えられる。
スサノオ、大歳、五十猛命関連神社の分布、銅矛、銅戈等の関連遺物の分布から推察して北九州の統一過程は以上のようになる。 
 
第5節 南九州進攻

 

第一項 考古学的変化
北九州を統一したスサノオは、宇佐を拠点として、南九州地方の進攻を開始した。紀元10年(スサノオ45歳)頃と思われる。南九州地方に、この頃、次のような変化が起こっている。
1 中期末に、宮崎県と鹿児島県地方の広い範囲に、瀬戸内系土器が出土するようになる。後期初頭になると、量が増えるが、後期中頃までに消滅し、それと入れ替わるようにして、畿内系土器が出現する。
2 中広型銅矛が見つかっているが、その数は少ない。
広い範囲で瀬戸内系土器が出土することから、瀬戸内との交流は一時的なものではなく、恒常的なものであることが判断される。そして、瀬戸内沿岸地方で、南九州系の土器がほとんど見られないことから、この交流は瀬戸内から南九州への一方的なものであったと判断する。スサノオの南九州進攻の結果、瀬戸内地方から役人を派遣し、瀬戸内系土器が出土するようになったものと考えるとうまく説明できる。そして、瀬戸内系土器が後期初頭の途中で衰退するのは、出雲の国譲りによって、政権移譲が起こったためと考えられる。 
第二項 統一方法
南九州に点在する神社を調べてみると、阿蘇盆地から、高千穂町、そして、延岡市にかけて、大歳を祭った神社が数多く点在し、大歳の行動を伝えている。大歳の行動の跡は都農町の都農神社にも見られる。大歳が阿蘇盆地の方から高千穂・延岡経由で、南九州に進入したことが伺われる。 一方スサノオの行動の跡は定かではない。
当時の南九州は宮崎県南部地方をイザナギ一族が支配していた。イザナギ一族は、おそらく中国史書にある「呉の太伯の子孫」であろう。太伯は周の開祖文王の叔父にあたり、その子孫が春秋時代に揚子江河口付近に呉を起こした。イザナギ一族の祖先はBC473年に呉が滅んだとき、東シナ海に船出をし、日向地方に流れ着いたものではあるまいか。この一族は、現在の宮崎県の都城盆地から宮崎平野にかけて領有していた。天照大神の誕生伝承地は宮崎県下に二箇所ある。ひとつは阿波岐原でもうひとつは清武町の加江田神社の地である。
阿波岐原について
「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」というのは、伊邪那岐命が禊払いをして三貴子をはじめ多くの神々を誕生させた場所である。神道にいうところの祝詞に良く登場してくる神聖な場所である。これは一帯何なのであろうか?
宮崎市の小戸神社に阿波岐原の説明文があった。それによると、「小戸」というのは現在の宮崎市街地一帯を指し、大淀川の河口周辺であるらしい。当時大淀川の川辺に多くの船が浮かんでおり、他地域との交流を盛んに行っていたらしい。その様子が「小戸」と呼ばれたようである。「小戸」とは小さな港の意味であるという。
阿波岐原の領域は寛延中の「日向小戸橘檍(あわぎ)原図」によると、宮崎市の西北大宮柏田から石崎川にいたる連続した領域を扇の頭とし、大淀川下流の蟹町をその要とした三角形をなす領域となっている。この領域は小戸神社に言う小戸の領域と一致している。
「伊邪那岐命が三ツ瀬の辺りに立たれて、上ツ瀬は速し、下ツ瀬は弱しと仰せられて中ツ瀬において禊払いをし給うた。そのときに多くの神々を生み給うた。」と古事記・日本書紀に書かれているが、この三ツ瀬には海原と川原の両説がある。
海原説・・・上ツ瀬=住吉神社沖、中ツ瀬=江田神社、下ツ瀬=下別府沖
川原説・・・上ツ瀬=下北方の津多賀瀬、中ツ瀬=上別府の也奈義瀬、下ツ瀬=住吉内瀬頭の伊和賀瀬
である。伝承地から考えると海原説が正しいようである。
阿波岐原とは何か、禊払いとは何かであるが、中ツ瀬の江田神社の祭神は現在では伊邪那岐命、伊邪那美命(後祀)であるが、神名帳によると素盞嗚尊の御子五十猛命、大屋彦命となっている。両神ともに倭国統一のために動き回った神である。その神が阿波岐原の中心地に祭られているということより、阿波岐原は素盞嗚尊一族が南九州を統一するために上陸した場所で、その拠点としたところではないかと推定される。この周辺からは祭祀系の弥生式土器の出土が多く、この地は一大祭祀地帯ということになる。
以上の事実から阿波岐原を次のように推定する。
北九州を統一した素盞嗚尊一族は、南九州を統一するために江田神社付近に上陸した。この地で、南九州の人々を倭国に加盟させるために、この阿波岐原で南九州の人々と大々的に祭祀を行った。その祭祀と共に、大陸から取り込んだ新技術・品物を人々に提示した。南九州の人々はその新技術に驚くと共に、この地が人々の聖地となったのではないだろうか?また、この周辺が彦火火出見尊、狭野命、鵜茅草葺不合尊?の誕生の地でもあることから、その新技術の中に出産にかかわる医学技術も含まれていたのではないだろうか。そのために、南九州の人々には出産の聖地として認知された可能性もある。
以上のような理由により、阿波岐原は天照大神の誕生地としては時代が少しずれることになる。天照大神の誕生地としては 加江田神社の地となる。天照大神はイザナギ、イザナミ両神より産まれているので、スサノオが南九州侵攻時のイザナギの宮居は加江田の地ということになる。
南九州統一過程
加江田神社より3kmほど東に今泉神社がある。ここは天御中主命が降臨した場所と伝えられている。 天御中主命とはニギハヤヒ命と考えられるので、ニギハヤヒ(大歳)がこの地に来ていたことになる。この地に来るには清武川をさかのぼり、 加江田を通り越さなければならない。おそらくニギハヤヒは宮崎市を迂回して北側から今泉神社の地に宮居した。スサノオは東側現在の青島方面から加江田川に沿って遡り、 加江田を二人が挟み撃ちにしている様子が浮かび上がってくる。
スサノオは阿波岐原を拠点とし周辺の小国に倭国に加盟するように勧めていった。スサノオが加江田周辺に来たときムカツヒメ(天照大神)と出合ったのであろう。 スサノオ50歳ほど、ムカツヒメ15歳ほどと考えられ、AD15年ごろと思われる。スサノオはこれまで大阪地方、北九州中心域、熊本地方で有力豪族に出会うと、争いを避けそのまま手を引いているが、 スサノオとイザナギの関係が神話上ではあまり良くないことからスサノオが武力を用いて南九州地方を統一したと当初考えた。しかし、和歌山県の熊野本宮大社に伝わる伝承では、スサノオがイザナギ・イザナミを伴って統一していることになっているので、イザナギ・イザナミはスサノオの統一事業に積極的に協力したことになる。 
スサノオは加江田に都している南九州の有力豪族であるイザナギ・イザナミに対して日本列島統一の理念を話し、南九州諸国が倭国に加盟するように協力を要請した。イザナギ・イザナミは娘ムカツヒメ(日向津姫)と結婚することを条件として一緒に統一することを承諾した。
スサノオに協力することになったイザナギ・イザナギはその拠点の宮崎市周辺から大淀川を遡り、東霧島神社の地を拠点として、以前から交流していた都城地方の豪族にも倭国に加盟するように働きかけた。
東霧島神社
東霧島神社は主祭神伊弉諾命でイザナギの皇都があった地と伝承されており、境内には伊弉諾命に十握の剣で三つに切断されたという神石がある。イザナギ・イザナミがスサノオの元で都城地方を統一した時の拠点としたところであろう。イザナギ・イザナミの努力により、都城盆地一帯は倭国に加盟することになった。
一方、スサノオはムカツヒメを伴って舟で国分地方にわたり、この地方を統一した。
鹿児島県国分市の蛭子神社の地にたどり着いた。蛭子神社は「伊邪那岐・伊邪那美命の最初の子供は3歳になっても足腰が立たない蛭のような子供であったため、両親はその子を蛭子命と名づけ、天岩楠船に乗せて天上から流し捨てた。この天岩楠船の流れ着いた場所が蛭子神社の地である」といわれている。この蛭子命はスサノオのことであると推定している。「ヒルコ」「ヒルメ」は男女のペアを意味しており、「ヒルメ」は天照大神(ムカツヒメ)と考えられるので、「ヒルコ」はスサノオとなる。スサノオは加江田の地をムカツヒメとともに出港し大隅半島を回り蛭子神社の地に上陸した。
蛭子神社のすぐ近くに南九州の政庁があったと思われる 鹿児島神宮があるので、 この地を拠点として国分地方一帯を統一することに成功した。鹿児島神宮は元八幡宮といわれており、スサノオの南九州政庁の跡と思われる。この地はまだ未統一の大隅半島部や薩摩半島部に囲まれており、 その方面に対する牽制の意味でも重要な位置であった。スサノオの後もここに役人を配置して、南九州の統治をしていたものと考えられる。
鹿児島神宮の社伝「大隅正八幡本縁起」によると、震旦の陳大王の娘・大比留女(オオヒルメ)は 七歳にして解任、いぶかった父王が問いただすと、夢で朝日の光が胸にあたったために懐胎したのだという。 驚き畏れた王は大比留女をやがて生まれた王子とともにうつぼ舟にのせて大海へと流したとされ、この舟は九州の大隅(八幡岬)へと流れつき、大隅国に留まった王子は正八幡と称えられ、幼くして隼人を平定した。といわれている。この伝承はこのときのスサノオとムカツヒメとの関係によく似ている。
しかし、南九州一帯は北九州と文化が余りにも異なり、倭国に加盟させるのが至難の業であった。大隅・薩摩地方を統一するのはすぐには難しいと感じたスサノオは、 今まで統一した領域をまず安定化させようと、宇佐の地まで引き返した。ムカツヒメはスサノオの行動に深い理解を示し、スサノオと結婚をした。 そして、この時に、ヤマタノオロチから奪った鉄剣天村雲剣(後の草薙の剣)と出雲で製作した八尺瓊の勾玉を結婚の証としてムカツヒメに渡した。これはいずれも三種の神器になっている。
ムカツヒメは、安心院町の妻垣神社 「祭神、八幡大神(スサノオ).比売大神(ムカツヒメ)」の地でスサノオと生活していたと考えられる。そして、そのすぐ近くにある、 三女神神社の地でスサノオとムカツヒメとの間に3娘が生まれた。スサノオはムカツヒメとともに九州地方の統治をしていた。
この間イザナギ・イザナミは都城地域統一のため努力していた。紀元15年ごろのことであろう。 
第三項 南九州統一過程
佐賀平野に拠点を置いていたスサノオは紀元10年ごろ南九州を統一する決心をした。五十猛命に北九州地方の統治を任せ、大歳は熊本平野から阿蘇盆地を抜けて五ヶ瀬川流域に入り高千穂から延岡と統一し、そのまま九州東海岸を南下し都濃神社の地に上陸し、そこからさらに南下した。スサノオは宇佐に戻り統一地域を巡回した後、九州東海岸沿いに南下した。そして、そろって宮崎市の阿波岐原に上陸し祭祀を行い、大歳は宮崎平野北部一帯を統一し、スサノオは大淀川の南岸沿いを統一し清武川沿いを統一しようとしたところ加江田の地でムカツヒメと出合った。加江田の豪族イザナギ・イザナミが大変協力的で娘のムカツヒメとの結婚を条件に大淀川上流域の都城盆地一帯を統一することを申し出た。スサノオは彼らにその地域の統一を任せ、自らはムカツヒメを伴って、大隅半島を回り、鹿児島県国分市近辺(蛭子神社の地)に上陸した。近くの現鹿児島神宮の地を拠点として国分地方一帯の統一に成功した。しかし、南九州地方一帯は北九州と文化が大きく異なり統一は簡単ではなかった。南九州地方の完全統一はひとまずおいて、スサノオはムカツヒメと共に宇佐に戻った。大歳は宮崎平野一体を統一後、讃岐の琴平に出向き、ここを拠点として瀬戸内海沿岸地方の統治をすると共に近畿地方の情報を収集した。
数年後(紀元15年ごろ)イザナギ・イザナミから都城盆地統一完了の報告を受けて近畿地方統一に乗り出すことになる。 
近畿地方にはイザナギ・イザナミと五十猛命、抓津姫、大屋津姫を伴って行った。紀伊国の統一には成功したが大阪湾岸地方の統一には失敗した。
紀元20年ごろ再び宇佐に戻ってきた。スサノオは統一過程において国の安定経営のためには製鉄技術の確立が必要であることと、出雲国を留守にした期間が長すぎたために倭国内でも出雲国が大きく遅れていることに気付いた。また、鉄は出雲で大量に産出することが分かり、スサノオは出雲に帰ることになった。 
第四項 その後の北九州
スサノオが出雲に去ると同時にムカツヒメも日向に戻った。南九州の未統一地域を統一するためである。二人が去った後の北九州北東部地方は、二人がいる間相談役をしていた福岡県田川市あたりを拠点にしていたタカミムスビに任せることにした。タカミムスビにはスサノオとの血縁関係がないので、二人の長子であるまだ3歳ほどのオシホミミを預けることにした。タカミムスビはオシホミミの後見人という形である。スサノオはさらに、北九州南西部の統治をゆだねるため、出雲からニギハヤヒの長男であるサルタヒコを呼び寄せた。北九州地方が二分されて統治されたのである。紀元25年頃でスサノオ60歳ほど、ニギハヤヒ30歳ほど、サルタヒコ15歳ほどであったと思われる。
島根県口碑伝説集「黄金の弓」によると、サルタヒコはニギハヤヒが、まだオオトシといって出雲にいた頃、キサカイヒメとの間にできた子である。スサノオが北九州を去るのにあたって、出雲からサルタヒコを呼び寄せたのである。北九州に来たサルタヒコは、北九州南西部地方を統治した。
サルタヒコは塩土翁・オオヤマクイ神・住吉大神・日吉大神・荒神等として全国に祭られている。特に集中して祭られているのが、福岡県那珂川町や春日市を中心とする北九州南西部一帯なので、このあたりに拠点があったものと考えられる。そして、この周辺は奴国の中心地として青銅器やその鋳型が集中出土している地域で、青銅器生産センターがあったと推定され、サルタヒコとの関係が考えられる。 スサノオのシンボルである銅矛は、その関係者が生産することでその価値が高まると思われ、サルタヒコとその一族が生産したのではあるまいか。
サルタヒコは福岡県那珂川町に拠点を置き、スサノオの国家統一のシンボルである中広型銅矛を守護神として祭礼する需要が高まってきたため、父から受け継いだ青銅器生産技術を使って、北九州の青銅器生産をし、地方に配布したのではないだろうか。
また、サルタヒコの勢力圏に吉野ヶ里遺跡があるが、吉野ヶ里の鎮守は日吉大神である。吉野ヶ里遺跡もサルタヒコと関係があるらしい。 
紀伊半島統一
九州統一に成功したスサノオは、大阪湾岸地方から紀伊半島の統一に乗り出した。
大阪湾岸地方
弥生時代中期末に当たるこの頃(紀元20年ごろ)、大阪湾岸地方は池上曾根遺跡をはじめとする多くの遺跡が存在しており、それらからは大型の建物跡が発見されるなど、かなり進んだ国があったようである。弥生時代中期のはじめごろ、瀬戸内海沿岸地方を渡ってきた弥生人が大阪湾岸地方に上陸し、ここを拠点とし、大和盆地をはじめとする近畿地方一帯から濃尾平野まで勢力圏を広げていた。拡張主義を持っていたようで、技術的にも高度なものを持っており、スサノオが大阪湾岸地方にやってきた時も倭国に加入することを拒否した。そのために、スサノオの行動を示す神社が大阪湾岸地方に存在しないものと考えられる。
和歌山県地方
和歌山県地方にはスサノオ一族の行動を示す神社がいくつか存在している。紀伊国は元「木国」といい、五十猛命が朝鮮半島から持ってきた木が最も生長した国なので、木国と呼ぶようになったと言い伝えられている。スサノオは五十猛命とともに大阪湾岸地方の統一を後回しにして紀伊半島の統一に乗り出したのであろう。
紀伊半島のスサノオ関連の伝承をまとめると以下のようになっている。
1.大和御前之宮 和歌山市北野744-3 祭神 天照大神 大己貴神
神代の時、天照御神の命により五十猛命ら三柱の神が導祖神猿田彦神の導きでこの地に天降られ木種を蒔かれました。三輪大神を祀るを以て大和御前と称す。
2.射矢止神社 和歌山市六十谷381 祭神 品陀別命、息長帯姫命、天香山命、一言主命、宇賀魂命
天香期山命、一言主神は神代のむかし五十猛命と共に本国に天降り、名草の山路に後を垂れたとある
3.伊太祁曽神社 和歌山市伊太祈曽 祭神 五十猛神、大屋都比売神、都麻都比売神
木の神様 素盞鳴命(すさのおのみこと)の子、大屋毘古命(おおやびこのみこと)が、多くの樹木の種をもち、この国に天下られたことから、まつられている。伊太祁曽神社が現在の社地に静まります以前には、日前神宮・国懸神宮に祭られていた。
4.大国主神社 紀の川市貴志川町國主1 祭神 大国主命 
紀伊続風土記によれば、八十神等の危難から逃れ、五十猛命のもとへ赴こうとした大国主命が当地を訪れた事を由緒としている。古事記では母の神が大国主命を紀の国の大屋毘古の神のもとに逃がしたとある。
5.須佐神社 和歌山県有田市千田1641  祭神 素戔嗚尊 
銅鐸・鉄刀出土地。神代五十猛ノ命出雲国より本国に渡り給ひしより其父神須佐之男命の御霊を有田郡須佐神社の地に鎮め奉れるなるへし
6.大神社 和歌山県田辺市芳養町1029-1 祭神 天照皇大御神
素盞嗚尊上陸伝承地
7.田辺須佐神社 和歌山県田辺市中万呂5 祭神 須佐之男命 配 稻田比賣命、八王子神
素盞嗚尊が立ち寄り木種を播いたと伝える。
8.神倉神社 新宮市新宮 祭神 高倉下命
神倉山は熊野三所大神(早玉、結、家津美御子)が最初に天降り給うた霊所である。熊野の神が諸国遍歴ののち阿須賀神社に鎮座する前に降臨したところであるとも伝えられている。神倉山は古代より熊野の祭礼場として神聖視され、熊野の根本であるといわれる。御神体はゴトビキ岩である。この岩を袈裟岩が支える構造になっている。この袈裟岩の穴から袈裟襷文銅鐸(弥生後期)の破片が出土している。
9.熊野速玉大社 和歌山県新宮市新宮一番地 熊野結大神(伊弉冉命) 熊野速玉大神(伊弉諾命) 家津美御子命・国常立命 天照大神
素盞嗚尊降臨地と伝える。
10.熊野本宮大社 田辺市本宮町本宮1110 主祭神 家津美御子大神(素盞嗚尊) 
『熊野権現垂迹縁起』によると、熊野権現は唐の天台山から飛行し、九州の彦山に降臨した。それから、四国の石槌山、淡路の諭鶴羽山と巡り、紀伊国牟婁郡の切部山、そして新宮神倉山を経て、新宮東の阿須賀社の北の石淵谷に遷り、初めて結速玉家津御子と申した。その後、本宮大湯原イチイの木に三枚の月となって現れた。
崇神天皇六十五年、熊野連、大斎原(旧社)において、大きなイチイの木に三体の月が降りてきたのを不思議に思い「天高くにあるはずの月がどうしてこの様な低いところに降りてこられたのですか」と尋ねましたところその真ん中にある月が答えて曰く、「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚大神)であり両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って齋き祀れ」との神勅がくだされ、社殿が造営されたのが始まりとする降臨神話となっている。また、当地は神代より熊野の国といわれている。
大神は植林を奨励し、造船の技術を教えて外国との交通を開き人民の幸福を図ると共に生命の育成・発展を司った霊神と伝える。
11.玉置山
山頂近くに玉置神社があり、神武天皇東征時にはすでに信仰の対象になっていたと伝える。玉石社のご神体の丸い石は地表に少し出ているだけで、玉石社の下に「十種神宝(とくさのかんだから)」が埋まっていると伝えられている。
12.阿須賀神社 新宮市阿須賀町 祭神 事解男之命 
伊邪那岐伊邪那美さま熊野に参られ御生みになつた神々をお祭りし、従つて熊野は黄泉の国常世の国と読まれ初め家津美御子さまは貴袮谷、結速玉はアスカの森に二宇の社、第十代崇神朝には熊野川上流の音無ノ里、結速玉には第十二代景行朝、今の新宮に遷座、当社は熊野の発祥地と云われています。(熊野山略記)
13.花の窟神社 三重県熊野市有馬上時130 祭神 伊弉冉尊 軻遇突智尊
七里御浜に突出する高さ約70mの巨巌を神体とする巨巌の根元に方5mほどの祭壇を設けて白石を敷き玉垣をめぐらして拝所とする。神殿はなく巨巌を崇敬する 太古の風習を残している。「日本書紀」神代上の一書に「伊弉冊尊、火神を生む時に灼かれて神退去りましぬ。故、紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗、此の神の魂を祭るには花の時には亦花を以て祭る又鼓笛幟旗を用いて歌ひ舞ひて祭る」と記され、伊弉冊尊を祀る。
14.産田神社 三重県熊野市有馬町1814 祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊、軻遇突智命
産田は産処の義にして、伊弉册尊がこの地で火の神軻遇突智尊をお産みになったが故に産田と名付けられたという。一説に伊弉冉尊が神退りました地ともいわれる。また、永正十八(1521)年十一月十四日の棟札に「奉棟上産土神社二所大明神」と見え、『紀伊続風土記』によるとこの二所大明神とは伊弉册尊と軻遇突智尊二神を指し、後に伊弉諾尊が併せ祀られるようになったと説く。『三重県神社誌』

これらの伝承を元に紀伊半島の統一過程を推定すると以下のようになる。
都城盆地一帯の統一が完了したイザナミ・イザナミは、紀元20年ごろ、大分県宇佐地方で倭国全体を統治していたスサノオの元におもむき、スサノオに近畿地方の統一を勧めた。スサノオは近畿地方の統一を決心し、イザナギ・イザナミに加え五十猛命、大屋都姫、爪津姫などを引き連れて近畿地方の統一に乗り出した。淡路島を拠点として大阪湾岸地方の統一をしようとしたが、大阪湾岸地方の豪族たちには倭国加盟を拒否された。
大阪湾岸地方の統一は後回しとし、大阪湾岸から南下し、紀伊半島の紀ノ川河口付近に上陸した。スサノオは紀ノ川流域の統一を五十猛命、大屋都姫、爪津姫に統一を任せた。スサノオはイザナギ・イザナミを伴ってさらに紀伊半島沿岸を南下し田辺市に上陸した。周辺を統一後再び出港し、最南端を超えて、新宮市近辺に上陸した。
新宮に上陸したスサノオは神倉山→阿須賀神社の地と拠点を移しながら周辺をまとめた。人々に造船技術を伝えて熊野川流域に入り込み本宮の地を拠点とし流域の人々との交流を促進した。熊野古道もこの頃より開かれたのではないだろうか。伝承の分布から推察してスサノオの統一した領域は現在の三重県熊野市あたりまでであろう。スサノオの紀伊半島統一は紀元20年〜25年ごろと推定する。
淡路島(伊弉諾尊の終焉)
淡路島に伊弉諾神宮がある。日本書紀によれば、国土と神々の生成を終えた伊弉諾大神が、淡路島に「幽宮(かくりのみや)を建てて鎮まったと伝えており、その地に建てられたのが伊弉諾神宮である。イザナギ命の終焉の地といわれている。終焉の地伝承地は近江の多賀大社にもあるがこちらは、この時点(弥生中期末)で、まだ倭国への未加入地域であり、後に(大和朝廷成立後)日向から多くの人々が移住してきた時、日向一族の創始者としてイザナギが祀られたものではないかと推定している。
伊弉諾神宮
イザナギが淡路島で終焉した理由を推定してみよう。イザナギ・イザナミは和歌山県の熊野三社の伝承を見ても分かるようにスサノオにかなり協力的であり率先して国家統一に参加している。紀伊半島を統一後、スサノオにとって気になるのが大阪湾岸地方である。淡路島はその対岸に位置し、海上交通を主としていた古代としては大阪湾岸地方と交流を図る拠点となる位置にある。この点から考えて、イザナギは大阪湾岸地域を統一する準備のために淡路島を拠点として活動していたのではないだろうか。しかし、志途中で病(熱病と伝える)で亡くなり、伊弉諾神宮の地に葬られたものと考える。
伊弉册尊の終焉地
伊弉册尊の終焉地は古事記では出雲、日本書紀では紀伊となっており、両書でまったく異なる伝承を伝えているのである。周辺伝承の詳しさは圧倒的に出雲のほうとなる。紀伊では調査した範囲では産田神社と花の窟神社のみである。出雲では御陵伝承地7箇所を元として関連伝承地が無数といっても良いほど存在しており整理に苦労するほどである。これらから判断して伊弉册尊の終焉地は出雲であろうと推定するのである。紀伊の伝承地の産田神社は伊弉册尊が誰かを生んだ地であり、花の窟神社はその子の亡くなった地と推定することもできる。伊弉册尊はいかなる理由によって出雲に行き出雲で亡くなったのであろうか  
伊弉册尊の出雲行き
イザナミ御陵伝説地
伝説地 場所 伝承
岩坂陵墓参考地 島根県松江市八雲町日吉 『雲陽誌』によると、「神納山は剱山から500メートルほど離れており、男神イザナギを追った女神イザナミが、みずから魂をこの地に納めたところであるので神納という」と記されている。地元の人の間では、岩坂陵墓の中に墓石となるようなものは置かれていないと囁かれている。岩坂陵墓参考地はもっとも有力な候補地とされている。神納峠(かんなとうげ)。この峠の近くに、うっそうとした鎮守の森がある。はっきりとはしないが10メートル程の古墳と思われる。
比婆山 安来市伯太町 比婆山山頂に久米神社がある。その背後に4m位の高さで10m四方の古墳があり、比婆山神社古墳と呼ばれている。この境内にのみ群生するといわれる陰陽竹は、男竹に女性的なササがついている珍しい竹で、伊弉冉尊が比婆山に登ったときの杖が根付いたものと伝えられています。
比婆山 広島県比婆郡  比婆山は古事記所載の「故神避りましし伊邪那美神(いざなぎのみこと)は出雲国(いずものくに)と伯伎国(ははきのくに)の境。比婆山に葬(かく)しまつりき」とある比婆山で一名美古登山(みことやま)とも言い、山上にある墳墓は伊邪那美神の鎮まります神陵として、古くから崇敬されてきた陵墓であると言われている。
この陵墓は三町歩にわらる平坦地の中央を南北にやや長い経六十四米、周囲約二百米の大円墳が築かれ、即ち比婆山大神の神陵とされている。
御墓山 島根県安来市広瀬町梶福留梶奥 島根県遺跡データベースに御墓山古墳として記録されている。頂上には本陵と副陵があって本陵の上部は赤土をもって盛り土をした形跡があるほか、 峰づたいに降りた「沢田が廻」には古墳もあり、古来より神聖な霊峰と言い伝えられており、古老たちは、今でもこの山を「お墓」「みことさん」などと呼んでいる。
佐太大社裏山 島根県松江市鹿島町佐陀宮内 佐太神社は伊弉冉尊の大元の社で、その背後の山に陵墓を祀っていると伝えていました。
伊弉冉尊(いざなみのみこと)の陵墓である比婆山(ひばやま)の神陵を遷し祀った社と伝え旧暦十月は母神である伊弉冉尊を偲んで八百万の神々が当社にお集まりになり、この祭りに関わる様々な神事が執り行われることから当社を「神在の社」(かみありのやしろ)とも云い広く信仰を集めています。(佐太神社由緒)
伊弉冊 島根県仁多郡奥出雲町上阿井伊弉冊 鯛ノ巣山の中腹にある籠り岩でイザナミの尊が七日七夜この岩穴に籠られお産をされた、めでたい、ということで鯛の巣となる。上阿井地区には伊弉冊という地名の小さな集落があり、阿井川の支流として伊弉冊川がある。ここには岩柵があり、広さは十畳敷ほどで、伊邪耶美命(イザナミノミコト)が住んでいたと伝えられている。猿政山の山麓に尊原と呼ばれているところがある。ここに伊弉冊を祀っている。ここが御陵であろう。(島根県口碑伝説集)
母塚山 鳥取県米子市 母塚山はイザナミ御陵のある山で比婆山とも呼ばれている。鳥取県と島根県との県境にある山で、昔、イザナミを祭った神社が山頂にあったそうである。古事記にはイザナミ御陵は出雲と伯耆の境にあると記されているが、イザナミ御陵伝承地で出雲と伯耆の境にあるのはこの母塚山と御墓山の二つである 。
花の窟 三重県熊野市 花窟神社は古来社殿なく、石巌壁立高さ45米。南に面し其の正面に壇を作り、玉垣で周う拝所を設く。此の窟の南に岩あり、軻遇突智神の神霊を祀る。この窟は伊弉冊尊の御葬所であり、季節の花を供え飾って尊を祀ったが、故に花窟との社号が付けられたと考えられる。 古来、花窟神社には神殿がなく、熊野灘に面した巨巌が伊弉冊尊の御神体とし、その下に玉砂利を敷きつめた祭場そして、王子の岩と呼ばれる高さ12メートル程の岩がある。この神が伊弉冊尊の御子であることから王子の窟の名の由来とされている。一説によるとここは軻遇突智神の墓とのこと。
比婆山 鳥取県南部町金田 麓に熊野神社あり、伊弉冊命御陵地なりと伝える。「天宮さん(南部町指定文化財)」という巨岩があり、昔からこの地域の方たちは、この積み重なった岩のことを‘天宮さん’と呼び、天地を開き給う祖神の遺跡として大切に守り続けている。これは巨石崇拝遺跡であり、安産の神様として、大正から昭和の始め頃までは参拝者が多かったが、戦後になると登る人も少なくなった。地区の人が年に二回、草刈をして登山道を確保している。
麓から歩くと約一時間で、樹齢数百年の大樹が茂る山腹に、巨大な石が多く目に飛び込んでくる。その一角にある巨石が、イザナミノミコトのお墓ではと古くから云われ崇拝された「天宮さん」である。<なんぶSANチャンネルより>
調べた範囲では、イザナミ御陵は出雲6か所、伯耆2か所、紀伊1か所、広島1か所である。周辺伝承から判断すると、イザナミの終焉地は圧倒的に出雲であり、紀伊国の花の窟は別伝の軻遇突智神の墓が相当するであろう。イザナミが紀伊国開拓している時、産田神社の地で軻遇突智神を生み、この神は若年にて亡くなり、花の窟に葬られたと考えるのが最も自然である。
出雲の奥地にイザナミ伝承地が多いのであるが、これは不便な地にあり、製鉄との関係が考えられる。安来の比婆山、広島の比婆山、御墓山、仁多の伊弉冊のいずれも周辺に製鉄遺跡が集中している。これはイザナミがこういった地に滞在していたことを意味し、イザナミが出雲に来た理由は製鉄にあるということにつながる。
イザナミが出雲に来てすぐに山奥に行ったとは考えにくいので、最初に滞在した地が佐太神社の地であろう。ここは、伊弉冉尊の大元の社と言われており、本来は伊弉冉尊が主神であると思われる。それも、イザナミ自身がしばらく滞在していたためであろう。
安来市伯太町東母里井戸にイザナミが使った井戸が伝えられている。周辺に製鉄遺跡が多く、そのすぐ近くに比婆山神社があり、背後にイザナミ御陵伝承地がある。佐太神社の地で周辺情報を集め、準備を整えた後、そこから東へ移動し、飯梨川を遡り、この地に到達したものと考えられる。この周辺は日次(ひなみ)と呼ばれており、日向(ひな)がなまったものと伝えられている。また近くに日向山(ひなのやま)がある。この周辺にしばらく滞在したものであろう。この周辺の滞在伝承が後に比婆山御陵伝説が生じるもととなったものであろう。比婆山御陵古墳は古墳であり、だいぶ後の時代に築造されたもののようである。
伯太からさらに飯梨川を遡ると西比田殿之奥に到達する。比太神社の地に滞在していたと思われる。この周辺はイザナミ関連伝承地が非常に多い。近くに御墓山がある。御墓山は後の時代に第7代孝霊天皇が参拝したと伝えられているため、かなりの祭祀対象になっているようである。しかし、周辺伝承がイザナミの人としての伝承のようなものが少なく、黄泉国神話にかかわるものが多い。その多くは、おそらく、後の時代に作られた伝承と思われる。当初この御墓山が真実のイザナミ御陵と考えていたが、神武天皇がイザナミ御陵を遙拝したという葦嶽山からこの御墓山が見えないことから御墓山は御陵ではないと考えるに至った。それに対して比婆山連峰は葦嶽山からよく見え、葦嶽山は比婆山を遙拝するには最高の山であった。真実のイザナミ御陵は広島県の比婆山御陵と判断する。しかし、御墓山は孝霊天皇が参拝しているので、別の誰かの墓と考えられる。候補としては金屋子神ではないだろうか。
広瀬町の梶福富周辺は南側に山脈があるが、この中の御墓山がイザナミの御陵だと伝えられている。ここは古事記にあるとおり、まさに出雲と伯耆の境に当たる。明治初年まではこの山の中腹に比婆神社があったといわれている。この辺り一帯はイザナミに関する伝承が多く、御墓山(おはかやま)に東接する猿隠山は女神が崩じたところで、御墓山の西北麓の殿之奥はイザナミの御殿の跡と伝えられている。さらに後の時代になって孝霊天皇が参拝したという伝承もある。またこの周辺は日向、日向側、日向原、日向山など日向に関する地名も多く、日向地方から多くの人々がやってきて住んでいたものと思われる。また島根県下の多くの地域にイザナミ御陵伝承地があるが、いずれも出雲と伯耆の国境ではない。これは、出雲にやってきた日向の人々が作ったものと考える。 イザナミが実際に住んでいた殿之奥をさらに探ってみた。比太神社が少し小高い丘陵地に存在し、殿之奥はその神社を中心として栄えている集落である。比太神社の祭神は吉備津彦であり、イザナミ・イザナギが合祀されている。イザナミが祭られていることから判断してイザナミの御殿はこの神社の地に在ったのではあるまいか。吉備津彦は倭の大乱時にこの地にやってきて、ここから御墓山の祭礼を行なったのではあるまいか。その証拠に比太神社の真後ろが御墓山になっている。
イザナミの住んでいた殿之奥のすぐそばに金屋子神社がある。 この神社の祭神は金山彦、金山姫となっているがこれは後にそうなったようで、本来は金屋子神であるようだ。金屋子神は性別が不明であるが、女が嫌いであるなどの性格より女神であるらしい。金屋子神祭文ではこの神は高天原より播磨国に天降り、そこで鉄鍋を作ったが周囲に住めるところがなかったのでこの地に来て鉄造りを伝えたとある。 このとき、この神は「我は西方を主とする神である」と言っている。高天原(日向)から来たということと西方を主とすることから、九州方面の神であることが推定される。神話によるとイザナミの吐瀉物から生まれたのが金山彦・金山姫でその子が金屋子神である。
島根県に伝わる伝承によると、金屋子神は播磨→吉備中山→印賀(鳥取県日南町)→西比田の経路をたどっている。どう見ても東からの技術者といった感じである。金屋子神はイザナミ命の子孫ではあるまいか。紀伊国の産田神社の地で生まれた子の子孫とも考えられる。その金屋子神がイザナミが以前住んでいた殿之奥にやってきて本格的に製鉄を始めたものと考えられる。その時にイザナミ伝承、御墓山が作られたのであろう。
ここから北西へ山をひとつ越えると大東町上久野日向(ひな)まで直線10km、南西へ山をひとつ越えると横田町日向側(ひなたがわ)まで直線7kmである。伝承は伴っていないが、名前からイザナミ滞在地であろう。日向側から、南西へ13km程で日向原がある。また、ここから西へ7km程で仁多郡奥出雲町伊弉冊があり、この周辺はイザナミ伝承を伴っている。伊弉冊周辺の伝承は山腹の岩屋が多い。出産ではなく、鉄の採掘中の棲家であろう。おそらく、この周辺をイザナミは鉄資源を探して転々としていたものであろう。
イザナミは奥出雲地方を転々とした後、広島県側に滞在しているようである。経路は日向原→三井野原→油木→比婆郡西城町日南(ひな)と推定される。この周辺も製鉄遺跡の多いところである。 
西城町周辺の伝承
別所 イザナギノミコトは、月のさわりのとき、夫であるイザナギノミコトと別れて暮らしていたと伝えられる。故にその場所を別所(べっそ)という
田鋤 イザナギノミコトは、黄泉の国から追いかけてきた八人の鬼神たちをこの地で桃のみを投げて撃退した。そしてそのあと、桃に向かって「おまえはこれから先も日本中の者が誰でも苦しんでいるときは、今の私を助けたようにみんなを助けてやってくれ」と言って、桃に対して「大神実神」という名を授けた。田鋤(たすき)はこの神話にちなんだ地名で「助けて」が転じて田鋤(たすき)となったらしい
別路 イザナミノミコトが月のさわりで別所(べっそ)に向かうとき、イザナギノミコトはここまで送ってきて、また会う日まで別れをおしんだ場所であると伝えられる。そのため別路(わかりょうじ)という地名が付けられたという。
月のさわりがあると云うことは、まだ妊娠していないことを意味し、出産の悲劇が起こるだいぶ前のことと思われる。
千引岩 火の神を生んだことがもとで亡くなった伊邪那美命を追って黄泉の国へやって来た伊邪那岐命は、焼けただれた姿になった伊邪那美命の姿に驚き、黄泉の国から逃げ出した。伊邪那美命は怒って八雷神、千五百の黄泉軍を差し向けて追撃した。その時飛び越したのが「飛び越し岩」、軍勢を追っ払ったのが「越原」として、今も地名に残っている。最後に大石をはさんで「あなたの人草を日に千人絞め殺す」「それなら、一日千五百人の産屋を建てる」と二人が問答したことから千引岩と名がついたという。
不寒原 比婆は雪が多く寒い地方であるため、伊邪那美命はその寒い冬の間、比較的暖かいこの地に宮を造り、避寒の地にしたので不寒原(ひえんばら)と言うと伝わっている。今ではなまって「へんばら」という。
別路・別所の伝承から判断して、此の地にイザナギも一緒に生活していたのであろう。
伊邪那美命の隠れ穴 立烏帽子の谷間にある岩穴で「火除け穴」とも言われています。伊邪那岐命が伊邪那美命を訪ねてきたが、夜になったので自分の櫛に火を灯し、明かりとして通った所と言われています。また、伊邪那美命がここを通りかかったときに、天から火の雨が降ってきたのでこの穴に入って難を逃れたとも言われています。さらに、火の神を生んだ伊邪那美命がこの穴で亡くなったとの説も残っています
金倉神社 小奴可にある。背後に三段山があり、頂上に古代の祭祀跡と思われる巨石が散在。イザナギが火具土を三段に斬ったという伝承に関係?
稚子が池(三井野原) 難産の末イザナミ命が崩御せらる惨事となったとき、難産につきものの汚物を洗った池。今は小さな池であるが、太古は底なしの池であった。
稚児ヶ池神社の由来<神社説明板より>
「三井野の地名は御生、御井で比婆山神話に由来し、此処にある稚児ヶ池は古い伝説と信仰を持っている。出雲風土記に出雲と備後の界室原山と言うあり、神の御室などありしが、此の原上に古井あり、今は稚児ヶ池と言う。また、天孫族の長者イザナギ神・イザナミ神二神の本拠が比婆山連峰の高開原、幸(油木)の高天原にあり。女性におわすイザナミ神御妊娠の時幸の高天原より東方一里御井(三井野原)にある方一町位の泉のほとりに産屋を作りお籠りになり三貴神天照大神、月夜見神、須佐之男神がこの地に御誕生になり、この泉を御井と呼ばれていた。その後三井と改字され五尺四方、深さ三・四尺の池なるも近国迄名高く聞こえ、毎年近郷より雨上り、雨乞いに即立願して其の験また多く、如何なる旱魃にても水減ずることなく往古は一町四方の池にて伯耆大山や宍道湖とも底が通じていて、大蛇がこれらの池を通っていたと言い伝えられ、陰陽往還の要所に位置し、水量豊富で過去幾多の人馬ののどを潤したが、この周辺は軟弱を極め、水を飲むために近寄りぬかるみに足を取られ、溺死した者もあったため、今は埋められて一坪ほどの池と化しその上に横たえる材木の上に須佐之男命を祀る祠があり、稚児ヶ池神社と呼ばれ隣国より水の神様として信仰を集めている。」
ジャバミ山 三井野原の西の分水嶺付近にナギハタという地名がある。このナギハタにイザナミの一杯水という泉がある。そのそばの小高い山をジャバミ山という。イザナミ命が崩御せられたことを悲しんだ泣沢女命が稚児ヶ池で汚物を洗って産屋に帰る途中で毒蛇にあったからつけられたという。
枕返し 難産で病み伏していたイザナミ命に仕えていた泣沢女が、せめて滋養物を差し上げようと魚を取りに行ったところ。彼女が眠っている間に方向が変わっていたのでこの名前がついた。ここにはイザナミ命に差し上げる餅をついたという「臼岩」がある。
比婆山御陵周辺の岩 比婆山御陵周辺には烏帽子岩を始めとして巨石が転がっているが、その多くは人工的な切り込みが入っており、そのことごとくが比婆山御陵のほうを向いている。
また、神様が比婆山から投げたという礫岩が八か所に存在している。その岩は比婆山をぐるっと囲んでおり、比婆山御陵が信仰の中心となっている。
比婆山伝説地(御陵) 比婆山(1264m)の山頂は、古事記に云う伊邪那美命を葬った比婆山であるとして、古来より信仰の対象となってきたところである。南麓に遙拝所熊野神社があり、山腹に那智の滝(古名・鳥の尾の滝)がある。神域の巨石およびイチイの老木は神籬盤境として伝承されている。
古事記に「伊邪那美神は出雲国と伯伎国との境の比婆の山に葬りき」とあり、いわゆる「御陵の峰」が神陵のある山である。此の御陵を奥の院といい、南方約6kmの山麓にある比婆山大神(伊邪那美神)を祀った熊野神社を本宮という。比婆山は別名「美古登山」ともいい、山上には3haにもわたる広大な平坦地がある。
その中央部付近にある径15mの区域内は昔から神域として伝えられ、雨露に崩れて露出した巨石数個が重畳している。南側正面は一対のイチイ(門栂という)がおのおの巨石を抱いて茂り、伝承にある神域の門戸を形造っているようである。
この栂(正しくはイチイ)は木の母の字意から神木と解し、東洋における最長寿木であり、古代の神殿の造営林として重用されたもので、「あららぎ」の古語がある。御陵の背後に烏帽子岩という大きな岩があり、叩けば太鼓のような大きな音を発するので太鼓岩とも呼んでいる。そして、その周辺にはそれぞれ巨石を抱くイチイの巨木があり、古来神域の象徴として崇められてきた。幕末以後、神陵参拝が盛んであったが、明治20年頃、比婆山を神陵として称することが禁じられたため、登拝は衰えていく。その後、地元出身の宮田武義、徳富蘇峰らによって、全国に知られるようになった。<案内板より>
長者原 皇居跡と言われているが、誰の皇居があったのかがはっきりしない。神武天皇と推定する。
稚児ヶ池に伝わる伝承の高天原はどこであろうか?地図上で稚児ヶ池より西一里程の場所で油木に所属する人の住める条件を満たしている場所と言えば六の原地区の県民の森周辺しかない。しかし、此の地には調べた限りにおいて高天原伝承はないようである。六の原地区は後の時代にたたら製鉄の拠点があった処で、その人たちが高天原伝承を作った可能性も否定できないが、ここは高開原という地名にぴったりの場所で立地条件からしてイザナギ・イザナミ二神が一時期此処に住んでいた可能性はある。また、西城町日南(ひな)も地名から判断してイザナミが住んでいた可能性がある。これらの伝承から判断すると、イザナミ命は日向原から三井野原を越えて広島県内に移動し、日南辺りに住んで鉄の採掘をしていたようである。出雲ではイザナギの伝承が伴っていないのであるが、広島県側ではイザナギ伝承も伴っている。おそらく、イザナギが紀州から訪問してきて日南(ひな)や高開原で生活していたのであろう。
イザナミの出雲行きの理由がなかなか思い当たらなかったのであるが、この伝承を分析することにより、スサノオ・イザナギ・イザナミが紀州を統一した後、イザナギは紀州に残り紀州を安定化させ、スサノオは宇佐に戻り倭国全体の統治をし、イザナミが鉄資源を探して先遣隊として出雲を訪れたものと考える。イザナギも紀州を安定化させた後に出雲に行く予定だったのであろう。イザナミが鉄資源を探して広島県側に移動したころ紀州を安定化させたイザナギがイザナミのもとにやってきたのであろう。鞆の浦から芦田川沿いにイザナミの滞在していた日南までやってきたと思われる。
イザナミはそこからさらに熊野川に沿って遡り、比婆連峰で鉄の採掘をしていた。夏は山に入り、冬は不寒原で生活していたようである。別路の伝承から判断すると此の地にはイザナギもいたようである。この後高開原に居を移し、六の原周辺での鉄の採掘を行った。イザナミ命が妊娠をし、出産を控えて、きれいな水のあるところとして三井野原の稚児ヶ池を選び、そのすぐそばに産屋を立てて籠った。その出産は難産で、その影響でイザナミ命はこの地で亡くなった。古事記にはイザナミの腐乱遺体の描写があり、もがりをしていたのであろう。此の描写があると云うことから、イザナミが亡くなった時、イザナギはこの周辺にいなかった可能性が考えられる。宇佐や紀州に赴いていたのかもしれない。イザナギ命はイザナミの遺骨とともに直前までともに住んでいた高開原に戻り、その後比婆山御陵に葬った。AD25年ごろのことであろう。
比婆山の語源は「ひいばば様の山」と言われている。ひいばば様と呼べるのは3世後の世代である。その人物は神武天皇であろう。神武天皇はこの地にやってきて、比婆山を遙拝している。比婆山は神武天皇が命名したと思われる。
また、比婆山の西隣に吾妻山があるが、これは、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が比婆山に眠る妻の伊邪那美命(いざなみのみこと)を「ああ、吾が妻よ」と山頂に立って生前を偲んだことが山名の由来とされている。
宇佐にいたスサノオもイザナミの死はショックだったようで、これをきっかけとして出雲に帰還したのかもしれない。スサノオ自身も比婆山を訪れているようで、比婆山御陵周辺の石の1つ「力石」は、スサノオ命が比婆山から戯れに投げたと云われている。おそらく、スサノオが比婆山御陵を祭祀する目的で、八か所に巨岩を配置したものであろう。烏帽子岩の切り込みも此の時つけられたのではないだろうか。
広島県の比婆山を真実のイザナミ御陵とすると、このように数多くの伝承がつながるのである。古事記にはイザナミ御陵は出雲と伯伎(はくき)の境にあると記されている。伯伎は今の伯耆国で島根県と鳥取県の県境であると一般的に云われているが、三次市十日市町の熊野神社の記録に「昔はこの周辺一帯を伯伎と呼んだ」とある。現在の三次市一帯は伯伎国と呼んでいたようである。 
製鉄について
製鉄はいつごろからあったのだろうか。
1 製鉄に必要な良質の砂鉄が多く取れること。
2 砂鉄を融かす木炭が取れること。
3 炉を作るための良質の粘土が取れること。
この3点が満たされている土地ということでこの地に金屋子神がやってきたと伝えられている。 イザナミが以前住んでいて未熟ながら製鉄を行っていたため、後の時代に金屋子神が訪れ本格的な製鉄を行う素地があったものと考える。
出雲にとってこの当時最も大切なものは、外国の先進技術であった。鉄は硬い上に銅よりも比重が小さいので武器に農具に工具に最適の金属である。 北九州での鉄器の出土が多いことから、北九州の豪族たちは鉄の加工技術を持っていたと思われる。スサノオは鉄の加工技術・製鉄技術はのどから手が出るほどほしかったに違いない。しかし、この豪族たちはこの時点でまだ倭国に加入していないのである。スサノオは朝鮮半島からさまざまな技術を取り入れたのであるが、 製鉄技術に関してはまだ不十分なものがあったのではないだろうか。スサノオは鉄の製鉄・加工技術の必要性を北九州統一のときに北九州の豪族たちにいやと言うほど思い知らされた。スサノオは朝鮮半島から製鉄技術を学び、それをイザナミに伝えた。紀伊国統一のあと宇佐でスサノオが倭国を統治している時、イザナミが各地を回り、製鉄ができる場所を探していたのではあるまいか。その結果、スサノオの生誕地である出雲こそ最適の製鉄のできる場所であることとの報告を受け、スサノオはムカツヒメの元、宇佐から出雲に帰ったものと考えられる。
中国山地の山奥であること、後の世にこの地方はたたら製鉄の盛んな地になっていること、金屋子神社から考えて、イザナミが出雲に持ち込んだ技術はこの製鉄技術ではないかと考えられる。この頃まだ出雲で製鉄が行われたという事実は確認されていないが、奈良時代以降出雲は全国一の鉄の生産地となっている。その走りのようなものがあったかもしれない。
この時期の製鉄の可能性について吟味してみよう。
弥生時代の鉄の加工は発掘事例から判断して弥生時代中期と考えられる。しかし、しっかりとした鍛冶遺跡は見つかっていない。鉄滓の調査結果によれば、ほとんどが鉄鉱石を原料とする鍛冶滓と判断されている。その原料は朝鮮半島からの輸入で、この頃製鉄はなかったというのが定説である。しかし、次のような状況により、製鉄があった可能性も指摘されている。
1 弥生時代中期以降石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
2 ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
3 弥生時代にガラス製作技術があり、1400〜1500℃の高温度が得られていた。
4 弥生時代後期には大型銅鐸を鋳造する優れた冶金技術をもっていた。
5 広島県三原市の小丸遺跡は3世紀の製鉄遺跡ではないか思われる。
6 国内から出土する鉄器の分析により国内で生産されたものである可能性が高い。
弥生時代の鉄器の普及と、その供給源の間の時間的ギャップを説明するため、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたと考えられたのである。 しかし、成分分析によると国内の鉄原料を使っている可能性が高いことが分かった。弥生時代に製鉄があった可能性は十分高い。実際中期末に当たるこの頃、出雲地方に農具としての鉄器の出土が始まる。この頃より、出雲で鉄器が使われるようになったのは間違いのない事実である。 
御墓山の伝承
御墓山は梶奥と日南町大菅との界にあり、標高769m。この山は、古事記に「神去りましし、イザナミノカミは出雲の国と伯耆の国の界なる比婆山に葬る」 といわれている地点で、山頂には、イザナミノミコトの御陵があると伝えられており、頂上には本陵と副陵があって本陵の上部は赤土をもって盛り土をした形跡があるほか、 峰づたいに降りた「沢田が廻」には古墳もあり、古来より神聖な霊峰と言い伝えられており、古老たちは、今でもこの山を「お墓」「みことさん」などと呼んでいます。
また、西比田地内に現存する地名で、神楽松山、殿之奥、追神、待神、行水谷、桃の木谷は、みなイザナミノミコトゆかりの地名として古事記にも見られるところであります。
大正年間に神道イザナミノミコト流伝御陵地として内務省より指定を受け、昭和6年7月29日には、神代史蹟鳥上峯周囲神域四郡神職会により、御墓山宣揚祭が行われ、当日は、神職80名の他、一般参拝者千数百名の参加があり、盛大な祭典が行われました。以来、協会主催にて年々盛大な祭典が挙行されましたが、いつ頃からか途絶えています。  
 
第6節 伊邪那美命の死

 

第一項 イザナミ命の死
紀伊半島統一したAD18年頃、倭国の範囲は中国・四国地方全域・糸島地方を除く北九州地方、大分・宮崎および錦江湾北部地域、そして紀伊半島南部(和歌山県)領域であった。倭国が巨大化しすぎてしまったので、倭国をいくつかに分割して統治する必要性を感じていた。また、各地を回っている時金属器特に鉄器は当時貴重品であり、当時の地方の人々は鉄器をほしがっていた。鉄の安定供給が必要であることが分かった。鉄は朝鮮半島から鉄鉱石を輸入して生産していたが、輸送が大変なので、どうしても倭国内で鉄鉱石を採掘できる場所を見つける必要があった。
鉄の採掘ができそうな場所をさがすことにより、スサノオの故国出雲こそ鉄が取れる場所と云うことが分かった。スサノオ自身は倭国の分割について取り組む必要があり、宇佐の地で暫らく指示を出す必要があった。イザナギ命は紀伊半島部の安定化に今しばらく取り組まなければならないので、イザナミを出雲に向かわせて鉄の採掘を行わせた。
伊弉册尊の出雲行き
イザナミ御陵伝承地は出雲を中心として分布している。出雲でのイザナミ伝承地を検討してみよう。
イザナミ御陵伝説地
岩坂陵墓参考地 島根県松江市八雲町日吉 『雲陽誌』によると、「神納山は剱山から500メートルほど離れており、男神イザナギを追った女神イザナミが、みずから魂をこの地に納めたところであるので神納という」と記されている。地元の人の間では、岩坂陵墓の中に墓石となるようなものは置かれていないと囁かれている。岩坂陵墓参考地はもっとも有力な候補地とされている。神納峠(かんなとうげ)。この峠の近くに、うっそうとした鎮守の森がある。はっきりとはしないが10メートル程の古墳と思われる。
比婆山 安来市伯太町 比婆山山頂に久米神社がある。その背後に4m位の高さで10m四方の古墳があり、比婆山神社古墳と呼ばれている。この境内にのみ群生するといわれる陰陽竹は、男竹に女性的なササがついている珍しい竹で、伊弉冉尊が比婆山に登ったときの杖が根付いたものと伝えられています。
比婆山 広島県比婆郡  比婆山は古事記所載の「故神避りましし伊邪那美神(いざなぎのみこと)は出雲国(いずものくに)と伯伎国(ははきのくに)の境。比婆山に葬(かく)しまつりき」とある比婆山で一名美古登山(みことやま)とも言い、山上にある墳墓は伊邪那美神の鎮まります神陵として、古くから崇敬されてきた陵墓であると言われている。
この陵墓は三町歩にわらる平坦地の中央を南北にやや長い経六十四米、周囲約二百米の大円墳が築かれ、即ち比婆山大神の神陵とされている。(説明板より)
御墓山 島根県安来市広瀬町梶福留梶奥 島根県遺跡データベースに御墓山古墳として記録されている。頂上には本陵と副陵があって本陵の上部は赤土をもって盛り土をした形跡があるほか、 峰づたいに降りた「沢田が廻」には古墳もあり、古来より神聖な霊峰と言い伝えられており、古老たちは、今でもこの山を「お墓」「みことさん」などと呼んでいる。
佐太大社裏山 島根県松江市鹿島町佐陀宮内 佐太神社は伊弉冉尊の大元の社で、その背後の山に陵墓を祀っていると伝えていました。
伊弉冉尊(いざなみのみこと)の陵墓である比婆山(ひばやま)の神陵を遷し祀った社と伝え旧暦十月は母神である伊弉冉尊を偲んで八百万の神々が当社にお集まりになり、この祭りに関わる様々な神事が執り行われることから当社を「神在の社」(かみありのやしろ)とも云い広く信仰を集めています。(佐太神社由緒)
伊弉冊 島根県仁多郡奥出雲町上阿井伊弉冊 鯛ノ巣山の中腹にある籠り岩でイザナミの尊が七日七夜この岩穴に籠られお産をされた、めでたい、ということで鯛の巣となる。上阿井地区には伊弉冊という地名の小さな集落があり、阿井川の支流として伊弉冊川がある。ここには岩柵があり、広さは十畳敷ほどで、伊邪耶美命(イザナミノミコト)が住んでいたと伝えられている。猿政山の山麓に尊原と呼ばれているところがある。ここに伊弉冊を祀っている。ここが御陵であろう。(島根県口碑伝説集)
母塚山 鳥取県米子市 母塚山はイザナミ御陵のある山で比婆山とも呼ばれている。鳥取県と島根県との県境にある山で、昔、イザナミを祭った神社が山頂にあったそうである。古事記にはイザナミ御陵は出雲と伯耆の境にあると記されているが、イザナミ御陵伝承地で出雲と伯耆の境にあるのはこの母塚山と御墓山の二つである 。
花の窟 三重県熊野市 花窟神社は古来社殿なく、石巌壁立高さ45米。南に面し其の正面に壇を作り、玉垣で周う拝所を設く。此の窟の南に岩あり、軻遇突智神の神霊を祀る。この窟は伊弉冊尊の御葬所であり、季節の花を供え飾って尊を祀ったが、故に花窟との社号が付けられたと考えられる。 古来、花窟神社には神殿がなく、熊野灘に面した巨巌が伊弉冊尊の御神体とし、その下に玉砂利を敷きつめた祭場そして、王子の岩と呼ばれる高さ12メートル程の岩がある。この神が伊弉冊尊の御子であることから王子の窟の名の由来とされている。一説によるとここは軻遇突智神の墓とのこと。
比婆山 鳥取県南部町金田 麓に熊野神社あり、伊弉冊命御陵地なりと伝える。「天宮さん(南部町指定文化財)」という巨岩があり、昔からこの地域の方たちは、この積み重なった岩のことを‘天宮さん’と呼び、天地を開き給う祖神の遺跡として大切に守り続けている。これは巨石崇拝遺跡であり、安産の神様として、大正から昭和の始め頃までは参拝者が多かったが、戦後になると登る人も少なくなった。地区の人が年に二回、草刈をして登山道を確保している。麓から歩くと約一時間で、樹齢数百年の大樹が茂る山腹に、巨大な石が多く目に飛び込んでくる。その一角にある巨石が、イザナミノミコトのお墓ではと古くから云われ崇拝された「天宮さん」である。
調べた範囲では、イザナミ御陵は出雲6か所、伯耆2か所、紀伊1か所、広島1か所である。周辺伝承から判断すると、イザナミの終焉地は圧倒的に出雲であり、紀伊国の花の窟は別伝の軻遇突智神の墓が相当するであろう。イザナミが紀伊国開拓している時、産田神社の地で軻遇突智神を生み、この神は若年にて亡くなり、花の窟に葬られたと考えるのが最も自然である。
出雲の奥地にイザナミ伝承地が多いのであるが、これは不便な地にあり、製鉄との関係が考えられる。安来の比婆山、広島の比婆山、御墓山、仁多の伊弉冊のいずれも周辺に製鉄遺跡が集中している。これはイザナミがこういった地に滞在していたことを意味し、イザナミが出雲に来た理由は製鉄にあるということにつながる。
イザナミが出雲に来てすぐに山奥に行ったとは考えにくいので、最初に滞在した地が佐太神社の地であろう。ここは、伊弉冉尊の大元の社と言われており、本来は伊弉冉尊が主神であると思われる。それも、イザナミ自身がしばらく滞在していたためであろう。
安来市伯太町東母里井戸にイザナミが使った井戸が伝えられている。周辺に製鉄遺跡が多く、そのすぐ近くに比婆山神社があり、背後にイザナミ御陵伝承地がある。佐太神社の地で周辺情報を集め、準備を整えた後、そこから東へ移動し、飯梨川を遡り、この地に到達したものと考えられる。この周辺は日次(ひなみ)と呼ばれており、日向(ひな)がなまったものと伝えられている。また近くに日向山(ひなのやま)がある。この周辺にしばらく滞在したものであろう。この周辺の滞在伝承が後に比婆山御陵伝説が生じるもととなったものであろう。比婆山御陵古墳は古墳であり、だいぶ後の時代に築造されたもののようである。
伯太からさらに飯梨川を遡ると西比田殿之奥に到達する。比太神社の地に滞在していたと思われる。この周辺はイザナミ関連伝承地が非常に多い。近くに御墓山がある。御墓山は後の時代に第7代孝霊天皇が参拝したと伝えられているため、かなりの祭祀対象になっているようである。しかし、周辺伝承がイザナミの人としての伝承のようなものが少なく、黄泉国神話にかかわるものが多い。その多くは、おそらく、後の時代に作られた伝承と思われる。当初この御墓山が真実のイザナミ御陵と考えていたが、神武天皇がイザナミ御陵を遙拝したという葦嶽山からこの御墓山が見えないことから御墓山は御陵ではないと考えるに至った。それに対して比婆山連峰は葦嶽山からよく見え、葦嶽山は比婆山を遙拝するには最高の山であった。真実のイザナミ御陵は広島県の比婆山御陵と判断する。しかし、御墓山は孝霊天皇が参拝しているので、別の誰かの墓と考えられる。候補としては金屋子神ではないだろうか。
広瀬町の梶福富周辺は南側に山脈があるが、この中の御墓山がイザナミの御陵だと伝えられている。ここは古事記にあるとおり、まさに出雲と伯耆の境に当たる。明治初年まではこの山の中腹に比婆神社があったといわれている。この辺り一帯はイザナミに関する伝承が多く、御墓山(おはかやま)に東接する猿隠山は女神が崩じたところで、御墓山の西北麓の殿之奥はイザナミの御殿の跡と伝えられている。さらに後の時代になって孝霊天皇が参拝したという伝承もある。またこの周辺は日向、日向側、日向原、日向山など日向に関する地名も多く、日向地方から多くの人々がやってきて住んでいたものと思われる。また島根県下の多くの地域にイザナミ御陵伝承地があるが、いずれも出雲と伯耆の国境ではない。これは、出雲にやってきた日向の人々が作ったものと考える。 イザナミが実際に住んでいた殿之奥をさらに探ってみた。比太神社が少し小高い丘陵地に存在し、殿之奥はその神社を中心として栄えている集落である。比太神社の祭神は吉備津彦であり、イザナミ・イザナギが合祀されている。イザナミが祭られていることから判断してイザナミの御殿はこの神社の地に在ったのではあるまいか。吉備津彦は倭の大乱時にこの地にやってきて、ここから御墓山の祭礼を行なったのではあるまいか。その証拠に比太神社の真後ろが御墓山になっている。
ここから北西へ山をひとつ越えると大東町上久野日向(ひな)まで直線10km、南西へ山をひとつ越えると横田町日向側(ひなたがわ)まで直線7kmである。伝承は伴っていないが、名前からイザナミ滞在地であろう。日向側から、南西へ13km程で日向原がある。また、ここから西へ7km程で仁多郡奥出雲町伊弉冊があり、この周辺はイザナミ伝承を伴っている。伊弉冊周辺の伝承は山腹の岩屋が多い。出産ではなく、鉄の採掘中の棲家であろう。おそらく、この周辺をイザナミは鉄資源を探して転々としていたものであろう。
イザナミは奥出雲地方を転々とした後、広島県側に滞在しているようである。経路は日向原→三井野原→油木→比婆郡西城町日南(ひな)と推定される。この周辺も製鉄遺跡の多いところである。
西城町周辺の伝承
別所 イザナギノミコトは、月のさわりのとき、夫であるイザナギノミコトと別れて暮らしていたと伝えられる。故にその場所を別所(べっそ)という
田鋤 イザナギノミコトは、黄泉の国から追いかけてきた八人の鬼神たちをこの地で桃のみを投げて撃退した。そしてそのあと、桃に向かって「おまえはこれから先も日本中の者が誰でも苦しんでいるときは、今の私を助けたようにみんなを助けてやってくれ」と言って、桃に対して「大神実神」という名を授けた。田鋤(たすき)はこの神話にちなんだ地名で「助けて」が転じて田鋤(たすき)となったらしい
別路 イザナミノミコトが月のさわりで別所(べっそ)に向かうとき、イザナギノミコトはここまで送ってきて、また会う日まで別れをおしんだ場所であると伝えられる。そのため別路(わかりょうじ)という地名が付けられたという。
月のさわりがあると云うことは、まだ妊娠していないことを意味し、出産の悲劇が起こるだいぶ前のことと思われる。
千引岩 火の神を生んだことがもとで亡くなった伊邪那美命を追って黄泉の国へやって来た伊邪那岐命は、焼けただれた姿になった伊邪那美命の姿に驚き、黄泉の国から逃げ出した。伊邪那美命は怒って八雷神、千五百の黄泉軍を差し向けて追撃した。その時飛び越したのが「飛び越し岩」、軍勢を追っ払ったのが「越原」として、今も地名に残っている。最後に大石をはさんで「あなたの人草を日に千人絞め殺す」「それなら、一日千五百人の産屋を建てる」と二人が問答したことから千引岩と名がついたという。
不寒原 比婆は雪が多く寒い地方であるため、伊邪那美命はその寒い冬の間、比較的暖かいこの地に宮を造り、避寒の地にしたので不寒原(ひえんばら)と言うと伝わっている。今ではなまって「へんばら」という。
別路・別所の伝承から判断して、此の地にイザナギも一緒に生活していたのであろう。
伊邪那美命の隠れ穴 立烏帽子の谷間にある岩穴で「火除け穴」とも言われています。伊邪那岐命が伊邪那美命を訪ねてきたが、夜になったので自分の櫛に火を灯し、明かりとして通った所と言われています。また、伊邪那美命がここを通りかかったときに、天から火の雨が降ってきたのでこの穴に入って難を逃れたとも言われています。さらに、火の神を生んだ伊邪那美命がこの穴で亡くなったとの説も残っています
金倉神社 小奴可にある。背後に三段山があり、頂上に古代の祭祀跡と思われる巨石が散在。イザナギが火具土を三段に斬ったという伝承に関係?
稚子が池(三井野原) 難産の末イザナミ命が崩御せらる惨事となったとき、難産につきものの汚物を洗った池。今は小さな池であるが、太古は底なしの池であった。
稚児ヶ池神社の由来<神社説明板より>
「三井野の地名は御生、御井で比婆山神話に由来し、此処にある稚児ヶ池は古い伝説と信仰を持っている。出雲風土記に出雲と備後の界室原山と言うあり、神の御室などありしが、此の原上に古井あり、今は稚児ヶ池と言う。また、天孫族の長者イザナギ神・イザナミ神二神の本拠が比婆山連峰の高開原、幸(油木)の高天原にあり。女性におわすイザナミ神御妊娠の時幸の高天原より東方一里御井(三井野原)にある方一町位の泉のほとりに産屋を作りお籠りになり三貴神天照大神、月夜見神、須佐之男神がこの地に御誕生になり、この泉を御井と呼ばれていた。その後三井と改字され五尺四方、深さ三・四尺の池なるも近国迄名高く聞こえ、毎年近郷より雨上り、雨乞いに即立願して其の験また多く、如何なる旱魃にても水減ずることなく往古は一町四方の池にて伯耆大山や宍道湖とも底が通じていて、大蛇がこれらの池を通っていたと言い伝えられ、陰陽往還の要所に位置し、水量豊富で過去幾多の人馬ののどを潤したが、この周辺は軟弱を極め、水を飲むために近寄りぬかるみに足を取られ、溺死した者もあったため、今は埋められて一坪ほどの池と化しその上に横たえる材木の上に須佐之男命を祀る祠があり、稚児ヶ池神社と呼ばれ隣国より水の神様として信仰を集めている。」
ジャバミ山 三井野原の西の分水嶺付近にナギハタという地名がある。このナギハタにイザナミの一杯水という泉がある。そのそばの小高い山をジャバミ山という。イザナミ命が崩御せられたことを悲しんだ泣沢女命が稚児ヶ池で汚物を洗って産屋に帰る途中で毒蛇にあったからつけられたという。
枕返し 難産で病み伏していたイザナミ命に仕えていた泣沢女が、せめて滋養物を差し上げようと魚を取りに行ったところ。彼女が眠っている間に方向が変わっていたのでこの名前がついた。ここにはイザナミ命に差し上げる餅をついたという「臼岩」がある。
比婆山御陵周辺の岩 比婆山御陵周辺には烏帽子岩を始めとして巨石が転がっているが、その多くは人工的な切り込みが入っており、そのことごとくが比婆山御陵のほうを向いている。
また、神様が比婆山から投げたという礫岩が八か所に存在している。その岩は比婆山をぐるっと囲んでおり、比婆山御陵が信仰の中心となっている。
比婆山伝説地(御陵) 比婆山(1264m)の山頂は、古事記に云う伊邪那美命を葬った比婆山であるとして、古来より信仰の対象となってきたところである。南麓に遙拝所熊野神社があり、山腹に那智の滝(古名・鳥の尾の滝)がある。神域の巨石およびイチイの老木は神籬盤境として伝承されている。
古事記に「伊邪那美神は出雲国と伯伎国との境の比婆の山に葬りき」とあり、いわゆる「御陵の峰」が神陵のある山である。此の御陵を奥の院といい、南方約6kmの山麓にある比婆山大神(伊邪那美神)を祀った熊野神社を本宮という。比婆山は別名「美古登山」ともいい、山上には3haにもわたる広大な平坦地がある。
その中央部付近にある径15mの区域内は昔から神域として伝えられ、雨露に崩れて露出した巨石数個が重畳している。南側正面は一対のイチイ(門栂という)がおのおの巨石を抱いて茂り、伝承にある神域の門戸を形造っているようである。
この栂(正しくはイチイ)は木の母の字意から神木と解し、東洋における最長寿木であり、古代の神殿の造営林として重用されたもので、「あららぎ」の古語がある。御陵の背後に烏帽子岩という大きな岩があり、叩けば太鼓のような大きな音を発するので太鼓岩とも呼んでいる。そして、その周辺にはそれぞれ巨石を抱くイチイの巨木があり、古来神域の象徴として崇められてきた。幕末以後、神陵参拝が盛んであったが、明治20年頃、比婆山を神陵として称することが禁じられたため、登拝は衰えていく。その後、地元出身の宮田武義、徳富蘇峰らによって、全国に知られるようになった。<案内板より>
長者原 皇居跡と言われているが、誰の皇居があったのかがはっきりしない。神武天皇と推定する。
稚児ヶ池に伝わる伝承の高天原はどこであろうか?地図上で稚児ヶ池より西一里程の場所で油木に所属する人の住める条件を満たしている場所と言えば六の原地区の県民の森周辺しかない。しかし、此の地には調べた限りにおいて高天原伝承はないようである。六の原地区は後の時代にたたら製鉄の拠点があった処で、その人たちが高天原伝承を作った可能性も否定できないが、ここは高開原という地名にぴったりの場所で立地条件からしてイザナギ・イザナミ二神が一時期此処に住んでいた可能性はある。また、西城町日南(ひな)も地名から判断してイザナミが住んでいた可能性がある。これらの伝承から判断すると、イザナミ命は日向原から三井野原を越えて広島県内に移動し、日南辺りに住んで鉄の採掘をしていたようである。出雲ではイザナギの伝承が伴っていないのであるが、広島県側ではイザナギ伝承も伴っている。おそらく、イザナギが紀州から訪問してきて日南(ひな)や高開原で生活していたのであろう。
イザナミの出雲行きの理由がなかなか思い当たらなかったのであるが、この伝承を分析することにより、スサノオ・イザナギ・イザナミが紀州を統一した後、イザナギは紀州に残り紀州を安定化させ、スサノオは宇佐に戻り倭国全体の統治をし、イザナミが鉄資源を探して先遣隊として出雲を訪れたものと考える。イザナギも紀州を安定化させた後に出雲に行く予定だったのであろう。イザナミが鉄資源を探して広島県側に移動したころ紀州を安定化させたイザナギがイザナミのもとにやってきたのであろう。鞆の浦から芦田川沿いにイザナミの滞在していた日南までやってきたと思われる。
イザナミはそこからさらに熊野川に沿って遡り、比婆連峰で鉄の採掘をしていた。夏は山に入り、冬は不寒原で生活していたようである。別路の伝承から判断すると此の地にはイザナギもいたようである。この後高開原に居を移し、六の原周辺での鉄の採掘を行った。イザナミ命が妊娠をし、出産を控えて、きれいな水のあるところとして三井野原の稚児ヶ池を選び、そのすぐそばに産屋を立てて籠った。その出産は難産で、その影響でイザナミ命はこの地で亡くなった。古事記にはイザナミの腐乱遺体の描写があり、もがりをしていたのであろう。此の描写があると云うことから、イザナミが亡くなった時、イザナギはこの周辺にいなかった可能性が考えられる。宇佐や紀州に赴いていたのかもしれない。イザナギ命はイザナミの遺骨とともに直前までともに住んでいた高開原に戻り、その後比婆山御陵に葬った。AD25年ごろのことであろう。
比婆山の語源は「ひいばば様の山」と言われている。ひいばば様と呼べるのは3世後の世代である。その人物は神武天皇であろう。神武天皇はこの地にやってきて、比婆山を遙拝している。比婆山は神武天皇が命名したと思われる。
また、比婆山の西隣に吾妻山があるが、これは、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が比婆山に眠る妻の伊邪那美命(いざなみのみこと)を「ああ、吾が妻よ」と山頂に立って生前を偲んだことが山名の由来とされている。
宇佐にいたスサノオもイザナミの死はショックだったようで、これをきっかけとして出雲に帰還したのかもしれない。スサノオ自身も比婆山を訪れているようで、比婆山御陵周辺の石の1つ「力石」は、スサノオ命が比婆山から戯れに投げたと云われている。おそらく、スサノオが比婆山御陵を祭祀する目的で、八か所に巨岩を配置したものであろう。烏帽子岩の切り込みも此の時つけられたのではないだろうか。
広島県の比婆山を真実のイザナミ御陵とすると、このように数多くの伝承がつながるのである。古事記にはイザナミ御陵は出雲と伯伎(はくき)の境にあると記されている。伯伎は今の伯耆国で島根県と鳥取県の県境であると一般的に云われているが、三次市十日市町の熊野神社の記録に「昔はこの周辺一帯を伯伎と呼んだ」とある。現在の三次市一帯は伯伎国と呼んでいたようである。 
製鉄について
製鉄はいつごろからあったのだろうか。出雲での製鉄の可能性について考えてみよう。製鉄の神は島根県広瀬町殿之奥をはじめとして奥出雲地方によく祭られている金屋子神である。
イザナミの住んでいた殿之奥のすぐそばに金屋子神社がある。 この神社の祭神は金山彦、金山姫となっているがこれは後にそうなったようで、本来は金屋子神であるようだ。金屋子神は性別が不明であるが、女が嫌いであるなどの性格より女神であるらしい。金屋子神祭文ではこの神は高天原より播磨国に天降り、そこで鉄鍋を作ったが周囲に住めるところがなかったのでこの地に来て鉄造りを伝えたとある。 このとき、この神は「我は西方を主とする神である」と言っている。高天原(日向)から来たということと西方を主とすることから、九州方面の神であることが推定される。神話によるとイザナミの吐瀉物から生まれたのが金山彦・金山姫でその子が金屋子神である。
島根県に伝わる伝承によると、金屋子神は播磨→吉備中山→印賀(鳥取県日南町)→西比田の経路をたどっている。どう見ても東からの技術者といった感じである。金屋子神はイザナミ命の子孫ではあるまいか。紀伊国の産田神社の地で生まれた子の子孫とも考えられる。その金屋子神がイザナミが以前住んでいた殿之奥にやってきて本格的に製鉄を始めたものと考えられる。その時にイザナミ伝承、御墓山が作られたのであろう。
1 製鉄に必要な良質の砂鉄が多く取れること。
2 砂鉄を融かす木炭が取れること。
3 炉を作るための良質の粘土が取れること。
この3点が満たされている土地ということでこの地に金屋子神がやってきたと伝えられている。 イザナミが以前住んでいて未熟ながら製鉄を行っていたため、後の時代に金屋子神が訪れ本格的な製鉄を行う素地があったものと考える。
出雲にとってこの当時最も大切なものは、外国の先進技術であった。鉄は硬い上に銅よりも比重が小さいので武器に農具に工具に最適の金属である。 北九州での鉄器の出土が多いことから、北九州の豪族たちは鉄の加工技術を持っていたと思われる。スサノオは鉄の加工技術・製鉄技術はのどから手が出るほどほしかったに違いない。しかし、この豪族たちはこの時点でまだ倭国に加入していないのである。スサノオは朝鮮半島からさまざまな技術を取り入れたのであるが、 製鉄技術に関してはまだ不十分なものがあったのではないだろうか。スサノオは鉄の製鉄・加工技術の必要性を北九州統一のときに北九州の豪族たちにいやと言うほど思い知らされた。スサノオは朝鮮半島から製鉄技術を学び、それをイザナミに伝えた。紀伊国統一のあと宇佐でスサノオが倭国を統治している時、イザナミが各地を回り、製鉄ができる場所を探していたのではあるまいか。その結果、スサノオの生誕地である出雲こそ最適の製鉄のできる場所であることとの報告を受け、スサノオはムカツヒメの元、宇佐から出雲に帰ったものと考えられる。
中国山地の山奥であること、後の世にこの地方はたたら製鉄の盛んな地になっていること、金屋子神社から考えて、イザナミが出雲に持ち込んだ技術はこの製鉄技術ではないかと考えられる。この頃まだ出雲で製鉄が行われたという事実は確認されていないが、奈良時代以降出雲は全国一の鉄の生産地となっている。その走りのようなものがあったかもしれない。
この時期の製鉄の可能性について吟味してみよう。
弥生時代の鉄の加工は発掘事例から判断して弥生時代中期と考えられる。しかし、しっかりとした鍛冶遺跡は見つかっていない。鉄滓の調査結果によれば、ほとんどが鉄鉱石を原料とする鍛冶滓と判断されている。その原料は朝鮮半島からの輸入で、この頃製鉄はなかったというのが定説である。しかし、次のような状況により、製鉄があった可能性も指摘されている。
1 弥生時代中期以降石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
2 ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
3 弥生時代にガラス製作技術があり、1400〜1500℃の高温度が得られていた。
4 弥生時代後期には大型銅鐸を鋳造する優れた冶金技術をもっていた。
5 広島県三原市の小丸遺跡は3世紀の製鉄遺跡ではないか思われる。
6 国内から出土する鉄器の分析により国内で生産されたものである可能性が高い。
弥生時代の鉄器の普及と、その供給源の間の時間的ギャップを説明するため、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたと考えられたのである。 しかし、成分分析によると国内の鉄原料を使っている可能性が高いことが分かった。弥生時代に製鉄があった可能性は十分高い。実際中期末に当たるこの頃、出雲地方に農具としての鉄器の出土が始まる。この頃より、出雲で鉄器が使われるようになったのは間違いのない事実である。  
御墓山の伝承
御墓山は梶奥と日南町大菅との界にあり、標高769m。この山は、古事記に「神去りましし、イザナミノカミは出雲の国と伯耆の国の界なる比婆山に葬る」 といわれている地点で、山頂には、イザナミノミコトの御陵があると伝えられており、頂上には本陵と副陵があって本陵の上部は赤土をもって盛り土をした形跡があるほか、 峰づたいに降りた「沢田が廻」には古墳もあり、古来より神聖な霊峰と言い伝えられており、古老たちは、今でもこの山を「お墓」「みことさん」などと呼んでいます。
また、西比田地内に現存する地名で、神楽松山、殿之奥、追神、待神、行水谷、桃の木谷は、みなイザナミノミコトゆかりの地名として古事記にも見られるところであります。
大正年間に神道イザナミノミコト流伝御陵地として内務省より指定を受け、昭和6年7月29日には、神代史蹟鳥上峯周囲神域四郡神職会により、御墓山宣揚祭が行われ、当日は、神職80名の他、一般参拝者千数百名の参加があり、盛大な祭典が行われました。以来、協会主催にて年々盛大な祭典が挙行されましたが、いつ頃からか途絶えています。  
第二項 倭国の分割統治
安心院での都作り
倭国があまりに巨大化したために、全体を統治するのが難しくなり、まずは倭国の都づくりをすることを考えた。倭国の統治領域の中心付近で海上交通の要となる場所として選んだのが宇佐の地である。現在の宇佐神宮がある地は、この当時丘陵地に囲まれた海岸であり、港湾としては最適の場所であったが、土地が狭いので都としては不向きであった。スサノオが都として考えたのが其の奥地である安心院の地である。ここは駅館川の上流にあり、盆地である。川を遡ることで、容易にこの盆地にたどり着くことができた。
佐田京石・・・安心院盆地の北はずれに米神山があり、其の周辺に佐田京石という、巨石による祭祀遺跡がある。伝承では「昔、神々がこの地に都を作ろうとし、米神山から100本の石を麓に飛ばそうとしたが、99本目にみだりに騒ぐ者がいたため、そこで作業は中断され、都が建設されることはなかったという。麓に残る京石はその名残である。」と言われている。京石周辺から弥生式土器が出土しているので、弥生時代のものであると云われている。
三女神社・・・スサノオとムカツヒメの誓約によって誕生したと云われている。このことは、スサノオ・ムカツヒメの新婚生活をしていた地はこの安心院であることを意味している。
妻垣神社・・・比売大神を主祭神とする神社でこの神は玉依姫と言われているが、別伝では三女神であるとも言われている。宇佐神宮でも中心的に祀られており、正体がはっきりしない神である。ムカツヒメではないかと想像している。
これらの伝承を総合して考えると、スサノオはこの安心院盆地に巨大化した倭国の都を作ろうとしていたのではあるまいか。都を作ろうとしていたが何かの出来事によって都づくりが取りやめになったものと考える。AD18年頃からAD25年頃までの間スサノオとムカツヒメはここを都として倭国統治をしていたと考えることができる。この間にAD20年頃三女神が三女神社の地で誕生し、25年までの間に天忍穂耳命と天穂日命がこの地で誕生したと思われる。
スサノオの子供たち
スサノオの出雲での子供たちに倭国内の分割した地域の統治をさせようと考えていた。各人物の統治地域を次のように推定した。
八島野命・・・スサノオの長男である。出雲から外に出た形跡がなく、出雲本国の統治をしていたと思われる。
五十猛命・・・スサノオの二男である。スサノオと共に朝鮮半島に渡り、大陸の新技術を学んで帰ってきた。帰国後は佐賀・長崎など北九州西部地方の統一に尽力し、スサノオと共に紀伊半島部を統一し統一後は和歌山市近辺で紀伊半島を統治していた。紀伊国の国譲り(AD40年頃)後、出雲に戻った。
大歳命・・・スサノオの三男である。のちに饒速日(ニギハヤヒ)命と改名し、スサノオと共に北九州・南九州地方の統一に尽力後、スサノオの紀伊半島統一後、AD18年頃、四国の琴平の地を拠点として瀬戸内海一帯の海上交通のすべてを任されたようである。AD30年頃より、近畿地方に侵入し東日本地域を統一し日本(ヒノモト)国を建国した。
岩坂彦・・・スサノオの四男である。島根県八束郡鹿島町南の恵曇神社に祭られており、「祭神は須佐之男命の御子神。この地に到られし時、吾宮は此処に造らんと宣うた。」と記録されており、これ以外の伝承は調べた範囲では見つからず、早世したのではないかと推定している。
倉稲魂・・・スサノオの五男である。宇迦之御魂神・稲荷神ともいう。稲荷神は、もともと京都地方の豪族秦氏一族が、その氏神の農耕神として祀っていたものだ。古代には各地の有力豪族が、それぞれに自分たち独自の守護神を祀っていた。稲荷神もはじめはそういう神だったのである。平安時代初頭に仏教の真言密教と結びついたことにより稲荷信仰が始まったと云われている。この神については不明な点が多い。
この子供たちの統治領域として判明したのは、大歳命(瀬戸内海沿岸地方)、五十猛命(紀伊半島部)、八島野命(山陰地方)である。不明なのが、北九州地方、南九州地方、南四国地方である。この地方の共通点は銅鉾祭祀の強い領域である点である。これは、出雲系ではないことから出雲におけるスサノオの子が統治したのではないと云うことであろう。 
北九州地方の統治
出雲におけるスサノオの子が九州地方を統治したのではないとすれば、北九州を統治したのは誰であろうか、ムカツヒメの子が統治するには AD20年頃はまだ生まれていない。そこで後の時代の活躍人物から考えることにする。神話に於いてはムカツヒメ(天照大神)は後半に於いて常にタカミムスビ(高皇産霊神)とともに登場し、天照大神より上の地位にいる様にも見受けられる。神社伝承を調べてもタカミムスビに関しては、誰かの子(子孫)と云う人物は存在せず、全く別系統の豪族と考えられる。ムカツヒメの長子である天忍穂耳命はタカミムスビの養子となり、後の時代北九州東半分を統治している。このことから北九州東半分を統治していたのはこのタカミムスビではないかと考えられる。
タカミムスビの本拠地はどこなのであろうか?タカミムスビは神社伝承に於いてもただ祀られているだけで、具体的な行動伝承を伴うものがないので、その本拠地についてもなかなか推定できない。ところが、タカミムスビは高木神として、圧倒的に北九州地方でよく祭られている。その本拠地は北九州のどこかにあったと考えてよいであろう。よく調べてみると、神武天皇が東遷中、1か所だけタカミムスビを祀った場所がある。馬見山北麓の小野谷である。神武天皇は東遷中其の地にゆかりの人物をよく祭っている。さらに神武天皇の行程を調べてみると、小野谷の地は巡回コースから大きく外れているのに、わざわざこの地を往復している。神武天皇は鹿毛馬の地にいる時、馬が逃げたので、小野谷までやってきたことになっているが、その距離は直線で20kmもあり不自然である。また、別伝では馬に乗って移動したとあり、その後、鹿毛馬まで戻っている。伝承をつなぐと、神武天皇はこの小野谷の地に来るのが目的だったように見受けられる。其の地でタカミムスビを祀っているわけであるから、この小野谷の地とタカミムスビは相当深い因縁があると思われる。この地こそがタカミムスビの出身地ではなかろうか。
スサノオと血縁関係のないタカミムスビが北九州東半分を統治するようになった過程を推定してみよう。スサノオが北九州統一事業をしている頃、タカミムスビは馬見山北麓を統治する一豪族であったと思われる。かなりの知恵者であったようで、神話上でも知恵者として登場している。おそらく、スサノオの倭国統一事業にかなりの知恵を貸したのであろう。スサノオ自身もタカミムスビを頼りにしたのであろう。この後の統一事業はそのほとんどがタカミムスビの知恵に従ったものかもしれない。南九州を統一した時、イザナギ・イザナミの全面的協力が得られたのもタカミムスビの知恵が原因ではないであろうか。
このようにタカミムスビの存在が倭国の統一に欠かせないものとなった。北九州東半分は倭国の都に設定している宇佐を含む地で、スサノオの留守番として、軍師として、タカミムスビに北九州の東半分を統治させたのではないだろうか?しかし、スサノオとの血縁関係がないと云うのはやはり大きな問題となっており、これが、忍穂耳命がタカミムスビの養子になる要因となったのではないだろうか?
北九州西半分は誰が統治していたのであろうか。この地は倭国に加盟していない伊都国(糸島地方)や、南方の球磨国を抱えた上に、北九州の海上交通の要になる場所であり、倭国にとっては最重要個所となる。半端な指導者では治まらないであろう。この地方で集中的に祀られているのがサルタヒコである。サルタヒコ関連の神社は福岡市の那珂川流域に特に集中している。この地域は青銅器生産センターがあったようで、青銅器の集中出土している地域である。後の時代にニニギ命がこの地方にやってきた時、この地方の案内をしているようで、サルタヒコがこの地方の統治者だったようである。サルタヒコは出雲にいた頃の大歳命とキサカイヒメとの間にAD1年頃生まれている。この頃(AD20年頃)は20歳程だったと思われ、スサノオが出雲での実績を考慮して統治者に抜擢したものであろう。
南九州地方は、鹿児島神宮の地が拠点で出雲系の人物と思われるが、この時期誰が統治者だったのかは不明である。南四国地方も不明である。
サルタヒコの九州上陸
福岡市に住吉神社がある。この神社は神代から存在している非常に古い神社である。イザナミ亡き後、イザナギ命が禊祓いをした地で、最初に生まれた神が住吉神なので、住吉神社と呼ばれている。イザナミが出雲で亡くなったのがAD25年頃なので、その直後辺りイザナギがやってきたと考えられる。この地は古代において那珂川の河口であり、其の近くの丘陵地に当たる。海上交通の中継地になるべき地である。イザナギ命の九州への上陸地と考えられる。又この周辺は現在の福岡市であるとともに古代においては魏志倭人伝における奴国に該当している。この当時も人口集中地帯であり、スサノオの倭国にはまだ加盟していなかったと思われる。スサノオにとっても北九州で倭国に未加盟であった奴国と伊都国を加盟させるのは最重要事項だったはずである。この奴国を倭国に加盟させるために派遣されたのがイザナギであろう。イザナギ一人で人を産むことができるはずがなくイザナギが住吉神を連れて上陸したと考えられる。
住吉神とは誰であろうか?住吉神とは海の神として知られており、神功皇后が三韓征伐の時に祀ったのが始まりとされている。三大住吉が大阪府の住吉大社、下関の長門一宮住吉神社、福岡市の筑前国一宮の住吉神社である。この中でも福岡市の住吉神社が始原であるとされている。周辺神社にサルタヒコが集中して祀られていることから住吉神=サルタヒコと推定している。サルタヒコは出雲で大歳命とキサカイヒメとの間にAD1年頃生まれている。北九州に上陸したと思われるときは25歳ごろであったと推定する。イザナミが出雲に来た時最初に住んでいたのが佐太大社の地で、この地はサルタヒコの住居地だったようで、サルタヒコが宮前で会議を開いていたと伝えられている。サルタヒコは出雲で人々にかなり慕われていたと思われる。スサノオは其の人望を活用して北九州主要部の統一事業にサルタヒコを抜擢したものであろう。
福岡市近辺はイザナミを伴わずイザナギを祀っている神社が多い。若杉の太祖神社は神代からイザナギ命が祀られており、 鷲尾愛宕神社はイザナギ命・天忍穂耳命が景行天皇の時代に祀られ、後でイザナミが祀られた。また、直方市の多賀神社では「伊邪那岐尊、国土万物を生成し給ひ天に復命申し給ふと参登り座す時に寄来給ひぬる」とある。これは、イザナギ命がイザナミ命を伴わず北九州一帯を統一し最後の場所(淡路島)へ移動するまで、ここに滞在したことを意味している。イザナミ命を失った後のイザナギが奴国周辺の未統一地域を倭国に加盟させたと思われる。イザナギは暫らくして淡路島に移動したと思われ、その跡を引き継いだのがサルタヒコであろう。サルタヒコは五十猛命が紀伊半島に旅立った後の佐賀・長崎一帯及び北九州西半分を一手に引き受けて統治することになった。サルタヒコは大山咋命とも呼ばれて日吉神としても祀られている。この頃最盛期だったと思われる吉野ヶ里も氏神は日吉神である。 
大己貴命の登場
大己貴命はBC5年頃、出雲王家の天冬衣神の子として杵築周辺で誕生している。大己貴命には多くの兄がいて、末子であった。出雲王家はBC108年漢の武帝が朝鮮を滅ぼした時、其の難を逃れてきた人々の末裔と思われる。スサノオが幼少のころ父であるフツは出雲王家のオミズヌの世話になった。スサノオとオミズヌの子であるフユギヌとは友人関係にあったようで、色々な事に協力し合っていた。スサノオが八岐大蛇を退治する時も協力していた。スサノオが出雲国を建国した時、いち早く出雲国に加盟している。其のフユギヌの子が大己貴命である。出雲王家の後継者であると同時に大変な知恵者であり、大己貴命は朝鮮半島からやってきたと思われるスクナビコナと協力して周辺地域の農業改革や病人へのアドバイスなどを行っており、出雲では其の知恵を頼りにされていた。
島根県下の大国主伝承地
多根神社 掛合町 大己貴命と少彦名命が、諸国を巡業した時、所持していた稲種をこの地の人々に与えた処から始め「種」と云ったが、「多根」に改められた。
加多神社 大東町 農耕拓殖の旧蹟地
虫野神社 松江市福原 大己貴命が久しく留まり田畑を害する害虫を除いた功績を尊んで祀った
佐比売山神社 掛合町 大国主命が国土経営の時に佐比売山の麓に池を穿ち、田畑を開き農事を起こし民に鋤鍬の道を授けられた。
大国主命関連伝承地はこのように農業関連が多い。研究者肌の知恵者と云った感じである。大国主命の功績は諸国に農業技術を広めたと云ったところであろう。AD10年頃より20年頃にかけての伝承と思われる。
スサノオが九州統一をしていたAD10年頃には因幡国の方にも訪れ困っている人々(因幡の白兎)を助けたり生産力向上に努めたりしていたようである。彼も国家統一事業に協力していたのである。この時、鳥取市河原町曳田の賣沼神社の地に住んでいた八上比賣を娶った。八上比賣は近郷では有名な美女で、兄神が求婚したが、彼女は付き添ってきていた大己貴命の方を選んだ。大己貴命はしばらくこの地に住んでいて、二人の間に御井神が誕生した。因幡国を倭国に加盟させるのに成功した。(AD15年頃であろう)
賣沼神社関連伝承地
倭文  大国主命が恋文を書いた場所
袋河原 大国主命が、担いでいた袋を捨てた場所
円通寺 二神が結婚した場所
八上姫神社伝承・・・神代の昔、大国主命(オオクニヌシノミコト)と恋に落ちた因幡の国(鳥取県)の八上姫(ヤガミヒメ)は、大国主命を慕ってはるばる出雲の国へと旅に出たという。厳しい旅の途中、南の山の谷あいに湯(斐川町湯の川温泉)が湧き出ているのを見つけけた八上姫は、旅の疲れをその温泉で癒し、いっそう美しい美人神になったと伝えられる。
因幡国も落ち着いてきたので、大己貴命は次の任務のため出雲国に戻ることになった。出雲に戻った大己貴命は困った人々を知恵で助けていた。この姿を見て、スサノオの末子スセリ姫は大己貴命が好きになって、大己貴命に激しく求婚した。スセリ姫は激しい性格のようで思ったことは一途に行動したようである。末子であるスセリ姫と結婚する相手は第二代倭国王となるので、父のスサノオはその人物が気になり、安心院から戻ってきて大己貴命に色々と難題を吹っ掛けたが大己貴命はスセリ姫の助けを借りてそれを乗り切った。スサノオはスセリ姫の婿を大己貴命とすることを認め大己貴命に大国主命と名付けた。大国主命はスセリ姫と結婚することとなった。(AD20年頃)
一人になった八上姫は暫らく後、大国主命を追って出雲にやってきて、湯の川温泉の地に住んだが、スセリ姫の嫉妬の念が強く、八上姫はいたたまれなくなり、因幡国に帰ってしまった。
オオクニヌシは神話の中でもスサノオの娘であるスセリ姫の夫として、いきなり出現する。古事記ではアメノフユギヌの子となっている。天冬衣神はスサノオの八岐大蛇退治のとき共に協力した人物である。スサノオよりもむしろ年上ではないかと思われる。吉田大洋氏著「謎の出雲帝国」においては、オオクニヌシはクナト大神の子として扱われ、クナト大神は出雲国の創始者となっている。スサノオはよそ者あつかいである。
この違いは何が原因なのだろうか?次のように仮説を立ててみた。
スサノオがヤマタノオロチを退治する頃の出雲は、小国家がいくつか存在している状態であった。そのなかの有力豪族がヤマタノオロチで、クナト大神もその豪族の一人ではなかったのだろうか。クナト大神は現在の出雲大社あたりを支配していた小国家の国王でヤマタノオロチと対立関係にあった。そのため、スサノオはヤマタノオロチを退治するにあたって、クナト大神に相談し、大神から協力を得たのではないかと考える。
スサノオが出雲国王になって出雲国内を巡回するとき、クナト大神がその道案内をしてクナト大神は道案内の神として全国に祭られるようになった。このクナト大神=アメノフユギヌと考えれば、古事記と「謎の出雲帝国」がつながるのである。
そうすれば、よそ者のスサノオに対してオオクニヌシは正統な出雲の大神となり、後世オオクニヌシが出雲でスサノオ以上に祀られる要因になったと考えることができる。
オオクニヌシは、スサノオの末子であるスセリヒメと仲良くなり、結婚しようとした。彼はスサノオと性格が余りにも異なり、おとなしくて、研究者肌だったようである。スサノオはこれを嫌い、スセリヒメと結婚させるための条件として、いろいろと難題を吹きかけたようである。その中のひとつに越の八口平定があったようである。中国・四国・九州と統一した後は東方の統一である。素盞嗚尊は大国主に巨大化した倭国を統治する能力があるかどうかを確認するために大国主に越(北陸地方)の八口平定を命じた。AD20年頃のことであろう。
大国主の働きにより、出雲と越との交流が盛んになった。スサノオはオオクニヌシが学者肌で各種技術指導に優れているのを利用し倭国内の各地の巡回、技術指導を課した。そのために、オオクニヌシが開発をしたという伝承地が各地に誕生することとなった。これらの成果によりスサノオからの信頼も厚くなった。スサノオはスセリヒメとの結婚を許可した。
スセリヒメはオオクニヌシと結婚することになり、スサノオは、第二代倭国王の位を娘婿のオオクニヌシに譲った。
その後まもなく、スサノオは世を去った。AD30年ごろではあるまいか。スサノオは亡くなった地の近くの平田市の鰐渕寺周辺に葬られた。しかし、後に出雲国譲りの時八雲村の天宮山(熊野山)山頂付近の磐座が祭祀対象になった。ここは、出雲国の最初の宮跡の須我神社の近くであり、この周辺で最も高く出雲国全体に見晴らしが聞く場所である。祭祀対象としては最高の地であろう。 
オオクニヌシの越八口平定伝承 
北陸地方の大国主命関連伝承
布宇神社 八束郡玉湯町の宍道湖畔 天下造り坐し大名持命越の国に向かわんとしての途次、この郷の樹木の繁茂しているのを見そなわして、わが心の『波夜志なり』と詔い、この地の名称となった。」
気多大社 石川県羽咋市 七尾市所口にある能登生國玉比古神社が、本宮と云われ、上世の昔、大己貴尊が出雲より因幡の気多崎に至り、そこから当国へ渡って平定し、その後、所口に鎮祭され、孝元天皇の頃に宮社を建立。」
『羽咋郡誌』気多神社の「創立の由緒」
「大己貴である気多神は、越の北島(現在の羽咋市近辺)からまず鹿島郡神門島(能登金剛)に着き、七尾の小丸山を経て口能登、さらに鳳至珠洲二郡の妖賊・衆賊を平らげ、現社地に至った。」
・神社名鑑による気多大社御由緒
御祭神大己貴大神は国土修営のため越の北島より船で七尾小丸山に入り、宿那彦神等の協力を得てこの地方の賊徒を平定せられた。その恩典を慕いこの地に奉祭した」
久延比古神社 石川県鹿島町久江 祭神の久延毘古神は、大己貴命、少彦名命とともに越の北島から当地に来て、邑知潟の毒蛇を退治して、久延の谷内に神霊を留めたという。
能登生國玉比古神社 石川県七尾市所口町ハ48 祭神・大己貴神が出雲国より所口の地に至り、人々を苦しめていた、湖に棲む毒蛇を退治し、当地に垂迹した。よって当社を本宮と称す
能登生国玉比古神社 鹿島郡中能登町金丸セ35 祭神多食倉長命は神代の昔、能登国に巡行された大己貴命 少彦名命と協力して国土の平定に神功をたてたまい、能登の国魂の神と仰がれた。その姫神市杵嶋姫命(又の名伊豆目比売命)は少彦名命の妃となって菅根彦命を生み給うた。これ金鋺翁菅根彦命で金丸村村主の遠祖である。神主梶井氏はその裔である。
能登部神社 鹿島郡中能登町能登部上ロ70 当社は能登国造の祖能登比古神及び能登臣の祖大入杵命を祀る。
社伝に大己貴命 当地に巡行ありて、わが苗裔たれと、式内能登生国玉比古神社は当社なり。
その後 崇神天皇の皇子大入杵命、当地に下向あり殖産興業の道を開き給う。薨し給うや郷民その徳を慕い郷土開拓の祖神として崇め祀る。
鎌の宮神木 鹿島郡鹿西町金丸正部谷 祭神 建御名方命は、大巳貴命の御子神で、大己貴命、少彦名命の二神と力をあわせ、邑知潟に住む毒蛇化鳥を退治、能登の国平定の神功をたてられた。
宿那彦神像石神社 石川県鹿西町金丸村之内宮地奥ノ部一番地< 社記に依れば、上古草味当国に妖魔惟賊屯集し殊に邑知潟には化鳥毒蛇多く棲みて、人民の疾苦言はん方なし。 ここに少彦名命、大己貴命は深く之を憂へさせ給いて、是の上に降り誅伐退治し給いければ、国内始めて平定し人民少々安堵するを得たれども、後患をおもんばかりて少彦名命は神霊をこの地の石に留め、大巳貴命は気多崎に後世を鎮護し給えり。 是社号の由て起こる所なりと
御門主比古神社 七尾市観音崎 大己貴命が天下巡行の時、能登の妖魔退治のため、高志の北島から神門島(鹿渡島)に渡ってきた。その時、当地の御門主比古神が、鵜を捕らえて大己貴命に献上、あるいは、櫛八玉神が御門主比古神と謀って鵜に化け、魚をとって、大己貴命に献上したという
高瀬神社 富山県南砺波市 在昔、大己貴命北陸御経営の時、己命の守り神を此処に祀り置き給いて、やがて此の地方を平治し給ひ、国成り竟(お)えて、最後に自らの御魂をも鎮め置き給いて、国魂神となし、出雲へ帰り給ひしと云う
牛嶽神社 富山市旧山田村鍋谷 昔、大国主命が越の国平定の際、牛に乗って牛岳に登り長く留まったと云われている。牛岳の名の由来は昔、大国主命が越の国平定の為、くわさき山(牛岳の古名)、三っケ峰に登り、谷々の悪神を服従させていた時、乗ってきた牛を放したことから名づけられたという。麓の人々は祭日を決め田畑で採れた物を供え、大国主命を敬った
気多神社 富山県高岡市伏木 祭神 大己貴命・奴奈川姫。大国主命は伏木港より船出して越の国、居多ヶ浜(上越市)に上陸したという。
居多神社 新潟県上越市 大国主命は、居多ケ浜に上陸し身能輪山あるいは岩殿山を根拠地とし、越後の開拓や農耕技術砂鉄の精錬技術などを伝えたという  
奴奈川姫関連伝承
居多ヶ浜 上越市 大国主命が上陸した所
身能輪山 大国主命の宮殿があり、そこから奴奈川の里にやってきたのであるが、姫と歌を交わした日は身能輪山の宮殿に一度帰った。翌朝早く再び出発し、奴奈川姫命を訪れ、結婚した。命はしばらくこの里で暮らし、翡翠の加工技術や販売の指導などしたという。この仕事が軌道に乗ると后の姫を連れ身能輪山の宮殿に戻った。
岩殿山 岩殿山の岩屋で建御名方命が誕生した。この時産婆役をしたのが乳母嶽姫命といい、ヒカゲノカズラを襷に岩屋から湧き出す清水を産湯にしたという。明浄院という寺の境内に岩屋がある。岩屋は胎内岩と呼ばれ、一帯は子産殿(こうみど)といわれている。
奴奈川姫との結婚伝承(伝承でつづる奴奈川姫命物語より)
結婚に先立ち奴奈河姫の住む里を見ようと身能輪山を出た大国主は鳥ケ首岬を過ぎたところで姫の里が見えたので大声で「奴奈河姫」と叫び浮き名が立ってしまつた。そこで名立という地名ができた。ところで結婚はすんなりいつたわけではない。地元豪族がこれに反対した。能生の夜星武は日本海の海賊だつたが、結婚に反対したので大国主は后の一人(因幡姫)を彼の嫁にくれたところ鬼と言われた夜星武が舞って喜んだので鬼舞の地名ができた。
また、後に大国主が訪れたところ彼はもらった后を連れて出迎え服従を誓ったので鬼伏せという地名ができた。美姫奴奈河姫に想いを寄せていた根知の根知彦は大国主の出現にひどく怒り身能輪山に乱入した。周囲の酋長が仲裁に入り山の上からの飛び比べに勝った方が奴奈河姫を娶ることとなった。場所は奴奈河の里の奥山駒ヶ岳でおこなわれた。青光する神馬に乗ってとんだ根知彦は別所まで飛び岩にひずめの後を残した。続いて牛に乗った大国主が飛んだ所根知彦のひずめの後より少し先へ飛んだので大国主の勝ちということになったが根知彦はもう一度勝負を提案し二回戦が行われた。根知彦が再び飛んだ瞬間当たりが暗くなり「オー」という天の神の声とともに稲光が走り根知彦の神馬にあたった。神馬は石と化し山の中腹に落ちた。その神馬は駒ヶ岳の山腹に飛んだ姿のまま今ものこっている。大国主の勝ちは決定し姫と結婚することになつた。そこで飛び比べのあつた山を駒ヶ岳と呼ぶようになったとか。
奴奈川姫のその後の伝承(伝承でつづる奴奈川姫命物語より)
不吉な知らせ
大国主命と奴奈川姫命の間に我が社の御祭神建御名方命がお生まれになり、豊かな暮らしがつづいていたがそこへ、大国主の父が亡くなったという知らせが長男八重事代主命より届いた。命は心配する高志の酋長たちにこの国は息子建御名方命に任せるので後見を頼み、出雲へ帰ることになった。帰るに当たり命は姫に一緒に出雲へ行くよう説得する。しかし、姫は出雲へ行くことを嫌った。出雲にはイナダ姫、須世理姫など美しい多くの后がおり、イナダ姫は中でも嫉妬深い后であったからであり、また姫には大切な翡翠を守らねばならないという願いが強かった。承知しない姫に困った大国主は家来に命じ、姫の夜眠っている間に船に乗せ七尾港に運ばせた。翌朝目を覚ました姫は船の中にいることに驚き、事態を覚った姫は何とか脱出しようとチャンスをねらった。
姫の逃走
七尾港で一週間ほどたった暗い夜幼少のころから仕えていた人たちが小舟で助けに来た(出雲から逃げてきたという話もあるようだ)。脱出した姫はまず故郷の福来口の洞窟に逃げたが、姫を連れ戻すよう命令された大国主の追っ手が早くもやってきた。姫は姫川の対岸へ逃げようとした。しかし姫は対岸に渡ろうとせず川上の今井に逃げた。そこでこの川を姫めが渡るのを厭がったので厭川と名が付きその後糸魚川となったとか。今井は姫を育ててくれた乳母の里で一行は西姥が懐で休息し、東姥懐でも休息。福来口と今井との間には子供のころ遊んだ船庭の池もあって昔を懐かしむ間もなく追ってに追われ姫川に沿って根知谷に逃げた。伝承に残るところをつなぐと、別所、大久保を経て、小谷村後悔が原に潜む。そこへ息子が来て出雲に行くよう勧めたが断った。息子は仕方なく身輪山の宮殿に戻った。姫は自分攻めた、そこで後悔が原という地名ができたとか。その後姫が淵(姫が淵は白馬にもあるようである)までやってきて姫は淵に身を投げたがお供のものに救われた。
夜星武、姫を助ける
そこで姫は再び息子のいる宮殿の方に行こうと根知谷の方に戻り御前山から山伝いに逃げ平牛山にきたここで姫は食器などを追っ手に気づかれないよう埋めて隠した。ここに飯塚の森という塚がある。追っ手が来たので稚児が池に逃げそこに飛び込んだがまたお供の者に助けられ、池の周りの茅の中に身を隠した。追手は茅原を囲んで探したが見つからない。そこで茅に火をつけ出てくる所を捕らえることとした。しかし焼き払っても姫は出てこなかった。姿も見えない。死んだものとしてジンゾウ屋敷を作り裏山に剣を埋め姫の霊を祀った。しかし、姫は死んでいなかった。能生の海賊夜星武(よぼしたける)が茅の原に穴を掘って助けたのである。姫は島道の滝の下まで逃げてきた。ここは姫誕生の地と言われ胎内岩屋がある。産湯に遣ったという岩井口清水がある。姫はここでしばらく逗留した。
吉が浦の宮殿で天寿を全う
追手がこないので安心した姫は大沢山の山頂に護身の矛をもう使わないと言って共の者に奉納させた。それからこの山を矛が岳と呼ぶようになったとか。
また、追ってが来たという知らせで姫は矛が岳に逃げようと決心。権現岳からその山を目指した。権現岳の下で水を飲むため杖で岩盤をつくと清水がわいたここを横清水と呼んでいる。岩盤を登りはじめたが滑るのでくつを脱いだ。ここをわらじのぎというそうだ。追手がこないと知り、ませ口の源泉のところに下り、眺めのよいここに逗留すこととした。ここは宮地と呼ばれた。ここに息子健御名方命がやってきた。宮殿に帰ることを勧めたが承知しないので吉が浦に宮殿を建ててあげた。姫はここで天寿を全うした。この宮殿跡が姫の墓と言われている。その後、源義朝の家来が沖から神像を引き上げその墓の上に姥が嶽姫として姫を祀た。現在姥が嶽神社となっている。
これらの伝承をもとにオオクニヌシの越平定の経路を推察すると、
AD20年ごろ、出雲国斐伊川河口付近を出港→八束郡玉湯町→鳥取県気多岬→越の北島(羽咋)→能登金剛→鳳至珠洲→七尾市観音崎(御門主比古神社)→七尾市小丸山→高岡市伏木→居多神社(奴奈川姫との結婚)→高瀬神社→七尾市所口(能登生國玉比古神社)→邑知潟(久延比古神社)→口能登(羽咋・気多大社)→出雲帰還
期間は5年程といったところであろうか。オオクニヌシの越訪問の目的は賊徒平定というよりは、高度な技術を示して越の国を倭国連合に加盟させることであろう。越地方はこの頃まだクニと呼ばれるほどのものはなく、比較的簡単に国としてまとめあげることができたと思われる。しかし、考古学的には出雲の影響はほとんど見られず、むしろ畿内とのつながりが深くなっている。おそらく、オオクニヌシが越をまとめてすぐにニギハヤヒのまとめた日本国との交流が盛んになったためであろう。出雲としては出雲国譲り事件が起こったために越との交流は以後断たれてしまったと思われる。その時期はAD30から40年頃と推定する。
出雲に帰還した理由が大国主の父が亡くなったからと言われているが、大国主の父とは誰であろうか?実父は天冬衣命で、義父はスサノオ命である。スサノオが亡くなったのはAD30年頃で、スサノオの死が元で帰還したのであれば、大国主命は10年ほど越国にいたことになる。そう考えても大きな矛盾はないが、この後の倭国巡回を考えると出雲に帰還した時、スサノオは健在だった方が自然である。また、スサノオの死であれば伝承に於いてスサノオという名が出てきてもおかしくないと考える。よって、この大国主の父とは天冬衣命と判断する。また、その知らせを長男事代主命が知らせたとあるが、大国主命の長男は木俣神であり、事代主命はニギハヤヒの子である。また、この時事代主命はまだ生まれていない(40年頃誕生)とおもわれる。父の死を知らせたのは木俣神であろう。この伝承により、タケミナカタ命は出雲には行かなかったことになる。タケミナカタはこれ以降越国の王として活躍することになる。大国主命が父の死の知らせを受けた時、おそらく高岡市の気多神社の地に滞在していたものと判断する。スサノオは大国主が此の任を無事果たしたことにより、第二代倭国王の継承を承諾した。(AD25年頃) 
三屋神社拝殿
倭国王の位を継いだオオクニヌシは、三刀屋町の三屋神社の地に政庁を造り、そこで政務を司ったようである。三屋神社には「大己貴尊の惣廟である。」と記録されており、また、一の宮と呼ばれていることから、そのように判断するのである。オオクニヌシはその知恵を生かして、国を治めたようである。ここは斐伊川沿いの盆地であることから、オオクニヌシは農業開発などが目的でこの地を選んだものと考えられる。以後、この地が出雲国の中心地となる。
スサノオも齢60程となり、あと何年も生きられないことに気付いた。巨大になった倭国を統治する第二代倭国王は大国主命に決定したが、彼が、しっかりと倭国を統治しないと折角まとまった倭国は崩壊することが予想された。大国主命は倭国内の人々にあまり知られていないので、第二代倭国王として全国巡回を命じた。
大国主は倭国王を継いだ後、出雲にじっとしていることはほとんどなかったようである。紀伊国、四国、九州と飛び回ったようである。 
少彦名命の登場
スサノオは紀元10年ごろ九州を統一し25年ごろまで宇佐の地でムカツヒメと結婚生活を送っている。この間に多くの皇子が誕生した。 25年ごろ出雲に帰還し、30年ごろまで島根県佐田町の須佐神社の地で隠棲していたと思われる。この頃末子(相続者)のスセリヒメにオオクニヌシという恋人ができた。オオクニヌシは、出雲王朝の系統で古来からの出雲の統治者である。スサノオとしても娘が大国主と結婚すれば、出雲国の安定統治には欠かせないものとなる。しかし、スサノオと正反対の性格で、学者肌であり、研究者に向いており、政治家としては不十分なものがあった。スサノオはオオクニヌシに倭国を任せるのに不安を感じ、オオクニヌシに、先ず、伯耆国・因幡国の統一を命じ、次に越の八口(能登半島)地方の統一を命じた。オオクニヌシはスセリヒメと協力することによってその試練を乗り切り、 スサノオは安心してスセリヒメがオオクニヌシと結婚することを認めた。25年ごろと思われる。
スセリ姫と結婚後、正式に第二代倭国王に就任した。就任後しばらくは三刀屋町の三屋神社の地を中心地と定め、その周辺の開発に従事した。その間にタケミナカタが生まれている。その後瀬戸内沿岸地方、紀伊半島地方の農業開発に従事した。その後宇佐に行き、三女神を伴って北九州地方の農業開発に尽力した。
大国主・少彦名命の行動を伝える伝承を追うことにより、具体化してみよう。
日本書紀 大国主神がはじめ出雲の「御大之御前」(美保崎か?)にいた時、小さなガガイモの実の舟に乗ってミソサザイの皮の服を着た小さな神様(少彦名命)がやってくるのを見ました。
筌戸 兵庫県佐用町 大神が出雲からやって来たとき、嶋の村の岡を呉床(腰掛け)にして筌(魚をとる道具)をここを流れている川にしかけたのでこの地を筌戸と呼ぶこととなった。しかし魚は取れなかったので大神は結局この土地を去ることになった
伊和神社 兵庫県宍粟郡須行名 伊和大神(大国主命)がこの地にやって来たときに、鹿に遇われたことが由来になっている。「鹿に遇われた」が「ししあわ」。それがなまって「しさわ」と呼ぶようになったということである。
鍬山神社 京都府亀山市 この周辺は昔泥湖であった。大己貴命が鍬を挙げて干拓事業を行い耕地にした。
湯泉神社 有馬温泉 温泉開拓の神
伊太祁曽神社 和歌山市伊太祈曽 大穴牟遅神(大國主之神)が八十神からの迫害を避けるべく木の国の大屋毘古の神の御所(当地)に来た
国主神社 和歌山県有田市 周辺に大国主命を祀る神社が多い。伊太祁曽に滞在中の大国主命が国土開発したものと思われる。
粟島神社 米子市彦名町 少彦名命は出雲地方をおさめた大国主命を助けて国づくりをし、後粟の穂にはじかれ常世の国に行かれたので、粟島と名付けられたという。
中山神社 西伯郡中山町 大国主命が因幡国へ遊行の時に立ち寄る。
白兎神社 鳥取市 因幡の白兎伝承地。大国主命通過地。
鷺神社 岡山県美作市 白鷺が薬湯を教えたので鷺温泉と云う。祭神が大穴牟遅神・少彦名神なので、白鷺とは此の二神と思われる。
日桃竢゚乳穴神社 岡山県新見市 大国主命が国土経営の折この地に足を留められ、地方の長者は命から当地を譲られた。
生石神社 兵庫県高砂市 神代の昔大穴牟遅(おおなむち)・少毘古那(すくなひこな)の二神は天津神の命を受け国土経営のため出雲の国より此の地に座し給ひし時 二神相謀り国土を鎮めるに相應しい石の宮殿を造営せんとして一夜の内に工事を進めらるるも、工事半ばなる時阿賀の神一行の反乱を受け、そのため二神は山を下り数多数神々を集め、この賊神を鎮圧して平常に還ったのであるが、夜明けとなり此の宮殿を正面に起こすことが出来なかったのである、時に二神宣はく、たとえ此の社が未完成なりとも二神の霊はこの石に籠もり永劫に国土を鎮めんと言明されたのである。以来此の宮殿を石乃寶伝、鎮(しず)の石室(いわや)と称して居る所以である。
加麻良神社 観音寺市流岡町 大己貴神と少彦名神の2神による四国経営の御霊跡
大水上神社 香川県三豊市高瀬町 その昔、大水上神社に少彦名神が来て、夜毎泣き叫ぶので、 大水上神は桝に乗せて財田川に流したところ、当地に流れ着いたといわれている。
豫中神社 今治市玉川町 大己貴命、少毘古那命の御垂跡
天満神社 今治市玉川町 大己貴・少名彦2神が巡狩の古跡で天津宮と名づけられた場所
天一神社 今治市菊間町 少彦名命と、大国主命がこの地を通った
荒神社 松山市風早 上古の世に、大己貴命が、越智郡から山路をたどって当地に来て、北条才之原に留まり神垣を立て、スサノオ神を祭った地。
道後温泉 愛媛県松山市 神代の昔、大国主命が病に倒れた少彦名命を温泉の湯につけたところ、たちまち病気が治ったと伝えられている。
むかし少彦名(すくなひこな)命が死にさうになったとき、大国主(おほくにぬし)命がトンネルを掘って九州の別府温泉の湯を引き、その湯に少彦名命を入れた。すると少彦名命は、「暫し寝(い)ねつるかも」と言って起き上がり、元気になったといふ。この湯は、熟田津石湯(にぎたづのいはゆ)と呼ばれ、景行天皇以来、たびたびの天皇の行幸があった。今の松山市の道後温泉のことである。(風土記逸文)
少彦名神社 愛媛県大洲市 肱川を渡ろうとされた少彦名命は激流にのまれて溺死された。土地の人々が『みこがよけ』の岩の間に骸をみつけて丁重に「お壷谷」に葬った。その後御陵を設けてお祀りしたのがこの神社である 。昔、道後温泉をあとにした少彦名命が大洲にやってきて、肱川を渡ろうとしていた。洗濯をしていた老婆にどこが浅いかと尋ねると「そこらが深いですよ」と答えた。「そこが浅い」と少彦名は聞き違えて深みに入ってしまい、溺れて死んでしまった。
[少彦名に纏わる地名] さいさぎ:少彦名を救出しようと村人が「さぁ急げ」と叫んで走ったので、これが転訛して「さいさぎ」になったという。 / 宮が瀬:少彦名が溺れたところ。 / みこがよけ:遺体が流れ着いたところ。 / 御壷谷:壷に入れて埋葬したところ。/ 御冠岩:少彦名の冠が流されてひっかかった川渕の岩。
赤崎神社 山口県小野田市 大己貴・少名彦2神の御事績の地。漁具を染められた跡を小釜といい、出漁された湊跡を神出という。
老松神社 福岡県嘉穂郡桂川町 大己貴・少名彦2神が二人で力を合わせ国造りをしていた時、この地へ立ち寄りしばし足を留めた所
英彦山 福岡県 昔、大国主命が、宗像三神をつれて出雲の国から英彦山北岳にやって来た。頂上から四方を見渡すと、土地は大変こえて農業をするのに適している。早速、作業にかかり馬把を作って原野をひらき田畑にし、山の南から流れ出る水が落ち合っている所の水を引いて田にそそいだ。二つの川が合流する所を二又といい、その周辺を落合といった。大国主命は更に田を広げたので、その下流を増田(桝田)といい、更に下流を副田(添田)といい、この川の流域は更に開けていき、田川と呼ぶようになった
四国 大己貴・少名彦2神の四国における足跡は、道後温泉を発見ののち、大巳貴命と共に、山頂沿いに南下し、壷神山(大洲市八多喜)に薬壷を忘れ、都(大洲市新谷)に居住され、その後、宮瀬(大洲市菅田)に移られ、肱川を渡り更に南下しようとしたとき、大神に呼ばれ高天原か黄泉の国へ旅立たれたとされる。
少彦名命との共同行動の具体的事象があるのは兵庫県・四国地方・福岡県である。あとは、一緒に祀られてはいても具体的行動を伴っていない。そこで、時期的に3つに区分できる。
1 少彦名命と知り合う前と思われるもの・・・山陰地方・越地方・中国・紀伊半島開拓伝承
2 少彦名命と共同行動と思われるもの・・・播磨国・四国・筑紫国開拓伝承
3 少彦名と別れて以降と思われるもの・・・英彦山・南九州開拓伝承
大国主命は当時の倭国全域に国土開発伝承をもっている。大国主命の活躍時期はAD20年頃〜AD45年頃と推定されている。おそらくこの期間出雲にいたことはほとんどなく、地方開拓に取り組んでいたのであろう。時期を判別するには少彦名に出会ったときと、別れた年代がわからなければならない。
福岡県添田町の伝承には大国主命が宗像三女神を伴っている。この時には少彦名命を伴っていないので、少彦名と別れた後であろう。宗像三女神はAD18年頃誕生と思われ、大国主命は後にその一人多伎都姫と結婚しアジスキタカヒコネ命を産んでいる。他に事代主、下照姫が生まれたとも云われているが、此の2名は大和で生まれているという伝承や宗像大社の伝承ではこの一名であることから、多伎都姫との間の子はアジスキタカヒコネ命唯一人であろう。人間の成長を考えると、添田地方に大国主が来たのはAD30年代前半であろう。これから判断すると、少彦名と別れたのがAD33年頃と考えられる。 
少彦名命とであったのが出雲国(美保関?)と云われており、また、紀伊半島の伝承には少彦名命を伴っていない。紀伊半島の伝承は反対派の抵抗をかなり受けているので第二代倭国王を引き継いだ直後と思われ、AD25年頃であろう。この紀伊半島から戻った直後位ではあるまいか。このことから大国主命が少彦名命と行動を共にしたのはAD25年頃〜AD30年頃と考えられる。
少彦名命とはどのような出自の人物であろうか?出雲国に海からやってきたと言われている。その海岸は五十狹狹(いささ)の小汀(おはま)と記述されている。別表記に五十田狭之小汀〔いたさのをはま、【記】伊那佐之小浜〔いなさのをばま〕(底本によっては伊耶佐之小浜〔いざさのをばま〕ともあり、最も該当するのは島根県大社町の稲佐浜と思われる。ここに上陸するというのは、西からやってきたことを意味する。神魂命(スサノオ)の子と云われているが、先進技術を持っていることから推察し、朝鮮半島から流れ着いた人物と推定する。スサノオが朝鮮半島で先進技術を集めていた時、朝鮮半島で子が誕生し、その子が父であるスサノオを頼って朝鮮半島からやってきたのかもしれない。或いは無関係の漂流者かもしれない。
大国主命が第二代倭国王に就任する直前、兄たちから嫉妬による反対行動を受けていた。多くの人々から国王であることを認められるためにはさらに実績が必要であった。その実績作りのために、紀伊半島(有田市周辺)に赴き、その地を開拓した。実績作りのためと判断したのは紀伊半島における大国主伝承が有田市周辺に限られるためで、比較的短期間で出雲に帰還したと判断した。これがAD25年頃であろう。出雲に帰還して正式に第二代倭国王に就任した。
大国主命は倭国王就任後しばらくは三刀屋の三屋神社の地を拠点として出雲国で統治していた。この時、稲佐浜に少彦名命が流れ着いたのであろう。少彦名命が大変な先進技術を持っていることが分かり、彼と協力して倭国の技術開発をしていくことを決意した。大国主命は第二代倭国王に就任したと云ってもカリスマ性はスサノオにはるか及ばない。幸い、スサノオがまだ存命であり、出雲はスサノオが統治できるので、倭国の人々に信頼してもらうには地方開拓が一番と考えたのであろう。
伝承を分析すると、大国主命は少彦名命と共に行動した経路は2系統ある事がわかる。出雲→山口県→福岡県→大分県と出雲→伯耆国→因幡国→播磨国→讃岐国→伊予国とである。伊予国で少彦名命が亡くなっているので、前者が先で、後者が後であろう。前者はAD25〜AD30年頃で、出雲国→安芸国→周防国→長門国→筑紫国→豊国の経路と推定する。豊国で別府温泉を開拓したのであろう。この二神の業績は、土木工事・医療技術・狩猟方法の普及・農業技術の普及などであろう。少彦名命は薬・温泉の神で温泉地でよく祭られており、これは、病を温泉により療養することを考え出したことに由来するのではないだろうか。AD30年頃二神は一度出雲に戻った。時期から考えて出雲に帰還したのは出雲でスサノオが亡くなったためと考えられる。
スサノオが亡くなると、出雲国が不安定化するので、大国主命としては出雲に留まって倭国を統治しなければならなかったのであるが、地方の技術普及を続けることを優先し再び少彦名命と共に再び地方開拓に乗り出した。これが原因で出雲が不安定化することになり、これが、出雲国譲り事件のきっかけとなるのである。今度は伯耆国→因幡国→播磨国→讃岐国→伊予国と諸技術の普及を進めた。伊予国で少彦名命が病になったので、道後温泉で療養した。その後大洲地方に行き、この地方を開拓中不慮の事故(水死)で少彦名命は亡くなった。AD35年頃であろう。 
大物主命と大国主命との関係 
『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光輝いてやってくる神様が表れ、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。大国主神が「どなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。『日本書紀』の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀ったとある。しかし、前述したとおりこの2神は別人である。大物主神はニギハヤヒ命である。
大和に乗り込んで近畿地方を統一していたニギハヤヒにとっても少彦名命の持っている先進技術は魅力的なものであったに違いない。大国主命と少彦名命が播磨国にいる時(AD33年頃)、ニギハヤヒは三輪山周辺まで統一していた。このとき、ニギハヤヒはこの二人を三輪山周辺まで呼んだのではないだろうか。大神神社には主祭神は大物主命であるが配祀としてこの二人が祀られている。ニギハヤヒの参謀として活躍していた足が悪かった久延彦命の提案であろう。その関係で少彦名命が亡くなって途方に暮れている大国主命を勇気づけたのがニギハヤヒ(大物主神)ではないだろうか。ニギハヤヒ命は大洲で少彦名命が亡くなったとの情報を聞き、大国主を勇気づけるために大洲に赴いたのであろう。この時が上述の古事記の記述と思われる。。大国主命は倭国王であり、大物主命は日本国王である。共にスサノオから託された日本列島統一の使命を持っているわけである。共に協力し合っていたであろう。
この直後と思われる大国主命の行動が添田町の大国主伝承である。宇佐からスサノオの三女神を連れ出し、添田町を開拓し、三女神を宗像へ導いた。三女神の一人(多伎都姫)を娶り、日向国に赴いている。この行動からニギハヤヒの大国主命に対するアドバイスを推定してみよう。
朝鮮半島の先進技術の重要性を少彦名命から再認識させられたニギハヤヒは先進技術の導入を最優先する必要性を感じていたに違いない。スサノオが一応は確保しているがより高度に確保するために三女神を利用しようとしたのであろう。宗像三女神と言えば海上交通路である。スサノオの娘である三女神を海上交通の拠点である沖ノ島、大島、宗像に配置したのであろう。それと同時に、スサノオの死によって、中断された九州地方の開拓を完成させるため、北九州の残りの地域と日向国への技術供与をアドバイスしたと思われる。 
出雲帰還
AD25年頃、スサノオは、ムカツヒメとの北九州の生活をやめて出雲に帰っていった。そして、AD30年頃出雲で世を去ったのである。
日本列島の統一が進み倭国は巨大化してきた。大きくなるとまとめるのが難しくなってくる。その中心というべき出雲国は北九州に比べて遅れていた。また、高齢になったスサノオもいつまでも生きてはいられない。倭国全体の後継者の養成は急務であった。それらの問題を解決するためには、スサノオ自身出雲に戻らなければならないと感じてきた。同時に南九州の未統一地域の統一。北九州の伊都国もまだ統一されていない。これらの統一はムカツヒメに任せた。ムカツヒメもスサノオ同様に行動力あふれかつ思慮深い女性だったのである。
このときのスサノオの考え方を推理してみると次のようなものである。
AD25年頃出雲でイザナミが亡くなった。イザナミはイザナギと並んで有力な協力者であり、イザナミを失ったことはスサノオにとって大変ショッキングなことであった。此のイザナミの死をきっかけとしてスサノオは一度出雲に戻る決心をした。ところが、出雲に戻ったところ故国出雲が北九州地方に比べて寂れているのに気がついた。倭国があまりに巨大になったために、倭国をこのままにしておいたのではいずれ必ず分裂が起こり、日本列島は戦乱に巻き込まれるであろう。倭国をさらに巨大化させると同時に国内の引き締めが重要であることを悟った。加えて自らが指揮して倭国全体を統治するには60歳を過ぎて年をとりすぎており、国内体制の充実と後継者育成の必要性を感じた。そのためには自分は表に出ず隠棲をし、後継者に統治させ、その相談役になればよいと思った。スサノオは自らの隠棲地を出雲の中心から外れた島根県佐田町須佐神社の地に決めた。留守番していた稲田姫と共にこの地に住んだ。スサノオがこの地にいたのはAD25〜28年頃と思われる。この時期に大国主は三屋神社の地にいたのであろう。スサノオが決めた倭国の新統治体制は次のようなものである。
1 出雲国の統治は長子ヤシマシヌミに任せる。
2 サルタヒコに北九州北西部一帯を統治させ同時に北九州中心域を倭国に編入させる。
3 ムカツヒメに、北九州東部および日向国の統治と同時に南九州地方の未統一地域の倭国への編入に向け努力させる。
4 紀伊国は倭国の飛び地になっているがここは、五十猛命に任せる。
5 オオトシには神剣である布都御魂剣を授け、瀬戸内海沿岸地方を統治させるとともに近畿地方以東の統一をさせる。
6 倭国全体のまとめ役(第二代倭国王)に末子スセリ姫の婿養子であるオオクニヌシに任せる。
7 製鉄技術の確立に努める。
出雲に戻ったスサノオは最初に比婆山に登りイザナミを弔った。
スサノオの正式な後継者は2代目倭国王のオオクニヌシとなった。AD25年頃のことである。彼に倭国全体に目を向けさせ自らは佐田町の須佐神社の地に隠棲をした。隠棲をしながら大きくまとまった倭国全体に目を通し後継者の育成に力を注いだのであろう。そのため、再び北九州の地を訪れることはなかった。須佐神社周辺にはスサノオに会うために天照大神が滞在したと伝えられている姉山がある。スサノオが出雲へ戻ってきて亡くなるまでは5年程と推定している。この間北九州に残って九州をまとめていたムカツヒメが何度か出雲を訪問しているようである。出雲にやってきたムカツヒメが滞在していたところが姉山ではないだろうか。ムカツヒメは宇佐の地より日本海経由で島根半島西端の日御崎を目印に出雲を訪問した。そのため、日御崎神社日沈宮として天照大神が祀られているのであろう。出雲にやってきたムカツヒメは現在の出雲市周辺から神戸川に沿って遡ると、姉山がある。そこからさらに10kmほど遡ったところに須佐神社がある。須佐神社の隣には天照社があり、スサノオとの関係が考えられる。同じ出雲でも松江市周辺の伝承には天照大神が存在しないので、同じ妻である稲田姫との関係および出雲には後継者(ヤシマシヌミ)がいるので、須佐神社の地に隠棲をしながら、 時々やってきたムカツヒメに対し九州方面の統治の指示を出していたのではないかと考えられる。 
須佐神社由緒
出雲風土記に見える須佐之男命の御終焉の地として、御鎮魂の霊地、又御名代としての霊跡地であり須佐之男命の御本営として古より須佐大宮、天文年間には十三所大明神という。出雲の大宮と称え、朝廷をはじめ累代国守、藩主、武将の崇敬は及ばず、世人の尊敬厚く社殿の造営は武将、藩主によって行うのを例としてきた。 (中略)
その昔、須佐の郷を唯茂れる山であり、僅かに川沿いに猫額の耕地を持った寒村に過ぎなかった。須佐之男命が諸国を開拓し須佐の地に来られ、最後の国土経営をされ「この国は小さいけれども良い国なり、我が名を石木にはつけず土地につける。」と仰せられ、大須佐田、小須佐田を定められたので須佐という、と古書に見えている。命がこの地に一生を終えられてから二千有余年、その神徳は今日まで及び村は栄え、子孫は生業を得て繁栄している。(後略)
出雲の製鉄技術開発 
島根県平田市に韓竈神社がある。この神社には奥深い山の急斜面に存在している。通常人の来るところではない。この神社には次のように伝えられている。
由緒 / 出雲国風土記には韓かま(金至)社、延喜式神名帳には韓竈神社と記されており、創立は不詳であるが非常に古い由緒を持つ神社である。社名のカラカマは朝鮮から渡来した釜を意味するとされている。すなわち祭神の素盞嗚尊が御子たちとともに、新羅に渡られ「植林法」を伝えられるとともに「鉄器文化」を開拓したと伝えられていることと関連があろう。また当社より奥部の北山山系が古くからの産銅地帯といわれ、金堀り地区の地名や自然銅、野たたら跡、などが見られることと鉄器文化の開拓と深い関係があるといわれている。「雲陽誌」によると、当社は素盞嗚尊を祀るとして、古老伝に「素盞嗚尊が乗給いし船なりとて、二間四方ほどの平石あり、これを「岩船」という。この岩は本社の上へ西方より屋根の如くさしかざしたる故に雨露も当たらず世俗に「屋方石」という。又、岩船の続きに周二丈余、高さ六間ほどの丸き立岩有り、これを「帆柱石」という。社の入口は横一尺五寸ばかり、高さ八尺ほどの岩穴となっており、奥の方まで二間ばかり、これが社までの通路となっている」と記されている。
この神社に伝わる由緒から判断して出雲に帰還した素盞嗚尊はこのあたりで金属器の生産をしていたようである。このすぐ近くの鰐渕寺境内にある摩陀羅神社に素盞嗚命の遺骨(大腿骨)を祀っている。これは昔素盞嗚尊の墓と伝えられる場所があり、そこを掘ると人の骨が出てきた。その骨を祀っていると伝えられているのである。
これが事実だとすると、素盞嗚尊はこの周辺で亡くなったことになる。素盞嗚尊は生誕地に近いこの周辺で製鉄技術の開発に力を注いでおり、その最中に亡くなったということが想像される。
スサノオはAD28年頃よりイザナミの業績を引き継ぎ、自らの力で製鉄事業を始めたようである。
スサノオの墓
スサノオの墓と言い伝えられている場所が平田市在住の持田さんの協力により確認することができた。韓竃神社より800m南の丘陵地の茶畑内にあった。土地の人の話によると、昔ここにはスサノオの墓と伝えられる神社が建っていたが、明治になって、摩陀羅神社に移された。そのとき、神社の本殿下を掘ると人の大腿骨が出てきて、今はそれを摩陀羅神社に祀っているとのことです。その後神社跡は茶畑になったそうだが、骨の出土地だけは今でも大切に保存されていた。この大腿骨は並みのものより太くて長いものであったそうである。葬られた人物は身長2mを越える人物と推定されている。
周辺は60件ほどの唐川の中心集落であり、墓のある場所はほぼその中心に位置している。江戸時代までは周辺の人々によって大切に祀られてきたことがうかがわれる。その背景から考えて、この墓は本物である可能性が高い。
スサノオの墓のある茶畑 スサノオの墓
スサノオ最高の聖地は熊野山の山頂近くにある磐座である。ここを崇拝する神社が熊野大社であり、昔は壮大な大社だったそうである。熊野山中はこの磐座を崇拝していたと思われる祭祀場址と思われるものが散在している。祭祀の中心は明らかに熊野山である。スサノオの本当の墓が唐川にあるとすれば熊野山とのかかわりはどうなるのであろうか?
日本書紀では「熊成峯(熊野山)に居しまして、遂に根国に入りましき」。日御碕神社社伝では、「素戔嗚尊は出雲の国造後、熊成峯に登り、鎮まる地を求め、柏葉を風で占うと、隠ヶ丘に止まった」と記録されている。熊野山はこの周辺では最も高い山であり、出雲の国見をするためスサノオは頻繁にこの山に登っていたようである。
スサノオが祭祀対象になったのは死後10年ほどした後の出雲国譲りのときである。国譲りをスムーズに進めるためにスサノオ祭祀を強化したと推定している。スサノオの墓は唐川の地であったが、出雲の中心から大きくずれており、祭祀対象にするには地域的に難しかったのではあるまいか。祭祀の対象としてはスサノオが頻繁に登っていた出雲地方で最も高い山(熊野山)がふさわしかったといえよう。スサノオの遺骨の一部、あるいは遺品を山頂近くの磐座に埋めて熊野山を祭祀対象にしたことも考えられる。
スサノオの墓と伝えられている場所は丘陵地の中腹であり、計画的に大々的に葬られたものとは考えにくい。倭国の創始者スサノオにとってはシンプルな墓といえる。当時としては人の往来のほとんどない山奥にある小規模な墓、そのような墓となったのはスサノオが急死したためではあるまいか。 近くの韓竃神社も人の往来のない山の急斜面にある。「なぜこんなところに神社があるのか」と頭をひねるような場所である。社伝にある通り鉄鉱石・銅鉱石の精錬を行っていたと考えればすっきりとする。神社は鉱石採取の址と思われる。鉱石採取の地に赴き、スサノオ自身が率先して人々に指示をしていたと想像される。その最中にスサノオが急死したとすれば、その近くに葬ることは十分に考えられる。その死因は事故死で、事故現場が神社の地ということもありうる。 
四隅突出型墳丘墓の出現
四隅突出型墳丘墓は、弥生中期末の出雲地方に出現した。弥生時代最大規模の墳墓で、祭祀系土器が多く、後の時代になると、吉備系土器も多く出土する。出現時期と場所からスサノオに関連した人物の墳墓のようである。祭祀系土器の出土が多いことから、スサノオ祭祀者の墓ではないかと考える。
四隅突出型墳丘墓が最初に出現したのは、広島県の北部である。この地域は大歳によって統一され、出雲国の支庁があったと推定している。この地方は、大和朝廷が成立した頃より、出雲系土器が衰退し、四隅突出型墳墓も見られなくなる。この地方で四隅突出型墳丘墓の最古のものが見つかっている。この地は大歳が統一し、出雲国の直接支配地であり、スサノオに対する思いも特に強いことが想像される。そのために、スサノオに対する祭祀を最初にはじめたものと考えられる。この祭祀が出雲地方に広がっていったものと考えられる。出雲の中心域はスサノオがいなかった時期の方が多く、地方に比べてスサノオ祭祀に対する気持ちは弱かったと考えられ、この時点でスサノオ祭祀は行われていなかった。後の世になり、サルタヒコが出雲でスサノオ祭祀を始めたと考えている。
四隅突出型墳丘墓の多い地方は、広島県三次地方の江の川沿い、島根県の斐伊川沿い、そして、島根県東部の広瀬川・伯太川沿いである。川沿いに多いのは、墳墓築造に必要なものを船で運ぶためと考えられる。斐伊川沿いはオオクニヌシの政庁、飯梨・伯太川沿いは能義神社の地と、いずれも近くに政庁があったと考えられる伝承地がある。このことは、四隅突出型墳丘墓が各支庁の支配者の墓で、それはすなわちスサノオ祭祀者の墓となるのである。
四隅突出型墳丘墓の特徴を挙げると、
1 祭祀系土器が多い。
2 複数の埋葬施設がある。
3 弥生時代最大規模の墳墓である。
4 ほとんど出雲地方に限られている。
5 四隅突出型墳丘墓の周辺の土が踏み固められている。
墳丘墓周辺の土が踏み固められていることから、四隅突出型墳丘墓周辺の祭祀は墳丘墓を取り囲むように行われていたことが伺われ、これは、ピラミッド構造の階級はまだできていなくて、王以外は平等であったことを意味している。王が権力の上に君臨していたのなら、ピラミッド構造の階級が存在し、墓の副葬品も豪華な者になり、墓の祭礼は、一方向からの祭礼となるはずである。これは、四隅突出型墳丘墓の被葬者が、信仰上の王すなわちスサノオ祭祀者であることを意味している。
四隅突出型墳丘墓は、規模が大きく、複数の埋葬施設があり、副葬品が乏しいことから、祭祀の対象が埋葬者個人とは考えにくい。また祭祀系土器の出土が多いことから、墳墓の周辺で祭礼が行われていたようである。埋葬者個人が祭礼の対象になるのであれば、埋葬施設は一つで、副葬品も多いはずである。被葬者は祭祀者であり、その祭礼対象はやはりスサノオであろう。
四隅突出型墳丘墓は墳墓であると同時に、斎場でもあったようである。各支庁の首長は、普段墳丘墓周辺でスサノオ祭祀を行い、彼の死後、祭祀者をその場所に葬ったものではないだろうか。方形領域が斎場で、突出部がそこへ入る通路と考える。このように考えると四隅突出型墳丘墓の各特徴が説明できるのである。
ところが出雲国の中心地である松江市南部から八雲村・大東町にかけての一帯には、四隅突出型墳丘墓がほとんど見あたらない。これはどうしたことであろうか。大きな川がないというのも一因かもしれないが、出雲国の中心地域では、スサノオ祭祀の祭礼の場所が決まっていたからと判断する。それは、スサノオの霊廟である熊野山である。熊野山の熊野神社本宮は、現在でも本宮祭が行われているように、当時から祭礼の場所となっている。出雲中心域の祭礼は、熊野山で行われるが、その他の地方ではそのようなものがないので、四隅突出型墳丘墓を造り、そこで祭礼をしたものと考える。
四隅突出型墳丘墓が四国地方や九州地方まで広がらなかったのは、スサノオが広めた青銅器祭祀があったためと考えている。出雲地方は、統一の出発点であるがゆえに、スサノオに対する祭祀がこの時点までなかったのである。
スサノオの死は、倭国の人々を悲しませた。スサノオの遺徳を忍び、後に全国の神社に日本最高の神として祭られるようになるのである。特に、出雲の人々は、その死を惜しみ、スサノオの祭祀を始めた。スサノオ祭祀は出雲国の各支庁で行われ、その祭祀者の墓が四隅突出型墳丘墓となる。 
 
第7節 讃岐のニギハヤヒ

 

ニギハヤヒの行動
ニギハヤヒは大物主神ともいい、大和に侵入するまでは大歳と名乗っていた。スサノオの四男である。その性格がスサノオに極めてよく似ているところから、スサノオが最も信頼していた子である。スサノオが瀬戸内海沿岸地方を統一するときは、まだ幼いということもあり、直接の統一事業には参加せず、広島県の三次地方を中心として活躍していた。紀元10年ごろ、大歳20歳程になったときスサノオが北九州を統一にかかったときは銅戈をシンボルとして遠賀川流域、筑後川流域、菊池川流域を中心として統一事業に参加した。そして、その領域を中心として治めた。スサノオが南九州へ進行したときは、熊本平野から白川沿いに阿蘇盆地に入り五ヶ瀬川を下り延岡から都農を経て、現在の宮崎市付近に上陸し、その周辺を統一した。大歳の統一領域はスサノオについで広い領域であり、年老いたスサノオ以上に活発に活動したものと考えられる。
南九州が統一された後、紀元20年ぐらいまで大歳は琴平山を本拠として瀬戸内海沿岸地方を治めることになった。北九州の有力豪族は周辺地域を統一することにより孤立させ、南九州の未統一地域は日本列島の周辺部なので他への影響は少なかった。しかし、大阪湾岸地方の豪族は方形周溝墓を持つ拡張主義を持った豪族で近畿地方一帯から濃尾平野一帯まで勢力を広げており、北九州の有力豪族と違い孤立させることができず、列島統一には決して避けて通ることのできない最大の難関である。さらには西の倭国に対抗するために大阪湾岸地方の豪族が統一国家を作ろうとしている動きが見られ、このままにしておけば日本列島が二つの統一国家になってしまい、倭国との間で将来大きな統一戦争が起きる可能性が出てきた。何が何でも大阪湾岸地方の統一は急務なのである。しかし、スサノオ自身は年老いて自由に動き回ることができなくなっており、大阪湾岸地域の統一は若い大歳に託すしかなかったのである。大歳は九州統一に大きな貢献をしており、スサノオは絶大な信頼を置いていた。 
ニギハヤヒと琴平との関係
ニギハヤヒは、スサノオの北九州統一に参加した後、近畿地方以東統一準備のために、讃岐の金比羅山(祭神大物主神)の地で、瀬戸内海東部沿岸地方を治めていた。琴平宮には次のような社伝が伝わっている。
「祭神大物主神は琴平山に本拠を定め、四国、中国、九州などの経営にあたられたという...」
琴平宮がニギハヤヒの宮跡だったようである。この地は現在は内陸地であるが、この当時は、海岸に位置し、海上交通の要衝であり、ニギハヤヒは海上交通の権益を握っていたようである。
この地域には次のような変化が起こっている。
1 讃岐・伊予を中心に、平型銅剣祭祀が盛んにおこなわれている。その最も集中出土するのは琴平周辺である。
2 平型銅剣は扁平紐式銅鐸と共に出土することが多く、共通の紋様が彫り込まれているものがあることから、同じ工人が造ったものと考えられる。
3 平型銅剣に鋸歯紋(後に述べるが、ニギハヤヒのシンボルである)が彫り込まれているものが約三割ほどある。
琴平宮と平型銅剣祭祀は関連しているようである。琴平宮の祭神大物主(ニギハヤヒ)は、ここを本拠地として東瀬戸内沿岸を治めていた頃、人心統一のため、スサノオの銅剣祭祀にさらに磨きをかけた平型銅剣祭祀をおこなっていたようである。この平型銅剣祭祀をすることにより、瀬戸内海沿岸地方に住んでいる人々は次第にニギハヤヒに心を寄せるようになっていった。これらの人々の協力を取り付け、いよいよ近畿地方統一に乗り出すのである。この祭祀は、ニギハヤヒの後も後期中葉までしばらくおこなわれていた。
ニギハヤヒは東瀬戸内沿岸地方を治めると共に、近畿地方を統一するために、河内や大和の有力豪族の状況を探っていた。 
大阪湾岸地方の統一戦略
大阪湾岸地域の国々には池上曾根遺跡など大型の建物を持つなど、かなり先進技術を持っている。弥生中期の始めごろ(紀元前100年ごろ)朝鮮半島北部から、直接大集団で移ってきたものと考えられる。そのために大陸の先進技術を失わずに維持しているものと推察する。そのために倭国の先進技術はそれほど真新しいものとは移らないのである。そのために新技術の伝授を持ってこの地域を統一することは不可能である。
スサノオは南九州においてムカツヒメと結婚することによってイザナギ・イザナミの協力を得ることができ、ムカツヒメ自信も国内をまとめるのに絶大なる貢献をしてくれたことを実感している。これをヒントとして、大阪湾岸諸国に有能な男子をマレビトとして送り込み、そこの娘と結婚することによって、その地域を統一できないかと考えた。
一般に生物は近親交配を続けていると繁殖能力が低下しその種は滅びることになる。当時の人々もこのことを本能的に知っており、小さな集落の人々は外部からやってきた有能な男と、集落内の娘を結婚させて外部の血を入れることを行なっていた。外部からやってくる人間はそのほとんどが男であるために、外部の男と、集落内の女の結婚となることがほとんどであったと思われる。この男たちをマレビトと呼んでいた。
スサノオは大阪湾岸諸国にマレビトを一斉に送り込み、それによって統一することを考え付いた。「マレビト作戦」と呼ぶことにする。そのためには若い有能な男たちが多量に必要である。大歳にこのことを提案すると、快く了承した。しかし、大阪湾岸地方にマレビトとして入り込んだ場合、その国が主体となるために、それらの小国家を倭国に加盟させるのは難しいことが予想される。そのときは倭国とは別の国を作って、機が熟したなるべく早い時期に、倭国と合併をするという計画も話し合われたことであろう。
マレビトの条件としては、優れた先進技術を持っていること、運動能力に優れていること、心優しいことが考えられる。これらに優れた若い男が、小国家を訪問すれば、大抵の国ではマレビトとして受け入れてくれるであろう。「マレビト作戦」に重要なことはこの条件を満たすマレビトを探すことである。大歳は早速、自分が統一し、信頼されている北九州の遠賀川流域、筑後川流域の小国家を訪問し、このような条件を満たす若い男を集め始めた。 
マレビト作戦の根拠
この「マレビト作戦」には、そうではないかと思われる根拠がある。以下にそれを列挙してみる。
1 大阪湾岸地方がこの時期一斉に平和裏に統一されている。
2 大阪湾岸から大和平野一帯の巨大集落遺跡・拠点のすぐそばには物部系の神社が必ず存在している。池上曾根遺跡の曾根神社、唐古鍵遺跡の鏡作神社、大和川・明日香川・富雄川などの合流点の広瀬神社、当時の大和川下降にある津原神社などいずれも物部系の神社である。これは、大阪湾岸から大和盆地一帯の拠点と思われる地域がことごとく物部一族で占められているということを意味している。
3 伝承では神武天皇以前に大和にいた豪族はエウカシ、オトウカシ、エシキ、オトシキ、葛城一族、賀茂一族、三輪一族、磯城一族などことごとく物部系の分派と思われ、饒速日尊の子孫であるという伝承を持つ、あるいは、そう思える節がある。
4 饒速日尊自身ナガスネヒコ一族に対してマレビトである。
5 饒速日尊と共に大和に下ったといわれている天神玉命も賀茂一族の祖となっている。天神玉命もマレビトである。
以上のような事実をすべて有効に説明できるのは「マレビト作戦」のみではあるまいか。 
大歳が北九州地方で召集したマレビトたち
先代旧事本紀に饒速日尊が天孫降臨するときに付き従った人々の一覧が乗っている。まとめてみると以下の通りである。
防衛者(32人)
天香語山命(尾張連等祖)  天鈿売命(媛女君等祖) 天太玉命(忌部首等祖) 天児屋命(中臣連等祖)
天櫛玉命(鴨縣主等祖)   天道根命(川瀬造等祖) 天神玉命(三嶋縣主等祖)   天椹野命(中跡直等祖)  
天糠戸命(鏡作連等祖) 天明玉命(玉作連等祖) 天村雲命(度会神主等祖) 天神立命(山瀬久我直等祖)
天御陰命(凡河内直等祖)   天造日女命(安曇連等祖) 天世平命(久我直等祖) 天斗麻祢命(額田部湯坐連等祖)
天背男命(尾張中嶋海部直等祖) 天玉櫛彦命(間人連等祖)  天湯津彦命(安芸邦造等祖)  天神魂命(葛野鴨縣主等祖)
天三降命(豊国宇佐国造等祖) 天日神命(縣主対馬縣主等祖) 乳速日命(広湍神麻連等祖) 八坂彦命(伊勢神麻続連等祖)
伊佐布魂命(倭文連等祖) 伊岐志邇保命(山城国造等祖) 活玉命(新田部直等祖) 少彦根命(鳥取連等祖)
事湯彦命(畝尾連等祖) 八意志兼神児表春命(信乃阿智祝部等祖) 次下春命(武蔵秩父国造等祖) 月神命(壱岐縣主等祖)
五部人
天津麻良(物部造等祖)   天勇蘇(笠縫部等祖)   天津赤占(為奈部等祖) 富富侶(十市部首等祖)   天津赤星(筑紫弦田物部等祖)
五部造
二田造 大庭造 舎人造 弉蘇造 坂戸造
天物部等二十五部人
二田物部 当麻物部 芹田物部 馬見物部 横田物部
嶋戸物部 浮田物部 巷且物部 足田物部 清尺物部
田尻物部 赤間物部 久米物部 狭竹物部 大豆物部
肩野物部 羽束物部 尋津物部 布都留物部 経迹物部
讃岐三野物部 相槻物部 筑紫聞物部 播磨物部 筑紫贄田物部
船長、舵取等
天津羽原(船長跡部首祖)   大麻良(舵取阿刀造等祖) 天津真浦(船子倭鍛師等祖)
天津麻占(笠縫等祖)     天都赤麻良(曽曽笠縫等祖) 天都赤星(為奈部等祖)
これらの中には女性名と判別できる名は存在しない。また、そのほとんどは後の時代の豪族の祖になっている。これらの事実は、饒速日尊の従った人物もマレビトであったということを示している。 
マレビトの出身地
二十五部の物部の出自地が次のように推定されている。
二田物部 福岡県小竹町新多
当麻物部 熊本県益城郡当麻
芹田物部 福岡県若宮町芹田
鳥見物部 福岡県遠賀町鳥見山
横田物部 福岡県飯塚市横田
嶋戸物部 福岡県遠賀町島津
赤間物部 福岡県宗像市赤間
狭竹物部 福岡県小竹町小竹
大豆物部 佐賀県三田川町豆田
大豆物部 佐賀県北茂安町豆津
聞 物部 福岡県北九州市企救
贄田物部 福岡県鞍手町新北
十市物部 福岡県若宮町都地
弦田物部 福岡県宮田町鶴田
筑後物部 福岡県久留米市高良大社附近
いずれも北九州の倭国加盟領域の人物である。大歳がマレビトの条件を満たす人物をかき集めたことを裏付けている。マレビトたちの出身地から推察して大歳の出港地は遠賀川河口であろう。
これだけの陣容を何とかそろえ、大歳は大阪湾岸地方を目指して遠賀川河口を出港した。紀元25年ごろのことと思われる。 
十種の神宝
饒速日尊は大和に天降るとき天神(スサノオ)から十種の神宝を授かっている。
・ 息津鏡(オキツカガミ)
・ 死返玉(マカルガエシノタマ)
・ 辺津鏡(ヘツノカガミ)
・ 道返玉(ミチガエシノタマ)
・ 八握劔(ヤツカノツルギ)
・ 蛇比禮(ヘミノヒレ)
・ 生玉(イクタマ)
・ 蜂比禮(ハチノヒレ)
・ 足玉(タルタマ)
・ 品物比禮(クサグサノモノノヒレ)
これらの神宝のうち息津鏡と辺津鏡は丹後の籠神社に神宝として保存されている。息津鏡は前漢の内行花文昭明鏡で、辺津鏡は新〜後漢初期の長宜子孫内行花文鏡である。近畿地方にはこの当時全く存在しない形式の鏡であり、この鏡が饒速日尊を主祭神とする籠神社に伝世されていることはこの伝承の正しさを裏付けているといえる。時期としては辺津鏡の長宜子孫内行花文鏡が新〜後漢初期頃鋳造されたもので、西暦紀元ごろから紀元50年ごろのものである。息津鏡が紀元前1世紀後半のものであることとあわせ、紀元25年ごろ饒速日尊が天降ったというのは時期的に整合している。 
 
第8節 大和統一

 

河内勢力と大和勢力
紀元20年頃「近畿以東を統一せよ」とのスサノオの遺命を受けたニギハヤヒは、近畿地方に進攻することになる。河内地方と大和地方は、瀬戸内海沿岸地方統一時の神社伝承によるスサノオの行動の跡がみられない。有力豪族がおり、スサノオも手を出せなかったようである。スサノオは、この地方を避けて、紀伊半島南部を統一したようである。
河内地方は、朝鮮半島からきた方形周溝墓を持つ一族がおり、大和にはナガスネヒコ一族がいた。弥生中期には、方形周溝墓は近畿地方一円に分布するようになっていたが、大和地方にはほとんどみられない。朝鮮半島からきたこの一団は、河内地方とその周辺に住み着いていたが、大和盆地には入れなかったようである。この二つの一族は協調関係にはなく、対立関係にあったようである。対立関係にあるものが手を握ることは難しく、何か大きなメリットが双方に出現したと考えられる。河内地方と大和地方の考古学的違いを検討してみると次のようなものがある。
1 方形周溝墓が東日本地域に急激に分布するようになっている。
2 大和朝廷成立後に畿内系土器が全国に見られるようになるが、この土器は、河内地方の土器で大和盆地の土器ではない。
3 河内地方と大和では一般の土器は異なるが、祭祀形態はほとんど同じである。
4 大和盆地の形式の土器は大和からほとんど外部に出た形跡はない。
5 弥生時代後期の遺跡分布で考えれば、圧倒的に河内平野が多い。大和盆地は中期までは大和川支流に沿って集落遺跡が散逸する状態で、後期になって増加する傾向がある。その遺跡分布の中心となっているのが唐古鍵遺跡である。この遺跡も後期になってから巨大化している。
大和朝廷成立後も、地方に勢力を伸ばしていたのは河内勢力である。大和勢力は、ほとんど外部に出た形跡はないが、大和朝廷は大和に存在する。これはどうしたことであろうか。大和にいる王の命に従って、河内勢力が全国を統治していたと考えるのが自然である。豪族は、初期大和朝廷に一門の技術でもって仕えていたようであり、河内の一族は地方統治で仕えていたと見るべきであろう。このことも大和朝廷が宗教統一で武力統一ではないことを示している。そうでなければ、地方に勢力を張っている河内勢力は、簡単に大和朝廷を倒すことができたであろう。
また、ニギハヤヒが大和に侵入したと推定される中期末までは、大和盆地に遺跡が少なく、大和盆地はまだ成熟した国は存在せず、未開の地であったと考えられる。後期になって遺跡が増加していることから判断して、ニギハヤヒの進入によって国が造られたと判断できる。
河内勢力と大和勢力は、多くの点で違いが見られるが、土器から判断して祭祀だけは共通である。祭祀とはおそらくニギハヤヒに関連したものと考えられる。対立関係にあったこの二勢力が、ニギハヤヒの進入によって協調関係になったといえる。 
ニギハヤヒの侵入経路
饒速日尊の侵入経路を神社伝承によって探ってみよう。
1 三島鴨神社 大阪府高槻市三島江二丁目 祭神 大山祇神、事代主神 / 淀川沿いに有り、大山祇命の最初の降臨地と言われている。事代主神が三島溝杙姫(玉櫛姫)に生ました姫が姫鞴五十鈴姫で、神武天皇の妃となった。また三島溝杙姫の父神が三島溝咋耳命、その父神が大山祇神となっている。
2 溝咋神社  大阪府茨木市五十鈴町十七 祭神 媛蹈鞴五十鈴媛命、溝咋玉櫛媛命 三島溝咋耳命、天日方奇日方命、素盞嗚尊、天児屋根命 / 『古事記』では大物主が玉櫛姫を見そめて、媛蹈鞴五十鈴媛命が生まれることになっている。
3 磐船神社 大阪府交野市私市9丁目19ー1 祭神 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(饒速日命) / 磐船神社は御祭神饒速日命が天孫降臨された記念の地である。
4 白庭邑 奈良県生駒市白庭台白谷地区 / 「長髄彦本拠」と「鳥見白庭山」の石碑がある。
5 長弓寺(伊弉諾神社) 生駒市上町4447 / 長髄彦の旧跡、饒速日命と御炊屋姫を祀っていた。二神の廟社であり「天羽羽弓」を納めた真弓塚が東側にある。 
6 饒速日尊の墓 生駒市総合公園北側山中 檜の窪山 / 饒速日の尊がなくなったとき、天の羽弓矢、羽羽矢、神衣帯手貫を、登美の白庭の邑に埋葬して、墓とした。「天孫本紀」
7 矢田坐久志玉比古神社 奈良県大和郡山市矢田町965 祭神 櫛玉饒速日神 御炊屋姫神 / 東側に「迎ひ山」があり、河内からやって来た神を里人が迎えた山といわれる。饒速日尊降臨伝承地  
8 登弥神社 奈良市石木町648-1 祭神 東殿 高皇産霊神、誉田別命 西殿 神皇産霊神、登美饒速日命、天児屋根命 / 神社神域は饒速日命の住居或いは墓所であった白庭山であるとの伝説がある。
9 饒速日山(日下山・生駒山) 饒速日山は、饒速日命が天降ったとされる河上哮峯のことで、生駒山地の北端の峰をさす。現在生駒スカイラインの料金所がある辺りである。昔は饒速日尊が祀られた神社があったらしい。また、このあたりに饒速日尊の宮跡があったと伝えられている。
これらの伝承をまとめてみると以下のようになる。
瀬戸内海を東進してきた饒速日尊一行は淀川沿いの三島鴨神社の地に上陸した。この地で一行はそれぞれの小国家に向って分散した。饒速日尊はここから現在の国道168号線(天野川)に沿って川を遡り、磐船神社の地で休息された。この神社の裏山である饒速日山と呼ばれている山に登り大和盆地の様子を探り、長髄彦が統治する小国家(白庭邑)にたどり着いた。長髄彦は饒速日尊をマレビトとして受け入れ、妹の御炊屋姫と結婚することになった。饒速日尊は御炊屋姫と結婚後長弓寺の地に住んでいた。数年後、饒速日尊は長髄彦の協力を得て生駒市中心域、富雄川流域を統一し登弥神社の地に移った。また、饒速日尊はほかのマレビトが入り込んでいる河内平野一帯と大和盆地北部の両方を見ることができる生駒山の饒速日山山頂付近に宮を造り時々そこに住んだ。紀元30年ごろのことであろう。 
河内地方統一
饒速日尊は大和盆地北部を統一することに成功したが、同時に河内平野に送り込まれた他のマレビトもそれぞれの国に入り込んで子孫を作らなければならない。そして、それらの国との交流を常に保っておかなければならない。生駒山の西麓に饒速日尊、可美真手命を祀った石切劔箭神社が存在している。 「神武天皇が即位した翌年、出雲地方の平定に向かう可美真手命は、生まれ育った宮山に饒速日尊をお祀りしました。」これが石切劔箭神社の発祥と伝えられている。大和盆地北部を統一した饒速日尊が他のマレビトが入り込んだ河内平野の国々との交流を保つために、 この地にやってきて住んでいたのではあるまいか。可美真手命が育った時期であるから紀元30年から35年ごろのことであろう。
このマレビトたちの活躍があり河内平野の国々は次第に一つにまとまりつつあった。この状態で倭国に加盟するのは人々の抵抗が大きいので饒速日尊は倭国とは別の国を作ることにした。
日本書紀によると、
「饒速日命、天磐船に乗り、太虚をめぐりゆきて、この郷におせりと天降りたまうとき、名づけて「虚空見日本国」という。」
とある。これによると、饒速日尊が大和に入ったときに、日本国という名前を付けたようである。日本はヒノモトと読む。東大阪市に「日下」(朝、太陽が生駒山から昇ってくるその日の下という意味)という地名があり、饒速日尊は、ここから大和に入ったと伝えられている。饒速日尊は倭国とは別の連合国家を造ることになったために、新しい統一国家の名を考える必要がでてきた。饒速日尊が大和に入るときに見た生駒山からの日の出に感動して、その国名として「ヒノモト」を使ったものと考える。饒速日尊が生駒山西麓に住んでいたころでないと上のようなことにならないので、この頃新しい統一国家の名前をつけたのは紀元30年ごろのことであろう。
饒速日尊はマレビトの入り込んだ国々を回りながら、将来の東日本統一のために河内一族が一つになる必要性・統一国家の必要性を説いて回り、人々の協力を得ようとした。河内平野の人々の意識も次第に変化してきて、協力が得られる体制が次第に固まってきた。 
葛城地方の統一
葛城地方に残る伝承をまとめてみると次のようなものである。
1 一言主神社 / 葛城一族の神とされるのが一言主神である。一言主神とは鴨氏の神である事代主神の代わりに作られた存在。 旧事紀に、素戔嗚尊の子と伝えている。
2 高天彦神社 / 高天彦神とは高皇産霊神の別称。 付近一帯は高天の地名が残り、神話の高天原に比定され史跡となっている。葛城氏が、大和盆地へと下り、勢力を広げていったことが、後に天孫降臨として伝えられたと伝えられている。 御祭神は高皇産霊尊。 天忍穂耳尊に、本社の御祭神の娘・栲幡千々姫が嫁ぎ、御子の瓊瓊杵尊が高天原から降臨される。その神話にいう高天原がこの台地である。
3 高鴨神社 / 御祭神は味耜高彦根命・下照姫命・天稚彦命 鴨の一族の発祥の地。弥生中期、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめた。味耜高彦根神の本拠地
4 鴨都波神社 / 御祭神は積羽八重事代主神・下照比売命。 下鴨神社ともいう。事代主神の最初の誕生の地。鴨族の発祥地。
5 葛木坐御歳神社 / 中鴨神社ともいう。御祭神は御歳神で、相殿に大年神・高照姫命が祀られています。御歳神は大年神の娘。古事記には須佐之男命と神大市比売命の御子が大年神で、大年神と香用比売命の御子が御歳神であると記されている。相殿の高照姫命は大国主神の娘神で八重事代主神の妹神である。一説には高照姫命は下照姫命(拠-古事記に高比売命=高照姫、別名下照姫命とある)、加夜奈留美命(拠-五郡神社記)、阿加流姫命と同一神とも云われている。
6 長柄神社 / 御祭神は下照姫命 下照姫の本拠地
葛城地方の神々の名が他地方の神々と大きな矛盾を呈していることが特徴である。言代主命は出雲の神であり、そのほかの神々も出雲中心の神々である。 味耜高彦根命・下照姫命・事代主命・高照姫命はオオクニヌシとスサノオ・ムカツヒメの娘である三穂津姫との間にできた子である。 本来大和とは縁のない存在のはずである。この謎を解明するために、賀茂一族の系図を調べてみることにする。

1 古代豪族系図集覧
 神皇産霊尊−天神玉命−天櫛玉命−鴨建角身命┬鴨建玉依彦命−五十手美命−麻都躬之命−看香名男命−津久足尼命
              (八咫烏)     │
               (三島溝杭耳命)└玉依姫命−賀茂別雷命
2 古事記    
 大物主−櫛御方命−飯肩巣見命−建甕槌命−意富多多泥古
3 日本書紀    
 大物主命−大田田根子
4 先代旧事本紀
 大国主命┬都味歯八重事代主神−天日方奇日方命−健飯勝命−健甕尻命−豊御気主命−大御気主命−健飯賀田須命−大田々禰古命
     |
     └味鋤高彦根神
5 三島鴨神社
 大山祇神─三島溝咋耳命─三島溝杙姫
              ├───姫鞴五十鈴姫
             事代主神

これらの系図も明らかな食い違いのある矛盾に満ちた系図である。一つ一つ解明していくことにする。
まず、一言主神であるが、旧事記にスサノオの子と記されている。スサノオの子で大和にやってきているのは饒速日尊のみなので、一言主神=饒速日尊という図式ができる。一言主神社では一言主神=言代主となっているので、言代主=饒速日尊となる。この等式は丹後の籠神社に伝わる伝承でも火明命は言代主命のことであると伝えられているので、両者は一致することとなる。大和で言う言代主命は饒速日尊と考えてよいようである。
葛木坐御歳神社の御年神は大歳神(饒速日尊)の娘となっている。また、近くの二上山は饒速日尊の降臨した山とも伝えられており、饒速日尊は葛城一族に対してもマレビトとして入り込んだようである。葛木坐御歳神社で高照姫が大歳神とペアで祀られていることから高照姫は大歳神の妻と考えても良いのではないだろうか。つまり香用比売命=高照姫である。
味鋤高彦根神は古事記では賀茂大御神と呼ばれており、天照大御神と並ぶ尊称を与えられているが、上の系図で見る賀茂一族の先祖となっていない。また、味鋤高彦根神は後の時代の倭の大乱時に吉備津彦が吉備国におもむく時、片山神社に祀った神であり、国家統一に関して大変重要な神と考えられる。この神は下照姫の夫である天稚彦と大変よく似ていて仲も良かったと記されており、同一人物ではないかと考えている。
先代旧事本紀に次のような記事がある。
高皇産霊尊は速飄神(はやてのかみ)に
「我が神の御子の饒速日尊を葦原中国に使わした。疑わしい事がある。汝は降って調べて報告しなさい。」
と命じられた。速飄命は命令を受け天降り、亡くなられた事を見て天に帰り復命して
「神の御子は既に亡くなられました。」
と報告した。高皇産霊尊は哀れと思い、速飄命を使わして、饒速日尊の遺体を天上に上げ、その遺体の側で七日七夜、騒ぎ悲しまれた。天上に葬られた。
饒速日尊は夢によって妻の御炊屋姫に
「我が子を私の形見としなさい。」
と言い、天璽の御宝を授けた。また、天羽羽弓(あまのははゆみ)と天羽羽矢(あまのははや)、また神衣帯手貫(かみのみそおびたすき)の三物を登美白庭邑(とみのしらにわのむら)に埋葬した。これを持って墓と為した。
さらに高天彦神社が天孫降臨の地と伝えられているように、この記事は国譲りの物語によく似ている。国譲り神話を要約すると、
葦原中国に派遣した天稚彦がなかなか復命しないので雉を派遣したところ、天稚彦が高天原を裏切っていたので高皇産霊尊は天稚彦を殺した。
この二つの記事は元来同じものではないかと考える。饒速日尊が作ったヒノモト(葦原中つ国)と倭国(高天原)の合併が国譲り神話と重なったのではあるまいか。国譲りの後の天孫降臨伝承も高天彦神社に存在している。このように考えた場合、完全ではないが次のような対応が見られる。
国譲り神話との対比
              記紀神話    大和の伝承
国を開拓した人物       大国主命    饒速日尊
高天原から派遣された人物  天稚彦     味鋤高彦根神
催促に派遣された人物     雉       速飄神
降臨した人物         瓊々杵尊    神武天皇
道案内の人物         猿田彦     鴨建角身命

系図に対する考察
大田々禰古命は第十代崇神天皇のころの人物であり、天日方奇日方命は神武天皇の頃の人物と伝えられているので、代数で判断すれば先代旧事本紀が正しいことになる。大田々禰古命は大物主神の子孫なので、大物主神を祀ることになっている。このことから考えると、大田々禰古命の祖先は大物主神でなければならない。その点から判断すると、言代主か大国主が大物主神とならなければならない。大田々禰古命の出身地と伝えられている陶邑のある大阪市の南から堺市、和泉市にかけて曽根の地名が分布している。長曽根に長曽根神社があり、和泉市には池上曽根遺跡に隣接して曽彌神社があり、『新撰姓氏録』和泉国神別曽禰連、神饒速日命六世孫伊香我色雄命後也 とあるように、大田々禰古命の出身地は物部の勢力圏である。その点から考えると、この系図の大国主は饒速日尊でなければならない。大物主=饒速日尊と考える必要がある。饒速日尊がマレビトとして陶邑に入り込んだものであろう。 年代を考えると饒速日尊をはじめとするマレビト集団が大阪湾岸に入り込んだのは紀元25年〜30年ごろであり、天日方奇日方命は神武天皇と同じ頃なので、 AD80年ごろの人物となる。言代主命=饒速日尊とすれば、神武天皇時代までの年数が開きすぎることになる。大国主の子と言われている言代主命は饒速日尊の子と考えれば年数を考えても合理的となる。
世数に注意して系図を比較すると
賀茂一族系図(三輪高宮家系譜)
建速素盞嗚命─大国主命─都美波八重事代主命─天事代主籖入彦命─奇日方天日方命・・・
       (和魂大物主神)   (猿田彦神)     (事代主神)
       (荒魂大国魂神)   (大物主神)     (玉櫛彦命)
日向系系図
素盞嗚尊───饒速日尊
          (大歳神)
          天照大神────鵜茅草葺不合尊────神武天皇
         (ムカツヒメ)
先代旧事本紀
          大国主命────都味歯八重事代主神−天日方奇日方命
三輪高宮家系譜に言代主が二代続いている。他の系図との比較によりこの系譜だけが1世多い。また、大国主命と都美波八重事代主命が共に大物主の別名を持っている。これらのことから判断して、饒速日尊=大物主=大国主=都美波八重事代主命となり、言代主=天事代主籖入彦命=玉櫛彦命となる。 賀茂一族の系図を編集しなおすと次のようになる。

<推定系図>
        三島溝咋耳命───三島溝杙姫 ─┐ ┌─奇日方天日方命・・・三輪氏
                       │ │  (八咫烏命)
                       ├─┤
                       │ │
素盞嗚尊───饒速日尊─┐ ┌──事代主神─┘ └─姫鞴五十鈴姫─┐
      (大国主)  │ │  (玉櫛彦命)            ├─綏靖天皇
      (大物主)  ├─┤            神武天皇───┘
            │ │
高天彦────高照姫──┘ └──下照姫─┐
                 (御年神) ├天八現津彦命−観松彦伊呂止命・・・賀茂氏
        大国主─── 味鋤高彦根神─┘
                 (賀茂大御神)

 
このように考えると次のような物語になる。 。
スサノオは饒速日尊に近畿地方以東をまとめ上げ、倭国と合併させる使命を持っていたが、いつまでたってもその音沙汰がない。あせった高皇産霊尊は味鋤高彦根神を派遣して合併を勧めさせた。味鋤高彦根神は大和に来て葛城一族の娘下照姫(御年神?)と結婚し、なかなか帰ってこない。味鋤高彦根神が大和にやってきた直後に饒速日尊は亡くなった。味鋤高彦根神は、ヒノモトと倭国の間を取り持って大合併が成功し、味鋤高彦根神は賀茂大御神と称されるようになった。
根拠は薄弱であるが、このように考えるといろいろとつじつまが合うのである。葛城一族の神々に混乱があることは明白であるので矛盾がないように再構築するとこのようになる。混乱が生じたのは饒速日尊をはじめとするマレビトたちが一斉に方々の国々に入り込んだために系統が複雑になりすぎたためと思われる。
饒速日尊は紀元35年頃、河内平野がまとまってきたので、大和川を遡り再び大和盆地に移動してきた。最初に葛城山麓の葛城一族にマレビトとして入り込み高照姫と結婚し御年神をもうけた。これにより葛城一族がヒノモトに加盟することになった。
三輪山山麓の統一 
耳成山 / 古くは天神山と呼ばれ、8合目に耳成山口神社(天神社)があり、大山祇命・高皇産霊尊が祀られている。昔より神が坐す山といわれていた。位置から考えて、葛城から三輪方面へ移動する丁度途中にある耳成山は饒速日尊が拠点とするには最適と思われる。
鳥見山・等弥神社 / 最古の斎場だと言われている。山頂には祭壇状の斎場跡、祭祀の饗宴場だったという「庭殿」、注連縄をはって祭場とした「白庭」がある。等弥神社の祭神は「大日霊女貴尊」であるが、「饒速日尊」を祀っていたようである。
三輪山 / 「三輪山には、奥津磐座・中津磐座・辺津磐座の3ヶ所に神の宿る座があり、それぞれ大物主神・大己貴神・少彦名神の依代であると言われている。 そのなかの山頂周辺にあるのが奥津磐座である。この磐座が三輪山祭祀の中心と考えられる。山頂には大物主神の子といわれる日向御子神を祀る高宮神社がある。
大神神社 祭神 大物主神 / 三輪山そのものを御神体としている。
大和神社 祭神 大和大国魂大神 / 中央本殿の祭神大和大国魂大神、左本殿の祭神八千矛神(素盞嗚尊or饒速日尊?)、右本殿の祭神御歳神である。大和大国魂大神は大歳神の子(言代主か?)と言われている。近くには素盞嗚尊を祀る神社が多い。
志貴御県坐神社 / 本来の祭神の詳細は不明なようであるが、饒速日命とも言われている。
宇陀郡榛原町檜牧 / 宇陀川と内牧川の合流点の南側に磐舟という字有り、近くに御井神社がある。この周辺は饒速日尊滞在伝説地である。
初瀬川上流の白木 / 饒速日尊が遷座したところ、鳥見の白庭の地であると伝承されている。東に鳥見山がある。初瀬町白河に饒速日尊を祭る白山神社がある。
芹井(白木の北) / 芹井物部(饒速日尊に供奉した物部)のいたところと伝える。
大行事社 奈良県桜井市三輪字平等寺 / 大物主神の子といわれる、事代主命、加夜奈流美命を祭る。最古の市場の跡といわれている。
日向神社 / 大物主神の子といわれる、櫛御方命、飯方巣見命、建甕槌命を祀る。
狭井神社 祭神 大神荒魂神、大物主神、姫蹈鞴五十鈴姫命、勢夜多多良姫命、事代主神 / 五十鈴姫の実家があったと伝わる狭井川の畔に立つ大神神社の摂社
墨坂神社 奈良県宇陀郡榛原町萩原字天野 / 祭神 墨坂大神(天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、大物主神の六柱神の総称) 神武天皇東遷以前にすでに祀られていた。 「雄略紀」には、「天皇、少子部スガルに詔して曰く、朕、三諸の岳の神の形を見むと欲すと。或いは云う。此の山神は大物主神と為す。或いは云う。うだの墨坂神なり。 」とある。これは墨坂大神=大物主神であることを意味している。
神武天皇の皇后となった姫蹈鞴五十鈴姫命は勢夜多多良姫命と大物主神との間の娘とも、事代主神と勢夜多多良姫命との間の娘とも言われている。葛城一族の統一のところでも述べたが元来この二神は親子と考えられ、各方面の系図において混乱が生じている。大物主(饒速日尊)が大和に入ったのが紀元25年(饒速日尊30歳ごろ)ごろで、紀元80年ごろの神武天皇の皇后になるためには紀元80年ごろ姫蹈鞴五十鈴姫命は 20歳前後でなければならず、彼女は紀元60年ごろ誕生したことになる。饒速日尊65歳ごろでありえないとは言わないが、姫蹈鞴五十鈴姫命は饒速日尊の孫と考えたほうが自然である。つまり、大物主神(饒速日尊)の子である言代主と勢夜多多良姫命の娘が姫蹈鞴五十鈴姫命と考えたほうが自然となる。
三輪山周辺の神社の祭神分布を見ると、三輪山西麓周辺は饒速日尊関連伝承はほとんどなくその子の言代主と思われる伝承が多い。大物主関連伝承も良く検討をしてみると大物主神よりも言代主のものであると判断したほうが年代的に自然となる事例が多い。饒速日尊に関しては三輪山の南部の初瀬川南側からその上流域に伝承地が多いようである。言代主は葛城の鴨都波神社の地で誕生していると思われる。その後三輪山周辺に饒速日尊が進出するまで、それほど年数は立っていないと思われ、言代主は幼少の段階で三輪山に来ていることになる。饒速日尊は耳成山から鳥見山に拠点を移し狭井神社の地に拠点を置いていた一族(大神荒魂神?)に嫡子言代主を預けたのではないだろうか。饒速日尊は初瀬川に沿って統一し宇陀地方に拠点を置いた。しばらく後饒速日尊が東日本統一に乗り出した時、言代主命は留守番として大行事社の位置で市を開き周辺の物資の交流を促進したものと考えられる。
大和川流域一帯の集落にマレビトが入り込み、大和盆地全体がヒノモトの国として統一された。紀元40年ごろのことである。 
事代主命
事代主命とはどのような人物であろうか。先ずは神社伝承をまとめてみよう。
下鴨神社 事代主神の最初の誕生の地
三島鴨神社(高槻市) 事代主神の滞在地。大山祇神のご降臨の地
西宮神社 祭神の蛭児命は伊弉諾岐命と伊弉諾美命との間に生まれた最初の子である。しかし不具であったため葦の舟に入れて流され、子の数には数えられなかった。蛭児命は西宮に漂着し、 「夷三郎殿」と称されて海を司る神として祀られたという。
大山祇神社(愛媛県大三島町) 大山祇神は三島鴨神社から大三島に移ったと伝えられる。
石津神社(堺市) 事代主神はここに五色の石をもって御降臨したと伝えられている。五色の石は神社の前に埋められており、天変地異のある時は浮上すると言い伝えられている。
斐太神社(新潟県妙高市) 大國主命が国土経営のため御子言代主命・建御名方命を従へて当国に行幸し、国中の日高見国として当地に滞在した。大國主命・建御名方命は山野・田畑・道路を、言代主命は沼地・河川を治め水路を開いた。積羽八重言代主神は矢代大明神と称し、矢代川の名の由来となつたといふ。
諏訪大社 諏訪明神以前の土着の神を祀る神事がある。「事代主命社祭」である。この社の祭神は「事代主命」となっているが、十三神名帳では「武居會美酒」とある。 事代主命と同神と言われる「えびす」である。地元では、諏訪明神に従った先住民の長「武居の長者」を祭ったのが「事代主命社」という話がある。また、 下諏訪にも「武居恵比須社」が鎮座している。恵比寿様は「長野県の武居神社」で生まれたとある。
大行事社(桜井市三輪) 加夜奈流美命は、事代主命の御妹。旧説に、事代主命は大己貴命の第一王子にして、幽冥の節度を掌り給う。そのことにより、大行事と称する。『万葉集』や平安時代の物語に出てくる日本で最古の市場、
狭井神社 古代の三輪山の麓、狭井川のほとりに大物主大神の御子神、媛蹈?五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)が住まわれていた。狭井川のほとりはささゆりが咲き匂う美しい所で、やがて五十鈴姫命は神武天皇に見初められて皇后様になられたと記されている。大和朝廷成立直前の事代主命の住まいでは?
美保神社(島根県美保関町) 国譲りに同意して美保関に引き籠もられる。
事代主神が揖屋の溝杭姫の所に通っていて「ワニに足を噛まれた」という神話あり。
三嶋大社(三島市) 八人の妃神と二十七人の御子神を得て、富士山の神と共同で七日七夜の間に、ここに十個の島を生成して、新たな国作りをした。初め三宅島におられたが、後に白浜海岸→広瀬と移られて、最終的に現在の三嶋大社の場所に御鎮座された。ここが、事代主神の最終御鎮座地となる。
伊豆で最初の御鎮座地である三宅島の富賀神社および第二御鎮座地の白浜神社の御祭神は伊古奈姫。そして広瀬神社の御祭神は溝咋姫。いづれも事代主神の重要な妃神である。伝説では三島明神は奥様たちを置いて単身で三嶋大社に御鎮座なさったと伝えられている。
事代主神は他に宮中の第八殿に祀られている。宮中に祀られると云うことは大和朝廷成立に深くかかわった特別な神であることを意味し、記紀神話に伝えられているだけのものではないことは明らかである。
誕生地は神社伝承を見る限りにおいては、奈良県御所市の鴨都波神社(下鴨神社)ということになる。父は大物主命(ニギハヤヒ)、母はカムヤタテヒメである。この地を支配していた鴨一族の地にニギハヤヒ命がマレビトとして入って、一族の娘カムヤタテ姫との間にできた子であると推定される。時期はAD30年から35年頃ではあるまいか。その娘が神武天皇の皇后になっており、大和朝廷成立に大きく貢献した人物であろう。
事代主命の行動の時系列を整理してみることにする。高槻市の三島鴨神社に滞在しているが、ここから、愛媛県の大三島町に移動。西宮神社・石津神社の伝承もこの頃のものと考えられる。三島鴨神社の地で溝杭姫を娶り、神武天皇の皇后(姫鞴五十鈴姫)が誕生している。この姫の誕生は神武天皇との結婚がAD83年なので、AD60年頃と推定される。よって、三島鴨神社の地に滞在していたのはAD60年頃と推定できる。
新潟県妙高市の斐太神社の地で大国主命と国土開発をしていることになるが、大国主命が北陸に来たのはAD20年頃で、事代主命はAD30年以降に誕生しているので時代が合わない。この大国主命はニギハヤヒ命のことであろう。事代主命はニギハヤヒ命と共に東日本地方開拓をしていることが分かる。AD45年頃であろう。また、諏訪大社にタケミナカタ命が降臨する前の神として事代主命が祀られているが、タケミナカタ命がこの地を訪れるのはAD47年頃なので、その直前に事代主命がこの地を開拓していたことになる。AD43年頃ではあるまいか。諏訪地方→妙高市への移動と思われる。
大行事社や狭井神社周辺の伝承によると事代主命は大和朝廷成立直前に三輪山の麓に住んでいたようである。AD70年頃であろう。AD55年頃東日本地方開拓から父ニギハヤヒと共に戻ってきて、三島鴨神社の地に移動したと思われる。移動の理由はなんだったのであろうか。
西宮神社は蛭児命であるが、この人物も恵比寿様であり、事代主命と共通である。事代主命であろうと推定している。西宮神社・石津神社・三島鴨神社と大阪湾岸の重要拠点に位置している。また、此処から移ったと言われる大三島の大山祇神社も海上交通の重要拠点である。このことは、事代主命が瀬戸内海の海上交通の実権を握ったことを意味している。ニギハヤヒ命の建国した日本国は海外から離れているために、海外の最新技術が入りにくく、瀬戸内海の海上交通の安定は是非とも確保しなければならないものだったに違いない。事代主命は東日本地域の開発をする中で、西日本に比べて最新技術が入りにくいことを肌で感じたのであろう。そのために、大和帰国後、瀬戸内海の海上交通路の確保に奔走したのではあるまいか。越智水軍は大山祇神社の水軍であり、謎が多いのであるが、事代主命が作ったと言えなくもない。
この後、事代主命は出雲の統治者になっているのである。神武天皇東遷のとき、天皇は安芸国に滞在している。その時、出雲と安芸国の割譲について話をしているが、その交渉相手が事代主命である。どのような過程で出雲の統治者になったのであろうか。そのヒントとなるものが、瀬戸内海航路である。この時(AD60年頃)瀬戸内海沿岸地方は東倭に所属しており、その支配権は出雲にあった。この当時出雲国譲りでサルタヒコが出雲の統治者であった。東倭に所属している瀬戸内海沿岸地方の実権を握るには出雲との交渉は欠かせないものである。サルタヒコ命も事代主命もともにニギハヤヒ命の子であり、異母兄弟である。AD60年頃はサルタヒコ50歳、事代主30歳程度と思われる。サルタヒコはこの後伊勢に移動しそこで亡くなっているので、この頃出雲の統治権がサルタヒコ命から事代主命に移ったことになる。事代主命は大和朝廷が成立した後、伊豆地方の開拓に移っており、出雲の統治権を持っていたのは20年程度と考えられる。出雲の統治権は事代主命の後、サルタヒコの娘と結婚した天穂日命の孫に当たる櫛瓊命に移っており、以降命の子孫が代々継承している。事代主命は出雲の統治権を一時的に継承したという感じである。
事代主命は瀬戸内海航路の安定確保のために出雲にあいさつに赴いたことであろう。この時、サルタヒコと瀬戸内海航路の確保の必要性について話し合ったに違いない。サルタヒコの娘が高齢で誕生した直後と思われ、他に子がなく、出雲の後継者がいなかったのではないだろうか。サルタヒコも高齢に達し、娘婿に出雲を任せたいと思ってはいたが、何せまだ若すぎる。娘が成長し、出雲を任すことのできる後継者が育つまでの繋ぎを事代主命に頼んだことが考えられる。事代主命としても出雲の統治権が手に入れば、瀬戸内海航路の整備は思い通りにでき、サルタヒコにとっても出雲を安心してまかすことができる。事代主命もニギハヤヒ命の子であり、出雲創始者スサノオ命の孫である。血筋としては十分な存在であった。そのような次第で、事代主命が出雲の統治権を引き受けたものと考えられる。
事代主命が出雲統治者になるのはよいにしても、事代主命は次の日本国王の候補者である。大和にいたニギハヤヒ命も高齢である。賀茂一族の系図にそのヒントがあるようである。
賀茂一族系図(三輪高宮家系譜)
建速素盞嗚命─大国主命─都美波八重事代主命─天事代主籖入彦命─奇日方天日方命・・・
       (和魂大物主神)   (猿田彦神)     (事代主神)
       (荒魂大国魂神)   (大物主神)     (玉櫛彦命
この系図を見ると猿田彦神の後を事代主神が引き継いだことになっている。また、事代主命は二人いることになっている。ここでいう事代主命は都美波八重事代主命であり、第二代日本国王として活躍したのは天事代主籖入彦命ではないのだろうか。直系のようにつながっているが、次の奇日方天日方命が神武天皇と同世代であることから考えると、都美波八重事代主命と天事代主籖入彦命は兄弟とも考えられる。このあたりの系譜も混乱しているのであろう。
サルタヒコは出雲の国を事代主に譲った後、伊勢国椿大神社の地に隠居し、そこで世を去った。事代主命は成長したサルタヒコの娘と天穂日命の孫である櫛瓊命を結婚させ、櫛瓊命に出雲の統治権を譲渡した。事代主命は東日本地域の開拓に再び旅立ち、伊豆地方を開拓し静岡県三島市の三島神社の地で亡くなった。 
紀伊國国譲り
この当時、紀伊国はどうなっていたのであろうか。紀伊国はAD20年ごろ、南九州を統一したスサノオがイザナギ命、イザナミ命、五十猛命、大屋津姫、抓津姫を率いて統一した。五十猛命、大屋津姫、抓津姫は和歌山市周辺、イザナギ命、イザナミ命は熊野地方を統一した。この地方はそのまま倭国に所属していたが、倭国分裂後出雲の統治力が低下し、東倭の支配権が十分に届かない状態になっていた。紀伊国は大阪湾岸地方と文化的つながりが深く、ニギヤハヒ命も和歌山市周辺に名草一族の祖である天道根命、熊野地方にはニギハヤヒの九州での御子である高倉下命のマレビトを送り込んできた。天道根命はAD30年ごろ、高倉下命は少し遅れてAD35頃ではあるまいか。
伊太祁曽神社に伝わる伝承では、本来の鎮座地は現在の日前宮の地で、後にこの伊太祁曽の地に遷座になったと伝えている。このことから、五十猛命は日前宮の地を拠点として紀伊国を統治していたと推定できる。
また、大和御崎之宮(御祭神 天照大神 大己貴神 猿田彦神)によると、「はるかなる太古、神代の時代、天照大神の命により、素戔嗚命の子五十猛命(別名伊太邪曾大神・大屋津姫神、?津姫神の三柱の神が木種を持って、道祖神猿田彦神の導きで、この和歌山市北野の地に天降られました。」とある。五十猛命は大和御崎之宮の地に到着し、統一後日前宮の地に移動したものであろう。
10年ほど経った、AD30年ごろニギハヤヒ命の一行に伴って天道根命がマレビトとしてやってきた。AD35年ごろ出雲でスサノオ命が亡くなった後、不安定になった出雲を立て直すために、五十猛命は出雲に帰ることになった。その後、紀伊国は大阪湾岸地方と文化的つながりが深いので、天道根命は倭国から離れ、日本国に所属することにした。
伊太祁曽神社に伝わる社伝によれば、「日前宮・国懸宮この地には元々伊太祁曽神社が祀られていたが、紀伊の国譲りの結果、日前神・国懸神がこの地を手に入れた。その後、伊太祁曽神は山東の地に引いた」とある。日前宮は天照大神で、国懸宮は御神体が鉾(スサノオのシンボル)なので、日前宮がニギハヤヒ、国懸宮がスサノオと思える。この宮は紀伊国国譲り後の拠点であったのであろう。
おそらく、いずれ出雲に帰ることを考えていた五十猛命はマレビト天道根命がやってきた時、その統治権を天道根命に譲り、自らは伊太祁曽に引いたものであろう。二人協力して紀伊国を開発していったものと考える。
スサノオの死後出雲に帰った五十猛命は横田町大呂の地で、製鉄開発に努力しその地で亡くなった。同地の鬼神神社に五十猛命の御陵がある。
熊野地方も高倉下の努力によって日本国に所属するようになった。また、熊野地方の開祖、スサノオ、イザナギ、イザナミに対し熊野本宮大社での祭祀が始まった。
熊野地方が日本国に所属するようになると、大和との交流が必要になるが、熊野山岳地帯は急峻であるために、交流がままならなかった。しかし、熊野奥の宮といわれている玉置神社は神武天皇東遷時には既に開かれていた。このことは、大和・熊野の連絡道がすでに存在していたことを意味する。、ニギハヤヒは後の神武天皇東遷経路に沿って道を切り開き、その途中の玉置山でも祭祀を始めた。これが現在の玉置神社であろう。
八咫烏命はこの経路を通って、熊野・大和の連絡役をしていたと考えられる。 
河内平野の考古学的変化
大阪湾岸にある代表的な池上・曽根遺跡を調べてみると、中期までは都市的な色彩を帯びた巨大集落であったが、中期末(紀元前後)に瀬戸内系土器が出土するようになるとまもなく、この大規模な集落は瓦解する。以後は小規模な小集団に分散する傾向がある。このような変化はこの遺跡だけではなく大阪湾岸一帯の遺跡で一斉に起こっている。このような集落の急激な変貌は、内的要因によってもたらされたと考えるよりも、外部圧力によるものと考えられる。中期末の外部圧力となれば、ニギハヤヒの大阪湾岸侵入と時期・場所ともに一致するのである。
池上・曽根遺跡
近畿地方の弥生中期末から後期初頭への変化はニギハヤヒの近畿地方侵入によってもたらされたものと推察されるが、伝承から推定された年代と、考古学的事実から推定される年代の照合を謀ってみよう。
スサノオの死が紀元30年頃であり、ニギハヤヒの近畿地方侵入はその前後と考えられるから、紀元25年頃と推察される。 一方考古学的事実では、中国の王莽時代の貨泉(漢書「食貨志」によれば紀元14年〜40年の間)が近畿地方後期の最も古い形式の土器と共に出土している。この頃は頻繁に中国と交流しており、鋳造時期と出土時期はほぼ重なると見てもよい。また年輪年代法と合わせて推定すれば、 中期と後期の境目は紀元20年から30年頃と思われ、まさに伝承とぴったりと一致している。
ニギハヤヒの近畿地方侵入を裏付けるものとして、次のようなものがある。
瀬戸内系の土器
唐古・鍵遺跡には、中期までは、近隣地方や東方地域からの土器の搬入があるが、西方地域からの土器の搬入は全くなかった。ところが、中期末になると、瀬戸内系の大型器台と大型の壷が出土している。これらは日常的に使うものではないことから、瀬戸内系の文化を受け入れたものと判断される。
大阪府高槻市の安満遺跡では、中期末になると、壺や鉢などの多くの土器に、新形式が出現し、器形や製作技法に瀬戸内系の要素が強く認められるようになる。そして、石器が少なくなり板状鉄斧や鉄鏃などの鉄器が多く見られるようになる。さらに、墓域が居住区に変わるなど、中期の生活形態を否定するような変化が起こっている。住んでいた人々は集団でどこかへ移動したようである。池上・曽根遺跡、安満遺跡、を初めとする近畿地方一帯の遺跡から中期末にほぼ一斉に人の姿が消えるのである。おそらくニギハヤヒの東日本統一事業に参加し、統一後の地方統治をしたものと考える。これは、瀬戸内勢力の侵入を受けて起こった変化と考えられる。瀬戸内勢力は畿内の人々に各方面での技術供与を行い、その見返りとして、東日本統一に協力するということになったと思われる。
大和盆地での遺跡の集中
近畿地方では、中期末に当たるこの頃より、周辺の遺跡が消滅する傾向にある。しかし、唐古・鍵遺跡のみがそれとは逆に巨大化してきている。近畿地方が統一され、その統一政府の指示によって人々が移動したと考えられる。そして、その統一政府のあったのが唯一巨大化した唐古・鍵遺跡であろう。
唐古・鍵遺跡は中期末あたりから規模が大きくなり、その中心の祭祀遺構から鶏の土製品が出土している。同時にその位置は、冬至の日に三輪山山頂から太陽が昇ってくるのを見ることができる。中期末頃、日の出の位置から時期を探る暦法が導入され、三輪山信仰が始まったと考えられる。山頂からでてくる太陽の姿が好きだったニギハヤヒが始めたものと考えられる。
瀬戸内系の祭祀
唐古・鍵遺跡から分銅型土製品が見つかっている。これは、山陰系の祭祀器具であることから、山陰系の祭祀も受け入れているようである。唐古・鍵遺跡には瀬戸内系と、山陰系の勢力がほぼ同時に入ってきていることになる。畿内系の土器が、この時期、瀬戸内・山陰地方に流れた形跡がないことから、この流れは、瀬戸内・山陰から畿内への一方的なものと判断される。また、戦闘遺跡が見られないことから、大和の勢力は、瀬戸内・山陰系の文化を平和里に受け入れたことになる。
大阪湾型銅戈
大阪湾型銅戈が中期末の土器と共に出土する。銅戈は北九州地方から出土するため、この地方からもたらされたものと判断するが、瀬戸内沿岸地方からほとんど出土しない上に、九州のものと形式が違っている。九州とは違った祭祀をおこなうという目的を持って、九州地方からもたらされたものと考える。大阪湾型銅戈には銅鐸と同様に鋸歯紋(ニギハヤヒのシンボル)が多用されていることから、ニギヤハヒはスサノオと九州統一をした後、畿内地方に新しい祭祀を広めるため、瀬戸内地方からもたらしたものと考えられる。
畿内の中期後半の遺跡から山陰地方と、瀬戸内地方の土器あるいは土製品が見つかっている。中期末のこれらの変化は、ニギハヤヒが山陰生まれで、瀬戸内育ちということを考えると、ニギハヤヒの侵入という伝承と完全に合致しているといえよう。 
 
第9節 東日本統一

 

第一項 各種変化
ニギハヤヒは、大和に入ってしばらくした後、東日本統一に乗り出している。
伝承
「往古、武蔵の国を開発された大国主命が、初めてこの府中に御降臨になった折り..」東京都府中市・大国魂神社伝説
東日本を統一したのはオオクニヌシとなっているが、神社名の大国魂命は、他の複数の神社の伝承によると、ニギハヤヒのことであるから、すり替えられたものであるらしい。
「大和国鳥見白庭山に宮居した饒速日命は、土地の豪族長髄彦の妹御炊屋姫を妃とし、宇摩志麻治を産んだ。その後東征し、印旛沼、手賀沼、利根川に囲まれた土地に土着した部下が、祭神の三神を産土神として祭り、鳥見神社とした。」千葉県印西町鳥見神社記録
このような伝承が東日本のあちこちで残っている。これは、大和に入ったニギハヤヒが、その後、東日本一帯を統一したことを示している。そして、統一後、各地に自分の部下を配置し、彼らにその地方を開拓させ、新技術を伝えた。この部下が方形周溝墓を持つ河内一族であると考える。大阪湾一帯の遺跡の多くが中期末を境に消滅しているが、ニギハヤヒについて統一事業に参加したものと考える。ニギハヤヒは河内一族を率いて東日本地方を統一したのである。
方形周溝墓の急激な伝播
方形周溝墓は、朝鮮半島より、弥生前期末頃大阪湾岸地方に移動し、中期までは、近畿地方と、北陸・東海の一部にしか見られなかったが、中期末に当たるこの時期、一挙に関東地方まで広がっている。しかし、その中心であるべき大和盆地には少ないのである。また、方形周溝墓は一挙に広まった割に地域差がかなりある。そして、この頃の方形周溝墓は西日本地方には全く見られない。
方形周溝墓に関するこれらの事象が起こった原因について検討してみよう。
まず、中期末になると、一挙に関東地方から東北地方南部まで広がっている。細かく分析してみると、短期間の間に西から東への伝播であることが分かる。その出発点は近畿地方である。近畿地方で何かがあって、その結果急激な伝播が行われたと考えるべきである。そこで、この時期、近畿地方の遺跡で起こった大きな変化を調べてみると、次のようなものがある。
・ それまでになかった瀬戸内地方からの土器の流入が増え、そして、土器に製作技法上の変化が起こっている。
・ 上の変化が起こってしばらくして近畿地方の多くの遺跡がこの時期ほぼいっせいに消滅する傾向がある。
・ それ以降の遺跡は小規模なものに変わり、以前の生活形態を無視するような(墓域が住居に変わる)遺跡の分布になる。
・ このような変化の中で唐古・鍵遺跡のみは今まで以上に巨大化し発展している。
近畿地方に東からの新しい流入はないので、近畿地方で起こった変化により、一方的に東日本地方に方形周溝墓が伝播したと考えられる。その変化のきっかけと思われるものが瀬戸内系の土器の流入にあり、また、方形周溝墓が西日本方面に伝わっていないので、瀬戸内地方からの影響を受けて、近畿地方に変化が起こり、東日本地方に伝播したものと判断される。
人々の移動が起こる理由
方形周溝墓が一挙に広まるためには近畿地方からの多くの人々の一斉の移動がなければならない。近畿地方の遺跡の急激な減少はこれと対応しているようである。人々の一斉の移動が起こる原因としては次のようなものがあげられる。
1 近畿地方をはじめ西日本地方が住みにくくなったために東への移動が起こった。
2 東日本地方が住みやすくなったので人々の移動が起こった。
3 東の人々から呼ばれた。
4 外部勢力の進入により追い出された。
5 近畿地方の統一政権の国王の命令で人々が一斉に動いた。
1〜3の理由では人々が広範な範囲に急激に広がるということが説明できない。住みやすさで人々が移動する場合は住みやすい特定のところに方形周溝墓が集中する傾向が出るはずである。また、唐古・鍵遺跡のみが巨大化したことが説明できない。
外部勢力の侵入がこの時期にあったのは事実と思われる。それは、瀬戸内地方と思われ、その地方の土器が出土するようになるからである。外部勢力の侵入があった場合、それまで住んでいた人々はその勢力との共存を嫌い、他の地域へ逃げることが考えられる。しかし、この場合、近畿地方で人々の入れ替えが起こるために、今までとはまったく違った遺跡の形式になるはずである。たしかに、墓域だったところが居住域になるなどの変化は起こっているが、連続的な変化ではなく、断絶がある。追い出された場合、ある時期を境に急変が起こるはずである。これは、遺跡が消滅し、その後に別の人々が移住してきたと考えた方が自然である。
また、中心遺跡と思われる。唐古・鍵遺跡を見ても、瀬戸内系の遺物は出てくるようになるが、今までの生活様式が否定されるような傾向は見られない。まして、戦闘があったと思われるような遺物は見つかっていない。瀬戸内からの影響を受けて変化したと考える方が自然である。
残る可能性は5のみである。1〜4が否定される以上、人々の一斉の移動を可能にするものは、統一政権以外に考えられない。唐古・鍵遺跡のみが巨大化していることは、近畿地方に統一政権が誕生し、その中心地(都)が唐古・鍵であり、その統一政権の指示により、人々の大移動が起こったと見るのが自然である。
移動の目的
次に重要となるのが、この統一政権が人々の大移動を起こした目的である。重要な目的があったからこそ、人々の移動が起こるのである。伝承については後で検討することにして、まずは、考古学的見地からその目的を推定してみようと思う。
まず、第一のポイントは非常に広範な範囲への一斉の移動である。おそらく10年ほどの間に東海地方から南東北まで一挙に広まっているのである。しかも、現地の人々と戦いがあった形跡もなく、平和裏に行われているようである。方形周溝墓は祭祀系の墳墓であり、その墓域から祭祀系土器が良く出土し、副葬品は少ない。これは、力でもって現地の人々を征服したのではなく、宗教的進入を意味している。宗教を広めるための移動であれば、広範囲にいっせいに移動し、平和裏に現地に侵入するということもあわせて説明できる。実際、この領域は地域差はあるがこのあと、銅鐸祭祀が広まっているのである。
スサノオの国家統一方法と同じように、ニギハヤヒが新技術を示して、東日本地方を統一して回ったと考えれば、考古学的事象と矛盾なく一致するのである。東日本地方の神社に伝わる伝承のように、ニギハヤヒが近畿地方に住んでいた人々を率いて、東日本地方を回り、各地にその人々を配置し、その人々がその地方に近畿地方の高度な文化・技術・祭祀を伝えたと考えられる。東日本地方に住んでいる人々は、この技術で生活が潤い、ニギハヤヒの行動に感謝した。東日本地方の各地域はニギハヤヒの日本国に加盟し、日本国は一挙に近畿地方から南東北地方までを治める巨大な統一国家になったものと考えられる。  
第二項 統一方法
東日本地域は、畿内への土器の流入状況から判断して、畿内と似たような共通の文化圏に属していたようである。このため、東日本地域の統一は、比較的簡単ではなかったかと想像する。
近畿地方よりも東の地方は、中国大陸や朝鮮半島から離れている関係上、外国の技術は全くといってもいいほど入っていなかったと考えられる。そこへ、農業などの新技術を持ってニギハヤヒが訪れ、新技術を使った生活を伝えてゆけば、その技術が人々にニギハヤヒを神ではないかと感じさせ、併せて祭祀をすることにより、人々の心を一つにまとめ、国を統一していったものと考える。西日本地方の伝承と違い、東日本地方の伝承が国を開発したとか、開拓したとかのものが多いのはこのためであると考えられる。
方形周溝墓から出土する土器に祭祀系のものが多く、その他の副葬品が少ないことから、方形周溝墓は祭祀者の墓と考えられる。ニギハヤヒと共に東日本地域を統一した河内一族は、ニギハヤヒからその地の開拓を任され、ニギハヤヒの祭祀をする事で、その地方を治めていた。方形周溝墓はその祭祀者の墓と判断する。  
第三項 地方での墓制のわずかな違い
方形周溝墓にしても、古墳にしても、箱式石棺墓にしても、ある地域から地方へ広がっているのであるが、墓の微細な部分はかなり違っているのである。同じ一族が集団で動けば、その地方に元の地方と全く同じ墓を作るはずである。そして、もし人々の移動がなければ、離れた地域の墓制をまねすることはとうてい考えられない。つまり少人数の移動としか考えられないのである。しかも、これらの墓制は広い範囲に分布していることから、少人数の広範囲な移動ということになる。これは大変不自然なことである。少人数ながら広範囲であることを考えれば、その合計人数は相当大規模なものとなる。大人数が広い範囲にバラバラに移動するということは、通常考えられない。全く見知らぬ地へ移動するわけであるから、当然不安があり、どうしても大集団を作るはずである。大集団となれば、墓も、移動元とそっくりにならなければおかしい。これはどうしたことであろうか。
伝承とつなぎ合わせてみるとこの謎も解決するのである。畿内から役人あるいは技術者が地方へ派遣されたと考えるのである。少人数では不安もあるが、大和朝廷によって統一され、しかも、地方まで、同一の神(スサノオ・ニギハヤヒ)を信仰しているという事情があれば、共通の精神基盤であるから、派遣された人物は、その地方に入り込みやすく、その祭祀を行っていれば、その地方が治まっているわけであるから、大人数を派遣しなくてもよいわけである。朝廷にしても人数に限界があるために、各地方に大人数を派遣するわけには行かず、少人数の派遣にしたわけである。その人々が河内一族である。そのため、この時期、大阪湾一帯の住居遺跡が激減することになる。
人々はニギハヤヒの技術でもってニギハヤヒを神と思っているわけであるから、ニギハヤヒに従っていた人間も神に近い存在として受け入れたのではあるまいか。スサノオの統一と同じ宗教統一である。少人数の場合死後墓を作るのに在地の人々が中心になって作ることになり、他の地方と同じものが作れなかったと考える。その代表者にシンボル的なものを持たせて、地方に派遣し、祭祀をしっかりやれば、地方を治めることができたのである。このことも初期大和朝廷が、力による統一ではなくて、平和裡の統一をしたことを裏付けている。  
第四項 少人数での統治
少人数で地方を治めることは難しいので、ニギハヤヒが統一した地域に、畿内からニギハヤヒ祭祀者がやってきて、ニギハヤヒ祭祀によってその地方を治めたと考える。その祭祀のシンボルが河内一族が持ち込んだ小銅鐸ではなかったのだろうか。小銅鐸は河内一族が朝鮮半島から移ってきた時に日本列島に持ち込んだものと考えるが、これによって、それまで鳴り物であった銅鐸が祭器化し、ニギハヤヒのシンボルである鋸歯紋が重要視されるようになってきたと判断する。大和盆地に方形周溝墓が少ないのは、河内一族とナガスネヒコ一族との対立関係のため、河内一族が大和に入ってくるのをナガスネヒコ一族が許可しなかったことと、四隅突出型墳丘墓と同じく、祭礼の場所が決まっていたからと考える。大和にはニギハヤヒの霊廟(三輪山)が存在し、人々はその前で、祭礼をしていたのである。  
第五項 統一過程の推理
饒速日尊は河内平野、大和盆地一帯を統一完了した紀元40年頃、東日本一帯を統一するために、大和を出発した。饒速日尊が大和にマレビトとして入り込んで15年の間に、饒速日尊や他のマレビトたちによって、大阪湾岸一帯に誕生した子供たちも15歳ほどに成長した。スサノオが西日本一帯を統一した時と違い、大阪湾岸一帯の諸国は饒速日尊一族で占められることになった。大変多くの人々の協力が得られたので、饒速日尊自身が東日本一帯を巡回して統一して回るのではなく、大阪湾岸一帯の人々を数多くの小集団(おそらく家族単位)に分け、先進技術を携えて、東日本一帯の各地の国々に入り込んで共同生活したものと考える。方形周溝墓の分布から判断して、中部地方・関東地方・南東北地方までの大変広い領域が10年ほどで一斉に統一されていること、饒速日尊の具体的行動伝承が西日本ほど多くないことなどから、このように判断するのである。
東日本の諸国に派遣された小集団(家族)は、目標の小国に入り込み、現地の人々と共同生活をしながら、ヒノモト国のもつ技術と共に祭祀を伝えた。現地の人々は、いろいろと新しい技術を提供してくれた派遣者に感謝し、ヒノモト国に加盟することを承諾し、派遣者の死後、派遣者の伝えてくれた祭祀法によって方形周溝墓を造り、祭祀を継続したものと判断する。
このように考えれば、大阪湾岸一帯の遺跡が消滅すると同時に、東日本一帯に一挙に少しづつ形式の違う方形周溝墓が分布するようになる事実をうまく説明できる。
饒速日尊は紀元40年ごろから55年ごろにかけて、東日本一帯を統一してヒノモト国を拡張したのである。統一完了後、紀元55年ごろ、饒速日尊は大和に帰還した。
具体的な統一過程の解明は東日本地域が広範囲である上に、伝承がばらばらであるために至難を極める。少ない伝承を推理を交えて繋ぎ合わせてみたいと思う。  
饒速日尊による東日本統一伝承

 

饒速日尊は東日本全域を統一していると思われるが、それを示す伝承は少ない。おそらく、後の時代饒速日尊の伝承が抹殺されたためではないかと思われる。東日本地域の一宮・二宮級の神社には出自不明の神が祀られていることが多い。一宮・二宮級の神社は後の世の国造が神社に参拝する順番を示しており、その国を統治するには重要なことであった。そこに祀られている神が全く意味のない人物と言うことは考えられず、その出自不明の神々は、その国を開発した重要人物すなわち饒速日尊の別名ではないかと推定する。
それを示す伝承をもつ神社が見つかった。 
矢田八幡神社
祭神「應神天皇、神功皇后、武諸隅命 配 孝元天皇、内色姫命」
「崇神天皇10年。四道将軍の一人丹波道主命は勅命により山陰地方平定のため丹波国(今の丹後国)に至り、比治の真名井に館を構えられたが無事平定を祈願のため矢田部の部民をして祖神を祭らしめられ、熊野郡では矢田神社を祭祀せられた。当初の祭神は饒速日命、孝元天皇、その奥后内色姫命であったが、奈良朝に至り、当時の物部氏と蘇我氏の争いからついに物部氏亡び蘇我氏の探索は当地にまでおよび矢田部一族はそれを恐れ、宇左八幡宮を勤請して社名を矢田八幡と改めた。」豊岡県神社神主書状一巻。(式内社調査報告による) 京都府熊野郡久美浜町大字佐野字地シワ38
この神社の記事には饒速日尊を祭神とする神社に蘇我氏の追求が来て祭神を変更しなければならない状況が伝えられている。これが饒速日尊が抹殺された実態であろう。このために、古代史の復元が至難を極めることになる次第である。しかし、複数の神社の伝承を照合することにより、この変更された神の実態に迫れればよいとは思っている。
神社に祭られている神々は
1 はっきりと人物が特定できる神
2 同一人物が別の神名で祀られている
3 複数の人物の総称
4 祭神が不明であったり間違っている
などがあり、いずれも伝承であり、物的証拠のあるものではない。神社に祭られている神の正体を探るのは並大抵のことではない。また、その地域の人々に崇め祀られている神の名を勝手に変更するのは、あまり気が進まない。その上、複数の異説を持つ事が多く、その中の一つを採用することになる。これは、都合のよい解釈につながり、古代史の復元の方針とは合わない。そこで、各地域に祀られている神々が饒速日尊とつながる面を持っているかどうかに絞って調べてみることにする。 
大山祗神(駿河国一宮三島神社他) 
大山祗神はスサノオの妻の稲田姫の祖父として神話に登場する神である。伊予大三島の大山祗神社では天照大神の兄として、最古と言われている薩摩の大山祗神社ではニニギ命の妻吾多津姫の父として祀られている。これらは同一人物とは考えられない側面があり、その土地の有力者を大山祗神と呼んでいることがうかがわれる。しかしながら、三島神社で祀られている大山祗命は行動実績を伴っている。東日本地域の一宮級の神社の祭祀の原点を探ってみると大山祗神であることが多い。地域の土着神である可能性もあるが、これは一人の同一人物と考えてみる。
1 大阪府高槻市の三島鴨神社は、淀川沿いに有り、大山祇命の最初の降臨地と言われている。事代主神が三島溝杙姫(玉櫛姫)に生ました姫が姫鞴五十鈴姫で、神武天皇の妃となった。また三島溝杙姫の父神が三島溝咋耳命、その父神が大山祇神となっている。また、この神は九州からやってきたとも伝えられている。饒速日尊は大和に侵入する時の伝説地をたどると、まさにこの周辺に上陸したと考えられる。また、伝承上他の人物で、大山祗神に該当するのはいない。このことより大山祗神と饒速日尊がつながる。
2 伊予国大三島の大山祗神社には「わが国建国の大神で、地神・海神兼備の霊神で日本民族の総氏神として、日本総鎮守と者社命を申し上げた。大三島の御鎮座せられたのは、神武天皇御東征のみぎり、祭神の孫小千命が伊予二名島に(四国)に渡り神地御島(大三島)に祖神大山積命を祀った。」とある。「建国の大神」とくれば、スサノオ・ニギハヤヒが該当する。日本の総氏神・総鎮守と言うのはスサノオの活躍が西日本限定であるので饒速日尊が該当する。また、小千命の祖神は「新撰姓氏碌」によれば、「饒速日尊」である。
饒速日尊は各地を訪れた時、周辺の地勢を探るために、その周辺で最も高い山に登ったものと推察される。そのために、各地方の山に大山祇神が祀られ、「山の神」として崇拝されることになったのであろう。  
宇賀御魂大神(稲荷神社)
古事記では、スサノオと稲田姫との間に生まれ、大年神(饒速日尊)は兄としている。日本書紀では本文には登場せず、神産みの第六の一書において、イザナギとイザナミが飢えて気力がないときに産まれたとしている。名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている。スサノオと稲田姫との間の第6子に倉稲魂命がいてこの人物だと言われている。しかし、この人物の具体的行動実績は全く伝えられていない。行動実績がないのに大々的に祭祀されているとは考えにくく、別の人物が倉稲魂命に移ったものと考えられる。
1 宇賀御魂大神は陸中国一宮駒形神社社伝「雄略天皇21年に、京都の籠神社から宇賀御魂大神を勧請して奥宮へ祀り」とある。籠神社の祭神は彦火明命で別名饒速日命である。
2 稲荷神社の総本社は伏見稲荷大社である。その聖地は稲荷山である。稲荷山頂付近は古墳が多く、稲荷信仰が始まる前にも祭祀者の子孫による古墳の祭祀があった。神として祭祀されるのはその始祖である。この付近は紀郷と呼ばれており、紀朝臣の一族が栄えた場所である。紀朝臣の祖は彦太忍信命(孝元天皇皇子)であり、母は伊香色謎命で饒速日尊6世の孫である。
3 稲荷山信仰には「己さん」(神蛇)信仰と「験の杉」という「杉」を縁起物として参詣者が持ち帰る風習がある。これらの信仰は大神神社に古代より伝えられている信仰でもある。
4 神奈川県の秦野に近い大山の阿夫利神社は、秦野に住み着いた秦氏が作った神社で祭神は大山祇命である。伏見稲荷大社も秦氏が創建している。  
浅間大神(甲斐国一宮)
浅間大神の総本社は富士山本宮浅間大社である。この神社ができる前この位置には冨知神社が鎮座していた。神社の記録には「祭神(大山祇)は当地の地主神であり、富士山の神であつたと思われる。現在、淺間神社が鎭座する大宮の社地は、もとは幅地明神富知神社の社地であつたという。淺間神社は平城天皇の大同年中に山宮から今の地に移したのであつたから、大同年間以前は富知神社は大宮に鎭座していた。」と記録されており、浅間神社の大本は冨知神社である。この神社の祭神は大山祇神である。  
白山神(加賀国一宮)
白山の神を祀る神社は白山神社である。加賀国の白山比盗_社(現石川県白山市)を総本社とする。祭神は菊理媛神(白山比盗_)・伊弉諾尊・伊弉冉尊 3柱としているものが多い。御前峰の奥宮には菊理媛命を、大汝峰の大汝神社には大己貴神を、別山の別山神社には白山の地主神である大山祇神をお祀りしています。大己貴神『白山之記』では本来の地主神が、白山権現に御前峰を譲って別山にお鎮(しず)まりになったとされている。白山信仰が始まる前に白山に祀られていたのは大山祇神と言うことになり、白山神は本来は大山祇神=饒速日命であったと思われる。
滋賀県高島郡今津町北生見21の白山神社の主祭神は「大山祇命、伊弉諾尊」であり、これを裏付けている。  
寒川大明神(相模国一宮)
寒川大明神は太古草昧の時代、相模国・武蔵国を中心に広く関東地方を御開拓になられ、農牧・殖林治水・漁猟・商工・土木建築・交通運輸その他あらゆる殖産興業の途を授け、衣食住等人間生活の根源を開発指導せられた所謂関東文化の生みの親神である。
1 讃岐国寒川郡に讃岐国三宮の多和神社がある。祭神は大山祇神である。
2 千葉県印西町鳥見神社記録に、「大和国鳥見白庭山に宮居した饒速日命は、土地の豪族長髄彦の妹御炊屋姫を妃とし、宇摩志麻治を産んだ。その後東征し、印旛沼、手賀沼、利根川に囲まれた土地に土着した部下が、祭神の三神を産土神として祭り、鳥見神社とした。」とあり、関東地方を開発したのは饒速日命である。
以上の点から寒川大明神は饒速日命と考えられる。  
大山咋神(松尾大社・日吉大社)
古事記に「大山咋神、亦の名は山末之大主神、此の神は近淡海国の日枝山に坐し、また松尾に坐して鳴鏑を用つ神ぞ」これにより、両大社の神は同神であることが分かる。
1 日吉祢宜口伝抄」に「天智7年3月3日鴨賀島8世孫宇志麻呂に詔されて、大和国三輪に坐す大己貴神を比叡の山口おいて祭る。大比叡宮と曰ふ」とある。これは日吉大社の祭神は大神神社の祭神と同じということを意味し、大山咋神=大物主神となる。
2 「群書類従」日吉社の項に、「大宮。三輪同体。號大日枝。山王與三輪一躰事」とあり、これも大山咋神=大物主神であることを意味している。
しかし、大山咋神は大歳神の御子とも云われており、猿田彦命の影も併せ持っている。  
国常立神(玉置神社)
小村神社(高知県高岡郡日高村下分字宮の内)の祭神は国常立神であるが、この地は高岡郡日下の庄と呼ばれ、日下氏、高丘首が住んでいた。土佐幽考に「日下氏は神饒速日命の孫比古由支命を祖とし、高岳首は同祖15世物部麁鹿火大連を祖とするとされ、その共通の祖神として国常立尊を祀った」とある。このことより「国常立神=饒速日命」が成り立つ。 
豊国主命(相模国三宮比比多神社)
豊雲野神・豊斟渟尊と同一神と考えられている。 比比多神社の記録によれば創建は神武天皇6年のことで、人々が古くから祭祀の行われていた当地を最良と選定し、大山を神体山とし豊国主尊を日本国霊として祀ったとある。神体山が大山であり、この山は古くから庶民の山岳信仰の対象とされており、大山講と呼ばれた。山頂には阿夫利神社本社があり、祭神は大山祇神である。これより、豊国主尊=豊雲野神=豊斟渟尊=大山祇神=饒速日尊と云うことになる。 
日本大国魂神
日本大国魂神は大国主命の荒魂と言われている。
1 日本書紀一書には大国主神の別名として大物主神、大国魂神とある。この神は大和神社の主祭神で、現在の大神神社の摂社である狭井神社はその昔、大和神社の別宮であったと言われている。祭神は大神荒魂神である。
2 国玉神社(名古屋市中川区)主祭神大物主神、尾張大国霊神社より勧請したというが、この神社の祭神は尾張大國霊神・大御霊神で尾張地方の総鎮守と言われている。
これらのことより大国魂神=大物主神=饒速日尊と考えられる。  
伊奢沙別命(越前国一宮気比神社)
伊奢沙別命は笥飯大神、御食津(保食)大神とも云われている。 これは宇迦御魂、すなわち稲荷神の異称と言われている。宇迦御魂=饒速日尊と推察しているので、伊奢沙別命=饒速日尊となる。また、伊奢沙別命は北陸総鎮守として崇められており、これはあ、北陸地方を統一した神となり、加賀国の白山神と同様に饒速日尊がその正体であることが推察される。
御食津大神は食物を主宰する神で、宇迦乃御魂神は稲の霊、大年神は稲の稔りを司る神でいずれもよく似た役割の神である。同一人物としても不思議はない。  
建御雷神・経津主神(鹿島神宮・香取神宮・春日神社)
建御雷神・経津主神はともに葦原中国平定において天鳥船とともに葦原中国の荒ぶる神々を制圧し、建御名方神との戦いに勝利し、葦原中国を平定した神である。
1 「群書類従二十二社註式」に「石上社 延喜神祇式曰。大和国山辺郡石上坐布都御魂神 人皇十代崇神天皇。御鎮座 一座布留神也 常陸国 鹿島大神同体也」この記事は鹿島大神=建御雷神=布留御魂神であることを意味している。布留御魂神=饒速日尊であるから、建御雷神=饒速日尊となる。
2 「古事記」には建御雷神のみで経津主神は記述されていない。しかし、建御雷神の別名に建布キ神、豊布キ神とあり、この二神は同神と考えられる。 
3 福岡県田川市に春日神社があるが、ここは饒速日尊の降臨伝承地である。
春日神社はこの二神が祀られていることから春日大神も饒速日尊と考えられる。  
高良玉垂命(高良大社・筑後国一宮)
「先代旧事本紀」「天孫本紀」において物部氏の祖神饒速日尊は三二人の従者と二五部の物部軍団を率いて大和国へ降った記述がある。その物部軍団の本拠地は北九州の遠賀川・筑後川沿岸付近に集中している。その中心地が高良大社のある高良山と推定されている。「姓氏家系大辞典(角川書店)」によると、「筑後、当国は物部族の最初の根拠地にて、当地方の大社高良山はその宗社と考えられる」。このことから高良大社の祭神高良玉垂命も物部氏の祖神饒速日尊となる。
また、高良大社の元の祭神は高皇産霊神で、あとからやってきた高良玉垂命に場所を譲ったと記されている。  
大縣大神(尾張国二宮)
大縣大神は尾張国開拓の祖神で国狭槌命とも云うと記録されている。尾張国開拓の祖神は同じ尾張国一宮の真清田神社、三輪神社の祭神でも明らかであるが饒速日尊である。国狭槌命は異説に国常立命と同神であると云うのがあり、大縣大神=国狭槌命=饒速日尊となる。  
大物忌大神(出羽国一宮)・級長津比古命(出羽国二宮)
大物忌神は国家を守る神とされ、また、穢れを清める神ともされた。
1 大物忌神は、倉稲魂命・豊受大神・大忌神・広瀬神・宇賀御魂神などと同神とされる。鳥海山大物忌神社の社伝では神宮外宮の豊受大神と同神としている。鳥海月山両所宮では鳥海山の神として倉稲魂命を祀っている。
2 広瀬神は龍田神社の風の神と同神と言われており、日本書紀では級長津彦命も風の神と言われている。伊勢神宮外宮の別宮に風宮があり、級長津比古命を祀っている。
3 「龍田風神祭祝詞」によれば、崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って祈願したところ、夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建されたという。
4 龍田大社の元宮の聖地は背後の三室山にある。この御室山は三輪山の別名でもある。
これらより、大物忌大神=級長津比古命=宇賀御魂神=饒速日尊とつながる。  
二上神(越中国一宮) 
現在はニニギ命となっているが、本来は二上山に祀られていた神である。同じ名の大和の二上神社は豊布都霊(とよふつのみたま)神と大国魂(おおくにたま)神を祀る。豊布都霊神が石上神宮に、大国魂神が大和神社に勧請されたという伝承がある。豊布都霊神については武雷神と同神とされる。大国魂神は国津神の大将軍とされている。これらの神々はいずれも饒速日尊である。  
金山彦(美濃国一宮)
製鉄の神。
1 金山彦神社 「古代の嶽山・竜田山周辺地域は製鉄業で栄えており、製鉄の守護神として奉祀されたのがはじまりと思われる。北方の高地は製鉄を営むのに最も適した風か得られるところで、風神をお祀りしたと思われる風神降臨の聖地として御座峰が伝承されている。」。鞴が発明されていない頃は製鉄には風が欠かせないことから風の神と金山彦がつながったのであろう。金山彦=風の神=饒速日尊となる。
2 島根県邑智郡川本町に大歳金山彦神社がある。祭神は大歳命である。この神社名は大歳=金山彦を意味している。
3 岡山県津山市の中山神社には、主祭神が鏡作神、相殿が石凝姥命で、社伝には「一に中山大明神または南宮と称せられる・・・金山彦命を祀る」となっている。 主祭神の鏡作神は金山彦命となり、鏡作神は鏡作坐天照御魂神社の主祭神、天火明命(ニギハヤヒ命)であるので、ニギハヤヒ命=金山彦となる。  
生島・足島神(信濃国上田)
日本の国魂の神とされる。同一神と言われている。
1 生国魂神社 祭神 生島神、足島神 神社略記によれば神武天皇が難波津に到着時石山碕(大阪城付近)に生島、足島神を祀ったのが創祀であるとしている。この石山はかっては磐舟神社があり、饒速日命の降臨の地ともされていた。難波の聖地であった。この事実は生島神、足島神=饒速日命であることを意味している。  
高オカミ神・闇オカミ神(貴船神社)
1 京都貴船神社 「貴船神社の社殿の裏側の山手に岩座という3つ大きな岩があり、有史以前から岩座で祭事が行なわれていたと言われている。その昔玉依姫が、浪速の津から淀川・賀茂川をさかのぼり、船が着いた貴船の地に祠を建て、国土の安泰を願ったと言われており、その船が貴船神社の奥ノ宮にある「船形石」とも言われている。その船は黄色い船であったため、この地が「きぶね(貴船)」と呼ばれるようになったとも話がある。この貴船神社に祀られているが、高(たか)オカミの神、闇(くら)オカミの神である。高オカミ、闇オカミは同じ神で、闇オカミは谷の水、高オカミは岡の水を表しているとのこと。」
2 貴船神社の祭神は丹生川上神社の祭神と同じと言われており、また、大和神社は丹生川上神社の本宮である。このことより、高オカミ=闇オカミ=饒速日尊となる。
ここに挙げた神々はいずれも饒速日尊と何らかのつながりが認められる神々である。しかし、他の人物の影も見えるので、完全に等しいというわけではなさそうである。たとえば数学の集合で表すと「宇賀御魂神∋饒速日尊」と言ったところであろうか。  
天日槍命来日

 

天日槍命が垂仁天皇の時代に来日したと日本書紀に伝えられているが、大国主命との争いが神社伝承で伝えられている。一体これはどういうことなのだろうか?この謎を解明したいと思う。
天日槍命が日本にやってきたのは垂仁天皇3年(日本書紀でBC27年)と言われているが、天日槍命は新羅第4代国王脱解王(AD57年〜AD80年)の子であると言われている。脱解王はAD57年に62歳で即位したと伝えられており、その誕生はBC5年頃と推察される。よって、AD15年頃新羅国で誕生したと考えられる。このことから天日槍命が日本にやってきたのはAD30年頃以降となる。大国主命との争いが伝えられているが、大国主命が播磨国を統一していたのはAD30年頃と推定しているので大体一致している。この頃は大和国に饒速日尊がマレビトと共に降臨して数年たったころである。天日槍命が来日し、丹波国に至るまでの過程を追ってみたい。
父である脱解王の誕生説話は韓国の民間伝承に次のように言い伝えられている
「昔、倭国の東北千里に多婆那国があって、またの名前を龍城国とも言った。国王の名前を含達婆といい、女王国の女を王妃としていた。 その王妃は妊娠から7年目にして大きな卵を産んだ。国王は怪しいと思って、それを捨てさせた。王妃は絹布で卵を包み、櫃の中に入れて船で海に流し「有縁の地に到り、国を建て、家を成しなさい」と祝福して別れを告げた。その船は阿珍浦(慶州郡陽南羅児里)に流れ着いた。その地の老婆が空を見上げると、鵲(かささぎ)が盛んに鳴きながら飛んで来たので、何故かと思って行ってみると、船の中に子供を見つけた。 その子供を大切に育てると、人々が尊敬するような人物になった。 鵲の飛鳴によって発見したので、鵲の字の鳥を除いた字である「昔」を姓とした。また、老婆が櫃(ひつ)を解いて出現したので名前を「脱解」とした。その賢名を聞いた朴氏第二世の南解王は、彼を婿に迎え、朴氏第三世の儒里王が崩御した後、遺言によって新羅国の第四代の王となった。」
実際はBC5年頃誕生ではあるまいか。脱解王の出身地は、東北一千里のところにある龍城国(竜宮国)となっている。一千里は魏志倭人伝と同じとすれば100km程度となる。方向が若干違うが倭国(北九州)から100km離れた位置の対馬国がこれに該当するのではないだろうか。対馬国はBC10年頃素盞嗚尊が建国した国で、豊玉彦(海神)が統治していた。日子穂穂出見命がここへ竜宮を目指してやってきている。素盞嗚尊はこの当時倭国と朝鮮半島を対馬を経由して何回も往復していた。脱解王は素盞嗚尊の子とも考えられなくはない。
天日槍命はこの脱解王の子と言われている。誕生はAD15年頃であろう。古事記・日本書記・播磨風土記を元にしてその後をまとめてみると
新羅の阿久(アグ)沼<大韓民国慶州市>の辺で、昼寝をして居た女性が太陽の光を浴びて、目映い赤玉を産み落としたと言う噂を聞いて、譲り受け、持ち帰った処、赤玉は美しい乙女に変身し、天日槍は妻に娶り、楽しい歳月を送るが、夫婦喧嘩の末に「祖国へ帰る」と云い残し、日本に逃げ帰った妻阿加留比売(あかるひめ)を追い、家督を弟知古(ちこ)に譲り来日。  
大国主命と天日槍命との戦いを示す伝承<播磨国風土記> 
1 揖保郡・揖保の里 粒丘 粒丘とよぶわけは、天日槍命が韓国から渡って来て宇頭川下流の川口に着いて、宿所を葦原志挙乎命に お乞になって申されるには、「汝はこの国の主たる方である。私の泊まるところを与えてほしい」と韓国から来た天日槍命が宇頭の川底(揖保川河口)に来て、国の主の葦原志挙乎命に土地を求めたが、海上しか許されなかった。天日槍命は剣でこれをかき回して宿った。葦原志挙乎命は盛んな活力におそれ、国の守りを固めるべく粒丘に上がった。境内に「粒丘」と彫った石標がある。<兵庫県たつの市揖保町中臣1360 中臣印達神社>
2 新良訓 昔、新羅の国の人が来朝した時、この村に宿った。だから新良訓とよぶ。
3 穴禾の郡・雲箇の里・波加の村(はか) 国を占めなされた時、天日槍命が先にこの処に来、伊和大神はその後でここに来られた。<宍粟市波賀町 上野に明神社「天火明神」、宝殿神社「大国主神」>
4 穴禾郡比治里奪谷 葦原志挙乎命と天日槍命が奪いあったので、奪谷と云う。
5 穴禾郡柏野里伊奈加川 葦原志挙乎命と天日槍命が国を奪い合った時、馬がいなないたので、伊奈加川と云う。
6 兵庫県姫路市一宮町須行名407 伊和大神と天日槍命が国を争い、天日槍命が先に占拠した。「度[はか]らずに先に・・」と云ったので波加村と云う。<伊和坐大名持御魂神社「大己貴神」>
7 餝磨郡・伊和の里伊和部 積幡の郡の伊和君らの族人がやってきてここに住んだ。だから伊和部とよぶ。手苅丘とよぶわけは、 「韓人たちが始めて来たとき、鎌を使用することがわからず、素手で稲を刈ったからと言う。<手苅丘 姫路市手柄 生矢神社「大国主命」もとは三輪明神>
8 穴禾の郡・御方の里 葦原志挙乎命は天日槍命と黒土の志爾蒿(しにだけ)にお行きになり、お互いにそれぞれ黒葛を三条足に着けて投げあいた。その時葦原志挙乎命の 黒葛は一条は但馬の気多の郡に落ち、一条は夜夫の郡に落ち、一条はこの村に落ちた。天日槍命の黒葛は全て但馬の国に落ちた。<姫路市一宮町北部 姫路市一宮町森添 御方神社「葦原志挙乎命 配 高皇産霊神、月夜見神、素盞嗚神、天日槍神」>葦原志許男神と天日槍神との戦いを仲裁するべく大和から高皇産靈神がやって来て和議があいなった。そこでお三方をお祭りしたので御方神社と呼ぶ。
9 神前の郡・多駝の里(ただ)・粳岡(ぬかおか) 伊和大神と天日桙命の二人の神がおのおの軍兵を発して互いに戦った。<姫路市船津町八幡>
国土開拓伝承
10 因達の神山 昔、大汝命の子の火明命は、強情で行状も非常に猛々しかった。そのため父神はこれを思い悩んで、棄ててのがれようとした。則ち因達の神山まで来て、 その子を水汲みになって、帰らない間に、すぐさま船を出して逃げ去った。
11 揖保郡・香山の里鹿来墓 揖保郡・香山の里鹿来墓とよぶわけは、伊和大神が国を占めなされた時、鹿が来て山の峰にたった。山の峰は墓の形に似ていた。 <揖保郡新宮町香山>
12 揖保郡・阿豆の村 揖保郡・阿豆の村 伊和大神が巡幸なされた時、「ああ 胸が熱い」いって、衣の紐を引きちぎった。だから阿豆という。<揖保郡新宮町宮内>
13 揖保郡・御橋山 揖保郡・御橋山 大汝命が俵を積んで橋(梯子)をお立てになった。<揖保郡新宮町觜崎(屏風岩)>
14 揖保郡・林田の里談奈志 揖保郡・林田の里談奈志と称するわけは、伊和大神が国をお占めなされたとき、御志(みしるし) をここに突き立てられると、それからついに楡(いはなし)の樹が生えた。<姫路市林田町上溝 祝田神社「罔象女命」>
15 揖保郡・林田の里・伊勢野 揖保郡・林田の里・伊勢野 山の峰においでになる神は伊和大神のみ子の伊勢都比古命(建比名鳥命の子)、伊勢都比売命である。<姫路市林田町上伊勢、下伊勢、大堤>
16 揖保郡・林田の里・稲種山 揖保郡・林田の里・稲種山 大汝命と少日子根命の二柱の神が神前の郡の?岡の里の生野の峰にいて、この山を望み見て、 「あの山には稲種を置くことにしよう」と仰せられた。山の形も稲積に似ている。<姫路市下伊勢 峰相山>
17 穴禾の郡 伊和大神が国を作り堅め了えられてから後、ここの山川谷峰を境界として定めるため、御巡幸なされた。<宍粟市 伊和神社>
18 穴禾の郡・比治の里・宇波良の村 葦原志挙乎命が国を占められた時、みことのりして「この地は小さく狭くまる で室戸のようだと仰せられた。だから表戸という。
19 穴禾の郡・安師の里(あなし)(もとの奈は酒加(すか)の里) 穴禾の郡・安師の里(あなし)(もとの奈は酒加(すか)の里) (伊和)大神がここで冫食(飲食)をなされた。だから須加という。伊和の大神は安師比売神を娶ろうとして妻問いされた。その時この女かみが固く辞退して許さない。そこで大神は大いに怒って、石を以て川の源を塞きとめた。<姫路市安富町と山崎町須賀沢 安富町三森 安志姫神社「安志姫命」>
20 穴禾の郡・石作の里・伊加麻川 大神が国を占められたとき、烏賊がこの川にあった。<宍粟市山崎町梯川>
21 穴禾の郡・雲箇の里(うるか) 大神の妻の許乃波奈佐久夜比売命は、その容姿が美麗しかった。だたか宇留加という。<宍粟市一宮町閏賀・西安積・杉田 閏賀に稲荷神社「宇賀今神 配 木華開耶姫命」>
22 穴禾の郡・御方の里・伊和の村( 大神が酒をこの村で醸したもうた。また(伊和) 大神は国作りを終えてから後、「於和」と仰せられた。<宍粟市一宮町伊和 伊和神社>
23 賀毛の郡(かも)・下鴨の里 大汝命が碓を造って稲を春いた処は碓居谷とよび、箕を置いた処は箕谷とよび、酒屋を造った処は酒屋谷とよぶ。<下里川流域>
24 賀毛の郡・飯盛嵩 大汝命の御飯をこの嵩で盛った。<加西市豊倉町の飯盛山>
25 賀毛の郡・端鹿の里(はしか) 昔、神がもろもろの村に菓子(このみ:木の種子)を頒けたが、この村まで来ると足りなくなった。<東条川流域 東条町天神 一之宮神社「素盞嗚尊」>  
播磨国風土記に伝わる伝承を伊和大神と天日槍命との戦いと伊和大神の国土開拓に分けてまとめてみた。大汝命=伊和大神=葦原志挙乎命=大国主命と考えられるが、少々複雑なようである。平和的な国土開拓と天日槍命との戦いが入り乱れており、異なる時代の出来事が重なっているようである。
この地域にやってきた人物は最初は、25番より素盞嗚尊であることが分かる。また、10番は子が火明命(饒速日尊)であることから、大汝命は大国主命ではなく、素盞嗚尊を指しているようである。17番、22番、25番は国土統一の終了を意味しており、ここの伊和大神は素盞嗚尊を指しているのではないか。BC5年頃、素盞嗚尊は幼少の火明命(饒速日尊)を伴ってこのあたりを統一したのであろう。
AD30年頃、新羅から天日槍命がこの播磨国に上陸している。ここで、伊和大神と戦いをしている。9番より判断してこの戦いは集団戦だったようである。また、3番、7番は伊和大神が饒速日尊であることを示している。しかし、16番は少彦名命を伴っているので、この大汝命は大国主命であろう。最後に8番で高皇産霊神が大和からやってきて仲裁しているが、これはいったい誰なのであろう。
これに対して古事記・日本書紀を中心としてまとめると、以下のようになる。
其の間阿加留比売は難波の比売詐曾(ひめこそ)神社の祭神と成ってしまう。天日槍は八種の神宝を持参して難波を目指し、一旦播磨の国宍粟(兵庫県宍粟郡)に上陸。噂を聞いた垂仁天皇は使いを出し、何故新羅の王子が日本に来たか問うと、「立派な王が居ると聞き、神宝を持参した」と答えると、其の宍粟周辺の領地を与える約束を受けたが、妻を求める為、宇治川を上り、近江の国<滋賀県>・若狭の国<福井県>から但馬の国<兵庫県>をさ迷ったが思い果たせず、(難波を播磨・但馬と聞き間違えたのか?)出石の住人俣尾(またお)或いは、麻多烏の娘前見津を娶り、天日槍は、製鉄を始めとする大陸の優れた技術と文化を伝えた。出石神社の祭神である。
この当時はAD30年頃で垂仁天皇の時代ではなく、まだ統一が完了していなかったが大和に君臨していたのは饒速日尊である。よって、この伝承の垂仁天皇は饒速日尊を指していることが分かる。そして、仲裁したのがこの饒速日尊のようである。とすると、天日槍命と戦ったのは大国主命と言うことになる。
これらをもとに天日槍命の戦いの実態を推定してみると次のようになる。
BC5年頃、素盞嗚尊がこの地を統一していたが、素盞嗚尊の技術供与が十分でなかったために、この土地の人たちはまだ未開の状態にあった。そこへ、AD30年頃、大国主命と少彦名命は出雲から美作国を経由してこの地を開拓するために播磨国にやってきた。揖保川河口付近を開拓していたころ、天日槍命が朝鮮半島の高度な技術を携えて、揖保川河口付近にやってきて大国主命に、「土地を譲ってくれ」と言ってきた。大国主命はその高度な技術と異様な雰囲気から、倭国とは別の独立国を作ろうとしているように思えて、上陸を許さなかった。
天日槍命は大国主命の指示を無視して、揖保川を遡り上流に居ついてしまった。大国主命はこれはまずいと思って、揖保川を遡り、天日槍命軍と長い戦いになった。揖保川流域で大国主命と天日槍命が戦っているという情報を聞いた饒速日尊は早速、この地を訪れて、双方から事情を聞いた。天日槍命は「立派な王が居ると聞き、神宝を持参した。」と答え、倭国とは別の国を作るという気持ちがないことが分かり、宍栗周辺を提供した。先に来た妻を探して、宇治川を上り、近江国・若狭国・但馬国をさ迷ったが思い果たせず、出石の住人俣尾娘前見津を娶り、そこに住み着いた。天日槍は、製鉄を始めとする大陸の優れた技術と文化を伝えた。  
北近畿地方の統一

 

近畿地方北部(丹波国・丹後国・若狭国・但馬国・山城国)は、どの時期にどのように統一されたのであろうか、ここではこの地域の統一過程を推定してみよう。  
統一関連伝承
丹波国
一宮 出雲大神宮 京都府亀岡市 大國主尊 三穗津姫尊 少那姫尊 「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり。」と記す。
出雲神社などと称へ奉り建国の所由によって元出雲といわれる。従って縁結びの神ということも当宮を指すのである。兵乱のない島根半島の大社は国譲りました大国主大神御一柱を祀る慰霊の社にすぎない。
三穂津姫命は天祖高産霊尊の御女で大国主命国譲りの砌天祖の命により后神となり給う 天地結びの神即ち縁結びの由緒亦ここに発するもので俗称元出雲の所以である。
日本建国は国譲りの神事に拠るところであるが丹波の国は恰も出雲大和両勢力の接点にあり此処に国譲りの所由に依り祀られたのが当宮である。
桑田神社 京都府亀岡市篠町山本北条51  市杵島姫命・大山咋命・大山祇命  往古この地方は湖なりしを、亀岡市矢田町鍬山神社の祭神と共に、自ら鍬鋤を持って保津の山峽を切り開き、山城の地に水を流して亀岡盆地を干拓されたと大日本史の神社誌に見られる。古くは丹波(たにわ)といわれ、赤い土で染まった大きな湖だったこの地を、出雲大神が八人の地祇と協力して、浮田(請田)の狭を切開き、湖を干拓して桑畑(桑田)に変えたという。その謂れにより左岸に請田神社、右岸に桑田神社、そして干拓に用いた鍬が山を成した上矢田の地に、鍬山神社を祭ったと伝えられる。
また、大己貴命が、丹(あか)い波の湖を見て、この水を無くせばすばらしい農地をつくれるだろうと、この地の八人の神様と協力して浮田を切開き、水を保津峡に導いて豊かな農地を作ったというような同様の伝承もある。
桑田神社は、鍬山神社の祭神と共に保津の山峡を切開き、亀岡盆地を干拓したという大山咋神と市杵姫命を祭っている。市内では古い社で、大日本史神祇志に、この社地辺を桑田というと記されている。
小川月神社 京都府亀岡市馬路町月読16 月讀命 神代 『丹波国桑田郡小川月神社 名神大社』によれば、「神代よりの旧地なり」と記しており
当神社は昔から月読神社とも言われている。「延喜式」神名部に、丹波の国桑田郡(今の亀岡市及び北桑田郡)十九座の中の大社二座の一つで桑田郡第二の大社とあり、また古記録は、伊勢の内宮・外宮が今の地に遷座される前の末社であり、神代から当地に祀られていたと伝えている。
愛宕神社 京都府亀岡市千歳町国分南山ノ口1 伊邪那美命 火産靈命 大國主命 701 愛宕神社は全国に御分社800余社を有し、防火・火伏の神として崇敬されている“愛宕さん”の総本宮として海抜924メートルの愛宕山、山上に鎮座する。 創祀は神代と伝えられ山を神籬として祭られた。
大井神社 京都府亀岡市大井町並河1-3-25  御井神、月読命、市杵島姫命 710 伝説によると御井神(木俣神)が市杵島姫命と洛西松尾大社から神使の亀に乗って大堰川を遡上されたが、保津の急流が乗り切れなかったので、鯉に乗りかえて、ここ大井に上陸して鎮座された。
請田神社 京都府亀岡市保津町字立岩4 大山咋命 市杵嶋姫命 祭神・大山咋命は自ら鍬鋤を持って保津の山峽を切り開き亀岡盆地を開拓した神。その開拓の開始の鍬入れを「受けた」ので、請田と呼ばれているという。祭神大山咋神は、丹波地方を開拓するため、出雲地方から来られた神といわれ、当社および川向うの桑田神社のある保津川入口から開拓を始められたと伝える。
多吉神社 京都府亀岡市西別院町柚原北谷1 高御産靈神、神産靈神 祭神高御産霊神は、古事記等に国ゆずりや天孫降臨を命令された筆頭の神として登場され、天照大御神が皇室の祖神としてあがめられる以前にあっては、大王家の祖神であったとされている
村山神社 京都府亀岡市篠町森山先34 大山祇命、木花開耶毘賣命 桑田神社の祭神と同じく、泥湖を干拓された神であるという伝説がある。社伝によるともとの社域は広かったが、兵火により焼失、応永二十七年、領主渡辺頼方が社殿を再興したとある。社殿背後の洪積台地は宮山といい、古代陶器の窯跡があり、このあたりから王子にかけての山麓に登窯が作られ、須恵器や瓦が焼かれていたという。又、裏山には、神霊の天降る聖地として重んじられた禁足地が残されている。
鍬山神社 京都府亀岡市上矢田町 大己貴尊 大昔この地は泥湖であったが、大己貴命は東方浮田峡を開いて水を決せられた。よって鍬山大神として称えられたと言う。 往古、当地は大蛇の住む泥湖であった。そこで祭神・大己貴命が、八神を黒柄山に集めて協議し、みずから鍬を持って浮田峡(保津峡)を切り開き、肥沃な農地としたという。里人は、その神徳を慕い、天岡山の麓に大己貴命を祀ったのが起源。社伝等によると、亀岡盆地が湖だった頃、大己貴命が黒柄山に八人の神様を集め一艘の樫船に乗り一把の鍬で浮田の峡を切り開き、肥沃な農地にされたと伝えます。
山城国
一宮 賀茂別雷神社 京都市北区 賀茂別雷大神 ○ 神武 社伝では、神武天皇の御代に賀茂山の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝える。『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える
日向国曽の峰に降臨した賀茂建角身命は、神武天皇を先導して大和の葛木山に宿り、さらに山代国岡田の賀茂に移り、その後、久我国の北山基に鎮座。
丹波国神野の神伊可古夜日売を娶り、玉依日子・玉依日売が生まれた。
ある日、玉依日売が石川の瀬見の小川で川遊びをしていると、丹塗矢が川上から流れ下って来た。これを床のまわりに置いていたところ、玉依日売は妊娠し、男子を産んだ。成人し、建角身命が、「汝の父に酒を飲ましめよ」と言ったところ、天に向かって杯を手向け、昇天した。それが、祭神賀茂別雷命である。また、父は乙訓社の雷神であったという。
一宮 賀茂御祖神社 京都市左京区 賀茂建角身命 不詳 上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命の母の玉依姫命と玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀ることから「賀茂御祖神社」と呼ばれる。八咫烏は賀茂建角身命の化身である
乙訓坐大雷神社 京都府長岡京市井ノ内南内畑35  火雷神 乙訓坐火雷神は玉依姫の夫神で「山城風土記逸文」の賀茂伝説に丹塗矢の古事として 見え、その御子別雷神を祭神とする上賀茂社玉依姫と建角身命を祭神とする下賀茂社 と共に国の大弊にあずかる名神大社としての社格の高い社であった
國中神社 京都府京都市南区久世上久世町773-3 大綾津日神、大直日神、神直日神、素盞嗚尊 素戔鳴神を御祭神とする國中宮は、神代の頃、午頭天皇=素戔鳴尊が山城の地、西の岡訓世の郷が一面湖水のとき、天から降り給い、水を切り流し國となしその中心とおぼしき所に符を遣わし給うた。その符とは素戔鳴尊の愛馬、天幸駒の頭を自ら彫刻し て、新羅に渡海の前に尊の形見として遣わし給うたのである。この形見=馬の頭が國 中宮の御神体として祀られている
向日神社 京都府向日市向日町北山65  向日神 大歳神の御子、御歳神がこの峰に登られた時、これを向日山と称され、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことにより御歳神を向日神と申し上げることとなったのである。
火雷神社は、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まれた時、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神を祭られたのが創立である。
久我神社 京都府京都市伏見区久我森ノ宮町8-1 建角身命、玉依比賣命、別雷神 当地方の西の方(乙訓座火雷神)から丹塗矢 が当社(玉依比売命)にとんできて、やがて別雷神が生まれられたとも、此の里では 伝承されている。
松尾大社 京都府京都市西京区嵐山宮町3 大山咋神 中津嶋姫命(市杵島姫命) 祭神・大山咋神は、古事記に、「亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」と記されている神。「鳴鏑」の伝承に似た伝説は、賀茂別雷神社にも残されており、別雷神の父神は、大山咋神となっている。大山咋神は丹波国が湖であった大昔、住民の要望により保津峡を開き、その土を積まれたのが亀山・荒子山となった。そのおかげで丹波国では湖の水が流れ出て沃野ができ、山城国では保津川の流れで荒野が潤うに至った。そこでこの神は山城・丹波の開発につとめられた神である。当社は、「酒の神」として有名である。
久我神社 京都府京都市北区紫竹下竹殿町47 賀茂建角身命 神武天皇御東進の際、八咫烏と化って皇軍を導き給い、賊徒の平定に功をたて、のち山城国に入り、この地方に居を定めて専ら国土の開発、殖産興業を奨め給うた最初の神であって、賀茂県主の祖神である。
貴船神社 京都府京都市左京区鞍馬貴船町180 高オカミ神 闇オカミ神 罔象女神 玉依姫命が、黄船に乗って、淀川・賀茂川・貴船川をさかのぼり、当地に上陸し、水神を祭ったのが当社の起こり。玉依姫命が乗ってきた船は、小石に覆われ奥宮境内に御船型石として残っている。
岡田鴨神社 京都府相楽郡加茂町大字北字鴨村44  建角身命 。「釈日本紀」の山城風土記の逸文によると、建角身命は日向の高千穂の峰に天降 られた神で、神武天皇東遷の際、熊野から大和への難路を先導した八咫烏が、すなわ ち御祭神の建角身命で、大和平定に当たり数々の偉勲をたてられた。大和平定後、神 は葛城の峰にとどまり、ついで山城国岡田賀茂(現在の加茂町・江戸時代までは賀茂 村と書く)に移られ、その後洛北の賀茂御祖神社(下鴨神社)に鎮まるのである。  
丹波・山城国の開拓時期及び開拓者
松尾大社に伝わる伝承では山城国・丹波国を開発した神は大山咋神となっている。また、丹波国鍬山神社、桑田神社、請田神社、村山神社の伝承を総合して考えると、丹波国の湖を切り開き、水を保津川に流し、山城国を潤した神は大山咋命・市杵島姫・大山祇命・大己貴命となるが、大山祇命=大己貴命=饒速日尊と判断できるので、大山咋命・市杵島姫・大山祇命が協力して湖を切り開いたことになる。桑田神社の祭神(大山咋命・市杵島姫)と鍬山神社の祭神(大己貴命)が協力したと記録されており、大己貴命と大山咋命は別人であることが分かる。大山咋命は大歳命(饒速日尊)の子であると古事記に記録されており、猿田彦命であると思われる。市杵島姫は宗像三女神のひとりであるが、AD30年頃、猿田彦の妻となっている。
猿田彦命・市杵島姫・饒速日尊が山城国・丹波国を開拓したのは、いつ頃のことであろうか。猿田彦命は饒速日尊が大和降臨する時、伊邪那美を出雲で亡くした伊邪那岐命と共に福岡市の住吉神社の地に上陸し、以降高皇産霊尊より北九州西半分の統治を任されている。この時、市杵島姫と結婚したと思われる。結婚はAD30年頃のことであろう。また、猿田彦命はAD47年頃の出雲国譲り後は市杵島姫と別れ、出雲に移っている。また、饒速日尊はAD40年頃以降東日本統一に尽力しているので、丹波・山城国統一に両者がかかわれるのはAD35年頃となる。猿田彦命は北九州の統治が一段落したAD35年頃饒速日尊の要請を受けて丹波・山城国の統一に協力したものと考えられる。この時、市杵島姫も丹波・山城国にやってきたものと考えられる。  
賀茂別雷命の正体
賀茂別雷命とは誰なのであろうか?饒速日尊と言う説もあるが、少し違うようにも思える。父が乙訓社の雷神(火雷神=饒速日尊=丹塗矢)で母が玉依姫である。山城国一宮の賀茂別雷神社の主祭神なので、相当ないわれのある人物のはずである。他に知られていない神のはずがない。日本列島統一に大きく寄与した人物と思われる。『賀茂之本地』では阿遅?高日子根神と同一視されており、賀茂別雷命の父は松尾大社の大山咋神であるという説も存在している。系図は次のようになっている。 
神皇産霊尊−天神玉命−天櫛玉命−鴨建角身命−┬−鴨建玉依彦命−五十手美命−麻都躬之命−看香名男命
                          (八咫烏) |
                                 └−玉依姫命
                                      ├−─賀茂別雷命 
                                    火雷神
                                    (饒速日尊)
岐阜県安八郡輪之内町下榑字東井堰13017にある加毛神社(祭神 神別雷命)では、白髭明神と称せられ、昭和の神社明細帳は、祭神別雷命(猿田彦命)としている。これは、賀茂別雷命は猿田彦命であることを意味する。賀茂氏系図でも父の火雷神が饒速日尊を意味しているので、賀茂別雷命はその子の猿田彦命を意味することになる。饒速日尊は鴨建角身命1世代後になっているが、実際は饒速日尊は鴨建角身命より2世代前の人物である。賀茂別雷命の方が鴨建角身命より1世代前となる。この賀茂氏系図は明らかに矛盾を持っている。この山城国を開拓したのが饒速日尊・猿田彦命と思われるので、この二人を賀茂氏系図に取り込んだものではないだろうか。とすると、玉依姫も系図に取り込まれたのではないかと思える。京都府京都市左京区鞍馬貴船町180の貴船神社の伝承によると玉依姫は淀川を遡ってきた姫であることになり、山城国で誕生した神ではないことになる。玉依姫は元来対馬の豊玉彦の娘であり、鵜茅草葺不合尊の妻であり、神武天皇の母である。最初同名の別人かとも思ったが、火雷神・賀茂別雷命の系図への挿入を考えるとこの人物も挿入されたものと考えることができる。山城国の開拓に深くかかわる女性となれば、猿田彦命の妻である市杵島姫がこの玉依姫に該当することになる。  
鴨建角身命(八咫烏)について 
鴨建角身命は伝承によると、「建角身命は日向の高千穂の峰に天降られた神で、神武天皇東遷の際、熊野から大和への難路を先導した八咫烏が、すなわち御祭神の建角身命で、大和平定に当たり数々の偉勲をたてられた。大和平定後、神は葛城の峰にとどまり、ついで山城国岡田賀茂(現在の加茂町・江戸時代までは賀茂村と書く)に移られ、その後洛北の賀茂御祖神社(下鴨神社)に鎮まる。」とされている。ところが、賀茂氏系図では祖父の天神玉命(天活玉命)は饒速日尊に従ったマレビトであり、建角身命は大和国で誕生しているはずである。また、山深き熊野山中を道案内するということは、日向から神武天皇共にやってきた人物には不可能で、それ以前に熊野と大和を何回も往復している人物にしかできないであろう。建角身命が日向に降臨したのは間違いであろう。天神玉命が饒速日尊に従って降臨した事実が誤り伝えられたものであると判断する。天神玉命(天活玉命=高天彦)は饒速日尊に従って大和に降臨し、自身は葛城山周辺を任地としてその周辺を開拓したものと思われる。そして、葛城山頂に祖神高皇産霊神を祀った。これが高天彦神社となる。そのため、山頂付近は聖地高天原と呼ばれるようになったのであろう。建角身命もこの葛城山の麓でAD50年頃生まれたと思われる。
建角身命が誕生したのは紀伊国が日本国に加盟した直後と思われる。この頃より、大和国と紀伊国の間の人的交流が盛んになってくる。多くは大和川を下り大阪湾に出て海路紀伊国に至るか、五条から紀ノ川に出てそこから和歌山近辺に至る経路は確保されていたであろう。しかしながら、饒速日尊が切り開いた玉置神社・熊野本宮大社は熊野山中を抜ける必要があり、建角身命は熊野山中を何回も往復して、熊野と大和の交流を行っていたものと考えられる。そのために、神武天皇東遷時の道案内役に抜擢されたのであろう。  
丹波・山城国統一
AD25年頃饒速日尊は数多くのマレビトを率いて大和国に降臨した。AD30年頃、三輪山の麓まで勢力下におさめることができ、河内・泉・大和国の統一が完了した。同じくAD25年頃北九州に上陸した猿田彦命も北九州西部地方全域の安定した統治ができるようになっていた。饒速日尊の次の目標は山城国の統一であった。近江国にはマレビトが入り込んでおり、紀伊国は素盞嗚尊によって統一されていた。近畿地方北部の山城国・丹波国・丹後国・但馬国・若狭国がこの時点で未統一であった。山城国は京都市南区久世の国中神社の伝承にあるように、その昔素盞嗚尊が入り込んで統一事業を起こしていたが、成功にはいたっていなかった。この周辺は多くの豪族がひしめき合っていて、安定して統一状況を維持することはできなかったと思われる。
京都市内は賀茂別雷命すなわち猿田彦命が統一しているようである。おそらく、饒速日尊は東日本統一のための準備に手がかかり、山城国統一に手が出せない状況にあったのではないだろうか、そのために、北九州にいる猿田彦命に統一を頼んだのであろう。この時、猿田彦は市杵島姫と結婚してたので猿田彦の後を追って市杵島姫がこの地にやってきたのであろう。山城国では玉依姫と呼ばれていた。猿田彦は山城盆地(京都盆地)全域を統一した。
山城盆地を統一した猿田彦は保津川を遡り、亀岡盆地に進出した。当時亀岡盆地は巨大な湖であったようである。湖水の出口が保津峡入口であろう。ここは桑田神社と請田神社に挟まれた領域である。猿田彦はここを切り開けば、肥沃な土地が広がり、その土地を開墾すれば広大な農地ができると考え、人を集めここを切り開こうとした。この頃には饒速日尊も東日本統一の準備ができたので、亀岡盆地にやってきた。AD35年頃のことであろう。饒速日尊・猿田彦・市杵島姫を中心として湖を切り開き亀岡盆地の開拓をした。  
若狭国統一
若狭国
一宮 若狭彦神社 福井県小浜市龍前28-7 彦火火出見尊 714 社伝では、二神は遠敷郡下根来村白石の里に示現したといい、その姿は唐人のようであったという。和銅7年(714年)9月10日に両神が示現した白石の里に上社・若狭彦神社が創建された。翌霊亀元年(715年)9月10日に現在地に遷座した。
二宮 若狭姫神社 福井県小浜市遠敷65-41 豊玉姫命 714 安産・育児に霊験があるとされ、境内には子種石と呼ばれる陰陽石や、乳神様とよばれる大銀杏などがある
大神社 福井県大飯郡おおい町山田4−1 大飯鍬立大神 社伝として、大飯田郷開拓の祖神七柱を、大飯鍬立大神・七社大明神として祀ったのが起源。「鍬立」とは農業始めという意味らしい。祭神の異説として、祭神不詳、猿田彦神などがある。
宇波西神社 福井県三方上中郡若狭町気山字寺谷129−5 鵜草葺不合命 現在の神社案内では、最初日向に現れ、後上野谷(金向山麓)を経由して、現在地に遷座したとある。
地域には九州日向国の住人が移住してきており、付近の村村とは言葉遣いも異質である。
若狭国は一宮・二宮ともに九州系の神を祀っている。九州日向から多量の移民があり、そのために若狭彦命として日子穂々出見命を祀っている。若狭彦神社の伝承では彦穂々出見命・豊玉姫が現在の小浜市に上陸したと言われている。彦穂々出見命がここに来た事実はあるのだろうか。来たとすればいつのことであろうか。ここでいう豊玉姫は薩摩の豊玉姫ではなく、対馬の豊玉姫と思われる。薩摩にいるときは若狭国までくる時間的余裕はなかったと思われる。彦穂々出見命が対馬に行ったのはAD50年頃と思われ、AD65年頃には日向国に戻っている。若狭国に来たのはこの間であろう。彦穂々出見命はAD57年に後漢に朝貢し、漢倭奴国王の金印を受けている。新技術を伝えるという観点からすると、彦穂々出見命が若狭国に来たのはこの直後と思われる。また、伝承にあるように唐人のような服を着ていたというのもこれを裏付けている。AD60年頃であろう。そして、この頃は饒速日尊が大和で亡くなったころである。この後すぐに伊都国へ移動しているので若狭国にいたのは短期間であろう。若狭国は周辺の状況からAD35年頃統一されているようなので、統一された後、多量に移民があったのは直線で15km程東の三方五湖の辺りである。この頃彦穂々出見命は日向にはいなかったので、日向から多量移民はできないし、上陸地点も若干異なる。多量移民があったのは、大和朝廷成立後ではないかと考えている。
では何のために、彦穂々出見命はこの若狭国に来たのであろうか?AD60年頃と言えば、その10年ほど前に対馬の穂高見命が信濃国安曇野に赴いて開拓をしている。対馬では日本国への意識が強まっていたと思われる。この時期の倭国・日本国の状況から以下のように判断する。
この頃は、西倭国と日本国との大合併論議が盛んになっており、合併後の安定政権維持のためには、饒速日尊が統一した東日本地域の状況を把握することが目的で、東日本地域全体を巡回したのではないだろうか。彦穂々出見命が後漢に行って中国の先進文化を見てきた直後であり、日本列島を今後どのようにしていくかの方針決定のためにも是非とも必要だったのであろう。おそらく、日本列島平和統一に情熱を燃やしていた高皇産霊神が指示したものであろう。
では、AD35年頃若狭国を統一したのは誰であろうか。大飯神社の祭神は誰なのか不明ではあるが、一つの伝承に猿田彦の名がある。他の人物の名が見当たらないので猿田彦と考えたい。亀岡盆地を統一した後、猿田彦は若狭国を統一したと思われる。  
丹後国統一
丹後国
一宮 籠神社 京都府宮津市 彦火明命 ○ 不詳 『丹後国式社證実考』などでは伊弉諾尊としている。これは、神代の昔、天にあった伊弉諾大神が、地上の籠宮の磐座 に祭られた女神伊弉冊大神のもとへ通うため、天から大きな長い梯子を地上に立てて通われたが、或る夜梯子が倒れてしまい天の橋立となったといわれている。 伊弉諾のイザは磯の男、即ち磯(海岸)へ辿り着いた男ということである。
神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮眞名井原に豊受大神を祭って来たが、 その縁故によって人皇十代崇神天皇の御代に天照皇大神が大和国笠縫邑から移った後、之を與謝宮(吉佐宮)として一緒に祭った。 その後天照皇大神は11代垂仁天皇の時に、また豊受大神は21代雄略天皇の時にそれぞれ伊勢に移った。 それに依って当社は元伊勢と云われている。両大神が伊勢に移った後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮と改め、元伊勢の社として、 又丹後国の一之宮として崇敬を集めて来ました。
二宮 大宮売神社 京都府京丹後市大宮町周枳1020 大宮売神・若宮売神 不詳 古代天皇家の祭祀を司った人々の生活があり、稲作民による祭祀呪術的な権力を持つ豪族の国(大丹波)の祭政の中心の地であったといわれる。当宮の境内は、神社としての社ができる以前に、既に古代の政(まつりごと)が、おこなわれていた地である。
大虫神社 京都府与謝郡加悦町温江1821 大己貴命 昔、大国主命が沼河姫と加悦に住んでいたころ、槌鬼と言う病いが姫にとりつき、たちまち病いにかかられて大国主命はあまりになげかれたので少彦名命七色に息をはいて、この槌鬼の病いを追いだされたので姫の病いを癒されたがその息がかかったため人や植物が病にかかって苦しむようになり、少彦名命は「私は小虫と名のって貴男の体内に入り病のもととなる虫を除きましょう。」と言われ、大国主命は「私は人の体の外の病を治そう」と言われ、鏡を二面つくられ一つを少彦名命が一つは大国主命が持たれた。ここで大虫、小虫と名のられたと言うことである。
比沼麻奈爲神社 京都府京丹後市峰山町久次字宮ノ谷661  豐受大神、瓊瓊杵尊、天兒屋根命、天太玉命 遠き神代の昔、此の真名井原の地にて田畑を耕し、米・麦・豆等の五穀を作り、又、蚕を飼って、衣食の糧とする技を始めた豊受大神を主神として、古代より祀っている。
豊受大神は、伊勢外宮の御祭神で、元は此の社に御鎮座していた。即ち此の社は、伊勢の豊受大神宮(外宮)の一番元の社である。
熊野新宮神社 京都府京丹後市久美浜町大字河梨字大谷 事解男命、速玉男命 熊野新宮大神の休憩された大石があり、人馬の足跡なりと云う「馬蹄岩」がある。
亀岡盆地の統一の後、猿田彦は若狭国へ、饒速日尊は丹後国の統一に向かった。比沼麻奈爲神社(京都府京丹後市峰山町久次字宮ノ谷661)にあるように、豊受大神が此の真名井原の地にて田畑を耕し、米・麦・豆等の五穀を作り、又、蚕を飼って、衣食の糧とする技を始めるなどの技術を広めたのである。この豊受大神は饒速日尊と思われる。
京都府京丹後市久美浜町大字河梨字大谷の熊野新宮神社には熊野新宮大神が休息した大岩があると言われているが、前後関係より熊野新宮大神(事解男命)は饒速日尊と思われる。
丹後国一宮籠神社の主祭神は天火明命(饒速日尊)である。天火明命が鎮座する前には豊受大神が祭られていたそうであるが、この神社には息津鏡、辺津鏡という饒速日尊が所持していたと言われる鏡が二面伝世している。これは、饒速日尊がここに滞在していたという物的証拠となる。
このように丹後国を統一したのは饒速日尊と考えられる。  
但馬国統一
但馬国
一宮 出石神社 兵庫県豊岡市 天日槍命・出石八前大神 859 祭神の天日槍命は新羅の王子であったが、八種の神宝を持って渡来し、但馬国に定住したと伝える。また、八種神宝を八前大神として祀っており、『延喜式神名帳』では八座とされた。
当時泥海であった但馬を瀬戸・津居山の間の岩山を開いて濁流を日本海に流し、現在の豊沃な但馬平野を現出し、円山川の治水に、殖産興業に功績を遺された神として尊崇を集めている。また、鉄の文化を大陸から持って来られた神ともいわれている。
一宮 粟鹿神社 兵庫県朝来市 彦火々出見命 不詳 粟鹿の名は、昔、粟鹿山の洞穴に住む一頭の鹿が、粟三束をくわえ、村に現われ、人々に農耕を教えたという.祭神は彦火々出見尊。あるいは、四道将軍の一人であり、日下部連の祖、丹波道主の日子坐王とする説もある。本殿裏側のこんもりとした丘が、日子坐王の墳墓という伝承も。また、近年発見された『粟鹿大明神元記』和銅元年(708)八月に、大国主命を祖とする神直が当社の祭祀を執り行ったとある。
三宮 養父神社 倉稲魂命・大己貴命・少彦名命 ○ 崇神 地誌『但馬考』にはかつて弥高山の山頂にあったとされる上社に大己貴命、中腹の中社に倉稲魂命と少彦名命、現社地である下社に谿羽道主命を祀るとの記述がある。『特選神名牒』では大己貴命以外の4座を不詳としている。
石部神社 兵庫県豊岡市出石町下62 奇日方命、 この出石の地を拓き、国造りに貢献され、偉大な功蹟をのこ し、あまたの信望をあつめられた、天日方奇日方命を祀る。
小坂神社 兵庫県豊岡市出石町三木字宮脇1 小坂神 大正11年、祭神を忍坂漣の祖・天火明命と確定するように申請したが確証が無いとして退けられ、内務省と協議の結果小坂神に決定したという。しかし、忍坂連の祖天火明命と伝わる。
気多神社 兵庫県豊岡市日高町上郷字大門227  大己貴命 大己貴命(葦原志許男命)と(天日槍命と)国占の争ありし時、命の黒葛此地に落 ちたる神縁によりて早くより創立せられしものならむ。
小田井縣神社 兵庫県豊岡市小田井町15-6 國作大己貴命 大神は大昔、この豊岡附近一帯が泥湖であ って、湖水が氾濫して平地のないとき、来日岳のふもとを穿ち瀬戸の水門をきり開い て水を北の海に流し、水利を治めて農業を開発されました。
鷹野神社 兵庫県豊岡市竹野町竹野馬場町84-1 武甕槌神 大国主神が出雲国の伊那佐の小浜における国譲りの折衝に天孫系神族の代表としてその使者に選ばれた武甕槌神が大国主神との談判が成立の後、出雲系神族に対して御神威 を示され、天孫神系の神に帰一することを誓約されているから、武甕槌神はこの竹野郷に神降りまし居住民族が祖神当芸志比古命も天孫神系の神であるため氏神として奉斎するに至ったと考えられる。武甕槌神は鹿島神社の主祭神として鎮護されたため、神降りましたと伝えられる所が神の誕生浦といい、鹿島の神である武甕槌神を鎮祭した島を加島山と称したと伝えられている
法庭神社 兵庫県美方郡香美町香住区下浜 武甕槌命 あるいは天照國照天火明饒速日命 旧記によると、饒速日命が大和國より兵を率いて出石郡床尾山に至り、国内に大水が氾濫しているのを見た。その後、来日山に至り、北方の山を削開して瀬戸水門を開き、平地とした。その後、西へ進み、本村の船越山に至り、船をつないだ場所に、乗場神社を創建。後、乗場が能理波と転じ、法庭となったという。
法庭神社の記録が大和から但馬国迄の経路を伝えている。法庭神社の伝承は
「旧記によると、饒速日命が大和國より兵を率いて出石郡床尾山に至り、国内に大水が氾濫しているのを見た。その後、来日山に至り、北方の山を削開して瀬戸水門を開き、平地とした。その後、西へ進み、本村の船越山に至り、船をつないだ場所に、乗場神社を創建。後、乗場が能理波と転じ、法庭となったという。」である。これをもとに、大和から但馬までの饒速日尊の通過経路を推定してみよう
大和盆地を北に移動し木津川市から木津川流域に入る。木津川を下り、大山崎町より桂川流域に入る。ここまで桜井市から約50kmである。桂川を遡り京都市内を抜け、亀岡市に達する。日吉町殿田より胡麻川流域に入る。この経路に沿って山陰本線がとおっている。南丹市日吉町胡麻より高屋川流域に入り、川を下ると由良川に合流する。綾部市を通過し福知山市安井より牧川流域に入る。ここまで大山崎から約100kmである。夜久野町平野から礒部川流域に入り川を下る。さらに下り、和田山より円山川に入る。和田山町土田より糸井川を遡り、床尾山に至る。安井より約40kmである。北に下って出石町桐野より出石川に沿って下る。円山川に再び合流し城崎町来日より来日山に登る。床尾山より約30kmである。川をさらに下って約7kmで海に出る。海岸沿いに25km西に進むと法庭神社に達する。
丹後国から直接の移動ではないようなので、丹後国統一後一度大和に戻ったようである。この当時但馬は泥海だったようで、岩山を切り開いて肥沃な土地を広げたと記録されているが、その人物は法庭神社では饒速日尊、小田井縣神社では国作大己貴命、出石神社では天日槍命である。大己貴命=饒速日尊と思われるが、天日槍も同じ伝承を持つ。おそらく、天日槍命と饒速日尊が協力して岩山を切り開いたものであろう。
天日槍命はAD30年頃播磨国にやってきている。その後近江国・若狭国をさまよった後、この但馬国出石にやってきている。天日槍命がここにやってきたのはAD35年頃と思われ、饒速日尊がここに来た頃とほぼ一致するのである。おそらく先に来たのは天日槍命で、饒速日尊は後からやってきたものであろう。饒速日尊は天日槍命と共に豊岡市一帯を統一し、後を天日槍命に任せて、西へ進んだものであろう。 
饒速日尊はどこまで行ったのであろうか。法庭神社の地から25km程西に兵庫県と鳥取県の県境がある。ここより西は東倭国であり、東が日本国だったのであろう。東倭国まで行ったかもしれないが伝承はない。
饒速日尊はこの但馬国統一後、東日本統一に旅立ったのであろう。  
東海・関東地方統一

東日本地域統一の順番
各地に残る伝承をもとにして、統一の順番を推定すると、次のようになる。
1 伊勢地方に統一伝承が認められない。また、滋賀県の伊吹山周辺を饒速日尊が通過したと思われる伝承があるので、近江国→美濃国→尾張国の流れが浮かんでくる。
2 飛騨地方は五十猛命の行動が認められるため、紀伊国国譲りの後と推定される。
3 関東地方が饒速日尊とウマシマジ命が活躍している。ウマシマジ命は饒速日尊の長子であるため、統一の時期は早かったと推定する。よって、尾張国→三河国→遠江国→駿河国→関東地方と推定できる。
4 陸奥国(東北地方太平洋岸)は日向からやってきたアジスキタカヒコネ命を伴っているために、統一事業の最後と思われる。
5 信濃国は駿河国と同じ系統の神であるために、駿河国と同じような時期と思われるが、タケミナカタ命の移動を考えると、統一を途中で中断しているように思えるので、関東地方統一の後であろう。
6 信濃国を途中で中断したのはおそらく、出雲国譲りが起こったためであろう。倭国が不安定になったために一度大和国に戻ったのであろう。この時に紀伊国国譲りがあったと推定する。
7 紀伊国国譲りの後、五十猛命を伴って飛騨国を統一。
8 成長した事代主命を伴って中途になっている信濃国に赴く。
9 信濃国に赴いている時越国で騒乱が起き、東倭に統治能力がなく、越国の国譲りを実行
10 タケミナカタ命に信濃国の開拓を任せ、日本海側を北上し出羽国の統一
11 アジスキタカヒコネを伴って陸奥国を統一。
12 残った未統一地域は伊勢国・志摩国・伊賀国・安房国である。伊勢国・志摩国・伊賀国は出雲のサルタヒコに委ねる。
13 大和国初瀬地方で隠棲し暫らくのち亡くなる。  
1.近江国
   格式 神社 場所 主祭神 饒速日尊(○) 創建 備考
一宮 建部大社 滋賀県大津市 日本武尊、大己貴命、稲依別王 ○ 景行 景行天皇46年に神崎郡建部郷(現在の東近江市五個荘付近)に、景行天皇の皇子である日本武尊を建部大神として祀ったのが始まりとされる。
二宮 日吉大社 滋賀県大津市坂本5丁目1-1 大山咋神(東本宮)・大己貴神(西本宮) ○ 不詳 牛尾山(八王子山)山頂に磐座があり、これが元々の信仰の地であった。磐座を挟んで2社の奥宮(牛尾神社・三宮神社)があり、現在の東本宮は崇神天皇7年に牛尾神社の里宮として創祀されたものと伝えられている。
三宮 多賀大社 滋賀県犬上郡多賀町多賀604 伊邪那岐命・伊邪那美命 神代 『古事記』に「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」とあるのが、当社のことである。摂社(境内社)である日向神社は延喜式内社であり、瓊瓊杵尊を、同じ摂社の山田神社は猿田彦大神を祀る
伊邪那岐命は、まず多賀大社の東にそびえる杉坂山に降り立ちました。そして、北麓にある多賀町大字栗栖に降りて、そこで一度休息を取って、その後に現在の多賀大社がある場所に鎮まったといわれています。
三宮 御上神社 滋賀県野洲市三上838 天之御影命 孝霊 孝霊天皇の時代、天之御影命が三上山の山頂に降臨し、それを御上祝が三上山を神体(神奈備)として祀ったのに始まると伝える
那波加神社 大津市苗鹿一丁目 天太玉命 天智 祭神 天太玉命が太古よりこの地に降臨したと伝える。
石坐神社 滋賀県大津市西の庄15-16 彦坐王命、天命開別尊 天智 音羽山系の御霊殿山(御竜燈山)に天降った八大竜王(スサノオ)を祀ったのを創祀とし
沙沙貴神社 滋賀県蒲生郡安土町常楽寺1 少彦名神 神代 少彦名神降臨伝承地
大瀧神社 滋賀県犬上郡多賀町冨之尾1585 高おか神 不詳 多賀大社の末社あるいは奥宮として考えられてきた。
調宮神社 栗栖 伊邪那岐命 伊邪那岐命が多賀の地へ到着する前に一時休息した場所といわれ、そこから多賀大社の御旅所とされた宮
櫻椅神社 滋賀県伊香郡高月町東高田363-1 須佐之男命、木花開耶姫命、埴安彦命 太古ここが湖の頃、須佐之男命が肥の川上の八俣遠呂知を退治し給ひて此の所の東の側の阿介多と言う小高い所に来臨し、剣の血を洗た御霊跡と伝わる。
近江国は天太玉命・天之御影命など饒速日尊に追従してきた神を祀っている神社がいくつか存在している。また、物部氏が建てた神社も散在している。このことから、近江国は饒速日尊がマレビトを送り込んだ地域に属すようである。
饒速日尊が降臨する前にスサノオ命やイザナギ命が降臨しているようである。おそらく紀伊国を統一する前に近江国を統一しようとしたのであろう。その後饒速日尊がマレビトを送っていることから判断すると、スサノオによる近江国統一は失敗したようである。饒速日尊は近江国を出発し美濃国へ抜けたようである。  
2.美濃国
一宮 南宮大社 岐阜県不破郡垂井町 金山彦命 ○ 神武 金山彦大神を主祭神にまつり、全国の鉱山、金属業の総本宮として古くから信仰を集めている
二宮 伊富岐神社 岐阜県不破郡垂井町岩手字伊吹1484−1 多多美彦命(天火明命説あり) ○ 不詳 伊福部の名の由来を「火吹部」とする考えもあり、天火明命に率いられた技術者集団が当地に居住したものだろう。とにかく、伊富岐神ということだ
二宮 大領神社 岐阜県不破郡垂井町宮代765番地 不破郡大領宮勝木實命 715 宮勝木實は、壬申の乱の際、大海人皇子(天武天皇)の命で、不破道(不破関付近)に出兵した人物。功績により、不破郡の大領になったという
三宮 多岐神社 岐阜県養老郡養老町三神町406-1 倉稻魂神、素盞嗚命 ○ 和銅 古代、この地域を支配した多芸氏の祖神を祭ったという
三宮 伊奈波神社 岐阜県岐阜市伊奈波通り1-1 五十瓊敷入彦命 景行 五十瓊敷入彦命は朝廷の命により奥州を平定したが、五十瓊敷入彦命の成功を妬んだ陸奥守豊益の讒言により、朝敵とされて現在の伊奈波神社の地で討たれたという。
伊吹山は近江国と美濃国の国境にある。伊富岐神社の伝承にある通り、天火明命(饒速日尊)はここに、技術者集団を集めて 居住させた。近江国側にも意布伎神社(草津市・祭神級長津比古命)、伊夫岐神社(滋賀県坂田郡伊吹町伊吹603祭神伊富岐大神、素盞嗚尊、多多美比古命)がある。伊富岐大神とは饒速日尊と思われる。伊吹山周辺は強い風が吹くので知られている。饒速日尊はこの風を利用して製鉄・製銅などの技術をこの地方の人々に伝えたものであろう。美濃国には全39座の式内社中15座(38%)が饒速日尊と思われる神を主祭神として祀っており、ほぼ全域に広がっている。饒速日尊は美濃国全域を物部一族を率いて統一したものと考えられる。  
3.尾張国
一宮 真清田神社 愛知県一宮市 天火明命 ○ 不詳 尾張氏の一部が尾張国中嶋郡に移住した時に、祖神である天火明命を祭ったのが起こりである。天火明命は天孫瓊々杵尊の御兄神に坐しまし国土開拓 、産業守護の神として御神徳弥高く、この尾張国はもとより中部日本今日の隆昌を招 来遊ばされた貴い神様である。
一宮 大神神社 愛知県一宮市 大物主神 ○ 不詳 祭神は大物主神であるとされており、これは、奈良県桜井市の大神神社の神と同神であるという伝承によるものである.大神神社と真清田神社を相殿として一宮としたと伝える
二宮 大縣神社 愛知県犬山市宮山3 大縣大神 ○ 垂仁 大縣大神は、尾張国開拓の祖神である。国狭槌尊
三宮 熱田神宮 愛知県名古屋市熱田区神宮1-1-1 素盞嗚尊 景行 祭神は熱田大神(あつたのおおかみ)であり、三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ。天叢雲剣)を神体としている
尾張大国霊神社 愛知県稲沢市国府宮1-1-1 尾張大国霊神 ○ 神代 尾張地方の総鎮守神、農商業守護神、厄除神として広く信仰されている。
当社は奈良時代、国衙(こくが)に隣接して御鎮座していたことから尾張国の総社と定められ、国司自らが祭祀を執り行う神社であった。
針綱神社 犬山市大字犬山字北古券65-1 尾治針名根連命 ○ 太古よりこの犬山の峯に鎮座せられ東海鎮護、水産拓殖、五穀 豊饒、厄除、安産、長命の神として古来より神威顕著にして士農工商の崇敬殊に厚く 白山大明神と称えられ濃尾の総鎮守でありました。
尾張国121座の式内社のうち饒速日尊と思われる人物を祀っているのは23社(19%)である。特に一宮から三宮迄の4神社のうち3神社までが祭神を饒速日尊としている。これは尾張国開拓を主導したのが饒速日尊で彼は尾張国総鎮守として崇められている。  
4.三河国
一宮 砥鹿神社 愛知県豊川市 大己貴命 ○ 大宝 東海地方の総鎮守.本宮山は古代から信仰の対象であり、山頂付近には多くの磐座らしきものも多い
二宮 知立神社 愛知県知立市西町神田12 鵜草葺不合尊・彦火火出見尊・玉依比賣命・神日本磐余彦尊 景行 日本武尊が東国平定の際に当地で皇祖の神々に平定の祈願を行い、無事平定を終えた帰途に、その感謝のために皇祖神を祀ったのに始まる
三宮 猿投神社 愛知県豊田市猿投町大城5 大碓命 仲哀 大碓命が主祭神とされたのは近世以降で、それ以前は猿田彦命、吉備武彦、気入彦命、佐伯命、頬那芸神、大伴武日命など諸説あった。元々は猿投山の神を祀ったものとみられる。
四宮 石巻神社 愛知県豊橋市石巻町字金割1 大己貴命 ○ 不詳 神郷は、石巻山参道付近の集落である。現在の読みは「ジンゴウ」であるが、40年ほど前まで「みわのさと」と読んでいた.ほかにも三輪川がある。そして、石巻神社の祭神は奈良の三輪神社と同じ「オオナムチ」である。『三輪神社縁起書』に、「三河石巻神社」という記載がある
御津神社 愛知県宝飯郡小坂井町小坂井宮脇2 大國主命 ○ 大國主命は船津大明神として祀られているが全国の船津大明神は建御雷命(饒速日尊)であることが多い。
三河国26座の式内社のうち7座(27%)が饒速日尊と思われる神を祀っている。三河国では大国主命或いは大己貴命として祀られていることが多いが、背後関係をみると、そのすべてが饒速日尊のようである。一宮の砥鹿神社の祭神大己貴命は大国主命とされているがこの神は東海総鎮守として祀られており、東海地方の他国の神の実態から判断してこの神は饒速日尊と思われる。四宮の石巻神社の祭神も周辺の地名から推察して饒速日尊と推定される。  
5.遠江国
一宮 小国神社 静岡県周智郡森町 大己貴命 ○ 欽明 欽明天皇16年(555年)2月18日、現在地より6kmほど離れた本宮山に神霊が示現したので、勅命によりそこに社殿が造営されたのに始まる
一宮 事任八幡宮 静岡県掛川市 己等乃麻知媛命 成務 成務天皇(84年〜190年)の御代の創立と伝え聞く。大同2年(807年)坂上田村麻呂東征の際、桓武天皇の勅を奉じ、旧社地 本宮山より現社地へ遷座すという。延喜式神名帳に(佐野郡)己等乃麻知(ことのまち)神社とあるはこの社なり。古代より街道筋に鎮座、遠江に坐す願い事のままに叶うありがたき言霊の社として朝廷をはじめ全国より崇敬されし事は平安期の「枕草子」に記載あるをみても明らかなり。
二宮 鹿苑神社 静岡県磐田市二ノ宮 1767 大名牟遅命 履仲 二宮神社 とともに遠江国の二宮であり、江戸時代末までは高根明神社と称し、高彦根命を祀っていた。
二宮 二宮神社 静岡県湖西市新居町中之郷320   大物主神 ○ 敏達 御祭神は須佐之男之命の御子にして、父君の命によりこの地を開発して瑞穂の国に造り上げ天孫に献上した大功により「大国主命」とも「国造之大神」とも「大物主命」とも申し上げる。国土開発、福徳縁結び、萬の産業、医薬、健康安全、知徳の主護神として敬われ 御神徳極めて高し
遠江国は62座の式内社中38座(61%)が饒速日尊と思われる神を祀っている。一宮の小国神社の祭神大己貴命は三河国一宮と同じ祭神である。三河国の大己貴命は東海総鎮守と言われている。遠江も東海なので、総鎮守は同じ神のはずである。よって、小国神社の大己貴命も饒速日尊と思われる。二宮の鹿苑神社の祭神大名牟遅命も周辺の神社の大国主命が饒速日尊と推定できることから、この神も饒速日尊と思われるが根拠はない。 
6.駿河国
一宮 富士山本宮浅間大社 静岡県富士宮市 浅間大神 ○ 垂仁 11代垂仁天皇が富士山の神霊「浅間大神」を鎮めるために、垂仁天皇3年(紀元前27年)頃に富士山麓にて祀ったのが当社の始まりと
二宮 豊積神社 静岡県庵原郡由比町町屋原185 木花之佐久夜比売命 ○ 白鳳 延喜式当時には、浅間神を祀る神社であり、往古は、豊積之浅間大明神と称していた。また、豊積の社号に関しては豊受姫ではなく、木花之佐久夜比賣命の別名・豊吾田姫の豊と父神である大山祇神の祇(つみ)から取られた
三宮 御穂神社 静岡県静岡市清水区三保1073 大己貴命 ○ 不詳 三保の松原に舞い降りた天女の羽衣伝説ゆかりの社としても名高い。境内には羽衣の切れ端、白馬の像が安置されている。
「大己貴命は豊葦原瑞穂国を開きお治めになり、天孫瓊々杵尊が天降りなられた時に、自分の治めていた国土をこころよくお譲りになったので、天照大神は大国主命が二心のないことを非常にお喜びになって、高皇産霊尊の御子の中で一番みめ美しい三穂津姫命を大后とお定めになった。そこで大国主命は三穂津彦命と改名されて、御二人の神はそろって羽車に乗り新婚旅行に景勝の地、海陸要衛三保の浦に降臨されて、我が国土の隆昌と、皇室のいや栄とを守るため三保の神奈昆(天神の森)に鎮座された。これが当御穂神社の起一般民衆より三保大明神として親しまれています。彦神は国土開発の神様で、姫神は御婦徳高く、二神は災いを払い福をお授けになる神様として知られています。」
那閉神社 静岡県焼津市浜当目13  八重事代主命、大國主神 ○ 継体 虚空蔵山とも呼ばれる海辺の神奈備山である。海の彼方から神が来訪する水平来臨型の信仰の山である。
静岡浅間神社 静岡県静岡市宮ヶ崎町102-1 大己貴命
木花開耶姫命
大歳御祖命 ○ 不詳 神部神社・浅間神社・大歳御祖神社の三社を総称して静岡浅間神社といい、何れも創立は千古の昔にさかのぼる。大己貴命は少彦名神社の祭神とともに、この国土の経営にあたられた。そのご神徳により、延命長寿・縁結び・除災招福の神として信仰される。
富知神社 静岡県富士宮市朝日町12-4 大山津見神 ○ 孝霊 大宮の地主の神 鎮守の神・産土の神として古くから、この地方の人々は篤い崇敬を捧げて祭ってきた。
『富士本宮浅間社記』には、浅間大社が鎮座した大宮は、もとは福地明神(当社)が鎮座していた地、とあり、浅間大社が鎮座した、平城天皇大同年間以前から、当地の地主神として崇敬されていた古社。
浅間大神は静岡浅間神社・冨知神社の伝承から判断して饒速日尊と思われる。三穂津姫は、高皇産霊神の娘で、大国主命或いは大物主命の妻になったと言われている。この地方には大国主命は来ていると思えないので、三穂津彦は大物主命=饒速日尊となる。駿河国は一宮から三宮まですべて饒速日尊を祀っていることになる。駿河国は事代主命を祀る神社が多くなっている。静岡浅間神社で大己貴命が少彦名命と共にこの地で、国土経営をしたと記録されているが、周辺伝承から推察してこの少彦名命は事代主命ではないかと思われる。事代主命もこの地方に来ていることが推定できるが、事代主命はAD35年頃誕生していると思われ、饒速日尊がこの地を訪問したと推定できる40年代前半では幼少すぎること、また、御穂神社の伝承によりここに饒速日尊がやってきたのが出雲国譲り(47年頃)の後になっていること、三穂津姫は高皇産霊神の子で、高皇産霊神が饒速日尊と接触するのは、北九州にいた時(AD10年頃)か、大和侵入時(AD25年頃)、或いは出雲国譲りの時である。御穂神社の伝承より出雲国譲後と思われる。このことから推察して、饒速日尊が駿河国に来たのは2回と言うことになる。1回目が40年代前半で、2回目が出雲国譲後の40年代後半である。その2回目に事代主命を伴っていたのであろう。1回目はこの後関東地方の開拓を行い、2回目はこの後富士川を遡って甲斐国、信濃国の開拓に向かったと思われる。
駿河国式内社22座のうち10座(45%)が饒速日尊と思われる神を祀っている。 
7.伊豆国
一宮 三嶋大社 静岡県三島市 大山祇命・積羽八重事代主神 ○ 不詳 三宅島(現:富賀神社)→下田・白浜海岸(現:伊古奈比当ス神社)→大仁町(現:広瀬神社)→現在地と遷宮したとの伝承。
大山祇神は山の神様で、山林農産を始めて殖産興業の神、国土開発経営の神である。 事代主神は俗に恵比須様と申して、商工漁業、福徳円満の神である。
二宮 若宮神社 静岡県三島市西若町8−7 譽田別命 不詳 国司により勧請された八幡神社
三宮 浅間神社 静岡県伊豆市小下田1556   岩倉姫命 ○ 不詳 『伊豆国神階帳』に「従四位上 いわらい姫の明神」とある古社で、式内社・石倉命神社に比定されている神社。
四宮 廣瀬神社 静岡県伊豆の国市田京1−1 三嶋溝杙姫命 不詳 三島大社が下田から当地に遷座され後に、現在の三島へ遷ったとある
伊古奈比メ命神社 静岡県下田市白浜字白浜2740  伊古奈比メ命 伝承
「伊古奈比メ命は三嶋大明神の后。三島大神(別名事代主神)は、その昔、南のほうから海を渡ってこの伊豆にやって来ました。伊豆でも特にこの白浜に着かれたのは、この白砂の浜があまりにも美しかったからです。そして白浜に着いた三島大神は、この伊豆の地主であった富士山の神様に会って伊豆の土地を譲っていただきました。さらに、三島大神は伊豆の土地が狭かったため、お供の見目の神様、若宮の神様、剣の御子と、伊豆の竜神、海神、雷神の助けをかりて、島焼きつまり島造りを始めました。
最初に1日1晩で小さな島をつくりました。初めの島なので初島と名付けました。次に、神々が集まって相談する島神集島(現在の神津島)、次に大きな島の大島、次に海の塩を盛って白くつくった新島、次にお供の見目、若宮、剣の御子の家をつくる島、三宅島、次に三島大神の蔵を置くための御蔵島、次に沖の方に沖の島、次に小さな小島、次に天狗の鼻のような王鼻島、最後に10番目の島、十島(現在の利島)をつくりました。
7日で10の島をつくりあげた三島大神は、その島々に后を置き、子供をつくりました。この后々や子供達は、現在でも伊豆の各島々に式内社として祭られています。三島大神は、后達やその子供達を大変愛していましたが、その中でも伊古奈比・命は特に愛され、いつも三島大神のそばにいました。大神は、三宅島に宮をつくり、しばらくの間三宅島に居ましたが、その後最愛の后である伊古奈比・命とお供の見目、若宮、剣の御子を連れて再び白浜に帰って来ました。そしてこの白浜に大きな社をつくり末長くこの美しい白浜で暮らしました。それが、この伊古奈比・命神社です。」
来宮神社 熱海市西山町 大己貴命 ○ 大已貴命は素盞嗚命の御子であって又の名を、大国主命。古代出雲の神々が海、山を渡られて伊豆地方に進出されたときに、此の熱海の里が海、山に臨み、温泉に恵まれ風光明美にして生活条件の整っていることを愛し給い此処に住居を定めた時祀られたと伝えられている。
大三王子神社 東京都新島本村大三山 大三王子明神、弟三王子明神 当島開拓の地主神にて、始め能登男山鎮座するを貞享3年現地に転社
伊豆国は駿河国以上に事代主命がよく祭られている。事代主命の妻・子などもよく祭られており、事代主命がこの地方に長期にわたって滞在したことがうかがわれる。伊豆国式内社92座中12座(13%)が饒速日尊と思われる神を祀っている。事代主命は13座である。一宮の主祭神は饒速日尊と思われる。 
8.相模国 
一宮 寒川神社 神奈川県高座郡寒川町 寒川比古命 ○ 不詳 寒川大明神は太古草昧の時代、相模国・武蔵国を中心に広く関東地方を御開 拓になられ、農牧・殖林治水・漁猟・商工・土木建築・交通運輸その他あらゆる殖産 興業の途を授け、衣食住等人間生活の根源を開発指導せられた所謂関東文化の生みの 親神である。
一宮 鶴岡八幡宮 神奈川県鎌倉市 応神天皇 1063 源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである
二宮 川勾神社 神奈川県中郡二宮町山西2122 大名貴命・大物忌命・級長津彦命
○ 垂仁 相模の国で最古の神社といわれている。
磯長国国宰である阿屋葉造(あやはのみやつこ)が勅命を奉じて当国鎮護のために創建した。
三宮 比々多神社 神奈川県伊勢原市三ノ宮1472 豊国主尊、天明玉命 ○ 神武 当社は神武天皇が天下を平定した際、人々を護るために建立された神社であるとしている。『比々多神社 参拝の栞』[5]によれば、これは神武天皇6年のことで、人々が古くから祭祀の行われていた当地を最良と選定し、大山を神体山とし豊国主尊を日本国霊として祀ったことが創始である
四宮 前鳥神社 神奈川県平塚市四之宮4丁目14-26 莵道稚郎子命・大山咋命・日本武尊 不詳 兄に帝位を譲るため自殺したとされる菟道稚郎子命が実は死んでおらず、一族を率いて東国に下り曽祖父である日本武尊に所縁の地へ宮を建てた
高森神社 神奈川県伊勢原市高森527 味須岐高彦根命
加茂族の首長高彦根命は、事代主神と共に国づくりに大変活躍されました。神話においては国譲りに際し、謙譲の精神をもって接した御神徳の高い御祭神であります。農耕にあたっては、鉄器をもちいて新しい殖産を始め、日本国土づくりの神として尊崇を受けたのであります。平和の神、家内安全、五穀豊穣の神として、また縁結びにわたる御神徳は、今後高森の氏子ならび崇敬者の人びとの心に深く刻まれている。
大山阿夫利神社 神奈川県伊勢原市大山字阿夫利山1 大山祇大神 ○ 御主神大山祇大神は又の御名を大水上御祖の神とも、大水上の神とも 申し上げ、神威炳焉、生活の資源は勿論のこと、海運、漁獲、農産、商工業また又の 御名を酒解神と称へ酒造の祖神とし御霊徳高く丹精を篭めて祈願すれば諸願一つとし て成就しないことはない。
深見神社 神奈川県大和市深見3367  武甕槌神 ○ 雄略 武甕槌神、東國鎮撫のために常陸鹿島に在られた時、舟師を率 いてここに進軍され、伊弉諾神の御子、倉稲魂神、闇・神の二神をして深海を治めさ せられた。両神は深海を治めて美田を拓き、土人を撫して郷を開かれた。即ち深見の 名の起った所以である。
相模国式内社13座中6座(46%)が饒速日尊と思われる神を祀っている。一宮から三宮までの神社はすべて饒速日尊と思われる神である。相模国も饒速日尊が開拓したとみてよいであろう。 
9.武蔵国
惣社 大國魂神社 東京都府中市宮町3-1 大國魂大神 ○ 景行 祭神は大國魂大神で武蔵の国魂の神と仰いでお祀りしたものである。この大神は 素盞鳴尊の御子神でむかしこの国土を開拓され、人民に衣食住の道を授け、医薬禁厭等の方法をも教えこの国土を経営された
一宮 氷川神社 さいたま市大宮区 名神 須佐之男命・奇稲田姫命・大己貴命 ○ 孝昭 武蔵総社六所宮である大國魂神社(東京都府中市)に属する武州六大明神の内の一つであり、六宮の内の三宮である。
一宮 氷川女体神社 さいたま市緑区 小社 奇稲田姫命 崇神 崇神天皇の時代に出雲大社から勧請して創建されたと
一宮 小野神社 東京都多摩市・府中市 小社 天下春命 安寧 天下春命は知々夫(秩父)国造の祖神である。ただし、延喜式神名帳では座数は一座となっている。『江戸名所図会』では「瀬織津比賣一座」とある。『神名帳考證』では小野氏の祖の天押帯日子命としている。
二宮 二宮神社 東京都あきる野市二宮2252 国常立尊 ○ 不詳 「二宮大明神」とは「神道集」あるいは「私案抄」にみられる、武蔵総社大所宮(現在の大国魂神社)所在神座、武州六大明神[1]の第二次にあるがためである
三宮 氷川神社
四宮 秩父神社 埼玉県秩父市番場町1-1 八意思兼命・知知夫彦命
崇神 元々の祭神は八意思兼命と知知夫彦命ということになるが、これには諸説あり、八意思兼命・知知夫彦命のほか、思兼命の御子の天下春命、大己貴命、単に地方名を冠して「秩父大神」とする説などがある。
五宮 金鑚神社 埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮750 天照大神・素戔嗚尊 景行 日本武尊の東征の帰途、伊勢神宮にて倭姫命(やまとひめのみこと)より賜った火鑽金を室ヶ谷に鎮めたのが起源とされる。
六宮 杉山神社 神奈川県横浜市西区中央1-13-1 大己貴命 白雉3 白雉3年(652年)、出雲大社の大己貴命の分霊を祀ったと伝えられる。
武蔵国式内社44座中17座(39%)が饒速日尊及び大国主命が祀られている。大国主命の名で祀られている神が、饒速日尊であると特定できない神社が多く、正確には不明である。武蔵国は出雲系の人々の移民があったようで、出雲系の神々がよく祭られている。総社の大国魂神社のみが具体的伝承を伝えている。武蔵国を開拓したのも饒速日尊である。 
10.下総国
上総国・安房国は饒速日尊と思われる神を祭った神社は1社(倉稲魂命)のみである。饒速日尊は上総国・安房国の開拓をしなかったものと思われる。この両国を開拓したのは、伝承によると天太玉命で、大和朝廷成立後のようである。
一宮 香取神宮 千葉県香取市 経津主大神 ○ 神武 神代の時代に肥後国造の一族だった多氏が上総国に上陸し、開拓を行いながら常陸国に勢力を伸ばした。この際に出雲国の拓殖氏族によって農耕神として祀られたのが、香取神宮の起源とされている。
二宮 玉崎神社 千葉県旭市飯岡2126-1 玉依姫尊 景行 日本武尊が東征の折、相模より上総に渡ろうとして海難に遭った際、弟橘媛が「これは海神の御心に違いない」と言って入水したので、無事上総国に着くことができ、葦浦(鴨川市吉浦)を廻り玉の浦(九十九里浜)に渡ることができた。そこで日本武尊は、その霊異を畏み、海上平安、夷賊鎮定のために、玉の浦の東端「玉ヶ崎」に、海神の娘であり神武天皇の母である玉依姫尊を祀ったと伝えられている。
二宮 二宮神社 千葉県船橋市三山五丁目20-1 速須佐之男命 810 式内社寒川神社の後裔社であり、現在でも寒川神社と呼ばれることがある
下総国11座中4座(36%)が饒速日尊と思われる神を祀っている。一宮の香取神宮は経津主大神でこの神は饒速日尊と推定している。二宮の寒川神社では神奈川県で寒川大明神(饒速日尊)を祀っており、この神社も饒速日尊かもしれない。下総国も饒速日尊が開拓したと思われる。 
11.常陸国
一宮 鹿島神宮 茨城県鹿嶋市 武甕槌大神 ○ 神武 天地が開ける以前(天地草昧已前)に高天原から天下った「香島の天の大神」を祀る。
神武天皇御即位の年に神恩感謝の意をもって神武天皇が使を遣わして勅祭されたと伝えられる。
御神徳 神代の昔天照大御神の命により国家統一の大業を果たされ建国功労の神と称え奉る。 武道の祖神決断力の神と仰がれ関東開拓により濃漁業商工殖産の守護神として仰がれる外常陸帯の古例により縁結び安産の神様として著名
二宮 静神社 茨城県那珂市静455 建葉槌命 平安 鹿島神宮、香取神宮と共に東国の三守護神として崇拝され、豊臣氏や徳川氏から寺領などの寄進を受けたとの記録がある
三宮 吉田神社 茨城県水戸市宮内町3193-2 日本武尊 5世紀 日本武尊の東征時にこの地朝日三角山で兵を休ませたことにちなみ、創建されたという
大洗磯前神社 茨城県東茨城郡大洗町磯浜町字大洗下6890  大己貴命、少彦名命 ○ 祭神が霊夢に顕れ「我はこれ大己貴、少彦名神也。昔この國を造り東海に去ったが、東國の人々の難儀を救う為に再びこの地に帰ってきた」と仰せられた。当時の記録によると度々地震が発生し人心動揺し、國内が乱れて居り、大國主神はこうした混乱を鎮め平和な國土を築く為に後臨された。
即ち大洗磯前神社は御創立の当初から関東一円の総守護神として、大國主神御自ら此の大洗の地を選び御鎮座になったのであります
鳥見神社 茨城県印西市平岡 饒速日命 ○ 大和国鳥見白庭山に宮居した饒速日命は、土地の豪族長髄彦の妹御炊屋姫命を妃として宇摩志真知命を生んだ。その後東征して印旛沼・手賀沼・利根川に囲まれた土地に土着したその部下が、祭神の三神を産土神として祭り鳥見神社と称した。
鳥見神社 茨城県印西市小林 饒速日命 ○ 崇神 此の地開拓の祖神として祟神天皇御宇五年に創建されてと伝えられている。
常陸国式内社28座中15座(54%)が饒速日尊を祀っている。この比率は他国より高い。鹿島神宮の地が長期滞在した場所であろう。大洗磯前神社に大己貴命(饒速日尊)が二度やってきたとあるが、関東地方開拓が一段落(AD45年頃)した後、東海地方に戻り甲斐国・信濃国を開拓した。その後出雲国譲り(AD47年頃)が起こり、その後、再びこの地を訪れている。この時(AD53年頃と推定)は、鹿島神宮の地を拠点として、陸奥国を開拓したものと思われる。鳥見神社の伝承により饒速日尊が宇摩志真知命を伴って、関東地方一帯を開拓したことが分かる。 
12.上野国
一宮 一之宮貫前神社 群馬県富岡市 経津主命 ○ 安閑 創建は安閑天皇元年(531年)3月15日、鷺宮(現在の安中市)に物部姓磯部氏が氏神である経津主神を祀り、荒船山に発する鏑川の流域で鷺宮の南方に位置する蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが始まり
経津主神は磐筒男、磐筒女二神の御子で、天孫瓊瓊杵尊がわが国においでになる前に天祖の命令で武甕槌命と共に出雲国(島根県)の大国主命と協議して、天孫のためにその国土を奉らしめた剛毅な神で、一名斎主命ともいい建国の祖神である
二宮 赤城神社 前橋市二之宮町 赤城大明神・大国主命・経津主命 ○ 不詳 崇神天皇の皇子・豊城入彦命が上野国に移ったとき、赤城神社は神庫岳(現・地蔵岳)の中腹に「赤城大明神」と「沼神の赤沼大神」として既に祀られていたそうです。他の赤城神社では大己貴命が主祭神で祀られているので、赤城大明神は大己貴命と思われる。
三宮 伊香保神社 群馬県渋川市伊香保町伊香保2 大己貴命・少彦名命 ○ 825 当社が現在の温泉地に移転する以前は、「いかほ」(榛名山も含むこの地域の旧称)の山々を山岳信仰の場とした「いかつほの神」一座が祭神であったとされる。
上野国式内社12座中6座(50%)が饒速日尊と思われる神を祀っている。赤城山は関東平野を一望する見晴しの好い山なので、饒速日尊は山頂に登り、周辺を見渡していると思われる。赤城大明神とは饒速日尊であろう。 
13.下野国
一宮 宇都宮二荒山神社 栃木県宇都宮市 豊城入彦命・大物主神・事代主神 ○ 仁徳 毛野国の開祖である豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を主祭神とし、崇神天皇が都とした磯城瑞籬宮(現在の奈良県桜井市金屋)の北に鎮座する三輪山(大神神社)の御神体である大物主命とその子事代主命を相殿に祀る。主祭神については時代によって彦狭嶋王、御諸別王(彦狭嶋王の子)、事代主命、健御名方命、日光三所神など諸説ある。江戸期には日光山大明神と称されたこともあり、天保14年(1843年)には大己貴命、事代主命、健御名方命が祭神であった。
一宮 日光二荒山神社 栃木県日光市 二荒山大神(大己貴命・田心姫命・味耜高彦根命) ○ 767 日光の3つの山の神(大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命)を総称して二荒山大神と称し、主祭神としている。
大前神社 栃木県真岡市東郷937 大己貴命、事代主命 ○ 大前神社は、芳賀郡と若色郷(若績郷)古聖(こひじり)、鏡田等地名の発祥地にして、社名祭神の霊跡に起源し、古くから大内庄三十三郷の総社として、宏大な社領の中に壮厳なる社殿を営み、大利根の支流鬼怒川、五行川、小貝川、三川の間湖沼に点在する田畑丘陵に恵まれ、農林漁労豊富な中心地に位置し、周辺非常なる繁栄の中に、北は氏家、南は常陸真壁郡一帯にまで崇敬圏が及び、延喜の制下野国十一社の内に撰定せられた式内名社である。
下野国では式内社11座中8座(73%)まで饒速日尊と思われる神を祀っている。これは非常に高い比率である。大前神社の地に大己貴命(饒速日尊)が滞在していたようである。 
14.甲斐国
関東地方一帯の開拓が軌道に乗ったころ(AD45年頃)、饒速日尊は関東地方から駿河国に戻り、富士川を遡って甲斐国の開拓に臨んだ。この時は事代主命が同行しているようである。
一宮 浅間(あさま)神社 山梨県笛吹市一宮町 木花開耶姫命 ○ 垂仁 垂仁天皇8年正月に神山である富士山の山の麓で神祭があり、貞観7年(865年)12月9日に現在地に遷座した。浅間大神を祀る。
二宮 美和神社 山梨県笛吹市御坂町二之宮1450-1 大物主命 ○ 景行 三輪山を神体とする大和国(奈良県)の大神神社から勧請され、尾上郷の杵衡神社へ遷された後に新たに二之宮に遷座されたとする伝承が一般的
三宮 玉諸神社 山梨県甲府市国玉町1331 大国玉命 ○ 不詳 延喜式内社 玉諸神社と称し、その創建勧請の年代は詳かではないが、祭神は天羽明玉命(天の岩戸の変の時、真榊の枝にかけた 八坂瓊五百箇御統玉を造った神である)。
四宮 甲斐奈神社 山梨県甲府市中央3−7−11   菊理姫命 木花咲耶姫命 ○ 綏靖 人皇第二代綏靖天皇の御代、皇子土本毘古王が、甲斐国疏水工事を行い、甲斐国開拓の御業なせし時、中央の山上甲斐奈山(現愛宕山)に、白山大神を祀ったのが当社の起源。
甲斐国式内社20座の内14座が饒速日尊と思われる神を祀っている。甲斐国はこの頃甲府盆地の大半が湖であった。その周辺の開拓を行ったのであろう。開拓は一朝一夕で為せるものではなく、饒速日尊が開拓の指示をし、饒速日尊が引き連れてきた物部一族が何代もかけて、開拓をしていったのである。そのために、饒速日尊が祖神として祀られているのである。 
15.信濃国
甲斐国の開拓が軌道に乗った時、饒速日尊が次に進んだのは、信濃国である。信濃国は後に越国を統治していたはずの建御名方命がやってきて開拓を行っている。建御名方命がやってくる前に諏訪大社の位置には事代主命がいたようで、建御名方命は事代主命から統治権を譲り受けているようである。信濃国には謎が多く、まず、神社の実態をそのまま示すことにする。
一宮 諏訪大社 長野県諏訪市・茅野市 建御名方命・八坂刀売命・八重事代主神 不詳 本来の祭神は出雲系の建御名方ではなくミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などの諏訪地方の土着の神々であるとされる。現在は神性が習合・混同されているため全てミシャグチか建御名方として扱われる事が多く、区別されることは非常に稀である。神事や祭祀は今尚その殆どが土着信仰に関わるものであるとされる。
二宮 小野神社 長野県塩尻市北小野175 建御名方命 崇神 建御名方命は科野(しなの)に降臨し、しばらくこの地にとどまり諏訪に移った。その旧跡に崇仁天皇の時祭神を勧進奉斎す
二宮 矢彦神社 長野県上伊那郡辰野町大字小野字八彦沢 正殿 :大己貴命 ・事代主命 副殿 :建御名方命・八坂刀賣命 ○ 欽明 遠い神代の昔、大己貴命(おおきむちのみこと)の国造りの神業にいそしまれた折り、御子の事代主命(ことしろぬしのみこと)と建御名方命(たてみなかたのみこと)をしたがえて、この地にお寄りになったと伝えられている
三宮 沙田神社 長野県松本市島立区三ノ宮字式内3316 彦火火見尊 豐玉姫命 沙土煮命 大化 孝徳天皇の御宇大化五年六月二十八日この国の国司勅命を奉じ初めて勧請し幣帛を捧げて以って祭祀す
三宮 穂高神社 長野県安曇野市穂高6079 穂高見神、綿津見神、瓊瓊杵神、天照大御神 安曇族は、北九州に起こり海運を司ることで早くから大陸との交渉を持ち、文化の高い氏族として栄えていた。その後豊かな土地を求め。いつしかこの地に移住した安曇族が海神を祀る穂高神社を創建したと伝えられている。主神穂高見命は、別名宇津志日金折命(うつくしかなさくのみこと)と称し、海神の御子で神武天皇の叔父神に当たり、太古此の地に降臨して信濃国の開発に大功を樹られたと伝えられる
四宮 武水別神社 長野県千曲市八幡3012 武水別大神 孝元 主祭神の武水別大神は、国の大本である農事を始め、人の日常生活に極めて大事な水のこと総てに亘ってお守り下さる神であります。長野県下最大の穀倉地帯である善光寺平の五穀豊穣と、脇を流れる千曲川の氾濫防止を祈って祀られたものと思われます。
生島足島神社 長野県上田市下の郷 生島神、足島神 ○ 神代 古より日本総鎮守と仰がれる無双の古社で、神代の昔建御名方命が諏訪の地 に下降される途すがら、この地にお留りになり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜられたと伝えられ、その古事は今も御篭祭という神事に伝えられている
三輪神社 長野県上伊那郡辰野町辰野下辰野新屋敷2095 大己貴命・建御名方命・少彦名命 ○ 大己貴命・少彦名命が神代にこの地に留まったと伝えられている。
阿智神社 長野県下伊那郡阿智村智里489 天八意思兼命、天表春命 阿智神社は上古信濃国開拓の三大古族即ち諏訪神社を中心とする諏訪族と穂高神社を中心とする安曇族とともに国の南端に位置して開拓にあたった阿智族の中心をなす神社としてその祖先を祭り、「先代旧事本紀」に八意思兼命その児 表春命と共に信濃国に天降り阿智祝部(はふりべ)の祖となるとあり
安布知神社 天思兼命 天思兼命は、高天原最も知慮の優れた神として、古事記、日本書紀に記されているが 、平安時代の史書「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)に、天思兼命とその子天表春命(あめのうわはるのみこと)は共に信濃國に天降り、阿智祝部(あちのはふり べ=阿智の神事を司る神主)等の祖となったと記され、古代の伊那谷西南部一帯を開拓した天孫系の神で、昼神に鎮座する阿智神社の御祭神と同一で両社は古くより密接 な関係があり、北信の戸隠神社とも因縁が深い。またこの地は、古代東山道の阿智駅(あちのうまや)が置かれたところで駅馬30頭 をおいて険難な神坂峠に備えた阿智駅の守護神として当社は重要な位置を占めている。
戸隠神社 九頭龍大神 奥社のすぐ下にあり境内社のようになっているが創建は奥社より古くその時期は明らかでない。地主神として崇められている。古くは虫歯・歯痛にご利益があると言われていた。地元の人によると戸隠の九頭龍神は梨が好物だそうである。九頭龍大神は饒速日尊と思われる。
九頭龍大神については「雄略天皇21年(477年)、男大迹王(継体天皇)が越前国の日野、足羽、黒龍の三大河の治水の大工事を行われ、北国無双の暴れ大河であった黒龍川(九頭龍)の守護と国家鎮護産業興隆を祈願され高オカミ大神(黒龍大神)、闇オカミ大神(白龍大神)の御二柱の御霊を高尾郷黒龍村毛谷の杜(舟橋の現在地から6.5km上流の川の中央に位置)に創祀された。この儀により現代まで連綿と続く九頭竜湖〜九頭龍川流域での黒龍大明神信仰が興ったのだとされる。」。これより、九頭龍大神=高オカミ大神であることが分かり、高オカミ大神=饒速日尊である。
建御名方命が信濃国に来ている。建御名方命は大国主命と奴奈川姫との間にAD20年頃できた子で、饒速日尊が信州にやってきたころは越国を統治していた。一般に建御名方命は出雲国譲りで建御雷命と争い、出雲から逃げて信州に来たとなっているが、神社伝承をつなぐと、少し違うようである。建御名方命は越国を統治しており、建御雷命は饒速日尊である。このことは、饒速日尊が建御名方命に越国を譲らせたことになる。建御名方命が来る前から饒速日尊は信濃国にいて、建御名方命に信濃国を開拓させたようである。阿智神社の思兼命は饒速日尊に従って大和に降臨した人物である。饒速日尊に従っていたと思われる。信濃国は諏訪族・安曇族・阿智族の三系統の人々によって開拓されたようである。どういった手順でそのようなことになるのであろうか。他の地域の伝承を確認してから、このなぞに迫りたい。
信濃国式内社48座中17座(35%)が饒速日尊と思われる神を祀っている。一方建御名方命は21座(44%)である。 
具体的統一手法
伝承をもとに統一方法を判断すると、以下のようになる。  
伝承はそのほとんどが土地を開拓したと云うようなものである。海外からの新技術を以ての水田開発であろう。当時の人々にとって食料の安定確保が最重要課題である。よい水田ができればこの目的を達したことになる。処が広い土地での水田開発など一人でできるものではなく、多くの人材を使っても数十年規模の年数が掛かると思われる。ところが饒速日尊は各国1年程度の滞在のようである。東日本全体を15年程度で統一するにはこれほどの速さが必要であるが、そんなに早く土地開発はできるものではない。
各国では饒速日尊を祀っていると思われる神社が関東地方では5割を超えている。これは、物部氏が多数入植してその人たちが始祖である饒速日尊を祀ったものと解釈できる。近畿地方から相当数の人々の移動がなければならない。弥生中期末に当たるこの頃、大阪湾沿岸の多くの遺跡が急に消滅し人の気配が消えている。ほぼ時期を同じくして、大阪湾岸に多かった方形周溝墓が関東地方まで一挙に広がっている。これは考古学上でも大阪湾岸に住んでいた人々の大移動があったことを意味しており、伝承上の物部氏の大移動と時期と言い場所と言い完全に重なるのである。
饒速日尊は大和侵入に関してマレビト作戦を使った。能力の高い男子を大阪湾岸の集落にマレビトとして送り込み、その集落に先進技術を導入し、統一するというものであった。今回は東日本と言う広大な地域の一斉統一である。方形周溝墓の性質から判断して、今度の入植は家族単位の移動と思われる。饒速日尊にマレビトとして送り込まれた人々は、入り込んだ集落の人々に新技術を伝え、国家統一の目的意識を植え付けていった。饒速日尊はそれぞれの集落の人々に東日本各地に赴いてその土地を開発するように指示した。大阪湾岸地域の集落の人々はそれぞれ家族単位で指示された地域に赴いて、土地開発を行い同時に周辺の人々に新技術を伝えていったのである。饒速日尊はその入植した土地を巡回して、細かい指示をして回ったと判断する。
神奈川県小田原市に中里遺跡がある。縄文人と弥生人が協力して稲作を始めたというものであるが、そこから出たのは瀬戸内(兵庫県東部)の弥生中期末の土器である。この遺跡こそ、まさにこの伝承が正しいことを立証するものではないだろうか。
この当時、東日本に住んでいた人々は国と言う統一組織もない状態だったので、新規入植者から、土地開拓をはじめとする先進技術を教えてもらい、この入植者(物部氏)が始めた祭祀を行うようになり、自然に日本国に所属するようになったと解釈する。 
 
第10節 日向国の台頭

 

出雲国譲り 
大国主命の最期
第二代倭国王大国主命の最期はどうなったのであろうか。神話伝承では国譲りの時、交換条件の出雲大社に留まったというのが最期である。それまでに大国主命は二度死んでいる。
「兄弟神たちは怒って、大国主の神を殺そうと企んだ。まず、伯岐の国の山に行って、大国主の神に赤猪の捕獲を命じた。大きな石を火で真っ赤に焼いて、猪に見せかけ転がし、大国主の神にぶつけたので、大国主の神は焼け死んだ。これを嘆いた母親が、神産巣日の神のもとへ行ったところ、神産巣日の神が派遣した蚶貝比売と蛤貝比売とが貝で治療したため、大国主の神は生き返ることができた。しかし、兄弟神たちはそれを見て、さらに、 大きな樹に楔(くさび)を打ち込み、その割れ目に大国主の神を誘い込んで、楔を外して挟み殺した。そこでまた母親が、大国主の神を見つけ出し、木の中から助け出して、生き返らせた。そして、紀伊の国の大屋毘古神のもとへ逃がした。」
これは大国主命が第二代倭国王になることによって、周りの人たちから嫉妬の念を受けて、色々といじめられたことを意味していると思われ、本当の死を意味しているのではないと判断する。
大国主命の墓ではないかという伝承があるのは島根県三刀屋町の三屋神社の裏山である。三屋神社の延喜の棟札の裏書に≪大己貴神天下惣廟神明也≫とあるので、此処が墓ということになる。
全国の大国主関係の伝承を集めた処、最期の方のものと考えられるのは九州方面の伝承である。出雲に戻ってきたという伝承が見つからない。国譲りの段で国譲り交渉を大国主命と行っているが、大国主命が存命なら、日向国(高天原)が国譲りを要求する理由がなくなってしまう。あるとすれば領土的野心であるが、之があれば戦乱は必至である。弥生後期初頭に当たるこの頃、戦乱の後を示す遺跡はない。また、この頃九州方面から武器系の遺物の出土は減少傾向にあり、考古学的に戦乱を意味するものはない。
国譲りが起こる理由としては後継者争いが最も自然に考えられる。後継者争いとなれば、第二代大国主命が「後継者を決めずに急死した」というのがありうる筋書きとなる。九州方面で伝承が途切れていることから、九州で急死したと考えるのが最も自然であろう。大国主命は九州で宗像三女伸の一人の多祁理姫と結婚し、味耜高彦根命が誕生している。記紀神話では他に事代主命と下照姫も生まれていることになっているが、神社伝承では味耜高彦根命のみである。生まれた後、味耜高彦根命は南九州の高皇産霊神の指示のもとで動いている。これは、味耜高彦根命の誕生地は南九州であることを意味しており、大国主命は南九州の日向国で亡くなっていると判断できる。
三屋神社の裏山が御陵となっているのは、大国主命の遺骨を出雲に運んだためであろう。大国主命は出雲国で政治をしている期間は第二代倭国王に就任してからわずかの期間でしかなかった。その後は倭国開拓のために各国を巡回していたのである。そしてその巡回先で亡くなったと考えられるのである。高皇産霊神の元で亡くなったと思われ、高皇産霊神は生まれ故郷に葬ることを考え、出雲での政庁の跡に葬ったのであろう。 
倭国の分裂
この時期、神社伝承や神話伝承によると、倭国に大きな変化があったようである。出雲国譲り神話がこの変化を示しているようであるが、具体的に倭国がどうなったのであろうか。神話伝承や神社伝承を基にすると、次の2つが考えられる。
・倭国が九州倭国(西倭)と出雲倭国(東倭)に分裂した。
・倭国の実権が九州に移った。
どちらが正しいのか検討してみよう。
神社伝承によると国譲り後出雲は猿田彦命が治め、九州は日向津姫が治めているようである。統治者がそれぞれにいるのである。また、九州系の遺物が、この時期中国地方に出土する傾向は見られない。その上、九州地方に瀬戸内系の土器の出土が激減するという傾向が見られる。 さらに、後の時代の大和朝廷が成立したときも、九州には方形周溝墓が出現し畿内系のの祭祀が始まっており、畿内勢力が実権を握っていた形跡があるのに対し、中国地方には方形周溝墓が見られず、中国地方と、九州地方では、大和朝廷下での扱いが異なる。
もし、倭国の実権が九州に移ったのであれば、中国地方から九州系の遺物の出土が増えるはずであり、大和朝廷の、九州と中国地方の扱いが異なることは考えにくい。これらのことを考えると倭国は分裂したと考える方が妥当である。素盞嗚尊のまとめた倭国は、銅剣・銅矛祭祀が早くから消滅した中国・北四国地方を中心とする東倭と広形銅矛祭祀の広まっている九州・南四国を中心とする西倭に分裂したと判断できる。
ではどういう経過をたどって分裂したのであろうか。ここに、神社伝承を元に推定してみることにする。 
日向津姫が宇佐を旅立つAD25年ごろの北九州の情勢
素盞嗚尊は高齢化し倭国の経営を安心できる後継者に任さなければせっかくまとまった倭国がすぐに崩壊することを憂えていた。また、AD20年頃出雲で伊邪那美命命が亡くなったことを聞き、伊邪那美命を弔うために出雲に帰還し、そして、後継者の選定をすることになった。そして、正統な出雲王家の系統である、大国主命を第二代倭国王とした。
倭国は大きくなりすぎたので、各地域ごと有力者に統治させないと倭国の体制は維持できないと考えていた。同時にまだ未統一の地域の統一も重要であった。大国主には倭国全体を統治させるため、各地方を巡回して農業をはじめとする新技術を広めて新しい土地開発に従事させた。日向津姫には南九州の未統一地域の統一を命じた。そして紀伊半島部は五十猛命に任せた。
気になるのは北九州地方である。この地域は海外交易の玄関口になり、最重要拠点である。その中心域の伊都国・奴国はまだ倭国に加盟していない。ここに信頼できる人物を派遣しないと倭国は安定して維持できなくなる。そこで、白羽の矢が当たったのが高皇産霊神である。高皇産霊神は馬見山北麓辺りに拠点を置いていた豪族で、優れた知恵をもっており、素盞嗚尊の北九州統一時に色々と知恵を授け、素盞嗚尊も大変信頼していた。素盞嗚尊はこの高皇産霊神に長男である忍穂耳を預け、忍穂耳を旗頭として豊国、嘉麻、田川、飯塚一帯を統治させることにした。
問題はそれ以外の北九州地域である。北九州中心域近辺と佐賀・長崎地域である。ここを猿田彦命に任せることにした。 猿田彦命は出雲にいたころの大歳(後の饒速日尊)とキサカイヒメとの間にできた子で、AD1年頃誕生している。AD25年に当たるこの頃は25歳ほどであった。 この時まで出雲をまとめている八島野命に協力をしていたものと考えている。猿田彦命は人望があり、知恵にも優れていたので、素盞嗚尊は猿田彦命こそ北九州の 中心域の統治には最適と考えた。猿田彦命は妻を失ったイザナギを伴って、福岡市の住吉神社の地に上陸した。猿田彦命は住吉大神の別名を持つこととなった。
北九州中心域にはイザナギ・伊邪那美命を祀った神社が数多く存在しているが、イザナギの行動実績は伝えられているが、伊邪那美命は伝えられていない。後の時代に神武天皇がこの地を訪れた時もイザナギのみを祀っている。おそらく、伊邪那美命と死別したあとのイザナギが訪れたのであろう。福岡市の住吉神社は根の国から戻って禊をして住吉神を産んだとされている。住吉神は猿田彦命で猿田彦命と共にこの地に上陸したことを意味しているのであろう。古代の住吉神社の地は那珂川の河口でありながら、丘陵があり上陸地に最適の場所だったようである。
猿田彦命はここを拠点として北九州市以西の海岸線及び筑後川流域、佐賀・長崎の広い地域を統括することになった。猿田彦命の統治領域は広い海岸線を含んでいる。海上交通の実権を握っていたことは明らかであろう。この地域の実権を握るには海上交通を抑えないと意味がない。住吉大神は海上交通の神である。宗像三女神も海上交通の神であり、両者にはつながりが感じられる。三女神を祭る中心的神社は宗像神社と呼子の田島神社である。呼子は壱岐島からの最短距離にあり、宗像は東からの海上交通の要になるところである。そしてその真ん中あたりに住吉神社がある。また、この配置は当時の未統一地域である伊都国を東西から挟んでいる配置である。伊都国は猿田彦命によって海上交易の利権を奪われた形になっている。猿田彦命は、この時三女神のひとり市杵島姫と結婚したのであろう。イザナギは猿田彦命の統治に暫く協力後、饒速日尊に協力するために淡路島に行ってそこで世を去った。
日向津姫のほうは九州でまだ未統一な地域の統一を素盞嗚尊から託されてそのために尽力することになった。
宇佐で素盞嗚尊と日向津姫が生活しているときいろいろと知恵を絞って倭国の経営に協力してくれたのが高皇産霊神であった。 日向津姫は南九州未統一地域の統一のために日向に戻らなければならず、素盞嗚尊の指示通りにまだ幼少の長男忍穂耳命を高皇産霊神に預けた。高皇産霊神は忍穂耳命を旗頭として九州北東部地域を治めることになった。忍穂耳命は成長後のAD35年頃高皇産霊神の娘ヨロズハタトヨアキツヒメと結婚した。高皇産霊神は成人した忍穂耳に豊前、嘉麻市、飯塚市、田川市辺り一帯の統治を任せた。この頃日向津姫は南九州地方の統一に手間取っていたため、高皇産霊神は日向津姫を助けるために日向に旅立った。忍穂耳はこの地域を治めていたが、出雲国譲り直前のAD45年頃病没した。
日向津姫は次男穂日命命をつれ、宇佐を出発した。日向に戻る前に素盞嗚尊が統一に失敗した球磨国の様子を探るため延岡から五ヶ瀬川をさかのぼり高千穂に立ち寄った。高千穂の櫛降神社は瓊々杵尊の誕生伝説地である。瓊々杵尊誕生伝説地は調べた限り他になく、瓊々杵尊はここで滞在中の日向津姫から産まれたのではないだろうか。 日向津姫が高千穂に住んでいたのは25年頃〜27年頃の2年間ほどと考えられる。日向津姫が住んでいたのは高千穂町三田井のはずれにある高天原と呼ばれている丘陵上ではないかと考える。 ここは瓊々杵尊の宮居伝説地である。このためにこの高千穂が天孫降臨の地として後世に伝えられることになったのではないだろうか。
日向津姫は27年ごろ生まれ故郷である日向の地へ戻った。日向に戻った日向津姫の拠点は当初イザナギの皇都があったという伝承を持つ東霧島神社の地であろう。この神社は瓊々杵尊が都していたという伝承も持っている。ここを拠点として日向津姫はしばらくは日向地方の地固めを行なっていた。 この当時、九州では球磨国・大隅半島部・薩摩半島部・日南地方はまだ未統一であった。
高皇産霊神は政略的な知恵には長けていたが大国主は科学的知識に長けていた。高皇産霊神は南九州統一にはこの地域の農業生産性を上げる必要があり、そのためにはどうしても大国主の科学的知識が必要と考え、AD40年頃北九州にいた大国主を南九州に呼んだ。
そこで大国主命に、素盞嗚尊との間にできたタギリヒメと結婚させた。日向(西都市周辺)で農地開発に協力した。大国主は比木神社の地を中心として活躍していたようである。西都市周辺にいる時AD40年頃アジスキタカヒコネが生まれている。熊本県の幣立宮に大国主命がいた痕跡がある。 大国主命は球磨国を倭国に取り込もうと努力をしていたのであろう。そのほか日向一宮である都農神社を始め、日向には大国主命の足跡を伝える神社が存在している。大国主命は球磨国を初め、未統一地域の統一に向けて努力をした。
しかし、アジスキタカヒコネが生まれた後、志半ばにして大国主命は日向で死んでしまった(AD44年ごろ)。 大国主命の遺骨は出雲に引き取られ、生まれ故郷の出雲国山屋神社裏山に葬られた。
大国主命が後継者を決めずに日向で亡くなったことが倭国に相続問題を引き起こすことになった。第三代倭国王の候補は出雲ではタケミナカタである。 しかし、タケミナカタの母は越の人であり出雲とは無関係であった。出雲の人々が納得するはずはない。
その上九州内の未統一地域が倭国の切り崩しを謀って不穏な動きをしていた。 そのため、倭国に衰退の兆候が見られてきたのである。高皇産霊神は、このままでは、せっかくまとまった倭国が再び分裂し、戦乱の時代が来るのではと危惧した。 素盞嗚尊が創始した倭国は巨大な統一国家に成長した。しかし、その政治体系は未熟なものがあったのである。 
国譲り会議
朝鮮半島の技術は素盞嗚尊の活躍によって取り入れることができたが、それだけでは不十分であり、さらに進んでいる後漢の技術の習得し、 その技術を使って残された未統一地域の統一がこの危機を乗り切るのに急務であった。そのためには、指導力のある強力な国王が必要であったが、出雲にその人材がなかった。倭国全体を治めることのできる人物は素盞嗚尊以外にはいないのである。そのため素盞嗚尊祭祀を強化する必要があった。倭国の建て直しのためには、倭国の政治体系と祭祀体系を確立しなければならないのである。日向津姫、高皇産霊神が何とかしようと思っても出雲からの指示待ちでは何もできず、倭国の分裂は明らかで戦乱の時代が来ることが予想された。日向津姫、高皇産霊神の発言力は倭国全体には及ばなかったのである。そこで、高皇産霊神は日向津姫と相談し倭国から九州を独立させることを提案した。
高皇産霊神の考えをまとめると次のようなものである。
1.猿田彦命による出雲中心域での素盞嗚尊祭祀の確立。
2.猿田彦命による出雲の統治権の確立。
3.忍穂耳命を国王として九州を倭国から独立させる。
4.対馬の豪族を取り込み後漢の技術を取り入れる。
5.九州内の未統一地域を統一し国力を充実させる。
6.東倭と再び合併する。
7.最終的に東の日本国と合併し、列島内の統一政権を作る。
出雲は八島野命が統治していたが、この八島野命もこの頃亡くなった。大国主の子である鳥鳴海(鳥鳴海命)が出雲国の後継者となった。しかし、倭国全体を統治するには反対意見もあり、出雲も落ち着かない状態になっていった。後継者をすぐにでも決定しなければ倭国が分裂してしまうことは避けられない。カリスマ性を持っていた素盞嗚尊ほどの統治者はいないのである。やはり倭国全体を治めるには素盞嗚尊しかいないのである。そこで、素盞嗚尊祭祀の形で神となった素盞嗚尊の言葉を伝える人物(言代主)をつくり、神(素盞嗚尊)の言葉として政治を行うと倭国全体が治められるのではないかと高皇産霊神は考えた。出雲中心域では素盞嗚尊の祭祀が散発的にしか行われていなかったのである。出雲中心域で本格的な素盞嗚尊祭祀を創める必要があった。国を治めるには祭祀を強化すると同時に強力な支配者が必要である。この支配者が出雲にはいないのである。
大国主命の子供は以下のように整理される。
スセリ姫 子なし 大国主命は結婚後スセリ姫の激しい性格をきらい、近づかなかったようである。地方巡回に精を出したのも彼女から逃げると云う目的もあったと思われる。
八上姫 木俣神 スセリ姫の激しい嫉妬から八上姫は故郷に帰ってしまった。
奴奈川姫 タケミナカタ 越国に派遣している時に生まれた。越国王として活躍しており、出雲にはいなかった。
タギリ姫 アジスキタカヒコネ この人物は日向に住んでおり、日本国・倭国の合体実現に貢献した
トトリ姫 鳥鳴海 トトリ姫は素盞嗚尊長男八島野命命の娘。出雲王朝第7代国王
カムヤタテ姫 事代主命 下照姫 カムヤタテ姫は大国主命ではなく大物主命の妻である。したがってこの二神は大国主命の子ではない。
このような複雑な事情を解決するためには有力者が各地に散らばっているので、もめごとを起こさないためにも関連人物を1か所に集めて会議をする必要があった。之を示す神話が以下のものである。
<古事記>
高天原から、最初は天穂日命が、次には天稚彦が国譲りの交渉役に遣わされるが、どちらも大国主命に従って、高天原に帰ってこない。そこで武甕槌神と天鳥船神(『日本書紀』では武甕槌神と経津主神)が遣わされ、稲佐の浜に剣を突き立てて国譲りを迫った。
大国主命は、ふたりの息子に意見を求めた。釣りに出ていた事代主神は国譲りに承諾したが、健御名方神は反対した。そこで、健御名方神と武甕槌神の間で力競べが行われ、建御名方命が敗れてしまい、国譲りが実行された。敗れた健御名方神は諏訪まで逃げ、その地に引き籠もって諏訪神社の祭神になったとされている。
<日本書紀一書>
大国主命のもとに高天原のふたりの神がきて、「あなたの国を天神に差し上げる気があるか」と尋ねると、「お前たちは私に従うために来たと思っていたのに、何を言い出すのか」と、きっぱりはねつけた。すると、高天原の高皇産霊尊は、大国主命の言葉をもっともに思い、国を譲ってもらうための条件を示した。
その一番の条件は、大国主命は以後冥界を治めるというものです。さらに、大国主命の宮を造ること、海を行き来して遊ぶ高橋、浮き橋、天の鳥船を造ることなどを条件に加えた。大国主命はその条件に満足し、根の国に行った。
<出雲国風土記>
国譲りにさいして、大国主命は、
「私が支配していた国は、天神の子に統治権を譲ろう。しかし、八雲立つ出雲の国だけは自分が鎮座する神領として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて国を守ろう」
出雲以外の地は天孫族に譲り渡すが、出雲だけは自分で治める、と大国主命は宣言している。譲るのは、出雲の国ではなく、葦原中つ国そのもの、すはわち倭国の支配権というわけである。
この三種の国譲りを見て言えるのは戦闘が主ではなく、話し合いが主である。話し合いで互いに条件を出し合い交渉をして、国譲りを実現していることが分かる。日本書紀一書にある、大国主命が以後冥界を治めるということは、大国主命がこの時すでに亡くなっていることを意味している。大国主命が会議の後処刑されたことも考えられなくはないが、これら文章はそんな殺伐としたものに見えない。すでに亡くなっていると考えた方が前後がスムーズにつながる。
倭国の将来を決定づける重要な話し合いである。遠く離れた地で交渉するのも不自然である。一か所に集まって会議をしたと見るのが自然であろう。参加した人物は上の文章から判断して、高皇産霊神(日向国代表)、饒速日尊(=武甕槌神・日本国代表)、事代主命、建御名方命(越国代表)である。前後の出来事を考えると、他に五十猛命(紀伊国代表)、天忍穂耳命(北九州東部代表)、猿田彦命(北九州西部代表)、味耜高彦根命、鳥鳴海(出雲国代表)が加わっていると判断する。
会議の場所はどこであろうか、出雲国が倭国の中心地なので出雲国のどこかと思える。次の伝承が参考になる。 
「島根県口碑伝説集・十六島の岬」の記事
大国主命は国譲りの問題が起こると、子供の建御名方命を信州から呼び寄せ、協議した。建御名方命は承知せず、信州諏訪の湖へ走らんとした。そこで、天神軍は天鳥船に追及させた。この時、建御名方命は事のいきさつを事代主命に諮らんとして、今の十六島の岬から上陸して、今の東万田(島根県出雲市万田町)に着いた
この伝承は建御名方命を出雲に呼び寄せたことを意味している。信州から呼び寄せたことになっているが、この時点では越国にいたはずなので、越国から呼び寄せたものであろう。「建御名方命は承知せず、信州諏訪の湖へ走らんとした。そこで、天神軍は天鳥船に追及させた。」を削除すれば、全体の意味が素直につながり、「十六島から上陸して東万田に着いた」というのが、会議に参加するために来たという意味にとれる。 
島根県出雲市湖陵町差海891にある佐志武神社の伝承
「出雲国譲の際に、両祭神(建御雷神・経津主神)が当地から進み(ススミ)出たという。ススミ、ススム、サシムと変化した。」
両祭神は、国譲りの交渉のため当地へ上陸(あるいは降臨)したとおもわれる。ちなみに『神国島根』によると、上古は出雲大社の西の杵築浦から、当社の南の田儀浦までを稲佐の浜と呼んだという。
斐川町鳥井の鳥屋神社(祭神建御名方命)。この神社は大きな岩の上にある。この岩は建御名方命が建御雷命との多芸志の小汀の決戦で建御名方命が投げた岩と言われている。多芸志の小汀とは今の出雲市武志町と言われており、その位置に鹿島神社がある。
これらの伝承を総合して判断すると会議が行われたのは出雲市武志町の鹿島神社の地と思われる。斐伊川の河口付近である。饒速日尊は先に日向国の高皇産霊神と会い根回しをしていたと思われる。饒速日尊と高皇産霊神は一緒に湖陵町差海に上陸し、建御名方命は十六島を経由して河下湾に上陸して、出雲市武志町までやってきたのであろう。ここで、一同が会して国譲り会議(日本列島統一会議)が行われたと考える。 
国譲り会議の決定事項
第一議題 第三代倭国王の決定
日向で急死した大国主命の子は木俣神、建御名方命、鳥鳴海、味耜高彦根命の4神である。第三代倭国王の条件としては素盞嗚尊の血統かどうかが重要である。スセリ姫との間に子があれば一切問題はないのであるが、スセリ姫との間に子がなかったのである。木俣神、建御名方命は素盞嗚尊との血縁はない。素盞嗚尊と血縁を持つのは鳥鳴海と味耜高彦根命である。味耜高彦根命は出雲と関係ないので、出雲勢が反対する。該当するのは鳥鳴海しかいない。鳥鳴海が第三代倭国王の候補となるべきであるが、日向の日向津姫や高皇産霊神にとっては無関係な人物であり、日向勢は猛反対するであろう。鳥鳴海は出雲古来の王家出雲王朝を引き継いだ。大国主命はスセリ姫と結婚したため、倭国王と兼ねることができたが、鳥鳴海の場合は日向勢の反対のため、出雲王家が倭国王を兼ねることができなかったのである。
素盞嗚尊の子のうち、出雲・日向の人々から最も信頼されているのは饒速日尊(大歳)命である。第三代倭国王としては饒速日尊の子しかいないことになった。該当するのは北九州で活躍している猿田彦命と大和で誕生した事代主命である。末子相続の原理からすると事代主命となるが、この当時10歳前後と思われ、倭国王とするのは無理である。該当人物として猿田彦以外にいないこととなった。
高皇産霊神は倭国から九州を独立させ、出雲国中心の東倭国と日向国中心の西倭国にし、東倭国王を北九州で青銅祭器を生産していた猿田彦命にしようと提案した。猿田彦命は素盞嗚尊の孫であり、饒速日尊の子である。伊邪那美命が出雲にやってきたAD15年頃、佐太大社の地で合議制の政治をしており、住民から絶大な人気を誇っていた。出雲に伊邪那美命がやってきた時、伊邪那美命を向かい入れ、伊邪那美命の世話していたのではないだろうか。このように、出雲にいるころ八島野命の補佐役として活躍しており、出雲の人々には絶大な人気があったのである。この猿田彦命が出雲を治めるとなれば出雲の人々が反対することはないと予想された。しかし、猿田彦命に倭国全体の統治は広すぎてかなり難しい。そこで、紀伊国と越国を政権が安定している日本国に所属替えをし、猿田彦命の統治領域を中国地方・北四国地方とし、忍穂耳命の統治領域を九州地方・南四国地方(高天原・西倭)とすることにより素盞嗚尊祭祀者を中心として 分割統治するというものである。ただ分割すると言うのでは出雲は納得しないであろうから、素盞嗚尊祭祀者の言葉(素盞嗚尊の言葉)のもとでの分割統治であれば、 出雲も納得するであろうと高皇産霊神は考えた。西倭の統治者を忍穂耳命としたのは、忍穂耳命は素盞嗚尊と、日向津姫の間にできた子であるというのに加え、 高皇産霊神の娘婿であるという要素が強かったに違いない。
西倭が海外交易の実権を握るには猿田彦命の統治領域の北九州北西部の統治権を譲ってもらわなければならない。海外交易の実権さえ握れば、西倭が主体になって外国の先進技術を導入し、その技術で東倭を立て直すことができる。素盞嗚尊の統一した倭国を尊重したい日向津姫ではあるが、 このままにしておけば素盞嗚尊の倭国が衰退して分裂し、戦乱が起こるのは明らかであった。彼女としてみれば、倭国の衰退はどうしても避けたかったので、 高皇産霊神の考えに同調した。
この考えを実行するためには、まず、出雲の人々を承諾させねばならなかった。そのために、日向津姫の次男である穂日命を出雲に派遣し根回しをさせることにした。
根回しが完了した時、猿田彦は北九州東部(豊国)の忍穂耳命に北九州西部(筑紫国)を譲り渡して東倭王に就任し、忍穂耳は西倭王となる事の大体の了承が得られた。
反対したと思われるのが出雲統治者の鳥鳴海と、越国の建御名方命であろう。大国主命は第二代倭国王である。その王の子にはそれなりの立場が必要であったが、素盞嗚尊との血縁関係を考えると難しい問題が起こったのである。第一子の木俣神は以降全く出てこないので早世したか自ら身を引いたと思われる。味耜高彦根命は生まれたばかりで自分の意見を言うことはできないが、高皇産霊神としては大合併の時に重要な役割をしてもらうつもりであった。鳥鳴海命と建御名方命はそれなりの立場を考える必要があった。
そこで考え出したのが祭政分離である。鳥鳴海は古来からの出雲王朝の血を引いているので、出雲国王として今後代々出雲国を治める権限を与えた。これは、出雲風土記の大国主命の言葉、
「私が支配していた国は、天神の子に統治権を譲ろう。しかし、八雲立つ出雲の国だけは自分が鎮座する神領として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて国を守ろう」
この言葉から推定したものである。以降鳥鳴海の子孫が出雲国王として出雲国を治める様になった。
それでは、猿田彦との関係はどうなるのであろう。猿田彦命の系統は娘が穂日命の子である武夷鳥命の長男と結婚しその子孫は、以降、出雲国造家(出雲大社宮司)として繁栄している。つまり祭祀を司っているのである。猿田彦命には東倭国全体の統治と素盞嗚尊祭祀の中心人物として任命した。これは、日本書紀一書の「大国主命は以後、冥界を治め、さらに、大国主命の宮を造ること、海を行き来して遊ぶ高橋、浮き橋、天の鳥船を造ることなどの条件に満足し、根の国に行った」という記事から類推したものである。宮を作るということは祭祀を意味し、海を行き来して遊ぶ高橋、浮き橋、天の鳥船を造るなどは神事を意味しているのではないだろうか。
この提案に鳥鳴海命は納得し、以降出雲王朝が第15代トオツヤマサキタラシまで、代々継続することになった。
収まらないのが建御名方命である。大国主命の後を継ぎ越国王として、越国をまとめてきた。素盞嗚尊に対する憧れがあったのか、日本国に所属することに反対した。最後まで建御名方命が納得することはなかった。やむを得ず、越国はそのまま倭国に所属するという形で結論を出した。
第二議題 日本列島の統一(倭国と日本国との大合併)
素盞嗚尊の最終目標は日本列島をひとつの国として統一することであった。これを最終目標とすることには誰も異存はなかったが、具体的手法に関しては意見がまとまらなかったのである。
高皇産霊神にとって最も不安に感じていたのが、日本国の饒速日尊である。成り行きとはいえ倭国とは別の国を作ってしまったということが、将来日本列島をに分割し、互いに争い、どちらかが相手を滅ぼすという最終戦争につながることを最も恐れていた。饒速日尊もその気持ちは一緒であった。饒速日尊はこれが議題になった時、次のような会話が想定される。
饒速日尊:「大和を統一する時、との土地の有力者の長髄彦の反対があったので、やむなく、日本国を作った。今、私は東日本一帯の統一事業を行っている。あと数年で統一できると思う。その後なんとかして長髄彦を説得して大合併を実行する。」
高皇産霊神:「具体的にはどのようにして大合併するのか。」
饒速日尊:「互いの後継者通しを政略結婚させたらどうだろうか。」
高皇産霊神:「それは良い考えだが、その時期はいつ頃か。」
饒速日尊:「5年後ぐらいに互いの後継者を選定し、10年後ぐらいに大合併ではどうか。」
高皇産霊神:「了解。それでは東倭国はどうするか」
饒速日尊:「西倭国と日本国が大合併してしまえば、体制が決まるので、その時の話し合いでなんとかなるのではないか」
高皇産霊神:「その時まで我々は生きていないだろうから、後継者をしっかりと育てよう」
もっともこの内容に関しては、国譲り会議の時ではなく、饒速日尊が先に高皇産霊神のもとに赴いていることから、すでに根回しができていたのではないかと思われる。饒速日尊はその証として、高皇産霊神の娘である三穂津姫と結婚することになっていた。
大合併に関しては、大筋の合意が得られたので、5年後ぐらいに再び話し合うことで決着した。各自それぞれの国に帰り、決定事項を実行することになった。
忍穂耳命の急死
会議の決定事項により穂日命が出雲に派遣され、穂日の活躍により出雲のほうの大方の了解を取り付けたので次の計画として、忍穂耳命に北九州の猿田彦命からその権限の移譲ををすることになった。しかし、その準備中に忍穂耳命が急死したのである。忍穂耳は西倭国の国王となることを想定していたのであるが、計画が大きく狂ってしまった。再び会議で決定する時間的余裕はなく、急遽対策を練る必要が生じた。
忍穂耳亡き後の北九州東部の統治を引き受け、同時に猿田彦命の統治領域を譲ってもらう人物となれば、忍穂耳の弟である瓊々杵命しかいなかった。しかし、猿田彦命が統治者が瓊々杵命になることに賛成するかどうか分からなかったので、日向津姫と高皇産霊神はやむなく三男の瓊々杵命を急遽猿田彦命との交渉にあたらせることにした。
福岡県京都郡の高木山には、瓊々杵命が天降った高千穂峰であるという伝承がある。瓊々杵命は日向からここにやってきたようである。 ここから瓊々杵命の伝承地をつないでみると、嘉穂町の馬見山、そして、福岡県と佐賀県の県境の基山である。基山には瓊々杵命が高千穂から遷向して国見をしたと言い伝えられている。そして、佐賀県と長崎県の県境にある多良岳である。いずれにも荒穂神社があり瓊々杵命が祭られている。瓊々杵命は、高木山、馬見山、基山、多良岳と北九州を横断している。基山と多良岳は、素盞嗚尊一族の伝承があるところで、猿田彦命の勢力圏である。猿田彦命も出雲で素盞嗚尊祭祀がほとんど行われていない状態を憂えており、高皇産霊神の提案を快諾しその実現に協力することになった。猿田彦命が了承すると北九州全域の出雲の役人は次々と了解した。地域的には戦闘もあったかもしれないが、北九州全域の出雲の役人は瓊々杵命に政権を移譲し出雲に帰還することとなった。瓊々杵命は猿田彦命に変わって北九州北西部全域を統治することになった。国を譲ったあと猿田彦命は 北九州市の白髭神社の地に住んでいたようである。市杵島姫はまだやるべきことが残っていたので、宇佐に戻り、瀬戸内・日向との海上交通の要を守った。猿田彦命は瓊々杵命に随伴してきた天細女命(サルメ)と後に結ばれ、彼女と共に出雲に旅立ったのである。
瓊々杵命は高木山の近くの海岸に上陸し、そこから今川に沿って、忍穂耳のいた吾勝野→香春→田川→飯塚→嘉麻(馬見山の麓)と移動し、馬見山に登って周辺を国見した。これによって、忍穂耳の統治領域を引き継ぐことができた。その後猿田彦命の本拠地である福岡市の住吉神社の地に赴き、猿田彦命と交渉した。猿田彦命の承諾を得たのち、基山→太良嶽と巡回し各地方の豪族の承諾を得て北九州一帯の統治権を得た。この時、猿田彦命は瓊々杵命を案内して各豪族を説得して回ったのであろう。そうでないと瓊々杵命だけでは各豪族の反発が強くて簡単には引き継ぐことができないと思われる。これを見ても猿田彦命は北九州の人々に信頼されていたことが分かる。これにより猿田彦命は道祖神と呼ばれるようになった。47年頃のことであろう。
出雲国譲り
瓊々杵命の活躍により九州に派遣されている出雲の人々は大方納得し、分割後は出雲に引き揚げることとなった。国譲り会議の決定事項を実行するのにあたって、障害となるのは、決定事項に逆らい、鹿児島神宮の地に居座っている出雲から派遣されていた人々のみとなった。高皇産霊神は話し合いを継続したが、埒があかないので、ついに武力に訴えて解決することを決意した。
瓊々杵命を総大将として鹿児島神宮の近くの石体社の地に集結し、鹿児島神宮の地にある出雲屋敷を急襲し、南九州から出雲勢力を追い出した。これが高千穂旗揚げである。鹿児島神宮の地は後に晩年の日子穂々出見命が住んでいた地でもある。
次に、出雲の鳥鳴海に国譲りを迫った。使者を遣わし出雲と交渉を行った。穂日命の根回しが功を奏し会議の決定事項の通り出雲国譲は成功した。
この結果倭国は西倭(九州・南四国)と東倭(中国・北四国)に分裂することになった。猿田彦命は出雲に移住し素盞嗚尊祭祀を始めた。 九州北西部は瓊々杵命、東九州一帯は日向津姫が治めることになった。AD47年ごろのことである。このとき穂日命の子武夷鳥命も猿田彦命が作っていた青銅器(後の出雲神宝)を持って出雲に同行している。
出雲に来た猿田彦命は出雲最大の聖地(熊野山=素盞嗚尊御陵)に熊野大社を建立し、その参道沿いに遥拝所を儲けた。 八雲村大石の旧能利刀社の地に素盞嗚尊の言葉を聞く施設を作り、職言綾根を設けた。 猿田彦命はそこの対岸の広場の布吾弥社の跡地に人々が集まって言綾根(言代主とも云う)の言葉を聞く施設を作った。そして、さらに少し離れた松江市大庭町神魂神社の地を神都として東倭各地から代表者を集め旧暦10月に代表者会議を行うようにした。 その会議で決定されたことを代表者は各地に戻りその地方を統治した。このときの出雲国代表者が猿田彦命である。出雲国の素盞嗚尊祭祀者(後の出雲国造)はこの地での火継ぎ(日嗣)の儀式を経ないと勤めることができないようにした。この出雲国の聖地で行われる儀式は、後の時代に熊野大社に移り現在は出雲大社へと変遷している。素盞嗚尊祭祀者を神聖化することにより東倭を治めることに成功したのである。
穂日命は父の故郷出雲国を立て直すために出雲に残り、息子の武夷鳥命と共に猿田彦命の祭祀を補助した。武夷鳥命は主に斐伊川流域を、 穂日命は主に安来平野を中心として開拓をした。 
日向女王日向津姫の誕生
武夷鳥命の出雲行き
神話では出雲国譲りの時穂日命と武夷鳥命(武夷鳥命)が高天原から派遣されている。穂日命は神話の通り国譲りの前と考えられるが、穂日命の子武夷鳥命は北九州に行動の足跡があることと、穂日命が出雲に行ったころまだ20に満たない幼さがあったものと考えられ、かなり後からではないかと思われる。
武夷鳥命が出雲に行ったのはいつ頃のことであろうか、日本書紀では、穂日命が出雲に行ってから国譲りが起こる前となっている。しかし、武夷鳥命は、 日本書紀崇神天皇の条に「出雲に神宝を持ち込んだ。」と記録されており、この天皇の頃までその神宝が保存されていたらしいのである。この神宝が、少なくとも 200年以上保存されている。大抵のものは朽ち果ててしまうことから、この神宝は青銅器であると考えられる。北九州地方で青銅器を大量生産をしていたのは猿田彦命であるということと、猿田彦命が青銅器を持って出雲に行っていること、猿田彦命は出雲で素盞嗚尊祭祀を行うことから考えて、武夷鳥命は父の穂日命を 頼って、猿田彦命と共に出雲に行ったのではないかと想像する。その時期は国譲りの直前(AD45年ごろ)と思われる。猿田彦命は出雲で素盞嗚尊祭祀を始めるため、 九州地方で盛んな素盞嗚尊祭祀器具である青銅祭器を持ち込む必要があったのである。武夷鳥命は出雲に着くと飯石神社の地に住んでいたようである。
女王日向津姫誕生
倭国から九州を独立させるのに成功したが、忍穂耳命が急死し、西倭王の座は空いたままになってしまった。候補者は日向津姫の子である瓊々杵命・日子穂々出見命・鵜茅草葺不合尊であるがこの3人はまだ倭国に加入していない地域の統一に活躍しなければならず、その手段として政略結婚もありうるので、国王にするのは今はまずいとの思いがあった。そこで、最終的に適任者は一人しかいないことになる。それは日向津姫である。日向津姫は素盞嗚尊の妻であるから、国王になる資格は十分である。日向津姫が西倭王として即位することになった。
この後、日向津姫とその一族は南九州の未統一地域の統一のため、北九州地域の政治体制を固めた後、素盞嗚尊が南九州政庁とした国分の鹿児島神宮の地に移動した。この地は南九州の未統一地域(大隅・薩摩・日南)の中央にあり、これら地域の統一の指示を出すには最適の地である。日向津姫はここを拠点として以後20年間西倭をまとめたのである。紀元50年ごろと思われる。
そして、この直後、後に神武天皇になる佐野命が日向津姫の末子鵜茅草葺不合尊の子として生まれている(AD58年)。日向津姫は西倭の全実権を 握った。その結果、南九州での瀬戸内系土器が衰退したものと判断する。 
国譲り後の出雲
AD47年頃国譲り騒乱の結果、猿田彦命は瓊々杵命命の従者であったサルメと結婚し、出雲の統治者として赴任してきた。この後の出雲の統治者は色々と変わっているようである。ここではその分析をしてみよう。
国譲り後の出雲関係推定年表
年代        事項
AD40年頃    武夷鳥命九州にて誕生
AD47年頃    出雲国譲り完結。猿田彦命東倭初代国王として赴任 / 武夷鳥命、猿田彦
          命と共に出雲に来る。神宝(荒神谷の青銅器)を持ち込む。
AD58年      佐野命(神武天皇)日向で誕生
AD60年頃    武夷鳥命長男櫛瓊命誕生
AD60年頃    事代主命東倭第二代国王として出雲に赴任 / 猿田彦命伊勢地方開拓に
          出発
AD60〜65年頃 饒速日尊大和で死去
AD83年      神武天皇大和にて即位。大和朝廷成立
AD85年頃    神武天皇全国巡幸。 / 櫛瓊命第三代東倭国王就任。以降天穂日命の系
          統が東倭国王を引き継ぐ。/ 事代主命、伊豆地方開拓に出発。
AD107年     第4代懿徳天皇、後漢に技術者(生口)を派遣する。
AD121年     神武天皇崩御
広島県葦嶽山に伝わる伝承では、神武天皇がここに滞在中使者を使わして出雲国事代主命に東征の協力を申し出たことが伝えられている。このことは、AD80年頃の出雲の統治者は事代主命であることを意味している。倭の大乱のあったAD160年頃は出雲振根命が出雲の統治者となっている。出雲振根命は出雲国造家の系統である。
伝承を探ることにより、国譲り騒乱後の出雲統治者は猿田彦命→事代主命→出雲国造家と変遷しているようである。この過程を検討してみよう。
出雲の伝承には猿田彦命の娘と武夷鳥命の長男が結婚して出雲国造家に出雲の統治権が移ったと言われている。その年代を推定してみよう。猿田彦命はAD10年頃出雲で誕生しているので出雲国の統治者になったのは40歳ごろとなる。このとき、瓊々杵命の従者であった天ウズメ(サルメ)と結婚している。猿田彦命の娘というのはサルメとの間の娘であろう。AD50〜60年頃誕生していると思われる。武夷鳥命は天穂日命の子である。天穂日命はAD20年頃誕生しているので武夷鳥命はAD40年頃誕生と思われる。長男は櫛瓊命と思われ、誕生はAD60年頃であろう。この弟が出雲建子命(別名伊勢津彦命)で神武天皇の時代に東海地方に派遣されており、櫛瓊命も神武天皇時代AD80〜100頃活躍したと思われる。年代的にもこのようなものであろう。これにより、武夷鳥命の長男と猿田彦命の娘が結婚したのはAD80年頃と推定される。神武天皇即位直前の出雲の統治者は事代主命なので、事代主から出雲国造家に政権が移ったのは神武天皇即位後暫らくしたAD85年頃ではあるまいか。
猿田彦命から事代主命に政権が移ったのはいつ頃なのであろうか。事代主命は大和国鴨キ波神社の地で饒速日尊命を父として誕生している。饒速日尊が葛城地方に勢力を伸ばしてしばらくしたAD40年頃誕生であろう。事代主命の娘が神武天皇の皇后となっている。この娘の誕生はAD60年頃と思われ、この頃までは事代主命は饒速日尊と共に東日本開拓をしていたことになる。神武天皇が大和に入るころ大和国での事代主命の行動形跡が伝わっていない。この頃にはすでに出雲に移動していたことになる。猿田彦命は事代主命に出雲の政権を譲った後、伊勢国に移動しているが、武夷鳥命の二男出雲建子命も伊勢国に移動している。おそらく一緒に赴いたのであろう。
なぜ、国譲り後の出雲は政権が色々と変わっているのであろうか?なぜ、大和の事代主命が出雲の統治者になったのだろうか?事代主命・猿田彦命は政権移譲後なぜ、東国に移動したのであろうか?など多くの謎が付きまとっている。この変化がAD60〜65年頃一斉に起こっていること、東日本がかかわっていることから判断して、饒速日尊の遺言が原因ではないかと想像する。
饒速日尊命はAD60〜65年頃大和国で亡くなっている。ちょうどこの頃起こっている変化である。饒速日尊命は東日本地域を統一し日本国を建国した。東日本地域は饒速日尊命が統一したが、東日本地域は西日本地域と異なり、外国の先進技術が入りにくい状態である上に、縄文人が多い地域でもあった。饒速日尊としては西日本地域の先進技術を取り入れることに力を注いでいたことが予想される。実際に東海地方では出雲文化が浸透している。古墳時代に入った時もいち早く出雲から前方後方墳の築造技術を学んでいる。このことも出雲文化が東海地方に浸透していたためではあるまいか。 
素盞嗚尊祭祀の中心地はどこか
神都 神魂神社
その中心地であるが、猿田彦命が中心として祭られているのが出雲国二ノ宮である佐太大社である。佐太大社前の広場には毎年10月(神有月)には各地から代表者が集まって会議が開かれていたと伝えられている。この神事は現在出雲大社で行われているが、その元はこの佐太大社にある。しかし、当初の佐太大社の位置は西側の朝日山の麓にあったようである。猿田彦命がこの地で政治を行っていたためであろうと当初考えたが、この地は当時の出雲の中心地から大きくずれている。多くの人々を集めて政治を行うためには中心地周辺でなければならない。そこで、ほかの神社で該当するところを探してみると、松江市の神魂神社が該当するようである。神魂神社は主祭神が伊弉冊大神で
「当社は大庭大宮とも云ひ出雲国造の大祖天穂日命が、此地に天降られて御創建、伊弊冊大神を祀り、出雲大神、出雲国の総産土大神、として天穂日命の子孫は元正天皇霊亀二年に至る二十五代果安国造迄祭主として奉仕、斉明天皇の勅令により、出雲大社の創建なるや、杵築へ移住したる。しかし、国造就任の印綬とも云ふべき神代ながらの神火相続式、並に新嘗祭を執行の為め、現在も当社に参向されている。 従って大国主命の国譲も、出雲朝廷のもと国造として祭政を執った当社が古代出雲の神都であり、毎年十月には全国の八百万の神々が集ひ給ふ神在祭も行はれている。」
と記録されている。神在祭が行われていること、神火相続式、並に新嘗祭を執行、熊野山に近いこと、松江市大庭周辺は古代出雲の中心地のひとつであることなど、政治の中心地としての条件を兼ね備えている。主祭神が猿田彦命ではないので佐太大社ではないかと思っていたが、猿田彦命から穂日命の子孫に出雲の統治権が移った後、神社になったために穂日命以降の記憶のみが残ったか、祭神が書き換えられたのかではないかと判断する。
熊野神社の素盞嗚尊祭祀 
素盞嗚尊祭祀はどのようなものだったのであろうか。祭祀者は素盞嗚尊の言葉を聞く立場にあるので、 素盞嗚尊御陵のある熊野山あるいは熊野山がよく見えるところと考えられる。この地は出雲国一ノ宮である熊野大社の元宮があったところで、熊野大社にいたものと判断する。熊野大社は当初出雲国最大の神社であったが、次第に衰退して現在の形になっている。熊野大社は天文11年(1542)大内氏の富田城襲撃の際全焼し、また、元禄11年(1698)意宇川の氾濫によって社地の大半を失うなどして、神社の記録はすべて失われており、どういった由緒があるのかはわからないのである。しかし、古代の崇敬の規模からして相当の由緒があることは間違いないであろう。熊野山がその元宮で素盞嗚尊の御陵であると推定している。それ以外にこれほど崇敬の対象になる理由がない。古代は熊野山頂に元宮があり、意宇川に沿っていくつかの摂社が存在していたようであるが、明治になりそのすべてが現在の熊野大社に合祀されている。熊野大社崇敬会 川島扶美子氏著 「熊野の大神様」によると、神社は次のように配置されていたそうである。
熊野山から意宇川に沿って下ると、市場・宮内・稲葉・森脇・大田・大石・元田と呼ばれる地が続いている。熊野大社の摂社は意宇川に沿う参道の要所要所に配置されていた。熊野山山頂にあった元宮は市場の地に移されたようである。次の宮内に現在の熊野大社が存在している。次の稲葉地区の盆地が狭くなる西側に前社(さきしゃ)の跡地がある。この前社は「雲陽誌」には熊野御崎社と記されており、祭神は少彦名命といわれている。現在もこの参道は残っている。谷間の切れ目から熊野山が遥拝できる。次の森脇地区には楯井社の跡があり、大田命が祭られていた。この地からは熊野山が見えない。次の大石地区に田中社の跡地がある。この地からも熊野山は見えない。次の大石地区の北端部に意宇川を挟むようにして布吾弥社(ふごみしゃ)と能利刀社(のりとしゃ)の跡地がある。この地は出雲の政治の中心地である 松江市大庭町周辺から熊野山へ参詣する参道の入り口に当たりここより谷間に入っていくのである。布吾弥社の跡地は少し高台にあり、その社地は他の摂社とは比べものにならないほど広い。北側が開けており、さまざまな建物が建っていたことが予想される。当時の人々がこの周辺に集まって祭礼をしていたことが伺われる。反対側の能利刀社は大岩がありその岩を背にして社が建っていたようである。「御祓所」といった雰囲気を持っている。この地からはよく熊野山を遥拝できる。祭神は天児屋根命であったようである。事代主命は素盞嗚尊の言葉を聞くという神聖な儀式を行う必要があったのでこのいずれかの地にいたと思われる。熊野山が遥拝できない場所ではないと思われるので、最有力候補地は能利刀社ということになる。雰囲気からして熊野大社の摂社の中では最も神聖な神社のようである。また祭神の天児屋根命の語意は、「天は天神に対する称辞で、兒屋根は言綾根である。言綾とはこの神の言辞が誠に麗しく綾あるによっての称で、根はモト、根本の意の称辞である。古事記伝(本居宣長)には、招祖泥(こやね)の義で石屋の中の大神を招き出し奉りし行蹟を称えた名であるとも説いている。書紀には、天兒屋根命は神事を主る宗源なり」
と言われている。猿田彦命は素盞嗚尊の言葉を聞く言綾根という職を作り、この言綾根にこの能利刀社の位置で熊野山を遥拝し素盞嗚尊の言葉を聞く儀式を行い、猿田彦命にその言葉を伝え、 猿田彦命は神魂神社の地でそれを人々に伝えるとともに祭祀を行っていたものと考える。熊野大社に熊野銅鐸(菱環紐式)が伝わっているがこれは全国でほとんど出土例がないほど 旧式の銅鐸である。荒神谷でも同じ形式の銅鐸が見つかっており、猿田彦命が出雲に持ち込んだ銅鐸のひとつであろう。以後代々事代主として熊野大社の神職につながり、 猿田彦命は穂日命一族にその地位を譲り、出雲国は栄えていった。
出雲王朝
これに対して八島野命に始まる出雲王朝はどのような地位を占めているのであろうか。大国主命までの間が風土記などに国土開発をしたなどと伝えられているが、 それ以降はまったく記録がない。祭神としてもほとんど祭られていないのでその実態は不明である。前後の状況から推理をするしかない。
猿田彦命の祭政一致の政治体制が確立した関係上、出雲王朝はその体制からはみ出してしまう。風土記・古事記などの記録では出雲から外に出た形跡がまったくない。また、初代の八島野命は素盞嗚尊の長子で素盞嗚尊から出雲国内の統治を任されているのである。このことから猿田彦命の体制は東倭全体に及び、 出雲王朝は出雲国内のみであったのではないかと想像する。猿田彦命体制が祭祀で出雲王朝が直接統治ではあるまいか。それでは、この出雲王朝の本拠地はどこ なのであろうか。八島野命の時代は須我神社の地で素盞嗚尊が旅立った後を治めていたようで、大国主命の時代は三刀屋町の三屋神社の地を本拠地としていたようである。 また、倭の大乱終了後大和系の墳墓が斐伊川河口を避けて出現している。斐伊川河口付近は少し離れたところの神庭の荒神谷に多量の青銅器が見つかり、河口付近に四隅突出型墳丘墓 が出現している。これらのことから斐伊川河口付近の神庭あたりにその本拠地があったのではないかと推定している。
出雲神話に大国主命が良く登場するが、それらの伝承の中には倭の大乱の頃(倭国大乱参照)のものと思われるものも存在する。 おそらく、出雲国王の行動はすべて大国主命の行動にまとめられたのではあるまいか。
出雲王朝第14代天日腹大科度美命に関する伝承のみ神社に伝わっている。大東町の日原神社と木次町の大森神社である。日原神社の地を宮跡とすると他地域との交流に不便と思われ、日原神社が誕生地で大森神社が宮跡ではないかと推定する。 
猿田彦命の晩年
事代主命は、AD60年頃、猿田彦の後を引き継いで、素盞嗚尊祭祀を行い素盞嗚尊の言葉として東倭をまとめた。晩年、武夷鳥命の長男櫛瓊命に出雲祭祀権を譲り、伊豆諸島の方に移動してそちらで世を去っている。これは伊豆諸島の神社に伝承として残されている。
武夷鳥命は、飯石の郷を開拓した神として尊敬を集めている。出雲地方は、中期末に灌漑・土木技術・農耕具に鉄器が導入され、後期になると意宇平野、簸川平野において遺跡数が急増している。鉄器の導入を計ったのは伊邪那美命の協力を得た素盞嗚尊で、その遺志を継いだ大国主命・猿田彦命・武夷鳥命らが平野の開発を行ったものと考える。
一方出雲で素盞嗚尊祭祀を始めた猿田彦命は、島根県松江市大庭町の神魂神社の地で祭祀を始めた。その後、AD60年頃年老いた猿田彦命は、饒速日尊の遺言により大和からやってきた事代主命に祭祀権を 引き渡した。その後AD85年頃、櫛瓊命に祭祀権を引き渡した。事代主命は本来の素盞嗚尊祭祀者の猿田彦の系統に祭祀権を戻したのである。猿田彦には娘しかいなかったのであろう。櫛瓊命は猿田彦命の娘と結婚したのである。以後穂日命の子孫が出雲国の祭祀権を受け継ぎ、倭の大乱の後は国造に任じられることとなった。 猿田彦命が出雲の統治権を武夷鳥命の長男に譲ったAD60年頃は大和で父である饒速日尊が亡くなったころである。猿田彦命は饒速日尊が統一できなかった伊勢地方の統一に、櫛瓊命の弟の伊勢津彦と共に伊勢の地へ移動してそこで世を去っていて、その御陵には椿大神社が建てられている。
穂日命はどうしたのであろうか。神社伝承によると、穂日命は出雲に来ると、神魂神社の地で伊邪那美命を祭り、その後、能義平野のほうへ移動し能義平野を開発し、安来市の能義神社の丘陵地に葬られたと伝えられている。出雲国譲り後、能義平野を中心として活躍したのであろう。
国譲り後の出雲は斐伊川河口付近(簸川平野)が出雲国王鳥鳴海命系の人々が、松江市南部地方が素盞嗚尊祭祀者(出雲国造)系の人々が、飯梨川河口付近(能義平野)が穂日命系の人々が中心となって治めた。その結果、この3地域の近くに四隅突出型墳丘墓群が存在しているのである。
猿田彦命や事代主命は若い後継者(武夷鳥命の長男)に出雲の祭祀権を譲り、成立したばかりの大和政権下で旧日本国地域(東日本)にまだ素盞嗚尊祭祀がまったく 行われていないのを憂えて、その地域に素盞嗚尊祭祀を広めるために、事代主命と共に東海地方に赴き、そこで生涯を終えたのである。彼らの働きにより東海地方に素盞嗚尊祭祀 が根付き、後の時代に東海地方に前方後方墳が広まる原因となっている。
倭国の実権を握った日向国は、高皇産霊神の協力の下に国家体制を揺るぎないものに変えてゆくのである。 
紀伊国の国譲り 
信濃国の開拓事情が他の国と極端に異なり、この国だけ阿智族・諏訪族・安曇族の三系統の人々によって開拓されている。阿智族は饒速日尊系、諏訪族は建御名方命系、安曇族は海神系である。それぞれ、全く違う系統の人々が相争うことなく協力して開拓している姿には驚かされる。信濃国の開拓には何があったのだろうか?以下は推定である。
饒速日尊が信濃国の開拓を始めたのがAD46年頃と推定している。ちょうどこの時は日向で大国主命が亡くなり、出雲の国譲騒乱が起こる直前である。倭国が不安定になっている時日本国王の饒速日尊としては無視するわけにもいかず、信濃国から引き返して、日向国の高皇産霊神の元にはせ参じたものと思われる。そして、倭国を東西に分割する案が話し合われたことであろう。その時、大きな問題点として残るのが、紀伊国と越国である。越国の方は建御名方命が統治しており、紀伊国は五十猛命が統治していた。ともに安定していたようではあるが、東倭の統治能力が低いことが予想され、さらには西倭からはどちらも遠く、何か不安定な出来事が起こった時に対応できなく、これらの国が独立することを許してしまう可能性がある。倭国の分裂は極力避けたい認識の高皇産霊神は紀伊国を倭国から日本国に譲ることを提案した。紀伊国は出雲よりもはるかに大和国に近いので、日本国に所属した方が安定すると云う考え方からであった。越国も同じような理由により日本国に譲ることを考えたが、建御名方命が反対していることから、越国は様子を見ることにした。
紀伊国の統治者五十猛命も紀伊国の所属を倭国から日本国に変更するのを快く承知した。倭国も日本国も何れは合体して一つの国になるわけなので、今どちらに所属していても、最終的には同じことだと、五十猛命は考えたのであろう。 
紀伊国
一宮 日前神宮・國懸神宮 和歌山県和歌山市 日前大神(日前神宮)、國懸大神(國懸神宮) ○ 神武 鏡はいずれも伊勢神宮内宮の神宝である八咫鏡と同等のものであり、八咫鏡は伊勢神宮で天照大神の神体とされていることから、日前宮・國懸宮の神はそれだけ重要な神とされ準皇祖神の扱いをうけていた。
社伝によれば、天照大神降臨の時、大神詔して、当宮御霊代をも三種の神宝とともに副へて降し給ひ、神武天皇は天道根命を紀伊國造とし、紀伊國名草郡毛見郷に、この宝鏡を御霊代として大神を祀らせられた
一宮 丹生都比売神社 和歌山県伊都郡かつらぎ町 丹生都比売大神、高野御子大神、大食都比売大神、市杵島比売大神 不詳 丹生大明神告門』では、祭神の丹生都比売大神は紀の川川辺の菴田の地に降臨し、各地の巡行の後に天野原に鎮座したとしている
一宮 伊太祁曽神社 和歌山県和歌山市 五十猛命、大屋都比賣命、都麻津比賣命 不詳 古くは現在の日前宮の地に祀られていたが、垂仁天皇16年に日前神・国懸神が同所で祀られることになったので、その地を開け渡したと社伝に伝える
射矢止神社 和歌山市六十谷381  品陀別命、息長帯姫命、天香山命、一言主命、宇賀魂命 天香期山命、一言主神は神代のむかし五十猛命と共に本国に天降り、名草の山路に後を垂れたとある
神倉神社 新宮市新宮 高倉下命 神倉山は熊野三所大神(早玉、結、家津美御子)が最初に天降り給うた霊所である。熊野の神が諸国遍歴ののち阿須賀神社に鎮座する前に降臨したところであるとも伝えられている。神倉山は古代より熊野の祭礼場として神聖視され、熊野の根本であるといわれる。御神体はゴトビキ岩である。この岩を袈裟岩が支える構造になっている。この袈裟岩の穴から袈裟襷文銅鐸(弥生後期)の破片が出土している。
熊野速玉大社 和歌山県新宮市新宮一番地 熊野結大神(伊弉冉命) 熊野速玉大神(伊弉諾命) 家津美御子命・国常立命 天照大神 熊野速玉大神は、熊野速玉大社では伊邪那岐神とされ、熊野本宮大社では同じ神名で日本書紀に登場する速玉之男(はやたまのを)とされる。また、この速玉之男神の名から神社名がつけられたといわれる。熊野夫須美大神は伊邪那美神とされるが、諸説ある。
もともとは近隣の神倉山の磐座に祀られていた神で、いつ頃からか現在地に祀られるようになったといわれる。神倉山にあった元宮に対して現在の社殿を新宮とも呼ぶ。
熊野本宮大社 田辺市本宮町本宮1110 家津美御子大神(素盞嗚尊) 神代 『熊野権現垂迹縁起』によると、
熊野権現は唐の天台山から飛行し、九州の彦山に降臨した。それから、四国の石槌山、淡路の諭鶴羽山と巡り、紀伊国牟婁郡の切部山、そして新宮神倉山を経て、新宮東の阿須賀社の北の石淵谷に遷り、初めて結速玉家津御子と申した。その後、本宮大湯原イチイの木に三枚の月となって現れた。
崇神天皇六十五年、熊野連、大斎原(旧社)において、大きなイチイの木に三体の月が降りてきたのを不思議に思い「天高くにあるはずの月がどうしてこの様な低いところに降りてこられたのですか」と尋ねましたところその真ん中にある月が答えて曰く、「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚大神)であり両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って齋き祀れ」との神勅がくだされ、社殿が造営されたのが始まりとする降臨神話となっている。また、当地は神代より熊野の国といわれている。
大神は植林を奨励し、造船の技術を教えて外国との交通を開き人民の幸福を図ると共に生命の育成・発展を司った霊神と伝える。
玉置神社 奈良県吉野郡十津川村玉置川1番地
国常立尊 ○ 神代 神武天皇東征時にはすでに信仰の対象になっていたと伝える。玉石社のご神体の丸い石は地表に少し出ているだけで、 玉石社の下に「十種神宝(とくさのかんだから)」が埋まっていると伝えられている。熊野大社奥の院
阿須賀神社 和歌山県新宮市阿須賀1-2-28 事解男命 熊野三山信仰とも深い関わりを持ち、神倉山に最初に降臨した熊野三所大神はその後熊野三山に遷座し、そのとき阿須賀神社には熊野三所大神と関連の深い事解男命が勧請されたといい、熊野速玉大社の境外摂社となりました。ただし『熊野権現御垂迹縁起』『熊野社記』という書物によると、熊野速玉大神は今の阿須賀神社の近くに一時鎮座してから現速玉大社に遷ったともいわれており、阿須賀神社の創建経緯には複雑なものがある
紀伊国の伝承によると、紀伊国の国譲りがあったことになっている。紀伊国はAD20年頃、素盞嗚尊が伊邪那岐・伊邪那美命を伴って統一し、倭国に所属するようになった国である。その後素盞嗚尊の子である五十猛命・大屋津姫・爪津姫が統治していた。出雲国譲りが起こるAD45年頃もこの三者が安定して統治していたと思われる。
この紀伊国がなぜ国譲りされることになるのか?その理由は倭国の他の地域から遠く離れた飛び地になっていることと、国譲りが起こって倭国が不安定になったことと深い関係があるであろう。また、この時争った形跡もなく、五十猛命はあっさりと国を明け渡しているようである。五十猛命は紀伊国を明け渡した後、飛騨国統一にかかわり、その後、出雲に帰りそこで世を去っている。どう考えても平和的明け渡しである。
国譲りを受ける相手は日本国以外にあり得ない。日本国の中心である大和国と紀伊国は近い関係にあり、交流を活発に行うことができる。射矢止神社伝承によると「天香期山命、一言主神は神代のむかし五十猛命と共に本国に天降り、名草の山路に後を垂れた」とあり、天香期山命(高倉下命)、一言主神(饒速日尊)が五十猛命に導かれて紀伊国にやってきたことがうかがわれる。また、日前神宮・國懸神宮の社伝にある「天照大神(饒速日尊)降臨の時、大神詔して、当宮御霊代をも三種の神宝とともに副へて降し給ひ、神武天皇は天道根命を紀伊國造とし、紀伊國名草郡毛見郷に、この宝鏡を御霊代として大神を祀らせられた」は、この地に饒速日尊が降臨したことを示している。後の世神武天皇が熊野山中を抜ける道をヤタガラスが伝えられたのも、大和と熊野を結ぶ道がこの時開かれていたことを意味し、人々の移動があったことを示している。これも、紀伊国の国譲りがあったためであろう。
熊野本宮大社・玉置神社はともに神武天皇が通過するときには祀られていたそうで、神代の創建と考えられている。熊野大社奥の宮と呼ばれている玉置神社の祭神は国常立尊でこの神は饒速日尊と推定している。事解男命はその正体が不明であるが熊野三所大神と関係が深いと言われており、この神も根拠はほとんどないが饒速日尊と考えている。紀伊国国譲りを受けた饒速日尊は紀伊国を巡回したことであろう。大和国から和歌山市近辺(射矢止神社の地)に上陸し、素盞嗚尊の古跡をたどって海岸沿いを新宮まで巡回し、熊野川を遡り、本宮の地を経由して、玉置山に登り、熊野山中を越えて、大和に戻ったと考えられる。この時、熊野大社、玉置神社が創建されたのではあるまいか。
日向国における国譲り会議に紀伊国統治者の五十猛命も日本国王饒速日尊も参加していたであろう。出雲国の統治能力が不安定となり、紀伊国は倭国の外の地に対して飛び地のようになっており、倭国に所属していたのでは、不便な点も多いのでこの会議によって、日本国に所属するようになったのではないかと推定している。饒速日尊も五十猛命もともに承諾し、紀伊国は日本国に所属するようになった。 
高倉下について
日本書紀の記事
高倉下という人が、夢を見ました。「天照大神が武甕雷神(饒速日尊)に言われるには、葦原の中つ国は騒々しいので、お前が行って平らげなさいと。すると武甕雷神は、私が行かなくても、私が国を平らげた剣(布都御魂剣)がありますから、それを差し向ければ、国は平らげることができるでしょうと答えました。武甕雷神は、高倉下に、「今、あなたの庫に置きましたから、天孫に献上しなさい」
高倉下命と言う人物は饒速日尊の子と言われている。紀伊国国譲りがあった時、紀伊国を統治する人物に高倉下命を選んだと思われる。饒速日尊は高倉下命を伴って大和国から紀伊国にやってきた(射矢止神社伝承)、高倉下命関連伝承地は熊野地方の多いので、新宮市(神倉神社)を拠点として熊野地方を中心に統治したと思われる。和歌山市周辺は大屋津姫・爪津姫が継続統治していたのであろう。饒速日尊は高倉下命に東国統一のシンボルである布都御魂剣を預け、それが神武天皇に伝わったと思われる。紀伊国の統治者の五十猛命は朝鮮半島で技術導入し九州統一・紀伊国統一の実績を持つ経験豊かな人物であり、饒速日尊がこの後統一が難しいと予想された飛騨国統一に尽力してもらうつもりであったと推定している。 
飛騨国統一

 

飛騨国も日本国に所属しているのであるが、その統一過程は他の地域とまったく異なるもののようである。飛騨地方には他地域にはない飛騨高天原説、神代遺跡が豊富である。これはいったい何を意味しているのであろうか?
まず、神社からまとめてみたいと思う
一宮 水無神社 岐阜県高山市 水無大神 ○ 神代 飛騨国一宮・総社。旧社格は国幣小社で、戦後は別表神社となった。祭神は御歳大神・天火明命・応神天皇・神武天皇などあわせて16柱で、水無大神(みなしのおおかみ)と総称する。祭神の水無大神は地名に由来するものと考えられる。水無大神は、御歳大神とする説の他、八幡神などとする説もあった。位山を神体とする。
二宮 二之宮神社 岐阜県高山市漆垣内町963番地 天照国照火明命 ○ 仁徳 孝徳天皇御宇大八椅命の後裔たる國造が天照國照彦火明命(國造ノ祖神)大八椅命(斐陀國造ノ祖)譽田別神(応神天皇)の三柱の神を祀りしに始まり(明細帳)御神像も一千余年以前の作なりと云ふ。古来当國二ノ宮と称す。
式内社 槻本神社 岐阜県大野郡丹生川村大字山口字月本145 大山津見神、櫛御氣野神、建御名方刀美神、八坂刀賣神 ○ 不詳 周辺地域の神社との合併問題が再三持ち上がっても、村人はこれを拒否しつづけた。当地にとっては、非常に重要な神社と思われるが、由緒不明
式内社 荏名神社 岐阜県高山市江名子町字塩谷1290  高皇産靈神 不詳 創建の由諸は不詳である。延喜式神名帳に「飛騨国大野郡 荏名神社」と記され、小社に列しているが、後に衰廃し、所在は不明となっていた。
式内社 大津神社 岐阜県吉城郡神岡町大字船津字寺ノ上1823-2 大彦命 不詳 創始年代は不明。文徳実録・日本三代実録に依れば、平安時代初期には祭祀が行なわれていたとされ、また延喜式神名帳に飛騨國内八社の一つとして記されている
式内社 荒城神社 岐阜県吉城郡国府町宮地1464番地の1 大荒木之命、國之水分命、彌都波能賣神 不詳 周辺には縄文中期の遺跡が多い。水神信仰に関わる社であった。
祭神・大荒木之命は、高御牟須比命(高皇産霊神)の13世の孫。
式内社 高田神社 岐阜県飛騨市古川町貴船町8−6 高魂神 不詳  境内近くに五千年前縄文時代中期の集落跡があり、多数の遺物や祭祀遺跡がある。社名の「高田」は高台にある水田を意味し、周辺の湿田には古墳時代祭祀に使用されたとみられる土器が数多く出土している。
当神社を中心に環状に配されている21基の古墳はこの土地の氏族の墳墓とおもわれ、この神社はこの氏族の氏神であり、始祖神の「高魂命」をこの土地に祀られたとおもわれる
式内社 阿多由太神社 岐阜県吉城郡国府町木曽垣内字牧戸1023  大歳御祖神、大物主神 ○ 不詳 江戸時代には「権現宮」と称していた。
文化年中の調査の際、式内・荒城神社として札を掲げたところ、現・荒城神社の氏子が、怒ってその札を外したという。その後、再調査した結果、阿多由太神社に比定された。
式内社 栗原神社 岐阜県吉城郡上宝村宮原350 五十猛神、大山祇大神、宇迦之御魂神、伊邪那美命、伊邪那岐命、菊理姫命、火産靈神 ○ 不詳 明治初年までは、白山権現と称していた
大歳神社 岐阜県飛騨市古川町杉崎大歳41 大歳神 ○ 不詳 式外社
日輪神社 岐阜県高山市丹生川町大谷字漆洞562 天照大神 ○ 不詳 山そのものが御神体として崇敬の厚かった神社であり、神体石、太陽石が頂上部にある。超古代文明の謎を見たいとお参りする人が多い。当地山頂は、丹生川村(小八賀郷)の乗鞍岳から昇る太陽を神とあがめる拝所を聖地としている。祭神は天照皇大御神である。この外に倉稻魂大神、火武主比大神、奥津日子大神、奥津比女大神菅原道真公、6柱となっているが、明治40年に稲荷、天満、荒神の3社を合祀した。世界ピラミッド説を称える人たちが昭和13年夏、社殿頂上部を調査し、太陽石を発見し、列石の一部であると共に、その大石には古代の人が刻む長方型の列穴が、30数個あり、後代の者が穿ったものではないこと、巨石は太古住民の遺跡である。
飛騨総社 岐阜県高山市神田町2-114 大八椅命 931 大八椅命は飛騨国の最初の国造、天火明命の後裔。
乗鞍本宮 乗鞍山頂 五十猛大神、天照御大神、大山津見大神、於加美大神 ○ 不詳 「位山」と呼ばれ山岳信仰の対象として敬われてきた。岐阜県側には、飛騨乗鞍に及ぶ一帯こそが神話にいう「高天原」であり、人類発祥の地であるとする高天原伝説が残る。  
飛騨国一宮水無神社祭神
主祭神は水無大神と言われているがこの神はだれか一般に言われているのが、「御歳神」、「天火明命」、「大己貴命」、「神武天皇」、「八幡神」、「大歳神」である。水無神社の本宮が大森神社であったという村の伝承が残っている。この大森神社が宮川の氾濫で八幡社と合併されたのが水無神社であると言われています。この大森神社の祭神は大歳神である。これから判断すると、水無神社の主祭神は大歳命(饒速日尊)となる。
式内社8社の内4社が饒速日尊と思われる神を祀っていることになる。また、飛騨国最初の国造は天火明命(饒速日尊)の子孫であることから考えると飛騨国も饒速日尊が統一したということが推定できる。しかしながら式内社は通常弥生遺跡とかかわる地にあることが多いが、この飛騨国では縄文遺跡内に存在しているものが多い。創始年代が不詳の神社ばかりで、一度廃れてしまった神社も多い。このことは、神社祭祀が継続されなかったことを意味し、これも他に国と異なる点である。
その上、飛騨国は飛騨高天原伝承があり、飛騨国から九州へニニギ命が天孫降臨したという伝承や、天照大神伝説などが豊富であり、また、それを裏付ける神代遺跡も多い。この伝説はいったい何に由来するのか、饒速日尊の統一過程は他の国とまったく異なるようである。飛騨国の謎は深まるばかりである。まずは、飛騨高天原関連伝承・遺跡の実態を探ることにする。 
位山
位山は水無神社の御神体とされており、さまざまな伝承が残っている。
1 この山のイチイの木の原生林で採れた笏木を朝廷に献上し、天皇の即位の式典に使用されていた。
2 地域伝承として「位山の主は、神武天皇へ位を授くべき神なり。身体一つにして顔二面、手足四つの両面四手の姿なりという。天の叢雲をかき分け、天空浮船に乗りてこの山のいなだきに降臨し給ゐき」と言い伝えられている。
3 高天原は日本にいくつもあり、中でも一番古いのが飛彈高天原で、位山はその中心となり天照大神の幽の宮(かくれのみや)がある。
4 神武天皇がこの山に登山すると、身一つにして面二つ、手四本の姿をした怪神( 両面宿儺・リョウメンスクナ )が雲を分けて天から降臨し、天皇の位を授けたので、この山を“位山”と呼ぶようになったという。(初代神武天皇に位を授けたとされる両面宿儺は、第16代仁徳天皇の時代には朝廷に従わず民を苦しめた悪人として、仁徳天皇が遣わした将軍・難波根子建振熊(なにわねこたけふるくま)によって討伐された。両面宿儺に対して史書は鬼賊といっているが、地元の伝説はすべて王者か聖者として崇敬している点が大きい違いである。)
5 位山は分水嶺であり、北は宮川から神通川となり、富山湾に流れ、南は飛騨川から木曽川と続き、伊勢湾に流れる。
6 すぐそばを古代の官道(東山古道)がとおっている。現在でも石畳の一部が残っている。
7 位山山麓には数多くの巨石群がある。そのうちいくつかは、明らかに人工の手が加えられており、神々を祀る磐座とされている。山頂近くには「天の岩戸」と呼ばれている磐座がある。また、周辺一帯にペトログラフが数多く見つかっている。
8 越中の竹内家に伝わる超古代資料である竹内古文献に位山に太古天皇(天照大神)の大宮があったと記録されている。
9 大直根子命が景行天皇の時代に奏上したと言われている秀真伝(ホツマツタエ)に「天照大神が誕生した時、位山の笏木で胞衣を切り開いた」とされている。
10 位山は国常立尊の神都であり、天照大神の誕生所・御陵であると言われている。
11 縄文中期後葉と考えられている。堂之上遺跡では、集落がコの字の形をしており、そのむいている方向は位山の方向である。また、集落の中央付近に祭祀遺構が見つかっているが、その方向も位山の方向である。 
飛騨高天原伝承
山本健造氏著「日本古代正史とその思想 国づくり編」より抜粋
乗鞍岳の麓に大昔から日本人類の祖先に当たる最初の人たちが住んでいて、その民族の総本家として敬われていた家には姓がなく、上方様と呼ばれていた。その分家が飛騨から日本全国に広がり日本人に元となった。
高天原は飛騨であり、その中心は丹生川村・宮村・久々野町・高山市であり、その一帯に古代の中央政府があった。上方様の一族が乗鞍岳の麓に住んでいた時代にいくつかに分家した。その中に国常立尊や伊邪那岐命もいたという。この一族が記紀のスメラミコトで後の天皇家につながる。この地の人々は乗鞍岳を「アワ山」と呼んでいた。
飛騨の丹生川の地で、森の中に水をためる池を作り、その池の周りに集まって座り、池の水に太陽を映してそれを見つめる御魂鎮めをしていた。この神事は「日抱の御魂鎮め」といって、今から130年前ぐらいまで行われていた。日を抱くように人々が輪になって座ったので日抱と言った。日抱の宮は乗鞍を中心として18社あるが、後に伊太祁曾神社と名を変えられている。この日抱が後に飛騨となった。この神社の場所は乗鞍岳がよく見える場所にあり、この神事を行った池は現在も残っている。
気候の変動と共に乗鞍の地から位山の地に移った。位山の頂上の磐座の周辺は国常立尊や天照大神など代々のスメラミコトを祀った神聖な場所である。天照大神の時代に九州地方が騒々しくなった。天照大神は三人の娘を九州に様子見に行かせた。また饒速日尊を大和や河内国を治めるために大勢のものを連れていかせた。九州ではコホロギという人たちが住んでいて、朝鮮や大陸から来た人たちに責められるかもしれないので助けてほしいという要請があった。天照大神は諸神と諮って、飛騨にいては対処できないので、若い強い者を九州に送ってそこを平定しようということになった。瓊瓊杵命以下、飛騨高天原の人々の大移動が行われて、九州の高千穂の地に行かれました。これが天孫降臨である。
出雲の国譲りの時、天若彦が殺された。妻の下照姫その兄の阿遅志貴命が、その遺骨を持って飛騨に入ろうとしたが、若彦の反逆の真相がわかり、飛騨での本葬をあきらめて飛騨路の入口の美濃で葬式を行った。美濃にその喪山や若彦と下照姫を祀った大矢田神社がある。その後下照姫と阿遅志貴命は美濃を開拓した。
この伝承で、飛騨高天原のあらすじがよくわかる。 
船山 
船山は旧名を久々野山といい、標高1479mの山である。飛騨富士とも呼ばれている。位山とはあららぎ湖を挟んで向かい合ってそびえている。 太古の天之浮船(あめのうきふね)が舟山に降りたと伝えているが、舟山にはノアの箱船が着いた所と言う伝説もあり、伝説の箱船が漂着したアララト山に名前のよく似たアララギ湖が近くにある。山頂には船山神社があり、雨乞いの神として崇敬されてきた。麓には船山の方向を向いた八幡神社があり祭神は久々能智神である。竹内古文献によると天忍穂耳命の御神陵があると記録されている。巨石群が多くあり、頂上付近の巨石にはペトログラフも発見されている。 
乗鞍岳
乗鞍岳(のりくらだけ)は、飛騨山脈(北アルプス)南部の剣ヶ峰(標高3、026m)を主峰とする山々の総称。古代においては「アワ山」と呼ばれ、乗鞍の意は「祈り座」からきたものと伝えられている。山頂に乗鞍本宮があり、飛騨側に乗鞍本宮(鞍ヶ嶺神社)、信州側に朝日権現社が背中合わせで建っている。近くに高天原と呼ばれているところもあり、周辺には祭場が散在している。最初の神都があった処と言われ、飛騨高天原の中心となっている。 
日輪神社
山そのものが御神体として崇敬の厚かった神社。祭神は天照皇大御神。太陽神“天照大神”を祀る。日本全国で日輪神社と稱するのは唯この一社のみ である。創立年代は不詳。日輪神社建立場所は太古のピラミッドであり、飛騨のピラミッドの中心位置にあると神社、ここが飛騨の中心で、ここからエネルギーが放射状に流れているとも言われている。日輪神社の裏山は、どこを掘っても硅石まじりの川石が出てくるので、裏山は人工のピラミッドと思 われる。日輪神社を中心に放射状に巨石群や、ピラミッドが分布しており、乗鞍岳外16の飛騨の山々をピラミッドと見て、其の方位を線で結ぶと線の中心が日輪神社であると言われている。神体石、太陽石(壊されかけている)が頂上部にある。太古のピラミッドとは日来神堂と書き、巨石を積み上げ、鏡岩を東向きに置き、祭壇石にお供えものを祀って太陽の光を反射させて神様に祈りを捧げる巨大祭祀施設である。
日輪神社を中心に分布しているピラミッドと思われる山は、位山、舟山、洞山、日ノ観岳、拝殿山、立岩、御岳、乗鞍、槍ヶ岳、立山、天蓋山、須代山、見量山、高屋山、金鞍山、松倉山(飛騨の里)である。 
御皇城山
富山市内に呉羽山があり、呉羽丘陵とも呼ばれている。富山平野にある丘陵である。「呉羽」は一帯の地名で、呉服部にちなむという。呉羽山は 呉羽丘陵の中の標高80mの山の名前であり、太古、御皇城山と呼ばれ皇祖皇大神宮があったという。この皇祖皇大神宮に伝わっている文献が竹内文献である。
伝承によれば、第25代・武烈天皇に仕えた大臣に、 武内宿禰の孫、平群真鳥がいた。日本書紀では、平群真鳥はクーデター計画が発覚し謀反人として殺されたと伝えられている。
しかし、ここに伝わる伝承ではかなり違っている。当時、武烈天皇は、新興の勢力から日本古来の伝承を伝える文献の引き渡しを強要されていた。天皇はこの文献を守るため、平群真鳥を殺したと見せて実は密かに越中へ落ちのびさせた。この密命が、越中富山の御皇城山にあった皇祖皇太神宮に伝わった古文献の守護だった。この平群真鳥の子孫が竹内家である。竹内文献には、神代文字で書かれた古文書と、これも奇妙な神宝類があった。この古文書をさして「竹内文書」といい、神宝類を「御神宝」といい、この総称を「竹内文献」と呼ぶ。
「竹内文書」は元は神代文字で書かれていたが、平群真鳥が、漢字・カナ混じり文に書き改め、竹内家ではこれを四代ごとに筆写し、代々、秘密裏に伝えてきた。
御神宝には、謎の金属「ヒヒイロカネ」で造られた皇室の三種の神器である鏡・刀剣、また、古代文字が彫り込まれた石や、天皇の骨で造ったという 神骨像など数千点にも上るおびただしい量の物だった。しかし、戦前不敬罪で裁判を受けることになり、皇祖皇太神宮から「神宮神祠不敬被告事件上告趣意書」が、神宝を含む竹内文書約4、000点と史跡の現地調査の報告書などとともに、提出された。無罪判決となったが、提出物は裁判が終了してもすぐに返還がかなわず、それら原本は太平洋戦争中の空襲により焼失したとされている。
第25代武烈天皇はこの行為により日本書紀で悪逆非道な天皇として記録されることになるのである。実際は仁愛に満ちた名君だったという。
竹内文献では、神武天皇以前にウガヤ・フキアエズ朝72代、それ以前に25代・ 436世にわたる上古代があり、さらにその前にも天神7代の神の時代があったといい、過去3000億年にさかのぼる奇怪な歴史が語られていた。竹内文献によれば、今から数十万年前の超古代の日本列島は世界の政治・文化の中心地であった。 そして、越の国、つまり、いまの富山県・神通川の御皇城山を中心に、飛弾・乗鞍にかけた一帯が神話で云うところの高天原であり、すべての人類の元宮として建立された「天神人祖一神宮」という壮大なパンテオンがあった。世界の人々は、この元宮にお参りに来たという。ここに世界の統治本部があったといい、それがある場所を高天原と呼んだというのである。高天原とは首都、世界の首都の意味だと、竹内文書はいう。 
尖山
尖(とがり)山は、富山県中新川郡にある標高559mの三角状の山である。立山に向かって山々を眺めると、回りの山々とは形の違う、妙に尖がった山を見ることができる。これが、尖山で地元では「とんがりやま」と呼ばれ「日が暮れてから山に入ると位山の天狗にさらわれる・・」「尖山に入った男が急にまぶしい光に包まれ気がつくと位山にいた」「尖山の頂上から位山の方向に天狗が走るのを見た」などと不思議な言い伝えがあるという。この山は人口的に造られたピラミッドであるとも言われ、山頂にはサークル状に石が並んだ磐座があり、磁気異常があると言われている。また、山頂から祭祀に使われたと思われる青銅器の破片が出土している。
また地図上で尖山を中心に古代から聖地と呼ばれている場所を結ぶと、いくつもの巨大な三角形が描かれるという。つまり、この山は計画的に造られた可能性も高いと言える。位山ともピラミッドネットワークでつながっているという。
この<尖山>と飛騨高山の聖地<位山>はピラミッドネットワークで結ばれているようである。 『竹内文書』には、太古の日本にはヒラミツトなる祭殿が何ヶ所かに造営されたと書かれてあり、それを読んだ山口博氏が尖山は「ニニギノミコトが築いたと伝えるヒラミツトではないか」と推定し、地元でも注目を集める事となった。前出の山口博氏が尖山を中心に富山全域の 神山霊域を地図上にポイントしてみると、きれいな三角形が描かれたそうです。この三角の図形が持つパワーを地形を利用して計画的に配置し、互いがエネルギーを放射し合って、位山への瞬間移動のような現象を生み出すのではないかとも云われている。 
日本ピラミッド
日本国内には各地にピラミッドと呼ばれている山がある。その中で、山中・山周辺に「岩石祭祀遺構」と呼ばれる岩石が見られるのは、大石神(青森県)・黒又山(秋田県)・五葉山(岩手県)・千貫森(福島県)・尖山(富山県)・位山(岐阜県)・石巻山(愛知県)・東谷山(愛知県)・三上山(滋賀県)・三輪山(奈良県)・日室ヶ嶽(京都府)・葦嶽山(広島県)・弥山(広島県)・野貝原山(広島県)である。
ピラミッド 県 内容
大石神 青森 大石神山と呼ばれる山の中腹にある巨石群を指す。巨石には太陽石、方位石、星座石、鏡石などが規則正しく配置されている。安政4年に大地震で文字が書かれた巨石が埋没したとされる。古くから知られた存在で、大石神と呼ばれ古代から巨石信仰の対象になっていた。 近くにキリストの墓がある。
黒又山 秋田 地元では「クロマンタ」と愛称され、山頂には本宮神社(祭神大己貴命)がある。黒又山のすぐ近くには、国特別史跡「大湯環状列石」がある。山麓には、縄文時代の遺跡がある。
五葉山 岩手 北上山地の南東部にある霊山五葉山は、高地で最も海に近い1、351mの高峰である。 伊達藩直轄で「御用山」と呼ばれたが五葉松が多い所から五葉山になったと言う。4合目には、畳石(祭壇石)があり、この他、林立した巨石群がある。また、五葉山山頂には10数メートルもあろうかと思われる巨石群が天を向いて突き出している。五葉山スフィンクス、謎の絵文字、石の加工跡、連続する日の字、など縄文期前後に特殊な祭祀が存在した。
千貫森 福島 千貫森ピラミッドは葦嶽山や尖山とはまた違った、なだらかなそれでいて不思議な存在感のある山である。千貫森の脇には当然のように拝殿山と思しき一貫森と呼ばれる、これまた山容がピラミッドのような美しい山が存在している。讃岐富士と言われる飯野山によく似た山容である。千貫森の周辺には夥しい巨石群が散在しています。おおよそ20Km四方の中に興味深い巨石がたくさんある。
尖山 富山 地元では「とんがりやま」と呼ばれ「日が暮れてから山に入ると位山の天狗にさらわれる・・」「尖山に入った男が急にまぶしい光に包まれ気がつくと位山にいた」「尖山の頂上から位山の方向に天狗が走るのを見た」などと不思議な言い伝えがあるという。この山は人口的に造られたピラミッドであるとも言われ、山頂にはサークル状に石が並んだ磐座があり、磁気異常があると言われている。また、山頂から祭祀に使われたと思われる青銅器の破片が出土している。
位山 岐阜 水無神社の御神体であり、位山山麓には数多くの巨石群がある。そのうちいくつかは、明らかに人工の手が加えられており、神々を祀る磐座とされている。山頂近くには「天の岩戸」と呼ばれている磐座がある。また、周辺一帯にペトログラフが数多く見つかっている。
石巻山 愛知 豊橋で一番の高さを誇る石巻山。豊橋市の北東部に位置するピラミッド形の山。石巻神社(祭神大己貴)があり、三輪山とも呼ばれ、奈良の「三輪山の元山」と地元では言われている。本宮山がピラミッドで、石巻山は拝殿とも考えられている。石巻山城趾、ダイダラボッチの足跡、石巻の蛇穴などが存在し、頂上はほぼ東西に走る石灰岩の大岩塊になっている。ここは雄岩と呼ばれており、その東に雌岩、西に天狗岩がある。雄岩が一番高い。その周りには、天然記念物指定の大きな要因となった、石灰岩地帯の植物であるマルバイワシモツケを見ることができる。
東谷山 愛知 別名「当国山」。標高198mで名古屋市最高峰。山頂に延喜式内 尾張戸神社が鎮座し、山中から山腹にかけて30基以上の多数の円墳が築造されている。尾張戸神社は尾張開拓の豪族尾張氏の氏神とされる。山頂三角点のすぐ脇に4個の巨石を中心とする岩石の集積があり、これはかつて磐座として用いられていたものであろう。4個の巨石の最奥にあるカマボコ形の巨石のみ花崗岩であり、これは東谷山では産出しない石質であることから、人為運搬によるものと考えられている。カマボコ形巨石の右側面にはペトログラフが刻まれているという。
三上山 滋賀 俵藤太のムカデ退治の伝説で知られるこの山は二つの峰からなり、男山・女山とよばれ、頂上には巨石の盤座があり奥宮が祀られている。山中の『出世不動』周辺の尾根上には、『弁慶の経机』と呼ばれる巨岩があり、これは巨大なドルメンである。斜面には巨大なイス状の石組みも発見されている。近くに縄文遺跡あり。
三輪山 奈良 大神神社の御神体。饒速日尊の御陵であると考えている。三輪山の山中には、無数の磐座があり、その周辺には膨大な遺物が埋もれている。かつて大雨の後は、山中から泥と一緒に勾玉や管玉などが川に流れ出るため、麓の川でいろいろ拾えたという話である。
日室ヶ嶽 京都 京都府の北部元伊勢神宮のあるあたりで、岩戸山・城山・日裏が岳・日室岳など多くの別称を持ち、神霊降臨の聖山と伝えられている。内宮の祭神が天照大神であることを考えると、その神霊とは天照大神であろう。最初に天照大神が降臨した山を、当地における元伊勢信仰の淵源として神聖視しているということである。
標高427mで麓からの比高差300m程の低山で、その優美な三角形の稜線がひときわ目立つ山であり、山の東斜面は聖域として禁足地に指定されてきた。山中には数多くの巨石群があり、夏至の日、遥拝所や内宮がある辺りから日室ヶ嶽を眺めると、太陽が日室ヶ嶽のちょうど山頂に沈み込む姿が見える。
葦嶽山 広島 どの方角から見ても三角形に見えることからその名がついた葦嶽山。標高815mの山頂は約4m四方の平地になっている。昔は太陽石があったらしいが、戦前破壊された。すぐ近くの鬼叫山にはさまざまな形の岩が多数あり、葦嶽山の拝殿と考えられている。神武天皇がやってきたという伝承がある。
弥山 広島 宮島の最高峰弥山、山頂には巨石が多数存在し、ペトログラフも確認できる。山頂広場の中央には太陽の光を反射する太陽石が存在していた痕跡がある。太古の昔には巨石には神が下りてくると信じられており、巨石祭祀があったと考えられている。厳島神社の本来の祭神は神武天皇と考えられ、ここにも神武天皇がやってきた伝承を持つ。
野貝原山 広島 弥山の対岸にはのうが高原(野貝原山)がある。古代参道から登ると、山頂付近に祭祀に使われたと思われる多くの巨石が林立している。雨宿り石、円形鏡石、ピラミッド積石、方位石、タイル石などである。宮島のピラミッドと対になって存在しており、巨石群が林立しているところからは宮島がよく見える。
越中国から飛騨国にかけて他の地域とはまったく異なる系統の伝承が数多く伝わっている。これら伝承はオカルト的であったり、新興宗教がらみであったりして学術的とはいえない面が多い。しかし、そのようなものが広がること自体、その核になるものがこの地域にあったことを意味している。頭から否定しないで、その核になるものは何だったのか考えてみたい。
ピラミッドは縄文祭祀
祭祀の中心はピラミッドである。日本のピラミッドは自然の山を改造して巨石を配置したもので、太陽崇拝の儀式に使われたものと考えられる。東日本にも多く、その近くに縄文遺跡があることが多い。縄文人の祭祀ではないかと考えられる。飛騨高天原における「日抱の御魂鎮め」も太陽信仰である。饒速日尊が活躍したころは弥生時代中期末に当たるが、この頃、東日本各地には弥生遺跡は少なく、縄文人が数多く存在していた。饒速日尊が東海・関東地方を統一したが、この地方は海岸地帯であり、縄文遺跡はやや山寄りのことが多く、大阪湾岸沿いから入植した物部一族は弥生遺跡を海岸寄りに作り、縄文人との上手な住み分けができたのであろう。弥生人と縄文人が争った形跡はほとんどなく、平和裏に混合していったものであろう。縄文人としてみれば、入植者によって近くに弥生集落が造られた時、その弥生人の持つ先端技術を学びに周辺の縄文集落から人々が集まってきたのであろう。物部一族にしても、入植地で農耕に都合がよい土地を見つけてそこに農耕地を作るが、その土地は縄文人にとっては重要な土地ではなかった。そのために摩擦は起きなかったと考えられる。
ところが、内陸地帯はそうはいかないであろう。縄文人はピラミッド・巨石を利用した太陽信仰を行っており、その土地に弥生人が入ろうとすると、摩擦が起こる原因になったと思われる。そのために、信濃地方はかなり統一に苦労することになったのであろう。この飛騨国も山岳地帯であり、農耕地帯は少なくなる。まして、縄文人が数多くいたのではその統一は簡単にはいかなくなる。
飛騨高天原は伝承では日本最古の王朝と考えられている。飛騨には縄文人の作った国のようなものがあったと判断できる。この縄文人たちは乗鞍岳をシンボルとして丹生川沿いに栄えていたが、気候変動により、その周辺が住みにくくなり、位山周辺に移動してきたのであろう。二千年ほどに渡って、その状態が言い伝えられていたと考えられる。縄文人たちの言い伝えが誇張され、竹内古文献・秀真伝にあるような物語となったと考える。
現在でも飛騨地方は縄文人の血が多く継承されている地域である。現在まで縄文人が主流で生活しており、弥生系の人々があまり入っていないと考えられる。これも、縄文系の国が既にできていたあかしであろう。他の東日本地域は縄文人通し緩やかにつながっており、物々交換していたのであろう。国ができるというものではなく、王と呼ばれる人もいなかったと考えられる。しかし、伝承から判断して飛騨国だけは王と呼ばれる人々(上方様)が存在しており、祭祀を主として神通川流域で生活していたものであろう。
ピラミッドと饒速日尊との関係
縄文祭祀は太陽信仰なので、その最高神は太陽神(天照大神)となる。巨石祭祀が確認されている上記の14の日本ピラミッドに於いて位山は水無神社の御神体でその祭神は大歳神(饒速日尊)と考えられ、愛知県の石巻山ピラミッドは三輪山とも云われており、石巻神社の祭神は大己貴命(饒速日尊)と考えられる。また、東谷山ピラミッドの神社は尾張氏の氏神であり、これも饒速日尊がその祖神である。京都府の日室ヶ嶽は近くの籠神社でも明らかなように饒速日尊と深いかかわりを持っている。また、奈良の三輪山は饒速日尊の御陵と考えられている。東北地方は確認していないが中部・近畿地方のピラミッドと思われる山はそのほとんどが饒速日尊と深いかかわりを持っていることになる。饒速日尊は縄文人の祭祀を取り入れていることになる。
縄文人の祭祀は太陽祭祀なので、その対象の神は天照大神となる。饒速日尊の神社における正式名称は「天照国照彦火明櫛玉饒速日尊」とよばれ、天照大神と一体化しているのである。秀真伝においては飛騨の天照大神は男神であると言われている。位山は天照大神の御神陵と言われているが、位山は水無神社の御神体であり、この神社の祭神は饒速日尊と考えられ、饒速日尊=天照大神の図式が生まれる。
飛騨高天原の最高の霊地と考えられるのが乗鞍山頂の乗鞍本宮と思われるが、ここの祭神は五十猛大神、天照御大神、大山津見大神、於加美大神で、大山津見大神、於加美大神は饒速日尊と思われ、天照御大神は縄文本来の神と饒速日尊が重なったものではないだろうか。五十猛大神は日抱と伊太祁曾がよく似ている事と、縄文祭祀を抹殺する流れから、飛騨高天原伝承にある通り、後で付け加えられたのではないだろうか。
また、日輪神社では天照皇大御神、倉稻魂大神、火武主比大神、奥津日子大神、奥津比女大神が祭られているが、火武主比大神はホムスビ神=カグツチ=愛宕神である。カグツチ(ホムスビ)を祀る神社にオオヤマツミ・タカオカミ・イカズチと、カグツチを同神扱いしている社が見られ、オオヤマツミ=カグツチもしくはホムスビを示す社は特に多い。山形県米沢市の愛宕神社が「軻遇突智(カグツチ)命・大山祇命」。東京都港区芝の愛宕神社は「火産霊神・高竈神・大雷神」で、これは三島神社の三神の中のオオヤマツミを火産霊神の置き換えた形である。福岡県船引町の愛宕雷神社の祭神は「火産霊神・大雷神」で、ホムスビ=イカズチである。これから考えると倉稻魂大神=火武主比大神=饒速日尊となる。また、奥津日子大神、奥津比女大神は大歳神の子と言われており、飛騨高天原の中心施設の日輪神社も饒速日尊と極めて関連が深くなる。
また、広島県の葦嶽山・弥山はともに神武天皇が訪問している伝承を持っている。もう一つの野原貝山(のうが高原)は弥山ピラミッドと対となっており、伝承にはないが神武天皇が訪問していると推定している。また、神武天皇は福山市の磐田山中腹に天津磐境という巨石による巨大祭祀施設を作っており、これも、同系統の祭祀と考えられる。神武天皇も縄文祭祀を引き継いでいると思われる。
また、位山の伝承では位山のイチイの木から作った笏木を天皇の即位の儀式に現在まで使っているようで、その最初は神武天皇からと伝えられており、これも現在の皇室祭祀が縄文祭祀を引き継いでいることを意味している。
以上のようなことから判断して饒速日尊は縄文祭祀を受け継ぐことにより、飛騨国を統一していると判断できる。 
統一方法
式内社に祭られている神は饒速日尊系か高皇産霊神系である。饒速日尊が高皇産霊神の縁者を引き連れて、この飛騨国にやってきたのであろう。この飛騨国にはすでに飛騨王国が存在し、それを統一するのは容易でないことは饒速日尊にはわかっていた。このような場合戦争して相手をたたきつぶして統一するというのが世界の常識であろうが、戦争した痕跡もなく、縄文文化と饒速日尊が平和裏に一体化している。日本古代ではあくまでも平和統一だったのである。それぞれが交換条件を出し合って、併合していったものと考えている。
飛騨国側としては、できれば独立を維持したい思いはあったろうが、周辺の国々がことごとく、日本国に吸収合併されている状況もわかっていたであろうからいつまでも独立を保つのは不可能であろうし、無駄な血を流したくないというのもあったであろう。そこで、飛騨国王と饒速日尊との間に会議が開かれたと思うがそれぞれの主張を推定してみよう。
飛騨国側要求
1 飛騨国の太陽祭祀の伝統は引き継ぐこと。
2 歴代日本国王は我々の聖地である位山のイチイの木を使って即位の儀式をすること。
3 将来に日本列島が統一した時のために、九州の西倭の後継者にも太陽祭祀の伝統を引き継がせること。
4 飛騨国王家は継承させること。
5 新技術を提供すること。
6 日本国の王の系統に縄文の血筋を入れること。
などであったと推定する。
日本国側(饒速日尊)要求
1 飛騨国は日本国に所属すること。
2 祭祀に絡むこと以外は日本国の方針に従うこと。
3 日本国の役人を受け入れること
と言ったところであろうか。互いに簡単には、話し合いがつかなかったと思われるが、最終的には上記のような要求を互いに受け入れて、 飛騨国は日本国に所属するようになったと推定する。日輪神社の奥津彦、奥津姫は天知迦流美豆比売(アメチカルミヅヒメ)と大歳との間に生まれた子で、この姫の名「天を領する、生命力に満ちた太陽の女」という意味となる。太陽の女性を讃美した名となり、飛騨王国の王の血筋の娘ではないだろうか。この姫との間の子は伝承では、奥津日子神(おきつひこ)、奥津比売命(おきつひめ)、大山咋神(おほやまくひ)、庭津日神(にはつひ)、阿須波神(あすは)、波比岐神(はひき)、香山戸臣神(かぐやまとみ)、羽山戸神(はやまと)、庭高津日神(にはたかつひ)、大土神(おほつち)である。何れも日本国の要として活躍したのであろう。
この交渉の結果、飛騨国の一団が西倭の日向国に赴き太陽崇拝の縄文祭祀を広めたものではあるまいか。その結果、神武天皇が東遷の最中ピラミッドと呼ばれている山を訪問したり、天津磐境を建設することになったものと考える。
飛騨国には饒速日尊の子を日本国の役人として、高皇産霊神の縁者と共に飛騨国に残し、飛騨国にさまざまな技術供与をしていった。時代がさがって国造を決める時、饒速日尊の子孫である大八椅命が最初の国造になったものであろう。 
統一のその後
飛騨国王は日本書紀では両面宿儺として表現されている。悪人のように表現されているが、実際は人格優れた人物であったと飛騨国では言い伝えられている。両面宿儺は、第16代仁徳天皇の時代に朝廷に従わず民を苦しめた悪人として、仁徳天皇が遣わした将軍・難波根子建振熊によって討伐されたと言われているが、実際はこの時、大和朝廷と飛騨国王との間の意見の相違があり、飛騨国王は処罰され、この時、縄文時代からつながる飛騨国は滅んだと推定している。このとき、日抱神社を抹殺するために重要な神社に伊太祁曾神(五十猛命)を祀らせ、真実が分からないようにしたと考えられる。
第25代武烈天皇について考えてみる。
古事記
長谷の列木宮に坐して、治世は八年、御子がいなかったので、小長谷部を定め、御陵は片岡の石坏にある。
日本書紀
「オケ七年に皇太子として立たれ、長じて罪人を罰し、理非を判定する事を好まれた。法令に通じ、日の暮れるまで、政治を執り、世に知られずにいる無実の罪は、必ず見抜いて、はらされた。訴訟の審理は、誠に当を得たものであった。」
仁賢天皇の死後、大臣平群真鳥臣は驕慢で国政をほしいままにし、臣下としての礼節がま るでなかった。武烈天皇は、嫁にと望んだ物部麁鹿火大連の娘影媛が、平群真鳥臣の息子鮪(しび)にすでに犯された事を知り、大そう怒って鮪を殺し、大伴金村連とともに平群真鳥臣 も焼き殺す。そして即位し、大伴金村連を大連とするのである。
即位後
「多くの悪業をなさって、ひとつも善業を行われなかった。様々な酷刑を、親しくご覧にならない事はなく、国民は震い怖れていた。」
二年九月 婦の腹を裂いて、その赤子を見る。
三年十月 人の生爪を剥いで、芋を掘らせた。
四年四月 人の頭髪を抜いて、木に登らせ、その木を切倒して、落として殺した。
五年六月 人を池の樋に伏せ入れ、外に流れ出てきた所を、三刃の矛で刺し殺す。
七年二月 人を木に登らせ、弓で射落とす。
八年三月 女を裸にして、馬と交接させる。その陰部を見て、潤っている者は殺し、濡れていない者は、没して官婢とした。
凄まじい暴虐ぶりである。
宮中では出廷退廷の時間もいい加減になり、贅沢と酒池肉林に明け暮れ、一日中淫靡な音楽を奏で、天下の上を顧みなかった、とある。
即位前後で全く別の人格である。その境にあるのが平群真鳥の事件である。富山の皇祖皇大神宮に竹内家が残っている以上、この部分は竹内家の伝承が正しいと判断する。この当時朝廷の有力豪族が飛騨国の痕跡を抹殺しようと図っていたのであろう。正しく物事を考えることのできる武烈天皇は、それを残そうと思っており、平群真鳥を策略で富山へ落ち延びさせ、失われつつあった飛騨国の言い伝えをまとめさせたのである。これが竹内古文献であろう。しかしながら長年書き写している間に、真実から少しずつ外れ、現在残っているような状態になったのではないだろうか。
武烈天皇が悪逆非道に描かれているが、具体的に詳しく書かれているわけではなく、ただ事象が書かれているだけであり、この記事は後で都合がよいように挿入したことがうかがわれる。精神異常を起こしていた可能性も考えられなくはないが、それなら、そのようなことが書かれていてもよいように思える。武烈天皇は飛騨国抹殺派の圧力に耐えながら国を治めていたのではないだろうか、後継者なしで早世しているのも暗殺された可能性が考えられる。雄略・清寧・賢宗・仁賢・武烈・継体・安閑・宣化各天皇の在位期間に若干不明な点がある。これは後に考察してみようと考えている。 
越国国譲り

 

大国主命が「越の八口」を平定した領域の判定
古代の越国は福井県敦賀市西端の関峠から、新潟県の弥彦山までの領域を指していたようである。越国はAD20年頃出雲の大国主命が素盞嗚尊の命を受け「越の八口の平定」をしたと伝えられている。まずは、大国主命の平定領域を伝承から探ってみたい。 
大国主平定伝承を持つ北陸地方の神社
気多大社 石川県羽咋市 大国主命 七尾市所口にある能登生國玉比古神社が、本宮と云われ、上世の昔、大己貴尊が出雲より因幡の気多崎に至り、そこから当国へ渡って平定し、その後、所口に鎮祭され、孝元天皇の頃に宮社を建立。」
『羽咋郡誌』気多神社の「創立の由緒」
「大己貴である気多神は、越の北島(現在の羽咋市近辺)からまず鹿島郡神門島(能登金剛)に着き、七尾の小丸山を経て口能登、さらに鳳至珠洲二郡の妖賊・衆賊を平らげ、現社地に至った。」
・神社名鑑による気多大社御由緒
御祭神大己貴大神は国土修営のため越の北島より船で七尾小丸山に入り、宿那彦神等の協力を得てこの地方の賊徒を平定せられた。その恩典を慕いこの地に奉祭した」
身代神社 川県羽咋郡志賀町梨谷小山10−273   大国主命 御祭神は大穴牟遲神 少名毘古那神
社伝によると、出雲から船に乗って当地に着いた。「大真石」を御神体とする神社であるという。
能登比盗_社 石川県鹿島郡鹿西町能登部下125甲29   大国主命 社伝によると、大己貴命が少彦名命とともに、国土経営を行い、越の国を平定した後、当地で憩い給う時、一人の機織乙女に接待される。
その乙女が、能登比当ュ天神であり、郷民に機織の技を教えたと伝わる。
鳥屋比古神社 川県鹿島郡中能登町春木ナ87   大国主命 祭神鳥屋比古神は国土平定開発の祖神と仰がれる大神で、往昔、竹津浦鹿島路の湖水に荒ぶる毒蛇が棲息して人民に害毒を及ぼした時これを平定し、その射給うた矢の落ちたところを羽坂と称するに至ったという。
而して、社殿後方の鳥屋塚こそは、この蛇身等を埋めたものだと伝えれいる
久延比古神社 石川県鹿島町久江 饒速日尊 祭神の久延毘古神は、大己貴命、少彦名命とともに越の北島から当地に来て、邑知潟の毒蛇を退治して、久延の谷内に神霊を留めたという。
能登生國玉比古神社 石川県七尾市所口町ハ48 大国主命 祭神・大己貴神が出雲国より所口の地に至り、人々を苦しめていた、湖に棲む毒蛇を退治し、当地に垂迹した。よって当社を本宮と称す
能登生国玉比古神社 鹿島郡中能登町金丸セ35 大国主命 祭神多食倉長命は神代の昔、能登国に巡行された大己貴命 少彦名命と協力して国土の平定に神功をたてたまい、能登の国魂の神と仰がれた。その姫神市杵嶋姫命(又の名伊豆目比売命)は少彦名命の妃となって菅根彦命を生み給うた。これ金鋺翁菅根彦命で金丸村村主の遠祖である。神主梶井氏はその裔である。
能登部神社 鹿島郡中能登町能登部上ロ70 大国主命 当社は能登国造の祖能登比古神及び能登臣の祖大入杵命を祀る。
社伝に大己貴命 当地に巡行ありて、わが苗裔たれと、式内能登生国玉比古神社は当社なり。その後 崇神天皇の皇子大入杵命、当地に下向あり殖産興業の道を開き給う。薨し給うや郷民その徳を慕い郷土開拓の祖神として崇め祀る。
白比古神社 石川県鹿島郡中能登町良川ト1 饒速日尊 白山社とも呼ばれていた神社。
社伝によれば、祭神・白比古神は大己貴命の御子神にして、当地方開拓の祖神であるという。
鎌の宮神木 鹿島郡鹿西町金丸正部谷 大国主命 祭神 建御名方命は、大巳貴命の御子神で、大己貴命、少彦名命の二神と力をあわせ、邑知潟に住む毒蛇化鳥を退治、能登の国平定の神功をたてられた。
宿那彦神像石神社 石川県鹿西町金丸村之内宮地奥ノ部一番地< 大国主命 社記に依れば、上古草味当国に妖魔惟賊屯集し殊に邑知潟には化鳥毒蛇多く棲みて、人民の疾苦言はん方なし。 ここに少彦名命、大己貴命は深く之を憂へさせ給いて、是の上に降り誅伐退治し給いければ、国内始めて平定し人民少々安堵するを得たれども、後患をおもんばかりて少彦名命は神霊をこの地の石に留め、大巳貴命は気多崎に後世を鎮護し給えり。 是社号の由て起こる所なりと
御門主比古神社 七尾市観音崎 大国主命 大己貴命が天下巡行の時、能登の妖魔退治のため、高志の北島から神門島(鹿渡島)に渡ってきた。その時、当地の御門主比古神が、鵜を捕らえて大己貴命に献上、あるいは、櫛八玉神が御門主比古神と謀って鵜に化け、魚をとって、大己貴命に献上したという
高瀬神社 富山県南砺波市 大国主命 在昔、大己貴命北陸御経営の時、己命の守り神を此処に祀り置き給いて、やがて此の地方を平治し給ひ、国成り竟(お)えて、最後に自らの御魂をも鎮め置き給いて、国魂神となし、出雲へ帰り給ひしと云う
牛嶽神社 富山市旧山田村鍋谷 大国主命 昔、大国主命が越の国平定の際、牛に乗って牛岳に登り長く留まったと云われている。牛岳の名の由来は昔、大国主命が越の国平定の為、くわさき山(牛岳の古名)、三っケ峰に登り、谷々の悪神を服従させていた時、乗ってきた牛を放したことから名づけられたという。麓の人々は祭日を決め田畑で採れた物を供え、大国主命を敬った
気多神社 富山県高岡市伏木 大国主命 祭神 大己貴命・奴奈川姫。大国主命は伏木港より船出して越の国、居多ヶ浜(上越市)に上陸したという。
杉原神社 富山県富山市八尾町黒田3928   饒速日尊 黒田の杉原彦(辟田彦)が咲田姫(辟田姫)と共にこの地を開拓(治水工事)された際に、十日も雨が続き途中洪水が発生した。このとき杉原彦と咲田姫は三日三晩通して田畑を水から守ったが、ついに咲田姫は力尽きてその場にばったり倒れてしまった。杉原彦は疲れきったからだで咲田姫を背負い、一人で田屋の郷に運んで看病したという。これにちなんで今でもこの地域一帯を「婦負の里(ねいのさと)」と呼ぶ。
祭神 杉原大神(この地の開拓の祖神)、
祭神は一説に大己貴命、あるいは饒速日尊とも云われている。
草岡神社 山県射水市古明神372 大国主命 社傳によれば、古老ノ口傳ニ云、神代ノ昔、草岡ノ地所、万三四里アリテ、草木繁茂シ、悪蛇毒虫ノ巣窟ニシテ、人民恐レヲナシ、敢テ近依ル者アラズ。時ニ大己貴神、此地耕耘ニ適シ、地味良好ナリトテ、鍬ノ御矛ヲ以テ切伐開墾シ、以テ土民ニ恩顧ヲ蒙ラシメ玉フ。其後数十年ヲ経テ大己貴神ノ神霊ヲ該地ニ勧請シ、草岡神社ト稱シ奉リシ由
鹿島神社 富山県下新川郡朝日町宮崎1484 饒速日尊 健甕槌命が、能登を廻り、海を渡って宮崎の沖の島に降臨された。
居多神社 新潟県上越市 饒速日尊
大国主命 大国主命は、居多ケ浜に上陸し身能輪山あるいは岩殿山を根拠地とし、越後の開拓や農耕技術砂鉄の精錬技術などを伝えたという
圓田神社 新潟県上越市柿崎区岩手1089 饒速日尊 祭神国常立尊、大己貴神、誉田別尊、大山咋神
大己貴神、国土平定のため高志に来たり給う時、この円田沖に船を入れ龍ケ峰に船を繋ぎ上り、この峰に一祠を立つこれが神社の初めなり。
斐太神社 新潟県妙高市宮内241 饒速日尊 大國主命が国土経営のため御子言代主命・建御名方命を従へて当国に行幸し、国中の日高見国として当地に滞在した。大國主命・建御名方命は山野・田畑・道路を、言代主命は沼地・河川を治め水路を開いた。積羽八重言代主神は矢代大明神と称し、矢代川の名の由来となつたといふ。
宇奈具志神社 新潟県三島郡出雲崎町乙茂字稲場762 大国主命 古神官松永氏ノ話ニ、天穂日命、大國主神ノ御跡ヲ慕ヒ来テ鎮座ノ御社ニテ、天ノ神ト称シ来ル。
御嶋石部神社 新潟県柏崎市西山町石地1258 饒速日尊 祭神(大己貴命)が頚城郡居多より船にて、石地の浜に着岸し、石部山にとどまり、遣わされた宝剣を神体として祀ったという。
その昔、命が北陸東北方面平定の為に出雲より水路にて当地を通られた時、岩の懸橋が海中より磯辺まで続いているのを不思議に思われ、 船を寄せてみると、当地の荒神二田彦・石部彦の二神が出迎え卮(さかずき)に酒を盛り、敬意を表した。
当神社の祭礼神輿が陸から島に御渡りになり、その時、御神酒を捧げる吉例は此処に由来する。また、命が残していかれた御佩(はかせ)の剣は当神社の御神体として崇奉り鎮守となっている。地元の人々は大鹿島とよんでいる。
物部神社 新潟県柏崎市西山町二田602 天孫降臨の後、当社祭神(二田天物部命)は、天香山命とともに当地に来臨。その上陸の地を天瀬(尼瀬)という。居るべき地を求めていた時に、多岐佐加の二田を献上する者あり、その里に家居したという。後、当地で薨じ、二田土生田山の高陵に葬られた。
石井神社 新潟県三島郡出雲崎町石井町583 饒速日尊 神代の昔、各地を平定した大国主の命が、この地に来られ佐渡ヶ島を平治しようとしたが、海を渡る船がない。そこで、石の井戸の水を汲んで撒くと一夜にして12株の大樹が茂った。その霊樹で船を造り海を渡って平治したと伝えられており、その時、大小の魚が船を守り助けたので12株の大樹の辺(現在の井鼻)に宮を造り海上守護の大神を祀った。
祭神 大国主命 神名帳考證では御井神(饒速日尊と推定)
北条の石井神社(相模の寒川神社からの勧請)は小鹿島(饒速日尊と推定)という。
弥彦神社 新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2898 祭神天香山命は又の御名を高倉下命と申し、神武天皇御東征の時、紀伊国にて?霊の神劔を奉り皇軍の士気を振起して大功を立て給い、後勅を奉じて遠く越後国に下り、今の三島郡野積浜に上陸して国内を鎮撫し、漁塩耕種の法を授け大いに生民の幸福を増進し弥彦山東麓に宮居して徳を布き、統を垂れ給うた
船江神社 新潟県新潟市中央区古町通一番町500 天照大神 豐受大神 猿田彦大神 大彦命
当時、この里がまだ貝操といわれていたころに、海上より一隻の船が浜に流れ着きました。今まで見たこともない形の船でしたので、村人たちが周りを取り囲んでおりましたところ、船の中に一人の白髪の老人が座っておりました。村人たちが不思議に思い尋ねましたところ、「私は猿田彦大神といいます。この里を守護するよう使わされました。これより末永く産土神として鎮まりましょう。」とお告げになり、煙のごとく姿を隠されました。
石船神社 新潟県村上市岩船三日市9番29号 饒速日尊 饒速日命は物部氏の祖神で、天の磐樟舟(アメノイハクスフネ)に乗ってこの地に上陸され、航海・漁業・製塩・農耕・養蚕の技術をお伝えになったといわれます
西奈弥神社 新潟県村上市瀬波町大字瀬波字町4-16  饒速日尊 祭神気比大神は、敦賀から五臣を供に下向。背の方からの波で、この地にお着きになった。よってこの地を、背波と呼んで興産民生の基を開かれた。
祭神おかくれの後、五臣は産土神と仰いでここに社殿を建てた。 
佐渡国
一宮 度津神社 新潟県佐渡市 五十猛命 配祀 大屋都姫命 抓津姫命 素盞鳴尊の御子にして父神に似て勇猛なことから名付けられた。初め天降ります時、樹木の種子を持ち降り父神と共に朝鮮に渡りのち日本に帰り全土にわたり植林を奨められたので皆青山うつ蒼として繁茂し為に「植林の神」として崇められた。そして宮殿・家屋・船・車から日用器具の材料に至るまでこの神の御功績に依るところから「有功の神」とも云う。又、人々に造船・航海の術を授けられ各地に港を開かれた事から御社号を度津と称して居る。
祭神は航海の神という説もある。
二宮 大目神社 新潟県佐渡市吉岡1284 大宮売神 ○ 祭神は大宮売神(オオミヤメノカミ)とされている。和名抄に見える「大目郷」の神であろう。背後の大目林は神体山である。
祭神は大己貴命という説もある。
三宮 引田部神社 新潟県佐渡市金丸488−丙 大彦命、大己貴命 『神社名鑑』、猿田彦命 ○ もとは当地の「こうがい崎」という場所にあったという伝承がある。あるいは「こうがい崎」は、当社の神田であったとも考えられる。祭神は、社伝では大己貴命。『神社明細帳』では、猿田彦命としており、境内案内板では、大彦命となっている。
北陸地方の統一伝承は以上のようなものであるが、出雲の大国主命関連伝承なのか、饒速日尊関連伝承なのか、判断が難しい。上の表は、推定した神名を記入した。判断の根拠を挙げてみよう。
原則、「出雲から来た」「少彦名命や奴奈川姫を伴っている」と記述されているのは大国主命と判断される。しかし、誤って伝えられている可能性もあるので断定はできない。
事代主命は饒速日尊の子と判定しているので、「事代主命」と共に祭られている場合は、饒速日尊と判定できる。白比古神社は白山社と呼ばれていたようで、白山神(饒速日尊)と判別できる。
居多神社の大国主命は奴奈川姫との伝承を含んでいるので大国主命と判定できるが、周辺の山が美能輪山(三輪山)であり、饒速日尊との関連性をうかがわせる。おそらく、最初大国主命がやってきて、後に饒速日尊がやってきたものであろう。
久延比古神社の久延比古は奈良県大神神社の伝承では大物主神の知恵袋として活躍した神である。そうであるなら、この神は饒速日尊と行動を共にしていると思われる。
圓田神社は主祭神が国常立尊なので、饒速日尊と判定した。
宇奈具志神社は穂日命が登場するので大国主命と判定した。
御嶋石部神社は
1 周辺の人々に大鹿島と呼ばれていること。・・・鹿島は鹿島大神=建御雷命=饒速日尊を意味している。
2 東北地方まで統一していること。・・・東日本全域を統一したのは饒速日尊で、大国主は越の八口のみ統一した。
3 荒神二田彦・石部彦の二神が出迎えたこと。・・・この人物は物部氏で饒速日尊の天孫降臨(AD30年)の後で、大国主命がここにやってきたのは其の10年ほど前と推定している。
4 御嶋は三島で本来の祭神は大山祇神(饒速日尊)と考えられる。
これらのことよりこの地にやってきたのは饒速日尊と考えられる。此の神社の伝承では大己貴命は居多神社の地からやってきており、居多神社の地に饒速日尊がいたことになる。
石井神社は
1 近くにある別の石井神社は小鹿島と言われており、鹿島は饒速日尊を意味している。
2 神名帳考證における祭神は御井神である。本来は大国主神の子である木俣神を指しているそうであるが、奈良県宇陀市の御井神社の御井大神は気比神、御食津大神とも云われている。そして、この神社は饒速日尊の滞在伝承を持つ。このことから御井大神=饒速日尊と判断できるのである。
以上のことより此の神社に祭られている大己貴命は饒速日尊と判断する。大己貴命はこの地に滞在後、佐渡を統一している。佐渡島の神社は大己貴命や御食津神が祭られている神社が多い。ともに饒速日尊と考えられるので佐渡島統一も饒速日尊であろう。 
船江神社
新潟市の船江神社は猿田彦命の来訪した地となっているが、猿田彦命が北陸地方にやってきたという他の伝承が存在しない。これは、父である饒速日尊の誤伝承ではないかと想像している。
ここに挙げた大国主命と饒速日尊の判定ははっきりと示せるものもあるが、根拠が貧弱であるのもある。或いは間違っている可能性も十分に考えられる。しかし、大体の傾向として、大国主命は新潟県の出雲崎辺りまで訪問したのではないだろうか。能登地方は大国主命の関連伝承と思われるものが多いが、上越市以東は饒速日尊関連伝承と思われるものが多くなっている。大国主命の関連伝承をもつ領域は、古代から言われている越国の範囲にほぼ該当している。御嶋石部神社の伝承でもわかる通り、物部氏は天孫降臨後間もなく、この地を訪れている。饒速日尊に従ったマレビトはここまで来ていたということである。
大国主命が素盞嗚尊の命を受けて越の八口を統一しているが、その範囲は福井県敦賀市から新潟県上越市までの領域と判断する。新潟県の出雲崎まで赴いているようであるが、物部氏が入り込んでいることから考えると、上越市から東は統一まではできなかったと判断できる。饒速日尊が越国の国譲りを成功させた後、日本海岸を東北地方まで統一したと思われる。 
越国の実態
大国主命が越国を統一したのがAD20年頃で、饒速日尊が越国国譲りを成功させたのがAD50年頃と思われる。大国主命は越国統一後その子建御名方命に国を任せていたようである。考古学上の遺物も出雲によって統一された割には出雲系遺物が少なく、間もなく、畿内系遺物が多く出土するようになる。これは、越国が出雲の支配下にあった期間は短く、すぐ後に畿内の支配下に下ったことを意味している。伝承上でもそれは裏付けられたことになる。
建御名方命誕生秘話
AD20年頃能登・越中国を統一した大国主命は越後国居多ヶ浜に上陸した。居多ケ浜の近くに身能輪山という丘のような山に大国主命の宮殿があり、大国主命はここを拠点として、越後の開拓や農耕技術砂鉄の精錬技術などを伝えた。そうしているうちに美しいという噂のあった奴奈川姫と知り合い結婚したいと思うようになった。結婚に先立ち奴奈川姫の住む里を見ようと身能輪山を出た大国主は鳥ケ首岬を過ぎたところで姫の里が見えたので大声で「奴奈河姫」と叫び名立という地名ができた。
しかし、結婚には反対がつきものである。特にはるか遠くから来た大国主命(弥生人)と奴奈川姫(縄文人)とは色々な面で異なるところも多く、地元豪族能生の夜星武が反対した。彼は日本海の海賊だつた。そこで、大国主は后の一人を彼の嫁に差し出すと鬼と言われた夜星武が舞って喜んだので鬼舞の地名ができた。また、後に大国主が訪れたところ彼はもらった后を連れて出迎え服従を誓ったので鬼伏せという地名ができたと言われている。
大国主命は鬼伏から名立の奴奈川の里にやってきたのであるが、姫と歌を交わした後、身能輪山の宮殿に一度帰った。翌朝早く再び出発し、奴奈川姫命を訪れ、結婚した。大国主命はしばらくこの里で暮らし、翡翠の加工技術や販売の指導などしたと言われている。暫らくして姫を連れ身能輪山の宮殿に戻った。宮殿に落ち着いた大国主命は稲作や布を青芋(あおそ)から作る技術を土地の人に伝授し人々の暮らしを向上させた。この頃姫は岩殿山の岩屋で王子を生むこととなった。この時産婆役をしたのが乳母嶽姫命といい、ヒカゲノカズラを襷に岩屋から湧き出す清水を産湯にしてめでたく建御名方命を誕生させたという。
福井県今立郡池田町稲荷12-18の須波阿須疑神社の伝承に、「大野手比賣命、建御名方命は上古の鎮座、この地の開発の祖神である。」とある。また、羽咋郡宝達志水町荻島の志乎神社(祭神素盞嗚尊・大国主命・建御名方神)の神様は鍵取明神と言われ他の神様が神無月に出雲に行っても留守番をしていて他の神様の鍵を預かっていると言われている。この留守番をしている神様は素盞嗚尊や大国主命とは考えられず、建御名方神であろう。これも建御名方命が越国から離れず、越国を統治していたあかしであろう。大国主命は第二代倭国王を継がなければならず、越国が統一されたのを機に出雲に帰らなければならなくなった。大国主命がAD23年頃出雲国に戻ったあと、大国主命から技術を受け継いだ人々が建御名方命を盛りたてて越国の開拓をしていったと思われる。成長した建御名方命は越国を巡回して越国を治めていたと思われる。 
越国国譲りに関して
出雲国譲り神話に於いて、出雲の建御名方命が反対したため、建御雷命が建御名方命を出雲から諏訪まで追いやったことになっている。しかし、ここまでの古代史の復元では、建御名方命は出雲ではなく越国にいたことになり、建御名方命と戦った建御雷命は饒速日尊の別名であることが分かっている。そのまま直接解釈すると、出雲国譲り神話の建御名方命の段は、話が違っていて、饒速日尊における越国の国譲りになってしまう。
能登半島には「鎌打ち神事」と呼ばれているものがある。富山県氷見市の諏訪神社に伝わるものである。鎌打ち神事は、建御名方命が大国主命の能登開発を先導した故事によるものと言われている。しかし、建御名方命は大国主命の子であり、大国主命は建御名方命がまだ幼少のときに出雲に帰っているので、この大国主命は饒速日尊と考えることができる。
この伝承から判断すると、越国国譲りは平和的に行われているように見える。しかし、次のような伝承もある。
富山市大沢野町舟倉寺家と同市呉羽町小竹に鎮座する延喜式内社・姉倉姫神社には以下のような伝説がある。昔、上新川郡東南の舟倉山(今の猿倉山)に大国主命(おおくにぬしのみこと)の娘・姉倉比売命(あねくらひめのみこと)という女神が住んでいた。夫は越中と能登国境の補益山に住む伊須流伎比古で、夫婦は毎晩行き来するほど仲が良く、心を合わせて越中を治めていた。しかし能登の仙木山に住む能登姫という悪い女神は越中が欲しくなり、伊須流伎比古に迫った。これを知った姉倉姫は能登姫に使者を送って改心させようとしたが聞き入られず、ついに能登姫は伊須流伎比古と結び付いた。これに起こった姉倉姫は舟倉山の石を仙木山に投げ始め、石が尽きると立山の尖山(尖山で迷った人間は岐阜県位山に現れるという)に住む仲の良かった女神・布倉姫の軍をはじめ、国中の兵を集めて能登姫征伐の軍を編成した。対して能登姫も姉倉姫征伐の軍を集めて防戦態勢をとった。両軍の衝突は氷見市宇波山で始まり、一進一退の攻防が繰り広げられた。これを見た天地にいる他の神々は高天原(たかまがはら)に使者を送り、高皇産霊神(たかみむすびのみこと)に報告した。すると高皇産霊神は驚いて、出雲の大国主命に越の国の争いを鎮圧するよう命じた。命を受けた大国主命はすぐ出雲を発って越路に入り、雄山の手刀王彦命や舟倉のおさ子姫といった越の神々と軍議を行い、まず姉倉姫のいる舟倉山の城を攻めた(同山には猿倉城址がある)。しかし、同山は周囲に7里(約28km)の大池がある難攻の山だった。そこで大国主命の軍が山を掘ると池水は堰を切って大急流となり、流出した。これに驚いた姉倉姫は柿峻(かきひ)の宮に逃亡したが、大国主命の軍に襲撃されて生け捕りにされた。その後、姉倉姫は呉羽山麓の西・小竹野に流され、同地で得意の布を織って貢物とし、越中の女達に糸紡ぎと機織の方法を教えた。これが八講布の始まりだという(小矢部市八講田に由来するとされ、越中麻布の総称)。姉倉姫が機を織る際、蜆の宮(土器や石器なども出土している小竹貝塚(蜆ヶ森貝塚)の上に鎮座している)の蜆が蝶と化して群来し、姫が舟倉山に帰るのを許された時、姫に従って舟倉の御手洗の蜆になったといわれ、夏になるとこの蜆が蝶と化して飛び回るともいわれている。呉羽の地名は「呉の機織」が「くれはとり」となり、更に「呉羽」となってできたといわれている。呉とは呉服の呉である。尚、能登姫と伊須流伎比古の連合軍も大国主命の軍に抗戦したが、捕らえられ海辺で処刑された。そして大国主命を助けた雄山の手刀王彦命と舟倉のおさ子姫は功績を称えられて富山市月岡町壇山神社の月見ヶ池近くにあった月読社に祀られていたが、現在は鳥居しか残っていない。<富山県の民話より>
この伝承が最大限真実を伝えているとすれば、大国主命の娘が結婚適齢期になるのはAD40年頃となるので、この事件が起こったのは出雲国譲り事件に近い時期となる。この時期、大国主命は越国に来れる状況になかったことと、高皇産霊神が登場している(この人物は日向国関連人物である)事から考え併せ、この大国主命は饒速日尊で、この事件が起こったのは出雲国譲り事件の直後と思われる。伊須流伎比古命の正体は今のところわからないが、その周辺の大豪族であったのであろう。高皇産霊神は日本列島統一にかなり情熱をかけており、饒速日尊が大和に降臨する時も自らの子を複数付従えさしている。この事件のあらましは次のように解釈している。
大国主命がAD45年頃なくなり、第三代倭国王の候補者が決まらないなか、日向国の高皇産霊神の発案で倭国を分割することになった。九州は西倭、中国四国地方は東倭となるのであるが、倭国の飛び地になっている紀伊国と越国の扱いが問題になっていた。何れ日本列島は統一されるので、それまでの間、饒速日尊の日本国に所属させることになったのである。紀伊国は五十猛命の協力があり簡単に国譲りができたが越国には問題があった。
AD45年頃日向国の倭国分割会議で越国は日本国に所属させるように会議で決まっていたが、建御名方命は自分の国を取られるような感覚を持ったのかその決定に反対していた。ところが、AD50年頃、建御名方命が統治する越国に勢力争いが起こった。かなり大きな大乱となり、建御名方命では抑えきれない事態に至った。そのとき頼りになるはずなのが、越国の宗主国である出雲国であるが、国譲り事件の最中であり、出雲国では処理できるはずもない、そこで、倭国の実権を握っていた日向国に救援を頼んだのであろう。日向国の高皇産霊神は、日本国の饒速日尊に命じてこの大乱を鎮圧させた。これを契機として建御名方命は饒速日尊に国を任せることにしたのであろう。そして、饒速日尊を案内して国中を回ったのである。これが「鎌打ち神事」の由来になったと考える。 
白山神について
白山神は饒速日尊と推定しているが、この神は複雑な実態を持つようである。多くの白山神社は菊理姫命、伊邪那岐命、伊邪那美命を祀っている。これらの人物とのかかわりはどうなっているのであろうか?
中世の『元亨釈書』や『白山之記』などには、伊邪那岐神・伊邪那美神を祭神とする記述はあるが、菊理媛神の名は登場しない。 ところが、近世になると、『諸神記』、『諸国神名帳』、『本朝神社』などで、明瞭に白山神=菊理媛神となっている。そこで、次のような説が生まれている。
養老3年(719)に泰澄大師が白山山頂で神を祀っているが、その神が高句麗媛といわれている。これが、鎌倉仏教の影響を受け、白山において泰澄大師が祀った高句麗媛(コウクリヒメ)は、音がよく似ている日本書紀における菊理媛神(ククリヒメ)と同一であるとされた。
時間の流れからすると、これが正解なのではあるまいか。そうすると、白山神=伊邪那岐神・伊邪那美神となるが、これはどういうことであろうか?
丹後国一宮籠神社(天の橋立のすぐ北側にある)に次のような伝承がある。
「天橋立は、国生みの神である伊邪那岐と伊邪那美が降臨した天浮橋である。また、伊勢神宮の神々がこの地からうつられた元伊勢のひとつ。神代の昔、真名井の地に降り立った豊受大神を丹後地方の氏神であった彦火明命がお祀りしたことに始まり、第10代祟神天皇の御代に天照大神がおうつりになり、吉佐宮として一緒にお祀りした。」
比沼麻奈爲神社の伝承では
「遠き神代の昔、此の真名井原の地にて田畑を耕し、米・麦・豆等の五穀を作り、又、蚕を飼って、衣食の糧とする技をはじめられた、豊受大神を主神として、古代よりおまつり申しています。
豊受大神は、伊勢外宮の御祭神で、元は此のお社に御鎮座せられていたのです。即ち此のお社は、伊勢の豊受大神宮(外宮)の一番元のお社であります。
多くの古い書物の伝えるところによれば、崇神天皇の御代、皇女豊鋤入姫命、天照大神の御神霊を奉じて大宮処を御選定すべく、丹波国(現在の丹後国)吉佐宮に御遷幸になった時、此処にお鎮りになっていた豊受大神が、天の真名井の清水にて作られた御饌を、大神に捧げられたと、伝えられています。
その後、天照大神は、吉佐宮を離れて各地を巡られ、現在の伊勢の五十鈴の宮(内宮)に御鎮座になりました。その後、五百六十余年過ぎた頃、雄略天皇の御夢の中に、天照大神が現れ給うて、吾は此処に鎮座しているが、自分一所のみ居てはいと苦しく、其の上御饌も安く聞召されぬ、ついては丹波国比沼の真名井原に坐す吾が御饌の神豊受大神をば、吾許に呼寄せたい、と言う趣の御告げがあった。そこで天皇は、大佐々命を丹波国に遣わし、現在の伊勢国度会郡山田原の大宮(外宮)に御鎮座あらせられたのが、雄略天皇二十二年(西暦四百七十八年)九月のことであり、跡に御分霊を留めておまつりしているのが此の比沼麻奈為神社であります。
古書の記録によりますと、崇神天皇の御代、山陰道に派遣された四道将軍の丹波道主命は、その御子、八乎止女を斎女として厚く奉斎されており、延喜年間(西暦九百年)制定せられた延喜式の神祇巻に、丹波郡(現在の中郡)九座の中に、比沼麻奈為神社と載せられている古いお社で、此の地方では昔、「真名井大神宮」とか「豊受大神宮」と呼ばれていたようで、古い棟札や、鳥居の扁額などにそれらの社名が記されて居り、丹後五社の中の一社として地方の崇敬厚く、神領三千八百石あったとも伝えられています。尚、藩主京極家は懇篤な崇敬を寄せられ、奉幣や社費の供進をせられた事が、記録に見えています。
社殿は、伊勢神宮と同じ様式の神明造りで、内本殿は文政九年の建立、外本殿及び拝殿は、大正九年から同十一年の長期に亘り、氏子はもとより、数百名の崇敬者の浄財により完成したもので、棟の千木、勝男木の金色は、春の青葉、秋の紅葉を眼下に亭々と聳える老杉の中に燦然と輝き、自から襟を正さしめる幽邃な神域であります。<神社由緒>
この伝承から推察するに、この丹後地方には最初豊受大神が降臨し、この地方を開拓した。この神がこの神社に祭られていたが、 伊勢に移ると同時に彦火明命が祭られ現在に至っていることになる。ここまでの考察で彦火明命が饒速日尊と言われていると同時に豊受大神=饒速日尊である。また、籠神社には、息津鏡、辺津鏡が伝世している。この鏡は饒速日命が天津神(大和降臨前に素盞嗚尊より受け取る)から賜った十種神宝のうち2鏡である。息津鏡は約1950年前の後漢代の作で直径175mm、辺津鏡は約2050年前の前漢代の作で直径95mm。出土品でない伝世鏡としては日本最古である。天橋立の伝承の伊邪那岐・伊邪那美に関しては行動実績が全くなく、この地で活躍しているのは饒速日尊となる。これより伊邪那岐=饒速日尊と考えるとつじつまが会うのである。
ただし、日向国にも伊邪那岐命は存在しており、大和朝廷成立後の第7代孝霊天皇も伊邪那岐命と重なる伝承をもつので、伊邪那岐命は日向国の伊邪那岐命・孝霊天皇・饒速日尊の影が感じられることになる。神社の伊邪那岐命はこれらの人物が重なった存在ではなく、それぞれの神社で祀られている伊邪那岐命はこの三人の何れかと解釈した方がよいようである。当然白山神として祀られている伊邪那岐命は饒速日尊と考えられる。 
越地方各国一宮
越前国
一宮 氣比神宮 福井県敦賀市 伊奢沙別命 ○ 神代 土公(どこう) - 周囲に卵形の石を八角形に並べた墳形の人工小丘で、隣接する敦賀北小学校敷地内に食い込む形で存在する。主祭神降臨の聖地
二宮 劔神社 福井県丹生郡越前町織田113-1 素盞嗚尊、気比大神・忍熊王 ○ 伝によれば、御神体となっている剣は垂仁天皇皇子の五十瓊敷入彦命が作らせた神剣で、神功皇后摂政の時代に仲哀天皇皇子の忍熊王が譲り受け、忍熊王が高志国(越国)の賊徒討伐にあたり無事平定した。のち、伊部郷座ヶ岳に祀られていた素盞嗚尊の神霊を伊部臣が現在地に勧請し、この神剣を御霊代とし祀ったことに始まると伝えられる。忍熊王はその後もこの地を開拓したことから、開拓の祖神として父である仲哀天皇(気比大神)とともに配祀されたと伝える。
加賀国能登国
一宮 白山比盗_社 石川県白山市 白山比淘蜷_ ○ 崇神 崇神天皇(すじんてんのう)7年(前91)、本宮の北にある標高178mの舟岡山(白山市八幡町)に神地を定めたのが創建と伝わります
二宮 菅生石部神社 石川県加賀市大聖寺敷地ル乙81 菅生石部神 用明 用明天皇元年(585年)、この地で疾病が流行したとき、宮中で祀られていた菅生石部神が勧請されたのに始まるという。延喜式神名帳では小社に列し、加賀国二宮とされた。
一宮 気多大社 石川県羽咋市 大己貴命 神代 大己貴命が出雲から舟で能登に入り、国土を開拓した後に守護神として鎮まったとされる
二宮 伊須流岐比古神社 石川県鹿島郡中能登町石動山子部1番地1 伊須流岐比古神 717 主神の伊須流岐比古神は、すなわち五社権現とも称される石動権現である。「いするぎ」の名は、はるか昔、石動山に空から流星が落ちて石となり、この地に留まったという伝説に由来する。その石は鳴動し神威を顕したのだという。伊須流岐比古神社は石の鳴動を鎮め、その石を神として祭るべく創建されたと伝わる。
二宮 天日陰比盗_社 鹿島郡中能登町二宮子6 屋船久久能智命 崇神 石動山山頂にある伊須流支比古神社の下社。神社後方の山の山頂に、大御前峯社があり、中御前という場所は崇神天皇の御廟跡らしい
越中国
一宮 射水神社 富山県高岡市 瓊瓊杵尊 ○ 不詳 歴史的には伊弥頭国造(いみづのくにのみやつこ)の祖神とされる二上神(ふたがみのかみ)であった。二上神は現在は二上山麓の二上射水神社に祀られている。
一宮 気多神社 富山県高岡市 大己貴命、奴奈加波比売命 757 在地の高岡市伏木は、かつて国府や国分寺が存在した越中国の中心地で、当神社境内にも越中国総社跡の伝承地がある。越中国内で一宮を称する4社のうちで唯一、所在地名に「一宮」と言う銘号が入っている。
一宮 高瀬神社 富山県南砺市 大己貴神 景行 大己貴命が北陸平定を終えて出雲へ戻る時に、国魂神として自身の御魂をこの地に鎮め置いたのに始まると伝える。
一宮 雄山神社 富山県中新川郡立山町 伊邪那岐神・天手力雄神 ○ 不詳 社伝では、大宝元年(701年)に景行天皇の後裔であると伝承される越中国の国司佐伯宿祢有若の子、佐伯有頼(後の慈興上人)が白鷹に導かれて岩窟に至り、「我、濁世の衆生を救はんがためこの山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり」という雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山であると言われている。
越後国
一宮 彌彦神社 新潟県西蒲原郡弥彦村 天香山命 不詳 社伝によれば、越後国開拓の詔を受け、越後国の野積の浜(現長岡市)に上陸し、地元民に漁労や製塩、稲作、養蚕などの産業を教えたと伝えられる。このため越後国を造った神として弥彦山に祀られ、「伊夜比古神」と呼ばれて崇敬を受けた。
二宮 物部神社 新潟県柏崎市西山町二田602   二田天物部命 崇神 天孫降臨の後、当社祭神は、天香山命とともに当地に来臨。その上陸の地を天瀬(尼瀬)という。居るべき地を求めていた時に、多岐佐加の二田を献上する者あり、その里に家居したという。後、当地で薨じ、二田土生田山の高陵に葬られた。
二宮 魚沼神社 新潟県小千谷市土川2丁目699-1 天香語山命 崇神 越後国一宮である弥彦村の彌彦神社に対し、当神社を「二の宮」と呼び、この地域の人々の信仰の中心となった。「魚沼神社」と称したのは幕末頃で、式内社であるという確証はない。
一宮 居多神社 新潟県上越市 大己貴命・奴奈川姫命・建御名方命 ○ 建御名方命ではなく事代主命とする資料もある、もとは日本海近くの身輪山に鎮座していた。
一宮 天津神社 新潟県糸魚川市 瓊々杵尊・天児屋根命・天太玉命 景行 境内社・奴奈川神社は奴奈川姫命を主祭神とし、後に八千矛命(大国主)が合祀された。この一帯はかつて「沼川郷」と言い、そこに住んでいた奴奈川姫命の元を八千矛命が訪れたという話が日本神話(大国主の神話)にある。伝承では、両神の間の子が建御名方命であり、姫川を遡って信濃国に入りそこを開拓したという。
各国一宮はいずれも饒速日尊と思われる神を祀っている。越国国譲りを受けた後、越国開拓を進め、人々から敬われたためであろう。 
越国国譲り後
饒速日尊は建御名方命から越国を譲り受けた後、自らの子事代主命を信濃国から呼び寄せ、暫らくは居多神社の地に滞在し、周辺の情報を集めていた。その後妙高市の斐太神社の地に赴きその周辺を開拓した。
建御名方命は饒速日尊との越国の安定に寄与した後、姫川を遡って信濃国に赴き、信濃国を統一している。饒速日尊が建御名方命に信濃国開拓を命じたと思われるが、どういった事情で、建御名方命が信濃国開拓をすることになったのであろうか。
その理由の一つとして考えられるのが建御名方命は縄文人の血を引いているということである。信濃国は弥生人がほとんど入っていない地域である。また、広大な盆地であり、開拓しなければならない面積は相当広い。当時平野は湿地帯が多く、開拓に適している土地はそれほど広くない。盆地には開拓に適した土地が広がっており、信濃国はまさにそういった土地だったのである。饒速日尊は人手不足を感じ、建御名方命に信濃国を開拓することを頼んだ。或いは建御名方命自らが申し出たのかもしれない。それでもまだ人材不足だったので、当時の最先端技術を持っている九州の安曇族にも信濃国開拓を託した。 
信濃国統一

 

信濃国は「諏訪大明神絵詞」によるとすでに縄文系の国があったようである。また、開拓したという人々は、建御名方命率いる諏訪族、思兼命率いる阿智族、穂高見命率いる安曇族と他の国に比べて、かなり複雑な様相をしている。この信濃国はどのようにして統一されたのであろうか。
信濃国のおもな神社の伝承は以下のようなものである。
一宮 諏訪大社 長野県諏訪市・茅野市 建御名方命・八坂刀売命・八重事代主神 不詳 本来の祭神は出雲系の建御名方ではなくミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などの諏訪地方の土着の神々であるとされる。現在は神性が習合・混同されているため全てミシャグチか建御名方として扱われる事が多く、区別されることは非常に稀である。神事や祭祀は今尚その殆どが土着信仰に関わるものであるとされる。
二宮 小野神社 長野県塩尻市北小野175 建御名方命 崇神 建御名方命は科野(しなの)に降臨し、しばらくこの地にとどまり諏訪に移った。その旧跡に崇神天皇の時祭神を勧進奉斎す。
二宮 矢彦神社 長野県上伊那郡辰野町大字小野字八彦沢 正殿 :大己貴命 ・事代主命 副殿 :建御名方命・八坂刀賣命 ○ 欽明 遠い神代の昔、大己貴命の国造りの神業にいそしまれた折り、御子の事代主命と建御名方命をしたがえて、この地にお寄りになったと伝えられている
三宮 沙田神社 長野県松本市島立区三ノ宮字式内3316 彦火火見尊 豐玉姫命 沙土煮命 大化 孝徳天皇の御宇大化五年六月二十八日この国の国司勅命を奉じ初めて勧請し幣帛を捧げて以って祭祀す
三宮 穂高神社 長野県安曇野市穂高6079 穂高見神、綿津見神、瓊瓊杵神、天照大御神 安曇族は、北九州に起こり海運を司ることで早くから大陸との交渉を持ち、文化の高い氏族として栄えていた。その後豊かな土地を求め。いつしかこの地に移住した安曇族が海神を祀る穂高神社を創建したと伝えられている。主神穂高見命は、別名宇津志日金折命と称し、海神の御子で神武天皇の叔父神に当たり、太古此の地に降臨して信濃国の開発に大功を樹られたと伝えられる。
四宮 武水別神社 長野県千曲市八幡3012 武水別大神 孝元 主祭神の武水別大神は、国の大本である農事を始め、人の日常生活に極めて大事な水のこと総てに亘ってお守り下さる神であります。長野県下最大の穀倉地帯である善光寺平の五穀豊穣と、脇を流れる千曲川の氾濫防止を祈って祀られたものと思われます。
生島足島神社 長野県上田市下の郷 生島神、足島神 ○ 神代 古より日本総鎮守と仰がれる無双の古社で、神代の昔建御名方命が諏訪の地 に下降される途すがら、この地にお留りになり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜられたと伝えられ、その古事は今も御篭祭という神事に伝えられている。
三輪神社 長野県上伊那郡辰野町辰野下辰野新屋敷2095 大己貴命・建御名方命・少彦名命 ○ 大己貴命・少彦名命が神代にこの地に留まったと伝えられている。
阿智神社 長野県下伊那郡阿智村智里489 天八意思兼命、天表春命 阿智神社は上古信濃国開拓の三大古族即ち諏訪神社を中心とする諏訪族と穂高神社を中心とする安曇族とともに国の南端に位置して開拓にあたった阿智族の中心をなす神社としてその祖先を祭り、「先代旧事本紀」に八意思兼命その児 表春命と共に信濃国に天降り阿智祝部(はふりべ)の祖となる。
安布知神社 長野県下伊那郡阿智村駒場 2079 天思兼命 天思兼命は、高天原最も知慮の優れた神として、古事記、日本書紀に記されているが 、平安時代の史書「先代旧事本紀」に、天思兼命とその子天表春命は共に信濃國に天降り、阿智祝部等の祖となったと記され、古代の伊那谷西南部一帯を開拓した天孫系の神で、昼神に鎮座する阿智神社の御祭神と同一で両社は古くより密接 な関係があり、北信の戸隠神社とも因縁が深い。またこの地は、古代東山道の阿智駅が置かれたところで駅馬30頭 をおいて険難な神坂峠に備えた阿智駅の守護神として当社は重要な位置を占めていた。
戸隠神社 九頭龍大神 ○ 戸隠神社は霊山・戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、創建以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社である。その起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々をお祀りしている。
しかし、山岳密教の霊場として戸隠に行者が入るようになった平安時代には、戸隠山の神様は農耕の水を司る「九頭竜」で、まだ「天の岩戸開き」とのゆかりは語られていなかった。
「天の岩戸」と戸隠が文献上で完全に結びつくのは、室町時代。修行僧のひとり有通が、戸隠に関する数々の縁起本を整理・編集した『戸隠山顕光寺流記』の中のことである。以来、戸隠神社の御祭神は、岩戸開きに関わった神々と地主神であることが、神社の由緒として語り伝えられてきた。
九頭龍社は奥社のすぐ下にあり境内社のようになっているが創建は奥社より古くその時期は明らかでない。地主神として崇められている。古くは虫歯・歯痛にご利益があると言われていた。地元の人によると戸隠の九頭龍神は梨が好物だそうである。九頭龍大神は饒速日尊と思われる。
阿禮神社 長野県塩尻市塩尻町大宮6 素盞嗚命 不詳 素盞嗚命が出雲国簸川上の大蛇を平げて後、科野国塩川上の荒彦山に化現し、悪鬼を討ち平げたという。その大稜威を尊び仰ぎ奉ったのが当社の起源。
荒彦山は、今の東山にある五百砥山(五百渡山)であるという
穂高神社 長野県安曇野市穂高6079 穂高見神、綿津見神、瓊瓊杵神、天照大御神 穂高見命を御祭神に仰ぐ穂高神社は、信州の中心ともいうべき 安曇野市穂高にある。その奥宮は、穂高岳の麓の上高地に祀られており、嶺宮は、奥穂高岳の頂上に祀られている。
対馬の豊玉彦命の子でありる穂高見命は海神族の祖神で、その後裔の安曇族は、もと北九州に栄え主として海運を司り、早くから大陸方面とも交渉をもち、文化の高い氏族であった。
川會神社 北安曇郡池田町会染十日市場 底津綿津見命 景行 川會神社は、川の氾濫を防ぎ、耕地や村落の荒廃を免れるために創始された神社であるが、水害により度々遷座されるという、まさに水との戦いに明け暮れた社となった。
御祭神の底津綿津見命は安曇野市穂高神社の御祭神・穂高見命の父神にあたり、まさに安曇郡内の式内社二社は安曇族の祖神二柱をお祀りしている神社でした
當信神社 上水内郡信州新町信級字当信平 大年神/建御名方命 ○ 往昔土地開拓の草創時代により上下一般の崇敬を享けた
更級斗売神社 長野県長野市川中島町御厨 1622 健御名方命 (配祀)八坂刀売命 健御名方命が国巡りをしたときに八坂刀売命御滞在の地と云われる。
小川神社 長野県上水内郡小川村大字小根山6862   健御名方命 不祥 祭神・健御名方命が出雲での武甕槌命との戦いに敗れ、
母神・沼河比売命の郷里・糸魚川を経て信濃を開拓。母神への往来(糸魚川街道)の要衝である当地に村民が、その徳を慕って奉斎したという
守田神社 長野県長野市七二会字守田乙2769 守達神、大碓命、久延毘古命、大物主命、健御名方命、素盞嗚尊 守達神は健御名方命の御子神で当地開拓の祖神。
健御名方富命彦神別神社 長野県長野市箱清水1−3 健御名方富命 健御名方富命が出雲から信濃へ入国する際に、この土地に駐在し、先住の地方民に恩徳を施した。
地方民はそのときの健御名方富命の徳を敬仰追慕し奉祀した
越智神社 須坂市大字幸高字屋敷添389 饒速日命 ○ 湧水池の多いこの地に移住し田畑を耕して越智氏の祖神饒速日命を産土神とした。
高杜神社 長野県上高井郡高山村大字高井字大宮南2040 健御名方命、高毛利神、豐受姫命、武甕槌命 ○ 古老の伝によると、高杜神社祭神の高杜大神は、この地の濫觴(らんしょう:始めること)の太祖(祖先)である。 そのため、その神徳を仰ぎ奉りて郡名を高位と称したところ、郷里はおいおい繁盛して一郡になったという。 また、諏訪社旧記にはつぎのようにある。多加毛利命は健御名方富命の子供で、高位県を守り給う神である。 だから、高位県大明神と称している。」
この伝承によると、諏訪大社の祭神である健御名方富命とその子供の多加毛利命が高杜神社の祭神
大宮諏訪神社 野県北安曇郡小谷村大字中土字宮ノ場 建御名方命・
八坂刀売命 旧社地「すわま」は、諏訪明神(建御名方命)の信濃入りの際の神跡と伝えられる。 
安曇族とは
長野県安曇野市穂高6079の穂高神社には対馬の豊玉彦の子である穂高見命が穂高岳に降臨し、安曇野地方を開拓したと伝わっている。豊玉彦の娘豊玉姫と日子穂穂出見命が結婚しているので、穂高見命も日子穂穂出見命とほぼ同世代と考えられる。つまり建御名方命と同世代であり、穂高見命が安曇野にやってきたのは、建御名方命が信濃国にやってきたのとほぼ同時期となる。饒速日尊が信濃国開拓の人手不足から安曇族も対馬から呼び寄せたものであろう。
建御名方命は伝承によると姫川を遡って信濃国に入ったことになっているが、安曇氏もほぼ同じコースである。また、時期もほぼ同じ時期と推定されるので、両者は一緒に信濃国入りしたのではないだろうか。
生島足島神社の伝承によると生島足島神(饒速日尊)に奉祀した事になっている。饒速日尊が滞在している処へ建御名方命がやってきたようである。 居多神社・斐太神社の地では饒速日尊と建御名方命・事代主命が行動を共にしていたのであるが、信濃国への入国は別々のようである。生島足島神社の伝承から饒速日尊・事代主命の方が先に入国していたと判断できる。饒速日尊・事代主命は斐太神社の地から関川を遡り、 現在の信越本線に沿って信濃国に入ったと思われる。野尻湖から鳥居川に沿って下り、豊野で千曲川流域に出る。千曲川を遡り、上田市の生島足島神社の地で、開拓事業をしていたのであろう。
建御名方命が饒速日尊と別行動をした理由は、安曇一族を信濃国に導くためではないかと考えられる。斐太神社の地で、饒速日尊と別れた建御名方命は姫川の河口付近で穂高見命が安曇一族を導いてやってくるのを待った。安曇一族と合流後、姫川を遡り信濃国に入ったと推定する。
安曇一族はなぜ、信濃国にやってきたのであろうか。安曇一族は対馬の豊玉彦の一族である。対馬は海外交易の通り道にあり、常に朝鮮半島からの最先端に技術が入ってきていたと思われる。安曇一族は、おそらく、当時の日本列島内で最も進んだ最新技術を持った集団と解釈してよいのではないだろうか。饒速日尊は信濃国を統一するのは他の地域に比べてはるかに難しいということを知っていた。そのために、最先端技術を持っている安曇一族に協力を求めたのであろう。穂高見命は豊玉彦の一男二女(穂高見命・豊玉姫・玉依姫)の三人の子供のただ一人の男子である。普通なら対馬国の後継者になるはずの人物である。この頃日向国の彦穂穂出見命が対馬に滞在しており、豊玉姫の婿として対馬に婿入りした頃であった。彦穂穂出見命が対馬国の後継者として期待されていたので、穂高見命を安曇族の今後の発展を願って、信濃国に派遣したものであろう。
越国の国譲りが成功した直後、饒速日尊が次の信濃国の統一のために、安曇一族に期待して対馬から呼び寄せたと思われる。 安曇一族は姫川河口に到着し、そこで待ち受けていた建御名方命と共に姫川を遡り、白馬村神城の地で安曇一族と別れた。建御名方命は神城から大町市美馬に抜け、そこから土尻川に沿って下り、信更町で犀川に合流し、犀川を下って長野市に至った。この経路上に小川神社、皇足穂神社がある。このあたりを通過したのであろう。
穂高見命率いる安曇一族はそのまま南下し、青木湖、木崎湖を経て大町市に到着した。そこから高瀬川に沿って下り、穂高の地に落ち着いた。穂高の地に着くと、周辺の地形を確認するため梓川を遡り、上高地から穂高岳に登山した。安曇一族は穂高岳から見渡せる一帯を開拓した。今の安曇野市である。 
八坂刀売命の正体
建御名方命の妻は八坂刀女命である。建御名方命はこの姫といつ結婚したのか伝承には全く伝わっていない。越後国の式内社(論社を含む)に建御名方命を祀られているのは11社あるが、その中に妻が祭られているのは1社しかない。これから判断すると、建御名方命が結婚したのは信濃国に下ってからとなる。
長野県内で八坂刀女命が建御名方命と共に祭られている神社は長野市近辺に圧倒的に多い。八坂刀女命は長野市近辺で建御名方命と結婚したのではあるまいか。長野市近辺の神社を調べると長野市に夫無神社と言われていた妻科神社があり、そのすぐ近くに、健御名方富命彦神別神社がある。 この神社は「御名方富命が出雲から信濃へ入国する際に、この土地に駐在し、先住の地方民に恩徳を施した。地方民はそのときの健御名方富命の徳を敬仰追慕し奉祀した」と伝えられている。また、長野県長野市川中島町御厨 1622に更級斗売神社があり、「健御名方命が国巡りをしたときに八坂刀売命御滞在の地と云われる。この付近が、平安時代の「斗女」郷の中心地と考えられている。」。このことから、八坂刀売命の本拠地は川中島であり、健御名方富命が健御名方富命彦神別神社の地に滞在している時に知り合ったものと考えられる。結婚前の八坂刀売命は妻科神社の地に滞在していたと思われる。
八坂刀売命は天八坂彦の娘とも穂高見命の妹とも云われている。どちらが正しいのであろうか。もし、穂高見命の妹であれば、対馬からやってきた安曇族に属し、兄である穂高見命と一緒に来たとも思われるが、それならば、穂高神社に八坂刀売命が祭られていなければおかしいが、穂高神社の祭神に八坂刀売命はない。また、建御名方命が安曇野から長野市方面に移動する中間地にある神社にも建御名方命のみで八坂刀売命は祭られていない。これより八坂刀売命は天八坂彦命の娘であることになる。天八坂彦命は饒速日尊と共に降臨したマレビトの一人である。おそらく、八坂彦は饒速日尊が信濃国に入国する前に信濃国の川中島周辺の開拓をやっており、八坂刀売命はこの地で生まれたものであろう。白馬村神城で安曇一族と別れ土尻川を下ってきて犀川から千曲川に出るところに、更級斗売神社がある。この時、八坂刀売命と知り合ったのではないか。
長野市に入った建御名方命は健御名方富命彦神別神社(長野県長野市箱清水1−3)の地で、周辺の人々に最新技術を伝授し、土地開拓を推進した。この時、川中島で知り合った八坂刀売命をすぐそばの妻科神社に呼び寄せ、通ったものであろう。暫らく後この二人は結婚した。
建御名方命は千曲川沿いに飯山市(健御名方富命彦神別神社あり)辺りまで巡回した。また、犀川を通って安曇野の穂高見命との連絡も取り合ったのではないか。犀川沿いに彦神別神社・当信神社・日置神社など建御名方命を祀っている神社があることから類推できる。長野市近辺の状況が落ち着いた後、建御名方命は千曲川を遡り、上田市下の郷に滞在中の饒速日尊・事代主命と出会った。生島足島神社の位置である。
饒速日尊・事代主命・建御名方命は協力してその周辺の地域を開拓した。 
諏訪族とは
「神長官守矢資料館のしおり」には、以下のような記述がある。
出雲系の稲作民族を率いた建御名方命がこの盆地に侵入しました時、この地に以前から暮らしていた洩矢神を長とする先住民族が、天竜川河口に陣取って迎えうちました。建御名方命は手に藤の蔓を、洩矢神は手に鉄の輪を掲げて戦い、結局、洩矢神は負けてしまいました。その時の両方の陣地の跡には今の藤島明神(岡谷市三沢)と洩矢大明神(岡谷市川岸区橋原)が、天竜川を挟んで対岸に祭られており、藤島明神の藤の木はその時の藤蔓が根付いたものといいますし、洩矢大明神の祠は、現在、守矢家の氏神様の祠ということになっています。
一子相伝で先々代の守矢実久まで口伝えされ、実久が始めて文字化した「神長守矢氏系譜」によりますと、この洩矢神が守矢家の祖先神と伝えられ、私でもって七十八代の生命のつらなりとなっております。今でも洩矢神の息づかいが聞こえてくるようにさえ思われます。 口碑によりますと、そのころ、稲作以前の諏訪盆地には、洩矢の長者の他に、蟹河原の長者、佐久良の長者、須賀の長者、五十集の長者、武居の長者、武居会美酒、武居大友主などが住んでいたそうです。
さて、出雲から侵入した建御名方命は諏訪大明神となり、ここに現在の諏訪大社のはじまりがあります。このようにして諏訪の地は中央とつながり稲作以後の新しい時代を生きていくことになりましたが、しかし、先住民である洩矢の人々はけっして新しく来た出雲系の人々にしいたげられたりしたわけではありませんでした。このことは諏訪大社の体制をみればよく解ります。建御名方命の子孫である諏訪氏が大祝という生神の位に就き、洩矢神の子孫の守矢氏が神長(のち神長官ともいう)という筆頭神官の位に就いたのです。
大祝は、古くは成年前の幼児が即位したといわれ、また、即位にあたっての神降ろしの力や、呪術によって神の声を聴いたり神に願い事をする力は神長のみが持つとされており、こうしたことよりみまして、この地の信仰と政治の実権は守矢が持ち続けたと考えられます。
こうして、諏訪の地には、大祝と神長による新しい体制が固まりました。こうした信仰と政治の一体化した諏訪祭政体は古代、中世と続きました。
これによると、建御名方命がやってくる前の諏訪地方は、縄文人の集合体のようなものがあったことが分かる。また、神社伝承によると建御名方命は饒速日尊・事代主命と行動を共にしており、周辺を統一した後、諏訪には最後にやってきている事が分かる。諏訪湖周辺で洩矢神と争っているが、他の長者とは争っていない。また、争いの後、洩矢神の子孫を重く用いていることから、この戦いは殲滅戦とか相手を滅ぼすとかいった類の戦いではないと考えられる。饒速日尊の統一の手法と考え併せると、次のような手法が考えられる。
建御名方命は饒速日尊・事代主命を伴っている。これは、二宮の弥彦神社の伝承でも明らかである。当時の信濃国は諏訪に縄文人の国のようなものができていて、他の地域のようにあっさりと統一するのは難しい状況であった。そのため、信濃国内の未開の地を開発しながら周辺の縄文人から協力を取り付けた。縄文の血を引いている建御名方命が率先してこれに当たったのであろう。周辺が統一されてから、建御名方命は統一が難しいと思われる諏訪周辺にやってきた。いきなり土地を奪う戦いをしたのではなく、それぞれの地域の長者たちに日本国に加盟するように交渉したと思われる。その結果、蟹河原の長者、佐久良の長者、須賀の長者、五十集の長者、武居の長者、武居会美酒、武居大友主などは、日本国加盟を申し出たのであろう。洩矢神は日本国加盟に反対し、交渉が決裂して争いになったと思われる。
諏訪大社には「事代主命社祭」というのがある。地元では、諏訪明神に従った先住民の長「武居の長者」を祭ったのが「事代主命社」と言われており、 これは、諏訪明神以前の土着の神を祀る神事が今に続いている事を意味している。この神社の祭神は「事代主命」となっているが、十三神名帳では「武居會美酒」とあり、事代主命と同神と言われている「えびす」である。兵庫県の西宮神社の摂社に「百太夫神社」があり、そこでは、恵比寿様は 「長野県の武居神社」で生まれたとあり、事代主命と武居の長者が一体化しており、事代主命が武居一族の協力を取り入れることに成功したことを意味しているのではないだろうか。 
諏訪での交渉
諏訪湖周辺には国を形成できるような組織をもった集団がいた。未開の地であれば、簡単に開発できるが、国があればそこの人々に日本国に加盟してもらう交渉をしなければならない。信濃国は広いが未開の地が多かったので、ここまでは順調に進んだが、この諏訪族だけは難局が予想された。上田市から依田川に沿って遡り、旧中山道に沿って諏訪湖湖岸に達した。ここで、日本国に加盟するように交渉したが、上手くいかなかった。
諏訪大社下社に事代主命が祭られている。また、事代主命社祭があること、武居會美酒と言うように武居と事代主命が一体化している様子も見られることから、諏訪にて諏訪族と交渉したのは事代主命のようである。おそらく下社の地で交渉したのであろう。
しかし、伝承では諏訪湖の西に直線8km程の所にある信濃国二宮である小野神社・矢彦神社の地から諏訪へ行ったようである。方向性が逆である。また、諏訪湖を水源とする天竜川の下流領域が饒速日尊・事代主命・建御名方命によって開発されている。このことは辰野町の三輪神社、飯田市の大宮諏訪神社の伝承でもわかる。
饒速日尊・建御名方命は諏訪族との交渉を事代主命に任せ、天竜川流域の開発に携わったものであろう。信濃国は大変広く、このあたりまでくると、土地に住み着いて土地開発を継続して行う人材がいなくなってしまった。そこで、饒速日尊は神坂峠を越えて、尾張国に高皇産霊神の子である思兼命を代表とする一族を信濃国飯田市近辺に呼び込んだのではないか。是が後の阿智族である。阿智族の協力のもと天竜川流域が開発されることになった。 
阿智族とは
信濃国を開拓した一族に阿智一族がいる。阿智一族は、信濃国南西部飯田市近辺の神社に阿智一族の祖、思兼命を祀った神社がある。
長野県下伊那郡阿智村智里489にある阿智神社には
「社伝によれば人皇第8代孝元天皇5年春正月天八意思兼命御児神を従えて信濃国に天 降り、阿智の祝(はふり)の祖となり給うたと伝えられる」
とあるが、天八意思兼命は、高皇産霊神の子である。饒速日尊とともに大和に降臨したマレビトの一人である。その人物が孝元天皇の時代に信濃国にやってくるのは時代に差がありすぎる。第八代孝元天皇は、地方開拓に力を入れている天皇のようで、各地に重要人物を派遣している。
近くの長野県下伊那郡阿智村駒場2079にある安布知神社には
「天思兼命は、高天原最も知慮の優れた神として、古事記、日本書紀に記されているが 、平安時代の史書「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)に、天思兼命とその子天表春命(あめのうわはるのみこと)は共に信濃國に天降り、阿智祝部(あちのはふり べ=阿智の神事を司る神主)等の祖となったと記され、古代の伊那谷西南部一帯を開拓した天孫系の神で、昼神に鎮座する阿智神社の御祭神と同一で両社は古くより密接 な関係があり、北信の戸隠神社とも因縁が深い。またこの地は、古代東山道の阿智駅(あちのうまや)が置かれたところで駅馬30頭 をおいて険難な神坂峠に備えた阿智駅の守護神として当社は重要な位置を占めている。」
と伝わっている。こちらの方は孝元天皇の時代とは記されていない。思兼命は饒速日尊の時代に降臨したが、孝元天皇の時代にも高皇産霊神の子孫と思われる人物が信濃国開拓のために降臨しているのであろう。
式内社の「阿智神社」は、現在の阿智神社と安布知神社のどちらだったのかはっきりとはしないが、「昔は駒場の社(現安布知神社)を前宮、 昼神(現阿智神社)を奥の宮と言った」と言われており、前宮、奥宮の関係にあったようである。鎌倉時代になってから山王信仰が盛んになり、以降、阿智神社の社名は忘れられ山王権現となったが、阿智神社と山王権現は異名同体であるといわれている。山王権現の祭神は、大物主尊、国常立尊、豊斟渟尊となっており、この神はいずれも饒速日尊である。 
阿智神社は、古代の東山道最難関の尾張国と信濃国との国境にある神坂峠の麓にある。阿智族の本拠地も饒速日尊の影が見える。この神坂峠を饒速日尊は通過したと思われる。饒速日尊は思兼命、及びその子表春命を伴って、神坂峠を越えて尾張国から信濃国に入ったと思われる。
尾張国には伊多波刀神社(愛知県春日井市上田楽町3454)、高牟神社(愛知県名古屋市守山区大字瀬古字高見2400)、松原神社(愛知県春日井市東山町2263)、渋川神社(愛知県尾張旭市印場元町北島3977)、高牟神社(愛知県名古屋市千種区今池1-4-18)など高皇産霊神を主祭神として祀っている式内社が多い。これは、尾張国が饒速日尊と共に天降った高皇産霊神の子である思兼命がその子孫と共に開拓していた場所であると推定できる。饒速日尊は信濃国から尾張国に戻って、高皇産霊神の子孫を連れて、再び信濃国に戻ったものと考えられる。信濃国開拓には人手不足だったのであろう。
天竜川流域の開発体制を固めることができた饒速日尊・建御名方命は矢彦神社の地を本拠地として諏訪族との交渉に本格的に取り組むことになった。 
諏訪一族の統一
饒速日尊・建御名方命が天竜川流域を開拓している間に事代主命は武居一族をはじめ、ほとんどの一族を統一することに成功していた。その手法はやはり、農地開発をはじめとする新技術の伝授であろう。諏訪族も伝授された新技術で生活が楽になれば喜んで日本国に加盟し、周辺の集落にもその技術を広げることに協力したのであろう。
しかし、洩矢命を長者とする一族だけは最後まで了承しなかった。洩矢命を誅するというような記事ではなく、国土開発の協力者として決着していることから、日本国に加盟することに反対していたのではなく、条件面での闘争だったような気がする。その条件は何かはわからないが、天竜川への出口付近で相争い、結果として建御名方命側が勝利を得た。 
戦いにより、建御名方命側が勝利を得たが、やはり不満はくすぶっていた。建御名方命にとって、自分が育ってきた越国は日本国に所属しており、土地開拓をして人々の生活を向上させることの喜びを知っていた建御名方命は戦いの後の虚しさもあり、この土地の人々のためにここに残る決断をしたのであろう。諏訪大社に建御名方命と土着神が区別なく祭られていることからこのように判断する。建御名方命はこの土地に残り、信濃国の人々の生活の向上に尽力し、この土地で亡くなったのである。御陵は諏訪大社上社の前宮の拝殿裏の丘陵に葬られた。
諏訪大社の土着の神との和合が行われているようなので、このように判断した。
事代主命はこの後、大和に戻り、饒速日尊は出羽国統一に出発することになった。 
出羽国統一

 

信濃国統一を終えた饒速日尊は諏訪で建御名方命・事代主命と別れ、越国の居多神社の地まで戻った。ここで、出羽国統一の準備を行い、ほどなく日本海岸に沿って出羽国統一に向かった。 
神社伝承
越後国
一宮 居多神社 新潟県上越市 大国主命 奴奈川姫 建御名方命 饒速日尊 大国主命は、居多ケ浜に上陸し身能輪山あるいは岩殿山を根拠地とし、越後の開拓や農耕技術砂鉄の精錬技術などを伝えたという
圓田神社 新潟県上越市柿崎区岩手1089 國常立尊 大己貴神 大山咋神 譽田別尊 饒速日尊 大己貴神、国土平定のため高志に来たり給う時、この円田沖に船を入れ龍ケ峰に船を繋ぎ上り、この峰に一祠を立つこれが神社の初めなり。
斐太神社 新潟県妙高市宮内241 大國主命・ 矢代大神・ 諏訪大神 饒速日尊 大國主命が国土経営のため御子言代主命・建御名方命を従へて当国に行幸し、国中の日高見国として当地に滞在した。大國主命・建御名方命は山野・田畑・道路を、言代主命は沼地・河川を治め水路を開いた。積羽八重言代主神は矢代大明神と称し、矢代川の名の由来となつたといふ。
宇奈具志神社 新潟県三島郡出雲崎町乙茂字稲場762 天穂日命 大国主命 古神官松永氏ノ話ニ、天穂日命、大國主神ノ御跡ヲ慕ヒ来テ鎮座ノ御社ニテ、天ノ神ト称シ来ル。
御嶋石部神社 新潟県柏崎市西山町石地1258 大己貴命 饒速日尊 祭神(大己貴命)が頚城郡居多より船にて、石地の浜に着岸し、石部山にとどまり、遣わされた宝剣を神体として祀ったという。 その昔、命が北陸東北方面平定の為に出雲より水路にて当地を通られた時、岩の懸橋が海中より磯辺まで続いているのを不思議に思われ、 船を寄せてみると、当地の荒神二田彦・石部彦の二神が出迎え卮(さかずき)に酒を盛り、敬意を表した。当神社の祭礼神輿が陸から島に御渡りになり、その時、御神酒を捧げる吉例は此処に由来する。また、命が残していかれた御佩(はかせ)の剣は当神社の御神体として崇奉り鎮守となっている。地元の人々は大鹿島とよんでいる。
物部神社 新潟県柏崎市西山町二田602 二田天物部命 天孫降臨の後、当社祭神(二田天物部命)は、天香山命とともに当地に来臨。その上陸の地を天瀬(尼瀬)という。居るべき地を求めていた時に、多岐佐加の二田を献上する者あり、その里に家居したという。後、当地で薨じ、二田土生田山の高陵に葬られた。
石井神社 新潟県三島郡出雲崎町石井町583 御井神 饒速日尊 神代の昔、各地を平定した大国主の命が、この地に来られ佐渡ヶ島を平治しようとしたが、海を渡る船がない。そこで、石の井戸の水を汲んで撒くと一夜にして12株の大樹が茂った。その霊樹で船を造り海を渡って平治したと伝えられており、その時、大小の魚が船を守り助けたので12株の大樹の辺(現在の井鼻)に宮を造り海上守護の大神を祀った。祭神 大国主命 神名帳考證では御井神(饒速日尊と推定)。北条の石井神社(相模の寒川神社からの勧請)は小鹿島(饒速日尊と推定)という。
一宮 弥彦神社 新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2898 天香山命 祭神天香山命は又の御名を高倉下命と申し、神武天皇御東征の時、紀伊国にて?霊の神劔を奉り皇軍の士気を振起して大功を立て給い、後勅を奉じて遠く越後国に下り、今の三島郡野積浜に上陸して国内を鎮撫し、漁塩耕種の法を授け大いに生民の幸福を増進し弥彦山東麓に宮居して徳を布き、統を垂れ給うた
船江神社 新潟県新潟市中央区古町通一番町500 天照大神 豐受大神 猿田彦大神 大彦命 当時、この里がまだ貝操といわれていたころに、海上より一隻の船が浜に流れ着きました。今まで見たこともない形の船でしたので、村人たちが周りを取り囲んでおりましたところ、船の中に一人の白髪の老人が座っておりました。村人たちが不思議に思い尋ねましたところ、「私は猿田彦大神といいます。この里を守護するよう使わされました。これより末永く産土神として鎮まりましょう。」とお告げになり、煙のごとく姿を隠されました。
石船神社 新潟県村上市岩船三日市9番29号 饒速日命 水波女命 高?神 闇?神
饒速日尊 饒速日命は物部氏の祖神で、天の磐樟舟(アメノイハクスフネ)に乗ってこの地に上陸され、航海・漁業・製塩・農耕・養蚕の技術をお伝えになったといわれます
西奈弥神社 新潟県村上市瀬波町大字瀬波字町4-16  気比大神 饒速日尊 祭神気比大神は、敦賀から五臣を供に下向。背の方からの波で、この地にお着きになった。よってこの地を、背波と呼んで興産民生の基を開かれた。祭神おかくれの後、五臣は産土神と仰いでここに社殿を建てた。
出羽国
一宮 鳥海山大物忌神社 山形県飽海郡遊佐町大字吹浦字布倉1 祭神 大物忌大神 月山神 饒速日尊 祭神・大物忌神については、倉稲魂命・豊受大神・大忌神・広瀬神などと同神とする考えがある。鳥海山は古代日本の北の境界に位置し、異狄に対して神力を放って国家を守ると考えられている。
二宮 城輪神社 山形県酒田市城輪字表物忌35 倉稲魂命 饒速日尊 二宮古今記』によれば、祭神城輪大明神は倉稲魂命のことで鳥海山大物忌神社と同体であり、用明天皇の御宇に鳥海山大物忌神社を一宮とする題額の宣旨が給われた頃から当社は二宮と称するようになった、二宮とは第2王子のことである、
三宮 小物忌神社 山形県飽海郡平田町大字山楯字三之宮48 級長津彦命、級長津姫命、豐受比賣命 饒速日尊 もとは「三之宮大座明神」と称し、古来より鳥海山大物忌神社の第3王子とであるとされ、鳥海山大物忌神社が「春物忌」を行った後に当社においても3日間の「物忌」を行うのが慣わしになっていたと言う。
月山神社 山形県東田川郡庄内町大字立谷沢字本沢31 月讀命 饒速日尊 出羽三山は共に山そのものが神であり、神の住居である。
出羽神社 山形県鶴岡市羽黒町手向字羽黒山33 伊弖波神 稻倉魂命 饒速日尊 出羽と書いて「いでは」と読む。出羽の由来は、越国の先端(出で端)にあるためとか。出羽国国魂神を祀った神社
湯殿山神社 山形県鶴岡市田麦俣字六十里山7 大山祇命 大己貴命 少彦名命 饒速日尊 出羽三山奥の宮
唐松神社 秋田県大仙市境字下台94   饒速日命 玉鉾神 愛子神 饒速日尊 物部氏祖神である饒速日命は、鳥見山(鳥海山)の「潮の処」に天降った。
その後、逆合川の地・日殿山(唐松岳)に「日の宮」を造営し、大神祖神・天御祖神・地御祖神を祀ったという。
三倉神社 協和町船岡字合貝 饒速日尊 饒速日命の居住していた場所は、御倉棚と呼ばれ、十種神宝を納めていた。当地で、饒速日命は住民に神祭、呪ない、医術を伝え、後に大和へ移ったという
古四王神社 秋田県秋田市寺内字児桜81 武甕槌神 饒速日尊 、四道将軍の一人・大彦命が蝦夷平定の際、北門鎮護のため武甕槌神を祀り、「鰐田浦(あぎたのうら)の神」として祀ったのがはじめ
岩木山神社 青森県弘前市百沢字寺沢27 顯國魂神 多都比姫神 大山祇神 坂上刈田麿 宇賀能賣神 饒速日尊 昔、大己貴命(=顯國魂神)が、この地に降臨し、180人の御子を生み、穀物の種を蒔いて、子遊田と名づけた。
その田の中で、白く光る沼があり、田光沼(たっぴぬま)と言った。ある時、童女が沼の中から「珠」を見つけ、大己貴命に献上した。
その珠の名を国安珠といい、童女を国安珠姫という。大己貴命は、国安珠姫を娶り、往来半日(一名洲東王)を生んだという。 
越後国統一経路
居多神社を出発後、柿崎の圓田神社の地に滞在、ここまで約20km。30kmほど進んだ柏崎市西山町の三島石部神社の地に到達した。この神社の伝承は
「居多より船にて、石地の浜に着岸し、石部山にとどまり、遣わされた宝剣を神体として祀ったという。 その昔、命が北陸東北方面平定の為に出雲より水路にて当地を通られた時、岩の懸橋が海中より磯辺まで続いているのを不思議に思われ、船を寄せてみると、当地の荒神二田彦・石部彦の二神が出迎え卮(さかずき)に酒を盛り、敬意を表した。当神社の祭礼神輿が陸から島に御渡りになり、その時、御神酒を捧げる吉例は此処に由来する。また、命が残していかれた御佩(はかせ)の剣は当神社の御神体として崇奉り鎮守となっている」
祭神は大己貴命となっているが、「北陸東北方面平定したこと」、「二田彦・石部彦の二神が出迎たこと」などからこの神は饒速日尊と判断する。大国主命は越国を統一しているが、弥彦神社の地まででそこより先は饒速日尊が統一している。また、二田彦・石部彦は物部氏であり、饒速日尊が大和に降臨した時に引き連れてきたマレビトである。大国主命がこの地に来たのはAD20年頃で、饒速日尊が大和に降臨したのはAD30年頃なので、マレビトがここまで来たのはそれより後となる。これらから、この大己貴命は大国主命ではあり得ず、饒速日尊となる。
三島石部神社から4km程進んだところに石井神社がある。ここの伝承は
「神代の昔、各地を平定した大国主の命が、この地に来られ佐渡ヶ島を平治しようとしたが、海を渡る船がない。そこで、石の井戸の水を汲んで撒くと一夜にして12株の大樹が茂った。その霊樹で船を造り海を渡って平治したと伝えられており、その時、大小の魚が船を守り助けたので12株の大樹の辺(現在の井鼻)に宮を造り海上守護の大神を祀った。祭神は神名帳考證では御井神(饒速日尊と推定)。北条の石井神社(相模の寒川神社からの勧請)は小鹿島(饒速日尊と推定)という。」 
祭神御井神は、大国主命の子木俣神を指すと言われているが、この地に来た記録はない。御井神は大和国宇陀郡にある御井神社に祭られている神でこの神社の記録では気比神として祀られており、同時にこの地は饒速日尊の滞在伝承地である。これから、御井神=気比神=饒速日尊となる。この伝承より、饒速日尊がここから佐渡島に渡り、佐渡島を統一したことが分かる。
次は50kmほど先の新潟市信濃川河口付近にある船江神社である。
当時、この里がまだ貝操といわれていたころに、海上より一隻の船が浜に流れ着きました。今まで見たこともない形の船でしたので、村人たちが周りを取り囲んでおりましたところ、船の中に一人の白髪の老人が座っておりました。村人たちが不思議に思い尋ねましたところ、「私は猿田彦大神といいます。この里を守護するよう使わされました。これより末永く産土神として鎮まりましょう。」とお告げになり、煙のごとく姿を隠されました。
と記録されている。ここでは猿田彦大神となっているが、猿田彦大神もこの周辺に来た記録がない。この神も饒速日尊ではないかと推定している。
さらに50km程進んだ村上市に、岩船神社がある。この神社は直接の名饒速日尊で祀られている。「天の磐樟舟(アメノイハクスフネ)に乗ってこの地に上陸され、航海・漁業・製塩・農耕・養蚕の技術をお伝えになったといわれています。」とある。また、5km程先に西奈弥神社があり、「気比大神は、敦賀から五臣を供に下向。背の方からの波で、この地にお着きになった。よってこの地を、背波と呼んで興産民生の基を開かれた。」とある。気比大神とは饒速日尊と推定している。饒速日尊はこのあたり一帯を開拓したと思われる。
以上越後国の饒速日尊と思われる伝承地を挙げたが、海岸線を一直線に出羽国に向けて進んでいるようである。内陸部には伝承地は全く見当たらない。その代わり、越後国は弥彦神(天香語山命・高倉下命)の伝承地が越後国各地に散らばっている。これはどうしたことであろうか
饒速日尊の信濃国統一段階ですでに人材不足に陥っていたと思われる。土地開拓をするにはその土地に長期間数十年単位で滞在しなければならない。その間に周辺の人々に新技術を伝えていくのである。それができる人々を大阪湾岸から各地に連れて行ったもののさすがに人がいなくなってしまったものと考えられる。饒速日尊もこの時60歳程に達していたと思われ、余命がそれほどないことは饒速日尊にも分かっていたであろう。自分の生きている間に列島全域を統一するには時間が足りないことを感じてきたのではないだろうか。そのために、比較的統一が楽に思えた越後国は後世の人物(自らの子)に任せて先へ進んだものと考える。 
越後国内陸部は饒速日尊が統一しなかったために、大和朝廷成立直後神武天皇が天香語山命に越後国開拓の勅命を下したのであろう。 
出羽国(山形県の実態)
越後国を通過した饒速日尊は出羽国に入ったと思われるが、山形県内に饒速日尊に関する伝承は、今のところ全く見当たらない。しかし、一宮の鳥海山大物忌神社(大物忌神)、二宮の城輪神社(倉稲魂神)、三宮の小物忌神社(級長津彦命)はいずれも祭神が饒速日尊の別名と推定している神である。また、聖地である出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)に祭られている神もこれまた、饒速日尊の別名と思われる神たちである。出羽国式内社9社のうち8社までが、饒速日尊と思われる神を祀っている。残りの一社も饒速日尊関連人物を祀っているという説が存在している。このように出羽国(山形県)内には饒速日尊伝承は存在しなくても、彼が深くかかわり、統一していたことは間違いないであろう。 
秋田物部文書概略
秋田県大仙市境字下台94 に唐松神社がある。この神社には秋田物部文書が伝わっており、この文書に饒速日尊の行動が記されている。 
物部文書が伝えるところの饒速日尊の行動
秋田物部氏の遠い祖先、饒速日命は、天の鳥船に乗って豊葦原中ツ国の千樹五百樹が生い茂る実り豊かな美しき国を目指して鳥見山の山上、山上湖(鳥ノ海)・潮の処に降臨したという。この鳥見山とは出羽国の鳥海山であった。この国を巡った後、逆合川を遡り日殿山山頂に「日の宮」を造営、天地の神々である大神祖神・天御祖神・地御祖神を祀った。これが唐松神社の由来である。このとき、 饒速日命の居住していた場所は御倉棚と呼ばれ、ここに十種の神宝を奉じ、当地では住民に神祭、呪術、医術を教えたと伝えられ、その跡地(大仙市協和船岡字合貝)には、 現在、三倉神社が鎮座している。現在、唐松神社にはその十種の神宝の内の五種、奥津鏡・辺津鏡・十握剣・生玉・足玉が残されているという。十握の剣は鎌倉時代の作のようだが、鏡は黒曜石製、玉は玄武岩のような固い黒い色をした石でできているらしい。
この地を拠点として東国を平定した饒速日命は更に南下、大和まで侵攻した。当時の大和国では先住民族の「安日彦(あびひこ)、長髄彦(ながすねひこ)兄弟」が治めていた。そこに天津神「ニギハヤヒの命」が入ってきたのであるが、別に争いをするでもなく、「ニギハヤヒの命」は長髄彦の妹を娶り平和に共存の道を歩むことにした。 しかし、この平和に暮らしていた大和国に突然、戦闘的な天孫族イワレヒコの命(神武天皇)の東征軍が現れ、戦争を仕掛けられ、安日彦・長髄彦・ニギハヤヒの命らは、果敢に応戦したが、戦の最中ニギハヤヒの命が叛意した。ニギハヤヒの命は戦の最中に、イワレヒコの命が天津神「天照大神」直系の皇子であることがわかり従わざるえなくなり、王位継承権の証である「天津瑞(あまつしるし)」を献上し配下に下ったためである。この寝返りの結果、安日彦・長髄彦軍は総崩れとなり、長髄彦は討ち死に、安日彦はかろうじて逃れることができ、丹波より船で日本海を北上し、津軽十三湊に着き先住民族を束ね古代東北王朝を築き、のちの安東氏=秋田氏の始祖となった、とされている。
このとき、饒速日命は畿内だけではなく自ら平定した東国をも神武天皇に献上した。神武天皇はその恭順の意を容れ、 饒速日命の子・真積命(ウマシマヂ)を神祭と武の長に任じたという。ここに物部氏は始まり、物部氏は祭祀と軍事の両面から大和朝廷を補佐し、蘇我氏との対立に敗れるまで、その威勢を振るう事になる。 
物部文書の実態
神功皇后のいわゆる三韓征伐の時、饒速日命から数え八代目の物部瞻咋連(いくいのむらじ)はこれを助け、懐妊した皇后のために腹帯を献じたといい、その後、神功皇后は朝鮮半島から日本海を渡って、この蝦夷の地に至り、日の宮に詣でた上、これと対になる月の宮の社殿を造営したと伝えている。 神功皇后は神威によって、新羅・百済・高句麗の三韓を服従させたことを記念しての社殿造営から、以来、その社を韓服宮(唐松宮)と呼んだとされる。
欽明天皇は仏教を歓迎し有力者に是非を問うたら、大臣(おおおみ)だった「蘇我稲目」は賛成したが、大連だった「物部尾輿」や連の「中臣鎌子」は、 国津神の怒りを招く、と強く反対。 かねてから朝廷の祭祀・軍事部門を担ってきた物部氏と、渡来系一族で物部氏より少し遅れてきただけに過ぎない蘇我氏の確執は「物部守屋」の代で決定的となった。 三十一代用明天皇は疱瘡で死んだとされ、病の床で用明天皇が仏教に帰依したいと願ったことから、大臣「蘇我馬子」は賛成し、「物部守屋」は反対して双方が兵を繰り出す騒ぎになった。 用明天皇崩御(587年)の後、物部守屋は穴穂部皇子を天皇につけようと画策しましたが、崇峻天皇をたてて聖徳太子と組んだ蘇我馬子との戦いに敗れ、皇子は殺害され、 守屋の屋敷も襲撃されましたが、守屋は襲撃からはなんとか逃げたものの、部下の裏切りにあい殺されてしまう。 このようにして長い間、大和朝廷を古くから支えてきた物部氏は滅び、歴史の表舞台から消された。
『物部文書』では、「物部守屋」戦死後、守屋の一子、那加世(三歳)は物部家の家臣捕鳥男速(とっとりのおはや)に抱かれて東方に逃げ延び、秋田仙北郡(現、大仙市協和町)の日殿山に入った。そして年を経て、その那加世の末裔が「秋田の唐松林」(大仙市協和町上淀川)に定住した現在の唐松神社宮司家物部氏は、この那加世を初代として、現在まで六十代以上続いている。 物部家では、代々の当主がこの文書を一子相伝で継承し、余人に見せることを禁じてきたといい、その一部だけが公表された。しかし、その大部分は依然、未公開のままである。物部守屋が蘇我馬子に襲撃されて一族は滅亡したとされているが、『秋田物部文書』の伝承によれば、その事件で殺された当主物部守屋の子のなかに、当時三歳になる‘那加世’という名の子があったという。 
東日流外三郡誌概略
今から約2700年前に津軽古代王国が生まれ、次いで古代アラバキ王国が成立した。このころ、日本ではこれら幾多の部族が互いに侵略しあっていたが、安日彦・長脛彦の兄弟がそれを統一し、耶馬台国を建国した。そこにあるとき、日向族という渡来人の一派が九州にやってきた。日向族は比未子という呪術者を使って土着民の心を惑わし、しだいに勢力を拡大していった。
稚三毛淳麻命(神武天皇)が即位する8年前の癸丑の年に、九州の日向から東征軍を挙動したニギハヤヒノ命と日子瀬命(いつせのみこと)は、耶馬台国の長髄彦・安日彦軍と戦って敗北。日子瀬命は討死した。その為ニギハヤヒノ命は吉備(岡山県)で神武天皇に加勢を頼み、戊午2年に再び追攻。この時、長髄彦軍は敗北して安日彦に越国(北陸地方)で救われ、耶馬台国は神武天皇に平征された日向族のリーダー神武天皇は東征を開始した。安日彦・長脛彦は勇敢に戦ったが、ついに敗れ、畿内から追い払われた。敗れた安日彦・長脛彦は、津軽地方へ逃れた。
津軽地方には縄文時代、阿蘇辺族という民族が住んでた。そこに中国大陸や朝鮮半島から漂着した津保毛族や、中国の王族も亡命してきた。耶馬台一族を引き連れてきた安日彦・長脛彦は、これらを糾合し、荒覇吐(あらはばき)の神を崇める荒覇吐族(あらはばきぞく)を名乗った。荒覇吐族は耶馬台一族の農耕技術と津保毛族の優れた騎馬戦術が合せて強大になり、幾度か大和に攻めのぼった。
第6代孝安天皇の時、荒覇吐族は大軍で大和に進攻。倭国は大いに乱れた為、天皇が空位となり、第10代崇神天皇が登場するまで、神武系の皇位を退けて荒覇吐系の天皇を次々と即位させたという。第7代孝霊天皇、第8代孝元天皇や第9代開化天皇は荒覇吐系の天皇である。
開化天皇は北九州の筑紫を除く日本全土を統一することに成功した。しかし彼はその後、荒覇吐神の信仰を捨て、出雲族や日向族の神を崇めたために、畿内の荒覇吐族と奥州の荒覇吐族との間で争いが起こり、日本は二つに割れた。荒覇吐族が仲間割れを起こしているうちに、騎馬民族を率いて海を渡って攻めてきたミマキイリヒコによって開化天皇は敗れ、ミマキイリヒコは天皇(崇神天皇)に即位した。そして、律令制等を整えることで国力を強化し、奥州の諸勢力を服属させていった。 
東日流外三郡誌の実態
東日流外三郡誌は、青森県五所川原市在住の和田喜八郎氏が、自宅を改築中に「天井裏から落ちてきた」として1970年代に発表された。編者は秋田孝季と和田長三郎吉次とされ、数百冊にのぼるとされるその膨大な文書で、古代の津軽地方には大和朝廷から弾圧された民族の文明が栄えていたという内容である。
東日流外三郡誌については、記述内容が考古学的調査との矛盾していたり、「古文書」でありながら、近代の学術用語である「光年」や「冥王星」「準星」などの天文学用語が登場するなど、文書中にあらわれる言葉表現の新しさ、また、和田家建物は1941年(昭和16年)建造の家屋であり、古文書が天井裏に隠れているはずはなく、古文書の筆跡が和田喜八郎の物と完全に一致する、編者の履歴に矛盾がある、他人の論文を盗用した内容が含まれている、等の証拠により、偽書であると言われている。
この2種類の古文書のうち物部文書は一部しか公開されていない。その真偽は不明である。東日流外三郡誌は内容を見てみれば明らかであるが、他の伝承とは全く相いれないものがある。また、当時日本列島内は戦乱の嵐のような内容となっているが、この当時の戦乱を意味する遺跡はほとんど存在しない。武器を意味する出土物もほとんどない状態である。これらから三郡誌は真実から大きくずれていると判断してよいであろう。しかし、いくら偽書であると言っても100%の偽書は造ること自体が難しいと思われる。その本質的なところには真実があったが、書き写したりしている間に創作が入り込んでしまうのであろう。人間は体制側も反体制側も都合がよいように書き換えてしまうことが多い。だからこそ複数の伝承で確認する必要がある。両者の共通点は安日彦が神武天皇即位後大和から逃れて津軽にたどり着き、勢力回復を図ったというところである。この部分は正しいと判断する。 
出羽国統一経路の推定
この伝承から、饒速日尊の行程を推定すると、出羽国に入った饒速日尊は、霊峰鳥海山が目に入ったことであろう。早速鳥海山の麓である山形県飽海郡遊佐町吹浦の月光川河口辺りに上陸したと思われる。饒速日尊は初めての国に到達した時、その国で最も高い見晴しの好い山に登って周りの地勢を確認している。出羽国でその目的に叶う山は鳥海山をおいてほかないであろう。吹浦に上陸した饒速日尊は月光川を遡り、鳥海山の山上湖である鳥ノ海に降臨した。これは秋田古文書にも記載がある。鳥海山山頂から周辺を見渡した饒速日尊は、酒田市・鶴岡市周辺を巡回していると思われるが、直接的伝承は認められない。秋田古文書では「この国を巡った」と記されている。この周辺に出羽国一宮「鳥海山大物忌神社」・二宮「城輪神社」・三宮「小物忌神社」が集中している。何れも主祭神は饒速日尊と思われる神である。ここは越後国の岩船神社から約100kmの位置である。
吹浦を出港した饒速日尊は70km程北上し、雄物川河口辺りに上陸した。この時期の縄文人の人口密度はかなり低く、適当に川を遡っていたのでは人がいない可能性が高く、東日本を統一しようとしている饒速日尊にとっては無駄足となる。このあたりはまだ弥生文化がほとんど浸透せず縄文終末期の状態であったと思われる。この頃の縄文人の人口は10万人程度と予想されており、縄文人はぽつぽつと存在する縄文集落で生活していたのである。河口付近に人工物が流れ着いているかどうかで上流に人がいるかどうかを判断し、人工物が流れ着いている川を遡ったのであろう。神話でも素盞嗚尊が斐伊川の河口付近で箸が流れていることから上流に人がいることを確認している。饒速日尊はこれと同じような感覚で、河口付近に流れ着いているものから上流に人がいるかどうかを判断していたのではないだろうか。
吹浦を出港した饒速日尊は70km程北上し、雄物川河口辺りに上陸した。雄物川河口付近に人工物が何か流れ着いていたのであろう。雄物川を遡って、今の大仙市協和境と言う処に縄文集落を発見した。饒速日尊はこの地にしばらく滞在して色々な新技術を現地の人たちに伝えた。饒速日尊が滞在していたという三倉神社は唐松神社から北北西に1.7km程の位置にある。
当然ながら失われてしまった伝承もあると思われるので、実際の経路はもっと複雑ではなかったかと思われるが、残っている伝承から推定するとこのようになる。
唐松神社が饒速日尊の統一事業の最北端かと思っていたら青森県の岩木山神社に饒速日尊ではないかと思われる伝承が見つかった。
岩木山神社伝承「大己貴命(=顯國魂神)が、この地に降臨し、180人の御子を生み、穀物の種を蒔いて、子遊田と名づけた。その田の中で、白く光る沼があり、田光沼(たっぴぬま)と言った。ある時、童女が沼の中から「珠」を見つけ、大己貴命に献上した。その珠の名を国安珠といい、童女を国安珠姫という。大己貴命は、国安珠姫を娶り、往来半日(一名洲東王)を生んだという」
このようなものである。出雲の大国主命はこんなところまでやってきてはいないので、ここにある大己貴命とは饒速日尊のことと判断される。ここにも暫らく滞在したようであるが、180人の子を産んだとあるのは何であろうか?饒速日尊がここにいたとしても最大限数年程度でそれ以上は考えられない。また、180人もの人を連れてきているとも思えない。これは、饒速日尊が養成した技術者ととらえたいがどうであろうか。
唐松神社の地にいた饒速日尊は当然ながら周辺の縄文人の集落の位置を聞き出したと思われる。縄文人を案内人として周辺の縄文集落を訪問していることであろう。そのいくつかの伝承は失われているが、この岩木山神社には残っていたということであろう。経路を推察すると、唐松神社の位置から雄物川の河口に移動し、そこから北上。津軽半島の十三湖に到達し、そこから岩木川に沿って遡ったものであろう。途中秋田市・八郎潟・能代市近辺の縄文集落にも立ち寄っていると思われるが、伝承はない。
物部文書の内容は古代史の復元と一部を除きよく一致していることに驚いた。饒速日尊が東国平定(実際は平和統一)したこと、神武天皇に東日本全体を譲ったこと(実際は政略結婚による対等合併)などである。 
安日彦の謎
物部文書にある安日彦・長髄彦兄弟についてであるが、饒速日尊が大和に降臨したAD30年頃長髄彦の妹の三炊屋姫を娶っている。結婚適齢期を考えると、長髄彦はAD10年頃誕生したものと考えねばならない。神武天皇が即位したAD83年には70歳を超えているはずである。あり得ないことではないので、長髄彦には問題はないが、安日彦については問題がある。長髄彦と兄弟であるなら、AD10年頃の誕生と思われるが、AD83年以降も生き延びているのである。しかも津軽で活躍している。これはどのように解釈すればよいのであろうか。
一つ考えられるのは安日彦は長髄彦の歳の離れた弟である。昔のことであるから20歳ぐらい下の弟がいてもおかしくはない。あるいは、長髄彦の子である可能性も考えられる。何れにしても長髄彦とは年が離れていなければならない。神武天皇即位後安日彦が十三湊にやってきているが、このことから、饒速日尊の出羽国統一団の一員に安日彦がいたものと判断される。安日彦は饒速日尊に就いて、出羽国を統一する時、饒速日尊と共に十三湖から岩木川を遡り岩木山神社の地を訪問していたのであろう。そうすると、神武天皇即位後安日彦が大和を逃れてこの津軽の十三湊にやってきた理由が分かる。
安日彦は長髄彦と共に饒速日尊に心酔しており、饒速日尊が統一した日本国を日向からやってきた見も知らぬ人物に手渡してしまうのがどうにも我慢ならず、最後まで抵抗した。しかし、長髄彦が殺害されるにおよび、もはやこれまでと、自分の立場を理解してくれそうな、津軽の人々のもとに旅立っていったと考えれば、自然につながるのである。
北東北地方は統一後大和朝廷支配下から外れる
「東北地方北部まで饒速日尊が統一したのに、後の大和朝廷の勢力下から外れたのはなぜか」という疑問が沸く。大和朝廷勢力下にあったのは東北地方では福島県地方のみである。方形周溝墓も出現していないし、古墳も築造されていない。明らかに北東北地方は大和朝廷支配下に含まれていないのである。これはどうしたことか?
これは、饒速日尊統一時に人材不足だったためではないかと考える。他に地域は、国土開発に日数を要するために、その地に入植し何年もかけてその土地を開拓していったのである。東日本地域は縄文人が住んでいた地域であるが、4500年前から気候は寒冷化しはじめ、2500年前には現在より1度以上低くなり、日本の人口の中心であった東日本は暖温帯落葉樹林が後退し、人口扶養力が衰えた。そしてまた、栄養不足に陥った東日本人に大陸からの人口流入に伴う疫病の蔓延が襲いかかり、日本の人口は大きく減少し、たと推測されている。鬼頭宏氏「人口から読む日本の歴史」によると2500年前は日本列島の人口は8万人と推計されている。人口密度は0.2人/km2となる。この密度は各県当たり1600人で、各県に30集落程度があり、5km四方に一集落程度あったと思われる。しかも縄文人は、やや高地に住んでいる。水田稲作を中心とする弥生人とは生活する基盤が異なり、弥生人が大挙して入植しても、土地がガラガラにあいているうえに生活基盤が異なるので衝突はほとんどなかったと思われる。それよりも、入植者が周辺の縄文集落に赴いて、新技術を伝えれば、その地域を統一するのはかなり楽であると言える。実際は弥生人の入植者の処へ周辺の縄文人が新技術を教えてもらいにやってきたのではないかと思われる。これら入植者が役人を兼務して中央の指示を伝えればよいのである。入植者がいる限り、その国の体制は維持されるとみてよいであろう。
しかし、人材が豊富だったのは、東海・関東・甲斐地方までで、信濃国統一時あたりから人材不足が問題になりだしたようである。東北地方統一時には入植者は全くいなかったのではないだろうか?この状態では新技術を伝えても、その地域でその技術を維持するのは難しく、長い年月のうちに失われ、しだいに日本国支配下から外れて云ったものであろう。また、神武天皇に敗れた安日彦が東北地方に退去した時。饒速日尊の恩恵を受けている東北地方の人々にとって、大和朝廷を敵視する安日彦と思いが重なりやすく、東北地方をまとめたとあっては、大和朝廷に反逆することはあっても簡単に従うことはないと思われる。大和朝廷としても、東日本地域は広く、全域を安定して統治するのは難しく、安日彦の後継者の指揮のもと反抗する東北地方を武力で抑え込む余裕もなく、統治の手が回らなかったのであろう。このような理由で、東北地方が大和朝廷支配下から外れたものと思われる。 
饒速日尊大和帰還
物部文書によると東北地方での活動を終えた饒速日尊は大和に帰ったと記されている。ここで、いまひとつ疑問が浮かんでくる。
一つは、「饒速日尊はなぜ太平洋側に回らなかったのか」ということである。饒速日尊は大和に帰還後再び統一に出発し今度は陸奥国を統一している。大和に帰らなくても、このまま太平洋側に回って陸奥国を統一すれば済むことである。
この時点で東日本地域で未統一の地方は、伊勢国・志摩国・伊賀国・安房国・上総国・陸奥国である。伊勢国・志摩国・伊賀国は猿田彦命が、安房国・上総国は天太玉命が統一することになる。これら地域は入植者が簡単に見つかりそうな地域なので、何れ誰か後継者が統一できることは饒速日尊も予想できたと思われる。しかし、陸奥国だけは出羽国同様に入植者が簡単に見つからず、苦労すると思われる。饒速日尊はこの時、陸奥国の統一に回らなかったのはなぜだろうか?
饒速日尊が越国国譲りのために大和を旅立って、5年程度は立っていたのではないかと思われる。饒速日尊に課せられた使命は東日本統一だけではない。最終目標は素盞嗚尊の夢であった日本列島統一である。そのためには倭国との大合併も実現させなければならない。出雲の大国主命が亡くなった時、高皇産霊神との話し合いで大合併の準備期間が与えられていたはずで、その時期が迫っていたためではないかと推定する。饒速日尊にとっては、東日本統一に予定以上に時間がかかっていたのである。大合併を順調に行うためには、遅れていることを倭国に伝える必要がある。互いに不信を抱けば倭国と日本国との並立による大戦争が将来起こる可能性を秘めているのである。
そのために、饒速日尊は大和帰還を優先したものと判断する。陸奥国統一は大合併の後、大和朝廷の力で実施することも考えていたのであろう。 
陸奥国統一

 

大和に帰還した饒速日尊は次に陸奥国統一に旅立つのであるが、陸奥国は饒速日尊よりも味鋤高彦根命が主体的に動いているようである。まずはその過程から推定してみよう。
一宮 鹽竈神社 宮城県塩竈市一森山1番1号 塩土老翁神・武甕槌命・経津主神 武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると
一宮 都都古和気神社 福島県東白川郡棚倉町馬場 味耜高彦根命 味耜高彦根命は御父君大国主命の功業を補翼し東土に下り曠野を拓き民に恩沢をたれ給うたので郷民其徳をしのび当地に奉祀されたと伝えられる。棚倉町には、当社の他に、都都古別神社がもう1社存在する。また、久慈川に沿って、近津と呼ばれる神社が3社存在し、その鎮座地から、当社・馬場の都都古別神社を上之宮、八槻の都都古別神社を中之宮、茨城県の近津神社を下之宮とし、近津三社と呼ばれる場合もある。
一宮 都都古別神社 福島県東白川郡棚倉町八槻大宮 味耜高彦根命 日本武尊が東征のおり、八溝山の夷族の大将と戦い、勝敗がつかず、そこに、面足尊、惶根尊、事勝國勝長狭命の三神が出現。味耜高彦根命の鉾を授けた。日本武尊は、その鉾を、今の鉾立山に立てかけ、東に向かって矢を放ち、矢の到達した場所に社殿を立て、味耜高彦根命を祀り、その加護により勝利をおさめたという
一宮 石都々古和気神社 福島県石川郡石川町 味秬高彦根命・大国主命 当社は八幡山と呼ばれる山の頂上にある。創建の年代は不詳であるが、八幡山には磐境が多数あり、古代から祭祀の地とされていたことがわかる。延喜式神名帳の記述が書物における当社の初見である
二宮 伊佐須美神社 福島県大沼郡会津美里町字宮林甲4377 伊弉諾尊、伊弉冉尊、大毘古命、建沼河別命 社伝では、紀元前88年(崇神天皇10年)、四道将軍大毘古命と建沼河別命の親子が蝦夷を平定するため北陸道と東海道に派遣された折、出会った土地を「会津」と名付け、天津嶽(御神楽岳)山頂に国土開拓の祖神として諾冉二神を祀ったのが起源という
立鉾鹿島神社 福島県いわき市平中神谷字立鉾33番地 武甕槌神 武甕槌神(タケミカヅチノカミ)」が、東北を平定するためこの地に至り、当時 「塩干山」と呼ばれていたこの山に登り「鉾」を立て、これから進む東方を眺望したことから「立鉾」の名で呼ばれるようになりました
志波彦神社 宮城県塩竈市一森山1番1号 志波彦神 志波彦神社は鹽竃の神に協力された神と伝えられ、国土開発・産業振興・農耕守護の神として信仰されている。志波彦の神が降りてきたため、神降川と呼んだのが「かむり」になった。その神が川を渡るときに乗っていた白馬が躓き、神が冠を落としてしまったからだという伝説がある。旧社地は川沿いの岩切の丘陵上にあったと言われている。今の七北田川である。
和渕神社 宮城県石巻市和渕町1 経津主神 武甕槌神 大巳貴神 ?神 香取神社の神船が、常陸より八重の塩路に乗り、牡鹿郡和渕山の西辺(船島)に着き、その東方に船を留め(船澤)、山頂の船澤山 猿霊峠(樹霊峠)に宮柱を立て祭祀したとも伝えられる
鹿嶋御児神社 宮城県石巻市日和丘2丁目1-10 武甕槌命、鹿嶋天足別命 往古、関東の鹿島、香取の両神宮祖神の御子が共に命を受けて海路奥州へ下向し、東夷の征伐と辺土開拓 の経営にあたることとなり、その乗船がたまたま石巻の沿岸に到着、停泊して錨を操作した際、、石を巻上げたことから、石巻という地名の発祥をみたのだとの言い伝え があります。石巻に上陸された両御子は先住蛮賊地帯であった奥州における最初の足跡をしるした大和民族の大先達であり、開拓の先駆者として偉大な功績を残された地方開発の祖神であります。
鹿島御子神社 福島県相馬郡鹿島町大字鹿島字町199 天足別命、志那都比古命、志那都比賣 御祭神天足別命が鹿島の稚児沼に仮宮された時、此の地方に大六天魔王という賊徒が 横行していた。或る朝未明賊徒が命の仮宮を襲い火を放った、命は直ちに「火伏せの神事」を以て四方八方に拡がった猛火を鎮めた。其の時、鹿島の大神のお使いである 鹿が多数現われ、川より濡れた笹を銜えて仮宮を潤し火の再発を防いだという。その後命の御神徳に依りて賊徒横行することがなくなり安泰な日が続いたと謂う。天足別命は往時武甕槌命、経津主命と共に奥州の邪気を討攘せる神にして、特に奥州は僻遠の地なれば邪鬼再び起こらんことを慮り、奥州の邪鬼討攘に専念せし神なり。
桙衝神社 福島県岩瀬郡長沼町大字桙衝字亀居山97  日本武尊、建御雷命 武甕槌命の事績に由来するという
陸奥国の神社伝承にはいくつか系統があることが分かる。まとめてみると、
1 大国主命と御子味秬高彦根命のペア
2 建御雷命と御子天足別命
3 志波彦命と鹽土神
これらの神々の関係を見てみたいと思う。
陸奥国一宮の鹽竈神社伝承では、鹽土老翁神が、当地で塩の作り方を教えた。また、武甕槌命・経津主命は、鹽土老翁神が先導して当地へ迎えたものと伝えられる。主祭神は鹽土老翁神と考えられる。讃岐国阿野郡の塩竃神社など他の同名の神社の祭神は味耜高彦根命が多いが現在の塩竈神社には味耜高彦根命の名は見えない。現在の祭神は鹽土老翁神、武甕槌神、經津主神であるが、これは江戸時代に定められたようである。『和漢三才図絵』によれば、陸奥の鹽竃六所大明神 在千賀浦 祭神一座 味耜高彦根命とある。陸奥一宮の祭神は味耜高彦根命とされ弘仁式には鹽竃の神である。これらのことより、鹽竃の神=味耜高彦根命という図式ができる。建御雷命=饒速日尊なので、陸奥国を統一した人物は饒速日尊と味耜高彦根命のペアと言うことになる。
味耜高彦根命は出雲の大国主命と宗像三女神の一人多祁理姫との間にできた子である。大国主命が亡くなる直前のAD40年頃に九州で誕生していると思われる。AD55年頃と推定されるこの頃には15歳程になっていることであろう。饒速日尊と味耜高彦根命は親子ではないが、共に行動していると周りからは親子に見えるであろう。なぜ、この二人がペアで陸奥国を統一したかは後で考察するとして、他の神社の伝承との照合を先にする。
鹿島御子神社・鹿島御児神社では建御雷命とその子天足別命のペアとなっているが、他の神社の伝承から判断すると、天足別命=味耜高彦根命が自然であろう。しかし、直接的にこの両者が同一人物であることを裏付ける伝承は見つからない。志波彦神は、国土開発・産業振興・農耕守護の神と言われていることから饒速日尊と思われる。これも直接裏付ける伝承は見つからないが、似たような伝承のつながりからこのような推定が成り立つ。 
饒速日尊出羽国からの帰還
出羽国統一が終了した饒速日尊は、倭国との合併準備のために大和に帰還した。大国主命死去の後出雲国譲り会議の時、倭国と日本国の大合併も議論に登ったが、饒速日尊は東日本地域の統一がまだ途中(この時点では陸奥国・出羽国・飛騨国・信濃国が未統一)であることを理由に先延ばしをしていた。饒速日尊は大和に帰還したが、その時は、すでに約束した期限を過ぎていたのである。日向国の高皇産霊神はしびれを切らせ、味耜高彦根命を大和に派遣したのである。
大和国は日本国の中心地であるが、三輪山より東側(宇陀地区)はこの時点でまだ統一されていなかったのである。大和に戻った饒速日尊はこの地域が落ち着いていないのが気になり、初瀬川上流の桜井市白木地区を拠点としていた。大和にやってきた味耜高彦根命は饒速日尊に会うためにここにやってきた。初瀬川の中に巨大磐座があり、古来より味鋤高彦根命を祭神とする祠があったが、今は湖の中である。すぐそばに高籠神社があり、おそらくこの地に味耜高彦根命は滞在して饒速日尊と会ったと思われる。
味耜高彦根命は倭国との大合併の状況について饒速日尊に聞いたと思われる。饒速日尊としては、東日本全域を統一してから大合併をしたいということを伝えたものと思われる。この時点で未統一の地域は伊賀国・伊勢国・志摩国と大和国の東側領域と、上総国・安房国の関東地方の一領域及び陸奥国である。陸奥国以外はいつでも統一できるとして、倭国との合併は陸奥国が統一されてから実施したいと提案した。味耜高彦根命はそれを了承した。陸奥国統一には人材確保など準備が必要として、陸奥国出発までに少し時間があった。この間に饒速日尊は自分の娘である御歳姫(下照姫)と味耜高彦根命を結婚させた。この二人の間に天八現津彦命が生まれ、後の賀茂氏となった。
饒速日尊も65歳程になり、体力の衰えも見えてきたはずである。饒速日尊だけでは統一事業を行うのは難しくなっており、味耜高彦根命が統一事業に協力することとなった。陸奥国統一は饒速日尊よりもむしろ味耜高彦根命の方が主体的に動いているようである。 
陸奥国統一
いよいよ準備が整い、陸奥国統一に出発した。陸奥国統一の基点として鹿島神宮の地を選定した。陸奥国に出発する前に、さらに人材確保のために、下野国(現在の栃木県)辺りを巡回した。下野国は味耜高彦根命を祀る神社が異常に多いことからこのように推察する。
陸奥国の統一領域を推定してみると、方形周溝墓の北限が宮城県栗原市であり、饒速日尊と思われる神を祀っている式内社の北限も宮城県までである。行動伝承もここまでであり、岩手県下には饒速日尊と思われる神を祀っている式内社は存在しない。饒速日尊が味耜高彦根命とともに陸奥国統一したのは、宮城県北端までのようである。
それでは、鹿島神宮の地を出発した饒速日尊一行の統一経路を推定してみよう。
都都古和気神社(棚倉町)は久慈川領域にあり、鉾衝神社・石都都古和気神社は阿武隈川沿いにある。久慈川を遡って行くと、棚倉町の都都古和気神社の近くで、阿武隈川流域に入る。この地理関係から、饒速日尊一行は鹿島神宮の地を海路北上し久慈川河口から、久慈川を遡って行ったと推定できる。その流域の人々に新技術を伝えながら、棚倉町のところから阿武隈川流域に入り、白河市から郡山市一帯を統一した。このとき、会津若松方面も統一していると思われるが伝承がない。郡山市から、阿武隈川の支流谷田川を遡り小野町で夏井川流域に入り、夏井川に沿って下るといわき市に着く。
いわき市には鹿島立鉾神社があり、この神社には「武甕槌神が、東北を平定するためこの地に至り、当時 「塩干山」と呼ばれていたこの山に登り「鉾」を立て、これから進む東方を眺望したことから「立鉾」の名で呼ばれるようになりました。」とある。
この地から東へ進んでいるので、武甕槌神(饒速日尊)は夏井川を下ってきたことを意味する。
ここから、海に出て、海岸沿いを統一しながら北上した。南相馬市に到達し真野川を遡り、鹿島区についた。ここには鹿島御子神社がある。ここでは、
「御祭神天足別命(味耜高彦根命と推定)が鹿島の稚児沼に仮宮された時、此の地方に大六天魔王という賊徒が 横行していた。或る朝未明賊徒が命の仮宮を襲い火を放った、命は直ちに「火伏せの神事」を以て四方八方に拡がった猛火を鎮めた。其の時、鹿島の大神のお使いである鹿が多数現われ、川より濡れた笹を銜えて仮宮を潤し火の再発を防いだという。その後命の御神徳に依りて賊徒横行することがなくなり安泰な日が続いたと謂う。天足別命は往時武甕槌命、経津主命と共に奥州の邪気を討攘せる神にして、特に奥州は僻遠の地なれば邪鬼再び起こらんことを慮り、奥州の邪鬼討攘に専念せし神なり。」
と伝承されており、ここで、賊徒に襲われたようである。
再び海岸線に沿って北上し、仙台市宮城野区の七北田川河口から上流に入った。岩切と言うところに仮宮を作った。志波彦神社の旧社地である。ここを起点として、仙台市、多賀城市、塩釜市一帯を統一して回った。後に塩釜神社の地に拠点を移した。
塩釜神社では「祭祀は武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神(味耜高彦根命と推定)がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると」伝えている。
塩釜市一帯の統一が完了すると、さらに北上し、北上川の河口である石巻市の日和山に仮宮をたて、その周辺を統一した。ここには鹿島御児神社があり、
「往古、関東の鹿島、香取の両神宮祖神の御子が共に命を受けて海路奥州へ下向し、東夷の征伐と辺土開拓 の経営にあたることとなり、その乗船がたまたま石巻の沿岸に到着、停泊して錨を操作した際、、石を巻上げたことから、石巻という地名の発祥をみたのだとの言い伝えがあります。石巻に上陸された両御子は先住蛮賊地帯であった奥州における最初の足跡をしるした大和民族の大先達であり、開拓の先駆者として偉大な功績を残された地方開発の祖神であります。」
このあたりになると、饒速日尊の行動が見られなくなり、味耜高彦根命のみである。おそらく、饒速日尊は仙台市に留まったままであったのであろう。このまま北上川を遡り、一関市・栗原市一帯の統一を実行した。方形周溝墓の北限がこのあたりであり、饒速日尊に率いられた入植者は、このあたりまでやってきたのであろう。 
大和帰還
北上川をさらに遡れば、岩手県の花巻市、盛岡市一帯が統一できたはずなのであるが、統一した形跡はない。その入り口近くで、統一を取りやめ、大和に帰還したようである。これはどうしたことであろうか?
陸奥国統一には饒速日尊と思われる人物の直接的な行動が少なくなり、ほとんどがその子味耜高彦根命と思われる人物の行動が伝わっている。おそらく、饒速日尊は高齢化で体力的衰えが際立ってきたのではないだろうか。饒速日尊にはまだ、倭国日本国大合併という仕事が残されているのである。
饒速日尊の体力的衰えを感じた味耜高彦根命は饒速日尊に大和帰還を勧めたのではないだろうか。饒速日尊自身もそのことを気にしており、陸奥国のこれ以上北部領域は後世の人物に統一を託して、大和帰還をすることにした。
大和帰還した饒速日尊は大合併を実施することなく、間もなく亡くなったのであろう。 
高皇産霊神の正体

 

古代史の復元に於いて、おもな人物の出自はほとんど判明した。しかし、重要人物でありながら、いくら調べても正体不明なのが、この高皇産霊神である。古代史を復元する過程で、素盞嗚尊が北九州を統一する時にいきなり登場してくるのである。北九州の豪族の一人ではあると思うが、高天原では天照大神を凌ぐほどの位置にいる。実質的に高天原最高神と言ってもよいような存在である。地方の神社にもよく祭られているが、その実態はなかなかわからない。古事記では天御中主神・神皇産霊神と共に造化三神を形成している。ここでは、この高皇産霊神の正体をわかる範囲で推定してみる。
古事記の記述
天地が初めてできたとき、高天原に現れた神の名は天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。この三柱の神は、みんな独神で、身を隠された。
日本書紀(一書の四)
天地が初めて分かれて、初めて共に生まれた神がいた。國常立尊言う。次に國狭槌尊。
また、高天原において生まれた神の名を、天御中主尊と言う。次に高皇産霊尊。次に神皇産霊尊 。
これら記事を見ると天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神は三神が一体となっているようである。隠身・独神であることも併せて、特殊な位置にある。神話上でも他の神と立場が異なるようである。 天御中主神は神話上の行動実績が全く見られないが、高皇産霊神・神皇産霊神は色々と神話上に登場している。 
系図上の考察
高皇産霊神には伝承上6人の子がいる。思兼命、栲幡千千姫命、天忍日命、三穂津姫、天太玉命、天活玉命である。この御子たちの思兼命・天忍日命・天太玉命・天活玉命の4人は饒速日尊と共に大和に降臨して以後マレビトとして活躍している。思兼命は信濃国阿智族の祖であり、天忍日命は大伴氏の祖、天太玉命は忌部氏の祖である。天活玉命は越国に降臨していると思われ、三穂津姫は出雲国譲り後に饒速日尊の妻となり、やはり、大和に降臨している。栲幡千千姫命は日向津姫の長子天忍穂耳命の妻となっている。このように子どもたちは日本各地に赴き、後世に名が残るような氏族の祖となっている。また、高皇産霊神が神話上では天孫降臨、国譲神話、神武天皇東遷時と統一事業にかかわる場面での登場が多い。これは、高皇産霊神が日本列島統一に大変な熱意を持っていたことをうかがわせる。
高皇産霊神がかかわっている重要な神社を挙げてみると以下のようなものである。
春日神社(田川市宮尾町6番13号)
祭神 豊櫛弓削遠祖高魂産霊命(とよくしゆげのとうそたかみむすびのみこと)他、この地は饒速日尊降臨伝承地である。高皇産霊神が最も長い名で祀られている。
高良大社(福岡県久留米市御井町1番地)
式内社・名神大社で筑後国一宮である。福岡県久留米市の高良山にある。古くは高良玉垂命神社、高良玉垂宮などとも呼ばれた。主祭神の高良玉垂命は、武内宿禰説や藤大臣説、月神説など諸説あるが、古えより筑紫の国魂と仰がれていることから饒速日尊と思われる。筑後一円はもとより、肥前にも有明海に近い地域を中心に信仰圏を持つ。高良山にはもともと高皇産霊神(高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。高牟礼から音が転じ、「高良」山と呼ばれるようになったという説もある。現在もともとの氏神だった高木神は麓の二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座する。
高木神社(嘉麻市小野谷1580番)
祭神 高御産巣日神、神武天皇が東遷時ここにやってきて高皇産霊神を祀った。福岡県神社誌には、「本村は往昔、英彦山神社の神領地なりし依て英彦山に於いては当社を英彦山四十八大行事社の中にして本社はその首班に位せり。各地にある大行事社今は皆高木神社という。」 とある。
以下はその高木神社であろう。
高木神社 田川郡添田町大字津野6717番の1
高木神社 田川郡添田町落合3583番
高木神社 田川郡添田町津野2227
高木神社 田川郡大任町大行事118番
高木神社 田川郡大任町大行事2496-1
高木神社 嘉麻市熊ヶ畑1075番
高木神社 嘉麻市桑野2588番
高木神社 嘉麻市小野谷1580番
高木神社 嘉麻市桑野1399番
高木神社 嘉麻市平217番
高木神社 久留米市田主丸町豊城1088番
高木神社 宮若市黒丸1572番
高木神社 京都郡みやこ町犀川上伊良原字向田308番
高木神社 京都郡みやこ町犀川下伊良原字荒良鬼1594番
高木神社 築上郡築上町船迫字水上1133番
高木神社 筑紫野市大石字上ノ屋敷569番
高木神社 筑紫野市天山字山畑241番
高木神社 朝倉郡東峰村小石原鼓978-8
高木神社 朝倉郡東峰村宝珠山24番
高木神社 朝倉郡東峰村小石原655番
高木神社 朝倉市佐田377番
高木神社 朝倉市黒川1806番
高木神社 朝倉市黒川3328番
高木神社 朝倉市佐田2953番
高木神社 朝倉市江川1201-1
高木神社 朝倉市杷木白木172番
高木神社 朝倉市杷木赤谷744番
高木神社 朝倉市杷木松末2784番
高木神社 朝倉市須川1683番 
『 太宰管内志 』
「上代、彦山に領じたり地には、其神社を建て限とす。是を七大行事ノ社と云。其今ものこれり。七大行事と云は、日田郡 夜開(よあけ)郷 林村の大行事、又鶴河内村の大行事、筑前国上座郡福井村の大行事、同郡小石原村の大行事、豊前国田川郡添田村の大行事、下毛郡山国郷守実村の大行事などなり。此社今も有て神官是を守れり」と記している。この英彦山大行事社 は、弘仁13年(822)神領七里四方に48か所設けられたと伝承され、山内大行事社、六峰内大行事社、山麓大行事社、各村大行事社から成っており、七大行事社は山麓大行事社のことで、神領の最も外側にあり、またそれは参道の入口ともいえるところに作られている」
英彦山産霊神社(英彦山山頂付近) 
往古高皇産霊尊鎮座の旧知であるという伝承があって、文武天皇時代に再建されたという。
昔の英彦山の神領域の境界に大行事社を作り、その大行事社が高木神社であるというのである。地図上にプロットしてみると福岡県側にしかなく、すべて英彦山の北西部一帯の英彦山を中心とする半径45kmの北西部半円内に収まっている。前述の春日神社、高良大社もこの領域にある。また、高木神社の首班と言われている嘉麻市小野谷の高木神社を中心とする半径30kmの円内にすべての高木神社及び春日神社、高良大社が収まっている。
嘉麻市小野谷の高木神社はすべての高木神社の首班であると同時に神武天皇が創始している。神武天皇はわざわざこの地にやってきて、高皇産霊神を祀っているので、それなりの由緒ある場所であることには間違いがないであろう。
高良大社の伝承では本来ここには高皇産霊神が祭られており、饒速日尊がやってきてこの地を譲ったことになっている。饒速日尊(この時は大歳命)がこの地にやってきたのはAD10年頃で饒速日尊15歳程であったと思われる。これは、この地がもともと高皇産霊神の支配地域であったが、素盞嗚尊・饒速日尊の日本列島統一事業の考え方に強く同調し、自らの土地を献上したと考えられる。高皇産霊神は日本列島統一事業によほど強く同意したのであろう。そうでなければ自分の支配地を快く献上するなどと言うことは考えられない。高皇産霊神は自分の支配領域を献上した後、饒速日尊の天孫降臨に自らの子を4人も参加させるなど統一政策に積極的にかかわっているのである。
高皇産霊神に関して他の神と異なる点がいくつか存在している。高天原の事実上の最高神であること。皇居内八神殿の第二殿で祀られていること。数多くの神社に祭られていながら、具体的行動を示す伝承が存在しない。などである。また、娘の栲幡千千姫命を天忍穂耳命の妻としているので、日向津姫や饒速日尊とほぼ同世代で西暦紀元頃の誕生と考えられる。饒速日尊死後大合併論議の中で、大和に使者の味耜高彦根命を送っているので少なくともAD70年頃までは生存していたと思われる。
高皇産霊神の子孫の世代ごとの該当人物を見てみると
 
 

一世

二世

三世

四世

五世

 

AD紀元頃
生誕

AD25年頃
生誕

AD50年頃
生誕

AD75年頃
生誕

AD100年頃
生誕

AD125年頃
生誕

 

高皇産霊神

思兼命

天表春命

阿豆佐美命

加弥夜須命

阿智別命

阿智氏

栲幡千千姫命

         

三穂津姫

         

天太玉命

天櫛耳命

天櫛耳命
天鈿女命

天富命

弥麻爾支命

忌部氏

天活玉命

天神立命
天三降命

陶津耳命
菟狭津彦命

玉依彦命

剣根命

葛城氏
宇佐氏

天忍日命

天津彦日中咋命

道臣命

味日命

稚日臣命

 

日向津姫
饒速日尊

事代主命
天忍穂耳命
鵜茅草葺不合尊
猿田彦命

神武天皇

神武天皇

綏靖天皇
安寧天皇
懿徳天皇

孝昭天皇

 

大体世代が一致している。天神立命は高皇産霊神の子であるという異説もあり、この神もマレビトと思われる。天三降命は宗像三女神との説もある。また、天富命は神武天皇時代に活躍したことが伝えられている。これらの神の系統は上の表で一列左にずれる可能性を持っている。そうすると、天櫛耳命も高皇産霊神の子である可能性が出てくる。神武天皇と同世代と思われる人物は三世の人物なのである。これらの系図が正しいとなれば高皇産霊神はもう一世代上で、素盞嗚尊と同世代(BC30年頃生誕)でなければならないことになる。さらに複雑となっているのは大伴氏の系図である。
一般に大伴氏は高皇産霊神→天忍日命→天津彦日中咋命→道臣命と言われているが、『古屋家家譜』によると、
高皇産霊神→安牟須比命─香都知命─天雷命─天石門別安国玉主命─天押日命─天押人命─天日咋命─刺田比古命─道臣命
となっている。道臣命が神武天皇と同世代なので、AD50年頃誕生とすれば、高皇産霊神は9世前なので、一世平均30年とするとBC220年頃の生誕の人物となる。
賀茂氏系図では 高魂命−伊久魂命−天押立命−陶津耳命(神武天皇と同世代)より、高魂命はBC40年頃生誕となる。
このように高皇産霊神の子孫から逆算した高皇産霊神の生存年代がばらばらになってしまうのである。BC40年頃生誕でAD70年頃まで活躍したとすれば、高皇産霊神は100歳程度生きたことになる。絶対にあり得ないとは言わないが、まず、あり得ない話である。古事記には高皇産霊神は独神で隠身であったと言われていることから、この神は特定の人物を指しているのではなく、系統名ではないかと考えられる。おそらく天御中主神・神皇産霊神も系統名であろう。 
神皇産霊神
まず、神皇産霊神はその系統を見てみることにする。
出雲神話によく登場し少彦名命の父、と言われている。
賀茂氏系図では神皇産霊神→天神玉命→天櫛玉命→鴨建角耳命(神武天皇と同世代)となっており、神皇産霊神もBC40年頃生誕の人物となる。天神玉命も天櫛玉命も饒速日尊の天孫降臨のメンバーである。
神皇産霊神は出雲の御祖神とされる神魂命と同神と言われている。『出雲国風土記』では、支佐加比賣命、八尋鉾長依日子命、宇奈加比賣命、天の御鳥命の親神となっている。楯縫郡の条においては「天の下造らしし大神のために、柱は高く板は厚く、十分にととのった宮殿を造り奉れ」と詔し、天御鳥命を天降りさせる。また、神魂命は大国主神の危難を救った神として、出雲大社本殿では客神として、境外社・神魂伊能知奴志神社(命主神社)では祭神として祀られているが、出雲の御祖神でありながらなぜか現在の出雲において主祭神一、配祀八、境内(外)社三と祀られている社は意外に少ない。唯一主祭神として祀られているのが高宮神社である。また、佐太大神(猿田彦)の祖母が神皇産霊神であると伝えられている。
生馬神社伝承
八尋鉾長依日子の命は、神魂尊の御子にあらせられ、国土開発経営に際し、殊の外力をいれ拓殖の道を開き給う。 神魂命の子どもである私は、平明かに憤まず(怒らない)」と言ったのでこの土地を生馬(いくま)ということになった
法吉の地名説話
神魂命の御子である宇武加比賣命が法吉鳥(鶯といわれる)になって飛び渡り、ここに静かに坐したからホホキと名づけた。
古事記
ウムカヒは大蛤のことを表すといい、『古事記』にはオオナムチが兄弟神に迫害され大火傷を負った時、カミムスビがこの神を遣し、 貝殻の粉を集め蛤の汁で溶いて塗り治療したと、古代火傷の民間治療法の説話を残す。
これら伝承をまとめてみると、神皇産霊神は素盞嗚尊の影が色濃い。神皇産霊神=素盞嗚尊かとも思える。しかし、常世国から渡ってきた少彦名命が神皇産霊神の子である。また、母神(女神)であると伝わっていることや、佐太大神(猿田彦)の祖母であるので、素盞嗚尊と同世代の別人物とも考えられる。
これらのことから判断すると、神皇産霊神は個人名ではなく朝鮮半島からの渡来神の系統を指しているように思える。 
秦の徐福
それでは、高皇産霊神はどういった人々の系統に属するのであろうか。『古屋家家譜』による大伴氏の系統をたどるとBC200年頃の人物となること、元の本拠地が高良大社の地であること、日本列島平和統一に対して異常な執念を燃やしている、ことなどを総合して考えると、浮かび上がって来る人物が存在する。それは、秦の徐福である。ここで、高皇産霊神=秦徐福の系統であるとして、その可能性を追ってみたいと思う。
中国での徐福
徐福は秦の時代の中国でBC278年に誕生したと言われている。徐福の身分は方士で、不老長寿の呪術、祈祷、医薬、占星術、天文学に通じた学者であった。
中国では1982年に江蘇省連雲港市において「徐阜(じょふ)村」が発見され、そこが以前は「徐福村」と呼ばれており、現地で確かに徐福伝説が伝承されていることが確認され、徐福出生の地として「徐福祠」が建設された。伝説上の人物ではなく、歴史上の人物として認定されたのである。
当時中国は秦と呼ばれた時代で始皇帝が中国を支配していた。始皇帝は不老不死の仙薬を求めており、徐福に仙薬の入手を命じたのである。
徐福は秦に滅ぼされた斉の国の出身であったが、始皇帝の命に背くことは出来ず、東方に仙薬を求めて渡海することを決心した。
司馬遷の『史記』に、「東方の遥か海上に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛州(えいしゅう) という3つの神山があり、ここには仙人がすんでいます。童男童女とともに不老不死の仙薬を捜しに行くことをお許し下さい。」と徐福が願い出たと記述されている。
始皇帝は、童男童女三千人、五穀の種子、百工(各種技術者)を派遣し、徐福に託した。徐福は紀元前219年、童男童女三千人、職人百人及び武士を引き連れて、五穀の種とシルクを船に乗せ、東に向かって渡航したのである。
日本上陸
徐福一行は途中様々な苦難を乗り越えて、杵島の竜王崎(佐賀県佐賀市白石町)に最初にたどり着いた。ここは上陸するには困難な場所であった。上陸が困難なので、徐福一行は海岸線をたどって佐賀県の諸富町大字寺井津字搦(からみ)に初めて上陸したとされている。一行が上陸した場所は筑後川河口にあたり、当時は一面の葦原で、それを手でかき分けながら進んだという。
一行はきれいな水を得るために井戸を掘り、上陸して汚れた手をその水で洗ったので「御手洗井戸」と呼んだ。この井戸は今でも寺井地区の民家の庭に残っている。寺井の地名は「手洗い」が訛ったものと言われている。この井戸は言い伝えに基づいて大正時代に調査が行われ、井の字型の角丸太と5個の石が発見され、徐福の掘った井戸に間違いはないとされた。
しばらく滞在していた徐福一行は、漁師が漁網に渋柿の汁を塗るため、その臭いにがまんができず、この地を去ることにした。去るとき、何か記念に残るものはと考え、中国から持ってきた「ビャクシン」の種を植えた。樹齢2200年以上経った今も元気な葉をつけている。この地域では、新北神社のご神木でもあるビャクシンは国内ではここと伊豆半島の大瀬崎一帯にしかないと言われ、共に徐福伝説を持っている。このことも徐福伝説が真実であることを証明している。
一行は北に向かって歩き始めたが、この地は広大な干潟地であり、とにかく歩きにくい所だったので、持ってきた布を地面に敷いてその上を歩いた。ちょうど千反の布を使い切ったので、ここを「千布」と呼んだ。使った布は、千駄ヶ原又は千布塚と言うところで処分したという。
千布に住む源蔵という者が、金立山への道を知っていると言ったので、不老不死の薬を探すために、徐福は源蔵の案内で山に入ることにした。
百姓源蔵屋敷は田の一角にあった。現在その場所は不明だが、源蔵には阿辰(おたつ)という美しい娘がいました。徐福が金立町に滞在中、阿辰が身の回りの世話をしていたが、やがて徐福を愛するようになった。徐福は金立山からもどったら、「5年後にまた帰ってくるから」と言い残して村を去ったが、阿辰は「50年後に帰る」と聞き間違え、悲しみのあまり入水してしまった。村人はそんな阿辰を偲んで像をつくり、阿辰観音として祀った。
徐福はいよいよ金立山に入った。金立山の木々をかき分けて不老不死の薬を探したが見つけることは出来なかった。
やがて徐福は釜で何か湯がいている白髪で童顔の仙人に出会った。この仙人に不老不死の薬を探し求めて歩き回っていることを伝え、薬草はどこにあるかと尋ねると、「釜の中を見ろ」と言われた。そこには薬草があり、仙人は「私は1000年も前から飲んでいるから丈夫だ。薬草は谷間の大木の根に生えている」と言うと、釜を残して徐福の目の前から湯気とともに一瞬に消えてしまった。こうして徐福はついに仙薬を手に入れることに成功した。
仙人が釜で湯がいていたのはフロフキという薬草だった。フロフキは煎じて飲めば腹痛や頭痛に効果があると言われているカンアオイという植物で、金立山の山奥に今でも自生している。
金立山には金立神社がある。祭神は保食神、岡象売女命と徐福である。以前は徐福だけを祭神としていたそうである。
徐福は金立山で不老不死の仙薬を探し求めたが結局見つけることができなかったので、ここを出発し、各地方に人々を派遣し薬を探し求めた。徐福は山梨県の富士吉田市までたどり着いたが、薬は見つからなかった。このまま国へ帰ることができず、徐福はここに永住することを決意した。連れてきた童子300〜500人を奴僕として河口湖の北岸の里で農地開拓をした。この地の娘を妻として帰化し、村人には養蚕・機織り・農業技術などを教えたが、BC208年ここで亡くなったという。亡くなって後も鶴になって村人を護ったので、ここの地名を都留郡と呼ぶようになった。
富士吉田市には「富士古文書(宮下古文書)」が残っており、徐福の行動が詳しく記されている。
「甲斐絹」は山梨の織物として知られている。富士吉田市を含む富士山の北麓は千年以上前から織物が盛んだった。この技術を伝えたのが、中国からやってきた徐福であったと伝えられているのであっる。富士山北麓地域の人たちは富士吉田市の鶴塚を徐福の墓としている。
以上が徐福伝承のあらましである。徐福はこのほか九州から関東までの太平洋岸と日本海岸では丹後と秋田・青森に伝承を残している。この地域で不老不死の薬を探しまわったのであろう。
吉野ヶ里遺跡
徐福自身は山梨県の富士吉田市で亡くなっているようであるが、佐賀県の金立山周辺には一行の何人かが残ったと思われる。この徐福伝承地のすぐそばに吉野ヶ里遺跡がある。両者は直線距離で8km程離れている。
吉野ヶ里遺跡は徐福が来日した紀元前3世紀ごろに急に巨大化している。吉野ヶ里遺跡は発掘されている巨大遺跡であるが、神話伝承とのつながりが全くない。素盞嗚尊・饒速日尊の統一事業の前に巨大化していたためと思われる。出土した人骨を分析した結果によると、中国の江南の人骨と吉野ヶ里の人骨とが非常に似ているということが分かった。また、吉野ヶ里から発見された絹は、前二世紀頃江南に飼われていた四眠蚕の絹であり、当時の中国は養蚕法をはじめ、蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じていた。それが日本国内で見つかったということは、吉野ヶ里遺跡を形成した一族は単なるボートピープルではなく、余程の大人物が中国から最初に持ちだしたことを意味する。時期、場所を考えるとその人物が徐福一行である可能性は高い。徐福と別れ、この地に残った人々が吉野ヶ里遺跡を形成したと考えられるのである。
吉野ヶ里遺跡はかなり戦闘を意識した遺跡である。弥生時代最大級の環濠集落であり、巨大な物見櫓、高床式倉庫群、そしてひしめく住居跡や、幾重にもめぐらした環濠跡ある。また、埋葬されたおびただしい数の甕棺墓の中には、頭部のないものや矢を打ち込まれたものなど戦死者と考えられる人骨が多数存在している。
弥生時代中期までは戦闘を目的とした武器が出土する。北九州は集落どおしの戦闘状態にあったことは確かであろう。ところが、素盞嗚尊・饒速日尊が訪問してきた弥生時代中期末以降急速に、平和状態になったようである。武器は祭器化し、環濠集落も消滅したのである。
高良大社との関係
吉野ヶ里遺跡から直線で16km程離れた位置に高良大社がある。現在でも高良大社は吉野ヶ里遺跡付近に住む人々の信仰対象となっているのである。高良大社の背後にある高良山は筑紫平野一帯を一望できる山である。吉野ヶ里遺跡に住んでいる人たちは、その持っている先進技術のためか、周辺の集落から襲撃をよく受けていたのではないだろうか、出土状況はそれを裏付けている。そのような時、周辺の集落の動向を探るには高良山は理想の位置にある。吉野ヶ里遺跡に住んでいる人々が高良山を支配下に置こうとするのは理解できる。高良山から四方を見渡して、周辺の集落の動向を探っていたことは十分に考えられるのである。
饒速日尊がこの地にやってきたのはAD10年頃で、徐福がいたころから200年ほどたっている。1世代30年ほどとして、200年は7世ほどである。当然ながら200年前の記憶は残っていたであろうし、この地に住んでいた人々は徐福の子孫であることを自負していたのではないだろうか。
徐福がこの地に着いて、吉野ヶ里遺跡を形成してから、周りからの襲撃を頻繁に受けており、戦いにはうんざりしていたことであろう。また、徐福は中国にいる頃、中国の戦国時代で戦いの中で育ってきており、秦に敗れた斉の出身である。戦争の悲惨さは身にしみて感じていたと思われる。しかし、吉野ヶ里遺跡の状況からみて防御中心であり、周辺の集落を襲撃して国として統一しようとしていたようには見えない。吉野ヶ里遺跡の人々は先進技術を持っている上に武士を引き連れていたのであるから、周辺の国々を併合して統一国家を作ることは可能だったと思われる。戦いを好まない徐福の性格が、ここの人々に侵略戦争を仕掛けてはならないことを伝えていたのであろう。
この人々こそ高皇産霊神と呼ばれた人々ではないかと考えている。高皇産霊神としては、頻繁に襲撃を受けてはたまらないがこちらから戦争をしかけてはならない。こういった状況は何とかならないかと思っていたことであろう。そういったところに素盞嗚尊・饒速日尊が平和統一の提案をしたのである。高皇産霊神としてはこの案に飛びつくのは当然である。迷うことなく、自らの造った国をすべて献上して、饒速日尊の統一事業に協力するというより、主体的に動くことになるのである。
高皇産霊神は筑紫平野一帯を主体的に統一し、自らの持つ先進技術を周辺の国々に伝えていった。高皇産霊神の尽力により北九州は一部を除いて一挙に統一されたのである。AD25年頃、饒速日尊が大和に降臨して東日本全域を統一する計画を持ちかけた時、自分の子をはじめとする、多くの人々を従えさせた。饒速日尊が率いていったと言われる物部氏の旧蹟地は、上記の高木神社の存在範囲とほぼ完全に一致している。これも高皇産霊神の協力があったことをうかがわせる。また、BC200年頃、徐福一行が立ち寄った地にはその子孫が生活していることであろうから、それらの人々に協力させることも行ったと思われる。徐福伝説地は東日本太平洋岸に多いが、この地域の統一に饒速日尊は大して苦労した様子もないことから、これら人々の協力があったのかもしれない。
素盞嗚尊・饒速日尊は神皇産霊神に相当し、徐福の子孫は高皇産霊神に相当する。共にムスビの神である。協力し合って、日本列島統一をしたので、このように呼ばれることになったのかもしれない。皇居八神殿の第一殿に神皇産霊神、第二殿に高皇産霊神が祭られているのも当然であろう。姿が見えない神であるというのも系統を指しているためと理解できる。 
秦氏
徐福の子孫と言われているのが秦氏である。その根拠はないが、そう伝えられているのである。この秦氏が大々的に祭祀した神社は、
1 松尾大社
2 伏見稲荷大社
3 木嶋坐天照御魂神社
松尾大社の祭神は大山咋命で、大歳神の子神である。この神は大歳命(饒速日尊)の子猿田彦命と思われる。伏見稲荷大社の祭神は宇迦之御魂大神で、この神は饒速日尊と思われる。木嶋坐天照御魂神社は天御中主命・大国魂命であるが、『神社志料』によると、天火明命となっている。何れも饒速日尊と考えている。他に四国の「金刀比羅宮」は、昔「旗宮(秦宮)」と呼ばれており、秦氏の神社と考えられ、白山信仰や愛宕信仰も開祖が修験者の「三神泰澄(秦泰澄)」であり、白山神社や愛宕神社も全国に末社を持ち、これも秦氏関連神社と取れる。愛宕神は火雷神で、建御雷神=饒速日尊と思われる。これらより、秦氏は饒速日尊を強く祭祀していることが分かる。
秦氏の氏神社とされる大酒神社は仲哀天皇8年(日本書紀356年)、秦の始皇帝の14世の孫という功満王なる人物が、中国の戦乱を避け、日本列島へ渡来してこの地に神社を勧請したのが始まりと伝えられている。また、大酒神社は昔、大避神社と読んでいたが、これは功満王の「戦乱を避ける」の「避」にちなんだ社号だといわれている。
さらに応神天皇14年(日本書紀372年)、功満王の息子にあたる弓月王(ゆんづのきみ)という人物が、百済から127県18670人の人々を 従えて、大和朝廷に帰化した、と社伝や『記紀』にも記載されている。秦氏はこれら中国系住民を指し、各地に住んで機織りなどの技術で多大の貢献をすることになった。
しかし、秦氏が多く住んでいたとされる地域から発掘された瓦はそのほとんどが「新羅系」であり、秦氏の氏寺として知られる「広隆寺」にある「弥勒菩薩半迦思惟像」も、朝鮮半島の新羅地区で出土した弥勒菩薩半迦思惟像とそっくりである、また、広隆寺の仏像の材料として使われている赤松は、新羅領域の赤松であることが判明している。これは秦氏は新羅系の一族と言うことになり、これが定説となっている。
秦氏が新羅からの渡来人だとすると、なぜ、日本古来の神の饒速日尊を大々的に祭祀したのであろうか?大きな疑問として残る。越智─河野氏の家伝書『水里玄義』の「越智姓」の項の「内伝」では、秦の徐福を祖とするとあり、一方、「外伝」として、『新撰姓氏録』(弘仁六年〔八一五〕の成書)には神饒速日命を祖とする越智直の記述があると書かれている。また、この家伝書の編者・土井通安は、「秦忌寸、神饒速日命より出つ、越智直も同神に出つ」と述べている。これだけを見れば、饒速日尊=徐福と取れるような内容である。
これらの秦氏にかかわる謎はどう解釈すればよいのであろうか。秦始皇帝の子孫、新羅の一族・徐福(饒速日尊)の子孫の3系統存在するようである。そのどれも一方的に否定してしまうと説明できない矛盾を生じてしまうのである。そこで鍵となるのが功満王が秦の始皇帝の14世の孫ということである。1世平均28年程度とすると、14世は約400年に該当し、AD180年頃の人物になってしまうのである。大酒神社の伝承とは約200年のずれが生じる。14世というのが誤りであるとすれば問題ないが、真実ならどうなるのであろうか、仲哀天皇8年は日本書紀の年代では199年に相当、180年にかなり近い年代である。実際に来日したのはこの年ではないだろうか。AD199年頃は中国で黄巾の乱が起こり、三国時代の始まりの時期で戦乱期に当たる。戦乱を避けた人々は、日本列島だけでなく朝鮮半島にも多数流れ込んだことであろう。功満王・弓月王一族が大挙来日したのは、日本で倭の大乱が終結した直後ではないだろうか、倭の大乱終結後、日本列島では吉備国を中心として古墳(初期形式)の築造が始まるなど中国系の新技術がかなり導入されており、この頃中国からの大量移民があった可能性がある。この頃は記紀の記述が欠け落ちているので、199年という年代そのままで、仲哀天皇の時代に移動されている可能性も考えられる。そして、応神天皇の時代に新羅から朝鮮半島に退避していた功満王の子孫が大挙日本列島にやってきて、日本国内で両者が再び出会ったと考えれば、秦始皇帝の子孫、新羅の一族の両側面を持つことが説明できる。
魏書辰韓伝の古老伝は、秦からの脱国民が「馬韓の東」に住みついて、それが辰韓だとしている。この辰韓のあとが新羅である。新羅文化には、秦に滅ぼされた徐福の故国である斉の文化が含まれていると思われ、朝鮮半島を経由して応神天皇の時代に来日した秦一族が新羅文化を持っていることが裏付けられる。また、魏志倭人伝によると卑弥呼は国産の絹を魏王に献上している。これも、199年に秦一族が来日しているとすれば説明できる。
徐福の子孫はその姓「徐」を名乗ることを禁止されていた。「徐」を名乗ることによって始皇帝からの追求をされることを恐れたからである。そのため、日本列島内でも徐福の子孫のその後については、謎になっているのである。国内でこの三系統の秦氏が一体化していることは秦始皇帝の子孫の功満王というのも実は徐福の子孫ということも考えられる。徐福の子孫なら、自ら徐福の子孫であることを名乗るはずもなく、徐福の王であった始皇帝の子孫と名乗る可能性は十分にある。そうだとすれば三系統の秦氏はすべて徐福の子孫となり、時代の違いを超えて日本列島で再会したと言える。これが真実だとすれば、上記の矛盾は一つを残してすべて解決するのである。
最後の疑問、それは秦氏に饒速日尊の影があることである。秦忌寸の徐福の子孫、饒速日尊の子孫とはどういうことであろうか。秦忌寸が徐福の子孫であれば饒速日尊の子孫にはならない。饒速日尊と徐福は明らかに別系統のためである。ところが秦一族は饒速日尊と大々的に祭祀しているのである。祖先でもないのになぜ祭祀するのであろうか?通常は考えられないのであるが、唯一つ、秦一族が饒速日尊から大変な恩義を受けていて、かつ親戚関係にあったとすれば、このようになることが考えられる。
饒速日尊から恩義を受けている氏族の筆頭は物部氏であろう。物部氏の祖は饒速日尊であるが、単純にそれだけではない。饒速日尊が大和に降臨する時に数多くのマレビトを連れてきているが、このマレビトも物部氏なのである。秦忌寸の祖がこのマレビトであったとすると秦忌寸の祖は秦徐福であると同時に饒速日尊と伝えられることは十分に考えられる。このマレビトの故郷は北九州の遠賀川上中流域・筑後川流域に集中している。まさに、この領域こそ高木神社が分布している領域なのである。また、高皇産霊神は自らの子6人のうち3人(思兼命・天太玉命・天活玉命)をもマレビトとして饒速日尊に随伴させている。また、娘の三穂津姫を饒速日尊の妻としているのである。高皇産霊神と饒速日尊は大変深い関係にあることになる。このことから、秦忌寸の先祖はこの高皇産霊神と考えるのが最も自然となる。
秦氏と関係の深い氏族を挙げると第一に賀茂氏の名が挙がってくる。「伏見稲荷大社」は、全国の稲荷大社の総本山である。そして、それを創建したのが 秦伊呂具と言う人である。その伊呂具の父は「秦鯨」と呼ばれている。また、賀茂氏には、賀茂久治良なる人物がおり、賀茂氏の伝承によれば、両者は同一人物で、秦伊呂具も、もとは賀茂伊呂具と言ったそうである。その兄弟が賀茂都理で、後に秦都理を名乗ったとされ、彼らは、同じ一族で、姓を使い分けていたようである。そして、下鴨神社は、最初に秦氏が祀っていたが、賀茂氏が秦氏の婿となり、祭祀権を賀茂氏に譲ったと伝承されている。これによると秦氏は賀茂氏の分派と言うことになる。 
賀茂氏の系図は2系統ある。
1高魂命−伊久魂命−天押立命−陶津耳命−玉依彦命
      (生魂命) (神櫛玉命)(建角身命)        
                    (三島溝杭耳命)
                                 ┌鴨建玉依彦命
2神皇産霊尊−天神玉命−天櫛玉命−鴨建角身命┤
                          (八咫烏) └玉依姫─賀茂別雷命

 この2系統をつなぐものとして鴨氏始祖伝がある。
高皇産霊尊   ┌高皇産霊神――天太玉命――天石戸別命――天富命
   ├――――┤
神皇産霊尊   └天神玉命―――天櫛玉命――天神魂命――櫛玉命――天八咫烏
 両者をつなぐと次のように推定される。

高皇産霊尊   ┌高皇産霊神――天太玉命――天石戸別命――天富命
   ├――――┤
神皇産霊尊   └天神玉命―――天櫛玉命――天八咫烏
            (天活玉命)            (鴨建角身命)
このように考えると矛盾しているように見える上の2系統がつながるのである。先に高皇産霊神はBC30年頃誕生でAD70年頃まで生存して、その期間が長すぎることを述べたが、この系図が真実だとすると、その疑問は解消する。高皇産霊神は2代続いた名であるということである。これも高皇産霊神が系統名であることを示している。初代の高皇産霊尊が神皇産霊尊を妻としているが、これは、朝鮮半島系の人物を妻としたことを意味しているのではないかと思う。天神玉命は饒速日尊に従って大和に降臨したマレビトである。これをみるとまさに賀茂氏の祖は高皇産霊神であり、それは、秦氏の祖が高皇産霊神であることを意味している。秦氏の祖が徐福であることを考えると高皇産霊神は徐福の子孫ということになる。 
高皇産霊神の子孫の系統の修正
 
 

一世

二世

三世

四世

五世

 

BC30
生誕

紀元頃頃
生誕

AD25年頃
生誕

AD50年頃
生誕

AD75年頃
生誕

AD100年頃
生誕

 

高皇産霊尊

思兼命

天表春命

阿豆佐美命

加弥夜須命

阿智別命

阿智氏

高皇産霊神

栲幡千千姫命

       

三穂津姫

       

天太玉命

天岩戸別命

天富命

弥麻爾支命

忌部氏

天活玉命

天神立命
天三降命

陶津耳命
菟狭津彦命

玉依彦命

剣根命

葛城氏
宇佐氏

天忍日命

天津彦日中咋命

道臣命

味日命

稚日臣命

大伴氏

素盞嗚尊

日向津姫
饒速日尊

事代主命
天忍穂耳命
鵜茅草葺不合尊
猿田彦命

神武天皇

綏靖天皇
安寧天皇
懿徳天皇

孝昭天皇

 

上の表のように高皇産霊神が2代存在すれば、周辺人物の年代がすっきり収まるのである。
高皇産霊尊の子供たち
高皇産霊尊
高皇産霊尊はBC30年頃誕生しており、饒速日尊が北九州統一に来る前は高良山の麓の高良大社の地を本拠地として周辺を統治していたと思われる。AD10年頃饒速日尊がこの地を訪れ平和統一の交渉をした時、高皇産霊尊はこの考えに強く感銘し、自らの統治領域を献上した。饒速日尊から遠賀川流域・筑後川流域・豊国の統治を任され、この地方を中心に統治し、自らの持つ徐福から受け継いだ技術、饒速日尊から受け継いだ技術を周辺の人々に伝授し各種技術者を次々と育て上げた。
高皇産霊尊の持つ先進技術は素盞嗚尊・饒速日尊が朝鮮半島から取り入れた先進技術以上のものがあったのではないかと推察している。徐福は秦の学者であり、当時の中国における最高の技術を持った人物である。また、それを補佐する人物を3000人も日本列島に連れてきているのである。BC200年頃とはいえ、中国から朝鮮半島に流れ込む技術よりも早く、日本列島にたどり着いていることが容易に想像できる。日本列島に高度な技術が流入するのに最高の条件だったと言えよう。その高度な技術は徐福から門外不出とされており、周辺の地域には伝わっていなかった。そして、その高度な技術ゆえに吉野ヶ里は周辺国からよく襲撃されていたのではないだろうか。そういった事情があったために饒速日尊の日本列島平和統一に強く感銘し、徐福の子孫として高皇産霊尊が一族を挙げて全面協力すべき大事業と考えたのであろう。
徐福の元来の目的が不老長寿の薬探しであるから、地方に散っていった徐福の子孫たちはそのうちの誰かが不老長寿の薬見つけることができた時、他の同族たちと連携をとる必要があったと思われる。このため、高皇産霊尊は東日本地域に移動していった同族たちと数年置きぐらいに互いに連絡を取り合っていたと思われる。饒速日尊の日本列島統一の考え方に同調した高皇産霊神は当然ながら地方に散っていった仲間たちにもそのことを連絡し、饒速日尊に協力することを要請したと思われる。徐福が上陸したと言われている地域は東海地方の太平洋沿岸地域に多く、饒速日尊はこの地域をかなりスムーズに統一しているようなので、このことが裏付けられる。
高高皇産霊尊は饒速日尊に東日本の情勢を知らせ、彼にマレビトを連れて大和に降臨することを勧めたのではないだろうか?AD25年頃、饒速日尊はマレビトを連れて高皇産霊尊の統治領域と重なる地域から数多くの人々を引き連れて大和に降臨している。このマレビトは高皇産霊尊に育て上げられた技術者であろう。高皇産霊尊は自らの子の思兼命・天活玉命・天忍日命をマレビトとして饒速日尊に随行させたのである。高皇産霊尊は饒速日尊一行の出立を見届けてからAD25年頃、亡くなったものと思われる。このとき、出雲の猿田彦命に北九州西半分の統治権を譲ったのであろう。 
高皇産霊神
名前からして高皇産霊神が嫡子であると思われる。記紀に記述されている高皇産霊神とはこの人物であろう。紀元前後に誕生し出雲国譲りを決行し、西倭国・日本国の大合併を企画した人物で神話では天照大神と共に行動している。高皇産霊神は高皇産霊尊の統治領域をそのまま引き継いだ、AD15年頃には高皇産霊尊より豊国地方を任されていたと思われる。豊国の宇佐地方は素盞嗚尊の北九州統一の拠点となった処で、重要地域であったが、素盞嗚尊は高皇産霊神を信頼し、彼に統治を任せたのであろう。その後素盞嗚尊は豊国地方の安心院を倭国の都にしようとして、ここで日向津姫と共に生活することになった。高皇産霊神はさまざまの面で協力していたことであろう。素盞嗚尊が出雲に去った後は日向津姫と共に倭国の統治をすることになった。
AD25年頃日向津姫が南九州薩摩・大隅地方統一のために日向に向かうことになった。これを勧めたのも高皇産霊神と思われる。高皇産霊神は娘の栲幡千千姫命を日向津姫の長子である天忍穂耳命と結婚させ、天忍穂耳命を自らの養子として育てた。高皇産霊神は天忍穂耳命を引き連れて、今川を遡り吾勝野の開拓をした。高皇産霊神は天忍穂耳命と共に英彦山に頻繁に登頂したことであろう。英彦山山頂から自らの統治領域を眺めていたと思われる。高皇産霊神・天忍穂耳の活躍した領域は現在の田川市・飯塚市・嘉麻市・朝倉市・うきは市あたりであろう。
AD45年頃大国主命が亡くなり、出雲国譲り会議を出雲で主催し、今後の日本列島統一の道筋を話し合った。この会議で天忍穂耳命を西倭国王とすることになっていたが、天忍穂耳命はこの時急死してしまった。高皇産霊神は急遽次子瓊々杵命に北九州全域を任せることにし、猿田彦に国を譲らせた。 その後自らは日向津姫と共に国分の鹿児島神宮の地で倭国統一のために尽力し、AD70年頃この地で亡くなったものであろう。また、高皇産霊神は天照大神(日向津姫)が皇祖神となる以前の皇祖神といわれており、日向津姫の末子である鵜茅草葺不合尊は素盞嗚尊ではなく、高皇産霊神と日向津姫との間にできた子である可能性が高いといえる。 
思兼命
思兼命の伝承はホツマツタエに詳しい。ホツマツタエはどこまで正確かわからないのであるが、「紀伊国に住んでいた天照大神の妹の和歌姫に恋い焦がれ、紀伊国にて和歌姫と結ばれた。その後、野洲宮で新婚生活を送り、信濃国の阿智にて亡くなった。」と言うようなことが記されている。
和歌姫と言うのは稚日女命で別名「丹生都比売大神」とも云われている。丹生都比売神社の由緒によると、「神代に紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座された。」となっている。彼女が紀州の地で独身時代に住んでいた宮の跡は、和歌山県和歌山市和歌浦中3−4−26の玉津島神社の地とされている。
この和歌姫とは誰なのであろうか、天照大神の妹と言われているが、天照大神が日向津姫であるなら九州から饒速日尊と共にやってきたマレビトの1人となるが、女性であるからマレビトとは考えにくい。ホツマツタエでは伊邪那岐・伊邪那美命の娘となっているが、紀伊国に最初から住んでいた人物のようである。伊邪那岐・伊邪那美命は素盞嗚尊と共に紀伊国統一のためにやってきている。伝承によると三重県熊野市有馬町1814の産田神社で誰かが生まれている。神社には「伊奘冉尊が、ここで軻遇突智を産み亡くなったので、花の窟に葬った」と伝えられているが、伊邪那美命は紀伊国では亡くなっておらず、日本書紀の記述が入り込んだものと考えられる。この産田神社で生まれた人物が和歌姫ではないだろうか?
思兼命はこの和歌姫(丹生都姫)と結婚した。思兼命はマレビトなので、結婚後近江国野洲川河口付近の野洲宮(五社神社・滋賀県近江八幡市牧町)に滞在し、周辺の人々に最新技術を伝えた。二人の子が天御影命、天表春命である。天御影命はこの地に残り近江国の開拓に尽力した。思兼命は暫らく後、天表春命と共に美濃国美濃加茂市伊深町2635番地の2の星宮神社(祭神思兼神)の地に移動しそこを本拠として周辺を開拓した。美濃国には高皇産霊神を祭神とする神社が多く、この周辺にその子孫が滞在していたことが推察される。
AD50年頃、信濃国統一に人材不足を感じた饒速日尊から、信濃国を統一してほしいと頼まれ、一族を率いて神坂峠を越えて信濃国に入り、阿智族として信濃国伊那地方を開拓し、この地で亡くなり、長野県下伊那郡阿智村智里奥宮山 497の阿智神社奥宮の奥の川合御陵に葬られた。 
天活玉命
祭神として祀られている神社は富山県東砺波郡井波町高瀬の高瀬神社及び石川県羽咋市寺家町の気多神社ぐらいしか見当たらない。神社伝承を頼りにこの神の実態を探ることはできないので、子孫の行動をもとに推定してみることにする。
二人の子がいるが1人は天神立命で、この子孫が葛城氏・賀茂氏となっている。今一人の天三降命の子が宇佐津彦である。宇佐津彦は神武天皇が東遷時宇佐にやってきた時に天皇を歓待している。饒速日尊のマレビトとなる前に宇佐地方を統治していたのではあるまいか。
天活玉命は葛城氏の祖となっている。葛城氏は葛城山の高天彦神社を始原とし、この神社は高皇産霊神を祀っている。この神社周辺は高天原と呼ばれている。天活玉命は饒速日尊と共にマレビトとして大和国にやってきた。天活玉命の任地は葛城地方だったのであろう。また、越国の神社で祀られていることから、越国国譲りの時、越国に赴いて、国譲り後の越国の統治をしたのではないかと推定している。
天忍日命 
天忍日命は天孫降臨時瓊々杵尊の先導をした人物とされている。そして、その孫の道臣命が神武天皇の東遷時に活躍しているので、瓊々杵命に従ったのではないかと思ったのであるが、神武天皇東遷伝承でも道臣命が登場するのは紀伊半島迂回時からで、それ以前には登場していない。饒速日尊と共に大和降臨したのかもしれないと思い、近畿地方の大伴氏関連神社を調べてみると次のようなことが分かった。
刺田比古神社(和歌山市片岡町二丁目九番地・祭神道臣命・大伴佐比古命)には、「佐比古命(狭手彦命)は百済救済の武功により、道臣命の出身地たる岡の里の地を授かったという。」と記録されている。これは、道臣命は和歌山におり、神武天皇が紀伊国にやってきた時、東遷団に合流したことを意味している。これは、天忍日命も饒速日尊に従ったマレビトであり、現在の和歌山市近辺が天忍日命の任地であったことを示している。
降幡神社(南河内郡河南町山城)は『河南町誌』によれば、当地は古代豪族大伴氏の原郷であり、その祖神を祭ったとする。また、伝説によると、「太古天忍穂耳尊この地にて暫し休息せられし時この幡を降し給ひしを以て此の幡を祀りたり。」とあるが、祭神は天之忍日命であり、天忍穂耳命ではない。この伝承における天忍穂耳尊は天忍日命の間違いであると思われる。これも天忍日命がマレビトであったことを意味している。
以上より、天忍日命は父の高皇産霊尊よりマレビトになることを命じられ、饒速日尊に従って近畿地方に降臨した。淀川河口付近で饒速日尊と別れ、海岸に沿って南下し、河南町で休息し、和歌山市に赴き、その周辺にマレビトとして入り込んで技術導入して土地開発を行った。その孫の道臣命は神武天皇の名草の戦いのときに功績を挙げ、以降神武天皇に付従って大和に侵入した。その子孫は大伴氏として栄えたことが分かる。 
高皇産霊神の子供たち
栲幡千千姫命
AD25年頃誕生しており、天忍穂耳命の妻となり、天忍穂耳命は高皇産霊神の養子となっている。天忍穂耳命がAD45年頃25歳前後で亡くなっている。その後の人生は不明である。おそらく天忍穂耳命が高皇産霊神の後継者であったのであろう。
三穂津姫
饒速日尊の妻となっている。静岡県の御穂神社は羽衣で有名だが、「天孫瓊々杵尊が天降りなられた時に、自分の治めていた国土をこころよくお譲りになったので、天照大神は大国主命が二心のないことを非常にお喜びになって、高皇産霊尊の御子の中で一番みめ美しい三穂津姫命を大后とお定めになった。そこで大国主命は三穂津彦命と改名されて、御二人の神はそろって羽車に乗り新婚旅行に景勝の地、海陸要衛三保の浦に降臨されて、我が国土の隆昌と、皇室の弥栄とを守るため三保の神奈昆(天神の森)に鎮座された。」と記録されている。新婚旅行でこの地を訪れたことになっている。 
饒速日尊と結婚した時期はいつ頃であろうか、新婚旅行で来るということはこの地方が統一されていたはずであるからAD40年頃以降であろう。AD40年頃以降で饒速日尊が高皇産霊神と接触したと思われるのは、出雲での国譲り会議の時である。AD45年頃の国譲り会議の直後に結婚したものと考えられる。
島根県の美保神社で事代主命と共に、京都府亀岡市の出雲大神宮に三穂津彦と共に祭られている。三穂津姫はAD30年頃の誕生ではないかと思われ、饒速日尊死後も活躍していたと思われる。事代主命の母ではないが、事代主命が出雲に赴く時一緒に出雲に行ったのではないかと思われる。
天太玉命
安房神社の社伝「天太玉命の孫の天富命は、神武天皇の御命令を受けられ、肥沃な土地を求められ、阿波国(現徳島県)に上陸、そこに麻や穀を植えられ開拓を進められました。その後、天富命御一行は更に肥沃な土地を求めて、阿波国に住む忌部氏の一部を引き連れて海路黒潮に乗り、房総半島南端に上陸され、ここにも麻や穀を植えられました。この時、天富命は上陸地である布良浜の男神山・女神山という二つの山に、御自身の御先祖にあたる天太玉命と天比理刀当スをお祭りされており、これが現在の安房神社の起源となります。」
天太玉命は忌部氏の祖である。饒速日尊に追従してマレビトとなった。具体的行動は不明である。
天御中主神
高皇産霊神は秦徐福系の人々、神皇産霊神は出雲にやってきた朝鮮半島系の人々を指すと推定した。それでは、その神々よりも先に登場した天御中主神は何者であろうか。伊勢神道によると伊勢外宮では豊受大御神が天御中主神と伝わっている。天御中主神も饒速日尊の影を感じるが、同じように姿が見えない神なので、これも系統を示していると考えられる。
高皇産霊神や神皇産霊神より先に出現した系統として考えられるのは、日向の伊邪那岐命系である。この系統は呉の太白の子孫と言われており、紀元前5世紀に日本列島にやってきたと思われる。徐福や素盞嗚尊よりも明らかに先に日本列島に上陸しているのである。また、神武天皇はこの日向族の系統なので、高皇産霊神や神皇産霊神より上に位置するのも納得できるところがある。
大和朝廷は天御中主神(日向系)、高皇産霊神(徐福系)、神皇産霊神(朝鮮系)の人々の協力のもとで成立したと考えられるのである。 
南九州伝説地の考察

 

宮崎・鹿児島両県には日向三代関連の伝承地が集中している。その地域を調べてみると何箇所かに集中していることがわかる。地域ごとに真実性を考察してみよう。
 1 延岡周辺       瓊々杵尊関連伝承地
 2 西臼杵郡高千穂町周辺 日向三代すべての伝承地が集中している
 3 西都市周辺      日向三代すべての伝承地が集中している
 4 佐土原町周辺     神武天皇関連伝承・ヒコホホデミ関連伝承
 5 宮崎市周辺      日向三代すべての伝承地が集中
 6 清武町周辺      天照大神・瓊々杵尊関連伝承
 7 都城周辺       日向三代すべての伝承地が集中
 8 日南海岸沿い     日向三代すべての伝承地が集中
 9 日南周辺       ヒコホホデミ関連・吾平津姫関連伝承・神武天皇関連伝承
10 串間周辺       ヒコホホデミ関連
11 鹿屋市周辺      鵜茅草葺不合尊・神武天皇関連伝承
12 国分市周辺      ヒコホホデミ関連伝承・神武天皇関連伝承
13 指宿市周辺      ヒコホホデミ関連伝承
14 加世田市周辺     瓊々杵尊関連伝承
15 川内市周辺      瓊々杵尊関連伝承
伝承というものは真実がそのまま伝えられていることもあれば、形を変えられて伝えられていることもある。また、まったくのでたらめであることもある。この区別をしなければ真実は見えてこない。宮崎鹿児島両県にまたがる様々な伝承の真実性を地域ごとに判定してみよう。
古代日向国(ムカツヒメ統治領域)はスサノオが統一してから出雲国譲り(50年ごろ)までは日南周辺を除く宮崎県の領域であった。その後宮崎県、鹿児島県全領域に広がっている。日向三代の宮居伝承地もこれに準ずると考えられる。つまり、日向三代が若い頃20代以前は宮居跡は宮崎県のみのはずで、その領域の外に出るのは壮年期から老年期にかけてと思われる。宮居伝承地はこれを基に判断していくことにする。
真実性の高い伝承は、他地域の伝承とつながっているはずであり、他地域の伝承によって裏付けられる伝承は真実性が高いと判断する。それに対して他地域とまったくつながらない伝承は真実性が低いと判断する。伝承の中には大変具体的なものもあれば、そこにいたというだけの伝承地もある。具体性の高い伝承を真実性が高いと判断することにするが、中には創作されたものもあると考えられるので、他地域の伝承との整合性を基に判断することにする。
御陵伝承地に関しては、日向三代の最後の宮跡近くのはずであるから、鹿児島県内にあるものが真実と思われる。また、日向三代の活躍時期は弥生時代後期初頭と思われるので、考古学的にもその時期のものが必要である。古墳時代の遺跡は伝承とは関係がないのである。 
1 延岡周辺
延岡市均衡には瓊々杵尊関連伝承地がある。笠狭宮跡、瓊々杵尊御陵などである。瓊々杵尊御陵は北川町俵野にあるが、古墳時代の円墳と思われる。また、周辺から古墳時代の須恵器が出土している。弥生時代のものとは思われない。おそらく、瓊々杵尊が一時期滞在しており、その由来を元に伝承地が造られたものと推定する。 53年ごろ瓊々杵尊は北九州から日向に戻ってきているがその途中で一時期滞在したのではあるまいか。 
2 西臼杵郡高千穂町周辺
瓊々杵尊天孫降臨伝承地である。瓊々杵尊を始め、ヒコホホデミ、鵜茅草葺不合尊すべての御陵が存在している。 それだけではなく、高天原の天岩戸まで存在している。神話関連伝承の勢ぞろいといった感じである。何か核になる事実が存在してそれに関連して他の伝承地が作られたものと推察する。 天孫降臨伝承が核になると思われる。
二上山が瓊々杵尊誕生伝承地であることから、 ムカツヒメが宇佐から日向に戻る途中に高千穂に立ち寄りそのときに瓊々杵尊が誕生したと考えている。25年ごろのことであろう。
山奥であるために国の重要機関が長期にわたって存在したということは考えられない。 他の伝承は付け加えではあるまいか。ムカツヒメがこの地にいたのも数年程度と考える。立ち寄りの理由は位置から考えて球磨国の情報収集あるいは球磨国との交渉ではあるまいか。 
3 西都市周辺
この周辺も日向三代すべての伝承がそろっている。高千穂と同じく何か核になるものがあり、 他の伝承はつけくわえと考えられる。その核になる伝承地が西都原古墳群であり、 そのなかでも男狭穂塚で瓊々杵尊御陵と伝えられている。これは古墳であり、 時代が明らかに異なる。他の御陵と伝えられているものもことごとく古墳である。
西都原は斎殿原から来たもので、古墳時代に南九州の中心地として栄えている。 当時の支配者が伝承地をこの地に集めたものではないだろうか?そうだとすると、西都周辺の伝承には真実性がまったくないということになる。 
4 佐土原周辺
佐土原は佐野原が語源で神武天皇が誕生した地と意味であるという。 現王島に日吉神社があるがここに神武天皇の胞衣を埋めたと伝えられている場所がある。 神武天皇誕生に関しては最も具体的な伝承である。河口付近に鵜戸神社があり鵜茅草葺不合尊の上陸地と伝えている。 この2点は真実性が高いと考える。他に御陵伝承地がいくつかあるがことごとく古墳なので、真実性はないであろう。 
5 宮崎市周辺 
宮崎市周辺は皇宮屋、金崎、宮崎神宮などの神武天皇関連伝承、高屋神社のヒコホホデミ関連伝承、江田神社の阿波岐原伝承がある。いずれも他地域の伝承とのつながりがあり、真実性が高いと判断する。北方の奈古神社の瓊々杵尊御陵伝説地は古墳であるために真実ではないと考えるが、阿多長屋は正しいのではないかと思う。
瓊々杵尊は加世田に移った後に結婚しているが、かなり高齢になっているので、若いころに一度結婚しているのではないかと判断する。それが、磐長姫ではないのだろうか?米良村に磐長姫の終焉の地があり、ここからは近いが、加世田からはあまりに遠い。
神武天皇関連伝承はかなり具体的である。また、他地域の伝承ともつながっている。それによると都城周辺から宮崎に来ているようである。 日南地方の伝承とのかかわりにより、宮崎にいるときに吾平津姫と結婚し日南地方との間を往復していたことがわかる。
阿波岐原に関連する伝承は周辺地域から弥生時代の祭祀系土器の集中出土がある地域なので、弥生時代この周辺地が聖地であったことの裏づけは取れる。また、彦火火出見尊、神武天皇の誕生伝説地(鵜茅草葺不合尊もそうではないかと推察)が近くにあり、当時の重要人物はこの周辺で産まれたと推定される。 
6 清武町周辺
木花神社を始め、加江田神社、久牟鉢山、霊山嶽などの伝承地があり、瓊々杵尊の宮居伝承地、天照大神誕生伝承地などがある。 瓊々杵尊の若い頃の宮居跡と判断する。40年ごろであろう。妻は木花神社ではあるが木花咲耶姫は加世田に移った後の後妻と判断するので奈古の磐長姫ではないかと考えている。
久牟鉢山、霊山嶽にヒコホホデミ、瓊々杵尊の御陵があると伝えられている。山頂部にそれらしき盛土があるが、ヒコホホデミ、瓊々杵尊のものではなく、その子孫のものではあるまいか。また、近くの青島にもヒコホホデミ関連伝承があるが、 これは地理的に考えてヒコホホデミが鹿児島方面と往復するときに立ち寄った地ではあるまいか。 
7 都城周辺 
この地域は高千穂峰の麓にあたり、天孫降臨の地として日向三代すべての伝承地が広い範囲に散在している。 中でも東霧島神社が皇都であるという伝承がある。ムカツヒメはこの地に宮を造ったと考えている。日向三代すべて幼い頃はここで育ったのではあるまいか。27年ごろから49年ごろであろう。
高原町に神武天皇の誕生伝承地(皇子原)、成長伝承地がある。誕生伝承に関しては佐土原の方が具体的であるために佐土原で生まれてすぐに皇子原に移ったと考えた。58年のことである。 母の玉依姫は神武天皇を生むためにわざわざ佐土原に行ったのではないかと考えている。近くに宮の宇都があり、鵜茅草葺不合尊の宮跡と伝える。 また、皇子原と宮の宇都をつなぐ道には神武天皇が通ったという伝承もある。 神武天皇の成長伝承はかなり具体的であるので真実性が高いと判断している。
都城市都島にもヒコホホデミ、神武天皇の宮があったとの伝承がある。この伝承も宇都から移ったのは高千穂山の噴火が原因であるとか、 ここから宮崎に転居したなどという他地域の伝承とのつながりがあり、真実性が高いと判断している。 
8 日南海岸沿い
日南海岸沿いにも日向三代すべての伝承地がある。瓊々杵尊関連の伊比井神社、彦火火出見尊関連の鵜戸神宮、神武天皇関連の吹毛井、 鵜茅草葺不合尊関連の吾平山陵、宮浦神社、玉依姫御陵などである。日南海岸は鬼の洗濯岩で有名で海路の難所である。 このようなところに長期にわたって住むとは考えられず、これらの伝承地は宮崎、日南間を海路往復するときの休憩所として立ち寄ったものであろう。 その立ち寄った地にいろいろな関連伝承が出来上がったと考える。よって、この地域の伝承の真実性は低いと判断する。 
9 日南周辺
日南周辺は、海幸彦関連の伝承が中心である。海幸彦が山幸彦とのいさかいの後、北川町の潮嶽神社の地に住み、 その子孫の吾平津姫と神武天皇が結婚している。吾平姫の宮跡や御陵、神武天皇と吾平津姫との子である、手研耳命の御陵伝承地もある。 また、吾平津姫と神武天皇にかかわる伝承も豊富である。
吾田神社の背後にある手研耳命の御陵についてであるが、手研耳命は神武天皇と共に大和に行っている。 弟の岐須耳命は伝承がほとんど残されてなく、大和には行っていない。ウエツフミによれば早世したとのことである。おそらく弟の岐須耳命の御陵ではあるまいか。
これらの伝承から判断して、この地域は当初ムカツヒメの統治領域に入っていなかったものと判断される。伝承では海幸彦が外部からやってきたことになっているが、海幸彦はこの地域の土着の人物ではないかと判断する。 そうすると、海幸彦・山幸彦のいさかいは山幸彦(彦火火出見尊)がこの地方を倭国に加盟させるために引き起こした出来事と考えることもできる。また、その子孫である吾平津姫が神武天皇と結婚したのも倭国加盟のための政略結婚ということになる。
彦火火出見尊は海神国(対馬・後漢・伊都国)に長期間滞在していたので、その前後ということになる。海神国へいく前であれば 53年ごろ、後であれば65年ごろとなる。
豊玉姫が風田神社周辺の海岸で鵜茅草葺不合尊を出産したと伝えているが、 このとき、彦火火出見尊が豊玉姫との約束を守らなかったために豊玉姫は彦火火出見尊と別れて暮らすようになった。豊玉姫の宮居が風田神社の川をさかのぼったところにある川上神社であるという。この豊玉姫は薩摩半島南端部の豊玉姫と思われ、 この妹と鵜茅草葺不合尊が神武天皇を生んでいるわけであるから、海神国へいく前のことと判断する。よって、海幸彦と山幸彦のいさかいは53年ごろの出来事であろう。彦火火出見尊はこの直後海神国(対馬)に行ったことになる。 
10 串間周辺
串間神社と勿体が森に彦火火出見尊関連の伝承地がある。 彦火火出見尊は海神国から帰ってさらに南下してここに来たと伝えられているので、海神国から帰った後に串間にきたことになる。65年ごろのことであろう。
串間周辺に彦火火出見尊が来た目的であるが、このころ曽於国(鹿児島県曽於郡)がまだ倭国に加盟していなかった。 曽於国は日向国の拠点であった都島のすぐ近くにありながら日向国と対立関係にあるわけであるから、日向国にとって積年の課題だったはずである。 都島、国分、大隅と三方はすでに倭国に加盟しているので、串間は曽於国の東に位置する重要拠点である。この地域は53年ごろ倭国に加盟していたと思われるが、 曽於国を加盟させるために彦火火出見尊がこの地にやってきたものと考えている。
串間には王の山がある。王の山は玉璧が出土しているのであるがその位置は不明である。玉璧が出土したことからこの墓の被葬者はムカツヒメ以外には考えられない。このことはムカツヒメが串間で死んだということを意味している。
ムカツヒメは国分に拠点を置いていたと思われるが、曽於国の統一のために彦火火出見尊と共に串間に来ていたと判断する。串間の宮居伝承地は二つ存在している。串間神社と勿体が森である。串間神社は穂穂宮ともいい、彦火火出見尊の宮跡のようであるが、 勿体が森のほうは彦火火出見尊が頻繁に通ってきていたという伝承である。そのようなわけで、ムカツヒメがいたのは勿体が森ではないかと判断した。
神武天皇東遷のときに天皇がここに上陸している。王の山のムカツヒメに挨拶(参拝)するためだったのではないかと思う。 
11 鹿屋市周辺(大隅半島)
大隅半島は鵜茅草葺不合尊関連伝承が中心である。吾平山陵があることから、鵜茅草葺不合尊の終焉の地である。 古事記では鵜茅草葺不合尊は西州宮で崩御したことになっている。西州宮は東串良町宮下の桜迫神社の地である。 鵜茅草葺不合尊がこの地を中心として大隅半島の統一に向けて活躍していたのは間違いがない事実であろう。
神武天皇が皇子原から都島に移ったのはこの当時の年齢で 15歳(現年齢7歳)のときで、65年に宮下の桜迫神社の地に来たものと思われる。神武天皇東征伝承に鵜茅草葺不合尊は出てこないので、 75年ごろ西州宮で亡くなったものと考えられる。
考慮を要するのは、神武天皇関連伝承である。桜迫神社の南1km程の所にイヤの前という場所がある。 ここで、神武天皇が誕生したというのである。現在石碑が立っている。この伝承はかなり具体的である。 しかし、誕生伝承はあるが成長伝承はない。また、ここからどこかに移動したという伝承もない。また、他地域にもここからやってきたという伝承がないので、イヤの前が神武天皇誕生地というのは真実ではないと判断する。
しかし、イヤの前の場所が肝属川の河畔のあたり船着場のあとがある場所である。当時肝属川を使って物資の交流を行なっていたようで、 その船着場がイヤの前ではなかったかと思われる。
神武天皇がこの地に来たのは吾平津姫と結婚した後で、 日南の駒宮神社にこことの間を馬で通ったという伝承もあり、神武天皇が宮崎にいるときここに何回か来ていたようである。 時期としては70年ごろであろう。イヤの前は神武天皇関連の誰かの誕生地のように思える。神武天皇の子である手研耳命か岐須耳命の誕生地ではあるまいか。
肝属川河口付近に神武天皇発港の地の伝承地がある。近くの山野(さんの)に神武天皇の宮居があった伝承地があり、 この柏原の地から東遷に出発したとのことである。東遷出港地は宮崎説とこの柏原説があるが、柏原説は周辺に関連伝承を伴っているので、真実性が高いと判断する。宮崎のほうは以前宮があったので立ち寄ったのではないかと思われる。
神武天皇はなぜここから出港したのであろうか。山野の宮跡などから考えると鵜茅草葺不合尊亡き後大隅半島の統一事業を受け継いだのではないかと判断する。 鵜茅草葺不合尊が亡くなった75年ごろのことであろう。日本国との合併の話が進む中で、神武天皇はここを基点として各地の知り合いに挨拶や相談に行ったのではないかと推察する。 実際にここを基点として方々を訪問したという伝承が残っている。大根占の河上神社、鹿児島市谷山の柏原神社、宮浦宮などである。
山野宮で出港準備をしていたものと考える。ここを出港したのは79年のことである。鹿屋市花岡に高千穂神社がある。この神社は瓊々杵尊が笠狭宮におもむくとき、胸副坂(霧島神宮駅周辺)よりこの地にやってきて、 近くの古江港から笠狭宮に旅立ったと伝えている。瓊々杵尊はこの直前まで北九州を統治しており、北九州から戻ると同時に笠狭宮に派遣されている。瓊々杵尊伝承地をつなぐと、次のような経路になる。
北九州→木花→都城→胸副坂→国分→花岡→古江→黒瀬海岸(野間半島)→笠狭宮
瓊々杵尊は北九州から戻ったときに昔住んでいた木花に立ち寄ったのであろう。 このとき磐長姫を離別し、都城・胸副坂を経由して国分のムカツヒメに挨拶をした。そして、花岡を経由して黒瀬海岸に向かったことになる。なぜ、わざわざここに立ち寄ったのであろうか。国分から鹿児島市経由で黒瀬海岸行くほうがよいと思われる。 理由として宮下の鵜茅草葺不合尊に会うためというのが考えられる。笠狭宮に行ってしまえばおそらく二度と会うことはできないであろうから、弟と最後の別れをするのは当然であろう。このことから瓊々杵尊が笠狭宮に行ったのは鵜茅草葺不合尊が宮下に移ってから少し後ということになる。 ムカツヒメが生きている必要があるので、65年から70年の間となる。67年ごろであろう。
笠狭宮で瓊々杵尊が阿多津姫(木花咲耶姫)と結婚したのはかなり高齢(40歳)になり、 政略結婚であることは明らかで、瓊々杵尊はこれ以前に一度結婚していたと思われる。その相手が奈古の磐長姫であろう。
内之浦にも日向三代の伝承がある。彦火火出見尊と鵜茅草葺不合尊である。 内之浦港に彦火火出見尊が海神国から戻ってここに上陸したと伝えられている。地理的に考えて、ここでいう海神国は指宿周辺と思われる。 彦火火出見尊は指宿周辺で豊玉姫と結婚ししばらく滞在したあと、この内之浦にやってきたものと考えられる。 彦火火出見尊が姉の豊玉姫、鵜茅草葺不合尊が妹の玉依姫とそれぞれ結婚していること、ここに鵜茅草葺不合尊と彦火火出見尊の伝承があることから、 この二人が一緒に行動していたのではないかと考える。二人とも最初の結婚と考えられ、二人とも20歳前後であろう。国譲りの後でなければならないので、53年ごろと思われる。
鵜茅草葺不合尊はこの直前に種子島に行っているようで、二人とも国譲りの直後広い範囲を短期間で訪問している。未統一地域の情報収集のためにムカツヒメから巡回を命じられたのではないかと考えている。鵜茅草葺不合尊はここを拠点としたとき大隅半島の情報を得たのではないかと考える。このことが後に大隅半島に派遣される理由となったのではあるまいか。
宮崎県高鍋町蚊口浦の鵜戸神社に鵜茅草葺不合尊上陸伝承があるが、ここを出発した鵜茅草葺不合尊が蚊口浦に上陸したと考えられる。ここは二人とも短期間の滞在であろう。彦火火出見尊はここを出港してから日南におもむいて海幸彦を倭国に加盟させたと考えている。 
12 国分市周辺
国分市の鹿児島神宮の地が古代日向国の中心地と考えている。本来の宮地は鹿児島神宮横の石体宮の位置で、ここに彦火火出見尊が住んでいたといわれている。彦火火出見尊はこの地で日向国を治め、この地で亡くなり、少し北にある高屋山陵に葬られたようである。 彦火火出見尊は長寿を保ち神武天皇が大和に旅立った後この地で日向国をまとめていたようである。100年ごろ彦火火出見尊はここで亡くなっている。
神武天皇が大和に旅立つ前、大隅からここに頻繁に通ってきているようである。 その途中にあたる宮浦宮、若尊鼻に通過伝承が残っている。彦火火出見尊は串間に住んでいたが70年ごろムカツヒメが串間で亡くなった後、 この地で日向国全体をまとめていたのではないだろうか。そのために、神武天皇が何回もここに来ているのであろう。
また、国分市の南西に子落という地があるがここは神武天皇が都城と国分の間を往復していたという伝承を持つ、神武天皇が都城にいたのは65 年ごろなので、その頃も国分は重要地点だったことになる。
また、瓊々杵尊は胸副坂(霧島神宮駅周辺)から鹿屋の高千穂神社の地におもむいているが、 国分はその途中に通らなければならないところである。
石体宮に高千穂宮跡があるが、ここは瓊々杵尊の高千穂旗揚げ伝承地で、国譲りの戦端が開かれたところである。 スサノオが南九州を統一してから出雲の役人がここを中心として滞在していたと思われる。瓊々杵尊が国譲りに際してここを急襲したものと思われる 。
日向神話関係の人物が高千穂山から降りてきているような伝承が多く存在しているが、都城と国分を人々が往復しているとすれば説明がつく。
ムカツヒメに関する伝承は伝わっていないが、日向三代はここを中心として動いているように伝承が伝わっている。ムカツヒメは50 年ごろから70年ごろまで20年ほどこの地にいたと推定している。 止上神社が近くにあり彦火火出見尊の宮跡と伝わっている。 ムカツヒメが生きているとき、彦火火出見尊はここを宮として活躍していたのではあるまいか。 ここを宮としていたのはムカツヒメがここに移ってきた直後で指宿方面に行くまでの間であろう。50 年ごろと思われる。 また、南九州巡回から戻ってきた後海神国に立つまでの間住んでいたとも考えられる。いずれにしても短期間であろう。
鹿児島神宮の近くに蛭子神社がある。蛭子はイザナギの長子で足腰が立たなかったので、葦の船に乗せて流したところ。ここに着いたと言い伝えられている。 この神話と鹿児島神宮に伝わる「震旦国の陳大王の娘?大比留女が7歳で懐妊した。理由を聞くと「夢で日光が胸にさすとみて妊娠した。」と答えた。そのうちに皇子が本当に誕生したので、大王は畏れて空船に乗せて流した。それがついたのが日本の大隅半島であり、 皇子は八幡を名乗って大隅半島に留まり、正八幡と祝われた」というのがある。この伝承と関係があるらしい。 ここでいう八幡神=蛭子=スサノオと考えれば、どうであろうか。 神話上で出雲から大陸経由で技術を伝えにきたのがスサノオであり、ヒルコの名とヒルメの名は対応している。夫婦と考えてよいのではあるまいか。 ムカツヒメの夫はスサノオである。スサノオが宮崎を統一後国分に上陸し蛭子神社の地に最初住んでいた。 その後石体宮に移動したのではあるまいか。神話ではイザナギがヒルコ(スサノオ)を流したとあるが、事実はスサノオがイザナギを淡路島へ流したと推定している。 
13 指宿周辺
指宿周辺は豊玉姫・玉依姫の伝承が柱となっている地域である。豊玉姫伝承は長崎県対馬にもあり、 彦火火出見尊は豊玉姫と結婚したがどちらが真実なのであろうか。鹿児島市谷山の柏原神社に神武天皇が母(玉依姫)の里に通うとき土地寄った所との伝承があり、これは、75年ごろ東遷の挨拶に通ったときのものであると考える。
玉依姫伝承はこの伝承が示すとおり指宿の方が優勢である。 このことから、豊玉姫も指宿の方が優勢と考えられる。しかし、日南の風田神社の伝承では、彦火火出見尊はここで豊玉姫と離別しているので、この後対馬に行ったとき対馬の豪族の娘と再婚したことは充分に考えられる。この娘も豊玉姫と伝えられているのである。 元の名は別であったが伝えられるうちに同じ名になったのではないかと推定する。
指宿にやってきた彦火火出見尊は玉ノ井の近くで休んでいるとき、井戸の水を汲みに来た豊玉姫に心引かれ、 父の豊玉彦の館に招かれ、彦火火出見尊は豊玉姫と結婚し婿入谷に館を建て、そこで3 年間過ごしたと伝えられている。古事記伝承では玉依姫は豊玉姫が鵜茅草葺不合尊を生んだ後去ってしまったので、 鵜茅草葺不合尊の乳母として残り、後に鵜茅草葺不合尊と結婚したことになっているが、彦火火出見尊と鵜茅草葺不合尊は兄弟であるから、そのような不自然な結婚ではなく、彦火火出見尊と鵜茅草葺不合尊が二人でここを訪問したと考えれば、説明がつく。
鵜茅草葺不合尊の伝承は伝えられていないが内之浦では二人いたことになっているので、二人一緒に巡行していたものと考えている。この近く開聞岳の麓一帯は竜宮伝承のあるところで竜宮一族が住んでいて、この当時まだ倭国には加盟していなかった。ムカツヒメはこの竜宮一族を倭国に加盟させるために、この二人を派遣することにしたのであろう。50 年ごろと思われる。この二人は豊玉彦の娘と結婚することにより、竜宮一族は倭国に加盟したのであろう。
彦火火出見尊は伝承どおり3年ほどこの地に滞在していたと思われるが、鵜茅草葺不合尊は種子島に行ったようである。 その出港地が開聞岳麓の海岸と山川町児水浦(ちごみずうら)といわれている。
種子島の浦田神社に鵜茅草葺不合尊がやってきて稲作を広めたとの伝承がある。 種子島はそれまで赤米であったが、鵜茅草葺不合尊が白米を持ってきたと伝えられている。鵜茅草葺不合尊は種子島から内之浦に、彦火火出見尊はそのまま内之浦に行ったと考えている。豊玉姫は日南の風田神社の地で彦火火出見尊と別れたあと、近くの川上神社の地に住んでいたが、この地に戻り知覧町の豊玉姫御陵に葬られた。 
14 加世田市周辺
加世田市周辺は瓊々杵尊関連伝承が中心である。伝承によると、瓊々杵尊は鹿屋市の古江港を出港し野間半島の付け根の黒瀬海岸に上陸し近くの宮の山にしばらく住んでいた。 宮の山は日本最初の都の跡といわれており、宮の山遺跡がある。そこからは弥生系土器が出土している。この時期に人が住んでいたのは事実のようである。その後、阿多津姫と結婚し加世田市の舞敷野に笠狭宮を建てて住んだと言い伝えられている。
加世田市の隣に阿多と呼ばれるところがあり、ここに大山祇神社がある。大山祇神社としては全国最古のものである。阿多津姫の父の住処と伝える。大山祇はこの付近の豪族で、瓊々杵尊が上陸してきた当時まだ倭国には加盟していなかったものと考える。 瓊々杵尊は、ムカツヒメから倭国に加盟させる命を受けて、この地に乗り込んできたものと推察する。瓊々杵尊の黒瀬海岸への経路から推察してその時期は67 年ごろと考えられる。
黒瀬海岸に上陸後宮の山に宮居して、大山祇と倭国に加盟する交渉をしていたのではあるまいか。 まもなく、瓊々杵尊が大山祇の娘阿多津姫と結婚することを条件として交渉が成立したのであろう。 瓊々杵尊もこうなることを予想して木花で磐長姫を離別していたのである。交渉成立後、瓊々杵尊は舞敷野の転居し、そこで、 皇子を出産している。誕生したのは伝承では彦火火出見尊兄弟であるが、彦火火出見尊は瓊々杵尊の弟であるので誕生したのは別人であろう。
加世田の笠狭宮伝承地はもうひとつある。宮原の笠狭宮である。現在この地に竹屋神社がある。 伝承では舞敷野で数年間過ごした後、ここに移住してきたそうである。 最初阿多津姫と結婚した頃は、大山祇がこの地を取り仕切っていたが、数年後に大山祇からこの地を治めるすべての権利を受け継いだのであろう。あるいは大山祇が亡くなったのかもしれない。その結果、加世田の周辺地から交通の便の良い宮原の地に移ったと思われる。宮原の地は彦火火出見尊成長伝承地である。 70年ごろと思われる。瓊々杵尊がここに移ったということは、物資の交流を握ったということを意味し、この地が倭国に加盟したということになる。
近くの伊佐野に神武天皇が立ち寄ったという伝承地がある。東遷に際して神武天皇はここまで瓊々杵尊に挨拶に来ているのである。東遷前であるから、 78年ごろではあるまいか。 
15 川内市周辺
瓊々杵尊は加世田周辺を倭国に加盟させ、しばらくその地に住んでいたが、その次に川内に移動している。川内は可愛山陵があるので瓊々杵尊終焉の地となる。 78年ごろにはまだ加世田にいたので、このときの年齢は 50歳ごろと推定されかなりの高齢である。瓊々杵尊が加世田からここに移った時期はこの直後あたりと考えられ、 80年ごろではあるまいか。このときはムカツヒメはすでに亡くなっているので、瓊々杵尊自身が川内の統一の必要性を感じて川内に移ったと考えられる。
川内川河口の船間神社に瓊々杵尊の舟を漕いでここまで来た船頭を祀っている。 瓊々杵尊は加世田から海路川内にやってきたのである。川内に上陸した瓊々杵尊は、鏡野(現小倉町)で鏡を奉納した。以後、この地を倭国に加盟させるために努力することになる。
瓊々杵尊宮の伝承地がこの周辺に散在している。都町の都八幡神社の地、宮ヶ原の地、宮里の地、地頭館跡、神亀山である。 数が多く、かなり短期間で転々と移動した様子が伺われる。 50歳を過ぎている瓊々杵尊である上に、阿多津姫を伴っており、政略結婚での倭国加盟は不可能であったと思われる。 この地は有力な豪族がいなかったのではないだろうか。小国が乱立している状態であったために、それぞれの小国ごとに交渉により、大陸の先進技術を示しながら倭国に加盟させていったのであろう。そのために宮跡が転々としていると推定する。
最後の宮跡が神亀山と伝えられている。この地は可愛山陵のあるところである。瓊々杵尊は川内に移っておそらく 10年ほどでこの世を去ったと思われる。 
 
第11節 漢委奴国王

 

第一項 委奴国は日向国
後漢書「東夷伝」に、
「建武中元二年(紀元五七年)倭奴国が貢物を献じ、朝賀してきた。使者は自分のことを大夫と称していた。倭の最南端である。光武帝は印綬を賜った。」
とある。この時の印綬が、志賀島より見つかった「漢委奴国王」の金印であることは、ほぼ間違いないといわれている。定説では、委奴国は奴国や伊都国を指すといわれているが、後漢の光武帝が金印を授けるという国は、相当大規模な国に限られている。北九州の小国であると考えられている奴国や伊都国では該当しないのではないか。この委奴国はどこを指すのであろうか。後漢書「東夷伝」では、「倭奴国」となっているが、金印が「委奴国」となっているため、より原典である「委奴国」が正しいと判断する。そのまま読むと「イナコク」である。委奴国とはどこにあった国であろうか。
中国書物の倭奴国記事をまとめてみると、
1 倭国は古の倭奴国である。「旧唐書」
2 倭の最南端である。「東夷伝」
そのまま直接解釈をすると、倭奴国は大和朝廷の前身で、日本最南端にある国ということになる。さらに金印を賜っていることから、当時の日本列島の大半を治めている強大な国ということである。1世紀中頃と推定される国内伝承と照合すると、委奴国は日向国としか考えられない。委奴国が日向国である可能性について考えてみよう。
まず、「日向」は古代なんと呼んでいたのであろうか。推古天皇の頃の記事に「ヒムカ」と呼んでいる部分があり、この頃は「ヒムカ」だったようである。景行天皇が九州征伐に赴いたとき(日本古代の実年代によると312年〜315年)にこの地方に日向という地名をつけたことになっている。このときから呼び名が「ヒムカ」となったものと考えられる。それ以前はどうだったのであろうか。それがもし広く使われていたものであればその呼び名は現在まで何らかの形で残っていると思われる。全国に「日向」という地名が散見するが、その多くは「ヒナ」あるいは「ヒナタ」と呼んでいて「ヒムカ」や「ヒュウガ」と読む例は数少ない。そして、日向から出雲に来たイザナミの陵があると推定した奥出雲地方には「日向」と付く地名が4個所あり、「日向(ヒナ)」、「日向原(ヒナノハラ)」、「日向山(ヒナヤマ)」、「日向側(ヒナタガワ)」といずれも「ヒナ」と読んでいる。このように日向と書いてヒナと読ます例が多いこととから「日向」は、当時、「ヒナ」と呼んでいた可能性は高い。
h音は落ちやすいことからイナ国の前にhが付いていて中国人が聞き間違えたとすると、日向国・委奴国は共にヒナ国となる。霧島連山の中に夷守岳というのがあり、その北麓の小林市は昔夷守(ヒナモリ)と呼ばれていたと言われている。ここは大和朝廷の日向出張所のあったところではないかと思われ、日向守の意味と推定している。大和朝廷成立後、ヒナ(雛)は都から遠く離れた国という意味で田舎を指す言葉となったものか?、魏志倭人伝の卑奴母離は、この頃設置されたと思われ、日向守の意味か? 
日向国は現在の宮崎県であり最南端ではないという指摘もあるが、律令時代の極初期は現在の宮崎県と鹿児島県とを合わせて日向国といっており。古代の日向国は宮崎県と鹿児島県を合わせた領域であった。その後713年大隅国と薩摩国を分離し日向国は現在の宮崎県の領域になった。昔は宮崎・鹿児島合わせて日向と呼んでいた事から考えて、古代において、この領域は一つの文化圏にあったといえよう。まさに倭国最南端の国「日向国」である。
伝承面を見ても、子のニニギを今の鹿児島県川内市に配置し、神武天皇の兄に当たる「ミケイリヌ」を高千穂峡の地に配置しているが、これらはいずれも日向国の境界で球磨国(熊本県)との交通の要所に当たり、球磨国との争いを感じさせる。
また、大隈半島の付け根に当たる鹿屋や串良周辺は北九州の主要部に次いで弥生時代の遺跡密度の高い地域である。この地はシラス台地の端に当たり、稲作には向かない事を考えると政治的中心地があったため遺跡密度が高くなったと考えてもよいのではあるまいか。後に述べるように「王の山」で国宝になっている璧の出土した王墓らしきものも見つかっており、委奴国は日向国と考えられる。
紀元50年頃、九州倭国王となったムカツヒメは、政権を安定維持するために、紀元57年、中国に朝賀したものと考える。委奴国王というのはムカツヒメのことであろう。漢の武帝が朝鮮を滅ぼしてより、倭から中国に朝貢する国が出てきたと、中国史書に書かれているが、具体的な内容が出ているのはこれが始めてである。それまで、中国との交流を主に行っていたのは北九州の豪族達であった。倭国の朝鮮半島との交流はスサノオ以来続いていたが、新しい技術が少なくなってきたので、さらに強力な新技術を導入するために中国との交流を考えたものと考えられる。おそらく、今までの小国とは違い、倭国を代表する大国が朝貢に来たため、中国側も大変慶び、金印を与えるなどして破格の扱いをし、記録されたものではあるまいか。 
第二項 金印の使用目的
次に、日向国王の持ち物であるはずの金印が、なぜ志賀島から見つかったのか考えてみよう。まず、この金印の使用目的から考えてみることにする。当時、北九州は外国との交易をする玄関口で、人の交流の盛んなところである。政権を安定維持することを考えている日向国王は、当然、この地に役人を配置して交易の実権を握ろうとするであろう。この役人に金印を渡して、身分証明の代わりに用いたのではないかと考える。金印は印として何かに押しつけた跡はほとんどなく、印を押すための紙があったとも思われない。やってきた外国人に示して、「私は、こういうものです。信用してください。」とでも言ったのではなかろうか。あるいは北九州主要部にはまだ倭国に加入しないで頑張っている有力豪族が残っており、それらを倭国に加入させるためにも金印という外国の権威を利用したとも考えられる。 
第三項 日向国王の政策
糸島地方の伝承
交易の玄関口となっているのは、魏志倭人伝や遺跡分布から、福岡県の糸島地方(伊都国)と考えられる。そこで、糸島周辺の神社の記録を調べてみると、次のようなものが出てくる。
・高祖神社(祭神彦火々出見命他)
高祖山周辺に日向と共通する地名が多い。
・志登神社(祭神豊玉姫・彦火々出見命他)
「彦火々出見命が海人の国(対馬)から先に上陸してきたので、豊玉姫が後を追ってこの地に上陸した」との伝承あり。
・細石神社(祭神木花開耶姫・磐長姫)
近くに井原鑓溝遺跡。三雲南小路遺跡あり。天孫降臨関連伝承・彦火々出見命生誕地の伝承あり。神殿は高祖神社の方向を向く。
これを見ると、糸島周辺に日向地方の伝承が多いことがわかる。これは、日向地方から、この地方に多くの人が来ていたことを意味している。その中心人物は、伝承の内容から判断して、おそらくヒコホホデミ(ムカツヒメの四男)であろう。
交易ルートの確保
ムカツヒメはスサノオと同様に外国の先進技術を取り入れることを重要視した。対馬にヒコホホデミを派遣して対馬経由の交易ルートを確保することにした。対馬はスサノオが国を作り拠点を三根湾周辺においていた。その中心となる祭祀施設は海神神社(対馬一ノ宮)であろう。三根湾周辺の王墓は弥生中期末のもので、弥生後期になるとその中心地が浅茅湾北岸の二位周辺に移動している。遺跡からは突出した統率者集団は認められず、佐保浦を中心とする地域で青銅製品の集中が見られる。スサノオ祭祀の祭祀具である中広・広形銅矛の130本を越える異常なほどの多量出土地域である。後期初頭になって対馬の中心地が三根湾沿岸から朝茅湾北岸に移動してきたためであろう。この時期がヒコホホデミが対馬に派遣された時期と重なるのである。また、この地域にヒコホホデミがやってきたという伝承を持つ和多津美神社が存在している。
ムカツヒメより対馬で交易ルートの安定確保を指示されたヒコホホデミは対馬の人々に対馬の開祖であるスサノオに対する信仰が強いのに目をつけ、浅茅湾北岸に拠点を構え大々的にスサノオ祭祀(銅矛祭祀)を始めた。ヒコホホデミは人々の心をつかみ、対馬で外国交易の実権を握ることに成功した。
ヒコホホデミに関連して豊玉彦及び豊玉姫伝承地が対馬と薩摩に存在しているが、この伝承の真実性はどうなのであろうか?薩摩半島に存在している豊玉姫伝承地は周辺に複数の関連伝承地が存在し伝承どおしにつながりが感じられる。しかし、対馬の和多津美神社に伝わる豊玉姫伝承はこの神社のみであり、周辺に関連伝承地は調査した範囲では存在しない。さらに豊玉姫と出合ったと言われている玉ノ井は海辺から10mほどのところに存在しており、井戸として意味をなさないと思われるなど、対馬のほうは後で作られた伝承地のように見受けられる。しかし和多津美神社の地は祭祀の聖地であることには変わりなく、位置的にも対馬にやってきた彦火火出見尊と関連は深いものと考えられる。おそらく、ヒコホホデミが活躍したとの元伝承が存在し後の時代になって薩摩の豊玉姫伝承とつながったのではあるまいか?
ムカツヒメは今までのような外国の先進技術を取り入れるのみではなく、外国人を積極的に倭国に招いて本格的交流をする決意をした。その使者に立てられたのが、おそらくヒコホホデミであろう。
ヒコホホデミは対馬の交易拠点を安定化させると共に、57年当時の後漢に朝貢し外国人を招いたと考えられる。
ヒコホホデミは対馬を安定化させた後、日向国王ムカツヒメの命により、まだ統一されていない北九州中心域の統一のために糸島の地に派遣されてきた。その役所があったのが、高祖神社の地ではあるまいか。
伊都国王との関係
さらに重要なことは、伊都国最後の王墓といわれている井原鑓溝遺跡が、細石神社のすぐ近くにあるということである。そして、この王墓の造られた時期(出土した流雲文縁方格規矩鏡は紀元50年頃のもの)と、日向が実権を持っていた時期(紀元50から80年)とが、ほぼ一致していることである。井原鑓溝遺跡の被葬者は墓制などから、日向出身とは考えられない。また、高祖神社の細石神社に対する優位性から判断して見ると次のようになる。
スサノオの倭国に参加しなかったと考えられる井原鑓溝遺跡の被葬者は、それまでは倭国とは別の交易ルートによって、宝物を手に入れ、かろうじて独立を保っていた。ところが、対馬からやってきたヒコホホデミが、日向国王の金印を携えて外国人と交渉をするようになった。その結果、外国人がヒコホホデミを信用し、被葬者の方は外国人に全く見向きもされなくなり、独自の交易ルートも絶たれてしまった。ヒコホホデミの働きかけもあり、ついに倭国に加入したのではないだろうか。これにより北九州での権力型の王墓は消滅するのである。
北九州の中心域は、銅剣・銅矛祭祀が盛んでないが、これは、この地域の豪族が元々の裕福さからスサノオの倭国に参加せず、その後は、このように北九州以外の勢力により直接支配されたためではないかと判断する。
この北九州最後の王の倭国に加入の状況が伝えられたのが海幸・山幸神話ではないだろうか。つまり、海幸彦は井原鑓溝遺跡の被葬者で、山幸彦はヒコホホデミである。海神の宮は対馬である。ヒコホホデミはスサノオとムカツヒメの間に紀元25年ごろ誕生し、日向が実権を握った50年ごろ(25歳)から、ムカツヒメに外国との交易ルートを確保するように任じられた。まず、対馬に行き、当時出雲と関係の深かった豊玉彦に取り入って、婿入りした。そして、豊玉彦の信頼を得て日向と外国との交易ルートを確かなものにした。次に外国人の倭国訪問の玄関口である伊都国を倭国の直轄にするため、井原鑓溝遺跡の被葬者(海幸彦)に倭国に加入するように交渉に行った。しかし海幸彦は倭国に入る気がなく、ヒコホホデミにいろいろ難題を吹きかけて困らせていた。57年になり、ムカツヒメの命により、後漢に朝貢した。後漢の皇帝は今までの倭の小国ではなく、倭国の大半を統一した日向国が朝貢に来たので大変喜び、金印や玉壁を与え、その返礼として、後漢の使者を倭国に派遣した。ヒコホホデミはこの使者と共に倭国に戻り、金印を初めとする最新の物品によって、海幸彦を降参させ、伊都国を倭国に加入させることに成功した。ヒコホホデミは伊都国の「一大卒」として、高祖神社の地に宮を造り、外国交易の柱として活躍した。 
第四項 金印の埋納
この金印は、身分証明に使っていたため、日向国がなくなってしまえば無用のものとなる。つまり、神武天皇が即位して大和朝廷が成立すると必要なくなるのである。大和朝廷が成立したとき、日向国王から派遣されていた伊都国の「一大卒」(ヒコホホデミの後継者)は、大和朝廷により派遣された「一大卒」に政権を移譲し、海路日向に帰ることになったであろう。この金印を持っていると、それを理由に大和朝廷から難癖をつけられたり、せっかくまとまった国が分裂するもととなりかねないので、帰る途中にあたる志賀島に埋めてしまったものと考える。 
第五項 南九州の統一
このころの九州地方は政治の中心地があると同時にまだ統一されていないところがいくつかあった。伝承から推察するに、スサノオが南九州地方で統一したのは現在の宮崎県と鹿児島県の錦江湾北部地域と思われる。大隈半島、薩摩半島、北薩地方はスサノオの行動の跡が見られないことから、未統一であったと考えられる。第3代倭国王のムカツヒメはその遺志を継ぎこの地方の統一をしようと努力したのであろう。タカミムスビはこのあたりより伝承に登場しなくなるために出雲国譲りの後亡くなったものと考えられる。ヒコホホデミの活躍により北九州の主要部が倭国に加盟し、未加入地域は球磨国と大隅半島と薩摩半島部と曽於国のみとなった。後漢から導入した新技術を示すことにより、薩摩半島部及び大隅半島部の統一に乗り出すこととなった。当時の薩摩半島南端部は対馬におもむく前にヒコホホデミが統一しており、野間半島部から笠沙にかけてオオヤマツミ一族がいて、曽於国(現鹿児島県曽於郡)に曽於族がいた。オオヤマツミ一族はサルタヒコの旧領を治めていたニニギを呼び戻して派遣することとなった。大隅半島部には嫡子であるウガヤフキアエズを派遣した。曽於国を倭国に加盟させるためにヒコホホデミを串間に派遣した。ともに紀元65年ごろであろう。ムカツヒメの五皇子たちの行動を元に南九州の統一過程を追ってみたい。ニニギ、ヒコホホデミ、ウガヤフキアエズの日向三代の陵墓候補地は南九州に複数存在するが、伝承をたどっても考古学的に検討しても、明治7年7月明治天皇が御裁可した三候補地が最有力である。これについては季刊「邪馬台国」第37号に詳しい。 
ムカツヒメの子供たち  
長男 オシホミミ
次男 ホヒ
三男 ニニギ
四男 ヒコホホデミ
五男(嫡子) ウガヤフキアエズ
嫡孫 サヌ(後の神武天皇)
狭野命の誕生伝承地は南九州に何箇所も存在している。1佐土原(佐野の森)、2高原町佐野(皇子原)、3志布志町佐野、 4東串良町宮下(イヤの前)、 5鹿児島県加世田市、などである。どれが正しいのであろうか。他の地にある伝承とうまく繋がらなければならない。狭野命の成長伝承地、宮跡伝承地などを総合すると、1または2が残る。他の伝承地は宮跡と繋がらない。 2が成長伝承や宮跡伝承と最も良く繋がるのであるが、現王島の日吉神社には神武天皇の胞衣を埋めた伝承がある。狭野命は近くの佐野の森で誕生し、ここに胞衣を埋めたというのである。この伝承が誕生時を最も具体的に示しているといえる。そこで、狭野命は佐野の森で誕生し誕生後すぐに皇子原に移動しそこで育ったのではないかと考えてみた。
このように考えると日向国の重要人物はことごとく阿波岐原(宮崎市西海岸)周辺で生まれていることになる。阿波岐原は伊邪那岐命が禊払いをし、三貴子をはじめ多くの神々を産んでいる地である。誕生の聖地として臨月に達した妊婦はこの周辺に産屋を立てて皇子を出産するという慣わしがあったのではないかと推定するのである。玉依姫命も狭野命を出産するためにあえて宇都からここにやってきて出産したのではあるまいか。
狭野命は皇子原に15歳までいたことになっている。現年代計算で7歳までである。このころ、鵜茅草葺不合尊は宇都に宮居していた。皇子原から宇都まで2km程を狭野命が往復していたという伝承をもつ道も残っている。また、御池で舟遊びをしたという伝承もある。
狭野命が7歳になったころ(65年)、ムカツヒメは鵜茅草葺不合尊に大隈半島の統一を命じた。ちょうどこのとき高千穂山が大噴火して、多量の火山灰が降り注ぎ、作物が取れなくなった。狭野命は以前彦火火出見尊が住んでいた都島に宮居を移した。
70年ごろムカツヒメが串間にて崩御した。父の鵜茅草葺不合尊より、倭国のために働くように命じられた。まずは、宮崎に赴いて北九州・東倭地方との物資の交流を監督するのが任務だった。宮崎の皇宮屋に宮居を移した。この途中で金崎を通過している。金崎の丘陵上から阿波岐原方面を眺めている。宮崎に宮居してしばらくしたころ、鵜茅草葺不合尊が以前海幸彦と約束していた彼の娘との縁談が決まった。吾平津姫である。狭野命は彼女と結婚し、日南の駒宮神社の地に宮を作った。狭野命は暇さえあれば日南にやってきてこの地に滞在した。吾平津姫との間には手研耳命と岐須耳命が生まれた。結婚後も吾平津姫は、油津の駒宮神社の地に住んでいたようである。その陸路の通い道(現在の飫肥街道と思われる)にあるのが 生達神社である。狭野命は馬に乗って日南から父と連携を取るために西洲宮に通っていたようである。
75年ごろ鵜茅草葺不合尊が西洲宮で亡くなった。鵜茅草葺不合尊は志途中で亡くなっており、狭野命が後を継がなければならなくなった。宮崎に住んでいた狭野命は大隅に移ることになった。東串良町の山野(さんの)に山王屋敷がある。ここに宮を建てて鵜茅草葺不合尊の大隅開発を継承した。
ムカツヒメがまだ生きているころから、日本国との合併論議が始まっていた。次第に具体化してきており、最初は鵜茅草葺不合尊が大和に行くことになっていたが、鵜茅草葺不合尊の崩御により狭野命が大和に行くことに決定した。鵜茅草葺不合尊より引き継いだ第五代倭国王の地位を彦火火出見尊に引き渡すことになった。引継ぎに関して、国分との間を何回も往復した。その途中の伝承地が 宮浦宮及び若尊鼻である。出港地はおそらく古江港であろう。また、狭野命は対岸の薩摩半島の母方の実家にも挨拶に行った。鹿児島市谷山の柏原神社にその伝承がある。狭野命はこの時期関連人物の宮居に頻繁に出入りしている。
皇宮屋
肝属川の河口の柏原に大和に行く舟を集め、荷造りをしていった。まもなく準備がそろい、78 年柏原の波見港を出港した。
熊襲地方
熊襲地方(現熊本県)は、あのスサノオですらまったく手がつけられなかっただけあり、北九州中心域や薩摩地方に比べてかなりの難物であり、まったく統一の気配すら得られなかった。そこで、ムカツヒメは、熊襲地方を取り囲むようにその交通の要所に重要人物を配置することにした。熊襲の領域は現在の熊本県とほぼ重なり、三方向は山に囲まれている。北方の要所はサルタヒコが以前安定化させていたので、西方の要所である高千穂には孫であるミケイリヌを、南方の要所である川内地方(ニニギの御陵は川内にある)には笠狭宮のニニギを派遣した。 
第六項 日向国王の墓
日向国王ムカツヒメの墓は、「古代日本正史」によると、西都原古墳群の男狭穂塚になっているが、五世紀のものと考えられるこの古墳では、明らかに時代が合わない。ムカツヒメの墓はどこにあるのであろうか。
都の移動
日向国の都のあった場所を伝承から探ってみると、宇佐、高原町宇都、都城市都島、鹿児島県串良町周辺である。このあたりは九州で二番目に遺跡密度の高い地域で、倭国の中心地と考えても不思議ではない。これらの移動の理由として、宇佐から高原町に移ったのは、スサノオ亡き後、南九州の完全統一のため、イザナギの旧都に戻ったものと推定され、高原町から都城に変わったのは、霧島山が大噴火して、狩りも作物もできなくなったため、との伝承がある。
ムカツヒメの方は、伝承が消えているために直接の移動を探ることは難しい。鹿児島神宮のとなりの石体神社に卑弥呼神社なるものが作られている。その創設者の郷土史家松下兼知氏によると、邪馬台国女王卑弥呼の居城がこの地にあったことが判明したそうで、それを記念して卑弥呼神社を創始したと神社の記録にある。その根拠を知りたいと調査をしてみたものの現在のところ不明である。松下氏がいろいろと調査された結果この地に日本建国の女王が居城していたことが分かったらしいが、神社伝承を基にした古代史の復元では、この女王は卑弥呼ではなく日向国王ムカツヒメのことであろうと判断される。松下氏の根拠が不明なので、その可能性について独自に考えてみたいと思う。
その昔、スサノオがイザナギ王国を倭国に編入した後、この地にやってきて国分市一帯を統一した。そのときの拠点とした所が石体神社の地である。スサノオが南九州から去った後は、出雲から役人が派遣されてきてその政庁となり、南九州全域を統治していた。AD50頃、出雲国譲りのとき、ニニギを総大将としてこの政庁を急襲し出雲の役人を追い出した。その後25年間が不明でAD75年ごろ、ヒコホホデミが薩摩半島南端部から呼び戻され、サヌから第6代倭国王の位を引き継ぎ、この地で南九州を治めていた。その後、AD180年ごろ倭の大乱の結果東倭が大和朝廷に吸収されたときに、日向国も朝廷の支配下に下っている。朝廷の支配下に下ってからの南九州の中心地は古墳の集中度からして西都に移ったものと判断される。
このように石体神社の地を伝承によってたどってみると、AD50頃〜AD75頃を除き、スサノオ以来大和朝廷に服属するまでの間、常に石体神社の地は日向国の中心地になっているのである。この空白の25年間にムカツヒメがこの地にいたとするのはごく自然である。この25年間のこの地はまだ倭国に加入していない地域である大隅半島部、薩摩半島部、北薩地方に囲まれており、それぞれの地で活躍している子供たちと連絡を取るには実に良い場所である。松下氏の言うとおりこの地に女王がいたとして間違いがないであろう。
王の山
都城周辺にはムカツヒメの墓らしきものが見つからない。しかし、サヌが大和へ行く以前に、ムカツヒメが死んでいる(70年ごろ)と考えられる。また、サヌは大和へ旅立つ前にいろいろな関係者のところを挨拶回りしているので、必ず、その墓へも参拝していると思い、神社伝承でサヌの行程を調べてみた。東串良町柏原を出発したサヌ一行は、最初、串間市に上陸している。そして、すぐに対岸から海に出ている。上陸せずに海を行った方がよいと考えられるのにわざわざ上陸しているのである。串間市には関係者の伝承もないことから、ムカツヒメの墓参りのために上陸したのではないかと推定した。墓は串間市にあるはずである。調べてみると、串間市の王の山にそれらしきものが見つかった。
ここは、江戸時代に発掘されて、現在、その位置が不明になっているのであるが、記録によると、鉄器30点と共に、中国王侯の印とされている璧が出土している。璧は現在国内で四点しか見つかっていないが、いずれも一世紀の王墓と考えられる墳墓から出土している。璧は中国において銅鏡を遥かにしのぐ貴重なものである。しかも王の山の璧は、そのうち最大で国宝になっている。この璧は径33cmと超大型で、中国にもこれほどの大きさのものはいくらもないといわれるほどのものである。中国で見つかった漢武帝の兄である中山王劉勝の墓から出土した壁のうちで最大のものが径23cmであるから王の山の璧が如何に大きいかわかる。
璧の出土状況が定かでないので、井原鑓溝遺跡から出土した璧を調べてみると、鏡の間に納められていたようである。これより、璧は鏡と同様にステイタスシンボルと考えられる。このような璧の、しかも、最大の物が鉄器30点と共に南九州の墳墓から出土することは、尋常では考えられない。このようなものが副葬されている墓の被葬者は並大抵の地位にある人物とは考えられない。倭国の小国の王にこのようなものを漢の皇帝が渡すとはとても考えられず、この人物こそ倭国王ムカツヒメのものと考えられる。漢の皇帝は金印を与えるだけでなく、このような璧まで与えており、倭国王ムカツヒメを破格の扱いで、大変重要視していた。この交流が中国に記録されていないというのも不自然で、これが57年の記事であろう。
串間市に九州倭国最期の都があったとするには、あまりにも中心域から外れている。おそらく、このあたりを巡回していたムカツヒメがこの地でなくなったのではないかと考えられる。
この付近は弥生遺跡が大変多く、このような墓が存在すること自体が、日向国が存在した証となる。でなければなぜこのようなものが南九州にあるのか説明できない。
この墓のことは、まったく伝承されていないが、古事記・日本書紀を編集するとき、ムカツヒメを天上に上げてしまった関係上、御陵の伝承が消えてしまったものと考える。 
忍穂耳命

 

忍穂耳命は正哉勝々速日天之忍穂耳命と呼ばれ、天照大神(ムカツヒメ)の長男である。AD22年頃、宇佐の地で、スサノオとムカツヒメとの間に生まれた。3年ほど後の25年頃、スサノオが出雲に帰還することとなり、ムカツヒメは同時に球磨国対策で、高千穂に滞在することとなった。広島県の斎島神社に正哉勝々速日天之忍穂耳命が主祭神として祀られており、そこには「天照大神の御長男で養子の神」と記録されている。忍穂耳命は誰かの養子になったようである。
忍穂耳は後にタカミムスビの娘であるヨロズハタトヨアキツヒメと結婚していることから、タカミムスビの養子になったと考えられるのである。タカミムスビは北九州に本拠を置く豪族のようである。
AD25年頃出雲のスサノオの命により、ムカツヒメは南九州の未統一地域の統一のために高千穂に移動した。其の時3歳程になった忍穂耳には将来北九州地方の統治者にする予定のために、北九州の豪族タカミムスビに其の養育を任せることにした。宇佐の地においてタカミムスビの養育の元で成人した忍穂耳は、AD35年頃、タカミムスビの娘であるヨロズハタトヨアキツヒメを娶り、北九州統治の地盤作りのために動き出すことになった。
タカミムスビは北九州の地の統治を忍穂耳に託して、自らは南九州で活躍していたムカツヒメの元に移動した。ムカツヒメも優れた知恵をもつタカミムスビを頼りにしていたのであろう。
「昔、大国主命が、宗像三神をつれて出雲の国から英彦山北岳にやって来た。頂上から四方を見渡すと、土地は大変こえて農業をするのに適している。早速、作業にかかり馬把を作って原野をひらき田畑にし、山の南から流れ出る水が落ち合っている所の水を引いて田にそそいだ。二つの川が合流する所を二又といい、その周辺を落合といった。大国主命は更に田を広げたので、その下流を増田(桝田)といい、更に下流を副田(添田)といい、この川の流域は更に開けていき、田川と呼ぶようになったという。
ところがその後、天忍骨尊が英彦山に天降って来たので、大国主命は北岳を天忍骨尊に譲った。天忍骨尊は、八角の三尺六寸の水晶石の上に天降って鎮座し、尊が天照大神の御子であるので、この山を「日子の山」から後に、「彦山」と呼ぶようになった。」<添田町HPより>
忍穂耳は宇佐から今川に沿って遡り赤村にたどり着いた。この赤村には倭国に加盟していない小国があったようである。岩石山を挟んで反対側にある彦山川一帯は大国主命が宗像三女神と共に開拓しており、発展していたが、この小国はそれを邪魔していたようである。忍穂耳はこの小国を倭国に加盟させた。岩石山は吾勝山・赤神山とも呼ばれており、その昔忍穂耳命が山頂に祀られていたそうである。この山は忍穂耳命の勝利の神跡と云われている。忍穂耳がこの小国を加盟させる時ここを統治していた豪族と戦いがあり、其の首領をこの山に追い込んで打ち取ったものであろう。忍穂耳はこの小国を開拓するためにしばらくここに滞在していたのであろう。そのためにこの周辺を吾勝野と呼ぶようになった。
宮跡は不明であるが、岩石山山頂が忍穂耳の聖地のようなので、御陵が岩石山山頂で、宮跡はこの山の麓(我鹿八幡神社の周辺)にあったのではあるまいか。忍穂耳は岩石山山頂に何回も足を運び国見をしたのであろう。しだいに其の周辺の国も巡回するようになり、より遠くの地域までを見渡すために英彦山山頂でも国見をしたのであろう。
田川市に香春神社がある。その昔は九州でも有数の大社であったようで、歴史上重要な意味が込められているようである。この神社にも忍穂耳命が忍骨命として祀られている。

『香春神社』は延喜式神名帳(927成立)に、
「豊前国田川郡三座 辛国息長大姫大目(カラクニ オキナガ オオヒメ オオメ)命神社(以下「息長比刀vという) 忍骨(オシホ)命神社 豊比(トヨヒメ)命神社」
とある式内社で、今、香春一の峰南麓に鎮座し、
『古宮八幡宮』(元宮八幡ともいう。式内社ではない)
は三の峰麓に鎮座するが、この両社に係わって幾つかの縁起・伝承が残っている。
1 香春神社縁起(成立年代不明)
「元明天皇・和銅2年(709)第一岳麓に社殿建立。三社の神を併せ祀り奉り『新宮』という」
なお、「息長大姫尊は神代に唐国経営に渡らせ給い、崇神天皇の御宇、本郷に帰り給い第一岳に鎮まり給う。忍骨命は天津日大御神の御子で、荒魂は南山に和魂は第二岳に鎮まり給う。豊比当スは第三岳に鎮まり給う。三神3峰に鎮座し“香春三所大明神”と崇め奉る」
2 続日本後記・承和4年(837)条
「太宰府曰く、豊前国田河郡香春神は辛国息長火姫大日命、忍骨命、豊比当スの是三社である。元々この山は石山であって草木がなかったが、延暦22年(803)、最澄が入唐するにあたってこの山に登り、渡海の平安を願って麓に寺を建てて祈祷したところ、石山に草木が繁茂するという神験があった。水旱疾疫の災いがある毎に郡司百姓が祈祷し、官社に列することを望んだので、之を許した」
3 香春神社解文(1287成立)
「日置絢子が採銅所内にある阿曽隈を崇拝し奉る。降って元明天皇御宇・和銅2年、『新宮』に勧請し奉る。是香春也。本新両社と号す」
4 三代実録・貞観7年(864)条
「豊前国従五位下辛国息長比盗_・忍骨神に従四位上を叙す」
5 香春神社古縁起(太宰管内志所載)
「第一殿は大目命、第二殿は忍骨命、第三殿は空殿なり」
第三殿空殿の理由として、「第三殿は豊比当スの御殿だが、豊比当スは祭の時のみ新宮に留まり、祭が終わると採銅所に帰られるから“空殿”という」

香春神社は時代が異なる神が祀られているが、その中で最も古いのが忍骨命である。古代において忍穂耳がこの周辺を統治していたためにここに祀られたものであろう。英彦山神宮に「天照大神の御神勅により、この地に降臨された天忍穂耳命は、農業生産の守護神として、また鉱山・工場などの産業の守護神として崇敬されている。また、瓊瓊杵の国を統一するのに助力したと」記録されている。此の香春神社周辺は古代からの銅の産出地である。このことより、忍穂耳命はここで、銅の産出をしたと思われ、後に朝鮮半島から来た渡来人が本格的に銅の産出をしたものであろう。この地はニギハヤヒがAD5年頃最初にやってきて倭国に加盟させ、大国主がAD25年頃やってきて農地開発を行い、AD35年頃忍穂耳命がやってきて統治していたと思われる。
忍穂耳命はほかにも福岡市の鷲尾愛宕神社、小郡市の天忍穂耳神社などで主祭神として祀られており、この周辺も訪問しているようである。また、後の時代神武天皇が帝王山山頂で祭祀したのは忍穂耳命であり、馬見山では関連の深いタカミムスビを祀っている。忍穂耳命関連伝承はそのほとんどが失われているが、このことから判断して田川郡から嘉麻市一帯を統治していたのであろう。出雲の国譲りの時にこの地域をニニギ命が引き継いだために「瓊瓊杵の国を統一するのに助力したと」英彦山神宮に伝えられることになったのであろう。
忍穂耳命は出雲国譲りが起こる直前AD45年頃、急死したものと考えている。そのために弟であるニニギが急遽北九州へ来ることになったのであろう。
北九州地方は海外との交易の要になる地域であるために、古代史上の主要人物の出入りが非常に激しく、その実態を解明するには非常に難しい地域である。 
天穂日命

 

ホヒは23年ごろ安心院の地で産まれたものと考える。ムカツヒメと共に日向で成長したが、44年ごろオオクニヌシが九州で亡くなった直後、出雲国譲りの根回しのために出雲に派遣され、松江市大庭町の神魂神社の地を拠点として活躍していた。国譲り後も出雲にとどまり、晩年は安来市の能義神社の地を拠点としてその周辺の開拓に努力した。その長男タケヒナドリは40年頃日向にて生まれ、出雲の国譲り後にサルタヒコと共に50年ごろ出雲にやってきて協力して出雲国の開拓に努力した。タケヒナドリは伊佐我(櫛瓊命)と出雲建子(伊勢都彦)の2児を設けた。このうち伊佐我命が出雲のスサノオ祭祀者であるサルタヒコの娘と結婚しその子津狭が出雲国造の祖となった。その子孫は代々スサノオ祭祀者として出雲国を治め、倭の大乱以降は出雲の国造として出雲国の発展に貢献した。
出雲国造家
 瓊速日---猿田彦---娘------
              |−津狭-・・・-出雲振根
 穂日-----武比鳥---伊佐我--  
瓊々杵尊

 

スサノオ(素戔嗚尊)とムカツヒメ(天疎日向津姫尊)との間にできた三男である。この人物の伝承から、彼の行動を明らかにしてみよう。
瓊々杵尊関連地図
生誕地
神話によると瓊々杵尊は高天原で誕生している。誕生直後に高千穂に天孫降臨している。実際のところはどうなのであろう。瓊々杵尊の誕生伝説地を挙げると
1 西臼杵郡高千穂町の二上峰
2 西臼杵郡高千穂町の櫛触神社(天孫降臨地)
調べた限りそのほかの誕生伝説地はない。瓊々杵尊の誕生地が山の頂上というのはおかしなものである。二上峯の中腹に洞窟があり、此処が生誕地と伝えるが、此処も不自然である。人の誕生地には産湯が使える場所が必要なのである。最初の宮跡が高千穂町の高天原であるという伝承があり、高千穂町で生誕した可能性が高いといえる。誕生地は当然ながら聖地となっているはずである。残る誕生伝説地は櫛触神社の地である。すぐそばに天真名井「瓊々杵尊がご降臨の時、この地に水が無く、天村雲命が再び高天原に上がられ、天真名井の水種を移されたと伝えられている。」があり、今でも清水が沸いている。この水を産湯に使ったことも考えられる。ここが瓊々杵尊の生誕地として最有力である。後の時代天孫降臨を天上からの降臨と位置付けられた時、近くの高峰に降臨地を作ったものが二上峰と推定する。高千穂一帯はムカツヒメが数年間住んでいたところであるが、日向三代すべての関連伝承地を含むなど他地域の伝承との間で矛盾を生じる伝承地も多く含まれており、神武東遷の後、三毛入野命がこの地にやってきて、聖地化されるなかでその他の伝承地が作られたものと推定する。
このころムカツヒメは出雲のスサノオのところへよく通っていた。その帰りに高千穂の地に立ち寄ったのではあるまいか。理由は球磨国との交渉のためであろう。ムカツヒメが高千穂の高天原に滞在中に瓊々杵尊が誕生したものであろう。AD25年頃のことである。近くには高天原遙拝所、四皇子峰がある。
高千穂の伝承地  伝承  推定
高天原遙拝所 高天原を遙拝した所。瓊々杵尊宮跡 実際のところ、何を遙拝したのであろうか?ムカツヒメの時代とすると、遙拝対象がはっきりとわからなくなるのであるが、後の時代、この地にやってきた三毛入野命、健磐龍命の祭礼地と考えたほうがよいようである。ムカツヒメの時代ではムカツヒメ自身が瓊々杵尊ともに住んでいた宮跡と思われる。
櫛触神社 天孫降臨の聖地。祭神瓊々杵尊 瓊々杵尊の生誕地と推定
天の真名井 瓊々杵尊がご降臨の時、この地に水が無く、天村雲命が再び高天原に上がられ、天真名井の水種を移された処 瓊々杵尊の誕生時の産湯をつかった井戸。櫛触神社から200mほどしか離れていないので、両者は深い関連があるものと思われる。
四皇子峰 神武天皇をはじめとする四兄弟の宮跡。 神武天皇はこの高天原とは直接関連が認められないので、神武天皇ではなく、天孫降臨の従者の宮跡ではあるまいか。
天岩戸神社 天岩屋遙拝所・祭神天照大神 天安河原・諸神会議所 この当時は諸神を集めた会議がよく行われていたようで、岩屋を聖なる地とし、その前で、初会議を行ったその会場と推定する。
高千穂より西へ30kmほど進んだ場所に幣立宮がある。この宮にもさまざまな伝承が伝えられている
幣立宮伝承  内容
筑紫の屋根 天照大神、天の岩戸よりご出御の御時、天の大神を神輿に奉じ日の宮に御還幸になった。
村雲尼公殿下の御玉串 皇孫瓊々杵尊の思し召しで皇祖天御中主尊の御許に天村雲命を上らせ給う
東御手洗 皇孫瓊々杵尊はこの神水で全国の主要地を清められた。天村雲姫が水徳を開かれた。
日の宮 神武天皇が大和遷都後、七度訪問した。
幣立宮のこれらの伝承を総合して判断すると、この地は、高千穂に滞在中のムカツヒメがおそらく球磨国との合併交渉のために、この地を訪れ、その拠点としていた場所と推定できる。神武天皇自身も遷都後に日向を訪れたという伝承をもっている。これも球磨国との交渉であったろう。神武天皇が亡くなる直前(神武76年=AD120年)健磐龍命がやはりこの地を拠点としていたようである。
瓊々杵尊は誕生後数年間は、高天原の地に住んでいた。ムカツヒメはこの地から何回か出雲へ訪問したものと考えられる。数年後瓊々杵尊はムカツヒメとともに日向に戻ることになった。高千穂から延岡に向かう途中に当たる日之影町の大人神社には、大人神社があり「昔は大日止と書き瓊々杵尊が高天原から高千穂にご降臨の後しばらく御滞在の地」と伝えている。この地を通って日向に向ったものであろう。
次のヒコホホデミは阿波岐原で産まれているので、ムカツヒメが高千穂にいた期間は短く。すぐに日向に戻ったものと考えられる。この頃は南九州がまだ未統一であり、球磨国が倭国加入を拒否している関係上いつまでも球磨国にかかわっているわけにもいかず、先に南九州統一に方針転換をし、日向に戻ったものと考えられる。日向での宮居は北諸県郡高崎町の東霧島神社での地であろう。ここには神代の皇都で瓊々杵尊が住んでいたという伝承がある。ムカツヒメと共に40年ごろまで住んでいたとおもわれる。
宮崎市北方に奈古神社がある。古事記にいう阿多の長屋でここから妻木花咲耶姫を娶ったとあるが、瓊々杵尊は後に薩摩半島で阿多津姫(木花咲耶姫)と結婚している。この伝承が真実であるならば、瓊々杵尊は2回結婚していることになる。神話伝承では磐長姫と木花咲耶姫の二人を結婚しようとしたが、磐長姫を返している。この奈古神社の結婚相手は磐長姫ではないのだろうか?磐長姫は瓊々杵尊から返されたあと、悲しんで米良の地で密かになくなっている。米良の地はこの奥地に当たる。
AD40年頃、15歳ほどになった瓊々杵尊に縁談があった。奈古神社の地に住んでいた髪長姫である。
瓊々杵尊の宮居伝承地は宮崎大学の近くの木花神社にもある。出雲国譲りの後、ムカツヒメの子供たちは遠くに出て行っているため、木花神社に居を構えたのは出雲国譲りの前で、40年頃〜46年頃までの期間であろう。瓊々杵尊は奈古の磐長姫を娶り木花神社の地で新婚生活を送っていたと推定する。
木花神社の社に向かって左側に無戸室(うつむろ)址がある。古来神聖視しており人が入ることを許さないという。また、社の東側の坂道の途中に桜川という産湯の跡がある。
ここでの生活は長く続かなかったようである。AD46年頃出雲と日向との間の確執が大きくなり、鹿児島神宮の地の出雲屋敷にいる出雲の役人を日向から追い出すことになった。20歳前後となった瓊々杵尊にその総大将の命が下ったのである。瓊々杵尊は早速軍をまとめ、石体社の地に集結し出雲屋敷を急襲し、出雲族を南九州から追い出した。これが瓊々杵尊の初陣であった。
鹿児島神宮を追い出された出雲の役人たちは、奪還を目的として延岡市の天下神社の地に終結した。この地はニギハヤヒがこの地方統一のために宮としていた地で、出雲の役人はここを拠点としていた。瓊々杵尊はここからも出雲の役人を追い出すために、ここも急襲した。市内の愛宕山は笠沙岬で、瓊々杵尊が新婚生活を送っていたという伝承がある。この周辺には北方の俵野や可愛岳山頂、西側の榎岳山頂に瓊々杵尊御陵伝説地があり、瓊々杵尊は出雲族を追い出した後、人々の心を落ち着かせるために髪長姫とともに愛宕山に居を構え、周辺を巡回したのであろう。そのために御陵伝説が残ったものと考える。
ムカツヒメは南九州から出雲族を追い出し、北九州をオシホミミでまとめようとしていたが、47年ごろ、オシホミミが急死したとの連絡を受けた。すぐに対応しなければ北九州が不安定になるために、急遽瓊々杵尊を北九州に派遣することにした。瓊々杵尊は海路、福岡県行橋市に上陸し、オシホミミの旧領をタカミムスビの子孫から受け継ぎ、ついでサルタヒコから北九州北西部を譲り受けるために佐賀県基山に移動しサルタヒコからその領域を受け継ぐことに成功した。これにより、伊都国以外の北九州全域が瓊々杵尊の支配地となったのである。第三代倭国王を受け継いだムカツヒメより引き続き北九州の統治を任された。
福岡県苅田町の高城山に瓊々杵尊の降臨伝承がある。瓊々杵尊は海路ここに上陸し、ここから今川に沿って赤村に入った。赤村はオシホミミ本拠地であり、御陵(不明)に参拝したものであろう。馬見山の北麓地帯もオシホミミの舊蹟地帯なので、この地方も巡回している。嘉麻市牛隈に荒穂神社があるが、この周辺に滞在していたものであろう。これによりオシホミミ一族の協力を得ることができた。
サルタヒコに出雲を統治してもらうために、サルタヒコから北九州一帯を譲り受けなければならない。そのために福岡県佐賀県の県境にある基山に本拠地を移し、サルタヒコとの交渉を行った。ここにも荒穂神社がある。サルタヒコとの交渉は成功したので、周辺地域も安定させるために佐賀県太良町の太良嶽神社の地に拠点を移し佐賀県長崎県一帯も支配下に入れることができた。これにより、北九州地方全域が瓊々杵尊の支配地域になった。
北九州の瓊々杵尊はどこに住んでいたのであろうか。福岡県鞍手郡宮田町に六ヶ岳という山があり、その山には 瓊々杵尊に関し次のような伝承をもつ
「この山は六っつの峰からなり六ヶ岳と呼ばれた。主峰旭岳と、天冠、羽衣、高祖、崎戸、出穂の峰がある。伝説ではニニギノ尊の御陵であり、亡骸を旭岳に、冠は天冠に、衣は羽衣に埋葬された。」
との伝承がある。瓊々杵尊の御陵とは思われないが、この麓に拠点を置いていたものと考えられる。周辺にこれ以上高い山がなく、見晴らしの良い山である。北九州主要部が一望できる。現在の飯塚市周辺はニギハヤヒ信仰が強いところで、この地に隣り合う直方市を中心として活躍していたのではあるまいか。その本拠地は現在のところ不明であるが、この地を選んだのは遠賀川の水運の拠点だったためと思われる。
北九州滞在中瓊々杵尊は東倭を巡回しているようである。広島県下に瓊々杵尊訪問伝承が残っている。また、日向との間を何回か往来しており、その途中に宮崎県日向市の大御神社に立ち寄っている。
65年ごろになり、ムカツヒメは薩摩半島部の統一に瓊々杵尊が欠かせないことを悟り、瓊々杵尊に日向に帰還することを命じた。北九州を別の人物に託し、日向に戻ってきた。ここで、ムカツヒメから「加世田のほうで阿多一族の娘と結婚し阿多一族を倭国に加盟させよ」の命を受けた。瓊々杵尊は妻の磐長姫を奈古に返すことになった。奈古の磐長姫の父は瓊々杵尊を恨んだ。米良神社の伝承によると磐長姫は慙愧に堪えず家を去り一ノ瀬川を遡って米良神社(西米良村小川)の地にたどり着き、御池の淵に身を投じて逝去した。と言い伝えられている。磐長姫が奈古神社の位置から北に出たとすると、この伝承の通りになるのである。 
米良神社の伝承
「伝説によれば天孫降臨の際、瓊々杵尊が美女を見そめ父大山祇命に請われたところ父大山祇命は磐長姫と妹の木花開耶姫の二人を奉ると申し出られた。然るに瓊々杵尊は木花開耶姫を留め、姉磐長姫は醜いため返し給えることになった。磐長姫は棺の底より櫃の底より鏡を取り出し、わが顔を見られ、はじめてわが顔の醜きを知られ、家を去られこの五十川(今の一ッ瀬川)を伝い上られ米良の小川の里に住まわれていたが、ついに悲観のあまり御池の淵に身を投じ薨ぜられた。村人これを憐れみ一宇を建立し祀ったという。
以後、髪長姫は隠れ神として人をいみ給うことになり、本殿のある神山には神宮の外の者の入ることをきらい、殊に女人は絶対に立ち入ることを禁じられて今日に至った。また、当神社には神宝として、髪長姫のものという毛髪があったが、元禄十六年五月七日洪水が起こり山は崩れ、、川は氾濫し、社も川上へ漂上した。
川水が引くにつれて社も静かに川下に下り、留まったので、この地に拝殿を建立したという。これがすなわち現在の拝殿である。」
髪長姫は国の統一のためやむなく瓊々杵尊と別れはしたが、相当つらいものであったらしく、山奥に引きこもってしまわれたようである。
天孫降臨後の経路伝承(古江出港まで)
天孫降臨とは何であろうか。北の高千穂町の方は瓊々杵尊の生誕を天孫降臨と解釈した。霧島連峰の1つである高千穂峰も天孫降臨伝承をもっている。高千穂峰は山頂には、瓊々杵尊が降臨したときに峰に突き立てたとされる、青銅製の天逆鉾が立っており、山岳信仰の舞台となった。かつて、山中には霧島峯神社が鎮座したが、噴火により社殿が焼失した。このため、山麓の鹿児島県側に霧島神宮、宮崎県側に霧島東神社、狭野神社などに分社したとされる。これは古代から高千穂峰に相当強い執着があったことを意味しており、単なる伝承では済まされない強い歴史的事実が存在するのは間違いないであろう。
高千穂峰は標高1574mで霧島連峰第二の高峰で東端にある。山頂より宮崎平野一帯、鹿児島の錦江湾一帯を一望でき、国見には最高の山であろう。地図のない古代の南九州一帯を統治するには周辺の地理的状態を把握しなければならないがそのために、国を一望するには最高の条件を備えた山には違いない。おそらく、当時の支配者たちは国見のために頻繁に高千穂峰山頂に登り、そこで祭祀をしたのであろう。霧島峯神社には日向三代すべての人物が祀られており、都の跡だと言い伝えられている。これも、ここからきているものではないだろうか。
瓊々杵尊が国分のムカツヒメのところにあいさつに行く途中、高千穂峰に登って今後の統一事業の成功を祈って山頂に天逆鉾を立てて祭祀を行ったと推定される。これが高千穂峰の天孫降臨ではないだろうか。
胸副坂 霧島神宮駅裏 古代より国分から霧島神宮に参拝する旧道である。瓊々杵尊はこの旧道を通ったと伝える。
春山牧 霧島市国分重久春山原 天孫降臨の時、天斑駒の遺裔である良馬を携え給ひ霧島山中の原野に放牧せられた駒が繁殖して良質の馬族となり、神武天皇の御馬料となし給ふた原で御牧と申し伝える
天孫牧 鹿児島空港周辺 八重山部落(溝辺町麓の東北)は神代瓊々杵尊の牧場であった。ここは神馬の産地として知られていた。この馬は立髪が長く、尾は地まで着き、脚が強くてどんな登り坂でも登ることができたという。
仰谷御崎殿 鹿屋市百引 瓊々杵尊天孫牧より出で、仰谷御崎殿を御通過ありて鹿屋市祓川に出で、古江浦に至らせ給うと伝える。京田、御納戸、キリシマクワンジョも又由緒の地と伝えらる。
高千穂神社 鹿屋市花岡町 瓊々杵尊霧島山に降臨の後滞在した所と伝える。神社の西に小池あり、瓊々杵尊がこの水を使用したと伝える。神社の南境内に霧島松がある。ここが瓊々杵尊の宮跡と伝える。
東に小丘あり、柴立という。この地に瓊々杵尊が降臨したと伝える。
神石 鹿屋市古江港 古江港の浜辺にある。高さ三尺の岩石にて、此処より笠沙の御崎に行幸遊ばされたと伝える。
磐長姫と別れた瓊々杵尊は奈古から大淀川沿いに都城を抜け、高千穂峰で天の逆鉾を立てて祭礼をした後、鹿児島県霧島町胸副坂(霧島神宮駅の近く・瓊々杵尊通過伝承あり)をとおり、国分でムカツヒメに挨拶した。このとき、馬を育てるため天孫牧、春山牧を作ったものであろう。
このときムカツヒメから後に天壌無窮の神勅と言われる命を受けたと考えられる。
「豊葦原の千五百秋の瑞穂の國は、これ吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就きて治らせ。行矣。寶祚の隆えまさむこと、當に天壤と窮まりなかるべし」(日本書紀巻二)
この神勅は当然そのままではなく日本書紀編纂時に書き換えられていると思われるが、おそらく、「大隅・薩摩半島部の諸国を統一せよ。」というような意味があったものではあるまいか。
この地に滞在後、大隅半島を南下して鹿屋市花岡の高千穂神社の地に滞在した。このときの経路は海上ではなく陸路である。福山辺りからほぼ現在の国道504号線に沿って鹿屋市の祓川まで移動している。海路のほうが楽なのに、陸路を通っているのは周辺住民の視察のためであろう。この当時大隅半島はまだ完全には倭国に加盟しておらず、この経路の国々はこの瓊々杵尊の巡幸にて加盟したのかもしれない。西州宮(桜迫神社)の鵜茅草葺不合尊に別れの挨拶をした後、高千穂神社の位置に滞在し、古江港から薩摩半島めがけて出港した。67年ごろのことである。 
古江出港から裳敷野に宮を作るまで
大山崎 指宿市大山崎 瓊々杵尊古江より出港され、御船をこの地に寄せ給いし所、これより周辺を揖宿と云う。
その後、山川に渡ったので、その間を大渡と云うようになった。
桜井神社 指宿市大山 昔瓊々杵尊が薩摩にお降りの際、山川の無瀬浜に御上陸になった。そのとき大山に二人の姉妹があった。姉は醜く妹は美しかった。妹をこの国の案内役として望み、仲睦まじく暮した。命は再び東方に御還り遊ばすことになった。姉妹は大山に止まり涙をもって御見送り申し上げた。現在別れの浜といい、間もなく姉はこの地で亡くなられたので、桜井神社に祀られ、妹のほうは開聞の地に移動しその地で亡くなった。開聞神社に祀られている。
瓊々杵尊は巡狩なし給わんと国見しつつ頴娃郷に行去り坐して平に来りき。是処美国の好哉。可愛の郷と見へたり。然れば開聞は平処来りきの約言なるべし。
立瀬と舞瀬 神渡の西方 神渡の西方磯辺にある立瀬は天孫御巡幸の際お立ちの処、舞瀬は同じく舞をみそなはされた処と伝える。
神渡 笠沙黒瀬海岸 瓊々杵尊初め舟に乗り給ひ神渡の少し西方磯辺に打ち寄せられしを、塩焚の翁かしつき奉り己れか塩屋に入れ参らせ塩俵の上に鹿の皮を敷き御座させ奉る。
誌の石 黒瀬海岸 黒瀬海岸上方水田中にある。これは天孫を導き奉った塩焚の翁が塩浜の舊跡であると云い伝えている。
宮の山 宮の山遺跡 天孫瓊々杵尊、御巡幸最初の宮居である。笠沙宮の古祉と伝えられる。古老の伝承「あな尊き貴方よ。此処に暫く憩ひ遊ばせ」とて、一大岩窟の中に己の抜いた茅を敷いて休ませ申した」
近くの門山は宮門の跡、池平及池と呼ぶ地はよく清水の湧き出た処で、この水を神々がご使用になったと伝える。
船ヶ崎 宮の山西方 宮山の西方海岸で神代のころ舟の発着所であった。魚の形のある巨岩は神々が魚釣りをなされた時、釣り上げた魚を投げつけなされた跡である。
瀬戸山 宮山の西方 宮山の西方瀬戸山には天孫御遷幸の際、命の御杖より生じたという鈴?(しのたけ)という竹がある。
宮之床 野間岳 野間岳堂峰の足下祓川の上流にあって、日受けやすく厳冬寒さを知らぬ処で、付近には熱帯植物「へご」が自生している。ここは天孫が宮居されたところで、吾田津姫が皇子を御降誕遊ばされたと伝える。
神憩場 赤生木 昔、諸神が野間岳と宮山との間を往復の途次御休憩遊ばされた処と言い伝える。
股覗石 赤生木 野間岳と宮山の中間小高き所にあって、昔神々がここを通過の際大洋を股下より覗かれた処と言い伝えている。
池の田 片浦 小浦より突出した半島にあって、往古野間岳の神がこの田の水を御使用になったという。そして、この田には肥料を使用してはならぬと伝え、現在まで使用しないという。
宮園 大浦 大浦にあって、元九玉神社を祀っていた。宮園は往古宮殿、上の門は宮門の遺蹟と伝えられている。天孫の此処より久志地を経て津貫を越えて行かれたとも云う。津貫は神々が御通りになった処で、大浦の海が奥深く入りこんでいた際、海より同所を越えられたから津貫という。
花立の腰掛岩 赤生木 赤生木の花立にある巨石で、この巨石は天孫が御腰掛になったと伝えられている。
会合 内布 瓊々杵尊、この地にて木花開耶姫と御会いなされしと伝承す。また相川とも書けり。
古江を出港した瓊々杵尊は大山崎に着岸し、次に無瀬浜に上陸した。大山の地にしばらく滞在し、その間に開聞、頴娃郷を巡幸しているようである。大山の伝承は「東に戻った」とあるので、一度高千穂神社に戻ったのかもしれない。この地は15年ほど前日子穂穂出見尊や鵜茅草葺不合尊が滞在していたところである。しばらく滞在後加世田の方へ向けて海岸沿いに舟を進めていると、嵐にあったためか黒瀬海岸の少し西に打ち上げられた。神渡の塩焚の翁に助けられ、この近くの宮の山にしばらく滞在することになった。 
宮の山
瓊々杵尊の宮跡と伝えられている宮の山は宮の山遺跡として知られている場所であり、その傾斜地上下4か所に巨岩で覆われた岩窟がある。窟内は数十畳の広さがあり幾分人工的加工が加えられた跡がある。また、この付近には割り石と思われる石を積み上げた小丘がある。この付近一帯は現在では疎林であるが、往古は相当の森林であったと推定されている。宮の山・堂の峰・宮の床付近には石器や弥生式土器の出土品が多く、この時代に人が住んでいたことは間違いがないことである。周辺の最高峰である野間岳に瓊々杵尊が登り周辺の国見をしたと伝えられている。ここは急傾斜地であり、長期滞在には不向きであり、周辺の状況を探るためにしばらく滞在していたと考えられる。
しばらく滞在後黒瀬から祓川に沿って下り小浦から宮園に移動して宮を作った。宮園で加世田の様子を探りながら、内布に赴いたところ、吾田津姫と出会った。その後、阿多の長狭(大山祇)と交渉を重ね、その娘阿多津姫(木花咲耶姫)と結婚することにより、加世田一帯を倭国に加盟させることに成功した。宮園から久志地、津貫を経由して、舞敷野に移動し宮を作った。是が笠沙宮である。ここで、新婚生活をした。 
舞敷野
高倉・大倉野 笠沙宮在りし頃の御蔵在りし地とつたえられる。
霧島殿 瓊々杵尊が下山田の霧島殿に御降りになり、大谷川で禊身を遊ばされたとも、此処で、皇子を御産みになられたとも伝えられている。
舞敷野 瓊々杵尊皇居の跡と伝える。周辺に神人の宅地跡あり
立神川 流域に船繋石、長持石、腰掛石、立神などの瓊々杵尊関連伝承地あり
舞敷野の御座屋敷と呼ぶ地には笠沙宮跡の石碑が建っている。この地が瓊々杵尊の宮跡である。その南方に標高271mの竹屋ヶ尾という山がある。此処が彦火火出見尊の生誕伝承地である。その頂上は北方遥かに金峰山を、西には長屋山を望み、加世田平野は一望の中にある。彦火火出見尊誕生時の無戸室の柱石と称するものが現存している。また、日本書紀の記述の「高千穂の峰に降り立ったニニギノミコトは、吾田の笠狭御崎の、コノハナサクヤヒメを嫁とり山幸彦ほか2尊を生み、竹刀で臍の緒を切り、捨てた竹刀はのちに竹林になった。その場所を竹屋と言う。」の元となった竹林がヘラ山と称せられて現存している。往古は山峰に竹屋神社があって鷹屋大明神と云っていた。
彦火火出見尊は宮崎の高屋神社の地で誕生したと推定しているので、此処は彦火火出見尊の誕生地とはならない。彦火火出見尊は瓊々杵尊の弟であるが、皇子であると変更されたために、この地で誕生した瓊々杵尊の皇子が彦火火出見尊になったものであろう。瓊々杵尊は数年間は此処に滞在したものと考えられる。AD70年ごろであろう。 
阿多の長狭(大山祇)
阿多新山字山角の小山の上に大山祇神社があって、大山祇神を祀っているがこの神社は最古の大山祇神社といわれている。その東方の標高200mの山上にメンヒルと称せられる巨岩が存在し、神代の遺蹟と伝えられている。ここは瓊々杵尊の休息の跡と言い伝えられており、この山麓に大山祇神の宮跡と伝えられているところがある。近くに貝塚があり、弥生式土器・石器・獣骨が出土している。ここが阿多の長狭(大山祇)の本拠地であろう。大山祇はこの周辺を統括する豪族であった。瓊々杵尊はこの地域を倭国に加盟させるためにこの地を訪れたのである。瓊々杵尊の宮跡が宮の山・宮園・舞敷野と周辺を転々としており、なかなか中心地域に入れない状態が伺われる。交渉が長引いたためであろう。宮の山にいるとき、大山祇の存在を知り、宮園にいるとき倭国加盟交渉をし、大山祇の娘阿多津姫(木花咲耶姫)と結婚により倭国加盟を承諾させ、舞敷野に宮を移したと考えられる。しかし、まだこの地は加世田地域の中心地からは外れている。中心地域内に反対勢力が残っていたためではあるまいか。 
後の笠沙宮
頓丘石 大山祇神の霊蹟といわれる山角の岡に登る中程の路傍に巨岩がある。これが頓丘石と呼ばれるもの。瓊々杵尊がここで休息されたとの伝承あり。
京田 肥沃な水田であるが、この地の米を南の笠沙宮へ奉納したので、京田と名付けられたという。
国見岩 亀山の頂にあり、瓊々杵尊笠沙に宮居ました頃、この岩に登り国見しましたと伝えている。
千本楠 宮内楠屋敷の千本楠は、瓊々杵尊お出ましの時、御持ち給うた楠の御杖を地中に挿し給うたものから芽を出したものと言い伝えている。
双子池 万瀬川改修前は不思議な神竹林が密生し、池も残っていて、双子池と呼んでいた。コノハナサクヤヒメがニニギ命の皇后として皇子をお産みになる時、この地に入口のない産屋をお造りになり、炎炎たる火炎の中で無事御分娩なされたので、その神竹林は竹刀で皇子の臍の緒を切られて後捨てられたのが生い茂ったものと言われていた。
伊佐野 南さつま市金峰町の旧阿多駅前辺りである。明治初年までは伊佐野権現があって、付近一帯は昔から神聖な処と畏れられたところであった。同所は神武天皇が日向に坐せられたころ、宮居あらせられた聖跡と伝えられている。
舞敷野における加世田一帯の統治が軌道に乗ると、外部との交流のために立地条件の良い宮原に宮を移した。現在の竹屋神社の地である。73年ごろと思われる。この宮跡伝承地は万瀬川河口近くの台地にあり、船着場があったと思われる地にかなり近い場所である。また、すぐ近くに大山祇の宮跡伝承地があり、加世田の中心地といえる。此処にもストーンサークル、メンヒルなどの巨石の一団が存在している。この地に宮を移したということは海上交通の要であることから、加世田一帯の実権を握ったことを意味している。
南さつま市金峰町宮崎字伊佐野に神武天皇滞在伝承地がある。神武天皇が大和に東遷の挨拶に来たものであろう。金峰町宮崎には他に山野、前山野と神武天皇関連伝承地がある。神武天皇がこの地に滞在したのは78年ごろと思われる。これにより78年の時点で瓊々杵尊は加世田にいたことがわかる。
川内転居
市来湊 瓊々杵尊が笠沙宮を出発して、江の地方(川内)に向かわせ給わんとするや、瓊々杵尊は舟師を率いて、市来湊に寄港し、征船の用意を整え再び海路を取らせ給い、千台川を遡って沿岸の賊徒を退治遊ばされ、江の地方を平定し給うたと云うことである。
船間神社 瓊々杵尊は川内河口から入り給い、先ず此の島に暫し御船を留め、四方の賊を御平定になり民情を御視察遊ばされたと伝えらる。島の中腹に船間神社がある。祭神は瓊々杵尊に伴い、笠沙より御案内申した船頭がこの島で病死したのを葬り給うたと伝えている。
月屋山 瓊々杵尊湯の浦に御上陸になり、月屋山に御登りなされ明月を御覧あそばし感慨に浸り給うたと伝えている。
鏡野 皇孫川内川を遡航あらせられ、小倉に御出になると、賊共の反抗に遭い給い三種の神器も危うくなったので、八咫鏡を此処に埋めて難を避け給うたと伝えている。
京泊 瓊々杵尊が御出で遊ばされて、京都の如く栄える様にとの思し召しから京泊と命名遊ばされたといわれる。
汰宮 高江の近村に宮里と云うなり、里人伝えて天孫瓊々杵尊、高千穂峰に天孫天降し給いし後、此処に坐まし、大己貴命をして神亀山の宮地を観せしめ給いしに、勝れて清浄の地なれば、みづからその所に主張居れり、天孫復命の遅きを疑い、行てその状を見給うに己におのれ住居の地とせし程に、大に怒らせ給えば、命その威厳に懼れ後さまにすべり転べり。即神亀山の麓にして、今その所に大己貴神社あり、ゆえにそこなる流れをも、すべり川と名つく。新田宮の燈下忍穂井川の末流なり。
宮里 瓊々杵尊川内川を遡航し給い、宮里に宮居給うて川内川の北側を経営し給うが、大己貴命の反逆により一時宮里の宮居から都八幡に遷幸し仮宮遊ばされて平定に待ち給うたと伝えている。
瓊々杵尊が川内に到着後臣民が献上した土地を「宮様が農事をなさる土地」ということから宮里と呼ぶようになったと伝えている。若宮八幡址が宮居の地と云われているが、現在近くの志奈尾神社に合祀されている。
都原 隈之城都原は、青垣山籠る清々しい台地で、瓊々杵尊を祭神と奉祀する宮古八幡が鎮座ましますが、此処は、天孫瓊々杵尊、御宮居の址と伝えられる。
宮ヶ原 瓊々杵尊御降臨あらせらるるや先ず此の地に宮居を御定め給うたと伝えている。
地頭館址 宮ヶ原の地は坂路の多い不便と飲料水に乏しいこととにより、後に此の地に御移り遊ばされたと言い伝えている。
屋形ヶ原 地頭館址の宮居の後、この屋形原に宮居したと伝えられる。現在この地に石碑が建っている。
御手洗池 新田神社に隣て瓊々杵尊の御杖が根付いたものと称せられるタブの木があったが今はその株から若木が出ている。隣に御手洗という池があって尊が御手をお洗いになった処と伝え、その屋敷を御手洗屋敷と称し村人は此処に家屋を建てないことにしている。
神亀山 瓊々杵尊最後の宮跡と伝えている。山頂部は可愛山稜で瓊々杵尊の御陵となっている。
蘭牟田 瓊々杵尊通過伝承地、瓊々杵尊は高千穂と川内を此処を通って往来したと伝える。近くの入来小学校周辺にも瓊々杵尊宮跡伝承地がある。
これらの伝承をもとに、瓊々杵尊の川内での行動を推定してみると以下のようになる。
80年ごろになり、加世田一帯が軌道に乗った。加世田を中心として周辺の地域を倭国に加盟させていったが、川内地方に強力な豪族がいて倭国に加盟することを拒否していた。川内地方を倭国に加盟させるためには近くに宮を移す必要を感じ宮を移す決心をした。阿多津姫とともに宮原の笠沙宮を出発した。戦闘も予想されるため途中市来湊に寄港し準備万端を整えて、川内川河口にたどり着いた。川内川河口の船間島にしばらく滞在して此の地の豪族で神亀山に本拠を置く大己貴命(出雲のオオクニヌシとは別人であろう)と倭国加盟の交渉をした。
その時、船頭をしていた十郎大夫と呼ばれている人物が病死したので、船間神社に葬った。瓊々杵尊は船間島から湯の浦に上陸し月屋山から周辺を国見した。そして、川内川北岸に沿ってこ大己貴命の本拠地向けて進撃している時、小倉で大己貴軍に遮られ危機に陥った。ムカツヒメから授かった八咫鏡を一時隠匿して難を逃れた。この八咫鏡は三種の神器とされている鏡ではないと予想している。再び船間島に避難し再び機をうかがうことにした。
大己貴軍は強敵でありこれを打ち破るのは簡単ではないと思い知った瓊々杵尊は大己貴命に虐げられている周辺住民を取り込むことにした。川内川南岸の神亀山の対岸である宮里の住民が協力を申し出たので、宮里の若宮八幡神社の地に宮を作り農業技術を伝えながらここを拠点として大己貴命と交渉をしたが、大己貴命軍に攻め込まれ、南の都原に避難した。都原に宮居しながら、周辺住民に先進技術を伝えながら味方につけて行った。神亀山の北側の住民も協力を申し出てきたので、宮ヶ原に宮居を移した。此の地は宮居としては不便な地なので、大己貴軍の動静を探りながらより神亀山に近い地頭館址に宮居を移した。
ある日夜陰に乗じて神亀山のすぐ北にある屋形ヶ原に拠点を移し、神亀山の大己貴命を急襲した。激しい戦いの末大己貴命を神亀山の麓で誅することができた。これにより川内地方は統一され倭国に加盟することになった。瓊々杵尊は屋形ヶ原に宮居を置いていたが、暫く後に神亀山の宮を移し此処を本拠として川内地方一帯を治めた。統一完了したのは85年ごろと思われる。
瓊々杵尊は川内地方統一後、彦火火出見尊が本拠を置く鹿児島神宮の地を何回か訪問しているようである。鹿児島神宮の地はこの頃の西倭国の都であり、佐野命(神武天皇)東遷後の第6代倭国王彦火火出見尊との連携は必要だったのであろう。伝承をもとにその経路を推定してみる。
神亀山から川内川を遡り楠元町戸田より川内川の支流樋脇川にはいり、この川を遡って行く。暫く遡ると宮跡伝承のある入来に着く。此処から後川内川を遡と蘭牟田につく。此処が後川内川の最上流部であり、ここで、千貫岳の麓の峠を越えると田平川の最上流部に出る。この川に沿って下ると、別府川に合流し加治木町から鹿児島湾に出る。此処から鹿児島神宮まではすぐである。道のりは60kmほどであり、現在の地形を見ても自然な経路となっている。
5年ほど此の地を統治した後90年ごろ瓊々杵尊はこの地で世を去った。65歳ほどであろう。彼は最後の宮の址の可愛山陵に葬られた。彼はこの後、さらに北を統一する予定であったろうが、この地で余命がなくなってしまったのである。 
日子穂穂出見命

 

彦火火出見尊誕生伝説地は宮崎・鹿児島両県に数箇所存在している。神話では瓊々杵尊の子となっているが、実際はスサノオ・ムカツヒメの子である。誕生伝説地のうち瓊々杵尊が絡んでいないものが真実性が高いといえる。その伝説地は宮崎市村角の高屋神社である。他はすべて瓊々杵尊の子としての伝承地である。
彦火火出見尊は28年ごろ、阿波岐原の高屋神社の地で誕生している。ムカツヒメは東霧島神社の地に居を構えても定期的に出雲のスサノオの宮居を訪問(出雲市姉山に伝承あり)していたようである。それにより、日向に戻ってから皇子を出産することになったようである。彦火火出見尊は誕生後東霧島神社の地で成長していった。宮崎県内の彦火火出見尊宮居伝承地は串間と都島に存在する。串間は海神国から戻った後と伝承されているため、最初は都島となる。オオクニヌシが日向で亡くなる43年ごろ都島に宮居を移したと推定する。当時は15歳前後で成人といった考え方が在ったようで、瓊々杵尊も15歳前後で独立している。彦火火出見尊も15歳前後で独立し都島に宮居したのであろう。
彦火火出見尊は九州各地に最も広く伝承地が広がっている人物である。おそらく九州各地を巡幸したのであろう。出雲国譲りが終わりムカツヒメが第三代倭国王になった50年ごろ、ムカツヒメは南九州を倭国に加盟させるために積極的に動き出した。長男忍穂耳尊はすでに無く、次男ホヒは出雲に派遣し、三男瓊々杵尊は北九州を治めている。自由に動けるのは4男彦火火出見尊と末子鵜茅草葺不合尊のみであった。ムカツヒメはこの二人に南九州一帯を巡幸して情報を集めるように指示をした。二人は国分から薩摩半島のほうを巡幸した。薩摩半島最南端に着いたとき、その地の豪族の娘豊玉姫と出会い結婚をし、婿入谷に宮居を構えてしばらく生活した。それにより、薩摩半島南端部が倭国に加盟することになった。弟の鵜茅草葺不合尊も妹の玉依姫と結婚した。
鵜茅草葺不合尊は妻と共にまもなく種子島に巡幸し、彦火火出見尊はしばらく滞在後妻と共に内之浦へ巡幸した。彦火火出見尊が内之浦に滞在中、鵜茅草葺不合尊も内之浦に上陸した。ここを拠点として大隈半島の状況を視察した。
彦火火出見尊は鵜茅草葺不合尊とともに日南地方の状況を探るため、日南に上陸した。当時の日南地方は海幸彦が潮嶽神社に地を拠点として治めていた。海幸彦は山幸彦(彦火火出見尊)と兄弟とされたために外部からやってきたことになっているが、海幸彦が主祭神として祭られているのはこの神社のみであり、この地に土着の人物であると推定する。さまざまな交渉の末、海幸彦は倭国の後継者鵜茅草葺不合尊の嫡子と海幸彦の娘を将来結婚させるとの約束を取り付け、倭国に加盟をすることにした。この地(風田神社)で彦火火出見尊は豊玉姫と仲違いになり、豊玉姫は故郷の薩摩半島に帰ってしまった。
彦火火出見尊はこの後、西都市周辺を統一するために都於郡の高屋神社の地に宮を造りこの周辺の統一に尽力した。
二兄弟は日向に戻り国分のムカツヒメに報告した。ムカツヒメは二兄弟の報告により、各地域の王は倭国に加盟するための交換条件として皇子との政略結婚を要求していることがわかった。そういった方法を何回も使うわけにもいかず、倭国の統一にはスサノオがやったように海外の最新技術の導入が欠かせないことを悟った。ムカツヒメは早速彦火火出見尊に対馬に行って、出雲が確保している海外交易ルートを日向国にも回してもらえるように交渉し、あわせて、大陸に渡り大陸の技術を導入してくるように指示した。スサノオは朝鮮半島の技術を導入したが、ムカツヒメは更に進んでいる中国の技術導入を考えていた。54年頃彦火火出見尊は対馬に向けて旅立っていった。 
対馬に上陸した彦火火出見尊は対馬の豊玉彦の娘豊玉姫(薩摩半島の豊玉姫とは別人と考えている。)と結婚し、対馬を治めた。そして、57年対馬を出発し後漢に朝貢した。「漢委奴国王」の金印や王の山の玉璧を受け取って後漢の使者を連れて戻ってきた。彦火火出見尊は後漢の使者を国分のムカツヒメのところまで案内した。後漢の使者はこのときの状況を記録して残し、後に女王国として魏志倭人伝に取り込まれることになる
香川県女木島や屋島に彦火火出見尊及び豊玉姫が滞在したという伝承地がある。後漢への使者を務めた後、東倭(瀬戸内海沿岸地方)を巡幸したものと思われる。ひょっとして出雲も訪問したのではないだろうか。理由は見聞を広めるためであろう。東倭巡幸のあと、いよいよ積年の課題である北九州唯一の未統一地域の統一に乗り出すことになった。
北九州で倭国に加盟していないのは唯一伊都国のみである。ムカツヒメは彦火火出見尊に中国から導入した新技術を用いて伊都国を倭国に加盟させるように指示した。彼は一度対馬に戻り、豊玉姫に別れを告げ、金印を携えて、伊都国に赴任した。対馬の豊玉姫は彦火火出見尊を追いかけて伊都国の志登神社(伝承あり)の地に上陸した。海外貿易の外交官として、また、伊都国の最後の国王井原ヤリミゾ遺跡の被葬者を倭国に取り込むために努力した。彦火火出見尊は地方巡回をしているために倭国全体の見識が広く、また、金印を携えているので、伊都国にやってくる外国人も地域の人々も伊都国王よりも彦火火出見尊の方を信用するようになり、伊都国王も倭国に加入することになった。60年ごろのことである。
この時点で九州内で倭国に未加盟な地域は、大隈半島・薩摩半島西部・北部・曽於地方及び球磨国である。大隈半島へは鵜茅草葺不合尊、薩摩半島西部・北部へは瓊々杵尊を派遣するように段取りができた。のこるは球磨国と曽於地方のみとなる。球磨国はかなりの苦労が予想されるため、まず、曽於地方を倭国に加盟させることをムカツヒメは思った。伊都国が落ち着いてきたので、別人を伊都国に派遣し、曽於国を倭国に加盟させるために彦火火出見尊を伊都国から呼び戻すことにした。65年ごろのことである。
伊都国から戻ってきた彦火火出見尊は次に串間に派遣された。串間神社には「海神国から帰った後、南へ降り串間にやってきた。」と言い伝えられている。串間神社の地に穂穂宮を建て、そこを基点として曽於国との交渉を行った。このとき、宮崎平野と日南を何回も往復し日南海岸の特定の地に立ち寄ることになり、日南海岸に彦火火出見尊の伝承地が多くなった。薩摩・大隈半島部が瓊々杵尊・鵜茅草葺不合尊の活躍により順調に倭国に加盟してくるのに対して、曽於国は球磨国同様難物でなかなか倭国に加盟しない。ついにはムカツヒメ自身が串間にやってきた。68 年ごろと思われる。串間の勿体が森に宮を構えていたのではないかと考えている。
西倭国(九州地方)を長年にわたって治めてきたムカツヒメも年老いてきて、70年ごろこの勿体が森で息を引き取った。享年70歳ほどである。ムカツヒメの遺体は付近の王の山に後漢から手に入れた玉璧を副葬品として葬った。
ムカツヒメが最も信頼していたのは彦火火出見尊である。ムカツヒメは鵜茅草葺不合尊は嫡子であるが、日本国との合併のために大和に行くことを予想しており、この日向国の正式な後継者に彦火火出見尊がなることを遺言して亡くなったのではあるまいか。ムカツヒメの死後、彦火火出見尊はすぐにも国分に宮を移した。これにより九州での未統一地域が球磨国と曽於国になり、あわせて熊襲という。熊襲の統一が残された課題となった。
ムカツヒメの死後、鵜茅草葺不合尊が第4代倭国王になり、75年ごろに鵜茅草葺不合尊が亡くなると狭野命が第5代倭国王となった。このころには日本国との合併の話が進んでおり、79年狭野命が大和に旅立つとき、彦火火出見尊は第6代倭国王に就任し、日本国との合併の条件により彦火火出見尊の当地範囲は日向国(宮崎鹿児島両県)のみとなり、国分を中心として日向国を束ねた。彦火火出見尊は熊襲を倭国に取り込むよう努力をした。曽於国とは良好な関係を保つことができたが球磨国は相変わらずであった。曽於国は第12代景行天皇が、球磨国は第14代仲哀天皇がそれぞれ武力平定することになる。
かなり長寿を保ち100年ごろ国分の地で亡くなった。彦火火出見尊の遺体はそこより少し北にある高屋山陵に埋葬された。
彦火火出見尊亡き後その後継者が国分を中心として日向国を束ねたが、倭の大乱の後日向国は大和朝廷からの役人を向かいいれ、中心地を西都に移した。西都原古墳群の始まりである。西都原古墳群の中央に古墳がまったくない領域がある。西都原の語源は斎殿原であり、ここで大規模な日向系の祭祀が行なわれていたのではあるまいか。日向国の有力者はその周辺に葬られた。それが西都原古墳群である。
この祭祀者が、日向三代の伝承地を周辺に造ったものと考えられる。そのため、西都周辺に日向関連伝説地が勢ぞろいしていることになる。 
鵜茅草葺不合尊

 

鵜茅草葺不合尊の生誕地ははっきりとは伝えられていない。日南の鵜戸神宮の伝承はあるが豊玉姫の子としての誕生であり、また、崖上で通常人間の生誕には適さないところである。鵜戸神社が高鍋町蚊口浦にある。鵜茅草葺不合尊の上陸地という伝承地である。鵜戸は鵜茅草葺不合尊の誕生地を表す言葉のようなので、この地が鵜茅草葺不合尊の誕生地ではないかと予想している。鵜茅草葺不合尊は30年ごろ蚊口浦で誕生している。
鵜茅草葺不合尊は幼少時、東霧島神社の地で成長した。50年ごろ、彦火火出見尊が南九州巡回の旅に出たので、鵜茅草葺不合尊も彼について巡幸した。薩摩半島南端部で豊玉姫の妹の玉依姫と結婚した。彦火火出見尊が長期にわたって薩摩半島南端部に滞在しているとき、鵜茅草葺不合尊は種子島に上陸し種子島を倭国に加盟させた。その後、内之浦に居を構えていた彦火火出見尊の後を追って、内之浦に上陸し大隈半島の状況を視察した。
続いて彦火火出見尊と共に、日南に行き海幸彦及びその領域を倭国に加盟させるために努力をしたが、海幸彦は自分の一族との政略結婚を交換条件に出してきた。兄弟共に妻がいる身であり、嫡子である鵜茅草葺不合尊はいずれ倭国を継ぐので、鵜茅草葺不合尊の将来生まれるであろう嫡子と結婚させる約束をすることにより日南地方を倭国に加盟させることができた。
日南を出た鵜茅草葺不合尊は彦火火出見尊と共に蚊口浦に上陸し、佐野原に居を構え、国分のムカツヒメに状況報告をした。54年ごろのことである。二人は宮崎市以北の内陸地方の統一を始めたと思われる。この時期彦火火出見尊は都於郡の高屋神社の地に宮を造っていた。60年ごろ宇都に宮を移した。ここを拠点として日向国の内政を司っていたのであろう。国分のムカツヒメが未統一地域の統一に全力を傾けている関係上、内政を司る人物が別に必要となる。それが、嫡子である鵜茅草葺不合尊の役割だったのであろう。
58年、後に神武天皇となる狭野命が誕生した。鵜茅草葺不合尊は65年、ムカツヒメから大隈半島部の統一を託され、大隈半島に旅立っていった。肝属川に沿って川をさかのぼり、宮下という地が水運に恵まれている地であり、他地域との物資の交流に便利であるので、ここに宮を建てた。西洲宮という。現在の桜迫神社の地である。70年ごろムカツヒメが串間にて崩御したので、第4代倭国王の位を受け継いだ。しかし、鵜茅草葺不合尊も75年ごろこの西洲宮にて亡くなった。遺体は少し南にある吾平山陵に葬られた。鵜茅草葺不合尊は若くして(45歳ほど)亡くなったために、大隈半島の統一事業は半ばであった。その後を継いで大隈半島の開拓に乗り出したのが狭野命である。 
 
第12節 三輪山信仰の始まり

 

ニギハヤヒの死
暦の始まり
紀元25年ごろ近畿地方にマレビトとして入り込み、日本国を作ったニギハヤヒは40年ごろまで、近畿地方一帯を統一し、日本国の安定政権を作るのに努力をした。
唐古・鍵遺跡の中心と考えられる祭祀遺構に鶏と考えられる土製品があり、この地から冬至の日に三輪山の山頂から昇ってくる朝日を見ることができる。このことは、当時の人々が、冬至の日に出てくる太陽を崇めていたことを意味する。そして、唐古・鍵遺跡が巨大化し始めたのが、ニギハヤヒが入ってきた中期末頃と判断されていることから考えて、ニギハヤヒは、農耕のための暦も広めたのではないかと判断する。
この当時、国家を平和的に維持するには、農業特に稲作は重要な要素である。スサノオから受け継いだ方法により、大和盆地で稲作をするための作業をする時期を日の出の方向から判断できるようにした。この当時一年で一番重要な日は、冬至の日であった。一年で一番太陽が南から昇り、この日を境に太陽が復活するのである。ニギハヤヒは三角形の山頂から太陽が昇ってくる姿が好きだったようで、冬至の日に三輪山山頂から太陽が昇ってくる位置に唐古・鍵の小さな集落があった。ニギハヤヒはこの位置に祭礼施設を作り、ここを中心として祭礼を行い、それを元に、農業を行った。このとき、ニギハヤヒは三輪山の形(三角形)を日本国のシンボルとして、いろいろな祭器に刻み込ませた。これが、鋸歯紋の始まりである。
ニギハヤヒの本来の目的は、「近畿地方以東を統一せよ。」とのスサノオの遺命の遂行であった。日本国の基礎固めのために15年ほどを費やした。この15年の間に近畿地方は安定した。東日本地方はこの時点でまだ未統一であった。東海地方から来る人々の話では多くの人々が住んでいて、小国家が少しづつ誕生してきているそうである。このままにしておけば、日本国はいずれ、これらの国々との戦争になる危険性もあった。早めに統一する必要性に駆られた。ニギハヤヒはこの15年の間に大阪湾岸地方の人々に、東日本地域の統一の必要性を訴え続けていた。ニギハヤヒは近畿地方に新技術の導入を行い、自分たちの生活ががらりと変わり、近畿地方の人々から神のように敬われるようになっていた。そのニギハヤヒの言葉を受け入れ、人々の間に東を統一しなければならないという意識が次第に育ってきていた。紀元40年頃のことである。
ニギハヤヒは、ミカシヤヒメとの間にできたウマシマヂが大きく成長し、東日本を統一する時期が到来したと判断し、大阪湾岸地方の人々を大勢引き連れて、東海地方を初めとして、東日本一帯に新技術を広める旅に出た。それぞれの国々を回り、そこに住む人々に新技術を伝授する代わりに日本国への加盟をするように言った。現地の人々は、うわさにより、日本国の状態は知っていた。ニギハヤヒの伝える技術で生活が楽になるとのことなので、多くの国々は日本国に次々と加盟していった。
日本国に新しく加盟した地域には、大阪湾岸地域から何人かを派遣し共同生活をすることにより、先進技術を現地の人々に伝えた。派遣された人々は、現地の人々から神のように扱われ現地に土着し、その地方で亡くなった。その結果、方形周溝墓が急激に広まったのである。
大和帰還後の饒速日尊
陸奥国南半分を統一して大和に帰還してきた。AD60年頃と思われる。AD40年頃、東日本統一事業を行ってから20年ほどたっていた。饒速日尊も齢70程になっていた。饒速日尊にはまだやるべきことが残っていたのである。東日本に未統一地域が残っていることと、倭国との大合併である。しかし、饒速日尊に余命はほとんど残っていない。体力の衰えも顕著になってきた。もう自らですべてをこなすことができなくなったのである。若い次の世代にやらねばならないことを託さなければならなかった。饒速日尊がやらなければならないことは次のとおりである。
1 伊勢地方の統一
2 越後国内陸部の統一
3 安房国の統一
4 陸奥国北部の統一
5 西倭との大合併
6 東倭との大合併
伊勢地方の統一について
伊勢地方は饒速日尊の統一地域から漏れてしまっていた。近くであるからいつでも統一できると思われ、後回しにされたのではないかと思う。逆に大和国のすぐ近くなので、少しでも早く統一しなければならず、これが最優先課題となった。伊勢地方の統一を任せることができるのは、ウマシマヂ、猿田彦命、事代主命、味耜高彦根命、高倉下命などである。それぞれ任地で活躍中であった。ウマシマヂは関東地方、猿田彦は東倭、事代主命は伊豆地方、高倉下命は紀伊国をそれぞれ統治中であった。味耜高彦根命は西倭との合併交渉に必要であり、すぐに伊勢地方統一に回せる人物はいなかった。神社伝承から判断すると、伊勢地方を統一したのは猿田彦命となる。出雲国は猿田彦と入れ替わるように事代主命が継いでいる。どういった事情がこのような継承をさせたのだろうか。
猿田彦命は出雲の統治をしていたのであるが、猿田彦は賀茂別雷命(岐阜県安八郡輪之内町下榑字東井堰13017の加毛神社では祭神神別雷命を白髭明神と称している。)、住吉神、大山咋神などと言う別名を持っており、方々に祭られている。これは、出雲でおとなしく統治していたのではなく、倭国・日本国を行き来して、地方開拓に協力していたことを意味している。出雲は出雲王朝の鳥鳴海命が統治していたと思われる。
出雲地方はこの後、猿田彦の娘とタケヒナドリの長男が結婚して素盞嗚尊祭祀を継続している。出雲国の祭祀権は猿田彦命が持っていたわけである。その猿田彦に伊勢地方統一を命じ、事代主命に東倭の統治を命じているのはどうしてなのであろうか。これを東倭と日本国の合併工作の一環として捉えられないだろうか。出雲国は東倭の中心となっている国で、西倭と共に日本国と合併する必要がある。そのためには、日本国の実態をよく知っている人物が東倭の統治者となると饒速日尊にとっても都合がよいのである。それが事代主命である。彼は猿田彦の異母弟であり、素盞嗚尊の血を引いているので、出雲の人々の納得は得られやすかったのであろう。猿田彦命は中国・近畿地方一帯を頻繁に巡回しているので伊勢地方の事情にも詳しかったと思われる。饒速日尊が亡くなる直前にこの計画は実行された。
越後国内陸部や安房国(房総半島)、陸奥国北部に於いては、遠方でもあり、大合併後の新政権に任せることとした。残るは合併論議であるが、これを推し進めるまでもなく饒速日尊は亡くなったのである。 
三輪山信仰の始まり
ニギハヤヒは、東日本地域統一後、紀元55年ごろ再び大和に戻ってきて、日本国全体を統治した。再び大和に戻ってきた饒速日尊はウマシマジに統治を任せ、自らは宇陀地方の磐舟の地を拠点として奥地の小集落と交流し、最後は初瀬川上流の白木の地で隠棲したものと考えられる。
饒速日尊は白木の地で75歳前後で没した。紀元65年頃であろう。
先代旧事本紀に次のような記事がある。
高皇産霊尊は速飄神(はやてのかみ)に
「我が神の御子の饒速日尊を葦原中国に使わした。疑わしい事がある。汝は降って調べて報告しなさい。」
と命じられた。速飄命は命令を受け天降り、亡くなられた事を見て天に帰り復命して
「神の御子は既に亡くなられました。」
と報告した。高皇産霊尊は哀れと思い、速飄命を使わして、饒速日尊の遺体を天上に上げ、その遺体の側で七日七夜、騒ぎ悲しまれた。天上に葬られた。
饒速日尊は夢によって妻の御炊屋姫に
「我が子を私の形見としなさい。」
と言い、天璽の御宝を授けた。また、天羽羽弓(あまのははゆみ)と天羽羽矢(あまのははや)、また神衣帯手貫(かみのみそおびたすき)の三物を登美白庭邑(とみのしらにわのむら)に埋葬した。これを持って墓と為した。
これによると、饒速日尊の遺体は天上にあり、地上には登美白庭邑に遺品を埋葬して墓としたことになっている。遺品の墓は伝承から判断して生駒市総合公園北側山中の檜の窪山であろう。ここには饒速日命墳墓と書かれた石碑が立っている。それでは遺体はどこの葬られたのであろうか。天上というのは当然ながらありえない。天上と判断できる場所と言うことになる。これこそ祭祀の対象になっている三輪山山頂の奥津磐座であろう。山頂という高いところであるので天上と言い伝えられたのも考えられなくはない。
なぜ、饒速日尊の墳墓は2箇所になったのだろうか。これを日本国の後継者争いが原因ではないかと考える。饒速日尊はマレビトとして近畿地方一帯の小国家に入り込んだのであるから饒速日尊の子孫が多く相続争いが起こるのは当然である。大和に入ってきて最初に生まれたのが長髄彦の妹のミカシヤ姫との間のウマシマジであり、葛城の豪族との間に生まれた言代主との間の相続争いと考えられる。末子相続の時代であるので正規には言代主であり、遺体は三輪山に葬られたが、納得できない長髄彦は饒速日尊の遺品を埋めて白庭に墓を作ったものであろう。
生前、三輪山から昇ってくる太陽を崇拝していた饒速日尊は、その死後、三輪山に葬られ、日本国の開拓者・皇祖・太陽神・天照大神として人々から崇められた。饒速日尊は農業開発をしたため、農業の神としても知られ、三輪山の山の神遺跡では小型鏡や子持ち勾玉、石製模造品や土器の他に農具や食器を模した土製品が奉られた。そして、三輪山の形(三角形・鋸歯紋)が饒速日尊のシンボルとして、後の饒速日尊の祭器(平型銅剣・大阪湾型銅戈・銅鐸)に刻み込まれることになるのである。
ニギハヤヒが亡くなった後、ニギハヤヒの後継者は言代主であるが彼は出雲国に旅立っており、その娘イスケヨリヒメとなった。まだ幼少であるので、饒速日尊と共に東日本統一に参加した長男のウマシマヂが後見として実質日本国を治めた。
実質日本国の後継者となったウマシマヂは、日本国を治めようとしたが、マレビトとしての饒速日尊の子供が方々に誕生しており、それらの間の後継者争いが大和国内で発生することとなった。饒速日尊にはカリスマ性があったので、彼が存在しているだけで大和国はおさまっていた。しかし、彼が亡くなると大和国内が不安定化してきた。 
倭国と日本国の合併論の台頭
先代旧事本紀の記事
高皇産霊尊は速飄神(はやてのかみ)に
「我が神の御子の饒速日尊を葦原中国に使わした。疑わしい事がある。汝は降って調べて報告しなさい。」
と命じられた。
とある。饒速日尊=大国主命と考えることにより、日本国と倭国の合併を国譲り神話と重ねて考えることもできる。速飄神=雉、天稚彦=味鋤高彦根と考えると、次のような物語として先代旧事本紀の記事が説明できる。
タカミムスビは倭国においてムカツヒメを補佐している重要人物である。素盞嗚尊の夢は日本列島全体を統一することである。饒速日尊が日本国を建国して東日本全体を統一したが、その最終目的はあくまでも日本列島全体の統一のはずである。東日本全体の統一が完了すれば倭国との間に合併の話がなければならないが饒速日尊からは何の連絡もない。そのまま日本国と倭国に別れたまま饒速日尊の子孫が日本国を統治するように饒速日尊が考えているのかもしれない。その不安が、先代旧事本紀の記事の「疑わしい事」なのであろう。
高皇産霊神は饒速日尊が出羽国を統一して大和に帰ってきた直後の紀元57年ごろ味鋤高彦根を日本列島統一の使者として大和に派遣した。 饒速日尊の隠棲地と考えている白木のすぐ近く初瀬川流域の和田というところに葵坂と呼ばれているところがある。ここに味鋤高彦根神の磐座がある。白木に隠棲している饒速日尊に会うために、ここまでやってきたのではないかと考えている。饒速日尊から娘の下照姫を紹介され、味鋤高彦根は下照姫と結婚して葛城の地に住み着いてしまった。そして、味耜高彦根命は饒速日尊と共に陸奥国統一に出発してしまった。味鋤高彦根がいつまでたっても倭国に復命しないので、高皇産霊神は、数年後、速飄神を派遣したが、このときすでに饒速日尊は亡くなっていたものであろう。紀元66年ごろである。
日本国と倭国の合併を推し進めるために大和に派遣されてきた味耜高彦根命は、葛城に拠点を置き日本国内の豪族と様々な交渉を進めていった。 日本国はウマシマジの失政もあり地方が落ち着かなくなっていた。三輪一族、葛城一族、長髄彦一族などが、日本国の後継者争いを起こしたのである。倭国と日本国の互いの後継者通しを 政略結婚させて大合併を成功させるというのは饒速日尊・高皇産霊神双方ともに納得している方針である。先ず西倭と日本国を合併させ、その後で、東倭を合併させようとした。西倭と日本国では誰と誰を結婚させるかというのが大きな課題であった。倭国側は正統な後継者としてAD58年に誕生した佐野命であることは確定した。ところが日本国側の後継者が決まらなかった。 饒速日尊が存命ならあっさりと決まったであろうが、それぞれの一族が自らの一族の娘を後継者に挙げているのである。また、長髄彦一族は合併そのものに反対している。もともと饒速日尊が大和にやってきた時、大和を倭国に加盟させようとしたが長髄彦の反対によって倭国とは別の国である 日本国を作るはめになったという経緯がある。饒速日尊は長髄彦を時間をかけて説得するつもりだったようであるが、その間もなく亡くなったのである。
末子相続の原則からすると饒速日尊の末子は事代主命でそのまた末子は誕生間もないイスケヨリヒメであった。正論としてはイスケヨリヒメが日本国の後継者となるのであるが、イスケヨリヒメは三輪一族に属していた。
最大の問題点は日本国内の後継者争いである。なんとしても強硬に反対しているのがウマシマジの叔父の長髄彦である。彼としては甥のウマシマジが饒速日尊の河内平野統一、東日本地域一帯の統一に大きく貢献し、日本国の実質支配者であったのに、後継者が自分と関係のない言代主の子では納得できないのも無理はない。彼はこの案に強く反対した。彼としては日本国の後継者をウマシマジとし、倭国から後継者の娘を向いいれて合併するように主張したのである。
そのほか反対しているのは葛城の高天彦である。イスケヨリヒメは葛城一族の血を引いてはいるが言代主が三輪一族の養子になっており、倭国との合併後三輪一族が勢力を強めるのは明らかである。こういった点が不満であるために葛城一族の賛成を得ることは難しかった。しかし、味鋤高彦根が葛城一族の娘と結婚しているのでナガスネヒコほどの強烈な反対はなかった。
味鋤高彦根は10年ほどかけて日本国の各豪族の意見をまとめようとしたが、反対派、賛成派それぞれがなかなかまとまらなかった。倭国の佐野命、日本国のイスケヨリヒメは共に 適齢期に成長した75年ごろ、いつまでもこの状態が続けば、合併の時期を逸してしまうと判断した味鋤高彦根は日本国が承諾したと言って、強引に合併策を推し進めることにした。 倭国は準備を進め、紀元79年佐野命は倭国を出港した。
日本国と倭国の合併が成功した後、味鋤高彦根は残る東倭の出雲国も合併させるために下照姫と共に、出雲に旅立ち、出雲で亡くなった。 
 
第13節 銅鐸について

 

第一項 出現時期
銅鐸は、紐の部分に注目して、菱環紐式、外縁付紐式、扁平紐式、突線紐式と分類されている。銅鐸の謎を解くためには、その出現時期が重要となってくる。外縁付紐式の流水文が中期初頭の櫛描流水文土器と密接な関係にあることから前期末あたりを紀元と推定されているが、三木文雄氏の中期後半開始説がある。根拠を挙げると、
1 西日本における青銅武器の国産開始時期が中期中頃以降である。
2 古式銅鐸と共伴する青銅武器が中期末から後期初頭のものである。
3 古式鐸の鋳造規格が後漢尺に適合する。
4 流水文鐸に見える絵画図文が畿内第四様式以降の土器に存在し、後期の木器に流水文を彫刻した例(石川県猫橋遺跡)がある。
などである。
銅鐸に鋸歯文が多用されてニギハヤヒに関連したものと考えられること、外縁付紐式銅鐸は瀬戸内地方にも分布しているが、近畿地方と瀬戸内地方との交流が盛んになったのは土器から判断して、中期末以降であることから、中期後葉起源説を採用したい。 
第二項 銅鐸の使用目的
銅鐸が東日本地域に急激に広まっている。それまで、鳴り物であった銅鐸が巨大化し、見るのが目的になってきた。銅鐸にはほとんどすべてに鋸歯文が刻まれ、銅鐸鋳造の時、絵の部分がはっきりしない場合、そのままになっているが、鋸歯紋がはっきりしない場合は追刻をしている。これは、銅鐸の鋸歯紋に特別な意味があることを意味している。鋸歯文はニギハヤヒの霊廟である三輪山の形を表したもので、ニギハヤヒのシンボルであり、大和朝廷のシンボルとして使われていたと考えられる。この鋸歯文が銅鐸に多用され、しかも重要視されていることから、銅鐸はニギハヤヒの祭器であろうと思われる。
銅鐸の成分分析により、菱環紐式と、外縁付紐式の一部が朝鮮半島の青銅から作られていて、それ以降は華北の青銅から作られていることが分かっている。さらに、菱環紐式は畿内で作られたと考えられているが、外縁付紐式は、畿内以外に北九州でも作られている。以後の銅鐸は北九州では確認されていない。さらに、菱環紐式は少ししか出土していないが、外縁付紐式以降は多量に出土している。これらから、外縁付紐式の時代に銅鐸生産に大きな転機があることがうかがわれる。
菱環紐式は鳴り物と考えられるが、外縁付紐式は紐に外縁が付くようになっている。紐に外縁が付くこと自体吊り下げにくくなるため、この形式の銅鐸から、鳴り物としての目的以外にも使用されたと考えなければならない。
なぜ、外縁が付いたかであるが、銅鐸に鋸歯文(三輪山)と渦巻文(太陽)が多いこと、当時の畿内は三輪山から出てくる太陽の姿が祭祀の対象になっていたこと、一つの祭祀があるところへ別の祭祀が入ることは考えられないことなどから、紐の部分は太陽を表し、その下の部分は三輪山を表していて、銅鐸自体が三輪山から昇る太陽を表しているのではないかと考える。そうだとすると、紐の部分に最初外縁が付き、次に内縁が付き、突線(太陽光か?)が付くという変化が説明できる。そして、新しい形式の銅鐸では、紐の部分に何重にも鋸歯文が彫り込まれ、これら鋸歯文は太陽の輝きのようにも見える。銅鐸にこのような意味があるとすれば、銅鐸は神聖な物として扱われ、祭礼に使われると言うことも説明できる。 
第三項 北九州での生産
銅鐸の起源は朝鮮半島の朝鮮式銅鐸であると言われている。銅鐸が中期後葉に出現したとすれば、これは、朝鮮半島に渡ったスサノオを通して、ニギハヤヒが畿内に持ち込んだものと解釈される。ニギハヤヒは朝鮮半島から手に入れた青銅を使って小銅鐸を生産し、それを東日本統一のシンボルとしたと考える。銅鐸が重要な扱いになるにつれて、菱環紐式銅鐸を作るようになり、さらに、祭器としての意味を強化するために外縁付紐式銅鐸を作り出したと考える。ところが、当時の畿内では、外国との交易ルートが十分でないために、原料である青銅が不十分で、必要量の生産ができなかった。たちまち限界がやってきた。
北九州から銅鐸の鋳型が見つかっているが、これは、外縁付紐式銅鐸である。この鋳型は後期初頭の土器と共に出土しており、後期初頭に作られていたものと考える。しかし、これ以外の形式の銅鐸は確認されていない。さらに、銅鐸の鋳型が出土したのは北九州の四遺跡と近畿地方の九遺跡であり、鋳型の出土量から考えて、畿内に匹敵するほどの需要があったと考えられるが、北九州からは銅鐸本体はほとんど見つかっていない。作られた銅鐸はどこへ行ったのだろうか。
銅鐸の鋳型の紋様は畿内と九州に共通するものがあり、畿内勢力が北九州勢力に銅鐸を作らせたと考えれば説明が付く。おそらく、ニギハヤヒが畿内に持ち込んだ技術や青銅では大量生産ができないため、北九州に頼み込み、外縁付紐式の銅鐸を生産してもらい。できた銅鐸を中国地方や近畿地方に持ち帰ったものと考える。そのために、青銅の成分に変化が起こったと考える。その証拠に外縁付紐式の銅鐸の分布領域は他の銅鐸よりも西に偏っている。 
第四項 伝承との照合
これを伝承面から考えてみることにする。「女王アマテラス」によると、後期初頭の北九州にはニギハヤヒの出雲での子であるサルタヒコが治めていた。サルタヒコは、スサノオの晩年、北九州地方の統治を任され、北九州の青銅器生産をしていたと考えられるが、サルタヒコの本拠地と考えられる福岡県春日市周辺から、銅鐸の鋳型が出土しているということから、青銅不足に悩んでいたニギハヤヒが、その子であるサルタヒコに銅鐸の製造を頼んだということが推定される。畿内で重要な意味を持つ銅鐸を、全く関係ない勢力に頼むと言うことは考えにくく、自分の子供がいたからこそできたことではないだろうか。サルタヒコは、倭国が持つ中国との交易ルートを通じて青銅を入手し、それを使って銅鐸を生産した。 
第五項 北九州生産の終焉
しかし、北九州で銅鐸を生産するという状態は長くは続かなかった。日向勢力は後継者問題で出雲を降伏させた後、急逝したオシホミミの代わりに、ニニギを押し立てて、サルタヒコの統治する北九州南西部の引き渡しを要求してきた。サルタヒコは日向勢力と一戦を交えることも考えたが、戦いを避けて、北九州を明け渡し、故国出雲を立て直すために出雲に帰っていった。その時を最後に北九州での銅鐸生産は終わり、以後の形式の鋳型が出てこないと解釈される。
倭国は主に朝鮮半島との交流をし、朝鮮半島から青銅器の原料を手に入れていたが、北九州の豪族が、中国との交流をしており、また、朝鮮半島が三韓時代で政情不安なため、サルタヒコは後漢が成立して安定している中国との交流を行うようになり、中国の原料を入手するようになっていたと思われる。日向国王のムカツヒメはそれを利用して中国との交流を本格化させたのである。サルタヒコは出雲に帰る前にそのルートを技術とともに大和側に伝えた。これにより、中国から畿内への青銅ルートが確保され、以後、畿内で多量の銅鐸生産ができるようになったと考える。
出雲に帰ったサルタヒコは、鹿島町の佐太大社の地に政庁を作り、祖父のスサノオの手法をまね、出雲勢力圏の代表者を集め、合議制による政治を行った。これが現在の出雲大社に伝わる神在祭の起源になっている。また、山陰地方に外縁付紐式銅鐸の出土が多いが、これもサルタヒコによって、もたらされたものと考える。 
第六項 扁平紐式銅鐸
次に、扁平紐式銅鐸の分布と伝承との関連を調べてみることにする。
次の扁平紐式銅鐸は、東部瀬戸内沿岸地方から畿内にかけての分布である。この銅鐸は後期中葉あたりのもので大和朝廷成立後のものと推定され、平型銅剣との共伴が多い。紋様も平型銅剣と共通するものが多いことから、共通の工人によって作られたものと推定されている。扁平紐式銅鐸の多い東部瀬戸内沿岸地方は大和入りする前のニギハヤヒが治めていた地域であるため、ニギハヤヒ信仰の強い地域である。ニギハヤヒが始めた祭祀の祭器である平型銅剣を、畿内から派遣された銅鐸工人が扁平紐式銅鐸と共に作るようになり、平型銅剣にニギハヤヒのシンボルである鋸歯文が刻み込まれ、このような出土状況になったと考える。 
 
第14節 大和朝廷成立

 

第一項 二大国家の合併
スサノオ・ニギハヤヒの統一事業の結果、日本列島は、西日本の倭国と近畿以東の日本国とにまとまった。このままでは、いずれ、大戦争が起きると考えた人々は、互いの後継者を結婚させて、日本列島を一つの国にまとめようと考えた。日本国の後継者はニギハヤヒの末子であるイスケヨリヒメで、この頃30歳程であった。倭国の方は、女王のムカツヒメがこの頃没しているために、その末子のウガヤフキアエズとなるところであるが、ウガヤフキアエズもこの頃没し、その結果、後継者はウガヤフキアエズの末子のサヌとなった。サヌは25歳ほどであった。
外国交易により勢力のあった倭国の方に異存はなかったが、大和の方はまとまらなかったようである。ニギハヤヒの死後、有能な人材に恵まれず、外国との交易ルートが不十分なため新技術の導入も思うようにならず、大和の勢力は衰退を始めていた。尊敬しているニギハヤヒが造った国を、倭国に乗っ取られるのではないか、と考えたナガスネヒコは猛反対したが、大勢は、勢力回復のため賛成であった。
ナガスネヒコの承諾が得られないままに、ゴーサインを出し、サヌが日向を出発することになった。途中東倭から安芸国を譲り受けるために安芸国・吉備国に滞在した。サヌは、そのまま、日下から大和に入ろうとして、ナガスネヒコに追い返されてしまった。その後、大和国内で賛成派の勢力がナガスネヒコを殺害して、サヌを向かい入れ、イスケヨリヒメと結婚して、初代神武天皇として即位した。紀元83年(弥生後期前葉末)のことと思われる。
統一国家の国名は、正式には日本国となったが、倭国という国名はスサノオがつけた貴重なものであるために抹消できず、しばらくは双方の国名を使っていた。特に、中国との交易ルートがあったのは倭国であり、日本国にはなかったことから、対外的には倭国で通していたようである。 
第二項 中国文献について
この伝承を各方面より裏付けてみることにする。まず、中国史書を見ると次のようなものがある。
「旧唐書」
「日本国は倭国の別種なり、その国、日辺にあるをもって日本と名をなすと、あるいは言う、倭国自らその名の雅らかならざるを憎み、改めて日本となすと。あるいは言う、日本は旧小国、倭の地を併わせたりと。」
「新唐書」
「倭の名を憎み、改めて日本と号す。使者自ら言う。国日出ずる所に近し、故に名をなすと。あるいは言う、日本はすなわち小国、倭の併わす所となる。ゆえにその号を冒せりと。」
倭と日本
これらは、日本書紀における日本の国名の起源と一致している。そして、倭の名が気に入らないから日本と改めたという説と、日本国と倭国が合併して日本国となったという説と、二つあることがわかる。
古事記や日本書紀を見ると「大和」「日本」「倭」いずれも「ヤマト」と読ませている。いずれも当て字である。古事記・日本書紀では両方の名が共存している。八世紀頃、「ヤマト」は国名を漢字二字で表すという制約から「倭」を「大倭」と書くようになり、「倭」は字の意味から嫌われ「大和」と表されるようになったようである。「倭」を嫌って「和」と書き改めていることからして、合併説が正しいようである。「ワ」という国名は当時の人々にとって大切なものだったのである。
倭国とはスサノオが統一した連合国で中国・四国・九州地方を指し、日本国とはニギハヤヒが統一した近畿地方以東を指している。中国史書によるとどちらがどちらを併合したのかに混乱が見られる。中国の常識では考えられない政略結婚による対等合併であったからこそ、このような混乱が起こったのではあるまいか。
中国に「日本」という名が知られたのは、この記事から判断して唐の時代であると考えられる。新統一国家の名称として、「日本」=「ヒノモト」が使われるようになったが、「日本」は中国との交易ルートを持たなかった関係上、対外交易の時は、対外交易ルートを持っていた旧国名の「倭」を使っていたのではないかと思う。日本国内でも日本書紀に見られるとおり、まだ「倭」は生きていたのである。
弥生時代は、西日本の銅剣銅矛銅戈の祭祀があり、東日本には銅鐸祭祀があった。大和朝廷はこの両方の祭祀圏を同じ信仰で統一しているのである。祭祀は保守的なものであるため、異なる祭祀を受け入れるときには大きな戦乱が付き物である。そのような形跡もなく、混じり合った形跡もなく、すんなりと統一されているのである。これは、双方とも同系統の祭祀であったがために統一できたとしか考えられない。すなわち、スサノオ・ニギハヤヒという共通の人物である。祭祀の統一ということもこの二人の統一事業を裏付けているのである。
邪馬台国畿内説
邪馬台国問題は畿内説と九州説とで対立しているが、三世紀の時点で、日本列島の統一国家は、大和朝廷しかないことになり、邪馬台国畿内説となる。そして、邪馬台国は、大和朝廷そのものということになる。この視点から魏志倭人伝を見ると、
「倭人の国では、もと男子を王とし、七、八〇年続いたが、国が乱れ、攻め合うこと数年の後、一人の女子を共立して王とした。」
とある。この記事によると、倭国大乱(後漢書によると147〜189年の間)の70から80年前に、邪馬台国(大和朝廷)が成立したことになる。逆算すると、紀元67年から119年の間となり、この復元古代史の推定する大和朝廷の成立時期と一致する。 
第三項 土器について
後期初頭までは、西日本各地に畿内系土器は見られなかったが、後期中葉以降、西日本全域で見られるようになる。この状況を、まとめてみると次のようである。
後期中葉になると、西日本の広い範囲で畿内系土器が出土するようになる。これらの畿内系土器の分布は、畿内の人々が、後期中葉になって、西日本各地に移動してきたことを意味している。人々の移動は、地方に引きつける理由があったか、畿内に出ていく理由があったかのどちらかであるが、大変広い領域に、恒常的に分散していることから、畿内に理由があったことが考えられる。そして、計画性を持って、定期的に地方へやってきていると判断される。畿内に、各地方の土器が出土するわけではないので、これらは、単なる交流とは、とても考えられず、大和朝廷が成立して、畿内から役人が各地方に派遣されたとすれば、うまく説明できる。
方形周溝墓が出現している北九州北西部では、畿内系の高坏が出土するようになる。これは、高坏は祭祀土器であることから、北九州北西部で畿内系の祭祀が行われるようになったことを示している。その他の地方で出土する畿内系の土器に祭祀系のものが見られないことから、北九州北西部は大和朝廷にとって外国交易上特別な場所であり、特別な役人を配置して、重点支配したものと考えられる。
吉野ヶ里遺跡からも後期中葉になると畿内系土器が出土している。内豪の端あたりにいくつかがまとまって出土するといった形である。出土の仕方を見ると畿内から来た人々は少数で定期的にやってきてしばらく滞在していたようである。 
第四項 鉄器について
次に、鉄器の分布を見ることにする。鉄器は圧倒的に九州からよく出土するため、九州王朝があったと考える人が多いが、九州地方と、それ以外の地方で形式の違う鉄器を時代ごとに分析してみると、そうではないことが分かる。
鉄鏃
まず、鉄鏃であるが、鉄鏃は九州系と畿内系とその形式が異なり、九州系は無茎で畿内系は有茎である。下のグラフは、九州地方と中四国近畿地方で出土した鉄鏃のうち有茎のものが占める割合を各時期毎に表わしたものである。これを見ると、後期初頭までは、鉄鏃の分布領域がきれいに分かれていたが、後期中葉以降、九州に畿内系の有茎鉄鏃が見られるようになることがわかる。そして、有茎鉄鏃の占める割合は、時が経つにつれて増加する傾向にあり、終末期には畿内の比率に近くなっている。しかし、九州系の鉄鏃は、九州から外へ出る傾向は見られない。次第に出土比率が減少しているのである。これは後期中葉あたりに大和朝廷が成立して、畿内の勢力が九州に及ぶようになったためと考えられる。
槍鉋
槍鉋も、後期中葉以降、九州系のAタイプは広島地方には一部見られるが、それ以外に九州の外に出る傾向は見られない。これは、九州に住んでいた人はほとんど九州外に出ることはなかったことを意味している。それに対し、中期末に中国地方に発したBタイプの槍鉋は九州へ入り込んでいる上に、後期後葉には全国に分布するようになっている。鉄鏃と同じく、九州のBタイプ槍鉋は年代と共に増加傾向にある。瀬戸内系の土器が中期末に畿内で出土するようになっていることから推察して、瀬戸内地域から畿内に流れたBタイプ槍鉋が畿内勢力によって地方にばら撒かれたと考えることができる。
後期中葉に広島県下に九州系槍鉋が出土するのは、同じ時期に広島県地方に大分系土器が出土するのと共通であり、大分宇佐地方からの集団移住があったためと考えられる。  

A型(九州系)槍鉋出土数

前期

中期

後期

終末

   

前葉

中葉

後葉

前葉

中葉

後葉

   

福岡

 

6

 

3

4

4

6

40

63

佐賀

     

2

3

1

4

3

13

長崎

               

0

熊本

           

1

18

19

大分

             

5

5

南九

               

0

山口

             

6

6

広島

         

3

1

 

4

岡山

               

0

山陰

               

0

四国

               

0

近畿

     

1

       

1

中部

               

0

関東

               

0

 

6

0

6

7

8

1

72

111

B型(中国系)槍鉋出土数

前期

中期

後期

終末

   

前葉

中葉

後葉

前葉

中葉

後葉

   

福岡

           

1

1

2

佐賀

               

0

長崎

               

0

熊本

               

0

大分

           

1

23

24

南九

               

0

山口

           

1

22

23

広島

     

2

1

5

8

5

21

岡山

     

4

   

1

7

21

山陰

               

0

四国

     

1

   

2

1

4

近畿

           

9

10

19

中部

             

6

6

関東

               

0

 

0

0

7

1

5

3

75

120

槍鉋ABの出土数比較

 

 

中期
前葉

中期
後葉

後期
前葉

後期
中葉

後期
後葉

終末

出土数

九州A

6

5

7

5

11

66

100

中四国A

0

0

0

3

1

6

10

その他A

0

1

0

0

0

0

1

九州B

0

0

0

0

2

24

26

中四国B

0

7

1

5

12

35

69

その他B

0

0

0

0

9

16

25

6

13

8

13

35

147

231

出土率

九州A

100.0

38.5

87.5

38.5

31.4

44.9

43.3

中四国A

0.0

0.0

0.0

23.1

2.9

4.1

4.3

その他A

0.0

7.7

0.0

0.0

0.0

0.0

0.4

九州B

0.0

0.0

0.0

0.0

5.7

16.3

11.3

中四国B

0.0

53.8

12.5

38.5

34.3

23.8

29.9

その他B

0.0

0.0

0.0

0.0

25.7

10.9

10.8

100

100

100

100

100

100

100

鉄剣
次に鉄剣を調べてみると、鉄器の中で鉄剣のみは例外で、後期中葉以降、関東地方までの広範囲に分布するような傾向が見られる。特に、関東地方では、他の鉄器はほとんど存在しないのに、鉄剣のみよく出土する。この鉄剣は短剣タイプが多い。
さらに中国(大陸)ではこの時期鉄剣から鉄刀に主力が移り、日本列島でも鉄刀がかなり出土しているが、より実践的な鉄刀はほとんどが九州からの出土である。鉄剣は実戦には向かないことから、ステイタスシンボルと考えることができる。鉄剣はスサノオのシンボルとなっていたために、大和朝廷が、地方統治のため、全国に配ったものと考えられる。後期中葉の鉄剣の出土数が極めて少ないが、鉄剣はステイタスシンボルであるがゆえに墳墓の副葬品としての出土がほとんどである。後期中葉は多くの墳墓に副葬品が乏しく多くの宝器は共同体の持ち物になっていたことが伺われる。そのために後期中葉の出土が少ないのであろうと思われる。

各地域鉄剣出土数

鉄剣

前期

   

中期

   

後期

     
 

前葉

中葉

後葉

前葉

中葉

後葉

前葉

中葉

後葉

終末

関東

               

4

8

12

中部

           

2

 

3

8

13

近畿

             

2

1

12

15

中国

         

1

     

12

13

四国

         

1

   

1

 

2

九州

   

1

1

1

11

10

0

5

24

53

0

0

1

1

1

13

12

2

14

64

108

鉄製武器
次に、全鉄器に対する鉄製武器の出土比率(表)を調べてみると、中期後葉にピークに達していた武器出土比率のグラフは、後期初頭に下がる傾向が見え始め、後期中葉には最も下がって農工具の出土率が増えている。これは、この時代に戦乱がなく安定していたことを意味している。そして、この頃の戦闘があったと思われる遺跡は見つかっていない。防衛的環壕集落や高地性集落も衰退している。九州地方は後期中葉に平和里に畿内の勢力下に入ったものと判断される。
遺跡遺物が畿内に比べて遥かに多い北九州地方が、畿内勢力下に入るということは通常では考えられない。戦闘をすれば間違いなく北九州勢力の圧勝と思われるからである。しかし、戦闘をした形跡がないことから、北九州勢力は、伝承通り宗教の力により、畿内勢力の傘下に入ったとしか考えられない。

鉄製武器の出土数

武器

前期

中期

後期

 

後葉

前葉

中葉

後葉

前葉

中葉

後葉

終末

関東

           

4

16

20

中部

       

5

 

3

13

21

近畿

 

1

2

11

3

8

7

29

61

中国

   

1

7

6

30

44

79

167

四国

     

4

   

16

7

27

九州

2

2

8

49

38

12

58

313

483

2

3

11

71

52

50

132

457

779

前鉄器

9

37

36

138

121

143

347

891

1724

九州に鉄器が多い理由
鉄器は、九州の方が圧倒的に多く出土しているのであるが、後期中葉以降、九州系の鉄器の分布が縮小傾向にあるのに対して、畿内系の鉄器が、九州地方で出現を始めると言うことは、九州が畿内によって支配されたためと考えるのが自然である。九州に鉄器が多いのは、朝鮮半島に近いためと考えられる。 
第五項 漢鏡について
次に、漢鏡を調べてみる。漢鏡は、その形式から、大体の鋳造時期が推定されている。その鋳造時期と漢鏡の分布を調べてみると、漢式三期までは前漢鏡と言われているが、極一部を除いて、すべてが北九州の特定地域からのみ出土している。漢式四期になると、関東地方から南九州地方まで、全国分布をしているのである。漢式四期の鏡は一世紀後半の鏡と考えられている。漢式三期までは鋳造時期と副葬時期にそれほど差が見られず、そのほとんどは特定の墳墓からの集中出土である。当時の特定の有力者が鏡を独占し、個人の持ち物だったことがうかがわれる。  

漢鏡地域別出土状況

 

2

3期

4期

5期

6期

7期

三角縁

方格

漢鏡計

全計

関東

   

1

3

 

4

16

2

8

18

中部

   

3

13

4

8

55

10

28

65

近畿

 

3

10

56

26

42

191

53

137

244

中国

   

6

19

14

16

38

13

55

51

四国

 

3

3

11

7

11

11

3

35

14

九州

5

75

42

87

44

22

41

10

275

51

南九州

   

1

5

1

2

2

1

9

3

5

81

66

194

96

105

354

92

547

446

漢鏡の形式と出土時期との関係
 

弥生時代中期

弥生時代後期

古墳時代前期

 

前葉

中葉

後葉

前葉

中葉

後葉

前葉

中葉

後葉

 

1期

                   

2期

 

1

4

           

5

3期

   

69

           

69

4期

     

22

 

7

3

1

 

33

5期

     

2

2

54

4

6

2

70

6期

         

17

6

6

1

30

7期

         

2

6

4

1

13

 

1

73

24

2

80

19

17

4

220

漢式五期以降は鋳造時期と副葬時期にずれが見られる。終末に副葬されることもあれば、古墳時代になってから副葬されることもある。共同体の持ち物になったことがうかがわれる。漢式四期はこの両方の性格が見られ、後期初頭の北九州の墳墓から出てくる四期の鏡は三期までと同じく集中出土の傾向があるが、全国分布している四期の鏡は五期以降と同じ傾向にある。これは、鏡の出土傾向に変化が起こったのは四期にあたる時期であることを意味している。四期は一世紀後半頃と推定されている。それまで、北九州の一部有力者が独占していた鏡を大和朝廷が全国に配布したと考えれば説明が付く。
鏡も鉄器と同じく後期中葉の出土が極めて少ないが、これも、後期中葉が特定有力者がいない時代で、すべての宝器が共同体の持ち物になっていたためと思われる。鏡の全国配布は後期中葉と見てよいのではないだろうか。
鏡は太陽の光を反射することから、ニギハヤヒのシンボルとして重要視されており、鉄剣同様、地方統治のため大和朝廷が地方に配布したものと考える。

漢鏡出土墳墓と出土数

 

弥生時代中期

弥生時代後期

古墳時代前期

 

前葉

中葉

後葉

前葉

中葉

後葉

前葉

中葉

後葉

関東

         

1

11

2

12

26

中部

         

5

10

8

1

24

近畿

     

1

 

6

86

34

9

136

中国

     

1

 

6

28

6

6

47

四国

         

5

13

5

4

27

九州

2

1

95

34

2

92

30

22

7

285

南九州

         

2

2

3

2

9

 

2

1

95

36

2

117

180

80

41

554

第六項 小型方製鏡について
時期ごとの特徴
鏡の国産は、後期初頭あたりから北部九州で始まったと考えられている。中国産の鏡に比べて小さく粗雑である。この種の鏡は時期により4期に分けられている。各時期の分布状況をまとめてみると次のようになる。
第1期
方格規矩鏡を中心とする中国鏡の流入時期とほぼ一致し、後期初頭から前半にかけての時期と考えられている。その分布は、朝鮮半島南部・対馬・宮崎県以外の九州一帯・瀬戸内沿岸地方である。
第2期
中国鏡の長宣子孫内行花文鏡の時期に当たり、弥生時代後期中頃から後半にかけての時期と考えられている。その分布は、北部九州を核とし半島南部から近畿地方までの分布である。本格的な国産化が行われたと考えられ、その生産拠点は北部九州であると考えられる。
第3期
弥生時代後期から終末期に当たり、その分布は、近畿地方を中心として、北陸・東海・関東地方への広がりを見せる。北部九州の生産拠点が北部九州から近畿地方に移動したと考えられる。土器や墓制から考えて、鋳鏡工人が移動したと言うよりも近畿弥生人が作り出したと考えられる。
第4期
弥生時代終末から古墳時代前期に当たる。第3期と同じく近畿地方を中心とする分布である。九州地方からの出土は今の所ない。 
伝承との整合性
小型方製鏡の分布の変化は、中国鏡の変化に大変よく似ていることがわかる。中国鏡は、以前に述べたとおり、漢式4期の終わり頃大和朝廷が成立し、漢式4期に北九州中心に分布していたものが全国分布するようになり、漢式7期の初め頃、倭の大乱によって、北九州地方の統治を強化したことが原因であると推定している。小型方製鏡も全く同じ理由によるものと考えられる。
第1期の後期初頭の鏡が分布している領域は、スサノオが統一したと推定される領域と一致しているため、スサノオによって統一された結果、その範囲で鏡が流通するようになったためと考えられる。鏡の国産化を始めたのはスサノオかもしれない。第2期は、大和朝廷が成立した結果、近畿地方も統一政権の領域に入ったために、畿内へ鏡が流入するようになったと説明できる。第3期は、それまで北九州地方を伊都国王の自治にまかせていた大和朝廷が、倭の大乱を契機として直轄地にし、方製鏡の製造拠点を畿内に移したためと考えられる。第4期は、邪馬台国時代に魏の技術導入によって変化したものととらえることができる。 
第七項 銅鏃について
銅鏃は青銅製の鏃で中国では、戦国時代から漢代にかけて無茎のものが使われていた。日本では、弥生時代前期から中期にかけて流入したようである。出土の状況をまとめてみると、
1 中期以前の出土地域は、近畿・北九州を中心とし、瀬戸内海沿岸地方に見られる。
2 中期以前はすべて無茎の銅鏃である。
3 埋葬施設の副葬品や祭祀を思わせる出土はほとんどなく、集落と考えられる遺跡から出土することが多い。人骨に突き刺さった状況で出土することも多いため、実用利器であったと考えられる。
4 弥生後期に入ってから国産化されたようである。弥生後期に出土するものはすべて、有茎である。
5 弥生後期になってから分布の範囲は広がり、弥生後期中頃には、関東地方から九州地方まで分布するようになる。分布の中心は畿内であるが、近畿から東海地方にかけて集中的に出土する。
有茎銅鏃が弥生後期初頭あたりより、近畿地方で製作されるようになり後期中頃には、関東地方から九州地方までに分布しているということは、大和朝廷の勢力範囲・時期とほぼ一致している。このことは、この銅鏃は大和朝廷が国家統一をし、派遣された人物によってもたらされたものと考えることができよう。鉄鏃が、畿内系は有茎で、九州系が無茎であり、銅鏃も、九州中心の分布の時期は無茎で、畿内中心の時期になると有茎化する。これも、後期中頃あたりに大和朝廷の成立があったことを裏付けている。 
第八項 巴形銅器
弥生時代から古墳時代にかけて、内部が中空になっている円錐形の周囲に装飾部がある青銅器が存在する。巴形銅器である。ここでは、弥生時代の巴形銅器の分布について考えてみる。まずその特徴を挙げてみると。
・墓の副葬品や共伴遺物から後期初頭に出現したと考えられる。
・後期前半は北九州を中心とし、中国・四国地方までに限られている。
・佐賀県の吉野ヶ里遺跡から鋳型が見つかったことから後期前半は北九州地方で製作されていたことがわかる。
・後期後半になり、関東地方まで分布するようになっている。
・副葬の仕方などから判断して宝器として使っていたことがうかがわれる。
中国鏡や小型方製鏡と全く同じ分布の変化をしていることがわかる。分布の変化の理由も鏡と同じであると判断され、後期前半までは倭国の領域と分布領域が重なっているが、後期中頃以降関東地方までの分布に変わり、これも大和朝廷成立の影響と考えられる。 
第九項 銅釧
銅釧は、元々貝製の腕輪を青銅で模したものである。貝製のものは縄文時代から存在したが、弥生前期後半あたりから、ゴホウラ・イモガイなどの南海産の大型巻き貝を用いたものが出現している。弥生後期になってそれらが衰退していく代わりに青銅器として登場してくる。その形によりいくつかに分類される。
円環型銅釧...この原型は楽浪の方にある。国内では、北九州や対馬の中期から後期にかけての墳墓から出土するのがほとんどであるが、一部、山陰や大阪湾沿岸地方に見られる。
ゴホウラ形銅釧...弥生中期末から後期にかけて存在する。その分布は、西北九州を中心として、一部拠点的に近畿・東海・関東にも見られる。
イモガイ形銅釧...弥生中期末頃に使われたもので、北九州地方のみの出土である。
帯状円環型銅釧...弥生時代後期に属するのがほとんどで、一部は古墳時代にかかるものもあると考えられる。中部地方と関東地方に分布する。
これを見てもわかるように近畿地方以東に分布するものはすべて弥生時代後期以後である。他の青銅器と同様な変化に従っていると考えられる。
漢式鏡に限らず、国産鏡や銅鏃、巴型銅器等の青銅器は、いずれも、鏡と同じく、後期中葉以降、全国に分布するようになる傾向が見られる。いずれも倭国と日本国が後期中頃合併して大和朝廷が誕生したという伝承を裏付けている。 
第十項 方形周溝墓について
次に、方形周溝墓を見てみると、後期初頭までは、近畿地方以東にしか存在しなかったものが、後期中葉以降、北九州と四国地方に出現するようになる。北九州に出現する方形周溝墓は、北九州北西部の、福岡市南部及び、糸島地方で、北九州の中心部と言われている場所の周辺である。方形周溝墓はニギハヤヒ祭祀者の墓ととらえているため、畿内勢力の祭祀を受け入れた地域に出現するので、北九州と四国地方が、畿内系祭祀を受け入れたことになる。南九州地方と中国地方には、この時点でまだ出現しないが、これは、共に、大和朝廷の聖地であるために、自治にまかせていたためと考えられる。
方形周溝墓の地域別出現時期  
 

前期

中期

   

後期

   
 

後葉

前葉

中葉

後葉

前葉

中葉

後葉

終末

北九州

         

南九州

           

中国

           

四国

         

近畿

東海

   

北陸

     

関東

     

第十一項 副葬品について
後期中葉になると、全国的に副葬品が乏しくなる。鏡にしても鉄器にしても後期中葉の墳墓からは全くといってもいいほど出土しない。王墓と考えられる墳墓が消滅するのである。漢式四期以前の鏡は、鋳造時期と副葬される時期にほとんど差がないが、これ以降は大きくずれる傾向が出てくる。つまり、伝世するようになっているのである。この傾向は九州を含む全国で一斉に起こっている。これは、地方から有力者が消滅し、それまで有力者が持っていた宝器は共同体の持ち物になったためと推定される。なぜ有力者がいなくなったのであろうか。王が一斉に消滅すると言うことは、その理由として、強大な統一国家の誕生しか考えられない。しかも王墓が消えるということから判断して、権力者は副葬品を多くもつが、祭祀者はほとんど持たないため、その統一国家は権力の上に君臨するタイプではなくて祭政一致のタイプである。大和朝廷の性格そのものである。 
第十二項 北九州北西部の住居
北九州北西部の住居には集落内の特定の小集団に鉄器や後漢鏡片が集中するようになる。また、高床倉庫に見られる食糧管理の集中化も起きている。そして、その領域には畿内系土器の出土が多い。これは社会集団に小首長層が現れ、その求心力で、大規模集落が形成されてきたと考えられる。集落や、埋葬遺跡の動向を調べると、前期または中期に形成されたものは後期初頭あたりまで続くが後期中頃を境に断絶する傾向がある。畿内系の方形周溝墓の出現とあわせ、これらの変化はいずれも後期中頃に現れる。大和朝廷が成立して、この地に朝廷の役人が派遣されてきたとすれば説明できる。 
第十三項 まとめ
ここに挙げた土器・鉄器・青銅器・墓制・副葬品・住居跡などの考古学的事実は、いずれも、後期中葉に大きな変化が起こっており、畿内勢力が急激に関東地方から九州地方まで勢力を伸ばしていたことを示している。これらの事実は、大和朝廷が弥生後期前葉末に成立したためと考えればすべて説明可能である。さらに、系図から計算した大和朝廷の成立年代は80年頃で、魏志倭人伝の邪馬台国成立年代とも一致している。
このように考古学的事実・中国文献・国内伝承いずれも一世紀後半に大和朝廷が成立したことを示しており、成立時期、勢力範囲ともに一致している。
一般には大和朝廷成立は四世紀以降で、一世紀には国家概念も十分でない時期でとても統一国家の存在は考えられないと言われているが、前に述べたように大和朝廷は宗教統一であるからこそ、国家概念が不十分である一世紀に成立したのである。国家概念が十分に成長している四世紀以降では、各国の宗教の対立や利害の対立があり、宗教統一はとてもできないであろう。また、一世紀の青銅器鉄器はいずれも大和よりも九州の方が多く、大和に統一国家の中心があったとは考えられないと言われているが、これも大和朝廷が宗教統一で成立したのなら可能なことである。 
第十四項 神武天皇東遷 

 

東遷準備
ここまでの状況を踏まえ、大和朝廷の成立過程を推定してみることにする。
倭国と日本国との合併が本決まりになりそうだったAD75年頃、サヌは父である第4代倭国王ウガヤフキアエズの死によって、第5代倭国王を継承し、父の大隅半島の統一事業を受け継ぐために東串良町の柏原の方へ移動して、そこを拠点として大隅半島の人々に対して倭国に加入させようと行動していた。
そういったときにアジスキタカヒコネから日本国のイスケヨリヒメとの政略結婚による日本国と倭国との合併の話が入ってきた。自分はアビラツヒメと結婚していたが、倭国の将来のために日本国のイスケヨリヒメとの政略結婚に賛成した。日本列島統一は神となったスサノオ・ニギハヤヒの積年の最終目標でありこのことを多くの人々は知っていたため、ナガスネヒコ以外の反対はほとんどなかった。何回かの交渉の末、日向国は日本列島の南の端であるから、広い日本列島を治めるには日向に都を置くよりも大和に都を置くことの方がよいということで、サヌの方が大和(日本国)に婿入りするという方向で意見がまとまってきた。
大合併を実現するためには乗り越えねばならないさまざまな課題がある。それをまとめてみると、
1 倭国はこの当時東と西に別れているが、西は良いとしても東倭をどうするか。
2 合併した後の国名をどうするか。
3 サヌが婿入りした場合、この日向はどうするのか。
4 北九州の伊都国はいま一大卒(伊都卒)が金印を携えて治めているが、これを初めとする各地の役人をどうするか。
まず、2についてであるが、都が大和になる以上国名は「日本国」とするのがよかろうということになった。しかし、日本国には外国との交流実績がほとんどなく、外国には倭国という名前で知られている。国名が変わると、せっかく築いた外国との信頼関係が崩れることも予想され、旧日本国を立て直すためにも外国との交流は最優先としなければならない。その上、「倭国」という国名はスサノオがつけたもので、なくしたくないという人々の気持ちも加わり、海外との交流に関しては今までどおり、「倭国」を使おうということになった。
4についてであるが、役人は当然中央との連絡を密にする必要があるために、大和から派遣するという形をとらなければならない。特に、外国交流の玄関口である伊都国は重要である。最重要拠点として、畿内からの役人(一大卒)を派遣することにした。このため後期中葉より伊都国に方形周溝墓が出現し畿内系土器が集中的に出土するようになる。九州内のそのほかの地は、畿内から直接派遣するのは大変なので、一大卒が九州全体を統治することにした。伊都国の一大卒はその全権が任されていた。
1の東倭をどうするかというのが最大の課題であった。東倭のサルタヒコやコトシロヌシに相談すると、「西倭と日本国の合併はスサノオの夢でもあるので賛成である。しかし、スサノオの聖地である出雲が日本国あるいは西倭の勢力圏に入りその支配下に下るというのは、スサノオ軽視につながり、何が何でも認められない。合併後旧日本国にはスサノオ祭祀がないので、スサノオ祭祀を広めるために協力はしたい。」とのことであった。出雲を合併後の日本国に取り込むのは無理であると判断した。これにより、東倭に自治を認めるという形になった。これが後期中葉に中国地方に方形周溝墓が出現しない理由となった。そして、これが後の倭の大乱の遠因となるのである。
最後に3合併後の日向をどうするかである。東倭に自治を認めたということで「日向にも自治を認めよ。」という流れが起こった。やむを得ず日向にも自治を認めることになり、日向(現在の宮崎県・鹿児島県領域)にもこの時点で方形周溝墓が出現しない理由になった。その結果、新王朝大和朝廷の勢力範囲は球磨国、日向国、東倭を除いた南東北以南の日本列島ということになった。サヌの後の後継者は日向でのサヌの子はタギシミミとキスミミがいたがタギシミミはサヌについて大和に行くことになり、キスミミがなる予定であったが、早世してしまった。その結果サヌの後継者がいなくなり、伯父であるヒコホホデミが第6代倭国王(日向国王)となることになった。この当時、ヒコホホデミは薩摩半島南端部を統一のため、現在の開聞町の開聞神社の地に住んでいた。彼の働きにより、薩摩半島南端部は無事統一されていたのである。そのヒコホホデミは呼び戻され、鹿児島神宮の地でサヌから王位を受け継ぎ、第6代日向国王に即位した。ヒコホホデミは鹿児島神宮の地で政務を司ることになった。
長年にわたる交渉の結果、大和のナガスネヒコが合併を認めないという以外の障害はなくなり、ついにAD79年、サヌは大和に向かって旅立つことになった。 
東遷出発
サヌは旅立つのにあたって、もう二度と会えないであろう、さまざまな人に挨拶をすることになった。まず、柏原から鹿屋、宮浦宮を通って西へ向かい鹿児島神宮のヒコホホデミに挨拶をした。そして、再び柏原に戻り、柏原海岸から串間へ向けて出航した。串間には数年前になくなったムカツヒメの墓(王の山)があったからである。そこから再び船に乗り、油津のアビラツヒメに別れを告げた。宮崎でも人々に別れを告げ、宮崎から方々に挨拶をしながら陸路をとおり、美々津海岸より日向国を出航した。
豊予海峡を通り、宇佐神宮の地に立ち寄った。この地は、その昔、スサノオがムカツヒメと住んでいた地で、この当時は宇佐政庁がおかれていた。この後北九州遠賀川河口付近の岡の湊に立ち寄った。理由は定かではないが、知り合いの人物がいたのではないかと思われる。サヌ一行は岡の湊から東へ移動し安芸国に入った。 
安芸国における神武伝承
宇佐にいたスサノオの娘であるイチキシマヒメ(60歳程と思われる)が、安芸国までついて来ているようである。イチキシマヒメ一行はそのまま安芸に滞在している。サヌ一行は1年半(半年一年暦で3年)程安芸国に滞在している。
広島郷土史研究会編 「広島古代史の謎」によると、安芸国内の巡幸経路は、安芸国府中多家神社を拠点として海岸線沿いを瀬野→呉市天応→呉→江田島→下蒲刈島→大長→名荷→大浜→高須→柳津→金江→田島→田尻・・・。また、可部町舟山、恵坂、螺山を経て可愛村宮之城で休息し比婆郡庄原市の本村川を遡って葦嶽山(日本ピラミッド)に登り、鏡岩(神武岩)を祭壇として遥か比婆山の国母イザナミを祭った。そして、出雲に使者を立てて都を大和に移す素志を述べて諒解を求めた。このとき出雲のコトシロヌシへの使者は本村川を遡って帝釈を通り、戸宇→八幡の地を経て出雲国へ入った。これを諒としたコトシロヌシは、その誓約のしるしとして、比婆山に宝剣を埋めたと伝える。また、サヌは安芸国から島根県邑智郡郷の内に行幸し山に登って諸国をご覧になったところ諸山はことごとく石のように見えたので「石見国」と名づけた。とも伝える。
福山市金江町にある「天津盤境」と呼ばれている遺跡は松永港に聳える御陰山に対峙する磐田山の山頂付近に設けられた祭壇で、そこから、弥生式の祭具の破片が出土している。ここは神武帝の祭祀の跡と伝えている。
このように安芸国に滞在したサヌは、その間に方々を巡回したようである。ここはスサノオの聖地である出雲に近い位置であり、スサノオの霊廟にいるコトシロヌシへの挨拶が目的のようである。また、この地は東倭に所属し大和朝廷成立後出雲の自治圏となる地である。朝廷成立後中央の技術者を派遣することになるが、そのときの派遣先に東倭を含めるかどうかということの確認もあるのではあるまいか。実際に広島県内では東倭に所属しても後期中葉以降畿内系土器は散見し畿内の技術者が訪問してきているようである。 
出雲往還道の推定
サヌは安芸国滞在中に出雲の事代主へ挨拶をしているがその経路はどうなのであろうか。「広島古代史の謎」に次のように伝えられている。
「このとき出雲のコトシロヌシへの使者は本村川を遡って帝釈を通り、戸宇→八幡の地を経て出雲国へ入った。これを諒としたコトシロヌシは、その誓約のしるしとして、比婆山に宝剣を埋めたと伝える。」
ここに出てくる地名の戸宇、および八幡はいずれも現在の比婆郡東城町に現存する。戸宇は帝釈峡から東城へ抜ける途中にあり、八幡は現在の東城町森で東城から国道314号線に沿って北上した位置にある。この位置から出雲に向かうとすれば、国道314号線をそのまま島根県三井野原から横田町へ抜けるか、国道183号線に沿って道後山高原から鳥取県日南町のほうへ抜けるかである。日南町に抜けるコースのほうは古代から開かれていたようであるが、三井野原経由のほうはかなり後になって開かれたようでこの当時としては日南町経由が考えられる。
古代において山陽道から山陰道へ向かう山越えの道は3ルートあり、最初に現在の国道54号線に沿った赤名峠越えが開かれ、後に高野町から島根県仁多町へ抜ける国道432号線に沿う王貫峠越え、および国道183号線沿いの鳥取県日南町へ抜ける道が近世までには開かれていたそうである。事代主への使者が通った道を具体的には明らかにすることはできないが、広島県比婆郡内の地形を考えてみると、東城町森(八幡)、この周辺は成羽川の流域であり、この川に沿って北上したことが考えられる。川に沿って北上すると、東城町小奴可に達する。そこか上流は峡谷になっているので、当時としては難所と思われ、国道314号線に沿って西へ峠越えをし、芸備線道後山駅周辺に出る。この位置からは鳥取県日南町方面に抜けるほうが自然であり、三井野原方面は難所が多く、また、最初からその方面へ行くには東城町を通過するには遠回りとなる。実際に日南町方面は近世において福山から米子方面への道が整備されており、古代から人々がよく通っていたことを意味している。よって、鳥取県日南町方面へ抜けたと推定する。出雲の事代主に了解を求めるだけならば赤名峠越えか高野町越えのほうがよいと思われるが、なぜ日南町のほうへ抜けたのであろうか。
ここで考えられるのが比婆山の存在である。比婆山の語源は「曽婆(ひいばば)様の山」であるそうで、サヌから見てイザナミはちょうど曾祖母にあたる。比婆山の名はイザナミの御陵のある山にサヌが名づけたものと見てよいであろう。サヌは大和へ向かうにあたり方々に挨拶しているので、安芸国滞在中に比婆山に参拝していないと考えるほうが不自然で、参拝していると見たほうがよいであろう。イザナミ御陵のある山はすべて比婆山の名を持っている。ここで言う比婆山とは広島県比婆郡にある比婆山ではなく島根県広瀬町西比田と鳥取県日南町阿毘縁の境にある御墓山のことである。帝釈峡の位置から鳥取県日南町阿毘縁に向かうには当時の状況からしてこのコースは適切であるといえる。サヌの使者は御墓山のイザナミ御陵に参拝後島根県下に入り飯梨川沿いに川を下り広瀬町から八雲村へと抜けたものと判断する。帝釈→戸宇→八幡→小奴可→道後山高原→阿毘縁→広瀬町→八雲村(熊野大社)と通ったものであろう。
安芸国に長期滞在した目的は、安芸国を東倭から大和朝廷の支配下に譲り受けるためと考える。 
葦嶽山について
サヌの出雲往還の途中にあるのが葦嶽山である。この山は日本ピラミッドとして有名で23000年前の祭壇の跡といわれているが事実はどうなのであろう。「広島古代史の謎」によると、神武天皇が大和へ赴く前にここで国母イザナミを祭ったということである。実際に葦嶽山からみて北北東の方向にある鬼叫山が拝殿として使われ、その遺跡として神武岩などの巨石遺構が現存している。ここから比婆山のイザナミを祭ったとすると、その方向に祭壇のようなものが何か存在するはずである。実際に調べてみると、葦嶽山山頂から見て、比婆郡の比婆山の方向(北北西)にはそれらしきものが何もないが、御墓山の方向(北北東)にはさまざまな巨石遺構が存在する。地図にて調べると、神社の鳥居、ドルメン、獅子岩が御墓山の方向を向いていた。それ以外の巨石遺構は御墓山の方向よりもやや東よりであった。
葦嶽山の遺構はサヌが出雲往還をする前にイザナミを祭ったものと見てよいのではないだろうか。しかし、依然として多くの謎は残っている。
1 なぜ、葦嶽山なのか
2 なぜ、巨石祭祀なのか
3 なぜ、比婆山で行わなかったのか。
これらの謎に対して決定的な回答は今のところ見出せていない。ある程度の推測をしてみると次のようなものである。
なぜ巨石祭祀なのかがわかればすべて解決するように思える。祭祀の条件の中で祭祀の場所として葦嶽山が最高のものだったはずで、祭祀形態が出雲の形式と異なるために、出雲が比婆山で行うのを拒否したと考えられるからである。
日本国中にピラミッドと称される三角形の山が数多く存在している。いずれも誰が何のために作ったものか皆目わからず、謎のままで残されている。広島県下にはこの葦嶽山、のうが高原、弥山(宮島)などが存在している。また、前出の福山市金江町の「天津磐境」も山頂付近にある巨石を用いた祭祀遺跡であるので、この類に入れてもよいと思われる。天津磐境では弥生式土器が見つかっていることからこの類の祭祀は弥生時代に始まったものと考えてよいであろう。この巨石を用いた祭祀であるが、八雲山、熊野山や、比婆山(比婆郡、能義郡)など神話にからむ山の山頂近くに巨大な岩が存在し岩座として崇拝の対象になっている。これらもピラミッドと関連があるのではないだろうか。特に出雲系の神話にからむ遺跡に多いようである。東日本地域(旧日本国)にも存在することから、大和朝廷成立後古墳時代あたりまで続いていたのではあるまいか。
秋田県の黒又山はピラミッドの中でも唯一自然の山の表面を加工した跡が残っておりその周辺から、縄文後期の土器が見つかっている。ピラミッド遺構から縄文式土器が見つかったのはこの一例のみである。巨石崇拝の祭祀はスサノオ祭祀とは形式が明らかに異なる。各地に存在するストーンサークルと同系統で縄文系の祭祀のようである。このことから考えてサヌが大和に乗り込み日本列島統一するに当たり、日本列島に昔から存在していた巨石信仰を大々的に取り込もうと、サヌが大和へ東遷する途中に方々ではじめたと考えられる。その始まりが葦嶽山であろう。その影響を受け、古墳時代の初期まで巨石祭祀が各地で行われていたのではあるまいか。サヌは安芸国に着くとすぐに巨石祭祀の候補地を探し、その条件に合致した葦嶽山に巨石を配置して盛大にイザナミ祭祀をしたと考えられる。祭祀終了後、出雲の事代主に挨拶をしたのである。
巨石信仰は自然石を使う場合はよいが、位置を動かしたり加工したりするには大変な労力を要する。倭の大乱直後に古墳につながる巨大墳墓が出現するが、その最初の吉備国の楯築遺跡で巨石が使われているが以降は使われていない。楯築遺跡ではこの巨石信仰と巨大墳墓による新形式の祭祀を考えたが、不評を買い、古墳時代が始まって以降、その労力のあまり衰退したのではあるまいか。 
いざ大和へ
1年半ほどの安芸国の滞在を終え、サヌ一行は再び出航した。今度は吉備国高島宮で3年半(半年一年暦で7年)滞在したようである。ここも、東倭に所属するため、様子を見たのと、畿内でナガスネヒコが反対しており、まだ承諾を得ていないため足止めを食らったと考えられる。
大和としても、いつまでもサヌを足止めしておくわけにも行かず、ナガスネヒコが承諾しないまま、サヌに、出航を促した。サヌ側としては、ナガスネヒコが承諾したものと思いそのまま大阪府の日下から大和に入ろうとした。そのすぐ近くがナガスネヒコが住んでいた領域である。ナガスネヒコにとってサヌが大和に入ってくることは絶対に許せないことであり、矢を放って追い返してしまった。サヌにしてみれば順調に入れると思っていたのに追い返されてしまったわけである。大和の太陽神ニギハヤヒに正面向かって進んだため神が怒ったと解釈した。南側紀伊半島は東倭の領域であり、協力者もいるであろうから、紀伊山地を抜けて大和に入ることにした。この途中で長兄のイツセは矢傷が元でなくなった。そして、熊野灘を進んでいるときに嵐にあい遭難し、このとき次兄のイナイを失った。この嵐でサヌの携行品の多くを失った。この紀伊半島部は、スサノオが瀬戸内海沿岸地方を統一したときほぼ同時に統一しており、倭国の領域で東倭に所属していた。協力者も多く、その中の、ヤタガラスの案内で熊野山中に分け入った。
ウマシマヂとしては、日下を超えてやってくると思っていたのであるが、ナガスネヒコが追い返してしまったと知り、ついに、ナガスネヒコを刺し殺してしまった。サヌ一行がどこに消えたかを探していると、熊野山中にいるということがわかり、弟のタカクラジを迎えにやった。
ついにサヌはイスケヨリヒメと結婚し、初代神武天皇として大和橿原の地で即位した。橿原の地名は出航地である柏原から取ったものである。結婚式の日も吉日を選び1月1日にしたものであろう。当時の1年は半年1年暦であり、唐古鍵遺跡から三輪山山頂に太陽が昇ってくるのが見られるのが冬至の日であるから、おそらく冬至の日が当時の一月一日であろう。よって、神武天皇が即位したのはAD82年12月22日あたりということになるが、定かではない。
大和で神武天皇が即位したことにより、大和朝廷が成立し、その勢力範囲は北は福島県あたりから北九州地方までで、中国地方は東倭として、出雲が自治をしており、日向国(宮崎・鹿児島県地方)も日向自治圏であった。しかし、この2地域は大和朝廷の聖地であり、朝廷とは協力関係にあった。それに対しこの領域内で唯一つ、球磨国(熊本県)のみは大和朝廷と対立関係にあったのである。大和朝廷は成立と同時にこの広い領域を統治することになったのである。この領域に後期中葉に方形周溝墓が出現する。
実質旧日本国を統治していたウマシマヂは物部氏として朝廷に協力することになった。しかし、旧日本国勢力の中にはこの国が倭国に乗っ取られたのではないかと危惧する人々もいて、彼らの協力を得るために、神武天皇は15年程で退位した。第2代綏靖天皇、第3代安寧天皇、第4代懿徳天皇の三天皇は兄弟であり、いずれも15歳ほどで旧勢力の家より皇后を娶り神武上皇在世中に計画的に即位することになった。そのため、この三天皇の在位期間は短い。
次の第5代孝昭天皇は、第2代綏靖天皇の子であり、紀元110年ごろ即位した。この頃より、大和朝廷の統治もようやく軌道に乗ってきた。
第5代孝昭天皇の治世のAD121年神武上皇は亡くなった。神武天皇の長子タギシミミはイスケヨリヒメを妻とし皇位を奪還しようと反乱を起こしたが孝昭天皇により鎮圧された。
 
第15節 広島県地方の大和朝廷における扱い

 

第一項 神武天皇の広島県下での行動について
昭和16年 広島県発行の「神武天皇聖蹟誌」に広島県下における神武天皇の行動の跡を伝える伝承が詳しく記録されている。この伝承をまとめてみると次のようになる。
1.厳島
日向を発した神武天皇は広島県沖に達したとき、まず、宮島の南端の須屋浦に上陸し現在の厳島神社の地にしばらく滞在している。渡辺綱吉氏「安芸の宮嶋吉備の高嶋宮」によると、厳島神社の本当の祭神は神武天皇ではないかと書かれている。それは昭和15年の「厳島神社御由緒等調査記」に神武天皇の時代に御鎮座とあり、最初に神武天皇がこの島を訪れているからである。また、島内の山中には巨石を用いた祭祀の痕跡が残っている。これも神武天皇が祭祀したものと思われる。
2.廿日市市地御前
宮島を発した神武天皇は地御前の地御前神社の地に上陸した。神社西側の入り江を有府水門といい、ここに着岸されたという。
3.廿日市市串戸
地御前で休息の後、海岸に沿って船を進め、串戸に入り広田神社の地(近くに天王址碑あり)に着いた。天皇が天王社(広田神社)の御戸を開き玉串を奉典し奉ったことにより串戸と名づけられたという。
4.廿日市市宮内
それよりさらに御手洗川に沿って奥地に入り、宮内の大幸の八坂神社の地でしばらく滞在した。天皇がしばらく滞在したため宮内と呼ばれるようになった。
5.広島市古江
その後広島市古江に上陸し現在の八幡神社の地にしばらく滞在。ここを多紀理宮という。
6.安芸郡江田島町切串
その後、江田島に渡り切串の長谷川の河口にある丘陵地に宮をつくりしばらく滞在。洪水にあったために府中町多家神社の地に移動。埃宮とは江の内の意味で広島湾岸を意味している。
7.安芸郡府中町多家神社
かなり長く滞在したようで、この滞在中矢野や船越方面にも出向いているようである。このとき(?)皇兄の五瀬命が瀬野にて賊退治をしている。日本書紀から推察すると、AD79年12月頃と思われる。以下は多家神社滞在中のことと思われる。
・広島市可部町舟山・・・広島湾を北上し広島市可部町舟山に着岸し、徳行寺境内の総社の地にしばらく滞在。このとき惠坂や螺山方面にも足を伸ばされている。
・高田郡吉田町宮之城・・・内陸部に入り、宮之城の丘陵にある埃宮神社にしばらく滞在。
・賀茂郡西条町寺家・・・新宮神社に腰掛岩がある。
・賀茂郡福富町竹仁・・・橿原神社(現在は森政神社に合祀)に神武天皇が来遊したと記録されている。
・比婆郡西条町高・・・今宮神社に伝承あり。埃宮に滞在中出雲との関係を生じこの地を数度訪問した。物資を出雲より取り寄せた。と言い伝えられている。
・比婆郡高野町南・・・男鹿見山の麓にある八幡神社に大昔より鉾を神宝として伝えている。神武天皇が鬼城山の鬼を退治したときの鉾と伝える。この周辺も高嶋という。この周辺に神武天皇伝承地が多い。
多家神社を基点として方々を巡回後、当神社を出発、呉市天応(立ち寄り伝承あり、天応の名も天皇の立ち寄りからつけられる)、呉市(賊退治伝承あり)と経由し、海に出る。蒲刈島南方海上を東へ向けて進行中、南風を受け船の梶が折れたために、上下蒲刈島の間の三ノ瀬に船が入りこんだ。下蒲刈の向浦に着岸し天頭山の岸辺で船を修繕。このとき蒲を刈ったので、ここを蒲刈と名づけられた。そこから内海に出てさらに東へ進んだ。
8.豊田郡瀬戸田町名荷
蒲刈を出た天皇一行は瀬戸田町の名荷に到着。斎串を立てて祀ったのでこの島を生口島と呼ぶようになった。島の嶽山の麓にあった江ノ神社の地にしばらく滞在したとの伝承あり。近くに船を止めたという場所や神武天皇使用の井戸の跡、窯の跡、斎田の跡などの伝承あり。伝承内容からしてかなり長い滞在と思われる。
9.豊田郡大崎町大長
神武天皇が立ち寄ったという。付近の島々にも支船を停泊させたと伝える。また、この地に着く前に一支隊が四国(三津浜)に立ち寄ったともいう。
10.因島市大浜
斎島神社由緒「昔神武天皇、東国に行かれるとき、風波のため航海ができず、この大浜に船を留め寒崎山にて数日嵐の静まることを天神に祈られた。即ちこの島は斎島である。後に変わって隠の島(因島)となる。」
11.尾道市高須町
ここからは備後の国であり、滞在地を高嶋宮と伝えている。大元山麓の八幡神社の地にしばらく滞在したと伝える。ここから2kmほど南西の大田地区で武器製造・貯蔵をしたと伝えられ、神武天皇はしばしばここを訪れたそうである。ここも滞在期間は長かったようである。ここに着いたのが日本書紀よりAD80年2月頃と考えられる。
12.福山市金江町
貴船神社があり、ここに船を止めた。近くの竜王山西麓に神武天皇滞在伝承地があり、この周辺を高嶋宮という。石碑もある。また、鏡山の今伊勢神宮に八咫鏡を奉祀した。そのため、この地を神村という。近くの磐田山に天津磐境をつくり祭祀をした。天津磐境の岩を運んだという伝承地もあり、このあたりに神武天皇伝承地が極めて多い。かなり長期にわたって滞在したものと思われる。
13.沼隈郡浦崎町
浦崎町中央部の王太子山中腹に王太子神社があり、神武天皇の滞在を伝える。また、近くの戸崎に神武天皇上陸伝承地がある。
14.福山市内浦町田島
内浦に神武天皇滞在を伝える宮址の皇森神社がある。ここも高嶋宮址であり、しばらく滞在したと伝える。周辺に行幸伝承地が多く、滞在期間は長かったと思われる。
15.福山市田尻町
田尻町にある高島は現在は半島部になっているが昔は島であった。その南端部に八幡神社があり、高島宮址の石碑がある。しかし、宮址は少し北の宮原の地と伝える。昔橿原神社があったそうであるが八幡神社に合祀されたそうである。ここも滞在期間が長かったようである。ここに滞在中出雲との往復をしているようで、内陸部に入り庄原市の葦嶽山で祭祀をし、使者を出雲の言代主命に挨拶に遣わした。神武天皇自身は高野町にも伝承地があり、高野町を越えて出雲往復をしたものと考えられる。
この後、岡山県笠岡市や岡山市の高嶋宮にも滞在し、大和に向かった。
このように神武天皇は広島県にかなり多くの伝承を残している。滞在の順番は方向性を考えながら推理したものである。すべてが真実とはいわないが、真実の要素はかなりあるのではないかと思っている。はっきりわかることは、一般には武器調達とか大和の様子見とか言われているが、これほど方々にしかも長期間滞在するというのはそのような理由によるものではないことを示している。この滞在の理由をここでは考えてみたい。 
第二項 広島県内の九州系遺物
広島県地方には後期中葉あたりから、畿内系土器に混じって、大分系土器が出土するようになる。さらに、九州地方に限られていた九州系の鉄器がこの地方のみに出土するのである。大和朝廷成立と前後して大分県地方からの人々の流入があったことが推定される。
大分系土器は、三原以西の沿岸地方を中心に分布し、北部や東部には見られない。継続がなく、しばらくすると出土しなくなる。一方、畿内系土器は、ほとんどの地域に分布するがその数は少ない。そして、出土は時期的に限られたものではなく、恒常的で、古墳時代以降にも継続している。いずれの土器も在地系土器と混在する形で出土している。これは畿内系と違って、大分系の人々の流入は一時的なものと判断される。そして、土器が在地系と混在していることは共に在地の人々と共同生活をしたことを意味している。これは共通の精神基盤がなければ不可能なことである。共に、大和朝廷によって統一され、スサノオを最高神として崇めていたためにできたのではあるまいか。  
大分系土器は、出土地域が限定されていること、九州系の鉄器が同じように出土していること、時期的に限定されていることから、鉄生産を目的とした大分県地方からの集団移住ととらえることができる。
また、後期中葉に広島県地方に九州のAタイプの槍鉋の出土が見られる。地域は大分系土器の出土領域と重なっている。大分系土器を持ち込んだ人々が槍鉋を持ち込んだと思われる。 
第三項 市杵島姫
大分県の宇佐地方でスサノオとムカツヒメの子として生誕した三娘のうち、市杵島姫の伝承が広島県下に残っている。栗原基氏著「新説日本の始まり」によると広島県高田郡向原町の大土山に住んでいた市杵島姫の子供が行方不明になったのをきっかけとして、向原町実重→福富町久芳鳥越妙見→東広島市志和町奥屋→広島市瀬野川町→東広島市八本松町→東広島市西条町寺家→生口島→大崎上島矢弓→大崎上島木ノ江→江田島町伊関廿日市市宮内→大竹市→宮島町と転々と移動している。この滞在の地にはいずれも厳島神社が存在している。そして、この転々としている領域と大分系土器の出土する領域が一致しているのである。市杵島姫がその一族と共に大分から広島へ移住してきたものと考えられる。「女王アマテラス」によると、市杵島姫は九州へ住んでいたころ、ニギハヤヒの子であるサルタヒコと結婚していた。サルタヒコが出雲統治に行った後、広島県地方に移ったのではあるまいか。大分県地方から瀬戸内海を渡って、広島県地方に上陸するコースを考えてみると、崖が迫っているところは上陸しにくいので、広島湾に入り込み、そこから三篠川に沿って上流に移動することが考えられる。川をさかのぼっていくと、その先に大土山がある。大土山のある向原町には、水田の跡と考えられる伝承地が点在している。この伝承地は神武天皇の滞在地と重なっているところが多く、神武天皇の行動と内容がよく似ている伝承もある。また、厳島神社は神武天皇を祀ったものと思われるが、市杵島姫を祀っているのも事実である。この二人に深い関連性を見ることができる。市杵島姫と神武天皇は同時に広島へやってきたのではないかと考えている。 
第四項 神武天皇安芸国および吉備国長期滞在の理由
神武天皇の伝承地の集中度を調べてみると、よく言われている府中町の多家神社周辺ではなく福山市周辺である。多家神社の埃宮と福山市周辺の高嶋宮がそれに該当する。岡山県下にも高嶋宮跡があるが、伝承の集中度では福山市が圧倒している。伝承が多いところに長期間滞在したと判断してよいと思われる。また、その間でも方々に長期間滞在しているようである。何のためにこんなに方々で滞在したのであろうか。滞在地の何箇所かで巨石祭祀をしているのである。大規模な巨石を用いており、神武天皇と同行している人々だけの力ではこれだけの祭祀施設を作るのは無理ではないかと思われ、さらに、瀬戸内沿岸地方は神武天皇の所属していた西倭でも合併する日本国でもない、出雲国の支配する東倭に所属する地域である。
また、広島県北部に残る神武天皇関連の伝承は比婆郡西条町高の今宮神社の伝承や庄原市本村の葦嶽山に伝わるものなど、出雲との交渉を示すものがある。出雲との交渉が滞在目的のひとつであったのは間違いがないであろう。
これらから判断してこの地域の人々を味方につけるために神武天皇は各地に長期間滞在したのではないかと考えるのである。何のためにこの地域の人々を取り込む必要があったのか。合併後の大和朝廷の政治に目を向けてみると、大和朝廷は海外からの技術導入に力を入れなければならず、そのためには北九州主要部(伊都国)は重要拠点となる。実際に伊都国は後期中葉以降畿内系土器が集中出土するようになり、方形周溝墓も出現するようになる。考古学的視点に立っても大和朝廷は北九州主要部を重視していたことは明らかである。朝廷のある大和から伊都国との交流が大切なものとなるが、その経路上のほとんどの地域は東倭に所属しているのである。このままでは朝廷成立後の日本国の運営に大きな支障が出ることは誰の目にも明らかである。神武天皇としては、この状態は何とかしなければと考えたに違いない。どうすれば解決するのであろうか。一番よいのは瀬戸内海沿岸地方を東倭から譲り受けることである。そのために選ばれたのが広島県地域ではないのか。このように考えると神武天皇の行動は自然なものとなる。
この仮説を別方面から検討してみることにする。まず、後期中葉の広島県下の土器に変化が起こっている。後期初頭までは出雲系土器がまばらに出土していたが、後期中葉になると出雲系土器が消滅し、変わりに畿内系土器の出土が始まるのである。隣の岡山県や島根県地方にはこの傾向が見られないことから広島県地方のみの傾向である。これは、出雲から広島県地域が朝廷支配地域になったことを意味している。しかし、朝廷支配地域に出現する方形周溝墓が出現せず、また、出土する畿内系土器は祭祀系土器ではなく、日常生活用土器である。これは出雲から広島県地域を譲り受けるときに、祭祀をしないという条件があったものと考えれば説明がつく。出雲はスサノオ祭祀をしており、日本国はニギハヤヒ系祭祀であるから、出雲がそれに抵抗を示すことは当然考えられるのである。伝承では言代主は神武天皇からの使者の言葉に一度は怒り追い返しているのである。その後使者の言葉を受け入れている。もし、神武天皇が日本国におもむき、西倭との合併の挨拶だけであれば、神武天皇が日向を出発する前に話がついているのであるから言代主が怒るはずがない。広島県地域を譲れという思いがけない言葉に怒ったのである。市杵島姫による説得が功を奏して、言代主も納得し宝剣を渡したものと考えられる。
神武天皇が福山市周辺で長期間滞在したのも説明がつく。後期初頭までの出雲系土器がよく出土するのは北部地域と芦田川流域である。この地域をつなぐと、瀬戸内海沿岸地方と出雲との交易ルートが浮かび上がってくる。福山周辺の伝承でも、スサノオは出雲の斐伊川の川上から福山周辺にやってきたことが伝えられている。出雲と、瀬戸内海沿岸地方との交易ルートはこの経路であることがわかる。神武天皇がこの地域に長期滞在をし、さらに巨石祭祀を行なっているのはこの地域の人々の心をつかむのと、出雲との交渉のためと考えられる。
そこで、交渉の代表者として登場するのが市杵島姫となる。彼女はこの当時生存していた数少ないスサノオの娘である。さらに、出雲のサルタヒコは北九州にいたとき、この市杵島姫を妻にしていたのである。出雲の言代主にとって、頭の挙がらない人物の一人であろう。神武天皇もそれを計算して宇佐から彼女を同行させたと考えるのである。
このように考えると、神武天皇の長期滞在理由、土器の出土状況、市杵島姫の広島への移動すべてが説明できるのである。東倭から譲り受けた後の広島県地域は市杵島姫が統治していたものと考えられる。市杵島姫の伝承地が転々と移動しているのも地域をまとめるためと考えられ、大分系土器が出土するのもそのためと考えられる。
安芸国に滞在しているときに、出雲国との交渉によって、安芸・備後(現広島県)を東倭から譲り受けた後の経路については、神武天皇が大和で即位した後の北九州との航路を安定化するために要所となるところに寄港地を作るために方々に滞在していたのではあるまいか。磐田山の天津磐境は航海の安全を祈る祭祀施設かもしれない。 
第5項 後の滞在推定値
福山市田尻町の高島宮址を出航した、神武天皇一行のその後の立ち寄り地を探ってみることにする。大阪湾岸に到達するまでに、以下のような伝承地が存在している。
1.岡山県笠岡市高島
笠岡諸島のひとつの島である高島には高島神社がある。明治維新までは「神武天皇宮」「神武天皇社」と呼ばれて崇拝されていた。社は小さいが神武天皇が東征された際の仮宮である吉備高島宮の跡と言われている。近くの最長には高島遺跡が存在している。長期滞在には不向きと思われ、海が荒れたため立ち寄ったのではないだろうか。
2.児島湾に浮かぶ高島
児島半島はこの当時島であり、児島湾は東西に通じていた海峡であった。笠岡の高島を出航した神武天皇一行はこの海峡に沿って東行し、旭川河口にある高島周辺で船を休めた。高島は大変小さい島で、児島湾上に浮かんでいる。この島及び児島半島の北岸に神武天皇が滞在したという伝承地がある。このような島に大人数が長期滞在するのは無理であるので、長期滞在地を探すために短期間滞在したのではないかと創造する。ここに滞在中、龍の口山の麓に長期滞在地を選定したものと考える。
3.岡山市賞田、龍の口山の南麓
岡山市市街地の北西部旭川のそばに龍の口山がある。その南麓に高島神社が存在し、神武天皇が滞在した址と伝えている。当時はこの近くまで海だったようで、児島湾の高島からこの地に移ったと考えられる。大和へ向かう経路上より北へずれているため、長期滞在したのではないかと考えられる。この地より10kmほど南東に兄である五瀬命が滞在したと伝えられている安仁神社が存在している。昔はこの鶴山の麓まで海であったそうで、入江の奥の良港だった。後方の山には磐座や列石があり、古代の祭祀跡と見られるところに、神武東征の船の「ともづな」を掛けたといわれる「綱掛石神社」などがある。この安仁神社の地は神武天皇が龍の口山の高島宮に滞在中に五瀬命が滞在していたと推定する。 日本書紀から推定すると、ここを出発したのがAD81年7月下旬となる。
4.兵庫県家島
神武天皇が東征の時、海があれ、嵐を避けるために家島に御寄港した。島内に入ると外の嵐がウソのように波静かで、まるで自分の家にいるようだったことから、「家島」と名づけられたと伝えられている。
家島は、古くは、国生みの島オノゴロ島、胞島(エジマ)と呼ばれていた。その後家島と呼び名を変え、瀬戸内海の海上交通路の拠点、潮待ち、風待ちの非難港として栄えてきたともいわれている。
「播磨鑑」には次のような説話が伝えられている。
「白髪長髪の翁が、亀の背に乗り、沖で釣をしていると、吉備水道を抜け出て来た船団が播磨灘に向かってやってきて、翁がこの海に関して詳しい事を知り、翁に道先案内を頼みました。
船団は、家島に滞在し、船の修理や、兵士の訓練、食料の補充をして数年間がたちました。そして、翁の案内で、摂津へ旅立ちました。難波について翁は手柄を褒められました。翁の亀は、忙しい主人をおいて、先に難波ヶ崎から家島に帰ってきました。」
この話は神武天皇の東征時の説話といわれている。
神武天皇一行が高島を出航したのが戊午2月11日で、難波の白肩津に着いたのが3月10日なので、この間約15日(この頃の1ヶ月は15日と推定)。距離から考えて家島には五日ぐらい滞在したのではあるまいか。 
神武天皇について

 

神武天皇即位は年代推定によりAD83年1月1日(AD82年冬至の日)であることがわかった。この日を基準として、神武天皇の一生を伝承を元にまとめてみよう。
1.年代推定
日本書紀によると神武天皇は即位76年に127歳で崩御したとなっている。逆算すると、神武天皇誕生はAD57年後半で、崩御はAD120年後半となる。東遷開始年は日本書紀己未年3月7日に「我々が東征に出てから六年が経った。」と記録されている。己未年は即位前2年にあたりAD82年前半である。これより東遷開始はAD78年後半となる。
日本書紀では甲寅(79年前半)となっている。しかし、日本書紀では岡田宮への滞在期間が1ヶ月ほどになっているが、後に述べるように北九州周辺での神武天皇関連伝承の多さから推察しもっと長いはずである。古事記の1年滞在が正しいと考える。また、神社伝承では山口県周南市の神上神社の地に半年間滞在したことになっている。さらに、安芸国に3ヶ月滞在したことになっているが、安芸国にも滞在伝承が多く、ここももっと長期間の滞在と思われる。鹿児島県の波見港に伝わる伝承では神武天皇が出航したのは3月とのことなので、出航はさらに一年早くAD78年後半3月と推定する。
これらを元に神武天皇の年代を推定すると、下の表のようになる。
西暦 干支 年齢 紀元 出来事
57 1 宮崎県佐野原で誕生
58 3 宮崎県高原町皇子原へ移動
64 15 都城市都島に移動
69頃 25 吾平津姫と結婚
70頃 27 日向津姫串間にて崩御
72 30 宮崎市皇宮屋に移動
75頃 36 父鵜茅草葺不合命死去 / 日本国との合併の話が持ち上がる / 第5代倭国王に就任 / 東串良の山野に宮を造り、父の大隅半島統一を引き継ぐ
76頃 38 日本国に婿入りが決定し、日子穂々出見命に第6代倭国王位を譲る。/ 高千穂宮(鹿児島神宮)にて東遷準備会議を開く
78頃 42 加世田の瓊瓊杵命に東遷の挨拶をする
78後半 癸丑 43 鹿児島県波見港を出航(3月)
78後半 癸丑 43 美々津港を出航(8月)
78後半 癸丑 43 宇佐に滞在
78後半 癸丑 43 岡田宮到着(11月着・一年滞在)
79前半 甲寅 44 山口県徳山に到着(12月着・6ヶ月滞在)
79後半 乙卯 45 安芸国多祁裡宮到着(6月着)
80前半 丙辰 46 吉備国高島宮到着(3月)
81後半 戌午 49 吉備国高島宮出発(2月)
81後半 戌午 49 白肩津に到着(3月)
81後半 戌午 49 孔舎衛坂の戦い(4月)
81後半 戌午 49 五十瀬命死去(5月)
81後半 戌午 49 名草の戦い(6月)
81後半 戌午 49 熊野神邑到着(6月)
81後半 戌午 49 荒坂にて遭難(7月)
81後半 戌午 49 宮滝到着(8月)
81後半 戌午 49 高倉山で視察(9月)
81後半 戌午 49 国見丘の戦い(10月)
81後半 戌午 49 大和進入(11月)
81後半 戌午 49 長髄彦誅す(12月)
82前半 己未 51 都の選定(3月)
82後半 庚申 52 五十鈴姫を正妃とする(9月)
83前半 辛酉 53 1 神武天皇柏原宮(神武天皇社)にて即位
83頃 合併反対派の駆逐
84後半 56 4 宇陀・伊勢巡幸
88後半 64 12 天皇日向を巡幸。三山陵を参拝す(6月)
98前半 80 31 第二代綏靖天皇に譲位
橿原宮に居を移し、綏靖帝を補佐する。
103頃 92 41 第3代安寧天皇即位
107 100 49 第4代懿徳天皇即位
後漢に朝貢(安帝永初元年)
111頃 108 57 第5代孝昭天皇即位
119頃 122 73 健磐龍命を球磨国に派遣
120後半 127 76 神武天皇崩御 
2.神武天皇誕生地推定
狭野命の誕生伝承地は南九州に何箇所も存在している。1佐土原(佐野の森)、2高原町佐野(皇子原)、3志布志町佐野、4東串良町宮下(イヤの前)、5鹿児島県加世田市、などである。どれが正しいのであろうか。他の地にある伝承とうまく繋がらなければならない。狭野命の成長伝承地、宮跡伝承地などを総合すると、1または2が残る。他の伝承地は宮跡と繋がらない。2が成長伝承や宮跡伝承と最も良く繋がるのであるが、現王島の日吉神社には神武天皇の胞衣を埋めた伝承がある。狭野命は近くの佐野の森で誕生し、ここに胞衣を埋めたというのである。この伝承が誕生時を最も具体的に示しているといえる。そこで、狭野命は佐野の森で誕生し誕生後すぐに皇子原に移動しそこで育ったのではないかと考えてみた。 
佐野の森は佐野原聖地と呼ばれ、神武天皇の父、鵜葺草葺不合尊の宮殿跡で、ここで神武天皇はじめ4柱の皇子がお生まれになった所と伝えられている。この地から800mほど北に現王島の日吉神社があり、神武天皇の胞衣を埋めたといわれている。
この時父の鵜葺草葺不合尊は内之浦の統一を終え、蚊口浦から上陸し、西都市周辺を統一していた兄の日子穂穂出見尊が対馬の統一を任されたので、その後をついで、西都市周辺の統一に取り掛かっていた。このような時に神武天皇は誕生したのである。幼名を狭野命という。AD57年後半のことである。 
3.皇子原へ移動
西都市周辺が統一されたので、鵜葺草葺不合尊は第3代倭国王ムカツヒメの後継者として都城盆地を中心として倭国の統治のため、宇都に宮を移した。AD58年頃のことである。狭野命3歳(古代暦・現年齢1歳)程である。狭野命は皇子原に15歳まで住み、御池で水遊びしたり、宇都との間の道を通ったりしたという伝承が残っている。 
4.都島への移動
AD64年高千穂山が大噴火を起こし、皇子原周辺は火山灰に覆われてしまった。住めない土地となった。鵜葺草葺不合尊一家は南の都島に移動することにした。暫くして、第三代倭国王ムカツヒメから大隅半島の統一を命じられ、大隅半島に出向くことになった。狭野命は都島に残り、現在の宮崎県南部地方の統治を託された。 
5.狭野命の結婚
AD69年狭野命は25歳になった。この当時は25歳(現年齢で12歳)が成人であった。日南の阿多一族を倭国に取り込む時、鵜葺草葺不合尊の子と結婚指せることが条件であったために、狭野命は海幸彦の娘吾平津姫と結婚することになった。
日南→北郷→曾和田(生達神社)→河原谷→板谷→大八重→都島と往復しながら頻繁に逢った。この時の通過伝承が曾和田の生達神社にある。 
6.皇宮屋(宮崎市)への移動
AD72年、ムカツヒメが串間で崩御した。狭野命は父鵜葺草葺不合尊から、日向国と北九州や東倭国との交流の玄関口である現宮崎市の皇宮屋で政務を執るように命じられ、皇宮屋に移動した。この時の経路上に金崎神社があり、神武天皇通過伝承を伝えている。皇宮屋に伝わる伝承では神武天皇は30歳からここに住んだと伝えられている。皇宮屋はこの当時大淀川の川辺であったと考えられ、水上交通の拠点であった。しかし、狭野命はこの時期、主に日南の油津に住んでいたようである。
皇宮屋に移ってから暫くして、狭野命は吾平津姫と結婚した。吾平津姫は結婚後、日南市の駒宮神社の地に住んでおり、この地は父が居る宮下の西洲宮(桜迫神社)へ通う都合もあり、狭野命は駒宮の地に頻繁に通ってきていた。その経路は旧飫肥街道と考えられる。
狭野命はこのとき、海神(海幸彦・吾平津姫の父)から、駿馬を献上され、尊はこれを大変気に入り、龍石(たついし)と名づけられ、この馬に乗って、西州宮を往復したと伝えられている。駒宮神社周辺には、この時の船や馬を繋いだといわれる「船繋ぎの松」、「馬繋ぎの松」がある。また、付近に「神川」と呼ばれる川があり、愛馬を洗ったと伝えられている。東遷が決まってから、この馬は野(立石の牧)に放たれた。
宮下のイヤの前で長子タギシミミが生まれている。ここは伝承上では神武天皇誕生地であるが、鵜葺草葺不合尊がここに宮を移したのは晩年であり、神武天皇誕生地とは考えられない。狭野命が吾平津姫との結婚後、父との連絡に頻繁に通ってきているので、この地で誕生したのは、狭野命の長子タギシミミではないかと推定する。また、桜迫神社の伝承に神武天皇が幼少時に過ごしたと伝わっているが、これもタギシミミのことであろう。 
7.鵜葺草葺不合尊崩御
AD75年頃、狭野命36歳の時、父鵜葺草葺不合尊が西洲宮で崩御した。大隅半島の統一が中途であったので、狭野命が跡を継ぐことになった。狭野命は皇宮屋から、東串良の山野に宮を移した。狭野命はここを拠点として、大隅半島部の統一に尽力した。
大根占の河上神社に神武天皇滞在伝承地がある。大隅半島統一のために一時滞在したものであろう。狭野命は第5代倭国王に就任した。 
8.日本国との合併論議が起こる
数年前から日本国との合併論議が起こっていた。何回かの話し合いにより、狭野命が日本国に婿入りすることに話がまとまったが、大和国内の反対勢力によってなかなかゴーサインが出なかった。しかし、時機を逸するということから、狭野命が大和に向かうことになった。狭野命は倭国王の位を叔父の彦火火出見尊に譲った。彦火火出見尊は第6代倭国王に就任して、鹿児島神宮横の石体社の地にあった高千穂宮で政務を執った。
狭野命は東遷の準備のための打ち合わせに山野と高千穂宮との間を往復した。この時の通過伝承が若尊鼻や宮浦神社に伝えられている。
宮浦宮・・・神武天皇この浦より船出あり、若尊鼻に向かわれたと伝える。
若尊鼻・・・神武天皇宮浦より船出して、この鼻に船を寄せた。若尊神社あり。 
9.曽於族との戦い
鵜葺草葺不合尊の伝承は志布志の御在所嶽にもある。この伝承は天智天皇のものであるが、玉依姫を伴っているので、鵜葺草葺不合尊のものと解釈される。曽於族を倭国に取り込むために彦火火出見尊と共にこの周辺で活躍したものであろう。近くに佐野と呼ばれている所が在り、佐野丘には三野大明神の祠堂があって、神武天皇が祀られている。ここは神武天皇誕生地ともいわれている。
末吉町の住吉神社は神武天皇が創建したといわれている。この地は曽於族のほとんど本拠地近くである。狭野命は鵜葺草葺不合尊に伴って曽於族を取り込むために活躍した時にここに滞在していたのであろう。
この当時まだ未統一であった曽於族が都城の方へ進出して来た。狭野命は高千穂宮で軍を集めて都城方面へ出陣をしたが敗戦した。この時の伝承が子落にある。都城で敗れた神武天皇一行が国分まで引き返す時子落を通過したといわれている。この時狭野命は高千穂宮に居たようで、東遷準備中のことと思われる。この後曽於族とは講和したようである。 
10.東遷の挨拶
東遷が本決まりとなり、狭野命は関連人物に対して挨拶に赴いた。母である玉依姫が鵜葺草葺不合尊の死去後生まれ故郷に戻っていたため、大隅半島の古江港より出航して、鹿児島市谷山に上陸(谷山の柏原神社に伝承あり)し、母の里に挨拶した。
その後、宮原(加世田)の瓊瓊杵尊に挨拶するため、伊佐野(神武天皇滞在伝承あり)に滞在した。薩摩藩東部の人々に挨拶が完了し、大隅半島に戻ってきた。AD78年前半のことであろう。 
11.東遷準備
篠田(現霧島市国分)に神武天皇東遷の際矢竹を出す(三國名勝図会・鹿藩名勝考)という伝承あり、また、同地に神武天皇腰掛岩あり。さらに、春山牧(現霧島市重久)に神武天皇東遷の軍馬を出したという伝承がある。これらの伝承より、東遷のための準備は鹿児島神宮周辺の高千穂宮あたりで行われたことがわかる。彦火火出見尊も東遷に協力していることが推察される。倭国の総力を挙げての取り組みだったのであろう。
神武天皇発港伝承のある肝属川河口は多くの船を繋ぎとめておくのに十分な広さがあり、食糧、造船用材確保に十分な土地柄である。また、東串良の山野の山王屋敷には神武天皇の宮址伝承があり、近くの戸柱神社には東遷準備は田畑(皇神山)で行われ、その跡地に立てられたのが戸柱神社であるといわれている。この地を拠点として東遷準備をしたと考えられる。 
神武天皇日向発港

 

1.波見港出航
大和平野と南九州の共通の地名が多いが、最も多いのは大隅地方でついで薩摩地方、最も少ないのが日向地方である。このことは、東遷一行に加わった人物は大隅地方の人々が多かったことを意味している。佐野命の出航地が波見港であることを裏付けている。
東串良には毎年3月10日に古くから、凧を揚げる習俗及び船を沖に出して遠見をする慣習がある。これは、神武天皇が船出の際、日和見をしたり、お見送りをしたりした遺風であると言い伝えられている。
出航の準備が整った狭野命一行は出航の時、土地の人々が日和見をし、凧を揚げて見送ったことが推定される。AD78年後半3月10日のことである。 
2.夏井着岸
波見港を出航した狭野命一行は夏井港に着岸した。夏井には「神武天皇は志布志夏井の御磯から御船出になった。」という言い伝えがある。波見港を出航した日の夕方、夏井に着岸したものであろう。波見港から夏井海岸まで海上約17kmである。 
3.宮崎皇宮屋までの航路
夏井を出航してから宮崎の皇宮屋に達するまでの寄港伝承地は見当たらない。しかし、日南の吾田神社に次のような記録がある。
「手研耳命は神武天皇と吾平津姫との間に生まれた長子であるが、手研耳命が亡くなられると、吾田の小碕に葬り、その小碕は、今の神社の下を昔から小碕といっており、宮の上の古墳と見るべき地があるのを手研耳命御陵としている。」
手研耳命は神武天皇と共に東遷に参加しているので、この伝承は弟の岐須耳命のものであると考えられる。また、
「神武天皇御東遷に先立ち、宮崎の宮より、妃吾平津姫命及び皇子達を従え妃の出生地たるこの地に至り暫く御滞在あらせしと伝う」
これより、波見港を出航した時は、妻の吾平津姫及び二皇子が同伴していたが、油津で別れたことが分かる。
この当時の一日の水行距離は約20km程と推定している。夏井を出航後油津までは距離が大きすぎ、都井岬の難所を通過する前の串間に着岸したことが予想される。串間にはムカツヒメの墓(王の山)が存在しているため、東遷の挨拶に参拝したものと考えられる。夏井から串間まで海上約8kmである。
串間を出航後、都井岬を迂回して油津に上陸した。海上45kmほどなので、間で1泊していると予想される。都井岬を回った直後の宮浦辺りではないだろうか。次の日が油津である。油津に暫く滞在して、もう二度と会えないであろう妻吾平津姫及び次男岐須耳命との別離をした。長子手研耳命は現年齢で6歳ほどで、岐須耳命は4歳ほどではなかったろうか。手研耳命は東遷団に同行することになった。
油津を出航してそのまま宮崎に上陸することは一日では難しい。宮浦(海上17km)・青島(海上16km)辺りで停泊したものと判断する。そして、皇宮屋(海上16km)に到着した。 
4.皇宮屋
神武天皇東遷前の皇居跡といわれている。大淀川河口から少し奥地に入った微高地で、大人数を滞在させるにはちょうど良い場所である。この周辺は日向一族の発祥の地であるので、各地の人々に挨拶する都合があったものと考えられる。暫く(2・3ヶ月)滞在したものであろう。 
5.湯之宮神社
湯之宮神社に「神武天皇御湯浴場跡」がある。その脇に泉のような場所があって、そこを石の柵で囲っている。狭野命が東遷前にここに立ち寄り湯浴みをしたと伝えられている。
その湯之宮神社から農村の細い道を隔てたところに座論梅という梅園がある。
「この老梅は神武天皇が東征の際この地においてお湯を召されご休憩の後、梅の枝を突きたてたまま出発して、その後、その杖が芽をふき元木となり成長して今日に至ったもの」と伝えられている。
皇宮屋を出航した東遷団は一ツ瀬川の河口の下富田神社の近くに船を泊め、湯之宮神社の方に川を遡り湯浴みをしたと考えられる。この方面に東遷の挨拶をしなければならない人物が居たためと考えられる。下富田神社には神武天皇幼少時の遊興跡であると言い伝えられている。幼少時の滞在地から離れており、また、湯之宮神社までの船を泊めておける最短地であるので、ここに船を泊めたと判断する。皇宮屋から下富田神社まで海上23kmほどで約1日の行程である。 
6.鵜戸神社
鵜戸神社はその昔、鵜葺草葺不合尊が内之浦から戻ってきて上陸した所で、この直後狭野命が誕生している。この由緒ある小丸川河口の蚊口浦に一泊しているようである。下富田神社の地からここまで海上11kmである。半日の行程であろう。 
7.甘漬神社
甘漬神社は口碑によれば、「神武天皇御東遷の御途、暫しこの甘漬に滞在された。その時、自ら大神を奉斎し、群臣将兵と共に、武運長久と国土の平定を御祈願あらせられたのが創祀の始めである。また、天皇滞在中、さる高貴な御方が死去され、その方を葬った古墳が神社境内の中央にある。」とある。
さる東遷団に随伴していた高貴な人が亡くなったので、ここに葬ったのが、ここに滞在した理由とも考えられる。しかし、この甘漬の地は名貫川の河口であり、その上流に神武伝承の矢研の滝がある。矢研の滝に行くためにここに滞在したとも考えられる。鵜戸神社の地からここまで、海上12kmでこれも半日の行程であろう。 
8.矢研の滝
尾鈴山から流れ出て都農沖の日向灘に注ぐ名貫川があって、神武天皇一行はその名貫川沿いに尾鈴山の山中に入ったと思われる。饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)が高天原から尾鈴山に降りて、そのまま乗り捨てて行ったと伝わる大きな岩石「天の磐船」がある。東遷を成功させるためには人々の心を一つにする必要があり、そのために、先祖神の祭祀は重要なことで、この伝説の地は東遷に向かう狭野命にとっては立寄らざるを得なかったものと考えられる。
狭野命は「天の磐船」に祈願すると、その下流200mにある、高さ70mの美しい瀑布のそばまで来て、戦士達にはその滝の水で矢を研ぐように命じた。
狭野命にとって、大和は饒速日尊の国である。饒速日尊にその成功を祈るのは重要なことであった。そのために饒速日尊の旧跡地をわざわざ訪問したと考えられる。
甘漬神社の祭神は大己貴命であるが、大己貴命と饒速日尊は多くの神社で混同が見られ、甘漬神社の真の祭神は饒速日尊ではないかと想像する。甘漬神社の地から矢研の滝まで片道16kmで往復4日程度の行程であろう。 
9.都農神社
都農神社も祭神は大己貴命となっているが、別伝に大年命(饒速日尊)となっているものがある。神武天皇が東遷のとき、この地に滞在して国土平安、海上平穏、武運長久を祈願した所と伝えられている。また、ここに着いた時、賊慮の蜂起があって、鎮撫を祈ったとも伝えられている。
ここは大年命が南九州へ進行する時、滞在した所ではないかと考えている。その旧跡地で狭野命が祭祀したのが神社の創祀ではないだろうか。というのもすぐ近くの甘漬で祭祀しているので、都農で同じような祭祀をする必要がないと思われるからである。
甘漬は名貫川の河口であるということと、貴人が病に倒れたために祭祀をしたと考えられ、都農は饒速日尊の旧跡地のために祭祀をしたと考えるのである。甘漬神社の地から都農神社の地まで海上5kmなので、或いは陸行であったかもしれない。 
10.美々津
都農を出航した東遷団は次の日美々津に着いた。美々津では本格的に航海するための造船伝説があり、暫く滞在したようである。都農から美々津までは海上11kmである。美々津の伝承地を探ってみよう。
美々津に到着した狭野命は「神の井」(新町の八坂神社内)に行宮を造り、出港までの住まいとした。
耳川の河口から上流約2.5kmの所に余瀬という土地があり、そこの神立山から楠材を切り出してきて、今の美々津橋の河上の左岸にある匠河原で船を建造した。幾百艘という軍船が次々と造られ、河口一帯の海岸を埋め尽くした。
この頃狭野命は今の権現崎の山頂から西北一帯の遠見という所にお出ましになり、凧を揚げて風の方向を調べたり、船を沖合いに出して潮の流れを調べたりして御船出の準備をしていた。
数百の軍船は遠見の東の「ふなまち」に繋がれ、天気や準備の都合で長い間とどまっていた。この間にお伴の民人は漕術や水練を習って立派に御奉公申し上げようと考え、海岸と沖の七ツ礁(ななつばえ)の間の海で一心不乱に練習を続けた。
神武天皇は立磐神社の境内にあって、今は御腰掛岩というようになった岩に腰掛けて、あれこれ指図をしていた。
軍船も完成して港に集まり、水軍の訓練も進み、いよいよ(旧暦)八月二日を出港の日と決めた。ところが、予定より一日早い八朔の四更(旧暦八月一日の午前二時)の頃に遠見山の見張り番が、風向きも潮の流れも今がいい、との報告があって急に出発すことになった。
それを聞いた村人達は、「おきよ、おきよ、出発されるげな」と家々を起こして回った。
村の男達は出発の加勢に出向き、女達は献上する予定であった団子をつくる時間もないままに、その材料の米粉と小豆を混ぜ合わせて、捏ねて、蒸して、臼で搗いて、団子らしきものを作って差し上げた。
このときに、御腰掛岩に立って進み具合を見ていた神武天皇の衣服のほころびを見つけた少女に、天皇は立ったままで繕わせた。それ以来、美々津のことを「立ち縫いの里」というようになった。
夜明けに立磐神社と向こう岸の湊柱神社に武運と航海の安全を祈願して、いよいよ出発することになった。
神武天皇の軍船団は美々津のすぐ沖の七ツ礁(ばえ)と一つ上((かみ)の間を通って東征に向かった。美々津ではこの二つの礁の間を「お舟出の瀬戸」と呼ぶようになり、以来この間を地元の人は通らないようになった。二度と帰ってこない人にならないように縁起を担ぐようになったからである。また、遠見の山では今でも秋凧といってこの時期に凧を揚げる習慣がある。
その後、美々津においては、八月一日に「おきよ祭り」が行われるようになった。急ごしらえの団子は「つきいれもち」と呼ばれる美々津の有名なお菓子として今も受け継がれている。
狭野命は波見港で船を造り海路美々津まで来ている。しかし、この美々津にも造船伝説がある。船を造りなおしたということだろうか。美々津の伝承を元に判断したいと思う。
一説には狭野命は美々津までは陸路を通ってきたというが、ここまでの立ち寄り伝承地の多くは海岸(河口)であり、船が繋ぎとめられる場所である。陸路を通った場合はこのような場所に伝承地が数多くできるとは思えない。以上の点から狭野命一行は海路美々津まで来たと判断する。
狭野命一行は美々津で船を造るだけではなく、漕船技術も学んでいる。この伝承から判断して美々津は古代の日向において海洋技術の先端地となる。おそらく、北九州と日向を物資交流する時、ここから北は豊予海峡という難所が続くため、往路・復路共に船の修繕を必要としたのであろう。そのために、美々津は造船・漕船の海洋技術の先端地となったのである。柏原で船を造ってから5箇月がたっている。柏原での不十分な技術ではかなり老朽化していたのではあるまいか。ここで、新しく船を造ったり、修繕したりして、豊予海峡を通れるだけの船にしたものと判断する。日本書紀では10月5日出航になっているが美々津では8月1日と伝えられている。 
11.細島
狭野命は、美々津出航後細島に立ち寄った。この地は鉾をお立てになった土地であるということで、鉾島といい、訛って細島となった。今鉾島神社がある。寄港日は10月8日と伝えられている。美々津から細島までは海上16kmほどである。
天皇は巨鯨を退治した時の御鉾を建てられた事から細島といわれているが、伊勢ケ浜から上陸した神武天皇は大御神社に立ち寄ったあと、徒歩でこの鉾島(現米の山)頂上に登り、鯨退治の鉾を立て、再び伊勢ケ浜に戻ると、そこから延岡を目指して舟出した。この時、皇大御神を奉斎する御殿(大御神社)に武運長久と航海安全を祈願されたという。大御神社は瓊瓊杵命が北九州往復の時立ち寄ったと伝えられている。 
12.櫛津神社
細島を出た狭野命一行は延岡市土々呂の櫛津神社の地で潮の変わり目をこの地で待たれたといわれている。細島から海上18kmほどである。 
13.五ヶ瀬川河口
河口に神武天皇が停泊されたと伝えられている。櫛津から海上12kmほどである。 
14.細野浦
上入津の細野浦に伊勢本社がある。神武天皇を奉祀し、古来から、皇宗御着船の聖地と伝承している。神社の御神体は皇船をこの浦に寄せた時に用いられた御水入の古土器であるといわれている。
五ヶ瀬川河口から細野浦まで距離がありすぎるので、北浦町古江、蒲江あたりで停泊したものと考えられる。蒲江を出航してしばらくすると、大嵐に見舞われ、必死の様で蒲江の入津の湾に避難をした。
土地の人から食糧をもらい船を修理してもらった。
船団は、最初に尾浦の浜に上がろうとしたが、船が多すぎて、さらに奥の入江に向かったので、天皇は、この尾浦を泊まり浦と名付けた。さらに、あちこちの浜に接岸しようとしたが、波が激しく、その音が騒がしいので、大騒津、小騒津と名付け、さらに奥の入江に向かい江武戸鼻を廻り上陸した。そこが、現代の畑野浦地区の宮路ガ浦である。このような地名は、現在も残っている。
天皇は、嵐が早く止むように、村の大漁を祈願し、浜に大きな一本の旗を突き刺した。この地が旗立の浜と言われるようになった。また、大きな入江や山々を眺め、この地方のリアス式の曲がりくねった入江の美しさに見とれて美しき曲(わだ)の浦の地と言われた。
それから後、この地は”わだのうら”と呼ばれ、訛って、”はたのうら”となり、漢字が当てられ、今では畑野浦と言うそうである。
天皇は畑野浦の奥の松合山で(神武ガ原)で天候を占い、荒れ続く嵐が静まるように、さらに この村の安泰を祈願して、十二本の矢を弓につがえ海に放ちました。
村人達は感謝し、今でも伊勢本神の社殿を建て祭っており、社殿の浜の小石は、旅行祈願のお守りとされている。
やがて、嵐はおさまり、天皇一行は、米や水を積んで出航した。村人達は大王の航海の安全を祈り、浜の二つの小岩にしめ縄を張り、海の三海神に願いをかけ三つの灯明をつけたという。
後に、その近くに江武戸神社を祭り、嵐の日には灯明を照らすとしずまると、漁師の間では信じられている。
大、少の騒津の間に、折り伏しの鼻があるが、村人達が、天皇をなごりおしみ見送った場所と伝えられている。
このように、畑野裏地区には、神武天皇が寄港したという伝説に縁のある地名や神社が多く残っている。
細野浦からは、航海になれている多数の海人部族が、徴しに応じて馳せ加わったので、皇船は船足が速くなり、10kmほどで、米水津へついた。 
15.居立の湧水
米水津村 小浦 神武天皇が上陸した際、水がなかったので弓矢で地を穿ったところ水が出た、という伝説のある名水である.居立海岸の砂浜に、真水がコンコンと湧き出る「神の井」、神武天皇はここで米と水を補給し、「米水津」の地名がついたと言われている。
この後、鶴見崎を大きく回らなければならないため、ここに立ち寄ったものであろう。細野浦から10kmほどである。 
16.大入島
鶴見崎の突角の東を西へ迂回し八島と三栗島との間を北へ、更に、片白島と大入島との間を過ぎて大入島の日向泊へ着いた。居立の湧水より海上27km程となる。大入島は佐伯の沖にある島で、日向泊に神武天皇一行が停泊したという伝承がある。日向泊の海辺に満潮の時は海水中に沈むが、潮が引いた時に現れる「神井」と呼ばれる井戸がある。
狭野命は飲み水を求めて日向泊の海岸に立ち寄った。しかし、そこには谷川も泉もなかった。そこで狭野命が持っていた折弓をつき立て「水よ出でよ」というと、清らかな水がこんこんと湧き出した。その上には日向泊神社があり、その東南の海岸に皇船を繋ぎとめたといわれている綱取石、王石と呼ばれている二個の大きな巌がある。
あくる朝の舟出の際、浦人たちは感謝をこめて焚火で航海の無事を祈ったそうである。これにちなんで、大入島ではトンド火まつりが現在でも毎年1月に行われている。 
大入島を出た後は浦戸崎、観音崎を迂回する必要があり次の寄港地は津久見であろう。 
17.津久見
神武天皇が東征のおり、一行が船団を保戸島につけて、津久見湾に船を入れ、徳浦と青江の間にある水晶山に登ったさい、地元民がミカンを献上したという。このため皇登(こうのぼり)山という別名もある。大入島を出た一行は14kmほどで保戸島につく、ここから14kmほどで津久見である。 
18.佐賀関
津久見を出航した日の夕方、狭野命一行は佐賀関に達した。海上20kmほどなので、1日で行けると思われる。佐賀関で、珍彦(うずひこ)に出会った。珍彦は彦火火出見尊の御子と伝えられている。佐野命は珍彦を水先案内人として向かい入れた。狭野命は珍彦に椎根津彦という名を与えた。狭野命は椎根津彦の案内で速吸の門(豊予海峡)を通過して、佐賀関町大字関字須賀の日向泊に着岸した。佐賀関半島を迂回するのに10kmほどなので、半日ほどであろう。
狭野命が珍彦と出会ったのはどこであろうか、日本書紀では「曲浦(うらわ・佐賀関)で釣りをしていたところ、船団が見えたので、迎えに来た」と珍彦が言っている。このことより、狭野命が海岸伝いに佐賀関に着こうとした直前のようである。佐賀関は半島部の付け根が細くなっており、その南側が漁港、北側が佐賀関港である。狭野命は南側の漁港周辺で珍彦に出会ったのであろう。半島の北側に出るには、流れが速い海の難所である。速吸の門を通過しなければならず、危険が予想されるため、水先案内人の珍彦を向かい入れたものであろう。佐賀関の下浦に椎根津彦神社があり、御神体は椎根津彦が使っていた船具と言われている。
この早吸の水門を通過する際、潮の流れを静めるために黒砂(いさご)、真砂(まさご)という2人の海女の姉妹が海中にもぐって、大蛸が守護するその昔イザナギ命が落としたという神剣を蛸より受け取って天皇に献じた。これによって天皇は無事早吸の水門を渡ることができたという。
その神剣を御神体として、天皇御自から祓戸の神々を早吸の神として奉斎し、建国の大請願をたてられたのが早吸日女神社の創祀である。黒砂、真砂の二神は若御子社として境内に祀られている。 
19.碇山
佐賀関を出港した佐野命一行は23km程西へ行ったところにある大分市の碇山に到着した。現在は標高56mの小山であるが、当時は碇島という島であった。神武天皇の御座船が碇島に碇を打って停泊したと言われている。山頂には熊野神社がある。次の日はおそらく別府市で、その次の日が守江港であろうと思われるが、伝承は全く残っていない。この近くに王子という地名あり。狭野命寄港地と推定。 
20.柁鼻神社
椎根津彦命に先導された神武天皇一行は柁鼻の地に上陸されたといわれている。守江港より20kmほど進むと国東港(国東市)がある。国東港より25kmほど進むと竹田津港に着く。竹田津港から柁鼻神社まで24kmほどである。これらはいずれも停泊には適している港であり、狭野命一行は佐賀関→守江港→国東港→竹田津港→柁鼻神社の経路で国東半島を迂回したと推定する。
国東半島を迂回した狭野命一行は寄藻川河口から川沿いに奥へ入り、宇佐市和気にある柁鼻神社の地に上陸した。
宇佐神宮より1kmほど下流に宇佐神宮末社の椎宮神社がある。この地に椎根津彦命が上陸したという伝承があり、佐野命が柁鼻神社の地に滞在している時、椎根津彦がここに上陸し宇佐神宮の地にいた菟狭津彦、菟狭津姫と交渉したと思われる。 
21.宇佐
宇佐神宮背後の御許山に比売大神(イチキシマヒメ)が降臨し、菟狭津彦はその子であると伝えられている。また、タカミムスビの子天活玉命の子孫と伝えられている。年代から考えると、タカミムスビはムカツヒメと同世代なので、天活玉命がウガヤフキアエズと同世代になる。菟狭津彦は狭野命と同世代であると考えられるので、菟狭津彦の父が天活玉命、母がイチキシマヒメとなる。この地はスサノオが九州統一の拠点としたところで、スサノオが去った後タカミムスビが支配していた。イチキシマヒメは安心院の三女神神社の地でAD20年ごろ誕生しており、AD30年ごろには御許山を越えて宇佐の地に移動したものであろう。菟狭津彦もAD40年ごろには誕生しているのであろう。
狭野命が立ち寄ったAD79年頃は菟狭津彦がこの地方を治めていた。その本拠地は宇佐神宮の地であろう。菟狭津彦は狭野命を受け入れた。狭野命はしばらく宇佐神宮の地に滞在した。一行はこの地で休息と共に船の修繕をしたものであろう。
菟狭津彦はこの間に駅館川(菟狭川)流域の拝田の地に一柱騰宮を建てて狭野命一行を歓待する準備を始めていた。 
22.安心院
一柱騰宮が完成したので菟狭津彦は拝田に狭野命を招き入れることにした。狭野命は船で駅館川を遡り、拝田の一柱騰宮についた。ここで菟狭津彦の歓待を受けた。狭野命は大変歓び、菟狭津彦の妹の菟狭津媛を重臣の天種子命の妃として娶わせた。人々は大変喜んだことであろう。
一柱騰宮伝説の候補地は拝田以外にも、三女神神社、妻垣、宇佐神宮に存在しているが、菟狭川流域であることで三女神神社と妻垣、拝田がのこる。三女神神社と妻垣はいずれもスサノオ・ムカツヒメの聖地であり、東遷途中の狭野命が立ち寄ったと云う伝承がある。この伝承と一柱騰宮の伝承が重なったものと判断している。残るは拝田のみである。宇佐神宮の地に菟狭津彦が滞在していたわけであるから、一柱騰宮はそこからあまり離れていないと考えられ、拝田が最有力となる。
狭野命は拝田で菟狭津彦から歓待を受けた後、スサノオ・ムカツヒメの聖地である安心院へ向かったと考えられる。安心院の伝承によると、神武天皇は三女神神社の前の川岸に船を着けたと云われており、狭野命はここまで船で駅館川を遡ってやってきたものと考えられる。
三女神神社、妻垣の地を訪問した後、宇佐に別れを告げ出航したものと考えられる。宇佐から多くの人々が皇軍に参加したとも言われている。 
23.国玉神社
宇佐を出航した一行は20kmほど海上を航行した後、現在の中津市(山国川河口付近)に着岸した。ここから、佐井川そして、その支流岩岳川に沿って遡り、求菩提山の山頂に登り、天神地祇を祀った。
求菩提山の山頂にある国玉神社に「神武天皇東征ましまさんとして、先ず筑紫を平らげ給ふ時、この山にて天神地祇を祭り給ひし所にして、その地を人皇が嶽と号す。蓋し天皇の龍駕し奉る地なるが故御尊号を称し奉りたる可し。」と記録されている。
狭野命が求菩提山に登った目的は何であろうか。河口から山頂まで20kmほどあり、往復で4日ほどはかかったと思われ、わざわざこの山に登って祈願するにはよほどの理由があったと思われる。
この頃北九州(筑紫)地方は文化の最先端地であり、日本国と倭国の合併後、海外の先進技術を取り入れる先端地であり、また、大和へ向かったマレビトの旧地でもあるという場所である。大和朝廷成立後に最も重要視されるべき所となるので、狭野命にとって大和朝廷成立後の協力体制を固めておく必要が是非とも必要である。古事記・日本書紀には記録されていないが、狭野命はこの後、北九州地方を巡回している。その成功を祈って、筑紫がよく見える求菩提山の山頂で筑紫の山々を見ながら筑紫巡幸の成功を祈って祈願したものではあるまいか。国玉神社はその聖地であろう。
国玉神社の地から英彦山まで尾根筋をたどって10kmほどで達することができる。当初、狭野命はここから筑紫に入ったものと考えたが、次の簑島に神武天皇滞在伝承地があった。 
24.簑島
簑島神社の伝承に「天皇筑紫日向国より豊州簑島に入り給ふや、是に天照大神を斎ひ祭りぬ。後島民其の行在所に一祠を建て天皇を奉祀せり。」とある。中津から海上20kmほどなので、中津を出航した日の夕方簑島に着岸し天照大神を祀ったものと考えられる。
ここからの経路であるが、次の神社の伝承より判断したいと思う。
撃皷神社・・・「天皇、中州に遷らんと欲し日向より発向し給ふ。(中略)陸路将に筑紫に赴がんとし玉ふ時、馬見物部の裔駒主命眷族を率ゐ、田川吾勝野に向へて足白の駿馬を献じ、奏して曰く、是より西の国応じ導き奉るべし、宜しく先ず着向すべし」
射手引神社・・・「筑紫鎌の南端、豊前田川に接する地を山田の庄といふ。庄の東北に山あり帝王山と云ふ。斯く云ふ所以は、昔神武天皇東征の時、豊前宇佐島より阿柯小重に出でて天祖吾勝尊を兄弟山の中腹に祭りて、西方に国を覓(もと)め給はんと出御し給ふ時、この山路を巡幸し給ふ故に此の名あるなり。」
ここにいう阿柯小重とは赤村の我鹿のことであり、これらの伝承より、ここまで陸路を通ったと判断される。
蓑島から今川に沿って遡ると赤村(我鹿)を経由して英彦山まで達する。ここで、一行は二手に分かれ、船団は関門海峡を通過して岡田宮を建て、佐野命自身は何名かを引きつれ蓑島から今川を遡り赤村方面に進んだものと考えられる。 
25.関門海峡通過
簑島を出航した一行はそのまま関門海峡を通過するには潮待ちの時間も必要であるし、その前日はその入口に着岸したと考えられる。伝承は残っていないようであるが、関門海峡入口の田之浦あたりに着岸したのではあるまいか。ここまで、簑島から26km程である。 
26.岡田宮到着
北九州での最初の滞在地(岡田宮)は経路から判断して北九州市八幡西区黒崎の岡田神社の地と推定される。田之浦からここまで、32kmほどあるが、関門海峡の潮の流れは速く潮に乗れば一挙に距離を稼げるであろう。関門海峡を抜けた一行は、洞海湾に入り込み当時海岸であった黒崎の地に着岸し、そこに北九州巡幸の拠点となる宮を建てたものであろう。美々津出航後滞在日数を除き約1ヶ月(30日)程の航海であったと思われる。日本書紀では11月9日に到着したとある。日本書紀では10月に美々津を出航したことになっており、岡田宮まで1ヶ月を要しているが、この頃の1ヶ月は15日なので、約15日航海したことになる。しかし、宇佐で少なくとも一柱騰宮が完成するまでは滞在したはずであり、かなりの日数を費やしていると思われる。また、嵐の日には出航を見合わせているであろうから、少なくとも50日以上は経過しているのではないだろうか。その点を考慮すると、美々津8月1日出航、岡田宮11月9日到着(約50日)が妥当のように見える。
波見港・美々津間日程推理 ここで云う1ヶ月は15日ほど
波見港出航  AD78年後半3月10日
   ↓ 1日
  夏井   数日滞在
   ↓ 半日
  串間   王の山参拝
   ↓ 2日
  油津港  吾平津姫との別れ・数日滞在
   ↓ 3日
  皇宮屋  都城近辺あいさつ回り・2ヶ月程滞在 5月ごろ出航?
   ↓ 1日
  下富田神社 佐野原・西都周辺挨拶回り・数日滞在
   ↓ 1日
  鵜戸神社
   ↓ 1日
  甘漬神社  祭祀・矢研滝訪問・数日滞在
   ↓ 半日
  都農神社 祭祀・暴徒鎮圧
   ↓ 1日
  美々津 船の修繕・航海技術訓練 2・3ヶ月滞在 AD78年後半8月1日出航
   ↓ 1日
  鉾島 米山・大御神社訪問 数日滞在
   ↓ 1日
  櫛津 潮待
   ↓ 1日
  五ヶ瀬川河口
   ↓ 3日
  細野浦 嵐に遭い退避、数日滞在
   ↓ 1日
  米水津  居立の湧水
   ↓ 1日
  大入島 神の井
   ↓ 1日
  保戸島
   ↓ 1日
  津久見 水晶山登山 数日滞在
   ↓ 1日
  佐賀関漁港 椎根津彦と出会う   AD78年後半9月1日頃と思われる
   ↓ 1日 速吸の関通過
  佐賀関港 
   ↓ 5日
  柁鼻神社
   ↓ 1日
  宇佐 数日滞在
   ↓ 半日
  拝田 一柱騰宮で歓待を受ける  AD78年後半10月頃と思われる
   ↓ 1日
  安心院 三女神神社・妻垣で祭祀。数日滞在
   ↓ 2日
  中津 国玉神社で祭祀、少なくとも4日は滞在 AD78年11月1日頃
   ↓ 1日
  簑島 天照大神を祭祀、狭野命はここから今川を遡り、船団は関門海峡を越える
   ↓ 2日 関門海峡通過
  岡田宮 A78年後半11月9日到着 
北九州での神武天皇の痕跡

 

北九州地方(福岡県)には神武天皇関連の伝承地が数多い。しかし、古事記・日本書紀には、その伝承は全く記載されていない。岡田宮に滞在したと記録されているのみである。北九州地方は大和朝廷成立後海外との交流の拠点となり、また、大和に多くの人々がマレビトとして行っているので、この地方の豪族の協力を得られないと大和朝廷の運営は失敗するのは明らかである。何としても豪族たちの協力を得ておかなければならず、北九州各地を訪問しているのは当然と言える。
神武天皇が北九州を巡幸しているのは、大和朝廷成立後の体制維持のため各豪族から協力を得るためと考えられる。しかし、神武天皇巡幸地は遠賀川流域から博多周辺の狭い流域に限られており、糸島地方、筑後川流域、佐賀、長崎、壱岐、対馬、伽耶(朝鮮半島)なども重要地のはずであるが、神武天皇巡回伝承がない。『新撰姓氏録』が新羅の祖は稲飯命(神武天皇の兄)だとしているが、稲飯命は、『古事記』においては母の国の海原へ行ったとされ、また『日本書紀』においては神武東征の際に嵐を鎮めるため海に入水したとされる。稲飯命と新羅の関連が認められ、稲飯命が壱岐、対馬、朝鮮半島巡幸をしている可能性が考えられる。
美々津から岡田宮までの航海伝承に神武天皇以外の兄弟(五瀬命、稲飯命、御毛沼命)の行動伝承は見当たらない。彼らは神武天皇と行動を共にしていたのであろうか。
神武天皇の未巡幸地はこれら兄弟が巡幸したのではないかと考えている。各兄弟の巡幸地を推定すると、高千穂に御毛沼命の伝承が見られること、高千穂を流れる川が五ヶ瀬川であること等から判断して、五ヶ瀬川河口で停泊した時、五瀬命、御毛沼命は五ヶ瀬川を遡り、高千穂、阿蘇盆地、筑後川流域、佐賀、長崎地方の巡幸をしたものと考える。また、稲飯命は蓑島から神武天皇が今川を遡ったとき、船団を率いて関門海峡を通過し、岡田宮を建て、糸島地方、壱岐、対馬、朝鮮半島を巡幸したのではあるまいか。伝承がほとんど残っていないので、確証はないのであるが、そのように考えるとこの矛盾点は解消する。
ここでは、北九州の神武天皇関連伝承を探りながら、天皇の行動を調査してみることにする。参考文献福岡県「神武天皇と北九州」より 
1.京都郡油須原
神武天皇が通過したと伝える。<高千穂問題と神武天皇聖蹟より> 
2.英彦山
この山は天忍穂耳命が降臨された霊山で北九州地方全域を一望することができる。神武天皇が日向に都している頃、天村雲命に勅してこの山に遣わされ天忍穂耳命を祭らせ給ふ。天皇は山頂で筑紫の地勢をみそなはし、それから川に沿ふて田川郡に下られた。
昔、大国主命が、宗像三神をつれて出雲の国から英彦山北岳にやって来た。頂上から四方を見渡すと、土地は大変こえて農業をするのに適している。早速、作業にかかり馬把を作って原野をひらき田畑にし、山の南から流れ出る水が落ち合っている所の水を引いて田にそそいだ。二つの川が合流する所を二又といい、その周辺を落合といった。大国主命は更に田を広げたので、その下流を増田(桝田)といい、更に下流を副田(添田)といい、この川の流域は更に開けていき、田川と呼ぶようになったという。
ところがその後、天忍骨尊(吾勝命)が英彦山に天降って来たので、大国主命は北岳を天忍骨尊に譲った。天忍骨尊は、八角の三尺六寸の水晶石の上に天降って鎮座し、尊が天照大神の御子であるので、この山を「日子の山」から後に、「彦山」と呼ぶようになった。
後世の10代崇神天皇のとき、水晶石が光を発し、遠く大和の天皇の宮殿まで照した。天皇はこれを何事だろうと怪しんで勅使を派遣して調べさせた。勅使は光を発する場所を探して彦山までたどりつき、白幣を捧げて祭ったといわれる。
神様が山の頂きに天降る話は各所にあるが、天忍骨尊は添田町内の岩石山にも天降っている。宗像三神は、宗像郡宗像神社の御祭神であるが、「日本書紀」には、宇佐(大分県)に天降ったと書いており、田川郡金田町では嘉穂郡頴田町との境にある日王山(日尾山)に、宇佐から宗像に向う途中天降り母神天照大神を祭ったという話がある。
今の赤村と津野一帯を昔は吾勝野と呼んでいたという。その由来は、吾勝尊(天忍骨尊)が岩石山に天降ったことから、岩石山は吾勝野と呼ばれていたし、その東側の今川流域は吾勝野の名であったという。それが、景行天皇が熊襲を討つときこの山頂に登り、神々を祭って東側を見下し、「この山麓は豊かな土地であるが、南北に連なって細長いので二つの村にしたがよい」との言葉からアカツノが分かれてアカ村とツノ村になったという。<添田町HPより>
宗像三女神はAD20年頃安心院の三女神神社の地で誕生している。また、大国主命は25年頃第二代倭国王に就任している。大国主命はその後倭国内を巡幸しているようで、北九州にやってきたのはAD28年ごろであろう。ムカツヒメから三女神の扱いを頼まれたものであろう。忍穂耳命がこの地方に降臨したのは、AD30年頃で大国主命がこの地にやってきた数年後であろう。大国主と三女神宇佐から此処にやってきたのであり、三女伸はこの後、海神族に嫁いで斎主として活躍し、倭国が北九州一帯の海上交通の実権を握ることに貢献したと考えられる。 
3.田川市の伝承
川崎町帝階八幡神社御由緒
神日本磐余彦命(神武天皇)が日本巡狩の時、此川(川崎の地)に住まい、猪を狩猟した。これにちなんで猪膝、猪尻(井尻)、猪鼻などの地名になった。神日本磐余彦命は父母や祖父母神兄弟神を迎えて川崎に居を営み、この川を「高日ア早日川」といい、後世の川崎の地名になった。 
2.厳島神社・牧野神社
天皇陸路筑紫に御行幸ならせらるるとて。豊の上毛の蜘蛛手山を経て、田河邊より方に此処の御山を越え給はむとする時、御山自然に鳴動して風雨俄かに起り、多くの軍卒容易く越ゆべくもあらざれば、天皇甚だ驚き怪しみ思召すの時、身に藁蓑を着し頭に柴を翳し怖づ怖づながら寄来る翁あり。奏上して曰く、此の御山は昔比賣神まして、豊国宇佐島より宗像の沖合に鎮まり賜ひき。此の如き畏き御山なれば、漸く乗越え給はむこと禮なき事なりと、必ず比賣神の咎めたまふことにこそあるらめと奏し給ひき。時に天皇其の言の理あるを甚嘉したまひて詔はく、汝能く我が為に導せむやと宣せ給ひければ、翁畏み奉りて導ましき、天皇忽ち登山ましまして、先づ比賣神を厚く祭りたまひぬれば、神験立所に顕はれ、雨風止みて御山自ら静かになりぬ。天皇深く神徳の厳著なるを感喜ましまして、四方晴るるまにまに遠方近方を見晴らしましまし給ふ折柄、目近き戌亥の裾野に當りて、夥多なる馬の群立ち騒ぐ聲を聞召されて、仇や寄すらんと甚く驚き給ふ時に、翁又進み出て奏上なしけらく彼こそは吾村の放馬なれ、御覧じ給はんや、御覧じ玉ひて若し御心に叶ひ玉はむには必ず獻らむと奏しければ、天皇殊更に喜びましまして出給ふ時、如何なしけん足白の駿馬足鍬を附けしまま騒立ち、南を指して駆け出しぬ。故是に因りて此村を號けて鹿毛馬と云ふ。蓋し「馳け馬」ならん。或は云ふ其馬鹿毛なりしと。されば為すべき術なきまま、翁先立ちて彼是と撰み奉らんとする時、遥かに嘶く聲いかにも勇ましく聞こえぬれば、是れ好けむと引出して獻りぬ。天皇甚く笑み給ひて、是は却々に初めの馬にも勝りて宜しと宜ひ給ひて、直ちに乗らし鞭あてて駈出し給へば、如何なればか其馬も亦、南の高根を目懸けて駈け行きぬ。斯くして漸くに其高根の麓に到り給ひぬれば、奇しきかも先の馬甚だ疲れし状にて草喰ひて居ぬ。時に天皇其状を遥かに御覧じて、馬見ゆと詔り給ひき故是を以て此処を號けて馬見といふ。此処をも亦出御ましまして、此山本に沿ひて米の山越えより、遂に筑紫の岡田宮に到り給ひて一年ましましぬ。かかる尊き事の跡とめて、此の山の根に瑞宮建て、比賣神と共に天照らす御祖の神を斎祀りき。故其牧野尾に、狭野命と、豊宇気大山積の牧野尾神社と崇め奉りき。初め天皇寄り来らしし時に馬鍬掛けながら足白の馬の馳け出しこと是恐く外由もなかるべし、一向に使ひ疲らし為にかかりしならん。宜しく今より後五月朔日より七日まで休息させよと詔給ひき。<高千穂問題と神武天皇聖蹟>
神武天皇御幼名狭野命と申奉る時筑紫を回り給ふとて豊前国より此村に移給ふ馬牧より足毛の馬を奉り其馬に乗せ給ひ嘉穂郡馬見村へ出給ふ迄老翁見送り奉るより当村駈馬村へ出給ふ村称の起源也<福岡県神社誌>
ここでいう蜘蛛手山は求菩提山で、厳島神社のある山は目尾山で現在の鳥尾峠である。現在の鹿毛馬の厳島神社は昔山上にあったと云われている。
頴田村、今カヒをカウと訛る。此の村に鹿毛馬と呼ぶ牧場址ありて牧野明神と名くる祠あり。この牧場址は今林野薮沢の閑地なれども、中に田畝もあり泉地もあり。長六町余横三四町、境線曲折あれど、其境線は全く石築して之を囲む。所謂神籠石の状あり、土俗牧之石と呼ぶ、按ずるに、牧は我古言馬城にて、牧馬の場をば、石を塁ね垣となし城郭の姿ありしを知る。<地名辞書より>  
4.撃皷神社
「天皇、中州に遷らんと欲し日向より発向し給ふ。(中略)陸路将に筑紫に赴がんとし玉ふ時、馬見物部の裔駒主命眷族を率ゐ、田川吾勝野に向へて足白の駿馬を献じ、奏して曰く、是より西の国応じ導き奉るべし、宜しく先ず着向すべし」
「皇軍玆に至る時突如として馬進まず、天皇八田彦に異心あるに非ずやと詰問し彼の奏言により、当(白旗山)山頂の天照大神を祀る、大神託宣して曰く、筑紫国を綏撫静謐せしめて然る後発途せよ然らずんば後に内訌の虞あらんと教へらる」 
5.射手引神社
「筑紫鎌の南端、豊前田川に接する地を山田の庄といふ。庄の東北に山あり帝王山と云ふ。斯く云ふ所以は、昔神武天皇東征の時、豊前宇佐島より阿柯小重に出でて天祖吾勝尊を兄弟山の中腹に祭りて、西方に国を覓(もと)め給はんと出御し給ふ時、この山路を巡幸し給ふ故に此の名あるなり。神武山」
ここで云う阿柯小重は我鹿(赤村)の旧名であると思われる。
田川郡に入り、田川の地をしろし召した天皇は、駒主命を道案内として、帝王越を経て嘉穂郡の地に入らせられ、夢に手力雄命の神霊を受け給ひ、猪位金村の一端、兄弟山に登って天祖の御霊を祭られたが、その神跡を帝王山といひ伝へている。天皇はここで、嘉麻(鎌)の天地をみそなはし、進んで小野谷の里(宮野村)に成らせられ、ここの岩山に高木の神を祭られた。
赤村は吾勝野とも呼ばれその昔、天忍穂耳命がタカミムスビの娘と結婚し、この地で、田川郡一帯を統治していた。その跡地を佐野命は訪問しているのである。比較的簡単に豪族たちの協力が得られたものと判断する。 
6.高木神社
「神産霊大神は神武天皇東征の時、宇佐島より田河邊を経て筑紫の国の岡田宮に出御の途次、山田邑の山路より此の村を過ぎ給ひで躬親ら斎き給ふ所の神なり、因りて此の山を号して神武山と云ふ。今神山と云ふは略称なり。」 
7.天降八所神社縁起
「馬見山の北麓、山澤四周して未だ開けず、道路泥濘にして歩行困難、人馬漸く疲れて進むこと能わず、天皇之を憂ひ給、教導駒主命に勅して曰く、前途悠遠、然るに人馬卒の疲労今既に此の如く甚だし、今転ずる道ある可きや
駒主命は道を変へ、宗像三女神の霊蹟を目指し、目尾峠へと迂回して、目尾の神峰にある強石明神を祭らせられた。此の時、駒主命が、一頭の駿馬を献じようとし、牧司に命じて之を御前に捧げやうとした際、馬は驚いて高く嘶き、一散にして駆け出して深山に飛び込んだので、牧司は後を追ふて曳き帰ったといふが、その駆け出したところを駆の馬といひ、馬の駆け込んだ山を馬見山といひ、献上した駿馬が鹿毛であったところからこの駈の馬は鹿毛馬ともいひ伝えて居ります。此の付近一帯は宗像三女神の霊蹟である。
天皇が目尾山にまします時、雲の間から一羽の霊鳥が飛んできて大きい松の梢にとまり、伊邪佐々々と三声啼き、静々と西南に飛び去らうとしたので、天皇が仰せられるにはこれは神の使いだ、よろしく尾行すべしと命ぜられたので、皇軍は活気付いて進行しましたが、その霊鳥のとどまったところを、後に鳥居又は鳥尾といひ、その霊鳥を祀って鳥尾大明神と崇め祀り、之を鳥野神と申し上げる。」
「天皇がここから西南に進まれるうち、俄かに御気分がお悪くなられたので、侍臣の種子命は、丘の上の杉の古木の下に天皇を休み奉り、椎根津彦と共に、杉の神木に天祖の御神霊を請ひ、熱心にお祈り奉ったところ、直ちに御気分が健やかに爽やかにならせられたので、その杉を魂杉といひ、ここに、天皇と二人の侍臣とを併せ祀って魂杉大明神と申し上げたといふことです。この御休養、御祈願の丘が天降八所神社の神地で、今の佐与という神社の所在地名は、天皇が、御会話中に「左様か・・・」と仰せられたことに起因するといひ伝えてゐます。」 
8.皇祖神社社伝
「神武天皇都を中州に定めんと欲し、出発の時、駒主命を鷹羽の吾勝野に得て、収めて先導となし、筑紫国に幸す。馬見山より国を覓め行き、去りて目尾山に至り即ち西す。山澤淤泥の難路を跋渉して、漸く沼田(鯰田)に達する時、駒主命進んで奏して曰く、彼の雲間に崛起するものは即ち竈門の霊峰なりと、天皇これを聞食し、諸皇子と皆蹕を丘上に駐め、躬親ら竈門の神霊を祭らる。
沼田の丘を発し、立岩付近に達せし頃、忽然として、風雨頻に起こり、山岳振動して天地海灌咫尺を弁ぜず、皇軍頗る悩む。」
勝負坂・・当社の少し先に勝負坂と云うあり、神武天皇賊軍に勝たまひし所といふ伝説あり 
9.熊野神社社伝
「立岩の前面を眺めしに、土地淤泥にして、而も大河横に流れ、舟なくしては容易に渡るを得ず、唯呆然として猶豫す。折柄八田彦と称する一魁首、衆卒を率ゐて車駕を迎へ、自ら進みて河の瀬踏みを為し、且つ、携へたる鉾を河中に突立て浅瀬の標とし、以て皇車の渡るを促す、?に於て一同始めて感喜安堵の念を為し、徐ろに其の河を渡り、上下恙なく彼岸に著することを得たり」 
「神武天皇御東征の砌雷雨俄に起り山嶽鳴動天地咫尺を弁ぜず。時に巨岩疾風の如く飛来して此の山頂に落下す。其状恰も屏風を立てたるが如し。雷光林々の中岩上に神現れて曰く。我は天之岩戸神、名を手刀男神と言ふ。此の処に自ら住める悪鬼あり、其状熊に似て熊に非ず。蜘蛛に似て差に非ず。手足八ツありて神通力自在空中を飛行して其妙術は風を起し雨を降らす彼今怪力を恃みて恣に天皇を惑わさんとす。最も憎む可きなり。我巨岩を擲て其賊を誅す。自今吾が和魂は此の岩上に留つて筑紫の守護神たらん。又荒魂は天皇の御前に立ちて玉体を守護すべきなり。此処に天皇駒主命をして厚く祭らせ給ふ」
立岩の前面を眺めしに、土地淤泥にして、而も大河横に流れ、舟なくしては容易に渡るを得ず、唯唖然として猶豫す。折柄八田彦と称する一魁首、衆卒を率ゐて車駕を迎へ、自ら進みて河の瀬踏みを為し、且つ、携へたる鉾を河中に突立て浅瀬の標とし、以て皇軍の渡るを促す、玆に於いて一同始めて感喜安堵の念を為し、徐ろに其の河を渡り、上下恙なく彼岸に著することを得たり。
天皇は八田彦の案内で遠賀川を渡り、片島の里に上陸した。この付近に王渡、徒歩渡、鉾の本、勝負坂等の地名が残されている。 
10.伊岐須神社
「天皇駐驛し、天照大神及び素戔嗚尊を祀り玉ふ依て邑叉山を神武と云ふ。」 
11.若宮八幡宮縁起
「天皇、この邊すべて水泥相混じて土地未だ凝結せず、天皇漸く此の地に達し、暫く御蹕を駐め給ふて宣はく、此の土堅き事岩の如し宜しく今より加多之萬となづくべし。また、宣はく、水泥相混すれば即ち田畠開けず、以後此処に水土の神を祭りて、宜しく其の擁護を祈るべしと、星即ち片島明神、貴船明神の起因なり。」
天皇は地盤の固い片島の地にお上りになって、直ちに付近の丘に登られ、ここで改めて天祖の御霊を祭られました。ここを壇の上といひ、その御祭祀の所を嚢祖の杜といひ、嚢の御先祖を祭られた跡に納祖神社が祭られている。 
12.物部旧跡地
この近辺(白旗山、笠木山山麓)は饒速日尊がマレビトとして大和に率いた人々の旧跡地であり、大歳命に対する信仰の篤い地域である。磯光、剣、王子、熱田、初子、太祖、羽高の地は、天神本紀にみえる二田、十市、弦田、贄田の物部の出身地である。これらの地(天照神社、笠木山等)で、神武天皇は天祖(饒速日尊)を祭ったと言われている。
この地域は大歳命が統一した地域で大歳命(饒速日尊)に対する信仰心が篤い。饒速日尊は大和降臨の時、此の地の人々をマレビトとして大和に率いていったのである。狭野命は饒速日尊を祭る事によりこれらの人々の協力を得たものと考えられる。 
13.高宮八幡宮縁起
「西街道椿庄伊岐須郷は神武天皇駐蹕の名所なり、故に往古邑又は山を称して神武と云う。時に大屋毘古の裔八田彦、多く属類を率ゐて奉迎す、天皇の其の言を用いて暫く蹕を渓間の小山に駐め、天照大神を東北岩戸山に祭る、また、小石をこの山の頂に衛立て天津御璽を見たてて、素戔嗚尊を祭る、是即ち邑又は山を神武邑、神武山といふ由緒なり。」 
14.寶満神社縁起
「天皇は八田彦の案内で、潤野の地に進まれ、改めて天祖の御霊をお祭りになったが、その御霊跡は姿見といひ、日の原ともいふ」「天照大神九州平定後東征すべしと託宣し玉ふ」 
15.高祖神社縁起 
「天皇は高田に進み給ひ、八田彦の伴った田中熊別に迎えさせられ、根智山の賊打猿といふものを征服するため、高田の丘から熊別と椎根津彦に討伐の命令を御下しになりました。この霊跡に神武天皇と玉依姫を併せ祀ったのが高祖神社である。」 
16.高田神宮皇祖廟縁起
「玉依姫尊と神武天皇とを祀る、大山祇命裔田中熊別、天皇を奉迎す。」「熊別稽首禮足虔んで奏して曰く、願わくば天皇暫く龍蹕を臣が茅屋に駐めて之を待て、臣椎根津彦を随へ必ず之を誅せしめん」
椎根津彦が総大将となり、内野の川上で賊軍を打ち破り、皇軍は是を追撃した。その勝報が高田丘に伝わったので、天皇は進んで山口に移られた。その間に打猿は捕らえられて遂に斬首された。この誅戮の地を打首といい、今訛って牛頸という、と伝えられている。 
17.竈門山
御祭神は神武天皇の御聖母玉依姫命であります。命は、海神の女で鵜・草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の妃となり五瀬命・神武天皇等四柱の御子を産まれた後御子の教養と建国の大業に心をくだきこの竃門山に登られて祈念されたと伝えられる。
神武天皇皇都を中州に定めんと途に上らせ給うに及び天皇は諸皇子と共にこの山に登り給ひて、躬親から胸鏡を榊の枝に取り掛け巌の太玉串を刺立て建国の大偉業を告申して御加護を御祈り給ひぬ。 
18.筑紫郡大野の伝承
天皇は大野の邑に赴かれ、ここの田中の庄で、邑長荒木武彦の奉迎を受けさせられ、ここで、筑紫郡の諸豪族を御綏撫の上、武彦の御案内で、宇美にお進みになられ、同時に四王子山(大城山)に使いを立てられ、山上に武甕槌尊を祭って王城の鎮守とされた。 
19.蚊田の里(宇美八幡宮)
「上古は蚊田と云ひしが、神功皇后王子を産み給ひしより宇彌と云ふ。古へ宇眉と作り、今は宇美の字を用ゆ。」・・風土記拾遺
この宮の神官は、荒木武彦の後裔、荒木島主の後胤でありまして、代々神武(こうたけ)の姓を名乗り、此の宇美の地には、荒木とか、神武原とかの地名もあり、古い書物にフミ田とよばれている。フミ田は蚊田と連絡があり、魏志倭人伝の不彌国と思われる。
永く宇美の地にましました天皇は、博多湾を指呼されながら若杉山で天祖の御霊をお祭りになり、中部糟屋を御巡視になり、しだいに御下りになって箱崎の地に成らせられ、筥崎八幡宮の處女躅跡を御印に成り、陸の住吉宮と、海の志賀神社を両翼とする大綿津見の海神族をみそなわした後、道を席内村に採られた。 
20.糸島の伝承 
芥屋の大門・・神武天皇が禊をしたと伝えられている
可也山・・神武天皇がよく登り国見をしたと伝えられている。山頂に神武天皇を祀った可也山神社がある。
日向峠・・神武天皇が通過したという伝承あり 
21.若杉山
太祖宮 祭神 伊奘諾尊若杉山山頂に鎮座し創建年代は不詳 
この神社を創建したのは神武天皇と考えられる。 
22.箱崎宮
幾つかの石鳥居を通して志賀島が先端をのぞかせる。丁度、金印の出土地を指している。創祀は不明であるが、金印が埋納されたのはこの頃と考えているので、この神社の創建は神武天皇と考えられる。 
23.鷺白山 熊野神社 福岡県古賀市大字筵内1575
神武帝が東遷のおり御船を海浜につなぎ、この山上の石に腰掛け四辺を展望されたことから「御腰掛石」が残っており、大小二石あることから「夫婦石」とも呼ばれている。田中熊別がここまで従軍申し上げて、老齢の故を以ってお別れを告げた。天皇は恩賞としてお手づから柳の木を折って、杖を賜った。 
24.宗像大社 
宗像大社の社伝では、宗像から湍津姫命が宇佐へ、市杵島姫命が厳島に遷座したとあるが、宇佐氏の伝承では三女神は宇佐から厳島へ遷座し、そこから宗像へ遷座したのだという。
糟屋から宗像に進まれた天皇は内殿の王子神社で天神を祀られた。 
25.神武神社 福間町大字津丸字裏谷
神武天皇が東征の折、この地にしばらく鳳輦を駐め給う。その陣跡に社を建立す。 
26.赤間
赤間の由来は、神武天皇が東征の折、岡湊に着いた時、吉武地区の吉留にある 八所宮の神が赤馬に乗って神武天皇を迎えた事から「赤馬」と名付けられ、それが転じて「赤間」となった。神武天皇が日向国から大和国に東征する途中、現在の 遠賀郡付近を通った折、祭神達が赤馬に乗って現れ、 人民を指揮し皇軍に従い、永く赤間の地の守護神であることを誓ったとされる。 
27.惣社宮 福岡県中間市中尾1丁目4−3
御祭神 大己貴大神 稻田姫命 素盞嗚命 天照大神
神武天皇岡水門に行幸の時、祀ったと云われている。主祭神の大己貴大神であるが、地域性と神武天皇の他での祭祀状況からこの神は饒速日尊ではないかと考えられる。 
28.一宮神社 福岡県北九州市八幡西区山寺町12-36
元王子神社  古事記によれば神武天皇が豊前の宇佐から筑前の岡田の宮においでになり一年の間この所にとどまられ軍務を見られ所謂御宮居の地である。天皇御親ら祓いをされ地主の神をまつられたという礫をしきつめた社祠の跡が今も残って居る。この形式の遺跡は全国でも極めて数少ないもので、考古学的にも貴重な資料であり本社が如何に古代からの社であったかを物語るものである。
昔は稀に見る大社であったが残念なことには、大友氏の兵火により焼失した。規模の宏壯であったことは数々の文献や遺跡より明らかである。 
29.岡田神社 福岡県北九州市八幡西区岡田町1-46
古代洞海、菊竹ノ浜(貞元)に熊族が祖神を奉斉した地主神で岡田ノ宮と称す。神武天皇、日向国より東征の途次本宮に詣り天地神祇(八所神)を親祭し、ここに一年留まり給ふ由「古事記」にあり、この処を熊手と号す。神功皇后、三韓征伐の折りに熊手出岬(皇后崎)に到り、当宮に詣り八所神を親祭す 
30.神武天皇社 
岡田宮跡と伝えている。  
北九州における佐野命の行動推定
蓑島にて
当時北九州地方は海外交易の玄関口であり、大和に入った物部一族の旧跡地でもある重要地である。佐野命が大和に入るには物部一族の協力は欠かせず、また、大和朝廷成立後の朝廷'の運営にも北九州地方は重要拠点となる。実際大和朝廷が成立したと思われる弥生時代後期中頃以降、北九州主要部には畿内系土器が集中出土するようになる。これは、連続的な変化であり、以前の状況との断絶が見られないことから、朝廷成立後畿内勢力が強引に北九州地方に進入したとするより、佐野命が北九州通過時にその下準備をしていたと考えるほうが自然である。
蓑島に到着した佐野命一行はここで二手に別れる事にした。関門海峡を渡って海路北九州をめざす一行と、蓑島周辺を河口とする犀川(現在の今川)を遡って北九州に入る一行に分かれた。海路北九州を目指す一行は岡田宮を拠点とし壱岐、対馬、朝鮮半島と巡幸し朝廷成立後の海外交易の拠点作りをする。また、犀川を遡る一行は朝廷成立、また成立後の協力を得られるように拠点作りをする。海路北九州を目指す一行は朝鮮半島関連の伝承より稲飯命が率いたと思われる。これに対して、犀川を遡ったのは佐野命自身である。
竈門山
伝承をたどると神武天皇の北九州巡幸の目的地は竈門山のようである。この山の山頂には玉依姫の御陵伝承がある。玉依姫は神武天皇を生んだ後、この竈門山に来てこの地で亡くなり、この山に葬られたと伝えられている。玉依姫の御陵伝承はこの他に吾平山御陵内のウガヤフキアエズの御陵の隣、或いは日南市宮浦に玉依姫御陵伝承地がある。真実の玉依姫御陵はどこなのであろうか。
玉依姫という名は魂が宿った女性と言う意味で、普通名詞のようである。複数の玉依姫がいたと思われる。しかし神武天皇の母となる玉依姫は唯一人である。宗像三女神も玉依姫と呼んだようである。
佐野命の母となる玉依姫はウガヤフキアエズ命の妻である。佐野命の行動伝承を探ればその母の所在ははっきりとするであろう。佐野命は東遷に出発する前に挨拶回りしているが、そのとき、鹿児島市谷山の柏原神社に母の里に挨拶に行く時、ここに上陸したと伝えられている。この事から母である玉依姫の里は枚聞神社の地であると考えられる。ウガヤフキアエズ命はAD75年ごろ桜迫神社の地で亡くなっている。年齢は45歳前後であったろう。妻である玉依姫にはまだ余命がかなりあったと思われる。此の時玉依姫は薩摩半島部にいたようである。では、なぜ、北九州で玉依姫が大々的に祀られているのであろうか北九州の玉依姫は神武天皇の母とは別人かもしれないが、玉依姫が北九州に来た可能性について考えてみたい。
糸島市に産宮神社がある。祭神は奈留多姫命 鵜鵜草葺不合尊 玉依姫命で、「奈留多姫は懐妊に当たり、大いに胎教を重んじ、玉依姫命、豊玉姫命両神の前にて、「月満ちて生まれん子は端正なれば永く以て万世産婦の守護神ならん」と誓いて、出産に臨んで苦もなく皇子、神渟名河耳命(第二代、綏靖天皇)を安産し、以後、「産宮」と称えて安産守護の神と祭る。」と記録されているがこれは明らかに誤りである。鵜鵜草葺不合尊玉依姫命がここで、奈留多姫命を産んだのではあるまいか。つまり、鵜鵜草葺不合尊はこの地を訪問しているのである。奈留多姫命は伝承されていないが、この地に滞在していたのではあるまいか。そして、成人後奈留多姫命自身が同じこの地で誰か重要な人物を産んだとも考えられる。鵜鵜草葺不合尊は玉依姫命と共に、北九州を訪問しているようで、その時、玉依姫命が信仰を広めたのではあるまいか。鵜鵜草葺不合尊はこの時、伊都国のまだ倭国に加盟していない豪族たちを倭国に加盟させるために、日子穂穂出見命と共に伊都国に滞在し、その間に玉依姫が周辺地域に信仰を広げたと考える。神武天皇の母はこの功績により玉依姫と云う名をつけられたとも考えられるのであるが、どうであろうか?そうだとするとその時期はAD60年頃であろう。
北九州の竈門山周辺では現在でも宝満神社が数多く存在し玉依姫が祀られている。相当強く信仰が残ったものである。玉依姫は人々の心をつかむような行動をしていたのであろう。それが、現在まで信仰が残っている原因と考えられる。
赤村にて
犀川を遡った佐野命一行は赤村に入った。油須原に通過伝承がある。ここは、その昔天忍穂耳命が滞在し、ここを拠点として周辺を統治した地である。この地に滞在している時、馬見物部の眷属である駒主命が馬を献上して協力を申し出た。彼と共に今川に沿って遡り、英彦山山頂に登り、筑紫地方一帯を国見し、彦山川に沿って田川へ下った。川崎町に神武天皇がしばらく滞在して猪狩りをしたと伝えられている。ここを拠点として田川郡一帯の豪族たちに朝廷成立後の協力を要請して回ったのであろう。まもなくこの地方一帯の豪族の協力が得られた。佐野命は天忍穂耳命の遺址を訪問した事と思われる。天忍穂耳命の御陵は不明であるが、降臨(国見)したと云われている岩石山などがその候補であろう。現在の田川市春日町の春日神社は饒速日尊降臨伝承地である。この地で饒速日尊を祀りこの地方の人々の協力を得たものと考えられる。
鹿毛馬にて
田河地方の人々から協力を得られたのち、田川市金田から小峠を越え鹿毛馬字牧野に達した時、風雨が激しくなり進めなくなった。この時一人の翁が現れ、「ここは三女神ゆかりの地なので、三女神を祀れば通れるだろう」と聞き、三女神を山頂に祀ることにより天候が回復し通過できた。これが現在の厳島神社である。これは、佐野命一行の通過を邪魔する一団があった。この人たちは三女神を信仰していたので、三女伸を祀ることによりこの人たちの協力が得られて、無事通過できたと考えることができる。この地にある厳島神社はその昔山頂の岩を御神体としていたようである。此処の地名牧野は昔馬を放牧していた牧があったために附けられた名のようである。この山の中に神籠石がある。祭祀した石はこの石で、ここで祭祀したのであろう。そして、この山の裾野には馬が放牧されており、この土地の人々から鹿毛の馬を献上されたので、この地を鹿毛馬と名付けた。
佐野命は当初、そのまま飯塚近辺に進もうと考えていたのであろうが、伝承をたどれば、この後馬見山周辺に進んでいる。方向が全く違うので、予定変更をする何かがあったと思われる。 伝承では馬が逃げたためと云われているが、別伝では馬に乗って移動したとなっている。馬見までは直線で20km程もあり、後者が正しいであろう。馬見山の麓には高木神が祀られており、天忍穂耳命の旧蹟地の1つと考えられ、また、馬見山山頂はその昔ニニギ命が国見をしたところなので、馬見物部の胤である駒主命の進言が原因ではないだろうか?佐野命自身はこの時馬見山に関しては知らなかったのであろうが、駒主命の進言によって、馬見山北麓に行くことにしたのではあるまいか?この途中で馬が逃げだしたものと考えられる。
駒主命の案内に沿って鳥尾峠目指して進んでいる時、道に迷い困っている時に鳥が現れ、道案内をしてくれた。鳥の止まったところを鳥尾と名付けた。そして、鳥尾峠を越えた。
山田庄にて
鳥尾峠を越え、そこから中元寺川に沿って、そして、猪位金川に沿って遡り峠を越えると山田庄に達する。佐野命はおそらくそれに準じた経路を通って山田庄に達したものと考えられる。山田庄では、その東北に帝王山があり、この山で天祖忍穂耳命を祀ったと伝えられている。
山田庄を出た佐野命は白木川沿いに遡り、白木を越えて小野谷に着いた。小野谷で高木の神(タカミムスビ命)を祀った。白木という地名は饒速日尊古伝承地に多いので、ここは饒速日尊古伝承地かもしれない。
佐野命はこの辺一帯で忍穂耳及びその義父であるタカミムスビを祀っている。おそらく彼らの旧跡地なのであろう。忍穂耳関連の伝承の多くは失われているので、具体的に何があった地なのかは定かではない。この周辺の豪族たちは忍穂耳・タカミムスビに対する尊敬の念が強かったので、彼らを祭ることにより、豪族たちの協力を得ようとした事が伺われる。
目尾を目指して
ここから佐野命は当初の目的地である飯塚の方に進もうと遠賀川に沿って下ったが、当時のこのあたりはかなりの湿地帯であり、歩行が極めて困難で人馬ともに疲れ果ててしまった。そこで、佐野命は駒主命に道を変えることを提案した。其の地は現在の大隈辺りと推定する。ここから、遠賀川に沿って下るのをあきらめ、鹿毛馬から馬見に進んだ道を逆にたどることで、飯塚を目指すことにした。このために、鹿毛馬と馬見にかかわる伝承に混乱が生じたものと判断する。元来た道を逆にたどることで再び牧野の地に戻ることができた。
この地から西南に進んだところ、佐野命は俄かに気分が悪くなり、種子命は丘の上の杉の古木の下に佐野命を休ませ、椎根津彦と共に、杉の神木に天祖の御神霊を祀り、熱心に祈ったところ、直ちに御気分が回復したので、その杉を魂杉と呼ぶことにした。この休養した丘が天降八所神社の神地である。今の佐与という神社の所在地名は、佐野命が、会話中に「左様か・・・」と云ったことに起因するという。
佐与から東に進むと鯰田(沼田)に着く、ここに着いた時、駒主命は、雲間に見えるのが竈門山で、玉依姫が祀られている事を伝えた。佐野命はこれを聞いて、諸皇子とをこの丘上に留めて竈門の神霊を祀ったこの地が皇祖神社の地である。鯰田から遠賀川を渡るために渡れる場所を探して、立岩の方へ進んでいくと進路を妨害する立岩を本拠とする一団があり、この一団と戦った。この地が勝負坂である。この後立岩で祭祀をし、遠賀川を渡ろうと浅瀬を探している時、この土地の豪族八田彦が現れ、鉾を河に挿して浅瀬を示してくれたので、無事に渡ることができた。渡った場所が片島である。この付近にこれに由来する王渡、徒歩渡、鉾の本と云う地名が残されている。ここに水の神を祀って農業技術を伝えた。片島明神、貴船明神である。
佐野命は、また、地盤の固い片島の地の丘に登って、ここで改めて天祖の御霊を祭った。ここを壇の上といい、その祭祀の所を嚢祖という。ここが現在の納祖神社である。
佐野命が目尾に向かった目的はその周辺で饒速日尊を祭っていることと、その古伝承地を巡っていることから考えて、饒速日尊信仰の強い人々の協力を得るためであることが考えられる。遠賀川上流域はその昔(AD10年頃)、饒速日尊(当時は大歳命)が統一した領域で彼がもたらした先進技術で生活が豊かになった地域であり、この当時(AD80年頃)も饒速日尊信仰が強かったはずである。饒速日尊はAD20年頃、大和にマレビトとして乗り込むためにこの地域の人々を大和に連れて行っている。それらの人々が大和で日本国統一の最前線として大活躍をしているとの情報は入ってきていたであろう。佐野命もその実績を継承してこの地域の人々の協力を得ようとしたものと考えられる。
この地域の人々の協力を得るには饒速日尊信仰の篤さを利用するのが一番である。饒速日尊旧跡地を訪れ、饒速日尊祭祀を大々的に行い、これからの東遷の目的を伝えれば、この地方の人々の心をつかむことができるであろう。佐野命はそれを実践したのであろう。
饒速日尊祭祀
この近辺(白旗山、笠木山山麓)は饒速日尊がマレビトとして大和に率いた人々の旧跡地であり、大歳命に対する信仰の篤い地域である。磯光、剣、王子、熱田、初子、太祖、羽高の地は、天神本紀にみえる二田、十市、弦田、贄田の物部の出身地である。佐野命は目尾を拠点としてこれらの地を回り、神武天皇は天祖(饒速日尊)を祭った。これによりこの周辺の人々の協力を得ることができたのであろう。また、笠木山は瓊瓊杵尊の滞在伝承のあるところで、ここにも立ち寄って饒速日尊を祀っている。佐野命は八田彦の案内で伊岐須、潤野、高田と進み各地で饒速日尊を祀っている。
片島に着いた佐野命は納祖で神を祀った後、八田彦は一族を紹介する目的で伊岐須郷に案内した。八田彦は一族で佐野命一行をもてなした。佐野命はしばらくここに滞在した。ここで、八田彦から、この周辺の倭国と日本国との合併に反対する一団を統一してほしいとの願いを受け、佐野命は大和朝廷成立後のことも考えてこの申し出を受けることにした。この地方の人々の協力を得やすくするために、天照大神を東北岩戸山(現在の白旗山)に祭る、また、小石をこの山の頂に衛立て天津御璽を見たてて、素戔嗚尊を祭った。これによりこの邑又は山を神武邑、神武山というようになった。また、この時、饒速日尊が国見したという笠置山に登り、山頂に饒速日尊を祀った。これらの祭祀によって、周辺の反対派の承諾が得られることになった。
伊岐須近辺が落ち着いたので、八田彦の案内により、潤野の地に進み、ここでも天祖の御霊を祭った。その霊跡には現在宝満神社があり、周辺を姿見或いは日の原ともいう。この周辺も安定化できたので、佐野命は高田に進んだ。ここで、八田彦の伴った田中熊別に迎えられた。この周辺で祭祀をしていた時、反対の意思をあくまで貫く一団があった。根智山に本拠を置く打猿一族であった。話し合いも限界に達し、打猿を誅することになった。高田の丘で熊別と椎根津彦に討伐の命令を下した。この霊跡に神武天皇と玉依姫を併せ祀ったのが高祖神社である。
椎根津彦が総大将となり、内野の川上で賊軍を打ち破り、皇軍は是を追撃した。その勝報が高田丘に伝わったので、佐野命は大分八幡宮に進み、そこに滞在中打猿は、米の山まで退却したので佐野命は山口に移った。打猿は米の山も打ち破られ大宰府まで退却し、さらに退却し捕らえられて遂に斬首された。この誅戮の地を打首といい、今訛って牛頸という、と伝えられている。
打猿を誅した後、佐野命一行は他皇子たちと竈門山に登り、祭祀をした。
宇美の地へ
竃門山で祭祀をした佐野命はその東北の大野邑に赴いたところ、そこの邑長荒木武彦の奉迎をうけた。佐野命はここを拠点として武彦の協力を得て、筑紫郡一帯の豪族から大和朝廷成立後の協力を得る事に成功した。
筑紫郡の豪族の協力を得られたので、佐野命は武彦の案内で宇美の地に移動し、この宮を建てた。この地は現在宇美八幡宮の地となっているが、これは、後の世神功皇后が神武天皇旧跡地であったこの地で応神天皇を生んだ事から宇美の名が付いたが、古来ここは蚊田といって、神武天皇ゆかりの地と伝えられている。この地を岡田宮とする説もある。この宮の神官は荒木一族の後裔であるが代々神武(こうたけ)の姓を名乗っている。また、近くに神武原(こうたけばる)という地名もある。
蚊田の地に宮を建てた佐野命は、大城山に使いを立てて山上に武甕槌命を祭って王城の鎮守としたと伝えられている。また、福岡市内には神武天皇が関係しているのではないかと考えられる神社が存在している。若杉山、箱崎宮、住吉宮、志賀神社などである。佐野命は祭祀を活発に行うことによりこの地方の豪族たちの協力を得ようとしたものと考えられる。他皇子たちも周辺地域の巡回をしたものと考えられる。
箱崎宮はその創祀は明らかではないが、鳥居が金印出土地を向いていることから察して、金印が埋納された時期と創祀の時期が同じと考えられる。金印は大和朝廷が成立した頃埋納されたと考えているので、箱崎宮創祀者は佐野命あるいは玉依姫ということになる。箱崎宮の祭神に玉依姫であるのと関係していると思われる。
住吉宮は神話にある筑紫の日向の橘の小戸の檍原の地に建てられていると伝えられているが、檍原は宮崎と考えているので、この住吉宮はそれに該当しなくなるが、神代より鎮座していると伝えられており、相当古い古社である。志賀海神社も相当に古い社で景行天皇が祈祷したと伝えられているので、それ以前に創祀されたことになる。共に住吉三神を祀っている。北九州のこの周辺一帯はこの当時海外交易の拠点と言うべき所で、海上交易の安全祈願等に海の神を崇敬するのは当然といえよう。この周辺はイザナギ命を祀っている神社が多い。スサノオが南九州を統一し、イザナギ・イザナミが倭国統一の協力を申し出た時、まず最初に統一のためにやってきたのが、この伊都国の地であろう。イザナギ・イザナミはしばらく滞在して伊都国王を倭国に加盟させようと努力したのであろう。奴国(福岡市)周辺のいくらかの豪族は倭国に加盟したと思われるが、伊都国は失敗に終わっている。佐野命はイザナギ命の旧跡地を廻り彼を祀ったものと考えられる。佐野命は大和朝廷成立後この海上交易の拠点を受け継がなければならず、是非ともこの周辺豪族の協力は欠かせないところである。そのためにもこれら神社で祭祀をしたものと考えられる。
伊都国が倭国に加盟したのはAD60年頃で、日子穂穂出見命の功績である。日子穂穂出見命はこの当時鹿児島神宮の位置におり、彼が、伊都国の地を去ったのはAD65年頃である。それから15年ほどたっている。
金印埋納について
伊都国が倭国に加盟したのはAD60年頃で、日子穂穂出見命の功績である。日子穂穂出見命はこの当時鹿児島神宮の位置におり、彼が、伊都国の地を去ったのはAD65年頃である。それから15年ほどたっている。金印は日子穂穂出見命がムカツヒメの命を受けAD57年に後漢から賜ったものであると推定している。その後、伊都国(前原市)周辺の豪族たちを倭国に加盟させ、海外交易の責任者であるという身分証明に使っていたと思われる。日子穂穂出見命にAD65年日向への期間命令が出た時、その後を受け継いだ伊都国王がこれを所持し、身分証明に使っていた。佐野命がここにやってきたAD78年頃もこの伊都国王が身分証明のために金印を所持していたと思われる。この後大和朝廷が成立してしまえば、朝廷の役人が海外交易の実験を握ることになり、日向国王の銘のあるこの金印は無用のものとなりそのまま活用すれば、後の自治国となる日向国との間に無用の争いを引き起こす元となるので、佐野命は伊都国王からこの金印を受け取り、代わりのものを何か授けたのではあるまいか。伊都国王はこの後、大和朝廷の管理下で海外交易の実権を維持することになったと考えられる。
糸島地方に神武天皇伝承地がある。糸島地方へは日向峠から入ったのであろう。日向峠に神武天皇通過伝承がある。可也山に何回も登って周辺を国見したと伝えられているので、この周辺にしばらく滞在していたものと考えられるが、其の宮跡は不明である。伊都国王から金印を受け取るためであろう。
伊都国王から金印を受け取った佐野命は海外交易の中継地である志賀島に埋納し、おそらくその上に社を建てて祭祀をしたものであろうが、それが時と共に忘れ去られ、社も朽ち果て、江戸時代に出土したような状態になったものであろう。佐野命はこの時蚊田から糟屋に移り、その後箱崎に移動し箱崎宮を創祀したものと考えられる。そのため、箱崎宮は金印出土地を向いていると判断する。
これらの事は伝承にはないが、前後関係からしてこのように推察されるのである。
出航準備のために岡田宮へ
蚊田の地で暫らく滞在した佐野命一行は、箱崎の地から大和へ向かうための準備地として岡田宮を目指すことになった。この地は稲飯命が朝鮮半島を巡幸後、既に準備をしており、福岡県北九州市八幡西区山寺町の一宮神社の地と思われる。岡田宮伝承地は他にも存在するが、蚊田から北九州への神武天皇伝承地をつなぐと、蚊田→鷺白山→神武神社→宗像→赤間→惣社宮となっており、内陸をほぼ一直線につながっており、その延長線上には北九州市の岡田宮伝承地がある。遠賀川河口の岡湊伝承地はこのコースからずれている。また、北九州市には岡田宮伝承地が一宮神社の地と岡田神社の地があるが、この両社は1kmほどしか離れていないので、共に何かに関わった地であると思われる。それぞれの神社の伝承内容から推察すると、滞在したのは一宮神社の地で、祭祀場が岡田神社の地であったように思われる。
筥崎を出発した佐野命一行は鷺白山までは田中熊別が船で送ったようで、そこからは内陸をまっすぐ一宮神社の地まで移動したように考えられる。海上を通ったのではないかも考えたが、神武天皇通過伝承地が悉く内陸部にあるために陸行したと判断した。
遠賀川河口の岡湊伝承地にある神武天皇社にも岡田宮伝承があるが、この地は洪水の危険性もあり長期滞在には不向きと思われる。しかし、遠賀川中流域で物部一族に対して饒速日尊を祭祀しており、これは、単に豪族の協力を得るというよりも大和にその一族を連れて行くのが目的だったのではないだろうか。饒速日尊が以前にこの一族の中からマレビトとして大和につれて入っており、同じ一族を連れて行く事により、大和の人々の協力を得やすくする狙いもあったのではあるまいか。この一族が船を準備して集合したのが遠賀川河口の神武天皇社の地ではないかと推定している。佐野命はこの地を訪問し、これらの人々を労ったものであろう。
岡田宮滞在期間について
蓑島から蚊田までの行程は100km、箱崎から岡田宮まで60km程である。1日10kmとして16日、当時の暦で約1ヶ月である。途中でかなり滞在している。特に蚊田ではかなり長期間滞在していたようである。日本書紀に1年間滞在と記録されており、これは現在の暦で6ヶ月に相当する。現在暦で4ヶ月ほど蚊田に滞在し、残り2ヶ月ほど岡田宮で出航準備をしたのではないかと推定する。
北九州における神武天皇関連伝承では、各地で神を祭っているが、その祭祀は3段階あるようである。第一段階は赤村から馬見山までの区間で、ここでは天忍穂耳命及びその関連人物を祀っている。第二段階がそこから竈門山までで、この区間では饒速日尊及びその関連人物を祀っている。第三段階はその後で、ここでは、伊邪那岐命、伊邪那美命及びその関連人物を祀っているのである。第一段階・第二段階はその地域がこれ以前にそれらの地域と深い関係があったためと考えられる。しかし、第三段階はどうなのであろうか。伊邪那岐命、伊邪那美命はAD15年頃、奴国統一に活躍しており、その旧跡地を廻ったのであろう。
岡田宮出航準備
岡田宮址は洞海湾奥深くにあり、船団をまとめて準備するには最適の場所である。稲飯命は蓑島で佐野命と別れてから、岡田宮に到達し、ここを拠点として壱岐・対馬・朝鮮半島部の巡幸をしたものと推定している。ここから大和に新しく加わる人々を乗せるための船を新造し、今までの船の修繕をしたりしていた。
大和朝廷成立後北九州と大和とを繋ぐ瀬戸内海航路の確保をしなければならないが、この当時瀬戸内海沿岸地方は悉く東倭(出雲国支配下の国々)に所属しており、東倭は大和朝廷の支配を受けないことになっている。このままでは北九州の豪族たちの協力を得られても、大和との密接な交流ができないことになる。佐野命の次の任務は瀬戸内海航路の安定確保にある。
瀬戸内海沿岸の島々に中継地を造り、航海する人々の食糧確保を確実なものとしなければならない。そのためには、瀬戸内海沿岸地方を東倭から譲り受ける必要があり、出雲との交渉が必要であった。その使者として選ばれたのが宇佐にいた市杵島姫である。市杵島姫はAD20年ごろ安心院の地で誕生しており、その後暫らく宗像に住んでいたが、この時は宇佐に戻っていた。佐野命は交渉役を彼女に頼んだ。彼女は宇佐地方の多くの人員を東遷団に参加させた。この一族も洞海湾に集結した事であろう。
このように佐野命一行には、日向からの人々に加え、遠賀川流域の物部一族、宇佐からの市杵島姫一族が加わり大船団となって、岡田宮を出航することになった。AD79年前半11月の事であろう。 
神武天皇東遷 (瀬戸内航路/山口県下の伝承)

 

岡田宮出航
日本書紀には岡水門に11月9日に到着、安芸埃宮に12月27日到着となっており、また、古事記には岡田宮に1年滞在したことになっている。この通りなら計算は合うのであるが、山口県周南市の神上神社の伝承によると、神武天皇はここに6ヶ月間滞在したことになっている。また、12月27日に安芸国に到着後翌年3月6日には高島宮に移っている。古事記では7年と8年滞在したことになっており、両者には大きな違いがある。
安芸国に伝えられている神武天皇関連の伝承はかなり多く、日本書紀にあるような短期間の滞在とは考えられない。戊午の年2月11日に高島宮を出航しているが、これ以降の日本書紀の日付に大きな矛盾は見当たらない。岡田宮出航から高島宮出航までの期間に問題があるようである。
山口県下には、神武天皇関連伝承地は少ないが存在している。神上神社には半年滞在したと伝えられている。しかし、滞在日数の割には伝承が少ないのである。実際は半年も滞在していないように思われる。 
1.加茂神社
山陽小野田市厚狭奥の浴392 祭神 別雷命 瓊瓊杵命 神武天皇 
2.厳島神社
防府市三田尻1103 祭神 市杵島姫命 田心姫命 瑞津姫命
「この松原は磯の神厳島明神此処に天降りまして、今の厳島に迂らせ給ひければ・・・」と伝えている。 
3.国津姫神社
防府市富海 祭神 市杵島姫命 田心姫命 瑞津姫命
三女神宇佐島よりの御船着地の地と伝える。 
4.神上神社
周南市川上59 祭神 神武天皇
神武天皇御東幸の砌の行在所と伝える。ダム建設で当初の位置から移動している。 
5.神上神社
周南市下上1054 祭神 神武天皇他
神上神社由緒書
神倭伊波礼毘古命(神武天皇)は、遠大な建国の御計画の元に、舟師をひきいて、日向高千穂を進発され、長い年月と幾多の辛酸を経て大和を御平定、橿原宮においてわが国初代の天皇として御即位になった。
この神上の地は、天皇が日向御進発の当初、海上の遭難によってお立ち寄りになり、半年の間をお過ごしになった行宮であり、御東行の途次、暫し安らかに憩われ、深く御心に留め給うた聖跡である。
天皇は、日向より筑紫国を経て海路内海を御東行中、周防灘に至り思わぬ風波に御遭遇、北の方へ吹き寄せられたので、ほど近い小島(竹島)にお舟を留められた。この時天皇は御船酔い甚だしく、島の対岸に漕ぎ入れてお休みになった。里人は種々の薬草を献じ御快癒をお祈りした。これを含まれると即ち御快くならせられ、「我が心たいらかなり」と仰せられ、里の名を「たいらの里」(平野)と命名された。
さらに、波音の聞こえぬ地でお休みのため、水際伝いに進まれると里があり、此の処の石に御腰をお掛けになるうちに夜が明けた。この地は海上より微かな光を見た吉兆の地であり、微明(見明・みあけ)という。
ここより山の麓をおのぼりになると、谷水の音が幽かに聞こえる静かなところ、彼方に黒髪島、仙島などが夢のように浮かぶ瀬戸の海を眼下にした絶勝の小高い丘にお着きになった。ここに仮宮の御造営を仰せ出された。
天皇は近い高根に登って四方の地勢をご覧になり御東行の道を御案じになった。この時、四匹の熊が地に伏し額づいたので、この山を「四ツ熊の峯」(四熊嶽)と名づけられた。
およそ半年、この仮宮で態勢を整えられた天皇は、「御舟は海の上を経よ、我は陸地を行かん」と仰せられて再び御進発、安芸国・吉備国を経て遂に大和にお入りになり建国の鵬図は成った。
天皇は、この神上の地に深く御心をお留めになり、ご出発にあたって、「朕何国ニ行クトモ魂ハ此ノ仮宮ヲ去ラザレバ長ク朕ヲ此ニ祀ラバ国ノ守神トナラン」と宣らせ給うた。
里人等はその御旨を畏み、仮宮の地に祀宇を建立し、「神上宮」と称して斎祀し奉った。 
6.四熊嶽神社
周南市四熊2850 祭神 神武天皇他
「天皇近き高根に登り給うたところ、穴ありその穴の中より熊四匹あらはれたが、神威にうたれてか地にふしぬかづいた。此の山こそ山容秀麗なる周防小富士四熊山であって、「四熊の峰」の名はこの尊き故事より起こったのである。天皇此の山より四方の地勢を臠(みそな)はし御東行のみちを按じさせ給うた。」 
7.橿原神社
熊毛郡熊毛町呼坂27 祭神 神倭伊波礼毘古尊
神武天皇東征御途次の聖地と伝える。神社より1km程西に熊毛神社がある。その西200m程の所に御所尾原の台地がある。「天皇この地を切り開いて行宮を作り、御母玉依姫戸とともに御滞留あらせられ、又軍兵を調練し給うた霊蹟である」と古老は伝える。
徳山市の北山→毛利邸裏→大河内→馬屋→久米→上地→浴→時宗→山田→呼坂の経路を通ったと里人は伝えている。 
8.加茂神社
光市浅江558 祭神 別雷命 玉依姫 建角身命 神日本磐余彦尊 
9.浅江神社
光市浅江 祭神 別雷命 玉依姫 神日本磐余彦尊 三女神 他 
10.賀茂神社
光市三井817 祭神 別雷命 玉依姫 建角身命 神日本磐余彦尊 
11.野島神社
熊毛郡平生町平生131 祭神 市杵島姫命 多伎理姫命 多岐都姫命
市杵島姫命厳島に降臨の時、この島に暫時御休止あり。 
12.日向平・箕山・皇座山 
神武天皇が立ち寄った所と伝える。箕山山頂には神武天皇を祀った祠がある。皇座山は神武天皇が座ったところと伝えられている。平生から柳井津の間は現在は陸地であるが当時は水道だったとのことである。水道の出口にあたる柳井市遠崎には「御一行の御船艇が大畠瀬戸通過のためしばらくここに潮待ちす」との口碑あり。 
13.賀茂神社 
柳井市阿月相浦516 祭神 別雷命 玉依姫 神日本磐余彦尊 
14.賀茂神社
柳井市伊保庄近長538 祭神 別雷命 玉依姫 三毛入沼命 
15.岩隈八幡宮 
玖珂町九重山903 祭神 磐余彦神 三毛入野神 玉依姫神 他
「往古三毛入野命祖生郷天降岩熊山。故名之謂熊毛、今熊毛宮之也云々」 
16.岩隈八幡宮
周東町祖生7184 祭神 三毛入野命 他
岩熊山にある。もと熊毛宮。三毛入野命降臨地。岩熊山の西麓にある熊岩は特に命の愛で給ひ、又此の岩に御越を掛け釣を垂れ給うた聖蹟と伝えられている。熊毛神の熊はこの熊岩の「熊」、御名三毛入野命の「毛」より起こったと云われている。
命には字降居の地に宮を営み御滞留遊ばされたが、里人はその御徳を慕い奉り、熊毛の宮を「鎮座」の地に創めて命の霊を祀ったのである。岩熊山の中腹岩隈八幡宮参道の西側に三毛入野命御神陵伝説地がある。 
17.賀茂神社
岩国市柱島491 祭神 神倭磐余彦命 他
神武天皇東遷時に寄港し、従軍した者の子孫が御遺徳を偲んで奉祀したと伝える。 
18.装束神社 
岩国市装束232 祭神 市杵島姫命
市杵島姫降臨の時、神衣を改められた。 
19.着神社
岩国市小瀬2369番 祭神 神武天皇
神武天皇東征時、御寄港遊ばされたの伝承あり 
山口県下の伝承から推定する東遷経過
岡田宮出航
佐野命一行は出航準備が整ったので、AD79年前半11月、岡田宮を出航した。洞海湾を出て、遠賀川河口からの一団と合流し、関門海峡の潮の流れに合わせて、海峡を一挙に越え、初日は30kmほど隔てた長府港あたりに入港した。長府近辺には神武天皇上陸伝承は見当たらないが、航行距離からこのあたりに停泊しているはずである。
次の日の停泊地は16kmほど隔てた小野田市の厚狭川河口あたりに停泊したものと考えられる。河口から12km程厚狭川を遡ったところに加茂神社があり、神武天皇が祀られている。この周辺に滞在したかもしれないが伝承はともなっていない。次の日は宇部港あたり、その次の日は阿知須あたりに停泊したと思われるが、伝承は一切存在しない。
防府市の佐波川河口あたり、次の日に富海に停泊したものであろう。富海の国津姫神社に市杵島姫が祭られており、市杵島姫が厳島へ行く途中停泊したという伝承がある。市杵島姫は佐野命と共に安芸国へ行ったと考えているので、佐野命も此処に停泊したのであろう。順当であれば岡田宮出航後ここまで6日程であろう。
徳山神上神社仮宮
神上神社の伝承を元に行幸過程を推理して見ることにする。伝承では風波により北に寄せられたと伝えられているので、距離からして佐野命一行は下松港辺りを目指していたと思われる。富海を出航してまもなく天候が悪化して、海が荒れたため、北に寄せられ、竹島に緊急的に立ち寄ったものであろう。佐野命は舟のゆれの激しさから船酔いをし、現在の周南市平野に上陸、ここで、休息をした。ここで人々から薬草の献上を受け、見明の里(周南市下上)に滞在した。体調の回復と舟の修繕のため、暫らくここに滞在する事とした。仮宮を求めて、近くの丘陵に登ると、眼前の景色の美しさに惹かれた。佐野命は瀬戸内の島々を見るのは此処が初めてであり、その感動はかなりのものだったであろう。此の地に仮宮を設けた。現在の神上神社の地である。
佐野命は仮宮を造って暫らく後、周辺の地勢を知るため、近くにある四熊嶽に登った。熊が4頭出てきたので、四熊と名づけたと伝えられている。
佐野命は四熊嶽に登って暫らく後、周辺を巡幸している。その一つに周南市川上の神上神社の地がある。此の地にも仮宮を造ったという伝承があるが、見晴らしが良い場所ではなさそうである。巡幸途中の一泊の仮宮であろう。ここは現在川上ダムの湖底になっているので、元の地勢がわからなくなっている。この周辺の巡幸伝説が乏しいのでどの範囲で巡幸したのかは不明である。
舟の修繕も終わり、周辺の探索も終わったので、この地を出航することになった。此処より西には神武天皇関連伝承地が存在しないのに、東には神武天皇関連伝承地が内陸にも及んでいる。このことは、ここまで、佐野命はただ東を目指して進んでいたが、ここからは方々に滞在して地方の人々と交わったことを意味している。このことから、この周辺は東倭に所属しているが、現地の人々に触れる中で、大和朝廷成立後の停泊地確保のためにも東倭の内陸部の豪族にも協力を求めていく方針を固めたと思われる。
それを裏付けるのが、佐野命出発時の舟は海を行き、我は陸を行くという言葉である。
島田川流域巡幸
海陸両方で進むと海路が一日20km程、陸路が一日7kmから10km程であり、海路のほうが2〜3倍速い。海路を行く側では待ち合わせのために長期間港に滞在することになる。島田川流域に神武天皇または、三毛入野命の伝承地がちらばっている。また、島田川河口に神武天皇を祀った神社が加茂神社・浅江神社と複数存在している。このことから、里人の伝承より佐野命は神上神社の地より陸路を徳山市北山(現住吉町)→毛利邸裏(現市民会館)→大河内→馬屋→老郷地→上地→浴→時宗→山田→呼坂勝間の経路を通ったと考えられる。この経路は現在の国道2号線と山陽自動車道の間を通る廃道になっている旧道である。勝間では熊毛神社の地に三毛入野命、御所尾原に佐野命が宮を作りしばらく滞在している。ここを基点として周辺の豪族に大和朝廷への協力を依頼して周った。四熊山に出てきた熊というのは帰順した周辺豪族のことであろう。
同時に滞在した人物に玉依姫がいる。佐野命の母であるが、ほかの伝承地に一行に母が同行しているという伝承は全くない。これは同行していたと推定している市杵島姫ではあるまいか。
海路を行った一行は徳山港から島田川河口まで22kmほどを1日で行き、此処を待ち合わせの地としたものであろう。勝間での役割を終えた佐野命一行は勝間の御所尾原から川に沿って下り中村→小周防で島田川に到達するそこから、島田川に沿って下り河口で待ち合わせの船に乗ったと考えられる。三毛入野命は勝間から陸路を岩国まで移動したものと推定する。両者は岩国で再び出会うこととして呼坂で別れた。三毛入野命は玖珂(岩隈八幡宮)まで進んだ。この地方では彼を熊毛神として崇めることになった。
島田川河口で合流した一行は平生港まで1日の行程である。
平生港にて
平生港は田布施川河口に広がる湾で、舟を長期に渡って停泊させるには適当なところである。追従して来た市杵島姫一行は湾内の野島に宮を造り滞在し、佐野命は日向平というところに宮を造った。宮伝承はないようであるが、地名から判断してここに宮があったと考えられる。平生港は今は湾であるが、この当時は反対側の柳井津まで水道が通じていたようである。この水道を田布施水道と仮称しておく。
ここからは島が多く高い山の上から航路を探るか、案内人がいないと無事に通過するのが難しいところである。佐野命はここから箕山・皇座山と山の稜線を歩き、山から航路を一望した。市杵島姫もここから故郷の国東半島を眺めたのではあるまいか。箕山には神武天皇を祀った祠があり、皇座山には天皇が座したといわれている岩がある。
岩国を目指して
平生港から三毛入野命との待ち合わせ場所としている岩国まで航行しなければならないが、途中柱島に立ち寄っている。柱島は広島県との県境近くではるか沖合いにある。ここを通過するということは、その経路が周防大島の南側であることを意味している。なぜ、このような大周りをしたのであろうか。直に岩国に向かおうとすれば柳井から大畠の海峡を抜ければ良いはずである。安芸国に向かうとすればこの経路は矛盾だらけである。しかし、地図で調べる限りにおいて、大和と北九州の交易航路という視点から考えると、周防大島の東端は四国松山まで20km、広島県倉橋島まで20kmと共に1日の行程の位置である。ここに航海の拠点を造っておけば、北九州と大和との航路は安定したものとなりうるのである。
そういった配慮があったかどうかわからないが、早く岩国に着いても何日も三毛入野命を待つ必要があり、その点では遠回りする日数の余裕はあったことになる。この点を考えると次のような経路が推定される。
平生港を出た一団は田布施水道を通過し、柳井市の遠崎に滞在した。ここで一行が潮待ちしたという伝承がある。そこから、周防大島の南側海岸に沿って進み、周防大島町の外入港、そして、周防大島の東端の日向泊に停泊したものと考えられる。日向泊とはここまでの航路で、佐野命が停泊した処に良く付けられている地名である。伝承の確認はしていないが、ここは四国・広島方面との分岐点にあたりここに瀬戸内海航路の拠点を造ったのであろう。次の日、ここから、柱島に渡った。柱島には神武天皇東遷団の子孫が天皇を祀ったと伝えられている神社が存在している。ここで、滞在中東遷団の一部が島に残ったものと判断する。各拠点となるところではその拠点を維持するために東遷団の一部が残ったのかもしれない。
柱島を出た佐野命一行は市杵島姫が岩国市装束の地にて滞在をし、佐野命一行は岩国市小瀬の着神社に宮を作って滞在した。ここで、内陸部を巡幸していた三毛入野命と合流したものであろう。ここから安芸国目指して進むことになった。
旧山陽道の苦ノ坂に市杵島姫に関する伝承がある。
「市杵島姫が九州筑紫の国から安芸国へ移動の途中、木野坂へさしかかったところ長旅の疲れも出て苦しかったので、手に持っていた「ちきり」(機織具)を傍の池に投げてしまわれた。村人は哀れんで池の畔に小さな祠を建ててお祀りしたと伝えられている。それ以来、木野坂を「苦の坂」、池を「ちきり池」と呼ぶようになった。」
この伝承は市杵島姫が陸路を移動したことを意味している。佐野命一行は海路を市杵島姫は陸路を安芸国へ向かったのではあるまいか。 
神武天皇東遷経路 (安芸埃宮)

 

いよいよ佐野命は安芸埃宮に到着した。安芸国を東倭から譲り受けることと、瀬戸内海航路の拠点作りを目的としてさまざまな活動をしている。ここでは、安芸国における佐野命一行の活動を探ることにする。広島県内には神武天皇関連伝承地が非常に多い。長期間滞在し、様々な活動をされたためと思われる。これらを整理しながら、佐野命の行動を探る事にする。参考文献は昭和16年広島県発行「神武天皇聖蹟誌」、昭和15年多家神社記念事業奉賛会発行「聖蹟安芸埃宮」、「広島古代史の謎」である。 
1.安芸国埃宮到着以前の伝承
1-1.厳島
厳島鎮座紀
「御当社御鎮座は推古天皇御宇御鎮座といえども、神代の御鎮座なり、田心姫は胸肩に祭る、端津姫は宇佐に祭る、市杵島姫は厳島に祭る、三女神は日本大小神祇本体神籬の道この神にあり、又この大宮御鎮座は盤余記に十有二月丙辰壬午二十六日安芸国埃宮至る、この島を見回る時、仮宮を造り暫らく住み給う、御神市杵島姫一座なり。」
神武天皇は広島県沖に達したとき、まず、宮島の南端の須屋浦に上陸し現在の厳島神社の地にしばらく滞在している。 渡辺綱吉氏「安芸の宮嶋吉備の高嶋宮」によると、厳島神社の本当の祭神は神武天皇ではないかと書かれている。それは昭和15年の「厳島神社御由緒等調査記」に神武天皇の時代に御鎮座とあり、最初に神武天皇がこの島を訪れているからである。 また、島内の山中には巨石を用いた祭祀の痕跡が残っている。これも神武天皇が祭祀したものと思われる。 
1-2.地御前神社 廿日市市地御前
神武天皇は神社西側の有府水門という入り江に着岸されたと伝える。 
1-3.廿日市市串戸
口碑 地御前有府之水門に着船せられて更に皇舟を進め給ひ、宮内村に入らせられ、長尾山の東端戸柿山麓に着かせられた。此の地が往古の天王社の地である。それより、更に奥に進まれ、現在の八坂神社鎮座地に至りて御駐蹕された。
福佐売神社 海岸に「エノクボ」と称する地名あり、此の地古神武天皇の御船を留められたる所、又川を可愛と称する。
御衣尾山 御駐蹕地に向かう途中、御衣を召替えられた処
御手洗川 御駐蹕地に向かう途中、御手を洗われた所
たけんち 神武天皇駐蹕地。田圃の中に巨石を築いた一領域がある。祠が洪水で失われ今は八坂神社の末社である。
舊森さん 天王社及びその西、西南部一帯を総称するが、往古は大森林であった。神武天皇この森を目指して進みし給ひしにより大幸(だいこう)の字が生じ、又、宮居経営の的をここに置かれたから的場の字ができたと伝える。
天王址 神武天皇最初に皇舟を寄させ給ふた所
高旌山 衣越(地御前より宮内村へ通じる細路)の西にある小高き山。天皇御着の折、旗を高く掲げてお迎えしたと伝える。
埃の浦
(榎の浦) 地御前・平良・宮内3村の沖一帯を言う。埃宮の所在によって名づけられたという。
槙の前 御舟を古槙に繋ぎ給ひしによる
舟山 舟楫を作らせ給ふたという。
可愛川 埃宮の所在からつけられた。
串戸 天王社の御戸を開き玉串を奉典し奉ったことによる
宮内村 神武天皇埃宮有しにより起こると伝える。
速谷神社 創建は不詳であるが、市杵島姫が厳島に来られた時、速谷の神が烏に化して案内したと伝える。安芸津彦と異名同神と思われる。 
1-4.広島市古江
國郡志下調差出帳 上古神武天皇当国に御移り給ひ、則当所入江の岸へ御着船在して当所樽ヶ崎へ御揚り此処力箭山今の行者山へ御陣を造った。
八幡神社由緒 上古神武天皇筑紫より当国へ御巡幸あらせられ候時、多紀理宮地(八幡神社所在地)迄潮水来たりし故此処迄御着船在て御行在被為在候時、多紀理宮の前川の水を以て饗膳奉仕せられし故、上古より是を名付けて御幸川と申す云々
神武天皇東征に際し此のところに泊し給ふや食の豊かなるを以って飽きの国なりと宣はせ給ひ
入江の漕出
(古田小学校付近) 聖蹟に因める名称は多紀理宮の外に、御幸川・入江の漕出がある。
八幡神社記録
「それより御発軍の御順路は多紀理宮より西北の間に当り道の里二十町程参り鳥音峠と申処より古江村中郷に入江の漕出と申処より御船漕ぎ出されし由」
樽ヶ崎 古田村古江に在り、俗に樽ヶ鼻といえども本名は樽ヶ崎と称へしものなり、その名の由来は神武天皇筑紫を平治し給ひ夫より当国へ御遷りあり、即ち此処に御船在して御陣営在らせられし所にて、本朝に於ける陣地の初ともいふべし
新宮神社 古田村にあり、伊弉諸・伊弉冉・事解男三神を祭る。古老の伝説に神武天皇東征の時此処へ御着船あり
神武天皇仮宮跡 草津八幡宮丘陵の西側麓が仮宮址と伝える。ここを多紀理宮という
井口大歳神社 この神社の前に神武天皇が船を繋ぎとめたと伝える。この神社はこれを記念して建てられたという。
口和田 五日市の八幡川河口の穴ヶ迫山は、神武天皇着船時、御手づから榊を折り地に立て給ひ、礼拝あらせられし処と伝える。 
1-5.旧橿原神社(広島市三篠町三篠神社合祀)
三篠町大字新庄小字天王山に在った橿原神社は往古神武天皇御東征の際御行在あらせられし古跡である。
天皇は天王山に御行在あらせられ安芸津彦神に兇賊退治の事を御祈願あらせられ塩口より御船に召し府中埃宮に移り給ふ 
1-6.安芸津彦神社 広島市祇園
官幣社由来記
神武天皇此のあたりを通り給ひしに山の尾崎に一つの宮あり。安芸津彦神にておわします。<中略>天皇此御神に向かはせ給ひ、朝敵退治の事を祈り給ひ、上なる山に火を与え給えば官軍日に満し夜に増来りあつまり味方あまたに成玉ひぬかくて塩の口てふ所より御船を出し帆を上げ給ひ埃宮に至り給ふ。されば、今も同郡新庄村に天皇と云う社あり。是神武天皇を祭り其のあたりの地名天皇山・天皇田などいふもありかの山の尾崎といへるは則官幣社旧跡にして其の後いつのとしか今の地に移りたまふかの旧跡を南の御所ともいひ山のうへ平らき故にか茶臼山ともいへり是も天皇ましましけるによりて御所とはいふなるべし又此の御所といふところ正徳頃の記録に見ゆれど今は其の地詳らかならず御門といふところは今も在火を挙げ給ふところを火山といひ火をあげ給ふところを塩の口帆立といひ掘立ともかけり 
1-7.火山 
神武天皇が東征の際、この火山山頂からノロシをあげて兵をつのり、船で府中の埃宮 ( えのみや ) に渡ったというものである。山本や祇園には今でも「出口」「帆立」という地名が残っている。 
2.安芸国埃宮滞在中の伝承
2-1.多家神社周辺伝承
誰曾廼森 神武天皇が初めて御上陸になった地。天皇は湊の榎木に御船を繋がれ御上陸遊ばされ、水を求められしに、森の中に土人と思しき者あるを見給ひ、天皇「汝は誰ぞ」とおとがめあらせられ、此の土人の導きにより水を得させられると共に四望の絶景を御嘉賞あらせられ、前途永き御東遷の途次此の一帯の地に御駐蹕の上舟師を整えさせらるると同時に、此の地方の賊徒を平定さるる事となって、行宮を設けられた。以来此の上陸地を「誰曾廼森」と呼ぶと伝えている。
多家神社 神武天皇府中御留蹕の際地方人民の幸福を念じ給ひ此の地方の人民出雲族に属するを以って家内安全五穀豊穣の神々にまします大穴持命即大巳貴命を祭らせ給いしが天皇崩御後天皇の御霊を是に合祀し奉ったのが多家神社の始まりである。
御腰岩 誰曾廼森の南方、丘続き数町の処、元松崎八幡別宮の境内にある。神武天皇此処に御船を繋がせ給ひ、山に登りて此の岩に御腰を掛けさせられ、四方の勝景をめでさせられたと言い伝へる。
茶臼山 神武天皇の御軍安芸国に近海に進まれる給ふや、茶臼山に火上がりしかば神武天皇宣はく、遥山頂に火あるは安芸津彦神の神霊なり、何ぞ就いて拝せざらんやとて、現仁保町向洋付近の戸の口あたりにて帆を挙げさせられ、舳艫相接して本町に到り給ひしを、住民は山上に奉迎したと。茶臼山では今も旱天には町民挙って山頂にて雨乞いの祈願を行ふことが存続している。
水分神社 本町榎川上流柚原山にある。祭神は雨の神で、神武天皇御駐蹕の砌、此の辺より御用水を求められし古跡として伝へる。
御衣尾 本町一部落の名である。往古より此の名此の文字を使用し、里人は昔神武天皇御駐蹕の際、着物を織りて献ぜしに始まると伝える。
岩谷山 昔神武天皇此の山に登り給ひ皇師を屯し給ふた。里人は其の旧跡を呼んで磐余山と言ったが、後世転訛して岩谷山と呼ぶに至った。そして其の山麓には神武天皇を祭る磐余の宮があったと云う。
船越 船越は太古海浜の一寒村であって、現在の山麓まで海水に洗われ、風光明媚なれども平地少なく、住民の多くは魚貝を漁どりして生活して居た。神武天皇埃宮に御駐蹕あらせられし際、近臣の演場となっており、時折天皇も御清遊を試みさせ給ひしといふ。船越の地名はこれより起こったもので、「天皇の御船が、御越しになった」との意である。
鷹宮 矢野町大坊の多家神社は鷹宮ともいい、その昔神武天皇の埃宮址と伝える。瓊瓊杵命の古跡であるということから神武天皇が訪問したと伝える。 
2-2.瀬野川の伝承
神武天皇御東遷の際、御自らは府中町の海岸に船を繋ぎ給ひて賊どもを攻めさせられ、瀬野村へは五瀬命を差し向けられて陣所(現生石子神社所在地)を置かれた。それ故此の地を五瀬命に因み五瀬野と付けられたといふ 
2-3.呉市天応の伝承
天応駅の近くに天応山あり、口碑によると、神武天皇御東遷の際、此処に御行幸あらせられたと伝え、天応山の伝承は「天皇の御幸」より起こり、「天皇様がおいでになった山」との意味である。山頂に小祠あり、神武天皇の分霊を奉祀す。 
2-4.呉市の八咫神社の伝承
上代神武天皇吾妻方八十梟師等を治め給ふ折、この里にもいとも怪しき夷等の騒ぎありと聞食し、天照大神を祭り鎮め給へと祈り給へばあやしくも八咫烏の翔り降り大勅のまま告げしより夷等も戦き慴れて悉く平ぎ国土平穏になる。これを以てこの上の頂に祠を建てて産神として尊祭しけり 
2-5.安芸郡江田島町切串
昔神武天皇が御東遷の際、安芸国に到らせ給ひ、埃宮に行宮を造らせ給ひしはこの地であって、地方人は其の神徳を欽仰して、お宮を造営したのであったが、太古この地に洪水があり、其の為に埃宮は流されて遂に府中町のほうにいかれて終まった。
宮跡は長谷川口の丘陵に在ったと伝える。 
2-6.可部に伝わる伝承
舟山 神武天皇上陸地と伝える。
帆待川 今は舟山付近を水源とする川である。神武天皇は海よりこの川を遡って舟山に達したと伝える
恵坂(遠坂峠) 神武天皇は此の地まで、進出したと伝える。
螺山 神武天皇が登ったと伝える。
惣社(徳行事境内) 神武天皇行宮址と伝える。
天王社 埃宮址と伝える  
2-7.高田郡吉田町宮之城
山手村可愛宮の儀は人皇第一代神武天皇三年御在城、御軍勝利の地なり。是によって神武天皇を祭る。「可愛宮の記」より 
2-8.賀茂郡西条町寺家
『芸藩通志』には新宮神社と賀茂神社とは、もとは二社であっ たが、賀茂社が焼失したため、新宮神社と同殿としたと記され ている。 賀茂神社については、神武天皇が日向の国より軍を起こし東征されたとき、中国地方最高の穀物倉である西条盆地に逗留され、 その逗留地である寺家字六日市に神社を造営し御神徳偲び奉っ た。(社殿に西暦3世紀〜4世紀頃と云い伝う)古文書に神の逗留地、即ち神の地より賀茂郡と号したといい、 賀茂の「モ」は「ミ」に通じ神という意味であるという。 また、神山、二神山、橿原などの名称はその旧跡であり、古くは郡内一の大社であったが、旅人の火の不始末によって 焼失したため、その時より相殿と伝え現在に至る。相殿の年代 については不明である。 現在ある手水石は、賀茂神社合祀の際に神武天皇御腰掛石と伝わる石を移したものである。新宮神社由緒より 
2-9.賀茂郡福富町竹仁
橿原神社(現在は森政神社に合祀)由緒
往古神武天皇埃宮に御座すの際、本村に御遊歩被為在御少休の地として現今迄此地名を皇子原と称す 
2-10.葦嶽山 
往古神武天皇が大和地方を御東征の際、府中埃宮に宿せられ、出雲国、事代主命に其の協力方を使者を使わして申し出られた。然るに命は此の申し出を斥け使者を斬らんとして却て使者の為に敗られ、以後絶対に皇軍に背かぬ約束の為に比婆山に宝剣を埋められたといふ。此の時使者は埃宮より本村に出で本村川を遡りて帝釈を通り戸宇、八幡の地を経て出雲に入られたが、神武天皇は本村の吉備の中山の葦嶽まで行幸されたといふ。
神武天皇はこの山で天皇の曾祖母であるイザナミ命の御陵に向かって祭祀したと伝えられている。 
2-11.熊野神社 三次市畠敷町 
口碑伝承
幡次郷元は三次郡一帯なり、神倭伊波礼毘古大洲国の伏め者等を平らげ給ふとして日向高千穂宮より御東征の途に上り給ふ。安芸国に五ヵ年、吉備国に七ヵ年御足を止め給ふ其の間出雲伯伎(北備地方)を御巡視ありて幡次郷に錦旗を止め給ひ兵備の拡充に努め給ふ。之れ幡次の名ある所以にして幡は旗に通じはたしきは後世畠敷と書き現在に及ぶ。
此の地に王の壇と云える方六反ばかりの小丘あり、今は開墾して畑地となり居り、其の上平坦にして屋敷跡の如し。伝え云う此の地に御旗を樹て給へりと、是に依りて後世此の地に神武天皇を奉祀せる者の如し。 
2-12.比婆郡西条町高
今宮神社伝承
神武天皇広島に御滞在中屡時当地方迄御巡遊ある中に出雲方面との関係を生じ当地にその間数度足を止められ御巡察あり。物資を出雲方面より御取り寄せ遊ばさる。為御滞在ありし由。
埃宮に滞在中出雲との関係を生じこの地を数度訪問した。物資を出雲より取り寄せた。と言い伝えられている。 
2-13.比婆郡高野町南
八幡神社 男鹿見山の麓にあり、大昔より鉾を神宝として伝えている。剛風彦といふ人物の案内で、神武天皇が鬼城山の鬼を退治したときの鉾と伝える。
男鹿見山 神武天皇鬼城山の鬼神を退治し賜ひし後、此の山に祭畤を設け祖神を祭り賜えりと伝える
玉来山 此の山の麓に高?宮ありて此処を高島といふ。神武天皇此処に行幸ありて御船を造り賜えりという。
船入置谷 高島の南に男滝・女滝がある。此の滝の間の谷をいう。神武帝ここに御船を入れ置き賜えりと伝ふ。此の周辺一帯を五来谷といふは、神武帝此の地に御来幸ましませしに由る。
鬼城山 此の山に埴土丸といふ鬼神住み、大盤石を積み重ねたる築地がある。上に大澤在り、鬼ヶ池と呼ぶ。沢の中に島あり、其の島に居を構えて数多の賊を養ひ、郷民に害を為すこと頻りなりしかば、神武天皇、剛風彦と云う者を案内人として此の鬼神を退治し給ひ、多くの矢箭剣鉾を獲得し給ひしと伝ふ
氷室山 氷室山の麓を氷家御所といふ。毎年6月まで氷を有する冷山である。往古神武天皇御来幸の砌、6月朔日、氷を捧げ奉ったと伝えている。
この周辺も高嶋という。 
2-14.島根県邑智郡郷の内 
神武天皇はこの山に登り周辺を見渡し、石が多いので、この国を石見国と名づけた。 
3.安芸国埃宮出航後の伝承
3-1.蒲刈島の伝説
太古、神武天皇が舟師をお率い遊ばされ、当地方を御通過あらせられんとする際、三ノ瀬南方梶ヶ浜の沖合にて伊予方面より吹き来る強風のために梶を折られ給ひたるが、時恰も満ち潮なりし為、お舟は矢の如くに三ノ瀬の瀬戸方面へ進んだ。
そして、潮流の関係で、お舟は三ノ瀬対岸向浦の梳山(くしやま)に流れ着かせ給ふたので、早速其の山峯に登りて四方を御展望あらせられんとし給ふに、蒲よく生ひ茂りてこれを妨げ奉りしに依って、其の蒲を刈り取らしめられて御眺めになったものであるから、これより蒲刈と呼ぶに至った。
然る後、この梳山と相対する天頭山との間は昔は海であったので、天皇は天頭山麓の岸辺にてお舟を御修繕の上、三ノ瀬の瀬戸を御通過あらせられて、内海に御出でになって東上せられた。
舟を修繕された地は現在の蒲刈町向の春日神社の地である。 
3-2.豊田郡大崎町大長
伊予漫遊記
越智郡上島の西部に属す御手洗島(大崎下島)と号す地は、野間郡の沖の島を言うなり。此の島は西国より京都へ往来の海路潮待能き船着場なり。往古神武帝皇兄五瀬命を始め、諸皇兄と共に謀って、日向国高千穂の宮を発し、御東征の時伊予の西南部沖の布理島にて宇和の県主宇和彦の子宇和彦命の御迎え奉る船、兵食を調進して海路先導の師を率い、速吸大門を貫き、始めて御船の着せし地を御津(愛媛県松山市三津浜)と号し、その次を風伯の大津と号し、今呼ぶ風早の浦(松山市北条)也。
是より沖の島へ着き給ふ。海路風波烈しき所を今に波妻と呼ばるるは、帝の御言の葉の末なりと言ひ、即ち沖の島に風波を除け給ふ時、王公百官御手を洗ひて大山祇入山祇入野祇、海津見祇を始め総ての天神地祇を幣饌、供日を備へ遥拝し奉る為に、御手を洗ひ給ふ古跡を慕ひ此の沖の島の名に呼ぶ也。皇軍の御船の支船を此沖島へ遣はし置所を指て沖友、王濱(大浜)、帝(三角島)、供日(久比)、王朝(大長)などと呼名今に残れり。
伊予伝説
神武天皇が御東遷の御時、一支隊は四国に向かわれ、温泉郡與居島村泊に御一泊、翌日未明の頃同島の南端、御手洗の海面にて西方高千穂の峰を伏拝み、其れより本土浜の瀬、今の大可賀にお船を着けられたるに、土民はイヨの名に背かず従順なりしかば、直に温泉郡三津浜町大字三津字段の地に於いて平和の御祈念を行われた。 
3-3.豊田郡瀬戸田町名荷
行在所の御址 嶽山の麓に高宮の高地あり。此処の森を「江の森」と称し、神倭伊波礼毘古命を祭る「江ノ神社」があった。ここが神武天皇が暫らく滞在したという行在所の址と伝える。
舟師錨泊の御地 本村の前面に「皇舟島」がある。神武天皇、此の島に舟師を錨泊せしめられたといふ
生石神社 嶽山の別名は五十櫛山(いくし)、江の水門に在り、神武天皇の時、斎串を立てて祭る、因て生石神と名くといふ。今生口島と称するは蓋し訛りなり。
御斎田の跡 幡山の麓に御斎田といふ地あり、古老は神武天皇御斎田の跡なりといふ
大蔵 幡山の麓、御斎田の近傍に大蔵といふ地あり、古老は神武天皇大蔵の跡なりと伝ふ
御井 大蔵の南方の清水という地に古井あり、神武天皇此の地にあらせられたる際の御用水なりと伝ふ
麻原 地名。神武天皇が麻を植えられたところ  
佐野命安芸国内における行程推理
岩国を出航した佐野命一行は厳島の南端須屋浦に着いた。着岸できるところではないので、島沿いに北上し現在の厳島神社の地に上陸した。此処に暫らく滞在し、安芸国を出雲国(東倭)から譲り受けるための作戦を考えた。
当時の東倭の状態
此の頃の出雲国の政治体制は、重要事項は言代主命がスサノオ神の言葉を聞き、猿田彦が其の言葉を元にスサノオ祭祀を行い、政治は出雲国王が行うと云うものであったと推定している。此の当時の出雲国王は出雲朝廷第8代国忍富神(出雲国王は代々大国主命と名乗っていたと推定)と推定されるが、スサノオ祭祀(出雲国造家が代々行う)は猿田彦の娘とタケヒナドリ命の長男・櫛瓊命(出雲建子命・伊佐我命とも云う)が結婚することにより、櫛瓊命が行っていたものと推定する。
東倭は山陰地方・瀬戸内海沿岸地方を領域とする出雲国を中心とした連合国家であり、それぞれの国は出雲国の言代主の言葉によって緩やかにつながっていたと考えられる。各地域の豪族は出雲の神(スサノオ)を崇拝していた。しかしながらどこの世界にも心がけのよろしくない人々もいるように、この頃の安芸国にも人々から食糧を奪取することで生計を立てている人々もいたようである。
また、安芸国はこの当時より30年ほど前、北九州を統治していた瓊瓊杵命が訪問していたようである。このことは速谷神社の速谷神が瓊瓊杵命天孫降臨時の随神の一人の子孫であること、矢野の多家神社に神武天皇が瓊瓊杵命旧跡をたどって来たことなどから推定される。
出雲国から譲り受ける方法
この当時の政治体制は力によって人々を押さえつけていたのではなく、信仰によるつながりであった。そのために、その土地に住んでいる人々に大和朝廷に帰属する気持ちがなければ、出雲国が承諾したとしても譲り受けるのは無理なことであった。譲り受けるために大切なことは、まず、現地の人々の心をつかむことであった。安芸国各地を訪問し、そこに住んでいる人々に協力を要請し、スサノオの国家統一に習って先進技術指導を行う必要があった。
ここまで来る間に、佐野命は各地で信仰している神を祭ってきた。安芸国ではスサノオ命、大国主命である。これらの神を各地で祭りながら、スサノオの娘である市杵島姫の協力を得て、先進技術指導をし、人々の心をつかみ、其の後で、出雲国の言代主に安芸国譲受を願い出る事にした。其の時、人々を苦しめている略奪集団に出くわしたなら、これらを退治する事にした。
安芸国滞在地の変遷の推理
佐野命が安芸国で最初に滞在したのが、厳島神社所在地である。当然其の近くから訪問するはずで、厳島の対岸・地御前に神武天皇着岸伝説地がある。暫らく廿日市市宮内に滞在したようで、其の後、そこから北東方面に海岸線に沿って滞在伝承地が連なっている。其の最北端が広島市祇園の安芸津彦神社の地である。安芸津彦神社にはここから府中埃宮に移ったと伝えられているので、祇園まで海岸線に沿って各里を訪問し人々の心をつかみ、祇園から府中埃宮に滞在地を遷したと思われる。ここが安芸国滞在中の主たる宮地である。
ここから北(芸備線沿線・三次・庄原・出雲国等)、東(瀬野川・西条等)、南(江田島・呉等)に神武天皇訪問伝承地が連なっている。北方面への広がりは出雲までつながっているので、最後と思われる。当時は陸行より水行の方が容易だったので最初は南と思われる。江田島の切串に宮跡伝承があるが、ここでは、宮が洪水に流されたので、府中埃宮に移ったと伝えられている。他の伝承と照合する事により、府中埃宮からここに移り、洪水によって埃宮に戻ったと判断する。
これらの考察により、埃宮後の佐野命安芸国巡幸順は南→東→北であろう。最後の北方面は伝承が大変多く、また、何回も訪問したと伝えられているところも多く、かなり長期間、しかも複数回訪問しているようである。
埃宮の西・東・南方面は市杵島姫も訪問したようで市杵島姫の伝承を伴っている地域が多い。また、大分系土器の出土を伴っているので、宇佐から市杵島姫が伴ってきた人々が先進技術をこの地域に伝えたものであろう。
安芸国にやってきた市杵島姫は佐野命とは行動を別にしていたと思われる。というのは、「新説日本の始まり」によると、市杵島姫の最初は大土山でそこから色々と変遷し最後が宮島となっているからである。佐野命が埃宮を建てたとき、市杵島姫は其のまま三篠川を遡り、大土山に達しここを拠点として活躍したのではないだろうか。
安芸国を出雲国から譲り受けるのに成功した後も、佐野命は安芸国内の巡幸を繰り返し人々の生活の安寧を祈った。安芸国内が大和朝廷の管轄としてほぼまとまったので、近臣を役人として配置し安芸国の運営を任せ、埃宮を出発する事にした。この役人は大和朝廷成立後も暫らく滞在して、古事記に神武天皇安芸国滞在7年とあるのは、この役人のいた期間ではないかと考えている。
以後伝承其のままに、佐野命の安芸国における行動をまとめてみることにする。
宮島から宮内へ
安芸国内における行動の計画が固まったので、佐野命は宮島を出航することになった。対岸に渡り地御前の有府水門に舟を付けた。佐野命自身はここから衣越をした。この時、土地の人々が高旗山で旗を立てて歓迎してくれた。其のまま陸路を宮内村に入り、戸柿山の麓に着いた。ここに舟を繋ぎとめ、御手洗川に沿って遡り、宮内の大幸の地に宮を造った。此の地にスサノオ命を祭り、ここを基点として周辺の人々に協力を願い出た。このあたりで安芸津彦と出会ったものと考える。
宮内から埃宮へ
周辺の人々の協力を得られたので、次の地へ移動することになった。海岸に沿って東北に移動し、八幡川河口の口和田で祭祀を行い、今の井口大歳神社の下に着岸した。ここから陸行し、草津八幡神社の麓まで着き、此処に宮を建てた。この宮を多紀理宮という。暫らくして周辺豪族の協力を得られ、陸路東北方面に移動し、新宮神社の地で祭祀し、更に海岸線を東北に進んだ、今の西区新庄町あたりの天王山に宮を造り周辺の豪族に協力を求めた。
更に東北に進み、今の広島市祇園あたりに着いた時、安芸津彦の勧めで近くの火山でのろしを上げることにより、協力者を募った。多くの人々の協力を得られた。
多くの人々の協力が得られたので、安芸国滞在中の拠点となるべき宮を造るために、府中町の多家神社の地に向かった。
佐野命は港の榎木に御船を繋ぎ上陸し、住民の案内で水源を確保した。此処に大国主命を祭ることにより人々の心をつかみ配下の者どもを周辺に住まわせ、此の地に本格的な宮を建てた。埃宮という。此処を拠点として安芸国巡幸することになった。
呉方面巡幸
江田島の切串の住民が佐野命のために仮宮を造って訪問を要請してきたので、是を機に広島湾内の島嶼部の巡幸をすることとなった。まず、江田島周辺を巡幸、次に海を渡り天応に着いた。天応にも仮宮を造って滞在しているとき、呉に賊が出ると聞いたので、呉を回り賊退治を行った。巡幸が終わり切串に戻って暫らくした頃、洪水に襲われ、宮が流されてしまった。其の後佐野命は埃宮に戻った。
賀茂台地巡幸
瀬野川の川上に賊がいるという話を聞いたので、五瀬命はまず、瀬野川沿いに遡った。瀬野の生石子神社の地に陣を張って、賊退治をした。佐野命はそこからさらに遡って賀茂台地に進出した。この当時、賀茂台地には、多くの集落があり、かなり長期間に渡って方々を訪問していると思われるが、新宮神社の地と橿原神社の地ぐらいしか伝承が残っていない。
可部方面巡幸
太田川支流の帆待川を遡り、可部の舟山に着岸した。天王社の地に仮宮を造り、暫らく滞在した。周辺の豪族を訪問し協力を要請し、恵坂まで行き、近くの螺山に登り周辺の地理を知った。周辺の豪族の協力が得られたので、埃宮まで戻ってきた。
北部地方巡幸
広島県北部地方は芸備線に沿って神武天皇を祭った神社が分布している。この経路に沿って佐野命の巡幸があったものと考えられる。
埃宮周辺の巡幸が終わり、一帯の豪族たちの協力が得られたので、いよいよ北部地方を目指して巡幸をすることになった。太田川を可部まで進み、壁から現在の国道54号線に沿って梶の谷川を遡り、江の川水系に入った。川を下り宮之城に宮を造った。埃宮神社の地が宮跡である。伝承では三年ここに滞在したことになっている。この周辺はその昔スサノオ命が滞在した処で、スサノオ信仰が特に強い。佐野命も特に時間をかけて周辺の豪族の協力を得たものと思われる。
大土山に市杵島姫が宮を造ったのはこの頃ではないかと思われる。
佐野命は続けて三次まで進出し熊野神社の地を拠点として周辺の豪族を訪問した。この時、江の川を下り、邑智郡郷の内を訪問した。その後庄原の本村に拠点を移し葦嶽山で比婆山の曾祖母であるイザナミ御陵を崇拝した。山頂から神武岩を見た時、その方向は御墓山の方を向いており、ここでいう比婆山は御墓山のことであろうと思われる。
県北全体の豪族の協力が得られたので、いよいよ出雲国の言代主に使者を送る事にした。使者の通った経路は葦嶽山から本村川を遡り帝釈を越え戸宇から八幡越えで出雲に渡ったと伝わっている。この経路は通常出雲へ向かう経路とは異なっている。この経路を延長すると、道後山沿いに鳥取県の日野川流域に入ることになる。この方面に行くとなれば、御墓山を経由して島根県の飯梨川流域に入りそこから出雲国の中心地と思われる意宇郡に着く。おそらくこのコースで言代主の元にたどりついたものと考えられる。コース上に御墓山があることから、この使者は御墓山に参拝していると予想される。
佐野命の使者を迎えた言代主は、「安芸国を譲れ」という言葉に激怒した。西倭と日本国の合併には東倭は参加しないが大和朝廷の運営に東倭は協力をするという話しはできていたが、安芸国を譲るというのは寝耳に水である。言代主が怒るのも無理はない。言代主は激怒して使者を追い返したのであった。
今度は佐野命自身が言代主を訪問して安芸国譲渡を願い出た。最初は拒否していた言代主も佐野命の説得により安芸国を譲渡する事にした。その証として、宝剣を渡し、比婆山に奉納した。出雲国が安芸国を朝廷側に譲渡したという証となる物(銅剣?)を佐野命に渡した。佐野命はそれを安芸国内の豪族に配ることにより、安芸国内の人々に朝廷側に譲渡が為されたことを承知徹底したのであった。このために出雲との間で物資交流が必要となり、出雲を何回も往復する必要が出てきた。そのなかで、比婆郡西城町高から高野町南を経由して島根県の仁多へ出る経路が開かれ、この経路を使って往復することとなった。
その経路上の高野町南に賊が出るというので、佐野命自身族退治をすることとなった。鬼城山の鬼は佐野命によって退治され、出雲との交流路は安定的に確保された。
埃宮出航
安芸国の譲渡も無事に成功し、国内もほぼ安定したので、役人を残し、出航する事にした。この役人はその後7年間安芸国に滞在していたと思われる。呉から早瀬の瀬戸を抜け倉橋島の南を周るのに3日ほどを要した。倉橋島の南岸で一支隊を大崎下島の大浜で合流することにして、四国方面に向かわせた。四国にも航路の拠点作りが必要だったためである。佐野命一行が4日目蒲刈島の南を航行している時天候が悪化し海が荒れて、舟の舵が折れてしまった。舟は南西からの風にあおられて三ノ瀬方面に流され蒲刈の梳山に漂着した。早速山に登り四方を眺めようと下が蒲が邪魔だったので、刈り払うと見晴らしが良くなったのでこの島を蒲刈と呼ぶことになったそうである。梶の折れた舟は向の春日神社の地で修繕した。蒲刈を出航した舟は大崎下島の大浜に着岸した。島沿いに東に進み大長に宮を構えた。
倉橋で四国へ回った一団は與居島の泊に停泊し、次の日早朝南端の御手洗から高千穂を遥拝した。そして、松山市の三津浜に上陸し、北条、今治と経由した。
大長を出航した一団は大三島に着岸していると思われるが伝承は残っていない。大三島の北岸を通過し次の日生口島の名荷に着岸した。この島の嶽山の麓に宮を造り長期間に渡って滞在することになった。島嶼部の集落を訪問し、瀬戸内海航路の拠点作りのためであると思われる。この島では麻を植えたり、陶窯を作ったりしているので、先進技術供与とともに、長期滞在したことが伺われる。
四国方面を巡幸した一団との合流を考える時、何日で合流できるか当時においては予測しにくい事もあるので、合流地点では長期間滞在する必要がある。合流地点は大長ではないかと当初考えていたが、大長は神武天皇滞在伝承に乏しく長期間滞在したとは思えないので、滞在場所は名荷ではないかと考えるのである。
名荷では、周辺の拠点作りと共に、四国に行った一団との合流を待つために、長期滞在したものと考えられる。30日前後の滞在ではあるまいか。四国を訪問した一団は今治から大島、伯方島、大三島をを経由して生口島の名荷で佐野命一団と合流した。
佐野命東遷団は四国からの一団と合流し、名荷を出航後いよいよ吉備国に入った。 
神武天皇東遷経路 (吉備国/高島宮)

 

吉備国は安芸国と異なり内陸部に神武天皇関連伝承地がなく、沿岸部か島嶼部に伝承が集中している。その伝承はかなり近い島伝いに連なっており、多くの島々で長期滞在している様子が伺われる。交易航路の拠点作りのためと思われる。
安芸国埃宮を出航した佐野命一行は航路上の島々で、交易航路の拠点作りをしていった。そのために、方々の島で長期間に渡り滞在している。そのほとんどが高島宮址と言い伝えられている。伝承を元にその過程を追って見ることにする。
参考文献 神武天皇聖蹟誌、広島古代史の謎
1.斎島神社 因島大浜
因島 昔、神武天皇東国に行かれるとき、風波の為航海ができず、この大浜に船を留め、寒崎山にて数日嵐が鎮まることを天神に祈られた。即ちこの島は斎島(いむしま)訛って因島である。<斎島神社由緒看板より>
神代石鍋 銘に曰く 寒崎山斎島神社の山腹に皇座の跡あり、之を修繕する時、土中より井でし古器なり、鑑定者をして之を評せしむるに千年以上の器なりといふ。想ふに当時の祭儀に用ひしものならん
御座石 当社神門脇山腹に在る天皇松の下に御座石と銘ある石有、石面には御座石、神亀4年11月と刻み有、傍らにも石建てありてその石面には大皇座石右肩に海上安全御神、左下に本地とあり。
神武天皇御東征の砌、此の地に御上陸寒崎山に上座の折この場所にて御憩ひ給ひ尚御誓なされたりと、即ち該石に御腰を下ろさせ給ふたか或いは石上に玉歩を印せさせ給ひしにやその辺は詳らかならざるもいずれにしてもこの石に玉体を憩はせ給ひしことは違ひなしと口碑せらる  
2.尾道市高須
高須 元タカシマと称す
大元山 高島宮址と称す。南面に八幡宮があり、神武天皇を祭っている
大元神社 伊弉諾尊・伊弉冉尊を祭る。神武天皇御東征の砌御祖神を奉祀せられたと伝ふ
此の地は元神武天皇の宮址と称せらるる高島神社ありしを字阿草に遷すと伝ふ
木之本神社 大元神社殿内にあり、五瀬命を祭る
加茂神社 字神田にあり、神武天皇が星御弓の行事を行われた地と伝える。
境内に高嶋宮跡との石碑あり。神武天皇は大元の地からここを度々訪問したと伝えている。
神原 字太田を指すが、神武天皇の兵站地として再々御巡幸ありと云ふ
千畳屋敷・風呂井戸 王師の駐兵地であったと云う、井戸は水質良く又酷旱の際にも枯渇せしことなし
穴倉屋敷・大将軍屋敷 上浜一名神浜といひ行宮も一時置かれた地に当り武器庫址なりと
弓細工 弓矢その他武器製造所ありしと  
3.柳津周辺 
潮崎神社 祭神神武天皇で、神武天皇御東征時ここに御船を着かせられ艫綱を大柳木に繋がれしかば後に柳津と名づく。帝はここより御上陸し給ひ宏壮なる宮居を御影山上に構へ舟楫を修め兵食を整え給ふこと三年に及ぶ
御蔭山 現在は竜王山と呼ばれて、航海における目標とされてきた山である。山頂が神武天皇宮址と伝えている。
磐田山 神武天皇駐蹕地と伝える
貴船神社 柳津村の起源と云ふ柳樹の址に祀られたものと云ひ、神武天皇・素戔嗚尊及椎根津彦命を祭神とすとも云ふ。この傍に「岩の井」とて告旱にも涸れぬ冷水がある。
口の巖 御蔭明神祠を下る南方、字鳶の素にあり、岩石累々たる所、里俗、崇神天皇7年天社として創建せられた高島宮址遺跡と伝ふ。大小幾多の巨岩大石が種々の配位を構成して環状石離とも称せられている。
神王屋敷 山頂より西方、神武天皇御在山の砌、御住居の地と云ふ、付近「神ノ池」がある
王人の巖 神王屋敷の側にある。縦横十余尺の平らな巨岩で柱穴と見るべき数箇所が長方形に配列されており、神武天皇御行宮の砌宝剣を奉祀された所といふ。此の王人の巖から浦崎村戸崎の嶽明神まで神武天皇飛び給ふたと云ふ里伝がある。
物見御座所 山頂より北側にあって名方浜・穴の海一帯を一望に収めうるが御蔭山と対峙する磐田山にある「天津磐境」の御拝所と伝ふ
辺防地 神王屋敷の西方、尾道湾・松永湾を隈なく俯瞰しうる景勝の地であるが、西方に対する見張り所なりと
城の坊 山頂より下る東南方、東・南方に対する監視所なりと
天津磐境 巨岩でできた祭祀遺跡、里伝に上代神武天皇御行宮の砌、天神を斎ひ祀られるために設けさせられ、その下方を御供人の墳墓の地とせられたと云ふ
現在岩田山神社として祭られている。祭神は神武天皇
神武天皇が天地神祇を祀り大孝を立てさせられたと共に天業恢弘の御成功を祈らせ給ひし地である。
祭壇巖 天津磐境と相対する南方三町に在り、上代民族は此の地より天津磐境を拝し、祭事し、祖廟拝所として大切な場所となっていたといふ
一説に、此の平巖の側は、往古大木が取り囲み「天津神籬」として祭った地とも云ふ
鏡山 神村に属し、伊勢宮鎮座の地であるが、神武天皇御影小行宮の節、御宝八咫鏡を奉祀せられたと伝える。因みに鏡山、神村の地之によると。
一説によると、ここに伊勢宮が祭られたのは、崇神天皇の時代という。
勝負岩 岩本池東方高地の西南端に吃立する大磐石で、神武天皇楠樹谷における皇師の訓練をみそなわせられし跡なりと。
勝負原 磐坐の北方山麓一帯をいひ隼人の訓練場也と
王太子社 平田に在り神武天皇を祀る・潮崎神社を神事を同じくする
森御前 森下曽根にありて、伊弉冉尊を奉斎しこの神平岩(天津神籬)を背負ひて登りたりと伝ふ
鎮神社 現伊弉那岐神社。奈良木にありて伊弉諾尊を奉斎し此の神立岩(天津磐境)を背負ひて登りたりと伝ふ 
4.浦崎
高島 今は半島であるが、江戸時代初期までは島であった。
王太子神社 高島中央部の山を高山といい、その中腹にある神社。神武天皇・忍穂耳命を祭る。天皇の駐蹕を伝える。
嶽神社 戸崎の海岸に在り。神武天皇御上陸地と伝える。
神武天皇高島に8年坐す時、ここに行幸され、御安休被遊候旧跡にて、御腰掛岩・足形岩が伝わっているという  
5.田島
皇森神社 王太子宮ともいい吉備高島宮址と伝える。
内浦 往古は内裏と書く由云い伝ふ。後世に至って内浦と書くが如し神武天皇行宮の跡ならんか。高島の宮之なり
磯間浦・内裏浜 内裏浜は王太子宮所在地の浜であり、磯間浦は内浦湾全称である。
神武天皇は船軍の掛引梓弓を磯間の浦に調練させ給ふ。内裏磯んい高殿を設け叡覧あらせて、船軍の監護をさせ給ふ。
口無泊 田島字馬場崎と阿伏兎との間の海峡より北方一円の称である。西方から此の辺りに舟を進めると出口がないように見えるので此の名が付いた。
神武天皇御東遷の際、安芸から沿岸を辿って田島の幸崎と字敷名との海峡を通過した給ひしとき、出入りの口無しと思召して、先御船を田島の沿岸幸崎に寄せさせ、それより上陸させ給ひ、黒越を越えて内浦に行幸ましまして、御船を永く磯間の浦又はその付近に泊めさせ給ふたと伝ふ。
幸崎 之は西のほうなる瀬戸にて、之を渡れば陸地なり。敷名と云ふ。神武天皇の彼地へ渡らせ給ふ所なりと伝ふ
俎の瀬 往昔磐余彦尊、宇内を易く平げさせ給ふとき、天地の神を祭り給ふ跡今に在り。足玉鉾六合と云ふ岡ありて真名板の瀬は、その砌百味をひもろぎに調せさせ給ふ所なり。
六合 行宮を作らせて坐す間に、天都神、地都神を祭り給ひしところを六合の岡とぞ云ふ。その所に二柱御祖の神を玉矛の神と祭る璽の石なんある。
箱崎 卯の方に運ひ崎と云ふ所あり。俗に箱崎と称す。これは神武天皇国民に仰せて、御船、物の具、御貢を運ばせ給ふ所と云ひ来たれリ。
小用地 神武天皇の供御に奉る御用魚は専ら此の地で漁獲せられしと。
大越 神武天皇の大御船を舁ぎ磯間の浦からここに越給ふたと里俗は伝ふ
大浦(王浦)・天迫 神武天皇の仮宮在りし地なり、王の浦は神武天皇の居所より発すと伝える。天迫は大浦の奥に連なるが天皇の居所あるいは近臣の住居とも云ふ
天皇神社
天皇の浜
天皇畑
天皇の洲 島の南頭西面に昔より天皇社あり。神武天皇を祭りたり。その地名を天皇の浜と云う。茲に祀り来りたるも蓋し縁由あり。此の地の西南昔より海人の多く漁する所にして、遥かに伊予讃州を見渡し、海上渺茫として好景を極めたり。天皇此の地を愛し給ひて、仮宮を造り、時々ここに行幸あって、山海の風景、海民の網引するを叡覧し給ひし所と見えたり。今に至ってなお漁労の名所とす。
神武天皇時々出でまして、横なる島の海士人、網引するを叡覧あらせ給ふ所を天皇の浜とこそ云へ
御手洗川 内浦近く字迎開地にあって、今は跡を留めぬ。大畑部落に1ヶ所、南部落に1ヶ所あって、何れも名の如く天皇御手を洗はせ給ひしと伝ふ
矢の島 矢の島は東部口無ノ瀬戸(阿伏兎海峡)の出入口にあって、田島村の属島である。周囲6町余、全島殆ど竹条(矢竹)で藪はる。この竹は節が至って低くて、幹は肉身厚く、殊に真直であるから、矢を造るには最も理想の材料である。神武天皇田島に御駐蹕ましましし時、この島の竹を以て、御東征の武器として必須の箭矢を作成させ給ふたと伝ふ 
6.沼隈郡田尻村
福山市芦田川河口の田尻町に高島と云う字がある。この周辺は昔島であり、ここに神武天皇が滞在したと云う伝承がある。
高嶋 神武天皇東征の御時に此島に御行在三年なりしも、子洲は神代の因あるに、此にして粮整へ軍器調へ、一挙に天下を定め給ひし根なる故、「武の島」と言ひしを、武、高と音通し、高嶋と唱へしなるへし
竹ヶ端 屋敷奥と称せしを明治9年竹ヶ端と称す。神武天皇宮址と伝える。建部神社あり、是神武天皇を祭祀せり。(中略)此地天皇在時には茎の黄薇を生じ、土人黄光(キテル)命是を献じ祝し曰是八州平定の御瑞なりと是黄薇後吉備の名目の起る所なり。
高濱 高濱に字御舟入と云う地あり、是天皇御繋舟の地なりと。纜石と称するもの今田圃中にあり
王ヶ峰 王ヶ峰は西部にして御舟入の処今村社の後峰なり、是天皇上陸の際此峰頂に上り遠眺したまひ処と云ふ。王ヶ峰の名称まことに尊し、村社今は八幡の宮と云ふ。古は専ら武ノ宮と称し神武天皇を祭祀せり。
宮原 宮地の処と伝える。古橿原神社在りしも、八幡の宮に合祀。
蓑島大明神 神武天皇行宮給ひし宮崎の地  
7.笠岡市高島
大和へ御東征の神武天皇様が瀬戸内や中国、四国地方平定の本拠地として御滞在なされた高島はそのまま自然の要塞でした。海は巨大な濠であり、東の高い山と南の急峻な崖は外敵の侵入を拒み、北に突き出た地形とあいまって北の神島連山や西北に横たわる明地島、差出島に囲まれ台風や強い西風など、自然の猛威から護られ緩やかな潮の流れは紀伊水道と豊後水道の合流点に位置し、部下たちの駐屯する神島や陸地部との最短距離に在り、全ての条件のそろった良港でした。
港から南の山へと緩やかに登り広がる平地と豊富な水は人が住みやすく、植林前の低くそろった山並は鷲羽山のように明るい山並が頂上に連なり縦横無尽に峰伝いに掛巡れました。峰峰に立てば島内は無論はるか水島灘、沖島、四国連山は一望のうちにあり、踊り石(石舞台)を中心に東の占石、西の子妊石、南の雨乞石、北の壷埋山の石は、見張台や狼煙台となり、変事は即時に伝わり、海辺には四隅楼石を配し、外敵への守りに備えました。当時の高島は風光明媚と金城鉄壁を兼ね備えた堅牢無比なまさしく王者の城であったことが想像されます。発掘調査による住居跡や多数の出土した土器や、明地島、差出島にまで及ぶ古墳など、神島や陸地部に伝わる神武天皇様縁りの地名伝説も数多くあります。
最近、壷埋山古墳群発掘中高貴な象徴とされる亀形天井石が発見され笠岡市で調査中です。先祖から代々語り伝え継がれた神武天皇様伝説は真実と私どもは信じています。<高島案内板より>
王泊 神武天皇様が御泊になられてから王泊の地名が付いた。発掘調査で多量の土器出土す。
高島神社 祭神神武天皇
神籠 天皇お手植えの榊と伝えられ、根元胴回り27mの巨木70年前に枯れ、現在3代目
真名井 天皇が天津神にお供えしたといわれる泉。山の中腹にあり大旱魃にも湧き出る霊泉
鳥居 伊勢神宮の形式で神明鳥居という最高格式。海岸と山頂に存在
行宮遺祉碑 神卜山上に大正8年建立。高さ7.3m重さ225頓の巨石。山頂の占石で吉凶を占ったと伝う
コトース 神官の住まれた所
本高須 天皇が政務を執られた所
内高須 皇后女官たちの住まれた所
子妊石 子孫繁栄五穀豊穣祈願をした石、重さ300トンの巨石は三箇所で精微な技法で設置され、天項女神のスリットは天目岩を指針
天目岩 天皇が天体を観測された。高さ36m上部3坪といわれる。安政の頃幕府の台場用材として切除され、痕跡が干潮に出現
稲積島 鼠害を避け稲を積んだ島
唐臼米子 稲を米にして保管する
壷埋山 御用済みの土器を埋めた所
窓石 天皇が刀を磨かれた場所
草刈 草を刈り払い上陸した場所
黒土 草木を焼き上陸。黒い土が地名になった。
船堀 緩やかな凹地が奥へと続き船を造ったと伝えられている。
武が浜 武事を練り外敵に備えた場所
四隅棲石 警護番所が四方にあった。
月出が崎 天皇船で月を愛でた所
神島神社 高島の向いに神島がある。現在は本土と陸続きであるが当時は島であった。高島の対岸に位置し、高島の方を向いている神社。もとは高島の王泊にあったが、本土の現在地に遷座したものであるという。
祭神は、神武天皇と、その妃である興世(おきよ)姫命で、妃興世姫命は、部下を率いて駐留され天業を扶翼し奉りて此の地に崩す。近郷住民は、高き尊き御神徳を畏み奉りて一大崇敬産土神と斎き奉る。と伝えている。 
8.岡山県倉敷市児島塩生
大字塩生字高島と称する島嶼の頂にある高島神社(現産土荒神社)の小祠付近が高島宮の遺址と伝えられている。 
9.児島郡宮浦
岡山市の児島湾・百間川の河口付近に浮かぶ高島がある。今は無人島であるが、島の最高所には磐座があり祭祀が行われた形跡がある。この島の南端に高島神社が鎮座している。ここが高島宮址と伝えられている。南向こう岸には宮浦という地名があり、そちらを向いて建っている。
宮浦には竹島神社が鎮座しており、此の地も高島宮址と伝えられている。
懸幡神社 神武天皇御東征の際、富島の宮から吉備の奥津方面に荒振る神がいると聞いて、平定しようとこの里に入られた時に、山の峰に御旗が懸かっており、その旗には武甕槌命、経津主命の御名があったので、この地を懸幡といい2柱の神を奉祀したと伝えられている 
10.上道郡高島
岡山市賞田、龍の口山の南麓字高島の鼻の高島神社の地が神武天皇行幸の宮址と伝えている。 
11.安仁神社周辺
安仁神社 五瀬命が数年間この地に滞在し、神武天皇が即位の後に五瀬命ら皇兄たちをこの地に祀って「久方宮(ひさかたのみや)」と称したのが起源としている。御祭神は五瀬命・稲氷命・御毛沼命等である。この社地は、宮城山(みやしろやま)、別名鶴山といい、元宮は標高80メートル位の頂上にあった。
幸地山神社 幸地山は「いでましどころ」と称し、天皇行幸地の意で、神武天皇御東征の時、御船を停め山の南端鳥越から、景色を眺望された所である
麻御山神社 御鎮座の山を麻御山という。神武天皇の御東征に御供をした者が、天皇が吉備の高島に御滞在のとき、詔によって斎服を調進するため、ここに麻を植え紡績なさったのがもととなって奉斎した神社である
綱掛石神社 主祭神である五瀬命が近在に初めてお越しになったときに付近は深い入り江で、船の艫綱(ともづな)を掛けて停泊した石が後年、信仰の対象となったといわれる。現在は安仁神社から東南の山頂に社殿が所在する。周辺には環状列石らしい磐境(いわさか)があり古代の祭祀跡とみられている。この地より高島が一望できる。
亀石神社 安仁神社の2km西にある。
神武天皇が吉備の高島ノ宮を出発し、速吸門(はやすいのと)に来た時、大きな亀にのった釣り人が現れ神武天皇の案内をし、そのときの亀が岩となったと伝えられる亀石(かめいわ)を御神体とする神社である。 児島湾の出口付近、吉井川河口の東の入りこんだ水門湾に面した所に鎮座し、通称亀岩様として親しまれている。神社の御神体は、亀の形をした岩で長さ1.8m、高さ1mあります。亀岩様の由来は、神武天皇がご東征のとき、水先案内をして神が乗った大亀の化身であると云われている。
神前(かむさき)神社 猿田彦、今は珍彦命という、導きの神様をおまつりしてる
伊登美宮 安仁神社の南側丘陵上に位置する神社。「伊登美」とは「営み」の字訓の転で、かつて五瀬命に付き従う将兵が兵舎を営んだ地点との伝説が残されている。
伊登美宮は屯集宮の義で、神武天皇の御東遷の時、従い奉った将士の駐屯した処で、幾多の神を祭る社である。
松江伊津岐神社 安仁神社の末社で、北西の岡山市邑久郷に所在する。古い説話によると、吉備穴海(かつての海岸線)の波打ち際に船を留められた五瀬命は、地元住民たちの饗応を甚く気に入られ去り際に自身が用いた松材の箸を砂浜に刺して根付いた松が後に信仰の対象になった。
邑久郷はもと太伯(おほく)の郷と言い、神武天皇御東征の砌、皇兄五瀬命、若御毛沼命(神武天皇)日向より海路吉備高島を経由、この太伯の海に到りて兵食を備蓄し舟櫂を修補した。大御船を待ち齋奉れる古跡である。松江は待江の義である。
乙子神社 乙子城山に鎮座する神社である。この山は往古角岬と称え、西南とも入海になっており、東方から4キロメートル余り突出している。祭神の若御毛沼命(神武天皇)は五瀬命(安仁神社)の御末弟であって、乙子大明神と尊称し奉った。 神武天皇が御東征の際、この山に御登臨されたとも伝えられている。 
12.家島
神武天皇が東征の時、海があれ、嵐を避けるために家島に御寄港した。島内に入ると外の嵐がウソのように波静かで、まるで自分の家にいるようだったことから、「家島」と名づけられたと伝えられている。
家島は、古くは、国生みの島オノゴロ島、胞島(エジマ)と呼ばれていた。その後家島と呼び名を変え、瀬戸内海の海上交通路の拠点、潮待ち、風待ちの非難港として栄えてきたともいわれている。
「播磨鑑」には次のような説話が伝えられている。
「白髪長髪の翁が、亀の背に乗り、沖で釣をしていると、吉備水道を抜け出て来た船団が播磨灘に向かってやってきて、翁がこの海に関して詳しい事を知り、翁に道先案内を頼みました。船団は、家島に滞在し、船の修理や、兵士の訓練、食料の補充をして数年間がたちました。そして、翁の案内で、摂津へ旅立ちました。難波について翁は手柄を褒められました。翁の亀は、忙しい主人をおいて、先に難波ヶ崎から家島に帰ってきました。」
この話は神武天皇の東征時の説話といわれている。 
13.室津 
室津は神武天皇が東征の折、先導役の臣下らがおおい茂った藤やかずらを断ち切って天皇の上陸地として開いた港と伝えられ、播磨国風土記に「此の泊(とまり)風を防ぐこと室の如し」と記されたことが、室津の名の由来となった瀬戸内海有数の天然の良港。 
14.日岡神社
主神の天伊佐々彦命が、神武天皇東征の時、印南で天皇をお迎えして、祖神の豊玉比売命 と葺不合含命(ふきあえずのみこと)にお願いをするようにおすすめになり、その力添えを得て周辺を跋扈していた荒ぶる神をたいらげたと伝えている。このあたりまでが古代吉備国といわれている。 
15.明石 
堅田神社(神戸市西区平野町黒田)の伝承 神武天皇一族が明石川を船でのぼり、このあたりに水田を開いた。そして、一人の皇子を残して天皇は東の大和へ向かったと伝えている。境内に神武天皇遙拝所あり。また、近くの春日神社には神武天皇を祀り宇留の宮(うるのみや)としたとの伝承が残されている。
倭宿禰命は海部宮司家の四代目の祖で神武天皇が御東遷の途次、明石海峡に亀にのって現れ、天皇を大和の国へ先導したといわれ、 さらに、大和建国の功労者として倭宿禰の称号を賜ったと丹後籠神社に伝えられている。 
16.生国魂神社(いくくにたま)大阪市天王寺区生玉町
神社略記によれば神武天皇が難波津に到着時石山碕(大阪城付近)に生島、足島神を祀ったのが創祀であるとしている。この石山はかっては磐舟神社があり、饒速日命の降臨の地ともされていた。難波の聖地であった。豊臣秀吉の大阪城建造にともない現社地に遷った。 
吉備国高島宮での神武天皇の行動
生口島の名荷を出航した一団はいよいよ吉備国に入った。生口島から因島沿いに向島から松永当りへの航海を考えていたものと推定されるが、因島沿いに北側を航行中悪天候に見舞われ、大浜の斎島神社の地へ緊急避難として上陸した。この日の航行は10kmほどである。天候回復を待ったがなかなか回復しないので、寒崎山の中腹で天候回復の祭祀を行った。まもなく、天候が回復したので、出航することになった。
福山周辺での長期滞在の目的
大浜を出航した後、次の滞在伝承地は尾道市の大元神社である。交易経路の拠点作りのためとしては、この滞在地は北に偏っている。この次の御蔭山の滞在は相当長期間と思われるが、おなじく、交易経路からは少しずれている。この周辺での長期滞在は何を目的としているのであろうか。
佐野命の経路は伝承地を繋ぐことにより尾道市大元神社(高須宮)→御蔭山→浦崎→田島→田尻と推定される。伝承から推察して滞在が長期間に渡ったと思われるのが御蔭山及び田島である。御蔭山ではその向かいの磐田山中腹で大規模な巨石祭祀(天津磐境)をした形跡があるので、祭祀が目的だったように思える。田島はどうなのであろうか。伝承を見る限りでは当初滞在する予定ではなく、海路を誤って上陸し、そのまま長期滞在したように見受けられる。しかし、そのような無計画なものとは考えにくい。
そこで、考えられるのが福山市の鞆である。ここはスサノオが瀬戸内海沿岸地方統一の拠点としたところで、統一後も出雲国との交流の拠点となっているところである。出雲と瀬戸内海沿岸地方との交流は芦田川⇔斐伊川流域の経路で行われた事が伝承上残っており、また、この流域に出雲系土器の出土が多いことからも推定できる。鞆地方は当時の東倭の瀬戸内海沿岸地方における一大拠点であったと推定される。しかし、鞆周辺には神武天皇関連伝承が多いのであるが、その中心地とも思える鞆には神武天皇関連伝承が見当たらないのである。
成立後の大和朝廷にとって東倭との関係は友好関係でなければならず、また、北九州を開しての海外交易も重要課題である。これらのことを総合して判断すると、この鞆周辺の人々との友好関係をしっかり維持しながら、拠点を作っておく必要があることがわかる。大和朝廷としては、東倭を支配するわけではないので、その中心地と云うべき鞆は聖地として残し、その周辺に交流拠点を作るのが最も良いと思われる。そして、周辺の人々の心をしっかりとつかんでおく必要がある。当時の人々の心をつかむには祭祀と生活の安定である。
当時の西倭(日向連合国)は海外交易の拠点を確保していたので、東倭(出雲連合国)よりも海外の先進技術を多く持っていた。その関係で、この周辺に長期滞在しながら周辺の人々に先進技術を伝えたとも考えられる。それが、田島への長期滞在ではあるまいか。田島から鞆までは海上5km程なので、1日で往復できる位置にある。佐野命一行は鞆からそう遠くない滞在地を探して航行している時、田島に上陸したものと考えられる。佐野命は、田島に滞在中、鞆の人々に先進技術を伝えたのではあるまいか。
祭祀に関しては、巨大な祭祀施設であるほど人々の心はつかみやすいが、ここは、東倭であるので、中心地域にその施設を作るには憚られ、その周辺に巨大な祭祀施設をつくる必要がある。場所選びも適当な場所とは行かず、慎重に選ばなければならない。また、祭祀施設を建設するための資材確保も重要である。それを鞆の西側(訪問する前)に作る事により、鞆の人々の心をつかむことを考え、佐野命は松永湾に船を進めたのではあるまいか。そして、祭祀施設建設地探しと資材造り、人材確保のための拠点として大元神社の位置を選定し、そこに滞在中に建設準備をしたものと考えられる。その工場のあったことを示すのが、尾道市の高須周辺の伝承であろう。そのために、佐野命は大元神社から此の地をたびたび訪問しているものと考えられる。
それでは、田尻への滞在は何を目的としているのであろうか。田尻地方は芦田川河口にあり、当時の高島は西側に平坦地がありここに宮址があるが、東側(河口側)にも宮址がある。東側の宮址は現在の武宮神社の地で、宮址と云うにはかなり狭い場所である。主たる滞在地は西側と考えられるので、東側は航路の監視に目的があるように思える。成立後の大和朝廷としても東倭との交流は重要なことであり、その中心地出雲との交流も重要であった。大和から来た使者の滞在拠点は鞆の東側であるこの近辺が拠点となる必要があろう。これらのことより、田尻に滞在したのは、大和朝廷成立後の東倭との交流拠点確保のためと考えられる。実際に、大和朝廷成立後(弥生時代後期中頃以降)、芦田川流域から、三次地方にかけて出土する外来系土器が出雲系から畿内系にかわるのである。これは、朝廷成立後出雲との交流は大和朝廷主体で行われていることを意味している。その拠点が田尻の地であろう。
佐野命も東倭をいずれ大和朝廷の支配下に置くことは考えていたであろうから、その下準備を兼ねて、この地方と大和朝廷との交流は活発にしておく必要があったのである。
天津磐境の建設
佐野命は福山周辺に巨大祭祀施設を作ることを考えていた。資材確保、人材確保、場所の確保と問題点は山積みである。因島の大浜を出航した一団はこれらの確保を目的として準備に最適の場所を探しながら向島の南岸沿いに松永湾に入って行き、尾道市高須の高須八幡神社のある丘陵の南端に着岸した。この着岸地に宮を造りここを拠点とした。此の地に現在大元神社がある。この日の行程は海上約13kmである。
佐野命はここを拠点として巨大祭祀施設建設のための人材・資材・場所の確保に向けて行動した。ここから、南西に1.2km程離れた処に加茂八幡神社がある。この周辺で資材造りをおこなった。千畳屋敷、穴倉屋敷、大将軍屋敷、弓細工などに伝わる伝承は工場があったことを思わせる。また、この周辺には太田貝塚があり、多くの人材・資材があったことを裏付けている。また、本郷川を遡ることにより府中市方面に通じており、出雲との交流にも適した場所であった。
佐野命は資材確保をすると同時に巨大祭祀施設を作るための場所探しをしていた。磐田山は現在でも松永湾を周辺を航行する船にとっては重要な目標点となっている。その山の中腹の松永湾が良く見える位置に祭祀施設に最適な場所を見つけた。
祭祀施設建設工事のための場所確保の為に拠点を移動させることにした。大元神社の地から海上を東に向い、潮崎神社の地にから海岸沿いを南東に向い貴船神社の地に上陸した。現在此の地に神武天皇上陸地の碑が立っている。ここから河に沿って遡ると神ノ池がある。この周辺に神王屋敷を立てここを拠点として祭祀施設建設工事をおこなった。まず、祭祀施設(天津磐境)が良く見えるところに拝所を設けた。辺坊地、物見御座所、城の坊などである。佐野命は御蔭山山頂にも仮宮を造り、工事の進展を見て指図していた。
佐野命は天津磐境建設工事中、施設が遠くから見えるかどうかの確認のため松永湾の入口にある嶽神社、そして、王太子神社の地を何回か訪れ、施設の完成状況を見守っていた。
準備が完了し、祭祀に使う巨石の確保もできたので、いよいよ祭祀所まで運ぶ作業の始まりである。巨石を山に運ぶので、大変な労力が必要である。土台となる神平石を奈良木の森御前神社の地から、その上に乗せる神立岩を鎮神社の地からそれぞれ大人数で引き上げ、祭祀所に設置し巨大祭祀施設が完成した。
佐野命は大々的に祭祀をおこなった。この祭祀は暫らく、此の地の人々によって継続されていたものと思われる。この天津磐境は岩田山神社(祭神 神武天皇)として現在でも信仰の対象となっている。
佐野命一行による天津磐境建設はおそらく1年(180日)程はかかったものであろう。当然ながらこの祭祀は東倭の人々と共におこなったものであり、鞆の人々との連携は十分におこなわれていたものと推定する。完成後暫らくして、此の地を出航することになった。祭祀施設が完成したので、次は海外先進技術の供与である。その拠点を目指して松永湾(潮崎神社の地)を出航した。
田島における技術供与
潮崎神社の地を出航した一団は拠点を田島の内浦に移しここを拠点として鞆の人々に様々な海外技術を供与し、人々の心をつかむことに努力をした。
田島に残る伝承は景色を見たとか漁労、祭祀など極めて平和的である。現在で云うなら休日の過ごし方と良く似ている。唯一矢の島で矢を造ることだけが戦闘を意識しているようである。矢の造り方も新技術だったのかもしれない。新技術を供与している間佐野命は時間が十分にあり、いかにも休日を思わせるような伝承が多くなったものであろう。ここでの滞在1年(180日)ぐらいではあるまいか。
出雲との交易の拠点作り
鞆の人々との友好関係を構築することに成功し、芦田川河口に大和朝廷の出雲との交流拠点を作ることの承諾を得られた。さっそく、佐野命一行は田島を出航し田尻へと移動する事にした。途中鞆により、そのまま、田尻の八幡神社の地に向い御舟入に上陸した。この日の行程13kmである。
佐野命は王ヶ峰で四方を見渡し、周辺の地理を確認後、更に奥地に入り、宮原の地に仮宮を造りここに滞在した。ここに拠点を作ると同時に島(高島)の反対側(河口側)の竹の端に見張台を作り、交易の監視ができるようにした。今の武宮神社の地である。
ここは伝承が多くないので、それほど長期間に渡る滞在はしていないと判断する。20〜30日程度の滞在と思われる。ここで現地人から黍を献上され、この国を吉備国を名づけたといわれている。
笠岡の高島へ
田尻を出航した佐野命一行は10kmほど東にある高島に滞在している。1日の行程であろう。
笠岡市の高島も周辺伝承が非常に多い。滞在期間が長かったためであろうと思われる。小規模な島であるが、この島の滞在は、なぜ、長かったのであろうか。
伝承を見てみると、舟の修繕、防衛、食糧確保などが伺われる。また、具体的伝承は伝わっていないが、笠岡市から、井原市にかけて神武天皇を祀った神社が数多く存在している。このことはこの周辺の巡幸をしたものと判断でき、周辺巡幸のための滞在とも考えられる。
神武天皇を祀った神社によるとこの周辺に14社ほど存在している。
佐野命の妃と云われている興世姫が佐野命出発後もここに残り、ここで亡くなったと伝えているが、この人物は何ものであろうか。他地域での伝承にこの人物は出てこない。佐野命が日向にいるときは吾平津姫が妻であり、彼女と別れて日向出航をしている。また、大和に着くとイスケヨリヒメとの結婚が待っているので、この妃は旅の途中で知り合った愛人とでも云うべき人物ではあるまいか。佐野命が高島で知り合った現地妻と思える。この高島滞在中、共に生活をしていたのであろう。大和では別の女性と結婚する運命にあるので、この姫とは佐野命出航の時に別れたものであろう。
此の地の伝承は防衛的卯要素の強いものが多い。伝承には直接伝わってはいないが、海賊の類がこの周辺を跋扈していたとも考えられる。交流経路の拠点を作るということは周辺に出没する海賊の類は退治しておく必要がある。そのために、ここを拠点として周辺の海賊退治をしたものであろう。そのためにこの島の伝承が防衛的要素の強くなっているのであろう。周辺の海賊退治後、笠岡湾から奥地に入り井原市辺りまで巡幸したものと考えられる。そのために、この周辺に神武天皇を祀った神社が多くなったのであろう。
吉備児島宮浦へ
海上23kmほど東に行くと倉敷市塩生の高島に着く。ここも高島宮址の伝承地であるが、周辺伝承を伴っていない。おそらく1泊程度の短期間の滞在であったのであろう。宮浦までの経路上ほとんど中間点に位置しているので、この周辺で1泊しないと宮浦までは行きつくことができないので、短期間の滞在地であったことは間違いないと思われる。
この当時岡山県の児島半島は島であったといわれている。佐野命は児島の沿岸沿いに東に28kmほど進み宮浦に着いた。距離が少し長いので潮流を利用したものではあるまいか。
児島湾に浮かぶ小島である高島に高島神社があり、高島宮址とされているが、この島は小さすぎて船団を着船させるのは無理である。おそらく、その対岸の宮浦竹島神社の地が佐野命の仮宮の地であろう。
しかし、高島の最高所に磐座があり祭祀した形跡があるので、佐野命は宮浦に滞在中、この島に祭祀施設をつくり、祭祀したものと考えられる。
この周辺は百間川河口付近で弥生時代の遺跡が多く、一大農業地帯である。大和朝廷の交易拠点を作るためには食糧の安定確保が必要である。そのためにもこの周辺の人々の協力を得る必要があったのではあるまいか。人々の不安は食糧と治安であろう。岡山市の懸幡神社には県北の奥津に荒ぶる神(山賊)が出ると云う噂を聞き、この神社のあたりを通ったという。このことは宮浦を拠点としている時、賊退治をしているようである。奥津といえばかなり県北である。県北の山賊の噂が児島周辺にまで及んでいたのである。山賊はかなり広範囲に出没していたものであろう。こういった山賊・海賊が出没しており、これらを退治できる組織と云うのは当時の東倭には存在しなかった。そのために、佐野命一行がこの様な賊を退治してくれるのは土地の人々にとっては大変ありがたいことであった。
佐野命一行は治安の確保、先進技術の供与をすることにより、人々の心をつかんで、交換条件として交流拠点作りに協力させたものであろう。
宮浦への滞在は半年(90日)程度であろう。いよいよ宮浦を出航するときがきた。
家島へ
宮浦を出航した一行は東に向い、初日は20kmほど離れた牛窓近辺に停泊し、次の日にはやはり20kmほど離れた日生の鹿久居島あたりに停泊したものであろう。
兵庫県竜野市の室津湾に神武天皇先遣隊がやってきて港を開発したと伝えられているが、神武天皇がやってきたとは伝えられていない。神武天皇はその向いにある家島に嵐を避けて滞在しているのである。このことから佐野命一行には先遣隊がおり、先遣隊が数日前に停泊地を確保していたのであろう。その停泊地を伝って佐野命一行が東遷をしたのであろう。しかし、鹿久居島を出航した一行は室津に停泊する予定で会ったが、天候の悪化により流され、家島に流れ着いたものであろう。室津も家島も鹿久居島から20kmほどである。
家島には数日程度の滞在をしていると思われる。
家島の宮地区は入り組んだ湾になっており、風雨を避けるには最適である。佐野命一行はおそらくここに停泊したのであろう。嵐が収まっても暫らく滞在し、今の家島神社の地から、次の停泊予定地を眺めていたのであろう。
難波津へ
家島を出航した佐野命一行は26km程離れた加古川河口に上陸した。この周辺にも賊が出没していたので、賊退治をした。拠点は日岡神社の地であろう。このあたりまでが古代の吉備国である。賊退治にも数日を要したであろう。
加古川を出航した佐野命一行は20km程離れた明石川河口あたりに停泊した。明石川上流に住んでいる人々が佐野命一行に、農業技術の供与を願い出たのではないだろうか。佐野命一行が大和を目指していると云う噂は周辺に広まっていたようで、到着時佐野命一行に何かを願い出るということも多かったのであろう。神戸市西区平野町当りに住んでいた人々は作物が取れずに苦しんでいた。佐野命一行が先進技術を提供してくれると云う噂を聞き、此の地の人々が佐野命に願い出たのではあるまいか。佐野命は快く承諾し、明石川を10kmほど船で遡り、平野についた。この周辺の肥えた土地に水田を作る技術を伝授しようと思ったが、佐野命自身はすぐにも大和に出立する必要があるので、皇子を残し出立した。
次の日20km程離れた現在の神戸港辺りに停泊し、その次の日いよいよ難波津に到着した。
難波津は現在の大阪城付近であり、佐野命はこの付近に上陸した。ここはその昔饒速日尊命が最初に上陸した地でもあり、難波の聖地となっていた。これから、大和に入る佐野命にとっては饒速日尊は祭祀対象であり、佐野命は此の地で祭祀をおこなった。これが、生国魂神社の始まりである。
その後、河内湖を横断し青雲の白肩津に着岸した。 
神武天皇大和進入

 

第1項 東遷時の大和国内の情勢
佐野命東遷の頃(AD80年頃)の大和の状態はどうなっていたのであろうか。ニギハヤヒ命がAD30年ごろ一団を率いて近畿地方にマレビトとして進入し、それから50年ほどたっている。進入したマレビトの孫が活躍する時代である。AD45年ごろからの10年間にニギハヤヒ命はマレビトの子孫を率いて東日本一帯を統一し、大和は日本国の中心として栄えていた。ニギハヤヒ命がAD60年ごろ亡くなった後は、後継者争いが起こっていたようである。
ニギハヤヒの正妻と思われる人物は大和進入で最初に結婚したナガスネヒコの妹であるミカシヤヒメである。彼女との間にはウマシマジが生まれており、実質日本国は彼が統治していた。
<推定系図>
           三島溝咋耳命───三島溝杙姫 ─┐  ┌─奇日方天日方命・・・三輪氏
                                  │  │
                                  ├─┤
                                  │  │
素盞嗚尊───饒速日尊─┐  ┌──事代主神─┘  └─姫鞴五十鈴姫─┐
          (大国主)  │  │  (玉櫛彦命)                  ├─綏靖天皇
          (大物主)  ├─┤                 神武天皇───┘
                  │  │
高天彦────高照姫──┘  └──下照姫─┐
                         (御年神) ├天八現津彦命−観松彦伊呂止命・・・賀茂氏
           大国主────味鋤高彦根神─┘
                         (賀茂大御神)
他に葛城一族、三輪一族との間にも婚姻関係があった。ニギハヤヒ命はマレビトということで方々に子孫を作っていたのである。これらの子孫の中で佐野命の妻となる候補に挙げられたのが、三輪一族の娘イスケヨリヒメ(姫鞴五十鈴姫)であった。イスケヨリヒメはニギハヤヒ命が葛城一族の娘高照姫との間にできた子であるコトシロヌシ(玉櫛彦命)が、三輪一族の娘と結ばれてできた子である。当然ながら三輪一族はサヌ命(佐野命)との婚姻を積極的に推進しようとしたが、ナガスネヒコ一族や葛城一族は反対派であった。このように大和国内には反対派と推進派が入り乱れている状態であった。地理的分布を調べると、ニギハヤヒが晩年大和盆地の東側に住んでいた関係上、大和盆地の西側は反対派で占められており、賛成派は東側に多かった。 
第2項 紀伊半島の情勢 
紀伊半島は、スサノオがAD20年ごろ、日向のイザナギ、イザナミの協力を得て倭国に加盟させた。その後、五十猛命、大屋津姫、爪津姫を派遣し紀ノ川流域地方を中心に開拓した。その後ニギハヤヒの子である高倉下命がニギハヤヒの大和進入の後、紀伊半島南部(新宮市、熊野市、熊野川流域)に派遣され開拓していた。
ヤタガラス(鴨建角身命)とは誰であろう。一般には三島溝咋耳命といわれているが、明らかに年代が合わない。日本書紀にある陶津耳の異伝名が奇日方天日方武茅渟祇である。奇日方天日方を鴨と解釈すると、「かもたけちぬつみ」となり、鴨建角身命と推定できる。鴨建角身命が奇日方天日方であるならば、年代もちょうど適合する。
賀茂氏系図
1 高魂命−伊久魂命−天押立命−陶津耳命−玉依彦命
      (生魂命) (神櫛玉命)(建角身命)        
                    (三島溝杭耳命)
                                 ┌鴨建玉依彦命
2 神皇産霊尊−天神玉命−天櫛玉命−鴨建角身命┤
                          (八咫烏) |
                                 └玉依姫命−賀茂別雷命
推定系図とミックスして考えると、次のような仮説となる。三島溝杭耳命=鴨建角身命と設定したために狂いが生じているようである。鴨建角身命が三島溝杭耳命の孫だとすると、鴨建角身命=奇日方天日方命=賀茂別雷命なり、すべての系図がほぼ一致するという結論に達する。鴨建角身命は佐野命の妻になる人物の兄となる。
3 賀茂氏推定系図
                                   ┌鴨建玉依彦命
 高魂命−伊久魂命−天押立命−−−−陶津耳命−-┤
              (神櫛玉命)   (三島溝杭耳命)└玉依姫命−賀茂別雷命
                                             (建角身命)
鴨建角身命は佐野命とは新宮市で出会ったと伝えられている。大和に生まれたはずの鴨建角身命は新宮市近辺に住んでいたことになる。日本国は東日本を統一した後、紀伊半島一帯を開拓するために有力者を派遣していたのであろう。鴨建角身命は熊野山中を佐野命の道案内しているが、それができるということ自体が彼が、大和と紀伊半島を何回も往復する立場にあったということを意味している。鴨建角身命は高倉下命や五十猛命との連絡を取りながら紀伊半島と大和を往復していたのである。そして、佐野命東遷時には現在の新宮市近辺に住んでいたことになる。
天神玉命、天櫛玉命はニギハヤヒ命と共に大和に下ったメンバーの中に存在する名である。鴨建角身命はマレビトとして近畿地方にやってきた人物と現地の女性との子孫ということになる。櫛玉はニギハヤヒ命の本名内に存在している名称なので、天櫛玉命はニギハヤヒ本人とも思われる。溝咋神社では三島溝杭耳命は日向からやって来た神と伝えられており、彼もマレビトであると思われる。天神玉命、天櫛玉命、三島溝杭耳命はいずれもマレビトのようである。このことはこの3人は同世代であることを意味しており、賀茂氏系図はニギハヤヒ命と共に一斉にやって来たマレビトが系図の中で直系につながっているようである。おそらく、この3名の子孫が賀茂氏を名乗っており、その祖先伝承が互いに重なり合ったためにこのような系図になったのではあるまいか。 
第3項 佐野命生駒山直越
日本書紀
「戊午春2月11日、吉備高島宮を出発した一行は、3月10日川をさかのぼって河内国草香邑の青雲の白肩津についた。」
戊午2月はAD81年夏ごろであろう。当時の1ヶ月は今の半月に相当すると考えられるので、約半月で草香邑についたことになる。岡山大阪間170kmほどを当時の水行では一日20kmほどといわれており、単純計算で10日ほど(邪馬台国への行程参照)で到達することになる。間の5日ぐらいが家島に滞在していた日数であろう。
この当時の大阪平野は大きな湖(河内湖)があり、その湖に北から淀川、南から大和川が流れ込んでいたようである。大和川は現在は南を流れているがこの当時は河内湖に流れ込んでいた。河内湖と海をつなぐ水路は大和川であった。日本書紀に「川をさかのぼって」とあるのは、大和川のことであろう。
「河内国草香邑の青雲の白肩津」というのは現在の善根寺の周辺といわれている。当時はこのあたりまで湖が広がっていたのである。善根寺には現在春日神社があり、この神社から生駒山越えの道が通じており、その入り口に佐野命の孔舎坂(くえさか)古戦場石碑が建っている。
日本書紀によると、3月10日に白肩津に着いた一行は、4月9日に龍田を越えて大和に入ろうとしたが、道が険しく断念して、生駒山直越えの道を選んだとある。この点に関して疑問点がいくつか存在している。それを挙げると
1 大和川をさかのぼって大和にたどり着くのが、この当時のもっとも標準的な大和進入方法だと推定されるが、 なぜ陸路を選択したのか。
2 龍田越えは大和川にほぼ準じた山越えの道であり、古代から開かれていたようであるが、白肩津からはかなり南回りの道である。なぜ、そんなに遠回りの道を選んだのか。
3 白肩津から少し北へ回れば、ニギハヤヒ命が大和進入に使った天の川に沿った道が存在する。この道をなぜ選ばず、わざわざ、生駒山直越えの道を選んだのか。
陸路の選択はこのように不可思議なことばかりである。伝承だからと片付けてしまえばそれまでであるが、真実であったと仮定して、その理由を次のように考えてみたいと思う。
第一に考えられるのは、大和国内の合併反対派の動きであろう。合併反対派は大和国内の西側に多く、生駒山や葛城山周辺がその拠点であったと思われる。反対派も佐野命一行の動きは察知しており、大和川をさかのぼる水行経路は封鎖されていたと考えるべきである。佐野命一行は戦闘を目的としているわけではなく、婿入りが目的であるので、無用の戦闘は極力避けようとするであろう。そのために、大和川をさかのぼる経路は選ばなかったと考えられる。
白肩津に到着してから龍田越えを実行するまでに日本書紀で1ヶ月(実質半月)かかっている。この期間は大和やその周辺の情報集めに費やしたのではないかと推定する。使者を周辺に派遣して、賛成派、反対派の状況や、地理を把握し、それらの情報を元に大和への進入経路を検討したものであろう。生駒周辺にはナガスネヒコを筆頭とする反対派の地域に含まれており、目的地の三輪山周辺にたどり着くには龍田越えが最もよいように思われたので、それを実行しようとした。道の様子は現地の人からの情報で把握していたはずであり、険しいから引き返すと言うことはまずありえない。龍田越えを断念したのは、安全を確認してから龍田越えをしようとしたが、反対派がそれを察知して、龍田周辺に軍を派遣して封鎖していたからではあるまいか。
大和に河内から進入する経路のすべてが反対派によって封鎖されていた。強行突破できるほどの戦力はなく、残る手段として反対派のナガスネヒコに賛成派に転じてもらおうとすることが推定される。生駒山直越えコースの山頂部は饒速日山と呼ばれており、饒速日尊が大和にマレビトをつれてきて近畿地方一体を統治していた頃、河内と大和の両方に見晴らしが利くこの山に拠点を置いていた。この当時はその祭祀施設が残っており、饒速日尊の聖地(饒速日尊の御殿址の伝承地あり)となっていた。ナガスネヒコは饒速日神を崇敬しており、佐野命一行が饒速日神に奉仕する態度を見せればナガスネヒコの考え方が変わるかもしれないと判断し、生駒山直越えコースを選んだのではあるまいか。饒速日山で饒速日神に参拝した後、ナガスネヒコ本拠地を訪ねて話し合いにより目的を達しようとしたと考えられる。ナガスネヒコ側はその動きを察知して、饒速日山に軍を配置して佐野命一行がやってくるのを待ち構えて矢を放って追い返したのである。このとき兄五瀬命の肘脛(ひじはぎ)にあたった。そこで、この山を「厄山」と呼ぶようになった。 
第4項 五瀬命落命
大和国に西側から侵入することをあきらめ、葛城山の南から侵入するコースを選択した。以下に大阪府下の佐野命関連伝承地を北から順に示す。
盾津 
神武天皇は草香津に引き返し盾を並べて盾津と呼び、雄たけびを挙げて士気を鼓舞した。幸い敵が深追いして来なかったので武器、兵糧、兵員の撤収を完了し、四月二十三日に盾津から出発して再び大阪湾に船団を浮かべた。
梶無神社 祭神、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、木花開耶姫尊(このはなさくやひめ) 東大阪市六万寺町3丁目
神武天皇東征の時、孔舎衛坂戦に利無く紀州に廻幸の途、波高く風強く船梶が折れた所、この地に無事に船を着けることができた、これは祖神のご守護として二神を祀った、この地を梶無と命名された。神武天皇上陸地は現在の下六万寺町3丁目付近の梶無の小字名の残る地であるという。
日部神社 祭神 佐野命、彦坐命、道臣命  大阪府堺市草部262
当神社は神武天皇御東征の砌上陸された日下の蓼津は此の地な りと古事記伝に記されている。「輪の内」の旧社地(現在地の南方約三百米)の近くに「御山古墳」という道臣命の墳墓 と称する古墳がある。
大阪府泉北郡忠岡町・大津町の口碑 五瀬命の矢傷を洗ったところと伝える。
男乃宇刀神社 祭神 彦五瀬命、神日本磐余彦尊、五十瓊敷入彦命 大阪府和泉市仏並町1740 
神武が大和めざして進軍中、兄五瀬命が矢傷を負ったとき、地元の豪族「横山彦命」が二人をこの地に迎え仮宮を造ったのが起源とある。
蟹井神社 
神武天皇東征の折、紀の川を上り、紀見峠にて賊慮の状況を視察した時、今の神社の北に天見川の石を集め、磐境として神籬を建て、天津神を祀って戦勝祈願をしたのが創始。
神引分神社 祭神 佐野命 泉佐野市字東千振引分森
神武天皇御東遷の際、皇軍、賊慮の襲うところとなり、奮戦ついに撃退したところ。
日根神社 祭神:鵜葺草葺不合尊、玉依比売命 泉佐野市日根野631−1
神武天皇が紀伊熊野から大和に入る途中、日根野の地に神を祭り戦勝を祈願したのがこの神社のはじまり
男神社 祭神 彦五瀬命 神日本磐余彦尊命 天児屋根命 熊野速玉命 大阪府泉南市男里3丁目16−1
由緒 / 元府社・男(おの)神社は大阪府泉南市男里、即ち古への呼唹郷(おのさと)の地である延喜式内神社で、本殿には、彦五瀬命、神日本磐余彦尊命を祀り、相殿には、天児屋根命、熊野速玉命を祀る。境内一万五千平方メートル(五千坪余)老樹鬱蒼として幽邃絶塵の神域をなしている。その北方一キロ余の処に摂社浜宮がある。本社の元宮で境内九千平方メートル松樹茂って海風に鳴っている聖蹟雄水門(おのみなと)は、即ち此の地である。
神武天皇御東遷のみぎり、孔舎衛坂で長髄彦と激戦した。 此時、皇兄・彦五瀬命が賊の流矢に中って、肱脛に瘡を負はせあれ、『吾は日神の御子として日に向ひて戦ふこと良はず、故れ賊奴が痛手をなも負ひつる。今よりはも行き廻りて日を背負ひてこそ撃ちてめ』と仰せられた。よって血沼の海即ち今の大阪湾を南進し、紀伊に向わせられよとして紀元前三年五月八日(太陽暦六月二十日)此の地に着き給ふたが、彦五瀬の御瘡いよいよ重あせられた命は、剣の柄を堅く握られ『酒哉大丈夫にして披傷於虜手、報いずして死なむや』と雄詰(おたけび)給ふた。よって、此の地を雄水門といふ。
即ち、彦五瀬命、雄詰の遺蹟雄水門、今の浜宮の地に、命と神武天皇の御神霊を祀奉ったのが当社で、社伝によれば、貞観元年三月、今の地に御遷座し奉ったという。毎年十月十一日の例祭には本社より聖蹟雄水門の地に神輿渡御の儀が行われる。明治七年七月畏き辺りより幣帛料を下賜せら給ふた。
男神社 男神社浜宮
男神社の元宮である。神武の兄五瀬命が生駒日下坂の戦いで矢傷を負い、その傷が悪化この地で”雄たけび”して亡くなったとある。この雄たけびが雄水門(男水門)の名の由来となっている。
神武天皇雄水門顕彰碑 浜宮
五瀬命が亡くなるまでの行程推理
大和へ入るには大和川を遡るのが定石である。その経路をとらなかったのは、その周辺を反対派が占拠していたためと考える。記紀に書かれているような東征であれば、戦闘で打ち破れば済むことである。相手の戦力がはるかに上回っていたのであるなら、熊野経由であっても佐野命は大和には入れなかったはずである。戦闘目的ではなく東遷であり、戦闘を避けるため熊野迂回をしたものと判断する。大和川以外にも西側から大和に入る経路はいくつもあるが、その入り口がいずれも反対派に占拠されていたため、熊野迂回をすることになったのであろう。
蟹井神社の伝承に紀ノ川を遡って紀見峠にて賊慮を視察したとあるが、紀ノ川を遡って紀見峠に来る必要は地理的に見てありえない。そのまま遡って御所あたりの様子を見るはずである。天皇は天見川を遡って紀見峠から紀ノ川流域の様子を探ったのではないだろうか。その結果、ここから大和に入れないということがわかり、和歌山に立ち寄ったとき、紀ノ川を遡らなかった理由が説明できる。蟹井神社の伝承は方向が逆であると推定する。
佐野命一行は饒速日山でナガスネヒコの弓矢を受けて五瀬命が傷つき、命からがら草香津まで戻ってきた。追手の追撃を防ごうと盾を並べて雄叫びをし、待ち構えていたが敵は追ってこなかった。ナガスネヒコにとっても天皇一行を追い返せばよいのであって殺害する必要はなく、その気もなかったのであろう。
会議を開いて、大和に西側から侵入するのは不可能であることを悟り、南からの進入を考えた。早速船に乗り、草香津を出航した。
出航直後、嵐がやってきて船の梶が折れたので、梶無の地に上陸し船を修繕した。途中(日部神社)で休息をとり、大津町あたりに上陸して五瀬命の傷を洗っていたところ土地の豪族横山彦命が現れた。彼は仮宮(男乃宇刀神社)を作ってくれ、佐野命一行はこの地でしばらく休息した。
横山彦命から周辺の地理を聞くうち、この地から西へ向かえば、葛城山の南端から大和へ入れることがわかり、症状が悪化している五瀬命をこの地に残して、奥地に入っていった。現在の河内長野市の蟹井神社の地まで到達して、行程の無事を祈願して紀見峠から大和に入ろうとしたが、南からの進入口にも反対派の軍が配置されていることがわかり、南からの進入も断念して仮宮の地に戻った。
南からの進入も不可能であることがわかった。どうすれば大和に入れるか会議を開いたところ、紀伊半島には饒速日尊の九州で誕生した子である高倉下やマレビトの天道根命がいて、彼らの協力が得られそうであり、また、賛成派が大和国内の東側に多いことから、紀伊半島を迂回して東側(伊勢湾)より大和に侵入することに決定した。早速、仮宮を出航して南下した。現在の泉佐野あたりに上陸したところ、土地の豪族の反対派に急襲されたが、何とか撃退することができた。しかし、前途多難であるため、近くの日根神社の地で神を祭り無事大和に入れるように祈願した。その後さらに南下したが、男里近くを南下中五瀬命の様態が悪化したので、男神社摂社浜宮の地に上陸して五瀬命を介抱した。しかし、その甲斐もなく5月8日、彼はこの地で亡くなった。盾津を出発してから半月ほどであった。AD81年の9月初旬ごろであろう。
第5項 名草戸畔との戦い
五瀬命は男里の地で亡くなったが、埋葬地は和歌山市の竈山神社の地である。和歌山市周辺の伝承地を探ってみることにする。
射矢止神社 祭神 品陀別命、息長帯姫命、天香山命、一言主命、宇賀魂命 和歌山市六十谷381 
天香期山命、一言主神は神代のむかし五十猛命と共に本国に天降り、名草の山路に後を垂れたとある
水門吹上神社 祭神 御子蛭児神、大己貴神 和歌山市小野町2-1
神武東征時、兄五瀬命の崩御された場所と伝えられている。「男水門」である。境内に神武天皇聖蹟男水門顕彰碑がたっている。鉄筋コンクリート製の本殿である。
男水門顕彰碑
竈山神社 祭神 五瀬命 和歌山市和田438 
五瀬命の墓所である。神社の北側に五瀬命御陵が存在している。
竈山御陵
矢宮神社  祭神 賀茂建角身之命 和歌山市関戸1-2
五瀬命を竈山に埋葬後、この地に陣を構えて名草戸畔を誅したところと伝える。
矢宮神社
名草山
6月23日に佐野命に誅された、名草戸畔の本拠地であったところと推定されている。東征軍は矢宮神社の地を出て和歌の浦から出航し毛見ノ浜(浜ノ宮海岸)に上陸してナグサトベの守備隊と戦ったので、この入り江をコトの起こりの浦、琴の浦と呼ぶようになったとのこと。さらに、東征軍は隣接する海南市船尾に回航し、船を前進さすかに見せかけながら、船尾から接岸し上陸した。これが船尾の地名の由来ともいわれている。
クモ池
この周辺が神武軍と名草戸畔(なくさとべ)の戦いの場と言われ、ここで女賊名草戸畔が神武軍によって滅ぼされた。頭を宇賀部(うかべ)神社(別名おこべさん)、胴を杉尾神社(別名おはらさん)、足を千種神社(別名あしがみさん)に葬ったと伝える。
クモ池
中言神社
名草彦、名草姫が祭られており、名草一族の本拠地と言われている。
宇賀部神社、杉尾神社、千種神社
神武天皇一行は名草戸畔を誅し、頭、胴、足に切断して、これら神社の地に埋めた。
宇賀部神社 杉尾神社
高倉山 千種神社
日前宮・国懸宮
神武東遷時、日像鏡、日矛鏡を、紀伊國造家肇祖の天道根命が賜り、日前神宮の日像鏡、国懸神宮の日矛鏡の両御神体として祭られた。
摂社 天道根神社には天道根命が祭られ、佐野命二年春二月、紀伊國を賜り初代國造職に任命された。紀氏は天道根命の末裔にあたる。天道根命は饒速日尊の伴ったマレビトである。 
浜の宮
日前国懸神社の遷宮前の場所とされており、天道根命は神武東征時、神鏡と日矛の神宝を奉じて、加太、木本、琴の浦の岩上へと遷ったと言い伝えられている。 
浜の宮
伊太祁曽神社
この地には元々伊太祁曽神が祀られていたが、紀伊の国譲りの結果、日前神・国懸神がこの地を手に入れた。伊太祁曽神は山東の地に引いたが、その神威いよいよ高く、紀氏のこの地の統一のためには更に伊太祁曽の神々を分遷する願いを朝廷に出したのである。
これらの伝承をすべてつなぐと次のようになる。
佐野命がこの地にやってくる前の和歌山市周辺はどのような状況にあったのだろうか。射矢止神社、伊太祁曽神社の伝承より、スサノオが倭国統一を行った後、五十猛命、大屋津姫、爪津姫が紀伊国に派遣され彼らが、この周辺地を開拓していることがわかる。AD20年ごろのことであろう。この頃は倭国に所属していたものと考えられる。AD30年ごろ饒速日尊が近畿地方にマレビトを送り込んだとき、和歌山には天道根命が派遣されてきた。そのしばらく後に饒速日尊の長男である高倉下(天香山)命が次々と派遣されてきている。饒速日尊(一言主)自身も立ち寄っているようである。天道根命によりそれまで東倭(出雲)に所属していた紀伊国は、饒速日尊の建国した日本国に所属するようになったものと考えられる。これが、伊太祁曽神社にいうところの紀伊の国譲りであろう。紀伊国を開拓した五十猛命は年老いて、マレビトとして後からやってきた天道根命に統治権を譲り、伊太祁曽の地に退いた。紀伊国が日本国に所属するようになってから、大和本国と、紀伊国の連絡役が必要になり、八咫烏命(賀茂建角身之命)が活躍した。彼はこの関係で熊野山中の地理に詳しかったのである。
佐野命がこの地にやってくる頃は、天道根命(子孫と思われる)がこの周辺を統治していたと思われる。これが名草一族である。倭国と日本国の合併の話は紀伊国にも伝わってきており、賛成派、反対派それぞれに分かれて対立していたのであろう。
名草一族は、佐野命一行と戦闘をしており、反対派であったと考えられるが、名草の名は後の紀伊氏の系図にも残っており大和朝廷の協力者となっている。系図によると名草一族と天道根命は同族であり、浜の宮の伝承から天道根命は佐野命に協力している姿が浮かんでくる。反対派と戦う神武軍一行の案内に天道根命が加わっていたように思える。また、名草一族の本拠地と考えられる場所は名草山の北東に位置する中言神社の地である。この地は五瀬命の御陵の目と鼻の先である。このことは、五瀬命の葬儀を見守っていたか協力していたことを意味し、佐野命一行と対立していたとは考えにくい。そこから、賛成派と反対派が対立していたと推定するのである。賛成派の本拠地が中言神社の地であり、この名草一族は佐野命が五瀬命の葬儀を行うのに協力をしていたと考えられる。
伝承をつなぐと、佐野命軍は矢宮神社の陣地を出発し和歌の浦を出航、琴の浦に上陸し船尾から汐見峠を越え、クモ池周辺に攻め込んでいる。この経路から判断すると、反対派の本拠地は高倉山周辺ということになる。賛成派と反対派は同族と考えられるが、この時、佐野命は矢宮神社の地に滞在しており、反対派の本拠地高倉山との中間地が賛成派の本拠地である中言神社であり、反対派が佐野命一行を急襲するとは考えにくい。反対派は賛成派を襲撃したのではあるまいか。反対派は佐野命の倭国と日本国との合併に関して意見が分かれ、賛成派が佐野命一行に協力しているのを苦々しく思っていたのであろう。佐野命一行は賛成派を援護するため琴の浦から上陸して反対派の背後に回ろうとしてそれを察知した反対派とクモ池周辺で激突したものと考えられる。このように考えると、判明しているすべての伝承がつながる。
男里で五瀬命が亡くなったが、なぜ、男里に五瀬命を埋葬しなかったのだろうか。わざわざ、紀伊国で埋葬しているのである。男里から和歌山まで当時の水行で2日ほど要すると考えられる。推定するに、墓守を任せられる人物が周辺にいなかったためではないだろうか。和歌山まで行けば信頼できる天道根命などマレビトが入り込んでおり、彼に墓守を任せることができたのではないだろうか。以下はこれを元に推定した出来事のあらすじである。
名草一族との戦い
佐野命一行は、信頼できる天道根命に墓守を頼める和歌山で埋葬するために、男里で亡くなった五瀬命の遺骸を船に乗せて、紀淡海峡を越えて南下し、紀ノ川河口の水門吹上神社の地に5月10日ごろ上陸した。この地を拠点とし、名草の中言神社の地にいた天道根命(高齢と思われる)に葬儀を願い出た。天道根命は「一行を追い返せ」という合併反対派の意向を無視して葬儀を承知し竈山の地で葬儀を行い、奥地の竈山神社の地に埋葬した。合併反対派は、高倉山に拠点を作り同調者を集めた。反対派の動きを察知した天道根命は佐野命一行を矢宮神社の地に避難させた。まもなく、反対派は中言神社の地に戦いを仕掛けてきた。名草彦が応戦する中、佐野命一行は矢宮神社の地に陣を構えて様子を見た。
戦いは反対派の優勢の中で行われており、佐野命一行は天道根命の要請に応じて戦闘に協力することにした。反対派の背後から回り込む作戦をたてた。天道根命の案内で矢宮神社の近くの和歌の浦を出航し海岸沿いに南下し毛見浜に上陸した。浜の宮で戦勝祈願を行い、琴の浦、船尾と船を進め、船尾に船を着けて上陸した。佐野命一行は汐見峠を越えて中言神社を攻めている反対派の背後に回ろうとしたが、それを察知した反対派は佐野命一行を迎え撃った。両軍はクモ池周辺で激突した。挟み撃ちの形になった反対派は形勢不利となり高倉山に退却した。連合軍は退却した反対派を追って、東へと追撃し、宇賀部神社、杉尾神社、千種神社の地に追い詰めて誅した。この3神社は反対派の3首領の本拠地だったのではあるまいか。
天皇一行は戦闘目的ではなく、婿入りが目的であり、遠征しているわけであるから、戦う戦力は整っているとは思えない。その中で地の利に明るいその土地の軍隊と戦えば敗北は確実である。倭国と日本国の合併は自分たちの先祖が開拓した土地を奪われることにもつながるので、反対意見を唱えるものも多かったのであろう。饒速日尊は多くのマレビトを送り込んでおり、そのマレビトたちの間にも意見の対立があったのであろう。そこへ、傷ついた佐野命一行がやってきたのであるから、この一行を追い返してしまえば、世紀の大合併はお流れになると思って、反対派は行動を起こしたものと推定する。
弥生時代後期初頭から中葉にかけて戦闘遺跡は少なく鉄製武器の出土も少ない。平和な時代だったのである。何かあるとすぐに戦争を考える人が多いが、古代人も平和を愛し、戦争は極力避けようとしていたはずである。佐野命一行もそうであろう。そういった人々が戦うのは襲撃されたときか、別の戦いに巻き込まれる場合が考えられる。名草の戦いは後者であると判断する。このように考えると名草一族が天皇一行に滅ぼされたのに、その後活躍していること、名草一族の本拠地のすぐ近くに五瀬命の御陵があること、その子孫の紀氏が名草一族が記紀で賊扱いされているのに反対した形跡がないことなどが説明できる。
この戦いは戊午6月23日と思われる。日本書紀の日付の記録がほとんど各月15日以内になっており、15日以降の日付になっている記事はきわめて少ない。このことは、古代の1ヶ月は15日までであったことを意味しているが、この記事は23日となっている。日付が誤挿入されたか、何らかのミスがあったものと考えられる。実際は6月初旬頃(AD81年9月半ば過ぎ)ではあるまいか。
戦いに勝利した天皇一行は八咫烏命と分かれて、紀伊半島を南下していった。 
第6項 紀伊半島迂回
紀伊半島を迂回した佐野命一行は熊野灘で嵐に見舞われることになる。それまでの行程を伝承から追ってみよう。
拝の峠
拝の峠は神武天皇ご東征の折り、八咫烏に先導されたのでこの名がついたといわれる。
しとどの藪<和歌山県聖蹟>
日高郡岩代村大字西岩代字赤坂にある。神武天皇名草より熊野に廻幸せしめ給ふ御途、御船を岩代の地に寄せ給ひ「この藪にて竹の矢を御造り遊ばされ給うた」とも「矢の竹をこの藪に御求め遊ばされた。」とも言い継がれている。
立ヶ谷<和歌山県聖蹟>
南紀白浜の入り口にあたる。神武天皇熊野御廻航の御途、この地に上陸し給ひ、太刀を御埋めになり戦勝を御祈願されたと伝えている。現在この地には太刀が谷神社が存在している。この神社にはこの太刀が存在したらしいがいつの頃か行方不明になったとの事である。
畠島<和歌山県聖蹟>
立ヶ谷の沖に浮かぶ島で旗上ヶ島の訛ったものと伝えられる。神武天皇熊野御廻航の御途、御上陸遊ばされ、旗を御挙げ遊ばされた島と、ここにも神武天皇関連伝承が伝えられている。
小泊<周参見村郷土誌>
神武天皇御船を寄せ給ひし御所と伝えられている。即ち天皇熊野へ軍を進めらるる御途、兵糧を当地に徴せられ給ひ、その御折御船を泊めさせ給うたのが即ち小泊であって、小泊は元来は「御泊」と書すべきが転訛して小泊となったのであると称せられている。
紀伊半島の田辺市以南は波が荒く、船を安心してつなぎとめられる良港は深く湾曲した湾以外にはない。周参見は「紀伊続風土記」によれば、波の「すさぶ」からつけられた地名である。周参見河口は外海からの荒波が直接打ち寄せるところであるが、小泊はその中でさらに湾曲しているところであり、この周辺では唯一安定して船をつなぎ泊められるところである。
稲積島<和歌山県聖蹟>
周参見湾の沖にある小さな島である。この島にも神武天皇関連伝承がある。
「神武天皇熊野御廻航の御途、船を周参見湾に寄せられ、土民に兵糧として稲を献すべきを御下命あらせられた。かくて土民の献上せる稲を先ずこの島に積み重ねたので島の名を稲積島と称するに至った。」
串本町二色
神武天皇が海岸に上陸したとの伝承あり。御場の鼻(神武軍の上陸の地)の東は袋湾と称している。ここに二色坂と呼ばれている坂道があり、そこに戸畔の森という60mほどの山がある。ここに丹敷戸畔がいたのであろう。この東の潮岬は古来から海の難所であり、天候の穏やかなときでないと危険で通れない。そのため、ここを通る船は西から東に行くときは袋湾に数日間停泊し天候が穏やかになる日に潮岬を越えたと云われている。東から西に行く船は橋杭岩の袂に停泊したそうである。佐野命一行もこの袋湾に停泊したものであろう。
串本町橋杭岩
この岩の袂のところに神武天皇が上陸したとの伝承がある。丹敷戸畔の森と拝ケ浜が近くにある。潮岬を越えた佐野命一行はここで一休みをしたのであろう。
八尺鏡野
本来の地名は八咫鏡野である。
「天照大神がイシコリドメノ命に鏡を作るようにと下界に赴かせ、着いたのが八咫鏡野であった。命は懸命に鏡を打ち、完成したが、かすかな傷のために作り直しを命じられ、新しく完璧な鏡を作り、天照大神に献上した。その鏡が伊勢神宮の御神体の八咫鏡となった。傷のある鏡は、八咫鏡野の八咫烏神社に残されたが、あるときに盗まれて行方不明になった」
八咫鏡野に八咫烏神社が存在している。「神武天皇を導くとき、此処にて暫く休息す。」と言い伝えられている。
勝浦港
神武天皇が上陸したという伝承あり。逢初め橋(丹敷戸畔軍と神武軍が遭遇したという地)あり。昔丹敷浦と云っていたが、神武天皇一行が丹敷戸畔軍に勝ったことから勝浦とも言うようになったと伝えられている。
熊野那智大社
神武天皇が熊野灘から那智の海岸(浜の宮)に上陸したさいに、一条の光が軍勢を那智山に導いたという。その光の出所を探ると、 瀑布の瀧壺深くに沈んでいったために、天皇は奇瑞に感じ入って当地に大己貴命を鎮座させ、瀧を御神体として祀ったことに始まるという
熊野三所大神社(浜の宮) 祭神 夫須美大神、家津美御子大神、速玉大神 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町浜の宮353
往古神武天皇丹敷戸畔を誅し給う地なりと言う。神社の背後の丘陵地が丹敷戸畔の屋敷址と伝えられている。本殿に向かって右側に丹敷戸畔墓と刻まれた墓碑がある。また、境内に「神武天皇頓宮跡」の碑がある。前方の海岸は昔から赤色の浜、または丹敷浦と称せられている。
<熊野巡覧記>「浜の宮に錦の古名有、今赤色の浜の本名千尋の浜也。神武帝丹敷戸畔と戦い給ひし海辺血に浸しければ血色の浜とも名づく。」
<熊野歩行記>「丹敷浦 渚の浜の海辺を云うなり。赤色 那智の社渚宮東6丁にあり千尋浜とも云う」
狗子ノ川
浜の宮より国道沿いに1kmほど東に行くと狗子ノ川がある。この川を渡ると、川の谷と呼ばれている所に付く。道路のすぐ右側に細長い岩がある。この周辺で丹敷戸畔が誅せられたと伝えられている。
川の谷には丹敷戸畔が潜んでいたという隠家ヶ谷の舊蹟を伝え、その裏の「王領」と呼ぶ地が即ち神武天皇御駐輩の行在所と云われている。この付近で丹敷戸畔が誅せられ一味郎党の血潮が流れてこの周辺の海水が赤く染まったので、この海辺を赤色の浜と名づけた。
佐野
佐野の岡は神武天皇駐蹕の聖蹟と口碑されている。神武天皇聖蹟狭野顕彰碑が存在している。
三輪崎
神武天皇上陸伝承地である。三輪崎から新宮へ抜ける熊野古道高野坂周辺には荒坂山、荒津山と称する山があって、古来御東征時の荒坂津であると伝承している。近くの「おな神の森」と称するところは丹敷戸畔の塚であるといい、「神武天皇佐野より熊野神邑へ御越し遊ばされ給ふ御途、御足を留められ、四方の景色を御眺められ給ひし御所」と伝承している。その所以でこの地を「おながめの森」=「おな神の森」となったのであろう。現在この地には金光稲荷神社が存在している。
御手洗の浜
神武天皇荒坂津に至り、御手づから丹敷戸畔を誅せられて後、磯に出て御手の血を洗ひしたまひし故、御手洗の磯と名づく。
浜王子神社
神社の東南すぐそばに神武天皇頓宮の址と伝えられている地がある。
渡御前神社
新宮市千穂ヶ峰の麓にあり「神武天皇佐野より熊野神邑に到りませる御折、頓宮を設けさせ給うた御所である。」と言い伝えられている。 
神倉神社
神倉神社は熊野速玉大社の摂社で、元々は熊野速玉大社に祀られている神々はここに祀られていた。 神倉山山頂に鎮座する。ゴトビキ岩という巨岩を神体石として祀る磐座信仰の社である。神武天皇が熊野神邑の天磐盾に登ったと比定される神体石がある。神武天皇東方征伐の折り、人々が松明を手に手に「神倉山」 に登り松明の火で出迎えたとも言われている。神社に伝わる伝承では佐野命がここに到達したのは6月とのことである。
阿須賀神社
徐福が求めたといわれる天台烏薬は日本では、日向の高千穂と熊野以外には自生しないため、神武天皇が東征の途上、この地に植えたのだとする説もある。佐野命の新宮への上陸伝承地
室古神社
皇兄・イナヒノミコト(稲飯命)は、神武の船団が伊勢ノ海から吹く暴風で二木島湾の沖に押し戻された際に、 牟婁崎の端で海に入って歿したので、二木島の土人が屍を収め、この地に奉葬したと伝えられている。
昔、二木島湾を境にして、熊野(牟婁)の国と伊勢(英虞)の国に分かれていた。この地は、熊野の国であったため室古、向かいの神社は阿古師の名が付いたという。祭神は、豊玉彦命・熊野大神・稲飯命の諸説がある。「社記」には「神武天皇御東遷の時、風浪の難に遭い皇兄稲飯命、三毛入野命(阿古師神社の祭神)共に海に入りて歿す。土人皇兄の屍をおさめて帰り、之を奉葬す。」と稲飯命に関する記述がある。また、縄文時代からの複合遺跡で、千古の社でもある。
二木島祭
二木島祭は、二木島沖で嵐に遭遇した佐野命を助けるため、村人が競って船で駆けつけたという伝説を再現して、毎年行われている。
上半身裸の男たちが30人ずつ乗り込んだ全長約16メートルの2隻の関船が、二木島港の岸壁を出発し、二木島湾の南北にある二木島町の室古神社と甫母町の阿古師神社間の海上で、呼び物の漕ぎ合いを展開する。
このあと、阿古師神社から甫母港まで競漕があり、さらに二木島港まで3回目の漕ぎ合いが行われ、競漕を終えて二木島港に近づくと、5色の幕を下ろし、着物姿の子どもが船主で踊りを披露する。岸壁では、多くの人が大きな拍手で出迎えるという。
阿古師神社
この神社の鳥居は海に向かって立っている。この神社へ参るのは海からである。二木島沖で遭難した三毛入野命は遺骸が見つからなかったがこの神社に祭っている。
「紀伊続風土記」に「村より卯辰(東南東)の方、出崎を阿古崎といふ。海上渡り二十余町阿古崎の艮、阿古師明神あり。二木島の辰の方の出崎に在する室古明神と入海を隔て東西相対す。阿古師は英虞の神なるべし。」と両神社の関係が記されている。祭神は、豊玉姫命、伊勢大神、三毛入野命の諸説がある。
盾ヶ崎
神武天皇が東征のとき上陸したという千畳敷の岩場、海から通常上陸するような場所ではない。千畳敷の岩場で遭難している所を地元の人々に救助されたと伝える。
逢川
二木島港の北方山間より流出し、港に注入する一渓流なり、地方の古伝に上古 帝上陸のとき、土人等皆この渓流頭に出て帝に謁見奉迎したり、或いは言ふ、高倉下命この渓頭に出て、帝を奉迎したり、故に逢川又は逢初川とも言ふ。この渓流を遡ること約6丁の山上に高倉下鎮座の旧跡あり、天倉山と言う。
元宮
救助された佐野命が暫く仮宮を立てて滞在した所と伝える。
逢神坂峠
熊野市と二木島をつなぐ熊野古道の峠で神武天皇が通ったという言い伝えがある。 
錦浦上陸関連伝承
「我が川俣谷には、この谷筋を神武天皇がお通りになったという伝承が古くから語り伝えられている。」『飯高町郷土誌』。
「神武さまが湯谷峠をお越えになった時この地で3年頓宮され、村民はこれを喜び心から歓迎した。」宮本村伝承
「神武天皇さまの軍隊が進軍なさる時、あまりの初秋の山の月が美しかった。月の出のあまりな美しさを賞で給うた神武さまはこの里こそ月出と名付けよとおっしゃったのだという。」(『飯高町郷土誌』)
佐野命は錦浦に上陸され、大内山(度会郡大紀町)から三瀬谷の佐原(多気郡大台町)へ進軍した。ここから2隊にわかれて、1隊は宮川をさかのぼり、天ヶ瀬を経由し、その支流栗谷川を遡り、湯谷峠を越えた。もう1隊は佐原から相津峠を越えて櫛田川に出た。ここは谷筋としてはやや開けた所である。ここで、美濃、尾張、伊勢北部からの援軍を集め、栃川(松阪市飯高町宮本)で2隊が合流し、高見峠を越えて宇陀に進軍した。
丹敷戸畔について
「神武天皇熊野巡幸叢説・紀伊続風土記濱宮之条摘要」に古伝が書かれている。それによると、神武天皇東征の折丹敷戸畔は皇師に降る、以後この地を開拓して、村居の始祖となれり、中古より性は松井と改める。伝来の書は寛永4年に流失した。祖先の墓と伝える小丘有、往時は「とべの峰」と称せしが、今は「誰との峰」という。
また、同書には地方の古伝として、「丹敷戸畔は兄弟3人あり、長は今の濱宮の地に往し、弟二人は分かれて、他の地に割拠す、帝東征のとき、二弟は降り、長は濱宮の地にて帝の為に誅せらる」とある。
丹敷戸畔の墓は勝浦浜宮の神武天皇頓宮址の熊野三所神社境内に丹敷戸畔命と書かれた石碑(墓石)がある。また、三輪崎のおな神の森にも存在している。熊野三所神社裏山が戸畔の屋敷址と伝えており、そこに頓宮址があることから、この戸畔は佐野命を迎え入れていることになる。佐野命一行はここを拠点として、那智の滝方面を訪問している。これは、戸畔が案内したものであろう。さらに、この後戸畔はこの地を開拓しており、佐野命と戦って誅されたとは考えにくい。浜宮の戸畔と佐野命との関係は極めて良好なのである。この戸畔を浜宮丹敷戸畔ということにする。
狗子ノ川河口の丹敷戸畔は佐野命に戦いを仕掛けた形跡がある。丹敷戸畔はここで誅されたと伝承されており、その戦いは激しかったようで、その地で染まった海岸を赤色の浜というようになったそうである。「王領」に神武天皇行在所址も伝承されており、佐野命が休息している所を「隠家ヶ谷」に潜んでいた丹敷戸畔が襲撃したものであろう。この丹敷戸畔は浜宮の戸畔とは別人でこちらが弟ではないかと考えられる。この丹敷戸畔は墓が伝承されていない。誅されたためであろう。佐野命一行だけが現地の武装集団と戦って勝てるとも思えないので、浜宮の丹敷戸畔が案内していたのではないかと考えられる。この戸畔を狗子丹敷戸畔ということにする。
三輪崎にも神武天皇上陸伝承地があり、丹敷戸畔と戦ったという伝承がある。しかし、上陸伝承地より西側(佐野)に神武天皇滞在伝承地があることから、ここに上陸したとは考えにくい。佐野命は浜宮の丹敷戸畔の案内で、陸路を新宮へ向けて進んだものと考えられる。三輪崎の丹敷戸畔との交渉のため佐野に滞在したものであろう。三輪崎の丹敷戸畔も佐野命に協力を申し出ることになったと推定する。三輪崎の丹敷戸畔も「おな神の森」で、金光稲荷神社として祀られている。やはり、佐野命に協力を申し出たためであろう。この戸畔を三輪崎丹敷戸畔ということにする。
佐野命の紀伊半島迂回コースの行程推理
和歌山からの出航地は海南市の船尾と考えられるが、拝の峠が八咫烏に先導されて通ったところと伝えられており、この伝承が真実であれば有田市あたりからの出航となる。船を有田に迂回させ、天皇本人は陸路を有田までいったのかもしれないが、船尾出航が自然である。
名草戸畔を誅した後、船尾で八咫烏と分かれて海路南下した。水行一日20km程度であることから寄港地は大体特定される。船尾を出た一行は広川町あたりで1泊、次の日が御坊市周辺であろう。その次の日が南部町岩代で「しとどの藪」の神武天皇立寄り伝承地が存在する。その次の日が田辺市近辺となり、「立ヶ谷」、「畠島」の伝承地が存在している。その次の日が周参見の小泊であろう。ここも「稲積島」「小泊」の伝承地が存在している。次の日に立ち寄ったのが串本町の二色で最南端の少し手前である。ここの御場の鼻に神武天皇上陸伝承地がある。潮岬の難所を越えるためここで休息したのであろう。
海が穏やかな日に、ここを出航、潮岬を通過後、橋杭岩という景勝地に立ち寄っている。巨岩が海に一直線に並んでおり、他ではほとんど見られない景色である。この橋杭岩の根元にあたるところに佐野命上陸伝承地がある。6月中旬(AD81年9月下旬)と思われる。
八尺鏡野に神武天皇休息伝承があるが、この地は他の伝承とつながりにくい。八咫烏が連絡役を果たすとき、何回か上陸した地で、それが、神武天皇伝承とつながったのではないだろうか。
日本書紀では神武天皇は荒坂の津で暴風雨に会い、命からがら上陸した地で、丹敷戸畔に襲われている。この荒坂津伝承地が那智勝浦、三輪崎、二木島と複数ある。遭難の状況が最も詳しいのが二木島で、丹敷戸畔関連伝承が最も詳しいのが那智勝浦である。佐野命がこの地に訪れたのは現在でいう9月下旬と考えられ、台風の季節である。佐野命は那智勝浦と二木島で二回遭難したのではないかと考える。那智勝浦の方は大きな被害が出なかったが、二木島の嵐は被害が大きかったと判断する。
橋杭岩を出航した一行はまもなく暴風雨に見舞われ、危険を避けるために勝浦港(にしきうら)に船を着岸させた。上陸して休息している所にこの地方を治めていた豪族浜宮丹敷戸畔がやってきた。浜宮丹敷戸畔はこの集団が国の合併にかかわっている佐野命一行であることを知り、協力を申し出ることにした。戸畔は自分の屋敷である熊野三所神社の地に一行を案内し、仮宮を立てて歓迎した。現在の神武天皇頓宮址である。佐野命がここに滞在中戸畔は那智の滝やその周辺を案内した。
暫く滞在後戸畔は、船は家来に命じて新宮に回航させ、佐野命自身は陸路を高倉下のいる新宮に行く事を進めた。勝浦・新宮間は約10km程で1日で行ける距離であった。その行程区間を治めている自分の二人の弟を紹介するためでもあった。
2kmほど進むと狗子川河口に達した。ここが狗子丹敷戸畔の治めている所なので、「王領」という所に仮宮を立て休息した。浜宮丹敷戸畔は弟の狗子丹敷戸畔を紹介しようとしたが、狗子丹敷戸畔は合併に反対であり、「隠家ヶ谷」に隠れて佐野命の様子を伺い、隙を見て佐野命を急襲した。浜宮丹敷戸畔は佐野命を守ろうと狗子丹敷戸畔と戦った。佐野命も戦いに巻き込まれ、この戦いで多くの人々が戦死し、狗子川周辺の海岸が赤く染まった。その後この海岸を赤色浜というようになった。
戦いの後、浜宮丹敷戸畔は佐野命を案内して佐野に達した。三輪崎丹敷戸畔を紹介するためであったが、狗子丹敷戸畔のように襲撃してくる可能性もあったので、佐野命を少し離れた狭野顕彰碑の周辺に滞在させ、三輪崎丹敷戸畔を紹介した。この戸畔は協力を申し出たので、屋敷の近くの佐野ノ岡(佐野の600mほど北の岡)に滞在地を変更した。三輪崎丹敷戸畔に案内されて、高野坂(熊野古道)を越え、新宮に入った。
新宮に着いた佐野一行は最初浜宮王子近くの海岸に仮宮を立てて、この地方を開拓していた高倉下に協力を申し出た。高倉下は饒速日尊が九州にいる時に誕生した尊の子である。マレビトの一人としてこの新宮に饒速日尊の大和降臨より少し遅れて派遣されていたのである。高倉下は60歳ほどで、合併推進派であった。高倉下の招きにより新宮の千穂の峰の麓にある渡御前神社の地に宮を造りここに滞在することになった。九州から乗ってきた佐野一行の船は熊野川河口の阿須賀神社近くに回航され、ここで修理した。佐野命はここに滞在中ゴトビキ岩に登った。戌午年6月(AD81年9月下旬)であろう。
新宮にしばらく滞在して船団の修復を待った。出航準備が整ったので、高倉下と別れて伊勢湾目指して出航したのである。ところが出航直後、再び暴風雨に見舞われた。佐野命一行は避難するまもなく二木島沖で遭難した。天皇は二木島の盾ヶ崎に打ち上げられており、他の人々も散り散りばらばらになっていた。二木島の人々が駆けつけてくれて佐野命は助かったが、稲飯命は遺骸となって打ち上げられていた。遺骸を葬って室古神社を建てた。三毛入野命の遺骸は見つからなかったので、阿古師神社に祭った。二木島の人々は佐野命にエゴマもちを献上したといわれている。このときの様子が二木島祭りとして現在まで伝えられている。
天皇一行が出航後すぐに暴風雨に見舞われたため、心配になった高倉下は使者を遣わして、天皇の安否を探ったところ二木島で遭難していることがわかったので、すぐに救援にやってきた。佐野命一行の船は壊滅し、助かった人は少数に過ぎなかった。佐野命は二木島の元宮の地に仮宮を造って滞在していた。佐野命は船で東へ行くことを断念して、陸路大和を目指せないかと高倉下に相談した。高倉下は「八咫烏なら、熊野山中を大和まで案内できるでしょう。」といい、新宮にいた八咫烏に大和まで案内するように取り計らってくれた。。天皇は現在の熊野古道(伊勢道)に沿って二木島峠→逢神坂峠→新鹿を通って陸路新宮まで戻ってきた。3日ほどの行程であろう。
神武天皇上陸伝承地はもう一つある。三重県大紀町錦浦である。神武天皇はここに上陸し、高見峠を越えて宇陀に進軍したと云うものであるが、これは他の伝承とのつながりが薄くなる。この伝承は何なのであろうか?兵庫県竜野市の室津湾の伝承より、神武天皇東遷時に、神武天皇の行程よりも数日先に進む先遣隊がいたことを推定しているが、錦浦に上陸したのはこの先遣隊ではあるまいか?先遣隊はこの錦浦に上陸し、後から来る佐野命の仮宮を作って待っている状況だったのではないだろうか?佐野命一行が遭難した二木島沖より直線で35km先である。海上2日程度の行程であろう。新宮を出港した佐野命は熊野をこの日出港し順調にいけば尾鷲湾辺りに滞在する予定だったと思われる。この時、先遣隊は錦浦に上陸していたのであろう。先遣隊は2日先に行っていたことになる。
先遣隊が錦浦に上陸して仮宮の手配をしている時に暴風雨になったため、佐野命一行を心配し、情報収集をしたところ、佐野命は無事だったが一行のダメージは相当大きく、陸路を大和に向かうと云う決定がなされたことを知った。先遣隊は錦浦から大和に向かうことにしたのであろう。その経路が伝承として残ったものであろう。 
第7項 熊野越え
佐野命は八咫烏の案内で熊野越えをするわけであるが、このコースを伝承から推定して見ることにする。天皇が和歌山に到着したとき、八咫烏は和歌山にいたわけであるが、天皇が遭難したときは日本書紀の日付で7月初旬と思われ、吉野に着いたのが8月初旬であるから、その間約1ヶ月である。現在の日付で10月初旬から10月中旬までの15日ほどである。熊野本宮から吉野までの熊野古道大峰道の所要日数は10日ほどだったので、和歌山にいる八咫烏に連絡を取り八咫烏が、熊野本宮の地までやってくるには20日ほど要すると考えられ、日数不足である。日本書紀の日付記事に間違いがあるか、八咫烏が熊野本宮の位置にすでに来ていたかが考えられる。八咫烏は熊野地方と大和の連絡役をしている人物で、定期的に和歌山・熊野・大和を往復しているようである。いつまでも和歌山にいるはずもなく、高倉下は佐野命が遭難したときには熊野本宮にいることを知っていた可能性がある。拝の峠に八咫烏が佐野命を案内して峠越えをしたと言い伝えられているが、佐野命を案内するためにこの峠を越えて熊野本宮に赴いた伝承と言い換えることもできる。この古代史の復元は、伝承は極力そのままで採用する方針なので、この伝承が他の伝承と食い違う以上このように解釈したい。
熊野本宮大社
神武天皇御東征以前には既に御鎮座になったと云われており、崇神天皇六十五年に社殿が創建されたと「神社縁起」 「帝王編年記」「皇年代略記」等に記載されている。熊野大神を斎きまつったのは熊野連、尾張連であるが、この氏族は饒速日命の子、高倉下の子孫である。 その四世の熊野連大阿斗足尼は、成務天皇の御代に熊野国造に任ぜられ、 代々大神に奉仕し、江戸時代末までに及んだ。本宮大社は熊野三山の首座として熊野信仰の総本山として仰がれている。
主祭神は家津美御子大神(スサノオ命)で、古史によれば、はじめ海原を治めていたが、出雲の国島根の簸の川上に降り、八岐大蛇を退治され、天叢雲剣を得て天照大神に献上し、遠く大陸をも治めたとある。
紀伊続風土記に「大神大御身の御毛を抜いて種々の木を生じ給い、其の八十木種の生まれる山を熊野とも木野とも言えるより、熊野奇霊御木野命(くまのくしみけぬ=家津美御子大神と同意)と称え奉るべし。」とある。 植林を全国に奨め、木の国の名、熊野の称はここよりおこった。 特に造船の技術を教えられ、貿易を開かれたので古代に海外へという思想があった。舟玉大神と仰がれる。
折立
熊野本宮大社から熊野川に沿って北上すると12kmほどで折立に着く。神武天皇が滞在したという伝承をもつ。折立から玉置山への登山道があり、5kmほどで山頂である。玉置山への最短の登山道である。
玉置神社
玉置神社は近年まで陸の孤島と呼ばれていた大峰山系の南端、奈良県吉野郡十津川村の霊峰玉置山(標高1076.4m)の山頂直下に鎮座。 この地は古来より、熊野の地であって、佐野命が熊野に上陸した後、八咫烏に先導され大和に入る際、この霊峰玉置山で兵を休め神宝を鎮めて勝利を祈ったと言い伝えられており、 熊野信仰の奥之宮として皇族の行幸や宗教指導者、修験者、霊能者が数多く参籠修行した重要な神体山でもある。
神武天皇東遷以前から磐座信仰の地として崇められていたと思われ、日本最古の神社説もある。 近くの杉の木の根元には白い玉砂利が敷きつめられ、そのなかにわずかばかり地表に顔を出した丸い石がある。この石がご神体で、この石は地中にどれだけ埋もれているのかわからないほど大きいといわれている。この石が玉置神社の始まりである。
神武東征の折、玉置山で兵を休めた佐野命は、この石の上に神宝を置いて勝利を祈った。その後、 第十代崇神天皇が紀元前37年に玉置山に行幸し、その4年後に玉置神社が造営されたと伝えられている。
祭神 国常立尊、伊邪那岐尊、伊邪那美尊、天照大神、神日本磐余彦尊
薬師湯
北山川沿い上北山村河合に薬師湯(上北山温泉)がある。近くに大きな塚があり「天皇塚」と称えている。神武天皇が荒坂津から大和へお越しの途中、この温泉を御発見になって、傷病兵の湯治をなされた湯が、この薬師湯であり、また、戦病死者をお葬りになったのが、この塚で、明治維新の頃、何者かがこの塚を発掘しようとした時、稲光と雷鳴が、にわかに激しくなり、その上忽ち豪雨が沛然ときて、その者は狂死したと伝えている。(少年・神武天皇より)
大台ケ原
魔物を封じ込めたと云う牛が寝ている様な大きな牛石があるので「牛石ヶ原」と云われているところに、 神武天皇の銅像が建っている。当地は神武天皇東征の砌、八咫烏の先導で熊野から北上して来て、国見をされた所と云われている。
北山川の支流に小橡川がある。その流域に木和田と呼ばれる地が在り、ここは、古来より林業関係者の大台ケ原への入口であった。現在も登山道が存在している。
阿陀
佐野命が吉野川流域で最初の人・苞苴擔(にへもつ)の子に出会った(古事記)と伝える。現在の和田の地と思われる。
井光神社
伯母が峰から吉野川を下る途中、対岸の「井光川」に沿って上がると、井氷鹿(いひか)の里へ着く。 そこから500m上がった集落の中に鎮座している。祭神は、国津神の井氷鹿(古事記では井光)で、彼は佐野命が八咫烏の案内で熊野から大台山を通って、この辺りへ来た時、「古皇(ふるつこ)」「血ノ池」「布穴(ぬのあな)」等と呼ばれる光り輝く奧ノ宮の井戸の様な大きな窪みから出現した尾のある神である。
「井光川」沿いの道から北側へ150m上がると、神武天皇巡幸の聖蹟「井氷鹿の井戸」がある。ここが、井光神社に祀られている井氷鹿が姿を現した所といわれており、窪地の前に石碑が建っている。
井氷鹿は、佐野命を案内して、土地神谷(とちかみだに)を過ぎて休石(やすみいし)に腰をかけた後、御船山(みふねやま)の尾根にある拝殿で波々迦(ははか)の木を燃やし鹿の骨をもって卦(け)を立てて占い、御船の滝巖上に宮柱を立て天乃羽羽矢(天から授かった矢)を納め、進軍の勝利を祈願したといわれている。今でも8月24日天の羽羽矢納めの儀式がある。 
井光に伝わる神武天皇の東遷経路
伊波礼毘古命が海を渡って熊野に着きました、そこで健角身命(たけつぬみこと)と云う神様と出会いました。真っ黒な衣を着て木から木へ鳥のように飛び移っていくので、八咫烏の神様と呼ばれています。
その神様は伊波礼毘古命を案内して大台山を通りそして紀ノ川を下り、神の瀬という井光川の美しさに足をゆだねて井光山の神武道へと進まれました。鷹飼(たかがい)と言う岩倉の下を歩き、榊の尾から占め木の尾、合社谷を経て、やすん場、白倉山を通り、古皇(ふるっこ)とも血の池または布穴(ぬのあな)とも云う、奥の宮の井戸のような大きな窪みが光り輝いている所を通りかかると、その井の中より尾のある人が姿を現したものだから伊波礼毘古は驚いてそなたは何者かと聞きました。
すると、私は国津神で、名前は井氷鹿(古事記では井光)ですと云いました。それからの山道を案内して土地神谷をすぎて休み石に腰をかけた後、御船山の尾根にある拝殿にて波々迦(ははか)の木を燃やし鹿の骨をもって卦(け)を立てて占った上、御船の滝巖上に宮柱を立て天乃羽羽屋を納め進み行く旅の勝利を祈願した後、宇陀を通って橿原へ行かれた 
奥の院に伝わる伝承
字御舟山邊り御舟が滝巖上に小祠一社あり、里人呼で大塔と言傳ふ。祭神は井氷鹿の守護神なり。
大塔宮は、皇祖神武天皇をも祭り、古来より矢塚と奉申。神武帝皇居、吉野に被為御定諸方群賊を亡し遷幸あらせ賜ふに勝利の御矢を納めたまいしところなり。
応神天皇以降の諸帝典之乃離宮に御幸毎に皇祖天神を祝祭ありて御狩毎に御舟が巖上の大塔の社へ弓矢を納め賜う祭典あり。今に旧八月朔祭日に當り氏子者竹にて弓矢を携へ参拝するの古例存せり。
此弓矢を拝受し戦に望む事あらば勝利を齎し、猪鹿の耕作物を食ひ荒す處へ建置けば猪鹿荒れずと云ひ傳ふ。
大蔵神社 祭神:大倉比売命、岩押別命、鹿葦津比売命
大和志などによれば当社は「延喜式」神名帳に記載の川上鹿塩神社と言われる。
東川村と南国栖村の氏神で、境内には明治初年神宮寺があった。吉野国栖の祖神を祭る。「神武天皇遥拝所」が近くにある。この遥拝所は「石穂押分命の子が佐野命に供奉し、遥かに高見山を指してその付近の情勢を奏上したところ」と言い伝える。
宮滝
神武天皇東遷の際、一時本営を置かれた秋津宮址と言われている。宮滝遺跡が存在しており、弥生後期の土器も多数発見されている。
熊野川流域の伝承(神武天皇熊野巡幸叢説より)
<前略> 於是川船より。御軍八咫烏の後より。成川を指登。是熊野の諸手船の事本也。故前に神剣献れりし高倉下。実は既に大和国に天降ましし饒速日尊の御子。天之香具山命にませば父命に御心置して。寓名以て神剣を献り。卿導をも仕へ奉らず。退帰りて慎籠りましましければ。其地を後に音無里といふ縁也。然れども天神御子。御軍を帥て。舟より成川を登出御と聞て。得背き奉るまじき事を知食て。岩噛網代(いわかみあじろ)を遺して。斥候せしめ給ふ。此網代伊。君の命を狂て。ひそかに己が親族を帥て行て。川岸の高巖に上り立て。御さきの舟を進めるを見て。遠矢射たりければ。皇船よりも射立てられて。其巖より落て流る。此巖を今網代の見上岩(みあげいわ)となむいふ。また、其矢のしくしく落たりし所を。及矢里(しきやのさと)といふ。天之香具山命。今は得面勝たじと思して。受川に出迎奉りて。<中略>
此川を受比川と云いしを。今受川と云は訛れる也。於是香具山命は。御先仕へ奉りて。成川と音無河の河合の大斎原(おおゆのはら)に立てる梛(なぎ)の大木の本に座奉りて。大御饗献りき。此時天神御子。御心奈支ぬと宣ひしより。此木を梛木といふ。干玆行宮仕へ奉りて遷し坐せ奉る。天神御子は。軍人を労ひ給ひ。あからさまに霊祷を設て。天祖皇神を祀給ひ。更に御軍整て。再び成川より御船たたして。玉置川を上り給ひ。<後略>
この記録は明治三年秋八月、紀州藩の命によって、熊野三山を巡覧実検し社傳及古老の口伝をまとめたものという。
熊野越えコースの推定
・伝承をたどって
伝承をたどると二木島で遭難した後、新宮から川船で本宮にたどり着き、折立から玉置山に登った。ここまでは細かく伝承がつながっている。次が大台ケ原、井光、五社峠、白倉山、宮滝と伝承地が連なっている。玉置山から大台ケ原までの区間が伝承されていないので、推定することにする。
・佐野命一行が八咫烏に出会った場所 
佐野命一行が二木島で遭難したときは高倉下の救援があり、このときは八咫烏はいなかった。玉置山で祭祀をするときは八咫烏の先導があったようである。八咫烏に出会ったのは伝承では新宮のコトビキ岩からとなっている。八咫烏はこのとき新宮にいたのである。
・尾根道と川道
古代に人が内陸部を移動するとき、今のように道案内もないのであるから、川に沿って移動するか、尾根に沿って移動するかどちらかであったと思われる。
川に沿って移動する場合は水・食料などは楽に手に入るが、大型動物・蛇などに遭遇する危険性が高く、また、峡谷等通行不能な場所も点在している。そのような時は急斜面を移動することになり、滑落の危険が伴う。上流から下流に向かうときは間違えないが、下流から上流に向かうときは合流点で進路を誤る危険性が高い。また、峠越えのところで、斜面が急傾斜になっていることが多い。
これに対して尾根道は、水・食べ物が少ない、などの短所はあるが、見晴らしがよい、一般になだらかで危険箇所が少ない、危険動物に出会う危険性も少ない、などの長所が見られる。実際に熊野と吉野をつなぐ熊野古道は大峰道と言われる尾根を通る道である。昔は大峰道を10日ばかりかけて食料ほとんどなしで移動したため、修験者の修行には向いていたようである。
佐野命が熊野越えをしたのは10月上旬と考えられ、木の実などが豊富にあった時期で、尾根を主とした経路を通り安かったと推察される。しかし、佐野命一行が玉置山に登った登り口は折立で、ここは現在でも玉置山への最短登山道である。本宮から尾根沿いに玉置山へ登る道が現在でも存在しているが、その道のりは10kmほどで、当時で丸一日かかったであろう。佐野命はこの道を避けて折立から登っているのである。このことから尾根道は少しでも避けようという意図が感じられる。佐野命一行は大人数(数十人程度と推定)なので、尾根道は食糧確保が難しいのであろう。
日本書紀では熊野山中を抜けるコースは古事記とは異なっており、宇陀の穿村に到着し、エウカシを誅した後、吉野川沿いで、井氷鹿、石穂押分命の子、苞苴擔(にへもつ)の子と出会ったと記録されている。その出会ったといわれている場所は、井氷鹿が吉野郡吉野町飯貝、石穂押分命の子が国栖、苞苴擔(にへもつ)の子と出会った所が、宇智郡阿陀村(五条市阿田町)の地域と考えられている。
この経路は北から南への流れとなっており、実際の佐野命の南から北への流れとは逆になっている。また、飯貝、阿田ともにその地域に出会いを裏付ける伝承を伴っていない。また、蟹井神社に佐野命が来たとき、五条市近辺にいた反対派の行動をつかんでいるはずであり五条市近辺に立ち寄れるとも思えない。もし、五条市近辺に立ち寄れるならば、蟹井神社から、あるいは和歌山市から紀の川沿いに大和に侵入しているはずである。このように、順路、伝承の点から推察して明らかに古事記の方が正しいと思われる。
佐野命は十津川沿いに大和に侵入したという説も存在するが、この経路上に佐野命通過伝承地は存在せず、また、吉野川沿いに比べてかなり危険なコースである。このような点から考慮すると吉野川沿いのコースが有力となる。
では日本書紀のコースは一体何なのであろう。でたらめを書くとも思えず、その元となる伝承があったはずである。それを解明するのが、井光神社の伝承である。井光神社の伝承では
「大台山を通りそして紀ノ川を下り、神の瀬という井光川の美しさに足をゆだねて井光山の神武道へと進まれました。」
とあるが、これは、明らかに南から北への移動である。その次の具体的な経路を示す伝承は
「鷹飼(たかがい)と言う岩倉の下を歩き、榊の尾から占め木の尾、合社谷を経て、やすん場、白倉山を通り、古皇(ふるっこ)とも血の池または布穴(ぬのあな)とも云う、奥の宮の井戸のような大きな窪みが光り輝いている所を通りかかる」
全ての地名の位置が解明できたわけではないが、合社谷は五社峠、近くには白倉山がある。その後に井光を通っているのであるから、この経路は明らかに北から南への経路となっている。前者が古事記で、後者が日本書紀に沿っているのである。これより、佐野命は井光に二度来たと解釈される。それを裏付けるのが、奥の院の伝承である。
「大塔宮は、皇祖神武天皇をも祭り、古来より矢塚と奉申。神武帝皇居、吉野に被為御定諸方群賊を亡し、遷幸あらせ賜ふに勝利の御矢を納めたまいしところ」
井光の大塔宮に神武天皇がやってきたのは戦いで勝利を治めた後であり、「神武帝皇居」とあるので、天皇に即位した後であると思われる。おそらく神武天皇4年の鳥見山霊峙の時期に近いのであろう。
この時神武天皇は吉野に宮を構え、大和進入時に協力してくれた豪族たちを訪問して労を労ったものであろう。この時の記録が日本書紀に取り込まれて、古事記と日本書紀の記録の違いを生んだものと判断する。
神武天皇の大和侵入経路で古来より問題になっているのが、古事記に記録されている「熊野越えで吉野の川尻へ出た」という点である。川尻とは河口を意味し、五条市付近より紀ノ川の上流を吉野川ということから吉野の川尻とは五条市付近を指すのが一般である。熊野から五条市へ出るには十津川を遡るルートしかないが、このルートは危険な上に伝承を伴っていないなどの矛盾点もある。それに対して、天皇即位後に吉野の川尻に出たというのは大変合理的である。この当時の天皇の宮は柏原の神武天皇社あたりと推定されており、御所市に所属している。この地から吉野に出るには御所から五条市に抜けるようになり、結果として吉野の川尻に出ることになるのである。神武天皇が吉野の川尻に出たのは天皇即位4年(AD84年)のことであろう。
佐野命が熊野山中をさまよっている時に出会った人物の石穂押分命の子、苞苴擔の子はいずれもある人物の子であるという表現がなされている。これは出会った人物よりもその父の方が有名で近郷に知れ渡っていたことを意味している。これらの人物はどのような人物なのであろうか。吉野川上流域の遺跡は弥生後期の時代以降のものに限られそれ以前のものは見つかっていない。このことは、吉野川流域に人々が入り込んできたのは弥生後期の時代になってからということを意味しており、饒速日尊が大和進入後ということになる。饒速日尊が大和進入したのはAD30年ごろで、佐野命が大和進入したのは80年ごろである。その間50年ほど経過している。饒速日尊一行が近畿地方一体にマレビトを送り込んでそのマレビトが各地で子孫を作っている。その子孫が吉野川流域に入り込んでいるとすれば、50歳頃と思われる。その子は30歳前後と推定され、父が近郷に知られていたということも説明できる。
石穂押分命や苞苴擔がマレビトの子であるとすれば、佐野命東遷時の様子を色々と都合よく説明できるのである。八咫烏にしても倭国・日本国大合併反対派が占拠している地を案内するはずもなく、これらの人物は大合併に協力的な人々であったと考えられる。
・熊野本宮大社から玉置山まで
玉置山の玉置神社は熊野大社の奥宮といわれており、神武天皇東遷の時にはすでに信仰の対象になっていた。神武天皇が玉置神社の玉石の上で祭祀したと伝えられている。また、熊野川(十津川)を20km程遡った折立には神武天皇が滞在したという伝承がある。この地から玉置山は最短距離となり、現在も登山道(車道ではない)があり、5kmほどで山頂に着く。熊野本宮から折立まで、川沿いを1日。折立から玉置神社の地まで半日であろう。
早朝出発した天皇一行は夕方には折立に着き、次の日玉置山登山をして昼頃には着いたと思われる。その日午後、玉置山で祭祀を行った後、次の日に出発したと考えられる。
・玉置山から笠捨山まで、
玉置山から玉置川を下って北山川に出ることは可能であるが、そこから暫くは北山峡と呼ばれている峡谷地帯であり、川沿いに遡るのは不可能と考えられる。玉置山から次の伝承地大台ケ原へ向かうには熊野古道の大峰道に沿った道しか考えられない。玉置山から笠捨山までは大峰道に沿った経路となる。玉置山から大峰山脈の尾根に沿って香精山1122m、地蔵岳1250m、笠捨山1300mと続く。その経路約10km。この経路もほぼ1日で踏破できると思われる。
・笠捨山から池原まで 
笠捨山から大峰道は北へ回り最大の難所の八剣山1915mを通るのであるが、此処は難所であり、2000m近い標高であるため10月では夜はかなり寒いと思われる。それに大峰道に沿ったのでは、次の伝承地である大台ケ原を通らない。そのため、笠捨山から山を降りたのではないかと推定する。
笠捨山から笠捨越まで尾根を通り、そこから、東の尾根に沿って下り、次に奥地川に沿って下り浦向に出る。浦向から西川を遡り、寺垣内、池峰、池原と進み、現在の池原貯水池に出る。全行程14kmである。これも約1日であろう。ここは河畔なので、食料調達ができたと思われる。
・池原から大台ケ原まで
池原から北山川に沿って13kmほど遡った河合というところに小橡川との合流点があり、この近くに薬師湯がある。狭野命一行の傷病兵を湯治した所と伝えられている。その時死者があって、近くの天皇塚に葬られたと伝えられている。荒坂津の遭難或いは行軍中に体調を崩し亡くなった人物がいたのであろう。この温泉地に暫く滞在したようである。ここから、大台ケ原までの経路が不明であったが、大台ケ原ビジターセンターで、他の経路を調べた所、昔から木材の切り出しに使っていたルートがあるということであった。河合から小橡川に沿って遡る。7kmほど進むと木和田という所が在る。そこから、尾根伝いに登山道が存在し、緩やかに登っていくと5kmほどで逆峠1411mに達する。逆峠から3kmほどで経ヶ峰に達する。このルートが大台ケ原に通じる昔からのルートということである。佐野命一行はこのルートを通ったと考えられる。2日ほどの行程であろう。
この経路とは別のもう一つの経路も考えられる。薬師湯は北山川沿いにあり、川沿いに進むと10km程で、伯母峰峠に達する。しかし、ここは難所であり、井光神社の伝承でも大台山を越えたとあるので、上記のような経路を推定したが、この伯母峰峠を越えて井光に達したという推定も成り立つ。
・大台ケ原から井光まで
ここで、県境越えとなり吉野川流域に入る。経ヶ峰から現在の大台ケ原ドライブウエーに沿って尾根筋を歩き、伯母が峰に出る。そこから北西方向の尾根に沿って下り、大迫ダムに出る。吉野川に沿って下り和田に着く。ここまで約15km。ここで、苞苴擔(にへもつ)の子に出会ったと古事記は伝える。苞苴擔(にへもつ)の子に出会った場所は古事記によると吉野川の川尻(川下)とある。吉野川の下流であれば位置が大きくずれるが、これは前述のとおり神武天皇即位後の経路と思われる。吉野川の上流からから川沿いに下り、約3kmで井光川にとの合流点に着く。ここで、井氷鹿に出会ったのであろう。この行程は2日程度であろう。
・井光から南国栖まで 
井光からは川に沿って下り、大滝から五社峠を越えて降りたところが南国栖である。行程12kmでここまで1日であろう。ここで、石穂押分命の子に出会った。彼は、衣笠山の頂上より遥かに高見山を指してその付近の情勢を佐野命に奏上したと伝えられている。佐野命はここから、大和への侵入経路を確認したことであろう。
・南国栖から宮滝まで
南国栖から川沿いに約7km下ると宮滝に着く。佐野命が大和に侵入するには反対派も多く、日向から連れてきた人々の多くは二木島の遭難で失われており、高倉下が人数を多く派遣してくれはしたものの反対派を押し切るほどの戦力には程遠い。幸いにもこの段階で大和反対派にとって佐野命は消息不明になっており、警戒を解いていたと思われる。反対派に所在を知られるのは時間の問題であるが、それまでに、周辺の豪族を倭国・日本国大合併の協力者にする必要があった。その本拠地として選んだのが宮滝の地である。ここに宮を作ることにより、熊野越えは終わる。全行程約100kmで、10日前後を要したと思われる。佐野命は戊午8月2日には兄猾、弟猾を呼んでいるので、7月中には宮滝に着いていたと思われる。戊午8月2日は現在の10月中旬である。
宮滝を拠点として天皇は周辺豪族を協力させ、大和進入の準備をするのである。 
第8項 エウカシ誅す
熊野越えをした佐野命一行の人数はどれほどであったろうか?人数が多すぎれば熊野山越えにおいて兵糧の問題も発生し、少なすぎれば大和のナガスネヒコに対抗することはできなくなる。九州から佐野命に従ってきた人員の大半は二木島の嵐で失われており、これに高倉下が協力者を集めてくれたと推定している。総勢100人を越える程度ではあるまいか。最大でも数百人が限度であろう。一方ナガスネヒコは数千人は集められると予想され、戦力から考えてとても大和盆地にいるナガスネヒコの敵とはならない勢力である。ナガスネヒコ軍と対決するためには宇陀地方の豪族を味方に付けなければならない。また、大和盆地内の賛同勢力にも協力を得ければならなかったと思われる。佐野命一行はナガスネヒコ軍に対してはるかに劣勢であり、地理不案内も重なり、一般に言われているように佐野命が皇軍を編成し、大和に攻め上ってナガスネヒコを征伐することなどとても不可能なことである。佐野命がナガスネヒコ軍に打ち勝って大和盆地に侵入することができたと言うこと自体が大和盆地内に協力者がいたことを意味し、神武天皇東征ではなく、倭国・日本国大合併のための東遷であることを示している。
宮滝に仮宮を作った佐野命一行がまずしなければならないことは次のとおりである。
1 大和のナガスネヒコに所在を知られてはならない。そのため、極力極秘で行動すること。
2 戦力的に明らかに劣勢である。そのため、周辺地域の豪族の最大限の協力を得ること。
3 ナガスネヒコ軍の情勢を把握すること。
日本書紀記述あらすじ
秋8月2日、磐余彦尊は莵田県(うだのあがた)の豪族である兄猾と弟猾を呼んだ。兄猾はやって来なかったが、弟猾はやって来た。
弟猾は「兄猾は天つ神(あまつかみ)がやってくると聞いて、天つ神の軍勢を見て正面からでは歯が立たないと判断し、仮の新宮(にいみや)を造り、御殿の中に仕掛けを作り、兵を隠しておいて、おもてなしすると見せかけて襲いかかろうと考えているようです。」と奏上した。
磐余彦尊は道臣命(みちのおみのみこと)を遣わしその計画について調べさせた。道臣命は仔細に調べて兄猾に磐余彦尊の殺害意志があったことを知り、怒り狂って叱責し、剣を構え、弓を構えさせて取り囲み「卑怯者が、お前のような奴は自分で張った罠でくたばるがよい。」と言って彼が造った宮へ追い込んだ。
兄猾はそのまま自らの仕掛けに落ちて圧死した。その屍を引き出して斬ると、大量の血が流れ出しくるぶしを埋めるほどであった。それでそこを名付けて莵田の血原という。
この中の情勢を把握するための行動伝承がいくつか残っている。
大蔵神社 祭神:大倉比売命、岩押別命、鹿葦津比売命
大和志などによれば当社は「延喜式」神名帳に記載の川上鹿塩神社と言われる。東川村と南国栖村の氏神で、境内には明治初年神宮寺があった。吉野国栖の祖神を祭る。「神武天皇遥拝所」が近くにある。この遥拝所は「石穂押分命の子が神武天皇に供奉し、遥かに高見山を指してその付近の情勢を奏上したところ」と言い伝える。
烏の塒屋(カラスノトヤ)山
神武天皇御東遷の際、頭八咫烏、皇軍をここに導き、暫く滞在した。
高鉾神社(現吉野山口神社) 祭神 高皇産霊神、神皇産霊神
高鉾山(龍門岳)を御神体として礼拝し、神武天皇御東遷の際の舊社地であり、この山の山嶺に於いて親しく天神地祇を祀らせられ、御戦勝を祈らせ給う。
これらの山はいずれも山頂部が見晴らしの良い所であり、これらの伝承より、佐野命一行は宮滝に仮宮を作った後、周辺の情勢を把握しようとしていたことが伺われる。
・宇陀地方の豪族の配置
佐野命一行が宮滝に仮宮を作った頃のこの周辺の豪族の勢力圏を推定してみることにする。
石穂押分命
現在の吉野町・東吉野村一帯が勢力圏であったと思われる。国栖神社・川上鹿塩神社・大蔵神社等、この地域に石穂押分命を祭った神社が非常に多い。神武天皇の仮宮があったといわれている宮滝はこの命の勢力圏である。
また、佐野命が周辺を視察したと伝えられている大蔵神社・烏の塒山・龍門岳いずれもこの勢力圏にある山であり、烏の塒山・龍門岳は北側の領域境界線上であると思われる。佐野命は石穂押分命の協力を得て、周辺の情勢を把握している姿が浮かび上がってくる。
弟猾(オトウカシ)
現宇陀市の南部一帯(関戸・岩崎・岩清水・田原・守道・片岡・東平尾周辺)と思われる。
兄猾(エウカシ)
現宇陀市の東部一帯(宇賀志・芳野・内牧・室生周辺)と思われる。
剣主命(ツルギヌシ)
剣主命は佐野命東遷時、勲功あって葛城国造となったと伝えられ、現宇陀市宮の奥周辺が本拠地と思われる。周辺に命を祭る剣主神社や白石神社がある。
・宇陀の高城
エウカシを誅した時のものと思われる伝承地がいくつかある。まとめて見ると。
桜実神社 祭神 木花佐久夜毘売
神武天皇御東遷時、佐野命が植えたと伝えられている八ッ房杉がある。口伝によれば、神武天皇東征の砌、皇軍が「菟田の高城」に駐屯して、その四方に定めた神籠の1つで、神社明細帳によると、当社は「天王宮」とも称し、宇陀市菟田野佐倉小字ミヤの「八坂神社」と同境内社の「愛宕神社」、小字紅葉の「十二社神社」と同境内社の「秋葉神社」、小字嶽(だけ)の「弁財天」を合祀している。
この神社の地はオトウカシの推定領域とエウカシの推定領域の境界線上の丘陵上にある。
宇陀の高城
神武天皇東征時、八咫烏に導かれて熊野から大和国へ進軍した皇軍が、ここで休息をするために築いた我が国最古の城跡と伝える。大伴と久米の軍団が、宇陀の兄宇迦斯(えうかし)を討ち取った時、久米歌(くめうた)を歌っている。
「宇陀の高城に鴫罠張る 我が待つや鴫は障らず いすくはし鯨障る 前妻が肴乞はさば たちそばの実の無けくをこきしひゑね 後妻が肴乞はさば いちさかき実の多けくをこきだひゑね ええ しやこしや こはいのごふそ ああ しやこしや こは嘲咲ふぞ」
現代語訳「宇陀の高地の狩り場に鴫の罠を張る。私が待っている鴫はかからず、思いもよらない鯨(鷹)がかかった。古妻がお菜を欲しがったら、肉の少ないところを剥ぎ取ってやるがよい。新しい妻がお菜を欲しがったら、肉の多いところをたくさん剥ぎ取ってやるがよい。エー、シヤコシヤ。これは相手に攻め近づく時の声ぞ。アー、シヤコシヤ。これは、相手を嘲笑する時の声ぞ。」
宇賀神社
祭神はこの血原で果てた兄宇迦斯の御魂を邑人が祀った。神社前の地を血原といい、兄宇迦斯終焉の地と伝える。
神武天皇穿邑聖蹟
神武天皇は穿邑に宮を造り暫く滞在したという。
丹生川上神社中社の聖跡
神武天皇が天神の教示で天神地祇を祀った、厳甓を川に沈めて戦勝を占った聖地という。この時川の魚が木の葉のように浮いたのを椎根津彦が眺めた跡という魚見石も川下に建てられている。佐野命丹生川上顕彰碑が建てられている。
高見山
山頂に高角神社があり八咫烏を祀っている。
「神代の昔 佐野命 熊野伊勢を経て高見山を踏破この峻岩を天皇自らよじ登り四方展望 兄猾(えうかし)の根拠地、宇陀を眼下に見下し又遠く男坂女坂墨坂方面の長髓彦等の敵情視察なし第一回の軍議評定せし処なり。」と伝えられている。
日本書紀によると高見山で展望した後、穿邑に宮を造り、オトウカシを恭順させ、エウカシを誅し、吉野の諸豪族を恭順させたとある。史実が日本書紀のとおりならば、井光から川に沿って山の尾根に出て、そこから高見山経由で穿邑に入ったことになるが、この経路は山、谷を複雑に乗り越えていくコースとなり、古代としては非常に難しく道に迷いやすいコースではないかと思われる。また、宮滝の宮址伝承、龍門岳、烏の塒屋(カラスノトヤ)山で国見をする伝承が宙に浮いてしまう。さらに石穂押分命関連の伝承とも矛盾する。古事記の記事の方が多くの地域伝承と照合するのである。
佐野命軍は大和軍に対してはるかに劣勢である。とにかく周辺の豪族を味方につけなければ、勝負にならない。このような状況にあるので、山越えで穿邑へ行くよりも、古事記にあるとおり、吉野川流域の豪族を味方につけるほうが先であろう。
高城岳
山頂に直径60cm程の球形の石があり、神蘺とする神日本磐余彦命、高オカミ神を祀る小祠がある。神武天皇滞在の聖蹟と伝えられている。周辺の葛神社、十八社神社、椋下神社、天神神社、雨師丹生神社、八咫烏神社、高角神社、桜実神社、龍穴神社、八竜五社神社等、神武天皇関連人物を祭る神社は悉く高城岳を向いている。
高城岳から東の展望はあまり利かないが南から西への展望は良く利く、大和盆地が一望でき、晴れた日には大阪湾も見えるほどである。
高城岳の北東には出雲系の神社が多く、南西には日向系の神社が多い。
高城岳の伝承は周辺の神武天皇関連の中枢となっている様子である。山頂から西への展望が利くので、宇陀地域、大和盆地の様子を探る望楼があったのではないだろうか。常時駐在員を配置し周辺の様子を探り、何か変事があると、本陣に連絡が行くようになっていたと思われる。実際にこれから戦闘を始めようとする時、最も重要なものが敵情視察である。そのための望楼を周辺の山の山頂部に設けていたと考えられる。
高城岳の南側(内牧)と東側(田口)にエウカシが討たれたという血原伝承地があることから、エウカシの領域に属していたと考えられる。宇賀志の血原でエウカシを誅した後で、その支配地域を訪問し、その全域の豪族が恭順した後、高城岳に望楼を造ったものであろう。
宮城
宮城一帯は神武天皇が一時滞在した跡だという伝承がある。諸木野の高城岳、田口の血原橋などと同じく神武伝説が共通している。住塚山(1、009m)は「炭塚山」とも書かれ、山頂には村の目印として木炭を埋めたからと言うところから名が付いたともされている。他には神武天皇の敵・ヤソタケルがかつて住んだところだからとも言う。また、隣の国見山の名は神武天皇が山頂から「国見」をされたからと伝えられている。
この伝承もエウカシ領域の豪族たちを恭順させた時のものであろうと思われる。
エウカシとの戦いの概要
宮滝に仮宮を作った佐野命は、吉野川流域の豪族に協力をさせるために石穂押分命の案内で高倉下、八咫烏などの諸将を極秘裏に各地に派遣した。
八咫烏は石穂押分命に導かれて、吉野川を遡り、新子→野々口→下出→中黒→栗栖→丹生川上中社を経て高見川流域一帯の豪族を恭順させた。佐野命は東端にある高見山に登り、宇陀地方一帯の状況を調べた。
高倉下は宮滝から吉野川を下って河原屋に至り、津風呂川沿いに川を遡り、山口を経て三茶屋に達した。ここで、オトウカシに会った。オトウカシは快く協力を申し出た。オトウカシの協力により宇陀市南部地域の豪族は悉く恭順した。高倉下はオトウカシの協力を得てさらに田原→片岡→平尾→大熊と進んで行き、エウカシに協力を要請した。
エウカシは倭国・日本国の大合併に反対の意思を持っていたのである。エウカシは鳴鏑(なるかぶらや)で高倉下を射た。後世鳴鏑の落ちたところを訶夫羅前(かぶらさき)と称するようになった。エウカシはオトウカシを追い返した後佐野命の存在を大和盆地内の豪族たちに知らせるために使者を派遣した。佐野命の所在が反対派豪族にに知られたので、反対派の豪族たちは榛原・宇陀地方に出陣してくることが考えられる。オトウカシが高倉下にその時に備えて宮奥の剣根命を恭順させることを提案した。宮奥は桜井市方面から多武峰経由で攻め込まれる地であり、この地を押さえておかないと全面戦争になったとき背後を突かれる危険性があったからである。剣根命は恭順した。
高倉下はオトウカシと共に宮滝まで戻りこのことを報告した。オトウカシ・剣根命は高倉下と共に、宇陀市の大東・守道・和田・佐倉のラインを最前線として防衛ラインを形成した。佐野命は大和を攻めるにあたりオトウカシの支配地が反対派豪族たちに三方から包囲される形になっているので不利であると思い、反対派豪族たちが軍を配置する前にエウカシを攻めることにした。
佐野命は軍を整え、宮滝を後にした。津風呂川沿いに遡り龍門岳で桜井市方面の反対派豪族軍の様子を調べた。反対派豪族軍は集結しつつあった。早くエウカシを討たないと三方から包囲される危険性があることが分かった。佐野命はエウカシの本拠地のすぐ近くの佐倉に高城を築いて様子を探った。
エウカシは部民を集め佐野命軍と戦おうとしたが部民のほとんどはオトウカシに協力を誓っていたので、エウカシに協力を申し出るものは少なかった。この戦力では佐野命軍と戦うのは難しいと悟ったエウカシは、新殿に天皇を罠にかけるための仕掛けを造り、佐野命軍に恭順を申し出た。
オトウカシが罠が仕掛けられていることを察知し天皇に進言した。しかし、その真偽を確かめてからでないとエウカシを誅することはできないと思った天皇は、道臣命と大久米命に罠の真偽を確かめて、罠が本当であればエウカシを誅するように命令した。
道臣命と大久米命がエウカシの屋敷に赴いて罠を確認するとオトウカシの奏上したとおりであった。道臣命は怒って部下に命じてエウカシ自身をこの罠の中に押し込んだ。エウカシは自分の作った罠にかかり死んだ。道臣命はその死骸を罠から引き出して部下に切らせた。屋敷のそばの川が血で真っ赤になったので、この地を血原という。エウカシの本拠地は宇賀志の宇賀神社の地である。
エウカシを誅した後、エウカシの支配地域の豪族たちの多くは、エウカシが合併反対派に味方しようとするのに同意していなかったことを知り、この領域の豪族たちを恭順させようとした。穿邑(現在の神武天皇菟田穿邑聖蹟顕彰碑のある位置周辺)に宮を造り、そこを拠点として、内牧川を遡った。この地域の豪族は反抗してきたので、血原伝説のある三島神社周辺で誅した。佐野命はさらに、東に向かい田口周辺(ここにも血原伝説がある)で反対派の豪族を誅した。そのご、宮城に拠点を移し、国見山で周辺を探り、エウカシの支配領域(宇陀郡曾禰村、御杖村、宇陀市室生区)の豪族たちを恭順させた。周辺の豪族たちが恭順したので、高城岳に望楼を造り、宇陀市一帯から大和盆地の様子を探った。
この間に反対派豪族たちは、宇陀と桜井の境に防衛線を張った。その最前線に出陣して来たのが八十梟師(ヤソタケル)である。 
第10項 八十梟師軍の配置
・日本書紀の記事(概略)
<高倉山からの国見>
9月5日、磐余彦尊は莵田の高倉山の頂に登って国中を眺めた。そのころ国見丘(くにみのたけ)の上に八十梟帥(やそたける)がいた。女坂(めさか)には女軍(めのいくさ)を置き、男坂(おさか)には男軍(おのいくさ)を置き、墨坂にはおこし炭を置いていた。男坂、女坂、墨坂の名はこれに由来している。また兄磯城(えしき)の軍が磐余邑(いわれのむら)にあふれていた。敵の拠点はみな要害の地にあり、道は絶え塞がれていて通るべき処がなかった。磐余彦尊は苦々しく思いつつもどうすることもできなかった。
<戦闘開始後>
磐余の地の元の名は片居(かたい)または片立(かたたち)といった。しかし磐余彦尊の軍が敵を破り、兵達が大勢集まりその地に溢れたので磐余と呼ばれるようになった。また、磐余彦尊がむかし厳瓮(いつへ)の供物を食べ出陣して西片を討った。このとき磯城の八十梟師(やそたける)がそこに兵を集めて磐余彦尊軍とよく戦ったが、ついに滅ぼされた。そこで名付けて磐余邑といったともいわれている。また磐余彦尊の軍が雄叫びを上げた所を猛田(たけだ)という。また城をつくったところを城田(きだ)という。さらに賊軍が戦って屍(かばね)が肘を枕にしていたので頬枕田(つらまきた)という。
これはAD81年11月初旬のことと思われる。
・関連伝承地の特定
1.高倉山
高倉山伝承地には次の候補がある。
1 榛原町の福地岳
2 榛原町の高城山
3 宇陀市大宇陀区の高倉山(高角神社あり)
4 東吉野村の高見山
5 宇陀市大宇陀区の城山
一つ一つを吟味して最も真実性の高いものを決定する。
兄磯城は宇陀と桜井の境界線に沿って軍を配置していたようである。その軍の様子を眺めることのできる山でなければならない。1及び2は穿邑の宮の位置の北東部に位置し墨坂には近いが男坂・女坂からは遠く、軍の配置までは良く見えないと思われる。また、1は墨坂に近すぎ敵の領域内とも言える。4も遠すぎると判断する。残るは3または5である。伝承が最も具体的なのが3である。3は大宇陀区守道にあり、高倉山と呼ばれている山が存在している。この山の山頂部には高角神社が存在しており、「神武天皇高倉山顕彰碑」が立てられており、日本書紀にいうところの高倉山であると伝えられている。
しかし、5の城山に伝わる伝承では、この山も高倉山といい昔高倉神社が存在したそうであるが、この山に松山城を築城するとき3の位置に神社を遷したと伝えられている。この伝承を基にすると、佐野命が国中を眺めた高倉山というのは5の現在城山といわれている山となる。
この山は天皇が見たような軍の配置を最も良く見ることのできる位置に存在しているので、大宇陀区の城山こそ真実の高倉山であろう。
ただ、佐野命は周辺の敵軍の動きを探るため、方々の山に望楼を設けていたと考えられ、1〜5の山のいずれにも望楼はあったと判断する。
2.国見丘
音羽山が一般に国見丘と呼ばれている。すぐ隣の経ヶ塚山の中腹に「国見原」と呼ばれる地名が存在すること。大宇陀区一帯を桜井側から展望するのに最も良い位置であること。この山は桜井と宇陀市の境界にあること。高倉山からの展望も良く聞くこと。などの好条件がそろっているので、国見丘とは音羽山・経ヶ塚山東側の丘陵地帯を指しているものと判断する。
3.男坂
男坂伝承地は宇陀市大宇陀区半阪の地と桜井市栗原をつなぐ山道の峠にある。兄磯城軍は佐野命一行が大和盆地に入り込むのを妨害するのが第一目標であるので宇陀市と桜井市の境界線の峠に軍を配置したと考えられる。男坂伝承地はまさにその峠に存在しているので、この伝承地が正しいと判断する。しかし、男軍を配置したので、男坂というのは不自然に感じられる。この地は古来「忍坂」と呼ばれているので、「オシサカ」→「オサカ」と変じたのではあるまいか。
4.墨坂
日本書紀によれば、神武天皇即位四年春鳥見山中に霊畤(マツリノニワ)を築かれ、天皇みづから皇祖天神を祭祀され「この地を上小野榛原(カミツオノハリハラ)下小野榛原(シモツオノハリハラ)という」とある。その下小野榛原が即ち墨坂の地である。現在は西峠地区にあるが、佐野命の軍が大和菟田に入られた時この墨坂において賊軍がいこり炭(山焼きの意)をもって防戦したため、天皇の軍は苦戦し菟田川を堰き止め消火して進軍した所でもある。この墨坂の神(大物主神)は饒速日尊のことと思われ、佐野命東遷時にはすでに祀られていたと伝えられている。
兄磯城がここに陣を張っているということから、兄磯城もマレビトの子孫と考えられる。
墨坂は現在の榛原周辺を指しているのであろう。
5.磐余邑
宇陀市大宇陀区岩室の西北にある山が磐余山でその北の渓谷を「カタイ谷」と呼んでいる。また、すぐ南の迫間に「キダ」の地名があり、迫間から本郷につながる道路の近くの西山岳の南側の丘陵を「横枕」と称しており、日本書紀の「屍が肘を枕にしていたので頬枕田という。」という記事につながる。岩室に皇大神社が存在しており、ここが磐余伝説地である。
大宇陀区下竹周辺はその昔猛田県といわれており、猛田県主の始祖はオトウカシである。この周辺はオトウカシの支配地域の中心地であったのであろう。
6.女坂
女坂伝承地は宇陀市宮奥と桜井市をつなぐ通称針道と呼ばれている峠道の針道峠であると伝承されている。宮奥は剣根命が治めていたが、この時すでに佐野命に恭順していたと思われ、それに対抗するために、軍を配置したと当初考えたが、この坂は高倉山から見ることができないし、かなりきつい峠であり、経ヶ塚山に陣を張っていれば、峠を越える軍を見ることができるので、この峠に軍を配置する意味はあまりないと考えられる。高倉山から良く見える位置で佐野命軍の動きを封じる意味のある峠といえば、桜井市栗原から宇陀市本郷へ抜ける峠と国道166号線の女寄峠が考えられる。粟原から本郷へ抜ける峠の方は国見丘のすぐ近くであるので、軍を配置する必要性をあまり感じない。残るは女寄峠のみである。国道上にある峠なので、現在でも桜井と宇陀をつなぐメイン道路となっており、当時の人々もこの峠を通っていたと考えられる。
しかし、女軍とは何であろうか。女軍は男軍に対して戦力的にかなり劣るために、防衛の拠点となるところに女軍を配置することはまず考えられない。女軍を配置するのは戦略的に陽動するときと考えられる。女軍を配置するのは本格的戦闘があった激戦地周辺と思われる。その激戦地は磐余周辺であるから、その周辺で女坂と取れる場所を探すと、「メメ坂」というものがある。迫間から大宇陀高等学校横を通る道を昔「メメ坂」と言ったそうである。
このメメ坂は高倉山の正面にあたり、高倉山から見渡せばメメ坂にいる女軍の動きは手に取るように分かるはずである。八十梟師(ヤソタケル)軍は正規軍をどこかに隠しておき、佐野命軍が女軍を見て動き出したところを挟撃する作戦を展開したのではないかと想像できる。 
・各軍の配置
八十梟師軍の動き
八十梟師は桜井市に軍を集めた。攻撃目標は後のオトウカシの本拠地(大宇陀区下竹周辺)である。軍を二手に分け、別動隊は桜井から忍坂を経由して粟原川を遡り、男坂を経由して岩室へ進軍する計画であり、磐余邑に軍を隠した。主力軍は音羽から経ヶ塚山山麓(国見原)に陣を張った。迫間(メメ坂)に男装させた女軍を配置し、その女軍に攻撃しかけてきた佐野命軍の背後から磐余邑に隠している別働隊を襲撃させ佐野命軍を挟み撃ちにする計画である。
兄倉下、弟倉下の動き
これら豪族たちは桜井市から榛原の墨坂(現在の西峠付近)に陣を張り、墨を起こしてこの周辺にやってきた佐野命軍に炭火を浴びせようとしていた。
佐野命軍の配置
朝原の伝承地(後述)から推察して、佐野命軍の主力は高倉山の南の大東あたりに集結していたと推定する。主力は穿邑を出陣し佐倉→守道→大東と軍を進め、天皇自身高倉山に登り敵軍の配置を見ていたと判断する。しかし戦端が開かれたのは北側の磐余邑である。磐余邑の八十梟師軍との間で戦端が開かれているので別働隊がいたと考えられる。磐余邑の八十梟師軍は南に逃避しているので、別働隊は磐余邑の北側の小付あたりから攻め込んだと考えられる。別働隊は穿邑を出発し芳野川に沿って北上し母里あたりに隠れていたものと判断する。 
第11項 宇陀の朝原の祈祷
南宇陀で八十梟師軍と佐野命軍との戦闘が始まる前に宇陀の朝原で戦勝の祈祷が行われている。これに関して日本書紀では以下のような記述がなされている。以下あらすじ
また兄磯城(えしき)の軍が磐余邑(いわれのむら)にあふれていた。敵の拠点はみな要害の地にあり、道は絶え塞がれていて通るべき処がなかった。磐余彦尊は苦々しく思いつつもどうすることもできなかった。その夜は神に祈って眠った。すると高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が夢に現れて言った。
「天香具山の社の中の土で天平瓦を八十枚作りなさい。あわせて御神酒を入れる器を作り天神地祗(あまつやしろくにつやしろ)を祀り敬いなさい。また厳呪詛(いつのかしり)をしなさい。そうすれば敵は自ら降伏し従うでしょう。」
弟猾も同じことを言ったので実行することにした。
椎津根彦(しいねつひこ)、弟猾、を天香具山へ派遣した。
そこで椎津根彦は卑しい衣服と蓑笠をつけ老人に化けさせ、弟猾には箕を着せて老婆に化けさせて天香具山に向かわせた。このとき敵軍は道を覆い通る事も難しかった。しかし椎根津彦が神意にうかがいを立てた。
「我が君がこの国を良く治める事が出来る人物で有れば、道は開けるだろう。それが出来ぬ人物で有れば敵が道を塞ぐだろう。」
敵は「なんて汚い翁と媼だ。」とあざけり笑い、二人に道を開けた。そして無事に山から土を持って帰ることが出来た。磐余彦尊は大いに喜んでこの土で天平瓦や御神酒の器を作らせ、丹生(にふ)の川上に行って天神地祗を祀った。莵田川の朝原で水沫(みなは)の様にかたまり着くところがあった。
磐余彦尊は神意を占った。
「私は八十の平瓦で水なしに飴を作ろう。もし飴が出来れば、武器なしに天下を治めることが出来るだろう。」
はたして飴はたやすく作ることが出来た。さらにまた神意を占った。
「私は今御神酒を入れた器を丹生の川に沈めよう。もし大小の魚が全部酔って、ちょうどまきの葉が流れる様に流れたら自分は天下を治めることが出来るだろう。もしそうならなければ、事を成し遂げることは出来ないだろう。」
はたして器を投げ込んでしばらくすると魚が浮き上がってきて流されていった。椎根津彦がその事を報告すると、磐余彦尊は大いに喜んで、丹生の川上の沢山の榊を根こぎにして諸神にお祀りした。
このときから祭儀の際に御神酒瓶の置物が置かれるようになった。
朝原伝承地の特定 
朝原には以下のような伝承地がある。
1 丹生神社(宇陀市雨師)
社前の掲示板には「佐野命が丹生川上に陟って天神地祇を祭り、莵田川の朝原で呪いをしたと日本書記にあるが、その莵田川の朝原の地がここである。」と記されている。1km南を莵田川が流れている。吉野から分遷したと言われている
2 丹生川上神社中社
佐野命が天神の教示で天神地祇をまつり、厳甓を川に沈めて戦勝を占った聖地という。
3 神戸神社(宇陀市大東)
境内に朝原神社がある。
4 八坂神社(宇陀市本郷)
境内に朝原神社がある。
5 阿紀神社(宇陀市迫間)
神武天皇東遷の時、神夢に依つて椎根津彦命と弟迦斯の二人に命じて天の香山の埴土を取り土器と壼を作らせて多数の器に天の甜酒を入れ、神戸の社(当社)の木々の下に備ヘて天神地祇を祭った。 
佐野命が宇陀で戦闘をする前に朝原で祈祷をしているのであるから、その地は戦場の近くで、佐野命・オトウカシの支配地内のはずである。この点から考えると、1は墨坂の近くでこのときはまだ敵地であり、2は戦場から離れすぎているので、共に候補から脱落する。345はいずれも大倉山周辺で互いに近い位置にある。45は八十梟師軍を佐野命軍が追い込んで殲滅した横枕と呼ばれている場所のすぐ近くであり、戦闘をする前の支配地とは考えにくい。よって、朝原の候補地として残るのは3の神戸神社以外にはないことになる。
神戸神社のすぐ西を宇陀川が北に向けて流れている。また、神社の東の丘陵は「鏡作」と称しており、ここには水銀の路頭鉱床がある。宇陀川流域はこのような路頭鉱床が多い。水銀鉱床即ち辰砂は朱の原料であり、硫化水銀である。朱は古代において塗料・防腐剤として使われている。弥生式土器の表面の塗料も朱である。朱は丹ともいい、朱を産する地を丹生という。宇陀川は朱を産するので古代丹生川と呼ばれていた可能性がある。丹生川上とはこの地を指していると言える。
朝原の祈祷の意味
戦いの勝敗には兵士の戦意が大きな影響を与える。戦端を開く直前に戦意を高揚するために神に祈祷したものと考えられる。兵士にとって目の前で縁起の良い奇跡が見せられたら戦意は高揚するであろう。そのために考えられたのが朝原の祈祷ではあるまいか。
書紀に書かれている「飴」は「タガネ」と読ませている。「タガネ」とは多賀禰餅のことであろう。多賀禰餅とは秋の収穫時にこぼれた米を粉にして作った餅のことで、古代において神酒の原料になったと言われている。蒸した後のこの米を使えば餅を作ることができる。また、神酒を入れた祭器等を川に沈めれば魚は酔って浮かび上がってくる。佐野命はタネを明かさず兵士たちの前でこのようなことを実践したのではあるまいか。タネを知らない兵士たちは奇跡が起こったと勘違いし神威がわれわれに味方していると大いに士気が上がったものと推定する。
天香具山の土を取ることの意味
当時の大和の人々にとって神聖なる山である。武埴安彦の妻吾田姫が香具山の土を取ったとか、天の岩戸事件のときも香具山の土をとることが書かれている。香具山の土を取ることは神威を味方に付けるために重要な儀式であったと思われる。しかし、佐野命東遷時の天皇一行は大和の人間ではないため、そのような信仰はなかったと考えられ、佐野命が香具山の土を取ってくる意味はないのではないかと推定する。日本書紀のみにあって古事記には記載されていないことと合わせて考えると、これは、後世挿入された説話ではあるまいか。
椎津根彦、弟猾を大和へ派遣した意味 
宇陀市嬉河原に笑ヶ嶽という山があり、椎津根彦、弟猾がここを通ったときに敵の兵卒に醜いと笑われたのが起源といわれている。嬉河原は男坂伝承地の手前にあるので、椎津根彦、弟猾は高倉山の麓から、嬉河原→男坂→磯城と通ったと考えられる。彼らは香具山の土を取りに行ったのではないとすると、大和に何をしに行ったのであろうか。
佐野命が大和に来た目的は倭国・日本国の大合併のためである。大和国内に賛成派が存在するはずである。反対派が現在宇陀に向けて進軍してきているのであるが、このとき、大和国内の賛成派はどうしていたのであろうか。三輪山西麓の磯城一族は饒速日尊の子である事代主を婿王として迎えており、佐野命は事代主の娘と結婚する予定である。しかしこの政略結婚にはそのほかの多くの一族が反対しており、ナガスネヒコが佐野命を生駒で追い返してから反対派の勢力が強くなり、賛成派は反対派に押さえ込まれて動きが取れなかったものと考えられる。日本国の政治形態はこの時点では崩壊していたのであろう。賛成派にとって佐野命から使者を受けると元気付けられ、大和国内に佐野命受け入れ態勢を整えることができるであろうし、反対派を背後からけん制することもできるであろう。また、賛成派から反対派の情勢を聞きだすこともできたであろう。これらのことを目的として賛成派と連絡を取るために椎津根彦、弟猾を大和へ派遣したのではなかろうか。
反対派とは桜井市外山を本拠とする兄磯城であり、賛成派とは三輪に拠点を置く弟磯城である。弟磯城は事代主の子と思われ、三輪氏の祖である天日方奇日方命のことではあるまいか。その妹と政略結婚する予定であろうと推定する。兄磯城もマレビトの系統であろうが、娘が結婚相手に選ばれなかったのを理由として合併に反対しているものと推察する。饒速日尊のマレビト作戦は有力豪族がひしめいていた近畿地方を統一するのには一役買ったが、その子孫が多くなりすぎ、饒速日尊の死後、後継者争いが頻発しており、日本国は分裂寸前の状態にあった。
日本書紀の記事
まず使者を出して兄磯城(えしき)を呼び出したが、兄磯城は返答しなかった。さらに頭八咫烏(やたのからす)を遣いに出した。そのとき烏は兄磯城の陣営に行って鳴いた。
「天神の子がお前を呼んでいる。」
兄磯城は「天神が来たと聞いて、慌ただしいときに何故烏がこうも五月蠅いのか。」と怒って弓で射た。烏は逃げ去った。次に弟磯城(おとしき)の家に行って鳴いた。
「天神の子がお前を呼んでいる。」
弟磯城は「私は天神が来られたと聞いて朝も夜も畏まっていた。烏よお前がこんなに鳴くのは良いことである。」と言って、皿八枚に食べ物を盛って烏をもてなした。そして烏に導かれて磐余彦尊のもとに参じた。
「我が兄の兄磯城は、天神の御子が来ると聞いて、八十梟師(やそたける)を集めて、武器を整えて決戦しようと考えています。磐余彦尊も速やかに準備された方が良いと思います。」
「聞いての通り、兄磯城はやはり我々と戦うつもりらしい。どうすればよいか。」
「兄磯城は知恵者です。まず弟磯城を使者に出して降伏を進めてはいかがでしょう。あわせて兄倉下(えくらじ)と弟倉下(おとくらじ)にも諭させて、それでも従わぬ場合に戦いを仕掛けても遅くないでしょう。」
磐余彦尊はこの案を取り入れて弟磯城を遣いに出して降伏を進めた。だが兄磯城は承知しなかった。
日本書紀のこの記事は朝原祈祷の後に忍坂の大室の戦いがあり、その後の記事である。しかし、この記事は戦う前の和平交渉を意味しており、朝原の祈祷の前と思われる。椎津根彦、弟猾を大和に派遣したときのものではあるまいか。磯城にいる豪族で反対派の首領を兄磯城と呼び、賛成派の首領を弟磯城と呼んだものであろう。
賛成派を介した和平交渉を幾たびか行ったが、進展しないのでついに戦端が開かれることになった。 
第12項 八十梟師軍との戦い
八十梟師軍の方から戦いは仕掛けられた。八十梟師は国見丘に本陣を張り、別働隊を磐余に控えさせていた。迫間のメメ坂に女軍を配置し、その女軍をけしかけ、大東の佐野命軍本体を陽動した。佐野命軍が女軍に襲い掛かったとき、磐余の別働隊がその背後を襲い、国見丘の本隊と別働隊で挟撃し佐野命軍を殲滅する作戦であった。軍の配置からこのように考えられるのである。
ところが、高倉山で八十梟師軍の動きを察知していた佐野命軍はこの陽動作戦には乗らず、母里に控えさせていた別働隊を磐余に隠れている八十梟師軍の別働隊に北側の小附付近から襲撃させた。八十梟師別働隊は人数的に有利ではあったが、不意をつかれ体制を整えるまもなく、南へ逃避することになった。
八十梟師軍別働隊は南に逃避し迫間周辺に達したとき、南から佐野命軍本隊の襲撃を受けた。八十梟師軍別働隊は佐野命軍に逆に挟撃される形になり、八十梟師軍本隊の控える国見丘に向けて逃避行を始めたが、本郷の横枕でその多くは戦死した。国見丘の八十梟師軍本隊は、別働隊が挟撃されているのに気づくのが遅く、手の打ちようがなかった。逃げてきた別働隊の敗残兵を保護するしかなかった。 
佐野命は迫間の阿紀神社の地に本拠を構え、10月1日(AD81年11月中旬)に国見丘の八十梟師軍本隊を襲撃した。このときの久米歌が
「神風の 伊勢の海の 大石にや い這ひ廻る 細螺の 細螺の 吾子よ 吾子よ 細螺の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ」(伊勢の海の大石に這いまわる細螺(しただみ)のように、我が軍よ、我が軍勢よ。細螺のように這いまわって、必ず敵をうち負かしてしまおう。)
八十梟師軍本隊は打ち破ったが、その敗残兵がその周辺に身を潜めて機を伺っていた。
阿紀神社
元阿貴宮又は神戸大神宮と称す
祭神 天照坐皇大神 秋姫命 八意思兼命 天手力男命 
由緒 大国主神の孫姫秋毘売神 宇陀の荒野を拓殖経営し給ひ秋野の狭間を万代の宮處と擇び定めて鎮座し給へるが此の神社の創祀なりと云う。神武天皇御東征の砌りには此宮處に大纛を樹て給ひ天神地祇を祀られ、崇神天皇60年には皇女倭姫命天照大神の御杖代となり四カ年間此宮に斎き奉る今を遡る2千余年前也
神武天皇が当社に於いて天照大神を奉齋
神武天皇東遷の時、神夢に依つて椎根津彦命と弟迦斯の二人に命じて天の香山の埴土を取り土器と壼を作らせて多数の器に天の甜酒を入れ、神戸の社(当社)の木々の下に備ヘて天神地祇を祭った。
社地の前を西南から東北に流下する本郷川は当社の御手洗川で、南岸狭長な水田を隔てて数十メートルの高い位置に墳丘を覆う樹叢の地があり、ここを高天原と称する。
阿紀神社の地には朝原伝承があるが、戦端を開く前の敵陣内に存在しているので朝原ではないと考える。佐野命が天照大神を奉斎しているので、この地が、戦闘終了後の宮址と推定する。佐野命はおそらく、ここを拠点として国見丘に攻め上ったと考えられる。 
第13項 忍坂の大室
日本書紀記述
残党はまだ多く残っており、その情勢は測り難たかった。そこで道臣命に密かに命じた。
「お前は大来目部(おおくるめら)を率いて大室を忍坂邑(おさかのむら)に造って、盛大に酒盛りをして敵を騙して討ち取れ。」
道臣命は言われた通り味方の強者を選んで、敵と同居させた。しかし密かに示し合わせていた。
酒宴がたけなわになった頃、私が立って舞う。お前達は、私の声を聞いたら一斉に敵を刺せ。
酒宴がはじまり皆が席について酒を飲んだ。敵は陰謀を巡らされていることを知らないため、つがれるままに酒を飲んで酔った。そのとき道臣命は立って歌った久米歌。
「忍坂の 大室屋に 人多に 入り居りとも  人多に 入り居りとも  みつみつし 来目の子等が 頭椎い 石椎い持ち 撃ちてし止まむ」
(忍坂の大きい室屋に、人が多数入っているが、入っていても、御稜威を負った来目部の軍勢の頭椎(柄頭が椎の形をした剣)石椎(柄頭を石で作った剣)で敵を討ち負かそう。)
味方の兵はこの歌を聞いて一斉に剣を抜き敵を皆殺しにした。佐野尊の軍勢は皆、大いに悦び天を仰いで歌をよんだ。
「今はよ 今はよ ああしやを 今だにも 吾子よ」(今はもう、今はもう、敵をすっかりやっつけた。今だけでも、我が軍よ)
今、来目部が歌った後に大いに笑うのは、これがそのいわれである。
「夷を 一人 百な人 人は云へども 抵抗もせず」(夷を、一人で百人に当たる強い兵だと、人は言うけれど、抵抗もせず負けてしまった)
これは密命をうけて歌ったので、自分勝手に歌っのではないという。
この後、佐野尊が言った。
「戦いに勝っても、おごる事がない者が良将だ。大きな敵には討ち勝ったが、まだ敵が居なくなったわけではない。討つべき敵はまだ数多く残っている。さぁ、何時敵が攻めてこないとも限らない。長く同じ所に居ては危険だ。出発するぞ。」
佐野尊の軍はさらに進軍した。
忍坂の大室の位置
桜井市忍坂にオブロの地名があり、佐野命が大室を設けて賊虜を斬った所と伝承している。しかし、この地はまだ敵地奥深くであり、神武軍が策略を練るような地ではありえない。真実の忍坂はどこであろうか?10月1日に佐野命軍は国見丘の八十梟師軍本隊を打ち破った。その後の勢力圏の境界線上(桜井市・宇陀市の市境)にあるはずである。男坂伝承地が当時の忍坂領域に入っていることから、この近くであろう。この近くに存在する伝承地は麻生田の是室山である。巨大な岩室があることから名づけられたという。
戦いの状況
国見丘の八十梟師軍本隊を打ち破ったが、その残党が跋扈している状態にあった。残党の掃討作戦を実施するためには、残党を一箇所に集めて一挙に誅する必要があった。地元の事情を良く知っている協力者弟磯城の配下を残党にしたてて、佐野命一行を殲滅するための戦力の終結に協力させた。忍坂に大室をつくり、そこに残党を集めた。残党にしてもある程度の戦力の結集がなければ佐野命一行と対決しがたいがために、情報を聞いた残党が集まってきた。道臣命は、これら残党を盛大な酒盛りで欺き、一挙に殲滅したものであろう。
これにより、現宇陀市一帯は墨坂の弟倉下軍が残っているだけの状態になった。 
第14項 大和制圧
日本書紀記述
椎根津彦が磐余彦尊に作戦を上申した。
「まず女軍(めいくさ)を遣わして忍坂の道から攻めましょう。そうすれば敵はおそらく精兵を出して応戦してくるでしょう。こちらは、強兵で別働隊を組織して墨坂に向かわせ、莵田川の水で敵兵の起こした墨の火にかけ敵が驚いている間に不意を付けば敵は敗れるでしょう。」
磐余彦尊はその計り事をほめて、まず女軍を出した。敵は大兵が来たと思い全力で迎え撃った。これまで磐余彦尊の軍は攻めれば必ず取り、戦えば必ず勝った。しかし兵達も疲労しなかったわけではない。そこで将兵の心を慰めるために歌を作った。
「盾並めて 伊那瑳の山の 木の間ゆも い行き瞻らひ 戦えば 我はや飢えぬ 嶋つ鳥 鵜飼が徒 今助けに来ね」(伊那瑳(いなさ)の山の木の間から、敵をじっと見つめて戦ったので、我らは腹が空いた。鵜飼いをする仲間達よ、いま助けに来てくれよ。)
はたして男軍(おいくさ)が墨坂を越えて現れて、後方から挟み討ちにして敵を破り梟雄兄磯城(たけるえしき)を斬った。
椎根津彦の作戦
宇陀市南部は悉く平定され、反対派は外山(桜井市中心付近)に兄磯城・兄倉下が本陣を張っており、宇陀市内には弟倉下が墨坂(榛原)に拠点を置いていた。佐野命は大室の戦いで女寄峠まで支配下に置くことができた。女寄峠は女軍が配置されたためにつけられた名といわれている。また、女寄峠は忍坂の道の入り口となっているので女軍を配置したのは女寄峠であろう。
佐野命はどのようにして大和を制圧したら良いかを話し合った。女寄峠を確保したが、ここから大和に攻め込めば、背後から墨坂の弟倉下軍に襲撃されるのは明らかである。
そこで、別働隊を伊那佐山経由して墨坂の背後に回らせ、女寄峠に女軍を配置して、墨坂の弟倉下軍を女寄峠に向かわせ、その背後を別働隊に襲撃させる計画をたてた。しかし、女軍で陽動するのはかなりの危険がともなう。この女軍に対して西側から外山の兄磯城、兄倉下が、東側から墨坂の弟倉下軍が襲ってくるであろう。その場合女軍は壊滅してしまう。そのため、女軍の背後に精鋭を控えさせておくことにした。
佐野命軍としてはまず、墨坂の弟倉下軍を壊滅させねばならなかった。墨坂が落ちれば忍坂を通って大和にはいることができる。そうすれば、三輪の弟磯城軍の協力を得て兄磯城軍を壊滅させることができるのである。
墨坂の弟倉下軍は見晴らしの良いところに陣取っており、佐野軍の動きは丸見えである。正面から墨坂を攻めれば多大の人的被害をこうむることは明らかであるので、女寄峠の陽動作戦により墨坂の主力軍を女寄峠に向けさせ手薄になったところを背後から攻めることを考えた。
背後から攻めるには墨坂の弟倉下軍に見つからないように墨坂の東側に回りこまなければならない。そのために越えなければならないのが伊那佐山である。その経路を推定すると次のようになる。
阿紀神社の地を出発した別動隊は高倉山の南を抜けて、岩清水を経て母里に達する。母里で芳野川をわたり、伊那佐山山中に分け入り、北東部の西谷川流域に出た。川に沿って下り宇陀川と内牧川の合流点付近まで到達したと考えられる。この地は現在檜牧と呼ばれているが、この付近は古来岩舟といい、饒速日尊の滞在伝説地でもある。この近くの淵を「神武の淵」と言って、神武天皇御東遷の時天皇の通過されたところと言い伝えられている。この付近の木々の間から墨坂の敵陣を観察し、敵陣の主力が女寄峠の方へ出陣した直後を狙って襲撃する計画である。女寄峠の女軍の準備が整うまで暫く待っていたのである。このときの歌が上記の久米歌であろう。
しかし、この作戦にも難点がある。それは女寄峠の女軍が桜井方面からの兄磯城軍本隊と、墨坂の弟倉下軍主力とに挟撃されることになることである。敵軍をその利点を狙って出撃させるのであるから危険が伴うのは当然であるが、女軍が壊滅してしまえば佐野命軍としても戦いが一挙に不利になってしまう。そこで、墨坂を占拠した後、軍を二手に分けて一隊を笠間方面に向かわせ、墨坂の本隊を女軍と共に挟撃し、もう一隊は現在の朝倉の慈恩寺付近に向かわせた。この地は兄磯城軍の本拠地であり、女寄峠の女軍めがけて出撃しているであろうから手薄になっているはずである。そこを襲撃し、弟磯城軍に背後を任せ、忍坂道を遡り女軍との間で今度は兄磯城軍を挟撃するというものである。
大和進入
11月7日、三輪の弟磯城軍と作戦の意志統一ができたので、計画は実行されることになった。本拠地としている阿紀神社の地より、まず、女軍・弟猾軍を女寄峠方面に派遣した。暫くして、佐野命自身が別働隊を率いて高倉山の南を東に向かった。母里より芳野川を渡り伊那佐山を通過して西谷川沿いに出て、檜牧周辺に軍を控えさせ、墨坂の弟倉下軍を様子を観察した。
女寄峠の女軍が配置を完了し女軍の陽動作戦が開始された。反対派の見張り役がその動きを察知し、外山の兄磯城、墨坂の弟倉下の方へ連絡が届いた。兄磯城の方は軍を集めて、その主力を兄倉下に任せ、女寄峠に向かわせた。墨坂の弟倉下軍は兄磯城軍との協調により佐野命軍を挟撃する絶好の機会であるとその主力を女寄峠方面に向かわせた。
墨坂の弟倉下軍主力が西へ移動したのを確認した佐野命は、宇陀川を下り福地岳の東側を回りこみ、西峠の墨坂陣地(墨坂伝承地)に北側から一挙に攻め込んだ。留守部隊しか残っていないところへ東から佐野命の大軍を受けた留守部隊は周辺に火を放って抵抗した。佐野命は川(宇陀川の支流・鳥見町付近と思われる)を堰きとめてその水で火を消し、墨坂を確保した。すぐに佐野命は軍を二手に分け、道臣命に一軍を預け、弟倉下軍を追って女寄峠に向かわせ、自らは外山の兄磯城軍本拠地に向かった。
弟倉下軍は女寄峠に向かっているとき前面からの弟猾軍と、背後からの道臣命軍によって挟み撃ちに会い、笠間にて全滅した。
弟猾軍及び道臣命軍は連合して忍坂道を遡ってくる兄磯城軍主力と戦うことになった。
外山の兄磯城軍はその主力を女寄峠に向かわせたので、兄磯城自身が少数の留守番部隊とともに残っていた。佐野命率いる主力部隊はこの留守部隊をめがけて、墨坂から初瀬川を下り一挙に襲った。兄磯城留守部隊は虚を着かれまもなく壊滅した。
桜井市慈恩寺に佐野と呼ばれているところがある。外山の兄磯城軍を破った佐野命はここに本拠地をおいて、周辺の守備を弟磯城に任せ、兄磯城軍主力を逆に挟撃するため、すぐさま忍坂道を遡った。兄倉下率いる兄磯城軍主力は相当の戦力を持っていたが、佐野命の全軍に挟撃されたため、活路を見出すこともできず、兄倉下戦死後全軍が投降して来た。
投降して来た兵士は数が多く、「磐(兵士)が余れり」ということで、この周辺の地を「磐余」という様になり、佐野命は敵の兵士といえど、投降して来た以上は自らの民となる人々であるということを忘れないという意味で、自らの名を「磐余彦」と改名した。
これにより磐余彦はついに大和の地に立つことができたのである。その最初の本拠地は桜井市佐野である。 
第15項 長髄彦との戦い
日本書紀記述
12月4日、磐余彦尊(いわれひこ)の軍はついに長髄彦(ながすねひこ)を討つことになった。しかし戦いを重ねたが、なかなか勝利をものに出来なかった。そのとき急に空が暗くなって雹が降り出した。そこへ金色の不思議な鵄(とび)が飛んできて、磐余彦尊の弓先に止まった。その鵄は光り輝いて、その姿はまるで雷光のようであった。このため長髄彦の軍の兵達は皆幻惑されて力を出すことが出来なかった。
長髄というのは元々は邑の名であったが、これを人名に用いたものだった。そこで磐余彦尊の軍が鵄の力を借りて戦ったことから、人々は鵄の邑と名付けた。今、鳥見というのはなまったものである。
以前、孔舎衛(くさえ)の戦いにおいて、五瀬命(いつせのみこと)が矢に当たって戦死したが、磐余彦尊はこれを忘れず常に仇を討とうと考えていた。
長髄彦は磐余彦尊に使いを送って言った。
「その昔、天神の御子が天磐舟に乗って天降られた。御名を櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)といわれる。それで我々は饒速日命を主として仕えている。天神の子は二人おられるのか。どうして天神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのか。私が思うにあなたは偽物でしょう。」
磐余彦は
「天神の子は数多くいる。お前が主とあがめる人が本当に天神の子ならば必ずその表(しるし)があるはずだ。それをしめせ。」
と言った。
磐余彦が使いの者に返答すると長髄彦は、饒速日命の持つ天の羽羽矢と歩靫(かちゆき)を磐余彦に示した。長髄彦が示した羽羽矢と歩靫を見た磐余彦尊は、自分の持つ羽羽矢と歩靫を長髄彦に示し自分もまた天神の子であることを示した。長髄彦はそれを見て、ますます恐れ畏まった。しかし戦闘は、いままさに始まろうとしており、回避することは難しかった。そして長髄彦の軍は、改心の気持ちがなかった。
饒速日命は天神が気にかけているのは、天孫である瓊瓊杵尊の子孫だけだということを知っていた。また長髄彦は性質がすねたところがあり、天神と人とは全く異なるところがあるのだということを説いても無駄だと思い殺害した。そして饒速日命は部下と共に磐余彦に帰順した。
神武天皇鵄邑顕彰碑 
長髄彦本拠地の碑がある白庭台より2kmほど南東に神武天皇鵄邑顕彰碑がある。富雄川の東岸である。
碑文「神武天皇戌午年十二月皇軍ヲ率イテ長髄彦ノ軍ヲ御討伐アラセラリタリ時に金鵄ノ瑞ヲ得サシ給ヒシ二因リ時人其ノ邑ヲ鵄邑ト稱セリ聖蹟ハ此ノ地方ナルベシ」
長髄彦本拠地の碑がある白庭台の富雄川をはさんだ対岸の丘陵が鵄山と呼ばれており、日本書紀の金色の不思議な鵄が飛んできた地である。
長髄彦との戦いの状況推定
鵄山の伝承地は桜井市にもあるがこの地は兄磯城の本拠地であり、すでに磐余彦の勢力圏に入っているのであるから鵄邑は生駒市にあるものが真実性が高いと思われる。外山は兄磯城の伝承と混乱したためではないかと推定する。生駒市高山にある鵄山伝承地はまさに長髄彦本拠地の真正面である。この本拠地を攻めるとき、拠点とすべき丘陵地と考えられる。しかし、この地は本陣とするにはまさに正面過ぎるので、磐余彦本隊は現在の神武天皇鵄邑顕彰碑のあるあたりまで富雄川を遡ってきたと推定する。神武天皇鵄邑顕彰碑周辺の丘陵地を本陣として、長髄彦本拠地を攻略する部隊がここを出発し、鵄山に前線基地をつくり、富雄川をはさんで弓矢の射掛け合いをしたものであろう。長髄彦の軍隊の方が優勢で鵄山の前線基地が破られそうになったとき、背後から救援隊(金鵄)がやってきたものであろう。
金鵄とは何者であろうか?長髄彦軍は金鵄を見ると戦意を喪失し、使者を磐余彦に送っている。この伝承から判断して長髄彦が尊敬している人物ということになる。それは饒速日尊であることになるが、彼はこの時はすでにこの世の人ではなくなっている。饒速日尊の直系の子孫であろう。長髄彦の甥でもあり、饒速日尊の長男であるウマシマジがこの条件を最も満たしている。
長髄彦にしてみれば、侵略者である磐余彦を追い返そうとしているときに孫であるウマシマジが敵軍の援軍として登場したのである。戦うことができなくなり「どうしてなのか」と早速、使者を送って事情を聞きだそうとした。ウマシマジはこのままでは日本国と倭国の大戦争が起こると考え、大合併に賛成に回ったのである。ウマシマジと長髄彦は話し合ったが、長髄彦は承諾せず、あくまでも戦う意思を崩さなかった。やむを得ずウマシマジは長髄彦を刺し殺し、長髄彦の部下を磐余彦に帰順させた。日本書紀にいう饒速日尊とはその長男であるウマシマジのことであろう。
このように考えると状況が最も良く説明できる。 
第16項 残党一掃
日本書紀記述
翌年春2月20日(AD82年2月?)、磐余彦尊は諸将に命じて士卒を選んで訓練を行った。この時に層富県(そほのあがた)(添県)の波多の丘岬に新城戸畔(にいきどべ)という女賊がいた。また和珥(天理市)の坂下には居勢祝という者が居て、臍見の長柄(ほそみのながら)の丘岬に、猪祝という者が居た。この三人は自分の力を信じて帰順しなかった。そこで磐余彦尊は兵を投じて皆殺しにした。
また高尾張邑(たかおわりむら)に土蜘蛛(つちくも)がいた。その人態は身丈が低く手足が長かった。磐余彦尊の軍は葛の網(かつらのあみ)を作り罠をはって捕らえこれを殺した。そこで邑の名を変えて葛城とした。
磐余彦が大和国内に入り込み、ウマシマジが帰順したことにより、大和国内の大勢は賛成派で占められた。しかし、周辺にはあくまでも反対する勢力が残っていた。あくまでも反対する勢力を駆逐していったのである。その中の土蜘蛛の墓が高天彦神社のすぐ近くにある。土蜘蛛もマレビトの子孫であることを意味している。磐余彦が大和に侵入したときは同じ一族のマレビトが賛成派と反対派に分かれて互いに争っていたのであろう。 
第17項 神武天皇即位
日本書紀記述
31年夏4月1日、天皇の御巡幸があった。腋上(わきがみ)のほほ間の丘に登り国の形をながめて言った。
「なんと素晴らしい国を得たものだ。狭い国ではあるが、蜻蛉(あきつ)がとなめ(後尾)しているように山々が連なり囲んでいる。」
神武天皇社 祭神 神倭伊波礼毘古命   鎮座地 奈良県御所市柏原字屋舗
神武天皇の即位した場所であるといわれている。
須賀神社
通称 ほほまの丘の宮 祭神 素盞鳴命 鎮座地 奈良県御所市本馬字麦山
掖上ほほま丘という、この丘へ神武天皇がお登りになり「大和は山々にかこまれて美しい国だ、蜻蛉(あきつ)のとなめしているようだ」と仰せられたという。
わが国の別名「秋津島」の名はここから起こったのだという。この丘の木を切ることは恐れられている。斉明天皇の越智岡の御陵をつくる時にもこの丘の木を切ることを恐れてしなかったという。また頂上にハライタ山という土壇があり、吾平津媛を祀った跡だと伝えられている。
神武天皇即位について
白髪峠
神武天皇が熊野から上陸しこの地の白髪峠を越え大和へ向かう際に、月が余りにも美しかったので、月出の里と名づけたと伝わる。
これから戦闘が始まるという時に月の美しさに見とれたというのが本当であれば、佐野命は余程豪胆な人物であるということになるが、なかなかそのような人物は存在しないと考えられる。むしろこれは、平和になった後の伝承ではないかと考える。
神前神社 半田市亀崎町2-92
祭神 神倭磐余彦尊
由緒 神武天皇が大和入国の時、この地に上陸した。
半田市は愛知県の知多半島にある。この地は神武天皇の東遷コースから大きく外れているが、東遷関連伝承を持っている。これはどうしたことか。
以上二つの伝承は神武天皇東遷時のものと云われているが、高見山伝承と共に東遷コースから外れている。高見山及び白髪峠はともに共に三重県の櫛田川上流域にあり、この川を下ると三重県松坂市(伊勢)である。神武天皇は即位後伊勢津彦を伊勢に派遣しており、伊勢はかなり重視していたようである。松坂市から伊勢湾に出るとその対岸が神前神社のある知多半島である。
神武天皇は即位後、何か理由があって、三河国を巡幸してその時の伝承地が白髪峠や神前神社の伝承となったものではないだろうか。
濃尾平野は大和朝廷即位後の銅鐸と思われる、突線紐式銅鐸が集中出土する地域である。神武天皇の訪問と何か関係があるのではないだろうか。
神武天皇31年(AD98年に相当)に、腋上(わきがみ)のほほ間の丘で国見をしたと記録されているが、この地は御所市柏原の須賀神社の地である。ここは神武天皇が即位したと伝承している神武天皇社のすぐ近くである。神武天皇の宮址は橿原神宮の地と伝えられているが、即位伝承地が神武天皇社の地であるから宮址もこのすぐ近くと見るべきであろう。即位後31年も経ってから国見をするような地とは考えられない。国見をしたのが神武天皇31年と干支が同じであれば神武天皇元年(AD83年)となる。即位直後に国見をしたと考えるのが自然である。
また、須賀神社は出雲の須我神社と同じ名である。出雲の須我神社はスサノオ命が稲田姫と結婚して最初の宮を造った地である。柏原の須賀神社は神武天皇の最初の宮址ではあるまいか。
AD83年1月1日(当時は冬至が一年の最初と考えていたようなので、AD82年12月下旬頃と思われる)、残党一掃も終わり大和国内が平穏となったので、事代主の娘・媛蹈鞴五十鈴姫命との結婚式を盛大にあげることになった。これにて倭国と日本国の大合併が成立し、新生日本国が誕生したのである。磐余彦は大和朝廷初代神武天皇として即位した。その場所は神武天皇社の地である。
その本拠地は葛城勢力の牽制も含め柏原の地に定めたのであろう。神武天皇はAD100年ごろ第二代綏靖天皇に皇位を譲った。日本書紀の神武天皇31年の記事が暗にその事実を伝えているのではないかと推定している。おそらくこの時、宮を柏原から畝傍山の麓の橿原に遷したのであろう。代わりに綏靖天皇の宮址が葛城山麓に造られることになる。
神武天皇即位4年鳥見山霊峙を行ったとある。大和朝廷が成立し、国も一段落がついたので、神武天皇が大和に入る時に協力してくれた豪族を労うために周辺を巡幸した。御所市付近から紀ノ川流域に入り五条市付近(吉野の川尻)から、吉野に回った。吉野に宮を造り、井光の大塔宮にて勝利の矢を奉納した。
このとき、高見山から櫛田川沿いに下り、松坂市から伊勢湾に出て、知多半島に上陸するコースで、巡幸した。帰りは、櫛田川を遡った。川の上流域で、見た月の出があまりに美しかったので、「月出の里」と名づけ、そこから、白髪峠越えで御杖村に入った。この村経由で、大和に帰ったものであろう。
福岡県行橋市長尾の五社八幡神社に次のような記録がある。
神武天皇即位12年(AD89年)、日向御巡幸の時、この地に着きて大元祭をおこなう。
このことは神武天皇即位後九州地方を巡回していることを意味している。
また、福井県鯖江市石田神社の記録
「神日本磐余彦命(神武天皇)の東征の折り、石田彦という人物が、それに従った。神日本磐余彦命が、越の国を巡幸され、当地に滞在した時、懐中より玉串を取り出して、「朕今汝に石田郷を与えむと思う。汝朕の命に従い之を無窮に伝えよ」と、石田彦に勅したという。
このことは神武天皇が即位後越国を巡回していることを意味している。
これらの伝承を照合すると、神武天皇は即位後全国を巡幸していることが分かる。初めての日本列島統一王朝である大和朝廷が成立したのであるから、天皇自身が全国を巡幸して、諸国の実態を知ることは大変重要なことであり、当然であろう。ただし、その記録がほとんど失われており、巡回コースの復元はできない。
熊本県天草地方は神武天皇を祀った神社が全国一多い。また、熊本県矢部町の男成神社の伝承によると、神武天皇の七六年二月、健磐龍命(たけいわたつのみこと)がこの地に下向の際、皇祖の三神を祭祀されたことに始まるとのことである。健磐龍命は阿蘇開拓の祖神であって、日向から高千穂を経て、阿蘇盆地にやってきたようである。
熊本県一帯は球磨国(魏志倭人伝の拘奴国)であって、大和朝廷の支配を拒否し続けている。その関係で、神武天皇は球磨国を大和朝廷の支配下に組み込もうと健磐龍命を晩年(AD120年ごろ)球磨国に派遣したものであろう。
神武天皇は治世76年(現年代計算で38年)でAD121年橿原神宮の地で生涯を終えた。畝傍山の麓の神武天皇陵に葬られた。現年齢計算で63歳の生涯であった。 
 
第16節 大和朝廷の技術指導

 

第一項 畿内系土器の出土状況
後期中葉に地方有力者が存在しなかったものと推定したが、それでは、初期大和朝廷は地方有力者が存在しない状態で、どのようにして地方を治めていたのであろうか。
後期中葉以降、各地から畿内系土器が見られるようになる。大和朝廷が成立して、畿内から誰かがやってきたためと考えられるが、北九州の玄界灘沿岸地方以外の畿内系土器には出土の仕方に特徴がある。それを挙げてみると、 
1 北九州沿岸地方を除き、畿内系土器は、集中出土することなく、広い範囲にまばらに恒常的に出土している。これは畿内から少人数が定期的にやってきたことを意味している。そして、これらの畿内系土器は祭祀土器ではなく通常の生活で使うものが多い。
2 在地系土器と混在する形で出土し、やや住居内に残りやすいといった点はあるが、特別扱いされている様子はほとんどない。これは、畿内から来た人物が在地系の人々と共同生活をしていたことを意味している。
3 他の地域からの搬入土器が、在地系土器になんら影響を与えた形跡がないのに対して、畿内系土器は、在地系土器に対して、製作技法上の影響を与えている。これは畿内から来た人物が土器製作技術を伝えたことを意味している。  
第二項 大和朝廷の地方統治
共同生活
畿内系土器が在地系土器に対して、特別扱いされていないことから判断して、畿内からやってきた人物は、役人や祭祀者ではないようである。そして、広い範囲に少しずつ、恒常的に分布していることから判断して、畿内から、定期的に、少人数がやってきたと考えられる。また、畿内系土器が畿内系の墳墓が見つからない地方にも見られることから、やってきた人々は、任期を果たして帰っていったか、別の地に移動したようである。
これらのことと、この時期、農業技術が急速に進歩し、各地で人口爆発が起こっていることと考え合わせると、畿内から派遣されてきた人物は、各種技術者ではないかと推察する。スサノオ・ニギハヤヒは地方を豊かにすることによって、国家統一を果たしているわけであり、新技術が人々にスサノオ・ニギハヤヒを神と信じさせた。日向国も外国交易によって勢力を維持していた。ところが、旧日本国は外国交易ルートを持たなかったために次第に衰退の傾向があった。大和朝廷は、外国交易によって新技術を導入することこそ、地方統治には重要なものであると判断し、それを受け継ぎ、新王朝に対する地方の人々の不安を払拭するためと、地方を治めるために、技術者を派遣したものと判断する。文字のない時代であるから、派遣された技術者は、在地の人々と適当な期間、共同生活をすることにより、農業技術などを伝えたものと考える。
鏡と鉄剣の普及
後期中葉以降、漢鏡や鉄剣をはじめ多くの遺物が全国から出土するようになっているが、これは、これらの技術者によってもたらされたものと考える。
鉄剣は、スサノオが国家統一の時に携えていたもので、地方の人々に宝器として認識されていた。地方の人々は鉄剣を欲しがり、技術者は地方へ派遣されたときにこれを配ることにより、地方の人々にとけ込むことができ、共同生活をすることが可能になって、各種技術を地方に伝えることができたのである。数多くの鉄製武器のうち、鉄剣のみが全国に普及したのは、このような理由があったからである。
一世紀後半から二世紀前半にかけて鋳造された漢式四期と五期に推定されている鏡は、ずっと後の時代の墳墓に副葬されている。共同体の持ち物として、伝世されていたと考えられる。技術者は、昇ってくる太陽の位置から農耕の時期を推定する暦法を伝えるとともに、鏡を使った祭礼も、伝えていたのではあるまいか。鏡は、大和朝廷の始祖ニギハヤヒが、太陽神天照大神として崇められていることから、鏡に朝日が反射する様子が祭礼の対象になったのではあるまいか。このようにして、鏡がニギハヤヒのシンボル、鉄剣がスサノオのシンボルとして地方に定着してゆくのである。   
朝廷と地方との関係
これら技術者が、朝廷に帰参するときに、地方の情報をもたらし、地方の方も技術を教えてくれたお礼に、ということで、朝廷に対して献上品を送り、これによって、朝廷は運営されていたと推定する。
後期中葉にあたるこの頃の墳墓の副葬品は大変少なく、特別な地方権力者というものは存在しなかったようである。宝器は伝世されるようになっている。地方に共同体が形成されていったようである。また、鉄製武器も激減していることから、貧富の差もなく平和で豊かな時代だったようである。地方の人々は、朝廷から教えてもらった技術で生活が豊かになり、朝廷に従うようになっていった。大和朝廷は技術を地方に伝え、その技術力で地方を治めていたのである。この統治方法は、スサノオやニギハヤヒが国家統一をしたときの手法から学んだものと考えられる。このような方法により、朝廷が各種技術を地方の人々に伝えていれば、地方の人々は朝廷を神と感じるようになり、後の朝廷の全国支配強化の礎になったと考える。  
 
第17節 倭国王帥升等

 

帥升
(すいしょう、生没年不詳)は、弥生時代中期〜後期の倭国の王。王国の所在地は北部九州説が有力。日本史上、外国史書に名の残る最初の人物。『後漢書』孝安帝紀東夷伝に、安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うてきた(「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」)との記述があり、これが帥升に関する史料の全てである。帥升以前に日本史上の個人名は史書に見られない。そのため、帥升が史上に現れる最初(最古)の人物とされている。帥升の次に現れる人物は卑弥呼である。
称号 / 帥升に先だって、57年に倭奴国(倭の奴国?)の大夫が後漢へ朝貢し、光武帝から印綬(「漢委奴國王印」)を授けられているが、帥升については生口を献じ謁見を請うたことしか記述がない。このことから、倭奴国は後漢に王として承認されたが、帥升は王と認められなかったとする説がある。一方、『後漢書』に「倭国王」と記載されていることを根拠に、倭国王として認められていたとする説もある。
姓名 / 「帥升」が、姓名であるのか(「帥」=姓、「升」=名)、名であるのか(「帥升」=名)は議論が分かれている。中国に「帥」という姓が非常に希なため、「師」升の誤記ではないかとする説もある。同様に「升」を「斗」の誤記とする説もある。また、支持は集めていないが、「帥升」ではなく「帥升等」で一つの名だとする説や、「帥」を名ではなく職名(元帥を意味するか)とする説も提出されている。
所在地 / 帥升の所在地も様々な説があるが、憶測の域を出ない。『後漢書』に「倭面土國王」(「倭面上国王」の説もある)とあり、通常は「倭國王」の誤記だと考えられている。しかし、研究者のごく一部は、「倭面土國」という国が存在し「ヤマト」と読んだとして、現在の奈良県に比定しているが、ほとんど支持を得られていない。この他、帥升は奴国王位を継承したとする説、伊都国王だったとする説などがあるが、北部九州に所在していただろうという点で、ほとんどの研究者が一致している。 
第一項 倭国王帥升等は懿徳天皇
大和朝廷が地方へ伝えた技術というものはどのようにして手に入れたのであろうか、最初の方は中央である畿内の技術を地方へ伝えればよいが、そのうちに新しい技術が尽きてしまう。中国から新技術を手に入れなければならなくなると考えられる。後漢書東夷伝に次のような記事がある。
「安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等は生口160人を献じ、皇帝の拝謁を申し出た。」
この倭国王帥升等とは、いったい誰かというところから考えてみたいと思う。107年は、大和朝廷が成立して30年ほどたった頃で、160人もの人々を中国まで運ぶのは、並大抵のことでできるものではなく、小国にできるはずがない。また、副葬品から判断して、この時期は地方に強力な権力者がいなかったものと考えられている。さらに、倭国王という以上、少なくとも倭国を代表する勢力の王のはずで、地方の小国王とは考えられない。よって、この倭国王は、天皇以外には考えられないことになる。「帥升」だけでは日本人らしい名前にならないので、その次の「等」も人名の一部と考えると「シシト」あるいは、「スシト」と読める。これに近い読みをする初期天皇は二人いる。それは、第四代懿徳天皇(大日本彦鍬友命・スキトモ)と第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)である。前に述べたとおり、懿徳天皇の推定在位は107〜110年頃、考安天皇の推定在位は144〜170年頃であり、まさに懿徳天皇の推定在位年と一致する。「帥升等」となったのは、原典に「帥升等母」とでもあったところ、著者が「等」を表意的に解釈したため、「母」が欠落したとも考えられる。  
第二項 技術者派遣
懿徳天皇は、「古代日本正史」によると、神武天皇の五男にあたり、第三代安寧天皇の弟である。前に述べたとおり綏靖・安寧・懿徳の三天皇は、神武天皇の在世中即位している。その在位年数も短かったようである。大和朝廷初期は、統一国家の基礎固めとして、神武天皇にとってしなければならないことが多く、子に譲位して、天皇としての通常業務をおこなわせ、自分は自由の身として、いろいろと活躍したものと考える。懿徳天皇は107年当時、まだ15歳頃と推定され、後漢に朝貢するほどの力量があったとも考えられないので、おそらく、神武天皇の発案で、懿徳天皇の名の元に、朝貢がおこなわれたのではないだろうか。そこで、生口の意味であるが、これを技術者ととらえたい。大和朝廷は160人もの技術者を中国に派遣して技術を学ばせ、戻ってきた技術者を地方に派遣して、その技術を伝えたものと考える。
朝廷誕生前の倭国の成功と日本国の退潮は外国との交流の差にあり、朝廷にとって外国からの新技術の導入は国内の安定のために何がなんでもやらなければならない最優先事項であったはずである。日本で初めての統一国家大和朝廷が誕生したが、統一国家の運営について、何も分かっていなかった当時の朝廷人たちは、統一国家ができて落ちついた頃、当時の先進国である中国に、国家運営のノウハウを学びに行くことを計画した。政治体系・農業技術・治水技術など学ぶべきものは多い。  
第三項 農業治水技術の革新
この時代の大和の中心遺跡は、唐古・鍵遺跡であると考えられるが、初期天皇の宮跡はこの地域に存在しない。中心遺跡から離れた所に存在するのである。なぜ、そんな所に宮を造ったのだろうか。第四代懿徳天皇の和名が「鍬友」、第五代孝昭天皇の和名が「香殖稲」と、いずれも稲作に関連した名である。そして、孝昭天皇陵は奈良県の代表的な農耕遺跡(鴨都波遺跡)の隣に位置している。古代の王墓は最後に生活していた場所の近くに造られることが多く、これは、これらの天皇が、農業技術の振興に力を注いだ証ととれる。また、岡山県の百間川遺跡で、二世紀のものと見られる田植えの跡が発見されているので、この頃、田植えが始まったと考えられる。「香殖稲」は田植えを意味した名のようである。この時期、全国的に農業・治水技術が急速に進歩しており、これら天皇が、率先して、広めたものと考えられる。海退期にあたるこの頃は、湖だったと考えられる大和盆地の水が引いていき、その後の肥沃な土地に水田を開発していったのではあるまいか。  
第四項 初期天皇の宮移動の謎
この当時の大和の中心遺跡は、唐古・鍵遺跡である。唐古・鍵遺跡は冬至の日に三輪山山頂からのぼる太陽を見ることができ、その祭礼場として栄えたと思われる。ところが、初期天皇の宮跡はこの唐古・鍵の周辺に存在せず、遠く離れたところに存在している。これはどうしたことであろうか。
一般には、古代は前天皇の宮跡を忌み嫌い新しい地に宮を作ったためと解釈されているが、外国にはこのように宮跡が転々とした例がなく、また、国内でも地方の豪族に宮跡が転々とする例が見られない。これは、宮跡が移動するといった風習が外国から来たものでもなく、一般に信じられていたというわけでもないことを意味している。おそらく前天皇の宮跡を忌み嫌ったのは仏教が入ってきてからのことで、それ以前は別の理由によるものと考えられる。
初期大和朝廷にとって技術革新は最も重要なことであった。水田開発や治水事業を天皇自身が率先して行うために、初期天皇の宮が、唐古・鍵遺跡から離れたところに存在していると考える。大和朝廷がニギハヤヒの神の下で宗教統一され、初期天皇は、その祭祀者であったため、ニギハヤヒの神の意志を受け継ぎ、宮を水田開発地の近くに造り、自ら農作業に従事したのではあるまいか。現在でも、神社の祭礼や、皇室行事には、農業と関連したものが多いが、これが起源と考える。
このようなことができるのも、大和朝廷が宗教統一されているからで、天皇が権力の上に君臨しているのなら、中心遺跡のど真ん中に宮跡が存在するはずである。
時代は下がるが次のような一例がある。
河内湖は縄文時代は大阪湾と一帯となった海湾であったが、次第に砂州が発達してせき止められ、古墳時代になってから淡水の湖になっていた。そのため、その周辺がしばしば洪水に見舞われていた。日本書紀によると仁徳天皇11年に砂州を切り開いて「難波の堀江」を築いたとある。この工事は難工事であり、思い立ってすぐにできるものではなく、相当長期間の準備が必要で、そのための新技術も外国から導入しなければならない。仁徳天皇の宮跡はこの工事現場のすぐ近くにあり、仁徳帝はこの工事のためにこの地に都を移したのではあるまいか。
これを見ても、技術開発のために宮を移動させている事がわかる。初期天皇は農地開発のために宮を動かしていたと考えられる。  
 
第18節 倭国大乱

 

第一項 倭の大乱とは  
後漢書「東夷伝」に
「後漢の桓帝・霊帝時代(147〜189)に倭国は大いに乱れ、互いに戦い、何年もの間、主となる王を立てられないほどだった。」とある。この争いは、卑弥呼を共立する事により収まったようである。この時期は、東アジア全体が寒冷期に入ったようで、中国でも、黄巾の乱が起こり、後漢が倒れ、三国時代を迎えている。不作続きだったことが予想され、人々の生活が苦しくなり、反乱が起こりやすかったと考えられる。この大乱は一般に倭の大乱と呼んでいるがどのような争いだったのだろうか。
古事記の記事
年代推定によるとこの時代は、第六代孝安天皇から第八代孝元天皇の頃と考えられる。そこで、古事記の孝霊天皇の条を見ると、
「大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、二柱共々に、播磨の氷河の碕に斎瓮をすえて神を祭り、播磨口を入口として、吉備国を平定なさった。」
と書かれている。第二代綏靖天皇から第九代開化天皇の間は、古事記・日本書紀ともに、出来事について、全く記されていないのであるが、唯一、この記事のみがある。よほど、大きな事件だったのではないだろうか。
古事記と日本書紀の食い違い
ここに登場する吉備津日子命は、日本書紀では、第10代崇神天皇の条に登場する。古事記と日本書紀とで、時代が合わないのである。吉備地方や山陰地方の神社には、吉備津日子命は孝霊天皇と共に祭られている例が多いことから古事記の方が正しいと考えられる。どうやら、 日本書紀は、孝霊天皇の頃からの記事を、すべて、崇神天皇の所に集めて記録しているようである。この大乱をそのまま記述するには、朝廷にとって不都合だったものと推察される。
戦闘遺跡
遺跡に関して調べてみると、弥生時代における本格的戦闘があったと考えられる遺跡というのはほとんどないのであるが、大阪湾岸地方から瀬戸内海沿岸地方にかけて、二世紀後半の集団戦の跡と考えられる遺跡が数多く見つかっている。また、この頃のものと考えられる高地性集落が瀬戸内海沿岸地方に多数みつかり、また鉄鏃の出土数を調べてみると、他の地方の鉄鏃出土数に大きな変化はないのであるが、中国地方は後期中葉から後葉にかけて急激に増大している。しかも、実践的な小型の鉄鏃が多いのである。これらから、後期中葉から後葉にかけて(2世紀中頃から後半)の大阪湾岸から瀬戸内海沿岸地方が、軍事的緊張状態にあったことは間違いなさそうである。これらの遺跡は、吉備津彦命の進軍コースと一致している上に、年代もほぼ一致するので、この大乱に関連していると考えられる。どうやら、二世紀後半に、出雲・吉備・讃岐連合軍対大和朝廷の大乱があったようである。  
第二項 中国地方の孝霊天皇関連伝承  
(1)日野郡誌
『日野郡史』(日野郡自治協会編・名著出版発行)の「第四章 神社」の部分に、『伯州日野郡染々福大明神記録事』
「人皇第七代ノ天皇也孝安天皇ノ御子也 一榮々福大明神者孝靈天皇ノ御后也福媛ト申則細媛命トモ中ス孝靈四十五年乙卯二天下三十六二割其頃諸國一見之御時西國隠島工御渡有依レ夫此地二御着有・・・・・・(中略)・・・・・・・・・后歳積り百十歳二シテ孝靈七十一年辛巳四月二十一日ノ辛巳ノ日二崩御シ給テ則宮内西二崩御廟所有り帝悲ミ給ヒテ大和國黒田ノ都へ御節城有テ百二十八歳同七十六年ノ丙戌二月八日二帝崩御也・・・・・・」
これによると、孝霊天皇は孝霊45年(171年)から孝霊71年(184年)頃まで山陰地方にいたことになっている。実際に鳥取県西部の日野川沿いには孝霊天皇を祭る神社が点在し凶賊を征したという伝承が伝わっている。また、孝霊天皇が梶福富の御墓山(イザナミ御陵)に参拝したという伝承もある。13年間も山陰地方に滞在することは大変大きな事件であったことを示しているが、古事記・日本書紀は黙して語らない。
「日本上代の実年代」の年代基準としている開化天皇の没年(245年)より、半年一年の計算で孝霊45年と孝霊71年を日本書紀の年数によって計算すると、孝霊45年は171年、孝霊71年は184年となり、梁書に言う倭の大乱の時期である光和年間(178〜183)とまさにぴったりと一致している。同時に開化天皇と孝元天皇の日本書紀の紀年は即位からの紀年となっていることになる。
この伝承をはじめ中国地方(東倭・吉備国・出雲国・伯耆国)には孝霊天皇及びその関係者の伝承が散在している。年代計算により、この伝承が倭の大乱に関連していると思われる。まず、伝承面から何が起こったのか考えてみよう。  
(2)孝霊山の伝承
鳥取県の大山北麓に孝霊山という山がある。この山に孝霊天皇の伝承が伝わっている。
孝霊山の伝承 第7代孝霊天皇の時代のことです。
「伯耆国の妻木の里(大山町妻木)に、朝妻姫という大変美しくて心がけの良い娘がいるそうな。」
「朝妻は比べ物のないほどの絶世の美女だ。」
「朝妻の肌の美しさは、どんな着物を着ても透き通って光り輝いているそうな。」
などと、うわさは都まで広がって、とうとう天皇のお耳に達しました。
天皇は早速朝妻を召しだされ、后として愛されるようになりました。 朝妻は、故郷に年老いた母親を残しておいたのが毎日気にかかって仕方ありませんでした。このことを天皇に申し上げて、しばらくの間お暇をいただき妻木に帰って孝養を尽くしていました。
天皇は、朝妻を妻木に帰してから、日増しに朝妻恋しさが募り、朝妻の住んでいる妻木の里に下って来られました。
伯耆国では、天皇がおいでになったというので、大急ぎで孝霊山の頂に淀江の浜から石を運び上げて、天皇と朝妻のために宮殿を建てました。そのうちにお二人の間に若宮がお生まれになって鶯王と呼びました。
溝口町発行 「鬼住山ものがたり」より
このときの孝霊天皇の巡幸コースは、大和から北上し近江国から若狭湾に出て、日本海経由で山陰に行き、隠岐国で黄魃鬼退治をした後、日本海から日吉津村に上陸し孝霊山に居を移したとある。
また、鳥取県鳥取市の南はずれの河原町に霊石山がある。ここに伝わる伝承では、「天照大神が西征の途中、ここに居を移し・・・」とある。西征とは東から来たことを意味し、大和からと考えられる。霊石山がその途中であるということは、最終目的地が出雲周辺であることが想像される。大和と出雲の騒乱は倭の大乱以外にはなくこれは倭の大乱を表しているのであろう。天照大神は孝霊天皇と思われ、この伝承は孝霊天皇のこの巡幸のことを伝えていると思われる。
霊石山より少し西にある青谷上寺地遺跡では、この頃の戦闘の後と思われる銅鏃が突き刺さったままの人骨が4点ほど見つかっている。このときの戦闘かもしれないし、この時期地方に鬼が出没していたので鬼との戦いかもしれない。孝霊天皇は若狭から鬼を退治しながら、因幡国の霊石山に一時留まり、隠岐国経由で日吉津村に到達したと考えられる。
伝承にいう妻木は孝霊山麓の妻木晩田遺跡のことと思われる。妻木晩田遺跡は後期中葉から後葉にかけての遺跡で後期後葉としては全国最大級の規模の遺跡である。孝霊天皇がこの地に訪れたのはまさに最盛期であった。孝霊天皇の皇后の出身地であるからこそ最大級の遺跡になったとも考えられる。孝霊天皇は孝霊山頂に居を移したとあるが山頂に住むのはいろいろな面で不都合である。実際には、妻木晩田遺跡のすぐ近くの大山町宮内の宮内古墳群周辺に住んでいたのであろう。すぐそばに高杉神社があり、孝霊天皇が祀られている。高杉神社はその昔宮内古墳群の位置にあったそうである。伝承では孝霊天皇は朝妻姫に恋してこの地に来たとあるが、実際はこの地に来てから朝妻姫を皇后にしたのであろう。また、老いた母のことが気になって天皇からお暇をいただいたとあるが、これは天皇が大和に帰還するとき連れて帰ろうとしたが、老いた母のために大和へはついていかなかったと解釈できる。実際に大和での記録(古事記・日本書紀)に朝妻姫は存在しない。妻木晩田遺跡は丘陵地に築かれた高地性集落である。水の便も悪く、水田耕作にはまったく適さない地である。しかし、日本海や米子市内を見渡す視界は実によい地である。孝霊天皇の訪れた2世紀後半は倭の大乱の直前で緊張状態にあったと推定される。警戒のために発達したと推定される。孝霊天皇がこの地を訪れたとき、この遺跡に住んでいた人々は、四隅突出型墳丘墓を作っていることもあり、スサノオ信仰が強い出雲系の人々である。当然ながら大和から来た孝霊天皇にはかなりの警戒心を持っていたと思われる。孝霊天皇は出雲と対決に着たのではなく話し合いに来たのである。そのため、この地の人々の警戒心を解くために朝妻姫を娶ったとも考えられる。日野郡誌と照合すると、孝霊天皇がこの地に来たのは孝霊45年(171年)ということになる。  
(3)孝霊天皇は伯耆国を二回訪れた(鬼住山の伝承)
鳥取県溝口町鬼住山に鬼退治伝承がある。
鬼住山伝説
その昔、楽楽福神社の御祭神の孝霊天皇、当国に御幸遊ばすに、鬼住の山に悪鬼ありて人民を大いに悩ます。天皇、人民の歎きを聞召し、これを退治召さんとす。
先づ、南に聳える高山の笹苞(ささつと)の山に軍兵を布陣し給うに、鬼の館直下手元に見下し給う。その時、人民笹巻きの団子を献上し奉り、士気盛となる。山麓の赤坂というところに団子三つ並べ鬼をおびき出され給うに、弟の乙牛蟹出来(おとうしがにいでき)。大矢口命、大矢を仕掛けるに、矢、鬼の口に当たりて、鬼、身幽る。この山を三苞山とも言い。赤坂より、今に団子石出づ。
されど、兄の大牛蟹(おおうしがに)、手下を連ね、武く、仇なすことしきり、容易に降らず。
或夜、天皇の枕辺に天津神現れ曰く。
「笹の葉刈にて山の如せよ、風吹きて鬼降らむ。」と、天皇、お告に随い、刈りて待ち給うに、三日目の朝後先き無き程の南風吹きつのる。あれよ、あれよ、笹の葉、独り手に鬼の住いへと向う。天皇、これぞとばかり、全軍叱咤し給う。軍兵は笹の葉手把(たばね)て向う。笹の葉軍兵を尻辺にし鬼に向う。鬼、笹の葉を相手に、身に纏われ、成す術知らず。
うず高く寄りし春風に乾きたる軽葉、どうと燃えたれば、鬼一たまりもなく逃げ散り、天皇一兵も失わず勝ち給う。
麓に逃れた鬼、蟹の如くに這い蹲(つくば)いて、
「我れ、降参す、これよりは手下となりて、北の守り賜わん」と、天皇「よし、汝が力もて北を守れ」と、許し給う。後に人民喜びて、笹で社殿を葺き天皇を祭る。これ、笹福の宮なり。楽楽福神社古文書より
このあと、宮原の地に笹で葺いた仮の御所が造られ天皇はこの地で亡くなられた、と伝える。
鬼住山伝承別伝
伯耆国日野郡溝口村の鬼住山に、悪い鬼がたくさん住みついていました。この鬼たちは、近くの村々に出ては人をさらったり、金や宝物や食べ物を奪って、人々を苦しめました。
これをお聞きになった孝霊天皇は、早速鬼退治を計画されました。その時、大連が策略を進言しました。
「鬼退治の総大将は、若宮の鶯王にお命じください。私は鶯王の命令に従って、鬼住山の鬼に向かって真っ先に進軍し、必ず鬼を征伐してごらんに入れましょう。」と。
大連は、約束のとおり軍の先頭に立って進軍し、鬼を征伐しました。これをご覧になっていた天皇は、大連の功績を称えて進の姓を賜りました。それ以来人々は進大連と呼ぶようになりました。
また、総大将の鶯王はこの戦いのときに戦死されましたので、土地の人々は、皇子の霊を楽楽福大明神として、戦死の地に宮を建てて祭りました。溝口町発行「鬼住山ものがたり」より
この伝承には他にさまざまな別伝がある。それをまとめると。
鬼を退治した人物
・ 四道将軍の大吉備津彦説
・ 妻木の朝妻姫を母とする孝霊天皇の皇子の鶯王説
・ 歯黒皇子説。この皇子は彦寤間命(ひこさめま)とも稚武彦命とも伝えられている。
・ 楽楽森彦命説
・ 孝霊天皇が歯黒皇子、新之森王子、那沢仁奥を率いて退治したという説
鬼住山に来た方向
・ 孝霊天皇が隠岐国の黄魃鬼を退治した後、北からやってきた説。
・ 吉備国から伯耆国に入ったという説。
・ 備中の石蟹魁荒仁(いしがたけるこうじん)、及び出雲の出雲振根も同時に平定されたという説。
楽楽福の社名の由来
・ 笹で葺いたためという説。
・ 大吉備津彦か稚武彦の別名が楽楽葺という説。
・ 金屋子神のササ(砂鉄)をフク(吹く)という説
その他の日野川流域の伝承
この伝承も時期及び登場人物からして倭の大乱を反映していると思われる。
孝霊天皇は孝霊山の後、北側から鬼住山来たことになっているが、別伝に吉備国から来たというのもある。どちらから来たのか検討してみよう。伝承の順序からすると、北から鬼住山を目指してやってきたと考えられるが、孝霊天皇が陣を張ったと伝えられている笹苞山は鬼住山の南側に位置している。南のほうにも鬼退治伝承があることから南はまだ敵地と考えられ北から来た軍が南に陣を張ると、敵に囲まれたようになり、下手をすると壊滅である。そのようなところに陣を張るとは考えられない。そのため、孝霊天皇は南から来たとするほうが自然ではないだろうか。また、孝霊山で誕生した鶯王が総大将としてこの地に派遣され、この地で戦死したと伝えられている。生まれたばかりの子供が総大将になるということは考えにくいため、孝霊天皇が孝霊山に住まいしてから鬼住山での戦いまで少なくとも十数年経過していることになる。
孝霊天皇がこの地で崩御したと伝えられているが、孝霊天皇はこの後も活躍しており、亡くなったのは鶯王であろう。また、孝霊天皇の幼名は楽楽福(ササフク)であり、笹に覆われたということは孝霊天皇に攻められたことを意味しているようである。
この戦いを推定すると次のようになる。孝霊山に居を移し、十数年後、孝霊天皇は今度は南の吉備国から伯耆国にやってきて菅福に拠点を置いて、鬼住山には鶯王を総大将として派遣したが、激戦のため、その鶯王が戦死し、そのあと、孝霊天皇が援軍に駆けつけたものと思われる。このことは、孝霊山にいた孝霊天皇は大きく迂回しない限り、一度大和に帰り、再び瀬戸内側からやってきたことを意味している。  
(4)楽楽福神社の伝承(日南町)
孝霊天皇の伯耆国における経路
伝承によると、その後、日南町上菅の菅福神社の地に行宮しているときに皇后の細姫が産気づき生山で福姫を出産した。福姫は15歳で亡くなりそれを祭ったのが印賀の楽楽福神社であるという。その後日南町の宮内に居を移したとなっている。日南町の楽楽福神社では孝霊71年まで長期間にわたって滞在し、ここで、皇后の細姫が崩御し西宮の裏山である崩御山(山頂に御陵あり)に葬られたとある。(現文)
この伝承によると、楽楽福の名は孝霊天皇の幼名となっている。それが、砂鉄採取や笹を葺いたからということになったと思われる。宮内の楽楽福神社の伝承によると、孝霊天皇は備中国の石蟹魁師荒仁を退治し同時に出雲振根も退治したとなっている。これは孝霊天皇が一度大和に帰ったこととあわせ、2度目の巡幸での出来事と思われる。ここまでの孝霊天皇の行動をまとめてみると、171年から数年間は第一回目の伯耆遠征は若狭から日本海経由で行われ孝霊山に住まいしていた。その後一度大和に帰り第二回目の伯耆遠征はその十数年後で吉備国経由で行われ、鬼住山の戦い、石蟹魁師荒仁との戦い、出雲振根との戦いがあったと推定される。
第一回目の遠征は戦闘的要素が少なく平和的で、交渉事項が目的であったようである。第二回目の遠征は戦闘的要素が強く、戦闘が目的に感じられる。
石蟹魁師荒仁について
石蟹魁師荒仁との戦いをまとめてみると次のようになる。
日野郡史
「孝霊天皇が宮内に宮を作ってしばらくした頃、備中の石蟹魁師荒仁が兵を集め天皇を襲おうとした。天皇はそれを察知し日南町霞に關を作り、吉備津彦(歯黒皇子)に備中へ向かわせた。荒仁は吉備津彦に恐れをなし、大倉山の麓で戦わずして降参した。」
別伝
「孝霊天皇が石蟹魁師荒仁を退治したときに宮内に宮を構えた」
備中の伝承(新見市石蟹)
「強賊の石蟹魁師が石窟に居城を構えて横暴を極めていた。そこで、吉備津彦命がこれを征服して殺した。」となっている。これは、いろいろと矛盾する伝承である。どれが正しいのであろうか。
石蟹魁師荒仁の名を直訳してみると「石蟹族の頭領である荒仁」となり、「蟹」は鬼住山の兄弟の「大牛蟹」「乙牛蟹出来」と共通するところがあり、出雲族にもつけられた名で同属と考えられる。
これらの伝承をまとめると、石蟹族は岡山県新見市から、鳥取県日野郡日南町にかけての土地を領有していた出雲族に属する豪族で、土地の広さからして新見市周辺を拠点にしていたと思われる。まず、高梁川をさかのぼってきた孝霊天皇軍を新見市石蟹に居城を設けて迎え撃ったが、吉備津彦が応援に駆けつけ、たちまちたちまち敗走した。新見市の拠点も奪われた石蟹魁師荒仁は日南町霞まで退却しそこを拠点に最後の抵抗を謀ったが大倉山の麓にて降参したと推定するのである。そうすると、この戦いは179年ごろとなる。孝霊天皇は石蟹魁師荒仁を打ち破った後、鬼林山の牛鬼を破り、そのまま日野川を下って鬼住山の出雲族と戦うことになったと考える。
楽楽福神社由緒
「大日本根子彦太填尊は人皇第七代孝霊天皇の御名なり。東西両宮共天皇を主神とし、皇后、皇妃、皇子及び其の御一族を禮る。
孝霊天皇は少年の御時楽楽清有彦(ささきよありひこ)命と申し、又笹福(さきふく)と萌し奉る。御即位二年細媛命(くはしひめ)を立てゝ皇后と為し給ひ、大日本根子彦國牽皇子御誕生あらせらる。細姫命は孝霊天皇の御后にて國牽皇子即ち孝元天皇の御母にあたり、磯城県主大目(おほめ)命の女なり。福媛命は孝霊天皇の妃にて彦狭島(ひこさしま)命御誕生あらせらる。彦狭島命は歯黒(はぐろ)皇子とも申し孝霊天皇第五の皇子なり。孝霊天皇巡幸して西の國々を治め給ふ時、隠岐國の黄魃鬼(こうばつき)を退治し給ひ、それより伯耆國に渡らせ給ひし時日野川上に至り給ひて、今の溝口町鬼住(きずみ)山並に日野上村の鬼林(きつん)山に邪鬼ありて人民を悩すよしを聞召して、歯黒皇子並に侍従大水口宿爾の御子新之森王子、大矢口宿禰の御子那澤仁奥等を卒ゐて彼の邪気を討伐し、其の首魁を其の地に埋葬し給ふ。現今東宮の境内近く鬼塚といふあり、これ即ち鬼林山の強虜を埋没せし地なりと博ふ又御太刀を洗はせ給ひし池を太刀洗池と称しし東宮境内にあり。
その頃、備中の國に石蟹魁師荒仁(いしがにたけるかうじん)といふものあり、天皇の近郷に居給ふ由を聞き國中の凶徒を集め兵を起して天皇を襲ひ奉らんとす。天皇夙くも此の事を聞召給ひて、歯黒皇子を軍将とし、新の森王子を副将として、数多の軍兵を勤(したが)へ之を征伐し給ふ。歯黒皇子は武勇萬夫に勝れ猛きこと雷電の如く、天皇巡幸の時は必ず此御子を伴ひ給へりとぞ。かくて出雲振根等各地の強虜をば悉く言向けやはして地方を平定し、王化を遠荒に布き給へり。
これより先皇后細媛命は天皇の御跡をしたひあすを知るベに尋ね給ふに、御産のなやみありて石の上に憩はせ給ふ、頃は五月雨のなかばにして雨多く降りければ里人菅のみの笠を奉る川の水音高く聞こゆる故「水責喧」と詔り給へは水音乃ちやむ。依って日野川のこの部分を音無川と称し今の黒坂村上菅にあり。皇后其の地を立たせ給ひし時の御歌
むら雨の露のなさけの名残をばこゝにぬきおく菅のみのかさ。
それより川上に上り給ひて帝に會ひ給ひ、日野川上宮内の里はよき富所なりとて皇居を究め給ひて多くの年月を慈におくり給へり。是を西の内裏といふ。皇后は御年百拾歳にて孝霊天皇御即位七拾壱年辛巳四月二十一日を以て、この西の御殿におひてかくれ給ふ。現今西宮の東北方崩御山と申すは皇后の御陵なりと傳ふ。古来をの斧鐵を加へず満山老樹大幹参差として書猶ほ暗く、頂上墳域の石累高さ四丈に達し、古色頗る蒼然。西宮鳥居の近くに天狗石と称し天狗の爪の痕跡を残せる石あり、傳へ云ふ崩御山の御陵の石は備中國石蟹より天翔る天狗により運ぼれしものにて此石は天空より取落とせしものなりと。蓋し天狗取りなるものならん。後天皇は東の宮殿に移り給ふ。これを東の内裏といふ。元内裏原神社の所在地にして現に内裏原と称す。
即ち當社は地方開拓に御治績ありし祖神の偉大なる御霊徳を追慕景仰して鎮祭し奉れる所にして、且つ皇后御陵のある聖地なり」
各伝承の年代設定
ここで、伯耆国における孝霊天皇関係の伝承の年代を推定してみようと思う。各伝承を古い順に並べてみると、
隠岐の黄魃鬼退治
孝霊山高杉神社伝承   孝霊45年
鶯王の誕生       孝霊46年ごろ
孝安天皇崩御
孝霊天皇即位
石蟹魁師荒仁との戦い
鬼住山戦いの始まり
大倉山の戦いの始まり
菅福神社に仮宮を造る
福姫誕生
大倉山の戦いの終わり
鶯王の死        
鬼住山の戦いの終わり
印賀に仮宮を造る    福姫13歳
福姫の死        福姫15歳
宮内に仮宮を造る
細姫の死        孝霊71年
鬼林山の戦い
御墓山参拝
出雲振根との戦い    孝霊73年
孝霊天皇退位      孝霊76年
これをもとに各出来事の年代を推定してみよう。年代推定のために必要な伝承を整理すると、
A 孝霊天皇が伯耆国に最初に来たのが孝霊45年
B 鶯王の誕生はその直後
C 孝安天皇崩御は177年(孝霊56年)ごろ
D 鶯王は鬼住山攻撃軍の総大将であるから少なくとも現年齢で10数歳、古代の年齢で20数歳でなければならない、よって、鶯王戦死は孝霊70年ごろ
E 福姫が印賀で亡くなったとき細姫は生きていたので、福姫誕生は孝霊56年以前、福姫誕生は菅福神社に仮宮を造った直後なので、菅福に仮宮を造ったのも孝霊56年以前となる。
F 孝霊天皇が北から来たとすると、菅福に仮宮を造ったのは鶯王が戦死した後になるため年代が合わない。よって、孝霊天皇は南から来なければならない。その場合孝安天皇崩御は孝霊56年より前でなければならない。孝昭天皇の誕生年から推察すると、孝安天皇の没年は最大でも現年齢で2年ぐらいしかさかのぼらせることができない。よって、孝安天皇の崩御は孝霊52年ぐらいと思われる。
G 孝霊天皇が菅福に仮宮を造ったのは鬼住山の鬼に進路を妨害されたためと思われる。そして、印賀に仮宮を移したのは鬼住山の戦いが終わったためと考えられる。よって、孝霊天皇が菅福に住んでいたのは鬼住山での戦いがあった期間とほぼ重なる。
H 伝承から、大倉山の戦いは鬼住山の戦いが始まったすぐあとで、鬼住山の戦いが終わるすぐ前に終わったと考えられる。
I 鬼林山の戦いが終わったのは吉備津彦が参加していることから、吉備津彦が吉備国を平定完了したあとで孝霊72年のことと思われる。
これらのことを総合して考えると、ほぼ次のように各事項の年代が固まる。
隠岐の黄魃鬼退治    孝霊45年
孝霊山高杉神社伝承   孝霊45年
鶯王の誕生       孝霊46年
孝安天皇崩御      孝霊52年
孝霊天皇即位      孝霊53年
石蟹魁師荒仁との戦い  孝霊56年
鬼住山戦いの始まり   孝霊56年
大倉山の戦いの始まり  孝霊56年
菅福神社に仮宮を造る  孝霊56年
福姫誕生        孝霊56年
大倉山の戦いの終わり  孝霊68年
鶯王の死        孝霊68年
鬼住山の戦いの終わり  孝霊68年
印賀に仮宮を造る    孝霊68年
福姫の死        孝霊70年
宮内に仮宮を造る    孝霊70年
細姫の死        孝霊71年
鬼林山の戦い      孝霊72年
御墓山参拝       孝霊72年
出雲振根との戦い    孝霊73年
孝霊天皇退位      孝霊76年
これにより孝安天皇の崩御はAD175年ごろとなる。  
(5)吉備津彦の伝承
また、片山神社(岡山県赤坂町)社記には、「若建吉備津彦命は播磨国の諸賊を征した」、「孝霊天皇御宇七十二年秋、若建吉備津彦命は吉備平定を完了」と記録されている。孝霊天皇72年は184年である。若建吉備津彦命が吉備地方に派遣され、吉備を平定したようである。また、同じく「若建吉備津彦命(吉備若日子建王子)が吉備平定に行く時に、小さな社壇か嗣を造ってアジスキタカヒコネをお禮りし、吉備平定が完了した孝霊天皇御宇七十二年に、再びこの地を訪れ、新しく社殿を造りなおした」とある。これによると、若健吉備津彦が孝霊72年に吉備国に来たのは2回目ということになる。平定開始時に建てた祠を立て直すわけであるから直前ではなく数年前と考えられる。つまり、吉備津彦が吉備を平定するのに少なくとも数年を必要としたということである。古事記の記録によると、吉備津彦は播磨から吉備国へ入っているので、大和から進攻したことになる。孝霊天皇が一時大和に帰ったときのことと思われる。また、孝霊71年まで孝霊天皇が伯耆国にいたとあるが、平定完了が孝霊72年であり、吉備津彦は吉備平定後高橋川をさかのぼって伯耆国に来て孝霊天皇と行動を共にしている。だとすれば、孝霊天皇が2度目の巡幸で伯耆国から大和に戻ったのは孝霊71年より後でなければならないことになる。記録をよく読むと、孝霊71年は皇后の細姫が亡くなったときで、その後大和に帰還したとなっているので、大和に帰還したのが孝霊71年とは限らない。よって、孝霊天皇が大和に帰還したのは孝霊72年よりも後と判断できる。  
(6)二回の各遠征の時期
孝霊天皇の第一回目の遠征は171年からいつまで続き、第二回目の遠征はいつからいつまでだったのだろうか。それを検討してみたいと思う。
孝霊天皇が171年から184年(実際は187年までと思われる)までに13年間大和に不在であった。このときの大和の状態はどうであったのであろうか。天皇自身が政治を放棄して長期間大和を離れるというのはいろいろと不安な点が多い。孝安天皇の没年が177年と推定しているので、大和で孝安天皇が在位していたと思われる。とすると、孝霊天皇はこの当時まだ皇太子だったのであろう。しかし、177年から184年までの間は、大和は天皇不在状態だったといえる。この辺りが空位伝承として残ったのではあるまいか。このことが、後漢書「東夷伝」の「主たる王を何年も立てられない状態だった。」という記事につながっているのではなかろうか。
また、東日流外三郡誌に、孝安天皇は天皇61年に没し以後41年間は、天皇空位状態であったと記されており、さらに、富士古文書でも孝安天皇80年に大乱が起こったと記されている。「三郡誌」や「富士古文書」が孝霊天皇の西海親政以前の大乱を伝えている。伝承では后の問題で西海親政をしたとなっているが、西海親政の前に出雲周辺で不穏な動きがあり、それを静めるために西海親政をしたと考える。年代推定によると、孝安天皇61年は157年にあたり、同80年は166年となる。
孝霊天皇元年は149年である。孝霊天皇の紀年も誕生時からのものと思われるので、天皇が即位したのはいつか分からないが、孝安天皇の没年だとすると、孝霊天皇の即位は177年となる。しかし、天皇に即位するには神聖な儀式が必要と考えられ大和に戻らないとこれは無理であろう。このとき伯耆国から孝霊天皇は一度大和に戻ったと考えられる。大和に戻った孝霊天皇は即位の儀式を済ませ正式の天皇になった。その後しばらくして吉備国を中心として不穏な動きが活発化したため、再び吉備国目指して巡幸したと考えられる。
再び伯耆遠征をしたのはいつのことであろうか、福姫が生山で誕生し15歳(8歳)でこの地で亡くなっているが、これはいずれも第2回目の遠征時と思われ、少なくとも第2回目の遠征は妻の細姫を伴い、最低8年間は行われていたことになる。孝霊天皇は孝霊76年(187年)に退位しているので、179年あたりが第2回目の遠征開始になる。出雲の日御崎神社の伝承によると、「孝霊61年(179年)、朝鮮半島の月支國の王が出雲に大船団で攻め寄ったが、嵐により退散した。」というものがある。これは後の元寇そのままである。ほんとにそんなことがあったとは思えないが、第2回目遠征の推定年代と重なるのである。この伝承は、少なくとも、この年に出雲で戦乱があったことを意味しているのではないかと思う。このことより、第二回目の伯耆遠征を孝霊61年(179年)から孝霊76年(187年)までと推定する。  
(7)横田町の伝承
大菅峠
若建吉備津彦命の伝承を伝える神社が山陽地方に点在している。その神社をたどっていくと最西端は広島県尾道市である。そのあたりまで進攻したようである。また、孝霊天皇も同時に祀られている神社もあり、孝霊天皇も行動を共にしていたようである。このとき、日南町に居を移してしばらく滞在し、その間に、溝口町の鬼住山に鶯王を総大将として派遣し、鬼林山に歯黒皇子を派遣した。鬼林山は平定したが、鬼住山は鶯王が戦死するほどの戦いで、後に孝霊天皇が直接赴いた。これにつながるのが、島根県横田町の伝説で、横田町ふるさと町民会議発行の「タイムトラベル横田」によると、
「吉備津彦は、吉備国を平定後、大和朝廷の密命を受けて、大軍を率いて備中を進発し、阿毘縁の関を打ち破り、鳥上・横田に侵入、軍を二手にわけ一軍を飯梨川沿い、一軍を斐伊川沿いに展開して一気になだれ込んだ。
時の首長出雲振根は討ち取られ、ここに出雲王国は滅びた。
大和朝廷は出雲国の統治を振根の一族宇迦都久怒(うかつくぬ)に託し、出雲の豪族たちを抑えようとした。宇迦都久怒は出雲臣と称し大和朝廷から任命された国造として根をはっていくのである。」
というものである。
万才峠
阿毘縁の関は日南町宮内からすぐ北にあり、宮内を拠点として攻め込むにはちょうど良い位置にある。日南から横田町に入る阿毘縁の関と思われる峠は北側の大菅峠と南の万才峠の二つある。大菅峠は狭く、横田町側に入って少し険しいが、すぐに安来方面と横田方面に分岐している。峠を越えてから鳥髪までは少し距離がある。南側の万才峠は船通山の麓を抜け降りたところに鳥髪と呼ばれるところがある。また、船通山にはスサノオが天降したとの伝承が伝わっている。大軍が通過するには万才峠の方が良いようである。
二手に分かれた各軍の大将は誰だったのであろうか、後で述べる粟谷神社の記録より、斐伊川を下ったのは吉備津彦らしい。もうひとつのコースの将軍は兄の稚武彦と思われるが後ほど検討をすることにする。
万才峠のコースの場合吉備津彦軍はそのまま川を下ればよいが、稚武彦軍は鳥髪から大菅峠の麓までさかのぼり、そこの市原峠を越えて飯梨川沿いに出ることになる。この場合むしろ大菅峠を破った方が自然であろう。阿毘縁の関を破る前に2手に分かれていたと考えるのである。
また、飯梨川沿いの広瀬町石原に孝霊天皇を祭っている佐々布久神社がある。佐々布久神社のある位置は、飯梨川が平野部に出る境目にあたりで、ここから、当時の出雲軍の安来支庁のあったと思われる能義神社の位置まで直線で約3kmである。布陣するのには良い位置である。孝霊天皇はこの位置で布陣してここを拠点にして出雲の安来支庁を攻めたものと思われる。このときの安来支庁の出雲軍は伯耆国方面に出向いていたため、留守部隊程度しか残っていないと思われ、簡単に占拠できたのではあるまいか。
この頃(弥生後期後葉)の四隅突出型墳丘墓は出雲市の斐伊川沿い、松江市南部、安来市の飯梨川沿いの3箇所に集中分布している。おそらくこの当時はこの3箇所が出雲国の拠点であったと思われる。横田町の伝承はこの3箇所のうち東西の2箇所をたたくというもので、戦略上大変合理的である。
阿毘縁の孝霊天皇伝承
大菅峠に至る直前の阿毘縁に砥波というところがあるが、ここの熊野神社に孝霊天皇がやってきたという伝承がある。そして、イザナミ陵に孝霊天皇が参拝したとの伝承もあり、孝霊天皇は出雲総攻撃の前にここにやってきたようである。そして、ここから吉備津彦兄弟が出雲に侵入したのである。
楽楽福神足洗池伝承
孝霊天皇は祖神伊弉冊命を祭る御墓山山麓の熊野神社に参詣し、砥波(阿毘縁)の大塚家に立ち寄られた。この地を訪れた孝霊天皇は、乞食のような身なりをしていた。飯を与えようとして近づくと、あたり一面大海のようになって近づくことを得ず、これは尊い方であろうと気づき、衣服を改めてくると、大海は跡形もなく消えうせた。そこで天皇を招じ入れたが、そのときに足を洗われたのが足洗池である。「日本の神々 神社と聖地 7 山陰」より  
(8)吉備津彦軍の進入経路
粟谷神社石碑
粟谷神社(島根県三刀屋町)の社記には「當社は出雲風土記所載の社にて、孝霊天皇の皇子吉備津彦命に坐まし、此神は崇神天皇の御宇六十年に東海の将軍武浮河別命と共に出雲振根懲罰の大命を奉じて出雲に降り給へりし神にして、往時當地は吉備より出雲の杵築に達すべき要路なれば、則ち将軍の滞陣し給へし所なり。…」とある。ここで言う崇神天皇60年とは日本書紀の編集方針に沿ったものである。
この年がもし同じ干支であるなら、それは孝霊73年(185年)となる。まさにこの頃と思われる。この時の吉備津彦は備後から仁多郡を経て三刀屋の地に来たとなっている。
今の地図でこの経路を確認すれば、広島県の三次市から高宮町を経て仁多町の上阿井を経由しそこから三刀屋に至ったと推定できるが、岡山県の高橋川をさかのぼったとの言い伝えもある。宮内の楽楽福神社の伝承では吉備津彦はここを通って出雲振根を退治したと伝えている。鳥取県の日南町での吉備津彦の活躍伝承があることから、高梁川経由が正しいと判断する。実際の吉備津彦の経路は備後→備中→日南→仁多→粟谷と推定され、備中から来たという伝承はこの途中が抜け落ちたものと推定される。
吉備津彦の予想進路
若建吉備津彦命は斐伊川沿いに下る軍を指揮して現在の三刀屋町まで下り出雲振根を懲罰したのである。飯石神社の境内社である託和神社には往古吉備津彦を祭っていたのは中野・六重・神代・深野・上山・曾木・川手の七か村であると記されており、この地名を現在の地図でたどってみると、仁多町三成から山越えで斐伊川を下り、三刀屋町神代より粟谷神社への一本のルートが浮かび上がってくる。斐伊川沿いの険しいと思われるところが山越えになっており、このコースに旧道があったのではないかと思われる。実際にこのコースをたどってみると、なだらかな丘陵地が続き古代に大軍が移動するのに適したルートであることがわかった。このルートこそ吉備津彦が通ったルートであろう。湯村から神代に抜けたと思われるが川手はそこから少しずれている。湯村から川手に行く間にヤマタノオロチ伝承地である天が淵が存在する。天が淵には戦闘にて傷ついたヤマタノオロチが逃げ込んだところという伝承がある。吉備津彦軍が出雲軍に見つからないように隠密裏に出雲軍本拠地である神庭の里を目指して斐伊川を下っている最中に、この天が淵で出雲軍の小隊と出くわした。小戦闘があったが出雲軍小隊長は早速本拠地に朝廷軍が侵入していることを伝えようと伝令を走らせたのではあるまいか。吉備津彦はこのまま川を下れば出雲軍本隊と正面衝突になると予想し、裏をかくように湯村まで引き返しそこから小道を三刀屋町神代へコースを変更したと推定する。
吉備津彦の経路を推定すると次のようなものである。阿毘縁の関(万才峠)を超え、横田町鳥髪に降りた吉備津彦は斐伊川に沿って下り、仁多町三成から山に入り、木次町湯村に出る。ここから再び山を越え三刀屋町神代の地より、飯石川流域に入り、その川を下り三刀屋川との合流点である粟谷神社の位置に出た。粟谷神社の西約100mのところに天辺という小山がある。往古の神社はこの小山の上にあったそうで、ここに吉備津彦は布陣していたのではあるまいか。粟谷のすぐ近くに三刀屋町の三屋神社がある。ここはかつてオオクニヌシが中心としていた地であり、木次を中心とした盆地である。当時の出雲国の拠点のひとつであったと思われる。粟谷はこの盆地への入口に当たる位置にある。戦略上陣を張るには良い位置だと思われる。ここを拠点として出雲振根軍の動きを探ったと思われる。そして、この周辺で出雲振根軍と衝突したのではあるまいか。出雲振根は斐伊川沿いで戦死したと伝えられている。おそらくこの周辺であろう。
出雲振根の陣のあった位置を探ってみた。出雲国風土記によると、城名樋山の項に「天の下をお造りになった大神大穴持命が、八十神を討とうとして砦を作った。だから、城名樋という。」となる。この城名樋山は木次町里方にある城名樋山といわれている。この山が出雲振根が陣を張った山ではないだろうか。出雲・伯耆に残る出雲系神話に登場する人物を、出雲国王=大穴持、八十神=大和朝廷とすると、大変よく倭の大乱に照合するのである。このように考えると、この山こそ出雲振根が吉備津彦に対抗するために陣を張った山に該当する。吉備津彦の天辺とは斐伊川を挟んで向かい合う位置であり、互いに様子を伺うには良い位置関係にある。  
(9)吉備津彦とは誰か
この事件は、吉備国(岡山県)では、桃太郎として有名で、岡山県内の各神社に、その戦いを伝える伝承が残っている。若建吉備津彦命とは桃太郎のことである。
吉備津彦命は吉備を平定後、吉備国を治め、吉備中山に葬られたとある。しかし吉備中山にある御陵は前方後円墳で時期的には 3世紀後半のものと推定されており時代は合わない。
一般に、吉備津彦といわれている人物は二人存在し、兄の大吉備津彦と弟の若建吉備津彦であり、共に、第七代孝霊天皇の皇子である。 兄の大吉備津彦は斉主として戦いに参加し、実際の戦闘をしたのは弟の若健吉備津彦のようである。神社伝承によると、弟の若建吉備津彦は、吉備国に入る前に、讃岐を平定している。また吉備国平定後出雲を平定し、伊予国、土佐国と巡回し吉備国へ戻り、 岡山県北房町小殿で崩御したと伝えられている。その地に御陵も存在している。形の崩れた前方後円墳のようである。弟のほうは方々で活躍した武勇優れた人物だったようである。また兄の大吉備津彦については神社伝承にほとんど見られない。
大吉備津彦は播磨国の道の口で戦勝祈願の祭礼をしており、神社伝承のほうでも斉主としての性格が強いようである。年代的にも孝霊天皇の時代に活躍したという伝承もあれば崇神天皇の時代に活躍したという伝承もある。どちらが正しいのであろうか。 大吉備津日子は五十狭芹彦ともいい、崇神天皇の時代に武埴安彦の乱(250年)の平定に活躍しその後、吉備国に派遣されて、 崇神60年(275年)に崩御し吉備中山に葬られたと伝えられている。もし、大吉備津日子が真実若健吉備津彦の兄であれば、 その生誕は165年前後と考えられ、110年から生きたことになる。しかも80歳を過ぎてから武埴安彦の乱で活躍したことになる。これはどう考えても無理である。二人の吉備津日子は共に孝霊天皇の皇子であるが母は異なる。大吉備津日子は百襲姫と同じ孝霊天皇の 3人目の皇后である蠅伊呂泥で若健吉備津日子は蠅伊呂泥の妹で4人目の皇后の蠅伊呂杼の子である。若健吉備津日子は孝霊天皇と共に活躍している伝承が多く、年代を調べると孝霊天皇がかなり若いときに生まれていると思われる。孝霊天皇は孝元天皇に譲位した後 220年ごろまで生存した節があり、五十狭芹彦はその晩年に誕生したと考えられる。
大吉備津彦は吉備上道臣の祖になったと記録されている。吉備上道とは備前国南部を指し、今の岡山市東部から備前市にかけての領域と考えられる。大吉備津彦は崇神10年(250年)に吉備上道に派遣され、吉備上道を治めたと考えられる。このときの吉備上道の考古学的変化を追ってみると、浦間茶臼山古墳、網浜茶臼山古墳、備前車塚古墳などの巨大な前期古墳が築造されている。特に浦間茶臼山古墳はこの当時としては畿内以外で最大で、畿内を含めても箸墓に次ぐ規模のものである。その形も浦間茶臼山古墳が箸墓の二分の一サイズで網浜茶臼山古墳が三分の一サイズで相似形をしている。おそらく畿内で、箸墓が築造された直後に作られたものであろう。まさに大吉備津彦が吉備に派遣された直後から急激に畿内以外には存在しないような巨大古墳築造が始まるのである。時期といい場所といい大吉備津彦の伝承と完全に符合している。また、大吉備津彦が葬られた中山茶臼山古墳は崇神天皇陵の二分の一サイズの相似形で崇神天皇陵を築造する頃のものと考えられる。これまた、大吉備津彦が亡くなったと伝えられる275 年ごろとほぼ完全(崇神天皇崩御は279年)に一致する。これらのことから推察するのに、大吉備津彦が吉備に派遣されたのは崇神天皇 10年と考えてほぼ間違いがなく、日本書紀の記述は正しいことになる。
それでは孝霊天皇の時代に若健吉備津日子と共に斉主として吉備平定に参加した兄とされている大吉備津日子は何者であろうか。吉備下道(備中南部)は倭の大乱の直後から巨大墳墓の築造が始まっている。祭祀系の人物が吉備に派遣されていると思われるが、その人物は大吉備津彦では無いことになる。姓氏録によれば若健吉備津彦はさらに二人いて兄の稚武彦と弟の弟稚武彦で孝霊天皇の子ではなく孝霊天皇の兄である大吉備諸進命の子になっている。大吉備諸進命は吉備という名がついているために吉備にかかわりを持った人物と思われる。しかし、椿井春日神社の記録によれば、孝霊54年この神社の地でなくなりその地で葬られたと記録されており、その御陵もある。孝霊54年は176年で第1回目の西海親政の最中でまだ大和に孝安天皇が在位中のことである。吉備が大和にとって重要な存在になるのは、第2回目の西海親政からで、このときまで吉備とかかわりがあるとも思えない。そのため、大吉備諸進命の子供が吉備で活躍したため、吉備という名がついたと考えられる。古代において、兄弟は兄が斉主として活躍し、弟が皇位を継ぐというケースが多いようであるが、 この兄弟もその様なものであったのではないだろうか。つまり、古事記における大吉備津彦は兄の稚武彦で、若健吉備津彦は弟の弟稚武彦ということになる。稚武彦が吉備を治めるようになってから吉備津彦と呼ばれるようになったために若健吉備津彦となったのであろう。
また、第二回目の遠征開始年と推定している179年当時、孝霊天皇は30歳である。二人の稚武彦は吉備国で活躍しているために少なくとも20歳前後にはなっているのではないだろうか、そうすると、孝霊天皇の子であるのはすこし苦しくなる。やはり兄の大吉備諸進命の子であると考えるほうが自然である。(推定系図)
皇室系図(推定)
     神武天皇┬神八井耳──雀部臣──雀部臣──孝元天皇───開化天皇──崇神天皇──垂仁天皇
         ├綏靖天皇──孝昭天皇─孝安天皇┬大吉備諸進命┬稚武彦(吉備津彦)
         ├安寧天皇           │      └弟稚武彦(吉備武彦)  
         └懿徳天皇           └孝霊天皇┬──倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)
                              └──────彦五十狭芹命(男弟)─豊受姫(台与)
若健吉備津彦は吉備下道の祖になったと記録されている。吉備下道は備中国南部を指し、岡山市西部から倉敷市、総社市及びその周辺であると考えられる。この地域の考古学上の変化と照合してみたい。吉備下道と推定されている地域は、倭の大乱が終結したと思われている180年頃の直後より、まず、楯築双方中円墳、宮山墳丘墓、矢藤治山弥生墳丘墓、黒宮大塚など、古墳時代には入らないが、その直前の巨大弥生墳丘墓が登場してくる。その核になっている地域は吉備中山・楯築・総社市三輪で、数キロ以内に集中している。まさに若健吉備津彦がいたと思われる時期と重なるのである。この祭祀を広めたのは兄の稚武彦であろう。若健吉備津彦の吉備派遣は孝霊天皇時代のものと判断して間違いはないようである。
このことより、倭の大乱で活躍した吉備津彦は二人いることになり、これが、古事記に書かれている大吉備津彦と若健吉備津彦ということになる。日本書紀に描かれている吉備津彦は五十狭芹彦で孝霊天皇の晩年の子と思われる。日本書紀ではこの人物を大吉備津彦としている。古事記に書かれている吉備津彦の兄のほうは祭祀を中心としており、弟のほうは戦闘が得意だったようである。以後兄を稚武彦、弟を弟稚武彦と呼ぶことにする。
これを元に阿毘縁の関を破った吉備津彦について検討してみよう。まず、阿毘縁を破ったあと、斐伊川を下って粟谷に陣を構え、出雲軍の大将である出雲振根を破ったのは戦闘がかなり得意だったと思われ、弟稚武彦ではあるまいか。それに対し、阿毘縁を通過後飯梨川沿いに川を下り佐々布久神社に陣を構えたのは兄の稚武彦と思われる。飯梨川を下ったのは当初孝霊天皇ではないかと考えていたが、孝霊天皇の行動を調べていくうちに孝霊天皇は伯耆国(米子市近辺)から出雲国に入ったと思われる伝承が見つかったので、孝霊天皇ではないことになる。事実、阿毘縁の関を破ったあと、飯梨川流域に入ったところにある西比田の比太神社には孝霊天皇ではなく吉備津彦が祭られている。この比太神社は背後に御墓山があることから、イザナミ命の祭祀跡と思われる。その祭祀を行ったのが吉備津彦ではあるまいか。祭祀を行うのは稚武彦である。稚武彦が軍を率いて飯梨川沿いに下ったものと考える。そして、佐々布久神社の地で米子方面から侵入してきた孝霊天皇軍と合流したのではあるまいか。  
(10)大乱の時期
山陰地方に伝わる孝霊天皇の伝承を探ることにより、大乱の時期・概要がかなり詳しく分かってきた。孝霊天皇が最初伯耆国に遠征したのが孝霊45年(171年)で、これは戦闘というよりも交渉であった。孝霊57年(177年)、孝安天皇崩御により一度大和に帰還したが、孝霊61年(179年)、中国地方が騒乱状態になったために今度は戦闘を目的として第2回目の遠征が始まった。この遠征は孝霊天皇が退位した孝霊76年(187年)まで続いたが、実際の戦闘は孝霊73年(185年)で終了しているようである。このことより、この大乱の本当の戦乱期間は179年から185年となり、梁書に言う倭の大乱の時期である光和年間(178〜183)とほぼ完全に重なるのである。
また、後漢書によると後漢の桓帝と霊帝の間に起こったと記録されており、こちらの方はその帝位継承の年(167年)以前に起こったと解釈され、出雲で不穏な動きが始まった時期も含んでいるのかもしれない。  
(11)出雲振根の活躍時期
出雲国造家の系図1
     1世   2世   3世  4世   5世   6世   7世   8世  9世
天穂日命──武夷鳥命──櫛瓊命──津狭命──櫛甕前命──櫛月命──櫛甕鳥海命─櫛田命──知理命──毛呂須命─
    10世    11世    12世    13世   14世      15世      16世    17世
   ─阿多命─┬出雲振根
        ├飯入根命──鵜濡渟命──襲髄命──来目田維穂命──三島足奴命──意宇足奴命──宮向宿禰
        └甘美狭命──野見宿禰 
出雲国造家の系図2(出雲国造世系譜)
1天穂日命-2-3-4-5-6-7-8-9-10-┬11阿多命(又の名出雲振根)
                   |
                   ├11伊幣根命-12氏祖命-13┬14来日田維命-15-16-17出雲国造宮向臣-
                   |           |
                   └甘美韓日狭      └ 野見宿禰
出雲振根の活躍時期は日本書紀では崇神天皇の時期となっている。しかし、記録によってさまざまなブレが見られる。上の系図1は一般に知られている系図で、2は出雲国造世系譜の系図で出雲振根周辺に若干の違いがある。系図に違いがあるため、まずどちらの系図が正しいかを判断してみたいと思う。出雲振根の弟の飯入根の子である鵜濡渟命が初代の出雲国造に朝廷から任命されている。この命は天穂日命11世の孫と記録されている。また、その系統である野見宿禰は姓氏録や神社伝承によると14世孫で垂仁天皇のとき(280年頃)活躍した記録が残っている。系図1では野見宿禰は12世であるために、方々の神社に伝えられている14世という伝承との間に食い違いがある。系図2では正しく14世になっている。このことから、一般的な1の系図より2の系図のほうが正しいといえる。おそらく、出雲が朝廷に服属したとき、朝廷の気に入るように系図を操作したのが系図1ではないだろうか。次に、天皇系図との照合を図ることにする。
櫛瓊命が神武天皇と同世代で17世宮向宿禰が第18代反正天皇の時代に出雲の姓を賜っている。これより、櫛瓊命はAD80年ごろの人物で宮向宿禰はAD435年ごろの人物ということになる。では、問題となっている出雲振根の活躍時期はいつごろなのであろうか。
系図2で3世が神武天皇と同世代でAD80年ごろ、17世が反正天皇と同世代で435年ごろと推定される。この間15世で1世平均24年前後となる。少し短めであるがまず妥当といえる。しかし、この平均で野見宿禰の活躍時期を推定すると、340年ごろで神功皇后の時代、出雲振根は290年ごろで垂仁天皇の時代となり、古事記・日本書紀・神社伝承いずれの記録とも会わない。
しかし、野見宿禰が日本書紀のとおり垂仁天皇の時代に活躍したとすれば一世約30年として計算すると、鵜濡渟命の活躍時期はその2世(約60年)前となり、210年ごろで倭の大乱直後となる。そうすると、出雲振根の活躍時期は180年から210年頃となる。まさに倭の大乱の時期と重なるのである。楽楽福神社の記録にも出雲振根は孝霊天皇が退治したという別伝があり、出雲振根は倭の大乱の頃に生きていたといえよう。
野見宿禰が日本書紀のとおり垂仁天皇の時代に活躍したという仮定の下であれば出雲振根が倭の大乱の時期に重なり、さまざまな神社伝承とも一致するのであるが、その前後の代数におかしなところが表れる。
それは、この場合、櫛瓊命(80年頃)から出雲振根(180年頃)の間の年代は100年程度と考えられ、これが9世(1世平均11年)とは短すぎる。また、野見宿禰(280年頃)から宮向宿禰(435年ごろ)まで4世が155年程度(1世平均39年)は少し長いように思える。この謎を解くための記録が見つかった。反正天皇4年に17世宮向宿禰が朝廷より出雲の姓を賜ったとき、「これより代々祭祀を世襲する」と記録されている。ということはこれ以前は世襲ではなかったということを意味している。天穂日命の系統の人物のうち何かの条件を満たしたものが出雲の祭祀権を相続していたのであろう。出雲振根より前と後で1世あたりの平均が大きく違うのであるが、前半では出雲独自で祭祀者を決められたため、安易に交代が可能だったのに対して、後半では朝廷から任命されることになったため、安易な交代ができず1世あたりの平均年数が延びたものと考えられる。
出雲国造家は出雲自治政府の指導的役割と、旧倭国地域のスサノオ信仰の束ねであり、その権威は相当なものであったに違いない。3世の櫛甕前命までは順調に親子で引き継がれていたが、2世紀なかば(140年ごろ)、寒冷期に突入し、人心が不安定になり、その結果不規則な相続が行われたのではあるまいか、その中で、スサノオ信仰の強化を打ち出した出雲振根が人々の信頼を得て第10代のスサノオ祭祀者となったと思える。
古事記や日本書紀のとおり出雲振根が崇神天皇時代の人物だと仮定すると、系図1で出雲国造家と皇室系図の照合は完全に説明できる。しかし、出雲振根を倒した人物(吉備津彦)に該当者がいなくなる。崇神天皇時代の吉備津彦といえば五十狭芹彦(大吉備津彦)である。彼は吉備国で祭祀者として神社に記録されており、戦闘を行った記録はない。戦闘を行ったのは若健吉備津彦(弟稚武彦)であり、彼は吉備国で鬼退治したという伝承とともに祭られており、また、孝霊天皇と同時に祭られている。孝霊天皇の時代の人物と考えられる。それに出雲の首長が倒されると、出雲国内に大規模な考古学的変化が起こると予想されるのであるが、出雲地方での大きな考古学的変化は方形周溝墓が出現したり畿内系土器の出土が始まるなど倭の大乱の直後に起こっている。崇神天皇の時代(古墳時代初期)には大きな変動は起こっていない。やはり出雲国に大きな歴史的事件が起こったのは倭の大乱と考えられるのである。そうなれば、孝霊天皇の時代となり、系図2が正しいことになるのである。
熊野大社の伝承によると、出雲国造になるためには熊野大社で火継ぎの儀式(現在まで受け継がれている)を受けねばならない。振根は早速熊野大社でこの儀式を受け、熊野大社の神官(言代主)によるスサノオの言葉に基づいて出雲国の祭祀を神都といわれていた神魂神社で司っていたと考えられる。出雲振根は出雲の神宝を管理していたようで、この当時は荒神谷遺跡のすぐ近くの神庭の地に本拠を置いていたと思われる。度重なる大和との交渉も振根が言代主の言葉を基にして一手に引き受けていたのであろう。朝廷が伯耆国まで来ている情報を得て鬼住山をはじめ各地の出雲軍に防衛体制の指示を出していたと思われる。
天皇系図
      1世   2世    3世   4世    5世     6世   7世    8世    9世   10世
   神武天皇┬神八井耳──雀部臣─雀部臣──孝元天皇──開化天皇──崇神天皇─垂仁天皇─景行天皇─成務天皇
       ├綏靖天皇──孝昭天皇─孝安天皇─孝霊天皇
       ├安寧天皇
       └懿徳天皇
西角井従五位物部忠正家系
天穂日命─天夷鳥命┬伊佐我命(櫛瓊命)
         |  1世              2世   3世    4世    5世
         └出雲建子命(櫛玉命、伊勢都彦命)─神狭命─身狭耳命─五十根彦命─天速古命─┐
           (神武天皇のとき伊勢へ)                        │
┌──────────────────────────────────────────────┘
│  6世          7世      8世       9世
└─天日古曽乃巳呂命─忍兄多毛比命─若伊志治命┬兄多毛比命(武蔵国造)
                       |(成務天皇のとき国造に任ぜらる)
                       └乙多毛比命(相武国造)  
出雲振根と飯入根との関係
大和朝廷からの使者が来たとき、出雲振根が筑紫に出張していて留守だったので飯入根が祭器を渡した。出雲振根はその数年後飯入根を殺害したと日本書紀に記録されている。この場所は出雲市の阿須利神社の地であるといわれている。この神社は『出雲風土記』に「阿須理社」とある神社で、『雲陽誌』には、出雲の振根が弟・飯入根を殺した時、血(汗)が流れて池中に入り、阿世利という、とあり、また、八岐大蛇が、この池に入って「あせった」ためと、「あせり」という名となったという話がある。この神社は本来は上来原の池の内の杓子山に鎮座していたそうで、この周辺で出雲振根は飯入根を殺害したと判断される。ここは斐伊川河口周辺で荒神谷遺跡から数kmほどしか離れていない。
また、次のような伝承もある。
飯入根が朝廷に神宝を渡した翌年の真夏の日、振根は弟飯入根を前の川(赤川)に遊泳に誘った。二人はしばらく遊泳をした後、兄は弟より先に堤に上がり弟の剣を自分の竹の剣と取替え、弟の上がるのを待ち構えて斬りつけた。弟は遂に切り殺された。飯入根の墓は赤川沿いのすくも塚である。
このように飯入根の殺害された場所が2箇所ある。出雲振根・飯入根ともに出雲の神宝の管理をしていたようで、神宝を安置していたところは神原の代寶垣と呼ばれるところであると伝えられており、出雲振根・飯入根の本拠地は神原の地であったと考えられる。このことから、飯入根終焉の地はすくも塚の近くといえよう。 振根が数年後に飯入根を殺害したということは殺害理由が祭器を朝廷に渡したからだけではなく、別の理由があるのではないだろうか。大乱後飯入根の子である鵜濡渟命が朝廷から初代の出雲国造に任命されており、これは、飯入根が朝廷に対して好意的だったことを意味している。飯入根は振根と違い出雲が朝廷の支配下になることに賛成していたのではあるまいか。そのために、振根に殺害されたと思えるのである。  
出雲振根終焉の地
斐伊川と赤川が合流する下神原の地に兄塚(草枕山麓)がある。出雲振根の墓と伝えられている。近くに草枕山がある。この山にヤマタノオロチの伝承が伝わっている。
「神代の昔、簸の川上で毒酒を飲んだ大蛇が、素盞嗚尊に追い立てられ、転々苦悶して川を下り、この地まで流れ来て、草を枕に伸き居る所を、尊は遂に其の八頭 を斬り給うた所である。」
一説には出雲振根はここに追い詰められ、自害したと伝えられている。 出雲振根の終焉の地とヤマタノオロチの終焉の地の二つの伝承が非常に似通った位置にある。出雲振根がヤマタノオロチとして言い伝えられていると判断される。
実際のところを推定すると、
「天辺に陣を構えた弟稚武彦(スサノオ)軍と、城樋名山に陣を構えた出雲振根(ヤマタノオロチ)軍が、斐伊川沿いの木次町里方で衝突した。激戦の末、形勢不利となった出雲振根軍は斐伊川沿いに下流に退却した。御代神社周辺で振根軍は追撃してきた吉備津彦軍に大敗し壊滅した。傷ついた振根は、さらに下り草枕山の麓で傷ついた体を休めて居る所を弟稚武彦軍に見つかり囲まれた。出雲振根は、自害をして果てた。出雲振根の遺骸は兄塚に葬られた。」  
吉備津彦軍の初敗北
吉備津彦(吉備武彦・弟稚武彦)は戦闘に対して大変強く、ここまですべての戦いに無敗であった。無敗のままであった場合、出雲攻略に成功しているはずなのであるが、倭の大乱は引き分けに終わっている。吉備津彦軍はどこかで出雲軍に敗北しているはずである。その場所を探ってみた。
大原郡大東町幡屋(現雲南市)に石井谷がある。この地はその昔大国主命が八十神を討伐したところと言い伝えられている。大国主は八十神に対して敗北した伝承 あるいは陣地を作ったという伝承があるが八十神を討伐したというのは知る限りここのみである。おそらく、この地が出雲軍が吉備津彦軍を撃破した地であろう。
この地には「吉備津彦が意宇の方面よりやってきて天場(幡屋内の字)の地で神事を行なった。」という伝承もある。吉備津彦が意宇方面からやってきた場合、 出雲の聖地を通過していることになり、出雲国は朝廷に対して完敗しているはずである。吉備津彦は斐伊川沿いに下っている伝承の方がはるかに 具体的であるので、吉備津彦は斐伊川を下って幡屋の地にやってきていると考えたほうがよさそうである。意宇方面からやってきたのは出雲軍ではないだろうか。
吉備津彦軍は天辺を出撃し、城樋名山から出撃してきた出雲振根軍と戦った。形勢不利となった振根軍は下流方面に退却をした。振根軍は御代神社周辺で追い詰められ 壊滅した。振根自身は傷を負いながらも草枕山の麓まで逃避行したが、遂に吉備津彦軍に囲まれた。振根は「もはやこれまで」と自害して果てた。振根は近くの兄塚に 葬られた。戦勝に勢いづいた吉備津彦軍は赤川を遡り出雲国聖地である意宇方面を目指して進撃していった。そこへ意宇方面からやってきた出雲軍本隊と衝突し、吉備津彦軍は初敗北を喫した。吉備津彦軍は天辺まで退却した。  
スサノオ祭祀の中断
日本書紀では朝廷により振根が殺害された後、出雲大神を祭るのをしばらくやめており、朝廷の働きによりしばらく後鏡を用いた祭礼を再開したことが記録されている。これは、どういうことであろうか。
振根はスサノオ祭祀者であったために、振根亡き後は戦乱の混乱のため祭礼ができない状態にあったのではあるまいか。倭の大乱後の和平交渉の結果、朝廷の指示の元での初代出雲国造鵜濡渟命による、新形式のスサノオ祭祀が始まったのであろう。その間に断絶があるのではあるまいか。それまでのスサノオ祭祀は言代主が出雲町の能利刀社の地で熊野山を仰ぎながら、スサノオの言葉を聞き、その言葉をスサノオ祭祀者に伝えスサノオ祭祀者は神魂神社の地で各地の代表者を集めて、その言葉を伝えて政治を行うというものであった。言代主はいつの間にか姿が消えており、スサノオ祭祀者(出雲国造)による単独祭祀に移行しているのである。言代主が廃止されたのもこの倭の大乱によるものではあるまいか。
倭の大乱後吉備国を中心として稚武彦主導による新祭礼の方法が研究されたが、出雲のスサノオ祭祀もその影響を受けて変化したのであろう。そうすれば、新しい祭祀形態が確立していった200年ごろまでの10年から20年ぐらいの間スサノオ祭祀が中断していたことが考えられる。その試行錯誤の一環が西谷四隅突出型墳丘墓による祭礼であろう。  
大乱後の出雲の統治圏
出雲国風土記に次のような記事がある。意宇郡母里郷の項「天の下をお造りになった大神大穴持命が、越の八口を平定なさって、お帰りになるときに、長江山においでになっておっしゃったことには、「私がお造りになって治めていらっしゃる国は、天津神の御子孫である天皇が、平安に世をお治めになるよう、お任せする。ただ、八雲立つ出雲の国は、私が鎮座する国として、青々とした山を垣としてめぐらしになさり、玉をお置きになってお守りになる」とおっしゃった。だからこの地を母里という。
この記事は出雲の国を残してそれ以外の地は天皇(大和朝廷)に譲るというもので、出雲の国譲りに該当すると考えがちであるが、国譲りの時点では天皇はまだ存在してはいない。譲る対象は天照大神であるはずである。このことから、この記事は倭の大乱の講和条件をあらわしていると考える。実際に倭の大乱以前、出雲統治圏(東倭)の領域は山陰地方・安芸国(神武天皇時代に朝廷に譲る。)を除く瀬戸内海沿岸地方・紀伊国であった。しかし、倭の大乱後は出雲国造の統治領域は出雲国のみとなっている。この状況がこの記事と一致しているのである。そうであるとすれば、出雲神話によく登場するオオクニヌシとは出雲側の歴代国王を表わしていることになる。  
第三項 黄泉国神話  
(1)出雲対大和の戦い
日本神話の中にも関連すると考えられるものがある。それは、黄泉国神話である。「イザナギ命が死んだイザナミ命を追って黄泉国へ行き、そこで争い、イザナギ命が逃げ帰り、黄泉津平坂の地で別れた。」という内容である。黄泉国とはイザナミが死んだ国で、イザナミ陵があることから、出雲国と考えられる。
この神話は、出雲国とどこかが戦争をしたことを意味しているようであるが、イザナギ命の行動の跡は、出雲地方周辺に全く見られないことと、黄泉津平坂は島根県の揖屋の地にあり、出雲の東側で出雲中心地の入口にあたることから考えて、これは、出雲と対戦した相手が、出雲の東側に存在し、イザナギのいた日向地方ではないことを意味している。日向地方ならば、国譲りの戦いの時、出雲の西側の稲佐の浜に上陸していることでも明らかなように、出雲西部から攻めるのが普通である。
スサノオの聖地である出雲と対戦しうる国となれば、相当力を持った国でなければならない。日向でないとすれば、後は大和としか考えられない。大和だとすれば、その時期はいつのことであろうか。大和朝廷成立以前は、中国地方に畿内系土器が全く見られず、畿内人が大量に押し寄せたとは思えない。出雲と大和の戦いがあったのは、大和朝廷成立後と考えられる。大和朝廷成立後であれば、倭の大乱以外に考えられない。この神話は、倭の大乱を意味しているのではないかと思う。
島根県の八雲村にイザナミ御陵(神納山)が存在している。雲陽誌に、「神納山は、剱山から500メートルほど離れており、男神イザナギノミコトを追った女神イザナミノミコトが、みずから魂をこの地へ納められたところであるので神納という。」
この神納山の御陵から続いている丘陵によって、日吉・岩坂平野と意宇平野に分けられているが、この丘陵の東の端に剱神社がある。神話に「女神イザナミノミコトを失った男神イザナギノミコトは、あきらめきれず黄泉の国まで行ったが、みにくい姿をみて逃げた。黄泉の国の軍勢に追われた男神は剱を打ち振って防がれたので、剱山という。」
とある。意宇川はその昔この地で大きく蛇行しており、江戸時代に土木工事をしてまっすぐにしたそうである。ちょうどその曲がったところに剱山がある。イザナミとイザナギはこの剱山で戦い、イザナギがここから黄泉津平坂まで退却したようである。 黄泉津平坂周辺の伝承地をたどると、
平坂は安来市と東出雲町の間にある丘陵地を越える旧峠道だったようである。丘陵地の東側が比良坂で西側が伊賦夜坂と呼ぶそうである。
倭の大乱激戦地
イザナギがイザナミ軍に追われて意宇川沿いに退却してきたとき通過すると思われる場所にある。イザナギはイザナミ軍に追われたとき、竹や桃で防いだと記録されているが、どちらもこの周辺に存在している。また、最後に分かれたときイザナギは千引岩でその出口をふさいだといわれているが、巨大な岩がその境界付近に存在している。これらがどんな歴史的事実を反映しているのか分からないが古事記に記されている黄泉津平坂の条件はすべて満たしている。
黄泉津平坂でイザナミが「あなたの世界の人間を毎日千人殺すぞ」と言うと、イザナギがそれでは「毎日千五百の人を生もう」と言って分かれた。これは何かの交渉を意味しているようである。倭の大乱は、魏志倭人伝によるとどちらかが勝利を収めたのではなく、卑弥呼共立というように、和平交渉をして収まったようである。このことより、黄泉津平坂の地でのイザナミとイザナギの交渉は、出雲・朝廷それぞれが条件を出し合って、和平交渉をしたことを意味していると解釈する。
倭の大乱激戦地?(剣山周辺)
また、あの世との入口だという伝承地が剱山の麓にある岩屋とか、すぐ北側の松江市の神魂神社の地とかにある。 この周辺は昔からあの世との境目という認識があったようである。墓が多いというのも理由かもしれないがこの頃の墳墓はこの周辺ではない。おそらく、倭の大乱の激戦地で、多くの将兵が戦死したためそのように呼ばれることになったのではあるまいか。神納山のイザナミ陵はその戦死者を集団埋葬した場所かもしれない。
しかし、これが倭の大乱だとすると、イザナギ命(朝廷軍)は出雲の本拠地と思われる位置まで来て戦っていることになる。また、その激突の位置が本拠地のすぐ南に位置する八雲村である。意宇川沿いに朝廷軍が出雲国中心部(松江市南部)に進攻したとすれば、その衝突地点はその東側(東出雲町)と考えられる。しかし、伝承によれば衝突地点は八雲村との境にある剣山周辺である。最初朝廷軍が木次の出雲軍の応援に行って留守だったとも考えたが、出雲の海岸沿いは当時高地性集落からの遠望が利き、集団で軍が進軍すればその動きが出雲側に筒抜けになる。イザナギ(朝廷)軍は安来近辺の黄泉津平坂から丘陵越えで八雲村東岩坂に出たのではないかと判断する。この場合は激戦地が剣山周辺となる。
黄泉津比良坂の神蹟においてあった比良坂神蹟保存会編「黄泉津比良坂物語」によると、大昔のこの周辺の道の経路が示されていた。まず、西へ向かうと付谷から山越えして五反田、そこから勝負を越して須田方面に向かうと記録されていた。須田から峠ひとつ超えれば八雲村東岩坂であり、倭の大乱激戦地である。また、東へ向かえば、中意東磐坂から、馬場に出て雉子谷を超えて高丸から安来市の岩舟方面に通じると記録されている。この岩船のすぐ南には佐々布久神社 がある広瀬町石原である。
孝霊天皇軍が楽々布久神社から出雲聖域の八雲村に進軍した経路はまさにこれであろう。まとめると次のコースである。
広瀬町石原(楽々布久神社)→岩舟→高丸→馬場→中意磐坂→黄泉津比良坂→付谷→五反田→勝負→須田→八雲村東岩坂
である。 出雲軍に追われて退却した経路はこの逆である。また、「黄泉津比良坂物語」にはイザナギを黄泉津比良坂の坂本で助けた桃の実の神オホカムヅミ命は黄泉津比良坂東方の山上にある荒神森と推定している。この地は現在平賀と呼ばれており字に坂本も残っている。この地に孝霊天皇がオホカムヅミ命を将とする軍を控えさせていたのではあるまいか。孝霊天皇軍が退却してきたとき、オホカムヅミ軍によって追っ手を食い止めることができ、この地で対陣することになったものと推定する。  
(2)三貴子
このように考えると、次のような一致が見られる。この大乱が、黄泉国神話の基となっているとすれば、イザナギ=孝霊天皇となり、その子である三貴子(アマテラス・ツキヨミ・スサノオ)はアマテラス=倭迹迹日百襲姫で、ツキヨミ=大吉備津彦命(稚武彦)で、スサノオ=若建吉備津彦命(弟稚武彦)となる。神話では、三貴子の割にツキヨミの影が薄く、神社伝承でもツキヨミの行動の跡とか生活の跡とかが存在しないのである。しかしながら、神話ではスサノオ・アマテラスと肩を並べる三貴子の一人として存在している。この三貴子が倭の大乱時の将軍(三皇子)であるとすれば説明可能である。また、三貴子はイザナギの禊によって誕生し、アマテラスが高天原を、ツキヨミが夜の食国を、スサノオが海原を治めることになったが、この三人は、大乱の後の和平交渉(禊)により、倭迹迹日百襲姫が大和(高天原)を治め、大吉備津日子(稚武彦)が吉備国で祭祀(夜の食国)を、若建吉備津日子(弟稚武彦)が鬼(山賊・海賊)の平定(海原)をすることになったのと大変よく対応している。またスサノオが高天原を追放されて出雲に降り立った最初の地は「鳥髪」となっているがこれは中国山地の奥地で 、海上からこの地に最初につくのは難しい。若建吉備津彦が吉備国を平定後、阿毘縁の関を打ち破って斐伊川沿いに進んだとき、出雲国で最初に着くのがまさに「鳥上」である。
また、イザナギ・イザナミの国生神話はスサノオ・ニギハヤヒの国家統一事業のことではあるが、孝霊天皇・吉備津彦の中国・四国地方の鬼の平定事業と見ることもできる。イザナギは妻であるイザナミが亡くなったのち黄泉国へ行っているが、孝霊天皇は皇后である細姫を孝霊71年に日南町宮内の楽楽福神社の地で伯耆国平定(国生み)中失っている(死因は熱病か?あるいは皇子出産によるものか?)。その後、出雲を攻めているのである。さらに、黄泉国から戻った後、イザナギの禊により三貴子以外にもさまざまな神が誕生しているが、これも、大乱の後の和平条約によりおこなわれたさまざまな改革に対応していると考えることができる。このように倭の大乱前後で起こったさまざまな出来事は黄泉国神話ときわめてよく対応しているのである。
なぜ、古事記、日本書紀では倭の大乱をこのような黄泉国神話の形で残したのであろうか。倭の大乱は古代日本における最大級の戦争であり、その後遺症は人々の心に長く影響を与えた。平安時代の神賀詞にも見られるとおり、古事記・日本書紀を記録する時代になってもまだその後遺症は残っていたと考えられる。朝廷は出雲に気を使い、出雲は朝廷を意識していたのである。このようなときに、朝廷の立場で出雲を悪く書くようなことはとてもできないであろう。その結果倭の大乱そのものを古事記・日本書紀から抹殺し、かわりにわけの分からない黄泉国神話を作ったものと考える。
孝霊73年孝霊天皇が広瀬町佐々布久神社に布陣して、安来支庁を攻めた後、その余勢を利用し、黄泉津平坂を超え丘陵沿いを西に進み、八雲村東岩坂に達し、そこから出雲の宗教上の中心地である松江市大庭町付近に攻め込もうとしたとき、松江市と八雲村の市町村境辺りで激突し多数の戦死者が出たためこのあたりがあの世との境目といわれるようになったと判断する。
高天原を追い出されたスサノオは出雲国の鳥上に天降ったと言われているが、鳥上は阿毘縁を破った吉備津彦が到達した地で吉備津彦は斐伊川に沿ってくだり、斐伊川沿いでヤマタノオロチを退治している。スサノオのヤマタノオロチ退治は別に存在するが、ここでも、ヤマタノオロチを出雲振根とするときれいな対応が見られる。
この黄泉国神話は朝廷軍が出雲中心域に進入したことを伝えていることになる。朝廷軍に中心域に入られてしまえば出雲軍としては完敗である。しかし、一度入られた朝廷軍を出雲軍は追い返しているのである。追い返すだけの戦力が残っていれば、やすやすと中心域への侵入を許すはずもない。朝廷軍は出雲軍を撃破して進入したのではなく、奇策を用いて進入したということになる。それが軍を二手に分けたという横田町の伝承であろう。それにしても、孝霊天皇(イザナギ)は何を目的として出雲の中心域までやってきたのであろうか。
倭の大乱の後、方形周溝墓が出雲に出現することから出雲が大和朝廷の支配下に下ったことが判断される。このことから、孝霊天皇が出雲中心域に来た目的が出雲の朝廷への併合にあることになる。出雲を朝廷に併合するのはきわめて難しいことと考えられる。それを実行するためにはどうしてもそれを指示するスサノオ(言代主)の言葉が必要だったのではあるまいか。もし、その言葉が得られれば、スサノオの言葉に出雲が逆らうことはありえず、全出雲軍は朝廷に降伏し、出雲が朝廷の支配下に下ることが考えられる。熊野大社の神官(言代主)の言葉を得るために進入したと考えるのであるが、どうであろうか。黄泉国神話と重ね合わせるとこのような物語になる。
八雲村東岩坂に侵入した朝廷軍は主力をそこに控えさせ、天皇及び側近のみで、熊野大社に参内し、言代主の言葉を聞こうとした。言代主をイザナミ、孝霊天皇をイザナギとすると、黄泉国神話の黄泉国での二人の対話に対応するのである。  
(3)菊理姫(ククリヒメ)について 
安来市黒井田町細井1297に菊理神社がある。主祭神は菊理姫命である。ククリヒメノミコトと読む。白山比盗_という別名もある。ククルとはひとつに束ねる。結ぶという意味がある。神話では、イザナギ命が黄泉国から逃げ帰ろうとして、イザナミ命と黄泉津比良坂で争ったときにその中間に立って二尊の言葉を取伝え、両者の間を調和して相互の主張を聞き入れた神と伝えられている。
この菊理姫は倭迹迹日百襲姫の役割そのものである。倭迹迹日百襲姫は倭の大乱時、讃岐に住んでいたが、大乱が泥沼化する兆しが見えたとき、彼女の発案で大乱の和平交渉が黄泉津比良坂で行なわれたと推定している。菊理姫=倭迹迹日百襲姫ということになる。
菊理神社には以下のような伝承がある。「菊理姫は伯耆国大神山の祭神とともに細井の里に来たり滞在すること数旬、姉曰く『自らは近郷を回り住むべき好適地を探らん。他によき地あれば、帰りてともに移らん』と約して旅の途につく。妹神約を守ること数年、聞くところによれば姉神はすでに大山に居したりと。妹神その無情を怒りて絶縁、遂に統治に永住。」この伝承が何を意味しているのか定かではないが、大山山麓の大神山神社との関係が伺われる。
大神山神社の祭神は大己貴尊である。伝承によると、八束水臣津命とともに大山を杭として国引きをしたとき、大山山頂で神事を行なったのが始まりと伝えている。最古の鎮座地は現在の岸本町丸山の地であったそうである。大神山は大山の旧名で、古代はオオミワノヤマと読んだそうである。漢字は後で当てはめられたものと考えられるので、大山の本当の名は「みわやま」ということになる。「みわやま」と言えばニギハヤヒの御陵で大和朝廷のシンボルとして扱われている大和の「三輪山」と同じ名である。大和の「三輪山」の麓には「大神神社」があり、主祭神はニギハヤヒの妻とされる「倭迹迹日百襲姫」である。
大山周辺は古代の聖地であるとの言い伝えがあり、高天原であったという説も存在している。これらの事実を総合して考えると、次のような仮説が生まれるのである。
倭の大乱収拾のため、倭迹迹日百襲姫は讃岐国田村神社の地から吉備中山を経由して菊理神社の地にやってきて、ここで朝廷側・出雲側の言い分を聞き、双方に収拾案を提示した。それぞれがその案に納得して、倭の大乱の和平条約が成立した。そこで、倭迹迹日百襲姫は恒久的に和平を保つために「ニギハヤヒの妻」という新しい地位に就任することになった。その即位の儀式を大山麓の丸山の地で行なった。即位の儀式の場所で出雲側と朝廷側でもめることになった。朝廷側はニギハヤヒの御陵である大和三輪山の麓で行なうことを主張したが、出雲側は和平調停の地菊理神社の地で行なうことを主張した。互いに譲らず決裂の危機が訪れた。倭迹迹日百襲姫の提案で伯耆国大山山麓で行なわれることになった。ニギハヤヒの妻への即位にはどうしても三輪山が必要となるので、大山を三輪山に見立て大山山頂で祭祀を行うことにした。倭迹迹日百襲姫は大々的に「ニギハヤヒの妻」になったことを世の人々に宣言したのである。その祭祀跡が大神山神社である。  
(4)孝霊天皇の侵入経路
横田町の伝承における、阿毘縁の関を打ち破った朝廷は、軍を二手に分け、斐伊川を下る軍は吉備津彦が率いているが飯梨川を下ったのは誰であろうか?当初 飯梨川沿いの佐々布久神社(祭神・孝霊天皇)の存在からして飯梨川を下ったのは孝霊天皇と考えていたが、次の点から斐伊川を下ったのが弟稚武彦(吉備武彦)で飯梨川を下ったのが兄の稚武彦であると推定する。
1 阿毘縁の関から飯梨川流域に抜けるところに比田の梶福留があるがこの地の比太神社は祭神が吉備津彦である。この神社は御墓山を背後にしており、御墓山の祭祀施設だったように思える。祭神が吉備津彦であるということはその祭祀者が吉備津彦であることを意味している。祭祀を主催している吉備津彦は兄の稚武彦である。
2 孝霊天皇は鳥取県南部町(旧会見町)上安曇に楽楽福神社が存在している。他の楽楽福神社は孝霊天皇の事跡に立てられているためにこの神社もそうであると思われる。この地は、古代における伯耆国から出雲国への古道に当たり、安田関がその境である。そこまですぐの位置である。孝霊天皇がここに滞在しており、ここから出雲に入ったと推定される。
3 孝霊天皇はイザナギ命と考えられるが、会見町にはイザナギ命がここから、黄泉津比良坂を経由して黄泉国へ行ったという伝承がある。この伝承と 2がきれいに重なる。
4 島根県広瀬町の佐々布久神社もこの古道のすぐそばに存在している。飯梨川を下った稚武彦とこの地で合流したのではあるまいか。 
孝霊天皇は孝霊73年吉備国を平定した吉備津彦兄弟の宮内への到着を受け、苦戦している鬼住山への総攻撃を仕掛けたその結果かろうじて鬼住山を占拠することに成功し、吉備津彦兄弟はそこから軍をまとめて阿毘縁の関を急襲し出雲に入った。孝霊天皇は安曇に拠点を構え、そこから安田関(手間関)を打ち破り出雲国に侵入した。そのように考えられるのである。 そこで関連性が考えられるのが、古事記に書かれている、手間山(現要害山)でオオクニヌシが八十神に襲われて死んだという話である。手間山は伯耆と出雲をつなぐ古道のすぐそばで風土記によると手間關という関所があったと伝えられている。孝霊天皇が出雲に入るときに何の戦闘もなしに入れるとは思えず、この手間関周辺で戦闘があったはずである。この話はその戦闘を意味しているのではあるまいか。オオクニヌシがこの関所を守っていた出雲の将軍で、八十神が孝霊天皇軍を表わしていると考えると、前後がスムーズにつながる。孝霊天皇軍はこの関所を破り出雲国に侵入したと考えられる。
このように考えると出雲神話において因幡の八上姫が八十神からの求婚を断り、オオクニヌシの元に嫁ごうとした神話がある。オオクニヌシ→出雲国、八十神→大和朝廷、八上姫→因幡国と考えれば、
「倭の大乱の直前、大和朝廷が東倭に所属する各国に朝廷への服属を進めたが、それらの多くの国は出雲国との関係を保ち、大和朝廷は東倭の切り崩しに失敗した。」といった事実を暗示しているように思える。  
(5)伯耆国のその後
倭の大乱後(弥生時代後期後葉)以降、伯耆国には吉備系の遺物が多く出土するようになる。吉備の勢力下に入ったものと推定される。米子市近辺は黄泉国といわれており、北部には夜見という地名も残っている。黄泉津比良坂の西側も黄泉国といわれており、黄泉国とは一体何かが問題になるのであるが、推定するに、出雲を黄泉国と読んだのは大和朝廷が孝霊天皇をイザナギと考えるときイザナミが住んでいた出雲を黄泉国と呼んだが、出雲の人々がそれに反発しその反対側を黄泉国としたのではあるまいか。
古事記によれば三貴子が誕生後、月読命が夜の食国を治めている。月読命は兄稚武彦と推定しているが兄稚武彦は倭の大乱後吉備国を治めている。吉備国はあまりに巨大になっているために伯耆国自体は同じ系統の人物が治めていたのではあるまいか?その人物とは、孝霊天皇が現地の妻に産ませた子供ではないかと思う。孝霊天皇の現地の妻は孝霊山に伝わる妻木の朝妻姫、及び高杉神社に伝わる松姫、千代姫が考えられる。高杉神社にはこの松姫、千代姫が都から後からやってきて孝霊天皇の妃になった細姫に対して嫉妬の念が強く祟っているので、高杉神社には「女男女(うわなり)うち神事」が伝わっている。 この3人の女性の誰かが産んだ子が倭の大乱後の伯耆国を治めていたのであろう。古道における出雲との境にある安田関のすぐ近くに母塚山と呼ばれる山がある。この山は別名比婆山とも言われ、イザナミの御陵という伝承がある。古事記にはイザナミ御陵は出雲と伯耆の境と記録されており、梶福留の御墓山とこの母塚山が該当する。 ]しかし、御墓山には周辺にイザナミ命に関する伝承が多く存在しているのに対して母塚山周辺にはそういった伝承が乏しい。その関係で、御墓山の方が真のイザナミ御陵と考えられる。それでは母塚山には誰を葬ったのであろうか。母塚山とは母を葬った山という意味と考えられ、孝霊天皇がイザナギ命であるから、その妻がイザナミになり、現地妻の朝妻姫・松姫・千代姫の誰かではあるまいか?そして、母を葬った人物が伯耆国の統治者(月読命)であろう。
米子市近辺に吉備系の遺物が出土するのは古墳時代中期ごろまでである。その後は北九州系の要素が見られるようになる。古墳時代中期、応神天皇のころ強大になりすぎた吉備国が分割されたのを期に、吉備勢力が伯耆国から引き上げたものと考えられる。  
(6)古事記・日本書紀の沈黙
しかし、これだけの大乱に関して古事記・日本書紀は沈黙しているのである。神社伝承がしっかりと残っていることからして、知らなかったはずはなく、あえて無視したものと考えられる。無視するということは、古事記・日本書紀の編集者にとって都合の悪い内容であるためということになる。古事記・日本書紀では、スサノオ・ニギハヤヒの業績をほとんど完全に抹殺していることから推察して、この大乱の発生原因がこの二人に絡んでいることがうかがわれる。  
吉備津彦の吉備国平定  
第1項 吉備津彦兄弟の出動前夜
160年ごろより、東アジア全体が寒冷期に入り、作物が充分にとれず、日本列島各地が落ち着かなくなっていた。大和朝廷は政権を安定させるためにこの時点で大和朝廷支配下に入っていない各国に大和朝廷の支配下に入るように使者を派遣した。まず、九州地方南部の球磨国・日向国には神武天皇の孫に当たる建磐竜命を154年(孝霊9年)に派遣した。東倭(中国地方・讃岐地方)の中心地出雲で新しい祭祀を始めようとする動きが出てきたのでそれをきっかけとして、東倭も朝廷支配下に取り組もうと交渉を始めた。なかなか埒が明かず、171年(孝霊45年)まだ皇太子であった孝霊天皇自らが伯耆国に出発。兄の大吉備諸進命を吉備国へ、長女の3歳になる倭迹迹日百襲姫を讃岐へ派遣した。
第6代孝安天皇が175年(孝霊52年)頃崩御したので、皇太子楽楽福命は大和に帰還し、翌孝霊53年正式の第7代孝霊天皇として即位した。その後まもなく、西国の鬼が活発に活動を始めた。孝霊天皇は西国平定に積極的に取り組むことにした。
孝霊53年、兄の大吉備諸進命の二人の子である兄稚武彦と弟稚武彦を先に山陽道に派遣し、自らは讃岐国経由で吉備国に入った。  
第2項 吉備国への侵入 (孝霊54年)
古事記の孝霊天皇の条に、「大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、二柱共々に、播磨の氷河の碕に斎瓮をすえて神を祭り、播磨口を入口として、吉備国を平定なさった。」と記録されており、この兄弟の最初の行動は播磨の氷河の碕における祭祀であることが分かる。現在この地には日岡神社(兵庫県加古川市)が建っている。稚武彦兄弟は、ここで戦勝祈願したものであろう。孝霊53年と思われる。
二人は最終的に吉備中山に到着するのであるが、その経路と推定されるものが二つある。岡本正人氏の「吉備津彦の正体」によると、岡山県赤坂町の「片山神社」の記録にて若健吉備津彦は播磨から陸路を通ってこの片山神社の地を通過し、吉備中山に到着したとなっている。また、岡山県妹尾の明神崎は海路やってきた吉備津彦が最初に上陸した地と言い伝えられている。この二つの伝承は相反する伝承である。しかし、若健吉備津彦が兄弟で、二人いたということから、この二人が別々の経路で吉備国に進入したと考えれば説明がつく。問題はそれぞれがどちらの経路を通ったかということである。
兄の稚武彦は祭祀者としての要素が強く、弟稚武彦は武将としての要素が強い。陸路では片山神社で「アジスキタカヒコネ」を祀っている。このことから、陸路を通って吉備国に入ったのは兄の稚武彦で、弟の方が海路吉備国に入ったと考えればよい。
吉備団子の由来
妹尾村の歴史は、吉備津彦の伝説より始まる。第7代孝霊天皇の第三皇子吉備津彦命は、第十代崇神天皇の勅により、四道将軍の一人に選ばれ、吉備の国を平定すべく、海路西征になりました。そして、妹尾の明神山の麓の岬の浜辺に着きました。そこに老漁夫が住んでいましたが、命一行をお迎えしました。そして、吉備で作った団子を差し上げましたところ、命は非常に喜びになりました。これが吉備団子の始まりです。そして、命はこの地方に来た理由を説明して、この地方に悪者がいないかと、お問いになりましたので、この備中の奥には悪者がいて良民を苦しめている由を申し上げますと、それではそれを征伐しなければならぬ。よって水先案内をしてくれと申され、老漁夫は水先案内をしました。当時の地勢は現在山陽線の通じている庭瀬駅、あるいは宇野線の妹尾駅のあたりは一面の海水で、転々と小島が散在していました。あいにく大暴風で船団は進路も定まらず、難航しましたが、老漁夫の水先案内が適宜の処置をとったために、かろうじて吉備の中山につくことができました。
吉備中山の上陸地点は「吉備中山総合調査報告」や岡山市史」に吉備中山南麓の花尻というところであると記録されている。  
第3項 吉備国平定経路
神社伝承により、その平定地域をまとめてみると次のようになる。
A 吉備中山周辺
B 児島周辺
C 旭川流域
D 高梁川流域
E 小田川流域
F 吉備上道
いずれも、吉備津彦の伝承地が帯のように連なっており、この経路に沿って平定していったものと考えられる。
どの順番に平定していったのであろうか。最初はAの吉備中山周辺と思われる。最後が出雲に残る吉備津彦の経路に備後から来たというのがあるので、Eの小田川流域が最後と思われる。孝霊天皇が高梁川流域を通って伯耆国に入るのはかなり初期の段階と思われるので、Dは2番目あたりであろう。Cの旭川流域もその経路にある神社に備前で最初に治めたとあるので、時期的には速かったのではないかと思う。これらのことを整理すると、平定順番は次のようになる。
出来事         和暦     西暦
大和出発       孝霊53年 175年後半
播磨道口での祭祀  孝霊53年 175年後半
吉備国上陸      孝霊54年 176年前半
温羅退治       孝霊54年 176年前半
吉備上道平定    孝霊54年 176年前半
孝霊天皇吉備中山到着 孝霊54年 176年前半
高梁川流域平定   孝霊55年 176年後半
石蟹魁師荒仁退治  孝霊56年 177年前半
孝霊天皇伯耆国へ  孝霊56年 177年前半
旭川流域平定
美作国平定
児島周辺平定     孝霊64年 181年前半
讃岐の百襲姫訪問  孝霊65年 181年後半
伯耆国大倉山平定  孝霊68年 183年前半
伯耆国鬼住山平定  孝霊68年 183年前半
小田川流域平定     孝霊70年 184年前半
備後国平定(吉備国平定完了) 孝霊72年 185年前半
鬼林山平定            孝霊72年 185年前半
出雲振根平定         孝霊73年 185年後半
伊予国平定 孝元
土佐国平定 孝元
熊曽との戦い          開化10年 220年
死去                      開化 230年ごろ
吉備津彦は讃岐国の倭迹迹日百襲姫を訪問し、その周辺の鬼退治もしているが、これは経路からして児島周辺の平定をした後と考えられる。最後の小田川流域からそのまま尾道市まで西へ平定を続けており、尾道市あたりに滞在しているとき、伯耆国の孝霊天皇から、出雲平定に協力せよとの通知をうけとり、伯耆国へ出向いたと考えている。
これをもとに各出来事の時期を推定してみよう。
孝霊天皇が即位したと推定したのが、孝霊53年で、伯耆国菅福で仮宮を造ったのが孝霊56年と思われる。この間に吉備津彦兄弟は播磨道口での祭祀、吉備国上陸、温羅退治、高梁川流域平定などを行わなければならない。日数がかかったと思われるのが播磨道口での祭祀から吉備国上陸までと思われるので、播磨道口祭祀を孝霊53年、吉備国上陸を孝霊54年と推定した。
児島周辺の平定は、讃岐の百襲姫訪問の少し前と考えられる。百襲姫が讃岐の田村神社に来たと思われるのが成人(当時の年齢で25歳ほど)してからであるから、讃岐訪問が孝霊65年ごろとなり、児島周辺平定が孝霊64年ごろと推定した。
この間に旭川流域平定と美作国平定が行なわれているようであるが、その時期を特定することができない。旭川流域はまばらに伝承地が存在しているので、平定に時間がかかったのかもしれない。また、美作国には平定伝承がほとんどなく、むしろ平和的に解決している様子が伺われる。長期にわたって交渉をしていたのかもしれない。
孝霊天皇が伯耆国で大倉山、鬼住山の平定をするときに吉備津彦も参加している。孝霊68年のことである。この時点で小田川流域、備後以外はすべて平定完了していることもあり、孝霊天皇から応援要請があったものと推定する。
大倉山・鬼住山の平定が終わり、吉備で残る小田川流域と備後の平定を開始したのが孝霊70年であり、備後国での平定を完了したのが孝霊72年(片山神社記録)であろう。
この頃伯耆国では孝霊天皇が鬼林山の鬼と戦っていたが、細姫を失うなどして苦戦していた。平定完了と同時に孝霊天皇から応援要請があり、鬼林山の鬼退治に参加し平定した。
伯耆国の伝承、讃岐国の伝承を合わせて時期を推定すると以上のようになる。
次に各経路ごとに伝承を整理してみようと思う。  
第4項 吉備中山周辺の平定(孝霊54年=176年前半)
吉備中山に到着した吉備津彦一行は、まず、周辺の地固めをしなければならない。土地の人間を味方につけるのが一番良い。
鼓神社(岡山市上高田・備前国二宮)・・・吉備津彦の正体より
「吉備津彦以外に、遣霊彦命、吉備武彦、楽楽森彦、高田姫命を祭神とす。楽楽森彦はここの県主である。楽楽森彦は吉備津彦の吉備平定に貢献された。高田姫はその娘で吉備津彦の後妃になられた。先妃は百田弓矢姫であるが、まもなく亡くなった。」
吉備中山に到着すると、まず地元の協力者を募ったようである。鬼の出没に地元の人たちは被害を蒙っているわけであるから、多くの協力者がいたようである。
一説によると、「吉備津彦は対立する吉備国を征服するために大和朝廷によって派遣された」というものがあるが、岡山県下に残る伝承を調べてみるとそのようなものはまったくない。征服したのであれば、地元の人々の反発を受けるはずであるが、吉備津彦は崇敬されている。また、よく調べてみると、実際に鬼と戦ったのは吉備津彦よりも、むしろ、地元の勢力のようである。これらの伝承から考えれば、当時の吉備国は気候の寒冷化により鬼(山賊・海賊)が盛んに出没し、住民は大変困っていた。その状態を改善するために吉備津彦が派遣されたと考えたほうが自然である。
御崎神社(総社市久米)・・・祭神吉備武彦
「上足守深茂の大神谷は御祭の神吉備武彦命、御友別命2代の御住居跡と伝えられている。」
「大吉備津彦命、御兄弟が温羅を平らげ給いしとき、片岡に本営を設け、吉備武彦命をして久米の前衛に進ませられ奮戦力攻、終に平足するを得たり。前衛の舊跡を今もアンザイ(行在)という。その舊跡(現在の鎮座地宮山)に社殿を創建し艮御崎神社と称す。」
「若健吉備津彦命が吉備武彦命を連れて温羅を平定に来て、吉備武彦命が先陣を承って功を奏したので、御崎神社の祭神となった。」(吉備津彦の正体)
温羅伝説
「崇神天皇のころ、異国の鬼神が空から吉備の国にやってきた。彼は百済の王子で名を温羅(ウラもしくはオンラ)と呼ばれた。彼の両眼は爛々として虎狼の如く、蓬々た鬚髪は赤きこと燃えるが如く、身長は、約4メートルにも及んだ。膂力は絶倫、性は剽悍で凶悪で"吉備冠者"と呼ばれていた。温羅は、総社市の新山(にいやま)に居城を構え、さらに近くの岩屋山に住居を構えて、たびたび、西国から都へ送る貢船や婦女子を襲ったといわれた。人民は恐れ恐いてこの居城を鬼ノ城と呼び、都に訴え助けを求めた。さっそく朝廷は、武将を遣わせてそれを討たしめたが、彼は兵を用いること頗る巧で出没は変幻自在、容易に討伐し難かったので空しく帝都に引き返した。そこで次に、孝霊天皇の皇子、吉備津彦命(きびつひこのみこと)が派遣されることになった。吉備津彦命は大軍を率いて吉備国に下り、まず吉備の中山に陣を敷き、西は片岡山に石楯を築き立てて防戦の準備をした。これが楯築遺跡で、吉備の中山には、吉備津彦命が埋葬されたと言われている中山茶白山古墳がある。
こうして温羅と戦うことになったが、もとより変幻自在の身のことであるから、戦いは困難で、さすがの吉備津彦命 も攻めあぐまれた。ことに不思議なのは、吉備津彦命の発し給える矢はいつも鬼神の矢と空中で噛み合い、いずれも海中に落ちた。 岡山市高塚にある矢喰宮(やぐいのみや)にはその弓矢が祀られている。吉備津彦命はここに神力を現し、 千釣の強弓を以って一時に二矢を発射したところ、一矢は前の如く噛み合うて海に入ったが、余す一矢は違わず見事に温羅の左眼に当たったので、流るる血潮は混々として流水のごとくほとばしった。 総社市の血吸川はその経緯がある。さすがの温羅も吉備津彦命の一矢に辟易し、たちまち雉と化して山中に隠れたが、機敏なる 吉備津彦命は鷹となってこれを追いかけた。そこで、温羅はまた鯉と化して血吸川に入って跡をくらました。 吉備津彦命はやがて鵜となってこれを噛みあげた。鯉喰神社があるのはその由縁である。温羅は、今は絶体絶命ついに 吉備津彦命の軍門に降っておのが"吉備冠者"の名を吉備津彦命に献上した。吉備津彦命は鬼の頭を刎ねて串し刺してこれを曝した。 岡山市の首部(こうべ)はその経緯である。
ところが、この首が何年となく大声を発し、唸り響いて止まらない。吉備津彦命は部下の犬飼建(イヌカイノタケル)に命じて犬に喰わした。 肉はつきて髑髏となったがなお止まない。そのため、吉備津彦命はその首を吉備津宮の釜殿の竈の下に八尺ほど掘って埋めた。 しかし、一三年の間唸りは止まらず鳴り響いた。そしてある夜、吉備津彦命の夢に温羅の霊が現われ "吾が妻、 阿曽郷の祝の娘阿曽姫(アソヒメ)をしてミコトの釜殿の神饌を炊かしめよ、もし世の中に事あれば竈の前に参り給え、 幸あれば裕かに鳴り、禍あれば荒らかに鳴ろう。吉備津彦命は世を捨ててのちは霊神と現われ給え。 吾は一の使者となって四民に賞罰を加えん"と告げた。この経緯から、吉備津宮のお釜殿は温羅の霊を祀るものとされて、 精霊を"丑寅みさき"と呼ばれることになった。これが現在行われている吉備津宮の釜鳴神事のおこりである。」
温羅伝承の解釈
2世紀半ばごろから、生活苦から中国地方各地に鬼(山賊・海賊)が出没するようになった。孝霊45年(171年)第6代孝安天皇は大吉備諸進命 (孝霊天皇の兄)を吉備国に派遣して鬼退治を行なおうとしたが、失敗した。孝霊53年第7代孝霊天皇の命により大吉備諸進命の二人の王子(稚武彦・弟稚武彦)が吉備国に派遣された。命は地元の住民を集め、兵を募った。楽楽森彦、犬飼健などが加わった。孝霊54年、 吉備津彦兄弟は稚武彦が本陣(吉備中山)を構え、弟稚武彦が先陣(楯築遺跡)を努めた。ついに温羅との戦いが始まった。当時このあたり一面は海であったので戦いは船による海戦であった。矢の射掛け合い、石つぶてのぶつけ合いが行なわれた。激しい海戦のすえ、楽楽森彦が鯉喰神社の地に温羅を追い詰めて討ち取った。しかし、温羅の残党が各地に出没し、残党狩りに以後13年間を費やした。孝霊67年讃岐の百襲姫(菊理姫)の提案により残党との和解が成立した。
温羅伝承に関しては時代が合わない点がある。
吉備津彦は180年ごろの人物であるので、鬼の城も温羅も同時代のものでなければならないが、鬼の居城である鬼の城は、6〜7世紀の朝鮮式山城であり、温羅は百済国の王子と言い伝えられている。明らかに吉備津彦の時代とは異なるものである。この点について考えてみよう。
百済は三国史記によるとBC18年現在の韓国ソウル市近辺に建国されたとなっているが、一般には346年建国とされている。滅亡は668年である。一国の王子が国を出て、他国のしかも中央以外のところに根城を築き、地域の人々を苦しめるというのは、 母国に大きな異変が起こったとき以外には考えにくい。温羅は百済国が滅亡したとき、その難を逃れて日本列島に渡ってきたものではないだろうか?鬼の城が7世紀末〜8世紀の土器が出土したという事実と、百済国滅亡の時期が重なるのはそれを裏付けているといえる。しかし、鬼の城の設備はかなり巨大なものがあり、緊急避難でやってきた百済王子ではとても築けるものではないと思われる。本格的に築いたのは、温羅滅亡の後に唐の来寇に備えた大和朝廷であろう。
温羅は百済国が滅亡の危機に瀕したとき、その難を逃れ日本の吉備国にやってきて鬼の城山に城を築き定住したが、文化の違いから地域の人々に溶け込めず、次第に人々を苦しめるようになっていったのではあるまいか。吉備国の人々の訴えを聞いた大和朝廷は温羅を退治するために将軍を派遣した。その将軍の働きが吉備津彦の伝承と重なり、温羅伝承になったものと考えている。朝廷側の記録に残っていないのも、当時の友好国百済を意識してのものであろう。吉備国に残されている温羅伝承は2世紀の吉備津彦伝承と7世紀の百済王子の伝承が重なったものと判断する。
2世紀の吉備津彦伝承と、7世紀の温羅伝承の識別はできないだろうか?7世紀に温羅が鬼の城山に城を築いたのは、百済本国の危機的状況によるものである。百済人が退去して吉備国を訪れるにも限界があり、幅広い領域で人々を苦しめることはできないと思われる。温羅関連伝承で鬼の城から離れたところにある伝承は吉備津彦時代の鬼が温羅とされたものと判断できる。百済人温羅の真実の伝承は鬼の城のみであろう。
2世紀において、吉備国は東倭の位置領域であり、出雲のスサノオ祭祀の下で緩やかな結合をしていた。その小国(ムラ)のいくつかが鬼と化しているのである。吉備津彦はその鬼を退治していったのである。その鬼の中には出雲から派遣された将軍もいたと思われる。鬼と化した人々を退治するのは吉備津彦にとってたやすいことである。しかし、いずもから派遣された将軍は強敵であろう。吉備津彦が苦戦している相手は出雲の将軍と考えられる。
吉備津彦が吉備中山についたころ、鬼の城周辺に鬼がいたと思われる。伝承によると地域の人々がこの鬼に対して戦いを挑んでいるのである。このことから、この鬼は出雲の将軍ではなく、鬼と化した人々であったと推定される。しかし、出雲の将軍に匹敵する強さを持っていたものと考えられる。
温羅伝承に出てくる古代遺跡は他に楯築遺跡と鯉喰神社がある。楯築遺跡は2世紀末ごろの双方中円墳で鯉喰神社もほぼ同時期の前方後方墳である。ともに倭の大乱後、大乱関連地で祭祀を行いその後に築かれたものと考えている。楯築・鯉喰神社の伝承は吉備津彦時代のもので、7世紀のものではないことになる。
日差山伝説
「吉備津彦命は温羅征伐を始めるが、温羅には地の利があり、なかなか退治出来ない。そこで、吉備津彦命は武勇に自信のある武将を近国から集めた。岡山県倉敷市日差の住民である夜目主命(やめのぬしのみこと)父子と栗坂の住民(栗坂神社の祭神)らは、武勇や知恵に長けていたため厚遇され、吉備津 彦命の重臣・留霊主命らと計略を立て、温羅と戦った。 夜目主命は、暗闇でも白昼と同じ視力があり、夜襲が得意であった。これにはさすがの温羅も勝てず船で逃げた。夜目主命は兵を引き連れて温羅を追い、土地に明るい夜目主命が陣頭指揮をとった。留霊主命が温羅に組み付き、海中に転落。温羅は鯉になり、留霊主命は鵜になって戦ったが、2人とも討ち死にした。この温羅討伐の功績を称えて、後に日指山(日差山)の頂上に社を建て「日指神社」として夜目主命と夜目丸の父子2神を祭ったという。しかし、現在はその跡は残っていない。」
「吉備の国平定のため吉備津彦命が来られた時、この地方の賊温羅(うら)が村人達を苦しめていた。戦を行ったがなかなか勝負がつかない。その時天より声がし、命がそれに従うと温羅はついに、矢つ尽き刃折れて自分の血で染まった川へ鯉となって逃れた。すぐ命は鵜となり、鯉に姿を変えた温羅をこの場所で捕食した。それを祭るため村人たちはここへ鯉喰神社を建立した。」
この神社の祭神は楽楽森彦と温羅である。温羅を退治したのは吉備津彦ではなくて楽楽森彦ではないのか
「神話では、吉備津彦命の射る矢と鬼ノ城から温羅の射る矢とが空中で絡み合い、落ちた場所とされており、吉備の中山と鬼ノ城とのちょうど中間地点にある。国道から境内まで歩いていくと、小さな鳥居の右側に巨岩が大小合わせて5個並んでいて、「矢喰の岩」(やぐいのいわ)と呼ばれる。一説では、鬼ノ城から温羅は岩を投げたとされ、それが命の放った矢とぶつかって落ちたとも言われている。」
吉備武彦の謎
吉備津彦以外に吉備武彦が岡山県の神社に良く祭られている。記紀、あるいは系図上では吉備武彦は第12代景行天皇の時代に日本武尊の副将として東国征伐に参加している。320年ごろの人物である。しかし、岡山県内の神社では吉備津彦とともに行動しており、時代がまったく会わない。これはどうしたことであろうか?井森神社(井原市井原町1669)に次のような記録が見つかった。
「本神社は光仁天皇の宝亀元年9月(770)、吉備国を鎮められた吉備津彦命の御弟吉備武彦命を勧請し、創建された。」
これを見ると、吉備武彦は吉備津彦の弟となっている。つまり、弟稚武彦のことである。しかし、Bの御崎神社の住居跡とされている吉備武彦はその子が御友別命であることから景行天皇の時代の吉備武彦と思われる。神社に祭られている吉備津彦は複数の人物が絡み合っていると思われるので、その正体を探るには大変な注意が必要である。
このことから、吉備国の平定は兄の稚武彦を本陣とし先陣を弟の稚武彦(吉備武彦)として行なわれたということになる。  
第5項 吉備上道の平定(孝霊54年)
岡山市海吉に吉備津岡辛木神社がある。この神社は操山山塊の東端にあり、祭神は吉備若建彦命である。この神は吉備津彦命の弟に当たるということである。「吉備津彦命が温羅(うら)という悪者を平らげ、平和な国作りを行ったとき、吉備若建彦命も上道・海面のあたりを平定された」と言い伝えられている。
吉備中山周辺を平定したあと、吉備国の東側を平定したと考えている。なお、この頃孝霊天皇が讃岐経由で吉備中山に到着し、細姫もまもなく、大和から孝霊天皇を追ってやってきたと思われる。 
第6項 高梁川流域の平定(孝霊55年)
新見市石蟹に伝承が伝わっている。
「石蟹で強賊の石蟹魁師(いしかにたける)が、石窟に居城を構えて横暴を極めていた。吉備津彦命がこれを征服して殺した。そして、この地を伊波加爾(いはかに)と称せよと申された。」
ここでいう石蟹とは伯耆国の伝承にある石蟹魁師荒仁のことと思われるが、伯耆国の伝承では大倉山の麓で降参したことになっている。明らかに矛盾する伝承である。石蟹魁師荒仁の名を分解してみると、「魁師」とは大将を意味し、「石蟹族の長である荒仁」と思える。伯耆国の伝承のほうでもこの人物は備中出身となっている。これを元に双方の伝承をつないで見ると、
出雲族の一派である石蟹族が、伯耆国日南から備中国石蟹までを統治していた。その本拠地であるが、この石蟹というには狭すぎる。この支配地で最も開けているのは新見盆地である。おそらく、新見盆地を本拠地として、高梁川をさかのぼってくる孝霊天皇・吉備津彦軍を迎え撃とうとして、石蟹にその出城を築いていたのではあるまいか。孝霊天皇が最初石蟹魁師を討とうとしたが、あまりに強力で苦戦をした。そのため、吉備中山にいた弟稚武彦を呼び寄せ、共同で戦うことにより石蟹の石蟹魁師は打ち破った。続いて新見盆地の本拠地も打ち破り、石蟹一族は北へ退散した。石蟹魁師荒仁は伯耆国の霞(日南町)に新しく拠点を構え、峠越えしてくる孝霊天皇・弟稚武彦軍を迎え撃とうとしたが、大倉山の麓でついに降参した。
石蟹魁師荒仁を破った後、孝霊天皇は日野川を下り溝口の鬼住山を目指した。弟稚武彦は再び吉備中山に戻り、次の旭川流域の平定に移った。  
第7項 旭川流域の平定(孝霊56年〜孝霊64年)
旭川流域に伝わる吉備津彦関係の伝承は次のようなものである。南から順に記す
A.鼓神社(岡山市上高田・備前国二宮)・・・吉備津彦の正体より
「吉備津彦以外に、遣霊彦命、吉備武彦、楽楽森彦、高田姫命を祭神とす。楽楽森彦はここの県主である。楽楽森彦は吉備津彦の吉備平定に貢献された。高田姫はその娘で吉備津彦の後妃になられた。先妃は百田弓矢姫であるが、まもなく亡くなった。」
B.賀陽町新町鷺の湯温泉
「その昔、鬼(温羅)という強賊がこのあたりに住んでいた。あるとき、南から吉備津彦命が鬼を何日も攻めたが、鬼は頑強に抵抗した。なぜかと思い密かに調べたところ、鬼の兵士は傷を負うと、この温泉で直しては戦っていた。それに、谷川に良質な砥石があり、傷んだ刀を磨いていたこともわかった。命は怒り、温泉を冷泉にした。鬼は傷を癒すことができず、閉口して降参したという。鬼退治後は兵士の疲れを癒すのにこの温泉を利用した。谷川の砥石は今もある。」
C.風神社(岡山県吉備中央町広面)
「四道将軍吉備津彦命が吉備平定のとき、雨坪山の山頂近くにあった鼓岩の上にお立ちになった。そして、そこに小社を建立された。」
D.化気神社(岡山県吉備中央町案田)
「吉備津彦命が加茂の地に、御食津大神をお祭りになった頃、妖怪変化が出て、住民を恐れさせた。気比宮の西の方に火柱が現れたので、命は弓をとってこれをうかがわれた。そのに覘いの松といって記念の松がある。矢を放たれたが、その矢の掛かった松を矢懸かりの松といった。最近まで残っていたという。二の矢を放たれたとき上がられた気比宮の約6畳ぐらいの大きさの岩を駒石という。矢は怪物に命中し、一大音響を発し倒れて石となった。上体の落ちた所を立石(上田西)といい、残った石を的石(松尾神社境内)という。矢が高く、片となって飛んだところを高片(細田)といい、細田のあたりでその様子を見なかったところを目無という。矢の落ちた所を矢柄(細田)といい、遠くても音の聞こえたところを大鳴(上田東)と呼ぶようになった。これらの地名は現在小字名として残っている。」
E.中山神社(岡山県津山市)
「大己貴命 『延喜式頭注』、吉備武彦命 『作陽誌』、吉備津彦命 『大日本史』『神祇志料』と記録されており、地主神の大己貴命が中山神(鏡作神)にこの地を譲って、自らは祝木(いぼき)神社に退いた」
この伝承地は旭川に沿って北上し、途中から吉井川水系にうつり、津山盆地まで進出したことをうかがわせる。中山神社の祭神の中山神(吉備中山に住んでいる神の意味か?)は吉備津彦であるらしい。津山盆地は岡山県北部最大の盆地で当時から多くの人々が住み着いていたようである。吉備津彦がやって来るまでは出雲族一派(大己貴命)がこの地を治めていたが、吉備津彦に譲り渡すことになったようである。このとき戦闘があったと見られるが、まったく記録されていないし、吉備津彦の名も中山神に変えられている。敗北した側の津山盆地の人々の抵抗ではないだろうか。
高梁川流域にしても、旭川(吉井川)流域にしても、県北のほうは出雲一族の一派が安定して国を治めていたように感じられる。吉備津彦によって大和政権下に所属するようになったという印象を受ける。 
第8項 児島周辺の平定
御前神社(岡山市妹尾897-1)
「吉備津彦命は汗入(あせり)の沖で賊将・梟帥(たける)を成敗した時、大風により船が転覆しそうになったが大亀に助けられた。やがてその磯の前の3つの小島に住吉三神を祀り、汗入の浜に豊玉彦命・豊玉比売命を祀った。その後現在の地に社殿を建立し吉備津彦命を祀ったとされている。現在でも、三つの小島の証として、境内には波に洗われた大岩・土中には多くの貝が現存する。」
船越神社(岡山県都窪郡早島町)
「吉備津彦命の船団が児島の山賊・海賊を退治するために吉備の中山から海岸沿いに来られた。そのとき矢尾の大河という人を水先案内人に頼み、『あの島の浅瀬(現船越神社横の峠)は越せるだろうか』と聞かれた。大河という人は『この浅瀬は満潮のときなら通れます。この浅瀬を越すと児島へ早く行けます。』と答えた。この船越神社の地に吉備津彦命は船を着けて休まれた。」  
第9項 讃岐国訪問・瀬戸内海海族制圧(孝霊64年)
香川県の桃太郎伝説
高松市の沖にある女木島(鬼ヶ島)と鬼無を舞台に、伝説上の名ま えと土地の名まえをむすびつけて物語にしてある。お爺さんとお婆さんは鬼無の人で、お爺さんが柴刈りにいった山が芝山で、お婆さんが洗たくにいった川が本津川である。  2人には子供がないので、そこで近くの赤子谷の滝で子どもがさずかるように神さまに祈った。ある日、川で洗たくをしているとき大きな桃が流れてきたので、お婆さんがひろって帰っ た。桃の中から男の子が生まれたので、桃太郎と名づけた。
この桃太郎さんは、孝霊天皇の第8皇子稚武彦命であるといわれている。命の兄が、吉備津彦命で岡山県に、姉が、倭迹迹日百襲姫命(田村神社祭神)といい、香川県に住んでいた。そこで、稚武彦命(桃太郎)は鬼退治のためにやってきたといわれる。  鬼というのは、瀬戸内海の島々を中心にあばれていた海賊のことである。  桃太郎におともした、犬、猿、雉は、それぞれの土地の人たちで、犬は岡山県の沖にある犬島の人々であり、猿は香川県綾南町猿王の人々で、雉は鬼無町雉ヶ谷の人たちであった。  いよいよ、鬼退治に出かけることになった。生島湾の近くに大きな泉があって鬼の子分が島から水をくみにきていた。ここを木出(きだし)とい う。桃太郎らはここで鬼の子分がくるのをまってとりおさえ、鬼ヶ島(女木島)へ行く道案内をさせた。  大海戦がおこなわれ、鬼どもは島の岩窟に逃げこんだ。桃太郎は攻めて、攻めて、岩窟内の 鬼どもを降参させた。  宝物をたくさん積んで中津の港にかえってきた。しかし、鬼どもが香西の海賊城にあつまって、攻めてきたので再び合戦になった。桃太郎は大いそぎで仲間に使を走らせて、弓と矢をも ってこさせた。この弓矢を作っていた人たちの墓が、弓塚、矢塚といってのこっている。また、威かくのため弓の弦を鳴らしたところから、弦打(つるうち)と名づけた。本津川一 帯で激しい戦いがおこなわれた。鬼どもはついに討たれて死んでしまった。その屍を埋めたところが、鬼ヶ怩ナある。鬼がいなくなったことから、この土地を鬼無と名づけた。[上笠居村史 鬼ヶ島より]  
第10項 小田川流域・備後国の平定(孝霊70年〜孝霊72年)
明剣神社(岡山県小田郡 矢掛町下高末)
「吉備津 彦命が放った矢が、鬼ノ城の麓にある蛇高の岩に当たり、その岩が砕け散り、20km離れた 矢掛町まで飛んだ。その岩が明剣神社の磐座」
鵜江神社
「『鵜江』は、 嵐山を挟んでの戦いに敗れた温羅が、鮎となって水中に逃げた。 吉備津 彦命は鵜となって追い、鮎になった温羅を捕えたことから、付けられたとされる。」
鬼ヶ嶽温泉(岡山県小田郡美星町鳥頭1690-1)
「岡山県小田郡 矢掛町と岡山県小田郡美星町の境にあり、ここには出雲国に抜ける古代の道が通っている。温羅は鬼ケ岳に陣取り、輸送する物資を略奪していた。これを聞いた吉備津 彦命が鬼ケ岳に討伐に出向いた。傷付いた温羅は山間の「いで湯」で治療しては戦った。このいで湯が鬼ケ岳温泉」
羽無宮
「『羽無(はなし)』は、鬼ケ岳の温羅退治の際、 吉備津彦命の放った矢が、樹間を通る間に矢の羽が抜け、羽の無い矢が飛んで来た、ことから名付けられた」
矢掛町嵐山
「「 矢掛」は、 吉備津 彦命が温羅退治をする時、 嵐山を挟んで東の山に陣取り、西の山を根拠地とする温羅と合戦。この時、 吉備津 彦命の矢が嵐山の松の木に掛かったことから始まる」
御崎神社(岡山県小田郡矢掛町南山田)
「吉備津彦命が賊平定のために当地方に来られたとき、抵抗を続けた賊を平定して村人を救われたので、命を祭神としている」
青龍神社(岡山県後月郡吉井町簗瀬)
「吉備津彦命、この国を平定し給ふ時、村内小田川に簗を架し魚を獲る事を始め給ふにより簗瀬という。祭神の霊夢により鉱山相稼ぎ村民繁栄のもととなる。」
井森神社(井原市井原町1669)
「本神社は光仁天皇の宝亀元年9月(770)、吉備国を鎮められた吉備津彦命の御弟吉備武彦命を勧請し、創建された。」
岩倉山神社(岡山県井原市岩倉町)
「吉備津彦命、賊徒平定のとき、陣営であった。山容位置が吉備中山に似ているので同命を奉斎した」
岡山神社(広島県深安郡神辺町道上)
「四道将軍吉備津彦命が西道平定のために派遣されていかれる途中、備中から備後国に入られて、現在の神社の場所でお休みになられた。そして、さらに西へ向かわれた。」
吉備津神社(広島県尾道市山波町尾道造船所内)
「吉備津彦命の上陸地、命がこの地に上陸したとき、目印に杖をさしたのが芽を吹いて大樹になったのが境内のウバメカシである。また、命が船をつないだという『ともづな石』も残っている。」
この地は海抜10m以下である。吉備津彦の活躍していた時代には海の底のはず。と思ってよく調べると、この神社の地は「元の海岸の位置から270mほど移動した」という記録が見つかった。
艮神社(広島県尾道市山波町)
「吉備津彦命が休息した場所」
これらの伝承をまとめると、吉備津彦命は吉備中山から総社を経由して小田川沿いに西へ平定し、広島県の神辺、府中と平定し、福山から海路尾道まで進軍したことが伺われる。この戦いで吉備国全土が平定完了している。片山神社社記によると孝霊72年のことである。  
第11項 伯耆国及び出雲の平定
大倉山伝説(孝霊68年)
「昔、大倉山には牛鬼というとても恐ろしい鬼が住んでいた。里に下りては村人に危害を加えていた。上菅に住んでいた孝霊天皇は、早速歯黒王子を総大将として鬼退治をされることになった。まず、歯黒王子がこの山に登り総攻撃を仕掛け、孝霊天皇は麓で待機して攻撃した。牛鬼一族は歯黒王子の総攻撃にたまりかね、転げ落ちるようにして日野川に方へ逃げてきた。孝霊天皇は待ってましたとばかりに鬼たちに攻撃を始めたので、さすがの牛鬼の大将も降参した。 このときに鬼が転げ落ちた滝を獅子ヶ滝とよび、孝霊天皇は合戦のあとこの滝で身を洗い、そぐ側の滝壺で刀を洗ったと伝える。」
鬼住山伝説(孝霊68年)
「孝霊天皇が鬼住山の鬼退治をするとき、歯黒皇子、新之森王子、那沢仁奥を率いて退治した」
鬼林山伝説(孝霊72年)
「孝霊天皇は歯黒王子と共に鬼林山の鬼を退治した」
粟谷神社(孝霊73年)
「當社は出雲風土記所載の社にて孝霊天皇の皇子吉備津彦命に坐まし此神は崇神天皇の御宇六十年に東海の将軍武浮河別命と共に出雲振根懲罰の大命を奉じて出雲に降り給へりし神にして往時當地は吉備より出雲の杵築に達すべき要路なれば則ち将軍の滞陣し給へし所なり。」
歯黒王子は孝霊天皇の皇子で彦狭島命とも呼ばれている。孝霊天皇の末子といわれているが孝霊68年は現在の計算で孝霊天皇34歳のときであり、鬼を相手に連戦連勝するほどの人物にしては若すぎると思える。そのため、孝霊天皇の皇子ではなく兄の大吉備諸進命の子弟稚武彦(吉備武彦)と考えている。孝霊天皇が大倉山・鬼住山の鬼との戦いに苦戦しており、この戦いのときは、まだ吉備国が平定完了していなかったので、孝霊天皇から応援要請があったものと考える。孝霊天皇は大倉山・鬼住山の戦いに現在の計算で7年程度の期間をかけており、以前から吉備武彦に応援要請していたものと考えられるが、吉備武彦も吉備国の平定に全精力を費やしており、なかなか応援に駆けつけることができなかったものと考えられる。しかし、孝霊68年は念願であった児島の鬼退治が完了し、讃岐の百襲姫訪問も終了し一段落したときであったのであろう。
伯耆国では孝霊天皇が印賀の鬼退治に手をかけており、このときの伝承に吉備津彦は登場しないため、この間、再び吉備国に戻り残る小田川流域から備後国の平定をしていたものと考えられる。このとき、孝霊天皇は細姫を失うなど伯耆国での鬼林山の戦いに苦戦しており、すぐに伯耆国に応援に行ったのであろう。
その後、孝霊天皇との共同作戦として阿毘縁の関を打ち破り、木次周辺で出雲振根との戦いに参加したのである。 
第12項 四国の平定
吉備津彦命は、倭の大乱終了後伊予国に渡り、その後土佐国に移動したあと、再び吉備国に戻っている。  
第13項 熊曽国との戦い(開化10年=220年)
艮神社(広島県沼隈町下山南1126)
「孝霊天皇皇子吉備武彦開化10年に熊曽新羅王と戦い給う時、左の目を射る。熊曽は大隅、薩摩なり。筑紫にては別名を豊武彦命というなり」
弟稚武彦は熊曽との戦いにも参加している。かなり高齢になってからのことと思われる。 
第14項 再び吉備国へ(終焉の地・230年ごろ)
郡神社(岡山県上房郡北房町小殿)
「吉備津彦命は崇神天皇の時代に吉備国に来て各地の兇徒を平定して回り、この地に来て御殿を築いて滞在した。そして、このちで亡くなられたので、その亡骸を埋葬した御陵をこの地の人々は「御陵様」と呼んで崇敬した。」  
第四項 大乱の発生原因 
次に、この大乱に関連していると考えられるもの、または、大乱の前後で起こった変化を探ってみることにする。
神宝検校事件
日本書紀の記録「天皇が武日照命が天から持ってこられた出雲大神の神宝がみたいといったので勅使を送り、出雲振根に神宝を朝廷に差し出すようにいったが、振根が筑紫に出かけていって留守だったので、弟の飯入根が朝廷に渡してしまった。これを知った振根は飯入根を殺し、その振根は朝廷から派遣された吉備津彦に殺された。この後、出雲は出雲大神を祭るのをやめた。しばらく祭礼をおこなわなかったが、丹波の氷上の氷香戸辺という人の子が不思議な歌を歌っているのを聞いて鏡を祭らせた。」というものである。日本書紀では、この事件は第10代崇神天皇60年とされているが、吉備津彦が孝霊天皇の子なので、孝霊天皇の頃のことと考えられる。この時代は半年一年暦で干支で年を数えていたようであるから崇神天皇60年と孝霊天皇時代の年とは干支が同じである可能性が高い。孝霊天皇時代で同じ干支になる年を調べると孝霊73年(185年後半)となる。この記事は前述の島根県三刀屋町の粟谷神社の記録に対応しており、この半年間にここに書いてあるすべてのことが行われたはずもなく、最後の決戦となったのが崇神天皇60年ということであろう。これを実際は孝霊73年と推定する。それでは、朝廷が出雲の神宝に疑念を持ち始めたのはいつごろからなのであろうか。
日本書紀垂仁天皇二六年の条にも似たような記事がある。
「天皇は、たびたび使者を派遣して出雲国の神宝を調べさせたが、はっきりと申すものがいないため、物部十千根大連を派遣させて調べさせた。」
出雲の神宝は出雲一族の手によってどこかに隠されたものと考えられる。この事件も内容が似ていることから、神宝検校事件に対応しているものと考えられる。干支が同じだとしてその年を推定すると、孝霊46年(172年前半)となる。たびたび使者を派遣したのはその数年前からと考えられ、この年は孝霊天皇が山陰に派遣(孝霊45年)されて半年後である。ここで言う天皇とは孝安天皇のことと思われ、派遣された人物の一人に孝霊天皇(当時はまだ皇太子で楽楽福命)がいたのであろう。
古事記にも、倭健命が出雲建を討伐したとあるが、倭健命は人々の尊敬が厚く、この人物の行動の跡には必ずと言っていいほど神社があり具体的な行動を伝えている。しかし、出雲にこのような神社は存在しない。これは、この物語が、何か別の事件をここに移したものであることを意味している。古事記の記事は日本書紀の出雲神宝検校事件と殺害方法がよく似ていることから、この二つの事件は同じことを意味していると考えられる。古事記の方が古いのであるから、どちらも実際の事件を時代を変えて移したものと考えられる。
ここに記録されている出雲大神の神宝とはいったい何であろうか。出雲大神とはスサノオ以外に考えられない。出雲風土記の神庭郷の条に「出雲大神の神宝を積み重ねておいたところ」と記録されている。神宝は、スサノオに関係した何かと考えられる。スサノオの祭器といえば、国家統一時にシンボルとした銅剣・銅矛である。これと、神庭郷のすぐ近くの荒神谷から、358本の銅剣と、16本の銅矛と、6個の銅鐸が、出土していることとの関連が考えられる。出雲大神の神宝とは、この銅剣・銅矛ではあるまいか。  
第五項 考古学的変化 
荒神谷遺跡
青銅器出土状況
荒神谷から出土した銅剣は、中細C類型の銅剣で、山陰地方を中心として分布しているものである。山陰地方以外から出土しているものも、山陰地方への通路近くからの出土である。銅剣はスサノオが、瀬戸内沿岸地方を統一したときに、始めた祭祀の祭器である。このタイプの銅剣は弥生時代中期末頃から後期中頃にかけて山陰地方を中心として生産されたものであるが、荒神谷での出土状況が、使い古された形跡がないことと、同じ形式のものが集中していることから製作後すぐに埋納されたものと判断する。
外縁付紐式銅鐸はニギハヤヒが三輪山から出てくる太陽を崇拝するのを目的として考案したもので、近畿地方統一のシンボルである。この銅鐸は中国地方から近畿地方にかけて分布しており、山陰地方からの出土が目立つ。そして、この銅鐸は、近畿地方とほぼ同系統のものが北九州地方で生産されていたことが鋳型の出土からわかっている。一個の菱環紐式銅鐸はニギハヤヒが初期の段階でシンボルとしていた物であるが、この形式の銅鐸の出土はかなりめずらしく、さらに相当古いタイプのものである。
銅矛は、中細型が二本と、中広型が一四本である。銅矛は、スサノオが九州統一をしたときに、シンボルとして使ったものである。銅矛祭祀は、九州地方で盛んにおこなわれていて、出雲地方ではおこなわれていなかった。中広型銅矛は少しずつ形式の違うものが含まれており、一斉に製作されたものではなく、長年かけて随時作られたものをまとめて持ち込んだものと考えられる。そして、似た形式の銅矛が九州で見つかっていることから、九州から持ち込まれたもののようである。銅矛は九州式スサノオ祭祀の祭器と考える。
青銅器の持ち込み
日本書紀崇神天皇の条に「天皇は武日照命の、天から持ってこられた神宝を出雲大神の宮に治めてある。」といった記事がある。この神宝が荒神谷の青銅器ではないかと考えている。根拠は次の通りである。
1 この神宝を武日照命が持ってきたとあるが、タケヒナドリはサルタヒコと共に出雲国譲り事件の後に九州から派遣されてきている。天とは九州のことと思われる。タケヒナドリはホヒの子でムカツヒメの孫である。日向系の人物であるために、タケヒナドリの神宝を出雲大神の宮で大切に扱うとも思われず、また、青銅器と考えられるこの神宝とタケヒナドリは伝承上つながらない。神宝を持ち込んだのは、九州で青銅器生産をしていたサルタヒコではないかと考えられる。彼ならば、銅鐸と銅矛をつなぐことができる。サルタヒコはニギハヤヒにつながる血統のために日本書紀の編者によって抹殺され、一緒にやってきたタケヒナドリの名のみが残されたものと考える。ちなみに荒神谷の荒神とは「女王アマテラス」によるとサルタヒコのことである。
2 この記事が書かれているのは、崇神天皇の所であるが、日本書紀のこの頃の記事には孝霊天皇の頃の記事が混じっている。吉備津彦が登場していることから、この記事は孝霊天皇の頃の記事と考えられる。
3 銅矛と銅鐸とが同じ所から出土しており、これは他に例のない特殊なものである。銅剣と銅矛そして、銅剣と銅鐸の共伴例は存在するが、銅矛と銅鐸の共伴例はない。荒神谷でのみ、同じ所から出土しているということは、共通の何かが荒神谷のみにあるということを意味している。銅鐸は、近畿地方を中心とする領域で生産され、銅矛は北九州地方で生産されているため、二種の青銅器に接点はないのである。ところが、銅鐸と銅矛を同じ場所で生産していたと考えられるのは、福岡県の春日市一帯でサルタヒコの本拠地の近くである。
4 中広銅矛が九州のものであり、九州から同じ形式の外縁付紐式銅鐸の鋳型が出土しており、中広銅矛は中期末から後期初頭にかけてのもので、外縁付紐式銅鐸は後期初頭あたりのものである。中細銅矛と菱環紐式銅鐸はそれより少し前のものである。銅鐸と銅矛はほぼ同じ時代のものである。
5 荒神谷遺跡が孝霊天皇の頃のものだとすると、新しい時代の広型銅矛や突線紐式銅鐸が見られないのが謎となっているが、銅矛と銅鐸がサルタヒコによって持ち込まれたものと考えれば説明できる。
6 銅矛は長年にわたって製作していたものをまとめて持ってきているために、持ってきた人物は、九州に長期間住んでいたものでなければ難しい。出雲勢力が北九州に注文して製作させたのなら、形式がそろうはずである。
7 銅矛は九州から持ち込まれたもので、銅鐸は近畿地方から持ち込まれたものであると考えられているが、この両者が同じ埋納抗から見つかっているということは、共通の何かがあるということで、サルタヒコがニギハヤヒからサンプルとして渡された銅鐸を出雲へ持ち込んだと考えれば、つじつまがあう。
サルタヒコが北九州地方を統治していた頃、大和国王になったニギハヤヒが、畿内で銅鐸を生産することに限界が生じ、サルタヒコに、菱環紐式銅鐸と外縁紐式銅鐸をサンプルとして渡し、同じものを生産してくれるように頼んだ。サルタヒコは、頼まれたとおり銅鐸を生産してニギハヤヒの一族に渡していたが、国譲り事件の後サルタヒコが出雲に移ることになり、ニギハヤヒから受け取った銅鐸と自ら製作した青銅器を出雲に持ち込んだものと考える。このように考えると、出土している銅鐸と銅矛に関する特徴が説明できる。
また、加茂岩倉遺跡で銅鐸39個が見つかっているが、これらの銅鐸は外縁付紐式銅鐸と偏平紐式銅鐸であり、偏平紐式が含まれている事と兄弟銅鐸が別のところで見つかっているものが多い事からして、2世紀頃(倭の大乱の直前)、緊急にかき集めたもののようである。そして、突線紐式がない事から倭の大乱の直後、状況が変わって埋納したものと考えられる。
銅戈について
サルタヒコが九州時代に青銅器を生産していたと思われる福岡県那賀川町から春日市にかけて、多量の銅矛と共に銅戈も出土している。銅戈も生産していたと思われるが、荒神谷の青銅器の中に銅戈は含まれていない。銅戈はニギハヤヒの祭器であると思われるので、その子であるサルタヒコが出雲に持ってこないと言うことは考えにくい。事実、出雲大社から中細型の銅戈が見つかっており、この形式の銅戈は周辺からでていないことから、この銅戈はサルタヒコが持ち込んだ銅戈の一つと考えられる。
それではなぜ、銅戈が荒神谷からでてこなかったのだろうか。これを振根の留守中に朝廷の役人が出雲を訪れ、祭器を没収しようとしたとき、その弟の飯入根がその祭器を渡してしまったと日本書紀に書かれているが、この祭器が銅戈ではなかったのか。
なぜ飯入根は銅戈のみを渡してしまったのであろうか。まず、銅矛はスサノオの祭器であるから、出雲でスサノオ関係のものを渡すことはできなかったのと、銅鐸は、サルタヒコがニギハヤヒから直接手渡された貴重なものであることからこれも渡すことができなかった。これに対して銅戈は、スサノオの祭器ではないことと、同じニギハヤヒの祭器である銅鐸があることから、銅戈を渡したものと考える。
埋納目的
荒神谷での青銅器の埋納は、他の場所とは違い、
1 丁寧に並べてある。
2 銅剣上に黒褐色の有機質土が0.5mmの厚さでほぼ一様に存在していたことから、布のような物で覆われていたらしい。
3 ピットがあることから何か覆屋のような物があったようである。
など再利用を考えて隠匿したものと考えるのが良さそうである。
埋納時期
次に、荒神谷遺跡に埋納された時期についてであるが、埋められていた祭器の最も新しい形式の中広型銅矛が、後期初頭から中葉のものと考えられ、また、埋納土の上にあった焼土の熱ルミネッセンス年代が250±80とされているためにこれが下限となる。祭器に、事態が急変したために埋められた様子が見られるため、倭の大乱の頃と推定する。
埋納場所
出雲風土記の神庭郷の由来に次のような記事がある。
「古老の伝えでは、天下造らしし大神が神宝を積んでおかれたところ。」
天下造らしし大神とはスサノオのことと考えられるが、スサノオは出雲に青銅器を多量に持ち込んだ形跡がないので、この大神とはサルタヒコのことと考えられる。サルタヒコが神宝を積み重ねておいたところという意味ではあるまいか。積み重ねるということは数多くあるということであり、そのすぐ近くに荒神谷遺跡がある。この神宝が荒神谷遺跡の青銅器ではあるまいか。
なぜ、神庭郷に神宝を積み重ねておいたのであろうか。
神宝はサルタヒコがタケヒナドリと共に、九州から持ってきたものと推定しているので、そのころの出雲の中心地はオオクニヌシの政庁のあった斐伊川沿いである。そして、この付近には飯石神社があり、タケヒナドリとコトシロヌシが住んでいたという伝承が伝えられている。日向勢力の侵攻によって出雲国を受け継いだコトシロヌシは、父であるオオクニヌシの旧跡に近いこのあたりに一時住んでいたようである。コトシロヌシから出雲の実権を受け継ぐことになったサルタヒコは、コトシロヌシとタケヒナドリと共に九州からこの地を訪れた。そのときに持ってきた神宝を近くの神庭郷に積み重ねて置いたものと考える。  
孝元天皇
「上代日本正史」によると、孝霊天皇の跡は別系統の孝元天皇である。通常、別系統の天皇が即位するのは、大きなクーデターが起こって、争いが発生するはずであるが、孝霊天皇派の大きな反対運動が起こった気配がないことを、「上代日本正史」著者の原田氏が不思議がっておられる。孝元天皇の出自については裏付けが取れないのでなんとも言えないが、孝元天皇が別系統であることが事実であるとすれば倭の大乱が原因であることは間違いないであろう。
孝霊天皇の正式な後継者は、吉備津彦が兄の子であるとすれば、孝霊天皇の皇子は孝元天皇と彦狭島命の二人となる。末子相続のこの当時、彦狭島命が正式の後継者であると考えられるが、なぜ、この彦狭島命が第8代天皇にならなかったのだろうか。母が違うということも考えられる。彦狭島命は伊予国を治めるようになっているのである。
大和では倭迹迹日百襲姫が大物主神の妻(卑弥呼)の地位につき、卑弥呼が実質的孝霊天皇の後継者であると判断される。次の孝元天皇、開化天皇は形だけの天皇と考えられる。古事記や日本書紀を見ても孝昭天皇、孝安天皇の子は少なく、他に後継者がいなかった可能性がある。まして第2代から第4代までの天皇は早世と思われるため、子は他にいなかったと思われ、このような場合、神武天皇の血統で最も孝霊天皇に近い存在は、日子八井耳命の子孫ということになる。「上代日本正史」にあるような皇位継承は当時の様子からして不自然ではないのである。 
方形周溝墓
中国地方の方形周溝墓が、この大乱の後あたりから見られるようになる。方形周溝墓が入っているところは、畿内勢力に支配されているということである。北九州地方と四国地方は後期中葉に方形周溝墓が出現する。このことは、これらの地方が大和朝廷の支配下に入ったことを意味している。しかし、この後期中葉の時点で、中国地方と南九州地方には方形周溝墓が現れない。大和朝廷が成立しても、出雲はスサノオの聖地ということで、出雲の自治にまかされていたのであろう。大乱の後、中国地方全体が畿内勢力に直接支配されるようになったと考える。方形周溝墓はニギハヤヒ祭祀者の墓であり、スサノオ祭祀の中心地である出雲が、易々とニギハヤヒ祭祀を受け入れるはずがない。倭の大乱によって、出雲が朝廷の支配を受け入れるようになったと考えられる。
青銅器祭祀の消滅
大乱の後あたりから、山陰地方と瀬戸内海沿岸地方の青銅器祭祀が姿を消している。青銅器祭祀は、三世紀後半頃、全国から姿を消すのであるが、大乱があったと推定されているこの地方からは、一世紀も早く姿を消している。それと入れ替わるように、前方後方形の黒宮大塚や、前方後円形の宮山遺跡、矢藤治山墳丘墓、双方中円形の楯築遺跡など古墳とも弥生墳丘墓とも区別のつかない、明らかに古墳時代につながる新しい祭祀が始まっている。これも大乱の影響ではあるまいか。
高地性集落
瀬戸内海沿岸地方は二世紀頃の高地性集落が多く、併せて、小型の鉄鏃の出土が多い。他の地域の鉄鏃の増加はそれほど多くないのに中国地方は後期中葉から後葉にかけて多く出土している。多くは高地性集落からの出土である。まさに、この地域が臨戦態勢にあったと想像される。
卑弥呼の共立
魏志倭人伝によると、倭の大乱は卑弥呼を共立して収まっている。共立ということは双方の意志が働いているということで、どちらかが勝利を収めたというよりも、戦いに疲れはてて講和条約を結んだといった感じである。
北九州の大乱の痕跡
北九州地方に大乱の戦火はなかったと考えられるが、この時期に鉄製武器や銅鏃の増加が見られる。北九州地方はスサノオ祭祀の強い地域であるから、倭の大乱に無関心なはずはなく、出雲側について後方支援を行ったものと見られる。しかし、北九州の中心域に方形周溝墓が見られるように、大和朝廷の役人がいて、目を光らせていたために表立った動きはなかったものと考えられる。
北九州中心域の畿内系土器
北九州中心域は、後期中葉以降、近畿地方を中心とする外来系土器が流入するようになり、後葉になるとその出土比率は五割を超える。特に、海岸部の遺跡や内陸部の祭祀系遺跡からは、畿内系土器が恒常的且つ多量に出土する。祭祀系遺跡から出土するのは畿内の祭祀系土器である。また、畿内系土器がよく出土する領域からは、後漢鏡片や鉄器がよく出土するが、在地系土器の出土する領域からは出土しない。
博多湾岸地域は外国交易上の重要ポイントであるが、この地域の海岸部から畿内系土器が多量出土していること、祭祀が畿内系の祭祀であるということ、畿内系土器に出土する領域に鏡や鉄器の出土が多いことは、この地域の政治上の実権を畿内系の人々に握られていたと考えるしかない。中期末以降、この地方は瀬戸内勢力や南九州勢力に支配されていたと推定しているが、後期中葉からは畿内系勢力に支配されたことになる。
後期中葉は畿内系土器は出土するがそれほど集中するといったものではなかった。後葉になると極度に畿内系土器が集中するといった傾向が見られる。大和朝廷は、倭の大乱を契機として北九州地方の統治を大幅に強化したものと考えられる。
出雲系土器の分布
この大乱の直後から、出雲系土器が全国分布するようになる。出雲系土器は、これ以前は、それほど広い範囲に分布しているわけではないが、弥生終末期から古墳時代初頭にかけて、この時期のみ全国分布するようになっている。大和朝廷が支配している時代に出雲系土器が全国に分布するとはどういうことであろうか。出雲から地方へ多くの人々が出て行ったことを意味しているが、何を目的として行ったのであろうか。出雲が勝手に全国に人々を派遣するということは朝廷が存在する以上不可能であろう。やはり、大乱の結果朝廷が認めたものではないだろうか。
三種の神器
古代の鉄剣・鏡・勾玉の関係についてまとめてみると、
1 鉄剣は方墳から勾玉とともに出土することが多い。
2 天の岩戸神話のところで製作されたのは、鏡と勾玉である。
3 8世紀になって、朝廷で神賀詞が行われたときに、出雲国造は勾玉を献上する習わしがあった。
4 朝廷で三種の神器を榊にかけて祭礼を行うときは、一番上が剣で、2番目が鏡で、一番下が勾玉である。
5 草薙の剣は、スサノオが日向女王ムカツヒメに献上したものである。
6 大和の天照鏡作坐神社(祭神火明命)の伝承によると、この神社の地で八咫の鏡を作ったとあり、しかも大物主の神(火明命)が祭神で、内区だけの三角縁神獣鏡が神宝として保存されている。このことから八咫の鏡は三角縁神獣鏡と考えられる。
7 勾玉の生産地は出雲地方である。
8 三種の神器は、どうも後の時代になってから制定されたもののようである。それ以前は、スサノオの持っていた十種の神宝が皇位継承の品だったらしい。
9 鉄剣と鏡は古墳から相当数出土している。このことは、この品が権力の証であったことを示している。
10 八咫の鏡は伊勢神宮に、草薙の剣は熱田神宮に御神体として祭られているが、勾玉は宮中にある。
11 墳墓から鏡・鉄剣・勾玉のセットが出土するようになるのは、弥生時代の終末にわずかに事例が見られるが、ほとんどは古墳時代に入ってからである。全国でほぼ一様に出土するようになる。弥生時代の中期から後期初頭にかけて、王墓から鏡と鉄剣のセットは出土することが多いが勾玉を同時副葬していない。
12 2世紀末あたりより、吉備で特殊器台が発達し、大和や出雲にも出回るようになる。この特殊器台には共通の透かしとして三角と巴が入っている。
これらのことから、この剣・鏡・勾玉の意味を考えることにする。
剣について...初期大和朝廷で最も重要視されていたのは、草薙の剣ではなくて、スサノオがヤマタノオロチを斬ったとされている布都御魂剣である。この剣は、ニギハヤヒが大和の統一に出発するときにスサノオから渡され、三輪山に埋められていたが、明治九年に発掘され、現在は石上神宮にあるといわれている。朝廷の祭礼でも最も上に祭られているので、三種類のうちで最上位に位置するものと考えられる。草薙の剣にしても布都御魂剣にしても、スサノオが絡んでいるので、鉄剣は神祖スサノオを意味していると想像する。
鏡について...鏡は平面ではなく凸面鏡として作られていて、人の顔を映すには不向きである。太陽の光を反射することから太陽を意味すると考えられる。また、朝廷が最も大切に扱っていた三角縁神獣鏡は、縁が三角であると同時に、多くの鋸歯紋が入れられていることから、大物主の神(ニギハヤヒ)を表していると考えられる。
勾玉について...いろいろの場面での出土状況や、祭礼での扱われ方、そして、安置されている場所からして、剣と鏡が主で、勾玉は従であるように考えられる。方墳が剣と勾玉、朝廷が鏡と勾玉であることからして、勾玉は剣(出雲・スサノオ)と鏡(大和・ニギハヤヒ)を結びつけるものではなかろうか。日本書紀ではスサノオが出雲に島流しにされた後、出雲の玉造で勾玉を造り天照大神に献上している。これが三種の神器の一つの八坂瓊の勾玉である。おそらくスサノオが九州でムカツヒメと結婚したときにその証として渡したものであろう。
また、特殊器台に三角と巴の透かしが入っているが、三角はニギハヤヒのシンボルで大和を意識するものである。巴は勾玉と共通するものがあり、出雲を意識し、スサノオのシンボルと考えられる。倭の大乱というスサノオ対ニギハヤヒの神の代理戦争に懲りた当時の人々は、神の争いは二度としないという意味で、勾玉を重要視したのではないだろうか。スサノオを祭っている出雲が剣を祭るとき勾玉を併せて祭れば、「ニギハヤヒ(大和)に敵対しているのではない。」という意味になり、朝廷で鏡と勾玉を祭れば「出雲の神を忘れたわけではない。」という意味になる。これによって互いの信頼関係を保ち、平和を維持しようというものではなかろうか。8世紀になって、朝廷に対して出雲の国造が神賀詞をしているが、これは、出雲が朝廷に忠誠を尽くすというのと同時に、出雲の神から朝廷に対する言葉でもある。この時、出雲の国造は、朝廷に勾玉を献上している。勾玉はスサノオの御魂であり、出雲と朝廷を結びつける役割をしている証である。
勾玉は、最初、牙に穴をあけて使ったのが始まりで、守り神の意味があった。また、勾玉は、数多くを紐に通してまとめるため、大和朝廷が地方国家をまとめているのと繋がったのではなかろうか。スサノオの発案により、日本列島の小国家が連合するようになったために、日本国の守護神として、また、統合の象徴としてのスサノオの御魂の意味につながったのではないだろうか。
鏡の分布
漢鏡や国産鏡の分布地図が変わる。鋳造時期別に調べた鏡の分布は、この大乱以前は九州地方から50%程の出土があったが、この乱の後あたりから、九州からの出土は20%程になり、この比率は、そのまま、古墳時代の三角縁神獣鏡や国産鏡の比率に繋がる。大和朝廷は中央集権を強化したようである。
後期中葉までは墳墓への副葬品がほとんどなかったが、大乱後と推定される後期後葉は急激に墳墓の副葬品が増大してきている。各地方に権力者が生まれ、ピラミッド構造をした階級が生まれたと解釈される。  
ここまでをまとめてみると、大乱後に吉備国を中心とした新しい祭祀形態の誕生、この領域での青銅祭祀の終焉、朝廷による神宝の検校などを考えると、この戦争は出雲での青銅器を使った祭祀が原因で大和朝廷と出雲との乱が発生したと考えられる。各種遺物の分布が近畿中心に一変することから、大和朝廷は大乱の結果中央集権を強化したと見ることができる。また大乱後出雲系土器が全国分布するようになっていること、倭人伝にいう卑弥呼の共立などから、大乱の結果朝廷が一方的に勝利を収めたのではなく、双方が条件を出し合って和解したといったことが考えられる。  
第六項 大乱前夜の国内の状況 
朝廷の勢力範囲
大乱が起こる直前の日本列島はどのような状況にあったのだろうか。大和朝廷が成立して80年ほど経過している。大和朝廷は、地方に技術者を派遣し技術を伝えると同時に地方から技術を教えてくれたお礼にということで貢物をもらっていた。朝廷はその貢物で経営されていたと推定している。この当時は、瀬戸内沿岸地方と山陰地方はスサノオの聖地ということで出雲の自治圏にあり、また、日向地方も日向族の聖地ということで自治に任されていた。その他熊本県地方は熊襲が支配しており、大和朝廷に服していなかった。朝廷の直接の支配領域は上記領域以外で、東北南部の福島県あたりまでである。それぞれの領域について考察してみよう。
朝廷の直接統治領域は方形周溝墓をもつ河内一族が支配しており、ニギハヤヒ系の祭祀を行っていた。寒冷期になって、作物が取れにくくなっても祭祀を強化することにより、何とか平静を保っていた。しかし、朝廷の支配領域である北九州地方と南四国地方はスサノオ系の銅矛祭祀が継続して行われていた。朝廷としては方形周溝墓で代表されるニギハヤヒ系祭祀を徹底したかったのである。しかし、旧西倭国の人々にはなかなか受け入れられず伊都国周辺でしか行うことができない有様であった。朝廷は旧西倭国地域のスサノオ信仰の強さにはほとほと手を焼いていた。この頃生活が苦しくなったせいもあり旧西倭国地域のスサノオ祭祀はますます激しくなる一方であった。朝廷は、旧西倭国地域が東倭の出雲自治政府とつながり、独立運動が起こることを最も恐れていたのである。
日向自治区は南のほうでもあり寒冷期の影響はあまり受けていないようである。ヒコホホデミの継承者がうまくまとめて平穏な状況にあった。  
東倭の状況
問題なのは東倭に所属する瀬戸内海沿岸地方と山陰地方である。この領域は出雲の自治にまかされており、朝廷は技術者を派遣している程度で、祭祀形態にはほとんどかかわっていなかった。寒冷期になり、人心が落ち着かなくなったとき、出雲は祭礼強化でそれを乗り切ろうと考えたと思われる。神の力が強かったこの時代は祭礼強化することは人心の安定につながったのである。しかも出雲の国は神祖と呼ばれているスサノオの聖地である。その祭礼を強化することは人心の安定に絶大な効果があったのである。しかし、祭祀形態が他の地域と違うために、祭礼強化を大和朝廷から止められたと思われ、人心が荒廃し、あちこちで反乱が起こったと想像する。
この頃の反乱とはどのような形態で起こるのであろうか。出雲中心域はホヒ一族が強烈に支配しているため、その組織力で、大和朝廷への反逆が考えられる。出雲が立ち上がればスサノオ信仰の強い旧倭国に所属していた地域の豪族は一斉に立ち上がることが予想された。出雲は実際にその力を持っていたのである。朝廷はそれを最も恐れていた。出雲は旧西倭が旧日本国と大合併をするとき、当時のサルタヒコや、コトシロヌシの働きにより、大和朝廷の支配下に下らず、自治を認めさせた。その政治形態は、出雲国譲りにて倭国が東倭と西倭に分裂したとき、日向国のムカツヒメ・タカミムスビによって考えられたものであり、スサノオ祭祀者出雲振根がスサノオの代弁者(言代主)の言葉を人々に伝えスサノオ祭祀を執り行い、第15代出雲国王トオツヤマサキタラシは、それを元に政治を行うというものである。
四隅突出型墳丘墓の分布より推定すると、この頃の出雲の中心域は、東側から安来市の飯梨川河口付近と、松江市南部の大庭町付近と、出雲市の斐伊川河口付近の3箇所がその拠点であったと思われる。飯梨川、意宇川、斐伊川といずれも河口付近で海退期にあたるこの頃、農地開発をしていたのではあるまいか。
飯梨川河口付近には安来市に能義神社がある。ここは晩年のホヒの住んでいたところで、ここに東倭の安来支庁があったものと考えられる。この頃は海岸付近と考えられ、東部の伯耆国や因幡国・北陸地方あるいは日野川をさかのぼって吉備国などとの交流の玄関口だったのではあるまいか。
松江市南部は宗教上の中心地(聖地)と考えられ、その本拠はスサノオの霊廟の熊野山であるが、これを崇拝するためにこのあたりに人々が多かったのではあるまいか。八雲村大石の旧能利刀神社の地で言代主がスサノオの言葉を聞き、出雲振根その言葉を元に松江市の神魂神社の地でスサノオ祭祀を行い、第11代出雲国王のタヒリキシマルミが神庭を拠点として政治をしていたと考えられる。出雲国王は国引き神話に伝えられるように出雲各地の国土開発に従事していたと思われる。この頃は意宇川や斐伊川流域の海水が引いていく時期でその後の肥沃な土壌を利用した農地開発が行われていたのではあるまいか。
斐伊川河口付近は事実上の中心地と考えられ、実際の出雲政府が存在したところで九州方面との交流の玄関口をかねていたのであろう。その中心地は神原の地であろう。この近くは出雲の神宝が積み重ねて会ったと伝えられ、その祭祀者である出雲振根の指導の元、新しい祭祀の研究が行われていたのであろう。
それ以外の地域は中心となって支配する組織もなくそれぞれのムラが朝廷の技術指導の下緩やかに結合していたと思われる。
この時期、鏡などの宝器は共同体の持ち物になっていて墓も副葬品がほとんどない状態であり、そういった地方支配者がいたとは思えない。通常反乱が起こると、その地方の有力者を襲いその支配権を強奪するというものであるが、その対象となる支配者はいなかったのである。この場合、あるムラあるいは集団が生活の苦しさに負けて、周辺のムラから食料などを強奪するということが考えられる。そのような集団は一度そのようなことに手を染めてしまえば、次々とそれを繰り返すことになる。この地方に存在するさまざまな鬼伝承は、その地方の人々を苦しめているというもので、まさにこれらの略奪集団と重なる。これらの人々を鬼として言い伝えたものではないかと思う。
地方に支配者がいれば、それを取り締まるわけであるが、 この地域にはいなかったため、それを取り締まる組織は存在しない。 治安維持をするとすれば、出雲国王タヒリキシマルミであろう。しかし、彼は言代主の言葉なくして動くことができなかった。その言葉を伝える出雲振根はこの当時朝廷とスサノオ祭祀の強化について交渉中であり、また、祭礼強化の方針で鬼対策に臨み、武力による治安維持はしなかった。そのため、出雲中心域以外の瀬戸内海沿岸地方及び山陰地方で略奪集団(鬼)が出没するようになったと推定される。 山賊だけではなく海岸沿いに高地性集落が多いことから、桃太郎の鬼ヶ島の鬼退治のように、この鬼たちはどこかの島を根城とした海賊のようなものも含まれるであろう。後の瀬戸内水軍はその子孫かもしれない。 朝廷としても略奪集団をそのまま放置していたのでは朝廷から人心が離れ国内騒乱の基となりうるので、この地域を朝廷直轄地にしようと思ったのではないか。出雲振根も承諾するはずもなく出雲と大和の全面戦争になったと思われる。このときの孝霊天皇一族の地方平定は、 このような略奪集団の鎮圧も兼ねたものであったのではないだろうか。伝承となって伝えられている鬼の中にはこのような略奪集団もいたであろうし、出雲に協力して朝廷軍を攻撃した集団もいたであろう。 
第七項 大乱の概要  
以上のことを基にして、大乱の概要を考えてみることにする。次に挙げるのは各地の伝承を都合が良いようにつないだものである。  
気候の寒冷化
二世紀前半までは、気候が穏やかであったために、作物もよくとれ、人心も安定し、朝廷の基礎固めが整いつつあった。ところが、大和朝廷が成立して80年ほどたった頃(2世紀後半)、気候が寒冷化し、作物がとれなくなり、人々の生活が苦しくなってきた。一部の人々が暴徒化し、食糧などの略奪をするようになった。人々はその集団を「鬼」と呼んだ。鬼は山岳地域や島に住み、集団となって周辺のムラを襲った。人々は高地性集落を作り自衛手段を講じた。しかし鬼も次第に活発に活動するようになり、人々はますます苦しめられるようになって来た。  
スサノオ祭祀の強化
出雲地方でも、その影響を受け、人心が落ちつかなくなった。このころ、出雲では最も重要な地位であるスサノオ祭祀者になるための相続争いが長く続いていた。穂日の子孫の出雲振根は、スサノオ祭祀を強化することにより、人心の安定化を図ろうとし、人々の支持を受け第10代スサノオ祭祀者となった。その本拠地は神原の地である。出雲国は、スサノオの聖地であり、サルタヒコが九州から持ってきた銅鐸と銅矛があるのを利用して、スサノオが出雲国王になってから倭国を作り上げ、大和朝廷が誕生するまでを、後の神楽のような形で表現する祭祀を計画した。中国地方で盛んな祭礼の祭器である中細銅剣を多数作り、周辺から多量の銅鐸をかき集め、この祭礼を大々的に始めようとした。神原の地に祭礼で使う予定の神宝を集めておいた。160年ごろと思われる。 
出雲と大和の交渉
ところが、出雲に来ていた朝廷の技術者が、この出雲の動きを朝廷に報告したのである。内容が朝廷を見下すものである上に、出雲はスサノオの聖地であるために、スサノオによって統一された旧倭国地域が、出雲を盟主としてまとまり、朝廷に対して反逆することが考えられるのである。
特に九州系のスサノオ祭器を使うということは九州地方の豪族とのつながりが深くなり、朝廷の祭祀が九州方面でできなくなる。さらには九州が出雲について日本国から独立する可能性が考えられた。九州系のスサノオ祭器を使うのは極めてまずいと思った第6代孝安天皇は、出雲が九州系のスサノオ祭祀を強化するのに、深い危惧を持った。そして、なんとしても、この祭礼をやめさせようと、勅使を派遣し祭器を没収しようとした。
勅使を迎えた出雲は、その時、祭主の振根が祭祀の打ち合わせに筑紫へ赴いて留守であった。
勅使は祭器を没収するといってもスサノオの神が絡んでいるために出雲が素直に随うとは思えないので、「天皇が祭器を見たいと言っているから見せるように」と言うことにした。
弟の飯入根に
「孝安帝が祭器を見たいというので見せるように」と言った。
飯入根は「ただ今、振根は留守にしているので、またにしてください。」
すると勅使は「孝安帝はその祭器をすぐに見たいといっておられる。すぐに見せるように」
飯入根には朝廷が祭器を没収に来たということは分かっていた。しかし、彼は朝廷と揉め事を起こすのは東倭の将来のために良くないと考えて、祭器の一部(銅戈)を渡してしまった。筑紫から戻ってきた振根は「なぜ渡したんだ。朝廷が祭器を没収する意図を持っていることに気づかなかったのか。」と怒った。弟は何かにつけ朝廷に対して好意的であった。振根は「弟を生かしておいたのでは東倭の将来のためにはならない。」と思い、飯入根の殺害を計画した。振根は飯入根を神原郷の近くの赤川で遊泳に誘い、その隙を突いて殺害した。飯入根は近くのすくも塚に葬られた。振根は朝廷が没収したい本当の祭器は銅矛であることを知っていた。振根はこの時期頻発していた鬼の出没に対してあくまで祭礼強化で望もうとし、スサノオの武力なしでの国家統一事業に習い鬼の平定に武力を使おうとはしなかった。そのためには祭器を没収されるわけには行かないのである。朝廷が再び残りの祭器の没収に来ることが予想されるため、出雲の神原郷に積み重ねておいた祭器を、一時、見つからないところ(荒神谷遺跡)へ保管した。
孝安天皇は何回か勅使を派遣し神宝を没収しようとしたが振根にいつものらりくらりとかわされていた。朝廷が最も没収したかったのは九州系の銅矛であった。今まで出雲と朝廷の仲立ちをしていた飯入根が振根に殺害されたこともあり、出雲をこのままにしては置けなかった。天皇は出雲にいつまでも自治を認めさせておいたのでは、そのうち九州の豪族と一体になり日本国からの独立運動が高まると考えた。鬼退治も重要な用件であるがそれ以上に独立運動は最悪であった。これを解決するには東倭を朝廷の直轄地にするしかないと判断し、出雲に対してそれを認めるよう要求することにした。
ついには皇太子楽楽福命に対し「出雲国に行き出雲の神宝を没収し、朝廷の支配下に下り、速やかに地方の鬼退治をするよう交渉せよ。そして、その途中で鬼が出没するところがあればそこにとどまって退治するように」と命じた。楽楽福命は早速大和を旅立った。北へ向かい近江国を経て若狭湾に出た。そこから海岸沿いを西に進み因幡国(鳥取県)の霊石山についた。このあたりも鬼の出没が激しく、人々は困っていた。命はここを拠点として周辺の鬼退治をすることになった。しばらく滞在した後、今度は隠岐島に黄魃鬼が出没していると聞き、これを退治した。そしてついに伯耆国の日吉津に上陸した。孝霊45年(171年)のことである。すぐそばの巨大集落の妻木(妻木晩田遺跡)を訪問したとき、命はその村の朝妻姫を大変気に入った。出雲との交渉には良い位置だということで天皇は大山町宮内(孝霊山の麓)の高杉神社の地に居を構え朝妻姫と生活を共にした。
命はここを拠点として早速振根との交渉に入った。振根が朝廷の支配下に入ることを簡単に承諾するとはとても思えず、まず鬼退治から要求することにした。
「速やかに東倭全体の鬼退治をせよ。」と言うと、振根は
「スサノオは武力なしで国を統一した。我々も武力には頼らない。スサノオの神の力で必ず鬼はいなくなる。」
命は、
「いつまでたっても鬼が出没するではないか。」
「スサノオ祭祀を強化すれば鬼の出没は減るからスサノオ祭祀を強化させてくれ。」と要求した。
命は、
「祭礼をするなら今までの祭礼でよいではないか。九州系のスサノオ祭祀をする必要はない。」
「今までの祭祀では鬼が減らないから九州系の祭祀をおこなうのだ。」
「九州系のスサノオ祭祀は禁止し、祭器は没収する。鬼の出没が止められないなら、出雲は自治をやめ朝廷の支配下に下るように」、
振根は「朝廷の支配下に入るのはスサノオの神に対して不遜である。このことは、旧日本国と西倭の大合併の時の協議で出雲には自治を認めると決まったではないか。絶対に容認できない。」というような交渉が続いた。
命はこの間にも出雲を監視し、祭器のありかを探ったがその所在は不明であった。このようなときに朝妻姫が鶯王を生んだ。命は大和と連絡を取りながらたびたび交渉をしたが、毎回物別れにおわった。人々の生活はますます苦しくなり、鬼の出没は激しくなる一方であった。
このような状態で6年が経過した。孝霊52年(175年)、大和から訃報が入った。第6代孝安天皇が大和で崩御したのである。楽楽福命は皇太子であるのですぐに大和に帰らなければならなかった。出雲との交渉は一時中断とした。朝妻姫を大和へつれて帰ろうとしたが、彼女は年老いた母が気になるので妻木に残ると言った。命は鶯王をつれ大和に帰還し、翌孝霊53年大和で第7代孝霊天皇として即位した。  
倭の大乱勃発
出雲を朝廷直轄地にするなどということはスサノオに対して不遜であるので、出雲としては絶対に容認できなかった。出雲振根は大和に対して反乱を計画した。祭祀で鬼の出没が減らせると考えていた振根は「孝霊天皇が大和に帰還した今、騒乱状態になり祭祀でそれを収拾すれば、朝廷もスサノオの神を認めるであろう。」と考えた。孝霊53年(175年)、振根は出雲の使者を各地に派遣し、鬼どもをけしかけた。その結果、東倭(吉備、讃岐)が騒乱状態になった。振根はこの状態で祭礼強化をしようと考えていた。ところが、祭礼強化をする前に孝霊天皇が鬼の平定のために動いたのであった。振根としては当てが外れたのである。
吉備国平定
二度目の長期遠征
吉備国へ
孝霊53年(175年後半)、天皇に即位した直後の孝霊天皇は、騒乱状態にある東倭が気になった。いつまでも騒乱状態を放置できず、東倭に所属する小国を朝廷側に取り込むよう説得することにした。さっそく、東倭に所属する小国家に、出雲支配からはなれて、朝廷に服属するように伝えた。石見国・伊予国・讃岐国地域はその呼びかけに応じて朝廷に服属を申し出た。しかし、吉備国・伯耆国・因幡国地域はあくまでも出雲の統治を受けると返答した。朝廷に服属を申し出た地域には早速鬼どもの平定のために、孝霊天皇の兄の大吉備諸進命の二人の子である稚武彦(吉備津彦)及び弟稚武彦(吉備武彦)兄弟を派遣することにした。主に兄が祭祀をつかさどり、弟が戦闘を担当した。弟のほうは大変戦いに強かった。
稚武彦兄弟は播磨の道口で祭祀を行いこの戦いの無事終了を祈願した。祈願終了とともに、播磨国周辺の鬼退治をし、弟稚武彦は海路を通って吉備国に入った。現在の岡山市明神崎に上陸した。そこから、再び海路を進み吉備中山の南端花尻に上陸し、吉備中山を拠点として吉備国平定をすることにした。
この頃、孝霊天皇は讃岐国に派遣していた百襲姫が気になり、淡路島を経由して讃岐国水主神社の地に百襲姫を尋ねた。そして、海路吉備中山に到着した。孝霊54年(176年前半)のことである。 
石蟹魁師荒仁との戦い
稚武彦兄弟が吉備国周辺の鬼退治をしている頃、対出雲戦に備え軍備を整えた。妻の細姫は孝霊天皇が気になり、大和を出て中山にやってきた。以後孝霊天皇と行動を共にした。孝霊55年、軍備が整ったので、孝霊天皇は高梁川を遡っていった。このことを知った新見市に拠点を置く石蟹魁師荒仁は石蟹(新見市石蟹)で孝霊天皇軍を迎え撃った。荒仁は大変強く孝霊天皇軍はこれを破ることができなかった。やむなく弟稚武彦を呼び寄せ連合してこれを打ち破った。荒仁は新見へ逃げたが、孝霊天皇・稚武彦の追撃をかわせず、大倉山の麓で降参した。  
鬼住山・大倉山の戦い
稚武彦は再び吉備国へ戻ったが、孝霊天皇軍はそのまま伯耆国に入った。日野川に沿って下っていくと鬼住山で出雲軍と衝突した。出雲振根は孝霊天皇が日野川を下ってくることを予想して、ここに出雲軍の精鋭を配置していたのである。この出雲軍は大変強く、孝霊天皇軍はたちまち敗走した。
孝霊天皇は菅福(日南町上菅)まで退却したとき、細姫が産気づいた。大慌てで、菅で産屋を造った。福姫が生まれた。孝霊天皇は鬼住山の出雲軍の追撃をここで断ち切ることに成功した。天皇はこの地が気に入り、仮宮を建て、ここを出雲攻略の拠点とした。
孝霊57年になり、鬼住山の出雲軍は背後から天皇軍を襲おうとして大倉山に拠点を置く豪族牛鬼に協力を依頼した。大倉山の牛鬼、鬼住山の出雲軍、共に菅福の天皇軍を攻めようとしたが、菅福の地が要害に囲まれているのに加え、地元の人々が朝廷に味方していたので、なかなか攻め落とせなかった。このこう着状態がしばらく続いた。
妻木で誕生した鶯王が勇敢に成長した。その武勇を見て、孝霊65年(181年後半)、孝霊天皇は鶯王を鬼住山攻略軍の総大将に任命した。副将の進大連と共に鬼住山に向かわせた。
鶯王は鬼住山の南にある笹苞山に陣を張り鬼住山の出雲軍と対峙した。戦闘をするもなかなか決着がつかず、そのままこう着状態になった。
孝霊68年、鬼住山がこう着状態になったのを確認して、大倉山の牛鬼を総攻撃した。しかし、この牛鬼は強く、逆に危機に陥る状態であった。そこで、吉備国を平定中の弟稚武彦に援軍を頼んだ。弟稚武彦は早速、伯耆国にやってきて、大倉山を総攻撃した。あまりに強い弟稚武彦はたちまち牛鬼軍を敗走させた。牛鬼軍はばらばらになって日野川方面に下ってきた。孝霊天皇は日南町霞に陣をはり、この牛鬼敗走軍を追撃しこれを打ち破った。牛鬼はついに降参した。
弟稚武彦軍が大倉山を総攻撃したのと時を同じくして、鶯王も山を降りて出雲軍と衝突した。出雲軍は強かったために、鶯王は溝口町宮原で出雲軍の手によって討ち取られた。鶯王が撃ち取られたことを知った進大連は奮戦し出雲軍を鬼住山に追い返した。人々は悲しみ鶯王が戦死した地に神社を建てて祀った。楽楽福神社である。
鶯王の死を知った孝霊天皇は弟稚武彦と共に、鬼住山を総攻撃した。さすがの出雲軍もこの総攻撃には対抗できず、ついに降参した。出雲軍総大将も朝廷の支配下に下り、この周辺を統治すると約束した。 
福姫の死
鬼住山・大倉山が平定できたので、生山以北の日野川流域はすべて朝廷に服属することになった。弟稚武彦は吉備国で残された小田川流域・備後を平定するために吉備国へ戻っていった。しかし、まだ、日野川上流域に鬼が出没していた。天皇は次に印賀の鬼退治をすることにした。13年間住み慣れた菅福の仮宮を後にして、印賀の大宮に仮宮を造った。ここを拠点として周辺の鬼退治をした。この周辺の鬼はさほど強敵でもなく、次々と平定していったのである。
孝霊70年、鬼との戦いの最中にとんでもないことが起こった。愛娘の福姫が目に大ケガをしたのである。発熱が続き看病もむなしく、福姫はまもなく息を引き取った。孝霊天皇・細姫は大変悲しみ、貴宮山に埋葬すると共に楽楽福神社を建てて福姫を祀った。印賀周辺の鬼退治が終了したので、まもなく、菅福に戻った。  
鬼林山鬼退治
菅福に戻るとすぐ、鬼林山の人々が鬼林山の鬼退治をしてくれるように頼んできた。孝霊天皇は早速、鬼林山麓の宮内(西楽楽福神社)に居を移した。ここを拠点として鬼林山に出没する鬼を追撃していった。鬼は山中に出没するため、なかなか退治できなかった。孝霊71 年、共に生活していた細姫が急な病になり没した。細姫を崩御山に葬り、宮を東楽楽福神社の地に移した。孝霊72 年、稚武彦兄弟は吉備国の平定を完了し伯耆国にやってきた。彼らの力をかりて鬼林山の鬼を退治することに成功した。 
出雲攻略戦
ここまでの戦いにより、吉備国・伯耆国は平定完了しことごとく朝廷の支配下に下ることになった。残るは出雲本国、因幡国である。因幡国に使者を送ると、あくまでも出雲国についていくとのことであった。そこで、いよいよ出雲国攻略に乗り出すことになった。宮内から出雲に入るには阿毘縁の関を打ち破るのが最も近い。孝霊天皇は関の状態を調査するのを兼ねてイザナミを葬っている御墓山に参拝した。土地の人から阿毘縁の関の先の地理を聞きだした。西へ向かえば斐伊川がありこの川に沿って下れば、出雲市周辺の出雲中央政府につく。また、北へ向かえば梶福留から飯梨川流域に出てそこを下れば安来支庁にでる。安来支庁から西へ向かえば、松江市南部のスサノオ聖地にたどり着くことができる。出雲国はかなりの強敵である。まともに立ち向かっては朝廷軍といえども勝利を得ることは難しいと思われ、できるだけ戦いを避け、残る地域を朝廷に服属させなければならない。そのためには、熊野大社にいる言代主(スサノオの言葉を伝える人)に「朝廷の支配下に入れ」という言葉を言わせることができれば、全出雲軍は降伏すると思われた。そこで、米子方面から出雲に入る軍とあわせ、3 方向から出雲に攻め込むことにした。孝霊天皇自身は日野川を下り米子方面から安田関を打ち破り出雲に入る軍を率いる。稚武彦兄弟は阿毘縁の関を打ち破り、弟稚武彦は斐伊川を下り中央政府襲撃を狙う軍を率い、稚武彦は飯梨川を下り広瀬町石原佐々布久神社の地で孝霊天皇軍と連合して出雲聖域に侵入するというものである。  
弟稚武彦軍
弟稚武彦は阿毘縁の関を打ち破り斐伊川上の鳥上に出た。そこから、人の多い地域を避け山添に下阿井→上山→深野→湯村と進軍した。湯村の天ヶ淵の峡谷を通過しようとしたとき、出雲軍の小隊と出くわした。小隊長は早速振根に伝令を飛ばした。弟稚武彦はこのまま川を下れば出雲軍本隊と衝突するのは避けられないと思い、湯村から山越えで神代→粟谷と進軍した。粟谷の天辺にある小山に陣を張って、出雲振根の動きを探った。
出雲振根は荒神谷遺跡のある神庭に拠点を置いていたが、朝廷軍が阿毘縁の関を打ち破ったと聞き、斐伊川を下ってくると予想し、軍をまとめて斐伊川を遡った。木次に着いたとき、天ヶ淵からの伝令が届いた。松江市南部の出雲聖地の出雲軍に応援を依頼し、木次町里方の城名樋山に陣を張り、ここで、朝廷軍を待ち受けることにした。天皇軍が聖域に入りやすいように、弟稚武彦軍は出雲軍を引きつけておくのが目的であった。出雲軍が集結するのをまって先端を開いた。木次大会戦が始まった。 
稚武彦軍
稚武彦は阿毘縁の関を打ち破ったあと、北に進路をとり梶福留の殿之奥に出た。ここは、イザナミを葬った御墓山を見ることができる位置にあり、昔イザナミが住んでいた比太神社の地でイザナミ祭祀を行った。その後飯梨川を下り、出雲軍安来支庁の近くの広瀬町石原の佐々布久神社の地に陣を張り、孝霊天皇軍の到着を待った。  
孝霊天皇軍
孝霊天皇軍は日野川を下り米子市福市に着いた。この周辺は以前、孝霊天皇自身が住んでいたところであり、朝廷に協力的な人々が住んでいた。その人たちから手間山の麓に出雲軍が集結しているとの情報を聞き、近くの上安曇の楽楽福神社の地に陣を張り、この出雲軍を急襲した。出雲軍はたちまち敗走した。この出雲軍の大将は大国主命の直系の子孫(出雲国王?)であった。この大将はこの戦いで戦死した。天皇軍はその勢いで安田関を打ち破り出雲国に侵入した。続いて安来支庁を打ち破り佐々布久神社の地で稚武彦軍と合流した。 
倭の大乱最大の激戦
稚武彦軍と合流した孝霊天皇は黄泉津比良坂を経由して出雲聖域に侵入した。途中比良坂の坂本に出雲軍の追撃を受けたときのために伏兵を潜ませて置いた。出雲聖域では出雲軍の本隊が控えていたが木次の出雲振根から応援要請があったのでそちらに出撃していた。出雲聖域は無防備状態になっていたのである。
木次方面で朝廷軍を迎え撃っていた出雲振根は安来が破られたと聞き、中心域が攻められると思い、すぐに全軍を聖域に向けようとした。 しかし、弟稚武彦軍がそれを全力で阻止したため、引き返すことができなかったので第11代出雲国王タヒリキシマルミ(大国主命)の軍に中心域に引き返すように命じた。
八雲村東岩坂に着いた天皇は全軍をそこに控えさせ、自らは側近とともに言代主のいる能利刀神社 に参内することにした。神社に参内した天皇は早速言代主に会った。
天皇は言代主に対し
「いま東倭は多くの鬼が出没し人々は苦しんでいます。東倭は朝廷に服属していただきたい。朝廷の力で人々を救いたいと思います。」
言代主は
「それはよく分かります。しかし、来るのが遅すぎました。既に出雲軍は朝廷に対しての戦闘体勢に入っています。」
「それをスサノオの神の力で何とかとめていただきたい。戦争をすると多くの人々が死にます。スサノオの神の本当の願いは日本列島の平和的な統一ではありませんか」
「分かりました。それではスサノオの神の言葉を聞いてみます。この儀式は大変神聖なもので、何人といえどその姿を見ることは許されていません。私がもう一度姿を現すまで、決して覗かないでください。」
と言って、言代主は別室に下がった。
その儀式は余りにも時間がかかったので、天皇は落ち着かなくなった。
「今出雲軍は吉備津彦の作戦により木次に出向いているはず。しかし、この作戦はいずれ出雲軍に気づかれる。出雲軍は必ず戻ってくるであろう。それまでに何とかスサノオの神の言葉が得られないものか?」
天皇はあせるあまり、ついにその姿を覗いてしまった。覗かれたことを知った言代主は怒り、天皇とその側近を追い返してしまった。そして、しばらく後戻ってきたトオツヤマサキタラシ率いる出雲軍に、朝廷軍追討の命令を下した。
天皇はかろうじて東岩坂まで逃げ切りそこに控えていた朝廷軍に、出雲軍に対する総攻撃を命じた。かくして、倭の大乱最大の激戦が始まったのである。出雲軍本隊と朝廷軍は松江市と八雲村の境の剣山周辺で激突した。この頃の戦いはにらみ合いがほとんどで白兵戦になることはあまりなかったが、出雲軍としては聖域に入っての戦いであり、なんとしても朝廷軍を追い返さねばならなかった。この戦いは激戦となり多くの将兵が戦死した。そのため、この周辺は後にあの世への入口(黄泉国)と呼ばれるようになった。出雲軍の死力を尽くした戦いに朝廷側は重要人物(イザナミ)が戦死し態勢が崩れた。そのまま東出雲町揖屋まで退却した。出雲軍本隊は追撃した。天皇は黄泉津比良坂の坂本に控えさせていたオオカムヅミ命に出雲軍の追撃を食い止めるように命じた。オオカムヅミ命は出雲軍の追撃を何とか食い止めることができた。両軍は比良坂の峠を挟んで対峙することになった。  
弟稚武彦軍
一方、弟稚武彦率いる斐伊川方面軍は城名樋山の陣の様子を探っていると、本隊が出雲聖域方面に引き返していた。弟稚武彦は「本隊を聖域に戻してはならじ」と早速天辺を出撃し城名樋山を急襲した。出雲振根は本隊を無事帰還させるため、弟吉備津彦軍の進撃を必死で食い止めた。本隊が抜けたため戦力で劣ることになり、たちまち形勢不利となった。振根軍は本隊が聖域に戻るのを助けるために斐伊川下流方面に退却を始めた。振根は残った戦力を集めて最後の決戦を挑んだが、たちまち壊滅した。傷ついた振根はさらに下流方面に逃避行したが、草枕山の麓で遂に弟稚武彦軍に取り囲まれてしまった。振根は「もはやこれまで」と自害して果てた。振根はすぐ近く(兄塚)に葬られた。
勝利に勢いづいた弟稚武彦軍は加茂町延野の布須神社の地で振根軍との戦いの疲れを取り、軍議を開いた。今回の出雲攻略戦の目的のひとつに出雲神宝の没収があるので、軍の一部を神宝を隠しているとのうわさの荒神谷へ向かわせると同時に、出雲聖域に入り孝霊天皇軍と協力して出雲聖域を一挙に制圧することが決定した。弟稚武彦は早速軍を二手に分け、一隊は高瀬山の麓の水越峠を抜けて神宝を隠してあるとうわさされている荒神谷へ向かわせた。弟稚武彦自身は本隊を率い出雲聖域を目指して赤川を遡った。ところが、出雲軍のは反撃は思っていた以上に強力で、荒神谷へ向かった軍は神庭の出雲軍神宝護衛隊によって打ち破られ、神宝を手に入れることができなかった。
一方弟稚武彦が率いる本隊は赤川を遡り、幡屋を通過しようとしたとき、聖域で孝霊天皇軍を追い散らして戻ってきたタヒリキシマルミ率いる出雲軍本隊の待ち伏せにあった。タヒリキシマルミ軍は赤川の南側に伏兵を隠しておいたのである。弟稚武彦軍を南側から攻めれば、敵軍は袋小路(石井谷)に追い詰められてしまうのである。 出雲軍本隊は出雲軍最強の精鋭部隊であり、さすがの弟吉備津彦軍も石井谷に追い詰められた。弟稚武彦軍はやむを得ず、峠を越えて退却し天辺に戻った。弟稚武彦の初敗北であった。
そして、弟稚武彦は三刀屋町粟谷の天辺で、孝霊天皇は広瀬町石原でそれぞれ本陣を構えたまま、身動きが取れない状態になった。このまま一時的な停戦協定が成立した。結局、出雲軍はスサノオの聖地である東出雲町から大東町にかけての領域を死守しどちらの朝廷軍もその領域に入ることができなかったのである。戦いは膠着状態になった。 
朝廷軍予想進軍コース
朝廷軍は有利に戦いを進めたが、 出雲軍はスサノオの聖地熊野山周辺を死守した。スサノオ祭祀を守るためどうしても負けられない出雲軍はこの膠着状態を打開するため、九州の豪族に応援依頼をした。九州方面の豪族は一大卒がにらみを聞かせていたので、それまでは後方支援のみおこなっていた。彼らは戦いの様子を見守っていたが、出雲軍が不利になるにつれて、スサノオ祭祀を守るために、南四国地方の豪族と共に出雲軍について参戦しようとした。
朝廷側は出雲のこの動きを察知していた。朝廷は九州や南四国方面の豪族まで戦いに参加されたら泥沼化するのは明らかで、戦いに疲れている今の朝廷軍の力では勝利を得るということは難しかった。下手をすると朝廷が敗れるということも考えられた。旧倭国地域はスサノオ信仰が強く、出雲軍をはじめとする連合軍は死力を尽くして戦い、朝廷としてもスサノオの聖地出雲を不遜に扱うことは絶対にできないのである。天皇はこのことを身にしみて理解した。この戦いは、それぞれが信仰する神を信じての戦いであるため、それぞれが必死になって戦っているのである。これ以上戦いを続けると、日本列島を二分した大戦争になり、収拾がつかなくなる恐れが出てきた。
ところが、それぞれが信仰しているスサノオとニギハヤヒは、親子であり、二人協力して、統一国家を造ったわけであるから、神が戦いを望むはずもなく、それぞれが戦いに疲れ、朝廷軍・連合軍共に、和平を望むようになってきた。 
和平交渉
以前より、和平を願っていた孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫の提案で、それぞれが条件を出し合い和解をすることになった。その和平交渉は、出雲の黄泉津比良坂周辺の東出雲町五反田の揖屋神社の地(往古の揖屋神社は五反田にあった)でおこなわれた。孝霊74年(186年)頃のことである。
朝廷側の条件は次の通りであった。
1 出雲は青銅器祭祀をやめること。
2 朝廷の役人を受け入れ、朝廷の支配下に下ること。出雲側の条件は次のようなものであった。
3 朝廷はスサノオ祭祀を行うこと。
4 出雲と戦った孝霊天皇の退位。
出雲側は新しい祭祀形態を中国からの技術導入で研究することを条件に1の条件を3の条件と引き替えに受け入れた。その結果、荒神谷遺跡の祭器はそのままにされるようになり、山陰地方と、瀬戸内沿岸地方の青銅祭祀は終わりを告げ、そのかわり、スサノオ祭祀者が全国に派遣され、出雲系土器が全国分布するようになった。そしてその双方の祭祀を統一するため、 その中間地である吉備国を中心として新しい祭祀形態(巨大墳丘墓による祭祀)が始まることになるのである。
ところが、出雲側は2の条件には、激しく抵抗を示したため、倭迹迹日百襲姫が次のような発案をした。
「勾玉にスサノオのシンボルの鉄剣と、ニギハヤヒのシンボルの鏡を、平和で結びつける意味を込めて、その昔スサノオが八坂瓊の勾玉をムカツヒメに献上したのにならい、出雲は出雲大神の勾玉を造り、出雲大神の言葉を朝廷に伝えると同時に、それを朝廷に献上する。朝廷は、その勾玉を使って政治を行い、出雲国造をホヒの子孫から任命する。」 
倭の大乱出雲決戦の進路図
これは、スサノオを形の上で朝廷の上に位置させ、同時に朝廷が出雲国造をサルタヒコの血を引くホヒ一族から任命するもので、双方を立てるという苦肉の策である。これは、後の時代における神賀詞の原型である。神賀詞とは平安時代に出雲の国造が都に上り、朝廷に勾玉を献上すると共に天皇の前で出雲大神の言葉を伝えるもので、朝廷はこのときすべての業務を停止してその言葉を聞き入ったそうである。そして、朝廷から出雲の国造に正式に任命されるというものである。これは出雲の国に対してだけ行われており、平安時代においても朝廷が出雲の国を特別扱いしていた証である。この時、勾玉に重要な意味が込められるようになり、後に、鉄剣・勾玉・鏡が三種の神器として定着するようになる。この後出雲で大規模に玉造がおこなわれるようになった。出雲は、この提案を受け入れた。朝廷の役所は斐伊川下流域に設置され、出雲振根の甥(飯入根の子)である鵜濡渟命が初代出雲国造として朝廷から正式に任命された。そして、朝廷から役人が派遣され、方形周溝墓が中国地方に出現することになる。
このたびの戦いは出雲のスサノオ祭祀と朝廷のニギハヤヒ祭祀の形態が違うというところに大きな原因があった。共通の祭祀形態を考える必要が出てきた。中国からの技術導入をして巨大墳墓や特殊器台を使った祭祀であるが、それを推進する人物が必要となった。その人物に選ばれたのが、兄の稚武彦である。稚武彦は祭祀を大和でも出雲でもない地を選んで研究していく必要があり、その中間点として吉備国が最良であると申し出た。出雲も、朝廷も共に承諾し、吉備中山周辺にその拠点を設け巨大墳墓や特殊器台の開発にかかわった。彼の墓はおそらく楯築遺跡であろう。彼は大吉備津彦と間違えられて伝えられた。
孝霊天皇は和平の条件として退位をせまられた。187年(孝霊76年)のことである。神武天皇の長男で日子八井耳命の系統の雀部臣の子であるクニクル命が以前より、スサノオ祭祀に理解を示していた関係で第八代天皇(孝元天皇)に推挙された。しかし、孝霊天皇はこれにはまったく不満であった。そこで登場したのが卑弥呼である。 
邪馬台国女王卑弥呼の誕生
大変聡明であった倭迹迹日百襲姫は、AD168年頃大和の黒田宮で誕生した。 彼女は今で言う大天才で幼い頃から常人と違う面をたびたびと見せていた。大和の人々は彼女は神の子だと思うようになっていった。3 歳になった171年に父である楽楽福命(孝霊天皇)が伯耆国に派遣されるのに合わせて、彼女も讃岐国に派遣されることになった。 5ヶ月間海をさまよいながら、4歳になったとき、東かがわ市引田の安堵浦に上陸した。水の清きところを探し大内町宮内の水主神社の地に住み着いた。 幼いながら彼女は早速能力を発揮し土地の人々の農業改革に取り組んだ。農作物の収穫量が増加し人々から絶大な信頼を受けていた。 179年頃11歳になった彼女のところに吉備国平定に向かう途中の孝霊天皇が訪問してきた。しばらく父と生活していたが、 翌180年頃父が吉備へ向かうのに合わせて高松の船岡山に移り、その周辺の農業改革に取り組むこととなった。讃岐国は雨の少ない土地柄だったので、 溜池を作ることを提案し以後讃岐国に溜池が作られることになった。倭迹迹日百襲姫自身も農業改革に取り組むため田村神社の地に移った。 このようにして、東倭の人々の強い信頼を得ていた。そのおかげで讃岐国には東倭に多かった鬼の出没はほとんどなかった。
185年出雲総攻撃に入る前稚武彦の訪問を受けた。稚武彦は出雲攻略法及び今後の大和と出雲のあり方などについて彼女に相談しに来たのであった。彼女はいろいろと知恵を授けた。
出雲と朝廷との戦いがこう着状態になったとき、彼女は孝霊天皇から呼び出された。出雲の揖屋神社の地におもむき双方の条件を聞いた。 そのときの滞在地が安来市黒井田の菊理神社である。彼女は菊理姫として伝えられた。 彼女は双方の条件をうまくまとめ、ここに倭の大乱は終結した。彼女は類まれな能力(現在で言う天才)をたびたび発揮し、それまでも神が宿っているといわれていたが、今回も彼女の和平案があまりに鮮やかであったために、 人々は倭迹迹日百襲姫に大物主神が乗り移っているのではないかと強く思うようになった。
倭迹迹日百襲姫自身もこのような時代に人々を平和に治めるには自らが大物主神の妻になってこの国の人々を導いたほうがよいと考えるようになり、「自分は大物主神の妻である」と宣言した。双方の代表者は、倭迹迹日百襲姫が大物主神の妻として、今後もその指導力を働かせてくれれば、日本国に平安が訪れるだろうと思い、盛大にその結婚を祝福することにした。大物主の神(ニギハヤヒ)の妻という地位、すなわち邪馬台国女王卑弥呼の誕生である。
当時の国内の人々に知らしめるためにも盛大なる就任の儀式(結婚式)を行なう必要があった。出雲の人々にも知らしめるためにも、 結婚式は大和ではなく出雲国の近くで行なわれる必要があった。しかし、大物主神との結婚式には三輪山がどうしても必要なのである。そこで、鳥取県の大山を三輪山に見立てて冬至の日に大山山頂から太陽が昇ってくる位置(不明)に宮を造り盛大に就任の儀式を行なった。これにより大山は大神山(おおみわのやま)と呼ばれるようになり、後に「神」が欠落し「大山」となった。結婚式が行なわれた跡地は大神山神社となり、祭祀の対象地になったが、200年ごろ大陸から二十四節気の導入により 一年でもっとも大切な日が冬至の日から立春の日に変わった。このとき、大神山神社の地も創始の位置から岸本町丸山の地に移った。この地は立春の日に大山山頂から太陽が昇ってくるのを見ることができる。
倭迹迹日百襲姫は吉備国でも結婚の儀式を行なった。その位置が総社市の三輪山から冬至の日に太陽が昇ってくるのを見ることができる正木山(麻佐岐神社)の麓である。最後に大和の地でも盛大に結婚式を行なった。人々は百襲姫に大物主の神が乗り移ったと信じているわけであるから、百襲姫の命令は絶対である。大物主の妻とは神に仕えるのではなくて、大和最高神ニギハヤヒと同等の地位に着くわけであるから、天皇といえども逆らえず、当時の大和朝廷の実質的最高権力者となるものであった。これが邪馬台国女王卑弥呼である。
ニギハヤヒの妻であれば、同時に、スサノオの娘となるわけであるから、出雲・朝廷双方の心を繋ぐにはちょうどよいのである。また、このように人心が落ちつかない時代では、今まで以上に強く神を崇拝しなければ国が治められず、強力な祭祀者が必要になるのである。
また、孝霊天皇も、倭迹迹日百襲姫が天皇の長女であることから納得し孝霊天皇は孝霊76 年(187年)退位した。その後は雀部臣の子である孝元天皇が第八代天皇として即位した。
鳥取県の山田神社では大日本根子彦太瓊命を元天皇と号している。孝霊天皇は退位したのである。退位した孝霊天皇はしばらくは鳥取県大山山麓の山田神社の地で隠棲していたが、後、岡山県井原市の青龍神社の地に滞在後、広島県府中市の南宮神社の地に移動した。晩年末子の五十狭芹彦が誕生した後、215年ごろこの地でなくなり、南宮神社横の孝霊天皇陵に葬られた。南宮神社にこのことが伝えられている。
孝霊天皇は譲位後、なぜ、この地で隠棲をしたのであろうか。倭の大乱の直後は吉備中山を中心として吉備津彦(稚武彦)が新しい祭祀の研究を行なっており、隣の安芸国は神武天皇が東倭から譲り受けているので比較的安定していた。新しい祭祀の研究を行なっていたのは吉備下道でその最西端に位置する場所が府中市である。稚武彦が新しい祭祀を広めるのに協力したためと思えるがさらに調査を進めたい。 
戦後処理
朝廷側はスサノオ祭祀を全国に広めることも了承し、祭祀を全国に広めるため、出雲から全国に祭祀者を派遣した。この結果、この頃より、古墳時代初頭にかけて、出雲系土器が全国に出土するようになり、出雲の四隅突出型墳丘墓が北陸地方に出現するのである。双方がこれらの条件をすべて了解し、ここに、倭の大乱は終結したのであった。
倭の大乱は収まったが、人々の生活が苦しいのに変わりなく、反乱(鬼の出没)は継続して発生していた。弟稚武彦を平定将軍に任じ中国・四国地方の鬼退治をして回った。さらに崇神10年四道将軍を派遣することで地方に発生していた鬼退治は完了した。しかし、生活改善がないため、また鬼が出没することが予想される。大和朝廷は皇族の子孫を地方に国造として派遣して国造を神聖化し、合わせて、地方に出没する鬼は国造に処理させようとした。これらの人物の墳墓が前方後円墳である。
これまでの墳墓は四隅突出型墳丘墓に見られるように、周りを取り囲むようにして祭礼が行われていた。これは、王以外は皆平等であるということを意味しているが、この時期以後は、前方後円墳や前方後方墳に見られるように一方向からの祭礼に変わってきている。これは、階級がピラミッド構造をしてきたことを意味し、朝廷は人心の安定を図るために、人々の階級を細かく分けたものと考えられる。
国造に地方でのニギハヤヒ祭祀を強化させ、国造を神聖化するために、ニギハヤヒのシンボルである鏡が多量に必要となり、それまで、一大率が中国から手に入れていた鏡を朝廷直轄にして、全国(各国造)に配るようにした。このため、九州からの鏡の出土率が下がり、各地の墳墓からの副葬品が豪華なものに変わってきて、北九州地方に畿内系土器が集中するようになるのである。
突線紐式銅鐸は、倭の大乱の後(後期後葉)に出現し、寒冷化した気候によって人心が穏やかでないため、大和朝廷が祭礼を強化する政策の中で誕生したものと考える。それまでは鳴り物としての性格を持っていたが、この銅鐸は完全に見る物へと変化している。この銅鐸からは近畿地方以東の出土になり、西日本地域からの出土はなくなっている。これは、倭の大乱によって、西日本地域が青銅器祭祀を禁止されたためと考えられる。
大和朝廷は皇族の子孫を地方に派遣し国造として任命した。地方に権力者を作り、彼らに権力を集中させることにより、治安維持など地方を強力に治めるように制度改革をした。大和でも、中央に権力を集中するために、中心となる都市が必要になった。それが纏向である。纏向遺跡は180年ごろから大きくなり始めている。また、朝廷でのニギハヤヒ祭祀と出雲でのスサノオ祭祀の共通する祭祀を研究することにした。共通の研究は出雲・大和どちらにも偏らない地で行われる必要があり、その地として吉備国が選ばれた。稚武彦がその代表者に選ばれた。稚武彦は吉備国で新しい祭祀形態を研究した。吉備中山の真西に位置する楯築の地で中国の道教の思想を取り入れた巨大な祭礼施設(楯築遺跡)をつくり、その地で新しい祭礼を始めた。巨大墳墓及び、特殊器台の始まりである。巨大墳墓は古墳として特殊器台は埴輪として全国に広まり、ここに古墳時代が始まったのである。
弟稚武彦は早くから朝廷に服属していたが鬼が出没している伊予国・土佐国などを転々とした後、開化10年(220年)熊曽との戦いにも参加し、晩年吉備国に戻り、吉備国の安定に努めた後、230年ごろ北房町小殿の地で世を去った。 
出雲王朝の謎 
古事記にはスサノオを初めとする出雲王朝が15代続いたことが記録されている。これについて考察してみたい。
出雲王朝系図
  スサノオ─1ヤシマジヌミ─2フハノモジクヌスヌ─3フカブチミズヤレハナ─4オミズヌ─5アメノフニギヌ─┐
  ┌────────────────────────────────────────────┘
  └6オオクニヌシ─7トリナルミ─8クニオシドミ─9ハヤミカノタケサハヤジヌミ─Iミカヌシ─┐
  ┌──────────────────────────────────────┘
  └Jタヒリキシマルミ─Kミロナミ─Lヌノシトリナルミ─Mアメノヒベラオオシナドミ─Nトオツヤマザキタラシ
代数 王名 王妃名 王妃の父 王妃の祖父 よみ 推定没年
 1 八島士奴美 木花知流比賣 大山津見 ヤシマジヌミ
 2 布波能母遅久奴須奴 日河比賣 淤迦美 フハノモジクヌスヌ BC80
 3 深淵之水夜禮花 天之都度閇知泥神 布怒豆怒 フカブチミズヤレハナ BC50
 4 淤美豆神 布帝耳神 刺国大 オミズヌ BC20
 5 天之冬衣神 刺国若比賣 アメノフニギヌ AD10
 6 大国主 鳥耳 八島牟遅 オオクニヌシ AD40
 7 鳥鳴海 日名照額田毘道男伊許知邇 トリナルミ AD70
 8 国忍富 葦那陀迦 クニオシドミ AD100
 9 佐波夜遅奴美 前玉比賣 天之甕主 ハヤミカノタケサハヤジヌミ AD130
10 甕主日子 比那良志毘賣 淤加美 ミカヌシ AD160
11 多比理岐志麻流美 活玉前玉比賣 比比良木之其花麻豆美 タヒリキシマルミ AD190
12 美呂浪 青沼馬沼押比賣 敷山主 ミロナミ AD220
13 布忍富鳥鳴海 若尽女 ヌノシトリナルミ AD250
14 天日腹大科度美 遠津待根 天狭霧 大山津見神 アメノヒベラオオシナドミ AD280
15 遠津山岬多良斯 トオツヤマザキタラシ AD310
出雲王朝系図(古事記)
大山津見──木花知流比賣
          ├───布波能母遅久奴須奴
素盞嗚尊──八島士奴美     ├───深淵之水夜禮花  
          淤迦美──日河比賣      ├─────淤美豆神
               布怒豆怒──天之都度閇知泥神    ├─────天之冬衣神
                               刺国大──布帝耳神      ├─────大国主
                                                 刺国若比賣    ├─────鳥鳴海
                                                   八島牟遅──鳥耳        ├─────国忍富
                                                         日名照額田毘道男伊許知邇
  国忍富
   ├────佐波夜遅奴美
  葦那陀迦    ├────甕主日子
  天之甕主──前玉比賣    ├────多比理岐志麻流美
         淤加美──比那良志毘賣    ├────美呂浪
         比比良木之其花麻豆美──活玉前玉比賣   ├────布忍富鳥鳴海
                           敷山主──青沼馬沼押比賣   ├────天日腹大科度美
                                               若尽女      ├────遠津山岬多良斯
                                      大山津見神──天狭霧──遠津待根
1のヤシマジヌミはスサノオの長男でスサノオが国家統一事業を始めて倭国の経営に乗り出しているとき、出雲国を治めていたといわれている。また、 4オミズヌは出雲風土記によれば国引きをしたことで知られている。(国引きとは国土開発と解釈している。)、さらに、オオクニヌシはスサノオの末子であるスセリヒメと結婚している。すなわちヤシマジヌミとオオクニヌシは同世代となるのである。また5天之冬衣神は天葺根ともいいスサノオのおろち退治のアマテラス大神に剣を献上する使者になっている。このようなことから1から6までは同世代とも考えることができるが、古事記にある通り直系だとするとどのようなことになるのであろうか?
出雲朝第6代大国主命は素盞嗚尊の娘スセリヒメの婿になっている。吉田大洋氏「出雲帝国の謎」で大国主はクナト大神の子であり、クナト大神は出雲本来の神として扱われている。出雲の神社では本来クナト大神を祀っていたものが素盞嗚尊に取って代わったと言い伝えられている。素盞嗚尊は朝鮮半島から渡来した父布都より誕生しているので出雲としてはよそ者となる。そのため、出雲国風土記では扱いが小さくなっており、大国主が大きく扱われていることになる。また、出雲王朝の人物を古事記では「命」ではなく「神」という尊称を使っている。このことも出雲王朝が特別な存在であることを意味している。出雲王朝は本来の出雲の王家の系統を表わしているのではあるまいか?古事記編纂において素盞嗚尊の系統につないだため、このような不自然な系図になったものと推定される。この出雲王朝の王をクナト大神と表現しているものと推察する。
それでは出雲王朝初代は誰なのであろうか?それを明確に表現することが難しいが、出雲朝第二代布波能母遅久奴須奴が古事記編纂時記憶にあった最初の出雲国王だったのでは ないだろうか?直系であるとすればBC100年ごろの人物となる。BC108年に漢の武帝が朝鮮を滅ぼした時、朝鮮半島から多数の人々が日本列島に流れ着いているが、布波能母遅久奴須奴は活躍時期から推察するに、 そのなかの一人かもしれない。 これを元にオロチ退治以前の出雲の状態を推定してみよう。
出雲国風土記によると出雲朝第4代淤美豆神の時国引きをしている。活躍時期はBC30年ごろで、素盞嗚尊の父布都の活躍時期と重なるのである。 淤美豆神は朝鮮半島からやってきた布都の協力を得て勢力範囲を拡大していったとも考えられる。そのなかで奥出雲の豪族ヤマタノオロチとの対立関係が生まれ、オロチ一族に押されぎみだったところ、布都の子素盞嗚尊の活躍によりオロチが滅ぶにより、出雲王朝は素盞嗚尊の建国した連合国家の一構成国になったのであろう。 その後、大国主が素盞嗚尊の娘スセリヒメや孫の鳥耳命と結婚するに及び正式に第二代倭国王に任じられ、出雲王朝の系統が出雲国全体を治めることになったのであろう。しかし、出雲王朝は素盞嗚尊から男系でつながっているわけではないので、素盞嗚尊祭祀者としては不十分な点があり、素盞嗚尊の子穂日命の系統が東倭全体の統治者(素盞嗚尊祭祀者)として君臨したものであろう。 
出雲王朝その後
大国主以後の出雲王朝も直系だとすれば出雲王朝最後の第15代遠津山岬多良斯はいつごろの人物となるのであろうか?最初は倭の大乱によって出雲王朝は廃止されたと考えていたが、そのためにはかなりの同世代継承が必要になってくる。それも考えられないことはないが、倭の大乱は出雲国の完敗ではなく、和平交渉により終結しているのであるから、出雲王朝廃止ということを出雲が簡単に承服するとも思えず、出雲王朝廃止はそれよりも後としたほうが自然であると判断した。 1世代30年程として直系の場合第15代遠津山岬多良斯は310年ごろ没となる。 出雲王朝が直系であるとすると、出雲王朝廃止は4世紀前半と推定される。出雲王朝廃止となれば、その影響がどこかに出ているものと考え、それらしきものを挙げてみよう。
1 出雲王朝廃止時と同時期と思われる第12代景行天皇(オオタラシヒコオシロワケ)、第13代成務天皇(ワカタラシヒコ)、第14代仲哀天皇(タラシナカツヒコ)、 神功皇后(オキナガタラシヒメ)の和名に出雲朝第15代遠津山岬多良斯「トオツヤマサキタラシ」と共通名「タラシ」が含まれている。
2 出雲地方には方墳が作られており、前方後円墳は出現していないが、このころ(古墳時代前期後半)より、出雲地方に前方後円墳が出現するようになる。
3 東海地方もこのころより前方後円墳が出現し、近畿地方ではこのころ以降前方後方墳が作られなくなった。
4 大物主神の妻の地位である卑弥呼・台与(この時期没と考えられる)に続く第三代の大物主妻がいない。このころ大物主妻の地位も廃止されている。  大物主神妻の地位は倭の大乱時出雲と大和朝廷の双方により共立されたものであり、それが廃止されることは、出雲勢力の後退を意味している。
5 倭の大乱時孝霊天皇が滞在した鳥取県大山町宮内の高杉神社に孝霊天皇とともに景行天皇が祭られている。
これらのことから推察するに出雲王朝を廃止したのは第12代景行天皇(AD308〜AD325)ではないかと思える。景行天皇は九州遠征や日本武尊の東国征伐に見られるように朝廷の支配を受けようとしない地域に対して徹底的に武力で制圧している。出雲王朝も朝廷の指示に従わない存在のはずであり、日本武尊を派遣して朝廷に従うように廃止させたものと考えられる。大物主妻の地位もいつまでも出雲を意識していたのでは朝廷の自主性が保てないとの判断で廃止。その流れとして、近畿地方での前方後方墳築造の廃止や出雲や東海地方に強引に前方後円墳を作らせる施策を実施したものと考えられる。第12代景行天皇以降の天皇の和名に「タラシ」がついているのは大和朝廷の天皇が出雲王朝の王を兼任するという様な意味が含まれているためではないかと考える。
倭の大乱時の出雲王朝の国王は平均在世年数から出雲朝第10代甕主日子(160年ごろ没と推定)及び第11代多比理岐志麻流美(190年ごろ没と推定)あたりと考えられる。
15トオツヤマザキタラシは愛知県犬山市の鳴海神社で祭られている。これは出雲王朝廃止後、東海地方の人々が、出雲王朝の王を偲び祀ったものと判断する。 
 
第19節 大乱後の改革

 

第一項 四隅突出型墳丘墓
四隅突出型墳丘墓は古墳時代になると、方墳と入れ替わるように姿を消している。方墳と四隅突出型墳丘墓の関係を考えてみよう。
1 方墳と四隅突出型墳丘墓は同じ地域で群集墳を造っている。
2 同じ時期に共存している様子がない。
3 四隅突出型墳丘墓も方墳もその分布の中心は出雲にある。
4 四隅突出型墳丘墓も方墳も周溝がない。方形周溝墓、円墳、前方後円墳は周溝があり、さらに同じ地域に群集墳を作っていることもあるので、これらとは別系統と考えられる。
これらのことより、四隅突出型墳丘墓が方墳や前方後方墳に変化したものと考えられる。四隅突出型墳丘墓は王以外が対等であるといった考え方から生まれた墳丘墓で、階級がピラミッド構造をしてくると都合が悪くなり、一方向からの祭礼に適している前方後方墳や方墳が誕生したものと考えられる。また、方墳や前方後方墳は前方後円墳よりも先に出現している。 
第二項 方墳
方墳の特徴を挙げてみると、
 1 出雲地方に多い、特に松江市南部の国府のあったあたりに多い。出雲地方の古墳時代初期は、すべて、方墳か前方後方墳だったようで、円墳や前方後円墳が現れるのは、古墳時代3期に入ってからである。吉備地方でも初期は方墳である。発生期の古墳はすべて方墳で、出雲・吉備地方によく見られる。
 2 鉄器・勾玉の副葬が多い。勾玉の産地は出雲である。出雲では勾玉を神宝として扱っている。
 3 西都原古墳群中に唯一基方墳が存在するが、その位置は男狭穂塚のとなりで、古墳群のほぼ中央に位置している。これは、古墳の大きさの割に重要視されていることを意味している。
 4 方墳の付近から出雲系土器がよく出土する。
 5 円墳と方墳の混在地方でも、円墳の存在する領域と方墳の存在する領域は分かれている。
 6 複数の埋葬施設を伴うことが多く、それらは、規則正しく配置されている。
 7 築造技術にかなり高度なものが要求されるので、外国からの技術導入がないと難しい。
 8 勾玉には、スサノオの意味が込められている(八坂瓊勾玉の八坂はスサノオを意味する。)。
これらを見てみると出雲が関連していることがわかる。そこで、出雲に関する情報を集めてみると、
 9 出雲の国造は、熊野神社(スサノオの霊廟)から、火継ぎの儀式を受けて初めて神に使えることができた。これは、出雲大社の神事として現在まで続いている。
10 出雲の国造は、他の国造と共に朝廷から任命されるが、8世紀においては、その一年後、朝廷に赤・青・白の玉を神宝として献上し、神賀詞をするという風習があった。このことは、朝廷も出雲を特別扱いしている証である。
11 日本書紀にも出雲の国で出雲大神を神宝と共に祭っていたという記事があり、この出雲大神はスサノオ以外には考えられないので、スサノオを祭っていた証である。
12 出雲地方では方形周溝墓を山の頂上に造る風習があった。出雲出身のスサノオもニギハヤヒも高い山の頂上に葬られている。このことからこのような風習になったのではないか。
出雲地方だけが特別扱いされる理由として考えられるのは、神祖スサノオのゆかりの地であるということである。スサノオは神祖であるから、大和朝廷は、ニギハヤヒ以上に強力に祭らなければならないはずである。そうしなければ、特に出雲が承知しないと考えられる。ところが、朝廷はニギハヤヒの方は祭っているが、スサノオは、それほど祭られていないのである。6〜Jの内容から考えて、スサノオは、出雲で盛大に祭られていたようである。出雲は大和朝廷にとって聖地だったのである。
そうすると、地方の人々がニギハヤヒを祭るときは、朝廷の支持に従えばよいことになるが、スサノオを祭るときは、朝廷の自由にできないことになる。朝廷がスサノオを祭っていない以上、スサノオを祭るためには、出雲へ行ってその指示を受けなければならないことになる。出雲の国造は、火継ぎの儀式を受けなければスサノオを祭ることができなかったようであり、地方でも、スサノオを祭るための斎主にはそれなりの資格が必要なようである。そのための斎主を出雲から呼び寄せたり、出雲へ修行に行かせたりしたのではなかろうか。方墳はこのような人物の墓と考える。大和朝廷にしてもスサノオを無視することはできないため、朝廷でもニギハヤヒとは別の型でスサノオを祭っていたのではないだろうか。そのために、大和地方にも方墳は多い。
スサノオを祭るための斎主は特別な身分になり、他の古墳とは違った形にする必要があったと考えるのである。それならば1〜5の内容が説明できるのである。
方墳は畿内よりも先に、出雲・吉備地方に現れている。稚武彦の働きにより外国から技術導入した結果そのようになったと解釈される。古墳築造をするということは、以前の墓制を全面的に変更することになり、出雲の豪族も抵抗がかなり強いと想像される。それが、簡単に導入されているのは、神の力が作用しているとしか考えられない。稚武彦の働きにより方墳・前方後方墳が考え出され、出雲はそれを積極的に受け入れた。後に大和もそれを受け入れ、それよりも巨大な大物主の神の意味が込められている前方後円墳を考え出したのである。
スサノオ祭祀者は四隅突出型墳丘墓に埋葬され、その周辺で祭礼が行われていたが、倭の大乱の後、階級社会になり、身分がピラミッド構造化してきているために、墳丘墓を取り囲むような祭礼は適さず、一方向からの祭礼を行うために、前方後方墳が出現した。倭の大乱の和平条件により、スサノオ祭祀が全国に広められることになった結果、方墳は全国に分布することになったのである。
次に、なぜ四角なのかであるが、スサノオの別名(八幡、八坂、八千矛など)に八がつくものが多いことや、出雲系の神社が四拍手であることや、スサノオの神紋が十字形であることが関係しているのではなかろうか。 
第三項 出雲地方の古墳分布
出雲地方の四隅突出型墳丘墓、方墳、前方後円墳の出現時期、分布領域には様々な特徴がある。
1 倭の大乱の直後と思われる時期(2世紀末)に斐伊川下流域に西谷墳墓群と呼ばれている大型の四隅突出型墳丘墓群があった。この墳墓からは吉備系の大型特殊器台が出土している。その後この地域では大型墳墓が断絶し、4世紀になってから、そこを遠巻きにするように前方後円墳や円墳など大和系の古墳が出現する。
2 能義平野周辺では、四隅突出型墳丘墓から方墳へ継続的に変化している。
3 松江周辺では5世紀まで大型古墳は造られていない。5世紀以後では円形墳と方形墳が混在する形になっている。
これを伝承と繋ぎあわせて考えてみると、次のようになる。
倭の大乱の直前、出雲国の政治の中心域は斐伊川下流域であった。しかし、倭の大乱において若建吉備津彦の侵入を許し、打撃を受けた。この地域は戦後、朝廷の占領地域となった。しかし、戦後交渉のこともあり、スサノオ祭祀は強化され、吉備からの技術導入で巨大な西谷墳墓群が築造された。朝廷の監視の元でスサノオ祭祀が執り行われていた。出雲地域では、スサノオ信仰に配慮し、大和系(円形墳)の古墳の築造は、差し控えていた。その後、スサノオ祭祀の場所(西谷墳墓群周辺)から離れたところに、朝廷系の古墳を造ることとなったのである。
倭の大乱においても、スサノオの聖地である出雲中心域には出雲軍のすさまじい抵抗のため、朝廷軍は侵入できなかった。出雲中心域では、熊野山周辺で祭礼が行われていたため、四隅突出型墳丘墓は築造されず、古墳築造は大幅に遅れ、5世紀になってからである。この地域が前方後円墳を受け入れたのは神功皇后の行動(後出)との関係が考えられる。 
第四項 吉備国の繁栄
考古学的事実
吉備国は古墳時代中期になると造山古墳のように全国指折り規模の大古墳を築造するなど、かなり力を持っていたらしい。その繁栄は弥生時代後期後葉に始まるようである。この頃始まる考古学上の変化をあげると。
1.吉備系土器が薄くなり、技術的に高度なものへと変わる。
2.土器に畿内系の文様(鋸歯紋)が入ってくる。
3.墳墓に版築の技法が使われ巨大墳墓が登場する。
4.方墳・前方後方墳は全国に先駆けて吉備国で出現する。
5.吉備系の土器が出雲と大和に進出するようになる。吉備系の特殊器台は、出雲および大和の発生期の古墳での祭礼に用いられている。
6.吉備には楯築遺跡における双方中円墳がある。双方中円墳は古墳時代のごく初期にしか見られず、階級がピラミッド構造化する中での祭礼の方法としての試行錯誤が伺われる。また、2つある方形部の片方を取り去ると、大和の纒向石塚とまったく同じになるようである。また、ほぼ同時期に黒宮大塚と呼ばれる前方後方墳が築造されている。いずれも2世紀末と思われる。
7.全国的に広まっている方形周溝墓が吉備にはまったく見られない。中国地方自体方形周溝墓が少ないのであるが出雲地方では、倭の大乱後あたりになって出現するが吉備地方だけは、まったく出現しない。
8.弥生時代後期後葉から古墳時代初期に吉備に九州・出雲・東海・北陸・近畿・讃岐地方の土器が見られるようになる(上東遺跡)。
9.東日本での初期の古墳はそのほとんどの地域で、前方後方墳である。しばらくして前方後円墳が登場するようになってから、前方後方墳は衰退している。
10.特殊器台・特殊壺という大型の祭祀系土器が吉備国を中心に分布する。
11.後期中頃までは吉備国は小集落が広い地域に分散していたが、後期後葉になると平野部の特定地域に集中し、大規模集落が生まれる(上東遺跡など)。集落が都市構造を有してくる。
かなりの技術変革があることがわかる。なぜこのような繁栄をするようになったのだろうか。
吉備国は投馬国
魏志倭人伝の畿内説ではそのほとんどが吉備国を「投馬国」と比定している。「投馬国」は5万戸と「邪馬台国」に次ぐ人口を擁する国で、北九州の「不彌国」から海上水行20日で行き着くと記録されている。一日の水行距離を23km程とすると、460kmとなる。現在の岡山―福岡間は450km程でほぼ一致している。吉備国は黍がよく取れるところから付けられたようであり、呼び方としては「キビ」だと推定する。3世紀の吉備国の中心地は吉備中山の北西部の上東遺跡周辺(吉備津)と思われる。この南側地域一帯は現在では「玉島」、「玉野」などの地名に代表されるように「玉」と呼ばれていたようである。魏の使者はこの頃の吉備国の中心地である上東遺跡には行かず、児島半島南端の現在の宇野港がある周辺(玉野市玉)に上陸し休憩を取ったものと考える。この魏の使者が立ち寄った港が「玉」(岡山県玉野市)であるところから「投馬国」となったのであろう。魏の使者張政一行がこの玉に着いたのは崇神11年(251年)のことと思われる。大和朝廷から四道将軍が派遣されたのはちょうどこの前年である。吉備国にもその中の五十狭芹彦(大吉備津彦)が派遣されている。このことから、吉備国の中心地上東遺跡周辺に不穏な動きがあり、朝廷側の案内役は中心地に導かずに児島半島南端部に導いたものと考える。
吉備津彦について
弟稚武彦(若健吉備津彦)
古事記には吉備津彦と呼ばれる人物がふたり記録されている。大吉備津彦と若建吉備津彦である。古事記および吉備津神社に伝わる伝承ではこの二人は異母兄弟で大吉備津彦が兄であり、二人で吉備国を平定したとなっている。この人物は日本書紀の大吉備津彦とは異なり孝霊天皇の兄である大吉備諸進命の子である稚武彦・弟稚武彦兄弟であると推定した。古事記では若健吉備津彦と記録されている人物である。
弟稚武彦は160年ごろ誕生し179年ごろに孝霊天皇の命により讃岐・吉備国を平定し出雲国中央政府に攻め込み出雲振根を倒した武勇優れた人物である。180年ごろ吉備国を平定のとき鬼の温羅を倒し、これが桃太郎伝説として語り継がれている。桃太郎は吉備団子を配る事によって猿・雉・犬を家来にしたとあるが、吉備団子は鏡か何か当時の人々が欲するもので、彼はこれを配る事で協力者を募り、彼らの協力で鬼退治をしたのではあるまいか。実際、崇神天皇の時代に四道将軍(古事記では三道将軍)が活躍したとなっているがそのコースにある前期古墳から方格規区四神鏡がよく出土する。将軍が銅鏡を配って協力者を募ったものと考えられる。
弟稚武彦が若健吉備津彦として岡山県の各神社で祭られている事から判断して弟稚武彦は吉備の人々に人気が高かったようである。この当時吉備国に出没していた鬼(略奪集団)を退治したためと思われる。弟稚武彦は吉備国平定後四国地方を巡回し、吉備国にとどまり、岡山県北房町の郡神社の地で没し同地に葬られたと「上房郡誌」に記録されている。弟稚武彦は武勇に優れているため、倭の大乱が終結した後も生活の苦しさによって各地に出没する鬼を退治していたのではあるまいか。そのために、地方巡回をしているのであろう。おそらく名前が売れていたであろうから、稚武彦が来たというだけで鬼は降参したのではあるまいか。その巡回の最中北房町の地で亡くなったと考えられる。
稚武彦
大乱後の出雲と大和は何かとしっくりこない関係になってしまったであろう。このときに双方の仲立ちをする存在はぜひとも必要で、それが、稚武彦であると想像する。弟稚武彦の兄である。古事記では大吉備津彦として記録されている人物である。倭の大乱においては各地で神を祀ることにより人々の不安を取り除く役目をした。弟稚武彦は出雲を攻めたため出雲の弟稚武彦に対する感情は複雑なものがあったと思われる。出雲と大和をつなぐには出雲が納得できるような祭祀を始める必要がある。そのための最適者は兄の稚武彦であろう。倭の大乱終結後吉備国に残り新しい祭礼方法を研究したと考えている。倭の大乱後吉備国下道を中心として祭礼形態が以前に対して極端なる変化をしているのは稚武彦の業績であろう。出雲を監視すると同時に出雲と大和に共通する祭礼を行うには、その場所も中間に位置する吉備国が都合よかったものと考えられる。
大吉備津彦(五十狭芹彦)
倭人伝には卑弥呼には男弟がいて政治を補佐したと記録されているが、この人物は誰であろうか。卑弥呼は考霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫であるから、その弟も考霊天皇の皇子となる。日本書紀の記録からしてその人物は大吉備津彦しかいない。大吉備津彦は卑弥呼の時代に戦闘したり各地を訪問したりしていることから高齢者とは考えにくい。武埴安彦の乱(250年)で活躍していることから推察すると、その誕生は200年〜210年頃以降と推定される。卑弥呼との年の差はかなりあると予想される。大吉備津彦の墓と伝えられている中山茶臼山古墳はほぼ同年代の崇神天皇陵と極めて良く似た大きさ1/2の相似形をしており、同古墳の被葬者は崇神天皇とほぼ同時代でしかもかなり関係の深い人物であると思われる。崇神天皇没の4年前に没した大吉備津彦の墓と思われる。大吉備津彦が270年頃没したのも間違いがないようである。考霊天皇の世代から推定された没年(210年頃)と、日本書紀の記録から推定された没年(187年)がずれていることから、考霊天皇は187年に没したのではなく、倭の大乱の和平交渉により退位し、考元天皇に皇位を譲ったが、210年(62歳)頃まで生存した。そして、その末期に大吉備津彦が生まれたと考えている。
稚武彦が210年ごろ、弟稚武彦も230年ごろ共に吉備国で亡くなった。倭の大乱後の吉備を支えていた人物が相次いで亡くなることにより、繁栄してきた吉備国に陰りが見え始め、吉備国が再び不穏になってきた。そこで、大和朝廷は卑弥呼の死後崇神11年(251年)五十狭芹彦を吉備に赴任させた。彼は大吉備津彦と名乗った。大吉備津彦は吉備上道(備前南部)を中心に活動した。大和から最新の技術者や祭祀者を招き、吉備下道の祭祀方法も取り入れ当時最新形式である浦間茶臼山古墳や網浜茶臼山古墳などを築造していった。大吉備津彦は吉備上道に繁栄をもたらし、吉備上道臣の祖となった。彼は晩年吉備中山の麓に住み、崇神60年(275年)そこで亡くなり中山茶臼山古墳に葬られた。大吉備津彦は寿命が281歳だったと記録されているが半年一年暦でも長すぎる。おそらく稚武彦が誕生してからの年数あるいは大吉備諸進命の誕生からの年数のために長くなったと考えられる。
吉備津彦の系図の謎
吉備津彦の系図にはいろいろな謎がある。
吉備津彦系図
孝元天皇---開化天皇---崇神天皇---垂仁天皇---景行天皇---成務天皇---仲哀天皇---応神天皇
孝霊天皇---倭迹迹日百襲姫
       |
        -----------大吉備津彦
       |
        -若建吉備津彦-------------------御鋤友耳建彦---吉備武彦
上の系図は一般にいわれている吉備津彦の系図に、古代史の復元で使っている天皇系図を重ねたものである。御鋤友耳建彦は姉が景行天皇の妻になっているため、御鋤友耳建彦自身も景行天皇と同世代でなければならない。また吉備武彦は日本武尊の東国征伐に副将として参加しているので、成務天皇と同世代と考えられる。しかし、御鋤友耳建彦の父は若建吉備津彦といわれており、若建吉備津彦は孝霊天皇の皇子(古代史の復元では兄である大吉備諸進命の子)で開化天皇と大体同世代と考えられる。その間2世ほど空いているのである。この謎を解くのに大分苦労した。かなり系図の作為があるのか。あるいは、吉備津彦が普通名詞なのか。と、さまざまな案が出ては消えた。
よく調べてみると、若建吉備津彦の別名がかなり多いことに気づかされる。
稚武彦、弟稚武彦、吉備津武彦、吉備津稚武彦、吉備津稚彦、彦狭島命、吉備津彦狭島命、歯黒皇子、若武彦、吉備稚武彦、伊豫皇子、吉備武彦、吉備彦などである。これらが同一人物であるのか否かは定かではない。いずれにしてもかなり複雑なのである。この謎を少しずつ解いていこうと思っているが、現在の仮説を紹介しておく。
備前一ノ宮吉備津彦神社社務所発行の「吉備津彦神社要覧」によると、大吉備津彦の御子が吉備津彦でこの吉備津彦は稚武吉備津彦ともいうが、孝霊天皇の皇子である若建吉備津彦とは別人であると伝えられている。これが事実だとすれば孝霊天皇の皇子の若建吉備津彦と大吉備津彦の御子である稚武吉備津彦との間に混乱が起こることは充分に予想できる。系図にある若建吉備津彦が稚武吉備津彦であるとすれば、系図の謎は解けるのである。
つまり、下の系図のようになる。
新吉備津彦系図(古代史の復元)
神武天皇---神八井耳命---雀部臣---雀部臣-----孝元天皇---開化天皇---崇神天皇---垂仁天皇---景行天皇---成務天皇
       |
        -綏靖天皇---孝昭天皇---孝安天皇---大吉備諸進--稚武彦
                                 |        |
                                 |         -弟稚武彦
                                 |
                                  -孝霊天皇---倭迹迹日百襲姫
                                         |
                                          ----------大吉備津彦--稚武吉備津彦-御鋤友耳建彦--吉備武彦
考古学的に見てもこの方が自然となる。大吉備諸進命の子である稚武彦は主に吉備下道で活躍していたために、彼が生きていた頃は吉備下道が発展しており、さまざまな遺跡が残されている。しかし、古墳時代になってからは吉備上道がむしろ発達していて吉備下道は衰退している。大吉備津彦(五十狭芹彦)が吉備に派遣されてきたのが250年ごろでその後吉備上道が発展しているのである。大吉備津彦の功績と考えられる。大吉備津彦が吉備国に250年ごろ赴任してきた理由も稚武彦の系統が絶えたため、あるいは稚武彦の系統に任せて置けない理由があったためと考えられる。吉備武彦につながる系図が、稚武彦の系統であるならば吉備下道が継続して発展してもよさそうである。吉備上道が継続して発展していることから考えると、大吉備津彦の系統が残ったと考えてもよいのではないだろうか。若建吉備津彦と稚武吉備津彦が極めて良く似た名であるために、神社伝承でも混乱が生じているのではあるまいか。
吉備国の変化
特殊器台の形式を基に吉備国の祭祀の変化を探ってみることにする。ギスギスした関係を修復するには生活の向上が一番よいと思われる。考古学的変化の13を見てわかるとおり、吉備国にかなりの技術力向上があったようである。そのうち3の版築は、この当時まだ国内には存在しないもので大陸から輸入したものと考えられる。魏志倭人伝にも投馬国(吉備国)は使役を通ずる30国の一つとなっているように、稚武彦は外国から技術者を招き、各種技術を学ばせ、それを大和や出雲に紹介したようである。出雲では西谷墳丘墓、大和では纒向石塚に使われている。
出雲の反発心を和らげるには、まず、スサノオ祭祀の強化にある。祭礼を強化するためには、
1 巨大な祭礼場を作る。
2 巨大な祭器を作る。
ことが必要であると思われる。
1については、今までの四隅突出型墳丘墓は墳丘上で祭礼を行い、祭祀者の死後その場所に葬っていたように祭礼場がそのまま墳墓になっているのである。そのために墳墓の巨大化を考えたと思われる。それまでスサノオ祭祀者の墳墓は四隅突出型墳丘墓であり、この墳墓は版築が不十分なために崩れやすい欠点があった。それを外国から技術導入を図る事により、安定した墳墓ができあがった。また、大和と出雲の双方の反応を和らげるために、祭礼に使う土器(器台)にニギハヤヒの紋章である鋸歯紋とスサノオの御魂である巴を透かしとして入れた。出雲の西谷墳丘墓では、巨大化された四隅突出型墳丘墓が築造され、祭礼には、吉備系の特殊器台が使われている。また大和の発生期の古墳にも吉備系の特殊器台が使われている。箸墓古墳の周辺からもこの特殊器台が見つかっている。
吉備系の大型特殊器台は三角と巴形の透かし穴が開いている。それ相当の意味があると思われる。三角はニギハヤヒのシンボルで畿内系の祭祀を意味する。巴形は勾玉につながり、スサノオのシンボルと考えられ、出雲系の祭祀を意味していると思われる。この特殊器台が出雲と大和それぞれでの墳墓に使われているということから、双方の祭祀を尊重し吉備国の指導の下出雲と大和の祭祀の共通化が謀られていることが伺われる。吉備国を中心として新しい祭祀が始まったことを意味している。
このようにして稚武彦は大和と出雲を繋ぐのに苦心したと思われる。その結果、吉備系の土器が大和や出雲で見られるようになり、その中心としての吉備国は繁栄をするのである。
楯築遺跡
この遺跡は180年ごろのものと考えられ、まさに倭の大乱直後である。あるいは倭の大乱の最中に弟稚武彦が出雲を攻撃中に吉備に残った稚武彦が最初に築造したかもしれない。中国から版築の技術を導入し、中国の道教の思想を交えて、当時神聖だった吉備中山が真東に見渡せる位置に双方中円形の祭礼場(楯築遺跡)を作った。遺跡上には一つの岩を中心として東西南北の方向に岩を配置してある。これは道教の思想につながるものであり、神武天皇が始めたピラミッドによる巨石祭祀の流れがある。埋葬施設はその中心から少しずれたところにあり、5つの立石のうちひとつを動かしてその祭祀者が死後その祭礼場に葬られたといった状況である。この墳丘の片方の突出部を取り去れば、大和の纒向石塚とそっくりの墳丘となる。纒向石塚は楯築遺跡の影響を受けていると思われる。ここから出土した特殊器台は最古の立坂型である。この形式の特殊器台は備中南部に集中しており、まだ周辺に広まる様子を見せない。吉備国の巨大祭祀施設の最古のものであろう。この特殊器台は円丘部におかれ、方丘部には壺が多く見つかっている。この墳丘墓は当初祭礼施設として作られ、そこに祭祀者(稚武彦)が葬られたものと判断している。この墳丘墓は双方中円形で今までの方形の墳墓から円形の墳墓に変わるというものである。このとき以前の全国の墳墓はほとんどが方形を元としたもので、円形の墳墓はほとんど存在しなかった。楯築は円形であることを重視した初めての墳墓である。円形部はおそらくニギハヤヒのシンボルの鏡(太陽)を意味するものと思われる。この祭祀を始めたのは大和から来た人物でなければならない。おそらく稚武彦であろう。四隅突出型墳丘墓を原型として墓域に入る四隅の突出部を2つにして方形化しそれを祭壇として利用した。突出部は方形でなく撥型に開いたものである。これは、ニギハヤヒのシンボルである鋸歯紋(三輪山の形)を意味していると思われる。出雲と大和をつなぐ墳丘墓であったが、これ以降同じ形式のものは作られていない。また、埋葬施設は最初の位置にあったであろう岩をひとつ動かして埋葬しているようである。このことは被葬者の死後その祭礼施設は使われなかったということを意味している。神武天皇が始めたピラミッドによる巨石祭祀の名残も含めた楯築遺跡であるが以後の祭祀形態に墳丘の形は参考になったものの、この祭礼形式は受け入れられなかったのではあるまいか。
黒宮大塚
ほぼ同じ頃の前方後方形の黒宮大塚にも立坂型の特殊器台が使われていた。他の土器の形式からも楯築遺跡とほぼ同じ頃(少し後では?)作られたものと判断される。黒宮大塚のすぐ近くに熊野神社がありスサノオとの関連が考えられる。最古の前方後方形の墳丘墓である。楯築がニギハヤヒ系の祭祀施設と考えられるために、スサノオ系の祭祀施設も必要であった。吉備国は元来出雲倭国に所属しスサノオ祭祀の強い領域である。今までのスサノオ祭祀者の祭礼施設である四隅突出型墳丘墓に改良を加える必要があった。四隅突出型墳丘墓は王以外みな平等といった発想で作られた墳丘墓であるために新しい時代の墳丘墓としては不向きであった。祭礼方向をひとつにするため突出部はひとつとなり、また、祭祀者をますます神聖なものとするために祭礼場は高い位置にすることが必要であった。そのために墳丘高も高くなっていった。この形式になったものであろう。黒宮大塚のすぐ後に築造されたと思われる出雲の西谷三号墳はまだ四隅突出型であるために、肝心の出雲にはすぐには受け入れられなかった。しかし、前方後方墳がこの後全国に広まっていることから出雲を意識したスサノオ祭祀者の墓として最終的に多く受け入れられた祭礼形式であろう。
立坂型の次の形式は向木見型であるが、この形式が広まっている最中に宮山型の特殊器台が作られた。向木見型が出雲のほうに受け入れられたために、いよいよ大和に受け入れられる形式の祭礼を考えるようになった。ニギハヤヒのシンボルは鏡であるので墳丘を円形にすることは決まった。楯築の形式は受け入れられなかったためにそれを反省し、黒宮大塚のように突出部をひとつにするようにして、前方後円形の墳丘墓を考え出した。大和で受け入れられる特殊器台は出雲のものとは少し異なりニギハヤヒのシンボルである三角形の透かしをより明確にした宮山型を考え出した。しかし、吉備国周辺はスサノオ祭祀の強い領域であるため、ニギハヤヒ系の祭祀はなかなか広まらなかった。そのため、この形式は吉備国ではあまり見つかっていないが、大和の初期古墳からよく出土する。おそらく、吉備国が出雲方面に広めることに成功した祭礼を大和でのニギハヤヒ祭礼のために改良した形式なのであろう。
宮山墳丘墓
吉備で宮山型が見つかった場所は総社市三輪であり、宮山型特殊器台が見つかった宮山墳墓群は前方後円型をしており、また、この一帯は三輪山と呼ばれている。その麓には百射山神社がある。この神社は大物主神を祀っており、三輪神社と御崎神社が一緒となったものであった。明らかに大和の三輪山とのかかわりがあると思われる。おそらく、稚武彦が大和に新形式の祭礼を広めるためには大和と同じ環境を作らなければならないと考え、この地に大和から大物主神(ニギハヤヒ)を勧請し、この山を三輪山と命名しこの地も三輪としたのであろう。大和の三輪山山頂から冬至の日に上る太陽を見ることのできる位置に、唐古鍵遺跡の中心祭祀遺構がある。ここからは鳥型木製品が出土しており、三輪山山頂から昇る太陽の姿を当時の人々があがめている姿が浮かび上がってくる。これと同様にして、吉備国の三輪山もその方向から冬至の日に太陽が昇ってくる位置に正木山があり、その山頂付近に麻佐岐神社がある。この神社の磐座は三輪山のほうを向いており、ここで祭礼が行なわれていたようである。大和では立春の日に三輪山山頂から太陽が昇ってくるのが見える位置に纒向石塚があるが、吉備国の三輪山には今のところそれに対応する遺跡は見つかっていない。一年で最も大切な祭礼が行なわれる日が冬至の日から立春の日に変わったのが纒向石塚ができた230年ごろと思われる。そのために、吉備国の三輪山祭礼は200年ごろのものと推定できる。
吉備津彦はニギハヤヒ祭祀用の新祭礼形式を吉備国に広めようとしたのではあるまいか。しかしこの段階では墳墓群であり、特定の祭祀者の墓というわけではない。おそらくニギハヤヒ祭祀者が吉備にはいなかったために一般の人がこの祭礼場(墳丘墓)に葬られるようになったのではないか。その後、この形式が大和に広まり、大和ではこれを基に纒向石塚を築造し、その後の墳丘墓に使われたものと考える。
矢藤治山弥生墳丘墓
立坂型の次の特殊器台の形式が向木見型である。この形式から三角と巴形の透かしがはっきりと入っている。巴形透かしは勾玉につながりスサノオのシンボルである。吉備国はスサノオ祭祀の強い地域で、それまでの青銅器祭祀に代わるものとして特殊器台を用いた墳丘墓祭祀を考えていた稚武彦は巴形の透かしを入れることで出雲地域への拡張を図った。その結果同形式のものが出雲の西谷四隅突出型墳丘墓に見られることになる。またこの形式は吉備国全域に広がっており、スサノオ祭祀の強い地域に広がっている様である。スサノオを意識した祭礼に用いられたものと考える。吉備では矢藤治山弥生墳丘墓に見られる。この墳丘墓は吉備中山丘陵の南端部に築かれている纒向型の墳丘墓であるが後期の形であり、これはおそらく大和で纒向石塚が作られた後の前方後円形の墳丘墓であると思われる。時期としては260年ごろであろう。黒宮大塚で祭礼方向をひとつにするという祭礼形式が受け入れられたことにより、楯築墳丘墓で使われた円形墳にも祭礼方向をひとつにすることを導入した。この形式が最も受け入れられた形式である。被葬者は2代目の吉備津彦(氏名不詳・魏志倭人伝の投馬国の官彌彌か?)が考えられる。
上東遺跡
吉備の上東遺跡は港湾の遺跡でこの遺跡を始めその周辺の遺跡で九州・出雲・北陸・東海系の土器が集中的に見つかっている。上東遺跡周辺にはいろいろな地方からの人々との交流があったことが分かる。ちょうど吉備津彦が活躍した弥生後期後葉から古墳時代にかけて大きく発展している。この時代はこのあたりまで海が広がっており、吉備中山は島であった。吉備津彦の伝承地も海だったと思われる地域には存在せず、その周辺の海岸だったと思われる場所にある。これも伝承が何かの歴史的事実を反映している証であろう。吉備津とは吉備の港という意味であるから、吉備津彦は大和から派遣されてきてこの上東遺跡に住んでいたのかもしれない。九州・出雲・北陸・東海系の土器が見つかっていることから、大型墳丘墓をはじめとする祭祀を全国に広めるために、地方から有力者をかき集めて、技術を伝授したものと考えられる。また、稚武彦(吉備津彦)が吉備国に派遣されたのを裏付けるようにこの周辺から畿内系土器の集中出土もこの頃である。倭の大乱の和平の条件にスサノオ祭祀を全国に広めるというのがあった。祭礼そのものは出雲からスサノオ祭主が地方へ派遣されれば良いのであるが、そのシンボルとしての大型墳丘墓の技術的な面は出雲国では不可能である。その技術面での協力を吉備国が行ったものと考える。そのため、それまで、スサノオ信仰の弱かった東日本地域に、出雲系土器が出回るようになってしばらくして、スサノオ祭祀者の墳墓である前方後方墳が広まることになるのである。
前方後方墳は関東地方や東北地方南部までも広がっているが、吉備国でその方面の土器は出土していない。その代わり、これらの地方の前方後方墳周辺から東海系土器が出土している。このことから推察すると、東海地方の人々が、出雲国の変わりに関東や南東北方面にスサノオ信仰を広めたと考えられる。また、九州・四国地域には前方後方墳が普及していないが、これは、元々スサノオ信仰の強い地域であるから、あえて、広めなかったものと考えられる。大和ではその後、吉備とは別に中国から大型墳丘墓築造技術を学び、大型墳墓を造るようになった。これが前方後円墳である。
浦間茶臼山古墳
浦間茶臼山古墳・網浜茶臼山古墳はいずれも吉備上道(備前南部)に存在する。古墳時代直前の大型墳丘墓はいずれも吉備下道に多いのに古墳時代に入ると吉備上道に初期の巨大古墳が多くなる。大吉備津彦が吉備上道に赴任してきたためと思われる。浦間茶臼山古墳は箸墓の二分の一、網浜茶臼山古墳は箸墓の三分の一と共に、箸墓の相似形をしている。箸墓は後で述べるが、日本最初の巨大古墳で魏の技術者の指導の下作られたものである。その技術を最初に畿外に持ち出したのが大吉備津彦であろう。
備前車塚古墳
備前車塚古墳は古墳時代初期の前方後方墳である。三角縁神獣鏡が多量に出土したので有名な古墳である。出土した土器に弥生終末期の様相を示すものがあることから古墳時代と弥生時代の境目の時期に築造されたと見るべきであろう(推定250年ごろ)。備前地域の極初期は前方後方墳が中心である。前方後方墳はスサノオ祭祀者の墳丘墓と推定しているが、三角縁神獣鏡はニギハヤヒ祭祀を強化するための鏡である。吉備国はスサノオ祭祀の強いところでニギハヤヒ祭祀はなかなか根付かなかった。倭の大乱の講和条件によりスサノオ祭祀を全国に広めるようにした関係上、ニギハヤヒ祭祀も旧倭国地域は受け入れなければならない。スサノオ祭祀者がニギハヤヒの鏡を配ることにより吉備国にニギハヤヒ祭祀を広めようと諮ったものではあるまいか。その結果浦間茶臼山古墳や網浜茶臼山古墳を築造することが可能になったのであろう。被葬者は大吉備津彦と共に大和から派遣されてきて、吉備上道の周辺でニギハヤヒ祭祀を広めた人物ではあるまいか。
中山茶臼山古墳
中山茶臼山古墳は当時の聖地であった吉備中山の山頂に築かれた崇神天皇陵の二分の一サイズの古墳である。この位置に築かれること自体が吉備にとって重要な存在の人物であったはずで、その時期も崇神天皇陵が築かれたのとほぼ同じ時期(三世紀後半)と考えられる。伝承どおり大吉備津彦の墓であろう。 
第五項 東海地方の前方後方墳
東海地方を初めとする東日本地域には前方後方墳が多く存在している。その特徴は
1 西日本の前方後方墳とはさまざまな部分で違いが見られる。
2 東海地方の前方後方墳は古墳時代の初期に存在する。
3 吉備地方の古墳時代初期に東海地方の土器が出土している。
4 吉備地方の古墳時代初期に見られる外来系土器は九州・出雲・北陸・東海であり、東海地方以外は明らかにスサノオ祭祀が強い地域である。
5 北陸地方は出雲と海路でつながっている関係上出雲と関係が深い。四隅突出型墳丘墓も存在している。
一地域に多くの地方からの土器が集中するということはその地方が中心となって、何かを伝えたと考えられるが、スサノオ祭祀の地域が多いことから方形墳の築造を伝えたと想像される。吉備地方の呼びかけに応じてこれらの地域の代表者が集まり、吉備はその代表者に新技術を伝えたと考える。
東海地方の土器が南東北や関東地方までも広がっており、スサノオ祭祀を広めるのにかなり積極的に協力をしている。これはどうしてであろうか。
出雲と東海を繋ぐものとしては神社伝承を元にすると次のようなものがある。
1 サルタヒコの終焉の地は伊勢である。
2 コトシロヌシの終焉の地は伊豆である。
3 タケミナカタの終焉の地は諏訪である。
このように出雲の代表的人物の終焉の地が東海地方になっているものが多い。これらの関係で東海地方は出雲に対する意識が強かったものと考えられる。
おそらく、タケミナカタが出雲国譲り事件で東海地方に追放されたのがきっかけで東海地方に出雲文化が根づいた。それをさらに強化するため、引退後の出雲の祭祀者が終焉の地として東海地方を選んだのではないかと推定する。晩年の彼らが東海地方にスサノオ祭祀を広めたのであろう。また、倭の大乱の講和条件によりスサノオ祭祀を積極的に東日本地域に広めた。その結果東海地方にスサノオ祭祀が強くなり、吉備国に赴き、前方後方墳の築造を始め、また東日本一帯にスサノオ祭祀を広めるのに協力したと考えられる。
しかし、古墳時代になってからは大和の影響力がしだいに強化され、出雲も東日本地域でのスサノオ祭祀の維持よりも、スサノオが統一できなかった熊襲の統一のため朝廷に協力するようになった。そのため、出雲から離れている東日本地方でのスサノオ祭祀は衰退し、しばらくして、前方後方墳は消滅したと考えられる。 
第六項 伊都国王
魏志倭人伝に伊都国王に関して、次のような記事がある。
<女王国より以北には特に一大卒を起き、諸国を検察させているので諸国は畏れはばかっている。常に伊都国におかれ、中国の州長官のような役人である。王が洛陽や帯方郡、諸韓国に使者を送ったり、郡から使者を送ってくるとき、すべて港で点検を受け、文書や贈り物を間違いなく女王の元へ届けるようにする。>
糸島地方は中国や朝鮮半島と交流するのに大切な貿易港で、大和朝廷としても無視できず、他の地方にはない権力を持った役人を配置していたことがうかがわれる。糸島地方は1世紀後半あたりから畿内系土器の流入が恒常的に続き、全体の50%ほどが畿内系土器で占められている。九州のその他の地方でも、同時期に畿内系土器の流入が見られるが、特に糸島地方は群を抜いている。大和朝廷は役人をこの地に集中的に配置したようである。
大和朝廷が成立したと考えられる1世紀後半から3世紀ぐらいまでは、中国鏡や、鉄器などは九州を中心とした分布になっている。大和朝廷成立以前はほぼ100%九州に分布しているものが朝廷成立後、3世紀ぐらいまでは、約50%が九州に分布している。このことは、伊都国王が中国から手に入れた宝物の約50%を朝廷に差し出して、残りの50%は自らが九州地方を統治するのに使ったためと考えられる。大分県や熊本県北部の鏡は、1世紀後半以降に分布しており、分布密度は九州以外の地に比べて高い。このことは、この地方の有力者は、朝廷から鏡を受け取ったのではなく、伊都国王から受け取ったことを意味している。伊都国王は大和朝廷から強力な権力を授けられ、九州地方の統治と、外国との交易をまかされていたものと考えられる。
糸島地方は、九州地方で最も初期の古墳が集中していて、その存在密度も九州の中で特に高い。さらに、この地方に存在する初期の古墳には、纒向型古墳が含まれている。纒向型古墳は大和でも極初期に作られており、全国でもこの型の古墳は、千葉県と大和とここしか存在しない。大和朝廷は、纒向の地に全国の人々を寄せ集めて古墳の作り方を指導したと思われている。このことは、纒向の地に全国の土器が出土することからもわかる。しかし、糸島地方の古墳の造築が非常に早いことと、纒向の地に九州系の土器が出土していないことから考えると、伊都国は大和の直轄地で、九州地方の古墳造りの指導はこの地方で行われたものと考えることができる。 
第七項 考古学的事実の解明
ここで吉備国を中心に起こった考古学的変化を考えてみよう。まず方形周溝墓についてであるが、関東以西で岡山県は方形周溝墓が見られないただ一つの県である。隣の広島県でもほとんど見られない。倭の大乱が終結した後、出雲にはニギハヤヒ祭祀をまかされている河内一族がやってくるのであるが、吉備国の場合は、稚武彦がそのまま吉備国に残り、新しい祭祀の試行錯誤をやっていたため河内一族の出る幕がなかったと考えられる。
次に特殊器台であるが、これも稚武彦が外国の技術をもとに考案し、墳墓祭礼に使ったもので、それを当初の目的どおり出雲と大和に広めたため、出雲と大和にも出土すると考えられる。
吉備国によるこの技術革新は次の古墳時代に受け継がれ、その古墳築造技術は、出雲、北陸、九州、東海にも伝えられそのために、これらの地域の土器が出てくるのである。
稚武彦・若建吉備津彦の没後、当時の気候状態もあり、人々の不安がつのり、再び吉備国が落ち着かなくなってきた。吉備国は出雲と大和を繋ぐかなめであるため、ないがしろにできない。そのため、崇神天皇12年(251年)、四道将軍の一人として大吉備津彦が赴任してきた。中山茶臼山古墳と崇神天皇陵の相似性から見て、大吉備津彦は赴任後も大和と深い関係を保っていたことが伺われる。彼も若建吉備津彦の業績を受け継いで吉備国をまとめたので、その子孫はそのまま強烈な祭礼と共に吉備国の首長として君臨し、5世紀の造山古墳の様に巨大古墳を作る力があったのである。
吉備津彦と言うのは普通名詞のようである。古事記、日本書紀に出てくる吉備津彦関連の名前は年代が会わないものが多い。その代表が吉備武彦である。吉備武彦は、大吉備津彦の子として吉備に赴任してきている。吉備津神社の祭神は大吉備津彦ではなくて吉備武彦であるとの伝承もある。吉備武彦は景行天皇の時代にも活躍している。その生存期間が異常に長いのである。天皇系図に狂いがあるのかとも考えたが、他の点が一致しているため、天皇系図の狂いとは考えられず、吉備に赴任して活躍した人物につけられた普通名詞であると判断した。具体的には、今後の研究課題である。 
 
第20節 邪馬台国への行程記事

 

第一項 行程記事
水行10日、陸行一月
邪馬台国問題が混迷している最大の問題は、魏志倭人伝における邪馬台国までの行程にある。帯方郡から奴国までは、ほぼ定説があるが、そこから先が分かっていないのである。
それを判定するために、現在の地理を無視して、魏志倭人伝の著者は、邪馬台国までの道筋をどうとらえていたかを考えてみることにする。これを解く鍵となるのが、倭人伝中の「倭への道理を計ると、まさに会稽・東冶の東にある。」という文である。「会稽・東冶の東」とは、台湾の最北端、あるいは、沖縄と同緯度になる。北九州の位置から会稽・東冶の東に該当する位置まで南下するには、600から800kmほど必要である。
当時の水行距離は、中国側資料や実験データにより、23〜25km程度と考えられている。そうすると、この位置まで30日ほどでいけることになり、倭人伝の水行20日で投馬国、水行10日・陸行一月で邪馬台国、とある部分の水行だけでいけることになる。陸行一月を加えれば、会稽・東冶の東よりもはるかに南になってしまう。
原文は「水行十日、陸行一月」となっていて、中国人に聞いてみると、水行10日の後、続いて陸行一月の意味だということであるが、「水行10日;陸行一月」ならば、水行すれば10日、陸行すれば一月の意味になるそうである。区切りが「、」と「;」の違いであるため、写本ミスということは十分に考えられる。
勝手にミスであるというのは、正しい態度ではないが、原文通りにすると、明らかに矛盾が生じる以上、ミスと考えるべきである。つまり、次のような解釈になる。「投馬国から邪馬台国へは水行すれば10日、陸行すれば一月でいける。」となる。ちなみに、陸行の一日の推定距離は実験により7kmほどと言われており、一月では210kmとなり、水行10日の230km程と、両者は、ほぼ一致している。
万二千余里
次に、「帯方郡から女王国に至る距離は万二千余里である。」いう記事であるが、一般に帯方郡から伊都国までの行程距離を合計すると一万五百里となるため、伊都国から邪馬台国まで千五百里余りであるという考え方が多いが、この部分を中国人に解釈してもらうと、道のりではなくて、直線距離を表しているとのことである。
この通りならば、帯方郡から邪馬台国までの直線距離が万二千余里ということになる。一里あたりの距離を知るため、位置がはっきりしている部分の倭人伝に記されている里数と現在の地理を比較してみると一里平均90mほどとなる。これから、万二千余里を計算すると1100kmほどとなり、地図上で帯方郡からこれだけの距離を南に移動させると、ほとんど正確に会稽・東冶の東の位置に来る。
これまでの論をまとめると、「会稽・東冶の東」、「万二千余里」、「水行10日、陸行一月」いずれも同じ位置を示していることになり、その場所とは、九州南方海上ということになる。 
第二項 邪馬台国と委奴国
方向の違い
しかし、倭人伝の指し示している地域は海上であり、邪馬台国が存在しないのは明らかである。単なる誤記だとするには、三つのデータすべてが同じ場所を示していることから考えられない。著者は、明らかに、この位置に邪馬台国があるとみて、倭人伝を書いたことになる。そこで、倭人伝に記されている方角を、南から東に書き換えると、ほぼ正確に近畿地方を指している。これは、ここまでの復元古代史で示された結果(邪馬台国=大和国=大和朝廷)を裏付けることになる。しかし、勝手に、東を南と方角を間違えたとしたのでは説得力がない。そこで、倭人伝の著者が、なぜ、方角を間違えたかが問題になる。
一里の長さ
次に、倭人伝では、なぜ、一里が90m程になっているのかということである。魏志のその他の部分は一里400m程となっており、これが正しい一里である。倭人伝のみ90m程になっているのである。邪馬台国を訪問した人の報告書が短里で表されており、著者はそれを知らずにそのまま記録したとか、日数をそのまま里数に換算したとかいう説があるが、いずれも、「会稽・東冶の東」と「万二千余里」と「水行10日陸行一月」が一致していることを説明できない。著者は一里が90m程と知っていて記録したとしか考えられない。しかし、魏代に一里を90m程とした実例がないので、遥か以前に書かれた別の記事を挿入したと判断する。
里数表記は委奴国への行程
魏志の矛盾点の解明
これらの原因を、委奴国と邪馬台国の記事を間違えたのではないかと推定し、この仮説を検証してみることにする。委奴国は、一世紀に、日本列島の大半をまとめていた女王国であり、邪馬台国は、三世紀に、日本列島をまとめていた女王国で、共によく似ているため、間違えても不思議はない。倭人伝の邪馬台国までの里数と方角の行程記事は、実は、一世紀(五七年)に中国人が倭国を訪問したときの行程記事で、倭人伝の著者はそれを邪馬台国と間違えて、三世紀に邪馬台国を訪問したときの日数を書き加えたものと判断する。著者は、それが日数との照合により、短里であることを知っていて、原典そのままの短里で記録したものと考える。当時の後漢の皇帝は、日向国王に金印や最大級の璧を渡しており、中国人が倭国を訪問したことも充分に考えられる。
女王国の東
これを裏付ける記事が倭人伝の中にある。それは、「女王国の東、千余里、海を渡るとまた国があり、皆倭種である。また侏儒国がその南方にあり、人の身長三、四尺で、女王国から四千余里である。なお、裸国、黒歯国が、遥か南方にあり、船に乗って一年で行き着く。倭の地を訪ねると、海上の島、州の上に住み、あるいは海にちぎられ、連なって、経巡って歩くと五千余里であろう。」という部分である。
東に海があり、その向こう側に島がある地域を現在の日本地図で探すと、大分県・宮崎県・徳島県しかないことが分かり、さらに南方四千余里(300〜400km)程の所に国(侏儒国)があるところとなれば、宮崎県以外にない。つまり侏儒国は沖縄である。この記事は、女王国が宮崎県であることを示している。
侏儒国の侏儒は「背の低い人」という意味で、正式な国名ではないと考えられる。南西諸島から出土する人骨から当時の人の平均身長を求めてみると、九州で160cm程、南西諸島で150cm程と約10cm低い、中国人はこれらの人々の背が低いことから、この地方を「侏儒国」と呼んだのではあるまいか。裸国や黒歯国も正式国名ではなくて、表意的に表現された国名であろう。「裸」「黒歯」は南方風俗を意味して、フィリピンやボルネオのあたりを指すのではあるまいか。これは、実際に訪問したわけではなく、黒潮に乗ってこれらの島から委奴国に流れ着いた人から聞いた情報が、中国に伝わったものであろう。
周旋五千余里
また、五千余里(400〜500km)を北九州上陸から、九州最南端の委奴国までの道里だと考えれば、現在の地理とぴったりと合う。そうでなければ、邪馬台国北九州説にしても、畿内説にしても、この記事は説明できないのである。これを見ても、委奴国と邪馬台国が混乱していることが分かる。
狗奴国
二つの奴国
次に狗奴国であるが、女王国の南であると一般にいわれているが、魏志倭人伝をよく見ると、その余の旁国の最後に奴国があり、その南に狗奴国があると記録されている。この奴国は女王国の境界の尽きるところであるとも書かれているが、奴国は以前にも書かれており、以前の奴国(北九州の奴国)は明らかに女王国の境界ではない。それならば、この奴国は北九州の奴国ではないということになる。同じ名前の国があるというのは不自然で、もし、それが事実ならば、著者が何かを書き残していると考えられるので、もと三字の国名で、最初の一字が欠落したのではあるまいか。 
委奴国
そこで、気になるのが委奴国である。この国は一世紀に中国に朝貢しているため、中国が知らないはずはなく、倭人伝のどこかに記録されていると考えるのが自然である。そして、後漢書にも極南界と記録されていることから、倭国の境界にある国という認識があったはずで、最後の奴国が委奴国である可能性が高い。中国では倭奴国と記録されていたため、「倭」の字が欠落したものと考えられる。そうすれば、狗奴国は委奴国の南にある国ということになる。委奴国は日向国(宮崎・鹿児島)であるから狗奴国は九州南方海上ということになるが、これはありえない。
狗奴国は球磨国
この当時、大和朝廷に反抗していたのは熊曾(熊本県南部)である。おそらく狗奴国は球磨国であろう。委奴国が女王国の最南端であり、球磨国がそれに属さない国であるから、実際は委奴国の西にあるところを南と勘違いしてしまったものと考える。倭人伝に、狗奴国は邪馬台国と素から仲が悪いと記録されているが、球磨国は熊曾として、スサノオの国家統一時から統一国家に所属せずに、独自の文化を築いていたことから、大和朝廷との対立関係にあった。大和朝廷と球磨国の関係と邪馬台国と狗奴国との関係は良く似ている。 
 
第21節 邪馬台国女王卑弥呼

 

第一項 卑弥呼は倭迹迹日百襲姫
倭迹迹日百襲姫は聡明であったために、倭の大乱を見事収拾し、双方から望まれて、大物主神の妻(日本書紀)という地位に着くことになった。大物主神(ニギハヤヒ)は大和最高の神であるから、倭迹迹日百襲姫はそれとほぼ同等の地位に着いたことになり、天皇や斎主よりも高い地位で、大和朝廷の最高権力者である。日本書紀によると大物主神の妻の地位に着いたのは、崇神10年(250年)の武埴安彦の乱が収まった直後となっているが、ほぼ同時に、倭迹迹日百襲姫は死んでいるのであるから、その地位に着いた意味が全くない。日本書紀の崇神天皇の記事は孝霊天皇の時の記事が混じっているので、倭迹迹日百襲姫がこの地位に着いたのは、同じ乱でも武埴安彦の乱ではなくて、倭の大乱の後と考える。日本書紀の編集者は倭の大乱を抹殺するため、故意に入れ替えたのであろう。 
第二項 倭人伝と日本書紀の比較
「日本上代の実年代」によると、崇神天皇の即位は246年(この当時は半年一年暦であった)となっている。この年代と魏志倭人伝の記事との照合を行ってみよう。
238年倭王が魏に朝貢した返事が240年で、243年に朝貢した返事は245年に行っている。247年の朝貢に関する返事の年代は記録されていないが、過去2回の朝貢の返事が共に2年後であることから249年が返事ではないかと思われる。魏の場合は皇帝の指示が出てからすべての行動が行われると考えられ、今回の返事は張政等を倭に派遣することであるから更に準備に時間がかかることが予想され、250年が使者が倭に行った年ではないかと考えられる。その250年が崇神9年と崇神10年になり、この年に日本書紀では、武埴安彦の乱が起き、倭迹迹日百襲姫も、卑弥呼も、それぞれの戦いの直後に死亡している。251年(崇神11年・崇神12年)、日本書紀では四道将軍を派遣し、倭人伝では国中争うとなっている。続いて、日本書紀に外国人が多数やってきたとなっており、倭人伝では、魏の使者張政が卑弥呼の死亡直後に倭国を訪問したとなっている。さらに、日本書紀では課役を課すとなっていて、倭人伝では、租税を納め、賦役に従うと記されている。
武埴安彦の乱と狗奴国との争いが違っているのを除けば、倭人伝と日本書紀は年代と事件がきれいに対応していることが分かる。狗奴国との戦いは247年の朝貢のときに記録されている。ということは、狗奴国との戦いは247年(崇神3年・4年)以前に行われていることを意味している。この戦いは日本書紀には記録されていない。明らかに崇神10年の武埴安彦の乱とは異なる。それ以外は倭人伝と日本書紀は、すべて、一致するのである。
狗奴国との戦いは倭人伝に「素より和せず」とあり、スサノオの国家統一のときから統一国家に参加していなかった球磨国との戦い以外には考えられない。これにより、卑弥呼は倭迹迹日百襲姫に対応することになる。それでは、倭迹迹日百襲姫がなぜ卑弥呼と呼ばれたのだろうか。 
第三項 天の岩戸神話
古代史と神話の対応
神話と復元古代史を対応させてみると、次のようになっている。
・ 国生み神話=スサノオ・ニギハヤヒによる国家統一。
・ ヤマタノオロチ神話=スサノオが出雲の一豪族を倒した。
・ 国譲り神話=後継者問題のもつれによる日向対出雲の争乱。
・ 天孫降臨神話=ニニギとサルタヒコの交渉と、薩摩半島への赴任とが重なったもの。
・ 黄泉国神話=倭の大乱。
これらを見ると、神話は、過去にあった出来事を元にして、組み立てられていることが分かる。
天の岩戸神話の舞台
ところが、天の岩戸神話は、神話の中でも重要な位置を占めているにも関わらず、対応する事件が見つからないのである。そこで、古事記の天の岩戸神話を良く調べてみると、天照大神が天の岩戸に隠れたときに出てくる地名は、「天香具山」と「天の安川」である。「天香具山」は大和の地にある。
「天の安川」は、当初琵琶湖に注いでいる野洲川であろうと思っていたが、大和の明日香川が昔安川と呼ばれていたという情報が手に入り、神話にいうところの「天の安河原」に該当する場所は明日香川流域にあるはずだと地図で探ってみた。すぐに多神社が見つかった。
多神社は明日香川の川辺に位置し、三輪山から真西に位置している。境内からは弥生時代の祭祀遺跡がある。祭神は神武天皇の大和での長子・八井耳命である。八井耳命は祭祀をつかさどったといわれており、この地が大和での一台祭祀場だったことは間違いがない。また、多神社は橿原の神武天皇陵、田原本町の鏡作神社と南北に一直線に並び、しかもその中点に位置している。
地図ソフトによる計測では三輪山山頂・神武天皇陵中心付近間の距離は8360m、神武天皇陵・鏡作神社本殿間は8340m、鏡作神社・三輪山山頂間の距離は8360mと驚くほど正確な正三角形を形成している。神武天皇陵は後世に加工されており、その中心地を特定することが難しいので、地図上の区画の中心地で計測した。区画内の点を有効に取れば誤差無しの完全な正三角形となりうるのである。古代の測量技術には驚かされるものがある。神武天皇陵は後世決められたものという説があるが、これだけ正確な正三角形を形成していることは神武天皇陵の位置が古代における特別な位置であることだけは間違いがないことである。
多神社はこの正三角形の底辺の正確な中点の位置より100mほど西に位置している。この位置は三輪山の真西にあたり、春分・秋分の日に三輪山山頂から昇る太陽の姿を見ることができる。実際は三輪山山頂との標高差が400mほどあるので、この地より300mほど北側の道路の位置で春分・秋分の日に三輪山山頂から太陽が昇る姿を見ることができる。この二地点は古代の多神社の敷地内ではなかったかと考えられる。多神社の地は古代大和の祭祀場たる条件を満たしている。神武天皇陵との位置関係、祭神等から考えて、神武天皇即位後、まもなく八井耳命により、この位置での祭祀が始まったのであろう。
大和朝廷初期においては、スサノオの国家統一の頃からの伝統に習って、神の前で人が集まり会議を開いて重要事項を決定していた。その地こそ多神社の地であろう。この地が神話伝承では「天安河原」と言い伝えられたものと考えられる。
明日香川 天安河原?
天岩戸神話に出てくる地名はいずれも大和にある。これから、天岩戸神話は大和朝廷成立後の出来事を伝えたものであることになる。
天の岩戸神話の時期
また「古語拾遺」にある記事を要約すると、「崇神天皇は、神威を畏れ、同じ宮殿に住むことに不安を覚えて、鏡と剣とを造らせ、護身のものとし、八咫の鏡と草薙の剣とを豊鍬入姫に祭らせた。」とあり、日本書紀と比較すると、この記事は崇神六年(248年)ということになる。
この中の八咫の鏡であるが、現在、これは、三種の神器として扱われているものであり、八咫の鏡は、天照大神の岩戸隠れの時に造られたことになっている。また、天照鏡作坐神社(祭神天火明=ニギハヤヒ)の伝承や「古語拾遺」によれば、「崇神天皇六年、この神社の地で、日像之鏡として二枚作られ、一枚目は紀伊国日前神社に二枚目が伊勢神宮に納められた。」とある。この二枚目の鏡が八咫の鏡である。そして、内区だけの三角縁神獣鏡が神宝として保存されている。日前神社の祭神は国懸大神であるが、「女王アマテラス」によると、この神はスサノオである。
神話によると、八咫の鏡は天の岩戸事件の時に作られたことになっているが、八咫の鏡は三世紀の大和で崇神6年(248年)に作られていることになる。実際、一世紀では、鏡を作る技術も未熟であり、国産の八咫の鏡を作る技術はなかったと考えられる。そして、八咫の鏡は三角縁神獣鏡と思われ、天の岩戸神話も三世紀の大和で起こった出来事が元になっているということになる。
日食との関係
岩戸隠れをある女王の死で、岩戸開きを次の女王の誕生と考えれば、魏志倭人伝の卑弥呼の死と次の台与の登場に似ているが卑弥呼の死は崇神10年(250年)なので年代が少しあわない。そこで、この事件と日食とを繋ぐ説を検討してみることにする。
このころの日食は天文ソフトによる計算では247年3月24日18時27分頃と次の248年9月5日6時3分頃に日本列島で皆既日食が起こっているという結果が出た。しかし、確認はしていないがこの天文ソフトに地球の自転周期の遅れは入っていないと思われる。地球の自転周期は毎年少しずつ長くなっている。そのため、2・3年に1回ほどうるう秒を入れているのである。この変化は時間に対して一定ではないので詳しく計算はできないはずである。一定であるとして計算した値よりも約2000年の間に30分ほどずれていると推定されている。自転周期の遅れを考慮すると、実際に日食が起こったのはこの時刻よりも、30分ほど後という事になる。
247年の日食は、3月24日18時27分で実質19時ごろと考えられ、これは日没直後(福岡で18:34、奈良で18:09日没)になる。そこで該当するのは248年9月5日6時3分頃で実質6時30分ごろ(福岡で5:56奈良で5:32日の出)ということになる。天文ソフトで計算したところによると、纒向石塚から見て9月5日5時56分竜王山と巻向山の間のちょうど窪んだ峠のところから太陽が昇ってくるようである。自転の遅れがないとしても日の出直後の皆既日食となる。実際は日の出40分後ぐらいに皆既日食になった計算になる。この当時は日の出の太陽をあがめていたようであるから、この当時の人々は一部かけた太陽(部分日食)が山の間から登ってくるのを見て驚き、天岩戸神話にあるように長鳴鳥を鳴かしたり、アメノウズメが裸踊りをしたというようなことが実際にあった可能性がある。どちらにしても、早朝の日食は当時の人々の度肝を抜いたのは間違いないであろう。実際、朝廷が八咫の鏡を作らせたのが崇神6年(248年7月〜12月)であり、また、天照大神が岩戸隠れをしたときに八咫の鏡を作っている。この二つの記事を繋ぎあわせると天照大神の岩戸隠れは248年(崇神6年)となる。日食の起こった年と推定年代が見事ぴったりと一致している。当時日食は人々にとって相当ショックなものであったようである。さらに加えて日本書紀によると、このころ疫病が流行るなどして人々が苦しんでいるときだっただけに人々の恐れは極地に達していたと予想される。そのために八咫の鏡を作ったのかもしれない。そして、その2年後に卑弥呼(倭迹迹日百襲姫)が没している。 
第四項 なぜ卑弥呼と呼ばれたか
日霊女
「古代日本正史」によると真の天照大神はニギハヤヒのことである。倭迹迹日百襲姫は、天照大神(大物主神=ニギハヤヒ)の妻となったため、彼女自身も天照大神と呼ばれるようになった。天照大神といえば、日向女王のムカツヒメとの関連が問題になるが、日向女王は向日津姫といい、天照大神ではない。伊勢神宮に祭られている天照大神は、日向女王の向日津姫に倭迹迹日百襲姫が重なったものと解釈したい。一般に天照大神といわれている神は天疎向日津姫尊または大日霊女貴尊と呼ばれているが、九鬼文書等に別人であると記されている。大日霊女貴尊の尊称を取り除くと「日霊女」となり、「ヒミコ」と読める。夫であるニギハヤヒが日神であったために、日霊の女ということで「日霊女」と呼ばれたのではないだろうか。
ヒミコの意味
古代和語の一つ一つの音はすべて意味を持っており、その音から意味が読みとれる。たとえば「ア」は「出っ張り」、「タ」は「上」、「マ」は「まとまり」とか「丸い」とか言った意味で、これにより「アタマ」は「上に突き出た丸いもの」という意味になる。
次に、「ヤマト」を解釈してみると、「ヤ」は「多くのもの」、「ト」は「安定」とか「とどめる」とか言った意味なので、「多くのものをまとめて安定化させる」という意味になり、これは「統一国家の中心」と解釈される。
このようにして、ヒミコを古代和語として解釈すると、「ヒ」は「太陽」、「ミ」は「霊」、「コ」は「小さいもの」とか「従うもの」といった意味であるので「ヒミコ」は「太陽神に仕える者」といった意味になり、まさに「日霊女」である。太陽神とはニギハヤヒであるから、「ニギハヤヒに仕える女」ということになる。 
第五項 倭迹迹日百襲姫について
倭迹迹日百襲姫関連の伝承をまとめてみると次のようなものである。
1 日本書紀に、「倭迹迹日百襲姫命は第七代天皇の大日本根子彦太瓊天皇(孝霊天皇)の皇女、母は妃の倭国香媛で、彼女は聡明で、物事を予知する能力を持っていた。武埴安彦の乱も少女の歌からそれを読み取り勝利を収めることができた。」というようなことが記録されている。
2 幼少時讃岐国に派遣されていたようで、
次のように言い伝えられている。
水主神社 香川県東かがわ市大内町水主1418
「倭迹々日百襲姫命は七才の年に大和の国黒田の盧戸より出て八才の時東讃引田の安戸の浦に着く。御殿、水主に定め造営せられた」
「倭迹迹日百襲姫命都の黒田宮にて、幼き頃より、神意を伺い、まじない、占い、知能の優れたお方といわれ、7歳のとき都において塵に交なく人もなき黒田宮を出られお船に乗りまして西へ西へと波のまにまに播磨灘今の東かがわ市引田安堵の浦に着き、水清きところを求めて、8歳のとき今の水主の里宮内にお着きになり成人になるまでこの地に住まわれた。土地の人に弥生米をあたえて、米作り又水路を開き、雨祈で、雨を降らせ、文化の興隆をなされた御人といわれる」
艪掛神社 香川県東かがわ市大内町馬篠440
「倭迹々日百襲姫命が大和の国から舟で海を渡ってたどり着いたという浜辺に、櫓(ろ)をかけたとされる松の跡あり」
船山神社 香川県高松市仏生山町甲1147
倭迹々日百襲姫命、上古讃岐の東部に来り給い、更に移りて当地船山に登り給う。
田村神社 香川県高松市一宮町286
「倭迹迹日百襲姫は吉備津彦命と西海鎮定の命を奉じ讃岐路に下り給ひよく鎮撫の偉功を立て当国農業殖産の開祖神となられた。」
彼女は田村神社の地にしばらく滞在しており、ここで、吉備国を平定中の吉備津彦の訪問を受けている。
「倭迹迹日百襲姫は大和黒田の盧戸にて、父を孝霊天皇、母を倭国香媛として生まれ、7歳(現在の計算で3歳)になったとき、大和を出発し讃岐国(香川県)引田の安戸浦に上陸し、水主の地にしばらく滞在した。その後、高松市一宮町の田村神社の地に滞在することになった。」
香川県の神社に伝わる伝承をまとめると以上のようになる。倭迹迹日百襲姫が讃岐に派遣された時期から推定してみよう。卑弥呼(倭迹迹日百襲姫)が250年にかなり高齢で無くなっていることから、倭迹迹日百襲姫の誕生は160〜170年ごろと推定される。3歳で讃岐国に派遣されているので、その時期は165〜175年あたりということになる。この時期の記録では孝霊45年(171年)孝霊天皇は皇太子として伯耆国に派遣されている。東倭全体に不穏な動きが広がってきた頃で、その重要拠点と思われる伯耆国(出雲国)・吉備国・讃岐国あたりに、ほぼ同時期に重要人物が派遣されたのではないだろうか。伯耆国は孝霊天皇で、吉備国は大吉備諸進命ではないだろうか。讃岐国に派遣された重要人物は不明であるが、孝霊天皇にかなり近い人物であろう。この人物に伴う形で、まだ3歳であった倭迹迹日百襲姫が派遣されたものと考える。水主神社の記録にも、「7歳のとき都において塵に交なく人もなき黒田宮を出られ・・・」とある。これは、黒田宮に人がいなくなったため都を出られた、と解釈できる。その年は孝霊天皇が伯耆国に派遣されたのと同じ年の171年と推定している。そうすると、倭迹迹日百襲姫の誕生は168年ということになる。孝霊天皇19歳のときである。250年まで生きた倭迹迹日百襲姫の寿命は82歳となる。
問題は、3歳という幼さで父・母と別れ讃岐に派遣された理由、そして、彼女がなぜ、卑弥呼になることができたのか大きな謎として残る。この謎を解くためのひとつの仮説を立ててみる。それは、日本書紀にある。「彼女は聡明で、物事を予知する能力を持っていた」という記事である。水主神社の記録にも「幼き頃より、神意を伺い、まじない、占い、知能の優れたお方」と記録されており、彼女が秀でた大天才であったのは間違いがないであろう。
現在でも飛びぬけた天才が生まれた場合、幼少時から周りの人々がそれと気づくほどその能力が発揮される。彼女が大天才であった場合、この古代においては天才というよりも神が宿った人物と見えるのではあるまいか。一般の人にはわからないことが、彼女には理解でき、出来事を前もって予想できるのである。それが、「彼女は聡明で、物事を予知する能力を持っていた」という記事につながったと考える。その能力を認めた朝廷の人々が讃岐国に派遣される人員の一人に加えたと推定できる。幼すぎると見えるかもしれないが、この当時一度派遣されると10年単位ぐらいで滞在することになり、彼女も十分にその能力を発揮できたのではあるまいか。
次に讃岐国に派遣された彼女の功績を探ってみることにする。倭迹迹日百襲姫は7歳のときに東かがわ市の引田安堵浦に着岸した。しばらく周辺を放浪しながら水清き場所として現水主神社の地に落ち着いた。ここで、土地の人に新しい農業技術を伝えながら、成人するまで滞在したそうである。当時の7歳は現在の3歳に相当し、成人とは日本書紀にいう立太子年齢から25歳と推定する。実際に奈良時代では15歳で一人前との考えがあり、今より早期に成人になると思われていたようである。当時の25歳は現在の12歳に相当する。
そうすると、171年にこの地に着いた倭迹迹日百襲姫は180年ごろまでここに滞在したことになる。その後馬篠の艪掛神社の地から船出をし、船山神社の近くの船岡山まで移動したと思われる。この当時の宮址は高台にあるのが普通で、船山神社・田村神社ともに平坦地である。しばらく船岡山に滞在後、新しい農地開発の指導のために田村神社の地に移動したのではあるまいか。
水主神社から船岡山に移動した理由は何であろうか。180年頃というときは孝霊天皇が吉備国に行ったときとほぼ一致している。また、水主神社の本殿真後ろに孝霊天皇を祭った社がある。本殿真後ろという位置から判断して水主神社の倭迹迹日百襲姫にとって孝霊天皇はただ父であるといった以上に深い関係があったものと推定する。つまり孝霊天皇も一時期ここに滞在していたのではないかという仮説である。
孝霊天皇は神話伝承上イザナギ命として扱われていることを倭の大乱のこうで述べたが、イザナギ命は国生みのとき、淡路島をスタートとして伊予二名の島(四国)を生んでいる。これは、孝霊天皇が吉備国に行くとき、大和から淡路島を経由して四国に渡ったということを伝えているということも考えられる。179年にここにやってきた孝霊天皇と共に船岡山に移動したのではあるまいか。その目的はやはりその周辺の農業開発であろう。倭迹迹日百襲姫の働きにより讃岐東部地方は落ち着いてきた。讃岐国全体を落ち着かせるには、水主神社の地では不便で讃岐国の中央部に移動する必要があったのであろう。讃岐国中央部は琴平を中心として平形銅剣祭祀が盛んに行なわれている地域でこの祭祀と農業技術をつなぐ必要があったのではあるまいか。
倭迹迹日百襲姫は田村神社において農業殖産の開祖神として祀られている。この当時倭の大乱の直前で人々は作物が充分に取れず、苦しい生活をしていたと予想される。このとき、人々が最も喜ぶのは食料の安定確保である。農業技術の急激な進歩があれば、最も人々の信頼を受けることになるであろう。香川県といえば全国一ため池の多いところである。溜池の起源は不明であるが日本一大きいため池といわれている満濃池は700年ごろ作られたといわれており、香川県のため池はそれ以前から作られていたことになる。日本書紀にも応神天皇の時代に韓人池などを作ったと記録されている。また、古墳周辺にも巨大な池が作られており、ため池が作られたのはこの頃までさかのぼれる可能性がある。まだ調査不足なので、裏づけはほとんどないが、讃岐国でため池を作ることを最初に思いついたのは倭迹迹日百襲姫であることも考えられる。そうなれば、讃岐国で、農業の神として祭られている理由も説明がつく。
また、香川県周辺は平形銅剣祭祀が行なわれていた地域である。平形銅剣祭祀はオオトシ(後のニギハヤヒ)が大和に乗り込む前に琴平で倭国を治めていた頃始めたものと考えられる。この祭祀はスサノオ系祭祀である。しかし、この平形銅剣の柄のところに三角形が刻み込まれたものが相当数存在する。三角形は三輪山の形であり、ニギハヤヒのシンボルである。大和朝廷が成立した後で、平形銅剣祭祀も終末ごろ刻み込まれたものと考えられる。しばらく後に発生する倭の大乱はスサノオとニギハヤヒの祭祀の違いが原因で起こっている。平形銅剣祭祀を始めたのがオオトシであるから、スサノオ祭祀とニギハヤヒ祭祀の統一はやりやすかったのではないだろうか。倭迹迹日百襲姫もその祭祀の違いに頭を痛めており、平形銅剣に三角形を刻み込むことを思いついて実践したのではあるまいか。彼女の功績により、倭の大乱の最中でも讃岐国は東倭に所属しながら、ほとんどその戦乱に巻き込まれなかったものと考えられる。
讃岐国におけるこれらの功績と類まれな彼女の能力により、東倭・朝廷双方から強い信頼を得ていたと考えられる。この彼女が倭の大乱の和平交渉で、これまた能力を発揮して丸く収めた。これらの業績が積み重なることにより、186年、倭迹迹日百襲姫が18歳のとき卑弥呼に共立されたと推定する。
倭迹迹日百襲姫が倭の大乱を終結させたが、彼女はこの大乱が双方が総力を挙げての争いであっただけに後々尾を引き、また、人々の生活が苦しいことに変わりがないので、今後も人々が争うことが予想できた。このような国の状態を安定に保つには天皇以上に強力な指導者がこの国に必要であると考えたのではあるまいか。その結果、自分は大和最高神ニギハヤヒの妻となれば多くの人々は自分に従うであろうと考え、人々に「われはただいまニギハヤヒの神の妻となった」とでも宣言したことが予想される。邪馬台国女王卑弥呼の誕生である。以後この卑弥呼の指導力により大和朝廷の政治は安定することになる。 
第六項 二代目女王台与
台与は豊受姫
次に台与についてであるが、これを豊鍬入姫に当てる人がいるが、大物主の妻という立場と日向女王の斎主では立場が全く違うし、斎主では女王とは言い難い。さらに、豊鍬入姫が斎主になったのは崇神六年で、卑弥呼が死ぬ前であり、年代もあわない。それに、大和でなじみの薄い日向女王を祭ったところで、人心を安定させることはできないであろう。卑弥呼が大物主神の妻なら台与も同じだと思い、大神神社の祭神を調べてみると主祭神が饒速日命で配祠が天照大神と豊受大神となっている。この二人が大物主神の妻と考えられ、天照大神が倭迹々日百襲姫と判断されるので、台与は豊受大神となる。「女王アマテラス」をみると豊受大神は女神で、「稚日霊女」、「トヨウカノヒメ」、「丹之神」、「埴の神」、「食物神」とかいった性格を持っているようである。「稚日霊女」はそのものズバリと二代目卑弥呼を意味する名であるし、「トヨウカノヒメ」は「ウカ」とはニギハヤヒのことであるから「トヨ・ニギハヤヒの女」という意味に思われ、「食物神」もニギハヤヒの食物を給仕していた神ということで、ニギハヤヒの妻といった性格が強く出ている。このようなことから、台与とは伊勢神宮外宮に祭られている豊受大神であると判断する。豊受大神は全国にお稲荷さんとして祀られている神で、スサノオの娘でニギハヤヒの妹である倉稲姫といわれている。彼女はニギハヤヒと共に大和にやってきて、ニギハヤヒの食物の世話をしたため食物神として祀られているのであろうが、天照大神がムカツヒメと倭迹々日百襲姫の重なった存在であり、イザナギも孝霊天皇が重なっているように、豊受姫も倉稲姫に台与が重なったものではあるまいか。
倭人伝によると、台与は卑弥呼の宗女である。卑弥呼は独身(神の妻であるため)のため、子供はおらず、最も血縁が近い人物は兄弟の子供ということになる。おそらく、台与は孝霊天皇の系統の人物であろう。度会神道によると豊受大神は月の神の性格があり、卑弥呼の男弟である大吉備津彦がツキヨミになっていることと考えあわすと、大吉備津彦の娘又は孫とも考えられる。
古事記・日本書紀の編者は、孝霊天皇と孝元天皇を直系で繋いだ関係上、また、ニギハヤヒを記録から抹殺した関係上、ニギハヤヒの妻である卑弥呼共々、台与を記録するわけにはゆかず、記録から抹消したと推定する。そのかわり、天の岩戸神話として残したものと考える。卑弥呼が死んだとき、崇神天皇が、そのまま国を治めようとしたが、倭の大乱の和平協定のこともあり、出雲を中心とする国々や考霊天皇一族が猛反対をしたため、卑弥呼に変わる人物を、新しく大物主の神の妻にする必要が出てきた。出雲系の人々が納得する人物といえば、吉備国で出雲と大和両方から信頼を受けていた吉備津彦の系統の人物しかいない。また彼は、卑弥呼の男弟として卑弥呼を補佐した人物である。そこで、その娘である台与(豊受姫)に白羽の矢を当てて、次の大物主神の妻にしたものと考える。
台与時代の終わり
台与の時代は、いつまで続いたのかという事であるが、記録に全く残されていないためにはっきりとしたことは不明である。多くの神社の祭神を調べてみると、大物主神の妻はこの二人以外に存在しないので、台与の代を持って終わりを告げたと判断しなければならない。卑弥呼の時と同じ様な状況にあれば、次の代が要求されると判断するので、必要がなくなるような何かがあったと考える。
それが、景行天皇の熊曾征伐(「日本上代の実年代」によると312年で、台与75歳程)ではないだろうか。今までの天皇は、倭の大乱の反省もあり、大和から外にほとんど出た形跡はないが、この天皇になるといきなり自ら九州へ出陣し、直接指揮しているのである。
出雲王朝第15代トオツヤマサキタラシは直系であれば、310年ごろ没となり、出雲朝廷はこのころ廃止されたことになる。このころの出雲と朝廷に関する記事を古事記・日本書紀から探すと日本武尊が東国征伐に出発する直前(318年と思われる)に出雲健を征伐したという記事がある。「健」とは古代において一族の大将につけられる名であり、出雲王朝の王即ち出雲王朝第15代トオツヤマサキタラシのことと推察される。しかし、日本武尊が出雲健を征伐する物語は出雲振根が弟の飯入根を征伐したときと同じように水泳に誘って剣を取り替えて刺し殺すというもので、この話の真実性は疑わしい。武力制圧というよりも武力を背景にした交渉により出雲王朝を廃止したものと考えられる。景行天皇から第14代仲哀天皇及び神功皇后まで和名に「タラシ」がつき、トオツヤマサキタラシと共通であり、大和朝廷が一方的に出雲朝廷を廃止したというよりも天皇が出雲王を兼任したと考えるほうが良いようである。
また、4世紀後半ごろより、それまで前方後円墳が出現していなかった前方後方墳主体だった出雲地方や東海地方に前方後円墳が出現したり、近畿地方から前方後方墳が消滅するなど大和朝廷の地方支配力が急激に増大している。景行天皇の多くの子を地方の国造として派遣したと記録されており、前方後円墳はこれら国造の墓と考えられるため、このころの大和朝廷の地方支配力の増大は景行天皇の方針によるものと考えられる。
景行天皇は朝廷の権限を地方まで充分に及ぼすために九州制圧をはじめ出雲・東海地方などに様々な手を加えているのである。台与(大物主妻)も出雲国を意識しての存在であるため、この存在を認めることは出雲を特別視していることになり、朝廷の権限強化の妨げになるとの判断から景行天皇が台与の死を境に大物主妻という特別な地位を廃止してしまったのではあるまいか。 
 
第22節 古墳時代の始まり

 

第一項 三角縁神獣鏡の登場
地方政治の強化
二世紀後半から始まった寒冷期は、三世紀になってからも続き、日本書紀にもあるとおり、餓死者が続出し疫病が流行り、人々の生活は相変わらず苦しかった。倭の大乱は収まっても、各地方で反乱が起こった。朝廷は神の祭礼を強化して、この困難を乗り切ろうとした。地方に国造を任命し、国造にニギハヤヒのシンボルである鏡を渡し、ニギハヤヒ祭祀を強化して、国造自身を神聖化して、国を治めようとした。そして、スサノオ祭祀を全国に広めるために、出雲のスサノオ祭祀者を全国に派遣した。さらに、全国に数多くの神社を建てた。このようにして、神の祭礼を強化し、併せてそれを実行する人物の身分を高くした、それにより、階級がピラミッド構造をしてくるようになり、墳墓周辺での祭礼も一方向からの祭礼に変わってきた。これが前方後方墳の誕生する引き金になっている。
三角縁神獣鏡
それでも、人々の生活は変わらず、相変わらず反乱が起こっているので、中国から入手した鏡ではなく、大物主のシンボル(三角形)を彫り込んだ特別製の鏡を造り、それを地方の役人に配り、国造自体をさらに神聖化するために、巨大墳墓を造ることを考えた。それに必要な新技術導入のため、238年に魏に使いを出し、魏の各種技術者を呼び寄せた。これは、中国側で魏志倭人伝として記録されている。
239年、その技術者によって各所に三角形を彫り込んだ鏡(三角縁神獣鏡)が完成し、地方の有力者に配布した。このような状況で完成した鏡であるから、三角縁神獣鏡が中国で出土しないこと、鋳造技術的に難しい三角縁を持っている理由、鋸歯紋が多用されている理由、中国に存在しない景初四年の年号を持った鏡が存在する理由が説明できる。
三角縁神獣鏡の文字は最初漢字であるが、次第に文様のようなものに変わっていっている。三角縁神獣鏡は、最初中国人が作っていたが、中国人からその作り方を学んだ日本人が作るようになってきて、その日本人が漢字を文字として認識せず、文様として認識していたためではないかと考える。
鏡の役割
三角縁神獣鏡以外の鏡は、内行花文鏡や方格規矩鏡などであるが、これらの鏡も朝廷によって連れてこられた中国の技術者が作ったものと考える。これらの鏡は、最初、鋸歯紋が入っていないが、古墳出土の国産鏡は、その後、すべてに鋸歯紋が入れられるようになる。これらの鏡も大物主のシンボルが入れられているのである。地方の有力者は、鏡をもらうことにより、自らが神聖化され、権力を振るいやすくなるために、鏡をもらおうと朝廷に協力し、朝廷にしても、鏡を配ることにより、地方権力者を意のままに扱うことができたのである。桃太郎が、犬・猿・雉を家来にするときに、吉備団子を与えているが、この吉備団子が鏡であるとすれば、当時の主従関係がはっきりとする。これも、当時の朝廷の将軍と地方の有力者との関係を示しているのではあるまいか。将軍の行動した地域から、方格規矩鏡がよく出土することから、将軍が地方の有力者に鏡を配って協力をさせたと考えられる。 
第二項 古墳の築造
古墳の出現時期
古墳時代にはいると、いきなり、巨大墳墓が登場している。古墳の中で、最も重要視されているのが前方後円墳である。この古墳は日本独特のものであり、特別な階層の人物しか埋葬されていないのである。この前方後円墳の謎を解くために、まず、築造開始時期を探ることにする。
古墳築造開始は、四世紀になってからというのが定説であったが、先年、池上・曽根遺跡で見つかった木の年輪年代測定により、かなり遡ることが確認された。箸墓の前方部周辺で出土した土器の年代が250〜260年頃のものと推定されている。また、前方後方墳の中には三世紀の前半に築造されているものもある。三世紀中頃に前方後円墳の築造始まったのは間違いなさそうである。
そして、この年は三角縁神獣鏡が作られ出したと考えられる239年に大変近い。また、三角縁神獣鏡は古墳からしか出土せず、その他の鏡を含めて、古墳の終焉と共に鏡も出土しなくなっている。このことは、古墳と鏡は切っても切れない関係にあることを意味し、三角縁神獣鏡とほぼ同時に出現したと、とらえることができる。そして、石棺のサイズから、古墳築造もまた、魏からの技術導入である可能性が高い。
労働力の確保 
次に、古墳築造には人の力が必要である。権力者はどのようにして人集めをしたのであろうか。力により無理矢理働かせるか、神の力により働かせるかのどちらかであると考えられるが、前後の関係から後者の方であると考えられる。三角縁神獣鏡と同時出現し、古墳の消滅と共に、鏡も消滅していることから、鏡と古墳との関係が気になる。古墳時代の鏡は鋸歯紋が重要視されていることから、大物主の神の神威を利用して古墳築造をおこなったと考えられる。地方の有力者は、大物主のシンボルの入った鏡を持つことにより、神聖化され、その鏡を示して、人を集め、古墳を造った。人々は、三角縁神獣鏡を示されると、大物主の神の命令と解釈し、それを持つ人物の命により古墳を作ることが、神の加護を得られると信じて、古墳築造に協力した。古墳には、権力者と同時に、鏡も副葬されるため、古墳自体も神聖化される。そのため古墳のいくつかは神社の中にあることになる。
人々が神の力を信じて古墳築造を行うためには、これ以前に地方まで神の信仰が浸透していなければならず、スサノオ・ニギハヤヒの統一事業にあわせて、初期大和朝廷から派遣された技術者が、技術の伝達と共に、鏡を使った太陽崇拝の信仰を広めていた結果であると判断する。人々は大和朝廷から派遣された技術で生活が潤い、これが鏡を使った祭礼によってもたらされたと思い、ニギハヤヒの鏡信仰が地方まで普及していき、倭の大乱の後それが強化され、強力なものになったと判断する。その素地があったからこそ、鏡の力で古墳築造することができたのである。その素地がないのに全国一斉に古墳が広まることは考えられない。
方形周溝墓との関係
朝廷の祭祀者は地方へ派遣され、その死後方形周溝墓に埋葬されたと推定しているが、この方形周溝墓との関係はどうなっているのであろうか。方形周溝墓・円墳・前方後円墳は共に周溝が巡らされており、同じ群集墳を作っている地域もあることから同系統の墳墓と考えられる。おそらく朝廷の意向により、地方に派遣された祭祀者の墳墓を方形周溝墓から円墳や前方後円墳に変えたものと考えられる。
前方後円墳の形の意味
前方後円墳の起源を探るために、現在確認されている最も初期の前方後円墳を探してみると、纒向石塚である。その後、いくつか小さい前方後円墳が造られた後に、巨大な箸墓が造られているのである。纒向石塚を調べてみると次のようなことが分かる。
1 前方部が三輪山の方を正確に向いている。
2 立春・立冬の日に三輪山山頂から太陽が昇る。
3 冬至の日に大神神社の方から太陽が昇る。
4 春分・秋分の日に巻向山頂から太陽が昇る。
5 夏至の日に竜王山山頂から太陽が昇る。
6 前方部の開き角度(50度)は、立春の日の出のときに、この地点にくる三輪山の影の角度と一致している。
これらから判断してみると、前方後円墳の前方部は、三輪山を意味していて、立春の日に三輪山山頂から太陽が昇ってくる姿が見えることから、その姿を石塚に重ねると、後円部は太陽、すなわちニギハヤヒを表していることになる。つまり、前方後円墳は三輪山から昇ってくる太陽の姿を現していることになるのである。そして、大物主神は農耕神であり、石塚の周溝から農具が多量に出土していることから、石塚で大物主の祭礼をしていたことが推定される。古墳に埋葬されている三角縁神獣鏡が大物主の神を型どったものであると同時に、前方後円墳も大物主の神を意識しているのである。
この石塚が築造されたのはいつのことであろうか、石塚の周壕から出土したヒノキ材の年輪年代法による年代が195年、また、後円部から出土した土器は纒向一式で二式や三式はまったく出てこない。土器片は墳丘を築造する際に盛り上げた土の中から千点以上が出土。桜井市教委はこの土器片を調べた結果、「三世紀第一・四半期(201−225年)の終わりごろ」のものと推定。盛り土に、この時期の土器片が混じっていたことから、築造時期を「三世紀第一・四半期の終わりごろの直後か同時期」とした。
また同時期に築造されたと推定されているホケノ山古墳の焼けた木棺の炭化部分のサンプルを「C(炭素)14・年代測定法」という方法で分析。測定の結果、約七割の信頼性がある値として、木棺材の伐採年代は紀元160ー235年となった。
これらより纒向石塚の築造年代は220年頃と推定される。吉備国三輪山の宮山墳丘墓の祭礼により、円形墳を一方向から祭礼する前方後円形の祭礼施設が良いという流れになっていたが、大和でも本格的に祭礼のシンボル的な巨大墳丘墓を作る必要が出てきた。吉備国でスサノオの魂とニギハヤヒの魂を吹き込んだ特殊器台を使い、大和で最も神聖な三輪山から太陽が昇る姿を墳丘墓の形にして、中国からの歴訪の導入による一年の始まりである立春の日に祭礼ができるようにその位置に纒向石塚を築造したのであった。
古代都市纒向
それ以前に栄えていたと考えられる唐古・鍵遺跡では、その中心にある祭祀遺跡から、冬至の日に三輪山山頂から昇ってくる太陽の姿を見ることができる。これは一年の祭礼のうち、冬至の日が最も重要な日であることを意味しているが、纒向石塚では、立春の日に変わっている。立春を一年の始まりとする考え方は、二十四節気といい、中国から入ってきたものであるが、その時期は不明であった。このことから、二十四節気は魏からの技術導入と共に入ってきたと考えられる。二十四節気は太陽の昇る位置から、農耕の時期を知るもので、極最近まで使われていた。おそらく、中国に朝貢することによって二十四節気を学び、それに適する位置に祭礼用の祭壇である纒向石塚を造った。纒向石塚上で立春の日に三輪山から昇ってくる太陽を崇める儀式がおこなわれていたと考える。当然その祭主は百襲姫であろう。
纒向に都市遺構が作られるのは、唐古・鍵が衰退するのと入れ替わるようであり、その年代は紀元180年頃と推定されている。まさに倭の大乱の直後かあるいはその末期と考えられる。この頃の変化を推定してみると次のようになる。
2世紀後半に人心が落ち着かなくなり倭の大乱が起こった。大和朝廷は人心を落ち着かせるため、人々の神への信仰心を煽り、神の力で国を治める必要があった。朝廷はニギハヤヒの神(三輪山)信仰を深めるために、三輪山山頂から太陽が一年の始まりである立春の日に昇ってくる位置にある纒向に新しい都を建設しようとした。
その為には信仰の中心となるシンボル的構造物が必要であった。そこで、纒向の中心位置に三輪山から昇ってくる太陽の姿を形にした纒向石塚を造った。そして、盛大に祭礼を行うため、その周辺に人々を集め、最初の都市遺構である纒向遺跡を造ったものと考えられる。纒向石塚の後円部上からは立春の日午前7時35分ごろに三輪山山頂から昇る太陽を見ることができ、さらに、前方部はその瞬間の三輪山の影と一致する。この瞬間(立春の日午前7時35分頃)に石塚上で年間最大の祭礼を行ったものと推察される。大和朝廷は祭礼を強化することで国を治めようとしたのである。
その後、神聖である石塚と相似形(前方後円形)の構築物を有力者の墳墓とすることで、有力者を神格化することにした。そして有力者の死後の祭礼も強化した。前方後円墳の誕生である。
福岡県前原市に平原弥生遺跡がある。昭和40年に発掘され、その墓から39枚もの銅鏡がみつかり話題となった。この墓は方形周溝墓で、被葬者は副葬品から女性と考えられている。この位置から立春の日に日向峠から昇る太陽を見ることができる。纒向石塚同様に立春の日が一年で最も重要な日になっているのである。おそらく纒向石塚とほぼ同じ230年ごろ築造されたものと考えられる。この女性の役割も卑弥呼と同じ役割をしていたのではあるまいか。毎日決まった位置で日の出の方角を観測し、ある特定の位置から出たときを基準にして暦を作り、その暦を基に農作業に従事するというものである。これは魏からの技術導入の結果と考えられる。畿内の場合はいち早く前方後円形の祭祀施設を作ったが、伊都国ではまだ伝わらなかったものと考えられる。出土した鏡は日の出の太陽を反射するその祭礼に使ったものと判断できる。
箸墓
次に作られた巨大前方後円墳の箸墓は、倭迹迹日百襲姫の陵墓と伝えられている。平成十年九月の台風7号の強風により、古墳本体部に植えられた木が倒れ、その整備事業の際に、倒れた木の根元の土から採集された。ほとんどが前方部と後円部の墳頂からの出土だった。
後円部で出土した土器には、「特殊器台」という吉備地方の墳墓に供献された大型の土器が含まれていた。「特殊器台」は弥生時代などで出土している。
箸墓古墳から出土したものは、最古型式の埴輪に転化する直前のタイプで、奈良県や岡山県の弥生時代終末期とみられる墳墓など数カ所で発見されているにすぎない。
また、前方部からは、瀬戸内沿岸地方の壷型土器が出土。二重ロ縁壷など多数の埴輪が見つかっている。
出上した土器の年代について、大塚初重・明治大学名誉教授(考古学)は「後円部の特殊器台と前方部の埴輪には、考古学的な時間差があり、まず後円部で埋葬時に吉備の土器が供献され、五年か十年後、前方部で埴輪を置いて墓前祭のような葬送儀礼が行われていたのではないか。箸墓古墳に一定の年代幅があったとみられ、箸墓の出現は三世紀半ば頃までさかのぼる可能性がある」としている。
このことより、箸墓は250年から270年頃の築造と考えられる。つまり、卑弥呼の没年である250年の直後である。径百余歩(約150m)もの大きさを持った墳墓は、この時期としては、九州にも大和にも箸墓以外に存在しない。これほどの規模の墓がまだ発見されていないとは考えにくく、箸墓はまさに卑弥呼の墓である。箸墓の後円部は160m程で大きさは魏誌にある百余歩とぴったりと一致するのである。
箸墓から吉備系の土器が見つかっていることは、倭迹迹日百襲姫命の弟である大吉備津彦命(卑弥呼の男弟)が彼女の死の直前に吉備国に派遣されていることから、箸墓築造後の祭礼時に大吉備津彦が吉備国から持ち込んだものと考えられる。
古墳時代に入って、人骨に朱を塗ったものが発掘されているが、これは明らかに死体が白骨化した後に塗ったものである。そして、古墳を暴いて後から塗った様子がないことから、この時代、統治者が死ぬと殯屋を建てて白骨化させ、その後に古墳に納めたもののようである。白骨化するまで最低でも3〜4年ぐらいはかかるようであるから、このあいだに古墳築造をするはずである。つまり、古墳は死後築造されているのである。卑弥呼の死後、墓が作られたことは魏志倭人伝にも書かれているとおりである。箸墓は巨大墳であるからすぐに作れるはずもなく、さらにピラミッドのような強制労働ではなく、神の力によって民衆が動かされているのであるから、強制労働よりは時間がかかるのではないかと考えられる。さらに箸墓は他の巨大古墳が丘陵地を利用して築かれているのに対して平地から作り上げられている。かなりの労力が必要であると思われる。完成まで10年以上はかかったのではないだろうか。
また、魏の使者張政は251年頃来日したが、それは卑弥呼が死んだ直後であった。魏志倭人伝を見てみると、卑弥呼の墓を作るとき、殉葬者のことまで記録されている。普通、殉葬者は墳墓が完成した直後に葬られるものであるから、魏の使者張政は、古墳の完成時期まで国内に滞在していたことになる。
魏志倭人伝によると、「壱与は倭の大夫、率善中郎将の掖邪狗等二〇人を使わし、張政等が郡へ還るのを送らせた。ついで、洛陽の朝廷に参上し、男女生口三〇人を献上し、白珠五千孔、青の大句珠二枚、異文雑錦二〇匹を貢ぎ物とした。」また、晋書「武帝紀」に「泰始二年(266年)、倭人が来て、方物を献じた。」とある。この二つの記録を照合すると、張政は、266年、倭人の使者に送られて帯方郡まで戻り、倭人の使者はそのまま中国へ朝貢をしたようである。この記録の通りだとすると、張政は250年頃から266年まで16年も国内に滞在したことになる。なぜ、こんなに長期間滞在したのだろうか。単なる訪問にしては長すぎると思われ、長期間滞在の必要があったと考えられる。
日本側の記録によると、崇神11年多くの外国人がやってきたとある。倭人伝との対応により、この外国人は張政一行のことと思われる。わざわざ日本書紀に記してあることから考えて張政一行は相当な多人数だったと推定される。朝廷が欲していたのは魏の技術者であるから、この一行には多方面の技術者が含まれていたと考えられる。その中に大型墳墓築造技術者がいたのではあるまいか。朝廷側としては、偉大な統治者卑弥呼の墳墓を作るのであるから失敗は許されない。しかも、初めての巨大墳墓を作るには不安が多すぎる。そこで、中国側の技術者の指示を仰いで巨大墳墓築造に踏み切ったのではないだろうか。そうだとすると、墓が完成するまで日本にいることになり、箸墓の完成は266年頃になる。
最初の巨大墳であるから、初めての築造計画を立てる必要もあり、この時大和に来ていた魏の使者張政等の意見も聞き、築造を開始した。また、この古墳に台与が追葬されている可能性がある。 
卑弥呼の死の原因であるが、日本書紀では、大物主神を裏切ったため、箸で女陰を突いて死んだ。となっている。日本書紀にわざわざ記録してあるということは普通の死に方ではなかったようである。この頃箸があったかどうか疑わしいが、ハシとは橋のことではあるまいか。古代墳墓へはいる道のことをハシと呼んでいたふしがあり、前方後円墳の前方部もハシと呼んでいたらしい。高齢の卑弥呼が纒向石塚で大物主神の祭礼の最中、そこから転げ落ちたとも考えられるのだが...。
古墳築造技術の伝世
魏から取り入れた古墳築造技術を使って、石塚や箸墓を造り、その後、本格的な古墳築造を始めたのだろうが、ほぼ同時に全国で造られるようになっている。その築造技術はどのようにして地方に伝えられたのだろうか。
纒向遺跡には、全国の外来系土器が非常に多い。纒向の外来系土器は大阪の庄内式、三重や愛知などの東海系、山陰、北陸、山陽、関東、近江、西部瀬戸内、福岡、鹿児島と当時の朝廷の勢力範囲のほぼすべての領域である。そしてその量は全体の2〜3割を占めている。時期は3世紀中頃から後半にかけてである。全国から人々を集めていたらしい。朝廷が全国から呼び寄せたものと考えられるが、何のために呼び寄せたのであろうか。全国の有力者に箸墓築造の協力をさせると同時に、古墳築造を初めとする各種技術を全国に伝えるためとは考えられないだろうか。
倭の大乱以前は、地方に有力者がいなかった関係上、朝廷の方から地方に出かけていって技術を伝えていたが、この頃は、地方に有力者がいるために、その有力者を呼び寄せ、これらの人々を、纒向の地に10年程度住まわせ、新農業技術や、古墳築造技術を伝えたものと考える。
ところで、文字がなかったこの頃、どのようにして、このような技術を次に世代に伝えていったのだろうか。崇神天皇の時代になって、租税・古墳・鏡など文字がないと伝えるのが難しい高度な技術が多くなってきている。さらに、古墳は古事記・日本書紀が編纂される頃まで築造されていたが、その技術的なことは全く記されていないのである。このようなことから、この当時は、後の時代における徒弟制度のようなものがあり、専門技術を持った一族がその技術でもって代々朝廷に仕え、その技術は門外不出であったと考えられる。
古墳築造の意味
人心が不安定になっていたこの時期、前方後円墳も、鏡も、神と大変関連の深いものであるため、地方の有力者が鏡と共に前方後円墳に葬られることは、有力者が神に近い存在であることを人々に知らしめ、その後継者も神に近い存在となるため、神威を利用して国を治め安くなったのである。それでも反抗をする人々に対しては、四道将軍を派遣するといった方法を用いた。四道将軍は大物主の神の鏡を地方有力者に配って、反乱軍鎮圧に協力させた。 
第三項 銅剣・銅矛・銅鐸の消滅
青銅器祭祀の終焉
三角縁神獣鏡は、時代が経っても、その大きさにほとんど変化が表れないのに対して、内行花文鏡や方格規矩鏡などの、その他の鏡は少しずつ小さくなっていく。そして、この頃、銅鐸を初めとする鏡以外の青銅祭器が、全国から一斉に姿を消すのである。そして、これらの青銅器は、人里離れたところへ一斉に埋められている。唐古・鍵遺跡の出土品を見ても巨大な銅鐸を作った直後に銅鐸が作られなくなっている様子がうかがわれる。これは徐々に衰退していったのではなく、何か突発的なことが起こって作られなくなったと推定される。それが全国一斉に起こっていることから考えて、外部からの侵入ではなく、大和朝廷の政策変更によるものと考えられる。
畿内に鏡を造った跡と考えられる鏡作り神社がいくつも存在している。そのひとつは唐古・鍵遺跡のすぐ近くにある。また、銅鐸の紋様と鏡の紋様に共通点が見られることから、銅鐸を作っていた工人が鏡を作ったと判断され、技術者の継続性がうかがわれる。
また鏡の方も、当初は漢字が入っていたが、次第に文字が紋様化している。これは当初は中国人が作っていたものが、日本人が引き継ぎ、漢字を文字としてではなく紋様として認識することになったものと解釈される。これらの事実を元に、その理由を考えてみることにする。
大和朝廷は、三角縁神獣鏡を初めとするこれらの鏡を、最初は中国から呼んだ技術者に作らせ、同時に国内の銅鐸工人にその技術を学ばせた。朝廷では、継続して相当枚数配っていることになり、鏡作りに忙しかったと推定される。これらの鏡に使われている青銅の科学分析により、これらの青銅は、いずれも輸入品であることが分かっている。輸入する青銅の量には限りがあり、大量に消費すると不足してくることが考えられる。そのため、大きな鏡を多量に作ることは難しく、内行花紋鏡や方格規矩四神鏡は徐々に小さくなっていったものと考えられる。しかし、三角縁神獣鏡は古墳築造には欠かせない鏡であるし、国造の身分証明にもなっていたので、小さくするわけにはいかなかったと考える。
青銅器没収
民衆が、この時期におこなっていたのは、西日本地域ではスサノオの銅矛祭祀、東日本地域ではニギハヤヒの銅鐸祭祀をおこなっていた。大和朝廷は、スサノオ祭祀は出雲系に、ニギハヤヒ祭祀は鏡でおこなうという方針を固め、祭祀形態を統一することと、鏡を作るための青銅不足を補うために、全国の銅剣・銅矛・銅鐸などの青銅祭器を没収することにした。民衆は祭器を没収されるのには抵抗を感じ、その祭器を埋めてしまったと考えられる。   
朝廷側では没収した青銅器を破壊して鋳潰し、錫を追加して三角縁神獣鏡を作ったのではないだろうか。纒向石塚の周辺から破壊された銅鐸が見つかっているが、これは、潰すのを目的に破壊したのではないかと考える。
この推量を確認するために、三角縁神獣鏡の鉛同位体比の分析結果を調べてみると、三角縁神獣鏡の鉛同位体比は、個々のばらつきが大きく、銅鐸の成分と後漢の成分の中間あたりに位置している。多量に使われているはずなのに、鉛同位体比が一致する産地が存在せず、鉛同位体比によって、その青銅の産地が全く特定できないのである。これはどうしたことであろうか。
銅鐸を鋳潰したのならば、銅鐸の錫の成分比は鏡よりもはるかに少ないので、錫を加えなければならない。銅鐸を鋳潰したものに、錫を加えて三角縁神獣鏡を作ったとすれば、鉛同位体比のばらつきが大きくなることも説明が付き、それが、銅鐸と華中産の青銅の成分の中間あたりにくるのも説明可能である。さらに国産の鏡は輸入品に比べて一般に錫の量が少ないようであり、三角縁神獣鏡は他の鏡よりも割れやすく、同じ鋳型で作られた鏡も成分がだいぶ違うという事実も説明できる。 
第四項 畿内遺跡消滅と須恵器登場
朝鮮半島からの来日
日本書紀によると、崇神天皇の末期と没後に、朝鮮半島から都怒我阿羅斯等や天日槍がやってきた、と記録されている。「日本上代の実年代」より、これは280年頃のことと推定されるのである。大阪湾沿岸地方の遺跡から、三世紀後半頃の朝鮮半島の土器が出土しているが、時期的に、この日本書紀の記事との関連性が考えられる。さらに、同時期に、それまでの土器とは違った土師器や須恵器が登場するのであるが、これらの土器は朝鮮半島から来た人々によってもたらされたものと考えられる。朝廷が新技術を欲していたのと、豪族が一族の技術でもって代々朝廷に使えるという仕組みとが絡み、朝鮮半島からやってきたこれらの人々が、この技術でもって朝廷に仕えるようになったものと推察する。
遺跡の消滅
そして、この時期の多くの畿内の遺跡からしばらくの間、人の気配が消えるのである。新型土器が入ってくることといい、遺跡の多くが消えることといい、これらのことが、外部からの新勢力の侵入により、新王朝ができたという考えに繋がっているようであるが、そうだとすると、今までの事実は、すべて、矛盾点となって戻ってくる。矛盾点が多すぎるのである。さらに、多くの遺跡から人々が姿を消しても、その中心と考えられる遺跡(纒向遺跡)は人々が継続して生活している。外部勢力の侵入があったのであれば、まず中心遺跡に大きな変化があって、周辺の遺跡には変化が少ないはずである。事実は、これと逆で、中心遺跡に大きな変化がなく、周辺の遺跡が変化しているのである。
これは、大和朝廷は、そのままで、朝廷の政策によって起こった変化と考えた方が良さそうである。それでは、消えた集落に住んでいた人々はどこへいったのか。畿外に出たという様子はないことから、畿内のどこかへ移動したものと考えられる。それを纒向遺跡の周辺の集落ではないかと想像する。纒向遺跡は、これまでの集落とは違って、都市構造を有している。朝廷の本拠地として、人々を集めて都市を作ったものと考えられる。 
 
第23節 熊曾との戦い

 

第一項 大和朝廷以前の球磨国
魏志倭人伝に狗奴国と記録されている熊曾は、現在の熊本県で球磨国である。熊曾は阿蘇山を崇拝していた。日本列島に住んでいたその他の地域の弥生人に比べ、風習がかなり異なり、なかなかとけ込めなかったようである。スサノオが九州統一に乗り出したとき、当然、この地にもやってきたが、統一国家に参加せず、スサノオを追い返しているようである。実際、熊本県はスサノオを祭る神社が極端に少ない県の一つである。その後、日向が力を持つ時代になっても、この地は服属せず、女王ムカツヒメも、その三男であるニニギを球磨国の南隣の現在の鹿児島県川内市に派遣している。また、神武天皇の兄にあたる三毛入根命も、球磨国の入口に当たる宮崎県高千穂町に派遣している。女王ムカツヒメは球磨国を包囲するような政策を採っているのである。
大和朝廷成立時にまだその勢力下に入っていなかった領域は、九州では球磨国(熊本県)、曽於国(鹿児島県北東部)が推定される。球磨国は朝廷とのかかわりをまったく避けていたようであるが、曽於国のほうは付いたり離れたりだったようである。その二地域を合わせて熊襲と呼んでいる。 
第二項 邪馬台国と狗奴国
大和朝廷が成立してからも、この国だけは服属せず、独自の国を作っていたようである。このことは、北九州地方でよく出土する鏡や鉄器などが、いずれも熊本県北部で止まっており、それ以南からは全く出土しないことからも裏付けられる。
大和朝廷は最初球磨国が服属しないのを黙認していたが、寒冷期になり生活が苦しくなり、地方に有力者が誕生し、その有力者から貢ぎ物を受け取るようになると、一領域だけそれをしない国があることは、他の国にもしめしがつかなくなり、再三、朝廷に服属するように交渉したが、全く進展しないために、三世紀前半あたりから戦闘が始まったと推定される。魏志倭人伝に記録されている狗奴国との戦いは、この戦いであろう。
阿蘇盆地に入る入口にあたる大分県の大野川上流域・筑後川上流域・熊本市周辺から終末期(三世紀前半)の実践的鉄鏃が多数見つかっている。しかも、そのほとんどが住居跡から見つかっているのである。これは、当時、これらの地が臨戦態勢にあったことを意味している。
この時期鉄製武器がこれほど集中出土している領域は他には存在しない。この時期の日本列島で戦乱が起こった地域はまずこの地域のほかにはないであろう。魏志倭人伝の邪馬台国と狗奴国の戦いの舞台と思われる。
大分県の二カ所からは、近畿・瀬戸内系の鉄鏃が、熊本市周辺からは福岡県と同じ配分の鉄鏃が見つかっていることから、大分県の二カ所は大和朝廷の将軍が直接やってきて、熊本市側は伊都国王の派遣した将軍がやってきたのではないかと考える。実際、大野川上流域・筑後川上流域は大和に近い熊本県(球磨国)東北部から球磨国に侵入する通路に当たる位置である。朝廷軍・伊都国軍は阿蘇盆地に三方向より攻め込んだことが想像される。熊曾側の抵抗は、相当、激しかったようであるが、次第に追いつめられ、現在の八代市あたりまで退却したようである。
これを伝える伝承が艮神社(広島県沼隈郡沼隈町下山南1126)にある。
「孝霊天皇皇子吉備武彦開化天皇10年に熊曽新羅王と戦い給う時、左の眼を射る。熊曽は大隈・薩摩なり、筑紫にては別名を豊武彦之命という。」
これによると、開化天皇10年(220年)に吉備武彦(弟稚武彦と思われる)が、熊曽征伐におもむいているということになる。孝元天皇・開化天皇の時代の伝承は極めて少ないのであるが、意外なところから見つかった。弟稚武彦はこの時50歳前後と思われる。弟稚武彦は大分県側から熊曽を攻めた将軍の一人であろう。この伝承は大野川流域・筑後川流域の鉄族の出土時期と重なっている。 
第三項 景行天皇の熊襲征伐
第10代崇神天皇と第11代垂仁天皇は神の力によって国を治めようという気持ちが強く、あまり強引なことをした形跡がないが、第12代景行天皇は強引なことをやるタイプだったようである。三世紀前半の開化天皇の頃の戦いで熊本県北部を追われ、八代市あたりまで後退していた熊曾は、そこを根城に激しく抵抗していた。それに加え、寒冷期が続く中、生活苦から地方の一部集団が朝廷に反旗を翻したり、略奪集団と成り果てたりすることが多くなった。倭の大乱の戦場となった中国・四国地方は何とか平静を保っていたが、その戦場とならなかった九州地方や東日本地方(関東・北陸・南東北)は、第11代垂仁天皇が神の力に頼っていた事もあり、ますます落ち着かなくなっていた。
倭の大乱の後より、地方に国造を派遣して地方政治を強化する努力をしていたが、まだ不十分なものがあり、地方の国造では、こういった略奪集団を平定することができなかった。第12代景行天皇はこの状態を憂い、自ら乗り出して九州地方の略奪集団を平定し、あわせて熊襲を朝廷に所属させる目的で九州へ出征することにした。景行12年(312年)のことである。
まず、京都郡(福岡県京都郡)に上陸し、周辺の様子を調査した。豊後(大分県竹田氏周辺)に土蜘蛛(略奪集団)がいると聞きこれを退治した。そこから高千穂(宮崎県高千穂町)へ回り、山越えにて西都原周辺に出た。ここに高屋宮を建てて拠点とした。景行天皇はこの地に6年(通常紀年で3年)いた。この地にいるときに南の曽於族を平定し、さらに鹿児島を回って南から八代の球磨族と対決した。この戦闘はかなり激しかったようであるが、八代の熊曾は壊滅し、人吉盆地へ追いつめられた。6年後九州地方が何とか平静を取り戻したので、高屋宮を出発して大和に戻ることにした。経路は夷守(小林市)→川内市→阿蘇→久留米→長崎→浮羽と九州西側を回って大和に帰り着いた。大和に着いたのは景行19年(315年)のことである。
九州が平静を保ったので次は東日本地方の平定が必要であった。景行25年(318年)、今度は自ら乗り出さずに武勇優れた皇子である日本武尊に東国平定を命じた。日本武尊は九州遠征にも加わっており九州でも活躍していたが、その経験を生かして東国平定に出征した。3年後の景行27年(319年)帰還途中に病死した。しかし、彼のおかげで東日本地域も平静を取り戻した。この戦いの模様は「上代日本正史」に詳しい。 
第四項 仲哀天皇の熊襲征伐
第13代成務天皇は在位が短かったせいか、影が薄い。景行天皇の力による平定で地方は一時期平静を保ったが寒冷期であることに変わりなく、時期がたてばまた地方は不安定になるのである。人吉盆地まで追い詰められしばらくは朝廷にしたがっていた熊襲は、朝鮮半島の高句麗と協力関係を結び、再び、朝廷に反旗を翻した。第14代仲哀天皇は、景行天皇と同じような性格で、天皇自ら乗り出してきて、人吉の熊曾を壊滅させようとした。妻である神功皇后は熊襲の背後に百済・新羅がいるので百済・新羅をたたくことを主張した。しかし、仲哀天皇はそれを押し切り、人吉の熊襲征伐に向かった。熊曾の抵抗が激しく、天皇自体矢傷を負い、引き揚げる途中の福岡市あたりで崩御することになった。仲哀9年(331年・辛卯)のことである。これは好太王碑文にある「倭は辛卯よりこのかた百残(百済)を破り・・・」である。朝鮮半島の国々とのさまざまな関係がこの年から始まることになる。これ以後、熊曾は記録に出てこなくなるため、この頃、朝廷に服属したのではないかと考える。
仲哀天皇の死後、神功皇后はかねてからの思い(高句麗征伐)を果たすため、対馬海峡を渡り朝鮮半島に出征することになった。 
 
第24節 福岡県朝倉の地名について

 

大和の三輪山を中心とする地名と、朝倉地方の三輪町弥永を中心とした地名が、ほぼ、完全に一致している。これは、この二地点の間で、人々の移動があったことを示している。これを九州から大和への移動ととらえる人もいるが、この方向性を考えることにする。
もし、九州の人が畿内に移動したのであれば、畿内に九州系の土器や墓制が見られるはずであるが、逆に、九州に畿内系の土器や墓制が見られる。これは、大和から九州への移動を示しているのではなかろうか。
また、弥永の大己貴神社に「仲哀天皇九年(331年)、諸国に令して新羅征討の船舶を集めんとせしも、軍卒容易に集まらず、皇后はこれ必ず神の御心ならんと思し召し、弥永の地に大三輪社を建てて、刀矛を奉り給えば、果たして軍衆自ら集まりぬ...」とある。大和の大三輪神社の方には、「仲哀天皇、神功皇后の御代、筑紫において三輪の神を勧請した。」とある。この二つの神社の記録が対応しているのは間違いないが、祭神が一致していない。大三輪神社の祭神が大物主であるから大己貴神社の祭神も大物主のはずである。これも後ですり替えられたものであろう。これを見ると、明らかに、大和から九州への移動となる。
神功皇后は、熊曾征伐に仲哀天皇と共に参加したが、仲哀天皇の死後、朝鮮半島に出兵しようと北九州で軍衆を募集していた。皇后が集まれと言っただけでは誰も集まらなかったが、神を祭るとたちまち集まってきたようである。その軍衆の募集の時に、しばらく、朝倉地方に滞在していて、その時に、なつかしい大和の地名をつけたものと考える。
年代から考えると、仲哀天皇が崩御してすぐに三韓征伐に出征したが、そのとき軍卒を集めるのに苦労していた。弥永の地で大物主神を祀ることにより何とか軍卒を集めることができた。仲哀天皇が崩御してから三韓征伐より帰還するまでが半年程度と非常に短いが、好太王碑文にもあるのでこれは正しいと考えられる。しかし、そのような短い期間で地名をつけることはほとんどありえないように思える。この場合、三韓征伐から戻り、その後大和に攻め入るまでの10年間(通常紀年)ほど神功皇后は九州に滞在しているが、弥永はそのときの本拠地なのであろう。10年ほどもいれば、その間に懐かしい大和の地名をつけるということも十分に考えられる。
つまり、弥永の神社に伝えられている大三輪社を建てて大物主を祭ったのは三韓征伐のときではなく、その後、応神天皇を奉じて大和を攻めるときではないかと考えるのである。大和を攻めるとなると大物主信仰でまとまっている当時の豪族が反対するのは目に見えており、軍卒が集まらないというのもうなずける。また、記録が書き換えられる可能性も高い。
神功皇后は朝鮮半島出兵の時、あちこちで神を祭っているが、これは軍を集めると共に、軍の志気を高めるのに役立っていたようである。
 
第25節 三角縁神獣鏡の終焉

 

第一項 副葬鏡の変化
古墳時代前期では、重要視していた三角縁神獣鏡が中期にはいると、ほとんど姿を消し、出土するものでも、踏み返し鏡がほとんどになる。この変化は4世紀後半頃に起こっている。古墳築造には欠かせない三角縁神獣鏡に、なぜ、このような変化が起こったのであろうか。大和朝廷自体を揺るがす大変な大事件が起こったとしか考えられない。
この変化は、古墳時代前期と中期の境にあるようなので、天皇陵の前期古墳と中期古墳の境目を探してみると、神功皇后陵までが前期古墳と考えられ、次の応神天皇陵から中期古墳である。神功皇后は「日本上代の実年代」によると、370年崩御したことになり、神宮皇后陵がその数年後には築かれ、応神天皇は394年崩御であるから、その数年後に応神天皇陵が築かれたことになり、前期古墳と後期古墳の境目は380年ごろと見ることができる。 
また朝鮮半島南端部には、中期の形式の前方後円墳であるが、前期の円筒埴輪が使われているものが見つかっている。中期古墳は、朝鮮半島南端部に発生し、日本列島に流れ込んできたもののようである。この時期、神功皇后が朝鮮半島出兵して帰ってきていることから、中期古墳は神功皇后によってもたらされたものと考えられる。 
第二項 香坂・忍熊王の反乱
三角縁神獣鏡に変化が起こった原因は、神功皇后か応神天皇の時代にありそうである。日本書紀を元に、この頃、朝廷に起こった大異変らしきものを探してみると、香坂・忍熊二王の反乱があった。この乱を「上代日本正史」を参考にしてまとめてみると次のようなものである。
朝鮮半島出兵から帰った神功皇后は、九州で誉田別命(後の応神天皇)を産んだ(332年)。この時、大和では、仲哀天皇の二皇子香坂・忍熊王(おそらく、どちらかが天皇として即位していたであろう)が治めていた。神功皇后は誉田別命を天皇にするため、大和と戦うことを決意した。大和の方も、このことを恐れて、誉田別命に対して刺客を送った。神功皇后は刺客に襲われることを恐れて、誉田別命を武内宿禰に託して平浜八幡宮(島根県松江市)や気比神宮(福井県敦賀市)の地に匿った。皇后は、この間、九州・四国各地を巡回している。このときに福岡県の弥永の地を拠点として行動したと思われる。日本書紀では朝鮮半島から帰還した次の年には大和を攻めているが、準備期間がそんなに短いとは考えられず、「上代日本正史」にあるとおり10年ほど経過したと思われる。応神天皇を総大将として大和に攻め込み、香坂・忍熊二王を倒した(342年ごろ)。戦いの後、全国の豪族の勢力範囲に大きな変動があり、いくつかの豪族は、この事件の後、記録から消えている。
このような大事件なら、大物主の鏡を使っていた当時の政治体制を崩すようなことは、十分にあり得ることではないだろうか。 
第三項 大和攻略法
大和攻略の難しさ
ところが、神功皇后が大和を攻めるためには、周辺の豪族の協力がなければできないことである。神功皇后が九州・四国地方を巡回しているのも、この協力を得る手段と考えられる。しかし、このような神の力が働いている時代では、大和を攻めるための正当な理由があると同時に、神威がないと周りの豪族たちは協力しないであろう。正当な理由の方は、誉田別命が仲哀天皇の末子で、正当な後継者であることを強調すればよいが、それだけでは神威を得るのが難しいのではなかろうか。豪族は大物主の神のシンボルである三角縁神獣鏡を持っているために、大和への反逆は考えられないのである。これを崩すには、大物主の神以上の神が必要になってくる。
誉田別命とスサノオ
大分県の宇佐神宮の一の御殿の祭神は、八幡大神(誉田別命)となっており、八幡大神=誉田別命である。ところが、「消された覇王」によると八幡大神はスサノオのことになっている。つまり、スサノオと誉田別命が一体となっているのである。また神功皇后が巡回したという伝承地は、北九州地方と南四国地方で、中広型銅矛祭祀のあった地方と一致している。これはスサノオ信仰の大変強い地域である。また、誉田別命が一時隠れていたとされている平浜八幡神社の地は、スサノオの霊廟である熊野大社に大変近い位置である。誉田別命と神功皇后はスサノオと関連する地に赴いて、スサノオの神威を得ようしていることがうかがわれる。
先に述べたとおり、豪族にとって、三角縁神獣鏡を持っている以上、大和への反逆は考えられず、神功皇后がそれでも大和を倒すためには、大物主の神以上の神、すなわち、スサノオと誉田別命を一体化させて、大和に挑むしか方法がなかったと考えられる。スサノオは大物主の神の父親であり、九州・中国・四国地方では、大物主の神以上の尊敬を集めている存在であるから、誉田別命と一体化させれば、大物主の体制を崩し、豪族を動かすことは可能であったと考えられる。
鏡作り一族の消滅
このようにして、神功皇后が大和を破り、新大和朝廷を成立させた。その結果、旧大和朝廷勢力に加担した豪族は処罰を受けた。その中に鏡を作る一族があったため、新大和朝廷が以前のような鏡を作ることができなくなり、踏み返し鏡などを使うことになったのではないかと想像する。 
 
第26節 スサノオ・ニギハヤヒの抹殺

 

第一項 古墳時代中期から後期へ
初期の大和朝廷はスサノオ・ニギハヤヒの神威を利用して政治を行っていた。気候が寒冷化し、生活が苦しい時期は、苦しいときの神頼みで信仰が強かった。この時代の大和朝廷は、神の力を使って巨大な古墳を築造し、その神の力を利用することで政権の安定に努めた。六世紀になると長かった寒冷期は終わり、温暖な時代がやってきた。温暖期になると作物もよくとれ生活が安定してくる。人心も収まってくるので、神の力を使った政治をする必要もなくなり、人々も神をあまり意識しなくなってくる。そのため、権威を誇示するための巨大な古墳は必要なくなり、また、古墳を作るからといって多くの人々を神の力でかき集めるのも難しくなってきて、古墳は次第に小さくなっていった。そして、それまで特別な階層の人物のみ作っていた古墳であるが、生活が豊かになってきたために、あまり力を持っていなかった多くの豪族が古墳を作るようになり、古墳の築造数は増えていくことになった。古墳時代後期の始まりである。 
第二項 仏教の伝来
古墳時代後期になってから生活が楽になってくると、神威は低下してきて、人々はスサノオ・ニギハヤヒをそれほど意識しなくなってきた。そして、そのシンボルである三角縁神獣鏡や前方後円墳も姿を消していった。このようなときに中国から仏教が入ってきたのである。あまり意識されなくなっていた日本古来の神々に変わって登場した仏教は、当時の朝廷人にとって魅力的なものと写った。 
第三項 スサノオ・ニギハヤヒの抹殺
スサノオ・ニギハヤヒ祭祀はニギハヤヒの長男であるウマシマジの直系の物部氏が司っていた。ところが仏像崇拝をめぐって物部氏と蘇我氏との争いが起き、物部氏が滅ぶに及び、朝廷の有力者は神武天皇と共に日向からやってきた一族(蘇我氏・藤原氏)が占めることになった。
日向一族はスサノオが南九州進攻したときに煮え湯を飲まされており、さらに、日向一族の祖である日向女王は、大和では関係がない存在であるから、日向女王を畿内に祭ることができなかった。肩身の狭かった日向一族は物部氏が滅んだのを機会として出雲勢力の抹殺をし、日向一族の歴史を輝くものにしようと謀った。
まず、スサノオ、ニギハヤヒの国家統一事業は、日向族の祖であるイザナギ・イザナミの業績に置き換え、出雲一族との関連で無視できないところは、出雲族でも日向に関係の深かったオオクニヌシの業績に置き換えた。次に、ニギハヤヒの妻である卑弥呼を抹殺し、卑弥呼及びニギハヤヒが持っていた天照大神の称号を、日向女王に与え、天上に上げた。スサノオはその業績を奪われ、日向女王の弟で高天原の乱暴者にされた。ニギハヤヒは大和の創始者であることを抹殺することができなかったので、ニニギの兄にされ、神武天皇以前に大和に天降ったことにした。スサノオ・ニギハヤヒの業績はすべて抹殺し、全国の彼を祭っている神社から彼らの名を消すよう指示した。
この歴史改竄事業を人々に知らしめるため、出雲にオオクニヌシを祭った巨大な出雲大社を作ることになった。信仰の対象を変えさせるわけであるから、出雲大社は巨大である必要があった。出雲大社が古代において奈良の大仏殿よりも巨大だったのはこういった理由によるものであった。そして、日本国を統一したのはスサノオではなく、日向一族であることを神話化して残し、それを、古事記・日本書紀としてまとめ、全国の神社からスサノオ・ニギハヤヒの伝承を抹殺させた。このように地方からこの二柱の信仰を弱めた上で、国分寺を全国に建立し、仏教を広めることができた。人々は出雲大社の巨大さに圧倒されてオオクニヌシ信仰に走り、巨大な国分寺に圧倒されて仏教信仰に走ったものと考える。
このように抹殺された伝承であるが、当然のごとく人々の抵抗は激しく、スサノオ・ニギハヤヒの名を抹殺せず、訳の分からない神の名として残した。出雲大社本殿の真後ろにスサノオの祠があり、大国主命は本殿内で西向きに祭られているそうである。人々が北向きに本殿に拝礼したとき、それは、本殿を素通りして背後のスサノオに拝礼したことになるのである。オオクニヌシの巨大な出雲大社の建立を命じられたときも、出雲大社の本殿の後ろにスサノオの社を造り、朝廷にわからないようにスサノオ祭祀ができるようにしたのである。また天皇自身は正式な歴史の元で皇室行事を行っており、伊勢神宮に参拝をせず、大和の神社に参拝を続けた。
このような人々の抵抗があったために、抹殺漏れが各地に存在し、全国の神社をつぶさに調べることにより、この古代史は復元できたのである。 
 
第四章 まとめ

 

私が二十数年前、島根県で生活していた頃、ある書店で大羽弘道氏の「邪馬台国は沈んだ」という書物を手にしてから古代史の世界にはまり込んだ。元来、考古学の世界とは無縁であり、むしろ神話伝承に関心が強かった。神話伝承は古代史の世界では無視されているが、やはり何かの歴史的事実を反映しているという信念のもと、それを元に邪馬台国の謎に挑もうとしたが、さまざまな自説を立てては崩れ、崩れては立てての繰り返しだった。その中で、原田常治氏の「古代日本正史」「上代日本正史」に出会った。この説は確かに納得するところが多く、「そうかもしれない。」と思うようになった。しかし、日向西都原古墳群の男狭穂塚が卑弥呼の墓であるなどとしており、明らかに考古学上の事象と照合していないことが分かった。
原田説の基本ラインが間違っているとは思われないので、年代設定に間違いがあるのではと思っていた。その時、栗原薫氏の「日本上代の実年代」に出会った。1年2歳論という考え方と共に、崇神天皇以後の年代の合理性にも心打たれるものがあった。しかし、神武天皇から開化天皇までの年代に納得できないものがあった。そこで原田説を160年遡らせて、大和朝廷の成立をAD83年としたところ、中国文献とも一致することに気づいた。その後、広島県埋蔵文化センターの職員だった人と知り合う機会ができ、その人にさまざまな遺物の分布状況について教えてもらった。驚いたことに、新しく知ることができたさまざまな考古学的事象は悉く160年遡らせた原田説を裏付けていたのである。これは大変な驚きであった。「ひょっとしたらこれが真実かも」と思わせるには十分であった。その後考古学にも関心が向き、自分なりにいろいろと調べてみたが、詳しく調べれば調べるほど矛盾が発生するどころか、ますます具体化する方向であり、この説に確信を得るというものであった。
神社伝承を元にまとめられた原田常治氏の「古代日本正史」「上代日本正史」の年代を160年ほど過去にさかのぼらせて、崇神天皇以後の「日本上代の実年代」に接続すると、外国史書や、考古学的事実とことごとく一致するのである。各方面より矛盾点を示すものを探したが、調査した範囲では見つからなかった。土器・鏡・鉄器・銅剣・銅矛・銅鐸・方形周溝墓など傾向を調べたものすべてが、解釈可能な範囲で伝承を裏付けていた。一見違う傾向を示していると考えられるものも、細かく調べていくと伝承を裏付け、さらに具体化させる内容になっていた。神社伝承は考古学的事実を元に作られたわけではないため、偶然ではここまで一致するということはとても考えられない。神社伝承と考古学的事実の間には何か関連があることになる。
考古学的事実に対して、都合の良い解釈をしているとの意見があるかもしれない。事実、考古学的事実というのは、時期の推定に幅があり、また、解釈も複数あるのだが、ここでの解釈は、その範囲にある可能な一つにすぎない。確かに、一つの事象のみから考えると、複数の解釈が可能であるが、数多くの事象が神社伝承とことごとく一致するというのは、やはり、神社伝承と考古学的事実との間に関連があるからとしか考えられないのである。
伝承と考古学的事実を照合していくと、矛盾点が見つかり、伝承の方を修正しなければならないというのがふつうであるが、今回の場合、照合を進めれば進めるほど、伝承の中身が具体化してくるのである。
このようにして、伝承が伝わっていない部分は、前後の関係から矛盾が出ないように推量で補った。一つの試案であるので、各方面から吟味していただきたい。 
 
邪馬台国と卑弥呼

 

古代史異説
日本の古代史には、様々な異説、新説、奇説があります。
その中で群を抜いて奇抜な説をたくさん発表しているのは、小林惠子さんでしょう。
何しろ、聖徳太子は倭王であったというのは、他の方も唱えていますが、それだけでなく、彼は外国人であったと述べておられます。
そして、倭王の中には、朝鮮半島と日本を行き来して、両国の王となった者もいると唱えられています。
日本書紀の神代の話を荒唐無稽と断じておられますが、小林先生のお話も荒唐無稽ではないでしょうか。
何しろ、先生の出発点は、日本書紀を、「万世一系に仕立て上がった」と断言しておられますが、まずその根拠を示されていない。
始めに「日本書紀は政治的圧力により、改竄された」というスタートラインがあり、そのことについては、全く「定説」扱いで、何も証明されておられないのに、「学問として理論が通っていると自負している」と、「陰謀 大化の改新」のまえがきで書かれています。
スタートラインが間違っているのに、そのことについて何も論証せず、「日本古代史の専門家は一部の人を除いて大部分、この欺瞞の二点をそのままにして手を触れない」と逆に他の先生の怠慢を批判しておられます。一部の人とは、ご自分のことでしょうかね。
さて、この「欺瞞の二点」ですが、以下、先生の著書「陰謀 大化の改新」から拝借してみます。
「1、王統譜を万世一系に捏造し、王朝に変遷があること、すなわち日本でも易姓革命があったことを隠蔽している」
「2、主に、中国と朝鮮三国という外国との政治外交史を日本を中心に主体性を持って優位に展開したようにみせかけていること。特に1と関連づけられるが、外国から来た為政者が大王となった事実を極力隠蔽するべく、改竄している」
そして、驚いたことに、この二点を除くと、日本書紀は、「東アジアでも類のない同時代史料として驚くべき正確さを持ち合わせているのだ」そうです。
要するに、日本書紀を批判するとしながら、自分の説に都合のいいことは取り上げ、都合の悪いことは欺瞞だと言って切り捨てる。先生自らが批判されている日本書紀の「欺瞞」を、ご自分でなさっているのではないでしょうか。
まず、外国から来た為政者が大王になったのを隠蔽しているというのは、証明された事実ではありませんから、「欺瞞」とは言えません。
自国を優位にみせかけるのは、日本だけでなく、どの国もしていることです。そして、万世一系を強調するのなら、何故「一書はいう」と異説を載せる必要があったのか。
何故国生み神話の部分は、妙に生々しい記述で、言ってみれば「下ネタ」話が多いのか。
外国人である聖徳太子が倭王だったことを隠蔽するのなら、何故聖人のように美化されて日本書紀に記述されているのか。
私だったら、一切載せませんよ。存在を消してしまいます。倭王だったことを隠蔽できるのなら、そのくらいもできたでしょう。
それに大体何故、外国人を倭王にするのでしょう? その理由がわかりません。そして、何か理由があったのだとしたら、どうして隠蔽しなければならないのか。万世一系ですか。では何故外国人を倭王にしたのですか?
堂々巡りですね。万世一系とは、明治維新以降にできた言葉だと私は聞いています。これが間違いなら申し訳ないのですが、小林先生もやはり、津田流文献批判学の申し子なんですよね。まず証明されていないことを前提にして、全てを考えようとする。
「単独の国として見る歴史観ではなく」とは「聖徳太子の正体」の中のまえがきの一文です。そのお考えはご立派なのですが、依って立つ前提がお粗末です。
聖徳太子の正体は、突厥の可汗、達頭(タルドゥ)だとされています。どうやって彼が日本に来たのか、先生は仮説を展開されていますが、具体的にそれと指摘できることはなく、ただただ推測と憶測の積み重ねです。例を上げてみましょう。
「達頭は、( 中略 )まだ未開発国であり、有力な王のいない日本を目指して東に移動したというのは、常に移動する遊牧騎馬民族であれば、不可能な発想ではない」
「達頭は、600年中にはすくなくとも北九州に上陸したとおもわれるが」
「隋との戦いにやぶれた達頭が、すぐに来日を画策し、百済を通じて大和に連絡をとっていた様子が、この贈り物をつうじて推測される」
私の読解力不足でしょうか。その先をいくら読んでも、「聖徳太子=達頭」という公式が見えて来ないのです。それどころか、隋と戦って破れた達頭が、倭王になり、隋の使者に会えば、まずいことになるのではないかと、勘ぐりたくなってしまいました。
また、梅原 猛先生の、
「タリシヒコは太子本人であるが、( 中略 )隋に対しては自分が王と名乗らなければならないと説得した」
という説に対して、
「何でそのような作為をしなければならないのか理由がわからない」
と述べられ、さらに、
「中国側は日本の事情に精通していたことが窺われ、裴世清に王が替え玉という情報が入らないはずがないと思う」
と述べておられます。
妙ですよね。倭王を替え玉と見破るほどの人物なら、太子が実は突厥の可汗の達頭であると見抜くでしょう。外交的には、その方がずっとまずいと思います。
では何故隋書には、「タリシヒコ」という男の王が出て来るのか。これを解決しなければなりません。
さしてむずかしい問題ではありませんよ。聖徳太子が、実際に政治の実権を握っていることを、隋は知っていたのです。推古天皇はただのお飾りで、太子こそが事実上の「天皇」だということを隋が認識していたと解釈する方が、自然ですよね。
現代でもあるじゃないですか。キングメーカーだとか、影の大統領だとか。足利義満も、日本国王を名乗ったのですし。織田信長も、天皇を超えようとしていました。でも彼等はいずれも天皇ではなかった。そういう解釈って、欺瞞ですかね。
何よりも、何故大和政権は、突厥の可汗だった人物を、倭王に迎えなければならなかったのか、その説明が全く欠落しています。完全に本末転倒ですよ。もっと言ってしまえば、日本書紀の神代より、「荒唐無稽」です。
達頭が日本に来たと証明できても、それは彼が聖徳太子だったという証明には結びつきません。小林先生は、あまり論理的ではありません。感情的な歴史研究家ですよね。「そうであってほしい」という気持ちが、文面からひしひしと伝わって来ます。

異説について語り始めたら、あまりにも奇妙キテレツなお話を書かれている先生がおられましたので、ご紹介しておきます。
その先生の名前は、石渡信一郎さんです。
何しろ、自分の説以外をことごとく否定しまくり、その依って立つ根拠の薄弱さと言ったら、他に類を見ません。
その著書「蘇我馬子は天皇だった」は、とにかく最初から最後までわけがわからない理屈と偏見に満ちていて、推理小説でもこんな荒唐無稽なトリック考えないぞ、というくらい、一人二役、架空の人物、御都合主義のオンパレードです。
例えば、
「蘇我氏は第八代孝元天皇の子孫で、( 中略 )建内宿禰から分かれたとされており、建内宿禰の子の蘇賀石河宿禰が蘇我臣・川辺臣などの祖とされている」
と古事記を引用して説明した上で、
「しかし、孝元天皇はいわゆる欠史八代の天皇の一人で、実在しなかったとみられているし、200年以上も長生きしたという建内宿禰も伝説的人物であることが解明されており、現在この系譜も信頼されていない」
と述べておられます。孝元天皇が架空の天皇というのは、何ら実証されたことではありませんし、建内宿禰が実在の人物ではないと立証されたわけではありません。
ま、この類いですと、他の先生方もよくなさっている、御都合主義なのですが、この石渡先生の偉大なところは、一人二役が大好きなご様子で、「用明天皇は、馬子の分身」と述べてみたり、「聖徳太子は馬子の分身」としてみたりで、推理小説の読み過ぎではないかと思う程です。
例えば、
「日本書紀が大王馬子を大臣としていることを考えれば、大臣稲目は実は大王だったと考えることもできるのである」
と書かれています。何か変ですよね。石渡先生は、馬子が天皇だったことを実証しようとしているはずなのに、その実証しようとしていることを根拠にして、馬子の父である稲目までも大王だったとしているのです。
その上、
「欽明と稲目の姿は、六世紀中ごろの昆支系氏族の首長として完全に重なるから、欽明と稲目は同一人とみていい」
とも書かれています。すごいですよね。何の証拠もなしに引っ張る戦前の警察官より乱暴です。完全に重なると言い切ってしまうところが、天才的ですよね。というか、文才がないのでしょうか。推理小説としては、三流以下ですよ。
もうこの手のことを挙げていくとほんとにキリがありません。コメントなしで、石渡語録を紹介しましょう。
「敏達元年( 572年 )四月に、敏達が即位し、馬子が大臣となったと書かれている。( 中略 )大王馬子は、588年に飛鳥寺の造営を始めているから、この時点で馬子が王権を行使していたこと、すなわち、馬子が即位していたことがわかるが」
「馬子は、敏達の後継者として即位したことになるが、用明も、敏達の後継者として即位したとされているから、この二人の昆支系の大王は同一人物ということになる。つまり、在位期間がわずか二年で死んだ用明は、大王馬子の架空の分身ということになる」
「敏達の死後は、大兄の用明、すなわち馬子が即位することになっていたのだから、大連の守屋が、馬子をあざ笑うことなどできるわけがない」
「馬子の子が善徳という名であることがわかるが、馬子の子の善徳という名は、聖徳太子の聖徳とよく似ているので、馬子が生前もしくは死後に聖徳大王とも呼ばれていた可能性がある」
石渡先生も、やはりそうです。とにかく自分に都合の悪いことは、何でも否定する。そして、自分の説を都合よく解釈するためには、どんどん架空の人物にしてしまい、分身だ、同一人物だと決めつける。
「日本書紀がいかに多くの架空の天皇を作り出したかがおわかりになるであろう」
石渡さんほどではありませんよ。貴方は一体何人の古代人を抹殺し、同一人物とし、地位を詐称させたことか。
石渡さんの経歴を見ると、高校の教諭をされていたようですね。ただ、何の教諭だったのかは書かれていません。私は貴方が歴史の先生でなかったことを祈ります。もしそうだとしたら、「新しい歴史教科書」を作った、自分のことを人前でも「ワシ」と言ってはばからない偏向マンガ家と同じ教育をしていそうですから。
アジア諸国に媚びないことと、アジア諸国を無視することの区別もできない人に、歴史を語ってほしくないし、その資格もないと思います。
日本はまた何となく危険な方向に向かい出していると言う人もいますが、私は比較的楽天主義なので、そこまで深刻には考えていません。
ですが、前述の偏向マンガ家や、新興宗教にも近い「なんたら史学会」とかいう団体も、気になる存在です。
私が危惧するのは、そんな人達の著書を何の疑いもなく読み、信じてしまう人がいることです。
日本人全員がそうではないと思いますが、それだけは心配です。取り越し苦労ならいいのですがね。

日本の古代史の諸説を取り上げて、それについての感想を述べたら、「爽快な読了でした」とメールをいただき、少々照れ臭い感じです。
私は何も、諸説を批判し、叩きのめしたいわけではありませんが、「印税もらって、こんないい加減な論理展開でいいものか」と、ちょっとやっかみも入っていました。
しかし、「爽快な読了」というご感想をいただき、私のやっかみが文章に出ていないのだなと思い、内心ほっとしています。
要するに、「金もらってすることか? 」という疑問が、日本古代史異説の章を載せるきっかけになったのです。
誰にも迷惑をかけず、お金のためでもなく、自費出版でなさることなら、何も文句は言いません。それはまさに個人の自由、思想の自由であり、他人がとやかく言う筋合いのものではありませんから。
しかし、きちんとした証明もできないし、ただ自分の考えがこうだというだけで、読者を惑わすような論文もどきを本にして( しかもハードカバーで )、出版していいものでしょうか。
出版の自由がある、とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。しかし、学術的なことは、出版の自由とは一線を画するものだと思います。
自由なのだから、どんなことでも本にして出版していいとなったら、社会は混乱し、まさしくメディアが支配する世の中になり、情報過多で、人々は窒息しそうになるでしょう。
聖徳太子がどこの誰だろうか、それほど世の中を混乱させはしないでしょうが、論者ごとに結論が違うのは何故なのか。
私の知っているだけで、聖徳太子の正体は三つあります。
まずは、突厥の可汗の達頭だという説。
そして、蘇我馬子だという説。
それに、蘇我入鹿だという説。
共通しているのは、ともに実は倭王だったということです。
どの方ももう一つ共通しているのは、「日本書紀は改ざんされている」という前提に立っていることです。
確かに権力者が作らせたものですから、全部本当のこととは思えませんが、聖徳太子はいなかったとか、誰の分身だとか、本当は違う人物の一人二役だとか、どこからそんなことがわかるのか、教えてほしいものです。
そして共通して浮かぶ疑問は、何故真実を隠さなければならなかったのか、ということです。
どなたも、納得のいく解答をされていないように思います。少なくとも私はとても納得できません。
一度、結論の違う論者の方々にお集りいただき、互いに相手の説を論破していただくというのはどうでしょうか。
ま、収拾がつかなくなるでしょうね。その前に、どなたも承諾されないでしょうが。
聖徳太子がこれほどまで取り上げられ、さまざまな論証がされるのは、彼がそれだけ魅力的な存在だということでもあります。そして同時にとても謎の多い人物でもあるわけです。
私も聖徳太子が何故天皇にならなかったのか、いや、なれなかったのかは、大いに興味がありますが、何しろ諸先輩方の本がたくさん刊行されており、それを一つ一つ読破しないことには、持論を展開できませんので、時間をかけてじっくりとやっていきたいと思います。
その前に、邪馬台国や欠史八代など、問題山積で、六世紀まで辿り着くには、相当な年月がかかりそうです。 
邪馬台国

 

邪馬台国(その1)
「倭人は帯方の東南大海の中に在り」
あまりにも有名な「三国志魏書東夷伝倭人の条(以下魏志倭人伝)」の書き出しです。
「魏志倭人伝」は、非常に興味深い書物です。何しろ、その時代の文献は日本のものは存在していないのですからね。文字自体は伝わっていたかもしれませんが、それが残っていないから、いろいろな疑問や謎が出て来てしまったんですよね。だからこそ、古代日本は面白いんです。
実は、「邪馬台国」と一般的に表記されていますが、現在残っている「魏志倭人伝」には「邪馬壹国」と書かれているのです。では、何故教科書では「邪馬台国」になっているのでしょうか?
多くの学者達は、「台」の旧字である「臺」の誤植であるとして、「邪馬台国」が正しいとしています。
ところがどこにでもひねくれ者はいるもので、「壹」が正しいと言い張る人がいます。その人は、書いてあるとおりに読むのが当り前だとして、「邪馬壹国」が正しいと主張しています。
しかし、ちょっと他の文献を調べてみると、どちらが正しいかすぐにわかります。
別の中国の歴史書の中に「後漢書」という史書があります。これには「その大倭王は邪馬臺国に居る」とあります。「壹」ではなく、「臺」となっているのです。
そして「隋書」には「則ち魏志のいわゆる邪馬臺なる者なり」とあるのです。
さらに挙げれば、唐の時代に作られた「北史」にも「邪馬臺国」とあります。
ついでにもう一つ。同じく唐代に作られた「梁書」にも、「邪馬臺国」とあります。
止めに、やはり唐代に作られた「翰苑」にも「馬臺」とか「邦臺」とか「邪馬嘉」とか記されています。
その当時、妙な流行病があって、「壹」を「臺」と書き誤る人がたくさんいたのでしょうか?
そんなこと、万に一つもありえないことです。「偶然だ」と言い張る人達、それはあまりに科学的でありませんよ。
「翰苑」に関して言えば、福岡県の太宰府市に、平安時代初期に書き写され、そのまま現代に伝えられたものがあります。「翰苑」は誤字が多いですが、現在残っている「三国志」は、12世紀に成立したものですから、成立年代は古いわけです。
結論から言えば、「壹」は「臺」の書き誤りである、というのが、正しいものの見方ではないかと思います。
それから、「臺」と「壹」に関しては、もう一つ、問題があります。
卑弥呼の宗女、臺与(原文では壹与)の字です。
これもやはり、「梁書」、「北史」、「翰苑」は、「臺輿」としています。
もう一度繰り返しますが、偶然や流行病ではありえません。そんなの、あまりにナンセンスです。
私は文献や資料からでは伺い知ることができない、心理的なものを感じるようになりました。
「邪馬臺国」も「臺輿」も固有名詞(臺輿については異説もありますが)です。
つまり、書写や刻印をする時に、些細な思い込みが、「臺」を「壹」にしてしまったのではないかと考えてみたのです。
要するに、どちらも中国にとっては、異国の国名や人名です。その字で正しいのかどうかもわからないかも知れません。まァ、それは極端な話ですが、とにかく、他の文字に比べれば、間違いやすい字だったのではないでしょうか?
この結論は、あくまで私見です。だから、あまり本気で怒らないでくださいね、一部の古代史フリークの方々。
では、その「邪馬台国」は、一体どこにあったのでしょうか?
これもまた、諸説入り乱れています。九州説、畿内説、四国説、沖縄説、飛騨説、北海道説、果てはハワイ説まで....。もう、何でもありなんですよね。
どうしてそんなことになってしまったのかと言うと、「魏志倭人伝」の記す「邪馬台国」までの行程が、あまりにも曖昧だからなんです。
「魏志倭人伝」を読んだことがある方は、よくご存じかと思いますが、距離と日数、そして方向がどうもいま一つはっきりしていないのです。だから、読みようによっては、九州にも近畿にも、四国にも行けてしまいます。まァ、ハワイというのはご愛嬌でしょうけどね。
しかし、先入観を捨てて、じっくりと読んでみると、少しずつ見えて来るような気がします。
「邪馬台国」に行くには、帯方郡(現在のソウル付近)から3回海を渡っています。
まずは、対馬国(つしまこく)まで1回。
そして、一支国(いきこく)までで2回。
さらに、末廬国(まつらこく)に渡り3回。
そしてその後には海を渡るという表現がありません。つまり、ここから先はずっと同じ島のことなのです。
ということは?
多くの学説は末廬国までは比定地が一致しています。ここまでは諸説入り乱れてはいないのです。ならば、もう海を渡らないのだから、この島は九州と考えるのが正しいでしょう。
と、ここまではかなり論理的に話が進められます。しかし、問題はここからなのです。
「魏志倭人伝」には、この次に伊都国(いとこく)が出てきます。一大率(いちだいそつ)と呼ばれている役人がいて、諸国を検察していました。そして、魏からの使者が駐ったところでもあります。この国の位置も、ほとんどの学説は一致しています。しかし、実際に問題になるのは、伊都国の位置ではなく、魏の使者の動向なのです。
魏の使者は伊都国より先に進んだのか否か?
これはまさしく大きな謎です。この判断で邪馬台国の位置がいかようにも変わってくるのですから。
もう少しわかりやすく説明すると、魏の使者が仮に伊都国から先に進んだとすると、実に不可思議な進み方をしていることがわかります。
まず使者は東南の方向に向かい、奴国(なこく)に行きます。そして次に東に向かい、不弥国(ふみこく)に行きます。さらに南に行き、投馬国 (つまこく)に行くのです。そして、いよいよ次に、南に向かい、邪馬台国に着きます。
何となくおわかり頂けましたか?
そう、どう考えても、魏の使者は遠回りをしているのです。まるで何かに遮られているかのように。でも、そんなに迂回しなければならないようなものが、あったとは思えません。邪馬台国が警戒して、わざと遠回りさせたのでしょうか?
いえ、大国魏に対して、そんなことをするとは考えられません。となれば答えは一つ。そう、読み方が間違っているのです。
ここで原文を引用してみます。よく比べてみてください。
東南至奴国
東行至不弥国
南至投馬国
南至邪馬台国
どうですか。ぱっと見で、違いがわかりますよね。そうです、不弥国の時だけ「行」が入っているのです。ここに何かしらの意味があると思うのは、考え過ぎでしょうか。そんなことはないですよね。
私はこう考えます。魏の使者は伊都国から先に進んでいるが、奴国、投馬国、そして邪馬台国には行っていない。行ったのは不弥国だけである、と。
すなわち、東南至奴国とは、伊都国から東南の方向に奴国があるという意味だ、と解釈したのです。同様に、南至投馬国は、不弥国から南の方向に投馬国があるということであり、南至邪馬台国もそうです。このあたりから位置関係があやふやなのも、そのせいだと思います。
さて、この説にはいろいろな反論や補足があるでしょうが、取り敢えず話を先に進めましょう。
邪馬台国が現在に至るまでどこにあったのか特定できない理由が、もう一つあります。それは、奇妙とも言える、日数の表記です。
投馬国の記述になって、唐突に現れる、「水行二十日」がその一つ目です。これは一体何を表しているのでしょうか?
また原文を引用してみましょう。
南至投馬国水行二十日
何か意味をなしていない記述のような気がします。もし、これが不弥国からの行程日数なのだとすれば、いくら当時の移動速度が遅いとしても、九州から出てしまいます。でも、海を渡っていないのだから、投馬国は同じ島の中にあるはずです。(もちろん私の仮説によれば、ですが)
少し前の記述を引用してみます。朝鮮半島沿岸を進んで行くあたりのものです。
従郡至倭循海岸水行
ここで初めて「水行」という言葉が出て来ます。ここでは、海岸線沿いに進むことを表しているようです。この意味で、先ほどの「水行二十日」を考えてみると、「投馬国はここから南にある。海伝いに行けば、二十日かかる(あるいは二十日で行ける)」というような意味ではないかと推察できるのです。多くの学説はこれを勝手に拡大解釈して、「投馬国は船で二十日もかかる遠方にある」と考えているようですが、この二十日も実際に計った日数とは思えないので、数字としては信憑性に欠けていると思われます。
さて、不可思議な数字は、邪馬台国のところにも出て来ます。
南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月
これはさっき以上に難解です。様々な学説がまさに様々な解釈をしています。いくつか挙げてみましょう。
水行を十日してのち陸行を一ヵ月する
水行を十日あるいは陸行を一ヵ月する
水行と陸行を繰り返してし、それを合わせると水行十日位で陸行一ヵ月位になる
邪馬台国に至るまでの全日程が水行十日陸行一ヵ月である
こんなところでしょうか。実にいろいろな解釈ができるものです。人間の想像力とは,本当に凄いですね。では、どれが一番現実的でしょうか?
私は「水行を十日あるいは陸行を一ヵ月する」が一番現実的で論理的だと思います。何故なら、この一文は邪馬台国への交通手段を表したものではないかと思えるからです。
「ここから南に邪馬台国がある。海を使って川を上れば、十日で行ける。しかし、陸を行けば、一ヵ月かかる」
これが私の解釈です。まァ、素人の考えですから、どうか専門家の方、目くじら立てないでくださいね。私も全ての学説を調べた訳ではありませんから、この説がどなたかの説と似ていたり、あるいは全く同じだとしても、それはあくまで偶然です。いくつかの学説に影響を受けたことも事実ですけどね。
邪馬台国(その2)
私は「邪馬台国」について、それほど詳しいわけではないのに、何か言い足りなくて、ついつい長い話を書いてしまう(実際には書いているのではなく、タイプしているのに、こういう表現をしてしまうのは、脳が固くなり始めた証拠でしょうか?)ようです。
まァ、他に書けることがないので、仕方ないですかね。
そうそう、最近また、鏡が見つかったらしいですね。詳しいことは新聞を読んだ程度なので、よくわかりませんが、「邪馬台国近畿説」に有利な証拠となるとか、載っていたようです。でも、それは本末転倒でしょう。
何故なら、発見されたのは、鏡なのですよ。例えが悪いですけど、殺人事件で言えば、凶器のナイフが見つかったという程度のものです。つまり、それだけでは、犯人がどこの誰なのかなんてわからないのです。何も知らない人に、「邪馬台国はやっぱり近畿にあったのか」と思わせるような報道のあり方って、とても危険だと思います。
とても危険だというのは、「邪馬台国近畿説」を信じさせることではありませんよ、近畿説支持者の方々。勘違いしないでくださいね。
私が言いたいのは、報道の在り方なのです。
それは逆の時にも言えることです。
嘗て、吉野ヶ里遺跡が発掘された時、やはり調子のいい学者は「邪馬台国はここだ!」などとのたまっていたようです。でも年代的には邪馬台国よりも前の「倭奴国」が後漢から印鑑(金印という直接証拠はありませんからこういう表現にします)を賜わった頃に近いようなので、ここに卑弥呼が眠っている可能性はゼロでしょう。
しかし、新聞が「邪馬台国は吉野ヶ里だ!」と断じる記事を載せ、「これはあくまで学説の一つに過ぎません」という断り書きを申し訳程度に記事の隅の方に小さく載せていたら、見出しだけを読んで、内容をわかったつもりになってしまう人は、「邪馬台国は吉野ヶ里だ」と思い込んでしまうのです。これは、「古代天皇は架空だ」と思い込むのより、ずっと恐ろしいことです。
近畿説支持者の方、私の言いたいこと、おわかりいただけましたか?
どちらに邪馬台国があったにせよ、それがマスコミによって勝手に作り上げられてしまうのはこの上なく危険なことなのです。そして、それを何の疑いもなく、信じてしまう人々がいる現代も、同じように危険です。
さて、どうも前置きが長くなってしまうのが、私の悪い癖です。本題に入りましょう。
「魏志倭人伝」には、魏と通交があるのは30か国だと書かれています。
そこで「魏志倭人伝」の原文を当たってみると、「対馬国」から始めて、「狗奴国(くなこく)」まで入れて、30か国になります。
ここで一つ問題があります。「奴国」です。この国名は2回出てきます。これを巡って同じ国なのか、それとも違う国なのか、説が分かれています。
素直に考えれば、別の国ではないでしょうか。だってそうしないと、30か国にならないのですから。理由にならないかな。
位置関係から考えてみても、あとから出てくる「奴国」は邪馬台国の南にあるみたいです。しかし、最初に出てくる「奴国」は、どう考えても、邪馬台国より北にあるようです。やっぱり別の国でしょうね。もしかすると、誤字脱字の可能性もありますし。
あと30か国の内訳ですが、「狗邪韓国」を数に入れる説もあるようです。しかし、この国を倭の一国と考えるのは、文章構成上不自然な感じがするのは、私だけでしょうか。
何が不自然なのかと言いますと、「狗邪韓国」について、何の記述もないからです。邪馬台国より遠い小国についてその国名しか書かれていないのとは、ちょっと事情が違うのです。もし、この「狗邪韓国」が倭ならば、何かしら国の内情が記されてもいいはずです。それが全くないのは、「狗邪韓国」が倭ではないという間接的な証拠ではないかと思います。
さてさて、また得意の横道に入ってしまいました。元に戻ります。
邪馬台国と対立関係にあった「狗奴国」は、女王国の南にあったと記述されています。この国も魏と通じていたのでしょうか?
学説の中には、狗奴国も魏と通交があり、同じように属国関係にあったと説く方もいらっしゃいます。
しかし、もし狗奴国が魏と通じていたのなら、やはりもう少し狗奴国について記されたのではないかと思います。むしろ狗奴国は魏に朝貢したけれども、邪馬台国連合の方が早かったので、取り合ってもらえず、やむなく「親魏倭王」の金印を卑弥呼から奪おうと侵略戦争を企てたのではないかという気がします。
その辺のことは、想像の域を出ませんが、「其餘旁國遠絶不可得詳」とあるとおり、女王国より南の国には、魏の使者は行っておらず、詳しいことはわからないと書かれています。
ということは、魏は狗奴国には少なくとも使者を送ってはいないのではないか、という推測が成り立ちます。狗奴国が魏に使者を送ったかどうかは別にして。
伊都国の紹介のところで、「世有王皆統屬女王國」という一文が出て来ます。
この文もいろいろと問題を含んでいるようですが、それは別の機会に譲りまして、今は、狗奴国のことを述べましょう。
この文に対応するように出て来るのが、「其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」です。伊都国は女王国に属しているが、狗奴国は女王国に属していないという表現になっています。これは何を意味するのでしょうか?
伊都国と狗奴国には、王がいる。伊都国は女王の支配下あるいは女王と連合しているが、狗奴国は女王の支配下にはなく、対立関係にあると読めるような気がします。この二つの国を記述した文は、対をなしているのではないでしょうか。
現代風に言えば、カナダは英連邦に属しているが、アメリカは属していないといった感じでしょうかね。
つまり私の考えているのは、狗奴国は邪馬台国とは全く別の国なのではなく、女王率いる倭国の一国ではあるが、女王に従っていない国なのではないかということです。戦国時代の群雄割拠状態を思い浮かべると、おわかりいただけるのではないかと思います。正確には、あの頃とは状況が違うかも知れませんけどね。
もしそうであれば、当然のことながら、狗奴国が魏に使者を送っても、魏は狗奴国を倭国の一部としか認めず、金印紫綬どころか、何も賜わったりしなかったでしょう。
空想みたいな話ばかりだと、ただのホラ話になってしまいますので、もう少し論理的に話を進めることにします。
何故狗奴国が倭国の一部だと思うのかというと、後の方に出て来る「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」という文から推測されるのです。この国は倭国とは明らかに違う国のようです。でも、倭種なんですけどね。この表現方法の違いで、狗奴国は倭国と全く別の国なのではなく、その一部に過ぎないのではないかと考えたわけです。
では「女王境界所盡」、つまり「女王の境界のつきる所」はどう解釈するのかということになります。これは難題です。
しかし、これもあっさり解決できるようです。前に述べた伊都国との対比の話と関係します。
女王の境界のつきる所は「奴國」のようです。では始まりはどの国でしょうか?
それはもちろん「邪馬壹國」です。つまり邪馬台国は「奴國」までを含む21か国の連邦国家で、さらに伊都国や奴国、不弥国、投馬国、末廬国、一支国、対馬国との連合国家でもあったという考え方をしてみたのです。そして狗奴国は、その連合国家をはずれたのではないかと想像しています。
最近気になるテレビ番組が放送されていたので、ここで感想を述べておきます。
その番組とは「世界ふしぎ発見」です。時々、的外れな話題を提供している、ちょっと困った番組です。
先日放送されたのは、「邪馬台国」の話でした。それはいいのですが、ところどころ非常に気になる表現があったのです。
それは何かと言うと、吉野ヶ里遺跡が「邪馬台国」の一部だったと断じていたところです。私の聞き違いならいいのですが、番組が終わるまでそれが、作家の黒岩重吾氏の仮説であることを言いませんでした。
これはまずいです。少なくとも、吉野ヶ里遺跡は「邪馬台国」と同時代のものではないことを番組の中できちんと説明すべきです。それができないのなら、「この番組はすべてフィクションで、登場する人物は実在の人物と関係ありません」と断わるべきです。
ただでさえ、作家の創作した「卑弥呼」と魏志倭人伝の記述をごちゃ混ぜにしている構成自体が問題なのですから。
「世界ふしぎ発見」は、いつから作家の本の宣伝番組になってしまったのだろうと思ったほどでした。
これは後で知ったことなのですが、「季刊 邪馬台国」という雑誌に「偽史列伝」という連載をされている原田 実という方がいらっしゃって、ご自分のホームページなのでしょうか、「世界ふしぎ発見」について、批判をされているものを読む機会があり、自分が感じたことは、それほど奇異なことではないということがわかり、安心しました。
邪馬台国(その3) 東遷
私は考古学はあまりよくわからないので、「考古学的に邪馬台国の東遷は否定された」と指摘されても、今一つピンと来ません。
もともと法律畑が私の専門(とは言え、只単に法学部を出たというだけなのですが)なので、考古学的に証明されたことが絶対だとは思えない節があるのです。
二人の考古学者が、同じ古墳の築造年代を百年近く違う年に比定する。
同じ鏡を見て、二人の、いえ、もっと多くの考古学者が全く違った結論を下す。
どうも考古学って、そんな絶対的なものではなく、かなり主観に左右される学問のような気がします。私が素人だからでしょうか?
犯罪の捜査にも、法医学や鑑識といった、古代史研究における考古学に似たものがあります。
これが発達したおかげで、近年の犯罪捜査は、検挙率が大幅にアップしたようです。
でも、いくら科学捜査が発展しても、目撃者の証言や被害者(当然殺人の場合は無理ですが)の証言がなければ、犯人特定の決め手にはなりえません。
単純に比較すると、またお叱りを受けるかも知れませんが、考古学もそういうものではないでしょうか。
つまり、邪馬台国は東遷などせず、最初から大和の地にあったとされる近畿説の立場に立つ方がある事象を検分する時、必ずその人は自分の学説の都合のいいように解釈してしまいます。それが意識的かどうかは関係なく、です。
何せ、邪馬台国は東遷したと「考古学的に証明された」とする方と東遷しなかったと「考古学的に証明された」という方がいること自体が、考古学の今現在の限界を示しているのてはないでしょうか。
法医学でも、死亡推定時刻は完全に正確には特定できません。何故なら、犯行時の完璧な再現ができないかぎり、幅が出ざるをえないからです。
東遷したことが証明されない限り、邪馬台国東遷説は成り立たないと言うのであれば、近畿説支持者の方、「方位が間違っている」といった類いの仮説なしに「合理的に」魏使が近畿に行ったということを「証明」して下さいませんか。できませんよね。
証明できないことが、すなわち「誤りだ」という考えこそ、そもそも誤りです。そして、証明できないことを承知の上で、「証明して下さい」とか言うのは、イジメにも似ています。
「疑わしきは罰せず」という法律学の考え方にこだわる私としては、証明できなければ犯人という考え方、つまり、「疑わしきは罰す」という発想には、いささか抵抗があるのです。
近畿がいかに古墳や土器、鏡の宝庫だとしても、それは「邪馬台国の可能性」を示す程度のものであり、決して確定要素ではありません。
もちろん、古事記や日本書紀の記述にのみ頼ることも、間違いのもとです。でも、高天原や高千穂の峰を架空の場所としてしまうのは論理の飛躍です。まだこれらの場所は「考古学的に否定され」てはいないようですし。ま、証明できないから、「考古学的に否定」すらされないのかも知れませんけど。しかし、「考古学的に否定された」という考えも、ちょっと妙ですよね。
また例えが犯罪捜査のことになりますが、アリバイのない人間に「どこで何してた?」と尋ねても、どうしようもありません。といって、それだけで、「犯人はお前だ」と決めつけたら、「特高」ですよ。(特高については、自主的にお調べ下さい)
古事記や日本書紀に描かれた神話の舞台となっているのが九州だという理由を、近畿説の方は、どう合理的に説明して下さるのでしょうか。そしてどうして、天孫は畿内ではなく、九州に降臨したのか、説明して下さい。箔をつけるため、なんてなしですよ。
その点については、九州説、あるいは東遷説の方がかなり合理的、論理的に説明できます。
あっ、「神話は机上の創作」っていうのは、決して合理的な説明ではありませんよ。それは、「考古学なんて学者の思い込みだ」というのと同じくらい、卑怯な論理です。
そしてこれは邪馬台国九州説支持者がよく指摘することですが、「魏志倭人伝」にある「参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋五千餘里」については、どう反論されるのでしょうか。近畿だとすれば、一里を一体何キロにすればいいのでしょう? 
考古学者の森浩一先生は、「神武が東遷した時の舞台となった場所付近で、高地性遺跡が次々と発見されている」とその著書「日本神話の考古学」で書いておられます。このことが神武東遷と関係があるかどうかはさらなる検討が必要とおっしゃってはいますが、森先生は明らかに神武東遷、あるいはそれに類するものの可能性をこの高地性遺跡の存在に見い出そうとしておられるようです。
このように考古学者の間でも、神武東遷、または邪馬台国東遷を考えの中に入れている先生がおられます。まだ結論は出ていないと考えるのは、贔屓でしょうか。そうでもないと思うのですがね。
すみません。かなり、喧嘩腰の論調になってしまいました。あまり怒らないで下さいね、近畿説支持者の方々。そして、考古学の研究者、及びマニアの方々。
古墳とか土器とか、私の知識の範疇にないものについては、理屈や論理、あるいは思考で対抗するしかないので、こんな感じになってしまったのです。お許し下さい。
あっ、もう一つありました。蒸し返すようで悪いのですが、歴史の空白である、「謎の四世紀」については、近畿説支持者の方、どうお考えになりますか? この現象も、最初から大和の地に邪馬台国があったとすると、ちょっと説明しにくいですよね。その時期には出雲や吉備と争っていたとでもしますか? 
倭の五王を出雲や吉備の王と考える方もいらっしゃるようです。だとすると、後漢書や魏志倭人伝に出て来る「倭」と宋書に出て来る「倭」は違う国だということですよね。それも面白いとは思うのですが、かなり複雑な情勢になりますね。
ああ、それから、私は大和の地に何もなかった(所謂国家としての大和のことですが)とは思っていません。
邪馬台国が東遷する前に、同じ北部九州からの移住者がそれ以前に打ち立てた、「ニギハヤヒ国」とでも言うべき国家が存在していたと考えているからです。こう考えれば、古い時代に古墳や土器や鏡が存在していたとしても、「邪馬台国東遷説」でも説明がつくのではないかと思っています。
相変わらず、全く勝手な言い分でごめんなさい。
実のところ、近畿説については、近畿説支持者の方の著書を読んだことがなく、全て間接的な情報に過ぎません。
多々、誤解や思い込みがあると思われますので、その辺のところも御教授願えればと思っております。
邪馬台国(その4) 東遷
邪馬台国は、九州にあったのか、それとも大和(奈良県)にあったのか、それとも九州にあったのが、奈良に移ったのか。
今さらながら、この議論に終止符を打つのは、むずかしそうです。
時々メールをいただくのですが、私には何ともお答えしかねるものから、応援のような嬉しいものや、ご批判のものまで、様々です。
その中で、ちょっと考えさせられるものがありました。
「邪馬台国が東遷したというのなら、九州から近畿までという長距離を移動する必要が何故あったのか」 というものでした。
確かに、普通に考えると、3世紀頃の人々にとって、九州から近畿は、相当な距離だったでしょうし、本当にそんな移動を考えるものだろうか、と自問もしました。
しかし、何か理由があれば、そのくらいの距離は何でもないかも知れません。
そこで何か糸口になるものがないかと思い、今までに読んだ本を見返してみました。
すると、あったのです。
考古学者である森 浩一先生の著書「古代史の窓」の中の、77ページから79ページに。ちょっと引用してみます。
「ヤマタイ国奈良説をとなえる人が知らぬ顔をしている問題がある。絹の東伝である。(中略)(古代繊維の研究者である布目順郎氏の紹介があり)
簡単にいえば、弥生時代にかぎると、絹の出土しているのは福岡、佐賀、長崎の三県に集中し、前方後円墳の時代、つまり四世紀とそれ以降になると奈良や京都にも出土しはじめる事実を東伝と表現された。(布目氏がです。 神村注)
倭人伝の絹の記事に対応できるのは、北部九州であり、ヤマタイ国もそのなかに求めるべきだということである。これは論破しにくいので、ついそ知らぬ顔になるのだろう」
これだけですと、一部の方から、「そんなの、邪馬台国の中心が九州にあったことの証拠にはならない」とご批判されると思いますので、さらにそのあとの文を引用いたします。
「布目氏の絹の東伝とは、弥生時代に養蚕と絹織物技術のあったのは北部九州だけであるのに、前方後円墳が列島各地に造営されはじめるや、近畿や中部地方まで一気にその技術がひろがる事実を東伝といっておられる。(中略)布目氏は絹の東伝の背後に、絹文化をもった人の集団の移動があったと考え、邪馬台国の東遷説を支持されている。」
さらに森先生は、
「弥生時代の奈良県域では、弥生遺跡はたくさんあり、しかも大面積の発掘がおこなわれているのに、北部九州の弥生社会でのような銅鏡副葬の風習の形跡は皆無である。(中略)ところが近畿地方で前方後円墳の築造がはじまり、絹が使われだすとともに、ほとんどの古墳に銅鏡が副葬されはじめ、しかも二十〜三十枚の多数の銅鏡を副葬する風習もあらわれる。北部九州の文化が伝わったのは事実とするほかない。その背後に集団の移動を想定すると邪馬台国東遷を考えるのが説明しやすい。」
と書かれています。
私は、神武東遷は、邪馬台国東遷の反映と考えています。そして、それは、必ずしも大軍の遠征のようなものではない、とも考えています。
何故なら、神武東遷も邪馬台国東遷も、勢力拡大の進軍ではない、と考えるからです。
以前、私は、天孫降臨をニニギ一行の脱出行と考えていることを述べました。神武東遷も、その類いではないかと思うのです。理由にならないかも知れませんが、神武が東遷した後の、南九州の地が何も語られていないからです。
九州を捨てて、近畿に向かった。それが神武東遷ではないかと。捨てた地のことはわからないから、その後の南九州のことは描かれない。
怒らないでくださいね、一部の方々。
いずれにしても、近畿地方の変化は、別の文化を持つ一団がやって来たと考えるのが、理にかなっていると思うのですが。
ただ、「そんなの、一部の人間の移動であって、邪馬台国の東遷に結び付けることはできない」とおっしゃる方がおられるなら、どうぞそうお考えになっていて下さい。もう、どうしようもなく、深い溝ができてしまっているようですから。
人の考えは皆それぞれあっていいものです。強制することも、矯正することも許されません。だからといって、自分と違う考えを持つ人を攻撃して、追い込むようなことをしている一部の先生方は、間違っておられると思います。
私も気をつけないといけない、と思いました。 
倭の五王

 

倭の五王。
「宋書夷蛮伝・倭国」に出て来る、正体不明の五人の王です。この五人の正体を巡って、様々な説が唱えられています。
まず、一番最初に出て来るのが、倭王讃です。彼は西暦421年、宋の武帝から官位を授かります。さらに、西暦425年、司馬曹達を遣わして上書を奉り産物を献上しました。
同年、讃が死に、弟の珍(あるいは弥)が跡を継ぎます。
そして西暦443年、倭国王済が宋に使いを送ります。
西暦451年、済は死に、跡継ぎの興が使いを送ります。
西暦462年、興が死に、弟の武が立ち、倭国王となります。
西暦478年、武は宋に倭国王と認められます。
以上が実におおまかですが、倭の五王に関する「宋書」の記述の内容です。それでは、この五人が一体誰なのかを検証することにします。
と、その前に何故この五人が正体不明なのかをお話ししておきましょう。
日本史には「空白の150年」というのがあります。中国の史書の一つである「晋書」に「倭の女王が貢ぎ物をした」(西暦266年)とあるのを最後に、約150年間中国の歴史に姿を現さないのです。次に現れるのは、西暦413年、倭王讃が東晋に使いを送った時です。
実に長い間日本は中国の歴史に姿を見せませんでした。つまり、その頃のことを知る文献が大いに不足しているのです。これを称して「空白の150年」と言います。
この間、日本では何が起こっていたのでしょうか。それを知る術はありませんが、この頃には大和朝廷の前身とも言うべきものができつつあったはずです。そして、何かの事情で、中国への使者を送れなかったのでしょう。その事情とは何でしょうか?
その前に、邪馬台国はどうなったのでしょう。西暦266年に晋に貢ぎ物をしたのは、たぶん邪馬台国の女王、すなわち、卑弥呼の跡を継いだ臺与 (または壹与)でしょう。彼女はどうなったのでしょう。
その後の中国の史書には邪馬台国は出て来ません。邪馬台国は滅んでしまったのでしょうか。それとも...。
こうした訳で、倭の五王は今現在のところ邪馬台国に関係ある者なのかどうか、それもわかっていません。でも、倭国王を称していたのだとすれば、倭の女王と何らかの関係があると考えた方が正しいのではないかと思います。つまり、倭の五王とは、邪馬台国に縁りある者達だと思えるのです。
さて、日本の史書には「古事記」と「日本書紀」があります。口の悪い学者の中には「あれは神話伝承であり、歴史書ではない」と言う人もいるようです。確かに記紀にはそういうところがたくさんありますが、全部が全部そうだと断定するのはいかがなものでしょう。あまり理性的とは言えないと思います。
その記紀の中に「神武東征」という話が出て来ます。初代天皇である神武天皇が、高千穂の宮から軍を進め、ついには大和に入り、橿原に大宮を築き、初代天皇として即位するまでを描いた話です。しかし、「これは全くの作り話である」という考え方が、今は一般的です。確かに話の内容はかなり荒唐無稽であります。でも、話が嘘っぽいから全て嘘というのは、遠山の金さんは桜吹雪の入れ墨は入れていなかった、だから金さんは存在しない、と言っているようなものです。
神武東征らしきことがあったのを認めている学者でも、神武天皇自体の存在は認めない人が大半です。理由は単純にして明瞭です。神武天皇は100年以上生きたとされているためです。そんな長生きをその時代にできるわけがない、というものです。ですが、だからと言って、神武天皇の存在自体を否定する理由にはならないと思うのですが、どうでしょう。
私は別に皇室に特別な思い入れがあるわけでも何でもありません。ただ、論理的でない結論がまかり通っている古代史という学問に、とても不満があるだけです。古代史研究をしている人の多くが、初代天皇は崇神天皇だとか、応神天皇だとか、あるいは応神天皇と仁徳天皇は同一人物だとか、もう何の根拠も証拠もなく勝手に論じています。あんた、見て来たのか、と問い正したいくらい想像力が豊かな人が多いのです。ほんと、呆れちゃいます。
そういう人達の考えの拠り所となっているのは一体何かと言えば、「欠史八代」という奇妙な言葉です。これは神武天皇の後、二代綏靖天皇から九代開化天皇までは、実在しないというものです。その根拠は「あまり事蹟が記されていないから」だそうです。相変わらず何でもありなんですよね。
あれあれ、話が横道にそれちゃいました。元に戻しましょう。確か、倭の五王は邪馬台国に縁りのある者だというところからでしたね。
実はそのことと神武東征が関係があるんです。どういうことかと言いますと、学説の中に「邪馬台国東遷説」というものがあるんです。要するに邪馬台国が何らかの事情で九州を離れ、近畿の地に移り、そこで大和朝廷の礎を作ったという説です。そんな大移動があったために、中国との行き来ができなかったのではないか、という説があります。ただし、これも何の証拠もないのですが。
その邪馬台国の東遷の反映が神武東征なのではないか、という説もあります。もし、邪馬台国が東遷して大和朝廷になったのであれば、神話の舞台が九州が多い理由も、神武天皇が東征した理由もわかるような気がします。つまり、記紀は決して「神話伝承」ではない、ということです。
さて、いよいよこの章の本題に入りましょう。倭王の正体です。
まずは倭王讃です。讃は一体誰でしょう?
彼の正体は、諸説あります。
応神天皇説(彼の諱号の誉田ホムダのホムの意味の漢訳が讃だという説)
仁徳天皇説(諱号の大鷦鷯オオササギのサの音をうつしたという説)
履中天皇説(諱号の去来穂別イザホワケのザの音をうつしたという説)
以上三説が代表的な説です。では、具体的に検証してみましょう。
讃には弟がいたと記されています。学者達の多くは、これを無視しています。間違いだくらいにしか思っていません。邪馬台国の時の「壹」と「臺」とは訳が違います。人間関係の記述に誤りがあるというのは、あまり考えられないと思います。私は讃と珍は兄弟だったと考えています。
では讃は一体誰なのか?
私は讃は応神天皇ではないかと考えています。その根拠は名前です。
邪馬台国の時は「卑弥呼」とか「臺与」とか和名を音で表す名前が使われていました。しかし、「宋書」では、明らかに中国式の名前になっています。逆に言えば、日本側で中国式の名を名乗ったと考えられるのです。そう考えると、讃は応神天皇の「誉田」の「誉」を漢訳したものだというのが、一番理に適っていると思います。
全く同じ理由で次の珍は仁徳天皇だと思います。諱号の「大鷦鷯(オオササギ)」の「大」の漢訳だという説があるからです
しかし、ここに矛盾が生じます。讃と珍は兄弟ですが、応神と仁徳は親子です。関係が違ってしまいます。どう解決しましょうか。
宋書の選者は沈約という人で西暦441年から513年まで生きた人です。つまり宋書は5世紀から6世紀にかけて作られたものと思われます。
これに対して、記紀は8世紀に作られたものです。しかも初期の天皇は皆異常なほど長命で、仁徳天皇などは日本書紀によると、在位年数が87年になっています。これは、天皇家の歴史を実際より長く見せようとしたためにとられた苦し紛れの措置です。ということは、兄弟なのに親子にしてしまう方が歴史は長くできるのではと思えてきます。それに応神天皇や仁徳天皇の頃から250年は経っているのです。間違えるとすれば、記紀の選者の方ではないかと思います。私としては、間違いではなく故意に兄弟を親子にしたのだという説を採りたいのですけどね。
話はまた横道にそれますが、だからこそ私は、神武天皇から開化天皇までの所謂実在しないと言われている天皇も存在したのだと思うのです。何故なら、天皇の寿命を非常に長くするくらいなら、もっとたくさんの実在しない天皇を創作して並べた方が本当らしく見えるからです。寿命を長くして天皇家の歴史を延ばそうとしたのは、存在した天皇だけで作ろうとしたからでしょう。古代の人達は私達が考えるほど悪知恵の働く人ではないと信じたいです。
ごめんなさい、脱線ばかりしていて。そういったわけで、倭王讃は応神天皇、倭王珍は仁徳天皇だという私の説(正確には私が支持する説ですが) は、おわかりいただけたでしょうか。でもこれだけだと単なる思い込みと言われちゃいますよね。そこでもう一つ、とっておきの根拠を挙げてみます。
日本書紀では天皇の在位年数で出来事を記述しています。これに基づき、実在がかなり確実に裏付けられている雄略天皇を出発点にして遡ります。その遡り方が、ちょっとユニークなんです。
どんな具合に遡るのかというと、書紀の在位年の記述が若い月に戻るまで(つまり、3月が2月とかになるまで)の間を同じ年の出来事と考えるのです。すると実に不思議なことに恐ろしいほどあてはまっちゃうんですよ、倭の五王に。
では実際にその「神村式年表」を御覧にいれましょう。
雄略天皇-----在位期間--西暦461年から484年
安康天皇-----在位期間--西暦458年から460年
允恭天皇-----在位期間--西暦450年から458年
反正天皇-----在位期間--西暦448年から450年
履中天皇-----在位期間--西暦442年から447年
仁徳天皇-----在位期間--西暦429年から442年
応神天皇-----在位期間--西暦413年から425年
こんな具合です。応神から仁徳の間にインターバルがあるのは、書紀にある「空位3年」の記述に基づいていますが、別に425年から仁徳でも差し支えありません。それでは、今度は「宋書」に出て来る年代をあてはめてみます。
西暦421年、倭王讃使いを送る。-----応神天皇に該当。
西暦425年、讃、再び朝貢。---------応神天皇に該当。
西暦425年、讃死す。弟珍立つ。-----仁徳天皇に該当。
西暦443年、倭王済、遣使入貢。-----履中天皇に該当。
西暦451年、済、使持節都督六国諸軍事に任ぜられる。----履中天皇に該当。
西暦462年、世子興、安東将軍、倭国王に任ぜられる。----允恭天皇に該当。
西暦462年、興死す。その弟武立つ。---雄略天皇に該当。
西暦478年、武、朝貢。------------雄略天皇に該当。
倭王興のところがちょっと在位期間と一致していませんが、あとはほぼ合っています。思いつきでやってみたことでしたが、結果を見てびっくりという感じでした。案外、書紀の選者はこんなふうに歴史を延長していたのかも知れませんね。
また、一部の研究家の方の中には、「倭の五王」が天皇だという証拠はない、と言う方々がおられるようですが、それは本末転倒というものです。
証拠がなければ間違いだというのであれば、その時代に天皇家以外で中国に使者を送っていた勢力があったという証拠を見せてほしいものです。
日本には、自分達の祖先が残した史書を全く信じない研究者がたくさんいます。でも、それでは歴史を研究することができないのではないでしょうか?
記紀を全て信じろ、とは言いません。でも、何もかも疑ってかかったら、何もわかりませんよ。
現に、法隆寺が焼失したという日本書紀の記述は、長い間信じられていませんでしたが、昭和43、44年の若草伽藍の発掘調査によって再建されたことが決定的となりました。
中国の殷王朝も、神話に過ぎないと言われていましたが、殷墟の発掘により、その実在が明らかになったのです。
日本の古代史があまりにも不明確なのは、物的証拠がないからです。それには、発掘しかありません。
宮内庁の官僚達が、天皇陵を調査させてくれれば、もっといろいろなことがわかると思います。 
神武から崇神

 

神武天皇。この天皇の実在性を考えること自体が、日本の古代史学では、疎んじられてきました。何故でしょう?
それは、太平洋戦争前の「皇国史観」が、戦後、尽く否定されたからです。
皇国史観については、敢えて詳しいことは省きます。ただ、私が言いたいのは、「皇国史観」が正しいということではありません。「皇国史観」という、極端なものの見方が否定されると同時に、本来なら、論議されて決められるべきことまでもが、全て否定されてしまったのです。
そのおおもととなったのが、津田左右吉(1873-1961)に始まる、文献批判学です。
津田先生は、記紀に記されている神話や古代天皇の話は、欽明天皇(6世紀中頃)の以後に、大和朝廷の有力者により、皇室が日本を統治するいわれを正当化しようとする政治的意図にしたがって、創り上げられたものである、と説き、戦前は弾圧されました。
しかし、戦後になり、津田学説は甦りました。そして、時代的風潮も手伝って、津田流文献批判学は、戦後の日本古代史学の主流となりました。
悲劇の始まりです。「古事記」「日本書紀」の神話や古代の天皇についての文献的価値は、否定されていきました。今現在、学説の主流を占めるのが、この考え方です。このホームページを読まれている皆さんの多くが、それと同じ考え方をされていると思います。
それがいいことか悪いことかは、述べません。しかし、それでいいのでしょうか?
津田学説は、すごく説得力のある学説のようですが、薄皮を一枚剥がして見ると、何の根拠もない、ただのホラ話でしかないことがお分かりいただけると思います。
何故なら、津田学説の根本にある「神話と古代天皇の話は机上で創られたもの」という前提自体が、何も裏付けのないものだからです。津田学説は全てそこから始まっています。すなわち、「こうだからこうだ」という論理的な学説ではなく、「こうなんだ」という、思い込みと決めつけの学説なのです。
このホームページを開設して、何人かの方から、メールを頂きましたが、その多くの方が、この津田学説に始まる根拠のない文献批判学に毒されており、「日本書紀は藤原氏の都合のいいように創られた史書である」と思い込んでいたり、「古代天皇は実在しない」という、特に裏付けもなく言われていることを鵜呑みにしていたりと、かなり重度の感染状態です。
何度も繰り返すようですが、私は「古事記」「日本書紀」の信奉者ではありません。ただ、いわれのない疑惑を向けられ、必要以上に疑われている記紀に同情しているだけです。
話は横道にそれますが、私は実は推理小説も大好きで、よく読んでいます。
そんな中に亡くなられた高木彬光氏の「邪馬台国の秘密」という推理小説があります。
天才探偵の神津恭介が邪馬台国の謎に迫る、かなりよく調べられた作品で、推理小説というより、一つの学説と言った方がいいのではないかと思われるほどのできです。
作品の中で、高木氏は、かなり大胆な仮説を神津恭介に語らせています。その多くは「なるほど」と思わせるものばかりです。さすが、推理作家です。
そして、高木氏は、邪馬台国を宇佐に比定しています。この結論は私の考えとは違っているのですが、宇佐神宮の下に卑弥呼が眠っているという説には、賛成します。都と墓は必ずしも近くになくてもいいはずだからです。
私が残念に思うのは、高木氏が、実に論理的に仮説を展開しているのに、やはり、津田学説に毒されていた点なのです。高木氏は、「魏志倭人伝」を100%信じているのに(というよりは頼りにしているのに)、「古事記」「日本書紀」は、ほとんど信用されていないのです。ですから、神武から開化までは完全に否定しています。論議の対象ともしていません。それは、後に高木氏が書いている「古代天皇の秘密」でも同じです。
何故なのでしょう?
一つには、戦前日本の、あまりにも極端な「皇国史観」教育を受けた方のため、天皇に関係することは全て作り事だ、という考えが深層心理の奥底まで根付いているためではないかと思われます。まァ、それは私の思い込みかも知れませんが、とにかく、日本人は、極端から極端に走りやすい傾向があると思います。
さて、横道が本道のようになってしまわないうちに、話を元に戻しましょう。
まずは、神武天皇についてです。
神武天皇は、「神倭伊波礼毘古(かむやまといはれびこ)」(古事記)、または、「神日本磐余彦(かむやまといはれひこ)」(日本書紀)と呼ばれています。そして、またの名を「始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)」と言います。「始めて天下を馭めた(おさめた)天皇」という意味のようです。「ハツクニシラススメラミコト」と呼ばれている天皇は、もう一人います。第十代崇神天皇です。崇神に関しては、またあとで述べるとして、まずは話を進めましょう。
この二人の「ハツクニシラススメラミコト」が存在することを理由に、「神武天皇は崇神天皇の投影である」という学説が唱えられています。その一人に早稲田大学名誉教授の水野祐先生がおられます。
水野先生は、神武から開化までの天皇を全て、「架空である」と断じています。
私は、実を言うと、水野先生の通信講座を受け、水野学説を学んでいます。しかし、その学説の中には、神武から開化までの9人の天皇が架空であるという客観的な根拠は挙げられておらず、「私はこう思う」式の論理しか書かれていませんでした。要するに、まず大前提として、「神武から開化までは架空の天皇である」という決めつけがあるだけなのです。何ら裏付けがあるものではないのです。やはり水野先生もご多分に漏れず、津田流文献批判学の毒に侵されているのです。
架空天皇説の多くは、矛盾だらけの論理を展開しています。一例を挙げてみましょう。
水野先生は、神武天皇の東征伝説を「渡航伝説」と「大和平定伝説」とに分類されています。そして、この二つの伝説の性質の違いを挙げておられます。
どんな違いかと言いますと、「渡航伝説は固有名詞と数詞で満たされているが、大和平定伝説は、叙事詩的な物語が豊富に出て来る」のだそうです。
どういうことか、具体的に言いますと、「渡航伝説は地名や人名、数字などという、最も忘れられやすい、変化しやすく伝承しにくい事柄が明示されてい」て、「大和平定伝説は伝承的文芸として印象に残りやすい叙事詩的な物語が究めて豊富に出て来る」のだそうです。
一読しただけでは、「ああ、本当だ。確かに違っている。水野先生の言うとおりだ」と思ってしまうでしょう。しかし、よく考えてみてください。「地名や人名、数字」が「最も忘れられやすい」なんていつ証明されたのでしょうか。そして、「叙事詩的な物語」が「印象に残りやすい」というのも、何ら証明されたことではありません。
その何の証明もされていない、言ってしまえば「思い込み」に基づき、水野先生は「渡航伝説は後から考えられた作り話で、大和平定伝説は何らかの歴史的事実を語っている」と、説いておられます。
また、水野先生は、「文字や記録のない時代のことであれば、固有名詞や数詞は忘れられやすいという法則は、ほぼ確実に成立する」とも述べておられます。そして、アイヌのユーカラを例にひき、「伝承者ごとに伝承の中心人物が変化する」ことを挙げておられます。
ですが、それは証明にはなりません。何故なら、アイヌのユーカラは口伝ですが、神武天皇の渡航伝説が口伝だという証拠はないのです。しかも先生は自己矛盾まで露呈させています。
「記紀の編纂が8世紀、そして、記紀によれば、神武天皇の建国伝説はそれより1000年以上前、しかもその間に文字・記録はない、という条件を考えた場合、"神武天皇"という固有名詞が正確に伝わることはありえない」と述べておられるのです。何が自己矛盾か、おわかりいただけますよね?
そう、水野先生は、ご自分が疑っておられる神武天皇の建国伝説を「記紀の編纂から1000年以上前」と記紀の記述に基づいて位置付けており、その上、「文字・記録はない」という都合の良い条件下で「神武天皇」という固有名詞が伝わることはありえない、とされているのです。すなわち、水野説は、自分にとって都合の良い部分だけは記紀の記述も引用し、「文字・記録はない」という未確認情報に基づき、「神武天皇」という固有名詞は正確には伝わらないと断じている、究めて非論理的な説なのです。
あまり過激なことを言うと、「名誉毀損」とか言われちゃいますので、このくらいにしておいて、話を先に進めましょう。
水野先生の説は津田流文献批判学の典型的な一例です。それから、ついでにもう一つ。
正確に伝わる期間というものがあるとします。そして、それが100年で、それ以上は正確に伝わらないと仮定してみましょう。そうすると100年と一日経つと、いきなり昨日までみんなが覚えていたことを、誰一人として覚えている者がいなくなってしまうことになります。そんなことは現実にはありえません。「固有名詞や数詞は正確に伝わらない」という仮定ができたとしても、それによって伝わらないことが証明できるわけではないのです。時間は途切れたりしないでずっと繋がっているものだ、という認識が欠如していると、「1000年も経てば、正確に伝わらない」などと、断じてしまうのです。
そして何よりも、邪馬台国の時代に中国と交易していた倭国が、文字を知らなかったとは思えません。「倭人は暦を知らない」と「魏略」に記述されていますが、「文字を知らない」とは書かれていないのですから。「金印紫綬」まで授かった卑弥呼が、読み書きができなかったなんて、到底思えませんものね。
さてさて、本道に戻りましょうか。
架空天皇説について語ると、本当にきりがなくなるので、敢えて割愛させて頂きますが、いつかこのことだけで、一つの章にしようと思っています。
では、神武天皇は実在したのでしょうか?
神武天皇そのものの実在を証明することはできませんが、「ある人物が南九州の地から大和の地に入り、そこを征服支配した」という話が、語り継がれていたことは、疑う余地がありません。何らかの事実がなければ、大和から遠く離れた南九州という、当時としてみれば、辺境の地(南九州に住んでいる方、ごめんなさい)に、天皇家の故郷を求めるはずがありません。
もしこの故郷がもっとそれらしい地に求められていれば、それこそ、「机上で作り出した話」となったでしょう。
私は、「邪馬台国の章」でも述べているのですが、邪馬台国が東遷して、大和朝廷になったという説を支持しています。その説に基づいて、私独自の(と言ってもそうではないかもしれないのですが)仮説を展開してみたいと思います。
まず、神武天皇です。神倭伊波礼毘古(かむやまといはれびこ)と呼ばれています。
ここで一つお断りしておきたいのですが、私は「日本書紀」より「古事記」の方が、より古い表記をしていると思えるので、天皇の名は「古事記」の方を採用しています。
さて、カムヤマトイワレビコ(以下カタカナ表記にします)には、「倭」の字が使われています。この字は、紛れもなく中国が当時の日本を指して使った「倭」と同じです。そして、これを「ヤマト」と読んでいる点に注目してみます。
私は初期の朝廷は、連合政権だったのではないかと考えています。その理由は、それぞれの天皇の名です。神武の「カムヤマト」は、所謂「倭国」の後継者を意味していると思えますし、続く第二代綏靖天皇の「カムヌナカワミミ」の「ミミ」は「投馬国」の官である「弥弥(ミミ)」と音が同じです。さらに第三代安寧天皇の「シキツヒコタマテミ」の「タマ」は「不弥国」の官である「多模(タマ)」と音が同じです。そして、第五代孝昭天皇の「ミマツヒコカエシネ」の「ミマツ」は邪馬台国の次官の「弥馬升(みまと)」と音が似ています。
ちょっと時代は下るのですが、応神天皇の妃の父は「ホムダノマワカ」と言いますが、その父親が「イホキノイリヒコ」と言います。この「イホキ」が「邪馬台国」の後に出て来る、名前しか紹介されていない「已百支国(いはきこく)」の音と似ているのです。つまり、応神天皇は、この流れを受け継ぐ者ではないかと思えるのです。応神の「ホムダワケ」の名は、「ホムダノマワカ」の入聟なので、妻方の姓を名乗ったのではないかと考えています。
要するに、私が言いたいのは、古代の天皇は、卑弥呼率いる女王国に関係する人々が、何らかの理由で九州の地を離れることになり、互いに助け合って大和の地までたどり着き、連合政権をうち立てた人々なのではないかということです。かなり苦しい説ですけどね。
「古事記」に記されている天皇の名から、いくつかの流れがあるような気がするので、それをまとめてみました。
倭族(ヤマトゾク)
神武天皇 懿徳天皇 孝安天皇 孝霊天皇 孝元天皇 開化天皇
以上の6人の天皇は、いずれも名前に「倭(ヤマト)」が入っている天皇です。
投馬族(トウマゾク)
綏靖天皇
前にも述べたとおり、綏靖天皇の名には、「ミミ」が入っており、これが「投馬国」の官の「弥弥」と音が同じです。
不弥族(フミゾク)
安寧天皇
やはりこの天皇の名の「シキツヒコタマテミ」も「不弥国」の官の「多模」と音が同じです。
邪馬台国の高官族
孝昭天皇&崇神天皇&垂仁天皇
孝昭と崇神の二人の天皇は、いずれも「ミマ」という音が名前に入っています。これは、「邪馬台国」の次官である「弥馬升(ミマト)」と音が似ています。そして、垂仁天皇の名には、「邪馬台国」の官の「伊支馬(イキマ)」と音が似ている「イクメ」が入っています。
已百支族(イホキゾク)
応神天皇
この天皇の名は「ホムダワケ」ですが、彼の妃の父親が「ホムダノマワカ」で、さらにその父親が「イホキノイリヒコ」であるので、邪馬台国連合の一国である「已百支国」の末裔ではないかと考えます。
それではここで、「倭の五王の章」で用いた、「神村式年表」を応神を起点にして当てはめてみましょう。
「倭の五王の章」を読まれていない方のために解説しておきますが、この「神村式年表」は、日本書紀の天皇の在位年数から割り出す、あまり科学的とは言えない代物です。要するに、記述の中に出て来る月が若い月に戻るまでは同じ年のことと考えるものです。
応神天皇・・・413年から425年  在位期間・・12年
神功皇后・・・404年から412年  在位期間・・ 8年
仲哀天皇・・・399年から403年  在位期間・・ 4年
成務天皇・・・395年から398年  在位期間・・ 3年
景行天皇・・・380年から394年  在位期間・・14年
垂仁天皇・・・369年から380年  在位期間・・11年
崇神天皇・・・355年から368年  在位期間・・13年
開化天皇・・・350年から354年  在位期間・・ 4年
孝元天皇・・・346年から349年  在位期間・・ 3年
孝霊天皇・・・343年から345年  在位期間・・ 2年
孝安天皇・・・339年から343年  在位期間・・ 4年
孝昭天皇・・・336年から338年  在位期間・・ 2年
懿徳天皇・・・332年から335年  在位期間・・ 3年
安寧天皇・・・328年から331年  在位期間・・ 3年
綏靖天皇・・・326年から328年  在位期間・・ 2年
神武天皇・・・323年から325年  在位期間・・ 2年
いかがでしょうか。事蹟の少ない天皇は、やはり在位期間が短くなっていますよね。神武天皇は、即位以前の話が膨大なので、即位後の話は短めなのかも知れませんね。
私の年表によると、神武天皇の即位は、4世紀前半で、倭が中国と行き来を跡絶えさせていた頃に重なり、神功皇后の三韓征伐も、「三国史記・新羅本紀」の「倭兵来りて明活城を攻め」という記事と合致します。まァ、偶然と言われればそれまでなんですけどね。
さて、この章を読んで下さった方から、「天皇の在位期間が2~3年では、古墳を造ることが不可能なのではないか」というような、お叱りにも聞こえる質問を頂きました。
私の考えでは、初期天皇の古墳は、事実上特定できない状態であり、巨大な古墳ではなかったことは、古事記や日本書紀の記述からもわかることなので、在位期間の短さがそれほど問題になるとは思っていません。
但し、だからと言って、この考えを金科玉条のように思っているわけではありませんよ。
それほどうぬぼれてはいないつもりですし、素人考えなのですから、あまり辛辣な反論や厳しい質問には、ちょっと対抗できません。
愚痴ってみても仕方ないので、割り込みコーナーはこの辺にして、先に進みましょう。
それではここで、もう一人の「ハツクニシラススメラミコト」である崇神天皇について、述べてみます。
崇神天皇の投影が神武天皇だという主な理由は、この「ハツクニシラススメラミコト」という名前のせいです。本当に二人の天皇は同一人物なのでしょうか?
神武天皇は「始馭天下之天皇」と表記され、崇神天皇は「御肇国天皇」と表記されています。
読み方がわからなければ、同じ音になるとは思えないほど字が違っています。
やはり、意味も違うのではないでしょうか。ちょっと検討してみましょう。
馭という字は、「天子の即位」という意味があるようです。そして、始は「初めて」という意味にも使われるようです。ということは、
「初めて天下(人間界)に即位した天皇」
と読めないでしょうか?
こじつけ臭いですかね?
これに対して、肇という字はどういう意味があるのでしょうか?
始める、という意味があります。そして「肇国」というのも出ていたので、ついでに載せときましょう。「初めて国を建てる」という意味があるようです。
つまり、二人の天皇に送られた尊号は、意味するところが違うのではないかと思えるのです。
前にも述べましたが、初期の朝廷は、まだ国家というには程遠い連合政権の小国だったのではないでしょうか。そして、崇神天皇の代になって、ようやく国家としての形ができてきたので、このことを称えて、「御肇国天皇」と呼んだのではないかと思います。
逆に言えば、崇神天皇が初代天皇だとすれば、その前には何もなかったのか、という疑問が湧いてくることになります。
後の世でも、足利幕府を開いたのは足利尊氏ですが、その幕府を強大にしたのは、足利義満です。徳川幕府にしても、同じことが言えます。すなわち、国家として完成されるまでには、時間がかかるということです。神武天皇と崇神天皇が似ているのは、崇神天皇が自分の祖先である神武天皇を尊敬していて、それに倣おうとしたからかも知れません。似ているからといって、それだけで同一人物だとか、どちらかがどちらかの投影だというのは、短絡的すぎると思います。
また、「似ているのはその人物の投影」という論法に依れば、逆も言えます。つまり、「崇神天皇は神武天皇の投影である」と。
この説、一皮剥けば、その程度の根拠しかないのです。
私の年表から割り出すと、崇神天皇は368年に没しています。これは、崇神稜の考古学的年代である4世紀後半に一致しています。そして、大和地方に古墳が現われ始めるのは、3世紀末から4世紀初頭です。つまり、崇神稜に葬られているのが崇神天皇であれば、ピッタリ当てはまるのです。崇神以前にこの地に支配者的存在があったということも。ついでに言えば、私の年表では、神武天皇は325年に没していますので、これも当てはまるわけです。
いろいろと勝手なことを述べてきましたが、私の言いたいことは、「多数説、必ずしも真実に非ず」ということです。「もっと自由に」とかいう歌がありましたが、学問もそうだと思います。 
古事記と日本書紀

 

古事記と日本書紀。何故この二つは編纂されたのでしょう?
しかも、古事記には偽書説まであります。いろいろ議論は尽きないようですが、私は妙に奇をてらった学説や、天の邪鬼のような学説には、あまり感心しません。そういう学説を唱えている方に限って、「素直に読んだら、そう読めた」とか言ってますから、人間て不思議な生き物です。
古事記は和銅5年(西暦712年)に編纂されたと伝えられています。これにも諸説があるようですが、今回触れたいのは、そのことではないので、別の機会に譲ります。
そして、日本書紀は養老4年(西暦720年)に編纂されたと伝えられています。もちろん、これにも諸説あります。しかし、そのことに触れていくと、論旨がずれてしまいますので、これも別の機会に譲ります。
一般的に言われているのは、古事記は日本書紀より時の権力の影響を受けていないという考え方です。確かに古事記にはイザナギ・イザナミの国生み神話や、ヤマトタケルの神話など、日本書紀とは違って、やや残酷な描写があったりします。
そんなことから、古事記に信を置く方がおられますが、逆に偽書説を唱えて、古事記を信用しない方もおられるようです。
この偽書説も序文偽書説と古事記偽書説とがあるようです。詳しいことは資料不足のため、わかりませんが、これもそのうち確かめて、掲載したいと思っています。
では、もう一度もとに戻って、この二つの史書はどうして編纂されたのでしょうか?
というより、どうして、古事記と日本書紀はほぼ同じ時期に編纂されたのに、内容に大きな違いがあるのでしょうか?
あまり難しく考えないで結論を出してしまえば、編纂に携わった人が違っているということでしょうか。
比較にならないでしょうが、同じ人物を扱った小説でも、作者が違うと、別の話のようになってしまいます。歴史の教科書でも、諸説があるものでは、出版社や著者により見方が変わっています。
その程度の結論を出してしまえば、話はそれでおしまいになってしまいますので、もう少し、掘り下げて考えてみましょう。
古事記も日本書紀も、神話の時代から話が始まります。
神話には史実の核があるという方もいらっしゃれば、机上で作られた荒唐無稽な創作だと言う方もいらっしゃいます。
一度でも何か小説のようなものを書いてみたことのある人にはおわかりいただけるかと思いますが、自分の経験したことや実際にあったこと、あるいは人から聞いたことを一切含まずに話を作るなんてほとんど不可能です。どんなすごい小説でも、必ず何かしら、事実や経験を含んでいます。それが人間の知能の限界なんです。全て作り話だった、という詐欺事件とかでも、それはその犯人にとっての作り話ではあるかも知れませんが、実際にあったこと、起こったことのはずなんです。
私は、古事記や日本書紀に限らず、神話や昔話は、必ず実際にあったことを基にしていると考えています。ですから、神代の話を作り話と決めつけ、何の議論もせずに放っておいている学者の先生方には、ほんとに呆れ返ってしまいます。
たとえば、上田 正昭という先生がいらっしゃいますが、この方が学生社刊の"「古事記」と「日本書紀」の謎"という本に書いておられることなのですが、「皇祖神をめぐる二元性の問題」として、天照大御神と高木の神は、どちらが高天原の中心の神なのか、という話をされています。ここで、上田先生は、肝心の自説については、「私の本に出ています」ということで、明確にはされていません。しかし、恐らく、よくあるパターンの「天孫は外来」という考え方ではないかと思います。
ここであまり感心しないのは、古事記と日本書紀についての天照大御神と高木の神の扱いの違いには触れているのに、「天の岩戸」の前と後の天照大御神と高木の神の関係の変化については、何も触れていないことです。
「天照大御神と卑弥呼の章」でも触れましたが、岩戸事件前後で、天照大御神と高木の神の関係ががらりと変わっているです。これについての詳しい資料は、私が多大な影響を受け、このホームページを開設するきっかけになった、安本 美典氏の著作である「新版 卑弥呼の謎」に出ていますので、それを引用させて頂きます。
まずは古事記ですが、
天の岩戸以前   天照大御神が単独で行動 16回
         高木の神と共に行動       0回
         高木の神だけで行動       0回
天の岩戸以後   天照大御神が単独で行動   6回
         高木の神と共に行動       7回
         高木の神だけで行動       2回
という感じです。岩戸以前は、天照大御神の独裁といったところですね。
これに対して、日本書紀は、もっと明確に違いが出ています。
天の岩戸以前   天照大御神が単独で行動 18回
         高木の神と共に行動       0回
         高木の神だけで行動       0回
天の岩戸以後   天照大御神が単独で行動   1回
         高木の神と共に行動       0回
         高木の神だけで行動       12回
この違い、偶然ではありませんよね。だからこそ、このことに全く触れていない(まさか、気付いていないのではないですよね)上田先生の「皇祖神をめぐる二元性」というのは、とても片手落ちの考え方だと思います。古事記と日本書紀の天照大御神の扱いの違いを論ずる前に、天の岩戸以前と以後の天照大御神の違いを論じるべきでしょう。
もっと救い難いのは、"「古事記」と「日本書紀」の謎"で岡田 精司先生が書かれていることです。どんなことかと言うと、
「天孫降臨から始まって、神武東遷に至るまで、筑紫の国が出て来ないのは変だ。邪馬台国が東に移動したのが、神武東遷に反映しているのなら、神話の中でもっと筑紫の国が重視されなければならない」
とおっしゃっていることです。これこそ、「木を見て森を見ない」の典型です。何故なら、神々の集う高天原こそが「邪馬台国」であると邪馬台国東遷説支持者達は言っているのですから。筑紫の国が出て来なくても、高天原が邪馬台国なのだとすれば、筑紫の国として出て来ないのは当然ですし、天孫降臨が南九州にされたのもあながち妙ではないでしょう。
私は、投馬国は、薩摩の訛ったものではないかと考えています。そして「神武から崇神の章」でも触れていますが、神武東遷は、邪馬台国連合の東遷と考えています。もっと大胆に言ってしまえば、北九州を追われたニニギノミコト達が、脱出した先が投馬国、すなわち、高千穂の峰だったのではないかということです。要するに、私は、天孫降臨をあまり格好のいい出来事とは考えていないのです。退却を転進と言い替える国民の祖先ならさもあらんといったところでしょうか。
どこに追われたのかと言えば、ある一国しかありません。伊都国です。この国の官名が、初期の天皇の名に反映されていないからです。しかも、一大率という特殊な高官もいたくらいですから、連合の中でも、力があったと思われます。奴国もそうです。この国が倭の奴国と同じ国なのであれば、容疑は濃厚です。昔の覇権を取り戻そうと伊都国と通謀したのかも知れません。
この説はかなり大胆です。何も裏付けがありません。ですから、反論されれば、返す言葉がないのが、本当のところです。でも、古事記や日本書紀を何の偏見もなく読めば、それほど変な考え方ではないと思います。
邪馬台国と大和朝廷とのつながりについては、「神武から崇神の章」で述べたとおりですが、その間の「missing link」(失われた環)である「日向三代」についても、そのうちに考察してみたいと思います。
それともう一つ。日本書紀には、「日本紀」説があります。「続日本紀」という、西暦797年に編纂された史書には、「日本紀」とあるのです。日本書紀ではなかったのではないか、そして、いつ日本書紀になったのか、という議論もあるようです。このことについては、資料不足のため、どこかで入手して、検討してみたいと思っています。 
天照大御神と卑弥呼

 

天照大御神。
ご存じない方はいらっしゃらないでしょう。この神様の名前を知らない人が、私のホームページをご覧になることなんてないですよね。もし、知らない方が何かの間違いでここに来てしまったのなら、ごめんなさい。敢えてこの神様についての説明はいたしませんので、あしからず。
この女神様は、記紀神話の中でいろいろと活躍します。その中で特に有名なのが、「天の岩戸」事件です。あれっ、何か殺人事件のように聞こえますね。でもその発想は、当たらずと言えども遠からずっていうところです。そのことに関してはまた後で述べることにしまして、話を先に進めます。
天照大御神は、皇祖神といって、天皇家の祖先の神様です。彼女の孫にあたるのが、天孫「アメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギノミコト」です。面倒臭いので、カタカナにしてしまいました。さらに面倒臭いので、「ニニギノミコト」にさせて頂きます。
このニニギノミコトが、天下って(最近この言葉、語感が悪いですよね)、高千穂の峰に降りたのが、天孫降臨です。戦前は「邪馬台国論争」より、「高千穂論争」の方が盛んだったそうです。時代背景がそうさせたのでしょうね。
ニニギノミコトの子供が、あの有名な海幸と山幸です。山幸はまたの名をホオリノミコト、またはアマツヒコヒコホホデミノミコトと言います。
このホオリノミコトの子供が、アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトです。このウガヤフキアエズノミコトが、神武天皇のお父さんです。
つまり、天照大御神は、神武天皇から数えて五代前の祖先です。前置きが相変わらず長いですが、私が言いたかったのは、この流れなのです。
さて、話を天照大御神に戻しましょう。彼女は架空の人物(神様なのにこの言い回しは妙ですが)なのでしょうか?
何人かの学者の方々が、天照大御神を実在の人物として取り扱っています。その人物こそが、卑弥呼なのです。私もこの説が一番説得力があるような気がします。
天照大御神=卑弥呼説は、ただ漠然と唱えられたわけではありません。いくつかの状況証拠があるのです。どうも私は、推理小説が好きなせいか、こういう文章表現になってしまいます。お許しください。
ではその状況証拠なのですが、
その壱・・・天照大御神、卑弥呼、共に女性である。
その弐・・・二人とも巫女的性格を有している。
その参・・・ともに弟がいた。
その四・・・どちらも未婚のようである。
といったところでしょうか。他にも何か共通点があるかも知れません。
そしてなんといっても、卑弥呼=天照大御神説にとって有力な裏付けとなるのが、さきほど述べました、「天の岩戸」事件です。どのあたりがそうなのか、順を追って説明していきます。
まずは、「天の岩戸」事件について、簡単に触れておきましょう。
天照大御神には、須佐の男の命という弟がいます。この弟が乱暴者で、その悪行を憂えた天照大御神が天の岩戸という穴の中に隠れてしまいます。すると世界は暗黒に包まれ、永久に夜が続いていきました。
この状態を他の神たちが何とかしようと天の安川に集まり、いろいろと策を練って、天照大御神を岩戸の中から出すことに成功し、世界は再び明るくなり、元に戻りました。
須佐の男の命は罪を償わせられて、髭と手足の爪を切られ、天の安川から追放されてしまいます。
こんなところでしょうか。
この話のポイントは、天照大御神が天の岩戸に隠れるという行動です。
「隠れる」という言葉の持つ意味。そして、「岩戸」の示す意味。これは、「死」と「墳丘墓」のことを言っているという説があります。
そして、何人かの学者が指摘しているのですが、岩戸に隠れる前と後では、天照大御神の行動に明らかに差があるようです。
岩戸に隠れる前の天照大御神は一人で行動していることが多いのですが、岩戸から出て来た後の天照大御神は、高木の神と行動を共にしていることが多いのです。
これは何を意味するのでしょうか?
学説の中には、天照大御神の岩戸隠れは、天照大御神の死を意味し、岩戸から出て来る天照大御神は、別人だというものがあります。そして、その別人の天照大御神にはいつも高木の神が一緒にいます。何か暗示的ですよね。
勘のいい方は、おわかりかと思います。
岩戸に隠れる前の天照大御神は卑弥呼であり、岩戸から出て来た天照大御神は臺輿(原文は壹輿)だというのです。
つまり、岩戸隠れは卑弥呼の死を暗示しており、その後に女王になった臺輿は歳がまだ若いので、後見役のような存在がいて、その暗示が高木の神なのではないかということなのです。
となると、須佐の男の命は、一体誰なのか?
これは逆に魏志倭人伝が暗示しています。須佐の男の命は卑弥弓呼です。
そして、須佐の男の命が追放されたという結末から考えて、邪馬台国と狗奴国との争いは、邪馬台国連合の勝利に終わったのでしょう。すなわち、狗奴国の残党は、出雲の国に逃れた、ということの暗示ではないでしょうか。
ただこの考えは、卑弥呼=天照大御神だという前提があっての話ですけどね。
一般的に、卑弥呼の死は戦死と考えられているようです。でも卑弥呼は女王であり、巫女でもあったようですから、直接戦闘に参加したり、攻撃が届くようなところにいたとは考えられません。むしろ狗奴国との戦争が激烈を極めたのであれば、彼女は勝利のために祈っていたのではないかと思います。
しかし、私の考えは、全く違うのです。邪馬台国と狗奴国は戦火を交えたことなどなかった、と考えたのです。
えっ?
何を血迷ってるのかって?
血迷ってなんかいませんよ。魏志倭人伝に基づいて考えれば、ごく自然に出て来る結論ですよ。どのあたりでわかるのかと言うと、
遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状
という一文からです。何故この文から女王国と狗奴国が戦火を交えたことがなかったと考えるのかと言うと、この後に出て来る文から推測したのです。それは、
更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人
という文です。つまり、もし狗奴国と戦争をしているのなら、戦死者のことが出て来ていいはずです。数は把握できなくとも、人が死んだことに触れていないのは、妙です。卑弥呼が死んだ時に起こった内乱については死者について触れているのに、狗奴国とのことについては死者に言及していないのは、戦争をしていなかったからではないでしょうか。
攻撃という言葉には、「言論で人を攻める」という意味もあるようです。卑弥呼と卑弥弓呼は、仲が悪く、喧嘩が絶えなかった程度なのかも知れません。何しろ
倭女王卑弥呼輿狗奴國男王卑弥弓呼素不和
とあるのです。これを読む限り、仲が悪かったのは、卑弥呼と卑弥弓呼であり、国同士が争っていたのではないのかも知れないのですから。
大戦争のような印象を与えるのは、
卑弥呼以死
という文が、続いて出て来るからでしょう。でも、卑弥呼は、戦死したとは書かれていないですし、彼女の立場から考えても、その可能性はゼロでしょう。
むしろ卑弥呼の死は、古事記や日本書紀の中に、その答えが隠されているような気がします。
天照大御神は、須佐の男の命の乱暴に耐えかねて、天の岩戸に籠ってしまった。すなわち、卑弥呼は、卑弥弓呼の暴行により命を落としたのではないでしょうか。そして卑弥弓呼は、その罪で国外追放になり、出雲に流れ着いた。それが須佐の男の命の出雲神話の基となった。王を失った狗奴国は急速に衰退し、単なる小国になってしまって、歴史の表舞台から一時姿を消してしまった。そんなところでしょうか。
何か、私も神津恭介ばりの大胆推理をしてしまいました。でも、全く途方もない話ではないと思います。この章の始めで「殺人事件のように聞こえますね」と述べたのは、こんな考えをしてみたからなのです。 
日本書紀と日本紀及び日本書

 

またまた鏡が発見されたようですね。
相変わらず、マスコミは好きなことを書き立てて、面白がっているようです。
私は読売新聞と朝日新聞の記事を読んで、あのTBSの朝の番組で遺跡からの中継を見ただけなのですが、読売は「近畿説有利」とだけ紹介しており、朝日は両方を取り上げていたようです。
そして、あのTBSの番組では、鏡の配置の仕方を九州説と近畿説とで解釈が違っていることを紹介してました。しかし、それぞれの地元の局アナは「我が方こそ邪馬台国」というような口振りで話していたような気がします。
結論として、飽きもせず、鏡の枚数で邪馬台国を決めようとしている学者が未だに多いことに少し驚き、そして呆れてしまいました。
子供のおはじきやメンコの競い合いじゃないのですよ。鏡の数で邪馬台国が決められる訳がないでしょう。ホント、何を考えているのでしょうか。
とまァ、前説、じゃなかった、前置きはその辺にしておいて、本題に入りましょう。
日本書紀。この内容どころか、その成立時期まで疑っておられる方がいらっしゃいます。
何人かいらっしゃるのかも知れませんが、私が知っているのは、門脇禎二先生です。
この先生は、吉備と出雲の研究で有名な先生ですが、ご自分でもおっしゃっているとおり、かなり独特な考えを持っておられる方です。
門脇先生は、日本書紀なんてなかった、日本紀があったのだと結論づけています。
その根拠は、「続日本紀」に「日本紀」とあるというのです。ですから、「日本紀」が正しく、「日本書紀」は後でつけられた名だとしています。
確かに、「書」の意味するところ、すなわち、紀伝体と呼ばれる志や列伝を伴ったものと、「紀」の意味する編年体の記録や系図といったものをごちゃまぜにしたような「日本書紀」という書名は、奇妙なものです。その点では、門脇先生のご指摘は、卓見という感じがします。
ところが、「日本書紀」をそこまで疑っている先生なのに、「続日本紀」は信用されていて、「続日本紀には"日本紀"とあるからそのとおり信用する」と書いておられます。
私がたびたび指摘していることなのですが、自分にとって都合のいいことは何に書いてあることでも証拠として採用し、自説に都合の悪いことは、「信用できない」と言って切り捨てる、学者先生に多い傲慢な論理展開が、門脇先生にも見られるのです。
日本書紀がどう成立したのかなんて、たとえどれほど研究したってわかるはずがないのです。
また例えが犯罪のことになりますが、何百年も昔の殺人事件の犯人を見つけだすのが不可能なように、推定や検証でしか探究することができない古代の出来事や書物の成り立ちをいかにも大衆受けというか、一部マニアに受けるような学説を唱えて、「古事記や日本書紀は創作された歴史書だ」と断じるようなやり方って、あまり感心しません。
門脇先生は、ご自分でも書かれているとおり、まず最初に「日本書紀の神話はウソ」というところから出発しています。もちろん、神武天皇以下、欠史八代も架空の人物で、推古天皇はいなかったし、聖徳太子は天皇だったとまでおっしゃっています。
「素直に読んだらそうなった」なんて書いておられますから、大した方です。
しかし、思うのは勝手ですから、そのことでとやかく言うつもりはありません。問題は、その拠って立つところなのです。
たとえば、門脇先生は、「"日本書"があった可能性が非常に強い」と述べておられます。その根拠として、正倉院文書の中に、天平二十年六月十日に写したと書かれた目録があり、その中に帝紀二巻とあって、その下に小さな字で「日本書」とあるというのです。これが「日本書」があったとされる根拠だそうです。
妙ですよね。だってそうでしょう。「日本書紀」に書いてある神話や神武天皇の話は信じないのに、たった三文字の「日本書」には大変な資料的価値を見い出して、「日本書が存在した証拠だ」と言うのって、論理的に変でしょう。
しかも、存在したと主張されている「日本書」も「日本紀」も、現物はないのです。存在しないものに価値を置き、存在するものを否定していては、科学的とは言えないと思うのですが、どうでしょうか?
さらに門脇先生は日本書紀の成立時期についても、疑問を持っておられます。
どういうことかと言いますと、「720年に成立した日本書紀に万葉集の中の752年頃の歌と全く同じ類歌が載っているのはいったいどういうことなのか」とおっしゃっているのです。
これについてはどういう歌であるのか書かれていないので、ちょっと論証のしようがありませんが、もう一つの論拠の方は、反証が挙げられます。
それは、「高句麗のことを高麗と書いているが、高麗は平安時代後半にできた国で、720年当時にはそう呼ばれていなかった」から、成立はもっと後、あるいは内容の改竄や追加修正があったのだ、としておられます。
ところが、高句麗を昔から「高麗」と呼んでいたらしい証拠を見つけたのです。
考古学者の森浩一先生の著書「古代史の窓」の144ページの最後の行に
「其人雑有新羅高麗倭等亦有中国人」
とあります。この原典は「隋書東夷伝 百済条」です。すなわち、6世紀頃の中国では、高句麗のことを「高麗」と表記していたのです。門脇先生は、このことを御存じではないのでしょうか。それとも....。いや、そこまで疑ってはいけませんよね。でなければ、「それは中国のことであって、日本のことではない」とでもしますか。
あるいは「それは転写の際の誤写である」でもいいかも知れません。要するにロールシャッハテストではありませんが、見た人によっていかようにでも解釈ができるということは、おわかりいただけたかと思います。
さて、結論と致しましては、毎度思うことなのですが、どうして日本人は、祖先の残したものを疑うことしかしないのかということです。
戦争中のことは、書物でしか知ることができません。あるいは自分の家族や親戚の人に聞くしか手段がないのが現状です。
戦争が残した傷跡の一つ。それが今の古代史学かも知れません。皇国史観を強制的に植え付けられ、他の学説を認められなかった恐ろしい時代が、正しいものの見方を歪めてしまったという気がしてなりません。
この世に絶対ということはありません。ですから、「古事記や日本書紀が正しい、外国の史書は間違っている」という考えは正当ではありませんし、「古事記や日本書紀は信じるに値しない」という考えも極端です。もっと理性的にものを見て、分析し、多角的に解析する必要があると思います。 
邪馬台国と狗奴国

 

邪馬台国と狗奴国。この二つの国を同等の勢力と考えるのが、普通のようです。
しかし、そんなこと魏志倭人伝のどこにも書いてないことです。ほとんど後世の学者の想像でしょう。
要するに、狗奴国の規模を知る手がかりはほとんどないのです。それをお忘れの方が多いのにはびっくりしてしまいます。
揚げ句の果てには、「狗奴国が邪馬台国を滅ぼして東遷した」とか唱える人までいる始末です。もうここまで来ると、その想像力の逞しさにただ舌を巻くばかりです。
えっ? 考えるのは勝手ですか? ま、そりゃそうですけどね。でもそういう人に限って、自説と矛盾する考えを否定したがるようです。私の身近にもそういう性格の人がいます。
人は皆違うのですから、たくさんの考えがあってもいいのですが、それを売名のために利用したり、本を出版して印税をたんまりもらったりするのは、いかがなものでしょうか。
小説や映画で、奇抜な発想をもとに大胆な歴史を表現するのは、創作ですから何も問題はありません。でも、学説や論文に奇抜さも面白おかしい展開も必要ないはずです。
話は違いますが、「ノストラダムスの大予言」という本を何冊も出版して徒に人々を不安にし、自分は笑いが止まらない程儲けた不謹慎なオジサンは最近全然姿を見せませんが、どうしたのでょう? 実際に1999年が近づいて来たので、怖くなって身を隠しているのでしょうか? 何が怖いのかは敢えて言いませんが。
このオジサンと同じとは言いませんが、似たような人が古代史の世界にもおられるようです。悪いのは自分の考えを持たず、何の疑問も抱かずにそういう人の本を買い、自分は古代史の知識が豊富だと思っている人達かも知れません。
さて。相変わらず前置きが長いですが、そろそろ本題に戻りましょう。
狗奴国が東遷したとする根拠らしきものも、あるにはあります。それは、神武東遷の出発点が南九州だということです。これにより、「邪馬台国が大和朝廷の前身ではなくて、狗奴国が前身だ」と主張することができます。
しかし、この説には、大きな見落としがあります。神武東遷以前の世界のことです。神武は南九州出身のようですが、その先祖は違うようです。
その先祖は高天原から降臨して来た、と古事記や日本書紀にあります。
狗奴国が大和朝廷の前身だとすると、高天原はどこだったのでしょう? 「半島だ」と主張する方もいらっしゃるようですが、そんなに複雑に考えなくても、「高天原は邪馬台国」と考えてしまえばいいのではないでしょうか。
私は、前にも述べたことがありますが、天孫降臨とはそれほど格好のいいものではなかったと考えています。つまり、ニニギ一族の脱出行が天孫降臨というイベントとして語られたのだと考えているのです。
そう考えると、ニニギが天下った「高千穂の峰」は逃亡先のことではないか。そして「水行二十日」の先にある「投馬国」こそ高千穂の峰だったのではないか、と思えて来るのです。
歴史にその後登場しないことが示すように、邪馬台国は滅んでしまったか、衰退してしまったのかも知れません。しかし、一族が絶滅したわけではなかった。その残った一族が南九州に逃亡し、やがて力を得て進軍する。それが神武東遷の原形ではないか。
このあたりは全く推測の域を出ません。しかし、一つの考えとして検討していきたいと思っています。
さて、では狗奴国はどうしたのか。この国は古事記・日本書紀にも出て来ます。そう、「熊襲」です。では邪馬台国亡き後の北九州はどうなったのか。
このことについても、以前触れたと思いますが、伊都国や奴国といった倭国の中の反邪馬台国勢力が覇権を奪い、別の国ができたのではないか。そして、その反映が磐井の乱ではないか。そう考えてみました。
ただもう少し検証しないと、仲哀天皇の九州遠征の時に北九州で戦いがあった様子がないことが説明できませんが。
どなたか他に、狗奴国は大国ではなかったと考えている方がいらっしゃいましたら、教えて下さい。
また、狗奴国が大国だったという説、あるいは論証をされている方、お便り下さい。
お待ちしております。
これは全く余談になりますが、「ノストラダムスの大予言」の例の文章、つまり、人類滅亡の予言と言われている箇所をたまたま本屋さんで見つけて、立ち読みしてみたのですが、どう読んでも「人類は滅亡する」なんて書いてないと思うんですけど。皆さんはどう思われますか? 
また、エドガー・ケイシーと言う超能力者( と思い込んでいる人かも知れませんが )は、1998年までに日本の大部分は海底に沈むと予言しているそうです。
しかし、大部分どころか、どこも沈んではいません。どういうことなんでしょう?
阪神大震災の時は、いろいろなデマが飛び交ったようです。人の不幸につけ込み、一儲け企む良からぬ連中も許せませんが、徒に騒ぎ立てる番組を制作しているテレビ局や、裏付けもなしに様々な記事を書き立てる出版社はもっと許せません。
しかし、受け取る側、すなわち私達が、しっかりとした判断力を持っていれば、恐れることはないと思います。 
倭王と倭の女王と卑弥呼

 

この章のタイトルですが、何のことだかわかりにくいかも知れません。
私が指摘したいのは、この三つの呼称が、何かの法則に基づいて使い分けられているのではないか、ということなのです。
この呼称は、全て同一人物のことを指したものなのでしょうか? その辺を検証してみたいと思います。
まず、この三つが、入りくって使われているのが、倭人伝の終盤です。原文を引用してみます。
景初二年六月倭女王遣大夫
「倭女王」が出て来ます。次はこれです。
拝假倭王併齋詔賜金帛錦
すみません。この後の字が出せないので、原文の引用はここで区切らせていただきます。そして、次に、
倭王因使上表答謝
とまた「倭王」が出て来て、さらに、
其四年倭王復遣使大夫
と「倭王」が続きます。ところが、しばらく進むと、
倭女王卑弥呼輿狗奴国男王卑弥弓呼素不和
と、突然「倭女王」に戻ってしまいます。単なる文章上の繰り返しを避けるための書き分けに過ぎないのでしょうか? それとも、何か意図するものがあるのでしょうか? 
私の考えでは、
正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬
から、
其八年太守....( ごめんなさい、またしても字が出せません )
までは、その前後と噛み合っていないような気がするのです。それに、この部分だけ、妙に年号が細かく出ているような気がするのですが、どうでしょうか?
結論として、私は、この箇所は、所謂卑弥呼のことを指して述べているのではないのでは、と思っています。相変わらず、偏屈な奴だと思われるでしょうが、文章の構成からして、そんな感じがするのです。全く推測でしかないですけどね。
もっと言ってしまえば、その後で出て来る、
倭女王卑弥呼.....
という下りは、順番が違うのではないか、とも思えるのです。「正始元年...」から「其八年..」までは、後から挿入されたのではないだろうか? そんなふうに考えてみたのです。しかも、時間的な流れは、その後に出て来る「倭女王...」より後なのでは? 突拍子もない考えかも知れませんが、そう考えると文章の構成が、すっきりするような気がするのです。思い込みですかね?
「倭の女王」という表現のあとに、唐突に「倭王」が出て来るのは、やはり不自然です。順番が違っているのではないか、という私の考えも、手前味噌になりますが、あながち見当外れではないと思います。
さらに私の推理を進めれば、「倭の女王」は全てが「卑弥呼」のこととは限らない、と思えるのです。
倭人伝の序盤の、「女王国」という表現も、果たして「卑弥呼」を指しているものなのか、という疑問が湧いて来るのです。前に述べた卑弥呼と卑弥弓呼との争いのことも、「戦争をしていた」という記述もないのに、あたかも大戦争があったかのような前提で話を進めているものが多いのと同じように、「女王国」という名称が、「卑弥呼の統治する国」を意味すると決めつけていいのか、ということなのです。
具体的に言えば、倭人伝の序盤の、倭国へのルートを記述したものは、必ずしも「卑弥呼」統治下の倭国とは限らないということです。二代目女王の「台与( 壱与 )」のことかも知れないのです。
思い込みは、お互い様ではないか、という私の発想は、ちょっと突飛でしょうかね。
殺人事件の犯人探しではありませんが、卑弥呼の死亡した年は、今までだと西暦248年前後、というところらしいです。もちろん、異説はあるでしょうが、私が先ほどから述べていることを考慮していただけば、彼女の死亡推定年は、もっと幅が広がると思います。
では、「正始...」から「其八年....」までの文章は、どこに入るのかと言えば、ことによったら、「台与」の時代かも、とか考えています。しかし、それでは「倭王」という表現が何故使われたのかという私自身の疑問に答えられないんですよね。さて、どうしたものか。
自分で疑問に思いながら、その答えが見つけられないというのも、何とも情けない気がしますが、今のところ合理的な説明のつく考えが、思い浮かびません。申し訳ないです。
「思い違いだろ」と言われてしまいそうですが、「そうではない」という感覚、わかっていただけませんか。私は、今までのたくさんの人達の研究をけなすつもりも、否定するつもりもありません。ただ、何も考えずに、先人の残したものを鵜呑みにしてしまうのは、いかがなものか、ということを言いたいだけです。
どなたか、私と同じ考え、あるいは、似た発想をお持ちの方、メール下さい。お待ちしてます。 
卑弥呼と卑弥弓呼

 

さて、お題は「卑弥呼」と「卑弥弓呼」です。この二人、誰が最初に言い出したのか知りませんが、姉と弟というのが、通説になっているようです。あれ、違うんですかね。
私も今まで何となくこの二人は姉弟のようなつもりで、私なりの仮説や空想を繰り広げていましたが、魏志倭人伝には、一言もこの二人が姉弟だなんて記述されていないのですよね。
「名前が似ているから肉親だ」とか、「卑弥呼を助ける男弟も含めて三人姉弟だ」とか、いろいろ言われている様です。 
私自身、全く私的に書いた「邪馬台国」関係の小説では、卑弥呼を天照大御神とし、卑弥弓呼を須佐の男の命とし、卑弥呼を助ける男弟を月読の命としました。かなり洗脳されていたのですね。
岩波文庫の「魏志倭人伝 他三篇」によりますと、「卑弥弓呼」は「卑弓弥呼」の誤りで、「ひこみこ」と音読するのが正しいという説が載っています。
また、「卑弓弥呼素」まで人名とする説もあるようです。しかし、いずれにしても、この二人が姉弟であったということには関係ないようです。
「卑弥呼」の名前の意味についても、「姫命」であるとか、「姫子」であるとか、いろいろです。新井白石は、「日御子」として、天皇としています。
これに対し、「卑弥弓呼」は「彦尊」であり、「卑弥呼」と対をなしているとあります。
むしろ、卑弥呼と卑弥弓呼が姉弟として論じられるより先に、「魏志倭人伝」にもはっきりと「男弟」と記されている弟の方が、問題でしょう。彼は卑弥呼を助けて国を治めていたのですから。でも、卑弥呼の死後、後継者として指名されてはいないようですね。「魏志倭人伝」には、「更立男王」とありますが、果たしてこの影の薄い弟だったのか、疑問です。
倭国は、男王を立ててもまとまらず、内乱が起こった。卑弥呼の宗女である臺輿( 壱与 )を王として、やっと倭国は治まった。何か、おとぎ話のような結末ですが、そういうことになっています。何故男王では治まらず、わずか十三歳の女の子が王になったら治まったのか。疑問の残る点です。きっとこの話を書き記した陳寿も、不思議に思ったのではないでしょうか。
まァ、一つ理由があるとすれば、「卑弥呼の宗女」だというところでしょうか。彼女は、卑弥呼に劣らない才能の持ち主だったのかも知れません。それに、卑弥呼が即位したのも、内乱を収めるためでしたから、いわば日本人の大好きな「先例にならって」という考えなのでしょう。しかし、それなら最初からそうすればいいですよね。
ということは、ですよ。
最初に立てた男王は、「共立」したのではない、すなわち、自薦だったのではないか、と思えて来ます。
「俺が次の王だ」と名乗りをあげた。周囲はその男が後継者たる資格を持っていたので、しぶじふ賛同した。しかし、彼ではだめだった。そんなとこですかね。
さて、では卑弥弓呼は、卑弥呼が死んだ時どうしていたのでしょう? 以前私は、卑弥呼殺害の犯人を彼だと書きました。今でもその考えは変わっていませんが、その動機はなんだったのか。というより、計画的な殺人だったのか、発作的な殺人だったのか。あるいは計画は立てていたが、偶然その機会に恵まれたので殺したのか。
嫌ですねェ。殺人事件だと想定した途端、工藤新一君のように雄弁になるなんて。ハハハ。あ、コナンのファンの方、ごめんなさいね。私、工藤君より、服部君の方が好きなもので。彼だったらどう考えるかな?
倭国の王の座を狙っていた卑弥弓呼は、卑弥呼を亡き者にしようと考え、彼女に近づき、隙を見て彼女を殺した。しかも殺人と気づかれないよう、毒殺したのだ。もちろん、毒殺とわかるような毒は使わない。当然卑弥呼は病死と思われる。
卑弥呼亡き後、自分が後継者だと考えていた卑弥弓呼は、完全に当てが外れる。自分以外の近親者が王になってしまったのだ。これを怨んだ卑弥弓呼は、内乱を勃発させ、男王を退位させる。
しかし、彼の計画は再び空回りする。男王がいけなかったと考えた倭国の幹部達が、十三歳の女の子で、卑弥呼と同じように巫女としての才能がある子を王としてしまったのだ。
どうや、工藤、俺の推理は。なんてね。
おっと、脇道にそれてしまいました。
仮定の話で恐縮ですが、もし卑弥弓呼が卑弥呼の弟だとすれば、彼が後継者とならないはずはありません。第一順位ではないにせよ、十三歳の女の子よりは卑弥呼に近かったはずです。それなのに後継者から漏れ、名前すら上がらなかったのだとすると、理由は二つ考えられます。
一つ目は、彼が卑弥呼の弟なんかではない、というもの。
二つ目は、卑弥呼の弟だが、彼女を殺した犯人なので、後継者には当然なれなかった。
一つ目の理由では何の面白みもなくなってしまいますが、「魏志倭人伝」の文章から推測する限りでは、こちらの方が正解のような気がします。何せ、彼のことが出て来るのは、ほんの一ケ所なのですから。
私達が思っている程、狗奴国は大国ではなく、卑弥弓呼も重要人物ではないのかも知れませんね。
それに卑弥呼は死んだとあるだけで、殺された、とは記されていませんし。まァ、仮に殺されたのだとしても、倭国はそれを魏に隠したでしょう。これは私の負け惜しみですが。
この姉弟説のことも興味深いですけど、卑弥呼の死の真相も興味深いですよね。彼女は何故死んだのか。
そして、何故卑弥呼の死について、その原因が「魏志倭人伝」には記されていないのか。これは第一章で話題にした、魏の使者が実際に邪馬台国に行ったのかということと関連して来ます。それとともに、邪馬台国に行ったかどうかは別にして、彼等は( と、当然のように複数形ですが )卑弥呼に会ったのかということにも、関係してくると思います。
もし、魏の使者が卑弥呼に会っていないのだとすれば、ことによったら、彼等が来た時にはすでに卑弥呼はこの世の人ではなかった、ということもありえますね。あるいは会える状態ではなかったのかも知れませんし。
空想はつきませんが、「魏志倭人伝」が教えてくれることは、十分ではないため、結論は出せません。
一つ加えるなら、「後漢書 倭伝」には、卑弥呼のことは書かれていますが、卑弥弓呼のことは名前すら出て来ません。やはり、彼は全然重要な人物ではないのでしょうかね。狗奴国も字が間違って出て来ますしね。 
神功皇后と卑弥呼

 

神功皇后。この人の名前、卑弥呼のように一発変換で出て来ないのが悩みの種です。ま、仕方ないですね。
神功皇后は、日本書紀の編者が、魏志倭人伝を引用して、彼女を倭の女王に比定しているように思われる箇所があります。
教育社新書の原本現代訳の日本書紀(上)からの抜粋です。
三九年。この年、太歳は己未(つちのとひつじ)。(魏志はいう、明帝の景初三(239)年六月、倭の女王が大夫難斗米らを遣わして、郡にやってきて、天子にいくことを求め、朝献す。以下省略)
以下四〇年、四三年、四六年、六六年と、魏志倭人伝の文を引用し、暗に卑弥呼=神功皇后説を唱えています。そして、景初二年を三年と表し、魏志倭人伝の記述である「景初二年」を改訂した先駆けでもあります。
邪馬台国近畿説支持者の方々の中には、これをもって邪馬台国は幾内にあったとする方もいらっしゃるようです。
しかし、何故他には全く魏志倭人伝は引用されていないのに、神功皇后の話にだけ、唐突に卑弥呼のことが出て来るのでしょうか。
理由はいろいろ考えられます。
第一に、日本書紀の編者達は、本気で魏志倭人伝の記述を神功皇后のことだと信じていたから。
第二に、日本書紀の編者達は、魏志倭人伝を精読しており、卑弥呼に神功皇后を比定するのが望ましいと考えたから。
第三に、日本書紀の編者達は、何かの伝承を知っており、それが卑弥呼と台与のことなのだが、そうとは知らず、偉大な神功皇后を二人の事蹟にあてはめ、一人の人間のこととしたから。
他にも理由は考えられるでしょう。でも、魏志倭人伝を編者達は読んでいたという事実は明らかです。
倭の五王は、日本書紀や古事記にそれらしき記述が出て来ないので、大和政権のことではない、とされる方がおられます。その論法だと、神功皇后は、魏志倭人伝の引用があるので、倭の女王は大和政権にゆかりのある人だということになりますよね。
だとすると、倭の女王の「倭」と倭の五王の「倭」は、違うものだということになります。
一方で、倭の五王の記述が日本書紀に出て来ないのは、神の国である日本が、中国に朝貢していたなどと認められないので、敢えて無視して取り上げなかったと考えている方もおられるようです。
この考え方だと、どちらの倭も同じものだという可能性が残されています。
この頃の「倭」は、中国が日本のことを呼ぶ場合に使われていたもので、日本が自ら名乗っていたのではないでしょう。となると、中国は、日本人が来れば皆「倭」と呼んでいたのかも知れません。そういうふうに考えると、倭の女王と倭の五王は、全く別系統でも、同系統でもありうることになります。
私としては、同系統だと面白いと思うのですが、この二つの「倭」を結ぶ証拠は今のところ何もありません。ただ、倭の女王に金印紫綬を与えたのに、同系かどうかもわからない者に、「倭国王」の称号を与えるものでしょうか。仮に中国側の国名が、魏から宋になっていても。私はそれはあまり考えられないと思います。感情論でしかないですけどね。
おっと、本筋からそれてしまいました。神功皇后でしたよね。
彼女の名は、オキナガタラシヒメといいます。日本書紀では、気長足姫と書き、古事記では息長帯日売と書きます。
私は、この人の名前の「タラシ」に注目してみました。
「タラシ」がつく人は他にもいます。景行天皇は「オオタラシヒコオシロワケ」と言いますし、成務天皇は「ワカタラシヒコ」と言います。そして、仲哀天皇は、「タラシナカツヒコ」です。
何故かこの頃、「タラシ」がつく人が多いんですよね。何か理由があるのでしょうか。
景行天皇は、先代である垂仁天皇の第三子とされています。そして、成務天皇は、景行天皇の第四子です。仲哀天皇は、あの有名なヤマトタケルの第二子です。ヤマトタケルは景行天皇の第二子ですから、仲哀天皇は成務天皇の甥に当たるわけです。
ところが、神功皇后は、この三人とは血族ではないのに、「タラシ」がつきます。私の調査不足でしょうか。とにかく、話を進めます。
以前、神武から崇神の章で、応神天皇の妃の父親が「ホムダノマワカ」で、その父親が「イホキノイリヒコ」であったと書きました。応神天皇は、「ホムダワケ」ですから、妃の父親というより、本当は実の父親なのではないかと考えています。
ということは、応神天皇の父親は、仲哀天皇ではない。そして、神功皇后も、応神天皇の母親ではない。彼女は仲哀天皇の妹で、神功皇后こそ、応神天皇の妃であった。そして、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇は三兄弟で、親子や叔父甥の関係ではない。
ここでもう一度、神村式年表を掲示します。
応神天皇・・・413年から425年  在位期間・・12年  44歳で即位。56歳で死去。 逆算すると369年生まれ。
神功皇后・・・404年から412年  在位期間・・ 8年  31歳で摂政。39歳で死去。 逆算すると374年生まれ。
仲哀天皇・・・399年から403年  在位期間・・ 4年  31歳で即位。35歳で死去。 逆算すると370年生まれ。
成務天皇・・・395年から398年  在位期間・・ 3年  29歳で即位。32歳で死去。 逆算すると369年生まれ。
景行天皇・・・380年から394年  在位期間・・14年  23歳で即位。37歳で死去。 逆算すると361年生まれ。
この年表から割り出すと、景行、成務、仲哀は、兄弟程度しか歳が離れていない計算になります。
もう少し年表に基づく私の仮説を推し進めると、仲哀天皇を殺したのは、神功皇后と武内宿禰というのが通説のようですが、私は応神天皇と神功皇后が犯人だと考えています。そして、崇神以来五代続いた王朝が一区切りつき、応神王朝が始まったと。
この年表による親子関係の割り出しは、神武天皇までしてありますが、その辺は別の機会に譲ることにして、話を神功皇后に戻します。
年表に基づいて考えると、先程も述べた通り、神功皇后は、応神天皇の母親はおろか、姉にすら該当しません。むしろ似合いの二人なのです。ま、私の年表が正しければの話ですがね。
皇后の名はオキナガタラシヒメです。「タラシ」の前に、「オキナガ」がつきます。他の「タラシ」がつく天皇と、ちょっと違っています。
「オキナガ」は、日本書紀では「気長」、古事記では「息長」と書かれています。どういう意味があるのでしょうか。
神道関係の本には、神道式呼吸法だと出ています。ま、これは余談になってしまいますが、神功皇后が神憑かりを行えたのは、この呼吸法を習得していたからだということです。
この話は真偽を確かめるべくもありませんが、神功皇后に巫女的な一面があったことは、日本書紀や古事記からも推察できます。その師匠的存在が、武内宿禰でしょう。彼は300年以上も生きたと言われていますが、神村式年表に従えば、それほどの長生きではありません。あるいは、武内宿禰は、何人かいたのかも知れません。
「気長」は、父親の名前にもつけられており、気長宿禰王と言います。気長というのは、信仰の一つで、その流派名だったのでしょうか。
そんな神功皇后の一面が、魏志倭人伝の卑弥呼に重なったのでしょうか。それで、編者達は、神功皇后を倭の女王に比定した。そうも考えられますね。
有名な三韓征伐の記述ですが、私の年表に従うと、うまく当てはまることは以前にも申し上げました。具体的に示してみます。
倭兵来りて明活城を攻め、克たずして帰る。(405年)
倭人東辺を侵す。(407年)
王、倭人が対馬島に営を置き、貯うるに兵革資粮を以てし(408年)
ただ、突っ込みが入る前に断っておきますが、倭人はこの前後にも半島を攻めていますし、その歴史は卑弥呼以前に遡ります。偶然と言われれば、何も反論できないのは、よくわかっていますので、御承知置き下さい。 
 
古史古伝

 

学会公認でない古代史文献が存在する。これらは古代の政治闘争に敗れた豪族の家系に伝わったとされているため、勝者側の「古事記」や「日本書紀」とは違った説を伝えている。
古史古伝とは?神代についての伝承を含む古文献。神代文字で綴られたり、神代文字の伝承がある。後世に手が加えられたものや、偽書と疑われるものもある。
「東日流外三郡誌」
東日流(つがる)とは津軽のことである。超古代から江戸時代までの津軽地方の歴史や伝承を集成。古代東北王朝が存在していたとし、反体制的な内容を多く含んでいる。1789年〜1822年にわたり、秋田家子孫の秋田孝季と妹婿の和田長三郎が、古代津軽の歴史を伝えるため全国を行脚し、古文書・伝承などを集めて編纂した。

超古代の津軽には、狩猟生活を営むアソベ族がいたが、渡来してきたツボケ族に征服される。畿内ではアビヒコ・ナガスネヒコ兄弟が邪馬台国を築いていたとしている。しかし、九州の日向族(神武天皇)との戦いで敗れたナガスネヒコは東北へ逃げ延びた。津軽にとどまったアビヒコ・ナガスネヒコ軍は、その後先住諸民族を統合してアラハバキ族を形成する。大和朝廷に服さず、独自の国家を形成していたという。その後、朝廷の征夷に対する抵抗が綴られている。
「富士文書」
徐福が渡来し、富士山麓に伝えられていた超古代以来の歴史を漢字で記したものとしている。富士山麓に高天原があったとし、富士山麓中心の世界が展開される。伝承の一致から「上記」との共通性が認められる。古代日本(孝霊天皇時代)に秦の徐福が渡来し、富士太神宮の神官が伝える超古代以来の歴史を漢字で記したものが原本とされる。このことから「徐福文献」ともいう。徐福は、秦の始皇帝の命を受け、不老不死の霊薬を求めて、派遣された人物である。太神宮の宮司である宮下家に伝えられ写本が残っている。このことから「宮下文書」とも呼ばれている。

「古事記」等では日神となっているアマテラスが地神となっている。また、アマテラスはスサノヲと姉弟ではないとしている。スサノヲはタカ王とも呼ばれ、高天原を占領しようとした。その後、八千の軍勢がスサノヲほろぼした。「富士文書」ではウガヤ朝が五十一代続いたとしているが、その間の王妃による摂政治世を含めると七十代以上になるという。「上記」と類似するところである。神武天皇以降で興味を引くのは、ヤマトタケル伝説である。「富士文書」でのヤマトタケル東征の目的は富士高天原王権の復旧を企てて、富士周辺や東北地方の豪族が兵を挙げたとしている。
「物部文書」
物部氏は、仏教受容の可否をめぐって蘇我氏と聖徳太子と争った。争いに敗れた物部守屋の子、那加世(なかよ)は当時三歳であったが、秋田地方へ亡命した。そのとき那加世が持参した古代史料の写しが「物部文書」である。那加世の子孫である物部氏が代々神職をつとめる秋田県協和町の唐松神社に所蔵されている。成立年代、編者は不明。

「物部文書」には「古事記」にはない創造主神が登場する。また物部氏の祖であるニギハヤヒの鳥海山降臨説が特徴的である。十種(とくさ)の神宝(かんだから)が秋田の物部氏に伝えられたことが書かれている。十種の神宝とは、「オキツ鏡」「ヘツ鏡」「十握の剣」「生く玉」「足る玉」「死返しの玉」「道返しの玉」「ヘビのヒレ」「ハチのヒレ」「品々物のヒレ」である。「秀真伝」「先代旧事本紀」にも十種の神宝について記されているが、文献によって名称が多少異なっているようだ。これらには、鎮痛効果や蘇生の力があると伝えられている。
「九鬼文書」(くかみもんじょ)
出雲朝廷の正統性を主張。九鬼家に到る中臣(藤原家)の神代からの系図と神代の神々の系譜を載せている。また、聖徳太子が超古代日本史を破壊し、新たな日本史の偽造したとしている。和歌山県熊野本宮大社の九鬼家に伝わる文書。九鬼家は中臣氏(藤原氏)の系累である。古代以前の部分は神代文字でかかれていたが、奈良時代、藤原不比等が漢字に書き改めたといわれる。以後、書写のたびに書き加えられる。

イザナキとイザナミの子として、三貴子(アマテラス、ツクヨミ、スサノヲ)が生まれるのは「古事記」と同じであるが、「古事記」のアマテラスと同格の神は、スサノヲの子のアマテラスオヒルメとしているのは興味深い。ウガヤ朝が七十三代続き、七十三代目を神武天皇とするのは「上記」、「竹内文書」と共通である。また宇宙から降臨した神々の子孫が超古代の地球を支配していたとする点や世界の偉人らしい名前が登場する点から「竹内文書」と姉妹関係の文書であるとする研究者もいる。仏教派の蘇我氏が神道派の物部氏、中臣氏と対立した様子を生々しく記している。その時、超古代の神典、文献、国史などが焼失した。しかし、それらの写本がそれぞれ、守屋の一族、大中臣の一族、春日の一族、越前武内の一族に伝えられたとしている。守屋一族の写本は「物部文書」、大中臣は「九鬼文書」、武内は「武内文献」であろうといわれている。
「竹内文書」
「神代の万国史」といわれる「竹内文書」。その内容は全世界規模であるが、他の文献とくらべて異質である。キリストやモーゼ来日の記述もあり、作為的要素が多分にあるが、「原竹内文書」の存在を思わせる。神系譜の体系などから「九鬼文書」との類似性が認められる。また「上記」との関連性も指摘されている。神代文字で記された伝承を武烈天皇の勅命により武内宿禰(たけのうちのすくね)の孫の平群真鳥(へぐりのまとり)が漢字カナ交じり文に訳したといわれる古文書。平群真鳥は国政を専断したとして、朝廷軍に討伐され滅ぼされている。平群真鳥の子孫である竹内家が富山県の赤地神明宮の神主として伝えてきた。竹内家に養子に入った竹内巨麿が文書を公開したが、昭和12年不敬罪で起訴される。裁判の証拠品として文書が押収され、戦時中の空襲により焼失。戦後、巨麿の子、竹内善宮がその内容を伝えている。

天神七代(宇宙開闢で神々が活躍した)の後、「天浮船」に乗り宇宙の彼方から神が降臨し上古二十五代の時代をつくる。超古代文明が栄えるが、末期の内部抗争により地球に大異変がおこる。その後、ウガヤ朝七十三代時代となるが、引き続き異変が起こり、ウガヤ朝は滅亡する。不合朝の最後の天皇が神倭朝の初代神武天皇である。越中富山が、日本だけでなく全世界の中心であったと伝えている。また、ムー大陸やアトランティス大陸を連想させる二大陸や、世界には「五色人(黄人、赤人、青人、黒人、白人)」が存在したと説いている。

もう一つの竹内文書 / 竹内家には竹内巨麿とは別系で、武内宿禰姓を世襲している家系(南朝竹内家)がある。南朝竹内家は、武内宿禰の墓があるという越中の二上山を祭祀拠点とし、門外不出の口伝を中心とする古神道を代々伝えている。外伝として文書なども伝えられている。この文書は「竹内文書」との共通部分もあるが、本質的には別のものであるらしい。
「秀真伝」(ほつまつたえ)
ホツマ文字という神代文字で書き綴られている。全文五七調の短歌と長歌からなる一大叙事詩である。近世の国学者、平田篤胤の懸命な捜索にもかかわらず見つからなかった幻の書。全四十章のうち前半は大物主櫛甕玉命(おおものぬしくしみかたま)が、後半はその子孫の大田田根子命(おおたたねこ)が担当している。前半は神武天皇時代に、後半は景行天皇時代に編集されたといわれている。奈良県三輪神社系の流れをくみむ井保家で代々保存されてきたといわれる。昭和41年神田の古本市で、松本善之助により一部が発見される。以後、松本善之助の捜索により、四国宇和島市の小笠原家で完本が発見される。

注目すべきは、他文書で女神とされているアマテラスが男神となっている点である。アマテラスに幾人もの妃がいたことも伝えている。また古代にさかのぼるほど、東が西を圧しているのも面白い。自然を構成するのは空・風・火・水・土の五元素としている。この五元素はホツマ文字の母音(あいうえお)とも対応している。自然と人間の調和を尊重した優れた自然哲学を伝えている。
「上記」(うえつふみ)
全文が豊国文字と呼ばれる神代文字で書かれている。内容、文体などから判断して「古事記」との関連が深い。天文、暦制、薬学、医学、産業など古代生活科学に関する記事も多く載せられている。「上記」はサンカ(日本のジプシーといわれた漂泊の山の民集団)の伝承と極めて類似している。さらに、豊国文字とサンカ文字も類似性が認められる。また、大友能直に文字と歴史を盗まれたという伝承が山の民の一部にあるらしい。これらのことから、「上記」は山の民の文書といえよう。鎌倉時代、豊後の国守大友能直が家臣に命じて古文書を集めさせ、編纂したと伝えられる。大友能直は鎌倉幕府初代将軍源頼朝の庶子である。

「古事記」と大きく異なる点は、出雲朝とウガヤ朝七十二代の存在である。「上記」では、高天原で争い追放されたスサノヲは改心し出雲朝を開く。その後、出雲朝七代目のオオクニヌシがニニギに国譲りをしている。「古事記」では一代であるウガヤ朝が「上記」では七十二代続いている。豊後、肥後、日向を主な根拠地としていたらしい。またウガヤ朝時代、オルシ(北方系民族?)という民族が、日本列島に来寇し、朝廷が軍を出して撃退したと伝えている。ウガヤ七十一代の時、大和のナガスネヒコが新羅と結び、ウガヤ王朝に反乱を起こした。これを鎮圧するため戦争となり、神武の兄イツセが滅亡する。はじめは丹波に派遣されていた神武は、ナガスネヒコを討ち、ウガヤ王権を継承した。(神武天皇はウガヤ朝七十三代目)
「カタカムナ」
昭和24年兵庫県六甲山系の金鳥山の山頂にある狐塚とよばれる芦屋道満の墓で、楢崎皐月(ならさきこうげつ)は平十字(ひらとじ)と名乗る老人と出会う。その老人は八鏡文字という古代文字で書かれた巻き物を御神体としていた。楢崎はその筆写を許されたものが「カタカムナ」である。成立、作者は不明。

平十字によると、昔、カタカムナ神を崇める一族が、天孫族に滅ぼされた。一族の長は九州で亡くなったという。表記方法は特徴的で、中心に三種の図形のいずれかが配置され、そのまわりにカタカムナ文字が内側から右回りに螺旋を描いている。この螺旋状(文字数30のものが多い)のものが1つの歌や文書になっている。 
 
八咫烏の足は果たして三本か

 

一 (八咫烏)と(三足烏)混乱のはじまり
日本サッカー協会への抗議 
日韓共催のサッカーW杯の準備がすすんでいたころ、日本サッカー協会のシンボルマークが話題になり、議論が起こりました。そのシンボルマークとは、三本の足をもった烏がサッカーボールを押さえているもので、テレビでお馴染みです。これについてのインターネットのサイトにありますサッカー協会の初期の説明は、
「ボールを押さえている三本足の烏は、中国の古典にある三足烏と呼ばれるもので、日の神=太陽をシンボル化したものです。」
という内容でした。
中国の古典にある(三足烏)とは、三本足の烏が太陽の中に棲んでいるという伝説のことで、西暦紀元前後の漢の時代にできたようです。
おそらくは黒点から想像したのでしょう。
このマークは、デザインもなかなかオシャレですし、問題はなさそうに見えるのですが、これに対しまして、一部保守派の人たちが厳しい抗議をしたのです。それは、
「そのシンボルマークは日本神話の(八咫烏)なのに、日本神話の説明が無いのはおかしい。」
という抗議でした。この抗議は、新聞にも取り上げられていました。ただしサッカー協会は、何の返事もしなかったようです。
著者の疑問と推理 
著者はこの件につきまして、二つの疑問を持ちました。
(一)日本サッカー協会への疑問 / 「なぜ日本の協会なのに、わざわざシナの伝説の烏などを持ってきたのか?」
(二)抗議する保守派への疑問 / 「その抗議は「(八咫烏・やたがらす)=(三足烏・サンゾクウ)」を前提としているが、ほんとうにそうなのか?」
著者は、「古事記」や「日本書紀」を読んでも、「(八咫烏)=(三足烏)」とは書いてありませんから、保守派の抗議に疑問を持ち、あれこれ調べてみました。その結果としまして、すくなくとも古代においては、「(八咫烏)≠(三足烏)」という推理をいたしました。なぜそのような推理をしたかといいますと、以下にご説明するようないくつかの文献があるからです。
二 (八咫烏)についての日本最古の文献
日本最古の史書 「古事記」(七一二年) 「日本書紀」(七二〇年) 「先代旧事本紀」(平安初期) たいへん有名な話ですが、これらの古典の中に、
「神武天皇が大和に進出する途中の難所の熊野で道に迷ったとき、天照大神や高木大神が(八咫烏)を派遣して道案内をさせます。その結果神武一行は無事に宇陀(奈良県宇陀郡)に到着します。そのあとの闘いでも、(八咫烏)は天皇の指示によって活躍します。それを愛でて東征が完了したとき、天皇は(八咫烏)に恩賞を与えますが、その子孫が賀茂県主一族(京都の賀茂社を囲む豪族)になりました。」
とあります。
「日本書紀」がもっとも詳しいのですが、他の二書にも矛盾した記述はありません。ここで気づくのは、以下の点です。
[1]三本足の件
これら日本最古の史書には、(八咫烏)が三本足であったという記述はまったくありません。もしそういう口伝が奈良時代より前からあったとしたら、それは大きな特徴ですから、かならず書いたと思います。書かれていないのは、そのような口伝が無かったということでしょう。
(シナ伝説の(三足烏)そのものは、玉虫厨子にも描かれていますし、古墳の壁画にもあるそうですからかなり古くから知られており、太陽に棲む烏という伝説が(八咫烏)神話に影響したことは考えられますが、(八咫烏)の足がじっさいに三本だったという伝承が古くからあれば、かならず「記紀」にそう書いたと思うのです)
[2]神秘性
前のどの史書にも、(八咫烏)は神武天皇の命令によって動く配下として書かれています。もし(三足烏)だったとしたら、太陽に棲むのですから、天皇より上位として――神武天皇を助けた金鵄や神剣布都御魂のように――もっと神秘的に書かれる筈だと思いますが、そういう事はありません。天照大神が太陽神とされているにもかかわらず――です。しかも戦争が終わったあと、天皇が(八咫烏)に恩賞を授けているのです。これは当然、天皇の部下としての扱いです。
[3]人間であること
賀茂県主という豪族の先祖と記されていますが、いくら古代人でも執筆者は学者ですから、烏から人が生まれると信じていた筈はありません。ですからこれは、あくまでも、豪族の先祖集団の活躍を神話的に表現したものと思われます。ちなみに、著者が学んだころの小学国史の教科書にある(八咫烏)のイラストにも三本の足は描かれていませんでした。もし、(八咫烏)の足が三本だという認識が戦前の歴史学者にあれば、描かれていただろうと思います。このように、「日本書紀」など最古の史書には、(八咫烏)の足を三本とする記述がまったく無いことが分かりましたので、つぎは、古い神社の伝承について、調べてみます。
三 (八咫烏)に関係する古い神社の由緒譚
「八咫烏神社由緒書」(七〇五年創建)
この神社は、「続日本紀」によりますと、文武天皇の慶雲二年九月(西暦七〇五年)に創建されました。西暦七〇五年といいますと、「古事記」の成立より前で、たいへんに古い神社であることがわかります。正史の「続日本紀」に記されているほどですから、由緒正しく格式の高い神社で、延喜式内社です。場所は、(八咫烏)が活躍した奈良県宇陀郡です。
この神社の由緒書に、概略次のようにあります。
土地の豪族の武角身命が、黒い衣をまとって木から木へと飛び移りながら神武天皇をご案内した。天皇はその姿をごらんになって、(八咫烏)という称号をおつけになった。「八咫烏神社」のご祭神はこの武角身命である。その子孫は賀茂県主である。当神社の絵様には(三足烏)を使っている。
つまり(八咫烏)とは、黒い衣を着て道案内をした豪族が、まるで大きなカラスのように見えたので、天皇がおつけになった称号(綽名)である――としているのです。ですからもちろん人間で、かつ神武天皇の部下です。そして、その故事とは関連なしに、(三足烏)を神社のマークにしています。
この由緒がいつごろから伝えられていたものか分からず、八一五年の「新撰姓氏録」から来たのかもしれませんが、少なくとも創建以来の口伝と矛盾するような事は書かないでしょうから、これに近い伝承があったのでしょう。また(三足烏)は、デザインとして、(おそらくは)鎌倉時代以降に出来たのではないか――と思います。黒い衣装の土地の豪族の足が三本あった筈はありませんから・・・!
つぎに、(八咫烏)や(三足烏)に関係の深い、賀茂社と熊野三山の資料を簡単に記しておきます。
賀茂社について 
賀茂社は、先の「八咫烏神社」の由緒書きにありましたように、(八咫烏)その人の勢力圏として、京都にできた古い神社です。この神社は、下と上の二社に分けられています。
賀茂御祖神社(通称下鴨神社/京都市左京区)
ご祭神は、玉依媛命(東本殿)と建角身命(西本殿)です。賀茂県主一族の中心となる神社で、旧社格は官幣大社で超有名です。また、賀茂川の近くにあって、《平安京》の水の守り神でもあります。西本殿のご祭神は漢字が少し違いますが(八咫烏)そのものであり、東本殿の玉依媛命はその姫です。
賀茂別雷神社(通称上賀茂神社/京都市北区)
ご祭神は賀茂別雷大神で、玉依媛命の御子とされています。つまり建角身命=八咫烏の御孫にあたります。場所はやはり賀茂川の近くにあり、社伝では神武天皇の時代に賀茂山に降臨したとされていますが、風土記では、玉依媛が賀茂川から流れてきた丹塗矢で懐妊して産まれたとされ、「記紀」神話に共通した誕生譚をもっています。
やはり社格は官幣大社で、上下合わせて一社という感じです。この二つの賀茂社のシンボルマークは、いずれも(三足烏)ですが、しかし由緒譚には、先祖の足が三本だったという話は無いようです。八咫烏神社と同じく、マークとして使われているだけです。
余談、私の戦前生まれの友人はこの賀茂社の家系の末裔らしいのですが、子供のころ祖母から「お前の先祖は脚が三本あるカラスなんだよ」と教えられて仰天したそうです(笑)。ですから、そういう俗説は戦前から有ったようです。
熊野三山について 
つぎに、神武天皇の東征伝説で知られ、(八咫烏)が活躍した和歌山県の熊野にある三つの著名神社、熊野三山について記します。
熊野本宮大社(通称熊野本宮/和歌山県東牟婁郡本宮町)
計十三柱のご祭神が祀られています。主祭神は家津御子大神(素戔嗚尊)で、他に伊弉諾尊・伊弉冉尊・天照大神・瓊瓊杵尊・・・など神話で有名な神々がずらりと並んでいます。
社殿ができたのは第十代崇神天皇の時代とされていますが、真の創建はつまびらかでなく、神武東征以前にすでに鎮座していたと言われ、神武天皇と争った出雲一族や饒速日命と関係があるとも言われています。
社格は官幣大社で、熊野三山の中心で三山中最古とされています。
お祭りは数多くありますが、とくに有名なのが一月七日の八咫烏神事です。本宮では昔から、八咫烏の図柄を神璽として紙に押捺し、牛王神符として全国に頒布していますが、八咫烏神事とは、この神符の移靈式と頒布式のようなものです。この牛王神符は、とくに中世武家に広まり、武家の誓紙に必要となったそうです。この神社のシンボルマークも(三足烏)ですが、面白いことに、八咫烏神事の牛王神符にあるたくさんの烏は、三本足ではないように見えます。
熊野速玉大社(別称熊野新宮/和歌山県新宮市)
計十四柱のご祭神が祀られています。主祭神は熊野速玉大神(伊弉諾尊)です。現在の地に社殿ができたのは第十二代景行天皇の御代とされていますが、その前から三重県や新宮にあったとされており、伝承はおそろしく古いものがあります。社格はやはり官幣大社で、国宝や重文がたくさんあります。シンボルマークは同様に(三足烏)です。
熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)
計十八柱のご祭神が祀られています。主祭神は熊野夫須美大神(伊弉冉尊)です。有名な那智の滝を望む地にあり、おそらくは縄文弥生の時代からこの巨大な滝を神として崇める信仰があり、それが神武東征と結びついて現在の姿になったのでしょう。社伝では、神武天皇が那智の滝を神として祭って、その守護のもとに(八咫烏)に導かれて大和に入ったとされています。のちに本地垂迹の思想のもとに、修験道とも結びつき、いろいろな伝説が生じたようです。社格は官幣中社で、シンボルマークは同じく(三足烏)です。

この熊野三山の歴史の探究は、賀茂社以上に興味深いのですが、頁のゆとりがありませんので割愛いたします。ただ注意すべきは、マークに(三足烏)を使ってはいても、神社の由緒に、(八咫烏)の足が三本だった――という話は無いらしいことです。もうひとつ注意したいのは、この熊野三山の烏の図(三本足ではない)が有名になったのは、鎌倉時代以降、武士が盛んになってかららしい――ということです。つぎに、「記紀」以後に書かれた、南北朝時代までの文献を調べてみます。
四 (八咫烏)についての南北朝時代までの文献
「新撰姓氏録」(萬多親王等/八一五年)
これは、著名な氏族たちの由来などを集めた膨大な資料集で、西暦八一五年にできました。編者のひとり萬多親王は桓武天皇の皇子です。現在残されているのは、ほとんどが抄本ですが、それでも膨大です。例外的に見つかっているこの資料集の本文(逸文)の中に、賀茂県主があります。そこには、次のように記されています。
「鴨縣主、賀茂縣主同祖、神日本磐余彦天皇欲向中洲之時、山中嶮絶、跋渉失路、於是神魂命孫鴨武津之身命、化如大鳥翔飛、奉導遂達中洲、時天皇喜其有功、特厚褒賞、天八咫烏之號、從此始也。」
漢字のみで書かれていますが、比較的判読しやすい文章です。漢字を拾ってみてください。なお神日本磐余彦天皇とは神武天皇のことです。この文章も、(八咫烏)が神武天皇を助けた豪族に与えられた称号であることを示しています。
「特厚褒賞」で分かりますように、天皇から特別な褒美を与えられた部下ですし、もちろん、足が三本という記述はありません。八咫烏神社の由緒書に似ています。
「倭名類聚抄」(源順/九三〇年代)
著者が見つけた、「(八咫烏)=(三足烏)」説の最古の文献がこれです。著者の源順は平安時代を代表する大学者兼歌人で、三十六歌仙の一人です。この本は、平安中期に編纂され、世界的に見てもひじょうに古い百科事典(これとは別に世界最古の百科事典「秘府略一千巻」も日本が出しています)として有名です。この冒頭近くに、
「天地部第一 景宿類一 陽烏」という項目があり、そこに、以下のような記述があります。
「歴天記云、日中有三足烏、赤色、今案文選謂之陽烏、日本紀謂之頭八咫烏、田氏私記云、夜太加良須、・・・(訳 「歴天記」の中に太陽に赤色の三足烏が棲むと書かれているが、いま考えてみると、これは「文選」で言っている陽烏のことだろうし、また「日本書紀」にある(八咫烏)のことだろうし、また「田氏私記」で言う夜太加良須のことであろう)」
(注 「歴天記」は今は失われた日本の本です。「文選」と「田氏私記」は、それぞれシナと日本の有名な本です。「日本紀」は「日本書紀」のことです)
ここに、今に残る文献としては史上はじめて、
「(八咫烏)=(三足烏)」という説が書かれているわけですが、その文章は、「倭名類聚抄」より前の本や口伝を引用しているのではなく、「今案(いま案ずるに)」で分かりますように、この百科事典の編者の源順の考えでは「(三足烏)は(八咫烏)だろう」としているだけです。つまり、源順の個人的な意見として記されているだけなのです。この源順の個人的な見解を、江戸時代の有名な二人の天才学者が否定しているのですが、それは次の節で記します。
「讃岐典侍日記」(藤原顕綱の娘の日記/一一〇八年ごろ)
冨山房の「大日本国語辞典」や小学館の「日本国語大辞典」によりますと、この日記の中につぎのようにあります。
「我は何事にも、目もたたすのみおほえて、南のかたをみれは、せいのやたからす、見もしらぬものとも、大かしらなとたてわたしたる見るも。」
分かりにくい文章ですが、朝賀即位などの時に庭上に立てる幟でその先端に金銅製の烏がついたものを(八咫烏)と呼んだらしく、それを見た有様です。それが三本足であったかどうかは分かりませんが、辞書にシナの三足烏と並べて書いてあるので、その可能性があります。だとしますと、「倭名類聚抄」の影響があるのかもしれません。
八十年あとの日記ですから・・・。
(先端に烏型の飾りをつけた幟はかなり昔から有ったらしく「続日本紀」などにも出てきますが、正史ではそれを(八咫烏)とも(三足烏)とも呼んでいないようです)
「神皇正統記」(北畠親房/一三三九年初版とされる)
北畠親房の「神皇正統記」の「巻の二」にも、(八咫烏)のことがあり、次のように書かれています。
「神魂命の孫武津之身命、鴨武津命とも云ふ、大烏となりて、軍の御前につかまつる。天皇ほめて、八咫烏と號し給ふ。」
南北朝になってもなお、「(八咫烏)=(三足烏)」という混乱はなく、しかも「武将に与えた称号」という書き方です。「倭名類聚抄」の影響はありません。北畠親房は当時の随一の学者ですので、この記述も尊重すべきだと思います。

ここまで見てきた範囲では、「(八咫烏)=(三足烏)」を主張する唯一の文献は、源順による「倭名類聚抄」でしたが、この源順の説に反対している江戸時代の大学者を、次節でご紹介いたします。
五 (八咫烏)についての江戸時代の書誌学的文献
「古事記伝」(本居宣長/江戸時代後半一七九八年ごろ最終成立)
本居宣長は江戸期最高の国学者とされる人物ですが、その宣長の畢生の大作が「古事記伝」です。宣長はその「古事記伝」の十八之巻において、
「和名抄に、歴天記云、日中有三足烏赤色、今案文選謂之陽烏、日本紀謂之頭八咫烏、とあるは心得ず、」
と記しています。
つまり、「倭名類聚抄」の中で源順が「(八咫烏)=(三足烏)」としている箇所をそのまま引用して、その言葉は納得できない――と言っているのです。
本居宣長は、膨大な資料を渉猟し、何十年にもわたって研究に研究を続けて、ついに「古事記伝」を完成させた大碩学です。伊勢神宮のそばに住んでいて、神社の由緒にもひじょうに詳しい学者です。その大学者が、
「(八咫烏)≠(三足烏)」としていることは、看過できないと思われます。ついでながら、本居宣長が伊勢神宮について詠んだ歌をひとつ記します。「もの言わば神路の山の神杉に 過ぎし神代のことぞ問はまし」
「倭名類聚抄箋注」(狩谷エキ斎/江戸時代後半)(エキは液のシを木に代えた字です)
狩谷エキ斎は、本居宣長ほどの知名度はありませんが、江戸時代最高の考証学者として聞こえた人物です。安永四年(一七七五年)生、天保六年(一八三五年)没で、本居宣長の四十五年のちの生まれです。裕福な江戸商人の息子として育ち、学問に精進して、とくに書誌学的方面に非凡な才能を見せました。業績の第一は度量衡研究で、「本朝度量権衡攷」は、正倉院はじめ全国を旅し、徹底した実物主義を貫いてできた著作とされ、今では平凡社の東洋文庫で見ることができます。
(八咫烏)の大きさについての考証なども有名です。業績の第二が、この「倭名類聚抄箋注」で、実証主義に基づいた、精緻を極めた考証によってできた、「倭名類聚抄」についての解説書です。本文より解説のほうがはるかに長い本です。活字印刷されたのは没後の明治十六年とされています。
この中に、「陽烏(太陽に住む三足烏)」についての長い解説がありますが、そこで、(三足烏)と(八咫烏)の関係について、狩谷は次のように述べています。
「頭八咫烏者、天照大神為神武帝遣以為郷導之神烏也、古事記所載同、源君以為日中烏者誤矣。」
源君とは源順のことです。つまり、「倭名類聚抄」に書かれた源順の「(八咫烏)=(三足烏)」説は誤りだ――と明記しているのです。本居宣長に匹敵するほどの考証学者が、やはり、「(八咫烏)≠(三足烏)」と主張していることは、尊重すべきだと考えます。
明治の童話にある(八咫烏)
以上で江戸時代までの文献をご説明しましたが、ここで、明治になってからの(八咫烏)の童話をご紹介しておきます。
日本の童話の先駆者は巖谷小波とされておりますが、その小波が有名な博文舘から明治二十九年に出した童話に、
「日本お伽噺 第壹編 八咫烏」というのがあります。執筆は小波、画は久保田米僊です。この童話を読んでみましても、足が三足という記述は皆無です。また、イラストの烏にも、三本の足はありません。つまり、明治になりましても、(八咫烏)=(三足烏)」という伝承は一般的ではなかったと思われます。
六 補足と結論
「(八咫烏)=(三足烏)」説の発端とは? 
以上のように著名な学者が否定しているにもかかわらず、多くの人が(八咫烏)の足は三本だと信じているようです。古舘さんが司会をする人気の高いテレビのクイズ番組でも、そうなっていました。しかし著者が見聞した範囲では、ほとんどの人は、以上のような文献調査をした上でそのような見解に達しているのではなく、漠然と信じているように思われます。では、そのような説がいつ頃からどのようにして出来てきたのか――ですが、たぶん鎌倉時代以降ではないでしょうか。すくなくとも、一般にそのような考えが拡がったのは、鎌倉時代以後だろうと推量しております。
(大部分の人が三本足だと思うようになったのは、戦後しばらくしてからのような気がします)
著者としましては、「(八咫烏)=(三足烏)」が鎌倉時代以降の信仰だったとしても、それはそれで尊重したいと思っておりますが、もっとずっと単純に決めつけている方が多いように思いますので、本章のような検討をしてみた次第です。
辞書類の検討 
多くの国語辞書に、(八咫烏)や(三足烏)はありますが、これをイコールで結ぶ記述は、源順の説の引用のみのようです。源順をはじめて引用したのは昭和七〜十二年の「大言海(全五巻)」らしいのですが、その直後に出た「大辞典(全二十六巻)」でも同様な引用をしています。同じ人が書いたらしく文章はまったく同じです。また百科事典の類には、戦前から戦後まで、イコールで結ぶ話は出ていないようです。見逃しているのかもしれませんが・・・。
著者の結論 
日本サッカー協会では、保守派の抗議を気にしたのかどうかは分かりませんが、シンボルマークの解説の言葉を少し修正したようです。現在はつぎのようになっています。
「ボールを押さえている三本足の烏は、中国の古典にある三足烏と呼ばれるもので、日の神=太陽をシンボル化したものです。日本では、神武天皇御東征のとき八咫烏が天皇軍隊の道案内をしたということもあって、烏には親しみがありました。」
つまり、日本神話の(八咫烏)の話を加えてはおりますが、それと(三足烏)とが等しいとは書いておらず、それとは別に(八咫烏)の話が神話にある――としているのです。これは、ここまでの著者の文献調査と矛盾しない書き方ではありますが、なにか釈然としません。言い訳しているように見えます。
著者としましては、日本サッカー協会への抗議は、「日本神話も書け」というのではなく、「日本のサッカー協会なのになぜ外国の伝説を採用するのか」の一点に絞るべきだと考えます。
(もし抗議するなら、の話です)
日本サッカー協会の創始者が熊野出身だったので(三足烏)を協会のマークにした、という事らしいのですが、日本らしいマークは他にいくらでも有ると思うからです。  
 
《倭》と《大和》の語源

 

1.「倭」と「和」の問題 
「魏志倭人伝」は正式には「三国志」のなかの東夷伝のなかの倭人の条というのだが、いずれにせよ倭人という言葉がでてくるし、さらに倭や倭国という言葉がでてくる。つまり当時のシナ王朝では、現在の日本列島および朝鮮半島南端部のことを《倭国》と記し、そこに住んでいる日本人のことを倭人と呼んでいたのだ。なぜそう呼んでいたのだろうか?これについては、いくつかの説があるが、大きく分けて、
[ア] 漢や魏の役人が勝手に作ったという説。
[イ] 日本人が質問されてそう答えたという説。
の二つになる。
前者の[ア]は、「倭」という漢字の意味が低いとか曲がっているとか遠いとかいうものなので、遠路はるばる日本を訪れた使者が日本人の醜い姿を見て、そう名づけたのだろう――というものである。しかしそれはあまり説得力がない。なぜなら、「魏志倭人伝」のなかの多くの国名は、みな日本での呼び方を漢字に当てはめて、日本人の発音に似た呼称で呼んでいるからである。ただそのとき当てはめる漢字に、蔑称的なものが多いということなのだ。
一方後者の[イ]は、質問された日本人が「ワ」と答えたので、それに差別的な「倭」という漢字をあてはめたのだろう――というものである。これは前者よりずっと得心がゆく。
この後者の説にもいろいろあるわけだが、著者が読んだ説を二つほど挙げておく。
そのひとつは、「日本人が昔のシナ人と話をはじめた時代に、日本人は自分たちのことを《われわれ》または《われ》または簡単に《わ》といい、自分たちの国のことを、《われわれのくに》または《われのくに》または《わのくに》などといったので、シナ人は日本を「ワ」と呼ぶようになり、それを漢字で書きあらわすときに、差別意識によって低い姿勢とか従うとかいう意味を持つ「倭」を当てはめ、日本のことを《倭国》、日本人のことを「倭人」と記すようになった」という説である。
南北朝時代の南朝の忠臣・北畠親房の「神皇正統記(1339)」にも似た意見が紹介されているが、その前の「釋日本紀(1300ごろ)」にも同じ意見が書かれており、とても古くからの説である。
ちなみに後漢から金印を贈られたとされる倭奴国や伊都国の次ぎの奴国の奴とは、召使いとか虜とかいう意味で、これまた倭に負けずに下品な漢字である。
[イ]にはもうひとつ、円形を意味する「ワ」から来たのだろうという説がある。
それは、「日本の集落や都市は昔から環濠と呼ばれる堀を周囲に円周的にめぐらした中にあった。だからシナ人からお前の国は何と呼ぶのか、と聞かれたとき、円形や環形を意味する日本語の「ワ」を使って「わのなかにある」あるいは「わのなかのくに」または「わのなか」といった答をしただろう。そこでシナ人は日本のことを「ワ」と呼ぶようになり、それを差別的な「倭」という漢字で表した」というものである。
おそらくこの後者の[イ]の二つ、またはそれに近いことがあって、かなり昔――たぶん西暦前――の前漢の時代からシナでは日本のことを《倭国》と呼んでいたのだろう。
そしてそれを知った古代の日本の知識層が、
「なるほど自分たちの国はシナ人によって倭と呼ばれているのか、それなら我々もこの文字を使って「倭」と記すようにしよう」と考えたのであろう。
ところで、古い文書を読むと、日本人は自分の国のことを「倭」とも記しているが、それが次第に「大和」に変化してきている。
なぜなのだろうか?
それは、日本人が次第に漢字の意味を勉強するようになり、「倭」は差別的な意味を持っていることがわかってきたからだろう――といわれている。
古代の日本人はいろいろ考えた末、シナでの発音が似ていて、かつとても穏やかで良い意味を持つ「和」を採用して「倭」のかわりに使おうではないか――ということになったのであろう。
「和」はやわらぐ、なごむ、友好的、楽しむ・・・といった日本人好みの意味を持つ漢字である。
この「和」を「ワ」と読むのはシナの音であるが、日本古来の発音である「ワ」は、円、環、輪、回・・・といった意味を持ち、落ち着きのある語感の言葉である。
だから、「和」という漢字は、当時の日本人にとって、元々の漢字の意味も、読みから来る日本語としての語感も、ともにとても感じの良いものだったのだ。
この「和」の前に「大」をつけて「大和」という単語をつくったのは、大和朝廷やその都がとても強く大きくて立派だ――という自負心からだろうが、ひょっとすると「魏志倭人伝」に記されていてる「大倭」にヒントを得たのかもしれない。 
2.なぜ「ヤマト」と読むのか? 
ここまではなるほど――と思われるのだが、つぎに疑問がうかぶのは、「ヤマト」という読みである。「記紀」を読むと、「大和」だけではなく「倭」も「ヤマト」と読むことが多かったらしいとわかる。そしてその「ヤマト」という読みは、《邪馬台》の読みとじつによく似ている。
《邪馬台》が三世紀のシナの都でどう発音されていたかについては、定説はないらしく、「ヤマタイ」「ヤマダイ」「ヤマト」「ヤマド」「ヤマトイ」など多くの説があるが、どれをとっても日本語の「ヤマト」に似ている。ずばり「ヤマト」と読むべきだという学者も多い。
だから、「ヤマト」なる読みの詮索は、日本国の語源論だけではなく《邪馬台国》探しの面でもきわめて重要になってくる。
「大和」を単純に音で読めば「タイ・ワ」だし、訓で読めば「オオ(オホ)・ヤワラグ」などであり、どう工夫しても「ヤマト」なる読みは出てこない。
したがって「大和」と書いて「ヤマト」と読ませるのは、完全な当て字(当て読み)である。
では、どこからその当て読みが出てきたのだろうか?
もっともなっとくしやすい意見は、日本列島の盟主になった大和朝廷の先祖が住みついていた土地の名前が、漢字を知らなかったころからの純日本語で「ヤマト」と呼ばれていたからだろう――というものである。
またそれを自分たち一族の名前にもしていたのであろう――というものである。
そこで、大和朝廷の先祖がいた土地に、「ヤマト」なる地名が残っているかどうかを調べる段取りになるが、それには、その土地がどこだったかを求めなければならない。
《邪馬台国》に「九州説」と「大和説」があるように、大和朝廷の先祖の土地についても、最初から現在の奈良県の《大和》だったという説と、「記紀」に記されているように九州だったという説がある。
奈良県の場合には《大和》そのものなので、問題はその地名の意味やいつごろからそう呼ばれていたか――ということだけであるが、九州については「ヤマト」なる地名をもつ場所を探さなければならない。
それは、「記紀」にある高千穂の峰の近くや日向の地には見つからないが、中北部には現存している。
福岡県の山門郡(ここに大和という町もある)とその近くの熊本県の山門である。(これらはヤマトと読む)
神武東征説では、この地点が大和朝廷の先祖に関係するとする考え方があるし、「《邪馬台国》九州説」では、この二箇所のどちらかが《邪馬台国》だったとする意見が昔からある。
江戸時代の新井白石も福岡県の山門説を唱えていた。
地名は変化するので、九州の一部に「山門」なる地名が現存しているということは、昔は他の地域にも同様な地名があった確率が高いということであり、高千穂のあたりや現在の日向のあたりにも「山門」があった可能性がある。
また奈良県の《大和》も、本来は「山門」または「山処」といった漢字を当てはめるべき意味の「ヤマト」という地名だったのだろう――という説が多くの学者によって唱えられている。
というわけで、「大和」とは本来の漢字の意味からすれば「山門」と書くべき言葉で、山の門つまり山への入口といった意味を持っており、これが、畏敬すべき山地の近くに住んでいた大和朝廷の先祖がその土地につけた名であり同時に氏族名でもあり、それをあらわす漢字として「倭」を改善した「大和」を採用することにしたので、「大和」と書いて「ヤマト」と読む一見奇妙な読みができたのであろう――ということになる。
これはなっとくしやすい推量であり、肯定する学者も多いらしい。 
3.甲類・乙類の諸問題 
ただしちょっと問題もある。
それは、万葉仮名の研究などによって、古代の日本語には同じ「ト」にも二種類あることがわかっており、その違いを検討すると、「大和」の「ト」と「山門」の「ト」は発音が異なっているので、語源が「山門」という説は成立しない――との意見があることである。
この発音の問題を《邪馬台》にあてはめると、それは「大和」には似ているが「山門」とは違うとされ、「《邪馬台国》九州説」への反論にもなっている。
古代の発音における甲類・乙類の問題は専門書を見ていただくことにして、「山門」と「大和」にこれをあてはめてみると、
「山門」の「ト」は甲類
「大和」の「ト」は乙類
となるので、この二つの地名(氏族名)は古代の発音が異なっていたことがわかる。
そしてこれが、「大和」の語源は「山門」ではないし、また九州の「山門」は大和朝廷の出発点ではない――との説に結びつくのである。
しかし、音韻がしだいに変化する例はたくさんあるので、これは一つの意見にすぎず、「大和」と「山門」は同源であるとする著名な学者も多い。
もうひとつ、「山門」に近い言葉に「山処」がある。
文字どおり山のある処という意味だが、こちらのほうは「大和」と同じ乙類であり、したがって「山処」が「大和」の語源だという説もある。
(前記の「神皇正統記」で北畠親房は「山迹」説をとり、異説として「山止」説を紹介している。前者は山を歩いた足跡、後者は山への居住という意味だが、七百年も前の学説なので、ここでは参考にとどめる)
さて次に、この甲類・乙類の区別を、《邪馬台国》がどこにあったかの問題にむすびつけてみよう。
台は「ト」とも読めるが、このように読んだとき、
「邪馬台」の「ト」は乙類
で、「大和」の発音に等しい。
したがって、甲類・乙類を峻別する意見では、
「《邪馬台国》大和説」となるし、また音韻変化を認める意見では、「山門」なる地名が九州にあるので、
「《邪馬台国》九州説」を否定すべきではない、となる。
ちなみに、「古事記」に記された万葉仮名の「ヤマト」は「夜麻登」で統一されているが、「日本書紀」のそれは十通りもあるという。
「耶馬騰」「椰磨等」「夜摩苔」「夜莽苔」「揶莽等」「野麼等「野麻登」「野麻等」「耶魔等」「野麻騰」の十種である。
また「万葉集」にも多くの万葉仮名がある。(「万葉集」の仮名以外では「日本」や「倭」のほかに「山跡」が多い)
シナ史書では、七世紀前半の「隋書倭国伝」に、「邪摩堆に都する、すなわち「魏志」のいわゆる邪馬臺」とあるので、「邪馬台」は昔のシナでは「ヤマト」にとても近い発音だったとの印象をうける。 
4.むすび 
以上を総括してみよう。
甲類・乙類という古代の発音の違いは別問題として、「ヤマト」の語源としては「やまのあるところ」あるいは「やまへの入口」という意味からきたという説が有力で、漢字で書けば「山門」あるいは「山処」などが語源であろう――いう説が一般的である。
だから「ヤマト」は最初は山に近い場所、つまり神聖な山の麓の呼称であって、日本全体の名ではなかった。
日本のあちこちに「ヤマト」という地名があり、また氏族名があり、そういう氏族の代表が大和朝廷の先祖だったのであろう。
そして、奈良県の《大和》に本拠をおく大和朝廷が日本を統一したために、シナ式表記の「倭」のかわりに美しく「大和」と書いて「ヤマト」と当て読みする単語が、日本列島全体の代名詞になっていったのである。
和は倭の代わりなので、和のみで「ヤマト」と読むのが本来である。
したがって、大和を「オオヤマト」と読むことも多い。戦艦大和に祀られていたことで知られる《大和神社》がその例である。
《邪馬台国》との関係については、「邪馬台」も「大和」も末尾をトと読んだときの古代の発音は乙類で同じと想像されるので、《邪馬台国》が大和朝廷かその先祖の地《大和》であった可能性はきわめて高い。
しかし、それだけで奈良県の《大和》が《邪馬台国》であると決めつけることもできない。
私は「《邪馬台国》大和説」が有力と考えてはいるが、九州の《山門》の音韻が変化して《邪馬台国》になった可能性も否定できないからである。
なお、発音の面から《邪馬台国》と《大和》を厳密に比較することは、三世紀の発音を推理しなければならないので、困難であろう。
三世紀の日本人が「ヤマト」をどう発音していたのかを厳密に知ることは難しい。現在でも地方によって方言があることから、当時に日本で近畿と九州とで「ヤマト」が同じ発音だったとも考えにくい。少なくともイントネーションは相当違っていたであろう。
また、日本人のその発音が、シナの使者や役人の耳にどう響いたかも分からない。
さらに、それを「邪馬台」と表記したとしても、その三世紀の発音がどうだったかを厳密に知ることはできない。
したがって、《邪馬台国》と《大和》の発音の面からの比較は、「だいたい合っているようだ」という程度の推理しか出来ないと思う。 
 
東日流外三郡誌

 

はじめに
「東日流(ツガル)誌」とは、その昔蝦夷と呼ばれた人たちの記録集である。
1789年蝦夷直系である秋田家(三春藩五万五千石、郡山市近辺)の当主秋田千季(ユキスエ)は、息子の秋田孝季(タカスエ)に蝦夷関係資料の収集を命じた。孝季(秋田県、土崎)が義弟の和田長三郎(津軽、五所川原市飯詰(イイズメ)と二人で、三十三年間にわたり収集記録したのが「東日流誌」群である。ここには、蝦夷一族に関連した歴史、宗教、言語、風俗習慣その他、集められ得る限りの資料が収められている。なお、菅江真澄(スガエマスミ)も一時期この収集に参加している。
現在、これらの資料は、津軽飯詰の和田家に保存されており、
「東日流外三郡誌」(弘前市、北方新社)(東京、八幡書店)、
「東日流六郡誌絵巻」(弘前市、津軽書房)、
「東日流六郡誌」(津軽書房)
などが発表されており、「東日流内三郡誌」は未発表である。
この東日流外三郡とは、ほぼ津軽半島部にあたり、内三郡はそれ以南の津軽の内陸部にあたる。「東日流誌」をみての最大の驚きは、蝦夷と呼ばれ蔑まれ続けた人たちが、思いもよらぬ人間的で豊かな文化を持っていたこと。またこの一族が、荒吐(アラハバキ)族−安倍氏−安東氏−秋田氏と名を代えながらも明治維新、そして現在に到達しておりそこに信じられぬような歴史を持っていることである。 
1 「東日流誌」のはじめに
初代津軽藩主、大浦為信(タメノブ)は、徳川家から藩政を預けられて以来、津軽の地に古くから残る安東氏関係の事物を総て消滅さすことを計った。そのため、古記録の消却処分、安東氏の信仰したアラハバキ神の壊滅、安東(藤)氏関係の民謡、民話の禁止を命じた。津軽藩では古記録を提出した者を藩士として取り立てる約束、アラハバキ神関係の石塔を地雷で爆破する行為まで行なっている。
大浦氏の行為の中でいちばん安東一族を怒らせたものは、十三湊に安東水軍の基礎をつくった藤原秀栄(ヒデヒサ)を、大浦氏が自分の祖と語ったことといわれる。このため安東氏唯一の後裔である秋田家では、大浦氏の偽を発くため証拠書類を揃え徳川家に提出したという。しかし徳川家ではこの書類を全く無視し、あまつさえ秋田家の国替えを命じた。徳川家、大浦氏に対する怒りが、「東日流誌」作成の引金であり、それを完成に導いた刺激剤といわれる。
一説には、天明五年(1785年)三春藩城下に火災があり古資料が失われ、そのため改めて記録が収集されたともいう。しかしいずれにせよ、秋田孝季(タカスエ)によって提出された記録は、徳川家にとってあまりにも過激だったため、とうてい受け入れきれず返却されている。
「外三郡誌」の出発時点(1789年)で、秋田孝季は五十才前後、和田長三郎は三十才前後と考えられる。したがって孝季は五十才頃から八十才までの三十三年間を、この「東日流誌」の完成のために捧げたことになる。 
2 「東日流誌」の成り立ち
寛政元年(1789年)、私は父、千季(ユキスエ)に呼ばれ三春(福島県郡山市近辺)に出かけた。父は人払いをし、安東一族の故事来歴を諸国を巡り綴るよう申しつけた。もとより文筆つたない自分であるので断わったが許されず、若干の費用を授けられた。自分は秋田の住まいなので急ぎ帰り、津軽に住む義弟、和田長三郎を呼び相談した。まず津軽六郡を巡り、多くの祖歴を得た。更に渡島に渡り原住民にその歴史を尋ねたが、正史に記されたものと実際が余りに違っているのを知り怒りを覚えた。その後六十余州を巡り、一族縁者から史書を得て、ここに「東日流外三郡誌」とし、更に「東日流内三郡誌」を綴った。 
3 綴史密命之事
本書は、天地の創造から現在に至るまでの歴史を明らかにすることを基本目的とする。そのため、私考は一切加えない書巻である。年代、氏名、内容等のそれぞれに違った記事も、また疑わしいところのある記事も判断は後世にまかせ、そのまま記載した。本巻三百六十巻を書き遺したのは、本書の内容を平等な判断により受け取ってもらえる世が、いつかやって来ると信じてやまないためである。 
4 東日流外三郡誌附巻
大浦為信は東日流を一統して以来、自家を軽視する資料はすべて奪い消却した。自己満足の資料のみを取り上げそれに枝葉を飾り世に出した歴書が「津軽一統史」である。文筆つたない自分ではあるが、この実情に憤慨し、我が一族の栄光の歴史を遺し、末代の陽光に浴そうと筆を執ったのが、この「外三郡誌」である。 
5 述言
本書の内容を、そのまま史実として扱ってはいけない。「外三郡誌」は諸説を総てそのままに記述した歴書なので、それを究明する必要がある。秘蔵された文献が何処から現われるかもしれない。本書には昔からの語り伝えもあるので調べてゆけば、わけがわからなくなる事も多い。諸人はこうした事情をよく察し、諸資料をあわせ、実史の完結を成してもらえば幸いである。 
6 総結編二序言
寛政乙酉年(1789年)四月、秋田旭村を出、東日流に向けて旅立つ。山川海辺に住む故老を訊ね、一軒刻みに歩を進める。山中に入り歩を運べば道を知るよしもない。道に迷い、飢に窮して雑草を食べ、流れに添って人家にたどり着くこともしばしばである。狂気の沙汰と世間の物笑いの種にもなる。諸道具を売却し、旅費を持参したとはいえ、それもまたたく間に使い尽くし、果ては妹の嫁ぐ飯積(イイズメ)に向かうこととなる。 主人に金の無心をするが心痛ましいことではある。しかるに主人、長三郎は、これを拒まず、土地を売り、安倍一族の史地尋歴の旅に供することとなった。 
7 十三湊脚渉記
夕日を追うように烏(カラス)がうるさく鳴きながら山の彼方に飛んでゆく。真夏の草いきれが夜になっても蒸し暑く、寺下の旅篭に宿をとるが一晩中蚊に悩まされる。早朝にようやく眠りにつくが、すぐ陽光が枕辺にさす刻となり、ついに寝不足のまま朝食をとる。山からの烏が、またうるさく鳴く。いまわしい尋歴の旅はまだ先が長い。そぞろに衣川の古戦場跡を忍びつつ、胆沢に旅立つ。胆沢も居心地が良くはなく、秋田殿を次の多賀城にさそうが、秋田殿は民家をめぐり、胆沢城編二十七枚を記してくる。自分はいつも悔の多い男である。尋歴の旅に好き嫌いを言ってはいけないものだ。 
8 北辰懐古
海氷のなく角陽国(カムチャッカ北方)では、日没のない半年と夜のみの半年がある。天光が音をなして走るのを拝む。 氷上には白狐や白熊が常住しており、泳ぐ魚は波を起こすほど多量である。寒さは息も凍るほどであり、住民は氷の家で冬を越す。たき火は貝に魚油を灯したもののみで、食料は生の魚肉のみである。舟は獣皮で造り、衣料も毛皮である。
住民の言語は異なるが、顔相は我々と同じである。この国は荒吐(アラハバキ)族と同祖の国なので、角陽国と名付けられている。この国には毛の長い牛、角の大きな鹿が群れをなし、それを追う土民は極寒に生きるため鹿の血を吸う。また犬を飼うものが多く、犬は子供といっしょに寝る。祭には一枚張りの皮を打ち鳴らし、歌声の節は日高国の住民と同じである。 
9 孝季の手紙より
菅井殿が訊ねてきて、たまたま荒吐族が話題になった。菅井殿の史観は我々と違っていて、荒吐神とは源九郎義経のアラハバキ、すなわち膝当てのことと強情を張って譲らない。拙者は笑止千万と、どなりつけたいのを我慢し、菅井殿には帰ってもらった。これもいた仕方ない事である。(菅井殿とは菅江真澄のことである。) 
10 菅江真澄殿、津軽藩捕らわれの事
薬師菅江真澄は、我々とともに荒吐神、安倍・安東の古事を探り巡っていたが、この秘密を津軽藩関所で発見され捕らわれた。これによって、彼が長年にわたって記述してきた史伝書三十八巻も消却されたのは、誠にやるかたない。本巻の著書に彼の記名があるが、これは本巻成立の証人としてのみ記して置いたものである。 
 

 

11 宇宙創誕のこと
(文章省略)
以上の説は、紅毛大史学者、オランダ人、レオポルド・ボナパルドの講義である。
寛政九年(1797年)  長崎ウィリアム邸にて
受講者: 秋田孝季、和田長三郎、菅江真澄、由利頼母、小野寺早苗、秋田乙之助   
「万物創誕のこと」
(文章省略)
紅毛人ダウイン説を、オランダ人、ボナパルドが講義したものである。 
12 長崎で得た彼らの西洋科学知識
私は安東水軍に関する聞き込みのため、長崎のオランダ邸に出かけたところ、エドワ−ド・トマスというイギリス人にめぐり逢った。(一回目の旅行)彼は安東水軍の古事に関しては何も知らなかったが、地球儀を示して三十六日間に及ぶ講義をしてくれた。
以下は、各章の記事を整ぎ合わせたものである。
大宇宙は限りなく広大で、我々の住む地球は大宇宙では星くずのようなものという。大宇宙の星群の数は無限で、日輪は地界を引導し、銀河星群の一過に存在する天体という。我々の住む地界が広大と思いきや、日輪に較べれば、百分の一にも足りない星である。
日界は地界に引導される星で、地界より、はるかに小さいという。小さく見える星の世界には、日輪を百倍するものもあり、また塵のようなものもある。この天地の初めは、鉄や岩も溶かす火炎である。宇宙に漂う塵が集まり動き出し、勢を起こし次第に大火炎となる。大日輪は宇宙に炎転し、星、月、地界を分岐させる。地界は誕生したとはいえ、日輪のように燃える炎玉である。この地界が誕生したのは幾十億年前である。幾億年を経て、これもやがて冷却し、地表が固定する。空中の湯気が雨となり、地表の低い部分が海となり、高い部分が陸となる。しかし地底の火泥はさめやらず地震を起こし、火山となって噴火し海に島をも造る。これが天地の創めであり、神という仮空無実在のものが造ったのでは決してない。
この世に寒暑、空風、雨雪、雷雲、昼夜、四季の巡りがある事に依り、苔の様な生命体がまず誕生する。これが全生命の唯一の祖である。幾億年を経て、苔、藻、草木、魚貝、虫鳥、獣及び人の生命が誕生する。万物は、その住む所によって体型を異にする。苔から藻や草に分岐し、木は草より分岐する。貝は藻より、貝から卵生の魚に分岐する。また貝よりはるかに分岐したのが陸生の鳥獣虫類である。
人が猿より分岐したように、どの世でも、生命体は生活に摘した子孫を残す結果、万類の生命が世に生きる事となる。人間には三種類ある。それは白色、黄色、黒色で、我々は黄肌、黒髪、黒目に属し、その発祥の地はモンゴロイドという。学者は、モンゴロイドは現在の蒙古国、支那西城の砂中に埋もれた所というが、さだかな証拠はない。
人間の祖においてはなおさらである。
人祖は樹上の暮らしより地に降り、立ち歩きをし、加工しない木枝を道具として使う知能に達する。さらには火を起こし、石で刃物を造り、骨で針を造り、草木の皮をつむぎ衣を織るに到る。しかしそれ迄は獣のように生ものを食し、衣は獣の毛皮、住む所は岩穴と樹下で、その生命は三十年から四十年で、女は十歳で子を生むという。親と子であっても、娘が大きくなれば男女の交わりをする因習が続いた。男女の交わりは、豪強なものが多妻し、常に女人をめぐっての殺生があった。しかし世が進めば、譲身の道具として、銅鉄の刃物が造られるようになり、豪強者でも無智であれば倒されるに到る。人間の開化はこのようなものであり、日本史書にある矛先からしたたり落ちる雫が我が日本国の始まりというのはどうであろうか。これが理にかなった歴史の実相で有るや無しや。
東日流の古代を学ぶに当たって、まず地質を考えてみると、羽州に続く火山震活帯に我等の郷土はある。また西海、北海、東海の底にも津浪を起こす地震活帯が潜み、太古において陸海の隆波のあったことは疑いない。しかし山には天をも閉ぐ大森林、鳥獣、珍宝の石、鉄砂があり、海には魚貝藻の幸があり、最古の民からその子孫は続いている。古代の天候を語部に遺る語印から読むと、降雪のない世代、また寒氷が支那や韓国に続く世代が交替したという。天地が開けて以来、このような異常天候によって死滅した生き物は、正体不明の古貝、古骨として地底から見付けられる。古貝が山から、石化した草木が海辺から発見されることからも、古代東日流における陸波、海隆が覚えられる。 
13 東日流抄文
ただただ老いを増し、何処にいつ倒れるかも知れぬ我が身をも省みず、文献を得た時の悦びの味が忘れられずにひたすら歩く。もとより私欲はない。久しく家業に付くことなく、妻子の苦労は誠に申し訳ないが、これも武家に生まれた宿縁と諦めてもらいたい。拙書の走筆が終わる日までの許しを迄い、心中に掌を合わす。
「外三郡誌」はこの一巻で終了しようと思っていたが、続々と出て来る古事文献は老骨を休ませてくれない。よってこれを十四巻に続ける。
同題序
ここに三百六十巻を綴り了巻とする。外三郡誌完成のため、日本六十余州及び渡島、流鬼国(サハリン)神威茶塚国(カムチャッカ)、それに続く北辰列島迄もの旅をした。史跡を尋ね実証を掴むのも苦難の旅であり、史料を調べ書き記すのも安らかな日のない永旅であった。路銀に貧しく、三十余年を経てやっと序を記す段となったが、今後はもう老い先も短く、郷に帰り家業に付くこととなる。
自分は若い頃、最上次郎忠信と果し合い、右手指2本を切断した。それにより文字は乱れその上文盲である。これを読まれる方は、それを心得て判読してもらいたい。この書は和田家代々の宝として、本家を継ぐ者のみが保管し、他見は無用である。和田家は武士である。百姓を営んでいても魂を持て。 
14 悲別之事
子供が憎くて意見する親はいない。しかし子供は親の心に聞く耳を持たない。幼少の頃から心身を込めて育てた娘も、十七才でもはや親を巣立つ縁談がまとまってしまった。妻が長病いをしたので男手ひとつに育てた娘だが、自分で云うのもおかしいが麗人だと思う。その娘の巣立つ日が近づくのを憎らしく思う我が心は、武家であって武家でない。親なら誰でもする事ながら、農労のかたわら読、書、算の三学を娘に教えた。怖れていた嫁ぐ日がついに来て、人しれず流す涙を人の心というのだろうか。目出度いという客人の言葉はいた仕方ないとしても、自分には唯憎らしく聞こえたものだ。長三郎よ。あれは娘ではなく実の妹である。その妹の幸せを祈って呑む酒は唯にがかった。年月の過ぎるのは早く、今ではそうした気持もなく、孫の顔を見るのがたのもしい。東日流外三郡誌の了筆を祝ってその言葉とする。 
15 築城極秘之事第二
築城の要点は、落城の期を入れ築城することにある。これがなければ破滅する。隠し蔵、隠し館、隠し湊を極秘に施して置き、ここに軍資金、秘宝も積蔵するという。安東一族は、城を棄て脱却しても新天地を開拓するための資金が底をつくことがなかった。秋田に家を興し、現在三春藩主として一族安奏なのも、この軍資金によるためである。我が一族は他藩の武家、商人中に多くあり、相通っている。これは、幕府の見付けや隠密の夢にも知らぬところである。我が一族は討幕と、民選による政治を策なしてやまない。一族は遠祖を夷人と云われているが、日の本将軍の唱えた日本全土民政による平等の世が遠からず来ることは間違いない。そこに安東一族の軍資金が動くや否や。
季安東祖恨仇討連判状控
国に反き天に反く幕府の政道は、人の誠に背き重税は民に重く、さながら国を貧しめるごとくである。民は貧苦にあえいでおり、反幕の運動を起こさずにはおれようか。我等安東一族の有志は、今朝の日時をもって討幕の悲願を起こし、祖先の恨みを晴さんことをここに誓う。 
16 東日流外三郡誌読おきて
外三郡誌は、その取り扱う史城が無辺であり、秘密にされる場所や文献が多い。これを発表すれば、世間を騒がすのみならず、挙国によって幕政から脱し、万世一系を称する今上帝の即位があった現在、その内容はあまりにきびし過ぎる。この書は旧幕府に対しても、日本政府に対しても仇書であり、今しばらくは秘密としておき世に出すのを禁じる。本書は、国民に判断力がないかぎり罪になるのはもとより、国民からも反朝の書とみなされ、政府によって奪取されるのは必至である。もしそのようなことが起これば、秋田考李と秋田長三郎の三十余年にわたる辛苦も水の泡となり、永遠に外三郡誌は消滅する。これは我々にとって最大の汚名である。しかしやがては、真の権利、平等、自由、民権、民政の世が出現するであろう。それ迄は諸々の誘惑に負けず、その発表を控え、命を賭けて外三郡誌を保護しなくてはならない。
秋田家離産之事
文政五年八月、長三郎吉次寂し、故人の生前の借金は六百九十両であった。よって家田八町を売却する。 
17 「東日流誌の成立ち」考察
彼等の収集と記録が文政五年で終わったのは、ここで史料が切れたのではなく、ここで彼等の気力が切れたのだ。金銭や年令の問題で、これ以上の取材は無理だったのだろう。それにしても彼等の持っていたエネルギーと粘り強さは、信じられないものがある。孝季の、妹りくに対する思い入れの強さは、荒吐族は執念深いとの言葉を地でゆくようで、おかしみさえ感じられる。「想悲別之事」にある手紙を孝季が書いたのは八十数才の頃になる。
なお、孝季の生母は、三春藩主、秋田千季に再縁しており、その時孝季は実妹を引き取り育てたのである。「宇宙創誕」のことにみられる秋田乙之助は、孝季の異父弟で、後の三春藩主、秋田孝季である。兄弟が同姓なのは、弟が兄の名にあやかったためと考えられる。
孝季の実父は橘左近将督といい、長崎奉行配下で出島目付を勤めていた。その関係で孝季は長崎に留学し、語学、史学、西洋学などを修めており、義父の千季に「東日流誌」の作成を命じられたのも、こうした学識を買われたゆえである。「万物創誕のこと」にみられるダウインとは、種の起源を発表したチャールズ・ダーウインではなく、その祖父にあたるエラズマス・ダーウインと考えられる。E・ダーウインは1794年から1796年にかけて「ズーノミア」を発表しており、東日流誌の編者達は、出来立てほやほやの新設に接したわけである。
安東一族の、民選による万民平等の社会実現への願いが、このようなかたちで存在したのを知るのは感銘深い。倒幕への埋み火が、このような土地にも存在していたのだ。維新のおり、到幕を志す安東一族の志士が、名も知らぬまま死んでいった事実は知られていない。また、こうした多くの死や、安東一族の倒幕に対する手助けが、薩長勢力によって建てられた明治政府から、あまりむくわれなかったのも事実である。秋田家は明治政府から子爵を授けられてはいるが、彼等の先祖である蝦夷の名誉回復はならなかった。
東日流誌の編者和田長三郎の孫、和田末吉は、明治の初め自由民権運動に共鳴し、東京に出て福沢諭吉と交わったという。諭吉は末吉から東日流誌や安東一族の話を聞き、一族のモットーとする「人の上に人なく、人の下に人なし」との言葉に感銘し、その出所を云わぬ約束であの有名な「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」との言葉を成したという。東日流誌を読んでいれば、この言葉にしばしば出会うことになる。 
18 「東日流誌」のアウトライン
「耶馬台国」
「東日流誌」は、安日彦、長髄彦を国主とする耶馬台国と筑紫の地に勢力を増大させる日向族との対立から始まる。
「耶馬台国王の事」
日本の五幾七道を一統したのは、安日彦、長髄彦の祖である山大日之国彦命である。彼はもと伊勢の山大に住む族長で、山海の民を集め国王となったが、その勢力は強く、国土を広め一族の国造りをなした。彼の討ち平げた反賊は八十七カ国におよぶ。東国から馬を得た騎馬術による討伐は、たちまち筑紫、南海道を降し、もっとも強力な出雲や越の反逆も討ち降ろし、ここに一統の国主として支那や朝鮮にもその名を伝わした。
山大日之国彦命−−−山祇之命−−−山依五十鈴命−−−山祇加茂命−−−山大日見子(妹)
                    −安日彦−荒吐五王
山垣根彦命−−山吉備彦命−−山蛇依根子命−山戸彦命−       
                    −長髄彦 
19 耶馬台国五幾七道之事 耶馬台国は、正しくは陽茂台といった。耶馬台国の本拠は倭の生駒の里で、山陽に安日彦、山陰に長髄彦をもって国主とした。その国分主としては、出雲に耶馬蛇彦、筑紫に猿田彦、南海道に石鎚彦、越に怒戸彦、日高見に 彦、耶古に恵耶彦があった。古代より、耶馬台国には倭を中央とする南北それぞれ十二の国駅があった。南には加古駅、矢野之駅、三田尻之駅、赤間之駅、筑土之駅、耶馬壱之駅、唐津之駅等があった。これからの駅はすべて陸海双方の便をなし、韓人にもよく知られていた。この豊かな耶馬台国には海を渡って来る民が多く、筑紫に渡って来た日向一族は、国主の猿田彦に妖しい麗人をめあわせその心を捕らえ、筑紫国は日向一族の掌中に捕らえられてしまった。日向一は、高天原の日輪神の子孫で、高千穂の峰に降臨したという。土地の民は無智ゆえにその迷信を信じてしまい、その女祈祷師に身命を惜しみなく捧げ、自国を日向一族に献じ、あまつさえ耶馬台国に反き、東征の挙に出た。耶馬台国五幾七道の国主である安日彦、長髄彦兄弟が日向一族に亡びたのはやるかたない事である。
「荒羽吐族史伝」
そもそも耶馬台国とは、現在の大和に開けた国である。オノコロ族とは、我が国の原住民で、現在の支那、朝鮮から移ってきたツングース族は、日本国をオノコロ島と呼んだという。原住民のオノコロ族は入墨を好み、葦の茂る沼沢地に住み、鳥獣魚貝を食とし、三十才の寿命という。ツングース族は出雲、筑紫、耶馬台に結して国を創り、小国を併合していった。その手段は、戦略権謀、侵領、神の崇拝による侵略等で、寄らば大樹の陰と、自らその下に併合を願うものもあった。しかし税に苦しみ逃げ出すもの、横暴な国主が小国に敗れることもあったのは、他の時代の歴史と同じである。耶馬台国の創国と時を同じくし、筑紫日向の猿田一族が亡びたのは、女霊媒師の、麻から得た霊楽に心身を侵されたためと云われる。この女霊媒師が古伝にいう、天照大神である。また出雲の耶馬陀一族が筑紫日向の一族に国を譲ったのが、史にいわれる出雲の国譲りである。両大国を併合した日向一族は、大挙して耶馬台国を攻める。かつては、五幾七道の国主であった耶馬台五王の総主、安日彦命、長髄彦命はこの日向一族に敗れたのである。
「津怒鬼帳」
日向一族は倭に本拠を置くが、筑紫の耶馬壱駅にそれを移すこともしばしばである。日向一族はこれを津怒鬼移と呼んでいる。
「耶馬台国盛衰の事」
西から渡ってきた移民が筑紫日向に勢力を張り、土民をも加えて東北に進入した。これが即ち日向族である。この一族は大祖が異土にあり、その国を高天原とし、天御中主を族祖とする。しかしこれは皆耶馬台一族の神々を真似たるが如くである。 
20 東日流内三郡誌大抄 上の巻
太古に於いては日本海は湖で、南北の海洋はみな陸で支那、韓土に続いていた。よって北方から渡って来たものが多い。流鬼国の流鬼族、日高国の毛奴呂族、東日流の阿曽部族、出羽陸奥国の津保化族、坂東国の宇津味族、越国の那賀美化族、信州の津耶那族、山城の津止味化族、因州の伊都毛族、大和の那津味化族、淡津の賀止利族、南海道の狼族、備州の荒味化族と宇津奴族、筑紫国の猿田族と熊襲族、琉球国の高砂族があった。これら諸族の人数は二百五十万人で、二百万人は北方渡来民と云われる。ここから安住の国造りを成したのが耶馬台国の那津味毛族である。この一族に三人姉妹の霊媒師があらわれ、その名を日神子(ヒミコ)、地神子(チミコ)、水神子(ミミコ)という。彼女等は大衆に神の崇拝を説くカミクラヤ(神殿)を築き、耶馬台五畿七道の民はことごとく寄せ集まった。耶馬台国とは日の本国の称号で、流鬼国、日高国、日高見国、坂東国、越国、出雲国、信濃国、耶馬台国、南海道国、筑紫国、高砂国、東日流国のことを云う。 
 

 

21 耶馬台史審抄
耶馬台国史は語部の板木板によって解明出来た。さらに大和にゆき、葛城上郡の高加茂氏の家伝によって実証を得た。よってここに、高加茂氏の秘巻を移しておく。
「秘巻高加茂録」
倭とは中古代の大和であり、それ以前は耶馬台国と云った。我が家の祖に役小角仙人がある。(役行者、生年は634年ともいわれる。)彼は朝敵として半生を獄におくった。役小角は、物部氏と蘇我氏が神仏論事をして争ったのをみにくく思い、金剛山で修業をし、神仏混合崇拝を宣布したが、これによって捕らわれた。晩年、唐に渡ろうと、肥前の平戸から出航したが、漂流し、奥州に漂着したという。役小角は高加茂の役公の というが、実は高加茂役公の娘、志恵姫の子で、父は田村皇子(三十四代 明天皇)という。しかし正后ではなかったので、母子は葛城神社で暮らした。役小角は長じて皇統を調べ、自分の祖を探り求めた。
そして太古に耶馬台国があり、群なす古墳はみな耶馬台国王の墓と知る。又、朝廷とは国盗の流であり、高加茂一族は耶馬台の流で、自分はその両血を受け継いでいることに苦悩する。その結果、本地垂跡の験を得るが、皇系が耶馬台国主の古墓を己の祖と偽っているのを正そうとし、捕らわれて伊豆に流される、皇統一系を欲するあまり、他墓玄室の棺を除き葬る習慣を改めねば、国難により民が苦しむことになると獄中に呼ぶ。このような史伝が今に遺っているのは幸いである。幾百里離れた東日流の語部にも、この修験行者の記録がある。 
22 考察
「東日流誌」にみられる古代史には、「記紀」の記す、神世の時代はなく、総ての事件が歴史事実として書かれている。天照大神はヒミコであり、アメノウズメや猿田彦も地上の歴史的人物である。また出雲の国譲りも歴史事実として記されている。これによれば、「記紀」神話が、歴史事実からの脚色である可能性がきわめて強い。
上記の゛荒羽吐族史伝゛によれば、北方から渡って来たツング−ス族が、筑紫、出雲、大和に国を建てたとある。他の記事によれば、博多湾岸を意味する耶馬壱駅、出雲の耶馬陀族があり、本来、筑紫に耶馬壱国、出雲に耶馬陀国があったのでないかとの感をいだかす。「外三郡誌」には耶馬壱国との表記は全くなく、耶馬壱駅の名が2ヶ所にみられる。これによれば、安日彦、長髄彦の時代には、耶馬壱は、博多湾地方を意味する地名としてのみ残っていたとも考えられる。これは、現在の奈良盆地が、そこに昔、耶馬台国があったので大和と呼ばれる、とする考えに通じる。「東日流誌」では大和川を耶馬台川と云っている。「東日流誌」により限り、耶馬壱国と耶馬台国を別物とした方が、全体の説明が付き易い。もしこの仮定が正しいとすれば、中国書は、耶馬壱国と耶馬台国を正確に書き分けていたことになる。
「東日流誌」に自己完結性を与えるには、安日彦、長髄彦兄弟の耶馬台国や日向族の東征の時代を六世紀前半代に設定するのが最良の方策と思われる。以下にその理由を挙げる。
1、安日彦、長髄彦の耶馬台国の時代には、九州には日向族と猿田彦があったとし、耶馬壱は単なる土地名として扱われている。
2、耶馬台国の創始者が既に馬を用いたとする。
3、中国書では、五世紀の日本を耶馬台国と記している。上記の”耶馬台史審抄”によれば、大和の古墳郡はみな耶馬台国王の墓とする。「東日流誌」では、安日彦の城柵が紀州にあるとする以外、彼等が大和に古墳を造ったとする記述は一際ない。古墳造りの情熱がなかったとするのが順当のようである。
4、考古学によれば、堅穴系墳墓が、横穴系墳墓に移り代わる時代を六世紀前半代としている。一方、「東日流誌」では耶馬台国を出雲系として扱っており、日向一族との政権交換が耶馬台国の滅亡でなされている。この交換期を六世紀前半代とすれば、考古学への説明付けともなる。
5、「東日流内三郡誌大抄」には、”日向軍は韓国の白木より楯、剣、弓矢、矛の武具を授けられ、遂に難波に攻め入った。(前後略)”とある。「ウエツクミ」「神宮紀」といった外史にも神武東征に新羅(白木)が大きくからんでいる。
ここで神武東征や、それへの新羅のカラミを正しい歴史事実だと仮定してみると、次のことがいえる。
朝鮮半島史をみる限り、新羅の日本列島の内政に関与可能な年代は六世紀以後のこととなる。継体紀には、”筑紫国造磐井は、ひそかに叛逆を計った。新羅はこれを知り、秘かに貨賂を磐井のもとに送った。”とある。以上によって(外史における)神武東征 ”なるものは、六世紀前半代に置かれて初めてその必要十分条件を満たすことになる。なお、「東日流」にみられる日向族の東征 は、「知紀」の神武征 と、大筋において同じなので、ここでは取りあげなかった。記述によれば、「東日流外三郡誌」は、資料を有りのまま記したもの、「東日流六郡誌」は、秋田孝季や秋田長三郎等の意見を入れたものとなるので、その扱いを少しかえた。しかし「東日流外三郡誌」には、明治期の和田末吉の筆がいくらかは入っているようなので、正確な扱いは難しい。 
23 荒吐族
日向族の東征に敗れた安日彦、長髄彦以下の耶馬台一族は津軽の土地に落ち、地族であるツボケ族を敗り、十三湊に住む支那、韓国からの漂着民と混血し、荒吐族を立てる。この荒吐族には、日本列島最古民とするアソベ族、またツボケ族が順次入族してくる。「東日流誌」は、このアソベ族の津軽定住を、支那や朝鮮半島が日本列島と陸続きの頃としており、縄文時代に比定される。ツボケ族の方は、騎馬の民、或は木組の船で海上に乗り出す漁猟の民としており、その出自については、国からやって来たモンゴロイド系ツングース族、またはアメリカ大陸からやって来たモンゴロイド族とする。農耕民族とされる耶馬台一族はこの土地に農耕を広め、ツボケ族からは騎馬による戦術を学ぶ。 蝦夷として倭人に恐れられたのは、このツボケ族とする。また北海道では、ツボケ族が土地住みの住民を支配すると記す。
野馬に乗って駆ける北見アイヌは国から渡って来た粛慎族、漁猟による日高アイヌは、アメリカ大陸から渡ってきた伝承を持つとする。「東日流誌」におけるアイヌの定義は、荒吐族の言語、宗教、文化、社会組織に同化しないツボケ族となる。だからアイヌと蝦夷は、人種的には類似性があっても、民族としては全くの別物とする。荒吐族の信仰は、自然崇拝を基本とする荒吐神の信仰である。これにはイシカ神、ホノリ神、ダミ神の三種の神がある。イシカ神は太陽を表し、ホノリ神は生殖を表す男女の神から成っている。これはオシラ神とも云われる。ダミ神は病気や死の神で、病苦から抜け出すための守り神でもある。遮光帯土偶は、これらの神に対応するものである。
こうした土偶は、考古学の知見によれば、B、C、1000年頃の、後期縄文時代に造られたとするが、「東日流誌」では、十六世紀に大浦氏によって荒吐神の信仰が禁止され、それが破壊される迄、信仰の対象になっていたとされる。荒吐族の統治は、荒吐五王によって行なわれ。この五王の選出は、各部族から選ばれた長老の推薦による。この長老とは、老若男女を問わず広い見識を持つことがその資格とされ、各一族から選出された者である。この長老支配制度は、アメリカインディアンや豪古族にもみられるもので、ジンギス汗は、この長老会議(クリルタイ)によって選出されている。坂上田村麿に敗れたアテルイやモレは、一族のワケクラ王とされるが、これは多分ツボケ系にあたるだろう。
荒吐族においては、”人の上に人なく、人の下に人なし”とする万民平等がその基本理念であり、衣食住はすべて国家支結である。蝦夷一族が、陸奥という貧しい環境にありながら、大和朝廷のさし向ける軍勢に頑強に抵抗出来たのも、明治期迄一族が存続出来たのも、こうした文化があったればこそ、と云えようか。しかしながら反面では、こうしたきびしい社会体制は、一族の情勢の悪い時には正常に作用しても、いったん領土が拡大し、そこに豊かさが入り込んでくると、とたんに崩壊する運命にあるようである。これは荒吐一族の歴史を見ていれば、いく度か出逢わすものである。荒吐族の言語は、アソベ族、ツボケ族、支那の言葉も組み入れた倭語とされる。カムイ(神)、オテナ、コタン(村)、イヨマンテ(祭)、チャシ(陣棚)、ポロチャシ(巨大陣棚)といった言葉は、「東日流誌」中で、直接使われている。以上のことからだけでも、荒吐族では、各族の文化や伝統が、非常に大切にされていたことが知れる。 
24 東日流誌の古代史像
「東日流誌」には数多の古代史伝承が載せられている。それらの内容は細部では多様だが、大筋ではほぼ一系とみなされる。なお、「東日流誌」の記事の多くには干支が付けられていて、それらは出来る限り「日本書紀」の編集に合わす努力がなされている。
以下は、そうした干支をもとにした荒吐族の復元歴史図である。
BC 695年 安日彦、長髄彦兄弟は耶馬台国を建てる。これは筑紫において猿田彦が日向一族に敗れたのに時を同じくする。
BC 662年 日向族の東征に耶馬台国は敗れ、安日彦、長髄彦以下の耶麻台一族は津軽の地に落ちる。(書記における大和平征年は663年)
BC 659年 耶麻台一族は津軽の地に荒吐族を立てる。
BC 171年 荒吐族は耶馬台国を奪回し、倭のワケミクラ王に根子彦を立てる。これが孝元天皇である。(「東日流誌」では、耶馬台国奪回事件を安日彦、長髄彦の北落後五十年あるいは百年足らずの後の事とする。
BC 157年 根子彦の子息、堆根子彦が開化天皇として即位する。彼は筑紫を除く日本列島を一統し、その後荒吐神の信仰を捨て、出雲族、日向族の神をまつる。ここに奥州と大和の荒吐族に内紛が起き、戦いとなり、奥州と大和の一族の和は永遠に去る。しかし開化は、海を渡って来た強敵、カラクニ皇(崇神)に敗れる。
AD 71年 この頃筑紫の地では熊襲が反朝して敗れ、関東の荒吐族を訊ね、軍船を大挙して脱する。(書記では景行元年にあたる。)
367年 上毛野田道将軍は津軽に進入し荒吐族の前に全滅する。
581年 蘇我氏に敗れた物部一族が荒吐族に入族する。(書記では物部守屋の敗北年は687年)
644年 物部一族は津軽の地に落ち、安東浦を開拓し稲を植える。(これは、守屋の一族とは別系の物部氏と考えられる。)
658年 斉明四年、安倍比羅夫の水軍は津軽を攻めるが敗れ、比羅夫は和の条として安倍の性を荒吐王、津刈丸(安東)に贈る。
677年 荒吐王安倍安国は日下将軍を名乗る。
749年 荒吐系の孝謙天皇(安倍安子)が即位する。これを祝って荒吐一族は黄金を献上する。孝謙を荒吐系とする理由は祖父の藤原不比等が荒吐族の継血であることによる。
「東日流誌」の干支は、各記事とも干支の揃っているもの、記事により干支か二系に別れるもの、かなりのバラツキを見せるもの等、その様相は様々である。年次に******を付けたものは、他記事との比較でおおよその見当を定めたものである。
なお、江戸期には、「日本書紀」に編年を合わす現在の「東日流誌」古代編のかたちは完了していたと思える。
* 「安倍系譜では孝元天皇と荒吐族の血脈とするが、これは再考すべきである。」
* 「こうした史実は、拙者のような凡才には解明し難い。」
* 「東日流外三郡誌は、究めてゆくと謎に堕ちるものが多い。」 
25 安倍氏
この安倍の姓は、安倍比羅夫が荒吐族との講和の条として荒吐王、安東に贈ったものとされる。七世紀後半代以後、荒吐族から安倍一族に名が変わったようである。安倍姓は、1143年に奥州から藤原基衡の次弟秀栄(ヒデヒサ)を安倍氏が養子として迎え、藤原姓に変わるまで続く。
「東日流外三郡誌総集編歴抄」
701年 役小角仙人(エンノオズヌ)は門弟を従えて東日流の石化崎に流着し、石塔山において葬ずる。門弟の唐小摩坊は東日流に修験宗を弘布する。
749年 荒吐王媛・安倍安子は倭の帝となり、一族は黄金をもって入朝する。
781年 荒吐族の嶋足は朝廷に犬尾を振るい出世するが、荒吐東王アテルイはこれを怒り、水島一族を討伐し、桃生柵は炎上する。
801年 アテルイは兵を大挙して、倭兵を追い駿河に達するが、田村麻呂に敗れる。
938年 荒吐族は平将門に援軍を送るが間に合わず、将門は討ち死にする。よってその一族を助ける。
1052年 「前九年の役」が始まる。安倍頼良(頼時)は1053年に戦死する。
1062年 頼良の息子、安倍貞任は清原武則の裏切りにより、源頼義に敗れる。津軽には安倍頼良の子、氏季があり、ここに安倍一族を引き継ぐ。一方、安倍貞任の三才になる息子、高星丸は津軽に落ち、安東氏を名乗ることになる。安倍氏は外三郡(津軽半島部)を支配し、十三湊による海外貿易を開く。安東氏は内陸部の内三郡を支配し、藤崎城を持ち城とする。
1143年 安倍氏には子がなく、奥州から藤原秀栄が養子として迎えられる。(これは現実には、藤原氏による十三湊支配と受け取れる。しかし秀栄は、自から中国に渡り造船技術を学ぶなどして、十三湊の繁栄につくしたとされる。奥州藤原氏の富の源泉はこの十三湊を通じての海外貿易にあったと云えそうである。) 
26 仙境臨海之法場録
安倍一族の家伝にいわく
1、自決するのは勇でも忠でも孝でもない。 天災や地変・飢餓にあえいでいても、死より生を尊び、一族再起のために心を尽くすべきである。
1、生命は天から与えられたものと悟り、死を軽んじてはいけない。悪とは、一族を滅亡せしめること。 古い因習を撃ち破れないことをいう。
1、財は第二と考え、先ず生命を尊ぶこと、財のために命をなおざりにしてはいけない。勝負の判断は、先ず生命の安泰を第一と考えて進退すること。退くのは恥ではない。無法であることを恥とすべし。 
27 東日流武歴考
荒吐族には武農の階級はない。一夫多妻は許されず、土地食料はすべて一族のものである。金や飾り玉類は個人の財として認められる。しかし、安倍頼時が国長として君臨する頃からは、武士の権力が強くなり、五王時代をでんぐり返したように各部族が土着してしまい、征夷の軍に対し一族総動員することがなくなった。頼時の敗れたのもこれに依る。 
28 安倍頼時之遺文
日高見の子孫未代のためにと、民をはげまし国造りをすすめてきた。南越州、東坂東以北を荒吐族の世とし、住民一統の政治をして以来、飢える民がなくなった。
しかるに朝敵の汚名を着せられ、天皇は征夷の勅をだし自分を討とうとする。 誠にもって浅はかな行為である。絹の衣を朝夕にまとう都の者が、麻を着て汗水流して働く人間に対し献税とは何事なのか。
奥州は昔、耶馬台国を追われた祖先以来、我々が拡げてきた拓地である。雪に埋もれる北国の食料は貧しいのだ。
一族に貧豊強弱をなくし、人民を平等に救済する国造りに対し国賊とは何事なのか。人民から権力によって税をむさぼり遊舞美食する国主は自分達には無用なので、このような政治を奥州に起こしたのだ。
我々は都人とは違い、自らも鍬を打ち振って田畑を造っている。これは生きるための国造りである。子孫を飢から救おうと国造りにはげむ我が民を討とうとは。
たとえ我が全身に撃矢を受けようとも、それが国賊の矢であれば恐れない。我が身はたとえ死んでも、恨魂となり我が祖国を護るだろう。 
29 安倍次郎貞任遺文
世に住み難い蝦夷の血脈は、祖先以来千歳を過ぎても安らかであり得ない。侵しくる国荒しの者共は、なおも我らの安住を驚かそうとする。戦いは好みでないが、応じなければ一族の安泰はない。国を司る自分にとって意に叶うことは何事もない。
生まれてこの方、父に武を習い文を習ったが心に悟ることが少なかった。しかしそれもはかない事である。大事と想い慕ったその父も戦いに死んだ。戦いは常に心を犯す。我が身はそれを知りつつも修羅道に墜ちようとしている。よってここに最後の一筆を遺し置きたい。
子孫にいう。
生は死に通じ、死は生に通じる。これは荒吐神の要旨である。死を恐れるな。何事においても自分の心を偽ってはいけない。自分の心に問い正す行為が神に通じる。自分の行為を心に問わず他人の事も考えず突き進むのは邪道である。
我々の先祖は良いことを云っている。即ち、人として生まれた者は太陽に照らせば平等であると。人を忌み嫌うも人である。人の上に人を造り、人の下に人を造るも人である。
神の光は平等である。平等は和の基である。和は救いの基である。これを乱すものは人でなく心のない輩である。人が人を支配するのは、神の真理に背く行為である。
聖(ヒジリ)は人に善意を説くが、彼も神ではなく人なのだから云うことの総てが人の為ではない。人を救うための宗教といっても、内部には抗争がある。この世で万物に対し、自分の一子を救うように救済の手をさしのべる聖があるだろうか。口では何と云っても、自分の行いの良くない者が多い。
荒吐神を崇拝した我々の祖先の血脈が、現在の権力者にあるのは憎らしくとも太陽のごとくあれ。人の道は生死に当て考えよ。国王に位すとも神の御心に叶ものはない。何事をして神に代わろうとするのか。
我が一族よ。この遺文を遺すも捨てるも、自身の心に尋ねてからでよい。人間の心には、常に可否の自由がある。しかしその判断は運命である。 
30 考察
「東日流誌」の編者は、奥州藤原氏を裏切り者とみなし、そこに我々が期待する奥州藤原氏に関する記述は、きわめて少ない。しかし源頼義に敗れ津軽の地に落ちた正統蝦夷ともいうべき安倍氏安東氏と藤原氏の間には盛んに血縁関係が結ばれている。また「嘉保甲戊年(1094年)、藤原清衡は、白河より外浜(青森)まで道を開く」とあるように、そこに太い流通パイプの通じていたことは確実である。
考え方によっては、津軽は奥州藤原氏を朝廷に対する防波堤にしていたとも受け取れる。 
 

 

31 安東水軍
1062年、津軽の地に落ちた安倍貞任(アベサダトウ)の遺児、高星丸(タカアキマル)によって安東氏は始まる。この後津軽は、安倍=安東、藤原=安東の並立時代となるが、1229年、曽我氏の助けにより藤原氏が北海道に追放されるまでは、安東氏は内部でくすぶっている存在にすぎなかった。また安東氏の時代は荒吐(アラハバキ)一族が鎌倉幕府の支配下において、津軽半島唯ひとつに編塞をよぎなくされた時代である。
しかし、北はカムチャツカから南はガンジス河に至る大航路網を持つ海上王国を誇ったのは、この安東氏の時代である。この安東水軍こそ「東日流誌」(ツガルシ)の編者達が誇りにもし、「東日流誌」のハイライトにすえ置いたものである。
この安東水軍の活躍は、1341年に起こった興国の大津浪により、十三湊(トサミナト)が廃港となるまで続くことになる。
1189年 奥州藤原氏が、源頼朝によって滅亡する。
1190年 地頭代として、曽我氏が岩楯(弘前市近辺)に進駐してくる。
1192年 源頼朝が鎌倉に幕府を開く。
1229年 曽我氏の力を借りた安東氏が、十三湊(トサミナト)を支配する藤原氏を伐ち、外三郡は安東氏、内三郡は曽我氏の領となる。敗れた藤原氏は北海道に渡り、その地の経営に当たることになる。
1326年 「津軽大乱」が起こる。藤原氏の追放後、安東貞季(サダスエ)は、内陸部にある藤崎城と新しく得た十三湊の福島城を合わせ持つことになる。彼は長男と次男に対して三年交代でこれらの城を取り替えることを遺言に残す。これは十三湊が交易のため非常に実入りがよいので、その不公平をなくすための処置であった。しかしこれが後に一族内紛の原因となる。
1333年 鎌倉幕府の滅亡
1334年 建武の中興
1336年 室町幕府の成立と南北朝の対立
この南北朝の対立に置いて津軽の安東氏は南朝方に味方し、北畠顕家に従った多くの安東一族が石津(堺)の戦いで戦死している。またこの乱によって、北畠氏、藤原氏(朝日氏)が津軽の地に落ちてくる。南朝方の長慶天皇も、この地に落ちたとされ津軽の地は落ち武者のたまり場の感がある。ちなみに「東日流誌」にみられる津軽への落人の主なものを挙げると、次のようになる。
中国・朝鮮半島からの漂着民、耶麻台一族、物部一族、熊襲一族、百済からの亡命者、平氏源氏の落武者、平泉からの落武者、和田義盛一族、北条一族北畠氏、長慶天皇・・・・
安東一族の最終定着地である秋田が美人の産地として知られているのは、故なき事ではない。
1341年 この年、十三湊を襲った大津浪は十万余の人命を奪い、この地を完全な廃虚と化してしまう。十三湊は遠浅の入り江となり、安東水軍の活躍もこれをもって事実上終わる。
1443年 安東氏は故地津軽の放棄を決定し、一族を渡島、秋田に移す。秋田の地は、建武中興頃手に入れたと考えられる。安東氏の故知津軽放棄の最大の理由は、岩手に勢力を持つ南部氏の圧力である。なお、この地に残った北畠氏と藤原氏は、戦国末期に南部系の大浦氏に滅ぼされるまで、この地に勢力占める。 藤原氏は朝日氏と名乗り、安東氏の力を借りて朝日水軍 を創立する。ただし安東氏でさえもその十三湊への巨船の入港は無理と思 え、沿岸船路用の小型船を使ったのではなかろうか。
1451年 南部系の蛎崎(カキザキ)一族は、安倍義季と組み、南部氏に当たるが敗れ、渡島に退く。 蛎崎一族は松前大館の安倍兼任から上の国(江差南方)の華沢城と勝山城を譲り受け、以後蝦夷地を開拓してゆく。
1469年 渡島の安倍氏は、この地の支配を蛎崎氏に譲り、秋田に引き上げる。これ以後北海道の実権は、蛎崎氏が握ることになる。
戦国末期の陸奥の勢力地図は、秋田の秋田氏(安東)、岩手の南部氏、青森の大浦氏、北海道の蛎崎氏となる。 
32 夷虜抄
安倍貞任(アベサダトウ)は敗死し、三才になるその子、高星丸(タカアキマル)は津軽の地に落ち、叔父である安倍氏季の計らいで、藤崎城に安東氏を名乗ることになる。
十三湊(トサミナト)には、支那や韓国の商船がよく来航し、鮫びれ、干海草、干貝漁、熊肝、毛皮、鳥羽毛、湯華、薬草を求めた。
この十三湊を取りしきる安倍氏には子がなく、康治二年(1143年)、平泉から藤原基衡の次男、秀栄(ヒデシゲ)を養子として迎えた。彼は安倍の姓を廃止、藤原十三左衛門と名乗り、平泉から血族を呼びよせ、先代からの重臣を解したので臣下とのいざこざが絶えなかった。 しかし、秀栄は十三湊に福島城を築き、支那・韓国との交易を大いに拡大し、この地を富ませた。
文治五年(1189年)、平泉から源九郎義経主従七人が、この福島城に落ちて来た。これを知った藤崎城の安東氏は祖先以来の恨み重なる源氏一族を我が領内に入れるとは何事かと怒り騒動となった。福島城主秀元(秀栄の子)は義経主従を渡島に渡し、唐船に頼み、支那の地に逃がした。一方源頼朝は、義経を逃がした奥州の藤原氏を憎み、兵を起こした。
泰衡は敗れ、家来の河田次郎を頼ったが、河田次郎に欺かれ殺された。河田次郎は泰衡の首を源氏方に届けたが、主君を殺した罪は重いと、打ち首の処刑にあった。 
33 十三風情記
藤原秀栄が福島城を築いたことにより、征夷の軍勢が東日流に侵入することはなく、この地は自治自護の泰平を得た。この藤原氏が突然滅亡したのは、幕府の布令した夷治管領のせいである。
藤原氏が三代にわたって築きあげた十三湊は、安東氏の及ぶところではなかった。北条氏はこの藤原氏の虐牙を砕く方策として外三郡を蝦夷管領京役として安東氏に定め、内三郡には曽我氏を進駐させ、これを鎌倉役とした。安東氏が福島城の北方の小泊に蝦夷管領の司拠として城柵を築いたことにより、それ迄忍従していた藤原氏もついに怒った。
藤原軍は小泊の城柵を血祭りにあげ、福島城を総動員して藤崎城に阿修羅のごとく進軍した。この戦いを萩野台の合戦というが、藤原方の総勢二千に対し安東勢は曽我氏の助勢を合わせ六千だったという。この藤崎城をめぐる攻防は十三日に及んだという。
ここに大雨による河川の増水が起こり、藤原方の攻撃が難渋するに至った。曽我方は藤原勢の背後から不意打ちをかけ、藤原勢はあっけなく敗れてしまった。
十三福島城は無償のまま安東氏の手に入り、藤原秀直とその一族は渡島に流罪となりその地の経営にあたることになった。
十三湊は安東氏の代に移り、異土船、京船の出入りによって栄、山王仏寺は香灯の絶える間がなかった。湊には武家住居一千、商家住居二千が軒を並べ、沖仲仕の長家、遊女楼などの夜のかがり火が湖水にゆらぎ明るいことは、堺港にも勝るものであった。 
34 安東船廻湊図抄
十三湊に軍船を装えたのは、荒吐族が安倍比羅夫に来襲されて以来である。安倍氏季(氏季の名は数代続くので誰かは不明)は、十三湊にやって来た唐船に心眠を異土に開き、大船建造の技術を得て、安倍一族の水軍を西に走らせることになる。
安東水軍とは、戦いのためのものではなく、商船を守るための船軍である。安東水軍は、火砲、雷電の術策、進退自在の舵を備え、敵襲に弱い商船を守り不情身命である。
安東水軍には、他国船から得た三つのおきてがある。
「安東水軍のおきて」
1、妻子、老親に病弱者のある場合は乗船をゆるさない。
1、常に礼を第一とし、異土、諸国湊において一族の恥となる行為をした者は、その行動に応じて罰する。
1、降船、乗船に際しては新衣を着用すること。敵襲の場合は、強く不惜身命である事。 
35 十三水軍記(雲水行情帳より)
もろこしの船もやって来る十三湊は夜通し、いさり灯が点り、絶えることのない船舶、丘にゆき交う市の商人も多い。珍品を求めてやって来る日本七湊の船商人が買い争うさまは雷音のようである。
鵜の鳴く浜辺に遊ぶ童の群、網作りの翁、海草干の老婆。湊で荷揚げする仲仕の汗にまみれた臭気は茶屋酒屋にまで漂う。十三の遊女屋では、客寄せの遊女の群れが道に出て客の袖を引き、汗にまみれて得た労銭も一刻の間に浪費される。宿の灯の消えるのは明け方である。鏡のような湊の東方に高くそびえる入澗城。中島に船の泊まるは水軍である。水を積み、荷を積み西海に出る船速は、諸国船の遠くおよばぬところである。
水軍に仕える若い男達の船訓練。彼らは水にあっては鮫のようである。こうして水軍は日本の七湊、唐韓にまで出航し、海賊を討つことこそ誉れである。護るも攻めるも、統べては水軍の船訓練にかかっていると思うことはいかがなものか。 
36 津軽の呼び名
津軽の呼び名は、もともとアソベ族、ツボケ族に呼ばれたものである。アソベ族はツパル、ツボケ族はツカル、荒吐族はツカリといった。津軽は倭人からは葦原の国、日高見の国と呼ばれ、韓国人、唐人には、ジパング、チパング、チパル、ツカリ、ツガルと呼ばれた。 
37 安東水軍の起立
東日流の十三湊に安東船が帆柱を林立させるようになったのは、鎌倉幕府創設の頃である。それ以前には、安東船による自船の諸国交易はなかった。宋や韓土と通易したのは事実だが、安東船による交易ではなく、もっぱら他国船に頼ったものである。
安倍水軍はとは、これら他国船を警護する送り迎えの小舟であった。安東水軍は、因州、豊後、塩飽、村上の海賊から身を守るため。商船に付けられた軍船に始まる。これらの海賊船は、八幡船、和冦船として異土からも恐れられたもので、なおざりな軍備では敗れること必定である。安東水軍では、秋田で採れる石の油を積み、敵襲があれば火 投油の兵術を使ったので、敗れたことは一度もなく、さすがの村上水軍でさえ手を出すことがなかった。 
38 安東船之歴歩
安東船は、東日流の檜を用いるので浮力がよく、船虫にも強い。安東船の白龍丸は、遣唐船として五度の往来をして、その日数は他船より十五日早かったという。安東船の船造りに、張むという法がある。それは、いかに船腹が長くても、一枚板で張り通すものである。帆柱は常にあさだの木を用いて折れることがなく、板の継目には石ノ油粕を塗り込むため、浸水がない。船腹は水を分けるので走りがよく、いくらしけても船天井から水の漏れることがない。この安東船の来歴は、韓船に基ずくといわれる。安東船は西廻りで、往来潮という、氷海に続く大潮、またこれにほぼ並んで南に流れる潮流を利用し、韓国支那に赴く。 
39 潮踏記
十三湊からの出航であってみれば、はるか唐国への船旅は、たとえ潮風が速くとも亀の歩む如くである。朝夕を海に過ごせば、飲み水も雨溜となる。
かもめが船に追ってさわぐ。ときおり行き交う鯨の群れ。転覆を思わす龍巻も、海に出たからには覚悟の上である。水くみのため船をよせる他国の港、能登、若狭に娘の一夜の情を受けてみれば、その未練を船まくらに思いわずらう。
やがては玄海の灘を越え、はるかな波上に唐土の陸影を望み歓喜する。潮汗にまみれた衣を脱ぎ、身なりを整えるのも船人の習いである。唐人の娘は言葉が通じなくとも、眼によって総てを通じあう。一夜の宿りがまた一夜となり情けは深くなろうとも、やがては出船の仇情け。船人であってみればせんかたない。
唐国の珍品を積み船出をすれば、やがては十三湊の山川、福島城や山王、この船を待つ妻子への思いが夢枕となり、浜明神の大祭には帰りたく思う。見ているだけで身も心も躍ってくる。船上の水夫の姿。またまた襲う荒浪に命をかける安倍水軍。いさましく雄々しいものである。
日の本の国が見えてくれば、たとえそれが他国であっても、心は既に十三の湊に着いた思いである。
韓国の西を航海すれば安東邑がある。寿栄二年(1182年)、安東貞季が自ら渡来して開いた異土の市場である。十三湊より移った住民は三百人。しかし世代が移れば言葉はみな唐語、韓語である。
この湊は弘安四年(1281年)に元軍に侵され一夜のうちに灰となり今は安東という地名のみが残る。十三湊に帰化した唐民がふたたび帰り、この邑を起こしたのは正平十三年(1355年)である。 
40 ボッ海鴨緑江之安東城
文治元年(1187年)、朝鮮と元国の国境に安東城を築き市場を開く。安東氏の抱えた落ち武者で、この地に移した者の数は千六百人にのぼる。その内わけは、平泉残党百人の男女、大河兼任の一族二百人の男女、九朗義経の一族十七人、平氏一族五百人の男女、北条氏一族百六十人の男女、南朝の宮方落ち武者多数である。この城築法は唐に習い、周囲八十町四方ある。 
 

 

41 安東船入唐録
正元二年(1260年)四月二十八日、安東康任は十三湊から日下丸で渡唐した。日下丸とは安倍頼時の威勢を偲んだものである。乗組員は、二十八人で通弁として唐僧、樂済房を共にした。積荷は干し魚千貫であった。洋上は荒れることなく、六月十八日支那長江港に着き歓迎されたが蒙古国の侵領により支那国は乱れていた。長滞在はせず帰国したが商益は大であった。 
42 安東船覚書
日本の国難にあたり安東水軍の兵士の多くが無名の戦士として元軍の矢面に殉じたのは哀れである。安東水軍は宮方だったので、いかなる軍功をなしても蝦夷は蝦夷なるによってその誠実も歴史に遣るものがない。しかし安東水軍が壱岐と対馬の島民を救い東日流にその多くを移住させたのは事実である。東日流の子守唄に次のものがある。
おら家のめこい子ァ 泣くじゃない
泣けば海から蒙古来る
泣くな 泣くじゃない
このように今も残っている子守唄は安東船に九死に一生をすくわれ東日流に移住した壱岐や対馬の島民が蒙古襲来の恐怖を子々孫々に残したものである。
このような過去の歴史も興国二年の大津浪による十三築港の崩壊と共に終わり安東水軍の多くは、塩飽水軍、村上水軍に合同し南に移ってしまった。
「天竺仏陀迦耶参訪記」
仏陀の国を求め、三百八十日の航海で天竺に至る。大雪山に向けさらに百四十五日の騎行で仏陀迦耶に着いた。 
43 日高族の伝話
日高見国とは奥州の総称である。太古、東日流と渡島は陸続きであり、怪奇な鳥獣が西からやって来たが、天変地変で滅んだ。オショロという沼地から巨象の骨牙、六尺に及ぶ巨貝、歯のある鳥の石骨が出ており太古の恐怖が思われる。東日流でも怪奇な石骨の出現は珍しくなく、人は住んでいない時代だが、地獄世紀があったという。
渡島の住民の多くは津保化族(ツボケ)に属するが、これは古代に分血したものである。北見系、日高系と一族を分け、狩猟やくらしの仕方が異なる。
オショロ、オロチョン、コシャイン、チョンシャ、シンバラバ、ピリチョンという六代の王は、渡島の島形語印に読まれる。ポロチャシ、コタンの跡も多く石斧、石矛、石やじり、石さじ、骨器、貝器、土器が出土する。これらは古代の東日流から伝来したものだが、その上層に人跡や遺物がないので正確なことはわからない。渡島の歴史では人跡や遺跡が多いがそれ以後のものがない。
ここに志比利舎万因オテナに聞いた渡島、日高、北見の住民の伝説を記す。
「日高国とは渡島、北見を合わせたものだが、日高の本来の意味は、東海より中央部をいう。蝦夷の島、アイヌの国と呼ぶ倭人(シャモ)の略奪侵犯によってなされた染血の歴史がある。また安東水軍との交わりで、鉄や金、銀、銅の採鉱を覚え、支那や朝鮮の船との交商が始まり貧しさから救われる。渡島の住民は刺青を好み、女子も結婚すれば口のまわりに刺青を入れる。男は女をめとる前にその勇気を見せるため熊や狼を狩り、カムイに毛皮を献じて許される。衣はマンダの木、アマ草の皮から作り、毛皮をなめして寝具とする。住居は笹の屋根、篠の囲いで永住はしない。大地の精をカムイと云い、日輪を崇拝する。イシカホノリその他の神は人の心に創られたものとし、自然物に神の精が篭るとする。人として生まれながら蝦夷よアイヌよとさいなまされる渡島人。肌を切れば赤い血が出、子を育てるも同じである。神を崇めることに於いては、シャモのあずかり知らぬところである。海の氷結していた昔、海を渡るモンゴロイドの民は、東北に渡る鳥獣のあとを追って永年日夜、日輪不没の大氷国に至り子孫を残した。この寒さに強い民がわれらの祖先である。その南には常夏の国があり、更に渡れば南の古氷結国がある。ここでも白夜、日輪の不没が見られる。これは祖先の伝であり偽りのあるわけがない。津保化族とは、彼の国から渡島に渡って来た民である。」   
これが渡島に遺る島印語書を解いて語るオテナ志比舎万因の伝えだが、如何に。 
44 日高渡島のこと
渡島の国は珍愚志族の国で粛慎族とも云い、太古にマツカツ国から来た渡族である。日高国は国土が広く、安東一族に統一される前は、人跡まれなアイヌの国であった。漁や狩をして暮らす住民はよく刺青をし、コタンという住居を群落し、鳥形文字で一族の歴史を遺す。渡島、松前あたりの一族は、荒吐族の流れが多く、人形文字を使っている。 
45 安東一族騒動之事
文保元年(1317年)、藤崎城主、安東季久は、祖掟によって十三福島城主、安倍季長に満期三年による城替えを申し込んだが季長はこれを聞かず永住しようとした。
ここに一族の内乱が起きたが、戦闘の決着は付かなかった。双方共にこれを鎌倉幕府に訴え、北条高時は長崎新左衛門を審検に使わした。長崎氏は双方の賄を高時に献じ、裁断を待ったが高時は闘犬にふけり、いかに待てども判令が下らなかった。
この間に双方の贈った賄は六十八度、砂金二百四十貫に及んだ。結局幕府は藤崎方の勝訴としたが、福島城の季長はこれを怒り、猛吹雪を突いて藤崎城を攻めこれを敗った。季久はこの旨を鎌倉に急使した。季長は幕府の下知を恐れ、福島城に兵糧武具を備え篭城の用意をしていたが、鎌倉からやって来たのは、二人の従者のみと従えた工藤祐貞であった。祐貞は福島城にやって来て幕府の献金があれば季長に利があると説いた。季長は巨大な砂金を持ち、工藤氏と共に鎌倉に出かけた。
しかし幕府ではこの砂金を没収し、季長を獄に閉じこめてしまった。これを知った福島城の安倍季兼は大いに怒り、日本国七湊に触れを出し倒幕を呼びかけた。幕府では季長を殺し、四千の兵を津軽に送った。この時藤崎城主の季久は福島城を訊ねて和を約し、一族は挙げて幕軍に向かうことになった。幕軍は完敗し、以後三年の城替えは元口に復した。 
46 興国二年の大津浪
辰の刻(午前七時から九時)、北海の沖に三丈の大高波が起きる。路を歩む者が地震かと思い、家路に急ごうとする間もなく、高波の速度は速く見るまに浜明神は大波に呑み消され、百石船は木の葉のように波間に漂い砕けた。
十三湊、十三の軒並は一波で消滅し、大波は福島城の上濠にまで達し引き返した後の四面には草木さえなかった。
大浪十五波、中浪二十波にして沿った十三浦は、泥土に埋もれりくとなり、山は赤裸になっていた。見渡せば十三の村や町、浦の船影は一刻で消滅し、潮は赤く、漂流物は渡島に続くようで、そこに島が出来たかにも見える。漂う死体を鵜の群れがついばみ、地獄の相に思われた。 
47 上方廻状
突然ながら一筆啓上差しあげます。
お聞きの通り、十三浦の津浪の被害は事のほか大きく、商交再開はなす術もございません。水夫の暮らしもおぼつかなく途方にくれております。しかしながら、安東水軍の船及び船武者を他業に廻すのは無情であり、御貴組に加えていただきたく、この状をもってお願い申し上げます。我が祖、安倍氏季以来、唐、韓土、西蕃国に至る渡船のつわ者なれば、貴組に加わるとも迷惑をおかけする事はないと存じます。同乗の船は当方では無用のものですので、共に受けていただければ幸いでございます。
瀬戸海各組殿 奥州津軽住  宗季
辺状
お手紙とくと受けたまわりました。村上一族の名にかけて、安倍一族の船方、及び白龍丸を御受納いたします。十三湊廃港の件、実にもって不敏に感じております。しかしながら、貴領の土崎、吹原、安方の湊を興されれば、旧倍の交商を得られるものと思われ、心強く再挙をお忘れなく、一族の統括をお祈り申し上げます。よって当組に入りし者の身は案ぜられる事なく、一度お越し下されたく存じます。乱筆まで 
48 あとがき
「東日流誌」の記録は十二世紀以後急に豊富になる。しかし記事の内容には相互に矛盾するものが少なくなく、年次にもばらつきが多い。たとえば興国二年とする大津浪にしても、その日時については各伝がそれぞれ違っており、中には興国元年とするものもある。
鎌倉幕府の残した記録には津軽安東氏が現われないとするが、「東日流誌」は、津軽は幕府の差し向けた曽我氏の支配下にあり、税金を払い、十三湊に検非違使庁のあったことを記す。これは政治力学を考えたとき必然でもある。また、十二世紀の津軽が奥州藤原氏の圧力下にあったとするのも理屈にあっている。ここでは、問題が日本史の側にある可能性を考えてもよいだろう。
現在、「東日流誌」で藤原秀栄が創建したとする十三山王坊の発掘調査が東北大学の手によって進められており、その存在を確認されている。
この他にも、「東日流誌」記事には、考古学による検証が可能な事物が多い。安日彦、長髄彦の墓とする於瀬洞、津浪に埋もれたとする十三湖近辺、中国の鴨緑江岸にあるとする安東邑等、発掘調査があれば今すぐにでも「東日流誌」の正否を計ることができる。
一方では、「東日流誌」の例でもわかるように、正史に反する記録は発表されず陰匿されるケースが多いだろう。現在でも眠っているこうした資料がもし発表されたとすれば、状況が一変するかもしれず、これも今後の可能性として期待できる。
いずれにせよ、現在我々の持っている日本歴史は、多方面からの照射によって再検討する必要がある。その当否は問わないとしても、ここに「東日流誌」という照射源があるのだから、その光によって日本史を検証してみるのも無駄ではないだろう。 
 
鉄と神

 

人間と鉄との出会い
隕鉄―小惑星の核のニッケルを多く含む鉄。核の冷却速度が遅いため特異な組織をもつ砂鉄、鉄鉱石―山火事、たき火などで鉄に還元され、偶然発見されたと考えられる。
製鉄のはじまり
鉄の精錬技術を独占していたBC20世紀ヒッタイト(トルコ)からといわれる。ヒッタイト帝国はBC19世紀に歴史に登場する。エジプトの全盛時代、ラムゼス2世と互角に戦うが、BC12世紀に衰退する。それを契機に製鉄技術が広まったといわれる。
日本の製鉄のはじまりの通説
日本は、弥生時代に青銅器と鉄器がほぼ同時に流入(韓鍛冶)しており、石器時代から青銅器時代を飛び越え鉄器時代に突入したと言われている。しかしながら、『魏志』などによればその材料や器具はもっぱら輸入(鉄挺・鉄素材)に頼っており、日本で純粋に砂鉄・鉄鉱石から鉄器を製造出来るようになったのは、たたら製鉄の原型となる製鉄技術が確立した6世紀の古墳時代に入ってからだと考えられており、たたらによる製鉄は近世まで行われる。製鉄遺跡は中国地方を中心に北九州から近畿地方にかけて存在する。7世紀以降は関東地方から東北地方にまで普及する。
古代製鉄の条件
1.日本列島の地質は砂鉄が多い
花崗岩から構成され、花崗岩には磁鉄鉱が多く含まれる。日本の場合、ユーラシアプレート、太平洋プレート、北米プレート、フィリピンプレートがぶつかり、巨大な圧力によって近くの花崗岩が砕かれる。それでもろく風化しやすい。結果、磁鉄鉱が粒になった砂鉄が多く、世界の三大砂鉄産地といわれる。(ニュージーランド、カナダ)
2、森林が多い
朝鮮に木が少ないのは古代製鉄のためであると司馬遼太郎はいっているが、日本は森林を伐採し、植林することで再生が早い気候である。
3、風通しのよい丘陵
鞴(ふいご)など風を送る装置が考えられる前は自然風を利用した。
4、水が多い
ヒ(けら)の冷却、砂鉄の鉄穴流しに利用。
鉄の発見
砂鉄―地表に近い所に砂鉄があり、その地表で土器を焼いた時、砂鉄から還元された鉄が得られた可能性がある。
砂鉄のたくさん含まれる浜辺で焼いて偶然鉄を発見したかもしれない。
餅鉄(もちてつ・べいてつ)―東北には餅鉄という純度の高い(鉄分70%)磁鉄鉱がある。
大槌町(岩手・遠野、釜石に隣接)あたりに古代製鉄遺跡がみられる。
明神平では3600年前のカキ殻の付着した鉄滓が出土している。
明神平には小槌神社があり、現在の祭神はヤマトタケルだが、もとは、古代の製鉄を普及した先人が祀られていたという。
この縄文人はお盆状の野焼き炉に餅鉄とカキ殻をいれて火をかけ、矢鏃、釣り針を作ったらしい。
ちなみに舞草鍛冶は、岩手県一ノ瀬の舞川あたりでとれる餅鉄の製鉄が発祥といわれる。
高師小僧(たかしこぞう)
愛知県豊橋にある高師原で発見された褐鉄鉱の塊のことである。水辺の植物の根に鉄バクテリアの作用で水酸化鉄の殻を作る。時を経て植物が枯れ中央に穴のあいた塊が残る。高師原に戦前陸軍の演習場があって雨が降ると頭を出し、幼児が並んでいるようにみえたことから名付けられた。
全国の製鉄遺跡がみつかった場所に多くみられる。
代表的なところが諏訪地方、大阪府泉南市、滋賀県日野町別所などがある。
諏訪の川には葦が茂り、諏訪湖のほとりも葦がたくさんある。ここにスズといわれる塊が製鉄原料として使われた。
スズ=褐鉄鉱の塊=高師小僧=みすず=鳴石
「三薦(みすず)(水薦(みこも))刈る 信濃の真弓 わが引けば 貴人(うまひと)さびて いなと言わかも」
みすずは信濃国の枕言葉で、「みこもかる」は「みすずかる」ではないのかと賀茂真淵が唱えたことからみすずは、スズ竹のことであるといわれた。スズ竹は、篠竹で諏訪に多く産する。うたの意味は「この弓を引いてあなたの気を引くのは貴人みたいで、あなたはいやがるかしら」という意味である。
湛え神事
諏訪大社の古い神事のことで、高鉾につけられた鉄鐸が使用される。鉄鐸は、てったく・さなぎと呼ばれ銅鐸の原形といわれる。湛え神事は作物の豊穣を願う神事といわれているが、スズの増殖、鈴なりに地中に生成されることを願ったのではないかと考えられてきている。
諏訪大社
祭神は建(たけ)御名方(みなかた)命(のかみ)(南方刀美命)で、出雲の国譲りで納得できず諏訪に逃げてきた神である。土着の洩(もり)矢(や)神(しん)を制し祭神となった。洩矢神は鉄輪を使い、建御名方命は藤の枝を使って戦った。藤は砂鉄を取り出す鉄穴流しで使うザルで、この話は製鉄技術の対決だったという。
古代鉄関連地名・関連語
砂鉄 / スサ(須坂)・スハ(諏訪)・スカ(横須賀)・サナ(真田、猿投)
錆 / サヒ(犀川)・サム(寒川)・サヌ(讃岐) 
鍛冶 / 鍛冶ヶ谷、梶ヶ谷 
ズク、銑鉄 / スク〜ツク(筑波)・チク(千曲川)
穴に住む人、鉄クズ / クズ(国栖)・クド(九度山)  
踏鞴 / タタラ(多々良浜)・ダイダラ(太平山・秋田)―ダイダラボッチ伝説
吹く / フク(吹浦)・イフク(伊吹山)・吹田 
鉄穴流し / カンナ(神奈川・神流(かんな)川) 
鉄の古語 / ヒシ〜イヒシ(揖斐川)
朝鮮語で刀 / カル(軽井沢)・カリバ(狩場)  
溶けた鉄 / ユ(湯沐村)・ヌカ(額田) 
水銀 / ニ(丹生、新田)
   葉山―羽山―羽黒―鉄漿 
   芋―鋳物―イモー溶鉱炉―炭―鋳物師(いもじ)村―鋳母(けら) 
別所 / 浮囚、製鉄地 
百足 / 東北地方の鉱物の呼び名―赤百足(金、銅)・白百足(銀)・黒百足(鉄)・縞百足(その他の金属)
砂鉄を熔解し、湯出口(ゆじぐち)からノロ(鉄滓)を吐き出す。これを沸ぎ間(たぎま)という。
最初のノロを初花という。
頭領は砂鉄を扱うのが村下、木炭投入が炭坂という。
丸三日のかかり一夜(ひとよ)という。
初日の炎の色は朝日の色、中日は昼間の色、三日目は夕日の色になる。鉄塊をコロといい、叩き割ってヒ(けら)と銑(ずく)を分ける。
ヒは鋼鉄、銑は銑鉄の原料となる。
青と呼ばれる真砂からは、ヒが多く赤目という砂からは銑が多い。
真砂はヒ押法(けらおしほう)といい、赤目は銑押法(ずくおしほう)という。
これを踏鞴吹き(たたらふき)といい、大きな鞴を使った。
火炉(ほど)は女陰、風の吹き込み口を羽口というがそれを陽根にみたて、鉄の生産=出産にみたてる。
ところが、人の出産は、忌避され女房が出産するとひと月近く夫も高殿(たたら)には入らない。
女も高殿には入れず、山内にいる女性は飯炊きのみである。
番子(送風を足踏みで行うこと)で足を痛めるので「ビッコ」をひく。
火炉を見つめ、目を悪くするので目鍛冶から「めっかち」「がんち」といわれる。
口で火を吹くさまから「ひょっとこ」といわれる。
金屋子信仰 / 白鷺にのって出雲に降り立ち、桂の木(神木)で休んでいたところ、土地の宮司の祖先阿倍氏に会い、製鉄を教えた。中国地方各地に伝説があり、村下となった。
一般に女神とされる。麻につまずいて死んだので麻が嫌い。
犬に追いかけられて蔦に登って逃れようとしたが蔦が切れて落ち、犬にかまれて死んだので蔦と犬は嫌い。他説では犬に追いかけられみかんの木に登り、藤に掴まって助かったのでみかんと藤は好き。
死体を桂の木に下げると大量に鉄が生産できるので、死体を好んだ。
自分が女性なので、嫉妬からか女性が嫌い。村下は女性のはいった湯にはつからない。
鉄・鍛冶の神
稲―稲妻―雷神―餅―武(たけ)甕(みか)槌(づち)大神(おおかみ)(宮城・塩釜神社)賀茂別雷命(京都・上賀茂神社・葛城を本拠にした渡来人で製鉄技術を伝えた秦氏の氏神)―建御雷神(塩釜神社)
稲―鋳成り(いなり)―稲荷―宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)豊宇気毘売(とようけびめ))・御饌津神(みけつのかみ)―三尻神―三狐神―伏見稲荷
蛇―龍・雷・虹・菖蒲の葉・刀―建御名方神(たけみなかたのかみ)(大国主の子)―諏訪大社
蛇―三輪山―大物主大神(おおものぬしのおおかみ)・大巳貴神(おおなむちのかみ)―大神(おおみわ)神社
金山彦―イザナミの子―南宮大社(岐阜)−黄金山神社(宮城・金崋山)
金屋子神(かなやこのかみ)=天目一箇神(あめのまひとつのかみ)―金屋子神社(島根)
一つ目小僧―片目伝説―一目連(いちもくれん)―天目一箇神(あめのまひとつのかみ)―天津麻羅(あまつまら)―多度大社(三重県桑名)―天目一神社(兵庫県西脇)
風の神一一目連(いちもくれん)―多度大社―龍田神社(奈良県生駒にあり、法隆寺の鎮守)
風の神―蚩尤(しゆう)(武器の神・風を支配)−兵主神(ひょうずのかみ)―穴師坐兵主(あなにいますひょうず)神社(奈良)―伊太祁曽(いたきそ)神社(和歌山)―五十猛命(いそたけるのみこと)(木の神)
天日槍(あめのひぼこ)―新羅の王家の者と伝えられるー韓鍛冶集団の渡来―出石(いずし)神社(兵庫県豊岡・但馬国一之宮)
火―たたらー火之迦大神(ひのかぐつちのおおかみ)―秋葉神社(静岡県浜松)愛宕神社(京都右京区)
百足 / 三上山(天目一箇神)・赤城山(大巳貴神)・信貴山(毘沙門天)・二荒山(大巳貴神)
東南風―イナサー東南風は黒金をも通す(鹿島)―武(たけ)甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)(物部の神)―鹿島神宮
経津主(ふつぬし)―星神―鉱山は星が育成すると考えたー香取神宮(千葉)鹿島神宮(茨城)春日大社(奈良)塩釜神社(宮城)
山の神―大山祇命(おおやまつみのみこと)―大山祇神社(愛媛)三島大社(静岡)大山阿夫利神社(神奈川)寒川神社(神奈川・古代の祭神が大山祇といわれている)
小人―小さ子―小人部―一寸法師―少彦名神(すくなひこなのかみ)(体が小さく大国主とともに国造りに関わる・温泉・酒)―大国主系、淡島系神社―出雲大社―気多神社―大神神社―伊福部氏
河童―川子大明神―水天狗―海御前(二位の尼と安徳天皇の後を追って入水し、河童になった伝説)−水天宮
巨人―ダイダラボッチーデイタラボッチーたたらー榛名湖―富士山―浅間山―筑波山―赤城山―浜名湖―世田谷区代田―相模大野の鹿沼―鬼怒川―利根川―秋田太平山―羽黒山など。
跛者―びっこー足萎えー恵比寿―西宮神社(兵庫県西宮)
吹くー伊吹―伊福部―銅鐸―スズー諏訪系神社
吹くーできものー疱瘡神(牛頭天王)―素戔嗚尊―八坂神社(京都)
丹生―たんしょうー誕生―出産、安産の神―丹生神社(にゅうじんじゃ)(和歌山)―丹生津姫(紀元前8世紀春秋戦国時代に渡来した呉の太白の血筋の姫)―丹生津姫神社(和歌山)
八大天狗―山伏―愛宕山(太郎坊、京都)・鞍馬山(僧正坊、京都)・比良山(次朗坊、滋賀)・英彦山(豊前坊、福岡)・飯縄山(三郎、長野)・大峰山(前鬼坊、奈良)・白峰山(相模坊、香川)・相模大山(伯耆坊、神奈川)
天狗―秋葉山(三尺坊)羽黒山(金光坊)高尾山(飯縄権現)大雄山最乗寺(金太郎)など
出羽三山―月読命月山神社 羽黒権現出羽(いでは)神社 大巳貴命、大山祇命湯殿山神社
鬼―温羅(うら)―吉備津(きびつ)神社の鳴釜神事の竈の下に温羅の首を埋めたー死体を南方の柱に結び付けると鉄がわく(たたら)
吉備津彦命(四道将軍・温羅伝説・桃太郎伝説)吉備津神社(岡山・備中一之宮・矢立神事)―大江山の鬼退治(銅鉱脈)―鬼嶽稲荷神社稲荷大神
一寸法師―清水寺(十一面千手観音)の音羽の滝、音羽山(金、銀、銅がとれ元清水寺の地といわれる・京都)
坂上田村麻呂(清水寺寄進)―鬼退治伝説の地は、東北の鉱脈が多い
湯―湯立神事―大湯坐―唖(ホムツワケ火持別で、火中生誕)−白鳥が鳴いたら唖が治ったー天湯河板挙(神(あめのゆかわたなのかみ)(白鳥を献じた人)天湯河田神社(鳥取)―金屋子神の乗った白鷺―客神(まろうど)―白鳥―餅―矢― 矢にまつわる神事(弓矢は釣針と同一・幸福をもたらし、霊力がある)
朝日―日吉―日野―猿―日光二荒山―俵藤太―三上山―百足山―炭焼藤太―淘汰―金、砂鉄を水で淘る(ゆる)
木地師―惟喬親王―小野―小野氏―小野氏の流れの柿本人麻呂―鍛冶―米餠搗大使命(たかねつきおおおみのみこと)小野神社製鉄地に多くある神社
お歯黒―鉄漿(かね)―鉄―羽黒山神社―鉄を多く含むハグロ石―鉄鉱泉―修験道―出羽三山―湯殿山神社(大巳貴神)
修験道―鉱山―もともと修験道は神仙薬を探し求めた(水銀、ヒ素)−不老長寿薬―中央構造線
水銀―丹生―丹生津姫(大陸から渡来した姉妹でのちに天照大神と丹生津姫になった)―お遠敷(おにう)明神(二月堂のお水取りで若狭から水を送る神)―罔象女(みずはのめ)(天照大神の子で漂う神)水神―ミズハー水刃(金属)
毘沙門天―製鉄神―鞍馬山(鞍馬寺)、愛宕山、信貴山(朝護孫子寺・毘沙門天・奈良)
妙見神―秩父神社(埼玉)千葉神社(千葉)日蓮宗の寺(妙見菩薩)
不動明王―産鉄地に多い 真言宗、天台宗の寺院
虚空蔵菩薩―妙見神―北辰信仰―虚空蔵山(佐賀、水銀・波佐見鉱山)虚空蔵尊(高知、金)虚空蔵尊(三重、金剛証寺、銅、クロム、コバルト、鉄、ニッケル)能勢妙見(大阪、金、銀、銅)磐裂(いわさく)神社(栃木・足尾銅山)七面天女―吉祥天―妙見神(山梨・敬慎院・甲州金)清澄寺(虚空蔵菩薩・妙見尊・金剛薩埵―ダイヤモンドのように堅く不変の金属・角閃石・斜長石・黒雲母・丹生など)
東北のキリシタンー南蛮製鉄を伝え、伊達藩では産業擁護のため、キリシタンの多い製鉄民を保護していたが、幕府に逆らえず、処罰した。(岩手県東磐井郡大籠) 
 
日本上古の硬外交

 

国枝史郎

インドネジアン族、インドチャイニース族の集合であるところの熊襲くまそが大和朝廷にしばしば叛そむいたのは新羅が背後から使嗾するのであると観破され、「熊襲をお討ちあそばすより先に新羅を御征伐なさいますように」と神功皇后様が仲哀天皇様に御進言あそばされたのは非常な御見識と申上げなければならない。
しかるに御不幸にも仲哀天皇様には、熊襲及び土蜘蛛を御征伐中に御崩御あらせられた。
そこで神功皇后様には御自ら新羅御討伐の壮挙を御決行あそばす御決心をあそばされ、群臣に、
「軍を興し兵を動かすは国の大事にして安危、成敗は繋って焉に在り。今、吾、海を超えて外国を征せんとす。もし事破れて罪爾等に帰せんか、甚だ傷むべし。仍よって吾しばらく男装して雄略を起こし、上は神祇の霊を蒙り、下は群臣の助を籍る。事成らば爾等の功なり、事破れば吾の罪なり。」
と仰せられ、大いに船舶を集め、新羅征伐に御発足あそばされた。
この御壮挙には二つの大きな特色がある。その一つは、臣下の将兵のみを新羅討伐におつかわしにならないで、やんごとない皇后様御自ら総帥として御出陣あそばされ「事成らば爾等の功であり、事破れなば吾の罪なり」と、全責任を御自ら御執とりあそばされた、その御勇猛心と御仁慈であり、もう一つは、領土蚕食とか物資獲得とかの侵略的意図の新羅討伐ではなく、大日本国の一部であり大和朝廷の治下にある九州の地を騒がし、熊襲族を煽動して反復常なからしむるものが新羅であり、その新羅はとうてい平和の外交手段を以てしてはその邪よこしまの行動を抑えることは不可能であるとおぼしめした結果、武力を以って御征しあそばしたということであって、従ってこの新羅御討伐は平和外交の形の変わった硬外交、武力外交であるということが出来るのである。
ところでこの硬外交の結果はどうかというに、新羅王波沙寐錦わが舟師を見て恐怖し、面縛して降を乞い「われ聞く、東方に神国あり、日本というと。われ是これを畏懼いくするや久し。今皇師大挙して征討せらる。いかでか是に抗し奉らん。ねがわくば爾今以後飼部となり、船柁干さずして貢物を納め、また男女の調を奉らん。この誓や神明の前に於てす。東より出いずる日西より出で、北より流るる鴨緑江南より流るるとも反そむくことあらざるべし」と奏上した。そこで皇后様に於かせられてはその乞いを許し、軍を進めて首都に入り、府庫を封じ、国籍を収め、躬みが杖つきたまえる矛を王宮の門に立て、占領の証とし、平和条約を結び、毎年金、銀、彩色、綾羅、絹※(「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17)等を船八十艘に積んで貢物とすべく約した。
戦果は是ばかりでなく、当時朝鮮半島は、新羅、任那、高麗、百済の四つの邦に分かれていたのであったが、その中の最強を以て目せられていた新羅が、このように早く降伏したところから、他の三つの邦も降を乞い、神功皇后様師を興こされて以来僅わずか三ヶ月で朝鮮半島全部を完全に日本の有に帰せしめたことであって、このように神速の外征は世界の歴史に在っても稀有のことといってよいのである。
爾後百年間朝鮮は日本政府の命に服した。しかもその後に於ける朝鮮の我国に貢献した功績の甚大さは全く想像にあまるものがある。
即すなわち、大陸の文化を朝鮮が媒介して日本へ渡来せしめ日本の文化を促進せしめたことであって、兄媛、弟媛、呉織、服織の四人の織女を日本へ送り、機織の業を伝えたことや、阿直岐、王仁の二学者を日本へ渡来せしめ、論語、千字文等を伝え、文字と儒教とを我国へ移植したことや、数千人の朝鮮民族を日本へ帰化せしめ、土木その他の工事に従事せしめたことや、欽明天皇様の御宇に仏教を伝来させて、わが国の文化を頓とみに大飛躍させたことなどは著明の事実であるが、これらも尽くこの神功皇后様の朝鮮御討伐に源を発しているのである。

次に推古天皇様の御宇十五年に、隋と交通し、はじめてわが国から遣隋使として小野妹子をつかわし、聖徳太子様御自らお認めあそばされた国書を隋の煬帝に遣わされたが、その堂々たる大文章はわが国威を宣揚したものとして殆ほとんど古今に比類無いほど立派なものであった。即、その国書の中には「日出処天子、致書於日没処天子」とあり、日本と支那とを対等の位置に置いてあったのである。これは今日の眼を以ってすれば何んの不思議もない至極しごく当然のことなのであるが併しかしその時代の見解からすれば必しも然そうではないのであって、煬帝の心を以ってすれば支那は大国であるが日本は小国であり、支那は文化古く世界の中国であるが日本は支那の文化を輸入して僅に最近文化的になったばかりの国であり且かつ東海の叢爾たる島国である。日本の如きは寧むしろ支那の保護国ともいうべきものである。しかるに何んぞ対等の礼を執ったる国書を持来たすとは! そこで「これより後蛮夷の礼を失するものあらば、之これを奏聞すること勿なかれ」と侍臣に言渡したほどであった。
ところが聖徳太子様の御見解はそれとは反対で、成程最初こそ朝鮮や支那の文化を輸入して日本の文化を促進させたが、今日に於ては日本民族独特の抱容性と消化性と合理化性と創造性と第三文化打出的ルネッサンス性とによって、日本的純粋の高度文化を築上げ、既に官位十二階、憲法十七条を定め、朝礼を改正し、暦日を採用し、四天王寺、法隆寺等の世界的優秀の寺院をも建立し、儒教の思想を咀嚼し仏教の教理を摂取し、しかも日本古来よりの神道をその上に位せしめ三位一体的に日本の文化を推進めて居る。何んぞ支那の文化に劣ることがあろうや。――この御信念の下に発せられたのが彼我対等の国書だったのである。しかし上流階級はいう迄までもなく中流階級までも支那を日本よりも格段に文化国であり強大国であると思い込んでいたこの時代に於て、敢然と彼我対等の外交を行わせられた聖徳太子様の御信念と御勇猛心とは真に讃仰せざるを得ない事柄であり、太子様の執られた外交こそは、平和外交中での硬外交の代表的のものと申上ぐべきであろう。
小野妹子の帰朝に際し煬帝は裴世清という家臣を随行させ煬帝よりの国書を奉呈せしめた。その文章の中に「皇帝倭皇に問う」という文字があり、その他不遜の言辞が連らねてあったので、天皇陛下に於かせられては、その国書の礼に適えるや否やを聖徳太子様にお問い遊ばされたところ聖徳太子様には「これは天子の諸王侯に賜わる書の形式ではありまするが「皇」字を用いれば礼無しとも申されませぬ」とお答え申上げられた。その結果その国書は取納めあそばさるることとなられた。そうして裴世清は饗応され、日本の素晴らしい文化に瞠目し帰国したが、その帰国する裴世清を送って再び妹子は隋に向かった。その際聖徳太子様の御起草になる国書が矢張やはりふたたび煬帝に遣わされたがその文章は「東天皇敬んで西皇帝に白す。使人鴻臚寺の掌客裴世清至りて、久しき憶方に解けぬ。季秋薄冷、尊何如。想うに清愈ならん。此れは即ち常の如し。今大礼蘇因高、大礼乎那利等を遣わして、往いて謹白せしむ。不具」というのであり、我を東天皇と云い彼を西皇帝と称し飽迄あくまでも対等の礼を以って押通された。多少尊大に過ぎる煬帝の国書を何事も仰せられず取納め、こなたより遣わす国書は依然堂々たる対等的のものを以ってなされた聖徳太子様の外交は、硬軟自在であり、我国の威厳を昂たかむると共に相手国の面子めんつをも保たしめた聖君子的外交で在したのであって、この理想的外交の結果、日本と隋との国交は滑らかにつづき、隋滅びて唐となっても、その国交は継続され、支那大陸の優秀なる文化はいよいよ我国へ輸入され我国の文化はますます高度化されたのである。
神功皇后様、聖徳太子様の硬外交の真髄を体得した我国上古の遣外使臣達が、さまざまの形に於て同じく、我国独特の硬外交的行動を行為し国威を揚げたことは枚挙に暇いとま無い。
小野妹子の風采閑雅威儀厳然たる様子を見て、煬帝が驚き、心ひそかに我国の隆昌を察し、裴世清を我国に遣わした如きもその例の一つであり、文武天皇様の大宝元年に唐に使いした栗田真人が学を好み文に好く、応待に嫻ならい、いかにも文化人の粋を為しているのを見「吾久しく東海に君子国ありて、人民豊楽、礼儀敦厚なりと聞き、ひそかに是を怪しみ疑いけるが、いま面まのあたり使人を見てその偽ならざるを知りたり」と唐の官人を嘆美させたのもその一例であり、阿倍仲麿が聡明英雋、到所可ならざるなき才気を発揮し、加うるに稀に見る美少年であったところから唐の玄宗皇帝が是を寵用し、帰化させ、老年に及ぶや光禄太夫の大官に昇らせた如きもその例の一つであり、吉備真備、弘法大師等の学者名僧が唐土に於て彼地の碩学や高僧等をその博覧強識に由よって驚嘆させたのもその例の一つであり、大伴古麿が、唐朝の宮中席次に於て、西畔の第二位に列せたるを怒り、断乎として抗議し、東畔の第一位に変更させた如きもその一例といってよかろう。
遣唐使派遣に終止符を打ったのは菅原道真であって、その航海の困難ということも理由の一つではあったが、もっと重大な原因は、隋、唐と国交を重ぬること推古天皇様十五年より宇多天皇様寛平六年迄まで二百八十八年に及びこの長い間に支那大陸の文化の尽くを日本は摂取し、最早彼に学ぶべきものが無いというのが夫れであった。それにしても、その長年月の間いかに我国の官民が、硬外交を心の奥に蔵し、しかも終始表面的には軟く優しく礼儀正しく彼に対したか! それは驚嘆すべき程度のものだったのである。 
 
国号の由来

 

喜田貞吉
一 緒言
昭和九年初頭の第六十五回帝国議会において、頭山満氏ほか数氏の名を以て、国号制定に関する請願なるものが提出せられた。我が国は大日本帝国だいにっぽんていこくなのか、日本国にほんこくなのか、またこれを口にするに或いはニッポンと云い、或いはニホンと云い、外国人はジャパンとも、ヤポンなどとも云っているが、この際国家において正確なる呼称を定められたいと言うにあったらしい。一大帝国の国号がハッキリしないという事は、考えてみれば妙な次第ではあるが、外国人とも交渉が少く、また主として漢字に依拠した時代にあっては、それでもさして不都合を感ずる事なく、千数百年来それで間に合って来たのであった。しかし今日ではもはやそれでは許されぬ。漢字にたよらず、もっぱら自国の文字でそれを仮名書きにする西洋人にとっては、ニッポンとニホンとは明らかに別の名である。ことに各自自国の慣例によって、ジャパン・ヤポンなどと呼ぶ場合においては、一層物が面倒になる。さきに米国では外国よりの輸入商品に対して、その製造地を英語を以て記入すべしとの規定から、「ニッポン製造メイド・イン・ニッポン」の記入ある我が物貨の輸入を拒絶し、或いはこれに対し罰金を課すとかのこともあったと聞く。かかる次第であってみれば、ここにその制定の急務が叫ばれるに無理はない。
実を云えば我が帝国が東方海上に孤立して、諸外国と交渉を有しないような時代には、国号というべき程のものの必要は無かった筈で、神武天皇大和平野を平定して、ここに帝国の基もといを定め給い、それより皇威四方に発展して、次第にその大をなすに至ったのであったから、自然とヤマトの名が、その国家を指示する場合に用いられるようになっていたのである。しかしそれは勿論口称だけのことで、未だ文字を以てこれを表わすことは無かった。しかるに三韓服属以来、かの国人は古来支那人使用の文字のままに、これを「倭わ」と号し、或いは「大倭だいわ」と敬称する例となり、我が国またこれに倣って、その文字を在来の呼称なるヤマトの語に当てたのであったが、しかもそれは我が国号としては、適当の文字では無い。
三韓人はまた一方に、我が国が東方日出処ひいづるところにあるが故に、これを日本ひのもとと称し、我が国でもそれを枕言葉として、「日の本のヤマト」なる称呼が用いられた。かくて推古天皇の使つかいを隋に遣わし給うに及んで、初めてその義にとって、「日出処ひいづるところ」または東ひがしの文字を用い給うたが、しかしこれまた以て我が国号として定まったものではない。その後「日の本のヤマト」なる枕言葉の「日の本」が、直ちにヤマトの語を表わす文字として使用せられ始めて、唐との交通に際してもその文字が我が国号として用いられ、唐人はそれを自国の字音のままに音読して、ニッポンの名が始めて世界的に認められたものであったと解せられる。かくて我が国でも、いつしかその文字に重きを置きてこれを音読し、さらにその発音を和らげてニホンと呼び、双方並び行われて今日に及んでいるのである。すなわち左さに我が国号が、古来いかなる変遷を経て、以て今日に至ったかを叙述しよう。
二 倭国と云う名称
我が国家が始めて直接に支那の国家と交渉を持つに至ったのは、我が国では応神天皇の御代、支那では東晋の末であった、爾来、宋・斉・梁等の、所謂南朝の諸国と交通を重ねたが、その後国交中断すること百余年。隋起って南北両朝の諸国を統一するに至り、推古天皇は久し振りに小野妹子を遣わして、さらに国際間の好よしみを通ぜしめ給うたのであった。この時の我が国書には、「日出処の天子書を日没処ひいるところの天子に致す、恙つつがなきや」とあったという。しかしながら、隋においては古来の伝統によりて依然我が国の事を倭国と称していたのであった。
倭国とは、委くわしくは倭人の国の義で、もとは一国の名称として呼ばれたものではなかった。倭人とは、支那の古代において東方海島の住民を呼んだ名称で、それが統一なき数多あまたの小国に分れていたので、支那の史籍で始めて我が国のことを記した漢書の地理志には、「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時をもって来献すと云ふ」とある。漢の武帝が朝鮮を征して、楽浪郡以下の四郡を置くに及び、我が九州地方なる所謂倭人の豪族らが、ここに始めて支那と交通を開くに至ったのである。もっともその以前から東方に倭人なるものの存在したことは、古代の支那人にも知られていたらしく、周の成王の時に倭人暢草を貢すとのことがあり、支那の古い地理書なる山海経にも、朝鮮半島の北部にあった蓋という国の位置を記して、「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。倭は燕に属す」など見えている。燕は周末戦国時代において、今の遼東地方に割拠した強国である。けだし太古においては、所謂倭人は朝鮮半島の南部から、我が九州地方にわたりてその存在が認められていたのであった。
これらの倭人は統一なき数多あまたの小国家に分れて、所謂百余国を為し、各自王と称して、漢と交通を開いたものであったが、中にも今の筑前博多地方にあった奴国ぬこくの王は、後漢の光武帝の時に入貢してその冊封さくほうを受け、印綬を賜わったことが後漢書に見えている。しかるに天明年間、その博多附近の志賀島から、当時奴国王の貰った金印と認められるものが発見せられて、黒田侯爵家の宝物となっているが、その文に「漢委奴国王」とある。ここに「委」は言うまでもなく「倭」の略字で、「漢の倭の奴国王」と読むべきである。この他に倭の面土国王交通の事も、また後漢書に見えているが、漢滅びて三国の時代となり、これら倭人諸国の中、魏に交通したもの三十国の多きに及んだとある。その中にも邪馬台国やばたいこく最も勢力があって、その女王卑弥呼は、魏の明帝から親魏倭王に封ぜられ、金印紫綬を賜わった。この邪馬台国は、今の筑後の山門やまと郡地方に当る。神功皇后西征の時、山門県やまとのあがたの土蜘蛛つちぐも田油津媛たぶらつひめを誅すとあるものは、けだしこの邪馬台国の事で、所謂土蜘蛛田油津媛なるものは、卑弥呼の後に出た女王であったと察せられる。
これら倭人の諸国は、一方には支那と交通してその冊封を受けたが、一方に我が大和朝廷の御稜威みいづは、次第にこれら倭人の諸国に及び、その帰順したものは我が帝国に併合して、その国王は所謂国造くにのみやつこ・県主あがたぬしなどに任ぜられ、祖先以来の本領の安堵を得たのであったが、命を拒んで反抗したものは、やむをえず討滅せらるるの運命を免れなかった。されば彼らがもはや倭人王の名を以て、直接支那と交通するが如きことはつとに廃絶し、支那の史籍に見える倭人交通の記事は、晋の武帝泰始二年を以て最後とする。これより後約百五十年間、倭人の事は支那の歴史から全く跡を断った。かくて東晋の末、安帝の義※(「(冫+臣+犯のつくり)/れんが」、第3水準1-87-58)九年に至って、再び倭国交通の事が物に見え出した。これはけだし我が応神天皇が、使いを呉に遣わし給うた時のことを記したもので、我が大和朝廷が、直接支那と交通を開き給うた最初のものと見るべく、それが同じ「倭」の名を以て表わされていても、勿論古えの九州地方なる倭人国のことではなかった。しかるに支那人はその前後に区別あることを知らず、これを古えの倭国の延長と考えたのであった。のみならず、たまたま我が大和の名が、倭人国中で最有力であった古えの邪馬台国の名と類似していたがために、これを混同して、「大倭王は邪馬台国にあり」などと書いているのである。しかしそれは勿論認識不足の致すところであった。
降って唐代に至っては、我が国に対して一層の誤解を重ねて、日本は古えの「倭奴国」なりなどと云っている。そして後世に至るまでも、支那人が邦人を悪罵する場合には、よく「倭奴」の語を以てする例にまでなった。しかしながら、倭奴国なるものは、本来どこにも存在したものではなかった。前記の倭の奴国王が後漢の光武帝から王爵を受け、金印を賜わった事が古史に著名であることから、一方にはその「倭」と「奴」とを続け読んで、「倭奴」という国名なりと誤解し、一方には古えの倭人国を以て、直ちにその倭奴国なりと誤解し、さらに一方に我が大和朝廷を以て、その延長なりとするの、三重の誤解を重ねたものである。しかしながら彼らの間にも我が大和朝廷と古えの倭人国とを以て、本来別国なりとするの説が無いでもなかった。後に日本国号の条下引くところの唐書には、日本はもと小国にして、倭の併合するところとなり、よりて日本の号を冒すなどと、とんでもない誤説を伝え、また旧唐書には、日本にほんが倭を併合したと、全然反対の一説を収めているのである。この旧唐書の一説は正当の伝えである。要するに我が大和朝廷を以て古えの倭国の延長であるとなし、大和を以て古えの邪馬台国なりとなすは、誤解も甚だしいものであると謂わねばならぬ。
三 倭と邪馬台とヤマト
人或いは我がヤマトの名を以て、古代に支那に知られた倭人の最強国なる邪馬台国の名を襲うたものと解せんとするものが無いでもない。或いは古えの邪馬台国を以て、我が大和朝廷そのものであると解せんとするものもまた少くない。古く日本紀の編纂者の如きも、おそらくこの誤りに陥り、かの有名なる邪馬台国の女王卑弥呼を以て、我が神功皇后の御事なりと解したものと見えて、皇后の年代を直ちに卑弥呼の時代に擬定しているのである。また我が国の将来を予言したものとして、邪馬台詩なるものまでが、梁の宝志和尚の作として古く伝えられているのである。しかしながら大和はどこまでも邪馬台国ではなく、その名称の類似は、けだし偶然の暗合と解するを至当とする。もともとヤマトなる地名は、ただに畿内の大和と、この邪馬台国なる筑後の山門郡地方とのみならず、肥後にも古く同名の郷があり、播磨風土記にも同じ名の地が見え、他にも少からず諸々に存在するのである。これについては平安朝以来種々の解釈を下し、太古天地剖判以後、大和の地は泥湿未だ乾かず、人々山に栖すんで往来し、山に蹤跡あしあとが多かったがために、ヤマトと云うのだとか、大和には太古草昧の世、未だ屋舎あらず、人民ただ山に拠っていたが故に、ヤマトと云うなどと説明しているが、それならばひとりこの地とのみは限らぬ、ヤマトの名はけだしその地形から呼ばれた場合が多かるべく、少くも畿内なる大和にあっては、青山四周の中に広い平野を擁し、その西方なる大阪平野との間に、大和川の吐け口において山門の状をなし、ここに通路を有するの形から呼ばれたものであったと解せられる。そして古来支那人が我が大和朝廷を以て、古えの倭国王の延長と誤解し、これに対して「倭」の字を用うる習慣であったがために、我が国でも漢字を採用するに当りてこれを以て直ちにヤマトの語に当つるの例となったのであった。
もっとも「倭」の字を以て大和朝廷に当つることは、つとに朝鮮において用い始めたところであったらしく、百済人・任那人等は、古く支那人の用例のままに、我が大和朝廷の御事を「大倭」と書く例であった。我が国でも天皇のお膝元なるヤマトに当つるに、「大倭」の文字を以てした事は、この慣用に従ったものであったと察せられる。後に「倭」の字を改めて、これを同音の「和」の字に代えたのは奈良朝の末で、けだし好よき意味の文字を取り換えたに他ならぬ。そしてそれは大君のまします御膝元の地として、オオヤマトと敬称したものであったが、後には文字をそのままに、単にヤマトと呼ぶ例となった。しかし琉球では、なお古代の呼び名のままに、畿内の一地方たる大和をオオヤマトと称し、日本国の場合には、これをヤマトと呼ぶ例であった。かくて畿内の一国としてのヤマトには、後までも「大倭」の文字がそのままに用いられ、我が国家の名としては、別に「日本」の文字が採用せられることになったのである。
四 日出処と日没処
「倭」または「大倭」の文字を以て我が日本国家を表わすことは、もと支那人の誤り用いたところをそのままに襲用したもので、応神天皇以来の支那の南朝諸国との交通の際には、便宜その文字を用いられたもののようではあるが、それはもとより我が国号として適当のものではない。またもともとヤマトとは大和一国の名であって、それに対して慣用上「倭」または「大倭」の文字を当つることはともかくもとして、広く大和朝廷治下の国家の号としては、別にこれを制定するの必要がある。ここにおいて推古天皇の小野妹子を隋に遣わし給うに当り、始めて「日出処ひいづるところ」の号を用い給うたのであった。しかし、これはただ従来の倭国の称を否定しただけで、我が国が地理上支那と東西相対するの位置の関係から、しか呼んだに過ぎないものであった。
支那を日没処ひいるところと呼ぶことは、実はこの時に始まったものではなく、その由来はすこぶる久しいものであった。応神天皇以来交通した東晋以下、宋・斉・梁等の所謂南朝の諸国は、通じてこれを「クレ」と呼び、「呉」の字を当つる例で、今に至ってなお「呉」の字をクレと読む習慣になっているのである。当時これら南朝の諸国に当つるに「呉」の称を以てしたことは、これらの諸国が古え三国時代の呉国の域に当るが為めで、それはつとに百済人等の用いたところをそのままに襲用したに他ならぬ。しかるに一方クレの語は、もと夕暮の義で、ひとり呉の旧地に国した東晋以下南朝諸国のみのことではなく、一般に我が国で西方なる支那を呼んだ名称であった。しかもそれに「呉」の字を当てたことは、たまたま我が国が始めて交通した支那の南朝諸国が、古えの呉国の域であり、それを「呉」として呼称する例であったからである。されば孝徳天皇白雉五年に、唐国に使いして多くの文書宝物を得て帰った吉士長丹きしのちょうたんの労を嘉よみして位を陞のぼし、封ほう二百戸こを給し、呉氏くれうじの姓を賜わった如きは、唐国をクレと称し、そのクレ国に使いしたことを記念したためであるに外ならぬ。それに「呉」の字を当てたのは、古くそれをクレと読む例であったからである。また日本紀に、欽明天皇六年九月百済王が任那の日本府の臣、及び諸旱岐しょかんきに呉くれの財を贈るとある場合のクレも、当時支那においては南北朝既に合一した後の隋のことであり、この他にも百済人が隋を呉くれと称した例が日本紀に見えて、いずれも一般に支那をクレと呼んだ証拠となすべきものである。我が国は当時の地理上の知識において、知りうる限りの世界の最東にあるが故に、所謂日出処ひいづるところ、すなわち「朝あさ」の国であり、これに対して西方なる支那は日の没いる国、すなわち「暮くれ」の国である。そしてさらにそれよりも遠き西の国は、常に夜であるべき筈で、これを「常世とこよ」の国と云った。それを文字に「常世」と書くのは、その原義を失った後の当て字である。
されば推古天皇の国書に、隋を指して日没処ひいるところとあることは、畢竟ひっきょう古来の伝統によるクレの名を、別の文字を以て表わしたものに他ならぬ。そしてこれに対して我が国を日出処と書いたことは、単に修辞上の対句であった。けだし従来使用の倭国の称が、我が国号として不適当であるとの自覚から、かく改めたに過ぎないもので、未だこれを以て我が国号となすべき程のものではなかった。
隋の煬帝ようだい我が国書を見て悦ばず、鴻臚卿こうろけいに命じて曰く、「蛮夷の書礼なきものあらば、復また以て聞する勿れ」とある。「復以て聞する勿れ」とは、天子の上聞に達せず、下僚において適当に善処せよとの義である、支那は古来自ら中国を以て任じ、天に二日なく、地に二王なしとの信条の下に、諸外国はことごとくこれを東夷とうい・西戎せいじゅう・南蛮なんばん・北狄ほくてきなどと称し、天子はすなわち天命によりて、あまねく天下を統治すべきものとして、諸外国は当然中国に服属すべきものと認めていたのである。されば我が対等国家の礼を以て遣わした国書を見て、不満であったに無理はないが、しかもその我を以て旭日昇天の義ある日出処と称し、彼を目して凋落の義にも取れやすき日没処となした点においてまた少からぬ不愉快を感じたのであったに相違ない。ここにおいて我が第二回目の国書には「東ひがしの天皇敬つつしみて西にしの皇帝に白す」と改めた。文字は違ってもその意義においては同一であり、それが未だ国号と云うべき程のものではなかった事が知られる。かくてこの国書も対等の礼をとった点において彼の容いるるところとならず、「復聞する勿れ」の趣意で下僚において適当に善処したものであったと思われる。
五 日の本という語
「日出処」はすなわち「日の本」である。日の本は東方を意味する語で、本来はそれよりも以西にある地方の住民が、東方日出処を指して呼んだ語でなければならぬ。何となれば、自身その地に住するものにとっては、それが世界の最東にあり、他より見て所謂日の本に相当するものであるとしても、その地に在ってはさらにその東方に日出処の存在を認むべき筈で、したがって自己の住処を以て、自ら日の本なりと称したとは思われぬ。されば我が中世の語には、当時の地理上の知識において、我が邦くにの最東に在りと認めた奥州を以て、日の本と呼ぶ例であった。かの最明寺時頼の著と俗称する人国記にんこくきに、「陸奥は日の本故に、色白うして眼め青みあり」とあるのはこれである。古く既に平安朝初期の新撰姓氏録上表の文にも、奥州のことを「日出之崖にっしゅつのきし」とある。鎌倉時代から室町時代にかけて、奥州津軽地方を占領し、北方に雄視した安東氏が日の本将軍と呼ばれたのも、また奥州すなわち日の本の義から取った名称であるに他ならぬ。また豊臣秀吉が小田原城攻囲の際、天正十八年五月一日附けを以て、その妻すなわち大政所おおまんどころへ遣わした消息には、「小たはらの事はくわんとう(関東)ひのもと(日の本)までのおきめにて候まゝ、ほしころしに申付くべく候」とある。これは徹底的に小田原北条氏を討滅することが、直ちに関東奥羽全体の処分を定むる所以であることを述べたのである。我が古い俗諺ぞくげんに、「木乃伊みいら採とりが木乃伊になる」との語がある。奥州日の本は日出処であるが故に、暑熱甚だしく、その海岸にはこれがために黒焦げになった木乃伊が累々として横たわっている。それは高価なる薬材であるが故に、冒険者がしばしばこれを取らんとして、自身また木乃伊となると云う説話なのである。しかるに地理上の知識が進んで、奥州の東にさらに蝦夷が千島の存在が知らるるに及んで、所謂日の本の名がそこに移り、木乃伊採りの話までもこれに伴って東遷した。蝦夷一揆興廃記という書に、「日の出島は方角蝦夷より東北に当り、道法みちのり凡そ三百余里と云へり。山谷、海上、共に難所ありて、言語に尽くし難し。さて日の出島に行くものは、十人二十人申し合せ、木乃伊を探りに行く事なり」とある類である。或いは「日の出浜」「日の本」などの名も、これらの地方について呼ばれた。寛文頃に出来た一種の蝦夷地図(函館図書館)には、今の北海道胆振いぶり地方と見らるべき地域に、「是より東方日の本と云」と記入してある。万治三年の松坂七兵衛北蝦夷漂流記にも、風が西に変りて日下ひのもとに流されたとある。「日下」はすなわち日の本である。
南北朝頃の諏訪大明神絵詞に、当時の北海道における蝦夷に三種あることを記しるして、その一種に「日の本」と云うのがあるとある。彼らは「形体夜叉の如く、変化無窮なり。人倫禽獣魚肉を食として、五穀の農耕を知らず、九訳を重ぬと雖も、語話を通じ難し」とあって、全然生蕃階程にいたアイヌを呼んだ名であった。北海道は西より開けて、前記地図に見ゆる東方日の本の地方には、少しも和風に染まぬアイヌが住して、それを直ちに「日の本」と呼んだのであった。しかしその所謂日の本の地も、内地文化の進展とともに、次第に東方に退却して、近世では北海道アイヌは得撫うるっぷ以往の北千島をチュプカと呼び、その住民なる千島アイヌをチュプカグルと云う。チュプカは太陽の義で、すなわち日出処を意味し、チュプカグルはその日出処の人、すなわち日の本蝦夷の義である。南北朝頃には北海道の東部地方に認められたところのものが、後には北千島においてのみ認められることになったのである。そしてその千島アイヌは、さらに東方なる柬察加カムチャッカをチュプカすなわち日出処と称し、その住民なるカムチャダールを、チュプカアングルすなわち日の本の人と呼び、自己をルーントモングル、すなわち西に住まえる人と云っているとのことである。日の本の義また以て解すべきである。
されば我が国を日の本と称し始めたことは、実は邦人自身ではなく、当初は朝鮮半島の住民が、その東方なる我が国を呼んだものであったに相違ない。日本紀引くところの百済本紀など、古代朝鮮の書に既に我が国を指して「日本」と書いた例がある。朝鮮そのものも、また、実は支那から見て日の本であった。朝鮮の地誌なる東国輿地勝覧に朝鮮の名義を解して、「東表日出の地に居るが故に朝鮮と名付く」とある。漢の楊雄が、武帝の徳を頌したる賦に、「西圧二月※一にしげつこつをあつし[#「山+骨」、U+21ECB、229-11]、東征二日域ひがしにちゐきをせいす[#「東征二日域」はママ]」とあるのも、西方には西域月氏げっしの地を服し、東方には朝鮮日域にちいきの地を平らげたことを述べたもので、ここに「日域」とは朝鮮を目して日出処と呼んだのであった。しかしながら、事実上国家としては我が国以東に位置するものなく、我が国は世界の最東日出処であり、すなわち日の本である。かくてそれが遂に我が国にのみ用いらるるに至ったものと解せられる。
しかしながら、文字にこれを「日本ひのもと」と書くも、国号としてはこれを文字のままに、直ちにヒノモトと称する訳ではなかった。日本紀に「日本」の文字に註して、「日本此云二耶麻騰一ニチホンこゝにヤマトといふ、下皆效レ之しもみなこれにならへ」とある。つまり従来の「倭」の字に代うるに、「日本ニチホン」の二字を以てし、依然これをヤマトと読ませたものであったに他ならぬ。
なおここに「日本にほん」の二字をヤマトと読ませることについては、所謂「日の本」が我がヤマト帝国の位置に当るという会意からの理由の外に、それが我が国特有の枕言葉から導かれたものであることが考えさせられる。我が国語には、地名その他の名詞の上に、その発音において、或いはその意義において、或る縁故ある語を冠して枕言葉となし、これをその語と連称するところの一種の修辞法がある。そして枕言葉の文字が、直ちにその語を表わす文字として使用せらるる例がある。「飛ぶ鳥のアスカ」「春日はるびのカスガ」などがそれで、枕言葉をそのままに「春日はるび」と書いてカスガと読み、「飛鳥とぶとり」と書いてアスカと読む類これである。そして「日の本のヤマト」またその例の一つとして見るべく、我がヤマトの国家が、世界の最東日の本にあるということから、ヤマトの枕言葉として「日の本」の語が用いられ、やがてこの枕言葉から「日本にほん」と書いてヤマトと読むこととなったものと解せられるのである。
六 日本国号制定の年代
次にヤマトに当つるに「日本」の文字を用いたことが、いつの頃から始まったかを考えてみるに、我が国の文献の上に「日本」の文字を用いたのは、奈良朝の初期、養老四年奏上の日本紀を以て初めとする。その書名を日本書紀ということはさらなり、我が国家としてヤマトの称を用うる場合には、同書は常に「日本」の二字を用いてあるのである。ただし日本紀といえども、我が国号として以外は、ヤマトの語に当つるに相変らず「倭わ」の字を用うる例で、それが畿内の大和一国を表わす場合は勿論、同じ人名にしてもヤマトタケルノミコトの場合には、「日本武尊やまとたけるのみこと」と書き、ヤマトヒメノミコトの場合には「倭姫命やまとひめのみこと」と書く。日本武尊は日本紀の記するところ、単に景行天皇の一皇子たるに過ぎざる御身分ながちも[#「御身分ながちも」はママ]、常陸風土記・阿波風土記等には、「倭武天皇やまとたけるのてんのう」とあって、これを至尊の例に置き、また日本紀にも、その逝去を「崩」と称し、その墳墓を「陵」と称し、ことにミコトの語に当つるに、天皇の場合と同じく「尊」の字を以てするなど、すべて至尊に対し奉ると同様の尊敬の辞ことばを用いているのである。されば邦語では同じヤマトの語を以てしても、倭姫命の場合には畿内の一地方たる大和の義に取り、日本武尊の場合には、我が国家を表わす義を以て、特に「日本」の二字を用いたものであったと解せられるのである。すなわち従来は我が国家全体を表わす場合のヤマトの語にも、また、畿内の一地方たる大和を表わす場合のヤマトの語にも、同じく「倭」字を用うる例であったものが、ここに至ってその間に文字を異にし、その区別を成すに至ったものであったと解せられるのである。
しかるに日本紀が、我が国号としてのヤマトに当つるに、常にかく「日本」の文字を用いているにかかわらず、これに先立つ僅かに八年の和銅五年に奏上した古事記には、毫ごうも「日本」の文字あるなく、ヤマトの語に当つるに常に「倭」の字を以てする例となっている。同じ勅撰の国史にして、しかも僅かに八年を隔つるに過ぎざる近い間において、かかる相違のあることは、この古事記編纂の頃には、未だ「日本」の二字を以て、我が国号となすことが一般に認めらるるには至らなかったことを示すもので、したがってその制定は、和銅五年以後、養老四年以前、おそらく日本紀編纂の時にあったと、一応は謂いわねばならぬこととなるのである。しかしながら、我が国家を表わす場合に「日本」の二字を用うることは、実は必ずしも日本紀編纂の時に始まったのではなく、すでに日本紀収むるところの孝徳天皇大化改新の条の詔みことのりに、明らかにこの文字が見えているのである。この詔書の文は、決して後に日本紀の著者の修辞にかかるものではなく、当時発表せられたままのものが、日本紀編者によって収録せられたのであったに相違ない。しからば、「日本」の二字を国号として制定した事は、或いは大化改新の際にあったと謂ってもよいのである。
ここにおいてさらにこれを支那の史籍について考うると、唐書に至って初めて日本の国号が見えている。「日本は古への倭奴わどなり。(中略)咸享元年使を遣はして、高麗を平ぐるを賀す。後のち稍やゝ夏音かおんを習ひて倭の名を悪にくみ、更あらためて日本と号す。使者自ら言ふ。国日出づる所に近きを以て名と為すと。或は云ふ。日本は乃ち小国、倭の為に併あはす所となる。故にその号を冒す。使者情を以てせず、故に疑ふ」とあるのである。夏音とは支那語のことで、支那語に通ずるに及びて「倭」の名の不可を知ったというのである。その「日本は古への倭奴なり」と云い、また或る説に、「日本は乃ち小国、倭の併す所となる」とあるは甚だしい誤りで、これは旧唐書に「倭国伝」と「日本国伝」とを別々に掲げて、「日本はもと小国、倭の地を併す」とある方の、比較的真に近きを取るべきである。唐人は古く倭国については知るところ多く、しかも日本の名は始めてこれを耳にしたものなるが故に、その真相を解する能わず、我が国を以て古えの倭国の延長なりとする伝統的観念に囚われたが上に、さらにその倭国を以て倭奴国なりと誤解し、旧唐書が倭と日本とを別国として掲出する場合においても、なお少からず彼此ひしを混同し、また日本を以て「もと小国」などと誤りたる観察を下したのではあったが、日本が倭の地を併すとの説は正しい伝えであった。そして唐書の或る説は、この事実を反対に誤ったものであったに相違ない。さればこれらの誤解に基づく記事はしばらく措き、その咸享元年に使いを遣わして高麗を平らぐるを賀し、後やや夏音を習いて倭の名を悪み、あらためて日本と号したとのことは、我が国が始めて「日本」の国号を以て、唐に交通した年代を知る上に須要なる文字であると信ずる。咸享は唐の高宗治世の年号で、その元年は我が天智天皇の九年に当る。この際の遣使のこと日本紀に所見なきも、その前二年に高麗の唐の為に滅ぼされたる事実あれば、この年特に唐に対して賀平使を遣わされた事実もあったものらしい。そして唐書には、この賀平使の後に国号を改めて日本と称したとあるのである。ここにおいてさらに我が続日本紀を按ずるに、文武天皇大宝二年五月、遣唐持節使粟田真人あわたのまひと唐に入る。真人初め唐に至るや、「人あり来り問うて曰く、何処の使人ぞ。答へて曰く、日本国の使なり、云々。唐人我が使に謂って曰く、亟つとに聞く、海東に大倭国あり、これを君子国と謂ふ。人民豊楽、礼義敦あつく行はると。今使人の容儀を看るに、はなはだ浄し。豈あに信ならざらんや」とある。すなわち真人は自ら「日本国」の使人たることを云い、唐人はこれを「大倭国」と謂ったとあるのである。果してしからば、これは右唐書いうところのものに相当し、唐人が我が日本国号の制定を知ったのは、けだしこの時の事であったと解せられるのである。
七 結語
以上叙述するところを通観するに、我が国を日の本と称することは、つとに百済人らの間に始まり、我が国ではそれをヤマトの枕言葉として、「日の本のヤマト」なる熟語が用いらるるに至ったのであったが、推古天皇の国書には支那がクレすなわち日没処であり、また西方の国なるに対して、この日の本の義を表わすに「日出処」或いは「東」の文字を用い給い、ついで大化の改新に際してヤマトに当つるに始めてその枕言葉なる「日本」の文字を以てするの例が始まり文武天皇の御代大宝令の制定に至りて、初めて我が国号として、翌年遣唐使の入唐に際し、これを彼に通告したという順序となるのである。
しかしながら、それは単に国号としての場合において、ヤマトの語に当つるに「日本」の文字を以てするということが制定せられただけであって、今日の如く官報を以て全国に布告し、上下一般にそれを遵奉するという程の厳格なものではなかったがために、阿礼あれの口述を筆録した筈の大安麻呂おおのやすまろの古事記においては、国号の場合にも、また大和一国の場合にも、同じヤマトの語に対して、旧に依りて「倭」の字を用い、その後八年に成れる同じ安麻呂執筆の筈の日本紀において、初めて明瞭に国号の場合にのみ「日本」の文字を用うることが実行せられたのであると解する。
しかもその「日本」の二字は、もとヤマトと読むべく、ニッポン或いはニホンなどと音読すべきものではなかった。しかしながら、文字を主とした我が国の慣例から、おそらく千年以上に亙りて音読し来ったものを、今にしてその古えに復かえすべきものではなく、ただこれをニッポンとするか、ニホンとするかは、国家として明らかに決定し、あまねく諸外国にも通牒して、これを一定するところが無ければならぬ。そしてニッポンとニホンと、いずれを採るかについては、漢字としての発音に最も近いニッポンに従うべきものであると思考せられる。
ヤマト或いは日本にほんの外に、古く大八洲国おおやしまぐに、豊葦原瑞穂国とよあしはらのみずほのくに、葦原中国あしはらのなかつくに、玉墻内国たまがきのうちつくに、細戈千足国くわしほこちたるのくに、磯輸上秀真国しゆかみのほずまのくに、或いは虚見倭国そらみつやまとのくに、秋津洲倭国あきつしまやまとのくになどの称号が、古く呼ばれた事があった。その大八洲国とは群島国の義であり、その他も多くは我が国に対する美称として、今一々これを説明するの必要を認めぬ。 
 
秦氏の正体

 

秦氏と京都太秦の謎 
平安初期、驚異的な地理感と卓越した土木技術のノウハウを駆使して皇室に仕え、桓武天皇の治世に貢献した和気清麻呂は、秦氏らの協力を得て、平安京の遷都を実現させました。当時、朝廷において強い影響力を持っていた有力者である秦氏は、平安京の造営にあたり、そのプロジェクトを推進するために平安京の大内裏を含む土地や多くの私財を献上した陰の立役者です。日本の古代史における秦氏の働きについては、教科書にもほとんど触れられていないことから、いまだにあまりよく理解されていないようです。しかしながら、秦氏の実態を調べていくうちに、この渡来系の集団こそ、天皇家に繋がる王系一族の流れを汲む生粋の民族であるだけでなく、実際に日本文化の礎を築き、神道信仰の土台を構築した日本史における、最も重要な渡来系一族であることがわかります。
日本の歴史に大きく貢献した秦氏
アジア大陸から朝鮮半島を経て渡来してきた秦氏の歴史は、少なくとも3〜4世紀まで遡り、ちょうど大和朝廷が成立した頃と重なります。「新撰氏姓録」には、秦氏の先祖である功満王が渡来したことに関する記載があります。また、「日本書紀」には、応神14年に功満王の息子で融通王とも呼ばれる弓月君が、朝鮮半島を経由して百済から127県の民を率いて帰化し、秦氏の基となったことが明記されています。その後、秦氏は雄略天皇の時代(5世紀)に秦部92部から成る18,670人、さらに6世紀には少なくとも7,053戸、数万人規模の存在として公に知られるようになり、一大勢力に成長したのです。当時の日本の総人口から考えても、秦氏の存在は際立っていました。
秦氏が大陸より携えてきた文化は極めて高度なものであり、秦氏はその財力と土木技術を活かして、灌漑や大規模な土木工事、古墳の造営に着手し、特に西山、北山、東山の山麓に囲まれた山背国と呼ばれる地域の開発と発展に大きく貢献しました。そして、八幡神社や広隆寺をはじめとする多くの神社を全国に設立したのです。また、養蚕や機織り、酒造も手掛け、楽器や紙といったさまざまな文化・芸術に関する教養も日本にもたらし、飛鳥文化における中心的な役割を担いました。秦という名前から、機織りという言葉が生まれたとも言われています。さらに政治・経済においても秦氏の影響力は計り知れず、聖徳太子のブレーンとして活躍した秦河勝を筆頭に、その絶大なる経済力を背景に多くの寺院を建立し、朝廷に対して強い影響力を保持したが故に、最終的には平安京さえも短期間で造営する原動力となったのです。
秦氏に関する素朴な疑問とは
秦氏が古代日本史における中心的存在として、これまでさほど話題に上らなかった理由は、おそらく、そのルーツが渡来人であり、その出自が不透明であったからではないでしょうか。日本に渡来する以前は、大陸においても長い間、寄留者・異邦人という立場で大陸を移動し続けた秦氏は、東アジア各地においても多大なる政治・文化的な貢献を果たすも、結局は自らのアイデンティティーを明かさず、あくまで裏方に徹してきたようです。よって東アジア史においても、秦氏の存在については多くの謎に包まれたままです。また、史書には秦氏の祖先は始皇帝であるという記述が散見され、ユダヤルーツの可能性も以前から囁かれていますが、これもまた、多くの謎が残されたままです。
秦氏に関する素朴な疑問を幾つか考えてみました。まず、数万人規模の集団が大陸から移住してきたにも関わらず、故郷が明らかでないのはおかしなことです。少なくとも、本来ならばその旅の経路や人口の変動、文献による記録などから、どこから到来した民族であるかがわかるはずです。また古代の日本社会においては経済の基礎インフラがほとんど構築されておらず、物資そのものが不足していたこともあり、短期間で蓄財することは到底不可能であったと考えられます。よって、秦氏は大陸で財を成した有力者であり、その富と技術、大勢の民を伴って渡来してきたことは明らかです。大陸通であるが故に、後世610年に新羅からの使者を迎えるにあたっては、その重要な役目を朝廷から授かったほどでもあり、歴然とした有力者として政治に携わってきた一族であったのです。では、彼らの高度な文化は一体どこで培われ、その政治力や経済力の原点はどこに由来していたのでしょうか? さらに、秦氏と関係の深い神社仏閣に残る習慣には、景教の影響を受けたと思われる事例が散見されることから、秦氏はユダヤ系の景教徒ではないかと長年、囁かれてきていますが、本当なのでしょうか? 何故、秦氏がシルクロードの東の終点である日本に到来し、最終的にそこを生涯の拠点として、末永く国家形成の為に尽力したのでしょうか。
これらの疑問を解決するため、今一度、日本文化と秦氏の関わりを見直し、特に宗教文化における神社創設との関わりや言語面に注視し、その背景に見え隠れするイスラエルの存在を検証しながら、秦氏の出自を明らかにしていきます。
秦氏のルーツに見え隠れするイスラエルの影
京都周辺には秦氏の氏寺である広隆寺をはじめ、大覚寺、仁和寺、木嶋神社や大避神社等、秦氏が創建に関わった神社が多数あります。秦河勝によって建立された太秦の広隆寺は、正面門前より広い境内へと向かう参道の緩やかな勾配と、美しい建造物、そして背景に広がる山々の景色との調和が実に見事です。仁和寺や大覚寺等、秦氏が建造に関わった寺社にも同様に、境内周辺の情緒溢れる穏やかな空間、きめ細かいデザインが際立つ各種建築物の高度な技巧、類似したモチーフなど共通した美的感覚を見出すことができ、優れた建築技術に感嘆しないではいられません。また仁和寺と大覚寺では、参拝者が自由に素足で回廊を巡ることができ、歴史の重みを十二分に感じとれ、回廊を散歩中に目にする美しい風景にも絶句させられます。大陸文化とは一線を画す日本独自の繊細で几帳面な建築美学のルーツが、ここにあります。
古代日本における秦氏の力は計り知れず、太秦村誌にも「欽明天皇の頃、戸籍に載する秦氏の総数七〇五三戸に及ぶより見れば、その勢力の侮るべからざることを知るべし」と記されています。当時、秦氏の戸数はすでに140郷余りであり、欽明天皇より15代後の元正天皇の御代でも国内全体の郷数は4012に過ぎず、秦氏の勢力については想像するに難しくありません。事実、秦氏の手が及んでいない神社仏閣を探すほうが難しいほど、秦氏は京都太秦を中心として栄えました。そして秦氏は大陸新文化を鼓吹し、商業、農業、酒醸造などに貢献し、日本文化の礎を築く原動力となることにより、政治経済の実権を握ったのです。その実態は京都府葛野郡史概要に「伊勢に至り商業に従ひしことあれば利殖の道に長け、他日、秦氏の富饒を招来する因を講へしなるべし。特に大蔵省に召されしを見ても秦氏の富との関係、はなるべからざる由来を窺ふべし。秦氏は實に新しき文化と共に巨富の所有者なりしない」と記されている通りです。秦氏がユダヤ王族系の財閥でなくして、これだけの利殖の道に長けた富豪が、突如として日本の歴史に登場することなどありうるでしょうか。
ところが、古代日本社会において、日本文化の基礎を築き上げる中心的役割を、秦氏が果たしたことが明らかであるにも関わらず、歴史の教科書には「大陸から新しい文化を携えて日本の文化に貢献した渡来人」程度の記述しかないようです。日本書紀等の古文書には、秦氏が「百済より帰化けり」と明記されているため、日本文化に貢献した中心的な存在として秦氏を公認してしまうと、日本人のルーツが百済からの帰化人であると解されてしまうことを怖れたのでしょうか。確かに秦氏の多くは百済を経由して渡来したと考えられるため、百済系渡来人と思われがちですが、実際には百済で一時的に寄留していた「異邦人」に過ぎなかったのです。そして秦氏のルーツをさらに遡ると、秦の始皇帝の子孫である可能性を秘めているだけでなく、弓月君の出自である西アジア地域にも繋がり、最終的にはイスラエルのダビデ王族の血統を継ぐ一族に辿り着く可能性さえも見えてくるのです。そのルーツの流れは、秦氏が建立した寺社を検証することによって、明らかにされます。
広隆寺は大秦景教のお寺
秦氏は広隆寺をはじめ、八幡神社や稲荷神社等、多くの寺社の建立に長年関わってきたことが知られています。647年に秦河勝が没した際に、赤穂の坂越(兵庫県)に大避神社が創建され、その霊は大避大神として天照皇大神と共に祀られました。また、稲荷神社の発祥の地は京都の伏見稲荷大社ですが、その由来書には、秦伊呂具が創建したと記載されています。さらに、日本各地に1万社以上あると言われている八幡宮は、そのおおもとである大分の宇佐八幡神宮も辛島氏という秦氏が創建者です。そして松尾大社や四国の金刀比羅宮等、多くの神社に秦氏が関わった形跡が残されています。また、嵯峨野のある山城国葛野郡は秦氏の本拠地の1つですが、そこには秦河勝が聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り、建立された秦氏の氏寺である広隆寺があります。京都最古の寺として603年に建立された広隆寺は、元来、蜂岡寺(はちおかでら)と呼ばれていました。その後、幾度となく移転を繰り返しながら平安初期、現在の地に落ち着き、いつしか「太秦寺」とも呼ばれるようになったのです。
広隆寺が建立された頃と時を同じく、唐においてはネストリウス派のキリスト教である景教の布教が活発になっていました。そして3世紀から7世紀にかけて西アジアを支配したササン朝ペルシャ帝国により育まれてきた景教を638年、唐は公認したのです。その寺院は当初、ペルシャに由来する宗教という意味のヘブライ語(pharsi、ファシィ)、もしくはペルシャ語の「ファルシィ」の音訳として、「波斯」という漢字が用いられ、中国では「波斯寺」(はしでら)、もしくは「波斯経寺」と名付けられました。その例にもれず、日本では同様に景教のルーツを持つ広隆寺も、「波斯の宗教」、「ペルシャの経」という意味の「波斯経寺」と命名されたのです。そしてこの言葉を語源として広隆寺の元来の名である「蜂岡寺」が、その当て字として生まれました。「経」は「宗教の聖典」を意味しますが、ヘブライ語では(khok、ホック/オク)という「律法」を意味する言葉で言い表します。すると「波斯経」の読みは「ファシオク」なり、その発音に当てた漢字が「蜂岡」です。そして日本語では「波斯経寺」が、「蜂岡(はちおか)寺」と呼ばれるようになったのです。
その後、651年にはササン朝が滅び、イスラム共同体にとって代わったため、745年には教団の名前が「大秦景教」と改められ、それ以降、景教寺院の呼び名自体も「大秦寺」に改称されました。当時、中国よりも西に位置する帝国は大秦国と呼ばれており、歴史的にはローマ帝国を意味しました。そしてキリスト教は既にローマ帝国において国教とされていたことから、公には「大秦景教」と呼ばれるようになり、その際、「波斯経寺」の名前も「大秦寺」に改名されたのです。それ以降、日本においても蜂岡寺として建立された広隆寺が、いつしか「太秦寺」とも呼ばれるようになったのです。それは単に大秦景教と大秦寺という名前が、景教に基づく信仰のルーツによって関連しているだけでなく、広隆寺そのものの背景に、当時アジア大陸に広まりつつあった景教がしっかりと根付いていたことを意味します。
中国ではネストリウス派の布教が5世紀後半には既に開始されており、景教が公認される以前から布教活動は各地で積極的に進められていました。よって、景教の寺院である波斯経寺が、中国での公認より先だって日本の地で建立され、蜂岡寺と呼ばれるようになったとしても、決して不思議ではありません。諸外国の影響を受けづらい島国である日本だからこそ、そしてまだ宗教的対立となる障害がその当時、さほどなかったという国家の事情も相重なり、新規に寺院を建立しやすかったことが、当時、中国よりも先に「波斯経寺」の日本版である「蜂岡寺」が早期に建立され、公認された要因と考えられます。
太秦がウズマサと呼ばれた所以
広隆寺のルーツが景教にあることの決定的なもう1つの理由が、広隆寺が建立された場所の地名である「太秦」の文字と、その読みに秘められています。「太秦」は「ローマ国教」であるキリスト教を意味する「大秦景教」の「大秦」に由来すると考えられますが、何故それを「ウズマサ」と呼ぶようになり、秦氏自らの本拠地の地名として使うまで、重要視したのでしょうか。
日本書紀や新撰姓氏録によると、秦酒公が朝廷に税を献上する際に、絹を「うず高く積み上げた」ことに感動した天皇が、「兔豆母利麻佐(うつもりまさ)」という姓を秦氏に与えたのがその由来であり、また、続日本紀には、聖武天皇の時代、恭仁京を造営する際に築いた大宮垣の褒美として「太秦」の称号が与えられたと記載されています。
実は「兔豆母利麻佐」という言葉は、「ウツァ・モリッ・マシャ」というヘブライ語に漢字を当てたものであり、その言葉の意味は「処刑された救い主」だったのです。まず(hutsa、フゥツァ)が「(命を)取られる」という意味の言葉であることに注目です。その発音は「ウツァ」とも聞こえ(hutsale-horeg、ウツァ・レホレグ)「処刑される」の意を持つ熟語にも見られます。次に(morish、モリッ)ですが、この言葉は「遺贈者」、「遺言により財産を他人に与える人」を意味します。また(mashiakh、マシァ)は「油注がれた者」、すなわち「メシア」、「救い主」を意味する言葉です。「兔豆母利麻佐」(ウツァモリッマシァ)は「自らの財産を捧げて処刑されたメシア」、つまり「自らの命を捨てて処刑された救い主」という意味になります。その略称が「ウツァ・マシァ」であり、このヘブライ語が日本語では、「ウズマサ」と発音されるようになったのです。太秦、ウズマサとは、自らの命を捧げて「処刑された救い主」を意味する言葉だったのです。
秦氏の氏神である大辟大明神の名称にも、太秦と同様にイスラエルの神に関する痕跡を見出すことができます。景教ではダビデのことを「大闢」と書きます。「闢」の門構えを省略すると「大辟(オオサケ)」となるため、この名前はダビデ王を意味し、それが秦氏の氏神ではないかと考えられるのです。ところが、本来「大辟」は「オオサケ」ではなく「タイヘキ」と読むものです。しかも「大辟」は「重い刑罰」、すなわち「極刑」を意味します。すると、大辟大明神の意味は、「極刑」の神となります。果たしてそのような際どい名前の神が存在し、しかも「うずまさ」と読み方まで変えられてしまうようなことがあるのでしょうか。
その答えは、「太秦」という言葉に秘められていたのです。「処刑された救い主」をヘブライ語で意味する太秦(うずまさ)の同義語として大辟大明神の名称が用いられるようになり、それは「極刑に処された神」を意味していたのです。どうやら、秦氏が景教の信望者としてイエス・キリストを信仰していたという推測は間違いではなさそうです。秦氏の氏神が「極刑に処された救い主」であることの証が、太秦と大辟大明神という言葉に秘められていたのです。そして「ウズマサ」とは、「処刑されたイエス・キリスト」を指していたのです。この秦氏の氏神である「救い主」が日本に土着することを願い、「大辟大明神」や「ウズマサ」など、誰も抵抗を持たない風変わりな名前を、秦氏は厳選したのではないかと考えられます。大和の国という新天地において、永久の繁栄を求めた秦氏の英知が、ここに結集されているのです。
秦氏の正体から垣間見える日本人のルーツとは ?  
秦氏のルーツについては不透明な点が多く、結論が出ないまま今日に至っています。日本書紀には、秦氏の一族が百済から渡来したと明記され、また「新撰姓氏録」や「隋書」には、秦氏と秦国との繋がりに関する記述が散見されることから、秦氏のルーツとして中国人説、朝鮮人説など、さまざまな見解があります。しかしながら秦氏のルーツに関するこれまでの諸説は、朝鮮および中国における足跡までしか歴史を遡っておらず、必然的に断片的な解説に留まっていることが多いようです。実は、秦氏の出自は中国を越えて遥か西アジアにまで達し、さらにユダヤ王朝の血統を引き継ぐイスラエルの民へと繋がっている可能性が高いのです。そして日本に渡来する直前まで朝鮮半島に拠点を置いていた秦氏は、代々継承され続けてきた独自の文化やアイデンティティーを携えて、満を持して日本に渡来し、この新天地にて新しい文化を開花させたと考えられるのです。早速、秦氏のルーツに関する情報を見つめ直し、歴史の謎を紐解いてみることにしましょう。
秦氏が語られない理由とは
朝鮮半島から渡来した秦氏は、日本の宗教文化や衣食住に大きな影響を及ぼすさまざまな貢献を行い、海外からは秦王国と称されるまでの権力を握りました。そして京都の周辺に多くの拠点を構え、優れた知識と高度な技術だけでなく、大きな経済力も誇示していました。その卓越した政治経済力を活かして平安京の造営まで担い、皇室との血縁関係があることも知られています。日本文化の礎を造った秦氏の功績は疑いもない事実であり、天皇家とも親密な関わり合いがあったにも関わらず、これまで日本の歴史教育において秦氏の存在がさほど重要視されなかったのはなぜでしょうか。秦氏の出自を辿っていくことは、少なくとも日本人のルーツそのものについて考察することであり、その歴史的背景の解釈によっては、従来の定説に反する結論に発展しかねません。また、皇室の血統や出自についても言及することにもなりかねないため、これまで多くの歴史家は公に議論することを躊躇し、学校教育においては踏み込んだ記述ができなかったと考えられます。
日本書紀や古事記に書かれていることを鵜呑みにするならば、日本という国家は天皇を現人神とする神国であり、およそ日本人は古代から連綿と続く単一民族であるという大前提があります。そして歴史教育によって培われた古代日本人のイメージとして、独自の文化を持つ日本列島に土着していた縄文人に、大陸から渡ってきた弥生人が長い年月を経て交じり合い、今日の日本人の原型が育まれたとする考え方が定着してきたのです。それ故、古代日本における文化の礎を担った人々のほとんどが渡来人であるというような論説は、封印されても致し方ないでしょう。しかし、渡来人の貢献なくして、古代日本社会における急速な文明開化はあり得ないのです。それは、アメリカ合衆国がイギリス系移民を中心とする渡来者の歴史で始まったことに類似しているようです。
古代日本史はアメリカの建国に類似
アメリカ合衆国の歴史は、イギリスやオランダ、その他ヨーロッパ諸国から宗教弾圧を逃れて、大西洋を渡ってきた渡来人(移民)によって幕を開けました。当初はイギリス系の移民が圧倒的に多かったのですが、その後、他国からも大勢、ヨーロッパから海を経てアメリカへと渡るようになりました。そしてアメリカ大陸に土着する少数派のインディアン諸部族は、圧倒的な武力を有する渡来人の圧政下のもと、インディアン居住区と呼ばれる山奥や砂漠周辺の狭いエリアに徐々に集約させられ、その存在感は歴史の中に埋もれていくことになります。その結果、アメリカ大陸の歴史は渡来人によって塗り替えられ、中でもイギリス系渡来人の影響力は強く、英語圏が定着していくさなか、彼らが歴史の主人公となりました。その後も多くの移民がアメリカ大陸に渡り、最終的に巨大な国家を形成するに至ったのです。
日本の古代史においても同様に、中国の圧政下から逃れて朝鮮半島に移住した秦氏が、ある時を境に新天地を目指して日本に渡り始め、その後においても、秦氏に限らず、大勢の渡来者が継続して日本列島を訪れたのです。そして秦氏は政権を樹立して国家の礎を造る陰の立役者となり、高度な大陸の文化や技術を列島に紹介しました。その秦氏の渡来に続いて、イスラエル系の他部族や、その他の民族も続々と日本列島に渡来し始め、渡来者を中心とした新しい文化圏が列島にて創生されていくことになります。その結果、それまで日本列島に土着していた縄文人とも呼ばれる原住民は、列島の隅々に追いやられてしまうのです。それほど、大陸からの移民は膨大な数に上り、秦氏系だけでも数万から数十万人の規模に達していたと考えられます。そして縄文時代末期では10万人に満たないと推定される日本列島の人口が、弥生時代の途中から急激に増加することとなり、一説では数世紀に渡る大陸からの渡来者の数が最終的には100万人を優に超えたとも言われています。人口学上でも、渡来者の数を100万から150万人程度に推定しなければ数字の辻褄が合わないほど、その移民の波は多く、これまでの認識を改める必要がありそうです。
このような日本列島に向けた膨大な数に上る大陸からの渡来者が存在した、という前提にたって歴史を解釈することにより、これまで語られずにいた多くの謎が解明されるだけでなく、さまざまな史料をより理解しやすくなります。大陸からの渡来人による民族移動なくしては、これだけの急激な人口増加だけでなく、高度な製鉄の技術や、漢字の文化、醸造や灌漑技術、そして律令制に則った統治制度など、如何に古代日本社会にて急速に導入し、普及させたかを説明することができません。特に言語の問題は重要であり、古代日本においてはほとんどの文献が漢文、中国語で書かれていたという史実があります。漢字文化を吸収できるような教育のインフラなど考えられない日本の古代社会にて、知識人はどこで漢文を学び、それを流暢に読み書きして、相互のコミュニケーションをとっていたのでしょうか。つまるところ、中国大陸で教育を受けた渡来人が大勢列島に渡来し、書面上の文言は中国語でやりとりをするということが当たり前の時代であったと想定されます。そしてその渡来人の中で、最も中心的な役割を果たしたのが秦氏なのです。
秦氏の出自に関わる諸説
日本書紀などの古文書に基づき、秦氏は百済から渡来した朝鮮人、韓人であるという説があります。しかしながら反論も多く、歴史家の井上光貞は、秦氏を「中国文化を身につけた外来人で、秦の遺民を称する人々」としました。つまり秦氏は朝鮮人ではなく、中国圏に長年居住してその文化を理解する秦の始皇帝の末裔である、というのです。また、江戸時代に新井白石は「古史通惑門」において秦氏は辰韓に移住してきた秦人(中国人)であると主張しています。その根拠となったのが3世紀末に、西晋の陳寿によって書かれた「三国志」の「魏書」にある東夷伝の倭人の条の略称で、日本では「魏志」とも呼ばれる「魏志倭人伝」の記述です。そこには、秦の苦役から逃れた民が馬韓(紀元前2世紀末〜4世紀)へ亡命し、その東方に居住したのが辰韓人の始まりであるという記述があります。確かに同時期、朝鮮半島南部には言語や文化の異なる馬韓、辰韓、弁韓と呼ばれる三韓が歴史に登場します。その後、辰韓の地域は新羅となり、馬韓は百済、そして弁韓は朝鮮半島の最南端にて伽耶と呼ばれたのです。
ところが魏志においては辰韓と弁韓が混同して使われることもあり、いつの間にか「弁辰」という言葉で言い表されることもありました。それは辰韓と弁韓の言語や文化が実は酷似していたからに他ならず、「魏志」にも、双方が蚕桑や織物という同一の技術において優れた文化を有し、辰韓人と弁辰人が雑居しているという記述があります。その上、住人も秦人と呼ばれる中国人に似ているということから「秦韓」とも呼ばれることもありました。こうして「秦」と、「辰韓」の「辰」は、重複した意味合いを持つようになり、混同して使われたのです。これらの文化的背景は、秦氏のものと同一であると考えられることからしても、秦氏が辰韓と弁韓、すなわち「魏志」に書かれている弁辰の中核となる存在であったことに違いありません。
それでは何故、同じ秦氏の文化的背景を持つ弁辰の民であっても、辰韓と弁韓に分離していたのでしょうか?2つの国に分かれた謎を解く鍵が、イスラエルの南ユダ王国の2部族です。秦氏のルーツは前述した通りイスラエルであり、中でも南ユダ王国のユダ族であると考えられます。同じ南ユダ王国を構成するもう1つの部族がベニヤミン族です。この2部族と共に、祭司の任務を司るレビ族が民族移動の際に同行して当初、大陸を横断してきたのです。そして中国から亡命してきた秦氏は、大陸の最東端とも言える朝鮮半島の東海岸に辿り着き、そこを拠点として大きな勢力となっていく過程において辰韓と呼ばれるようになります。また、少数派のベニヤミン族は、部族ごとに分かれて居住するというイスラエル元来の風習に従って、ユダ族が居住する辰韓の南方に拠点を構え、ベニヤミン族の頭文字2つをとって、そこは弁韓と呼んだのではないでしょうか。このように、秦氏がイスラエルのユダ族の出自であると想定することにより、朝鮮半島を介する渡来者の流れとその民族構成を、より分かりやすく理解することができます。
秦氏の正体とは何か
秦氏のルーツであるイスラエルの民は、国家を失った後、世界各地に離散し、それぞれの地域において、文化、教育、政治、経済面など多岐に渡り大きな貢献を成し遂げました。そしてどんなに離散しても、決して自国の文化、言語、宗教観を忘れることなく、世代を超えて自国民の生きざまを後世に伝承してきました。だからこそ、2,600年も前に国家が滅亡しても、ヘブライ語は死語となるどころか、聖書を読むために不可欠な古代ヘブライ語として今日まで存続し続け、1948年にイスラエル国家が再建された際には、国語としてヘブライ語が復活を遂げたのです。このような特異な文化を持つ民族であり、しかも痕跡を殆ど残さずに民族移動を続け、世界各地に土着してきたという歴史的背景を踏まえると、最終的に日本に定住した秦氏の正体も見極めづらく、長年不透明のまま放置されることとなりました。
秦氏の正体とは、基本的には中国や朝鮮の文化圏において育まれたイスラエル系のユダ族です。そして大陸における長年の寄留期間を経て、中国大陸の文化を吸収し、現地人との混血もある程度は進んだとも考えられます。いずれにせよ、秦氏とは、中国や朝鮮の影響を多分に受けた西アジア系のユダ族、イスラエル人であり、漢民族や、韓民族ではないのです。その秦氏は、秦の滅亡を機に、迫害を避けて朝鮮半島に移住し、日本へ渡来する直前まで朝鮮半島に寄留し、今度は韓流文化の影響を受けることとなります。それが「魏志」において「辰韓人」と記載されている所以でもあります。
神の選民であるイスラエルの血は、長い年月を経て大陸文化によって育まれ、元来の卓越したイスラエル文化に古代中国大陸の優れた文化がブレンドしてさらに磨きがかかったことでしょう。その研ぎ澄まされたように繊細な美的感覚を誇る独特の文化は、最終的にイスラエル系の秦氏によって日本に持ち込まれ、現在に続く日本文化の礎となったのです。無論、日本列島各地には、秦氏よりも前に渡来したイスラエル人が存在しており、西日本各地にて高地性集落等を構成し、生活圏を確立していました。しかしながら、秦氏の渡来は、それまでの規模とは一転して、大規模な移民の波を伴ったものであり、日本の古代史の中でも際立つ歴史的転換点となったのです。もはやイスラエル系渡来人の存在なくしては、秦氏の功績や、歴史に残る偉業の数々を含め、日本の古代史の流れを説明することはできません。隋の使者が秦氏について「明らかにする能わざるなり」と結論を明らかにできなかったのも無理はないのです。なぜなら、秦氏のルーツは、アジア大陸の遥か西方の中近東、イスラエルまで遡るからなのです。
秦氏とユダヤ王族の関係 
秦氏が日本に渡来してきた経緯については諸説があります。秦が滅び亡命してきたという説をはじめ、万里の長城建設等の苦役に耐えられず、秦韓に落ち延びた後、日本へ亡命してきたという説、秦の末裔を名乗ることで異国において優遇されようと目論んだという説など、秦氏の出自については枚挙にいとまがありません。また、新撰姓氏録では秦氏の出自が秦始皇帝に由来していることが明記されています。その信憑性には疑問が残るも、可能性については留意する必要がありそうです。日本の歴史において重要な役割を果たしてきた秦氏ですが、中国の文献においても、不思議とその出自に関する記述を殆ど見出すことができません。秦の末裔というのが本当なら、中国にも秦氏の出自に関する記述が残されているはずですが、皆無に等しいのです。
秦氏は如何にして、都の造営に携わるほどの政治・経済力を携えてアジア大陸を横断し日本に辿り着いたのでしょうか? その高貴な文化と芸術的な感性、そして特異な宗教的背景を振り返る限り、秦氏は元来、高貴な王族級の民族の出であることに違いありません。日本書紀には、弓月君(ユヅキノキミ)が3世紀末、朝鮮半島より渡来したことが秦氏の基であると記されています。当時、中央アジアには、弓月部族が元来居住していたと考えられる弓月国が存在しました。そこはイスラエルの祖先の地からも近く、キリスト教の布教も熱心に行われた結果、景教の一大拠点ともなり、シルクロードの通過点として最終的に日本の奈良まで繋がることとなります。秦氏が景教の信奉者であることからしても、弓月君の故郷が、この中央アジア近辺にあった可能性は極めて高いと考えられます。つまり、秦氏のルーツは中央アジア方面まで遡ることがわかります。そして景教の信奉者として全国各地に神社を建立し、さらにエルサレムの都に倣って平安京の造営に大きく貢献したことからしても、秦氏は中央アジアからさらに西に存在するイスラエル国のユダヤ王系でなければ成し得ないと考えられるのです。
秦氏がイスラエル民族であり、しかもユダ族である決定的な理由は「秦」の読みにあります。古語拾遺には「秦」を当初「ハダ」と発音した根拠として「肌膚に軟らかなり。ゆえに秦の字を訓みてこれを波陀と謂う」と書かれていますが、元来は「ユダ族」を意味する「(ヤ)ハダ」という発音を当てて読んだにすぎません。南ユダ王国の末裔であるユダ、ベニヤミンの2部族は今日でも「ユダヤ人」と称され、ヘブライ語で(Yehudi、イェフディ)と呼ばれています。中でも王権を継承する役目を担ったユダ族は(Yehudah、イェフダ)と呼ばれました。その綴りは、ヤーウェーの神を意味するに一文字を付け足しただけです。秦氏は「ユダ族」の出身であることから、「秦」の読みをヘブライ語で「ユダ族」を意味する「イェフダ」とし、その軽く発音される「イェ」を脱落させて、「(イェ)フダ」、または「(イェ)ハダ」と読むことにしたのではないでしょうか。つまり「秦(ハダ)氏」とは「ユダ族」を意味していたのです。イスラエルの王権を継承し、神の都を再建する使命を担ったユダ族の末裔が、秦氏であると理解することが、古代日本社会における秦氏の貢献を理解する重要な鍵となります。
また、秦の漢字表記からも、そのユダヤルーツを理解することができます。旧約聖書の創世記に登場するアブラハム、イサク、ヤコブらイスラエルの先祖は、民衆を治めるリーダーという意味で「族長(パトリアーク)」と呼ばれています。語源は、ギリシャ語の「父」を意味する「pater」と、「指導者」「王」の意味を持つ「archon」が組み合わされたものです。その後、キリスト教では「司教」という意味で使われるようになり、中国の景教では「波多力」と書き表されました。つまり「波多」という漢字は、イスラエルの指導者、ユダヤの父なる指導者を示唆する言葉であり、その王系の一族を称して「波多力」と書き、それが「秦」とも書かれるようになったのです。
秦氏がイスラエルの出自であり、しかも元来ユダヤ教の一派であった景教の影響を強く受けた民族であることの証しは、「新撰姓氏録」からも理解することができます。そこには秦氏が仁徳天皇より姓を賜った際の記述があり、「ハタ」の当て字として「秦」ではなく、「波多」と書かれています。つまり景教の「波多力」に由来する言葉がそのまま使われているのです。また、ヘブライ語で「ユダ族」を意味する「(ヤ)フダ」に「波多」(ハダ、ハタ)を当てたと考えることもできることから、王系一族の意味としての「波多力」と、ユダ族の血統である「(ヤ)フダ」、両方の言葉の意味を読み取ることができます。また、秦氏について「秦始皇帝の後なり」と記載されており、秦氏本系帳にある系図においても、秦始皇帝をはじめとして歴代の秦氏の名前が確認でき、秦氏は秦始皇帝の子孫であるという説の根拠とされています。その秦始皇帝の実父は呂不韋(リョフイ)と呼ばれ、ヘブライ語でその名前の意味を理解することができることからしても、ユダヤ系である可能性は高いようです。さらに、始皇帝の肖像画を見ても西アジア人特有の鷲鼻が際立ち、言い伝えでは「目は青く西洋人のようであった」ということからしても、秦始皇帝の先祖がイスラエル出身であった可能性は否定できません。
秦氏は、自らの氏寺である広隆寺だけでなく、全国各地に数多くの寺社を建立しました。全国で見かける八幡神社は、八幡様や八幡宮等を含めると、少なくとも1万社以上も存在し、稲荷神社と並んで日本人にとっては大変なじみの深い神社です。しかも秦氏の関連する地名や氏神の名前は、ヘブライ語で重要な宗教的意味合いを持っているものが少なくありません。秦氏の氏寺である広隆寺の境内近くには、「イスラエル」の国名に酷似する伊佐良井(イサライ)、「いさら井」と外枠の石に彫り込まれた古い井戸があります。その名称は景教の経典に書かれているイスラエルを意味する一賜楽業(イスライ)に酷似しており、同じくイスラエルを意味して命名されたのではないか思われます。秦氏の本拠地にある八坂神社の祇園信仰も、その「ギオン」という名前の語源は、イスラエルのZION(ズィオン)と考えられるのです。多くの儀式や祭りの数々が古代ヘブライ信仰に類似していることにも注目です。
日本文化の発展に多大なる貢献をもたらし、神を崇め祀る神社信仰のルーツを日本列島に築きあげた秦氏こそ、まぎれもなく神の選民であるイスラエル民族であり、その中でも生粋の王系、ユダ族のリーダーであったのです。王族の末裔である秦氏が、その卓越した大陸文化とイスラエルの遺産を携えながら長い年月を経て大陸を横断し、朝鮮半島を経由して日本へと辿り着いたのです。そして先祖代々の夢であるエルサレムの都の再建を目論み、満を持して日本の地において夢の実現に着手したのです。
もはや、秦氏の貢献をオブラートに包み隠す必要はありません。秦氏がイスラエル、ユダ族の出自であるとするならば、平安京に纏わる歴史の解釈が一変します。ダビデ王の末裔である秦氏が、大陸より渡来してエルサレム神殿をモデルにした平安京を築き、ユダ族の血統が秦氏らの介入により皇室に継承され、さらに律法に基づいて神宝の管理を含む宗教統制がレビ族の出自である阿刀氏系のイスラエル人を中心に執り行なわれたと解釈してみてはどうでしょうか。それは正に、ユダ族の王が君臨し、その神殿と神宝をレビ族が祭ったイスラエル王国の復元と言えます。調和と繊細な美を大切にする日本文化のルーツが秦氏にあるということは、神の選民の血が日本人のうちに息吹いていることを意味し、それは日本人の誇りなのです。
神の民の指標となった大陸最東端の伽耶と任那 
三世紀末、遂に歴史が動きはじめます。都の再建築を夢見たイスラエル系の渡来人は、応神天皇をリーダーとして、新天地である東の島々に王が住まわれる都を造営するために民が決起するべきことを公言したのです。その号令と共に、各地に居住していたイスラエル系の人々は、ヘブライ語で「神の民」を意味する「ヤマト」政権の誕生を祝して、各地からこぞって貢物を持参し、今日の奈良界隈に居を構えた天皇を訪ねてきたことでしょう。無論このニュースは、大陸側でも特に朝鮮半島に在住する同胞に伝わり、中でも有力なユダ族を主体とする秦氏は、イスラエル系民族の移住を朝鮮半島から加速させる原動力となりました。応神天皇の時代に、大勢の秦氏が朝鮮半島から渡来してきたことは、日本書記等の古文書に記載されている通りです。
当時、朝鮮半島の南には新羅、百済、伽耶の三つの国がありましたが、中でも日本へ渡る通過拠点となったのが、半島の最南端に突如として現れた伽耶と呼ばれる小国家群です。応神天皇の即位と同時期、それまで弁韓と呼ばれていた地域に複数の部族が共存するようになったのです。この伽耶と呼ばれる地域は、日本では任那とも呼ばれました。そして「魏書」においては倭国の境界線が狗邪韓国であるようにも伺えることから、任那を事実上ヤマト政権下にある「日本府」と解釈する学説が広まりました。しかし、三世紀末のヤマト政権はまだ成立したばかりであり、当時、倭国よりも歴史が古く、文化的に先行していたと考えられる中国に隣接する朝鮮半島が、たとえその一部であったとしても、まだ発展途上にあるヤマト政権の支配下に置かれていたという考えには多くの異論があります。いずれにせよ、当時の倭国と伽耶の間には密接な関係があり、何らかの統治機関が存在して、双方のコミュニケーションを円滑化したことは確かなようです。
伽耶という小国家群が突如として現れた理由は、長い年月を経て東方に移住してきたイスラエル系民族の中でも、特に秦氏を中心とするユダ族による倭国への民族移動が加速したため、朝鮮半島の南部に一時の空白が生じたからに他なりません。そこに多くのイスラエルの部族や、大陸から渡来してきた他国の民族も流入し、瞬く間に小国家群が形成されたのでしょう。そこには日本に渡る前に狗邪韓国周辺にて一時滞留をしていた民も少なくはなく、これらの氏族はそれぞれ独自に海を渡る準備をしていたと考えられます。こうして地理的に日本に一番近い伽耶は、日本への架け橋となりました。また、これらの民族移動を取り計らうために、なんらかの統治機関があったに違いなく、それがあたかも任那政府というヤマト政権下の機関であるように伝わったのではないでしょうか。
さて、「伽耶」(カヤ)という言葉は「命と希望」を意味する言葉として選別された(khayah、カヤ)が語源です。この言葉はヘブライ語で単に「生きる ! 」ことを意味するだけでなく、言葉を数字に置き換えることができるヘブライ語では「幸運 ! 」を象徴する「十八」となります。それ故、新天地にて「生きる恵み」「生きることの幸せ」を示唆したものと考えられます。日本書記でも十八の十倍である「百八十種」の勝(すぐり)を全国から秦酒公(さけのきみ)が集め、絹布を献上した結果、秦氏が朝廷より太秦の姓を賜ったという記述が有ります。この数字は正に幸運の象徴だったのです。
次に任那(ニンナ)という名称ですが、ごく一般的には主浦(nim-nae)という場所の名前を朝鮮語で訓読みしたものと考えられています。しかし実は、その語源はヘブライ語の(nimnah、ニンナ)です。この言葉はヘブライ語で「帰属する」、「仲間に数えられる」を意味します。つまり、伽耶と任那という名称を組み合わせると、「神の民に帰属し、生きる幸運をつかむ」、「神の選民として生きる!」という意味になり、それはまさに、日本に都を建設する噂を伝え聞いたイスラエル系の同胞が、約束の地にて決起することを象徴するにふさわしい、帰属意識を高潮させる言葉となるのです。任那を地理的に包括する伽耶諸国は、朝鮮半島の最南端、倭国へ旅立つ最後の大陸の拠点であり、その地域が伽耶、及び任那と呼ばれた瞬間から、イスラエルの民はその場所が、「神の民」にとって約束の地である島々に渡る最後の重要拠点であり、そこが高天原の最東端、アジア大陸の東の端であることを知らされたのです。
 
日本武尊伝承

 

日本武尊(やまとたけるのみこと)は景行天皇の御子で、幼名は小確(おうす)と言い、またの名を日本童男(やまとおぐな)と言った。
ある時、父王は、西にいる熊襲(くまそ)を打てと尊に命じた。尊は髪を解き童女の姿をして熊襲の酒宴にもぐり込み、酒を飲ませておいてみごと征伐した。
そうした事もつかの間、父王は「次は東の方の荒ぶる神を打ち取れ」と言われる。
尊は伊勢にいらっしゃる叔母さまの倭姫(やまとひめ)に、「西の熊襲を討って帰ったばかりなのに、今度は東の悪しき人どもを打てとおっしゃる。父は、私が死ねばいいと思ってるのでしょうか」と嘆かれた。倭姫は「あなたの身に危険が迫った時にお使いなさい」と、草薙の剣に火打ち石と火打ち金をくださった。
尾張の国(愛知県)に着いて、美しいと評判の宮簀媛(みやずひめ)と、東の国から帰って来ましたならば、その時、結婚しましょうと約束をして東の方に立たれたそうな。
その後、幾つもの難が尊を襲ったけれど、剣と火打ち石や火打ち金を使って危険をくぐりぬけてきた。けれど、走水(東京湾の入口)に来た時は嵐で海が大荒れに荒れ船が前に進まなくなった。すると、尊の愛妾である弟橘媛(おとたちばなひめ)が「私は尊をお助けしとうございます。ですからこの荒波を鎮めてもらうために海神の元にまいります」
と言い放ち、海に沈んでいった。するとどうだろう、たちまち波は穏やかになり、船はゆっくりと上総(千葉県)に着いたのである。
尊の一行はそれから陸奥の国(青森県と岩手県の北部)の首長をとりこにして常陸の国(茨城県)を越えて甲斐の国(山梨県)の酒折宮にやってきてしばらくこの地で遊んだが、やがて富士山をめざし、花とり山の一本杉でお昼飯を食べて力をつけて出掛けたそうな。
甲斐を出立された尊は、奥武蔵(埼玉県)の伊豆ヶ岳で猪狩をして、その記念にと樅の木を植えられ、武甲山ではなぜか武具を埋められたそうな。
再び旅を続けられた尊は、上野国(群馬県)鬼石(おにし・藤岡市)の川上に着いた。そこで、弟橘媛の形見にと、ずっと懐に入れて身から離さずにいた髪の毛を川に流すことにした。
髪は流れ流れて、鬼石の諏訪に流れついた。その時渕から馬に乗った神が現れ、髪をすくい上げると屏風のように切り立った岩壁を馬で駆け上り、蹄の跡を残していずくともなく消え去ったそうな。川はその後、髪流川から神流川(かんながわ)の名になり、諏訪には髪をすくい上げた神が祭られている。
尊が碓氷の坂を登る頃、季節はすでに秋の半ばになっていた。山には霧がたちこめ、どちらに行ったらよいものかと思案にくれ立ちつくしておられたその時、霧の中に鳥の羽音が微かにするではないか。
尊が目をこらして霧の中を見ると、八咫(やた)の烏であった。烏はくわえていた梛(なぎ)の一枝を尊の足元にぽとりと落した。どうもその様子が(道案内をしましょう)と言っているようにとれたのである。
烏が低く飛ぶと、その所の濃い霧がだんだんに晴れ、坂の頂上に無事お着きになられた。
そこで尊は「先祖の神武帝は八咫烏(やたがらす)に導かれて熊野山を越えた。今、私は東の方を平にした。八咫烏はめでたい印として現れたのだ」とおっしゃられ、この地に熊野の社を勧請され、八咫烏はそれから熊野神社の一族としてあがめられるようになったそうな。
その時、霧がいつまでも残った谷は霧積、烏のとまった岩は烏岩、尊が東の方をふり返り「吾妻者耶(あずまはや)」と嘆かれた峰は今も留夫山(とめぶやま)と呼ばれている。
尊は上野の国をくまなくお歩きになったのか、群馬県には尊の伝承が多く残っている。
前橋市横山町の小石神社には、神宝とされている赤い大石がある。尊が橘山(勢多郡北橘村)に登られ、はるか房総の海の方をながめ、「姫恋し」と何度も言われ、腰を下ろされたのがその赤い大石であったと伝えられている。
また、沼田城主の沼田氏の遠祖は尊であるそうな。沼田の里に半年ほどお住いなさり、御諸別(みもろわけ)王の女を妃となされたとの伝承がある。
沼田の続きのみなかみ町にある上州武尊(ほたか)山は尊が登ったという伝説があり、山頂近くには尊の像が建っているという。尊の別称、小童と同名のスキー場もある。
いよいよ尊は嬬恋村を越え、鳥居峠から信濃に入ったのだろうか。
この地でも弟橘媛をしのんで「吾妻者耶」と言われたのか、群馬県吾妻郡嬬恋村と上田市真田町にまたがる四阿山(吾妻山)にその名が残っている。
尊は峠越えをされ、さぞかし咽が渇いたことであろう。山家神社の井で咽を潤したのである。そして、そこから少し先の竹室の里に寄られた時、里人が木の枝を折って仮屋を造ってさしあげた。その折に尊がお立ちになった足跡が神足石として残っている。
尊はなおも道中を進め、赤坂の滝の宮まで来た。一休みしようと前方を見ると、石の上に明神が現れ「尊!賊がいますぞ。矢を放たれませ」と、告げられた。
尊が急ぎ大きな矢を放つと賊は退散して行った。
「急場をお救いくださいましてありがとうございます。ところで、あなたさまのお名は?」と尊が問うた。
「私は諏訪明神である」と言ったかと思うと、たちまちに姿を消されたそうな。
尊は諏訪明神が立たれた石の上に御酒を供え、感謝の気持を表したそうな。
この大きな石を御座石と呼び、石の上には台跡、御膝跡、御沓の跡が残っていると言われる。また尊の放った矢は石と化し、その一つは矢沢の良泉寺の門前に「矢石」の名で残っている。
やがて尊は童女堰伝いに馬を進めたのだろうか、東御市の白鳥神社に祭神として名を残し、さらに、旧望月町の大伴神社に苦労を共にしてきた武日連(たけひのむらじ)を祭神として残した。その後尊は諏訪に出ようと大河原峠に差しかかられた。すると、白装束を着付けた雄々しい武将が白馬に跨って一行を先導して行くではないか。尊は不思議に思われて従者に尋ねさせると「私は諏訪明神である」と答えられ消えたそうな。
殿城の赤坂から川西の小泉も尊通過の道の一つであったのだろうか。小泉の天白山に鎮座する大神に日本武尊は桑の生弓を奉じた。その足で別所温泉に寄られ、7ヵ所の温泉を開き入浴遊ばされ、「長い年月の沢山の苦しみが離れた」と愛でて、七苦離(七久里)の湯と名づけられたと言う。
尊はその後、青木峠を越え松本に出られたのであろうか。松本市中山の科野木権現に祭神として足跡を残している。御神体は火打ち石で「おがん原」(遥拝所)が何ヵ所かある。
下伊那郡阿智村には地名にまつわる尊伝説がある。
神坂峠は山が深く、霧も濃くかかり方向を見失った。その時、大きな白鹿が現れ、行く手を遮った。
尊はとっさに噛んでいた蒜(ひる=のびる)を白鹿めがけ投げつけると、蒜は鹿の目に当り、たちどころに鹿は退散した。が、一層濃い霧が立ちこめ、山中をさまようよりほかに道はないかと思われた時、一匹の白狛(犬)が現れ、尊を人里まで案内してくれたのだった。
尊はようやくのことで、宮簀媛(みやずひめ)の元に帰り、結婚し、しばらくその地にとどまっていたけれど、近江の伊吹山に荒ぶる神がいると聞き、「刀などいらぬわい、その山の神を素手でとっつかまえてしんぜよう」と刀を置いて山に登った。その途中で牛ほどもある白猪(『紀』では大蛇)に出合い白猪に向って「帰りにはきっと討つぞ」と言い放って山を登って行くうち、ビシバシと雹は降るわ、そのうちにみぞれになるわで体がすっかり冷えきり、さんざんなめにあって山を下ったのであった。そして、ようやくのことで麓に湧く泉にたどりつき、清水で咽をうるおし、体と心を回復された。その泉を「居醒(いさめ)の清水」と名づけたそうな。
尊は居醒の清水を立って当芸野(たぎの・岐阜県養老)に来た時、「どうも私の足がおぼつかなくて、歩がはかどらなくて困った」と、おっしゃられ、それから少し先の三重(三重県三重郡)の村に来た時
「私の足は三重の勾(まかり)のように疲れはててしまった」とおおせになった。
能煩野(のぼの・鈴鹿郡)に着いたらば、痛みは絶頂に達した。そこで父王に使いを立て、「背く者を従わせ、荒ぶる神を伏しましてございます」とお伝えになると、病にわかにあらたまり、お亡くなりになられた。
その事をお知りになったお后や御子のお嘆きはいかばかりであったろうか。やがて尊は、陵から大白鳥になって空を翔けて行ったそうな。
解説
初めに、「おはなし」の大筋は『日本書紀』と『古事記』からの部分を訳し記しているので、日本武尊名やその他の人名はカタカナ書が妥当であろうけれど、祭神名、神社縁起等『紀』の文字を用いていることが多く見受けられることから、本稿も『紀』の表記を使っている。
また、東征への道筋であるとか、内容についても『記紀』の違いはあるのだが、厳密な経路や内容を追求することが目的ではないので、その辺りのこともお許しいただいて、ペンを進めて行きたい。
さて、尊は熱田の宮簀媛(みやずひめ)との「婚約」という支援を手中に納め、東国の服(まつろ)わぬ人々を従わせに東北のどの辺りまで行ったのか、旅の真相は何なのか、その途路にどんなことがあったのか、各地の伝承はどういったことを語っているのかを所々で探ってみたい。
今の房総半島で船を下りた尊は千葉県、茨城県へと歩を進め始めた。
『常陸国風土記』には「倭武天皇の后が大和から下って来て、二人が出会った地を安布賀(あふか)の村と言う」とある。今の潮来市大賀辺りを言うが、北浦の対岸鹿嶋市には古くからの製鉄関連遺跡が沢山ある。
その事実を証明するかのように前出の風土記に「若松の浜(神栖市・かみすし)の砂鉄を採って、剣を造った。30里(約120q)は皆松山で安是湖(あぜのみなと・利根川の河口)にある砂鉄で剣を造ればとても鋭い剣が出来る」とある。
利根川の河口一帯は上古の昔、名だたる上等鉄の製鉄地であった。
その地を尊が見逃すはずがない。土地の神が征伐されたとか恭順したとの伝承はないけれど、多分、尊はこの地を平にして行ったものと考えられる。
東北において征伐したことで著名なものがある。今の福島県東白川郡棚倉町八槻のこととして『風土記』の逸文(陸奥の国)のなかに、「昔、この地に8種族の土蜘蛛が住んでいて、各々8ヶ所の要害の地に住み服従することはなかった。しかし、尊は8発の矢をもって8人の首長を倒した」とある。
軽井沢の雲場の池に大蜘蛛の話があるし、上田市小泉には小蜘蛛の話があるが、土蜘蛛や大小蜘蛛にしても渡来の熊、雲と称される部族を指称していると考えている。土蜘蛛は高度の製鉄技術者集団で、その地を尊は奪い取った。技術者の何人かは俘囚として尊の目的のために同行して行ったであろう。
その後、尊の一行はどこまで北上して行っただろうか。
岩手県一関市の配志和(はしわ)神社に縁起があることから、そこまで行ったと言うのが一般的ではあったが、尊はもっと先の釜石市まで行っていた。
釜石湾の南面、尾崎半島の尾崎神社の祭神は尊で、奥の院の御神体は、石に刺した鉄剣。尊は奥の院まで来られた記念に剣を石に立て小松浜から船で常陸の国へ行かれたそうな。
尾崎神社奥の院の御神体を写真(NHK『歴史への招待』)で見るかぎり、御神体の鉄剣の刺さる石は金床石の感がある。
奥の院の青出は、昔、砂浜であったが、明治の大津波により、石ごろの浜になった。風の大変強い所だと神社の佐々木郁子さんは言う。
それに尾崎神社は、尊伝承の最東端であり最北端でもあるそうな。
尊は尾崎半島を始めとして、北上山地が磁鉄鉱や金、砂鉄の豊富な場所であることを知っていてやってきたのである。
浜砂鉄あり、自然のフイゴありの半島を平にし、岬の突端から常陸へと船出して行ったと伝承は伝えている。
釜石から30qほど北上した山田町の荒神社の宮司さんにしても佐々木さんにしてもだが、日本武尊と言えば、直ぐに、「製鉄と関わりがある」とおっしゃるし、橋野高炉の建設者は大島高任で、釜石は鉄鉱石が豊か、しかも、尾崎半島では戦後もマンガン(鉄に似ているが鉄より軟らかい。鉄や銅との合金として用いれば硬度は強い)が採れたそうである。明快に釜石の案内をしてくださる佐々木さんには助けていただく事ばかりである。
すでにお気づきであろうけれど、尊が東の国の平定と称して歩かれた道筋には鉱山や製鉄地が多く存在するし、製鉄に必要な「泉」に関わる尊伝承もおびただしいほどの数になる。
父王はそれらの地を「奪ってこい」と命じたのであろう。
尊が東の国の奥からの帰路、福島県と栃木県境の八溝(やみぞ)山系を歩いただろうか。そこには太子鉱山があったし、明治まで採掘が盛んであった。また質のいい黒御影石は有名である。
日光の南の石裂(おざく)山の麓にも尊は祭られており、近くの足尾銅山も忘れがたい。
石裂山を後にした尊は沼田の奥の上州武尊(ほたか)山にも寄られたのか、その麓にも祭られ、しかも、頂上には尊の石像があるという。
次はみなかみ町。大峰山に登った尊は四方の景色をごらんになった。赤城山と子持山連山の手前に大沼があった。尊は、この沼を干せば民人は喜んでくれるであろうと思い、赤城山と子持山の間の少し低くなっている所を切り取り水を落されたそうな。
その時、諏訪明神も力を貸され、沼に古くから棲む大蛇を退治し、広い原が出来た。そこが、今の沼田である。沼田で尊が干拓の神と呼ばれる所以であるが尊の通られた頃、沼田ではまだ古い製鉄(褐鉄鉱)方法にたよる集団が居たのではないだろうか。新しい製鉄方法を教える時、諏訪明神の大きな支援があったものとみられる。
その後、尊は赤城山の神を拝まれたそうな。赤城山の明神は尊が立ち打ち出来るような相手ではなかったのであろう。「アカギ」を古代韓国語に代入すると「最高磨ぎの城」と読める。赤城山麓には製鉄遺跡が出ている。
鉄処を押えれば天下も制する。稲も豊かに稔ってほしい。養蚕も大切な産業の一つだ。今は下火になってしまった養蚕だが、それでも群馬の養蚕は日本一である。
幼児期に着物のことを「べべ」と言っていた人びとが多かろうと思う。「べ」とは古代韓国語で、「布」の意があると学んでいる。着物は布と布を縫い合せた物であるから、「べ」と「べ」を重ねて「べべ」と言ったのであろう。幼児語の中にもしっかりと古代韓国語が残っている。
尊は織物の町、桐生を通り館林に出ただろうか。館林には武尊社と多々良沼の存在がある。そして、埼玉県に入ると、古利根川(徳川幕府が利根川を銚子の方へと川筋を変えている)沿いに多くの尊伝承地がある。尊が船で川を上ったというよりは、古利根川の砂鉄を押えたのではないかと推測する。
また、武蔵野台地からさいたま市にかけて帯状に尊伝承が集中している。尊が馬を繋いだとされる駒繋のケヤキ、腰掛の松、禊(みそぎ)をした泉。また、賊を追い払うために矢を射って矢追の地名がついたというような地名伝承等、枚挙にいとまがないほどである。その数のおびただしさはただ事ではない感がある。
さぁ、次は山梨県に入る。甲斐の国も早くから渡来の人びとが住み鉄器の文化を伝えていた所だ。金桜神社の祭神は尊である。戦国時代、武田の騎馬軍団を支えた金、銀山が豊かな土地柄である。
尊は酒折宮で、信濃にも荒ぶる神のいるうわさを耳にして、雁坂峠を越え、奥秩父へと歩を進めただろうか。
再び埼玉県に入る。尊伝承は引きも切らず、地図上に大豆を散らした感がある。特に興味深い伝承が2つある。その1つは宝登山(火止山)の命名である。
尊が山に登ろうと山麓の清水で禊をし、山に向った。ところが、賊の襲撃に遭い周囲は火の海となった。尊の身が危ない。その時だ。数をも知れないほどの山犬が現れ、激しく燃える火の上に体を転がして火を鎮めてくれた。尊が礼を言おうと思った瞬間、山犬は姿を消していた。尊は、この山頂に山神、火の神、山犬を祭ったそうな。
山犬は、鉱石を求めて山野を歩く鉱山師(山見とも)を暗示しているのではないだろうか。宝登山(火止山)のホトは、たたら炉で熔鉄の状態を視るための穴のことである。ともに火の神が祭られているところを見ると、火を鎮めたから、あるいは火を消したから山名が付いたのではなく、名勝長瀞のある荒川に近いこの地で製鉄が盛んに行われていて、山犬の力を借りて尊はその地を手中に納めたと見るべきではないだろうか。
奥秩父の興味深い伝承の2つ目は、長瀞町の隣町、皆野町金沢での出来事である。尊がここまで来た時、秋の長雨で見馴川の水嵩が増えて渡れない。尊はすっかり思案に暮れ川の流れを見つめていた。
と、見馴川の渕から一頭の黒牛が現れ、尊を背に乗せ向こう岸まで渡してくれたそうな。
そうした伝承から、この渕を牛ガ渕、地名を出牛と呼ぶようになった。近くには諏訪平の地名もある。見馴川の砂鉄は上等で量も多かったであろう。
「牛」を古代韓国語に代入すると「上等鉄」の意になる。また、この頃、辺り一面に萩が咲いていたので、尊は「あなうまし萩よ萩」と言い、そこに素戔鳴尊(すさのおのみこと)を祭り萩宮と呼んだそうである。
何度も記すけれど、素戔鳴は研究者の間では製鉄神と認識されている。
それを証明するかのように李寧熙先生はスサノヲ=砂鉄野の男と解読され、また、韓国式に訓んでも「鉄国の始祖」だそうである。尊は素戔鳴の正体を知っていたと思われる。
萩の語源は剥ぐ意の「バッキ」だと学んでいるので、尊は萩をめでていたのではなく「奪え奪え」と言ったことになりはしないだろうか。
奥秩父は石灰岩を始めとして多くの鉱物の出る地である。いくら尊が「奪え奪え」と号令を掛けても、この地の協力者があってこそ平にすることが出来たと、伝承は雄弁に語っている。尊はさらに歩を進め、埼玉県と群馬県境を流れる神流川(語源は鉄流川と言われている)沿の鬼石の製鉄地を手中に収め、妙義の白雲山に主神として名を残している。
さぁ、いよいよ碓氷坂である。
碓氷峠の道筋は、3回の変遷がある。ひとつは古代から中世初期の碓氷坂、ふたつ目は近世中山道時代の旧碓氷峠、そして、国道18号線の碓氷峠である。昭和30年に軽井沢町境新田と群馬県松井田の入山との境の入山峠の鞍部で多くの石製模造祭器が発見されてこの方、この地点が原初の碓氷坂であると言われている。
古東山道は、ここから今の軽井沢や御代田町、佐久市の下県から千曲川を渡り、旧望月町春日から雨境峠(立科町)を越え茅野市に出たと考えられている。
そうした古代の道筋を心に刻んでおいて、尊の話に少しだけ戻ろう。
尊は碓氷坂で八咫烏(やたがらす)に助けられている。カラスを古代韓国語に代入すると「鉄磨ぎの国」と読める。碓氷の熊野辺りを源流に流れるのが烏川で砂鉄量も多く、やがては利根川にそそぐ。碓氷坂には八咫の製鉄族がいたのかもしれない。伝承はその事象を伝えたかったと思われる。旧碓氷峠に座す熊野皇太神社は元は碓氷坂(今の入山峠)付近にあったものと推定されている。
熊野神社から配布される烏牛王札には沢山の3本足の烏が描かれているが、なぜ3本なのかという理由は、中国の歴史までをたどってもわからないことが多い。が、ただ太陽(黒点)の中に住む鳥が烏だとされている。
昨年からBSのテレビ番組で韓国の大型時代劇「朱蒙(ちゅも)」が始まり、面白く観ている。
「朱蒙」とは高句麗(紀元前37年〜668年)の始祖東明聖王の異名で「チュモ」は「矢をよく射る者」の意だと韓国の古史書『三国遺事』に説明していると『日本語の真相』に記してあるが、物語の中でも朱蒙は矢を射るシーンが多く、古史書にある事柄が忠実に描かれていると感心した。それに鉄器工場の親方を厚く用いている場面を観るにつけ、いかに鉄器が重要であったかを思い知らされるのである。そして、国事は巫女の託宣により進められる。巫女は無くてはならない存在であるがその巫女の長が朱蒙を太陽の中に住む3足烏の化身としてとらえている。
さぁ、尊を助けた八咫烏(やたががらす・3足烏)=碓氷坂一帯の製鉄の首長の図式が思い浮かぶ。
いよいよ碓氷坂でのハイライト、尊が弟橘媛を偲んで、三たび「吾妻者耶(あずまはや)」と嘆かれた場面であるが『紀』では碓氷坂、『記』では神奈川県の足柄坂となっている。
「東(あずま)国」は足柄山から東北地方を指称するという簡単な認識はあったが、「はや」の意がわからなかった。
日本語の意味不明な言葉は、まず古代韓国語に代入してみることが、ここ10年ほどの習慣になっている。それも学んだ範囲のことであって、わからないものはどうあがいてもわからないのであるが、昨年10月に「李寧熙後援会会報」が届いた。それによれば、「あずま」は「片田舎」の意で「はや」は「伐る」の意だと知った。
「あずまはや」は「東国伐る」となる。
なんと、尊の決意表明と、受け取れるではないか。それも3回も言ったのだから、並の決意ではない。「あずまはや」が決意表明とすると、尊は東国からの帰路ではなく、東国への入口とされる足柄坂で言ったという『記』の文言が、がぜん真実味を帯びてくる。
ここで、もう一つの「碓氷坂」の伝承のある、群馬県吾妻郡嬬恋村と真田町との境にある鳥居峠方面に歩を進めてみることにしよう。
吾妻郡の吾妻川沿いにも尊と関わりある神社や遺跡の多さに驚く。また、この地は尊ばかりでなく、弟橘媛や叔母の倭姫等も祭られている。「あずま」=「おばさん」の意もあるので、倭姫に因む地名でもあろうか。
長野原の王城山の山頂には尊と諏訪明神が祭神である。尊が駐屯したことにより王城の地名があるとの伝承がある。
「鳥居峠」、ここも「碓氷坂」と伝えられている。延喜式内社、山家神社の奥宮が四阿山(吾妻山)の山頂にある。
鳥居峠の命名については次のような事が伝えられている。
山に向う表参道の入口に古くから尊と弟橘媛の祠があり、その前に石の鳥居があったことから鳥居峠と名付けられた。
だが、この峠こそ、古代の碓氷坂であると主張する研究者も多い。
ではここで、地名の語源を探る一助になればと思い「碓氷(日)」の意味を考えてみたい。
『紀』の景行天皇の項に、一日に同じ胞にして双児が生れた。天皇、「碓」と叫んだ。二王、名づけて大碓、小碓と言う、とある。
景行天皇は「うす」と叫んだのではなく、「ガル」つまり双児だと言ったのだと、李寧熙先生は解読しておられる。
「臼」の象形文字は、左右相似形である。天皇は「うす」=「双児(ガル)」だということがわかっていたのである。
尊の幼名は小碓である。尊伝承のある麓の町名の軽井沢の「かる」は、双児の意の「ガル」と同音であるのも偶然なのだろうか。
次に、「碓氷(日)」の「日(ヒ・ビ)」には、祈る、見るの語義が古代韓国語の中にあるので、「碓氷(日)」=「尊(双児)を祈る(見る)」とも読めるし、もう一つ「う・す・ひ(び)」の音の語義を読むと「碓氷(日)」=「上等鉄を祈る(見る)」となる。
四阿山には白山神が座す。真田の地は、白山神が来る前から製鉄の地であったであろう。白山神はそのことを知っていたからこそやって来たのである。
山家神社の伝承の中に、白山神がゴマで目を打ち失明したとある。言い替えれば、白山神は自ら製鉄にたずさわり、ホド穴から熔鉄の状態を視つめ失明した、であろう。
四阿山一帯は地下資源の宝庫である。硫黄、黄鉄鉱、褐鉄鉱に石油に天然ガス、珪石に砥石に温泉と、枚挙にいとまがないほどである。
地下資源の宝庫である四阿山であるが、菅平の大明神沢の硫黄鉱毒の反対運動が稔った歴史もある。母は生前、「神川の水が安心して飲め、稲作が出来るのは堀込さんのお陰だ」と言っていた。
堀込さんとは故堀込義雄さんのことで、堀込さんは旧神川村の村長、上田市長、長野県議会議員を歴任された。旧神川村村長時代に硫黄鉱毒流出阻止に多大な努力を払われた。往年、自転車に乗って役場に通う村長さんの姿を今懐かしく思い出す。硫黄鉱毒反対運動については『神と人々の水』(堀込藤一著)に詳しい。神川水系の水の安全性を守った人々のいたことを余談ではあるが記しておきたかった。
さぁ、尊は真田の地まで下り、山家神社でひと休みされ神社の井の水を飲まれたそうな。
真田の地の「鉄」に関わる伝承を見回せば、角間と傍陽の実相院共通の伝承がある。
角間の鬼ヶ城に住む鬼賊が坂上田村麻呂に鉄縄をもって縛られる、というものだが、研究者の間で鬼は鍛冶師との認識がある。田村麻呂も鉄縄を使うのであるから、鉄族同士争いで、しかも田村麻呂は鬼ヶ城一帯を手中に納めた、と伝承は伝えたかったのであろう。
角間には何度も足を運んだ。酸化第二鉄の沈殿の様子や金気(かなけ)味の水を口に含んだり砂鉄量を観たりしたが、何度来ても心ゆさぶるのは畑の石垣の作りである。
地元の倉島寿巳さんに石垣の石についてお尋ねした。石は松尾古城の山で、かさぶたを剥ぐように採れ、石垣はもとよりかまどや石橋の材として使われ「じょう石」の名があるそうだが、どの漢字を当てるのかわからないと言う。
古城の石垣に使われていたことから推測すると「城石」と書くか「定石」と書けばいいのか推測の域を出ない。石の名称と関わりがないが、石に対する専門的な見解がほしくて、地質研究者の横山さんに調べていただくと緑色凝灰岩(グリーンタフ)であることがわかった。仄かに緑がかった部分ともろさを合せ持ち加工しやすい特徴がある。
ある時、人伝に、角間から少し下った横沢集落の東に「フイゴの地屋敷」と読める半田屋敷の地名と鍛冶村の地名があると知ったが、鍛冶村の方は現在のところ記憶する人には出会わない。
知人の小宮山家は昔、刀鍛冶であったとの家伝を持つ。横沢の下村に小宮山姓が多いし、一族で金山さまを大岩の上にお祭りしてあることから、金山さまを中心にしてこの辺り一帯を鍛冶村と言ったものか、半田屋敷をひっくるめた横沢集落全体を言ったものだろうか、古いことで推測の域を出ないのである。
先の金山さまとは金山彦神のことで、岐阜県垂井町の南宮大社の主祭神である。11月8日の金山祭は通称フイゴ祭と呼ばれ、古式ゆかしく鍛錬式があり、鉱山、金属関係者が参拝に訪れる。
金山さまの裏の小宮山家の畑中に1mほどの平な石があって、鍛冶屋のホド跡だと伝えられている。一時は苗間になったりで、ホド跡石はあるのか無いのか不明で伝承のみが残っている。
幻の石は、ひょっとしたら古城産の緑色凝灰岩ではなかったか。角間の小川に架かっている平らな石橋を思い出し、可能性を考えてみた。
小宮山家一族の金山さまのお祭は甘酒祭(先祖祭)と言い、かつては3月8日に行った。また、小宮山家の家紋は「橘」である。
金山さまに供え、一族で楽しむ甘酒の本意は「銑(ずく・銑鉄)」を捧げる祭ではなかったか。「銑」の語源は古代韓国語の「ジュク」で「粥」の意と学んでいる。甘酒もまた、粥状の物である。
家紋の「橘」は垂仁天皇の時、常世国(今の済州島と比定されている)から非時香菓(ときじくのかくのこのみ・橘 《ミカン》)を持って帰った田道間守(守は新羅王子、天日槍のやしゃご。新羅は「鉄国」の別名がある)に関わる果実で、ミカンの色は鍛冶炉の火色でもある。
元鍛冶屋であった上田市下郷の故上原宗雄さん宅では、妻の甲さんが12月8日のフイゴ祭には床の間に不動さまの掛け軸を掛け、ミカンを沢山お供えしている。
宗雄さんは、かつて日本刀も鍛えた。鍛冶職に関わる神事も心を込めておやりになっていたと記憶する。37年前に頂いた金糞が表題をずっと導いてくれている。
上田市柳町に、真田氏が上田に出た時についてこられたとの伝承がある小宮山家がある。横沢の金山さまにのぼりをあげたり、先々代の善四郎さんの頃までは時々参詣していたそうである。
地名に残る半田屋敷が柳町の小宮山家跡なのか証明できるものはないが、真田氏の鉄器の生産地が横沢の地であったろうか。約400年ほどたっても出自を忘れない善四郎さんの精神性の高さに感動するばかりである。
尊が通過されたとの伝承のある真田の地は、近世まで「鉄」と関わりがあったのだ。
尊は山家神社の井で咽を潤された後、竹室に向かう。竹室では、尊がお通りになるので木の枝で芝宮を造ったそうな。そして尊は石の上に神足跡を残された。
石舟神社にも主神の一人として名を残す。さらに吉田堰沿いの表木神社にも名を残すと聞くが、どの祠なのかは不明である。吉田堰をさらに下り、赤坂の瀧宮神社に出る。祭神は尊の急場を救った諏訪神である。
赤坂を古代韓国語に代入すると「最高磨ぎの鉄処(最高鉄の磨ぎ処)」と読める。語源の意を証明するかのように、赤坂の開拓者の古墳群があり、山砂鉄も豊富である。小玉原には池の名残のある空池(からいけ・今は草木が繁る)があり、製鉄に関わりのある龍の引っ越し話が伝承される。
空池に砂鉄の多い赤井の沢水を引き、鉄穴(かんな)流しの選鉄法を用いたとの説がある。
鉄穴流(かんななが)し説は大いに賛同するが山の斜面の一部に砂鉄を採る施設がほしい。空池(からいけ)は砂鉄より比重の軽い土砂の溜り場の可能性が大きいからである。砂鉄を沈めておく池は、湧水池の瀧宮ではなかっただろうか。製鉄、鍛冶師伝承に多く登場する天目一箇を具象化した片目の魚伝承や、祭に木に取り付ける片方だけのわらじと天狗の面が登場したそうである。片方のわらじはフイゴを足で吹いたため片足を痛め、天狗は製鉄師を象徴しているであろう。
尊は名だたる製鉄の地赤坂で諏訪明神に助けられ、その後、堰沿いに今の東御市まで歩を進めたのだろうか。白鳥神社に祭神として名を残した。
白鳥神社の傍らを流れる千曲川は安山岩系の砂鉄が採れる。鉄漉し(選鉱)の場にはもってこいの場所である。この場を尊は目を付けていたのかもしれない。
千曲川を渡り、名だたる鉄器(須恵器も)と駒の里に大伴武日連の名を残し、大河原峠では再び諏訪明神の導きで明神の領地、鉄の場の茅野へと入るのである。
蓼科山には、「甲磨ぎの三男(さむらいの意も)」と読める甲賀三郎伝説があり、茅野市側には昭和40年代まで採掘した褐鉄鉱の横谷鉄山があった。現在は地名として残っている。
上田市日向小泉の弓崎神社に尊伝承が残っている。弓崎神社の裏山の天白山(弓立山)に鎮座の素戔鳴命と御子に桑の生弓を奉じたそうな。
高校の同窓生田子作治さんが送ってくださった資料「武蔵国の日本武尊」の中に素戔鳴命(すさのおのみこと)を尊の先祖と、とらえる記述があることから推測するのであるが、尊は祖神に生弓を奉じ敬意を表したのである。
「桑の生弓」とはどのような義であろうか。
伝承が生れた頃、日向小泉の地には桑が自生していたそうだが、伝承に百歩譲って桑の太い枝で作った弓を「生弓」としよう。けれど、東国の製鉄の地を平にして来た尊である。東国から引き抜いた製鉄、鍛冶に長けた工人を伴っていたであろう。
「桑」の裏側に隠された行為は、実は鉄を焼く(鍛える)ことではなかったか。「桑」の語源「グバ」(焼く)がそれとなく教えてくれる。
弓と矢はセットである。鉄器の矢じりをも奉じたというのが真相ではなかっただろうか。
素戔鳴は古代韓国語で「鉄野の男」「鉄国の始祖」また素戔鳴の別名「牛頭天王」は「鉄の頭領」であり、砂鉄を一ヵ所にまとめる「砂鉄採集場」を指す言葉でもあると学んでいることから、素戔鳴を祭る旧小泉村を筆者独自の方法で調査してみた。
まずは、元、須々貴山(小泉山の枝尾根の一つ)の麓にあったという下之条地区の葦原淵神社に立った。山への見通しはよく、境内社の天白社の奥社も指呼の距離である。
その場で近くの松崎正則さんに出会え、『下之条のあゆみ』(滝沢久代著)をお借りできた。
須々貴山に登った。素晴しい眺望である。産川と浦野川の合流点もしっかり見える。千曲川も白く光っている。
この大三角地帯を見下ろす山名を古代韓国語に代入すれば「洗うこと」の意で、「鉄洗い」を表す。その頂上にある天白社の祭神が猿田彦神であるからよけいに得心がいく。なぜならば、猿田彦とは「砂鉄の地を祈る男」と学んでいるからである。
天白社奥宮のほぼ真下には山口区の塩田神社があった。祭神は塩土老翁(しおのつちのおきな)。山幸彦が兄の海幸彦から借りた釣針を失って困っていた時、山幸彦を舟で海神の宮に渡してやった神である。
以前、神社近くに住む池田博さんが、塩野、塩入、塩吹、塩水と塩の字のつく字は塩田平にあるけれど、「塩田」の地名は山口の塩田河原一つだけと教えてくれた。
また、「塩田」の語源を地質学者の山岸猪久馬先生から尋ねられたことがあった。
山口の塩田や塩田平が海の底であった地学的歴史があったにしても、「辛い」の意を持つ「塩」の字がいつの時代から用いられてきたのであろうか。
李寧煕先生は「役行者の謎」を解く中で、「小」は韓国式音読みで「ソ(古音ではショとも)」と読まれ、牛のこと。または、「鉄」の古語でもあり高句麗など北方系の言葉、としている。「牛」も鉄に関わりある意味を持つ。「牛」=「上等鉄」の意だとすでに学んでいる。
旧小泉村の小字「塩田河原」の「塩田」の発生に限って言えば、そもそもの起こりは「小泉」の地名にあると推測している。「小泉」の初見は「吾妻鏡」の文治2年3月12日の条の中に「一条大納言家領、小泉庄」といえば鎌倉時代のほんの初期であるから、平安時代にはすでにあった地名や氏名であろう。
文献が語らない「小泉」の語源を古代韓国語の中から求めてみたい。
「小」は韓国式音読みで「ソ・古音ではショ」と読まれ「鉄」の古語であると、前回の「おはなしの解説」で書いたので記憶されているだろうか。
「小泉」の「小」を「ソまたはショ」の音に当ててみる。もちろんその意は「鉄」である。「泉」と「水」は同義語としてとらえ「泉」はそのまま「泉(水)」の意としておく。「泉(水)」は砂鉄の採れる千曲川を指すのか、それとも浦野川か産川なのか、あるいはその三川(さんせん)を意味するものかは想像の域を出ないが、ここで「小泉」=「鉄泉」の図式が考えられる。この図式を証明してくれるのが塩田平の民話「小泉小太郎」話である。
小太郎の母は大蛇であったそうな。そこで「おろち」と「うわばみ」を古代韓国語に求めてみよう。「おろち」は「ヲルチ」と発音し「泉守」のことで、農耕、製鉄用水を管理していた権力者が「おろち」である。また「うわばみ」は「蛇(サ)=鉄(サ)」の認識より「上の方の蛇」=「鉄のお頭」の等式となる。
「小泉小太郎」の名も解かねばならない。前出の名を古代韓国語に代入すれば「鉄泉の鉄の長男」と読める。その子が流されてきた川こそ「産川 =鉄川」と思い当るまでに多くの時間を要さないのである。小太郎は後に治水に力を入れ稲作を豊かにしたとお話は結ばれるが、さすが「泉守の長」や「鉄の頭領」の別称をもつ親の子であればさもありなんと考える。稲作を豊饒へと導いたのは、鉄器の文化も並行してあったとみるべきであろう。
「塩田河原」の「塩(辛いの意)」がいつ頃から表記されるようになったのかは不明であるが、「塩」の「シヲ」と「小」の「ショ」は酷似音であることを記しておきたい。
再び下之条の葦原淵神社に戻る。社名の確たる由来記、伝承等はないが「アシハラ」を古代韓国語に代入すると「最高鉄の原」と読めるし、旧称の若宮八幡の祭神は大鷦鷯命(おおさざきのみこと)で誉田別命の御子である。「誉田」は「フイゴの地」の意で「大鷦鷯」の「大」は尊称であろう。「鷦鷯」は「鉄小城」の意と学んでいる。
「大鷦鷯命」の親子も「小泉小太郎」の親子も共に製鉄、鍛冶の血を引くことが古代韓国語からあぶり出されてくる。
神社の境内社は他から寄せた社もあるそうだが風神、火の神々、陰陽石、この地の開拓者の祖神とおぼしき高良社が枯大木の空洞に祭ってある。
韓国、チベット、小諸下笹沢の祖神の祭り方にそっくりであった。
平成18年10月9日の信毎朝刊に、小泉の半過地区で7世紀前半とみられる古墳の石室が3基発掘されたとあった。古代史専門の塩入秀敏先生が「埋葬された有力者が治めた地域の水田跡が見当らない珍しい例で、別の経済的背景があったのか」と発言されていた。
後日、発掘現場で目にしたものは、なんと一筋の砂鉄の流れである。
千曲川や産川、浦野川の大三角地帯で鉄漉しをなりわいとしていた集団の長が古墳の主ではないかとの推測も成り立つ。稲作とは別の経済とは、砂鉄採取業ではなかったろうか。古墳のある地名、半過が密かに語源を教えてくれる。「ハンガ」=「フイゴ磨ぎ」となり、製鉄に関わる言葉になる。単なる偶然の一致なのだろうか。彼岸に向かわれた先生と情報を共有できないことが、なんとも残念である。
尊は泉田の鉄の場のことをよく知っていた。だからこそ尊は天白山の神に弓(もちろん鏃も焼き鍛えて)を奉じ協力を得たのであろう。
その後、尊は古東山道を踏み、別所で7ヵ所の温泉を開き、湯浴みし、長年の疲れを癒され七苦離の湯と名づけたと伝承は語っている。
尊が歩かれたかもしれない山道が推定2ヵ所、日向小泉の志摩武重さんの畑の畔として残っている。山道の前方を流れる浦野川の変遷にもお詳しい志摩さんの昔語りと、時どき鳴くキジの声に気分はすっかり古代人になっていた。
青木村に入られた尊の伝承はないが、祭神として、村松神社、夫神社、奈良本神社に名を残している。小さな祠の神の名は、次第に人々から忘れられて行く運命にあるということが、調べ歩いてわかった。青木村教育委員会の若林三紀夫さんにはお世話になった。
さて、尊は青木村から安坂の峠路を行ったのだろうか。渡来の人々が早くから入り、鉄処の臭いのする旧坂井村に入った形跡は今のところ見つかっていない。ただ、長野県神社庁の調べ(総てを把握しているとは思えない)では安曇野市明科、穂高、三郷に尊が祭られている神社がある。
尊は保福峠を越え松本に入り、科野木権現に主神として名を残している。
松本も渡来の文化が早くから入っている。積石古墳群や須恵器窯群、宮渕遺跡からは銅鐸の鈕部の破片が出土している。弘法山古墳に至っては遺骸の頭部真上に鉄斧が布に包まれ丁重に置かれていたという。もちろん鉄刀や鉄鏃の存在もある。
「鉄を制する者は天下をも制す」の文言が脳裏を去来する。鉄王が居て鉄器の文化の盛んな場所であればこそ、小県にあったと言われる国府が松本に移った要因の一つがそこからも推測される。製鉄と関わりありそうな地名、牛伏、平瀬、征矢野、笹部と枚挙にいとまがない。いずれ、ゆっくり歩きたい所である。
尊はいよいよ諏訪に入る。広い諏訪郡ではあるが、尊の祭られている神社は八剣神社一つである。
八剣神社は諏訪市小和田にあり、主祭神は八千矛神(やちほこのかみ・別名大国主命)で尊と誉田別命を合祀する。現在も続いているが、諏訪湖の御神渡の拝観をすることで有名である。11月30日には蜜柑祭があるが、古くはフイゴ祭であった可能性がある。
尊は難にあった時、何度も諏訪明神に助けられている。明神は尊の協力者か同族であったろうか。諏訪で尊は難にあっている伝承はひとつもない。
上伊那郡3ヵ所、下伊那郡にやはり3ヵ所、駒ヶ根市に1ヵ所、尊は祭神として名を残しているが、特に伝承は見つかっていない。
さぁ、いよいよ尊は神坂峠(みさかとうげ)にさしかかる。古くは神の御坂、『記紀』では科野の坂、信濃の坂といい、いわば信濃の国の玄関口である。園原の神坂神社(みさかじんじゃ)に、わたつみ3神と共に尊は合祀され、境内には尊が腰を掛けて休まれたと伝わる石もある。
尊はこの地で白鹿に姿を変えた山の神に蒜(ひる)を投げて殺したために道に迷い苦しんだが、そのうちどこからか現れた白狗に導かれ無事に美濃に出られたと伝承されている。
さぁ、「白鹿」は何を暗示しているのか解いてみよう。「白」とは「新羅」を表すと学んでいる。「鹿」は「シガ」と発声し「鉄磨ぎ」のことで「白鹿」=「新羅系の鍛冶集団」と読んでいる。
蒜とは野蒜(のびる)のことで、春先にかならず隣人がすぐ食せるように持参してくださる。感謝しつつ酢みそ和えで、季節の味を心豊かに堪能する。
美味な野蒜(のびる)をとっさのこととはいえ武器にするなんて、と思うのだが、葱・玉葱・ニラ・アサツキ・ニンニク・ラッキョウは同類で、あの独特な香りは強壮剤として古くから知られている。
尊は野蒜を食していたので荒ぶる神よりも強かったのだろうか。山の神を殺したため、道に迷った時美濃へと導いてくれたのが白き狗であったと伝承される。「白き狗」とは、新羅系の鍛冶集団の中には尊と同族の狗人がいて、その人物が尊に荷担したと読めるのである。
神坂の鍛冶集団は新羅系であると言い切れるもう一つの証拠として、地名の園原にある。古代の日本では「その」の語音を「新羅」を表す言葉の一つとして用い「園」とも表記していたと学んでいる。「その(園)」のもう一つの意は「鉄の野」である。地名の「園原」は「鉄の野の原」と読めるが、「野」は新羅語、「原」は高句麗語ではあるが意味は同じである。
「園原」と名付けるに当りすでに原意が失われていたが、意味を強めるために二重の語義を使ったとも考えられる。
阿智村には、鉄処によく伝承される炭焼き長者話の「炭焼き喜藤治」「金売り吉次」話が伝承されている。喜藤治は後に「伏屋長者」と呼ばれるが「鍛冶屋の長」と読める免許状が都から送られてくるのである。阿智村最後の極めつき、「阿智」を古代韓国語に代入してみよう。「アチ」「アルチ」=「砂鉄の貴人」=「鉄王」と読める。
上代、阿智は一大鉄処であった。伝承の内容や地名を古代韓国語に当てることにより思いがけない真実が焙り出たと思っている。
「園」の地を奪った尊は直ぐ尾張の宮簀媛(みやずひめ)の元に戻り、媛と一緒に鉄処の仕事に精を出しただろうか。媛は鉄処の女頭領なればこそ、尊の東国平定に当り、婚約という大援助をしたとみられている。
そのうち近江の伊吹山に荒ぶる神を討ちに山に向った。『紀』の荒ぶる神は大蛇、『記』では白猪となっている。覚えておいでだろうか「大蛇」=「泉守」、「白猪」=「新羅系鉄処の武者」と読める。
尊は荒ぶる神と戦い、氷雨や霧で難儀するが、最後の力をふりしぼって山を下り「居醒(いさめ)の清水」にたどりつき、体力を養い、関ヶ原から養老山地沿いに伊勢に向ったとされる。
「居醒の清水」は何ヵ所も推定されているが、大清水にある泉神社の湧水が、伊勢への道筋を考える時有力な泉かと推測している。
尊は伊吹の強力で強大な鍛冶場は平定できなかったが、製鉄用水の「泉」は押さえることが出来たのであろう。
伊吹山麓に源を発し石灰岩の岩間をぬって湧き出る水はミネラル分を含んで美味で、伊勢や名古屋から名水を求めに来ている。また、旧伊吹町では石灰工場が健在であった。石灰は触媒として製鉄には欠かせない物質である。工場を見つけいたく感動した。
かつて、奈良県通いの一時期、名神高速道を岐阜県の大垣インターで下り、三重県の四日市方面に車を走らせたのだが、気になる風景がよく見られた。田んぼの畔や河畔にある松の木の多くが、伊勢湾、あるいは知多湾方面になびいているのだ。こうした現象は、日本海からの冷たい風が琵琶湖上を吹き渡り、伊吹山脈と鈴鹿山脈の狭間でさらに風力が強められ、そのまま、伊勢湾や知多湾方面に流れるからで、「それ、冬場に関ヶ原辺りでの積雪のために新幹線がストップするのは、そうした気象のせいだ」とは、夫の説明である。
今や開発が進み斜めの松の木は見られなくなったが、吹きすさぶ伊吹おろしや伊吹山の景観、雲に雪を気高く歌った校歌は滋賀県はもとより岐阜県、愛知県までも見られる。校歌の地図は、そのまま風の通り道を示している。そして、風の道はまた製鉄、鍛冶の一大産地であったことも遺跡や地名からわかることである。
古代の製鉄は国家機密であったらしいのだが『続日本紀』や『日本書紀』にぽろぽろとこぼれ漏らすように記載され、その場所かと推定される跡も発掘されている。
名古屋女子大学の丸山竜平先生の論考「近江の製鉄遺跡」の中で、元来政治を執る場から鍛冶炉やフイゴの羽口が出土し鉄器工房化していた、との記述が目を引く 。
国家の宝である東国の鉄を勝手にはさせない。押さえることが尊の最大の仕事であったろう。 
 
天日槍 (アメノヒボコ)

 

アメノヒボコ (天之日矛、天日槍)  / 『古事記』『日本書紀』に見える新羅(斯盧)の王子。『播磨国風土記』には神として登場する。
古事記においてアメノヒボコと阿加流比売神の子孫・曾孫が、菓子の祖神とされる多遅摩毛理(たぢまもり・田道間守{日本書紀})であり、次の代の多遅摩比多詞の娘が息長帯比売命(神功皇后)の母、葛城高額比売命であるとされている。しかし日本書紀において結婚したのはアメノヒボコでなく意富加羅国王の子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)とされている点で異なる。また古事記ではアメノヒボコの話は応神天皇の段にあり、応神天皇の治政を述べるくだりで出現する。日本書紀では応神天皇は神功皇后の子であり、神功皇后の母はアメノヒボコの末裔の葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)であるため、古事記と日本書紀では系譜(アメノヒボコが出てくる話の時系列)が逆転している。
なお、アメノヒボコは新羅の王家、朴氏、昔氏、瓠公との関連の可能性があるとする説もある(新羅王族であった昔氏は、倭の但馬地域から新羅に渡り王となったとされており、新羅王族であるアメノヒボコは但馬・出石に定着した。ただし、昔氏のもともといた場所についてはこの他に日本の東北、丹波等が上げられている)。
古事記
『古事記』では、以下のように伝える。昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、アメノヒボコと出会った。ヒボコは、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしてもヒボコは許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。ヒボコがその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。
ヒボコは娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶったヒボコが妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津の比売碁曾神社に逃げた。ヒボコは反省して、妻を追って日本へ来た。この妻の名は阿加流比売神(アカルヒメ)である。しかし、難波の海峡を支配する神が遮って妻の元へ行くことができなかったので、但馬国に上陸し、そこで現地の娘・前津見と結婚したとしている。
日光により妊娠するという話は遼河流域・華北東部・モンゴル・満州などに広くみられる神話のモチーフであり、また始祖が玉・卵から生まれるという話は半島南部から南洋にまで広がる。
日本書紀
垂仁天皇3年春3月に昔に新羅王子・アメノヒボコが神宝、羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬の7種を持参した事への言及があり、その渡来の記述がある。
昔有一人 乘艇而泊于但馬國 因問曰 汝何國人也 對曰 新羅王子 名曰 天日槍 則留于但馬 娶其國前津耳女 一云 前津見 一云 太耳 麻拖能烏 生 但馬諸助 是清彥之祖父也 / 『日本書紀』垂仁紀
また、播磨国、近江国、若狭国を経て但馬国の出石に至り、そこに定住して現地の娘・麻多烏(またお)と結婚したとしている。しかし日本書紀においては、アメノヒボコと阿加流比売神は結ばれていない。
神宝
『古事記』によれば珠が2つ、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の八種である。これらは現在、兵庫県豊岡市出石町の出石神社にアメノヒボコとともに祀られている。いずれも海上の波風を鎮める呪具であり、海人族が信仰していた海の神の信仰とアメノヒボコの信仰が結びついたものと考えられる。
播磨国風土記
『播磨国風土記』では神代の渡来神・天日槍命として登場し、葦原志挙乎命(葦原志許乎命)・伊和大神(どちらも大国主と同一視される)と土地を奪い合った神として描かれている。記紀とは年代や争いがあったかどうかなどが異なる。
揖保郡、宍禾郡、神前郡の地名説話として争いが描かれ、争いの結末は双方が三本の黒葛を投げる占いの結果、葦原志挙乎命の葛は播磨に一本・但馬に二本、天日槍命の葛は全て但馬に落ち、天日槍命が但馬出石に退くことになったとしている。
また『筑前国風土記』逸文にも断片的な言及があり、怡土(いと)の縣主の祖先の五十跡手(いとで)が仲哀天皇に自らを高麗の意呂(おろ)山に天孫ったヒボコの子孫であると名乗っている。 
伽耶 (かや)
加羅(から)の現代韓国に於ける表記。また加羅諸国(からしょこく)は、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。後述のように、広義の任那に含まれるが狭義の任那とは位置が異なる。以下、本文上は加羅で統一する。
呼称
414年に高句麗が建立した広開土王碑文にある「任那加羅」が史料初見とされている。
倭国の後継国である日本で720年に成立した『日本書紀』では、加羅と任那が併記される。
中国の史書では、『宋書』で「任那、加羅」と併記される。その後の『南斉書』、『梁書』、660年に成立した『翰苑』、801年成立の『通典』、『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)も同様の併記をしている。唯一、清代に編纂された『全唐文』に於いてのみ伽耶の表記が用いられている。
1145年の記録によると「三国史記」新羅本紀の奈解尼師今6年(202年)条に「伽耶」という表記があるが、「三国史記」同14年(210年)条には「加羅」と表記されている。
概要
三韓の一つの弁韓を母体とする。
『三国史記』『三国遺事』などの文献史料は、3世紀までは加羅諸国の神話・伝承を伝えるに過ぎないが、農耕生産の普及と支石墓を持った社会形態などの考古学資料からの推定により紀元前1世紀頃に部族集団が形成されたと推測されてきている。1世紀中葉に倭人の国で最も北に位置する狗邪韓国(慶尚南道金海市)とその北に位置する弁韓諸国と呼ばれる小国家群が出現している。後に狗邪韓国(金官国)となる地域は、弥生時代中期(前4、3世紀)以後になると従来の土器とは様式の全く異なる弥生式土器が急増し始めるが、これは後の狗邪韓国(金官国)に繋がる倭人が進出した結果と見られる。首露王により建国されたとされる「金官国」が統合の中心とする仮説が主張されている。
4世紀初めに中国の羈縻支配が弱まると馬韓は自立して百済を形成したが、辰韓と弁韓の諸国は国家形成が遅れた。『日本書紀』や宋書、梁書などでは三国志中にある倭人の領域が任那に元の弁韓地域が加羅になったと記録している。任那は倭国の支配地域、加羅諸国は倭に従属した国家群で、倭の支配機関(現地名を冠した国守や、地域全体に対する任那国守、任那日本府)の存立を記述している。
5世紀初めには倭国の支配力が強まるとともに任那地域では金官国の影響力が衰え、5世紀後半には加羅地域で大加羅国(慶尚北道高霊郡)の影響力が強くなった。
加羅と関係の深い任那諸国は6世紀になると百済や新羅の侵略を受け、西側諸国は百済へ倭から割譲或いは武力併合され、東側の諸国は新羅により滅ぼされていった。512年に4県を倭が百済へ割譲し、532年には南部の金官国が新羅に滅ぼされ、また562年には洛東江流域の伽耶諸国を新羅が滅ぼした。
倭国および任那との関連
加羅地域にヤマト朝廷から派遣された倭人の軍人・官吏、或いはヤマト朝廷に臣従した在地豪族が、当地で統治権・軍事指揮権・定期的な徴発権を有していたことが有力視されている。倭国の半島での活動については、『日本書紀』『三国史記』など日本、中国や朝鮮の史書にも記されており、3世紀末の『三国志』魏書東夷伝倭人条には、朝鮮半島における倭国の北限が狗邪韓国(くやかんこく)とある。
また高句麗の広開土王碑について改竄説が否定されたことで、倭が391年に新羅や百済や加羅を臣民としたことがあらためて確認された。高句麗は新羅の要請を受けて、400年に5万の大軍を派遣し、新羅王都にいた倭軍を退却させ、さらに任那・加羅に迫った。ところが任那加羅の安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
また、日本列島固有の墓制である前方後円墳が朝鮮半島で多数発見されている。朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉に成立したもので、百済が南遷する前は任那であり、金官国を中心とする任那の最西部であった地域のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物、遺構をともなう。そのほか、新羅・百済・任那で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土(高句麗の旧領では稀)しており、朝鮮半島にはヒスイ(硬玉)の原産地がなく、東アジア地域においても日本とミャンマーに限られることや、化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明したことなど、倭国との交易、半島における倭国の活動などが研究されている。
歴史
辰韓諸国と弁韓諸国
朝鮮半島南部の洛東江下流地域には、紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて無紋土器を用いる住民が定着しはじめた。彼らは農耕生活をしながら支石墓を築造し、青銅器を用いる文化を所有していた。 紀元前1世紀頃に青銅器と鉄器文化を背景に社会統合が進み、慶尚北道の大邱・慶州地域に辰韓諸国が現われ始めた。
朝鮮半島南西部の弁韓地域には、紀元前10世紀から黄海沿岸に位置する山東半島・遼西・遼東半島の物と非常に類似した様式の土器や石器が見られるようになる。1世紀中頃になると社会統合が進み、弁韓諸国が登場してくる。また、この地域は豊かな鉄産地と海運の良好な条件に恵まれていた。
金官国(駕洛国)
2世紀から3世紀に至って半島東南部の諸国は共通の文化基盤をもっていたが、政治的には辰韓と弁韓に大きく分けられていた。当時弁韓地域の多くの小国の中で一番優勢な勢力は金海市付近の金官国(狗邪韓国、駕洛国)であった。任那の文化中心は金海・咸安を取り囲んだ慶尚南道海岸地帯であり、現在も貝塚や土坑墓などの遺跡が散在している。
6世紀前半になると百済は南下し朝鮮半島南部まで影響力を及ぼす。5世紀初頭に至り高句麗は楽浪郡・帯方郡を征服し、新羅にまで勢力を及ぼすようになった。新羅も辰韓の盟主として独自の勢力を固めていた。
倭国と高句麗の戦争
4世紀末から5世紀前半にかけては広開土王碑文によれば、391年、倭が百済と新羅を破り臣民とする。393年には倭が新羅の王都を包囲する。397年、百済が倭国に阿莘王の王子腆支を人質に送り国交を結んだ。いったん高句麗に従属した百済が、399年高句麗を裏切り倭と通じる。400年には倭が新羅の王都を占領していた。高句麗の広開土王が新羅の要請に応じて軍を派遣し、倭軍を任那・加羅に退かせ、高句麗軍はこれを追撃した。402年、新羅も倭国に奈忽王の子未斯欣を人質に送り国交を結ぶ。404年には高句麗領帯方界にまで倭が攻め込んでいる。
405年、倭国に人質となっていた百済王子の腆支が、倭国の護衛により海中の島で待機して、のちに百済王として即位する。このように倭の朝鮮半島への影響力が伸張していた。なお三国史記では、この時期の加羅に関する直接的記述は空白となっている。
日本書紀では、249年もしくは369年とされる神功皇后49年3月条に神功皇后が新羅へ親征し服属させた三韓征伐の記事や、将軍荒田別(あらたわけ)及び鹿我別(かがわけ)を派遣し、比自ホ(ひじほ)、南加羅(ありひしのから)、喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳(たくじゅん)、加羅(から)の七カ国を平定し、西方に軍を進めて、比利(ひり)、辟中(へちゅう)、布弥支(ほむき)、半古(はんこ)の四つの邑を降伏させた記事などがある。
後期伽耶連盟
この呼称も文献史料には一度も出現せず、現代韓国の概念である。
新羅は5世紀中頃に倭に従属して加勢を受け高句麗の駐留軍を全滅させ、高句麗の長寿王は南下政策を推進して475年に百済の首都・漢城(ソウル特別市)を陷落させると、百済は南下して統一された国の存在しない朝鮮半島南西部への進出を活発化させた。統合されて間もない新羅は、機に乗じ秋風嶺を越えて西方に進出するなど、半島情勢は大きく変化した。 5世紀末に百済の南下と新羅の統合により、任那加羅のうち北部に位置する加羅地域への倭国の支配力が衰えると、小国群に自衛の為の統合の機運が生じ、高霊地方の主体勢力だった半路国(または伴跛国)が主導して後期伽耶連盟を形成したという説がある。479年、南斉に朝貢して〈輔国将軍・加羅王〉に冊封されたのは、この大加羅国と考えられている。
大加羅を中心にした後期伽耶連盟は、481年に高句麗とそれに附属する濊貊の新羅侵入に対して、百済と共に援兵を送った。百済が倭に対して半ば強要する形で加羅西部の四県を割譲させると、加羅諸国は百済と小白山脈を境界として接し険悪になった。百済が卓淳国・多羅国などへ侵攻すると、大加羅の異脳王は522年に新羅の法興王に対して婚姻を申し入れ、新羅との同盟を願ったが叛服常ない新羅は却って任那加羅諸国への侵攻を繰り返し、532年には任那の金官国が新羅に降伏した。この為、任那加羅諸国は百済に救援を求め、百済は安羅に駐屯して新羅に備えるとともに、聖王が主宰して任那加羅諸国の首長と倭の使臣との間による復興会議(いわゆる任那復興会議)を開いたが、百済は単に任那加羅諸国を新羅から守ろうとしたのではなく、百済自身が任那加羅諸国への勢力拡大を狙っていた。こうして任那加羅地域は新羅・百済の争奪戦に巻き込まれることとなったが、百済が554年に管山城の戦いで新羅に敗れて聖王が戦死すると新羅の優勢は決定的となり、562年には大加羅(高霊)が新羅に滅ぼされ、残る加羅諸国は新羅に併合された。 
 
アメノヒボコの謎 

 

鉄をめぐる出雲と伽耶
関裕二氏『海峡を往還する神々: 解き明かされた天皇家のルーツ』に、問題は、ツヌガアラシトが、単に鉄との関わりから鬼と見なされていただけではないらしいことなのである。
『日本書紀』のツヌガアラシト説話の直後には天日槍(天日矛)なる人物が半島のもう一つの国・新羅から渡来した話が載せられているが、『古事記』のなかでヒボコはなぜか『日本書紀』のツヌガアラシトと同一視されている。通説でも、伽耶王子ツヌガアラシトを神格化したものが新羅のヒボコであったとされているが、なぜ国籍の違う二人を同一視できるのかというと、スクナヒコナ(少彦名)は大国主命(大物主神)らとともに出雲を建国したかみとしてしられるところから、少彦名ははじめ出雲神と敵対していたが、戦いに敗れてからのちは逆に出雲神に同化していったことになる。少彦名がどうも“鬼”であったらしいこと、そして奇妙なところで、この神が天日槍(ツヌガアラシト)とつながってくるからである。
さて問題はここからである。応神天皇が角鹿(敦賀)に赴き、この地の笥飯(けひ)大神(ヒボコ、ツヌガアラシト)と名前を交換したとする記事があって、この事件の直後に詠われた神功皇后の歌が残されている。
笥飯(けひ)大神(ヒボコ、ツヌガアラシト)と応神天皇が名を交換したのも奇妙だが、なぜ本来まったく関係のなかった少彦名神がここで忽然と登場してきたのであろうか。
アメノヒボコとツヌガアラシトと鉄のつながり
まず、記紀などのアメノヒボコの名に金属製の武器の「槍」「矛」「鉾」(いずれも“ほこ”)がついているのだから、この人物が武器や金属冶金にかかわりがある人物であった可能性は高いし、一般にもヒボコは実在の人物ではなく、渡来系の金属冶金工人の祖神的存在であったと考えられている。この人物の末裔に名に「鉄」と関わりの深い「スク」「スガ」「スカ」や「カマ」が散見できることからもヒボコと鉄のつながりが推測できる。
ヒボコは『播磨国風土記』にたびたび登場してきて、大暴れをしている。たとえば、剣で海をぐるぐるとかき混ぜ波を立てて、その上に座ってみせ、存在感をアピールしているが、それはなぜかというと、真弓常忠氏は『古代の鉄と神々』のなかで、「アメノヒボコが浜砂鉄を得て、それによる製鉄を背景として居を占めたことをいう」としている。
剣を逆さまに立ててその上に座った者はヒボコだけではない。出雲に国譲りを強要したタケミカッズチも、出雲神を屈服させるとき、同じような所作をしている。だからヒボコの行為は威圧的でただごとではなかったことがわかる。鉄だけの問題ではなく、領土まで、ヒボコは狙った、ということなのだろうか。
それはともかく、ヒボコが日本に携えてきた神宝にも、「出石の小刀」「出石の鉾(木偏)」「日鏡」と、やはり「金属器」が含まれている。どこから見ても「ホコ」を名に持ち、鉄の産地からやってきたアメノヒボコが「鉄の男」であることは、はっきりしている。
この属性は、ツヌガアラシトのそれでもある。「鉄の神=蚩尤(しゆう」ではないかと疑われるツヌガアラシトが、本来同一だった可能性は、やはりヒボコの将来した神宝の名前からもうかがい知ることができる。
それは「イササ(イザサ)」で、ヒボコがヤマト朝廷に献上した八つの宝物のなかに「胆狭浅太刀」がある。その「イザサ」が、ツヌガアラシトの祀られる角鹿の気比神宮の現在の主祭神の名と重なってくる。それが「イザサワケ(伊奢沙和気命)」にほかならない。
もっとも、門脇禎二氏のように、八世紀の『日本書紀』の編者が「新羅」と「加羅」両者の王子を混同するはずがないという理由から、説話が似ていて共通の要素があるからといって二つの話を同一視することはできないとする説もある。
『日本書紀』は、ヒボコの正体を抹殺する必要に迫られていたのだから、「新羅の人かもしれないが、加羅の人かもしれない」と、白を切っただけだろう。それほど、ヒボコの正体を抹殺することが、『日本書紀』の重要な目的だったからである。
アメノヒボコは伽耶の人、もっとたどれば秦氏
では、なぜ『日本書紀』は、アメノヒボコの扱いに頭を悩ませたのか。それは、これから徐々に謎解きをしていかなければならない。
物部が縄文の伊吹を伝える鬼の一族であったこと、とすれば、物部という鬼と蘇我氏や中世活躍するまつろわぬ鬼たちとの間には、どのような関係があったのかが知りたくなるのである。はたして“鬼”の歴史は一本の糸できれいに結ばれていたのであろうか。
話を進める前に、是非述べておかなくてはならないのが、朝鮮半島最南端に実在した幻の王国・伽耶(加羅)なのである。この王国こそ、鬼の秘密を握ったもう一つの鬼の国だったからである。
伽耶は、四世紀ごろ小国家がいくつも集まって誕生した連合国家であった。北方騎馬民族国家・高句麗の南下政策によって押さえられた百済と新羅がつねに伽耶の領土をねらうという厳しい国際情勢にさらされ、562年、自国の史料すべてを失う形で滅亡し、幻の王国となった。
日本側の国史『日本書紀』には、任那として登場し、日本の植民地であったかのように記されているが、今日このような記述を鵜呑みにする説は稀である。(中略)
天皇家の国史『日本書紀』は、なぜかこの伽耶を“鬼の国”と定義している。そのいくつかを上げてみよう。
一書曰くというかたちで、崇神天皇の時代、額に角を生やした人が船に乗って越の国の笥飯(けひ)の浦に着いたという。だから、この場所を角鹿(現:敦賀)という。そしてどこからやってきたのかを問うと、“意富加羅国(おおからこく)”の子で名はツヌガアラシトであったという。日本に聖王(ひじりのきみ)がいると聞きつけて、こうして帰化しに来たと語ったことが記されている。
さて、額に角が生えた人間など現実にいるはずがなく、一説にはこの人物が王子であったところから、王家出身のしるしとして冠をかぶっていたのではないか、あるいは、名称が“角のある人”と聞こえることから起こったともいわれるが、これは素直に“鬼”と解すべきであろう。
これから明らかになるように、ツヌガアラシト個人だけではなく、伽耶という国のあり方自体に鬼をめぐる問題が隠されているためである。
日本に最も近い国・伽耶が、隣国の蹂躙を受けて亡命してきたというよりも、この国は、多島海を利用した海運、通商を生業とし、自由を重んじ、投機と冒険に満ちた国家群であったと見る方が理にかなっていよう。そして、彼らの大切な輸出商品は、自国で生産する大量の“鉄”だったのである。
じつは、伽耶が古代東アジア有数の“鉄”の国であったことが、伽耶を“鬼”の国とみなす一つの原因になったらしい。鉄の古字は“金偏に夷”で、夷の字を充てたのかといえば、その思考の根元には、「産鉄民をエビス・忌み衆とする賤視観念がトグロを巻いていた」沢史生『鬼の日本史』
からともいわれ、産鉄民が“鬼”とみなされていたことは、いくつもの伝承からもうかがえる。
たとえば、奈良時代に記された『出雲国風土記』大原郡阿用の郷の条には、地名の由来として、昔ある人がこの地に田を耕作して暮らしていた。ところが、目が一つの鬼がやってきて、この男を食べてしまった。食べられる時、男が「あよ、あよ」と声を上げたので、「あよ」が地名になったという。
問題は、出没した鬼の目が一つであったことにある。目一つであるのは山の神の特徴的な姿であるとともに、製鉄と深い関わりがあるとされている。製鉄炉の火加減を観察するとき、片目で行うために、製鉄に従事する者たちはしだいに視力を落とし、“一つ目の鬼”となっていったとされている。
そして、製鉄が山中で行われていたこと、いわゆる良民(平地民、農耕民)ではない山の民がこれに携わっていたことが、製鉄民に対する恐怖心と蔑視という心情に変わっていったのである。
また奈良時代以降発生した山岳宗教・修験道は、水銀などの鉱物への関心を強め、一種の錬金術によって永遠の命を得ようとしたが、彼らが天狗であり、また鬼であったことは、一つ目の鬼の延長線上にあるといってもよいだろう。
したがって、“鉄”の国・伽耶が鬼の国と目されていた可能性は高く、額に角を生やした伽耶の王子・ツヌガアラシトが鬼であっても何の不思議もなかったことになる。
しかしこれは、伽耶(任那)は鉄の産地で交易商人だったらしいが、伽耶滅亡直前の欽明天皇二年(541)、任那と新羅が謀略をめぐらし、百済がこれを深く責め罵ったという記事が載り、欽明天皇四年には、天皇から出された詔勅、「任那日本府とともに任那を復興せよ」を楯に、百済は任那に対し、任那復興会議への出席を呼びかけるが、任那はこれを三度断り続けたという。
それでも翌年11月、任那復興会議がようやく開かれ、新羅と阿羅(伽耶の小国)の国境に城を築き、任那に兵を集めて新羅を駆逐するための策が練られたが、結局、任那は、この決定を無視するのである。
さらに、欽明天皇九年四月には、高句麗の百済への攻撃に対し、任那と阿羅は結託して救援に向かわなかった。任那日本府は、なぜか天皇家に逆らい、命令を無視し続け、とてもヤマト朝廷の出先機関とは思えないのだ。
また、文書作成のころは、半島南部は562年、伽耶は新羅に滅ぼされ、新羅・百済になっているが、崇神天皇・垂仁天皇の物語の頃はまだ新羅は存在していない。「記紀・風土記」完成は704年から712年ころで、伽耶滅亡は150年近い昔のことだ。伽耶は忘れられたか、または故意に新羅と記した可能性もあるからだ。作者が、朝廷にのヒボコは、伽耶の人であるのに新羅と記しているからであって、同一であろうと信じている。
朝鮮半島の渡来人と考えられがちだが、弥生時代に江南や山東半島から渡来してきた人びとが、丸太をくりぬいた船でまっすぐにノンストップで九州や出雲に漂着することはまず困難である。東に流れる対馬海流に流され朝鮮半島や島嶼部に着く。そして対馬・壱岐・九州北部や出雲などに上陸した。ある人は半島南部で先住民と混合し、鉄を見つけて鉄器技術を生かして鉄製品をつくり、炭にする木を求めて出雲に渡り、また別の人びとは、九州北部に上陸して縄文人に稲作や鉄器を教えながら混合して弥生人となったのである。福岡県板付遺跡では、朝鮮半島系の煮炊き具が他の集落よりも多く使用しています。この頃板付式土器を使わない環濠集落は廃絶するものが多かったのですが、板付遺跡は一層栄えていきます。
つまり、そのころ国境もなく東シナ海文化圏と呼ぶべきであって、東シナ海や日本海を自由に行き来していたであろう。彼らは倭人と呼ばれていた。したがって弥生時代のルーツは中国人だとか、朝鮮半島渡来人だとかにこだわるのは、懸命ではないと思う。だから徐福も、スサノオも、オオナムチも、ヒボコも、浦島太郎や海彦も、ルーツは同じであると思うのだ。けっして渡来人たちは日本列島を征服できる程の大人数ではないし朝鮮半島先住民でもないのだ。半島で稲作文化が定着したのは、南部の伽耶など一部だからだ。漢字や仏教を伝えた秦氏や東漢氏も、半島というよりも、半島は通り道なのであって、元はといえば中国からであろう。
新しい考古学やDNA研究で、弥生時代の製品が半島や九州北部と同じ鋳型であるものが混じっていることがわかり、また、山口土井ヶ浜遺跡の弥生人人骨は半島から同一のものが見つからず、山東半島の人骨に近いことが、また半島と日本人のDNAが一致しないことが分かってきている。弥生人の特徴は北部九州に高い比率で分布し、北部九州以東、中部、関東まで点々と発見されています。日本人の遺伝子はなんと16種類ものDNA研究のように2つパターンを持っていたことが分かってきました。少なくとも2つの民族同士の対立という単純な構図ではないので各地から渡ってきた人々によって日本人独自のDNAを持っていることが分かってきました。
また、稲の伝来ルートについても従来は朝鮮ルートが有力視されていましたが、
・ 遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと
・ 朝鮮半島での確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり畑作米の確認しか取れない点
・ 極東アジアにおける温帯ジャポニカ種(水稲)/熱帯ジャポニカ種(陸稲)の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中・国東北部から当該遺伝子の存在が確認されない
ことなどの複数の証左から、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート等)による伝来である学説が有力視されつつあります。従来の説とは逆に水稲は日本から朝鮮半島へ伝わった可能性も考えられています。弥生米のDNA(SSR多型)分析によって、朝鮮半島には存在しない水稲の品種が確認されており、朝鮮半島経由のルートとは異なる、中国中南部から直接渡来したルートが提唱されています。後述の青銅器の伝来も古代中国に起源をもち、日本や朝鮮など東アジアで広く使用されたとされることと重なります。  
天皇家と伽耶 

 

朝鮮半島と日本を二分するライン
ヤマト朝廷誕生の裏側に隠されたもう一つの鬼・伽耶。本来天皇家に近い存在であったはずのこの王国は、なぜ出雲に接近し、しかも八世紀『日本書紀』のなかでまつろわぬ鬼とみなされてゆくのであろうか。
問題は「ヤマト」が東西日本の融合であると同時に、この合併劇に伽耶も大きくからんでいたことは疑いようがなく、三つの勢力が同盟関係に入り、その後の政局の動きのなかに、伽耶が鬼と目されてゆく本当の理由が隠されていたと考えられることである。
そしてもちろん、そのあとの政局のうねりのなかに、物部、蘇我、伽耶という鬼の一族たちの共通点が秘められていたのである。
さて、三世紀半ばから四世紀に誕生したヤマト朝廷にとって、伽耶は同盟国であり、地勢上、ヤマトが被害アジアで孤立しないために最も重要な拠点であった。したがって、高句麗の南下政策が百済や新羅を圧迫し、ところてん式に伽耶に影響が及ぶことを恐れた五世紀のヤマト朝廷は、半島に軍事介入してゆくのである。
ところが、はじめは同盟国の権益を守る目的であった半島出兵にも変化が起き始めた。半島での活躍が認められ、中国から天皇家が多くの称号を得るようになった時点で、本来物部氏という鬼に支配されていた天皇家は、実質的な権力をほっするようになり、雄略天皇の時代、政治地図は塗り替えられてしまったのである。
すなわち、国内では弱い立場にあった天皇家は、第三の国・百済を味方につけることで、実権を得ようと工作するのである。雄略天皇は国内でも暴走した。
もともと皇位継承資格のなかった雄略は、有力豪族を次々と殺し、取り巻きの豪族たちにも被害は及んでいた。
最大の被害者は円大臣(つぶらのおおおみ)であった。雄略がねらった皇子をかくまったために、邸宅に火を放たれ一族は滅亡する。問題は円大臣が、この当時最大の勢力をもっていた蘇我系豪族・葛城氏であったことにある。
さらに雄略天皇は、三輪の神の姿を見てみたいと言い出し、三輪の御神体・蛇を捕らえて宮中に引きずり出してしまっている。三輪の大神は大物主神であり、蛇はそのより代であった。この雄略の行為は、物部氏に対する愚弄であり挑戦でもあった。この雄略天皇の暴走は、天皇家を共立していた豪族たちの反感を買う結果となる。
被害を受けた物部、蘇我というヤマトを代表する豪族たちは、やはり半島で百済の侵略に悩む伽耶と連帯し、さらには百済と対立する新羅をも巻き込んで、反天皇家組織をつくっていった気配が強い。
ここに、半島最南端と日本を二分する大きな潮流が生まれたが、ここで興味を引かれるのは、天皇家と百済を結ぶラインと、これに対する物部−蘇我−伽耶−新羅のラインが、後世、明確な色分けをされていることである。
『日本書紀』は、天皇家に対抗するラインを構成する人びとや国々のすべてに、鬼の烙印を押していることなのである。つまり、“モノ”に共立された天皇家は、この時点で“モノ”との対決に入り、八世紀の朝廷は、この“モノ”を“鬼”ととらえたことになる。
鬼の府・任那日本府と天皇家の暗闘
神=天皇家と、鬼=反天皇家の相克、雄略天皇が招いた五世紀東アジアの混乱と分裂は、『日本書紀』によって抹殺されてしまったが、思わぬところで実態をさらけ出している。それが任那日本府と任那復興会議なのである。
任那日本府と言えば、日本による半島支配の拠点と考えられてきた。しかし、この行政府の存在は日本側の史料に見えるのみであって、他国の史料にはまったく登場しないこと、この存在が虚構であったとする説が有力になりつつある。
しかし、二つの潮流と対立という視点で『日本書紀』を丹念に読み返せば、いったいなぜ『日本書紀』にのみ記されているのか、まったく新たな事実が浮かび上がってくるはずなのである。というのも、任那日本府は、なぜか天皇家に逆らい、命令を無視し続け、とても天皇家の出先機関とは思えないからである。(中略)
不思議なのは、任那日本府に対する命令系統が、天皇家(朝廷)−任那日本府ではなく、つねに天皇家から百済を経由し、はじめて任那日本府に伝わっていることであり、しかもこれらの命令をことごとく拒否し、逆に百済を陥れようとしていたことは異常な事態といえよう。
はたして任那日本府は、『日本書紀』が示すような天皇家の出先機関であったと信じてよいのであろうか。この機関が反天皇家というラインの組織であった可能性が高いことを思い知らされるはずである。任那日本府には“鬼の府”だったのではないか。まつろわぬ者どもの思惑と、任那日本府の行動は、見事に重なってくるのである。
物部、蘇我、伽耶を結ぶ共通点“鬼”
ところで、蘇我氏が強烈な鬼のイメージをもっていたのは、物部の血を引いていただけではなく、もう一つの鬼・伽耶の血も混じっていたからと考えられる。
蘇我氏の祖・事代主神は、大物主神と宗像神の子で、妹に下照姫がいるが、この妹がカヤナルミ(伽耶の姫)とも呼ばれていたのは、母・宗像神が伽耶出身だったかれであろう。ではなぜ、大物主神は伽耶の女人と結ばれていたのかというと、伽耶の少彦名神(ツニガアラシト・アメノヒボコ)との間に起きた鉄の利権争いとその後の和解が大きなヒントになっている。
すなわち、伽耶と出雲の和解の証として婚姻関係が結ばれ、この和解劇の申し子が事代主神とカヤナルミだったと私見は推理するのである。蘇我氏が物部、伽耶双方の血を受けた“正統な鬼”であったことは、彼らの運命を決定づけてゆく。つまり、蘇我氏は国内最大の豪族・物部氏の縁者としてゆるぎない力をもつにとどまらず、伽耶の利益を代弁する者でもあったのである。
じつは、蘇我氏のもつこのような特異性こそ、彼らが雄略に疎まれ、武烈天皇に対抗し、王権を奪おうとした行動の遠因をうまく説明しているのである。このような推理が決して突飛な発想でないことは、任那日本府問題をめぐる“二つの日本”の思惑を考えれば理解いただけると思う。
『日本書紀』によって鬼の烙印を押された物部−蘇我−伽耶−新羅を結ぶ共通点、それは、雄略天皇の打ち出した天皇家独裁への野望と、この過程で天皇家がとった外交戦略、百済一辺倒に対する反発であった。
この対立は、『日本書紀』によって抹殺されたが、任那日本府という現象の裏側をのぞくことで実相はつかめたのである。(中略)
それでは、彼ら鬼の一族は、このまま歴史の闇に埋没してしまったのであろうか。そうではあるまい。
ヒボコを新羅の王子としたのは、百済・伽耶よりも新羅と密接になったから?
スクナヒコナ(小彦名神)は宮中で韓の神(からのかみ)と呼ばれているから、『日本書紀』を記した朝廷の役人は、スクナヒコナが「韓」は加羅、伽耶からやって来たことは知っていたはず。それにもかかわらず、地名を用いず、“常世の国”という架空の国からやって来たとするのはそれなりの理由があったからでしょう。その理由は、“韓、カラ、カヤ”が日本に多大な影響を及ぼしたことを神功皇后の新羅征伐にあるように、朝廷が抹殺したかったからではないか。
『播磨国風土記』がヒボコの出身地を「韓(加羅)」と伝えているのにもかかわらず、『古事記』や『日本書紀』は新羅の王子としていることも、事情は同様です。
ヒボコはツヌガアラシトと同一人物であるとする説があり、伽耶からやって来たのに、新羅として事実をねじ曲げようとしたのは、任那(伽耶)をめぐる朝廷の複雑な思いと、歴史の真相が隠されていたためだったのです。
また、『古事記』や『日本書紀』が記された当時(八世紀初頭)には、新羅が統一をなし、百済や伽耶諸国は滅亡しています。すでに六百年も過去にさかのぼってまで、すでになくなっている国名の百済や伽耶の人などと記しても誰もわからないからだったとも考えられます。
ここでの問題は、スクナヒコナがツヌガアラシト同様、伽耶出身の鬼とみなされたことは確かであり、同一人物であった可能性が高いことで、一人の人物が三体に分けられてしまったとすれば、彼らが鬼も王国出雲へ接近していたことが、八世紀の朝廷にとって不愉快な史実であったと想像できる点です。
伽耶と鬼伝説
なお、「酒呑童子」「大江山鬼伝説」など丹波には3つも鬼伝説が残っている点を付け加えます。
関裕二氏『消された王権・物部氏の謎: オニの系譜から解く古代史‎』には、
まず第一は、紀元節(建国祭)の起源となった祭りに、“園神の祭り”と“韓神の祭り”があって、祭神が園神(国の神)=大物主神と、韓神(伽耶出身の神)=オオナムチとスクナヒコナである点です。
そして第二に、『出雲の国造の神賀詞(かむよごと)』のなかで、出雲を代表する四柱の神の一つに、カヤナルミなる名が登場していることです。カヤナルミは伽耶の姫の意味であり、下照姫の別名で、この女神の存在を正史『日本書紀』がまったく無視しているところにも、出雲と伽耶がヤマト建国に大きな役割を果たしていたことを、かえって暗示しているといえるでしょう。
この女神が伽耶と密接に関係していることは確かなようですが、だからといって、出雲全体が「伽耶」そのものだったかといえば逆です。伽耶の姫というのはあだ名であって、夫が「伽耶」だったからだと言われています。夫はオオナムチ(大己貴神)です。大己貴神と大物主神は同一の神とされていますが、これは全くの誤解であるとしています。それは上記のように、オオナムチは韓の神(伽耶)の神であり、大物主神は国の神=出雲出身の土着の神だからです。
ヤマト朝廷誕生の裏側に隠されたもう一つの鬼・伽耶。本来、天皇家に近い存在であったはずのこの王国は、なぜ出雲に接近し、しかも八世紀『日本書紀』のなかで祟(たた)る鬼とみなされてゆくのでしょうか。
それは、“ヤマト”が東西日本(倭国)の融合であると同時に、この合併劇に伽耶も大きく絡んでいたことは疑いようがなく、三つの勢力が同盟関係に入り、その後の政局の動きのなかに、伽耶が鬼と目されてゆく本当の理由が隠されていたと考えられます。
その政局のうねりのなかに、物部、蘇我、伽耶という鬼の一族たちの共通点が秘められていたのです。
少彦名神は常世の国(海の彼方の不老不死の国)の神と神話は語るが、一方、宮中で韓神と呼ばれているから、『日本書紀』の編者は、少彦名神が“韓(加羅・伽耶)”からやって来たことは知っていたはずである。それにもかかわらず、地名を用いず“常世の国”という架空の国からやって来たとするのは、“韓(加羅・伽耶)”が日本に多大影響を及ぼし、このことを朝廷は抹殺したかったからであろう。
天日槍の出身地を『播磨国風土記』が“韓”と伝えているにもかかわらず、ほぼそのあとの『日本書紀』では“新羅”としていることも事情は似ている。ヒボコはツヌガアラシトと同一人物であり、伽耶からやって来たのに、新羅として事実をねじ曲げようとしたのは、伽耶をめぐる朝廷の複雑な思いと、歴史の真相が隠されていたためであった。
ここでの問題は、少彦名神がツヌガアラシト同様、伽耶出身の鬼と見なされたことは確かなことであり、同一人物であった可能性が高いことで、一人の人物が三体に分けられてしまったとすれば、彼らが鬼の王国出雲へ接近していたことが、八世紀の朝廷にとっては実に不愉快な史実であったと想像できる点にある。
伽耶と天皇家の秘密
ヒボコは天日槍という天が冠された高い神名から、天孫あるいは、天津神とされている。天津神は蕃の神(となりのかみ・外国の神)であり、国津神・地祇神とは日本にあった土着神(日本人)です。神功皇后につながるので天孫族としたのかも知れない。
しかし、おそらくこうした性格は、天(あま)は海(あま)で、天孫族というよりも、もともと海人族(漁民)の信仰していた海、もしくは風の神と、ヒボコ神(武神)の信仰が結びついたものではないかと思うのである。
こうした性格は福井県敦賀市の気比神社のツヌガアラシトと似ており、「新羅の王子・ 天日槍(あめのひぼこ)を 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)として祭った」、
ホムタワケ(応神帝)とイササワケ(伊奢沙別大神)が名前を易(か)えたとされる伝えと共通のものであり、『日本書紀』においてはヒボコ神がその地に立ち寄ったとされる記述もあることから、この二神は同一神ではないかといわれている。
・ 当時の交通手段は陸路が整備されていないので海路や水路であり、円山川あるいは由良川から加古川のルートは、日本で最も低い分水嶺であり、ヤマト(大和)は最短の但馬(出石)を介して朝鮮半島とつながり、大量に鉄を入手してしまえば、北部九州、出雲、吉備のそれまでの戦略は根本から崩れ去る。
・ 鉄の国・伽耶から来日したヒボコは但馬に拠点を設け、ヤマトに鉄を「密輸」することで、富を獲得することに成功したので、特別に神扱いされた。
・ 神功皇后はヤマト建国前後に活躍し、これにヒボコが絡んでいた。遠征ルートがよく似ている。
・ 倭国連合(北部九州、出雲、吉備)は新しい交流ルートができたので慌ててヤマト王権の地を目指して突進した。
また、彼らの活躍があったからこそ、西日本全体が一つにまとまるという方向性ができたのだろうし、彼らの活躍が大きすぎたがゆえに、ヒボコに「日本的な神の名」を与えられる一方で、ヤマト政権は、朝鮮半島の玄関として最短の但馬や丹後・越前を確保したかったのでう。
これが大和王権と纒向(まきむく)誕生のきっかけだ。このころ、天皇に丹波主の多くの娘が嫁いでおり、関係を重視していたと思われます。
継体天皇は近江・越前から発しています。
朝鮮半島の建国神話
余談ながら、半島に似た話がある。
『古事記』の阿加流比売神の出生譚は、女が日光を受けて卵を生み、そこから人間が生まれるという卵生神話の一種であり、類似した説話が朝鮮に多く伝わっているそうです。例えば高句麗の始祖東明聖王(朱蒙)や新羅の始祖赫居世、伽耶諸国のひとつ金官国の始祖首露王の出生譚などがそうです。
伽耶諸国の建国神話
『カラク国記』には、現在の金海にあった金官国には、天から六つの卵が降りてきて、そこから生まれた六人の童子の一人が金官国の始祖となり、残りの五人が五伽耶の王となった。また、『釈利貞伝』には、大伽耶国には、天神と伽耶山神から生まれた兄弟が、大伽耶と金官の始祖になったとされています。
新羅の建国神話
『三国史記』が伝える新羅の建国神話に、初代王とされる朴赫居世(カッキョセイ)は、卵から生まれたという。第四代の王となった昔脱解は、外国で卵から生まれ、箱船で漂流していたところ、新羅の東海岸に漂着し、やがて成長して第二代の王の娘婿となり、即位した。金姓をもった最初の王である十三代味雛(ミスウ)王の始祖・閼智(アッチ)は、金の箱のなかに入って天から鶏林に降り立ったと伝えられている。
これらの神話に見られる三姓の始祖たちのモチーフは、始祖は内部の人ではなく、天から降り立ったり、卵から生まれ外国よりやって来たりしたというように、外部から訪れたことで一致しています。それは「天孫降臨」と似ている。
また、それぞれの始祖は、神話のなかで姓の由来が語られていて、最初から姓をもっていたことになっています。しかし、新羅において姓の使用が確認されるのは六世紀半ば以降になってからであり、これらの神話は史実とは結びつかない。いずれにしても、三つの集団があって、それぞれが王を交立したといった可能性があり、おのおのの始祖神話をもっていたと理解できます。こうした神話は、新羅の国家形成と王権が複雑な様相をもっていた反映とみなせます。
この地方には、日本独自の前方後円墳や、武寧王陵(523年没)が日本にしか自生しない和歌山特産のコウヤマキの木棺であることが大きな話題となりました。523年の武寧王没後、百済王を継承したのは聖王(余明)であるが、『日本書紀』は514年に百済太子淳陀が倭国で死去したと伝える。武寧王の本来の太子は淳陀であるが、倭国で死去したために余明が代わって太子となったという解釈も可能である。この淳陀太子がいつ倭国に来たのか記載はないが、一部には武寧王は若い頃倭国に滞在しており、淳陀は倭国で生まれ、そのまま滞在していたと主張する説がある。
『続日本紀』によれば、桓武天皇の生母の高野新笠は、この淳陀太子を遠祖とする百済系の帰化氏族和氏の出自であるとしている。新笠は皇后になることはできなかったが、桓武天皇の生母として皇太夫人、更に皇太后と称された。
大和朝廷も新羅建国も、他所から移ってきて国を統一する過程が同じである。 
神功皇后と天日槍 

 

名前に神の字がついた三人の天皇と一人の皇后がいる。神武・崇神・応神と神功皇后である。もちろん神武天皇はずっと後になってつけられた名前であり、カムヤマトイワレビコが正しい。実在する初代天皇は、崇神天皇ではないかとする説がある。さて、すでに触れたので最後の応神天皇である。
もともと古来の自然神なども、神は原則として天変地異をもたらす恐ろしい存在なのであってこれを必至に敬い恐縮し、祀りあげることによって、どうにか平穏な日々がもたらされるという発想である。そうであるならば、四人の「神」の名をもつ人びとに用心しなければならない。彼らは、立派な業績を残した方々というよりも、国中を震え上がらせた恐ろしい人びとではなかったか。
その証拠に、神功皇后は平安時代になっても「祟る恐ろしい女神」と考えられていたようだし、神武天皇は、まさに祟る恐怖を振りまくことで、ヤマト入りを成功させている。崇神はまさに祟る神と書くとおり恐れられ、応神天皇も、喪船に乗せられ、「御子は亡くなられた」とデマを流すことで、敵に恐怖心を植え付け、ヤマトの入ることができたのである。
そうなると、なぜ初代王の二人に神の名が付けられ、また、第十五代応神天皇やその母の神功皇后をも神扱いした(鬼扱いでもある)意味も考え直さなければならない。
神功皇后とそっくりなアメノヒボコの足跡
『海峡を往還する神々: 解き明かされた天皇家のルーツ』 著者: 関裕二氏には、
アメノヒボコから神功皇后につながる系譜は、『古事記』が書き留めたもので、『日本書紀』無視しているのだが、ここにも『日本書紀』の作為が働いていたと思われる。『古事記』と『日本書紀』は、ともに八世紀に記されているが、二つは似て非なる文書である。
どちらも天武天皇が編纂のきっかけを作ったとされるが、どうもそうでないらしい。また『日本書紀』が百済を『古事記』が新羅を重視しているところには、大きな問題が隠されている。『日本書紀』が八世紀の朝廷の思惑を代弁しているとするならば、『古事記』は必ずしもそうとはいえない。いやむしろ、『日本書紀』の記述に反している点が少なくない。
谷川健一氏『日本の神々』の「天日槍とその妻」の中で、朝鮮からの渡来人の中で、記紀に最も取り上げられているのは天日槍(天日矛)であろう。(以下アメノヒボコ)は『日本書紀』の記述によって、ツヌガアラシトと同一人物と目される。
『筑前国風土記』逸文に「高麗の国の意呂山(オロサン)に、天より降りしヒボコの苗裔(すえ)、五十跡手(イトテ)是なり」とある。意呂山は朝鮮の蔚山(ウルサン)にある。意呂とは泉のこと意味するという。五十跡手は、『日本書紀』によれば、「伊都県主の祖」となっている。このようにアメノヒボコの苗裔と称するものが、伊都国にいたという伝承は、アメノヒボコの上陸地が糸島半島であったことを物語る。
ツヌガアラシトはそれから日本海へ出て出雲から敦賀へと移動している。アメノヒボコは瀬戸内海を東遷したように思えるが、日本海から播磨の南部へ移動したという説もあって、その足跡を明瞭に辿ることは難しいが、天にヒボコの妻の足取りは、ややはっきりしている。
『古事記』にはアメノヒボコの妻が夫といさかいしたあと日本に逃げてきて、のちには難波に留まり、比売碁曾(ヒメコソ)神社の阿加流比売神(アカルヒメ)になったことを伝えている。『日本書紀』には、ツヌガアラシトの妻となっており、同じように日本にやってきてからは、難波の比売碁曾神社の神となり、また豊前国国前郡(大分県国東郡)の比売語曾神社の神ともなって二か所に祀られている、と記されている。
福岡県糸島郡の前原町高祖(タカス)に高祖神社がある。もとは高磯(タカソ)神社と呼ばれ、ヒボコの妻を祀るとされていた。また大分県の姫島に比売語曾神祠(神のやしろ、ほこら)がある。先の『日本書紀』の記述に見える神社である。(中略)
一方、アメノヒボコは『播磨国風土記』には、葦原志挙乎命(葦原志許乎命・アシワラシコヲノミコト)または伊和大神との間に激烈な闘争を繰り広げる。そのあと『日本書紀』によれば、アメノヒボコは宇治川をさかのぼって、北の方の近江国の吾名邑(アナムラ)に入って、しばらく留まった。また近江から若狭国を経由して但馬国に至り、住居を定めた。近江国の鏡村の谷の陶器作りは、アメノヒボコの従者である、となっている。
この記事に見られる吾名邑は、蒲生郡の苗村(ナムラ)にある長寸(ナムラ)神社の付近だとする考えを『地名辞書』はとっている。苗村の西は鏡山に接している。その鏡山の東のふもとの鏡谷はヒボコの従者たちが住んでいたところとされている。鏡山の地はもと須恵村、つまり陶人の居住地を暗示する村の大字でもあった。そうしてこの近くの野洲市野洲町の小篠原から、二度にわたって大量の銅鐸の出土が見られたことは有名である。
ヒボコは『日本書紀』垂仁天皇三年の条によると、但馬国の出石に留まり、そこの豪族の娘である葛木出石姫を娶って子孫を増やしたとある。ヒボコは、まず糸島半島に上陸し、そこから日本列島を東に移動し、但馬が終着点となった。
『魏志東夷伝』の中の辰韓の条には、「国は鉄を出す。韓、濊(ワイ - 古代の中国東北部及び朝鮮における民族の1つ)、倭はみな欲しいままにこれを取る。諸々の市買はみな鉄をもらう。中国で銭を用いるが如し」とある。辰韓(のち新羅)に劣らず金海地方(弁韓・伽耶)も有名な砂鉄の産地であった。
しかし天日槍という名は多くの人が指摘するように、中国や朝鮮名にふさわしくない日本名である。『日本書紀』に次の記事がある。
「石凝姥(いしこりどめ)を以て冶工(たくみ)として、天香具山の金(かね)を採りて、日矛を作らしむ。又、真名鹿(まなか)の皮を全(うつはぎ)に剥ぎて、天羽鞴(あまのはぶき・ふいご)に作る。此を用いて造り奉る神は、是即ち紀伊国にまします日前(ひのくま)神なり。」
これをみると、日矛というのは、日前神社の鏡と同じく銅製のものであったことが推測される。『古語拾遺』には鐸(たく)をつけた矛という表現があるが、大和の穴師の兵主神社には、日矛または鈴をつけた矛が御神体として祀られている。こうしたことから、天日槍(天日矛)も、金属製の祭器を人格化したものにすぎないと思われる。たしかにその事跡をたどるとき、播磨でも、近江、若狭、但馬でも金属に関連があることがうかがえる。
たとえば、ヒボコが近江国でしばらく住んだという吾名邑に比定される阿那郷は、のちに息長(おきなが)村と呼ばれ、息長一族の本拠であった。ヒボコの従者たちが住んだという鏡谷の近くの御上神社は、天之御影命を祀るが、それは天目一箇命と同神であるとし、日本の鍛冶の祖神と称せられる。この天之御影命の娘は、息長水依比売 (おきながみずよりひめ)であるから、息長氏とも関係があることは疑えない、(中略)
天日槍の名は太陽神の信仰とも関係があるに違いない。太陽神の妻である阿加流比売という神号を奉られたのも、太陽との関係があるからだろう。阿加流比売を下照姫と異名同神とする説がある。「照」の字がつくことから巫女とみなしても差し支えなく、日矛の妻の阿加流比売も巫女と見ても良い。(中略)
ヒボコの妻は糸島半島から姫島に移動する前に、福岡県田川郡の香春(かわら)に足を留めた。そこに新羅の神が宿った、と『豊前国風土記』逸文に見える。香春の北に採銅所という地名があり、古くから銅山で知られている。また香春の近くに「赤」という集落もある。『地名辞書』によると、赤に鎮座する八幡の縁起に、上古この峰の頂上が振動して鳴りとどろき、赤光を放ち、神霊が現れた。よって「明流の神岳」と称し、その里を赤村といったという。これはもちろん付会に過ぎない。むしろ「阿加流比売」とのつながりを韓ガルのが自然である。
天日槍(天日矛)は、もともと太陽神を祀る金属製の祭器であり、その矛をもって跳躍し、神がかる「明る姫」と称する巫女がいたのであろう。こうしてみると天日槍とその妻の物語は、太陽神の巫女の話であると共に、また朝鮮半島から渡来した青銅や鉄の生産技術に長じた一群の人びとの物語でもあったと考えられるのである、と記している。
そして問題は、『日本書紀』が大切な氏族の系譜をときどき書き漏らしていること、その一方で、『古事記』がその隙間を埋めるかのように、記録していることだ。『日本書紀』は蘇我氏の祖の名を語っていないし、神功皇后の母方の祖も、漏らしてしまい、『古事記』がこれを補っている。
このような両書の関係は偶然ではなく、『日本書紀』はわざと蘇我氏と神功皇后の系譜を黙殺してしまったとしか思えない。
その証拠に、神功皇后とアメノヒボコは、多くの接点を持っている。たとえば、三品彰英氏は、アメノヒボコと神功皇后(オキナガタラシヒメ)の伝説地を地図上につないで、地理的分布が驚くほどよく似ていると指摘している。似ているのではなく、両者はまるで手を携えて行動をしていたようにピッタリと重なっている。
『古事記』に従えば、神功皇后とアメノヒボコの系譜上のつながりは、系図を見れば分かるように、かなりかけ離れていたことになる。その二人が、なぜここまで重なってくるというのだろう。どうにも不可解な謎ではあるまいか。
もうひとつ奇妙なことがある。それは『古事記』のアメノヒボコ記事は、応神天皇の段に載せられている。これがどうにもよく分からない。
応神天皇は神功皇后の息子であり、その応神天皇の知政を述べるくだりで、「又昔、新羅の国主の子有りき。名は天之日矛と謂ひき」と、アメノヒボコを紹介していたことになる。これはとても不自然だ。また、「昔」とはいつのことなのか、『古事記』の記事を読む限り、はっきりとしないのも問題が残る。
さらのもうひとつ、アメノヒボコが「神話」の時代だったと、『古事記』は証言している。それが、アメノヒボコ来日後の次のような話からくみ取ることができる。
アメノヒボコが招来した八つの神宝を、伊豆志の八前の大神と呼び祀った。その伊豆志の八前の大神には娘がいて、その名をイズシヲトメノカミといった。多くの神々(八十神)がこの女神と結婚したいと思ったが、皆かなわなかった。いろいろないきさつがあったのち、弟は乙女と結ばれ子供が生まれた。だが兄は、呪いにあって衰弱するのだが、ここでは省略する。
ここで指摘しておきたいのは、この話の出だしが、どこか因幡の白兎を連想させることだ。出雲の大国主や多くの神々が、因幡のタガミヒメを娶ろうとしたが、途中で白兎をいじめた兄たちは得ることができず、白兎を助けた大国主が八上比売と結ばれたという、あの話だ。舞台背景となった但馬は、因幡のとなりで山陰道の隣国であり、海でつながっている。
なぜ『古事記』は、ヒボコの話を神功皇后のあとにもってきて、しかも、ヒボコの話のあとに、「神話」を語ったのだろう。すべて順番が逆になっている。
はたして何かしらの意図があったからなのだろうか。なぜヤマト朝廷の実在の初代王・崇神天皇の出現の直前に、神功皇后の名(『古事記』では息長帯比売命)を無理矢理こじ入れてしまったのだろう。ここにも何か秘密めいたものを感じてしまう。
『古事記』によれば、神功皇后の母方の祖は来日した新羅皇子・アメノヒボコの末裔にあたるのだが、『日本書紀』はこの系譜をまったく無視している。なぜこの系譜を掲げなかったかというと、アメノヒボコこそが、ヤマト建国の真相を知っていたからである。
『日本書紀』によれば、ヒボコは崇神天皇を慕ってやって来たというが、『播磨国風土記』は、「天日槍、韓国より渡り来て、…」として、新羅としていない。『古事記』702年より『風土記』編纂713年からで後だ。すでに新羅は成立後なので、あえて韓国と書いている。もちろん風土記は地方官がその土地の伝承を集めたものであるから、編纂年の事柄ではない。韓は弁韓・辰韓でもあり、彼らの祖地・中国の漢であり、カラ(伽耶)でもありうる。私は別に書いたが、伽耶だという説がもっとも強いと思っている。ヒボコが神話の時代に日本にやってきたと証言している。ここにいう神話時代とは、「ヤマト建国の直前」ということであろう。
三品彰英氏が指摘しているように、アメノヒボコト神功皇后の活躍したルートはほぼ重なっていて、また、ヒボコが追いかけ回したというヒメコソ(比売語曾)は、「ヒミコ」のことではないかとする説があるが、「ヒミコ」は「日の巫女」 (ヒノミコ) なのであって、これは職掌であり、神の神託を下した神功皇后も、まさに「ヒミコ(比売語曾)」とそっくりなのだ。
そうなってくると、アメノヒボコと準宮皇后とのコンビこそが、ヤマト建国に大いに関わっていて、この事実を抹殺するために『日本書紀』はいろいろな小細工をくり返したのではないかという疑念につながっていくのである。というのも、「天日槍(天日矛)」を直訳すれば、「太陽神であるとともに金属の神」とうことになる。
アメノヒボコとヒメコソ(ヒミコ=太陽神の巫女)がセットだったのは、アメノヒボコが太陽神だったからである。そして、問題は、ヒボコが金属冶金技術を日本にもたらしたからこそ、「天日槍」という神の名で称えられた、ということであろう。そしてそれがヤマト建国の直前で、しかも『日本書紀』のいうように、アメノヒボコが最終的にとどまった地が但馬の出石であったというところがポイントである。
但馬の知られざる地の利がひとつだけある。それは、船に鉄を積んで若狭のあたりを東に向かい、敦賀に陸揚げしたのち、峠を一つ越えれば琵琶湖に出られることだ。琵琶湖から再び船に乗り換え、大津から宇治川を一気に下れば、ヤマトへの裏道が続いていることである。ひょっとして、アメノヒボコは、鉄欠乏症に悩むヤマトを救済すべく、但馬に拠点を造り、鉄を密かにヤマトの送り込んでいたのではなかったか。
(神功皇后のルートが、「播磨国風土記」でヒボコがさまよったルートと逆にすると似ているし、近江は息長氏の拠点でありヒボコや穴師ゆかりの神社や兵主神社が多い。
出石は古くは「伊都志・伊豆志」と記していた。どうも糸島半島にあったとされる伊都国との関わりがあるのではいかと思っていた。
また、神功皇后は、『紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔・葛城高媛(かずらきのたかぬかひめ)、彦坐王の4世孫、応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。
彦坐王は開化天皇の第三皇子、第三妃に日矛の流れを汲む近江の息長水依比売がいる。彼女との間に生まれたのが、四道将軍・丹波道主王命である。妻は、丹波之河上之摩須郎女(たんばのかわかみのますのいらつめ)。 子は日葉酢媛命(垂仁天皇皇后)、渟葉田瓊入媛(同妃)、真砥野媛(同妃)、薊瓊入媛(同妃)、竹野媛、朝廷別王(三川穂別の祖)。
丹後や但馬にに巨大な前方後円墳が造られたのは、この辺りではないだろうか。
第11代垂仁天皇の御代に新羅国皇子・天日槍が謁見したと記してあり、神功皇后は第14代の仲哀天皇の妃となる。
垂仁天皇の第一皇子が、成人しても言葉を発することができなかった誉津別命である。鵠(くぐい、今の白鳥)を出雲で捕らえて話すことが出来たので、出雲大社を造営したといわれている。
近江国と天日槍
「万葉集を携えて」近江国の吾名邑さんによると、
近江国 近江蒲生 鏡山神社「天日槍命」滋賀県蒲生郡竜王町鏡1289
滋賀県竜王町鏡
御祭神 「天日槍」 神社由緒には、 「新羅より天日槍来朝し、捧持せる日鏡を山上に納め鏡山と称し、その山裾に於て従者に陶器を造らしめる」とある。この辺りを「吾名邑」とし、「鏡邑の谷の陶人」の地とする条件はかなり揃っている。
近江国 近江栗太 安羅神社「天日槍命」滋賀県草津市穴村町
滋賀県草津市穴村町
御祭神 「天日槍」
神社由緒記には、 「日本医術の祖神、地方開発の大神を奉祀する」とあり、祭神は「天日槍命」とする。 「近江国の吾名邑」は、ここ「穴村」に比定する。天日槍が巡歴した各地にはそれぞれ彼の族人や党類を留め、後それらの人々が彼を祖神としてその恩徳を慕うて神として社を創建した。この安羅神社である。「安羅」という社名は、韓国慶尚南道の地名に同種の安羅・阿羅があり、天日槍を尊崇するとともに、故郷の地名に執着して社名にしたものと思われる。
滋賀県草津市には穴村町という地名が残り、「安羅神社」がある。
越前国 敦賀 氣比神宮「伊奢沙別命」摂社 角鹿神社「ツヌガアラシト=ヒボコ」敦賀市曙町11-68
若狭国 若狭大飯 静志神社「天日槍命 今は少彦名命」福井県大飯郡大飯町父 子46静志1
但馬国 但馬城崎 気比神社「五十狹沙別命」兵庫県豊岡市気比字宮代286
但馬国 但馬出石 出石神社伊豆志坐神社「出石八前大神、天日槍命」兵庫県豊岡市出石町宮内字芝池
滋賀県竜王町には「苗村神社(ナムラ)」が鎮座する。鏡山の東麓にある。吾名邑(アナムラ)という地名が苗村になったという。(景山春樹氏)鏡山の麓にあり、鏡邑に隣接していることからも、ここが吾名邑という。
米原市の旧近江町は旧坂田郡にあり、(市町村合併で、本当に説明がしにくい)、この辺りは「坂田郡阿那郷」と呼ばれていた。阿那郷が後に息長郷になった。(息長郷は神功皇后の関連地名である。) この阿那郷が「吾名邑」であるという。(金達寿「日本の中の朝鮮文化」からの引用。坂田郡史に書かれてあるらしい)。 米原市顔戸に「天日槍暫住」の石碑が立つ。
米原市の旧近江町は旧坂田郡にあり、(市町村合併で、本当に説明がしにくい)、この辺りは「坂田郡阿那郷」と呼ばれていた。阿那郷が後に息長郷になった。(息長郷は神功皇后の関連地名である。) この阿那郷が「吾名邑」であるという。(金達寿「日本の中の朝鮮文化」からの引用。坂田郡史に書かれてあるらしい)。 米原市顔戸に「天日槍暫住」の石碑が立つ。
伊弉諾神社米原市菅江(旧山東町) この神社にはつぎのような口伝がある。
古老の伝に、村の南西大谷山の中腹に、百人窟という洞穴があり、息長族系の人々が住んでいた。阿那郷と呼ばれる渡来人の遺跡と思われる。これらの人々は須恵器を作って、集団生活が始まったという。この地は古代の窯業跡とも云われる。
息長氏(おきながうじ)は古代近江国坂田郡(現滋賀県米原市)を根拠地とした豪族である。 『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とす。また、山津照神社の伝によれば国常立命を祖神とする。天皇家との関わりを語る説話が多い。姓(かばね)は公(または君、きみ)。同族に三国公・坂田公・酒人公などがある。
息長氏の根拠地は美濃・越への交通の要地であり、天野川河口にある朝妻津により大津・琵琶湖北岸の塩津とも繋がる。また、息長古墳群を擁し相当の力をもった豪族であった事が伺える。但し文献的に記述が少なく謎の氏族とも言われる。
息長宿禰王(おきながのすくねのみこ、生没年不詳)は、2世紀頃の日本の皇族。第9代開化天皇玄孫で、迦邇米雷王の王子。母は丹波之遠津臣の女・高材比売。神功皇后の父王として知られる。気長宿禰王とも。 王は河俣稲依毘売との間に大多牟坂王、天之日矛の後裔・葛城之高額比売との間に息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、虚空津比売命(そらつひめのみこと)、息長日子王(おきながひこのみこ)を儲ける。息長帯比売命は後に神功皇后と諡される。
王は少毘古名命・応神天皇と並び滋賀県米原市・日撫神社に祀られている。
天日槍は近江国の吾名邑(あなのむら・滋賀県草津市)にいたとされるので、息長宿禰王とひ孫の葛城之高額比売も同族は親戚かもしれない。
西野凡夫氏『新説日本古代史』の中で、通説では息長氏の本貫地が北近江であると考えられているが、それは間違っている。本貫地は大阪である。継体天皇を息長氏と切り離したのは、天皇家を大和豪族とは超越した存在として位置づけるための造作である、としている。 
主導者物部氏から天日槍への転換期 

 

神社が多い但馬で触れたように、但馬国は神社の数が、その領域からすると他の旧国と比べて決して大きい方ではないにも関わらず、延喜式神名帳の式内社の数が異常に多いのである。弘仁式は、701年(大宝元年)から819年(弘仁10年)、次の貞観式は871年(貞観13)完成。そして延喜式は、平安時代中期(905年(延喜5年))、醍醐天皇の命により編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。三代格式のうちほぼ完全な形で残っているのは延喜式だけであり、かつ細かな事柄まで規定されていることから、古代史の研究では重要な文献となっている。つまり、延喜式の前の二つの格式を引き継いでさらに改編していると考えられるから、八世紀の神社の位置づけが判る。
当時朝廷から重要視された神社であることを示している。但馬国は131座(名神大18小113)が指定されており、全国的にも数では上位に当たり、しかも名神大の位の神社数は大和に次いで多い。旧丹波として丹波・丹後を合わせると267座・大30座。
大和國:286座 大128 小158
伊勢國:253座 大14 小235
出雲國:187座 大2 小185
近江國:155座 大13 小142
但馬國:131座 大18 小113
越前國:126座 大8 小118
このことが朝廷から見て消し去ることのできない重要な場所であったのではないかと思えるのだ。それは関裕二氏の神と鬼から、天皇家が神であり、多くの豪族を鬼として抹殺した祟りを恐れていたことに他ならないのではないだろうか。
しかも但馬国は近隣で比べてみても、
但馬國:131座 大18 小113
丹波國:71座 大5 小66
丹後國:65座 大7 小58
若狭國:42座 大3 小14
因幡國:50座 大1 小49
播磨國:50座 大7 小43
となっていて異常な数なのだ。
但馬が決して大和や出雲に比べて華やかな歴史が残っているわけではないのに、全国で5位、近隣を遙かに引き離していることがわかった。平安京の近くばかりと思わなくもないが、22年の歳月を掛けて全国の神社を調べている。しかも延喜式は三大格式の初期から260年も経て編纂されたのが三代格式で、その最後のものが延喜式であり、唯一ほぼ完全な形で残っているのは延喜式だけである。
それは大和朝廷が確立したころは、その勢力範囲が強く、但馬が古くから重要視されていたことを示しています。ただし、古くは丹後國、但馬国もかつての丹波国の一部ですから、旧丹波国を合わせると267座は、大和に次ぐ全国2位なのだ。
ここではヤマト朝廷成立以前にすでに存在していた古い自然神・出雲系などの神社を、どうしても無視できなかったのではないか、大和・伊勢は天皇家の本拠であり当然だろうけれども、その他の但馬、丹後、越前、近江などは出雲系神社が多い。しかもそれは神功皇后と天日槍=ツヌガアラシトにゆかりがある国ばかりである。
記紀は、天日槍の末裔とされる神功皇后から、実際の初代大王とされる崇神天皇、その子の垂仁天皇の時代になると但馬や丹後の記載が圧倒的に多くなる。
武光誠氏は、日本固有の信仰は、精霊信仰、祖霊信仰、首長霊信仰の三層から成ると述べた。
但馬国も縄文時代のから弥生、そして天皇家のヤマト朝廷になって以降の三段階があるとする。
まず精霊信仰である神奈備(神鍋山)の自然神が祀られている神名大社は気多郡四社と城崎に海神社一社
次の時代の祖霊信仰である物部系出雲系神社が先であり一宮が二つあるが、粟鹿神社が先にあった。
だとすると、天日槍の出石神社は、天皇家の首長霊信仰となる。
縄文時代−精霊信仰
死火山神鍋山を神奈備とする自然神が祀られている神名大社は、気多郡(日高町)四社「山神社」「雷神社」薬の神「椒神社」火之神「戸神社」と城崎(豊岡市港地区)に「海神社」一社。
弥生時代−祖霊信仰
・弥生時代 出雲神政国家連合
秦漢から半島や北部九州に渡来人が移住してきて、稲作と青銅器、祖神を祀る人間神信仰をもたらした。
縄文人と渡来人は融和しながら弥生人が形成される。
ニギハヤヒ、オオナムチなど出雲系・物部系が日本海や朝鮮半島との交易と越(北陸)までに住み着いていった。
古社である粟鹿(日下部)、養父、小田井神社は、沼地だった但馬を開削したとしている。
ヤマト王権時代−兵主信仰
ヤマト政権が誕生する有史以前に、出雲系物部一族の吉備・山陰・丹後・若狭・北陸の出雲神政国家連合の祖、ニギハヤヒが大和に東征した。一族は纏向宮を建て諸国は連合体の日本を建国した。
但馬及び丹後が重要なポジションに位置していたのではないか。ヤマトに穴師兵主神社を建て、天日槍を祀る出石神社、崇神・垂仁両天皇との関わりが濃密になっていたことが『日本書紀』の記述から伺えます。
記紀では但馬を開削したのは天日槍となった。銅鐸は埋められ粉々にして放棄された。気比銅鐸、久田谷銅鐸片
ヒボコ系神社や兵主神社が但馬に集中して造られた。
天日槍系および兵主神社はすべて式内社であるから、延喜式以前には古社として確固たる神社であったことは間違いない。各郡に1社という割で、交通の要所に均等に配置されたのではないだろうか。
大和朝廷国家統一−丹後籠神社が元伊勢へ 伊勢神宮遷宮
丹波國から但馬國が分立。それは、朝鮮半島との玄関口が、都に近い但馬に移り、また出雲神政国家連合勢力への抑えから大和の都に近い但馬・丹後に必然的に要衝として重要視されていたからではないか。
但馬国造に日下部氏、社家に長尾市、丹後国造と社家に海部氏 ?
大宝律令発せられる。
丹波國から丹後國分立。  
神話の世界に迷い込んだ天日槍 

 

崇神天皇と垂仁天皇は疫病や平定が続き、国内は大和朝廷の日本統一に向けて混沌としていたようだ。
崇神天皇
最終期に北部九州から神武に例えられる大王家が大和に移る。物部氏は祭祀を主導するかわりに、天皇家に政権を禅譲した。加耶系天日槍(アメノヒボコ)は鉄器・武器集団として神武・崇神天皇のヤマト建国に参加した。神功皇后はヒボコの末裔とされる。記紀の実在した初代天皇(はつくにしらすすめらみこと)。『日本書紀』には崇神天皇と子の垂仁天皇の記事に但馬・丹後が多くなる。
・ 崇神天皇の時代、疫病がはやり、多くの人民が死に絶えた。
崇神天皇3年、都を磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや、奈良県桜井市金屋の志貴御県坐神社が伝承地)に遷す。崇神天皇5年(紀元前93年)、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。崇神天皇7年、三輪山に大物主を祀る大神神社を建てて、出雲同様に蛇を祀った。市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祭る神主としたところ、疫病は終息し、五穀豊穣となる。石上神宮(いそのかみじんぐう)主祭神:布都御魂大神を建て、古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。
・ 但馬は出石神社(神主長尾市)など天日槍系神社や伽耶系神社が多いが円山川流域に限られ、オオナムチ同様に但馬を開削したといっている
地名:安良(ヤスラ)、加陽(カヤ)、伊福(ユウ)=ふいご、伊福部神社(出石町鍛冶屋)、唐川(カラカワ)、韓国物部(からくにもののべ)神社=飯谷(ハンダニ)、畑上(ハタガミ)、気比(ケヒ)=気比神社・銅鐸が埋められる、気多(ケタ)=粉々の久田谷銅鐸片、など。
崇神天皇10年9月、大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた(四道将軍)。しかし実際これは、穏やかな統一だろう。
崇神天皇60年7月、飯入根(いいいりね)が出雲の神宝を献上。兄の出雲振根が飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺される。
垂仁天皇
垂仁天皇元年1月即位。2年2月に狭穂姫を立后、10月、纒向に遷都した。
〃 3年3月、新羅王子の天日槍(あめのひほこ)が神宝を奉じて来朝。
〃 5年10月、皇后の兄狭穂彦(さほびこ)が叛乱を起こし、皇后は兄に従って焼死。
〃 7年7月、出雲国の野見宿禰(のみのすくね)が大和国葛城の当麻蹴速(たいまのけはや・たぎまのけはや)と相撲をとり蹴殺す(相撲節会の起源説話)。
當麻寺には、当麻は、山道が「たぎたぎしい(険しい)」ことから付けられた名であるとの通説があるが、神功皇后の母方の先祖(アメノヒボコの子孫)、尾張氏、海部氏の系図を見ても頻繁に但馬と当麻あるいは葛城との深い関係が類推される。とすれば、物部一族が勢力的に葛城氏またはヒボコの但馬をまだ主導権を渡すことを許さなかったことの伝承ではないかとも思える。
〃 15年2月、丹波道主王の女たちを後宮に入れ、8月にその中から日葉酢媛を皇后とした。
天照大神が大和笠縫邑から与佐宮(丹後籠(この・こもり)神社に移り、真名井神社の豊受大神から御饌物を受けていた。4年後、天照大神は伊勢へ移り、後にトヨウケ(豊受大神)も伊勢神宮へ遷っている。
〃 27年8月、諸神社に武器を献納し、神地・神戸を定める。この年、来目(橿原市久米町)に初めて屯倉を興す。大国主系の兵主神社が全国的に但馬に集中しており、出石を取り囲むように郡境などに建てられていること
〃 32年7月、日葉酢媛が薨去。野見宿禰の進言に従い、殉死に替えて土偶を葬る(埴輪の起源説話)。
〃 39年10月、五十瓊敷命が剣千振を作り、石上神宮(いそのかみじんぐう)に納める。この後、五十瓊敷命に命じて、神宮の神宝を掌らせる。
〃 90年2月、ヒボコの曾孫・田道間守(たじまもり)に命じて、常世国(半島?)の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせる。
『日本書紀』によれば、アメノヒボコは第十一代垂仁天皇の時代の人とある。第十代崇神天皇が三世紀後半から四世紀にかけての人ということになれば、ヒボコは、どうしても四世紀ごろの人、ということになろうか。一方、『播磨国風土記』には、ヒボコは出雲神である伊和大神と戦ったと記されているわけで、ここに時間の誤差が生じている。
一般に、アメノヒボコそのものが「伝説」ということからだろう、このような時間差が問題視されることはほとんどない。
だが、ヒボコが出雲神と戦っていたという『播磨国風土記』の記述を無視することはできない。というのも、八世紀の朝廷は、抹殺したい過去を、神話の世界に封じ込めるというテクニックを、しばしば使っているからだ。されに『風土記』という文書は、地方ごとの独自の伝承を記載したところから、正史との間に矛盾が発生する可能性があった。
だから、正史と異なる記述だから無意味というのではなく、記事内容にギャップがあるからこそ、そこに大きな意味があるはずなのである。
応神天皇は、王朝交替の最有力候補としている。この帝はどうしたことか、角鹿の笥飯(けひ)大神(ツヌガアラシト)と名前を交換していた。しかも笥飯(けひ)大神は、渡来系のアメノヒボコと同一であった可能性が高いのである。
ではこれが王朝交替の大きな証拠になるかというと、アメノヒボコは応神天皇の母・神功皇后の母系の祖なのだから、応神と笥飯(けひ)大神が名前を交換したという話は、「ご先祖様にご挨拶」程度の意味だったと採られることも可能かも知れない。
だからといって、ヒボコの謎が解けたわけではない。『播磨国風土記』の一連の伊和大神との戦いなどヒボコにまつわる記事がさらに不可解な謎を、われわれに投げかけてくる。というのも、正史の中で歴史時代の人物として登場していたヒボコが、『風土記』の中ではどういう理由からか神話の世界に迷い込んでしまっているからである。
なぜアメノヒボコは神話の世界に迷い込んだのか
『海峡を往還する神々: 解き明かされた天皇家のルーツ』 著者: 関裕二氏には、
応神天皇は、王朝交替の最有力候補としている。この帝はどうしたことか、角鹿の笥飯(けひ)大神(ツヌガアラシト)と名前を交換していた。しかも笥飯(けひ)大神は、渡来系のアメノヒボコと同一であった可能性が高いのである。
ではこれが王朝交替の大きな証拠になるかというと、アメノヒボコは応神天皇の母・神功皇后の母系の祖なのだから、応神と笥飯(けひ)大神が名前を交換したという話は、「ご先祖様にご挨拶」程度の意味だったと採られることも可能かも知れない。
だからといって、ヒボコの謎が解けたわけではない。『播磨国風土記』の一連の伊和大神との戦いなどヒボコにまつわる記事がさらに不可解な謎を、われわれに投げかけてくる。というのも、正史の中で歴史時代の人物として登場していたヒボコが、『風土記』の中ではどういう理由からか神話の世界に迷い込んでしまっているからである。
『日本書紀』によれば、アメノヒボコは第十一代垂仁天皇の時代の人とある。第十代崇神天皇が三世紀後半から四世紀にかけての人ということになれば、ヒボコは、どうしても四世紀ごろの人、ということになろうか。一方、『播磨国風土記』には、ヒボコは出雲神である伊和大神と戦ったと記されているわけで、ここに時間の誤差が生じている。
一般に、アメノヒボコそのものが「伝説」ということからだろう、このような時間差が問題視されることはほとんどない。
だが、ヒボコが出雲神と戦っていたという『播磨国風土記』の記述を無視することはできない。というのも、八世紀の朝廷は、抹殺したい過去を、神話の世界に封じ込めるというテクニックを、しばしば使っているからだ。されに『風土記』という文書は、地方ごとの独自の伝承を記載したところから、正史との間に矛盾が発生する可能性があった。
だから、正史と異なる記述だkら無意味というのではなく、記事内容にギャップがあるからこそ、そこに大きな意味があるはずなのである。
なぜ『古事記』は、ヒボコの話を神功皇后のあとにもってきて、しかも、ヒボコの話のあとに、「神話」を語ったのだろう。すべて順番が逆になっている。はたして何かしらの意図があったからなのだろうか。なぜヤマト朝廷の実在の初代王・崇神天皇の出現の直前に、神功皇后の名(『古事記』では息長帯比売命)を無理矢理こじ入れてしまったのだろう。ここにも何か秘密めいたものを感じてしまう。
『古事記』によれば、神功皇后の母方の祖は来日した新羅皇子・アメノヒボコの末裔にあたるのだが、『日本書紀』はこの系譜をまったく無視している。なぜこの系譜を掲げなかったかというと、アメノヒボコこそが、ヤマト建国の真相を知っていたからである。
『日本書紀』によれば、ヒボコは崇神天皇を慕ってやって来たというが、『播磨国風土記』は、ヒボコが神話の時代に日本にやってきたと証言している。ここにいう神話時代とは、「ヤマト建国の直前」ということであろう。
三品彰英氏が指摘しているように、アメノヒボコト神功皇后の活躍したルートはほぼ重なっていて、また、ヒボコが追いかけ回したというヒメコソ(比売語曾)は、「ヒミコ」のことではないかとする説があるが、「ヒミコ」は「日の巫女」 (ヒノミコ) なのであって、これは職掌であり、神の神託を下した神功皇后も、まさに「ヒミコ(比売語曾)」とそっくりなのだ。
そうなってくると、アメノヒボコと準宮皇后とのコンビこそが、ヤマト建国に大いに関わっていて、この事実を抹殺するために『日本書紀』はいろいろな小細工をくり返したのではないかという疑念につながっていくのである。というのも、「天日槍(天日矛)」を直訳すれば、「太陽神であるとともに金属の神」とうことになる。
アメノヒボコとヒメコソ(ヒミコ=太陽神の巫女)がセットだったのは、アメノヒボコが太陽神だったからである。そして、問題は、ヒボコが金属冶金技術を日本にもたらしたからこそ、「天日槍」という神の名で称えられた、ということであろう。そしてそれがヤマト建国の直前で、しかも『日本書紀』のいうように、アメノヒボコが最終的にとどまった地が但馬の出石であったというところがポイントである。
但馬の知られざる地の利がひとつだけある。それは、船に鉄を積んで若狭のあたりを東に向かい、敦賀に陸揚げしたのち、峠を一つ越えれば琵琶湖に出られることだ。琵琶湖から再び船に乗り換え、大津から宇治川を一気に下れば、ヤマトへの裏道が続いていることである。ひょっとして、アメノヒボコは、鉄欠乏症に悩むヤマトを救済すべく、但馬に拠点を造り、鉄を密かにヤマトの送り込んでいたのではなかったか。
『古事記』では、子の誉津別命(ほむつわけのみこと)は、父天皇に大変鍾愛されたが、長じてひげが胸先に達しても言葉を発することがなく、特に『日本書紀』では赤子のように泣いてばかりであったという。
『日本書紀』にしたがえば、皇子はある日、鵠(くぐい、今の白鳥・コウノトリ)が渡るさまを見て「是何物ぞ」と初めて言葉を発した。天皇は喜び、その鵠を捕まえることを命じる。湯河板挙(鳥取造の祖)が出雲(一書に但馬)で捕まえて献上し、鵠を遊び相手にすると、誉津別命は言葉を発するようになった。ここに鳥取部、鳥飼部、誉津部を設けたとある。
このように垂仁天皇と出雲の間にわずかな接点が見出される程度だが、『古事記』では、誉津別皇子についてより詳しい伝承が述べられている。長くなるが、この話が後々重要な意味をもってくるので、内容をくわしくみておこう。
本牟智和気命(誉津別命)は、成人しても言葉を話すことができなかった。ところがある日、天を往く鵠を見てはじめて口を動かし、何かを言おうとしたので、天皇はそれを見て鵠を捕らえるように命じた。鵠は紀伊、播磨、因幡、丹波、但馬へと逃げ、さらに東に向かって近江、美濃、尾張、信濃、越を飛んだ末に捕らえられた。
『日本書紀』は、ここで皇子が話せるようにになったというが、『古事記』は、皇子は鵠を得てもまだ物言わなかったというのだ。
関裕二氏『出雲抹殺の謎』によれば、こう記している。
天皇は憂えたが、寝ている夢に何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と述べた。そこで天皇は太占で夢に現れたのが何者であるか占わせると、言語(物言わぬ)は出雲大神の祟りとわかった。天皇は皇子を曙立王、菟上王とともに出雲に遣わし、大神を拝させると皇子はしゃべれるようになったという。天皇は皇子が話せるようになったことを知って喜び、菟上王を出雲に返して大神の宮を造らせた(出雲大社)。また鳥取部、鳥甘部、品遅部、大湯坐、若湯坐を設けたという。
この『古事記』の文面にしたがえば、本牟智和気命の言語障害は「祟り」で、それは出雲神の「御心」だったというのである。出雲が祟ると『古事記』が記した意味はけっして小さくない。
まず第一に、話の中で本牟智和気が出雲神に祟られるいわれなない。それにもかかわらず口が利けなかったのは、ヤマト朝廷全体が出雲に祟られる要因を抱えていた、ということである。祟りを「迷信」と笑殺することはできない。祟りは「やましい気持ち」の裏返しだからである。
これを信じ込んだのは、祟られる側が、何かしらやましい感情を持っているからに他ならない。そして、ヤマト朝廷が出雲に対し、やましい心をもっていたというのは、(垂仁と父崇神が)過去において、出雲に対して何かしらの恨まれる行動を起こしたからに他ならなるまい。
近年の研究では、「天皇」号が成立したのは天武天皇の時代(7世紀後半)以降との説が有力である。天皇という称号が生じる以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では大王(治天下大王)あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称された。つまり、崇神のころ、物部の祖、ニギハヤヒがつくった連合国家「日本」から、より全国統一に向けて新しくリーダーになった崇神に、大王を禅譲したということなのであろうが、すんなりと移行したのではないようだ。中央集権国家にはまだならず出雲神政国家連合から、より広域的な神政連邦国家「日本」へと移ていったのであろう。しかし、国丹に疫病が流行し多くの人びとが死んだこと、農民らが土地を離れ、背く者まで現れ、困り果てた崇神は、翌七年、占いによって神託を得ようとすると、大物主神が現れ、自分を祀ることを崇神に命令したとある。さっそく大物主を祀るが、しるしがない。そこでもう一度大物主神にお伺いを立てると、国が治まらないのは大物主神の意志であること、もし子の大田田根子なる人物をもって大物主神を祀らせればおのずから世は平らぐ、ということなので、その通り世は平静を取り戻したという。
天皇家は“鬼”の出雲を退治し征服したのち、逆に“鬼”の毒気、祟りを恐れるあまり、皇祖神そっちのけで、鬼の怒りを鎮めることに躍起になったのであった。
出雲と物部が異名同体であったとする推理は、神社伝承から『日本書紀』の裏を読み解いた原田常治氏によって提唱されたものであった。その著書『古代日本正史』(同志社)には、物部氏の祖・ニギハヤヒがヤマトの三輪山の大物主と同一であり、スサノオの第五子であったことが、いくつもの神社伝承によって証明され、そればかりか日本の本来の太陽神は、皇祖神・天照大神ではなく、この大物主神であったという。
(中略)
神武天皇のモデルとなった崇神天皇は、国がうまく治まらないのを憂い、占いをし、その結果大和の三輪山の神・大物主神を祀ることで地勢を安定させ、垂仁天皇は、出雲大神が「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と記し、ヤマトを建国したのは大物主神であったという、天皇家にとって屈辱ともとれる内容を記していることは、“大物主”を“物部”になおせば、天皇は下臣に過ぎない豪族を絶賛していることになる。
さらにいうならば、崇神天皇からはじまった出雲神重視が天皇家の伝統となっていったように、物部氏が古代社会の最も重要な“神道”の中心に位置していたことなのである。
垂仁天皇の時、「出雲国の野見宿禰(のみのすくね)が大和国葛城の当麻蹴速(たいまのけはや・たぎまのけはや)と相撲をとり蹴殺す」とあるのは、まだまだ天日槍という半島の伽耶につながる但馬出身の勢力が台頭してきたからといって、出雲をおろそかにするとろくなことはないという、例えではないだろうかとも思えるのだ。
また、「子の誉津別命が成人しても言葉を話すことができなかったので、鵠を捕らえるように命じ、紀伊、播磨、因幡、丹波、但馬へ、さらに東に向かって近江、美濃、尾張、信濃、越を飛んだ末に捕らえられた。」というのは、日本統一の歩みを記しているのではないだろうか。丹後から妃を何人ももらっているし、丹後には日本海側最大の前方後円墳が3つもあり最多である。  
 
勾玉の女神

 


早池峰山頂には、開慶水(開基水)と呼ばれる霊泉がある。この霊泉は、常に清水を湛え、霖雨に溢れず、旱天にも涸れぬという。そして不浄を加えれば忽ちに涸れ、祈れば即ち湧くというものである。
この伝説を帯びた開基水の伝説の根源は、高千穂の天の真名井から発せられ、どうやらこの早池峰の山頂へも届いていたようだ。天の真名井は、アマテラスがスサノオの剣を取り宗像三女神を化生させた誓約のシーンに登場する、聖なる泉だ。その原義は別に、遠野に広がる沼の御前伝説にも繋がっていくようである。

昔、無尽和尚が東禅寺の伽藍を建立しようとした時、境内に清い泉を欲しいと思い、大きな丸型の石の上に登ってはるかに早池峰山の女神に祈願した。
ある夜に美しい女神が白馬に乗って、この石の上に現れ、無尽に霊水を与える事を諾して消え失せたと云う。
一説には、無尽和尚がその女神の美しい姿を描いておこうと思い、馬の耳を描き始めた時には既にその姿は消えてなかったという。
また、別にこの来迎石は早池峰の女神が無尽和尚の高徳に感じ、この石の上に立たれて和尚の読経に聞き入った処だとも伝えられている。
女神から授けられた泉は、奴の井とも開慶水とも言い、今に湧き澄んでおり、この泉に人影がさせば大雨があると伝えられ、井戸のかたわらに長柄の杓を立てておくのはその為だという。   「遠野物語拾遺40」

「古事記」では剣によって化生した宗像三女神だが「日本書紀」では、八尺瓊の勾玉によって化生した。「釈日本紀」では「先師説伝。胸肩神体。為玉之由。見風土記。」とあり、宗像のご神体が玉である事を明記している。よって剣とも縁は深い宗像だが、それよりも繋がりの深さは玉にある。これは、宗像の女神が出雲に迎え入れられ、八千矛の神と結ばれた為の剣の結び付きで、本来は玉の女神なのだろう。
トンデモ本では、出雲大社の神々が本殿の向きに逆らって西を向いているのは、太陽の沈む死の方向を見据えているとも書き記されているが、もしかしてこれは宗像の方向を見つめているのではないだろうか?
出雲大社を調べると、左右の位置の上下関係は常に左を上位としているようだ。本殿の左に位置するタゴリ姫を祀っている筑紫社は、当然出雲大社としての位置付けでは上位として捉えていいのだろう。それだけ大切な関係なのだと考える。ところで大国主であり八千矛の神は、宗像の女神だけでなく、越の国の 沼河姫をも迎え入れている。
沼河姫の名は、越後の沼川郷の地名の由来ともなっているようだが、 「日本書紀」には「天渟名井」またの名を「去來之眞名井」とあり、これは高天原の「天眞名井」の事となる。 「真名井」などといろいろ記されるが本来は「マヌナヰ」の略で、「天眞渟名井」がどうも正確な呼び名のようだ。
「ヌナヰ」の「ヌ」とは瓊であって赤玉の義であり「ナ」は助詞で「ノ」と同じ。つまり「ヌナヰ」とは「玉の井」という意味となる。つまり「ヌナ井」とは、清浄な水を湛える聖なる井の意味であり、これが「マヌナ井」となれば、その底に玉を沈めた井という意味になる。
沼名川の 底なる玉 求めて 得し玉かも 拾ひて 
得し玉かも あたらしき君が 老ゆらく惜しも 
万葉集に載っている歌だが、この歌から、聖なる水の底に沈んだ玉には、生命の根源が宿っている感がある。つまりこれは月の変若水を詠っているものだろう。天武天皇の和風諡号を「天渟中原瀛眞人天皇」と書き記した事から、天武天皇もまた「天眞渟名井」を求めた…つまり不老不死ともなる月の変若水を求めた一人だったのかもしれない。
万葉集には、先程の歌の前に二首の歌を載せている。
天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも 月夜見の 持てるをち水
い取り来て 君に奉りて をち得てしかも
【返歌】
天なるや 日月のごとく 我が思へる 君が日に異に 老ゆらく惜しも
古代、玉とは勾玉の事を云った。玉の沈んだ沼や井には、その月の代用品?でもある勾玉が沈んでいるものと思われたのではないだろうか?月は、満ちては欠けるを繰り返す姿から、復活とか若返りを持つ力を持った存在と思われたようだ。その月の力が勾玉に宿り、その勾玉が沈んでいる水を聖水・聖泉として信仰されてきたのだろう。
これらによって越の国の沼河姫も、名前を紐解くと「瓊の川の聖なる女神」という意味となり、古代翡翠の産地だった越の国と出雲が結び付いたのは、宗像と出雲の結び付きに近いものであったのだろう。
三種の神器というものがあり、鏡・勾玉・剣というのが一般的だ。ただし、その文化には、時代の流れがあるようだ。
鏡は太陽を現すもので、農耕文化の発達と共に太陽信仰が成されて鏡に対する信仰が根付いたものだと考えれば、それを持ち込んだ者は、天孫族であり天津神系となる。出雲は国津神と呼ばれ、古来から勾玉を信仰してたのはわかる。つまりその根底は、狩猟民族でもあり、漁を獲ってきて生計を結んでいた海洋民族でもあった。そしてその信仰は月であり、勾玉であった。
丸い鏡が太陽であるならば、その対で現される月は三日月形であり、勾玉の形となっているのだろう。天津神々が、日本の国津神を滅ぼして大和朝廷を作った歴史から考えると、古代日本の信仰は月信仰が太陽信仰よりも古いという事になる。
実際、勾玉が発掘される年代を考えても、古代から勾玉=月という信仰が、この日本に根付いていたのだと思う。それを太陽信仰と組み合わされて作られたのが「古事記」などであり、太陽信仰を中心とするよう、作為的に編纂されたのだろうというのはわかる。「古事記」での、所謂天岩戸神話の中で、天照大神の再出現を希望する祭祀儀礼がある。
「天香山に生う、青々と葉の茂った榊を、根こそぎ掘り起こし、上枝には八尺瓊勾玉を五百個連ねた頸飾りをとりつけ、中枝には八咫鏡をかけ、下枝には、白い木綿の和幣と、青い麻の和幣を取って垂らした、これらの種々の品は、布刀玉命が神前に献る御幣として、両手に捧げ持った…。」
ここには、剣が登場していない。剣の導入時は、本来武器であったが、後に神の降臨する依代としてその形ができあがったようだ。つまりそれ以前、剣の代わりとなっていたのは榊=賢木であったのだろう。また、白い和幣と青い和幣てが登場しているが、白は太陽を表す色であり、青は月を現す色だ。ここには鏡と勾玉が登場している事から、太陽神と月神の二神を祀るのが本来の形だったのかもしれない。 

道路上にある信号の青信号を青とは言っているが、実は緑色であると皆認識している。古代の日本もまた同じで、青と緑とは同義であった。 緑とは翠とも書き表し、要は翡翠の色でもあった。その翡翠 そのものは、青玉とも呼ばれていた。つまり翠=青である。
「白山之記」というのがあり、こう書かれている。
「一つの少高き山は剣の御山と名づく。この麓に池水あり。翠の池と号す。たまたまその水を得てこれを嘗むれば、齢を延ぶる方なり。大山の玉殿あり。翠の池よ権現出生し給ふなり。」
この翠の池より現れたのは、お馴染み?の九頭龍であり、また「白山大鏡」に記載されている内容は…。
「深沙竜宮底の洞。伝く、白山娘の住まいにして九頭八龍が居る…。」
まずはじめに、白山を開山した泰澄自身が秦氏だったという事。また白山周辺には、どうも多くの秦氏が存在していたようだ。ちなみに、泰澄と役小角が開山した愛宕山も「白山」と言うそうである。
当然泰澄は秦氏であるから、思い出すのは八幡信仰。平安京遷都でも力を示した秦氏の本拠は葛野。実は「白山大鏡」で記載されている「九頭の八龍」とは「葛の八幡」にかかってくるらしい。八幡と宗像の結び付きを考えれば、当然白山の翠池とは天眞渟名井の信仰が入り込み、月の変若水信仰へと結び付く。
橋野の沢の不動の祭りは、旧暦六月二十八日を中にして、年によって二月祭と三月祭の、なかなか盛んなる祭であった。
この日には昔から、たとえ三粒でも必ず雨が降るといっていた。そのわけは昔この社の祭の前日に、海から橋野川を遡って、一尾の鮫が参詣に来て不動が滝の滝壺に入ったところが、祭日に余りに天気がよくて川水が乾いた為に、水不足して海に帰れなくなり、わざわざ天から雨を降らせてもらって、水かさを増させて帰って往った。
その由来があるので、今なおいつの年の祭にも、必ず降ることになっているといい、この日には村人は畏れつつしんで、水浴は勿論、川の水さえ汲まぬ習慣がある。
昔この禁を犯して水浴をした者があったところ、それまで連日の晴天であったのが、にわかに大雨となり、大洪水がして田畑はいうに及ばず人家までも流された者が多かった。わけても禁を破った者は、家を流され、人も皆溺れて死んだと伝えられている。   「遠野物語拾遺33」

この「遠野物語拾遺33」には、やはり水に関する禁忌がある。その祭りの日には、必ず”3粒”でも雨が降り、その祭りの日に、その淵で水浴びや水浴びをすると、祟りを受けるというもの。写真は、この「遠野物語拾遺33」の舞台である滝沢神社となる。淵の上に建立された本殿と、その下に広がる淵。その淵に水を注ぎ込む滝がある美しい景観の神社だ。確か…岩手県の景観賞も受賞していたと思ったが、それだけの景観を魅せてくれる神社だ。この神社を舞台とした「遠野物語拾遺33」に登場するキーワードは「3粒の雨」と「鮫」と「水の禁忌」だろう。また、この神社の脇には、注連縄を張った女神が降り立ったとも聞く石が存在するというのも、遠野の東禅寺の来迎石を髣髴させる。
ところで話は変わるが、諏訪の七不思議の中に、こういうものがある…。
「宝殿の天滴」
「どんなに晴天が続いても上社宝殿の屋根の穴からは1日3粒の水滴が落ちてくる。日照りの際には、この水滴を青竹に入れて雨乞いすると必ず雨が降ったと言われる。」
また、この「宝殿の天滴」が、天竜川の水源だともいわれている…。 

天竜川は、長野県から愛知県、静岡県を経て太平洋に流れる川。また「暴れ天竜」と呼ばれるように、洪水どの水害の歴史が多い川であった。そう、要は荒ぶる竜であった。その天竜川の一番古い呼び名は「麁玉川(あらたまがわ)」と呼ばれた。「麁」という漢字は「荒」と同義で、古来天竜川は別に「荒魂川」とも云われたようである。
諏訪上社の境内社である葛井神社の池に投げ入れた供物などは、遠州の鎌田の池に浮き出るという伝承がある。葛井とは、神社の由緒書によると、九頭龍の井の意味であるといい、要は諏訪には九頭龍が習合されていたという事だ。九頭龍は白山の翠池で化生して、諏訪の地にも定着したのだろう。
とにかく、この天竜川沿いの信仰を調べると、諏訪を源とする天竜川であるが、白山信仰の影響が、かなりあるようだ。
三河大神楽というのは、立願して白山という死の世界にへ赴き、再び復活するというものらしい。この三河太神楽で使用されるという竜頭十二個は、白山の御室神事にも同じという。また「麁玉川」と呼ばれた天竜川沿いには、やはり玉の信仰が根付いている。天竜川沿いに「竜の玉」と呼ばれる神宝が、いくつかの寺に伝わっているが、元は玉の信仰であり、これは安曇族の道筋を伝えているのだともいう。
また話は飛ぶのだが、朝鮮に伝わる話を紹介したい。朝鮮には、ミリネ(竜川)信仰というのがあるようで、夜空に広がる天の川をミリネと見立てているのは、天の川に竜が棲んでいるという古代人の発想によるものらしい。新羅の文武王の墓は「三国遺事」によれば、こう書かれている。
「私が死んだら、護国の大竜となって仏法を崇奉し、国を守護したい。」
この遺言によって、文武王稜は東海の大岩に作られたとあり、その形は女性器の形をしているのだと。これは再生と復活の意味するものであり、羊水を内包する女性器は水の根源であるという信仰に基づいているらしい。 また朝鮮でも竜宮思想があり、竜宮は母胎を意味し、竜宮へ行くというのは、母胎への回帰であると。
天竜川の古い呼び名の中に、「天中川」というものあるらしい。 また「更級日記」に”天ちふ川”とあるのは、実は天中川であり、別に”アメノナカガワ”とも呼ばれたのだという。
この中(ナカ)は、福岡県福岡市に流れる那珂川の意義が天竜川にも伝わっているのだと。福岡市の志賀島には安曇磯良を祀る地でもあるのだが、安曇族特有の蹴裂伝承は諏訪にも伝わる事から、やはり諏訪には安曇族の信仰の流れが入り込んでいるのだろう。これは、諏訪に流れたタケミナカタの存在もあるのだろう。タケミナカタは、大国主と越の国の沼河姫との子供であり、そして玉の信仰を持つ宗像とも繋がる。
ところで「蹴裂伝承」だが、この伝承は全国各地に広がるのだが「日本書紀」では、郡珂川の水を田に引こうとしたが、大岩が邪魔して溝を通すことができない。そこで神功皇后は武内宿弥を呼ぴつけ、剣と鏡を神前にささげて析らせたところ雷が激しく鳴り、その岩を踏み裂いて水が流れるようになった。そこで、その溝を裂田溝と称したとあるのが「蹴裂伝承」の古い話となる。 

ところで、岩手県の東和町に「丹内山神社」というのがある。「丹内」は、「胎内」に通じるというのだが、神社の背後に鎮座する御神体の大岩が、この神社の名称の由来となるようだ。考えてみても、まず大岩ありきだと思う。その岩に思って、何を信仰するかなのだろう。その大岩には「アラハバキ神」を祀るとあるが、以前、別記事で展開した流れでは「アラハバキ」は「アララキ」でもあり、それは所謂「荒神」であるとした。遠野の伊能嘉矩(1867〜1925)は、丹内山神社の大神は、地祇なりと書き記している。そしてその神は、晴山の滝沢の滝に出現す…とある。
丹内山神社の末社である滝ノ沢神社の祭神は瀬織津姫であり、単純に考えれば、丹内山神社には瀬織津姫が祀られていたとなる。先に書き記した、朝鮮の思想が日本に流入していれば、羊水を内包する女性器は、水の根源であると考えれば、当然そこに鎮座するのもまた水神なのだろう。実は、この丹内山神社には、瀬織津姫の本地垂迹となる十一面観音も祀られている。
更に、早池峰山を遥拝する石があり、気になるのは「丹内山七不思議」の一つにある「どんな干天でも水のかれない手水鉢」というのは、早池峰の開慶水と同じ意義を持っている事だ。また伊能嘉矩は、丹内山神社の下記のような伝承も書き記している。

「当に今此石を以て礫に擲げ、其の落ち止まる地を以て我が宮地と為すべし」
則ち礫に擲ぐ其の石現地に落ち止まる。因りて万代の領地と定め、該石を以て神璽と為して後世に伝ふ。

ここに登場する言葉に「神璽」とあるのは玉の事だ。つまり古代にのっとって考えれば、勾玉の事になるのだろう。つまり宗像→出雲→越の国に伝わる玉の信仰が根付いての、丹内山神社であり、その玉に化生したのは荒ぶる神であった、瀬織津姫であったのだと考える。 

ところで丹内山神社には「七不思議」というものが伝えられているようだ。「七不思議」という概念の古いものは、やはり諏訪のようである。ただ諏訪の場合、正確には上社と下社合わせて11となるようだが、取り敢えず「七不思議」の発祥は、諏訪と考えても良いと思う。
【諏訪の七不思議】
1. 御神渡
2. 元朝の蛙狩り
3. 五穀の筒粥
4. 高野の耳裂け鹿
5. 葛井の清池
6. 御作田の早稲
7. 宝殿の天滴
その諏訪の流れが、どうも遠野周辺にも流れ着いているようだ。丹内山神社の創建は、早池峰神社の創建の時期にも近いようなので、その七不思議も歴史が古いのかもしれない。ところで、諏訪の七不思議の5に、葛井の清池は先に九頭龍と書き記したが、「遠野物語拾遺」に、ある話が紹介されている。
荒屋の沼と隣村の松崎村との沼とは通じていて、沼の御前に籾殻を投げ入れると松崎村の沼に籾殻が浮かんだとも伝えられる。この沼には主がいると云って、昔から恐れられていた…とあるが、 また別に「遠野物語拾遺31」には蛇体となった松川姫の話が紹介されている。
前にいう松崎沼の傍らには大きな石があった。その石の上へ時々女が現れ、また沼の中では機を織る梭の音がしたという話であるが、今はどうかしらぬ。
元禄頃のことらしくいうが、時の殿様に松川姫という美しい姫君があった。年頃になってから軽い咳の出る病気で、とかくふさいでばかりいられたが、ある時突然とこの沼を見に行きたいと言われる。家来や侍女らが幾ら止めても聴入れずに、駕籠に乗ってこの沼の岸に来て、笑みを含みつつ立って見ておられたが、いきなり水の中に沈んでしまった。
そうして駕籠の中には蛇の鱗を残して行ったとも物語られる。ただし同じ松川姫の入水したという沼は他にも二、三か所もあるようである。   「遠野物語拾遺31話」
水辺の伝承の中に、大石に乗る女性の話は、かなり伝わる。そしてその女性は、水神である竜であり蛇にも繋がる話にもなっているのは、丹内山神社の御神体である、俗に「アラハバキ神」として祀られる大岩にも繋がるのかもしれない。そしてそれは、無尽和尚が早池峰に祈願した来迎石に鎮座した、早池峰大神である瀬織津姫の話しに繋がるものであろう。とにかくこれらの話は、諏訪の葛井神社の伝承に似通っている話であり、つまり沼の御前とは誰なのか?に通じる話でもあると考える。
「遠野物語」の大抵は、オリジナルではなく他地域からの伝播された話が定着し、地域に即した物語に変換されたものが多いと感じる。つまり、遠野を知るという事は、他の地域の信仰や伝説を知るという事に繋がる。そこには物語の伝播だけでなく、信仰の伝播・流入があったものだと考えるのが普通だと思う。
諏訪の七不思議と「遠野物語拾遺」の関連を紹介したが、当然の事ながら、早池峰にも七不思議は存在する。その中で共通する不思議とは、やはり枯れる事の無い泉であり、手水はちである。
この丹内山神社の近くに、瀬織津姫を祀ってある大沢滝神社というのがあり、やはり丹内山神社と同じ「七不思議」というのが存在する。その七不思議の一つに、こうある…。
「滝のそばの大石にくぼみがあり、その中の水が干上がることはない」
ただ丹内山神社の大本は、早池峰である。それは、丹内山神社の背後には、瀬織津姫が化生したという滝ノ沢神社と滝があり、更にその背後には、早池峰が聳えるからだ。だから丹内山神社には、早池峰遥拝石があるのだろう。その影響もあってか、大沢滝神社にも「七不思議」という概念が伝わってたのではないだろうか?つまり、この地域一帯が全て早池峰の信仰圏である事を伝承が伝えているのだと思う。
よって丹内山神社に形を変えられ「アラハバキ神」として祀られている神も、本来は荒ぶる女神である宗像の女神でもあった、瀬織津姫なのであると考える。だからこそ、早池峰の山頂にある開慶水の概念が普及し、丹内山神社、または近くにある瀬織津姫を祀る大沢滝神社に及んでいるのだろう。ただしこの経由は、宗像でも無く、出雲ても無く、恐らく白山の流れからだと思うのだが…。 

【古事記】「ヤマトタケル記」
故ここに相模国に至りましし時、その国造詐りて白ししく「この野の中に大沼あり。この沼の中に住める神、甚道速振る(イトチハヤブル)神なり」ともおしき。
ここにその神を看行わしに、その野に入りましき。ここにその国造、火をその野に著けき。故、欺かえぬと知らして、その姨倭比売命の給いし嚢の口を解き開けて見たまえば、火打その裏にありき。ここにまずその御刀もちて草を苅り撥い、その火打もちて火を打ち出でて、向火を著けて焼き退けて、還り出でて皆その国造等を切り滅して、すなわち火を著けて焼きたまいき。故、今に焼遺と謂う。

この文中に登場する、大沼に住む「イトチハヤブル神」という存在は、何だったのか?ヤマトタケルは全国の悪神などを退治し、平定してまわったという伝説の人物である。
ところで古事記の編纂は、天武天皇の命であった。それを持統天皇が受け継いだという形となっている。その為に、半分は天武天皇。半分は持統天皇の意向が入り込んでいるのが「古事記」なのだろう。ところで「日本書紀」持統天皇5年に、初めて諏訪の名前が登場した…。
「使者を遣して竜田風神、信濃の須波、水内等の神を祭らしむ。」
これは、天武天皇の意向を汲んでのものだった、とも伝えられている。ところで壬申の乱において、大海人皇子てある後の天武天皇は、赤い旗を掲げて戦ったという。これは天武天皇が漢の高祖帝に自らを擬えていたのだと。
高祖となった劉邦は以前、道の真ん中でとぐろを巻いて居たという白蛇を斬ったという。その白蛇とは「白帝の子」の化身、つまり秦国の象徴であり、それを斬ったのは「赤帝の子」であるとの伝説を生む。五行説によれば、白 (金徳) の秦王朝は、赤 (火徳) を持つ新王朝に滅ぼされるという意識をもっての、壬申の乱であり赤旗だったようだ。中国の左伝には、昔、高辛氏に2人の子供がいて、ある時兄弟に争い事が起こり、ついに剣をとって戦い始めたという。そこで天子は、兄を商の国にうつして「辰の星(さそり座の三星)」を司らせ、弟を大夏の国へうつして「参の星(オリオンの三星)」を司らせることにしたとある。
アンタレスで有名なさそり座の星は、火の星とも言われる。その相対する星とは、からすき星であるオリオンとなる。つまり天武は、白竜を殺した劉邦に倣っているのだが、そのまま火の象徴である辰の星と呼ばれるアンタレスをも意識していたのではないだろうか?だからこそ、相対する龍であり、星を怖れた。
ちなみに陰陽五行による火の三合でいえば、最も盛んな時が午であり、色は赤となる。しかし、その火に相対する水の三合とは、申に生じ、子に盛んとなる。色で表せば、申は金気の白であり、子は水気の黒となる。五行相生では「金生水」という事から、金は水を産む。しかし水は五行相剋となれば「水剋火」となり、火の大敵となる。
その火の星であり、辰の星であるさそり座のアンタレスは、夏に盛期を迎え、オリオンが昇る冬には沈む。これはギリシア神話では、サソリによって死んだオリオンがサソリを避ける話となっているが、中国ではその逆となっている。
以前、荒ぶる女神の展開を書き記したが、竜には牡竜と牝竜がおり、角があるのが牡竜であり、角の無いのが牝竜となる。ある意味、相対する存在でもある。つまり、火の竜として君臨した天武天皇の恐れた存在は、やはり竜である牝竜であり、火に相対する水の竜ではなかったのかという事。だから天武天皇は、その水の竜を鎮める為に諏訪のある信濃に遷都を考えたのでは無かろうか?
安定した政治を司る為には、龍脈を抑える必要がある。その為には、龍穴を探さねばならない。龍穴には必ず、龍が水を飲む水源があるので、その水源を天武天皇は諏訪に求めたのかもしれない。「日本書紀」天武13年には…。
「是の夕に、鳴音有りて鼓のの如くありて、東方に聞ゆ。人有りて曰く、『伊豆嶋の西北、二面、自然に増益せること三百余丈、更一つの嶋となれり。則ち鼓の音の如くあるは、神の是の嶋を造る響きなり』といふ。」
天武天皇の元にも、遥か遠い東国の伊豆の噴火の話が伝えられているのは、それだけ龍脈の乱れを意識し恐れていたのではなかったのか?つまり天武自らが、天に認められていないのでは無いか?という懸念が、神経質までに全国の天変地異の情報の入手となってたいたのではと感じる。 

遠野市小友町には、巌龍神社がある。創建は明らかではないのだが、常楽寺の開祖である無門和尚が不動明王を勧請して、巌龍山大聖寺と呼称したとあるが、それ以前から、この地は地域の人々から崇拝されていたのだろう。何故なら、水が湧き出る地であるからだ。
古代信仰には、樹木信仰と共に磐信仰がある。社を構えずに、そのままの姿を崇拝していたのだという。屹立した、俗に呼ばれる不動巌もまた、天にも昇るまでの景観を示しており、またその根元には、今でもこんこんと水を湧き出させている。つまり、巌龍神社の創建以前にも、この地は崇拝されていたという憶測が成り立つ。
この巌龍神社に伝わるものに、蛟龍の昇降の跡と、神の水というのがある。水の湧き出る根源に、古代では神を、そして龍をイメージしたものだった。その龍が現れる水は清いものであり、そこには天眞渟名井の信仰が広がっているのだろう。この不動巌の根元には不動尊を祀る島があるというのだが、今では金毘羅の石碑と、一つの玉石が祀られているだけだ。この祀られている玉石そのものが龍の玉であり、天眞渟名井に伝わる聖なる玉。勾玉の女神が化生する玉の信仰となる。
水の湧き出る傍には、早池峰大神の石碑が立ち、その背後には、またこれも龍が昇ったとされる岩の溝が上まで続いている。水の湧き出す神水から龍が岩肌を駆け昇るというのは、これもまた一つの滝の定義である。天眞渟名井の信仰と共に、この地にも滝神であり早池峰大神である瀬織津姫の信仰が伝わったものと思う。 
 
中国史書に見る倭国

 

倭体制の形成期 
1、弥生温暖期になって稲作が北上した
1−1 稲作の北上
BC900年頃に縄文晩期寒冷期が終わり、弥生温暖期が始まって急速に温暖化すると、西日本から畔を伴う水田遺構が発掘される様になる。青銅器時代がなかった日本列島で畔を作り始めた事は、鉄器が普及し始めた事を示している。但しこの時代には、鉄器が直接農耕に使われたのではなく、鉄器で樫などの堅い木や竹を加工し、農具を作り始めたと想定される。それ以前に倭人が鉄器を使って船を作り始めていたから、その転用が進んで農耕の鉄器時代が始まったと想定される。
日本最古の水田遺構は唐津の菜畑遺跡で、測定年代の評価に各論あるが、温暖期が始まって間もなくの事だったと想定され、倭人のコメに対する執着を示している。
弥生時代の水田稲作は、荊と縁が深かった倭人地域で温帯ジャポニカが栽培され、粤と縁が深かった日本海沿岸で熱帯ジャポニカが、主に栽培されたと想定されるが、熱帯ジャポニカは縄文時代から、焼畑でアワと共に生産されていたから、弥生時代前半の稲作の主流も、焼畑農耕だった可能性が高い。農学者の佐藤氏は、温帯ジャポニカは施肥が十分であれば、熱帯ジャポニカの生産性を凌ぐが、施肥が不十分であればむしろ、熱帯ジャポニカの方が生産性は高いと指摘しているから、焼畑農耕での熱帯ジャポニカ栽培と比較し、多大な労力を投入して畔を伴う水田を形成しても、その労力に見合った収穫が得られたとは考えにくい。従って畔を作って斜面を水田化したのは、温帯ジャポニカの生産地を拡大するためだったと考えられる。
しかし青森で発見された水田では、熱帯ジャポニカが栽培されていた事が指摘されているから、弥生時代のある時期から、熱帯ジャポニカも水田の方が高い生産性を得られる事に、気付いた事になる。それは畔を作る技術が向上した事、即ち鉄器で作った木製の農具が普及した事を示している。
藤尾慎一郎氏が、水田稲作の拡散と銘打って著述した「新弥生時代」では、以下であると説明している。
BC10〜9世紀に水田稲作が北九州で始まり、BC8〜7世紀に四国南部に、BC7〜6世紀に大阪平野に、BC4世紀に青森へ、関東に拡散したのはBC2世紀だった。これによると、北九州で水田稲作が始まってから関東に到達するまでに、8〜700年も掛かった事になる。未だ寒冷期だったBC10世紀に、温帯ジャポニカの栽培が始まったとは考えにくいから、北九州の水田稲作開始はBC9世紀以降だったと考えられ、BC10世紀とする歴博の見解には時期時早尚との批判も多いから、北九州で温帯ジャポニカの水田稲作が始まったのは、BC9〜8世紀と考えるのが妥当だろう。
しかし関東の水田稲作開始は、北九州より500年以上遅かったとする見解は、この様な微調整では済まないから、違和感が拭えない事になる。
違和感を引き起こす理由として、当時の水田稲作が海岸の沖積地で実施された事に、起因している疑いがある。特に地盤の沈降地殻帯になっている海岸で、その様な稲作が行われれば、古い遺跡は発見されないだろう。地殻が隆起しているのか沈降しているのかは、縄文時代/活動期の項で紹介した、国土地理院のデータを参照する事ができる。それによれば大阪湾岸も東京湾周辺も、100年間に30p以上沈降している顕著な沈降地帯だから、3000年前の海岸は現在10mほど沈下している事になり、むしろ発掘されない事が当然になる。逆に北九州や四国南部は隆起地帯だから、この様な問題は発生しない。従って弥生温暖期に水田稲作が登場したとしても、水田稲作が海岸の沖積地で行われた場合には、具体的にどの様に拡散したのか、考古学的には分からない事になる。
中国の温帯ジャポニカは、弥生温暖期に青州(山東省)まで北上したから、同緯度の関東でも稲作が可能だった筈だから、関東の水田稲作の開始に大幅な遅れがあったとすれば、中国の事情を精査する必要がある。
1−2 中国の稲作民の状況
縄文晩期寒冷期に、粤は江西省の贛江(かんこう)流域に集住し、呉城文化を形成していた。その遺跡は江西省内に100箇所以上あり、多数の地域政権の集合体だった事を示している。越人は後世までその様な、地域政権を主体とする体制を維持して百越と呼ばれた。その体制から生まれた製陶技術は殷より優れ、磁器の生産も始まっていた。
雑穀民が華北に作った鄭州や殷墟の都城は、広大な外郭に囲まれて集住地を形成し、中央集権的な権力の強さを示しているが、集権的な商王朝と分権的な呉城文化を比較し、文化の成熟度を議論する事は不適切だ。王朝史を論じるのであれば、都への集住規模を進化と考えても良いが、産業史やそれを支えた体制を論じるのであれば、武力的な統一政権が採用した中央集権制下で、富の集積が生み出した奢侈品を評価し、文明進化の指標と考える事は不適切だ。王朝史は現代史に繋がらない事を、現在の共産中国が実践的に示し、日本の倭人的な伝統文化の、産業社会への適応力の高さは評価できるから、日本史を論じるのであれば、王朝史観は脇に置くべきだろう。
天水に頼る粗放な農耕を行っていた華北の雑穀民は、農耕地に執着せざるを得ない宿命を持ち、そのためには耕作権を保証する権力を頂かなければならず、雑穀民の権力は武断的な傾向が強く、文明の進化によって武力的な統合が促進され、王朝を形成した。稲作民の権力も本質的には同様だったが、雑穀民が必要としなかった灌漑水利事業を機能とする必要があり、そのために地域住民を地域毎に統制する必要が生まれ、分散的な地域政権を進化させた。
天水に頼る華北の雑穀栽培は収穫が不安定だから、凶作が頻発する中で武力的に穀物の争奪を行い、それが半ば習俗化したから、その様な集団を統制するためには、集権的で武断的な政権が必要だったと考えられる。それ故に多数の常備軍を備える必要が生まれ、その集住を支えるために、農民の賦役を使って穀物を集積し、必要な武器や権力を装飾する奢侈品を宮廷工房で製作したが、それでも不足するものは、武力を使って強奪したと想定される。その様に富を集積する中で、より遠方の物産が必要になれば、それは交易者に頼る事になった。その様にして蓄えた奢侈品や武器を、或いは権力を誇示する巨大な建造物を、文明の進化と捉える事は誤りだという事だ。王とその取り巻きは、年貢を収奪して豊かになったが、民衆は貧しい状態に放置された。中華はその体制を、2000年以上続けた事になる。
稲作民社会は相対的に食料が豊かで、王権の収奪が緩かった上に、海洋民族との共存によって交易が活発化したから、幅広い需要を求めて商品生産が進化した。小国が分立した稲作民社会では、生産した商品は競争的に需要を獲得する必要があり、生産に関する技術革新が発生した。雑穀民社会の宮廷工房は、その技術を導入し、貴族趣味的に加工を精緻化したと考えられる。呉城文化圏で製陶技術が進化したのは、その様な社会の違いがあったからだと考えられる。
殷の支配地の外にあった呉城文化の陶器が、殷の帝王墓から発掘される事は、上記の想定の根拠になるだろう。陶器の様に重く壊れやすい物品を、贛江(かんこう)流域から殷墟に運んだのは、海洋の操船に優れた倭人だった可能性が高い。
揚子江下流域はBC1000年頃に地盤が隆起し、稲作に適した広大な沖積平野が出現した。漢書地理誌によれば、春秋時代の揚子江下流域に呉が形成されていたが、東シナ海沿岸にあった国の並び順は、南から呉、粤、斉だから、これが春秋戦国期の国の並び順だったと考えられる。つまり呉が、浙江省、安徽省、江蘇省南部、越が江蘇省北部、山東省南部、斉が山東省、河南省東部を、版図にしていた事になる。漢代の粤は広東以南の住民としているが、これは越と呼ばれた政権の所在地ではなく、粤の漢代の居住地を示している。
話しが込み入っているが歴史的に考えると、寒冷期の粤は広東以南に集住していたが、弥生温暖期に一部が北上して江蘇省北部と山東省南部に入植し、民族の代表としての越政権が、山東省南部の瑯琊に都を定めた事になる。越の背後に東南アジアの海洋民族がいたから、南シナ海や東シナ海の沿岸である限りこの様な遠隔地でも、入植や往来に不便はなかったと想定される。
史記や漢書の粤と越に関する記述が乱れ、民族政権の移動に関する因果関係が不明なのは、歴史を捏造して稲作民の事績を抹殺しようとしても、当時の常識までは抹殺できなかったから、その残渣が不条理な状態で残っているからだと考えられる。それらを含む漢代の史書の物語は、歴史を復元する参考にはならないが、漢書地理誌の方位の様に前代の記述がベースになっている場合、事実の残渣が残ったと考えられる。
古墳寒冷期に揚子江下流域や江西省にいた越と、徐(州)への北上を企図していた荊がいた事から、弥生温暖期の彼らの北上を想定すると、荊は徐州から更に北上し、山東省で大麦栽培者だったアーリア系民族と一緒に斉を形成したが、荊が江蘇省に居なくなったわけではなく、越が江西省や浙江省以南から、江蘇省北部や山東省南部に北上して越を形成した際に、沿岸部は海洋民族的な越の地なっても、内陸は依然として荊の地だったと考えられ、越はそれらも支配する政権だった事になる。
揚子江下流域にいた荊が呉を形成したから、越はそれを避けて山東まで北上したと考えられるが、内湾が多い山東半島は、海洋民族の湊の立地として優れているから、湊の立地が得られなかった揚子江下流域の領地化は、呉政権に譲ったという事かもしれない。もう少しその想定を進化させると、海洋民族的な性格が強かった山東省の越は、稲作民族である事を放棄して交易に専念し、コメの供給は内陸の荊に依存する関係になっていたから、その地も見掛け上越の領域に見えたが、実は荊の小国が散在していた可能性が高い。その様に推測する根拠は、倭人がその様な体制だったからで、その具体的な根拠は古墳時代の項で明らかにするが、海洋民族とは関係がなさそうな古墳が、内陸にも多数散在している事は、その様な関係にあった証拠だと考えられるからだ。見掛け上の古代王朝の支配関係も、穀物を集積するほどの輸送力がない時代に、交易者が恣意的に交換比率を決定できる経済的な支配者になり、それが及ぶ範囲が、古代王朝の支配地だったと想定される事も、その根拠になる。
漢書地理誌に記された作物から、各地域の民族を考証すると、斉の版図だったと考えられる青州の主要な穀物は、麦と稲だったから、斉は荊と麦栽培民が形成した国だった事になる。山東南部の瑯琊を根拠地にした越は、元々は熱帯ジャポニカを栽培していた粤の政権だが、古墳寒冷期の江西省で呉城文化を形成した稲の生産力から考えると、その地域の越は、温帯ジャポニカに切り替えていた可能性が高い事を、縄文時代/成熟期の項で指摘した。江蘇省北部や山東省では、弥生温暖期であっても、中国南部や東南アジアで栽培していた熱帯ジャポニカは、栽培できなかったと考えられるからだ。但しそれは上記の様に、越が稲作を放棄して海洋民族になり、栽培者は養蚕や苧麻の栽培に注力するか、野菜類の栽培に特化し、コメは周囲の荊の国から購入していたのであれば、江西省では熱帯ジャポニカを栽培していた事になる。その様に2者択一的に考える必要は、ないのかもしれないが、混合栽培を行っていたのであれば、日本で耐寒品種と農法が生まれた様に、東シナ海沿岸の温帯ジャポニカも耐寒性を高めていた筈だが、それでは古墳寒冷期の中国の稲作が、江蘇省まで壊滅した事が説明できないから、混合栽培はなかった筈ではある。
稲作民だった越や荊が山東省まで北上した事は、同緯度である朝鮮半島南部にも、越が入植していた可能性を高める。魏志東夷伝は、稲作をしていた弁辰人の文明度は、朝鮮半島南部で際立っていたと記しているから、越系の民族が朝鮮半島南部にも、入植していた可能性が高まる。朝鮮半島のミトコンドリア遺伝子mt-M7cは、この民族が起源だったと想定され、この遺伝子はフィリッピンやインドネシアの遺伝子だから、漢末の弁辰人は、東南アジアの島嶼部を起源とする人だったと想定される。それが越の分派だったとすると、越は海洋民族だった事になる。但し海洋民族と言っても、船に乗る民族と内陸で栽培や商品生産を行う民族は異なる。彼らが後世の新羅だった事と、新羅には海洋性がなかった事から考えると、弁辰人は栽培や商品生産を行う内陸民族だった事になる。魏志弁辰伝は「養蚕の仕方を知って、縑布(高級な絹布)を作る。」「その国は鉄を出荷する。」と、産業化した弁辰人の様子を示している事は、その想定を補強するが、入れ墨以外には、倭と共有する文物はなかった事に注目する必要がある。東南アジアの海洋民族と言っても、その居住域は広大で、各地の習俗には異同があったと想定され、漢書地理誌粤の条に記された、活発な海洋交易を行っていた民族が、倭人と習俗を共有していたと魏志倭人伝は記しているが、それが東南アジアの海洋民族の全てではなく、越の習俗は彼らと異なっていたから、弁辰人の習俗は倭人のものと異なっていたのかもしれない。但し弁辰人には歴史的な入植時期が異なる2種があり、春秋時代に山東半島に入植した越の分派と、漢末から後漢代に入植した製鉄集団は、東南アジアの海洋民族ではあっても異なる民族だったと想定され、時間差も含め、戦国時代の越と漢代の弁辰人を同一視する事はできない。
日本海沿岸の海洋民族の故地だった北陸が、後世「越」と呼ばれた事も併せて考えると、日本海沿岸、朝鮮半島南部、山東・江蘇省が、フィリッピンやインドネシアの海洋民族と密接な交易関係を持つ、連帯的な地域だった可能性を示唆する。日本海沿岸の海洋民族の第2の故地だったと考えられる、出雲について記された出雲風土記が、弁辰人の末裔だった新羅を特筆している事も、その根拠になるだろう。但し北陸に越が入植したとは考え難いから、民族の生業的な属性を示す言葉として、越は彼らの言語で海洋民族を指し、越はその翻訳漢字だったと考えられる。漢王朝の成立と共に言語が混乱し、粤が越と同じ音になってしまったのではなかろうか。
以上をもう少し広範囲に纏めると、弥生温暖期の荊は、揚子江中流域に楚、下流域に呉、四川省の平坦地に巴、山東省に斉を建国した。粤は東南アジアの海洋民族と共存しながら、浙江省以南を居住地にしていたが、弥生温暖期になると江蘇省北部〜山東省の東シナ海沿海部に越を建国し、浙江省以南に百越を建国し、四川省の成都高原に蜀を建国し、東南アジアの島々に入植して海洋民族の内陸民になった。
1−3 稲作の北上
下の図は農学者の佐藤氏が作成した表で、縄文時代から栽培していた熱帯ジャポニカと、弥生時代に導入した温帯ジャポニカが、同じ水田で混合栽培されていた事を示している。その様な日本独特の栽培により、温帯ジャポニカの短日性が失われると同時に、その新品種に合わせて耐寒農法が進化したので、古墳寒冷期になると、中国の稲作は揚子江流域まで後退したのに、日本では関東平野が稲作地帯であり続けた。
中国では行われなかった混合栽培が、日本で全国的に行われた最大の理由は、中国には耐寒性の高い熱帯ジャポニカがなく、日本にだけあったという事だろう。そうは言っても、中国の温帯ジャポニカが日本列島に持ち込まれたのだから、中国式に温帯ジャポニカを単作しても良かった筈だが、日本だけが混合栽培を行った事の説明が要るだろう。上の図が、温帯ジャポニカを優先的に栽培した事を示しているのは、温帯ジャポニカの味覚が優れているからだと考えられ、熱帯ジャポニカを混ぜて栽培したのは、不作になるリスクの回避だったと想定される。但し寒冷地での収穫が不安定だから、リスク回避として混合栽培したのであれば、温暖な西日本では熱帯ジャポニカの比率が下がる筈だが、その様になっていないのは、旱魃のリスク回避策だった可能性が高まる。
一般論としての話だが、毎年自分の田から種籾を取っていれば、イネの一部が他家受粉する中で、イネの遺伝子は均質化されて行き、やがて次第に純化していく事になる。意識的に多品種化するべく種籾を選んでも、その流れは止められないだろう。日本中が似たような割合で、温帯ジャポニカを主体にしながら熱帯ジャポニカも栽培していた事は、温帯ジャポニカに純化していく種籾に対し、何年かに一度熱帯ジャポニカの種籾を、新たに混ぜていた事を示唆している。山間で縄文時代以来の焼畑農耕をしながら、熱帯ジャポニカを栽培していた者達がいたから、彼らから熱帯ジャポニカの種籾を入手した日本の水田稲作者が、一定割合の熱帯ジャポニカを意識的に混入し、旱魃のリスク対策を行う事が、水田稲作の一般的な手法になったのではなかろうか。江蘇省や山東省では焼畑農耕は出来なかったし、耐寒性が高い熱帯ジャポニカもなかったから、それがリスク回避策として有効だと仮に分かっても、その様な農法を日本から移植する事はできず、日本独特の稲作になったと考えられる。その様に栽培した温帯ジャポニカは耐寒性が高いと言う知識も、経験的に得られた可能性は高い。
佐藤氏は、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカを混合栽培すれば、短日性を失った温帯ジャポニカを容易に得る事ができると指摘している。しかし新品種として、一様に短日性を失った温帯ジャポニカを作り、それを使って早春の冷たい水を温めて苗代を作り、温帯ジャポニカの本来の播種時期に田植えをし、実質的に播種時期を早め、秋の刈り取り時期を前倒しにする事により、冷害による稲の不稔を避けるという耐寒農法は、容易に生まれた筈はない。先ずは上記の様な稲作が繰り返される内に、一様に短日性を失った温帯ジャポニカが生まれ、日本式の寒冷地農法が生まれる素地ができたから、上記の様な複雑な農法が生まれたと考えられる。上記とは違う何らかの手段で、播種時期を早めた熱帯ジャポニカは、不稔リスクを軽減できる事が既に知られていなければ、それを温帯ジャポニカの水田稲作に適用する流れには、ならなかったのではなかろうか。
弥生温暖期の青森の気候は、古墳寒冷期の関東の気候とほぼ同じだったから、上の図は弥生温暖期の青森で、温帯ジャポニカの耐寒性を高める日本独特の農法が、既に生まれていた事を示している。古墳寒冷期の高崎と、弥生温暖期の青森の気候はほぼ同じで、古墳寒冷期の高崎に、多数の巨大古墳が築造されたからだ。弥生温暖期に存在しなかった耐寒農法や耐寒品種が、古墳寒冷期になって突然生まれたのではなく、既にその技術は弥生温暖期に在り、古墳寒冷期に改良が加えられて、生産性が高まった事になる。寒冷化の中で生産が不安定になったり、減収に見舞われたりしている中で、画期的な農法が生み出されたとは考え難く、むしろ温暖期の生産拡大の中で、遊び心も交えながら農法や品種が改良されたと考える方が、より現実的である様な気がする。
2、東アジアの交易構造の変化
2−1 周王朝の成立と温暖化による周政権の変質
縄文晩期寒冷期に、周が殷を滅ぼして華北に周王朝を樹立した。その経緯は縄文時代/成熟期の項で説明したが、寒冷期に成立した周王朝が、温暖化した春秋時代にどの様に変遷したのか検証する。史記には多くの捏造が含まれているので、竹書紀年と金文からこの時代を読み解く。
縄文晩期寒冷期になって華北のアワ栽培が不振になり、世情不安が高まる中で、武断的で集権的な殷人の統治に不都合が目立つ様になり、殷が直接間接に支配していた諸民族の不満が高まった事は、想像に難くない。殷王墓の豪華さから考えると、殷人は青銅の武器と戦車を駆使し、諸民族を武断的に支配していたと考えられ、その武力を王朝の都に維持するためには、支配民の労力を酷使して、穀物を都に運ばせる必要があったと考えられる。運送手段が発達していなかった時代だから、民衆の負担は重かったと想定されるが、その労働から得られるものとして、民衆が実感できる利便性やメリットはなかっただろう。商王朝の時代には、中央集権制が制度として確立していたわけではなく、各地に原初的な地域集団が割拠する状態だったから、諸民族に不満が広がり、窮乏状態が極まって治安が悪化したと想定される。その様な状況は交易者にとって、極めて好ましくない状況を生んだと考えられる。
周は殷を軍事的に倒したが、周が単独で殷を倒したのではなく、諸民族を糾合して殷に勝ったと竹書紀年は記している。その際に周軍に参加したのは、殆どが稲作民だった事を、竹書紀年だけでなく史記さえも認めている。未だ文明が成熟していなかったこの時期の華北には、商王朝以外に、目ぼしい政権が生まれていなかったからだと考えられる。或いは中央集権的で武断的だった商王朝が、その様な集団の発生を抑圧していたのかもしれない。
縄文晩期寒冷期だったから、稲作民は華北から撤退していたが、稲作民政権が軍を派遣してまで華北の治安を維持したいと考えたのは、稲作民の商流が華北に張り巡らされていたから、粗暴な雑穀民がそれを妨害する事に不都合を感じていたか、あるいは他に理由があったのか分からないが、稲作民が殷の討滅に参加したのだから、何らかの強い理由があった事は間違いない。
竹書紀年は、周が殷を倒した際の支援国として、庸(楚)、蜀(四川)、羗(四川、陝西)、髳(雲南)、微(四川)、盧(?)、彭(江蘇)、濮(呉?)を挙げているが、周の統治時代の事績にそれらの国が登場しない事は、周が稲作民によって擁立された、華北の統治機構だった事を示している。それを稲作民の側から見ると、上記の問題から免れていた筈の、四川や雲南の稲作民集団も軍を出している事は、稲作民の側には、これらの地域からも軍を挑発することができる、全体的な統治機構があった事を示唆している。夏王朝は華北から撤退していたが、それを引き継いだ全稲作民を統治する仕組みが、この時代にも継続していた事になり、夏王朝期に帝と呼ばれた差配者が、その中にいた可能性を示唆している。
それを言い換えると、揚子江流域には稲作民の地域政権が展開し、それを統括する帝がいたから、周はその稲作民の帝の支援を受け、殷人の王朝を倒し、黄河流域に散在した文明的な政権を持たない雑穀民の、統治を委託されたと考えられる。従って春秋時代に中華世界が広がったとする歴史観は、華北の雑穀民王朝の世界観であり、揚子江流域には文明化した稲作民の政権が、秩序を持って展開していた事になる。
竹書紀年や金文に記された、周が攻伐したり来賓としたりした相手は、華北の国や民族が多い。周は華北の民諸族を、商王朝的な中央集権主義ではなく、稲作民的な分権社会として支配するために、封建主義的な統治を行った事になる。但し民族の根拠地を移動させるという、帝国主義的な支配も行った。
それに関する竹書紀年の記事を検証すると、殷の遺民が周初に反乱を起こしたが、それを制圧すると彼らを衛に移し、反乱の後ろ盾になっていた淮夷や奄(えん)を滅ぼすと、洛邑(後の洛陽)に移した。周王朝の商業活動の、手先として使ったのではなかろうか。
唐を滅ぼすとその遺民を杜に移し、周王が代わった機会に晋に移した。戎を太原に移したが、その後も彼らの反抗に悩まされた。
攻撃的な民族を討伐し、他の地域に移封してその勢力を削ぐ事は、帝国主義的な多民族統治の一般的な手法だが、暴力的な雑穀民を支配するためには、その様な統治手段も必要だったのだろう。労力をかけて水田を形成していた稲作民に対し、その様な統治法は不可能に近かったと想定されるが、天水農耕を行っていた雑穀民に対しては、可能だったと想定される。商王朝はその様な統治を行っていたから、周もそれを継承したと考えられる。
周が統治していた時代(西周時代)には、黄河流域に都城が建設されなかった。寒冷期の華北平原は農耕が不振を極め、都城を建設する余裕がなかったからだと推察される。しかし周王朝の直轄地では、宝貝の貨幣化が進展して庶民も宝貝を使う程に、経済は活況を呈していた。雍州は寒冷化の被害が少ない地域だった上に、解池の塩を販売して経済力を付け、華北の内陸交易を独占したからだと推測される。殷人は後に「商人」という言葉を遺す交易民だったから、彼らを洛陽に移住させたのは、洛陽を商業都市とする思惑があったからだと考えられる。
稲作民が歴史を編纂したとすれば、周は華北の雑穀民を統治する、辺境の地方官と位置付けただろう。それは漢王朝には不都合な事実だったから、史書は周が支配する地域を、中華の天下だったとせざるを得なかった。
竹書紀年には、周王朝と稲作民の関係も記され、周初の成王期に越裳氏来朝、於越来賓と記されている。論考には越常も登場するから、百越の幾つかの国が、周に出向いた事になる。於越は春秋戦国時代に江蘇省から山東省に展開した、越の中核国だった。
四代目の昭王の時代に、楚は交戦国として登場する。昭王は直営軍である六師と共に、祭公と辛伯を率いて漢(湖北省北部)に進撃するが、軍が全滅して昭王は戦死する。周が稲作民に何かを求め、その交渉が決裂したから進撃したと想定されるが、稲作民から手厳しく拒否された事になる。
五代目の穆王の末期に、荊人が徐に入ったので泲で破ったと記している。徐は現在の徐州の北部で、この荊は政権を持たない稲作民集団だったと推測され、温帯ジャポニカの耐寒性を高めて北進したと想定されるが、BC950年の事だから、この頃弥生温暖期への移行が始まった事を示唆している。
穆王はその2年後に、大軍を起こして九江に侵攻し、最後に越と戦ったと記されている。九江は揚子江沿岸にあり、呉城文化を形成していた江西省の北の入り口になる。周軍は越の境界まで侵攻したが、それ以上は進めなかった。しかし東北に進むと荊が出迎え、塗山(安徽省北部)で諸侯と会盟した。
9世紀になると周の権威が低下し始め、894年には西戎に、周の中核地である鎬京に侵攻され、翟人も岐(周の別の根拠地)に侵攻した。温暖化が始まって異民族の農業や牧畜の生産性も向上していたから、予期しない猛攻を受けたのではなかろうか。
BC880年に、楚が庸から鄂に根拠地を代えた。揚子江流域の山間地から平野の中心部に遷ったのだが、その理由は、温暖化して人口が増えて農地が不足し、鉄器が普及し始めて治水技術が向上したからだと推測される。庸は殷周革命時に、周に加勢した筆頭勢力だった事を思い起こす必要がある。
悪名高い脂、(れいおう)が857年に即位すると、竹書紀年は「楚人来りて亀貝を献ず。」と記している。豊かになった楚が従前の厳しい姿勢を転じ、誼を通じて来た事になるが、実際は楚の方が上位者だったのではなかろうか。温暖化して農業生産性が高まり、脂、が贅美に走って油断したので、同様に豊かになっていた辺境の異民族に、根拠地や洛陽に侵攻されたと推測される。事態が混乱すると国人も反乱を起こし、王は逃亡する羽目になった。
次の宣王の時代に、周辺異民族との抗争が激化しただけでなく、一部諸侯との関係も不穏になり、西周最後の幽王の時代には、封建領主間にも争いが生まれていた。幽王が討伐した国や異民族が同盟し、逆に首都の宗周に攻め込む事態になり、BC771年に王が殺されて西周は滅亡した。
温暖化して豊かになると、各地の集団が勝手な行動を取り始め、周の従来の統治方法ではそれに対処できなくなった事が、周の滅亡の主因だったと考えられる。元々武闘的だった雑穀民は、豊かになると青銅の武器を調達し始め、周王朝が独占していた青銅の武器使用状態が崩れ、それが騒乱に拍車を掛けた疑いがある。
BC771年に晋公が、衛侯、鄭伯、秦伯と共に軍を率い、彼らが擁立した周王に従って洛陽に入り、春秋時代が始まった。温暖化によって雑穀民社会が豊かになり、青銅器が普及し、開墾が進むと同時に武器が量産され、地域政権が雨後の筍の様に生まれた。それらが騒乱の核になり、地域政権間の戦闘が常態化した時代が、華北の春秋時代だった。
2−2 倭人と周王朝の関係
論衡に「成王(BC11世紀)の時,越常は雉を献し,倭人は暢を貢す。」、「周の時天下太平,越裳は白雉を献し,倭人は鬯草を貢す。」と書かれ、周代に倭人の名称が定着していた事を示している。しかし朝議録である竹書紀年では、越裳や粛慎は登場するが倭の名前はない。その理由を考えると、倭が周王朝に宝貝を供給していた事実が、隠匿されていた事を示唆しているという結論になる。
「鬯」は秬(黒黍)で醸造した酒に、香草の鬱金を混ぜた香酒を指したから、暢も鬱金(ウコン)だったと想定され、殷代に宮廷儀礼として盛んに飲酒し、その酒に香りを付けていた香草だったと考えられる。穀物の生産量から推測すると、寒冷期の最中だった周王朝は、温暖期末期に建国した商王朝より貧しかったと想定され、周王朝も商王朝の様に、贅沢な飲酒が朝廷儀礼に採用されていたのか明らかではないが、商王朝と倭人の宝貝交易に付帯したその他の物品交易も、周が引き継いだ事を示している。
ウコンは亜熱帯産の植物だが、沖縄にも独自の品種が伝えられている。その起源は分からないが、殷に沖縄のウコンを提供した可能性があり、ウコン以外にも稲作民の文化要素だった陶磁器や、東南アジア産の香辛料や植物資源を、周にも供給したと考えられる。
周の本拠地だった西安郊外の遺跡から、宝貝が多量に出土する事は、倭人が相変わらず宝貝の供給を熱心に行っていた事を示す。周代には庶民の墓からも宝貝が発掘され、宝貝が普及した事を示している。宝貝が銅本位制を維持していたとすれば、銅の生産量が増加し、庶民にも普及し始めた事を意味すると同時に、穀類などのその他の商品に対しては、インフレ状態になった事を意味する。倭は沖縄での宝貝生産量を増やし、周の商都だった洛陽への輸送力を増強し、他の商品と共に周王朝に多量の宝貝を提供し、周はそれを諸侯に配布する事によって、権威の背景としたと想定される。倭人がその様に熱心に交易を行う事によって、周王朝の支配地域から、何を見返りの商品として得ようとしていたのか、甚だ疑問になる。銅は一つの候補ではあるが、この頃の日本列島では、青銅製より機能が優れた蛇紋岩製の磨製石斧が安価に入手でき、その他の各種の石材も用途に応じて入手できたから、青銅器時代がなかったと考えられる。従って倭人は、青銅が多量に欲しい状況にはなかった。倭人が欲しい商品を多数持っていた東南アジアの海洋民族も、同様な火山列島に住んでいたから、同様な事情にあったと推測される。複雑な流通経路を想定すれば、倭が華北から得た青銅が東シナ海沿岸の海洋民族に渡り、それが内陸の稲作民に渡る事によって、海洋民族が内陸の稲作民のコメを入手する仕組みはあったかもしれない。しかしその需要だけでは、物流の重要な位置を占めたのか疑問がある。しかし宝貝がインフレ状態になると銅の価値も下落し、倭人が宝貝交易によって入手した銅の量は、桁違いに増えていったと想定される。
弥生時代に銅剣銅矛や銅鐸が盛んに作られたのは、その様な交易によって得た多量の銅の在庫処分に窮し、日本列島内の銅の消費を促進するために、倭人が内陸の農民に仕掛けた消費ブームだったのではなかろうか。閉鎖社会で付加価値を異常に高めた銅の流通により、コメの多量入手が容易になる事は、倭人にとって好ましい流れだったからだ。温暖化してコメの生産性が向上していたから、従来のレートでの海産物との交換だけでは、コメが余剰になるという農民側の事情もあり、その様な青銅器の流通と使用が日本列島に広がったと想定される。宝貝貨の消滅時期と銅鐸などが盛んに作られた時期が、一致するわけではないが、長期間在庫になっていたからといって品質が劣化するわけではないから、何世紀も財貨として在庫状態になっていた事に違和感はない。
「越常」や「越裳」は越人の国を指すから、雑穀民の領域に接した稲作民の政権の名称だったと推測され、雉もウコンの様に真の交易品を隠した記述だった疑いがある。文明要素が稲作民から供給されていた事を、周が体面を繕って隠していた可能性が高いからだ。
上掲の二つの文は論衡の別の巻に書かれているが、どちらも「越」には「献」、倭人には「貢」を使い分けている。「貢」は継続的で従属的な関係を意味するから、周は宝貝を供給した倭人に従属性を要求したか、論衡の原典を記した者がそれを強調したかったと推測される。
2−3 倭人の組織化
この時代の倭の組織に関する記録はないが、弥生末期・古墳・飛鳥時代の倭を記した史書は、倭人は春秋戦国期以前に由来する、身分名称や職名を使っていたと記しているから、そこに記された倭人の組織名称は、西周〜春秋時代に確立したと推測される。縄文時代の転換期の項で、倭人は夏代に大率の制度を導入したと考察したが、諸国の交易を統括する倭国王という複雑な概念は、夏代にはなかったと想定される。「王」は鉞の象形であり、その形状を示す磨製石器が良渚文明期の遺跡から発見されているから、越か荊が使い始めた呼称で、荊と倭がこの漢字を作り出したと推測される。竹書紀年は、周代の王としては周王しか記していない。他の民族の指導者は侯や伯と記され、「国人」が周の王に反旗を翻したと記されているから、周は王を戴く国だった事が分かる。楚や於越の王は楚子、於越子と記されているので、稲作民は異なった組織体系を持っていた可能性があるが、それが雑穀民の体系と異なっていたとは考えにくいので、周の支配体系の外にあった稲作民政権の王を、周王朝の史書と言っても良い竹書紀年は、楚子、於越子と記したのではなかろうか。
魏志倭人伝は「古より以来、其使が中国を詣でるに、皆自から大夫と称す。」と記した直後に「夏后少康之子・・・」と続け、倭人は「大夫」呼称を夏代から使っていた事を示唆している。「大夫」は周や諸侯の重臣身分を指し、弥生時代末期の奴国や邪馬台国でも重臣身分を意味し、名称と機能は全く同じだった。夏代からであるかどうかは分からないが、それを取り入れた時期から名前もその職能も変えずに、使い続けていたと想定される。当然それを表記する漢字も使っていた事になり、倭人は春秋時代に漢字を使っていた事になるから、その読み音に呉の音を採用していた事になる。
金文では、周の軍司令官は「司馬」だった事を示している。宋書夷蛮伝の倭国伝に「(倭国王は)司馬曹達を遣し、表を奉り方物を献じた。」と記されているから、倭国にも司馬がいた事が分かる。司馬は周国の国軍の統率者だから、倭国王が司馬を派遣した事は、周の制度と同じだった事を示している。それと比較して紛らわしい大率が、魏志倭人伝と旧唐書倭国伝に登場するが、大率は諸国を統括する機能だったから、殷周革命時の記事に史記が使った「大卒」と同じ職能になり、倭と周の制度は対になっていた事になる。周が本当に「倭人は暢を貢す」と考えていたのであれば、倭を諸侯と考えていた事になるが、倭人は、倭国王と周王は対等な存在だと考えていた事になる。
呉音を採用していた倭人は、周から統治制度を学んだのではなく、大陸で稲作民と一体になった文明圏を形成し、その一員として、稲作民から統治制度を学んだと考えられる。稲作民の政治体制は明らかになっていないが、倭の政治体制を参照する事が可能だと考えられ、春秋時代の粤は百越と呼ばれる多数の地域集団が、浙江省〜広東〜越南にあり、江蘇省北部と山東省南部に交易者の植民都市があり、その中核国として於越があったと推測される。春秋時代の荊は、湖北・湖南省に楚があり、揚子江の下流域に呉があった事になる。
竹書紀年は、「於越はBC473年に呉を滅ぼした」と記しているが、「BC380年に於越は呉に遷都した」とも記し、その後越の王族内に内紛が起こって王が殺されると、「吳人は錯枝(人名)を立てて孚し君と為す。」と記しているから、呉が地名として残っていただけでなく、相変わらず呉人と呼ばれる集団がいた事を示している。孚は大切に育てる意。同様な例として、楚が於越を滅ぼした後に越王の記事が出て来るから、稲作民の場合には、雑穀民の国の様に滅亡して統合されるのではなく、統括者が別の国の者に交代しただけだったのではなかろうか。倭でも古墳時代に、その様な事が2回起こったから、倭人と春秋時代の稲作民が統治制度を共有していた根拠として、両者の事績の共通点が炙り出される。
今は散逸しているが、漢書地理誌が継承したが前駆的な地理誌が存在し、その成立は春秋戦国時代だったと想定すると、漢書地理誌が記す方位の不可思議な記述も説明できる。その前駆的な地理誌には、晋がなく韓、魏、趙が記載され、宋も記載されているから、晋が分裂して韓、魏、趙が成立したBC378年から、宋が滅んだBC286年までの期間に成立した事になる。その前駆的な地理誌には、危四度〜斗六度の方位に倭があり、地理誌に記された諸国と同格の国として、記載されていたと推測される。危四度〜斗六度に関する詳細は、(16)−(F)漢書地理誌、後漢書、魏志倭人伝に記された倭の位置参照。
以上を纏めると、夏王朝に宝貝を納入していた、関東の海洋縄文人のリーダーを「大率」と呼び、「大率」は「多数の地域集団を率いる者」を意味したと想定される。
稲作民が華北から南下し、殷人が代わって商王朝を樹立すると、集権的な権力を駆使して富を集め、富裕になった王や貴族が宝貝交易を引き継ぐ中で宝貝の需要が増大したから、その時代のリーダーが大率を名乗った可能性もある。周代になると宝貝の取引量が更に増え、倭の組織が拡大し、大夫や大率の身分と役割が確立したと推測されるが、周初に倭国王もいたのか疑問がある。倭国王の機能は諸国に商圏を配布する事だったと想定され、それは領主を統括した周が、諸侯に領域国家を封じた事と同じ機能なのだが、倭人が周王朝と宝貝交易を行っていた状況では、商圏の配布と言う概念が生まれ難くかったと考えられ、宝貝交易が消滅した後にその必要が生まれたと考えられるからだ。
この時の組織化の要点は、地域集団を統括する「大率」機能を温存し、日本列島各地の海洋集団に大陸の商圏を分配する機能として、新たに「倭国王」という身分を創り出した事だったと考えられる。
夏代から宝貝交易を行っていた集団が核になって倭国を形成し、その王が倭国王になり、倭国の統制下で大陸と交易を行う海洋集団が、大陸の人々から倭人と呼ばれた。史書に記された倭国の変遷を見ると、倭国には重要な意味はなく、倭国王の称号に意味があった。倭国王と倭王には重要な違いがあり、古墳時代に倭王になった日本海系の王は、その王が統括した国を倭国と称し、その王は倭王を名乗ったが、倭国王とは名乗らなかった。笠沙の御崎以来の系譜だけが「あめ」を名前に冠し、倭国王を名乗る事ができた。
その理由を詮索すると、元々の倭国には江戸時代の旗本の様な存在を内在し、倭国王はそのリーダーではあるが、倭人全体のリーダーではなかった事になる。諸集団の王も地域主権者としての権限を温存し、倭国王の権限を制限する意味で、系譜が正しい指導者だけを倭国王と呼んだのではないかと推測される。倭王は倭全体を統括する者で、その国を倭国と呼ぶことまで許されたが、旗本的な倭国の王である、倭国王ではなかったと考えられる。
それを周王について言えば、周国の王ではあっても、封建領主の領地支配には干渉できなかった。稲作民の体制はその様な概念で運営されていたから、周もその様な制度を採用したと想定される。それは小国の自主性を重んじた稲作民の体制だが、倭人は交易者だったから、領地支配を重視した稲作民の体制と、倭人の体制は全く同じではなかったはずで、それ故に大率と倭国王の二重支配になったと考えられる。竹書紀年や論衡に記された越裳や越常が、その様な地域政権だったと考えられるが、呉や楚にはその用例がないから、漢字の読み音を呉に倣った倭ではあるが、組織の制度は越を倣った事になる。
魏志倭人伝や後漢書が「倭人の物産や制度は東南アジアの海洋民族と同じだ」と記した事と、東南アジアの海洋民族が粤を内陸民とした事から考えれば、倭も東南アジアの海洋民族も、越を最も先進的な稲作民として、最も濃厚に文化を共有した事になり、漢字文化はその文化圏から逸脱した、呉が主導した文化だった事になる。
稲作民は農民集団だったのに対し、倭人は交易集団だったから、倭国王は稲作民集団の王とは異なる機能を持っていたと考えられる。倭国王の権力は、稲作民集団の王の様に領域や水利権を諸集団の為に確定するのではなく、交易集団の利害が最も先鋭化する、商圏を分配する機能だったと考えられるからだ。倭では稲作民的な王権は大率の所管だったと考えられ、魏志倭人伝は「特に一大率を置き諸を検察する。諸国は之を畏憚する。」と記している。400年後の倭国を記した旧唐書も、全く同じ事を記しているから、倭ではそれが一貫した伝統だった事が分かる。魏志倭人伝は上記の文に続いて、「(諸国の)王の遣使が京都(魏の都)、帶方郡、諸韓国(に詣でる場合),及び(魏の)郡使が倭国(に詣でる場合),皆(大率がいる伊都国の)津に臨んで搜露(臨検)し,文書や賜遺之物を伝送するために女王に詣でるから,差錯(食い違い)があるを得ず。」と記している。卑弥呼は海外の国と倭人諸国がどの様な関係にあるのか、交換する文章や贈り物をチェックしながら監視していた事になり、大率は卑弥呼の外部機関の様に、その実務を担当していた事になる。この時期の大率はその様な事を行っていたとしても、倭国王が常時この様な事を行っていたとは考え難く、魏志倭人伝が記す「其の国本亦男子を以って王と為すこと住七八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歷年におよび、乃ち共に一女子を立てて王と為す。」が、その理由だったのではなかろうか。卑弥呼の施政に関するこの様な事は、倭人が魏の使者に説明した事になるが、魏にはない倭の特徴だとして説明した部分と、卑弥呼の統治期に特別に行われたから、倭人にとっても異様な事として、魏の使者に説明した部分がある筈であり、これは後者だったのではないかと考えられるからだ。
古墳寒冷期になって華北の農耕が不振になり、そこを商圏としていた30国が互いに商圏を侵犯し、交易秩序を乱したから、30国の王が協議して邪馬台国の卑弥呼を擁立し、事態の収拾を図ったが、その卑弥呼が採用した方策の一つが、徹底的な検閲だったと考えられる。宗教的な権威者である卑弥呼であれば、その様な諸国への内政干渉も許されると考えたのは、倭人社会では女性の方が優位だった事を示唆している。魏志倭人もそれを指摘しているが、それは弥生時代/古代交易の転換期の項で詳しく説明する。
以上の結論として、倭国王の機能は大陸での商圏を各国に安堵すると同時に、その権能を遂行するために必要となる、呉、越、楚などの諸外国との、外交交渉だったと想定される。交易の柱だった宝貝交易が失われ、きわめて強力な商品が失われた状態になったから、各国が生産する商品を融通し合い、それを大陸で効率的に販売したとすれば、この様な体制以外には組織化の方向を見出しにくいから、その様な体制が形成されたと考えられ、その統括の骨子は、各国が割り当てられた商圏で、交易の最大化を図る事だったと考えられる。
その経緯を数値的に追跡すると、夏王朝には毎年数艘の船を江南に送り出していた様な、限られた少数者の活動だったと想定されるが、殷代には貴族まで宝貝を使う様になって、財貨を示す漢字が皆宝貝の象形である「貝」を使う様になったから、使用量は一桁上がったと想定され、供給者がそれに対応するために合理化した事を考慮しても、4〜5倍の集団に膨れ上がったと想定され、毎年10隻程度が参加する状態なったと考えられる。西周代には庶民までが宝貝を使う様になったから、更に数倍の船が参加し、供給量は更に一桁以上増えたと考えられ、毎年数十隻が参加したと想定されるが、その時期になっても最大の需要者だった湖北省の稲作民に、誰がどの様な手段で供給していたのか推測する事は難しい。笠沙の御崎はその交易にとっても重要な拠点だったと言えない事はないが、華北交易程の重要性はないから、他の集団が扱っていた可能性があるからだ。
湖北省の荊は宝貝貨を使う先駆者だったから、殷代や西周代にも宝貝貨を使っていたと考えられ、周の4代目の王が率いた軍が、楚に向かって全滅した事を思い起こせば、楚の経済力も周に優っていた可能性が高い。春秋戦国時代になると、宝貝に形を似せた銅貨である楚貝貨が流通した事が、発掘から明らかになっている。宝貝が供給過剰になって価値が下落したから、材質を銅に置き換えてデノミを行ったと想定される。
鉄器時代になると、農具や武器が青銅器から鉄器に代わったから、余った青銅が宝貝貨を置き換えた事は、時代の必然でもあったと考えられ、宝貝が銅の価値にリンクしていたとすれば、鉄器の出現は銅の価値を急速に低下させたから、それ以前の銅の生産量が増えて宝貝貨が徐々に減価してきた時期とは異なり、宝貝貨の減価が急激に進行したと考えられる。
鉄器時代になると銅の価値が下がっただけでなく、木工品や陶磁器などのあらゆる工芸的な商品の質が向上し、その過程でインフレが進行したと考えられ、鉄器時代の到来は、価格破壊の時代でもあったと想定される。
その様な各種の必然が混在する中で、宝貝貨は青銅貨に置き換えられ、通貨としての価値を失ったと想定される。青銅貨である楚貝貨は、最も多くの宝貝貨が使われていた揚子江流域で始まったと想定されるが、その流通は広範囲に及んでいた。
以下に宝貝に形を似せて発行した銅貨である楚貝貨と、同時代の華北の銅貨について概観する。
宝貝の形を模して作られた遺物は、他の貝の貝殻、象牙、陶土などのものが発掘され、殷代に青銅製も少量作られたが、その用途は分かっていない。
楚貝貨は蟻鼻銭(ぎびせん)とも言われ、広い地域で多量に発掘されるから、貨幣の役割を担ったと考えられている。紐を通す穴が開いているが、宝貝貨は穴を開けられたものが一般的で、紐で10個単位に連ねて使ったから、その名残を残した穴であると考えられ、外形の類似性もあり、宝貝を模したものと推測されている。表面に漢字が刻まれているが、漢字の意味は解読されていない。発掘総数は15万点を越え、発掘地域も広域に亘っている。
楚貝貨の流通域が、淮河流域を中心に展開している様に見えるのは、春秋時代から温暖化が始まって鉄器が普及し、淮河支流域の雑穀民社会も豊かになったからだと考えられる。但し上記は、流通し始めた時期の分布ではないから、この図から楚貝貨の発生時期や場所を特定する事は出来ない。出土量から見ると、集中しているのは河南省東南、安徽省北部、江蘇省西部・南部などで、この時代の荊の集住地と重なるから、最も多量に楚貝貨を使ったのは、弥生温暖期になって北上し、温短ジャポニカを栽培していた、荊の系譜の民族だった事を示唆している。その荊と淮河流域の雑穀民に、河川を遡上して商品を提供していた倭人の活動が、この分布と重なる様に見える。
楚貝貨の発掘例は各所にあるが、墓から発掘されて初めて埋納時代を特定できる。しかし財貨を墓に埋納する習俗がない時代から、楚貝貨が流通していた可能性があるから、最古の墓を特定できたとしても、それが楚貝貨の起原時代を示しているわけではない。楚貝貨の起源は春秋時代の比較的早い時期だったとする説から、戦国時代の後半期とする説まで入り乱れている。
史記を重視している現代中国の歴史観では、楚は発展が遅れた地域だったと見做しているから、楚貝貨の評価が混乱している。貨幣の変遷史を想定すれば、宝貝から青銅貨に変遷する際に、先ず楚貝貨が発行され、秦漢代に銭の形が定型化したと考える事に合理性があり、銭の先駆形が戦国時代中期以降の秦・韓・魏・趙などにあったとされているから、楚貝貨はそれより古い貨幣だった事になるだろう。戦国時代中期以降に、上記の各国の穀物生産性が高まり、経済力を付けると、楚・呉・斉などの荊が主導する経済文化から自立し、楚貝貨とは異なる環銭(かんせん)を発行する様になったと考えられる。秦・韓・魏・趙は、春秋時代には周の経済圏だったと考えられる。
春秋戦国時代に、東シナ海沿岸に展開した越は、東南アジアの海洋民族を背後に持つ産業社会を形成していたから、楚貝貨の経済圏に入らなかった事が、上の図から読み取れる。越は内陸の荊や雑穀民と交易するより、東南アジアの海洋民や倭人との交易に、顔が向いていたからではなかろうか。東南アジアの海洋民族は、金や銀を秤量貨幣としていたオリエント社会と深い関係を持っていたから、彼らは早い時期からその文化を受け入れ、独自の交換体系を形成していた事になる。
周礼に、揚州(浙江省、福建省)では金、錫、竹、箭が得られ、荊州では銀、象牙、皮革が得られると記している事を先に挙げたが、春秋戦国時代の越は、金や銀を秤量貨幣としていたと考えられ、越の勢力圏だった揚子江以南や江蘇省南部、山東省では、宝貝貨や楚貝貨が普及しなかったと考えられる。東南アジアの海洋民族には、宝貝は容易に入手できるという意識があっただろうから、粤には宝貝を貨幣とする習俗自体がなかった可能性が高い。
「布」は織った布を意味するのではなく、鋤状の農具を指す。実用の「布」が高価な農具として存在し、それを模した小型の青銅品を貨幣にしたと考えられ、刀貨も同じ発想だったと想定される。
黄河流域で布貨や刀貨が使われ、揚子江・淮河支流域で楚貝貨が流通したのは、荊を中心とする稲作民社会で楚貝貨が流通したが、黄河流域の雑穀民社会ではそれが流通しなかった事を示している。それを塩の交易者の流通経路から考えると、周が供給した解池の塩と、燕が供給した渤海湾の塩の流通圏は、布貨や刀貨が使われ、呉提供した東シナ海の海塩の流通圏は、楚貝貨が使われたと見る事もできるだろう。
当時の銅は高価だったから、楚貝貨の様に小さな形状でなければ、貨幣としての実用性は乏しかったと考えられ、布貨や刀貨の様な大型の銅製品は流通貨幣ではなく、富者の贈答品だったと想定される。
稲作民社会では貨幣経済が発達したが、黄河流域の雑穀民社会では貨幣経済化が遅れ、青銅製品は退蔵される財貨として、下賜されたり贈与されたりしていたと考えられる。
2−4 倭国の成立
殷代・周代の倭がどの様な活動を行ったのか、中国の史書には何も記されていないから、その経緯は他の手段によって復元するしかなく、その素材は古事記しかない。詳しくは古事記・日本書紀が書かれた背景/古事記の項を参照して頂きたいが、古事記を使う事の可否に関する骨子は以下になる。
古事記は倭人の存在を無視しているから、倭人時代に存在した筈はなく、倭人の神話の集大成でもない事は明らかだ。倭人体制が崩壊したのは672年で、697年に即位した文武天皇が高天原に言及しているから、その27年間の比較的早い時期に成立した事は間違いない。現行の古事記が生まれたのは712年であると、太安万侶が序文に記しているが、続日本紀には古事記成立の記事はない。当時の大和政権にとって古事記は既に存在するものであり、太安万侶はそれを改訂しただけだったからだ。太安万侶が記した古事記序文は、その古事記が改定されたものである事を匂わせている。
原古事記を作成したのは、革命の意欲に燃えた倭国王家の宮家の当主で、改訂古事記作成時に、天武天皇と呼ばれていた人物だった。但しその天皇は、日本書紀が記す天武天皇ではないので、以下では原天武天皇と記す。原天武天皇が原古事記を作成させたのは、分権的な倭人体制から中央集権的な体制に移行させるために、新しい神話が必要だったからだ。従来の倭人諸国は、神と名乗る諸国王を戴いていたから、天皇家を中心とする新しい神話を創作して新しい神々を創出し、その神々を新興勢力に与えて新しい秩序を作る事だった。新しい神話は倭国王家の伝承を改竄し、「倭人の統治者だった倭国王家ではなく、稲作民の統治者である天皇家が、稲作民の国である日本国を形成した(としたらの)歴史」として、倭国王家の正統な系譜者だった初代天皇が創作したから、その創作の特殊事情により、倭人の歴史を古事記から復元する事ができる。
その特殊事情をもう少し具体的に説明すると、倭国王家の正統な系譜者が、倭国王家の伝承を知っていた倭人崩れの読み手に、新しい神話を作った事を知らしめる必要があった事に、第一の特徴がある。皆が新しい神話である事を知りながら、古い神話を捨てて新しい神話を支持させるためには、新しい神話は倭国王家の伝承を書き換えたのだという事を、明らかに分からせる必要があった事に、第二の特徴がある。倭国王家の正統な系譜者だった初代天皇が自ら伝承を書き換え、それを皆に周知させることが、倭人体制を捨てて新しい体制に変換する、初代天皇の決意を知らしめる事だったと考えられる。
それ故に古事記の多くの説話が、倭国王家伝承の大事件を下敷きにし、全く違った説話に書き換えられたが、倭国王家の伝承を知っていた読み手には、それと分かる仕掛けが付いていたから、古事記から倭人の事績をある程度復元できる。
古事記は書き換えを知らしめる一つの手段として、その説話の年代を明らかにしている。従って中国の史書と古事記の説話を比較すると、古事記の背景事情が浮かび上がり、何を契機にそれが起こったのか推測できる。
具体的にその例を挙げると、古事記の天孫降臨説話が提示している時期は、BC13〜14世紀頃だった事になり、それは殷が都を鄭州から殷墟に移した時期だから、倭国王の祖先が、殷墟に遷都した商王朝に沖縄の宝貝を供給するために、沖縄と渤海湾を結ぶ海上交通の要衝となる笠沙の御崎に、移住した事績を書き換えたと考えられ、古事記は、笠沙の御崎に近いから、高天原に天孫が降臨したと記している。鹿児島西部の笠沙の御崎は沖縄と渤海湾の中間に位置し、船で沖縄に宝貝の採取に出向いたり、黄海を経て黄河を遡上したりアクセスし易い場所になり、中間地点としての利便性が北九州より高い。
その利便性について詳しく説明すると、先ず笠沙は深い湾の奥にあり、古代の湊として良好な条件を備えている事が挙げられる。笠沙から甑島列島(こしきしまれっとう)と五島列島を経て済州島を回れば、黄海に出る事ができるが、笠沙は航路長の利便性に恵まれていただけでなく、航路の目標を設定しやすい場所でもあった。済州島の漢拏山(ハルラ山:1950m)は150km離れた海上から見え、五島列島の父岳(460m)は80km沖から見えるから、笠沙から黄海まで直線的に漕ぎ進む事が出来た。博多湾から壱岐対馬を経由して黄海に出るより、笠沙から直線的に黄海に出た方が、距離も近かったと考えられる。笠沙から沖縄に渡る距離は、博多湾からの距離の半分で済む。倭国王の祖先は、殷に宝貝を納入しただけでなく、ウコンなどの物産も納入していた事を推測させる記事が、論衡に記されている。江南の陶磁器などを殷墟に運ぶ場合にも、渤海湾にも江南にもアクセスし易い場所だから、笠沙は海洋縄文人の海上交易路の、要所に相応しい場所だったと言える。
奈良・平安時代になっても、鹿児島西海岸の坊ノ津が、南西諸島方面の交易拠点になったのは、トカラ海峡から吹き出す黒潮を乗り切る観点で、鹿児島西海岸から船出する事にメリットがあったからだと考えられる。
10代目の崇神天皇が、「初めて国を統治した天皇」の称号を持っている事も、この例になる。その在位時期を推測すると、秦・漢帝国が誕生した頃に相当するから、稲作民政権が大陸から一掃され、稲作民政権を中心とした大陸の国家秩序が失われると、倭もその一員ではなくなった時期になる。従来の広い天下が失われ、倭は独立した天下意識に転換し、倭国王がその天下の統治者になった事を反映したと考えられる。
従って神武即位が、宝貝交易が消滅して新しい交易体系を構築し、それに付随した機能を持つ倭国王が誕生した事を、背景にしている説話なのか否かが、ここの重要な議論になる。
古事記の天孫降臨説話と神武即位説話の間には、海彦と山彦の説話がある。天皇家の祖先である山彦が、倭人を表象していると想定される兄の海彦を、海神の助けによって懲らしめる話だが、笠沙の御崎を根拠地とした倭が、殷・周王朝との交易によって繁栄し、それによる組織の拡大が倭国王の誕生に結び着いたから、その記憶を抹消するための創作として、古事記の中で最も抒情的な説話を投入したと想定すると、辻褄は合う。この時期は倭人組織の発展期だから、倭人の子孫にその経緯が詳しく語り継がれていた可能性が高い。
現代日本人の江戸幕府に関する知識から、その倭人の子孫の立場を解釈すれば、その事情がより鮮明になるだろう。徳川家康の生い立ちから、関ケ原の合戦までの経緯を知っている人は多いが、15代の将軍名は知らない人が多い。人々の記憶が創始期に集中し、恒常的な発展期には興味が湧かないからだ。飛鳥時代末期の倭人の子孫も、倭の興隆期だったこの時代に詳しかった事は、想像に難くない。古事記はそれを打ち消すために、ロマンスを込めた壮麗な山彦海彦説話と、神武東征説話を準備したと考えられる。
神武天皇即位がBC660年だったとすると、温暖化して農業生産性が高まってから200年ほど経て、青銅の生産量が増えながら鉄器の普及が始まり、揚子江以北に沢山の国が生まれていた頃になる。それらの国々の人口が増えて経済が発展し、宝貝貨のインフレが進んで貨幣価値が減価し、楚貝貨が発行されて宝貝交易がなくなったから、倭人は新しい交易を模索する必要に迫られていた。従って時期に関しても整合性がある。
倭国王が即位して、具体的に何が変わったのかという議論は、複雑なので後回しにして、笠沙の御崎にいた倭国王家がどの様に関東と関西に分離したのか、古事記を参照しながら検証する。
古事記はイザナミ、イザナギが最初に生んだ子を、淡島と蛭子として異端視したが、話の構成上違和感があり、712年に改訂された古事記の、改定部分だった疑いが濃い。関東の倭国王系譜が倭人政権を倒した後に、世代交代してから政変があり、現天皇系譜になった西の倭国王家が関東の倭国王系譜の事績を抹殺するために、712年の改訂を行ったから、その事と関係があると考えられる。
蛭子は淡路島由来の神として現在西宮の神社に祭られ、恵比寿と名前を変えて名誉も回復しているから、淡島も淡路島も同じ島を指していると考えられ、それと関東の倭国王家を繋げると、倭国王の一族は淡路島と神戸に移ってから、淡路島と神戸の2系統に分裂し、淡路島系が倭人の本拠地だった関東に移住し、神戸系が後の邪馬台国の王になったとすると、倭国王一族の淡路島と神戸への移住は、周王朝期から春秋時代初頭(BC11世紀〜BC7世紀)だった事になる。
周の本拠地は西安だったが、洛陽を副都として交易拠点としたから、倭人は渤海湾から遡上する必要があっただろう。論衡に記された、「成王の時,越常は雉を献し,倭人は暢を貢す」という状況は、倭人が頻繁に洛陽を訪れた事を示しているから、それは笠沙の御崎からだった可能性が高い。
春秋時代になって温暖化し、淮河流域の人口が増えたから、淮河を遡上する交易路も重視する必要が生まれ、揚子江を遡上して荊と交易していた集団と合体し、より大きな集団として再組織化した可能性が考えられるが、天孫降臨については殆ど訂正した痕跡が見当たらないから、東西の倭国王家の祖先は、笠沙に移住していた集団から分岐した事は間違いなく、その頃揚子江流域の荊と交易していた集団が別にあったとしても、その集団は倭国王家の統治下に繰り入れられた事になる。
再び古事記に戻ると、神武は東征の途上で、筑紫之岡田宮一年、阿岐国之多祁理宮七年、吉備之高嶋宮八年、そして登美能那賀須泥毘古との決戦になり、それに勝って即位するから、東に移ってからあまり時間を経ずに即位した事になる。
これらを総合的に評価すると、BC680年頃に倭国王一族は淡路島と神戸に移住し、神戸系が邪馬台国を作って周との交易を続け、華北の交易を仕切る王になったが、淡路島系は関東に遷り、それまで揚子江流域の交易を仕切っていた系譜に代わり、東の倭国王家になったと推測される。それまで揚子江流域の交易を仕切っていた系譜は、大率になった可能性もあるが、神武東征はこの時の倭国王系譜の、関東制圧を背景にした説話だった可能性もある。いずれにしても両者は領土争いをしたのではなく、どちらのやり方でその後の交易を活性化させるのかという事で、主導権争いをしたと想定される。結果論から言えば、雑穀民の領主的な豪族と交易していた倭国王系譜が指導者になり、オープンマーケット的な稲作民と交易を行っていたそれまでの関東の指導国は、指導的な立場を譲ったと考えられる。
古事記が主張する神武東征は、北九州や大阪湾岸を含む倭人が、大同団結した事績の反映だった可能性が高いから、BC7世紀に倭国王が即位したのは機内ではなく、横浜・川崎地域だった事になる。その様な大同団結が急速に成立したのは、弥生温暖化によって東アジアの情勢が急変したからだ。環境が急変したのは東アジアだけでなく、オリエント・地中海沿岸も同様だった。現代の企業活動でも言える事だが、不況期には意外と倒産が少なく、好況の兆しが見えてきたところで倒産したり、業態を急変させたりする企業が多発する。環境が変わるとそれに適応できるか否かが、その後の企業の命運を大きく左右するからだ。弥生温暖化が東アジアの政治体制と、経済体制を大きく変えていったから、倭人諸国もその変化に対応する必要を感じ、東の倭国王家を頂点に、弥生温暖期の倭体制を構築していったと考えられる。
イザナミ、イザナギ神話に不自然な細工を加えた意味を復習すると、関東の倭国王家が倭人政権打倒に貢献し、初代天皇になったから、それを賛美する原古事記が出来たが、最終的に天皇になった邪馬台国系譜の倭国王家が、淡路島系である関東の倭国王家を貶めるために改竄し、現行の古事記に改訂したから、関東の倭国王系譜を貶めるために、不自然な話を挿入したと考えられる。
倭人は春秋時代の古い制度を使い続けたから、漢末の中国人はその化石の様な制度に驚いた。後漢書の筆致から、その様子が伝わってくる。魏志倭人伝は、倭には夏王朝から「大夫」制があった様に記しているから、その頃から制度の根幹はあったかもしれないが、山海経や漢書が示す倭人独特の交易を始めたのは、春秋戦国時代だったと考えられる。華北王朝と密かに宝貝交易をしていた時代には、戸別訪問は行っていなかった筈だからだ。従って史書の倭人伝が示す倭人独特の交易や仕組みを編み出したのは、新生倭国が誕生したBC7世紀頃だったと考えられる。
その職制の具体的な機能は、倭国王が交易を仕切る権能者になり、各国に商圏を配分しながら稲作民政権と外交交渉を行い、大率は従来通り諸国の統制を行うと共に、軍事・国防を担ったと想定される。大率については、魏志倭人伝にその様な記述があるが、倭国王の機能に関する出典はない。しかし100余国が毎年大陸を訪れ、富裕な豪族と交易を行ったのであれば、商圏が設定されていた事は間違いない。農耕社会の領主には必ず領土があったと同じ事を、小集団が連合した交易集団に適応しているだけだからだ。
巫女の起原は分からないが、古事記が古い倭人社会を高天原に投影したのであれば、王や大率が生まれる以前から、各地域の権力者だった可能性が高い。大和政権が誕生してからの沖縄は、倭人の残党の亡命地だったと想定され、沖縄の巫女の立場は参考になる。王の一族から聞得大君(きこえおおぎみ)と呼ばれる最高の巫女が選ばれた。「聞得」は大君の美称辞で、「君」は「カミ」の意であり、「大君」は君の最高者だった。琉球全土の祝女の頂点に立つ存在で、彼女達への命令権限を持ち、祭祀の一切を統括していた。祭祀を行う聖なる場所である御嶽(うたき)は、男子禁制だった。
沖縄のこの制度と、魏志倭人伝が描く卑弥呼は酷似している。卑弥呼は千人の侍女(巫女)を従えていたが、7万戸の邪馬台国に千人の巫女がいたとは考えにくいから、彼女達は各国の利害を代弁しながら30国から集まった巫女として、卑弥呼に仕えていたと考えられる。彼女達が諸国の王の交易内容をチェックしていた事は、倭人の日常生活も巫女の宗教統制の中で過ごしていた事を彷彿とさせる。
倭人社会で大率と倭国王と巫女の三権が分立していた事は、現代的に言えば、司法・警察と行政と宗教が分離していたと考える事ができる。立法が欠けているが、卑弥呼の擁立は諸王の話し合いで行われたから、立法も機能として存在し、四権が分離していたとも言える。
2−5 東アジアの交易構造
結論から言えば、弥生時代前半の東アジアの交易関係を北から挙げると、粛慎と周と倭のトライアングルがあり、周は粛慎を通し、陸路からオリエントの物産を入手し、倭を通して東南アジアの物産を調達した。倭は東南アジアの海洋民族や越と交易を行い、彼らを通してオリエントとも繋がり、周・呉、斉などの大陸内部の交易者と物資の交換を行った。越は大陸沿岸に入植した、東南アジアの海洋民族出自の交易者だったと想定される。温暖期に南方の炎暑避け、北上したという事かもしれない。穀物はその北限近傍の生産性が高いから、荊が生産していた温帯ジャポニカが余剰を生んでいたから、そこに北上したとも言えるかもしれない。東南アジアの海洋民族は、縄文時代の粤を内陸民として絹布や香辛料などを生産し、それをインドやオリエントに売り込む、最も豊かな交易者だったと想定される。彼らの漢代の拠点は、フィリッピン、インドネシア、マレー半島だったが、秦や漢が中国全土を征服する前は、大陸の各所の海岸に入植していた可能性が高い。当時の船は木造船で、鉄器時代になって大型化したから、荒波を避けると同時にフナクイムシの害を避けるために、真水が供給される場所が必要だった。それ故に春秋時代の越は、産地が海に迫っている山東半島を拠点にしたと想定される。江蘇省は延々と砂浜が続く単調な地形で、海洋民族の拠点にはなりにくかったからだ。
竹書紀年に依れば、於越はBC473年に呉を滅ぼした後、BC468年に都を瑯琊に遷した。瑯琊は山東半島の山塊が海岸に接する南限だから、江蘇省北部や山東省南部に入植した越の、中核拠点として相応しい場所だと言えるだろう。それ以前の於越の拠点に関しては、竹書紀年に記載がないが、未だ寒冷期だったBC997年の周穆王の記事に、「大いに軍を興して九江に至る。・・・遂に越を打つ。」と地名を伴った越が初めて登場する。この越は九江以南の江西省、即ち呉城文化の地に居た事になるだろう。魏志東夷伝に登場する、朝鮮半島南部で製鉄を行っていた弁辰人も、この系譜の人々を含んでいた可能性が高い。
海南島も東南アジアの海洋民族の領域だった事が、漢書地理誌に記されている。漢代には海南島にしかいなかったが、弥生時代前期には海南島だけでなく、中国南部の沿海部に、大陸の粤と共生する海洋民族の入植地が、点在していたと想定される。史記の越王勾践世家は、「夏后帝少康の庶子が、禹の祀を奉守するために会稽に封じられ、文身断発した」と記し、漢書地理誌は、「帝少康の庶子が会稽に封じられ、文身断発した」と記している。文身断発したのは、その地の海洋民族の習俗に倣ったからだと考えられる。海洋民族は縄文時代の粤を内陸民とし、稲作だけでなく絹布の製作などの手工業を行わせ、それを交易品としてオリエントから多種の文明要素を持ち込んでいた。従って彼らの方が文明的に上位者だったから、帝少康の庶子が海洋民族の習俗に倣う事は、当然の事だったと考えられる。史記にはその理由に関する記述はないが、漢書は「蛇の害を避けるためだった」と怪しい言い訳をしている。いずれにしても上記の文は、会稽の海岸に海洋民族の入植地があった事を示している。
しかし漢代の会稽以南の沿海部から、海洋民族は姿を消していた。秦が中国全土を統一した際に、秦の軍隊の略奪を受け、フィリッピンやインドネシアの島嶼部に逃れたからだと想定される。
海南島は大陸から20q沖にあるから、海洋民族は海洋性が皆無だった華北の雑穀民には、手が届かない島だと考え、漢代になっても留まっていたらしい。しかし外征に積極的だった漢の武帝は、何らかの手段で20q渡海する手段を確保し、海南島を征服してしまった。
漢書地理誌の粤の条に、その様な海南島の習俗が記され、その次に東南アジアの海洋民と漢民族との、交易の様子が記されている。この記述は、弥生時代の環ユーラシア海洋文明の実態を解き明かす上で、重要な文章だから、少し長い引用を掲げる。
「(海南島は)武帝が攻略して儋耳(たんじ)、珠(しゅがい)郡とした。そこの民は男女共、シーツの様な1枚の服布を被り、中央に孔を穿って頭を貫く(貫頭衣)。男子は農耕して稲、苧麻を作り、女子は桑で養蚕して布を織る。」
「(粤の地の)近海には犀、象、毒冒(タイマイ)、珠璣、銀、銅、果、布の湊が多く、中国の商賈する者が往き、多くの富を取る。番禺(広州)はその第一の都会也。合浦の徐聞から船行5ヶ月で、都元(つが/とが)国がある。更に船で4ヶ月行くと邑盧没国がある。さらに20日ほど船行するとェ離国がある。10日ほど歩行すると夫甘都盧国がある。夫甘都盧国から船行2ヶ月あまりで、黄支(きき)国がある。民俗は概略珠高ニ似ている。其の州は広大で戶口が多く、異物(珍しい工芸品)が多い」
「明珠、璧流離(ガラスの玉)、奇石異物を買い、黄金や絹織物を替わりに置いて往く。・・・蛮夷の商船は代わる代わる同様に、交易をしている。」
「黄支国から船行8ヶ月で皮宗に至る。」
魏志倭人伝に、これに関係する以下の記事がある。
「(邪馬台国は)其の道里を計ると、当に会稽の東冶(福州)の東に在る。」
「(邪馬台国の倭人の)有無(物産)は、儋耳と朱崖(海南島)と同じ。」
「(邪馬台国では)女性はシーツの様な1枚の服布を被り,中央に孔を穿って頭を貫いて着る。稲、苧麻を植え、桑で養蚕して紡ぎ、細い苧麻糸と高級な絹織物を出荷する。」
南シナ海沿岸で盛んに交易が行われ、海洋交易民は更に遠方の国とも交易していた。現在南シナ海を囲む島嶼には、オーストロネシア語族民が住んでいる。オーストロネシア語族民は、南米からマダガスカルまでの広大な海域に拡散しているから、彼らの往時の活発な海洋活動が想定出来る。漢書地理誌は広州に中国の商人が多数住み、そこは都会だと記しているが、中国人が都元国に往くには海洋民族の船を使う必要があり、海南島の対岸にある徐聞から出港しなければならなかった。海洋民族が海南島との通行のために開設した港が、そこにあったからだと考えられる。
5か月も船旅をするのであれば、徐聞ではなく広州から船出しても変わらなかった筈だが、海洋民の船は徐聞までしか来なかったから、徐聞から船出するしかなかった様だ。倭人が漢民族の侵攻を警戒した様に東南アジアの海洋民も、漢民族が自分達の領分に侵入して来る事を警戒し、漢民族の集住する場所に近付かなかった様に見える。倭人の船と彼らの船は同じ性能だった筈だから、彼らの船も時速10km程の速度で航行出来た筈で、黄支国に往くのに1年も航行するのは不自然だから、倭人同様に彼らも距離を偽り、漢民族を騙して彼らが拠点とする島は遠いと思わせたと考えられる。倭人と東南アジアの海洋民は密接な関係にあったから、発想を共有していた事になる。魏志倭人伝が記す魏代は、漢書が記す時代より400年も前だから、距離を騙す事に関しては彼らが先駆者だったかもしれない。卑弥呼が招待した魏の役人は、朝鮮・対馬海峡を渡って一旦上陸し、陸路を経た後に再度長い船旅をした事も共通している。東南アジアの事は、実際何処だったのか分からないが、魏の使者の旅程から推測すると、関門海峡を通過すれば全行程を船で、邪馬台国に行く事はできたが、一旦唐津で上陸し、九州の山中をあちらこちら引き回した後に、周防灘で船に乗った様だ。船を調達して唐津に上陸できても、次の海には船はないから、邪馬台国を征服する事はできないと思わせる戦略だったと考えられる。南シナ海沿岸の島嶼にあった黄支(きき)国も、船だけで到達できた筈だから、倭に400年先駆けて同じ国防戦略を採用していた事が分かる。漢帝国は20q離れた海南島を征服したから、彼らにとって国防は切実な問題になっていた筈だ。狭い海峡しかなければ、陸路が繋がっているのも同然なのであれば、理論的にはインドシナ半島〜マレー半島〜スマトラ〜ジャワまで、漢民族に征服される恐れがあった事になり、安易な思い付きで騙したのではなかったと考えられる。
中国人との商取引は水上で行われ、玉やガラスの加工品を購入する際に、金や絹布が媒体通貨になっていた。取引が水上で行われたのは、彼らが広州に近付かなかった事と併せ、倭人以上に漢民族を恐れ、信用していなかったからだと考えられる。秦の略奪的な横暴や漢の理不尽な征服欲を、彼らは実際に体験していたからだろう。
東南アジアの海洋民族の女性は海南島の女性の様に、皆が養蚕して絹布を織っていた様な記述だから、それが取引媒体だった事に不思議はないが、金を秤量通貨としていたのは、オリエント文化の影響だったと考えられ、越が楚貝貨を使わなかった裏事情になるだろう。
漢書地理誌が、南シナ海の海洋民族は海南島の住民と同じ民俗だったと明言し、魏志倭人伝はそれが倭人と同じであると記しているが、漢書地理誌を引用している事に意味がありそうだ。魏は華北を領土としていただけだから、実際は魏の役人は、交戦国だった呉の領域である広東省や海南島の民情など、知らなかった筈だからだ。魏の役人は事前の知識として、倭と東南アジアの海洋民族が連携している事を知っていたから、その具体的な習俗や物産を事前調査し、それと邪馬台国の状況と照らし合わせ、同じだと判断したと想定される。その報告書を見た三国志の著者陳寿が、自分の知識とも合致していたから、魏志倭人伝にそれを簡明に綴ったと想定される。東シナ海で活躍していた倭と越は、南シナ海の海洋民族と、春秋戦国時代に連携していた事は、漢代の知識人の常識だったと想定され、魏志倭人伝の簡明な表現は、それを物語っていると想定される。
倭人とオーストロネシア語族民は、縄文時代前期以降5千年の交際関係があり、倭人女性の貫頭衣と、東南アジアの海洋民族の男女の衣装が同じだった。両者が栽培していた苧麻も桑も、亜熱帯地方原産の植物だから、それらが東南アジアの島嶼から日本列島に、弥生温暖期に直接伝わった可能性が高い。縄文後期温暖期だった可能性も、否定できない。蚕の気候に対する過敏性から考えれば、養蚕は島嶼部が先行したと考えられる事を、縄文時代の項で指摘したが、魏志倭人伝が倭の絹は上質であると記している事は、その指摘を補強する。
繭から糸を取る技術は当然として、細い絹布を織る技術の発祥も、海洋民族の内陸民になった粤だった可能性が高い。布の原料には麻もあるから、織布技術の発祥が粤だったとは限らないが、縄文中期に良渚文化を創出して以来、大陸で最も文明的な人々だったと想定されるから、絹布の織布技術の発祥や進化に、主導的な役割を果たした事は間違いないだろう。中国人や中国人に迎合したがる日本の史家は、織布技術の起原は中国だと当然の様に言うが、素材の原産地主義に立脚すれば、絹や苧麻の織布技術のオリジナルは粤で、限定的に言えば、縄文中期に大陸から脱出した粤だったと考えて間違いないだろう。苧麻は一字の漢字で表記しないから、漢字文化圏に苧麻が伝わったのは、それほど古い時代ではなかった事になる。従って粤は漢字文化圏の人ではなかった可能性が高く、この観点でも漢字は、荊と倭人が作った文字である可能性が高まる。
東南アジアの海洋民族の女性は、習俗として養蚕して絹布を生産していた事は、東南アジアに豊かな生産力があった事を示している。コメの生産性が高かったから、女性はその労働から解放されていたという事だろう。絹布の生産は縄文後期まで遡るから、ローマの共和制時代に絹布が盛んに取引される前に、東南アジアの海洋民はオリエントや地中海世界に、絹布を輸出していたと想定され、梁書諸夷伝に「(中天竺国)の西に大秦(ローマ帝国)興る、安息(パルティア)と海中で交市するものは、珊瑚、琥珀、金碧珠、琅(美しい石)、鬱金(うこん)、蘇合など、大秦の珍物が多い。蘇合は諸々の香汁を煎じ合せたもので、自然にはない一物也。」と記されているから、これは東南アジアの海洋民が自自分達の祖先の活躍を述べたものだったと想定され、「黄支国から船行8ヶ月の皮宗(呉音でヒソ)」は、ペルシャ湾の奥にあったスサだったかもしれない。
以上の事実は、ローマ帝国で消費された絹のかなりの部分が、実はシルクロード経由ではなく、海路運ばれた可能性が高い事になり、その絹の中には、日本列島産も含まれていたと考えられる。吉野ヶ里で発見された貝紫の染色は、染色までして出荷していた事を示しているからだ。多数の民族の仲介を経たシルクロードより海路の方が、日本発であっても容易な交易路だったと言えるだろう。後世シルクロードが著名になったのは、オリエントの商人がその様に宣伝し、絹の価値を高めようとした疑いが濃い。地中海を交易路としていた西ユーラシアの人々は、インド航路も地中海同様に、安易な航海が可能な交易路だと、誤解する危惧があった事は事実だ。古代の地図には、インド洋を内海の様に描いているものがあるからだ。
3、鉄器の導入と船の大型化がもたらした交易の変化
3−1 鉄器の導入
ヒッタイトは古代製鉄を国家機密としていたが、BC1200年頃にカタストロフと呼ばれる悲劇がオリエント世界に起こり、ヒッタイトも滅亡して製鉄技術が世界に拡散した。エーゲ文明を含む地中海世界の多くの文明が、この時期に一斉に滅んだのは、「海の民」と呼ばれた凶暴な集団が、諸文明を破壊したからだと言われている。BC1200年頃は縄文晩期寒冷期の前半で、1600年後のこの時期はAD400年で、ゲルマン民族の大移動が始まった時期で、これが古代を終わらせて中世が始まったと考えられるから、同じ事がBC1200年頃の地中海沿岸で起こった事になる。縄文後期温暖期に黒海南岸まで北上した小麦栽培地域が、甚大な被害を受けた事が、この原因だったと考えられる。ヒッタイトなどの古代政権が抱えていた穀倉地帯の、小麦の生産量が減少した上に、バルカン半島や黒海南岸の飢えた穀物栽培民が「海の民」になり、地中海東部の穀倉地帯を襲ったから、カタストロフが起こったと考えられる。
縄文後期になって、温暖化と共に北上した農耕民族は、堅果類などを救荒食とする習俗もなかっただろうから、寒冷化がもたらした飢えは悲惨だった可能性が高い。古墳寒冷期の華北の惨状から、この時代の黒海周辺の悲惨さを、想像できるかもしれない。BC1200年頃のカタストロフ以降、BC9世紀に温暖期が始まるまでの間に、権力の統制からはみ出した製鉄技術者が食と安全を求め、東南アジアの海洋民を介して製鉄技術を東アジアにも拡散したと想定される。
東アジアで何時頃から鉄が使われ始めたのか推測するために、考古学的発掘の成果に頼っている人が多いが、鉄は錆びると土に戻りやすく、違う道具に作り直される素材だから、考古学的な成果が事実を反映するとは考え難い。発見された時代には、間違いなく鉄器が存在していた事は分かるが、それ以前にはなかった事が証明されるわけではないからだ。
墓から鉄器が発掘されれば、埋められた時代を特定しやすいが、野原から発掘されても時代は特定できない。豪華な墓を作って貴人を埋葬する習俗は、華北的なものだった疑いがあり、稲作民の鉄器の使用実績は分かり難い。製鉄技術は内陸を伝達したと思い込んでいる人が居るが、海洋民族は技術者を交易品として扱った筈だから、内陸の遺跡を発掘して伝達ルートを割り出す事はできない。
中国ではBC8世紀頃の周代の墓から、錬鉄製の鉄剣が発掘されている。錬鉄の製法が伝わっていたかもしれないが、倭人や粛慎が持ち込んだ交易品だったかもしれない。戦国時代から華南では錬鉄が、華北では鋳造鉄器が作られ始め、華北では鋳鉄を鍛造して刃物にする技術が生まれ、漢代には鋳鉄の製造が一般的になったと、考古学的な発掘成果が指摘している。
鋳鉄は効率良く製鉄できる利点があるが、品質は劣悪だから、日本列島では錬鉄を得る技法が一般的だった。弥生時代の製鉄遺跡は発掘されていないが、江戸時代までの日本の製鉄は、砂鉄から錬鉄を得る手法が一般的だった。華南の稲作民は錬鉄を生産したが、雑穀民に征服されると技術が失われ、華北型の鋳鉄製造が主流になったと考えられる。倭人は造船の道具として鉄器を使った筈だから、刃物に向く錬鉄の生産に固執した筈だが、その証拠は全く発掘されていない。これが考古学が導く、惨憺たる日本の製鉄史の現状だが、考古学者は飽くまでも考古学的事実に固執し、客観的な推測を潰そうとしている様に見える。好い加減それは止めた方が良いだろう。
東南アジアの海洋民族も倭人も、縄文時代からオリエント世界と接触していたから、中国大陸に製鉄技術が伝播する前に、東南アジアやインドで製鉄が始まったと考えられる。インドでBC12世紀の鉄器が発見されているのであれば、それは東南アジアの海洋民が持ち込んだ可能性が高いから、東南アジアの島嶼部や日本列島にも、その頃鉄器が導入され始めた可能性が高い。
倭人が鉄器を入手した場合、真っ先に使った用途は武器や農具ではなく、造船用の木材加工だった筈だ。その効用は少量の鉄器でも得られるから、少量しか入手できない場合の経済効果は農具の比ではなく、この場合の鉄器の入手先はかなり遠方でも構わなかったし、日本列島での製鉄に拘る必要もなかっただろう。しかし倭には100余国あり、東鯷人の国も20国あったから、造船用であっても彼ら全ての需要を満たすためには、日本列島での製鉄を望んだ事は間違いないだろう。
鉄器を直接的な生産財として農具に使うより、樫などの堅牢な樹木や竹から、鋭利な刃物で農具を作る事が先行したと考えられ、日本列島の農耕に鉄器が導入された時期は、倭人が鉄器を使って造船技術を高めた時期と比較すれば、数世紀の遅れがあったかもしれないが、木工用として全く同じ道具が使えたから、造船用の鉄器の導入と農耕用の鉄器の導入時期には、大きな差はなかったかもしれない。畔を持った水田の登場が菜畑遺跡によって確認できるから、その時期がBC9世紀だったとすれば、その頃鉄器で加工した木製の農具が登場し、畔を持った水田が誕生したから、鉄製の木工具が存在しただろうと考える判断基準を用いると、日本列島にもヒッタイトが滅亡したBC12世紀頃に、鉄器がもたらされたと想定する事に違和感はないだろう。
優れた日本刀を製作する技術は、木材加工用の刃物製作技術の派生だったと考えれば、倭人が欲しがった物と技術が明らかになる。弥生時代の水田形成に木材が多用されたが、江戸時代の農業用水路には石垣が組まれる事が一般的だから、弥生人は農耕に異常に木材を多用した事になる。それは造船木工用の鉄器を転用したからだと考えれば、その説明は合理的になる。当初は農耕民に木材加工用の鉄器が支給されたのではなく、造船技術者が持つ鋭利な刃物で堅い樫材や竹を加工し、少ない鉄で用途の異なる多様な木製農具を作れば、鉄器の有効な利用になっただろう。次のステップとして農民集団に鉄器が拡散し始めたとしても、少ない鉄を各戸に配布して用途が限定された農具を使うより、少ない鉄器から木製の農具を作る方が、鉄の使い方としても経済効果が高かった筈だ。焼畑農耕を行っていた者も、樹木を伐採するための鉄器が欲しかったと思われるが、鉄と透閃石の硬度は同じだから、透閃石は鉈の様な使いやすい器形にはならなかったとしても、鉄器を使えば画期的に樹木の伐採効率が高まったのか疑問がある上に、彼らは水田稲作者より経済的に不利な立場にあったから、焼畑農耕者に鉄器が支給されたのは、弥生時代末期以降の事だったと想定される。
石材を加工する技術は造船には不要だから、日本列島での石材加工技術の形成は、かなり時代が降る事になったと考えられる。磨製石斧や矢尻を製作するために、石材を割る技術は縄文時代からあったから、その転用で簡単な加工ができた事が、却って技術革新を阻害した面があった可能性もある。石材加工の技術革新が生まれ、石材で農業用水路を形成する事が可能になり、水田の面積が画期的に広くなったのは、弥生時代末期だったのではなかろうか。その技術の転用によって弥生古墳が生まれ、石で葺く古墳時代の墳墓が生まれたと想定されるからだ。しかしそれでも尚、灌漑用の土木工事に樹木が多用された事が、古墳時代の遺跡から明らかになっている。刃物を使って加工した木材を使い、土木工事を行う伝統は、奈良時代になっても引き継がれていた事を、秋田県の小谷地遺跡などに見る事ができる。それを裏から見れば、奈良時代になっても農民に鉄製農具が普及する状況は、生まれていなかった可能性もある。漁民政権である倭を倒し、農民重視政策を打ち出した奈良朝が、各地で中国式の製鉄を試みた事は、その傍証になるかもしれない。日本初の農民政権を自称した奈良朝は、農民全員の農具の鉄器化に真剣に取り組んだ、日本で最初の政権だった可能性は高い。中華至上主義者だった奈良朝で、中華の真似をして粗悪な鉄器の量産に走ったと想定される。続日本紀701年に、最高位の阿部御主人(みうし)に鍬一万口・鉄五万斤を授けたと記している。50トンほどだろうか。この頃はまだ、その程度に貴重だった。707年3月26日の記事に、鉄の焼き印を作って官営の牧場の牛馬に印を押したとする記載があり、鋳鉄を生産していた証拠になるだろう。723年の元正天皇の詔で、人民の戸主に鍬一口を配布する様に命じている。良民が100万戸あったとすると、千トンほどの規模だったと想定される。しかしその様な製鉄法は、平安時代には廃れた様だ。
農民国家で鉄を使用する優先順位は、農具→武器→加工具の順だったと考えられるが、海洋交易民族だった倭人の優先順位は、刃物=木材加工具→武器→農具だった筈だ。錬鉄は刃物の製作に向き、鋳鉄は安価な農具の大量生産に向いていたから、倭人と中国の雑穀民の製鉄に関する考え方は違っていたと想定され、この順位の違いが製鉄技法を決めた可能性が高いが、華南では戦国時代まで錬鉄が作られたから、稲作用途には錬鉄の需要が高かったと考えられる。華北が鋳鉄生産に走り、漢代に鋳鉄の製造が一般化したという事情に、何らかの理由が要るかもしれない。華北には樫などの堅い樹木がなく、木製の農具を作る事ができなかった上に、乾いた黄土を耕すには、粗悪品であっても鉄器の需要が高かったという様な、地域的な理由があったかもしれない。しかし漢代以降に鋳鉄一色になった事は、雑穀民帝国だった漢王朝の意向が働いた可能性が高い。その際には、毛沢東の大躍進政策から連想する事に、意味があるかもしれない。鉄の質や用途に無知だった漢王朝の役人は、経済合理性を追求するより成績を上げる事に意欲を高め、質より量を選んだ可能性が高いと言う事だ。
この様な事情は、倭人の交易機会を拡大したと考えられる。質の良い刀剣の入手を望んだ漢民族の豪族は、倭人から購入するしかなくなったからだ。
3−2 船腹数の拡大と船の大型化が進み、交易が拡大した
鉄器が導入されると、船のサイズを大きく出来るだけでなく、造船のスピードも上がる。漁船の製作に鉄器を適用すれば、漁獲量が増えて人口が増加し、交易船が大型化して船腹数も増加すれば、海洋の交易者だった倭人や陸上の商品生産者の数が増え、最大限に達するまで交易量を増やす事が可能になり、従来交易対象にならなかった重い物産も商品になった。海上交易者が優先的に鉄器を入手する事ができたこの時代には、新たな新規参入者が海上交易に参加する事はなく、既存の海洋民族の強みがより発揮され、交易や海上運輸は寡占化が進んだと考えられる。
倭人は中国人が海の彼方から来た交易民を指した言葉で、交易のために絹を生産していた者も倭人に含めたとしても、交易に関与していなかった日本列島の漁民や農民は、海洋交易民として組織化された倭人ではなかった。倭は大陸で組織的に交易を行っていた民集団の名称で、倭人はその構成員の名称であって、倭は漁民や農民を領域的に組織化した集団ではなかった。中国的に言えば、稲作民に荊や粤という民族名があり、その政権として呉、楚、越があり、倭は政権名だったと考えられる。春秋時代には雑穀民に対する呼び名もあった筈だが、自らを中華とした漢代に、それらの呼称は消滅したと考えられ、竹書紀年は当初異民族を夷と呼んでいたが、やがて戎が区別される様になった。しかし陝西省や河南省東部にいた雑穀民の民族名がない事は不自然だから、稲作民に呼ばれていた蔑称として気に入らなかったから、抹殺したのではなかろうか。
殷代に貴族の持ち物だった宝貝は、周代に庶民の墓にも副葬される様になり、流通量が爆発的に増えた。その数量を見積もるためには、時代が降る話になるが上田信氏が、1434年の琉球の明への朝貢で、宝貝を600万個ほど納めたと指摘している事が参考になる。雲南では明代になっても宝貝を貨幣として使っていたから、雲南を征服して皇族や官僚を赴任させた明は、俸禄としてその宝貝を渡した。この宝貝が雲南の流通量に追加され、雲南でインフレが起きた様だが、ある程度のインフレを覚悟すれば流通可能な数量だったとも言える。周代の山西・陝西・陝東の住民数が、明代の雲南の人口より少なかったとも思えないから、倭人が周王朝に供給した宝貝は、数百年間の通算で千万個単位だったと想定される。春秋時代に楚貝貨を発行した湖北・湖南省の稲作民には、更に多い宝貝を供給したと想定され、四川・雲南やその他の地域の住民の分も総計すれば、周代を通して倭人が大陸全土に供給した宝貝の総数は、億の単位だったと考えられる。
周代から春秋時代前半の500年間に、計算を単純にするために累積で2億5千万個供給したとすれば、年間平均50万個だから、ピーク時には100万個以上供給したことになる。どの様な梱包で運んだのか分からないが、1隻で1万個運んだとしても、年間最大100隻が必要だった事になる。宝貝は砂浜から拾ったのではなく、生きた貝を採取したと言われているから、採取から納入までの工程にかなりの人手を要した筈だ。縄文時代の項で、縄文人は年間数百隻の船を大陸に送っていたと算定したが、それは東南アジアからシベリアまでを網羅した数だから、宝貝の供給だけに100隻も出掛けたとすれば、日本列島の3〜4割の船が出掛けた事になり、関東に限れば半分以上だった事になる。これは倭国王の祖先が、周代に関東全域を掌握していた事になり、船の数の問題ではなく、縄文時代に関東全域が政治的に統合されていた事を意味し、二つの点で不整合が生まれる。
一つは古事記との整合性で、古事記はBC7世紀に神武天皇が即位した、即ち倭としての大同団結があったとしている事と符合しない。もう一つは竹書紀年の夏王朝の記事に「九夷来御」と記され、倭の様な統一的な組織は、未だなかった事を示している。春秋時代の人である孔子も「九夷」と言っているから、春秋時代のある時期までは、倭に統合されていなかったと推測される。但し夏王朝は、各々小国に分裂していた荊と粤が形成した王朝だったと想定されるから、倭もそれに倣って統一組織を結成した可能性がある。孔子は典籍に詳しい人だったから、倭の存在を知りながら、敢えて古い呼称である九夷を使った可能性もある。断定的に仮説化する事は難しいが、以下では古事記の説話を重視し、BC7世紀に九夷が、倭国を中核とする小国連合を結成したと想定し、その歴史を検証する事にする。
周への宝貝の供給は倭が行った事は確かだが、関東の海洋縄文人にも大小幾つかの交易集団があり、湖北省の稲作民に宝貝を供給したのも関東の海洋縄文人ではあったが、倭と呼ばれた組織ではなかった事を前提に話を進める。その様な状態で周代に宝貝貨の大衆化が進み、価値が減価しながら需要が増加し続け、供給地域も湖北省の稲作民や周王朝だけでなく、四川やその他の内陸地域にも、宝貝貨の使用が拡散していた状況を前提とする。発行主体が複数ある貨幣になるが、各地に出向いた海洋縄文人が、その地域の貨幣の半額の価値でその地域の支配者に宝貝を売り、その地域の支配者が市場価格でそれを放出するという様な事が可能であれば、発行主体が複数あっても構わなかったと考えられる。明代になっても雲南で宝貝貨が使用されていたのは、その証拠になる。
その理由と事情は以下だったと考えられる。夏王朝や殷王朝が銅本位制の貨幣の流通を整備し、皆がそれを使う事に慣れたから、多少発行主体が乱れても宝貝貨の供給量が限定的である限り、ある程度のインフレを起こしながらも、貨幣として流通し続けたと考えられる。地域によって貨幣価値が多少異なっても、桁違い程の違いがなければ、元々物品の価格には地域差があったから、矛盾は露呈しなかったと想定される。貨幣の使用者が次第に増加し、一人当たりの使用量が増加すると、流通貨幣が増加するだけでなく、退蔵貨幣も増加し続けたから、上記の行為を倭人と地域の支配者が何度も繰り返しても、酷いインフレにはならなかったと想定される。ある程度のインフレが進行しても、倭人と為政者がその時々の相場に合わせた価格設定で、流通量の追加行為を繰り返している限り、宝貝貨の追加発行は可能だっただろう。経済が活性化したり流通範囲が拡大したりして、退蔵が進行したり退蔵者が増加したりすると、流通量が減って貨幣としての機能が減退するから、宝貝貨が実質1000以上流通した事は、適宜倭人と為政者の追加行為があり、それが適度にインフレを起こして使用者数の増加を招き、貨幣の健全な流通に導いていた事を示唆する。戦国時代以降銅貨が普及した事から類推すれば、宝貝貨は銅との兌換性が慣習的に守られていたと想定され、それが宝貝貨を長寿にした理由だった可能性が高い。
倭人の側から見ると、需要の増大に対応して生産力と輸送力を整備し、製造原価を下げながら供給量を増やす対応に迫られた事になるが、それは商業活動の普遍的な姿だった。但し特定商品についてこの状況が続くと、いずれ供給過剰に陥る事も、普遍的な法則だ。食糧の様に消費されて消滅する商品は別格として、形が失われない商品が供給過剰に陥ると、急速に価値が下落する。
その経緯はマーケティング理論の中で、商品のライフサイクルとして定型化されている。その商品の発展期の段階では、価格の下落が需要を喚起するから、供給者は価格の下落によって低下した利潤を、供給量の増加で補う事ができる。しかしその状態が恒常化した成熟期になると、生産者の優劣が市場競争に影を落とし始め、需要の増加と価格の低減に応える事が出来る供給者だけが生き残り、その他は淘汰され始める。供給者がある程度淘汰されながら、供給量が更に増大して行く時期を、供給のライフサイクル上の成熟期と呼ぶ。周代になると庶民の墓から宝貝貨が発掘されるようになり、大衆化が進展したが、それは宝貝の供給単価が暴落した事も意味するから、宝貝の供給業者の寡占化が始まる成熟期に入ったと、想定できる根拠になる。春秋時代に銅の楚貝貨が登場した事は、その頃には供給が完全に過剰になり、宝貝貨の終焉期になったと考えられる。商品のライフサイクル上の終焉期は、衰退期と呼ばれ、代替え商品が生まれる時期だから、幾らその商品を低価格化しても売れなくなる時期になる。現代の例で云えば、レコードとCDの交替、更にCDとネット配信の交替がそれにあたる。レコードの素材やCDの加工賃を幾ら低価格化しても、世代交代が始まってしまうと売れなくなるという事だ。楚貝貨が登場した時点で、宝貝の流通価値が酷く原価し、沖縄の生産者や輸送者に賃金が支払えなくなったから、宝貝事業が終焉したのではなく、楚貝貨の登場により、宝貝貨の流通は終わったと想定される。
宝貝事業が終焉した直前の事情は、次の様なものだったと想定される。供給量が増加して価格の低下が進むと、供給を更に増加するための投資が高額になり、先ず新規事業者の参入が困難になるが、次いで既存事業者の一部の敗退が始まる。その際に競争に敗れた既存業者の従業員は、勝者の支配下に入る事になり、供給に成功した事業者の組織が膨張する。宝貝の採取と輸送の場合の高額投資とは、宝貝の輸送のために新しい大型の船を建造するだけでなく、宝貝を採取していた沖縄の住民を組織的に確保し、彼らへの報酬として米などを内地から調達し、それを運ぶために更に船を建造する事だったと想定される。
この究極の生き残り事業者が、華北王朝を交易相手にしていた、倭国だったと想定される。最も早くから事業を手掛け、収益性の高い殷・周王朝に供給し、率先的に事業の組織化を進めたから、最終的な勝者になった事になる。これは特定の英雄の所業ではないから、指導者や指導集団の交替の有無は、歴史の流れに大きな影響は与えないが、湖北省時代の供給者は、継続的に湖北省の荊に供給し続け、夏王朝以降の華北の王朝への供給は、別の集団が継続的に行った可能性が高く、古事記が、倭国王の祖先が笠沙から始まったとしている事は、鄭州の商王朝が殷墟に拠点を移した際に、指導集団の交替があった事を示唆している。但し宝貝を王朝に供給する行為は、慣れない集団にはできない高度な操作だったから、鄭州に宝貝を運んでいた時期には、単なる協力集団だった小さな漁業組合が、殷墟に乗り付ける航路を開拓して指導集団になったと言う様な、成功譚があった可能性が高い。それが現天皇家の祖先だったとすると、倭国王家・天皇家の指導者としての歴史は、BC14世紀頃に始まった事になる。
宝貝貨が供給者の忍耐限度まで減価したのは、単なる時代の趨勢としての帰結ではなく、その頃鉄器時代に突入した事が、重大な要因になっていたと考えられる。鉄器が普及して海洋民族が船を大型化し、より厳しい価格競争に突入した事が、その第一の要因だったと考えられるが、元々宝貝貨が参照していた青銅の生産力が過剰になり、青銅の価値も大きく減退した事が、宝貝貨の価値を更に低下させたと考えられる。宝貝は10個を紐で連ねて使っていたと言われているが、それは既に減価した宝貝貨の使われ方だったと考えられ、例えばその10連が青銅貨一枚程度の価値だったとすると、青銅が減価して青銅貨に置き換えられた頃には、宝貝貨にはビタ銭程度の価値しかなかった事になる。
青銅が余剰になると貨幣として使う余力が生まれ、楚がデノミ政策として楚貝貨と呼ばれる青銅貨を発行したのも、鉄器時代に入った事の影響だったと考えられる。鉄器が普及すると、既存の青銅製の農具や武器も不要になり、貨幣に鋳直す事が可能になったから、楚貝貨は発行数量を急激に増やし、急速に普及したと想定される。楚貝貨を発行し始めた当初は、余った銅の原価に苦しんだ銅の取扱者が、高額貨幣として発行したのかもしれない。それであれば、倭人は反対しなかっただろう。しかし鉄器化が進展して銅の減価が進むと、宝貝貨を駆逐して銅貨に置き換わる事は、趨勢だったと考えられる。
周の首都だった西安の遺跡では、墓から宝貝が多量に出土したが、楚貝貨は出土していないから、この変化は西周時代には起こっていなかった事が分かる。戦国時代には楚貝貨だけでなく、他の青銅貨も内陸西部で出現したから、上記の変化は春秋時代に進行したと考えられる。越の領域だった東シナ海や南シナ海の沿岸部は、金や絹布を交換材とする越の領域だったから、銅貨を発行する文化は持っていなかったと想定される。西ユーラシアで銅貨が発行されたのは、帝政ローマ期、即ち後漢代だった。
春秋時代に宝貝は急激に減価し、倭人の交易品目としての重要性が失われた事が確認できたから、倭人はその状況にどの様に対応したのかが、次の話題になる。
3−3 倭人の交易手法の変化
史記の秦始皇本紀に、徐福(徐市と記されているが、以降徐福に統一)の話が記載されている。徐福は始皇帝に、東の海に神仙世界があり、そこに不老不死の仙薬があるから、それを取りに行く事業を援助して欲しいと願い出て、始皇帝から莫大な財政援助を得た。この話が生まれた背景には、遅くとも戦国時代末期に、東の海上に神仙の島があるという伝承が、中国大陸に広まっていた事を示している。東の海上の事は、倭人と越しか知らない世界だったから、倭人や越が否定すればその話は消失した筈だが、その伝承は始皇帝も騙すほどに強力だった事は、倭人と越が口裏を合わせて嘘を言っていたから、始皇帝を騙せる程の強力な迷信になった事になる。徐福が神仙の世界として挙げた島の名が、蓬莱・方丈・瀛洲(ほうらい・ほうじょう・えいしゅう)で、蓬莱と瀛洲は日本列島を指した名前だったと考えられ、始皇帝の死後に徐福が寄留したのは倭人の島だった事を、三国志、後漢書、隋書が示しているから、神仙世界の話を広めたのは倭人で、越は協力者だった事になる。
史記は捏造書だから、基本的にはその記述は参照しない方針だが、徐福の話は三国志呉志や後漢書倭国伝にも記されているから、漢代末期までの中国人が徐福伝承を伝えていた事、倭人が徐福の子孫の後日談を中国人に伝え続けてその様な状況を作っていた事、三国時代の呉の皇帝だった孫権さえも、徐福の子孫の後日談を知って奴隷狩りを行うために、1万の軍を徐福の子孫が住んでいる島に派遣した事から、史記からその伝承の実態を抽出する事が目的だが、当然ながら、史記には徐福と倭人の関係は記されていない。逆にその事から、史記は歴史を記述するにあたって、倭人に関する史実を稲作民の史実以上に、徹底して抹殺した事が分かる。従って史記から抽出できるのは、当時の中国人の東海(東シナ海)に関する伝承だけになる。しかし中国人から見れば、倭人は東海から来る交易者だったのだから、東海に関する情報の発信者は倭人だった筈で、史記から抽出した徐福伝承は、当時の倭人が東海について、中国人に何と言っていたのか抽出する事になる。
徐福伝承の詳しい内容は、(2)史記に書かれた徐福の項に譲り、ここでは東海に関する伝承について検証する。倭人が上記の様な迷信を宣伝した事には、二つの理由があったと考えられる。その一つは、凶暴な漢民族が、倭人の島へ上陸する意思を持たない様に、恐ろしい島だから来ない方が良いと、宣伝する事だった。しかしそれでは、不老不死の仙薬があるという話には、到底辿り着かない。しかし倭人のマーケティング戦略も兼ねていたと考えると、腑に落ちる。日本列島から持ち出したヒスイ、瑪瑙、珊瑚、真珠などの宝を、神仙世界から得た宝として人々に購入を勧め、高額で販売する事ができたからだ。宝を持つと長寿になるとする宣伝も、その中に含まれ、護符としての機能を強調していたのではなかろうか。民間でそれが強く信仰されていたから、始皇帝もそれを疑うことなく、徐福に更に強力な仙薬を求めさせたとすると、秦始皇本紀に記載された理由が明らかになると同時に、戦国時代の中国人の、東海の仙人信仰の強さを指摘する事ができる。
その倭人の戦略を、マーケティング戦略として分類すれば、ブランド戦略だった事になる。ブランド戦略は現代でも多用され、有名メーカーのバッグ、香水、腕時計などが良く知られている。この戦力を展開する条件も、それらの販売手法から連想する事ができるが、ここで強調して置きたいのは、この戦略を展開するためには、販売者は強力に組織化されている必要があるという事だろう。販売価格を高額に維持するためには、ディスカウントする者を排除する必要があるし、品質には万全な配慮が必要だから、製造と販売が強力に組織化されている必要がある。
マーケティング戦略と迷信の関係についても、現代でも多用されている事を指摘できる。日本の神社に関して言えば、おみくじや絵馬、交通安全の祈祷などがそれにあたる。いずれも神社に多数の人間を集めるための戦略手段で、その手法や効能などは周知されている必要があり、日本の神社は全国どこでも同じスタイルを採用し、巫女姿の女性の衣装や販売手法も似ている。日本の神社は歴史的にも、皆独立した団体であるのに、この様に手法が統一されているだけでなく、総体として現代日本で最も信仰を集めている事は、この時代の倭人が採用した戦略を、各地の神社が習俗的に記憶しているからではなかろうか。
この時代に倭人が採用した戦略を概観すると、倭人が持ち込む商品の価値を高めるために、倭人の商品は神仙世界から持ち込んだ宝で、この宝を持てば無病息災が約束されるとか、長寿が得られるとかの宣伝を行い、地域の有力者に高額で売ったと想定される。倭人がその様な戦略を打ち出したのは、宝貝交易が衰退する中で、次の有力な商品を組織的に育成したからだと考えられるから、以下にその想定経緯を説明する。
周が諸侯を封建すると、華北の各地に封建領主や富裕な有力者が誕生したが、彼らは地域的に孤立していたから、倭人は美麗で宝飾的なヒスイ、琥珀、真珠、珊瑚などが、権力者や富裕者が持つにふさわしい威信材や財貨であると吹聴し、所有する事に興味を持たせることから、宣伝活動が始まったと想定される。漢字の「貴」は宝貝を沢山持っている事の象形だから、従来は宝貝を多量に持つ事が、富貴を象徴していたかもしれないが、最高権力者が価値を認定しなければ流通しない、怪しげな宝貝よりも、まだ見た事もない光り輝く物産は、その精巧な加工と相俟って、より高価に見えただろう。
大陸の奥地の富豪や領主は、土地に束縛されて農耕しなければならず、農地の集合体である領土を、簒奪者から守らなければならなかったから、遠隔地に出向くことは殆どできなかった。彼らに大陸では容易に入手できない美麗な物品を、威信材として推薦する事は、それだけでも有効な販売戦略だったと考えられる。その様な物品が威信材として好まれる事は、現在も変わらないからだ。宝貝貨がインフレによって価値を減損していたから、それを沢山持っていたからと言って貴人とは言えなくなり、富豪の側にも彼らの威信を維持するための、新しい素材が必要になっていただろう。その威信材は美麗であると同時に、容易に入手できない物品である必要がありながら、世間から価値が認められていなければならなかった事情は、現在にも通じるところがある。ダイヤモンドの鑑定書は良く知られているが、当時その様な鑑定書を実質的に発行できたのは、広域の交易者だった倭人と越しかなかった。越と比較して、東南アジアやオリエントの物産を豊富に持たなかった倭人は、有力な工芸品を保持していなかったかもしれないが、石材加工には自負するところがあり、雑穀民と内陸の荊に対しては、独占的な広域交易者だったから、東海の神仙世界という新しい交易戦略を生み出し、宝飾品の世界に打って出たと考えられる。魏志倭人伝に記された、台与が魏の皇帝に贈ったとされる物品は、「白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雑錦二十匹」だが、白珠や孔句珠(勾玉)は護符だったのではなかろうか。異文は不思議な模様を意味し、雑は多種の色が使われている意味で、品質が劣る事は意味しないから、それも同様の役割を持っていた可能性がある。
銅鏡もその起源が浙江省であれば、倭人の戦略を真似た呉の商品戦略だった可能性があり、その起源を辿ると、倭人が考案したものを呉が盛んに生産する様になった疑いがある。
鉄器が普及し、黄河や淮河の流域が開墾されると、自然界の変化に乏しい単調な沖積平野の領主が増えたから、倭人のブランド戦略に一層の磨きが掛かり、火山性の列島に住んでいた事を強みに、海や山から光り輝く石材や海産物を採取し、硬いヒスイを加工出来る、優秀な工芸職人を揃えていた事を最大限発揮し、ブランド戦略に埋没していったと考えられる。その戦略を強力に推し進めるためには、それらの工芸品を購入者の軒先に届け、その希少性や効能を宣伝する必要があったが、鉄器が普及して船舶の増産が容易になっていたから、その販売手法を実現できる海運力を揃える事ができた。倭人は宝貝の供給者として、諸侯やその家臣と面接する機会を持っていたから、彼らが珍奇だと考える人工物を、彼らが見た事もない素材で実現し、提供することが出来た。言い換えれば、異文化の人だった漢民族や荊が、どの様な物品を好むのか、対面販売で確認する事もできた。顧客の嗜好を探る事は、ブランド戦略にとって極めて重要な要素だからだ。減価した宝貝は、おまけの様な位置付けだったかもしれないが、宝貝を持参するステータスを持っていた事は、最高位の顧客を持っていた事になるから、物品の価値観を普及させるには重要な意味を持ち、その様な商品の販売に重要な要素を付加しただろう。
漢書地理誌は「倭人は分かれて100余国を為す。歳時を以て(毎年決まった時期に)来て、有力者に接見しているが、朝貢はしていない。」と記し、倭人は富裕者への戸別訪問スタイルで、何かを販売していた事を示している。
史記に依れば、徐福は始皇帝に「海中に3つの神山があり、蓬莱・方丈・瀛洲(ほうらい・ほうじょう・えいしゅう)と申し、仙人が住んでおります。」と言った。蓬莱はその他の史書や書籍にも出てくる地名だから、倭人の国が100余国に分かれていても、名称を統一する戦略があった事を示唆し、彼らの間で情報連携が為されていた事を示している。
三国志呉志や後漢書は、華南では倭人の島は「夷洲、亶洲」と呼ばれていたと記している。亶は農耕的に豊かな島を意味し、神仙のイメージはない。越とも接していた華南の稲作民には、海上に神仙世界があるとは言っていなかった様だ。戦国時代の呉は越と合体し、越を支配者にしていたから、海洋民だった越まで巻き込んで、嘘を吹聴する事はしなかったと考えられる。裏を返せば、内陸の荊や雑穀栽培民と呉の間には、殆どコミュニケーションはないと、戦国期の倭人は判断していた事になる。呉は揚子江を輸送路にしていた筈だが、その商圏は揚子江下流域に限られていた事になり、荊の水上航行能力の限界が読み取れる。
倭人の島が遥か遠方の神仙世界にあると宣伝した事は、縄文時代に盛んだった、女性の自発的な渡航は既になくなっていた事も示している。神仙世界に渡航した極めて稀な人という事で、徐福伝説が後世まで語り継がれた筈だから、その背景として、倭人の島に渡航する女性は、既に居なかった事になるからだ。縄文時代には、日本列島のミトコンドリア遺伝子を書き換えてしまうほどに、多数の女性が大陸から渡来したが、弥生時代になると、その動きは完全になくなった事になる。
話しは脇道に逸れるが、その理由を想定すると、農民人口が増えて農地の利権争いが頻発し、農地を配分する権力者が生まれ、その権力者の領域概念が生まれると、域内で人の交流が活発になると同時に、農地を武力的に確保できる男性の発言権が高まり、男尊女卑思想と民族主義が台頭したと考えられる。さらに進んで国が生まれる時代になると、新石器時代的な栽培技術を持った女性の、自由奔放な婚姻拡散はなくなったと推測される。現代日本人のミトコンドリア遺伝子分布が、関東の縄文人の分布を色濃く残しているのは、鉄器時代になって船便が画期的に改善されても、女性の婚姻移動はなくなったからだと考えられる。関東縄文人が北九州弥生人へと展開した事が分かるのも、その分布の類似性からだから、弥生時代の早い時期に、大陸女性の流入は収束したと想定される。最後のミトコンドリア遺伝子の流入が、バイカル湖近辺のmt-M10と、漢民族特有のmt-M8aである事は、漢民族に関して上記の様な経済環境の進化が、稲作民より遅かった事を示している。
話しを倭人の組織・制度に転じると、漢書から旧唐書倭国伝までの総ての史書は、倭は多数の地域分散的な海洋交易集団の集合体で、個々の交易者が自由競争を繰り広げながら、同業組合の様な組織として、倭国王や大率を指導者とする体制を組んでいた事を示している。その様な地域集団が、現在の資本主義体制下の企業の様に、商品開発や販売競争を繰り広げ、経済効率を高めていたと考えられる。それを示す春秋戦国時代の資料はないが、漢書は「楽浪海中に倭人があり、倭人は100余国に分かれ、毎年決まった時期に貴人(富者)を(奢侈品を売りに)訪れる、と云う者が(多数)居る」と記し、魏志倭人は「古い時代から倭の諸国は中国に来ると、使者は皆自分を大夫と称す」と記しているから、他の状況証拠と併せて考察すると、この想定は正しいと判断される。市で物を売り買いする事は、通常の交易行為であり、後漢書は倭人も会稽の市でその様な行為をしていたと記しているが、各地の富豪を戸別訪問し、物品を対面販売する行為は、この時代の倭人独特の商法だった。地域的な行商人がそれをしても珍しさはないが、海外の交易者が、大陸の各地の豪族を戸別訪問する行為は、この時代の倭人独特の交易スタイルだった様に見える。日本書紀史観を信奉している史学者は、倭人の100余国は楽浪に殺到していたのだと嘘を言うが、漢書地理誌は呉の条で「会稽の海外に東鯷人あり、20余国に分かれ、毎年決まった時期に貴人(富者)を(奢侈品を売りに)訪れる、と云う者が(多数)居る」と倭人の説明と完全な対句で記述し、後漢書は会稽に倭人も来ていた事を示しているから、漢書は意図的にそれを混乱させた疑いがあり、それに乗る事は賢い行為と言えない。いずれにしても、倭人は江南にも交易に出掛けていた事は間違いなく、トカラ海峡を越える事ができる倭人船の機動力があれば、中国大陸の平原の河川を遡上し、内陸の川岸の豪族の館に出向くことができた事は明らかで、安徽省の亳州市で発見された後漢代の、倭人字磚と呼ばれるレンガに「倭人」と記されている事は、倭人が淮河とその支流を遡上し、富豪の館を訪れていた事を示している。
この様な体制や状況は、一朝一夕に出来るわけではないから、春秋戦国時代に形成が始まっていた筈だ。貴人を個別に訪れる独特の交易スタイルは、宝貝交易から奢侈品交易に転換する過程で成立したと考える事が、一番素直な推測になるだろう。少数の商人が僥倖を得て幸運を掴む事は、偶然の結果として起こり得る事だが、多数の集団が一斉に、漢帝国の各地の貴人の館を訪問したのだから、倭人の交易スタイルには、明確な起源とプロセスがあったと考えられる。強力なブランド戦略を浸透させ、始皇帝までも騙したのは、倭人の組織力の賜物だったと考えられる。
古代の遠隔地交易は、奢侈品の交易から始まったと考えられるから、それと併せて考えれば、農民から交易者に転じた者が少なかった時代に、天成の交易者だった倭人は、華北で独占的な交易者になる事を、目論んでいた筈だと言えるだろう。塩や鉄がその交易品目に含まれていたのかまでは分からないが、水上での輸送を得意としていた倭人には、塩や鉄も扱う事が難しい商品ではなかった。若しその様な物品まで扱っていたのであれば、武器も扱っていた事になり、農民を領地として支配し、租税を得る事を財政基盤としていた漢帝国にとって、脅威になる存在だったが、排除できない存在だった事になる。漢帝国は鋳鉄を専売していたらしいが、その製造と販売を専売化しても、倭人が錬鉄から製造した高価な刀剣を販売すれば、それは漢帝国が関与できない商流だったからだ。漢帝国は武力で豪族を抑えていた政権だから、陰で豪族が独自の活動を行っても、統制出来なかった疑いがある。
倭人の100余国が、各々独自の生産と販売を行っていたとは考えにくいから、日本列島で生産した物品の交易が日本列島内にあり、倭人の各国は、その物品を大陸で販売する組織だったと想定する事が、この時代の倭人を把握する要件になる。玉器の生産や、琥珀・珊瑚・ヒスイ・真珠の産地は限られていたから、それは当然の事だった。この様な状況で、100余の交易集団を組織化する際に最も重要な事は、互いの利益を調整して商圏を配分する事だったと考えられる。交易者にとって商圏は、農耕民族が領土を争う事と同様に、極めて重要な利権だったからだ。倭国王は宝貝交易を統制していたから、宝貝交易からその他の物品の販売に転換する際に、各国に商圏を配分する機能として働き、宝貝交易が終わって商品が多様化しても、商圏を配分する権限を保持し続け、新しい交易が主流になった時代に、それに合った体制に変更したと想定される。
それを示す直接の証拠はないが、倭が交易者の集合体だったのは確実視できるから、倭国王の権威は武力的な手段か、話し合いによって作られた規約によって生まれた筈だから、それを判定する事によって、この判断を合理化することができるし、その過程で状況証拠を確認する必要がある。
弥生時代末期と古墳時代の倭は、罰則が厳しく治安が良い状態だったと、倭に送られた使者の報告書を基に記した史書は、皆指摘している。孔子が言う「九夷」も倭だったと想定され、統治と治安の良さが強調されている。従って倭国王が武力で他者を恫喝していたとは考え難く、規約によって運営されていたと考えるべきだろう。その場合の倭国王には、地域権力を構成していた交易者である諸王の、支持が必要だった。地域の交易者達も効率的に交易を行うためには、倭国王の商圏の配分権を認める必要があった筈だ。特にブランド品を販売するためには、販売者が互いに顧客を争って相手を貶め合ったりすれば、円滑な商業活動が出来ない事は、現代人であれば常識的に認識できるだろう。その様な方法で交易を行っていた者達の方が、倭国王の権威を必要としていたと言えるだろう。それ故に奢侈品販売が有効であり続け、その体制が維持されたと考えられる。結果として倭国体制は1300年続き、その間に制度の変革を行った形跡がないから、倭の体制は発足当初から、交易者達の利害と一致していたと考えられる。
その様に推論すると、江戸幕府を興して300年の太平を築いた徳川家は、戦国時代を勝ち抜いた戦国大名だったと反論する人がいるかもしれない。しかし縄文時代に武力抗争がなかった事は、殆どの歴史学者が認めている。倭人諸国は、その様な縄文時代に生まれたのだ。日本で武力抗争が生まれたのは、壬申の乱が初出で、奈良時代から武力抗争が頻発したが、これは中華的な文化を真似する事を推奨した、大和朝廷に原因があったと考えられるから、それ以前と以後を区別する必要がある。また江戸幕府には、全国の商業活動を統括する機能も意思もなかったから、中華的に武力で抑圧して平和を生み出したが、倭国王は倭人諸国の交易を円滑にする職責があったから、武力を使う必然はなかった。倭国王がその職責をどの様に実行したのかについては、古墳時代の項で詳しく説明するが、倭人経済を活性化させるために、倭国王の系譜が東から西に遷った事もあり、倭国王系譜以外にも遷ったが、元の倭国王家もその支配地も保全されていた。
その様な制度は、縄文時代からの長い経験の上に、徐々に作られてきたと考えられる。縄文時代前期に既に、黒曜石の矢尻を付けた弓矢の交易に際し、組織的な活動が為されていた事を、縄文時代の項で説明した。王、大夫、大率などの権能は、稲作民から学んだとしても、それは農地の所有権を確定するために、稲作民が作った組織だから、交易者としての独特な規約や制度は、倭人のオリジナルだった筈だ。それを学んで高度化したとすれば、オリエント政治制度も知っていた東南アジアの海洋民族からだっただろう。西ユーラシアには「ルイ14世」と云う様に、王の肉体的な世代交代を認めずに、同じ名前で統治する例が多数あるが、倭人もその様な統治だった事を史書は示している。現代の天皇に名前がない事も、その文化の一端だと考えられる。それは環ユーラシア文明の一環だったと考えられ、その文明圏から外れていた中華には、その様な伝統がない。この様な制度を共有している事は、倭も環ユーラシア文明の一員だった事を示し、多くの政治制度が共有された事を示唆している。
倭人や東鯷人は奢侈品の開発と商品化を行い、中国市場を開拓したが、そのためには加工技術を洗練するだけでなく、特定の商品の高額な価格を需要者に納得させる事が、さらに重要だった。商品に埋もれている現代人は、容易にそれを理解できるだろう。何が宝であるのか需要者に周知させる事は、誰かが積極的に働きかける事によって、初めて可能になる事なのだ。現代のダイヤモンドの価値設定が、製造・販売を行う者によって為されたり、高級ブランド小物が高額の定価で販売されたりするのは、商業的に価格設定が行われた結果なのだから。当然古代も同様な事情にあり、それを倭人や東南アジアの交易民が周知しなければならなかった事も、理解できるだろう。それらの物品を顧客同士が見せ合った場合、価値観に齟齬があってはまずいから、倭人内部で価値観を統一する必要があった事は、言うまでもない。
戦国時代〜秦代の華北の中国人は、東の海上に神仙世界があると信じていた。それを言い出したのは誰かという事は重要ではなく、始皇帝も信じる、確固たる確信に作り上げられていた事が重要で、その様な状態になったのは、誰が作り上げたのかという事が問題になり、倭人がそれを事業戦略にして積極的に拡散したから、始皇帝も信じるレベルになったという指摘が、正しい回答になると考えられる。不老不死の仙薬が東方海上の仙人が住む島にあると、徐福が始皇帝を騙す事が出来たのは、中国人にとって疑いがないほどに、倭人のブランド戦略が浸透していた事を示している。逆に言えば倭人が持ち込む宝は、そのイメージを壊さないほどの精巧さを持っていた事も意味する。
倭人はそのイメージを壊さないために、あらゆる商品を高級品化しただろう。統制的にそれを行う事は一見難しそうだが、100余国に別れて競争的に交易を行っていた事が、それを可能にしたと考えられる。競争社会に投じられた全ての国の王が、商品は高品質でなければならないと考える様に、仕向ける事が出来るからだ。顧客からクレームが出たり、他の国の商圏の顧客から誹られたりしてしまえば、折角割り当てられた商圏で商売ができなくなるから、販売者に商品の鑑定眼が必要になり、その結果として物流がチェック機構になれば、生産者も襟を正さなければならなくなるだろう。現代日本人は正にその様な人達なのだから、それを証明する必要はないだろう。此処ではその発祥に関して、議論している事になる。
倭人を支えていた職人達の意識が高かった事は、例えば長野県で縄文時代の遺物を展示している考古館を訪れれば、直観的に理解できるだろう。ヒスイの加工品だけでなく、縄文土器を作った女性達の意識の中にも、品質感覚は十分に浸透していた事が分かるからだ。縄文時代に発達した庶民レベルの品質感覚が、この時期に発露の場を与えられたと言った方が、より正確な表現なのかもしれない。彼らは縄文晩期に矢尻交易を失い、関東の海洋縄文人や北陸の海洋縄文人と合流し、漆器などの新しい商品の製作に従事したと考えられるが、彼らの伝統は継承されていた様だ。
もう少し広い視点で現代的に言えば、共産主義や帝国主義の体制下では、その様な事情は成立しないが、企業が乱立する自由競争社会では意図的な強制がなくても、その方向に向かう力が働く事になる。弥生時代の倭国王は、適切な監査制度を整える事も業務だったかもしれないが、それは難しい話ではなかっただろう。各国を監査する大率がいたから、その権能の一部に、その様な監査機能を付加する事も可能だった。
倭国連合を結成した倭人は、近代的なブランド戦略の先駆的な実施者だったと言えるかもしれない。ブランド戦略では、ブランドを名乗る商品の品質だけでなく、価格の維持も重要な戦略要素になるから、倭国王が価格を統制していた可能性も高い。倭人連合は烏合の衆ではなく、緻密な指針や方針を打ち出していた事を示す事績が、国防関係の記録から散見されるから、根拠がない話ではない。中国人に日本列島の位置を教えず、倭は遠い海上にあって中国人には行けないと宣伝したのも、組織的な倭人連合の体制から出た、指示だったと考えられるからだ。
日本人が古代から合議を重視するのは、その様な商業活動の成果に起因したと考えられる。日本人同士であれば、現在でも契約書を交わさずに取引を行うのは、その様な精神構造が、倭人連合から生まれたからだと想定される。恒常的に領土を争う農業社会では、如何なる手段を用いても、農地を確保する事が至上命題だから、例え合議によって社会秩序を維持する機会があっても、その会議を活性化して利益を得る事はできないから、ブランド戦略を実施していた交易者ほどには、合議を重視しない風土に流れた事は、法則に近い事実と言えるだろう。
この様な交易者の倫理観は、倭人が単独で生み出したのではなく、東南アジアの海洋民族や華南の稲作民との交易の中で、自然発生的に発展したものだった筈だ。規約的な倫理観は、交易者の双方が認識しなければ発展しないからだ。東南アジアの海洋民族は、秦・漢帝国が成立すると漢民族の横暴に憤り、中国を商圏とする事を止めてしまった様に見える。彼らは倭人以上に、規約的な倫理観を発展させていたから、漢民族が支配する中国からいち早く離脱したのではなかろうか。オリエントやインドは中国より富裕な交易相手だった事も、その事情に影響していたと考えられるが、少なくとも東シナ海沿岸からは、完全に撤退してしまった。漢書地理誌の粤の条に、海洋民族の民族名がない事は、東シナ海沿岸に居た越系の交易民は、漢代には中国に登場しなかった事になるから、その様に判断される。南シナ海沿岸の海洋民族は、漢代の漢民族にとっては初顔合わせの民族だったから、民族名はなかった。
東南アジアの海洋民族は縄文時代から、東アジアでは稲作民と縄文人だけと交易していたから、雑穀民とも交易していた倭人と比較して、交易に関する考え方の純粋性が高かったと想定される。
4、日本列島の農民事情
4−1 農民の食料事情
鉄器の普及は稲作に画期的な効率化をもたらしたが、弥生時代には農具が鉄器化したのではなく、鉄器を使って堅い木や竹を加工し、農具を作ったと考えられる。そのやり方でも、湿った土を掘って水路を開き、畦を持つ水田を作る事ができる様になった。畔は斜面を水田にする事を可能にしたから、米の生産量を大幅に増やすことが出来たが、米の増産が人口を増加せる段階には、至っていなかったと考えられる。コメは食味が良いから商品価値が高く、農民が必需品を得るための最も有力な手段だったが、カロリー生産性は焼畑農耕で得られるアワと変わらず、穀物の総生産量が画期的に増えたわけではないからだ。現代的に言えば、農民が自家消費する目的で栽培したのではなく、換金作物だったからだ。
米の生産性は時代の経過と共に向上したが、江戸時代になっても、農民が十分に米を食べる事が出来なかった事は、冷涼で傾斜地が多い日本列島での、米の主食化の限界を示しているからだ。弥生時代の低い生産性では、米は贅沢な食料であって、農民が常食するものではなかった筈だ。農民は雑穀やクリを食べ、飢饉の時にはドングリも食べながら、米を交易品として生産したと考えられる。海産物は縄文時代以来の重要なカロリー源だったから、それで栄養バランスを取る事が出来ただろう。農民は海産物や、倭人が鉄器で作った農具などと交換する為に、米を作ったと想定される。
但し弥生時代の農民が、飢餓と戦い続けていたとは考え難い。縄文後期前半の海岸の沖積平野に、ドングリピットが沢山作られたが、雑穀栽培や稲作が普及したと想定される縄文後期後半には、ドングリピットの数が減少しているからだ。農耕が本格的に取り入れられた段階で、内陸民は堅果類を食料とする事から解放されて農民になったが、弥生時代の救荒食として堅果類は未だ、重要な位置付けにあったと考えられる。
江戸時代の農民は飢饉に苦しめられていたから、古代人はもっと食料に窮していたと推測する人がいるが、米の生産性が向上して農民も米を主食にする様になってからの方が、飢餓が頻発し易くなったと推測される。米は食味が良いから、主食にすると米偏重が止められなくなり、雑穀を栽培して不作時のリスク分散を怠る様になり、救荒用に商品価値のないドングリを蓄える習慣がなくなり、里山に堅果類の実る樹木を維持する努力をしなくなった。商品経済が浸透すると、米を備蓄せずに換金してしまう様になり、飢饉が起こると餓死者を多量に出したと考えられる。弥生時代の米の生産性は低かったから、農民が常食する事は難しく、豊かな倭人や漁民が食料にする程度だったと推測される。倭人や漁民は高級な食材である海産物を主に食べたから、コメが不作になっても、農民から農産物を強奪する必要はなかった筈だ。むしろ不作時には、共生していた漁民が海産物の生産を増やし、食料生産の平準化に努めていたと考えられる。漁民がその努力を放棄したのは、農産物の生産性が高まって農民の人口が増加し、内陸に農村が拡散した事と、倭人政権が倒れて漁民の地位が低下し、農民が政権側になって横暴になったから、漁民が共生を放棄した事が原因だった疑いがある。奈良時代に良民と呼ばれたのは、稲作農民だけだったと推測され、漁民は雑戸と呼ばれた被差別民になった疑いがある。続日本紀の元正天皇の即位の詔に、租税としてアワを認めよという指示が含まれているから、雑穀しか栽培していなかった山間の農民も、良民と呼ばれなかった疑いもある。昭和になっても、山間にはその様な農民が多数いたから、奈良時代に専業の雑穀栽培者がいなかった筈はない。
4−2 農民の経済事情
ここで「農民」と言う言葉を定義しておく必要がある。縄文時代の初めに、栽培民族として日本列島に来たのは縄文人だけだった。その後民族として栽培民が日本列島に来た証拠はないから、農民は彼らの後継者になるが、縄文人は縄文時代末期から弥生時代前半期に、何種類かのグループに分裂していたと考えられる。第一は漁民と共生する内陸民として、農産物や手工業品を漁民に提供していた人達で、海洋民族の一翼を担っていたと考えられる。
第二のグループとして、縄文早期に九州で人口を増やし、その後西日本に拡散したが、必ずしも漁民と共生していなかった人達が、西日本には多数いたと想定される。温暖な西日本では堅果類も豊かに実り、海産物に頼らなくても河川漁労や狩猟によって、生計を立てる事ができたと考えられ、海洋縄文人が大陸から連れて来たアワ栽培者や稲作者の子孫の女性が、彼らの中に拡散し始めると、独立系の雑穀栽培民や稲作者になって、海洋民族と生産物を交換する様になったと考えられる。
第三のグループとして考えられるのは、栽培の生産性が高かった西日本の現象として、栽培者の人口が漁民人口と比較して過剰になる傾向が生まれ、栽培者の一部が内陸に拡散し、次第に海洋民族と一線を画す集団になったと考えられる。以下では農耕を行っていた第二第三の人々を「農民」と定義し、漁民や交易者と共存していた栽培民は、農耕を行っていたとしても海洋民族と定義する。
漢書地理誌が記す海南島の習俗は、男女が貫頭衣を着て、男が稲作農耕を行い女は養蚕を行って絹布を織っていた。しかし魏志倭人伝は女だけが貫頭衣を着ていると記し、漢書地理誌の語句を引用しながら、男女の習俗は別記している事を示しているが、稲作を行っているのは男だとか、養蚕して絹布を織っているのは女だとかは記していない。魏の使者も倭人の島に渡航するにあたって、漢書地理誌を読んでいたと想定され、邪馬台国の倭人社会でこの語句との違いを見出したから、この様な記述になったと想定される。つまり邪馬台国で海洋民族と共生していた農民は、稲作はあまり行わずに、養蚕と絹布の製作に従事していたが、彼らは米を食べていたという事ではなかろうか。漢民族の史官は、訂正すべき事柄の語句を引用した原典から僅かに変え、それを以て訂正とする事を常としたから、原典との比較は欠かせない。漢書地理誌/粤の条の、該当文を書き下すと、「男子は耕農して禾稻紵麻を種し、女子は桑蚕して織績する」で、魏志倭人伝は、「禾稻と紵麻を種し、蚕桑して緝績し、細紵と縑緜を出す」となっている。魏の使者は、邪馬台国7万戸について詳しく踏査したのではなく、邪馬台国の中心集落の周囲は桑畑になっていたが、倭人は皆コメを食べていたから、この様な表現になったと考えられる。
倭人がブランド戦略を採用すると、そのために輸出商品を作る職人が増え、彼らの米需要が増大したから、コメの需要者が増えて商品価値が高まり、周囲の農民がコメを供出していたと想定される。但し倭人には海産物があり、倭人の中にも稲作者もいただろうから、農民が唯一のコメの供給者ではなかったという事だろう。魏志倭人伝は「人が死ぬと10日喪に服し、その際には肉を食べない」と記しているから、倭人は肉も沢山食べていた事になる。邪馬台国7万戸の中で、どの程度の人々がその様な食生活をしていたのか定かではないが、習俗として描写されているから、少数者の食料事情ではなかったと考えられる。その肉の供給源は、野生のシカやイノシシだけでなく、救荒食だった堅果類や根菜類を餌にして、イノシシや豚を飼育する者もいたと想定され、彼らも海洋民族ではなく、上記第二第三の人々だった可能性が高い。
海産物が主食で、海外交易に注力していた倭人にとって、鉄などの海外からの技術導入品や海産物との交換で、農民から必要な量の米が入手出来れば、それ以上の米は必要なく、コメの流通に多少関係したとしても、コメ販売を生業にする気はなかったと想定される。従って倭人国の周囲の農民を、倭人が政治的に保護する必要はなく、農民社会の権力者の様に耕作地を管理し、彼らの耕作権を保証する様な領主的な事は、しなかったと想定される。領主として領国を経営するには、経済的なコストと労力が必要であり、領土を守るためには戦闘行為が付随するからだ。言い換えれば倭人には経済原則だけがあり、領土意識がなかったから、日本列島には戦闘行為がなかったとも言える。更に敷衍すれば、倭は大陸で交易するために結成された組織で、日本列島は配分されるべき商圏と考えていなかったから、商圏の獲得を巡る戦闘行為もなかった。中国の史書が、「倭には諍いや訴訟がない」と繰り返し記しているのは、その様な倭人を描いたからだと考えられる。
その様な倭人が君臨した日本列島では、倭人は鉄器や鉄器で製作した農具を、市場独占者として法外な価格で農民に売る事により、必要な米を入手する事が出来たと考えられる。海洋民族集団の外の農民を統治するためには、人的な資源を多数投入する必要があったから、交易を生業としていた倭人には、生産的な業務とは言えなかったと考えられる。中世イタリアの商業都市や日本の戦国時代の堺も、その様な都市だったと考えられ、世界や日本に例がないわけではない。
古墳時代の項で詳しく説明するが、古墳時代に海洋民族とは関係がなさそうな内陸にも、大型の古墳が形成された事は、農民も自治組織として、独自に国を形成していたからだと考えられる。但し交易集団だった倭人は、その様な国を倭人の国とは認めなかったから、倭の100余国の中にその様な国は含まれていなかったと考えられる。そのような国は、温暖で農業生産性が高かった太平洋沿岸や瀬戸内の、広い沖積平野の縁辺部に形成されたと考えられるが、農業生産性が低かった日本海沿岸には、少なかったと考えられる。日本海沿岸は気候が冷涼で農業生産性が低く、上記第二第三の農民の発生数が少なかった上に、稲作に適した沖積平野に乏しく、農地も限定的だった。従って日本海沿岸の海洋縄文人は、共生していた農民と一体になって国を作ったと考えられる。しかしその方針によって、過剰な農民を抱え込む事になったから、その分海洋民族的な価値観が薄れ、農民的な権力者としての側面も持つ事になったと考えられる。
岩永省三氏(岩波講座日本歴史1)によれば、「1世紀後半以降に、地縁的集団の再編成と親族集団的紐帯の弛緩が同時進行した結果、・・・・(2大勢力は)集団の共同性の強化と、集団指導者層の権能の強化の、二つの方向に分かれた。」「北部九州・・近畿中央部では・・首長制社会の移行は生じていない。それに対して、四国北部、山陽・山陰、近畿北部、北陸の諸集団は、集団指導者の権能・利害調整機能を強化していった。近畿中央部は2世紀に入ってからこの方策に移行した。」この事実は、弥生時代以前からの地域的な特性が、顕在化したものだったと考えられる。北陸を起源として日本海沿岸に拡散し、瀬戸内にも拡散した海洋民集団は、太平洋沿岸・大阪・北九州を拠点とした倭人集団とは異なり、農民統治に積極的だった事を示唆している。詳しくは古墳時代の項で触れるが、古事記もその様な差があった事を示唆している。それについては古事記・日本書紀が書かれた背景/古事記参照。
漁民出身だった倭人は、農民を支配する領土的な野心は、全く持っていなかったと想定されるが、それは農民にとって、必ずしも喜ばしい事ではなかったと考えられる。倭人という権力者から放置された農民が、舶来技術で作った鉄器や、鉄器で製作した木製の農具などの、必需品化しつつあった商品を倭人から入手するためには、先ず何を措いても米を作る必要があり、それ以外の手段を獲得するためには、倭人を籠絡して養蚕の技術を獲得したり、輸出品に関わる栽培を行わせて貰ったりして、倭人に対してより従属的になければなかった。それらの必需品に関し、倭人は日本列島内で独占的な供給者だったから、取引価格は倭人の言い値になったと想定される。商業的な独占者として、倭人が強い力を持っていた社会では、倭人は農民を領民として支配する必要はなく、コメなどの必要な物品は、買い叩いて入手すれば良かったと推測される。中世のイタリアで、ジェノヴァ、ミラノ、ヴェネチアなどが商業都市として栄え、一方に貧しい農民国が多数あった社会と、類似した経済構造が当時の日本列島にもあったと想定される。
日本列島の農民は稲作の生産性を高める以外に、豊かな生活を得る手段を持たなかったと想定される。しかし米の生産性が高まって収穫量が増えても、流通の実権を握っていた倭人に買い叩かれたから、周囲の農民と比較して高い米の生産性を得る事によって初めて、豊かな生活を送る事ができたと想定される。それが流通経済を握る者が採る、最も自然な姿だからだ。従って彼らが希求したのは、最寄りの倭人国の交易量が増加し、倭人の農業者がコメの生産を放棄して、養蚕や苧麻の栽培に専念する様になり、倭人の国がコメの外部購入量を増やす事だったと推測される。その意味では、農民国は倭人国と弱い紐帯関係にあり、利益共同体的な意識が生まれた可能性もあるが、農地の耕作権を配分する為に彼らが形成した権力が、倭人との売買交渉を担ったと推測されるから、直接的な連帯意識は生まれなかった。その様に想定する根拠は、移民事業が終息した古墳時代後半になると、日本海沿岸を拠点としていた勢力が、大陸との交易の主導権を握ったが、その理由は彼らの国が、工芸品の生産に優れた実績を上げていたからだ。過剰な農民を多数抱えたそれらの国は、自国の経済を活性化させるために、国内の農民達に手工業を奨励し、それが産業化の進展を促したが、倭人国は交易者的な社会を形成していたから、農村の余剰労働者が生み出し発展させる、生産社会への脱皮が遅れたと想定されるからだ。
銅鐸や銅剣・銅矛は、その様な倭人国と農民集団の関係から生まれた、極めて経済的な産物だった可能性がある。倭人の交易量が増加するとコメの需要が増え、倭人国がより多くのコメを得る必要が生じたから、その代価として銅を放出した可能性が高いからだ。倭人は中国に物品を輸出した対価として、必ずしも必要がない銅を入手していたが、中国との交易が拡大して銅の入荷が過大になり、鉄器時代が進展して銅の価値が下がると、その傾向が更に加速したから、銅在庫の過剰感が高まったと想定される。倭人の大陸交易はブランド戦略を展開する事だったから、顧客との信頼関係は交易の基本になっていたと想定され、一旦決めた銅本位制のレートは、銅の在庫が余剰になっても止める事ができなかったと考えられる。過剰になった銅在庫の放出先として農民集団に白羽の矢が立ち、銅鐸や銅剣・銅矛が生まれたと想定する事は、色々な意味で辻褄が合うからだ。銅鐸が作られたのは紀元前2世紀から2世紀の間だから、この項が記している春秋戦国時ではなく、代の次の時代である秦・漢代になるが、この時代の農民事情を読み解く上で、その様な要素が蓄積していった時代として、青銅の祭祀具が作られた事情を検証する事に意味があるだろう。
稲作民や東南アジアの海洋民族との交易では、各種の工芸品や文化物、或いは亜熱帯地域の多様な植物から選ばれた、香辛料や染料などの多様な商品が交換されたが、華北との交易で相手から受け取った物品には、価値の高い工芸品や、香辛料や染料などの農産物もなく、銅しかなかった可能性が高い。弥生温暖期に華北や淮河の支流域が開墾され、雑穀民集団が多数発生して文化的な物品を求める様になると、倭人がそれを供給した筈だが、その対価として輸出する銅が年々増加し、倭人国の過剰在庫になった事は、必然的な帰結だったと考えられる。倭人は周囲の農民からより多くのコメを入手するに際し、過剰在庫になっていた銅を睨みながら、華北の雑穀民に対して宗教活動的なマーケティングを行った様に、日本の拠点の近隣農民にも、宗教的なマーケティングを仕掛けてコメの対価とした結果が、祭祀具としての銅鐸や銅剣・銅矛だった可能性が高い。それらの分布は機内、瀬戸内、北九州を中心とする地域に偏在し、それぞれの分布円の中心が、華北を商圏としていた邪馬台国連合の、中核国の所在地である奴国(博多湾沿岸)、投馬国(岡山)、邪馬台国(神戸)と重なる事は、上記の過剰在庫放出説を支持する事になる。
その前提でその発生の経緯を検証すると、その様な祭りが倭人国とその周辺の農民国で盛んになり、祭りに参加して祭祀に酔う文化が農民に受け入れられると、倭人国と関係がない北陸系の農耕民もその文化を取り入れたとすれば、西日本全域に、銅鐸や銅剣・銅矛文化圏が生まれた理由が説明できる。
更にその仮説を拡張すると、銅鐸や銅剣・銅矛文化の終焉は、華北の雑穀民との交易の衰退が原因になった事になるが、寒冷化の始まりによって後漢が衰退したAD2世紀頃、機内や北九州の銅鐸や銅剣・銅矛文化も衰退に向かった事は、時期的にも一致するから、この仮説の確からしさを高める。
この仮説が確からしい場合、話は更に進む。倭人が銅鐸や銅剣・銅矛を製作した目的は、銅の大量消費だったから、毎年新しい物品を作りながら、次第に器形が大型化する事が望ましかった。銅鐸や銅剣・銅矛はその様な発展を遂げているから、その事実もこの仮説の確からしさを高める。
関東でも稲作が行われたが、この様な農民文化が生まれなかったのは、華北交易に傾斜していた西日本の倭人国と比較し、関東の倭人はシベリアの狩猟民から東南アジアの海洋民族まで、交易関係が広範囲に及んでいたから、西日本の倭人ほど銅の余剰感に苦しめられる事はなかったからだと想定される。その上に関東は西日本と比較して冷涼な気候だから、コメの生産性が低かった事も原因として挙げられるだろう。元々倭人が多く、恒常的にコメが不足する状況で需給が均衡していたから、銅を放出してより多くのコメを消費する過食的な傾向が、生まれなかったからだと想定される。関東の倭人は米食を堪能するより、交易活動に生真面目に取り組む風土があり、倭人交易の統率者としての役割を担っていたから、飽食やお祭り騒ぎに浮かれる雰囲気ではなかったと想定される。
銅鐸は土中に放棄された状態で発掘されるが、倭人の事情としては、毎年銅鐸を新規に制作させる必要があったから、古い銅鐸を消却させる様に、農民を指導した筈だ。そのために埋納儀礼を必要とする宗教観を、農民に推奨した可能性が高い。多数の銅鐸や銅剣が纏まって埋納されたのは、地域集団が共通の聖地を定め、一斉に埋納儀礼を行ったからではなかろうか。祭り好きな日本文化のルーツだったとすれば、その宗教性や意味付けにこだわる必要はないと考えられる。
寒冷化が進んで華北経済が後退し、毎年新しい銅鐸を作る量の銅が放出されなくなると、祭りの一貫性が失われ、祭りそのものが下火になったと考えられる。一旦この様な祭りの楽しさに目覚めてしまった農民達は、銅が入手できなくなると木製で代替えし、素材に合わせて形状も変えたから、それは遺物として残らず考古学的には、祭りが突然断絶した様に見えるのかもしれない。
次に倭人が指導した祭りは、弥生古墳の造営とそれに伴う祭祀になった。その文化が古墳時代に異常に開花したが、古墳造営の場合の祭りの形態は、信仰対象を担いで練り歩くのではなく、古墳を皆で作る行為が一種の祭りだった可能性が高い。
4−3 稲の品種
縄文後期に導入された温帯ジャポニカは、海岸の沖積平野で水耕栽培されたが、縄文晩期寒冷期に壊滅状態になり、縄文前期から日本で栽培され、耐寒性を獲得していた熱帯ジャポニカが、縄文晩期末の日本列島の主要な稲作だったと考えられる。縄文晩期の寒冷化は、揚子江以北の稲作が壊滅する状況だったから、導入直後の温帯ジャポニカは、九州南部で生産しても生産性は厳しかったからだ。しかし温帯ジャポニカは食味が良いから、農民は倭人の需要を確保できれば、生産瀬が劣化しても温帯ジャポニカを作付けしたと想定される。漁民の生産性が高かったから穀物に頼るカロリー比率が低く、漁民と農民との交換経済が発達していた日本列島では、コメの生産性が劣化すると希少価値が高まり、交換比率が高騰したから、寒冷化して生産性が低下しても生産を継続する必然があった。言い換えれば、食料生産とは言えない低い生産性になっても、それを倭人が海産物で補填し、カロリーベースで何倍もの価値を付与してくれれば、コメを生産する価値があった。但し当然ながら寒冷期には、コメだけを専業的に生産する農民はいなかったと想定され、生産の一部としてコメが栽培されたと考えられる。
農学者の佐藤洋一郎氏によれば、温帯ジャポニカの耐寒性を限定する要因は、短日性の強さだったから、熱帯ジャポニカと混栽して遺伝子を交換し、短日性が弱い温帯ジャポニカを開発する事に依り、より優れた耐寒性を獲得する事ができた。日本の熱帯ジャポニカは、縄文稲作の長い歴史の中で独自の耐寒性を獲得したから、短日性が強い事以外に大きな問題がなかった温帯ジャポニカは、日本の熱帯ジャポニカとの混合栽培の中で、耐寒性を得る事ができた事になる。
但し一口に耐寒性と言っても、品種そのものの耐寒性だけではなく、その栽培技術にも大きく依存する。最も代表的な耐寒技術は、水が冷たい早春に水を人工的に温め、その水で苗代を作り、本来の播種期である5月に田植えを行う事だと考えられる。短日性を失った温帯ジャポニカは、その栽培方法によって盛夏に開花し、秋が深まって冷涼な気候になる前に、稲刈りを行う事ができる。つまりこの技術が生まれていなければ、温帯ジャポニカの短日性を弱めても意味がない。
技術的には全く無関係な、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの混合栽培と、苗代作りが同時進行するためには、弥生時代に両者が水田で栽培された事が必須になり、それは農学者である佐藤氏が、弥生時代の水田稲作の実績として検証したから、間違いない事実だったと言える。しかし弥生温暖期に、温暖な九州でも田植えが行われていた事は、田植えは耐寒技術ではなく単なる増産技術だった事になるが、それは本当だろうか。
縄文後期温暖期に荊から温帯ジャポニカを導入し、西日本の海岸の沖積平野で栽培したが、晩期寒冷期にその稲作が熱帯ジャポニカに代わったと想定する事は、極めて自然な発想になる。熱帯ジャポニカも水溜りで栽培した方が、高い生産性が得られる事を発見した稲作民が、苗代と田植えの技術を開発して熱帯ジャポニカの生産性を高めたのであれば、直播きできるほど温暖になった弥生温暖期の九州でも、生産性を高めるために田植えが行われていたというシナリオは、合理的な説明になるだろう。
中国のBC4〜5世紀頃の稲作だったと考えられる周礼について、縄文時代/成熟期の項で説明したが、田植えの話は出てこないから、田植えは日本発祥の技術だった可能性が高い。それが温暖期の温暖な地方でも行われていた事は、縄文晩期寒冷期に日本列島で生まれた、耐寒技術だった可能性を高める。
佐藤氏は、熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカが同じ水田で栽培され、花粉の交配が起こりやすい環境を作れば、比較的容易に短日性を失った温帯ジャポニカが得られると言っているが、弥生温暖期に再び温帯ジャポニカを栽培したとすれば、改めて荊から、生産性を高めた品種を導入する事が望ましかっただろう。その様な品種が既存の水溜りで栽培され、それは混合栽培になった事は、必然的な帰趨だったと考えられる。それによって弥生時代に、短日性が弱められた温帯ジャポニカが生まれたというのが、佐藤氏が掲げる日本の稲作史になる。それに異論はないが、弥生時代の西日本で田植えが行われていたのであれば、時系列的に考えると、縄文晩期に田植えを行う湿地稲作があり、そこで熱帯ジャポニカと混合栽培して短日性を失った温帯ジャポニカが誕生していたのか、弥生温暖期に北上する過程で、混合栽培と耐寒品種化が同時並行的に行われたのかという疑問があり、熱帯ジャポニカと共に青森まで北上した温帯ジャポニカが、どちらの温帯ジャポニカだったのかが問題になる。
佐藤氏は日本の在来種に2品種あり、比較的冷涼な地域で栽培される遺伝子タイプaと、温暖な西日本で多く栽培されている遺伝子タイプbがあると指摘しているが、遺伝子タイプaが縄文後期の導入品種で、遺伝子タイプbが弥生時代の導入品種であれば、両者の関係が合理的に説明できる。熱帯ジャポニカと共に青森まで北上したのは、縄文晩期に西日本で耐寒品種化したタイプaで、弥生温暖期の西日本で栽培されていたのは、弥生温暖期に改めて荊から導入した、生産性が高いタイプbだった事になるからだ。この説明により、日本に耐寒性が高いタイプaと、多分生産性が高いから西日本で生産されるタイプbが、品種的に分離している事の説明ができる。この説明をするために、粤と荊の栽培種の違いだったとか、呉から導入した品種と青州から導入した品種の違いだったと言う様に、導入元の地域性として理由付けする事も可能だが、その様に広範囲に導入元を求めると、中国に8種ある遺伝子の内、日本の稲には主に2種しかない事の説明が難しくなるから、マーケティングの常道として最も可能性が高い説明を採択すれば、縄文晩期の沖積平野の水溜りで温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカが栽培され、温帯ジャポニカのタイプaが生まれていたから、弥生温暖期に、それと熱帯ジャポニカが混合栽培されながら青森まで北上し、タイプbは関東までしか北上しなかった事になる。
日本の稲作が朝鮮半島経由で伝わったのではない事は、佐藤氏の遺伝子論が周知され、縄文稲作があった事も周知されている現在、信憑性がない説になってはいるが、未だに多くの史家が、日本の稲作は朝鮮半島から伝わったと公言して憚らない風潮があるから、その是非についても明らかにしておく必要があるだろう。
中国の温帯ジャポニカのメジャー品種であるタイプaとタイプbが、日本の伝統的な品種の遺伝子であり、朝鮮半島の在来品種にタイプbがなく、圧倒的にタイプaである事は、朝鮮半島の稲作の起源には、複雑な要素が絡んでいる事を示している。弥生時代に渤海湾の南岸まで北上した稲が、燕の領域を経由して渤海湾を周回し、北朝鮮から南下した系譜があった筈で、周礼に幽州の穀は三種と記され、それはアワ、キビ、稲だと後漢代に指摘されたから、その稲が朝鮮半島に南下した筈だ。その稲作を担ったのは韓族だった筈だが、魏志韓伝は韓族の穀物種を明記せず、弁辰では五穀と稲を栽培していると特記しているから、寒冷化した魏代にその稲作はほぼ壊滅していた事になる。
弁辰人は、温暖化によって遼東半島まで北上した越の分派として、気候が似ていた朝鮮半島南端に定住した人々だったと想定される。彼らは製鉄を行い、上質の絹布を生産し、楽毅を持って音曲を奏し、男女共に入れ墨をし、韓族と比較すると極めて文明的な人達だった事がそれを示している。韓国にはミトコンドリア遺伝子mt-M7cがあり、その内在率は遼寧省より高いから、東北ユーラシアのmt-M7cの発祥は韓国だったと想定され、その筋の権威である篠田氏が、この遺伝子は現在フィリッピンやインドネシアに多いと指摘しているから、それは粤の遺伝子だった事になり、後の弁韓人、更に後の新羅人は、越の子孫だった事になる。
歴史家は北東アジアの鉄器時代の幕開けについて、戦国時代に幽州を領有していた燕の製鉄を重視するが、魏志韓伝は、弁韓人が製鉄した鉄は楽浪にも供給したと記しているから、春秋戦国時代の東アジアでは、燕より越の方が早く製鉄能力を獲得し、燕より高い製鉄能力を有していた可能性が高い。但し弁辰人から鉄を供給されていた魏代の韓族は、余り文明化した住居に住んでいなかったから、彼らの鉄器時代になってからの歴史は、魏代を大きく遡るものではなかったと想定され、弁辰人が文明化していたのは、越としての鉄器時代が長かったからだと考えられる。言い換えれば、春秋戦国時代に朝鮮半島南端に入植した弁辰人は、交易によって鉄器を入手していたが、必要に迫られて製鉄能力を持ったのは、漢代以降だったと想定される。
越が山東省の瑯琊を都にしたのはBC473年だから、弁辰人の入植もその頃だったと想定され、縄文晩期寒冷期には、揚子江以南にいたと考えられる。彼らが持ち込んだ稲が朝鮮半島南部で栽培され、朝鮮半島の在来種の一部を形成したと考えられるが、この稲作も後漢代には遼東で生産できなくなり、晋代には江蘇省でも生産できなくなったから、朝鮮半島に残っている筈はない。結論としては、朝鮮半島に圧倒的に多いタイプaは、日本列島で開発された品種以外に考えられない事になる。
倭人が朝鮮半島の稲作を継続させた事になるが、その理由は極めて明快だ。漢代末期に寒冷化し始め、遼東半島が稲作地ではなくなっていく中で、倭人は弁韓人に、製鉄者として朝鮮半島南部に残って欲しかったからだ。その理由は魏志韓伝が示す様に、弁辰人が製鉄者と、製鉄者を支える稲作者になり、生産した鉄を韓族や濊族に分配し、彼らが人口を増大させるのを助け、彼らに鉄製の武器を与え、獰猛な漢民族が朝鮮半島南端まで南下する事を、阻止したかったからだ。
朝鮮半島南部の気候は北関東に近く、魏の使者が訪れたAD2世紀は、古墳寒冷期への入り口状態だったから、北関東の稲だったタイプaが導入されていた可能性が高い。朝鮮半島南端は距離的には北九州に近いが、気候はむしろ東北に近いからだ。
弁辰の製鉄が始まったのは漢代以降だったと想定され、漢代の東アジア沿岸には越はいなかったから、魏代に弁辰で製鉄していたのは、東南アジアから来た製鉄者だったと考えられる。弥生時代の倭人は、日本列島で製鉄する必要性を認識していたから、常識的に考えれば、東南アジから弁辰に製鉄者を入植させる以前に、東南アジアから日本列島に工匠を招き、製鉄を始めていたと考えられる。
5 華南の稲作民と倭人の関係
現代日本人には「論語」を重視する人が多いが、「老子」愛好者もいる。論語は腐敗した社会の官僚の処世術を説く、実用的な教本の様に見えるが、老子思想は理想的な社会の在り方を説く、社会思想の様に見える。現代日本人は驚くほどに、「老子道徳経」(注)が説く思想に近い心性を持っている。それは老子思想が、越と荊の哲学だったからだと考えられる。
倭人が小国分立制を1000年以上維持したのは、その背景に確固たる思想があったからだと推測され、その思想を「老子」に求める事が出来るだろう。老子は中華的な皇帝専制ではなく、自主性を重視する分権社会の在り方を説いているから、中央集権的な帝国主義思潮に慣れ、孔子を尊んでいた中国人には、理解できない思想だったと考えられる。漢代の史家は老子の由来を隠し、隠者の空想的な思想として蔑視したが、日本人を特徴付けている発想のルーツだから、隠者の空想ではない。「言わなくても分かる」「出しゃばるのは恥」「惻隠の情」の様な日本的な発想を、老子道徳経は推奨している。
倭人と春秋戦国時代の稲作民は、この様な思想を共有していたと考えられ、当時の東南アジアの海洋民族も、この思想を重視していた可能性が高いが、東南アジアの海洋民族に関しては証拠がないから、ここではそれについては議論せず、老子道徳経がどの様に日本人的なのか、指摘するに留める。
「老子道徳経」の57編は、資本主義的な自由競争を積極的に肯定している。老子がその様な社会の形成を目指したのは、越人社会がその段階に到達し、豊かな社会を作り上げていたからだと考えられる。越人社会は2千年前に滅び、現在は跡形もないが、老子道徳経は日本列島に引き継がれ、日本的な商道徳の根拠になった。
暴力的で略奪的な漢民族と、自由競争的な商業民族だった越人が、戦国時代に衝突した結果、漢民族の暴力が優って越人政権を滅ぼし、大陸から追放した。漢民族はその後、大陸に中華思想を蔓延させたが、越人の思想は日本列島に残存した事になる。倭人は秦が稲作民の社会を葬り去り、漢民族が中華帝国を形成すると、中華の王朝を蔑視して朝貢する事を避けたが、その思想背景が老子だったとすれば必然的な帰結だった。現代日本人が現代中国人に感じる以上の違和感を、当時の倭人は漢民族に対して持ったと推測される。
春秋時代の強国を「春秋五覇」と言うが、諸説あって5人に絞れていない。荀子(戦国時代末期)、史記(前漢)、漢書(後漢)に絞って「春秋五覇」を挙げると、晋、斉、秦、宋、楚、呉、越の7人の王の、いずれかを選定している。宋、晋、秦は雑穀民で、楚、呉、越、斉は稲作民だった。
漢帝国の史官は5人中3人を漢民族としているが、漢民族が中国全土を征服する以前の人だった荀子は、5人中4人を稲作民の国だった呉、越、楚、斉に充て、その他を晋としている。荀子は稲作民社会の人だから、その人が晋の王を挙げているのは、雑穀民社会にも優れた指導者がいた事を示しているとも言えるが、晋の発祥は山西省だった事に留意する必要がある。縄文後期の山西省の遺跡として、山西省の汾河東岸にある陶寺遺跡(BC2300〜BC2000)が知られているが、この遺跡は北上した荊の都城だったと考えられ、縄文後期の山西省は稲作民の居住地だった事になる。縄文晩期寒冷期には、稲作民は山西省から南下していたと考えられるが、その地に留まり、雑穀栽培に転じていた人もいたとすると、栽培種は雑穀でも実質は稲作民だった可能性がある。山西省は内陸の盆地だから、気候が稲作に適していた可能性があり、当時の気候が復元できないから判断しにくいが、時代が降る毎に大陸内部の乾燥化が進み、稲作に適さない地域に変わり、雑穀栽培民の居住域になっていったが、弥生時代の山西省は稲作が可能な程度に湿潤だったのであれば、荊が再び山西省に北上した可能性、即ち春秋時代の晋は荊が指導する国だった可能性がある。
以上を纏めると、春秋時代の華北を仕切っていたのは稲作民で、時に応じてその役割を担う政権が交代したが、何らかの根拠によって選ばれた稲作民政権が周と協力し、分権化した華北の雑穀民を統治した可能性が高い。漢代の史官は、それを完全に否定する事ができなかったから、春秋五覇と名付けた上で、何人かを入れ替えようとしたのではなかろうか。
 
倭体制の発展期 

 

1、戦国時代の中国と倭(BC5〜3世紀)
1−1大陸の動静
春秋時代に温暖化が始まると、稲作民は温暖化の波に乗りって湿潤な東シナ海沿岸を山東半島まで北上した。稲作が出来るほど降雨がなかった淮河流域に、雑穀民が南下して鉄器や銅器で森林を拓いていが、温暖化によって雑穀の生産性も向上し、人口が急増する中で多数の地域政権が生まれた。雑穀民は農地の拡大によって豊かさを求めたが、交易に値する物産は穀物しかなかったので、生来の粗暴さを露わにして領土争いを始めた。その戦闘行動は時代の経過と共に激しくなり、中小勢力が武力的に大国に統合され、大国となった雑穀民政権の武力が強大になった。稲作民はその状態に危機感を抱き、地域国の大連合を形成して軍備を増強した。
竹書紀年は「BC473年に於越が呉を滅した」と記しているが、BC376年の記事に「吳人が錯枝を立孚して君と為す」とも記している。錯枝は人名で、立孚は立てて守り育てる事を意味するから、幼君を擁立して彼を中心に団結したと解釈される。この時代の呉は、主君を王ではなく君と呼んだ事も分かる。呉を名乗る政権はBC473年になくなったが、呉を名乗る集団として複数の小国が存在した事になり、元々小国連合だった呉と於越が大同盟し、於越がその集団の盟主になったが、自分達は呉人だと考える小国は健在だった事になる。竹書紀年がこの様に記したのは、雑穀民の国だった魏の人が体制の違いを理解していなかったから、この様な表現になったと考えられる。
翌BC375年に「於越の大夫である寺区定が越を乱した。」と記しているから、越の諸国に於越の統制に対する不満があった事も分かる。ウィキペディアは「戦国時代の始まりについては諸説ある。晋の家臣であった韓・魏・趙の三国が正式に諸侯として認められた紀元前403年とする説、紀元前453年に韓・魏・趙が智氏を滅ぼして独立諸侯としての実質を得た時点を採る『資治通鑑』説の2つが主流である。」「『史記』の『六国年表』が始まる紀元前476年とする説などがある。」と解説しているが、稲作民にとっての戦国時代は、越と呉が大同団結したBC473年に始まったと考えられ、史記がその3年前から時代が変わったと認識している事は、史記の認識には的確性もあった様に見える。しかし史記は、背景にあった事実を記述する事ができなかったから、後世に名分論を成立させてしまう事になったと考えられる。従ってその背景に、稲作民の秩序観に対する雑穀民諸国の反乱があった事が想定される。
BC360年頃から楚の軍事行動が目立ち始め、「BC335年に於越の王が楚を伐ったが、2年後に楚が齊を徐州で包囲し、最後に於越を伐ってその王を殺した。」と竹書紀年は記している。これも越が滅んだわけではないらしく、BC312年に「越王の使者が周王の許に来て、舟三百、箭五百万、犀角、象牙を献上した。」と記しているから、稲作民の連合の盟主が於越ではなくなり、異なった国の出身者が越の指導者になって、王を名乗り始めた事を示唆する。稲作民は雑穀民の統制について、未だ周王の威令に期待していたのではなかろうか。
竹書紀年の記述はBC299年で終わるが、その頃から周の王名や在位が史記と異なり始めるから、この辺りから史記の本格的な捏造が始まったと想定される。
竹書紀年の春秋戦国時代の記事で、稲作民と雑穀民の軍事行動に関するものは、楚に関する記述しかない。雑穀民の積極的な軍事行動に対し、防御一辺倒だった呉越に対し、楚だけが積極的な軍事行動を起していたから、雑穀民の攻勢に危機感を抱いた楚が、弱気な越王を排除して稲作民の覇権を握ったと想定される。
軍事に積極的だった楚は、呉や越を武力征服して覇権を握ったのではなく、稲作民諸国の総意として、覇権者に推戴されたと考えられる。その様に判断する根拠は、竹書紀年の記事からそれが読み取れるだけでなく、山東の越の分派として朝鮮半島南端に入植した弁韓人も、同様な行動を採ったからだ。古墳時代初頭の弁韓では加羅が最大の国で、加羅は倭のサポートによって中国の南朝に朝貢もしたが、古墳時代中期に倭が朝鮮半島から撤退し、軍事的な空白が生まれて高句麗の南下が脅威になると、新羅が弁韓人の覇権国になった。新羅は倭名が「しらき」だから、その正確な漢字名は「新羅城」だったと考えられ、新羅城は元々前線の障塞として生まれた邑で、弥生時代末期には国として認められていなかったから、魏志韓伝には登場してないと考えられる。従って高句麗の南下を阻止する事が、弁韓人の最大の政治課題になった時に、新羅が弁韓人の覇者になったと考えられる。倭人が朝鮮半島を経営していた古墳時代前期には、新羅城と呼ばれる前線の塞邑だったから、倭人はそれを「しらき」と呼び、古墳時代後半になって新羅を国名とする勢力が、朝鮮半島の一角を占める大勢力になっても、相変わらず倭人は親しみを持って「しらき」と呼び続けたから、日本語として定着したと考えられる。
余談になるが、新羅の倭名は「しんら」だから、「しらき」は「しんらき」が訛って「しらき」になったと考えられる。新羅の「羅」は、魏志倭人伝にある「狗邪韓国」の「邪」が、時代の変遷と共に変わったと考えられ、上記の加羅が示す様に、規模の大きな集団を意味する言葉だったと想定される。従って「新羅」の意味は、新しくできた大きな邑だった事になる。
「くだら」も同様な語源で、「くた羅」が原義だったと考えられる。「くた」の意味は不明だが、百済はその様な名前を嫌い、「百済」という漢字名を新たに創出したが、倭人は「しらき」と同じ様に「くたら」と呼び続け、現在の日本語になったと考えられる。新羅が弁韓の北辺を守る塞邑だったのに対し、「くた羅」は馬韓の北辺を守る塞邑だった。弁韓人は、新羅が弁韓の指導国になる事を当然と考えていたから、新羅は名前を変えずに弁韓人の国名になったが、「くた羅」は倭人の傭兵として馬韓に入植したから、馬韓を制覇して国を樹立した際に、自分達が傭兵だった事を恥じ、国名を百済に変えたと推測される。百済は民族国家ではなかったからだ。
軍事ではないが、倭も経済秩序に関して同様な方針を採っていた。その詳細は、古墳時代の項で説明するが、関東の倭国王が指導した交易活動が、弥生時代末期の寒冷化の中で破綻すると、移民事業を指導していた邪馬台国の系譜が倭国王になり、移民事業が破綻すると工芸品の生産に優れた出雲系が倭王になり、経済の活性化に注力した。軍事ではないが、経済の活性化に最も貢献できる者が指導者になる発想は、交易国家独特のものだったと考えられる。日本の戦国時代の商業都市に、会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる有力商人の自治組織があったが、それが交易集団の合理的な統治手法だったからではなかろうか。
倭人の軍事に関しては、明示できる資料はないが、古事記に記された大国主は、大率を擬した人格だったと想定され、天照大御神が派遣した軍神に国を譲り、倭王を擬した事代主をその息子(配下)としている事が挙げられる。飛鳥時代に日本列島内の緊張が高まり、天武天皇が率いる軍が革命を起こしたが、それと戦った倭軍の総大将は、倭の最後の統率者である大率だった。騒乱状態になると軍事政権が生まれるのは当然だが、旧政体の中で政変も起こさずに、軍事指導者がその国の責任者になる事は、血統主義の農民国ではあり得ないと考えられる。
戦国時代に楚が稲作民を代表する武力政権になったが、楚は周の4代目の昭王の南下を阻止し、昭王が率いていた周の主力軍を全滅させ、昭王を戦死させてしまう実力を持っていたと、竹書記念に記されている。それが、竹書紀年が記す楚の初出になるが、楚は雑穀民社会との境界にあった国として、この頃から雑穀民との武力紛争が頻発していたと考えられる。稲作民から楚を見れば、昔から雑穀民の武力に対向して稲作民社会を保護する藩屏の役割を担った、軍事拠点的な集団だったのではなかろうか。
漢書地理誌は、戦国時代初期に記された前駆的な地理誌を参照したから、周、秦、韓、宋、燕、魯、趙、魏、衛、斉、呉、越、楚を地理区分とし、歴史的な事跡をその地理区分で説明したと考えられる。従って戦国時代の早い時期に、中国はこの様な名前の勢力に集約されたと想定される。詳細は漢書地理誌、後漢書、魏志倭人伝に記された倭の位置参照。緑は雑穀民の国で、茶色は稲作民の国。
雑穀民の領地争奪戦は止まらず、戦国時代に軍事統合を続けて秦、燕、韓、趙、魏、に集約され、それに対抗するために稲作民は、楚に軍事統括を委ねる体制になったが、斉は大麦を栽培していたコーカサス系民族との混合国だったから、明確に稲作民連合に参加しなかったのかもしれない。史記のこの時期の説話は、創作の疑いが濃いから参考にならない。
軍事を全てに優先させる雑穀民政権に対し、産業社会化した稲作民社会は守勢に立ち、その結果劣勢になったと考えられる。縄文後期温暖期の稲作民は、黄河流域に北上して華北を支配したが、BC5世頃の稲作民にその勢いはなく、東シナ海沿海を北上するに留まっていた。時代の進展と共に大陸が乾燥化し、淮河流域は稲作に向かない地域になってしまったから、その広大な平原に雑穀民が入植し、人口を大幅に増加させていたからかもしれない。未開な民族に鉄器を普及させた事が、この様な事態を招いた側面もあっただろう。
1−2、戦国時代の倭
倭人は雑穀民の諸侯や貴族に、東海上の神仙世界の財宝と宣伝しながら工芸品を販売したが、稲作民や東南アジアの海洋民との交易の様子は、史書からは分からない。東南アジアの海洋民は、海洋民族の内陸民が生産した、絹布や香辛料などの交易品に加え、倭人や稲作民が生産した工芸品も携え、インドやオリエント世界とも交易したと想定される。倭人が生産した商品の中には、有明海のアカニシ貝から作る、貝紫で染めた絹も含まれていただろう。貝紫は、ローマ世界やオリエントでは極めて高価に取引され、フェニキア人が独占していた高度な技術だったから、東南アジの海洋民族も生産意欲はあっただろうが、アカニシの生息南限は台湾なので、フリッピンやインドネシアではこの染色が出来なかった。有明海にアカニシが生息している情報や、その貝から貝紫を採取する試行錯誤も考えれば、東南アジアの海洋民の仲介だけで、有明海で貝紫の生産が始まったとは考え難く、倭人もオリエントに積極的に出掛けていた可能性が高い。貝紫の生産が実際に始まったのは、漢代以降の事だったかもしれないが、倭人がオリエントに積極的に出掛けていた時代は、その時期を遥かに遡る筈だと考える事に、異論はないだろう。
日本人が古代から引き継いでいる文化の中に、オリエント的な要素があるが、それは極めて多彩であると指摘されている。その理由を、この時代の倭人がオリエントに出掛けていたからだと考えれば、合理的な説明になるだろう。その議論の中で、日本とヘブライ文化の相関に焦点が当てられるのは、両者だけが、古代文明を化石の様に現存させているからではなかろうか。中東や東南アジアの島嶼では、イスラム化によって古代文明的な要素が消され、大陸は漢民族の征服によって、その文明要素が焼却されたからだと考えられる。
極東アジアに眼を転じると、弥生温暖期に遼寧省が穀倉地帯になり、燕が軍事力を増大させて斉を攻略する傍ら、朝鮮半島への南下意欲を示したので、倭人は燕に対する警戒心を高めた。BC300年頃から、朝鮮半島南端で弥生式土器が使われ始め、倭人が朝鮮半島南端に進出した事を示しているが、倭人が半島南部に進出したのは、弁韓人と共に韓族を支援し、燕の南下を阻止するためだったと考えられる。
朝鮮半島南部に移住した当初の弁韓人の中には、製鉄集団はいなかったと想定される事は、弥生時代/倭体制の形成期の項で説明したが、この頃から韓族への支援が始まり、鉄器の支給も始まったと想定される。しかし鉄器を運び込んでいたのでは、数が限られて効果が不十分だったから、漢代〜後漢代に製鉄集団を東南アジアから招聘し、弁韓で製鉄を始め、朝鮮半島南部の民族に多量に配り始めたと考えられる。
前項の復習になるが、移住当初の弁韓人に製鉄集団がいなかったと判断する根拠は、魏代の韓族の住居は、竪穴式の原初的なものだと魏志東夷伝が指摘しているからだ。この時代の大陸民族の文明度は、青銅器や鉄器の普及と軌を一にしていたと考えられ、韓族が遼東半島で産出する岫岩玉を、商王朝に納めていた殷代には、周囲より文明化していた民族だったと想定されるが、魏の使者が彼らを未開だと判断した原因は、彼らに鉄器が普及した時期が、燕の製鉄開始時よりかなり遅かったからだと考えられる。従って韓族の鉄器時代は、早くても漢代だったと考えざるを得ず、それでは、弁韓人が越の分派として入植した時期とはかけ離れているから、弁韓人は漢代以降に製鉄集団を受け入れたと考えざるを得ない事になる。魏代の弁韓人は数万戸だったから、越の稲作者が先に入植していたところに、後から製鉄集団が入植したと考えるのが筋だろう。しかしその時期には、山東に越はいなかったから、製鉄集団の入植を促したのは倭人だったと考えられ、彼らの故郷は東南アジアの島嶼部か、既に日本列島に入植していた製鉄集団だった事になる。
倭人は日本列島の農民すら統治する意欲はなかったから、日本列島より植生が劣る朝鮮半島に、領土的な野心を持っていたとは考えにくい。倭人がBC3世紀に朝鮮半島南部に進出したのは、燕の南下に対して弁韓人と危機感を共有し、彼らと共同で対処するためだった可能性だけが残る。朝鮮海峡の両端を押さえて置けば、朝鮮海峡を渡られてしまう危惧から免れるから、半島南部に燕の勢力を拡散させない事が、朝鮮半島南部に進出した倭人の目的だったと推測される。
弥生中期から、殺傷された人骨が発掘される様になる。それは集団間の闘争があった証拠だと解釈し、それが最も早く顕在化したのは北九州で、九州が稲作先進地だったからだと考える考古学者が多いが、それについて検証する必要がある。損傷遺体が発掘されるのは、夜臼式土器の時代に始まったとされているが、C14年代測定が活発化してから、この土器の暦年が不確かになった。しかし弥生温暖期である事は確かで、その遺体の一部は朝鮮半島系の矢尻で損傷を受けているという指摘があるから、その遺体主は朝鮮半島で、燕系の雑穀民の南下を阻止した倭人だった可能性が高まる。
考古学者はこの損傷遺体を、近隣の集落との抗争だと解釈しているが、交易民だった倭人は、農民統治に関心がなかったから、近隣の農民と抗争した結果であれば、倭人のものだった可能性は低い。独立系の農民は、農民だけの集団を形成していたから、彼らの間で農地紛争が発生した可能性は十分あるから、大陸での死傷者だったのか、農民の耕作地獲得抗争だったのか識別する必要があるだろう。当然ながら、その葬り方には違いがあった筈だし、その埋葬方法には大陸系の影響は殆どなかった筈だ。
損傷遺体の発掘例は、北九州の倭人国周辺に多いが、弥生温暖期に稲作が広がったのは北九州に限った話ではないし、農地争いが北九州に集中するのもおかしな話だから、それは稲作先進地だったからではなく、朝鮮半島の防衛のための出征兵士の、埋葬だったと考えるべきではなかろうか。朝鮮半島での紛争であれば、真っ先に馳せ参じるのは北九州の倭人だった筈だからだ。
大陸で傷ついた者や遺体であれば、それを九州に運んで埋葬した事になるが、当時の倭人の運送能力から考えれば、それは不可能な事ではなかったと考えられる。この時代の事を記した山海経に、「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。」と記され、朝鮮半島より遠方の蓋国(山東半島)を通して、燕に朝貢していたのだし、この数百年後の事を記した漢書地理誌に「楽浪海中に倭人有、分かれて百余国を為す。歳時を以って来りて献見すると云う。」と記されているからだ。
遺体を埋葬した場所が特定地域に限定され、埋葬習俗の拡散が見られないのは、それまで遺体を厚葬する習俗がなかった倭人が、大陸に出征して戦死した者を悼む気持ちを高め、大陸の習俗を真似したり、独自の埋葬習俗を生み出したりして、集団のために戦死した者に敬意を表したからではなかろうか。
魏志韓伝に次の記述がある。「(朝鮮)侯の準は以前から自分で王と称していたが、燕から亡命してきた衞満に国を攻奪されてしまったので、其の左右の宮人を率いて走って海に入り、韓の地に居して自から韓王と号したが、其の後子孫は絶えてしまった。今韓人の中に猶、其の祭祀を奉じている者が有る。漢の時に楽浪に属し、四時(季節ごとに郡の役所に)朝謁している。」
この趣旨を翻訳すると、戦国時代に燕と接していた韓族の首魁は、箕氏朝鮮の王と名乗っていたが、秦末の動乱期に燕の衞満に、遼東〜半島北部にあった根拠地を攻奪されたので、配下を率いて船に乗り、半島南部に逃れて韓王と名乗ったが、子孫は絶えてしまった。しかし400年後の魏代になっても、箕氏朝鮮の祭祀を行っている者が居る。
海洋性が皆無だった韓族を統治していた箕氏朝鮮が、数百キロも航海して半島南部に逃れたのは、海辺にあった拠点に衞満に攻め込まれた際に、そこにいた倭人が船で彼らを逃がしたという事だろう。倭人もその攻防戦に参加していた可能性が高く、敗れて逃れる時に、一斉に船で逃げたと推測される。箕氏朝鮮と燕の抗争はこの時始まったのではなく、山海経の上記の文に続いて、「朝鮮は列陽の東に在り。列陽は燕に属す。」と記されているから、燕と接していた戦国時代から、境界争いは延々と継続していたと想定される。この時代に雑穀民集団と境界を接していれば、武力抗争は恒常的に発生していただろう。
温暖である方が農業生産性は高いのだから。燕が華北平原と同緯度の朝鮮半島に南下意欲をもっていた事は、極めて当然だったと考えられ、それを議論する必要はないだろう。従って半島が無人地帯だったのであれば、燕は半島南部まで南下していた筈だ。燕が南下しなかったのは、半島に抵抗勢力があったからだと考えるべきだろう。
古墳時代に高句麗が、同じ様に南下意思を示した際に、それを軍事的に止めたのは倭だった。少数ながらその倭をサポートしたのは、新羅を筆頭とする弁韓人だった。好太王碑文には、新羅、百済、安羅などが登場するが、その時馬韓に多数いた筈の韓族に関する言及はなく、韓族が戦力になっていなかった事を示している。戦国時代も同様に、韓族は戦闘行為が苦手な民族だったとすれば、燕の南下を食い止めていたのは、北九州の倭人と弁韓人だった事になるが、弁韓人は数が少なかった。
寺沢薫氏は「王権誕生」(講談社2000年)で、要約すると以下の様に説明している。
「BC3〜2世紀になると戦闘の犠牲者は、それまで玄界灘沿岸に集中していたものが、佐賀・筑後・中津平野に広がり、更に熊本・壱岐・平戸にも及ぶ。この時期には加害者の墓も発掘され、吉武高木遺跡の甕棺に副葬された銅矛は、その切っ先が折れて欠けていた。切っ先は敵の体内にある事になり、使用者が生還していれば研ぎ直して使った筈だが、そうではないという事は、使用者も死体で戻った事になる。この時期の北九州の犠牲者の数は多く、その状況は多様だから、頻繁に戦闘が行われていた事を想起させる。」
北九州の稲作農民の、集落間の抗争がなかったと言わないが、玄界灘周辺の倭人だけでは手に負えない状況が半島で生まれ、厳しい戦闘行為が繰り返されたと考える方が、戦闘行為の結果としての死傷者の遺体が、九州に集中している事を説明できるだろう。これは歴史民俗博物館が、弥生時代の年代を繰り上げるべきだと主張し始める以前の著作なので、BC3〜2世紀はもう少し古い時代の事になり、「中国の戦国時代が始まる頃」と表現を変える事が適切だと考えられる。北九州の甕棺に葬られた人々は、その様な戦闘の結果として死傷した人を多数含んでいるのではなかろうか。
倭人内で激しい戦闘が行われたとは考え難い事を、多数の史書が示している。孔子が、「倭は天性柔順だから、道徳が乱れた中国から移住したい」と言ったのを初出とし、魏志倭人伝は「窃盗せず争訟少なし」、隋書は「争訟稀にして盗賊少なし」、唐書は「住まいに城郭無し、木を以て柵と為す。」と、一貫して「秩序があって争いがない」と言っている島の住民が、一時期とは言えこの様な激しい闘争に走ったとは、考えにくいからだ。上記の寺沢氏の著述は、以下の様に続いている。
「その後、犠牲者の多かった玄界灘周辺では犠牲者がほとんど見られなくなり、筑紫・佐賀平野などの内陸部での数が急増し、損傷の様子から戦闘が熾烈化している事が読み取れる。額が割れたり、首だけだったり、首がなかったりするからだ。」
斬首と言う行為は、中国の雑穀民が戦国時代に盛んに行った行為で、史記の秦本紀に頻出する。秦の将軍が行った斬首は万単位だから、戦闘行為と言うよりも、戦争捕虜を殺す方法だったと推測されるが、戦闘中にも行われただろう。弥生時代の北九州に突然斬首が出現するのは、如何にも不自然だから、中国の雑穀民との戦闘で、敵に殺された戦死者だったのではなかろうか。斬首に遭うのは負け戦だから、その戦場の遺体や、捕虜になって殺された者の死体を取り戻すには、その後に大勝しなければならなかっただろう。その様に大勝できた戦闘が、頻繁に展開できたとは考えられないから、帰還した遺体は極一部だったと想定され、実際の犠牲者の数は埋葬者の数百倍・数千倍あったと考えられる。この時期の倭人は、燕の統制下にあった雑穀民集団との戦闘で、かなり苦戦を強いられたのではなかろうか。戦国時代末期に、燕は強勢になって楽毅と呼ばれる名将軍を輩出するが、倭はその頃の燕に対して、大苦戦していた可能性が高い。北九州の倭だけでは対応できず、周辺の農民国からも募兵したのではなかろうか。それについて寺沢氏は、
「この時期になると瀬戸内海や大阪湾の沿岸地域でも、犠牲者がリストアップされるようになる。神戸市玉津田中遺跡では、銅剣の切っ先が残された犠牲者が発見されているが、殆どはサヌカイト性の打製石鏃だ。」「瀬戸内以東では、多数の矢尻や石剣の先端と共に、壮絶な死を遂げた戦士がまま見受けられる。」
神戸は邪馬台国があった地で、邪馬台国は魏と交易を行っていた、即ち渤海湾を経由して中国と交易を行っていた国々の、元締めをしていた国だったから、朝鮮半島の戦役が不穏になれば、援軍を派遣しなければならなかっただろう。遺体と共にサヌカイト(近畿や四国の石)製の矢尻があったとしても、葬送儀礼として遺体の上に矢を置いたのかもしれないから、慎重な判断が必要になる。
寺沢氏がこれを著述したのは、まだ縄文農耕が認知されていない時代だったから、弥生時代に稲作が始まって地域集団が生まれ、勢力争いの抗争が生まれたというシナリオは成立し得たが、縄文農耕があった事が認知され、縄文後期の沖積平野で稲作が行われた事も考慮すれば、弥生時代に突然北九州で戦闘が発生した事を、日本列島の内部要因だけで説明する事には無理がある事を、理解されているだろう。縄文時代には抗争がなかった事は、殆どの考古学者が認めているのだから。
現在でも、この抗争は集落間の抗争だったと考えている考古学者が多いが、それは日本に海洋民族がいた事を認知しないからだ。それ故に抗争の痕跡を留めている遺体が、発掘される地域の特殊性を、説明できない事になる。その他にも、縄文人の海洋性を認めなければ説明できない事として、この少し後に突然発生した、高地性集落の成立理由が挙げられる。高地性集落は、九州から近畿に狼煙で連絡する目的だったらしい。この集落の発生時期は弥生時代中期とされているが、弥生時代中期の開始はBC200〜BC400年の幅があり、BC400年であれば、燕との抗争に対する援軍要請だった事になり、BC200年であれば、漢帝国が朝鮮半島に侵攻して四郡を設置した時期になる。高地性集落の継続時期が長かった事、中期末にその役目が終了する事から推測すると、燕との抗争やそれに続く漢帝国に対するものだった可能性が高い。中期末に温暖期が終わって華北が不安定化し始めると、漢民族には膨張的な武力侵攻をする余裕がなくなり、その頃には韓族や濊族にも鉄器が行き渡り、楽浪から漢民族が南下する危惧は薄れ、倭人は警戒を解くことができたと想定される。
この時期の九州の倭人は、燕に支援された雑穀民の朝鮮半島南下を、命を張って阻止していた。漢民族に朝鮮半島南端まで占拠されてしまえば、次は九州に上陸される恐怖に怯えなければならなかったからだ。それは現代人も同様だ。
1−3、山海経
山海経(せんがいきょう)は中国最古の地理書で、戦国時代から秦・漢代(前4世紀 - 3世紀頃)に徐々に執筆付加された。
1−3−1 海内北経
「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。」
「朝鮮は列陽の東に在り。列陽は燕に属す。」
「列姑射(れこや)。海の河州の中に在り。」
「射姑(やこ)國。海中に在り。列姑射に屬す。西南、山が之を環る。」
「大蟹(だげ)。海中に在り。」
「大鯾(だぴ)。海中に居す。」
「明組の邑。海中に居す。」
「蓬莱山。海中に在り。」(徐福伝説に出て来る蓬莱山という地名は、ここまで遡る。)
「大人(背の高い人)の市。海中に在り。」
海内は中国の領域内である事を意味し、別の言い方をすれば、人が住む地域の事でもあった。
燕は河北省を領有する国だった。紀元前284年に楽毅が率いた5ヶ国の連合軍50万が、斉軍20万を撃破して首都臨淄を陥落させ、斉の都市を殆ど占領した。戦国末期にこの様に強勢になった燕は、山東だけでなく遼寧も併合し、「鉅燕」(巨大なる燕)と呼ばれた。「蓋国」は現在の山東省淄博市の沂源県(きげんけん)で、淮河の支流だった沂河の上流にあった。倭人は「蓋国」を通し、燕(鉅燕)に朝貢したと推測される。この時代の沂河は山東から南流し、倭人が通商路とした淮河流れ込んでいたから、倭が南から沂河を遡上して来るのを見て、蓋国の人は燕にその様に申告したと想定される。倭人も蓋国の人にその様に説明したから、この記述になったと考えられる。
正確な地図を見ている現代人には、これは不合理な地理観になるが、倭は日本列島が朝鮮半島の近くにある事を、既にこの時代には隠していた事を示している。九州の倭人が朝鮮半島で、燕の南下を阻止するために戦闘を行っていた一方で、沖縄を経由して福建省から遡上していた倭は、淮河を遡上して斉と交易し、その一環として蓋国とも交易していた。倭人は燕に占領された蓋国を通し、燕に朝貢したが、朝鮮半島のすぐ先に倭がある事を秘匿するために、この様な情報を流したと考えられる。華北の雑穀民に対して日本列島の位置を秘匿する行為は、魏志倭人伝に示される邪馬台国への経路にも示され、それが弥生時代の倭の方針だったと考えられるが、この山海経の記述がその起源の古さを示している。日本列島の位置を秘匿する理由は、この時代の北九で発掘される、損傷した遺体が示している。
この時代の倭は華北で宝物を販売していたから、燕がそれを目当てに半島を南下する事態は、極力避ける必要があった。北九州も含めた倭人連合がBC660年に成立したのであれば、倭人国になってから日が浅かったこの時代の北九州の倭人は、朝鮮半島の燕に対しては倭を名乗らず、それを秘匿していた可能性が高い。上記の燕に関する記述の後に倭が出ないのは、それ故である可能性が高い。
最盛期の燕の勢力圏は、朝鮮に接する列陽を含んでいたと記されている。魏志東夷伝の記述と併せて考えると、戦国時代の箕氏朝鮮は遼東半島南部から朝鮮半島北西部を領有し、その支配下にあった韓族が、遼東で産出する透閃石(岫岩)から玉器や装飾品を作り、倭人がそれを渤海湾沿岸で販売していたと推測される。それに関する記述も上記の山海経にはないから、岫岩が遼東で産出する事も秘匿し、東海の神仙世界の物産として、華北で販売していた可能性が高い。倭人はそれらの全てを秘匿し、腰を低くして燕に朝貢したから、燕は「倭は燕に属す」と錯覚したと解釈される。倭は朝鮮半島で敵対している事はおくびにも出さず、朝貢しながら燕の方針を探索したのではなかろうか。
箕氏朝鮮の実在を疑う人が多い。中華に支配された歴史を排斥するために、その存在を不都合としている朝鮮半島の、プロパガンダに迎合しているからでもあるが、魏志韓伝はその民だった韓族を余りにも未開民族の様に描いている事も、その理由のひとつになっているのではなかろうか。しかし竹書紀年で、周の武王の記事に箕氏が登場し、史記にも登場し、魏志濊伝に「箕子が朝鮮に遷って民を啓発し、その40数代目の朝鮮候の準が王を名乗った」と記されているから、実在したと考えるべきだろう。遼東半島で翡翠(岫岩)が産出したから、それによる古代交易が生まれ、箕子がその採掘や加工を担っていた可能性が高いが、史書も同時代試料のみ参照する姿勢が必要だから、箕子と殷王朝の系譜関係まで肯定する必要はない。子を指導者の名前とする習俗は、楚子、於越子などの稲作民系の呼称に見える。
魏志濊伝が示す箕子の歴史は、次の様なものだった。箕子朝鮮が濊族と韓族を支配していた時期は、民情は極めて非雑穀民的で治安が良かったが、秦末に治安が乱れると漢民族が朝鮮半島に流れ込み、朝鮮候の準が燕の亡命者である衛満に敗れて馬韓に逃れると、箕子朝鮮に支配されていた濊族は、濊(朝鮮半島東部の小国)になった。扶余も濊族だが、魏志扶余伝は「国に君王あり」と国家の体裁を整えている事を指摘し、「殷の正月を以て天を祭る。」「自ら中華からの亡命者だと言うのは、由来があるからだ」と記しているが、「貴人が死ぬと数百人を殺して殉葬する」と記し、雑穀民的な殷王朝の殺伐とした遺風を示しているから、稲作民的な箕子朝鮮の支配下にあった集団とは考え難く、扶余は殷の支配を受けていた民族か、殷人と同族の民族だったと考えられ、中華からの亡命者とは、秦に滅ぼされた燕の亡命者だった可能性が高く、燕は殷を支えた民族系譜が形成した国だった可能性が高まる。
魏志の著者陳寿が、濊族についてこの様に詳しく記したのは、漢書地理誌が箕子の統治を賛美する文章を連ね、それに続いて、「然るに東夷は天性柔順で、三方(西、北、南)の外(の民族)と異なる。故に孔子は悼道(徳)が行われないことを悼いたみ、浮を海に設け、九夷に居さんと欲した。故ある事だ。夫(意味不明)、楽浪海中に倭人有、分かれて百余国を為す。歳時を以って来りて献見すると云う。」と記し、孔子が九夷と言ったのは、箕子が統治した東夷の事だと誤解させようとしたから、陳寿は、箕子が統治したのは韓族と濊族であって倭ではない事を、漢書が使った言葉を引用しながら魏志濊伝を記して明らかにしている。この陳寿の記述を見れば、陳寿の執筆姿勢が明らかになると同時に、陳寿は十分な調査と出典を背景に、魏志東夷伝を記述した事が分かるだろう。
その様な韓族だったが、中華的な権力の集中を計って文明化していた扶余に対し、韓族は倭人的な分権体制を維持しながらも、鉄器文明化が遅れていたから、魏の役人や三国志の著者陳寿には未開な民族に見えた。しかし青銅器時代の韓族は、遼東半島から採掘される翡翠を加工し、夏王朝や殷王朝に収める工人集団だったと推測され、時代相応に文明化した集団だったと考えられる。その加工技術は倭人が提供したと、縄文時代の項で想定したが、その関係から倭人は、箕氏や韓族と親密な関係にあったと考えられる。
倭人は内陸の奥深くにいた周に朝貢したから、その経路上にあった斉、韓、趙、魏とも、燕と同様の朝貢関係を持っていた筈だが、燕だけが山海経に特筆されたのは、倭人が朝鮮半島と倭人の島の関係を悟られないために、燕に積極的に働きかけながら、倭は燕の南にあって朝鮮半島の先にあるのではない事を、印象付けたからだと推測される。燕でも製鉄が行われる様になると、それに対抗するために、弁韓に製鉄集団を送り込む必要を感じただろうが、感じたからと言っても、機会がなければ実行する事は難しく、実現には遅れがあった。秦が中国全土を暴力的に征服し、越が山東から東南アジアに逃亡する際に、製鉄集団をスカウトした可能性があるが、その機会を逃して後漢代になった可能性もある。後漢代になると寒冷化が始まり、ユーラシア大陸全般が農業不振に陥り、交易が不活発化したから、東南アジアでも職を失った製鉄集団が出現したと考えられるからだ。
山海経に記された「れこや」「やこ」「だげ」「大人の市」など、海の中にあったと思われる政権や、集団の名が挙げられている。黄海と東シナ海に面した島で、政権があったと想定出来るのは日本列島だけだから、これらは日本列島を基地にして、海洋交易をしていた集団の名前だったと考えられる。集団に従属関係があるが、倭は既に記されているから、これらは倭に属さない集団だった事になる。
徐福伝説に出て来る蓬莱山という地名は、戦国時代まで遡る事が分かる。徐福伝説が記す日本列島は、蓬莱・方丈・瀛洲(ほうらい・ほうじょう・えいしゅう)で、華南の稲作民は日本の島を夷洲、亶洲(せんしゅう)と呼び、夷洲は九州の事だった。天武天皇の別称は天渟中原瀛真人天皇だから、瀛洲は本州を指したと考えられ、蓬莱山は九州の山の名前だったと推測される。
1−3−2 海外東經
海外だから所謂中国ではない場所として、怪異の島が東の海の彼方にあると記している。
以下に文章を掲げるが、読み飛ばして結論を見て、納得できなければ本文を検討頂きたい。
「𨲠丘(さきゅう)。爰(ここ)に遺玉・青馬・視肉・楊柳・甘柤・甘華、有り。百果生ずる所、東海に在り。両山丘を夾む。上に樹木有り。一に曰く、嗟丘。一に曰く、百果の在る所、堯を葬りし東に在り。大人国は其の北に在り。人と爲り大。坐して船を削る。奢比(しゃひ)の尸(し)、其の北に在り。獸身・人面・大耳。両の青蛇を珥(みみかざり)とす。君子国、其の北に在り。衣冠帶剣、獸を食う。二の文虎(文様のある虎)を使う。旁に在り。其の人好く讓り争わず。梔リ草有り、朝に生じ夕に死す。{辞書にない漢字の名}其の北に在り。各(おのおの)両の首(二つの首)有り。朝陽の谷。神を天呉と曰い、是を水伯と爲す。{}の北、兩水の(かん=間)に在り。其の獸なるや八首人面・八足八尾。皆な青黄。青丘国、其の北に在り。其の狐は四足九尾」
「黒歯国、其の北に在り。人と為り黒し。稲を食し蛇を啖う。」
上の文章は基本的に、東海(東シナ海〜太平洋)にある島の事を言っている。倭や越がその様に云わなければ、中国人には分からない事だったし、両者が否定すれば、その様な島の存在が信じられる事はなかった筈だ。東海の海上に物産が豊富で植生が豊かな国があるが、妖怪が住む島でもあると主張している。大人国は倭人の島の一部だった様だから、倭人の島の近くにその様な島があるとか、倭人の島はその様な島に囲まれていると言う様な事を、倭人が言っていた様だ。
「船を削る」は、船を作る意味だと推測される。縄文時代/縄文人の海洋性と石材加工の項の写真を確認して貰えば分かるが、倭人の船は丸木を削って船底材を作り、その上に舷側を張り巡らす構造だったから、船底材や舷側板を削り出す事が、船造りの要であるとの認識があり、この様な表現になったと考えられる。神性を帯びた巨人である大人が作った船だから、倭人の船は波浪がある海上でも航海出来るのだと、倭人が言ったのではなかろうか。中国人がいくら努力しても倭人が使っている様な、外洋の荒波を乗り切る事ができる船は作れないから、倭人の島に渡る事は出来ないと主張する根拠だったのではなかろうか。
怪異の世界が羅列されているのは、中国人は倭人の島に渡る事は到底出来ないと主張する、もう一つの具体的な根拠だったと推測される。妖怪や怪獣が跋扈している島だから、仮に船があっても、渡ると恐ろしい事が起るのだと、倭人が主張していた様だ。
それらの記述の締めくくりに、「黒歯国」が登場する。
魏志倭人伝に、「倭人の島の先に黒歯国がある」と記されている。魏の役人は、山海経を読んでから倭人の島に渡り、倭人に山海経の記述内容を確認し、倭人がそれに答えたから、黒歯国に関する記述が魏志倭人伝に記されたと考えられる。邪馬台国の倭人も、山海経を読んでいた可能性があり、少なくとも祖先が中国人に何と言っていたのか知っていたから、黒歯国について話した事になる。魏志倭人伝に黒歯国に関する記述がある事は、その様な事情を想定しない限り、あり得ない事になるからだ。
倭人の島に渡った魏の使者には、倭人の島に妖怪や怪獣が跋扈している様には見えなかったから、倭人はその疑問にも答えた筈で、「それらは既に退治したからいない」と言ったのかもしれないが、黒歯国は倭人の島の国ではなかったから、無くなったとも言えずに「遠い先にある」と言った事が、魏志倭人伝に記載されたと考えられる。当然ながら、黒歯国は実在する国ではない。実在しないのに山海経と魏志倭人伝という、500年以上離れた時期の書籍に揃って登場したのは、戦国時代に始めた倭人の宣伝活動の文言を、魏の役人は兎も角として、魏代の庶民的な中国人は依然として、信じていたからだと想定される。具体的に言えば、倭人が売るお守りやお宝を、喜んで買う人が多数いたからだと想定され、その一部が、台与が手切れとして魏の皇帝に贈与した、「白珠、孔句珠(勾玉)、錦」だったと想定される。
倭人がこの様な嘘を、華北の人々に組織的に宣伝したのは、凶暴な漢民族を倭人の島に渡らせないという、倭人の島に関する安全保障の確保と、行く事が困難な神仙世界から、倭人は宝物を持って来るのだから、高く買って欲しいという、商品販売上の戦略があったからだと想定される。
山海経には大荒東経もあり、そこにも東の海上の怪異が記されている。海外東経と重なる内容が多いが、別の怪異も記されている。それらの各経は、各地域の伝承をそれぞれの経にしたと想定され、山海経の各処に倭人の宣伝と考えられる記述があるのは、戦国時代の各地の中国人が遠方から来た倭人から、色々な話を熱心に聞いたからだと考えられる。中国の各地に出向いた倭人は、その地域を商圏として割り当てられた国の倭人だったから、異なった倭人集団が各地に出向いた事になり、多少の食い違いはそれが理由だったと考えられるが、重なる内容が多いから、倭人の間で話の統一化が図られていた事を示唆する。
中国人は一貫して、土地に縛られる農耕民族だったから、偶々遠方から来た人から色々な情報を得ていたと考えられる。倭人は国際情勢に関する有益な情報などに混ぜて、倭人の島を“おどろおどろしく”説明し、倭人が持ち込んだ宝を販売したと想定される。
倭人は雑穀民の政権と交易を行う傍ら、政権間の情報交換を媒介する関係も築いていたと想定され、この様な安全保障戦略やブランド戦略を、民衆だけでなく知識人にも効果的に実施したと考えられる。通信手段が乏しかった時代の交易者は、物品を販売する者だったと同程度に、遠隔地の情報を伝える者でもあったからだ。春秋戦国時代の地域政権の担務者と倭人の間には、倭人が有意義な情報を定期的に持参するのであれば、奢侈品を多少高く売り付けたとしても、笑顔でそれを買う関係があったと想定される。倭人はその様な人間関係に立脚し、戦国時代の諸国の貴人と接し、交易活動を成立させていたと想定される。倭人が伝える遠隔地の情報が正確であれば、倭人の島の怪奇な話に信憑性が付加されただろう。倭人の商流が大陸の沿岸部だけでなく、河川の流域にも張り巡らされていれば、倭人以上の情報力を持つ者は、大陸内には存在しなかったと考えられる。倭に関する山海経の沢山の記述は、倭人の情報拡散力の高さを示していると言えるだろう。
漢書に記された倭人の様に、100余国が毎年中国全土に出掛け、帰還した渡航者が一堂に会して情報を交換し、翌年其の情報を持った倭人が、中国全土を訪問すれば、倭人には中国各地の権力者以上の情報力があっただろう。情報は常に双方向的なものだから、情報量が多かった倭人には、必然的に相手からも積極的に情報が伝達され、中国各地の政治情勢を、俯瞰できる立場にあったと考えられる。特定の倭人国の交易者は、中国に配分された自分の商圏に往き、そこの民族の言語で話しただろうから、共通語として倭人語を持っていた倭人の情報力は、強大だったと考えられる。
史記には倭人は一切登場しない上に、司馬遷は怪異を述べない事を信条としたのは、稲作民と倭人が怪異を述べていたから、それに反発して怪異を排斥したと考えられる。司馬遷は理性的な人だったから、その様な思想を持っていたと判断する向きもあるが、怪異を排斥する事は文明的なのか、改めて考える必要があるだろう。日本人の社会秩序の形成に際し、怪異が人々の衝動的な欲望を抑え、社会秩序の形成に大きな役割を果たした形跡があり、巫女が権威を持つ倭人文化の一つの断面だった可能性が高い。文明の黎明期には、怪異が排斥されても迷信が一掃されるわけではなく、社会秩序が向上するわけでもない。怪異を恐れる人々の心に、秩序を乱す事への恐怖感が重なれば、怪異は決して不要なものではないからだ。怪異の進化の先に神話や逸話が生まれ、その先に文学があったのであれば、怪異は文明の要素だったと言っても良いだろう。現在の中国人の倫理観の欠如は、その様な怪異を文明として採用しなかった事に、起因している疑いもある。
歴史を捏造した漢民族の史官にとって、倭人は滅ぼした筈の稲作民政権の、単なる生き残った片割れだったのではなく、交易を通した情報戦の前線で、事実を暴いてしまう恐れがある、不倶戴天の敵だったと考えられる。それ故に史記は、倭に関する記述を一切排除し、倭人が宣伝した怪異を排除したと考えられる。漢が滅んだ後に成立した漢書も、未だ漢民族の支配は続いていた時代の著作だから、その様な倭人が未だ帝国の中で活動しているという警告を含め、倭について記載したのではなかろうか。
倭人は漢帝国が成立しても、大陸に徐福伝説を流し続けていた。三国志呉志や後漢書は、その様な徐福伝説について記している。倭人が徐福伝説を流し続けたのは、東海の海上に宝の島があるという宣伝を、即ち倭人が持ち込んでいた商品に関するブランド戦略を、相変わらず行っていたからだと考えられる。徐福伝説について、各時代の史書がどの様に表現したのか、或いは表現せざるを得なかったのか考察すると、漢帝国成立以後の各時代を評価する有力な素材になる。
2 秦・漢帝国の成立と倭
戦国時代末期に、中国の勢力は秦、韓、燕、趙、魏、斉、楚に統合されたが、相変わらず戦乱が絶えなかった。特に辺境にあって、稲作民文化と接していなかった秦と燕が、最も凶暴な国だった様だ。燕に楽毅が登場すると南の斉を侵略し、滅亡の縁に追い込んだ。斉は稲作民と、大麦を栽培していたコーカサス系の民族が形成した国だったから、産業社会の発展を目指していたと考えられるが、燕に侵攻されると、昔日の勢力を回復する事ができなかった。雑穀民の国は皆、国家目的として軍事力を高めていたから、稲作民の政権は相対的に軍事力が低下し、雑穀民の南下に対抗する力を失ったと想定される。
史記は楽毅の事績を麗々しく記しているが、趙・魏・韓・秦・燕は皆雑穀民の国で、斉は楚と並ぶ稲作民の武闘的な国の双璧だったから、この戦争は稲作民と雑穀民の最初の大決戦だった疑いがあり、雑穀民の目的は、豊かな斉に対する略奪だったのかもしれない。略奪を餌に民衆を集めれば、雑穀民の軍は膨大な数になるから、多勢に無勢で略奪に走った可能性が高い。
稲作民はこの様な事態を想定し、雑穀民に伝授する製鉄技術を鋳鉄の製造に限定していた疑いがある。鋳鉄では武器は作り難いからだ。稲作民の軍隊だけが、錬鉄製の刀剣を備えていたのであれば、数では劣勢でも雑穀民の軍隊を蹴散らす事ができただろう。漢帝国が成立すると、中国の製鉄が鋳鉄に統合されたのは、それが原因だった可能性が高い。しかし戦争に勝って略奪の旨味を知ってしまった雑穀民の軍隊は、手に負えない存在になっただろう。
燕は斉を征服したが、燕の王は中国全土を統一する野望を持っていなかった様だ。豊かな斉を征服してその富を奪う事が、燕の国家目的になっていたからではなかろうか。
秦にその野望を持った王が生まれ、その他の国を次々に制圧して中国全土を征服したのは、最も内陸の国だった秦が、豊かな沿岸国を征服してその富を入手するためには、間にあった韓、趙、魏、そして楚まで征服しなければ、実現できなかったからではなかろうか。
戦国時代末期を記した史書は、史記しかない。その史記に依れば、秦が楚の故地である揚子江中流を占拠した時、秦はそこに罪人を入植させた。温暖期の揚子江中流域の農作業は、炎熱地獄での作業になっていた事を示唆する。鉄器が普及して開墾が進み、製鉄を行うために森林を切り払い、禿山に囲まれる様になった揚子江中流域の夏は、大地の吸熱が盛んになってヒートアイランド現象を起こし、酷暑が酷くなっていたと想定される。楚がその様な地域を放棄したのは、耐寒改良された温帯ジャポニカが、その暑さで不稔になるリスクを抱えた疑いもある。
秦軍の侵略を受けたからなのか、夏の酷暑を避けたのか明らかではないが、戦国時代末期の楚の稲作民は、揚子江中流域から沿海部の江蘇省や安徽省に東進した疑いがある。温暖期に北進する稲作民の習性が、発揮されたのかもしれない。楚が揚子江中流域から撤退すると、四川は秦の略奪の格好の餌食になった。秦人はそこで稲作民の豊かさを知り、沿岸部の略奪意欲を高めたのではなかろうか。
始皇帝は中国全土を征服すると、稲作民の文明を徹底的に破壊した。秦とは異質な制度や思想を持っていた稲作民の知識人が、秦の権威や制度を厳しく批判したからだと考えられる。稲作民には、自分達が先進的な文明の体現者だという、自負心があっただろう。雑穀民社会の暴力的な感性を備え、中央集権的な権力の確立を信条としていた秦の皇帝や官僚には、それは許し難い危険思想に見えただろう。
粗暴な秦帝国は、始皇帝の死去と共に瓦解した。稲作民の統治の復興を目指した項羽と、雑穀民的な感性を持った劉邦が覇権を争い、劉邦が勝利して漢帝国が生まれた。漢帝国は秦が滅んだ理由を反省し、漢王朝の権威を高めるために歴史を捏造し、稲作民文化の復活を抑圧した。歴史の捏造は漢王朝の国家事業だったと想定され、史記は司馬遷の個人的な著作だったのではなく、皇帝の命令で行われたと考えられる。
以下では史記の徐福伝説を検証し、漢代の中国と倭人の関係を考察する。
2−1 史記の始皇本義
始皇帝は生涯に何度も各地を巡幸したが、本格的な最初の巡幸の目的地は越と斉の地だった山東で、山東の各地に3つも碑を建てた。中でも琅邪では、3万戸を移住させて12年掛けて琅邪台を作り、そこに立派な碑を建てさせた。戦国時代の琅邪は、越の中心的な都市だったが、越は秦軍の東進に対し、先んじて逃げる際に木造建築主体の都市を灰燼にしてしまったか、攻撃した秦軍によって焼き払われてしまったから、始皇帝はこの様な事をしたのではなかろうか。始皇帝が秦王として咸陽にいた頃には、琅邪は経済的に繁栄する花の都として、人々に憧れを抱かせていた筈だから。
始皇帝は琅邪山に3か月も長逗留したが、史記にはその理由は記されていない。しかし漢代の人がそれを読めば、始皇帝は越人が遺した優雅な生活の痕跡を、其処彼処に見出していたと推測したのではなかろうか。
「碑を建てる指示を出し終わると、斉人の徐市(じょふつ)らが上書し、『海中に3つの神山があり、蓬莱・方丈・瀛洲(えいしゅう)と申し、仙人が住んでおります。・・・』と言った。」
史記には倭人は登場しない。徐市は徐福のことだから、以下徐福に統一する。秦が中国全土を統一すると、越は海洋民族と共に海に逃れ、当時黄海や東シナ海を航行していたのは、倭人だけになったと想定され、蓬莱・方丈・瀛洲という名の島があるという認識は、倭人が中国人に与えた情報だったと考えられる。しかし史記はそれを倭人の島とは記さず、倭人の島とは関係がない神仙の島であるかの様に、記述した。山海経から分かる様に、中国人は島という概念を理解せず、海を渡った先(東海、東海の外、海中)に、倭人の国や神仙世界があるとしか考えていなかったから、内陸出身の始皇帝は、蓬莱・方丈・瀛洲と倭の関連を認知していなかった疑いがあるが、司馬遷はそれを正確に認知していたと考えられる。
始皇帝は方士と呼ばれた当時の知識人を弾圧し、何百人も穴埋めにして殺したと記している。しかし徐福が巨額の資金を費やした上に、世間が徐福の云う事は信じられないと言っても、始皇帝は終世徐福を信じ続け、不老不死の仙薬を求め続けた。徐福は始皇帝の死後に、行方が分からなくなった。
戦国時代から漢代にかけて、倭人の情報力が如何に強かったのか、この一節から理解できるだろう。
2−2 史記淮南衡山列伝
漢代になって徐福伝説がどの様に変ったのか、淮南衡山列伝が示しているが、世間は徐福が史記淮南衡山列伝で記す様な、不逞な人間だったとは考えていなかった。その様に判断する理由は、その400年後の史書に徐福伝承が登場し、民衆が東海上の神仙世界を信じ続け、徐福の定住先に興味を持ち続けていた事を示しているからだ。史記は登場人物の発言という形式で徐福伝説を記し、事実を記すべき史家の責任を放棄しながら、徐福が嘘を言って始皇帝を騙した事を示唆し、徐福伝説を鎮静化させる事を目論んだ様に見える。
「徐福は蓬莱山に行ったと嘘を言った。」「(しかし始皇帝は徐福を信じ続け)男女3千人と、彼らのために五穀の種と各種の道具を付け、(蓬莱山に)遣わした。徐福は平原・広沢(未開の豊かな土地)を得て王となり、留まって帰らなかった。」
徐福が嘘を吐いて始皇帝を騙し、未開の地で富貴になったと登場人物に主張させ、間接的に倭人が嘘を言ったと暗示した。現代人は不老不死の薬などない事を知っているから、司馬遷の主張の方が正しい様に見えるが、それを知らなかった当時の人の立場で、物事を考える必要がある。それにしても、倭人はそれを承知の上で騙したと考える向きもあるかもしれないが、当時の倭人の統治体制では、王は再生儀礼によって不死の身になる神だと信じていたのだし、現代日本人も神社からお守りを購入するのだから、話は単純ではない。
徐福が得た平原・広沢には地名がなく、海中の島だとも言っていないから、史記は徐福と倭人の関係を、徹底的に無視し続けている事に変わりがないが、巷間では、徐福は倭人の島に行ったと言われていた事は間違いない。三国志呉志や後漢書に、その事が記されているからだ。後漢書が記すのは、「言い伝えによれば、秦の始皇帝が徐福に命じ、(徐福は)数千人の若い男女を率いて海上に船出し、神や仙人の住む蓬莱に行って、不老不死の仙薬を手に入れようとしたが出来ず、徐福は罰せられて殺されるのを恐れ、帰らずに島に留まり子孫が数万戸になったと、島の人民が時に会稽の市に至って(言っている)。」という事だった。後漢書は蓬莱の神仙を否定せず、徐福はそれを手に入れる事が出来なかったと記している。この項は東鯷人に関する記事の中にあるが、後漢書は倭人と東鯷人が同じ島の住民だと暗示し、徐福は倭人の島に行った事を暗に認めている。従って倭人が嘘を言っていたとする史記の論調は、後漢書には採用されていなかった事になり、史記が捏造書である事を、漢代の人々は知っていた可能性が高まる。
後漢書は三国志より後の時代に、三国志呉志を参照しながら著述されたから、三国志呉志がこの話をどの様に記しているのか検証する必要がある。
(呉の孫権は)將軍衛温(えいおん)、諸葛直(しょかつちょく)を遣し、甲士万人を將いて海に浮かび、夷洲及び亶洲を求めしむ。亶洲は海中に在り。長老が伝えて言うところでは、「秦の始皇帝が、方士徐福を遣して童男・童女数千人を將いて海に入り、蓬・神山及び仙薬を求めしむるも、此の洲に止まりて還らず。世相い承(う)け数万家有り。其の上の人民、時に有りて会稽に至り布を貨す。」
呉志は徐福が嘘を言ったのかどうか判断せず、事実だけを淡々と記しているところに、著者陳寿の客観的な視点が感じられる。徐福の行先は亶洲で、そこで子孫が数万家に増えていたが、彼らの上の人(彼らを受け入れた亶洲の権力者)が、時々会稽の市に布を売りに来る。その人の話だから信用出来ると、陳寿は判断の論拠を示している。呉志の著者であり、魏志倭人伝の著者でもある陳寿は内陸の人だから、この話は初耳だったかもしれないが、記述すべき事実とその証拠を明確に挙げ、事実関係の検証に非凡な才能を発揮している。東夷伝を読めば、陳寿が倭人に強い関心を持っていた事は分かるが、その陳寿が書いた呉志に倭人が登場しないのは、呉の朝廷記録に倭が登場しなかったからだと考えられる。倭の伝統的な方針として、漢民族の王朝には朝貢しなかったからだ。
2−3 史記項羽本紀
徐福伝説以外にも、史記が倭を意図的に無視した痕跡があり、それを項羽本紀に見る事が出来る。
項羽本紀の問題の部分は文章が長いので、要約すると、「項羽は垓下の戦いで敗戦を悟って南に走り、淮水を渡って陰陵(安徽省定遠)まで進んで道に迷い、東の東城(定遠の内)に行った。そこで追手の漢軍と激戦を演じた後に、揚子江の渡しがある烏江に逃れると、亭長が項羽に渡河を勧めたが、それを断って戦陣の中で死んだ。」この話に不可解な点が幾つもあるが、倭人に関する疑念が2つある。一つの疑問は垓下から烏江まで、直線距離で200kmもあることだ。平坦地だが湖沼が多い地形を、途中で道に迷ったり漢軍と戦闘したりしたから、項羽は戦いながら300km以上逃げた事になり、馬に乗っていたとは言え距離が長すぎる事だ。もう一つの疑問は、垓下と烏江の間には淮河が流れているから、騎馬で敗走した項羽に、淮河を渡る事が出来たのかという疑問だ。現在護岸工事が行われた状態で、この辺りの淮河の川幅は300mほどある。馬は泳げるが、渡河後に激戦を展開する様な重武装した人を乗せ、数百メートルも泳いだとは考えにくい。
高祖本紀にもこの話があるが、項羽は東城で殺されたと簡潔に記している。話は完全に矛盾しているが、読者にどちらが正しいのか考えさせる事が、史記の狙いだったと考えられる。詳しい事績を求める人は項羽本紀を参照し、項羽本紀では辻褄が合わないと考える人は、高祖本紀を選択するだろう。しかし漢が天下を取った重要な事績だから、正しい知識に基づいて論功行賞が行われなければ、将兵の統制に関わる重大事になる。それが分かっていながら、史記がこの様に記したのは、何らかの意図が隠されていると見るべきだろう。隠れた事実を探ると、実はどちらも捏造で、実際は淮河を渡らなかったが、淮河を渡った事を既成事実化しようとした疑いが浮上する。
史記が隠そうとした事実は、項羽は垓下から数10km離れた淮河の河岸に逃げ、淮河に待機していた船に乗ろうとした事ではなかろうか。それは倭人の船だったから、司馬遷は意図的に改竄したと考えられる。項羽は稲作民の本拠地に戻って援軍を募集し、再度劉邦に挑戦する積りだったのではなかろうか。垓下の兵は援軍が来るまで、持ち堪える戦術だったと推測されるが、項羽は淮河に達する前に漢軍に殺されたと想定される。項羽のこのミスがなければ、後の中国史は全く違ったものになっていただろう。史記はその事実を隠す事により、項羽本紀に、項羽が揚子江を渡る事を拒んだと嘘を書き、劉邦に天下を譲る流れを止むを得ない事として、項羽が認めた様に記述した。これは劉邦の天下征服に対する敵将の許諾になるから、漢王朝の正統性に関する、最大の背景になったと考えられる。漢王朝の正統性は、武力によって統治者が決まるという事であり、そこに一抹の正義が欲しいから、嘘を捏造してその正義を創作する事が、中華思想の根本原理になる。
2−4 漢書地理誌
燕地の条に、「楽浪海中に倭人有、分かれて百余国を為す。歳時を以って来りて献見すると云う。」と書かれ、呉地の条に「会稽の海外に東鯷人有り、分かれて20余国を為す。歳時を以って来りて献見すると云う。」と対句として書かれている。
上記の対句は、倭人と東鯷人が日本列島から船で中国に出掛け、同じビジネスモデルで交易を行っていた事を示している。集団を構成する国の数が違うから、倭人と東鯷人は異なる政権に属す集団だった事になるが、同じビジネスモデルで交易を行った事は、相互の情報交換や産業構造に大きな違いはなく、協業もあった事を示唆する。魏志倭人伝に記された、邪馬台国連合に属さない狗奴国が、東鯷人の指導国だったと考えられる。関東起原の倭人と日本海沿岸起原の東鯷人は気質が異なり、帰属政権も異なっていたが、同様のビジネスモデル交易を行っていた事を現代風に言えば、企業が異なり社風が違っていた事になる。
後漢書や魏志倭人伝が、倭人の島は会稽(浙江省と福建省)の海外にある、即ち海上から会稽に交易に来ると記しているのに、漢書だけが、倭人の島は燕地に属し、会稽に来るのは東鯷人だと主張しているのは、史記の歴史捏造作業を引き継いでいたからだと考えられる。会稽に来る海洋民族は倭人と同じ様な交易の仕方をするが、それは倭人ではなく東鯷人なのだと、漢書は強弁している様に見えるからだ。しかしそれは事実ではないと分かっていたから、史書がしばしば使う暗示表現として、対句を使ったと推測される。事実を知っている人から批判された場合、「それは自分も知っている。記述を見れば分かるだろう。」と、言い訳に使う曖昧な表現だったと想定される。
漢書も史記同様に倭を無視しているが、それでも敢えて倭について短い文を記述したのは、漢代になっても倭は各地の豪族を訪問し続け、盛んに交易を行っていたから、無視するわけにもいかなくなり、江南に来るのは倭ではなく、倭は燕に近い海上の島にいるという虚報を世間に広め、漢帝国が滅ぼした項羽などの稲作民政権と倭は、関係がなかったと宣伝した事になる。事実としては、日本列島は江南より朝鮮半島に近く、漢書地理誌の地理観は当時の倭人の嘘の宣伝より事実に近いから、現代人はそれに騙されるが、当時の中国人は誰もそれを知らず、倭人は会稽の沖に倭人の島があると言っていたから、漢書の著者は自分が正しいと考えて記述したのではなく、こじつけて世間に誤解を与えようとして、燕の条に「(燕地にある)楽浪の海中に倭人の島がある」と記し、当時の中国人の常識だった「倭人の島は江南の沖にある」という認識を覆そうとした事になる。弱小集団だった東鯷人であれば、漢にとって重要な案件ではなくなるという、算段があったと推測される。
漢民族の史官が倭人を意識的に無視し、無理筋と認識しながらも、倭人と稲作民の関係を否定したのは、歴史を捏造した漢民族の史官にとって、倭人は極めて邪魔な存在だったからだと考えられる。未だに滅ぼす事が出来ない倭人が、その作業を脅かす恐れは大いにあった。
南シナ海の海洋民族と倭人や東鯷人の交易の仕方は、少なくとも中国人に関する限り、全く異なっていた。南シナ海の海洋民族は、仲介者を立てて船上で取引を行っていた。大陸から越を追い出した漢民族に対する、強い警戒心があったからだと想定される。一方倭人や東鯷人は漢の領域内の貴人の館に、毎年ご用聞きに出向いていた。しかし一方倭人や東鯷人は自分達が何処から来たのか正しく教えず、漢朝には朝貢せず、中国人が日本列島に来る事を拒んでいた。漢書地理誌には、漢の役人が東南アジアの海洋民族の船で、彼らの中核国だった黄支国に出向いた事が記されているが、中国人が倭に出向いた記録は魏代まで待たねばならなかった。
東南アジアの海洋民族の秩序は、秦・漢帝国の成立によって越が大陸から追い出された事により、混乱していたからである疑いがあるが、倭人は倭国王を中心に団結を固めたから、この様な違いが生まれたと推測される。いずれにしても倭人も東南アジアの海洋民族も、漢王朝の帝国主義の体制では経済が活性化されない事を、漢帝国を見ながら感じていたと推測される。
2−5 古事記
古事記は、倭国王家の伝承を稲作民政権の伝承に書き換えたもので、倭国王家の伝承を知っている人々に、何を書き換えたのか分かる様に創作したから、重要な伝承が変形されて織り込まれている。
大和王朝を創設した神武天皇の名は「神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこのみこと)」で、第10代崇神天皇が「知初国之御眞木天皇(はつくにしらししのみまきのすめらみこと)」と言われた事は、昔から不可思議な事実として知られていた。「知初国」は初代の天皇を意味するからだ。
崇神天皇の在位が神武天皇即位から450年後だったとすると、稲作民の統治が秦・漢帝国に滅ぼされた頃になる。詳細は(15)古事記・日本書紀が書かれた背景/古事記に記すが、歴代天皇の年齢から推察すると、古事記は崇神天皇の在位をその頃に設定している疑いが濃い。
夏王朝から続いていた稲作民の帝が、春秋戦国時代も稲作民を統治していたとすると、倭はその下部的な政治勢力だった事になる。秦・漢帝国が成立してその統治世界が消滅すると、倭は中華王朝とは一線を画し、海上に孤立する政権になったから、中華とは別の天下に存在する国になったと認識しても、不思議ではない。
倭国王家の伝承に、日本列島だけを天下とする時代になった、とする記事があり、古事記の著者がそれを意識して崇神天皇に、「知初国」の称号を付与したとも考えられるが、既に倭国王家の伝承の中に、その名前があった可能性もある。
竹書紀年は楚の王を楚子、於越の王を於越子と記しているから、春秋戦国時代の倭国王の公称は倭子だった可能性が高い。子の意味は定かではないが、孔子も天子もその系譜の言葉として、その名前の集団を代表する者を指したのではなかろうか。古代の天皇名には「子」が多用され、上記の崇神天皇の称号も即位時のものではなく、事績によってこの様に言われる様になったと古事記は記している。崇神天皇の即位時の称号は、「御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)」で、歴代天皇名には「日子(ひこ)」を含むものが多く、「倭根子(やまとねこ)」を含むものもあるから、これらの「子」も同様の意味で、「倭根」は倭の中核国を意味し、「倭国」の古形だった可能性がある。更に言えば倭人諸国の王名だった「ひこ」は、この「日子」と同じ意味だった可能性がある。
倭国王は秦・漢帝国成立まで倭子、或いは倭根子と名乗っていたが、秦・漢帝国成立後は倭国王と号した事になる。「倭国王」の史書の初出は、後漢書のAD107年の記事になる。
古事記が記す天皇名に「倭根子」が使われているのは、崇神天皇以前の欠史8代の天皇名だから、古事記の作者がそれを意識していたとすると、欠史8代の天皇名は倭国王家の伝承から拾った疑いがあり、それらの天皇の寿命が異常に長いのは、同一宮家の当主は襲名し、継承儀礼によって不死としたからである疑いがある。
3 戦国期から漢代の倭人の交易活動
3−1 中国での活動状況
倭人の交易方法については、漢書地理誌の、「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為す。歳時を以て来たりて献見すると云う。」に多くのヒントが込められている。
「楽浪海中に倭人有り」は、倭人が海洋民族として、船で中国大陸に出掛けていた事を示している。九州から沖縄に渡るためには、時速10km/h以上の速度で長時間航行出来る船が必要だったから、その船で流れが緩やかな大陸の河川を遡上し、内陸の奥深くまで出掛けることが出来た。
「歳時を以て来たりて」は、毎年同じ時期に定期的に来た事を示し、渡航に都合が良い季節が決まっていた事になる。台風を避けただけでなく、大陸の河川を奥深くまで遡上するために、乾季になる晩秋〜早春に河川を遡上し、降雨が始まる晩春に川を下り、夏頃に帰還したと推測される。1日50km漕ぎ進めば1か月で1500km漕ぎ上がれるから、揚子江であれば武漢や長沙まで、淮河であれば許昌まで、黄河であれば洛陽まで、東シナ海から遡上できたから、中国の主要部は網羅できたと考えられる。
「分かれて百余国を為す」は、倭人が分国制を採用していた事を示す。自由競争的な産業社会を目指していたのであれば、当然の選択だったと言えるだろう。自由競争の中でこそ経済が活性化されるという認識は、稲作民や東南アジアの海洋民族と共有した社会思想だったと想定される。地域政権が統合される事を進化だと考える歴史学者が多いが、中華思想に毒されているとしか言い様がない。官僚制の帝国主義国家は非効率と腐敗の温床だから、経済を活性化させたかった古代の為政者には、受け入れられない制度だったと想定され、稲作民は商王朝の帝国主義的な集権制を嫌い、周に華北の覇権を委ねた。
企業という組織形態を知らなかった古代社会では、地域分権に活路を求める以外に、自由競争社会を実現する手段はなかった。海外交易を行うにはある程度の規模が必要になり、組織論が必要になったから、それに応じた身分制は進化した筈だ。その上で古代的な産業競争を展開するには、各地域の海洋民集団の、自由競争を保証する秩序が必要になり、同業組合的な連合が形成されたと考えられる。古代ギリシャが都市国家を形成し、中世のイタリアが小国に分裂し、その中で商業都市が活動したのも、同様な理由だったと考えられる。商人集団が自治を行う都市が、形成されない段階で中央集権制が敷かれたり、中央集権制がそれらの都市を破壊したりすると、発展的な商工業勢力が排除され、必要な武器や奢侈品を宮廷工房で製作しなければならなくなるが、宮廷工房に、産業社会的な発展を望む事はできない。中央集権的な帝国主義は、産業社会の芽として生まれる商工業集団の発生を、抑圧する傾向があった。現在でも集会や結社を禁止する国があるが、それらが反乱の核になる可能性があるから、芽の内に摘み取る必要があると判断しているからだ。唐王朝期に、商工業が抑圧された事が知られているが、征服王朝としては当然の処置だったと言えるかもしれない。漢王朝も同様に、商工業を抑圧した可能性が高い。
漢帝国は産業社会化していた稲作民社会を破壊し、地域勢力が排除された状況を作ったから、稲作民に代わって倭が、中国大陸で交易を行ったと考えられる。稲作民の交易者は地域権力でもあったから、彼らが秦・漢帝国の武力によって排除されると、倭に対する交易需要が高まった可能性が高い。交易に習熟していなかった雑穀民の政権は、民衆の反感を恐れ、その状況に対処できなかったかもしれないし、倭人活動は隠然と行われた可能性もある。当然地域によって、事情は異なっただろう。いずれにしても武力で中国全土を征した漢帝国が、有効な商工業の活性化策を打ち出したとは考えにくい。
その具体的な証拠として、劉邦が漢帝国の都を長安にした事が、挙げられるだろう。秦が咸陽を首都にしたのは、そこが秦の故地だったからだと考えられるが、秦の始皇帝はそこに、征服した揚子江流域や東シナ海沿岸部から多数の富豪と工人を集め、巨大な宮廷工房を形成したと想定される。恐らくそれによって揚子江流域や東シナ海沿岸部の、都市機能は失われただろう。帝国主義的に支配するためには、被支配民が結社を結成する事は許さなかっただろうから、嘗て商業的に栄えた都市は廃墟になったと考えられる。秦がその様な状況を生み出した後で、天下を武力統一した劉邦にとって秦の都だった咸陽は、漢帝国の都に相応しい場所だったから、劉邦は敢えて不便な長安を、都にしたと考えられる。しかし宮廷工房に発展性はなく、帝国主義的な統治以下では地域の産業基盤も生まれないから、各地の豪族や住民は商工業的な需要だけでなく、交易者がもたらす情報まで、倭人に頼らざるを得ない状況になったと想定される。
「献見する」は貴人に面会する意味だから、倭人の顧客には金持ちの豪族が多く、彼らに販売する商品は奢侈品だった事を示す。当時の奢侈品は上等な絹などの布、錦などの更に手が込んだ布、工芸品、宝飾品、刀剣類、染料などだったと想定される。漢帝国が農民から税として取り立てた絹布や、帝国内で盛んに生産された鋳造鉄器類は、商品としては粗悪品だったと考えられ、地域の豪族は自分の権威を高める為にも、倭人が持ち込む高級品の入手を望んだと想定される。
「云う」は、朝廷に倭人に関する記録がなかった事を示す。史書に記すほどの話題性はあるが、王朝に正式な記録はないという状況には、色々な形態があったと想定される。漢書の書き方から考えれば、漢書の著者が偶々倭人について聞き知ったのではなく、積極的に情報を集めたと考えられる。しかし歴史の流れから判断すれば、それを知っていた官僚は、忌々しく思いながら倭人の活動を話題にしたと考えられる。
倭人はこの様に活発な交易活動を行ったが、奢侈品を売った対価として、中国大陸から何を得たのか分かっていない。魏の皇帝が卑弥呼に下賜したのは、錦、毛織物、絹織物、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹だった。錦、絹織物、刀、真珠は倭にもあり、倭の物産の方が高級品だったから、毛織物、金、鉛丹(白色顔料:いわゆる白粉)がその候補になるが、相変わらず銅や銅貨の比率が高かったのではなかろうか。銅鐸のサイズが最大になったのは、AD2世紀だったからだ。
3−2 倭人は何を交易品としたのか
魏志倭人伝が記す、卑弥呼と台与が魏の皇帝に贈った物産は、1班布、2倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹木 3白珠,孔青大句珠,異文雜錦となっている。1〜3の順序で献上したが、回を重ねる度に豪華になって量も増え、染めた絹糸で織った布が毎回含まれている。班布は柄模様、倭錦は絵模様、異文雜錦は華麗な模様が浮き出た錦だったと考えられる。帛布は白絹、縑と緜は太さの揃った糸できめ細かく織った上等の絹布、白珠は真珠又は大きな貝から削り出した珠、孔青大句珠はヒスイで作った大きな勾玉だったと推測される。魏志倭人伝が記す倭の物産に、丹(水銀朱)が挙げられている。
三国志呉誌は徐福の末裔について、「上の人民は時々会稽に来て(高価な)布を売る。」と記し、絹布は弥生時代の主要な輸出品だった事を示唆している。
時代は降るが、倭王が唐の皇帝に贈った物に瑪瑙と琥珀があった。どちらも邪馬台国の勢力圏では産出しないから、魏志倭人伝に記されなかったのかもしれないが、倭全体の輸出品目には加えるべきだろう。
吉野ケ里遺跡から、有明海のアカニシから採取した貝紫で染められた糸が発見された。紫色を貴重な色としていたのは地中海沿岸の民族で、フェニキア人の染色技術として秘密にされていた。それが日本列島にあった事は、染料が商品になっていた事になり、上記の班布や錦は、その様な染料を使って織り上げたと推測され、それには茜、紫草、藍などが使われたと想定される。藍は奈良時代に中国から伝わったと言う人がいるが、奈良・平安朝が倭人の事績を抹殺するために、何でも奈良時代以降に伝わったと言い張る風潮を作り出したから、その結果である疑いが濃い。倭人は交易民族であり、大和朝廷は鎖国的な農民政権だったのだから、海外からの伝来品は、殆ど倭人時代に伝来していたと考えるべきだろう。
養蚕も中国からではなく、東南アジアの海洋民族から直接伝わった可能性が高い事は、縄文時代の項で指摘した。吉野ヶ里遺跡出土の絹が詳しく調べられた結果、弥生前期初頭に四眠蚕が飼育され、中期後半に三眠蚕に切り替わったと言われているが、日本人の遺伝子分布や史書の記述から見ると、この時代に大陸から民族の渡来があった痕跡はないから、これらは同じ生産者が、市場の需要に合わせて切り替えたと考えるべきだろう。四眠蚕の繭は糸が太く生産性が高いが、三眠蚕の繭は糸が細く特殊な用途の高級品に向いていた。現在弥生中期が何時を指すのか分からなくなっているが、中期後半は漢王朝の安定期になると同時に、地中海世界では共和制ローマの属州化が進展していたから、全体的に絹布の売り上げが伸長する中で品質競争が激化し、売り上げ確保のために高品質化が必要になった事を反映しているのではなかろうか。華南で四眠蚕の繭が生産されたのは、呉の養蚕だったと考えられ、華北や朝鮮半島南部で三眠蚕の繭が生産されていたのは、越の養蚕だったと考えられる。戦国時代の越は、既に高品質化に向かっていたのではなかろうか。漢王朝時代になると中国大陸での生産は、課税負担に応じる農村手工業的な生産体制になったから、需要に応じて商品を切り替える発想を失い、稲作民時代の生産が継承された可能性が高い。倭人にとって重要な商圏は中国大陸だったから、漢王朝が課税品として集めた絹布を上回る品質を確保するために三眠蚕に切り替えたとすれば、話としては辻褄が合う。四眠蚕より飼育が難しい三眠蚕に切り替えるには、それ相応の理由が必要であり、上記の様な産業社会の進展があった事を前提にしなければ、その理由を説明する事はできないだろう。
最も可能性が高い想定は、以下の様になると考えられる。
越はオリエント交易のために絹布を生産していたが、オリエント世界での需要が増えて東南アジア島嶼部の生産が増えると、地理的に不利な東シナ加沿岸の販路が脅かされる様になり、それを打破するために三眠蚕に切り替える努力を傾け、戦国時代に逸れに成功したと考えられる。その技能は当然越の企業秘密だっただろう。しかし秦が中国全土を征服して越が東シナ海沿岸から退避すると、越の一部は朝鮮半島や日本列島に一時的に退避し、その際に九州に、三眠蚕の養蚕技術が伝わったと想定される。それが一般化するまでに数十年を要したとすると、時期的に一致する。三眠蚕が当時の東シナ海沿岸の気候に適合した品種であり養蚕技術だったとすると、三眠蚕は越の東南アジアへの逃避には随伴できず、華北や西日本の特産品に代わったのではなかろうか。しかし漢王朝の成立後は、華北の養蚕や絹布は商業的な意味合いが薄れ、品質が劣化して言った上に、後漢代から始まった寒冷化の影響を受け、華北の養蚕は衰退していったと考えられる。寒冷期になると厚手の絹が求められ、三眠蚕の養蚕は下火になったと想定される。
蚕に三眠と四眠がある事も、蚕の原産地が東南アジアの島嶼だった可能性を高める。氷期に海面が低下すると繋がるが、間氷期には孤立してしまう複数の島嶼で蚕の原生種が異種分化し、この様な2種が生まれた可能性が高まるからだ。しかし飼育過程での突然変異として、生まれた可能性もある。いずれにせよ三眠と四眠の蚕は、発生当初は同じ気候条件化で並行的に生存できた筈であり、養蚕を広めていた頃の粤は、都合に応じて生産する蚕を決めていた事になる。
東南アジアは漢代の中国より産業化が進み、経済が活性化して豊かだったと想定される。漢書地理誌が記す東南アジの海洋民族の中核国だった黄支国は、交易が盛んで珍しい物産が多く、女性は絹布の生産に励んでいた。従って倭人や東鯷人の交易相手は漢王朝の領土だけでなく、むしろ東南アジアの比重が高かった可能性が高い。交易先としての東南アジアはそこで行き止まりではなく、その先にインドやオリエント世界があった事は、吉野ヶ里遺跡で発見された貝紫の染色が示している。漢書地理誌は、東南アジアの海洋民は中華世界との交易に、積極的ではなかった事を示している事も、その想定を支持する。
この様な状況下で、漢王朝の領土内での交易にも積極的だった倭人は、中国大陸の奥深くまで出向いたが、漢民族との交易に消極的だった東南アジアの海洋民族は、東シナ海での交易を放棄しただけでなく、漢民族が海南島の対岸まで出向かなければ、中華民族との交易が成立しなかった事を、漢書地理誌は暗に認めている。従って漢書に示される100余国の倭人は、日本の物産だけを中国大陸に持ち込んでいたのではなく、東南アジアやオリエントの物産も持ち込んでいた可能性が高い。正倉院御物の中のオリエント起源の物産は、その様な経路で入手した工芸品が多数含まれている筈だ。
文献に記載されていない事実として、次の事も指摘して置きたい。中国では玉の製作が盛んになり、著名な玉の産地が幾つか挙げられているが、中国で玉の素材として使われた所謂翡翠は、糸魚川で産出する硬玉のヒスイではなく、蛇紋岩帯で産出する軟玉の透閃石だった。蛇紋岩の露頭が珍しくない日本列島には透閃石が豊富にあり、縄文人が石斧の素材として多量に使った。縄文はそれを使って盛んに磨製石斧を作り、ヒスイの加工も行ったのだから、それが交易品に含まれなかったとは考えにくい。中国で作られた玉器の原材料として、日本産の透閃石が使われたり加工されて大陸に持ち込まれたりした可能性も高い。
3−3 ブランド戦略の変質
春秋戦国時代の倭人は中国人に対し、東方海上の神仙世界から宝を持って来たと宣伝し、商品価値を高めた。しかし史記は、徐福は嘘を言って始皇帝を騙したと主張する者が、漢初に登場したと記している。史記の内容の真偽はともかく、史記が記した知識が大陸に拡散すると、山海経に記された怪異を受容しない人々が生まれたと推測される。三国志呉志が徐福説話の真偽判断を避けたのは、世間の評価が分かれていたからではなかろうか。三国時代の呉の皇帝が、倭人の島に軍船を差し向けて人狩りを決行した事は、倭人の島に妖怪や怪異が満ちているとする迷信が中国人から消え、神仙世界の価値も薄れてきた事を示唆する。倭人のブランド戦略も、新しい展開が必要になった筈だ。
倭人がより近代的なブランド戦略の展開を迫られたとすれば、その一般的な戦略の行き着く先は、倭人ブランドとして安心して買う事ができて、それを他人に吹聴出来る、つまり他者も倭人ブランドの価値を認めているという域に、達する事だったと考えられる。それを新しいブランド戦略と名付ければ、その要諦は客に価値を納得させる事だが、その理由を理解して貰う事ではない。
倭人は漢代になると、中華世界の外の異民族になったと説明したが、孔子は九夷を異民族としていたから、雑穀民出身の漢民族は昔から、倭人をその様に見ていた事になる。稲作民や東南アジアの海洋民族は仲間だったが、雑穀民はその連帯の外にいた事になる。雑穀民にとって倭は昔から、域外か来る交易者でしかなかった。漢民族が稲作民政権を滅ぼし、倭人に対して仲間意識がなかった漢民族が暴力的に中国全土を制圧したから、倭人側も中華帝国に良い印象はなかった。春秋戦国時代から粗暴な未開民族だと蔑視し、燕とは壮絶な領域争いをしたからだ。その様な流れの中で倭は、漢帝国が成立する直前の楚漢戦争で、項羽に軍事的な支援を行った可能性が高く、漢王朝から敵視されていたと想定される。
しかし倭人は中国との交易を続ける意思があったから、漢書に記された状態になった。その様な倭人諸国の方針に従って、毎年中国の内陸深く河川を遡上して交易を行った倭人達に、心細さや不安がなかったと言えば嘘になるだろう。魏志は「華北に出向く国が30国ある」と記しているが、漢帝国が成立すると多くの倭人国が華北交易を忌避し、東南アジとの交易に特化し、華南との交易に偏向した可能性が高い。南朝宋に朝貢した倭国王は、「西方の衆夷66ヶ国を服属させた」と表明したから、漢代には西日本にあった66ヶ国の内の30国だけが、華北と交易していたに過ぎなかった事になる。
倭人が集団として団結していた事は、彼らの大きな心の支えになり、割り当てられた商圏での成果を競う事は、交易者の闘争心を掻き立てただろう。現代の企業に属している人々も、不利な経済活動を余儀なくさせられても、集団の生存競争のために活動しているし、社命であれば異国の地に長期間赴任するも多い。企業はその人の活動を全力でバックアップし、待遇も善処するからだが、その活動は事業の本命ではない事が多く、本業は安定的な収益が見込める分野に注力する。それと同様な事が漢代の倭人にも生じていたとすれば、東南アジアとの安定的な交易を主力とし、漢帝国が支配する中国に出向いて交易活動を行った倭人は、商品の販路を拡大する先兵だったと考えられる。
この様な状況下の倭人は春秋戦国時代から、各国が中国で得た情報を交換する場を、持っていたと推測される。当初は危険情報を交換する場だったかもしれないが、その場の協議の結果として華北に往く者は皆、海中に蓬莱・方丈・瀛洲という神山があると説明し、華南に往く者は皆東鯷人と共に、夷洲、亶洲から来たと説明したから、それが中国人に受け入れられ、史書に記される統一認識になった。しかし漢王朝が成立するとその会議体の正確は、王朝勢力との情報戦に対処する手法の、開発主体になったと考えられる。地域分権的な交易者達は、30国が同盟して情報を共有する事により、漢王朝に対処するより強力な対策を模索する集団になったと想定される。その会議体の中で、日本列島の位置情報をより強力に秘匿する方針が決められ、その細かい手段が策定されたと想定される。漢代の東南アジアの海洋民族と魏代の邪馬台国が、漢民族を錯覚させるために類似した戦略を採用したのも、その成果だった可能性が高い。
倭人が中国の豪族の館を訪れ、商品を売りながら情報交換すれば、倭人の住地について詳しく聞かれた筈だから、皆が同じ事を言って顧客の信頼を獲得する必要があった筈だ。新しいブランド戦略の展開にあたっては、顧客との信頼関係の構築は必須事項だからだ。各国の分析的な情報を顧客にもたらしながら、顧客の信頼を獲得する事と、新しいブランド戦略の展開は相互補完的に発展したと想定される。この様に想定できるのは、漢代以降の複数の時代の史書にその結果が記され、時代を追う毎に成果が上がっている事を示しているからであり、その起源は漢代にあったと考えられるからだ。
史書が記す成果は、次の記述に表れている。
魏志倭人伝では、倭の絹布の質の高さを指摘している。隋書倭国伝は倭国の習俗のまとめとして、「新羅、百済は皆、倭を以て大国にして珍物多しと為し、之を敬仰して恒に使いを通わせて朝貢させている。」と記している。珍物は色々な種類の工芸品を指し、単に珍しいと言う意味ではなく、財貨的な価値がある珍品を意味した。新唐書日本伝は締め括りに、「絲絮(しじょ)、怪珍有と云う。」と記している。絲絮は広い意味の繊維製品(紙を含むかもしれない)を指し、怪珍は見た事もない素晴らしい工芸品を指していると考えられる。怪珍の具体的な例として、夜光貝を多用した螺鈿細工があったと考えられる。
倭人は時代を追う毎に新しい商品を考案し、中国に提供し続けたから、上記の様な史書の表現になったと考えられ、逆にそれでなければ、毎年交易のために貴人を訪問しても、飽きられて購入して貰えなくなっただろう。中国で入手出来る物を持参しても、交易にならなかっただろうし、持参する商品の一部は東南アジアの海洋民の商品や、オリエントやローマ帝国の領内で作られた、ガラス細工の様な物も含まれていただろうが、他者から購入して転売する商いは長続きしないし、商品の鑑定眼も見に付かないから、顧客を納得させることは難しい。オリエントやローマ帝国の領内で作られた精巧な物品は、新しい商品の着想を得るために倭人が抱えていた工人達に示した、商品見本になったと想定される。その様な工芸品は貴人の愛玩品になるのではなく、保存性を重視した倉庫に収納されたから、倭人時代に工芸品の収納技術が進化し、正倉院の様な校倉造が生まれたのではなかろうか。偶然校倉造が保存に適していたから、正倉院御物が現代に遺されているのではないと考えられる。正倉院に収納されていた工芸品は、この時代のものではないかもしれないが、漢書地理誌粤の条や梁書諸夷伝が示す、東南アジア海洋民の交易活動は、西ユーラシアとの交易ルートが漢代には既に確立し、上記の様な状態に至っていた事を示している。
貴人との交易を定常的に維持するためには、日本列島に職人工房があり、職人的な知識を備えた倭人が定期的に貴人を訪問し、倭人ブランドを周知させながら顧客の好みを掴み、更に新しい商品を開発する必要があっただろう。工芸品の精巧さが増せば増すほど、開発や政策に時間が掛る様になるから、開発した工芸品が高価で売れる保証が必要になる。しかし倭人にとって漢民族は異文化の人だったから、彼らの好みを的確に把握する事は難しかったと想定される。現代日本人がアメリカ人を対象に、奢侈品を開発する困難さは容易に想像できると思うが、倭人が漢民族にそれを行う事は、極めて難しい事だった。職人がセールスに出向く事も、日常的に必要だっただろう。
この様な組織的ブランド戦略を駆使しても、漢代の中国大陸で高価な商品を売り続ける事は、至難の事だったと想定される。販売の不調が続けば自暴自棄になり、ブランドイメージを壊す様な行為に走る国が、出現する事もあっただろう。それに対処する組織の構築も、必要になった筈だ。粗悪品を売るとか、詐欺まがいの商いをするという噂が立てば、その火消しには非常な困難を伴うからだ。組織的に低品質商品を排除し、商品の全体的な品質を高める必要があり、情報拡散力がある貴人を相手にした商売故に、特段の慎重さが求められただろう。
話が大袈裟だと感じる人が、いるかもしれない。しかし何百年間も中国の貴人の館を訪問し続け、商売を続けた事は間違いないのだから、個々の手法は現代人から見れば稚拙であっても、この様な事をしなければ、奢侈品を販売し続ける事は難しかったと考えられる。
この様な体制を作るには、人的にも物的にも強い資本力が必要になるから、地域権力は徐々に統合されていったと考えたいが、100余国が長期間継続した事は、生産組織は統合されても、販売機能としての地域権力は消滅しなかった事を示す。従って倭人各国は販売組織だった可能性が高く、倭全体が大きな製造組織だったと考えられる。魏志倭人伝を引用すれば、邪馬台国、投馬国、奴国などの大国が、周辺の農民国家と連携しながら生産を担い、中小国は地域言語を含めた商圏の事情を熟知している集団として、交易に特化したと考えられる。
魏志倭人伝は対馬について「千余戸あり。良田なく海の物を食べて自活し、船で南北に行って市で米を買う。」と記し、壱岐について「3千ばかりの家有り。少し田があるが足りないから、南北の市で米を買う。」、唐津の名護屋については、「4千余戸あり。山が迫った海浜に住む。」と記している。海浜の倭人は海産物を主食とし、コメを買って食べていると記しているから、コメを買う資金の供給源は余剰の海産物か、交易で得た利潤だった事になるが、日本の津々浦々がこの様な状態だったのであれば、日本には膨大な数の漁民がいた事になるから、海の物を食べて自活していたのは交易漁民の一般的な姿で、この様に多くの漁民が集まっていたのは、此処が華北との交易の通商路だったから、その利を求めて漁民が集まっていたと考えるべきだろう。この推定から分かるのは、利を求めて移動する漁民が多数存在し、倭人各国は交易労働者としての漁民の募集には、困らなかった事になる。
魏志倭人伝は、「邪馬台国では養蚕を行い、高級な絹布や苧麻布を出荷していた」と記し、7万戸もの人口を抱えていた事は、内陸の農民も巻き込んで養蚕や織布を行わせ、さらに周辺からコメを調達していた大国の姿を示している。邪馬台国は大国として、交易品の生産に勤しんでいたという事を示すと同時に、漢代の主要な交易品は、絹布や上布(苧麻布)だった事を示しているが、その全ての出荷先が中国だったとは限らない。三眠蚕を飼養し、貝紫や紫草で、或いは茜で染色した薄絹を、中近東やローマ帝国領内に出荷していたのかもしれないからだ。
4 弥生時代に日本に渡来した集団
弥生時代に少なくとも2つの集団が、大陸から日本列島に渡来した。
4−1 徐福集団
史記に依れば、秦の始皇帝は生涯に4回天下巡遊を行い、その3回に山東の琅邪を訪れている。初回の帝在位28年(BC3世紀)には、琅邪に3か月滞在し、三万戸をその地に移住させて琅邪台を作らせ、秦の徳を称える顕彰碑を立てた。始皇帝は各地に秦の治世を称える碑を作らせたが、琅邪台に立てた碑は最も長文で、中華的な徳治を正義とする価値観を色濃く示しながら、秦統治の正統性を訴えている。
琅邪は戦国時代に於越が都にした場所だから、戦後時代の越の中核地だったと考えられる。史記は稲作民的な自治意識やボトムアップ志向に理解を示さず、呉と越の関係を呉王夫差と越王勾践の話に歪曲したが、実態は、呉と越の地域政権が雑穀民の武力に脅威に感じ、統合を望んでそのトップに、於越子が就任したと想定される。竹書紀年は、於越が呉を滅ぼした4年後に琅邪に都を移し、その3年後に於越子句踐卒と記しているから、彼が越の著名な指導者だったのは事実だった様だ。
始皇帝が琅邪に強い執着を持ったのは、天下統一を果たした後の関心が過去の越に向いていた事を示している。その理由は、秦が天下を統一するまでは、越が中国文化を牽引していたからだと考えられ、越は分権志向の交易民として老子的な思想を標榜していたから、始皇帝がそれを否定する碑を仰々しく建て、越に対する文化的な勝利宣言を行う為だったと想定される。始皇帝にしてみれば、文化的に優れているから武力闘争に勝ったのだと、言いたかったのではなかろうか。それが現在まで続く、中華思想の本質なのだから。
碑を建て終わると斉人の徐福が上書し、「海中に3つの神山があり、蓬莱・方丈・瀛洲(ほうらい・ほうじょう・えいしゅう)と申して、仙人が住んでおります。斎戒して童男童女を連れ、仙人を探したいと思います。」と言ったので、始皇帝はそれを認めて若い男女数千人を与えたと史記は記している。
徐福が斉人だった事は、秦代の琅邪には越人はいなくなり、斉人の居住域になっていた事を示している。秦が天下を征服した際に、政権としての越は東南アジアに逃れたが、稲作民全員が逃亡したのか分からない。しかし琅邪に斉人がいた事は、山東から粤人がいなくなった事を示唆している。斉人は稲作民の荊と、大麦を栽培していたコーカサス系の民族の国だったから、徐福はそのいずれかの人だったと想定される。
徐福は仙人を探すために多額の費用を使い、始皇帝は徐福の様な方士と呼ばれた人々を信じられないとし、多数殺したが、徐福に騙されているという噂が立っても徐福を信じ続け、徐福への援助を続けたと史記は記しているが、後漢書や三国志は徐福が仙薬を得られず、出向いた島に留まって子孫が繁栄したと記しているが、それは倭人の言い分だった事になる。
帝在位37年で始皇帝が死ぬと、彼らは行方知れずになったと史記は記している。
三国志呉志によれば、「徐福は罰せられて殺されるのを恐れ、帰らずに島に留まり、子孫が数万戸になった。亶洲から来たその上の者が、会稽の市で絹布を売り(ながら、その様に話した。)」
亶洲から来た倭人が、徐福集団が日本に定住した後の消息を伝えた事になるが、三国時代は秦代から400年経過している。徐福集団の人口は10倍になっているから、この話は400年後の近況だった事になり、倭人は折に触れて徐福の話を中国人に伝えていた事を示している。
以上の話には二つの不思議がある。
一つは、何故徐福が始皇帝にその様に上書したのかという事で、徐福は斉人ではなく倭人だった疑いがある。内陸の辺境にいた秦人は、倭人についての知識がなかっただけでなく、東海の神仙世界に関する信仰がなかっただろう。その秦人が支配階級になったから、多数の秦人に対して個別に海中の神仙世界を説得するより、始皇帝に上書して、東海に関する信仰を一気に深めさせる販売戦略として、徐福が始皇帝に接近したのではないかと推測されるからだが、本当だろうかという不思議。
もう一つは漢代の400年間に、倭人が徐福の後日談を宣伝し続けたとしても、中国人が高い関心を払い続けたのは何故なのかという疑問になる。それは呉志の記事にヒントがあるかもしれない。三国時代の呉は華南を統治する国ではあったが、支配者は漢民族だった。その呉には、漢民族に虐げられながら搾取されていた、多数の稲作民がいたと想定され、彼らにとって徐福とその一党は、憧れの人達だったのではなかろうか。それ故に事実としては疑わしいが、10倍に人口が増えた事が強調されたと考えられる。戦国時代の倭人の島は、怪異や妖怪が住む近づき難い島だと宣伝されたが、漢代の倭人の島は、人口が400年で10倍になるパラダイスに変わっていた。言い換えれば漢代の倭人が、その様に宣伝方針を変えた事になる。
徐福一党が実際に何処に定住したのかは分からない。
4−2 秦王国
秦の王族とその従者が、秦末の混乱期に中国南部から九州に移住したらしい。その800年後に隋の使者が日本に来た際に、隋の使者は「秦王国」と呼ばれた地域に連れて行かれ、秦王国の中国人が「自分達は夷洲にいる」と言ったから、隋の使者も隋書の著者も、その意味が分からなかった。三国志呉志に、その理由が記されている。
三国時代の呉が、労働力不足を補うために人狩りを行う目的で、倭人の島である夷洲と亶洲に向けて軍船を発し、台湾には到達したが、その先には進めなかった。仕方なく台湾の住民を数千人連れ帰り、夷洲には到達したが亶洲には行けなかったと嘘の報告をすると、それ以降の中国人は台湾が倭人の言う夷洲だと考える様になった。倭人は秦王国の人に、彼らの定住地は夷洲だと言い、秦王国の人はそれに疑問を持っていなかった事は、倭人が秦王国の人を連れて来たのは、呉が成立する以前だった事を示している。
隋書に阿蘇山の噴火に関する記述があるが、当時日本列島には桜島、霧島、榛名山、妙高などの噴火する火山があったから、倭人が殊更に阿蘇山を取り上げ、隋の使者に話したとは考えにくい。秦王国の人が阿蘇山の噴火を実際に見て驚き、隋の使者にその話をしたのだろう。中国には火山がないから、秦王国の人は実際に火山を見て驚き、それを子々孫々に伝え、同じ中国人の隋の使者に土産話として、詳しく話したと考えられる。その事は、秦王国は阿蘇山の噴火が見える海岸にあった事を示唆し、別府湾沿岸にあった可能性が高まる。従って夷洲は、九州だった事が分かる。
遣隋使を派遣した倭王は東鯷人系、即ち日本海沿岸を発祥とする海洋民族系だったから、秦王国の人は東鯷人が華南から運んで来た人達だった。
秦王国の王の末裔は、平安時代に編纂された新選姓氏録の、秦氏だった可能性が高い。秦王国の人の移住は、秦末漢初の動乱期以外には考え難く、秦氏は始皇帝の孫を祖先としていると、新選姓氏録に記されているから、話の辻褄が合うからだ。隋書に「王国の住民は中国人だった」と記されているから、移住者の数は徐福集団の数千人より、大幅に多かった可能性がある。何百年も経て故郷の言語や習俗を失わなかったのだから、相当な数であったと同時に、文化的に優位である事を自負していた事になる。
秦を「はた」と読むから、彼らは織物の技術を伝えたと推測されるが、雑穀民だった秦の始皇帝の孫である事と、織物の技術とは関連が不明で、華南や東南アジアを商圏としていたと想定される東鯷人が、秦末漢初に連れて来た事にも違和感がある。始皇帝が稲作民女性に産ませた子が、秦氏の祖だったという様な事情が推測されるが、詳細は不明。
日本には、中国の稲作民に多いY遺伝子O2aが極めて少ないから、友好的な越人でさえ、日本列島に居住させる事は希だった事が分かる。秦氏の女系の祖先と東鯷人の間に極めて良好な関係にあり、秦氏の女系の祖先が危機的な状況に見舞われ、片道切符で亡命したのであれば話の辻褄は合う。
その様な系譜論より重要な事は、秦末漢初に秦氏の祖千一族が危機的な状況に陥ったのであれば、東鯷人は何十年もかけて彼らを順次移送したのではなく、突然の出来事の中で、短期間に移住が決行された筈である事になる。少なくとも数千人の人々を、突発的に華南から九州に運搬する事は難しいから、その様な事態に対処できた事情として考えられるのは、項羽と劉邦が戦ったとされる楚漢戦争に、東鯷人が派兵していた事だろう。実戦に参加しなくても、渡河作戦や河川を使った兵站に協力した可能性は、極めて高いと言えるだろう。
比較的に少数勢力だった東鯷人でさえ、少なくとも数千の兵力を楚漢戦争に派遣したのであれば、倭人が同時期に淮河流域に派遣した兵力は、1万を超えていた可能性が高い。それであれば、垓下の戦いで項羽が戦死した顛末に、倭人が深く関与していた可能性が高いと言えるだろう。
5、倭が交易立国になった
漢帝国の官僚が考える「交易」は、足りない物と余る物を融通し合う事だった。魏志倭人伝を含めた当時の史書は、交易する物産を「有無」と表現し、隋唐時代の史書は中国にない物産を珍物と記している。「珍」は単に物珍しいという意味ではなく、財貨として価値がある貴重品を指した。
倭人の本質は交易者だったから、倭人の存在価値は商品を創造して市場を開拓し、交易を継続するにあった。この極端な意識の違いを産んだのは、中国大陸は広大な平原であり、日本列島は海に囲まれた島国だったというだけの違いではなく、日本列島では縄文時代から栽培民族と漁民が共存し、互いの物産を交換する交易社会が形成されていた事による。一方の中国人は、広大な平原に散在していた、均質な栽培者兼狩猟民を祖先とし、皆が一様に栽培に傾斜していったから、農民的な自給自足的が生活の基本になっていた。
倭人を生み出した漁民は旧石器時代から、漁具の優れた素材を遠隔地に求め続け、その目的のために必然的に生まれた機動力を駆使し、共存した栽培民が生産した物産を抱え、民族間の交易を促してきた。大陸の農耕社会で、人口密度が高まって貧富の差が生まれると、権力者が富を蓄積して商品経済を主導し始めたが、その需要は、権力者の権威を高める奢侈品に偏重した。農耕民族は耕地を守る必要があり、農地に固着する生活が日常だったから、奢侈品需要を賄う遠隔交易は、交易民族の活動に頼らざるを得なかった。
漁民を基盤とする倭人は、農地を確保する様に海を囲い込む習俗はなく、地域人口が増えると漁法技能の改善速度が速まり、漁場情報が増えて個人の漁獲も高まったから、湊に相応しい場所に集住して地域分権的な社会を形成したが、漁労行為は自由競争が基本で収穫物の保存ができなかったから、富の蓄積は進まなかった。交易によって財貨価値を選定する傍ら、主要食糧を海産物から徐々に農産物に転向したが、海産物だけでも飢える事はなかったから、農耕民族的な領土意識はなかった。その結果として、倭人は底辺までが交易者になる事を望んだから、倭人が政権を形成すると、その政権の最大命題は交易活動の継続になり、交易の興隆や維持を、実現し続けなければならなくなった。
大陸の農民と倭人の違いを現代に例えれば、現代社会では殆どいなくなったが、昭和の初めまでは一般的だった味噌醤油まで自給自足する農民と、専業化した企業が利潤を上げない限り、従業員に給与を支払う事ができない企業体との違いになる。
農民政権の権力の本質が、農民に対する耕作権の保障や、豪族に対する農地私有の保障だったのに対し、交易民の政権の本質は、その政権下で交易活動が活発に行われる事の保障だった。倭人の場合に限定して言えば、東南アジアや大陸と活発に交易を続ける事が、倭人政権の設立目的だった。
雑穀民だった漢民族は、武闘的な集団を結成して支配領土の保有や拡大を目的にしたので、中華王朝がその集大成になり、その文化を継承した中華王朝は、領土的な野心を常に抱き、広大な領土からより多くの租税を集め、皇帝財産と区分ができなくなった国家財政を豊かにし、常に武力優位維持する事に努めたと考えられる。
稲作民は大規模な灌漑事業によって水田を増やす事ができたから、地域政権がその事業に取り組む事により、地域政権を尊重する文化が生まれ、海洋民族と接して市場経済を取り入れ、農民的な文化と海洋民族的な文化を融合させたと考えられる。それらの異質な文化の葛藤の中から、思想活動も生まれたのではなかろうか。
稲作民社会が生み出した老子思想は、現代日本の産業社会を支えている根源的な思想だと考えられるから、稲作民社会と倭人社会は極めて同質な社会だったと考えられる。老子思想は君主制に基づく思想だが、春秋戦国時代には、君主に社会思想を説く事が社会思想の本質だったからだと考えられ、それに配慮して考えれば、資本主義的な自由競争を肯定する、この時代としては高度な思想だったと考えられる。
日本書記に記された17条憲法は、その思想を背景に成立した極めて現代的な企業組織論に見える。倭人は老子思想を基底にして高度な組織論に発展させたと考えられ、倭人社会が産業社会化していた証拠であると考えられる。17条憲法の具体的な内容は、多数の人材を組織的に育成する事により、恒常的に組織効率を向上させていく集団の在り方を具体的に記述しているから、他の社会形態からその形成過程を求める事ができないからだ。
17条憲法は官僚の心得として記述されているが、企業マネジメント的な発想を濃厚に含み、現代にも通用する考え方が多数含まれているだけでなく、現代でも必要な項目を殆ど網羅しているから、17条憲法の個々の優れた条文は、彼らの活動の軌跡を示していると想定され、倭人はその体制の下に交易開拓型の集団を形成し、中国市場に臨んだと考えられる。中国の史書が示す倭人は、その様な集団だった。
老子思想から17条憲法に至るには何百年もの実務経験と、その中での無数の試行錯誤が必要だったと推測されるから、漢代の倭人にその起源を求める事に合理性があるだろう。倭人各国にその原型となった心得があり、折に触れて見せ合い向上させながら、17条憲法の原型になる条文が生まれたと推測される。農民を統治する官僚の心得としては出来過ぎの感があり、原典には更に多くの、企業者的な心得があったと推測される。
商品経済の発展という視点から考えると17条憲法の原型は、ブランド戦略を展開しながら商品の品質を向上させ、特産的な商品を倭人の共通ブランドに仕立てる事に役立ったと考えられ、それを実践していた優秀な工房の商品は、倭人各国の奪い合いになったと想定される。その様な状況で、倭人諸国に中国や東南アジアの商圏を分配するには、判断の厳密性が要求されたと想定される。特に戸別訪問して販売を行っていた中国で、同じ貴人の館に複数の交易集団が押し掛け、販売競争を仕掛け合う事になれば、商品の価格が下がってブランド戦略は破綻してしまう。商圏の調整を行う事は、現在の企業でも重要な経営戦略になっていると同時に、極めて錯綜する管理を求められる場合があり、倭人国100余の商圏重複を避けるには、かなりのエネルギーが必要だったと考えられる。その上に各国は、優れた商品の獲得にも狂奔しただろうから、各種の工房と交易者集団の利害を調整する必要もあり、必要なルールを定めながらその機能を遂行する事によって、倭国王とそれを取り巻く諸王の権威が強化されたと推測される。歴代の中華の史書は、倭を平和で秩序がある社会だと絶賛しているが、その様な状態が根拠なく生まれたわけではなく、交易者の統治に必須の条件を粛々と遂行する事により、得られた権威だったと推測される。
この体制が春秋時代に始まったとすると、古墳時代まで1000年以上安定的に継続した事になる。その驚異的な継続が達成されたのは、この体制が漢代に、極めて安定的に成長し続けたからだと考えられる。しかし飛鳥時代になると、この体制の欠陥が露呈して行き詰まり、不況に陥って経済の混乱が頂点に達し、倭人政権が崩壊した。
交易活動が商品の生産に傾斜すると、倭人国に多量の商品性者が生まれ、コメの調達活動が活発になったと想定される。倭人は集団内の農民も交易活動に参加させ、絹布などの商品生産を行わせた。彼らに食料ではなく交易品を生産させた事は、彼らに鉄器、塩、皮革などの商品を潤沢に供給する責務を負うと同時に、多量の食料を周囲の農民集団から調達する必要が生まれた。銅鐸は紀元前2世紀から2世紀の約400年間に亘って、製作使用された事が発掘から判明している。特に中国大陸を商圏とする西日本で、その傾向が顕著になったのは、農民集団に銅鐸や銅剣を作る習俗を推奨し、蓄積していた銅を放出してコメに変えたからである可能性が高い。銅鐸はAD1世紀から巨大化するが、それは米の調達量を一層増やしたからではなく、温暖期が終了して気候が冷涼になり、コメの収穫が減少したから、農民側の交渉力が高まった結果だった疑いが濃い。倭人側の事情としては、華北からオリエント世界までが一斉に経済不振になり、交易も停滞し始めたから、交易で調達する物品の供給力が低迷し、備蓄していた銅の放出に拍車が掛かった事情も想定される。
倭人の都市国家と、倭人国を囲んでいたが倭人国に属さない農民集団は、弥生温暖期が続いて年々収穫が増加していた時期は、倭人が市場を差配する関係性の中で交易を行い、倭人が言い値で米や農産物を得ていたと想定される。従って倭人国は農民集団に干渉する必要はなく、倭人国内の農民と農民集団の農民の間に、大きな経済力格差が生まれていた可能性が高い。その様な事情を農民集団から見れば、必要最小限の物資を倭人から得る事で我慢すれば、倭人の経済的な支配から免れる事は出来たが、その生活は倭人国内の農民と比較し、明らかに貧しいものだったと想定される。その様な状況で意欲的な農民は、倭人国の農民と同じ商品作物の栽培に意欲を燃やし、より豊かになる事を目指したと考えられる。その様な状態が定常化すると、倭人国内でも農民の立場は劣化し、倭人社会内の漁民優位が確定し、生業に依存する身分格差が生まれたと想定される。倭人は元々漁民集団で、縄文時代から最も効率が高い食料生産者であり続け、食料を過度に農民に依存しなかった事も、倭人の優位性を補強したと考えられる。経済が活性化すると身分の格差意識が高まるから、この様な理由で弥生時代に、縄文時代以来の原始的な平等感が崩れ、生産者の母体になった倭人国内の栽培者の地位が、漁民と比較して劣化した疑いがある。中国の史書は倭人社会に厳しい身分格差があった事を指摘しているが、この様な事情がその背景にあった疑いがある。
この様な状態であれば、倭人が領主化しなくても食料の確保には問題がなく、交易者の経済的な地位も高まったから、倭人社会に領土欲が生まれる必然はなかったと推測される。むしろ農民集団の中に、より大きな集団化を求める動きが生まれたと思われるが、温暖期だった漢代には、農業技術が進化して米の生産量は増加しただろうから、農民集団間の需要獲得競争が熾烈になり、農民集団間の反目も生まれた可能性が高く、倭人の需要量が画期的に増加しない限り米は益々買い叩かれ、農民集団は豊作貧乏に苦しめられたと推測される。日本列島の農民集団間に抗争が生まれなかったのは、倭人が購入量や価格を統制しながら指導的に、農民集団間の抗争を抑圧したからだと想定される。その状態が倭人にとって、最も有利だったからだ。
商品経済化が進んだ弥生時代の日本列島では、穀物生産者が保護される事はなく、稲作民集団はひたすら米を増産する以外に、生活を改善する手段はなかったが、その様な稲作民の環境が品種や農法の改良を試みると同時に土木技術を向上させ、弥生墳墓の形成に至る技術革新を生んだと想定される。
現代の史学者は、農耕技術の発展と集住化が文明を生み出したと解釈しているが、漁民の交易体制の形成は、農耕の発展以前にも求める事ができる。縄文時代/活動期の項で指摘した矢尻産業や弓矢の交易は、成熟した組織が関与して初めて実現できるものだったと考えられ、漁民が生み出したその様な交易組織は、縄文時代にある程度の成熟性に達して事は間違いないだろう。それが漁民の組織化の原点ではなく、旧石器時代に沖縄に遊動してアサを入手していた漁民が、温暖化すると縄文人を日本列島に招聘した活動も、個々の漁民の恣意的な活動ではなかったと想定されるから、漁民の組織化は1万5千年前に遡る。但しそれは日本列島だけの話ではなく、地中海沿岸でもその様な事態が起こったから、東地中海に古代文明が発生したと想定され、北大西洋沿岸でも同様な事態が起こったから、西欧文明が発達したと考えられる。農民帝国の価値判断による文明やバーバリズムの認識は、それらの帝国が文献を遺したから、歴史家がその文献を通して文明を評価する過程で、進化の定義も生まれているが、歴史家が文献至上主義から脱却すれば、新しい観点が生まれるのではなかと考えられる。
漢帝国滅亡後の中国では、北方の遊牧民の征服王朝が繰り返されたが、遊牧民に統治技量がなければ帝国を維持できなかったから、異民族支配と言うハンディキャップも考慮すれば、遊牧民の方が高い統治文化を持っていたと言えるだろう。現代史家は文献志向が異常に高く、漢民族が統治思想を著述すれば、それに関する論評を盛んにするが、実際の統治に当たってそれが無力だったから、遊牧民の統治文化に圧倒されたと考えるべきではなかろうか。唯一の中華民族帝国だった明が、統治に優れていたわけでもなかったから、再び征服王朝である清帝国が形成されたと考えられ、その点から考えれば、中華文明が提起する統治思想は、実践性の観点では合格点に至っていない事になる。
倭人は常に新しい商品を生み出し、それによって海外交易を活性化し続け、その種が尽きた時に倭人政権が倒れ、大和政権が生まれた。農民政権だった大和政権は、領土認識や徴税意欲を強く持ち、中華に倣って歴史を重視する思想を持ったから、現代人は奈良時代以降の歴史を知る事になったが、交易の活性化が最大の命題だった倭人政権には、領土的な野心を顧みる余裕はなく、歴史が権力を作るという意識もなかったから、伝承記録はあってもそれを安易に放棄し、今日に至ったと想定される。
北九州の発展
宝貝交易を行っていた周代までの倭人は、日本列島から沖縄を経由して江南に出向くか、沖縄で宝貝を積んで九州西岸から黄海に抜けていたから、北九州は交易の主要航路から外れた、ローカルな倭人の集積地だった。北九州は関東や大阪湾岸に比べて人口も少なかったから、目立たない存在だったと推測される。
しかし春秋戦国期になると、黄河流域でも雑穀の生産性が向上し、燕、斉、趙、晋が台頭したから、北九州の倭人が渤海湾に向かう機会が生まれたと想定される。しかし燕が朝鮮半島を南下する勢いを示すと、その防衛が重い負担になり、交易どころではなかったかもしれない。漢代になっても、武帝が朝鮮半島北部に侵攻して4郡を設置するなど、漢民族の南下圧力は止まなかった。
この頃弁韓人の製鉄が始まり、鉄器を半島南部の韓族や濊族に配布する事により、彼らの人口を増やして漢民族の南下を阻止したと考えられる。温暖期が終わって華北経済が減速し始めた漢代末期〜後漢代に、北九州も交易に専念する余裕が生まれ、伊都国や奴国が経済力を向上させたと考えられる。
東南アジの海洋民族や倭人は、大きな墓を作って豪華な工芸品を副葬する習俗はなかったが、急に豊かになった伊都国の王や巫女は、華北的な大型墳墓を作って貴重品を副葬し始めた。倭の文化に墓を作って埋葬する習俗が皆無だったわけではないが、派手な墓葬が注目されたのは、漢民族の南下を阻止するために半島に出向いて犠牲になった武人の亡骸を、日本に持ち帰って葬る事が盛んに行われるようになった事を契機に、九州で大型の墓が作られる様になり、それに影響された九州以外の各地域にも、独特の墓制が生まれたと想定される。
漢末に中華に動乱が発生し、漢民族の組織的な南下圧力が弱まると、北九州でも交易に関心が高まり、大阪湾岸や関東の倭人の様に活発に海外交易を行いたいという希望が、高まったと推測される。後漢が成立すると直ぐに、奴国の使者が朝貢した事は、北九の倭人のその様な期待の高まりを示していると考えられる。しかしそれを知った倭国王は、中華の王朝に朝貢した奴国王を咎めたから、金印が秘匿されたような形で発見されたと推測される。奴国王の後漢への朝貢は、倭の交易秩序を乱すものだった事は明らかだ。
奴国の使者が後漢王朝に、「奴国は倭の最南端にある」と言った事は、地理的には事実だった。しかし邪馬台国に来た魏の使者の認識である、北九州は倭人の島の最北端にあり、邪馬台国は会稽の沖にあるとする地理観とは全く異なる。倭人が中国人を誘導し、誤認させていた魏の使者の地理観は、倭人の島の安全保障に関わる重大事であり、その様な中国人の認識の起源は、山海経に記された「蓋国(山東半島の国)は鉅燕の南、倭の北にある」に遡るから、北九州の倭人が春秋戦国時代から交易を行っていたのであれば、或いは前漢代に交易を行っていれば、この様な倭の統一方針に従っていただろう。
そもそもこの方針は、朝鮮半島が漢民族に蹂躙されるようになれば、次は日本列島が危ないという危機意識の中から生まれた方針だから、本来北九州の倭人は、その方針に最も忠実でなければならない人達だったが、その奴国の使者が後漢王朝に「奴国は倭の最南端にある」と言った事は、倭人としての交易ルールを全く知らない人達だった事になる。前漢代まで大率の指揮下で、朝鮮半島の前線で戦う事だけに傾注してきた北九州の倭人達にとって、この後漢への朝貢は、本格的な交易活動へのデビューだった事を示している。後漢代の北九州に、華麗な副葬品を伴う墳墓が出現するから、北九州の倭人諸国はこの時期に、束の間の経済的な繁栄を謳歌する事ができた様だ。
倭の土器
土器については、日本列島の特殊性を考慮すべきだろう。倭人は職人を多数抱え、色々な奢侈品を商品化したが、土器の焼成技術は一貫して未熟な状態で、その状況は縄文時代から継続していた。倭人社会では土器は女性が作るものと決っていたから、職人の仕事にならなかったからだと想定される。縄文時代中期の東日本で、縄文土器は際立った造形美を作り上げたが、その様に関心が高かった筈の土器製作に対し、弥生時代になってもロクロを導入しなかっただけでなく、焼成でも野焼きを続けて焼成炉を用いず、中国だけでなく朝鮮半島よりも、技術的に稚拙な状態が続いていた事は、その想定を確かなものにする。しかしその事と、倭人文化全般を混同してはならない。
精巧で美しい陶器を使う事は、生活を奢侈化する最もベージックな行為だが、倭人も東鯷人もそれには興味を持たなかった。これは当時の日本列島での、女性の地位の高さを示すと同時に、倭人が質素を尊ぶ老子思想の信徒だったからだと考えられる。奢侈より女性との人間関係を、より重視した事になる。現代の金満家の中にも、一流の料理人が作る豪華な料理より、奥さんや母親が作る家庭料理を食べる事に、より幸福感を抱く人がいるが、それと同じ感性だったとも考えられるが、実はそれは綺麗事で、実際は女性の地位が高い故に、生活に関して男性が文句を言えない恐妻文化だった可能性も高い。
西日本に松鞠里式と呼ばれる韓族特有の竪穴式住居が散在し、そこから朝鮮半島特有の土器が出土する。未開人に見えた韓族も進んだ土器を使っている実例を、倭人の女性達も見た筈だが、それでも結果は変わらなかった様だ。魏志倭人伝に、「食飲には竹や木の高坏を使い、手で食べる。」と記されているから、食器には漆塗りの高坏や竹のカップを使い、土器を使っていたのではなさそうだ。
6、米食の普及と人口の増加
弥生時代に稲作やアワの焼畑農耕が盛んになり、特にコメは有力な商品になったから、多数の農民が商品経済に参加する事になり、農民人口が増加したと想定される。弥生時代に農民人口が漁民人口を上回ったから、倭人も彼らの存在を無視する事ができなくなり、弥生古墳や本格的な古墳時代の古墳が、農民の技術である土木工事によって作られたと想定される。
現代日本人に最も多いY遺伝子は、漁民出自のD2だから、農民人口が増えた弥生時代に人種的な混合が進み、縄文以来の漁民と農民の人種関係は崩れた事になる。言い換えれば、漁労から栽培に転じた人が多かった事になる。その端緒は養蚕などの外来種の商品栽培に、従事する倭人が増えたからである可能性が高い。縄文時代の人口は漁民:縄文人=6:4として、総人口100万人と見積もったが、弥生時代に漁民から農民への転向者が多数生まれ、農民と漁民の人口比は逆転したと推測され、転向者の多くは換金性の農産物の栽培者として、コメ以外の栽培から入ったかもしれないが、農作業を行えば、自分の消費分のコメや野菜を作りたくなるのは人情だから、その様な形で倭人国内の農民が増えると同時に、換金作物であるコメを生産していた農民集団も経済力を付け、市場経済に参加しながら人口を増大させたと想定される。
5世紀の倭国王「武」が、南朝の皇帝に100万の軍隊を動員できると豪語した事から、支配下の壮丁の数を200万とし、その半分を出征させることができると考え、1戸5人で計算すると、1000万人の人口が算出される。縄文時代/活動期の項で、縄文時代の人口は控えめに計算して100万人で、実際は200万人程度だったと考えられる事を指標に、弥生時代以降の人口増加を概算する事に意味があるだろう。
日本の農民は営々と米の生産量を増やし続け、米食率を高めてきた筈だから、人々の行為としての連続性があった事を頼りに、後世のデータから各時代の生産高を概算する事が、この計算の第一の要になる。
太閤検地によると、16世紀の日本全国の石高は1850万石で、コメの生産は江戸時代300年間に1.8倍に増えた。江戸時代は寒冷期に向かっていた時期だから、温暖化によってコメの生産高が異常に増加する様な、データの攪乱はなかった事が期待出来るだろう。1石は米を主食にする人間が、1年間に食べる量である。
300年間にコメの生産量が1.8倍になったという法則だけで、過去に遡り、各時代の米食依存率をフィッティングパラメータとし、整合性をチューニングしながら日本列島の人口を推定する。この様な不確かな概算の場合、計算が簡略である方が、事実に近い事が多いからだ。太閤検地があった16世紀の、日本全体の米食依存率を60%とし、300年遡る毎に米食依存率が74%低下したと仮定すると、言い換えれば人口が増えながらも300年で、個人の食料事情が平均35%改善される状態が継続したとすると、奈良時代の石高は385万石だった事になり、人口と石高に、実態に近い感触が生まれる。
徳川政権は百姓に対し、コメを食わずに年貢として納め、百姓は雑穀を食べろとお触れを出している事と、昭和の初めまで山間地で焼畑農耕を行い、雑穀を主食にしていた人が相当数いた事が、16世紀に71%だったと想定する根拠になるが、庶民の食生活はもう少し低かったと想定する場合は、コメが酒や味噌などにも使われた事になる。日本列島全体としては時代が遡る程米食依存率は低下し、雑穀比率や海産物依存率が高かった事は間違いない。
日本列島は弥生時代に稲作列島になったが、縄文晩期は堅果類も残る雑穀列島だったと想定される。縄文晩期寒冷期には、栽培の生産性が低下したから、縄文後期の200万人台から人口が減少した可能性があるが、それが事実だったのかの判断はここでは行わず、控えめな数値とするべくコメ依存率の低下率を設定した。江戸時代は寒冷期に向かっていた時代だから、寒冷期モデルとして計算される事になり、その点でも控えめの数値になる事が期待される。
縄文時代は海産物が主要な食料で、農産物は補助的な食料だったと考えられるので、人口推定の計算では14世紀以前を除外したが、コメの増産努力の結果としての生産高の増加傾向には、継続性があったと判断し、稲作が始まった縄文前期(6000年前)まで遡らせた。
太閤検地の石高は実際の収穫量ではなく、年貢の基礎資料として各種の控除があったとされているから、実際の米の生産量はもう少し多かったと推測される。
基礎データは単純だが、実態に近い状況を表している様に見える。日本列島は細長く、地域毎に異なった自然環境があり、生業も漁労と栽培という多様性があった上に、栽培者と漁民は運命共同体として食料を補完し合ったから、自然環境の変化に柔軟に適応する事が可能になり、人口の急変はなかったと考えられる。従って農民や漁民が地道に生産技術を改良していく中で、徐々に人口が増加していったと考えるべきであり、日本列島の人口は、単純な傾向計算によって推定できると考えられる。
BC5世紀以前の主栽培品は、温帯ジャポニカではなく熱帯ジャポニカだったが、急に切り替わったのではないから、無視して法則を拡大した。それによって縄文前期(BC41世紀)の稲作導入時まで、実態を再現している様に見えるのは驚きだ。
魏志倭人伝が対象としたAD2世紀の、米の生産量は120万石で、人口が700万ほどだったと推定されるから、農民と漁民の数が半々だったのであれば、漁民や倭人は必要カロリーの3割弱を、農民は必要カロリーの1割未満を米に依存した事になる。殆どの農民の食料は、アワなどの雑穀が主体で、換金作物としてコメを生産していた事になるが、それが実態だったのではなかろうか。但しこれは日本全体の平均だから、西日本ではこれより高く、東日本では低かったと想定される。
地域政権の規模
上の表で、弥生温暖期は人口が300万人から始まって700万人に増加したと推測した。その半数が交易には関わらない農民国の人口だったとすると、魏志倭人伝に記された、弥生時代末期の倭人人口は350万人で、日本列島には120余の交易国があったから、倭人国の平均人口は3万人=6千戸だった事になる。
魏志倭人伝は対馬千余戸、壱岐3千余戸、末盧国4千余戸、伊都国千余戸、奴国2万余戸、不弥国千余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸と記している。他の22国の平均が6千戸だったとすると、邪馬台国連合30国の合計戸数は28万戸、人口140万人だった事になる。
漢代の楽浪郡の人口は6万3千戸、玄兎郡は4万5千戸、魏代の馬韓の人口は10余万戸だから、半島全体では25万戸ほどだったと推定され、食物に占める海産物比率が高かった日本の、より温暖で植生が豊かだった西日本で、倭人国の数は半分だが、主要な沖積平野をすべて含んでいた邪馬台国連合の人口として、28万戸は妥当な数値と言えるだろう。
 
倭国の転換期 

 

1、寒冷化によって華北の農耕が不振になり、華北経済が衰退した。
1−1 中国全体の動向
温暖期だった漢代は、中華の経済は華北を中心に回転したが、BC1世紀末に温暖期が終了すると華北の農耕は不振になり、華北経済は衰退に向かった。過去に何度も繰り返された気候循環の一つの局面だったが、中国全土が中華王朝に統一されてから初の寒冷化だった。
下図の漢代の都市の配置を見ると、主要都市は黄河流域とそれ以北に集中していた事が分かる。漢王朝は雑穀民の王朝であり、温暖期の華北平原の雑穀栽培は内モンゴルまで拡大し、相対的に高い生産性が得られたのは、アワやキビなどの穀類は、その北限に近い地域が栽培適地だったからだ。高緯度地域の方が雑草の被害が少なく、天水農耕でも畠が乾燥しにくかった事がその主要因になる。この時代は温暖期になっても、大陸内部は現在より湿潤だった。
稲作地だった揚子江流域に都市が少ないのは、そこは征服された稲作民の地域であり、稲作民は漢民族の圧迫を受けていたからだと考えられるが、戦国時代の製鉄ブームによって樹林が消滅し、ヒートアイランド現象が加速され、温暖期の揚子江流域は炎熱地獄になった事も、大きな要因だった可能性がある。司馬遷は揚子江流域を旅行した見分として、「食料は豊かだが熱暑による人の寿命への影響が深刻だ」と記している。東シナ海沿岸部に都市が少ないのも、征服された稲作民地域であるという、政治的な要因だったと考えられる。
後漢、三国、晋へと時代が進むに従い、華北と華中は寒冷化の影響が深刻になり、急激に農業生産力を落としていった。農業生産の衰退には順序があり、渤海湾沿岸の稲作と内モンゴルの雑穀栽培が真っ先に生産不振に陥り、その後黄河や淮河の流域の雑穀も減収に見舞われた。揚子江や漢水の流域は暫く稲作適地であり続け、むしろ夏の炎熱が和らいだから、都市は徐々に南下していった。華北政権は晋まで続いたが、最後の華北の漢民族政権としてAD317年に晋が崩壊した頃には、華北の農耕は惨憺たる状態だったと想定される。
都市が南下したのは漢民族が南に移動したからであって、稲作民の優位が復活したからではなかった。むしろ稲作民への迫害は継続・強化され、漢民族の南下に伴って、集団移住を迫られる状況だった可能性が高い。その様な人々が、貴州や雲南の山岳地に逃れ、山間の少数民族になったのではなかろうか。三国時代に揚子江流域に樹立された呉は、漢民族の政権だったから、稲作民が漢民族に支配される構図は、弥生時代末期まで崩れなかった。従って倭人は、三国時代の呉に朝貢しなかった。
1−2 渤海湾沿岸(青州、幽州、兗州)の稲作が壊滅した。
温暖期が終わると、真っ先に高緯度地域の稲作が崩壊した。青州、兗州、幽州は稲作も行われていたが、他の穀物も栽培していた。青州や兗州では商工業が発展し、貨幣経済が浸透していたから、換金性が高い米の生産に傾斜していたと想定される。従って温暖期が終わって寒冷化の兆しが見えると、青州や兗州は真っ先に社会不安が深刻になったが、漢帝国が戸籍を定めて領土と人民を固定していたから、稲作民は夏代の様に南に移動する事ができなかった。
農民が作付けを米から雑穀に転換しても、カロリー換算で同程度の収穫にはならなかったから、農民の現金収入が激減しただけでなく、都市住民の穀物確保が困難になり、経済の沈滞が一気に社会不安の発生に突き進んだ可能性が高い。
漢王朝内の権力闘争が熾烈になり、王莽がAD8年に漢を簒奪したのは、農業不振に起因する社会不安が、政変の根底にあったかもしれない。山東の琅邪郡でAD14年に赤眉の乱が発生した事は、この時期に農業不振が顕在化した北限の稲作だったからではなかろうか。王莽政権が赤眉の乱の鎮圧に失敗すると、動乱が各地に波及して王莽政権は瓦解した。中国の史書は人物史に偏っているから、この様な事は記されていないが、それは中国の史書の限界を示していると考えるべきだろう。
AD1世紀の中国社会の混乱は、寒冷化による華北経済大崩壊の序章に過ぎなかったが、後漢を興した光武帝が、赤眉の乱を端緒とした動乱を制して後漢王朝を形成した。光武帝が漢水流域(荊州)出身だった事は、彼の一族の経済力が背景にあった事を示唆する。華北の多くの地域が寒冷化による農耕不振に苦しむ中で、漢水流域は適度の寒冷化によって稲作適地になった可能性が高いからだ。温暖期の内陸は、人の居住に適さないほどに暑かったが、それが和らいだからだ。漢代の地図には漢水流域に都市はないが、晋代には幾つかの都市が生まれていた事を、上の二つの地図から読み取る事ができる。
後漢の成立によって社会的混乱は収まったが、寒冷化は容赦なく進展し、華北だけでなく華中でも農耕が不振になり、後漢は徐々に衰退した。その中で政治的な抗争や葛藤があったが、その事にどの程度の歴史的な重要性があったのか疑問だ。結局後漢は衰退し、魏、呉、蜀に分裂して三国時代が始まった。その後華北を支配した魏が晋に簒奪され、晋が中国を再統一したが、華北の農業不振による過疎化が進展し続け、晋は317年に崩壊した。
2、日本では寒冷化しても稲作が中国ほど南下後退せず、土木技術が発展した
2−1 日本独特の耐寒品種と耐寒農法の誕生
東シナ海の北部沿岸では稲作が崩壊したが、日本列島では品種改良や技術の進展があり、寒冷期に入っても稲作の北限は、関東以北に留まっていた。
その理由は序論で説明し、各時代の項でも説明したが、その要点は以下になる。
縄文前期と中期の日本列島に、揚子江下流域で粤が栽培していた熱帯ジャポニカが導入された。この熱帯ジャポニカは、縄文中期と晩期の2度の寒冷期に、日本列島の稲作民によって品種の耐寒性向上と稲作技術の改良が施され、弥生温暖期に青森で栽培できるほどに、耐寒性が向上した。
中国では縄文後期温暖期に、荊が湖北省で栽培していた温帯ジャポニカが華北南部に北上し、中国の耐寒品種は温帯ジャポニカになった。この温帯ジャポニカが日本列島に導入され、西日本の沖積地で栽培された。古墳寒冷期に中国の稲作は揚子江以南に後退したが、日本では栽培が継続され、温帯ジャポニカの耐寒品種になったと想定されるが、具体的な証拠はない。
弥生温暖期に、中国の温帯ジャポニカは再び東シナ海沿岸を北上し、山東省まで稲作地になった。日本では関東地方が同緯度になる。このイネも日本列島に導入され、弥生時代の主要な栽培稲になった。弥生温暖期が終わって寒冷化し始めると山東省と江蘇省の稲作が壊滅し、中国の稲作は揚子江以南に後退し、揚子江以南の内陸の人口は増えた。
揚子江以南のこれらの地域の緯度は、日本で言えば種子島以南になるから、中国の温帯ジャポニカをそのまま日本で栽培していたのであれば、日本列島の稲作も壊滅した筈だ。しかし現実には古墳寒冷期の日本列島では、北関東まで稲作地になって高崎近辺に巨大古墳が多数造営された。
日本と中国でこの様な違いが生まれた理由を、農学者の佐藤洋一郎氏は次の様に説明している。
温帯ジャポニカは短日性が強いので、秋分を過ぎてから開花する。開花後に40日間の結実期が必要だから、その期間も温暖でなければ豊かな収穫は得られない。10月には冷涼になってしまう地域で稲作するには、開花時期を早める必要がある。熱帯ジャポニカは短日性が弱く、播種時期を早めれば開花時期も早くなる。日本列島では、熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカを同じ田で混合栽培する事が広く行われたので、イネは自家受粉が一般的だが、一部の花粉が他家受粉されて交配が起き、短日性が弱い温帯ジャポニカが生まれた。
以上が佐藤氏の説明で、極めて説得力が強いから、縄文稲作として熱帯ジャポニカ栽培されていた事は否定できない。つまり弥生時代に、水田稲作と共に日本列島に稲作が導入されたという事は、あり得ないという事だ。縄文時代の水田が発見されていないから、縄文時代の熱帯ジャポニカは、陸稲として焼畑農耕で栽培されていたと考えられている。
以上は縄文時代に熱帯ジャポニカ栽培されていた事を、理論的に証明する論拠であるが、縄文時代に温帯ジャポニカが栽培されていたのか否かについて考えると、縄文後期温暖期に華北で栽培されていたのだから、それが日本列島に導入されていた事も、論証できないのかという疑問が生まれる。
弥生時代に田植えを行っていた事が、その証拠になると考えられる。田植えは水田で行う行為で、陸稲では実施できない。日本列島で田植えが始まったのは、開花時期を早めるための、早春の播種を実現する技術だったと考えられる。苗代はそのための古代の温室で、苗代を作る技術が完成すれば、播種できる気温になった晩春に田植えができるから、イネの育成期間を維持する技術だったという事だ。
弥生温暖期の西日本で田植えが行われたが、それは耐寒技術なのだから、縄文晩期寒冷期に起源があった事を示唆する。弥生温暖期の西日本の、温帯ジャポニカ栽培者の立場として、導入元の中国では、より冷涼な地域である渤海湾の南岸でも稲作を行っていたのに、その地の稲作者が行っていなかった耐寒技術である田植えを、自発的に生み出したと考えるのには無理がある。
しかし縄文後期に、温帯ジャポニカの栽培を行っていた稲作者が、晩期寒冷期になってもその稲作を継続したいと望んだ際に、中国では同緯度の稲作モデルがなくなっていたから、我流で打開策を見出すしかないと考えたとしても不思議ではない。つまり縄文晩期に温帯ジャポニカの水田栽培と田植えが行われていなければ、弥生温暖期の西日本の稲作者が、田植えを行う事はなかった筈だという事だ。縄文晩期寒冷期に温帯ジャポニカが導入された筈はないから、縄文後期温暖期に水田稲作手法と共に温帯ジャポニカが導入された事が論証できる。但しこの時期の水田には、畔はなかったと考えられる。周礼に記されている様に、水溜りに土手を回らしただけの水田だったと想定され、それが縄文後期に生まれ始めた沖積平野に形成されたとすれば、土堀具としての打製石器しか発見できないとする、考古学的な発掘実績とも合致する。
畔を持つ水田の発生は、鉄器時代が到来した事を示すのであって、農業技術論としての水田稲作の開始とは、全く関係がないと考えられる。
耐寒農法を工夫していた縄文晩期寒冷期には、生産性は極めて低い状態だったと想定される。収穫したコメで家族を養う稲作民から見れば、到底収支に合わない収穫しか得られず、稲作民は手掛けない技術革新を試みていた可能性が高い。豊かな海産物の生産者だった海洋民族が、技術革新的な稲作ができる価格を設定してくれれば、その様なチャレンジ精神が旺盛な稲作者も、温帯ジャポニカの栽培者を試行錯誤的に続ける事ができただろう。端的に言えば、交換経済が発達していた日本列島では、コメの食味が良ければ高値で取引され、低い生産性であっても高品質なコメを生産するのであれば、技術革新に挑戦する事ができた。現代的に言い換えれば、魚沼産のコシヒカリが高値で流通する程度に、交換経済が発展していた。
縄文晩期寒冷期に高値で取引された温帯ジャポニカが、弥生温暖期に大増産されて市場に出回っていたが、弥生時代末期に寒冷化すると、生産量を維持するための技術開発が必要になった。この様な稲作の技術開発は、輸出商品の栽培に忙しかった倭人国ではなく、倭人国を取り巻いていた農民集団によって行われた可能性が高い。飛鳥時代末期に倭人政権を倒した革命勢力は、この様な農民集団と、外需から内需に転向した商工集団の物部が、中核勢力を形成していたと考えられるからだ。
2−2 弥生墳墓の出現は、土木工事が盛んに行われた証拠
弥生時代末期に、墳丘墓を作る風習が西日本に広がった。使われた土木技術は、墓を作るために発展したのではなく、墓の規模に比例した、農業土木技術の進化があったと考えるべきだろう。水田灌漑用の土木工事は河川の流域で実施した筈だから、その成果として形成されたものは、後世洪水で流されたり新しい土木工事によって破壊されたりして、痕跡は残っていないだろう。しかし墳墓は、水田にするには相応しくない場所に作ったから、河川に浸食されずに現在まで残っていると考えるべきだ。墓を作る何十倍もの労力が、灌漑工事に投じられ、大規模水田が開設されたと推測される。弥生墳墓はその観点で見るべきだろう。気候の寒冷化によって反収が減少すると、農民集団は換金収入を確保するためにその様な土木工事を積極的に行い、増収を図ったと想定される。一般的な人間の心理として、状況が継続的な場合には革新的な事は行わないが、現状維持が困難な状況に追い込まれると、衰退を打破するために結束せざるを得なくなる。個人的な開墾は継続的に行われていたと考えられ、寒冷化によるコメの減収を補う個人的な営みとして、品種改良や農業技術の改良を行っていたと考えられるが、大規模な土木工事のために集団が結束するには、特別な契機が必要になった筈だから、それが弥生温暖期の終了に伴う寒冷化だったと想定される。
弥生前期末に、1辺数十メートルの方形周溝墓が出現した。この程度の規模の墳墓であれば、大家族のパワーを結集すれば築造可能だったと推測される。弥生末期の岡山県楯築では、径43m、高さ4.5mの円形墳墓が作られ、島根県西谷では、基底部が40mx30m、高さ4.5mの墳丘墓が作られた。この段階になると、政治的な結束力を備えた集団が形成したと想定される。
土木工事に関する技術につい考えると、倭人が技術導入した相手は稲作民だけでなく、東南アジアの海洋民から導入した可能性も検討する必要があり、彼らは海を通して古代インドや古代オリエントと繋がっていたから、そちらからの導入も考える必要がある。特に稲作民政権が失われた漢代以降の華南では、政権が主導する灌漑目的の、大規模土木工事は行われなかったと想定されるから、漢末の日本列島に土木技術が移入されたとすれば、東南アジアの技術だった可能性が高い。漢書、魏志倭人伝、後漢書が、倭人は東南アジアの海洋民族と文化を共有していると指摘したのだから、土木技術も漢民族からではなく、東南アジアから導入したと考える事が順当だろう。魏志倭人伝を読めば明らかだが、魏とは技術導入を行う様な関係ではなかった。後漢書を読んでも、後漢王朝から技術導入する様な関係ではなかった事は明らかだ。
東南アジアに高い土木技術があった証拠になる建造物は、弥生時代末期から600年後のものになるが、ジャワ島で建設されたボロブドゥール遺跡の石材加工技術に、同時代の日本より先進性が感じられる。石材を多用する土木技術に関しては、東南アジアの海洋民族の技量が一貫して、倭人の技量より優っていた可能性が高い。木材資源が豊富な東南アジアの民族が、木造ではなく石材で建築した理由は、オリエントの影響だったと想定されるからだ。降雨量が異常に多い東南アジアで、レンガの建造物を造る事は難しかったと考えられるが、それでもオリエント的な素材の建造物を造営したのは、それに高い価値を見出していたからだと想定され、石材加工技術や土木技術も、オリエントとの交易が盛んだったBC5〜1世紀頃に導入したと想定される。
全くの同時代である8世紀に、日本では奈良朝が形成された。彼らの方が3世紀程先行し、統一王朝の形成に進んだが、ボロブドゥールを造営したシャイレーンドラ朝は7世紀頃に興ったから、日本で倭人政権が倒れた時期と全くの同時代になる。倭と東南アジアの海洋民に代わり、大規模な建造物を造営する中央集権的な政権がうまれ、海洋民族政権が最終的に壊滅したのが同時期だったのは、偶然の一致ではなく、古代交易が地域経済を支える事ができなくなったという、両者に共通した要因があったと考えられ、その検証は飛鳥時代の項で行うが、8世紀の東南アジアで石材を多用した建築が行われ、8世紀の日本で木材と銅を多用した建築が行われたのは、それが両者の得意技術だったからだと想定され、その両者の技術の基礎は鉄器時代になってから形成されたが、古墳時代ではなく弥生時代の事だったと考えられる。両者の技術レベルは高く、一朝一夕に形成されたものではないからだ。
しかし弥生時代末期に突然大きな墳丘墓が作られ、古墳時代の巨大古墳に繋がって行く流れが生まれた。巨大な墓を作って墓に豪華な副葬品を収める習俗は、北九州から拡散したと考えら、北九州の繁栄の背景には、後漢帝国の繁栄による北九州の好況があったが、吉備と出雲の古墳の巨大化には、それとは異なる経済的な活況があったと考えられる。その理由は、その最も大型の古墳である吉備の楯築墳丘墓は2世紀後半-3世紀前半の築造で、出雲の西谷墳墓群は2世紀末〜3世紀の築造だから、この時期は後漢王朝の滅亡から3極時代の変遷期になり、中華王朝の衰退期により大きな古墳が築造された事は説明できないからだ。
それらの古墳の巨大化は、次の古墳時代の大型古墳の造営に繋がり、古墳時代の古墳築造の原資は、寒冷化した華北から華南に、多数の人民を移住させる事から得た財貨だったと考えられるからだ。従って墓の規模と文化や経済的な繁栄の高低に、直接の相関はないと推測され、北九州で生まれた墳墓を作る習俗が、どの様に西に拡散したのか考察しながら、土木技術の進化と移民事業の発展の軌跡として、検討するべきだろう。後漢書に依れば、AD107年に倭国王が生口160人を献上し、皇帝との謁見を求めた。魏志倭人伝は日本列島起源の従属民を奴婢と呼んでいるから、時代的な背景から考えれば生口は、華北で貧窮していた民衆を買い集め、華南の豪農や有力者に販売した商品を指したと考えられる。当時の倭の最大の収益源だったから、倭国王はその中から美青年・美少女を選んで皇帝に献上したと考えられ、この頃の華北は域内で困窮者を売買し、人口の平準化を図る段階だった事を示唆する。寒冷化は進んでいたが、王朝が戸籍を管理していては集団移住が出来なかったから、過剰人口を平準化するためには、人身売買しか手段がない時期だった。
古墳時代の古墳大型化は、晋王朝が滅亡した頃(AD3世紀初頭)から盛んに進展し、動乱の250年間を経て華北に北魏が成立するAD5世紀中頃まで、大型化が進んだが、それ以降急激に小型化する。この際立った同期は、古墳造営の原資は何だったのか明示している。
2−3 関東の倭人が農業に傾斜し始めた
倭人の中心地だった関東は、耐寒改良した稲作が可能な地域でありながら、広大な未墾地があった。厳密に言えば、個人で開墾できる場所は既に農地化していたが、政権が介入して大規模な土木工事を行えば、膨大な水田を形成できる状態だった。関東に限らず倭人の首長達の多くは、交易が不振になると米作りに転向し始め、交易者と領主の2面性を持ち始めたと想定される。古墳時代の関東で大型古墳が多数造られたが、関東には目立った産業が発展した形跡がない上に、大型の古墳は海岸ではなく内陸の稲作地に多数作られた事から、古墳時代の関東が穀倉地帯になったと考えられるからだ。弥生時代末期に関東の倭人の無視できない割合が、海外交易を捨てて稲作地の開拓に向かったと考えられ、稲作の北限に近かった関東で稲作が盛んになったのは、その様な倭人達が組織的に土木工事を行ったからだと推測される。反当りの減収を農地の拡大で補う発想は、広大な未墾地を有していた関東に相応しい、商品経済規模拡大策だった。
関東の倭人は稲作地を拡大するために、華北で救貧状態にあった農民を、生口として多数受け入れたと推測される。それに関する記録はないが、華北からの移民と考えられるY遺伝子Y-O3a2c1が、現代の関東の人々の10%以上を占めている事が、その証拠になるだろう。但し関西ではその割合が15%以上あるから、人口に占める移民の割合は、関西の方が多い事になる。古墳時代前期の倭国王は、関西出自の邪馬台系だったから、関西での移民割合が高い事に不思議はないが、関西に移民したY-O3a2c1は各種の技能集団を含み、華北の豪族だった者の一族も含んでいたと推測されるから、稲作地の開墾労働や稲作労務を提供した農業移民は、関東の方が多かったと考えられる。古墳時代の人口統計は分からないが、慶長3年の石高分布では、関東・東海合計の石高は畿内の3倍もあったから、比率ではなく実数から考えれば、関東が最大の農耕移民の受け入れ地だった可能性が高い。
魏志倭人伝に、「女王国の東、海を渡って千余里(400〜500km)、また国あり。皆倭の種なり。」と記されている。卑弥呼と争った狗奴国(奈良盆地)とは別に、倭人の集積地が邪馬台国(神戸)の東500qにあったのであれば、それは倭国王が居た関東だった事になる。群馬や栃木が毛の国と言われたのは、毛=食(共に乙類の借訓として「け」と読む)の国だったと推測する人が居る。それは関東が米所だった事の傍証になると同時に、飛鳥時代末期の革命による倭人政権の滅亡まで、倭人の歴史が合理的に解釈できるから、上記の弥生時代末期の関東事情の推測は、確度が高い。
3、後漢書に記された弥生時代末期の倭
南朝宋の官僚だった范曄が、後漢書倭国伝を著述した最大の目的は、宋に朝貢した倭人から得た知己を基に、魏志倭人伝を訂正する事だったと考えられ、それに伴う情報として、倭に関する後漢代の記録も掲載した。弥生時代末期の倭の習俗は魏志倭人伝を中心に解説し、後漢書が訂正した部分を併せて解釈し、より事情を明らかにする事とし、ここでは後漢朝の記録を抜粋した部分から、弥生時代末期の倭の状態を再現する。
建武中元二年(AD57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てする。
光武帝は後漢を建国して洛陽を都とし、AD30年に山東を、AD36年に蜀を征服して中国全土を平定すると、AD39年に戸籍調査を行い、AD40年に漢代に行われていた五銖銭の鋳造を復活した。始奴国がAD57年に朝貢したのは、後漢王朝を顧客に加えて交易量を増加させようとした事になる。しかし奴国の朝貢は、漢王朝に朝貢しなかった倭の掟破りになった。後漢の光武帝は機敏に奴国王に金印を与え、冊封国として後漢王朝の支配を押し付けてしまったからだ。金印には「漢委奴國王」と刻印されていたから、「漢王朝の冊封国である倭の奴国の王」と解釈される。金印は後日製作し、数年後に訪れた使者に渡されたのかもしれないが、受け取った使者は困惑したと推測される。倭の交易ルールを良く知らなかった倭国王であったとしても、自分が漢王朝の冊封国の王になる事など、許される事ではない事は分かっただろう。それ故に光武帝から貰った金印を土中に隠したから、後世になって発掘される事になったと想定される。この様に交易の仕方が稚拙だった奴国の使者は、倭が戦国時代から行って来た対漢民族政策を知らずに、奴国は倭国の極南界なりと教えてしまった。倭の対漢民族政策では、倭人の島は福建省の沖にあって朝鮮半島から離れているから、海洋航海術が稚拙な中国人は、朝鮮半島から倭人の島に渡る事はできないと宣伝する事だったから、その地理観と奴国の使者が言った地理観は、あまりに懸け離れているものだった。奴国の使者が他にどの様な地理観を説明したのか分からないが、漢書はその15年以上後に成立したから、漢書地理誌に記された「楽浪海中に倭人有。分かれて100余国を為す。」という記述は、奴国の使者の説明を参照した疑いがある。
その様な奴国の不祥事が発覚すると、奴国王は倭国王や諸王に譴責されたと推測される。しかし北九州の倭人達は、朝鮮半島に南下圧力を加えている漢民族に対し、防波堤となるべく体を張って防いできた人々で、奴国はその中核を担ってきたのだから、倭の衆議としては、破格の手段でこの事態を解決する事にし、倭国王自らが諸王を率いて後漢の都である洛陽を訪問し、後漢の皇帝と話を付ける事にした。倭国王が自ら大陸に赴いて、漢民族の中華王朝の皇帝と面会する事は、これが最初で最後の唯一の事例だったが、春秋戦国時代には、於越や呉に出向いてその王と面談したから、倭国王はその事例に従ったが、漢王朝との意思疎通が余りに困難だったから、以降漢民族王朝に倭国王が出向くことはなくなったと言う辺りが、実態だったと想定される。
安帝の永初元年(AD107年)倭国王帥升等、生口(奴隷)160人を献じ、請見を願う。
後漢書はこれだけ記し、その会談内容を記していないのは、後漢王朝の体面上甚だ都合が悪い内容だったからだと推測される。倭国王は対等な国際関係の在り方を知っていたが、後漢朝は中華の稲作民社会しか知らなかったから、後漢が天下を支配していると考える無知をさらけ出したと、後漢書の著者の范曄は判断したと推測される。倭国王は奴国が華北で交易を継続するために、後漢王朝とは穏便な関係を維持する必要があると判断したから、当時最高の財貨と考えられた生口として、160人の美少年美少女を後漢の皇帝に献上したと考えられる。
倭国王の名前である帥升には色々な解釈があるが、帥は軍隊を率いる意味で升は昇と同じだから、太陽信仰があった倭人の中で、特に旭日を信仰した集団の指導者を意味したと考えられる。古事記の天孫降臨説話で、日向の高千穂の峰は「朝日が直に刺す国」だから良い地だと、暗に東が海に面する関東を称賛している発想に通じるから、東の倭国王家の呼称を漢字化したものだったと考えられる。これにより、「倭国王」と「帥升」という肩書が、2重になっている事も説明できる。この時代から現在に至るまで倭国王や天皇には、一貫して個人を特定する名前はなかったと考えられる。
倭国王がこの時華北に出向いたのは、奴国の失策の後始末をするだけではなく、他にもっと大きな目的があった。前漢末〜後漢代になると、北九州の倭人は遼東半島南岸や渤海湾の海上で高句麗の船と遭遇し、武力抗争が始まったからだ。寒冷化が始まると華北で毛皮や皮革の需要が高まり、その供給事業に取り組み始めた高句麗が、北方の物産の供給者として倭と競合し始めたからだ。高句麗の母体である濊族は北限の農耕民族だったが、粛慎系の部族を傘下に収めて海洋国家になり、渤海湾の海洋交易に乗り出し始めていた。
新興の海上交易者になった高句麗と、倭の緊張が高まると、共存のルールが未確立の状態の渤海湾や黄海で、高句麗の船が倭船を襲撃する事態が頻発し、倭人は脅威を感じる海上勢力に初めて遭遇した事になる。中国の史書は、高句麗の異常な凶暴さについて繰り返し言及しているが、漢民族より凶暴だったとは考え難く、漢民族統治の横暴に反抗した面があった事は否めないだろう。いずれにしても、豊かさを暴力的に簒奪する事を当然と考える漢民族と、境界を接して交易を行い、財貨を蓄積する集団に成長するためには、ある程度の攻撃性を有していた事は間違いないだろう。しかし滅亡までの高句麗の歴史を俯瞰すると、武力を行使して領土的な野心を充足させる集団ではなかった。
BC1世紀末〜AD1世紀の西日本に、見晴らしの良い瀬戸内の高台に、高地性集落が突如出現した。この集落は連続的に設置され、狼煙台が設けられていたから、高句麗が海路倭に侵攻するという、杞憂が生み出した施設だった可能性が高い。北九州が高句麗に襲われた場合に大阪湾岸に急報し、援軍を迅速に北九州に派遣するための、連絡網だったのではなかろうか。現実には、高句麗の海上航行能力や戦闘能力は低く、馬韓沖に活動範囲を拡張出来るほど、強力な水上集団ではなかったと推測される。
AD107年に、倭国王は諸王を率いて後漢の洛陽に出向いた。倭国王一行の巨大な船団が、遼東半島を威嚇しながら渤海湾を示威航行したから、高句麗を大いに威圧したと想定される。それ以後は、高句麗の船が倭の船を襲撃する事はなくなったから、高地性集落もなくなったと考えると、時期が符合する。高句麗はその後も交易国家として発展したから、倭が高句麗を圧倒しても、高句麗の交易活動を自粛させたわけではなかった。日本列島にも倭以外の交易集団として、日本海沿岸の海洋民集団や、九州南部の熊襲や隼人の祖先がいたから、交易集団の国際ルールの様なものを、高句麗に要求した可能性が高い。
魏志倭人伝は、「対馬、壱岐、末盧国の交易民は合計8千戸」と記しているから、伊都国や奴国の海上交易者を併せれば、北九州全体で漁民は数万戸あったと想定され、数十戸で1隻の船を持っていたとしても、北九州だけで千隻程度の、海外交易が可能な船があった勘定になる。関東から出向いた倭国王の、AD107年の後漢朝訪問時には、想像も付かない大船団が変成されたと考えられ、高句麗はそれを見て、むしろ倭が高句麗を侵攻する事を恐れ、以降は倭の船に近付かなくなっただろう。
北九州の倭人は、その頃から吉備や大阪湾岸の倭人の、監視下に置かれた様だ。発掘された土器の分布から、それを指摘する考古学者が多数いる。北九州の倭国に、倭の交易ルールだけでなく交易全般の手法を指導したと想定され、その様な交流の中で、大型墳墓を形成する文化が西日本に広がったと考えられる。吉備に大きな弥生墳丘墓が誕生したのは、その一環だったと考えられる。
4、華北の雑穀民を、華南に移民させる事業を始めた
4−1 倭人が移民事業を始めた。
倭人は古墳時代に大型の古墳を沢山作り、朝鮮半島に出兵して高句麗と戦い、朝鮮半島の南半分を軍事的に支配した。経済的な活況が背景にあった筈だが、寒冷期の国内事情だけで、その活況が生まれたとは考えにくい。中国大陸の経済は低迷していたから、その活況は、尋常な経済活動で生み出されたのではなかった事は、容易に推測できるだろう。
中国北部の農耕が不振になると、当時最も一般的な過剰人口対策だった、人身売買が盛んになった事は証明する必要がないだろう。史書が倭人関係の記事に限って「生口」という言葉を使ったのは、倭人が使っていた言葉だからだと推測される。倭人は他所に転売する目的で、華北の余剰人口を買い取り、日本列島に従来から存在した奴婢と区別するために、生口という言葉を使ったと想定される。中華には、その様な概念がなかった事になる。権力が住民を移動させることは、単なる「移す」行為であり、人身売買は商行為だったが、取り立てて命名するべき行為ではなかった事になる。
後漢書は、「倭国王は後漢の皇帝に謁見を求めた際に、生口160人を献上した。」と記しているから、AD107年には、倭人はその商行為を活発に行っていた事になる。卑弥呼も魏の皇帝に数10人献上し、台与も30人献上したが、後漢代の倭国王に比べれば、邪馬台国が献上した生口の数は少なかった。その違いが生まれたのは、100余国を統括していた倭国王と30国を統括していた卑弥呼や台与の違いだったとすると、華北の寒冷化による余剰人口の発生は、弥生時代末期に恒常的に進行し、余剰人口の発生数は一定だったと推測される。一部の地域で戸籍管理が継続し、その他の地域でも豪族が健在であれば、余剰人口の放出には厳しい制限が掛かっていただろう。三国時代に人口が激減したと言われているが、統計外の人口も相当数あったと考えられる。
邪馬台国連合は、渤海湾沿岸で生口を調達し、水田を拡張していた大阪湾岸や関東の倭人に販売していたと推測されるが、日本列島だけでは、華北で発生した膨大な生口を受け入れる程の大きな需要はなく、倭の主要な販売先は華南だったと考えられる。しかし北九州の倭人は華北にしか商圏がなかったから、華南では生口を売る事ができず、華北経済の後退に従って、北九州の繁栄は薄れていったと考えられる。邪馬台国30国は華北に商圏を持っていたから、生口の調達は彼らの商売だった筈だが、弥生時代末期に繁栄したのは、むしろ華南以南に商圏を持っていた、大和盆地を含む日本海側の勢力だった様に見えるのは、その利益が販売者に篤かったからだと考えられる。これは生産が過剰で流通が貧弱な場合に、何時の時代にも起こる一般的な現象だから、不思議に思う必要はない。吉備が最大の弥生古墳を遺し、出雲や大和に影響力を及ぼしたのは、吉備の商圏が双方の役割を担う地域に、分散していたからだと推測される。
温暖期だった漢代の渤海湾沿岸の人口は、幽州300万人、州400万人、兗州600万人だったが、寒冷化が進んだ晋代の人口は、その1〜2割にまで落ち込んだと想定される。1300万人が300年後に300万人以下になり、1000万人を流出か飢餓で減らした事になるが、これは3州に限った話ではなく、山西省を中核とする并州では、漢代に300万人以上の人口があったが、晋代には1/4以下に減少していた。当時の日本の人口は800万人程度だったと想定され、減少に見合う人々を、移民として日本に受け入れる事は到底出来なかった。
倭が華南に生口を販売していたと考えられる証拠が、三国志呉志に記されている。三国時代に揚子江中・下流域を支配した呉は、稲作地を広げて国力を増強する目的で、倭人の島に向けて軍船を送り込み、人狩りを行った。揚子江中・下流には、稲作が可能な広大な未開地があったからだ。
呉は東シナ海に1万人の軍隊を送り出したが、当時の中国人は海上の事情を全く知らず、台湾の存在さえも認知していなかった。使った船は揚子江の渡し船だったと推測され、その様な川船では波浪が高い海上を航行出来ない事は、当時の華南人も知っていた筈だが、呉の政権を掌握していた漢民族は、その計画を決行した。倭人や東鯷人が豊かな物産を持って海から来るから、東の海上に豊かな島があると気安く考え、略奪行為と奴隷狩りが共存した、無謀な計画だったと想定される。その1万の軍隊は海上で多数の犠牲を出しながらも台湾に上陸し、数千人の住民を捕らえて連れ帰ったが、捉えた住民より失った兵士の数の方が多かったという、その成果の評価は惨憺たるもので、実行責任者は処断されてしまった。当時の漢民族の杜撰さと凶暴さを示す話だ。
当時の揚子江には沢山の川船が浮かび、対岸との渡しが行われ、水路を使った輸送も活発に行われていたと考えられる。しかし構造が脆弱で平底の川船では、大波が襲う海洋に出る事は出来ない。その様な構造船が大波に乗り上げれば、自重でばらばらに壊れてしまうからだ。頑丈な船底を持った船だけが海洋を航行する事が出来るが、当時その様な船を持っていたのは、台湾以北の海では倭人だけだったと想定される。それゆえに中国人は、海上に出る事が出来ず、台湾の存在も良く知らなかった。波が凪いだ頃合いを見計らって台湾への上陸は成功したが、往復全てが凪になるとは限らないから、多くの船が壊れたのではないかと推測される。
呉が敢えて軍隊を派遣したのは、華南には未開の農耕適地が十分にあったからだ。楚漢戦争に敗れた稲作民の故地では、政策的な土木工事は行われず、未墾地が広がっていた。揚子江流域は、温暖期だった漢代には夏は灼熱地獄になったから、華中から南下して稲作を始める人は、殆どいなかったと想定される。しかし三国時代には寒冷化が進んでいたから、揚子江流域は稲作適地になりつつあったと推測される。
呉がこの様な決断をしたのは、倭人が華南に生口を運び込んで、販売していたからだと想定される。その様な事実がない状態で、呉が1万もの兵を乗せた船を、未知の海上に派遣する筈はなく、呉が派遣した兵士の数から考えれば、呉が人狩りによって得る事を期待した人数は、少なくとも数万人だった筈だ。その数の根拠として呉志は、徐福の子孫が倭人の島で数万戸になっていると、会稽の市に来た倭人が言っていた事を根拠にしているが、倭人が運び込んでいた生口の数も、その期待値から推測できる。毎年数千人程度だったから、それでは足りないというのが、呉の考えだったと想定されるからだ。後漢代の倭国王が、160人の生口を後漢の皇帝に献上したが、その人数は年間交易量の5〜10%だった事になり、数値の妥当性が補強される。呉の皇帝がその遠征を決断した時に、反対者がいたと記されているが、その中には、倭人から生口を購入していた者もいただろう。漢民族の統治の様子を、推測させる話になる。
当時の中国人は、江南の沖に倭人の島があると誤解していたからこの様な暴挙に出たが、当然ながら、倭人の島である夷洲(九州)や亶洲(本州)に辿り着くことは出来ず、台湾を発見したに留まった。しかしこの事件によって台湾の存在を知り、倭人が言う夷洲は台湾に違いないと勝手に決め付けたから、以降の中国人の認識はその様に変わった。
この事件があったのはAD230年だから、卑弥呼が魏に使者を送ったのは238年だから、卑弥呼はこの事件を知っていた筈だ。卑弥呼の使者が魏にこの話をし、邪馬台国は呉に反感を持っている旨を伝え、魏に邪馬台国と狗奴国の関係を誤解させた可能性が高い。魏は邪馬台国に、呉を軍事的に牽制させようとし、その手先と見做した狗奴国を攻撃させようとしたたからだ。
しかし倭人や東鯷人を代表していた狗奴国は、呉や魏の様な漢人系の王朝とは距離置く方針だったから、豪族と生口や物品の売買関係を行っても、それ以上の関係を持つ気はなく、軍事同盟など考えてもいなかった。これは漢代の倭人から引き継いだ方針だから、漢代の朝廷記録に倭人に関する記述がなく、AD107年に倭国王が後漢の皇帝に面会を求めた以降も、朝貢した形跡がないのと同様に、呉の朝廷記録にも倭人や東鯷人は登場しなかった。その様な状態であっても、倭人や東鯷人が大陸で交易を続ける事が出来たのは、漢や呉の統治力が脆弱だったからだと考えられる。漢民族の王朝は武力で政権を樹立し、戸籍を作成して人民から租税を取り立てたが、地域住民を統治したのではなかった様だ。ここから分かる事は、多民族を帝国主義的に支配した漢王朝の実態は、軍事的に制圧して徴税機構を設置し、農民に耕作権を付与して年貢を収奪し、治安を維持する事以外には何もしなかった実態が想定される。歴史学者は国土の統一を進化と主張するが、漢民族の帝国の実態はその様なものだったと考えられる。
古墳寒冷期に向かい、寒冷化が進行していた三国時代に、江南は改めて農業適地として見直され、揚子江以南の地域で稲作地が開拓されていた。従ってそこには日本列島より遥かに大きな生口需要があり、華北の淮河の支流域から生口を運送する距離も、日本列島より遥かに短かった。関東の倭人は淮河支流域や渤海湾沿岸から揚子江流域に生口を運び、一部を関東や大阪湾岸に運んで農業労働に従事させたと推測される。中国に後漢政権があった時代には、生口は個人単位で取引されていたと考えられるが、淮河の支流域である、安徽省亳州市で発見された後漢代の豪族の墓のレンガに、「有倭人以時盟不」(倭人が居る、適切な時期に盟約を行うべきだろうか)と刻まれているから、王朝の役人を輩出していた豪族も、一族郎党の一部を移民させる動きを見せていた事を示している。
祖の豪族を取り巻く環境は、(7)宋書・好太王碑に示される倭人に示した、漢代の人口と晋代の人口比較から読み取る事ができる。漢書地理誌は、亳州市が属す豫州はアワ、キビ、大豆、稲、麦の産地だと記しているから、漢末に稲が不振になり、アワ、キビ、大豆、麦を栽培していたと想定される。豫州の戸数は漢代に180万余戸だったが、寒冷期に入った晋代には14万余戸になっていた。晋代の1戸当たりの人数が分からないから、戸数比較だけでは人口差は分からないが、人口が激減した事は事実だ。治安が悪化して1戸当たりの壮丁数が増えていたとしても、人口は2割以下に激減したと推測される。後漢代はその変化の中間点だから、人口が半減していた頃だったと想定されるが、人の移動が制限されていれば、100年で人口が半減した事は、かなり悲惨な状況を生んでいた事は間違いないだろう。
亳州市の豪族は、稲作に問題がなく農地の開拓が進んでいた荊州に、一族の一部を移住させる思案中だったと想定される。しかし政権が統治していた時代だから、一族全員が夜逃げする状況ではなかった。稲作が深刻なダメージを受けていたから、稲作の技能者を荊州や揚州に移住させたいと考えていたのであれば、倭人は適切な相談相手だった。農業には高度な技術が必要だから、稲作地には稲作民が移住する必要があり、栽培技術が適用できない地域に移住するのであれば、移住者は奴隷的な境遇に陥らざるを得ないからだ。
後漢時代の華北には膨大な数の生口予備軍が発生し、豪族の移住希望者も発生していた。古墳時代には彼らの移民に対し、倭人国と東鯷人の国が合体して倭人連合を形成し、国家事業として移民事業を運営したが、華北に政権が存在していた弥生時代には、大胆な移民事業を展開する事はできず、移民対象は困窮した個人を扱っていたと考えやすいが、晋が崩壊して形成された南朝が、漢民族が支配する王朝だったのであれば、後漢時代から漢民族の豪族の中にも、一族の一部を揚子江以南に移住させ、晋の崩壊以後の大移民時代に、一族がこぞって移住する形式が採られた背景があった筈だ。南朝の歴史を概観すると、漢民族の帝国だった事は間違いないが、稲作民的な文化要素が開花し、六朝文化として発展したから、寒冷化が厳しくなった後漢代に、稲作民起源の豪族が南朝に多数発生する程度に、漢民族の豪族の分家が移住した事になる。本家と分家の連絡などにも、倭人の交易情報網が貢献したと想定される。
生口を主力商品としていた、弥生時代末期の倭人事情を推測すると、生口の調達元になる地域を商圏としていた国と、労働力を求めていた稲作地を商圏としていた国の間で、国単位の連携が始まった程度だったと推測される。倭人は華北や淮河流域を主な商圏としていたから、移民の送り出し地を商圏とする国が多かったと想定される。日本海側の海洋民族が母体だった東鯷人は、華北から締め出されていた事になり、越と密接な関係を持っていた事は、揚子江以南や東南アジアに交易を求めていた事になる。中国大陸では倭人に倣って、20余国に商圏を設定して可能性も高い。従って移民の受け入れ地に詳しかった。
弥生時代末期の吉備と出雲に、大型の弥生墳墓が出現した事は、吉備の倭人と出雲の東鯷人が真っ先に移民事業で大きな収益を獲得した事を示し、特殊な器台を使って相互に葬送儀礼に参加した事は、倭人国だった吉備と東鯷人の国だった出雲が、異族であるという認識を捨て、連携を深めるために行った活動の一環だった可能性が高い。古墳時代に大規模古墳を生み出した原資は、移民事業の収益だったと考えられるから、弥生時代末期に最大級の墳丘墓を造った経済力も、移民事業から得たものだったと考えられ、吉備と出雲の提携は、移民の調達と販売に関する提携の、先駆けだったと考えられる。
漢書と後漢書は、倭人と東鯷人を別の集団としているから、両者には商圏と交易品に違いがあるという認識があったと想定されるが、両者の間に商圏を争う闘争が発生していた様子は、魏志倭人伝には記されていない。共に漁民主体の海洋民族だったから、中華王朝の様な武力的な統合は望まず、現代企業の様に棲み分けを志向する事が、当時としても自然な成り行きだったと考えられる。沢山の民族が異なる言語を使って割拠していた中国で、交易を継続的に行うためには、各地の言語を理解する多数の人材も必要だったから、商圏と言う観点でも共存していた可能性が高い。その背景に、倭人と東鯷人は異なる物産を生産する生産者だった事も、重要な違いとして指摘する必要がある。単なる仲介商業であれば、流通と販売は極めて強い独占志向にならざるを得ないが、異なる商品を扱う交易者であれば、商圏をシェアする事は難しくないからだ。
倭人国は温暖な太平洋沿岸を生産地とし、当時は温暖な気候を必要とした養蚕・絹布の生産に注力し、それを華北に出荷していたが、冷涼な日本海沿岸を生産地としていた東鯷人は、宝飾や工芸品の生産に特化し、交易相手も絹布の生産が盛んな華南や東南アジアだったと想定され、基本的な交易の枠組みがその様に決まれば、商圏も定まっていたと推測され、日本列島で生産した交易品を融通し合う関係が生まれていた可能性が高い。その最大の証拠は、縄文時代の北陸で生産されたヒスイ加工品が、太平洋沿岸でも多数発見される事だろう。
4−2 倭人が移民事業を行ったと推測する物証
倭人が移民事業を行った事は、倭人の歴史を解釈する上で極めて重要な事柄であるが、それを指摘している歴史学者は皆無で、日本の歴史上の出来事として全く認知されていないから、丁寧に検証する必要がある。
それを示す直接的な物証はないが、その様に考えると辻褄が合う事実は幾つかある。前掲の「有倭人以時盟不」と記された煉瓦が、淮河流域の豪族の墓から発見されたのは、そのひとつになるだろう。
吉備と出雲と奈良盆地は、この時代に大型古墳と特殊器台の組み合わせを生み出し、新しい墳墓文化を共同で形成していた事も、そのひとつの物証と言えるが、3つの地域の特徴を認識しなければ物証とは言えないから、それについての説明が必要になる。
古事記は出雲と奈良盆地南部を、出雲系の国だったとしている。出雲系とはスサノオを祖とする大国主系の国を意味する。詳しくは(15)古事記と日本書紀が書かれた背景を参照。大国主と共に天照大御神が派遣した神に日本の統治権を渡した事代主は、奈良県御所市にある鴨都波神社(かもつばじんじゃ)の神で、京都の賀茂神社もその系譜になる。葛城氏は日本書紀の創作であって、弥生時代の機内の内陸は出雲系の国、即ち東鯷人の国で、魏志倭人伝が記す狗奴国の所在地だったと考えられる。
吉備は魏志倭人伝が記す投馬国(つまこく)で、倭人の国だった。倭人国だった吉備と出雲が先ず連携し、連携が狗奴国にも及んだと考えられる。この連携によって狗奴国がもっとも繁栄し、3世紀末から4世紀初頭に箸中古墳群と呼ばれる大型の古墳群を造営し、吉備が発祥である特殊器台を祭祀に用いた。この古墳群で最も著名な箸墓古墳は、墳長278メートル、後円部の径約150メートル、高さ約30メートルに及び、古墳時代の定型古墳である前方後円墳の、先駆的な形状になっている。生口の調達者より販売者の方が、より大きな利潤を挙げた事を示している。
晋が滅亡した4世紀以降、古墳の規模が急速に大型化すると同時に、大型古墳の造営が日本全国に拡散した。その理由も、歴史に即して説明する事ができる。華北の政権が消滅すれば、華北の豪族の去就は、政権に拘束されなくなったからだ。倭人が華北の豪族を移民させる事は、その富豪の窮状を解決する事でもあったから、莫大な謝礼が得られたと推測される。古墳時代になると、華北の豪族を華南に移民させる頻度が急上昇し、その契約時に法外な利益を生み出す事になったから、倭人各国はその様な事業の運営に積極的に転換し、日本全国の倭人国にもその方針を徹底したから、巨大な古墳を日本全国に林立させる経済力を、各国に得させる事ができたと考えられる。当然ながら倭国王は最大の受益者になり、大阪湾岸に巨大古墳を沢山作り、朝鮮半島で高句麗の南下を軍事的に阻止する経済力も得たというシナリオが生まれ、歴史事実と極めて良好に整合する。
逆に言えば、寒冷化が進んで中国の農業が壊滅的な打撃を受けている中で、倭人だけがこの様な法外の利益を得る事ができた唯一の機会は、移民事業しか考えられないと言っても良いだろう。
吉備が移民事業に傾注していた証拠は、移民事業の終焉期にも現れている。中国の南下移民は、北魏が誕生した5世紀中頃に終わったが、それと同期して吉備の古墳は急激に小型化し、権力の混乱や消滅を想定させる状況になった。華北に北魏が誕生して真っ先に激減したのは、地域の豪族の移民だったと想定されるから、吉備が移民事業を先導したと考えられる幾つかの証拠と、移民事業による繁栄が吉備に、地域政権としては破格的に大型の古墳造営を許した事と、移民終息によって地域経済力の悪化が典型的に吉備に顕れた事は、吉備が倭の移民事業の先導者だった証拠にもなるし、その経済力の背景が移民事業だった事の有力な物証になる。
移民の受け入れ先だった揚子江流域に目を転じると、晋が滅亡すると華北や淮河流域から多数の農民が、漢代には過疎地だった荊州や揚州の内陸部に移住し、華南で南朝と呼ばれた王朝が繁栄した事は、歴史事実として認知されている。しかし何時から誰がどの様に移住したのか、記述している史書はない。その理由は、中国の史書の特徴から検証する事ができる。史書は人物史であるから、その趣旨に馴染まないテーマである事が第一に挙げられる。移住が無秩序に行われたから、その様な事になったと思われが、中華秩序の圏外の倭人が主導したから、中華の史書には記載できなかったと考える事も出来る。少なくとも、英雄的な人物が大集団を率いて移住したのではなく、民衆レベルの移住だったとか、移住の経緯を明らかにできない人々が、移住を主導した事は間違いない。常識的に考えて、個々の雑穀民が三々五々、治安が悪化していた大陸内部を千q以上南下し、華南で稲作を始めたとは考え難い。
これらの推測は、倭人が移民事業を行った直接の証拠にはならないが、倭人が移民事業を行った事を否定するのは難しいと主張する、論拠にはなるだろう。
4−3 倭人が移民事業に従事した状況証拠
倭人が移民事業を行ったと確実視するためには、歴史的な事実だけでは証拠が不十分なので、倭人の置かれた境遇と中国の状況を考察し、倭人ビジネスの必然の結果として、倭人が移民事業に邁進した経緯を論考する。
漢書地理誌が示す倭人は、漢代から数百年間、各地の豪族の館を毎年訪問する交易者だった。各地の豪族にとって、倭人は信用できる交易者だったと言えるだろう。豪族の館に出向くために、安全な河川ルートに精通していた事も、当然の事として知られていた筈だ。倭人はブランド戦略を展開していたから、一般の商人より特に、信用には気を配っていただろう。
倭人は淮河流域で交易し、東鯷人は揚子江流域で交易し、河川を使う広域の交易を行っていた。倭人や東鯷人は沖縄を経由する長い航路を使い、江南から分散して中国各地を往復していたから、往路復路の湊々で、倭の他国の交易者と遭遇して情報を交換していただろう。その結果として大陸の各地に関する、広域の情報ネットワークを持っていた。移住を希望していた豪族にとって、倭人が東鯷人から得た移住先情報は貴重であり、受け入れ地である華南の有力者にとって、東鯷人が持っていた新規移住者に関する倭人の情報は、有益だった筈だ。受け入れ地である華南の有力者は、富裕な華北の豪族を遊休地に受け入れれば、多額の礼金を受け取る事ができただろう。有力者が役人であればそれは賄賂になるが、中華の人はこの時代から、賄賂も経済活動の一環と考えていたと想定される。倭人と東鯷人は双方の情報を突き合わせ、移住者と移住先の最適な組み合わせを選択し、移住希望者に開示する事が出来た。
淮河流域や華南は平坦な沖積平野で、縦横に河川が流れているから、家財や荷物を抱えて移動するには、船を使う事が望ましい。当時の淮河は、現在の様に揚子江とは繋がって居らず、東シナ海に流れ出ていたから、淮河流域から揚子江流域に船で直接行くにためは、淮河の河口から一旦東シナ海に出て沿岸を航行し、改めて揚子江の河口から遡上しなければならなかった。具体的にその航路を想定すると、淮河の支流から本流に出て東シナ海まで、数100km大河の流れを降り、東シナ海沿岸を150km南下し、揚子江を武漢まで1000km遡り、更に岳陽や長沙に数百q遡る航路が、淮河流域から荊州に移民する標準的なルートだったと想定される。倭人の船は日本列島から揚子江の河口に着くだけで、太平洋や東シナ海の荒波を掻き分けて3000km航行し、その間に黒潮を2回横断したのだから、その様な旅程は難しくなかった。黒潮を横切るためには、10km/hを定常的に維持できる船だったと考えられ、1日5時間航行したとしても、2か月で移民を目的地まで運ぶことができた。従って運行速度が早く安全な運送業者として、売り出す事が出来た。
倭人の船に一度積み込んだ荷物は、目的地まで積み替えなしに届ける事が出来た。実際には途上で船を乗り継いだかもしれないが、それは倭人の責任の範囲内で完遂する事が出来たから、異業者の船に替る事とは大きな違いがあった。中国人も淮河や揚子江を渡る船は持っていたが、それらを乗り継ぐのであれば、積み替えを何度も行う必要があり、労務者の確保に面倒があっただけでなく、治安が悪い状況下で周囲に積み荷を見せる事は、防犯上の問題もあっただろう。倭人が組織的に事業を行えば、その様なリスクに晒される事はなかった。→安心安全対策が良好だった。現代でもこれを付加価値とする為に、企業は多大な経費を掛けている。顧客もそれを、事業者の選定基準の上位に位置付ける事が多い。現代の日本では当たり前の事だが、この時代の大陸では、得難いサービスだったと想定される。
中国では地域毎に異言語に近い方言があり、会話が通じない事が常である。当時は今より酷かっただろう。倭人は商圏を細分化し、倭人の各国の交易者は、商圏とする地方の方言に通じていたと想定され、倭が組織力を駆使すれば、到着地の地域の方言だけでなく、経由地での通訳を引き受ける事も出来ただろう。倭人と東鯷人にも方言はあっただろうが、同じ沖縄を通過する者として、共通語を持っていたと推測される。沖縄方言と京都方言の分離は、数千年前だったと考えられているから、倭人が消滅した時期と同期している。倭人の共通言語を使えば、各地域の倭人を通して意思疎通ができただろう。

以上の状況を考慮し、当時の倭人が提供した総合的な利便性を想定すると、豪族とその眷属を移民させたケーススタディとして、以下の様な事情が考えられる。
倭人の情報により移民の候補地を決めた豪族は、先方の役人や豪族と折衝する為に、倭人の案内で腹心の者を派遣し、そこで話が纏まれば、倭人の複数の船をチャーターして先遣隊となる移民者を分乗させ、財産や資材も積み込み、入植地に安全に到着する事が出来た。移民先の役人や近隣の豪族に贈る賄賂や財貨も、安心して持参することが出来た。毎年御用聞きに来る倭人から、先遣隊のその後の様子を聞き、彼らに消息を伝えて一族の連帯を維持する事も出来た。先遣隊の成功を確認出来れば、次は自身が本体を率いて移民する事が出来た。後漢代に先遣隊を送り込んでいた豪族は、晋が崩壊すると稲作民として成功していた先遣隊と合流し、南朝の有力者になる事ができただろう。先遣隊を持たず、華北が寒冷化して稲作が断絶していた時期に南下した漢民族は、華南に南下しても農業者にはなれなかったから、傭兵的な役割を担う集団にならざるを得なかったと想定されるが、それでも集団で南下する事は、極めて重要な事だったと考えられる。単身で異郷の地に身を投じる事は、奴隷的な身分にならざるを得ない状況に追い込まれただろうから。
いずれにしても倭人が組織力を結集すれば、多数の船で多勢の人数を一気に運ぶことが出来た。
倭人は企業の様に、地域の指導者によって経営され、その指導者だった国王が連合して倭を形成していたから、この様なサービスの提供に対し、企業の総力を挙げる形で運営する事も出来た。倭国王の下に集合して商圏を確定していた国々だから、個々の集団が半ば独立した企業体として活動し、利益の分配に折り合いが付けば他国と協業する様な集団だった筈だ。

倭人は一連の段取りを、パッケージで請け負う事が出来た上に、アフターサービスも提供出来た。先遣隊が耕作地を確保してから、後続として豪族の一族が移民する事より、移住はより安全に実施できただろう。最終的な一族の移住は、世代を跨ぐ事は珍しくなかっただろう。
以上は顧客から見た、事業者としての倭人の競争力の評価だが、倭人側にそれを発揮する意思がなければ、実現しない事は間違いない。その観点で倭人の事情を概観する。
淮河流域を含む華北の農業が不振になり、豪族の購買力が減退して奢侈品の販売が減少する中で、倭人は新規事業を開拓する必要性に迫られていた。
当時の中国人には、外洋を航行できる船を持つ者が居なかった。それ故に隋代以降、盛んに運河を開鑿して外洋の航行を不要とし、莫大な費用を投じ続けて運河を維持した。
中華帝国は、多民族を抱える帝国一般の常として、各民族の有力者が提携し合う機会を抑圧したと考えられる。彼らが連携して反乱勢力を形成する事は、帝国主義者が最も恐れる事だからだ。それを監視する仕組みが帝国にあり、豪族間の連携は極めて限定的ならざるを得ない事情が、漢帝国内部に存在したと想定される。その枠外にあった倭人は王朝の統制とは関係なく、交易者の使命である情報拡散活動を展開していたから、漢王朝には苦々しい存在だったと想定されるが、各地の豪族にとっては重宝な存在になっていたと想定される。
倭は分国状態だったが、倭国王が地域の首長を指導する仕組みがあり、各国が協業する事は容易だった。裕福な有力豪族は、移民の成功に対して多額の謝礼を支払っただろうから、裕福な豪族は顧客としての利益効率が高く、収益も大きかっただろう。大豪族と契約を結び、組織的に数十隻の船を提供すれば、数百人、数千人単位の人間を移動させる事が出来、顧客の豪族も安心して任せる事が出来た。華北の人口は恒常的に過剰状態で、それによる治安の悪化が常態化し、地域の豪族はその打開策の確保に最も敏感な人達だったと考えられる。リスクをとって一族の一部を移民させる者が出現する事は、必然的な帰結だったと考えられる。
倭人の上記の様な成功例は、即ち移民集団が華南の移住先で入植に成功したという情報は、倭人の情報ネットワークを通じ、送り出し元の豪族に伝達されただろう。新しい顧客となる要素を持ったその周囲の豪族は、この情報を基に自身の去就を考える事になったと想定される。遠隔地の豪族に対しても、倭人が既に実施した実績を説明すれば、その者も移住が成功する確信を持って、倭人に対して積極的に移住業務を発注し、順番待ち状態になればその報酬を惜しまなくなっただろう。

その様に顧客の期待が集まる事は、事業者に新規の投資を決断させる環境を整えた事になる。倭人の投資は、第一に大型の新造船を発注する事であり、傘下の漁民にこの事業への参加を促し、船員を補充する事だっただろう。華北の豪族の期待が高まると、新規投資は競う様に行われる様になり、最盛期になった古墳時代の日本列島の漁民は、殆どがいずれかの国の傘下に帰属する状態になったと想定される。移民のための航路に宿泊や食料供給の施設を整備し、事業の効率が高まると同時に、日本列島の事業に従事者が急膨張し、豊かになった彼らの食料を賄うために米の需要が高まり、日本列島にも移民を導入して米の増産を図る、景気の好循環サイクルが回転し始めたと想定される。関東の倭人は移民事業に従事する傍ら、農地を開墾して米の増産に励んだ様だ。その様な契機の好循環は、弥生時代末期に出現した古墳の規模から推測する事ができる。
倭人は顧客の要望に合わせて事業規模を急拡大し、日本列島にはそれを可能にする環境が整備された。古墳時代に内需産業が活性化され、須恵器が生まれたり織布が盛んに行われたりした事が、発掘から明らかになっている。また日本にも移民が多数来た事、その中に豪族の一族集団が多数含まれていた事は、以下の2点から確認できる。
華北に多いY遺伝子であるY-O3a2c系の遺伝子が、日本列島に1割ほど存在する事が、移民が多数来た事を示唆し、移民人口を推測する事ができるが、1割の人口比である推定遺民数は、歴史事象との相性が良い。
平安時代に編纂された新選姓氏録には、出自の高貴さを主張している漢民族系の集団が、多数登録されている。彼らが日本へ渡航した動機を推測るには、この様な移民事業があった事を前提とする以外に、他に候補はないだろう。日本書紀がそれを秘匿しているのは、倭人の歴史を抹殺する為である事も明らかになる。
事業が一旦軌道に乗ると、顧客にその利便性が知れ渡って各所から声が掛かる様になり、顧客への対応に習熟した要員も、多数確保出来る様になる。販売組織(この場合には移民の勧誘組織)が独立し、輸送を効率的に行う管理組織が出来、企業組織が複雑になると同時に部分専業化し、独立した法人格の各国は、一層効率的に事業運営に参加する事が出来る様になったと想定される。このサイクルが順調に回ると、他の事業体を排斥する力が生まれると同時に、新規参入者には実現出来ない効率的な運営が可能になり、独占的な事業体になる。
それを倭人の移民事業に翻訳すれば、倭人の移民事業に各種の投資が為され、人員が補充されて組織が拡充され、募集や運搬、移民先の入植地の確保、入植先への賄賂などの費用負担の見積もりなどに特化した組織が生まれると、独占的な事業者は益々効率的なって需要が高まり、既存事業者は敗退し、新規参入には高い壁が生まれ、独占者は安定的な利益を確保する事が出来る様になり、利益額も拡大する。しかし北魏が誕生して政権が移民を規制し始めると、移民需要が激減して事業組織の維持が困難になり、独占者だった倭人各国の懐事情が急速に悪化した。
成功のスパイラル効果と巨額収益の実現は、日本列島各地の古墳の林立や、大阪湾岸の巨大古墳の造営の推移に見る事ができる。しかし北魏が誕生した5世紀半ば以降、古墳の規模が急速に縮小し、吉備では古墳造営すら行われなくなったのは、その事業に特化し過ぎたからだと推測される。

以上の状況から移民事業の実態を勘案すると、倭人の移民事業の中核は、拉致した人民を売り払う奴隷交易ではなく、受託型の運送事業に傾斜していたと想定され、その様になる必然があったと考えられる。漢代に蓄財した豪族を、移民事業の主要顧客とする旨味を知った倭人は、非効率な生口交易には興味を失っただろう。
生口交易は、荊州の豪族の農業労働者の増加要望を受け入れ、華北で生口を金銭的に調達し、荊州の豪族に売り払う事業を指す。初期の倭人の交易や、東鯷人と倭人の連携の発端は、この形の交易量の拡大が目的だった可能性が高い。
この方法が高利潤をもたらしたのであれば、倭人はこの事業を拡大したかもしれないが、華北や淮河流域の、農業生産が不振になって人口が激減していた豪族にとって、荊州への移民は一族の命運を掛けた事業だったから、彼らは倭人に生口交易より有利な条件を積極的に提案し、彼らの需要を満たす事を優先させただろう。豪族達は長年蓄積した財産を持っていたが、移民するために運べる家財は限られていたから、蓄積した銭や高価な衣類を使い、それに家財を処分した財貨を加えれば、倭人に自分の要求を優先させる事が可能な、纏まった財貨を提案する事ができた。やがてそれが相場になれば、倭人は生口交易への熱意を失い、豪族を顧客とする移民ビジネスに力を入れた筈だ。
移民する豪族達の側から考えると、一族全員の移民を一挙に敢行する事は、リスクが高過ぎただろう。先遣隊を派遣し、彼らが入植に成功するとその労働力が不足している事になり、派遣元の豪族が更に追加的に一族郎党を、倭人に費用を支払って移民させる事も可能だったし、豪族自身が淮河流域の労働力を、倭人より効率的に調達する事ができた。労働力が余っていた淮河流域では、それは容易な事だった筈だが、倭人に支払う運賃を賄うために、暴力的挑発して倭人に売払う者が出現する事も、動乱期の事だから儘あったと想定される。一部の豪族はそれによって財貨を蓄え、危機をチャンスに変える事が出来たかもしれない。淮河流域では中小豪族だった者が、才覚によって荊州の大豪族になることが出来たから、それは個々に調べる必要があるかもしれない。
いずれにしても倭人は、その様な才覚を持った豪族と取引すれば、効率的に事業を運営する事ができた。倭人にとっても豪族にとっても、その方が効率の良い生口の調達手段だから、その様な事業形式に収斂したと推測され、見掛け上倭人は、生口交易から撤退したと想定される。
以上の状況を勘案し、漢書地理誌の記述を思い起こす必要がある。
「倭人は百余国に別れ、(各国が)毎年決まった時期に、各地の豪族を訪れていた。」
この短文から、上記の事情の過半を連想する事ができるからだ。
遠方から色々な地域を経て訪れた倭人が、商談の合間に各地の情報を豪族に伝える事は、当たり前の様に行われただろう。遠路来た人の話は、古代人にとって貴重なニュースソースだった。豪族は倭人から各地の農耕の出来不出来を聞き出し、北方の農耕が不振になった事を理解しただろう。一方南の稲作地帯では、炎暑が和らいで農地の開墾が進んでいる事も、知る事が出来ただろう。寒冷化による農耕の危機に陥っていた華北の豪族は、倭人の話を熱心に聞いただろう。一族の者を、荊州の様な未開の地に連れて行って貰いたいと倭人に頼んだ時点で、その豪族は倭人に多額の謝礼を渡した筈だ。
倭人が良い情報を持って行けば、豪族は倭人が持参した商品を高値で買っただろう。商売として極めて当たり前の行為であり、その様な事を証明する必要はない。それが移民事業に発展する事は、必然の流れだった筈だ。
以上綿々と、ビジネススクールの教科書の様に記述したが、有能なビジネスマンであれば瞬時に気が付く事を、箇条書きにしたに過ぎない。倭人は中国大陸に大挙して向かい、貴人との交易に邁進していたから、当時の倭人も現代のビジネスマンに匹敵する、叡智と判断力を備えていただろう。倭人が移民事業を行ったであろう事は、予断を許さない確かさを持っていると考えられる。
5、朝鮮半島の緊張が高まったが、倭人は半島南部を確保し続けた。
5−1 後漢代の半島情勢
温暖期だった漢代に、楽浪郡は6万戸/40万人の人口を擁したが、この人口には濊族や韓族も含まれていたと考えられる。寒冷期になった晋代(AD3世紀末)に8600戸に激減したが、減少分には南部へ逃亡した韓族や、分離独立した濊族も含まれていたと想定され、郡が掌握する領域が狭くなった事も示しているが、入植していた漢民族も華北の人口減と共に減少したと考えられる。
漢が滅亡すると高句麗が南下し、半島北部の日本海沿岸で、漁労を行っていた濊族を領民とし、沿海州やアムール川流域の、挹婁(ゆうろう)と呼ばれたツングース系民族と領域を接する様になった。高句麗は満鮮境界の山岳地に拠点を築き、同族の扶余と松花江からもたらされる毛皮などの、北方の物産を華北に仲介する、交易の利権を争い始めた。
後漢代に寒冷化が厳しくなると、シベリアや沿海州から持ち込まれる毛皮や皮革の、華北での需要が急増し、その利権を巡る扶余と高句麗の抗争が熾烈になった。挹婁や日本海沿岸の濊族が操船技術を高句麗に提供すると、高句麗は鴨緑江を使って北方の物産を黄海に運び、渤海湾を通して華北に持ち込むルートを開拓した。これにより、高句麗は扶余に対する交易上の優位を確立したと想定される。
高句麗は半島北部で金や銀を採掘し、経済力を高めてもいたが、拠点とした山岳地では食料を自給できなかったから、交易品として食料を獲得する必要があり、近隣を略奪することもあった。楽浪の郡衙も、高句麗の略奪から免れる事は出来なかった事が史書に記されているが、高句麗にすれば、漢民族が濊族の農産物を収奪しているとも言えた。
楽浪郡に支配されていた半島の北半の韓族は、寒冷化する中での重税に耐えられず、馬韓に逃亡する者が続出した。秦代に楽浪郡に逃亡して来た人達も辰韓に逃れると、楽浪郡は郡衙を中心とする狭い領域を支配する状態に転落した。それによってこの地域の軍事バランスが変わり、朝鮮半島北部は楽浪郡と高句麗が勢力を争う場になった。
半島南部には弁韓人が残留していた。山東や江蘇の越は秦が沿海部へ侵攻すると、東南アジアの海洋民族の船で東南アジアに去ってしまったが、朝鮮半島南部は倭の軍事力に保護されていたから、逃れる必要もなく留まっていた事になる。
弁韓人は馬韓の韓族に鉄を供給したから、馬韓の韓族は森林を拓いて農地を増やし、人口が増えて民族の勢力が増強された。楽浪郡からの逃亡韓族も受け入れたり、積極的に逃亡を勧誘したりしたと推測される。半島南部の統括は、倭が設置した狗邪韓国(くざかんこく)が行っていたが、倭人の統治は地域政権を庇護し、地域に毎の発展を志向するものだったから、地域政権が狗邪韓国の倭人から検察される様な制度だったと想定され、狗邪韓国は伊都国に居た大率の、出張所の様な役割を担っていた可能性が高い。朝鮮半島の諸国は交易立国ではなかったから、商圏を配分する倭国王の支配は必要なかったと想定される。
魏志東夷伝は狗邪韓国の名前を記しただけで、その位置付けや様子について全く触れていない。その理由は、狗邪韓国が三韓を統治していたからだと推測される。楽浪郡の太守は、韓族は後漢や魏の支配下に入ったと報告していたが、魏が邪馬台国に派遣した使者によって初めて、実態は狗邪韓国を通して倭人に統治されていた事が明らかになったが、史書にはその事実を書く事ができず、嘘も書けなかったから、陳寿は魏の使者の狗邪韓国に関する報告を無視し、韓伝や倭人伝には何も書かなかったのかもしれない。その様な欠落は、史書に散見される。
濊族と鮮卑族にまつわる抗争は、1世紀末に一旦沈静したが、2世紀後半(後漢末)に王朝の勢力が減退すると再燃し、遼寧の軍閥になった公孫氏は、楽浪郡の南に帯方郡を作り、漢民族の南下を企図した。寒冷化が進展している中で、公孫氏が勢力を拡大するには南下政策が必要だった。魏の勢力圏である河北省に南下する事は難しかったから、朝鮮半島の南下を企図する事は、必然の結果だったと推測される。しかし馬韓の韓族は鉄器で武装した大勢力になり、後方から倭が支援していたから、漢民族の南下は実現しなかった。邪馬台国が公孫氏とどの様に折衝したのか、明らかではない。
交易国家の樹立に成功した高句麗は、扶余以外の濊族を統合して隆盛になり、帯方郡と対立しながら半島南下を狙った。高句麗も寒冷化が進む中で益々食料が不足したから、当然の方向性だったが、高句麗が志向したのは半島東岸に割拠していた濊族の統合で、他民族を征服する意図はなかった様に見える。交易民族としては、当然の志向だったのではなかろうか。
倭人と高句麗が毛皮や皮革の販売で商圏を争い、対立が先鋭化すると、北九州の倭人だけでは対応出来なくなった経緯は既に説明したが、商品を供給していた側にも変化が現れた。オホーツク海沿岸やシベリアの狩猟者だったツングース系の民族も、皮革や毛皮の需要が増加する中で、増産活動を活発させていただろうが、倭と高句麗がそれらの争奪戦を演じ始めると、従来の供給の枠組みが崩れたからだと考えられる。
商品を供給していた側の変化として、この頃北海道や樺太のオホーツク海沿岸に、「オホーツク文化」と呼ばれる、海獣を捕獲する者達の痕跡が顕著になる。寒冷化によって海獣が南下し、北海道や樺太南部での捕獲が容易になる一方で、華北の需要が増大していったから、オホーツク文化は海獣の皮革需要を満たすために生まれた、捕獲者達の痕跡だったと想定される。彼らが皮革を交易した相手は、主に倭人だったと推測される。高句麗と取引する者もいたかもしれないが、高句麗が彼らに提供できた穀物はヒエやソバなどの雑穀しかなく、倭人はそれらと同時に米も提供できたから、海上の操船力の高さに格段の違いがあった事と併せて考えれば、取引相手としては格段に有利だったからだ。倭人は縄文時代から、アムール川の下流域やオホーツク海沿岸に達して交易を行っていたから、そこで黒貂などの高級な毛皮も入手する事が出来た。
しかしシベリアの内陸の交易路を運用していたのは、ツングース系の民族だったと想定され、隋書にはツングース系の民族との抗争が記され、唐書にはツングース系の民族を傭兵としていた事が記されているから、彼らは地域毎に倭と交易したり高句麗と交易を行ったりしていたと考えられる。
5−2 半島情勢の緊迫化に対する倭の対応
魏志に「倭国乱れて相攻伐すること年を歴たり」、後漢書に「倭国大いに乱れ、こもごも相攻伐し、年を歴るも主なし。」と記されたのは、卑弥呼擁立の契機になった倭の混乱が、この時期にあった事を示している。但し魏志や後漢書が言う「倭」は、邪馬台国連合30国の事で、倭全体の100余国の事ではない。卑弥呼の擁立によって卑弥呼の傘下になったのは30国で、「女王国の東、海を渡って千余里(500q)にまた国あり、皆倭種なり。」と示されている倭人達は、女王には属していなかったからだ。これは関東にいた倭国王と、その統治下の70余国を示唆していると考えられる。
華北に商圏を持っていた倭人集団が30国で、寒冷化に伴う華北の経済的な没落が、その30国の交易量を激減させたから、商圏の再配分を求めたそれらの国々が、経済利害に関わる尖鋭な衝突を演じたのが、倭国の乱れだった可能性が高い。倭国王を戴いていた関東の倭人は、漢末に華北の商圏を北九州の倭人に譲った国々だったから、弥生時代末期に華北が寒冷化すると、淮河/揚子江流域のビジネスに傾注する様になり、東南アジアとの交易もあったから、華北の没落に伴う北九州の窮状に関心が薄かったと想定される。
この観点で史書の記述を追うと、この時代の流れが見えて来る。
107年に倭国王が後漢の皇帝に面会を求めた時点では、倭国王は華北交易の責任者だった。
後漢書は、「桓帝、靈帝の間に、倭国に大乱が発生した」と記しているから、遅くとも霊帝の最終年である189年には、倭国大乱が起きていた事になる。「桓帝、靈帝の間」は、天候の不順が重なって地方の反乱が頻発した時期として、後漢史上も特記される時期だから、後漢書の著者はそれを意識していたと考えられる。気候の寒冷化と言っても、気候変動は波動的に起きるから、150年頃から華北は急速に寒冷化し、それによって華北の奢侈品交易が壊滅したと想定される。それが華北交易主体だった北九州を直撃し、被害が大きかった30国が商圏の変更を求め、騒乱を起こしたと想定される。
魏志倭人伝は、「其の国は本亦男子を王として七八十年経ていたが、倭国が乱れた」と記しているから、倭国が乱れたのが180年頃だったとすると、倭国王は後漢朝に乗り込んだ直後に、邪馬台国の王に30国の統治を委ねた事になる。北九州の倭人が、朝鮮半島を経営しながら華北と交易を行う事は荷が重いから、30国と共に朝鮮半島の経営と華北の交易振興の面倒を見る様に、30国の統括権限を邪馬台国の王に委譲した事になる。邪馬台国の王は、倭国王になる資格を持つ血統者で、関東の倭国王家と並び立つ西の家系だった。
しかし統治に慣れていなかった邪馬台国の王は、環境が時の経過と共に悪化していく中で、30国の不満を制御し切れなくなり、180年頃に無秩序状態に陥った事になる。無秩序状態の期間は、魏志倭人伝も後漢書も歴年としか記していないが、後漢書は「卑弥呼は後漢書に記載するべき人」と見做したのだから、後漢最後の皇帝である献帝が魏の皇帝に譲位した220年以前に、卑弥呼は女王になった事になる。後漢は靈帝を最後に実質的な権力を失ったから、三国志魏志は、献帝を傀儡として魏王を称した曹操を魏の武帝とし、武帝紀から書き始めている。それを読んでいた後漢書の著者范曄は、卑弥呼の即位は靈帝の時代だから、後漢書に記述する価値があると判断したのであれば、卑弥呼は靈帝の時代に女王になった事になる。後漢書を素直に読めば、乱の発生から卑弥呼の女王即位までが、「桓帝、靈帝の間」に起こった事の様に読める。魏の使者が240年に邪馬台国を訪れた時、卑弥呼は「年已に長大」だったから、即位の年齢が12歳だったとして後漢書から算出される、63歳以上だった事と合致する。
卑弥呼の統治について魏志倭人伝は「鬼道を行い、衆を惑わす事ができる。男弟が国を治める事を補佐している。王になってから見た者は少ない。婢千人が自発的に侍している。唯一人の男子が飮食を給し、その言葉を伝えるために出入する。居処、宮室、楼観には厳めしく城柵を設け、常に武器を持って守衛している人がいる。」と記している。話し合いを重視する倭としては、異常な統治スタイルだった。卑弥呼が統治すための情報源や相談相手は、自発的に集まった千人の女性達で、唯一人の男性が諸王の請願を伝え、その回答を卑弥呼から得て諸王に伝えるという事で、指示される諸王は卑弥呼の顔を見ず、黙って卑弥呼の指示、即ち千人の女性達が決めた事に従った事になる。卑弥呼は30国の間の不和を解消する事を主命題としていたから、その様な統治を行った事になり、千人の女性達の中に、30国の各国の利害を代弁する者が居たと想定される。
卑弥呼が行動する建物は城柵に囲まれ、武器を持った者が守衛していたのは、卑弥呼の身に危害を加える者が出現する事を恐れていた事を意味し、卑弥呼の指示がある国にとって死活的な事柄を含んでいた事を示している。
この事から逆に連想すると、30国の統治を移譲された邪馬台国の男王は、話し合いによる調整を重視したから、混乱が収まらなかったと推測される。皆が苦境に陥っている中で再交渉を持ち出せば、出来るだけ良い条件を獲得するべく、皆が些細な事で言い合う事は、何時の時代にも変わらない風景だろう。邪馬台国連合の諸王は、話し合いでは解決できないと見切り、変更出来ない決定事実を宣告する者として、巫女の頂点にいた卑弥呼を女王に選定し、事態の収拾を図ったと考えられる。女性は断定的な表現を多用するから、女性を王にした事は、極めて合理的な発想だったとも考えられる。もう少し穿った発想に立てば、欲望を剥き出しにする男性の背後には、強い欲望を示している妻がある事も珍しくないから、巫女を通して女性を統括していた卑弥呼に、女性の綱紀の統制も求めた可能性もあるだろう。魏志倭人伝は、「卑弥呼は鬼道を事とし、衆を惑わす事が出来る。」と記し、卑弥呼が人々を迷信で騙した様な印象を与えているが、魏の使者は、倭の統治の仕組みも倭人の倫理観も知らなかったから、卑弥呼の統制力を理解する事ができず、その様に解釈したと考えられる。しかし諸王は卑弥呼に断固たる支持を求め、卑弥呼を支える女性達に適正な情報を与え、理不尽な指示が連発されない様に取計ったと想定され、迷信で惑わす事は期待していなかったと考えられる。
巫女の宣託を重んじる風俗は、稲作民と共有した文化だったと考えられる。文化を先導していた巫女は恣意的な神霊者ではなく、言葉の論理に従って物事を判断し、神懸かりを権威としてその結果を宣託する者だったと想定される。読心術や推論力、説明能力や人々を鼓舞する言葉使いが、巫女に求められていただろう。後世に古事記を創作し、源氏物語などの平安女流文学の基底文化を形成した者達だった。民衆を鼓舞したり考えさせたりする和歌を詠む事も、彼女達の活動の一端だったと推測される。卑弥呼はその能力に優れていたから、長い間邪馬台国連合を維持したと考えられる。魏志倭人伝が記す、「卑弥呼に自発的に仕えていた千人の婢」は、卑弥呼のブレーンになると同時に各国の利害を調整する、各国から集まった巫女だったと考えられ、卑弥呼だけが個人的に優れていたのではなく、その体制が時宜に適していた事も、政権が長期間継続した重要な要素だったと考えられる。卑弥呼の後継者も同様な女性だったから、倭人諸国の王達も、制度の優位性を認めていた事になる。
魏志倭人伝は、「女王国の以北に特に唯一人の大率を置き、諸国を検察している。諸はこれを畏れて憚っている。常に治伊都国で統治を行い、(中国の)刺史(州の長官)の如きものである。倭の諸王が京都(洛陽)、帯方郡(倭への窓口)、諸韓国に遣使し、及び(帯方)郡の使者が倭の諸国に至る場合は、皆津に臨んで搜露し、文書や賜遺の物を女王に伝送するから、差錯(食い違い)は許されない。」と記している。大率という職務は旧唐書にも登場するから、卑弥呼が設置したのではなく、昔から諸国を統括する職務だったが、その大率が華北や朝鮮半島との交易の窓口である伊都国にいて、大陸と倭の諸国の王との遣り取りを臨検し、その結果をすべて女王に報告していた事に注目する必要がある。卑弥呼は諸王の政治的な動きを、仔細漏らさずに監視していた事になるからだ。特に魏との遣り取りを全てチェックしたのは、AD57年の奴国の様に、抜け駆けして金印などを貰ったり、魏から不穏な働きかけがあったりしない様に、魏と倭の諸王双方を監視していた事になる。諸王の書簡は、朝鮮半島南部の諸国との間のものまでチェックしていた事に、何か重要な意味があったのかもしれないが、過剰な監視だった可能性が高い。半島の諸国からの贈り物や書簡がこのチェックから外れているのは、卑弥呼の統治下にない半島の王の贈り物や書簡を、勝手に開封したり検査したりする事は、失礼に当たると判断している様に見えるからだ。
卑弥呼と魏の交渉経緯を検証すると、邪馬台国連合が結成された段階で、朝鮮半島の処置は邪馬台国連合に委譲されたと考えられる。西の倭国王家にも、東の倭国王家に匹敵する権威があったからだと考えられ、卑弥呼はその家系の女性として、女王に選出された事になる。
倭人は半島南端に狗邪(くざ)韓国を作り、弁韓人や韓族と連携して朝鮮半島の秩序を維持していたと想定される。その最大の理由は魏志東夷伝の中で、高句麗の都までの距離は正確に記されているのに、半島南部の距離情報は、3倍ほど誇大情報になっているからだ。軍事を最重視していた漢民族が、その様な基本的な軍事情報を誤る筈はないから、漢民族の軍は、半島南部に侵攻した経験がないことを示している。魏志倭人伝は、朝鮮半島から九州までの距離を4〜5倍に誇張し、朝鮮半島と倭人の島は極めて遠いと魏の使者に宣伝した。その作戦の共通性から考えれば、朝鮮半島南部が倭の統治下にあった事は明らかで、魏志東夷伝は韓族が魏の統治下にある様に記しているが、朝鮮半島南部の距離情報を誇大に宣伝する事は、韓族も共犯でなければできなかったのだから、韓族も倭人の統率下にあった事になる。
秦末に半島南部に逃げて韓王を称した箕氏朝鮮の王統が絶えても、韓族には民族統合を目指す動きがなく、軍事的には烏合の衆だった。箕氏朝鮮は韓族の系譜ではなく、殷王朝に由来する統治者として韓族と濊族に君臨していたが、韓族も濊族もその統治に不満がなかった事が、その一つの理由だったが、半島南部は戦国時代から倭が統括し、入植した弁韓人と南下して来た韓族を保護していたから、その状態が弥生時代末期にも継続していた事も、大きな理由だったと考えられる。
弥生時代末期に半島南部にいた民族は、遼寧から南下して来た韓族が最も先住者で、春秋時代に山東の越の分派として弁韓人が入植し、秦末から漢代かけて半島北部に漢民族が侵入すると、それに押し出された韓族と一部の濊族が南下した。その様な複雑な民族構成の上に辰韓(半島南東部)には、秦代に長城の建設から逃亡して来た秦人もいた。楽浪郡を作って半島経営に乗り出した漢民族に対抗し、彼らの南下を阻止した指揮者は倭人だったから、倭人が韓族と濊族を纏め、弁韓人が彼らに鉄を支給して人口の増加と武装を支援していた。倭人と弁韓人は経済的な発展を重視し、小国の連合体制を基本的な政治体制にしていたから、韓族も濊族も辰韓人それを真似、地域主権体制を維持していたと考えられる。
韓族の地域集団の指導者は臣智と名乗り、王を名乗らなかった。魏志倭人伝も、卑弥呼が君臨した諸国には、王を名乗る者は記されずに、卑弥呼と狗奴国王だけが王を名乗っていた。倭人の世界では、この時代の王は小国の指導者の上に君臨する、上位の権威だった事を示している。
馬韓に月支国があってその王を辰王と言い、弁辰24国中12国は辰王に属すが、辰王はその12国の王ではなかった。辰王の位置付けが長い間議論されてきたが、これは倭や弁韓人の制度のコピーだったと考えられ、卑弥呼は女王だが30国を統治したのではないのと同じ様に、辰王は辰韓の王だったと考えられる。卑弥呼も辰王も諸国の利害調整に権限を持つが、諸国を支配する存在ではなかった。諸国の指導者が集まる会議を主催し、諸国を代表して対外外交に臨んだと想定される。辰韓は元々韓族の土地だったから、亡命秦人が辰韓に小国を建国した際に、韓族の月支国が統括国になったと推測される。月支国の土地だった辰韓に、亡命秦人が入植したのではなかろうか。
狗邪韓国が倭の出張国として、半島南部の諸国間の課題を調整していたと想定される。中華的な皇帝専制とそれを支える官僚統治とは異質な制度だったから、魏の役人には仕組みが理解出来なかった様だ。
魏志韓伝や倭人伝に、狗邪韓国の統治方法は記されていない事は、極めて不自然だと言わざるを得ない。朝鮮半島の南半分の統治者と、その統治方法を報告したものだから、政治的にも戦略的にも価値が高い情報だったと考えられるからだ。それについて幾つかの理由が考えられるが、特定する事は難しい。
その想定理由の候補の一つは、魏の使者が統治の仕組みを理解できず、報告書が曖昧で理解できなかったから、陳寿が記述を断念したという想定。二つ目は、報告書にはそれなりに記載されていたが、漢民族王朝の尊厳を棄損する内容だったから、陳寿が記述しなかったという想定。三つめは、陳寿は記載したが、最終的に魏志として世に出る以前に、晋王朝の史官が削除したという想定になる。魏志倭人伝の内容を精査すると、倭に派遣された官僚の報告書は極めて分析的で、状況の把握が適切だった事が分かり、陳寿はその報告書から実証的な結論を各所に導き出しているから、三番目の可能性、即ち晋の官僚が削除した可能性が高い。その様な例として、AD107年に後漢を訪問した倭国王と後漢の皇帝の折衝が、後漢書に記されていない事が挙げられる。後漢書の方が後で成立したから、これは先例ではないが、史書の性格を分析する材料になる。
6、魏と倭の交渉
邪馬台国連合は、日本列島の位置を秘匿する倭の規約を厳守し、組織的に魏の使者を騙したから、魏志倭人伝を解析しても邪馬台国の位置は分からない。邪馬台国は神戸〜伊丹の山裾にあり、尼崎は大阪湾だった。倭人国ではなかった狗奴国は、漢書と後漢書が記す東鯷人20余国の中核国で、奈良盆地南部〜和歌山にあり、奈良盆地中央部は湖沼だったと考えられる。
6−1、交渉経緯
倭国王は107年に華北を視察し、経済が衰退して交易が沈滞している華北の状況を目の当たりにし、その数年後に諸般の結論として、華北と朝鮮半島の商圏を再配分し、漢民族の朝鮮半島南下を牽制する任務を、西の倭国王家である邪馬台国の男王に依頼し、華北を商圏とする30国の統治に関する全権を委譲した。しかし寒冷化によって華北経済の劣化は年々深刻化し、30国は商圏の再分配に際して互いに醜い言い合いになり、武力抗争も発生した。
全員一致を目指して話し合いを主宰していた男の王には、諸国の意見を纏めることが出来なかったから、感情的な反目が年々募ったと想定される。184年に黄巾の乱が発生し、華北の情勢が更に悪化すると、諸王は従前以上の紛糾に発展する事を回避するため、188年に巫女を女王とし、神託で事を決し、議論による紛糾を避けようとしたと想定される。卑弥呼がそれに応えて対策を講じたというよりは、陸上の生活を仕切り、陸上では社会的に優位だった女性の、決断力と威圧力に期待されたのだから、卑弥呼の下に各国から指導的な女性が集まり、彼女達の合議の下に各国の女性達に、経済的な耐乏生活を要求すると同時に、男達の陸上での抗争を根絶させたと推測される。食料が不足していたわけではないから、女性達が仕切る分配の中で、各国の安寧が実現したと推測される。魏志倭人伝の記述もそれを示唆しているが、中華的な男尊女卑の価値観を持った魏の役人には、その仕組みは理解できなかったと推測され、倭の男女観として「女性には節度がある」「会議の席で女性と男性の区別がない」などしか記していない。これによって男性達が交易活動を止めたわけではなく、交易活動が完全な男性社会である事も変わらなかった。
黄巾の乱後に公孫氏が遼寧と朝鮮半島北部を支配し、帯方郡を作って南下の姿勢を示すと、公孫氏と倭の間に緊張関係が生まれたが、記録がないのでその実態は分からない。遼寧も寒冷化による農業の不振に苦しんでいた筈だから、公孫氏が南下意欲を持つのは必然の流れだった。韓族に対する公孫氏の武力的な圧迫が、激しくなっていたと想定される。238年に公孫氏が魏に滅ぼされると、卑弥呼はその年に魏に使者を送った。公孫氏と邪馬台国連合の関係が悪化していたから、邪馬台国連合の側に、魏に対する何らかの期待があった事が推測され、その前提として、公孫氏を挟撃する同盟的な関係の芽生えがあった可能性がある。しかし公孫氏が滅亡すれば、敢えて魏に朝貢する必要はなかった筈だから、邪馬台国連合の次のターゲットは、高句麗の排除だった可能性が高い。高句麗の軍事的な南下圧力を恐れていたのではなく、毛皮や皮革の販売者として華北で商権を争っていたから、高句麗の販売網を華北から排除したかったのではなかろうか。
240年に魏の使者を迎え、卑弥呼は「親魏倭王」の称号と金印を貰った。この頃倭人は漢字を知らなかったとする見解が流れているが、魏志倭人伝には倭人が漢字を使っていた事を前提とする記述が多数あるから、卑弥呼は邪馬台国が魏に送った書簡に記された、漢字名だったと考えられる。
卑弥呼は243年にも使者を送り、魏との親密さを増した。魏は呉との抗争に忙しく、朝鮮半島を南下する事に興味がなかったから、卑弥呼はそれを確認して喜び、再度使者を送ったのかもしれない。魏の圧迫がなければ倭の脅威は高句麗だけになるから、この頃の使者が倭と高句麗の確執を魏に話し、魏に高句麗を説得する様に依頼した可能性が高い。
魏は244年に高句麗の都を陥落させ、翌245年に、逃げた高句麗王を追って日本海沿岸まで攻め込み、朝鮮半島北半分を軍事的に制圧した。高句麗の王は沿海州や満州北部に散在していたツングース系民族である、挹婁の領域に逃げた。
魏の帯方郡の太守は、245年に卑弥呼の使者に軍旗を渡した。何の目的で軍旗を渡したのか、魏志倭人伝には書かれていないが、その趣旨を推測すると、東鯷人の中核国だった狗奴(くな)国を征服して邪馬台国に従属させる事を、柵封国の王である卑弥呼に命令したと想定される。魏の本音は、卑弥呼の依頼で高句麗を攻めたのではなく、魏の戦略として実施したのかもしれないが、それでであったとしても帯方郡太守は、卑弥呼の要望に応じて実施したと、恩を売る様に強調した上で、邪馬台国に軍事を督促したと推測される。
この直後に韓族が反乱を起こし、帯方郡の太守は戦死してしまう。魏志韓伝に「反乱を鎮圧した」と書かれているが、魏志は朝鮮半島南部の地理に疎い事を露呈しているから、鎮圧の実態は逃げた帯方郡の軍が楽浪郡の軍と合流し、韓族が占拠した帯方郡の郡衙を、辛うじて奪還しただけだったと推測される。寒冷化による人口減で、楽浪・帯方郡には大した兵力はなかったから、それ以上の事は出来なかった筈だ。
魏の高句麗討伐も韓族の反乱も、魏志倭人伝には記述がないが、だから関係ないと考えるのは早計だ。どちらもタイミングが絶妙であり過ぎるからだ。魏の高句麗討伐は、卑弥呼の依頼を意識しての事だった疑いがあり、韓族の反乱についても、魏の帯方太守に軍事を督促されて困惑した卑弥呼のブレーンが、狗邪韓国の倭人を通して韓族に窮状を伝え、韓族がそれに応えて帯方郡の郡衙を襲撃し、帯方郡太守を殺してしまったと想定される。軍事の督促は帯方太守の名で示されたから、太守を殺せば軍事の督促が霧散するという期待が、倭人や韓族にあっただろう。
郡衙を襲撃して太守を殺害する行為は、魏に反旗を翻す事を意味した。帯方郡の郡衙の備えは手薄だったかもしれないが、魏が発した征討軍が高句麗の首都を一撃で陥落させた直後だから、韓族にも相当の覚悟と目的があったと推測される。魏志にこれらの因果関係が示されていないのは、帯方郡や楽浪郡の太守が、それらの因果関係を報告しなかったからだと考えられる。太守の落ち度になると判断したからだろう。報告書に因果関係が記されていなければ、陳寿はそれを魏志に記す事はできなかった。
新任の帯方郡太守は、魏の皇帝の詔書を持参していたから、それを根拠に247年に再び軍事を督促した。今回は詔書があるから、皇帝の指令である事は明らかで、帯方郡太守の指示ではなかった。卑弥呼は帯方郡に使者を送り、狗奴(くな)国と戦争していると説明したが、帯方郡太守はそれを疑って檄文を作り、使者を邪馬台国に送り込もうとした。言い訳を信じていない雰囲気が、魏志倭人伝の行間からも漂ってくる。邪馬台国は本当に狗奴国と争ったのではなく、魏にその様に嘘の申告をしただけだったという辺りが、事実だったと推測される。倭人と東鯷人は、共同で移民事業を立ち上げている最中だったから、実際には小競り合いさえなく、魏の使者が邪馬台国に来ても、見せることが出来る戦闘場面は何処にもなかっただろう。此処に至って卑弥呼は死んだ。それ以外に、事態を収拾する方法が見付からなかったのだろう。
魏志倭人伝には、「卑弥呼が死ぬと男の王を立てたが、国中それに従わずに殺し合いをし、1千余人が死んだ」と書かれているが、それも倭人が魏の使者に語った創作物語だった疑いが濃い。それは魏の使者が見た事実ではなく、倭人から聞いた事だったからだ。卑弥呼の死後の混乱の中で、卑弥呼に魏への朝貢を勧めた者達の処罰や、台与を選出するまでの論争に時間が掛り、魏の使者の邪馬台国訪問を待たせたから、その言い訳を決める中で、中華的な価値観に迎合する為に、武力抗争を創作した可能性が高い。
卑弥呼の後継者として13歳の台与が選定され、新たに彼女のブレーンとなった女性達は、卑弥呼の従前の方針を変更し、魏との冊封関係を清算する事にした。その様な国際関係の方針変更は、諸王の合議で為されたと推測され、ブレーンとなった女性達は、その方針に従って台与と共に行動指針を決めたと想定される。魏にその言い訳をするために、卑弥呼の死後の確執が凄惨だった事を魏の使者に強調し、魏の要望に応えられなくなった言い訳としたと想定される。倭人は魏の領内の豪族と交易していたから、魏と関係が悪化する事は避けたかったが、男達の合議では、行動指針は立てられなかったと想定される。
台与は督戦に来た魏の使者と面接し、魏の使者は台与の前で檄文を読んだが、台与は豪華な贈り物と共に重臣を付け、丁重に使者を送り返した。この時の台与の言葉は重要な意味を持つ筈だが、魏志倭人伝はそれに関して何も記していない不自然さがあり、意図的な欠落を感じさせる。
卑弥呼が「親魏倭王」の金印を受領した時、魏は家臣になった褒美に、豪華な財物を卑弥呼に下賜したから、台与はその財物に優る超豪華な贈り物を、魏の皇帝に贈って皇帝の面子を立て、礼を尽くして臣下ではない事を示した。台与の部下が魏の使者を帯方郡まで送り、台与の部下はその足で魏の都まで来たと記し、魏志倭人伝は締め括られている。高価な魏への贈り物が途中で横領されることなく、確実に魏の皇帝に届いた事を見届け、魏の皇帝の受け止めを確認したのだろう。呉と激しい覇権争いを演じていた魏には、朝鮮半島をこれ以上南下する意図はなかった筈だから、台与の使者は、それを確認する使命を帯びていたと考えられる。鮮やかな外交交渉だったが、魏とは不穏な関係になったと推測される。その18年後の265年に晋が魏を簒奪すると、台与の使者がすかさず晋に朝貢したのは、華北政権との確執を解きたかったからではなかろうか。
やがて高句麗が復活すると、卑弥呼の外交の成果はすべて失われた。卑弥呼の登場によって西日本の30国の抗争は収まったが、外交的な成果は芳しくなかった様に見える。しかし卑弥呼が魏に使者を送った事により、魏志倭人伝が記され、後世に倭の事情を知らせることになった。それが卑弥呼の統治の最大の成果だった様に見える。
魏と邪馬台国の交渉に焦点を当てて歴史を概観したが、その背景にあった事を検証すると、この時代の魏と倭の交渉の意味合いがより鮮明になる。
この時代の魏は呉と広い境界で接し、壮絶な戦いを展開し、揚子江を挟む赤壁の戦い(208年)に大敗を喫していた。卑弥呼が「親魏倭王」に封じられた翌241年に、呉が大規模な北伐を行うと、魏は辛うじてこれを防いだ。呉との生存競争に危機感を募らせていた魏は、華南の河川に詳しい倭を味方にし、呉に対する新たな戦線とする方針が打ち出された可能性がある。その過程で、呉に朝貢している疑いがある東鯷人を、倭人に征討させる方針が決まったと推測される。それに成功すれば、魏は倭を先兵として海から、呉を攻撃する事が出来るという期待があっただろう。呉の都の健康(南京)は揚子江に面していたから、健康を攻略する夢を抱いていた可能性もある。
卑弥呼が「親魏倭王」に封じられた翌年の242年以降、魏と高句麗の関係は急に険悪になった。魏が卑弥呼の要求を高句麗に仲介し、高句麗がそれに反発した可能性が高い。高句麗が華北の一部の地域から販売網を撤退させるとか、ある地域の商売に関して倭の優先権を認めると言った様な、要求だったのではなかろうか。倭人は2千年間黄河流域を商圏とし、半ば独占状態だったが、そこに新興勢力として高句麗が参入して来たから、歴史を重視する漢民族王朝としての魏には、倭の言い分は正当な主張に見えた可能性が高い。魏も高句麗の言い分を、理不尽だと感じた可能性が高い。
魏は244年に高句麗の首都を攻め落し、翌245年に高句麗王を追って日本海沿岸まで軍を進めた。魏には正義があると考えていたから、魏の軍隊は強かったと考えられる。
その成果を以て、魏が卑弥呼に突き付けた要求には、誤解が含まれていた可能性が高い。魏が高句麗征討を決断する前に、卑弥呼の使者と魏との折衝があったと想定されるが、卑弥呼の使者の応答が曖昧で、魏が高句麗を抑えてくれるのであれば、邪馬台国も魏の要求を前向きに検討すると言う様な、玉虫色の回答だったのではなかろうか。魏にしてみれば、呉を弱体化する事が出来るのであれば、高句麗の都を陥落させる位の事は厭わない程に、危機感が高まっていた。高句麗は3万戸の小国だったが、倭は邪馬台国連合だけで20万戸あり、日本列島には100万戸の人口があったから、高句麗を滅ぼせば倭が味方になるのであれば、魏にとって十分算盤に合う話だった。
しかし卑弥呼やそのブレーンは、魏が高句麗の首都を陥落させるとは思っていなかった筈だ。魏が高句麗を抑えて倭に有利な裁定をしてくれれば、倭の交易量が増えるという程度の目論見で、魏に働きかけた積りだったと想定される。その見返りとして邪馬台国ができる事は、狗奴国に働きかけて呉に対する何らかの案を得る事が、卑弥呼とその取り巻きの腹積もりだったという事だ。卑弥呼のブレーンは、狗奴国が呉と対立している事を知っていたから、狗奴国から何らかの協力が得られる見込みはあっただろう。但しそれは諜報や謀略に関する事であって、軍事ではなかった筈だ。邪馬台国の使者が、呉と狗奴国の確執を知らなかった筈はないから、魏にそれを伝える事はできた筈だが、最後には邪馬台国が狗奴国を攻める話になったから、そこにも曖昧さを原因とする誤解があった可能性がある。狗奴国が呉に対する軍事行動を拒否した事が、誤解を含んで魏に伝わり、話を決定的に不条理なものにしたのではなかろうか。
何千年も平和だった日本で、卑弥呼は狗奴国を攻める意図など全くなかっただろう。狗奴国に頼んで、魏の要望の一部を実現して貰う事位しか考えていなかった卑弥呼に対し、魏は既成事実を作って倭に対応の進展を迫るという、思惑を秘めた作戦を実行した可能性が高い。それが高句麗の征討だった事は、魏が呉にどの程度追い詰められていたかを、示しているとも言えるだろう。
狗奴国は呉と緊張関係にあったが、華南で交易を続けなければならなかったから、卑弥呼の一切の依頼を、受け入れる余地はなかったと想定される。卑弥呼は切羽詰まってから狗奴国王に依頼し、そこで初めて、狗奴国と呉の冷たい関係の、実態を知ったのかもしれない。倭と東鯷人は移民ビジネスで交流し始めていたから、何かを依頼出来る関係だったのかもしれないが、東鯷人の華南での立ち位置を知らなかった卑弥呼の依頼を、狗奴国王は非常識だと感じただろう。
魏の高句麗征討に対し、卑弥呼から魏に提示していた「配慮の約束」には、何の具体策も無い事が、卑弥呼に突き付けられたと推測される。
卑弥呼が女王に擁立されたのは、低迷する華北の交易環境の中で、倭人国の利害関係を調停するために、卑弥呼の気遣いする優しい性格を評価されたからかもしれない。卑弥呼はその気質を発揮して仕える女性に接し、国内問題を処理する厳しい指示も、あの卑弥呼が発したのだからという事で皆の信任を得たが、それは大陸では、全く通用しない発想だったという見方もできる。卑弥呼のブレーンもまた、卑弥呼の意を汲んで同じ発想で物事を処理したから、魏もそれに騙されたとも言えるのではなかろうか。巫女は倭人だけと接し、倭人の感情を処理する事を使命としていたから、相手の情感を理解しながら諄々と説得する過程で、一時的に相手の立場に立つ事もあっただろう。倭人相手であれば、それは高度な交渉術として成立したかもしれない。しかし魏には、それとは全く異なった中華的な交渉術があった。どちらも相手から見れば、誠実とは言えなかっただろう。交渉は常に、その様な要素を孕んでいる。
いずれにせよ、異文化の誤解が進行して破局を迎えた。卑弥呼にとっても、自分が魏を騙している状態が進行している事を思い知らされ、問題解決のために苦闘しただろう。卑弥呼と魏との交渉の中で、魏は犠牲を払って高句麗討伐を行い、帯方郡の太守は韓族に殺された。それらを根拠に魏から責められても、言い訳出来ないと感じたのではなかろうか。
魏は帯方郡に、魏が既に官職を与えていた卑弥呼の腹心を呼び付け、最後通牒の様に軍旗を渡したが、その際に卑弥呼を罵倒する言辞を、彼に浴びせたかもしれない。その腹心が戻って卑弥呼にそれを伝えた時、追い詰められたと感じた卑弥呼は、自分の命で清算するしかないと決意したと想定される。
しかし魏は、それで納得する相手ではなかった。漢民族には水に流す文化はなく、恨みがあれば墓から死体を掘り返し、死体を鞭打つ文化だった。
卑弥呼は自害したと想定されるが、倭国王と共に東日本を差配していた巫女が、卑弥呼に死を命じた可能性もある。
魏志倭人伝は漢民族の立場で著述した史書だから、卑弥呼の不誠実さや過失が印象付けられる内容だが、そもそも論をすれば、倭に呉を攻める先兵になる事を求めるのは、極めて不適切な判断だった。しかし卑弥呼も現代日本人の様に、先ず自分の責任を考える人格だったのかもしれない。
卑弥呼が死ぬと径150m程の大きな塚を作り、「徇葬者奴婢百余人」と記されている。徇を使ったが、実際には「けものへん」の辞書にない漢字が使われている。卑弥呼の墓に葬ったのは、卑弥呼に仕えていた女性達だったと推測され、それを意味する漢字がなかったから、意味不明な漢字を使った可能性があるが、「けものへん」の漢字は、あまり好ましくない物や獣を意味する者が多い。罪人を徇葬したと言いたかったのだろうか。自ら卑弥呼の死を追った女性も、いたと推測されるが、彼女達も卑弥呼と同罪だったから、卑弥呼同様に咎を受ける必要があっただろう。倭には、重罪人は一族を滅ぼし、軽い物はその妻子を没す(奴婢にする)という異常に厳しい掟があったから、卑弥呼と一緒に葬られたのは、その様な罪人だったと推測される。
殷王朝の王墓には多数の惨殺遺体が埋められ、殷には殉死させる文化があった事が、発掘によって確認されている。魏志扶余伝に、「殷の正月に祭天を祭る」「(貴族が死ぬと)人を殺して徇葬し、多い者は百を数える。」と記している。この徇は、人を殺して貴人の墓に遺体を埋める事を意味した。魏志倭人伝は、「人が死ぬと喪に服し、その間肉を食べない。喪が明けると水に入って禊をする。」と記しているから、人や動物の死を穢れと考えていた倭人には、殉葬の風習はなかったと考えられる。
卑弥呼は乱れた30国に秩序を与え、最後の困難には死を以って打開策を遺したから、人々は卑弥呼の死を悼み、長期に亘った統治の業績に感涙し、前例のない立派な墓に埋葬したと考えられる。魏に対する体面上、魏の臣下となった事は罪ではないという見解を、魏の使者に表明するために、卑弥呼の立派な墓を魏の使者に開示したのかもしれない。
卑弥呼の墓には、「親魏倭王」の金印が埋納されている筈だと主張する人がいるが、卑弥呼を死に追い遣った魏を象徴する金印は、卑弥呼の墓には埋納されていないだろう。
以後邪馬台国と魏の関係は途絶える。魏から見れば、卑弥呼が魏を騙して裏切った事になるから、卑弥呼への憎しみから記録の名前を書き換えた疑いがある。
後漢書に記された倭国王の名が帥升で、これは称号だったと解釈したが、卑弥呼の擁立に際しての記述は「共に一女子を立て王と為す、名を卑弥呼と曰う。」だから、卑弥呼も所謂名前ではなく、その身分を示す呼称だった。従って帥升と同列に漢字の意味を解釈するべきか、対馬や壱岐卑の王の呼称である卑狗を後世の「ひこ」の原型と解釈し、卑弥呼も倭名の音を示す漢字だったのか判断する必要がある。
卑弥呼は呉音で「ひみを」と読むが、隋書は『倭王は「阿輩雞弥」(あほけみ=おおきみ)、王の妻を「雞弥」(けみ=きみ)と号す』としている。「雞弥」を漢音で読めば「けいび」になるが、「きみ」=「君」は当時の倭人の言葉だったと考え、倭国王の倭名は「あほけみ」だったと解釈されている。隋に朝貢した倭国王は呉音で自分の名を記述し、相手が何と読むか問題にせず、自分の慣用漢字を使った。卑弥呼も同様に尊称である「けみ」を使い、それを呉音で示していた疑いがある。
魏が名前の漢字を換える場合、同音で換えるか、王莽が高句麗を下句麗と蔑称した様に、意味を逆にした事が想定される。前者なら原文は「毘弥呼」の様な字で、後者なら「祁弥呼」「雞弥呼」(けみを)がそれらしい。「祁」は‘盛んに’とか‘大いに’という意味だから例として挙げたが、上の推論から「祁弥呼」(けみを)の様な漢字だったと考えると、仮説には整合性がある。末尾の「を」は尊称だったと考えられる。卑弥呼の後継者になった台与は、魏の使者に実名を名乗り、卑弥呼と違う事を魏の使者に識別させたと考えられる。台与も倭人からは、「けみを」と呼ばれていた可能性が高い。「君様」の様な意味だったと推測される。隋書は倭人の王名は襲名だった事を示し、新旧唐書もそれを示唆しているから、邪馬台国でも同様だっただろう。しかし確証はないから、以下では通名の卑弥呼を使う。
6−2、倭人の政治体制と国際関係
陳寿が倭人について詳しく記したのは、漢書地理誌に「東夷は天性柔順で、三方之外(異民族)と異なる。故に孔子は道が行われない事を悼み、海に浮を設け、九夷に居さんと欲した。以え有る也」と記された事に注目し、漢書では分からない九夷の素性は、倭である事を立証する為だったと考えられる。それ故に東夷伝の序の末尾に、「夷狄の邦と雖も、儀礼を心得ている国がある。中国が礼を失い、それを外から求めるのであれば、今でも信じられる者がいる。故に其の国の事を編纂し、其の(中華との)同異を並べ、以って前史の未だ備っていない所を補う。」と記した。
従って魏志倭人伝は、邪馬台国でどの様に道が行われているのか具体的に説明し、破格の文明国として描いている。
「女性は慎ましく、妬んで取り乱す事がない。」
「盗窃せず、諍いが少ない。」
「法を犯すと、軽い者は妻子を没し、重い者は門戸、宗族を滅ぼす。」
「人々は長寿。」
「身分秩序が厳格に守られ、身分の高いものにはそれに相応しい威厳がある」
「集会では男女の別なく振る舞い、子は父に従属しない」
「家は部屋が仕切られ、家族は別の寝室で寝る。」
「中国と同じ骨卜を行う。」
この他にも習俗に関する記述は沢山あるが、当時の中国の習俗が分からないので、どの様に比較・評価するべきか分からないが、秩序ある社会にはそのようなものがあると考え、並べた疑いがある。その候補として挙げられるのは「(戸数数千〜数万の)国ごとに市があり、国の高官がその市を管理し、人々は物産を交換している。」「人々は飲酒を好む。」「人が死ぬと10日間喪に服し、喪主は激しく泣いているが、その他の人は席に着いて歌舞飲酒する。」などがある。魏の使者の報告書の抜粋だから、陳寿の空想ではなかった。
倭では、中華にはない高度な秩序が実現されている。男尊女卑や身分秩序を掲げる中華と価値観や秩序観が異なるが、男女が対等でありながら女性は慎ましく、身分が高い者には威厳が備わっている事を特記している。魏の使者にはその理由が分からず、魏志の著者陳寿にも分からなかっただろう。魏志東夷伝の序文に、中華が乱れたら教えて貰う事もあるだろうと本音を記したのは、そのためだったと考えられる。
倭がこの様な文化を見に付けたルーツとして、東南アジアの海洋民族と、一体の文化圏を形成している事を指摘している。それについては縄文時代と弥生時代の各項で説明したので、ここでは省略し、以下の言葉を引用して置く。
「(邪馬台国は)その道里を計るに、まさに会稽東冶(福建省福州)の東にあり。」
「(倭人が)有無する所(交換するに足りる物産)は儋耳、朱崖(海南島の2郡)と同じ」
倭の歴史についても触れている。
「男子は身分にかかわりなく、皆黥面(顔面への入れ墨)文身している。古い時代より以来,其の使いの者が中国を詣でると、皆自から大夫と称す。夏后少康の子が会稽に封じられると、断髪文身して蛟龍(へび)の害を避けた(と漢書に記されている)が、今は飾りになっている。」
大夫は周代〜春秋戦国時代に、国の重臣身分を示す言葉だった。倭人は同じ言葉を、同じ意味として使っていた。小国が分立していた時代の制度だから、中央中堅的な秦・漢帝国が成立すると、中国ではこの呼称を使わなくなったから、倭人がこの言葉と制度を導入したのは、遅くとも春秋戦国時代になる。漢字とその意味はセットだから、倭は漢字もこの時期に取り入れていた事になる。陳寿はこの文章に続いて、倭王の家系は夏王朝に遡るのではないかと推測する文章を、付加している。これは越王の起源譚として、史記や漢書に記されているから、陳寿は倭が夏代に成立したと考えていた事が分かる。縄文時代の項で説明したが、夏王朝は荊と粤の合同政権として、その都を華北に置き、粤人が帝の系譜になったが、華北の粤は入れ墨をしなかったと考えられる。しかし粤の本拠地だった江南では、粤は東南アジアの海洋民族の内陸民になっていたから、海洋民族の習俗だった入れ墨は、江南では当り前の習俗だったと考えられる。東南アジアの海洋民族は、オリエントから倭までの広い地域の民族と交易し、漢代には製鉄文化も共有していたから、粤は先進的な海洋民族の文化を取り入れ、内陸の荊や漢民族に拡散していた。
史記と漢書は、入れ墨の習俗を夏后少康の子が受け入れた事の説明に窮し、漢書は蛟龍の害を避けたと理由付けしたが、陳寿はそれを疑っている事になる。縄文中期の土偶に、入れ墨の習俗の痕跡があるから、入れ墨の習俗の発祥は縄文人だった可能性が高い。
「有無する所」は交易する物産を指すが、この言葉が中国人の交易に関する認識を示す、独特の表現である事を指摘しておきたい。この認識は、自分の生活圏で自分の生活に必要な物資を作り、それが余れば市で他の物資と交換する事を、端的に示している。海岸で塩が取れれば、それを内陸に運んで交易し、鉄や銅を産地から運び出し、それを使って交換し合うす事が、中国人の考える交易だった事になる。有無の文字通りに、物産が無い地域から有る地域に運ぶ事が、中国人の交易だった。隋書に「倭には珍物多し」と記され、新唐書に「倭には怪珍あり」と記されている。この時代の珍は単なる珍しいものではなく、財貨に転じる価値を持つ貴重品だった。倭では元々自然界に存在しない物を、知恵を絞って工芸品に仕立て上げて交易品としたから、中国人には倭の物産が「珍物」に見えた。現在の産業社会では、自然界には決して存在しない製品を、科学技術を駆使して開発し、工業的に生産して貿易を行うが、穀物や鉱産物も貿易品だから、1次産品、2次産品として区別する。中国的な交易は農産物や鉱産物などの1次産品の交易で、倭人の交易は2次産品的な性格の強い商品だった事が、中国人の目にも判明できたという事だろう。創造的な工芸品を「珍物」と定義したと考えられる。
倭と大陸にこの様な差が生まれたのは、広い大陸の平原では、皆が同質の農耕を行う状態から始まり、自給自足的な農民社会が発展したのに対し、日本列島では漁民集団から倭人が生まれ、倭は交易を主導する集団として発展した。漁民は縄文時代から、船を作るために良質の素材や加工具を求め、交易のために矢尻に使う黒曜石の品質に拘り、大陸南部から新しい栽培植物を、シベリアからプラスチックの素材として骨や角を獲得するための、継続的な交易を必要としていた。船や道具の優劣は、漁獲高に直結していたから、製品の材質に拘る習俗が生まれ、その素材も高品質品を海外から得る事を習俗としていたからだ。中国に無い奢侈品を各種創り出す事は、その発展形だったと捉えることが出来る。倭人が交易に傾斜し、交易の活性化と倭人社会の繁栄が表裏の関係だった事は、歴史的な必然だった。
邪馬台国の政治体制として、卑弥呼の弟が補佐していたと記されているが、「邪馬台国は女王が都とする所」ではあっても、卑弥呼は基本的に男性と会わなかったから、男性が形成した海洋国家である邪馬台国を、運営する事はできなかっただろう。従って卑弥呼は、山対抗連合30国を統括したが、邪馬台国の王ではなかった可能性が高い。
邪馬台国の1番目の官である「いきま」は、実質的に邪馬台国王だから、卑弥呼の職位ではなく、卑弥呼の弟の職位だったことになる。2番目の「みまと」について考えると、他の国の2番目の官は「ひぬもり」を共通の名としていたから、卑弥呼か倭国王が派遣したと想定され、邪馬台国のその様な官位だったと考えられる。邪馬台国連合は発足後50年ほどで、倭の体制は500年以上の歴史を持っていたから、2番目の官は倭国王が任命した者だった可能性が高い。邪馬台国連合の邪馬台国以外の国の、2番目の官は卑弥呼が任命したかもしれないが、邪馬台国のその官まで、卑弥呼が任命したのでは、その趣旨に合わなかったのではなかろうか。
3番目の官は「みまわけ」だった。「わけ」は荷山古墳の鉄剣の家系譜に記され、「おおひこーたかりすくねーてよかりわけーたかはしわけーたさきわけーはてひ―かさはよ―をわけ」となっているから、「すくね」と「わけ」は何らかの職位か地位を示している事になる。「おおひこ」は関東に居た倭国王を指した疑いが濃く、王の中の大王になる事により、「ひこ」が「おおひこ」になったと考えられる。その次の「すくね」は、倭国王を邪馬台国系に譲った後の、宗家の呼称だった疑いが濃いから、宮家を意味した疑いがある。そこから続く「わけ」は、関東の旧倭国王家が北関東に稲作地を求め、次々に分家して行った様子を描いたと推測される。その後名前だけの身分に堕ちた数代の後、鉄剣の主は「わけ」に返り咲き、倭国王を助けて天下を「佐治」した。「をわけ」「卑弥呼=ひみを」が共に、「を」に何らかの尊称的な意味を持たせている疑いがある。いずれにしても、「わけ」が大夫=重臣を生む家系だったのではなかろうか。「みまわけ」は後世の漢字に翻訳すると、「御真別」だったのではなかろうか。
女王国の南に、女王に属さない狗奴国があった。
「其の南に狗奴国有り。男子を王と為す。其の官に狗古智卑狗(くこちひく)有り、女王に属さず。」
狗奴国は奈良盆地の南部、現在の御所市にあり、和歌山を湊としていたと考えられる。魏志倭人伝は諸国の王を「官」としているから、狗古智卑狗は狗古智国の卑狗だったと考えられる。狗古智国は狗奴国と並ぶ大国で、倭人が魏の使者に、両者の連合は強大だと説明したと想定される。想定される国としては、出雲が筆頭に挙がるが、丹波、越もその候補になる。
「狗奴国の男王卑弥弓呼」は、卑弥呼と極めて類似した名前だから、卑弥呼の名前に女性を示唆する要素はなかったと考えられる。隋書に「倭王はあほけみ=おおきみと号し、その妻はけみ=きみと号す」と記されているから、指導者名に男女の区別がない事は、一貫した倭人時代の慣習だったと考えられ、この事情と合致する。
6−3、魏志倭人伝が記す日本列島
弥生時代末期の倭について、魏志倭人伝がどの様に記述しているのか確認する。
「倭人は帯方の東南の大海の中に在り、山の多い島に依って国邑を為す。旧の漢の時に朝見する者が百余国あったが、今使訳の通じる所は三十国」
漢代に100余国が漢王朝の領土に来ていたが、今魏に来るのは30国だと言っている。日本列島に倭人の国が100余あるのかについての言及はなく、魏に来るのは30国だと言っている。その30国は卑弥呼の統治下にあり、邪馬台国は倭の南端にある。邪馬台国への道程は、本当は九州上陸以降東に向かうのだが、倭人は昔から中国人に、倭人の島は福建省の沖にあると言ってきたから、その辻褄を合わせに、邪馬台国は福建省の沖にあると思わせる必要があり、魏の役人を山中の森の中を引き回したり、船に乗せたりして方向感を狂わせ、南下して邪馬台国に着いたと勘違いさせた。
魏は華北を領有していただけだから、単純計算では70余国が、呉の領域で交易を行っていた事になる。寒冷化して華北経済が低迷していたから、交易先を寒冷化の影響が少なかった呉の領域や、東南アジアに変えた国があった事になるが、妥当な選択だったと言えるだろう。
「(帯方)郡から女王国に至るまで万二千余里」
この1里を100m未満だとする説があるが、同じ魏志東夷伝の中の高句麗伝で、「遼東之東千里」に高句麗があると記している。遼東(瀋陽)から丸都(集安)まで、直線距離で230qほどだから、山岳地の道程は400q=千里だったと考えられ、漢代の1里≒400mを使っている事に間違いない。
以下は実際の地理ではなく、倭人が魏の役人にどの様に嘘を言ったのかの検証になる。
馬韓を周回して狗邪韓国まで7千里=2800q、そこから海を渡るのに3千里=1200qだから、倭人の島の北端にある末盧国(唐津)から邪馬台国は、2千里=800q南にあった事になる。どの様に騙したのか分からないが、梅雨時を狙って魏の使者を招き、曇天の中で船を東に進め、晴れた日には南に向かって漕ぐ振りをするとか、潮の流れに逆らったから実は進んでいなかったとか、倭人なりに知恵を絞ったと想定される。
帯方の東南と言っても東に向かったのは、朝鮮半島の南端を2千里ほど東に行っただけだから、邪馬台国は帯方郡の南9千里=3600qにあると、倭人は主張した事になる。中国人が正確に知っていた地理は、東は帯方郡までだったから、倭人はそこを起点に距離を示し、魏志倭人伝もその様に記した。帯方郡の南9千里=3600qだとすると、邪馬台国はミンダナオ島にあった事になるが、遼東から丸都までの直線距離230qが、道程として400qになる感覚で考える必要があり、その比で3600qを短縮すると、邪馬台国は丁度台湾の東方沖にある事になり、「其の道里を計すると、當に会稽の東冶(福州)の東に在る」事になる。その正確さは、當にという形容詞を付けるに値する状態になる。軍事国家だった晋は、上記の換算で記された陸上の地図を持っていたから、その様な結論になった事になるが、倭人もまた中国式に換算した台湾までの距離を、正確に知っていた事になる。海上と陸上では換算率が違っていただろうし、中国全土の地図は晋の軍事機密として、倭人が見せてもらう事はなかった筈だから、倭人が計算した帯方郡から台湾までの実際の航路長が、その値だったと想定される。
帯方郡から唐津までの距離を極端に拡張したから、その分小さくした倭人の島は、「大陸からは切り離された海中の洲島の上に在り、或いは海が隔て、或いは連なる島の周囲は五千余里=2000q」と、実際の日本列島よりかなり小さな島になったが、中国の平原をほぼカバーする広さを表現していたとも言える。邪馬台国に着くまでに8か国を過ぎ、その総戸数は15万戸だったから、魏の使者としては邪馬台国連合だけで50万戸、倭全体では150万戸、狗奴国が指揮する東鯷人を併せると、倭人の島には200万戸=1千万人の人口があると考えただろう。晋が中国全土を再統一して得た総戸数は229万戸だから、倭全体では魏より大国だと考えたのではなかろうか。但し邪馬台国連合だけであれば、魏の方が人口は多かった。
この時代の日本列島の勢力分布を概観すると、神戸にあった邪馬台国を中心に、邪馬台国連合が30国あり、有力国として岡山に投馬国、北九州に奴国があった。漢書・後漢書に東鯷人と記された20余国の中心である狗奴国が、御所市と和歌山を拠点とし、その連合には出雲や越(北陸)の国々があった。その他の倭人国として魏志倭人伝は、
「女王国の東、海を渡って千余里(400〜500km)、また国あり。皆倭の種なり。」と記している。
神戸の東北東400qに横浜があるから、その辺りに倭国王がいたと想定され、倭人国70余国が統括されていた事になり、漢代に中国に出掛けていた集団は、それで網羅される事になる。魏の使者は倭人にそれらの国の消息を聞いただろうから、それが倭人の答えだったと言っても良いだろう。
但しこれが日本列島の全ての集団ではなく、大陸には出向かずに東南アジアの海洋民族とだけ交易していた集団として、九州南部に熊襲と隼人がいた。その様な集団の交易として考えられるのは、東南アジアから亜熱帯性の植物を先ず平地に導入し、交配したり高地で栽培したりしながら、耐寒性を高めてその種を西日本に販売する事ができただろう。九州には色々な種の柑橘類があるが、それはこの様な交易の名残である可能性がある。椿などの油を採る樹種やお茶の木も、分布は日本が突出した北限になっているから、対象品種だった可能性が高く、弥生時代にはそれらが、九州の物産だった可能性が高い。歴史的には養蚕も、その様な形で日本列島に拡散したのではなかろうか。それらの多くは、奈良・平安時代に中国から持ち込まれたと言われているが、それは倭人の歴史を抹殺した大和朝廷の、作り話だったと考えられる。
6−4 魏志を訂正している後漢書
南朝宋の官僚だった范曄は、宋に朝貢した古墳時代の倭人の情報を参考にし、後漢書東夷列伝を記し、魏志東夷伝の誤りを訂正した。その訂正の内容は多岐に亘り、正しい訂正と誤った訂正の他に、弥生時代には正しかったが古墳時代には違っていた事がある。
正しい訂正には、魏志倭人伝が「今使訳の通じる所は三十国」と記した部分を、「使駅の漢に通じる者三十許りの国」と書き換えている事が挙げられる。使訳は通訳を伴った使者を意味するから、使者は中国語が使えなかった事を意味するが、使駅は官設の交通手段である駅を使う者という意味だから、范曄が言いたかった事は、倭人は皆交易者であって中国語が堪能だから、西域から来た使者の様に、通訳などは使わないという事だろう。陳寿は内陸の人だったから、倭人に実際に会った事はなかった様だ。
弥生時代には正しかったが古墳時代には違っていた事として、弥生時代の倭人は絹布を中国に出荷していたが、古墳時代の倭人は会稽の市で絹布を沢山買い付けていた。魏志倭人伝は「蚕桑して緝績し、細い苧麻や高級な絹布を出荷する」と記しているが、後漢書倭伝は「土地は麻紵と蚕桑に適し、高級な絹布を織る事を知っている」と訂正している。三国志呉志は「徐福を引き取った者(倭人)は、会稽の市で高価な布を売っている。」と記しているが、後漢書は同じ事を復習的に記した文章に「人民(倭人)は時に会稽の市に至る。」と記し、布を売っているという記述を削除している。弥生時代は、大陸との交易を盛んに使用として、懸命に絹布を織って輸出していたが、古墳時代には移民事業で大儲けしていたから、会稽の市で派手に、絹布を多量に買い付けていたと推測され、范曄は驚きを以てそれを見ていた事になる。
誤った訂正について論説するのが、この節の目的になる。後漢書は、「九夷は倭の祖先である」と魏志東夷伝が行った論証を否定し、九夷は特定の民族の名ではないと主張したが、これは後漢書の著者である范曄の、認識不足だった可能性が高い。
その背景に、漢代の漢民族には事実の伝承があり、史記の記すところは嘘で、実は戦国時代まで越が最も文明国で、その背後にはより文明度が高い海洋民族がいた事を知っていたが、晋の滅亡によって華南に逃れて来た漢民族崩れの人達は、その記憶を失い、漢代の史官が作成した膨大な捏造書しか、知識の根源が無くなっていたから、范曄は知識が豊富な、文筆の徒になってしまっていたと考えられる。范曄にもその自覚はあったから、宋に朝貢した倭人に、彼らの先祖が夏王朝に朝貢したのか、聞いたのではないかと推測される。宋に朝貢した倭人は邪馬台国系の倭人、即ち縄文後期に大阪湾に入植した倭人だったから、その時代に関東の倭人が夏王朝に宝貝を納めていた事を、知らなかった可能性が高い。従って宋に朝貢した倭人は、彼らの祖先が夏王朝に朝貢した事実はないと、范曄の質問に答えただろう。それ故に范曄は誤解し、陳寿は魏志東夷伝を書いた頃に発見された竹書紀年を読んでいなかったか、読んでいてもその真意は理解していなかったと判断し、後漢書東夷列伝を以下の記述から始め、陳寿の論考を真っ向から否定した。薄く書いた部分は根拠が薄いから、読み飛ばしても論旨には関係ない。
『王制』(『礼記(らいき)・王制偏』)に云う、「東方を夷(い)と曰う」と。 「夷」とは「柢(てい/「根」のこと)」なり。 仁にして好生(すばらしい生きざま)、萬物は地に柢して(=根をしっかりと張って)出ずと言う。 故に天性柔順、道をもって御(ぎょ)し易し。 君子・不死の國有るに至る。夷に九種有り。 畎夷(けんい)・于夷(うい)・方夷(ほうい)・黄夷(こうい)・白夷(はくい)・赤夷(せきい)・玄夷(げんい)・風夷(ふうい)・陽夷(ようい)と曰う。 故に孔子は九夷に居らんと欲せしなり。
この文章も魏志倭人伝と同じく、漢書地理誌燕の条の「然るに東夷は天性柔順で、三方(西、北、南)の外(の民族)と異なる。故に孔子は道(徳)が行われないことを悼いたみ、浮を海に設け、九夷に居さんと欲した。故ある事だ。」を強く意識している。しかしここに記された孔子の言葉は明らかに、九夷を東夷の中の特定の民族としている。論語にも、「子、九夷に居らんことを欲す。或るひと曰く、陋しき(いやしき)ことこれを如何せん。子曰く、君子これに居らば、何の陋しきことやあらん。」という文があり、その想定を確かなものにしている。竹書紀年には淮夷などの夷が沢山登場し、夏王朝の諸侯が統治していない民族を夷と呼んでいた事は間違いなく、その様な夷の一つとして九夷も登場するし、ほぼ同時期に「九苑を伐つ」という記述もあるが、苑を使った民族名は他にはない。数詞を夷に関する用例は、周代に四夷来賓と記されている以外には記述がなく、この場合には民族名なのか4人の夷が来たのか判然としない。竹書紀年に記されている夷は、記載順に淮夷、黃夷、于夷、方夷、馮夷、畎夷、白夷、玄夷、風夷、藍夷、昆夷、伯夷があり、12の夷が挙げられているから、夷に九種有りは偽りだと言わざるを得ない。竹書紀年には、諸夷を王門で賓したという記述もあり、九夷を夷の集合と解釈する事の難しさを示している。更に言えば、九夷は九夷来御という表現で一度だけ出現するが、この表現を使った例は他にはなく、夏王朝も殷王朝も来朝者には賓を使っているから、破格の表現であり、九夷の方が上位者である事を示唆している。夏王朝に宝貝を持ち込み、銅本位制の宝貝貨の制度化を指導した集団を、夏王朝の宮殿に迎えるに相応しい表現だったと言えるだろう。他の夷にはこの様な表現はしていないのだから、九夷は夏王朝にとって特別な集団だった事は明らかで、民族名だったと解釈せざるを得ない。
殷周革命時の周武王の事績として、王、西夷諸侯を率いて殷を伐つと記述されており、竹書紀年の夷は異民族を広く指したのであって、東方の異民族だけを指したのではない事を示している。礼記(らいき)の成立経緯は明らかではないが、漢代の捏造書である事を示唆している。范曄はその様な文章に埋もれて判断を誤ったと考えられる。その背景には、北方の異民族に華北を蹂躙されている現状を憂える、華南の亡命漢民族の口惜しさがあった事は想像に難くない。その様な場合に民族主義、漢民族至上主義に走る事は、必然的な流れだったとも言えるだろう。
范曄のその様な誤りを促した根本に、漢書地理誌が「東夷は天性柔順で,三方之外に異なる。故に孔子は道が行なわれない事を悼み,海に浮を設けて九夷に居さんと欲した。」と記している事も挙げられる。漢書地理誌がこれを記した目的は、東夷は漢帝国の外の民族であり、九夷もその中の一つであると記したが、それは倭を中華圏外の民族であると印象付けるための、漢書の策謀だったと考えられる。春秋戦国時代の倭は、稲作民が主導する中華圏の内部の民族だったから、漢代の中国人はその記憶を維持していたと考えられ、それを否定するプロパガンダだったと考えられる。陳寿はそれを指摘したかったが、同じく文筆の徒であった陳寿には証拠が不足し、東夷伝の記述に留まった様に見える。
以上から言える事は、漢代の史官は司馬遷を筆頭に歴史の捏造に奔走したが、後漢王朝が滅亡するとその呪縛から溶け出した人が出現し、その筆頭が陳寿だった。しかし華北政権が滅んで漢民族が華南に逃亡し、亡命政権を作るに及び、本音で語り継がれてきた歴史認識は忘れ去られ、漢代の史官が作成した捏造史が唯一の知識になり、以降の中国の史書は劣化していく事になった。
中華の歴代史官の中で、最も理性的だった陳寿が魏志倭人伝を記述した事は、卑弥呼が倭の慣例を破って魏に朝貢した事と相俟って、極めて稀な僥倖が重なったと言える。その僥倖によって貴重な魏志倭人伝が生まれた事になる。
翻って中華を見る際に、後漢書は別の意味で重要な意味を持つ。范曄が後漢書を執筆したのは、漢民族の復活を願っての事だった事は、議論の余地はないだろう。南朝は、華北を北方民族に蹂躙されている状態で、華南に逃避した漢民族によって作られた政権だったからだ。しかし范曄の希望は空しく、南朝は華北に樹立された鮮卑族の王朝に征服され、隋・唐王朝が成立し、それが倒れてもやがてトルコ系の宋、モンゴル系の元と征服王朝が続き、明になって漸く民族政権になったが、それも満州族の清に征服された。中華思想は民族主義を鼓舞する事はなく、民衆は漢民族の統治より、異民族の統治を選択した事になるからだ。
歴史的にそれを評価すると、中華王朝は古の政権である五帝時代の統治を懐かしんでいたが、それは漢民族の統治ではなく稲作民の統治時代だった。漢民族は稲作民から武力で政権を奪い、稲作民的な統治思想を中国から追放し、歴史を捏造して自分達の統治を正当化したが、その様な漢帝国は脆く崩壊し、それ以降中華思想に基づく統治は行われなかったのだ。むしろ征服王朝が時間を経て中華思想に染まると、その征服王朝が崩壊してしまう過程を、何度も経験したという事ではなかろうか。
結論として言えば、中華民族が中華思想を根拠に、中国を統治する事はできない事になる。此処で云う中華思想は、文章として形成された尤もらしい思想ではなく、極めて土俗的な中国人の発想と捉えるべきだろう。
南朝宋に朝貢した倭国王「武」は、「東の55国を征し、西の66国を服属させた。」との記述を含む文章を、宋に提出した。その合計の121国は、倭の100余国と東鯷人の20余国の合計に限りなく近いから、日本列島にあった交易者の国の数は、漢代から古墳時代前期まで、殆ど変わらなかった可能性が高い。東西の国の数を見ると、当時の倭国の所在地は関東ではなく、畿内だった事が分かる。大阪湾岸に巨大古墳を遺したのは、この系譜の倭国王だった事になり、古墳時代前期の倭国王は、卑弥呼を輩出した邪馬台国系譜だった事が分かる。
邪馬台国の30国と東鯷人の20余国を合計しても50余国だから、倭国王「武」が申告した「西の66国」には達しない。後漢に朝貢した奴国の使者は、奴国は倭の中では最も南の国だと主張した事と併せて考えると、西日本には邪馬台国連合に属さなかった倭人の国が、少なくとも16国あった事になる。東鯷人の国は北陸を含み、邪馬台国連合の中に東日本の国が含まれていたとすると、西日本の20国以上の倭人国は、邪馬台国連合に属さなかった事になり、邪馬台国連合は西日本の倭人国を網羅しているわけではなかった事になる。
6−5、邪馬台国の位置を騙した倭人、騙された魏の使者
「(邪馬台国は)その道里を計るに、まさに会稽東冶(福建省福州)の東にあり。」と魏志倭人伝に記されているのは、倭人が魏の役人を騙したからだ。その具体的な手口は分からないが、地理と潮の流れを熟知した倭人が、海について無知な大陸人を組織的に騙す事は難しい事ではない。周到な準備の後にその計画が実行されたと想定される。
日本列島が朝鮮半島の南端から直近の距離にあり、そこから東北に延びている事が漢民族に知られれば、朝鮮半島南端だけでなく、黄海や日本海を経て倭人の島に行ける事が露見し、宝の島と宣伝してきた日本列島に、漢民族が侵攻して来る恐れがあった。倭人はその様な事態を極度に恐れていた事を、現代人は理解する事ができる。明治以来の日本の大陸政策や、直近の韓国への優遇などは、皆同じ恐怖感に由来しているからだ。
燕が大国化した戦国時代に、倭人はその政策を推進し始めたと考えられ、山海経に記された「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。」という地理観は、この時代の倭人は既にその様な偽情報を、大陸人に与え始めていた事を示している。東南アジアの海洋民族に支援された越が、山東半島の沿岸に入植して瑯琊を都にし、その分派が弁韓にも入植していた時期だから、その様な偽情報を越が否定したのではないかという疑念が生まれるが、越もその同盟に加入していた可能性が高い事を、漢書地理誌/粤の条が示している。そこに記された、東南アジアの海洋民族の中核国である黄支国に至る海路は、1年もの旅程を必要とするという偽情報と、途中の国に一旦上陸して陸路を経た後に、再び長い海路を経なければ辿り着けないという、虚偽的な経路設定に共通性があるからだ。黄支国はジャワ島かスマトラ島、或いはマレー半島にあったと想定され、倭人と同等の性能を持った船であれば時速10qは出せたのだから、最長数千qのその航路の旅程は、最大2か月で十分だった筈だし、途中陸路を経なければならない理由もない。
倭人が魏の使者を邪馬台国まで案内した経路も同様で、帯方郡から1万2千里=5000qもある筈はなく、朝鮮・対馬海峡が1200qもある筈もない。唐津で上陸して魏の使者を奥深い山中で引き回し、大きな島を横断した様に見せかけて伊都国や奴国がその島の反対側にあるかの様に騙し、そこから更に陸路経て周防灘で再び乗船し、回路邪馬台国に向かっている。
海上での航行術を持たない漢民族に、航路が長大であると宣伝する事が、彼らの侵略欲を防止する最善の策になる事は、疑念を差しはさむ余地がない真実だろう。しかし両海洋民族はそれだけでは安心せず、その航路の中間に陸地を挟み、仮に船を仕立てて侵攻する意欲を見せ、途中の島に上陸できても、次の海には渡る船がない事を示している。これは漢民族の侵攻を思いとどまらせる戦略としては、完璧だったと言えるだろう。この戦略に従って漢民族に旅程を提示したのは、東南アジアの海洋民族は漢代で、倭人はその400年後の魏代だから、漢民族の危険性に乗じ晒されていた越が、それを防止するために戦国時代に策定した幾つかの対策の中の、一つの戦略だったと考えられる。邪馬台国がこの戦略の発案者ではなかった事は間違いないが、真の発案者は、越と共存していた東南アジアの海洋民族だった可能性が高い。従って越が倭人のこの戦略を黙認したのではなく、むしろ越が、倭人に推奨した戦略だった可能性が高い。魏志倭人伝に記された朝鮮半島南部の地理は、実際より3倍も大きく記述されているが、それは倭人が立てた戦略だったのではなく、陸上での戦闘に慣れた越が、その分派だった弁韓人に与えた、越の戦略だった可能性が高いという事だ。
倭人は秦漢代の稲作民の、悲惨な末路を見ていた。越は大陸から追い出されただけでなく、安全だと思っていた海南島も漢代に侵攻され、越南は後漢代にも侵略された。後漢書/南蛮西南夷列伝には、「凡そ交阯の統治する所、郡県を置くと雖も言語が各々異なり、重譯して通じる。人は禽獸の如く、長幼の別無く、髻を項き、徒跣(はだし)で、布を以って貫頭し、之を著る。」と記されているから、後漢代になっても粤は貫頭衣を着て、海洋民族の習俗を継承していた事になり、中国南部は粤の居住域だった。後漢書は粤の様な嘗ての文明人を、人は禽獸の如く長幼の別無くと記し、漢民族文化至上主義的に断罪している。史記を記した司馬遷の様な、一群の漢王朝の史官が、漢民族至上主義のプロパガンダを拡散したが、漢民族が華北を占拠していた時代には、それは捏造だと知っていた人も多数いたが、亡命漢民族が南朝を建国した時代にその本音が失われ、その後の漢民族を支配した漢民族至上主義を、作り上げてしまった姿を、此処に見る事ができる。言語が各々異なり、重譯して通じるという様な状況で、漢民族が交阯を支配した理由さえも判然としない。征服欲に駆られていた事は間違いなく、武力の及ぶところは全て征服しなければ済まない、即ち民族の共生を全く顧慮しない漢民族の習性を、如何なく示しているのではなかろうか。後漢代の交阯は漢書地理誌が示す粤の地で、現在の湖南省南部から広西チワン族自治区以南を指す。
反乱が起こって鎮圧された事情が記されているので、以下にそれを掲げる。
建武十六年に、交阯の女子である徵側と其の妹徵貳が反し郡を攻めた。徵側は麊泠県の雒將という官職の者の女(むすめ)也。嫁して朱觏人である詩索の妻と為り、甚だ雄勇だった。交阯の太守である蘇定が法を以って之に繩をかけた。側は忿り、故に反し、九真、日南、合浦の蛮里が皆これに応じた。凡略六十五城が自立して王を称した。交阯の刺史と諸太守は、僅かに自分を守る事ができただけだった。光武帝は長沙、合浦、交阯が具えていた車船を招集し、道や橋を保修し,障害になる谿を通じさせ,糧穀を蓄積した。十八年に伏波將軍馬援と樓船將軍段志を派遣し、長沙、桂陽、零陵、蒼梧の兵万余人を挑発して之を討った。明年夏四月に援軍は交阯を破り、徵側、徵貳等を斬った。その他は皆降散し、九真の賊都である陽等に進擊し、之を破って降し。其の渠帥だった三百余口(人の別称)を零陵に引き立て、これによって領地は悉く平定された。
法を以って之に繩をかけたというのは後付けの話で、現地人を末端役人にし、重税を課したり恣意的な横暴を繰り返したりしていたと想定される。援軍として挑発された長沙、桂陽、零陵、蒼梧の人達の出自は、荊だったのか漢民族だったのか分からないが、遠方の異民族を挑発して兵士にし、異民族の反乱を鎮圧するのは帝国主義政権の常套手段だが、ここでもそれが使われている。挑発された兵士は家族を故郷に遺しているから、反抗したり逃亡したりする事ができない。それが武断主義の中華帝国に支配された民族の、宿命だった。
その様な運命を辿りたくなければ、漢民族の侵攻を免れる手段を採用する必要があると、倭人も考えていただろう。漢民族に対する倭人の恐怖は、戦国時代には発生していた事が山海経から読み取れるが、秦・漢帝国が成立して稲作民が迫害される状況を目の当たりにし、その確信を深めただろう。海が唯一の障壁である事を十分理解していたから、それを有効に活用するためには、倭人の島は遠すぎて行けないと、中国人に思い込ませる必要があった。倭人は組織的に大陸でその様に宣伝し、魏の使者を倭人の島に招待した際に、策略を使ってそれを確認させた事になる。倭人は杞憂を抱いていたわけではなく、三国時代の呉は、実際に倭人の島に遠征する積りで、1万の兵を海上に派遣して人狩りを行った。
魏の使者に適用した策略の詳細は、(6)魏志倭人伝に示される倭人に示したが、その周到さに、倭人の杞憂の深さを読み取る必要があるだろう。
前漢の武帝が朝鮮半島に4郡を置いた時、真藩郡は半島南部にあったとする説があるが、それは正しくない。中国人は半島南部の里程を、実際の3倍に誇張した情報しか持っていなかったからだ。里程は重要な軍事情報だから、軍が侵攻すれば正しい情報を持った筈だが、実際には軍隊が入らなかったから、正しい情報がなかったと考えるべきだろう。戦国時代から漢民族の南下を阻止する力を働かせ続けていなければ、鉄器を持った漢民族が、より農耕に適した半島南部に、徐々に寒冷化していた漢代以降に、侵攻しなかった筈はない。
戦国時代から漢代の漢民族の南下は、倭人が半島に出向いて阻止したと推測され、その事情を、北九州の甕棺に埋葬された手負いの死体が示していると想定される。
魏志韓伝に、「(朝鮮)侯の準、既に僭号して王を称していたが、燕の亡人である衛満の攻撃する所となり、其の左右の宮人を将いて走って海に入り、韓地に居して自ら韓王と号す。その後血統は絶えたが、今の韓人には猶その祭祀を奉じる者有り。」と記されているが、「宮人を将いて走って海に入った」のは、倭人が箕準とその宮人を、船で馬韓に逃れさせた事を示している。当時の韓族には、海上を航行出来る船を作る技術はなかったと考えられるからだ。従って侯の準が漢民族の南下を防いでいたが、衛満の攻撃に耐えられず、共に戦っていた倭人と共に、倭人の船で馬韓に逃げざるを得なかった事になり、元々は朝鮮半島全体を守っていたのだが、秦末漢初に半島北部は漢民族に蹂躙された事になる。
衛満率いる漢民族が鉄の武器を持っていたのに対し、箕氏朝鮮が持っていたのは石の武器だったから、戦闘にならなかった疑いがある。考古学的発掘によれば、燕に対する朝鮮半島の武器は遅れていた様だ。
箕氏朝鮮を打ち破った漢民族は衛氏朝鮮を樹立し、寒冷化し始めた遼寧北部から半島北部に漢民族を南下入植させたが、武帝が漢軍を派遣して彼らを征討し、漢帝国の領土にした。これは漢民族の、際限ない征服欲の表出だったと考えざるを得ない。彼らが得たい朝鮮半島の財貨としては、中国人が翡翠と呼ぶ透閃石が、遼東半島で採取できた。従ってそこを領有していた韓族を征服したのであれば、未だ話は分からいでもないが、ピョンヤンを郡衙とする楽浪郡を設置する根拠は見当たらない。
魏志韓伝に「瓔珠(連ねた玉)を財宝とし、衣に綴って飾りとし、首に掛けたり耳に垂らしたりする者がいる。金銀錦繍を価値ある物としない。」と記されているから、箕氏朝鮮は遼東半島で採取出来る透閃石を加工し、玉器を製作する工人集団だったと想定される。衛満はその財貨を狙った盗賊集団だったが、箕氏朝鮮の穀倉地帯だった大同江流域も制圧すると、そこを拠点に仲間を呼び集めたのではなかろうか。漢民族の優良農地への入植の際に、韓族が放逐された事は推測に難くない。
漢の武帝は、その衛氏朝鮮を瀬等するために軍を派遣したが、その南下には倭人と共に、鉄器で武装した韓族と濊族、及び弁韓人が立ち向かい、半島南部への侵攻を阻止したと考えられる。
倭人は箕氏朝鮮の敗亡以降、漢民族の一層の南下を恐れ、友好的だった韓族に鉄器を支給して森林を開拓させたり、武装させたりしたと推測される。箕氏朝鮮や韓族には、自ら鉄器を入手する手段が無かったからだ。そうは言っても、弁韓に粤の製鉄集団を招き入れるには、時間が掛ったと想定される。魏志韓伝が示す韓族の生活振りは、鉄器時代になってからあまり時間を経ていない、未開的な状況を示しているからだ。従って漢代の倭人が供給した鉄器は、他の地域から朝鮮半島南部に持ち込んだと考えられる。山東半島に越があったから、そこから得られたと考えられるが、持ち込む鉄では量が不十分だったので製鉄民を弁韓に入植させ、韓族に鉄器を大量に供給したと想定される。それは後漢代になってからではなかろうか。従って入植した製鉄集団は、東南アジアの島嶼から来たか、日本列島に入植していた製鉄集団の一部の、再入植だった事になる。
以上の前提で魏志韓伝を読むと、漢の軍隊の南下を阻止したのは韓族だったが、それを指揮したのは狗邪韓国の倭人だったと推測される。魏志韓伝に「弁辰(弁韓)の国は鉄を出荷している。韓、濊、倭、皆従ってこれを取る。諸々の市で売買するのに皆鉄を用いている様子は、中国で銭を用いる如し。又その鉄を二郡(楽浪郡と帯方郡)に供給している。」と記されているのは、製鉄集団が商売としてではなく、韓、濊、倭(狗邪韓国)に無償で提供している事を、皆従ってこれを取ると表現していると推測される。魏の使者にも詳しい事情が分からなかったから、この様な表現になったのではなかろうか。余った鉄を楽浪郡と帯方郡に供給していたのだから、当時としては高い生産力を示していた事になるが、魏の役人の感覚としても、韓族と濊族にそれを購入できる財力があったとは考えられなかっただろう。
中国の奥地から秦代に逃亡し、大同江流域にいた秦人の一部が、その後辰韓に移民して辰韓人になったが、彼らは漢王朝の統治を嫌って韓族に味方し、その報酬として、韓族の土地だった辰韓に入植したと想定される。
以上を纏めると、漢代・後漢代の倭人と弁韓人は、韓族や辰韓人や半島南部にいた濊族に多量の鉄器を支給し、森林に覆われた馬韓や辰韓に農地を拓かせ、圧政に苦しむ楽浪郡や帯方郡の韓族や辰韓人を南下させ、漢民族が浸入しない安全地帯を、半島南部に形成していたと想定される。
邪馬台国に派遣された魏の使者は、狗邪韓国の倭人が半島南部の秩序を維持しているのを見て、報告書にその様に記した可能性が高い。一方楽浪郡の太守は、韓族に印綬を下賜して支配下に収めたと勘違いし、毎年郡衙に挨拶に来る様に指導したと成果を報告した。陳寿は両方の報告書を見比べ、事実を理解した筈だ。
陳寿は韓伝に、帯方郡太守の報告書を採用し、魏の使者の狗邪韓国に関する報告書を、握り潰した様に見える。倭に関する情報を正しく史書に記すのであれば、狗邪韓国の半島に於ける位置付けや役割は、魏にとって戦略的に重要な情報だから、沢山の文章を使って狗邪韓国の事情を記さねばならなかった筈だが、それが全く欠落している事は極めて不自然だ。魏から邪馬台国に出向いた使者の報告書が、陳寿が記述したくない内容に満ちていた事は事実だったかもしれないが、魏志倭人伝として遺された文章には、正確さを求めている筆致が見え、狗邪韓国に関する報告書を、陳寿が握り潰したとは考え難い印象がある事は否めない。 
 
魏志倭人伝が描く倭

 

魏志倭人伝は、三国志/魏志/烏丸・鮮卑・東夷伝/東夷伝/倭人伝という階層になっている。220年に後漢が滅んだ後、中国は魏、蜀、呉の三国に分裂して互いに抗争し、魏を簒奪した晋が280年に中国全土を統一した。三国志は、三国時代が終焉した直後に成立したので、同時代資料として資料価値が高い。著者の陳寿は東夷伝に序文を書いている。以下はその結びの意訳。
「魏が遼東を支配していた公孫氏を滅ぼし、更に奥深く日本海まで征討したので、(東夷の)各民族について詳しく知る事になった。夷狄の邦といえども儀礼は心得ているから、中国が乱れたら彼らに教えてもらう事もあるだろう。新しく分かった東夷の国の特徴を区分けし、今までの歴史書に欠けていた処を補う。」
儀礼を心得ている夷狄の邦が、何処なのか示していないが、東夷伝を読めば倭しかない事が分かる。陳寿は中国史上初めて、倭人の島に関する記事を正史に上梓する名誉を手にし、上記の文章が生まれたと推測される。魏の皇帝の使者が倭人の島を訪れ、その報告に接した魏代の中国人は、倭人の島の様子を知る事が出来たが、それ以前の漢民族にとっては、倭人は太古の昔から海を支配し、高価な物産を携えて交易に来るが、どの様な島に住んで、どの様な生活をしているのか全く知らない状態だった。
東夷の民族名を「扶余」「高句麗」「韓」などと書いているが、倭だけを「倭人」と書き、東夷各国の中で一番長い文を使い、軽い尊崇の気配を感じさせる記述になっている。魏志倭人伝は後世の正史の参照文献として、長らく引用され続けた。史官であった陳寿は、それを予測していただろう。漢民族の王朝の史書は、倭人を中華と切り離そうとはしたが、蔑視はしていなかった事が分かる。倭人も夷狄だとして蔑視したのは、漢民族を征服した鮮卑族の隋朝以降の事になる。
漢書地理誌は、燕の項目として倭人について記す前に、「東夷は天性柔順で、三方(南北西)の外(の民族)と異なる。故に孔子は(中国で)道が行われない事を悼み、海に浮(船)を設けて九夷に居さんと欲した。理由があることだ。」と記した。九夷は倭などの、日本列島の海洋民族を指すと想定される。魏志倭人伝が倭の治安の良さを特記しているのは、陳寿がこの認識を受け継いでいたからだと推測される。魏志倭人伝は、孔子の言葉を裏切らなかった倭人社会を描写している。それ故の、東夷伝の序論なのだと考えられる。
この様な、歴史的に重要な内容を含んでいる魏志倭人伝だが、現代日本人の関心が、邪馬台国が何処にあったのかという事にだけ集中しているのは、非常に残念だ。邪馬台国への里程が不可解だから、論争が高度なミステリーの読解として、持て囃されている様だ。しかし魏志倭人伝だけを読んでも、邪馬台国の位置は分からない。
邪馬台国の位置に限らず、倭人の島の地理に関する歴代史書の情報が、極めて曖昧で正しくないのは、倭人の文明度が低かったからではなく、倭人が中国人に正しい情報を与えず、それ以前から中国人を騙していたからであり、その方針の継続として、魏の使者を積極的且つ大胆に騙したからだ。騙し続けていた理由は、野蛮な漢民族の侵攻を未然に防ぐために、倭人の島への航路を秘密にし、倭人の島は大陸から遠く離れているから、航海術が未熟な中国人には渡航出来ないと、中国人に思い込ませたかったからだ。漢書、後漢書、三国志呉志も併せて読めば、倭人がその様な意図を持っていた事が分かる。
獰猛で貪欲な漢民族が、倭人の島に侵攻して来る事を、倭人は極度に恐れていた。倭人の島と大陸を隔てている海が、それを阻止する唯一の障壁だった事を十分承知していたから、倭人の島への航路を秘密にし続けていた。漢民族に征服された華南の稲作民の哀れな末路を、倭人はその目で見ていた。倭人の島が同様の危機に直面するとすれば、朝鮮半島南端まで漢民族に征服され、漢民族が朝鮮海峡を渡って九州に侵攻して来る場合だと、想定していた。それは現在でも事実だろう。だから朝鮮半島と九州は非常に離れていて、航海術が未熟な大陸の民族は、倭人の島に渡航出来ないと、騙して思い込ませる必要があると理解していた。
その認識を持って魏志倭人伝を検証すると、倭人の騙しの手口さえも見える。
邪馬台国論争では、里程と方位が問題になっている。里程については、魏志東夷伝の高句麗伝に、高句麗(丸都)は遼東(瀋陽)の東千里と記されている事を参考にするべきだろう。漢代の一里は415mだったから、それを適用すると丸都と遼東の距離は400kmになるが、実際の直線距離250kmを、曲がった道を使えばそんなものだろうから、漢代と同じ単位を使っていた事になる。軍が活動した土地に関しては、重要な軍事情報である里程は、かなり正確に分かっていた。
同じ東夷伝の韓伝では、韓(馬韓・辰韓・弁韓)は方4千里としているから、半島の幅は4千里だと認識していた事になる。つまり朝鮮半島の幅は旅程で1600km、直線距離で1000km位だと認識していたことになるが、実際は300km前後である。
魏志倭人伝では、帯方郡から狗邪韓国(半島の南端にある倭人の国)まで7千里、そこから対馬・壱岐・唐津まで各1千里と記しているから、狗邪韓国までは4倍以上、海峡は5倍以上の誇大表示になっている。これは倭人が中国人に、故意に誇大な距離情報を与えていたからだ。
魏の使者は帯方郡から倭人の船で旅をしたから、倭人の船頭が長旅らしく操船し、距離を誤魔化した事が分かる。狗邪韓国への旅程は、方形である朝鮮半島南部の2辺を航行したから、それを7千里と誤解させるためには、韓は方4千里のサイズだという虚構が、事前に必要だった。韓の地理については倭人だけが詳しく、中国人は不案内だった事も分かる。倭人の誤魔化しは、魏の使者を迎えた時に始まったのではなく、遥か昔から続けていたことになる。弁韓で製鉄された鉄を、楽浪・帯方郡へも供給していたと記されているから、運搬は倭人が船で行ない、帯方郡の役人の乗船を拒んでいたか、役人がたまに乗船した時にも、常に同様に騙していた事になる。この様な状況を作るためには、韓族も辰韓にいた中国からの難民も、倭人と一味同心だった事を意味する。その結束を維持した理由は、弁辰伝に記された「鉄を産出し、韓、濊、倭は皆従ってこれを取り、皆が鉄を用いて諸々の巿で売買する様子は、中国で銭を使うのと同じ有様だ。その鉄を二郡(楽浪、帯方)に供給している。」という記事にありそうだ。交易に使える大した物産がなく、それほど開明的でもなかった韓族が、かなり豊富な鉄の支給を受けていた様に見える。鉄は当時の先端製品だったが、漢や魏の植民地だった楽浪郡や帯方郡にも、弁韓の鉄を供給していたのだから、弁韓が供給する鉄がなければ、朝鮮半島は極度の鉄不足に陥っていただろう。弁韓で産出した鉄が半島南部の民族に配給され、それによって半島南部の結束が維持されていたと想定される。弁韓人は入れ墨をするなど倭人文化に近く、半島の他の民族より文明度が高かったが、人口が少なく民族的に孤立した存在だった。弁韓人を半島南端に移民させ、製鉄に従事させたのは、海洋民族だった倭人であった可能性が高い。
魏志倭人伝の具体的な内容について検証すると、魏の使者の船旅の描写として、倭人と使者の双方の傑作と言える記述がある。対馬から壱岐への航海について、「又南して一つの海を渡る。千余里なり。名づけて瀚海という。」と書かれている部分だ。「瀚」は広いという意味だ。対馬や壱岐を指す島の名は当時の倭人語だから、海の名前にも倭人語があり、その意味が「広い海」だったらしい。千里=400kmは、北九州と朝鮮半島南端の直線距離の2倍だから、本当にその距離であれば「広い海」と言えるが、実際は50km程度だ。倭人が真顔でその様に説明し、張り切っていた魏の使者が、意味を汲んで名前を中国語に翻訳し、報告書にその様に書いたのだろう。倭人が『中国語で言えば「瀚海」ですよ』と言ったのかもしれない。それであれば、既に「瀚海」という漢字地名を倭人の秘密結社が用意していて、帯方郡から来る他の使者も、同じレトリックで騙していたことになる。いずれにしても、倭人の船頭は島影が見えない沖合に漕ぎ出し、何日もその辺りを航行して船を荒波に揉ませ、使者の肝を冷やして差上げたのだろう。使者は倭の女王の招待で渡海していたから、冒険心満々で、多少の風浪に船が揺れても耐え続けただろう。倭人も悪意で騙したのではなく、倭人の昔からの掟に従い、倭人の島の位置を中国人に観取される事を防ぐため、真剣且つ真面目に騙したのだろう。このシナリオを描いた倭人は、文学的才能に恵まれていた様だ。使者の肝を冷やす事は、倭国への到達困難さを宣伝するために有効な手段だったから、倭人の船頭も真剣だった筈だ。
魏の使者は唐津の名護屋近辺に上陸し、「草や木が繁って前を行く人が見えない」悪路を500里、つまり200kmも歩かされ、里程を5倍以上に誤魔化されて漸く伊都国(糸島市)に着く。倭人は魏の使者を、現在の唐津の市街地方面に向かって、海岸沿いの最短距離を案内したのではなく、伊万里市との境界の奥深い山中をあちらこちら引き回しながら、松浦川の上流を渡って観音峠を越え、糸島市に向かったのだと推測される。魏の使者が、上陸直後に山中の悪路を長い距離歩いたと報告書に記したのは、倭人の島を注意深く観察する意図があったからだと考えられる。魏の使者も倭人も、上陸地点から伊都国への経路は、軍事的に重要な情報だと認識し、倭人は意図的にひどく遠回りの悪路を案内し、魏の使者はその道の様子を具体的に記したと想定されるからだ。仮に侵攻軍が上陸した場合、上陸軍の食料が調達出来るか否かは、軍事上の重要な案件だから、倭人は食料の調達は出来ないと、魏の使者に示した事になる。魏の使者も、それを重要情報だと判断し、報告書に記した。しかし実際は真っ赤な嘘で、海岸沿いに現在の唐津市街を経て糸島に行けば、1日程度の旅程しかない。倭人は漢民族の侵攻を心底から恐れていたから、倭人の島は遠いから中国人には辿り着けないという嘘だけでは、不安が解消しなかった様だ。そのために魏の使者の実際の旅程に色々な策略を弄し、魏の使者はその策に騙されながらも、鋭い観察眼で戦略的な要諦を抑えていた様子が、魏志倭人伝から読み取れる。それ故に、現代の地図と照合すれば、倭人の戦略も明らかになる。
名護屋に上陸した事には、戦術的な食料調達問題以上の、深い意味があった。博多に上陸する事も出来た筈だが、その航路はふさわしくないと誤魔化し、名護屋に上陸したのだから、それを正当化するために、名護屋は日本列島の北端にあるという、虚構を演出した。糸島市は名護屋の真東だが、それを東南としているところから、方位の誤魔化しが始まっている。漢の軍隊が侵攻する場合に、博多に上陸されては困るからだ。それを一番恐れていたのは、奴国の国王と住民だった筈だ。糸島市は海岸にあるが、平坦部は小さな山に囲まれているから、倭人は魏の使者に、伊都国は山中の集落だと嘘を言った筈だ。更に東南に向かって奴国に至る。奴国でも海岸には近寄らず、山際を進んだと想定される。
ここまでの誤魔化しで言える事は、九州の北端の末盧国に上陸し、内陸を南東に進んで内陸にあった伊都国に着き、更に東南に進んで内陸の奴国に着いた事にしたと考えられる。そこから東に向かって、漸く海岸にある不弥国に出る。唐津から東に大きな半島が付き出ているから、この様に内陸を南下して漸く邪馬台国に通じる別の海に出るという、嘘の想定だった。伊都国や奴国が真南にあるとまでは、誤魔化す事は無理だったから、南東という嘘で妥協したのだろう。実際の地図から離れ、魏志倭人伝を忠実に読めば、その様な意図が浮かび上がる。
実際は邪馬台国も唐津の東に在るから、本来は魏の使者を乗せた船を、唐津や博多ではなく、若狭湾辺りに運ぶべきだったのだが、その様な地理が露見すれば、倭人の船頭の行為が疑われる事になるから、疑いを持たれないためには、邪馬台国は唐津から南の方角になければならなかった。魏の使者が邪馬台国に行くためには、実際は東に向かったのだが、色々の策略を弄して、南に向かった事にしなければならなかった。倭人は魏の使者を必死に騙したのだろう。
その様に騙さねばならなかった理由は、朝鮮半島の東海岸から日本列島に行く事は、朝鮮半島の西海岸から行くのと変わらない、遠距離だと騙したかったからだ。現実問題として、魏は現在の北朝鮮全域を、卑弥呼の在位中に軍事的に制圧し、日本海沿岸にいた沃沮も、支配下に組み入れた。沃沮には漁民もいたが、彼らは単なる沿岸漁民だったから、日本海の対岸に日本列島がある事を知らなかった。しかし日本列島の正しい位置を知ってしまう危惧は、常在していただろう。沃沮は高句麗と同じ濊族で、高句麗に支配された経験を持ち、魏の侵攻に対して高句麗と共に魏と戦った人達だった。高句麗と倭人は、北方の物産の対中交易に関して、競合関係にあったから、民族として敵対関係にあった。それ故に古墳時代に倭と高句麗が、朝鮮半島で激突した。高句麗が倭の島の秘密を知れば、戦略的にそれを漢民族に漏らす可能性があっただろう。魏であろうと高句麗であろうと、大陸の民族に知られては困る点では、倭人にとっては同じ事だった。前漢の武帝が、朝鮮半島北部に4郡を置いた時、漢の勢力が日本海に及んだ。日本海の対岸に日本列島がある事を、秘密にしなければならないという認識は、遅くても前漢代に形成されたと考えられる。倭人の島に行く事は、出発地が朝鮮半島の東西に拘わらず、遠い航海が必要なのだと、中国人に思い込ませる必要があった。そのためには、朝鮮半島の南端から最も近い場所を唐津と設定し、そこが倭人の島の北端だと、中国人に思い込ませなければならなかった。その帰結として邪馬台国は、九州の南にある事にしなければならなかった。
魏の使者は以上の様に騙され、魏の支配地の限界だった帯方郡から、倭人の国の入口である唐津の名護屋まで、船で1万里、即ち4千kmも航海しないと着けないと思い込まされた。帯方郡から船出して、ヴェトナムまで行っても未だ消化し切れない距離だから、倭人の島に遠征する気にはならなかっただろう。上陸した唐津市の名護屋からも、帯方郡の使者が足止めされた伊都国まで、草や木が繁って前を行く人が見えない道を、200kmも歩かねばならないと騙され、遠征軍が上陸しても、近辺の村落を略奪して食料を調達する事が出来ないから、補給の問題があって侵攻は困難だと認知させられた。強行軍なら1日で着く距離を、10日近く山の中を引き回したのだから、倭人の騙し方には念が入っていたと言わざるを得ない。騙しは更に続き、仮に中国軍が侵攻して奴国を占領しても、その先に海があり、その海を渡る船は中国軍にはない事を認識させた。その海を渡る船がなければ、邪馬台国を征服する事は出来ないから、奴国を占領してもやがて邪馬台国軍の反撃に遭い、大陸から唐津への航路が遮断されれば、遠征軍は北九州で孤立して壊滅する事になると、魏の使者は思い込まされたという事だろう。
20日間船に乗って投馬国に着き、更に10日間船に乗って、邪馬台国に着いた。倭人は使者の方向感を狂わせ、南に行ったと錯覚させた。方向感は太陽の位置から決めた筈だから、日中や曇りの日に北上し、晴れた朝晩に南下する航路を、航路を知り尽くした倭人が選んだのだろう。熟練した漕ぎ手は、船が舳先に向かって進んでいると思わせながら、実はカニの様に横に進んだかもしれない。実際の手管は分からないが、魏の使者は倭人に完全に騙され、邪馬台国は九州の南にあると報告した。
倭人が魏の使者を騙す手口は、当時の呉の人への説明とも、整合していなければならなかっただろう。呉の人は、会稽(江南)の沖に夷洲、亶洲があり、邪馬台国などの倭人国は、亶洲にあると説明されていた。その様に説明したのは、倭人と東鯷人だった。東鯷人は、倭人集団とは政権を異にする集団で、倭人の島から華南に出向いていた。実際は西南諸島を経由して、台湾から福建省に至っていた。夷洲、亶洲は遥かに遠い海上にあるから、中国人には行く事が出来ないと説明していた点で、倭人と東鯷人は同一歩調を取っていたが、華南の人にその様に説明する事は、嘘ではなかった。この説明は、邪馬台国が九州の南にある事と整合したから、倭人はそれを承知の上で、邪馬台国の位置を詐称する方針を決めたと考えられる。東鯷人も、漢民族を恐れる点では倭人と認識を共有していたから、政権が別であっても協力関係にはあった様だ。東鯷人は後漢書を最後に以後の史書に記述がないから、古墳時代に倭に統合されたと想定される。
華北の人は倭人に騙され続け、倭人の島への航路は唐代(奈良時代)まで露見しなかった。
以上で邪馬台国論争の焦点の一つである、里程と方位が不可解である事の理由は明らかになるが、九州説と畿内説に関する判定には、他の材料が必要になる。ここまでの説明だけであれば、邪馬台国が九州にあったとしても、不都合はないからだ。
邪馬台国連合30国の中に、奴国2万戸、投馬国5万戸、邪馬台国7万戸という大国があると記されている。仮にその他の20余国が皆小国で、千余戸程度だったとしても、邪馬台国連合全体では20万戸に近い。実際には数千戸〜万戸ある大きな国もあっただろう。1戸の家族数が平均5人だったとすれば、邪馬台国連合は100万人近い人口を抱えていた事になる。魏の使者は、軍事的な観点から国力=戸数について、情報の正確さを期していた筈だから、或る程度信用できる数だろう。邪馬台国の南には、同様に大国だったと考えられる狗奴国があった。この時代の日本列島の総人口は400万人程度だったと想定され、九州にその30パーセントもの人口が集中していた筈はないから、邪馬台国九州説には無理がある。畿内説が有力になるだろう。
但し邪馬台国が、奈良盆地にあったわけではない。魏の使者は船で邪馬台国に着いたと読める事から、邪馬台国の所在地は大阪湾沿岸だった可能性が高い。
 
宋書・好太王碑に示される倭人

 

古墳時代の史書は複数あり、それらの対象年代と著作時期は以下。同時代性の観点で宋書が注目されるが、好太王碑文は重要な文献の一つになる。どちらも古墳時代前期の倭の様子を示している。
史書 / 対象年代 / 著作時期
好太王碑文 / 390年〜404年 / 414年
晋書 / 265年〜420年 / 648年
宋書 / 420年〜479年 / 490年頃
南斉書 / 479年〜520年 / 530年頃
梁書 / 502年〜557年 / 629年
陳書 / 558年〜589年 / 636年
南史 / 439年〜589年 / 644年
随書 / 581年〜618年 / 636年
南斉書も同時代文献だが、倭に関する記述は僅かしかない。百済・新羅に関する記述はなく、加羅国王が来献した記録がある。
晋書は最も同時代性に乏しく、内容も史家に不評だが、中国を統一した後の戸籍が地理誌に記載されているから、漢書地理誌の戸籍を比較すると、弥生時代末期〜古墳時代初期の漢寒冷化で、中国が恐ろしい人口減に見舞われていた事が分かる。古墳造営の背景を明らかにするためには、この時代の中国での倭人の活動を検証する事が必須になるので、文献の検証に入る前に、弥生時代後期から古墳時代前期に発生した、中国の人口減少について概観する。
1、気候の寒冷化
縄文温暖期以降、地球は千年〜千5百年程度の周期で寒冷期と温暖期を繰り返しながら、徐々に寒冷化して来た。寒冷化が徐々に進行すれば、作物は徐々に耐寒性を獲得し、農耕に与える被害は軽微だが、温暖期から寒冷期に向かう数百年間は寒冷化が急速に進行し、農業生産の低下が劇的に広範囲に及び、破局的事態を引き起こした。代表的な時代として、中国の後漢代〜南北朝時代が挙げられる。
中華世界は急激な寒冷化によって混乱し、特に華北では人口の希薄化が進んで政権が不安定になり、晋を最後に漢民族の政権が崩壊した。華北には鮮卑族などの五胡が流入し、武力抗争を繰り広げる中で混乱が深まった。寒冷期は8世紀まで続いたが、5世紀以寒冷化が停滞したので農耕が立ち直り、華北は政治的な安定に向かった。しかし漢民族の政権は復活せず、遊牧民だった鮮卑族が支配する地域になった。
2、漢代の穀物生産
漢書地理誌に、温暖だった前漢代に何処で何を栽培していたのか書かれている。
「漢書地理誌」に記された上の表の分類は、「周礼」の「夏官司馬」と全く同じだから、それを引用した事が分かる。「周礼」は戦国時代(BC5〜BC3世紀)の事情を記しているので、戦国時代から前漢まで、温暖・湿潤な気候が続いていたと推測される。
後漢末の鄭玄が「周礼」に注釈を付け、三種、四種、五種が具体的に何だったのか示している。後漢代に寒冷化が始まり、この表に示す状況が崩れ始めたが、時代が近いので信頼出来ると思われる。三種はアワ、キビ、稲、四種はアワ、キビ、稲、麦、五種はアワ、キビ、稲、大豆、麦だった。
幽州と并州は、文明的な農耕の北限だった。華北の穀物として現代人は麦を連想するが、華北で麦栽培が一般化したのは宋以降の事で、漢代の華北の主要作物はアワだった。漢代の中国の麦栽培は、近東や欧州とは異なる系統の、生産性が低い麦だった。
下の表に前漢代の州別の戸数と人口が、晋代に如何に激減したかを示す。漢書の不確かな数値を削除したので、他の資料より幾分少なめになっている。晋代は戸数の数値が丸められ、人口は集計していない。人口減少が少ない州から順に掲載したから、激減州は下段に並んでいる。
中国全土の戸数は5分の1に激減し、中でも兗州、州、幽州、豫州、徐州、并州は酷く減少した。穀物種が稲・麦、三種、四種、五種の地域が最大の減少州で、徐州の穀物の記載はないが、大きく減少した州に囲まれている。揚子江流域の荊州や揚州の様な、本格的な稲作地の減少は軽微だが、華北と揚子江流域ではない稲・麦栽培地に、被害が集中した事が読み取れる。
寒冷化しても、揚子江流域では稲作に問題がない温暖さと降雨量があった筈だが、晋代の荊州の人口が1.3倍しか増えず、揚州で半減しているのは腑に落ちない。晋代より寒冷化が進んで治安が悪化した五胡十六国時代に、華北から沢山の移民が華南に移動し、華南が繁栄したと言われているから、晋代の荊州も揚州も、大幅に人口が増えていた筈なのだ。
人口統計にからくりがあると考えねばならい。漢代の戸籍は1戸の人数が5人未満の地域が多く、単婚家族だったと思われる。晋代の1戸は、集合家族だったのではなかろうか。治安が悪化し、単年度の収穫にリスクがあったから、複数の成年男子が大家族を形成して治安を確保し、収穫のリスクを分散することが一般的になっていた可能性が高い。統治力が弱体化した晋では、戸籍の把握漏れもあっただろう。しかしその詳細に立ち入る事は出来ないから、一律の補正を行う。
晋代の1戸は漢代の3家族の人数を有したと想定し、計算し直したものを以下に示す。魏の中核だった司州と冀州は、実際はさほどの被害を受けていなかったことになり、晋が中国を統一する国力を保持出来た事を示すから、或る程度の妥当性があるだろう。
栽培穀物が稲・麦、三種、四種、五種の地方は、補正後も酷く人口が減少しているが、アワ、キビを主作物としていた地方では、それほど大きな打撃を受けていない事が分かる。淮河以北で稲・麦に偏った農耕を行った地域ほど、手酷い打撃を受けた様だ。貨幣経済の浸透により、生産性が高く食味の良い穀物の単作化が進み、寒冷期の農業に壊滅的な打撃を与えた例は、日本でも江戸時代の東北にあったが、中国の大平原に農民が散在し、隙間なく畠にして皆が同様の農耕を行なえば、収穫が不足した際の救荒食を山野に求める事が出来ないから、飢餓の状況は悲惨だった可能性が高い。
前漢が王莽に簒奪され、王莽の失政から世が乱れたと史書は記しているが、王莽政権に対して真っ先に反乱を起こした赤眉の乱は、徐州の琅邪郡から発生して近隣が呼応した。琅邪郡があった徐州北部は、人口急減地帯の真只中だから、不作が続いた事が反乱の原因だった可能性が、上記の表から読み取れるだろう。
後漢は黄巾の乱が契機になって衰微したが、これは冀州で起こった。人口激減州だった兗州、州、幽州、豫州、徐州は、後漢末には人口希薄な地域になり、人口激減地域の周辺の冀州では、或る程度の人口を維持していた故に、農業が過酷な状況に陥いると大きな乱が起きたと、解釈することも出来る。
晋代の人口減少は、華北に五胡が乱入する以前の事だから、寒冷化によって稲・麦作が壊滅した事が、人口減少の主因だったと推測される。東シナ海沿岸には専業の稲作民が多かったから、その地域の人口が極端に減少し、逆に温暖期だった漢代には、真夏の猛暑のために住みにくかった内陸の荊州の人口が、寒冷化が進んで増えたと推測される。沿海部の稲作の壊滅については、(0)序論/3、イネの遺伝子から、稲作の伝来事情を推測する を参照。
漢の戸籍は、人民を漏れなく補足した様に見える。これは裏を返せば、漢代の農民は移動の自由を奪われ、納税や労役の義務を漏れなく負わされていたことを意味する。それを監督する義務を負う官吏と、農民の利害対立が先鋭化すれば、移民したい農民には反乱による混乱が必要だったという推測も成り立つ。中華で農民反乱が起きると、農民が流民化したと歴史小説などに書かれているが、農民にとってそれは必然であり、原因と結果が逆になっている疑いがある。広大な平原に農民が密集して展開している中国では、人々は山の幸も海の幸も入手出来ないのだから、日本列島と比較した凶作時の流民化圧力は、強烈だった筈だ。
并州は北の端だから寒冷化と乾燥化に同時に襲われ、農業生産の継続が難しくなった様だ。華北に乱入した鮮卑族は、豊かな農村を武力征服したのではなく、農民が撤退した後の過疎地に、必ずしも平和的ではなかっただろうが、遊牧民として南下したと想定される。
朝鮮半島を含む幽州も、かなり厳しい状況に追い込まれた。魏志倭人伝が書かれた時代には、既にこの状況がかなり進行していた。西欧でもこの時期に、ゲルマン民族が南下したのは、やはり寒冷化による収穫の減少が契機だったのだろう。
扶余・高句麗などの濊族も、馬韓の韓族も、南下する必要に迫られていた。
倭人には海産物という補助食料があり、日本列島には堅果類の樹木が豊富にあり、生産性が高い焼畑農耕で雑穀を栽培する事が出来た。華南の先進的な稲作民は居なくなったが、耐寒性の高い独自の水田稲作技術を獲得していた。マクロ的な観点では、日本列島には食料問題はなかったから、温暖期にはなかった大型古墳を、寒冷期に続々作った。
この様な環境下で倭人がどの様な交易を行い、どの様に安全保障政策を推進したか探るのが、この項の課題になる。
 
隋書

 

隋書は、隋(581年〜618年)が滅んで唐になった直後(636年)に成立した。 同時代文献としての価値は高いが、周辺民族に関する記事は、自己申告や風聞を鵜呑みにしたものが多い。漢民族の実証主義が後退し、歴史を権力形成の手段とする発想が散見され、漢民族とは異なる民族の王朝だったことが実感される。
倭人伝と新羅伝は風聞による記事が多く、両国を貶める意図を持った嘘が混入している。倭人伝には真偽不明の記事が多いが、新羅に関する記事が偽りである事は、他の史書から追跡出来る。隋代までの新羅には、中国語に精通した者が居なかったので、百済の使者の嘘が梁書に掲載され、更に誇張されたものが隋書新羅伝に記される事になったが、唐書新羅伝によって嘘が暴かれた。新羅は唐代に唐化政策を推進し、唐と連携して百済を滅ぼしたから、唐は中華として初めて、新羅を熟知することになったからだ。倭人伝に関する嘘も、そこから類推できるものがある。
唐にとって、倭は依然として不可思議な国だったので、唐書から随書倭人伝の記事の真偽を見分ける事は難しい。但し隋の使者が倭国を訪問したから、使者の見聞は正しい情報になる。それらを考慮しながら隋書を読む必要がある。
1、倭国伝
1−1、隋の地理観
「倭国は、百済・新羅の東南、水陸3千里(1500km)の、海中の島にある。」「夷人は里数を知らないから、旅程の日数で距離を計る。倭の島は、東西5か月南北3か月の旅程である。」「昔から、楽浪郡の境、及び帯方郡から1万2千里(5000km)で、江南の東にあると言われていた。」
現在と昔の二説を併記し、魏志倭人伝に記された距離は、誤りであると記している。「倭国」は倭にある一つの国の名前であって、倭全体の事ではない事に留意する必要があり、倭国が畿内にあれば、隋書は正しい距離を記している事になる。隋代の倭人は、嘗ての邪馬台国の倭人の様に隋の使者を騙さなかったから、隋の使者は百済から「水陸3千里(1500km)」で着いた。正確な距離を示した事は、倭人の政権が変質していた事を示唆する。隋代の1里は530m程で、漢・魏代の415mより長かったから、微妙ながら隋書の項では魏志とは換算を変えた。
「夷人は里数を知らない」として、倭、百済、新羅を未開人の様に評価しているのは、漢民族を征服した鮮卑族の意識を示していると想定される。もう少し具体的に言えば、鮮卑族に征服された漢民族の知識人の意識を示していると言えるだろう。
南朝の梁に百済が申告した地理は、「新羅は百済の東南5千余里にあり、東は大海に沿い、北に高句麗、南に百済と接している。」と、意味不明な状態だった。新羅が「南に百済と接している」のは、百済が502年に漢江流域を高句麗に奪われた後、新羅が奪還したからだろう。新羅はそれによって、それ以前の百済の様に、黄海を運航していた倭人の船を利用し、中華と通交出来る様になり、594年に倭より早く隋に朝貢を始めたと推測される。これは百済が朝貢を始めた598年より早い。倭王が新羅に優先的に、海運の便宜を図ったからだろう。百済は589年に隋の戦闘艦が漂着した際に、帰還する船に使者を同行させ、皇帝から感謝の詔勅を貰ったが、11年間後続がなかった。倭王の承諾を得られなかったからだろう。594年の朝貢は、唐突とも言える、隋に高句麗討伐を促すものだった。倭王に、朝貢の理由を申告する都合上の事、だったのかもしれない。
「倭国の都は『邪靡堆』で、魏志に書かれた『邪馬台』である。」
通説では靡は摩の誤植だと考えられているが、そのまま読むべきだという説もある。誰が「邪靡堆」と記したのか考える事が、その疑問を解く鍵になる。
「摩」の音は「麻」にあるが、「靡」は音が「麻」にあるのか「非」にあるのか分かりにくい。正しくは「非」にあるが、余程の知識人でなければ、間違えて「摩」と同じ音だと考えるだろう。隋書の著者は当代一流の博識だから、間違えた可能性はないだろう。
倭人は文明度が低かったから、漢字は全て隋の使者が宛てたものだと考え、後世の転記の際の誤植で摩が靡になったと主張するのが、第一の誤植説になる。しかしこの誤植説の問題点は、「倭国の都は魏書に書かれた邪馬台にある。」と書けば良いのに、わざわざ「邪靡堆」にあると書き、それは邪馬台と同じだと注釈する必要はない事にある。隋の使者も倭に来る前に、魏志倭人伝くらいは読んでいただろうから、音を表記する際にこの様な混乱を起こしたとは考え難い。誰かが「邪靡堆」か「邪摩堆」という漢字を先に使ったから、隋書がこの様に書き分けた筈だ。誰かというのは、倭王の祐筆以外には考えられないだろう。
隋の使者が使った漢音では、「邪摩堆」と「邪馬台」は共に「やまたい」と読むから、隋の人は同じ音だから同じ地名だと判断したと考えられる。倭王の祐筆が「邪靡堆」と記したのであれば、魏志倭人伝を読んでいた隋書の著者は、靡は摩の誤りだと考えた筈だ。しかし隋書の著者としては、倭王の文章を改竄するわけにはいかないから、そのまま転記したと考える事が出来る。
それに対して、倭王の祐筆が「邪摩堆」と記したのであれば、隋書の著者はそのまま転記して、邪馬台と同じ読みだから同じ場所だと注釈を付け、後世の転写で誤植が発生した事になる。これが第2の誤植説になる。
倭人は万葉仮名で記したと考えれば、「邪摩堆」は「ざまて」で「邪馬台」は「ざまと」だから、異なる読みになる。つまり異なる地名なのだから、「邪馬台」から類推して正しいとか誤植だとか言う議論は、意味を為さないのだ。その観点で倭王の祐筆が「邪摩堆」と記したのか「邪靡堆」と記したのか考えれば、誤植を云々する必要はなく、「邪靡堆」と記したと考えられる。
隋書の著者が、「魏志に書かれた『邪馬台』である。」と判断したのは、倭王の祐筆が「邪靡堆」と書いたのを見て、「邪靡堆」は「邪馬台」と同じ音ではないと知りながら倭人の識字能力を軽蔑し、これ見よがしに示す為に、この様な記述にしたのだと考えられる。「夷人は里数を知らない」と記した時と同じ心象が、此処にも顕れた様だ。
この議論を深めるためには、次節1−2、隋の使者の経路で詳しく説明するが、「邪靡堆」は邪馬台国ではなかった事を確認しなければならない。邪馬台国は海岸にあったが、隋の使者が来た倭国は、海岸にはなかったのだ。隋の使者が海岸に上陸した時、倭王は部下を派遣して迎えさせ、10日後に別の部下を派遣して都の郊外で慰労し、都に入ると王が出迎えた。倭王の都は内陸にあり、魏の使者が邪馬台国へは「水行10日」と記した場所とは、違っていた事になる。考古学的にも、飛鳥時代には一貫して飛鳥に都があったとしているから、隋書の記載には矛盾がないが、邪馬台国が神戸にあったという推測とは異なり、隋代の倭国は奈良盆地南部にあったと考えると全てが整合するから、「邪靡堆」は邪馬台ではなかった事から議論を続ける必要がある。
倭王の祐筆が意図的に「邪靡堆」と記し、「邪摩堆」と誤解させたと考えると、更に話は整合する。隋の人達を騙し、倭国が「邪馬台」と同じ場所であると誤解させたのだ。
万葉仮名では「台」と「鳥」は共に「と(乙類)」と読み、「非」と「飛」は「ひ(乙類)」と読むから、万葉仮名では「靡堆」=「飛鳥」になる。「飛鳥」は「あすか」ではないか、という疑問があるかもしれない。しかし地名が「ひと」であって、「あすか」は倭王が住居を置く地の雅号だったとすれば、この時代の地名に「ひと」が使われていた可能性がある。もう少し穿った見方をすれば、「あすか」は大和政権を樹立した人達の「みやこ」の雅号だったであれば、この時代の地名は「ひと」だけだった可能性もある。
以上の事実を重ねれば、容易に結論に至るだろう。「邪靡堆」と記した倭王の祐筆は、かなりの知恵者だった様だ。倭人の政権が魏代とは違っていた事を、隋の人達に知られたくなかったのだ。飛鳥は魏志倭人伝が記した狗奴国、つまり漢書、後漢書が記した東鯷人の国だったから、明らかな政権交代があった。倭王と言いながら、その実は古墳時代初期に倭に併合された、狗奴国連合の中核国の王だったから、その事を隋の使者に知られたくなかったのだろう。
1−2、隋の使者の経路
「百済に渡り、竹島に行き着き、南に[身冉]羅(たんら)国(済州島)を望み、都斯麻(つしま)国を経て遙か大海中を航行した。また東に一支国に至り、また竹斯(ちくし)国に至り、また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じで、その地が夷洲だと言っている。あり得ない事だが疑いを明らかにすることは出来ない。また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。倭王は小コの阿輩臺を遣わし、従者数百人、儀仗を設け、鼓角を鳴らして来迎した。十日後にまた、大礼の哥多毗を遣わし、二百余騎を従えて郊外で慰労した。」
上記の文には風聞は混入していないと考えられる。
隋の使者が確実に停泊したのは、壱岐、筑紫、秦王国、大阪湾岸だった。「経て」という記述が短期間停泊した事を示すのであれば、対馬と瀬戸内の10余国が加わる。魏の使者が立ち寄った国と、隋の使者が立ち寄った国は、経路が殆ど同じだった筈であるにも拘わらず、殆ど重複していない様に感じる。魏の使者は倭人の国を経由したが、隋の使者は東鯷人系の国を経由したからだろう。この時代の筑紫は九州全域を指したから、竹斯国が奴国だったとは言えない。宗像が東鯷人の国だったから、宗像だった可能性がある。大国だった吉備に停泊すれば、それなりの記述があって然るべきだから、停泊しなかったと考えられる。鳴門海峡を越え、和歌山か岸和田に上陸したのだろう。秦王国以外の国に関する記述がないのは、魏志倭人伝に記された国を無視したのではなく、その様な大国に停泊しなかった可能性がある。奈良盆地を除けば、東鯷人の主要な国は出雲や丹波・若狭にあり、経路には大国がなかった可能性が高い。
秦王国の人が、「自分達は夷洲にいる」と言った事が、隋の使者や隋書の著者に理解できなかったのには、理由があった。三国時代の呉が、人狩りのために船を仕立てて東シナ海に出て、台湾を夷洲だと勘違いした。秦王国の人がそれを知っていれば、隋の使者が混乱する事はなかったのだから、秦王国の人はその事績以前に、日本列島の夷洲に来た事になる。平安時代に編纂された新選姓氏録に、秦の始皇帝の系譜であると称する秦氏(はた氏)が、沢山登録されている。それが秦王国の人だったとすれば、彼らは秦末漢初の動乱期に、日本列島に渡って来た事になる。倭人の手引きではなく、東鯷人の船で揚子江流域から来た事になる。倭人や東鯷人に囲まれて何百年も経つのに、中国の言葉を失わなかったのは、倭人や東鯷人が中国に出掛ける人達だったから、中国の言葉に堪能な人が多かったからだろう。
後漢書によれば、倭人の島は夷洲及び亶洲にあり、徐福は亶洲に行ったと考えられていた。そこから考えると、江南から見て手前に夷洲があり、奥に亶洲があった。九州が夷洲で、本州が亶洲だった事になる。四国がないが、その理由は分からない。
秦王国が九州にあったとすると、宗像の東にあった事になる。行橋は魏の使者の経路だったから、もう少し広い範囲を考える必要があるだろう。阿蘇山が噴火した話が出て来るが、隋の使者が実際に噴火を見たのではなく、秦王国の人から話を聞いたと考えれば、大分市・臼杵市など別府湾沿岸が候補になる。倭では6世紀に榛名山が大噴火し、桜島・霧島・雲仙にも火山活動があった筈だから、倭人にとっては阿蘇程度の火山の噴火は、格別な事ではなかった筈だが、火山がない中国の人達にとっては、同朋に話して置きたい珍事だったという想定には、合理性があるだろう。別府湾は飛鳥への経路を外れているのに、隋の使者をわざわざ秦王国に連れて行ったのは、倭王の思惑があったからだろう。
「竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。」
壱岐は倭王に属する国ではなかった事になり、魏志が示した倭人の国だった事になる。
邪馬台国を訪れた魏の使者は、邪馬台国が九州の遥か南にあると錯覚させられたが、隋の使者は倭国への経路が九州の東だったと認識した。幾重にも魏の使者を騙した邪馬台国とは打って変わって、隋代の倭王の部下は倭国が九州の東にある事を、隋の使者に暴露した。邪馬台国連合の倭人と比較すると、東鯷人は漢民族を恐れる意識が弱かった事になる。揚子江流域にしか行かない人達だったから、朝鮮海峡が狭いという事に関して、恐怖感を持っていなかったのだろう。
隋書が示す倭や倭国は、本来の倭人の国ではなく、東鯷人の倭王に従う旧東鯷人の国だった様だ。宋書を読むと、倭国王が日本列島を統一していた印象を受けるが、隋代になっても、倭人と旧東鯷人は各々の出自を意識し、別種の様に振る舞っていた事になる。
邪馬台国が魏に朝貢する事を、狗奴国が快く思わなかった事には理由があり、それ故に魏の使者を案内した倭人は、東鯷人の国に立ち寄る事を避けた事は理解できる。東鯷人が隋の使者を案内するに際し、倭人の国を避けねばならなかった事には、他の理由があっただろう。
魏の使者に対して、邪馬台国の倭人が必死に隠した関門海峡を、隋の使者は船で通過し、瀬戸内の東鯷人の10余国に停泊し、陸路を使わずに船旅だけで、百済から飛鳥に近い海岸に着いた様に読める。東鯷人の倭王は倭人の懸念に配慮する余裕がなく、追い詰められていたかもしれない。65年後には、2000年続いた倭人体制が打倒されるのだから、切迫していた筈だ。
1−3、政治交渉
600年、倭王「あめたりしひこ」、称号「あほけみ(おおきみ)」の使者が、隋に初めて朝貢した。隋の役人が倭の使者に、倭の政治形態を聞くと、倭の使者は訳の分らない事を言ったので、皇帝は倭の使者を諭した。
これは倭の朝貢事績としてではなく、倭の風俗を記す中で扱われている。事績としての意味がない朝貢を行い、倭の使者は隋の役人を怒らせた様だ。隋の役人は倭の使者の云う事を理解せず、皇帝に倭の云う事は不合理だと告げたので、皇帝が倭の使者を見下して諭したのだろう。隋の役人は、倭の使者の要求が理解出来なかったのか、理解しても理不尽な要求だと判断したのか分からないが、理不尽としたのは要求内容ではなく、倭の制度上の事だった。しかし単なる挨拶としての朝貢ではなかった事が、以降の経緯から明らかになる。
607年、「あめたりしひこ」が再び朝貢した。倭の使者が、「仏教を興隆させている皇帝に拝礼し、引き連れて来た僧侶数十人に、仏教を学ばせたい。」と謙虚に言ったが、差し出した国書の冒頭に、「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々。」と書いてあったので、皇帝は不機嫌になり、以後の倭の使者の取次ぎを禁止した。
当時の倭国には、鮮卑族を尊重する気など毛頭なかったから、前回はその雰囲気を漂わせての会見だったから、隋の役人に無礼を咎められたのだろう。その失敗に懲りて十分対策を練った筈だったが、思わぬところでボロが出た。皇帝は、東に別の天子がいると主張した事に激怒した。
608年、皇帝は倭に使者を派遣した。倭王は海岸に着いた隋の使者に対し、順位2番目の高官に数百人を付け、儀仗を設けて仰々しく出迎えさせた。10日後に順位7番目の高官に200騎を付け、都の郊外に迎えさせ、王自ら館を出て接見し、謙遜して随を讃える言葉を使者に与え、教化の方法を尋ねた。使者は、「倭王が、皇帝の徳を慕って教化に従おうとしているので、(皇帝は)私を遣わした。」と言い、王は使者を館に入らせた。 ?―――? その後、使者は人を遣わし、「朝廷から託された使命を果たしたので、出発したい。」と言ったので、倭国王は宴会を開いた後、倭国の答礼使を付け、使者を送り返した。その後往来は絶えた。
倭国への航路を知らない隋が、勝手に使者を送る事は出来なかった。倭国側から招待の働きかけがあり、皇帝が了承したものと思われる。倭の使者は皇帝への謁見を取り次いで貰えないので、隋から使者を派遣して貰う運動をしたのだろう。隋朝の高官に、多額の賄賂がバラ撒かれたと推測される。隋に何かを認めて貰うために、倭王は必至の努力をした様だ。倭王が秦王国を使者に見せた理由は、隋に取り入るためだった事になる。倭にも中国人が沢山いて、豊かに暮らしている事をアピールしたかったのだろう。但し、分国制を採用していた倭では、都から離れた場所であっても、豊かでさえあれば評価されただろうが、中央集権制の隋の人にも、都から離れた地方に暮らしていた事と共に評価されたのかは分からない。
海岸に着いた隋の使者を、佳麗に儀仗兵を整えて歓待した。隋の使者を乗せた船も、特別仕立ての豪華な船だっただろう。長旅にウンザリされない様に航路を急いだから、邪馬台国の倭人の様な芸当が、出来なかったのかもしれない。
隋の使者が帰った後、往来が絶えた理由は釈然としない。隋が滅んだのはその10年後だが、610年に諸国の朝賀使節を集め、611年から高句麗遠征を始めたから、随の国運が衰えたからではない。交渉に成果が無かったからだろう。 ?―――?の部分の会談の内容が欠落し、何があったのかわからない。中華にとって好ましくない内容だったので、削除したのだろう。隋書の著者は、会談の前後の言動を非常に具体的に記述し、意図的に会談内容を欠落させた事を示している。読者に想像する事を促しているのだ。「朝廷から託された使命を果たした」というフレーズに、隋書の著者は謎解きの鍵を付けている様に見える。使者が何かの要求を倭王に突き付けたが、倭王は拒否したという事だろう。
隋の要求は、「高句麗討伐に協力せよ」という事だった可能性が高い。隋は3回高句麗を討伐して国力を損耗し、滅亡の大きな原因になったと言われている。隋が高句麗討伐に執念を燃やしたのは、高句麗が北方交易で莫大な利潤を上げていたからだろう。倭王との利害調整的な応酬は、聖人を気取るべき皇帝にはふさわしくないから、隋書東夷伝には書けなかったかもしれない。
倭王が拒否した真の理由は、東鯷人には軍事を遂行する能力がなかったからだろう。朝鮮出兵は倭人の倭国王がした事であり、東鯷人の倭王は朝鮮から兵を撤退させていた。それは唐書を読めば明らかだ。倭人の協力が得られそうになかった事は、隋の使者の経路から明らかだ。
隋をそこまで強気にさせた弱みが、倭王側にあったと推測される。邪馬台国は漢民族の侵攻を恐れていたが、隋代の倭王は、その事に全く関心がなかったから、軍事上の事ではなかった。軍事ではない外交上の懸念だったのであれば、交易の懸念だった事になる。隋は南北を結ぶ大運河を建設したから、倭の東シナ海や渤海を使った海上交通・運輸は、優位性を失った。倭王の懸念がそこにあった疑いが濃い。
隋にしてみれば、夷狄が中華の運輸業を牛耳っている事など、公に出来なかったから、史書にその事に関する記載がなくても、不思議ではない。鮮卑族の王朝だった隋は、倭の使者に指摘されて初めて、その事を知った可能性が高い。
倭国を訪問した随の使者を送り返す際に、倭の答礼使が同行した。それが倭の最後の使者であった事は、邪馬台国と魏の関係に酷似している。隋は答礼使が帰った直後に、台湾を征服するために軍隊を派遣した。隋は倭人が台湾を経由して福建に来ることを知っていたから、これは明らかに倭に対する悪意だった。台湾に侵攻して現地民を征服し、奴隷として連れ帰った事も、三国時代の呉に酷似している。
1−4 倭国の政治体制
飛鳥時代の倭の王は、「倭王」と称していた。「邪靡堆」が倭国であったにも拘わらず、倭国王ではなく倭王と称した。古墳時代前期に宋に朝貢した倭の王の称号は、「朝鮮半島の諸軍事を統括する大将軍・倭国王」だったから、倭国は特別な国を意味し、その王が倭の諸国を統括する事は、暗黙の了解事項だった。古墳時代前期の倭の王が誇らしげに称した「倭国王」を、東鯷人の王が名乗らなかったのは、理由があったからだろう。旧唐書の倭国伝でも、倭国の「その王」と記し、倭国の王なのに「倭国王」とは呼んでいない上に、隋書で使った「倭王」「おおきみ」も使っていない。「倭国王」には訓読みがあったから、東鯷人の王はこの熟語を使う事が出来なかったと思われる。
倭国王を名乗るのは、遥か昔に宝貝交易を主導し、春秋戦国時代に倭連合を樹立し、漢代に倭の国々の商圏を確定し、古墳時代前期に朝鮮半島で高句麗軍を粉砕した王家の、系譜を継承していた者だけに許される、特権だったと推測される。倭国王の和名は、古墳時代前期の古墳に副葬された鉄剣に象嵌された、「獲加多支鹵大王」(わかたきる大王)だったと想定される。
海上交易集団だった東鯷人の国の中枢が、内陸の奈良盆地にあった事は驚きだ。特別な鉱物や農産物があったとは考えにくいから、立地条件として考えられるのは人口の集積地だったという事になる。技能者の集積が、最も重要な立地になっていた事になり、古代産業の発展が、高度な段階に至っていたと想定される。海運業が倭人に集約され、東鯷人が生産に特化しつつあった可能性も、検討すべきだろう。大型船の造船に多用された楠は、温暖な太平洋岸にあって日本海沿岸にはなかった事を指摘する人がいる。
海上交易を特徴としていた倭人集団が、経済的な理由で東鯷人を統括者にしたのは、移民事業が収束し、単純な交易業務だけでは、十分な利潤が得られなくなっていたからだろう。生産者と結びつかなければ高い利益が得られない事情は、現代社会では頻出している。現代の様な高度工業社会では、商社は資源や農産物を扱い、工業製品は開発・生産業者が販売も担当する事に、着目する必要がある。
「新羅、百済は皆倭を大国で『珍物』多いと為し、並びに倭を敬仰し、恒に使いを通わせて往来している。」
隋代の交易品が、その様な域に達していた事を示唆している。此処に記された『珍物』は、高度な技能を持った職人によって作られた、交易品だったと想定される。現代風に言えば、開発に多額の費用の掛かるスマホの様な品物、古代風に言えば、腕を磨いた職人が時間を掛けて丁寧に作り上げる芸術品には、「何を」「どの様な装飾を」「何処に付けて」「どの程度の豪華さに」作るのかを決める、マーケティングが重要になる。倭の交易の主導権が、東鯷人の手に委ねられた可能性が高い。隋代にこの交替が起ったのではなく、交替した東鯷人の王が、経済を立て直す事が出来なかったから、隋に使者を送ったのだと想定される。考古学的に言えば、奈良盆地に政権が移ったのは古墳時代の中頃だったと、想定されているからだ。華北から華南への移民は、5世紀中頃に急減した事が、中国史から指摘されている。東鯷人への政権移行が5世紀末〜6世紀初頭だったとすれば、考古学的事実と符合する。邪馬台国系の倭国王の誕生が、移民事業による経済的な繁栄だった可能性を、(6)宋書・好太王碑の項で指摘したが、同じ事が古墳時代後期に起ったとすれば、倭人国連合の体質が経済優先だった証拠にもなる。倭人国連合は中華との交易を通して、経済的な利潤を追求する集団だったのだ。現代の先進工業国が、新商品を生み続けて経済的な繁栄を追求する様に、古代の倭人集団は、中華の貴族のために奢侈品を生産して販売する事により、経済的な繁栄を追求していた事になる。その流れは唐代にも引き継がれ、隋書に『珍物多い』と記されたものが、新唐書に『絹、錦、怪珍有りと云う』と記されるまでになった。『怪珍』は一つの商品に特定出来ないとは思うが、螺鈿細工を含んでいたのではないかと考えられる。唐ではぜいたく品であり過ぎるとして、何度も禁制品になった商品だ。通説では唐起源と云われているが、倭人が持ち込んだ可能性は否定できない。材料の夜光貝は、西南諸島産だったのだから。
1−5 倭国の制度
倭王の初回の朝貢(600年)は、倭国側に隋を軽侮する気持があり、隋の役人が怒って倭国の使者の揚げ足を取った内容を、皇帝に奏上したと考えられる。倭国の使者の説明の中で、隋の官僚が最も不合理だと思った箇所を、指摘したのだろう。
「倭王は天を兄とし、日を弟とする。」
「夜明け前に政務を行い、日が出ると政務を停止し、あとは我が弟に委ねようと云う。」
当時は女性も含めて年下の兄弟を「弟」と言っていたから、倭王は卑弥呼の様な神聖な巫女を弟と言っていた可能性がある。大和政権誕生直後の天皇家は、近親結婚を繰り返していたから、実際の倭国王や倭王も、近親結婚をしていたのかもしれない。中国では「絶対権力を持つ皇帝が裁決する」という発想しかなかったから、二権分立(神性と実務)とか三権分立(神性と任命権と実務)という概念を、不合理だと考えた可能性もある。
王の妻の称号は「けみ」、太子に「りかみたふり」という名を付けている。後宮に女が600〜700人居る。
倭王は「おおきみ」で王の妻は「きみ」だった。「きみ」は「おおきみ」の妹だったのかもしれない。東鯷人の倭王は宗教的な権威を求め、それによって宗教的な権威の男性化が進行した可能性がある。但し倭人と東鯷人の習俗には、違いがあったかもしれないから、それは従前からの東鯷人の習俗だった可能性は否定できない。魏志倭人伝に、「狗奴国は男子為王」と記しているのは、邪馬台国を女王が統治しているのは奇習だが、倭人が狗奴国には女王が誕生する風土がないと説明したから、この様な記述にした可能性もある。
「後宮」は中華的な後宮ではなく、卑弥呼に1000人の自発的に仕える女性が居た様に、王の妻が神聖性を持ち、巫女集団に君臨して宗教界をリードしていたのだろう。
倭国の役人には12等級あり、高位から、大徳、小徳、大仁、小仁、大義、・・・で定員はない。
身分資格と役職が別の制度になっていた様だ。日本書記に、602年に12階の冠位が制定された制定されたと記されている。隋書を読んでその様に創作したのだろう。
「くに」という地方長官が120人居る。「いなき」という村長が80戸毎にいる。10の「いなき」が一人の「くに」に属す。
単純計算で、80x10x120≒10万戸が倭国の戸数になる。これは日本列島のことではなく、倭王が直接統治する倭国のことである。奈良県を南部と紀伊を中心とする倭国に、これだけの人口があり、戸籍を使った農民管理が行われていた。邪馬台国は7万戸だったが、古墳時代に大阪平野一帯に拡大したと考えられるから、古墳時代前期に倭国王を輩出した国は、更に人口が多かった可能性がある。但しこれは農民の戸数だから、職人や交易者の数は含んでいなかっただろう。
「いなき」は、日本書紀に県の長官として「稲置」と記されたものに重なる。日本書紀では郡も県も「こおり」と読ませ、その上位に国があったと記しているが、人口規模を無視すると、隋代の倭国の制度と同じ呼び名になる。日本書記が古代の制度を捏造する際に、参考にしたのだろう。「くに」という和名は、東鯷人が支配した農村の戸籍制度に、起原がありそうだ。彼らは海産物に頼らずに、農耕だけで多数の商工民を養う高い農業生産性を、奈良盆地南部で確立していた事になる。大河がない奈良盆地南部は、水害の恐れがなく、古代稲作の栽培適地だったのだろう。ため池を作るなどの治水技術が、進化していた事が窺われる。
倭国以外の国については、「いき国」「つしま国」「ちくし国」だけ、具体的な名称を挙げている。魏志倭人伝から類推すると、長安に住んでいた隋の使者は、その程度の国の名前しか知らなかった様だ。倭の交易者は華南に殺到し、経済的に貧しい華北に出掛けていたのは、北九州の国だけだった事と、東鯷人は伝統的に華南重視だったから、途中で寄港した国の名に馴染みがなかった事の、相乗効果だったと推測される。
「兵はいるが、征服戦争はない」「城郭はない」
多数の国に分かれていても抗争はなく、倭王の統制下に国が共存していた。しかし使者が見た武器の中に弩がある。弩は大軍の集団戦に用いるもので、精巧な作りを必要とし、専用の製作工房が必要な兵器である。常識的には、城郭を持たない人達が使う兵器ではない。これが倭国にあったのは、朝鮮での戦役に使ったからだろう。
兵隊が着ていたのは、「皮に漆を塗った鎧」と記されている。儀仗兵がこれを着装し、使者を出迎えたのだろう。古墳時代の墓や遺跡から、鉄の鎧が沢山出土しているから、鉄甲兵は沢山居た。倭国王はそれを、使者に見せなかったことになる。弩は皮鎧など容易に貫通してしまうから、倭王は戦意が無いことを示したのだろう。随王朝と高句麗との武力衝突がありそうだと見て、婉曲に協力を断ったのではなかろうか。
「王が朝廷に官人を集める時は、必ず儀仗兵を整え、倭の音楽を演奏する。」
使者が自分の目で見たのだろう。派手で豪華な朝廷に見える。戸数十万戸の国で、6〜7百人の女性がいる後宮を持ち、大古墳を造営し、交易品や必需品を加工する工房を持っていた。奈良盆地の開拓に移民を使い、農業生産性を高め、その様な活動が可能になったのだろう。隋の使者に倭国の繁栄を見せるために、特別に行っていた可能性もある。
1−6 国情・風土
「阿蘇山があり、突然噴火して天に接することがある。人々は異変だとして祈祷祭祀を行なう。」
使者が噴火を見たのではなく、秦王国の人々から聞いた話だろう。中国人には火山は珍しかったから、話題になったと想定される。日本には火山が沢山あり、6世紀には榛名山が大噴火して近隣に大災害をもたらし、九州には雲仙・霧島・桜島があり、時に噴火していただろう。阿蘇が特記されたのは、秦王国が近くにあったからだと思われる。
「漢の光武帝に朝貢した時、倭国王の使者が自分を『大夫』と言った。50年後に朝貢した時、倭の奴国だと言った。」
奴国の使者が「大夫」と名乗った筈はないと、中華的常識で決め付けている。倭は春秋戦国時代の呉や越の様な国だから、その倭国王の下僚だった奴国王に、「大夫」がいる筈がないから、後漢書が間違っていると解釈したのだろう。奴国に大夫がいたとすれば(実際にいたのだが)、倭国王は王の中の王になるが、それは中華帝国の秩序に反する事になるからだ。倭国王の従属国であった奴国に、後漢帝国が金印を下賜したのも、問題だっただろう。金印を貰ったのは、倭国王でなければならなかった。
漢民族の実証的な歴史観が、征服王朝の捏造史観に変質している。隋書の決め付けを逆に解釈し、倭の体制は春秋時代の呉や越のコピーだったのではなく、倭と中華を同格に置いた体制だったのではないかという疑問が生まれるが、実際は、呉や越が小国の連合体だったから、倭人はそれをコピーしたと考えるべきだろう。漢民族が呉や越を征服した後に歴史を捏造したから、隋書の作者に誤解を与えた。
「秦王国の人々は、中国人である。そこが夷洲だと言うがはっきりしない。」
秦王国の人は秦末漢初の移民であり、その後中国との接触を持たなかった人達だった事は、既に説明した。東鯷人が秦王国の人々を船で移民させ、王国を作る事を許したのだろう。国と言える様な大集団だった事になる。秦王国という名前は、彼らが中国西部の出身だったことを意味する。東鯷人が揚子江や漢水の上流に遡上していたから、秦末の反乱や、項羽と劉邦の争いの中で、日本列島に亡命移住出来たのだろう。
雲南と日本の文化的近似性が指摘されているが、秦王国の存在はそれに回答を与えている様に見える。
邪馬台国を訪問した魏の使者は、既に存在した秦王国の近くを通過したが、その存在を知らなかった。秦王国の人々は東鯷人が連れて来たから、邪馬台国連合とは一線を画していたのだろう。
南朝の宋に朝貢した倭国王は、「東の毛人を征服し、西の衆夷を服属させた」と国を単純に東西に分けていたが、これは単に美的な表現を狙ったのであって、実際の倭人と東鯷人の勢力分布は、込み入っていたことになる。
1−7 風俗
倭人の風俗に関する記事には、使者の見聞以外に、百済からの風聞があった。
「文字がなく、木を刻んだり、縄を結んだりしていたが、仏教を敬い、百済から仏教の経典を伝えてもらうことが出来て、初めて文字を知った。」
百済がこのデマを流したと推測される。これについては、実証主義な風潮に戻った旧唐書が、「(倭には)頗る文字あり」と訂正している。「木を刻んだり、縄を結んだり」という文は、百済の使者が新羅を卑しめたと考えられる梁書に、「(新羅は)文字は使わずに木を刻んで記録する。」と記されたものに類似し、それが百済流の他民族を貶める表現だったと推測される。
他者のデマを正式な記録としてしまう隋の史官の質は、漢民族の史官と比べると相当酷い。隋書は隋朝の記録を基に、唐代に著述されたものだが、著者は倭の風俗に関する記録を色々記述した後、その締めくくりとして、「新羅・百済は皆、倭が、珍しい工芸・物産品が多い大国だと考え、両国とも倭国を敬い畏れ、常に使節を往来させている。」と記し、隋の史官の記録の信憑性を疑っている。
以上の様に、倭人の風俗に関する記述には、百済の使者が流した倭を貶める風聞が混入しているから、個別に検証する必要がある。古事記と日本書紀の作者は、最新の史書だった隋書を熟読した筈だから、百済に高い評価を与え、新羅を貶め、日本文化は百済経由で伝来したとするトンデモ本を捏造した。濊族系の亡命百済人の子孫が、本当に百済本紀などの史書を提出したのであれば、更に酷い事になっているだろう。
「訴訟事件を尋問追及し、罪を承認しないものは、拷問する。場合によっては、小石を熱湯の中に置き、言い合う者にこれを探らせ、『曲がった事を言う者は手が爛れる』と言う。」 
盟神探湯(くがたち)を指す。隋の使者が見聞したとは思えないから、秦王国の中国人が使者に話したか、百済の使者の話しだろう。これだけ読めば、倭では不合理で野蛮な判定法が行なわれていた様に見える。しかし日本書紀を文学として読めば、盟神探湯は合理的な裁判手法だった(注)事が分る。但しそれは倭人とその子孫である日本人にしか分からない事で、中華文明圏の人には理解出来ないだろう。
「人はとても無欲でがさつかず、争いごとはまれで、盗賊も少ない。」
これを使者に話したのは、秦王国の中国人だったのだろう。
他の習俗に、
「鵜飼で1日に百匹余りも魚を捕る。」がある。
これは事実だろう。漢代の史書であれば、これは江南と同じだとコメントしただろうが、隋書にはその様な記述はない。
以下の記述の情報源は分からない。
「占いをすることは知っているが、巫女の神おろしの方をより信じる。」
「毎年正月一日には必ず射的競技をし、酒宴を開く。」
「その他の季節ごとの行事は、だいたい、中国と同じ。」
「倭人は、碁、双六、サイコロ博打が好き。」
「食物を盛るには、柏の葉を敷き、てづかみで食べる。」
「人々の性質は素朴で正直で、雅やかでさえある。」
「結婚する時は同姓を避ける。」
「男女で好き合った者は、すぐ結婚する。」
「女はみだらではなく、やきもちをやかない。」
「死者を埋葬するには、埋葬用の部屋に棺をおさめる。」
「埋葬には、船の上に遺骸を載せ、地上を綱で引く。」
「遺骸を小さな輿に乗せることもある。」
秦王国の人は倭国王の方針を理解し、倭を貶める様な事は言わなかった筈だ。
「女が多く男が少ない」
隋書の7年ほど前に完成した梁書倭人伝に、「其の俗は女多く男少く、貴き者は四五妻に至り、賤なる者もなお両三妻。(両は2を表す)」と記されている。魏志倭人伝の、「国の大人は皆四五婦あり、下戸は或いは二三婦あり。」を誤解した様だ。下戸は基本的に一夫一婦だが、中には多妻の者がいるという記述を誤解し、数合わせの単純計算から、女が多くなければ成り立たないとした様に見える。隋書は単純に、これを受けているのではないと思われる。旧唐書も同じ事を書いているから、何らかの意味がある筈だ。何の説明もないのは、読者の素養を試しているからだと推測される。現実に男女の実数がかけ離れる事はありえないから、何かの出典を参考にした「女多く男少い」という言葉が、散逸した何かの書籍か報告書に、倭人の特徴として記術され、梁書の著者がその典拠を知らなかった事を、揶揄している様に見える。
漢書地理誌の呉の条に、淮南王安の話として、「淮南王は当初、国中の民の家に娘が居る事は良くないとして、諸国を回っている者を待し(もてなす、取り扱う)、彼らに嫁がせた。それ故に今になると、『多女而(そして)少男』」と書かれている。諸国を回る者は、男の子が出来ると結局その子を連れて諸国に出掛けてしまうから、女が残されるという意味だと思われ、これを引用していると考えられる。旧唐書も新唐書も、隋書と同じ表現を使っているから、隋・唐の時代にも、それが倭人の特徴として知られていた様だ。倭人は交易のために中国に長期旅行に出掛け、息子が成長すれば息子を連れて海外に出掛けてしまうから、国内には女しか残らない状態が常態化する、という意味だったと思われる。多数の倭人が、交易のために中国に来ている事は、よく知られた事実だったことになる。梁代にその様に言われ始めたとすれば、移民数が翳り始めていた頃になるから、倭人が利益の薄い交易を強いられる様になり、倭人の船が資本回転率を向上させるために、華南に長期間滞在する様になって、倭人の出張が長期化していたからだろう。中国人は誰も倭に往っていない時期だから、中国人がその様に言った筈はない。多くの倭人が中国で「女多男少」を、発音しやすい4字熟語として使い、梁代〜唐代まで愚痴を言っていたと想定される。
貧乏国だった百済が梁にせがんで、仏典や仏師を譲り受けた頃、倭人が梁の高官にこの様な愚痴を言っていた事は、仏教が百済から伝来したという話は、全くのデマだった証拠になる。倭人の愚痴の意味が梁書の著者には分からず、隋書以降の著者に分かった事になる。梁書も唐成立直後の著作で、隋書に7年先行していた。
2、隋書が記す東夷諸国の起原
隋書に書かれた高句麗、百済、新羅の建国神話は、魏志の内容と大きく矛盾する。各国の建国神話をレビューし、魏志東夷伝の内容と比較する。
2−1 高句麗 
扶余王が河の神の娘を捕らえ、室内に閉じ込めて置くと日光に感応し、大きな卵を産み、殻を破って朱蒙が産まれた。扶余の人々は、朱蒙が人の子ではないことを理由に殺そうとしたので、母がそれを告げ、朱蒙は東南に逃げた。大河に阻まれ、「自分は河の神と日の子孫だ」と声を掛けると、魚と亀が群集して橋になり、渡ることが出来た。追手は渡ることが出来ずに引き返した。朱蒙は高句麗国を建国し、孫の莫来が扶余を併合した。その遠い子孫の位宮が遼寧省を寇略し、魏に破られた。位宮の孫の孫の昭列帝が鮮卑族に破れ、丸都を掠略され、後に百済に殺された。
位宮が遼寧省を寇略し、魏に破られた(244年)事は魏志高句麗伝と一致しているが、当時扶余は高句麗の2倍の戸数を抱える大国だった。高句麗が鮮卑族の北魏に丸都を掠略されたのは341年で、扶余はこの頃滅亡し、扶余の遺民の一部を高句麗が接収した。身分の高い女が何かに感応して天帝の子を産み、それが王の祖先だとする思想は、史記の五帝伝説、秦の始祖伝説、扶余などが使った始祖伝説だった。漢の始祖劉邦の生誕にも、この伝承の変形が使われた。
2−2 百済
高句麗王の侍女が訳なく妊娠したので、王が殺そうとすると、侍女が「卵の様なものが私を感応させて妊娠しました。」と言うので、放任していると男児を産んだ。厠に長い間放置しても死なないので、王は不思議な子として養育させ、東明と名付けた。高句麗王は東明を嫌ったので、東明は恐れて逃げ、扶余の人が部下になった。東明の子孫の仇台が帯方に国を建て、公孫氏の娘を妻にし、東夷の強国になった。始めに百家で海を渡った(済った)ので、百済という。
魏志によれば、公孫氏は扶余が高句麗と鮮卑に挟まれて苦戦していたので、扶余王の尉仇台に一族の娘を嫁がせ、姻戚を結んで箔を付けた。この頃百済は未だ存在していない。扶余の歴史を百済の歴史に焼き直した捏造史で、舞台が満州から帯方に移った。
2−3 新羅
高句麗王だった位宮が、遼寧省を寇略して魏に破られた時、高句麗王は日本海側まで逃げ、その後故国に帰ったが、留まった人が居て新羅になった。中国人、高句麗、百済の人々が混ざっている。海に逃れた百済人が新羅に入って王になった。
新羅は文明的だった弁韓人を祖先に持ち、漢末に鉄を生産し、稲作をしていた。倭人と親密な関係にあり、古墳時代に商工業が発展して国力が充実し、南下した高句麗の好太王に対し、倭人と共闘して激戦を展開し、高句麗軍を撃退した。新羅には建国神話がなく、新羅人は隋に朝貢したが、建国の経緯を話さなかった。それに付け込んだ百済の使者が、百済人のファンタジーを流して新羅を貶め、それが隋書新羅伝になった。
百済には農産物以外に目立った物産がなく、それも商品価値の乏しい雑穀主体の、貧乏国だった。百済は古墳時代中期に高句麗に漢江流域を奪われ、狼狽して南下したので、新羅が漢江流域を奪還した。百済は扶余の残党と楽浪由来の漢族との混成集団が、韓族を支配する国だったから、黄海を航行する倭人の船を使って朝貢外交を展開し、新羅を貶める風聞を中華に流した。新羅も百済と同じ様に、猥雑で伝統がない百済の下位の国だと宣伝したかった様だ。
1、新羅は百済と同様に、濊族の落ち武者が建国した国だった。
2、百済人も新羅の構成員の一角を占めている。
3、百済人が王になった。
唐書/新羅伝の冒頭に、「新羅は弁韓の苗裔也」と記され、この一言で隋書新羅伝は全否定された。唐書の著者は、この簡明な短文はタイトルに過ぎないが、魏志東夷伝以降の史書を読めばこの一言で分かると考えていた。唐は新羅と同盟して百済を滅ぼし、新羅を属国にしたから、新羅について良く知っていた。
3、隋書が記す東夷
3−1 高句麗
「東西2千里、南北千余里。平壌城に都があり、他に都会が二つあり、三京と呼ばれている。」
隋代の1里は530mなので、東西1000km、南北600kmになる。
「新羅と何時も戦争をしている。」
「嘘を言ったり騙したりする。」
「父子は同じ川で水浴し、同じ寝室で寝る。」
「女性は淫奔で巷には出歩く女が多い。」
高句麗は中華文明を受け入れていなかった。
598年、高句麗は靺鞨の軍1万を率いて遼西を略奪した。隋が軍を出すと陳謝したので征討軍を引き上げた。
611年、隋が征討軍を編成し、皇帝も遼東に出向いて督戦したが、征討に失敗し遼河の西を奪取したに留まった。
613年、皇帝自身が高句麗討伐に向かったが、本国で反乱が起きたので、全軍を引き返した。高句麗が追撃し、隋軍の最後尾が乱れた。
614年、皇帝自身が高句麗討伐に向かった。高句麗が使者を派遣して降伏を申し出たので、帰還した。高句麗王に入朝を促したが応じないので遠征を計画したが、天下が乱れて実現しなかった。隋は618年に滅亡する。
高句麗は隋代に3回も征討を受けたが、持ち堪えた。隋が執拗に攻撃したのは、高句麗の富を狙ったからだろう。高句麗に従う靺鞨もいた。
3−2 靺鞨
「高句麗の北に7種あり、高句麗と接する粟末部は数千の兵を有し、高句麗に侵寇している。」
「西北に契丹と接し、争っている。」
「竪穴住居に住み、アワ、麦、くろきびを栽培し、豚を飼っている。射猟も生業にしている。」
ツングース系の民俗は狩猟民だったが、穀物を栽培して家畜を飼っていた。満州でアワが栽培出来る様になっていた事は、寒冷化が底を打って耐寒性のあるアワが生まれ、アワ栽培が北上していた事を示す。それによってツングース系民族の人口が増え、靺鞨と呼ばれる集団が誕生したのかもしれない。楽浪でアワが栽培出来る様になり、高句麗の食料事情が好転したと推察される。
隋代に何度も高句麗と戦って勝ち、隋に帰順した部族を柳城(遼寧省朝陽県)に住ませ、靺鞨と連絡を取らせた。高句麗征討に従軍し、戦功を挙げた。
617年、煬帝が江都に遷った時に部族の領袖が従ったが、隋末の乱にあって帰路四散した。
高句麗に敵対した靺鞨もいた。隋が靺鞨を懐柔して高句麗征討に使ったのは、彼らが毛皮を華北に持ち込んでいたからかもしれない。質はともかく、高句麗より廉価に販売していたのだろう。
3−3 百済
「東西450里、南北900里、南に新羅に接し、北に高句麗を拒(こばむ)。」
「南西に城壁に囲まれた15の島がある。」
東西200km、南北400kmで、栄山江流域以南も支配していた。
「新羅人、高句麗人、倭人が混ざっていて、中国人もいる。」
交易のために居た人々だったと推測される。百済と交易する為ではなく、倭と華北の交易の、中継地だったのだろう。此処で云う新羅人は、韓族だった可能性がある。
「騎射を尊び、文書を読み、行政事務を上手に行い、医薬・占いの術を知っている。」
「尼僧が居て、寺塔が多い。」
「(南朝)宋の暦を使っている。」
「婚礼は中華式だが、葬礼は高句麗に似ている。
「牛・豚・鶏がいるがあまり煮炊きしない。」
「耕地は低湿地にあり、人々は山地に家を作る。」
「大粒のクリがある。」
特産物が少なく、貧しい国だった様だ。百済貴族は南朝文化の摂取に熱心だった。
589年、隋が南朝の陳を滅ぼして中国全土を掌握した際、済州島に一隻の戦船が漂着し、百済を経由して帰還する際に百済王が援助し、百済の使節を同行させた。使節は隋に誉められて喜び、退去した。
598年、朝貢し、隋が高句麗を攻めるに際し、先導したいと申し出た。隋はその時高句麗を攻める意思がなく、その経緯を知った高句麗が、百済の国境を侵略した。
607年、朝貢して高句麗を討伐して欲しいと申し出た。煬帝が高句麗の様子を探らせると、高句麗に通じていた事が露見した。
611年、隋が高句麗を撃つと、百済が援軍を出すべき期日を聞いてきたので、隋は百済と情報交換を行った。翌年隋が高句麗に総攻撃を掛けると、百済も高句麗との国境に兵を集めたが、隋と高句麗の戦闘状態を見ているだけで、百済は戦闘行為に及ばなかった。
614年、朝貢して来た。新羅と不和になって戦い続けていた。
信義に乏しく扱いにくい国だった。
3−4 琉求
「琉求国は海島の中にあり、福州の東にあたる。水行して5日(実距離170km)」
隋がこの航路を使った事がない事は、以下の記事から分る。倭人から聞いた情報だろう。
605年に漁師の頭に聞くと、「春と秋の空が澄んでいる時に東の彼方にもやの様な気配があるが、遠いのでどのくらいの距離か分からない」と言った。
607年に皇帝が、「海に乗り出して変わった風俗の人を探す様に」命じたので、武官が漁師の頭を案内に立てて琉求国に達したが、言葉が通じないので一人をさらって戻った。
608年に皇帝が武官を派遣し、服従させようとしたが従わないので、麻の鎧を奪って帰った。ちょうどその時倭国の使者が隋の朝廷に来ていて、麻の鎧を見て「夷邪久国のものだ」と言った。
皇帝が派遣した軍隊が、琉求の西南(澎湖諸島経由?)に上陸し、土民が従わないので打ち破って逃走させ、土民の都に至って宮室を燃やし、男女数千人を戦利品として連れ帰った。
結局三国時代の呉と同じように、人狩りをした。倭人が台湾を経由して来るから、台湾を領土にし、その先にある倭に侵攻しようとした疑いがある。台湾は夷洲ではない事が分かったので、呼び名を琉求に代えたのだろう。
隋書東夷伝の書き順は、高句麗、百済、新羅、靺鞨、琉求国、倭国になっている。長安に近い順に記載しているから、倭国は琉求国の後方にあるという認識だった事になる。倭国と琉求国だけ「国」を付けているから、何らかの類型を感じていたのだろう。
4、隋書から見える倭の交易事情
隋が中国全土を統一すると、移民事業は完全に終焉した。内陸運河が開通すると海運業が衰退し、隋帝国が華南の富を収奪すれば、倭人の交易に大きな打撃を与えただろう。倭国王はそれを打開する為に、隋に朝貢して局面を打開しようとし、歴史的に一度も朝貢した事がなかった旧東鯷人が、膝を屈して隋に何かを要求した様だ。隋に拒否されて次第に謙虚になっていった様子を、隋書から読み取る事が出来る。南朝宋に使者を送った古墳時代前期の倭国王達の、強気の姿勢は失われ、かなり事態が切迫していた事を示唆する。中華帝国は農本主義の領土国家であり、商業国家ではなかったが、倭の各国は交易企業だから、従業員に賃金を支払う利潤が得られなくなれば、政権は崩壊する。その機微を史書から読み取る事は出来ないが、リストラは常に大きな内部摩擦を生むから、その困難の中に居た倭王の苦悩は看取する事が出来る。
倭内部では農業生産力が向上し、人口が増えていた。農業を基盤とする土豪的存在が、農業と国内交易で経済力を付け、日本列島を消費地とする域内産業が育っていた筈だが、倭人の海外交易が、奢侈品を交易品としていたのとは異質な、廉価な日用品を扱う交易だっただろう。倭人国は中華との交易で利潤を得る、商業的な都市国家の連合体だった。一方の農民は、戸籍化が始まって、自営農民が発生していた。邪馬台国は厳しい身分制の古代国家(貴族制国家)だったが、戸籍によって農民が個人的に把握された事は、貴族制の基盤になっていた大家族制の破壊が、始まった可能性がある。時代が変革期に向かい始めた兆しを、倭王の姿勢が示しているのかもしれない。
随による中国の統一は、倭人の交易と運送業に大きな影響を与えた。倭王の王権にも大きな影響を与え、倭人内の利権争いなどが発生し、混乱した可能性が高い。
注 / 盟神探湯(くがたち) 
神に祈り沐浴斎戒してから熱湯に手を入れさせ、嘘を言う者は火傷を負い、正しい者は免れるとする裁判手法。脅して自白させる知性的手順であって、機械的に実施する野蛮な迷信ではなかった。日本書紀に三件の事績が記されている。これらは歴史的な事実ではなく、人々に道徳心を説く逸話として、日本書紀に書かれたと考えられる。逸話・説話が教訓を得る手段だった事は、世界的に普遍だろう。以下はその3件の説話。
応神天皇の時代、竹内宿禰が弟に讒言され、死罪を宣告されたが、彼を敬う人が身代わりに自死し、逃がしたので、天皇に直訴した。天皇は彼と弟の言い分を聞いたが、双方の正邪を判定できない。そこで盟神探湯をさせると、竹内宿禰が勝ち、弟を殺そうとしたが、天皇は弟を許し、田舎に去らせた。弟が恐れて自白し謝罪したから、天皇は許したのだろう。盟神探湯という手段で、以後も被疑者の自白を促す積りなら、自白した者は寛大な処分にしなければならない。それは分かっているという筋立てになっている。飽く迄もしらを切り通す者は、盟神探湯を実行されて酷い目にあっただろう。その裁判の正邪が問題ではなく、その様になったという結果が流布される事が、この種の裁判のミソになるだろう。儒教の様に、親族や尊敬する人の為には積極的に嘘を吐けと教える習俗の下では成り立たない発想になる。日本人は当時から、事実を尊重する価値観を持った民族だった。
允恭天皇の時代、高位氏族の出自と詐称する者が多く、秩序が乱れていると感じた天皇は、調査を命じたが埒が開かないので、甘樫丘に釜を据え、諸人に「真実である者は損なわれないが、偽りの者は必ず傷害を受けるだろう。」と宣告し、盟神探湯をさせた。真実である者は何事もなく、偽っていた者はみな傷ついたので、故意に偽っていた者は恐れて進む事ができず、以後偽る者はいなくなった。明らかに詐称していた数人を見せしめにし、その後に、疑わしい人達を釜の前に並ばせると、彼らは畏れて自白した、という辺りが事実だったとして、説話にすればこうなるのだろう。以後偽る者はいなくなったという記述は、同じ信仰心を持っている読み手の、賛同を得られる前提で書かれている。当時は、社会に対して不誠実であれば、盟神探湯で神に罰せられると考えていた。記載された事績の真偽はともかく、読む人はそれで納得すると考えたことに注目すべきである。
継体天皇の時代、朝鮮半島の南端にある任那で、現地女性と倭人の間に出来た子供の、帰属に関する争いを裁定する手段として用い、多数の火傷による死者を出した。派遣された執政官の無能な統治振りとして、報告者が奏上したもので、失敗例であるため詳細な記述はなく、委細は分からない。盟神探湯は、日本人独特の宗教観に依拠する手法だから、任那人には理解されず、多数の死者を出したと解釈されている。盟神探湯という手段で裁く為には、被告人は、神や社会に誠実なら恩寵が与えられ、不誠実なら罰せられると、信じていることが前提になる。裁判を進める人は、少し覚めていなければならない。被疑者を脅せば、正直者は恐れず言い張り、偽る者は恐れて自白する、ということを期待し、巧く手順を進めなければならない。都合よく神を利用し、神を試すとも取れる行為の実施者だから、神に対する不逞な心もなければならない。日本の神は身近な存在で、人間的であったから、その様な二様の心象が許されたのではなかろうか。この様に複雑な心境が他国人に理解されないのは、仕方ない事である様に思われる。  
 

 

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