かわら版と新聞錦絵・江戸読本

ニュースの誕生小野秀雄新聞錦絵と錦絵新聞かわら版のはじまりかわら版の情報社会版の諸相黒船来航錦絵新聞とは何か新聞錦絵と展開幕末明治の浮世絵/新聞錦絵明治「官報」安政大地震政争と民衆鯰絵/麻疹絵/戊辰戦争の風刺画ニュースという物語毒婦誕生明治の声の文化おもちゃかわら版新聞錦絵小野とかわら版ヨーロッパのかわら版ええじゃないか不二道 
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活字 / 世界最古の金属活字活字証道歌字活字金属活字「直指」金属活字金属活字の起源・・・
 

雑学の世界・補考   

ニュースの誕生を問いなおす

 
私たちは、日々ニュースを消費する社会を生きている。昨年の和歌山の毒入りカレー事件やその前年の神戸での酒鬼薔薇少年の事件、そして1995年の阪神淡路大震災やオウム真理教事件の報道から80年代の連続少女誘拐殺人事件やロス疑惑事件、グリコ森永事件あたりまで、ここ十数年の経験をふり返ってみれば明らかなように、私たちの社会は、すでにニュースを社会的な時間の流れの一部として消費していく欲望の機構をすっかり身につけてしまっている。テレビのニュース番組やワイドショー、宅配される全国紙や売店で買うスポーツ紙や週刊誌、電車の吊り広告、そして友人や仲間とのちょっとしたおしゃべりまでが、こうした欲望を維持し、増殖させていくシステムの一部になっている。 
これらのニュースが単に事実を反映しているのではなく、むしろ事実を構築しているのだということは、すでに多くのメディア研究者の基本的な了解事項の一つかもしれない。50年代にブーアスティンがメディアによる事実の製造を、つまり現代社会ではニュース報道の方が事件をアリバイ的に作り出していることを批判したときには、まだニュースはそもそも「生の事実」を報道するべきものだという認識が根底から疑われていたわけではなかった。しかし60年代以降、現象学的ないしは構造主義的なアプローチがそれまでの機能主義や実証主義の基盤を突き崩していくなかで、こうした「ニュース」と「事実」の関係そのものが問い直されていくことになった。70年代末以降、いくつもの批判的アプローチがニュースを出来事の反映としてではなく、むしろ形のない出来事を公共的に語られる「事件」に変えていく意味生産的な語りとして分析し始める。そこではニュースが、語り継がれ、注釈され、各人なりに受容される点で、おとぎ話とも似た性格を持つとまでされていった。 
しかし、ニュースとおとぎ話は同じではない。ニュースが事実に基づき、おとぎ話が架空の物語だから異なると言うのではない。そうした「ニュース=事実」についての素朴な認識を、私たちはもはやそう簡単に信じてはいない。それにもかかわらず、「昔々」のある原型的な物語の構造に回帰していくように見えるおとぎ話と、絶えず話の「新しさ」が要求されていくニュースの間には、やはり語りの形式に構造的な差があるのである。 
この新しい公共的な語りの形式としての「ニュース」は、いつ、どのようにして誕生したのか。この問いに対する答えはそれほど簡単ではない。それはいわゆる近代新聞の誕生と重ならないし、歴史上の一時点ですっきり切断できるわけでもない。むしろこの展覧会が示していくように、すでに近代新聞が簇生しつつあった明治の日本にあっても、新聞錦絵にはいわゆるニュースの語りに包摂しきれない、むしろ戯作的でも浮世絵的でもある様々な語りが複合していたし、逆に幕末のかわら版にはある種のニュースの語りを見出すこともできたのだ。ところがその一方で、新聞錦絵はあからさまに近代の「新聞=ニュース」の形式を利用していたし、かわら版の方は、そうした新聞的な世界とは別の時空で、ニュースの語りと魔除けや祭文、番付や見立ての語りを結合させてもいたのである。しかも当時、この「新聞」という概念自体が今日のマス媒体としての新聞には還元されない、人々が「新しく聞き知ったこと」を様々な意味の広がりのなかで含意していた。 
こうした問題の複雑さを象徴するかのように、この展覧会に向けての我々の作業のなかで、プロジェクトの中心メンバーである佐藤健二と土屋礼子の間にたたかわされた「新聞錦絵」と「錦絵新聞」の呼称をめぐる論争がある。展覧会の準備の過程で重要な意味を持ったこの論争の経緯については後続する佐藤論文を参照されたいが、ここでの観点からするならば、とりわけ両者の次の論点に留意しておきたい。すなわち、一方の土屋は「新聞」という新しい知のシステムがどういう存在なのかまだよくわからない人々が、錦絵の形式によって新しい出来事が伝えられる媒体を不確かながらつかんでいったことを重視し、錦絵のなかのニュース媒体性を発展させたメディアという意味で「錦絵新聞」という呼称を主張した。他方、佐藤はこうした人々の知覚構造の変化の重要性を十分に認めつつ、それだけでは必ずしも「新聞錦絵」という呼称を排除する理由にはならないと指摘する。その上で、「新聞」も「錦絵」も「かわら版」も同じくメディアの存在形式のレベルで設定されるべき概念であり、「新聞錦絵」は表現的には新聞の形式を用いた錦絵メディアなのだと主張した。 
当面の選択として、我々は「新聞錦絵」という呼称を展覧会のタイトルに用いることにしたが、これは決して土屋の主張している「新聞」という新しい知のシステムの同時代のなかでの意味に注目しようとしていないからではない。むしろ、そうした「新聞=ニュース」概念の意味の広がりを問うていくことの決定的な重要性を確認しつつ、そのような問いが成立するマテリアルな場として、「かわら版」なり「錦絵」なりのメディアに照準していこうというのである。したがって、プロジェクトのメンバーたちの認識として、土屋の問いと佐藤の問いは背反しているのではなく、むしろ相補的に交差している。 
問題は、このような「新聞=ニュース」概念そのものへの問いが、これまで日本の新聞学やマスコミ研究、新聞界やジャーナリストのなかでどれだけ深められてきたのかという点である。ひょっとすると、「新聞=ニュース」概念そのものの歴史的、社会的な厚みが問われることなく、かわら版はしばしば新聞成立以前の「前史」、新聞錦絵は初期新聞の亜種として片づけられてきはしなかったか。あるいはニュースはそれに先立って存在する事件を伝達するという信仰がいまだに疑われず、そうした信仰に基づいて近代的な新聞観、報道観が再確認されてはこなかったか。その結果、「ニュース」の歴史はしばしば今日につながる近代的な媒体としての「新聞」の、またラジオやテレビにおける「報道」の歴史に重ねられてきたのではないだろうか。結局のところ、私たちは「ニュースの誕生」を、あるいはニュースを消費する社会の集合的な知覚と様々な出来事のなかに「新しさ」を見出していく語りのメディアとの入り組んだ関係を、どれだけ問うてきたのだろうか。 
今回の展覧会を構想するにあたり、我々の念頭にあったのは、ほぼこのような問いである。当然のことながら、この問いは展示されるコレクションの主である小野秀雄の「新聞=ニュース」観にも向けられている。知られるように、小野は日本の新聞の起源を明らかにすることにこだわり続けた。しかしその「新聞」の起源とは、結局は小野が生きた時代にはすでに自明のものとなっていた新聞概念を前提にした新聞紙としての「新聞=ニュース」の起源だったのではないだろうか。そのような疑念を一方では抱きつつ、他方で我々は、小野がこのように大量のかわら版や新聞錦絵を集め続けたことの意味を考えようと努力してきた。一方の小野が語った「新聞=ニュース」の歴史と、他方の小野が集めたもう一つの「新聞=ニュース」の歴史。この二つの歴史の間には、必ずしも彼の「かわら版物語」や「新聞錦絵」といった著作だけに回収され尽くすのではない歴史意識の水脈が幾重にも折り重なっているのではないだろうか。我々は、小野が集めた資料の厚みのなかからこの水脈を探りたいと考えた。 
さて、ここでもう一度冒頭の状況認識に戻ってみよう。私たちは今日、ひたすらニュースの新しさを追い求め、次から次へと新しい事件が起こるのを欲望し、またメディアとしての新聞やテレビはそうした欲望を構造的に再生産しているようにも見える。こうした社会的な欲望の構造は、かつてかわら版や新聞錦絵を「ニュース=新聞」として消費していた社会のありようとはすっかり隔たっているようにも見える。だが、本当にそうなのだろうか。この展覧会で我々は、どこか現代のメディアに登場する犯罪とかつての新聞錦絵に描かれていた犯罪を、そして阪神淡路大震災と幕末の安政大地震を二重写しにしながら問題を考えている。なぜならある意味で、ニュースを消費する社会はすでに19世紀半ばまでに始まっていたと考えるからであり、またある意味で、我々は今日、必ずしもニュースの新しさだけを消費しているのではないと考えるからである。近代的ニュース・メディアの発展史観を壊してしまったところで、いったいいかなる「ニュース=新聞」の歴史の地層が見えてくるのか。この問いを、来場してくださったすべての方々に向けて投げかけたい。   
 
小野秀雄コレクション

 

 
半世紀近く前の出来事を憎悪の言葉で語り、すでに四半世紀も前に鬼籍に入った人物になお鞭打つ点で、小野秀雄の「新聞研究五十年」(毎日新聞社、1971年)は特異な回顧録だ。恨みを買い続けたのは美術史家瀧精一(1873〜1945)である。おそらく、これは、昭和3年(1928)、東京帝国大学文学部に開設が決まりかけた新聞学講座を、文学部長だった瀧によって一蹴された怨みが小野の骨髄に達したというだけの話ではない。瀧を「象牙の塔に立てこもって学問の応用面を蔑視する古い頭の学者の集まり」(同書)の代表に仕立て、むしろ彼らの理解の届かない場所に、小野が新聞研究を展開させてきたことを物語ってもいるはずだ。 
瀧の意向を体した大学当局は、新聞研究に対してつぎのような見解を示した。「(一)本学に於て将来新聞学なるものの講座を設くるに至るや否やは全く不明なり是れ単に経費の都合にのみ依るにあらず新聞学なるものの学問としての性質上然るものなり、(二)本学に於て新聞に関する研究をなすものは主として純学理上の研究をなすものにして、新聞の記者又は経営者の養成の如きは寧ろ間接なる事に属す、(三)(四)略」(同書)。 
小野の提唱する新聞研究を「新聞の記者又は経営者の養成の如き」ととらえるのは明らかな矮小化だが、小野は小野で、「滝教授のような美術史の教授は美術のことがわかるだけで、新聞学のような社会科学には見通しがつかないのである」(同書)と当時を振り返り、人文科学対社会科学という単純な図式から最後まで逃れられなかった。穿った見方をすれば、「新聞研究五十年」を回顧するためには、頑迷な無理解者の存在を必要としたのである。 
瀧精一は日本画家瀧和亭の長男として生まれた。大正3年(1914)、東京帝国大学文学部に美術史学講座が開設された時、初代教授となり、昭和9年(1934)の退官まで日本美術史と中国絵画史を講じた。さらに美術雑誌「国華」の主幹も務めていた。 
昭和3年に瀧が新聞研究に対して示した拒絶は、文学部長としての判断であっただろう。小野はさらに、瀧が「国華」を通して朝日新聞社と深いつながりを持っていたことから、東京日日新聞の記者であった自分を排斥したのだろうと推測する。いずれにしても、美術史家としての瀧の視野には、新聞はもちろん、かわら版や新聞錦絵など入りようがなかった。 
かわら版にも新聞錦絵にも絵があり、それなら美術史学の研究対象となり得ると考えるのは現代の発想であり、当時はそれは美術ではなかった(もちろん今も美術ではないし、本展がそれを美術に仕立てようと企んでいるわけでもない)。あるいは、かわら版や新聞錦絵を論じることは「社会科学」の研究ではあっても、美学講座の中に第二講座として開設されて間もない美術史学という「純学理上の研究」の受け容れるものではなかった。 
そう考えるなら、小野の瀧批判もあながち的外れではないが、需要と供給の関係から自由にはなれないまま社会を流通する美術がなぜ「社会科学」として研究されないのかを突くべきで、「美術史の教授は美術のことがわかるだけ」と放免すべきではなかった。なぜなら、それができるだけの材料を、そのころの小野はすでに手に入れつつあったからだ。 
小野秀雄のかわら版・新聞錦絵に対する関心は、大正5年(1916)に始まる。戸川残花を訪れた際、地震や津波のかわら版を初めて目にしたという。やがて「日本新聞発達史」(大阪毎日新聞社、1922年)を著すころには、自ら収集も開始していた。そして、大正13年には、吉野作造、尾佐竹猛、石井研堂、宮武外骨らと計らって明治文化研究会を結成したのだから、かわら版・新聞錦絵に限らず、幕末開化期の生活文化を伝える資料は小野の手に届く範囲内に急速に集積されていた。 
そのように視野に入ってきたかわら版・新聞錦絵を、小野は、いわば「日本新聞発達史」の前史に位置付けた。しかし、新聞を基準にして、新聞以前の未熟で未発達なニュース・メディアという性格をそれらに与えたことは、それ以外の解読に道を閉ざす結果となった。たとえば地震や津波の被害を伝えるかわら版のような災害情報が、どれほど不正確で主観的なものであったとしても、被災者にとっては鎮静剤に似た役割を果たすという災害研究が明らかにしてきたことも、新聞発達史をリネアに探るだけでは到達できない知見だっただろう。 
さらに、かわら版や新聞錦絵が稚拙ながらも画像を持っていることの意味にも、考察が加えられるべきである。社会を流通する画像に対する理解は、小野・瀧ともに思いもつかなかった美術の社会科学、あるいは新聞の美術史学(むしろヴィジュアル・メディア研究と呼ぶべきか)にも道を開くに違いない。 
新聞錦絵の興味深い性格は、もとになった新聞記事と錦絵との間に時差があることだ。たとえば、歌舞伎役者嵐璃鶴と密通したあげくに旦那を毒殺した原田キヌの事件は、明治5年(1872)2月23日発行の「東京日日新聞」第3号で報じられたが、それが錦絵になって売り出されるのは明治7年の夏だから、少なくとも2年半の隔たりがある。 
殺人という出来事、その事件化(キヌは死刑、璃鶴は懲役刑に処せられる)、その新聞報道のそれぞれの間にも時差があるが、それから錦絵化に至るまでの隔たりは際立って大きい。もっとも、平田由美氏が「 “毒婦”の誕生」で明らかにするように、さらに4年を経た明治11年に、キヌは連続殺人犯「毒婦夜嵐お絹」という虚像(巨像でもある)に仕立てられる始末だから、それぞれの時差のあとに、新たなメディアがどのような情報を伝えたのかを細かく見てゆく必要がある。そのつどの情報の商品化こそ、「ニュースの誕生」にほかならない。 
キヌの旦那殺しが2年半の熟成期間をおいて錦絵の主題に変貌したわけではない。真相は、新聞錦絵というメディアを新規に開発した関係者が、錦絵化にふさわしい主題を過去の新聞記事に探し、そのひとつとしてキヌの事件を見つけ出したということだろう。何よりもまず、それは売れるものでなければならない。人に金を払わせるだけの物語と画像が求められた。 
物語も画像も必ずしもキヌの事件に必ずしも内在する必要はなく、戯作者と絵師(この場合は高畠藍泉と落合芳幾)の判断に委ねられる。そもそも画像に関していうなら、現実の出来事に固有なものなどない。むしろ出来事にふさわしい画像を絵師が作るのであり、それは写真の時代を、次いでテレビの時代を迎えた現代もなお変わらない。 
殺人事件を扱えば、芳幾は凄惨な殺人の現場を描くことが多かったが、キヌのこの事件では、ふたりに殺意が芽生えた瞬間を描こうとしたようだ。春画にも通じるけだるさを漂わせるふたりの背後には、いかにも図式的に、毒殺に用いた鼠取りを売り歩く男の姿が描き込まれている。 
そこでは、情報の速報性も厳密性も二の次である。しかしながら、遠い昔話や超人的な伝説を売り物にしたわけではない。セールス・ポイントは現代の事件だという点にあった。それまでのかわら版は、現代の事件を扱おうとしても、武家社会には言及できない、いわゆる当局発表の公式情報がないなど、多くの制約を抱えていた。こと市井の殺人事件となると、かわら版が扱えたものは、仇討ちという私刑ではあったが公認された殺人ぐらいであった。 
明治維新とは、こうした情報空間の崩壊と再編成でもあった。明治7年の読者が受け入れた新聞錦絵の新しさとは、事件の主たちと同じ時空間を共有しているという臨場感にあっただろう。それこそが、錦絵が新聞に依った意味である。 
おそらく、翌明治8年の春、浅草奥山で開いた油絵の見世物の大半を新聞錦絵に取材した五姓田芳柳にも、同じ判断が働いただろう。前年春の見世物では、油絵で芝居絵や役者絵を描いて見せることに終始した芳柳が、その直後に出回り始めた新聞錦絵に鞍替えしたのは、そもそも油絵の迫真性を訴えること、観客に臨場感を抱かせることを興行の目的としていたからだ。 
だからといって、同時期の高橋由一のように鮭や豆腐などを迫真的に描いて満足しなかったのは、芳柳がもともと歌川国芳の下で学び(したがって芳幾とは同門ということになる)、浮世絵の世界に交わり、物語性を画面から排除することができなかったからに違いない。あるいは、物語性を排除しうるだけの油絵の迫真技術を芳柳が身につけていなかったともいえる。芳柳は当時「西洋画工」を自称したが(興行の引札にそう書いてある)、弟子の平木政次の証言によれば、明治7年の興行は「カンレンシヤに泥絵具で描きその上へニスを引いて、油絵の様に見せたもの」であり、明治8年では「油絵と云ふ看板ですが、実は水彩画」を見せたにすぎない(平木政次「明治初期洋画壇回顧」1936年)。 
明治7、8年当時、ある出来事が手に届きそうなところで起ったと感じさせる情報空間が新たに出来上がっていた。それはまず新聞によって準備され、錦絵によってかたちを与えられた。芳柳はただ油絵というメディアを引っさげて、そこに参入しただけかもしれない。しかし、翌明治9年に下岡蓮杖が同じ浅草奥山で開いた油絵の見世物は、7年前の函館戦争と2年前の台湾戦争を主題とし(作品は靖国神社遊就館に現存、ただしこれも泥絵具を用いた油絵もどき)、東京日日新聞記者岸田吟香が深く関わったことを考えれば(吟香自身の姿も画中に大きく描かれている)、文明開化期の美術と、新聞や新聞錦絵など新興のニュース・メディアとの因縁は浅からぬものがある。 
何を描いたことでそれが商品価値を持つに到り、それからまた、何を描くことをやめて近代を迎えたかをたどり直せば、当時の美術の姿が浮き彫りにされるだろう。その後、戦争という合法的集団殺人や演劇化された殺人が主題に選ばれることはあっても、市井の殺人事件を描く画家は姿を消すからだ。 
以上は、小野秀雄コレクションのほんの一部に加えた私なりの解読にすぎない。小野の遺産は、さらに多様な解読を待っている。社会情報研究所の創立50周年という時間をさかのぼる記念事業に、総合研究博物館の東京大学コレクション展という逆に現在の状況に向かって網を投げ掛けるような試みとを重ね合わせた本展が、そのための機会となればよい。 
 
新聞錦絵と錦絵新聞

 

 
本展覧会において、かわら版と並んで取り上げられた小野秀雄コレクションの素材は、従来あまり明確に意識されないままに二通りに呼ばれてきた。「新聞錦絵」と「錦絵新聞」である。 
「ライスカレー」と「カレーライス」のように、呼称としてどちらでも支障はないと感じるかもしれない。しかしながら日本語の場合、語句の順序は、概念をどう設定していくかという方法論的な問題に密接に関わる。 
「ライスカレー」と「カレーライス」の間でならば議論にならない選択でも、「マンガ雑誌」と「雑誌マンガ」とでは、その用語によって指し示される対象の具体性や、それを一つの分類として含む全体が異なってくることは明らかであろう。 
副題および図録の図版解説やコーナーの展示解説を、「新聞錦絵」で統一したことをめぐり、最低限の解説を加えておきたい。主題である「ニュースの誕生」をどうとらえるかとも深く関連しているからである。 
用法のなかの並列 
研究の現状での基本的な問題点のひとつに、従来、どちらの語を使うにしても、あまり自覚的には使われてはこなかったという事実がある。浮世絵関係の事典類では「錦絵新聞」と項目をたてている例が目立つが、それらが浮世絵雑誌に掲載された宮武外骨や石井研堂の用例に影響されていることは明らかであろう。「新聞錦絵」の語は、小野秀雄の「新聞錦絵」の刊行以降に目立つ。しかし、美術史的な把握から一歩踏みだした労作といっていいジャーナリズム史研究会の「新聞錦絵」でも、たとえば「明治7年、8年に盛んに発行された「新聞錦絵」あるいは「錦絵新聞」と呼ばれる、一連の錦絵」というように両方の語を並列的に使っていて、明確な意味の差を設定してはいない。  
むしろ二つの語に対して、理論的にあるていど踏み込んだ判断を示していたのは、小野秀雄である。小野は、新聞に掲載された事件を錦絵化した東京のものを「新聞錦絵」、前提となる新聞から独立した大阪のものを「錦絵新聞」と、区別して概念化したからである。しかしながら、この概念化は不十分なものにとどまった。東京か大阪かという地域差の問題と、新聞錦絵か錦絵新聞かという「新聞」性の差の問題とは、本来独立の論理軸であるにもかかわらず、それを重ね合わせてしまっているからである。  
小野の「新聞錦絵/錦絵新聞」の用語は、けっきょくのところ単純にそれぞれの地域で出された新聞錦絵の表題レベルでの傾向の違いを、実態的に写したものにすぎないという印象をもつ。その対比は、分類という作用からみても記述的であって、分析的に再構成された概念ではなかったのである。  
新聞錦絵現象の概念化に向けて 
そのようななかで、この展覧会において、どのような用語を共通して使うかが、改めて問われることになった。もちろんそれぞれの立場で使えばいいという判断もあり、われわれもそれを基本的には尊重した。しかし概念としての差異が共通に踏まえられたうえで二つが使われているのであればともかく、呼称レベルで二つの異なる用語が並ぶのは冗長であり、混乱以外の何ものをも生み出さないという意見も強く、個々の論文を除き、図録の解説やキャプションのなかではひとつの語に形式的に統一する方向が選ばれた。 
そのプロセスで、小野らの区別を批判的に継承しつつ総称として「錦絵新聞」を主張する土屋礼子氏と、基本的な出発点としては「新聞錦絵」という概念の方がふさわしいと主張する佐藤とが、電子メールを通じて「論争」めいた議論を交わすことになった。いくつもの論点を含む論争そのものの紹介はむずかしいので、二つの主要な論点にだけ触れておこう。 
錦絵と新聞との関係 
一つは、用語のなかの錦絵と新聞との関係である。それは錦絵なのか新聞なのか、とまとめてしまうと単純になりすぎるが、ニュースの誕生といういささか多義的な主題と関わって、新聞という語の位相が論点となった。 
すでに「大阪の錦絵新聞」の著作のある土屋氏は「錦絵という形式を活用した独立したニュース媒体」の意味で「錦絵新聞」の語を用い、やがて確立してくる新聞との「速報性、継続性、定期性、事実性」における連続性に光をあてた。主張のひとつのポイントは、今日の新聞とは表現形式などが違ったものであったとはいえ、新聞錦絵には「新聞」と分類するにふさわしい媒体としての独立性・独自性が存在したという理論的な含意の強調であり、問題提起であろう。  
これに対して、佐藤が「新聞錦絵」の語で主張したのは、それがもつ「錦絵」としての存在様式の基本性、すなわち多色刷木版メディアであるという複製技術のモノとしての特質であり、また嚆矢となった「東京日々新聞大錦」が新聞に載った出来事を素材に錦絵化するという原型をつくったという歴史的事実の基本性である。ポイントは、既に発行されていた新聞というメディアの情報世界を前提に成立し始めた錦絵(=多色刷木版メディア)文化として対象を設定する点にある。 
定期的な報道媒体として離陸したのか否か、独立独自の取材報道や出版流通の体制をそなえるに至ったか否かは、その当時「新聞」と呼ばれていたメディアの実態も含めて、ひとつひとつの新聞錦絵の生態において検証すべき主題であると思う。その点では「錦絵新聞」概念の成立可能性を退けてもいない。さらに土屋氏が自らの「錦絵新聞」の範囲から外した「やまと新聞付録」の「近世人物誌」や、おもちゃ絵の「しん板しんぶんづくし」や「新聞絵解」などを含めて、新聞というメディアとの歴史的な展開との関係を分類しつつ改めて論じられる点は、錦絵としての存在様式に基本を置く「新聞錦絵」概念の利点のひとつだと佐藤は主張した。じっさい厳密な意味での「錦絵新聞」の限定の対象外の素材を用いて展示が構成されているという事実は、本図録での用語統一における「新聞錦絵」の採用を根拠づける共通理解の一つであった。 
読者のなかの「新聞」 
もう一つ、触れておくべきは「錦絵新聞」という語に寄せて提起された読者の論点である。 
土屋氏は、新聞錦絵が発行された当時から1920年代まで一般に使われていた「錦絵新聞」という用語には、受け手の「新聞」に対する視点が息づいているのではないかと指摘し、その語感を生かしてみたいと問題提起した。さらに進めて、たとえ生産の実態が新聞記事の錦絵化であったとしても、受け手たちはこれを「新聞=ニュース」の媒体としてとらえ、その受容を通じて、未知の新しいメディアすなわち「新聞」を認識したのではないか、という仮説を投げかけた。 
たしかに、人びとが新聞錦絵の受容を通じてどのように新聞を想像したのかは、その「新聞」の内実を含め、たいへんに重要な研究主題である。しかしながら、その主題を方法的につめていくために押さえなければならない歴史的事実は多く、われわれが新聞錦絵と呼ぶこの対象が、隆盛の当時に何と呼ばれていたのかの探究すら、まだまだ不十分である。 
「新聞」か「新聞」かの読みも無視できない差異で、「しんもん」の音は河内音頭の「しんもん語り」を媒介に、芸能やかわら版の領域にまで補助線を引いていくことになろう。新聞錦絵の資料の内側でだけ考えても、「新聞錦画」という文字が「新聞図会 第23号」のなかにあることなどをみると、「錦絵新聞」という呼称が一般的であったと断ずるのには躊躇を感じる。さらに明治末期の備忘録のなかに現れる「絵附ロク」の呼称の含意や、1920年代の明治文化研究会を中心とした言及がなぜ「錦絵新聞」であるのかにも、その当時の歴史的時空に踏み込んだコンテクストの解釈が必要となろう。 
そうした資料それ自身の多元性を受け止めるためには、読者の主観的な認識に最初から強く深入りした定義は方法的に望ましくないと私は考える。「錦絵新聞」の語の強調に込められた読者論的な問題提起に深く共感しつつも、それは歴史社会学が分析すべき課題であって、対象を指し示す基本的な役割において「新聞錦絵」概念の有効性を退けるものではない。概念の定義のもつ重要な役割の一つは、対象を指し示す機能で、そこにおいて問題提起の共同の検証や探究が行われる、共通の土台をすえることにある。仮説や解釈を用語の規定の中心に入れればいれるほど、社会学的な歴史研究における認識生産の土台としての共通性を失っていく危険性がある。 
生産様式としてのメディアレベルで「新聞」も「錦絵」も概念設定し、「新聞」と呼ばれるメディアの勃興期でもあった時期に、その情報世界との接点において生まれた「錦絵」の一形態を指し示すところから「新聞錦絵」の基本的な規定を始めたのも、「錦絵新聞」の強調においてなされた読者論的な問題提起を無視したからではなく、むしろそれを研究主題として明確に受け止めることのできる枠組みの構築を考えているからである。 
本図録での「新聞錦絵」への統一は、以上のような形で「錦絵新聞」を含みこむものであるとご理解いただければ幸いである。 
 
かわら版のはじまり

 

 
かわら版は、一般には、事件を逸早く伝えるために摺られた江戸時代の粗悪な木版の摺物と理解されている。かわら版という呼称は、元禄頃の文献に「土版木」という語があるように、半乾きの瓦に文字を刻したものが使われたことに由来するとする説もあるが(小野秀雄「かわら版物語」雄山閣、1961年、鈴木秀三郎「本邦新聞の起源」ぺりかん社、1987年)、瓦に文字を刻して摺れば、文字の部分が掘りこまれネガフィルム(陰刻)のようになるから、実際には使われていなかったとする説もあり(林美一「珍版、稀版、瓦版」有明書房、1966年)、一定しない。しかし、江戸時代も極く末期にならないと、「かわら版」という言葉は登場しない。実際には読売とか、摺物などという言葉が頻繁に使われていた。かわら版を売る二人連れの読売の姿がそこに集まる大勢の聞き手や買い手を予測させるように、かわら版は人々が集まる江戸、大坂、京都などの街角あるいは絵草子屋や、また宿場町などでも売られていた。もちろん、江戸時代のはじめからこうした光景が見られたわけではない。 
では、かわら版は江戸時代のいつ頃から登場するのだろう。 
これまで、大坂夏の陣(1615年)で炎に包まれ落城する大坂城と、落ち延びる女房たち、大坂方の敗色濃い戦いの様子を描いた木版摺りの一枚絵が、江戸時代におけるかわら版の嚆矢と位置付けられてきた。しかし、こうした摺物が当時実際に作られ、売られていたのかという点については、かわら版を論じたほとんどの書物は、存在したと断じたものはなかった。理由は現在多数残る大坂夏の陣のかわら版は後世摺られたものであり、当時出版されたと推定されるものは残されていないからであった。そして、なによりも、戦国期より続く戦闘が漸く終わりを告げた元和期は、政治的にもなお多くの不安定要因を残しており、後の時代に巷に流布するかわら版の買い手市場が想定できるような社会的条件が整えられてはないと考えられたからである。 
しかし、本展示のための調査を通して、大坂夏の陣の摺物が江戸時代かわら版の嚆矢と唱えられてきた事情が多少判明した。このことは、江戸時代かわら版が生み出されてくる社会的事情について述べることにもなり、また、本展示でのかわら版に対する考え方を述べることとも繋がるので、以下に多少の説明をしておきたい。 
大坂夏の陣のかわら版は実在したか? 
まず、大坂夏の陣のかわら版を調べるきっかけとなったことについて触れておこう。本展示の基本となる小野コレクションには、大坂夏の陣に関するかわら版が八点ある。「大坂安部之合戦之図」系統三点、「大坂卯年」系統三点、布陣図二点である。このうち、江戸時代兵学者の間に流布したという布陣図を除いても、大坂夏の陣の情景を描くものが六点ある。しかも、小野秀雄はこれらを大枚を叩いて購入している。小野がどうしてそれほどに執着したのか、この点について多少踏み込んで調査することで、小野のかわら版に対する考え方がわかってくるかもしれないという期待が持たれたのである。 
では、小野自身は、これら大坂夏の陣のかわら版についてどう考えていたのだろうか。小野みずから収集したかわら版をもとに著した「かわら版物語」での小野の関心はもちろん、これらが大坂夏の陣当時発刊されたものかどうかを検証することにあった。小野は江戸時代以来これらのかわらの存在に論及した書物(「甲子夜話」、「塩尻拾遺」、高畠濫泉「好古麓の花」、朝倉亀三「本邦新聞史」)に基づいて、大阪夏の陣の直後売り出された絵草子があり、これらの摺物もその一部だと推量した上で、今となってはその絵草子の名はわからないとした。 
ところで、「大坂物語」という戦記物がある。大坂冬の陣の後一ヶ月を経ない段階で京都で出版された仮名草子で、その後夏の陣についても続いて下巻が刊行された。これらは、元和古活本といわれる、木活字版のものであった 。 
古活字本の仮名草子とは、それだけで時代の限定を受けたものであることを表現しているという(新日本古典文学大系「仮名草子集」渡辺守邦解説、岩波書店、1991年)。古活字本とは、16世紀末ヨーロッパと朝鮮から入ってきた活字を組む新しい印刷技術によって開拓された印刷本をいい、外来のものは金属活字であったが、日本では木活字で、数丁分の活字を組みつつ印刷するものであった。新奇を好むこの時代の風潮に合い、寛永前期頃まで流行した。また、仮名草子は、中世の御伽草子と、西鶴にはじまる町人の世態を描く浮世草子の興隆に挟まれた時代の草子類のことを指す。この時代に語りものが文字化されて売られる冊子となった。印刷文化の一翼を担う文芸が登場してきたのである。しかも、この「大坂物語」は人気が高く、古活字印刷の時代が終わりを告げた後も木版刷りで享保期まで数回刊行されたという。 
さて、この元和古活字本のなかに、「大坂城之画図」と題される木版刷りの付図が収められている。この事実はすでに、川瀬一馬「増補古活字本之研究」(1967年)において明らかにされ、異版が二種あることも指摘されていた。図に明らかなように、これを一見すれば、「大坂安部之合戦之図」との近似性は誰でも思いつく。しかし、付図は古活字ではないから、この方面の研究者の言及がなかったのだろうし、この近似性についてかわら版の研究者の側からの指摘もなかった。 
それでは、くわしく「大坂城之画図」をみてみよう。これは、大坂城内に篭る大坂方の軍勢とそれを攻める徳川方の軍勢の内容から、冬の陣の図と推定される(参謀本部編日本戦史「大坂役」村田書店、1897年)。これに対して、大坂城に火が掛かり、女たちが逃げる姿を描く図は、明らかに夏の陣に関するものであるから、もちろん、図は同一だとはいえない。 
しかし、図は、夏の陣後作られたと考えてよい「大坂物語」の下巻に対応する内容であるから、冬の陣を物語る付図を利用して夏の陣の内容に相応しい付図が作られたと考えることはできる。それらが図の元になったものだとは短絡的にいうことはできないが、そうした可能性も全く否定はできない。現に、図の「元和古写本の表紙の裡」から見つけ出したという注記は、まさにその事をいっているのである。恐らく、これを版刻した田口某は「大坂物語」という書名を憚ってここに記さなかったのだろう。そして、「其頃売りあるきしもの」という言葉がかわら版のはじまりということの有力な根拠になったのではないか。この注記を素直に読めば、大阪夏の陣のかわら版とは、まさに「大坂物語」下巻に付されていたであろう図を指していたとしてよいことになる。 
したがって、結論からいえば、小野の推量は当たっていたということになる。つまり、小野が分からないとした絵草子は、この「大坂物語」なのである。 
もちろん、原図がない以上、「大坂物語」の下巻の付図が、従来かわら版の始まりといわれてきたものだとは断定はできない。しかし、この物語は、文字としてのみ読まれたものではなく、語りの世界と共有する要素を持っていた。すべてが五七調ではないが、その文体からして読み聞かせられる物語であった。現に「大坂物語」上巻に刻された印が息継ぎ箇所を指示する読点であるのは、そのことをなによりも有力に物語る。物語後半、夏の陣のくだりは、徳川の代を寿ぐ言葉で綴られるが、逃げ落ちる大坂方を語る口調は図が描く内容に即して溢れる哀切の念を押し留めがたい。だから、やがて付図が独立して、それ自体で物語りを始める役割を担うという筋道を立ててみることも不自然ではないだろう。そのことは、かわら版が無届けの出版で、しかも戦場で、読み売られたとすれば、これらをかわら版の嚆矢とすることを否定する材料はなにもない。 
その後、圧倒的な物語性を持つ大坂の陣を超えるような大事件は存在せず、徳川の世が安定する。17世紀の後半出版業界に対する統制が敷かれ、徳川政権誕生の正当性に言い及ぶような出版物は厳禁された。それが時代を超え、大坂夏の陣のかわら版が孤立して存在する理由である。ただし、もちろん、ここにあるものは、模刻版であって、当時読み売られたものではない。 
かわら版の情報世界落書・落首・かわら版 
かわら版は、アンダーグラウンドの世界を代表するものではない。しかし、もちろん、表に見えてこない世界を背後に背負っている。それは落書、落首の世界である。この背後の世界は、厳しい出版統制とそれらが本来持つ匿名性の故に、かわら版のようにマスプリ化にされて表に現れることは、長い間なかった。しかし、この世界は、記紀の時代の童謡(わざうた)にまで遡ることができる長い歴史を持つ伝統文芸だという(井上隆明「落首文芸史」高文堂新書、1978年)。そして、文字通り落書きとして、今に、私たちの身辺世界に繋がる長い命脈を保っている。 
さて、伝統文芸としての落書・落首とは、どのように定義されているのだろうか。時代や人物を風刺する、作者不明の歌や評言で、衆目の集まるところに貼り置かれたもの。落首は、落書のうち、和歌形式で読まれたものを指すという(吉原健一郎「落書というメディア」教育出版、1999年)。この落書・落首の世界にもさらに奥の世界があった。それは、写本の世界である(吉原前掲書)。江戸時代は、時代が下ると共に、読み書き能力を備えた人々が大都市ばかりでなく、町や村にも広がった。彼らは、かわら版の世界に直接接することがなくても、また、落書をその現場で直接読まなくても、写本から写本へ、人との繋がりを介して伝達される言説を写し置く慣習と情熱を持っていた。このように考えると、ここで問題とするかわら版の世界はそうした深く広がる世界の一部が表出したものに過ぎないという構図が見えてくる(平井隆太郎「江戸時代におけるニュース流布の一様相」「新聞研究所紀要」2号 1953年)。 
しかし、かわら版が印刷されたものとして表の世界に属するとはいえ、作者も版元も刻さない無届出版である以上、表裏二面を供えたものであることはこれを創る人々が一番よく心得ていた。だから、彼らは、印刷という表の世界に足をかけている以上、保守しなければならない出版統制の枠組に敏感であった。災害かわら版は18世紀の後半数多く出版されるようになるが、この分野においては、風刺や批判はまずみられない。むしろ、災害も修まり、世が安泰に復したことを称える言辞が、災害の経過や被害を綴った後にいかにも不調和に付け加えられるのが常套である。この領域はかわら版の作り手に確保された安定した市場であった。しかし、また、仲間統制や検閲といった規制の網の目を潜り抜けていかにして新手の趣向を出版までこぎ付けるかは、絶えず模索された課題でもあった。だから、かわら版と落書・落首との表裏の領域は絶えず侵し侵される関係にあったといってよい。それを左右したのは、出版統制の在り様である。 
この緊張関係が弛緩し、裏の世界の落書が表の世界のかわら版として登場してくるのは、天保改革の失敗以降、嘉永期(1850年代)頃からだという(吉原前掲書)。これ以降幕末に至る間、災害、ペリー来航など大事件が頻発し、かわら版には多様なものが多くなる。また当然、それ以前の時期に比べ、量的にも飛躍的な増加をみる。 
この頃になると、さらに民衆に人気の高いメディアである錦絵がかわら版と同じようにニュース性を織り込みながら活発に刊行された。とはいえ、錦絵の表現世界は絵であって、文字ではない。だから、絵解きがニュースの解読に重なる。このことはかわら版の世界の広がりだともいえるし、錦絵世界の拡大ともいえる。 
幕末維新の内乱は、さらに一層メディアの活躍を促した。しかし、注意すべきことは、なお封建社会であり、出版統制が弛緩したとはいえ、基本的には出版の自由はなかったということである。しかし、これまで統制を潜り抜けてきた知恵の蓄積が変化の激しい政争を複雑で多様な方法で表現する力となって発揮された。百花繚乱の観のある幕末・維新期のかわら版・錦絵の渾然一体となった世界は、語るべき事件の多さとそれを直接語ることを押しとどめられた人々の抗し難い表現意欲の昂まりとみることができる。 
小野コレクションかわら版について 
小野コレクションの由来は、他の論考に譲る。コレクション全体は未整理のものが含まれ、全貌は掴みがたい。このうち、今回分類、整理が終了したかわら版類約578件、新聞錦絵約300点を中心に展示が企画された。この他、コレクションのうちに含まれる錦絵約120点は今回整理の対象とはしなかったが、展示展開に必要なかぎりにおいて、図録に掲載した。ここでは、コレクションのうちのかわら版類についての簡単な説明をしておこう。 
まず、小野コレクションで、「かわら版」と称するものは、一般的な定義を逸脱した多様なものを含んでいることを断っておかなければならない。かわら版の一般的な定義とは、違法な無届出版で、売ることを目的に出版される有料の、ニュース性の濃い一枚刷り、時に簡易綴じの小冊子を含む情報紙ということである(中山栄之輔「かわら版選集」人文社、1972年)。 
しかし、このコレクションでは、以下に説明するように、出版届けをした違法でない出版物(祭礼番付、武鑑、歌舞伎の興行番付、)や、無料で配られるもの(引札、飛脚問屋の摺物、見世物の広告)、明治以降の発行人、発行所、発行期日の明記された印刷物などを含めたものを総称して便宜的にかわら版とした。その理由は、すでにこのコレクションについて大まかな分類がなされていたことによるが、厳密な分類を立てることにあまり重きを置かず、むしろ、社会情報の総体を捉える枠組みを失わないようにすべきだという発想によっている。以上のような前提を踏まえて、本コレクションの概略を以下に説明しよう。 
かわら版を分類すると、次表のような構成になる。災害関係が全体の四割以上を占める。次ぎに多いまとまりは、幕末・維新期の内乱に関わるもので約二割強、番付、祭礼番付、歌舞伎興行の番付類などの庶民生活にとっての年中行事類などが併せて約二割弱、同じく庶民生活での日常的な関心事である健康や日々の安泰を願うものなどがこれに続く。 
災害かわら版は小野コレクションのなかで約四割以上を占め、圧倒的に多い。小野は、収集を始めた大正5年頃、東京大学地震研究所の石本巳四雄と相携えてかわら版を集めようとした。両者が収集品を融通し合う関係にあったことも想定されるから、一定程度災害ものの比重が多くなったということも考えられる。しかし、ここでは、そうした収集過程に作用したであろう特殊な条件を勘案しても、江戸では災害かわら版は実際に出版された量も大きかったという立場を採る。その点についての説明は災害とかわら版の項に譲る。 
また、庶民生活を色彩る年中行事に関わる出版物、庶民世界のなかで好奇の対象となり、広く流布された奇談や事件を刻したかわら版などを一括すると、これまた一大塊をなす。こうしたコレクションの構成をふまえ、かわら版部の展示を構成した。 
 
かわら版の情報社会

 

 
かわら版売り/ かわら版売りの様子を伝える図。かわら版という語は、江戸時代には使われず、読売と呼ばれ、それを街角で読み売る人も読売と呼ばれていた。17世紀の終わりには、すでに事件を唄に作り、読売する二人連れの絵草子売りの姿が描かれている。一人がかわら版を読み謡い、他の一人が扇子などで節に拍子を付け、呼び売りしたという。 
大坂安部之合戦之図/ 元和元年(1615) 江戸時代かわら版の嚆矢(こうし)と位置付けられてきた大坂夏の陣に関するかわら版の後摺り。従来二つの系統が確認されている。この「大坂安部之合戦之図」は、上段に大坂城内、中断に東西両軍の合戦、下段に将軍(秀忠)、宰相(徳川義直)、御所(家康)、常陸(徳川頼宣)らの東軍の陣容を刻す。 
大坂卯年図/元和元年(1615) 江戸時代かわら版の嚆矢(こうし)と位置付けられてきた大坂夏の陣に関するかわら版の後摺り。二系統のうちのひとつ、「大坂卯年図」。奥書によって、「元和古写本の表紙の裡」から見出したものを文化11年に後摺りしたとしていることが注目される。「元和古写本」とは、「大坂物語」のことである。 
是は慶長二十年乙卯5月大坂の落いれるかたちを絵ニかきて其頃売あるきし物なるべし元和古写本の表紙の裡より見出しひめおけるを広く好古の人々に見せんとして桜木にちりばめはべりぬ  于時文化十一甲戍のとし  
大坂物かたり/ 慶長19年(1614) 元和古活字本「大坂物かたり」上巻(慶長19年)は、大坂冬の陣直後に作られた戦争ルポルタージュ風の物語。この巻末に冬の陣の陣立図が綴じられている。現在、古活字の種類、物語の内容などから、六種の版本があるとされている。このうち、写真のものは、栗皮色捺し文様の原表紙のうらに、慶長古活字本太平記の摺り遣りが使われ、題箋も原印刷のものとされる(川瀬一馬編「新修成簣堂文庫善本書目」1992)。付図のみ解読した。 
朝間山大やけの次第/ 天明3年(1783)7月の浅間山の噴火を伝えるかわら版。力強い彫りで、新しい噴火口の出現、砂が降り止まない様子、村町一同祈ったことを伝える。噴火を目の当たりにして、衝撃を受けた人の手になると思われる。18世紀中期頃より、災害を題材にしたかわら版が多数出版されるようになる。本コレクションでは、これが時期的にみて最も早い事例のものである。 
島原大変/ 
当三月朔日より 七日之あいだちうやをわかたず大ぢしんにて 九州九かこくならびにあまくさにいたる大ちわれることおびたたしくそのおと天地をくつがへす いわうじまのわれ口より火入ほのうちをくぐり天に登り人家大石大木をとばし人ハひとりも のこらすなをうミのそこを火くぐりなミをかへし 
島原大変/ 寛政4年(1792)3月の島原雲仙岳噴火のかわら版。200年まえの噴火は、雲仙岳と島原城下の間にある眉山が崩落、土砂が有明湾に流れ込み、津波を引き起こし、対岸の熊本にも被害を及ぼした。死者15000人にのぼる近世最大の災害である。「うミのそこを火くぐり」舟が沈み、「いわうのけふりにむせて」人々が苦しむと伝える。 
るいせう道しるべ/ 文化8年(1811)2月11日、江戸市谷谷町より出火し、西北風にあおられて赤坂、麻布などへ燃え広がり、武家屋敷300、町屋20000、死者数百人を出した火事のかわら版。「親をもてる人ははやく書状にふうしこみ」めば、親は子の無事を確認できるから、「孝行の一助」だとする。こうした文言を摺りこむかわら版がこの頃より多く出版された。 
頃ハ文化八未のとし二月十一日昼七ツ時一ケ谷谷町より出火しておりふし西北風はけしく念仏坂より二タ口になり此へんの御組屋しき残らずかつぱ坂安龍寺京恩寺此辺一面になり西と北との大風三方へふきちらしそれより尾張様御長屋すミ少しむかふハ松平摂津守様御屋しき残らず法弘寺より四谷おたんす町坂町しほ町竹丁通ハ麹まち十 一丁目十二丁目十三丁目伝馬丁四丁目角まで若まつ町おし丁おし原横町此辺御組屋しき石きり横町てん王横丁くわんおん坂蓮浄院真浄院安らく寺西念寺四谷御門外尾張様是より北風はげしく石をとばすことく御堀はた通酒井様松平佐渡守様大久保豊前守様村松様此へん御旗本様方あまたさめかはし坂迄残らすやける紀州様御屋しきへ出このときゑんゑんとして四角八めんにさんらんす巳にきのくに坂下ふるや町ゆや町それよりあか坂御門外よりそのつきにくわしきをしるす 
江戸神田佐久間町の大火/ 文政12年(1829)3月21日神田佐久間町河岸材木屋の材木小屋から出火して、日本橋、京橋など江戸の中心街を焼き尽くした大火。武家屋敷、町屋を延焼丁数一里にわたり、焼死者2800人を出したという。この火事では、火元の材木問屋は、所払いになった。この火事のかわら版では、既成の江戸図に焼失範囲を書きこんだものが登場した。 
江戸本郷辺大火/ 弘化3年(1846)正月15日本郷丸山の御家人屋敷から出火、本郷、湯島、神田辺、日本橋、江戸橋、佃島まで延焼丁数一町以上という。かわら版の内容は、武家地はもちろん、町地も含め、家が焼けたか焼けないかという程度の簡単なものであって、死者の数などは載せていない。かわら版業者みずからが自己規制して、出版差し止めになるような情報は控えた結果である。 
信濃国大地震・火災水難地方全図/ 弘化4年(1847)3月24日信州上水内郡の虫倉山辺を震源とする地震が発生した。犀川流域にある虚空山の半分が崩落、その土砂が川を堰き止め湛水後決壊、千曲川に洪水をもたらした。善光寺の開帳に来た多くの人々も、地震後の火事で焼死、全体では約10000人以上の犠牲者が出た。地方(発行場所;稲荷山)でもこうした大災害を伝える摺物が出版された。 
雷神場所付/ 嘉永3年(1850)8月8日夜、激しい雨と共に江戸府内各所に雷が落ちた。災害かわら版のなかにも、自然現象の突発的な異変は陰陽の気の不正常な状態から発生すると説明するものが見られる。雷は陽徳なので、陰気を払い、豊作をもたらすとしている。「雷神御下り場所」一覧が雷の落ちた場所である。 
相模国大地震之図/ 嘉永6年(1853)2月2日小田原城下に被害をもたらす地震が発生した。数年前の善光寺地震の記憶は強く、6年正月に起きた善光寺地方の地震情報も載せている。これ以降、大地震が連続発生する時期を迎える。地震の原因について、「天地不時の変動ハ陰陽混して雷雨となり、地にいれバ地しんをなす」が、神仏の力では如何ともしがたいと認識し始めている点が興味深い。 
夫天地不時の変動ハ陰陽混して雷雨となる地に/いれバ地しんをなすアゝ神仏の慈護も是を納事/かたし頃ハ嘉永六丑どし二月二日ひる九ツ時より/相州小田原大久保加質守様御領分御城下万町青物/町板はしりやうし町すハ丁寺町御城角やくら並ニ/町家をはしめとして東ハ田村川辺伊勢原あつ木/萩の山中大久保長門守様御領分陶綾郡神戸井こ/大磯宿平つか宿中村金子すゝ川ミのけ辺大山大に/そんず石尊御社ハ別条なし子安かすやのへん/人家のこらず大住郡近辺山々上村谷村おか本早/川石ばし山二子山此辺ことごとくそんじひたち/の国の同者十三人けがある箱根湯本をはじめ/湯場七ケ所畑しん家辺のこらず同所権現御山内/尤御社ハ別条なし同所湖水あふれさいの河/原辺大にそんず豆州海辺山々真鶴網代海尻/峠ノ岩渡峠とうバ峠あたミ伊東しゆぜん寺此外所々/ミしま宿ハ大にそんじ焼失すするがの国ハぬまつ御城/下原かん原よし原辺も中々のひゝきなり又小田/原堂龍権現の御山大ニそんじ御社ハ別条なし/愛甲郡ハ三増はし本辺あれる津久井郡上の原/青の原とうし川辺鼠坂関野辺迄大かたのひゝき/なり又藤沢かまくら所々江のしま大にあれる甲州/ハ身のぶ山七面山大ニそんす御堂ハ別条なしはた/こや町大工町青柳小むろ其外近郷近村ことごとく/八王子辺迄も大かたのひゞきなり○又同月同日下野/の国宇都宮大ぢしんにて池上伝馬町しん石町/すべて明神下辺やけるなり尤かぬま合せんバ其外/日光道中筋近辺山々余程の大地しんなりける/が夜九ツ時過まで都合いく度といふ数を知らずと/いへども大ゆれせしハ五度にしてやうやうゆり止り/人々あんとなすよつて諸国のしんるいえん者へはやく/知らせあんぴを告んか為かくハくわしくしるすになん 
信州大地しんの記 当正月廿一日朝五ツ時信州善光寺近辺二郡すべて/二百八十ケ村程の間地しんにて人々きやうふなす/といへども人家のたをれるほどのこともなくゆり/やミしかれども六日半の間度々のことにして/やうやう廿七日九ツ半時頃まつたくゆりとゞまり/諸人あんとをなしにける 
伊勢国大地震略図/ 嘉永7年(1854) かわら版では、三重県伊賀上野、伊勢、滋賀県近江辺の山や川が損じたとだけ記されているが、家屋の倒壊も各地で激しく、被害は20000軒以上に及んだ。地図を使って地震の範囲を表しているが、被害については具体的な情報はほとんど記されていない。ここでも、天変地異は、陰陽二行の気の対抗関係で発生すると書き出している。 
関東大地震図/ 嘉永7年(1854)11月4日東海地方、続いて五日南海地方を、津波を伴う強い地震が襲った。この地震は、安政東南海地震津波と呼ばれている。広範囲にわたって、家屋倒壊、浪害、死傷者を出したが、近代社会と異なり、被害はそれぞれの国でまとめられたから、当初は、災害全体に対する認識は生まれにくかった。このかわら版は関東の太平洋沿岸の被害を報ずる。 
大阪川口大つなみ混雑記/ 嘉永7年(1854)11月5日に起きた安政南海地震津波での大坂の被害を報ずる。大坂市中の被害と、天保山沖の大船が津波によって川を逆流、川筋に掛かる12の橋が落ちたことを挿絵を交えて伝えている。 
諸国大地震/ 嘉永7年(1854) 安政東南海地震では、江戸には大きな被害が出ていない。その上、東海道が寸断されたため、当初は江戸には各地の被害情報が入って来なかった。しかし、徐々に大規模な災害であることが判明した。これは、全国規模の被害状況をまとめた最終段階のものと推定される。災害速報としてだけでなく、名所絵的な構図に被害地域の説明が描き込まれている。 
東海道筋並上方筋大津波大地震之事/ 嘉永7年(1854) 安政東南海地震は、東海道を寸断した。このため、一時江戸・大坂間の三度飛脚は途絶えた。これは、大坂三度飛脚問屋島屋佐右衛門(在江戸)による東海道各宿場の被害状況を伝える摺物で、附紙に九州地方の被害を続報として刻し、得意先に配ったと推定されるもの。売買されたものではないが、現在残されている災害を伝える摺物のうちにはこうした類のものも少なくない。 
江戸出火/年不明、2月19日) 江戸出火(年不明、3月10日) 江戸三度飛脚問屋尾張屋惣右衛門(在大坂)が配った江戸の火事についての摺物。木活字印刷によるものであることから、幕末期と推定される。小野コレクションには、こうした出火を知らせる飛脚屋の摺物が多数蔵されている。 
大洪水細見図/ 慶応4年(1868)、つまり明治元年、近畿地方は大洪水に見舞われた。これが、翌年、維新政権の成立を危うくさせるほどの凶作を引き起こした。こうした最中であっても、かわら版には、災害を伝える情報のみが掲げられている。 
磐梯山噴火之顛末/ 明治21年(1888) 7月15日の磐梯山噴火後出たかわら版。ただし、この時は出版条例に基づいて、発行人の住所、氏名などを明記することなった。内容は、読売新聞の記事をそのまま写したものである。発行人岡田常三郎は、当時、書籍行商社を営んでいた。江戸時代のかわら版業者の系譜を感じさせる。 
諸人安堵乃為火事場急報/ 明治13年(1880) 12月30日神田鍛冶町出火の火事のかわら版。警部巡査や、消防隊の「御ほねおり」で、まもなく鎮火したという。明治10年代以降も依然として、版元も明記されない江戸時代的なスタイルのかわら版が発行されていた。 
岐阜罹災之統計略表/ 明治24年(1891)10月28日の濃尾地震は、岐阜・愛知両県で7000人を超える犠牲者を出す大災害であった。岐阜市は、倒壊率が甚だしかった上に出火して、壊滅的打撃を受けた。しかし、震災後わずか二日にして、銅版刷りの被害図が印刷されている。元図となったフランス式ケバを用いた地図は、既成のものを利用している。 
 
版の諸相

 

 
現在では、かわら版という用語には、比較的共通のイメージが存在し、辞典類等の説明もほぼ画一的に記されているようである。その説明には、拙速をもってする庶民向けの報道媒体とか、号外的に事件や災害の際にいち早く、その概報を伝えるといったものが多い。事実、事件や災害を伝えたものが多く現存し、かわら版なるもののイメージの醸成に大きく関わっているようである。ここから現在、かわら版=江戸の報道媒体のひとつ、といった結び付きで説明されるのであろう。そして、これがかわら版という用語に対する共通のイメージとなっているようだ。ところが、このかわら版に類するものは、実際のところ多種多様なものが存在し、一概に報道性のみ突出した特性とはいえない。むしろ、多種多様な周辺のものが混在する状況こそが特徴なのかもしれない。以下、かわら版及びそれに類する諸印刷物に関して概観していくこととしたい。  
かわら版語源の私的考察 
はじめに名称的な事に関して、考えてみたい。かわら版という名称の語源とされているものの一つに、印刷物を速成する必要から粘土に文字や絵を刻みこれを焼成して摺刷用の版としたというものがある。もちろんこれは疑問視されており、多くの先人達の言う「粘土で版を焼成したかのごとく粗雑な印刷物であったのであろう」ということで否定的な考察がなされている。私もまったく同感なのであるが、少し印刷技術的にこの関係を考えてみよう。江戸には、隅田川沿いに今戸という瓦を焼成する地域があり、そこに用意された土や窯などもこの用途に応用できたかもしれない。しかし、このような版の制作では、当時の木版のような凸版ではなく、粘土に線刻する凹版であったろう。粘土で凸版を作ることは不可能ではない、だが、現実は技術的には非常に難しく、それを行なうことは、速成には向かない。そして凹版の場合は、文字などの線の部分が白抜きとなるが、いままで、一枚すべてが凹でなされたような形態のかわら版、あるいはそれに類する印刷物を見たことがない。もう一つ、通常の木版では、原稿が記された版下用の紙の文字の部分を版木に貼り、版木を彫り上げて制作する。完成した版は、当然ながら反転された文字が彫られ、これを摺ることではじめて正体の文字が印刷されることとなる。粘土の場合、木版のように粘土に版下を貼って削ることは、その材質から考えにくいし、版下なしで反転文字を刻むことは至難の技であり、粘土で制作する凸版と合わせ、これを行なおうとすると速成・廉価から遠ざかるのである。このようなことから考えるに、焼成前の瓦に文字を刻み云々の説は、物語としては誠に興味深い物があるが、現実的には否定せざるを得ないのである。  
これに対し、木版技術は高度に発達しており、その頂点といってよい浮世絵版画や版本類の出版物などを例にあげるまでもあるまい。江戸初期に伝えられた活字は、結局、一丁分(現在の一頁表裏相当)を一枚の木版で彫りあげる整版を凌駕することなく、明治に至るまで一部の印刷に使われるのみであった。つまり、それだけ日本の木版技術は高度に発達しており、版木を彫る方が時間的・経済的な面から活字印刷を選ばせない状況であった。この状況は、彫り摺りの職人の広い裾野の形成が背景にあり、分業化も進んでいたからに他ならない。頂点を形成する浮世絵版画や版本類の出版物に関われない未熟な者や、年齢的なことから技術の衰えを迎えた者なども多数存在し、彼らの仕事の場として拙速を専らとするかわら版の関連のものがあったのではなかろうか。このようなことからおそらく、かわら版は当初から木版であったのではないかと考えられるのである。このかわら版に類するものも、技術技巧・流通の違いこそあれ、浮世絵版画を頂点とする江戸の木版印刷の一翼を担うものであることは間違いあるまい。しかし、かわら版などと浮世絵版画は、流通上大きな違いがある。浮世絵版画は通常江戸では、版元・地本問屋が制作・流通に関係し、絵草紙店が扱う店頭販売であるのに対し、販売は読売の行商であり、版元も浮世絵版画を制作した版元とは異なるようである。ただし、版元に関しては、かわら版の場合はほとんどが、版元名が記されることがなく、この点では、これ以上の言及は困難な状況である。  
もう一つ、かわら版類を見ていて気が付いたことで、色の問題がある。通常多くの場合は、墨一色でしかも見るからに粗雑(摺る前に、礬水を引いたり水による紙の湿度調整を行なう浮世絵版画などと比べると)な摺りのものが多いが、災害などの状況を地図上に示すようなものでは、時として墨に加えて、朱・赤などの色が使用されている場合が多い。この色の摺りであるが、浮世絵版画と同じように、その色の部分の版木(色板)が作られ使用されているとおぼしきものもないことはないが、大半は合羽摺りであった。合羽摺りは型紙で色を付ける技術で、色を付けたい部分を型紙から切り抜き、刷毛などで絵具を塗ることで色を付けるものである。木版の色板を制作するよりは時間も手間も掛からず、技術をあまり必要としないし、何より経済的なことはいうまでもない。合羽摺りの場合、版木の見当を合わせ、色がずれないような気遣いもあまり必要なく、素人でもでき上がりに大きな差はでないだろう、まことに拙速にあう技法といえよう。浮世絵版画ではこの技法の使用例は少なく、長崎で制作された長崎版画などの地方版画に多く見られる。  
かわら版の意味するもの 
「かわら版」という用語は、幕末にならないと文献上は見られない。古くは元禄3年刊の「人倫訓蒙図彙」の「絵双紙売」の項に記された絵双子、あるいは販売の形態を表す用語から商品にも転じて使用された「読売」などのことばがある。いずれも、かわら版に先行する名称として用いられていたが、どうやら幕末から明治の間にかわら版ということばにまとめられたのであろう。といって、ここで、かわら版を元の呼称に戻そうなどとと言うつもりは毛頭なく、ただ、かわら版の意味すること(範疇)は示しておきたいと思う。現存するものを分類して列記すると、事件や災害の概報的なもの、敵討ち・心中などの市井の事件、怪談・珍談・奇談(珍獣)の類、神仏信仰の霊譚、忠孝譚、流行節(歌)の文句、ものつくし、見立番付、その他さまざまな先行版行物の見立ものなどがあげられよう。このように、かわら版に類するものは、報道的なもの以外にもさまざまなものがあり、これらが同じように販売されていたのである。報道性の有無によりかわら版かそれ以外のものかの線引きは、実の所あまり意味がない。むしろ、これらを制作販売していた者達は、報道的なものであろうと、そうでなかろうと商品として売れるか売れないかが問題となったのであり、同時期の浮世絵版画の制作動機と同様にその時売れるのもが作られ、売られたのであろう。では、庶民はそこに何を求めたかであるが、現存する諸種の印刷物を概観するに、報道的な物も含めて大きく介在するのは情報であろう。この情報の種類・量の分だけこの手の印刷物が存在したと考えるべきであろう。  
かわら版の意味するものは、紙に摺られた一枚摺り(複数枚も存在)読み物であり、庶民を対象に文字を媒体とし挿絵や図などを添え、報道的なものも含め情報伝達を内容としたものといえるのではないだろうか。この他、広義に考えれば、祭礼番付、芝居番付、暦、社寺参詣図なども情報伝達機能を備えた摺物として含まれよう。ただし、いずれも販売形態が異なり、厳密にみれば異なるものになる(番付については、別項に記してあるので参照願いたい)。かわら版に類するものと、浮世絵版画は一線を引いて整理すべきであり、番付類(見立番付は除く)も同種ながら、線を引いて考えるべきであろう。 
事件

 

 
ここで紹介する事件は、地震・火事・噴火といった災害でもないし、また異国船の来航や政変といった国家的一大事でもない。どちらかというと市井の出来事なのだが、敵討ち・心中・継子殺しといった、無関係の人間には何等利害関係はないものの、対岸の火事的な興味をそそるものばかりである。それぞれの事件に共通していることは、平生自分達の尺度で計れない所の出来事であるということであろう。 
これらのことは、日常茶飯事ではないにせよ、当時大騒ぎするほどの出来事でもない。とはいうものの報道的メディアが少なかったが物見高い江戸庶民にとって、これらの出来事は常に興味の対象であったのだろう。敵討ちには、自分達にはない武士社会の慣わしや、ある種の勧善懲悪に溜飲をさげるなどが求められたのではなかろうか。また心中には、適わぬ恋に涙し、男女関係の下世話な興味に話の花を咲かせたのだろう。 
読売心中ばなし/ 弘化4年(1847)5月に神田の八百屋の娘おひさ(17才)・魚屋の娘おちか(19才)・酒屋の娘おてつ(18才)の同じ常磐津の習い事をする娘達が、三人揃って大川に身投げをした。これは、小間物屋徳兵衛という男と三人の娘が仲よくなり、芝居見物や料理茶屋で夜遅くなったので、それぞれの家に徳兵衛に送ってもらい家人に対する弁解を頼むが、断られ、やるせなさがつのり同性三人の心中となった。通常男女の心中事件が多い中、同性でしかも三人という珍らしい事と話題となるが、実は事件に巻き込まれ殺されたのが事実であるようだ。 
江戸浅草御蔵前女仇討/ 嘉永6年(1853)弘化4年(1847)常陸国阿内の名主与右衛門が、同じく名主の幸七を殺める。幸七の妹たかは、仇討を願い、神田千葉道場に奉公し、その合間に剣道の修行をする。嘉永6年(1853)に浅草にて無事本懐を遂げる。女性の仇討は特に好まれたのか、再々かわら版の話題となる。悪の報い恐るべし。 
姉弟神田の敵討ち/ 天保6年(1835)神田において、三年前の父の仇を兄弟が討ち、本懐を遂げるという、典型的な敵討ちのかわら版。 
小金井村おかんの継子殺し/ 嘉永7年(1854) 武州小金井で起こった、凄惨な継子殺しのかわら版。百姓庄右衛門の後妻おかんは、7歳になる継子を邪険にし、毒入りの弁当を持たせるなど殺そうとするが、手習いの師匠がそれを食べさせなかった。ついに、大釜に湯を沸かし、娘を釜茹でにして殺してしまう。手習いの師匠が不審に思ったことから露見する。 
珍談・奇談

 

 
ここに紹介するような内容のものは、まさに荒唐無稽であり、現在ではそんな馬鹿なの一言で済まされるようなものばかりである。見てきたような嘘がそこには記されてあり、売る方には、買手が面白がれば何でもよいよいった感じすら見られる。ある種、現在の夕刊紙の踊る活字と記事に似ていないこともない。しかし、だからといってこの手のものを笑ってはいけない。当時としては、これが真実として伝えられ、恐れられ、信じられていたのだから。夜には真の闇が存在し、魑魅魍魎の跋扈が伝えられていた。総てが科学で証明され、不可思議なものが否定される現代と、実体はないにせよ、さまざまな出来事に畏敬の念や、恐怖心で接することのできた当時では感覚的に比較のしようがない。そして、これらの情報は、かわら版類の典型的な一面であり、その量の多さは庶民の興味の高さの証左なのであろう。また、人魚などは、それを見ると寿命が延びるという伝承があり、かわら版を買って所持してもその効果があるなど記されたものなど見られる。これなど、かわら版にある種護符的な意味を持たせたものと理解できるし、売るための巧妙な方便と見ることもできる。 
三つ子の出生/ 現在では、三つ子の誕生ぐらいでは、新聞記事の対象ともならないが、江戸時代では珍しいことであったのであろう。単に三つ子の誕生があったことの記述のみではなく、その父母は、人徳があり、その徳により目出度いことが起こったというまとめかたになっている。 
神童奇産物語/ 文政9年(1826) 下総の国(現在の千葉県)で起こった事件で、篤実の百姓に慈悲深い妻の間に美人の娘が生まれ、ここの娘が八歳で男子を出産した。土浦の領主はこの娘の出生に対し産着の小袖と金等を与えたというもの。 
浜田御城下旧鼠之一説/  安政2年(1855) 石州那賀郡に猫のように大きな鼠が漁師の網にかかった。足に水かきがあり、次第にその数を増し、人に害を与えるようになったため、退治が命じられたところ、町屋と城内との合計で55万匹の大鼠が殺されたという。安政2年(1855)のかわら版で前年のできごととされているので安政元年(1854)の事件である。 
新吉原の怪談/ 安政4年(1857) 新吉原での怪事件のかわら版であるが、肝心な後半部分がなく、実体は不明。遊廓に不思議なことが起こるという噂に、三人の男が試しに登楼する。その夜、遊女が盛んに袖を引くので、男は、これは気があるのかと思った、という所で次葉に続くため、あとのことは想像にお任せするしかない。  
新吉原の怪談 干時安政四巳年 5月なかごろ新吉 岡([ママ])■■■■とかやよなよな ふしぎあることたひたひ なりといへども昔うハさ 咄シにききし箱根より ほかニようかいハなしといへども ここニふしきのことあり たひたひ害ありといへども とちうにてかへるものあればうた がう人ありてある夜 三人にてあがりけるに わかいものこの三人をもてなし やりてしんぞうまでもよろこび 客ニそのままあかりぬそれより 酒肴もちろん芸者をあげそれより 三人とも床いりしところへ女むやミと そでをしきけれバきやくハまこと になりこれさそこお([ママ])はなししろ以下欠 
山猫退治 扨又ここに大番頭鍋島様此時 小山ことき猪しし一疋飛来り是を 自から手取ニ被遊まことに昔富士ノ 裾野ニ仁田忠常もかくやと計の 御高名也次ニ近藤登之助様世ニも めづらしき大かみ一疋手おいに 相なり欠来り是を片手ながらに いけ取たり此時はるか北之方より 土煙りを欠たて数万之勢子を なやませ乍飛来る毛物有 是をつくづく見るにからだハ虎 ごとく面ハ狐のごとく尾ハ七ツさけて すさまじき勢イニて欠爪を立て たち木をたおし其有様龍虎ノ あれたることく是則チ数千年へたる 山猫成るべし是を三浦之助様 御両人ニて打取真事に前代ミもん也 此時数多高名手柄有之候へ共 余ハ略ス萬代ふえき目出たかりケる 御狩なり 
百面相人形 両国回向院で催された百面相人形(生人形であろうか)のうち花魁の人形は非常に出来が良かった。この人形のあたりから夜八ツ時頃より人の声や、酒盛りのような賑やかな声がするので、番人がのぞくと、稲荷神と人形が酒盛りをしていたという。このような内容から、おそらく、興行を盛況にするための話題造りのかわら版ではないかと思われる。 
両国回向院ニおいて 百面相人形の内おい らんの義ハ上なる生方 御覧ニ入候所此度夜八ツ時頃より 人声並酒もりのていものにぎ わひ候ニ付番人のものうかがひ 見候ところうがうがと申こゑ あいきこへ右ニ付うかハいなり様 の事に候間いなり乃社をま つり申候ふしぎの事に 御座候以上 
病魔退散 江戸時代を通じ、伝染病は時として猛威を震っていた。疱瘡(天然痘)は断続的に流行を繰り返し、麻疹(はしか)も同様であった。共に病が治っても、あばたやかさなどの病痕が残ることが多く、その人の一生を左右する問題となった。さらに幕末にはコロリ(罹るとコロリと死ぬことから)と呼ばれたコレラの大流行があり、庶民を震撼させている。この関連では、それぞれの病気の対処法、予防、特効薬などが記されたものが多く目に付く。やはり、人の一命に関わることの深刻さなのであろうか。その内容の真偽は別として、求める側は、藁をもすがる心情であったのだろう。また、その反面、面白可笑しくその現状をまとまたものもあり、これらは、身近な人が病で死ぬことが、日常的なことになったことからの開き直りなのだろうか、戯作的処理も裏悲しくも感じられる。まさに、求めた情報で病から逃れれば、願ってもないのもであったろう。 
はしか能毒心得草/ 文久2年(1862) はしかに効く食べ物と食べてはいけないものを上下に分けて記してある。一応京都の典薬頭が、庶民救済のために告げたものを板行したとあり、ある種実用的なものであった。ただし、現在の常識でいえば、ほとんどが眉唾物であることはいうまでもない。大半はまじまい的なものであるが、多少は民間療法でも目にするものがあるが、はたしてはしかまで効いたかどうかは疑問。 
流行はしか合戦/ 文久2年(1862) はしかの流行に関するさまざまなことを武将の名前に見立てた軍記物仕立てのもの。おそらく、講釈師然としたものが勇壮に語ってこれを売り歩いたのではなかろうか。後半には、当時薬効が信じられていた薬達も登場する。 
虎列刺病予防一覧表/ 明治19年(1886) 明治になって作成されたもので、さまざまなコレラ予防について記されてある。時代的にかわら版の仲間ともいいずらいが、コレラの予防を需要之部(守ること)と禁忌之部(禁ずること)に分け、相撲番付の形を使い構成している。当時の庶民に対しての情報提供は、まだ江戸の形が使われていた(好まれていた)ことを示す資料といえよう。 
此せつある物流行尽し/ 安政5年(1858) 欄外に、「安政五年秋狐路狸はやる時」とあり、コレラ流行時のものであろうか。七五調で調子よく「○○ある」と一節ずつ結ぶもので、大半がコレラの関係の世情の様子が記されたある。最後の「おかみのおめぐみじひがある(お上のお恵み 慈悲がある)」あたりは、本当に本心であろうか? 
信ずる者は救われる

 

 
社寺神仏に対する信心により不幸から救われたり、不思議なことが起こるような神霊譚も、かわら版にはよく取り上げられた。何かにすがり、何かに光明を求めるのが人間の性であり弱点でもある。信ずることから、奇跡が起こり、神仏の加護が受けられたのであろう。信仰上の美談や神霊譚は、人の心を動かすのに大きな動機となったようだが、穿った見方をすれば、各社寺の広告とも見て取れる。事実、各社寺は、まとまった金銭的工面を、出開帳を行うことでまかなった面があるからである。通常、各地の社寺は、信者や信仰をのため参詣する人の賽銭や奉納を収入の一つとしているが、わざわざ社寺の方から都市に神仏を移動させ、多くの人から金銭を集めるということを行っていた。これらのかわら版からは、単に神霊譚のみを伝えたのではないと考えるのは行きすぎであろうか。また、鰯の頭も信心からの諺があるように、何事も信じることから始まり、人がどう見るかより、自分が信じていることが支えとなるような自己救済的(占い的)な情報も見られる。 
下谷治兵衛弁天信心の奇談/ 下谷に住む治兵衛は、長患いで、床に伏せっていた。そして、彼は常々、弁才天を信仰していた。ある時、夢で三日にわたり千住の奥郷に白蛇がおり、それを弁才天に納めよというお告げがあった。しかし、自分は体が悪いので、親類に白蛇を探してもらうと、実際にそこにおり、弁才天に納め全快を願ったところ、気分がたちまち良くなったという。この白蛇を一度見れば、開運出世が適うとのこと。 
市川団十郎に不動明王の加護/ 亨保20年(1735)市川団十郎と成田不動尊の結び付きは今なを深く、その信心の始まりが、このかわら版に記された有名な話である。享保20年(1735)二代目市川団十郎は、病気となり大量の血を吐き、死線をさまよう。萬吉栄次という者が成田山の不動明王に願を掛け祈ったところ、団十郎が蘇生し全快したという。団十郎の屋号「成田屋」はこの両者の関係から付けられている。多くの江戸っ子も団十郎同様に、成田不動を信仰していた。 
信州善光寺の霊牛/ 有名な「牛に引かれて善光寺参り」の説話である。無信心の女性が、ある日布晒をしていると、風に布が飛ばされ、牛の角に引っかかる。牛は歩き始め、女性は布を取り戻そうと後を追う。着いたところが信州の善光寺で、実は牛は善光寺の菩薩の化身であり、その後女性は信心をはじめて目出度い往生を遂げた。この菩薩は、後日布引の観音と呼ばれたというもの。おそらく、これは善光寺やその周辺、もしくは出開帳の際などに売られたものではなかろうか。 
西国巡礼第三十三所内六波羅密寺/ 空也聖人創建の京都六波羅密寺の縁起が記されたもので、六波羅密寺もしくは出開帳の際に販売されたものと思われる。内容的には聖人手作りの十一面観音を車に乗せ市中を引きまわると、その場所の病人が快復したという霊験があり、その像を本尊としているのが六波羅密寺であるというもの。 
西国巡礼第三十三所内六波羅密寺 
笑ってふざけて吹き飛ばせ

 

 
見立番付やその他の戯文調の文章表現は、かわら版など庶民の情報伝達を内容とした一枚摺り読み物の定番といえる形と表現方法である。 
見立番付は、順番・順序・順位などを一覧性を持った紙面にまとめるという番付の形態を借り、架空の取り組み・順位付け・順番を考え構成したものである。見立である以上、その本歌は通常の番付で、その仕組み・見方を知っているものは、考案された様々な架空の取り合わせから、考案者の仕組んだ風刺や戯作的仕掛けを楽しんだり、その裏側にある真実(もしくは考案者が伝達したいと思うことだが、諸般の規制により直接的に記せないこと)などを判読したものである。ただし、大半は、本当にふざけて楽しむのもであった。 
これらの表現法である戯作及びその制作土壌ともいえる戯作精神は、その受け入れ先である庶民階層にも深く浸透していた。つまり、戯作的表現は、特に意識的に行なわれた物ではなく、当時の庶民が最も受け入れやすい表現方法であった。ここでいう戯作的表現とは、その発想・構成・趣向が諧謔性に富み、さまざまな文章的技巧を凝らしたものの総称で、庶民向けの出版物は、その多くが戯作的内容のものであった。当然ながら、かわら版やその周辺などに見られる戯文的なものは、この同様の傾向の表れであり、当時では特別な表現の在り方ではない。国家の存亡や、人の生死に関わるようなことも、覚めた目で観察され、戯作的な表現で記されている。この点を我々が、眉をしかめるのも野暮だし、その軽薄さに呆れるもの早計であろう。当時のさまざまな状況を総合的に見ていくと、至極当然な表現と方法であったのだ。 
どうけ三十六歌仙/ 三十六歌仙は、平安時代に藤原公任が選んだ、「万葉集」から「後撰集」までの代表的な36人の歌人のこと。彼らの和歌を本歌とし、世相を読み込んだ狂歌としている。狂歌そのものは、天明から寛政時代(1781〜1801)に流行をみるが、以後も庶民の代表的な娯楽として楽しまれた。 
初夢之吉兆/ 慶応3年(1867) 正月の初夢は、その年の吉凶を占う材料とされ、できるだけ良い夢を見ようと、人々は宝船の摺り物を求め、その夜の枕の下に置いた。その初夢のいわれや、夢の内容の判断などが記されたもの。信ずるものは救われるのである。 
ふの字尽し火の用心学/ 陰陽道で開運に向かう「有掛(うけ)」の年(7年間)に入る人(性で分けられ、この場合は火性の人)に対し、頭に「ふ(福に通じることから)」の付くものを集め祝ったことから、その形を借り、「ふ」の字が頭に付く形で火の用心を訴えている。趣向に富み、面白いものであると同時に、内容は非常に実用的である。 
大小暦の戯文/ 江戸時代の暦(カレンダー)は、現在の太陽暦と異なり、大陰暦(月の運行により策定)で、1年の内の大小月は毎年異なった。その為、暦は非常に重要であり、各種のものが制作されている。一般的な大小月と年中行事の記された暦を元に、その要素を生かしつつ作られた暦見立といった趣向である。安政年間の成立を想像させるのは、「ころり(コレラ)」の記述で「天さいころりの方 みなみな きも つぶし」にはじまり、多くが関連の内容となっている。 
ないものづくし/ 調子の良い文字配列で、文末にかならず「ない」と落とすもので、内容はコロリ(コレラ)流行の状況なども含まれたものである。 
ないものづくし上 
にんべつが きへておてらの 帳につき 
ナアかかアしぬほど いいとはやおけや せしがたの 
いんどう おほやわたすなり さてもないないぜいがない 
やまひのりうかう止とがない 一ときころりであつけがない 
八ツでをつるさぬうちハない たれでもしにたいひとハない 
夫でもしゆめうハしかたがない ゐしやのかけつけ間にあハない 
せわしいばかりでれいがない あんまハよるひるひまがない 
きうびやうミまいハほうづがない おくびやうそばへハよりつかない 
にんにくいぶさぬうちハない いわしのやすうりかいてがない 
ミづやハ水どをなぜくまない やたいのたちぐいしてがない 
しよにんのかほいろつやがない とむらいちうやとぎれない 
こしやのかけねハねきらない やきばのつけこミらちあかない 
白むくそんりやうやすくない おせらもなつしよもねるまがない 
あなほりおやぢハせわしない かいめうつけるにもじかない 
亡者をほうむるぢしよがない  
ないものづくし下 
おおやハないしよくするまがない ながやのぎやるしハはおりがない 
そんりやうながくてまニあハない かミさんなげきでいくじがない 
むすこのぽんたハしだらがない むすめハ十二でまだはへない 
おやぢにとかれてたよりがない ぱつちりとられてさハりがない 
おなかのぽてれんぬしがない とうとうとられてきやくがない 
ミあがりするにもせにがない かかるいんぐとなものハない 
されどもふけいきながくない やがてよのなかつつがない 
やなぎだる あわれとも思ハず こしやかけねいい 
しらぬがほとけ とんだいいきぬきだね おうじやうをはやく 
する人ほとけなり 歯ばかりとかうやへ おくるいいついで 
ばかとりかうの取組/ 馬鹿と利口の対比という、これも直接的な取り組の見立番付である。馬鹿の方の起きていて良し悪し知らぬ人とか、惚れられたと思って金を遣う息子など耳が痛い。 
ばかとりかうの取組 
[上段] 利口ノ方                    [下段] 馬鹿の方 
大関 ねていても工風をする職人         大関 おきていなからよしあししらぬ人 
関脇 諸人にあいそうのよひ商人         関脇 心よしの目なしかし 
小結 どうらくの子を一通りニ勘当せぬおや   小結 おやのいけんをきかぬ娘め 
前頭 色男にほれぬ女郎衆            前頭 しんぞうにたまされるおやし 
行司 たのしみをしなから 金もふけする人 
勧進元 くるしみをして 金をなくする人 
むすめ評判記/ 江戸各町内の評判娘の名前と歳が列記されている。これが二編だから、先行する一編もあったろうし、最後に漏れた人に対して三編・四編を引き続き出版の予告がなされている。これは、評判を取材したものではなく、おそらく親から金を出させ、名前を載せているのであろう。娘の株を上げてやろうとする親心を利用した商売ではなかろうか。 
地震出火細見記/ 江戸時代のベストセラーの定番であった「吉原細見」(吉原のガイドブックで、各店の遊女の名前や位、値段などが記されたもの)の形を借り、地震後の被害状況などを記したもの。戯作の形態で、地震情報を読み取ることができた。 
見立町鑑大地しん/ 相撲番付の形を借り、江戸の町名をことば遊びに使用して、地震の状況を洒落ている。地震以後の出来事と江戸各町の関連が興味深い。 
ゆらゆら豊問答/ ことば遊びの代表的な存在である「なぞ」(現在のなぞなぞにあたる)で、地震に関係したもので構成されている。このなぞは、「○○でも○○とはこれいかに」が問題で、その答えとして「○○でも○○というがごとし」と続く。例えば、「地震の時でも雷門とはこれいかに」「焦臭くもないのに仁王門というがごとし」といったものである。 
大黒のつちうごかして世の中に宝の山を積かさねける  
おなじやうに ゆられながら ぢしんばんとハ これいかに 
 のじゆくをしても いへぬしと いふがごとし 
よし原を やけ原とハ これいかに 
 ミんなやけても 七けんだの五けんだのと いふがごとし 
ぢしんのときでも かミなりもんとハ これいかに 
 きなくさくもないに にほふもんと いふがことし 
こわいめにあい ながら万ざい らくとハ これいかに 
 やけざけを のんでたいへいらくを つくがごとし 
ぢしんやけで まるはだかになつたうへ こしのたたれぬ人をたちのまんまとハ これいかに 
 はたらいてたすかつた人を 大ぼねをりと いふかごとし 
人のおおくとふるところを 馬ミちとハ これいかに 
 せうぎにもあらぬにこまつたと いふがごとし 
こんどのことで むしんの文をよこして ぢしんにいつたとハ これいかに 
 やけもせぬお客をあつくなつてくると いふがごとし 
おおきないへを御小やとハ これいかに 
 ちいさなうちでも大やさんと いふがことし 
ひもとでもなくて ぢしんやけとハ これいかに 
 大われをしても 小われたと いふがごとし 
あをものでもないに大ゆり大ゆりとハ これいかに 
 さかなにも かじきのあるがごとし  
どろミづが わきだしても 上水とハ これいかに 
 すなをふきだしてもおちやの水へんと いふがことし  
ざいもくや げんきんにかねをとつて 川岸でうるとハ これいかに 
 わがたてたるいへをかりたくと いふがことし  
しんだ人もないのに小づかはらとハ これいかに 
 くわじがなくても月やくと いふがごとし 
ひやざけをのんで やけざけとハ これいかに 
 地しんのいらぬまえから のミつぶれるがごとし 
いたミもせぬに くづればしとハ これいかに 
 やけもせぬのにかぢばしと いふかごとし 
地がさけもせぬ所を わり下水とハ これいかに 
 大はそんしても とく右衛門丁と いふがことし  
大ぜいのたをれものを しにんとハ これいかに 
 数(す)千人の御火けしを御にんずと いふがことし 
つちいちりもせぬに どろぼふとハ これいかに 
 やけバのてつだいにもあらで ごまのはいと いふがごとし 
火をふせぐ こめのくらを ぢしんにつちをおとすとハ これいかに 
 いきてゐる人でもぼんくらと いふがごとし 
いがまぬいへを三かくとハ これいかに 
 地しんまへに井戸がにごつても きよすミ丁と いふがことし 
りつぱにそうぞくすニかねもちのいへを づふね家とハ これいかに 
 こわれた土蔵でも おかめだんごていいくらと いふがごとし 
いがミもせぬにすじかいとハ これいかに 
 たおれぬ所もよこ丁と いふがごとし  
一出火口数 三十二ケ所 
番付の世界 / 順番・順位の情報

 

 
番付は、順番・順序・順位などを一覧性を持った紙面にまとめたものである。現在でも制作されている相撲の番付を例に見てみると、力士を東西に別け、それぞれ右から左に、次いで上から下に格付けの上の者から下の者に列記されている。文字の大きさも、記載の順番に対応し、上位の力士ほど太く大きく、下位の力士ほど小さく細く記される。見る者にとっては、この記載の決まりさえ理解していれば、どの場所の番付でも力士の順位・格付けの変動を知ることができるのである。相撲の場合は、現在も番付が活用されていることから、例に取ったのだが、本来、番付の形態は多種多様であり、相撲の番付は、番付のある一例にすぎない。 
相撲番付/ 明治12年(1879) 前のものを一枚縦判にした番付。相撲番付としては、現在も継承して作られているもので、馴染みあるかも知れない。独特の文字も使われ、タイポグラフィー的楽しみ 。 
相撲星取表東ノ方西ノ方/ 文久3年(1863) 東西が別れた紙面で、横判の形式の典型的な番付である。「禁賣買」とあり、力士の抱え主や勧進元、贔屓筋などえの配り物であったのだろう。 
祭礼番付/ 祭礼番付は、社寺の祭礼で執り行なわれる祭礼行列巡行や、祭礼の式次第、祭礼に付随する作物などの状況などを、その順番に列記したものであり、多くはその状況を描いた絵を中心とした視覚的な絵番付が多い。これを入手し見ることにより、行列の見物や、祭礼に参加する際に役立てるなどの祭礼の事前及び最中の用途の他、事後の記録としての用途もあった。特にこの祭礼番付で特記しておかなければならないものに、天下祭の祭礼番付がある。 
天下祭とは、日枝山王社ならびに神田明神の大祭で、共に江戸幕府が祭礼に関与し、祭礼行列が江戸城内に入ることが許され、それを将軍が上覧することからこの名で呼ばれたものである。両祭とも幕府より祭礼開催に際し、準備金が用意される他、幕閣や御三家、諸大名からの金銭的補助などがなされた。そして、特に祭礼行列の江戸城入城に関しては、事前にその山車の内容、順番、人数が記された番付の提出が義務づけられており、番付と実際が異なる場合、その町の山車及び氏子は江戸城に入ることを禁じられた。幕府も祭礼ごとに奉行を定め、祭礼行列の前後は警護の武士が付き、騎馬武者の先導により、決められた順路で城内をねりまわった。このように、管理された祭礼であり、その管理に番付は欠かせぬものであった。この提出される番付の写しを地本問屋が入手し、各種の形態の番付を出版し販売している。その形態は、祭礼行列の順番が、山車の絵とともに記された一枚摺りの墨摺りのもが一番廉価なもので、これが二〜三枚程度に増え、内容・記述が子細になったもの、おそらく高級品であったと思われる色摺りの表紙で冊子仕立てのものなどがある。江戸をはじめ、国内各所で祭礼番付が制作されているが、その中にあって、山王祭・神田祭のものは、その数の多さや背景的なものも含め特別なものであった。 
山王御祭礼番付/ 文政7年(1824) 
山王御祭礼付祭番付/ 嘉永3年(1850) 
山王御祭礼年番順番/ 文政2年(1862) 
神田大明神御祭礼付祭番付/ 嘉永4年(1851) 
神田大明神御祭礼付祭番付/ 弘化2年(1845) 
興行の引札

 

 
引札は、商品やそれを商う商店の宣伝や披露のために配られる広告のことで、現在のちらし・ビラがこれに相当する。見世物などの興行で制作された引札は、同様に広告として用いられたほか、簡易のプログラムとして販売もされたようである。現在のポスターのような一瞥してその内容が示してあるものから、番付のように、興行の次第が記され、全体の雰囲気が伝わるものなど様々なものが見られる。特に後者は形態としてはプログラムであり、おそらく興行の行われた場所で販売されたのであろう。また、別に冊子の形態をした目録的なものも販売された。 
 また芝居番付は、ある種興行の周知広告を目的としており、その芝居小屋でいつからどの狂言がどんな順番で行なわれるか、役者や囃子方は誰かなどが記されている。当然ながら芝居は、江戸庶民の大きな関心事であり、江戸三座をはじめ各芝居小屋の興行は彼らの関心によって成り立っていたといっても過言ではあるまい。芝居番付は、各興行の事前に番付売りが行商の形で売り歩いた。芝居に合わせ、芝居の台詞のダイジェスト(声色の種本)を小冊子にした「鸚鵡石」なども販売された。 
歌舞伎顔見世番付/ 明治22年(1889) 
新吉原仁和賀番組/ 慶応2年(1866) 吉原において、毎年八朔(8月1日)に行われた即興喜劇。吉原の芸者や幇間などが、廓内を練り歩き、賑やかにはやしたてた代表的な吉原の年中行事でもあった。その順番・演目が記された番付。 
象の見世物興行の引札/ 文久3年(1863) 江戸に運ばれた象の見世物の引札。象は享保・文化(長崎までで帰される)と過去二回日本に上陸しているが、この象も人気となり、評判を呼んだという。引札では、人のことばを理解し、様々な益を有した聖獣とされている。 
浅草奥山見世物の引札/ 万延元年(1860) 幕末頃によく行われた活人形とからくりの見世物引礼。この興行では、名花草木、虎狩りの景、宮島の景色などが記されてある。絵師は芳艶。 
浅草奥山歌舞伎見世物の引札/ 安政6年(1859) 大阪の竹田からくりの興行で、勧進帳や国姓爺などが行なわれた。この引札は、一惠斎芳幾(落合芳幾=新聞錦絵「東京日々新聞」を描いた浮世絵師)が描いている。 
大坂下り百面相/ 安政4年(1857) 浮世絵師西川祐信の絵本「百人女郎品定」にもとづき、様々な女性の人形も出された。人形師は竹田源吉、絵師は国鶴。   
 
黒船来航をめぐって

 

  
ペリーを司令長官とするアメリカ東インド艦隊の軍艦四隻が、日本に開国を求めて、嘉永6年(1853)6月3日、浦賀に来航した。直ちに浦賀奉行をはじめ沿岸の警備を担当する各藩から幕府に報告が入り、翌日、老中らが登城、衆議して、江戸市中に対し、諸物価高騰の禁止や噂話の禁止が触れられた。9日、ペリーは久里浜で親書を日本側全権に渡し、翌春の来航を伝え、12日、滞在9日間で退航。幕府は翌年の来航に備え、防備体制を整えるため内海に11の台場を造ることを決定し、8月から建設を始めた。 
翌7年1月16日に浦賀に軍艦7隻で再来航したペリーは、6月4日までの約半年間日本に滞留した。2月からは横浜村での交渉が始まり、日米での贈り物の授受が行われた。3月3日に横浜で日米和親条約が調印されると、ペリーは開港が約束された下田、箱舘にも来航している。  
ペリーの一回目の来航直後から、江戸ではかわら版が先に出た版を改変しつつ次々と売り出された。現在保存されているかわら版だけでも3百種を超えており、来航以前とはけた違いの情報量である。 
江戸時代、ペリー以前の外国関係のかわら版は、漂着船や外国からの使節など来航船があった際に出され、その内容は、来航した船、人物、その国の言葉に関するものがほとんどであった。 
ペリー来航の際のかわら版でも、船は主要なモチーフとして描かれた。その中心は蒸気船図である。一回目の来航直後の船図は、長崎絵に描かれた帆船を写したものであった。帆船に大きな煙突や外輪が描かれ、船腹片側に外輪が三つも描かれたものもあった。蒸気船について、煙突と外輪の二点が特徴として認識されていたことがわかる。その蒸気船図が、次第に新たな船図を形成していく。帆をたたみ、煙や旗を船尾側に吹流して進む形である。この新たな蒸気船の形は、風が無くとも進む、しかも速いという点の画像化であり、蒸気船についての当時の庶民の間での認識が反映されている。 
人物に関するかわら版も多く作られた。大首絵を連想させる個人の肖像画も発行されたが、その中心は、提督ペリーと副官の参謀アダムスである。様々な顔に描かれたペリーに対し、アダムスは髭に囲まれた口を開け左斜め向きという状態にパターン化されて描かれた。ペリー肖像画が個性を示そうとしたものに対し、アダムスの肖像画は、アメリカ人またはアメリカ兵士とはこういうものだというモデルとして描かれたと考えられる。その姿は、きつくカールした髪や髭に日本人との違いを示し、前ボタンの黒い上着に最も身近な異国人、唐人像との違いを示すものとなっている。 
日本語とそれに対応するアメリカ語の単語とを並べたものも多くつくられた。人物像等の他の主題のかわら版に組み込まれたものもあり、「めでたい」「うれしい」という意味の「きんぱ」「さんちょろ」という言葉が目に付く。紹介される言葉はどれも身近な単語で、調子のよい音である。日本語との違いが異国らしさを感じさせるが、ほとんどが実際の英語とはまるで異なっている。かわら版の作り手が実際にアメリカ人の話す現場に取材したものではなかったからなのだろう。 
ペリーもののかわら版では、以前の外国もののかわら版にはみられなかった幕府の対応に関する情報も売り出された。そのほとんどは、江戸湾に通じる海岸沿いの各藩による警備、「御固(おかた)め」についてであり、点数はペリーもののかわら版全体の四分の一にもなる。当時の記録類には一回目の来航直後、来航から8日後には改訂版が売られた記事がみられる。御固めものの発行の早さには、混乱を抑えようとする幕府の情報操作の意図も想定されるが、それまで手に入りにくかった武家方、政治向きの情報が入手できるようになった際の庶民の情報収集のエネルギーの大きさが感じられる。 
幕府の対応に関しては、横浜での交渉についても様々な種類のかわら版が発行された。蒸気機関車の模型等ペリー一行からの贈答品や、幕府から贈る米俵を船に運びながらその力を誇示する力士像、また幕府側役人とペリーとが対面している様を描いたものもみられる。その際の日本人役人は若武者風に凛々しく、幡印や陣幕の紋から、当時、強さを示す象徴であった源為朝を連想させるものもある。一方、対面するペリーの方は武士の前にひざまずいて礼を尽くすポーズが多く、「きんぱさんちょろ」と礼を述べるものもある。実際の交渉では、ペリー自身の記録によると、尊大に振舞う作戦のため椅子に腰掛けて対面したようだが、かわら版ではペリーも日本の武威に従う異国人として描かれた。 
ペリーものでは、従来通りの船、人物、言葉という主題や、交渉の経過だけでなく、それらを元にした狂歌、見立て、絵花火等、遊びの要素の大きいものも多く作られた。以前の外国ものにはあまりみられなかった傾向である。  
ペリー艦隊の蒸気船と茶の銘柄の上喜撰とを掛けた有名な狂歌、「泰平の眠りをさます上喜撰たった四杯で夜も寝られず」は少しづつ異なって何度もかわら版に登場する。百人一首をもじったもの、九つの漢字を特殊な順序で読ませる詩(野保台詩)、武鑑や引札に模したものなど、内容とともに技巧を楽しむかわら版が多い。全く新しいタイプのものが新たに生み出されたのではなく、それまでに蓄積されてきた、かわら版やそれ以外の分野の技法などの集大成の観がある。ペリー来航後の安政大地震ではより短期間に大量のかわら版発行がみられるが、それらにはペリーものにみられた技法も多い。ペリーものでの様々な種類のかわら版の発行が、安政大地震の際のかわら版大量発行の下地となったといえるだろう。 
遊びの要素の大きいものは、既成のパターンを利用してそこに風刺性を帯びた言葉を巧妙に用いている。その内容は異国人を追い払うものよりも、庶民や武士の慌てぶりを笑ったり、海岸警備の武士の役目のつらさや、武具屋など儲かった人達の存在に目を向けるなど日本人を対象としたものが多い。ペリー来航という一つの出来事を多面的に捉える意識が存在していたことが分かる。御固めを含むかわら版の量の多さには、当時の庶民の関心の高さが現れている。そこには、未知のものへの好奇心だけではなく、相手の正体を確かめたいという不安感、恐怖感も潜んでいる。 
様々な表現を持った情報がかわら版となったが、庶民は、依然として異国人に対する距離感を抱き続けた。異国人と交渉するのは武士の役目であって、庶民はそれを見物する立場である。その意味では、ペリー来航も庶民にとっては一種の見世物であった。これに変化が生ずるのは、横浜開港以降、庶民自身が実際に異国人とかかわり、かつそれまで異国との交渉役だった武士が武威を失落させていく事態を迎えてからであった。  
黒船来航

 

 
蒸気船本名フレガット/ ペリー一行の船を主題とするかわら版。蒸気船への関心がその機能に集中している。左の帆船と対比されて、帆をたたんだまま風上へ進んでいる描かれ方や、速さに言及している記述「一時三十里一昼夜三百六十里ヲハシル(時速58・5キロ)」では、蒸気船が帆を張らずに速く走る船として認識されている。 
北亜墨利加大合衆国人上官肖像之写/ 嘉永7年(1854) ペリー艦隊の副官アダムスの肖像。大首絵のような顔面のクローズアップの上に、アメリカ言葉が記されている。縮れた髪やボタンの付いた洋服姿は、日本人との違い、異国性を感じさせる。黒い上着に胸の前でベルトを交差させた装いは、この時期のかわら版でアメリカ人兵士の姿として定着する。  
異人登山に富岳の怒り/ 万延元年(1860) 黒雲に乗った天狗が、風雨で異国人を吹き落としている。万延元年にイギリス人が富士山の測量のため登山し、無事測量を終えている。そのことが、かわら版では、霊山富士に異国人が登ると神の怒りに触れたという内容で伝えられた。異国人が汚れているという意識やその異国人を日本の神が懲らしめてくれるといった対外観が現れている。 
武鑑の戯文/ 嘉永6年(1853) 武鑑とは、武家の家系や家紋、家臣名、江戸屋敷などを記したハンドブックである。このかわら版は、武鑑の形式を使った判じものになっている。家紋部分には黒船や大砲が図案化され、又至る所で掛詞が多用されている。 
上段には、ペリー一行が去ることを意味する「お済み」「帰り」や、「安泰」「泰平」という言葉が目に付く。異国船来航に動じない神国日本というところだろうか。だが下段に目を移すと様相は一変する。海岸警備に当たる武士は「昼夜寝ず」「蚊に喰われ」と、現場では大変である。一方、市中では武具師が繁盛し、御台場も建設されて慌ただし気な活気が伝わってくる。 
このかわら版は一回目の来航後、二回目に来航する迄の間に作られたものとおもわれるが、ペリー一行よりも庶民に身近な世相の方が判じ物のネタになっている。掛詞に頭をひねり、共感しつつ読み解く庶民の姿がみえる。 
神州泰平武守固鑑/ 嘉永7年(1854) 江戸湾につながる海岸防備「御固(おかた)め」のかわら版。外交は武士の仕事として、庶民の関心が見物する側から示されている。陸には陣幕や幡、海には番船が描かれ、賑やかさと臨場感がある。ペリー来航の際に庶民が求めた情報は、アメリカ側に対するものばかりでなく、日本の武家に関する情報も多い。そこには神国観も噴出する。 
横浜にて応接の図/ 嘉永7年(1854) 幕府からペリー一行への贈答品が記されている。横浜での交渉場面を描く。中央でひざまずく人物がペリー提督。向かい合わせで描かれた武士像は、幡や陣幕の紋は力の象徴であった源為朝を連想させ、武士にひざまずくペリーの姿は、日本の武威に従う異国という対外認識を示している。  
献上之品物亜墨利加蒸気車/ 嘉永7年(1854) ペリーと幕府の間では、相手より高価なものを贈る事で自国の優位を示そうと、様々な贈り物の交換がされた。ペリーは、電信機やフランス製の蒸気機関車の模型などを贈って西洋文明の技術を示そうとした。蒸気機関車の模型は実際には人が中に入れない程小さかったが、かわら版では人を乗せて大きく描かれている。客車には遊山屋形船と書かれている。 
阿女里香通人/ 「阿女里香」とは「アメリカ」。アメリカの言葉を日本語と対応させて紹介する。ペリー来航についてのかわら版に求められたのは交渉の経過やペリー艦隊に関する情報だけではない。踊る異国風人物や蒸気船をかたどった煙草盆、呪文のような言葉には、異国風情を楽しむ姿勢がうかがえる。下に記されたアメリカの言葉はどれも英語とは程遠いが、日本語との違いで異国らしさを感じさせる。 
当世流行とふ化狂歌(「あさぶくろ」)/ 一首目は、「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も寝られず」が変形したもの。五首目にも蒸気船と上喜撰の掛詩がみえる。二首目は、「おそない」に御供え餅と海岸防備の「おそなえ(御備え)」を掛けている。三首目は、泰平の世に馴れた武士を「なまけた」と表現する。掛詩を楽しむ狂歌や百人一首をもじったものなど、技巧をこらしたものが多く作られた。 
毛唐人なそとちやにして上きせん  たつた四はいてよるもねられぬ 
あめりかのこめのねかひをもちにつき  おそないはかりたんとてきます 
なかき御代なまけたぶしのみなみさめ  たしなみあるハここちよきかな 
七よふの星にもまけぬ九よふせい  ぢやのめとをなじひこのくまもと 
日本をちやにしてきたが上きせん  水かあらくてむまくのめない 
江戸まちの女唐人できたゆへ  あめりか人もやたらきたかる 
鎖文字(「あさぶくろ」)やぼたいし/ 漢字を使った言葉遊び、「野保台詩(やぼたいし)」。出来事を様々な面から捉える姿勢がうかがえる。興味深いのは中央の字には「船、国、家、人、中」が選択され、日本と異国の国家間レベルでの力関係から、身近な世相までが対象となっている。このかわら版の買い手自身となる町人や武士の辛さなどにも目を向けている。 
*野保台詩について/古代の予言詩「野(耶)馬台詩」の形式をヒントに作られた。「野保台詩」は「野暮ったい」を掛けている。縦に三文字、横に三行の合計九つの漢字で一つのまとまり。中央の文字を重復して縦横斜めに読む。 
ペリー来航  
日本の開国を求めてペリーが1852年(嘉永5年)10月にアメリカ・バージニア州のノーフォーク軍港を出港した。ペリーはアメリカの東インド艦隊司令官であり、この度は遣日特使の任にも就いて、日本遠征の途についた。日本遠征の目的は、  
○ 1 アメリカ漂流民の保護  
○ 2 アメリカ捕鯨船の食糧・薪水の補給  
○ 3 日本の地に貿易港を開くこと  
の三点でこれを日本側に要求するためであった。  
ペリー提督が乗ったミシシッピ号は、大西洋を南下して、喜望峰(きぼうほう)をまわり、セイロン島、シンガポールを経由して1853年(嘉永6年)2月29日に香港に入港した。この地では、プリマス、サラトガ、サプライ号など先に到着していた艦船と合流をして、新たに艦隊を編成している。琉球を集結地と定めたペリーは、上海から琉球を目指して出港した。日本側との交渉を成すにあたって、琉球を根拠地とするためであった。  
琉球に着いたペリーは早速、琉球政府に修好の希望を述べ、開国の足がかりとし、ついで小笠原諸島の父島に立ち寄り、貯炭所を作り、補給地の確保を成している。  
こうして、足固めを成した後、5月26日にペリー艦隊は、浦賀へと向かった。この時の艦船は、ペリーの乗る旗艦サスケハナ、ミシシッピ、サラトガ、プリマスの四隻であった。この四隻のうち、サスケハナ、ミシシッピの二隻は蒸気船で、プリマス、サラトガは帆船であった。四隻ともに黒塗りされた巨船であった。  
1853年(嘉永6年)6月3日早朝、ペリー艦隊は伊豆沖を通って三浦半島をまわり、江戸湾に進行した。その日の午後5時ごろには、浦賀沖にいかりをおろして停泊。四隻は砲門を陸地に向けて、戦闘準備の構えを取っていた。  
このペリー艦隊の行動に驚いた日本側は、多数の警備船が出港し、ペリー艦隊に向かった。これらの船は、ペリー艦隊に近づくと乗船しようとしたがペリーは自分が乗る旗艦・サスケハナ以外には誰も乗船させてはならないとし、また日本政府の高官以外とは直接面会をしない方針を取った。  
浦賀奉行所では、思案して、浦賀奉行組与力の中島三郎助という者が浦賀副奉行と称して乗船することになった。この乗船を認めたペリー側は、副官コンティ大尉が対応した。アメリカ側は日本皇帝(将軍)宛ての大統領親書を受け取る日本政府の高官派遣を求めた。それに対して日本側は諸外国との交渉はすべて長崎の出島にて行っているという国の方針を説明し、長崎に回航するよう要求した。しかし、ペリー側はこれを拒絶し、会談は進行しない。そこで、今度は浦賀奉行と称した与力の香山栄左衛門(かやまえいざえもん)がペリー側との交渉に臨んだが結果は同じであった。ペリー側は回航要求を拒絶するだけでなく、日本側があくまでも大統領の親書を受け付けないのであれば、これをアメリカへの侮辱と見なし、いかなる事態が起こっても責任は取らぬと強硬な姿勢を見せた。ついには6月6日、ペリーは江戸湾の奥まで測量隊を進入させて地検をするなどして、威圧的な行動に出る。このペリーの武威外交には、7年前にビッドル提督が平和外交を行って失敗した教訓から生じたものであった。なにがなんでも日本との交渉に区切りをつける必要があると考えたのであった。  
このペリーの強硬姿勢に浦賀奉行は驚き恐れ、すぐさま黒船来航の急報を江戸に発した。幕府は会議を開いて議論したが、名案も浮かばず結局はペリーの要求を受け入れることにした。  
幕府の意向を受けて、ペリー艦隊は浦賀から江戸へと進行し、6月9日には久里浜沖に到着し、停泊した。艦隊からは士官・水兵・軍楽隊らが出てきて15艘のボートに乗り込み、上陸した。海上には会津藩・忍藩の藩兵が警備し、陸上では彦根藩・川越藩の藩兵が警備に当たった。  
大統領親書の授受は、応接所で行われ、日本全権には浦賀奉行・戸田氏栄(とだうじよし)、井戸弘道が勤めた。ペリーは来春に再び来航して、日本側の親書に対する回答を求めることを述べ、3日後に全艦隊を江戸湾から出港させた。  
ペリー再来航と日米和親条約の締結  
再来航を宣言して、日本を去ったペリー提督は、 宣言よりも早い1854年(安政元年)1月に伊豆沖に来航した。今度の艦隊は、前年よりも規模が大きく七隻の艦船が組まれた。旗艦・ポーハタン号、サスケハナ号、ミシシッピ号の三隻は蒸気船で、マセドニア号、サザンプトン号、レキシントン号、バンダリア号の四隻は帆船であった。江戸湾に入ったペリー艦隊はそのまま勢い込んで、奥深くの羽田沖まで進行して日本側を威圧した。驚き慌てた幕府は急きょ、神奈川宿のはずれにある横浜という寂れた漁村を交渉の場とした。  
幕府側の全権は、林大学頭、町奉行・井戸覚弘、浦賀奉行・伊沢政義、目付・鵜殿長鋭の四名がなった。交渉は2月10日から10日間に渡り、交渉会議回数は4回に及んだ。そうして、3月3日に日米和親条約が締結され、幕府は名実共に鎖国政策をアメリカの武威の前に撤廃させられたのであった。十二箇条に及んだ条約の主な内容は、  
○ 下田・箱館の開港と薪水・食糧の供給  
○ 両港における遊歩区域の設定  
○ 外交官の下田駐在許可  
○ 最恵国約款(さいけいこくやっかん)の承認  
などで一方的な米国の要求を呑む形で成り立ち、片務的な不平等条約だった。  
※最恵国約款とは、条約を結んだ国の一方が別の国にもっと恩恵的な条約を結んだ場合にその内容と同等の待遇を先に結んだ国にも与えるというものである。この時、日本は一方的に欧米諸国から条約締結を強いられ、互いに義務を負う双務的な条約ではなく、片務的な不平等条約であった。   
 
かわら版と舌耕文芸

 

 
小野先生は見事にかわら版を中心とする一枚摺の収集を成し遂げられた。しかも実際に集められたのは、社会情報研究所所蔵分より多かったのであるから、驚かざるを得ない。名著「かわら版物語」には、赤穂義士討入り後に、かわら版が刊行されたとの諸書の記述の溯源を試み、伴蒿蹊「閑田次筆」(文化3年刊、1806)と突きとめ、その「閑田次筆」は、備後の人坂本才助の筆記によるが未見とされた。この話柄に因んで、赤穂義士関連の一枚摺を二種所持していたが、一枚は展覧会出品の際に抜き取られ、「他は疎開の時荷物諸共盗まれた」と記される。展示の折の盗難は、そう度々は起こるまい。しかし疎開となると、被害の点数はかなりに上ると思われる。 
その「閑田次筆」巻四の記事は、凡そ次のようである。 
大野九郎兵衛の娘の伝。娘を娶った備前藩士梶浦氏は、舅の名が、討入りの「人数を録して」売り歩いて来たのにも見えないので、連れ添うのは士道に反すると、離縁を告げた上、「家を失っているので裏の離れに住め。子の孝養を受けるのはよいが、我は対面せず」と、遂に生涯言葉を交さなかった。 
この話柄は、不義士の報いの見本として好まれたらしく、西沢一鳳軒「皇都午睡」(嘉永3年成立写。1850)三編上、山崎美成「赤穂義士一夕話」(安政元年刊。1854)巻六、大槻磐渓「近古史談」(元治元年刊。1864)巻四にも採られており、講談では「義士外伝」の内、「大野九郎兵衛の娘」と題して読まれたおり、例えば、二代目柴田南玉斎の速記が、「文芸倶楽部」七巻14号(明治34年10月20日刊、定期増刊)に収められている。 
江戸時代には事件が起きると、かわら版や講談で伝えられた。赤穂義士討入りは、講談最大の読み物「義士伝」中の華であり、「難波戦記」も、殊に大坂で好まれた。 
講談や落語、人情咄等を合わせて舌耕文芸と呼ぶのは、中村幸彦博士の提唱であるが(「中村幸彦著述集」巻十)、余りに多い講談は後日を期し、ここでは人情咄の素材と関わりのあるかわら版の内、幾つかを取上げたい。 
寛政10年(1798)11月12日、深川(江東区)猿子橋辺りで、山崎みき・はる母娘が、夫であり父に当る彦作の仇、崎山平内を討った。平井仙龍に助太刀を仰いだものの、婚約者はるが18歳のため評判を呼び、かわら版は「寛政このかたほまれかヾ見」(小野秀雄氏旧蔵)と、「江戸深川敵討之記」(都立中央図書館蔵)の二種類確認できる。後者は四丁もあって長く、瀧山勝内、奥野仙龍などと名が違っている外、読者向けをねらって事実を改変する。つまり勝内の首を打落とし、仙龍にも褒美を給ったと報ずるのであるが、実際には、大勢留めに入ったため本懐を遂げ得ず、28日破傷風で平内死去。その四日前、仙龍は癪気で病死。褒美に預かってはいない。 
一方、「寛政このかたほまれかヾ見」も、はるをさの、弟がいる等、誤聞を含むが、平内が取押さえられたのは、正しい。共通するのは浅草観音の御利生を説く点で、「撰要永久録」等の公的記録には見えない。敵討のような大難事の成就には、冥助なくては適わぬと言うのが、江戸人の心性なのであろう。明治33年刊の田辺南麟口演「寛政復讐山崎勇婦伝」など、講談の速記本が残るが、今もなお演ぜられているのは、三遊亭円朝作の人情咄「敵討札所の霊験」(「やまと新聞」明治20年6月26日より連載)。設定は史実と異なるが、水司又市と水島太一という、聞分けにくい善悪両人が登場する趣向は、錯覚しやすい山崎・崎山の両氏名から思い付いたのであろう。 
同じ円朝の人情咄「操競女学校」(「やまと新聞」明治21年4月末より連載。欠号のため開始日不明)は、五人の女性の伝。二人目のお蝶の伝は、継母と密夫に父を殺されたお蝶が、弟徳次郎を励まして本懐を遂げるとの敵討譚で、大槻磐渓編「奇文欣賞」(明治元年刊、1868)所収、葛西因是「二童復讐」の兄弟を姉弟に代えて、膨らました作。しかし、お蝶が殺されかかったり、茹で殺されようとする条は、「二童復讐」には含まれていない。ところが、嘉永7年(1854)4月に、小金井の百姓庄右衛門の後妻が継娘を、毒殺しようとして失敗、茹で殺した旨、かわら版で報ぜられている。手習師匠が、毒殺から守ったものの、庄右衛門宅を訪ねた際には既に大釜で殺されていたとある。この師匠に当たるのが、「お蝶の伝」の大心和尚で、二度ともお蝶を守り通す。嘉永7年は、円朝16歳。7歳から寄席に出、17歳で場末の真打ちとなっている。この事件との接点は解らないものの、かわら版の記事が「お蝶の伝」に生かされているのは事実であり、かわら版が無ければ今日、このような惨劇が起こったことも知り得まい。 
円朝が三遊派の再興を初代円生の墓前に誓ったのは、先に述べた場末で真を打ったのと同年の17歳。三遊派と拮抗したのが柳派で、大看板の一人が春錦亭柳桜。黙阿弥の名作「梅雨小袖昔八丈」(明治6年6月、中村座初演)の原作となったのが、十八番の人情咄「仇娘好八丈」であるのは、よく知られている。この柳桜の「大久保曽我誉仇討」は、「百花園」創刊(明治23年11月5日刊)以来13回にわたって連載された点より見て、自信のある出し物と思われる。 
右の大久保は小田原藩主の名字。つまり同藩足軽浅田只助の養子鉄蔵、実子紋次郎の兄弟が父の仇成滝万助を討ったので曽我兄弟に准えての外題。もっとも文政7年(1824)3月1日、磯浜祝町(茨城県大洗町)で本懐を遂げたのは、父が斬られてから5年半後なので、曽我兄弟の18年に比して遥かに短い。柳桜は、小田原に出向き紋次郎(明治12年8月17日、71歳没)に会って取材した旨、冒頭で述べているのも自負の現れであろう。かわら版には、「孝子東賢気」と「水戸岩船岩ゐ町ニおゐて敵討」(「大洗町史」通史編写真掲載)の二種を確認し得る。後者は敵討当日に江戸の四谷伝馬町勘兵衛等より刊行の体裁を取っており、敵討後兄弟に新知百石(50石が正しい)とする外は、ほぼ史実。一方前者は、朝田友勝・文次郎兄弟が有竹伴介を討つ等、人名がまるで違っている。特色は万介女房とはの言動にかなり筆を費やする点で、今も万助堂(願入寺境内)に祠られるような同情論の萌芽が見られる。この仇討譚は、講談にもなっているが、邑井一「 鉄 蔵紋次郎水戸の仇討」(明治32年刊)は、「大久保曽我誉仇討」の流用。人情咄も講談も速記になると区別し難い実例でもある。 
最後に志ん生の高座が耳に残る、「猫の恩返し」を取り上げたい。「かわら版物語」に、「江戸の作り話のかわら版」として例示するのが、「めづらしやねこに小判」(水谷幻花所蔵)。文化13年(1816)、本所緑町(墨田区)に住む時田喜三郎の飼猫を可愛がっていた肴屋の次郎吉が病床に臥していると、小判を咬えて来ることが重なった。これを聞いた喜三郎は打ち殺すが、次郎吉は両国回向院に葬り石碑を建立。石塚豊芥子「街談文々集要」、高田与清「擁書楼漫筆」、藤岡屋由蔵「藤岡屋日記」、宮川政運「宮川舎漫筆」(文久2年刊、1862)等に登載。福森久助作歌舞伎「褄重噂菊月」(文化13年9月、中村座初演)に当て込まれてもいる。同時代の証拠が備わり、回向院に猫塚も現存する以上、実事と判定すべきであろう。かわら版・日記・随筆等の間の喰違は、数々見受けられるので虚譚とする根拠にはならない。 
ところが中込重明「「猫の恩返し」の源流」(「諸芸懇話会会報」平成8年12月号)によると、静観房好阿作読本「諸州奇事談」(寛延3年刊、1750)巻一の七「猫児の忠死」,関亭伝笑作合巻「復讐猫魅橋由来」(文化6年刊、1809)二編に類話が見られるという。同内容の記事が時・所を隔てて繰り返される現象をニュースの鴨といい(平井隆太郎「かわら版の虚像と実像」「太陽コレクションかわら版・新聞,江戸明治三百事件」第二冊)、虚譚の証という。文学作品にも応用し得るのではあるまいか。「めづらしやねこに小判」を虚報と断ぜられた小野先生の慧眼に改めて敬意を表したい。 
赤穂分限帖/ 小野コレクションのうちには、いわゆる元禄赤穂事件に関する摺物三点、仮名手本忠臣蔵の歌舞伎番付一点がある。この事件が江戸時代に繰り返し論じられ、また演じられ、人口に膾炙してきた在り方の一端を窺うことができる。「赤穂分限帖」は、取り潰しとなった赤穂藩の分限帖に、元禄15年吉良邸襲撃に参加した者、参加の意志は持っていたが不参加であった者等を刻したものである。版行された時期は不明である。 
孝子東賢気/ 敵討は、いわば江戸時代の公然たる殺人行為である。そのためには、敵を討つ側が正義であり、討たれる側は釈明し難い不正義となる。だからこそ、この正義は、是非とも実現されねばならず、助太刀も認められた。ここには、不正義を制する正義の殺人とは、どのような手続きを経なければならなかったが語られている。この行為は少なくとも、主君に対する忠義や親に対する孝行を実現した究極の形として、かわら版が伝えるビッグ・ニュースのひとつであった。 
 
錦絵新聞とは何か

 

 
錦絵新聞とは、明治7年から10年頃まで多数発行された木版の多色刷り版画で、「新聞」すなわち、新しく聞き知った出来事=ニュースを伝える文章と、「錦絵」と呼ばれた浮世絵版画が合体した出版物である。その最初は、明治5年に創刊された日刊紙「東京日日新聞」の記事をもとにした錦絵のシリーズである。本紙の題号をそのまま掲げた落合芳幾の絵による錦絵版「東京日々新聞」が明治7年8月頃に発刊されると、これにならうように月岡芳年が描く錦絵版「郵便報知新聞」、小林永濯が絵筆をとった「各種新聞図解」などが現れ、あいついで約40種類の錦絵新聞が東京、大阪、京都などの都市で発行された。 
これら錦絵新聞における様式上の特徴は、画面全体を囲む赤または紫の枠と題号を捧げ持つ天使像である。赤と紫は、開港により使用が増加した安価な輸入染料による明治錦絵に特徴的な色であり、錦絵新聞では油絵の額縁やガラス窓の窓枠を思わせる囲み枠に用いられ、天使像とともに西洋を感じさせる新しいスタイルを鮮やかに強調している。その枠の中に、強盗、殺人、心中、奇談など市井のさまざまな事件が描かれる。そこには役者や芸者、相撲取りなど錦絵でおなじみの人気者も登場するが、大半は大工や人力車夫、鮨屋、織り子、女中、薬屋などの商人や職人、農夫や漁師などの市井の庶民が主人公である。開化期らしく外国人や巡査の姿も現れるが、高位高官の人物はほとんどいない。これら事件の中心人物である男女二三名が全身像で、あたかも芝居の一場面のように描かれている。こうした人物本位の絵の背景や、あるいは絵とは別の囲みの中に、200-600字程度の文章が添えられ、漢字にはふりがながついているのが錦絵新聞の基本的な画面構成である。  
現在、現物を確認できる錦絵新聞は八百点ほどあり、そのほとんどが東京と大阪で発行されたものである。小野秀雄が指摘したように、東京と大阪の錦絵新聞はいくつかの点で異なっている。まず、版の大きさがふつう東京ではB4大の大判であるのに対し、大阪ではその半分の中版である。価格も東京では1銭6厘から2銭であるのに対し、大阪では6厘である。これは東京と大阪における錦絵の生産基盤のちがいに基づくものであろう。しかし最も重要なちがいは、題と号数の付けかたで、東京では記事の引用元になっている新聞紙名とその出典号数が掲げられているシリーズが多いのに対し、大阪では錦絵新聞独自の題名とその連番が号数として記入されている連作がほとんどである。  
この背景には、新しいメディアとして出現した新聞をめぐる当時の状況がある。欧米から輸入された文明の利器として「ニュース・ペーパー」を移植するにあたり、幕末から明治初期の知識人たちは「ニュース」という新たな概念を「新しく聞き知った出来事」=「新聞」と翻訳し、その物的形態を「新聞紙」と呼び分けた。例えば、慶応年間に出された「中外新聞」などの木版刷り和本形態の諸新聞は、ニュース=「新聞」を扱っていたが、近代的な形態の「新聞紙」ではなかった。活版印刷と洋紙を用いた初の日刊紙「横浜毎日新聞」が創刊されたのは明治3年で、東京では明治5年に「東京日日新聞」が創刊され、以後「郵便報知新聞」「日新真事誌」などの新聞が誕生した。だがこれらは、漢文漢語の読める知識人向けの文章で書かれており、読者も数千ほどに限られていた。つまり、かな文字が読める程度の庶民には、「新聞」も「新聞紙」もよくわからない遠い存在であった。  
むしろ絵草紙屋の店頭を彩る錦絵のほうが当時の庶民にはなじみのメディアであった。その主力は芝居の役者絵や武者絵であったが、風俗の流行をいち早く取り入れてきた錦絵の新たな際物として、新聞記事をもとにした絵のシリーズは試みられた。おそらく「東京日日新聞」の創刊メンバーである絵師・落合芳幾、戯作者・条野伝平、西田伝助などが、新聞とは何かを庶民に浸透させる一種の宣伝として企画したのではないだろうか。こうして東京では「東京日々新聞」のシリーズをはじめ、新聞社が発行した日刊紙の記事に依拠して、絵草紙屋から錦絵新聞が出版された。その際、新聞記事はたいてい戯作者や講談師などの手を経て読み聞かせてもわかりやすい文章に仕立て直された。  
錦絵新聞が東京で評判になると大阪でも「大阪錦画新聞」「大阪日々新聞」「新聞図会」「勧善懲悪錦画新聞」などの錦絵新聞が明治8年2月頃から発行された。当時大阪には地元発行の日刊紙がなく、「新聞」と名の付く発行物は錦絵新聞のシリーズだけであった。これらは、東京発行の新聞記事をもとにするか、または独自の取材による記事で作成された。前者の方法は全体の約三割で、残り七割の投書を含めた独自取材では大阪や関西圏の話題がほとんどである。これらの文章は発行者や絵師が書いた。当時大阪を代表する絵師、二代目長谷川貞信と笹木芳瀧の二人は、錦絵新聞の絵と共に文章も多くしたためている。後の回想によれば、彼らは何か事件が起きると、錦絵新聞の絵にするために出かけたというから、今日でいえば、レポーター兼カメラマンのような活動をしていたといえよう。 
こうした大阪の錦絵新聞は、一般の新聞のような情報媒体としての役割を独自に果たしていたと考えられる。たとえば、「錦画百事新聞」は隔日ないし日刊で発行され、希望者には戸別配達もおこなわれていた。また「勧善懲悪錦画新聞」には火事を伝える紙片が添付された号があり、少なくとも週刊から日刊に近い定期性と速報性を持っていたと考えられる。このような報道的性格は、東京の錦絵新聞にもあったと思われる。「東京日々新聞」および「郵便報知新聞」のシリーズでは、明治7年11月から翌8年4月までの間は、本紙が3号から5号分発行される間に錦絵新聞が一点刊行されるという定期性が認められる (4)。つまり錦絵新聞は、ニュースとは何かもわからず漢字漢語の読めない非知識人をも引きつける、目で見る定期的ニュース媒体としてつくられていたのである。人々は絵に引かれた後、文章を読み、あるいは読み聞かせてもらって内容を知り、その行為の中で「新聞」=「ニュース」とは何かというのをおぼろげに理解したのかもしれない。 
ただし錦絵新聞のニュースは、事実に基づくとはいえ、勧善懲悪という旗印の下に「官許」の正当性を得ていたのを忘れてはならない。いち早く英文で錦絵新聞を紹介した「The Far East」の記事が、倫理道徳をひろめるのが出版者のねらいであると記したように (5)、錦絵新聞に取り上げられた話題は、庶民に身近な市井の事件であり、その文章にはしばしば教訓めいたことばが添えられた。たとえば、色恋の事件を報じては「嗚呼おろかなるかな」と嘆き、あるいは「つつしむべし」と締めくくり、褒美の金をもらった孝行息子の話や軽犯罪でとがめられた娘の話で規範を示し、また奇事を伝えては「たわけきはなし」とか、「恐るべし」と結ぶといった具合である。もっとも読者は、そうした教訓はさておき、醜聞のおもしろさや絵の残酷さやあでやかさに見入ったのであろう。しかし、勧善懲悪の枠組みをはみ出た場合には、「大阪日々新聞」の例のように検閲の手が入ったようだ。 
このように錦絵新聞は、もとは絵草紙という一つの名称のもとから流れ出た絵本、錦絵、読売瓦版という、近世の視覚メディアを再統合した印刷物であるといえよう。視覚的な事件報道という点で先行メディアである読売瓦版が、不定期発行で、ほとんど単色の粗末な非合法に近い出版物であったのに対し、錦絵新聞はその報道的性格を吸収し乗り越えた、迅速で定期的なニュース媒体であった。また、錦絵新聞は絵本の持つ物語性や教訓の枠組みを引き継ぎ、その中に新しい明治の世相を展開して見せた。そして錦絵新聞は浮世絵版画の継承的発展であり、錦絵の技術を徳川政権下では禁じられていた時事報道の領域へ解き放ち、色彩豊かでわかりやすい、文字の読めない者をも引きつける魅力を持った視覚的情報媒体となった。錦絵新聞は錦絵に潜在していた視覚的報道の機能を最大限に引き出した形態であり、また錦絵が新聞という新たなメディアと競った最初で最後の舞台であった。錦絵新聞が展開した後の明治10年代後半以降、錦絵は視覚的報道の主役からすべりおち、「田舎向きの安物」と質の低下が嘆かれるほどに衰退してゆくのである。 
一方で、錦絵新聞は近代以降のポピュラー・ジャーナリズムの出発点でもあった。庶民を話題の中心に据えた実名報道とその視覚化は、後の漫画、紙芝居、グラフィック雑誌、テレビ等の視覚メディアにつながる表現形式を開拓したといえよう。しかし、明治9年後半から西南戦争の頃に錦絵新聞は最盛期を過ぎ、ニュース・メディアの役割を実質的に終えた。その大きな原因は、明治7年11月に創刊された「読売新聞」をはじめとする総ふりがな付きの小新聞(こしんぶん)が東京と大阪で普及し、それらに錦絵新聞の読者層が移行吸収されていったためだと思われる。なぜなら小新聞は、錦絵新聞と同じく漢字漢語の読めない「児童婦女子」を読者対象とし、戯作者たちが書く記事の話題と表現も共通しており、しかも情報量と速報性では錦絵新聞にまさり、相対的に安価であったからである。また、明治8年4月に創刊された「平仮名絵入新聞」が先駆けて実践したように、有名な浮世絵師たちが小新聞に記事の挿し絵を描くようになったのも影響したであろう。やがて忘れ去られた錦絵新聞が再び見いだされるのは、大正時代になってからである。 
 
新聞錦絵とその歴史的展開

 

 
基本形としての「東京日々新聞」 
新聞錦絵は、明治7年(1874)に東京で誕生した視覚的ニュース・メディアである。錦絵と呼ばれた多色刷り浮世絵版画の技術を基盤に、文明の利器として刊行され始めてまもない新聞の記事を、当時の有名浮世絵師が絵にしてみせるアイディアで人気となった。その最初が「東京日々新聞」と題する新聞錦絵のシリーズである。これは明治5年(1872)に創刊された日刊紙「東京日日新聞」の記事をもとにしてつくられたものである。  
東京日々新聞大錦(開板予告)/ 絵師・一恵斎芳幾の名と、文章を担当する6人の名が掲げられ、童蒙婦女に勧懲の道を教えるという創刊の趣旨が述べられている。具足屋発行で定価6厘で売られたと記されている。 
編集記者六名左ノ/文間ニ境界ヲ設ケテ戯号ヲ掲グ/山々亭有人/点化老人/温克堂龍吟/百九里散人/巴山人/転々堂主人 
知見(ちけん)を拡充(かうじう)し開化(かいくわ)を進(すすむ)るハ新聞に無若(しくハなし)。/該有益(そのいうえき)なるは更(さら)に嘴(くちばし)を容(いる)べからずと。投書(とうしょ)の/論(ろん)の始(はじめ)に記(かけ)る定例(おさだまり)の文章(もんく)に拠(よ)り。童蒙(どうもう)/婦女(ふじょ)に勧懲(かんちょう)の道(ミち)を教(おしゆ)る一助(いちじょ)にと。思(おも)ひ付た/る版元(はんもと)が家居(いえゐ)に近き源冶店(げんやだな)に。名誉(めいよ)ハ轟(ひびき)し/国芳翁(くによしおう)が。門弟中(もんていちう)の一恵斎芳幾大人(いっけいさいよしいくうじ)ハ多(た)/端(たん)により壬申巳釆揮毫(おととしこのかたきがう)を断ち。妙手(みやうしゆ)を/廃(すて)しを惜(おし)ミしに。中絶(ひさしぶり)にて採出(とりだ)したれバ。先生(せんせい)/自ら拙劣(つたな)しと。謙遜(ひげ)して言へど中々に往昔(むかし)/に弥増(いやま)す巧(たくミ)の丹青(たんせい)。写真(しゃしん)に逼(せま)る花走(りうかう)乃。/新図(しんづ)を/穿(うが)ち旧弊(きうへい)を/洗(あら)ふて日毎(ひごと)/に組換(うへかへ)る。鉛版器械(かっぱんきかい)の運転(うんてん)より。神速(はやき)を競(きそ)ふ/て昨日(きのう)の椿事(ちんじ)を。今日発兌(けふうりいだ)す日々新聞(にちにちしんぶん)。各府(かくふ)/県下(けんくわ)の義士貞婦(ぎしていふ)。孝子(こうし)の賞典兇徒(しょうてんけうと)の天誅(てんちう)。開(かい)/化(か)に導く巷談街説(かうだんかいせつ)。遺漏(もらす)ことなく画(かけ)たれ/バ数号(すごう)をかさねて御購求愛顧(おんもとめあいご)を冀(ねが)/ふと蔵梓主(はんもと)に換(かはっ)て寸言(ちょっと)と陳述(のぶ)/る者は東京木挽坊(とうけいこびきちやう)に奇寓(きぐう)する隠士(いんし) 
東京日々新聞第431号/強盗に川へ突き落とされた娘が助けられる/ 永代橋のたもとで娘が船頭に助けられた場面を絵にしたもの。遠景に別の船が描かれ、奥行きのある画面になっている。赤い囲み枠と題号を掲げる天使がこのシリーズの基本デザインである。 
盆過(ぼんすぎ)て宵闇(よいやミ)くらき永代(ゑいだい)の、橋間(はしま)をぬける家根舩(やねふね)の、小べりを/かすりて橋上(きやうぢやう)より投入(なげこま)れたる女子(をなご)あり、苦(くる)しき声(こゑ)を/あげ汐(しほ)にたすけてたべと呀(さけ)ぶのミ/せん術波間(すべなみま)にただよふを、舩(ふね)より三浦(ミうら)/某君(なにかしキミ)が、夫たすけよと情(なだけ)のひと言(こと)、/舩人こころ得(え)/力(ちから)を尽(つく)/して漸(やうや)く舩(ふね)/に引揚(ひきあげ)つ、さて/さまざまと介抱(かいほう)なし、/入水(じゅすい)の子細(しさい)を尋聞(たづねきく)に、是(これ)ハ中橋(なかハし)/和泉町(いづミちよう)なる浅野又兵衛(あさのまたべゑ)が召仕(めしつかひ)にて、/安房国館山町(あハのくにたてやままち)、小柴茂七(こしばもしち)が娘(むすめ)やすとて、本年十 七/年五カ月になれる者(もの)なりけふしも深川(ふかがは)に所要(しよよう)/ありて、赴(おもむ)きし帰るさ、永代橋のたゞ中にて、四十(よそ)/歳余(じあまり)の斬髪男(ざんぎりおとこ)、矢庭(やにハ)にやすを引捕(ひきとらへ)、懐中(くわいちう)の/金三円を奪取(うばいとり)、あまつさへ川中(かハなか)へ、うち込(こま)れ/たるよしなるにぞ、三浦君、いたく憐(あハれ)ミ玉ひて、しるべの方へ/送(おく)り遣(つかハ)せよなど、側(かたハら)の人々(ひとびと)に命(めい)じたまふ程(ほど)に、舩(ふね)ハ浜(はま)/町(ちよう)の河岸(かし)につきぬ、折(をり)から十七日の月もはや本所方(ほんじようかた)に/さしのぼりて夜(よ)ハ初更(しよかう)にぞなりにける 點化老人識 
東京日々新聞第856号/関取詐欺にかかる/欲深い継母の仕業で養女自殺/ 新聞錦絵に掲げられた号数は同じでも、話の内容は全く別な例。この場合は、前者が本紙「東京日日新聞」第858号の記事から、後者は本紙第856号の記事に基いている。 
関取詐欺にかかる 近来詐偽の術巧を極め此謀計に陥る者尠とせず彼有名/の角觝取小柳常吉本年十月下旬越前の国武生に於て/角觝興行為せしに或る夜同国坂井港なる清水磯吉が/手代なりとて小柳が旅宿に来り僕商用にて京阪に至る/べき主命を蒙りしが途中にして小包ミを失ひ路用に事欠き/たり今主家へ立戻らば四五里の費へありて大に商法の機会を/失へり因て関取りの旅宿を驚せしなり願はくバ旅費聊/借用致たしとありけるに清水ハ多分の恩恵を/蒙りし人なれバ/異議にも及ばず金拾五円を貸与へたり手代謝して/退きし後清水角觝場へ来りければ小柳/其事を話しけるに清水驚き予が/手代を京坂に遣し事なし升ハ/全く詐偽に罹りしならんと/小柳も是は四捨八手の/外なりけれバ暗に引/手を以て投けられ/たり 
欲深い継母の仕業で養女自殺 賢貞の処女が罪なくして刃に伏すや。/継母が貪欲に罹り憫むべき一説は。/北越新発田の焔硝取忠吉が妻お若とて/養女おたせが客色の美なるを揺銭樹と/培ひ。富商の少爺の外妾とせしに。おたせハ/性質温良く。孤媚を呈して誑かす術に疎/きを憤り。旦暮罠り打擲き。偶々客に離別ときハ。/手切を唱へて多金を貪り。又他の顧主を迎へさす。/野鄙業を浅ましと。歎きて辞ハ詈り責られ。/情なミだの乾く間も嵐に折し破荷の。/臺に導引たまへやと珠數の/玉なす白露と消る其名ハ/香バしき。彼の泥中の/蓮華の。浮萍とともに/流ぬぞ善哉 
木挽町の隠士 轉々堂主人記 
東京日々新聞第934号/ふられ男が遊女と無理心中/ 新聞錦絵によく取り上げられた話題の一つが、心中事件である。これは娼妓をかみそりで傷つけ自殺した男の事件。文の前半は事件とは直接関わりのない「色情」論が語られ、一種の道徳訓となっている。このような倫理道徳が語られるのも、新聞錦絵の特徴の一つである。 
意より/情を生じ/情凝て煩/悩を生ず/煩悩より愚痴を生じ是を名づけて妄想と/いふ妄想の中に色情を生ず/此色情に四つあり互に思ひ/慕ハれて天にあらバ比翼の/鳥地に有らバ連理の枝と/玄宗真似を真情と言ひ去日/の情人ハ艮時の仇其日其日の風次第/ハ是そ所謂薄情にて不粋な人でも黄金さへあれバと枕の下へやる手さへ握/て掛るを慾情とす痴情ハ是と事かわり先方で何とも思ハぬを自分ではまる恋の淵行徳/舩の乗子なる早川伊太良と呼ぶ男あり新吉原龍ヶ崎屋の娼妓かしくと言へるに馴染て百夜ハ/愚千夜かけて通へど先方ハ空吹く風本年二月上旬かた例の如く遊宴に来が如何なる事故のあり/けるにや髪剃をもて疵を負せ其身も自殺なしけるよし是又痴情にせまりし事歟将外に/子細ありける事歟記者も知らず唯世の好男子の為に誌て後世の/戒に備ふ 
待乳山麓/温克堂龍吟誌 
東京日々新聞第1052号/稀代の孝行息子/ 孝行息子、孝行娘の話は、官許のメディアとして新聞錦絵がよく取り上げた主題である。孝養を尽くした父親が亡くなってからもこの話の主人公は、朝夕位牌の前で生きている人に使えるが如く話をして茶飯を供えるので、地主の華族が感心して、若干のお金を恵まれたという。 
親を愛/するは子たる/者の常情なり/といへども。亦/あり難き此/孝子が年齢ハ四十に及べども。小児の/ごとく父を慕ひ起臥/飲食なにくれと心を/盡してよくつかへ。/閑隙ある/日は/脊におふて。東台。墨陀の花に/遊びて。親の心を悦ばし。幾十/かえりも変りなきハ浜松/県の貫属士族。田中金吾と/いふ者にて。輦下に久しく/寄留して芳名世上に/高くきこゆ 
木挽街の隠士/轉々堂主人録  
対抗馬としての「郵便報知新聞」

 

 
新聞錦絵「東京日々新聞」のシリーズが評判になると、これに対抗して錦昇堂から「郵便報知新聞」と題する新聞錦絵のシリーズが発行された。これは明治5年(1872)に前島密の後援で創刊された日刊紙「郵便報知新聞」の記事に基づくもので、当時、芳幾のライバルであった大蘇芳年が絵筆をとった。 
郵便報知新聞開版予告/ このシリーズの特徴である紫の枠組みを背景に、日章旗を掲げたアーチに絵師と版元の名が浮かび上がっている。右下には、新築間もない郵便報知新聞社社屋とみられる洋風の高楼が描かれている。 
新聞の紙世に稗益し内外の事理相通じ/遠近の人情相達して開花進歩に/効あるハ犬擲つ幼児だに善く知得て教示に/就しむるの台本たれとも唯人情事理は心に/感ず可く思に考ふ可くして目に触れ手に/取る能ざるの憾あれバ描きて以て之を諭すの/捷径なるに如かずと一魁芳年子か筆妙自由の画権を乞ひ肖逼図活の図像をもて/童蒙婦女を観[ママ]ばしめつゝ誘導の一助ならめと梓主ハ家号の笑顔に愛て匏庵亀州の/唾余を需め松林三遊の換舌を挙げて洩さず郵便の名の神速なるに頼り朝に報し夕に知る新聞数号の画様を嗣ぎ奇談異説に勧懲を寓し日に新らしき江湖機関/無尽演劇の運転自在の替る替るの出板を御待兼愛顧の余慶御購求を祈る板元に代りて/二州橋畔三層楼の一隅に屈す/茶華柳々述 
郵便報知新聞第481号/老人に恥をかかせぬ風流芸者/ ご隠居が惚れて贈った和歌にしゃれた返答で応じた深川芸者の話。当時人気の講談師・松林伯円が文章の筆者として署名しているので、声に出して調子よく読み聞かせるのを前提としていたのだろう。 
深川の唄妓小三ハ井上文雄翁の弟子にて/歌も達吟手迹も美事なりけれバ大に時に/誉ありし其妹の於いろも姉に続て此二芸/を能くする上に心ざまやさしく正しけれバすゑ/掛て頼む男の外更に移せる香をだにせ/ざりしを或る時去る大家の隠居の骸も/歌も腰折なるが人目を忍びて一葉の短冊/をいろが袂に入けれバ何やらんと見てけるに/ますらをが命にかけて思ふかな/君がひとよの露のなさけに/とありしかバいろハ呆れ果たりしが年寄/に赤愧かかせんもさすがに思ひその端に/一枝梨花壓[返り点二]海棠[返り点一]余所の見る目も/いかならんと認めて戻せしとそ 松林伯円記 
郵便報知新聞第551号/松本愛が柔術で男をやっつける/ 美人で腕っぷしも強い女性の話は新聞錦絵が好んで取り上げた話題の一つである。当時の人気落語家・三遊亭円朝が文の筆者として名を記している。 
大坂舩越町に骨接を業とする松本/あいと呼ぶ婦人あり年猶二十六才なるが/日頃より柔術にも長たりしが其妍よ/きを以て人其勇を知るものなし近き/頃隣家の娘を連れて長柄川の/堤を過にしに川風寒きかハたれ/時四人の荒男躍り出でおあいと/隣の娘とを両人づつにて取おさへ/強淫なさんと為せしかバ於あいは/大に怒りつつ組付たる一人を水中/投こミ又一人を撞とかし隣の娘を押/臥て上へまたがる一人の領髪とつて/捻倒し拳を堅めて一人の眼の辺を/打けれバ何れも恐れ逃散たり 三遊亭円朝誌  
郵便報知新聞第525号/新潟の獄の牢破り/ 二人の罪人が組んで牢破りをもくろむが失敗して獄吏に捕らえられた話。風雨を表す斜めに走る線が動きのある画面を強調している。 
新潟の獄に啓助由蔵と云ふ両個乃悪/漢ありしが共に破牢せんと約束したるうち/由蔵ハ懲役なれバ六十日にて出牢せしが/或夜風雨に乗じ紛れこミ長き棒の/先に鋸と出刃包丁を結付之に便て/塀堀を乗こへ獄に近き格子の内へ件の/品を差入声を潜し我等ハ寺町通真/宗寺の縁の下に忍び居れバ速にいで/来りて尋よと云て去れり然るに此日/啓助か様子怪しと目を付別人を入/替おきたるにぞ早速奸謀発覚て其/夜一個を罪人体ニ仕立彼処に遣し偽て/由蔵を釣立し忽ち縄をうけたりける悪/物巧ミに計ると雖終に獄吏に計られ/たり 松林伯円記 
東京の変形種

 

 
東京では「東京日日新聞」「郵便報知新聞」のシリーズの他にも、いくつかの新聞錦絵が発行された。版型は大判が中心であったが、「大日本国絵入新聞」のように画面を分割したものも現れた。また、大新聞だけでなく、小新聞の記事をもとにした新聞錦絵も発行された。 
郵便報知新聞第347号/波布蛇退治の開始/ 政栄堂を版元として出された新聞錦絵のシリーズで、さまざまな新聞の記事から話題をとっている。この号は、「郵便報知新聞」第347号の記事によるものなので、「各種新聞図解の内 郵便報知新聞 第347号」と記されている。本来の号数は魚の形をした中に小さく記されている。絵師は鮮斎永濯で、遠近法を取り入れた細かい描写が印象的である。文の周囲のデザインも凝っている。 
波布蛇ハ螫蛇の一種にして。大島及び琉球に/産する毒虫なり。腹白く鱗蒼き斑ありて。形/雪花の如し。頭大にして口の廣さ殆ど頭を過て/身に及ぶ。然して人を害す事甚しく。或ハ道路/の傍に蔽匿て尾を草根に維ぎ。或ハ半身を/枝葉に垂て頭を衝ち足を噛む。一點の牙毒/人身に觸れバ全体の血液沸騰て。肉色直地/に変じて暴死する者。大島の如きハ一歳中/十を以て算すと。更に怪しむべきハ。彼一度人/を噛バ必自其尾を噛む。斯くするを数度に/及べバ。其長身も終に端縮て。縦横自在に飛/行す。疾こと風の如くなるをもて風蛇といふとぞ。/明治六年一月より県官令して波布蛇/一頭を打殺者ハ賞するに玄米一升/を以てす。六年一歳中賞賜する/所の米数八十石に至れり。是則/八千頭。然れども末だ。其百分の/一を蓋さずとぞいへり。 轉々堂鈍々記 
朝野新聞第1386号/芸者にうつつを抜かす夫に妻が復讐/ 本紙「朝野新聞」は、成島柳北と末広鉄腸が主筆で活躍し、当時の知識人に愛読された大新聞のひとつ。この日刊紙1300代の号をもとにした新聞錦絵のシリーズが、十種ほど作成された。絵師は山崎年信、版元は林吉蔵である。 
可愛々々の睦言も恋と忠義の二道を/尽す誠も思案の外貴君ゆゑなら/命でも何の惜かろ揚屋町毒と知りつつ/過す酒野むナらおのミと盃の数重りて/花れじと夜るの契りも当麻なく花に/嵐のさハりとハ其 花 山がふミこんで何ぼ/主人でも亭主を引とめとんだ御用に/つかふとハおから山吹恨の山々おかくごあれと/姫君へ切てかかれバ傍へより我も源家の/忠臣なり左ハさせまじと大 美  濃 の鎗小/脇に抱こミ大音に是まて女房無礼/なり抑当家にハ汝も我も恩を受たる/主家なり去年つづいての両親死亡/ありし其後ハここぞの恩をかへさんと/後見なして昼夜の勉強忠義を尽/すとしらざるかト大紛紜もやうやうに/仲裁がはいり一ト先その場ハしづめし/とぞ両手に花をながめると終にハ/こんな事になります 
大日本国絵入新聞第1号[朝野新聞第452号/450号]/上:母子殺害の農夫逮捕||下:女の腹に奇怪な腫れ物/ 大判を上下二つの画面に分割した新聞錦絵のシリーズ。一番上にシリーズの題名と通し番号があり、上下各画面にはそれぞれの引用紙名と号数とが天使の持つ旗に記されて添えられている。版元は上州屋重蔵。この号は、上下とも「朝野新聞」の記事をもとにしたもので、絵師は梅堂国政。 
上段「朝野新聞第四百五二号」 武州熊谷新座郡溝沼村/渡部佐右衛門が二男吉五郎/とゆふ農夫九年前同村/光四郎兵衛の妻はまと/密会の所を四郎兵衛に/見とがめられ両人とも坊頭になし/ければ吉五郎面目なく其所を立のきけり/其後恋情にひかされ古郷へ立かへり昔を/かたりはまを口説しに以前にかわりし/ていなるゆへ吉五郎いこんにおもひ/八月十五夜に/同村の/孝善寺で三才/の四郎兵衛倅と/はまをせつがい/なし逃去りしが/天網ついにのがれづ/九ヶ年の後武州豊島郡西臺村油屋某ニて/めしとられしとぞ 
下段「朝野新聞第四百五十号」 日向国鹿谷/村にあやしき/病をハずらひし/つきといふ女あり元ハささやか/なる種物なりしが次第にい大きくなり口をひらき/舌の如き物を生ジ/毛ハさかだち実/におそろしきありさま也/是ケ為に幾度か婿をむかへども/閏ニ入バ驚き一人も居る者なし然ル所/同国新田村越山立斎と云える医者その/種物切薬をあたへけれハ全平癒せし/とぞ 
かなよみ新聞第890号/入り婿士族が元芸者となじみ本妻放逐/ 新聞錦絵のほとんどは、大新聞(おおしんぶん)と呼ばれた知識人向けの日刊紙の記事をもとに作られたが、これは漢字漢語の読めない庶民向けに総ふりがなを附した小新聞(こしんぶん)と呼ばれた新聞の記事からも新聞錦絵が作られた例である。本紙「仮名読新聞」は、戯作者・仮名垣魯文が明治8年11月に創刊した小新聞で、魯文一派の軽妙な文章で人気があった。絵師・大蘇芳年が描いたこの新聞錦絵は明治12年(1879)2月に発行された。 
金毛九尾ハ素から狐だがよし丁のしめ吉猫ハ年/ハ三十四と何ヶ月で十七になる女の子もあるが吉原へ/巣をかへて稲本の右近狐と化けたが茲もとうとう/舞出してそこら中泊つて歩いて前々の客筋を魅/して居ると此頃このきつ猫にはまり込だ士族さん/といふのハ三年跡に赤黒煉火の女主高田みね(三十三年)の所へ小糠三合御持参で花聟にはいつたが/なまけて金が出るならバと梅ヶ枝の替唄で浮れ/出し方々の猫連を揚込だり當込だりあんまり/娯愉快のうかれ筋が杉田の梅の香にむせて入夫/さきの地面もうり品物までも手をつけて内幕の/やりくり算段びいびい風車でくり廻してゐる内今度/かのきつ猫を娼法の土臺にして八官丁二十番地へ黄梁/閣といふ旅篭やを開くといふ騒ぎで本宅へハよ/りつかぬのを細君ハ知らぬが拂あのお花さん(本名小山はな)を宅へ入たら旦那のお身持も直るたらう/と夫思ひの實からきつ猫を引とると朝ハ十二時/に起ておまんままへから大酒の呑湖の酒蛙となくなく/本妻ハ子供をつれて着た身そのまま放逐し/たとハ實に姐妃ですねエ 
東京各社撰抜新聞/ドイツ皇孫が新富座御遊覧/ 引用紙や号数が不明な新聞錦絵のシリーズ。版元は永久堂山本平吉。この号の絵師は梅堂国政。他の新聞錦絵とちがって囲み枠がない。 
独逸皇孫新富座御遊覧之図/明治十二年六月四日夜独逸孫殿下新富座演劇御遊覧/向正面中央ハ皇孫の御着坐午後七時臨出あり實齢十七年/位。当夜待遇の縉紳ハ有栖川の宮同御息所白川宮同/伏見宮同。三條公岩倉公伊藤公井上公寺島公榎本/公野津公楠本公玉乃公各国公使不残華族方ハ鍋島/伊達蜂須賀の三君東西上下の桟敷にハ華族方外国人/其外高土間平土間とも一面の見物なり程なく/第八時頃より開場第一回伏見新関の場常盤(半四郎)/宗清(左團治)今若(菊之助)乙若(源平)番卒(梅五郎門蔵)/一谷陣屋之段熊谷(團十郎)相模(高助)/藤の方(小紫)軍治(鶴助)弥陀六(伴蔵)/義經(宗十郎)市原野の場保昌(左團治)/袴垂(菊五郎)次ハ惣座中両花道より/練出し長唄にて元禄風の所作事終て/菊五郎の伊達奴後に紅絹繻絆の取巻/出て花傘の所作立見事に午後十時に/閉場になりました 
大阪新聞錦絵

 

 
東京で新聞錦絵が流行するとまもなく大阪でもこれをまねて新聞錦絵が次々と発行された。ただし、大阪の新聞錦絵はいくつかの点で東京と異なっている。まず版型が大判の半分の大きさである。また特定の新聞に依拠したシリーズは少なく、新聞錦絵独自の題名と号数が各シリーズに付けられた。 
明治8年大阪錦画新聞第12号/婚礼に異議を唱える男が乱入/ 右上の紅白を基本としたデザインの四角い旗がこのシリーズの目印。明治8年前半に発行されたらしい。この号は版元が阿波文、絵師は笹木芳瀧である。右手前で腕をまくり上げている男、左手に白無垢で突っ伏している花嫁、ふすまの向こうで悄然としている花婿、人間模様の縮図である。文を書いた正情堂九化は、大阪四つ橋付近の扇屋の主人・安田吉右衛門であった。 
教ゆべし婦女子の親。慎べし情欲の道/東京深川御船町のことにやありけん/十五の年をむかへたる。娘に婿と/定めたるハ。勝田作治郎とて。けふ吉日の婚礼に。表ぐハらりと/一人リの男。誰に遠慮も媒酌迄。けちらすばかりニ上座へなをり/皆さん聞れよ当家の娘。おとくと夫婦の約束を。したのハ/おれが一番地。清水といへる苗字なら。泥をぬられた此つらを/洗ッてくれろと威張けれバ。四海浪さへ津波のごとく/大わくらんに盃の。九度にハあらて三々こツぱい。罵る者ハ/誰ならんと。つくづく顔を宮本と。いへる男に覚えある/娘も今ハ面目も。なくにもなけぬしたらなりけり 
右正情堂九化誌 綿帽子き娘ならで媒約や 親の天狗の曲るはな嫁 芳瀧  
大阪錦絵新聞第40号/5歳の天才児/ 天使がかかえる縦長の題号がこのシリーズの目印。表題が前の「大阪錦画新聞」と類似しているため、一緒に扱われている場合もある。この号は版元が石和で、笹木芳瀧が描いている。娼妓と子供の対比によって画面を華やかにしている。大人顔負けの子供というのも新聞錦絵によく描かれているテーマである。 
文明のとくたるや四歳や五歳の幼童が書を読文字かき和歌を詠ミ/説教なして老人によく理をさとすも有ノ又生れながらにして怪力の奇童など/諸新聞紙上に見へたりここに又第三大区十二小区新町南通り一丁目の/客舎大林長治郎の男徳太郎ハ五年四ヶ月なりしが諸経一切を/となふる事妙なり法華経大般若其外諸宗の経文も老人にも/勝となへぶり又鳴ものも上手にて日毎題目をこたりなくとなへるとは/南無妙なるかな又奇なるかな/芳瀧筆 
大阪錦絵新話第2号/川に落ちた車夫と女客が助けられる/ 前者と同じく、赤い囲み枠と縦長の題号を天使が支えるデザインを用いているシリーズ。この号は版元が阿波文で、絵と文章が笹木芳瀧である。大阪の新聞錦絵では、しばしば絵師が文を書く役も兼任した。当時の大阪の町並みがうかがえる絵である。 
長堀/末吉橋通り/丼池の。川に男女が/さけぶ聲。助けて/暮すぎ八時頃。暗夜の/ことに雨ふりで。しかとハしれねど/情死の。仕損じならんか助けんと。/かけつけたるハ真意の。名も善七が/眼をとめて。見れバ人力車ゆへ。引上ん/とてあせるうち。巡吏何某はせ来り/やふやふ車助けあげ。様子を聞けバ車/夫ハ第六大区一小区中木亀吉といふ者にて/客ハ高津町四番町松井熊吉が母ことにて/てうちんの灯が消より。路を失ひ川中へ/車を曳込ミ/たりしとハ。向ふみづ/とハいいながら幸ひに/して善七と。巡吏/とが折よくも来た/られしこそ助りしなるべし/あぶない事あぶない事/笹木芳瀧/併画 
大阪新聞錦画第15号/盲目の父に娘二人が親不孝/ 同じく、縦長の題号を天使がかかえるデザインが使われているが、本為・本安の共同出版によるシリーズ。絵師は二代目長谷川貞信で、この号は「読売新聞」122号の記事によるもの。新聞錦絵には孝行な息子娘の話が多いが、こうした逆の例も反面教師として描かれた。 
東京神田錦町一丁目に姉をかまといい/妹をてるといふ二人りの女父ハ幸手宿の/萬や弁次郎と云て生来親切な人なるが/いかなる前世の約束やら女房にわかれて後ハ/眼がつぶれ頼みとするハ子供二人りそれに娘の/不心得盲人の長命邪魔になる三度の食事の厄介を/親に向ふて悪口雑言終にハ我家をあとにする親ハ泪に/くれぬ日とてハなく聞ても/腹のたつ咄叢出し二疋の/けもの生捕まして面の皮はぎと/会の水にさらしたきアア浅ましき人面/獣心孝の一字を二ツにわけても合点のゆかぬ/無論者憎むべしまた歎くべきと読売百 二十二号ニ出せり 
諸国日々新聞集第274号/犬が掘り出した男女の腕を井戸端へ/ このシリーズは、上辺にある横長の題号を天使が支えているのが目印で、表題だけが「大阪日々新聞」となっている異版がある。版元は川伝で、絵師は柳桜茂広。号数の数字が大きいが、230号以前の号は確認されていない。 
南堀江下通三丁目/清水栄蔵の支配地/裏長屋有井戸端/凡六七十日間を経たる男女分ら/さる左りの腕臂より/切たる有隣家/より水を汲に/来て之を見て大ニ/驚き伍長ニ告伍/長之を官へ訴たりと/真に奇怪の事にあらずや/東京新聞ニ小児の/腕を犬のくハへ来りし/話あり是埋葬の/疎なるより犬の掘/出せしなるべし若/費エを厭ハバ自ら/其労を勤て可也/因て此事を記して/不信の者を戒ト有 柳桜記 
大阪錦画日々新聞紙第24号/男として7年暮らした女/ 前者と同じデザインで、やはり綿喜と富士政の共同出版によるシリーズ。絵師は二代目長谷川貞信。この号は「読売新聞」106号の記事に基づく。女装した男、あるいは男装の女というのは、新聞錦絵にしばしば登場する話題である。 
明治八年五月十八日東京芝西應寺町/尾張や勝五郎に身をよせる人力車曳の/時次郎といふハ高輪辺にあり/頃損料/ふとんをかり/ながらかへ/さぬ催促/日々きびしく/師に高輪へつれ/ゆかれ起す短気の損料や/時次郎を縄にしばり打擲なして追放されその面目に/芝将監ばしより身を投んとせし折もおり時次郎巡査に助けられし/其原籍を糺してミれバ甲州より出たる女にて男姿となりわひに/厩の飼士喧嘩の先だち藝妓の筥まで廻わしまわつた七ヶ年妙な女と/云ながら女が男の姿となり男が女と身をやつすなど外に悪いことがなふ/てもお巡査につれてゆかれますふれた事ハこころへたしと読うり百 六号ニ出 
大阪日々新聞紙第5号/相撲取りが老人の自殺を止める/ このシリーズも赤い囲み枠に縦長の表題を天使が支えるデザインで、綿喜と富士政の共同出版である。絵は二代長谷川貞信。相撲取りは新聞錦絵が好んで取り上げた対象である。 
東京の相撲取綾瀬川の弟子玉手海ハ明治八亥二月二十二日/の大雪に両国橋を通りかかりけると六十年余りの/老人が四十八手の外ながら両手を合せ川中へとび込/んとす土俵ぎハ是ハと云つつ玉手海シツ/カリ押へた力足におどろきてどふぞ/其手を放して下されと/おがめバさすが男気に/私ハ是でも角力とり/人の死のを見流して/済ものかと様子を/たんだん尋しが誠に/恥しい事ながら/今日食[カ]ふことも出/来ぬものどふぞ死/なせて下されと聞て/不便と持合せたる金をやり/彼の老人に諭せしハ実に助/けた/かひな反り老の嘆が/おひ投すを鴫の羽/がへしくりかへし云々/諭したる心根を/きく人ごとに唐う■■を/あげ誉しと/なん 大水堂狸昇 誌 
日々新聞第23号/新聞に親しむ大阪の開化芸者/ 前者と同じデザインだが、版元は富士政、綿政、八尾善などと一定しないシリーズ。絵師は二代目長谷川貞信。この号は、文明開化の象徴である新聞の宣伝でもあり、大阪道頓堀の芸者たちの広告にもなっている。 
大阪府下道頓堀なる川竹に洗ひ上げ/たる世渡りはぎりと意気地を立通その妓/のうえに限るべし爰に三人を算へたるハ早く文明/の時に通し日々の新聞を見て心を慰め/坐敷の秒透間なく誓て曰成「トウモ新聞/紙をよまぬと人情おくるゝやうダヨ」つう「そうサ/まことに良ことをすすめわるいことを懲す/ハこれにかぎりますヨ」久「このせつ流行の新聞/錦画もよく心情にかなひてきれいダヨと」世事/深情の美談をなすも色の諸訳の勉強に/南枝の花数また日々に盛なり/たしなみし/こころに涼し/薄化粧/花源堂 
新聞図会第24号/元魚問屋が茶道具買いで大損/ 赤い枠と天使が支える縦長の題号のデザインで、八尾善から発行されたシリーズ。絵師は笹木芳瀧の実弟・笹木芳光。画面は、歌舞伎役者が勧められた手づくねの茶碗を吟味している場面である。 
大阪雑喉元魚問屋/松川八十兵衛と云者茶道ニ/長じ古器目利も功者故/明治の始百六十両ニて手づくね/の茶碗を求秘蔵せしニ此頃/手元がヘチヤに成り宝ハ身の/指替売んと思ふにとても平人/ニてハ得買まじと狂言方なる/徳叟を頼ミ名も高島屋の右團治と/松鶴屋とに見せたる処百六十金もかかりし/品をいかに時世が違へバとてマサカ拾円とも/云われまじと名を惜むの俳優たち奇雅/に断云ひけれバせん方無くて外へ拂ふに漸二円と聞なり八十兵衛月夜ニ釜を/抜れし如く俄ニ杓がとつ詰て古茶のやう/に気抜がしチヤツチヤむちやむちやを云出し/濃茶薄茶の分ち無くにじり上りも出来かねて茶せん/全快覚束無しと是元来茶道の本意を失なひて/驕を事とし人を茶にせしチヤクラクを天の戒しめ/給ならん恐るべし恐るべし 
郵便報知新聞錦画第9号/妻の姦通を疑い夫が無理心中/ 全体を囲む赤い枠と右上の黒字に白く抜いた題号というデザインが特徴。引用紙の号数は記されていないが、「郵便報知新聞」の記事に基づくシリーズ。本安と新志座の共同出版で、絵師は二代目長谷川貞信。 
東京麻布箪笥町野田吉五郎/が妻かねなる者ハ過日より新ばし/鉄道寮に住める「クリステ」方に/傭はれたるが同し雇男寅次良と/姦通に及びたると云うわさを聞/と果して吉五郎ハ取のぼせ一刀を/手狹ミ明治八年六月二十日朝まだ/きにクリステ方に駈こミかねが庭/前に洗濯を仕居たるを見かけ直/に物も言ハせず切り伏せかへす刀に/己も割腹せしといふ夫ほど大事/な嚊ならば外へ雇などに出さぬ/か能いに 穂千堂記 
勧善懲悪錦画新聞第7号/水ごりして鎮火を祈る婦人/ 横長の画面を囲む赤い枠と上辺に記された「官許」の文字が目印のシリーズ。版元は藤井時習舎で、絵師は笹木芳瀧。自家からの出火に物を持ち出すのではなく、隣家への類焼のないよう、井戸水を浴びて神仏に祈る女性が讃えられている。 
大坂第一大区拾九小区十二番地麩屋渡世藤井庄兵衛が/妻つねハ行年三十歳貞実にして憐れミ深く常に神佛を信仰せりこ/とし二月三日の夜二時ころ我が住居の納屋より出火して近近の人駈つけ消防か力/をつくしおつねハかくと見るより井のはたに至りまだ厳寒の比なるに繻伴ひとつと成て頻に井の水をあ/ミ神佛いのりて我家より出火したる事なれは我家の焼失するは是非もなし只我火を他に/移し多くの人の難渋せざるやふにと一心不乱に祈誓したり其真心を神もあわれミたまひてや/消防多人きたらぬ程に鎮火したり婦人の情にては一品も多く持退んとありふへきを此/る際にも我を捨て他を思ひて祈念するぞ女のこころには稀なりといふべし 藤井時習舎しるす  
錦画百事新聞第84号/巡査による売春摘発/ 横長の画面を囲む青紫の枠と天使が掲げる赤い帯の上に書かれた題号が特徴。版元は綿喜の別会社である百事新聞局で、絵師は二代目長谷川貞信。大阪でもっとも多く号を重ねた新聞錦絵のシリーズで、190号まで確認されている。 
女房盛りを白歯の嶋田僅かの代賃を/あてにして賎しき情の隠し売ハマアどふした心で/ござりませう親も夫も泥水へ引出む悪魔のわざか晴れて廓/の全盛でさへ苦界といふでハござりませんか大坂府下北平野/町壱丁目宿屋阪津はる御千/御年方にて見つけられました/淫売ハ/「天王寺村山本善之助娘ゑい十九年「富津丁二番町山下捨松/娘たね二十一年「空堀町宮内勇造娘こま十五年「日本橋筋/五丁目松田茂吉妻こよ二十年「南本町四丁目山田文吉妻なを/「日本橋五丁目平井国松妹千代十六年/「日本橋五丁目小川巳之助妻やす三十五年/「内本町三丁目浦谷百造娘ふね十九年/和歌山県紀伊国浅本町七辰右衛門/娘巽とみ二十五年/このおのおのハ穢を世間へふるう/御連中なるをお巡り梅木/さんが勉強て捕へられ/恥かしい事で罰を請うよりもちつと/外の稼もありそふな物でごさります縫ばりの/手一ひとつにて親夫への孝心貞操は是まで新/聞に手本もござります学校の/子供衆がたに読んで/おもらいなされませ 
京都の新聞錦絵

 

京都では、版型の異なる新聞錦絵が出されている。版元や編集者について詳しいことはわかっていないが、大阪の絵師が筆を執っており、大阪の新聞錦絵を踏まえて発行されたと考えられる。 
西京錦絵新聞第3号/優秀な学校生徒/ 「官許」を冠したこの新聞錦絵のシリーズでは、主に京都のニュースが扱われている。この号の絵師は南峰。明治9年に、定価一銭五厘で発行された 
錦画新聞第7号/巡査による賭博の手入れ/ 明治14年(1881)に京都で発行された新聞錦絵。上半分の活字印刷の部分に書かれた四件の記事の内の一つを絵にしたのが下の画面である。絵師は木下広信。役者11人が宿屋で車座になり、花札賭博をしていたところを踏み込まれた場面である。 
謝罪・検閲・発禁

 

 
新聞錦絵には荒唐無稽とも思われる話も登場するが、現実に起きたニュースを伝えるのがたてまえであった。そのため一般の新聞と同様に、誤報や虚報には訂正が出され、また内容によっては検閲による差し替えや発禁が行われていたらしい。 
新聞図会第21号/娼妓初花と師範学校教師の艶聞・その訂正謝罪版/ 府下師範学校の石井某が売れっ子の風流娼妓・初花に入れあげたという艶聞だが、全く伝聞の誤りだったと訂正謝罪版が出された。版元と文の筆者の二人が頭を下げる絵が描かれているが、師範学校あたりから非難されたのであろうか。 
新町二丁目/小山政吉の店から/稼をなせる娼妓初花ハ容顔/さのみ艶ならねど頗る風流なる者なれバ浮名を涎と/共に流すの客多きが中に府下師範学校の教師/石井某深く笑凹にはまり込贈答の/和歌数々あれば其一二を記す 
「淀む江の岸の草間の捨小舟/よるべなき身のはてぞ悲しき 
「いのちさへ君ゆへならバ捨小ふね/思ハぬ岸につながるるかな 
此初花の優なるや身に裲襠ハ/着錺れども口に薄情の艶言を/錺らず野夫なる風ハ夜毎に吹けども/枝垂桜の花を散さず嗚呼全盛一ト月の売高ハ/定めて千本桜なるべし正情堂九化筆記 
松事も高直の花や見た斗李 
新聞図会 正誤/当図会第二十一号初花云云ハ/全々伝聞ノ誤也今茲ニ/図面ヲ以テ謝罪ス/板元八尾善/筆者正情堂九化 
東京日々新聞第851号とその異文版/戦地から弟の霊還る/ 絵がそのままで、文章だけが差し替えられた異版の例。陸軍の出兵先での病死という話題ゆえ、何らかの圧力がかかったとも考えられる。おそらく姓名が消されているほうが後版であろう。文章も美文調に変えられている。 
東京日々新聞 第八百五十1号(異文版) 
秋暑き庭面掃て打水に。濡る草樹の露の玉葉末を伝ふ/音絶て消るに疾き光景を。見つつ思へば会者定離。と/自ら感ずる愁情の鬱を聊か散さんとて。/篭る書室に/至来たる/洋酒を開きて/只獨り。飲居る縁外に/物音あるハ。桐の一葉か。小禽かと。見れバ久しく音信ぬ。義弟/何某なりけるが。此ハ先頃遠国にて。病死したるの報ありしに。/友愛の情切なるより。幻に姿を現せし。影ハ千種の/中に消。虫の音ばかりぞ残りける 転々堂主人録  
東京日々新聞第八百五十1号 
東京小川町に寓る小林某氏ハ、義弟斎藤某が陸軍に随行し、蕃地に/病死の報を得て哀哭寝食を絶すに至りしが、其憂欝を散さんと/黄昏頃より書斎に籠り、独酌居たる椽外に物音あるは/狗猫かと、見ゆれバ義弟/斎藤が容貎平日の/姿に不変、舎兄よ只今帰朝/しと、完爾と笑ひて席につき、/久し振なる盃を請んと進む景形の物淒けれバ思ハずも、喚と/叫びて駈出し再び戻りて能見るに、又影だにもなかりしハ/友愛の情切なるより、斯る怪事を/自ら見しにや 転々堂鈍々記  
大阪日々新聞第300号/嫉妬の妻が陰門の刺身/ 明治8年(1875)6月頃、発禁となったと伝えられる新聞錦絵。士族か官員の家の事件であったのが問題だったのか、内容と絵があまりにもセンセーショナルだったせいなのか、発禁処分の理由ははっきりしていない。 
夫住主たる者ハ定まる妻の外邪淫を/禁ずべしとハ宜なる哉茲に播州龍野ト/云所ニ何某と云有夫婦に下女/一人を仕けるニ主此下女竹に/心をかけ夜毎夜毎に主ハ/竹の方にて/〔目へんにト〕(ふし)けれバ/妻嫉妬の心深/く夙夜/忘るる隙さへ泣/より外ニ時をまつ四月十七日の/ことなるが主家用にて他行を幸ひと/竹を呼て爾に頼が有命がほしきト云/より早くさし殺し陰門を繰ぬきて包丁/なして皿に入置主人[白へんに反]宅ニ及びしかバ酒肴を/出し右の刺身を喰さしめける主の曰此指味ハ/何れより貫しぞト問にそれハ奥にいる人が贈られしと云/主酒肴すみて奥へ行見れば女ハ赤けにそみ  
文明開化のメディア / 巡査と異人

 

新聞錦絵は文明開化を宣伝するメディアであった。特に、その中に描かれた巡査と外国人の姿は、文字の読めない人々にも新しい時代の到来を感じさせた。明治4年市内警備のため官給で雇われた邏卒(らそつ)と、明治6年に置かれた民給の巡査とが、翌明治7年に東京警視庁の下で一本化されたのが巡査である。彼らは「おまわり」と呼ばれながら庶民の間に洋服姿を浸透させ、文明開化の生きた広告塔として働いた。また、開国以来、人々の関心の的である異人の姿も、写実的な表現で等身大に描かれている。  
大阪錦画新聞第1号/車夫が追い剥ぎ逮捕に活躍/ 人力車も開化風俗の一つであるが、その車夫と巡査が協力して追い剥ぎをとらえている躍動的な図である。当時の巡査の武器は、三尺棒と呼ばれた木製の棒であった。また当時の人力車は,この絵にみるように胴体に華やかな絵を描いており、「蒔絵車」と呼ばれた。 
明治八年 
東京の人力曳常吉といふもの谷中の方/よりあき車曳て黒門袴ごしへ来かかる折しも/女の泣声。こハ追剥と思案をめぐらし。眠ツた振/で客待を。はかりことトハ白浪が。剥おおせたる/衣類を背おい来かかる所を常吉が。旦那/お供とすすむれバ。根津迄やるかに滅法界/値安で定て母衣をかけ。しばりくくる細/引に。むくひハ直に人力で巡りまの早/走り。罪ハたちまち巡査の。屯所の門口で/賊々賊々と大声に。官棒ふりたて走り出る/賊ハ驚きにげんとするを。すかさす車を曳たをし/なんなくそのばで召とられしとハここちよし。/略誌画図/芳瀧 
大阪錦画日々新聞紙第29号/邏卒が貧しい子二人を自費で学校に/ 巡査の美談である。武家出身の者が多かったためか、比較的安い給料ながら巡査には人民の保護と育成にこころを配る者も少なからずいたようだ。 
明治八年四月三十日邏卒井上徳三郎ハ西成三区上福島を巡邏/する時二人の童子木梃の先を鋭くし地に投げて刺し勝負を/決す互に争ひ挑ミたるに近付き示さんとせしに早く二童逃て/其の家に帰るを慕ひけるに同村安藤佐七が倅米吉三木松なる/親へ説諭して最早八才五才の童子入学の年頃なるに/遊戯に耽らしむるハよろしからずと述るに家困究にて/学校入費行届かずとこたへるるを井上不便に/思ひ二児を同村事務/所へ連ゆき自ら金一円/差出し入校の筆墨紙を/与へ後に戸長より五十銭戻り/学に導せしに親の歓喜少からず/巡卒の深志天意に叶ひ人民保護の/有様なりと実に感賞すべきなりと/報知六百五十五号にのせたり 
東京日々新聞第969号/芸者が男装して罰金刑/ 明治5年に警察が処罰する軽犯罪として、違式註違(いしきかいい)の条例が定められた。裸体または肌脱ぎになったり、股などをあらわにすること、婦人の断髪、入れ墨などが取り締まり対象となり、女装や男装も罰金を科せられたらしい。このような例を描く新聞錦絵は、身近な犯罪に注意を呼びかける効能もあったであろう。 
三月十四日/小舟町の/火事の時に/紺木綿の股引はら/かけにて頭巾を/かむり麻うら草/履をはき差し子の半天を着て/美しき男があちこち火事見舞にあるき/廻る様子が何うも女らしき物腰ゆへ/或る巡査が見とがめ呼び止め住所/姓名をたゞしたるにお目きゝの通り/芸者にて元大坂町まさきや/之布袋軒とか富本/安和太夫とか/幾ツも名の/ある中村/清助と/云ふ人の養女おやまで/有つたそれから屯所へ引かれたそうだが定めし罰金だろう 
東京日々新聞 第981号/巡査が亭主に姦通現場を取り押さえられる/ 障子を突き破って出ている棒が、陰にいる巡査の存在を示している。いつもは人を捕らえている巡査が姦通で捕らえられた事件をユーモラスに描いている。 
高輪南町の小泉と云ふ茶屋の亭主/栄蔵ハ四月七日の夕がた余所から返ツて/見ると妻のおたけがゐしきの一件たと見えて/制服制帽で大きな長い棒を持た長野政吉/と云ふ巡査に押へ付けられて居る様子に付き/オや手前ハ何が悪い事をしたかとつかつかと立寄れバ/巡査ハ驚ろき姦棒を引堤て遁んとするをイヤ/此奴ハ好い事をして居たナ太い奴めと打て掛れバ/女房ハなき出す野郎ハ飛び出すジタバタどさくさ/大騒ぎと成りたる折からに巡査原雪これを見認め/て巡査トおたけを拘引したり其とき亭主栄蔵ハ/手早く妻おたけが寝床の辺りに取り散したる/白紙を拾ひ取り/大区へ持参し/たる由/なれバ/慥かに何かの証拠に成る処が/あると見える笑しな咄しだ 
郵便報知新聞第576号/乗馬の芸者に蹴散らされた翁を助ける巡査/ これも、違式註違(いしきかいい)の条例の中の、乗馬してみだりに疾駆してゆく人を触れ倒す者という項目に該当したため、20歳過ぎの芸者二人が巡査に引っ張られたのである。国民国家の下での良妻賢母教育に繰り込まれてしまう前の、明治はじめのおきゃんで元気な女性の姿がここには見られる。  
ワーライで転ぶ弦妓の半黙許」と誰が/口号みし川柳か何だか訳も和漢蘭な/がらに夫と読たれど「往来で爺爺を弦妓が/転バしだ」是ハ捩りのとんちんかん所ハ嘘か/本所の内ではあれど外手町しかも一月三十日/午後一時に両人の婀娜者技も姿も葭/町に評判高きおきんに小濱年ハ二十を二ツ/三ツ四ツの足掻を早めつつ泥路蹴たてて/直驀墨田に白く消残る雪の跡さへ/ありやなし我思ふ人に追付ばやと行手/の路の出合頭六十の翁の身を避るにも/暇なきを物の美事に素転倒ハツト思へ/ど夫なりに往んとするを目捷き巡査翁/を援けて之を起し二人ハ馬より卸れて/跣ながらに左り褄とりて屯へひかれたり 
大阪錦画新聞第34号/狩猟中の外国人が子供を誤射/ 堺の浜で起きた誤射事件である。どこの国の異人かは不明であるが、ひげを生やし銃を持つ西洋人と血を流して倒れる子供の姿に、人々は開国の実態を感じ取ったであろう。 
明治八年第二月和泉国堺の濱にて或る異人/猟鉋を携へ小鳥を獲んとかなたこなた/の森木末をさぐりしに一ツの小鳥をねらひ寄/り火蓋を切て放せしに思ふ圖はづれ人の子を/うち誤りし大騒ぎと/なり焼野の雉子ひな/鳥を失ふ親ハ/うば玉の闇と/嘆きが明るう/なつて異人へ罰金數百円/申付られたり 
大阪新聞錦画第6号/孝行娘が外国人の妾になるのを断る/ 外国人の妾になった女性を卑しめて洋妾(らしゃめん)と呼んだが、これはそうならなかった娘を讃えたものである。  
下谷仲御徒町四丁目/住料理人六兵エハ子供が/三人あり親子いたつて睦しく暮して居れど/近頃ハチト献立が間違てすゝみ兼たる飯ト汁/病気の床の看病を娘二人か深切な世話のかひさへ/なくなりて又母おやが病につき二汁五菜の難じうは/ドウ精進の種もなくわずかな稼ぎを身に/引受医者よ薬と辛/き目ハ少しもいとはぬ/孝行娘を東校御雇/外国人がふいと見そめて妾にせんと月に/三十円ヅゝ身の代を遣るといへども中々に否とばかりで/承知せずいかに零落たればとて外国人に見ゆべきと断りました/心の潔白彼やうに心がけ有たい物と読売百十号を見て賞ス  
勧善懲悪錦画新聞第16号/困窮した女に外国人が銀を恵む/ 神戸の居留地にいた英国人であろう。帽子にステッキ、白いズボンに上着というのが当時の西洋人男性の一般的ないでたちとして受けとめられていたらしい。 
去る五月十九日の夜或る英人/神戸四の宮辺を通りかかりしに/木かげに婦人の涕泣悲歎/有様英人見かねて立より/何事にやと尋ぬれども言語不通/なれバ始末わからずされども困苦に/せまりて身をも捨んとする形勢おのづから通/ぜしにやそぞろに気のとくに思体にて洋銀一枚を/とりだし是を恵ミ明朝わが館へ来るべし舎内にハ日本人もあまた有バ/なを委しく様子を聞とりて助成のしかたもあらんと懇にいひて立別れけり/翌朝カノ婦人をしへのままに英人が館舎に尋ね来りて日本人につきて/前夜の/恵ミを謝し/なを委細の様子を/問ハれていふ様ハわらハもと/横濱にて豆腐屋の娘お梅といふ者なるが夫に随ひて當港へ/来たりしに不仕合うちつづき終に夫におき去りにされ夫の行へを/尋ぬれどもめぐりあハず横浜に帰らんと思へども今ハ一銭のたくハへなけれバいかんとも詮かた/なく死ぬより外なしと覚悟きハめし折から異人様のお恵ミにて地獄で佛とうれしさのお礼に/まいりましたといふに英人そのよしを聞なをさらあハれミさらバ故郷へ送り帰しとらせんとミつから/舩切手を買来り金一円を添へて婦人にあたへ横濱へ送り帰せしとぞ縁もゆかりもなき/ものをかく迄に深切に世話する英人のこころざし実にかんずるにあまりあり希ハくバかかる困/窮のものハ英人の助けによらず区戸長の注意にて送り帰したきもの也と或人いへり 
東京日日新聞第40号/団十郎の写真を西洋人が所望/ 当時のトップスターである九代目団十郎に感嘆した西洋人が、写真をもらったお礼に巻きタバコをあげて帰ったという話。歌舞伎役者と西洋人に写真という取り合わせが新しい時代を感じさせる。 
九代目団十郎の技芸に/長じ看客を/して感せしむ/るハ今に始めぬ/事ながら既に歌舞妓/十八番と聞えし勧進帳ハ実夫白猿老が/工夫に因て成り西川扇蔵杵屋六翁等之を/補助し始めて木挽町河原崎座に於て興行せし/以降八世三升も之を勤め今の三升も勤る事再度なり既に/明治五壬申の年春市村座に於て之を興行為せし時一洋人之を/見物為し三升が技芸に長ずること且弁慶が忠臣富樫が義気/あるを感服し事終つて後三升が部屋に/来り洋人しきりに賞美し足下/弁慶お上手写真頂戴とありけるにぞ/やがて鏡台の引出しより/写真を出して与へければ/洋人謝礼の意なりけん/巻烟草数本を与へて/去りたり又栄誉と/いふべきのみ 弄月亭綾彦記 
郵便報知新聞第571号/遊び代を踏み倒した外国人/ 長崎外国人寄留地の外国人を相手にした私娼が、代金を払わなかった客の落とし物である金時計を代わりにせしめたところ、領事館に訴えられ窃盗罪になったという話。絵は娼婦を足蹴にする外国人の理不尽な振る舞いを描いている。 
所替れば品かはる東京にての引張ハ長崎/にて縮緬にて昔ハかかる業を羞頭巾まぶ/かく被りしよりよもや此等の事ハあらじ/と一名ブラックよもやと呼做す一個のブラックよもや長崎な/る外国居留地あたり黄昏過て彳めバ/何れの国の人なりけん云寄しかバ傍なる/恠しの家に誘ひ入雲夢巫山の事済て/価も与へず逃去たり跡にブラックよもやハ腹立しく/火影にあたりを見廻たるに金時計の落し/あれバ是幸と持帰る然に彼外人ハ/明白には云ずして領事館に失ひし由訴へ/けれバ賎婦は窃盗の科に落懲役に処/せられしとぞいかに外国人なればとて金がハ/時計持人が箇様な行状ハあるまじと/思ふブラックよもやの油断ならん  
伝統の継続 / 心中と奇談、役者もの

 

 
新聞錦絵は一方では、旧来の一枚刷りの題材を受け継いでいる。かわら版によくみられる心中事件や奇談の類、あるいは錦絵の重要な分野であった役者絵の要素を新聞錦絵は取り込んでいるのである。 
勧善懲悪錦絵新聞第20号/京都の機織り職人と人妻が大阪で心中/ 西陣で織り子として働く若者と子持ちの女性との心中事件。心中は当時入水か刃物による方法が一般的であった。芝居の場面のようにしっとりとした風情だが、文章は辛辣に無分別だと責めて終わっている。 
京都府下上京第十五区中立売/上福寺上ル佐々木清次良ハ小倉地/織を職業となし下職人も多き其/中に上京第七区笹屋町通り飯/森宗吉といへるハ當二一年三ヶ月/同第十五区中立売通り中嶋/徳次良の母おしづといへるものハ/當四十二年十一ヶ月なり/此両人三四年前より/佐々木/方/の/織子となり/稼ぎしうち/フト馴染て深く/なりしが宗吉ハ兼て病身ものにて十/分に稼ぎもあらざるゆへおしづも常々/辛労なしいろいろ思いをつくし居りしが/フト六月三日両人もろとも大阪へ下り/所々見物なしついに金子も遣ひはたし/京へ帰るも帰られず死ぬより外にし/かたなしと愚なるかな両人ハ覚悟を極/て川口の運上所の門ぎハに書置を/認め天神橋より投身せしを巡吏/に見付られ幸ひに命助り京都/府へ送られしとぞいうなる者なるにや/あまりの無分別ならずや 時習舎編輯 
新聞図会第20号/心中の男女を巡査が救助/ 前 の「勧善懲悪錦絵新聞」第20号と同じ事件を扱ったもの。青ざめた男女を介抱して蘇生させている場面。人魂らしきものが中空に漂っているのは、錦絵新聞ならではの表現。 
東京日々新聞913号/遊女と腹を探り合う狂言心中/ 心中はもともと、誠の愛情を男に証立てる指切り髪切りといった娼妓の手練手管の究極的な形態として始まったのだが、この話では男が芝居用の糊紅を血と見せかけて娼妓に一杯食わせたのである。 
疑ふ心ハ情に深き。中仙道の深谷といふ駅の娼妓に馴染て通ひ。/諛実家へも談を整。やがて吾家の妻沼村へ引娶べしと約束の。他にも/情郎のありときき。客ハ勃然となつて譴責れバ。妓ハ手管の/妙術もて。死で誠を明さんと云ふ奥の手を試て/見ばやと。倶に死んと華美に粧ひ出て/或る蘭若の墓所に到て合掌し男ハ死出/の案内をせんと。短刀腹に突立れバ。周章と/愕き逃出す妓を笑て呼止しハ。之れ/糊紅の細工にて互に却色た伝奇/ながら若し過つて躰にたたバ貴重/の命を断に至る。疑ひ深きも/野蛮にあらずや。此話を/故人の句にしくかかく。 
白露や無分別 なる置どこ路転々堂戯記 
東京日々新聞第445号/三目の妖僧に化けた古狸を退治/ 化け物も勇気ある者が捕らえてみれば古狸だったという話。人が恐れる奇怪なでき事も狸が化かしたせいだと種明かししているのは、現代から見ると科学的・合理的な根拠とは思われないが、いたずらな迷妄の否定ではある。 
東京元柳原町に住居する/梅村豊太郎といへる者。/明治六年/八月/四日午後二時とも/おぼしき頃。地震に目/覚て熟眠れぬ折しも傍に/臥たりし。小児の物に魘れけん/FL1入る声に驚きて視る枕辺/に怪しき哉。卓然と立たる/三眼の妖僧。見る見る頭は/天井を突抜くばかりに伸/揚るを。頗る胆ある豊太郎。/憤然と身を踊らして/変化の裾を引掴み力を/極めて打倒すに。是なん歳経し/老狸なり/しと 転々堂鈍々誌  
東京日々新聞第876号/秩父で起きた怪現象に剣豪も退散/ 茶釜ややかんが浮かび上がる、毎夜石が飛んでくる、何事もないのに衣類調度が焼けこげる、寝ている間に刃物で切ったような傷が出来る等の怪奇現象を、狐や狸が化かしているのだと片づけているのは、文明開化の世に苦しい弁明だが、科学で説明の付かない不思議な現象に魅入られるのは現代も同じであろう。 
絵巻物の百鬼夜行ハ筆頭の怪にして赤本の/重ひ葛篭ハ欲の化たるなるベしいつの頃乃/御布告にや野夫と変化ハ函根から先の住居/と世俗一統承知の上で境界が定まり往古ハなんでも/鬼の業と極ておき、少し開た中古ハ狐狸の外ハ一切化べからずと規則が定り。今ハ/中々幼童さへ。モモンガアとおどしても。其手ハ食ハぬ開化の 聖代。野良頭が散髪に/化たが初発で電信蒸気。練化造りと追々開け悉皆有用人智の化もの/無用の怪異厳禁の中にどうした間違歟地名ハ武州秩父在横瀬/村の農民鉢山権右衛門と言ふ者の居宅ヘ何者とも知れず/毎夜礫と打込むのミか飛だ茶釜が野鑵迄天井裏ヘ/引揚し怪事に人々驚しを其近傍の剣客者/飯塚某是を聞見顕さんと/立越て主人に対話の/折柄に一ツの大石/飛来り頭上を/かすりて後背なる/大釜徴鹿に打砕/けバさすかの飯塚仰天なしほうほう/其場を逃帰りしが怪事ますます止ざり/ける是ハ開化を怪化と見誤りし狐狸の手段/なるべし 墨陀西岸/温克堂龍吟  
大阪錦画新聞第17号/妾に亡妻の幽霊が乗り移った話/ 隠し妻の神経病の原因を亡き前妻の霊だとしている話である。こうした奇談や怪談を、人々はどのようなニュースとして受け止めたのだろうか。 
明治八年第三月二十日の事/なりしが長崎県下第一大区/新大工町の建蔵といへるものハ。古/かね地金売買を。渡世にすれど/金貨ハなし。極貧窮にくらせしが。元久留/米藩某の。娘お鶴をもらひうけ。舅の助成や女房の。働勢につれて我もまた。働き/出して追々と。繁昌なすに随ふて。ぬくもる尻がふとくなり気儘自由の建蔵が。隠し/婦としのび逢ひ。深くなる身の浅はかさ。だまして妻を親里へ帰した跡ハ高なしで/美顔新婦とむつまじく。添ふて居るとハしら鶴も。はたたきつける人沙汰に。飛び立つばかりに/かけ来り。様子を見れバ聞く如く。エエねたましや彼の婦を。とりころさいでおくべきかと。/阿片煙草を十分に。呑んで死せしが翌日より。新婦ハ俄かに狂ひ出し。死せしお鶴に/似た声で。うらミ罵る有様ハ。さも恐ろしきといふ噂。元より死霊幽霊の。/有るべく筈ハなけねども。コハ道ならぬ事せしと。/我と発する神経病。とハいへかかる不人情こそ実に/うらめしいうらめしい 浪花画工 笹木芳瀧述 
東京日々新聞第917号/吉備大臣を演じる市川団十郎/ 河竹黙阿弥の傑作「吉備大臣」は、吉備真備が遣唐使として中国に渡った時の話である。芝居の宣伝ポスターともとれる新聞錦絵である。 
芝新ぼりの戯場河原嵜座に/おいて吉備大臣支那物語と題し/たる新狂言を取仕組めり吾朝の/吉備大臣日唐の間に於て/云々の儀に付唐の玄宗皇帝に/迫つて貢金を出さしむるの場を演するの大臣に/扮するハ雷名の市川団十郎なりと聞けバれいの/能弁を以て安禄山等との議論妙なるべし/作者ハ有名の河竹翁なれバ定て興ある事ならんと評せり 
大阪錦画新聞第10号/板東彦三郎の大岡芝居を華族の大岡某が観劇/ 新聞錦絵には珍しい上半身のみの肖像である。大首絵を思わせる絵柄である。 
東京築地新富町の/芝居新富座ハ評判/よく天一坊が大当りにて/ことに彦三郎の大岡越/前守の役が大当りだとて/先日も華族の大岡さんが見物に/いかれた時に大岡さんより彦三郎に贈られた歌ハ 此度遠つ親の在務の時刑律を整しことを今の開化の/御代にあたり其事柄をありしままに守田何がしの/座にて業おぎになしけるを見て 其功すぎし昔の花なれどのこるかほりをしたふ嬉しさ 
新聞図会第17号/実川延若が盗人に泰然と応対/ 普段着の役者を描いた一種のゴシップであるが、芝居の一場面を思わせる構図である。 
大阪俳優実川延若道頓堀筑後芝居ニて鏡山/岩藤の役をなさんとせしに豈はからんや病に/罹り桃谷なる別荘ニ出養生中五月二十三日午前/三時強盗来つて枕辺ニ立ち金子渡すべしやと/白刃をさし付るニ流石ハ立者の/座頭株少も騒がず宝悖つて入ル/ものわ又悖て出づと有合小遣/六十余円と金銀をちりばめし/時計莨入の類一つも残さず之を/興へて聊憂る色なしと是常ニ/侠気を事とし強勇大胆を/真似し徳ならんか全快の上/其事を作り入レ新狂言を/発明せば一しほの大入ならん/と其全愈を祈るものわ/ほりへ川の辺りニすむ/都鳥遊人 
歌舞伎新報第2号/外国人から贈られた引幕/ 東京にいる外国人が守田氏が持つ芝居小屋・新富座へ、以前に招待された礼として華麗な引幕を贈ったという話。「歌舞伎新報」は明治12年(1879)2月に創刊された歌舞伎専門雑誌で、この新聞錦絵はその宣伝版だと思われる。 
諸新聞でも噂の有外国人から新富座へ送つ/た幕ハ地が紫の絹で松竹梅の丸の中へ差渡/六尺有かたばみの紋が三所色糸の縫でいつ/もの宛名の所へ守田氏と白糸で縫た書ハ市/川万庵先生が書れたので巾が四布程あり升/下に在東京外国人中と有て實に目覚しい立/派な物其外に横濱の蘭人中から送つた天幕/ハ地が萌黄色の輪こに天鳥で真中ハ座元の紋/左右ハ古代模様の内から竺仙さんが見だし/たと云かたばみ草の様な風流な紋を金糸と/いろ糸で縫出て真富座長守田氏へ在横濱蘭/国人中よりの文字を横に双べて左右へ割て/白糸縫にした眼を驚かす程の物で有升扨引/幕へ添て来た手紙の訳大略ハ去明治十一年/六月該座再造開業の節在東京外国人を御招/待且御厚遇下され其寸報迄に引幕一張を呈/上するよし右任人のエー、ゼー、エス、ボールス。ヘンリー、/ホン、シーボルト。トマス、マツクラチ。の三人より書き送り/たり誠に該座の光栄面目ともいふべし 
新富座場割ハ本読の日遽に変り一番目ハ四幕に詰め二番目/を加ることに定り中幕の勧進帳も半四郎の役(義経)が家橘になる 
 
幕末〜明治の浮世絵事情と新聞錦絵

 

 
浮世絵版画の情報伝達性 
浮世絵版画は、江戸時代の庶民絵画の代表的な存在として、また、技巧的な木版画として評価がなされていることについては、周知のことであろう。そして我々は浮世絵版画を歴史・風俗資料としても利用し、浮世絵版画から江戸時代の庶民生活の様子を視覚的に知ることができる。つまり、今現在それらの情報を浮世絵版画は伝達していることになる。これで浮世絵版画の情報伝達性を説明したらおそらく詭弁の誹りを受けることだろう。しかし、現代人同様に浮世絵版画から入手できる情報を、江戸の庶民も大かれ少なかれ享受していたことも間違いないことなのである。浮世絵版画は、その誕生時点から情報伝達性を帯びた絵画として登場している。浮世絵はその名にあるように、「浮世」つまり今現在の世相、当世風なものを描くことを専らとしており。その主なものは、時代の先端の風俗や流行、そして話題であった。もっと具体的に記せば、江戸庶民の話題ともなる芝居の舞台や役者、色里である吉原の遊女達や廓内の様子、市中の名所の様子、祭礼などの年中行事、服飾的な流行等々であり、浮世絵版画がそれらを視覚的に庶民に伝えたのである。庶民は、そのような浮世絵を愛で、あわせてその情報を入手すべく、絵草紙屋に赴き浮世絵版画を求めたのである。しかし、浮世絵版画は現在の新聞のような速報性と報道性は希薄であった。それは、浮世絵版画の制作過程と出版物として受けていた様々な統制により、そうならざるを得ない状況があったからに他ならない。  
浮世絵版画の出版統制 
書物問屋や地本問屋(浮世絵版画は地本問屋の扱い商品)などの出版に関しては、明暦3年(1657)から度々出版に関する規制が出され、明治に至るまで、幕府の統制下に浮世絵版画も含む出版が行なわれていた。 
その主なものは、 
*幕藩体制維持に合わない諸思想・宗教(特にキリスト教)を内容に含むもの 
*織豊政権以後の武家についての記述 
*事件・事故などの出来事(ニュース・報道的なもの)や流行しているものを扱うことと幕政批判 
*必要以上に贅沢な印刷(色数・技巧など) 
*風紀上好ましくないものの板行(春画・春本・好色本など)  
などの禁令が享保改革時に出そろい、以後、その時々の状況により新たなものが加わるなどの変化はあるが、骨子は明治まで変わらなかった。一応、明治5年と8年の新政府による新出版法令により江戸時代の統制出版は終了するが、それまでは繰り返し同様の規制が出されていた。 
寛政以降で特筆すべきことは、浮世絵版画も含めた出版(絵草紙)の事前内容検閲制度がある。当初問屋仲間の行事(当番制)の検閲のみであったが、両町奉行↓町年寄↓掛名主↓仲間月番行事↓問屋(版元)の流れで出版が許可された(申請は逆の流れ)。検閲済の証拠として板下に行事の改印が押され、浮世絵版画にはこの改印はそのまま彫り込まれ、摺られた。また、天保の改革で問屋仲間の解散が命じられると、名主の印が押され、後日仲間が復活し再び行事の改印がおされる。この制度は、画中に無粋な事務的印章が押されるわけで、絵画鑑賞的には邪魔なものであるが、この印の形状的変遷を追うことにより、版画の制作時期を絞り込むことができる。特に嘉永5年(1852)以降は、浮世絵版画の刊行年月がそこから読み取れるという、またとない研究データを提供してくれるものとなっている。 
浮世絵版画の扱われ方 
浮世絵版画は、絵師の芸術性を自由に発露したものではなく、版元がどのような内容の絵が売れるもの(商品として売上が見込めるもの)かどうかの判断を行ない、絵師に作画を依頼する。つまり、売れそうにないものを制作することはまずなく、あえて損が見込まれるようなものには手は出さなかった。版元は、購買層である庶民達の興味の対象を把握し、浮世絵版画を売り出していたため、「役者絵」(芝居関係)や美人画(遊里関係を含む)などの作品が群を抜いて多い。これは、双方共に庶民の関心事であったからであり、商品としての定番でもあったからに他ならない。 
買い求められた浮世絵版画は、現在のように高価な絵画を求める感覚はなく、また、それを飾り(壁に貼るなど)鑑賞するという行為は行なわれなかった。多くは手にとり見るという扱われ方であった。浮世絵版画は、春信以降の多色摺が行なわれるようになってからある種「愛玩品」であり、直接手にとり、画面に触れ、角度を替えて画面の変化を楽しむなどするのが本来の楽しみ方であった。このような身近な楽しみかたに応えるべく、彫師や摺師が技術の研鑽を行ない、化政期以降は信じられないような技術の高さを見せる。18〜19世紀にかけて、世界のどこの国にも多色摺の印刷物が廉価で庶民階層に存在しておらず、色彩的快楽を江戸の庶民は得ていたことは浮世絵版画の大きな功績といえよう。 
明治の浮世絵版画と新聞錦絵 
明治に入り浮世絵版画は、絵画的には西洋絵画の表現の移入や他の印刷技術の応用などが行なわれる一方、新たなジャンルの開拓が盛んに行なわれたが、次第に浮世絵版画が商品価値を失いはじめる。それは、銅版・石版・写真などが、それまでの浮世絵版画が行なわれていた領域でも行なわれ、適当な住み分けもできず明治30年代以降は庶民のための廉価な印刷物としての浮世絵はほぼ終わりを告げる。だが、むしろ当時の木版技術は、恐らく最高水準に達するという皮肉な状況であった。導入初期の西洋印刷技術や写真は不安定であったり高価であったが、需要と供給のバランスと技術の向上により、浮世絵に代わり大量に廉価に印刷物を提供できるようになったし、メディアも増加した。確かに、庶民に対しての販路を浮世絵版画は失うが、絵画として美術作品として新版画に受け継がれ、また原色印刷が普及するまでは、カラー図版としては、多色摺りの木版画が用いられたように、浮世絵版画はその技術的なものは限られた分野ではあるが引き継がれていったのである。 
このような明治の浮世絵版画の流れの中、今までの規制から解放されたまさに新しい商品として新聞錦絵が登場するのである。新聞錦絵は、新しい報道メディアである新聞記事を題材とした浮世絵版画の一ジャンルであるが、その形態はあくまで浮世絵版画であった。つまり、新聞は題材とはしているものの、報道という意識は制作側には希薄であり、錦絵で作った新聞という形態ではなかった。まだ、新出版法令がひかれる以前は、浮世絵版画としての検閲を受け(改印の存在)、絵草紙屋で他の浮世絵版画と同様に販売された。形態的にも二枚続き・三枚続きなども存在するなど浮世絵版画の画面構成が踏襲されている。画面に多くの文字(記事)が記され、絵と文字の相対的バランスが特徴的かも知れないが、この形式は、歌川国芳などが幕末期に盛んに行っており、それ以前に化政期には歌川豊国などの役者絵にその形態がすでに見られる。また、同じく幕末期には芳年などが、人物と伝記を組み合わせたシリーズを多く描いており、新聞錦絵の画面構成はすでにでき上がっていたものの踏襲と見るべきであろう。新聞錦絵を描いた最初の絵師である落合芳幾は、豊国の孫弟子であり、国芳の門下、芳年と同門であることからも、これは自然な流れであったのかもしれない。内容が通俗的な事件がほとんどなのも浮世絵版画を求める層の興味の対象に意識的に迎合したものであろう。 
落合芳幾自身が東京日々新聞の創設に加わり、挿絵も描いていたということから、おそらく、浮世絵師芳幾に版元が持ちかけて行なわれたと思われる。時期的にも新時代の新たな浮世絵の題材が盛んに模索されており、新奇さが受け、一時の流行をみるが、次第に飽きられ長く続くものにはならなかった。報道性よりも従来の愛玩・鑑賞あるいは、吾妻錦絵に代わる東京土産的に購入されたのか、新聞錦絵は地方に残っている例が多い。 
最後に、新聞錦絵の浮世絵版画としての評価であるが、当然ながら一時代を築いたものとしての評価と共に、絵画的・版画技巧的な評価もなされて当然と思われる。しかし、絵画的には江戸時代の浮世絵版画を超えて評価を与えるものは少ないといわざるを得ない。これは、文字との組み合わせによる画面上のバランスなどが影響しているからであろう。また、彫り摺りの点では、これも一般的にあまり高い評価を得ていないようであるが、状態のよい作品が少なく、図版などで紹介されるものが吟味されないというのが実情のようだ。実は、新聞錦絵も他の浮世絵版画も同じ事なのだが、初摺りの状態の良い物は最高水準にあった技術を遺憾なく発揮したものなのである。摺りの状態に出来不出来が見られるということは、それだけ版を重ねた証左であって、売れゆき良好な商品であったのであろう。本来は、他の浮世絵版画同様に、本来制作側が意図した状態である初摺りを確認の上、評価すべきものなのである。   
 
明治情報世界の中の「官報」

 

 
近世末期から明治初期において民衆が必要としていたのは、なにも天災や殺人事件などについての情報だけでなく、今日と同様、政治(幕府や明治政府)に関するものも、人々が知りたい重要な情報のひとつであった。しかし、江戸時代において幕府は、「民可使由之、不可使知之」という方針をとり、民衆が政治について議論したり、思想を印刷物として発表することは、堅く禁じられていた。つまり、政治に関する情報に当時の民衆が触れる機会は、極限られたものであったのである。 
しかし、幕末の混乱期にはそうした幕府による統制力も弱まり、佐幕派と討幕派が争うなかで国内の戦局を報道する新聞紙が数多く発行された。だが新聞紙の発行元がどちらを支持するかによって記事の内容は大きく左右され、とても公平な報道と呼べるものはない状況であった。新政府としてはそうした状況を看過するわけにいかず、公式のメディアをもつことの必要性が強く意識されるようになった。その結果、慶応4年(1868)に「太政官日誌」が創刊され、その他数多くの日誌類が刊行されたのである。日誌とは当時の用例で公報の意味あいをもっていた(「大蔵省印刷局百年史」大蔵省印刷局1972年)。政府が出す法令などの通達は、この「太政官日誌」を通じて一般に流布されることとなったのである。しかしながら東京日々新聞をはじめ、いくつかの民間新聞紙がこの「太政官日誌」中の記事を掲載し、さらには国内の情勢が安定に向かうなか、「太政官日誌」には当初の必要性を見いだされなくなり、明治11年(1878)を最後に休刊していた。 
こうした状況に変化が訪れたのは、自由民権運動が盛んになる明治10年代であった。板垣退助による「民撰議員設立建白書」の提出以来、民権運動を中心とした言論活動が活発になると、再び政府の意図を明らかにし、広く民衆の理解を得る必要にせまられたのである。一時は福沢諭吉に、そうした政府新聞の刊行を託そうとする動きもあったのだが、明治14年の政変を契機に、その計画も頓挫する(この後福沢は「時事新報」を発刊)。しかし、政府側にとって民衆の理解が必要であるという事情は変わらず、政府の公報メディア発刊の試みは、ついに明治15年(1882)、山県有朋の建議に結実する。それによれば、「動モスレバ民権ト云ヒ、自由ト称シ、朝廷ヲ侮慢シ倔強不順以テ相誇リ、邪説暴行至ラサル所ナク、閭閻無知ノ民、目潤ヒ、耳熟スルヨリ遂ニ朝旨ノ在ル所ヲ知ラス、政府ノ主義ヲ覚ラス、…」とあり、民権運動が活発になる中、政府がいかに政治的混乱を憂れい、民衆の理解の必要性を強く感じていたことがわかる。やがて明治16年(1883)7月3日、「官報」は創刊に至る。 
政治の混乱期において民衆の理解を得るという目的をもって刊行されたものであったから、創刊当時から日刊であった「官報」は、一般庶民を意識した当時の新聞メディアに非常に近いものであった。「官報」に収録されていたのは、「太政官日誌」にも掲載されていた太政官布告類、勅語、各省の辞令をはじめ、さらには「農工商事項」(米の作柄など)「外報」「観象」(気象情報)「彙報」などの項目であった。ロイター社と最初に契約を結んだ日本のメディアが「官報」であり、海外の情報を得るための貴重なメディアであったということも興味深い。また、学校関係の行事を報告する「学事」、工場の業績報告や、後に述べる「衛生事項」など、非常に幅広い分野にまたがる記事が収録されていた。 
こうした「官報」中の記事は、「各新聞紙ニ於テ其ノ文ヲ抄録スルコトヲ得」と、各新聞にはその内容を引用することが許されており、政府が、「官報」記事中の情報が広く民衆に流布されることを意図していたことがわかる。「官報」をめぐる当時の情報世界の一端を、「官報号外」(明治18年9月6日)に掲載された「自己衛生予防ノ概略」の記事が各メディアへ広がる様子に着目して、探ってみよう。  幕末以降、諸外国との交易が盛んになると、国内においてそれまで経験してこなかった新しい伝染病がたびたび流行する。当時頻繁に流行したコレラもそうであった。その年、明治18年(1885)においても8月下旬の長崎を皮切りに、各地でコレラ病患者が多数発生した。同年11月に収束するまで、最終的には13824人の患者および9329人の死者を出すに至った(山本俊一「日本コレラ史」、1982年)。連日の「官報」には、各地域における感染者および死者の数が記載されたが、混乱のただ中である9月6日、「官報号外」において、「自己衛生予防ノ概略」が掲載された。内容は二部構成となっており、まず「第一 身体ノ強健ナル時ニ於テ為スヘキ注意」とあり、日頃健康な時に注意すべき項目が書かれている。例えば「飲水」「菓実」(果実)「蔬菜」「酒類」「氷」「衣服」「疲労」「感冒」などについて注意すべき事項が書かれている。また「第二 発病ニ際シテ為スヘキ注意」には、発病して消化器系統に異常が表れた時の対処法や、嘔吐物の処理方法、便所の消毒方法などが記されている。 
ほどなくこの記事は、「東京日々新聞」(9月7日午後の号)における「虎列刺予防の心得」と題する記事の中で、「虎列刺流行の際にハ先概略左の如く各自衛生予防に注意すべしと本年9月6日発兌の官報号外に記されたれバ左に抄録す」と紹介されている。ついで9月8日の「読売新聞」にも同様の記事が掲載される。「読売新聞」においては「官報」における記事にあった片仮名がすべて平仮名に直され、また漢字にはルビが振られ、適宜送りがなもわかりやすく施されている。 
こうした記事の引用は、一般の新聞にはとどまらず、錦絵にも広がる。同年9月12日の日付けがある「大日本通俗衛生会」と題された一枚の錦絵では、講演者が、「さてみなさん、コレラ病になるのがいやなら神仏にいのるよりこのとふりおまもりなされ」と人々に語りかけ、わかりやすい絵解きとともに、先の「官報」記事中にある内容を紹介している。例えば、「官報」で「飲水」の項目の中にある「虎列刺病流行ノ時ニ際シテハ井水河水ヲ論ゼズ慣用ノ飲水ト雖モ総テ汚染シタルモノト認メ煮沸シタルモノ用ウベシ」という表現は、「水をのむときハかならず一どにたてて飲むべし」と、平仮名を中心とした非常に平易な表現に改められ、紹介されている。 
おそらく、当時まだ組織的にも未熟な民間新聞では、コレラ流行など専門知識を必要とする記事を執筆できる記者がいなかったと考えられる。もちろん「官報」記事が引用されたのは衛生に関するものだけではなく、数多くの記事が、前述の「東京日々新聞」や「読売新聞」中に引用されている。「官報」に掲載された記事は、大新聞や小新聞、さらには錦絵にまで引用され、それぞれの読者の識字レベルにあわせてその表記法や内容を微妙に変化させて広く民衆に享受されていったのである。 
同じように行政側が出す情報が、民間の大新聞や小新聞、錦絵を通じて一般流布される例としては明治5年(1872)に出され、今日における軽犯罪法の先駆けと考えられている「違式 違条例」の例にみることができる。東京府によって出されたこの条例は、「東京日々新聞」の付録として同年11月8日に出され、やがて錦絵としても出されている。ここでも、錦絵版では「違式」の箇所に「おきて」とルビがふられ、それぞれのメディアが想定していた読者に合わせて文面が工夫されているのを看て取ることができるのである。  このように明治の社会における情報の流れの中で、上流に位置していたともいえる「官報」記事も、明治後半以降、次第に法令や叙任などの発表に特化したものになっていった。 
太政官日誌第18 明治5年(1872)/ 東京日々新聞錦絵の第1号(次頁)にとりあげられた事件のもともとの形は、この太政管日誌の貞婦顕彰の記事であった。太政官日誌から新聞記事へと引用され、さらにそれが錦絵として絵解かれる。貞婦を顕彰して広く世に知らしめようとした日誌の意図と、新聞錦絵の悪人の力強い姿とでは、伝えようとしたことがすでにずれているだろう。ニュースは、しかしながらこうした情報の引用の重層のなかから、立ち上がってきたのである。 
東京日々新聞第1号 明治7年(1874)7月/ 病気の夫を抱えた妻が、不幸を払うために読経を頼んだ僧におそわれて斬り殺された事件。1号と記してあるのは、このニュースが本紙「東京日日新聞」の1号に掲載された記事からとったものだという意味である。しばしば誤解されるが、この新聞錦絵のシリーズの創刊号ではない。 
長野/県下/信濃国更級郡今井村に貞婦あり名をせんと云/夫宇兵衛一朝病の床/に臥遂に身/体不随/となりしを/せんハ/女の身/一個に昼ハ雇/ハれ聊の/賃を/請得て糊口を計り/夜ハ看病に眠もやらず然るに或日夕まぐれ道に迷ふて宿乞僧あり/せんハ宿世の悪かりて斯も不幸のつづけるならん良 夫の為に読経を頼まん/ものと伴ひ入れしが此僧無類の悪僧にてせんが容儀の艶なるに忽ち/起る凡脳心道ならざりし引導貞婦ハ更に肯はず刃物を以て/迫りしかど身ハ是刀下の鬼となる共争不貞の名をとらんと/意倍々金鉄の錆と成けるを/朝廷これを賞せられ祭粢の料を若干賜ひ門閭に/掲げ悪僧はケン下に引れ罪に処し正邪忽ち/判然/たり 
官報号外「長崎港虎列刺病勢及自己予防ノ概略」明治18年(1885)9月6日/ 明治18(1885)年夏、長崎からはじまったコレラ流行は、またたくまに全国に波及し、最終的には14000人近い犠牲者を出す。この間「官報」では全国の府県別の患者数を毎日掲載する一方で、このような感染予防策を紹介し、国民の注意を呼びかけている。こうした保健衛生に関する記事は、現在の「官報」の記事には見あたらない。 
大日本通俗衛生会 明治18年(1885) / 「官報号外」9月5日号「自己予防ノ概略」の内容をわかりやすく錦絵にしたもの。もともとの漢字の多い記事にくらべ平易な平仮名が中心になっている。衛生学的な知識に基づいた予防法が説かれる貝殻(貝は衛生会に重なる)の外では、そうした予防法を守らなかった者が伝染病で苦しむ様子が対照的に描かれている。 
違式違條例(東京日々新聞附録) 明治5年(1872)11月/ 明治5年(1872)11月8日に東京府で出された違式 違条例は、翌6年7月19日には太政官布告によって全国にも施行される。今日の軽犯罪法にあたるもので、混浴や、裸体での外出を禁止している。当時の庶民には理解しづらかったらしく、「女子供にも分解やすきやういたし」た錦絵が各地で数多く刷られた。 
 
ニュースという物語 / 安政大地震

 

 
なにか変だ!安政江戸地震は安政2年10月2日の夜10時ごろ発生した。前兆現象については、井戸の水が減ったとか、鼠がいなくなったとかさまざまな記録がある。 
ここにあげる「江戸大地震之図」にみるように、空に見上げたり、袖に手を入れ身を硬くしたりして、なにか変だと身構える人々の感じがよく描かれているものはあまりない。もちろん地震発生は夜なので、実際にはこのように見えることはなかったと思われる。しかし、サーッと変な風が吹き、次ぎの瞬間、家が壊れる場面に転換する。思わず引き込まれるようなこの情景描写は、技量の高い画家が描いたものではないかと想像される。 
家が壊れた、火が出た!同じ絵巻での次ぎの場面では、倒れた家からすぐに火が出て、燃え広がる様子が描かれる。安政地震は、震度6、それも7に近いといわれている。江戸は、沖積地に下町の町屋、また、江戸城の内曲輪の大名小路などには武家屋敷が集中していた。そうした地盤の悪いところに建てられた木造家屋は倒れ、即出火したといわれている。幸なことに、夜も遅く、多くの人々は寝入ろうとしていたので、震度のわりには、出火件数は少なかったといわれている。江戸中で、32口とか、50口の出火口とかわら版は伝えている。 
安政江戸地震の大名屋敷の被害 / 江戸府内の大名屋敷(黄色)のうち、破損あるいは類焼などの被害が確認された屋敷(茶色)を示した。江戸の大名屋敷内では、少なくとも2000人は死亡したと推定されている。 
安政江戸地震による町地の被害 / 町地では、どの家が焼けたか、倒壊したかといった場所を特定できる資料は残されていないが、町番組ごとの倒壊家屋や死傷者数は判明する。図は、町番組の区画を色で示し、そのうち、死者の出た町々をトーンを濃くして図示した。町奉行所が調べた被害数値は、町方の死者4300人弱、負傷者2800人弱、倒壊家屋15000軒と1700棟、土蔵1400戸ほどであった。 
スワッ、上様一大事!こんな時でも、大名たちがまず、成すべきことと考えたのは、江戸城へ駆けつけ、将軍の無事を確認すること、あるいは将軍の安否を気遣って、我が身を捨て登城したことを周知させることであった。また、それぞれの藩邸では、殿様、奥様、御子息無事といった知らせを国元に早便で知らせた。その殿様御無事の第一報が国元に届いた例を確認できたものが次ぎの図である。江戸から必しも、同心円状に情報が広がるわけではないが、この報が届く範囲内では、ほぼ江戸の変事が、飛脚の番士を通じて途中の街道の町々へも広がったと考えてよいだろう。 
江戸地震の情報が日本中に伝わるのに、どのくらいの日数を必要としたかを各藩の日記をもとに調べたもの。図中の数字は、当該藩に江戸地震、および藩邸での被害などの報が届いた日付である。江戸地震は二日の夜発生したので、各藩に飛脚番士などによって届けられた日付から二を引いた数が、当該藩に江戸大変の情報がもたらされるのに掛かった日数ということになる。 
災害速報、つづいて戯画が続々出る!災害発生の様子を伝えるさまざまなタイプのかわら版が発行された。
大地震火事略図安政2年(1855)/ 地震や噴火などの天変地異を陰陽の気の乱れと説明する前文は、かわら版の場合にもよくみられる。本文はほとんど各所の被害が書き連ねられ、最後に御救い小屋などの幕府の救済の厚いことを詠う。これは、そうした常套表現で埋められた内容であるが、添えられた炎上する家並みの図は迫力に満ちている。 
乾坤和順せざるときハ陰地中ニ満て一時に発す是地上に地震といひ海上に津浪といふ山中に発する時ハ洞のぬけたるなど 皆風雨不順の為す所にして恐るべきの大事なり干茲安政 二年乙卯冬十月二日夜四ツ時過るころ関東の国々ハ 地震のととろかさることなく一時に舎坊を崩し人命を絶こと風前のともしびの如し其中尓先御符内焼亡ノ地ハ千住小塚原 不残焼け千住宿ハ大半崩れ山谷橋ハのこらす崩れ今戸橋きハ数十軒やける新吉原ハ五丁共不残焼死人おひただしく 田丁壱丁目弐丁目山川町浅草竹門北馬道聖天横町芝居町三町北谷中谷の寺院南馬道花川戸半町程やける山の宿町 聖天町ハ崩る浅草寺ハ無事にて雷門の雷神ゆるぎ出す廣小路並木辺残らす崩れ駒形町中頃より出火 翌三日より七日迄明日すこしづつふるひけれ共別にさハることなく追々静鑑におよひ下々へハ 御救を被下置御救小屋三ヶ所へ御立被下御仁徳の御国恩を拝謝し奉らん人こそなかりけれあらありがたき 事共なり 但シ出火のせつわ三十二口なれともやけるところハ図のことし 火の用心火の用心 
男女死人怪我人書上之写/ 町奉行所による死傷者の調査2回のうち、第1回は、早くも、地震発生直後の10月4日に行なわれている。各町番組ごとに集計された死傷者数がかわら版情報として市中に流れた。幕府が管理する情報が民間情報としてかわら版で流布することは、それまではあまり例なかった。そのことを表すかのように、縦長帖という、帳簿類と同じ形態の冊子である点も注目される。 
東都珍事実録咄 安政2年(1855)/ 大坂で出た江戸の地震を伝えるかわら版。「御立退の図」は、武家屋敷の奥方達が屋敷から逃れる様子を、「水汲の図」は、上水が止まり、堀抜井戸まで人々は水汲みに忙しいと伝える。その他、各所の被害を書き連ねるが、不忍池の水が津波の如く池之端辺に打ち上げたなど、市中の様子や人々の動きを客観的に伝えている。江戸で出版されたかわら版にこうした細かい観察がみられない点は一考を要する。 
十月二日亥ノ刻より大地震差をこり 人家崩れ夫より出火となり市中八方へ 火の手上り大火となり市中の人々是ニ おどろき其混雑めもあてられぬ しだい也又御家敷様方御殿様 御奥様方御立退或鑓長刀 を携御切捨市中の騒動上を下へと 申方なし大坂表と市中の事替り 或ハ押にうたれ或ハ火にまかれ死 すも有亥の刻より地震止事なし 故ニ老若男女たすけくれの大声上り 助くる事不能見ごろしなる事数 しれず又江戸表ハ諸国より入込たる 人多く土地不案内にてあれハ逃 てハ門ニむかひすわやといふ内大火 山の如くむらがり来り其横死の声 今ニやまずあわれなる事たとゑ がたし寺院社宮ハ申ニおよハす 土蔵崩れあるハいろいろわれ たる数筆紙につくしがたし大震 の場所人形町辺人家七分通 潰れ尤橋々ハ格別の事無之 市中所によりてハこけ家山の如く かさなり山の如し前代未聞の次第なり 此度番付外々ニも数多く有之 候へ共外方のよりハ別してくわしく故 江戸表より所々細ぎんミいたし書面参り候 中にも諸国ニて出火所わけいたし まま図ニてうつしとんと間違なし 猶死人数ハ相わからずしれ しだい小付にて差出し申候・・・ 
江戸大地震巨細録 / 袖珍本、つまり着物の袖に入れるメモ帳用の小型の冊子で、地震の被害を伝えるタイプのものも多数出版されている。日を追って改定版も出された。地域ごとに武家屋敷、町屋の被害を書き連ねる。出火と崩れた場所について報じていて、武家屋敷の死傷者の数などは上げられていない。これらのことは、従来政治向きのこととして、かわら版業者にとって触れて成らない事柄であったからである。 
世直り細見/ 既成の江戸図を基に地震で崩れた箇所や焼失場所を示した色刷り大判かわら版。通常の江戸図は、北が上に置くものが一般的であるが、これは東を天としている。江戸の大災害を表現する手法の一部だろう。江戸城の内部は「御城」という文字と、葵の紋を書きこむのみであるが、この点に触れるものはほとんど見出されていないので、江戸城内の詳しい被害は不明である。 
江戸地震大火方角付 頃ハ十月二日の夜の事なりしが本丁辺に有徳の番人ありしが 家内上下とも睦間敷其身ハ常々観音を信じ夜毎ニ浅草 寺へ参詣いたしけるが今夜も早く参詣いたさんと思ひけるが 宵の口はからず用向あつて亥の刻頃に参詣いたし観世音に礼拝 し有がたさのあまり思ハずまどろミしが夢ともなくうつつともなく 忽然と白髪の貴僧一人あらハれ曰く汝常々神慮ニ叶ひ仏 意にそむかず故に今異変有といへども汝此なんをさけ得さすべし 悲かな濁世の人間此難のがるるもの稀なり見よ見よ今にと曰ふ うちに忽天地震動し轟く音すさまじく筋に此御堂もゆり 崩かとおもひけれバ彼もの御僧の袂にすがり三衣の袖のすきまより 四方のありさまを見渡すに我が手のひらを見るがごとし目前に市 中五六部通りハ将棋倒しにことことく震崩せバ是がために押に折れ 即死或ハ半死半生のもの幾万人の其数しれずかくするうち諸 方の崩れし家々煙たち火もへ出忽出火となり△新吉原不残土手下 五十けん馬道通りさる若町不残聖天町山の宿不残京橋通り迄凡五十丁 程焼失浅草観音寺内本願寺御堂無事駒形堂辺より黒船丁迄南側 不残夫より下谷御成海道中程より上長者町広小路迄東側不残池のはた かや丁より根津迄不残湯しま天神下御屋敷小石川ニてハりうけいばし 近辺御屋敷方町家とも焼すべて此辺大あれ深川六けん堀川西二丁ほど 夫より熊井戸より一の鳥居迄不残いせ崎町冬木丁京はしかじ町一丁 目一丁目五郎兵衛町畳町北紺屋町壱二丁目大根岸竹町南伝馬町二三丁 目具足町柳町鈴木丁 いなバ丁松川丁本材木町七八丁目八丁堀水谷丁辺 より鉄砲洲辺焼築地御堂残り芝ニてハしばい丁焼其外 々焼失場所数多 有之といへともあけで数えるニいとまあらず△凡火口三十八ヶ所ニ及是が為に苦しむ有 さまも斯やと計りあハれニも又恐しともいわん方なし其余家居大半ゆがミ或ハ 菱ニなり土蔵抔ハことことく土瓦ゆり落し鳥篭のことくニ成もあり或ハ崩 古今めづらしき大変前代未聞といひつべしかく有所に已前御僧の 曰く汝今こと返すべし此上ハ猶々仁義五常を守り家業大切ニ信心怠べからす汝が 家居ハ家内一統無事成べしと曰ひけるあら有がたや南無観世音是全御仏の妙助 なりあら尊候や南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と唱ふる声ニ忽ハ夢ハ覚ニけり 時ニ安政二年卯十月二日夜亥ノ刻より大地震ニ出火ハ四日申ノ刻ニ火鎮り申候 
ゆるがぬ御代 要之石寿栄/ 「仁義礼智忠信孝貞の中に孝行をもって第一とす」と始まる。何事かと思えば、「国元の親たちに我身の無事をしらせて安心さすべし」、そのためにこのかわら版を送れば、親は安心するという。要するに安否情報のマスプロ版である。江戸の災害かわら版には、国元への安否を知らせることが親孝行だとする宣伝文句を刷り込んだものが多く見受けられる。 
ゆるがぬ御代 要(かなめ)之(の)石(いし)寿(ず)栄(え) 仁義礼智忠信孝禎八行の中に孝行をもつて第一とす人界を得て孝なきハ禽獣にたもしか ず鳩に礼有烏に孝あり羊ハひざまずいて乳をねむるとかや遠国他国より江戸へ縁付又は 奉公に出たる人々はやく国元の親たちに我身の無事をしらせて安心さすべし頃ハ安政 二年卯の十月二日の夜四ツ時過俄に大地震ゆり出し北ハ千住宿ゆり 倒れ小塚原やける新吉原ハ江戸丁弐丁目より出火して残ず焼大音寺 まへ田丁馬道焼南馬ミち少々のこる花川戸片かハ焼山の宿聖天丁 半ぶんやけ芝居丁三座とも焼金龍山浅草寺観音の御堂つつがなく 傾きもせず座ますハ大士の智力有がたし境内塔中摂社末社ゆり崩 茶屋丁並木丁大破損駒形丁すハ丁やける駒かた堂のこる 蔵前瓦丁辺一面にくづれ夫より下谷ハ坂本 残らずやけ田甫加藤様小笠原様 大破損六郷様少々鷲大明神 つつがなく一方ハ七軒丁中程より 出火して上野長者丁のこらず 焼上野御山内所々崩れ五條 天神無事池のはた中丁うら 通りくづれおもてどうりも 崩れたる家多し広小路 東がハ焼る同かや丁弐丁 目より一町目まて やける也無縁坂松平 豊之丞様やけ本郷より 湯島切通し出火此所 加賀宰相様御人数をもつて 消口と取ゆしま天神の社 少々破損妻乞稲荷つつが なし扨亦御成道ハ石川 主殿頭様井上筑後守様 小笠原左京大夫様御中屋敷 類焼筋違御門少々いたミ 神田どふりハ少々崩れ今川 橋より日本橋入間所々崩れる 日本ばしより南ハ通丁島東西とも少し野にて 夫より京橋南伝馬町弐丁目横丁より出火 して南鍛冶丁南大工丁畳丁五郎兵衛丁 具足丁竹丁柳丁因幡丁常盤丁鈴木丁 本材木丁八丁目迄やける又芝神明前大崩にて 源[助力]丁露月丁迄高輪大地さけ津波 少々打上る田丁八幡宮大ひに崩れ三田春日・・・ 
十月興行二日取組/ 相撲の取組になぞらえて、地震の際の混乱を表現する趣向。勝敗も合わせて記す。地響―轟(勝印)、湊口―大洪波(引き分け)のごとくである。こうした表現で状況を思い描く想像力が働いたのであろう。 
地震出火 後日はなし/ 番附の形をとりながら、地震で「用いるもの」(はやって、忙しくなったもの)と「おあいだ」(暇になって稼ぎがないもの)との比較を試みる趣向。 
 
行司 貰ひ溜た施行/蔵を震た財布 
年寄 山出しの水口/役者の旅行 
勧進元 家作十工/諸芸遊民 
[用るもの] 
大関 これで安心 穴蔵をたすけ 
関脇 地めん内ニて 立退所そつくり 
小結 くらをはなして 平ラ家の庭付 
前頭 宗旨ろんなし なげこミの花筒 
前頭 御間のよい 恙ない神社 
前頭 焼場方角 読うり 
前頭 出かけた場所も 吉原の仮宅 
前頭 その日その日 かねかり(略) 
[おあひだ] 
大関 おやのなミだ 穴蔵をおとし 
関脇 見るも表れ 一ツ家の額面 
小結 だんだんへる 三階づくり 
前頭 かこゐもいびつ なげいれの活花 
前頭 うるさく来た 御めんのかんけ 
前頭 二階ハけんのん 講談落語 
前頭 ペンともいハぬ 町芸者 
前頭 烏ハがアがア かねかし(略) 
安政二乙卯十月二日夜ヨリ 上下共甲乙なし 
地震方々人逃状之事/ 地震を起こした鯰が一札入れる形を「奉公人請状」になぞらえて、地震後の状況を述べる趣向。鯰が捺印するのを、瓢箪が証人として付き添い、鹿島明神に差し出すものとしている。地震鯰絵のひとつに数えられる。 
地ぢ震しん方ほう々ぼう人にん逃にけ状しやう之事 一此ゆり苦労と申者生得信濃国生須の荘 揺初村出生にて不慥なるふら付者ニ付荒魔ども 失人に相立異変沙汰人諸々方々にゆり出し 申候処めつほう也火災の儀ハ当卯十月二日夜より 翌三日午の下刻迄と相定困窮人の義ハ難渋無住と 相きハめ只今御ほどこしとしてさつま芋三俵はしたにてたべ 申候御救之義ハ七ケ所へ御建じま御恵に逢目島 可被下候事/一鹿島様御法度の義ハ申不及出家の八方相傾セ申間敷候 若此者お台所の女中方の寝息を考へ内証の地震致候歟 又ハゆり逃壁落致候ハハ急度したるかふばりの丸太を 取て早速らちあけ可申候/一愁患の義ハ一連たく宗にて寺ハ夜中ゆりあけ坂 道性寺市中まつぱたか騒動院大火に紛れ御座 なく候御発動切りしたん宗にてハこれなく候 若物音かたつきひあわひより瓦をふらし候義ハ 無之万一ゆりかへし等致候ハハ我等早速まかり出要石を 取てぎうと押へ付野田へ宿労さしかけ申間敷候地震の たびゆつてむざんの如し 
鯰太平記混雑ばなし / 四丁の仮綴本。表紙絵は河鍋暁斎と考えられる。内容は、悪役大鯰が昔度々謀反を起こしたので、鹿島明神が天照大明神の命により、要石で押さえたが、安政2年神々が出雲に集まる留守に一味同心の者たちと謀反を起こした。鹿島神が出雲から引き返し漸く江戸市中の騒動も収まった。地震の騒動を軍記物に喩えた一席読切。 
市中隠士 大道散人戯作 地に居て乱を忘れずとかや爰に八万奈落のぬし鯰ぬら九郎 水底の揺高といへる者おのれか強力無双なるに慢り家蔵堂社 をおびやかし人命をそこね天道に違くことたびたびなれバそのむかし 鹿島太神経津主尊天照おん神の勅を蒙りはせ向て生捕給ひ 土の獄舎に押埋てかんじん要の磐石をおさへとし是を征し給ひしかバ ゆるがぬ御代と栄えけるに時なるかな天なる哉頃ハ安政二年の初冬八百万の神々先をあらそひ出雲の国へ出陣ありし御留守にて幸なれ時こそ 来れと揺高ハ忽に逆意を震ひ謀叛の色を顕ハしつつ会文 をもて味方を招くに兼て期したる一味のめんめん先一番に馳来るハ 飛火野隼太家焼。その火のもえ出しにハ。火おどしの鎧にさしこの兜 頭巾をいただき。火柱の指物膝栗毛の弥二馬にもへたつ計りなる 紅の厚総かけ火勢盛んに馳加ハる二番にハ雷悟路五郎音高 二本角の前立打たりける兜に夕立おどしの鎧稲妻の太刀に虎の皮の 尻鞘がけ黒雲の小馬にまたがり一トぶち打て馳加ハる第三番にハ伊豆 国の住人突浪冠者。出水の太郎を始として異類異形の魔生のめんめん・・・  
江戸前鯰大家破焼/ 十丁の仮綴本。各丁に挿絵が入る。江戸前鯰大家破焼は、蒲焼に懸けてある。当時の道化物のかわら版でも、鯰を懲らしめるために、蒲焼にするという趣向のものはよく見られた。口説節をもとに、江戸の各所の被害を謡いこむ。 
安政二卯年 江戸大地震並出火付 都会の街(ちまた)にちしん番(はん)あれとも 天災(てんさい)ハのかるる事難(かた)く用ひされハ 大鯰も大道(たいとう)に蒲焼(かばやき)となりもちゆる 時ハ地中に尾鰭(をひれ)を動かして世界(せかい)をふるふ かぐつちの神これか為におさきにけれあれ出し たるちうつ腹(はら)火の用心さつしやりませう 
「およそサエエ日本六十四余州(よしう)せかい ひらけて鹿島(かしま)の神のすへたかんじん かなめの石も時としせつハさて ぜひもなやころハ安政二ツのとしの かミハ出雲へおるすをめかけ 大地八万ならくのそこに いけたなまづのまたうこめきて いかりてつよきこんとの地しん 夜るの四ツ時にわかのさハぎ お江戸三千六百余町四里と 四方をミなゆりくつしとこと かぎりハあらおそろしや北ハせんじゆにまた◇◇こつか原西ハしんじゆく いたばし かけて ひがし ふなバし 南のかたハ こいのミなとのしな川までものこる「つきへ」 
「つづき」のこるかたなき地しんのさハ ぎをひもわかきも たたいちどうに火事よ 地しんといふ間も あらで天地しんどう かぜなまぐさくすなを ふきあげ小石(こいし)をふらし神社仏閣(しんしやふつかく) 堂宮(とうミや)がらんのきをならべしその 家蔵(いへくら)ハこなのことくに皆(ミな)飛(とひ)ちり てくづれかさなる音(おと)すさましく右よ 左(ひだ)りとにげゆく人ハおやをうし ないつま子にわかれさきのゆく ゑもあらなさけなやはりに うたれてかしらをくだきかべに うづまれ身骨(ミほね)を折(を)られ まなことびだし血へどをはいて 死(し)ぬる今わの 身ハほととぎす こゑもかれ野になく虫(むし)よりも ほそき命(いのち)やあさ日の霜(しも)と きへてゆく身のかなしさこハさや かれくづるるその町かずをここに「つきへ」・・・ 
地震やくはらひ /三丁の仮綴本。厄払の唄に地震騒ぎを五点謡いこむ。一は、大名づくしで大名屋敷の被害、二は、地震で野宿する光景、三は、鹿島明神が地震鯰を取り押さえる場面を、四は、三職(大工、左官、鳶)など地震で儲かる職人の活況を、五は、吉原が焼き潰れたので、他の場所に作られる仮営業所(仮宅)の繁盛を謡う。 
板本高亭 諸志作 「アアラめでたいなめでたいな大名づくしではらひませうすぎし二月の 御祝義にまちやしきも酒井なくくづれけりし森川や焼てくづれて 身ひとつのからだハ手ぶり小笠原いへも古蔵も内藤や 妻子にはなれ遠藤の土屋かハらのなかよりも堀田を ミれバぬらくらとこれが鯰にハられうかたまたま建部で 井上のいへに郷人が稲葉さまかほハ青山あつがんの 榊原にてやうやうと丸太を甲斐さま戸田さまに かこひの板倉ぶつつけてすこしこころハ安藤の鍋島 ならで鹿島なる神のおたちハ出雲さまやがて帰国の 御参府で世の中しづかにのりこえハさつても目出 たき行列をなまづやろうがゆりこんで供さきやらん とするならバ石でおさへがとんで出どうづきもどきでづしりづしり 「アアラねむたいなねむたいな今ばんこよひのぐらつきに身の用心 とまハりませう一夜あくれバはるならで十月二日さんが日 お門にたてたる松丸太竹のはしらや生死のせうじを かべのとびじまゐ鯰くハづにようようとにげて野宿を するがなる富士より高い土のやま命あつての物だね もはなしのたねとなるかミや親死と火事とぐらつきハ もふこりこりと信濃なる善光寺にハあらねども うへから落たうつばりの牛に引るる身のつらさはやく 鹿島へお飛脚をたのむハ留すのゑびすどのかへすがへすもゆり かへし誓ハかたき要石おおさへおおさへ悦びのおさまる御代ハこんれいの 四海なミ風しづしづといろ直しから大ししんひるもたんすのくハんが なる所へぬらつく外道めハ焼ハら峠の絶頂から津浪が沖へさらりさらり 
安政見聞誌/ 安政江戸地震の際に出た災害ルポルタージュの一種。安政2年の地震の翌春(安政3年3月過ぎ)に出版されたが、発禁本となる。版元所払い、作者、彫り、摺りの関係者は罰金五貫文であった。作者は仮名垣魯文・二世一筆庵栄寿であったが、魯文は名前を表していなかったため、処罰を免れた。発禁の理由は、内容の風刺性よりむしろ、無届出版という統制逃れをあえて承知で行なったことにあるらしい。  
 
政争と民衆の眼差し

 

 
小野コレクション全体のなかで、幕末政争関係のかわら版は、災害に次いで大きなまとまりを示す。これは、かわら版が実際に出版された量にある程度見合ったものと考えることができる。さらに、これに幕末錦絵を加えると、幕末期の政争に関して出版された民間の情報紙誌類は膨大なものになる。この時期の民間出版情勢の、特徴は、事件を伝えるかわら版が単なる伝達媒体から風刺や批判を交えた落書に類するものを出版するようになると同時に、錦絵も絵だけではなく、文字を多用し事件の経過や解釈を伝えるものに変化することである。それが、また、明治初期、既刊の新聞記事から事件を採りだし、新聞錦絵という特異な分野を創り出す流れの前提となるものと理解されるのである。つまり、江戸時代のかわら版、錦絵と明治初期の新聞、新聞錦絵は、媒体としての性質や機能をインテグレイトさせながら、それぞれの系譜を相互に受け継いだものとすることが出来る。このことを、単純化してわかり易くいうならば、かわら版のニュース性は新聞へ、錦絵の絵画性は新聞錦絵へという図式をあげることができる。しかしながら、政治に関わる事柄について民間出版状況が示す様相は、この図式で割り切れるほど直截的な表現をとるところまで展開していない。現実の激しい政争に人々の生活が巻き込まれるなかで、漸く江戸時代全般を覆った出版統制の枠組が徐々に相対化、消滅する過程で漸く事実を伝える社会的意味が問われることになる。 
このことは、幕末の政争に関わるかわら版を追っていくと自ずと明らかになる。市街戦であっても政争そのものを指し示すものは、ほとんど見られず、過去の合戦になぞらえたり、市中の混乱を単なる火事としてしか伝えていない。この理由をどのように考えるかは、江戸時代のかわら版あるいはその周辺の出版物の言説をどう位置付けるかに関わる問題を含んでいる。具体的にみていこう。 
幕末のかわら版と政争 
幕末の政争を伝える媒体としてのかわら版は、その多くが事実としての出来事だけをに伝え、その解説や意味を説くところがない。しかし、背後にある落首・落書の世界を考えれば、人々が手にし、耳にした情報のすべてではなかったことはすでにのべたとおりである。にもかかわらず、徳川の政府も倒れようとしているこの段階においても、なお、一般の人々は、表に現れるニュースの世界で、現実の政治に直接関わる存在として自らを位置付けてはいないかのようにみえる。本当にそうなのだろうか。 
具体的に示そう。このコーナーでは、幕末文久年間の和宮降嫁問題から戊辰戦争の終結(明治2年)までの政争に関わるかわら版を扱う。 
和宮降嫁問題が現実に起きた時期、京都方面で人の口の端に上った事件を年表風に表わしもののなかには、身辺の生活事情、あるいは珍事の羅列はあっても、現在わたしたちが常識として持っているこの間のホットな政治ニュースは省かれている。 
また、元冶元年(1864)7月19日の禁門の変では、御所に砲火が飛び、京都市中は広い範囲で類焼し、市民は洛外に逃れるもの続出という大事件となったため、多くのかわら版が出た。しかし、火事を伝える従来のかわら版の体裁を踏襲するものが大半を占めた。この点は鳥羽・伏見の戦いも同様である。 
二度にわたる長州征伐も戦国期の毛利家の興亡を描くものになぞらえたり、鳥羽・伏見の戦いについても、関が原の合戦になぞらえるなどの趣向で、直截的な表現は採らない。 
この状況に変化の兆しがみえるようになるのは、徳川慶喜が大政を奉還し、鳥羽・伏見の戦いが起きて後のことである。慶応4年2月23日、後の官報たる「太政官日誌」が京都で発刊された。しかし、この第1号は、薩長政府の正当性を内外に主張する一種の政治声明である。翌2月24日には、江戸で幕府開成所教授の柳河春三らによる外字新聞の翻訳記事を中心に編まれた「中外新聞」が発刊された。その第1号の内容は、外国新聞の翻訳とはいえ、朝敵とされた会津藩の征討を巡る情勢分析を載せ、「此度の 朝廷の決定は全く薩摩と長州との決議より出た事なるべし」など鮮明な佐幕派の立場を表明するものであった。 
江戸時代、町触が木版摺りにされた例はきわめて少ないが、3月15日をもって大総督有栖川宮の率いる政府軍が江戸城攻撃を決定したことに対して、軽挙妄動を慎む旨の町触が二点残されている。そのうちの一点は3月2日付けで町年寄役所から出されている。町奉行所から出されたものであるとすれば、こうした類のものをかわら版に含めることを疑問視する考えも当然ある。しかし、江戸が戦場になるか否かの危機にあった時であり、ひたすら恭順の意を表すことで戦闘を避けようとした前将軍慶喜の幕府が出した政治ビラの類の摺物とみなせば、かわら版と同類として括ることも出来よう。 
一ツ橋家臣団を中心とする慶喜警護の彰義隊は、慶喜が上野の寛永寺に入るとそれに従って、浅草寺の屯所から上野の山に移った。彼らは、江戸警護の役割も兼ねていた。したがって、新政府軍が江戸市中の警護にあたることになった江戸無血開城後の5月15日、彰義隊の掃討作戦となった。しかし、依然としてこれを伝えるかわら版のなかには、単に上野の大火事の焼失範囲を示しただけのものが残されている 。 
見立ての世界からニュースの誕生へ 
江戸時代政治向きの出版はタブーであった。禁門の変、鳥羽・伏見の戦い、上野の彰義隊の掃討戦ですら、かわら版には「大火」としてのみ登場する。では、人々がそれを「大火」としてのみ認識していたのかといえば、もちろん、それはそうではない。したがって、政治的事件を「大火」と報ずることは、民衆の無知のゆえではないのである。その原因についても知悉しているからこそ、出版統制の枠のなかでは「大火」と報じ、それでいながら意味していることが相互に通じ合えたのである。しかし、これでは、「近代的」ニュースとはならない。江戸時代は、いかに早く、正しく事件や出来事を伝えるかに第一義的な価値が置かれてはいなかった。隠された意図をいかに探り当てるかに興味や関心を持つ人々を相手にものが語られたし、伝えられた。そして、むしろこの見立ての世界を楽しむことが教養であり、また時には、反権力であった。これは、力による言論統制が生んだ継子であったのだ。だから、少なくとも、戦国の合戦や関が原の戦いに擬さなければならないニュースの作り方、あるいは伝え方を当然のものとして来た観念にある種の回心が起こらなければ、「近代的」ニュースは生まれない。その意味で、函館戦争のかわら版がもはや、過去の戦争に擬せられてはいないのはきわめて象徴的だといえる。漸くかわら版の言説に回心が起きたのである。維新政権誕生の最後の戦いである戊辰戦争においてこのことが可能となったのは、日々刻々と変化する戦況のなかで徳川幕府の瓦解する姿を目の当たりにして、事実とその解釈は全く異なる事柄であることが誰の目にも露呈したからである。つまり、それぞれの立場で表明される政治宣伝は、事実を報じているようで、実は、そうではないのだと。見立ての世界は、凝った趣向が分かり合えることを前提に生まれるミニ・コスモスである。しかし、この繊細な世界は、圧倒的事実の前に崩壊せざるを得ないし、その事実についても全く異なる解釈を以って相争われる緊張関係のなかでは成り立たない。かわら版や錦絵の持つ見立ての世界がそのまま明治の新時代に受け継がれなかった理由は、以上のようなものであろう。 
政治向きの出版はタブー

 

噂の聞書噺之種/万延元年(1860)文久元年(1861)/ 万延元年の大坂では銭相場の値上がり、讃岐金毘羅神社の出開帳、各地洪水・出火、物価騰貴、文久1年の京都では、10月20日の和宮降嫁、出開帳、大稲星(ホーキ星?)出現などの珍事を織り交ぜた一種のニュース年表である。和宮降嫁を除いて、桜田門外の変など同年3月に起きた政治事件は載せていない。いかにも庶民の噂の周辺がわかる内容である。 
内親王和宮様 清水御屋形ヨリ御城御入車/ 文久元年(1861)孝明天皇の異母妹和宮親子(ちかこ)と将軍家茂の婚姻問題は、京都所司代酒井忠義の再三の要請で政治決着。和宮を迎えるため京都へ向かう警護の役人名から、京都での町触、文久元年10月20日京都出発、12月11日江戸着、大奥参内までを綴じ込み、表紙で一旦清水家屋敷で休息、大奥へ入る描写で終わる。 
御上洛ニ付拝領銀被下置候事 文久3年(1863)3月9日/ 将軍家茂(1858―1866在位)は、三代家光以来200年振りに、朝廷に参内のため上洛。文久3年2月13日江戸を立ち、3月4日京都二条城に到着した。家光の例に倣って、京都の町人に、5000貫の銭を与えた。 
禁門の変元治元年(1864)7月19日/ 蛤御門の変ともいう。前年の文久3年8月18日の政変で、長州藩など尊攘派が京都から追放されたが、勢力挽回を図る長州軍が元冶元年7月18日夜から行動開始、発砲した弾丸が御所にも飛び込み、京都警護の会津・薩摩藩と衝突した。闘いは19日1日で終了したが、京都の火災は21日まで続き、市民は都から避難した。かわら版は、幕府や反長州の諸藩から、罹災民に施行が各所で行なわれたことを伝える。この政変についてのかわら版は多いが、紙面から戦闘による火災であることが分かるのは、図のみで、他の五点は、政争のことには全く触れずにすべてこれを京都の大火としか表現していない。 
禁門の変元治元年(1864)/ 戦闘のあったことを絵では描くが、文面は単なる大火として扱う。 
禁門の変 元治元年(1864)/ 地図を使って、焼失範囲を表す。 
禁門の変元治元年(1864)/ 地図を使って、焼失範囲を表す。「戦争場」の貼りこみがある。 
元治元甲子年 七月十九日河原町 二条下ル 御屋敷 朝五ツ時出火四ツ時堺町 御門より焼出シ其より 四方江焼広かり東加茂川 北今出川南焼抜老若男女わか ちなく東山あるいハ山しな北山辺へにげ ゆき其そうどう筆紙ニいたしかたし さが天龍寺山さき伏見出火廿二日火しずまり 
禁門の変元治元年(1864)/ 地図を使って、焼失範囲を表す。作者、版元名が刻されている。 
極本しらべ 元治元年(1864)/ 購入者が、安政元年4月の火事の焼失場所を描きこんでいる。 
京都大火 元治元年(1864)/ 従来通りの火災図で、「極本しらべ」は、火災を伝える大坂や京都でのかわら版の常套文句であるが、江戸では、ほとんど使われなかった。「きわまり、ほんしらべ」と読む。 
平安大火末代噺 元治元年(1864)/画面を分割して、一枚の摺物にさまざまな情報を描きこむことも、大坂や京都発行のかわら版に多くみられる。「末代噺」も、後世に伝えるべきほどの前代未聞の大事件という意味のかわら版の常套語である。 
元治元甲子七月十九日暁かわら町二条下ル辺より出火同四ツ時 堺町御門辺よりも出火益火はげしくして所々へ飛火又同日に 伏見出火山崎辺出火嵯峨天竜寺へ飛火暫時の間に洛中 一面の火と成候様見ゆる市中の混雑筆紙ニつくしがたし老若男女 共火勢ニ恐れ逃げさまよひけが人等も有之由誠ニ希代の大火ゆへ 近在ハ勿論大坂などへも若哉飛火もあらんかと逃支度の 外他事もなく安キ心もなき程の大火也同廿一日七ツ半頃火鎮り申候 
長門の国大火 元治元年(1864)8月4日/ 禁門の変による京都での戦闘で敗退した長州勢に対し、7月23日長州藩征討すべしの幕命が、西国・中国・九州の各藩に下った。しかし、攘夷を主張し、前年の文久3年5月15日を攘夷決行の日として、下関通過のアメリカ、フランス、オランダの船を攻撃した長州藩に対して、フランス、イギリス、オランダ、アメリカの四国が連合して下関砲撃すべしとの合意が元冶元年6月19日決定した。幕府は静観するなか、連合艦隊が、7月27日横浜を出港、8月5日に下関砲撃を開始、長州藩は8日にはたちまち敗退して、休戦を申し入れた。その結果、幕府軍は戦わずして、第一次長州征伐が終結した。このかわら版は、四国連合艦隊の動きを、蒸気船20隻(実際は17隻)が以前より来ていたと伝え、各所での火事の様子を伝えるのみである。事件の原因などを述べることは一切していない。 
長州藩家老首実検元治元年(1864)11月13日/ 四国連合艦隊の下関砲撃で敗退した後、第一次長州征伐の総督に指名された徳川慶勝(前尾張藩主)が元冶元年11月1日大坂を出発、広島に総督府を置いた。長州藩は、福原、益田、国司の三家老に切腹を命じ、幕府への恭順の意を表すこととした。総督府の置かれた広島の国泰寺に差し出された三家老の首実検の様子を伝えるかわら版。こうした、政治的事件がストレートにかわら版になることは、かつてなかった。「実検の節首すこし左り向きのよし」と添え書きがある。幕府側が発行したものであろうと小野は推定している(「かわら版物語」)。 
陰徳太平記新図 慶応2年(1866)6月/ 第二次長州征伐は、広島、石見、九州の小倉の三方から戦闘が開始された。小瀬川を挟んでの広島大野での6月15日の長州軍(奇兵隊)と幕府軍(官軍)の激しい戦闘を描く。洋式の武器で装備された長州軍優勢のうちに戦闘が終始した。これを、戦国期から近世初頭の毛利家の興亡を描く「陰徳太平記」(1712年刊行)になぞらえて描く。 
尼子軍記石州津和野合戦 慶応2年(1866)6月/ 第二次長州征伐戦場となった石見での長州藩と幕府軍との闘いを伝えるが、戦国期毛利家と度々戦を交えた、終に毛利家に滅ばされた尼子家との戦闘になぞらえている。 
御進発供奉御役人付 慶応2年(1866)6月/ 第二次長州征伐の幕府軍の陣容。紀州藩の徳川茂承(もちつぐ)を征長先鋒総督に、32藩に出動を命じた。「進発」とは、将軍が陣を進める場合に使われる用語。この時、将軍病に臥す家茂に代わって慶喜が大坂まで進発。 
慶応2年江戸市中騒動慶応2年(1866)/ 第二次長州征伐の最中、江戸、京都、大坂では打ちこわしが起き、各地で百姓一揆が頻発した。江戸での打ちこわしの様子を伝える図と解説されている。 
鳥羽伏見の戦い慶応4年(1868)1月3日/ 慶応3年10月13日徳川慶喜は大政奉還した。しかし、辞官、納地の処置をめぐり、討幕派と公武合体派にわかれ、朝議が紛糾した。公武合体派に傾きかけた体制を武力討幕へ導くべく、江戸の薩摩藩邸では謀議が凝らされ、挑発された幕府側が、12月25日薩摩藩邸に焼き討ちをかけた。これが決定的となり、武力対決への口火が切られた。このかわら版は、鳥羽伏見の闘いを、関が原の合戦になぞらえて伝えるもの。以下の四点はこの政変をすべて鳥羽、伏見、大坂の大火としてのみ伝える。 
鳥羽伏見の合戦慶応4年(1868)1月3日/ このかわら版は、大坂城の炎上を図でのみ伝える。鳥羽伏見の戦いの最中、徳川慶喜は1月6日ひそかに大坂城を脱出、12日江戸城に帰った。 
江戸上野大火の説 
江戸上野大火(うへのたいくわ)の説(せつ) 時に慶応四年辰五月十五日山下辺(へん)にて 戦争(たゝかひ)はじまり砲(ほう) 戦(せん)はげしくよつて 出火いたし折ふし西南 風にて北ハ根津(ねづ)ミのハ辺 まで焼行しが四ツ時上野ニて 火手をあけ大ひに戦(たゝか)ふゆへに 宮様御立退(たちのき)に相成しかハ官軍 十分に戦ひがゆへに浮浪子(うろうし)大はいぼく して或(あるひ)ハ打れ或ハ手負(おひ)等おびただしく 大半(たいはん)うたれて残(のこ)りすくなになりて何国とも なく逃(にげ)のびけるよつて上野堂塔(うへのとうとう)からん不残(のこらす) 焼失(せうしつ)いたし候其火谷中西ハ湯しま天神下 東ハ浅くさ菊やばしまで南ハ御成道(なりミち)迄焼行しか 火勢(くハせい)つよくよく明六ツ時いまた火しつまり不申候誠に江戸のさう動 上をしたへとさハきける尚追々御しらせ申候 右江戸表より到来(とうらい)のまま書写(かきうつ)しぬ 
太政官日誌第一 慶応4年(1868)2月23日/ 「官報」の前身といわれているが、当初は新政府が発刊した政治宣言の広報紙の性格が強い。発行所は京都の御用書肆村上勘兵衛で、木活字が使用されている。大坂以西の新政府側の諸藩はこれを購入したというが、江戸では、佐幕派の新聞が出され、新政府の広報紙は利用されなかったという。 
中外新聞外篇20上野戦争風説入/ 「中外新聞」は、開成所教授柳河春三らが会訳社を興し、慶応4年2月に発刊した新聞で、横浜の外字新聞など外国新聞の記事を翻訳紹介した。外篇には、これに洩れた記事を拾うとして、同年4月に第1号を出した。このグループは、他に「公私雑報」も発刊し、市井の雑事を扱おうとした。つまり、あらゆる方面の出来事をニュースにしようという姿勢であったものと思われる。6月 五日新聞紙類の無許可発行禁止令で発刊が中止された。 
御触書之写 慶応4年(1868)3月/ 江戸時代には、町触が木版摺りで出されたという記録はみられないが、新政府の御触が木版摺りで発刊されるようになった影響があらわれたものか。江戸に新政府軍が入ってくるという大事件であるから、出された特殊なケースであろう。活字が政治宣伝として有効な媒体であることが、政変の過程で実践的に展開されている。 
彰義隊戦争慶応4年(1868)5月15日/ 図はともに彰義隊の上野での抵抗を伝えるものであるが、図は、「江戸表より到来のまゝ書写しぬ」とあるところから、江戸以外の地、京阪で出版された親新政府軍の立場によるもの。図は、戦闘のことには一切触れず、単なる火災として報ずる。 
頃ハ慶応四年 辰五月十五日朝五ツ 時より下谷広かうじ 辺より出火いたし 折しも南風はげ しく池のはた 仲丁のこらず きんたんゑ んまでやける しり火にて 元黒門丁 二ケ所御すきや丁四丁北大門丁三丁ゆしま 天神下同明丁上の丁二丁目のこらず やける同一丁目四丁目六あミだやける仁 王門前丁のこらず上の御けらいやしき くろ門まえ役人やしき五条天神同所 前丁下谷丁一丁目二丁目はいりやう 
戊辰の役明治元年(1868)11月1日/ 五稜郭の闘いともいう。函館にある旧函館奉行庁舎であった五稜郭に、旧幕臣榎本武揚らがたてこもり、新政府軍に抗戦した戦い。榎本らは新しい政府をこの地に樹立する志であったが、翌年5月政府軍の攻撃を受けて投降。これによって戊辰戦争が終結した。この段階になると、歴史的な合戦になぞらえて話の筋道をつけるといった江戸時代的な表現をとる必要がなくなり、戦闘がストレートに記述される。 
爰に明治元辰年十一月朔日徳川脱走ノ 人艦一艘松前ノ大洋福山より 東南白神洋へ相見へ候ニ付こふ台より ごふはつ発し候処津軽藩ノ旗章押立 候故しばらく見合る折から次第ニ右ノ艦 ちかづき見れば旭ノはた印故炮はついたして よきやあしきやはかりがたく其内脱走ノものと 見切て三熕台一時に打出し賊勢よりも打 火焔漲り夜ノ如く福山勢より四十八斤ノ 大炮賊艦くるまニ当りたちまち 傾覆ノ様子にて逃さり白神ノ岬を すぐる時わづかに一ぱつ打て其まま とふくしりぞき[虫喰]る夫より右艦同日未ノ刻 福山より五り福嶋村海岸へ又々相迫り 兼て出張ノ陳代蛎崎民部惣隊長鈴木鐵太郎 両人尽力防戦いたし申ノ下刻ニ賊艦傾 ついに敗走ニ及ひ同夜脱走勢陸軍ノ 先鋒百五十人あまり知内村出立ハキチヤリ といふ所迄侵入候ニ付福山勢隊長渡辺氏副隊長 目谷小平太一小隊ヲ引率して小舟に棹さし 小田西村より上陸間道進げきあんやに しやうじて知内村に宿陣之賊脱ノ様子を 見るに十分けたい酊飲之体ニ付臨時ノ 計を以高声に大隊すすめといふをききつけ あハてふためく其内にたんぺいきうに打入て ざんじに六十人あまり切たほす内ニ金の ゑぼしに紫の衣を着したものあり是ハ 大将と見うけ候又ふらんす人の死がい二人有 其外手負銃卒分の様子福山勢十分ノ勝利にて 引上ケ此戦争其敵三千余味方 三百人ニて目ざましき戦なり・・・  
 
錦絵のニュース性 / 鯰絵・麻疹絵・戊辰戦争期の風刺画をめぐって

 

 
錦絵は多色摺りの版画で、江戸時代を代表する庶民芸術である。一般には歌麿の美人画、豊国らの描く江戸のブロマイドとも言うべき役者絵、広重や北斎による風景画が、錦絵の代表的なジャンルとして思い浮かぶ。江戸時代末期となると、その技術は極限まで高められて出版される量も益々増え、錦絵は更に多くの人々に親しまれた。 
錦絵を含む庶民出版物の内容は、幕府によって江戸時代中期から統制されていた。19世紀前半の天保改革では、錦絵は贅沢品として特に厳しい統制を受け、使用する色数・内容・値段・販売方法が大きく制限された。このような中、江戸の人気絵師・歌川国芳は改革に対する風刺を込め、三枚続きの錦絵「源頼光公館土蜘作妖怪図」を描く。この作品は国芳が最も得意とする画題の武者絵でありながら、水野忠邦の圧制を暗に批判したものであるとの噂が立ち、大評判となった。版元・絵師は、為政者を風刺する場合は、実在の人物をそのまま描くのではなく、見立物にしたり、戯画的表現を巧妙に使ったのである。錦絵によって、一般庶民に手の届かない幕府上層部の人々への風刺が行われたことで、錦絵の新たな表現領域が拓かれた。 
事件・世相を描く錦絵 
歌川芳虎の画による「道化武者御代の若餅」(嘉永2年閏4月)は、信長・秀吉の築いた統一政権を奪取した家康、つまり徳川政権の成立過程を戯画的に描いた錦絵であったが、摘発を恐れた版元によってわずか半日で自主的に回収されたという。天保改革失敗以降は、権力者たちを巧妙に風刺したもの以外に、江戸の突発的事件も錦絵化された。市井の噂話・事件を印刷物で伝えることを幕府は堅く禁じており、こうした錦絵類も「戯画化」や「見立」という婉曲表現が採られた。 
事件・世相を描いた錦絵は、摺り・彫りともに粗末なものが多い。中には無検閲・作者不明のものもあり、従来の研究史ではかわら版と混同する向きもあったが、形態的には明らかに錦絵である。幾つかの工程を省略したため、早く、大量に流通させることが可能となったのである。描かれた事件の内容の理解を助けるため、絵の周辺には大量の文字が書かれ、以前からある絵草紙などによく似た画面構成となっている。そこでは事件を速報的に伝達すると共に、その解釈もなされている。これは「錦絵の瓦版化」ともいうべき状況であった(吉原健一郎「落書というメディア」教育出版、1999年)。このような江戸の世相や事件の経過を描いた錦絵は、「鯰絵」にみることができる。 
鯰絵の画題変化の意味するもの 
安政2年(1855)10月の江戸安政大地震の後、約2ヵ月間にわたって、鹿島大明神と地震鯰の俗説を題材とする、いわゆる「鯰絵」の大流行現象が見られた。鯰絵には様々な図のものがあるが、鹿島神が地震鯰(これは地震を図像化したものである)を叱責しているもの、地震で被害を受けた人々が地震鯰を殴っているものが目に付く。ところが一方で、地震鯰が地震で仕事の増えた職人たちに歓迎されたり、地震鯰が金持ちを懲らしめている絵柄のものもある。このように鯰絵には、地震鯰に対する扱いが全く逆のものが見られるのである。これは、以下のような地震後の江戸社会の状況に原因があると考えられる。 
余震は10月には頻発し、その恐怖は江戸とその周辺に居住するすべての階層の人々に共通であったことが、当時の史料から知られる。そのため、鹿島神に地震鯰の鎮圧、つまり地震の鎮静を期待した「護符的鯰絵」が地震直後には多く出回ったと推定される。この様な「護符的鯰絵」は、地震の張本人である地震鯰が明確に「悪者」として描かれ、鹿島大明神が地震鯰を平伏させたり、鹿島神宮の御神石「要石」を以て抑え込んでいる画面構成となっているものが多い。そして、災厄よけのための呪文である「さむはら」や、地震よけの歌も書き込まれているのである。余震が頻発する中、鯰絵には地震よけの護符としての役割が期待されたのだ。 
余震もやがて終息し、地震直後から始まった江戸の再建は、一時的に復興景気を生んだ。瓦礫撤去・土はこびを中心に多くの江戸庶民に仕事の口が増え、俄大工も生まれた。これに伴い、鯰絵の内容は大きく変化する。一時的であるにせよ、復興景気をもたらした安政江戸地震は、結果的に「善きもの」であると多くの人々に認知され、鯰絵の中の地震鯰は「世直し鯰」として描かれ、中には「流行神」的な扱いを受けているものさえ見受けられる。つまり、地震鯰は「災厄の象徴」から、福をもたらす「世直し鯰」へと変わったのである。  このように、鯰絵を丹念に読み解いていくと、地震による破壊から復興景気の進展という一連の事件の推移を、「ニュース」として、多くの人々に伝えていく効果があったと推測できる。「地震は世直しであった」という意識は、鯰絵を買った多くの人々に共有されたのである。しかしまた、鯰絵には復興景気を謳歌する人々への痛烈な風刺も見られる。地震で大損をした人々は、このような鯰絵を見ることで溜飲を下げ、儲けた人々も自分たちの俄景気は、生命や財産を失った多くの犠牲者によって得られたものだということを読みとったと考えられる。 
錦絵のちから 
鯰絵大流行のあとにも、江戸の世相を巧妙にとらえた錦絵が出された。特に文久2年(1862)の、江戸での流行病を題材とする「麻疹絵」は、麻疹の民俗を巧妙に取り入れて大流行した。麻疹絵は護符としての役割や、病気治療の情報の提供に重点が置かれており、実用性が重視されていた。麻疹絵も鯰絵に劣らぬ多様性を持ち、人々は多くの麻疹絵を買うことで、麻疹に効く食べ物を用いた民間療法や、麻疹神にうち勝つためのまじない・麻疹よけの歌などの情報を集めていったのである。 
さて、維新期の幕府と薩長政府の政争に題材をとった戊辰戦争期の風刺画も、近年注目を浴びている。例えば、子供たちが遊んでいる様子の中に、権力上層部の政争を巧みに描き、庶民に伝えたものなどである。描かれた子供達の服には各藩を表す意匠・特産物などが描かれ、江戸の人々はそれぞれの意匠を見ただけで、その意味がわかったのであろう。ここでも政治権力にかかわる情報は戯画的表現や、子供たちが遊んでいる絵への置き換えによる婉曲表現を使って伝えられている。版元は、この様な伝統的ともいえる手法をとらなければ、政治的情報の流布は不可能であると判断したと考えられる。逆に、その様な表現をとった錦絵であれば、当時の人々は敏感にその意図を察知し、何かの隠された情報があると見て、こぞって買ったのであろう。幕末期の政治的混乱を題材とした戊辰戦争期の風刺画は、無検閲・作者や版元不明のものが大半であり、現存するものだけでも優に百種類を超える。政治的な題材を扱かった錦絵がこれだけ出されることは、過去にはなかった。一点ごとの情報では政局・戦局の情勢は見えてこないが、次々に出版される数多くの錦絵を見ていくことで、当時の江戸市民は情報を理解していったのであろう。 
錦絵による事件の描き方は、現代の我々から見れば、荒唐無稽に思えるものも少なくない。江戸時代、平穏な生活を脅かす事件が起きた場合、錦絵はそれを伝達することで、事件の解釈の手がかりを与え、時には呪術的な対応策すら示した。情報は直接的には書かれていないが、同じ事件を扱った錦絵を幾つか読み解くことで、事件を解釈する精度は上がっていく。人々はこの様な回路を経て事件へと対応し、日常性を回復した。幕末期には錦絵の情報が、そのような大きな役割を果たしたと考えられるのである。 
風刺画

 

鯰の掛け軸/ 復興景気で多くの人々が潤うと、鯰絵の中の地震鯰は、「悪者」から「善き者」へと180度変わり、鹿島大明神になり代わって絵の主役となった。多くの被災者が、劇的に変化する鯰絵を見て、地震は「世直しである」と確認した。だが鯰絵には、復興景気を謳歌する人々への痛烈な風刺が見られることも無視できない。損をした人々は、それを見ることで溜飲を下げ、儲けた人々は、俄景気は生命や財産を失った犠牲者のおかげであるという事実を感じとったのである。 
そもそも是ニ奉掛一軸ハ 鹿島要之助地震ニ筆を取て 画せ給ふ一ぢく也天動七度地しん 古代より度々といへ共頃ハ元禄 十六年十月 二十一日のらりくらりとゆり始め もうかんにん要之助大石ニて取ておさへしの 近頃信州京都大坂の地しんひようたんなはなしの やうに聞伝ひ此度之地しんニ大驚き 鯰てすべつて火事上る是等のうなき すくわんか為要之助地しん筆尊像也 一度拝する輩家けう出情酒を鯰 なら家を鹿島と守る尊形也 霊宝ハくらりくらり 
大津ぶれぶし/ 鯰のたいこもちが、三味線に合わせうかれ踊っている。絵の上部に書かれた戯文は、地震によって多くの人々が潤い、金持ちの財貨が貧しき者に分配された社会状況全体を戯画的・冷笑的に描いている。この様な諧謔的要素も、鯰絵の特徴である。 
たいそふおしつぶれ 火事出来たいがいゆりくずし 仮たくおやまハ無事(ぶじ)の花 わらんじハ高(たか)くなり 土蔵の鉢(はち)まき皆(ミな)ふるひ ぎやうてんし 土をばたかくつみあげて あら木の板(いた)も直売して金もうけ 職人手間をバおさへ取り 役者(やくしや)のこんきう旅(たび)を売(う)り かね持ほどこし跡(あと)よからふ 
大鯰江戸の賑ひ/ 鯨に見立てた地震鯰が小判の潮を吹きあげ、人々が歓喜する。地震よけのまじないや鹿島大明神は、画面から完全に姿を消している。護符的な鯰絵は、余震が終息して復興景気が盛り上がると、その役目を終え、変わって復興景気と世直しを謳歌する鯰絵が好まれた。 
鯤鯨(くじら)は七里(ななさと)を潤(うるほ)ハし 鯰(なまづ)は四里四方を 動(うご)かし諸職(しよしよく)の腕(うで)を 振廻(ふりまハ)させ自在(じざい)に儲(まうけ)さする うへ銭車(せにくるま)のめくりよくして 富貴草(ふうきくさ)の花をちらし生芝(おひしバ)の 芽出しを茂らせ貧福(ひんふく)を 交(まじ)へて正斧(しやうきん)を下(くだ)すとかや・・・ 
難儀鳥/ 大地震後の復興景気により、潤った職人たち。鯰を肴にいっぱいやっていたところ、難儀鳥が鯰をさらっていく。この難儀鳥、よく見ると、地震で損をした色々な職業の人々の商売道具で構成されている。彼らの恨みが集まって、難儀鳥を生んだのだ。地震で儲けた職人達を風刺すると共に、俄景気の終わりを暗示するものとなっている。 
幼童遊び子をとろ子をとろ/ 子供の遊びになぞらえた、政治風刺画。慶応2年2月の検閲印があり、江戸城開城(4月)前の情勢をあらわしている。服の意匠から左側は幕府方であるとわかる。右の子たちは整然と並ぶが、左の子達は足並みがそろわず、何やら相談している。この様子から、新政府有利という情勢が読みとれる。 
入用御間商売競/ 安政地震で仕事が上がったりの人は「お間」(おあいだ)といい、地震で一儲けした人は「入用」(いりよう)といわれた。入用の人達は地震鯰に味方し、お間は鹿島大明神に与して争っている。両者が拮抗する姿は、地震の復興景気が広まり、地震が「世直し」だと感じる人が増えてきたことを示している。 
妖狐伝/ 囲碁の勝負によって、幕府方と京都方の政争を描いた風刺画。公家風の人間は明らかに天皇を表しているが、徳川慶喜は間の抜けた異国人風に描かれている。外国人に描くことで、「外国かぶれ」という意味を込めたのであろうか。「しろをおわたし申す」とのセリフから、江戸開城に近い時期の作品と推定される。 
大平安心之為/ 鹿島大明神に対し、地震鯰が平伏している図。左上の災難避けのまじない 抬 (さむはら)は現在でも使われている。横で吉原の花魁も鯰を叱責している。吉原も壊滅的被害を受け、多くの女性が圧死・焼死した。華やかな遊郭が無惨に破壊された姿は、見る者に災害の悲惨さを痛感させたに違いない。 
長者金の病ひ/ わが身一つが財産の庶民と違い、富裕者は多くの資産を破壊された。いつの時代も「富む者は更に富み、貧しき者は更に貧しく」という不平等は同じであった。本図で、糞便や嘔吐物に例えられている金持ちの財貨は、それらが正当な手段で貯えられたのではないことを象徴している。 
瓢箪/ 地震後の復興景気で儲けた三職(大工・鳶・左官)が女郎を呼んで豪遊中。一方、隣では、地震で家や蔵を失った金貸しが、貸した金の回収を心配している。本図の瓢箪で鯰を抑える図柄は、東海道の大津宿付近の土産絵である、大津絵の代表的画題「瓢箪鯰」からとったものである。 
自身除妙法/ 地震鯰たちを見おろし、威圧する鹿島大明神。絵の右下には災難避けのまじないが見られ、鯰絵に地震避けの護符としての機能が期待されていたことが伺える。余震の続く中、多くの江戸庶民が「鹿島大明神の護符」としての鯰絵をこぞって買い求めたのである。 
鯰にのる伊勢の馬 / 地震で助かった人の服の袂には、伊勢の神馬の白毛があったという噂にもとづく鯰絵。普段から善行を積んでいた人は、神意によって助かったのだとする内容の鯰絵もある。 
新吉原大なまずゆらい/ 大鯰と小鯰の親子を殴りつける花魁達。鯰親子を左上から助けにきたのは、地震で儲かった大工・鳶・左官たちである。吉原遊郭も地震によって大被害をうけたが、いち早く仮営業を開始、江戸の復興景気が盛り上がると、儲けた人々は吉原に戻ってきた。そのため、花魁や遊女が地震鯰を歓迎する鯰絵も出版されている。 
為麻疹/ 文久2年(1861)江戸ではしかが流行を題材とする錦絵が多数出版された。それらは現在「麻疹絵」と呼ばれている。本図内の麻疹絵を売る男のセリフ「上下そろいまして十文で六せんでござい」は、麻疹絵の値段を示すものとして貴重である。  
 
ニュースという物語

 

 
「ニュースの誕生」という主題をもって描きだすべき〈ニュース〉とは何か。ニュースが日常の会話に気軽に使われる普通の言葉であることが、かえって問題を扱いにくいものにしている。歴史社会学的な分析においては、さまざまな概念すなわち言葉の誕生それ自体が、メディアの歴史的な重層がつくりあげる情報空間のなかで実証的に解明されなければならない現象である。ブルデューがその方法論の著作で指摘した通り、時代に縛られた常識的で直観的な説明の無自覚な還流を批判しつづける「認識論的な切断」の明確な戦略なしには、概念そのものの歴史性を対象化するのはむずかしい。 
〈ニュース〉概念をどう設定するかについて、じつはこの図録に参加している人々のあいだでも、理解に隔たりがあるだろう。一方には「事実性」「速報性」「定期性」を歴史的に確立させてきた新聞ジャーナリズムの情報世界との連続性を踏まえ、ニュースの誕生を新聞的なるものに対する認識の成長と重ねあわせて明らかにしようとするとらえ方がある。他方にはむしろ現代のわれわれが空気のように呼吸している新聞紙経験と報道システムの自明性の強い連続性の外に自覚的に出る戦略を方法的に追求しない限り、ニュースとは何かを問う問題そのものが成立しないだろうと考える立場がある。 
ぼく自身の解釈では、ニュースは、事実の速報とか「新しく聞き知ったできごと」というメッセージレベルの規定に還元できるものではなく、また新聞のようなメディアレベルの概念と単純に結びつけられるものでもない、それ自身がひとつの「できごと」である。エドガール・モランが女性誘拐の「オルレアンのうわさ」を、「できごと」の社会学の分析対象としたのとほとんど同じような意味において、である。 
「ニュースになる」ということは、われわれが感じる以上に、複雑なメディアや制度の作用の重層のうえにはじめて成立している。ニュースという単語の本来の語義は、文字通り新しさの名詞形でしかないが、しかしそれだけでこの「できごと」の形や質をとらえるのは単純にすぎる。ある情報がニュースとして、何を媒体にどんな感覚論的な形式を与えられ、どのように伝えられ、あるいは伝えられず、どのような主体に受け止められ、またどのような身体から作り出されるか。それらひとつひとつが、あらためて測定されなければならない社会生態学的な観察課題である。ニュース誕生の現場から多方向に引かれうる論理の補助線を丹念にたどるなら、事件という概念を彩る「新しさ」の感覚そのものの歴史的な存立構造を明らかにすることすらできるかもしれない。 
だが問いは、まだ問われ始められたばかりである。かわら版を疑似号外として新聞史の前史に位置づけ、新聞錦絵を多色刷りの疑似新聞もしくは新聞亜種として創世期のエピソードにとどめる。そうしたいわば新聞史中心主義的な歴史記述が不十分であることは明らかだが、その不十分さを批判した先に、いったいどのような描き直しが可能なのだろうか。 
ニュースという「できごと」の創造をささえる〈物語〉の視点は、その重要な補助線のひとつである。 
かわら版の物語 
かわら版の「嚆矢」といわれてきたものが、「大阪物語」という戦いの物語と深く結びついているのではないかという北原糸子氏の発見(本図録「かわら版のはじまり」参照)は、じつに興味ぶかい。かわら版が伝えたであろうニュースと、物語と呼ばれたものとの強い関連を暗示するものだからである。さらに模刻という形で絵が引用され、くりかえし発行されたことも見落とせない重要な事実である。 
かわら版による情報の「伝達」をささえた物語は、書かれ印刷された文芸であるという以上に、技をもつ声によって読まれ演じられた場の芸能のなかにやどるものではなかったか。読売(もしくは呼売)というかわら版の販売形態を、リテラシー(読み書き能力)の低い社会における情報商品のありようとのみとらえるきらいがあるが、声というメディアそのものが立ちあげる読者の想像力の場の問題として、物語という視点から解読することも重要であろう。書かれ刷られたもの(印刷文字の文化)と語られたもの(声の文化)との関係は、俗流マクルーハニズムが描いてみせるほどに単線的に切断された発展段階を構成してはいない。 
それは、相互に転移し増殖し融合し重層しつつ、ダイナミックに展開する身体的・集合的な言語文化の多面体として、われわれの歴史のなかに現れる。その対象化の営みを芸能研究と名づけてしまうのは不用意だとしても、口説や歌謡から講談・漫才の舌耕、見せ物の口上、流行り言葉づくりまでをつなげつつ、物語の力を論ずる用意は必要である。未完成にとどまったとはいえ発生期の民俗学が「口承文芸史」として、あるいは「新語論」として論じようとしたのは、そのような場を含みこんだ言葉の根元性であった。ニュースという物語への問いは、そうしたコミュニケーション史の声の地層を浮かびあがらせるのである。錦絵文化の明治的な展開である新聞錦絵において、戯作者たちが工夫した文章のいくつかは、声の読解力の利用を計算に入れているようにみえる。 
焦点の形成と情報空間 
第五室の展示は、情報のカオスにはじまって、安政の大地震に向かい、鯰絵の描きだした意識の多元性を経て、やがて明治と名付けられる近代の情報空間へと展開していく。かわら版と新聞錦絵の世界を貫いて、災害と戦争という焦点を浮かびあがらせるいくつかの話題を配置しているのは、それなりの理由がある。それもまたニュースを物語として解読しようという補助線の意味にかかわると思う。 
ベネディクト・アンダーソンは、新聞が「一日だけのベストセラー」であって、翌日には価値のない古紙になってしまうという、われわれの近代の日常にとっての「当たり前」それ自身の異様さを指摘した。その「当たり前」は、まるで朝の礼拝のように「虚構としての新聞を人々がほとんどまったく同時に消費(「想像」)するという儀式」の創造と、ニュースというものの「新しさ」を測る世俗的で普遍的な世界時計の国民国家における成立とに依存している。まさしくその意味において、純粋な理念型としての「ニュース」は近代の情報空間に内属している。 
しかしながら、さらに誕生の起源までを問うわれわれは、物語論の示唆にそって、アンダーソンの把握をもう一段遡ってみなければなるまい。そのとき、「消費する」あるいは「想像する」という実践に一定の焦点をあたえるできごととして、災害と戦争とが情報の社会的生産および流通に果たした役割がテーマ化される。もちろん正確には、災害と戦争そのものが、という本質論的な曖昧さにおいてではなく、災害と戦争の語りかた・語られかたが、と物語論の戦略を内在させつつ論ずるべきであろうけれども。残念なことに、安政大地震や戊辰の内戦、西南戦争から日清・日露の語られかたに踏み込んで、もうひとつのニュースの誕生を構成するほどには、手元に集まった素材はぶ厚くも緊密でもない。むしろ問題提起の段階にとどまっていることを、正直に認めるべきだと思う。しかし、たとえばかわら版を通じて、あるいは鯰絵のなかの、大小さまざまな物語において語られる「事件」としての災害や、内戦から国家の戦いへと制度化していく戦争とが、共通にまなざされることで情報世界につくりあげた関心の構造は、アンダーソンの鋭い近代新聞分析の、もうひとつの基層を構成している。 
引用の生産性 
〈物語〉をひとつの枠組みとして、その論理の示唆にそってニュースをとらえ直す見方は、ある意味では「流言蜚語」や「うわさ話」分析の枠組みに思いのほか近づいていく。もちろんそこでのニュースと流言との関係は、マスコミ研究の一部でなされた問題設定のように、事実と虚偽という対立的な位置づけではまったくない。 
話し手が関心をもった素材を、その場にあわせて自由に引用し組み合わせる流言生産の基本文法は、じつは初期新聞の自由自在の「書抜」や「引用」とも呼応している。さらには、見栄を切った芝居の舞台を思わせる新聞錦絵の話題や構図選びに重なるばかりでなく、奇談のかわら版・錦絵をつくりだしていく文化とも近しい。 
新聞という新しいメディアの場が幾重にか入りこんでいる西郷星のうわさや、毒婦をめぐる物語のインターテクスチュアルな展開が見せてくれるのも、引用という主体的な行為によって織りなされた歴史的な情報世界の一断面である。文字的な「情報」だけでなく、視覚的な「表現」そのものも引用され、重ねあわせられ、複製されていくことにも注意しなければならない。それは伝達のプロセスではなく、生産の現場であった。それらの重なりあうくりかえしが作り上げる「型」ともいうべきリアリティは、ニュースという物語生成の重要な素材である。 
目の感触 
視覚という身体感覚のレベルからもうひとつ、論点を付け加えておこう。 
いうまでもなく近代の新聞は、文字を中心に発展していった。なるほど一方で絵入り新聞をはじめとする小新聞のわかりやすい啓蒙がつけ加わった事実は忘れてはならないが、基本的には新聞は文字中心の単色のメディアであった。それに対し、新聞が開いた情報世界の断片を引用しつつ、錦絵による多色刷という複製技術を駆使してつくられた新聞錦絵の色合いは、それ自体が新しいインパクトではなかったか。とりわけ「東京日々新聞大錦」の画面を枠づける赤のインパクトは、新しいひとつのジャンルの生成を人々の目に感じさせたにちがいない。 
錦絵という複製文化自体が、18世紀後半の新しい発明であり、それがベンヤミンのいう複製技術時代の情報空間の特質形成にとってもっていた意味は、基本的に大きいものであった。新聞錦絵の新染料の赤によって強調された強い枠取りは、内容として伝えられた血なまぐさい事件の「血」の赤と共鳴しながら、その色自体がひとつのメッセージであった。その色づかいのインパクトが、たとえば双六のようないわゆる「おもちゃ」の領域に引用されていくのも、おそらくはその新しさの知覚ゆえである。かつて柳田国男は、手毬歌のような遊び歌には、すでに意味もたどれなくなった古い知識が声の形で保存されることがある一方で、存外に新しい見聞が面白さの力を求めて引用され、印象深い断片として織り混ぜられる事実を指摘している。 
東京日々新聞をもとにした新聞錦絵が、そのまま引用されてミニチュア化されていることにも驚くが、冊子体で売られた新聞錦絵などは、かわら版が冊子体で流通した事実とも重ね合わせる必要があろう。さらに決まり文句のようにくりかえされた「しん板」という新しさの強調は、どんな商品性と結びついていたのか。おもちゃ絵と括られている資料群もまた、われわれが対象化しようとしているニュースという物語の誕生と無関係な領域ではない。 
メディア史の興亡 
新聞錦絵の誕生の経緯だけでなく、そのニュースメディアとしての終焉をいつに指定しどう説明するかも、大きな課題である。多色刷木版メディアとしての錦絵の生産力と、しだいに確立してくる新聞システムとの速報性の差異や情報容量の比較は重要な論点だが、製作者や読者がなぜそうした情報を求める姿勢をもつにいたったのかは、それ自体が独自の実証と解明を必要とする近代の物語である。 
「錦画百事新聞」のような一部の新聞錦絵は、「錦絵新聞」と概念化し分類するにふさわしい定期的な報道を早い時期から志していたと思われるが、もともとが絵草紙屋の新企画であった新聞錦絵のどれだけ多くが、勃興しつつあったメディアシステムとしての新聞と対抗しうる質をその内部に形成しえたかどうか疑問である。定期性という特殊な時間意識も、その質の一つであろう。しかし同じ月の改印をもつ新聞錦絵の存在点数から類推される高い密度や、総点数と期間から割り出される平均の頻度からみて「継続性」さらには「定期性」のように見えてしまう発行の密度が、新企画商品の「流行」という実態からどれだけ踏みだしたものかも、確かめなければならない。一見継続性や定期性のように見えてしまうものが、じつは素材とした新聞のシステムに内在したそれの疑似相関(spurius correlation)でしかない危険性も混じっているからである。 
しかし新聞錦絵の流行期を過ぎてなお、錦絵はニュースを描くメディアであることをまったく止めたわけではなかった。1898年(明治21)7月の磐梯山の噴火は、同じ月の届を有する三枚続の錦絵を残しているし、日清と日露の戦争は「戦争錦絵」と呼ばれるようになる分野を成立させた。横山源之助が日清戦争の当時「毎日新聞」紙上に載せた社会観察の中に、絵草紙屋の店頭に掲げられた数多の錦絵を前に、戦争の話題を交わす風景がとらえられていた。職人の一人は「牛荘の戦争と来ちゃ盛んなもんだ」としゃべり、母親に連れられた娘が「オオ怖わい事、敵の国はあれほどひどい事をするの」と話しかけ、「李鴻章メ、生意気な面して居やがる畜生ッ」と小僧が気焔を吐く。横山は、それらに耳をそばだてつつ「今日の如きソラ戦争ヤレ媾和と言える大問題の現われ居る現時代において、東京生活社会の民人がこれに対する思想如何を知らんと欲す」るのであれば、「絵草紙屋の前が最も妙なり」と説く。現実の戦場を知らない人びとが消費した「戦争」のイメージのなかに、後に視覚報道の世界の中心に据えられるようになる網点の写真とは異なる、色鮮やかな戦争物語の描写があったのである。美術という概念の近代性に縛られた研究が、俗悪という周縁に追いやって見ようとしなかった錦絵の系譜がそこにある。 
やがてニュースという概念を印刷メディアのうえで独占していくかにみえる新聞というメディアとの関係でも、改めて論じなければならない主題は多い。新聞付録は、まさしく付録という従属的な意義しかあたえられてこなかったけれども、それが新聞錦絵やかわら版の表現形式を飲み込み、時に号外に接していく構造も論じられなければならないだろう。 
新聞という新しいメディアが、どのようにそのシステムに内在する「ニュースの近代」の特質を現実化していったか。メディアとしてのかわら版や新聞錦絵がつくった物語の世界がその立ち上がりにどのように作用したのか。まだ問われはじめられたばかりなのである。  
赤のインパクト

 

 
新聞錦絵が切り開いた新しい情報世界の視覚的なインパクトを象徴するのは、なんといっても鮮やかな赤色である。その一つが画面を縁どるあざやかな赤で、もうひとつが血なまぐさい事件と結びついた人間の血の赤である。末期錦絵の頽廃・俗悪化の象徴のようにいわれるこの新時代の染料の衝撃は、またニュースの色でもあったのである。  
東京日々新聞第919号/ 上州と信州の境、碓氷峠で夫婦の強盗が旅人を斬殺し金を奪ったという話。鉈に残った血糊から発覚したということだが、頭を割られて流れ出す血の濃淡が、リアルに描かれている。 
去年十二月二十日の/頃信州上田の/旅商人/なにがしだか一人碓井/峠にさしかかりしに此/山中に住炭焼のおのこ/彼の商人の懐中をものせんと夫婦/の者とも云ひ合せ/人無きおりを幸ひと/かの商人を、手に持し/ナタおつかつて斬り/殺し所持の金子を/奪ひ取りあらため/見しが思ひしよりわづか斗りとあきれしも/知る者たえてなかりしが/天網いかで免るべき彼の鉈に血の付いたるより/此事既に露ハれしと実に畏るべし畏るべし 
東京日々新聞第919号/ 上総の市原の近郷随一の富豪のスキャンダル。絵に描かれているのは記事前半の山場で、姦通相手の女(本家の財産横額を狙う人物の妹)と本家の妻との斬り合いの場面。妻の腕や障子の血の手形が生々しい。 
上総国市原郡新生村の佐久間/十郎左エ門ハ其辺にてハ一と云/ふて二とハ下らぬ富家なりその本/家の佐久間忠七を押し倒して其財産を/押領せんと兼て折を伺かひ待しに忠七ハ淫欲/ふかき男なれバ十郎左エ門が妹と奸通したり/けるを其妻それを聞つけて怒りに堪へず抜刃を提さげて十郎左エ門が/宅に来りその妹に切て掛り数ヶ所の疵を負ハせけるが幸ひ/に浅傷なれバ命ハ多分助かるべし扨も彼の十郎左エ門ハ暗に是/を喜び忽ち一計を案じ此度の始末を県官に報知せしかバ忠七外/両人とも忽ち捕縛に就たりしに付一笑談あり此辺貧窮なる/者のミなれバ年々貢租の金に差支ゆるより遂に十良左エ門が/喰ひ物と成り生活行立かたきを以て村民ども日日に彼地此/地に集議ぎして訴状を作り十良左エ門ケ暴行奸計を数へて/県庁に告控せんとするの様子を聞知りて十郎左エ門/大いに驚き早くその手廻をすべしと/思ひ走りて県治に至り只何ともなく頻/に御事宜として歩行けれバ県吏ハ/彼が同姓の者此節まさに獄に下らんとする/の趣なれバ必らず其罪を贖ハんとの意なる/べしと誤認して遂に是が為に忠七等三/人を赦したり十良左エ門案に相違し益々/憂悶したれども今さら詮方無かりしとぞ 
東京日々新聞第833号/ 巡査が揚弓屋の女三人を殺した事件。切り落とされた首が二つ、男も血まみれである。同じ事件を仮名垣魯文が「仮名読新聞」に書き、それが脚色されて大阪で舞台にかけられたという。 
揚弓の曳手許多の客取ハ、芝太神の/社内にて百中争ふ恋の的、甲乙も覘う婀娜/者の、お蔦におみつ、お竹とて、三女を姦といふ字義に因みて/是も三大区の巡査を奉職る身なりせバ物の道理も辧べき/を淫情の闇に踏迷ひ登詰めたる青山の南町なる下宿に招き酒宴に/托す手料理の疾刃合して待ぞとも、白歯の娘三人が命ハ夜半の/凩の果ては泪に/散る楓淋灘/る血汐の紅ハ/閑室中に敷つめ/し錦織熊吉が/暴挙に及んで/捕れしは明治七/戌年十月二十二日/なり 転々堂主人記  
東京日々新聞第865号/ 村の犬が、女の切り落とされた首をくわえてきたのが、事件発覚のきっかけであった。殺害した死体を隠す場面と、犬が見つけてきた場面とを組み合わせて、事件を複数の場をもつ一幕の物語として伝えている。 
日向国高千穂山ハ/神代の古蹟なり。此山中の/高千穂村ハ素より頑固土地/にして。人の心も直からず米さへ/なくて常に食ふ物ハ/粟稗のミなるよし。其村内の農民に/儀太郎と呼者ありしが。妻ハ過し日世を去/りて独り詫しく暮しける。又此近傍へ折々/来て古衣商ふ女あり。儀太郎兼て知己なる/にや。明治七年4月の上旬。或日晩景彼の女。/風来て泊り/を依頼しかバ。/心能承知て。其夜女を殺害/し。所持の金銭品物を。/奪取ども四隣さへ。/遠く離れし一軒家。/誰知る人も嵐より/実におそろしき人心/無慙といふも愚なり。夫より半月余もたちて。此村内の/飼犬が女の斬首咥て来るに。人々驚き。其所此所と詮索/なせしに儀太郎が厩の後に見馴ざる女の死骸を荒菰に。/包ミてありしを/見出て俄に県廰へ/訴へけれバ、即時儀太郎は/捕縛ぬ。鳴呼我神国の徳たるや。/天此犬を以て兇徒が隠悪を。亮然/たらしめしハ恐るべく又尊恭べき/事にこそ。 墨陀西岸/温克龍吟誌 
新聞図会第9号/ 老母と妻子が斬殺された事件。家に古く住む蛇を打ち殺したたたりとして説明され画面にも描かれているが、目をひくのは男の足やふすまにべっとりとついた血の手形である。大阪の新聞錦絵もまた、枠の赤と血の赤とを引用している。 
下京廿二区八坂上清水三丁目/画師浅井柳塘ハ他処にかせぎに/行し跡にて此家に身を寄せる武田信一といふ男妻子とともに留宅/を守りしに主の許よりおこせし一封ハ古郷を思ふかなふミの/てには余して此男家内へよんできかするに真実かくれ内證と/封じ込たる養ひ金見るより男ハ悪念発し一人寝詫が/女房のみさホに/揖をとりそへ/てくどきよるべの恋風を/真受けによけるをくりかへしとりたる/心の悪工ミかなヘハ金を我が物に/なさんとするに仕果てかね横分別の/一卜腰に老母と妻子両人を世ハ/転変の七ころび八坂のつゆと/切害し金と衣服を奪ひとり家に/火をかけ逃んとせしも早く聞へて/縛られたり是この家に古く棲む/蛇を嫌ふて打殺せし穴から事を/引出せし長物かたりハ省て記ス 文化陳人誌  
新聞図会第2号/ 巡礼の家族づれが、旅の金をねらった宿の主人に騙されて殺害された事件。見栄をきっているかのごとく立つ殺害者と、切り殺されて血のなかに倒れた夫婦、命からがら逃げ出す娘のいずれもに、衝撃的な赤が使われている。 
奈良縣下長谷寺近傍/にて西国霊場巡礼の/殺害されしハ一月の/二十九日の未明にして/夫婦に娘と/三人づれ路/用の金貨ハ/三百円蓄へ/あるに眼の眩む宿の主人の欲心/から嘘を月夜のからすをバ夜明に近しと三人を出立/させしハ奸計にて途中に待と白浪の宿の亭主に暴殺/された其時金貨を懐中せし娘ハからき命を助かり/さまよひながら漸と人家を尋到りけれバ豈図や元の宿也/やがて委く様子を物語る傍に聞居る富山の薬商大に/宿を怪ミて娘に言含め一計に当り宿の主其夜に官吏より/縛せられしと 猩々堂誌 
絵解きとしての新聞錦絵

 

 
新聞という明治近代の新しいメディア情報を、「絵解く」という形で引用し、商品化したのが新聞錦絵であった。新聞錦絵は、絵草紙屋が売り出した新しい商品であった。この新聞錦絵の制作にかかわった戯作者や絵師たちが、その一方で新しく立ち上がりつつあった日刊新聞の世界にもかかわっている点は、新聞錦絵が生みだした情報世界を考えるうえで面白い論点である。 
大日本新聞雑誌名録/ 明治10年4月の番付形式の新聞雑誌リストである。東京日々新聞や郵便報知新聞、朝野新聞などが上位に記されている。新聞は、話題の新しいメディアであった。新聞錦絵はこうしたメディアの情報を絵解くという形で展開した。 
各種新聞図解第6遠近新聞第27号/ 新聞図解というシリーズの命名は、新聞の事件を素材にした絵解きという新聞錦絵の基本姿勢と対応している。画面右下の魚形の囲みの中にシリーズ「第六」にあたることが記されている。 
常盤木の若葉と散す東台の嵐に交る。/弾丸の雨烈しき崖の木陰に寄り官軍の/群へうち下す。十二斥砲を曳く車坂より。/防戦の術盡果て。討死したる丈夫ハ。本/所辺の旗本の。其奥方の唯一人。従者をも/供ず焼失跡に。彼處に這方にと斃たる。尸を漸く索得て。巡邏の護兵が前より来/り。此ハ吾妻にて侍るが。方向を誤ち脱/走して。一昨日討死したるなり。此死骸を玉/ハりて埋葬たしと云ながら。我着したる重衣を/脱ぎ。夫の死骸の上にかけ。涙に咽び歎ずるに/ぞ。官兵大に憐めども。官の沙汰あらざる/うち。此尸のミ私に引取をハ許し難し。他日の/所置を俟れなバ。是より報知すべしとて。/住所を問ひ。別れし後に下谷なる。広/徳寺中に葬しハ。貞烈全き婦人と/いふべし。 東台戦死の篇者/転々堂鈍々記 
東京各社撰抜新聞 吉原7人切/ 各社撰抜新聞という命名もまた、各社が出した新聞の引用を前提に錦絵したという新聞錦絵の基本構造を表現している。文字ばかりの新聞に載せられている記述のままでは、事件への想像力が及ばないリテラシーの層に、多色刷の画面で見せることはそれ自体が新しい経験であった。 
此廓ばかり月夜を称へし新吉原江戸町二丁目角町東側/杉戸屋の戸外に容子伺ふ一個の士族頃ハ明治/十三年七月二三日の午前十時実に青楼の昼の世界/錦の裏歟恨ミの刃突然二階へ駆上り我合妓の/初糸十六を殺害なし遣り手おかの三十年に疵を負せ尚も階子を/下り来て主個茂十郎を始め妓夫政吉を切倒す此騒動に/沐浴せし小桜二十三ハ驚きしが女ながらも一生懸命裸体の/儘で棕櫚帚取るよし早く後より力任せに滅多擲/不意を打れて取落す短刀持て小桜ハ戸外の方へ逃/出す是ハ残念と遂かける出合頭に数名の査官得物/なケレバ苦もなく捕縛し分署へこそハ引立ケる此者ハ之何人ぞ/福島県の士族にて徳永敏二十八といふ者にて第二方面五分署の査官なりしが去二十日夜燈籠見物に/来りしが此家へ無体に引揚られ格外の勘定に端銭の不足妓夫が恥辱を与へし故なりとぞ小見世の弊風も亦甚敷かな 梅堂/国政図/御届明治十三年八月三日/長谷川 十二十四番地/画工竹内兼久/所霞町二番地/価銭六銭 
新聞図会第19号/ 図会とは絵を集めたものという意味である。すなわち題名は、耳に新しいできごとを絵にして集めるということを伝えているわけで、絵解きとしての継続的な発行を意識した題名と考えることができる。 
以前猿若町にて藝妓をして居たる娼松といふハ浅草/聖天町の当二郎といふ者の娘にて去年の三月常陸の国土浦の/中城町の須田屋庄助かたへ出稼に行しがとかく手くせ悪く是/まで客の物を盗ミし事有りしが去年六月二十二日に同所の。おたま。/おきち。おとり。などと一途に加藤といふ家へ揚られたとき客から四人へ/三円祝儀を呉れたるを一人りまへ一分での祝儀だと偽り三人へ/二十五銭づつ渡し跡ハかすめたり又其後去年十一月二十六日に/竹中金助といふ家へ招かれしとき金助の紙入をあけて金六円/盗ミ出し其外小つるといふ者の象牙の箸も盗ミ中々立派な/盗人なりしが終にあらハれ此度六十日の懲役になりましたが外面女/菩薩内心如夜刃とたとへの通り美しい顔して居る阿嬢さんでも/心のうちハ鬼よりもおそろしひ中々ゆだんハならぬと讀賣新聞/紙上有り舛 笹木芳瀧画 
東京日々新聞第822号(辻文版)/東京日々新聞第822号(具足屋板)/ 「東京日々新聞」に素材をとった新聞錦絵には、まったく同じ版を使って別の版元から出されているものがある。詳細は不明であるが、具足屋で売り出され商品として成功したものが、板ごと辻文に買われて売り出されたものであろう。こうした点も、近代の出版システムとすこし異なっている。辻文からの版がある東京日々新聞の新聞錦絵は、数点以上確認されている。これらの存在は、速報性や定期性を重視する新聞本紙とは異なる、錦絵としての商品性を物語るものである。 
柳下恵は飴を見て嬰児を養ふに良といふ/盗跖は飴を以て鎖を開に と/云り。邪正に因て見所の/違う訓を甘んぜず。稠粘付/たる夫婦中倶に悪事を/引伸す。夜盗は/昼を白玉飴賣歩行/つつ深更は丈夫に扮つ/女房が諸方豪家へ忍/び入を夫は例も兒を抱き、/戸口を守/り竊たる/衣類調度/を/脊に負ふて、語ひながら帰れるは/男女形装を異にして、戯場に脚色し/笠松峠鬼神お松に髣髴たる、夏目にあらで網の目を漏れぬ/天罰報ひ来て、野州椽跖木の/檻中につながれたるは/此頃なり 
近世人物誌 やまと新聞付録/ 第一新聞錦絵の一部分は、やがて新聞社が発行する新聞の付録のなかに取り込まれていく。近世人物誌と題されたこのシリーズは、やまと新聞が発刊にあたり1ケ月に1回の特別付録として付けた新聞錦絵である。芳年を絵師に起用し、文章の配置も錦昇堂版の郵便報知新聞錦絵を下敷きにしている。刊記の形式も変わり、この天璋院の錦絵は明治19年10月12日発行の第2号の付録であった。 
天璋院殿/天璋院殿ハ御名を敬子と申す松平薩摩守/斉彬朝臣の御女にして近衛家の御養女となり/安政三年十一月柳営に御入輿あり徳川十三代将軍/家定公の御台所とならせ玉ふ家定公薨去の/後落飾ありて天璋院殿と号し静に風月を楽/ミ先公の御菩提をのミ吊ハせ玉ひしに転変ハ有/為の世の習ひとて戊辰の戦乱俄に起り修羅闘/場の吶喊に却風真如の月を掠めケり此折徳川/家存立の事につき御心を労し玉へる事少からず/斯て此乱平らぎて世上の波風治まりし後ハ千駄ケ/谷の邸に在して後生善所の御勤の外平生好/ませ玉ふ謡曲の御慰ミより他事もなく蓬窓/雨滴る夕にハ三思惟心の理を諦め拾ふ木の実の/数々に五衰滅色の秋を観じ斯して歳月を送/り玉ひしが明治十六年十一月二十日仮初御痛り/重らせ玉ひて御年四十九と申すに・れ玉/ふ此君平生慈悲深くまして仁愛の御心年頃/畜馴し玉へる猫に迄も及ぼせり御隠棲の/後ハ常に御身を慎ミて諸事事省ぎたる/御有様にて在せしが然りとてつきづきの女中/方にハ不時の賜物多ありされバ人々と其/御恩を辱ながりて名ハ主従といふも情ハ猶/母子の如く懐き慕ひ奉らざるも無りしといふ/渋柿園主人謹しんで識す 
朝野新聞第1371号 甲/朝野新聞第1371号 乙/ この段階になると、「明治11年3月18日御届」という形で具体的な日付が明記され、出版人の名も記されるようになる。また同じ「朝野新聞」の同じ号から採ったものを「甲」「乙」を付けて区別している点も、錦昇堂版の郵便報知新聞錦絵とは異なっている。 
甲 広島県下備後国笠岡町に住む/川上松助といへるハ妻の名を春とよび/明治二年の頃よりして互ひに浮気の/転び合ひ友白髪迄約束し夫婦と/なりて九年ごし常に夫が大酒を/好ミ女狂ひの放埒に笑つてくらす日ハ/少く泣々数度の異見さへ聞いれも/なく打たたき手荒き事の多くして/止る気色もあらざる故所詮行すゑ/覚束なしいかがハせんと心を悩まし暫し/歎きに沈ミしがきつと思案を定めつつ/昨明治十年十一月五日の夜半に松助が/例の大酒に酔伏たる折こそよしと出刃/包丁逆手に持て只一ト突咽喉ふえ深/く貫けバ松助ハ七転八倒其儘息たえ/果けれバ同じ刃に我が胸へ突立しか共/死にしらずその筋にて療治をくハへ/全快の上去る十五日十一年二月遂に梟首に/所せられたり 
乙 昔ハ或藩の士族なりしが今ハ小網町辺の箱屋にて/親ハ先年没し長子何某が跡相続せしが其頃/旧同藩の娘に恋こがれ女房にしたいと思ひしが/果さず遂に病死なしけるにぞ其弟が順養子と/なり不計兄が恋慕ひし娘を世話する者がありて/妻に迎へ夫婦睦敷くらす内弟もいつとなく病つき/折々幽霊が出る故定めし兄ならんと思ひの外親父/の亡霊出かけて曰く其方が妻ハ兄が念のかかりし/女故此儘差置バ身の為にならず早々離縁すべし/と云ふ御尤の仰なれど妻にも其よし御申聞被下たしといふに或夜夫婦の居る処へ出細かに説得し/且我と兄の追福の事杯ハ堀江町二丁目の差配人/某に相談すべしと云終りて消失けれバ早速彼/方へ至り法事も済し其れから離縁の談判中/との事其中一つの不審といふハ右差配人の親ハ別/居して其妻ハ今離縁をされかかつて居る箱やの/妻の実母にて夫に別れて後娘を箱やへ縁づけ/自分ハ差配人の親の妻となりたるなり幽霊の代/理といひチト不都合な事だと噂なり 
石井研堂「錦絵の改印の考証」

 

改印は、江戸時代以来の錦絵出板の自主検閲のしくみである。そこから錦絵の発行年代の推定法を確立したのは、石井研堂であった。新聞錦絵の時代は、その第八期にあたる時期で、印は干支の文字と月を表す数字とで構成されている。 
近世奇説年表/ 明治7年(1874) 
近世侠義伝/ 芳年が描き、山々亭有人が文を寄せた、慶応2年(1866)2月のもの。 
和漢百物語/ 芳年と魯文の組み合わせ。慶応元年(1865)9月。  
重なりあうまなざし

 

 
新聞錦絵が伝えたいくつかのニュースは、素材とした新聞そのものを違えながら、話題内容が重なりあっている。なかには、先行する新聞錦絵を引用したとおぼしき画像の重なりあいもある。これらは関心の偶然の一致という以上に、物語を成立させるリアリティの「型」ともいうべきものを暗示してはいないだろうか。 
東京日々新聞第933号/ 東京、本郷三丁目の事件。口に突っ込んだのは記事では「短刀」であるが、画面では視覚的な効果をねらってか、長い刀になっている。赤と黒を使った血の表現は、すでに残酷絵のなかで確立していたものの応用である。 
本郷三丁目の飯島安五郎と申人の養女おしんと言ふが元の夫喜三郎に/殺されたそうだが一体此喜三郎と言ふハ常州真壁郡市野辺村の白沢/与兵衛と申人の二男で経師職なるをおしんが聟に貰た処が我意者で養/父母の教訓を少しも聴ず夫故平日家内が不隠て夫婦中も/不熟度々媒酌をした人が立入て異見して済した事もあれ/ど兎角無法斗り言ふ故ついに金子を遣て離縁して其事/を扱所へも届事済になりしを如何心得違か二月十一日の/夜中おしんが家へ忍入て/同人の口へ短刀を突込殺しに/掛たをおしんが大声を揚たので両親が驚ておしんが傍へ行で見ても/行燈ハ消て真黒暗なんだか分らぬから火を燈して見ると離縁した聟殿が/匕首を持もつて立て居ておしんハ血だらけて死で居る故仰天して四隣へ知らせ巡査へ/知らせたから河野某と言ふ巡査が直駈附けて召捕たが何れ人殺だ/から打首になるだろう誠に痴愚人にハ困り升す。其愚にハ及ぶ/べからずと/聖人も/お歎息/なされた 待乳山麓 温克堂龍吟記  
郵便報知新聞第589号/ 同じ事件が、「郵便報知新聞」でも報道され、芳年によって新聞錦絵にされている。かねて用意の「九寸五分」で口の中へ「グサと」刺し通すというまったく同じ場面を描いている。この事件の凄惨さが身体感覚的に伝わる、物語の核心がそこにある。 
本郷春木町なる経師屋安次郎ハ養女しんに/同職喜三郎といへる者を聟にとり老行末を/楽ミしが此喜三郎ハ生得慳貧にして常に舅/姑の意に忤ひ妻しんとも朝夕喧嘩のミし/けれバ拠なく十円の手切金を遣し荷/物残らず引わたして其家を出せしに喜三郎/ハ未練にもしん女に執心をのこし二月十二日の/夜其家の寝静を窺ひ忍び入て用意の/九寸五分を以て仰向に臥たるしんが口中/より領へグサと刺透せしかバ阿とート声/叫びもあへず其儘息ハ絶たるが此物音/に目醒る老父 起さまに曲者と引組で/押伏せたる間に妻も声揚呼ハりしかバ/巡じゆん査も速に駈来り早くも縄をかけたり/ける 真恵郎浜栗記 
東京日々新聞第1015号/新聞図会第38号/ 京人形とあだ名された美人の女房が、居候と密通した。それを知った薬屋の主人は、巨大な「のし」を作って女房に背負わせ、どこへなりとも持っていけと間男に差し出したという話。「のしをつけてくれてやる」という口言葉が下敷きにある。「新聞図会」が「東京日々新聞」に出た記事をもとにしたことは文中に明らかだが、新聞そのままからというより、新聞錦絵を経由した情報と画面の引用を思わせる。 
東京日々新聞 大坂天満の横通りに昔よりして聞へたる。はらはら薬を売る主ハ呂太夫/とよぶ義太夫の師匠の女房ハ美麗にて。売薬よりも名に高く京人形と/混名を/得しが。兼て此家の/寓公と密通したる/を呂太夫ハ。疾くも知/りて大きなる熨斗を/つくりて女房に背負ハせ。/彼の寓公を呼出して。年来/所持の京人形を。足下の玩弄に進ぜる/ほどに。何処へなりとも御持なされと。追出されて/二人とも不覚の涙はらはら薬。手に手をとって出ゆきしは。/主人が語れる茶理場に似たり 
新聞図会 昔から名高き大阪天満のはらはら薬の/元の主人ハ今ハ呂太夫とて浄瑠璃の/大天窓となり其女房ハ京人形と混名を得たる二十二三の美人なるが/何の程よりか其家にのらくらしたる/食客と密通して居たる事を/呂印が嗅つけ何の間に誂へ/置しや或日一畳敷の大のしを/持来るを其儘女房の背中/に結ひつけ彼寓公を呼出し此/京人形を貴さまの玩物にやる/さかい何處へなりとも持行けと/共ニ其家を追出しけると扨も/愉快なはらはら薬ならずやと/東京日々新聞にまで出たり/もろ人もかたり伝へてききつらん/扨もきれいなはらはら薬 
東京日々新聞第101号/郵便報知新聞第527号/ この二つは、死んだ母親がらわれて幼い我が子に乳を与えるという、ほとんど同じ話。しかし元にした新聞の号数からみると、2年近くも離れていて同時期の報道とは考えにくい。もっとも「東京日々新聞」の101号にはこの話に対応する記事が確認できず、別な号である可能性もある。しかし、定型的な同じような物語が、絵になる話題としてくりかえし注目されるということもまた重要な論点である。 
東京日々新聞 年年歳歳相似たる千/種の花の盛なる葉月ハ旧暦の文/月にて。歳歳年年同じからぬ亡魂祭る/鼠尾花の露と消にし産婦が思ひハ。送り火の焼/野の雉子。蝋燭立の夜の鶴。跡に残りし最愛児に。ひか/れて迷ふ箒木の有か無きかに顕れて、さめざめと泣て云へるよう。/汝等二人りが薄命なる。佗しき爺子/の手一ツに育てらるれバ万の事に/不自由がちにぞありぬべし。乳呑の妹/は吾儒が伴育てあげんと抱しめし姿ハ/仏壇の土器の香の煙と消失ぬ。嗟。愛着の/妄念ハ脱離せずんバあるべからず。文明開化の/今日に斯譚ハ無き事なれバ。虚説を傳ふる/戒とす 転々堂鈍々記 
郵便報知新聞 人にハ其程々あるものと見え狐に化か/されさうな人が丁度化され幽霊に/出逢さうな人が出逢ふ者にて渡会県/伊勢の国山田田中の中世古村の何某ハ/妻もあり子もありながら遊里通ひ/のみしてありしにつまハ病ひに臥/て久敷枕もあがらず月を経て死に/至りしかども深くも傷まで乳母を雇/ひて我子を養ひ居しに乳の足らで/日に日に痩行を見て始て亡妻のありなバ斯ハあらじ杯思ひつつ寝たる夜半/に亡妻の枕辺に来り怨の数々言立/泣入子を抱取乳房含せけるに驚/き思ハず阿と一声喚びたるに姿ハ消て/只あんどうのかげほのくらくありし。 
郵便報知新聞第623号/日々新聞第11号/ この二つとも、同じ事件を取り扱っているが、じつは郵便報知新聞の虚報であった。しかし追い剥ぎに襲われて、立木に縛り置かれた女が狼に食われ「腰より下は尽く骨のみに」なってしまったという物語は、絵師の想像力を刺激したのであろう。芳年は狼がまさに足を食いちぎっている現場を描き、貞信は捜索に向かった人々が発見した無惨なありさまを描いた。東京での芳年の新聞錦絵を、大阪で模造して売り出し大評判であったと、二代貞信自身が回顧している。 
郵便報知新聞 信州水内郡野尻駅の本賃宿某が妻ハ親里へ/用事ありて重詰の強飯着替等一包にし隣家/の女を供につれて出行しが其日の暮合に三人の/旅客来り宿を求めけるが/夜食ハ持合せたれ/バ之を握り焼て玉ハれと差出したれバ亭主ハ/炉辺に持来り開き見るに我家の重箱にして/袱迄も夫なれバ大に疑ひ客が湯に入たるをり/窃に荷物を披らき見るに我妻并に隣の女/か衣類迄入しかば扨ハ盗賊なりけりと近辺の/壮者を集め三人を縛し仔細を糺せば/沢間にて追剥し二人共立木に括り置た/りと白状しけれバ人々迎として松火をふり/立て夜明に彼所に至り見れバ憐むべし/両人とも赤裸にて立木に縛られ腰より下ハ尽/く骨のみにて肉ハ狼の為に喰とられたりとぞ 
日々新聞 信州水田郡野尻駅木賃宿某方/にて仏事を営みしに妻ハ重箱に強を詰め己が里方を/訪んと着替などと一褓に包み隣家の/女を雇ひ出行しが此日の夕方三人の男/此宿に一泊を頼ミ夕飯の用意ハあり此飯を握り焚て呉よと重箱を出す是妻の持行し器なれバあやしき/事なりと三人を近所の貰湯へ遣り跡にて袱包を改しに/正しく妻の衣類なれバ急ぎ近隣打寄日此党を捕んと/するに一人ハ早く逃て二人を取押へ糾聞するに山沢に縛り置たりと/白状す直に其の所を尋行しに哀成かな二人の女ハ樹下に赤裸にて縛/られ疾絶命して腰より下ハ骨顕れ肉なし是狼のために/喰取れ非業の死を遂たり此事長野県へ/訴出両賊ハ同県へ引渡されし 花源誌 綿政二代貞信画 
声の地層

 

 
戯作者たちが工夫した文章には、どこかしら浄瑠璃や講談、祭文語り、昔話、ちよぼくれ、声色、見せ物の口上といった芸能を感じさせるものがある。新聞錦絵の世界は、コミュニケーション史における声の地層を浮かびあがらせ、耳と眼の文学史に向けた新たな問題提起を行う素材でもある。  
東京日々新聞第1036号/ 65歳の妻がいる79歳の老爺と67歳の老婆が駆け落ちしたが、老婆がその途中、脳卒中で倒れたという話。浄瑠璃もどきのセリフが交じる、口真似で語り演じてもいいような戯文である。 
信州飯田松尾町に。齢も長て七十の上を九ツ腰さへも二重に成て/ゆるみたる FL1懸職の甚助が近所に住めるお犬とて六十七の老嫗と。/私通ゐたるを甚助の女房ハ六十五才にて。良人の名に似た嫉妬なれバ/土地の名所の姥捨山と思ひ/桐原おき去に幾干らの山の幾干やら有明山の銭かき/集め。走て耻を更科や田毎の/月の影暗く。あ戸/隠山なだかき松の/木陰に休息て/「コレお犬主に引れ/て善光寺もはや近付と嶮岨ゆゑ嘸草臥やしつるらん。/大い苦労をさせ申と。云にお犬は立/上り「抑や爺様と逢そめ川ハ/手鼻かむさえ恥かしき些とんばかり/筑广川と。膝で背中をつくま川。/嬉しひ中ぢゃないか否と/戯れかかる其折しも/持病の癪に非ずしてお犬は俄に転倒れ。卒中風にて臥脳む/老気の至いたりの道行ハ。河原崎座の/浄瑠璃にいささか似て非な珍説なり 転々堂主人戯記 
東京日々新聞第1047号/ 生活のため妻を外国人の雇女に出したが、雇人の別な男と通じたとして妻を殺害、自分もその場で割腹した。因果はめぐる蒸汽車(おかじょうき)、報いははやき新橋の……にはじまる七五語の文章の出だしは、口調よくリズムが耳に心地よい。 
因果は廻る蒸汽車。応報ハ/迅速新橋の憩車所にて女房を。/殺せし男ハ気の知れぬ、麻布谷町辺にすむ/吉五郎という者なるが。活計に迫りて妻おかねを/外国人の雇婢に出せしが。同寮洋客の雇夫/なる虎之介と密に通じて。ゐると/きくより憤怒に堪ず。斯る挙動に/及べども相手の姦夫を討そんじ。其/場をさらず吉五郎は割腹つて/死たりし。愚痴の惑いぞ怖るべきなり。 物の本の記者/転々堂戯録 
東京日々新聞第885号/ 爺さんの浮気をめぐる老婆同士のけんか。「昔々」から「いちがさかえた」まで昔話のきまり文句やおなじみの話題・登場人物を、織り交ぜつつすこしひねった戯作調である。これもまた読み手の耳にひびく面白さを意識した文体である。 
きのうハけふの昔々、洗濯ならぬ仙台にちよつきやられた雀の子、飛でもない事/しでかした。爺イと婆アとあつたとサ。其また近所にひとり住む狸婆アこつそりと、/此爺さんへ狸汁、一ぱゐ喰せる居膳も、竟にハ耻を柿のたねと、知らぬ皺手を握り飯に、/損得なしを舌切雀、/夫からチヨツチヨツと御宿を/たづね、枯木に花を咲せたる。/灰ならねども本妻の、けんどん婆アの/目には入り、ならす歯がみのかちかち山、/背中の柴ほど胸をバ焦し、蕃椒味噌の辛らき/目に、あはさば夫でよい黍団子と、日本一の趣向を/考へお供につれる現在の娘も心ハ鬼が島、納戸の/岩屋へ忍び入り、起んとするをどっさりと、重い/葛篭が臼ほどな、尻をのせかけ動かせず、其間に爺イは何処へやら、かくれかさねた/夜着はねのけ、隠れ蓑の毛引むしり、児槌打出す宝物手に入りたりと笑栗の、/毬もの作りの木太刀をバ、洞の奥まで押/込でどうどう敵を仕とめたる、夫にて/いちがさかえたとハ、荳馬鹿馬鹿/しき噺ならずや。 霞亭乙湖述 
東京日々新聞第1046号/ 文章は、能狂言を思わせる形式を借りている。舞台のうえの声を映し出しているというべきであろうか。固い文章に慣れぬ人々の想像力に訴える戯作者たちの工夫であった。 
なふなふ舟人こと問ん。是ハ目黒の辺に住居する某が妻にて侍るが。此川渡して玉ひてよ。といふに舟人うち驚き賎しからざる奥様のこの深更に彷徨ハ。情夫を寝とりたる婦を呪へる時参か。葵の上と。清姫を二役かねた御知勢。這ハ日高にあらざれバ舟ハ渡してまいらせん。吟行たまふ事故を語り玉へと、愚弄にぞ。「あら恥かしや吾姿他見にそれと照さるる野辺の蛍の光る君。いとし殿子に棄られて。詮かた夏の短夜も寝られぬ の広房なきつつ明す時鳥その初声ハおかしやと。泣か笑ふか生躰も涙にむせぶ狂乱の女の所作は喜昇座に羽をのす鶴の音羽屋が技芸 しき評判に大繁昌をするもむべなり
西郷星のうわさ

 

  
西南戦争でもまた、新聞錦絵は活躍した。なかには新聞号外や後の戦争錦絵に近い印象を与えるものもあった。この戦争の終わり頃、西郷が星となり、あるいはロシアに逃げたといううわさ話が生まれた。ロシアにおける反逆者プガチョフの伝説と同じような英雄生存の流言である。この世間話の生成・流布に、新聞というメディアと錦絵というメディアが果たした役割は小さいものではなかった。 
有りのそのまま第13号/ 西南戦争の錦絵のひとつ。西郷の挙兵に呼応した士族の「暴動」を報じている。「後はをゐをゐ次号に報す」と、継続的な発行を印象づけている。 
福岡県下暴動/去る程に三月二十八日を発端/とせし福岡県下筑前の国/早良郡ナナクマ村に同国の士族/が四五百人よりよりに集まりサア/騒動を初めごたごたする処より/西南征討のための下の関へ繰出し/備へを立られある兵隊を至急に/出張となり追討の指揮をもつて/撃いだしたるに暴徒ハたまらじと思ひ/けん忽ち逃げ散りアブラヤマ村又/コカサギ辺によりあつまるを以て再/び追討せられ今度も混乱と巡げ/退きしうち六十四名といふもの捕縛/せられ残れる賊ハもつはら探索/中の報知あり爰にまた一ト/もんさくハ豊後国中津の賊/党凡百人ばかり蜂起なし/大分県へ寄せ来ると/をもへバ跡を響らまし/何国への奔つた概説/あれとも是ハ証を得ず/跡ハをゐをゐ次号ニ報す 
鹿児島新聞/ 福岡暴行之図 福田熊次郎(具足屋)の版。 
福岡暴行之図 戦地の物語にハ最あはれなる/事多かり吉松陸軍中佐ハ/田原坂に於て戦死しけるが/細君ハいまだその確報も得ざ/れバ福岡港町なる吉田新市/の宅に宿泊しを福岡暴徒/ハ不意におしよせ吉松の細/君家来島内の両人を見る/よりも追取囲んで斬つけるを/遁るるたけハと島内ハ右に左/に支へるうち細君ハ辛うじて/その場をのがれ島内友治ハ/ふミ止まり暴徒のために斬/ふせられ束敢なく此所に息/たえたり/大田FL1誌 
鹿児島紀聞/ 辻岡文助(辻文)の版。明治10年4月14日届とある。 
西郷隆盛ハ川尻を本陣と/なし日夜軍事を儀し/三月一日に至って官軍大挙/し此所に進撃したりける/が賊軍は之を聞くより一軍/を以て伏兵となし一軍は直/に官軍と激戦し偽り敗し/て散乱し官軍短兵急に攻立しが伏兵一同に起り官兵大■■■一先引上げとなるたり/西郷の寺に女兵隊在といふ。 
横山町三丁目二番地/出版人 辻岡文彦/本所外手町十八番地/画工 村井静馬 
鹿児島新誌8号 
玉江ハ鹿子嶋旧藩児玉八之進が/妻にて姑在世の節ハ能く孝療を尽し病中の看病等閑ならず/終にはのなへ果たる嘆きて寝食/を廃す其後尚も夫に仕ふるに/操正しく戦地へ趣たる日より/只勝利を祈るの外に念なく留守/を守りて居たりしに豈計らん山鹿/にて/夫討死と聞よりも狂気の/如く逃嘆に迫り書置を認め親/里へ一僕に持せ遣り其夜一ト間/に入りて自害せしとハ鳴呼/可惜此貞婦可憐此烈婦 長谷川一嶺記 
鹿児島各県西南珍聞第5号/ 赤枠は新聞錦絵で確立した形を引用したものであろう。明治10年7月。松本平吉は、文化頃から活躍していた絵草紙屋で、「東京各社選抜新聞」というシリーズの版元でもある。 
隆盛ハ其前旧知事君御直なる/探索方を勤居たる故国中の/地理ハ勿論諸国風土ミな/胸中にありて天資卓/絶なり殊更和漢洋の/学に通じ報国の志ざし厚く幕吏の為に/洛東の月照と倶に種々の艱苦を受/遂に実功を貫き戊辰江戸操込の際勝安房を言伏難なく江戸城を/受取奥羽の戦ひを経て北海道に出張なし旧幕の英士を降伏なさしめ/全平定に及ぶの功莫大なるを以て陸軍大将参議を兼正三/位に任ぜられしが征韓論の合ざるより職を辞し帰県なし/田野に耕し楽ミ居しが明治十年二月上旬私学校生徒を/始め其余数名暴挙を企中原を捕縛し口実の証等と/虚謾の浮言を名義となし自ら大元帥と名のり/大軍を肥豊へ繰出し官軍に抗じ賊名/を受るとも各所の激戦に数月を/送る中左の詠吟ありしよし/魁新聞に出たり/民草ハ萎ミゆく世に花荊刺もて人を何とがむらん/九重の御階の桜ちりちりて/国を守りの人やなからむ 
絵入新聞の投書最期星/ 東京絵入新聞の投書の文章をそのまま載せ、さらにさまざまな職業の民衆の西南戦争に対する声を描いている。この多声的な表現形式それ自体は、鯰絵に見られたものと近い。 
流星ハ即ち隆星なり「逆臣」の/其処に居て衆勢是に対ひし/より謀反と見認し図星ハ/外れず薩州を暴れ出して/五ケ国に及星雷星と轟き/しも田原坂や植木がとまり/で忽ち弱星の光りを放ち/田畑を踏荒されし人民の/大こ星も構ハず火星をしろの/金星を出せのと有頂天で/騒ぐ中に糧食も盡果て干/星になりかかつた西郷星を/敗後武士と附会て見れバ/賊勢も余程衰弱の明星と/なりて官軍の帚星で掃立られ/日向の山の端に光勢潜没しが/再度鹿児島地方に金光を/現じて火星の様に暴星を/たくましう為共近きに/全く其光りを/失なひ山間/を夜這星と/なれば賊魅の/首を切星に/して/天道星の如く/大道へ/曝す/時ハ世の/中もヅント/宵の明星と/なるべし 
娘/「おやおやまアめうなほしがでたよなんたとへ/さいがうぼしだとへいままでミたこともないおほしさまだ/はやくきてごらんなさいよほしのなかに人かげが/あるとさ 
御新造/「さいがうぼしのでるのハ九州のぞくとが/ほろびるずいてうだとのはなしだよそう/でもならなくツてハこしゆつてうあそバした/だんながめつたにおかへりがあるまいと/思ふといつそしんぱいでたまらないのさ 
けいしや/「このせんそうがはじまつてからというものハ/いつもきうじつをあてこミのひげきやくハたいてへ/とうくへ行てこちらにハいづちのおきやくハ商人がたゆへ/なんのかのとしようばいがひまだからせにをちらさず/このやうすでながびかれてはねこのひものが/できそうだよ権妻/「わたくしなとハどちらがどうともかまい/ませんがよのなかのおだやかになつて/いいゑさのたくさんあるだんてきを/つかまへてきらくにやりたいがなに/よりののぞミです 
ゑぞうしや/「いよでたハでたハなるほときんいろに/きらめきわたりほかのほしより/ひかりかうかうたるありさまさいがう/ぼしとなづけしハうまいうまい/この人のおかげでこんだハ思ひ/よらすせにもうけをいたし/ましたて 
しよく人/「いやはやとんだことがはじまつたので/やくしよのふしんもきうにとまり/まちのふしんもすくなしこれでハじつに/大へいかう/記者/「このほしもしゆじゆさまざまと/なんのかのとなんくせをつけて/ぞくぞくとふでぎたなくかきちらす/もののないないハさいがうさまさまおかげて/かミかづがたくさんうりたせます/ 
士族/「われらハこのほしハむしがすかぬて/はやくきへぬとだんだんこちらへおはちが/まハつてくるからくいつてならぬやくめだから/こくかのためとハいふもののしんぱいしんぱい 
刀屋/「このほしのおかけてはいとう以来ほとんと/はいふつと思ひきつてしまいこんだかたなも/いちじはねがはへてとんだやうすハありがたいか/二そく三文のやすねハかんしん/しないて 
かうしやくし/「てんべんちゐと/いつてなんねんにハこう/いふほしがでていくつきを/へてきへるといふとハしれてハ/ゐるもののさいかうぼしと/なをつけたのハおもしろいて/わがしやちうにもこのほしの/ためにたすけられし/ものもなきにしも/あらずだ 
小道具や「どうかこのほしがきへて/よのなかをおだやかに/したいものだしろものが/うれないにハまことに/きようしゆく 
かしざしき/「こんどのさハぎハさておゐてこのはるの/くしよの大ぢしんこのかたくるハもさびしく/たちいきのかなハぬ所このあいだハねづミ/たいがきましたゆへすこしハいきをついたが/かごしま大じけんよりがつたりおちで/大ふさぎのそそだれなら/いいがよだれでくまります 
東京絵入新聞第677号/ 東京絵入新聞に寄せられた「投書(なげぶみ)」。筆者の「梅星爺」は、戯作調の文章のなで「星」にかかわる語呂あわせを繰り返して西郷の最期を論じている。自刃(24日)の前であるが、すでに西郷星出現のうわさが、民衆の話題としてとりあげられていることを証言している。この星の光を剣で表現する図柄は、そのまま芳虎の錦絵に引用されていく。  
西郷星地落人民之口/ 西郷星が地に落ちたということは、自刃のニュースを受けたものであろう。この錦絵でも、さまざまな職業の人々の西南戦争という出来ごととのかかわりをとりあげている。 
楠正成星/「よくきけよ西郷吉之助御身ハ/わかいじぶんから天朝をおもひ/忠義無一にてミなかんしんせぬ/ものなくことに正三位までにいたり/われわれはじめよろこび勤王一等/なりとおもひのほかこのたびの/ぼうきよハなにごとぞいくさハ/われわれよりつらハあれどぞくの/名義ハ万世までのこるハアア/清麻呂君かなしいかなしい 
山師/「西郷さんもつとがまんしていくさを/やつてくだされバいいのにここが/かんじんさうばがさがると/たいへんたいへんしんだいかぎりを/してもおいつかねへエエエエ/ざんねんざんねん 
おいらん/「ああいそが/しいこといそがしいこと一トばんに二十/人ぐらゐのまハしチヨツ巡査の/御方なら日夜ハおろかねるめも/ねずにおるふしきにくがいもいとひま/せんしかしいくさがおさまれハミなはんが/おくにへおかへりなんすのでこころぼそい/いくさがどんどんあれバいいんでありんす 
小ぞう/「いくさがもつとあれバいい店ハいそがしいし/ふくハとんとんミしんでしたてそのいそがしいまぎれにぜにをもらつて使の/たびにかひくひができるこんないい事ハ/あるまいがアア小ぞうみやうりが/つきたのかどうぞいくさの/あるやうにしておくれ 
こんさい/「西郷大明神さま西郷大明神さまあれほどおねがひ申上/ますいくさがながくだんなハうちじにを/なさつたらかわいい男とそひ/ぶしをしてきかいおるハもち/ろんそうなりますれバかねの/とりゐオツトわあしハうそつきで/とりゐがありません/かねかしにでもなり/ませうこんや諸工人「このあいだうちのいそ/がしさおふくろも大きに/よろこんでゐたがいくさが/おさまれバ/だんだん/ひまになることかな/ハぬもうすこし/どんどんやつて/くだされバ/いいのに 
はいたつ/「貴社なぞハせんそうからいそがしいこといそがしいこと/ぼくも同きりがましはいたつハほねが/をれるがイヤもうかねがはいるのが/うれしいなんでも新聞というからめづらしく/づどんとめさきがかわらなけれバ/いかねへ 
賊魁 西郷隆盛 輔首 新政厚徳 
清正/「西郷がしろをかこんで/二十四度セめるしの原/ろうぜうをしてふせぐは谷君の/はたらきさすが陸軍になたけ/又一ツにハわがはいのきづきし城ハいかが西郷氏どうだネヘエヘン 
けん下の百姓/「西郷が/わしらのけん下/へおしこんできて/でんちでんはたハふミあらされうちハ/やかれてしまひ/ほんにミづ/のミ百せうに/なつてしまつた/くやしいくやしい 
ばばア/「おらがたつたひとりのまごをかハい■■/たのしミにしているうちおかミから兵たいに/めされなきのなミだで出たがこんどの/いくさにしんでしまつたこれも/西郷のおかげであるくやしくツてならぬアアかなしいやかなしいや/ 
平将門星/「アラうれしやうれしやよろこ/ばしやおとにきこへし/西郷をとふとふぞくに/引すりこミうち死を/させたうへからハ/身どももぞくの名ハ/こうせいまでこうせいまで 
紀友/「おれも九州でハながく/たたかひミつ仲はじめなやまし/名を万代にのこしたが/西郷氏にハとても/およばん 
商人/「わたくしどもはじめしよ商人は/西郷がとんだことをしだした/からあきなひはひまだし/ゆうづうハきかずイヤイヤ/もうよわきりました/このいくさがながくつづい/てハひものになるところ/だツた 
おツかあ/「ちやんやはやくこないか/西郷ぼしがおちたおちたうちじにの/とき首がないといふはなしだが/そらの中ハ大へん大へんからだが/かくれてくびばかり/ミへる 
シイレ画工「ぼくなんぞハてんぐをいふが/人がかくものをもらてこんにハ/へいこうへいこう家内おほでハ/あるしうまい酒一ツぱい/のむこともならぬモウ/てんぐもよそふエヘンエヘン 
ねこ/「わたいらもいくさからすこしも/おきやくハなしぜいハおさめ/なくツてハはらずおツかあ/にハ小ごとをきくし/こんなばかばかしい/事ハない 
大工/「おれなんざアせんそうこのかた/ひまなことひまなこと火事があつても/たれもふしんハせずイヤもう/よわりきったぞペランメイ車ひき/「イヤモウひまで/ひまでいくさ/からこまな/きる車のはだいハたまるし/おやかたにハせつかれ/がきにハなかれ/このとふり/やせたいま/いましい  
あずま新聞第100号附録/ 明治24年5月1日のあづま新聞の付録。画中の西郷が読んでいるのは「あづま新聞」で大見出しは「条約改正論 大井憲太郎」とある。西郷が野に下り、西南戦争を起こすにいたった経緯と、明治20年代の条約改正論とが重ね合わせられ、西南戦争の際に生まれた西郷生存説のうわさ話の枠組みのうえに描きこまれている。 
隆盛冥府大改革/ この世での改革ができなかった西郷が、地獄の改革を行うという発想を錦絵にした。こうした西郷人気は、やがて西郷はまだ生きてインドやロシアにいるという生存説のうわさの基礎になっていく。生存説は、郵便報知新聞などの新聞が世の風説をとりあげ、さらにそれが引用され話題になるという形で、何度かくりかえされた。 
閻王怒テ曰今東洋ノ一隅日本ノ西端ニ/生ヲ保ツ西郷隆盛ハ過年月照ト共ニ我冥/府へ移ラントスレ共隆盛一人未命数尽依テ當/府ハ入籍ヲ不許且勤王ノ強志有ルヲ以人ヲシテ/助ケシメタリ於是一新ノ際大ニ用ラレミ登数度ニシテ/今日陸軍大将大任ニ登リ又参議ヲ兼タリ然/ルニ彼逆謀ヲ企テ官軍ニ抗スルノ色アリ速ニ/討スベキノ所彼命数未タ尽ズ冥府拘引成/難シト雖又萬民ノ困脳ヲ打捨ベキニモ不有/依テ四五名ノ鬼員ニ命ジ隠ニ生命ヲ害スベキ/ノ令ヲ伝ヘテ沙婆界へ送レリ爰ニ隆盛ヘ/数月ノ戦争昼夜ヲ不分ルニマドロムコト無シニ熟/睡ノ夢ニ四五名ノ鬼卒来ツテ我生ヲ害ハント/ナスト見テ夢覚タリ概然トシテ衆賊ニ向ヒ我/今日マテナス所大ニ小論タリ明日ヨリ攻道ヲ/転セント是即明治十年九月二十四日鹿児島近傍/ノ城山ニ於テ勢ヲ メテ冥府尋問ノ筋アリト称/シテ惣勢一時ニ黄泉県ヘト出発シ冥府ニ達シ是ヲ/陥シ閻王ヲ圧倒シ我今ヨリ永ク冥府ノ王タラント 
戦争と災害

 

 
戦争や震災という社会大のできごとは、人々の想像するという実践に共通の焦点をあたえることで、話題が交わされ物語が流通する大きな情報空間をつくりだす。ニュースを伝えたのは確立しつつあった新聞だけではなかった。かわら版や錦絵の力を織り交ぜつつ、たとえば新聞付録という場において、ビジュアルなイメージが創造された歴史もまた、メディア史に付け加えられなければならない。 
東京日々新聞第689号/ 戊辰の上野戦争がなぜこのときに描き直されてくるのか。高畠自身の関心や彰義隊の七回忌という供養の区切りももちろん重要であるが、この錦絵発行の届が出された明治7年の10月には、台湾とのもうひとつの戦争が人々の関心のなかにあったことも無視できない。 
戊辰の役方公を誤て上野山内に屯集し。/王師に抗して斃れたる。彰義隊等が七回の忌日営む本年/五月。清水堂の施餓鬼に納る有志の輩が資金に換え。伝聞/たる其時の軍談をかき輯め。松の落葉と題したる。拙き著述も亡魂を/弔慰む端となりもせバ、追善供養と/思ふも鈍まし 
東台戦記の記者/高畠藍泉誠  
東京日々新聞第712号/ 台湾との戦争を、三枚続の錦絵にしている。戦いそのものは明治7年の5月で、改印は同じ年の10月である。戦争はひとぴとのまなざしが焦点を結ぶ、巨大な事件であった。 
台湾新聞牡丹征伐石門進撃/ 同じ戦争を、芳年もまた三枚続の錦絵にしている。形式としては、東京日々新聞錦絵が作った新聞錦絵の基本型と異なっているが、時期的には芳年自身が郵便報知新聞錦絵にかかわる以前のものと思われるので、もうすこし広い文脈に位置付けるべきであろう。「台湾新聞」と題している点も興味ぶかい。 
旅順口攻撃之図/ 日清戦争の旅順口攻撃(明治27年11月)の一場面の情報をまとめている。この図は、戦に臨んだ将校の下画になるもので、天下にこれ以上正確なものはないと解説している。左の布陣の図解には、かわら版から続く情報の形式を感じさせる。 
熊本付近官軍賊軍陣所図/ 西南戦争の情報であるが、形式としては御固め図につながるかわら版を彷彿とさせる。「読売新聞」第616号付録として付けられたものである。 
定遠轟沈/ 日清戦争の威海衛での海戦を扱っている。定遠は、清国がドイツに注文して建造した軍艦であった。「東京日々新聞」の第7000号付録。小代為重の油絵を写真製版したとある。 
旅順方面敦要塞陥落/ 日露戦争のさいの旅順攻撃の図。「東京日々新聞」の第10000号付録。五姓田芳柳画。 
各国洪水飛報/ 明治18年(1885)の水害をとりあげたかわら版。 
大坂四区及河内各郡実況/六月十七日枚方堤防/破壊せしより其水/河郡ニ浸入し/人家田畑を押流シ/損数千石/河に水害を蒙り/し人民の惨情目も/当られぬ有様なり/全国未曾有乃/洪水なり 落橋 
田みのはし/玉江はし/川さきはし/京はし/天まはし/なにわはし/天神はし/よしやはし/せんたんの木はし/よどやはし/ひどはし/渡辺はし/筑せんはし/常あんはし/越中はし/みなとはし/大江はし/堂しまはし/かめ井はし/松しまはし/千代さきはし/大わたりはし/安堂寺はし/さかい大和はし/ふないはし/安し川はし/いたならはし 
以下各地名のみを記す 京都府下洪水の実況/福井県下の出水実況/堺大和橋及貝近傍/山口県下周防岩国/山城国伏見/備中玉島/伊予大/讃岐丸亀/豊前中津/筑後久留米/筑後柳川/東海道見附/東海道沼津/淡路■■/近江国大津及近傍/大和国奈良/紀州八幡/伊予今治/三河西尾/甲府/武蔵八王寺/土佐高智/紀伊和か山/鹿児島/肥前佐賀■■野/富山県越中/出版届明治十八年七月九日/納本同年同月十日/編輯並出版人 大坂■■ 宮崎八十八/南区なんは新地/■■町四十一番地 
磐梯山噴火真図/ 山本芳翠の画をもとに合田清の木口木版で刷られた、「東京朝日新聞」第1095号付録。朝日新聞では、7月24日の社告に「同地の実況を知り其惨状を想見せしめん」ため山本を現地に派遣し、実景を写生した精密完全なる「一大真図」を付録として刊行すると宣言した。 
大阪府下洪水澱川沿岸被害細図/ 明治18年6月から7月にかけての大阪水害の被害図。朝日新聞第1978号の付録である。大範囲の地図と市街図、統計、水量のグラフ、概略説明をつけた総合的な記録となっている。水色の版を重ねて被害を明示する形式は、かわら版を発展させたものである。 
磐梯山噴火の図/ 印刷兼発行者の福田熊次郎は、「東京日々新聞」を素材にした新聞錦絵の版元でもあった具足屋の当主である。明治21年(1888)7月の発行。頭や手足のない死体が掘り出され、子どもの首が木に掛かるなど、見るも無惨な「戦地に等し」い有様であると述べている。  
汽車転覆現場の実況図/ 栃木県箒川鉄橋の事故。「読売新聞」の第7995号(明治32年10月10日)の付録。かわら版に近い表現である。 
 
“毒婦”の誕生

 

 
凶器や毒薬、あるいは替え玉、偽造文書といった数々の小道具によって構成される、人を震撼させるような犯罪行為おのれの欲望と快楽を満足させるためには、いかなる手段もいとわない、知略と行動力にたけ、妖艶な姿態、性的魅力に恵まれた女。<毒婦>ということばから人がイメージするのは、およそこういったところだろうか。 
実際には、私たちの多くが彼女と交渉をもったことがあるわけではない。それにもかかわらず、そのイメージが妙に具体的で鮮明なのは、私たちが自らの好奇心や恐怖心によって生み出したおびただしい<毒婦の物語>に取り囲まれているからだ。数々の男を惑わし破滅させるのはいかなる女なのか。彼女の物語が、その悪行だけでなく、魅力さえも語ってしまうのは、怖いものみたさに通じるアンビヴァレントな欲望というものだろう。 
富や力あるいは異性などなど、男の欲望を掻き立てるものは女にとっても同じである。異なるのは、欲望の追求がときに英雄的行為として賞賛される男に対して、欲望をあらわにした女には懲罰が待っているというところだろう。人は一方で、そうした女に対する恐怖や嫌悪を感じるとともに、他方では彼女に誘惑されてみたい、あるいはそのような魅力を分かち持ってみたいというひそかな欲望や憧憬を抱いている。自らが隠し持つ欲望に対する社会的、道徳的な嫌疑を欲望の対象になすり付け、欲望を抱いた自己の代わりに処罰する。つまるところ、<毒婦の物語>とは、<処罰の物語>なのであった。 
文学史にいわゆる「毒婦物」というジャンルが成立したのは明治初期のことであるが、これはたんに文学という浮世の外の閉じられた世界における出来事ではない。小新聞と呼ばれる大衆紙には、創刊まもない時期から三面記事的事件を潤色し数日にわたって報道する記事が登場していた。明治10年代になるとそれは「つづき物」と呼ばれる長期の連載記事となり、ほとんど同時に草双紙として出版され、さらには演劇や歌謡などの世界へも広がっていった。「毒婦物」とは、これらのうち女性によって現実に引き起こされた事件を核にして、虚実の境界線上を行き来しながら、「実」を燃料に「虚」へと向かって推進する物語をいう。 
もちろん、近代以前に<毒婦>の物語が存在しなかったわけでも、また現実の事件に取材した物語が語られなかったわけでもない。土手のお六や妲妃のお百、鬼神のお松といった女をヒロインとする歌舞伎の「悪婆物」は「毒婦物」の前身というべきものである。それはまた、心中、仇討ちなど数々の事件がかわら版から始まって、講談や浄瑠璃あるいは写本によって人々の間に広まってもいる時代であった。しかし、「近代」におけるジャーナリズムは、印刷技術や識字の向上とあいまって、圧倒的な量や速度で事件の流通を拡大させた。そしてその成熟が、物語に対して<事実>と<虚構>との間のいっそう複雑な緊張関係を強いることになったのである。 
金貸し小林金平の妾原田絹が、俳優の嵐璃鶴と密通のうえ旦那を毒殺し、小塚原で斬首されたのが明治5年。新聞報道や新聞錦絵で処刑が報じられたのち6年の時間を隔てて、この事件が<毒婦の物語>として展開する背景には、明治11年1月に刊行された久保田彦作「鳥追阿松海上新話」の好調な売れ行きがある。初め「かなよみ」紙上に掲載された「鳥追ひお松の伝」が、2ヶ月という、つづき物としては異様な長期連載のあげくに中絶して草双紙へ移行したことは、すでにこの時期に新聞紙が事実報道へと体勢をシフトさせはじめていたことを示唆する。それは他面において、「事実性」の掣肘から物語を解き放ち、虚構として増殖する道筋をつけることでもあった。 
原田絹が「夜嵐お絹」という連続殺人犯に仕立て上げられた翌明治12年、古着屋後藤吉蔵殺しの罪で高橋お伝が斬首されている。処刑という事実は、逮捕直後から紙面を賑わした事件報道に区切りをつけるどころか、新聞紙から草双紙へと飛び出した物語における虚構の度合いをさらにエスカレートさせた。仮名垣魯文「高橋阿伝夜刃譚」では、たびたび「記者曰く」としてニュース・ソースを示しつつ、それが「架空無根」の「小説作り物語」ではないことが言明される。しかし、ただ一件の殺人を確認しうるお伝の犯罪は、ここでは、窃盗、詐欺、密売春から数件の殺人および殺人未遂事件にまで膨れ上がっている。こうしたお伝の凶悪化は、起泉の「東京奇聞」においても同様であった。 
つづき物、草双紙、歌舞伎と、「毒婦お伝」を語る数々の物語は、極刑の執行という結末において共通するだけで、処罰とその事由たる吉蔵殺し以外に物語を「事実」に繋留するものは存在しない。最後にそこへ着地しさえすれば、それ以前にどのような虚空へ浮上するのも自在であるかのように物語は飛翔していった。  
しかしながら、このような事実報道の虚構化は、裁判制度や出版条例などの法整備によって、歯止めがかけられることになる。お伝の死から8年後、待合茶屋酔月の女将花井梅が雇い人八杉峯吉を出刃包丁で刺殺して無期徒刑の判決を受けるという出来事が起きた。この時もお伝と同じように、さまざまなメディアが事件を報道し、つづき物が連載され、黙阿弥が事件を脚色した。しかし、判決確定以前の事件報道や上演を禁ずる法令によってつづき物は中絶し、歌舞伎は初日のめどが立たないまま、演目の差し替えが噂された。それは、「純然たる小説を別欄に登載する」ことを宣言した「読売新聞」が新聞小説の連載に踏み切った翌年のことであった。新聞紙面に虚と実との境界線が引かれる時代が到来していたのである。 
お梅の芝居がようやく上演可能になったちょうどその頃、「東京絵入新聞」には「裏見富士女西行」が連載されていた。しかし、この「毒婦お吉」に物語の起点となる事件報道はない。新聞附録の「口上」で、「作者」はこの物語を静養先の大磯で耳にした「奇談」として、お吉の臨終の場所にかの地の西行庵まで引き合いに出しているが、おそらく読者にとっては、物語が事実か虚構かはどうでもよいことだったに違いない。作者の四世中村福助(のち五世歌右衛門)は、このとき絶大な人気を誇る若手女形で、「歌舞伎新報」の雑録には、しばしばその動向が報じられていた。その人気たるや、大磯で療養中、海水浴に茜染めの肌着を用いたところ、逗留客がことごとくその真似をして、たちまち布地が売り切れたという逸話が残るほどであった(伊原敏郎「明治演劇史」)。 
読者の興味が物語それじたいというよりは、作者のほうへと向けられていることは、新聞付録の錦絵、つづき物の挿絵、はたまた単行本の表紙を見れば一目瞭然だろう。新聞つづき物としての<毒婦の物語>が終焉を迎えたのちに現れたこの物語では、<ニュース>はもはや「毒婦」の事件ではなく彼の人気であり、読者が欲しているのは「毒婦」を語る物語ではなく、福助が語る物語なのであった。  
それでは、いまや<毒婦の物語>は死滅したのだろうか。いやそうではあるまい。お伝とお梅の物語はなおも再生産され続けている。毒物殺傷事件の容疑者とされる女性が「平成の毒婦」と呼ばれる例を目にしたのはついさき頃のことではなかっただろうか。<毒婦の物語>が誕生してから百数十年、20世紀も終ろうとしている今、私たちは<毒婦>の事件にどのような物語を欲望しているのだろうか。
毒婦

 

東京日々新聞第3号/ 掛詞や縁語を駆使した文章は、のちに三世柳亭種彦を襲名し、一派を率いた戯作者転々堂主人こと高畠藍泉の筆になるもの。お絹と情人嵐璃鶴を前景に、後景屋外に石見銀山請け合い(ねずみ取り)の旗を持った男を配するこの構図は、後続するお絹の物語の挿絵にしばしば取りいれられた。 
鶸雉ハ己が/羽色の美なるに/愛て遂に溺るる水/鏡。曇なき身も恋ゆへ/に狂ふ意の駒形町。舟板塀に竹格/子好風な住居の外妾ハ。原田/於絹と呼れたる弦妓あがりの淫婦手折れ易き/路傍の花に嵐の璃鶴とて。美少年なる俳優と/兼て姦通なしたりしが。女夫とならん情慾に迫て發る/悪念ハ頓て報ひて己が身の罪状を掲示紙幟に形も/似たる紺木綿。石見銀山請合と白く染たる鼠取地獄おとしの/謀計に東家を毒殺なしたりしが。天網いかでか/免るべき。男ハ懲役婦ハ梟首。野末のつゆとはかなくも消て朽せぬ臭名を彼山鳥のながながしく世伝るぞ/浅ましかりけり転々堂誌 
東京日日新聞第3号「捨札ノ写」明治5年(1872)2月23日/ 小塚原の刑場でお絹が処刑された明治5年は、いまだ梟首刑の廃止以前であったために、彼女の首は三日にわたってさらされた。さらし首をかけた梟木の傍らには人名や罪状を記した木札(捨札)が立てられることが通例で、この記事はその内容を報じたもの。 
夜嵐阿衣花廼仇夢 吉川俊雄閲、岡本起泉綴、孟斎芳虎画 初編 明治11年6月〜第5編同年11月、金松堂/ 「東京さきがけ」のつづき物「夜嵐於絹の話」を合巻化したもの。ここでのお絹は手品を使う女芸人から大名の側室を経て、のち金貸し金平の妾となるまでにいくつもの殺人を犯す典型的な「毒婦」として描かれている。吉川俊雄は「さきがけ」の主幹で、起泉の合巻の多くに閲者として名を連ねる人物。 
東京各社撰抜新聞 明治12年(1879)5月10日三島蕉窓絵/ 冒頭の「外面如菩薩内心如夜刃」は〈毒婦〉を形容する常套句。末尾、お伝の獄中吟とされる「しばらくも望みなき世にあらんより渡しいそげや三途の河守」の一首は、魯文の「高橋阿伝夜刃譚」のほか「東京絵入新聞」のつづき物などにも見えるが、真偽は明らかではない。 
外面如菩薩内心如夜刃毒婦とその名高橋/阿伝が出所は上州沼田の藩広瀬何某の女なりしが/故あつて母親の離別のをりに伴なはれ母の実家へ/到りし後高橋九右エ門が養女となり成長なすに/したがひて鄙珍らしき容色は雨をふくめる海棠/ならで枝に鍼もつ薔薇花誰しも心ありそ海恋の/湊へ打よする仇しあだなる波之助を夫となしても/僅の間天刑病に脳めるを愈さんものと故郷を立いで/夫婦手に手をとりがなく東京に少時は足を留めて/直ならぬ心の底は横浜かけて種々の悪事も大谷の/其丸竹へ合宿の以前は内山仙之助当時は後藤吉蔵を/殺害なせし事よりして遂にはかゝる天の網御所刑うけしは/本年の一月三十一日なりとぞ/拇印なして檻獄へ戻されしをりの吟/しばらくも望みなき世にあらんより/渡しいそげや三途の河守 
かなよみ 明治9年(1876)9月十二日 
事件の二週間後、各紙に一斉に現れたお伝捕縛を報じる記事のうち、かなりの紙幅を割いたもののひとつ。挿絵に描かれているのは「かなよみ」の売り子で、記事冒頭の「是は此頃東京市街に於まして大評判の大新聞所ろは……」は、当時小新聞の販売を担っていた彼らの売り声である。 
東京絵入新聞「毒婦お伝のはなし」明治12年(1879)2月18日/ お伝の斬首の翌日から、多くの小新聞が出生からはじまる彼女の履歴と事件の詳細とをつづき物に潤色して掲げた。なかでも「東京絵入新聞」はほぼ毎回に挿絵を入れ、計16回にわたる大部のつづき物を連載している。これは凶行直後、死体のそばに残した書置きを認めるお伝。 
其名も高橋毒婦の小伝東京奇聞/岡本勘造綴、吉川俊雄閲、桜斎房種画/初編明治12年(1879)2月〜第7編同年4月/ 「東京さきがけ」改め「東京新聞」に連載されたつづき物は、「高橋阿伝夜刃譚」に2日先んじて合巻化され、初編以後も先を争うようにして刊行された。お伝の供述を否定するところから物語を開始した魯文と異なり、ここでのお伝は彼女の供述どおり、沼田藩家老のご落胤という出自をもち、事件も仇討ち殺人として物語られている。 
高橋阿伝夜刃譚初編/仮名垣魯文著、守川周重画/初編明治12年(1879)2月〜第八編同年4月/ 「かなよみ」でも魯文が「毒婦おでんの話し」の連載を始めたが、これはわずか二回で中絶し、直ちに金松堂辻岡屋文助から合巻として発兌された。この唐突な企画変更の背景には、「東京奇聞」との出版競争があったといわれる。草双紙としてきわめて異例の活版刷初編はそのことを示唆する。 
綴合於伝仮名書筋書/「歌舞伎新報」14号・明治12年(1879)5月15日、17号・5月30日/  「綴合於伝仮名書」は、新富座での上演に先だって「歌舞伎新報」にその筋書が連載された。この年創刊されたばかりの「歌舞伎新報」は、劇評や劇界雑報のほか、各座で上演される狂言筋書の連載が売り物であった。 
高橋阿伝夜刃譚 仮名垣魯文補綴/明治18年(1885)11月、錦松堂/ 明治12年の金松堂「高橋阿伝夜刃譚」を元版にして活字に組みなおし、翻刻出版されたもの。回数・本文ともに合巻のままで、脱漏部の補填や訂正以外の改変は見られないが、挿絵は望斎秀月によって新たに描かれた。 
たかはしおでんくどき/明治13年(1880)5月吉田小吉/ 近代における事件報道の量的拡大は、口説節やちょぼくれ(浪花節の前身といわれる)、祭文などの大道芸や門付芸に数々の題材を与えた。本来、文字化された報道に先んじるはずのニュース媒体としての「声」が、逆に新聞雑報やつづき物の後追いをしたのである。 
近世人物誌やまと新聞附録第11号/明治20年(1887)8月20日/ 公判開始以前の新聞附録で、まだ事実関係がはっきりしていないために、事件の原因についても二説の風聞を併記して、「種々入込たる事情もあらんか」と推測するにとどまる。峯吉殺しの現場を再現した絵画には、暗闇に二人の人物を浮びあがらせ、凶器の出刃包丁とともに傘や提灯を配するものが見られる。凶行は梅雨の夜の出来事であった。 
今ハ酔月の女房お梅故は柳橋では小秀/新橋でハ秀吉とて三筋の糸に総を掛/け三弾の何でも宜と気随気まぐれで/鳴らした果五月の闇の暗き夜に以/前ハ内箱今ハ食客の峯吉を殺せし/事ハ普く人の知る所ながら彼を/殺せしといふ原因に二様あり一は/峯吉が平生よりお梅に懸想し言/寄ることも数度なりしが流石に面/恥かかするも気の毒とて風の柳に/受居りしを或る夜兇器をもつて/情欲を遂んと迫りしより止を得/ず之を切害せしといふにあり一ハ世に/も人にも包むべき一大事を峯吉に洩/せしに彼の同意をせざるより事の爰/に及びしともいふ二者何れが是なる/か公判の上ならでハ知るによしなし/唯お梅は是迄も情夫の自己につれ/なかりしを憤り之を害さんと威/したる事二度に及ベりされバ此度/の峯吉殺しも想ふに種々入込たる事情/もあらんか兎にかく凄き婦人なりかし 
大川端箱夫殺花井阿梅の略伝/明治21年(1888)1月20日/梅堂国政画、福田熊次郎/ 「東京絵入新聞抜萃」という、活字で組まれた本文は、同紙連載の「梅雨衣酔月情話」や公判傍聴筆記に、裁判をめぐる後日報道など種々の情報をつぎ合わせて再構成したものである。画面中央の「東京重罪裁判所」前の図は、「花井於梅酔月奇聞」所載の挿絵を借りもちいて描かれたものであろう。 
梅雨衣酔月情話/「東京絵入新聞」明治20年(1887)7月8日/  「発端」には「松林伯円演」とあり、新聞種の講談で人気を博した彼の高座を再現するかのような文体で書かれているが、第1回以下は雑報記者が聞き込んだ街談巷説を構成して綴られている。第30回で中絶したのは、「重罪・軽罪ノ予審ハ、公判ニ付セザル以前ニ之ヲ記載スルコトヲ得ズ」という新聞紙条例第33条違反を恐れたためであった。 
雑賀園柳香作「走馬燈水月漫画」/「改進新聞」明治20年(1887)7月17日/ 木下屋東吉すなわち芸者秀吉時代のお梅を主人公にするものの、峯吉にあたる人物も登場しないまま、連載わずか9回目で中絶した。タイトルが示唆するように、当時控訴審判決が出るなどで世間の耳目を集めていた相馬家騒動をないまぜにしており、そのことによる連載中止であったのだろうか。 
花井お梅の公判「東京絵入新聞」/明治20年(1887)11月19日/ 「東京絵入新聞」は公判終結の翌日から5日間にわたって連日挿絵入りで、公判の傍聴筆記を掲げた。判決申し渡しの場を描いた挿絵以外は、男装、洋装、あるいは芸者時代のお梅の写真をもとに描いたものと記されており、読者の興味がいかなるところにあったのかをうかがわせる。 
花井於梅酔月奇聞/明治20年12月/ 「花井於梅酔月奇聞」というタイトルの単行本は、上下二冊を和綴じにしたものやボール表紙本など数種が残されている。表紙絵と口絵が異なる以外は、本文前半に「東京絵入新聞」の「梅雨衣酔月情話」を挿絵とともに流用し、後半に同紙上の公判傍聴筆記をこれまた挿絵もろともそっくり拝借して一編に仕上げている点ですべて共通する。 
花井梅女公判傍聴筆記/明治20年(1887)12月、精文堂/ 二葉の挿絵のうちひとつが、栄泉堂版「花井於梅酔月奇聞」に見える裁判所前の図に酷似する。しかし傍聴筆記は大意を同じくするのみでまったくの異文となっており、別の速記者によって書き取られたもののようである。 
月梅薫朧夜筋書/「歌舞伎新報」893号、明治21年(1888)4月28日/ 公判の申し渡し以前に事件を上演することが禁じられていたために、「月梅薫朧夜」は正本の完成が報じられてからも、度重なる延期のあげくに一時は狂言の差し替えさえ噂された。お梅の哀訴棄却で裁判が終結すると、ただちに「歌舞伎新報」に筋書が連載された。 
月梅薫朧夜・化粧鏡写俤/国周画/ 「月梅薫朧夜」は明治21年4月28日、中村座で初日を迎えた。関係者への聞き合わせをするなど、このときも凝り性を発揮した菊五郎の演じるお梅は、巳之吉(峯吉)殺しの場から自首までの愁嘆場を「演劇と思はれざる程なり」と評された。 
東京絵入新聞第3823号付録/明治21年(1888)3月4日/落合芳幾画/ 同紙連載の「裏見富士女西行」のお披露目広告。「口上」を述べているのは作者の四世中村福助。口上に、「像上の挿画は毒婦お吉が三度姿を換升た体」というのは、ヒロインが見世物芸の女芸人から大名の側室に成りあがり、はては尼法師に身をやつすという物語の趣向を異時同図法的に示したもの。同紙の雑報によると、この附録は新富座の興行舞台から客席にも撒かれたという。 
裏見富士女西行/中村福助作/久保田彦作校合/当絵入新聞へ本日より引/続毎日記載いたし候 
乍憚口上 先以御贔屓様方御機嫌克恐悦至極に奉/存升る随まして私儀昨年中より病気にて既に大患にも陥り可申の所/大医方御方剤相応し加るに松本大医御差図にて大磯海水浴にて/暫く保養仕り候効験に依り再び何れも様へ御目通り致し升るハ実以/冥加至極難有仕合に奉存升扨大磯入浴中徒然の余り日々数十町/宛遊歩仕り候折柄不斗承りし一奇談ハ同地出生の女子にして/成長の后江戸へ罷出種々の悪行の末天網に罹り重き所刑に/臨みしが此者常に歌道の心懸ありて/一首の和歌を詠ぜし故いとも危ふき/一命を右歌の徳にて助かり爰に/懺悔して尼となり彼鴫立/沢の古蹟西行庵にて臨/終を遂げしといふ里人これを/西行お吉と号け夜話の/料と致せしを私覚書に/致し所持罷在候/を久保田彦作/氏に見せし所/恰もよく東京/絵入新聞の依頼も/あれバ同氏校合の上/投書して然るべしとの勧めに余儀なく草稿を贈り升た私ハ/兎もあれ同新聞御愛頑の諸君次に私し御ひゐきの/御方様幸ひに御高覧下さらバ難有奉有升る則ち/像上の挿画は毒婦お吉が三度姿を換升た体と御評判御評判 
「裏見富士女西行」第24回/「東京絵入新聞」明治21年(1888)4月3日/ 「中村福助作 久保田彦作校」の新聞小説。彦作は狂言作者として黙阿弥門下にいた経歴の持ち主だが、彼の筆がどのくらい入っているかは不明である。物語じたいは、お家騒動、女清玄、江島生島など歌舞伎的プロットを寄せ集めただけのものであるにもかかわらず、百余回、3ヶ月以上におよぶ長期連載であった。 
裏見富士女西行/明治22年(1889)1月、金泉堂/ 新聞連載中の挿絵に作者が登場していたことは、読者の興味が物語そのものよりも作者に向けられていたことをうかがわせるが、このボール表紙本においても中央に福助の肖像写真を、フレームに彼の紋所をあしらった意匠となっている。中身は回数の重複を訂正しただけで、本文・挿絵ともに新聞連載時のままである。序文には新聞附録の文面が使われている。 
改進新聞第3105号付録/明治26年(1893)6月11日/ 「裏見富士女西行」のブックデザインにも見られるように、明治も20年代に入ると、災害報道を先駆として新聞紙面に写真やそれをもとにした銅板・石版画が登場しはじめる。新聞付録においても従来の役者の錦絵が写真に取って代わられる時代、視覚メディアの新たな展開の到来であった。 
 
明治の声の文化

 

 
声は明治の文化の中に広く浸透していた。本、雑誌、新聞などの文字媒体、錦絵、新聞錦絵などのビジュアルな媒体、浄瑠璃や歌舞伎などの身体の芸能、路上の演歌師や広告宣伝など様々な媒体に声は深く関連していた。 
しかも、これらの媒体同士も繋がっており、名文句のもじりや流行唄のかえ唄が縦横無人に飛び交っていた。この複雑な関係をここにすべて解きあかすことは不可能であるが、書かれたものと声の関係と、路上の演歌師の声を通して、その一端をかいま見ることにする。 
書かれたものの音読 
小泉八雲の短編「門つけ」(「心」1896年)は、「三味線をかかえて、七、八つの小さな男の子をつれた女が、わたくしの家へ唄を歌いにやってきた」ところから始まる。女の妙技に感嘆した小泉八雲は、挿し絵が入っている小唄の本を一冊買い求めた。編笠をつけ、ときには三味線や鼓の音に合わせ、かわら版の一節を唄いながら売る姿が、江戸時代の刷り物にも見ることができる。朗じて売ることは読売のみならず、物売の一般的な手法であった。明治時代になっても飴売の情景はそのままであり、八雲の別の短編「コレラ流行期に」(前掲書)の中でも口上を述べる飴売の姿が描写されている。やがてクラリネットやバイオリンなどの西洋楽器を携えた物売も登場するようになった。 
声に関して朗じる、読むという行為は、読売や物売などの特殊な職業に限らない。文字媒体を朗読することはむしろ家庭でも見られる普通の光景であった。「読売新聞」明治26年(1893)6月1日付録の「新聞紙の行方」には、新聞が作られ、販売され、ある一家にたどり着くまでの様子が紹介されている。その最期は「夜の伽」と題され、母が読む新聞に子供と祖母が聞き入っている様子が描かれている。 
明治10年頃までには新聞縦覧所という施設が各地に普及し、新聞を読み、情報交換する人々が集まっていた。新聞雑誌を朗読する声、討論する声、ときには演説の声が満ちていた。新聞雑誌などの印刷物はあくまでも演説や討論の材料に過ぎず、声によるコミュニケーションこそが主体であった。 
そればかりでなく、一人の時でも声に出して読む習慣があった。新橋横浜間に鉄道が開通した当初から、駅構内での新聞の販売が始まった。汽車の中で、乗客が新聞や本を朗読する姿が見かけられたという。たとえば、明治25年9月15日の「教育時事論」には「新聞雑誌流行の人心に及す感化如何」と題して「汽車の中に入れば、必ず二三の少年は、12の雑誌を手にして、物識り貌に之を朗誦するを見るべく」とある。明治末年になってもなお汽車、電車の中で音読する様子が記録されている。 
音読から黙読へ 
しかし、江戸時代から続くこうした声の文化にくさびを打つように、声を禁止する公共スペースが登場した。我が国最初の官立図書館として明治5年に湯島聖堂内に開設された書籍館では、雑談と音読が禁止された。開設当初からの「書籍館書冊借覧人規則」には「館内ニ於テ高声雑談不相成者無論看書中発声誦読スルヲ禁ズ」とある。そして、その後に開館したすべての図書館に音読禁止の規則は受けつがれていった。しかし、音読に馴染んだ学生が黙読することは難しかったようで、音読の違反に対して、徹底した取締りを行う図書館もあった。実際、音読規制があるということは、逆に音読の文化がいかに大きかったかを示していると言えよう。図書館という黙読の空間は当時の人々には、珍奇な空間であった。明治ニ4年(1891)の「女学雑誌」252号の清水豊子の記述によれば「静としてさながら人なき境の如し」と書かれている。明治36年の旅行雑誌「旅」に掲載された「新趣向の東京見物」という記事によれば、国への土産話として、都会の図書館にあつまる数百の人々の「無言の業」が紹介されている。 
大正時代になり、音読の習慣が衰退し、黙読が一般化するにつれて、図書館規則の音読禁止条項は形骸化し、消えていった。汽車、電車の中で音読する習慣も新聞の投書などで批判されるようになり、やがて消えていった。 
音読の習慣が消えていく理由の一つとして印刷文化と流通形態の変化が挙げられるだろう。江戸時代には、庶民の間では貸本による読書が一般的であった。また、書生が貴重な本を手に入れようとすれば、持ち主を探して写本を作らねばならなかった。一冊の本を一家で共有したり、借りた本を暗記するほどに読むことが一般的であった。しかし、明治時代に流通機構が徐々に整備され、さらに句読点の導入や、言文一致運動などの文章スタイルの変化も起こり、新聞や雑誌、書籍が大量に出回るようになった。 
句読点の普及に付いて見ると、明治10年代は句読段落の必要性は叫ばれていたものの、その認識は広く共有されるものではなかった。明治ニ6年の「国家教育」9号を見ると、句読点が広く普及した事実を受けて、句読点の使用規則の整備が論じられている。わずか十年ほどの間に句読点が広く普及したことが伺われる。 
こうした文章スタイルの変化、流通の変化、図書館に代表される黙読空間の一般化に伴って、読書は黙読が中心となり、時には一人で小説に読みふけるという個人的な読書習慣が広まっていった。 
路上に広がる声 
新聞やかわら版の音読の文化は、江戸時代末期から明治時代にかけての書生たちの音読、吟誦の文化と並行していた。当時の文人、書生たちの学習法とは、漢籍などを素読することだった。文章のリズムをつかんで漢語の形式を幼い頃から身につける手段として重要であると考えられていた。幸田露伴の「少年時代」には書物を「文句も口癖に覚えて悉皆暗誦して仕舞て居る」ほどに音読した様子が書かれている。書生たちはレクリエーションの場でも、愛読する漢詩や読本を暗記し、吟誦することを楽しんだ。市川謙吉は「八犬伝」の中のさわり文句が多くの書生に暗記されており、暗誦できないと肩身がせまく感ぜられたと回想している(「明治文学初期の追憶」「早稲田大学」1918年)。土佐自由民権運動においては、田岡嶺雲の国会誓願の檄文などを青年たちが愛吟していた。こうした吟誦は学校、寮、寄宿舎などの共同体で集団的に享受され、連帯意識の高揚に役立っていたと考えられる。文章を暗記し、人前に披露する吟誦は音読のさらに 一歩進んだ形であり、唄に近い性質を持っている。実際、土佐自由民権運動では土佐民権唄という唄も存在しており、吟誦と唄は同様の目的で享受されていた。 
自由民権運動が下火になるころ、舞台で、あるいは路上で政治的な唄を唄い、歌詞の書かれた冊子を配り歩く壮士たちが現われた。当時、青年倶楽部という壮士たちの団体に所属していた演歌師添田知道は「たびたび政府に叩きつぶされる政治演説会に代わって講じられた一策であった」と語っている(添田知道「演歌師の生活」雄山閣出版、1967年)。こうして、青年倶楽部の壮士たちは、政治運動、選挙運動などの応援に馳せ参じたという。 
しかし、演歌師の歌う演歌は自由民権運動などの政治運動とは直接関係していなかったと西沢爽は分析する(「日本近大歌謡史」桜楓社、1990年)。確かに演歌は、添田知道が「演歌師の生活」で語っているような、弾圧される民間発言ではなかった。例えば、「ダイナマイト節」は演歌師の第一声といわれ、演歌の代表作であったが、その歌詞の内容は不平等条約解消であり、むしろ政治の代弁とも言える。だが、演歌師は政治や社会の事実性に立脚した数々の題材を刺激的に語る役割を果たしていたことは疑いない。 
路上へ出ていった演歌師たちは、路上という公共空間の特質を効果的に利用した。路上の演歌師たちは、しばしば「路傍において通行を妨害し、許可なくして路傍で工商をなす」という違警罪(明治13年9月公布)として取り締まられた。これは演歌師によってうまく演出に取り入れられ、民間発言への政局者の弾圧ということになる。逆に演歌師が群衆に襲われる事件も起こった。日清戦争の前夜、知道の父である添田唖蝉坊は福井で中国人について口論となり警察に保護され、心配した巡査に宿まで送られたという。観客と演者が分離されていない街路という舞台ならではの事件である。現実世界とフィクションの世界が入り乱れ、混同する空間に演歌の聞き手は位置していた。 
日清戦争後には、製菓会社などの商品の広告宣伝を行う軍隊ブラスバンドを模したジンタも加わり、明治時代の路上は、広く音楽に解放されていたと言える。しかし日露戦争後は、明治39年の電車焼打、明治40年の足尾と別子の坑夫運動、明治41年からの赤旗事件と、政治的、思想的な運動、事件が続いたことをきっかけとして、警察は集会と宣伝行列の人数や方法に制限を加え、手続きを厳重にした(堀内敬三「ヂンタ以来」音楽之友社1977年)。これと期を同じくしてジンタ、演歌師などは路上から次第に姿を消していった。路上の演歌師たちの中には、政治的なものから叙情的なものへと歌詞の内容を変えていくものもあった。 
路上の演歌師の運命を尻目に室内を舞台とした演歌師たちは、歌舞伎の役者たちを取り込みつつ、新派劇という一つの芸を形成しつつあった。演説は新聞縦覧所や特設の会場など室内でも十分に効果を発揮するものであった。読売壮士演歌はもともと演説を模したものであり、特に街路でやらなければならないという理由はなかった。川上音次郎のように室内を舞台とした演歌師たちは政治、戦争、不況といった題材を演目にして新しい舞台芸術を完成した。 
沈黙の読者が成立する過程とほぼ時期を同じくして、路上の声は遠のき、劇場という室内の声がより大きな力を発揮するようになる。これには、たまたま同時期に路上警備が厳しくなったという現実的な原因もあったが、黙読にふける新しい読者が政治よりも文学を好むようになっていたことも挙げられる。演劇は、この読者たちを満足させるに足りる機能を備えていた。フィクションは事実性から注意深く分離されて純粋に抽出された。劇場という現実から途絶された場において、脚本家、演出家の完全な制御の下に置かれた声には、新しい空間にふさわしい語りが要求された。芸術座第3回公演「復活」の挿入歌の作曲のために、島村抱月が中山晋平に出した注文は「学校唱歌でもない、賛美歌でもない、(さりとて演歌のような)俗謡でもない歌」というものであった。こうして出来上がった「カチューシャの唄」は観賞者の心を捉え、大正3年に爆発的なヒットとなった。声の文化の次のステージが幕開けたのである。  
おもちゃとしてのかわら版・新聞錦絵

 

 
朝起きて、分厚い新聞を開くと、大量のチラシが折り込まれている。毎日毎日、着々と紙のゴミが家の一角に積み上がっていく。今日の私たちの身の回りには、印刷物が、文字通りあふれかえっていて、それをわずらわしく思うことも多い。だが、その感覚は、かわら版や新聞錦絵の時代には理解できないものだったかもしれない。 
日本の出版は、江戸時代、すでに世界的に見ても高い水準の発行点数・発行部数に達していた。だが、にもかかわらず、少なくとも新聞錦絵の時代までは、印刷物は、まだまだその稀少性=ありがたみ(有難み)を保っていたように見える。 
なぜなら、この時代の印刷物を見ていると、そこに込められている読み取るべき要素・楽しむべき仕掛け・ありがたがるべき力の、密度の高さに驚かされるからだ。 
印刷物は、ただそれが印刷物であるというだけで、ありがたい。そこに文字や絵が印刷されているというだけで、大事なものなのである。そのありがたさから、様々なはたらきが生まれる。せっかくの印刷物を、目一杯、楽しみたい・使いまわしたい・何らかの力をそこから得たいという心持ちが、一枚の印刷物に、何重ものはたらきを期待し、担わせるのである。 
たとえば、黒船来航時に流行したとされる絵花火がある。だがそれは、同時に花火仕掛けのかわら版でもあったと言えるように思える。絵では明らかに、今、「噺の種」となっている黒船を描きながら、言葉ではそれを、蒙古襲来という過去の出来事として語る仕方において、かわら版が黒船来航を告げるパターンの一つを踏襲しているし、色数の少なさなど、印刷物としての様態においてもかわら版と共通したものを持っているからだ。 
黒船を迎える港の大砲の部分に線香で火を着けると、大砲から玉が飛び出すように火が弾道を描いていき、黒船に命中して燃え上がる。黒船の来航という、外交上の一大事件を伝えつつ、同時に、このような遊びを仕掛けてしまうこと。だが、黒船の来航を「外交上の一大事件」と言ってしまうのは、われわれのものの見方であって、これを作った人々、楽しんだ人々の見方ではないだろう。同じように、「事件を伝える」ことがかわら版の唯一の、あるいは至上の役割だと思うのも、相対化されるべき見方だろう。 
鯰絵の場合はどうか。ここでは、さしあたり紙面そのものは、災害を超自然的存在を使って諷刺的に表すという役割しか果たしていないように見える。花火のようにわかりやすい形で、別の楽しみ方が仕掛けられているわけではない。にもかかわらず、こっぴどく叱られる鯰や、復興景気で潤った人々に守られていい気な鯰を描いた絵と文は、護符としての役割を期待され、余震に震える人心の不安を除く働きを持ったという。災害直後の時期には、普段にも増して印刷物のありがたみ・稀少性は高まっていただろう。それに対する人々の期待が、鯰絵に、護符としての力・役割を与えてしまう。 
印刷物を、ありがたいもの、繰り返し様々な仕方で愛玩すべきものとして受け止めてしまう心の傾きが、受け手の側にあり、作り手もまたそれに応えるように密度の高い印刷物を送り出していく。そうしたサイクルの中にこの時代の印刷物は置かれている。  
視覚的な美しさの鑑賞にではなく、様々な仕方でそれを遊ぶことに重点の置かれたおもちゃ絵もまた、そのようなサイクルの中の印刷物の、典型として理解できる。そしてやはり、新聞錦絵も、事件の速報というにとどまらないふくらみを持った、はたらきを考えるべきだろう。まず何より、その絵も文章も、われわれが今日新聞に期待するような「客観的」な描写を、一向に重んじていない。そのポーズは明らかに歌舞伎などの所作とつながっているだろうし、血みどろの状態を見せたいというより、単にアニリンという物質の発色を見せたいがために描かれているかとも思える、流血の描写がある。文章も、音読してはじめてその調子の良さや地口のおかしさの分かるものだ。 
そのとき、一方に事件の報道という役割があり、他方に音読の楽しみとか絵としての鑑賞とかいった別のはたらきがあるといった、足し算的な考え方ではまだ足りない。それは、現在の私たちが自明のものとして持っている「印刷物のさまざまな機能」の分類表に基づいて、かわら版や新聞錦絵というモノのはたらきを、いくつかの要素にばらしてみたにすぎない。それはもちろん、かわら版や新聞錦絵についての認識を深めていく上で、必要なプロセスではある。だが、そこからもう一度、要素をただ寄せ集めるだけでなく、特定の仕方で組み合わせなければ生まれない綜合的なはたらきをもつ印刷物と、それに触れる人間との関係のあり方をまるごと理解するためには、いわば、解剖学的なアプローチではなく、生態学的なアプローチが、必要なはずだ。 
だから、とりあえず私たちは、その七五調の文章を声に出して調子や地口を楽しみながら、アニリンというそれまでになかった物質の赤や紫の感触を眼でまさぐりながら、そうした濃密な行為と体験を通してようやく受け手の体に入っていく、そうした出来事の伝わり方を、せめて追体験してみようと試みるべきではないか。 
このコーナーでは、さしあたり、モノとしてのかわら版や新聞錦絵、あるいはその周辺の印刷物の、形態的な多様性と、それに接する受け手の享受の仕方の多様性を示すという形で、展示を構成している。しかし、単に多様であるということなら、今でも印刷物の形態は多様だし、享受の仕方も多様である。だから、問題は、今までの議論で少し見えてきたように、「多様」というコトバが前提してしまう、さまざまな要素の足し算的寄せ集めとしてかわら版や新聞錦絵を捉えようとしてしまう私たちの姿勢そのものだ。 
もちろん、かわら版や新聞錦絵の時代に印刷物の「多様化」が起こっていなかったということではない。どの印刷物も、それらを互いに比較すれば、その形態においても、その機能のどこに重点があるかにおいても、現在の私たちにも容易に指摘できるような、ジャンルの分化を示している。だが、一つ一つの印刷物の中にはらまれている、その印刷物が持ちうる働きの可能性は、「多様」なはたらきといって容易に分断できない一体性を持っている。その、まだうまく名づけられないありようを、ここでは「おもちゃとしての」という言い方でつかまえようとしてみたのである。 
たとえ切りぬき、貼り込むことに重点があることが明らかなおもちゃ絵であっても、その作業をしながら、そこに描かれている出来事について、何も考えないなどということがあるだろうか。ないように思える。手を加えて遊ぶこととそこに盛られた「情報」を受け取ることは、別々の行為であるより、「ながら」で一体となった経験ではないか。 
そこでニュースの誕生という事態は、かわら版や新聞錦絵の持っていた可能性のうちの、情報の正確かつ迅速な伝達という部分だけが、特権化していく過程の事だろう。それは、印刷物の数量の飛躍的な増加と、いっそうの多様化がもたらした、個々の印刷物の「ありがたみ」の相対的な低下と、それに伴う、個々の印刷物の機能の分化という、印刷物全般に起こった事態の中で、人々の印刷物との関わり方が大きく変わっていく流れの中で、理解すべき事柄だ。 
そのとき、かわら版に花火を仕掛けることはなくなり、新聞錦絵は新聞本紙の付録という従属的な地位を与えられるようになり、おもちゃ絵は、その教育的機能だけが取り出されていく。ならばむしろ、かわら版や新聞錦絵の誕生ではなく、その衰微こそが、「ニュースの誕生」が決定的になった瞬間だったのかもしれない。  
おもちゃ

 

東京日々新 ・小型版/ 新聞錦絵のミニチュア版。芳幾の東京日々新聞を、同じ国芳門下の芳藤が模写している。芳藤は「おもちゃ芳藤」とも呼ばれ、おもちゃ絵の代表的絵師。もとは一枚に九面刷られていたものを切り分けたものと考えられる。ただし一点だけ孟斎(芳虎)によるものが混ざっているので、すでにばらされていたものを集めて貼り込み帖に貼り込んだものと考えられる。 
錦画新聞・日々新/ 大阪の錦絵新聞を手がけた貞信自身によるミニチュア版。今日現存するミニチュア版の多くが、このように貼り込み帖の形で残っている。切り抜いて貼り込み、自分だけの貼り込み帖を作るという、手作業の楽しみ。 
錦絵珍談新聞/ これは横長画面形式のミニチュア版。貼り込み帖の末尾に、切り抜く前の原型を示すために貼り込まれているもの。 
鶴皋堂襍綴 漫画の部、珍談奇説の部/ 貼り込み帖は、いっそう増え続ける新聞紙の提供する情報を、取捨選択し、保管する情報処理技術として、今日に到るまで、多くの人に用いられるようになる。こうした作業を自ら行うことで、受け手は、不特定多数に向けられた複製技術の産物としての印刷物を、自分だけのものに生まれ変わらせる。 
絵入新聞ぞうし/明治13年(1880)7月/ 冊子体で刊行されたもの。全丁一色刷りで、見開き一面を新聞錦絵調の画面にしている部分が主だが、戯文だけの箇所もあり、巻末には、やはり一色刷りのミニチュア版新聞錦絵が大量に貼り込まれていたり、変わった形態である。 
疱瘡絵集/ 疱瘡絵は、子どもが疱瘡にかからないように、かかった子どもの症状が軽くすむようにという願いをこめて、子どもの枕元などに置く、護符的力の期待された摺り物。だが、当の子どもは、その絵に落書きしてしまう。 
新聞画解 明治9年(1876)/ これは、切って折ってまとめて綴じると草双紙と同じサイズの本が出来るようにしたもの。折った時山になる部分に、丁数(ページ数)を表す数字が印刷されていることでわかる。 
新聞図解 明治8年(1875)/ こちらは逆に、最初から冊子体に仕立てられて売られていたものをばらして広げて貼り込み帖に貼ったもの。冊子体だったときの表紙の題箋が、貼り込み帖の末尾に貼られている。 
新工夫絵花火/田中芳男「拾帖」第3冊/ 印刷物とは紙である。切ったり貼ったり折ったりできるだけではない。燃やすこともできるのである。この絵花火は、黒船来航を告げるかわら版の形式を利用したもので、花火仕掛けのかわら版とも言える。黒船来航時に流行した。大砲の方に線香で火を付けると弾道を描いて火が伝わり、黒船に命中する。 
新板八百屋見世、道具つくし/田中芳男「教育図雑集」/ 「つくし」は、幕末から明治期にかけてのおもちゃ絵の中でも、最もポピュラーなパターン。何らかの共通点を持つものを一堂に集める面白さ。また、「新板」という言い方には、古い版木の再利用でなく、新しい趣向や題材を取り入れているというニュアンスが含まれている。「新しさ」が商品価値になるという意味では、「新聞」を求める心の傾きにも通じる。 
しん板どうけ三十六歌仙/ 「つくし」ものには、このように画面を区切ったものも多い。この、狂歌を用いたかわら版も広い意味での「つくし」ものに含めてよいと考えられる。画面が区切られ狂歌が入っているものは、切り抜いてかるたにされることを想定していた。 
単語図/ 「つくし」の形式は、「 拾帖」や「教育図雑集」などの貼り込み帖を作った田中芳男らによって、教室の掛け図や教育錦絵といった形で、明治の学校教育に応用されていく。これはそうした流れの中で作られた「単語尽くし」を、さらに新聞錦絵のミニチュア版同様、ミニチュア版にしたもの。 
東京絵入新聞絵入善悪双六/明治14年(1881)11月/ これは、遊びながら善悪の区別が学べるという双六だが、一コマ一コマのエピソードが、東京絵入新聞という新聞紙の「雑報 はなし」欄掲載のつづき物から選ばれている。絵は、そのつづき物の挿し絵を模写したもので、模写された挿し絵の掲載された号数が記されている。 
しん板しんぶんづくし/ 「しんぶん」も「つくし」の対象になった。新聞錦絵と違い、一つの新聞記事を四場面、八場面などにわけて絵解きする。マンガに似ているが、実際には、切って折りたたんで豆本(ひいな本)にするのが一般的な楽しみ方だったようだ。 
洋語翻訳双六 明治7年(1874)/ 学校教育に浮世絵が利用されるようになると、「教育」の役に立つということを「売り」にするおもちゃ絵がたくさん現れる。これは、遊びながら西洋語が覚えられるという双六。「上がり」のコマに、「単語尽くし」と同じ形式の掛け図を使った教室風景が描かれている。 
開化団珍寿古録/明治13年(1880)/ 「団珍」は、明治10年に創刊された明治の代表的諷刺雑誌「団団珍聞」の略称。そこに掲載された諷刺画(「狂画」)を選り抜いて双六にしている。たくさんの色を使った双六は江戸時代からあるが、ここでもアニリンの赤が強調されている。 
絵入新聞稚訓第2号/ こちらも新聞ダネをもとにしたおもちゃ絵。市井の庶民の逸話を、勧善懲悪的な教訓話として提示するのは、新聞錦絵にも共通するパターンで、特定の新聞記事に基づいた話かどうかには関わりなく、用いられる。 
この水底にハ/主がゐるといへる/妄説も古池をかへれハ/泥を動かせるものハ何ぞと/驚きて進ミかねたる人足の中に/憤発せし者が主の生体/見とどけくれんと土をかへせば/現出たる主ハ大蛇にあらずして/地震の子かとおもハるる六尺/あまりの大鯰押へる瓢の千なり/や万歳楽と幾とせか経る/古池ハ橋場なる総泉寺中の/鏡か池とて府下にきこえし名所なり 
白川県の士族衛藤元礼の妹の/おけいハ兄元礼と老母との二人が/ときどき気の狂ふ病によつて折に/ふれさもなきことを苛酷い打擲に/あふこともあれど病者のこころにさからハず/貧しいくらしを女の手ひとつ糸とり/機をり賃仕事夜のまも/寝ずにつとめるハたくゐ稀/なる孝子なりとて/其県庁より御賞典の/お金をたまハりとなん 
書画集会の無雅なる事薯蕷山水/葱の枯葉の四君子なんどを書まハし/自ら文人墨客と尊称したる/大天狗が発会とか追善とか乾揚る/咽をうるほすため卑劣をきわめし扇の/強売わづか毛氈一まいのせまい心に硯の/海の浅い知恵ゆゑ見識ハ低くて高きハ/鼻のミなるを開化の人から見るときハ是従前の/おもらひなれバ天愚の鼻をへし折て此悪弊ハ/やめさせたいもの 
長崎県下西高村の土木勘左衛門ハ/養母と女房が争論をなだめる詞も酒のうへ女房の/肩をもちしとて有合ふ紐にて面をうち戸外へ/出るをとどめんと投かけて引く其紐が喉咽へかかり/つて一絞に母を殺して女房とはかり自ら縊れし/体にもてなし検屍をうけしが恠しまれ手鎖と/なつて押込のうちに我が家を出奔し/京大坂を経めぐりて盗をはたらき/ゐたりしが忍びて故郷へ戻りしころ/遂に縛めにつきたるハ/天の遁さぬところなるべし/転々堂主人記/木挽町/二丁目/高畠藍泉 
教訓善悪図解 明治13年(1880) /交際義務の乳母、放蕩無頼乳母/ 明治初期の「教育」のために用いられもした錦絵だが、その「教訓」の語り方は、その後出来上がっていく官製の「教育」とはずいぶん違っている。「教訓」と「教育」のずれを、新聞錦絵と新聞紙のずれと対応させて考えることもできるだろう。 
 
小野秀雄とかわら版

 

 
小野秀雄は「かわら版物語」を、彼がかわら版の収集を始めることになったきっかけについての二つのエピソードを語るところから始めている。  
ひとつは大正5年(1916)、彼がまだ新聞記者だった頃、戸川残花を訪問して地震津波のかわら版をはじめて見せてもらったこと。また大正9年(1920)に、杉浦丘園を訪れて嘉永7年の大地震と元治元年の京やけについての60枚に及ぶかわら版を見せてもらうこと。小野はこのときの思い出として、予想をはるかに超えるかわら版を目の当たりにして、「どうメモをとってよいかわからなかった」と書いている。とはいえ戸川のかわら版を見た後も、時々古本屋にかわら版を勧められて買うことがあっても、それらを「あまり気にとめなかった」とも書いているから、この時点ではまだ小野のかわら版に対する取り組みは本格的ではなかったようだ。 
もうひとつは、ドイツのフルッグブラットやイギリスのブロードサイドとの出会いについてである。小野は海外の新聞史研究を学ぶなかで、ドイツにも15世紀末からちょうど日本のかわら版に相当するような一枚刷りの印刷物があり、「フルッグブラット」と呼ばれていたこと、またイギリスにも「ブロードサイド」と呼ばれる同種の印刷物があることを知る。大正12年(1923)、ヨーロッパを訪れた際にこれらについての研究書をかなり手に入れ、また昭和3年(1928)、ドイツを再訪した折にはミュンヘンの古書店でフルッグブラット十数種を含む資料を購入している。これらのいわば西洋のかわら版との出会いは、小野が日本でかわら版研究を本格化することになる大きなきっかけであった。 
ここにはいささか複雑な問題が孕まれている。一方で、小野のかわら版や新聞錦絵の研究には、彼の狭義の新聞学には回収され尽くさない対象への広がりのある興味が充溢している。初期の小野は「日本新聞発達史」で、幕末維新期からの近代新聞の形成と発展を綿密な資料との格闘のなかから描き出した。晩年の「かわら版物語」にも、この初期の著作に通ずる、資料の細部から浮かび上がってくる問題の固有性を大切にしていく姿勢を見て取ることができる。だが他方、小野はそのかわら版研究においてすら、西洋との対比において日本の個性をエッセンシャルなものとして見出していくという、明治以来、多くの歴史研究やアカデミズムが陥ってきたパターンを抜け出してはいなかったのではないか。 
実際、彼は同書で、かわら版のような大衆的なニュース出版物が継続的に刷られてきたのは、「東洋においては我方だけのことであって、久しく日本の文化が依存していた支那においても見られなかった現象」だが、このように「東洋においては日本にしかない文化財」であっても、「早く文化の発達した欧州においては、発生も遥かに早く、その量も日本を凌ぐ」と語っていた。ここに見られるのは、彼がかつて新聞の発達は、「地理的には其地方の文化と合致し、歴史的には時代の文化と一致」しなければならず、「我国の新聞紙も我国の文化と其起源発達を同じうすること欧米の新聞紙と異なるところがない」と述べていた発想の繰り返しである。多くの近代知と同様、ここで小野は、「西洋」という鏡に照らして「日本」の個性と「東洋」のなかでの優越性を確認する図式をほとんど無自覚なまま踏襲している。 
小野のかわら版研究の前提をなしているこうした二面性は、日本における新聞学の確立に一生を賭けた彼の人生そのものの二面性とも密接に絡まりあっていた。一方で、小野は戦前、日本のアカデミズム体制のなかではあくまでマージナルな存在だった。もともと萬朝報の記者で、東京日日新聞に移ってから商業化していく新聞社に疑問を感じて研究の世界に入っていった小野は、1920年代には石井研堂や宮武外骨などとともに明治文化研究会の主要なメンバーとなり、同研究会の機関誌に盛んに新聞史の論考を書いている。当時、新聞やジャーナリズムについて考えることは民間レベルで一種のブームであり、小野もそうした20年代の民間の新聞研究の興隆のなかから現われた研究者のひとりだったのだ。 
しかし小野は、海外の新聞研究を学び、実際に欧米各国をまわってドイツやアメリカでの新聞学の研究教育機関の目覚しい発展を目の当たりにするなかで、日本の大学にもそれらをモデルにした新聞学の研究教育機関を作っていこうと本気で考えるようになる。そして帰国後、新聞界や渋沢栄一の協力を得て、東京帝国大学のなかに新聞学研究の寄付講座を開設する準備を整えるのである。ところがこの構想は、実現直前まできて文学部の反対でつぶされてしまう。直接には、「新聞学なるものの学問としての性質」が、「純学理上の研究」を旨とする帝国大学の講座としては不適当であるとの理由からであった。 
結局、寄付講座の代替案として、翌年、東京帝大新聞研究室が発足し、小野はこの研究室の嘱託の身分で実質的な運営責任者となる。これが日本初の大学のなかに置かれた新聞学研究機関となっていくわけだが、ここでは小野が文学部嘱託という地位に甘んじなければならなかったことに留意しておきたい。やがて昭和13年(1938)に53歳で正規の講師になるまで、小野はそのまま不安定な嘱託生活を続けているのだ。戦後、日本における制度としての新聞学の中心に立つ小野は、しかし1930年代に至ってもまだ当時の大学アカデミズムのなかではまったく周縁的な位置に押しやられていた。  
ところがこの1930年代には、新聞学や宣伝学、世論調査などをめぐる知が、この時代の総力戦体制にとって有用なものと見なされ始めてもいたのである。小野もまた、この動きに無縁ではありえなかった。昭和12年(1937)、彼は発足したての内閣情報部の嘱託に就任する。その後、情報部は情報局となるが、小野はここでも嘱託に就任している。  
つまり小野をはじめ、1930年代に新聞学を構想していた人々の前には二つの現実が横たわっていた。一方で、彼らの新聞学が標榜するような応用的な知には、当時の大学アカデミズムのなかで周縁的な位置しか与えられなかった。その一方で、大学の外、つまり国家的な知の動員体制のなかでは、こうした応用的で実践的な知こそ必要とされていた。こうした緊張関係のなかで、小野は大学アカデミズムのなかに新聞学を制度として確立しようと努力を重ねていたのである。 
かわら版は、このような新聞学の制度的構築へと向かう小野の実践のなかで、長らく背景化されてきた対象のようにも思われる。実際、小野がかわら版と出会い、その重要性を認識するのは1920年代だったのに、彼が実際に「かわら版物語」を書いていくのは60年代のことである。この間、彼はかわら版の収集は続けるものの、これを自身の研究の前面に掲げてはいない。  
そしてまさにこの30年間は、小野が日本の大学アカデミズムのなかでの新聞学の制度化に向けて邁進していた時代だった。戦中から戦後にかけて、小野はあくまで正統的な近代日本の新聞史を、またドイツにおける新聞学の理論的展開を視野に入れた議論を正面に立ててきた。そしてそうした新聞学設立の構想がほぼ成就される1950年代を経て、60年代になってかわら版や新聞錦絵のような「前史」を本格的にまとめていくのである。そしてこのとき、かつてのかわら版との出会いの記憶が召還され、この「前近代」のメディアに「西洋」の新聞前史にも相当する、日本のメディア発達史の文化的固有性を証明するものという位置づけがなされていくのである。 
今回、我々が試みたのは、このような小野のまなざしを、時代のイデオロギーとして外側から批判するのではなく、むしろ内側から、彼自身が集めた資料に内在しながら、問い直していくことであった。この作業が果たしてどこまで成功したか、その判断は、展覧会に来てくださった一人ひとりの皆様に委ねることとしよう。  
 
ヨーロッパのかわら版

 

 
わが国のジャーナリズム史研究の草分けである小野秀雄がかわら版のコレクションに取り組むにいたる最初のきっかけは、1922年(大正11)から翌年にかけて行なわれたドイツとイギリスへの遊学だったようである。実際には、彼が本格的にかわら版の収集に着手するのは1931年(昭和6)以降のことであるが、小野自身が「かわら版物語」のはしがきで語っているこのエピソードが意味しているところを、ここで少し考えてみたい。 
彼が二つの地を訪ねて知ったことは、ドイツではフルッグブラット(Flugblatt)、イギリスではブロードサイド(broadside)と呼ばれる、わが国のかわら版と同質の一枚摺りないしは数頁綴りの民衆読み物が数多くコレクションされ、またその研究も大いに盛んであるという事実であった。 
当時、「日本新聞発達史」を書き上げ、ドイツ新聞研究に取り組もうとしていた小野は、この地でフルッグブラットのコレクションを見ようと手をつくしたが、どうやら機会を逸しているようだ。イギリスでは、大英博物館所蔵のコレクションを見ることができた。彼が閲覧したのは、おそらく18世紀後半、ロクスバラ男爵によって収集されたもので、ケンブリッジ大学のピープス・コレクション、オックスフォード大学のボドリアン・コレクション、そしてグラスゴー大学のユーイング・コレクションと並ぶブロードサイドの一大コレクションである。 
もっとも、ドイツで実際のコレクションを見ることができなかったことが、おそらくのちに彼をして、この地で最も古い年代に属する、いくつかのフルッグブラットの収集に駆りたてたといえよう。1530年発行の「トルコ軍のウィーン包囲」の実物や、あるいはもっと古い1508年発行の「ブラジル探検記」の複製などを入手しているのである 。 
さて、小野秀雄がわが国の近代ジャーナリズムの前史としてのかわら版の重要性を意識するにいたる契機として、ヨーロッパにおける同種の民衆読み物の存在、そしてその膨大な収集と歴史的研究の蓄積への着目があったという事実には、いったいどのような意味がひそんでいるのだろうか。 
ところで、1949年(昭和24)に刊行された「内外新聞小史」と題された本の序文で、彼は大変興味深いことを語っている。この小著は、自分が現在取り組んでいる新聞の発生およびその発達に関する大部の書物の中からその要点だけを選んで書いたものだ。本論の方は完成も間近かだから、詳しいことはそちらが出たときにぜひ読んでほしい、と。残念なことに、その著作は世に出ることがなかったが、小野自身によれば、その本は「世界史的見地」から書き出されたものであったようである。 
私は、小野秀雄をしてわが国のかわら版の収集に駆りたてたのも、この「世界史的見地」ではなかったかと推測する。というのも、彼がヨーロッパ遊学中に入手したフルッグブラットやブロードサイドに関する書物がことごとく文化史的研究書だったからだ。小野は、当時すでに歴史の闇の彼方に失われつつあったかわら版というエフェメラルな「文化現象」を、ただ単に近代ジャーナリズムの前史的存在として保存することの緊急性を意識していただけでなく、世界文化史的な地平で研究することの必要性を自覚していたにちがいないのである。 
さらにこのような推測を裏づけるものとして、ここで、1932年(昭和7)の「新聞発生試論」の中で彼が唱えている「原報道」という概念に触れておきたい。 
この小著は、16世紀後半ドイツのケルンで発行された書簡新聞「フッガー・ツアイトゥンゲン」について書かれたものであるが、小野は、新聞記者の発生について論じる過程でこの概念を提示している。当時のドイツ初期新聞はヨーロッパ各地から送られてくるさまざまなニュースの断片の寄集めであることが多かったのだが、小野はそれらの中から、独自に取材されたオリジナルな報道を筆跡や紙質などから丹念に洗い出して、それを「原報道」と名づけているのである。 
その意味では、小野は、この語を新聞発生期のニュースの伝達について限定して用いているのだが、このような事実の伝達にこだわる彼のまなざしは、のちのかわら版研究にも一貫して流れつづけている。「かわら版物語」の中で、事実の伝達よりも批判に重きを置いた「落首」を捨てて、たとえ印刷された記録がなくとも「語りもの」の類は「時代を反映する報道の一形式」として取り上げているのは、彼のそうした「原報道」に対する一貫した探求の姿勢を物語っているだろう。 
さて、ちょっと私事にわたって恐縮だが、私がイギリス近代ジャーナリズムの成立についての研究を、その原初形態であるブロードサイドの調査からはじめたのは、小野秀雄がヨーロッパ遊学で入手した研究書を出発点としている。彼が挙げているジャクソンの「ピクトリアル・プレス」やシャーバーの「イギリス新聞の先駆者たち」がたどたどしい私の研究のアリアドーネの糸であった。10年がかりでようやく「近代ジャーナリズムの誕生」(岩波書店,1995年)という一書にまとめたのだが、こんなことを記すのはけっして自慢話をしたいためではない。本にまとめた後も、私はいまだ解けない謎に直面したままであることを記しておきたいのである。 
その謎とは、1618年に発行された「コーンウォールのペンリンからのニュース」という数枚綴りのブロードサイド(ニュース・パンフレット)に関するものである。そのタイトルに「東インドから帰郷したばかりの息子を無慈悲な義母に唆されて父親が殺し、悲惨な結末をみた残酷かつ前例のない殺人」とあるように、トピックスは実の父親の旅篭と知らずに泊まった宿で金目当てに殺された息子の話である。その後、父親とその妻は自殺を遂げたと伝えている。 
興味深いのは、このニュースが、ずっと時代が下って19世紀半ばに、「リヴァプールの悲劇」という「数日前に起こった事件」のブロードサイドとして発行されていることである。こちらはやはり東インドから30年ぶりに故郷リヴァプールに帰ってきた船乗りの青年が実父母に誤まって殺される話である。H・メイヒューの「ロンドンの労働とロンドンの貧困」の中の呼び売りの証言によれば、このブロードサイドはヴィクトリア朝時代に最もよく読まれたものの一つであったという。 
このようにリメイクされて「最近の」ニュースとして出回るブロードサイドを「コックス」というが、奇妙なことには、同じニュースがイギリス以外でも発行されている。 
19世紀半ばのフランスでも、同様の事件がチェコで起こったニュースとして大衆新聞に掲載されている。実存主義作家A・カミュがこれに題材をえて不条理劇「誤解」を書いていることは有名だが、実は、17世紀初めに、フランスの不定期新聞にもすでに同じ事件が報道されているのである。 
以上のような事実に出会った当初、私は、東インドからの帰郷というイギリスのブロードサイドの方が、17世紀初めという大航海時代のエピソードとしてふさわしい「原報道」にちがいないと考えた。ところが、実際には、チェコで発生した事件として伝えるフランスの不定期新聞の方が先に発行されているのである。 
では、フランスの不定期新聞の報道がほんとうに「原報道」と言いきることができるのか。私の調べは、ここで立ち往生したままなのである。 
小野秀雄が企てた事実の伝達という「文化現象」に関する研究は、まさに彼のいう「世界史的見地」に立った比較文化論的なパースペクティヴを不可欠としている。彼のめざした企ては未完のプロジェクトとして、私たちの前にある。 
小野秀雄が収集していたフルッグブラットの一種。内容は、オスマントルコ軍によるウィーン包囲の実況。当時、オスマントルコはヨーロッパに軍を進め、1529年にウィーンを包囲する。この戦争と、1526年のモハックスの戦い、1571年のレパントの敗北は人々の関心の的となり、無数のフルグブラットが発行されたという。1530年、アウグスブルク、エアハルト・エグリン発行 
小野秀雄が収集したフルッグブラットの一種。内容は、ペドロ・アルバレス・カブラルのブラジル探検記。新発見のニュースや探検記も多くの人々の関心を呼んだフルッグブラットの題材であった。1508年、アウグスブルク、エアハルト・エグリン発行 (1920年複製)  
 
ええじゃないか

 

あたかもこの時にあたり京師(けいし)に一大怪事あり。空中より神符へんぺんと飛び降り、処々の人家に落つ。その神符の降りたる人家は壇(だん)を設けてこれを祭り、…これを祝して吉祥となす。都下の士女は老少の別なく綺羅(きら)をきて男は女装し、女は男装す。…ことごとく俚歌(りか)をうたい太鼓をうち、…その歌辞は「よいじゃないか、えいじゃないか、くさいものに紙をはれ、やぶれたら、またはれ。えいじゃないか、えいじゃーないか」という。… 
江戸幕府末期の慶応3年(1867)、王政復古のまさにその年、天から神仏のお札が舞い降りると人々は熱狂し、「ええじゃないか、ええじゃないか」のはやし言葉にのって、男は女に、女は男に、老女は娘に変装して踊り狂いました。 
「ええじゃないか」とは、慶応3年の7月ごろから、翌年の春まで広範な民衆を巻き込んだ特殊な狂乱状態のことです。この民衆の広範な動きが「ええじゃないか」というはやし言葉で総称されるようになったのは近年、とくに研究者が注目するようになってからのことで、「ええじゃないか」やそれに類する踊りのはやし言葉が使われたのは、伊勢、近江地方より西の地域で、それより東では使われなかったとみられています。 
「ええじゃないか」は大政奉還から王政復古という歴史の激動期に、江戸から広島に至る広い地域で、膨大な民衆をその狂乱の渦の中に巻き込みました。 
「ええじゃないか」の発生が最も早く確認できる記録は、三河吉田の羽田八幡宮宮司羽田野敬雄の日記です。羽田野敬雄は神官であるとともに、三河の有力な国学看でした。三河地方は、国学者の活動が盛んで、伊勢信仰も民衆のあいだに根づよく浸透していました。 
羽田野敬雄が記した「萬歳書留控」の慶応3年7月24日の記事の中に、吉田城下近くに伊勢皇太神宮のお札が降り、22日には西羽田村にも降札があり、この地方で盛んであった「御鍬祭り」と同じように祝われ、つづいて7月23日には北側、中郷、西羽田、西町、西宿が提灯や幟を立てたり、お百度参りをし、夕方には西羽田村から若者と子供たちが紙幟を立て、住吉踊りをしてお祓を送って来て、夜に神楽が取り行われた。24日にはお祓を羽田八幡宮に飾り、供え物をし、村中で神楽をとり行い、その後、神酒や甘酒がふるまわれたと記しています。 
その後も吉田城下に降札は相次ぎ、それに続く人々の興奮を羽田野敬雄は、祭りもにぎわいがましくて、神酒、甘酒が振る舞われ、投餅や即興の踊りもまじえた「俄(にわか)」も現れ、熱狂状態が生まれたと記しています。 
「御鍬祭り」は、農具の鍬を神としてまつるもので、神霊がお札の形をかりて現れるという、飛神明の信仰とともに、これもまた、江戸時代に伊勢神宮の御師の活躍によって広まっていった信仰です。伊勢神官の外宮の祭神は農業をつかさどる神で、伊勢神宮の暦は農作業の暦でもありました。御師とは伊勢神宮の神職で、年の暮れに暦やお札を配りながらひろく農村に入り込み、伊勢信仰を根づかせた人々です。 
村人は御師から送られた鍬形の木をまつり、豊穣を祈りました。これは、村全体で祝い、村送り、掛け踊りの形をとって伝播する流行神(はやりかみ)で、「御蔭参り」と同じく60年の周期で、江戸時代を通じて8回ほど流行しました。 
三河や美濃などでは、伊勢国志摩郡磯部にある伊勢神宮の別宮伊雑宮(いざわのみや)から、明和4年(1767)に爆発的に各村々に勧請され、三河吉田では、この「伊雑官」を明和4年4月9日に勧請してから慶応3年でちょうど101年になり、この百年の祭礼が西三河や、吉田近辺でも行われているので、それを行おうとしていたところに、近辺や羽田村に御祓が降ったので、村役人と打合せ御鍬祭りと「一同」に祭ることにしたと記し、23日、24日の祭りの様子を記しているのです。ここでは「御蔭参り」の伝統よりも、「御鍬祭り」の伝統の方が根強かったようです。 
この御鍬祭りというのは、人々が様々に飾り立てて御輿をかついで集団で飲食の振舞いをうけながらねり歩くという形のものが一般的で、「ええじゃないか騒動」の初期の姿は、村をあげての祭りのあり方に近似したものでした。 
三河吉田に端を発した「ええじゃないか」は、家から家、宿場から宿場へと伝わり、東海道を東と西にわかれて伝播していきました。これを飛神明のめでたい兆しとして喜び、門前の人目につくところに、仮社殿や神棚をしつらえ、親類縁者や知り合いを集めて酒食のもてなしをしました。 
お札降りが相次ぐにつれ、しだいに酔っぱらいの往来が増え、富裕な家の前には酒樽が据えられ、振る舞い酒や撒き銭、撒き餅が行われました。 
お祭り気分が絶頂に達すると、老若男女を問わず飾り立て、老婆は娘となり、男は女装となり、女は男装となり、三味線をかき鳴らし、華美な衣装で踊り狂ったのです。 
各地で、「老若男女睦まじく打交わり、男は女の風をなし女は男の姿をなし、衣装襦袢を揃へ」、「多人数群れをなし、或いは紅白縮緬の揃の半天を着し、或いは銘々思付の装をなし、娘は若衆となり、老婆は娘になり、男子は女の服を着し踊り廻り」「男は女形、女は男之姿に出立、異形風俗奇々妙々」といった光景が繰り広げられました。 
江戸時代、伊勢まいりは全時代を通じて流行しましたが、中でも、60年にいっペんくらい御蔭年というのがあって、その年にお札が降る、そうすると集団でお伊勢参りに行く、そういう集団お伊勢参りを「御蔭参り」といいました。大きなものは「ええじゃないか」以前に六回あったといわれています。 
文政13年(1830)の「御蔭参り」での伊勢参宮者は500万人だったといわれ、当時の日本の人口、3000万人と比べると、大変な人数が参加しました。明和8年の群参のときから、広く「おかげまいり」と言われるようになりました。それ以前の群参については「おかげまいり」と呼ばずに、当時は「ぬけまいり」と呼んでいました。 
皇太神宮のお札が降ったとか、多くの人たちの伊勢まいりが始まったとかの噂が立つと、子は親に断りなく、妻も夫の許可なく、奉公人も主人に無断で伊勢参宮に出掛けました。その旅姿は、白衣に菅笠で一本の杓を持ったりもしました。また、彼らは多く集団を作って旅し、幟や万灯を押し立て、「おかげでさ、するりとな、ぬけたとさ」と歌い踊り歩きました。日頃の生活を離れて自由に旅ができ、十分な旅行費用を用意しなくても、施行といって、道筋の家々が食べ物や宿泊の場所を与えてくれました。それを神のおかげとし、妨げると天罰が下るとされました。 
「ええじゃないか」で、降ったお札は、伊勢神宮のものだけでなく、種々雑多な神札・神像、仏札・仏像、小判や美女までもが降りました。「ええじゃないか」のときには、伊勢地方を除いては、伊勢参宮はあまり行われず、京都では主として祇園八坂神社、阿波では勢見の金毘羅宮などに参詣したといい、各地とも、その土地の民衆の踊りが中心でした。 
お札降りのあった家は、富農や豪商、村役などの有力者が多く、実は、家の軒先とか、庭とか、それから松の木の枝とか、そういうところにお札が置かれてあったということだったようですが、飛神明の信仰と結びついて、御祓等の降下を「神異」「奇瑞」として、お札が降った、あるいは降りたと考えられました。 
これが、9月以降になると、富家への飲食の強要などの集団的行動に転化していきました。富家では、打ち壊しなどを恐れて、応接しました。 
といっても、一つの騒動が持続的に連続して展開するという形をとったわけではなく、各地で日を追って多発的につぎつぎとおこり、一定期間(数日間)すぎると鎮静するという形で連鎖的にひろがっていきました。東限の江戸から西限の広島・四国まで、わずか4か月の間に日本主要街道を全部占領してしまいました。 
しかし、維新前夜、世直しを求めてエネルギーを爆発させた「ええじゃないか」の嵐も、慶応4年春、京都で「五箇条の御誓文」が発布されるころには、すでに、その幕を閉じていました。 
 
不二道

 

江戸時代、男に対する女の優位と尊重を説き、記録上初めての富士山女人登頂を行った宗教組織がありました。 
「富士講」は、原始・古代以来の富士山信仰を背景に、江戸時代に成立し、全国的に盛んになった民間宗教です。 
戦国時代の行者角行藤仏(かくぎょうとうぶつ)が開祖とされますが、江戸時代中頃の享保18年(1733)、食行身禄(じきぎょうみろく)という行者が、当時の政治体制を批判し、富士山で断食入定(にゅうじょう)したことをきっかけに爆発的な富士講ブームが起こりました。そして、江戸時代の後半には、江戸を中心に「富士講八百八講」と呼ばれるほどの隆盛を極めました。 
この食行の後継者はいくつかの道統に分かれましたが、その一つが小谷三志に受け継がれ、「不二道」という宗教組織が創始されました。 
当時の富士講の活動は、形式的な富士登山や線香をたいて吉凶を占ったり、病気治しを行う、現世利益的な加持祈祷を中心とするものでしたが、小谷三志は、加持祈祷を廃し、食行の教理を体系化し思想ではなく生活の実践として改革した富士講中興の祖といわれています。弟子には、公家・武士から農民、職人、町人など、あらゆる身分階層の人々が含まれ、その数は5万人ともいわれています。また、三志の教えは、二宮尊徳の報徳思想にも影響を与えています。 
この教理の中心は、理想世「みろくの御世」の到来です。 
食行によれば、この世界の寿命は、48000年余りとされ、「元のちちはは様の世」「神代」「みろくの御世」の三つの世から成り立っています。 
「元のちちはは様の世」とは、元の父母(造物主)が支配する世で、この世ができてから日本の国ができるまでの6000年、「神代」は、元の父母に支配を委ねられた天照大神の世で、元禄元年までの12000年、「みろくの御世」は元の父母の御子である仙元大菩薩が支配する世で、元禄元年以降この世が続くかぎりで、30000年とされています。 
「元のちちはは様の世」では、元の父母から生まれた男女5人ずつを祖として、人間が増え地上に拡がって「なんばの京」が創建されます。この世は、元の父母の庇護の下にあって善悪未分の世です。 
次に「神代」になると、諸神仏が作られ、神仏に依存して利益を願う「影願(かげねがい)」の世となります。人間が自立したものの、悪に傾く世です。 
食行は、この影願のことを「もともと人間の禍福は自らの行為の結果にほかならないが、神仏に依存する心があるために自分の身を反省しない。その祈願の内容は人のものをただとるような利己主義的で不正なものである。また、その態度は現前の利益のみを追及する刹那的なものである。このような影願の心のため、人々は地道な努力を放棄し、悪に陥っている」と批判しました。 
元の父母の御子である仙元大菩薩が支配する「みろくの御世」では、心身を正しく充足した状態になるように各人が主体的に努力する「御直願(おじきねがい)」の心でつとめ、心を本来の状態にすれば誰でも「みろくぼさつ」となれると説いています。つまり、人間が主体性を保ち善に向かう世です。 
この食行の教理には、陰陽の理論が付け加えられて、不二道へと流れていきました。特に、男女の和合については、興味深い教えが説かれています。 
まず、この世の運行と生成を陰と陽の相互作用によるものと捉えます。陽は五行の火にあたり、「開く」「上る」「男性」などを意味し、陰は水にあたり「結ぶ」「下る」「女性」などを意味し、この陰と陽の均衡の変化は、気候、男女関係、さらに人の心の持ち方の上に現れるとしました。 
「元のちちはは様の世」では、陽と陰を体現する元の父母は直接的に合体しており、陰陽の調和、男女の和合が保たれていました。 
次に「神代」になると、本来、陰陽の間には優劣がないはずであるのに、陽が尊ばれ、陰が卑しめられ、その状態が続けば、陽はますます上になって大陽となり、陰はますます下にされて大陰となり、それぞれ猛火と洪水を引き起こし、世界は泥の海となってすべての生物は命を失うとされました。その世界滅亡の日が、元禄元年6月15日に予定されていたのです。 
ところが、この破局は実際に起こりませんでした。それは、天、すなわち仙元大菩薩が万物を憐れみ、「女綱・男綱(陰・陽)」を繋ぎ直したためだと説かれます。この時点で、陰陽の新しい調和がもたらされ「ふりかわり」が行われ「神代」が終わったとされるのです。 
しかし「みろくの御世」となっても、世の幸せが達成されなかったのは、人々の「御鏡」が曇っているからだと言います。世の中を実際に「みろくの御世」に変革するのは、「天」の一部である「気」を心の中に持っている「身ろくぼさつ」である人々自身なのです。神仏や為政者にたよらず、自らが生活者として公益心と相互扶助をふまえ、日々の勤労を実践する「身ろくぼさつ」に徹するという生き方が説かれています。 
また、「みろくの御世」となって、陰陽の差は縮小され「小陰小陽」となったのですが、不二道の創始者、小谷三志は、さらに、これまで卑しめられてきた陰を陽より尊重し、陰陽の価値を逆転させ「万物陰がさきなり」と説きました。 
下がる性質を持つ陰を上に、上る性質を持つ陽を下に置くことによって、それぞれの気が融和し、新たな陰陽の調和がなるとしました。 
「みろくの御世」では、「人と人まさりおとりのなき世」と成り、男女のあり方も変わり、従来卑しめられてきた女を男より上位におくことによって、男女両性の和合が成り、男女の服装や態度も入れ替わると説いたのです。 
 
「みろくのみよを守んせて 
とつきのみちをあらためて 
女が上に下男 
おんなのしょうは水なれば 
下へながるるものぞかし 
男は火にてのぼるもの 
ふりかわりなばいだき合い 
これむつましきたねつくり…」 
 
「ふりかわるおしえの道がなかりせば 
みろくのみよをたがしらん 
女が男のふりをして 
前髪とってなかをすり 
男のように髪ゆうて 
咄(はなし)じまんでかごをかき 
こんのももひきこんきゃはん 
わりふんどしでしりからげ 
遠人からなるおんかたは 
はかまをはいて一腰で 
男がふり袖きこなして 
姿はほっそり柳ごし 
女はそれにひきかえて 
むねをたくってあけひろげ 
じばんのえりまでぬき出して 
男まさりの口上で 
はずかしそうはさらになし 
おんながだんなになりました 
是は全くふりかわり 
双方これをしるならば 
むつまじくになりまする」 (不二道孝心講詠歌和讃集より) 
角行 
(かくぎょう)天文10年-正保3年(1541-1646) 江戸時代に富士講を結成した人びとが信仰上の開祖として崇拝した伝説上の人物。大職冠藤原鎌足の子孫として肥前国長崎に出生し、長谷川左近藤原邦武を俗名としたと伝えられている。  
角行の伝記には数種あり、それぞれが内容を異にする。しかし、応仁以来の戦乱の終息と治国安民を待望する父母が北斗星(または北辰妙見菩薩)に祈願して授かった子だとする点や、7歳で北斗星のお告げをうけて己の宿命を自覚し、18歳で廻国修行に出たとする点などは共通して記された。そうした共通記事に即して角行の行状を理解すれば、それはおよそ次のようである。  
当初修験道の行者であった角行は、常陸国(一説には水戸藤柄町)での修行を終えて陸奥国達谷窟(悪路王伝説で著名)に至り、その岩窟で修行中に役行者よりお告げを受けて富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)に辿り着く(人穴とは人穴村の産土神であり、立ち入れば疫病や飢饉を招くとして警告された)。そして、この穴で4寸5分角の角材の上に爪立ちして一千日間の苦行を実践し、永禄3年(1560年)「角行」という行名を与えられる。その後、角行は富士登拝や水垢離を繰り返しつつ廻国し、修行成果をあげるたびに仙元大日神より「フセギ」や「御身抜」(おみぬき)という独特の呪符や曼荼羅を授かった。なお、「フセギ」は、特に病気平癒に効力を発揮する呪符であったらしく、江戸で疫病が万延した際にはこれを数万の人びとに配して救済したという(「フセギ」の原義は未詳のままだが、埼玉県内には現在でも同名の民俗事象が広く見られ、その多くが病魔退散などを目的としている点で冨士講中の「フセギ」との共通性が感じられる)。  
この後、江戸時代に食行身禄や村上光清が出て、富士信仰が富士講という形で江戸庶民の間に流行すると、角行は富士信仰の開祖として崇敬され、人穴は聖地となった。  
 
江戸読本

 

 
第一章江戸読本の形成
第一節江戸読本の板元−貸本屋の出板をめぐって− 
一『出像稗史・外題鑑』 
江戸読本の初作は山東京伝の『忠臣水滸傳』(寛政十一年)であるといわれている。『水滸傳』と『仮名手本忠臣蔵』とを撮合した新奇な内容や、白話語彙に傍訓を振った生硬な文体、さらには半紙本で繍像を持つという造本様式から見ても、前期に上方で出来した短編怪談奇談集としての読本とは一線を画す作品であった。 
これから紹介する『出像稗史(ゑいりよみほん)・外題鑑(げだいかゞみ)』(以下『外題鑑』)は、江戸読本のカタログとでもいうべきものであるが、やはり冒頭に『忠臣水滸傳』を据えている。両面摺りの一枚物(縦三十糎×横四十二糎ほど)で、『忠臣水滸傳』以降文化末年頃までに刊行された百種ほどの江戸読本の外題と冊数と作者画工とを挙げて、簡単にその内容を紹介したものである。板行年の記載は見当たらないが、おそらく文化末年頃のものと推測される。表面標題の下に、 
汗牛といはんは猶すこしきなり一日文溪堂主人予が草扉をとふて近世發市の小説の外題鑑をゑらましむかたくいなめどゆるさずやう/\筆をとれは寛政の末享和の間いま文化十をあまりにかぞへて其小説百有餘部かばかり行はるゝこと古に聞ず後世にあるべきかはこれが為に市紙の價むかしに倍す予井蛙の管見をもて細改にいたらず麁漏の罪はゆるし給へ上方の絵本をゑらむの日後編にくわしくすべし一楊軒玉山撰 
とある1。裏面の末尾には、「右にもれたる草紙且は京大坂のしん板等後編にゑらみ増補仕候左様に御覧奉願上候以上」と後編が予告され、その下に刊記が記されている。 
蔦屋重三郎大坂塩屋長兵衛 
東都書賈丸屋文右衛門江戸小傳馬町三丁目 
鶴屋金助丁子屋平兵衛 
つまり、この『外題鑑』を中心になって板行したのは、当時まだ貸本屋であった文溪堂丁子屋平兵衛であった。また出板の目的について、 
右にあらはす外題はよみ本を翫ひ給ふ・ひめ・との・たちの為に備ふれば出来の巧拙甲乙をわくるにあらず只その数の荒増を挙て次第の順は思ひいだせるまゝにしるせば必しも論し給ふな何の本を今一度よまんとおぼす時の便とするのみ 
とある。読本は草双紙と違って庶民が簡単に買えるほど安価な本ではなかったから、販売広告というよりは、主として貸本屋の客に対する案内であると同時に、貸本屋の品揃えのための手引きや在庫目録としても使われたものと考えられるのである。読本読者の大部分が貸本屋の客であったことを考えれば当然であろう。また、 
左に記したるは中形のよみ本也但仇討等の冊子は限りあらず故に・式亭主人・十返舎主人・振鷺亭主人の滑稽本のみを畧記す 
とあるように、刊記の右側に二十八作の滑稽本を列挙している2。さらに、中本型読本や上方出来の読本は後編で扱うと予告されているが、その後編は管見には入っていない3。 
さてここで注意したいのは、この『外題鑑』に登載された読本の選択基準についてである。江戸読本という用語こそ用いていないが、明らかに江戸作者の手になり江戸書肆が板元となった作品を撰んだものなのである4。つまり、ここに掲載されている読本を丁寧に分析すれば、江戸読本の形成期をめぐる作者や画工のみならず、筆耕や彫工、さらには板元と貸本屋との相互関係など、さまざまな出板事情が解明できるはずである。 
幸いなことに、江戸読本の出板記録として『画入讀本・外題作者畫工書肆名目集』(以下『名目集』)が残され、文化四〜九年頃までの様子がわかる。さらに『享保以後江戸出版目録』(以下『割印帖』)につけば、開板出願書肆名などが判明する5。現存する江戸の出板関係資料が比較的少ない中にあって、文化期の読本に限っては恵まれた環境である。ところが肝心の江戸読本の初板本に関する書誌調査は、まだなされていないようである。そこで、とりあえず『外題鑑』に登載されている本について、可能な限り網羅的な書誌調査を試みた結果、ほぼ初板に関する出板事項は把握できたものと思う6。 
二江戸読本の概観 
以下、文化期の江戸読本についての概観をまとめておくことにしたい。 
まず『外題鑑』に登載されている作品の中で、別枠に掲げられている滑稽本と、『歌舞伎年代記』および『膝栗毛』の二作とは、ともに江戸読本と称するには不適当なので、一応除外して考えることにした。また同じ題名の作品が二編三編と続いている場合や、前後編が時間的に隔たって刊行された場合、これらを同じ作品として一つに勘定する場合は<種>を用い、編毎に刊行数を別々に数える場合には<点>を用いることにする。こうして登載されている江戸読本の数を勘定してみると、全部で九十三種百十一点ということになる。 
そこで、まず年次ごとの刊行数をグラフにしてみた(一種につき一個。□は後編や二、三編目を表わしている)。 
寛政十一(一七九九)年 
寛政十二(一八〇〇)年 
□享和元(一八〇一)年 
享和二(一八〇二)年 
■■■享和三(一八〇三)年 
■■文化元(一八〇四)年 
■■■■■■文化二(一八〇五)年 
■■■■■■■■■文化三(一八〇六)年 
□□■■■■■■文化四(一八〇七)年 
□□□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■文化五(一八〇八)年 
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■文化六(一八〇九)年 
□□□■■■■■■■文化七(一八一〇)年 
■■■文化八(一八一一)年 
■■■■■■■文化九(一八一二)年 
■■■■文化十(一八一三)年 
文化十一(一八一四)年 
■■■■文化十二(一八一五)年 
文化十三(一八一六)年 
□□文化十四(一八一七)年 
ここに見られる推移は、上方読本や中本型読本を含めた読本全体の総出板部数の推移と、ほぼ同様の変化を示していると思われる。 
寛政末から漸増して文化五年に頂点を迎え、その後は漸次減っていく。そして文化十一年に『南總里見八犬傳』肇輯、翌十二年に『朝夷巡嶋記』初編が発刊されると、次第に長編続きものが流行し、文政天保期には江戸読本の主流は長編読本になってしまうのである。 
さて江戸読本の定義の一つの要件として、江戸書肆が発刊したものとしたが、相板元として上方の本屋の参加も見られる。大坂三十三点、京都十点、名古屋二点という具合で、とくに目立つのが大坂の文金堂河内屋太助の十七点である。馬琴の初作『月氷竒縁』を出した縁からか、とりわけ馬琴の作品には深く関わっており六点の蔵板元にもなっている。そのほか、勝尾屋六兵衛や、大野木市兵衛、植村藤右衛門等も多くに参加して相板元となっているが、蔵板元となっているのは河内屋太助だけである。もちろん江戸読本であるから単独で出したものは一点も見られないが、いち早く江戸の書肆と連携している点に注意が惹かれる。 
なお「三都板」と明記するものも二点あるが、文政以降の再板や求板になると三都板のみならず、尾張名古屋を加えた四都板なども、別段珍しいものではなくなる。 
ここで作者について見ることにしよう。『外題鑑』に登載されている著作数の多い順に挙げてみる。 
曲亭馬琴三十種三十七点 
山東京伝十種十一点 
小枝繁九種十三点 
柳亭種彦六種六点 
高井蘭山四種七点 
振鷺亭主人四種四点 
談洲樓焉馬三種三点 
芍薬亭長根三種三点 
梅暮里谷峨三種三点 
六樹園二種二点 
山東京山二種二点 
感和亭鬼武一種二点(ほかに「鬼武校」が一種) 
このほかにも、無名で実体の不明な作者たちのものが十種ほどある。 
馬琴が生涯に書いた読本は全部で四十種あるが、そのうちの中本型読本八作と『外題鑑』刊行後に出された二種を除いた三十種三十七点がここに載っている(馬琴校も一種ある)。一方、山東京伝の方は、江戸読本と呼ぶには躊躇させられる『図画・通俗大聖傳』(寛政二年)を除いた十種十一点が登載されている。二人の作品を合わせると、実に四十種四十八点にのぼる。つまり文化期における江戸読本出板点数のうち、馬琴だけで約三分の一、京伝と合わせると、全体のほぼ半数弱に達することになるのである。 
この半数弱という数量は全体に占める割合としては確かに多い。だが残り半分は、ほかの作者の作品なのである。彼らは所詮二流作家たちではあるが、だからといって駄作ばかりとはいえない。それどころか、これらの多様な作者による作品を抜きにして、江戸読本の全体像を把握するのは不可能であろう。換言すれば、これら二流の読本作者たちが生み出した作品に関する研究なくしては、江戸読本の全体像を見通すことはできないと思われるのである。 
一方、画工についても同様に一覧にしてみよう。 
葛飾北斎二十八種三十八点 
蹄斎北馬十五種十九点 
一陽斎豊国十三種十三点 
一柳斎豊広十一種十三点 
北尾重政四種五点 
蘭斎北嵩四種四点 
柳川重信二種三点 
勝川春亭二種二点 
盈斎北岱二種二点 
歌川国直一種二点 
右の表から察知できるように、圧倒的に北斎の描いた作品が多い7。また、北斎一門の関わる割合は五割を越すのである。読本よりは草双紙向きの似顔をよくした豊国や、敵討物の名手といわれた豊広も意外に多い。 
江戸読本の初期作『繪本三國妖婦傳』や『繪本加々見山列女功』などは、実録写本に見られる「〜事」という箇条書きの目録を持ち、この体裁の顕著な特徴から見て、上方の絵本読本と様式上で深い関係を持っていると思われる。また江戸読本の中でも『ゑ入櫻ひめ』や『繪入つね世物語』のように、外題に「絵入」を標榜するものが多い。さらに、見返しや広告などでは「繪入読本」という用語によって江戸読本を指す用例が次第に増えてくる。 
つまり、江戸読本における挿絵は単なる添えものではなく、題名に標榜するくらいに、その魅力の重要な一端を積極的に担っていたのである。草双紙より大きな紙面に、迫力ある構図を嵌め込み、さらに薄墨や艶墨を施して絵自体としても大層興趣あるものとなった。これは北斎およびその門下の手柄であった。上方の絵本物と比較すればその違いは一目瞭然であるが、江戸の読者の嗜好を反映して丁寧に描き込まれた伝奇的な酸臭の強い絵柄が多い。さらに現代における江戸読本の魅力も、おそらくこれらの挿絵がなければ半減してしまうはずである。 
なお、当時の画工たちは作者の描く下絵に基づいて筆を執ったのであるから、挿絵にも作者の意志が少なからず反映していると見て間違いない。ただ、丁寧に自筆稿本や校合本と比較してみると、時には画工が作者の指示や本文を無視して勝手に描いてしまうこともあったようである。 
ところで、江戸読本の看板ともいうべき馬琴と北斎の組み合せによって出された作品は十一種十八点ある。とくに『椿説弓張月』の成功が両者の名声を共に高めたものと思われる。他方、京伝は豊国との組み合せが多く六種六点ある。こちらの組み合せは草双紙合巻の看板となったもので、京伝合巻の大半を豊国が描いている。 
ところが、なぜか京伝と北斎の組み合せは一つも見られないのである。いま一つ目に付くのは、馬琴と豊広の組み合せで九種十一点ある。豊広はこのほかには京伝と京山の各一作を手掛けただけであるから、いかに馬琴作の比重が重いかが知れよう。 
さて、多くの江戸読本に目を曝していると、無意識のうちに特定の作者の作風と一定の画工の画風とが結び付き、漠然としたイメージとして頭に残っていることが多い。とくに似た筋立の多い江戸読本の作品内容の記憶は、挿絵の図柄や雰囲気に依拠する部分が大きいのである。おそらく過去の大勢の読者たちの場合も同じだったはずである。右の統計は、その印象を数値化したものだといってよいだろう。 
三江戸読本の板元 
ここでは初板の刊行に関与した板元についてだけ考えてみたい。 
まず江戸読本の刊記を縦覧していくと、鶴屋喜右衛門と角丸屋甚助を除いて、単独で刊行されているものは意外に少ないことに気付く。次に刊記と蔵板および開板出願書肆の関係に注目すると、必ずしも開板申請をした書肆が蔵板元となっていないことに気付く8。 
そこで刊記に記されたすべての書肆の名寄せをし、刊記に出てくる頻度と蔵板の点数を調べて整理したのが次に示した表である。なお配列は蔵板元になっている作品の点数が多い順にし、これが同じ場合は刊記に現われる回数の多い順とした。つまり実質的に江戸読本の刊行に関わった度合の強い順に並べたのである。 
また、『名目集』の巻末に付されている名前一覧(文化五年五月から文化六年二月頃に記録されたもの)を参照して、それぞれの書肆の渡世についても調べてみた。◎「江戸三組書物問屋名前」(通油組二十六人仲通組十二人南組二十三人) 
「貸本屋世利本渡世の者にて手広にいたし候者名前」(十八人) 
〇「町々貸本屋世話役名前」(三十三人、十二組凡・1E69・六百五十六人) 
△「地本問屋名前」(二十四人) 
堂号と書肆名の間に付けた右の記号で渡世を表わし、不明の場合は無印、名古屋を含む上方の書肆には×を付けた。 
たとえば、一番最初の「衆星閣◎〇角丸屋甚助」は、渡世としては◎書物問屋と〇貸本屋世話役を兼ねており、十三点の江戸読本に蔵板元と明示され、さらに二十三点の作品の刊記にその名が記され(蔵板元になっている本を含む)、そのうち十七点の開板出願をしているのである。 
堂号渡世書肆名蔵板刊記出願 
衆星閣◎〇角丸屋甚助十三二十三十七 
僊鶴堂◎△鶴屋喜右エ門十三十七十五 
山青堂〇山崎平八十十一 
文金堂×河内屋太助九十八一 
平林堂〇平林庄五郎九十一 
木蘭堂榎本惣右衛門八八 
同右〇榎本平吉〔八八〕 
桂林堂石渡利助六八 
平川館〇伊勢屋忠右衛門四九 
螢雪堂〇三河屋〓兵衛四四 
耕文堂伊勢屋忠右衛門三三 
耕書堂◎△蔦屋重三郎三五 
慶賀堂上總屋忠助三三 
雄飛閣田邊屋太兵衛三三 
雙鶴堂△鶴屋金助二八 
柏榮堂〇柏屋半蔵二六 
鳳来堂住吉屋政五郎二五 
柏新堂柏屋清兵衛二四 
玉泉堂〇大和屋文六二三 
永壽堂◎△西村與八二三二 
文溪堂〇丁子屋平兵衛二二 
咬菜堂〇伊勢屋治右エ門二二 
文亀堂△伊賀屋勘右衛門二二 
宇多閣本屋儀兵衛二二 
逍遥堂◎若林清兵衛一十一十一 
盛文堂◎前川弥兵衛一六三 
樂養堂大坂屋茂吉一三 
史籍堂關口平右衛門一三 
柏悦堂柏屋忠七一三 
蘭秀堂篠屋徳兵衛一二 
龍池閣中村屋久蔵一二 
群書堂石渡佐助一一 
松茂堂△濱松屋幸助一一 
松涛館中村藤六一一 
昌雅堂中川新七一一 
瑞玉堂◎大和田安兵衛一一一 
榮山堂丸山佐兵衛一一 
文栄堂×河内屋嘉七一一 
連玉堂加賀屋源助一一 
北林堂◎西宮彌兵衛十三十三 
文刻堂◎△西村源六十十 
慶壽堂◎松本平助七七 
×勝尾屋六兵衛七 
×植村藤右エ門六 
層山堂◎西村宗七五四 
×大野木市兵衛四 
崇高堂×河内屋八兵衛三 
泰山堂◎竹川藤兵衛三三 
大和屋伊助二 
申椒堂◎須原屋市兵衛二二 
栄邑堂◎△村田屋次郎兵衛二一 
東壁堂×永樂屋東四郎二 
*以下一点の刊記にだけ見られる書肆が三十九あるが、ここでは取り上げないことにする。 
また蔵板が二書肆にわたる場合や、相板の場合も重複して勘定してある。 
一口に初板の刊行に関与した板元といっても、開板出願元と蔵板元、さらには相板元との間には明確な相違があるようだ。つまり右の表から次の指摘ができるのである。 
まず、開板申請は書物問屋からしか行なわれていないこと9、そしてその書物問屋の中には、出願をして相板元として刊記に名を連ねていながら、蔵板数の少ない書肆が目に付くことである。すなわち、表の末尾の方にあり◎の付いている西宮彌兵衛、西村源六、松本平助、西村宗七、竹川藤兵衛、須原屋市兵衛、村田屋次郎兵衛の蔵板はない。このほか、若林清兵衛や前川弥兵衛、大和田安兵衛も蔵板は一点しかない。彼らは書物問屋として開板出願をしても刊記に名を連ねただけで、蔵板元としては明示されていない場合が多いのである。つまり『割印帖』に記された板元とは、江戸読本の出板に書物問屋が携わったという書類上の記録であり、実質的な板元は、刊行された本に蔵板元と記されている方なのである。 
この蔵板元とは、出板経費の大半を出資して板株を所有している書肆のことである。ならば多額の先行投資を必要とした新作企画について、資金調達はもちろんのこと、流行や読者の要求を充分に検討した上で、どの作家に稿本を依頼し、どの画工に挿絵を描かせるかなどという、出板に関わる具体的な企画や人選や資金調達などをしたのは、ほかでもない蔵板元自身であったはずである。 
このように考えた上で、いま一度、先の一覧表の冒頭の方に挙げた、数多くの江戸読本の蔵板元になっている板元(山崎平八、平林庄五郎、榎本惣右衛門、榎本平吉、石渡利助、伊勢屋忠右衛門、三河屋〓兵衛、上總屋忠助、田邊屋太兵衛等)の渡世を見ると、「貸本屋世利本渡世の者にて手広にいたし候者」、それも「〇町々貸本屋世話役」が、その主体を形成している様子が一目瞭然なのである。 
以上のことから、文化期江戸読本の実質的な板元は貸本屋であったと結論付けてよいものと思われる。 
なお、表の冒頭にある角丸屋甚助と鶴屋喜右衛門は、書物問屋であるにもかかわらず、その蔵板数の多さは際立っている。しかし角丸屋が貸本屋世話役でもあること、また鶴喜が地本問屋でもあることと密接な関連があったと考えれば理解できよう。 
最後に、開板申請した書物問屋と蔵板元の関係で、とくに目に付くものを掲げておくことにする。 
開板申請書肆…蔵板元(*は本人、()内の数字は出板点数) 
角丸屋甚助……衆星閣(*十二)文金堂(三) 
鶴屋喜右衛門…仙鶴堂(*十一) 
西村源六………平林堂(七) 
若林清兵衛……山青堂(七)文金堂(二) 
松本平助………木蘭堂(五)慶賀堂(二) 
西宮彌兵衛……桂林堂(四)螢雪堂(二)雄飛閣(二) 
竹川藤兵衛……咬菜堂(二) 
鶴屋金助………平林堂(二) 
これらの書物問屋と貸本屋の関係が、実際のところいかなるものであったのかは、いまのところ不明である。しかし書物問屋にとって貸本屋は本来得意先のはずであった。その貸本屋が出板に進出してきたのに対して、これを系列化しようという意図があったと考えればよいのかもしれない。 
四板元としての貸本屋 
ところで、江戸の出板文化史上における貸本屋の機能については、早くから詳細な研究が備わっている10。当時の貸本屋に関する認識は、よく引かれる例であるが、京伝の読本『雙蝶記』の序文に「板元は親里なり。読んでくださる御方様は壻君なり。貸本屋様はお媒人なり」とあることから、作者や板元と読者の間にあって作品の普及や販売を担っていたというものであった。 
しかし長友千代治氏は、貸本屋の役割は土地柄や文化程度、経済程度等の立地条件に応じて異なるとし、とくに都市型の貸本屋の役割について、 
貸本屋とは新本や古本を買い入れて商品にし、これを読者に貸して見料を稼ぐものである。そのため貸本屋は、とくに新本については商品とする本の作、画にわたって評価、吟味し、読者の反応をさぐり、次にはこれを後の作品に反映させるよう、要求することがあった。つまり貸本屋は読者をリードするとともに、制作にも介入したのである。それのみならず、みずから新版発行を行なうこともあった。 
と説き、さらに『近世物之本江戸作者部類』(以下『作者部類』)の記述から、丹念に貸本屋の出板事例を取り出している11。つまり出板に携わった貸本屋の基本的位置付け、およびその機能については、すでに余すところなく整理して提示されているのである。 
そこで、ここでは貸本屋が出板をしていたことを確認できる別の史料を挙げておきたい。出板史の方面では比較的知られていると思われる国会図書館蔵の旧幕引継文書『類集撰要』である12。 
まず、注目に値するのは、折しもくすぶっていた書物問屋と新興の零細出板業者(貸本屋)との利権をめぐる争いに乗じて、出板検閲体制の実質的な再編強化が行なわれたことである13。 
<繪入讀本改掛始而被仰付候節>申渡 
上野町肝煎名主源八 
村松町同見習源六 
鈴木町同断源七 
雉子町同断市左衛門 
右は近來流行繪入讀本同小冊類年々出板いたし候分行事共立合相改メ禁忌も無之候得は伺之上致出板候仕來候処已來右改方申渡候間入念禁忌相改差合無之分ハ已來伺ニ不及出板并賣買共為致可申候。 
但新板書物奈良屋市右衛門方江相伺差圖請來候本は都而是迄之通取斗候様書物問屋行事共江申渡候間可得其意候。 
右之通被仰渡奉畏候。下本草案永く留置候而は出板之年後ニ可相成候ニ付成丈致出情相改メ遣し可申旨被仰渡奉承知候。為御請御帳ニ印形仕置候。以上。 
文化四卯年九月十八日 
右名前四人印 
書物問屋行事共 
以上の史料からは、文化四年秋に四人の絵入読本改掛肝煎名主が任命されたことがわかる。同時に、文化四年九月に記録が開始されている『名目集』が、肝煎名主任命後の出板記録であることも明らかになった。 
さて、これに続く同年十月の条を順に見ていくと、書物問屋と貸本屋等の抗争の様子がわかる。その一部を引用しておこう。 
一札之事 
一繪入讀本同小冊類私共仲ヶ間外之者共江上方筋より荷物直積并御當地仲間外ニ而出板之品行事改を不請近來猥ニ取引致候義有之取締不宜ニ付此上右躰之儀無之様仕度右は御觸流も有之候様仕度此段各方より御願ニ成下候様此度私共より書付差出候處右一条は先規仲間内規定も有之候ニ付上方筋并御當地仲ヶ間外糶本貸本屋共江も能々及懸合得与取極メ可申。其上ニ而も行届兼候儀有之候ハヽ其節は御取斗方も可有之段被仰聞候ニ付此上我儘成取斗不仕新板物之儀ハ逸々私共方へ差出候上各方御改を請可申旨夫々申合せ則別帋之通仲ヶ間外御當地糶本屋貸本屋共并上方直荷引受候者共より私とも方迄一札取置候間右写し差出申候。尤上方筋書物問屋江も直荷物積送申間敷段追々及懸合候間是又取極次第書面写シ差出可申候。然上は向後行届可申奉存候得共尚又私共精々心付紛敷繪入讀本無之様可仕候。此段為御届申上候。以上。 
文化四卯年十月 
九月懸り行事六人連印 
改掛り名主衆中 
この記録は、『名目集』の「手広にいたし候」貸本屋の末尾にある「右十八人の者共より書物問屋共え、上方直荷物并に江戸板共改を受す売捌申間敷旨之取極、一札取置申候」という記述に、ぴったりと符合するのである。 
つまり、この時点における「手広にいたし候」貸本屋とは、嘉永四年株仲間再興時の「仮組」に相当するような、仲間株を持っていないだけの、実質的には書物問屋と変わらない存在であったものとも考えられるのである。さらに記録は続く。 
以書付御願申上候 
一繪入讀本并小冊之類去秋中各様方へ改方掛り被仰付候ニ付私共仲間内は勿論仲間外之者ニ而も開板仕度品ハ先規定之通仲間内之者を相頼草案本を以私共江差出下見仕各様方之御改ヲ請禁忌有之所ハ委く相改候上開板為致候。并京大坂ニ而出板之品も私共仲間内へ積下シ候分ハ是又右同様取斗禁忌有之候得は上方へ申遣し相改候上致商賣候。然ル処上方より仲間外之本屋江直積下候品ハ不沙汰ニ致商賣候ニ付改方難行届奉存候。尤去秋中各様方へ申上候之通私共仲間定ニ而上方より仲間外之者へ荷物直積下候義致間敷旨申合置候処近頃猥ニ相成仲ヶ間外直積下候ニ付猶又去十月中京大坂行事共江も右之段申遣し并御當地仲ヶ間外之者より上方下リ荷物引受申間敷一札取置候。然處此度いつまて草四冊七福七難圖會五冊浦青梅二冊同後編二冊仲間外新右衛門町上総屋忠助方へ上方より荷物積送不沙汰ニ致商賣候。去冬一札まて差出置右躰之儀有之候而は自然禁忌之品も賣捌候様相成取締不宜奉存候。依之何卒仲間外之者上方より荷物引受不申様、御觸被成下并京大坂書物屋共江も御當地仲間外之者へ荷物積下し不申様ニ為仰付候ハヽ取締も宜且は仲間内之者も商内手廣ニ相成問屋株之規模も有之仲間一同難有仕合奉存候。何卒仲間外之者共へ御觸被成下并上方書物屋共へも右之段被仰渡候様御願被下度此段各様迄御願申上候。以上。 
文化五年辰二月 
書物問屋 
須原屋茂兵衛 
代儀左衛門 
山崎全兵衛 
竹川藤兵衛 
去卯九月行事 
西村源六 
繪入讀本改懸り肝煎名主中 
書物問屋は、かなりの危機意識を持って貸本屋の出板取り締りを嘆願したようであるが、これもまた『名目集』の、石渡利助と上總屋忠助に関する「此両人書物屋外ニ而上方直荷物引請候者」という記述に対応しているのである。 
以上の『類集撰要』の記事から『名目集』の記述を裏付けることができる。つまり、貸本屋等が出板に携っていたのみならず、上方の書肆と直接取引をして上方出来の絵入読本類を改めを受けずに売り捌いていたという事実が明らかになったのである。 
ところで、決して資本の豊かではないと思われる貸本屋が、少なからざる先行投資14を必要とし、かつ多大なリスクの伴う出板という事業に乗り出すためには、どうしてもスポンサーが不可欠であったと思われる。この資金源については資料が見つからず、残念ながら明らかにすることができないでいる。しかし資金調達や開板申請を依頼する書物問屋との交渉に際しては、説得力のある魅力的な企画を提出することはもちろん、信頼できる営業力をも示さなければならなかったはずである。その点きちんと組織された貸本屋の世話役は、客の評判はもとより貸本屋たちの意見をも吸収して、流行に関する情報分析などを容易にできる立場であっただろう。 
そして何よりも大切なのは、売れそうな作者に企画通りの稿本を遅滞なく貰うことであった。とくに流行作者の信頼が得られないとうまくいかないのである。京伝から三年もの間『浮牡丹全傳』の稿本を貰えなかったため、先行投資が回収できずに潰れてしまった貸本屋住吉屋政五郎の例(『作者部類』)を見れば、この推測があながち的外れでないことが知れよう。しかし資金力のない板元は、潤筆や画料の安い作者や画工しか使えなかったのである。自画作や板下筆耕の作品が目に付くのも、このような経済的背景があったからではなかろうか。 
こうして推測してみると、現代の出版事情とあまり変わらないように思えてくる。製作者としての板元が持ち込んだ企画を、いかに自分の書きたい材料に合致させて書くかという程度に作家の裁量範囲は限られていたと考えたい15。場合によっては、いくつかの江戸読本序文に見えるように、粉本を渡されることさえも珍しいことではなかったと思われる。とくに二流作家になれば、なおさら板元からの細かい注文が多かったはずである。 
五貸本屋の出板 
鶴屋喜右衛門については別の問題を孕んでいるので次節で述べるとして、ここでは主な貸本屋ごとに出板傾向を整理して、その特徴を見ておくことにしたい。 
まず、書物問屋で貸本屋世話役でもあった麹町平川町二丁目家主、衆星閣角丸屋甚助は、一般学問教養書にも従来物にも積極的に手を出し、文化期に急成長した書肆である。馬琴の『作者部類』によれば、以前は下駄屋をしていたという。江戸読本の出板に関して注目すべきは、次に掲げるように出板した読本のすべてに葛飾北斎を画工として使っている点である。 
復讐竒話・繪本東〓錦小枝繁北斎文化二年正月 
新編水滸画傳初編初帙馬琴北斎文化二年九月 
春宵竒譚・繪本璧落穂前編小枝繁北斎文化三年正月 
そのゝゆき馬琴北斎文化四年正月 
新編水滸画傳初編後帙馬琴北斎文化四年正月 
春宵竒譚・繪本璧落穂後篇小枝繁北斎文化五年正月 
斐〓匠物語六樹園北斎文化六年正月 
假名手本・後日之文章焉馬北斎文化六年正月 
忠孝潮來府志焉馬北斎文化六年正月 
經島履歴・松王物語小枝繁北斎文化九年正月 
寒燈夜話・小栗外傳小枝繁北斎文化十年正月 
寒燈夜話・小栗外傳小枝繁北斎文化十一年正月 
寒燈夜話・小栗外傳小枝繁北斎文化十二年正月 
こうして見ると、江戸読本の初期から文化末までコンスタントに出板を続けていることがわかる。また、上方との相板も多いようだ。しかし、『そのゝゆき』の板行に関わる米輔の一件(『作者部類』参照)で馬琴の不興を買い、『そのゝゆき』後編はもちろんのこと、以後の馬琴の読本は出板できなくなってしまったが、小枝繁をはじめとする作者等の稿本を得て、そのすべてを北斎に描かせている。また京伝ともうまくいかず、京伝読本の刊行にはまったく関与できなかった。 
とかく問題ばかりを起こした甚助について「人格の問題のようでもある」16ともいわれているが、北斎との関係はよかったようである。文化後半には、かなり筆料が高くなっていた北斎を使っている点から、読本の挿絵は北斎でなければ、という強い思惑が感じられる。そして何より、江戸読本の板元としては一番多数の本の刊行に関わっており、大坂の書肆と提携して懸命に鶴喜等に対抗したものと思われる。その程度が急激に過ぎて人気作者からは疎まれたが、ほかの作者を得て着実に江戸読本流行の一端を担ったのである。 
なかでも小枝繁との関係には注意すべきである。その処女作『繪本東〓錦』は江戸読本流行の兆しに乗じた企画であり京伝の『安積沼』との密接なる交渉が指摘されているが17、この早い時期に江戸読本を執筆できる作者を世に出した功績は、紛れもなく角丸屋甚助のものである。また『新編水滸画傳』の企画も決して悪いものではなかった。幸か不幸か馬琴は手を引いてしまったが、高井蘭山を得て完結させたのである。そして、これもまた北斎の筆であった。 
貸本屋世話役の平永町代地元右衛門店、山青堂山崎平八も特徴のある本屋である。作者の中でも柳亭種彦との繋がりが強かったと見え、その作品の過半はこの書肆から発兌したものである。 
繪本加々見山列女功川関楼主人なし享和三年三月 
近世怪談霜夜星種彦北斎文化五年正月 
唐金藻右衛門金花夕映谷峨北嵩文化六年正月 
淺間嶽面影草紙種彦北嵩文化七年正月 
加之久全傳香篭艸谷峨豊国・国房文化八年正月 
淺間嶽面影草紙後帙逢州執着譚種彦北嵩文化九年正月 
綟手摺昔木偶種彦重信文化十年正月 
美濃舊衣八丈綺談馬琴北嵩文化十年十一月 
南總里見八犬傳馬琴重信文化十一年十一月 
南總里見八犬傳第二輯馬琴重信文化十三年十二月 
特徴的なのは文化五年以降に主たる出板活動が見られる点で、几張面にほぼ一年に一作のペースで出している。梅暮里谷峨の作品が二種あるが、作風が種彦に似ていなくもない。また画工に蘭斎北嵩を使っているのは山青堂だけである。重信との関係も気になる。 
何よりも特筆すべき点は、最後までは続かなかったものの、江戸読本を代表する不朽の名作『南總里見八犬傳』板行の口火を切ったことである。平林堂から譲られた企画であったが、これ以前の馬琴読本は『美濃舊衣八丈綺談』だけしかなく、いわば実績のない板元であった。文化末から文政以降に読本が長編化していくに伴って板元地図も大きく変動していくが、その一端を示した事例である。 
貸本屋世話役の本所松坂町家主、平林堂平林庄五郎が出したのは、すべて馬琴の作である。 
繍像復讐石言遺響馬琴北馬文化二年正月 
椿説弓張月前篇馬琴北斎文化四年正月 
敵討裏見葛葉馬琴北斎文化四年正月 
椿説弓張月後篇馬琴北斎文化五年正月 
椿説弓張月續篇馬琴北斎文化五年十二月 
椿説弓張月拾遺馬琴北斎文化七年八月 
椿説弓張月殘篇馬琴北斎文化八年三月 
青砥藤綱摸稜案馬琴北斎文化九年正月 
青砥藤綱摸稜案後編馬琴北斎文化九年十二月 
何よりも文化二年に『石言遺響』を出した点は注目すべきである。江戸読本にとっても馬琴にとっても、まだ手探りの状態である未開のジャンルであったからである。また後に『椿説弓張月』を流行させ、馬琴北斎のコンビを定着させた功績も決して小さいものではない。この実績からであろうか、馬琴の信頼していた数少ない板元の一つであったことが『作者部類』の記述からうかがわれる。蔵板の中には京伝の『昔話稲妻表紙』などのように、別の板元から板株を買って後印している本もある。 
貸本屋世話役の深川森下町治助店、木蘭堂榎本惣右衛門、同平吉もやはり馬琴作が多い板元である。 
三七全傳南柯夢馬琴北斎文化五年正月 
阿波之鳴門種彦北斎文化五年正月 
由利稚野居鷹醉月庵主人北斎文化五年正月 
阿旬殿兵衛實實記馬琴豊広文化五年十一月 
常夏草紙馬琴春亭文化七年十二月 
三七全傳第二編・占夢南柯後記馬琴北斎文化九年正月 
絲櫻春蝶竒縁馬琴豊清・豊広文化九年十二月 
皿皿郷談馬琴北斎文化十二年正月 
惣右衛門と平吉との関係はよくわからないが、同住所同号であり常に刊記に並んで見えているので、あるいは血縁関係ではないかと思われる。ただし惣右衛門は「手広に致し候貸本屋」であるが、平吉の方は貸本屋世話役をしている。目立たないが中堅の板元として比較的売れゆきのよい作品を出した書肆である。 
右表中『由利稚野居鷹』は馬琴作として予告広告のあった作品であるが、いかなる事情があったのか無名作者の手になったものである。なお『名目集』には、作中の蒙古退治の一条が、時事問題に触れるとして差し留められた様子が記されている。 
貸本屋である青物町、桂林堂石渡利助は書物問屋からもっとも攻撃された板元である。馬琴の作はなく、振鷺亭と談洲楼焉馬の作品の板元となっている。 
繪本敵討・待山話焉馬豊国享和四年正月 
春夏秋冬春編振鷺亭豊国文化三年正月 
千代曩媛七變化物語振鷺亭北馬文化五年正月 
俊徳麻呂謡曲演義振鷺亭北馬文化六年正月 
忠孝潮來府志焉馬北斎文化六年正月 
陰陽妹脊山振鷺亭北斎文化七年正月 
この内で、焉馬の『待山話』と振鷺亭の『春夏秋冬』とは、江戸読本中では珍しく挿絵に役者似顔を用いている18。そのせいで似顔の得意な豊国に描かせているのであろう。振鷺亭との関係も気になるところであるが、この登場人物のほぼ全員に似顔を使うという企画は、どうも板元の発案ではなかったかと思われる節がある。江戸読本にはふさわしくない趣向であったためか、ほかではあまり見られない趣向だからである。 
ところで、少しく奇妙なことではあるが、前掲の『外題鑑』の板元でもある貸本屋世話役の小伝馬町弐町目家主、文溪堂丁子屋平兵衛が刊行に関わっていた江戸読本は、 
復讐古實・獨揺新語熟睡亭主人榮松齋長喜文化五年正月 
月宵鄙物語四方歌垣柳々居辰齋文化七年正月 
天縁竒遇神屋蓬洲同人文化九年正月 
の三点に過ぎない。文政天保期には上方の河内屋一統と組んで、『南總里見八犬傳』をはじめとする長編読本や人情本の板元として大活躍をするのであるが、文化期には貸本屋世話役として資本を貯めていたのであろうか、無名作者の読本を筆料の安い画工に描かせているに過ぎない。とりわけ神屋蓬洲は、画工はもちろんのこと筆耕まで自分でやってのけた、安上がりな作者である。 
いま見てきた以外にも、たとえば出板企画を知る手掛りとして、広告から得られる情報も有益である。作品の成立を巡って趣向(典拠や構想)の受け渡しが行なわれたことが推測できる場合もある19。また刊記などの隅に小さく「傭筆」と記されている筆耕、すなわち板下の浄書をした者に関する情報も見逃せない。 
たとえば『石言遺響』には二〜四巻の筆耕として「濱枩幸助」と見える。彼は『繪本東〓錦』の板元松茂堂で、このほかにも馬琴の中本型読本『曲亭傳竒花釵兒』(享和四年)などを出している。また、数少ない馬琴の門人の一人である節亭琴驢(岡山鳥)も筆耕をしながら戯作を学んだようで、次の諸作に見えている20。 
新累解脱物語島五六六 
頼豪阿闍梨恠鼠傳節亭琴驢 
由利稚野居鷹節亭琴驢〔校正〕 
復讎竒語・雙名傳前篇節亭琴驢(馬琴の序末) 
報怨珎話・とかえり花岡山鳥 
忠兵衛梅川赤縄竒縁傳・古乃花双紙岡山鳥 
夢想兵衛胡蝶物語序跋・岡山鳥 
昔語質屋庫嶋岡節亭 
常夏草紙嶋岡節亭 
馬夫與作乳人重井・催馬樂竒談神田丹前住・岡山鳥 
三七全傳第二編・占夢南柯後記嶋岡節亭 
青砥藤綱摸稜案岡節亭 
このほかに、石原駒知道二十点、近田中道(千形仲道)十五点、鈴木武筍(皎窓武筍)十五点、橋本徳瓶四点などがある21。このように、江戸読本の出板現場に関わる人物の関係も見えてくるのである。 
順を追って主な板元に関して詳細に見てきたが、個別の書肆と作者や画工との関係についても一覧表にすることによって一目瞭然になった。そこからは、板元としての貸本屋にはそれぞれ特徴があり、企画や営業の手腕を発揮していた様子がうかがえたものと思う。 
また、丁子屋平兵衛板『外題鑑』が企画そのものからして貸本屋の需要によるものであり、蔵板元である貸本屋によって編まれた江戸読本カタログなのであった。 
以上、『外題鑑』を手掛りとして文化期の江戸読本を俯瞰し、おもに板元に焦点を当てて見てきた。いきおい作者の位置については、受動的な側面を強調する結果になってしまった。一見うしろ向きの見解のようではあるが、出板機構の内部で著述をすることの外面的な規制の実態を、一旦は確実に押さえておかなければならないと思う。なぜなら、馬琴の『作者部類』における口吻を額面通り受け取り、作者が板元を牛耳って思い通りのものを書き与えていたかの如き感覚では、正しい判断を下すことはできないからである。 
長友氏が「近世文学、ことに第二文芸といわれるような庶民文芸は、このような本屋が主導権を取りつつ、作者や周辺との緊張関係の中で産み出されてきた」22と説くように、板元を中心にした商業ベースに乗らなければ江戸読本の著述は不可能だったのである。だが同時に、その一定の枠の中では、作者の手腕にすべてがかかっていたともいえ、またそれだからこそ、板元には作者の魅力を引き出すための製作者(プロデューサ)としての手腕が不可欠なのであった。 
注 
1引用は都立中央図書館蔵の資料によった。なお、横山邦治編『為永春水編増補・外題鑑』(和泉書院影印叢刊、和泉書院、一九八五年)の巻末折込みとして影印復刻されている。 
2ここでいう「中形のよみ本」は滑稽本を指し「仇討等の冊子」の方が中本型読本を指していると考えられる。 
3天保九年に為永春水編『増補・外題鑑』が出されているが、あくまでも「増補」であって、予告された後編とは別の意図で編まれたものと思われる。なお、この増補版の成立については、鈴木圭一「資料報告『書林文渓堂藏板目録』・『東都書林文渓堂藏版中形繪入よみ本之部目録』−『増補・外題鑑』成立の一過程−」(「読本研究」四輯下套、渓水社、一九九〇年)に詳しい。 
4もちろん完全に網羅しているわけではなく、『忠婦美談・薄衣草紙』(津川亭作、文化八年、西村源六板)など若干の洩れもある。また、上方の作者であるから純粋な江戸読本ではないが、中川昌房『小説東都紫』(文化四年三月、石渡利助・上総屋忠助板)なども、やはり江戸書肆のみが発兌している。 
5『名目集』は「国文学論叢一輯西鶴−研究と資料−」(慶応義塾大学国文学研究会編、至文堂、一九五七年)に松本隆信氏の手によって紹介されており、『割印帖』は朝倉治彦・大和博幸編『享保以後・江戸出版書目(新訂版)』(臨川書店、一九九三年)に翻刻されている。書誌書目シリーズ10『江戸本屋出版記録(上中下)』(ゆまに書房、一九八四年)は『割印帖』の影印復刻。 
6具体的な調査結果については本書第一章第三節に掲げた。 
7『北齋讀本插繪集成』全五巻(美術出版社、一九七三年)に、その全貌が明らかにされている。 
8一般に読本の蔵板元は初板本の見返しに記載されていることが多い。刊記に「梓行」などと蔵板元が明記されている本もあるが、複数の書肆が並び、その中で蔵板元が不明の場合には、やはり見返しによらなければならない。また刊記や見返しを欠く場合でも、広告の蔵板書目や序文中の記述、まれには柱刻などから蔵板元が知れることもある。 
9大坂の板元である文金堂河内屋太助からの開板申請が一件見られるが、上方の本屋の場合は江戸の書物問屋を売出し元として申請したものと思われる。 
10濱田啓介「馬琴をめぐる書肆・作者・読者の問題」(『近世小説・営為と様式に関する私見』、京都大学学術出版会、一九九三年、初出は一九五三年)、前田愛「出版社と読者−貸本屋の役割を中心として−」(『前田愛著作集』二巻、筑摩書房、一九八九年、初出は一九六一年)、広庭基介「江戸時代貸本屋略史」(「図書館界」、一九六七年一〜三月)、長友千代治「行商本屋・貸本屋・読者」(『近世の読書』、青裳堂書店、一九八七年、初出は一九八〇年)など。 
11長友千代治『近世貸本屋の研究』(東京堂出版、一九八二年)。 
12拙稿「『類集撰要』巻之四十六−江戸出板史料の紹介−」(「読本研究」二輯下套、渓水社、一九八八年)。 
13佐藤悟氏は「読本の検閲―名主改と『名目集』―」(「読本研究」六輯上套、渓水社、一九九二年)で、拙稿を引き「高木のいう検閲態勢の強化のため、改の主体が町年寄から町名主に移管されたという点」に疑問を呈し、単に事務処理の軽減策であり「少なくとも改正した側には検閲強化の意図はなかったと思われる」と指摘し、にもかかわらず名主の自己規制が働いて「結果的にはこの改制度の改正が検閲の強化になったとする高木の指摘は正しい」と述べている。佐藤氏が指摘する通り、確かに「体制側の意図」ではなかったと思われる。ただし、『京都書林行事上組済帳標目』(書誌書目シリーズ5『京都書林仲間記録』五、ゆまに書房、一九七七年)の「文化四年卯九月より同五年辰正月迄」の箇所に、 
一繪入讀本類別段嚴重御吟味ニ付江戸より書状到来返状候写之 
一江戸仲ヶ間外ニ直賣致間敷旨一統相觸候一件 
などとあるのを見るにつけても、文化四年九月の改め制度改変に関する現場側の認識は「別段厳重御吟味」、すなわち実質的には<検閲の再編強化>だったのである。 
14前述した濱田氏の調査によれば、読本二十五丁五冊を発行するのに八十両ほどの元手を必要とするという。おそらく、この元手は先行投資しなければならなかったはずである。 
15内田保廣「曲亭馬琴−作家の成立−」(「解釈と鑑賞」、至文堂、一九七九年八月)。 
16長友千代治『近世貸本屋の研究』(前掲)。 
17鈴木敏也「小枝繁の處女作から京傳を眺める」(「国文学攷」二巻一輯、広島大学国語国文学会、一九三六年四月)。 
18向井信夫「古書雑録(五)−元文曾我と「絵本敵討待山話」−」(「愛書家くらぶ」九号、一九六九年五月)。 
19拙稿「江戸読本の新刊予告と<作者>−テキストフォーマット論覚書−」(「日本文学」、日本文学協会、一九九四年十月)。 
20『とかえり花』の巻末に、岡山鳥作として三作の読本が予告されているが管見に入っていない。なお、岡山鳥については本書第四章第四節参照。 
21ここには出てこないが、後に松亭金水が筆耕から作者になっている(拙稿「近世後期の出板界」「日本古典文学会々報」117、一九九〇年)。また、彫工に関しても、菊地茂兵衛は式亭三馬の父親であるし、朝倉力蔵は東西庵南北と名乗って戯作を始める(拙稿「もう一人の南北」「近世部会会報」7、日本文学協会近世部会、一九八四年)。 
22長友千代治「本屋の貸本、貸本屋の出版」(前掲『近世の読書』所収、初出は一九八一年)。 
第二節江戸読本の形成−板元鶴屋喜右衛門の演出− 
一文学史の記述 
ここでは文化初頭の江戸読本史を説く際に必ず触れられる京伝と馬琴の競作状況について、従来の文学史書の記述を検討してみよう。 
まず、藤岡作太郎『近代小説史』1には、 
其作品の間に二者の競爭の現はれたるを見ざるべからず。即ち讀本にありては、京傳は既に得たる名聲を維持せんとし、馬琴は之を超えんとす。こゝに於て二人の間に競爭あり、其の作を見るに、彼は此より取り、此は彼を取り、而も互に一歩を進んとする哀情歴歴として現はる。 
と記されている。文化初年に刊行された両者の読本に見られる趣向の模倣(相似)を根拠に、お互いの意識的な競争であると述べるのである2。 
一方、鈴木暢幸『江戸時代小説史』3には、 
當時の大家たる京傳を目標として、彼の地位に近づき、或はかれに優らんとして努力する様になつて來た。京傳も亦彼を一敵手として兩々並に競爭したかの如き觀がある。さればその趣向も自然相似た所もあり、又互に他の作の趣向を摸擬せる所もあつた。 
と、一敵手という言葉を使っているが、ほぼ藤岡氏と同様の見解が示されている。 
ところが、重友毅氏は「京傳・馬琴の對立と江戸讀本の成型」4で、 
共に讀本界の覇者を目指して進んで來た競爭意識が、機を得てこゝに爆發した……一擧にその勝敗を決したものは、實に『雙蝶記』一篇の失敗にあつた。 
などと、過剰な感情移入を伴った大層修辞的な叙述によって、現象としての競争状況を、感情的な対立として解釈し、さらに勝敗の問題とするに至ったのである。さらに同氏は、『日本近世文學史』5でも、 
この勝負が、結局はかれの敗退に終るであろうことが豫感せられるに及んで、その苦惱はいよいよ深まってゆくのであって、この素質の問題と精神的な負い目とが、ついにかれをしてこの領域での大成を見ることなく終らしめるのである。 
と、町人と武士という出自に関する潜在意識にまで踏み込んで述べているのである。 
これら重友氏の京伝馬琴対立論は、江戸読本の形成史を語る時の暗黙の前提になってしまった嫌いがあり、以後文学史の通説として大部分の文学史書が、京伝と馬琴の対立抗争によって江戸読本が成立し、馬琴が勝って京伝が負けたかのごとく記述しているのである6。 
たとえば、前田愛『日本の近世文学』7には次のようにある。 
かつて師弟関係にあった京伝と馬琴ははげしい競り合いを演ずることになる。……『南総里見八犬伝』は、馬琴の勝利と京伝の敗北を決定的に印象づけるのである。 
表現としては、あるいは「演ずる」などというのが一番ふさわしいのかもしれない。それにしても<勝利>とか<敗北>という修辞には馴染めない。文学史の記述に過剰な感情移入や修辞は不必要だと思うからである。まして、それが事実誤認に基づいた脚色だとしたら、なおさら看過するわけにはいかないのである。 
二鶴屋喜右衛門の演出 
ここで、前節で取り上げた資料の続きを見てみよう。 
書物問屋であり地本問屋でもあった通油町八右衛門店、僊鶴堂鶴屋喜右衛門は、蔦屋重三郎と共にいわば江戸読本流行の火付役とも仕掛人ともいえる書肆である。その読本出板は文化五年までしか見られないが、『忠臣水滸傳』以降の京伝作の半数以上を出板し、また馬琴の初期作も手掛けている。 
忠臣水滸傳前編京伝重政寛政十一年十一月 
忠臣水滸傳後編京伝重政享和元年十一月 
*復讐安積沼京伝重政享和三年十一月 
*優曇華物語京伝武清文化元年十二月 
*復讐奇談・稚枝鳩馬琴豊国文化二年正月 
*櫻姫全傳曙草紙京伝豊国文化二年十二月 
*源家勲績・四天王剿盗異録馬琴豊国文化三年正月 
*善知安方忠義傳前編京伝豊国文化三年十二月 
*墨田川梅柳新書馬琴北斎文化四年正月 
梅之與四兵衛物語梅花氷裂京伝豊国文化四年二月 
松浦佐用媛石魂録馬琴豊廣文化五年正月 
*頼豪阿闍梨恠鼠傳馬琴北斎文化五年正月 
資金力のある書物問屋の貫禄か、書名の上に*を付けて示したように、単独で出板したものが多いのが特徴である。 
とくに注意すべきは、文化元年から四年にかけての刊行順序で、京伝の『優曇華物語』を文化元年十二月に、馬琴の『稚枝鳩』を文化二年正月に出している。この二作は、共に文化二年春の新板という意識で出されたもので、以下同様に、文化三年の新板として『曙草紙』と『剿盗異録』を、文化四年の新板として『善知安方』と『梅柳新書』を出すのである。京伝作にやや敬意を表して十二月に、馬琴作を正月にという具合に、両人の新板をぶつけて巧みに競作状況を作り出している様子がよくわかる。 
実際の売り出し時期と刊記の日付とが、若干ずれていたであろうことは容易に想像できるのだが、二大作家の新板をあえて同年同月としていない点に、板元の作為が存すると考えられる。 
すなわち、京伝と馬琴とによる競作状況は、江戸読本を流行させるために板元である鶴屋喜右衛門が意図的に演出(プロデュース)したものと考えるべきなのではないだろうか。だとすれば、この競作状況を、ただちに京伝と馬琴との対立競争意識の反映として説明してきた従来の文学史には、いささか問題がある。 
おそらく、この説を敷衍した江戸読本の成立を説き続ける限り、京伝馬琴以外の読本作家たちとその作品、および読本の刊行をめぐる板元の演出など、大きな枠組としての出板界の様子が覆い隠されてしまう危険がある。とくに京伝読本を評価する場合には、この対立抗争説という文学史の呪縛から自由な、そして勝ち負けとは別の新たな視座が必要になるはずである8。 
三京伝馬琴不和説の検討 
ところで、藤村作『國文學史總説』9を見ると、 
(馬琴は)黄表紙を去つて讀本を出し、京傳を凌駕して一流の讀本作者となつた。而して後には京傳の女らしい嫉視や、馬琴の傲岸な利己的な不人情のため不和になつたのであつて、京傳が歿した時にはその葬式にも參列しなかつた。 
と、根拠のない人物像の憶断から性急な不和説を立てているが、競作状況を説明する際に用いられたこの京伝馬琴不和説は、だいぶ歪められたものなのではなかろうか。 
そもそも、この説は馬琴の記した京伝の伝『伊波伝毛之記』(写本)や文壇史『作者部類』(写本)と、京伝の弟京山の『蜘蛛の糸巻』(写本)や『蛙鳴秘抄』(写本)などに記された両者の誹謗中傷が紹介されるに至って形成されたのである。馬琴の側の発言はあっても、京伝本人の記述がないことにも注意すべきである。そして、これらはすべて写本として伝存されてきたもので、本来ならば秘匿され他見の及ばない私的な雑記であったはずである。もっとも、だからこそ本音が綴られているともいえるが、さらに裏返せば事実でないことを書いておくことも可能であったはずである。 
従来の研究史において、馬琴の私生活がうかがえる日記や家記書翰類の資料紹介が先行したせいで、馬琴の人物像が固定化されたのかもしれないが、いずれにせよ近代になってから作られた逸話に過ぎず、残されたテキストの読解に際しての先入観としては無用な情報であろう。 
有名な逸話であった北斎馬琴の絶交説が、鈴木重三氏の「馬琴読本の挿絵と画家」10によって否定された前例もあり、馬琴と京山の記したまことしやかな逸話などもたしてどこまで信じてよいものであろうか。 
四京伝馬琴の口上書 
さて、ここに二人の関係を知る上で有効な史料がある。これは文化中期の江戸読本に関しても、大変に重要な意味を持ったものである。 
新たな出板統制の一環として、文化四年九月に四人の絵入読本改掛肝煎名主(和田・斉藤・佐久間・村松)が任命され、直接検閲制度が確立したことはすでに述べた。その名主たちは仕事始めとして、当時の人気作者山東京伝を参考人として呼び「著述の仕方」を尋ね、草紙読本類吟味の内意を聞かせている。この内意の問題点は「近来別して剛悪の趣意を専一に作り設け、殺伐不祥の絵組のみを取合わせ候類」という一点であった11。その後、文化四年十一月二十八日付で、京伝と馬琴の連名により、名主の一人和田源七宛に口上書を提出している12。 
内々以書付申上候覚 
一私共廿年來草紙讀本類著述仕來候ニ付少々宛之作料所得も御座候而傍生活ニも相成候ニ付是迄毎年板元之書林共より被相頼候得は新作仕遣し申候然処今般御四ヶ所様右讀本類禁忌御改之蒙仰候ニ付京傳被召呼著述仕方御内意被仰聞難有奉存候。依之私共両人平生心得罷在候後御内々達御聞置申度左ニ口上書を以申上候。 
一草紙讀本類之義ニ付先年町御觸有之候後堅相守猶又其時々之流行風聞等之儀ハ決而書著し不申第一ニ勧善ン懲悪を正敷仕善人孝子忠臣之傳をおもに綴り成丈童蒙婦女子之心得ニも可相成儀を作り設可申旨心掛罷在候。尤前廣ニ著述仕候本類板元江相渡し程經候而書林行事共より伺ニ差出候砌不斗著述後之流行風聞ニ合候義有之此義ハ不用(本ノマヽ)ニ而暗合仕候故不及申候得共是以心付候分は早速相改メ申候併猶以心付不申義も可有之旨毎度恐入奉存候事。 
一禁忌御附札之趣第一ニ相守縦板下認候而も其板元江精々申請写本不及申入木直しニ至迄職人を私共宅江相招差圖仕候而急度為改申候尤賣得ニ迷ひ私共申候儀を相用不申板元御座候得共相断翌年より著述之藁本相渡不申様ニ申談置候事。 
一私共両人は年來相互ニ申合不行届所は無腹蔵申談候。此義先年京傳蒙御咎候ニ付當人ハ不及申馬琴義も同様相慎ミ罷在候得共外作者共ハ行届不申も有之候哉近來別而剛悪之趣意を専一ニ作設ヶ殺伐不祥之繪組而已を取合候類有之。右は先々賣捌方も格別宜由及承私共成丈ヶ右躰之書入繪組相省キ候而著述仕候本類は却而賣方不宜由ニも御座候間無拠少々宛右躰之繪組等差加江候儀ニ御座候。然共勧善懲悪之趣意は取失ひ不申様心懸ヶ申候。然処先日京傳被召呼御内意之趣近來草紙讀本之作風兔角剛悪殺伐不祥之繪組等多候而不宜候間私共両人申合せ右作風變候様ニ仕可然旨被仰聞御尤ニ奉存候乍併前書申上候通繪組書入等剛悪不祥之類多草紙讀本ハおのつから賣捌も宜敷候ニ付著述仕候者共一同右之風義を似せ候事ニ御座候間私共両人而已相慎候而も中々右躰之作風變候義は有之間敷奉存候。依之何卒渡世仕候作者共并画師共被召呼向後草帋讀本類右格別剛悪之儀甚敷不祥之儀格別殺伐之儀道ニ外れ候天災火難之繪組等堅相慎ミ書著不申様一統江被仰渡被下度奉存候。左様無之候而私共両人御内意之趣を以諷諫仕候而も執用申間敷奉存候。右一統江被仰渡候ハヽ私共并渡世ニ仕候作者画師共寄合仕來秋より出板之作風殺伐不祥之儀成丈相省キ候様ニ申談一同相慎候様ニ可仕候右一同ニ相慎ム様ニ相成候ハヽ乍憚私共両人平生之心掛ニも相應仕剛悪殺伐不祥之繪組等差加不申候而も外の並々賣捌可申旨難有奉存候。依之内々口上書を以申上候。以上。 
文化四卯年十一月廿八日 
京傳事京屋傳蔵 
馬琴事瀧澤清右衛門 
和田源七様 
右書面差出候由尤印形ハ無之候 
まさに「幕府権力への迎合を余儀なくされた作者の創作態度をよく物語っている」13のである。しかし、速断はできないものの、これを境にして作風が一転したとも思えない。気が付く変化といえば、京伝がしばらく読本を書かなかったことと、鶴屋喜右衛門が読本から手を引いたことである。 
この文化四年の十一月頃には文化五年の新板が出来しつつあり、京伝には執筆中の読本はなかったようだが、馬琴は『頼豪阿闍梨恠鼠傳』前編の跋文などを書いている。また、すでに馬琴の作品数が京伝を上回っている時期でもある。 
このような背景において、京伝と馬琴が連名で口上書を提出した点が大層興味深いのである。どこから見ても、競争意識をむき出しにして対立抗争している二人の姿はうかがえない。むしろ、最初に呼び出された京伝が馬琴に相談を持ちかけて、公儀に対してそれなりの共同戦線を張ったと考えたい。つまり寛政の改革で痛い思いをした京伝が危機感を持ち、馬琴と共に迎合的な創作態度を表明しておいたのであろう。 
さて、文中「絵組み書き入れ等、剛悪不祥の類多き草紙読本は、自ずから売り捌きも宜敷く候に付き、著述仕り候者共、一同右の風義を似せ候事に御座候間、私共両人のみ相慎み候ても、なかなか右躰の作風変じ候義はこれ有る間敷く存じ奉り候」とあるが、これは単なるいい逃れではなかった。現代の写真週刊誌でも似たようなものだが、買う人がいて売れるものについては、商売である以上、現場の製作担当者にはどうしようもないということを率直に述べたに過ぎないのである。それに、二人の作品には大勢の作者たちに対する影響力があったかもしれないが、二人に出板界全体をまとめて動かすだけの政治力があったとは考えられない。 
ところで馬琴の本音は、 
板本ンの作者ハ、書をつゝるのミにあらず、かく申せハ自負に似てはつかしく候へ共、作者の用心ハ、第一に売れる事を考、又板元の元入何程かゝる、何百部うれねハ板代がかへらぬと申事、前序より胸勘定して、その年の紙の相場迄よく/\こゝろ得ねハ、板元のためにも身のためにもなり不申候。これをハしらず只作るものは素人作者也。とかくその時々の人気をはかり、雅俗の気に入り候様に軍配いたし候事也。余人ハしらず、野生ハ年来如此こころ得罷在候14。 
というものである。つまり、板元は読者の要求を満たさなければ商売にならず、文化三年以降筆一本で生計を立てていた馬琴の利害も、また板元と一致していたのである。それゆえ、こうした実情を率直に口上書に認めたのであり、この行為を迎合的と呼んでも誤りではないが、ちょっと酷な気もする。 
以上述べてきたことから、文化期の江戸読本形成期における京伝馬琴の競作状況は、板元である鶴屋喜右衛門が江戸読本の流行を煽るために、作意的に演出した結果として生じたものと考えたい。もちろん馬琴の側には京伝に対する対抗意識が内包されていたという側面も否定できないし、またそれをテキストに読むことも可能だと思われるが15、ただ江戸読本の出板に関する諸般の条件を、作者が勝手気ままに采配できたわけではないという点だけは押さえておくべきである。 
京伝も馬琴も書きたい作品を好きなように出板できたわけではない。彼らはさまざまな制約のなかで、いかに書きたい作品を出板できるかという努力をしてきたのである。なぜなら本の刊行に関わるすべての経済的リスクを負うのは板元であって、決して作者ではないことを彼らは充分に承知していたからである。 
このように、文壇の覇者としての勝ち負けの問題や、結果的に売れたか売れなかったかという問題から江戸読本を解放して、初めて京伝馬琴以外の多くの作者たちを視野に入れた新たな江戸読本の形成史の記述が可能になるはずである。 
注 
1藤岡作太郎『近代小説史』(大倉書店、一九一七年)、五七四頁。 
2大高洋司氏は「『優曇華物語』と『月氷奇縁』―江戸読本形成期における京伝、馬琴―」(「読本研究」初輯、渓水社、一九八七年)や、同「『優曇華物語』と『曙草紙』の間―京伝と馬琴―」(「読本研究」二輯上套、渓水社、一九八八年)など近年発表した一連の論考で、両者の作品に使われた趣向の類似という内部徴証を探る方法によって、両者の関係を問い直している。 
3鈴木暢幸『江戸時代小説史』(教育研究会、一九三二年)、四三九頁。 
4重友毅「京傳・馬琴の對立と江戸讀本の成型」(重友毅著作集五巻『近世文学論集』、文理書院、一九七二年、初出は一九三五年)。 
5重友毅『日本近世文学史』(岩波全書119、岩波書店、一九五〇年)、一四〇頁。 
6麻生磯次『江戸小説概論』(山田書院、一九五六年)は、京伝馬琴の関係についても、読本史についても対立抗争説から自由であった。 
7前田愛『日本の近世文学』(新日本出版社、一九八三年)、二三二頁。 
8武藤元昭「京伝と馬琴―初期読本界の動向―」(研究叢書一号「外国文化の輸入と言語」、青山学院大学総合研究所人文学系研究センター、一九九二年)は、これらの問題点を整理している。 
9藤村作『國文學史總説』(角川文庫、一九五一年)、一九八頁。 
10鈴木重三「馬琴読本の挿絵と画家」(『絵本と浮世絵―江戸出版文化の考察―』、美術出版社、一九七九年、初出は一九五九年)。 
11高田衛「江戸小説・幻想と怪奇の構造」(ゴシック叢書『城と眩暈』、国書刊行会、一九八二年)。 
12『類集撰要』所収。 
13今田洋三「化政文化と出版」(NHKブックス299『江戸の本屋さん―近世文化史の側面―』、日本放送出版協会、一九七七年)、一四二頁。また、同「江戸の出版資本」(『江戸町人の研究』三巻、吉川弘文館、一九七四年)や、同「江戸出版業の展開とその特質」(「出版研究」三号、一九七二年)にも言及がある。 
14文政元年二月三十日牧之宛書簡(『鈴木牧之全集』、中央公論社、一九八三年、初出は一九六一年)、二〇一頁。 
15石井洋美「馬琴と京伝―『四天王剿盗異録』の位置―」(「岡山大学国語研究」四号、一九九〇年)も、文化二年以降の馬琴側に激しい対抗意識を見ている。 
第三節江戸読本書目年表稿(文化期) 
『出像稗史外題鑑』(以下『外題鑑』と略す)は、題一節に記したように文化期の江戸読本カタログともいえるものである。東京都立中央図書館に所蔵されている『外題鑑』は、縦三十糎×横四十二糎余で、ちょうど新聞紙の半分ほどの大きさ。両面摺りの一枚物で、板行年の記載はない。しかし登載された書名などから文化末年頃のものと推測される。板元は、蔦屋重三郎、丸屋文右衛門、鶴屋金助、塩屋長兵衛、丁子屋平兵衛で、標題下の記述から、中心になって板行したのは文溪堂丁子屋平兵衛であることがわかる。また、筆耕は読本や草双紙でもよく見かける千形仲道である。 
残念ながら登載されていてしかるべき作品に洩れもあるが、まずは文化期の江戸読本リストと見做してよいように思われる。そこで以下、ここに載っている百種ほどの江戸読本に関して書誌を一覧にしてみた。 
凡例 
一、『外題鑑』掲載の順序にかかわらず、刊記による刊行年月順に挙げた。 
一、書名として内題を採用した。訓みが示されている場合にはルビで示した。 
一、原本に記載のない事項などはすべて括弧に入れた。 
一、書名の下に巻数冊数、作者、画工、蔵板元(見返しなどによる)を記し、(1)刊記、(2)序、(3)後跋、(4)柱刻、(5)筆耕、(6)彫工、(7)出願(『割印帖』による)、(8)所蔵先(板の違いは\で示した)の各項目は括弧数字の後に示し、以下に『外題鑑』の掲載名と紹介記事を、そのほかの事項は*以下に記した。 
一、記載のない項目は省いた。 
一、所蔵は公的機関の場合は『国書総目録』に準じた略称を、公刊された目録に登載されていない個人蔵のものはアルファベットで示した。 
寛政十一未己(一七九九)年 
忠臣水滸傳前編五巻五冊山東窟京傳子作(北尾重政)画僊鶴堂・耕書堂板(1)「寛政十一年己未冬十一月發行\書林\江戸通油町・蔦屋重三郎\同所・鶴屋喜右衞門\同梓」(2)「寛政戊午仲夏・山東子」(3)「石川五老\東兆熊\京山嵒世載」(4)「忠臣水滸傳前編」(7)鶴屋喜右衛門・蔦屋重三郎(8)国会・京大・狩野・東大・東京誌料・成田・学習院・東博・岩瀬・刈谷・島原・上田・函館・中村・D 
「忠臣水滸傳」かなでほん忠臣蔵をもろこしの小説水滸傳になぞらへて作る 
*画工名の記載なし。 
享和元酉辛(一八〇一)年 
忠臣水滸傳後編五巻五冊山東窟京傳子作(北尾重政)画僊鶴堂・耕書堂板 
(1)「享和改元辛酉冬十一月發行\書林\江戸通油町・蔦屋重三郎\同所・鶴屋喜右衛門\同梓」(2)「寛政庚申春三月望・洛橋老店主人(京伝)」(3)「南華\一杖閑客\薫堂敬義\鑾山外史」(4)「忠臣水滸傳後編」(7)蔦屋重三郎・鶴屋喜右衛門(8)国会・京大・狩野・東大・東京誌料・成田・学習院・東博・岩瀬・刈谷・島原・上田・函館・中村 
*画工名の記載なし。 
享和三亥癸(一八〇三)年 
繪本三國妖婦傳(上編)五巻五冊高井蘭山作蹄齋北馬画書林合刻(柱)板(1)「享和三癸亥年春\正月吉日\東都書肆\下谷御成小路・柏屋忠七\麹町平川町二丁目・角丸屋甚助\東叡山下谷竹町・花屋九次郎\四谷傳馬町二丁目・住吉屋政五郎」(2)「享和癸亥春正月・(自序)」(4)「三國妖婦傳」(6)朝倉卯八(7)花屋久次郎(8)東京誌料・早大・八戸・東大国文・三康・天理・酒田(上巻三欠)・中村(上のみ刊記存)・新城教委牧野・学習院・玉川・伊達開拓・会津若松・函館・鹿児島大玉里 
「三國妖婦傳」世にもてはやす九尾の老狐三國に妖をなし和朝に亡びて陰魂那須野に止り殺生石となるを作る 
*色紙型題簽(早印)と短冊型題簽(後印)がある。後印本には須原屋佐助板(伊達開拓、新城教委牧野)や、文政十三年の河長・河茂・丁平板(酒田)がある。 
繪本加々見山列女功五巻五冊川関楼主人作山青堂板 
(1)「享和三癸亥歳\春三月吉旦\東都書林\筋違御門通御成徑平永町・山崎平八\梓行」(2)「享和三癸亥\春三月・武陽川関惟充」(3)「(年記なし)川関楼主人」「巨撰、三朝、社若」「享和三の年梓の木のめ春雨乃日・山青堂主人」(4)「繪本加々見山」(8)東大・八戸・広大・学習院・阪急池田・新城教委牧野・中村・徳田・A・C 
「加々見山烈女功」つぼね岩ふじ中らう尾上下女おはつが事等浄るり本を取直してかけり 
*画工不明。見返し刊記は東大本に存。池田文庫本は薄墨入り。広大本には吉野屋仁兵衛「繪本蔵版目次」あり。確実な初印本未見ゆえ刊行等存疑。 
小幡小平次死霊物語復讐安積沼五巻五冊山東京傳作・拝田泥牛校(北尾重政)画僊鶴堂板(1)「享和三年癸亥冬十一月發兌\書林\江戸通油町・鶴屋喜右衞門繍梓」(2)「享和三年癸亥夏五月・山東主人題」(3)「(年記なし)東都書舗仙鶴堂小林近房謹誌」(4)「安積沼」(7)鶴屋喜右衛門(8)八戸・早大×3・国会・東大・広大・大阪府・岩瀬(写本)・岐阜大・中村・A 
「安積沼」小はだ小平治がむかし語に仇討を取まじへたるさうしなり 
*画工名の記載なし。後印本「文政十二己丑年孟陽発販\京・山城屋佐兵衞\大坂・河内屋茂兵衞\江戸・前川六左衞門\前川忠右衞門(寶善堂板)」(A本)。早大本ほか刊年未詳の文溪堂板あり。 
享和四子甲(一八〇四)年(二月十一日改元、文化元年) 
繪本三國妖婦傳中篇五巻五冊高井蘭山作蹄齋北馬画書林合刻(柱)板 
(1)「享和四甲子歳正月吉辰\皇都\堀川通高辻上ル町・植村藤左衞門\浪華\心齋橋筋安堂寺町・大野木市兵衞\東都\麹町平川町二丁目・角丸屋甚助\四ッ谷傳馬町二丁目・住吉屋政五郎\下谷御成小路・柏屋忠七\東叡山麓下谷町・花屋久治郎」(2)「享和甲子孟春・高蘭山男高伴恭」(4)「三國妖婦傳中篇」(6)江戸\(巻一二)細字茂兵衞刀、(巻三四五)朝倉宇八刀(7)花屋久次郎(8)東京誌料・早大・八戸・東大国文・三康・天理・酒田(上巻三欠)・中村(上のみ刊記存)・新城教委牧野・学習院・玉川・伊達開拓・国会(中のみ巻三欠)・会津若松・函館・鹿児島大玉里 
繪本敵討待山話五巻五冊談洲楼焉馬作歌川豊國画(桂林堂・群書堂)板 
(1)「享和第四歳次甲子春王正月發行\書林\大坂心齋橋南久宝寺町・勝尾屋六兵衞\江戸日本橋四日市・西宮彌兵衞\江戸日本橋四日市・石渡利助(梓)\同所・同佐助\梓」(2)「享和四年甲子初春・立川談洲楼焉馬」(4)「待山話」(6)晴雲堂菊地茂兵衞刀(7)西宮彌兵衛(8)学習院・広大・新城教委牧野(巻一五欠)・A 
「敵討松山話」似顔繪入りのかたきうち 
*初印本未見。A本「文政七甲申年二月補刻\江都日本橋南壱丁目・須原屋茂兵衞\大坂心齋橋通安堂寺町・秋田屋太右衞門」(寶善堂板)。広大本は縹色無地表紙で「群玉堂岡田茂兵衞」板。 
優曇華物語五巻七冊山東軒主人(京伝)作喜多武清画仙鶴堂板 
(1)「文化改元甲子冬十二月發兌\書林\江戸通油町・鶴屋喜右衞門梓」(2)「文化紀元甲子春三月・醒々齋(京伝)」(3)「蘭洲東・$8090・撰」(4)「優曇華」(6)(巻一四下)江川吉五郎、(巻二三)朝倉藤八郎、(巻四上)岡本與八郎、(巻五)朝倉九左衞門(7)鶴屋喜右衛門(8)狩野・石川県・国会・東大・早大・岐阜大・学習院・中村・抱谷・A・H 
「優曇華物語」金れい道人といへるもの吉凶を卜せしより洪水に人を助て禍をひき出す仇討物かたり 
*巻四五を上下に分冊した後印本あり。原刊記+「嘉永元戊申年求板\大坂書林\心齋橋筋博労町・河内屋茂兵衞\同・河内屋藤兵衞」「群玉堂\岡田茂兵衞」(東大)。 
文化二丑乙(一八〇五)年 
繍像復讐石言遺響五巻五冊曲亭主人作・魁蕾癡叟校蹄齋北馬画平林堂・昌雅堂板 
(1)「文化乙丑年春正月吉日發行\繍梓書肆\江戸本石町二丁目・西村源六\同本所枩坂町二丁目・平林庄五郎\京都堀川六角下ル町・中川新七\開板」(2)「文化新元甲子年暑月龍生日・曲亭主人」(3)「文化甲子林鐘朔・門人魁蕾子」(4)「復讐石言遺響」(6)(巻一五)朝倉宇八、(巻二三四)濱枩幸助(7)西村源六(8)東大国文・八戸・国会・岩崎・学習院・関大・京大・林美一・酒田・天理・諸家・花春・岐阜大・中村・三康・B 
「石言遺響」小夜の中山にありといふ夜なき石を種として化鳥たいぢに仇討を取交て作る 
*表紙に型押しされた短冊の中に「昌雅堂蔵板」とある。題「蘭洲秋〓」。広告「乙丑發行曲亭先生著述目録」に「五節句物語〇来寅春出来」とある。 
月氷奇縁五巻五冊曲亭馬琴作(流光齋)画文金堂板 
(1)「文化二乙丑歳孟春\發行書肆\江戸本町通油町・蔦屋重三郎\尾州名古屋本町・永樂屋東四郎\京三条通御幸町・蓍屋儀兵衞\大坂心齋橋北詰・播磨屋五兵衞\同心齋橋通唐物町・河内屋太助」(2)「享和三年歳在癸亥春二月上浣・曲亭蝉史」(3)「江戸東秋〓撰」「文金堂森本太助欽白」(4)「月氷竒縁」(7)蔦屋重三郎(8)林美一・学習院・早大・広大・京大・国会・東大・三康・弘前市(巻二のみ)・岐阜大・中村・A・C 
「月氷竒縁」異國より山鳥を貢ぐわざはいのはじめとなり熊谷何がしが仇うちのものがたり 
*画工名の記載なし。見返しに「亨徳年間復讎小説」とある。 
復讐竒談稚枝鳩五巻五冊曲亭馬琴作一陽齋豊國画僊鶴堂板 
(1)「文化二歳次乙丑春正月良辰兌行\繍梓書肆\江戸通油町・鶴屋喜右衞門蔵」(2)「文化新元甲子年秋八月・著作堂主人」(3)「小林近房」(4)「稚枝鳩」(6)小泉新八郎(7)鶴屋喜右衛門(8)諸家・静嘉堂・学習院・京大・早大・国会・天理・花春・抱谷・中村・D・A 
「稚枝鳩」弁才天の御利生にて危きをのがれ或は凶事の御告などいと面白き仇討なり 
*後印本「本所相生町一丁目\紙屋利助板」(早大)。群玉堂板、寶善堂板もあり。 
繪本三國妖婦傳下編五巻五冊高井蘭山作蹄齋北馬画書林合刻(柱)板 
(1)「文化二年乙丑正月發行\書林\京都堀川通高辻上ル町・植村藤右衞門\大坂心齋橋筋安堂寺町・大野木市兵衞\江戸麹町平川町二丁目・角丸屋甚助\同神田通鍋町・柏屋半蔵\同筋違御門外御成小路・柏屋忠七」(2)「文化二年乙丑初春望・高井伴寛思明」(4)「三國妖婦傳下篇」(7)花屋久次郎(8)東京誌料・早大・八戸・東大国文・三康・天理・酒田(上巻三欠)・中村(上のみ刊記存)・新城教委牧野・学習院・玉川・伊達開拓・会津若松・函館・鹿児島大玉里 
復讐竒話繪本東〓錦五巻五冊小枝繁作画狂老人北斎画松茂堂・衆星閣板 
(1)「文化二年乙丑年正月\三都書林\京都堀川通高辻上ル町・植村藤右衞門\大坂心齋橋通安堂寺町・大野木市兵衞\大坂心齋橋轉苦町・勝尾屋六兵衞\江戸通油町・濱松屋幸助\同麹町平川町二丁目蛤店・角丸屋甚助」(2)「文化二乙丑正月・小枝繁」(4)「繪本東〓錦」(7)角丸屋甚助(8)葛飾北斎美術館・国会・京大・天理・学習院・中村・A 
「東〓錦」むさしのくにの地名によりて孝子ふくしうの傳をのぶ 
*後印本「文化六年己巳五月\東都\麹町平川町弐丁目・角丸屋甚助梓」(A本)。 
新編水滸画傳初編初帙五巻六冊曲亭馬琴作葛飾北斎画(衆星閣)板 
(1)「文化第二乙丑年秋九月\書肆\大坂心齋橋轉苦町・勝尾屋六兵衞\江戸日本橋通三丁目・前川彌兵衞\江戸麹町平川町二丁目・角丸屋甚助」(2)「皇話文化乙丑年重陽前五日」(4)「新編水滸畫傳」(5)葛飾知道(6)(巻一四)山口清蔵、(巻二)山口半四郎、(巻三五)酒井米助(7)前川六左衛門(8)国会・静嘉堂・早大・東大・京都府・福井松平・金沢市(初のみ)・天理・八戸・岡山県・酒田・岐阜県・園部教委小出・岐阜市・A 
「水滸画傳」水滸傳のこだつを正しこと〓〓く画を加へそのおもむきをうつす 
*後帙は文化四年刊。 
櫻姫全傳曙草紙五巻五冊醒醒齋京傳作一陽齋豊國画僊鶴堂板 
(1)「文化二年乙丑冬十二月發兌\書林\江戸通油町・鶴屋喜右衞門繍梓」(2)「文化乙丑晩秋・半達道人」(4)「曙〔ノド〕」(6)小泉新八郎(7)鶴屋喜右衛門(8)諸家・東大国文・愛知県大・学習院・国会・早大・福井久蔵・A・I 
「櫻姫全傳」鷲尾家のせいすいよりさくらひめ清玄のものがたり 
文化三寅丙(一八〇六)年 
報仇竒談自来也説話五巻六冊感和亭鬼武作・高喜齋校蹄齋北馬画松涛館板 
(1)「文化三丙寅歳孟春版元\東都京橋常盤町・中村藤六」(2)「文化三年丙寅春正月朔旦・鬼武」「蘭洲東秋〓」(3)「(年記なし)千霍庵萬亀」(4)「自来也説話」(6)朝倉宇八(8)都立中央・蓬左・早大・学習院・狩野・天理・広大・中村・早大・A 
「自来也物語」盗ぞくの張ぼん尾形周馬異名自来也とよべること敵討とりまじへしものがたり 
*後編は文化四年刊。 
源家勲績四天王剿盗異録前後各五巻五冊(十巻十冊)曲亭主人作・魁蕾癡叟校一陽齋豊國画僊鶴堂板 
(1)(前)「乙丑冬新編」、(後)「文化改元甲子冬十月著述\同三年丙寅春正月吉日發行\書肆\江戸通油町・鶴屋喜右衞門梓」(2)(前)「文化新元冬至除夜(自序)」、(後)「文化きのとの丑のとしきく月廿日あまりよかの日(自序)」「門人梅柯軒記」(3)(前)「魁蕾外史」、(後)「仙鶴堂小林近房欽白」(4)「剿盗異録」(6)小泉新八郎(7)鶴屋喜右衛門(8)八戸(前)・明大・国会・学習院・京大・早大・東大・天理×2・中村・大阪府・花春・諸家・麗沢大・岐阜大・中京大・酒田・林美一・中村・A 
「四天王剿盗異録」姥捨山の古事より頼光四天王英勇強盗の張本袴垂保輔道广法師が幻術等を記す 
*前五冊は文化二年中の刊行か。 
富士淺間三國一夜物語五巻五冊曲亭主人作一陽齋豊國画慶賀堂板 
(1)「文化乙丑年夏五月脱稿了\同三年丙寅春正月吉日發行\書肆\東都江戸橋四日市・石渡利助\同處・松本平助\同日本橋通四丁目・上總屋忠助」(2)「文化二年夏五月上浣・魁蕾子」(3)「文化乙丑季穐の日・曲亭主人みつから書」(4)「三國一夜物語」(6)(巻一三四)山口清藏、(巻二五)中村吉左衞門(7)松本平助(8)八戸・酒田・天理・国会・学習院・早大・広大・弘前市(巻一のみ)・林美一・中村・都立中央・A・C 
「三國一夜物語」浅間の左衛門か奸曲より富士太郎が孝行のいさほし夫婦が苦中孤島に仇を復するを記す 
*文政板は、七巻八冊、歌川国直画、文永堂板。 
勸善常世物語五巻五冊曲亭主人作蹄齋北馬画 
(1)「文化二年乙丑三月著述同三年丙寅正月發行\書肆\京都堀川通高辻上ル町・植村藤右衛門\大坂心齋橋筋南久宝寺町・勝尾屋六兵衛\江戸麹町平川町二丁目・角丸屋甚助\同湯島切通シ・柏屋清兵衛\同下谷御成小路・柏屋忠七\同神田通鍋町・柏屋半蔵」(2)「文化乙丑竹秋端八・著作堂蝉梓」(3)「文かはるふたつのとし弥生のはじめ・梅柯」(4)「常世物語」(6)(巻一)朝倉卯八、(巻二四)朝倉権八、(巻三五)朝倉伊八(7)角丸屋甚助(8)青森県(巻三欠)・熊谷市(巻一二のみ)・A・B\国会・広大・天理・竜谷・八戸(再板初印本)・岐阜大・学習院・花春・藤廬・福井松平・成田・静嘉堂・都立中央・お茶成簣(自筆稿本、未見)・C 
「勧善つね世物語」孝子常世義婦白妙がいさほしより継母奸心時頼あんぎやの仁政梅松桜の雪の段を目當に作る物語 
*内題下に「門人梅柯軒嶺松亭校」とある。再板刊記「文政六丁未孟春再發行\大坂、勝尾屋六兵衞\江戸、角丸屋甚助・柏屋忠七・柏屋半蔵・大坂屋茂吉・西村屋與八\同橘町二丁目・越前屋長次郎再板」。「嘉永元年戊申冬求板\河内屋茂兵衞・河内屋藤兵衞・勝尾屋六兵↓菊屋幸三郎、西村屋與八(削除)」。 
春宵竒譚繪本璧落穂前編五巻五冊小枝繁作葛飾北斎画衆星閣板 
(1)「文化三丙寅年正月發兌\三都書林\京都堀川通高辻上ル町・植村藤右衞門\大坂心齋橋筋轉苦町・小林六兵衞\大坂同所安堂寺町・大野木市兵衞\江戸麹町平川二丁目・森甚助」(2)「文化丙寅孟春〓〓間士」(4)「繪本璧落穂」(6)江戸麹町平川一丁目・酒井米助(7)角丸屋甚助(8)国会・東博(前)・京大・東大・広大・学習院・新城教委牧野・福島県・中村・狩野・A・B 
「玉落穂」新田義興玉川に亡て後その臣辛苦して幼君徳寿丸を取たて籏上までを記す 
*後編は文化五年刊。改題後印本「矢口神霊新田功臣録」三都板(文溪板)。 
春夏秋冬春編五巻五冊振鷺亭主人作一陽齋豊國画桂林堂板 
(1)「文化三歴丙寅孟春刻成\書肆\大阪心齋橋筋南久宝寺町・勝尾屋六兵衞\江都江戸橋四日市・石渡利助」(2)「文化三暦舎丙寅春正月・振鷺亭主人」(3)「口禀・上梓書肆某」(4)「春夏秋冬春之部」(8)国会・早大・玉川大・中村・A 
「春夏秋冬」すべてせかいを芝ゐに仕組画やうも本ぶたいの飾付をはなれず似顔見立の役割よみ本 
*後編は鬼卵作「四季物語夏編」(文化十五年泰文堂刊)。玉川本は後編共十冊の後印本で三木佐助板。後印改題本「四季物語」。 
坂東竒聞濡衣雙紙五巻五冊芍藥亭長根作蹄齋北馬画慶賀堂板 
(1)「維時文化三歳在丙寅春王正月發兌\書肆\江戸橋四日市廣小路・松本平助\江戸日本橋通四町目・上總屋忠助\蔵版」(2)「文化丙寅春・芍藥亭主人」(4)「濡衣雙紙」(6)浅倉宇八郎(7)松本平助(8)国会・京大・中村・A・D 
「坂東竒聞濡衣草紙」舩遊ひの雅談より珎事をひき出す口の禍鳩谷義二郎が仇うちはなし 
善知安方忠義傳前編五巻六冊山東京傳作一陽齋豊國画仙鶴堂板 
(1)「文化三年丙寅冬十二月發兌\書林\江戸通油町・鶴屋喜右衞門繍梓」(2)「文化の二とせといふとし。神無月ついたちの日」(3)「附言」(4)「善知」(6)小泉新八郎、同平八郎(7)鶴屋喜右衛門(8)国会・早大・天理・お茶成簣・中村・後藤丹治・抱谷・学習院・青学・岐阜大・実践女・A 
「うとふ安方忠義傳」平良門が籏上より伊賀寿太郎が強勇咄肉芝仙のがまの術相馬内裡の古御所をあらたに作る物語 
*巻三上下。見返しに「此稗史文化二年乙丑冬\醒醒老人之所編也」とある。巻三上の十ウ十一オの挿絵に用いられる薄墨板に二種類ある。後印本は安政七年河内屋茂兵衛板の八冊。昔話稲妻表紙五巻六冊山東京傳作一陽齋豊國画(文亀堂)板 
(1)「文化三年丙寅冬十二月發行\書林\江戸本石町十軒店・西村宗七\同高砂町・伊賀屋勘右衞門梓」(2)「時文化二年乙丑秋九月下浣・〓〓齋主人」(3)「時文化三年穐仲下浣・山東覧山」(4)「名古屋」(6)小泉新八郎、同彌吉、同金次郎(7)西村宗七(8)国会・学習院・東大・早大×2・東京誌料・熊谷・お茶成簣・林美一・中村・河野信一記念・B・C 
「稲妻表紙」名古屋山三不破伴左衛門が事三本傘稲妻のはじまり見するものがたり 
*後に、「書賈本所松坂町・平林庄五郎蔵梓」あり。未見だが文政十三年の文溪堂板あり。 
文化四卯丁(一八〇七)年 
報仇竒談自來也説話後編五巻五冊感和亭鬼武作蹄齋北馬画 
(1)「時維文化四年星次丁卯孟春\浪華書肆吉文字屋市左衞門」(2)「丁卯初春・東汀間人」「文化丁卯春正月」(4)「自来也説話後編」(8)鶴舞・蓬左・早大×2・学習院・狩野・天理・広大・関西大・都立中央(五欠)・A・C・Y 
*『享保以後大阪出版書籍目録』には、「自來也説話後編五冊、作者・感和亭鬼武(江戸京橋弓町)、板元・吉文字屋市左衞門(木挽町中之丁)、出願・文化三年十一月、〔付記〕江戸にて同種のもの出板されしにより出願を取消す」とあるが、鶴舞本は吉文字屋板である。ただし、初印に近いと思われる蓬左本は「東都書林\銀座一丁目・布袋屋彦兵衞板」と入木されている。後印本外題「絵本自来也説話」(十一冊、河内屋板)あり。 
そのゝゆき五巻五冊曲亭馬琴作葛飾北斎画衆星閣板 
(1)「文化四丁卯年春正月發兌\書林\江戸麹町平川町二丁目・角丸屋甚助梓」(2)「文化丙寅のとし立夏後の一日」(4)「そのゝゆき」(6)酒井米輔(7)角丸屋甚助(8)花春・京大・都中央・国会・学習院・早大・天理・新城教委牧野・資料館・中村・A 
「標注そのゝ雪」金ぎやう傳をとりなをし少女が貞節のみさほを述て情にこまかきよみ本也 
*未完。巻末に「魁蕾標注園雪後編五冊来春發行」とある。 
鎭西八郎爲朝外傳椿説弓張月前篇六巻六冊曲亭馬琴作葛飾北斎画平林堂板 
(1)「文化四年丁卯春正月發行\江戸書肆\本石町十軒店・西村源六\本所松坂町二町目・平林庄五郎」(2)「文化乙丑年冬十一月・曲亭主人」(4)「椿説弓張月前篇」(6)櫻木松五郎(7)西村源六(8)林美一・花春・八戸・国会・学習院・早大・狩野・京都府・東京誌料・諸家・阪急池田・無窮平沼・熊谷市・大阪女大・島根大・加賀聖藩・宇部・中村・A・C 
「椿説弓張月」六條判官為義の八男九州に勢ひをふるひ鎮西八郎と称するより保元の一乱後為朝伊豆の大島に流されしこと八丈ヶ島のおこり琉球國のそうどう為朝その乱を切しづめ子孫彼國に王たりしこと讃岐院の神徳などすべて為朝一代の記也 
*後編は文化五年刊、残編まで二十八巻二十九冊。 
墨田川梅柳新書六巻六冊曲亭馬琴作葛飾北斎画仙鶴堂板 
(1)「文化四年丁卯春正月發行\江戸本町筋通油町\書肆鶴屋喜右衞門」(2)「文化丙寅のとし三月十五日・著作堂」「文化三丙寅孟夏朔・半間處士」(3)「七月廿三日。更に校正す・蓑笠隠居」(4)「梅柳新書」(6)酒井米輔(7)鶴屋喜右衛門(8)花春・東北大阿部・国会・学習院・京大・早大・天理・蓬左・中村・林美一・A・B・Y 
「墨田川梅柳新書」梅若松若の一期より角田川の古意をたづね吉田家の興發録 
新累解脱物語五巻五冊曲亭馬琴作葛飾北斎画文金堂板 
(1)「文化四年丁卯春王月發兌\書坊\江戸通油町・鶴屋喜右衞門\京御幸町姉小路下ル町・菱屋孫兵衞\同寺町二條下ル町・〓屋安兵衞\大坂心齋橋筋唐物町・河内屋太助」(2)「文化丙寅嘉平月朔・友石主人」「丙寅仲秋・著作堂」(4)「新累解脱物語」(5)島五六六(6)(京)井上治兵衞、(大阪)市田治兵衞(7)(板元)河内屋太助、(売出)鶴屋喜右衛門(8)関大・資料館・京大・天理・甲南女子大・静嘉堂・学習院・早大・富山大ヘルン・東京誌料・船橋西・青学・林美一・中村・A・I 
「新累觧脱物語」千葉家の息女田糸姫仏門にいらんとしてわざはひをかもすより絹川与右衛門がことを交作る 
*大高洋司編『新累解脱物語』(和泉書院、一九八五年)に関大本が影印されている。 
敵討裏見葛葉五巻五冊曲亭馬琴作葛飾北斎画平林堂板 
(1)「文化四年丁卯春正月發販\江戸書行\本石町十軒店北側・西村源六\本所松坂町二町目・平林庄五郎」(2)「(年記なし)著作堂主人」(4)「葛葉」(7)西村源六(8)酒田光丘・東博・学習院・京大・花春・早大・天理・岐阜大・宇部新井・中村・弘前市(巻四五欠)・A・B 
「敵討裏見葛葉」安部のやすなくずのはの一期をあかすものがたり 
*後印本に中村屋幸蔵板と前川善兵衛板がある。 
梅之與四兵衞物語梅花氷裂三巻三冊山東京傳作一陽齋豊國画僊鶴堂・雙鶴堂板 
(1)「文化四季丁卯春二月發兌\江戸通油町・鶴屋喜右衞門\仝新吉原揚屋町・鶴屋金助\梓行」(2)「時文化三季丙寅〓月醒醒齋京伝」(4)「梅花」(6)小泉新八郎(8)八戸・国会・早大・中村・A 
「梅花氷烈」(なし) 
*八戸本には鶴金の住所なし。後印本に文政九年楚満人序を持つ大坂屋半蔵板あり。 
新編水滸画傳初編後帙五巻五冊曲亭馬琴作葛飾北斎画(衆星閣)板 
(1)「文化四丁卯年春正月吉日\大坂書林\心齋橋轉労町・勝尾屋六兵衞\江戸書林\今川橋白銀町・前川弥兵衞\麹町平川町二丁目・角丸屋甚助」(2)「文化乙丑初冬上旬・曲亭主人」(3)「乙丑季秋の日」(4)「新編水滸画傳」(6)酒井米輔(7)角丸屋甚助・前川彌兵衛(8)同前編 
文化五辰戊(一八〇八)年 
鎭西八郎爲朝外傳椿説弓張月後篇六巻六冊曲亭馬琴作葛飾北斎画平林堂板 
(1)「文化五年戊辰正月吉日發販\江戸本石町十軒店・西村源六\同本所松坂町二町目・平林庄五郎」(2)「文化四丁卯年春三月・曲亭主人」(3)「丁卯季秋の日・再識」「魁蕾子」(4)「椿説弓張月後篇」(6)櫻木松五郎(7)西村源六(8)同前編 
椀久松山柳巷話説括頭巾縮緬帋衣三巻三冊曲亭馬琴作歌川豊廣画鳳来堂板 
(1)「文化五年正月吉日發販\江戸書林\通油町・鶴屋喜右衞門\四谷傳馬町・住吉屋政五郎」(2)「文化丁卯小春・馬田昌調」「丁卯夏肆月・簑笠隠居」(4)「縮緬帋衣」(6)小泉新八郎(7)鶴屋喜右衛門(8)京大・林美一・A\八戸(改題再板初印本)・国会・東博・学習院・東大国文・中村・B(改題再板)・Y 
「くゝりつきん縮緬帋子」碗きう松山か傳をしるせしものかたり 
*再板本『碗久松山柳巷話説』(五冊、一勇齋国芳画)「文化五戊辰年元板\文政十四辛卯年正月再板\東都書林・大阪屋茂吉\浪華書林・長門屋兵助\堺書林・住吉屋弥三郎」。板元は後に「丁子屋平兵衞\河内屋茂兵衞」と入木される。 
雲妙間雨夜月五巻六冊曲亭馬琴作歌川豊廣画柏榮堂板 
(1)「文化五年戊辰正月吉日發販\江戸書肆\神田通鍋町・和泉屋平吉\小傳馬町三丁目・和泉屋幸右衞門\神田鍜治町二丁目・北嶋長四郎\湯嶋切通町・柏屋清兵衞\下谷御成小路・柏屋忠七\神田通鍋町・柏屋半蔵」(2)「文化丁卯華月・著作堂主人」(3)「録雲妙間雨夜月後(年記なし)」(4)「雲絶間」(6)朝倉伊八(7)和泉屋平吉(8)都中央・資料館・国会・学習院・早大・東大・狩野・広大・花春・上田市藤廬・お茶成簣・天理・三島市郷土館・中村・A・G・I 
「雲妙間雨夜月」鳴かみほう師が悪行より兄弟の孝子。たえ太治吉があたうちのはなしを書 
*門人琴驢として予告広告と「鈴菜物語」の広告あり。後印本に「文化五年戊辰\繍梓書肆\江戸神田通鍋町・英平吉\同町東側・柏屋半蔵\深川六軒堀町・堺屋与八\同所・堺屋国蔵」(文榮堂板)あり(花春)。さらに後、河内屋、前川板になる。 
三七全傳南柯夢六巻七冊曲亭馬琴作葛飾北斎画木蘭堂板 
(1)「文化五年戊辰正月吉日發販\江戸書肆\須原屋市兵衞\深川森下町・榎本・〓・右衞門・榎本平吉\梓」(2)「文化四年丁卯夏孟・蓑笠隠居」(3)「文化四年乙卯冬十月中浣・魁蕾子」(4)「南柯夢」(6)高橋待人(7)須原屋市兵衛(8)東京誌料・天理・国会・神原・学習院・京大・岩崎・早大・東大・日大・諸家・花春・八戸・A 
「三七全傳南柯夢」みのや三勝茜根半七が貞と忠義理のつんだる世話ものかたりよみ本中の一大竒書といふべし 
松浦佐用媛石魂録(前編)三巻三冊曲亭馬琴作歌川豊廣画雙鶴堂・仙鶴堂板 
(1)「文化五載戊辰正月吉日發販\江戸書肆\雙鶴堂\通油町・鶴屋喜右衞門\新吉原・鶴屋金助梓」(2)「文化四年夏五月下浣・曲亭主人馬琴」(4)「大和言葉」(5)石原駒知道(6)小泉新八郎(7)鶴屋喜右衛門(8)C・中村\三康・静嘉堂・岩瀬・早大×2・花春・天理・学習院・国会・東大・大阪府・弘前市 
「松浦佐用媛石魂録」瀬川うねめはかた秋しくが傳北条時代のことをしるすいとおもしろきさうしなり 
*後編は文政十一年刊。C本中村本以外の文化五年板は未見。 
頼豪阿闍梨恠鼠傳(前編)五巻五冊曲亭馬琴作葛飾北斎画僊鶴堂板 
(1)「文化第五載戊辰正月吉日發販\綉梓書肆・江戸通油町翠橋\仙鶴堂鶴屋喜右衞門」(2)「文化丁卯暑月甲子・曲亭馬琴」(3)「文化丁卯仲冬上浣・著作堂主人」(4)「怪鼠傳」(5)節亭琴驢(6)櫻木松五郎(7)鶴屋喜右衛門(8)東大・国会・静嘉堂・学習院・京大・潁原・早大・陽明・三康・資料館・伊達・広島(前)・長崎(後)・A・C・E・U 
「頼豪阿闍梨怪鼡傳」義仲の公達よし高の孝と勇烈女唐糸か苦肉の行頼朝をねらひし事大姫君の貞心頼朝の仁智西行が金猫鼡の祠のものかたり 
*後編三冊は文化五年十月刊。 
報讐奇話那智の白糸五巻五冊高井蘭山作蹄齋北馬画 
(1)「文化第五戊辰正月發兌\東都書肆\日本橋四日市・西宮彌兵衞\淺草北馬道・大和屋文六\同所・中村屋久蔵\梓行」(2)「文化第五歳次戊辰春正月・高伴寛思明」(3)「(年記なし)高伴寛」(4)「那智白糸」(7)西宮彌兵衛(8)国会・玉川大・宮城・小諸市・弘前・中村・実践女・A 
「那智の白糸」老狐のたゝりをはじめとしてあたうちにつくるものがたり 
*刊記に石渡利助を加えたもの、また前川源七郎板の後印本あり。 
復讐古實獨揺新語五巻六冊熟睡亭主人編・忍持摺校榮松齋長喜画逍遥堂・文溪堂板 
(1)「文化四年丁卯五月稿成\仝五年戊辰正月發兌\浪花心齋橋通・河内屋太助\江戸\馬喰町三丁目・若林清兵衞梓\小傳馬町三丁目・丁子屋平兵衞梓」(2)「文化丁卯麦穐・熟睡亭」(3)「文化丁卯夏・門人忍持摺」(4)「獨揺新語」(6)(巻一二)沖重左衞門、(巻三)中村吉左衞門、(巻四)木村嘉兵衞、(巻五)小泉新八(7)若林清兵衛(8)八戸・国会・京大・国学院・東大・天理・無窮平沼・関西大・玉川大・中村・A 
「とくようしんご若葉榮」(なし) 
*冊数は存疑。 
春宵竒譚繪本璧落穂後篇五巻五冊小枝繁作葛飾北斎画衆星閣板 
(1)「文化五年戊辰年春正月發行\東都書林\麹町平川町貮丁目・角丸屋甚助板」(2)「文化丁卯春・〓〓閑士」(4)「繪本璧落穂後篇」(6)宮田新五郎(7)角丸屋甚助(8)東大・国会・京大・広大・福島・中村・A・C 
*前編は文化三年。 
千代曩媛七變化物語五巻五冊振鷺亭主人作蹄齋北馬画桂林堂板 
(1)「惟文化四年丁卯編成同五戊辰春正月發兌\江都書肆\江戸橋四日市街・西宮彌兵衞\江戸橋四日市街・石渡利助梓行」(2)「文化四次丁卯年皐月望・振鷺亭主人」(3)「(年記なし)振鷺亭貞居」(4)「千代曩媛物語」(5)皎〓武筍(6)菊地茂兵衞(7)西宮彌兵衛(8)八戸・早大・お茶大・尾崎・中村・C・G 
「千代曩姫七変化物語」玉屋新兵衛出村新へい三くに小女郎がことを面白くかきなしたり 
*内題角書「三國小女臈孝記・玉屋眞平忠義傳・出邑震平懲惡傳」。嘉永六年板あり。 
かたきうちくわいだん久智埜石文三巻三冊千霍庵萬亀作尋跡齋雪馬画龍池閣板 
(1)「文化五稔戊辰春正月發行\東都書肆\西宮彌兵衞\關澤文吉\中村久蔵\仝版」(2)「文化よつの季。ひのとなる卯寝さめ月。後三日・千鶴庵萬亀」(3)「(年記なし)・みやこ堀川の隠士\茂山桑園子」(4)「久智埜石文」(5)月桂庵香庭(6)朝倉直右衞門(7)西宮彌兵衛(8)国会・学習院・関西大・中村・甲南女・U 
「久智伊志婦美」(なし) 
*後印本に前川善兵衞板あり。翻刻『久智埜石文』(明治)。 
近世怪談霜夜星五巻五冊柳亭種彦作葛飾北斎画山青堂板 
(1)「文化五年戊辰春正月吉日\書林\皇都堀川通・植村藤右エ門\浪華心齋橋筋唐物町・河内屋太助\東都馬喰町三丁目・若林清兵衞\御成小路平永町・山崎平八」(2)「文化丁卯歳孟冬朔日・柏菴玉豕」「文化三年丙寅孟夏・柳亭主人」(4)「霜夜星」(5)中道(6)酒井米輔(7)若林清兵衛(8)蓬左・国会・早大×2・お茶大・国学院・神原・弘前・高岡中央・日大・A 
「近世怪談霜夜星」日はくるゝ雨は降夜の伽ばなし夜通屋雑たんをとりなをしていとおそろしき物語 
*後印本に中村屋幸蔵板あり。国会本は文字題簽の後印本「嘉永元戊申年求板\大坂書林\浪華河内屋太助、心齋橋筋博労町・河内屋茂兵衞\同・河内屋藤兵衞」(群玉堂・群鳳堂)。 
阿波之鳴門五巻五冊柳亭種彦作葛飾北斎画木蘭堂板 
(1)「文化五戊辰年正月吉日\東都\通油町・村田治郎兵衞\深川森下町・榎本惣右衞門\同平吉」(2)「丁卯之小重陽日・伴雲山人」(4)「鳴門」(8)東大国文・八戸・国会・関西大・狩野・東大・中村・新城教委牧野・文教女 
「阿波鳴門」じようるりのおもむきとはことかはりいと面白きじゆんれいのかたきうち 
*後印本「文政七年甲申春求板\皇都藤井文政堂\書林\山城屋佐兵衞」。 
近江縣物語五巻五冊六樹園先生作北尾紅翠齋画畊書堂・瑞玉堂・螢雪堂・宇多閣板 
(1)「文化五載戊辰春王正月發兌\東都書林\通油町南側・耕書堂重三郎\大傳馬町二丁目・瑞玉堂安兵衞\芝三田三鈷坂・榮雪堂宗兵衞\山下御門通南鍋町一丁目・宇多閣儀兵衞」(2)「(年記なし)六樹園」(3)「(年記なし)夙興亭高行」(4)「近江縣物語」(7)大和田安兵衛(8)国会・潁原・東大・狩野・早大×4・無窮神習・中村・岐阜大・岐阜県・青森県工藤・新城教委牧野・A 
「近江縣物語」(なし) 
*見返し「淡海縣物語」。 
斐〓匠物語六巻六冊六樹園飯盛作葛飾北斎画衆星閣板 
(1)「文化六己巳年正月發兌\江戸書物問屋\麹町平川町貮丁目・角丸屋甚助板」(2)「(年記なし)・六樹園」(3)「(年記なし)尋幽亭載名しるしつ」(4)「飛彈匠物語」(6)宮田吉兵衞・中藤留吉(7)角丸屋甚助(8)東博・学習院・慶大・岐阜大・京大・阪大・国会・狩野・早大・岩瀬・徳島図森・中村・東大国文・宇部新井・岐阜県・三康・A 
「飛弾匠物語」いなべのすみなわが竒工のはなし十六夜日記のことなどを思ひよしたるものかたり 
*早い時期に巻二の挿絵(十六ウ十七才)の白洲が削られ、また巻五の挿絵(廿二ウ)中の詞書きが象嵌されている(入江尚子氏の教示)。 
國字鵺物語五巻五冊芍薬亭長根作葛飾北斎画柏悦堂板 
(1)「文化五戊辰年正月\十軒店・西村宗七(梓行)\下谷御成小路・柏屋忠七\梓行」(2)「文化丁卯秋・芍薬亭主人」(4)「國字鵺物語」(7)西村宗七(8)国会・八戸・京大・岩瀬・早大・広大・秋田・中村・A・G 
「國字ぬへ物語」三女のおんねんぬへに化するより頼まさこれを射てたゝりにあふはなし 
由利稚野居鷹五巻五冊萬亭叟馬作葛飾北斎画木蘭堂板 
(1)「文化戊辰正月吉日\江戸書肆\本町二丁目・須原屋市兵衞\深川森下町・榎本惣右衞門\同・榎本平吉」(2)「文化丁卯年正月・叟馬主人」(4)「由利若」(5)石原駒知道(6)高橋待人(7)須原屋市兵衛(8)国会・京大・蓬左・学習院・早大・狩野・八戸・中村・A 
「百合若埜居鷹」ゆり若の弓せい家臣別府が悪行等を記 
*校正・節亭琴驢。国会・京大は大惣本。 
姉菅根弟孝太郎孝子〓物語五巻五冊高井蘭山作蹄齋北馬・抱亭北鵞・〓亭北壽画玉泉堂板 
(1)「文化五載辰五月吉日發兌\東都書肆\江戸四日市・西宮弥兵衞\同浅艸北馬道町・大和屋文六\同・大和屋伊助」(2)「文化第六龍會己巳孟春・高井伴寛思明」(4)「〓物語」(5)石原駒知道(6)朝倉宇八(7)西宮彌兵衛(8)国会・学習院・京大・広大・長野・玉川大・A・Y 
「孝子〓物語」孝子千辛万苦しておはりをよくするものかたり 
*画工は(巻一)北馬、(巻二三)北鵞、(巻四五)北壽。 
頼豪阿闍梨怪鼠傳後編三巻四冊曲亭馬琴作葛飾北斎画僊鶴堂板 
(1)「文化第五載戊辰十月吉日發販\綉梓書肆・江戸通油町翠橋\僊鶴堂鶴屋喜右衞門」(2)「文化第肆丁卯年冬十二月上浣・曲亭蝉史」(3)「文化五年戊辰正月・著作堂主人」(4)「怪鼠傳」(5)鈴木武筍(7)鶴屋喜右衛門(8)同前編 
*内題下「門人・魁蕾癡叟批評」所見の初印本は、巻八を十九丁以降分冊してあるが、見返しや広告には後編三冊とある。 
俊寛僧都嶋物語前後各四巻四冊(八巻八冊)曲亭馬琴作歌川豊廣画柏榮堂板 
(1)「文化五年戊辰冬十月吉日發販\繍梓書肆\江戸神田通鍋町・英平吉\同町東側・柏屋半蔵」(2)「文化戊辰年仲夏・曲亭主人」(3)「年記なし・蓑笠隠居」(4)「俊寛」(7)英平吉(8)広島市浅野・国会・静嘉堂・学習院・京大・早大・東大・狩野・東京誌料・岐阜大・成田・諸家・三康・花春・八戸・蓬左(巻八のみ)・A・C 
「俊寛嶋物語」平相國清盛如意の滝見より牛若俊寛に對面鬼一法眼みなづる姫白川丹海等いとおもしろき冊子也 
*表紙の文様は前四冊が薄灰色で後編四冊が藍色摺り。後印本は堺屋板を経て河内屋板に至る。 
復讎竒語雙名傳前篇五巻五冊蒿〓主人著述・馬琴校合小石軒一指画 
(1)「(刊年なし)書肆\江戸通油町・蔦屋重三郎\江戸鎌倉町・中村屋善蔵」(2)「文化第肆彊圉單閼陽月下浣・曲亭主人」「文化三年秋八月編\同五年初冬發兌・蒿〓主人」(4)「雙名傳」(5)なし(馬琴序は節亭琴驢)(7)蔦屋重三郎(8)国会・大阪女・A 
「双名傳」(なし) 
阿旬殿兵衞實實記前後各五巻五冊(十巻十冊)曲亭馬琴作歌川豊廣画木蘭堂板 
(1)「文化五年戊辰冬十一月吉日發販\江戸綉梓書肆\江戸橋四日市・松本平介\深川森下町・榎本〓右衞門\榎本平吉」(2)「文化五年戊辰夏初三日・浪速杏林百癡」(4)「旬殿實々記」(6)(巻端)朝倉伊八郎、(全部)小泉新八郎、(序跋)木村嘉兵衞(7)松本平助(8)八戸・岩崎・東博・京大・東大・お茶成簣・神原・伊達・林美一・花春・国会・都立中央・酒田光丘・中村・A・C 
「旬殿實々記」おしゆん傳兵衛さるまはし与次郎がたぐひ忠孝貞婦のおもむきをくわしくしるす物がたり 
*後編十巻十四丁裏に「實實記後編五冊文化六年己巳秋九月嗣出全璧」と入木してある。安政再刻本は上篇六冊。 
鎭西八郎爲朝外傳椿説弓張月續篇六巻六冊曲亭馬琴作葛飾北斎画平林堂板 
(1)「文化五年戊辰冬十二月吉日發行\江戸書肆\本石町十軒店・西村源六\本所松坂町二町目・平林庄五郎」(2)「文化五年戊辰季春・蓑笠隠居」(3)「馬琴伏禀(年記なし)」(4)「椿説弓張月續篇」(5)石原駒知道(6)櫻木松五郎(7)西村源六(8)同前編 
文化六巳己(一八〇九)年 
復讐奇談尼城錦三巻三冊葛飾隠士吉満作・鬼武校蹄齋北馬画慶賀堂板 
(1)「(刊年なし)江都書肆江戸橋四日市・西宮彌兵衞\日本橋新右エ門町・上総屋忠助」(2)「文化六とせ巳の春日・かつしかの隠士吉満述」(3)「文化六ッつちのとの巳のはる日・鬼武しるす」(4)「尼城錦」(6)朝倉卯八郎(7)西宮彌兵衛(8)国会・東京誌料・京大・八戸・中村・A 
「天城錦」(なし) 
*内題の角書、上巻のみなし。後印本として河内屋茂兵衞・堺屋源蔵板あり。 
松染情史秋七草五巻五冊曲亭馬琴作歌川豊廣画文金堂板 
(1)「文化六年己巳春正月吉日發販\江戸日本橋室町十軒店書肆・文刻堂西村源六\大阪心齋橋筋唐物町書肆・文金堂森本太助」(2)「文化戊辰年孟穐中浣・著作堂主人」(3)「馬琴再識」(4)「松染情史」(5)鈴木武筍(6)(京師)井上治兵衞、(大阪)山崎庄九郎(7)西村源六(8)天理×5・八戸・国会・神原・都立中央・静嘉堂・学習院・京大・潁原・早大・三康・花春・東大(巻三のみ)・林美一・中村・A・G 
「松染情史秋七草」楠家の興はいよりおそめ久まつ油うりの何がし等種々のことをまじへて作る 
星月夜顕晦録初編五巻五冊高井蘭山作蹄齋北馬画樂養堂・史籍堂・松榮堂・柏悦堂板 
(1)「文化六年歳宿己巳春月發版\東都書肆\麹町平河町二丁目・角丸屋甚助\大門通小傳馬町三丁目・關口平右衞門\東叡山谷中御門通三崎町・大坂屋茂吉\神田通鍋町・柏屋半蔵\下谷御成小路・柏屋忠七\湯嶋切通町・柏屋清兵衞」(2)「文化己巳孟春日・高伴寛思明」(4)「星月夜初編」(5)鈴木武筍(6)朝倉伊八(7)角丸屋甚助(8)京大・国会・静嘉堂・学習院・早大・東大・広大・東京誌料・宮城・天理・祐徳・中村・三康・日大・A・G 
「星月夜顕晦録\同二編」鎌倉見聞志を改正せし記録のよみ本 
*柏屋忠七届出(名目集)。 
小説浮牡丹全傳前帙三巻四冊山東京傳編・山東京山校歌川豊廣画鳳来堂板 
(1)「文化六年己巳正月發行\書林\江戸本石町十軒店・西村宗七\同四谷傳馬町二丁目・住吉屋政五郎\梓行」(2)(自序)「文化戊辰花朝」、(小引)「文化五年戊辰夷則」(4)「浮牡丹全傳」(5)はし本徳ひやうゑ(6)小いづみ新八(7)西村宗七(8)国会・狩野・霞亭三康・早大・中村・A・C 
「浮牡丹全傳」(なし) 
*外題に「團七黒兵衞釣舩三撫一寸徳兵衞三侠傳奇」。 
卅三間堂棟材竒傳柳の糸五巻五冊小枝繁作蹄齋北馬画平川館・雄飛閣板 
(1)「文化六年己巳孟春發兌\東都書肆\本銀町三丁目・前川彌兵衞\日本橋四日市・西宮彌兵衞\麹町十三丁目・田辺屋太兵衞\同平川町二丁目・伊勢屋忠右エ門」(2)「文化己巳春夜・〓〓陳人繁」(4)「やなきのいと」(5)鈴木武筍(6)(巻一二)朝倉卯八、(巻三四五)宮田吉兵衞(7)西宮彌兵衛(8)中村・八戸・学習院・A 
「柳乃糸」三十三間堂平太郎縁起をたねとしてつくるあはれにおかしきさうしなり 
*巻二の内題角書「卅三間堂\霊材竒侍」。 
俊徳麻呂謡曲演義五巻五冊振鷺亭主人作蹄齋北馬画桂林堂板 
(1)「文化六年春正月、吉旦桂林堂刊行\江都書坊\江戸橋四日市・西宮彌兵衞\江戸橋四日市・石渡利助梓」(2)「時文化五季春二月時正日・振鷺亭主人」(3)「振鷺亭」「北馬」(4)「俊徳丸」(5)鈴木武筍(6)菊地茂兵衞(7)西宮彌兵衛(8)広島市浅野・学習院・新城教委牧野・神原・広島文教女・中村(巻四五欠)・A×2・G(五のみ)・Y 
「俊徳丸」高安左衛門がこと能の秘曲なぎさの方の悪心俊とく丸の孝行などおもしろき本なり 
*神原本刊記「文化十五戊寅年三月補刻\大阪書林心齋橋あんどう町・秋田屋太右衞門」。後印本の外題「絵本俊徳丸」。中村本の一本は弘化五年板。 
松井家譜僊窟史三巻三冊赤城山人作北川真厚画 
(1)「文化六己巳春新板\江戸橋四日市・竹川藤兵衛\日本橋通三丁目・多田屋利兵衛\同新右エ門町・三河屋安右エ門\同捨物町・伊勢屋佐治右エ門\開板」(2)「文化戊辰三月上已後一日・友人自適子」(4)なし(丁付のみ)(6)栄家堂(7)竹川藤兵衛(8)国会・狩野・林美一・A 
「松井民次郎物語」(なし) 
*本文の匡郭なし。内題下に「門人淡海源鮒五魚泉南壷天一地同校」とある。 
假名手本後日之文章五巻五冊談洲楼焉馬作葛飾北斎画衆星閣板 
(1)「文化六年己巳正月發行\江戸書物問屋\麹町平川町二丁目・角丸屋甚助板」(2)「于時文化五年戊辰初夏・立川談洲楼焉馬」(4)「後日之文章」(5)石原駒知道(6)中藤留吉、宮田吉兵衞(7)角丸屋甚助(8)国会・静嘉堂・京大・八戸・学習院・抱谷 
「かな手本後日文章」仇討より後のことをあらたに作る 
忠孝潮來府志五巻五冊談洲楼焉馬作葛飾北斎画衆星閣・桂林堂板 
(1)「文化六己巳年春正月發兌\東都書林\江戸麹町平川町二丁目・角丸屋甚助\同江戸橋四日市・石渡利助\梓」(2)「于時文化四年卯仲秋・立川談洲樓焉馬」(4)「忠孝潮來武〔府〕志」(5)石原駒知道(6)(巻一)中藤留吉、(巻二三五)菊地茂兵衞、(巻五)宮田吉兵衞(7)角丸屋甚助(8)国会・京大・学習院・早大・阪大忍ぶ頂寺・大阪府・東京誌料・広大・酒田光丘・八戸・船橋西・林美一・中村・A 
「忠孝潮来武志」すまよ鹿傳の利生記になんじやもんじやの因縁ばなしうきしま千原の忠信傳 
復讐竒説田村物語五巻六冊天風坊〓作蹄齋北馬画玉泉堂板 
(1)「文化六年己巳春正月發販\東都書林\江戸四日市・西宮彌兵衞\同浅艸北馬道町・大和屋文六\同・大和屋伊助」(2)「文化己巳春日・川上鯰翁」(4)「田村物語」(5)石原駒知道(6)朝倉卯八、朝倉權八(7)西宮彌兵衛(8)京大・国会・学習院・早大・東京誌料・都立大・中村・G 
「田村丸」田むら将軍のおさなだちより遠島にひやうはくし後勅命を得て鈴鹿山に賊を亡す咄 
*巻五上下。内題下は「武關川上下流〓老人梅梢軒關旭編緯訂正」とある。後印に三木佐助板あり。 
唐金藻右衞門金花夕映五巻五冊梅暮里谷峨作蘭齋北嵩画山青堂板 
(1)「文化六年己巳春正月吉辰\書林\本銀町通二丁目・須原屋善五郎\本石町十軒店・西村宗七\御成小路平永町・山崎平八」(2)「文化五戊辰年夏六月・蕣亭主人」「文化己巳年正月望日・鶴雲棲主人生駒高峰」(4)「金花夕映」(6)好静堂綱之(7)須原屋善五郎(8)国会・広大・岡大池田・中村・学習院・新城教委牧野・実践女・A・S 
「金花夕映」東金茂右衛門の物かたり 
*後印は前川源七郎板。 
山桝太夫榮枯物語五巻五冊梅暮里谷峩作葛飾北斎画樂養堂・史籍堂板 
(1)「文化六己巳載正月吉日發販\書肆\大坂心齋橋筋唐物町・河内屋太助\江戸通油町・村田屋次郎兵衞\同東叡山谷中御門通三〓町・大坂屋茂吉(梓)\同大門通リ小傳馬町三丁目・関口平右衞門\梓」(2)「(年記なし)墨水漁人」、「文化巳春・蕣亭主人」(4)「〇山桝太夫=増補」(5)石原駒知道(6)櫻木松五郎(7)村田次郎兵衛(8)舞鶴西・国会・中村・早大・日大・林美一・A 
「山荘太夫」(なし) 
*後編「古意今調録」(文政八年河内屋平七刊)。後印本は河内屋吉兵衞板。 
泉親衡物語五巻五冊福内鬼外作北尾紅翠齋画宇多閣板 
(1)「文化六己巳春王正月發兌\尾陽書林\本町一丁目・風月孫助\本町七丁目・永樂屋東四郎\本町九丁目・菱屋久兵衞\大坂書林\西口砂場前・海部屋勘兵衞\中橋南塗師町・前川六左衞門\東都書林\三田三鈷坂・三河屋宗兵衞\山下御門通南鍋町一丁目・宇田閣儀兵衞」(2)「文化六のとし巳の春・福内鬼外」(3)「巳の春・鬼外軒」(4)なし(丁付はノド)(7)前川六左衛門(8)国会・京大・東大国文・広大・阪急池田・学習院・中村・早大(自筆稿本) 
「泉親衡物語」いづみの親ひらよしつねをしたふこゝろより籏上篭城のはなしをしるす 
*稿本の題は「泉親衡大嶋軍記」。「催馬楽奇談」巻末の「雄飛閣蔵版繪入読本目次」にも載る。 
報怨珎話とかえり花五巻五冊良々軒器水作盈齋北岱画咬菜堂板 
(1)「文化六己巳年春正月吉日令開板也\江戸書店\日本橋四日市・竹川藤兵衞\糀町十二丁目・伊勢屋治右エ門\咬菜堂」(2)「時文化戊辰之季秋良日・十四童楓亭醉山」(4)「とかえりはな」(5)岡山鳥(6)渡辺喜平二(7)竹川藤兵衛(8)国会・京大・伊達開拓・実践女・中村・G 
「十嘉惠利花」(なし) 
*岡山鳥作読本の予告がある。後印本外題「松花報怨奇談」河内屋長兵衞板、伊丹屋板。 
於陸幸助戀夢〓(前編)三巻三冊樂々庵桃英作葛飾北斎画蘭秀堂板 
(1)「文化六年己巳春\書林\本石町十軒店・西村源六\御成小路平永町・山崎平八\本石町壹町目・篠屋徳兵衞」(2)「文化戊辰五月・柳瀧真逸」「文化いつとせ五月雨ふる頃・楽々山人」(3)「文化執徐仲夏・文憲阿闍梨」(4)「戀夢〓」(5)(空欄になっている)(6)菊地茂兵衞、好静堂綱之(7)西村源六(8)国会・神原・中村・A 
「於陸幸助戀夢〓」役の小角が神通於陸幸すけが戀乃通ひぢ夢ばなし哀につくれるさうし也 
*後編五冊は鬼卵作馬圓画で文化十一年崇文堂刊。 
淺間嶽面影草紙三巻三冊柳亭種彦作蘭齋北嵩画山青堂板 
(1)「文化六年己巳春正月發兌\製本所\通油町・鶴屋喜右エ門\本石町一丁目・篠屋徳兵衞\御成小路平永町・山崎平八」(2)「維時文化五年戊辰夏六月一二ノ巻書果同冬十月草稿完ヲハル・柳亭主人種彦誌」(4)「あさま」(5)中道(6)伊葉熊五郎(7)鶴屋喜右衛門(8)国会・日大・早大・天理・中村・学習院・A・C・G 
「浅間嶽面影草紙」浅間巴之丞けいせい逢州のこと小性何がしあさまの家に恩をうけ立のくはなし 
*後編は文化九年刊。 
忠兵衞梅川赤縄竒縁傳古乃花双紙三巻四冊〓〓陳人作盈齋北岱画咬菜堂板 
(1)「文化六己巳年孟春發行\東都書肆\日本橋四日市・竹川藤兵衞\四ッ谷傳馬町・住吉屋政五郎\糀町十二丁目・伊勢屋治右衞門」(2)「文化己巳春・〓〓陳人」(3)「文化六己巳春・〓〓陳人」(4)「古乃花」(5)岡山鳥(6)宮田六左衞門(7)竹川藤兵衛(8)京大・中村・国会・学習院・米沢・日大・A・G 
「古能花草紙」梅川忠兵衛がことを作りしものがたり 
*四冊が原形。京大本の後ろ表紙見返しには咬菜堂の庚午予告があり、岡山鳥と器水の三作が挙げられている。後印本は河内屋茂兵衞板。 
稲妻表紙後編本朝酔菩提〔後帙〕前五巻六冊後三巻四冊山東京傳作一陽齋豊國画文亀堂板 
(1)「文化六年己巳秋九月〔冬十二月〕發行\開板所〔書林〕\江戸本石町十軒店・西村宗七\同小舩町二町目・伊賀屋勘右衞門〔梓行〕」(2)「文化五年戊辰夏六月\文化五年戊辰冬月」(4)「本朝酔菩提」(5)橋本徳兵衞(6)小泉新八郎(7)西村宗七(8)国会・静嘉堂・京大・早大・東大・熊谷市・お茶成簣・天理・祐徳・(林美一)・A・G 
「後編本朝酔菩提」是は前へんの人物の外一休禅師のことをまじへなほ前へんにまさりて佳なり 
「同後編」すいぼたいのだん〓〓ゑん稲づま表紙のくゝりをしるす 
国字小説小櫻姫風月奇觀三巻四冊山東京山作歌川國貞画 
(1)「文化六年己巳歳冬十月發行\開版所\江戸前川彌兵衞\田邊屋太兵衞\平川舘忠右衞門」(2)「文化戊辰之星夕・山東京山」(3)「(年記なし)天山老人」(4)「小櫻(ノド)」(5)橋本徳瓶(6)小泉平八郎、名古屋治兵衞(7)前川彌兵衛(8)東京誌料・京大・国会・学習院・国学院・東洋大哲学・中村・玉川・A 
「小櫻姫」赤鯉魚の怪談より滝窓志賀の助小桜ひめのことすべて桜姫の談を徴用し作る 
*後編は櫟亭琴魚作「小櫻姫風月後記」文政三年翰山房刊。 
文化七午庚(一八一〇)年 
夢想兵衞胡蝶物語五巻五冊曲亭馬琴作歌川豊廣画螢雪堂板 
(1)「文化七年庚午春正月吉日発販\江戸綉梓書肆\日本橋青物町・西宮彌兵衞\三田魚藍前町・大和屋源次郎\三田三鈷坂・三河屋〓兵衞」(2)「文化六年己巳六月・曲亭主人」(3)「附言」(4)「夢想兵衞」(5)(序跋)岡山鳥、(本文)鈴木武筍(7)西宮彌兵衛(8)広島市浅野・国会・静嘉堂・神原・学習院・早大・東大・狩野・広大・東京誌料・熊谷・天理・薬師寺・花春・花月・諸家・三康・A・F・G 
「夢想兵衞胡蝶物語」人欲の有さまを別せかいに見たて道理をつくせし翁の筆意おもしろきこつけいの嶋めぐり 
*後編は同年十二月刊。後印本に文化十年平林堂板あり。 
星月夜顯晦録二編五巻五冊高井蘭山作蹄齋北馬画(柏新堂)板 
(1)「文化七年歳宿庚午春月發兌\東都書肆\麹町平川町二丁目・角丸屋甚助\大門通小傳馬町三丁目・關口平右衞門\東叡山谷中御門通三崎町・大坂屋茂吉\神田通鍋町・柏屋半蔵\下谷御成小路・柏屋忠七\湯嶋切通町・柏屋清兵衞」(2)「文化己巳夏至日・高井伴寛思明」(4)「星月夜二編」(5)鈴木武筍(6)朝倉伊八(7)角丸屋甚助(8)同前編 
「星月夜顕晦録・同二編」鎌倉見聞志を改正せし記録の読本 
*蔵板は記載がないが、刊記の書肆は初編と同一。 
鷲談傳奇桃花流水五巻五冊山東京山作歌川豊廣画盛文堂・榮山堂板 
(1)「文化七年庚午歳正月發兌\江戸書肆\前川弥兵衞\丸山佐兵衞\同梓」(2)「刻成序之文化戊辰歳立秋月也・山東嵒京山」(3)「(年記なし)天山老人識」(4)「鷲談」(5)橋本徳瓶(6)七人敢不贅(7)前川彌兵衛(8)学習院・東洋大哲学・広大・天理・A・G 
「鷲之談」(なし) 
*後印本に伊丹屋板あり 
。 月宵鄙物語四巻五冊四方歌垣作柳々居辰齋画文溪堂板 
(1)「文化七庚午年孟春発兌\書肆\大坂心齋橋唐物町・河内屋太助\江戸馬喰町三丁目・若林清兵衞\同小傳馬町三丁目・和泉屋幸右衞門\同所・丁子屋平兵衞梓」(2)「(年記なし)四方歌垣主人」(4)「鄙物語」(5)石原駒知道(6)田代吉五郎(7)和泉屋幸右衛門(8)都立大・学習院・早大×3・日大佐藤・阪大・東京誌料・お茶成簣・祐徳・中村・A 
「月宵鄙物語」とくさかるその原山の牧狩ハ頼朝公の武とく傳孝子弓太郎悪婆黒とぢがことなどを種にしなのゝし更科や月に照そふ書ぶりハいとみやびたる物がたり 
*巻四上下。後編は文政十一年河内屋直助刊。後印本「繪本月宵鄙物語」は前川源七板。 
流轉數囘阿古義物語四巻五冊式亭三馬作歌川豊國・歌川國貞画(雙鶴堂)板 
(1)「文化七年庚午春正月發行\江戸本問屋\通油町・鶴屋喜右衞門\田所町・鶴屋金助\版」(2)「文化三歳次丙寅夏六月中浣・式亭三馬」(3)「午正月」(4)「阿古義物語」(5)石原駒知道(6)菊地茂兵衞(7)鶴屋喜右衛門(8)京大・広大・広島市小田(巻三のみ)・国会・都立大・学習院・中村×2・A・C・S 
「阿古義物語」あこぎが浦の事の跡あこぎ平次が一期のでん大いその十人ぎりいりくみたる面白き冊子なり 
*門人等の校で(巻一)益亭三友、(巻二)古今亭三鳥、(巻三)徳亭三孝、(巻四)楽亭三笑。「一名大磯十人きり」。刊記に摺物師として「信濃屋長蔵\三河屋仙太郎」刷印とある。初印本の見返しには銅版画風のものが使われている。初板でも後には普通の文字見返しになる。後印本に河内屋茂兵衞板あり。後編は文政九年、教訓亭三鷺編、國安畫。 
〓〓妹脊山六巻六冊振鷺亭主人作葛飾北斎画桂林堂板 
(1)「文化七庚午年正月發販\東都書林\江戸橋四日市・西宮彌兵衞\日本橋音羽町・石渡平八\江戸橋四日市南側・石渡利助梓」(2)「文化戊辰蘭秋之月上澣・振鷺亭主人」(4)「いもせ山」(5)石原駒知道(6)菊地茂兵衞(7)西宮彌兵衛(8)早大・八戸・国会・東京誌料・中村・蓬左・A 
「〓〓妹脊山」久我の助ひなどりがことすべてじようるりとハことかハりいりくみておもしろし 
*後印本に河内屋佐助板あり。 
雙〓蝶白糸冊子五巻五冊芍薬亭長根作葛飾北斎画 
(1)「文化七載庚午正月發販\書房\江戸麹町平川町二丁目・角丸屋甚助\大坂心齋橋筋唐物町・河内屋太助\京都醒井通リ高辻上ル町・伏見屋作兵衞」(2)「文化五戊辰年仲秋望日・菅原長根」(3)「(年記なし)芍薬亭のあるし菅原長根」(4)(糸巻に帙数と丁付)(5)石原駒知道(7)角丸屋甚助(8)国会・都立中央・東博・中村・武雄市鍋島・A・D・G 
「雙〓蝶白糸草紙」ぬれかみはなれごまあづま与五郎がことをおもしろくしるす 
鎭西八郎爲朝外傳椿説弓張月拾遺五巻五冊曲亭馬琴作葛飾北斎画平林堂板 
(1)「文化七年庚午八月發販\江戸本石町十軒店・西村源六\江戸本所松坂町二丁目・平林庄五郎」(2)「己巳仲夏」(3)「(年記なし)柯亭琴梧」(4)「椿説弓張月拾遺」(5)駒知道(6)櫻木松五郎(7)西村源六(8)同前編 
昔語質屋庫五巻五冊曲亭馬琴作勝川春亭画文金堂板 
(1)「文化七年庚午冬十一月吉日發販\綉像書賈\江戸馬喰町二町目・西村屋與八\大坂心齋橋筋唐物町・河内屋太助」(2)「文化七年庚午林鐘」(3)「文化七年庚午肇秋下澣・江湖陳人魁蕾」(4)「質屋庫」(5)嶋岡節亭、鈴木武筍(6)(巻一三)京・井上治兵衞、(巻二五)山崎庄九郎、(巻四)市田治郎兵衛(7)西村屋與八(8)国会・静嘉堂・学習院・九大・京大・神戸大・駒沢沼沢・早大・東大・大阪府石崎・加賀・東京誌料・花月・刈谷・天理×3・阪急池田・三康・青森県 「質屋庫」いろ〓〓さま〓〓の器財おのれ〓〓がうへによせてものがたりする俗説弁也 
*「文化庚午季夏起稿同季秋刻成」。後印本に文栄堂板あり。稿本がニューヨーク・パブリック・ライブラリーのスペンサー・コレクションに所蔵されている。 
常夏草紙五巻五冊曲亭馬琴作勝川春亭画木蘭堂板 
(1)「文化七年庚午冬十二月令日發行\江戸書賈\江戸橋四日市・松本平助\深川森下町・榎本〓右衞門\同平吉梓」(2)「庚午季秋日・(馬琴)」(4)「常夏艸紙」(5)嶋岡節亭(6)(繍像)朝倉伊八、(刊字)木村嘉兵衞(7)松本平助(8)天理・国会・神原・学習院・京大・抱谷・中村・G 
「常夏草紙」銭亀弁天の由来よりとこなつぐさのことのよしおなつ清十郎が一期の傳を哀につくる物語 
夢想兵衞胡蝶物語後編四巻四冊曲亭馬琴作一柳齋豊廣画螢雪堂板 
(1)「文化七庚午冬十二月吉日發販\江戸書肆\日本橋青物町・西宮彌兵衞\三田魚籃観音前・大和屋源次郎\三田三鈷坂・三河屋〓兵衞梓」(2)「文化七年庚午夏日・曲亭馬琴」(3)「庚午仲秋望・馬琴」(4)「夢想兵衞後編」(5)鈴木武筍(7)西宮彌兵衛(8)同前編 
*見返し題の角書「滑稽嶌遊」。釜屋又兵衞板あり(岩波文庫の底本)。 
文化八未辛(一八一一)年 
馬夫與作乳人重井催馬樂奇談五巻六冊小枝繁作蹄齋北馬画雄飛閣板 
(1)「文化八辛未歳孟春發行\東都書林\日本橋青物町・西宮弥兵衞\糀町平川町・伊勢屋忠右衞門\新橋加賀町・田辺屋太兵衞梓」(2)「文化庚午春・〓〓閑士」(4)「さいばら」(5)岡山鳥(7)西宮彌兵衛(8)中村・八戸・国会・実践女・林美一・A 
「催馬樂奇談」だての与作をたねとしていろ〓〓のことを述作 
加之久全傳香籠艸六巻六冊梅暮里谷峨作歌川豊國・歌川國房画山青堂板 
(1)「文化八年歳在辛未春正月發販\江戸書肆\馬喰町三丁目・若林清兵衞\外神田御成道・山崎平八」(2)「文化未の春・蕣亭主人」(3)「文化第七龍集著雍大荒落季春・雲昇軒壷龍」(4)「加之久」(5)皎〓武筍(6)好静堂綱之(7)若林清兵衛(8)国会・京大・八戸・中村 
「香志久全傳」おその六三郎かしくがことを作りしものがたり 
*「文化七庚午夏五月稿成」(見返し)。 
蘭菊の幤帛尾花の幤帛勢田橋竜女本地三巻三冊柳亭種彦作葛飾北斎画永寿堂板 
(1)「文化八辛未年正月二日」(廿四ウ)「浪花書肆心齋橋筋唐物町・河内屋太助\東都書肆馬喰町二丁目・西村與八\開板」(後ろ表紙見返し)(2)「文化七年庚午八月望・柏庵主人」「文化七年庚午夏日・柳亭主人種彦」(3)「附言」(4)「俵(ノド)」(5)中道(6)(上冊)名古屋治平(中冊)江川留吉(下冊)朝倉伊八(7)西村與八(8)演博・京大×2・早大・国会・関大・狩野・C 
「勢田橋龍女本地」田原とうだが文武の傳せたの老狐がほうおんの話世にめづらしきじようるりよみ本 
*巻末に「柳亭種彦戯編、醉月壷龍校合、近田中道筆耕、畛直道校筆、葛飾北斎画圖」とある。国会本は同板「文化十年癸酉九月」。後印本は五冊、丸屋善兵衞板。 
鎭西八郎爲朝外傳椿説弓張月殘篇五巻六冊曲亭馬琴作葛飾北斎画平林堂板 
(1)「文化八年辛未三月發販\江戸本石町十軒店・西村源六\江戸本所松坂町二丁目・平林庄五郎」(2)「庚午仲春・曲亭陳人觧」(3)「文化庚午林鐘」(4)「椿説弓張月残篇」(5)駒知道(6)櫻木松五郎(7)西村源六(8)同前編 
文化九申壬(一八一二)年 
三七全傳第二編占夢南柯後記前後帙各四巻四冊(八巻八冊)曲亭馬琴作葛飾北斎画木蘭堂板 
(1)「文化九年壬申春正月良節發販大吉利市\江戸書賈\江戸橋四日市・松本平介\深川森下町・榎本〓右衞門\榎本平吉」(2)「文化辛未立秋の日・曲亭主人」「辛未初冬朔・玄同陳人」(4)「南柯後記」(5)嶋岡節亭、鈴木武筍(6)朝倉伊八、木村加兵衞(7)松本平助(8)八戸・花春・東大・日大・諸家・天理・神原・学習院・林美一・A 
「占夢南柯後記」三勝の後へん也さハいへ是ハ初へんに事すみしを亦この編にときおこす世にめつらしきよみ本也 
青砥藤綱摸稜案五巻五冊曲亭馬琴作葛飾北斎画平林堂板 
(1)「文化九年壬申春正月吉日發販\江戸田所町・鶴屋金助\本所松坂町二丁目・平林庄五郎梓」(2)「辛未肇冬豕兒之日・玄同陳人」(3)「辛未仲冬十三日・簑笠漁隠」(4)「摸稜案」(5)石原知道、岡節亭、鈴木武筍(6)櫻木藤吉(7)鶴屋金助(8)天理・八戸(前のみ)・国会・静嘉堂・京大・潁原・慶応大・花春・駒沢沼沢・狩野・早大・宮城・蓬左・学習院・三康・酒田光丘・弘前市・大阪女・天理(自筆校合本)・国学院(後のみ)・東大(後のみ)・中村 
「青砥藤綱摸稜案」青砥左衛門が公事の明だんを面白く書たり 
*後編は十二月。後印本、弘化三年河内屋平七板あり。 
經島履歴松王物語六巻六冊小枝繁作葛飾北斎画衆星閣・文榮堂板 
(1)「文化壬申年春正月發行\書肆\浪華心齋橋北久宝寺町・河内屋嘉七\東都麹町平川町二丁目・角丸屋甚助」(2)「文化八年辛未夏六月・小枝繁」(3)「(年記なし)米花山人鼠堂」(4)「松王」(5)近田中道(6)(巻一)朝倉伊八、(巻二三四)井上治兵衞、(巻五)宮田吉兵衞、(附録)江川留吉(7)角丸屋甚助(8)国会・学習院・八戸・中村・A・D 
「松王物語」滝口時より横笛が傳平相國清もり兵庫のつきじまをめあてに作るさうし也 
*彫工の井上治兵衞は京都。 
天縁奇遇三巻三冊神屋蓬洲作神屋蓬洲画 
(1)「文化九壬申年孟春發兌\大坂心齋橋筋唐物町・河内屋太助\江戸十軒店・西村源六\同大傳馬町二丁目・前川彌兵衞\同小傳馬町三丁目・武蔵屋直七\同所・丁子屋平兵衞」(2)「文化九年壬申季春望日・羅月野人\自序」(4)「天縁奇遇」(5)(本人)(7)西村源六(8)国会・京大・早大・A・B 
「天縁奇遇」(なし) 
*改題後印本は柳亭種彦作「觀音守護寶劔」(三巻六冊、安政七庚申、前川善兵衞板)と改竄されている。 
淺間嶽面影草紙後帙逢州執着譚五巻五冊柳亭種彦作蘭齋北嵩画山青堂板 
(1)「文化九年壬申孟春發兌\開板所\心齋橋通・塩屋長兵衞\馬喰町三丁目・若林清兵衞\筋違御門通平永町角・山崎屋平八」(2)「壬申孟春・煮茶道人」(3)「附言」(4)「執着譚」(5)中道(6)朝倉伊八(7)若林清兵衛(8)国会・京大・日大・早大・中村・学習院 
「浅間後編逢州執着譚」是ハ逢州がことをくハしくのべ男だて御所の五郎蔵がこと仇討を残らず記す 
*目録題「逢州執着譚一名本朝長恨哥」。 
絲櫻春蝶竒縁八巻八冊曲亭馬琴作歌川豊清・一柳斎豊廣画木蘭堂板 
(1)「文化九年壬申冬十二月吉日發販\東都書林\江戸橋四日市・松本平助\深川森下町・榎本〓右衞門\榎本平吉繍梓」(2)「文化九年壬申季秋望・飯台・雷水散人書」(4)「絲櫻春蝶奇縁」(5)鈴木武筍(6)(繍像)朝倉伊八、(刊字)木村加兵衞・櫻木藤吉(7)松本平助(8)八戸・早大・東京誌料・諸家・天理・学習院・酒田光丘・国会・岡大池田・花春・京大谷村(巻七八のみ) 
「絲櫻春蝶奇縁」ほんてう綱五郎がことおよび小いと佐七等がものがたりをいりくみてかけり 
*巻末に「一柳齋豊廣男・歌川豊清十六歳筆」とある。後印の宝聚堂板は十冊。 
青砥藤綱摸稜案後集五巻五冊曲亭馬琴作葛飾北斎画平林堂板 
(1)「文化九年壬申冬十二月吉日發販\江戸田所町書肆鶴屋金助\本所松坂町書肆平林庄五郎」(2)「時文化九年壬申夏六月二十五日・簑笠隠居」(4)「摸稜案後集」(5)鈴木武筍(6)(繍像)櫻木藤吉、(刊字)木村嘉兵衞(7)鶴屋金助(8)同前編 
「同二編」お六ぐしのおこりかゐや善吉がこと等奇説を書 
*早い摺りの見返しに二種類ある。 
文化十酉癸(一八一三)年 
寒燈夜話小栗外傳六巻六冊小枝繁作葛飾北斎画文金堂・衆星閣板 
(1)「文化十癸酉年孟春新版\書肆\大坂心齋橋南久宝寺町南江入・河内屋八兵衞\同心齋橋通唐物町南江入・河内屋太助\江戸麹町平川町二丁目・角丸屋甚助\合梓」(2)「文化十癸酉正月・絳山人〓〓」(4)「小栗」(5)石原駒知道(6)(巻一四)宮田吉兵衞、(巻二三六)井上治兵衞、(巻五)酒井久米吉(7)角丸屋甚助(8)国会・八戸・花春・岐阜大・高知図山内・延岡内藤・天理・宮城・福井松平・早大×4・岩瀬(写)・G 
「小栗外傳初編・二編・三編」小栗助重のこうはいよりてるて姫の貞そう苦せつ十人のとのばらが忠勇美傳さま〓〓にのべつくりていとおもしろきさうしなり 
*二編は文化十一年、三編は文化十二年。 
綟手摺昔木偶五巻五冊柳亭種彦作柳川重信画山青堂板 
(1)「文化十年癸酉春正月發兌\書林\大坂心齋橋通・塩屋長兵衞\東都馬喰町二丁目・若林清兵衞\同筋違御門通平永町・山崎平八版」(2)「文化癸酉孟春・松亭陳人」(4)「綟てすり」(5)近田中道(6)台霞堂朝倉伊八(7)若林清兵衛(8)国会・八戸・中村・林美一・松江・早大・京大・抱谷・A・C 
「綟手摺昔木偶」ふど吉三かへり花のお香いとぐちハ宇治川の合戦に起りむすびハ廓のあげやに終り世話時代古今の妙作 
*後印本は文溪堂板。 
雙蝶記一名霧籬物語六巻六冊醒醒齋山東京傳作一陽齋歌川豊國画永壽堂板 
(1)「文化十年癸酉九月發行\書林\大坂心齋橋通唐物町・文金堂河内屋太助\江戸馬喰町二町目・永壽堂西村屋與八\梓行」(2)「文化十年癸酉春二月・醒醒齋京傳」(4)「双蝶記」(5)橋本徳瓶(6)小泉新八(7)西むら与八(8)国会・八戸・早大・神原・酒田光丘・抱谷・A 
「雙蝶記」あづま与五郎がことをさま〓〓にとり合せいとおもしろく作りかへたる冊子なり 
美濃舊衣八丈綺談五巻五冊曲亭馬琴作蘭齋北嵩画山青堂板 
(1)「文化十年歳次癸酉冬十一月吉日發兌\刊行書肆\江戸馬喰町三丁目・若林清兵衞\江戸筋違御門外平永町・山崎平八版」(2)「文化十年癸酉春三月十又四日書於著作堂」(4)「八丈綺談」(5)千形仲道(6)朝倉伊八郎(7)若林清兵衛(8)花春・中村・国会・静嘉堂・学習院・早大・東大・東京誌料・三康・天理×2・神原・都立中央・東洋哲学・A・C 
「美濃舊衣八丈綺談」齋藤道三が傳におこりおこま才三等が因果ものかたりを新たに作る面白き本 
文化十一戌甲(一八一四)年 
寒燈夜話小栗外傳四巻四冊小枝繁作葛飾北斎画文金堂・衆星閣板 
(1)「文化十一甲戌年孟春新版\書肆\大坂心齋橋南久宝寺町南江入・河内屋八兵衞\同心齋橋通唐物町南江入・河内屋太助\江戸麹町平川町二丁目・角丸屋甚助\合梓」(2)「文化甲戌孟春・絳山樵夫」(4)「小栗」(5)石原駒知道(7)角丸屋甚助(8)同前編 
*初印本未見。巻九を上下に分冊した五冊が本来の形か。 
南總里見八犬傳五巻五冊曲亭馬琴作柳川重信画山青堂板 
(1)「文化十一年歳次甲戌\冬十一月吉日發販\刊行書肆\大坂心齋橋筋唐物町南ヘ入・森本太助\江戸馬食町三丁目・若林清兵衞\本所松坂町二丁目・平林庄五郎\筋違橋御門外神田平永町・山崎平八」(2)「文化十一年甲戌秋九月十九日・簑笠陳人觧」(4)「八犬傳」(5)千形仲道(6)朝倉伊八郎(7)若林清兵衛(8)国会・明大・学習院・林美一・都立大(以下略) 
「里見八犬傳・同二編」里見よしさね結城をおちて後房総をきりしたがへ五十余城の主となる發端伏姫の事八ツぶさの犬のこと八犬士の傳をこと〓〓く記す 
文化十二亥乙(一八一五)年 
皿皿郷談五巻六冊曲亭馬琴作前北斎載斗画木蘭堂板 
(1)「文化十二年歳次乙亥春正月上浣發兌之記\江戸書肆\江戸橋四日市・松本平助\深川森下町長慶寺前・榎本〓右衞門\同所・木蘭堂榎本平吉梓」(2)「文化十年冬十月・簑笠陳人」(4)「皿皿郷談」(5)石原駒知道、千形仲道(6)(綉像)朝倉伊八、(刊字)木村加兵衞(7)松本平助(8)天理×4(自筆校合本)・蓬左・花春・学習院・広大・東博・国会・京大・早大・東大・林美一・A・C 
「皿皿郷談」べにざらかけざらがことをつくりかえたるものがたりにして面白き本也 
*見返し上部に「缺皿紅皿一期物語」とある。安政改刻板は八巻八冊で「文化十二年乙亥春發販\安政五年戊午秋補刻」とあり、丁子屋平兵衞・河内屋藤兵衞・河内屋茂兵衞(群玉堂板)。 
朝夷巡嶋記全傳五巻五冊曲亭馬琴作一柳齋豊廣画文金堂板 
(1)「文化十二年乙亥\春正月吉日發販\繍梓書肆\江戸馬喰町三丁目・若林清兵衞\筋違御門外神田平永町・山崎平八\大坂心齋橋唐物町南ヘ入・河内屋太助」(2)「文化甲戌冬至除夜・簑笠陳人」(4)「朝夷初編」(5)千形仲道(6)井上治兵衞(7)若林清兵衛(8)国会・八戸・東大・静嘉堂・早大・秋田・三康・学習院・天理(自筆稿本)・A 
「朝夷巡嶋記」義仲の愛妾巴女粟津が原の血戦より後和田に嫁し真貞を失ハす朝夷を産て自害し朝夷母の勇きを受て力量をあらハし及民間に生立等一代の記也 
寒燈夜話小栗外傳五巻五冊小枝繁作葛飾北斎画文金堂・衆星閣板 
(1)「文化十二乙亥年孟春發行\書林\大坂心齋橋南久宝寺町南江入・河内屋八兵衞\同北久太郎町東江入・播磨屋十郎兵衞\同心齋橋通唐物町南江入・河内屋太助\江戸麹町平川町弐丁目・角丸屋甚助\合梓」(2)「文化甲戌孟春・米花山人鼠堂」(3)「付録」(4)「小栗」(5)石原舎駒知道(6)(巻一四五)井上治兵衞、(巻二三附)宮田吉兵衞(7)角丸屋甚助(8)同前編 
文覺上人発心之記橋供養五巻五冊〓山翁作葛飾前北斎翁・雷洲画平川館・耕文堂板 
(1)「文化十二乙亥孟春閲\書林\江戸麹町平川町二丁目・角丸屋甚助\同所・伊勢屋忠右衞門\江戸新橋南大坂町・伊勢屋忠右衞門」(2)「文化十二年乙亥孟春・絳山」(3)「橋供養附録」(4)「橋供養」(5)澤耕齋耕(7)角丸屋甚助(8)国会・京大・八戸・広大・学習院・中村・A 
「橋供養」もんがく上人ならびにけさごぜんのことをしるせし時代はなし 
*見返しに「一名袈裟御前貞操記」とある。 
菖蒲草檐五月雨三巻三冊昇亭岐山作歌川國芳画連玉堂板 
(1)「文化十二乙亥孟春閲\書林\江戸麹町平川町二丁目・角丸屋甚助\同所・伊勢屋忠右衞門\江戸新橋南大坂町・伊勢屋忠右衞門」(2)「文化十一稔歳在甲戌穐八月下浣・池岐山子」(5)千形仲道(7)若林清兵衛(8)国会・八戸 
「檐五月雨」浦ざと時二郎が傳をのべおよび南朝はたあげのものがたりをしるす 
*本文の匡郭なし。人情本風。 
文化十三子丙(一八一六)年 
景清外傳松の操(前編)五巻五冊〓山翁作一楊齋國直画耕文堂・平川館板 
(1)「文化十三年丙子孟春發兌\東都書房\麹町平川二丁目・角丸屋甚助\田所町新道・鶴屋金助\麹町平川二丁目・伊勢屋忠右エ門\山王町・伊勢屋忠右エ門」(2)「文化十二乙亥孟秋・絳山」(4)「景清外傳」(5)千形仲道(6)水目彫直(8)京大・早大・学習院・広大・延岡内藤・祐徳・光丘・八戸・中村・長野県・青学・岐阜県×3 
「景清外傳」かげきよが一世のものがたりを書り 
*初印本未見。後編は文化十四年刊。 
南總里見八犬傳第二輯五巻五冊曲亭馬琴作柳川重信画山青堂板 
(1)「文化十三年歳次丙子\冬十二月吉日發販\刊行書肆\大坂心齋橋筋唐物町・河内屋太助\江戸馬食町三町目・若林清兵衞\江戸本所松坂町二町目・平林庄五郎\筋違御門外神田平永町・山崎平八」(2)「文化十三年丙子仲秋閏月望・簑笠陳人」(4)「八犬傳二輯」(5)千形仲道(6)朝倉伊八郎(8)同前編 
文化十四丑丁(一八一七)年 
朝夷巡嶋記全傳第二編五巻五冊曲亭馬琴作一柳齋豊廣画文金堂板 
(1)「文化十四丁丑歳\春王正月\吉日發兌\江戸馬喰町三町目・若林清兵衞\筋違御門外平永町・山崎平八\大坂心齋橋唐物町・河内屋太助」(2)「文化十三年立冬後一日・簑笠漁隠」(4)「朝夷二編」(5)千形仲道、棚加正臧(6)京攝六剞〓合刊(8)同前編 
景清外傳松の操後編五巻五冊〓山翁作歌川國直画耕文堂・平川館板 
(1)「文化十四年丁丑孟春發兌\東都書房\麹町平川町二丁目・角丸屋甚助\田所町新道・鶴屋金助\麹町平川町二丁目・伊勢屋忠右エ門\山王町・伊勢屋忠右エ門」(2)「文化丙寅孟秋・絳山樵夫」(4)「景清後編」(5)千形仲道(6)水目彫直(8)同前編 
*初印本未見。三編は文化十五年刊。 
第二章中本型の江戸読本

 

第一節中本型読本の展開 
一中本型読本の定義 
中本型読本という用語については少し説明を加える必要があると思われる。というのも、まだそれほど普遍的な用語として認知されていないからである。そのせいか〈中型読本〉とも〈中本読本〉とも、あるいは〈中本もの読本〉とも呼ばれることがあり、場合によっては〈中形読本〉とされることもある。どれを採ってもよさそうなものであるが、無用な混乱を避けるためには文学史用語として統一した方が都合がよい。そこで〈中本型読本〉という呼称に統一したらいかがかと考え、これを用いることにした。 
じつは〈中本型読本〉という用語自体は、近代になって使われ始めたもので、近世における用例はないようである。ところが〈中形読本〉や〈中本〉という用語には、近世当時に人情本や滑稽本を指示した用例が見られる。たとえば、前述した『出像稗史外題鑑』には「左に記したるは中形のよみ本也。但、仇討等の冊子は限あらず。故に……滑稽本のみを略記す」とあり、「滑稽本」と「仇討等の冊子」とを共に「中形のよみ本」と呼んでいる。時代の下がった天保九年の『増補外題鑑』では「近来、児女童幼の愛玩し給ふ中形本の外題をこまやかに集め……おなぐさみに中形本類を著作てあそび給ふの種本ともなり」とあり、この場合の「中形本」は人情本を指示している。このほか広告などにも多くの用例が見られる。これでは文学史用語として使うには紛らわしく、具合が悪いので、とくに「仇討等の冊子」を指していう場合に〈中本型読本〉という用語が使われ始めたのである。このような呼称の混同は同時に内容的な混同を反映したものでもあり、ほかのジャンルとの境界が漠然としている中本型読本の特質を象徴しているのである。 
本来〈中本〉というのは本の大きさを表わす用語である。普通の読本が〈半紙本〉と呼ばれる菊判(二十三×十六糎)ほどであるのに対して、〈中本型読本〉とは、やや小さい四六判(十八×十三糎)ほどの書型を持つ読本を指す。近世小説はジャンルごとに、ほぼその体裁が決まっていて、書型とその内容とは不可分の関係を持っていた。この中本という書型が用いられているのは、洒落本の一部(大菎蒻)、滑稽本、人情本、草双紙(黄表紙合巻)などである。式亭三馬が「讀本(よみほん)ハ上菓子(じやうくわし)にて。草雙紙(くさざうし)ハ駄菓子(だくわし)也」(『昔唄花街始(むかしうたくるわのはじまり)』跋)と記しているごとく、半紙本読本は近世文学中にあっては一番格調の高い知的な小説であった。これに対し中本型の滑稽本や人情本は大衆向きの娯楽小説、草双紙に至っては婦女子向きの絵を主体とした小説である。そして本来は単に大きさを表わした〈中本〉という用語は、次第に滑稽本や人情本という中本サイズが用いられた大衆小説の諸ジャンルを指して用いられるようになったのである。一方、このような大衆小説の書型である中本型で刊行された読本は、単に半紙本読本を小さくしただけでなく、内容的にも中本仕立ての諸ジャンルと密接な関係を持ったのである。中村幸彦氏は「人情本と中本型読本1」で、その特徴を、(一)既成の読本的規格から自由、(二)読者層に合わせ表現が平明、(三)世話的であり演劇色が濃厚、という三点に要約して押さえている。これは中本型読本に関する唯一のまとまった論考で、中本型読本の孕む本質的な問題がジャンルにあることを示唆している。 
ところで曲亭馬琴は『近世物之本江戸作者部類』(以下『作者部類2』)という江戸文壇史の中で、文化四年に執筆した作品を列挙した後に「この後中形のよみ本作らす」と、ことさらに注記し、また山東京伝の半紙本読本『忠臣水滸傳』について「水滸傳を剽窃模擬せしもの是より先に曲亭が高尾舩字文ありといへともそは中本也」と卑下している。そして当の京伝は遂に中本型読本には手を染めなかったのである。また、同書「讀本作者部第一」の冒頭には「文化年間細本銭(ホソモトデ)なる書賈の作者に乞ふてよみ本を中本にしたるもあれとそは小霎時(シハシ)の程にして皆半紙本になりたる也」とある。つまり作者にとっては格調の低いものであり、書肆にとっては仕込みの経済的負担が軽い読本、それが中本型読本なのであった。 
このような性質を持つ中本型読本は、さまざまの新しい試みを実験してみる場としては最適であったといえる。とくに寛政より文化の初頭にかけての江戸文壇は、新しいジャンルの模索期であった。草双紙は黄表紙から合巻へとその装いを変化させつつあり、極端な写実性ゆえに破綻寸前であった洒落本は寛政の改革を契機として姿を消し、滑稽本が流行した。かくて本そのものの商品価値が増大し、作者も書肆もより売れるものを編み出す必要に迫られたのである。このような状況の下、江戸読本の様式をめぐる試行錯誤は、とりわけこの中本型読本というジャンルを通じて試みられたのである。 
そこで江戸読本の成立をめぐる実験が行なわれた享和までを〈初期〉、草双紙との間において様式上の振幅を見せる文化前半を〈中期〉、人情本の揺籃期である文化後半から文政までを〈後期〉と三期に分けて、主な作者について具体的な作品に触れながら中本型読本の史的な展開の様相を概観してみる。なお、切附本として読本の格調を失っていく嘉永以降は第五節に述べることにする。 
二初期の中本型読本 
中本型読本の原初的形態を示す作品として、横山邦治氏が「中本もの書目年表稿3」の冒頭に挙げているのは、容楊黛の『敵討連理橘(かたきうちれんりのたちばな)』である。安永十年初春序、五十五丁一冊、江戸書肆の西宮新六板。作者の容楊黛は下谷長者町の医師松田某であるというが未詳、天明二年一月初演の『加々見山旧錦絵』(江戸外記座、西宮新六板)の作者でもある。中本型読本のごく初期の作品というだけでなく〈浄瑠璃読本〉とでも称すべき、文学史上特異な位置を占める作品である。 
水谷不倒氏は『古版小説挿絵史4』で、本書について「此書には挿絵はなく、口絵が唯一枚あるだけだ。筆者は誰であるか知れないが、之は作者の自画作ではなく、勝川派の絵師の描いたものであろう5。内容は白井権八と小紫の話で、その経緯が、安永七年刊、田螺金魚の『契情買虎之巻』に似た所がある」と記している。 
この解題には訂正すべき点が多く、鈴木敏也氏は「「敵討連理橘」の素材を繞つて6」で、一般に流布している権八小紫の情話とは別系統の説話が用いられている点、また『契情買虎之巻』とは内容的に関係がない点を指摘し、さらに関連の強い作品として浄瑠璃『驪山比翼塚(めぐろひよくづか)』(江戸肥前座、安永八年七月七日初演)を挙げて紹介した。すなわち、 
播州龍野城主の家老本庄典膳は子が無いので同藩の白井助市を養子としたが、その後、女子をもうけ八重梅と名づけた。殿の奥方は八重梅を助市の弟権八に媒した。典膳は頗る民心を得てゐたが、実は渋川玄蕃と謀つて主家横領を企てゝいる。この玄蕃はかね/\八重梅に思を寄せてゐた。権八は典膳等の陰謀を知り、主家のため又兄のために典膳を討ち取り、お家の宝刀千寿丸を奪つて立退いた。そこで助市は養父の仇討に発足しなければならない破目に陥り、八重梅は自害する。逃亡した権八は川崎で幡随長兵衛と知つたが、鈴森で非人を斬り、その振舞を認められて長兵衛と義兄弟の盟約をなし、江戸に赴いてその家に匿まはれる。こゝに浅草蔵前の米屋明石屋の養子栄三郎は、吉原三浦屋の小紫と二世を契る仲であつた。栄三郎の許婚お関に心のある番頭甚九郎は姦策によつて栄三郎を養家から追放せしめたが、長兵衛のために助けられる。而してお関の貞節は遂に栄三郎を動かし改悛の末、婚姻にまで導く。一方犬垣頭平太なるものが小紫を落籍せんとする。この事を長兵衛が栄三郎のために気にかけていると知つた権八は、かの千寿丸の剣を質入して金を作る。しかも、土手で甚九郎を殺し、その所持金をも贋金と知らないで奪つた。そこで権八は、長兵衛の宅から身を退いて自首せんとし、一策を案じ、女房お時に懸想したと見せかける。長兵衛は却つて親女房と縁を切り権八を庇って自首せんとする。この争ひの中にお時は身売を決意して宝刀の質うけせんとする。とど長兵衛は権八を落してやる。こゝにまた目黒大鳥村に閑居する山田右内は栄三郎の実父であるが、国許で権八の父に大恩をうけた事があつた。一日、右内の家へ虚無僧姿の男が宿を求めた。折柄、廓を抜け出た小紫が栄三郎と共にこの家を尋ねてくる。右内はこの二人が兄妹であると語つて、二人を自害させようとする。それは権八の身代りにしたいためである。ところへ龍野から早飛脚で、権八にお咎めなしとの報があった。虚無僧は助市の仮の姿でこの報を聞いて共々に喜ぶ。しかし天下の法と廓の掟とを立てるために、権八と小紫とを表向には亡き者として、生きながらの比翼塚が建立されたのである。 
というものである。この浄瑠璃『驪山比翼塚』は、翌九年には同題の春朗画の黄表紙としても刊行されているが、『敵討連理橘』がこの浄瑠璃を典拠としていることは明確である。 
なお権八小紫の情話に関する論としては、内田保廣氏の「馬琴と権八小紫7」が備わり、実録をはじめとして、その説話系統を詳細に整理した上で、馬琴が中本型読本『小説比翼文』(享和四年)で利用した際の摂取法について論じている。 
一方、中村幸彦氏は「人情本と中本型読本」で、初期の中本型読本が実録を題材に選んでいることに言及し、その性格を〈世話中編小説〉と規定した。さらに『契情買虎之巻』についても「洒落本調は持つけれども、その本質はむしろ、世話中編小説なる読本の一、もしくは江戸におけるその初出であったかも知れない」と述べている。この『契情買虎之巻』は、実際の事件を小説化したもので、実録や浄瑠璃によった作品ではないが、後に多くの追随作を生んでおり8、やはり初期の中本型読本の一つとして見なしてよいものと考えられる。 
横山邦治氏は「初期中本ものと一九の中本もの―その実録的性格について―9」で、この『敵討連理橘』と作者不明の中本型読本『女敵討記念文箱(おんなかたきうちかたみのふみばこ)』(天明二年三月、中山清七板)とを取り上げ、この二作の〈敵討〉を標榜する〈初期中本もの〉について「浄瑠璃の影響による世話種たることもさることながら、基本的には実録に根差したもの」と位置付け、さらに中本型読本を多作した十返舎一九の作品に、この実録を種本とする方法が継承されていることを明らかにしている。 
ここまで簡単に従来の研究に触れてきたが、『敵討連理橘』の特徴は何といっても浄瑠璃色の濃さにある。丸本まがいの文体や表記法、さらには段の構成法や人物の形象など、おそらくは意図的に浄瑠璃を反映したものである。いま少し積極的に考えれば、容楊黛が『加々見山旧錦絵』に手を染める前段階の、いわば筆慣らしと考えることもできよう。『加々見山旧錦絵』が本書と同じ西宮新六の板であることから考慮すると、あるいは板元の側からの依頼によって、上演されることのない読むための浄瑠璃、すなわち〈浄瑠璃読本〉を書いたのかもしれない。 
後に馬琴は、この様式を一段と徹底させて『化競丑満鐘(ばけくらべうしみつのかね)』(寛政十二年)を書いており、種彦も『勢田橋龍女本地』(文化八年)を出している。中国の伝奇を院本風に翻案した馬琴の中本型読本『曲亭傳竒花釵兒(きよくていでんきはなかんざし)』(享和四年)も、上演を意図せずに書かれた〈浄瑠璃読本〉の一支流と見てよいであろう。 
ところで『加々見山旧錦絵』の大当りは、前述の『女敵討記念文箱』の刊行にも関係があるはずである。この初期中本型読本もやはり色濃く浄瑠璃色を備えているからである。 
余談になるが、鏡山が弥生狂言として定着し、市村座で「加賀見山」が上演された享和三年三月にも、江戸読本『繪本加々見山列女功(かがみやまれつじよのいさおし)』(川関惟充序、山青堂板)が刊行されている。明らかに弥生興行を当て込んだもので、巻末に付録として上演時の配役、尾上(常世)、おはつ(粂三郎)、岩藤(松助)が詠んだ句を掲載している(後印の際には削除されてしまう)。この作品は外題に「絵本」と冠するように挿絵が多く、上方の〈絵本物〉の流れに位置付けられる作品である。ところが、その巻末に「……童蒙の一助ともならんかと、勧善懲悪の姿を今目に写、浄瑠璃本と読本との其間を、八文字屋本の趣向に取組、詞遣いと道具建を新にして、此春の桜木にちりばめ……」とある。つまり、これもまた浄瑠璃を意識した作品なのであった。 
『敵討連理橘』が刊行された安永十年(四月二日改元、天明元年)といえば、まだ上方で怪談奇談集(前期読本)が刊行され続けていた頃で、江戸読本の出現には少し間がある過渡的な時期である。これらごく初期の中本型読本は短編でもあり、中国小説を利用した形跡も見られないことから、江戸読本成立までにはまだほど遠いものと見なければならない。 
さて寛政期に中本型読本を多作し、江戸読本への先鞭を付けたのは振鷺亭である。当時異国情緒に富む新奇な小説として人気のあった『水滸傳』の趣向を翻案した『いろは酔故傳』(寛政六年序)は、見返しに、 
此書ハ魏晋唐宋元明ノ小説ヲ採リ、源氏物語ノスジヲ交ヘテ世話狂言ニ和ラゲ、白猿ガ荒事、路考ガ若女形、訥子ガ和実、杉暁ガ色悪、其外若ィ衆大勢ニナゾラヘテ趣向トス。誠ニ紙上ニ劇場アツテ筆下ニ声色アルガ如シ。 
と記されている。発端で石櫃を開くと黒気が立ち昇り金の光となって八方に飛び散るのは、家に不義者が現われる予兆であるとし、高求、宋江、九龍紋などという登場人物の名をもじって使用している。御家騒動風の展開をするが、結末ですべては一睡の夢であったと逆転させ韜晦してしまう。文体は洒落本的な砕けた会話調を用い、口絵にはそれとなく役者似顔風のものを入れている。馬琴はこの作品を「部したる物にあらねとも水滸傳に本つくこと京傳が忠臣水滸傳より前に在り」「酔語と題して相似さるもの也」(『作者部類』)と評す。ただ無自覚的であったかもしれないが、中国白話小説と日本演劇の付会という、江戸読本成立に関わる問題を提起した作品として注目に値する。 
これを継承し、一歩進めたのが馬琴の『高尾舩字文』(寛政八年)である。目録で「夫(それ)ハ小説(たうほん)の水滸傳(すいこでん)\是(これ)は戯文(しばゐ)の先代萩(せんだいはぎ)」とその種を明かしているように、先代萩の世界(『伊達競阿国戯場』)に『水滸傳』の趣向を付会した作品。凡例に「此書(このしよ)や。戲房(がくや)は唐土(から)の稗説(ものがたり)に倣(なら)ひ。戲廂(ぶたい)ハ日本の演史(ぎだゆう)を引く」と見えるように、自覚的な翻案意識に支えられたもので、『今古奇観』第三話「滕大尹鬼断家私」(通俗本『小説奇言』巻三)などの中国小説を、わが国の演劇である先代萩の世界に付会した作品でもある。しかし、巻末で予告された後編『水滸累談子』が出板されていないことからもわかるように、評判はあまり芳しいものではなかった。中国小説からも趣向を取り込んでいる点においては『いろは酔故傳』より一歩踏み込んだものである。後日『南總里見八犬傳』において大成される『水滸傳』翻案による大長編国字稗史小説の先駆的役割を果たしたという意味で、馬琴にとっては記念碑的処女作であった。 
この二つの中本型読本『いろは酔故傳』と『高尾舩字文』は、本格的江戸読本の濫觴となる京伝の半紙本読本『忠臣水滸傳』前後編(寛政十一、享和元年)を生み出す直接の契機の一つとなった作品で、文学史上持つ意義は決して小さくなかった。しかもそれは方法上だけでなく、繍像風の口絵や五巻五冊で一編を形成するという造本上でも影響を与えていたのである。 
さて『いろは酔故傳』の作者である振鷺亭は、本名猪狩貞居、通称与兵衛といい、別号に関東米、金龍山下隠士などがある。その伝については精確なところはわからないが、寛政初年より洒落本、噺本、滑稽本の筆を執り、後には読本や合巻も書いている。このほかにも二作の中本型読本『風流夕霧一代記』と『芳礼綿助手柄談』とを刊行している(共に刊年未詳、寛政期ヵ)。寛政期の後半は江戸読本成立への過渡期であり、振鷺亭自身が明確なジャンルの意識を持っていたとは考えられない。前述の『出像稗史外題鑑』を見ると、現在では滑稽本とする『会談興晤〓雅話(ももんがわ)』(刊年未詳、寛政期ヵ)と『いろは酔故傳』が並べられ、共に滑稽本として扱われている。つまり、作者や書肆の意識にはこの両者の区別が見られないのである。馬琴は自作『高尾舩字文』について「當時ハ滑稽物の旨と行はれたれハさせる評判なし」(『作者部類』)と記すが、江戸読本というジャンルが未分化なこの時期にあっては、流行がすべてなのであった。したがって棚橋正博氏が「振鷺亭論10」で、この二作を中本型読本として扱わなかったのも、それなりに納得できるのである。つまり『風流夕霧一代記』は人情本的な雰囲気を持った作品で、後になって『紀文大尽全盛葉南志』(文政五年)と人情本風に改題後印され、一方『芳礼綿助手柄談』の方は『水滸傳』を利用しながらも滑稽本的色彩の濃い作品だからである。しかし、ここでは中本型読本の江戸読本成立への過渡期における一つの試行錯誤の軌跡として見ておきたい。 
さて『風俗本町別女傳』(寛政十年、以下『別女傳』)は、『水滸傳』ではないがやはり中国白話小説を利用しており、浄瑠璃『糸桜本町育』に付会した作品である。その強引な付会は、作品としての完成度を損なっているとも考えられるが、以下具体的に典拠の摂取利用の様子を見てみよう。 
水谷不倒氏は『選択古書解題11』で、典拠として「呉衙門隣船赴約」(『醒世恒言』第二十八巻)と「売油郎独占花魁」(『醒世恒言』第三巻)を挙げている。どちらにも当時すでに日本語訳(抄出)があり、おそらく振鷺亭が用いたのは原本ではなく、その翻訳の方であろう。 
まず一つは、逆旅主人(石川雅望)訳『通俗醒世恒言』(寛政二年)の巻之二「呉衙内隣船赴約」である。はじめの方に、 
タゞ一件(ヒトツ)ノ異(コト)ナル事アリ。這人(コノヒト)カゝル一箇(イツカ)ノ清標(セイヒヨウ)人物(ジンブツ)ニシテ。東西(モノ)ヲ喫(クラ)フ事至(イタツ)テ多(オホ)ク毎日(マイニチ)三升(サンシヤウ)ノ飯(メシ)。二〓(ニキン)アマリノ肉(ニク)。十餘〓(ジウヨキン)ノ酒(サケ)ヲ喫(キツ)ス。コレモ父(チヽ)ノ呉府尹(ゴフイン)ノ他(カレ)ガ食傷(シヨクシヤウ)セン事ヲ恐(オソ)レテ。定置(サタメオキ)タル規矩(キク)ニシテ。呉衙内(ゴカイタイ)ガ食量(シヨクリヤウ)ニハ。未(イマ)ダ足(タ)ラザル程(ホド)ナリ。 
【頭注】三升ハ日本ノ今ノ一升五合ホトニアタルヘシ 
これに対応する『別女傳』上冊の第一回冒頭には、 
此(この)佐七郎先祖(せんぞ)業平(なりひら)ともいつべき美男(びなん)にて眉清(まゆきよく)目すゞやかにて面(おもて)玉のごとく也。年已(としすで)に十九。幼(おさな)き時より書(しよ)をよみ広(ひろ)く万事(ばんじ)に通(つう)じ詩哥(しいか)書画(しよぐは)みなすべてよろし。たゞ一つのきずあり。此人かゝる風雅(ふうが)のやさ男にして物をたべる事(こと)至(いたつ)て多(をゝ)く毎(まい)日一舛(しやう)五合(ごう)の飯(めし)一舛(しやう)の酒をのむ。是も父の業正(なりまさ)が定置(さだめおい)たるにて佐七郎が食事(しよくじ)にはいまだたらざる程(ほど)なり。(句点を補った) 
とある。これは呉衙内(佐七郎)の唯一の欠点として形象化された大食というキズに関する部分である。表現上用字まで一致する部分もあるが、面白いことに「三升ノ飯」に関する頭注がほぼ本文中にそのまま用いられ、『別女傳』では「一舛五合の飯」となっているのである。また、『別女傳』に用いられた頭注という衒学的な形式も、この典拠より取り入れたものであろう。 
『別女傳』上冊第一回、船に隠れた佐七郎が鼾をかいて父親に見付かってしまうまでの筋は、ほぼこの典拠『通俗醒世恒言』に沿って展開している。しかし佐七郎が、大変な美人である小糸と取り違えて、ひどく不器量なお房と契りを結ぶ、という設定は典拠には見られないものである。また佐七(呉衙内)がお房(秀娥)へ送った詩は典拠では詩の奥に付された小字となっており、「承芳卿雅愛(ホウケイノカアイヲウク)敢不如命(アエテメイノコトクナラサランヤ)」とある。これを引いて振鷺亭が「承芳卿雅愛(おまへのおなさけにあづかる)敢不如命(なんぞおやくそくをたがゑん)」と傍訓を付したのであろう。 
さて「売油郎」の方、贅世氏訳『通俗赤縄奇縁』(宝暦十一年)巻二の中ほどに、 
ソノ日天氣(キ)晴明(セイメイ)ニシテ。游(ユウ)人蟻(アリ)ノ聚(アツマ)ルガ如ク。遥(ハルカ)ニ十景塘(ケイトウ)ノ方ヲ眺(ナガ)ムレバ。桃紅(モヽクレナイ)ニ柳緑(ヤナギミドリ)ニシテ。湖(コ)中ノ游船(ユウセン)絃歌(ケンカ/ヒキウタヒ)ノ声(コヱ)。往来(ワウライ)紛々(フン/\)ト喧(カマビス)シク。……秦重(シンチヤウ)那(カノ)女子ヲ見ケルニ。花ヲ欺(アザム)キ。月ヲ嗤(ワラ)フノ貌(カタチ)アリテ。終(ツイ)ニ目ニ見サル姿(スガタ)ナリケレバ。秦重(シンチヤウ)忽(タチマチ)魂(タマシイ)ヲ奪(ウバ)ハレ。暫(シバラ)ク呆(アキ)レ居タリケル。他(カレ)原(モト)老實(ラウジツ/ジツテイ)ノ子弟(シテイ/ワカイモノ)ナレバ。イマダ烟花(エンクワ/イロザト)ノ行径(カウケイ/ヤウス)ヲ知ラズ。是(コレ)什麼(ナン)ノ人家ナラント。怪(アヤ)シミ居ケル處(トコロ)ニ。 
とある。対応する『別女傳』下冊の第三回冒頭に対応する部分を見ると、 
その日天気(てんき)晴(はれ)やかにして、遊(はなみの)人蟻(あり)の集(あつま)るがごとく、遥(はるか)に風景(ふうけい)をながむれば、花紅(くれない)に柳緑(やなぎみどり)にして、川(かは)は屋根(やね)舟ひきうたふ声(こえ)おもしろく、詩(し)を作(つく)り哥(うた)をよむべき気色(けしき)也。……佐七、彼(かの)遊君(ゆうくん)を見けるに、花(はな)を欺(あざむ)き月を笑(わら)ふの容(かたち)ありて、終(つい)に目に見ざる姿(すがた)なりければ、佐七忽(たちまち)魂(たましい)をうばわれ、しばらくあきれゐたりける。佐七元じつていなれば、くるわの大門をしらず。是(これ)何(いづれ)の女(おんな)ならんと、見とれ入てゐけるに 
とあり、ほぼ忠実な翻案をしていることがわかろう。 
このようにして典拠『通俗赤縄奇縁』の巻之二中ほどより巻之三第五回までの一連の筋が、そのまま『別女傳』の下冊第三回に翻案されているのである。この「売油郎」は「短編白話小説中第一級の名作といってよい作品で、江戸人にも大いに好まれた12」のであり、何度も翻訳されているが、『別女傳』ではまったく別の筋の一部分として取り込まれている。 
さて「売油郎」全体の筋であるが、女主人公の瑶琴(王美)は、一家離散の後、騙されて娼家に売られてしまう。無理やりに水揚げさせられ、遊女にされてしまうが、やがてその美貌と才能により全盛をきわめることになる。最後には幸せな結婚をして、両親にもめぐり会うことができた。というように、数奇な運命をたどった女の物語である。一方これに似た境遇を経験したのが『通俗金翹伝』(宝暦十三年)の女主人公である翠翹である。翠翹は、無実の罪で捕らえられた父弟を救うために妾奉公を決意するが、騙されて娼家に売られてしまう。やはり、その美貌と才能により全盛を窮めるのであるが、その後も多くの艱難辛苦を経ることになる。やがて軍閥徐明山に妻として迎えられ、彼女を騙した男たちに対して、その恨みを晴らすことができた。が、それも束の間、官軍の策にはまって明山は滅ぼされてしまう。官軍に捕らえられた翠翹は、命だけは助けられ、最後には家族とも再会できるのであるが、やがて出家してしまうのであった。右の梗概の紹介でわかる通り、『別女傳』第四回は『通俗金翹伝』巻之五の結末に当たる部分の翻案なのであった。 
この女を主人公に据えた二つの白話小説は比較的有名な作品であり、両者を通読した時に、その共通する主題に気付くはずである。おそらく振鷺亭もこの点に注目したに違いない。 
以上見てきた中国種の典拠について整理すると、 
第一回『通俗醒世恒言』巻之二 
第三回『通俗赤縄奇縁』巻之二〜三 
第四回『通俗金翹伝』巻之五 
という具合になる。第二回も同様に通俗物の典拠がありそうだが、残念ながら、まだ明らかにできないでいる。しかし、女の片付き方による得失を語る場面は『通俗赤縄奇縁』に見えているし、また恩愛別離の愁嘆場なども『通俗金翹伝』で連綿と綴られているので、これらの部分も第二回と関係があると思われる。いずれにしても各回ごとに別の通俗物(白話小説の翻訳)を典拠として、これを継ぎ合わすことによって組み立てられた作品なのであった。 
『別女傳』が登場人物たちの性格に一貫性を欠き作品としての完成度を損なっているとしたら、それは典拠を付会するに際しての結合のさせ方が性急であったためである。だが振鷺亭は、翻訳を通してではあろうが複数の白話小説の中から共通の主題を見いだし、これを繋ぎ併せて日本演劇の世界に取り込んだのである。この江戸読本成立前夜における中本型読本を通じての試みは、振鷺亭の手柄として高く評価してよいと思われる。 
享和に入り馬琴は興味深い試みをしている。前に少し触れたが『曲亭傳竒花釵兒』(享和四年、以下『花釵兒』)では、中国の伝奇『笠翁伝奇十種曲』の「玉掻頭」を浄瑠璃風に翻案し13、さらにそれを中国戯曲の様式で記述しているのである。少し引用してみると、 
〔末たちやく〕あたり見(み)まハし耳(みゝ)に口(くち)〔私語介さゝやくみぶり〕〔浄かたき〕ムウすりやこよひのうちにかつらめを〔末たちやく〕人しれず只(たゞ)一トうち〔浄かたき〕シしのべ〔末たちやく〕はつとこたへて軍蔵(ぐんざう)ハ。奥(おく)の一ト間(ま)へ仝下〔臺在機関まハりどうぐぶたいかハる〕 
という具合である。もっともこの様式には先行作があり、八文舎自笑の『役者綱目14』(明和八年)は『笠翁伝奇十種曲』の「蜃虫楼」を翻訳している。また寛政二年には銅脈先生(畠中頼母)の『唐土奇談15』があり、やはり笠翁の『千字文西湖柳』を翻訳している16。馬琴はこれらの先行作を踏まえ、実験的な試みとして中本型読本に中国戯曲の様式を導入してみたのであろう。しかも様式だけでなく筋や造本にまで、演劇的趣向を凝らしている。このことは自叙巻頭の「遊戯三昧」という印記にも如実に表れているのである。尾崎久彌氏が「馬琴初期の芝居好17」で黄表紙『松株木三階奇談』(享和四年)などを例示して説いているが、『花釵兒』の場合は中国戯曲の様式に日本演劇を付会しており、そこに馬琴の工夫があったのである。たとえば、浄瑠璃風の人物形象、丸本まがいの文体、五段という編成、さらには挿絵に役者似顔を用いる18など、他作に比して極端に強い演劇趣味が見られるのである。袋や見返しに「一名彼我合奏曲」と標榜するごとく、中国伝奇を日本の浄瑠璃といかに付会していくか、という江戸読本の模索期における斬新な試みであったが、作品自体の完成度は決して高くはなかった。 
なお様式上『花釵兒』の後塵を拝した作品としては、山東京伝の合巻『敵討天竺徳兵衛』(文化五年)や『女侠三日月於仙』(文化五年)、柳亭種彦の合巻『国字小説三蟲拇戦』(文政二年)などがある。 
一方、『小説比翼文』(享和四年、以下『比翼文』)は中国典拠として、『醒世恒言』第八「喬太守乱点鴛鴦譜」(訓点本『小説精言』巻二)の指摘がある19。だが、ここから利用したのは女装した美少年が美女と契りを結ぶという部分的な趣向に過ぎない。むしろ中心は浄瑠璃『驪山比翼塚』(安永八年)や実録『比翼塚物語』(写本)、さらに容揚黛の中本型読本『敵討連理橘』(天明元年)などさまざまな形で流布していた小紫権八譚である。これら実録の小紫権八譚を換骨奪胎して、『比翼文』全体の枠組としているのである。すでに内田保廣氏が「馬琴と権八小紫」(前出)で詳細に分析しているように、『比翼文』では実録の約束に従いながらも権八の〈悪〉を薄め、その庇護者である幡随院長兵衛を〈侠客〉として形象化している。つまり馬琴は、この改変によって道義性を強調したのである。とはいっても表面的な〈勧善懲悪〉臭は、後年の馬琴読本に比べればずっと希薄である。 
一方、水野稔氏は「馬琴の短編合巻20」で、浮世草子『風流曲三味線』巻四、五(宝永三年)と読本『西山物語』太刀の巻(明和五年)とを、『比翼文』の全体の構想に関わる典拠として挙げている。『風流曲三味線』によって権八と濃紫との因縁の伏線を設定し、『西山物語』によって両家の葛藤の発端として武芸試合を設定したのであった。 
ところで読本では作中人物たちの関係に前生の因縁を設定し、その宿世によって筋の進行を合理化することが多い。すなわち〈因果応報〉と呼ばれている方法である。馬琴の場合は、後に益々この傾向が強くなり馬琴読本の顕著な特徴の一つになるのだが、すでに『比翼文』においてその萌芽が見られる。すなわち権八と濃紫の前生を権八の父が撃ち取った雌雄の雉子であったとすることにより、この二人が現世では夫婦として添い遂げられないように設定したのである。そして、このような仏教思想を借用した因果律は、以後の読本の構想法として作者と読者との間における暗黙の約束事となったのである。 
さて馬琴は『比翼文』の自叙でも言及しているように、美少年の持つ妖しい美しさや男色に対して興味を持っていたようだ。享和元年の黄表紙『絵本報讐録』(あえて玉亭主人と署名)で男色ものを手掛けているし、後年、未完の長編読本『近世説美少年録』九編(文政十一〜弘化四年、四編以下は『玉石童子訓』と改題)では善悪二人の美少年を主人公としているのである。それでも公式的な発言では、男色に対して露骨な嫌悪の念を説いている。このように『比翼文』は、以後の馬琴読本において自覚的に方法化される多くの要素を孕んでおり、馬琴読本の出発点として重要な位置を占める作品であるということができよう。 
いまここに挙げた『曲亭傳竒花釵兒』と『小説比翼文』とは同じ享和四年の刊行であるが、一方で〈伝奇〉を、他方で〈小説〉を題名として掲げている点に注意すべきである。共に中国の文芸用語であり、当時にあってはさほど一般的な語彙ではなかったからである。にもかかわらず、あえてこの象徴的な二語を題名に使用したところに、一部知識人たちの中国趣味を摂取し、江戸読本という新しいジャンルに採り入れんとする意図が明確に見て取れるのである。 
ここまでの初期の中本型読本に見られるのは、文人の戯作気分が残る振鷺亭と、新しい江戸読本というジャンルに意欲を燃やす馬琴との二人による、中国文芸をいかに摂取利用するかという試行錯誤の軌跡であった。 
三中期の中本型読本 
十返舎一九 
文化期に中本型読本をもっとも多く刊行したのは十返舎一九である。一九は本名重田貞一、明和二年駿河府中に生まれ、天保二年八月七日歿、享年六十七歳という。若い頃は上方で浄瑠璃作者を志したが、寛政六年には江戸の書肆蔦屋重三郎の食客となった。翌年より自画作の黄表紙を出し始めたが、筆耕までこなしたので書肆に大変重宝がられた。後に『道中膝栗毛』が大当りして、全国に一名を馳せることになる。また著述で生活を立てた最初の戯作者だといわれ、生涯に書いた作品は五百種を超えるという。とくに黄表紙や合巻をはじめとし、洒落本、滑稽本、そして人情本と、中本で刊行された通俗大衆小説を中心に活躍した。実は中本型読本を最も多く刊行したのも、この一九なのであった。近世後期の大衆小説作家としては、第一人者であったということができるのである。 
加えて本屋仲間との付き合いが深く、有能な出板企画者でもあったらしい。従来は式亭三馬の手柄といわれている〈合巻〉という草双紙の造本の上での工夫も、おそらく最初は一九の発案であったものと思われる21。三馬が声高に功名をいい立てるのに対して、一九の方は控え目で地味なので正当な評価が得られないのである。あの口の悪い馬琴でさえも一九については「生涯言行を屑とせす浮薄の浮世人にて文人墨客のごとくならされハ書賈等に愛せられ」た、と好意的に書き留めている(『作者部類』)。 
さて『膝栗毛』の流行と共に板元から路銀を貰って地方旅行に出かけることが多くなり、その旅先で取材した口碑などを作中に利用するようになる。完結していない作品の多い点が気になるが、十作ほどある中本型読本には地方の伝承を題材にした作品が多く見られる。 
一九という署名はないが『熊坂傳奇東海道松之白波』(文化元年)は、牛若丸に討たれた盗賊熊坂長範の一代記で、悪漢小説的な要素は式亭三馬の合巻『雷太郎強惡物語』(文化三年)や馬琴の半紙本読本『四天王剿盗異録』(文化二年)に通じる。この作品の題簽には「全部十冊合巻」とあり、黄表紙風の造本であるが前後二冊に〈合巻〉されている。五丁一冊の意識が見られるので草双紙の感覚で書かれたものであるが、挿絵が全丁に入っていない点や挿絵の余白に本文がない点から、中本型読本に近いものと見てよいと思われる。 
また、一九の『相馬太郎武勇籏上』(文化二年)も同様の体裁を持ったもので、頼光と四天王に滅ぼされた平良門の一代記である。これらの作品は寛政期に多数出板された一代記物や戦記物の流れを汲んだものである。馬琴の関わった『畫本武王軍談』(寛政十三年)など「この冊子の形ハ半紙と中本の間なる物なれハ中形本と唱ふ」(『作者部類』)という、いわば歴史教科書的な絵本である。この内容を中本型読本に持ち込んだのが一九の初期中本型読本なのである。同様の〈合巻〉体裁はあまり見かけないので、おそらく一時的な試みとして出されたものと思われる。 
『復讐玄話浪花烏梅(なにわのうめ)』前二編後一編(文化二年)は、重勝五七郎という悪人の一代記風の作品である。故郷を追われた五七郎は遊女霞野をめぐる意趣返しに人を殺す。その後も悪行を重ね、遂に侠客夢の市兵衛等の助太刀によって討たれる。序文では、大坂で浄瑠璃作者としての修業をしていた頃『男伊達浪花雀』という播州三木の敵討を書き写し、その面白い箇所を採ってこの作品を書いたと記す。話の筋としては一応完結しているにもかかわらず続編が予告されているが、刊行には至らなかったようである。 
『復讐竒語天橋立』前二冊後二冊続一冊(文化三〜五年)は三編まで三年にわたって刊行されたもので、中本型読本としては長編に属す。逆怨みによる不当な敵討と、それに対する正当な敵討という込み入った展開に、狐の奇談や霊験譚を配した作品。『丹後縞』という写本を種本にしたと記している。なお、本書には文化五年鶴屋金助板で絵外題簽を貼り付けた体裁のものがある。三編まで揃ったところで刊行されたものと思われる後印本である。 
『風声夜話翁丸物語』全二冊(文化四年)は犬の報恩譚を絡めた敵討物で、疫神や鼠の怪異など奇怪な民譚が利用されている。『甲州鰍沢報讐(かじかざわのあだうち)』前二冊(文化四年)は一名「身延山御利生伝記」とあり、日蓮大師の霊験譚を利用した敵討物。後編予告があるが未見。『孝子美談白鷺塚』前二冊(文化五年)は丹後国与謝郡涙の磯にあるという白鷺塚の由来譚に絡めた敵討物で、狐の怪異譚を利用している。これも後編予告があるが未見。 
『復仇女實語教』全二冊は文化六年の新板として前年十月二十八日に売り出されたものである。内容的に分類すれば敵討物となるが、随分と奇抜な趣向を用いている。発端部にある「猟師に追われた狼を助けてやったところ、逆に狼に喰わせろと要求される」という話は、中国の明代の伝奇小説『中山狼伝』(流布している民譚名は「東郭先生」)に見えている。この話から「中山狼」が「忘恩負義」を表わす成語となったというが、実は林羅山の『怪談全書』(元禄十一年)巻之二「中山狼」に翻案されており、末尾に「説海ニアリ」と付記されている。おそらく一九はこれを下敷に用いたものと思われ、「實語教」という題にふさわしく、教訓的な話として枕の部分に利用したというのならわかるのだが、「傍らにあった栗の木に狼の要求の理非を問うと狼の論理の方を正当だと答える」という狼の忘恩を正当化した部分を用いている。夢として扱っている点が意味深長である。 
また敵討の方法も奇抜である。病身で余命幾許もないかつての家臣を相手に、華々しく身代りの敵討をして真の敵をおびき出すという趣向である。『大岡政談』の「石地蔵吟味の事」の着想にも通ずる部分が見られ、敵討物の一趣向としては面白いのであるが、結末があまりにもあっけないので少々拍子抜けの恨みはある。 
同年刊の一九の合巻『三峯霊験御狼之助太刀(おいぬのすけだち)』(春亭画、鶴喜板)でも本作と似通う趣向が数多く使われている。狼が登場するのはさて措き、病人相手の果し合いや、庚申塔を捕まえて敵討をして一味を発見するなどという趣向である。もちろん全体の筋はまったく別のものだが、同じ作者が同じ時期に書いたものとして興味深いものがある。 
なお本作の挿絵中、最初の一図は明らかに象嵌されたものである。伝本が少ないので理由は未詳とせざるを得ないが、気になる改変である。挿絵は北馬が描いており、面白い悪戯をしている。挿絵中に一九や取り巻きの連中を描き込んでしまうのである。着物に付けられた紋の意匠から一九、感和亭鬼武、東汀等が、それとわかるように描かれているのである。別の一図にも鬼武が描かれており、さらに同年の一九の合巻『大矢數譽仇討』(春亭画、西与板)の末丁にも鬼武の歌が入れられている。この時期の二人の交流の深さがうかがわれる。 
一九はその生涯におよそ五百種の多作を誇っているというが、草双紙をはじめとして滑稽本、中本型読本、人情本と、中本型の書型を用いた諸ジャンルの変遷が個人史の中で辿れる貴重な作家である。ジャンルの境界で、その交代に深く関与しているはずだからである。一九の中本型読本には実録や民譚に取材した作品が多いようである。作品の舞台を江戸以外の上方西国に求め、由来譚に絡めた敵討に動物の報恩譚や怪異譚を織り込むという方法は、一九独特の行き方を示したものと思われる。おそらく大坂での浄瑠璃作者としての修業中に実録の扱い方を学び、また各地への旅行中に足で集めた材料も少なくなかったはずである。 
感和亭鬼武 
感和亭鬼武もまた中本型読本の多作者である。鬼武は本名前野曼七(満七郎とも)という。はじめ曼亭と号し文化二年に感和亭と改めている。伝記については不明な点が多いが、宝暦十年生まれ、文政元年二月二十一日歿、享年五十九歳という。寛政初年には代官の手代として奥州桑折に下っており、江戸との間を行き来していたようである22。寛政初期には山東京伝の門を敲き、「京伝門人」と署名した作品もある。しかし本格的に草双紙の筆を執り始めた享和二年以降は十返舎一九に接近し、その取り巻きの一人として「栄邑堂咄之会」に列席している。比較的知られた当り作としては、読本『報仇竒談自来也説話』(文化三年、後編は同四年)や滑稽本『有喜世物真似舊観帖』一〜三編(文化二〜六年)があるが、江戸戯作界における鬼武の位置は決して高いものではなかった。にもかかわらず江戸戯作者としては典型的な人物の一人でもあった23。 
鬼武は寛政から文化にかけて、およそ五十種ほどの読本、草双紙、滑稽本、噺本などを書いている24。その中でとくに注目したいのは、七作の中本型読本である。この七作という数は、中本型読本に限っていえば、多作を誇る一九と馬琴に次ぐ点数なのである。しかも鬼武の中本型読本のうち三作に合巻仕立ての改題改修本が存在している。おそらく鬼武の中本型読本には、板元の要求や合巻読者の嗜好に合致する部分が多く備わっていたのであろう。だからこそかなり売れ、その結果として三作もの改題改修本が出されたものと思われる。 
『竒児酬怨櫻池由來』全三巻(文化三年)は発語(序)で「相傳(あいつたへて)曰(いはく)桜(さくら)と号(なつく)る所以(ゆゑん)ハ昔(むかし)池中(ちゝう)に大蛇(だいじや)住(すめ)りと于時(ときに)國主(こくしゆ)の妾女(せうぢよ)桜(さくら)の前(まへ)なるもの池中(ちゝう)に沈没(ちんぼつ)す國主(こくしゆ)これを傷(いたみ)故(かるがゆへ)に妾(せう)の名(な)を傳(つたへ)て桜邑(さくらむら)の櫻池(さくらいけ)といふ其后(そのゝち)肥後(ひご)阿闍梨(あじやり)皇圓(くわうゑん)上人(しやうにん)の霊魂(れいこん)此池(このいけ)に入寂(にうじやく)すと云々」と、『和漢三才図会』の「桜池」の項に見える水神伝承と皇円上人入寂説話を紹介している。桜池の主霊である桜と縣義虎との間に出生した奇児鱗太郎が亡父と亡義兄の敵を追っている時、偶然室津の遊女勇女と知り合う。両人が所持する横笛から同じ敵員弁滋広を持つことがわかり、折りよく勇女の下に通ってきた敵を討つという話である。種々の説話を巧く構成しており、処女作としてはよくまとまった作品である。 
『復讐鴫立沢』全二冊(文化三年)は、享保二年七月十七日夜五ッ時に大坂の高麗橋上であった妻敵討を題材としている。その実説は『月堂見聞集』巻之九などに記録されているが、際物として近松門左衛門の浄瑠璃『鑓の権三重帷子』(享保二年八月)に仕組まれたのをはじめとし、西沢一風の浮世草子『乱脛三本鑓』(享保三年)、さらに『女敵討高麗茶碗』や『雲州松江の鱸』などでもこの事件が扱われている。このように枠組みとしては広く人口に膾炙した題材を用いながら、鬼武は大きく改編している。物難い武士が同僚の妻に口説かれ、その色香に迷って駈落ちして罪を重ね、遂には討たれてしまうというもので、「勧善懲惡の一助ともならめ」(序)と編んだものにしては、やや不穏当な題材である。 
また発端部では、城主に命を助けられた狐が恩返しにと城中の有様を密かに知らせていたが、ある日御所望の鰹を求めて城外に出たところ野犬に殺され、事が露見するという奇談を用いる。この狐の話の典拠は未詳であるが、伊原青々園は松江侯に関わる伝説として『演劇談義』(岡倉書房、昭和九年)で紹介している。 
この『鴫立沢』は中本型読本の中でも比較的短い作品である。発端部を除けばごくありきたりの敵討物で、とりたてて特徴があるわけではない。むしろ、この作品の特徴は北馬の描いた挿絵にあるのである。 
第一の特徴は、挿絵中の有坂五郎三郎と阿町に、初代の男女蔵と三代の路考の似顔が使われている点である25。そもそも半紙本読本の挿絵に役者似顔を用いた前例は皆無ではないが、あまり見かけない。対してこの時期の草双紙合巻の方は、およそすべてが似顔になっていると考えて間違いない。この相違は読者層の違いから生じたものであるが、本質的には芝居との距離の置き方の差なのである。 
第二の特徴は、挿絵中にさりげなく作者自身が描き込まれている点である。よく見ると着物の意匠として鬼武の書判が利用され、袖のところに「鬼」とある。そのほかの人物にも鬼武周辺の人を当て込んでいるようで、今日でいえばヒッチコック映画並みの鑑賞が可能なのである。 
これらの作者と画工の渾然一体となった仕掛けは、画工である北馬の本名有坂五郎八が敵役の名「有坂五郎三郎」と無関係ではないことを知ると、俄然はっきりとしてくるのである。さらに結末近くで「有坂五郎三郎」が変名として用いている「東汀」という名も、ほかの鬼武の作品でよく見かける人である。たとえば滑稽本『春岱[睾丸]釣形』(文化四年)では、蹄齋(北馬)、上忠(慶賀堂上総屋忠助)、松波などと共に登場人物の一人として登場し、挿絵に「東汀」と描かれている。また『自来也説話』後編に序文を送ったのも「東汀間人」なる人物なのである。 
こうして見ると、鬼武と周辺の人物とが作品世界に深く関わっている様子がよくわかる。とくに画工である北馬は鬼武の作品の大部分に挿絵を描いており、一九などと共にかなり親密な付き合いをしていたものと思われる。草双紙『女仇討菩薩角髪』(文化十四年)でも同様なのだが、鬼武が敵役に北馬の実名を使ったのを見て、北馬の方でも挿絵中に仲間の似顔を描き込んでしまう。おそらく、こんな具合に作品が作られていったのであろう。つまり『鴫立沢』は、趣向として鬼武とその周辺の人物の楽屋落ちを秘めた作品なのである。これも半紙本読本では実現不能な中本型読本ならではの新奇な工夫であった。 
『報寇文七髻結緒』全二冊(文化五年)は、小紫権八の世界に『助六』の趣を採り入れている。序文で「今歳(ことし)余著(あらは)す處(ところ)十有余編の中(うち)侠客(をとこだて)てふもの綴(つゞ)り入(いれ)たる戯述(げじゆつ)四五遍(しこへん)茲(これ)皆(みな)起梓客(はんもと)の好(このみ)に任(まか)す處(ところ)なり蓋(けだし)此書(このしよ)の作意と[奇遇]糸筋(よるべのいとすじ)とう稗史(よみほん)は別(わけ)て混(こん)し雑(まじは)りたる事(こと)あり」と述べるごとく、文化八年刊の半紙本読本『東男奇遇糸筋』全五冊でもやはり侠客を扱い、こちらでは『助六』と『糸桜本朝育』を綯い交ぜにしている。 
『函嶺(かんれい)復讐談』全二冊(文化五年)の「函嶺」は箱根のことであるから、曾我物の面影を映していることは容易に想像できよう。ただし、この作品では山荘太夫説話に付会するために兄弟を姉妹に直している。跋文では、 
那(かの)三庄太夫の説(せつ)に似寄(により)侍(はべ)れど茲(この)復讐(ふくしう)の一条(いちでう)は往古(いにしへ)斯(かゝ)る實話(じつは)ありしと予幼頃(いとけなきころ)小耳(こみゝ)に聞振(きゝふり)し有(あり)の儘(まま)を書綴(かいつゞ)り 
としている。なお本作の序文は当時の中本型読本の性質をよくいい得ているので、少々長いが引いてみる。 
一日(あるひ)書肆(しよし)慶賀堂(けいがどう)予が草蘆(さうろ)を訪(とふら)ひ一回(いつくはい)の雑話(ざつは)畢(おはつ)て后(のち)いへらく近来(ちかころ)小説(しやうせつ)和文(わぶん)讀夲(よみほん)の類(たぐひ)歳々(せい/\)出版(しゆつぱん)すといへども女童(をんなわらべ)の字義(じぎ)に踈(うとき)は其文(そのぶん)の高上(かうしやう)なるにつれて難分事(わけかたきこと)多(をゝ)く這(これ)を見るに倦事(うむこと)あり因茲(これによつて)俗文(ぞくぶん)卑言(ひげん)を不厭(いとはず)童蒙(とうもう)にも讀易(よみやす)からんを要(よう)とし二巻(にくはん)の書(しよ)を編(あみ)て與(あた)へよと請(か)ふ原来(もとより)予がごとき文(ぷん)に朦(くらき)は卑拙(いやしくつたなき)にあらては綴(つゞ)ることかたし僥倖(これさゐはひ)といえども近(ちか)き頃(ころ)まで讀夲(よみほん)は童子輩(どうじはい)の弄(もてあそび)にあらざれば諸名家(しよめいか)半点(すこしく)文(ぶん)に力(ちから)を容(もちゆ)るに至(いた)れる歟(か)今(いま)や流行(りうかう)して年々(ねん/\)遍出(あみいだ)せる讀夲(よみほん)なれバ那(かの)艸本(くさほん)の如(ごと)く児女(じぢよ)幼童(ようどう)も見まく欲(ほつ)する事(こと)になんしかあらば予が不学(ふがく)の俗文(ぞくぶん)卑詞(ひし)も可用(もちゆべき)ときなるにやとさりや作意(さくい)は華林戯(しばゐ)に靠(もとつ)き文(ぶん)は音節談(じやうるり)に據(より)此書(このしよ)を綴(つゞ)りて書肆(しよし)の需(もとめ)に應(おう)す閲(み)る人(ひと)予が面皮(めんひ)の厚(あつき)を饒(ゆる)し玉へといとくちに其(その)分説(いゝわけ)をしるす耳(のみ) 
文化年間に入り読本が流行し、この文化五年には出板部数では頂点に達する。ここに至って大衆化した読本は、需要に見合った質の低下が求められる。かつての知識人たちの高踏的戯作性が徐々に退色していき、大衆的な娯楽性が前面に押し出されるようになってきたのである。また鬼武の卑下自慢もさることながら、この年には多くの無名作者が中本型読本に手を染めているのである。さらに「那艸本の如く児女幼童も見まく欲する」ので草双紙的な中本型読本が出来する。この背景には、読本の流行による大衆化という事情があり、それがとりわけ中本型読本に強く反映したのである。 
『増補津國女夫池』全二冊(文化六年)に至っては、近松の『津国女夫池』の抄出本ともいえるもので、「増補」したのは、ほんの発端部に過ぎない。 
『撃寇竒語勿來関(なこそのせき)』全四冊(文化六年)は東北地方の実録によったものと思われる。剣術試合の折、卑怯な手を使って父を殺された娘が、道中の他見を憚って自ら顔を焼いた忠臣を伴い敵討に赴く。夢の場や亡霊の出現など伝奇性の強い趣向が織り込まれ、花街の喧嘩や侠客を描きながら遂に仇を討つというもの。序文では人から聞いた話であると記している。 
鬼武の当り作としては半紙本読本『報仇竒談自来也説話』前後二編(文化三〜四年)がある。これは猟奇的な妖術や霊薬を使う義賊小説で、その新奇な趣向が評判となった。一方、中本型読本では地方の伝承や演劇実録に取材しながらも、侠客を扱う作品が多い点が特色となっている。「名(な)に逢(あ)ふ人々(ひと/\)の作意(さくい)を見聞(みきく)儘(まゝ)に彼(あれ)を学(まな)び是(これ)を習(なら)ひ歳々(せい/\)年々(ねん/\)著(あらはす)」(『勿來関』跋)という作家であったが、その伝記についても不明な点が多く、出典研究を含めて今後の研究の余地が多く残されている。とくにいま述べてきた中本型読本については、従来ほとんど触れられたことがなかったが、江戸読本研究上興味深い位置を占めている作家だと思われる。原稿料だけで生活できるほどの職業作家ではなかったから、肩肘を張らずに楽しみながら書いていたのであろう。 
曲亭馬琴 
馬琴にも次の八種の中本型読本がある。 
一、高尾舩字文五長喜画寛政八年序蔦屋重三郎板 
二、小説比翼文二北斎画享和四年刊鶴屋喜右衛門板 
三、曲亭傳竒花釵兒二未詳享和四年刊濱松屋幸助板 
四、敵討誰也行燈二豊國画文化三年刊鶴屋金助板 
五、盆石皿山記(前編)二豊廣画文化三年刊住吉屋政五郎板 
五、盆石皿山記(後編)二豊廣画文化四年刊住吉屋政五郎板 
六、苅萱後傳玉櫛笥三北斎画文化四年刊榎本惣右衛門板 
七、巷談坡堤庵二豊廣画文化五年刊上總屋忠助板 
八、敵討枕石物語二豊廣画文化五年刊上總屋忠助板 
文化期の作品は、実験的な意味合いの強かった寛政享和期の作品とは大分相違がある。以下、少し丁寧に見ていくことにする。 
『敵討誰也行燈』二巻二冊(文化三年)の題名となっている誰也行燈は、見返しに意匠されているが、その名の由来は『古今吉原大全』(明和五年)の巻四「吉原年中行事」に見えている26。 
扨鐘四ッの時。大門口をしめ。くゞりより出入す。両河岸(かし)は。引四ッ打て。木戸をしめ此時。丁/\へ。中あんどうをともす。是をたそやあんどうとなづく。むかし。庄司甚右ヱ門が家の名を。西田やといふ。此内に。京より来りし。たそやといへる。名高き女郎ありけり。ある夜引ヶ四つ過て。あげやよりかへりしに。何者ともしれず。たそやを殺害(せつがい)に及びける。其比より。用心のためとて。丁中に行燈(あんどう)を出す。よりて。たそや行(あん)燈の名あり。 
この吉原名物を利用して構想を立てたのである。 
一方では『近世江戸著聞集』巻九に見られる佐野次郎左衛門と万字屋八橋の実録に取材している(『異本洞房語園』にも見えている)。これは「吉原千人切り」と呼ばれているが、並木五瓶によって『青楼詞合鏡』(寛政九年江戸桐座初演)に脚色されている。後には講談にもなり、現代では『籠釣瓶花街酔醒』(三代河竹新七作、明治二十一年東京千歳座初演)としてよく知られている。内田保廣氏は、この籠釣瓶譚と『幡随院長兵衛一代記』とが権八小紫譚を介して結び付き、『誰也行燈』に利用されていると説いている(前出「馬琴と権八小紫」)。後になって、この佐野次八橋譚は合巻『鳥籠山鸚鵡助劔』(文化九年)で再び用いられることになるのである。 
はやくに後藤丹治氏は『太平記』の「新田義貞が劔を海中に投じて潮を退けるといふ故事」などを典拠と指摘し27、向井信夫氏は『窓の須佐美』第三巻中の一話を第四編で潤色使用していることを指摘した28。 
なお本書には自筆稿本が残っており29、これを見るとかなり正確に製板されていることがわかる。しかし口絵の一図だけが下絵(首級を描く)とまったく異なる図柄で、振鷺亭の読本『千代嚢媛七変化物語』(文化五年)巻五の挿絵「簗(やな)太郎北海(ほつかい)に挺頭魚(ふかざめ)を殺(ころ)す」(北馬画)に酷似している。この改変の理由は定かではないが、図柄が不穏当であったためであろうか。いずれにしても大筋としては、里見家の御家騒動を多くの犠牲の上に敵討によって解決していくというものである。 
『盆石皿山記』前後二編各二巻二冊(文化三、四年)は、馬琴の中本型読本では最も大部の作品である。構想もほかの作品に比べて複雑になっており、趣向も凝らされている。まとまった作品論はいまだ備わっていないが従来〈伝説物〉と分類され、題材として皿屋敷伝説、鉢かづき伝説、苅萱桑門伝説が指摘されている。 
自序には「みまさかや久米のさらやまさらさらに我名はたてじ万代までに」(『古今和歌集』巻之第二十、神あそびの歌)を踏まえた借辞が見られるが、美作国、久米の更山という場所は〈皿〉から得た着想であると思われる。錦織、佐用丸などという登場人物名も付近の地名によったのである。 
また継子譚が取り入れられているが、「紅皿缺皿」(話型としては「米福粟福」)よりもむしろ「皿々山」と呼ばれる話を利用している。これは、殿様が姉妹に盆皿を見せて歌を詠ませ、実子に比べて上手な継子の方を城へ連れて行くという話である。このほかにも継子譚には「継子の椎拾い」や「継子と井戸」と呼ばれる話型もある。さらに「鉢かづき」も継子譚に属する型である。 
馬琴がどのような資料によったかは詳らかにできないでいるが、これらの継子譚を集めて趣向としてちりばめたものと思われる。つまり「紅皿缺皿」「椎拾い」「盆皿」「皿」「井戸」という趣向の連続の根底には、継子譚を集大成するという意識が存したのである。「皿」と「井戸」にまつわる話が連想の鍵となり、皿屋敷伝承へと構想が展開していく。一般に『播州皿屋敷』として人口に膾炙した話を利用しながらも、伴蒿蹊『閑田耕筆』(享和元年)巻二に所収の次の話を利用したようである30。 
上野国の士人の家に秘蔵の皿二十枚ありし。もしこれを破るものあらば一命を取るべしと、世々いひ伝ふ。然るに一婢あやまちて一枚を破りしかば、合家みなおどろき悲しむを、裏に米を舂く男これを聞きつけて、わが家に秘薬ありて、破れたる陶器を継ぐに跡も見えず、先ずその皿を見せ給へといふに、皆色を直してその男を呼んで見せしに、二十枚をかさねて、つくづく見るふりして、持ちたる杵にて微塵に砕きたり。人々これは如何にとあきれれば、笑ひていふ、一枚破りたるも二十枚破りたるも、同じく一命をめさるるなれば、皆わが破りたると主人に仰せられよ。この皿陶器なれば一々破るる期あるべし。然らば二十人の命にかかるを、我れ一人の命をもてつぐのふべし。継ぐべき秘薬ありといひしはいつはりにて、かくせんがためなりと、一寸もたじろがず、主人の帰りを待ちたるに、主人帰りてこの子細を聞きてその義勇を甚だ感じ、城主へまうして士に取り立てられたりしが、果して廉吏なりしとかや。 
場所や二十枚の皿という設定は異なるものの、馬琴は筋をこのまま利用しているのである。本作以外にも皿屋敷伝説を使ったものとして合巻『皿屋敷浮名染着』(文化十一年)がある。 
以下は部分的な趣向だが、前編第二で源七が遁世する場面や父子再会の場面は『苅萱桑門筑紫轢』を踏まえたものと思われる。この苅萱伝説は文化四年の中本型読本『苅萱後傳玉櫛笥』でも取り上げられており、また他作でも頻繁に利用されている点を見ると、馬琴にはとくに関心が深かった素材だと思われる。 
また前編第四、広岡兵衛が深夜に山神廟の梁に隠れて出没する異形のものを退治する段は、浅井了意『伽婢子』(寛文六年)巻十一の一「隠里」に似た話がある。後編第七に見られる、飼っていた鸚鵡が奸夫淫婦の密言を覚えてしまい主人がそれと知るという趣向について、徳田武氏は『開元天寶遺事』(和刻本は寛永十六年)の「鸚鵡告事」によるとする31。 
結末の後編第十で、寂霊和尚の済度により紅皿の怨魂が仮現していた姿が消えてしまう段は、後編執筆直前の文化二年十二月に刊行された京伝の読本『櫻姫全傳曙草紙』の結末の一齣を想起させる。なおこの「寂霊和尚」と「永沢寺」建立の話、「誕生寺の椋」「宇那提森」「塩垂山」などは『和漢三才図会』に見えているから、案外手近な資料を使ったのかもしれない。 
『苅萱後傳玉櫛笥』三巻三冊は葛飾北斎画で、文化四年に木蘭堂から刊行された。中本型読本としては丁数が多目であるが、六丁にわたる「附言」が付されている。叙文には、文化三年春から夏にかけて北斎が馬琴宅にいたかと思わせる記述が見られ、その北斎に本作の執筆を勧められたとある。内容は説経節で有名な苅萱説話の後日譚として構想されたもの。中村幸彦氏は、この枠組の典拠として仏教長編説話『苅萱道心行状記』(寛延二年)を指摘した32。地名や人名をはじめとする苅萱説話からの要素は、多くがこの本から取られているのである。一方、妾腹の子が成人後に父と対面するという展開は、中国白話小説『石点頭』の第一話「郭挺之榜前認子」か、もしくは抄訳本『唐土新話(まことばなし)』(安永三年)を踏まえたものである(前出中村論文)。 
信州善光寺の親子地蔵の本地譚である苅萱説話には、妻妾の嫉妬、落花に無常を観じての発心、父子再会の折に名告れない等という有名な悲劇構成モチーフがちりばめられている。ところが馬琴はその一切を捨ててしまい、恩愛別離という発心譚の持つ基本的なモチーフを払拭した上で、家族再会、家門栄達という結末に向けた現世的な因果譚として再構成している。「縦(たとひ)佛家(ぶつか)の忠臣(ちうしん)といふとも、祖先(そせん)の爲(ため)には不孝(ふこう)」(叙)という発想から、「縦(たとひ)作(つく)り設(まうけ)るものなれバとて、義理(ぎり)に違(たが)へる談(たん)は、人も見るに堪(たへ)ざるべく、われも實(じつ)に作(つく)るに忍(しのば)ず」(附言)というのである。ここから直ちに馬琴の仏教に対する批判を読むのは当らないと思われるが、このように合理化されているのである。 
本作の前にも苅萱説話を趣向化した作品はいくつかあったが、とりわけ享保二十年豊竹座初演『苅萱桑門筑紫〓』の影響力が強かった。これは馬琴も何度か使っており、繁氏館の段「一遍上人絵伝」によるという妻妾の頭髪が蛇になって縺れ争う場面が、『盆石皿山記』前編(文化三年)では丑の時参りの姿絵から蛇が出る箇所で挿絵として視覚化されている。また、慈尊院の段女之介の淫夢は『松浦佐用媛石魂録』後編(文政十一年)でも利用され、さらに『椿説弓張月』『俊寛僧都嶋物語』『南總里見八犬傳』でも趣向化されているのである33。『筑紫〓』の改作で興味深いのが『苅萱二面鏡』(寛保二年)という八文字屋本で、結末は石堂丸が十五歳になったら家督を譲って繁氏遁世めでたしめでたしという具合で、浮世草子の定法通り祝言で締め括っている。 
ところで、不可解なのが口絵の「忠常(たゝつね)人穴(ひとあな)に入(いる)」と「鍾馗(しようき)靈(れい)をあらはして虚耗(きよがう)の鬼(おに)を捕(とら)ふ」の二図である。共に発端部に出てくるだけで本筋には関係しない。忠常の富士人穴探検の話は「附言」に引用されている通りに、胤長の伊東が崎の洞探検の話と共に『吾妻鏡』の建仁三年夏六月に見られる。一方、本文には出拠が示されていない「源性(げんしよう)算術(さんじゆつ)に自誇(じふ)して神僧(あやしきそう)に懲(こら)さる」という挿絵に描かれた挿話も、実は『吾妻鏡』正治二年十二月三日の条に見えているのである。本作の趣向上での『吾妻鏡』の位置は小さくない。 
「逸史」に見えるという虚耗を退治した鍾馗の挿話には、特別の興味があったらしく、「附言」で井沢蟠龍『広益俗説弁』を引きつつ考証しているが、早くに享和元年の上方旅行の記録である『羇旅漫録』巻一「戸守の鍾馗」でも「遠州より三州のあひだ。人家の戸守はこと/\く鍾馗なり。かたはらに山伏某と名をしるしたるもあり鍾馗のこと愚按ありこゝに贅せず」と記していた。また、文化八年刊『燕石雑志』巻一「早馗大臣」でも触れ、『兎園小説』第九集(文政八年)にも輪池の考証を載せ、『耽奇漫録』には「清費漢源畫鍾馗」を出している。 
「著述はわが生活の一助なり。この故にわが欲するところを捨て、人の欲するところを述ぶ」(附言)といいつつも、これらの考証を延々と続けざるを得なかったところに、馬琴流読本の行き方が暗示されていると思われる。 
なお、文化六年頃、春亭画の合巻風絵題簽を付けた改題本『石堂丸苅萱物語』が出されている。 
『巷談坡〓庵』は一柳斎豊広画で三巻三冊、文化五年に慶賀堂から刊行された。同年同板元刊の『敵討枕石夜話』と共に、曲亭馬琴の中本型読本としては最後の作品である。ただ、序文の年記は文化丙寅(三)年となっており、刊行が一年遅れたものの思われる。「巷談」と標榜するごとく、江戸の伝承的人物である粂平内、三浦屋薄雲、向坂甚内、土手の道哲などを登場人物として構想された敵討物。巻頭には仰々しく「援引書籍目録」をおき『江戸名所記』『事迹合考』など江戸関係の本を二十冊ほど挙げている。本文中でも割注を用いて考証を加えるなど、近世初期の江戸風俗に対する興味を示しつつ作品背景として利用している。この点について大高洋司氏は、山東京伝の『近世奇跡考』巻之一の十一・十二・十七、巻之二の四・十・十一、巻之三の八、計七ヶ所の引用と、『骨董集』上之巻の二十「耳垢取古図」と挿絵(巻下十一ウ十二オ)との関係を指摘している34。 
後印本として、序文を文化七年の山東京山序に付け替えた本がある。序文によれば文亀堂(伊賀屋勘右衛門)板のようだが、残念ながらこの板は管見に入っていない。この序文中に「此繪草紙」と見えており、本作が中本型読本としては珍しく挿絵中に「ヤレ人ごろし/\」「うすくもさいごなむあみだぶつ」などという草双紙風の詞書が書き込まれている点、やや草双紙寄りの性格がうかがえる。この時期に何作か見られるような絵題簽付の体裁で出されたのかもしれない。 
巻末には「亦問。こゝに説ところは。半虚にして半実なるか。答て云、皆虚なり、比喩なり。仏家に所謂善巧方便のたぐひと見て可也」といった調子で、金聖〓の外書を真似て「門人逸竹斎達竹」なる仮託の人物との評答を載せている。やや堅苦しい印象を受けるが、基本的には敵討物の枠組を持ち、複数の伝承を組み合わせた点に面白さがある。中本型読本としての、さまざまな実験が行なわれた作品である。 
後印改修本として、「翰山房梓」「乙亥」と見返しに象嵌した半紙本三巻五冊があり、刊記は「文化十二年己亥年孟春新刻\書肆\江戸日本橋通一町目\須原屋茂兵衛\京三條通柳馬場西へ入\近江屋治助」となっている(天理図書館本)。目録などを彫り直し、内題等の「巷談」を削り「坡〓庵」とし、巻下巻末の「附言」も省かれている。この体裁の本には、刊記を欠いた本(学習院大本)のほかに、「河内屋喜兵衛\大文字屋與三郎」板があり(広島大本)、また天保期の後印本と思われる『粂平内坡〓庵』(外題)という江戸丁子屋平兵衛から大坂河内屋茂兵衛まで四都六書肆が刊記に並ぶ、口絵の薄墨をも省いた半紙本五冊もある(個人蔵)。いつの改竄だかわからないが、口絵の薄墨板(薄雲の姿四オ)を彫り直した本もある(林美一氏蔵)。 
この後印板の多さは、それだけ広く読まれた傍証になると思われるが、じつは本作には序文と口絵を彫り直した中本三巻五冊の再刻板も存在する(都立中央図書館本)。幕末期の出来だと推測されるが、改装裏打ちされている上、見返しや刊記を欠くため出板事項は未詳である。口絵には濃淡二色の薄墨が入れられ、本文は内題の「巷談」を削り「坡〓庵」とした板を用いているようであるが、挿絵第六図(巻中三ウ四オ)は薄墨板がないと間が抜けてしまうためか削除されている。新刻された序末には「于時乙丑鶉月仲旬\飯台児山丹花の〓下に\曲亭馬琴誌\松亭金水書」とあるが、この「乙丑」は不可解である。慶応元年ならばすでに馬琴は歿しているし、文化二年なら原板の序より早くなってしまうからである。また、どう見ても馬琴の文体とは考えられず、おそらくは松亭金水の仕業ではないかと思われる。金水はこの時期に『敵討枕石夜話』の再刻本『観音利生記』の序文を書いており、さらに『江都浅草観世音略記』(中本一冊、弘化四年、文渓堂板)を編んだりと、浅草関連の本に手を染めているからである35。 
『敵討枕石夜話』二巻二冊(文化五年)は、馬琴の中本型読本としては最後の作品となる。序文で『回国雑記』や『江戸名所記』をそのまま引用し、浅草姥が池の一ッ家伝承を紹介している。登場人物たちには「綾瀬」「浅茅」「駒形」などと浅草近辺の地名が与えられている。一方、一ッ家の〈石の枕〉からの連想で『和漢三才図会』に見える常陸国枕石寺の由来を付会している。この寺の回国行者の路銀を奪って殺害した戸五郎が、一旦は栄え、やがて没落するのは座頭殺しに絡む長者没落譚の形式を踏む。海上を進行する船が突然動かなくなり、船底を調べると大きな角が刺さっていたという奇談は、大槻茂賀『六物新志』(天明六年)の「一角」の条や『土佐淵岳志』などを参照したのであろう。馬琴はこの角を殺された回国行者の怨魂が化したものとし、さらに『吾妻鏡』四十一の建長三年三月六日浅草寺に「牛の如き物」が出現したという記事を利用、この「牛の如き物」を〈牛鬼〉とする。この〈牛鬼〉によって戸五郎の妻綾瀬が殺され、娘浅茅は吐きかけられた涎沫により懐胎、五年後に娘駒形を産む。この時夜な夜な牛鬼の吠えた島が「牛島」であるとして、地名由来譚にしているのである。 
その後、浅茅は一ッ家で旅宿を営み、石の枕で旅人を殺して路銀を奪うようになる。ある晩投宿した美少年の身代りになって駒形は石の枕に死す。これを知って怒った浅茅は美少年を追うが池の端で討たれ大蛇と化すが因果を諭され得度する。折よくその場に居合わせた戸五郎は、美少年が自分の殺した回国行者の息子であることを知って討たれる。 
敵討物としては安易な構成であり、筋立も伝承によるところが多いが、展開過程にさまざまの趣向を取り入れており、そこに読者の興味を吸引しようとした作品である。人口に膾炙した題材を用いる場合は、誰しも結末は知っているわけであるから、その改編ぶりにこそ作意が払われるのである。この作品においては、浅草という空間に〈石枕〉と〈牛鬼〉に関する伝承を重ね合わせていく手法が採られている。 
ところで馬琴が『枕石夜話』を執筆したのは文化三年六月からであるが、なぜか途中で筆を折っている。にもかかわらず文化四年になってから慶賀堂上総屋忠助の要求で続きを執筆したのである。この慶賀堂は文化三年刊の半紙本読本『三國一夜物語』(五巻五冊)の板元であったが、売り出して間もない同年三月の大火で板木を焼失してしまったのである。前述の『巷談坡〓庵』が文化三年七月に稿了していたのに文化五年の新板となったのも、こうした事情があったからだと考えられる。 
さらに推測を重ねれば、馬琴の中本型読本の板元の中で、慶賀堂だけが中本型読本を出す以前に半紙本読本の板元になっているので、早くから何か特別な関係があったのかもしれない。また一度筆を折った作品の「嗣録」をしたのも、この板元に対する配慮からであろう。いずれにしても、いま注意したいのは、板元の注文で「嗣録」した『枕石夜話』が文化三年六月に起筆されている点である。つまりこの時点で作品の構想はまとまっていたということになる。ならば馬琴が中本型読本を執筆したのは文化三年の秋までと考えてよいだろう。折しも生活のために続けてきた手習いの師匠をやめているのである。つまり、この時点で初めて江戸読本作家としての見通しがたったということを意味しているのであり、それと同時に中本型読本の筆を執ることもなくなったのである。 
柳亭種彦 
柳亭種彦の『情花竒語奴の小まん』前後二編各二巻二冊(文化三〜四年)は、発端部において斜橋道人の中本型読本『近代見聞怪婦録』(享和三年)より狐の敵討の一節を利用し、浄瑠璃『容競出入湊』『津国女夫池』や『とりかえばや物語』、『雨月物語』の「青頭巾」などを使っていることが指摘されている。種彦にとっては読本の初作であるが、構想趣向ともによく練られた佳作である。同じく種彦の『總角物語』二編各二巻二冊(文化五〜六年)は、助六総角の情話を翻案した里見家の御家騒動で、登場人物たちの間に複雑に絡まる因果関係を設けている。この前編の表紙には蒸篭をあしらった意匠を摺り込み、後編では色摺りの色紙型絵題簽に杏葉牡丹(団十郎の替紋)をあしらうなど、表紙の意匠にまで心を配っている。後に草双紙で本領を発揮する種彦であるが、読本においても造本の洗練された美しさに趣味の良さがうかがえる。 
一般に中本型読本は、地味な色の無地表紙に短冊型の文字題簽を貼ったものが多く、おそらくは天理図書館蔵『總角物語』巻末に貼り込まれているような多色摺りを施した絵入りの袋に入れられていたものと思われる。しかし次第に凝った美麗な意匠の表紙が見られるようになる。これも読者層の変化に伴う現象の一つなのである。 
小枝繁 
小枝繁は戯号、通称は露木七郎次、また〓〓(せつり)陳人、絳山樵夫などとも号した人物で、水戸藩の臣、四谷忍原横町に住み城西独醒書屋といった。青山焔〓蔵に住んでいた時期もあったらしく、撃剣に長じ卜筮に詳しいともいう。文政九年八月七日歿、享年六十八歳というが、一説には天保三年四月十九日歿とも。詳しいことは明らかではない36。 
馬琴や京伝に次ぐ中堅読本作家として活躍し、処女作『復讐竒話繪本東嫩錦』(文化二年)以後十数作の読本を出している。鈴木敏也氏は、未刊に終った読本の自筆稿本序文に「今茲丙申」(天保七年)とあることを紹介し、従前の歿年に疑義を提出している37。 
当時複数のジャンルにまたがって筆を執る作家が多かった中で、その著述は読本に集中しており、ただ一作の合巻『十人揃(じゆうにんまえ)皿譯續(さらのやきつぎ)』(文化九年、西与板38)を画工北岱の要請にしたがって書いているに過ぎない。 
さて小枝繁が読本を主として書いていたのは、一番知的で格調の高いジャンルであった故でもあろうが、同時に馬琴のように職業作家として潤筆だけで生活していたわけではなかったからである。流行を創り出すような独創的な話題作はなかったものの、比較的堅実に流行に即した作品を残している。書肆にとっては気軽に執筆依頼ができた、重宝な作者の一人であったはずである。 
中国白話小説に対する知識も少なからず持っていたものと思われる。処女作『繪本東嫩錦』は、白話語彙に和訓を振った中国臭の強い生硬な文体で書かれ、「十五貫戯言成巧禍」(『醒世恒言』)の趣向を用いている39。この『東嫩錦』が刊行された文化二年といえば、馬琴の半紙本読本の初作『月氷竒縁』が出た年でもあり、江戸読本としては比較的早い時期である。なお、京伝の『安積沼』(享和三年)からの影響の指摘がある40。一方『繪本璧落穂』前後編(文化三、五年)では、翻訳のなかった白話小説『金石縁全傳』を翻案して利用しているという41。 
全著作のうち中本型読本は二作だけで、『於梅粂之助高野薙髪刀(こうやかみそり)』二巻二冊(文化五年)と『愛護復讐神〓伝(しんえんでん)』前後二編五冊(文化五、六年)とがある。これらの中本型読本では比較的平易な文体を用い、あまり中国臭も強くなく肩肘を張った感じはしない。半紙本との格の差や読者層の違いを配慮したものと思われる。 
さて『高野薙髪刀』については、同年同板元から出された『繪本璧落穂』後編の初印本に付された広告に、 
於梅小枝繁著 
高野薙髪刀蘭齋北嵩画中本二冊出来 
粂之助葛飾北斎校 
俳優(わさおぎ)になす角額(すみびたい)といへるによりて。新(あらた)に作(つく)りもふけたる物語(ものがたり)にして。一振(ひとふり)の夭劔(ようけん)を冶(きたひ)しよりこと発(おこ)り。仁海(じんかい)が神通(しんつう)。強八(がうはち)雪路(ゆきぢ)が婬悪(いんあく)。牛都(うしいち)が夭祟(たゝり)粂之助(くめのすけ)が孝(かう)。梅児(おむめ)が貞(てい)。等(とう)のこと有枝(いろ/\)有葉(さま%\)にいりくみたる。おもしろき絵入(ゑいり)読本(よみほん)也。 
と見える。この紹介からもわかるように、いわゆる高野山心中つまり近松の浄瑠璃『高野山女人堂心中万年草』(宝永五年四月、竹本座)や、その改作『角額嫉蛇柳』(明和八年、豊竹和歌三座上場)を踏まえている。序文で「角額てふ俳優の書をよみはべりしに」と記しているので小枝繁は『角額嫉蛇柳』の方を見ていたようだ。しかし全編は敵討物として結構されており、もちろん心中物ではない。作品全体の世界として人口に膾炙した浄瑠璃を取り込んだのであり、登場人物名や高野山という場所以外は、部分的な趣向(偽筆の手紙など)を借りたに過ぎず、主となる話の筋からいえば、まったく別の作品である。 
零落した武士が家の再興を息子に託すという展開の中で、冒頭部で用意された妖剣の祟りが、家の再興を果たすまでに通過せざるを得ないすべての災禍の原因になるように仕組んでいる。この展開に加える脇筋として、殺された女の怨恨が小蛇となり敵の男に纏わり付くという、いわゆる蛇道心説話を用いている。この話は『因果物語』などに見られる唱道話材として流布していた仏教怪異説話で、千代春道の中本型読本『復讐竒談東雲草紙(しののめそうし)』(文化五年)や、式亭三馬の半紙本読本『流轉數囘阿古義物語』(文化七年)にも用いられている。そして結末では、この脇筋も主筋の敵討に合流して大団円となるのである。 
このように芝居の世界を骨格として用い、主筋と脇筋を巧みに絡めていく創作方法は近世後期小説の常套手段であるが、次第に多くの筋をより複雑に混合して創作されるようになるのである。 
なお、本書を「北斎画\曲亭馬琴編述」と改竄し、半紙本五冊に分冊した改題改修本『於梅粂之助花雪吹高嶺復讐』(外題は『於梅粂之助繪本花雪吹』)がある。小枝繁の作風が馬琴に似ていることもあるが、挿絵も北斎門人の筆なので、馬琴北斎という江戸読本の黄金コンビの作とするには、大変に都合がよかったのであろう。しかし改竄本が出されたということは、それだけの商品価値を持っていたということであり、おそらくこの作品に対する板元の判断を示唆しているものと思われる。 
『愛護復讐神〓伝』の方は、説経をはじめとする「愛護若」ものの翻案であるが、八文字屋本『愛護初冠女筆始』(享保二十年)を利用し、また人面瘡を趣向とするなど伝奇性に富んだ作品。中本型読本としては長い部類に属するが構成上の破綻もなく完成度の高い作品である。 
一溪庵市井 
一溪庵市井という人物については、残念ながら何一つわかっていない。『国書総目録』では一溪庵を感和亭鬼武の別号として挙げているが根拠は未詳。おそらく別人だと思われるが、実体の解明については後考を俟ちたい。文化年間に入り、次第に流行してきた江戸読本は、一溪庵の中本型読本『復讐竒談七里濱』三巻三冊(以下『七里濱』)が出板された文化五年に出板点数の上では頂点を迎える。中本型読本においても事情は同じ。主要な読本作家のほぼ全員がこの年に中本型読本を刊行しているのである。ただ山東京伝だけは、楚満人遺稿という合巻風の中本型読本『杣物語僊家花(そまものがたりせんかのはな)』(文化五年)の序文を書いているに過ぎない。一流作家としての誇りの故か中本型読本は一つも書いていないのである。 
ところで『七里濱』の初板本を見ると、大層効果的に薄墨板が使われた挿絵に目が惹かれる。ほかの中本型読本にも薄墨板を用いたものがないわけではない。しかし『七里濱』では表紙に色摺りを施して貝殻の意匠の貼題簽を用いるなど、かなり造本に意匠が凝らされているのである。その上『七里濱』の改題改修本『島川太平犬神物語』(文化六年)には、表紙に大きな色摺りの合巻風絵題簽が施された本がある。『七里濱』の刊行後わずか一年足らずで板元が変わり、改題改修されていたのである。後印本の常として序跋類や挿絵の薄墨板は省かれてしまっている。 
このような改変は、制度上は書物問屋しか出板することができない読本(中本型読本)を、地本問屋が出すために行なった偽装工作ではないかと考えられる。とくに文化六年頃にまとめて数点の中本型読本を求板し、合巻風に仕立て直して改題改修本を出したのは、貸本屋から出発して後に書物問屋になった雙鶴堂鶴屋金助であった。『名目集』によれば、鶴屋金助が地本問屋になったのが文化五年六月であり、面白いことに、これらの改題本の出板と時期を同じくしているのである。同様の改題改修本は、鬼武の中本型読本三作をはじめとして全部で六種類ほど確認できる。おそらく中本型読本の読者層が次第に拡大し、合巻の読者にまで及んだということであろう。同時に女性読者の獲得を意図した板元の販売戦略だともいい得るのである。 
一方、自序に、 
余生業の暇に書を好む。一日、本草綱目を読みて、番木鼈の条下に至る。此草や獣を殺すの毒あり。就中く能く狗を毒し死に至らしむ。茲に於て忽ち一奇事を案得して、島川礒貝両士の是非と与に復讐の一事を著す。 
とあるように、内容的にはいわゆる「御堂前の仇討」の世界を取り込んだもの。実説かどうかは不明ながら、貞享元年二月八日阿波徳島の藩士島川太兵衛が礒貝実右衛門を殺害し出奔、貞享四年六月三日御堂前にて礒貝兵左衛門等に討たれたという事件である。早くから芸能化されており、浄瑠璃『敵討御未刻太鼓』(長谷川千四、享保十二年)や、この改作『御堂前菖蒲帷子』(菅専助、安永七年)などがある。また歌舞伎では『郭公合宿話』(享和二年四月、河原崎座)や、『初紅葉二木仇討』(文化三年七月、中村座)に仕組まれている。とくに、この文化三年の上演が好評であったものと思われ、式亭三馬は合巻『御堂詣未刻太鼓』(文化四年春三月稿文化五年)を出している。 
このように『七里濱』が出板される前に、いくつもの「御堂前の仇討」の世界を扱う先行作がある。ところが直接的に典拠となった作品を特定できない。その上肝心の敵討の場所を御堂前ではなく七里浜に変え、題名も「御堂前」ではなく「七里浜」としているのである。このように舞台を上方から関東に移したのは、おそらく江戸の読者を意識したからに相違ない。 
人物名などは芝居の世界としての約束事に従いつつも、序文に見えているように趣向として〈犬神の妖術〉と〈唐猫の香器〉とを設定している。さらに阿波国の御家騒動であることから、広く四国地方に伝承されていた民譚「犬神憑き」を付会したのかもしれない。 
作者の実態は不明ながらも敵討に際して女の犠牲死を用意するなど、全体の説話的構成も整っており、敵討物としてはよく仕組まれた作品である。また部分的な趣向にも和漢の説話が工夫を凝らされて配置されており、作者の教養がうかがい知れる作品である。 
六樹園ほか 
六樹園の『天羽衣』二巻二冊(文化五年)は、この時期には珍しく敵討物ではない。作者の浪漫的嗜好を反映した雅文体で記述されており、謡曲『羽衣』を踏まえて中国白話小説『醒世恒言』の「両縣令競義娘孤女」や「陳多寿生死夫婦」を翻案したものである。なお六樹園は同年の合巻『敵討記乎汝(かたきうちおぼえたかうぬ)』で敵討物のパロディを試みている。 
神屋蓬洲は、挿絵はもとより筆耕彫工まで一人でやってのけた器用な人物で、中本型読本には『復讐十三七月(はつかのつき)』三巻三冊(文化五年)と『敲氷茶話龍孫戛玉(たけのともずり)』二巻二冊(文化六年)がある。趣向挿絵共凝った作品であるが、惜しいことに二作とも未完である。 
盛田小塩の『復讐竒怪完義武逸談』三巻三冊(文化四年)は前半部で『奇異雑談集』巻一の四「古堂の天井に女を磔にかけおくこと」を丸取りした敵討物である42。いずれにしても、奇談の一つを敵討の枠組として取り込んだ単純な構成の作品である。 
千世蔭山人(盛田小塩)の『因縁竒談近世風説柳可美』二巻三冊(文化四年)は京都の遊女美和の発心譚。節亭山人『繪本復讐放家僧』三巻四冊(文化三年)は際どい描写を含む男色物。岡田玉山の『阿也可之譚』(文化三年)は口絵挿絵に多色摺りを施した綺麗な本だが、信田妻の筋に依拠したもの。 
いま列挙した『完義武逸談』以下の四作の匡郭は、ほぼ中本型読本の大きさであるが、紙型がやや大きく中本と半紙本の中間ほどの大きさである。『柳可美』以外は上方の書肆より出されたものなので江戸読本とはいえないが、前述した一九の『天橋立』も岐阜の書肆の手になる後印本はやはりこの中間型であった。 
一方、馬琴の『敵討裏見葛葉』五巻五冊(文化四年)や種彦の『阿波之鳴門』五巻五冊(文化五年)をはじめとして、手塚兎月の『小説竒談夢裡往事』四巻四冊(文化五年)、千鶴庵万亀の『かたきうちくわいだん久智埜石文』三巻三冊(文化五年)、高井蘭山の『復讐竒話那智の白糸』五巻五冊(文化五年)、蓬洲の『復讐雙三弦』三巻五冊(文化九年)、東里山人の『山陽奇談千代物語』二編十冊(文政十年)、一九の『名勇發功譚』五巻五冊(文政十一年)、滄海堂主人の『復讐野路の玉川』二編九冊(天保七年)などは半紙本より少し小さい匡郭を持ちながら、中間型の紙型で出されている。これらの〈中間型読本〉は単に紙の大きさの規格の相違から生まれたものかもしれないが、前述のごとく中本型読本とも傾向を異にする作品が含まれており、一応別に扱った方がよさそうである。一見したところでは上方板にこの様式が多い。なお明らかに初印時より半紙本に摺られた中本型読本もあり、これは貸本屋向きに作られたものと考えられる。 
文化期の半ばには草双紙に近い様式の中本型読本が見られ、同時に中本型読本並の格調を備えた草双紙も出現する。これらは中本型読本の読者層の広がりを反映したもので、流行に従って大衆化し、それに見合う形での造本上の変化なのであった。 
四後期の中本型読本 
文化期の末には中本型読本はほとんど見られない。所見本は半紙本仕立ての後印本であったが、文松庵金文の『忠臣烈女東鑑操物語』五巻五冊(文化十年)は東北の阿曾沼での御家騒動を骨子とし、犬の報恩譚や狐の怪異などの伝奇的要素を取り込んだもの。発端部の「筒井筒」では『伊勢物語』を利かせ、その二人が結末「結赤縄」で結ばれるといった恋愛小説風の構成を持っている。 
文政期に入ると狐郭亭主人の『薄雲伝竒郭物語』五巻五冊(文政二年)がある。この作品は妖獣退治に始まり破戒僧の妖術、薄雲の猫の怪異、女の亡霊と多くの猟奇的趣向が散りばめられ、総角助六の情話が利用された敵討物である。この文政初年には人情本の濫觴とされている一九の『清談峯初花』前編や瀧亭鯉丈の『明烏後正夢』初編が出板されている。 
一九の『遠の白浪』三巻三冊(文政五年)は、「一本駄右衛門東海横行記」(見返し)とあるように白浪物。東里山人の『夢の浮世白璧草紙』二編六冊(文政七年)は「契情白璧が事跡」(序)を扱ったもの。やや横幅の広い紙型を用い、匡郭を双柱にしている。目録の体裁や会話文の導入、句読点を用いない表記法などに人情本的要素が見られる。 
東西庵南北こと板木師朝倉力蔵の『江戸自慢翻町育(二人藝者一對男)』三巻五冊(文政十一年)は、中本型読本から人情本への過程を端的に示す演劇趣味の強い作品で、色模様をも含むが、基本的には「観善徴悪をさとす」(叙)敵討物である。『糸桜本朝育』の世界を取り込み、地の文で筋を進行しながら会話体を導入し、全文ではないが次のように正本風にしている。 
おりしもとなりざしきのかげしばゐのせりふは菊之丞と団十郎[菊]人の心とあすか川きなふのふちもけふの瀬とかわらさんすはどのごのつね[団]こよいしゆびしてあふたも人のせわ……[菊]かならずまつてゐさんせや大ぜいにてほめるはま/\成田屋引 
【佐】あのせりふのとふり金といふやつにはかなはねヱの【糸】それも女によりけりサ〇 
隣室より聞こえる声色(「鰻谷」菊之丞と団十郎の見立て)を利用している。おもいれ「〇」や「此所ぶんまはしにて」などとあり、さらに義太夫まで使って趣向としている。この徹底した演劇趣味は草双紙や人情本の読者を意識したものであろうか。当時の風俗流行への言及や濡れ場の描写、妻妾同居の結末などは人情本を思わせる。また改題後印本『江戸紫恋の糸巻』の存在は、当時の読者に好評だったことを物語っているだろう。なお所見本は半紙本であったが、改題後印本は中本で出されている。 
一方、人情本の元祖為永春水の『武陵埜夜話』三巻三冊(文政十一年)は匡郭を取り払った人情本風の造本ではあるが、色模様のない敵討物で、会話文を導入し愁嘆場を強調した作品である43。同じく『小説坂東水滸傳』前後二編各三巻三冊(文政十三〜十四年)は一名「千葉系譜星月録」とあり、千葉家の御家騒動を「星塚佐七、星合於仙、星井志津馬、星野正作、星川主水、星影利光、星石賢吾」の七人の活躍で解決するという構想の『八犬傳』模倣作である。 
以上見てきたように文化期末から文政期に出板された中本型読本には、人情本への過渡的な内容様式を持った作品が多い。が、反面半紙本の史伝物を指向する作品も見られる。またこの時期の人情本にも中本型読本的な伝奇性を残した作品も多く、厳密な意味でのジャンル分けは困難であろう。つまりこの時期もまた過渡期であり、狂蝶子文麿の半紙本読本『五大力後日物語』五巻五冊(文化十一年)が口絵挿絵を除いた本文で中本大の匡郭を用いているように、その試行錯誤が中本型読本を通して試みられたのであった。 
注 
1.中村幸彦「人情本と中本型読本」(『中村幸彦著述集』五巻、中央公論社、一九八二年、初出は一九五六年)。 
2.木村三四吾編『近世物之本江戸作者部類』(八木書店、一九八八年)。 
3.横山邦治「中本もの書目年表稿」(『讀本の研究―江戸と上方と―』、風間書房、一九七四年、初出は一九七〇年)。 
4.水谷不倒『古版小説挿絵史』(『水谷不倒著作集』五巻、中央公論社、一九七三年、初出は一九三五年)。 
5.画工は記されていないが、向井信夫氏は勝川春英の筆かと推測する。 
6.鈴木敏也「「敵討連理橘」の素材を繞つて」(藤村博士功績記念会編『近世文學の研究』、至文堂、一九三六年)。 
7.内田保廣「馬琴と権八小紫」(「近世文芸」二十九号、日本近世文学会、一九七八年六月)。 
8.本書第二章第四節参照。 
9.横山邦治「初期中本ものと一九の中本もの―その実録的性格について―」(『讀本の研究―江戸と上方と―』、風間書房、一九七四年)。 
10.棚橋正博「振鷺亭論」(「近世文芸研究と評論」十一号、研究と評論の会、一九七六年)。 
11.水谷不倒『選択古書解題』(『水谷不倒著作集』七巻、中央公論社、一九七四年、初出は一九二七年)。暉峻康隆『江戸文學辭典』(冨山房、一九四〇年)では、『通俗赤縄奇縁』を挙げている。 
12.日野龍夫「解題」(『近世白話小説翻訳集』二巻、汲古書院、一九八四年)。 
13.徳田武「『曲亭伝奇花釵児』と「玉掻頭伝奇」」(『日本近世小説と中国小説』、青裳堂書店、一九八七年、初出は一九七八年)、同「解説」(新日本古典文学大系『繁野話・曲亭伝奇花釵児・催馬楽奇談・鳥辺山調綫』、岩波書店、一九九二年)。 
14.八文舎自笑『役者綱目』(『歌舞伎叢書』第一輯、金港堂、一九一〇年)。 
15.複製本に『唐土奇談』(内藤虎次郎解説、更生閣、一九二九年)がある。 
16.石崎又造『近世日本に於ける支那俗語文學史』(弘文堂書房、一九四〇年)。 
17.尾崎久彌「馬琴初期の芝居好」(『近世庶民文学論考』、中央公論社、一九六五年、初出は一九五〇年)。 
18.義輝の顔は沢村源之助の似顔である旨、向井信夫氏より教示を得た。 
19.麻生磯次『江戸文学と中国文学』(三省堂、一九四六年)。 
20.水野稔「馬琴の短編合巻」(『江戸小説論叢』、中央公論社、一九七四年、初出は一九六一年)。 
21.向井信夫「十返舎一九滑稽もの5種」解題(近世風俗研究會、一九六七年)。 
22.鈴木俊幸「寛政期の鬼武」(「近世文芸」四十四号、日本近世文学会、一九八六年六月)。 
23.三田村鳶魚「『有喜世物真似旧観帖』解題」(『三田村鳶魚全集』廿二巻、中央公論社、一九七六年、初出は一九三六年)。 
24.本書第四章第五節参照。 
25.向井信夫氏の教示による。 
26.『古今吉原大全』(『洒落本大成』四巻、中央公論社、一九七九年)。なお、後に『古今青楼噺之画有多』(安永九年)に絵を加えて抄録されている。 
27.後藤丹治『太平記の研究』(河出書房、一九三八年)。 
28.向井信夫「書廚雑記(五)」(『続日本随筆大成』五巻付録、吉川弘文館、一九八〇年)。 
29.長友千代治『近世小説稿本集』(天理図書館善本叢書65、八木書店、一九八三年)。 
30.伴蒿蹊『閑田耕筆』(『日本随筆大成』一期十八巻、吉川弘文館、一九七六年)。ずっと後だが、松亭金水の『積翠閑話』や暁鐘成の『雲錦随筆』にも見えている。 
31.徳田武「『八犬伝』と家斉時代」(『日本近世小説と中国小説』、青裳堂書店、一九八七年、初出は一九八一年)。ただ典拠としては、むしろ馬琴の合巻『鳥篭山鸚鵡助劔』(文化九年)の方が一致点が多い。また、この趣向は改題本が広く流布していた『語園』(寛永四年)下、「鸚鵡賊を告事」にも出ている。 
32.中村幸彦「読本発生に関する諸問題」(『中村幸彦著述集』五巻、中央公論社、一九八二年、初出は一九四八年)。 
33.後藤丹治「解説」(日本古典文学大系60『椿説弓張月』上巻、岩波書店、一九五八年)。 
34.大高洋司「湛湛青天不可欺―『新累解脱物語』解題正誤―」(「いずみ通信」十一、和泉書院、一九八八年十月)。 
35.本書第二章第三節参照。 
36.菩提寺であるという市ヶ谷薬王寺に出掛けてみたのだが墓石は見当らなかった。寺側の協力が得られず、それ以上の調査はできなかった。 
37.鈴木敏也「「南枝梅薫九猫士傳」解説」(『秋成と馬琴』、丁子屋書店、一九四八年)。 
38.なお本作中主人公の名「きく(菊)」が「さく」と細工して直されている点について、鈴木重三氏は「校合本は語る―「おきく」と「おさく」―」(「書誌学月報」三十八号、青裳堂書店、一九八八年)で、所蔵の自筆校合本を図示し、菊千代君の生誕に伴う「菊禁」の一件と、序の年記「辛未」が「壬申」に直されていることなどを紹介している。馬琴の『松浦佐用媛石魂録』で「秋布」の名を「菊」にできなかったことや、瀬川菊之丞が路考と名乗ったのも同様の理由によるものであろう。 
39.横山邦治『讀本の研究―江戸と上方と―』(風間書房、一九七四年)。 
40.鈴木敏也「小枝繁の処女作から京伝を眺める」(「国文学攷」二巻一輯、広島大学国語国文学会、一九八六年)。 
41.徳田武「『金石縁全伝』と馬琴・小枝繁」(『日本近世小説と中国小説』、青裳堂書店、一九八七年、初出は一九八六年)。 
42.向井信夫氏の教示。同じ話は『諸国百物語』巻二の五「六端の源七ま男せし女をたすけたる事」にもある。 
43.向井信夫「人情本寸見(二)」(「書誌学月報」二十五号、青裳堂書店、一九八六年三月)に解題が備わり、延広真治氏の手によって水野稔編『近世文芸論叢』(明治書院、一九九二年)に翻刻されている。 
第二節中本型読本書目年表稿 
凡例 
一、原則として原本を確認した作品を挙げた。未見の場合や所見本に記されていない事項は括弧で括り、その典拠を示した。 
一、原則として刊記による刊年順に挙げたが、所見本のいずれにも刊記がない場合は見返しや序などによった。 
一、次のように見出を立てた。 
書名原則として内題により、書名の訓みが記されている場合はルビで示した。また外題等が異なる場合は注記した。 
巻冊所見本が合綴されている場合でも、内題等によって本来別冊であったことが明らかな場合は、本来の冊数を示した。なお巻数を括弧で括ったものは草双紙の意識で書かれた作品で、五丁を一巻に数えた場合であることを示す。 
作者奥付、見返し、内題下などによった。 
画工作者に準ずる。 
蔵板蔵板元が明示されている場合は、これを示した。 
一、項目は(1)刊記、(2)題序、(3)後跋、(4)筆耕彫工、(5)柱刻、(6)所蔵先(板の違いは\で示した)、*備考の順に記号で示した。 
一、所蔵機関名は公私立機関名を略称を用い、個人蔵本のうち目録類で公開されていないものはアルファベットで示した。 
一、該当する項目がない場合は、項目そのものを略した。 
安永十丑辛(一七八一)年(四月二日改元、天明元年) 
敵討連理橘一巻一冊容楊黛作西宮新六板 
(1)「東都書林本材木町一丁目西宮新六板」(2)「安永十丑はつ春作者容楊黛」(5)「連理」(6)岩崎・国会・霞亭・岐阜大 
天明二寅壬(一七八二)年 
女敵討記念文筥三巻一冊中山清七板 
(1)「天明二年寅三月吉日\売所牛込おたんす町駿河屋藤助\同江戸橋四日市上総屋利兵衛\板元本町四丁目大横町 
中山清七」(2)「天明二年三月吉日」(5)「女敵〔仇〕討」(6)国会・霞亭・東博・中村・抱谷・A 
*東博本とA本は刊記に「寛政五癸丑正月吉日」と入木。 
寛政六寅甲(一七九四)年 
教訓いろは酔故傳一巻一冊振鷺亭作自画カ南總舘板 
(2)「寛政甲寅春正月\八文舎自笑題」(6)国会・岩崎・東博・東大国文・阪大・尾崎・加賀・慶応吉田 
*A本の改題改刻本『時代世話建久酔故伝』(文政三年三鷺序、英泉の口絵を新刻、文魁堂・双鶴堂)。 
寛政八辰丙(一七九六)年 
高尾舩字文五巻五冊曲亭馬琴作長喜画蔦屋重三郎板 
(1)「江戸通油町蔦屋重三郎」(2)「寛政捌丙辰年孟春\曲亭馬琴」(5)「高尾」(6)岩瀬・狩野・天理・広大・花月 
・中村・A\国会・京大・東博・玉川大(後編欠)・A 
*再刻本は中本五冊。初編上下は天保六年刊「蔦屋重三郎・柴屋文七\合板」(見返し)、後編上中下は「天保七丙申歳孟陽発販 
\版元・赤松庄太郎-中村屋勝五郎\製本所・柴屋文七」。各巻首に寛政板の口絵に対応した国貞画の色摺り口絵一図がある。 
寛政十午戊(一七九八)年 
風俗本町別女傳二巻二冊振鷺主人作自画カ南總舘板 
(1)「板出來戊午\春南總舘鐫」(2)「題巽空舎白猿」「小引振鷺亭主人」(3)「後跋門人關東米謹識」 
(5)「本」〔ノド〕(6)国会・九大・天理 
*見返し「振鷺亭先生譯」。 
寛政期か 
風流夕霧一代記三巻三冊振鷺亭作 
(2)「夕霧一代記自序作者振鷺」(3)「振鷺亭主人識」(5)「夕きり」(6)京大・国会・加賀・(南木)\学習院・成田・A 
*改題再刻本『紀文大盡全盛葉南志』(中三冊、文政壬午秋中浣駒人序、英泉画、青林堂板)。再刻本の改題本 
『全盛貞女夕霧物語』(半三冊、序の年記を削る、学習院)。 
芳禮綿助手柄談一巻一冊振鷺亭作 
(2)「序引振鷺亭のあるじ」(6)狩野・中村・A・B・学書言志 
*見返し色摺り。 
享和三亥癸(一八〇三)年 
近代見聞怪婦録五巻五冊斜橋道人作鳳嶽舘板 
(1)「東都書林\馬喰町二丁目若林重左衛門」(2)「(自序)享和三亥陬月」(5)「怪婦録」(6)国会・東博・狩野 
*見返題の角書「近代正説」。次の刊記が加えられたものがある。「享和三癸亥正月吉日\書林\浪華小林六兵衛 
\東都中川新七板」。 
享和四子甲(一八〇四)年(二月十一日改元、文化元年) 
小説比翼文二巻二冊曲亭馬琴作北齋辰政画仙鶴堂板 
(1)「享和四年歳宿甲子正月吉日兌行\江戸本町條通油町〓鶴堂鶴屋喜右衛門梓」(2)「自叙\蓑笠隱居」 
(5)「小説ひよく文」(6)国会・天理・A(有欠) 
*目録題の角書「守節雉恋主狗」。 
曲亭傳竒花釵兒二巻二冊曲亭馬琴作浜枩堂板 
(1)「享和四甲子年春正月兌行\江戸通油町蔦屋重三郎\同所義太夫抜本版元濱松屋幸助梓」 
(2)「享和癸亥肇秋中浣飯顆山農曲亭子題」(3)「評論著作堂主人識」(6)岩瀬・尾崎・加賀・東大国文・国学院・京大国文・国会(上のみ)・天理(上のみ)・岐阜大・中村・I・F(袋) 
*袋と見返しに「一名彼我合奏曲」とある。 
白狐傳一巻一冊鹽屋艶二作北渓画寶珠堂板 
(1)「享和甲子新鐫(見返し)\麹町平川町壹丁目伊勢屋忠右衛門\同所弐丁目松本屋新八\梓行」 
(2)「維時享和甲子時正月鹽屋外史艶二題」(6)国会・尾崎・東博・岐阜大・(東大教養) 
*後編予告があるが未見。 
東海道松之白浪〔外〕(十)巻二冊一九\春水亭元好作豊國画永壽堂板 
(1)「甲子\江戸馬喰町二丁目西村屋與八」(6)大阪府・日大・A 
*前編の題簽未見。『青本絵外題集U』に後編の題簽のみ存。改刻本『熊坂長範一代記』(春水亭編述、十返舎一九校、一陽齋豊國画、山崎屋清七板)は五十丁一冊の切附本。 
〔奥州戦記〕(二)巻(二)冊春水亭花元好作歌川豊國画永壽堂板 
(1)「西邑與八」(5)「下巻」(6)A 
*下巻のみ(〜六十六丁)の端本。題簽欠。外題は後補墨書き。刊年の記載はない。 
文化二丑乙(一八〇五)年 
相馬太郎武勇籏上(十)巻二冊十返舎一九作一陽齋豊國画永壽堂板 
(2)「文化乙丑春十返舎一九識」(6)東大・東誌・A・F 
*黄表紙風貼題簽に「全部十冊物合巻」とある。 
復讐玄話浪花烏梅二巻〔五〕冊十返舎一九作月麿画慶賀堂板 
(1)「文化二歳乙丑孟春發行\書舗\東都日本橋通四丁目上総屋忠助蔵板」(2)「文化二乙丑蒼陽月十返舎一九誌 
(前編)」(5)「浪花梅〔〓〕」(6)鶴舞・東大(前下欠)・資料館(後欠)・中村(前欠)・岩崎・尾崎・玉川大 
(前上欠)・高木(前下下のみ) 
*前編上下巻をそれぞれ二分冊し、後編一冊と併せて五冊。ただし広告などには三冊とある。 
改題後印本『浪花烏梅侠夫湊花』(半紙本六冊、河内屋平七板、尾崎)。 
文化三寅丙(一八〇六)年 
敵討誰也行燈二巻二冊曲亭馬琴作一陽齋豊國画双鶴堂板 
(1)「文化三丙寅年春正月發行\書肆鶴屋金助梓」(2)「文化丙寅孟春\曲亭馬琴戯識」(3)「簑笠軒」 
(4)小泉新八郎(6)天理(自筆稿本、上)・A・F(上)・J\国会・早大 
*改題後印本『再榮花川譚』(半紙本四冊、文化十三年刊、瑞錦堂丸屋善兵衛板、国会・早大本) 
盆石皿山記前編二巻二冊曲亭馬琴作一柳齋豊廣画鳳来堂板 
(1)「文化二年乙丑夏五月著述\同三年丙寅春正月發行\江戸四谷傳馬町二丁目住吉屋政五郎梓」 
(2)「文化ひのえ寅のとし正月曲亭主人」(3)「曲亭門人嶺松亭琴我」(6)国会・国会亀田・静嘉堂・東洋哲学堂・阪急池田(川崎文庫)・天理・都中央・岐阜大・中村・学習院・東大国大 
*後編は文化四年刊。 
奇児酬怨櫻池由来三巻〔三〕冊感和亭鬼武作蹄齋北馬画伊勢屋藤六板 
(1)「京橋常盤町伊勢屋藤六蔵板」(2)「文化三歳丙寅春正月感和亭鬼武誌」 
(3)「文化乙丑晩夏書于浅水中田草舎蘭洲東秋〓」(5)「桜か池」(6)A・天理(上のみ) 
*所見本は外題下の巻名に春夏秋〔冬〕を使う下巻を二分冊した四冊本。広告等には三冊とある。 
復讐鴫立澤二巻二冊感和亭鬼武作蹄齋北馬画伊勢屋藤六板 
(1)「京橋常盤町伊勢屋藤六蔵板」(2)「于時文化二丑の年\感和亭鬼武」(5)「鴫立沢」(6)尾崎 
*改装本。 
敵討女夫似俄蜂三巻三冊南杣笑楚満人作一柳斎豊廣画文集堂板 
(1)「文化三丙寅正月吉日\東都\神田弁慶町満留屋文右衞門\高砂町南新道伊賀屋勘右衛門\板」 
(2)「文化三年寅の正月のみてうなごんすみかね焉馬」(6)国会・東大国文・A(中のみ)・S(上のみ) 
*S本は大きな絵題簽に「敵討女夫似我蜂\楚満人作\豊廣画\高砂丁いがや板\前編\丁卯」とあり、見返しも完備する。この体裁で文化四年刊か。 
報讐十八公栄〔目首〕一巻一冊百齋作自画 
(2)「丙寅孟春」(6)国会・早大 
*「表紙には貼外題包紙にも図画があって、まだ草双紙の域を脱せず、合巻と読本と過渡期の過程にあるとして見るべきであろう」 
(『選択古書解題』)。早大本の絵題簽には「敵討松榮全部\文化四卯春新板\山城屋板」とあるが、これが初印である確証がなく、いまは序の年記にしたがう。 
阿也可之譚中間九巻九冊法橋玉山作自画 
(1)「文化三丙寅歳正月穀旦\書肆\江府須原屋茂兵衛\同西村與八\京都錢屋利兵衛\同梅村伊兵衛\浪花秋田屋太右衛門\同大野木市兵衛」(2)「白狐傳序」(6)国会・早大・学習院・八戸市・阪急池田(川崎文庫)・中村 
*「文政六年癸未正月求版\書肆\京都・銭屋利兵衛\同梅村伊兵衛\浪華加島屋久兵衛\同伊丹屋善兵衛\同河内屋茂兵衛」(半十、池田本)。外題「繪本白狐伝」(半十、河内屋茂兵衛〔他十書肆〕板、学習院本)。 
風聲夜話天橋立前編二巻二冊十返舎一九作豊國画雙鶴堂板 
(1)「于時文化三歳丙寅孟陽日\新吉原揚屋町〓屋金助版」(2)「十返舎一九題」(6)中村・京大・京大潁原(上欠)・宮津市・舞鶴西・大阪府・国会・早大・天理・学習院・A(前のみ) 
*見返し「復讐/天橋立」。下巻の角書「復讐奇語」。後編は文化四年、三編は文化五年刊。初印本挿絵に薄墨多用。 
宮津市・舞鶴西本の表紙は絵題簽。 
繪本復讐放下僧中間三巻四冊節亭山人作蘆溪画 
(1)「維時文化三歳丙寅仲秋良辰兌行\書律\東叡山下谷廣小路伏見屋卯兵衞」(2)「文化丙寅」(6)国会・京大・早大・広大・林美一・A 
*山城屋佐兵衛の「蔵板小説目録」に「復讐放家僧五」とあるが未見。 
敵討朝妻舟三巻三冊手塚兎月作(歌川豊秀)画晴旭堂板 
(1)「文化三寅十一月吉日\晴旭堂藏版\皇都書肆橘屋嘉助\白粉屋與兵衞」(2)「時文化丙寅〜橘生堂手冢兎月職」 
(6)A\A・中村・高木 
*・高木本は原装で薄墨入りの早印本だが、刊記の「藏版」「橘屋嘉助」を削り、末尾に「三條通寺町西へ入町北側 
正本屋吉兵衞求板」と入木してある。後印本は半紙本三冊、「文政五年正月\京都書林三条寺町西へ入丁 
正本屋吉兵衛」。『挿画史』(三二九頁)に袋の写真あり、「歌川豊秀画」とある。 
文化四卯丁(一八〇七)年 
苅萱後傳玉櫛笥三巻三冊曲亭馬琴作葛飾北斎画(木蘭堂)板 
(1)「文化四丁卯年正月発販\深川森下町榎本惣右衛門\同平吉\梓」(2)「丙寅立秋後一日(自叙)」 
(3)「附言」(4)高橋蠧輔刀(5)「玉櫛笥」(6)高木・M\B・天理・岩崎・都中央・早大・広大・弘前市(上のみ)・資料館・A×3・河野信一記念 
*改題改修本「石堂丸苅萱物語」(双鶴堂、文化六年、春亭の絵題簽付き)、半紙本三冊・京伏見屋半四郎板。 
半紙本五冊・弘化二乙巳正月の三都版、同板で弘化四丁未正月発行もある。 
盆石皿山記後編二巻二冊曲亭馬琴作一柳齋豊廣画鳳来堂板 
(1)「文化三丙寅年皐月上浣著述\同四丁卯年春正月吉日発販\江戸書肆\通油町鶴屋喜右衞門\四谷伝馬町二丁目住吉屋政五郎梓」(2)「文化柔兆摂提格麦秋上浣曲亭馬琴」 
(3)「時丙寅夏日書〜門人一竹齋達竹」(5)「皿山後編」(6)国会・国会亀田・静嘉堂・東洋哲学堂・阪急池田(川崎文庫)・天理・都中央・岐阜大・中村・学習院・東大国文 
*改題改修本「絵本皿山奇談」(半紙本八冊、芸香堂・大坂柏原屋義兵衛板、都中央ほか)。 
中間八冊、三木佐助板もある(学習院ほか)。 
復讐竒語天橋立嗣編二巻二冊十返舎一九作一陽齋豊國画雙鶴堂板 
(1)「文化丁卯春発兌\書房新吉原揚屋町〓屋金助板」(2)「于時文化四丁卯春正月十返舎一九識」 
(6)中村・京大・京大潁原・宮津市・大阪府・国会・早大・天理・学習院・舞鶴西・尾道市 
*三編は文化五年。 
身延山利生記甲州鰍澤報讎二巻二冊十返舎一九作春亭(一部)画 
(1)「文化丁卯春梓行\東武書舗\通油町\村田屋治郎兵衞・同平蔵」 
(2)「文化丁卯春正月野史著作喜三二書芍薬亭」(6)A・N\国会・京大潁原・中村 
*見返しに「甲州鰍澤報讐\前編二冊\一名身延山御利生傳記\十返舎一九著」とある。 
後印本は半紙本五冊で外題「身延山利生記」(文化甲戌十一正月叙、前川源七郎板、国会本)。 
風声夜話翁丸物語二巻二冊十返舎一九作蹄齋北馬画慶賀堂板 
(1)「文化四年丁卯春新版\書林\堀江六軒町上總屋忠助梓」 
(2)「于時文化丁卯春\亀戸寓居におゐて十返舎一九識」(6)国会・岩崎・東大・中村・高木(上) 
*見返し未見。 
情花竒語奴の小まん二巻二冊柳亭種彦作優々齋桃川画山青堂板 
(1)「板元外神田御成道平永町山嵜平八」(2)「文化丙寅十二月朔江戸柏菴玉家」(4)酒井米輔刀 
(5)「小まん」(6)岩崎(後欠)・中村(後欠)\京大・早大・東大・学習院・高木(下)・C・A・E(下) 
*後編は文化五年。 
敵討孝烈傳半三巻三冊(手塚)兎月〔序〕作(喜多川月麿)画 
(1)「文化四丁卯年初春\東都前川弥兵衛\浪華塩屋長兵衛\須原平左衛門\京都生〓小兵衛\小川五兵衛\小川彦兵衛」 
(2)「文化三寅とし中秋橘生堂兎月」(6)国会・中村(中欠) 
*画工名の記載なし、『小説年表』による。中本仕立の本未見。 
復讐竒怪完義武逸談中間三巻三冊盛田小塩作 
(1)「書林\京都但馬屋太兵衞\〓屋喜右衞門\伏水亀屋伊兵衞」(2)「文化四卯孟春大原舎主人盛田小塩」 
(6)国会・京大 
*巻名は「智仁勇」を用いる。画工名の記載なし、豊秀か。 
復讐竒童小栗興太郎倭琴高誌五巻五冊盛田小塩作哥川豊秀画文昌堂板 
(1)「文化四丁卯年三月\江戸書林麹町平川町二丁目角丸屋甚助\尾陽書林名古屋本町五丁目菱屋久八\京都書林醒井五条上ル町伊豫屋佐右衛門\花屋町油小路東入永田調兵衛」 
(2)「于時文化四卯年孟春盛田小塩山人」(5)「小栗」(6)国会・中村・A(一二四欠) 
*見返し色摺り。 
因縁竒談近世風説柳哥美中間二巻三冊千世蔭山人作高さかえ画 
(1)「文化四年卯秋九月\東都丹波屋甚四郎」(2)「自叙文化卯とし\きさらき」(6)国会・京大 
*見返し「因縁竒談柳哥美\全部三冊」とある。水谷不倒『選択古書解題』では、盛田小塩作歌川豊秀画とし 
「二人共、匿名で出してゐるのは事実談であるから、世間を憚ったやうに思はれる」とする。 
文化五辰戊(一八〇八)年 
巷談坡〓庵三巻三冊曲亭馬琴作一柳齋豊廣画慶賀堂板 
(1)「文化五戊辰年正月吉日發販\江戸通油町村田次郎兵衞\同日本橋新右衞門町上總屋忠助梓」 
(2)「文化丙寅ふみひろけ月なぬかのゆふべ曲亭馬琴みづから叙」(3)「附言門人逸竹齋達竹評」 
(4)綉像・朝倉卯八、三猿刀筆耕・嶋五六六騰寫(5)「坡〓庵」(6)天理・A(後のみ)・広大・都中央・弘前市・学習院・林美一・H 
*改修本は「文化午の春京山序」、半紙本五冊、翰山房板、林本。また「文化十二己亥年孟春新刻\書肆\江戸日本橋通一町目須原屋茂兵衞\京三條通柳馬場西へ入近江屋治助」、見返しの二箇所に入木「乙亥発販」 
「翰山房梓」という天理本もあり。都中央本は安政頃の一部改刻本。 
觀音利生孤舘記傳敵討枕石夜話二巻二冊曲亭馬琴作歌川齋豊廣画慶賀堂板 
(1)「文化五年歳次戊辰春王正月吉日發販\江戸通油町村田屋次郎兵衞\日本橋新右衞門町上總屋忠助梓」 
(2)「文化丁卯年皐月中浣著作堂主人」(4)朝倉卯八(5)「枕石夜話」(6)国会・玉川大・A(有欠) 
\中村・広大\阪急池田(川崎文庫)・S 
*改題改修本『浅艸寺一家譚讎同士石與木枕』(文化午のはつ春京山序、半紙本四冊、文亀堂板)。 
後刻本『觀音利生記』(外題觀世音利生記)、中本四冊、松亭金水序、歌川國直画、全幸壹板。 
この後刻本の後印本は半紙本五冊、山城屋佐兵衞板。抄出した切附本もある。 
孝子美談白鷺塚二巻二冊十返舎一九作蹄齋北馬画慶賀堂板 
(1)「書房\日本橋中通り新右エ門町上總屋忠助梓\通油町村田屋次郎兵衞」 
(2)「戊辰孟陽日十返舎一九誌」(3)「後序\戊辰孟春門人一河題于東寧舎」 
(6)早大・舞鶴西・中村・A 
*後編未見。 
復讐竒語天橋立五編一巻一冊十返舎一九作一陽齋豊國画雙鶴堂板 
(1)「戊辰春發行\〓屋金助蔵」(2)「文化戊辰孟陽十返舎一九識」(4)彫工小泉新八 
(6)京大・京大潁原・宮津市・中村・大阪府・国会・早大・天理・学習院・舞鶴西 
*巻末に「雙鶴堂蔵版目録」が付されている。後印本は中間型仕立て三編五冊 
「美濃国厚見郡岐阜米屋町三浦源助板」(早大ほか)。 
報寇文七髻結緒二巻二冊感和亭鬼武作蹄齋北馬画平川館板 
(1)「文化五辰年春月\通油町蔦屋重三郎\田邊屋太兵衞\麹町平河貮丁目伊勢屋忠右衞門」 
(2)「于時文化戊辰春正月\感和亭鬼武」(6)国会・尾崎\石川県郷土資料館(大鋸コレクション)・A 
*改題改修本は合巻風絵題簽『男達意氣路仇討』(中本二冊、文化六刊、鶴屋金助板)。 
函嶺復讐談二巻二冊感和亭鬼武作蹄齋北馬画(慶賀堂)板 
(1)「文化五年戊辰正月吉日\書肆\江戸通油町村田次郎兵衛\同日本橋新右衛門町上総屋忠助」 
(2)「文化五戊辰歳春正月感和亭鬼武」(3)「于時文化戊辰孟春\感和亭鬼武」(4)彫工朝倉卯八 
(6)国会・広大・舞鶴西・尾崎(上のみ) 
*岩崎文庫所蔵の袋の写真が『図説日本の古典曲亭馬琴』(集英社、一九八〇年)一四二頁に掲載されている。 
復讐奇談七里濱三巻三冊一溪庵市井作歌川豊廣画觀竹堂板 
(1)「文化五載丙辰正月\江戸通油町村田次郎兵衛\同梓\同市ヶ谷田町下二丁目上州屋仲右衛門」 
(2)「自序文化丁卯仲夏」(3)「市門処市士小原鄰\市路賈翁」(5)「(復讐奇談)七里濱」 
(6)国会・A・T(上のみ)\岩崎・狩野・中村 
*見返しに「礒貝示凶唐猫銘器\鳥川惑人犬蠱妖術」とある。改題改修本は合巻風絵題簽『島川太平犬神話』 
(中本三冊、文化六年、鶴屋金助板)。後に半紙本五冊。 
於牟女粂介傳高野薙髪刀二巻二冊〓〓間士作蘭齋北嵩画衆星閣板 
(1)「文化五年辰正月發行\江都書林\麹町平川町二町目角丸屋甚助」(2)「文化五のとし春\小枝しける」 
(5)「高野薙髪刀」(6)国会・早大・抱谷・A\早大・A・C 
*改題改修本『於梅粂之助花雪吹高嶺復讐』(外題「於梅粂之助絵本花雪吹」、半紙本五冊、曲亭馬琴編述、三都板)。 
愛護復讐神〓傳二巻二冊〓〓陳人作盈齋北岱画雄飛閣板 
(1)「文化五戊辰年正月發版\東都書肆\四日市西宮彌兵衛\四谷傳馬町二丁目住吉屋政五郎 
\麹町平川町伊勢屋忠右衛門\南鍋町宇多儀兵衛\市谷谷町田邊屋太兵衛梓」 
(2)「文化戊辰春〓〓閑士」(5)「あいこのわか」(6)国会(下欠)・京大潁原(下欠)・中村・A・C 
*改題後印本『愛護若物語』(半紙本四冊、後編下欠、中村本)。 
後編奴の小まん二巻二冊柳亭種彦作優々齋桃川画山青堂板 
(1)「開版所\江戸通油町鶴屋喜右衛門\同御成町平永町山奇平八」(5)「小まん」 
(6)京大・中村(前編のみ)・早大・・高・木(上欠)・A・E(後編のみ)・C 
*京大本見返しに「戊辰孟春発彫」。上巻一丁表に「一名新とりかえばや物語」。 
後印改修本外題『敵討奴小万一代記』(半紙本八冊、群鳳堂板、早大)。 
總角物語前編二巻二冊柳亭種彦作優遊齋桃川画東延堂板 
(1)「文化五戊辰正月吉日\版元\大傳馬町三町目榎本吉兵衛\本郷三町目越前屋長右エ門」 
(2)「文化四丁卯孟夏種彦」(3)「(年記なし)」(4)筆耕清書中道(5)「あけまき」 
(6)天理・国会・B・E\早大・A 
*後編は文化六年刊。天理本の後ろ表紙見返しに袋存。改題改修本『萬屋助六三浦屋総角江戸紫三人同胞』 
外題「江戸紫総角物語」、半紙本五冊、天保十四年初夏、島街野史序、河茂板。 
敵討猫魔屋敷一巻一冊振鷺亭主人作蹄齋北馬画慶賀堂板 
(1)「文化五年春正月\東武書肆\通油町村田屋次郎兵衞\日本橋新右衞門町上總屋忠助」 
(2)「自序\文に化す四の年如月のころ\振鷺亭主人」(3)「跋(年記なし)」 
(6)国会・早大・尾崎・中村・玉川大・A 
*改題改修本『難波潟猫之舊語』(半紙本一冊〔後に三分冊〕、序末「申の春」、慶賀堂板)。 
天羽衣二巻二冊六樹園作江南先生画 
(1)「文化五年戊辰正月發行\東都書肆\馬喰町二町目西村與八\四谷内藤新宿下町伊勢屋吉五郎 
\四谷塩町壹町目佐久間屋藤四郎\同梓」(2)「六樹園」(3)「牛多楼恒成」(5)「天の羽ころも」 
(6)国会・京大国文・岩崎・東大・狩野・早大・岐阜大・香川大神原・聖心女大・中村・高木(下)・A・E・S 
*後印本は英山画絵外題簽に西与の商号がある(『草双紙と読本の研究』)。 
杣物語仙家花二巻二冊南杣笑楚満人(遺稿)作豊國(巻首)・國貞(総画)画文亀堂板 
(1)「文化戊辰新鐫\江戸高砂町伊賀屋勘右衞門\繍梓發兌」(見返し)(2)「文化丁卯秋八月\山東京傳述」 
(4)刻工小泉新八〔下巻二十九丁裏ノド〕(5)「まんざ(ぞ)う」 
(6)国会・加賀・東大国文(上のみ)・中村・林美一・抱谷・A 
*下巻二十九丁裏に「文化五戊辰春新刻繪草紙総目録\江戸地本問屋伊賀屋勘右衛門」がある。 
後印改修本は半紙本四冊、序年月を削り各巻を二分冊する。 
復讐竒談東雲草紙二巻二冊千代春道作(春亭)画 
(2)「自序\文化五戊辰のはつ春發行」(5)「定九郎」(6)岩崎 
*画工名の記載なし、『小説年表』による。改装、外題欠、見返し、刊記なし。 
復讐十三七月三巻三冊神屋蓬洲作〔自画〕 
(1)「文化五戊辰年春正月\大傳馬町三丁目榎本吉兵衛\湯嶋天神表門通越後屋庄兵衛 
\本郷三丁目越前屋長右衛門\同四丁目武蔵屋喜右衛門」 
(2)「小萬紅叙\文化四年歳彊梧単閼仲春\蘿日山人」「題言\文化四年丁卯春三月\神屋蓬洲」 
(5)「十三七月(上巻口のみ)」(6)国会 
*叙題の下に「是編初名小萬紅後更名十\三七月序及題言従初名矣」とある。巻末に後編「来巳之春発行」とあるが未見。 
復讐快事駅路春鈴菜物語前編二巻二冊節亭琴驢作歌川豊廣(口絵)・俵屋宗理画柏榮堂板 
(1)「文化五年歳次戊辰正月吉日發販\江戸書肆\糀町平川町二丁目角丸屋甚助\神田通鍋町和泉屋平吉 
\同町柏屋半藏」(2)「魁蕾癡叟録」「文化五年戊辰人日曲亭馬琴」(3)「丁卯季秋節亭琴驢」 
(4)翰墨・鈴木武筍\剖〓・田龍二(5)「鈴菜前編」(6)服部仁・高木(上のみ)・A(上のみ) 
*見返しに「曲亭翁補綴」「曲亭門人節亭琴驢著」とある。後編は未見。 
山本勝山髷三浦兵庫結両禿對仇討(十二)巻三冊式亭三馬作歌川國貞画僊鶴堂・雙鶴堂板 
(1)「文化戊辰年正月吉日\江戸\物の本とい屋\通あぶら町鶴屋喜右エ門\新よし原あげや町つるや金助\開版」 
(6)狩野・天理・玉川大・A 
*見返しに「新板ゑ入けいせいざうり打」とある。合巻と中本型読本の折衷様式で「絵入かなばかりのよみ本、まがい合巻」(『式亭雑記』)と記す。原表紙の体裁は不明だが絵表紙か。 
神霊紫物語一巻一冊漫戯老人〔自序〕作盈齋北岱〔口絵〕画 
(2)「自序文化五辰孟春」(6)天理 
*未完。他本を見ないが『大惣蔵書目録』には登載されている。 
〔婦人撃寇麓の花〕〔三巻三冊感和亭鬼武作北渓画〕 
(6)不明\狩野 
*改題改修本は国安画の合巻風絵題簽『三島娼化粧水茎』(中本三冊、午の春、鶴屋金助板、刊記なし)。 
文化六巳己(一八〇九)年 
復仇女實語教二巻二冊十返舎一九作蹄齋北馬画 
(1)「江戸\通油町村田屋治郎兵衛\日本橋通三丁目多田屋利兵衛\開板」(2)「文化己初春十返舎一九識」 
(6)東誌・A(上欠) 
*上編の内題は「女実語教」。 
増補津國女夫池二巻二冊感和亭鬼武作蹄齋北馬画 
(1)「文化六己巳年正月吉旦發販\江戸書肆\江戸橋四日市竹川藤兵衞\麹町平川町二丁目角丸屋甚助 
\麹町平川町二丁目伊勢屋忠右エ門\同松本屋新八」(2)「文化むつの年己の春日感和亭鬼武識」 
(6)中村・A(下のみ)\狩野・・高・木 
*改題改修本は國安画の合巻風絵題簽『女夫池鴛鴦裁時代模様室町織』(文化六年、鶴屋金助板)。 
總角物語後編二巻二冊談洲楼門人柳亭種彦作葛飾北斎画東延堂板 
(1)「文化六己巳年正月吉日\版元\大傳馬町三丁目榎本吉兵衞\本郷三丁目越前屋長右エ門」 
(2)「于時文化五戊辰年\柳亭種彦誌」(4)好静堂綱之刀清書中道(5)「あけまき」 
(6)天理・国会・B・E\早大・A 
*見返し「後編總角物語」。国会本の上巻二十六丁に下巻二十八丁が混入している。 
愛護復讐神〓傳後編三巻三冊〓〓陳人作盈齋北岱画雄飛閣・平川館板 
(1)「文化六己巳孟春發販\東都書肆\日本橋四日市西宮彌兵衞\京橋南鍋町宇田儀兵衞 
\四谷傳馬町住吉屋政五郎\麹町平川町伊勢屋忠右エ門\同拾二丁目田辺屋太兵衞」 
(2)「自序\文化己巳春〓〓陳人題」(4)筆耕鈴木武筍(5)「神〓伝後編」 
(6)国会・A\中村(後編下欠)・C 
*巻三の四丁の柱は「鈴菜前編」となっているが、本文は一貫している。後印本外題「愛護若物語」。 
敲氷茶話龍孫戞玉二巻二冊神屋蓬洲作自画文刻堂板 
(1)「文化六己巳年正月吉日\石町弐丁目十軒店\文刻堂西村源六板」(2)「文化五年戊辰季春\神屋蓬洲」 
(6)国会・A・B 
*後編予告があるが未刊か。 
辨天利生建久女敵討半三巻三冊與鳳亭梧井作盈齋北岱画南総舎板 
(1)「皇文化六年己巳正月發行\皇都三條通舛屋町出雲寺文治郎\新町西口砂場前海部屋勘兵衞 
\浪花本町一丁目風月孫助\尾陽玉屋町永樂屋東四郎\本町九丁目菱屋久兵衛 
\江都書肆江戸橋四日市石渡利助\上總屋吉左エ門\中橋塗師町前川六左衛門」 
(2)「文化六年己巳正月式亭三馬」(5)「けん久」(6)国会・新城市牧野・中村 
*中本仕立ての本未見。外題に「一名潮干土産\ゑいりよみ本」とあり、見返しに「式亭三馬閲〓序」とある。 
侠客金神長五郎忠孝話説(十二)巻三冊式亭三馬作歌川國貞画文刻堂板 
(1)「文化六己巳春發市」(見返し)「本問屋江戸本石町十軒店西側西村源六版」 
(2)「江戸式亭三馬」(4)彫工菊地茂兵衛刀\春風堂柳湖刀(5)「男たて・長五ら・金神」 
(6)国会・狩野・A・高木(上六冊のみ) 
*上巻は本文だけの丁が多いが中巻以下は全丁に絵があり、合巻と変わらない。架蔵の端本は後印本で、三巻を二分冊した前半六冊だが、短冊題簽の剥離した痕跡が残っている。 
昔唄花街始(十二)巻三冊式亭三馬作歌川國貞画雙鶴堂板 
(1)「江戸田所町鶴屋金助版」(見返し)(3)「題花街始後石町乃舎において\式亭三馬題」 
(5)「大じんまひ」(6)狩野・早大・尾崎・国会・船橋西・中村・A 
*刊記なし。見返題角書は「純子三本紅絹五疋」。刊年は、「文化六己歳稗史目」(鶴金板、『時代模様室町織』奥付)に、「きのくに文左三うらの几帳大尽舞花街仇討ひらかなよみ本三冊」とあるのによる。岩崎文庫蔵の貼込帖に袋が残っており、上中編は「巳春」下編には「文化庚午春」とある。なお、後印本には文政十二年刊と天保十五年刊とがある。 
〔撃寇竒話嫩助劔〕〔三巻三冊柳花堂我独作盈齋北岱画〕 
*所在不明。『名目集』による。 
文化七午庚(一八一〇)年 
撃寇竒話勿來関四巻四冊感和亭鬼武作榮松齋長喜画 
(1)「文化七丙午孟春發行\東都書店\石町十軒店西村源六\糀町平川町角丸屋甚助\通油町鶴屋喜右衛門 
\同村田屋治郎兵衛\神田弁慶橋近江屋新八」(2)「于時文化己巳孟春感和亭鬼武」 
(3)「文化六巳春正月」(5)「勿来関」(6)東博・阪急池田(川崎文庫)・国会・学習院・中村・多久・A 
*出願は近江屋新八。後印本は半紙本四〔五〕冊外題「絵本奈古曽関」。 
文化八未辛(一八一一)年 
大念佛寺霊宝畧傳連理隻袖半五巻五冊十返舎一九作狂畫堂蘆國画 
(1)「文化八辛未年九月\東都書林西宮彌兵衛\大坂書林・平野屋宗七\秋田屋太右衛門\河内屋嘉七 
\敦賀屋久四郎」(2)「文化未秋八月十返舎一九題」(4)筆耕(摂都)浅埜高蔵(5)「隻袖」 
(6)京大・中村・高木・A 
*早印と思われる本は半紙本で、本文匡郭は中本並みながら半紙本大の見返しを持つ。中本仕立てのもの未見。 
後印改修本『繪本連理片袖』(外題)は見返しに「補刻」とある半紙本五冊「文政七年甲申秋七月 
\京都書林山城屋佐兵衛\江戸書林大阪屋茂吉\大坂書林塩屋卯兵衛\河内屋茂兵衛」(中村)。 
文化九申壬(一八一二)年 
復讐雙三弦半三巻五冊蓬洲作画文刻堂・遊文堂・寶山堂・與壽堂版 
(1)「文化九壬申年春正月\書房\皇都伏見屋半三郎\東都丸屋文右衞門\西村源六\攝都播磨屋重郎兵衞 
\平野屋惣七\山田屋喜右衞門」(2)「文化四年丁卯季春望蘿月園主人」(5)「雙三弦」 
(6)国会・関大・神原・中村・A 
*中本仕立ての本未見。匡郭がやや小さい。後印本として釜屋又兵衞板、山城屋佐兵衞板がある。 
文化十酉癸(一八一三)年 
忠臣烈女東鑑操物語半五巻五冊文松菴金文作一峯齋馬圓画 
(1)「文化拾歳癸酉正月發兌\京都蛸薬師寺町西へ入伏見屋半三郎\攝津心齋橋通傳馬町河内屋嘉七 
\北久太郎町五町目播磨屋十郎兵衛\東都日本橋通廣小路町西宮弥兵衛」 
(2)「文化八年葉月末つかた\東都隱士神楽郎山人」(5)「操物語」 
(6)慶応大(写本)・高木(二のみ)・C・宮城(現在所蔵せず) 
*(出願)西宮彌兵衛。中本仕立ての本は未見。慶応大本は板本の写し。 
文化十一戌甲(一八一四)年 
狂言竒語古今化物評判(五)巻二冊談洲樓焉馬作五渡亭國貞画永壽堂板 
(2)「七十一翁談洲樓」(6)国会・京大・加賀 
*草双紙様式による滑稽本風の作品だが板面は中本型読本と同じである。 
五大力後日物語半五巻五冊狂蝶子文麿作一峰斎馬円画文栄堂板 
(1)「文化十一年甲戊正月吉日\書林\大阪堺筋通備後町和泉屋善兵衞\同心斎橋通北久宝寺町河内屋嘉七 
\江戸日本橋通廣小路西宮彌兵衞」(2)「文化十一年甲戊の春」(5)「五大力後日物語」 
(6)国会・狩野・A・J・G(五欠) 
*見返し、序文、口絵、挿絵はすべて半紙本の大きさにもかかわらず、本文の匡郭だけが中本型読本並みである。 
文政二卯己(一八一九)年 
義經千本櫻〔外題〕三巻三冊曲亭馬琴(仙鶴堂)作歌川豊國画仙鶴堂板 
(1)「鶴屋喜右衛門」(2)「文政二年己卯春正月乾坤一草亭のあるじ信天翁」(5)「千本」(絵の丁だけ) 
(6)狩野・慶応大・加賀・東大・鶴舞・中村・A 
*文政元年刊の見立て絵本『繪本義經千本櫻』(一九序、豊國画、鶴屋喜右衛門・山本平吉板、A本) 
に本文を増補したもの。末丁に「仙鶴堂主人約述\曲亭馬琴閲」とある。 
薄雲傳竒廓物語半五巻五冊狐廓亭主人作(月光亭)百齋墨僊画 
(1)「文政二己卯年新版\三都賣弘書林\江戸角丸屋甚助\大坂河内屋徳兵衛\京伏見屋半三郎 
\尾陽書林名古屋本町十一丁目松屋善兵衛版」(2)「浪華人正剛誌」 
(6)国会・都中央・香川大神原・広大・新城市牧野・中村・・高・木(四のみ)・A 
*作者は「東都葛飾」画工は「尾陽」。後印本には原刊記+「伏見書林\京町通三丁目角亀本屋半兵衛」。 
また、「文政七甲申年秋九月求板\浪華書林河内屋茂兵衛\東武書林大坂屋茂吉 
\尾陽書林永楽屋東四郎\皇都書林山城屋佐兵衛」(国会)もある。・高・木本は中本仕立て。 
文政五午壬(一八二二)年 
江戸堅木浪華梅二巻二冊梅暮里谷峨作溪齋英泉画 
(1)「文政五稔壬午初春新刻\書肆\名古屋中市場町美濃屋市兵衛\江戸人形町通り鶴屋金助 
\日本橋砥石町大坂屋茂吉」(2)「自序巳春」(6)都中央・早大・阪大 
*後編は『園の曙』(文政七、早大)で、人情本となっている。 
一本駄右衞門東海横行記遠のしら浪三巻三冊十返舎一九作(葛飾北斎)画雙鶴堂板 
(1)「書林\大坂心齋橋唐物町河内屋太助\尾州名古屋永安寺町菱屋金兵衛\江戸人形町通鶴屋金助」 
(2)「文政五壬午孟春十返舎一九誌」(5)「白浪」〔ノド〕(6)国会・A(中欠)・S(中のみ) 
*やや大きな貼題簽(五・八×十三・七)が施され、鶴屋金助の商標がある。画工名の記載はないが、文政五年刊『太田道潅雄飛録』巻四の巻末に見える本作の広告に「葛飾北斎戴斗画」とある。後編の予告があるが未見。 
花嵜綱五郎一期物語花影胡蝶夢二巻三冊梅園樵夫作柳川重政画 
(1)「文政五年正月穀旦新刊\發市書舗\名古屋美濃屋伊六\深川伊藤與兵衞\日本橋大坂屋茂吉」 
(2)「維時文政辛巳春日\七曲亭玉蟻」(6)鶴舞・尾崎 
文政六未癸(一八二三)年 
兒女美譚梛乃二葉〔三〕巻〔三〕冊志満山人作歌川國信画 
(1)「文政六未春\江戸書林\鶴屋平藏\蔦屋重三郎\中村屋幸藏」(4)筆者千形道友(6)A(下のみ) 
*上中巻未見。人情本刊行会本の翻刻によれば三巻三冊で「文政ひつじの孟春\十返舎一九誌」という序文を備える。 
ちなみに志満山人と国信は同一人の別称。 
文政七申甲(一八二四)年 
夢の浮世白璧草紙前後各三巻六冊東里山人作岳亭定岡画耕文堂板 
(1)「皇和文政七甲申歳孟春\浪華心齋橋博労町北へ入河内屋長兵衛\東都日本橋新右エ門町前川六左エ門 
\同京橋銀座第二丁目伊勢屋忠右エ門」(2)「文政六癸未年正月」(5)「白玉(四巻のみ)」 
(6)都中央(前一二欠)・都中央・国会・東大・広大・宮城・中村(後五六欠)・玉川大 
*刊記は三巻末のものによる、六巻末のものには「河内屋長兵衛」がない。後印本は半紙本六冊で「河内屋源七郎板」。 
〔殺生石後日恠談(初編)二巻二冊曲亭馬琴作歌川豊國・國貞画山口屋板〕 
*所在未詳。初編だけは五丁一冊の意識が見られず、文政七年に中本型読本として出板されたものと思われる。 
翌文政八年に合巻仕立てで出され、天保四年の五編下巻で完結した。合巻と中本型読本の折衷様式で本文だけの丁が多い。 
文政八酉乙(一八二五)年 
忠孝水水川(前編)三巻三冊岳亭定岡作自画 
(1)「文政八乙酉春新版\東都書肆\江戸深川永代橋詰佐賀町伊藤与兵衛板」(2)「六樹園主人」 
(5)「ふたまた川」(6)東大・中村(前一二と前三、後一二三) 
*刊記(広告)は中村本によるが、初板の板元かどうか不明。 
文政九戌丙(一八二六)年 
松田屋瀬喜川庫米屋五喬鳳凰染五三桐山三巻三冊山旭亭真婆行遺稿・十返舎一九補訂歌川國安画文壽堂板 
(1)「文政九年丙戌陽旦發行\書肆\江戸神田弁慶橋・丸屋文右衞門上梓」(2)「山旭亭真婆行誌」 
(5)「鳳凰染」(6)九大国文(下のみ)・A(上中のみ)・L・G(上のみ) 
*嗣編は天保二年序。享和四年刊の同題黄表紙による。 
文政十亥丁(一八二七)年 
丹波与作関の小万春駒駅談三巻三冊柳泉亭種正作広重画仙鶴堂板 
(1)「文政十年丁亥春正月發行\東都書林\通油町鶴屋喜右衛門板」(2)「文政丁卯春柳亭種彦」 
(4)浄書千形道友(5)「小まん」(6)国会・A(中欠) 
*A本は文溪堂板。 
山陽竒談千代物語中間十巻十冊鼻山人作渓齋英泉画 
(1)「文政十稔亥孟春發兌\東都書肆\西村屋與八\大嶋屋傳右エ門」(6)国会・早大・尾崎・中村 
*紙型は半紙本なれど匡郭が少し小さい。 
忠義小伊曽物語(前編)三巻三冊岳亭定岡作青齋夏山画三林堂板 
(1)「文政十丁亥春\東都書房\西村屋與八\中村屋幸藏」(2)「(自序)」(5)「小いそ」 
(6)青森県・早大(前のみ)・狩野・実践女大・天理(四、六)・中村 
*後印本は「大阪本町四丁目岡島真七」板。後編は天保三年序。 
忠孝水水川(二編)三巻三冊岳亭定岡作 
(1)「文政十年亥の春\東武書肆\西村屋與八\越前屋長次郎\中村屋幸藏」(2)「丙戌榴花月小笠釣翁述」 
(5)「ふたまた川」(6)東大・中村・D 
*三編の予告があるが未見。 
葦間月浪華一節三巻三冊柳園(種春)作歌川画 
(1)「文政十年亥初春新版\書林\大阪天神橋通本町正本屋利兵衞\江戸日本橋砥石店大阪屋茂吉」 
(2)「あしの家高振」(6)尾崎 
文政十一子戊(一八二八)年 
名勇發功談半五巻五冊十返舎一九作春齋英笑画文永堂板 
(1)「文政十一戊子孟春發販\三都書房\大阪心斎橋筋博労町河内屋茂兵衞\京三条寺町山城屋佐兵衞 
\江戸馬喰町二丁目西村屋與八\同通油町越前屋長次郎\同京橋弥左衛門町大嶋屋傳右衞門」 
(2)「于時文政十一戊子年新春良辰南仙樵夫誌」(5)「發功談」(6)国会・A 
*半紙本で匡郭がやや小さい。中本仕立は未見。二編の稿本が尾崎にある。 
二人藝者一對男半三巻五冊東西庵南北作(英泉)画 
(1)「文政十一戊子春發販\江戸書林\馬喰町二丁目西村屋與八\小傳馬町二丁目丁子屋平兵衛 
\京橋具足町伊勢屋喜左衛門」(2)「文政戊子十一年通一居百丈述」(6)国会・(小諸市)・A 
*外題は『江戸自慢飜町育』。 
中本仕立の改題改修本『江戸紫恋の糸巻』(浪華書肆日本ばし通安堂寺町藤屋九兵衛板)あり。 
圓席竒聞武陵埜夜話三巻三冊南仙樵作菱川政信画平林堂板 
(2)「文政十一年戊子冬月良日平林堂主人」(5)「武陵」(6)A 
*おそらく文政十二年の新板として出されたものの後印本であろう。上冊一丁目の柱「一二」、四丁目「五ノ七」となっている。 
文政十二丑己(一八二九)年 
本朝悪狐傳(前編)半五巻五冊岳亭丘山作英齋國景画 
(1)「文政十二己丑年\書房\江戸小傳馬町三丁目丁子屋平兵衛\名古屋本町六丁目永樂屋東四郎 
\大阪心齋橋博労町北へ入河内屋長兵衛」(2)「文政己丑中秋月下に誌す岳亭丘山」(5)「悪狐傳」 
(6)国会・京大・学習院・東洋大哲学堂・新城市牧野・中村・A・C 
*後編は文政十三年刊。 
文政十三寅庚(一八三〇)年(十二月十日改元、天保元年) 
本朝悪狐傳(後編)半五巻五冊岳亭丘山作英齋國景画 
(1)「文政十三寅孟春\書肆\名古屋永樂屋東四郎\江戸丁子屋平兵衛\大阪河内屋長兵衛」 
(2)「于文政十二己丑暮秋中旬〜白頭子柳魚識」(5)「悪狐傳」 
(6)国会・京大・学習院・東洋大哲学堂・新城市牧野・中村・A・C 
*紙型は半紙本だが匡郭がやや小さい。 
奥陽群談壷の碑(初編)五巻五冊恵陽陳人作歌川國安画涌泉堂板 
(1)「涌泉堂」(2)「文政十三寅春水谷真清誌」(6)中村・J(二五欠) 
*序の年記は入木か。二輯は天保期。 
小説阪東水滸傳一名星月録三巻三冊教訓亭主人作英泉・國安・泉晁画平林堂板 
(1)「東都書賈本所松坂町二丁目平林庄五郎梓行」(2)「于時文政十三年春む月の下旬\為永春水識」 
(4)「松亭金水校」(5)「ちば」(6)八戸・A 
*二輯は天保二年。 
天保二卯辛(一八三一)年 
小説阪東水滸傳(第二輯)一名星月録三巻三冊五亀亭貞房画平林堂板 
(1)「文政十四年辛卯春月吉辰發行\書舗\江戸本所松坂町二丁目平林庄五郎」(2)「辛卯の春月平林堂誌」 
(5)「ちば」(6)八戸 
*後印本。上冊一丁目「一ノ三」。見返しに「一名千葉系譜星月録\全本十巻」とあるが、三輯以下は未見。 
五三桐山嗣編三巻三冊十返舎一九旧稿・爲永春水補綴米花齋英之画 
(1)「東都\馬喰町二丁目西村屋與八\南侍馬町三丁目中村屋幸藏\南鍛冶町二丁目和泉屋惣兵衞」 
(2)「于時天保二ツの年文月の初旬金龍山人為永春水誌」「五三桐山嗣編跡着衣装叙十返舎一九誌」 
「文亭主人綾継」(5)「桐(きり)山二」(6)九大国文(上のみ)・熊谷市(中欠)・K(中のみ)・K(写本) 
*前編は文政九年刊。 
天保三辰壬(一八三二)年 
忠義小伊曾物語(後編)三巻三冊岳亭丘山作(自画) 
(2)「于時天保辰の春在阪岳亭丘山誌」(5)「小いそ」(6)狩野・実践女大 
*前編の後印本と同じ意匠の表紙なので岡島真七板かと思われる。 
復仇越女傳半五巻五冊柳川春種作 
(2)「天保三壬辰稔秋九月日東都市隠柳亭春種誌」(6)京大・国会・八戸・C 
*本文の匡郭は中本型読本並で挿絵だけが半紙本大。 
天保四巳癸(一八三三)年 
復仇越女傳後編五巻五冊柳川春種作柳齋重春画薬玉堂板 
(1)「天保四歳癸巳陽春發兌\書肆\京都本屋宗七\丸屋善兵衛\山城屋佐兵衛\尾陽松屋善兵衛 
\大阪河内屋長兵衛\泉州堺住吉屋弥三郎\江戸麹町平川二丁目伊勢屋忠右衛門\同小傳馬町三丁目丁子屋平兵衛」 
(2)「あめたもつ三とせてふとしの葉月十あまり七日黙々山人題」(6)京大・八戸・C 
*「天保五甲午年初春発兌」の刊記を持つ後印本があり、後編の見返題角書は「復讐新話」。 
前後編を揃えて刊行されたものらしく、見返しには「書林\石倉堂・文溪堂」とある。 
奥陽群談壷の碑(二編)中五巻五冊恵陽陳人作歌川國安画 
(1)「天保四巳年新発行」「河内屋茂兵衛\西村與八\美濃甚三郎梓」(6)A(二三欠)・H 
*A本は半紙本仕立てだが、匡郭は中本並。 
天保七申丙(一八三六)年 
復讐野路の玉川中間前五巻後四巻九冊滄海堂主人作 
(1)「天保七申年九月\大坂書林\河内屋茂兵衛\河内屋長兵衛\塩屋喜兵衛\塩屋利助\江戸書林\森屋治兵衛\丁子屋平兵衛」 
(2)「滄海堂渺々」(5)「野路の玉川」(6)国会・早大・中村・A 
*前編五冊後編四冊で同刊記。見返題「くさつのかたきうち」。口絵は色摺り、挿絵に詞書を入れる。 
後印本は河内屋茂兵衛蔵板の三都板で天保末年以降のもの。 
天保期か 
伊賀古跡豪傑譚初編五巻五冊松亭金水作(一鵬齋芳藤)画 
(1)「發行書肆\大坂心齋橋北久太郎町河内屋喜兵衛\仝心齋橋博労町河内屋茂兵衛\仝心齋橋一町目錺町秋田屋市兵衛\江戸中橋下槙町大和屋喜兵衛\仝京橋五郎兵衛町中屋徳兵衛」(2)「松亭漁父」(5)「伊賀」(6)中村 
*二編の予告があるが未見。『小説年表』の人情本出版年代未詳部に見え、画工を「一鵬齋芳藤」とする。 
第三節馬琴の中本型読本−改題本再刻本をめぐって− 
一はじめに 
馬琴が読本における著作活動を中本型読本から開始したことは、馬琴の個人史のみならず、江戸読本の歴史にとっても示唆的なことであった。なぜなら中本という本の形態が、草双紙に代表される江戸地本における大衆小説の標準ともいえる規格であったからである。 
大衆小説とは、読者の評判によって売行が左右される一種の<商品>である。したがって、板元や作者に要求されたのは、美しい装幀を施し、人気絵師の挿絵を入れ、奇抜な構想に新規な趣向を盛り込むことである。この大衆小説の流行こそが、貸本屋が江戸読本という新たなジャンルを開拓するに際しての必要条件であった1。 
現代において、流行性の強い商品を開発するに際しては必ず事前に市場調査が行なわれ、そのためにアンテナショップなどが活用されている。しかし、近世期に貸本屋という流通業者が商品の企画製作にまで携わったということは、おそらく劃期的な出来事であったはずである。そして、それを促した一因が中本型読本というジャンルにあったのである。出板手続が楽で出板経費の負担が少なくて済むという板元側の問題だけでなく、作者の側も定型化された既成のジャンルと違い、自由に筆が執れたと思われるからである。 
このような十九世紀初頭の活性化した江戸出板界において、ひたすら職業作家を志していた馬琴と新興零細書肆である貸本屋との利害は一致し、中本型読本という恰好の実験場を得たのである。しかし単なる筆試しに終始したわけではなかった。揺籃期から全盛期にかけて八つの作品を出し続け、ジャンルとしての中本型読本の成立を担ったのである。従来、馬琴の中本型読本は、半紙本の本格的な読本執筆を開始するのに際しての習作として位置付けられてきたが、それのみならず中本型読本というカテゴリーの積極的な推進者でもあった。このことは、伝奇性の強い半紙本読本である『月氷竒縁』や『石言遺響』などが刊行された文化初年以後も、世話性の強い中本型読本の執筆を続けていることから明らかであろう。 
すなわち、馬琴の中本型読本を通史的に見ていくことにより、また、それらの改題本や再刻本を調査することによって、中本型読本の商品価値がどのように変化し、そして享受され続けたかを知ることができるはずである。 
二執筆刊行時期 
馬琴の中本型読本を、書名、巻冊丁数、刊行年、画工、板元、善本の所蔵機関名、という順で示し、次に序と刊記、〇で改題本再板本、で翻刻、*で備考を示して一覧にしてみた。 
一、高尾舩字文五巻五冊六十九丁寛政八年(序)長喜蔦屋重三郎岩瀬文庫 
(序)寛政捌丙辰年孟春 
(刊記)蔦屋重三郎 
〇再刻本高尾舩字文中本五冊國貞画天保六〜七年刊国会 
「国文学論叢第六輯―近世小説研究と資料―」(慶応義塾大学国文学研究会) 
「説林」四十四号(愛知県立大学国文学会) 
*再刻本には色摺り口絵を付す。 
二、小説比翼文二巻二冊六十五丁享和四年北斎辰政仙鶴堂国会 
(序)享和三年弥生も半過るころ 
(刊記)享和四年歳宿甲子正月吉日兌行\鶴屋喜右衛門 
○改題後印本遊君操連理餅花(きみ□みさをれんりのもちはな)丁卯、仙鶴堂版 
叢書江戸文庫『中本型読本集』(国書刊行会) 
続帝国文庫『名家短編傑作集』(博文館) 
三、曲亭傳竒花釵兒二巻二冊六十丁享和四年未詳濱枩堂蓬左文庫 
(序)享和癸亥肇秋中浣 
(刊記)享和四年甲子春正月兌行\蔦屋重三郎・濱松屋幸助梓 
『繁野話・曲亭傳竒花釵兒ほか』(新日本古典文学大系80、岩波書店) 
「研究実踐紀要」六号(明治学院中学東村山高校) 
*役者似顔を用いる。 
四、盆石皿山記前編二巻二冊五十一丁文化三年一柳齋豊廣鳳来堂国会 
(序)文化ひのえ寅のとし正月 
(刊記)文化二年乙丑夏五月著述・同三年丙寅春正月發行\住吉屋政五郎 
〇改題後印本繪本皿山奇談半紙本四冊 
「研究実踐紀要」七号 
*後印本は後に半紙本八冊になる。 
五、敵討誰也行燈二巻二冊六十一丁文化三年一陽齋豊國鶴屋金助個人 
(序)文化丙寅孟春 
(刊記)文化三年丙寅年春正月發行\鶴屋金助 
〇改題後印本〔敵討紀念長船〕(未見) 
〇改題後印本再榮花川譚半紙本四冊文化十三年国会 
「研究実踐紀要」五号 
※乙丑秋七月上旬稿了(刊記)乙丑年六月下浣稿(稿本)、初印本は稀覯。 
稿本は上巻のみ存(天理図書館善本叢書『近世小説稿本集』、八木書店)。 
六、苅萱後傳玉櫛笥三巻三冊七十七丁文化四年葛飾北斎榎本惣右衛門・平吉架蔵 
(序)丙寅立秋後一日 
(刊記)文化四丁卯年正月發販\榎本惣右衛門・同平吉 
〇改題後印本石堂丸苅萱物語中本〔三冊〕〔文化六〕天理 
〇改題後印本石堂丸苅萱物語半紙本三冊 
「説林」四十号、影印本は内田保廣編(三弥井書店、一九八〇年)。 
*中本の後印本は絵外題簽。起稿「丙寅年夏のはじめ」(序)。 
七、盆石皿山記後編二巻二冊六十四丁文化四年一柳齋豊廣鳳来堂国会 
(序)文化柔兆摂提格麦秋上浣 
(刊記)文化三丙寅年皐月上浣著述\同四乙卯年春正月吉日發販\鶴屋喜右衛門・住吉屋政五郎梓 
〇改題後印本繪本皿山竒談半紙本 
「研究実踐紀要」八号 
*刊記に鶴喜が加わる。 
八、巷談坡〓庵三巻三冊八十五丁文化五年一柳斎豊廣慶賀堂天理 
(序)文化丙寅ふみひろけ月なぬかのゆふべ 
(刊記)文化五戊辰年正月吉日發販\村田次郎兵衛・上總屋忠助梓 
○改題後印本薄雲うすくもが侠気いきぢ/溶女うねめが貞操みさほ・提庵二枚羽子板つゝみのいほにまいはごいた 
中本三冊文化七年文亀堂梓行京山序 
〇後印本半紙本文化七年、山東京山序 
〇改刻本中本松亭金水序 
「愛知県立大学文学部紀要」四十一号、「未刊江戸文学」十四、十七号(未刊江戸文学刊行会) 
*改刻本には色摺り口絵入り。 
九、敵討枕石夜話二巻二冊六十二丁文化五年一柳斎豊廣慶賀堂国会 
(序)文化丁卯年皐月中浣 
(刊記)文化五年歳次戊辰春王正月吉日發販\村田屋次郎兵衛・上總屋忠助梓 
〇改題後印本讎同志石與木枕半紙本四冊文化七年京山序 
〇改題再刻本觀音利生記中本四冊松亭金水叙 
〇改竄改刻本観音利益仇討中本一冊松園梅彦纂補(切附本) 
「研究実踐紀要」四号 
*起稿は「丙寅の年雷鳴月下旬」(序)。 
まず、それぞれの作品の執筆時期を検証してみよう。稿本や刊記に「稿了」や「著述」と記してある場合は問題ないが、それ以外の場合は序文の中の言及が参考になるし、序の年記が刊記より早い場合は、序の年記を稿了の時期と見なすことにする。 
作品起稿稿了刊行板元 
高尾舩字文寛政七年中カ寛政八年蔦重 
小説比翼文享和三年三月享和四年鶴喜 
曲亭傳竒花釵兒享和三年七月享和四年濱幸(蔦重) 
盆石皿山記前編文化二年五月文化三年住吉屋 
敵討誰也行燈文化二年七月文化三年鶴金 
苅萱後傳玉櫛笥文化三年春〜夏文化三年七月文化四年榎本平吉・惣右衛門 
盆石皿山記後編文化三年五月文化四年住吉屋(鶴喜) 
巷談坡〓庵文化三年七月文化五年上忠 
敵討枕石夜話文化三年六月下旬文化四年五月文化五年上忠 
こうして並べてみると、馬琴の中本型読本の刊行は、寛政八年、享和四年、文化三年以降と明確に三つの時期に分かれていることがわかる。 
三時代区分 
馬琴読本の初作が寛政八年刊の『高尾舩字文』である。江戸読本の濫觴となった山東京伝の『忠臣水滸傳』より早い時点で『水滸傳』を利用したもの。目録に「夫は小説の水滸傳、是は戯文の先代萩」とあるように、我国の演劇に中国白話小説を付会するという方法を試みた作品で、馬琴自ら『近世物之本江戸作者部類』で次のように述懐している2。 
寛政七年乙卯の夏書賈耕書堂蔦重の需に応して、高尾舩字文五巻を綴る大半紙半枚の中本にてさし画は長喜画けり是よみ本の初筆也明年丙辰の春発行當時未熟の疎文なれともこの冊子の開手絹川谷藏か霹靂鶴之助を師として相撲をまなふ段は水滸傳なる王進史進師徒のおもむけを模擬したりこの餘の段も焚椒録今古奇観なとより翻案したるすち多かりなれとも當時は滑稽物の旨と行はれたれはさせる評判なし江戸にては三百部はかり賣ることを得たれとも大坂の書賈へ遣したる百五十部は過半返されたりといふそはかゝる中本物は彼地の時好に称はす且價も貴けれはなといひおこしたりとそ 
つまり、『水滸傳』をはじめとする中国白話小説を利用したが当時の流行に合わず、また中本仕立の本は上方で受け入れられなかったというのである。この作品で試みられた趣向や造本の工夫は、後の江戸読本では一般的になるのであるが、この時点では失敗に終わった。予告されていた『舩字文後篇水滸累談子(すいこかさねだんす)』も出されず未完のまま中絶してしまったが、天保半ばになって全面的に再刻されている。中本五冊、初編二冊は天保六年刊で「蔦屋重三郎・柴屋文七\合板」(見返し)、後編三冊は「天保七丙申歳孟陽発販\版元赤松庄太郎・中村屋勝五郎\製本所柴屋文七」(刊記)、各冊の巻首に元板の口絵に対応した国貞画の色摺りの口絵一図がある。天保七年といえば、いまだ完結には及んでいないものの、すでに『南總里見八犬傳』が広く読まれている時期である。ここに来てやっと『舩字文』を読む読者層が形成されたという判断が、板元側にあったのだと考えられる。 
『舩字文』刊行の後九年間を経た享和四年に、二作の注目すべき中本型読本が出された。題名に「小説」「伝竒」という異国情緒の溢れる語彙を冠した意欲作『小説比翼文』と『曲亭傳竒花釵兒』とである。『比翼文』の方は浮世草子や実録に中国小説を併せたもの、『花釵兒』の方は中国の芝居を浄瑠璃風に翻案し、かつ中国戯曲の脚本様式によって表現したものである。ともに彼我の戯曲や小説というジャンルを、それぞれ取り合わせて書かれた点が新鮮であった。ところが、この二作品は比較的伝本が少なく、改題本や再刻本が出された形跡が見出せないのである。このことが直ちに二作の不成功を意味するのかどうかはわからない。しかし、ほかの馬琴中本型読本には改題後印本や再刻本が多く存在しており、長期間にわたって商品価値を保ちつつ、多くの読者に読まれてきたものと考えられる。ならば、やはり何か商品としての魅力に欠ける要素があったものと思われるのである。それか否か、享和四年(文化元年)には中本型読本を執筆していない。 
文化期に入ると、その板元の中心が貸本屋となる点に注意が惹かれる。文化二年には、中本型読本としては長編に属する作品である『盆石皿山記』前編と『敵討誰也行燈』が執筆され、文化三年には、『盆石皿山記』後編と『苅萱後傳玉櫛笥』が書かれている。『盆石皿山記』は『絵本皿山竒談』という半紙本の後印本が流布しており、『敵討誰也行燈』には『再榮花川譚』(半紙本四冊、文化十三年、丸屋善兵衛板)があり、『苅萱後傳玉櫛笥』には、文化六年ごろ鶴屋金助から出された改題改修本がある。この本には合巻風の絵外題簽が付けられ、薄墨を用いた口絵の一部が削除されている3。中本型読本の読者層の変化がうかがえる現象である。 
四文化五年の慶賀堂 
さて、この時期の作品で問題にすべきは『巷談坡〓庵』である。文化三年五月(序年記)に稿了したと思われるにもかかわらず、文化五年の刊行になっている。これはどう考えても時間がかかり過ぎている。実際のところ、中本型読本一編に費やされる執筆期間については、起稿時期が判明しないものが多いので正確にはわからない。しかし、「二冊にて五日限りに請合し」(誰也行燈跋文)などという極端な例を除けば、「一帙の草蒿ハ一旬を出ずして成」(『盆石皿山記』前編跋文)あたりが妥当なところだと思われる。 
そこで注意深く初板本の見返しを観察してみると、どうも「戊辰發販」の「戊辰」に象嵌した痕跡が見受けられる。さらに、刊記の「文化五戊辰年\正月吉日發販」の「文化五戊辰年」という部分も入木して手を加えてあるように見える。おそらく板木が完成した後に何らかの事情があって当初の予定より刊行が一年遅れたため、部分的に手直しされたものと考えられる。 
一方、文化三年六月下旬に起稿していながら稿了までに約一年も費やしている『枕石夜話』もまた不自然である。この間の事情は「序文」に見えている。 
この冊子(さうし)はいぬる丙寅の年(とし)。雷鳴月(みなつき)下旬(げじゆん)倉卒(さうそつ)の際(あいだ)に草(さう)を起(おこ)し。草(さう)する事央(なかば)にして止(や)む。しかるを今茲(ことし)慶賀堂(けいがだう)のあるじ。その草稿(さうこう)を獲(え)て。梨棗(りそう)に登(のぼ)せんと乞(こ)ふ。よつて嗣録(しろく)して首尾(しゆび)二巻(にくわん)とし。更(さら)に校正(きやうせい)して。その需(もとめ)に應(おう)ずといふ。 
文化丁卯年皐月中浣 
著作堂主人誌[馬琴] 
途中で執筆を中断した理由は書かれていないが、文化四年の新板を予定して執筆が始められたことは間違いない。 
つまり、文化五年に上総屋忠助(慶賀堂)から刊行された『坡〓庵』と『枕石夜話』の二作は、本来は文化四年に出るべきはずの作品だったのである。この遅滞の理由については、上総屋忠助が文化三年三月の大火に罹災したためではないかと推測できる4。ところが、それのみならず文化四年の冬には、書物問屋仲間でもないのに上方読本等を勝手に取次販売したということで一札を取られている5。この事件も上総屋忠助の出板活動を考える上で無視できないことである。上総屋忠助は、ほかの貸本屋に先駆けて、文化三年という早い時点で馬琴の半紙本読本『三國一夜物語』を出していることからもうかがえるように、果敢に書物問屋仲間に対抗し、江戸読本出板に意欲的な貸本屋であった。これらのことを考えるに、「文化年細本銭なる書賈の作者に乞ふてよみ本を中本にしたるもあれとそは小霎時の程にして皆半紙本になりたる也」(『作者部類』)と馬琴が記すところの「細本銭なる書賈」は、おそらく上総屋忠助のことではないかと推測できる6。さらに、感和亭鬼武の滑稽本『春袋睾丸釣形』(文化四年)などには登場人物の一人(上忠)として挿絵にも描かれており、蹄斎北馬との関係も深かったようだ。いずれにしても色々と興味深い書肆で、文化初頭における馬琴との繋がりも気になるところである。 
五敵討枕石夜話 
さて、『枕石夜話』に改題改修本が存在することは、早くに横山邦治氏の紹介がある7。外題に「絵本枕石伝」とある半紙本四冊で、伊賀屋勘右衛門板。内題尾題に入木し『浅艸寺一家譚讎同士石木枕』とし、口絵を削り、挿絵の薄墨板を省略し、序文を文化七年京山のものに代えている。いまだ閲覧する機会に恵まれないが、広島大学には同板の改題後印本『觀音靈應譚』(半紙本五冊、丁子屋源次郎板)が所蔵されているという。 
この京山の序文は未紹介なので全文を引いておく8。 
叙言 
山東京山識[京山] 
むかし/\の赤本(あかぼん)ハねりま大根(だいこん)ふといのねやんりや様はありや/\といふことば書(がき)にしていかにもひなびたる書(かき)ざまなりしに金々(きん/\)先生(せんせい)榮花(えいくは)の夢(ゆめ)一度(ひとたび)さめてよりのち古調(こてふ)変(へん)じて洒落(しやれ)となり洒落(しやれ)亦(また)変(へん)じて古調(こてふ)となる洒落(しやれ)と古調(こてふ)とかならずしも文化巳の夏日(かじつ)伊賀屋のあるじ予(よ)が晝寝(ひるね)の枕(まくら)をたゝきて此書(このしよ)に序(じよ)せよと〓(もとめ)たり巻(くハん)を繙(ひらき)て閲(けみす)れバ友人(ゆふじん)馬琴(ばきん)子が例(れい)の妙作(みやうさく)なり教導(けうだう)にてハ四情(じやう)河原(かハら)伊勢ハ白子の勧善(くハんぜん)懲悪(ちようあく)何地(どこで)か一度(いちど)見た機関(からくり)作者(さくしや)の胸(むね)のつもり細工(さいく)此(この)一屋(ひとつや)の扉(とぼそ)を覘(のぞか)バ石(いし)の枕(まくら)の故事(ふること)も今(いま)目前(めのまへ)に見るごとく老人(らうしん)窗(まど)からあいさつするまでこまやかに御目がとまれバ前篇(ぜんへん)ハおかハり/\ 
文化午のはつ春 
ところで、阪急池田文庫に所蔵されている『觀音利生記』という本は、挿絵などをすべて描き直した『枕石夜話』の再刻本である。内題「觀音利生記」、外題「繪本觀世音利生記」、半紙本五冊、曲亭馬琴纂補、松亭金水叙、弘化期の刊行であろうか、巻三と五の巻頭に改印[渡]がある。刊記には「皇都藤井文政堂\寺町通五条上ル町\書林山城屋佐兵衛」と見え、どうやら本来は中本として出されたものの後印本のようであった。ところが、鈴木俊幸氏がこの再刻本の初印本を所蔵しているのを知った。氏の御厚意によって熟覧する機会を得たので簡単に書誌を記しておく。 
『觀音利生記』中本(十七・五×十一・八糎)四巻四冊 
表紙鳥の子色(灰色で沙羅形地に花菱丸を散らす) 
題簽左肩(十二×二・七)「觀世音利生記(春−冬)」 
見返「曲亭翁著歌川國直畫\觀世音利生記\東都金幸堂板」 
柱刻「くわんおん一(−四)」 
刊記「京都書林\山城屋佐兵衞、河内屋藤四郎、大文字屋専藏 
浪花書林\秋田屋市兵衞、河内屋茂兵衞、河内屋源七郎 
東都書林\丁子屋平兵衞、釜屋又兵衞、菊屋幸三郎板」(巻四後ろ表紙見返し) 
構成巻一、松亭金水叙二丁、口絵二丁(薄墨濃淡二色入三図)、本文十七丁半、挿絵三図。 
巻二、十九丁半、三図。 
巻三、二十一丁、三図。 
巻四、十八丁以下破損、三図。 
備考改印なし。本文は用字の違いを除けば概ね初板本に忠実である。、 
口絵挿絵中に新たに賛が加えられており、次のような松亭金水の叙文が付されている。 
觀音利生記叙 
妙法蓮華経普門品は、観音大士の功力を挙て、その霊驗を説れたり。そも/\観世音菩薩ハ、廣大無邊の大徳ある事、世の人の知る所ながら、わきて武蔵の浅草なる、大慈大悲正観音ハ、往昔推古の朝に當つて、宮戸川より出現まし/\、世々の天子将軍も、尊崇し給ふ〓佛なれバ、貴賎道俗渇仰して、利益を蒙るもの無量なり。謂ある哉かの経に、若人あつて諸〓〓の、財宝奇珍を求めん為、海に浮ぶの時にあたつて、悪風竜魚の災あり。此時御名を称ふれバ、竜魚の難を免かれて、風穏になるとなん。迅雷鳴雨烈しく、樹木を碎く時に遇ひて、御名を称ふる人あれバ、時に應じて消散す。其餘の功徳甚深无量、実に不可思議の〓應あれば、挙て人の信ずるものから、日々に新にまた日々に、新なりける感應あり。そが中に古へより、語り聞え書に留て、話柄となすことの、また洩たるも鮮からず、因て曲亭子が遺るを拾ひ、今様風流の文に編て、もて童蒙の伽となし、且勧〓の一助となす。その筆頭の妙なるハ、例の翁の事なれば、今更にいふにたらず。必求て看給へかしと、販元にかはりて願奉つるになむ。 
應需 
松亭金水誌 
この再刻本のほかにも、『金龍山淺草寺聖観世音靈驗記』(安政二年)という浅草寺縁起を入話にして『枕石夜話』を抄録した切附本が存在する。このように多様な改題本や再板本、さらには抄録本が出来されたのは、浅草寺を中心とする浅草周辺の伝承を扱ったものであるからに違いない。 
六巷談坡〓庵 
一方、『坡〓庵』にも、「文化午の春」という年記の京山序文に付け替えられた改修後印本がある。半紙本五冊、「翰山房梓」「乙亥」と見返しに象嵌し、口絵(四オ)の薄墨板(三浦屋薄雲の姿)を彫り直し、内題の「巷談」を削り「坡〓庵」としたもの。巻下の末尾に付けられた「附言(門人逸竹齋達竹評)」(二十九オ〜三十一ウ)も省かれている。刊記は、京山序文の年記にもかかわらず「文化十二乙亥年孟春新刻\書肆\江戸日本橋通一町目須原屋茂兵衞\京三條通柳馬場西ヘ入近江屋治助」となっている(天理図書館本)。そのほか「河内屋喜兵衞、大文字屋與三郎板」や、『粂平内坡〓菴』という外題を持つ四都板などが管見に入っている9。これらの板に付された京山序文を紹介しておく。 
叙言 
山東京山識 
花に二度咲の花あり月に后の月ありはじめあれバをはり初もの外題ハ緑の青表帋中ハくれなゐの赤本花咲老漢の花と共にひらきて閲バかち/\山の手に鋼鐵をならす戯作の本店曲亭馬琴子の作なりぬしハどうやら見申た黄金の長者の郭通ひを發端とし浅草河原の暗闘月も朧の薄雲が亰町の猫通ひたる揚屋入の全盛話一寸太夫を雁金屋溶女が傳土手の道鐵甚内橋の縁故までいと信だちてうつしとりたる鏡が池の昔語引書ハ則洞房語園・丸鏡・事跡合考外が濱數本の書を参考し趣向をたてたる此繪草帋御評判ハありそ海の巌に背を〓文亀堂の宿主如才の如の字もなき作に序せよといふにいな舩のいなみがたなく馬琴子かために月花の脇櫂を盪ていきまきあらく詈つゝあたるぞ/\といふ事しかり 
文化午の春 
ところで、この本にも序文と口絵を彫り直した改修板がある。都立中央図書館蔵の中本三巻五冊で、改装され裏打ちされており、見返しや刊記を欠くため出板事項は未詳ながら、あらたに描き直された口絵には濃淡二色の薄墨が施され、明らかに幕末の出来だと思われる。本文には内題の「巷談」という部分が削られた元板を用いているようだ。また、中巻挿絵(三ウ四オ)は薄墨板がないと体裁を成さないためか削除されている。この序文には、いささか問題がある。 
〓談坡〓庵の序 
青き葉の繁るが中に此頃は雨に色づく梅もめづらしと詠れたる五月雨のをやみなき徒然に例の書賈はつれ%\の伽草を思ひ出てや新著の冊子を小止なく乞るゝまゝに倭と漢土の古事を是彼と思ひ合すれど婦幼の愛よろこぶべきやすらかなるはなし種は最まれなり。それ大聲は俚耳に不入と既に古人の金言あり。そも童蒙の伽艸に君子の拍掌せらるゝ深理の妙説ハ馬耳東風の類ひなるべしと兼てはかりし戲文の著述なれバ百年遺笑のわざくれと他の謗を心とせず唯一向に児女達の愛翫せる趣向を旨とすれバ街談〓説の淺々しきを種としつ。黄金長者の廓通にむかし/\の物語を菱川の画の古くうつして三谷通ひを眼前にしるす廓の古雅風流。彼薄雲が猫の故事渋谷の里の名にしおふ金王丸の名をかりてハ駒牽沢の稱をも稚く説て禿山継母が慈愛義士の傳堤の道哲の孝心悟道鴈金屋の畷女が薄命を鏡が池の水鏡に清くうつせし節婦の情甚内橋の復仇に勾坂が積悪の報を示し粂の平内の因縁にむすび結びし江戸鹿乃子ゆかりを尋ねる紫の一本芒武蔵野の千艸の花の露しげきその名所を假用して百年餘りの星霜を經にし古跡の一奇談かたり傳えて耳近きを綴り合する〓堤の菴。博識君たちの覧にハあらず婦女子の眼気をさまし善を勧め悪を懲老婆心のみ。 
于時乙丑鶉月仲旬 
飯台児山丹花の〓下に 
曲亭馬琴誌 
松亭金水書 
この序文は一読して馬琴の文体ではないと感じられるはずである。おそらく金水の手によって偽作されたものであろう。そもそも馬琴が再板本に自ら序文を書き与えた作品はほかに例を見ないし、「乙丑」という干支も妙である。もし慶応元年の乙丑ならば馬琴はすでに歿しているし、文化ならば二年に相当する。初板の序文は「文化丙寅ふみひろけ月なぬかのゆふべ\曲亭馬琴みづから叙」という文化三年の年記を持つもので、まったく別の文章である。一体何を根拠にして「于時乙丑鶉月仲旬」としたのか、はなはだ不可解である。 
七松亭金水と浅草 
ただ、ここで思い当たるのは前述した『敵討枕石夜話』の再刻本の存在である。あちらも金水の手になる本で、やはり金水の序文が付されたものであった。 
江戸後期を通じて浅草寺の開帳を当て込んで出板された草双紙は枚挙にいとまがない。また、浅草寺縁起に関する書も多く、松亭金水によって編まれた『江都浅草観世音略記』(外題「金龍山淺草寺正觀世音御縁起」、中本一冊、弘化四年三月、文渓堂板)には、その来由を詳に述たるの書。世に多しといへども。或は俚老の口碑に傳ふる所を旨として。頗る杜撰なるもの多く。或ひハ小冊にして見るに絶ず。或ハ大部にして需むるに難し。とあり、人口に膾炙した三社大権現御由来が絵入りで平易に記されている。これなどを見ると、ここまでに見てきた再刻本は、『江都浅草観世音略記』を弘化期に出した金水が、浅草に馴染み深い馬琴の旧作を利用したものと推測できるのである。 
浅草に関する読みものは近世期を通じて恒常的に需要があり、これに対して供給される新作は少なかったはずである。そのような状況の中で、金水は旧板を利用した<おっかぶせ>と呼ばれる覆刻改竄板を作ったのであった。その方法の安直さは、この時期の出板では決して珍しい現象ではないが、問題は馬琴の中本型読本が持っていた商品価値である。 
文化期から幕末までは半世紀ほどの時間を経ており、その間に、後印本、改題改修本、再刻本などが継続的に出されているのは、一時的な流行ものではなく随分と息の長い享受があったことを想定させるのである。それも、馬琴の中本型読本の中では伝本が少なく後印本も見かけない享和四年の二作ではなく、とくに浅草に関する題材を用いた文化五年の二作であった。これらは、皮肉なことに、馬琴がことさらに「この後中形のよみ本を作らす」(『作者部類』)と記した中本型読本としては最後の作品であった。 
注 
1.本書第一章第一節参照。 
2.木村三四吾編『近世物之本江戸作者部類』(八木書店、一九八八年)。 
3.鶴屋金助が文化六年に地本問屋になったことと関係があるかもしれない。馬琴の中本型読本以外にも感和亭鬼武の作品に同様の改修本が存在している。 
4.『作者部類』に「三國一夜物語五巻こも亦その板文化丙寅の火に焼て烏有となりぬ」という記述がある。 
5.『画入読本外題作者画工書肆名目集』の「貸本屋世利本渡世の者ニ而手広にいたし候者名前」の中で、とくに「書物屋外ニ而上方直荷物引請候者」として上総屋忠助の名が挙げられている。また、『類集撰要』文化五年辰二月の条に「御當地仲ヶ間外之者より、上方下リ荷物引受申間敷一札取置候然處、此度、いつまて草四冊、七福七難圖會五冊、浦青梅二冊、同後編二冊、仲間外新右衛門町上総屋忠助方へ上方より荷物積送、不沙汰ニ致商賣候。去冬、一札まて差出置、右躰之儀有之候而は、自然禁忌之品も賣捌候様相成、取締不宜奉存候」と見える。 
6.『作者部類』には「日本橋四日市なる書賈上総屋利兵衛、上総屋忠助利兵衛に仕えて分家せしもの也」とある。 
7.横山邦治『讀本の研究―江戸と上方と―』(風間書房、一九七四年)、二五一頁。 
8.中村幸彦氏所蔵本(国文学研究資料館マイクロフィルム)による。 
9.林美一「翻刻巷談坡堤庵」(「未刊江戸文学」十四・十七冊、未刊江戸文学刊行会、一九五五・五九年)の解題中、改修後印本の板元として「文龜堂伊賀屋勘右衛門」が挙げられているが、序文中の記述によるものか。 
第四節鳥山瀬川の後日譚 
一実説と後日譚 
安永四年、鳥山検校が吉原松葉屋1の瀬川という妓女を落籍した事件2は、おそらく当時の人々の耳目を驚かせたに相違ない。鳥山検校は、さらにその三年後の安永七年には、悪辣なる高利貸として処罰された。〓庭喜多村信節『過眼録』3に拠れば、 
安永七年、高利の金子を借したる者共、多く御咎めありし、其起りは、御旗下の士、筋わろき金子を借用し、出奔したりしよりの事と云う、(中略) 
一、家財の外、有金廿両、貸金一万五千両、所持の町屋敷一ヶ所鳥山検校(中略) 
此鳥山わきて名高く聞へしは、遊女を身請せし事にて、噂高かりし也、[瀬川を身請せしは安永四年なり、この瀬川の事は、余別に委しく記したり、爰に略す、所持地所も一ヶ所にはあらず、浮世小路南側、又小舟丁にも存、北御番所付永御手当地と唱] 
とある。 
この安永七年の中村座では、正月から五月晦日まで三度の景清を出したが、「二番目、「二人與作」へ「鳥山検校瀬川」を仕くむ、此狂言中檢校處刑ゆゑ、別て大入」4とあるように、世間の関心は決して低くなかったようである。更に『譚海』5巻二、には 
鳥山檢校と云もの、遊女瀬川といふを受出し、家宅等の侈(おごり)も過分至極せるより事破れたりといへり。 
と見え、『玉菊燈籠弁』6(安永九年)では、 
真芝屋(ましばや)の屁川(へがは)なりいかに金がほしいとて眼のない客を逢ひとをすそれもたて引かなんぞと金気(け)のうすい砂糖(さとう)なら張もいきぢも有で青楼の傾城ならんに何ンほ女郎がこすくなつても遊女中間のつらよごしこんにやくのよごしがはるかまし 
などとも論評された。 
実際のところ、この五代目瀬川がその後どうなったかは定かではない。三田村鳶魚「瀬川五郷」7によれば、喜多村信節の『〓庭雑考(いんていざつこう)』に後日譚が記されているというが、現存の『〓庭雑考』にこの記事は見えず8、宮武外骨の「瀬川考」9には、次のように『只誠埃録』所引の『〓庭雑考』が引かれている。 
予(よ)しばらく住(すみ)ける本所(ほんじよう)埋堀(うめぼり)に大久保家(おほくぼけ)の町屋敷(まちやしき)あり、爰(こゝ)に家守(やもり)を勤(つと)めたる結城屋(ゆふきや)八五郎(らう)はかたはら大工職(だいくしよく)をす、是(これ)がもとに頭(かしら)おろしたる(頭(かしら)おろしたるといふは剃髪(ていはつ)にあらず、所謂(いはゆる)切(き)り下(さ)げの事(こと)なり)老婆(らうば)ありき、是(これ)實(じつ)は八五郎(らう)が妻(つま)なり、何故(なにゆゑ)にこの体(てい)ぞと尋(たづ)ぬるに、是(これ)名(な)たる鳥山(とりやま)檢校(けんぎやう)が身受(みうけ)したる吉原(よしはら)松葉屋(まつばや)の瀬川(せがは)がすがれなり、鳥山(とりやま)罪科(ざいくわ)の後(のち)、瀬川(せがは)はかたらひし人(ひと)も多(おほ)き中(なか)に深川(ふかがは)六間(けん)堀(ぼり)邊(へん)に飯沼(いひぬま)何某(なにがし)といふ武家(ぶけ)の妻(つま)となりて、子(こ)二人(ふたり)生(う)めり、夫(をつと)うせて寡婦(やもめ)となりしうち、彼(かの)大工(だいく)八五郎(らう)仕事(しごと)に雇(やと)はれて此(この)屋敷(やしき)へ來(きた)りけるに、いかにして通(つう)じけん、密(ひそか)に約(やく)して瀬川(せがは)は八五郎(らう)が方(かた)へ逃(に)げ來(きた)りて妻(つま)となれり、其侭(そのまゝ)にてすむべきにもあらず、やむ事(こと)を得(え)ず薙髪(ちはつ)せしなり、先(さき)に生(う)める子(こ)一人(ひとり)は家督(かとく)たり、一人(ひとり)は他(た)の養子(やうし)となりしに、放蕩(はうたう)にて養家(やうか)を出(いで)、行(ゆく)べき所(ところ)なきにや、八五郎(らう)がもとに來(きた)りて居(ゐ)たりしに、果(はて)は髪結(かみゆひ)となれりとぞ、此(この)尼(あま)手跡(しゆせき)もよしとにはあらねども、用事(ようじ)足(た)すばかりはものせしかば、八五郎(らう)代筆(だいひつ)させたり、尼(あま)が生涯(しやうがい)はかの飯沼(いひぬま)氏(し)より扶持(ふち)など贈(おく)れる事(こと)とかや、近邊(きんぺん)のうはさにて委(くは)しき事(こと)は知(し)らず、益(えき)なき咄(はなし)ながら、傾城(けいせい)虎(とら)の巻(まき)などいふされ草紙(さうし)にも出(で)て名高(なだか)き女(をんな)なれば語(かた)りくさとす 
また、一説10によれば 
「越方覚草」には、本所の御家人青木健蔵となじみ、安永二(ママ)年鳥山検校身受、其年家出して青木と夫婦になり、老年根岸に死亡云々とあり。 
ともいう。 
二後日譚の文芸化 
さて、田螺金魚の洒落本『契情買虎之巻(けいせいかいとらのまき)』(安永七年)について、曲亭馬琴は『近世物之本江戸作者部類』において、 
天明中鳥山檢校か新吉原の松葉屋なる瀬川に懸想して得靡かさりしを辛くして根引せしといふ世の風声をたねとして綴りたり。こは狂言の首尾整ひて作りさま餘のしやれ本とおなしからす。瀬川か〓魂の段なとを看官(ミルモノ)あはれ也とて甚しく賞玩したりしかハ當時板元はさら也なべて貸本屋をうるほしたりとそ。この板も寛政に削られしを竊に再板せしものありと歟聞たるか初のたひにハ似さるなるへし 
と記している。一方、洒落本の評判記『戯作評判花折紙(けさくひやうばんはなのおりかみ)』11(享和二年)では『契情買虎之巻』が惣巻軸に据えられ「極上上吉」と記され、 
第一はん目生駒(いこま)幸(こう)二郎となつて腰元(こしもと)まきか手ひきにてお八重かねやへしのはれてのぬれ事うまい/\。次に夜半の鐘(かね)を相図(あいつ)にしのひ出て館(やかた)をおちらるゝまてきれいことてこさりまする。それよりおもき枕にふしての仕(し)うちよし。二番(はん)目に二役(ふたやく)五橋(こきやう)となつての和(わ)ことあまたのたいこをひきつれてのくるわ通ひ瀬川丈とのぬれことうけとりました。それよりせかわ丈のせりふにさりしおつとの面さしにいきうつしとてこゝろをよせらるゝ所(ところ)このひとそんならおつとに似(に)たる面(おも)さしの人あらばそれにもほれるかとのせりふやはらかみに手つよきところあつて大出来/\。次(つき)の幕(まく)にはつはるの趣向(しゆかう)松田屋をせかれはん頭(とう)義平(きへい)にだしぬかれてかん当(とう)の身(み)とならるゝまてよし/\。大切(をゝきり)富元(とみもと)連中(れんちう)てかたりにてむかふか岡(おか)のしよさことまててきました/\。 
と絶賛されている。これらの評価は、馬琴のいうところの「狂言の首尾」、つまり「二役」に譬えられたような演劇的趣味に富んだ、小説としての完成度の高さによるものであろう。鳶魚が「五暁というのは、全く田螺金魚の空想に生れたもので、実在の鳥山検校及び瀬川を粧飾するために、添加されたのである。」(「瀬川五郷」7)と記された如く、この作品は事件に基づきながらも、後日譚として結構された実録風の虚構なのであり、そこには伝奇的な要素も含まれている。好評の原因として、このような他の洒落本に対する独自性だけでなく、座頭金の取り締りという背景があったことも見逃せない。 
このような当り作が板摺を重ねたのは勿論のこと、追従作もまた多かったのである。作者不明の黄表紙『吉原語晦日月(くるわばなしみそかのつき)』(安永八年、鶴屋板)は、登場人物の名を少し変えているものの、筋はほぼ丸取り。ただし安永七年六月朔から六十日間回向院で行なわれた善光寺の出開帳12を当て込んで、結末に「善光寺縁起」を取り込んでいる。同年七月には市村座で『本田弥生女夫巡礼』が上演された。興味深いことに、この結末に「築地善交」13が登場し「本田善光」の生まれ変りということになっている。 
一方、伊庭可笑の黄表紙『姉二十一妹恋聟(あねはにぢういちいもとのこひむこ)』(安永八年、清長画、岩戸屋板)は『糸桜本町育』の世界から、お房・小糸・左七を登場させ、遊女の金貸し「鳥山」(お房)と、通人「瀬川」(左七)という具合に男女を逆転させ、最後はお房が左七の本妻、小糸が妾となってめでたしめでたし。黄表紙らしい軽妙な作である14。 
市場通笑の黄表紙『盲仙人目明仙人』(安永八年、松村板)は、仙人達が下界(吉原)に下って琴高仙人(通人)、山鳥仙人(盲目の金貸し)となり、身請けした一角仙人(遊女)から遊里の一巻を得るというもの。続編ともいうべき『傾城買三略之巻』(安永九年)は、その一巻の内容を公開するという趣向で、題名だけがパロディとなっている。 
さて、山旭亭真婆行の黄表紙『鳳凰染五三桐山(ほうわうぞめごさんのきりやま)』(享和四年、喜久麿画)も、その筋の大部分を『契情買虎之巻』に拠ったもので、同じ年に十返舎一九が『五三/桐山・後編跡着衣装(あとぎのいしやう)』(喜久麿画)という後日譚を出し、さらに翌文化二年には『五三桐/山三編・操染心雛形(みさほぞめこゝろのひながた)』(月麿画、丸屋文右衛門板)を出している15。三編巻末近くに、初編と後編の書名が並べられ「此本去春出板仕候、評判宜く難有奉存候、依而当春比三編売出し申候‥‥版元」とあり、好評の余勢を駆って出された三編はあらずもがなの続作ではあるが、後日譚が限りなく書けるという可能性を示していて面白い。また初編と後編の所見本には板元名が見当らなかったが、三編の刊記と前述の広告により三編とも丸文板であることが判明する16。この三部作はそれぞれ一冊に合綴され、袋入本として出されたものらしい。その辺の事情や詳細な内容の検討は、前掲の小池氏の論考や、同氏執筆による『日本古典文学辞典』所載「鳳凰染五三桐山」の項に尽くされており、さらに棚橋正博氏は『黄表紙総覧』で板元と刊年についての詳細な考証を加えている。 
真婆行作という初編は、その大部分が典拠『契情買虎之巻』のままである。ただ、後編を仇討物として展開できるように結末にたげ改変を加えてあった。棚橋氏は初編が『契情買虎之巻』の丸取である故に「洒落本の翻案作であったことは時節柄これを秘匿し、作の手柄を発案者真婆行に全面的に譲り序文と署名を添え、ただわずかに一九が物した作であったことを題言にそれとなく掲げたと考えればよい」17。と説き、企画者である真婆行は名目だけで、実際は一九が執筆したことを論証している。 
もちろん草双紙であるから全丁に挿絵が加えられた。また「はまのやにたしか一九さんがいなんした」(初編)。とか「喜久麿さんおよしなんし、よしさんに言いつけいすよ」(後編)などという地口や、挿絵中の衝立にさりげなく「東汀書」(三編)と書き込む点などから、一九の取り巻き連中の楽屋落ちが見られ、本作が作られた雰囲気がうかがい知れる。 
三黄表紙から人情本へ 
ところで『小説年表』や『国書総目録』には未載であるが、同じ題名の人情本仕立の本が出板されている。上巻見返扉に「山旭亭真婆行遺稿十返舎一九補訂全三冊鳳凰染五三桐山丙戌春文壽堂発販」と列記してある18。管見に入ったのは向井氏御所蔵の上中巻と、九州大学文学部国語国文学研究室蔵の下巻である19。内題の角書は「松田屋瀬喜川/庫米屋五喬」とあり、刊記は「文政九年丙戌陽旦発行書肆江戸神田弁慶橋丸屋文右衛門上梓」となっている。二十二年前に草双紙を出したのと同じ板元であった。内容的には序文を含めてほとんど同じなのであるが、上巻に口絵二図を施し、各巻三〜四図の挿絵を加え、本文は漢字混じりで部分的には会話体を用いる。体裁は人情本風であるが、伝奇性の強い文化初年の草双紙の仕立直しであるので中本型読本に近いものである。刊記の脇には「五三/桐山・後編跡着衣装十返舎一九作/歌川国安画全三冊近日うり出し申候」とあり、巻末にその内容の予告がある。 
○此(この)冊(さう)子なほ後編(かうへん)あり。こは傾城せき川が禿(かふろ)清乃(すみの)が事(こと)。三拍子(みつひやうし)の甚(しん)九郎夫婦(ふうふ)が弁(べん)。農民(ひやくせう)田作(たさく)が娘(むすめ)の話(こと)。彼(かの)富(とみ)五郎成長(ひとゝなりて)て終(つひ)に母(はゝ)せき川が仇(あた)。軍(ぐん)次を討(うつ)に至るまで。尚(なほ)種々(くさ%\)の奇譚(きたん)あり。そは十返舎翁の著(ちよ)する所(ところ)亦(また)格別(かくべつ)に赴向(き)あり。且(かつ)発市(うりだし)もちかきにあらん。かならず求(もとめ)て見給へかし。 
ここで述べられた「清乃」と「田作が娘」は草双紙の後編には出て来ない人物であるし、瀬喜川と五喬の間に生れたのは「富三郎」であり「富五郎」ではなかった。すなわち予告された後編は、一九が書いた享和四年刊『跡着衣装』とは別の筋を持つ後日譚なのである。 
この後編は、内題に『五三桐山嗣編』とあるものであるが、九州大学文学部国語国文学研究室蔵の上巻20、熊谷市立図書館蔵の上下巻と、鈴木圭一氏所蔵の中巻を取り合わせないと完全に全冊揃いにならない21。 
于時天保二ッの年(とし)文月(ふみつき)の初旬(はじめつかた)北里(さと)には近(ちか)く住(すみ)ながら燈篭(とうらう)さへも見にゆかぬ当時(とうじ)洒落(しやらく)に薄倖(はくこう)の隠士(いんし)墨水(ぼくすゐ)を硯(すゞり)に漑(そゝい)で 
金龍山人為永春水誌 
という叙では「木に竹をつぐ補綴の拙作」と記している。この叙の後に、さらに一九の書いた「五三/桐山・嗣編(じへん)跡着衣装(あとぎのいしやう)叙」が付されているが、これはほぼ草双紙の序文と同じものである。 
嚮(さき)に五三(ごさん)の桐山(きりやま)と題(だい)したる小冊(さうし)ハ山旭亭(さんきよくてい)真婆行(まばゆき)なる人(ひと)の補綴(ほてつ)にして元(もと)安永(あんえい)年間(ねんぢう)の妙作(めうさく)にて其(その)人情(にんじやう)の涯(かぎり)を盡(つく)し桐山(きりやま)の頑癡(ぐはんち)五暁(ごけう)が好意(こうい)且(かつ)瀬喜川(せきがは)が遺憾(いかん)の意(こゝろ)逼(せまつ)て奇(き)をなす産児(うぶこ)の始末(しまつ)挙(みな)倶(とも)に絶妙(ぜつめう)也書肆(しよし)亦(また)予(よ)に後篇(こうへん)を索(もと)む予(よ)兼(かね)て咾欲(ぎよく)にまかせ辞(ぢ)せずして此(この)冊子(はいし)を編(あむ)といへ共事(こと)ハ初輯(しよしふ)に盡(つく)したり只(たゞ)その糟粕(そうはく)を拾鳩(しうきう)せし物(もの)なれバ龍頭蛇尾(りようとうじやび)の書(しよ)といつつべき歟(か) 
東都十返舎一九[印] 
口絵には「巻中出像静斎英弌画図」とあり、内題下は「十返舎一九旧稿/為永春水補綴」となっている。本文の五丁目までは春水が増補しており、その末尾は「こは前編の発端にてこれより次の物がたりは五暁の勘当ゆるされて再び郭(くるわ)に全盛の花を詠る一条なりそのおもむきを心得てよみ給へとは筆癖のおのれがくどきわざなりかし春水開語」とある。「第一回」では予告通りに、かつて瀬喜川の禿であった清乃が二代目瀬喜川となり、五暁を頼る様子が描かれている。これは草双紙とはまったく別の筋であるのに、あえて一九の叙文を付したり「一九旧稿」と記したりするのはなぜであろうか。不可解である。 
四もう一つの後日譚 
最後に『当世虎之巻後編』に触れておこう。これには文政九年孟陽の卯木山人による「題辞」と安永八年春正月の田螺金魚「叙」が付され、「安永八亥年稿成/文政九戌年正月発行黄石堂蔵版」という刊記がある。中村幸彦氏が「内容は一見して、『契情買虎之巻』の作者の手になったものでないことは、今日において明らかである。しかし、前編に金魚の作をおいて、かかる後編を付した作者は、その手腕はともかくとしても、前編とどこか共通するものが存するとして、著述出刊したものと思わざるを得ない。」22と述べている通りである。未見であるが『契情買虎之巻』の文政天保期の改刻本に「虎之巻二編全本三冊為永春水校正」「虎之巻三編全部三冊教訓亭補撰」とある広告が付された本があるという23。こちらは勘当されたままの五郷が我子(瀬之介となっている)の子守をしていたお雛(実は嘗て瀬川と幸二郎が厄介になったお菊の娘)と奇しくも結ばれるという筋の、本格的な人情本である。 
この後編の概略を示せば、文政九年に為永春水が『契情買虎之巻』の後編を継作し、金魚の遺稿めかした増補改刻本ということになる24。 
〈初篇〉上中下三冊。安永原板の内容をその儘に、口絵を「花岡光宣画」とするものに代え、三巻に分冊して巻移りの文章を改変。巻末には二、三篇の概要を記した予告一丁を付す(『洒落本大成』第七巻所収、浜田啓介氏の「解題」でも触れられているもの)。便宜上、これを次に掲げておく。 
虎之巻(とらのまき)二編(にへん)全本/三冊為永春水校正 
この書(しよ)の初編(しよへん)おこなはるゝ事(こと)安永(あんゑい)のいにしへより今(いま)にいたつて五拾(ごじう)余年(よねん)看官(かんくわん)巻(まき)をひらくこと再三(さいさん)にして倦(うむ)ことなく二編(にへん)の趣向(おもむき)をいかに/\と請(はた)り給ふ人も少(すく)なからずしかるに近(ちか)ごろ反古(ほうぐ)のうちより此(この)二編(にへん)の草稿(さうかう)を見出(みいだ)しつされど数年(すねん)の星霜(せいさう)を経(へ)たれば紙魚(しみ)その半(なかば)を食(くら)ひて定(さだ)かならざるもの多(おほ)しそを漫(すゞろ)に補(おぎな)ひ正(たゞ)してもて梓(あつさ)にのぼせ世(よ)に行(おこな)ふ事(こと)とはなりぬその趣向(しゆかう)の精密(せいみつ)なるはなほこの初編(しよへん)とひとしうして見(み)る人(ひと)日(ひ)闌(たけ)夜(よ)のふくるを知(し)らざるべし 
虎之巻(とらのまき)三編(さんへん)全本/三冊教訓亭主人補述 
瀬川(せがは)が愛着(あいぢやく)の一念(いちねん)ゆかりの少女(をとめ)にのりうつり少女(をとめ)はからず五暁(ごきやう)を思(おも)ひそめてよりいろ/\の患難(くわんなん)辛苦(しんく)年(とし)をへだてて王子(わうじ)なる茶亭(さてい)に五暁(ごきやう)とめぐりあひ初(はじめ)て恋情(れんじやう)を通(つう)じ唄妓(うたひめ)の身(み)ながら貞操(ていさう)を守(まも)りあはれに五暁(ごきやう)を見(み)つぐこと亦(また)桐山(きりやま)が旧悪(きうあく)軍二(ぐんじ)が非道(ひだう)終(つひ)にあらはれて罪(つみ)をかうむりいとめでたく五暁(ごきやう)ふたゝび世(よ)になりいで瀬川(せがは)がのり移(うつ)りたる少女(をとめ)と夫婦(ふうふ)むつましく子孫(しそん)はんじやうにいたることすべて初(しよ)へん二(に)へんにもれたるをくはしく綴(つゞ)りあはせて全備(ぜんび)となすもよりのふみやにて御求(もと)め御覧(ごらん)之程奉希候 
〈後編〉三巻三冊。外題は「當世虎之巻二編上〔中下〕」。内題は「當世(とうせい)虎(とら)の巻(まき)後編(こうへん)巻之一(〜三)」。「于時文政九のとし/戌乃孟陽卯木山人」の題辞(序)二丁があり、次に「安永八亥年/春正月田にし金魚撰」という「叙」一丁が付されている。巻之三(二編下巻)末には「安永八亥年稿成/文政九戌年正月發行/黄石堂藏版」とある。これらは金魚の遺稿めかす為の細工であろう。また尾題の直前に細字で次の様な予告をしている。 
這末(このすへ)小(こ)ひなさま/\の辛苦(しんく)をすぎて終(つい)に五郷と夫婦(ふうふ)になり中(なか)むつましくくらす事(こと)。茨屋(いばらや)未六が身のおわり。桐山(きりやま)が一子(いつし)また桐(きり)山におとらぬ姦悪(かんあく)のこと。五郷が本家(ほんけ)の事など。すへて残編(ざんへん)三冊(さんさつ)となして以(もつ)て首尾(しゆび)まつたからしむるものなり。 
〈三編〉三巻三冊。外題は「虎之巻三編上〔中下〕」。内題は「當世(とうせい)虎(とら)の巻(まき)後編(こうへん)巻之四(〜六)」。口ノ一表に「虎の巻第三編全/瀬川五郷が一期もの語まつたくおわる」とあり、口絵見開き一図を挟んで口ノ二裏に「名において千里にはしる虎の巻/狂訓舎」とある。巻之六(三篇下巻)末には「安永八戌年田にし金魚作/文政九丙戌年正月發行黄石堂」「浄書音成」とある。 
すでに中野三敏氏が「「傾城買二筋道」板本考」25で全文を引用して紹介されている通り、この後編述作の経過に就いては、『教訓二筋道』(文政十二年刊、四篇十二冊)の二篇上巻に付された春水序26に述べられている。『虎之巻』に関する部分だけを抄出しておく。 
‥‥拙亭(せつてい)元来(もとより)名(な)を活(うら)ず数(しば)々徳(とく)を思(おも)ふをもて前(さき)には五十餘年来(よねんらい)星霜(せいさう)経(ふり)ていと久(ひさ)しき虎之巻(とらのまき)の次篇(じへん)を綴(つゞ)りいさゝか書林(しよりん)に寛尓(につこり)させしは虎(とら)の威(ゐ)を借(かる)ゑせ作者(さくしや)‥‥ 
以上のことから、『當世虎之巻後編』も『五三桐山嗣編』同様、春水の手に成るものと考えて良さそうである。ならば二つの『契情買虎之巻』の後日譚を手掛けたことになるのである。 
五〈世界〉としての鳥山瀬川 
人情本は「いわゆる継作は自由自在といっていい」27本であったが、どうやらそういった点からも『契情買虎之巻』の位置が計測できそうである。しかし、「人情本発生の基礎と人情的性格の素地とを誘導確立した。」28というように、洒落本から人情本への変遷史の中だけでは捉えきれない部分があるのではないだろうか。つまり草双紙における展開では、逸早く善光寺出開帳の際物に材を提供したし、軽妙な黄表紙らしいパロディの対象にもなった。文政期になると合巻にも取り込まれ、柳亭種彦の『千瀬川(ちせがわ)一代記(いちだいき)』(文政二年、国貞画、丸文板)では、浮世草子『けいせい哥三味線』(享保十七、其磧自笑作、八文字屋板)や、中本型読本『奴(やつこ)の小万』(文化四〜五年、種彦作、桃川画、山崎平八板)に用いられた趣向と撮合され29、市川三升(徳升代作)の『ぬしや誰問(たれととへど)白藤(しらふじ)』(文政十一年、国芳画、佐野屋喜兵衛板)では、お俊白藤譚と付会されている。 
さらに、安政三年四月の中村座『一曲奏(ひとかなで)子宝(こだから)曾我(そが)』にも仕組まれている。この時には正本写『題(なに)大磯(おほいそ)虎之(とらの)巻筆(まきふで)』(紅英堂板)が出ている。渥美清太郎「歌舞伎小説解題」30には 
安政四年の出版、種清の編、國貞の畫、三編讀切で、前年の春、中村座初演、櫻田治助作の「一曲奏子宝曾我(ひとかなでこだからそが)」の中から、在來の夜討曾我の部分を抜いて綴つたもの。この狂言は、田螺金魚の「當世虎の巻」といふ洒落本を脚色したもので、有名な瀬川五郷だ。 
とある。 
なお、この『題大磯虎之巻筆』には『瀬川五郷真情話』という改題後刷本がある。刊年は不明であるが、板元は蔦吉(紅英堂)のまま変わっていない31。 
こうして見てくると、事実譚としての鳥山瀬川譚は、まず後日譚として「世話中編小説なる読本の一、もしくは江戸におけるその初出であったかも知れない」32といわれる『契情買虎之巻』に結実する。すると次に中本サイズの諸ジャンルにおいて次々と後日譚の後日譚が生みだされ、その結果、鳥山瀬川譚はあたかも一つの「世界」といっても良いほどの説話的普遍性を獲得してしまったと考えられるのである。 
注 
1向井信夫「松楼史語」(『続日本随筆大成』第九巻付録、吉川弘文館)。 
2たとえば、大田南畝『半日閑話』巻十三(『太田南畝全集』十一巻、岩波書店、一九八八年)の安永四年十二月の項に「吉原松葉屋瀬川といへる妓を鳥山検校うけ出せしといふ事当年の是沙汰なり」とある。 
3向井信夫「松楼史語」(『続日本随筆大成』第九巻付録、吉川弘文館)。 
4『歌舞伎年表』四巻(岩波書店、一九五九年)安永七年の条。 
5『譚海』(『日本庶民生活資料集成』八巻、三一書房、一九六九年)。 
6『玉菊燈篭弁』(『洒落本大成』十巻、中央公論社、一九八○年)。 
7三田村鳶魚「瀬川五郷」(『三田村鳶魚全集』第十九巻、中央公論社、一九七六年)。 
8向井信夫「松葉屋瀬川の歴代」(『江戸文藝叢話』、八木書店、一九九五年、初出は一九七六年)。 
9宮武外骨「瀬川考」(人物傳記専門雑誌『有名無名』二号、雅俗文庫、一九一二年六月二十五日)。 
10前掲『歌舞伎年表』安永七年の条。なお、該項のあとに「日本盲人史」所載の町触などの史料が示されている。 
11『戯作評判花折紙』(『洒落本大成』二十二巻、中央公論社、一九八三年)。 
12比留間尚「江戸開帳年表」(『江戸町人の研究』二巻、吉川弘文館、一九七三年)。 
13園田豊氏より、これは歌舞伎役者初代坂東善次である旨の教示を得た。 
14この年の岩戸屋の絵外題簽中、本作だけ背景の意匠が異なり、亥の絵ではなく鳥という文字があしらわれている。あるいは「鳥山」から来たものとも考えられる。棚橋正博氏は「本書は安永八年中の刊行であったとしても、やや遅れた秋以降の刊行ではなかったかとも推察される。」(日本書誌学大系48-1『黄表紙総覧』前編、青裳堂、一九八六年、一八四頁)と述べている。 
15小池正胤「十返舎一九の黄表紙−鳳凰染五三桐山とその続編、合巻の発生と協作の問題について−」(「言語と文芸」、六巻三号、一九六四年五月)。 
16棚橋正博氏は『黄表紙総覧』後編(青裳堂、一九八九年)で、天理図書館本と東洋文庫本に存する「寅春」の絵題簽を示し、叙文年記を削った再板本(改竄再摺本というべきか)が、文化三年に丸文から出板されていることと、初編が藤白屋太兵衛板であった可能性について言及している。 
17棚橋正博「寛政・享和期の洒落本作家像」(「江戸文学」創刊号、ぺりかん社、一九八九年)。 
18向井信夫「人情本寸見」(『江戸文藝叢話』、八木書店、一九九五年、初出は一九八五年)。 
19三谷一馬氏からは所蔵の中下巻について、画工が歌川国安である旨の教示を得た。なお、その後、中巻のみを入手した。 
20板元の記載はないが、初編下巻と同じ意匠の表紙が付されている。 
21熊谷市本は口ノ四を欠き、英之画の九大本とは別の口絵と文亭綾継の序文とを持つ。刊記は「東都金龍山人補綴\仝米花齎英之画」「東都馬喰町二町目西村屋與八\南侍馬町三丁目中村屋幸藏\南鍛冶町二丁目和泉屋惣兵衞」とある。なお、鈴木圭一「『五三桐山嗣編』考(上・下)」(「國學院雑誌」、一九九五年三、四月)が備わる。 
22「洒落本における後刷、後版の問題」(『中村幸彦著述集』五巻、中央公論社、一九八二年、初出は一九七四年)。 
23浜田啓介「解題」(『洒落本大成』七巻、中央公論社、一九八〇年)。 
24以下、中野三敏氏の教示による。 
25中野三敏「「傾城買二筋道」板本考」(『長沢先生/古稀記念・圖書學論集』所収、三省堂、一九七三年)。 
26序題は「孝女両葉(かうぢよふたば)の錦(にしき)初編叙」、蓬左文庫尾崎久弥コレクション蔵〈尾一四・一ィ〉による。 
27前田愛「江戸紫−人情本における素人作家(アマチュア)の役割−」(『前田愛著作集』第二巻、筑摩書房、一九八九年、初出は一九五八年)。 
28鵜月洋「田にし金魚の研究」(「国文学研究」第十五輯、一九四〇年十二月)。 
29「千瀬川一代記」の項(暉峻康隆『江戸文学辞典』、富山房、一九四〇年)。 
30渥美清太郎「歌舞伎小説解題」(「早稲田文学」二六一号〈草双紙の研究〉、一九二七年十月)。 
31管見に及んだのは大阪府立中之島図書館本(乙四○三)だけであるが、全三編を一冊に合綴してあった。 
32中村幸彦「人情本と中本型読本」(『中村幸彦著述集』第五巻、中央公論社、一九八二年、初出は一九五六年)。 
第五節末期の中本型読本−いわゆる<切附本>について− 
一はじめに 
化政期に興隆を極めた江戸読本は、近世小説の中では最も格調の高いものであったが、天保の改革を経て中心的な担い手であった馬琴を失い、その後は衰退の一途をたどった。多くの文学史が一致して説くこの見解は、おそらく結論的には妥当な記述なのであろう。しかし、実際には読本史がそこで途切れているわけではない。だから、天保の改革以後に見るべき作品はないといって済ませてしまうわけにはいかないのである。とくに、弘化期以降の末期中本型読本は、文字通りの大衆文芸として流布し、書型も内容もそのままに明治初期まで流れ込んでいるのである。 
近年、この「文学史上の盲点1」といわれた時代に関しても次第に研究が積み重ねられてきた2。柳園種春などについては長友千代治氏の、笠亭仙果などについては石川了氏の精緻な報告が備わっている3。ともに、作家の個人史を解明することを通して、その時代を記述しようとした大変な労作である。本節では、これらの成果を踏まえた上で、その造本様式の変遷4に着目して、末期の中本型読本について考えてみることにしたい。 
さて、ここで取り上げる末期の中本型読本とは、弘化期以降とりわけ嘉永安政期を中心に粗製濫造された廉価な小冊子のことである。読本としての格調など微塵も持ち合わせない低俗性のためであろうか、従来の文学史では、ほとんど顧みられることがなかった。しかし出板点数およびその発行部数は、かなりの数にのぼったものと推測され、文学史を考える上では無視できない作品群だと思われる。 
ところが具合の悪いことに、その大部分は『訂改日本小説書目年表』(ゆまに書房、一九七七年)に見当たらない。まして『国書総目録』によって所在が確認できる作品も、ほとんどないに等しい。つまり、大学図書館や国公立図書館では蒐集の対象にはならなかったのである。しかも、たとえ何点か所蔵されていたとしても、分類が一定しないので容易に検索することができない有様である。また、かつては古書店も商品とは見做さずに、反古同然に扱ったという。その結果、現在では個人のコレクションの片隅に散見する程度で、その大半はすでに散佚してしまったものと思われる。 
このような状況が今後好転することは考えられないので、さしあたり管見の範囲内でこれらの作品群についての概要を紹介しておきたい。なお、その紹介の過程では、従来の鈍亭(假名垣)魯文研究で看過されてきた数多くの作品や、明治期草双紙の様式に先行する様式を持った作品群を提示することにもなるはずである。 
二切附本の定義 
まず最初に、末期中本型読本を指示して用いられる<切附本>という用語について触れておきたい。 
この<切附け>という用語について、明快に解説されている書誌学関連の事辞典類は見当たらない。おそらく、小口を残して三方を裁つという簡易製本法の謂だと思われるが、その意味からいえば、草双紙(合巻)の一部にも同様に仕立てたものが存在するのである。そこで、当時の呼称を確認するために、末期中本型読本の巻末広告などから、<切附本>という名称が用いられている具体例を拾ってみることにしたい。 
鈍亭魯文の作と思われる『岩見重太郎一代実記5』(安政五年)の巻末、品川屋朝治郎の広告には次のようにある。 
切附一代記本品々(きりつけいちだいきほんしな/\)武者切附本品々(むしやきりつけぼんしな/\) 
また、二世為永春水『正清一世英雄伝』(元治元年序)の巻末、山口屋藤兵衛の広告には、 
切附類品々草双紙小本類品々 
とあり、これを見る限りでは草双紙とは区別して用いられていたものと思われる。 
一方、近代のものであるが、野崎左文氏も「切附本と稱する印刷紙質とも粗惡なる册子6」と述べ、「安政頃の切付本枚數五十丁内さし畫十丁」7などと<切附本>という用語を用いているのである。 
これ以外にも、まだ多くの用例があるはずであるが、本稿ではこれらを踏まえて、合巻風摺付け絵表紙付きの末期中本型読本を<切附本>と呼ぶことにした。ただし、短冊型文字題簽を持つものについてはとくに<切附本>とは区別して<袋入本>と呼ぶことにする。<切附本>とは造本上の意識に違いが見られるからである8。もちろん、この<袋入本>という呼称も、広告などに見られる用例によったものである。 
三切附本の造本 
切附本の造本様式については、あまり知られていないと思われるので、典型的な例として鈍亭魯文の『玉藻前悪狐傳』を挙げ、書誌を紹介しておくことにする。 
書型中本(十七・五糎×十一・五糎)一冊四十五丁 
表紙合巻風の摺付表紙。左肩に「玉藻前悪狐傳\魯文作\芳直画」。玉藻前と三浦介が描かれている。 
見返上部に「玉藻前悪狐傳\鈍亭著\一盛斎画」、その下に色摺りで殺生石を描く。 
自序一丁表。右肩に看板の意匠で「玉藻前悪狐傳一盛齊芳直画」 
その左側に煙中に出現した「三国傳来白面九尾金毛老狐」を描き、その下に次のようにある。 
自序 
狐(きつね)千歳(せんさい)を経(へ)て美女(びぢよ)に変化(へんげ)すといへること、唐土(もろこし)の書(ふみ)に粗(ほゞ)のせたり。悪狐(あくこ)の人を魅(たぶ)らかすや其(その)性(せい)なり。霊狐(れいこ)の人に感徳(かんとく)あるや、こも又(また)性(せい)によるところ。人に善悪(ぜんあく)あるがごとけん。此書(このふみ)は前(さき)に妖婦傳(ようふでん)玉藻譚(ぎよくそうだん)あり。何(いづ)れも大同(たいとう)小異(せうい)にして、ことふり似(に)たる談柄(だんへい)なれども、名(な)だかき標題(げたい)ぞ好(この)ましと、書肆(ふみや)が需(もとめ)に止(やむ)ことを得ずそが侭(まゝ)に抄録(せうろく)して大関目(たいくわんもく)の利市(りし)にそなふ云云9 
于時安政二乙卯初春人日 
戀岱鈍亭魯文漫題[文] 
改印自序の上部余白に「改」「卯四」とあり、安政二(乙卯)年四月に改めを受けたことがわかる。 
匡郭四周単辺(十五・四糎×十・三糎) 
口絵見開三図(一丁裏〜四丁表)。墨一色摺り。主な登場人物十名を描き、野狐庵(魯文)等の賛を加える。 
付言四丁裏、上部に「玉藻\前妖\狐畧\傳全\魯文記\芳直画」。その下には次のようにある。 
〇凡例附言發客新庄堂壽梓 
一此書は浪速の玉山先生の著はされたる玉藻譚五巻にもとづき支那印度両界の談話の要を摘て吾皇朝の事をのみもはらとし童蒙婦女子の夜話に換てもて勧懲の一助とす 
一假字の遣ひざまの拙きと手尓遠葉のたがへるなど元来児戯の策子なれば具眼の嘲をかへりみず諭し難きところは大かたに心して看給へかし 
於東都恋岱野狐庵鈍亭再識[呂][文] 
内題「玉藻前悪狐傳」。下に「鈍亭魯文抄録」 
本文一丁十一行、一行二十九字内外の細字。表記は仮名漢字混じりで総傍訓、句読点なし。 
挿絵見開き十三図墨一色摺り 
尾題「玉藻前悪狐傳終」 
柱刻「たまも丁付」 
刊記四十五丁裏。刊年の記載なし。 
作者荏土鈍亭魯文録 
画工仝一盛齋芳直圖 
足利尊氏一代記全一冊源平盛衰記初編二編 
小夜中山夜啼碑仝安達原黒塚物語全一冊 
團七黒兵衛一代記仝釋迦御一代記初編二編 
江戸日本橋新右エ門町糸屋庄兵衛板 
所蔵吉沢英明氏・架蔵 
諸本改題改修本の外題は『玉藻九尾傳』。見返しと一〜二丁目を削除。また後印時には二分冊されたものと思われるが、一冊に改装合冊されており、表紙には三浦介だけが描かれている。おそらく、二枚続きの表紙の片方であろう(架蔵別本)。 
さて、周知のことではあるが、化政期のほぼ安定した様式を念頭において、中本型読本と合巻との造本上の相違を整理してみたのが次の表である。 
中本型読本合巻 
一表紙短冊型貼付題簽摺付絵表紙(絵題簽) 
二表記漢字混じり総傍訓基本的には平仮名だけ 
三文体漢語を多用平易な和語が主体 
四句点普通はある普通はない 
五板面比較的大きい字かなり細かい字 
六本文挿絵からは独立挿絵中の一部を占める 
七挿絵少ない全丁にある 
八丁数とくに規格はない五丁一冊の規格あり 
その対象とする読者層に合わせて、読本は<読むもの>として、合巻は<見るもの>として、それぞれの機能に見合った様式が生み出されたのである。右の表からもわかる通り<切附本>の造本様式は、中本型読本と合巻とを折衷したものとして位置付けることができるのである。 
ところで、末期中本型読本としては比較的早い時期のものに、笠亭仙果の『三都妖婦伝』四編四冊(嘉永六年〜安政五年)という袋入本がある10。初編の付言を引いてみよう。 
此一小冊は原合巻の草冊紙にて刊行すべかりけるを聊其故ありて繪入讀本のさまに製たれば文段も語路も改書では相應しからぬを例の事ながら板元山本某頻に發兌の期を急ぎ其工夫を許さねば舊稿のまゝ擱ぬ唯假名のみにかき下したるを過半漢字にとりかへ悉〓〓傍假名を注し読易からしむ十に九俗語には適當の文字有ことなきに文盲不学の早仕事よく叶ふ字も知らぬがち又忘れたるも考居ずそのまゝ假字にてすますかと思へば未曽有の自分極筆にまかせし不躰裁そのつたなさが笑の種かへつて興になりもすべし 
ここで、仙果が「文段も語路も改書では相應しからぬ」と書いているように、合巻と読本とは本来はまったく異なる様式であって、その相違は明確に意識されていた。それにもかかわらず、書肆の求めに応じて漢字混じりの総傍訓に直して句点を施し、その体裁だけを取り繕ったのである。おそらく、合巻よりも中本型読本に仕立てた方が、絵の少ない分だけ仕込みが安くて済み、その上高く売れたからなのであろう。現存する初印本を見ると、色摺りの美麗な袋に入れられて口絵や挿絵に重ね摺りが施され、大層入念に造本して刊行された様子をうかがい知ることができるのである11。だが、「製本美を以て拙文の醜を覆はんとす」(四編序)というように、様式上は袋入本として中本型読本を継承しながらも、内容的にはまさに合巻並みの<読みもの>なのであった。 
ところが、このような合巻的な中本型読本は、次に挙げた四つの例からわかるように、早くは文化初期から見られるのである。 
[例一]『熊坂伝記東海道松之白浪』二編二冊(五十丁、文化元年)は黄表紙風の貼題簽が施されて<合巻>されている。板面は一丁当たり十二行で比較的挿絵は少なく、挿絵中に本文は入り込んでいない。歴史教科書風の内容は画本物12の流れを汲んだものであろう。なお、この作品は被せ彫りにより改題再刻され『熊坂長範一代記』(三代豊国画の合巻風摺付表紙、安政期刊カ)という切附本になっている。このように、切附本の様式や内容を先取りした合巻風中本型読本は、十返舎一九の『相馬太郎武勇籏上』二編二冊(文化二年序)ほか、零本ではあったが、もう一点管見に及んだ。 
[例二]楚満人遺稿という『杣物語僊家花』(京伝序、文化五年)は中本仕立ではあるが、本文は仮名ばかりで句点も施されていない。おそらく合巻用の稿本だったのであろう。与鳳亭梧井の『建久女敵討13』(文化六年)もやはり同様の板面を持つ。これらは内容的にも合巻に近い作品である。 
[例三]新たな様式の開拓に意欲的であった式亭三馬は「絵入かなばかりのよみ本、まがひ合巻」(『式亭雑記』)として、『両禿対仇討』(文化五年)と『侠客金神長五郎忠孝話説』(文化六年)と『昔唄花街始』(文化六年)との三作を鶴屋金助から出している。残念ながら、これらの表紙の原型が絵題簽なのか短冊題簽なのかは不明であるが14、一丁あたり二十行ほどで本文だけの頁が多い。『昔唄花街始』の跋文には「読本は上菓子にて草双紙は駄菓子なり」と記されており、その折衷様式を意図したものであろう。ただし、同書に付けられた広告には「中本ゑいりよみ本之部」とあることから、書肆や作者の意識としては、中本型読本として見做していたものと思われる。 
[例四]鶴屋金助は文化六〜七年に、次の中本型読本を求板し、役者似顔を用いた合巻風絵題簽を付けて改題改修本を出している。 
『石童丸苅萱物語』(文化六年)→曲亭馬琴『苅萱後傳玉櫛笥』三(文化四年、木蘭堂板) 
『男達意気路仇討』(文化六年)→感和亭鬼武『報寇文七髻結緒』二(文化五年、平川館板) 
『島川太平犬神話』(文化六年)→一溪庵市井『復讐奇談七里浜』三(文化五年、観竹堂板) 
『三島娼化粧水莖』(文化七年)→感和亭鬼武『婦人撃寇麓の花』15三(未見) 
『女夫池鴛鴦裁時代模様室町織』(文化六年)→感和亭鬼武『増補津国女夫池』二(文化六年、宝珠堂板) 
なお、六樹園の『天羽衣』二(文化五年)にも同様の本があるが、こちらは改題もされず、板元も西村与八のままである16。また、一九の『天橋立』初〜三編(文化三〜五年)も、三編まで完結した文化五年に、板元の鶴屋金助自身が合巻風絵題簽を付けた本を刊行している。 
現在判明しているのは右の七種だけであるが、この種の改修本がほかにも存在した可能性はあるものと思われる17。 
これらの改題本は、序文や口絵などを削って薄墨板を省き内題に象篏、さらに尾題を削除した上で新たに合巻風絵題簽を付けるという改修が加えられたもの。初板刊行後あまり間をあけないで刊行されている点に注意が惹かれる。鶴金の広告「文化六巳歳稗史目」には、これらの改題本が「合巻」として挙げられており、「右のさうし先達より諸方へ賣出し置候もよりのゑさうしやにて御もとめ被下御ひやうばんよろしく奉希候以上」とある。つまり、このような造本様式の改変は、読者を騙すために新作に見せかけたというよりは、むしろ地本問屋が中本型読本を出板するための細工と考えられる。当然、その販売対象として措定されたのは、従来の合巻読者たちであったはずである。 
以上四つの事例から帰納できるのは、読本出板数のピークであった文化四、五年を過ぎると中本型読本の読者層が次第に拡大し、合巻の読者と大差なくなってきたということである。さらには、これと並行して、半紙本読本でも読者層の拡大があったことを想定してよいかと思われる。 
四絵本と切附本 
一見すると中本型読本風の短冊題簽を持つ『絵本義経千本桜』は、豊国の見立役者似顔によって描かれた絵が全丁に入る文字通りの<絵本>であった。ところが、馬琴は次のように記している。只、一九の序あるのみにて讀べき処の些もなければとて絶て賣れざりければ、仙鶴堂、則、馬琴に乞ふてその画に文を添まく欲りせり。馬琴已ことを得ず千本桜の趣をその画に合し畧述して僅に責を塞ぎたれども、こは本意にあらざれば、仙鶴堂の代作にして、只、その序文にのみ自分の名號を見しけり。かくて、板をはぎ合し書画具足の合巻冊子にして、戊寅の春、再刷發行しけるに、こたびは大く時好に稱ひて賣れたること數千に及びしといふ。(『作者部類』)ここで馬琴が述べていることは、現存する諸本からも裏付けられる。つまり、『絵本義経千本桜』(三十丁一冊、一九序、文政元年、仙鶴堂板)はほとんど見かけることがないが、細字の本文十六丁を増補して合巻風絵表紙を施した『義経千本桜』(三冊、馬琴閲・序、仙鶴堂主人約述、文政二年、仙鶴堂)の方は、それほど珍しい本ではないのである。 
右の引用の後に「只、画のみにて文なき冊子は婦幼もすさめざりければ‥‥‥」とある。このように『絵本義経千本桜』が増補された経緯からは、単に<見るもの>だけでは飽き足らずに読む部分を要求するという、読者層の変化を見て取ることができると思われる。 
少し後になるが、『殺生石後日恠談』全五編(文政八〜天保四年)では中本型読本と合巻の折衷様式を試みている。とくに、初編には五丁一冊の意識が見られないことから、向井信夫氏は文政七年に中本型読本仕立で出されたとするが18、その本の所在は確認されていない。しかし、翌文政八年に刊行された初編上冊の見返しには、次のような板元の口上がある19。合巻の繪草紙は筆畊のいと多かるを猶画の中へ書納れ侍れば合印あまたあり且細字なるをもて讀にわづらはしく思ひ給ふも侍りてん。この冊子は作者の新案にて画と筆畊を別にしたれば見るに目易く讀に煩しからず。價も亦合巻とさのみの高下あらずして御遣物に直打あり。讀本と合巻を兼て下直の三徳あればこれを利便の冊子といはん歟江戸馬工郎町山口屋藤兵衛版一読して馬琴の口調と知れるが、「この冊子は作者の新案」という部分には少し問題がある。『殺生石後日恠談』を見るに漢字混じりで黒丸の句点が施され、挿絵中にも本文が入り込んでいる。この様式は、前述した通り文化六年の『昔唄花街始』で、三馬が「読本新工夫直伝」(下巻見返し)として先鞭を付けたものであった。ところが、すでに文政五年には当の三馬は死んでしまっている。したがって、馬琴が右の口上を板元に仮託したのは、あるいは自らの手柄として虚飾するためであったのかもしれない。 
いずれにしても、『殺生石後日恠談』の第二編以降は四十丁を二分冊した合巻仕立で刊行し続けられたが、五編で完結するまで板面の体裁は折衷様式のままであった。これを普通の合巻と呼ぶには、やはり躊躇せざるを得ないのである。 
さらに後になるが、笠亭仙果はこの様式に近い『稚源氏東国初旅』全五編(弘化四〜嘉永五年)を出している。ただし、二編の序文に「初へん二十丁、はん元合巻のはつたびにて、ものなれねばよろずにてまとり、いと/\おそくうりいだし……」とあるように、合巻として見做していたようである。 
五中本型読本と合巻 
ここまで、文化初年から切附本の出現までの、中本型読本と合巻との折衷様式を持つ作品について見てきたが、代表的な様式について前述した一〜八の観点から一覧表にしてみた(AとBとに示した通り、〇が「中本型読本」的要素を、×が「合巻」的要素を示している)。 
八七六五四三二一 
丁数挿絵本文板面句点文体表記表紙 
A〇〇〇〇〇〇〇〇中本型読本 
B××××××××合巻 
例1C〇〇〇××〇〇×東海道松之白浪(文化元年) 
例2D〇〇〇××××〇杣物語僊家花(文化五年) 
例3E×〇××××××両禿対仇討(文化五年) 
例3F〇〇〇〇〇〇〇×時代模様室町織(文化六年) 
袋入G〇〇〇×〇×〇〇三都妖婦伝(嘉永五年) 
H×〇××××××稚源氏東国初旅(弘化四年) 
切附I〇〇〇××〇〇×玉藻前悪狐伝(安政二年) 
切附J〇〇×××〇〇×佐野志賀蔵一代(安政三年) 
切附K〇××××〇〇×将門一代記(安政二年) 
合巻L〇××××〇〇×侠勇水滸伝(明治十五年) 
まず、CはIと同じ様式であるが、表紙だけはCが黄表紙風貼付題簽を持つ。しかし、Cは合巻様式が出現する以前の出来であるから当然なのである。ならば、Cが切附本の始源ということになると思われる。被せ彫りによる改題改刻本が切附本として出板されていることは、すでに述べた通りである。 
一方、Dは手が加えられる前のGと同じである。Dは合巻用の遺稿を手抜きして絵を省いたために、結果的に中本型読本仕立となったものと思われ、逆にGの方は合巻用の稿本に手を加えて中本型読本仕立にしたもの。つまり、両者が異なっている表記と句点とに手が加えられたのである。 
EとHも同じ様式。本文が挿絵から独立している点では、草双紙より中本型読本に接近したもの。 
また、GとHとは共に笠亭仙果の作であるが、それぞれD→G、E→Hと文化期に見られる折衷様式を継承したものである。もちろん、仙果の作が直接切附本の発生をもたらしたわけではないだろうが、仙果の作を媒介として、その延長上に切附本の様式があると見て間違いないと思われる。 
さて、一概に切附本といってもI、J、Kのように異なる三つの様式が存在するのである。もっとも一般的な様式は前述したIで、出板された点数も一番多いものと思われる。IもJも全丁数に占める挿絵の割合は一定しないが、Iが完全に挿絵から独立した本文を持っているのに対して、Jは挿絵中に本文が入り込んだものである。ただし、Jでは一部の挿絵にだけ本文が入っているものから全部の挿絵に本文が入っているものまで、全挿絵に占める本文入り挿絵の割合には程度の差がある。さらにKになると合巻のように全丁に本文入り挿絵があり、しかもその本文はIやJと同様に漢字仮名混じりとなっているのである。 
また、中には仙果の『報讐朱達磨縁起』(安政五年)などのように、Jの様式でありながら挿絵の上部は仮名ばかりで合巻風、下部は本文同様に漢字仮名混じりというように、部分的にではあるが奇妙な体裁を持つ本も見られる。このような様式上の振幅は明治期まで続くことになるが、次第にKの様式が増えていくようである20。 
ここまでは言及してこなかったが、切附本や袋入本と並行して同時期に出板された小冊子に、忠臣列女銘々伝物、英雄百人一首物、三十六歌仙物、端歌物、役者追善物などと呼ばれるものがある。これらは、外見上は切附本や袋入本と区別がつかないが、造本上はKに近いもので、口絵や挿絵に色摺りを施したものもある。内容的には絵を主体にした類聚的な啓蒙書とでもいうべきものだが、板元が共通していることから、様式上でも影響関係があったと考えられる。 
厳密な区別は困難であろうが、右に述べたような絵の比重が大きい類聚的作品は、とりあえず末期中本型読本(切附本)には含めないことにする。 
なお、L(明治合巻)がK(切附本)と同一の様式で、両者がまったく同じ板面を持っていることから、明治合巻が新聞の続き物から派生したという従来の定説21には、若干の補訂を加える必要があるものと思われる22。 
六切附本の概括 
現在までに見ることのできた切附本は、およそ二百点、この数は「ただでさえ作品数の多い戯作の中では一ジャンルを形成するほどの数とはいえないが、決して少ない数ではない23」のである。個々の作品についてはまだ充分な調査が及んでいないが、全体像について、その概略を紹介しておくことにする。 
槐亭賀全『松井多見次郎報讐記』(文久元年カ)に付けられた吉田屋文三郎の巻末広告を見るに、 
讐討類、物語類、一代記物 
此書は五十枚一冊読切物品々明細早分り物 
とあり、切附本の性格をよく表現している。しかし、実際には「五十枚一冊」ではないものも多いし、「読切物」でなく二編三編と続いたものもあるので、これで完全に切附本が定義できるわけではない。一方、「いつまでも結果ぬ合巻より、書切の切附表紙流行るゝと同じ理方……」(招禄翁の袋入本『親鸞聖人御一代記』万延新刻)というように、「早分かり」が重宝がられた時代背景24も無視できないであろう。 
さて、扱われた題材については、題名を眺めるだけでもわかるように実録種が多い。基本的には、これらの筋を紹介するために作られたものと思われるが、『平井権八一代記』(嘉永七年七月改)の魯文序には次のようにある。 
平井権八が事跡。狂言綺語にものし。謡曲にあやつりて。其顛末を述ることやゝ久し。然はあれど。雑劇院本には平井をもて。一部の脚色すなれば。彼が残刃奸毒をおし隠して。更に忠孝義士に摸偽せり。こはその悪を忌きらひて。善を趣とする稗家の洒落。作者の用心なきにあらねど。聊真意を失へり。柳下惠は飴をもて老を養ひ。盗跡は是をして鎖をあけんことを謀る。其物の同じくその人の用ゆる所に依て善悪の左別如此し。人の悪を見て己を慎み善を見て是に習はゞ。看官何ぞ浄を捨て穢にのぞまん。爰に刻成の平井が傳奇は稗官者流の虚談を省き。實記を挙て。童蒙婦幼等が。懲勧の一助にそなふと尓云。 
嘉永七甲寅林鐘稿成談笑諷諫滑稽道場 
鈍亭魯文填詞[印] 
つまり、真意を失った雑劇院本の脚色に対して実記を用いて勧懲を正すというように、序文の常套句として<勧懲>を標榜しているものが多い。また、ここでいう「実記」とは貸本屋の写本として流布していた<実録本>のことだと思われる。そして、これらの筆記小説(書き本)は同時に講談の種本でもあった。 
北梅の袋入本『織部武広三度報讐』(安政四年九月改、安政五年初夏魯文序)に付けられた品川屋久助の巻末広告には、 
読切一代記物当時講談名人の作敵討五十丁読切 
とあり、講談との関係を具体的に明示している。あるいは「読切」などという言葉も講談からきたものかもしれない。また、この本の口上には高座に座る北梅が描かれ、 
當時世に專ら流行るゝ軍書講談中興赤松清左エ門なる者を祖とし和漢歴代の治乱忠孝義士の得失を演て蒙昧を醒すに至る其用意おさ/\稗官者流に同じ然りと雖舌頭と筆頭の差別いたく異りこゝをもて余此編をあらはし講談と稗史との中庸を記録すと云云25 
と述べている。つまり表現方法上の差はあるものの、「和漢歴代の治乱忠孝義士の得失を演」る点では、講談も切附本も同じなのである。ならば実録講談と同様に、 
一、御記録二、軍談三、御家騒動四、捌き物五、仇討物 
六、武勇伝七、侠客物八、白浪物九、騒擾物十、巷談 
という具合に分類できるものと思われる26。 
ただ、これに一つだけ<抄録物>を付け加えたい。この時期には、一方で化政期の読本のダイジェスト合巻27が続々と生産されていたわけだが、同様のものが切附本にも見られるのである。具体的に例を挙げてみよう。 
『英名八犬士』(魯文、全八編、安政期)→曲亭馬琴『南總里見八犬傳』(読本、文化十一〜天保十三年) 
*改修本に『里見八犬傳』(全八編)という袋入本があり「曲亭馬琴」と改竄してある。 
『玉藻前悪狐伝』(魯文、安政二年)→玉山『絵本玉藻譚』(読本、文化二年) 
*「凡例附言」で原拠を明かしている(二二一頁参照)。 
『父漢土母和朝國姓爺一代記』(魯文、袋入本全三編、安政二〜文久元年)→玉山『国姓爺忠義伝』(読本、文化元年) 
*全三編が年をおいて順次刊行されたもの。 
『三荘太夫一代記』(西海舎比累児、安政四年序)→梅暮里谷峨『山桝太夫栄枯物語』(読本、文化六年) 
*かなり原拠に忠実な抄録である。 
『報讐信太森』(魯文、全二編、安政七年)→曲亭馬琴『敵討裏見葛葉』(読本、文化四年) 
*口絵や挿絵もほぼ原拠と同じ図柄を用いているものが多い28。 
『金龍山淺草寺聖觀世音靈驗記』(松園梅彦、安政二年)→曲亭馬琴『敵討枕石夜話』(中本型読本、文化五年) 
*外題は『觀音利益仇討』。発端部に浅草寺縁起を付会して巧く原拠に筋を繋いでいる。 
『執讐海士漁船』(岳亭梁左、刊年未詳)→山東京伝『敵討天竺徳兵衛』(合巻、文化五年) 
*原拠にない趣向を加え、人物名などを変えている29。 
『緑林自来也実録』(鈴亭谷峨、刊年未詳)→美図垣笑顔等『児雷也豪傑譚』(合巻、天保十年〜) 
*かなり改変されており、結末で自来也は仙人になっている。 
現在判明しているのはこれくらいであるが、まだほかにもあるものと思われる。 
また、題名を見る限りは抄録かと思われるものでも、読んでみると関係のない場合がある。たとえば魯文の『小夜中山夜啼碑』(安政二年五月改)は馬琴の黄表紙と同題であるが、 
曲亭翁の石言遺響は、古跡を探り事實を尋ね、日を重ね月を經て、やゝ稿成れる妙案なりとそ、這小冊は彼意に習はす古書にも寄らぬ自己拙筆疾いが大吉利市発行、二昼一夜の戯墨にして、勧善懲悪應報の、道理を録せし……30 
と序文にあるように、黄表紙はもちろんのこと『石言遺響』とも関係ないのである。 
なお、ここで魯文が速筆を卑下自慢しているが、それもそのはず、切附本一冊の原稿料はわずかに金二分だったという31。 
一方、狗々山人の『西遊記繪抄』(安政五年十月改)は、口絵に色摺りを施した袋入本。末尾に次のようにある。 
全傳一百回略譯画を加へて凡八百張小冊に鈔して僅四十餘紙さりとて神人仏魔はさら也有情無情の物の名ひとつとして記せざるはなくその話においてや小事といへど漏す事なし彼孫行者が如意棒の長短大小自由なるがごときもの歟32 
読本の絵本物に見られるような、中国小説の翻訳物から題材を採ったのである。魯文の『繪本三國志』も同様のものである。となると、抄録された原拠の選ばれた範囲は、合巻の場合よりやや広げて考える必要がありそうである。また、単純な抄録ではなく、かなり自由に手を加えているものも少なくない。 
ならば、この<抄録>という行為自体も、単に趣向が枯渇した衰退期に見られる虚無的なものと決め付けるのではなく、一つの方法として、何らかの前向きな啓蒙的意図を読み取ってもよいと考えられる。 
七袋入本と軍談シリーズ 
最後に、末期の中本型読本を見渡した時、とくに目立った特徴を持つ作品群について記しておきたい。 
『報讐信太森』(前後二帙、未五改、国周画) 
『平良門蝦蟇物語』(全一帙、未八改、芳幾画) 
『俵藤太龍宮蜃話』(全一帙、未八改、芳幾画) 
『忠勇景清全伝』(全一帙、未十改、芳幾画) 
『傀儡太平記』(全一帙、未十改、芳幾画) 
『氷神月横櫛』(前一帙、申五改、國周画、後帙未見) 
安政七年(三月一八日改元、万延元年)に刊行された鈍亭(假名垣)魯文の作品は、切附本全盛のこの時期にあって特異な袋入本であった。右の六作は、まったく同一意匠の表紙(藍白地に布目風空摺りを施し下に小さく竹をあしらう)を持ち、すべて錦森堂こと森屋治兵衛板。一丁当たり八行と、化政期の中本型読本を思わせる比較的大きな字が用いられている。また、口絵には濃淡の薄墨や艶墨、さらには空摺りなどが効果的に用いられ、大層美しい中本型読本である。このような本の格調の高さから見ても切附本とは比較にならないもので、おそらく値段も高かったものと思われる。 
『報讐信太森』が馬琴の読本『敵討裏見葛葉』によったものであること以外、それぞれの原拠については未詳であるが、『平良門蝦蟇物語』はその前半部で京伝の読本『善知安方忠義伝』(文化三年)を利用している。 
さて、切附本という安っぽい小冊子が流行しているこの時期に、同じ板元から同じ年に六種もまとめて袋入本を出板したのは一体なぜであろうか。これらの本の見返しや序などには「假名垣魯文」と署名しており、「假名垣」号の早い使用例ではないかと思われる。また、この六作品は切附本としてではなく、明確に中本型読本としての意識によって執筆されたものと思われる。ならば、その執筆時から、板元の思惑を反映した魯文の心中には何か期するものがあったはずである。そして、この万延元年に『滑稽富士詣』が当り作となり、戯作者としての名声を博したことは、すでに説かれているところである33。 
一方、こちらは普通の切附本であるが、元治から明治初年にかけて、二十丁×三冊という編成の軍記合戦物が、続々とシリーズのようにして山口屋藤兵衛(錦耕堂)から刊行されている。 
『正清一世英雄伝』(元治元年序、二世為永春水、芳年画) 
『河中島両将伝記』(慶応二年序、二世岳亭定岡、芳盛画) 
『宮本無三四実伝記』(慶応二年序、二世岳亭定岡、芳盛画) 
『賎ヶ嶽軍記』(慶応二年、二世笠亭仙果、芳春画) 
『勢州軍記』(慶応三年序、二世笠亭仙果、芳春画) 
『日吉丸誕生記』(慶応三年序、二世笠亭仙果、芳春画) 
『四国攻軍記』(慶応三年、二世笠亭仙果、芳春画) 
『桶狭間軍記』(慶応三年、二世禁多楼仙果、芳春画) 
『伊賀水月録』(慶応四年序、二世岳亭定岡、光齋画) 
『岩倉攻軍記』(慶応四年、二世笠亭仙果、芳春画) 
『大河主殿一代記』(明治元年改、二世笠亭仙果、芳春画) 
『山崎大合戦』(明治二年序、二世岳亭定岡、芳春画) 
これらの作品の題材は、『繪本太閤記』など人口に膾炙した説話によったものと思われ、切附本としては決して珍しいものではない。ただ、同じ板元が同じ体裁で同じ時期に刊行している点に注意が惹かれるのである34。 
一方、慶応から明治にかけて出された『羽柴雲昇録』初編〜四編(弄月閑人、芳虎画、松林堂板)も似たような本だが、これには明治十三年板の後印本がある。また、多くは見ていないが、明治十年代の刊記を入木してある後印本も存在している。つまり、切附本はそのままの様式で、明治十年代までは確実に流通していたということになるのである。 
八作者・画工・板元 
さて切附本の作者に関しては「其頃切附本大に流行し其作者は魯文に限るやうに書林仲間に吹聴せられし35」とある通り、圧倒的に鈍亭魯文のものが多い。次いで、笠亭仙果、二代目岳亭定岡、鈴亭(二代目)谷峨、柳水亭種清、鶴亭賀全、篠田(二代目)仙果、松園梅彦などが目に付く。ただし、書誌事項の記載がないものも多く、とくに後印本では一般に見返しや序文を欠いている。したがって、多くの困難は伴うものの、このような小冊子においてですら、初板本捜しは必須の基礎作業なのである。また、記されている名が未知の戯号である場合もあり、その解明も今後の課題として残る。 
画工は二流の者が多く、芳直(一盛斎)、芳春(一梅斎)、芳幾(一惠斎)、国郷(立川斎)、芳盛(一光斎)、芳員(一壽斎)、貞秀(五雲亭)等がたくさん描いている。なお、合巻でも見られることだが、表紙(外題)だけを別人が描いていることがあり、表紙に名が記されているからといって直ちに挿絵の画工とは限らない点、注意を要する。とくに後印の際には、別の画工による表紙に付替えられることが多い。 
板元については比較的限られているようで、山口屋藤兵衛(錦耕堂)、吉田屋文三郎、品川屋久助(當世堂)、藤岡屋慶次郎(松林堂)、糸屋庄兵衛(新庄堂)などが多く、次いで伊勢屋忠兵衛(公羽堂)などが見られる。概して貸本屋上がりの新興の本屋が多いようで、糸屋庄兵衛が幕末に廃業しているほかは明治期になっても存続し、山口屋をはじめとして、藤岡屋慶次郎は水野書店、品川屋久助も杉浦朝次郎と名乗って活躍している36。 
読者層についても考えてみる必要があると思われる。題材から考えると、その中心に少年たちを想定できそうである。しかし、合巻にも男女ともに熱狂的読者がいたようであるから、とくに少年と限定して考える必要はないのかもしれない。 
以上、管見の及んだ範囲で多少の憶測をも含めて概略的に述べてきたが、じつは中村幸彦氏が「幕末から明治初期にかけては、実録流行の一時期であって……小説史の方でも、中本読本や草双紙の姿で、ダイジェストして、おびただしい数の出版を見ている。小説史、読本史としては見のがしがたいことである37」と指摘したことを、大雑把に検証してきたに過ぎなかったといえる。 
ただ、切附本の史的位置については、書型や造本様式から考えて、化政期から明治期へ繋がる中本型読本の変遷史の中で捉えてみたかったのである。しかし、「量の文学38」である切附本自体の研究にとっては多くの問題を残したままである。今後もさらに資料の収集に努めていかなければならない。 
注 
1興津要『最後の江戸戯作者たち』(有楽選書5、実業之日本社、一九七六年)の「あとがき」による。この時期に関する研究に先鞭を付けられたのは興津氏で、『転換期の文学―江戸から明治へ―』(早稲田大学出版部、一九六〇年)をはじめとする多くの業績が備わっている。ただ、『新訂明治開化期文学の研究』(桜楓社、一九七三年)に結実したように、近世末期については非文学性を説くのに急で、むしろ近代の側に興味と力点があったように思われる。 
2早くは前田愛『幕末・維新期の文学』(法政大学出版局、一九七三年)や、シンポジウム日本文学『幕末の文学』(学生社、一九七七年)などがあり、「文学」(岩波書店)が一九八五年十一月号で「江戸から明治への文学」という特集を組み、「国語と国文学」(東京大学国語国文学会)の同年十一月「舌耕文芸研究」特集号にも、この時期に関する多くの論考が掲載されている。 
3長友千代治氏の『近世上方作家・書肆研究』(東京堂出版、一九九四年)にまとめられた研究や、石川了氏の「初代笠亭仙果年譜稿」(「大妻女子大学文学部紀要」十一〜十六号、一九七九〜八四年)や「花山亭笑馬の生涯」(「近世文芸」四十三号、日本近世文学会、一九八五年十一月)など一連の仕事から多くの学恩を蒙った。 
4本書第二章第二節参照。 
5引用は架蔵の袋入本による。なお、後印本では分冊され切附本仕立てになっている。以下、書名は原則として内題により、刊年の記載がない場合は改印によった。また個人蔵以外のものについては所蔵機関名を記した。 
6野崎左文「假名垣魯文」(『近世列傳躰小説史』下巻、春陽堂、一八九七<明治三十>年)。 
7野崎左文「明治初期に於ける戯作者」(『私の見た明治文壇』、春陽堂、一九二七年)。ただし、引用は明治文学全集『明治開化期文學集』(筑摩書房、一九六七年)所引によった。 
8袋入本の方が切附本より、やや格調が高かったものと思われるが、中には同じ本が双方の形態で刊行される場合もあった。 
9(「□」は手擦れや破損で判読不能の字を示す。【後補】管見に入った別本に拠り補った。)この本に限らず保存状態のよい本はきわめて稀であり、表紙から最終丁まで揃っていればよい方である。まして作者刊年板元の記載などがないものも多いのである。大衆的な読みものとしては当然のことかもしれないが、書物としては扱われず現代の週刊誌並に消耗品として読み捨てられてきたのであろう。なお、以下の本文の引用に際しては、振仮名など可能な限り原本に忠実にするように努めたが、改行などは示さなかった。 
10この作品の特異性については、すでに多くの先学が説かれているところである。たとえば、横山邦治氏は「幕末に出現した『三都妖婦伝』が、合巻と相関関係を持って出現したことは注目される」(『讀本の研究―江戸と上方と―』、風間書房、一九七四年、七三三頁)と、「合巻的中本もの」(切附本や袋入本を示す)の先行作として例示している。なお、引用は架蔵本によった。 
11管見に入った十本ほどの内、国立国会図書館本(W98-8)は初印本だと思われ、袋付きで保存のよい善本である。 
12馬琴の関与したものでいえば、『繪本巴女一代記』(寛政五年序)、『繪本大江山物語』(寛政十一年)、『繪本尊氏勲功記』『楠二代軍記』(寛政十二年)、『畫本武王軍談』(享和元年)、『繪本漢楚軍談』(文化元年)などを指している。中本よりはひとまわり大きな紙型を用い、全丁絵入りで、上部を雲形に区切り漢字仮名混じりの本文がある。表紙には短冊型題簽を用いているが、草双紙に近いものである。 
13中本のものは未見、国会本も新城市教育委員会牧野文庫本も半紙本仕立であった。 
14東洋文庫岩崎文庫蔵『書物袋繪外題集』に『昔唄花街話説』の絵題簽三枚が残されている。ほかの二作にも絵題簽が施されていた可能性がある。あるいは短冊型文字題簽本と両方の形態で出されたものか。 
15本書第四章第五節参照。なお、この種の改題本に鬼武の作が多い点が気になる。おそらく、鬼武の作品の側に原因があったものと考えている。 
16原本未見。『草双紙と読本の研究』(『水谷不倒著作集』二巻、中央公論社、一九七三年、二七三頁)に掲載されている図版による。 
17馬琴の中本型読本でも『敵討記念長船』など、所在不明の改題本と思われるものがあり、あるいは、このような合巻風のものであったかもしれない。 
18向井信夫「『殺生石』と山口屋について」(「馬琴日記月報3」、中央公論社、一九七三年九月)。 
19引用は都立中央図書館特別文庫所蔵本(特632)による。 
20石川了氏は「幕末続き物合巻と切附本―『松浦船水棹婦言』の場合―」(「大妻国文」二十四号、一九九三年)および、「幕末続き物合巻と切附本(二)―『古今草紙合』の場合―」(「大妻女子大学紀要―文系―」二十六号、一九九四年三月)で、紅英堂蔦屋吉蔵が安政六年頃に合巻の<改竄後印本>を出した実例を紹介し、それらの板木に加えられた改竄を詳細に分析した上で、五丁一冊の意識を捨て、読切りを意図したこれらの合巻改竄本は<草双紙型切附本>とでも呼ぶべき本であること、また、この改竄本の刊行は切附本流行に対する蔦吉の取り組みであることを指摘している。石川氏の指摘は、近世末期の草双紙改竄本刊行の実態報告として、また天保の改革以後急成長を遂げて明治期まで活躍した板元蔦吉の安直な商法の報告として、はなはだ重要である。ただ、氏が丁寧に拙稿(本節初出)の論旨を紹介して下さった通り、基本的には、切附本を中本型読本の流れの中で把握したいと考えている。もちろん、切附本は中本型読本の草双紙との折衷様式として作成されたのであるから明確な峻別は困難であろうが。 
21興津要氏は「書型から見た終末期の戯作」(「学術研究」、一九六二年十一月)で、「小新聞のふりがな絵いりのスタイルが単行本にもちこまれて……「みるもの」であった江戸式合巻から「よむもの」としての明治式合巻へと質的変化をきたしたのだった」と述べ、『転換期の文学』(前掲、六四頁)でも「仮名垣派のはじめた漢字ふりがなつきの明治式合巻もたしかに江戸の合巻とちがって、新時代のよみ物へと質的変化があった」としている(氏の用いる「江戸式合巻」とは、江戸期の仮名ばかりの<合巻>を指し、「明治式合巻」の方は明治期の漢字混じり振仮名付きの<明治合巻>を表わしている)。さらに、これらの説について『最後の江戸戯作者たち』(前掲)の「あとがき」では、「学界常識になったといおうか、定説になったといおうか」と述べている。 
22三田村鳶魚は「明治年代合巻の外観」(「早稲田文学」明治文学号、一九二五年三月)で、明治合巻が「仮名交りに書いて、振仮名がついていること」の理由として「新聞の体裁を持ち込んだからというだけでなく、学問といえばまず漢学を第一にした時代ゆえ、……戯作者だった連中が、多少とも学者気取りになった様子がないでもない」と述べ、「明治になって新たに出来た江戸式合巻は、ことごとく仮名交りの振仮名つきといって差支えなかろう」とした上で、江戸末期の「錦絵表紙の講談本」が「仮名交りに書いて、振仮名がついている」ことを指摘している(ここでいう「江戸式合巻」とは木板の謂で「錦絵表紙の講談本」とは、おそらく切附本を指すものと思われる)。つまり鳶魚がつとに説いていた通り、明治合巻の「仮名交り振仮名つき」(漢字仮名混じり総傍訓)という様式は、決して文明開化の所産ではなかったのである。 
23中野三敏『江戸名物評判記案内』(岩波新書、一九八五年九月、六五頁)。 
24坪内逍遥は「新舊過渡期の囘想」(「早稲田文学」明治文学号、一九二五年三月)で、慶応末の時勢について「掛け構ひのない者共の心までをも忙しくした。いかな婦幼も、もう迚も落ちついて、平假名一點張りのだらだらした草双紙などを拾ひ讀みしてをられる時ではなかつた」と記している。 
25引用は架蔵本による。 
26中村幸彦「実録と演劇」(『中村幸彦著述集』十巻、中央公論社、一九八三年、五六頁)。 
27鈴木重三「合巻について」(文化講座シリーズ9、大東急記念文庫、一九六一年)、服部仁「読本鈔録合巻の実相(上)(下)」(「読本研究」五・六輯上套、一九九一・二年)。 
28前編の序に「爰に著す野干の一話も、余は化たと思へども原稿虚の革衣、彼読本の抄録とは、看官以前承知なるべし」とあり、本文だけでなく口絵や挿絵も、ほぼ原拠と同じ図柄を用いている。 
29拙稿「切附本瞥見―岳亭定岡の二作について―」(「近世部会会報」8、日本文学協会近世部会、一九八六年夏)。 
30引用は架蔵本による。 
31「切附本五十丁内挿畫十丁其下畫も皆作者より附けて遣る例なりの潤筆金二分と定めたり」(野崎左文「假名垣魯文」)とある。相場より安かったのである。 
32引用は早稲田大学図書館蔵本(ヘ3-3944)による。 
33平塚良宣『假名垣魯文』(私家版、一九七九年)、山口豊子「仮名垣魯文」(『近代文学研究叢書2』増訂版、昭和女子大学、一九六九年)。 
34大惣旧蔵書目の「画英雄鑑か八百題」(柴田光彦編、日本書誌学大系27、『大惣蔵書目録と研究』本文編、青裳堂書店、一九八三年、三九七〜四〇〇頁)には、管見に及んだもの以外にも切附本ではないかと推測できるものが、いくつか挙げられている。 
35野崎左文「假名垣魯文」(『近世列傳躰小説史』下巻、春陽堂、一八九七<明治三十>年)。 
36井上隆明『近世書林板元総覧』(日本書誌学大系14、青裳堂書店、一九八一年)。 
37中村幸彦「実録体小説研究の提唱」(『中村幸彦著述集』十巻、中央公論社、一九八三年)。 
38延広真治「舌耕文芸関係資料」(「図書館の窓」十九巻九号、東京大学総合図書館、一九八〇年九月)。 
第三章江戸読本の世界

 

第一節『松浦佐用媛石魂録』論 
一問題の所在 
文化五年(一八〇八)、馬琴は五点十冊の合巻と十一点五十五冊の読本を刊行している。この年は馬琴の生涯において、一年間の刊行数が最大の年であり、同時に文学史上、読本の刊行数が最大の年であった。そして、文化三年から五年に至る三年間に、馬琴読本の約半数が刊行されているのである。 
『松浦佐用媛石魂録』(以下『石魂録』)は、この多作期の頂点たる文化四年五月の序を持っている。その前編(三巻三冊)は翌年文化五年に刊行された。下巻の奥付に「右石魂録後編来冬無遅滞出版」と予告があるにもかかわらず、後編(七巻七冊)が刊行されたのは二十年後の文政十一年(一八二八)であった。その間の事情を後編上帙の「再識1」に見てみよう。 
この書(しよ)前集(ぜんしふ)三巻(みまき)。〔第(だい)一回(くわい)より第(だい)十回(くわい)に至(いた)る。楮數(かみかず)九十一頁(ひら)〕文化(ぶんくわ)四年(よねん)丁卯(ひのとう)の夏(なつ)。書肆(しよし)雙鶴堂(さうくわくだう)の需(もとめ)に応(おう)して創(さう)したり。是(これ)よりして後(のち)。又(また)後集(こうしふ)の討求(もとめ)ありといへども。筆硯(ひつけん)煩夛(はんた)の故(ゆゑ)をもて。いまだ果(はた)さゞりけるに。雙鶴堂(さうくわくだう)物故(もつこ)して。その刻板(こくはん)數十枚(すじうひら)。千翁軒(せんおうけん)の手(て)に落(おち)たり。こゝをもて千翁軒(せんおうけん)。梓(あづさ)を續(つぎ)て全(まつたう)せんとて。予(よ)が著(ちよ)を乞(こ)ふこと頻々(ひん/\)也。予(よ)はその舊作(きうさく)たるをもて。今(いま)さら稿(こう)を續(つが)まく欲(ほり)せず。且(かつ)第(だい)十回(くわい)の結局(むすび)なる。〔末(すゑ)の龍華(たつはな)の巻(まき)なり〕玉嶋(たましま)母子(ぼし)兄弟(きやうだい)再會(さいくわい)し。清縄(きよつな)自刃(じじん)の段(だん)に至(いた)りて。一部(いちぶ)の趣向(しゆこう)既(すで)に全(まつた)し。又(また)何事(なにこと)をか綴起(つゞりおこ)さん。この故(ゆゑ)にその請(こは)るゝを許諾(うけひ)しより。又(また)五六年(ねん)を歴(ふ)る程(ほど)に。翁軒(おうけん)屡(しば/\)柴扉(さいひ)を敲(たゝ)きて。請求(こひもとむ)ることいよ/\急(きう)也。よりて已(やむ)ことを得(え)ず。今茲(ことし)病後(びやうご)に研(すゞり)を發(ひら)きて。後集(こうしふ)七巻(なゝまき)を綴(つゞ)り做(な)して。もて稍(やゝ)責(せめ)を塞(ふさぎ)にき。前集(ぜんしふ)發兌(はつだ)の歳(とし)よりして。こゝに二十一个年(かねん)。拙(つたな)き隋(まゝ)に老(おい)せぬ筆(ふで)もて。又(また)後集(こうしふ)を續出(つぎいだ)せるは。吁(あゝ)われながらいと/\をかし。(後編一巻) 
また、『近世物之本江戸作者部類』(以下『作者部類』)には次のようにある2。 
文政の初の比半蔵3石魂録前編の古板を購得て後編を刊行せまく欲りし文政五六年の比より曲亭にこれを乞ふといへとも前編を綴りしより既に二十許年に及ひていたく流行に後れしものなれハ作者のこゝろこゝにあらす。この故に久しく稿を創めさりしに半蔵なほこりすまに乞ふこと年を累ねて已さりけれハ曲亭竟に黙止かたくて編を續て全本となしたる也。 
「流行に後れし」「旧作」というのは年月が経過した結果である。なぜ予定通り翌年に後編が書かれなかったのであろうか。単に「筆硯煩多の故」に、未完の作品を二十年も放置しておいたのであろうか。「已ことを得ず」書かれた後編ではあったが、「勢ひ八犬傳に及ふへくもあらされとも亦是隋て行れたりといふ」(『作者部類』)のである。確かに後印本も多く出板されており、さらに笠亭仙果により「仮名読み石魂録」とでもいうべき合巻『松浦舩水棹婦言(まつらぶねみさほふげん)』が嘉永六年(一八五三)から安政三年(一八五六)にかけて、一勇斎国芳の華麗な挿絵によって刊行されている。これらのことからも『石魂録』の評判をうかがうことができるであろう。 
ところで、後編の序には次のようにある。 
今茲肇秋曝書ノ間。曩篇三巻ヲ取テ之ヲ讀ムニ。〓然トシテ世ヲ隔タル者ノ如シ。即舊案ニ縁テ。以新研ヲ發シ。黽勉シテ稿ヲ續ク焉。未數月ニ至ラズ。本篇七巻方ニ成レリ。此レ後集之以世ニ刊布スル所也。蓋人情ハ舊キヲ〓フ。時好ニ也走レハ也。是ノ擧ヤ也既ニ時好ニ後レテ。又自售ンコトヲ索ム。寔ニ兎ヲ獲テ蹄ウケヲ忘ルヽ者之為ル所。予カ之志ニ非ス也。 
いま、この「即縁舊案。以發新研。黽勉續稿焉」という内容を検討することによって、『石魂録』前後編の相違とその意味について考察していきたい。 
二作品構想 
まず『石魂録』の構想が組み立てられた過程をたどってみよう。 
『松浦佐用媛石魂録』という題に示されたように、佐用媛伝承によるところが多い。全編のストーリーは、佐用媛が狹手彦と別れなければならなかったという「前生の因果」を滅することへ向けて展開していく。前編の「再識」に次のようにある。 
この書(しよ)の一名(いちみやう)を。松浦佐用媛石魂録(まつらさよひめせきこんろく)ともいふべし。故(ゆゑ)いかにとなれバ。領巾靡山(ひれふるやま)に妾(せう)をもとめ。望夫石(ぼうふせき)上(しよう)に子(こ)を産(うむ)を發端(ほつたん)とす。しかれば瀬川采女(せがはうねめ)ハ。後(のた)の狹手彦(さでひこ)にして。博多秋布(はかたあきしく)ハ。後(のち)の佐用媛(さよひめ)とも見なし給ひね。 
つまり登場人物の前生を伝承世界に求めたのである。また、前編の序に代えて「領巾靡山考(ひれふりやまのかうがへ)」という考証を書いている。ここで『万葉集』巻五の領巾靡山伝承と『幽明録』等に見られる望夫石の故事との類似について触れている。『万葉集』に見られるような、出征して行く夫を恋慕う妻が山上で領巾を振ったという領巾振山伝承は、『古今著聞集』『十訓抄』では中国の望夫石の故事と並べられ、さらに『本朝女鑑』『曾我物語』では後に石に化したと記され、いつしか佐用媛石化の伝承となっている。馬琴の考証もこのことに触れ、「和漢の貞婦化して石となり、その全体を遺す事いよ/\思ひわきまへかたし」と、佐用媛伝承を望夫石の故事として見做している。 
また、『日本書紀』欽明紀に見えるの伊企儺の妻大葉子の歌が、『万葉集』の佐用媛の歌に似ていると、この箇所を引用している。これは新羅を討とうとした伊企儺が敵に捕えられ、敵の王を罵ったために殺され、またその妻大葉子も捕えられ、夫の死を悼んで「韓国(からくに)の城(き)の上(へ)に立(た)ちて大葉子(おほばこ)は領巾(ひれ)振(ふ)るすみも日本(やまと)へ向(む)きて」という歌を詠んだという伝承である。この記事の後に大伴狹手彦の記事があることから、領巾振山伝承はこの大葉子を佐用媛と誤ったものだという考証を加えた後に「佐用媛(さよひめ)が事(こと)ハ。今(いま)も節婦(せつふ)の亀鑑(きかん)として。これを稱賛(せうさん)す。亦(また)大葉子(おほはこ)が亊(こと)に至(いた)りてハ。しらざるもの多(おほ)し。伊企儺(いきな)夫婦(ふさい)の幸(さち)なきにあらずや」と結句している。馬琴はこの考証で引用した伝承も登場人物の前世として設定している。つまり伊企儺は浦二郎、伊企儺を殺した敵将胡子和は糸萩、大葉子は千鳥の前世となっているのである4。 
ところで、『石魂録』は前編の見返しに「瀬川采女復讎奇談」とあるように、いわゆる〈仇討物〉という大きな枠組が与えられていた。この枠組は全編を一貫する構想として二十年を隔てた前後編を繋ぎとめる機能を果たしたと思われる。 
作者(さくしや)云(いはく)。前編(ぜんへん)三冊(さんさつ)稿(こう)成(なつ)て。まづ刊行(かんこう)す。こゝに述(のぶ)るところ。稍(やゝ)央(なかば)に過(すぎ)ず。これより以下(すゑ)。瀬川采女(せかはうねめ)鎌倉(かまくら)に赴(おもむ)く中途(ちうと)。殃危(わざはひ)にあふこと。及(およ)び瀬川浦二郎(せかはうらじらう)が傳(でん)。博多弥四郎(はかたやしらう)讒死(ざんし)の弁(べん)。若黨(わかたう)俊平(しゆんへい)。簑七(みのしち)が始終(しゞう)。秋布(あきしく)が艱難(かんなん)苦節(くせつ)。終(つひ)に仇人(かたき)鼠川嘉二郎(ねずかはかじらう)。長城野兵太(をさきのひやうだ)を撃(うち)て。名(な)を海内(かいだい)に高(たかう)し。その後(のち)俳優(はいゆう)瀬川路考(せかはろこう)。采女夫婦(うねめふうふ)が忠節(ちうせつ)心烈(しんれつ)と。英才(ゑいさい)怜悧(れいり)を景慕(けいぼ)し。瀬川(せかは)と号(ごう)し。濱村屋(はまむらや)と家称(かせう)せし事(こと)の終(をはり)まで。来載(らいさい)続(つぎ)て後篇(こうへん)に著(あらは)すべし。(前編下巻末) 
このように前編が書き上げられた段階において、全編のプロットは固定されていたものと思われる。また、この引用からわかるように瀬川菊之丞に関連する瀬川采女帰還伝承が利用されている。『太閤記』巻十四「秀吉公憐於夫婦之間事」や、『本朝烈女伝』巻五「妻女伝・菊子」によってこの伝承の全体を知ることができる。便宜上、梗概を記す。 
島津の家臣、小野摂津守の娘菊子は、龍造寺の家臣、瀬川采女正に嫁した。折からの文禄の役で高麗へ出征していった夫を恋慕い、菊子はつのる想いをしたためた長文の便りを船に託す。ところが嵐で船が難破し書簡が浜へ漂着する。これを拾った漁師が役人に届け、さらに秀吉の下に送られる。秀吉はこの文を読んで憐み、采女を帰還させる。再会を喜んだ夫婦は秀吉に謝す。すると秀吉はこの夫婦を称賛して多くの引出物を与えた。 
この伝承は、さらに潤色が加えられ『玉帚木(たまははき)』巻四「波路文匣5」に見られる。この中で、菊子と采女の別離の場面に修辞として佐用媛が登場している。 
かくて夜あけはなれければ、采女正いまはこれまでなりとて、たもとをふりきり出行ば、菊子はなげきにたへかねて、しばしは人心ちもなかりける。かのむかしまつらさよ姫が夫のわかれをかなしみて、身をもだへひれふりたるありさまも、かくやあらんとあはれなり。(強調高木) 
場所も肥前であり、朝鮮へ出征する夫との別離を悲しむ菊子の心情は、まさに佐用媛のそれに合致しているのである。これを馬琴が看過するはずはない。ここに見られる菊子の設定は、深窓で養われ、見目形美しく、ひたすらに敷島の道に思いを寄せ、和歌を詠じ、これを見聞く人々はみな見ぬ恋いに焦れたとなっている。これらはすべてそのまま秋布の設定に利用されていると思われる6。 
この伝承に関連する瀬川菊之丞について馬琴は次のように記している。 
〇傳に曰。近世の歌舞伎役者。瀬川菊之丞は。吉次菊子が情義を景慕して。瀬川と稱し。菊之丞と名つきたり。こは世の人の知る所也。按するに。元祖瀬川菊之丞は。享保十五年の冬。初て東行して。中村勘三郎座へ出たり。〔當時評判記の品定上上吉也〕このとき弟菊二郎は。京都榊山四郎太郎座にあり〔評判記の品定上白上なり〕この菊之丞が俳名を。路孝といひしは。吉次が父の名を。道孝(みちたか○ドウコウ)といへるに。よく暗合すといふべし。又二代目瀬川菊之丞は。〔養子也世の人これを王子路孝といへり。〕小字(をさなな)を瀬川吉次といひにき。これも亦采女吉次が名を取れるにや。強て説をなすときは。菊次郎が俳名を仙女(せんぢよ)といひしは。浦二郎が實名の。選如(のぶゆき○センジヨ)と字音相近し。これらは蛇足(じやそく)の辧(べん)なるを。縡(こと)の因(ちなみ)に識すのみ。(後編七巻末) 
路考が屋号(イヘナ)を濱村屋と唱るも吉次等が母は濱村氏也と前集に見えたれは縁あり。(同右頭注) 
強調した部分に馬琴の作為が表出している。瀬川菊之丞に関する伝が登場人物の命名に利用されているのである。 
さらに、三代目瀬川菊之丞は、享和元年九月市村座で黒船忠右衛門女房おまさを勤めた時から、菊の字を憚って菊之丞を改め路考とした7のである。これは作中の秋布の名に利用されていると思われる。 
秋布(あきしく)ハ石切山(いしきりやま)なる。叢菊(むらきく)の中(うち)にて。生(うま)れたりといへバ。菊子(きくこ)と呼(よぶ)べきものならんを。當時(たうじ)諱(いむ)よしありけれバ。菊(きく)の異名(ゐめう)を取(とり)たりと聞(きゝ)ぬ。然(さ)らバけふより改(あらた)めて。菊子(きくこ)といはまほしけれ。(後編七巻) 
菊の異名について、前編で『事物異名』『蔵玉』『莫伝抄』『藻塩草』などを引き考証した後、重陽に菊を折布て褥として生まれた秋布について次のようにある。 
漢(から)に女節(ぢよせつ)。壽客(じゆかく)と呼(よ)び。和(やまと)に少女花(をとめはな)。まさり草(くさ)と稱(となへ)て。霜(しも)に後(おく)るゝ花(はな)の操(みさほ)を。貞女(ていぢよ)のうへに譬(たとへ)たれバ。今(いま)博多(はかた)弥(や)四郎が。女児(むすめ)を菊(きく)に象(かたど)りて。秋布(あきしく)と名(な)づけしも故(ゆゑ)あり。(前編上巻第二) 
この貞節の象徴である菊は、その異名「唐蓬」を採って題名ともなっている8。「唐蓬大和言葉(からよもぎやまとことば)と名(な)づくるものハ。霜(しも)に後(おく)るゝ菊(きく)の操(みさほ)を。義男(ぎだん)節婦(せつふ)に比(たとへ)ていふ也」(前編再識)とあるように、菊は『石魂録』の構想に通底する連想の軸となっているのである。 
ここまでを整理してみよう。まず、松浦という渡海地点をめぐる〈佐用媛−狹手彦〉の別離の伝承と〈瀬川采女−菊子〉の別離と再会の伝承とが〈貞女〉という項で括られて重ねられたものと思われる。その直接の契機は『玉帚木』に求められるだろう。一方〈瀬川菊〉の名は〈瀬川菊之丞〉を想起させ、〈菊之丞−菊二郎〉の兄弟をモデルにして〈松太郎−浦二郎〉という松浦の地名を冠した兄弟の設定を促したと考えられる。さらに佐用媛伝承と〈大葉子−伊企儺〉の伝承を利用して、仇討物という大きな枠組の中に、前生の因果を背負った登場人物たちが配されたものと思われる。 
三龍神と佐用媛 
佐用媛伝承の記事がある『万葉集』八七一を、拓本風の意匠で引用した前編上巻の口絵の上部に、向かい合った二尾の龍が描かれている。この一図は佐用媛伝承と龍神との関係を暗示している。 
『石魂録』において、佐用媛は世界を統一していく機能を持つ超越した存在のはずであった9。ところが佐用媛は夢告に二度だけ登場して、それ以後は出てこない。そこに龍神の化身が登場して秋布等を冥助するのである。ならば龍神は、佐用媛に代わり『石魂録』を統一する機能を持つものとして設定されたと考えることができる。ところが、文脈上は佐用媛と龍神は何一つ脈絡を持っていないのである。この点を馬琴の想像力の問題として考えてみたい。 
北条氏の始祖伝承として弁才天を扱ったものがある。『本朝神社考』の「江ノ嶋」の条に、 
北条四郎平時政詣榎島祈子孫蕃栄之事。三七日夜一人美婦緑衣朱袴忽来告時政曰汝後胤必執国権若其無道七世有失言巳而還。時政驚怪見之大蛇長可二十丈入海中。獲其所遺三鱗。鱗甚大取著之旗。所謂北条家三鱗形絞是也。 
とある10。この伝承に関して折口信夫は、「弁才天女はもと龍であって、北条氏の祖先と結婚して子を産んだ11」と述べている。『石魂録』中に時宗が榎嶋弁天へ参詣する記事があり、馬琴がこの伝承を踏まえて書いたものであると思われる。 
この弁才天と龍とは竹生島弁才天の本地譚(佐用姫説話12)を想起させる。中世の語りものに登場する「さよひめ」が佐用媛伝承と直接の関係を持つとは即断できないが、無関係ではないだろう。まず、佐用媛伝承の背景に神功皇后伝承や在地の神婚伝承等の水神伝承が広がっている点13と、人身御供となった「さよひめ」が水神(大蛇)の犠牲になることが、何らかの関連を持つと思われる。また近世に至るまでの多くの別離の場面の修辞として佐用媛伝承が利用されており、たとえば謡曲『池贄』などに見られるように14、この佐用媛の別離のモチーフが中世の人身御供譚に登場する必然性は充分にあると思われる。このような説話形成上の影響関係だけでなく、黒本『小夜姫唐船15』(宝暦八年)のように、佐用媛伝承と佐用姫説話をないまぜにした話が存在しているのである16。 
ところで、『石魂録』にも佐用姫説話の影響が認められる。たとえば健三夫婦(瀬川吉次の両親)が鏡の宮に申し子をする時の次の記述はどうであろう。 
神(かみ)もし人間(にんげん)にありしときの悲(かなし)みに思ひくらべ給はゞ。何(な)どか憐(あはれ)み給はざらん。(前編上巻第一) 
明らかに神(佐用媛)の本地を意識した発想であろう。この申し子の段、また作中の人買い、法華経提婆品、如意宝珠などの諸趣向は、佐用姫説話からの影響と考えることができる。この佐用姫説話には、〈佐用媛−弁才天−龍〉を結合させる要素が備わっているのである。 
また、作中の主なる事件が海や海辺という龍神の支配領域での出来事として描かれている。主要な地点として鎌倉、赤間の関、松浦が挙げられる。これらの場所にも水神伝承が見られる。江ノ島弁才天は鎌倉のほど近くであるし、「龍神の洞」が設定されている赤間の関には、神功皇后伝承に付加された龍神伝承がある17。さらに北九州には宗像神が鎮座し、松浦にも鏡の宮18などの神功皇后伝承がある。神功皇后を水神の鎮魂を任とする最高位の巫女であると見るならば、水神の鎮魂呪具である領巾や鏡を持つ佐用媛にもその投影があるはずである19。このようにして考えてくると、 
松浦(まつら)に鏡神社(かゞみのみや)あり。みな佐用媛(さよひめ)が事迹(ことのあと)なりといひ傳(つた)ふ。或(あるひ)ハ鏡(かゞみ)の宮(みや)ハ。神功皇后(じんごうくわうがう)。松浦山(まつらやま)に登(のぼ)りて。手(て)づから御鏡(みかゞみ)を安置(あんち)し給へるを神体(しんたい)とすといふ。しかれども。源氏物語(げんじものがたり)。新古今集(しんこきんしう)等(とう)に。鏡(かゞみ)の宮(みや)をよめる哥(うた)を見れバ。佐用媛(さよひめ)が事迹(ことのあと)とするかとおぼし。(前編上巻第一) 
という馬琴の設定も、あながち根拠のないものではないのである。つまり、佐用媛伝承の背後にある水神伝承を、佐用姫説話や神功皇后伝承の享受に際して、さらに奥深い龍神信仰と関わらせるという馬琴の想像力の大きな広がりの中に、佐用媛伝承と龍神との脈絡が求められるのではないだろうか。 
四典拠の問題 
麻生磯次氏は『石魂録』の中国典拠として明代小説『平山冷燕』を挙げた20。氏が詳説しているように、馬琴がこの書に興味を感じたのは、随所に見られる詩文の考較などの格調の高さであろう。馬琴は原話の漢詩を和歌に直したり、「筆戦舌戦」の場面で「門字の謎」の詩を『狂詩選21』から採ったりして、存分に衒学的な言語遊戯性を持った趣向を凝らしている。ただし『平山冷燕』の利用は、前編上巻第二回「陰陽(いんよう)贈答(ぞうとう)して名(な)初(はじめ)て香(かうば)し」から同中巻第五回「才(さい)を猖(そねん)で讒奸(ざんかん)罪(つみ)せらる」までの一連のプロットに限られているように思われる。 
ところで馬琴は『平山冷燕』(四才子伝)について、文政十二年二月十二日付殿村篠齋宛書簡で、「四才子傳ハ能文ニて詩句聯句抔実ニ妙也。乍去趣向ハ淡薄ニて今の流行ニあひ不申候。文人の歓ひ候小説ニて御座候22」という感想をもらしている。一方、文政十年三月二日付同人宛の書簡で「石魂録後編ヲ両三年已前より被頼居候へ共、二十余年前の著述ニて、流行もちがひ候を、今さら書きつぎ候事甚難義ニ候23」と前編の趣向がいまに合わないことを述べている。つまり『平山冷燕』に負うところの大きい前編の趣向が淡白で、いまの流行に合わないということになる。では二十年前である文化初頭の流行はどうであったのだろうか。『稚枝鳩』(文化二年)、『勧善常世物語』(文化三年)、『新累解脱物語』(文化四年)などが当時の流行に適ったのは、アクの強い残虐な描写によるものであろう。文化初期の流行を猟奇趣味と残虐さと括るならば、『石魂録』前編は当時の流行にすら合致していなかったと思われる。ここに『石魂録』の一問題がある。 
『平山冷燕』冒頭「小引」に次のようにある24。 
縦覧近世書坊間發行的諸種傳奇小説、除醒世覺世外、總不外乎才子佳人。然流行既廣、珠目自混、其文其事、若非失之平平、即係體渉于淫、欲求其語登大雅、〓而不淫、猶如鳳之毛、麟之角、豈是易求!然此平山冷燕、因有其特殊之價値、故如雲中矯鶴、巍巍乎大有雄居文壇之概、此非他、蓋由于其用筆不俗、且別具機杼、而非其他的一味以偸香竊玉爲發揮文體之根由、而作爲燈下間談之資料者可比。 
『平山冷燕』が高踏的であるが故の価値を主張しているのである。この趣旨の翻案を試みたものが『石魂録』前編ではないだろうか。「再識」でも、『伊勢物語』『大和物語』に言及していることから、歌物語を意識して書かれたことは間違いない。 
前編が敢えて当時の流行を無視して書かれた理由の一つに、文化五年に蔦屋重三郎より馬琴にまわされた「合巻作風心得之事25」のような当局からの圧力があったのかもしれない。だが、それだけでなく一つの実験として高踏的であるが故の価値を主張したいという内在的理由があったのではなかろうか。それは多分、当初は『唐蓬大和言葉』という題名を考えていたごとく、『平山冷燕』の翻案意識に支えられたものであったはずである。また、同時に馬琴自身の書く楽しみに支えられた部分が大きかったに違いない。多作期にあって、京伝との競作において増長してきた猟奇趣味と残虐さに対する反省なり批評なりが、高踏的な作者自らの書きたい小説を書かせたのであろう26。 
ところがこの実験は思わしい結果を生まなかったものと思われる。文政年間になると、「今の流行にあひ不申候」と繰り返して「申逃れ」(前掲書翰)たのは、自分の手腕を称賛できる読者がおらず、大衆に受け入れられなかったと判断したからに相違ない。 
この前編に対する反省を踏まえて、後編では〈流行〉を意識する職業作家たる自覚に支えられた新たな趣向が見られる。『石魂録』前編(初板初印本)刊記の後の「双鶴堂発販書目」に次のようにある。 
松浦佐用媛石魂録曲亭馬琴著〔前編三冊・後編三冊〕 
これによれば、前編を刊行した当初の書肆(作者)の計画では「後編三冊」であったことがわかる。ところが、文政十一年に刊行された後編は上下帙合わせて七冊なのである。丁数から見ても予定の二倍の分量になっている。これは、前編刊行時の構想(旧案)に新たな趣向(新研)が書き加えられたことを示している。後編四巻末の「石魂録後集七巻を釐(さき)て上下二帙となす附言(ふげん)」に次のようにある。 
さて又(また)この書(しよ)の前集(ぜんしふ)に。玉嶋(たましま)清縄(きよつな)等(ら)亡滅(ほろびう)せて。人寡(ひとすくな)なる後集(こうしふ)なれバ。只(たゞ)秋布(あきしく)と俊平(しゆんへい)と。主従(しゆう/\)二人(ふたり)の道(みち)ゆきぶりを。三巻(みまき)あまりに綴做(つゞりな)せしが。後(のた)の〓儲(しこみ)になれる也。 
この道行きの途中で、俊平は秋布にいい寄り誤って殺してしまう夢を見る。この趣向について後藤丹治氏は、『刈萱桑門筑紫〓』第四段の女之助と繁氏の御台所の道行きを典拠に持つ「馬琴としては異色ある一段となっている」と指摘している27。夢見の段として劇中劇の手法を典拠によっているのだが、馬琴はさらに手の込んだ趣向にしている。 
俊平(しゆんへい)ハいと浅(あさ)まし。と思へバ他事(たじ)に紛(まぎ)らして。はやく臥房(ふしど)に入(い)りたるが。日比(ひごろ)の疲労(つかれ)に熟睡(うまゐ)をしたり。かくて秋布(あきしく)ハ。次(つぐ)の日(ひ)の早旦(まだき)より。(後編三巻十二丁裏) 
哀(あは)れわれ。男子(をのこ)と生(うま)れし生甲斐(いきかひ)に。只(たゞ)この美人(びじん)を妻(つま)とせバ。百年(もゝとせ)の性命(せいめい)を。一歳(ひととせ)に縮(ちゞむ)るとも。惜(をし)むべき事にはあらねど。(後編三巻十四丁表) 
恐(おそ)るべし慎(つゝし)むべし。と心(こゝろ)で心(こゝろ)を警(いまし)めたる。これより後(のち)ハ情(じやう)を禁(とゞ)め。慾(よく)を征(せい)する工夫(くふう)をせばや。と思ひつゝ又(また)睡(ねむ)りけり。間話休題(あだしことはさておきつ)。有然程(さるほど)に秋布(あきしく)主従(しゆう%\)ハ。その暁(あかつき)に浪速(なには)を立(たち)て。三四日(みかよか)とゆく程(ほど)に。(後編三巻十四丁裏) 
読者は「間話休題」の前で夢の場面は終わったと思わされてしまう。ところが、これ以下が実はまた夢の場面なのである。 
いでや自刑(じけい)を行(おこなは)んとて。諸肌(もろはだ)脱(ぬぎ)て刀(かたな)を抜取(ぬきと)り。刃(やいは)に袖(そで)を巻添(まきそえ)て。南無(なむ)とばかりに刀尖(きつさき)を。肚(はら)へぐさと突立(つきたつ)る。と思へバ頻(しき)りに腹痛(ふくつう)して。愕然(がくねん)として驚(おどろ)き覚(さめ)けり。是(これ)暁方(あけかた)の夢(ゆめ)にして、身(み)ハなほ難波村(なんばむら)にあり。(後編三巻十九丁裏) 
五丁にわたって読者を騙したのである。職業作家のサービス精神とでもいおうか、明らかに前編には見られない趣向である。後編になると、このような趣向が随所に見られる。たとえば、秋布が敵討に出かける時に、南殿から護身刀を頂く場面では次のようにある。 
これは是(これ)命婦丸(みやうふまる)と名(な)つけたる。筑紫鍛冶(つくしかぢ)の業物(わざもの)也。長(たけ)ハ一尺二寸にして。〓(めぬき)に銀(ぎん)の猫(ねこ)を附(つけ)たり。よりて一條院(いちでふいん)の愛(めで)させ給ひし。韓猫(からねこ)の故事(ふること)もて。命婦丸(みやうふまる)とは名(な)つけたり。この逸物(いちもつ)の猫(ねこ)をもて。彼(かの)鼠川(ねずかは)を撃捕(うちとら)んに。勝(かた)ずといふことあるべからず。(後編二巻十四回) 
「鼠川(ねずかわ)嘉二郎(かじろう)」という片目片跛の敵と誤って「根塚(ねづか)若二郎(わかじろう)」を討とうとすることなども同じ趣向である。また後編になると龍神の妖術が前面に出されてくる点も見逃せない。 
このように、後編には明らかに前編とは違う点に作者の意が用いられているのである。馬琴の書く意識は自己充足的なものから、読者の興味を意識したものへと変化してきたのである。 
ここまで見てきたのは、前後編の一貫した構想と、変化した書く意識が趣向の相違として見られるということであった。 
五前後編の差異 
前後編の趣向の相違は、作者における読本観の変化を意味している。以下、登場人物たちの形象に注目して考えていきたい。 
前編において秋布は才に長けた貞婦として描かれている。貞婦という概念で佐用媛と瀬川菊子を括ったからである。この両者は待つ女として位置付けられる。ところが後半になると秋布は追う女へと成長を遂げるのである。 
近層(ちかころ)先非(せんひ)を悔(くふ)よしありて。一生涯(いつせうがい)歌(うた)をば詠(よむ)まじ。問(とは)るゝ事(こと)を博士態(はかせぶり)て。論(ろう)ずまじけれ。と誓(ちか)ひ侍(はべ)りき。その故(ゆゑ)ハ親(おや)と良人(をつと)が。非命(ひめい)に世(よ)を逝侍(さりはべ)りしも。始(はじめ)を推(お)せバ博士態(はかせぶり)たる。わらはが愆(あやまち)より起(おこ)り侍(はべ)りき。(後編二巻十四回) 
という才女であるが故の罪障性の自覚を契機として、 
親(おや)良人(をつと)の。忌服(きふく)の怕(おそ)れハ有(あり)ながら。迚(とて)もわが身(み)を贄(にゑ)にして。死(し)ぬるに憚(はゞか)ることやハある。鶴岡(つるがおか)なる大神(おほんかみ)の。社頭(しやとう)に祈念(きねん)を凝(こら)さんものを。と深念(しあん)をしつつ走(はし)り出(いで)て。……それ将(はた)神(かみ)の威徳(ゐとく)にも。及(およ)ばせ給はぬものならバ。秋布(あきしく)が露(つゆ)の命(いのち)を。七日(なのか)の間(あはひ)に取(と)らせ給へ。(後編二巻十三回) 
という自己犠牲を決意する。そしてこの決意が龍神の加護を発動させるのである。かくして聖痕28としての〈才〉を捨て〈美貌〉を編笠で隠した仇討ち、夫恋いの流浪が開始されるのである。この流浪受苦は貞婦であるが故の罪障性、つまり戦地に赴いた夫に対し綿々とその情を訴える文を出したという、武士的倫理において否定されるべき行為29の贖罪過程としての意味を持っていると考えることができる。秋布の描かれ方のこのような変化は、馬琴の瀬川采女帰還伝承に対する批判が後編になって明確にされたものとして理解されるのである。 
ところで、この道行きの後、行動者としての秋布は相対的に後退してしまう。代わって前面に登場してくるのが糸萩である。秋布が佐用媛伝承を担っているように、糸萩は日高川伝承を担っている。 
わらはハ件(くだん)の人々(ひと%\)を。追(お)ひつゝこゝに来(き)ぬるもの也。いかばかりの足(そく)なりとも。舩賃(ふなちん)は〓(いとは)しからず。乗(の)して追著(おひつき)給へかし。と憑(たの)めバ舟人(ふなひと)微笑(ほうゑみ)て。原来(さては)おん身(み)ハ清媛(きよひめ)歟(か)。こゝは日高(ひたか)にあらねども。世渡(よわた)りなれバ推辞(いなま)んや。疾(とく)乗(のり)給へ。と応(いらへ)をしつゝ。(後編七巻廿三回) 
海岸まで吉次等を追ってきた糸萩と船頭とのやりとりである。糸萩の追跡は、三年間待ち続けた浦二郎を秋布に取られたと思い込む怨念によるものである。怨念を果たさずにはいられない糸萩は、秋布との対比の中で負の方向性を持った女の執念の体現者として描かれている。この糸萩の情念は背景にある清姫の情念により補強される。つまり〈秋布−糸萩〉が対偶の方法30により〈佐用媛−清姫〉として対比されているのである。しかし、この構造を単に〈貞婦−淫婦〉としてとらえ切ることはできない。『神霊矢口渡』第四「道行比翼の袖」に次のような記述がある31。 
夫を慕ふ執着心。蛇共成べき日高の川。領巾靡山の悲しみも是には。いかで増るべき。 
ここでは佐用媛と清姫とを並立している。正確にいえば、日高川伝承の方が佐用媛伝承より「夫を慕ふ執着心」が強いということなのかもしれない。だが、両者を「夫を慕ふ執着心」で括った点に意味がある。佐用媛が夫を慕い追跡が不能な故に石と化したのに対し、清姫はその追跡を可能にするために蛇と化したのである。共にその追跡の障害は前に横たわっていた川(海)であった。ならば、川渡り=渡海の可否が両者の相違である。つまり佐用媛と清姫は「夫を慕ふ執着心」の有様を逆転させた伝承を、それぞれが担っているのである32。 
渡海地点における望夫石伝承は、その裏側に川渡り伝承を保有しているといえよう。つまり、望夫石の内側に女の執念が封じ込められていると見ることが可能なのである。 
前編における秋布の貞婦性には、待つ女として望夫石に封じ込められた女の執念が秘匿されていた。これは、〈秋布−糸萩〉の対比の中で明らかにされる。〈秋布−糸萩〉の関係は、双子で何から何まで酷似している〈吉次−浦二郎〉の関係によって側面から規定される。吉次にとって浦二郎は「鏡に映る影」(後編二巻十九丁裏)なのである。対偶の方法において、影はその実像を相対化して裏側から照らし出す機能が与えられていると考えられる。 
つまり、秋布の内部に隠されていた情念が糸萩によって照らし出されているのである。これは秋布の内部における貞婦であることと女である情念との葛藤や成長が、糸萩の行動を通じて描かれたということである。行動の叙述が中心である読本において、待つ女から追う女に変貌した秋布の内部での葛藤は、影である糸萩の行動によらなければ表現できなかったと考えられるのである。 
一方、浦二郎は裏二郎でもあり、吉次の影として代受苦の任を負い、長い漂流の末、潮毒に犯され体中がふくれ口がきけない乞食となる。その浦二郎が、宿直葛篭の車に乗せられて経を唱えながら女に曳かれるように、そこには小栗の土車が投影されている。つまり、浦二郎の仮死−再生の背後に餓鬼阿弥蘇生説話が見られる。小栗が照手によりその罪障の贖いを代行され蘇生することができたように、浦二郎も糸萩の血によって再生できたのである。 
そして、この〈浦二郎−糸萩〉の関係は、〈吉次−秋布〉にとっての犠牲者である玉嶋、清縄、俊平等の死の意味を照らし出す。つまり、近世道徳に沈められて死んでいった者たちの上に、古代伝承へ回帰して血で贖うという側面が重ねられることによって、読本的悲劇としての犠牲死の意味が浮上してくるのである。それは、近世道徳を貫くことによって死んだ者に対する一種の鎮魂歌だったのではないだろうか。古代伝承のロマネスクな世界こそ、魂の自由な飛翔の場としてふさわしかったのであろう。 
このように見てくると、伝承を織り交ぜた対偶の方法は、単に一対という意味ではなく、物語を立体化し、ストーリーを活性化する方法であることがわかる。この方法を馬琴が獲得したことによって初めて、前編の持つ衒学的な言語遊戯性に支えられた貞婦物語という否定的側面を克服することができたのである。 
前編の構想に拘束された因果を解きほぐすという後編の逃れがたい限定にもかかわらず、伝承の扱い方による立体化の方法は、前編刊行時の構想を反転することに成功をもたらしたのである。 
六虚実の場 
馬琴は巻末に次のように書き加えている。 
大約(おほよそ)小説(せうせつ)に。實場(じつのば)あり虚場(きよのば)あり。虚場(きよぢやう)ハ所云(いはゆる)。乾坤丸(けんこんまる)舩舶中(せんはくちう)の縡(こと)の趣(おもむき)。又(また)村山俊平(むらやましゆんへい)が夢寝(ゆめ)の一段(いちだん)。即(すなはち)これ也。實(じつ)はよく情態(じやうたい)を写(うつ)すをいふ。虚(きよ)は猶(なほ)仮(か○ニセモノ)の如(ごと)し。虚實(きよじつ)の二場(ふたば)を辧(べん)するものを。よく小説(せうせつ)を観(み)るといはまし。(後編七巻末) 
これは馬琴流の逆説ではなかろうか。〈虚場〉において描かれる情態が〈実場〉の建前を相対化して、その実態を浮き彫りにするのである。夢見の段では、俊平の〈忠心義胆〉に対して夢という幻想の方法によって、内面における愛慾の煩悶を描き、乾坤丸33の段では、〈現世〉に対して龍神の妖術という幻想の方法で、洋中の別世界というユートピアを対置したのである。 
この〈虚場〉における幻想の方法はストーリーの流れを停滞させ混乱させてしまうが、同時にストーリーの豊饒性を創出していると考えられる。いま、確認しなければならないのは、前編には〈虚場〉がないということである。そして、後編の大部分が〈虚場〉であることを見れば、後編が前編を相対化していることに気付く。ここに新たな趣向として〈虚場〉を後編に書き込まなければならなかった必然性があったのである。 
さらに深読みしていけば、仇討物という建前的枠組の中で、『石魂録』はまったく建前と異なる別途の主題を追求していると見ることができるかもしれない。 
夫婦が共に住めないという男女の関係性の欠落を補足しようとする願望が女主人公の行動原理となり、そこに結ばれるはずのない因縁の男女を配することによって『石魂録』が成立しているとするならば、『石魂録』は馬琴にとって異色な女の内的葛藤を描いた物語であるということができるのである。 
注 
1.これは初板初印本だけにあり、後印本では「肥前松浦潟頭巾靡山望夫石之図」と題する口絵となっている。 
2.木村三四吾編『近世物之本江戸作者部類』(八木書店、一九八八年)。 
3.『石魂録』後編の板元である千翁軒大坂屋半蔵のこと。 
4.麻生磯次「松浦佐用媛石魂録と平山冷燕」(『江戸文学と中国文学』、三省堂、一九四六年)。 
5.浮世草子、林義端作、元禄九年刊。引用は国会本による。 
6.麻生氏は瀬川采女伝説として『玉帚木』の趣向を採り入れたとするが、『太閤記』や『本朝列女伝』でなく『玉帚記』を典拠としなければならなかった必然性があったと思われる。 
7.『歌舞伎年表』『歌舞妓年代記』にも見えている。いわゆる「菊法度」。 
8.『画入読本外題作者画工書肆名目集』には「唐蓬大和言葉\松浦佐用媛石魂録と改」とある。前編の板本につけば、内題尾題は象嵌されており、柱刻は「大和言葉」となっている。菊法度のために出願後、書名が変更されたのであろう。 
9.麻生磯次『江戸小説概論』(山田書院、一九五六年)。 
10.同じ伝承は、ほかに『和漢三才図会』『太平記』『北条九代記』などにも見えている。 
11.折口信夫「龍の伝説」(『折口信夫全集』十六巻、中央公論社、一九五六年、初出一九四〇年)。 
12.説経節『まつら長者』(『まつら長じや』)、奈良絵本『さよひめ』『さよひめのさうし』など。なお、これらの説話を佐用媛伝承と区別するために、ここでは〈佐用姫説話〉と呼ぶことにする。 
13.吉井巌「サヨヒメ伝承と山上憶良」(「国文学」二十三巻五号、學燈社、一九七八年四月)。 
14.「父母あれはと舟を慕へば。姫も互に名残を惜み。招けば招く風情はさながら。松浦佐用姫かくやらんと。汀にひれ伏し泣き居たり」(名著全集『謡曲三百五十番集』)。なお、この『池贄』所収の和歌は、佐用姫説話と類似のプロットを持つ謡曲『松浦姫』(『未刊謡曲集』十四、古典文庫、一九六九年)にも見られる。 
15.『松浦佐用姫望夫石』(明和四年)も同一のものである。改題後印本か。 
16.『註文通書物語』(文化十三年、東里山人)も佐用姫説話に佐用媛伝承を付会した合巻である。 
17.『本朝怪談故事』巻四第六「和布苅神事」(高田衛・阿部真司編、伝統と現代社、一九七八年)。 
18.『百錬抄』『東鑑』『松浦古来略伝記』など。 
19.山上伊豆母「水呪と巫女」(「伝統と現代」四十八号、伝統と現代社、一九七七年九月)。 
20.未見だが『望夫石』という伝奇(『晨風閣叢書第一集』所収)が典拠の可能性を持つと思われる。『大漢和辞典』(大修館書店)「望夫石」の項に「傳奇の名。清初、海上の變に常熟の戴高の子、研生と、王氏の女の琴娘とが婚約のまま音信が絶えたが、幾星霜へ歴て團圓したことを演ず」とある。 
21.『かくやいかにの記』(『随筆百花苑』六巻、中央公論社、一九八三年)第四段では、『背紐』(享保十三年)から採ったとするが、徳田武氏は「馬琴読本の漢詩と『南宋志伝』『狂詩選』」(『日本近世小説と中国文学』)で、都賀庭鐘編『漢国狂詩選』(宝暦十三年)の馬琴自筆写本『狂詩選』に見える同詩の上に朱の丸が二個付されていることから、直接のよりどころとして『狂詩選』を指摘した。なお、『かくやいかにの記』第五段では『耳食録』兇賊の条が『石魂録』後編巻之一「渡海の舩中に少年清談す」の典拠であると指摘している。後藤丹治氏は「庭鐘の諸作と後世文学」(「学大国文」六号、大阪学芸大学、一九六三年)で、これを支持した上で『古今奇談英草紙』「豊原兼秋」の条に胚胎したものであると述べている。 
22.原翰所在不明。藤井乙男氏による転写本の翻刻を載せる『日本大学総合図書館蔵馬琴書翰集』(八木書店、一九九二年)による。なお、文化四年刊『墨田川梅柳新書』(鶴喜板)の巻末予告広告には『石魂録』とは別に『名歌徳四才子傳』が掲出されているが、この『四才子傳』とは『平山冷燕』の一名「四才子書」に通じるところから、当初は別本にする計画だったようだ。 
23.『馬琴書翰集』(天理図書館善本叢書53、八木書店、一九八〇年)。 
24.引用した「小引」は『新式標點平山冷燕』(王祖箴標點、大達圖書供應社、二十三年十二月再版)に付されているもの。馬琴の所見本について、柴田光彦氏は「馬琴旧蔵は「新刻批評繍像平山冷燕」(六巻康煕中静寄山房刊八冊)をさすのか、また新収のものは、おそらく清版四冊本」(早稲田大学図書館紀要別冊3「早稲田大学図書館所蔵曲亭馬琴書簡集」、早稲田大学図書館、一九六八年)と考証しているが、該本にこの「小引」があったかどうかは未確認。 
25.『著作堂雑記(抄)』(『曲亭遺稿』、国書刊行会、一九一一年)に次のようにある。 
〇去る九月二十日(文化五年)、蔦屋重三郎より文通之寫、 
合巻作風心得之事 
一男女共兇惡の事、 
一同奇病を煩ひ、身中より火抔燃出、右に付怪異の事、 
一惡婦強力の事、 
一女〓幼年者盗賊筋の事、 
一人の首抔飛廻り候事、 
一葬禮の體、 
一水腐の死骸、 
一天災之事、 
一異鳥異獣之圖、 
右之外、蛇抔身體手足へ巻付居候類、一切◎此の間不明夫婦の契約致し、後に親子兄妹等の由相知れ候類、都而當時に拘り候類は不宜候由、御懸り役頭より、名主山口庄左衛門殿被申聞候に付、右之趣仲ヶ間申合、以來右體の作出板致間敷旨取極致置候間、御心得にも相成可申哉と、此段御案内申上候、 
九月二十日 
蔦重 
〇著作堂様 
26.徳田武氏は「文人の小説、戯作者の小説」(『日本近世小説と中国小説』)で、三宅匡敬作の上方出来読本『絵本沈香亭』(文化三年)が中国小説の翻訳に近いものであるのと比較して、馬琴が『石魂録』の詩文考較部に長嘯子『挙白集』や『藤原仲文章』『円珠庵雑記』などの和書から引いている点に注目し、雅の要素の意識的導入を見る。 
27.「解説」(日本古典文学大系60『椿説弓張月』上巻、岩波書店、一九五八年)。 
28.秋布が佐用媛の後身であるが故の〈才〉と〈美貌〉を意味する。 
29.松田修「概説」(有斐閣選書『近世の文学(上)』一章「幻のルネッサンス」、一九七六年、有斐閣)。 
30.水野稔「馬琴文学の形成」(『江戸小説論叢』、中央公論社、一九七四年)。 
31.浄瑠璃、福内鬼外(平賀源内)作、明和七年正月江戸外記座初演、須原屋市兵衛刊。引用は『風来山人集』(日本古典文学大系55、岩波書店、一九六一年)による。 
32.源内のこの認識を馬琴が継承している。 
33.乾坤丸という大船の記事は、いわゆる黒田騒動物である『寛永箱崎文庫』(帝国文庫『騒動實記』所収、博文館、一八九三年)に見えている。 
第二節『松浦佐用媛石魂録』の諸板本 
馬琴読本における書誌研究の重要性を説かれたのは鈴木重三氏である。氏は多くの板本にあたりながら、現在では稀覯となった多くの初板本の形態を紹介し、さらに馬琴が本文の校合だけでなく挿絵にまで細かい神経を遣っていたことを実証した1。 
『松浦佐用媛石魂録』(以下『石魂録』)には、ほかの馬琴読本と同様に、初版初印本の口絵や挿絵が入った校訂の確かな信頼すべき翻刻は備わっていない。そこで『石魂録』の諸板研究を試みた2。 
『石魂録』前編三巻三冊は文化五年に、後編七巻七冊は文政十一年に刊行された。前編刊行後二十年を経て後編が刊行されるという、馬琴読本にあっては特異な成立をした作品である。 
まず前編の初板本については鈴木重三氏が行き届いた報告をしているので、これに基づいて記しておくことにしたい。なお前編の初板本は鈴木氏のほかに、中村幸彦氏も同板を所蔵で、こちらは国文学研究資料館の紙焼写真で見ることができた。また都立中央図書館加賀文庫(8286)には文化五年初板発行時の自筆校合本(前編のみ合一冊)がある。 
前編 
冊数三巻三冊。 
表紙鴬茶に業平格子風の浮出模様。題簽は表紙中央で木目模様の枠内に書名「松浦佐用媛石魂録上(中下)」。 
見返紗綾型枠内に銅器の意匠、これを囲むように上部に「松浦佐用媛石〓録」、右に「曲亭主人著」「戊辰發兌\出像小説」、左に「歌川豊廣畫」「仙鶴堂\雙鶴堂梓」とある。壷の中に「壽光」「比〓毛美都波流巳加我弥乃鳥梅麻傳母」「前編三冊」、上部欄外には「瀬川采女復讎奇談」とある。 
柱刻「大和言葉3巻之上(中下)」。 
口絵二図(七ウ、八オ)は薄墨を用いて背景が潰されているが、八オの長城野兵太の着物には艶墨が施されている。また、八オに付された「文化丁卯仲夏提月曲亭主人再識」は後印本では削除されてしまう。 
内題「松浦佐用媛石魂録前(編)上(中下)巻」(象嵌) 
挿絵中巻第一図(三ウ四オ)では、御簾の中にいる侍女等を薄墨で入れ御簾越しの風情を出している。同巻第五図(十八ウ十九オ)では、瀬川采女の乗る馬と水平線上の雲と月を薄墨で入れ、上部をボカシている。下巻第一図(四ウ五オ)の龍神洞の異人の乗る雲が薄墨で入れられ上に行くほど薄くなっている。異人の背の鱗や龍燈松の石碑にも薄墨が入っている。同巻第三図(十四ウ十五オ)の雪景色は薄墨で立体感が添えられ、盥に映る牛淵九郎の顔も薄墨で表現されている。第四図(十七ウ十八オ)の雪景色。同巻第五図(二十二ウ二十三オ)では薄墨が雪景色に用いられ、博多倍太郎と牛淵九郎の着物に艶墨を用いる。さらに、匡郭を大きくはみ出して描かれた昇天する龍の図で、周囲の雲に用いられた板ボカシと薄墨も効果的である。 
刊記 
編述著作堂藁案[曲亭] 
出像一柳斎筆[豊廣] 
傭書石原駒知道 
剞〓小泉新八郎 
右石魂録後編来冬無遅滞出版其餘新編録于下 
俊寛僧都嶋物語曲亭主人著来載出版 
伊達與作驛馬新語曲亭主人同前 
〇雙鶴堂發販書目揚屋町鶴屋金助版 
梅ノ由兵衛物/語梅花氷裂山東京傳著全三冊 
敵討天橋立十偏舎一九著全五冊 
松浦佐用媛石魂録曲亭馬琴著前編三冊後編三冊 
江戸書肆雙鶴堂 
通油町鶴屋喜右衛門 
文化五載戊辰正月吉日發販 
新吉原鶴屋金助梓 
さて次に、文政十一年刊の後編と、その時に後印刊行された前編について見ていきたい。 
『国書総目録』には欠本があるものを含めて所在が確認できる本が十本ある。その中で全本揃っている八本と、管見に入った二本の計十本を挙げる。 
A三康図書館本(国書五−八一)*残念ながらやや痛んでいる。 
B静嘉堂文庫本(一〇−甲−四一)*保存状態のよい美本だが改装されている。 
C岩瀬文庫本(一二−八四−二三)*保存状態のよい美本。文政十三年刊前編五冊本を取り合せ。 
D早稲田大学図書館本(特ヘ一三−七〇八)*美本だが全十巻を三冊に合冊してある。 
E学習院大学国文学研究室本(九一三−六六一)*落丁あり筆写して補ってある。 
F天理図書館本(九一三・六五−七五)*金子和正氏等によって紹介された4本。 
G静嘉堂文庫本(一〇−甲−四〇)*Bとは別本、改装されている。 
H国会図書館本(一二二−一五−四〇)*落丁が多い粗本。 
I東京大学総合図書館本(E二四−五七) 
J大阪府立中之島図書館本(二五五・六−三八) 
このうち初板本グループはABCDの四本である。EFは表紙口絵の板木を彫り直した後印本、GHIJはさらに後の摺りだと思われる。次に前編、後編上帙、後編下帙5の順に初板本(ABC)を中心にした書誌を記す。 
前編(三巻三冊) 
冊数Dは三巻一冊、CEFHIJは三巻五冊、Gは三巻三冊(改装本、原体裁不明)。 
表紙斧琴菊を散らす。地の色と各部の色相は各本により少しずつ違っている。題簽は左肩、蝶模様白抜の飾枠中に「松浦佐用媛石魂録初集巻之上(中下)」とあり、「初」「上(中下)」は墨書(A)。 
HIJは同様の題簽に「初」「一(−五)」が墨書。 
Cは灰色無地表紙、題簽は左肩、子持枠「松浦佐用媛石魂録前輯一(−五)」とあり、「一(−五)」は墨書。 
Dは黄色無地表紙、題簽左肩、子持枠灰色無地に「松浦佐用媛石魂録一」とある。 
EFは縹色地に松の枝葉が描かれており、右上から左下に向けて斜めに薄墨を用いて縞模様が施されている。題簽左肩、子持枠「松浦佐用媛石魂録初集一(−五)」とあり、「初」「一(−五)」は墨書。 
BGは二藍無地表紙に改装されている。題簽なし。 
見返文化五年刊の初印本の見返しを流用、ただし書肆名「仙鶴堂雙鶴堂梓」を象嵌して「千翁軒梓」と直してある(AB)。 
GHIJは黄色地に菊模様白抜の飾枠。右に「曲亭主人著」、中央に「松浦佐用媛石\〓録」、左に「渓齋英泉画文渓堂」とあるが、前編の画工は「豊廣」であるから、後編の見返しを流用したものと思われる。なお、Jは板元の箇所が「宝玉堂」となっている。 
CDEFは見返しなし。 
柱刻すべて「大和言葉巻之上(中下)」。 
口絵EF以外に薄墨の使用は認められない。 
EFでは口絵の板木が彫り直された形跡がある。また、口絵の部分だけ厚手の上質紙が用いられ、枠衣装小道具等に薄墨が施されている。さらに背景には濃淡二色の薄墨を用いるという、大層手の込んだ改変が加えられている。 
内題「松浦佐用媛石魂録前(編)上(中下)巻」(象嵌)。 
挿絵文化五年刊の初印本に見られた薄墨の使用は見られない。 
刊記文化五年の刊記を持つものは一本もない。 
CDには別本に使われたものが利用されている。 
Cは、文政十三庚寅年仲夏発兌 
書房大阪心斎橋筋博労町河内屋長兵衞 
同所河内屋茂兵衞 
江戸小傳馬町三丁目文渓堂丁子屋平兵衛 
Dは、東都書林小伝馬町三丁目中程文渓堂丁子屋平兵衛梓 
CD以外のものには後編下帙のものが付されている6。 
後編上〓帙(四巻四冊) 
冊数Dは四巻一冊、EFHIJは四巻五冊(巻之四を二分冊)、Gは四巻四冊(改装、原体裁は不明)。 
表紙前編と同じ。ただしCは前後編の取り合せ本で、後編はAHIJと同じ表紙になっている。 
見返龍の意匠をあしらった薄墨の枠中右側に「曲亭主人著」「文政戊子孟陽\惣本發販之記」とあり、中央に「松浦佐用媛石\魂録後集上帙」、左側に「渓斎英泉畫千翁軒梓[岡田]」とある。文字はすべて篆書体(ABC)。 
GHIJでは、菊模様の白抜枠に「曲亭主人著」「松浦佐用媛石魂録」「渓斎英泉画文渓堂」とある。ただしJは「文渓堂」のところが「宝玉堂」となっている。 
DEFは見返しなし。 
柱刻十本すべて同じ「石魂録後集巻之一(−四)千翁軒蔵」。なお、巻之二の廿四廿五丁はABCDが「廾四、廾五」と、ほかの丁付と同じ字体になっているが、E以下では「廿四、二十五」と字体が変わっている7。 
口絵第一図(三ウ)では炎に包まれた胡子和の周囲、糸萩の着物、浦二郎の袴等に薄墨が施されている。第二図(四オ)では返蝮の着物に紗綾型の模様が薄墨で施され、輪栗の帯には艶墨が用いられ、さらに背景が薄墨でつぶされている。第三図(四ウ)弥四郎、倍太郎の着物の一部と枠に薄墨が、語黙斎の着物の一部に艶墨が施されている。第四図(五オ)手枕、簑七の着物の一部に艶墨、背景に艶墨と薄墨が使用されている。第五図(五ウ)経高等三人の着物の一部と傘の柄の部分に艶墨が使用されている。第六図(六オ)歌二郎、澳進の着物に薄墨が施され、背景全体に薄墨が使われているが、昇天する龍の下は「ぼかし摺り」になっている(ABCD)。 
EFでは、全図の人物の着物に薄墨が使用されている。第二図の返蝮の着物も模様がなくなり薄墨で潰されている。また同図で「輪栗」の振仮名が「一とくり」となっており、口絵と薄墨の板木が彫り直されたものと思われる。 
なお、G以下においては薄墨艶墨が一切省かれている。 
ところで、E以下では第三図第四図がなくなっている。さらにA〜Dでは六ウに「再識」があったが、E以下では口絵の第七図として「肥前松浦潟頭巾摩望夫石之図」が入れられている8。ただしGIJでは白紙のままになっている。 
内題「松浦佐用媛石魂録後集巻之一(―四)」 
挿絵巻之二第二図(廿二ウ廿三オ)「動の磯に二兇吉次を撃」では、全面に薄墨をかけ左上から右下へ向けて稲妻が白く抜かれ、さらに全面に細かい雨足が抜かれている。巻之三第一図(八ウ九オ)「勇を奮て旡名氏二兇を撃」でも全面に薄墨がかけられ、雨足だけが白く抜かれている。同第二図(十六ウ十七オ)も夢の場面にふさわしく背景に薄墨が入っている(ABCD)。E以下では薄墨の使用は認められない。とくに巻之三第一図では右半丁だけに墨で雨足が摺られているが、左半丁にはこれがなく、はなはだ体裁の悪い図となっている。 
刊記刊記前の広告に「松浦佐用媛石魂録後集\五の巻六の巻七の巻\右三巻近日引つゞき売出申候。後集すべての大趣向はこの巻々に宥之候。不相替御求メ御覧可被成下候」「松浦佐用媛石魂録前集\右同作三巻\此度多くすり出し後集と同時に売弘メ申候。前集を見給ハざれば後集わかりかたかるべし」とあり、ほかに「近世説美少年録」の予告、薬の広告等がある(ABCDEF)。 
文政十一年戊子春正月吉日發行 
大坂心齋橋筋博労町河内屋茂兵衛 
江戸小伝馬町三町目丁子屋平兵衛 
同横山町二町目大坂屋半蔵梓 
G以下では書肆の住所と名前に象嵌されている。 
大坂本町通心斎橋東河内屋真七 
江戸伝馬町二町目丁子屋平兵衛 
同横山町二町目大坂屋半蔵梓 
後編下帙(三巻三冊) 
冊数Dは三巻一冊、EFHIJは三巻五冊(巻之六、七を分冊)、Gは三巻三冊。 
表紙上帙と同じ。 
見返飾り枠内右側に「松浦佐用媛石\魂録後集下帙」、左側に「曲亭主人著\渓斎英泉畫千翁軒梓」と紺色で摺られており、下に落款めかして篆字で「戊子孟陽發販」とある。 
GHJは上帙と同じ文渓堂(宝玉堂)のものがある。 
EFIには見返しなし。 
柱刻十本すべて同一。「石魂録後集巻之五(−七)千翁軒蔵」。 
口絵第二図(序二オ)では狹手彦の下から両側に十三羽の小鳥が薄墨で入っている。 
EFでは上帙と同様に、板木が作り直されたものと思われ、ここでも口絵にだけ厚手の上質紙が用いられている。第一図では背景に薄墨が施され、第二図では小鳥はなくなり背景にたなびく煙の意匠で濃淡二色の薄墨が使用されている。 
G以下では、すべての重ね摺りが省かれている。 
内題「松浦佐用媛石魂録後集巻之五(―七)」 
挿絵巻之五第一図(二ウ三オ)「秋布俊平謬て語黙斎夫婦と戦ふ」では、全面に薄墨をかけて暗闇を表現し、糸萩の持っている手燭から発する光が白く抜かれている。巻之七第一図(十ウ十一オ)「絃管合奏して笞をゆるくす」では、経高の座している段全体に艶墨で模様が入れられている(ABCD)。 
E以下は、すべての重ね摺りが省かれている。 
刊記右半分に「松浦佐用媛石魂録前集\右同作三冊\此節多くすり出シ後集と同時に製本仕候。御覧下さるへく候」とあり、「近世説美少年録」の予告と薬の広告等がある。刊記は上帙と同一(ABCD)。 
EFは上帙と違って丁子屋平兵衛の住所だけが「小伝馬町三町目→伝馬町二町目」と入木変更されている。 
G以下は上帙と同様な入木が施されている。 
以上見てきた諸板の相違を表にすると次のようになる。 
ABCDEFGHIJ 
冊数101012a3151510b151515 
表紙〇×〇◇c△d△d×〇〇〇  
見返〇〇〇◇i××△e△e×△e 
後編口絵の重摺り〇〇〇〇△f△f×××× 
後編口絵第三、四図〇〇〇〇×××××× 
後編「再識」〇〇〇〇△g△g×△g×× 
後編挿絵の重摺り〇〇〇〇×××××× 
後、二の丁付変更××××〇〇〇〇〇〇  
刊記の象嵌××××△h△h〇〇〇〇  
注 
a前編五冊後編七冊の取合本 
b改装されている。本来は一五冊だったか 
c別表紙d別表紙 
e文渓堂(宝玉堂)の見返しf別の板木による重摺 
g「再識」ではなく口絵h文渓堂の所在だけ下帙で変更 
i上帙あり、下帙なし 
初板本グループABCDのうち、ABCは基本的には同じ頃の摺りだと思われる。ただし、Bは表紙を欠いており、Cは前編を持たない。したがって、もっともよく刊行時の形態を残しているのはAである。 
また、Dは初印の形態を残しながらも三冊に合冊されており、見返しを持たない。しかし題簽は明らかに摺られたものであるから、初印に近い頃に出来したものと思われる。Dの前編の刊記は「文渓堂」だけであり、『田家茶話』の広告が見えることから、どんなに早くても文政十二年以降の刊行だろうと思われる9。文政十一年三月二十日篠斎宛書翰10に、 
一石魂録後集七巻の内、上帙四巻、四、五日已前ニうり出し申候。下帙ハ只今校合いたし居候間、来月中ニ者うり出し可申候。乍去、登せハいまだ極り不申候よし。左候ハヾ、御地江本廻り候者秋ニも及び可申候哉。本がらよほどきれいニ出来候へ共、すり本ニて登せ、仕立ハ上方ニていたし候間、江戸の本とハ仕立もちがひ可申候。 
と見え、上方で別製本が作られていたことが知れる。しかし、Dがそれだという根拠は見出せない。 
ところで、文政十二年三月二十三日の日記11には、「大坂や半蔵ハ土蔵やけおち、石魂録板ハ持退候へ共、先ニて焼亡、丸やけニて、甚力を落し候様子のよし也」との伝聞が記述されている。この記述を信じれば、『石魂録』の板木はすべて焼失してしまったことになる。ところが、同年四月八日の条に「夕方、大坂や半蔵来ル。速にかり普請出来、売薬渡世はじめ候よし。石魂録板も焼不申よし、申之」とあり、このことは書誌的調査の上からも裏付けられる。 
また、後編上帙は「四五ヶ月やうやく二百」、後編下帙は「二三年かゝり四百積り。上方上セ二百」というほど、売行きがよくなかったらしい12。この一因が上帙三月十六日、下帙五月十七日という時宜を逸した発売時期13だったとしても、全編にわたる再刻を、発刊後わずか一年でするとは考えにくいのである。文政十二年五月十二日の篠斎宛書翰14によれば、 
一石魂録後集之事、……かねてハ、上帙、仲ヶ間うり直段十二匁位、と申事ニ承り居候処、引請人丁子や平兵衛大慾心にて、中ヶ間うり正味十五匁ニうり出し、少しも引不申候付、高イ/\と申評判のミニて、やうやく本弐百部捌候よし。下帙ハとぢわけ同様ニ候へども、これも同じわり合にて、拾壱匁弐分五厘のよしニ御座候。是迄拙作に、これほど高料の本ハ無之哉ニ覚申候。登せハ多分本がへニ成候間、上方ニて引請人却て下直ニうり渡し候哉、難斗候。此板元素人故、自分ニて売捌キ候事不叶、丁子やハ書林なれどもかし本問屋ニて、此もの引受、売捌キ候故、凡五、六わりの高利を得(候)ハねば引請不申候。此義かねて存居候故、先頃勘定いたし見候へバ、江戸売四百部、登せ弐百部、六百部うれ不申候でハ、板元之板代かへり不申候。七冊ニて、惣元入、七十金かゝり申候。依之、本ハ板元ニ壱部も無之、板元より丁子や江申遣し、本とりよせ、差越候事ニて、直段も板元自由ニ成り不申候。……種々の意味合御座候而、作者の自由ニも成りかね、板元の自由ニもなり不申候。御一笑可被下候。かやうの板元ヲ杜鵑本やと可申哉。自分ニてほり立ても、うることならず、人にうりてもらひ候故、利分ハ人に得られ、やう/\板ヲ自分の物ニいたし候が所得ニ御座候。それでもほりたがり候もの多し。畢竟板ヲ株ニせんと思ふ見込ニて、うり出し候節、損さへせねバよい、と申了簡ニ御座候。しかれども、四百部売捌申さねバ、急ニ元金かへり不申候。四百部ハ丁子や引請候へバ、二、三年かゝりてもぜひ売払可申候へども、此四百部不残出払ひ迄ハ板元ニて壱部もすり込候事ならぬとり極メニ御座候。 
と値段の設定が高価であったことと、板元である大坂屋半蔵が、貸本屋である丁子屋平兵衛に販売を委託した契約の一端がうかがえ興味深い。しかし、初印本四百部が売切れた後には、後印本も年々摺り出されていたようである。『南總里見八犬傳』六輯巻之下巻15末の広告に、 
松浦佐用媛石魂録全部十巻曲亭主人著一筆庵主人画 
とあり、『八犬傳』八輯巻之十には、 
松浦佐用媛石魂録前編三冊後編七冊共に十巻\近ころ続刻うり出し置き候也。 
とある。また、同九輯巻之六には、 
松浦佐用媛石魂録前後二編共に十冊\先年全部いたし年々摺り出し候 
とある。さらに、同九輯巻之二十二の巻末「書林文渓堂蔵販目録」には、 
松浦佐用媛石魂録馬琴作前後全本十二巻16 
とある。蔵板が千翁軒から文渓堂に移動しているが、千翁軒が没する天保元年以前から文渓堂が販売を担当していたのは、次の文政十一年三月十一日の日記17、 
一夕方、大坂屋半蔵来ル。丁子や平兵衛孫、半蔵之為には甥也。此節、疱瘡ニ而、平兵衛初孫と申、不案内ニて、家内取込居候故、石魂録上帙売出し延引之由、兼而平兵衛引請、売候約束故也。半蔵は素人ニ而、人頼ミ、扨々不自由之事也。 
からもわかる。 
さて、この後印本の中でEFは特異な形態を持った本である。表紙の意匠を初印本と変えて新たに作り直し、口絵を巧妙に初印本に似せ、さらにこの改変は前編にまでおよび、濃淡二色の薄墨板を使用するといった大変に手の込んだものである18。この本の上帙と下帙の刊記に見られる文渓堂の所在場所の異同から、転宅時期の刊行かと思われる19。 
さらにG以下の後印本になると一切の重ね摺りの手数が省かれた粗悪本となる。これらは口絵ではEFと同じ板木が用いられながらも、表紙は初印本と同じものが使われている。刊記の文渓堂の所在はすべて「伝馬町二町目」であり、河内屋茂兵衛の代わりに河内屋真七が入っている。 
ここまで、『石魂録』の諸板を見てきたが、明治大正期に活版で翻刻されたものがある。まず、単行本(一以外はボール表紙本)として次の五本がある。 
一、明治十六年六月東京金玉出版社(和装九冊20) 
二、明治十八年十二月青木忠雄 
三、明治十九年八月自由閣 
四、明治二十五年十二月銀花堂 
五、明治二十九年一月木村倍造 
また、叢書に収められたものとして、次の六本がある。 
一、馬琴叢書明治二十一年一月東京堂 
二、曲亭馬琴翁叢書明治二十二年銀花堂 
三、馬琴翁叢書明治二十四年礫川出版 
四、曲亭馬琴翁叢書明治二十五年銀花堂 
五、袖珍名著文庫3233明治四十二年冨山房 
六、絵本稗史小説一大正六年博文館 
これらの本は校訂が悪い上、挿絵等を欠いており底本としての使用には耐えられない。しかし、近代に入ってからも『石魂録』が読み続けられていたことを証するもので、近代における江戸読本の享受に関して無視できない資料である。 
注 
1.鈴木重三「馬琴読本諸版書誌ノート」(『絵本と浮世絵』、美術出版社、一九七九年)。 
2.調査整理の方法については、板坂則子「南総里見八犬伝の諸板本上下」(「近世文芸」二十九・三十一号、日本近世文学会、一九七八年六月・一九七九年九月)を参考にした。 
3.柱題が「大和言葉」となっているが、『名目集』に「唐蓬大和言葉\松浦佐用媛石魂録ト改ム」とあるように、当初の計画ではなく後から題名が変えられたのである。それも板木が彫られた後の変更であることは、柱題がもとのままであるのに内題尾題に象嵌跡が認められることから明確である。<唐蓬>が<菊>の異名であることから、菊法度による規制だと思われる。 
4.金子和正ほか「天理図書館蔵馬琴資料目録(三)」(「ビブリア」六十一号、天理図書館、一九七五年十月)。 
5.後編上帙巻之四末尾に、次のような「石魂録後集七巻を釐て上下二帙となす附言」がある。今茲夏月。予大恙あり。醫藥幸ひに効を奏めて。八月七日に病床を出たり。いまだ本復せざりしかども。勉て稿を起せしもの。この編七巻即是也。只直急にいそぎしかバ。書画の両工速に。その事を了るものから。〓人いまだ刀を竟ず。よりて且四巻を釐て。早春これを發販し。遺る三巻もうち續きて。程なく出すべしといふ。千翁軒の性急なるも。時の便宜によるものなれバ。遂にその意に任したり。しかれども。這後集ハ。第十八回り末。伊萬里の段より。五六七の三巻に至りて。看官やうやく佳境に入るべし。さるを七巻とりも揃へ傳。二度に観するハ夲意なけれども。世の賣藥にも半包。小包などいふものあり。大魚の觧賣。豆腐の半挺。皆是便宜の所行なれバ。千翁軒の量簡も。大かたハそこらなるべし。さて又この書の前集に。玉嶋清縄等亡滅せて。人寡なる後集なれバ。只秋布と俊平と。主従二人の道ゆきぶりを。三巻あまりに綴做せしが。後の〓儲になれる也。かゝれバ五六七の三巻ハ。譬バ傀儡棚なる。三四の切と歟いはまほしき。下帙も程なく發兌のよしを。江湖の君子に報んとて。戲房の意味を識すのみ。 
6.このほか、早稲田大学図書館本(ヘ13-3240)の初集(三巻五冊)の刊記は「大坂書林本町通心斎橋東ヘ入河内屋真七板」とある。この一本は後編上帙(四巻)を欠いている。また、天理図書館本(913.65-(2)75)は前編(五冊)だけであるが、「大阪博労町心斎橋通角伊丹屋善兵衛版」と、文栄堂のものが付けられている。 
7.E以下ではA〜Dに比べて全体的に文字が太めになり、細部を見ると異なった板であることがわかる。本文に異同はないので被彫りを施したものか。 
8.EFには薄墨一色で入っており、枠がややずれている。Hには墨一色で入っている。「再識」と「漢文序」は内容的に重複した記事を多く持ってはいるが、なぜこのような改変が行なわれたのであろうか。また、口絵の第三図第四図がE以下でなくなっているのは、板木が作り直された時に省かれたものか。 
9.『田家茶話』は一名『奇説著聞集』、大蔵永常作の読本、文政十二年刊。 
10.天理図書館善本叢書『馬琴書翰集』(八木書店)。 
11.『馬琴日記』二巻(中央公論社、一九七三年)。三月廿一日に焼死者二千八百人余、類焼三十七万軒という明和以来の大火があり、板元等の類焼に関する情報を記している。 
12.浜田啓介「馬琴をめぐる書肆・作者・読者の問題」(『近世小説・営為と様式に関する私見』、京都大学学術出版会、一九九三年)。 
13.植谷元ほか「馬琴年譜稿」(「ビブリア」三十七・三十八号、天理図書館、一九六七、八年)。日記三月一六日、五月一二日、五月二一日翰。 
14.木村三四吾編校『京大本馬琴書簡集篠斎宛』(私家版、一九八三年)。 
15.東京都立大学国文学研究室本による。都立大本は諸板の取り合わせ本で、肇輯のみは初板本、六輯以下は文渓堂板だと思われ、一応百六冊揃っている。なお、六輯の初板は文政十年刊だが、文渓堂板は天保十四年以降の刊行と思われる。 
16.「十二巻」は「十二冊」の誤りであろうか。『増補稗史外題鑑』(天保九年)には「松浦佐用媛石魂録前後全本十二冊曲亭主人作\瀬川采女才女於菊が伝を翻案しておもしろきしゆかう多し」(二十二ウ)とある。あるいは、前編三巻五冊、後編七巻七冊の取り合わせ本のことか。 
17.『馬琴日記』一巻(中央公論社、一九七三年)。 
18.『南總里見八犬傳』の文渓堂板における改変とよく似ていると思われる。 
19.板坂氏は前掲論文で「天保十四年位の事であろうか」とする。 
20.G以下の後印本の翻刻で、後編口絵第三、四図を欠いている。 
第三節戯作者たちの<蝦蟇>−江戸読本の方法− 
一はじめに 
文政四年刊の江戸読本に『道成寺鐘魔記』という作品がある。作者は縫山こと小枝繁、画工は盈斎北岱。 
蛙(かはづ)の生(しやう)を更(かへ)て。前世(ぜんせ)の仇(あた)を報(むく)ゆるは。過去(くわこ)生(しやう)の報応(ほうおう)を示(しめ)す談(だん)なり。此(これ)に均(ひとし)き物語(ものかたり)尚多(なをおほ)かり。 
と書き始められるこの小説は、跋文で粉本として仏教長編説話『道成寺霊蹤記』を挙げるごとく道成寺説話の一変奏なのであるが、その構想上の仕掛けは結末で明らかにされる。 
其時荘司の云けるは。昔某貧かりし時。道成寺に詣し還るさ。蛇の蛙を呑けるを。里の童子のこれを捉へ。蛙を吐して蛇を。殺んとするを見て。我これを援しが。其後不図妻を得て。これに一女子生す。其時妻化して大蛇となり。何方ともなく去りき。これ前に援ひし蛇の。恩を報んと女に化し。妻となり子を生よし。正しき夢の告ありし。其生る女児は清姫也。母の性を禀て妬ふかく。遂に蛇身となる事。浅猿き事ならずや。と涙とゝもに語しかば。松月尼うち驚き。さては爾候ひけるよ。昔我夫熊野に詣。其帰る道にして。足下の蛇援け給ふ。時にこそはべらめ。今の噺に露差ぬ。蛙を助け放ちしが。其後奴家が夢中に。斑の衣着し童子の。懐の裡に入ると見て。遂に安丸を産たり。これ彼思へば安丸が。前生は其時の蛙にてぞありつらめ。と袂をしぼり聞こゆれば。荘司奇異の思ひをし。さては其時旅人の傍に彳しは。藤太どのにてありけるよ。あな不思議なる因縁かな。蛙は生をかえて。おんみの子安丸と生れ。蛇は生を易ざれど。其時の念を子に傳へ。清姫をして安珍を。鬼殺したるにてあらん。其母の大蛇の住といふ。日高川にて清姫が。大蛇となるも奇也。斯悪因縁あるものを。子に持し我々は。是亦何の因果ぞや。思へば未来ぞ恐しけれと。遂に道成寺の弟子となり。菩提の道に入にけり。(巻五結末) 
荘司 
蛇…………|−−−清姫 
大蛇 
藤太 
蛙…………|−−−安丸(安珍) 
松月尼 
安珍清姫の前生を、天敵である<蛙>と<蛇>として設定することによって、小説の枠組に「因果」という合理性を与えているのである。清姫(すむひめ)が<蛇性>を背負っている点は、道成寺説話を繞る伝承的な想像力から考えて自然なことである。清姫の<蛇性>は、清姫(すむひめ)が「妬み深い」ということと何の説明もなしに連続性を獲得し得る地平に形象化されたものである。ところが安珍に<蛙性>が付与されなければならない必然性を、伝承的背景に求めることはできない。安珍の方は、父藤太が熊野権現へ子を授けて欲しいと祈ると「虫類の生を変て人界に生れ出づるを」子とするだろうとの夢告を受け、やがて「斑の衣着し童子」が妻の夢に現われ「御身の胎内を借りぬと胸の辺を掻き分くる」と、「常ならぬ身」になって出生するのである。当然、申し子として異常出生した安珍には聖痕としての美貌と才が備わっている。 
つまり、多くの伝承世界を負った清姫と対偶するに足る位置を安珍に占めさせるためには、かかる煩雑な操作の必要があったのである。換言すれば、道成寺説話を因果論的に解釈することによって、伝承世界を合理化して趣向としているのである。それを不自然と感じないのは、自然の秩序として誰でも了解可能な<蛙は蛇に喰われるもの>という常識に依拠しているからで、この一種の自明性(世界の枠組自体に備わる先見性)を保持していることによって、初めて作品が閉じた時空の秩序を獲得できたのである。 
『道成寺鐘魔記』において、<蛙>は構成上の要求として設定されたもので、伝承世界を背後に抱えた<蛇>とは、指標としての意味において決定的な相違があると見なければならないのである。そして、蛇=女に対して蛙=男であったことも記憶に留めておきたい。 
二蛙と蝦蟇の伝承 
だが、蛙の方にも説話的伝承的背景がまったくないわけではなかった。蛙はグロテスクではあるが人間にとって身近な存在であり、田の神の祭祀と結び付き、その<使令>と信じられていた。また昔話にも「蛙聟入」「蛙女房」「蛙報恩」などの異類婚姻譚や、「蛙と蛇」が天敵となった由来譚などがある。また蛙にまつわる奇談も大変に多く、『前々太平記』には禁庭に出現した大蛙が大蛇と戦い、逆に蛇を呑み込んだという話が出ているし、『百練抄』『近世拾遺物語』『和漢三才図会』などにも類似した話が記録されている。また、群れをなして争ってする交尾が人の眼には軍に映ったものといわれている、いわゆる<蛙合戦>に関する記事も『続日本紀』以来、『古今著聞集』『扶桑怪談』などと数多く、『嬉遊笑覧』などの近世考証随筆に恰好の題材を提供している。一方、『北越奇談』などには「蛙石」の由来をはじめとする地方における蝦蟇の奇談が多く集められており、また「かへる」と「かはづ」、「蛙」と「蝦蟇」という訓みや用字に関心を示した近世の考証随筆も少なくない。 
ところが、中国人の想像力は一枚上手で「蝦蟇仙人」なるものを生み出していた。これは文字通り蝦蟇を使う仙人のことで、三国時代の呉の葛玄、および五代後梁の劉海蟾をもとに脚色したといわれている。『桂林漫録』によれば、海蟾は山中にて仙術を得、蓬髪洗足姿で三足の疋蛙を弄んだという。なお画題として用いられる場合には、劉海蟾、呂洞賓、李鉄拐を一緒に描くことになっているともいう。 
この蝦蟇仙人を取り入れた日本文芸としては、島原の乱を脚色した作品で近松の浄瑠璃『傾城島原蛙合戦』(享保四年)が早い。さらに遡れば古浄瑠璃『天草物語』(寛文六年)などにも見られるが、ここでは蝦蟇仙人を扱った文芸の一例として、『傾城島原蛙合戦』の中で脚色された<七草四郎>の妖術に関連する部分だけ抄出してみることにする1。 
陰陽家には仙宮の蛙、息を吐いて虹と成ると沙汰せり。蛙は即ち蝦蟇仙人が仙術、不思議自在の奇特を顕はし衆生を迷はす。道に似て道にあらず。儒には是等を異端と嫌ひ、仏家には邪宗と破す。(第一) 
木の葉を着たる荒法師、雲に乗じ口より虹を吹く絵像……音に聞きたり唐土に、形を吹き出す鐵拐仙、虹を愛せし蝦蟇仙人の法を伝えて末の世に、目を驚かす計りなり。(第二) 
蝦蟇合戦(蛙軍)……唐土にては漢の武帝元鼎五年、蛙闘つて北狄起り、本朝にては推古の御代、蛙闘つて蝦夷の一族謀反せり。何れも不吉の例、頭に角のある大の蝦蟇(第三) 
四郎が術は鬼神も同然、酒呑童子以来の朝敵、……江ノ島弁財天の注連縄……金色の光矢を射る如く、黄色の蛇顕はれ出て、頭を抬げ紅の舌をちら/\差し向へば、俄に四郎「うん」と許り、眼くらみ腕も痺れ、二人を突き退け踏反り返り、苦しむ息の中よりも、蛙の姿飛び出づれば、二人の女も動転し、物陰に立忍べば、蛙は声を雲に鳴き、大地に形を掘り入らんと、恐れて逃ぐるを追ひ回す。蛇は宇賀の御魂、四郎が邪法は蛙の術、虹を吹き掛け身を包めど、手術も忽ち蛇の悪気に吹き消し吹き払はれ、互に喰はん喰はれじと、追つつ追はれつ狂ひしは、目も当てられぬ風情なり。神明守護の一口に、蛙をぐつと呑むよと見えし、蛇の姿ひき替へて弁財天の御注連縄、虚空に翻めき失せ給ふ(第四) 
最後の場面は、馬琴の未完長編読本『近世説美少年録』の冒頭に見られる大蛇と鳥たちの闘争を描く一大スペクタクルほどではないにしても、かなりの迫力である。蛙の吐く息が虹(幻影)となること、凶徴としての蛙合戦や奇形蛙の出現、蛙と蛇の抗争など、ほとんど蛙づくしといってもよいほどの<蛙>にまつわる趣向の集大成となっている。ここで面白いと思われる点は、「義経の郎党常陸坊海存」と「泰衡の弟四郎高衡(七草四郎)」とが<蛇=正>と<蛙=邪>という対立項として設定されている点である。そしてこの<正←→邪>という相対的な意味付けを合理化し得る背景には、弁財天(の注連縄)と<蛇>とが直接に結び付くという仏教的な心証(信仰)を介して、伝承的想像力の基盤の存在がある。いずれにしても、中国の蝦蟇仙人は日本で文芸化された途端に、得体の知れない妖術使いの謀反人として形象化されてしまったのである。 
三天竺徳兵衛 
さて、この蝦蟇の妖術が悪の属性となっていくという傾向は、そのまま<天竺徳兵衛もの>に脈絡していく。演劇方面での<天徳もの>としては、並木正三等の歌舞伎『天竺徳兵衛聞書往来』(宝暦七年)が早い。また、この影響下に書かれた近松半二・竹本三郎兵衛の合作浄瑠璃『天竺徳兵衛郷鏡』(宝暦十三年)は、半二が立作者として初めて執筆した記念すべき作でもあり、小池章太郎氏は「後続の天竺徳兵衛物の構想の基盤が定まり、現行歌舞伎の『音菊天竺徳兵衛』にいたる所作に、多大な影響を及ぼしている」2とする。さらに歌舞伎『天竺徳兵衛故郷取楫』(明和五年)を経て、鶴屋南北の『天竺徳兵衛韓噺』(文化元年)、『彩入御伽草』(文化五年)、『阿国御前化粧鏡』(文化六年)と南北一流の綯い交ぜ狂言を生み、明治二十四年の『音菊天竺徳兵衛』以来現在に至るまで、<天徳>は七十回を越す上演が行なわれてきたのである3。これらの作品についてここで比較検討をする余裕はないので、くわしくは『歌舞伎細見』4や、『鶴屋南北全集』第一巻解題5、小池正胤「いわゆる「天竺徳兵衛」ものについてのノート」6などについていただきたい。ただ注意すべきは、天竺徳兵衛の妖術が巳年巳月巳日巳刻に生まれた<女>の生血によって破られるという趣向で、やはり蛇との対立抗争に蝦蟇の妖術が破られるという構想を持つのである。そして対置された蛇性は、やはり<女>の属性なのであった。 
一方、蝦蟇の妖術が<天竺>帰りの<徳兵衛>と結び付いた事由については、すでに松田修「歌舞伎、聖なる逆説−コード「天竺」の意味するもの−」7や、廣末保「蝦蟇と妖術と反逆と船頭」8などに卓越した示唆的言及がある。 
これらグロテスクな蝦蟇をめぐる伝奇的世界は、歌舞伎だけではなく草双紙や読本の本領とするところでもあった。京伝の合巻『敵討天竺徳兵衛』(文化五年、豊国画、伊賀屋板)は純友の末流である天竺徳兵衛が肉芝道人から授かった蝦蟇の妖術を駆使して御家再興と足利家滅亡の陰謀を企てるが、妖術封じの蛇によって失敗するという筋立になっている。これに別趣向を加えて書き換えた切附本に『報讐海士漁舟』(岳亭梁左作、芳春画、安政期)がある。 
また<徳兵衛>という名から連想して曾根崎心中に付会した合巻に、京伝の『天竺徳兵衛\お初徳兵衛・ヘマムシ入道昔話』(文化十年、国直画、泉市板)がある。同じく京伝の『尾上岩藤\小紫権八\天竺徳兵衛・草履打所縁色揚』(文化十二年、美丸画、岩戸屋板)は、世界を鏡山に求めて小紫権八譚と綯い交ぜにしたものである。『天竺徳兵衛』(出子散人作、國久画、文久元年山亭秋信序)、序題は「天竺徳兵衛蟇夜話」とあり、柱刻は「がま」、表紙を換えた後印本だと思われる(鈴木俊幸氏蔵)。これらの草双紙は、南北の芝居などによって定着した天竺徳兵衛像を利用して、ほかの趣向と取り混ぜて構想されたのである9。 
また<正本写>と呼ばれる上演された歌舞伎の筋書き合巻がある10。天保三年八月に河原崎座で上演された『天竺徳兵衛韓噺』を、配役通りの役者似顔を用いて紙上に再現した『天竺徳兵衛韓噺』(天保四年、夷福亭主人作、国芳画)もまた<正本写>である。「狂言堂如皐原稿・柳水亭種清綴合、梅蝶楼国貞画図・国綱補助」という『入艤倭取楫』全三編各二冊(安政四年、紅英堂板)は、同年春の森田座上演『入船曾我倭取舵』を綴ったもので、「市川市蔵が大坂から下つて来た、お目見得の天竺徳兵衛で、例の薩摩武士が舞台へ切り込んだといふ、有名な芝居である。馬琴の『頼豪阿闍梨恠鼠傳』が搦めてあつて、ひどく複雑なだけに、芝居では完結してゐないのを、草双紙では手際よく終りを纏めてある」11というもの。 
読本の方で管見に入ったのは為永春水の『天竺徳瓶仙蛙奇録』全三編(嘉永四〜安政五年<序>、柳川重信画、河内屋茂兵衛板。初印本未見)くらいのもので、天竺徳兵衛を扱った作品はあまり多くはないようだ。 
これらの作品を通じて、天竺徳兵衛という蝦蟇の妖術使いが反逆者として形象化されていく背景に、天草四郎の幻影が垣間見える。「はらいそ〓〓」などという奇妙な呪文に象徴される了解不能の異文化に触れた超能力者=反逆者という共通点だけでなく、グロテスクな蝦蟇を使役するのは美少年がふさわしかったはずだからである。と同時に、島原の乱は、御家騒動のスケールを拡大させる趣向としても恰好であったとも思われる。 
四天徳の影響 
南北の<天徳>は後続作に大きな影響を与えている。たとえば、京伝の読本『桜姫全伝曙草紙』(文化二年十二月、豊国画)の登場人物の一人に蝦蟇丸という蝦蟇使いの悪者がおり、「元来海賊(木冠者利元)の子」(巻三第十二)として設定されている。そして「空中より一つの小蛇あらはれ出で、がま丸に飛びつき、右の腕にまとひつきけるが、忽ち腕しびれて打つことあたはず。しばし惘然として心たゆみ……忽ち倒れて死してけり」(巻五第十七)という具合に、やはり蛇に破れるのである。京伝は<天徳>が気に入っていたと見え、随分と多くの作品で趣向化している。この『曙草紙』でも、蝦蟇丸が鷲尾義治の首級を口にくわえて水門より逃走する場面の挿絵などには、南北の舞台(吉岡宗観邸裏手水門の場)を彷彿とさせるものがある。 
さらに従来は『離魂記』を引いて、双面として説明されてきた結末における二人桜姫(一体二形)の趣向も、『天竺徳兵衛郷鏡』四段目で徳兵衛の妖術によって折枝姫の姿が二つになる趣向と関係がありはしないか12。『曙草紙』の主筋の展開ではなく、細かい趣向に<天徳>の影が見られるのである。 
一方、京伝の読本『善知安方忠義傳』(文化三年十二月、豊国画)では、『元亨釈書』第十八「尼女」や『前太平記』巻十八「如蔵尼〓平良門之事」、巻十九「平良門蜂起付事多田攻之事」を利用し、いわゆる滝夜刃姫伝説を作り出している。題名ともなり、本来は主筋であるはずの善知鳥の伝承を用いた筋はさて措いて、実質的な主人公ともいうべき将門の子である良門(幼名平太郎)に注目したい。一連の蝦蟇のモチーフは次のように組み立てられる。筑波山に登って「肉芝仙(蝦蟇仙人)」に出会った良門は、そこで自分が将門の嫡子であることを知らされ、蝦蟇の妖術を授かる。忽ち父の仇を討ち天下を略奪せんという企てを立て、姉である如月尼も蝦蟇の妖術で同調させてしまう。如月尼は滝夜刃姫と名乗って相馬内裏に君臨し、良門は同士を募るために旅に出て、仮に賊主となり妖術を駆使する。という具合である。残念ながら『善知安方忠義傳』は未完で中断したが、松亭金水が嘉永二年に二編、万延元年に三編を書き継いでいる。 
『前太平記』の世界から良門の一代記を組み立てた先行作としては、すでに十返舎一九の中本型読本『相馬太郎武勇籏上』(文化二年)があるが、蝦蟇の妖術は使われていない。鈴木敏也氏が本作など京伝読本の位置について「近世浪漫派小説の展開に当たって、建部綾足から滝沢馬琴に至る中間に残した足迹はかなりに大きかった」13と述べるように、蝦蟇の妖術を『前太平記』の世界(伊賀寿太郎の活躍や頼光伝説の反映も見られる)に付会した趣向は、京伝読本の中にあってはスケールが大きく面白い。当然、後塵を拝した作品は多く、文化五年三月大坂で浄瑠璃『玉黒髪七人化粧』に仕組まれ、天保七年七月には江戸市村座で『世善知鳥相馬舊殿』が上演されている。 
合巻の方では、馬琴の『相馬内裡後雛棚』(春亭画、泉市板、文化八年刊)や、京伝自身が『親敵うとふ之俤』(豊国画、鶴喜板、文化七年)を書いており、さらに京山が合巻化した『外ヶ濱古跡うとふ物語』全六編(芳虎画、錦森堂板、嘉永四〜文久元年)もある。一方、鈍亭魯文の中本型読本『平良門蝦蟇物語』(芳幾画、万延元年刊)は、その前半部を『善知安方忠義傳』から丸取りしている。 
五阿古義物語 
式亭三馬にも蝦蟇の妖術を趣向化した読本がある。文化七年刊の『流轉數廻阿古義物語』(前編四巻五冊、豊国・国貞画)である。とくにまとまった挿話を形成しているのは巻之三第八齣「天城に登りて術を練る」から巻之四「耶魔姫の怪異」までで、およそ次のような筋である。 
強盗白波雲平は天城山に登り、出会った少女に一軒の家に案内された。その家の主は泰衡の娘で耶魔姫という美女であった。雲平はこの美女と契りを結ぶ。やがて耶魔姫が蝦蟇の妖術に長けていることを知った雲平は、その仙術の伝授を強く乞う。すると耶魔姫はどんなことでも耐えていいなりになれと要求する。これを承諾すると、 
……妾がするにまかせて。克く忍び給へよとて。別間に誘ひけるが。まず雲平を裸体にして。高手に縛め。廊下の天井に強く釣り上げ。走馬燈のごとくくる/\と回しつゝ。藤蔓巻たる堅木の棒にて力にまかせて撃つ程に。雲平痛堪がたく。あまりの苦しさに。ゆるし給へと叫びければ。耶魔姫莞尓と打咲て。然らば術をば授けがたしとあるに。雲平やむことを得ず堪居れば。撃つ事五十杖に及び。皮裂て肉をあらはし。眼眩きて悶絶せり。其時丹薬をあたへてひとたび甦しめ。再び擲つ事五十杖に到れば。素のごとく息絶たり。斯する事三百杖にして。雲平泥のごとくになり。さらに人事を弁へず。再び丹薬をあたへければ。雲平甦りて素のごとし。(巻之三) 
蝦蟇仙人の法を得るためには、この仙丹に千載経りし蝦蟇の脂と、嫉妬に狂う女の怒気溢れる生血とを加えて服せばよいと教える。折しも嫉妬に狂った雲平の妻沖津が耶魔姫の妖術によって導かれてくる。そこで、雲平は沖津を惨殺し、その鮮血と蝦蟇の脂を仙薬に加えて飲み干す。その時、傍らの蝦蟇の死骸にも鮮血がかかったので、沖津の執念が蝦蟇に還着してしまい、その後執拗に雲平に祟ることになるのである。(巻之三) 
雲平は仙術を習得したが、どうしても耶魔姫には及ばない。そこで耶魔姫を殺そうとするが、悟られ逆に取り囲まれてしまう。すると耶魔姫は、実は天竺摩迦陀国柯葉林に穴居する玉芝道人であることを告げる。いまから下総に帰り賊主となって、蝦蟇の妖術を伝え人々を魔道へ導けと命じ、その身は一条の虹となって虚空遥かに飛び去った。すると、いままで宮殿だと思っていたのは廃屋であり、大勢の侍女と見えたのも朽ちた木像や古仏の類であった。(巻之四第九) 
この<天井に吊された赤裸の男を鞭打つ美女>の到錯した頽廃性は、三馬の病んだ精神の反映ではない。なぜなら江戸読本に繰り返し描かれてきた<縛られた赤裸の女を鞭打つ場面>14を逆転させたにものに過ぎないからである。 
三馬は数多くの先行作の趣向をいく重にも重ねることによってのみ、絢爛たる<江戸読本>的な世界を創り出すことに腐心していた15。つまり売れることを目指し、読本にかかる趣向を要求した読者に迎合した三馬のサーヴィス精神が、いかんなく発揮された作品なのである。文化期における伝奇小説(読本と合巻)の流行については、有名な文化五年の通達「合巻作風心得之事」を挙げるまでもなく、剛悪残虐怪奇趣味なのであった。とにかく三馬にしてみれば初めての(結果的には唯一の)読本でもあり、見返しに用いた銅版風細密画の意匠(初板本のみに存)などを含めて、精一杯の趣向を凝らしたつもりなのであろう。ここでは触れる余裕がなかったが、本書の別名にもなっている「大磯十人切り」や、狐の璧をめぐる怪異、嫉妬した女の執念が小蛇と男に憑くいわゆる蛇道心譚、蜂の報恩譚等々、およそ思い付く限りの<江戸読本>らしい趣向を盛りだくさん詰め込むことによって、この作品ができ上がっているのである。そして、<江戸読本>であるための様式的体裁として、こけおどしの引用書目一覧を挙げることも忘れなかった。ところが「此よみ本はづれ」(『式亭雑記』)だったらしく、各巻末に丁寧に後編の筋立てを予告して記しながらも後編は書か(書け)なかったのである16。 
馬琴は他見を憚って秘かに記した『阿古義物語』に対する難評『驫鞭』で17、 
邪魔姫が引裂捨たる蝦蟇の殻へ沖津か寃魂入りて後々雲平を悩し蝦蟇瘡を疾するといふよしも前後とゝのはぬ物かたり也。いかにとなれは邪魔姫は蝦蟇によりて幻術を行ふもの也。雲平彼レに従ひて又蝦蟇の妖術を得たらんには蝦蟇は則邪魔姫にして雲平が惡を助くるものも又蝦蟇也。しからは耶魔姫が血をとりたる蝦蟇の死骸へ沖津が魂魄還着すべうもあらず。天竺徳兵衛といふ歌舞伎狂言にも蛇をもて蝦蟇の妖術を折くよし也。 
と、構想の不整合性に言及している。三馬の構成力が弱いといわれるのは、このような部分で、読者との共通基盤である伝承的論理から離れてしまうからなのである。ここまでに見てきたほかの作品における蝦蟇のモチーフからも外れた趣向になっている。 
さて要約を示した部分の典拠として、明和七年刊の『席上奇観垣根草』一之巻「伊藤帯刀中将重衡の姫と冥婚の事」、および四之巻「薮夢庵鍼斫の妙遂に道を得たる事」が指摘されている。それも「絵入文庫本で約七頁余りがそつくり垣根草の原文のままであるといふ、ひどい剽窃」18なのである。ほかにも浄瑠璃『田村麿鈴鹿合戦』などが挙げられている19が、南北の『阿国御前化粧鏡』の指摘は見かけない。一瞬のうちに廃屋になる箇所の挿絵、「耶魔姫妖術火速扮二枚続」(巻之四)は、南北の舞台を視覚的に趣向化したものであろう。 
しかし、たとえこの『阿古義物語』が売れなかった作品であろうと、馬琴が八ツ当り的に三馬の学問のなさを攻撃しようと、辻褄の合わない部分があろうと、とにかくきわめて<江戸読本らしい>と三馬が判断した、ありとあらゆる趣向が詰め込んであるという意味で、大層面白い作品なのである。同時にこれらの欠点は、あまりにも多くの先行作を取り込もうとした構想自体に無理があったのであるが、どちらかといえば、その方法は草双紙の行き方であった。また、伝承の約束に無頓着な蝦蟇の妖術の取り入れ方にしても、結果的には江戸読本らしからぬ一編にしてしまったのである。なお春水の手になる後編は(国安の挿絵はちょっといただけないが)予告通り比較的巧くまとめられ、一応完結に至っている。 
六自来也物の展開 
蝦蟇の妖術をモチーフとする作品の白眉は、何といっても<自来也>である。 
以下、管見に入った<自来也もの>を、便宜上ABC……と記号を付し、[]内にジャンルの略称を、[読]読本、[歌]歌舞伎、[浄]浄瑠璃、[合]合巻、[切]切附本、[端]端歌、[講]講談のごとく示して年代順に列挙した。ただし、原則として同題の芝居の再演は一切省き、明治以降はとくに目についた作品だけを挙げた20。 
A[読]報仇竒談自來也説話(鬼武作、高喜斎校、北馬画、中村藤六板、文化三年) 
B[読]報仇竒談自來也説話後編(鬼武作、北馬画、吉文字屋市左衞門板、文化四年) 
C[歌]柵自来也談(大坂角芝居、近松徳三・奈賀篤助・市岡和七作、文化四年九月) 
D[浄]自来也物語(大坂角芝居、並木春三・芳井平八作、文化六年八月十四日〜) 
E[歌]柵自来也物語(江戸森田座、文化七年四月) 
F[合]聞説女自来也(東里山人作、勝川春扇画、文政三年) 
G[合]児雷也豪傑譚(美図垣笑顔他作、国貞他画、甘泉堂板、天保十〜慶応四年) 
H[歌]児雷也豪傑譚話(河原崎座、黙阿弥作、嘉永五年七月) 
I[合]児雷也豪傑譚(美図垣笑顔他作、国貞他画、甘泉堂板、嘉永六年全面改刻) 
J[歌]児雷也(大坂中芝居、安政元年八月) 
K[切]緑林自来也実録(鈴亭谷峨作、芳盛画、吉田屋文三郎板、嘉永七年八月序) 
L[歌]児雷也後編譚話(河原崎座、黙阿弥作、安政二年五月) 
M[歌]報讐自来也説話(中村座、安政二年九月) 
N[合]自来也物語(柳水亭種清作、国貞・国郷画、甘泉堂板、安政三改印・四年) 
O[端]はうた一夕話(歌沢能六斎<二世谷峨>編、安政四年) 
P[歌]けいせい児雷也譚話(大坂角芝居、八十助・当七・金史朗、元治元年一月) 
Q[歌]三国一山曾我鏡(守田座、明治四年正月) 
R[合]児雷也豪傑物語(竜亭是正作、桜斎房種画、岡田板、明治十七年) 
S[講]兒雷也(神田伯治講演、吉田欽一速記、由盛閣板、明治二十九年) 
T[講]妖術兒雷也物語(史談文庫34、蒼川生著、岡本偉業館、大正三年) 
さてABの『自來也説話』は「自来也」の名が出る最初の作品である。鬼武の作品の中では一番有名であるが、「二流作家の構成散漫文章稚拙の作品」20という評価のせいか、まとまった作品論は備わっていない。逸早く、宋の『諧史』に見える「我来也」という中国典拠を指摘したのは、柳下亭種員である21。小川陽一『三言二拍本事論考集成』22によれば、譚正璧氏が『説郛』巻第二十三、『西湖遊覧志余』巻二十五に所収していることを指摘しているという。また馬琴は、文化八年刊の随筆『燕石雑記』巻五上之九「我来也」で『類書纂要』巻廿一を節録し、「引くところの書名を挙げず。これ明人の癖なり」と記している。また大正十一年に岡本綺堂が「喜劇自来也」(一幕、大正十三年初演)で、原話『諧史』の持つ笑話的な趣向を巧妙に脚色しているし、随筆「自来也の話」23では洒脱な翻訳を試みている。 
いまだ指摘されていないと思うが、関連作として『二刻拍案驚奇』三十九「神偸寄興一枝梅侠盗慣行三昧戯」を挙げたい。巻頭の詞に、 
劇賊從來有賊智大盗賊は昔から賊智に長けているもので 
其間妙巧亦無究その悪知恵はすぐれて巧妙なものである 
若能収作公家用もし盗賊を集めて御国の為に働かせたら 
何必疆場不立功きっと戦場で功名を挙げるにちがいない(高木訳) 
とあり、この巻全体の主題が提示されている。入話(枕)では「我来也」の話が「孟嘗君が三千人の食客を養っていた話」(『史記』巻七十五列伝第十五)と並べられ、本話でも本朝の鼠小僧のような義賊が役人の不正を惨々に懲らすという展開になっている。残念ながら大庭脩『江戸時代における唐船持渡書の研究』24に『二刻拍案驚奇』が発見できないし、江戸期における輸入が確認できないので、これが直接『自來也説話』に影響を与えているとは断言できない。しかし単なる笑話としての巷説である『諧史』よりは、小説的な結構を持っている点で「自来也」に近いようだ。「『諧史』によるところは人名と脱獄の智計の箇所程度」25なので、義賊小説としての構想上の典拠として考慮の余地があろう。どう考えても「自来也」を、鬼武の創作した虚構とは考え難いからである26。 
七児雷也豪傑譚 
G『児雷也豪傑譚』は、全四十三編(天保十〜慶応四年)に及ぶ長編続き物合巻中の雄編だが、それでも未完のままで終っている。出板事情が大変に複雑なので、次に一覧表にして整理してみた。続帝国文庫『児雷也豪傑譚』(博文館、一八九八年、明治三十一年)は、四十一編までの翻刻であるが、実際は四十三編まで出ている。なお板元は、すべて芝神明前の甘泉堂和泉屋市兵衛である。よって表には記さなかった27。 
編刊年作者画工備考 
初編天保十年美図垣笑顔国貞嘉永六年全部改刻再板 
二編天保十二年美図垣笑顔国貞嘉永六年全部改刻再板 
三編天保十二年美図垣笑顔国貞 
四編天保十三年美図垣笑顔国貞 
五編天保十四年美図垣笑顔三世豊国弘化三年に改題改修「緑林豪傑譚」似顔無 
六編弘化三年美図垣笑顔三世豊国「緑林豪傑譚」似顔無 
七編弘化四年美図垣笑顔三世豊国一筆庵溪斎英泉序 
八編弘化五年美図垣笑顔三世豊国一筆庵主人作 
九編弘化五年美図垣笑顔三世豊国一筆庵主人作 
十編嘉永二年美図垣笑顔三世豊国一筆庵主人作 
十一編嘉永二年美図垣笑顔三世豊国一筆庵主人作 
十二編嘉永三年柳下亭種員三世豊国 
十三編嘉永三年柳下亭種員三世豊国 
十四編嘉永三年柳下亭種員三世豊国 
十五編嘉永四年柳下亭種員三世豊国 
十六編嘉永四年柳下亭種員国輝 
十七編嘉永四年柳下亭種員国輝 
十八編嘉永五年柳下亭種員国輝 
十九編嘉永五年柳下亭種員国輝 
二十編嘉永五年柳下亭種員国輝 
二十一編嘉永六年柳下亭種員国輝 
二十二編嘉永六年柳下亭種員国輝 
二十三編嘉永六年柳下亭種員国輝 
二十四編嘉永七年柳下亭種員国輝 
二十五編嘉永七年柳下亭種員国輝 
二十六編安政二年柳下亭種員国輝 
二十七編安政二年柳下亭種員国光国輝改め国光 
二十八編安政二年柳下亭種員国光国輝改め国光 
二十九編安政三年柳下亭種員国盛 
三十編安政四年柳下亭種員国盛 
三十一編安政四年柳下亭種員国盛 
三十二編安政五年柳下亭種員二世国貞 
三十三編安政五年柳下亭種員二世国貞 
三十四編安政六年柳下亭種員二世国貞 
三十五編安政六年柳下亭種員二世国貞 
三十六編安政六年柳下亭種員国芳 
三十七編安政七年種員遺稿芳房柳水亭種清補 
三十八編万延二年種員遺稿国芳柳水亭種清補 
三十九編文久二年種員遺稿芳幾柳水亭種清補 
四十編文久三年柳水亭種清芳幾 
四十一編文久四年種員遺稿芳幾柳水亭種清補 
四十二編元治二年柳水亭種清二世国貞「帝文」欠大団円を補 
四十三編慶応四年柳水亭種清二世国貞改印広告は慶応二寅 
最初の作者である美図垣笑顔は通称美濃屋甚三郎といい、一時は書肆(涌泉堂)として『八犬傳』の出板に携わったが、経営に失敗し廃業した人物。本作が鬼武の『自來也説話』によったことはもちろんであるが、当時流行していた読本の抄録合巻とは、まったく別の行き方で書かれている。つまり筋を次第に改変して発展させているのである。その経過については、第二十編序で、 
前巻にも言此書元稿は美圖垣大人にて中頃は一筆菴の著述なり。綴繼ゆゑにや英泉子に至て文中聊誤あり。一度兒雷也が手に帰入藥篭を勇見之助が復所持し殺害されし母梢を存生様にいひ且尾形弘澄は筑紫の城主と二編にあるを越後の領主なりとせり。予は笑顔子の條に傚て則肥後の國人とす。此他初編に紛失まゝなる吹雪形染の茶入をいだし五編より後行衛闇老婆於強を尋て用ゐ彼是と補綴すれども惠吉といふは弘行が義理ある妹深雪が僞名そを別人のごとくしるせし。これのみは亦補正がたし。さはいひつ錯乱ながらも藥篭の事と死たる人を生るにかきしは最興あり。藥に依て回生と看ばなか/\頗妙文。一筆菴が無二筆の名誉を讃美するの余り叙詞に換て誌なりけり。 
嘉永壬子年正月 
柳下亭種員識 
と種員が愚痴っている通り、はなはだ錯乱が多いのである。それでも種員になってからはまだよいのであるが、登場人物の関係図を控えながら読み進んでいても、筋がわからなくなることがある。ということは、実は読み方が間違っているに相違ない。出板年次を見てわかるように、毎年何巻ずつかまとめて出されるので、その限られた範囲の場面性に趣向の奇抜さを求めればよいのであろう。もちろん、その背景に児雷也の確乎たるイメージが完成していたからこそ可能だったのである。 
また後半部で、すでに文政二年の種彦合巻『国字小説三蟲拇戦』が存するのではあるが、有名な蝦蟇と大蛇と蛞蝓の<三すくみ>の趣向を立てている。ところが善悪の色分けは、はなはだ曖昧である。少なくとも最初、児雷也は公権力に対しては紛れもない山賊であった。ところが後になると大蛇丸討伐の御教書を貰い、文字通り公権力御墨付きの勢力となってしまうのである。もっとも読者はヒーロー児雷也の側から読んでいるわけだからよいのかもしれない。しかしながら、この荒唐無稽な無節操さは草双紙だからこそ許されることであり、読本ではちょっと考えられない仕組みであった。いずれにしても、我々が持っている大蛇丸と対抗し、蛞蝓の仙術を使う綱手を妻とし、蝦蟇の妖術を使うという児雷也のイメージは、この合巻が創出したものである。 
本作四十三編を通じて出てくる児雷也の変名を挙げれば、太郎・雷太郎・實夢上人・周馬廣行・鶴若・白抄・乗雲……という具合で、文字通りの変幻自在ぶりを発揮している。またすでに指摘されているように、種彦の『偐紫田舎源氏』を意識した部分も多いし、後半は『八犬傳』風の展開にもなっており、まとまらないが故の魅力は計り知れない。 
ところで、これらの作品が自来也の出自を筑紫の城主尾形左衛門弘澄の遺児としている点は、はなはだ不審である。なぜなら尾形(緒方)氏には三輪山伝説と同型の始祖伝承があり、『源平盛衰記』にも、蛇の子の末を継ぐ尾形三郎として記されているからである28。蝦蟇の妖術を授かり蛇と対決すべき自来也がなぜ「尾形」氏なのか。単に伝承的な論理に無頓着なだけなのであろうか。不可解である。 
八伝承の論理 
また思えば、この<蝦蟇文学史>には馬琴の作品が登場してこない。馬琴の紡ぎ出したアニミズム的作品世界にあっても、蛇と鳥、雉と犬、鼠と猫などという二項対立的トーテムは比較的頻繁に趣向化されているのに、蛇と蝦蟇の対立関係は見当たらない。蛇の両義性と蝦蟇の曖昧な性格のせいであろうか。 ここまで見てきたように、蝦蟇の対偶となるのは蛇である。蝦蟇の妖術が<妖>である以上は<善>ではあり得ない。すなわち「妖は徳に勝たず」29なのである。蛇は両義性を持ってはいるが、とても<徳>とはいえない。むしろ逆に<邪>であり<淫>であり<悪>なのである。つまり、このように考えると、蝦蟇の<妖>と蛇の<邪淫>との葛藤もあり得るかもしれないが、それこそ「勧懲正しからぬ」仕組みになってしまう。馬琴が蝦蟇の趣向に積極的でなかったのも、あるいはこのような理由によるのではなかろうか。 ただ名詮自性の方法の一環として『南總里見八犬傳』では「蟇六」などという人物が登場する。また、妖賊蟇田素藤(と妖尼妙椿)が妖(幻)術を駆使する点なども、「蟇」の一字に存する妖術と繋がるイメージを利用したのである。それのみならず蟇田素藤が胆吹山の山塞を本拠とする盗賊但鳥業因の子である点も興味深い。妖術から山賊へ繋がるイメージは、すでに『傾城島原蛙合戦』の七草四郎に前例が存するからである。「四郎が術は鬼神も同然、酒呑童子以来の朝敵……」とあったように、蝦蟇の妖術は反逆者天草四郎、さらには酒呑童子(伊吹童子)へとイメージが連続しているのである。このイメージ連合が記されるのは、テキストでいえば『前太平記』であった。馬琴読本の中では、むしろ前期の部類に入る悪漢小説風の『四天王剿盗異録』(文化三年)も、世界は『前太平記』であり、妖術が趣向化されていた。 ただ、馬琴における決定的な相違は、蛇を対置しなかった点である。伝承的な論理を巧く作品構想に利用し、そこから逸脱した趣向をたてることなく、排除すべき部分を明確に心得ていたのであった。 
注 
1木村八重子「蛙に乗った七草四郎」(「たばこと塩の博物館研究紀要」四号<江戸の出版文化―版本とその周辺―>、一九九一年)は、『傾城島原蛙合戦』による黒本『新板蛙合戦ゑづくし』から末期合巻までに見られる蛙に乗った七草四郎像を通観し、天徳、児雷也への系譜を跡付けている。 
2小池章太郎「解題」(未翻刻戯曲集5『天竺徳兵衛郷鏡』、国立劇場芸能調査室、一九七九年)。 
3「上演年表」(上演資料集248、国立劇場芸能調査室、一九八六年)。 
4飯塚友一郎編『歌舞伎細見』(第一書房、一九二七年)。 
5郡司正勝「解題」(『鶴屋南北全集』一巻、三一書房、一九七一年)。 
6小池正胤「いわゆる「天竺徳兵衛」ものについてのノート」(「言語と文芸」八十号、一九七五年)。 
7松田修「歌舞伎、聖なる逆説−コード「天竺」の意味するもの−」(「国文学」二十巻八号<歌舞伎−バロキスムの光と影−>、學燈社、一九七五年六月)。 
8廣末保「蝦蟇と妖術と反逆と船頭」(『辺界の悪所』、平凡社、一九七三年)。 
9郡司正勝「治助・京傳・南北―劇と小説の交流について―」(『郡司正勝刪定集』一巻、白水社、一九九〇年、初出は一九五九年)。 
10鈴木重三「合巻について」(文化講座シリーズ9、大東急記念文庫、一九六一年)。 
11渥美清太郎「歌舞伎小説解題」(「早稲田文学」261号、一九二七年十月)。 
12ちなみに贅言すれば、高井蘭山の『繪本三國妖婦傳』全三編(享和三〜文化二年、北馬画)の下編巻三でも、妖狐によって那須八郎宗重の妻が一体二形になるという怪異が描かれている。 
13鈴木敏也「「善知鳥安方忠義傳」の素材・構成など」(『日本文学論纂』、一九三二年、明治書院)。 
14具体的な例は枚挙に遑がないが、振鷺亭の『千代嚢媛七變化物語』(文化五年、北馬画)や芍薬亭長根の『國字鵺物語』(文化五年、北斎画)の挿絵は酷い。 
15この部分に関しては『椿説弓張月』で白縫が夫の敵に拷問を加える段や、『浮牡丹全傳』の「荒屋敷」の一段が想起される。 
16後編は文政九年になって三馬の予告を忠実に敷衍して為永春水が出している。 
17早稲田大学図書館蔵。『曲亭遺稿』(国書刊行会、一九一一年)に翻刻存。 
18後藤丹治「読本三種考証」(「学大国文」六号、一九六二年)。 
19本田康雄『式亭三馬の文芸』(笠間書院、一九七二年)。 
20以下の資料を参考にした。国立劇場芸能調査室編「児雷也豪傑譚話」(上演資料集114、一九七五年三月)、中村幸彦「「児雷也」成立の文学的背景」(歌舞伎公演「筋書き」、一九七五年三月)、向井信夫「「児雷也豪傑譚」くさぐさ」(歌舞伎公演「筋書き」、一九七五年三月)、川崎市蔵「鈴亭谷峨作「自来也」にみえる識語」(「日本古書通信」454、一九八二年二月)、小池正胤「合巻の研究(一)いわゆる「児雷也」ものについて」(「東京学芸大学紀要第二部門人文科学」二十七集、一九七六年二月)。 
21「児雷也豪傑譚」二十五編序(嘉永七年刊)。『諧史』は『小説筆記大観』で見ることができる。 
22小川陽一『三言二拍本事論考集成』(新典社叢書九、新典社、一九八一年)。 
23岡本綺堂「自来也の話」(「演劇画報」、一九二五年五月)。 
24大庭脩『江戸時代における唐船持渡書の研究』(関西大学、一九六七年)。 
25鈴木重三「自来也説話」(『日本古典文学大辞典』三巻、岩波書店、一九八四年)。 
26前編内題下の「感和亭鬼武著高喜斎校合」というのも気になるし、後編の出板にまつわる上方と江戸の板元の混乱も何か釈然としないものを感じる。鬼武の<作>ではない可能性を考えてみる必要があるかもしれない。 
27鈴木重三「『児雷也豪傑譚』書誌考」(水野稔編『近世文学論叢』、明治書院、一九九二年)は、従来六編と共に「弘化三年」とされていた五編の刊年について、新出初板本を用いて詳細に考証を加えている。 
28『平家物語』巻八緒環にも緒方惟義について似た話がある。 
29大高洋司「馬琴読本の一展開−『四天王剿盗異録』とその前後−」(「近世文芸」三十九号、日本近世文学会、一九八三年十月)。 
第四節意味としての体裁−俊徳丸の変容− 
一江戸読本の体裁 
わが国の十九世紀小説を質量ともに代表する江戸読本。その魅力が伝奇的な起伏に富んだ筋の運びだけではなく装幀や挿絵にも存することは、おそらく保存状態のよい初印本に触れる機会を得た読者の一致した見解であろう。味気ない縹色無地表紙で、いかにも書物然として流布していた十八世紀の浮世草子や前期上方読本に対して、江戸読本は次第に色摺りで華やかな意匠を凝らした表紙を持つに至る。袋こそあっさりとした文字だけのものが多かったと思われるが、見返しにはさり気なく内容に則した飾り枠などを用い、繍像には主な登場人物を描いてその運命を暗示する賛が入れてある。多くは漢文序を備え、目録は章回体小説に擬した独特の様式を持ち、さらに本文中には時に刺戟的な画柄の挿絵が入れられていた。 
このような江戸読本の気取った華やかさは、読者に対する本自体の自己主張として意識的に造本された結果である。ひとたび手にとってみると、重ね摺りを施した華麗な口絵は展開を暗示し、目録は大まかな筋を示し、さらに挿絵に一瞥を加えると、もう読まずにはいられなくなるという具合に本が創られているのである。きわめて単純化してしまえば、同時期の草双紙が絵外題簽から錦絵風摺付表紙に移行していったように、商品としての魅力を持たせるための所為と見做せるかもしれない。 
しかし、作品内容と体裁とが不可分な関わりを持ちつつ各ジャンルを形成していた近世文芸にあって、比較的格調高く堅い雰囲気を保持しようとした江戸読本が、なぜ派手な装いを持つに至ったのであろうか。おそらく〈読本〉という名称とは裏腹に、単に筋を読むだけのものから、次第に口絵や挿絵という視覚的な要素の比重が増し、現代の読者たちと同様に、モノとしての本自体の美しさをも愛玩するようになったからであろう。本というモノは本質的に手で弄んで読むものであり、単に文字列が記されていればよいという実用品ではないのである。 
二俊徳麻呂謡曲演義 
初板初印の美しい江戸読本が、摺りたてのきわめてうぶな状態で保存されている作品の一つとして、広島市立図書館浅野文庫に所蔵されている振鷺亭主人作・蹄斎北馬画の『俊徳麻呂謡曲演義(しゆんとくまるようきよくえんぎ)』(文化六年、石渡利助板)を挙げることができる1。現存本としては『国書総目録』に僅か二本を見るに過ぎないし、『古典籍総合目録』にも登載されていないが、現在までに管見に入ったものは端本を含めて十三本余りある。これは江戸読本の残存本数からいえば平均的な数字だと思われる2。 
この本には謡本の体裁に擬した大層凝った装幀が施されている。半紙本五巻五冊、栗皮色地に梅花氷裂を散らし、中央上部に長方形無郭の文字題簽「俊徳丸\巻之一\亀の井\まゝ子さん\門法楽」と、巻一の第一回から第三回までの見出しを曲名風に配置している。見返しには薄墨の飾り枠の内側を墨で潰し「謡曲演義俊徳丸」と白く抜いてある。自序「俊徳丸艸序」には節付と胡麻点とを付け3、雅楽器の意匠を用いた総目録を掲げている。これらは謡曲『弱法師(よろぼうし)』を強く意識したものと思われるが、それにしても徹底した凝り方をしている。 
さて、謡曲『弱法師』や説経『しんとく丸』(正保五年)に結実した俊徳丸の世界は、次第にほかの世界と綯い交ぜにされて変容を遂げていった。浄瑠璃では謡曲『富士太鼓』の筋を加えた『莠伶人吾妻雛形(ふたばれいじんあずまのひながた)』(享保十八年初演)や、「愛護若(あいごのわか)」物の趣向を取り入れた『摂州合邦辻(せつしゆうがつほうがつじ)』(安永二年初演)などがある。小説では富士浅間と俊徳丸を結びつけた先行作として享保十五年刊の八文字屋本『冨士浅間裾野櫻4』がある。振鷺亭はこれらの人口に膾炙した作品に題材を求めたのであるが、本作がこの八文字屋本によっていることは、すでに柴田美都枝氏が指摘している5。だが、新たに書き加えられた趣向も多く、作品全体には〈鏡塚の由来譚〉としての枠組が与えられている。口絵の最後に6、 
按本傳俊徳麻呂姓氏未詳蓋俟識者之後勘也。一書曰眞徳或作新徳百済王之後裔稱山畑長者延暦年間之人也云云。時人稱其長者有徳而稱哉。今尚舊蹟存于河州高安郡山畑村中。土人呼之鏡冢雖不載紀傳口碑勒尚矣。嗚呼旌俊徳之美名永令為鑑萬代者乎。予此所記非稽査本拠。只掲出弱法師之謡曲以属詞為覧話本者而作也。亦唯深耻虚譚吁於俊徳人其捨諸乎。 
と記してあるが、『河内志』の記述7や、『河内名所図會8』に見える、 
真徳麿の古跡山畑村の中にあり。土人、鏡塚と呼ぶ。一説に、俊徳あるいは新徳に作る。この人、姓氏分明ならず。あるが曰く、百済王の後にして、山畑長者と号し、延暦中の人なり。謡曲「弱法師」に見えたり。大坂天王寺南門の外に真徳街道あり 
などという俗説により、俊徳丸を四天王寺救世観音の申し子で齋明王の弟調宰相の太子調子丸の再誕とし、級照姫(しなてるひめ)を四天王寺庚申の申し子で前生を百齋王敬福の娘として設定したものと思われる。 
また、口絵には俗にいう死神として『首楞嚴經(しゆれうごんきやう)』から「癘鬼(れいき)」を引いてその姿を描き、巻一の最後にある四丁続きの挿絵では、秘伝の巻物を掴んだまま切り取られた腕9から煙が立ちのぼり、その中に『山海経』に「其ノ状黄嚢ノ如。赤コト丹火ノ如。六ノ足四ノ翼アリ。渾敦トシテ面目無。是レ歌舞ヲ識ル」とある「帝江」という奇態な天上之神の姿を描く。また挿絵でも『本艸綱目』によるという「山獺(やまおそい)」や、「三尸」「九蟲」「三彭」「七魂」などの奇妙な虫などの絵を出している。画工の北馬が跋文に、 
此書(このふみ)ハ元(もと)よりむかし物語(ものかたり)なんどの様(さま)なるべき作者の意(こゝろ)ならねばたゞ俤子(わらはべ)の興(きやう)ある為(ため)にとて九蟲(こゝのつのむし)なんどの形(かたち)も本草綱目(ほんぞうこうもく)の名目(めうもく)のみに據(よ)り山獺(やまおそい)てふものも其状(かたち)を載(のせ)ざれバたゞおどろ/\しう書(かき)なしつなべて繪虚事(ゑそらこと)と見侍(はべ)りてたびてんかし 
と記す通り、これらは『冨士浅間裾野櫻』によったものではない。 
このほかにも、詐術としての〓〓(かまゆで)の刑、恋文を運ぶ雁、入定塚の前でのダンマリ模様、善悪邪正を映す善亀鏡という宝鏡、桓平白狐の子孫三足の白狐が妖術を使っての仇討、波瀲(なぎさ)を惨殺すると腹中から傳胎知命という異形の虫が飛び去り楽譜の一書を得る趣向などなど、実に江戸読本らしい伝奇的で血腥い趣向に満ちた作品なのである。 
三冨士浅間裾野櫻 
ところで、典拠として用いられた『冨士浅間裾野櫻』には『俊徳丸一代記』(天明八年)という改題本がある。体裁は大本五巻五冊、外題角書には「新畫/圖入」とある10。巻末に付された和泉屋卯兵衛の広告に、 
俊徳丸一代記(しゆんとくまるいちだいき)ひらかな絵入五冊俊徳(しゆんとく)丸一生(いつしやう)日本の楽人(がくにん)住吉の冨士(ふじ)天王寺の浅間(あさま)春藤(しゆんどう)仲光(なかみつ)夫婦(ふうふ)が忠臣(ちうしん)俊徳丸天王寺西門におひて参詣(さんけい)の人々に顔(かほ)をさらせし事迄いさいニ出ス 
梅若丸(むめわかまる)一代記ひらかなゑ入五冊松若(わか)梅若兄弟(けうだい)の事を出し母班女(はんぢよ)天狗(てんく)と契(ちぎり)をむすひ兄(あに)松若を取もどせし事奥州(おうしう)角田川(すみだがは)の由来(ゆらい)等(とう)までくはしくしるす 
愛護若(あひごのわか)一代記ひらかな絵入五冊あいごの若一生を委細(いさい)にし并継母(けいぼ)ざん言(げん)の事姫(ひめ)の成行ゑい山の阿闍梨(じやり)志賀唐崎の一ツ枩の因縁(いんえん)迄いだす 
とあり、同時に三作の八文字屋本を改題改修本として出している11。これらの三作には、序文と目録、挿絵を新たに作り直すというまったく同様の改修が加えられている。享保末期から天明八年までには約五十年の年月を経過しており、板元も移ったのであるから化粧直しが施されても別段不思議はないのであるが、ただし加えられた改変の意味は一考に値する。まず、巻一の目録を並べてみる。 
冨士浅間裾野桜(ふじあさますそのゝさくら)一之巻 
目録 
第一舞台(ぶたい)の調子(てうし)圖(づ)に乗(のつ)て来(く)る女中乗物(のりもの) 
大御堂(おほみだう)の荘厳(しやうごん)光輝(ひかりかゞや)く星月夜(ほしづきよ)鎌倉(かまくら)繁昌(はんじやう) 
よい種(たね)を薪捨(まきすて)て開(ひら)きかゝる我身の栄花(ゑいぐわ) 
表門(おもてもん)ハ悪(あく)の口明(くちあけ)裏(うら)へ廻(まは)る女の走(はし)リ智惠(ぢゑ) 
第二親子(おやこ)の縁(ゑん)を切(きり)艾(もぐさ)熱(あつ)さ覚る紙子(かみこ)の火打(ひうち) 
吸付(すいつい)た乳守(ちもり)の大夫縁(ゑん)の有(ある)結(むす)ぶの帋子姿(かみこすがた) 
家の秘曲(ひきよく)の傳受(でんじゆ)ハ請(うけ)ずに勘當(かんどう)を請(うけ)た身 
恩愛(をんあい)の中垣(なかがき)いふにいはれぬ親子(おやこ)の義理詰(ぎりづめ) 
第三思ひもよらぬ災難(さいなん)身にかゝる縄目(なわめ)の恥(はぢ) 
望(のぞみ)ひらくる庭桜(にはざくら)花をふらす舞(まひ)の袖(そで) 
楽所(がくしよ)の障子(せうじ)さしてとる舞楽(ぶがく)の大事(だいじ) 
てん/\と舞(まひ)の太鼓(たいこ)討手(うちて)ハしれぬ父(ちゝ)の敵(かたき) 
この浮世草子特有の言語遊戯的な凝った目録様式は、読んでも直ちに内容のわかる書き方がなされていない。それが改題改修本では次のように変えられている。 
俊徳丸一代記(しゆんとくまるいちだいき)巻一 
目録 
一、北條(ほうでう)武蔵守(むさしのかみ)平高時(たいらのたかとき)安部長者(あべのてうじや)を召(め)さる事 
一、楽人(がくにん)冨士(ふじ)が妻女(さいぢよ)乗打(のりうち)家老(からう)口論(こうろん)の事 
一、冨士(ふじ)信吉(のぶよし)が家形(やかた)へ来(きた)る事 
一、冨士(ふじ)が一子(いつし)左京之進(さきやうのしん)勘気(かんき)のわびする事 
一、萬秋楽(ばんしうらく)の舞(まい)傳授(でんじゆ)の事 
一、左京之進信吉(のぶよし)が屋敷(やしき)に忍(しの)ぶ事 
一、冨士(ふじ)横死(わうし)の事 
一、左京之進捕(とら)われとなる事 
この「〜事」で終るという書式は簡潔に内容を表わしていて、目録を追っただけで一通りの筋がわかるようになっている。実録体小説風もしくは読本風に直されているのである。そして、この書式は化政期以降の江戸読本の全盛期に至っても、上方出来の後期読本に継承される体裁上の顕著な特徴でもある。 
また、挿絵も画面をいくつかに区切った細かい異時同図法で詞書が入れられているものから、一場面を大きく描き文字の入らない体裁に変更されている12。これも、読本風に直されたといっても差し支えないと思われる。 
これらの体裁改変を直ちに浮世草子の読本化を意図したものと断定することはできないが、和泉屋卯兵衛ただ一人の気まぐれではない。享保十八年の八文字屋本『那智御山手管瀧(なちのやまてくだのたき)』も、寛政九年に『袈裟物語』と改題改修されて浅田清兵衛から出されており、これまた序文目録挿絵を彫り直し、巻頭見出しも読本風に直された改題改修本であった。 
浮世草子には分類されていないが、宝暦四年刊『和州非人敵討實録』(多田一芳序、和泉屋平四郎板)も文化六年に『復讐・繪本襤褸錦(つづれのにしき)』(播磨屋新兵衛板)という改題本が出されているが、全丁に絵の入った絵本体裁で「享和酉の夏五月雨の頃浪華の漁翁誌す」という序を持つ改刻本である13。さらに後になってから『敵討綴之錦』(河内屋藤兵衛板14)という、鼠色表紙に意匠を凝らした題簽を貼り、見返しと法橋玉山の手になる口絵挿絵を加えた江戸読本仕立ての改題改修本が出されている。これには「享和酉の夏五月雨の頃浪華の漁翁誌す」という序に加えて、宝暦板にあった一芳の序を「跋」と象嵌して付けられている。つまり、旧作の様態を読本風に変えて改題改修した本は浮世草子だけには限らないのである。 
一方、横山邦治氏は「「都鳥妻恋笛」から「隅田川梅柳新書」へ15」で、『梅若丸一代記』と改題改修された八文字屋本『都鳥妻恋笛(みやこどりつまごひのふえ)』が、天保十三年には『梅花流水』と改題され、大本五冊ながらも表紙と題簽に色摺りが施され、繍像と挿絵が追加されて、あたかも江戸読本かと見紛う体裁で出されていることを紹介し、浮世草子と読本の連続性を考えてみるべきだと説いている。 
もちろん、作風や題材も決して無関係ではなかったと思われるが、いま見てきた例などは、中身はまったく同じものにもかかわらず、表紙と目録と挿絵という、いわば一番目立つ箇所の様式を新たにすることによって、従来の浮世草子とは別の(場合によっては読本としての)読まれ方を期待したものと考えられるのである。 
つまり、本というモノにとって、機能と意匠とは決して別の次元の問題なのではなく、体裁という外面的様式こそが享受されるべき内容を規定してしまうという側面を持っているのである。 
四俊徳丸一代記 
以下、近代になってからの問題に移るが、手許に『俊徳丸一代記』という内題を持つ、明治廿三年刊の洋装活版本一冊がある。表紙は破損しており外題は不明、大きさは縦二十一・五×横十四・五糎の菊判。変体仮名をも字母とする五号活字が用いられ、ほぼ総ルビで、組みは二十九字詰十一行。天に空白が多く取られた印面の大きさは、ボール表紙本と同様の四六判ほど。「明治廿三年九月二日山口徳太郎\櫻井三世仁兄玉案下」とある書翰体の「換序」二頁と、「耕作」という署名の入った口絵三図(六頁)を含めて全部で二百八十頁。内題下に「東京櫻井三世口述\仝山口徳太郎速記」と見え、長短はあるものの第一席から第三十一席までに区切られ、中途に口絵と同筆の挿絵五図(十頁)が入っている。これは俗に「赤本」とも呼ばれていた速記本講談小説16で、刊記は次のようになっている。 
明治廿三年十月七日印刷 
同年十月九日出版 
明治卅一年五月五日再版 
京橋區元數寄屋町一丁目三番地 
***著作者岩本五一 
*版*淺草區南元町二十五番地 
*権*發行者鈴木與八 
*所*下谷區御徒町一丁目七番地 
*有*大山活版所 
***印刷者山田仙藏 
發行所淺草區南元町二十五番地盛陽堂 
巻末の「附言」には出版に至った経緯について次のように記されている17。 
附言(ふげん)に申上升近頃(ちごろ)此速記(そつき)學(がく)と申ものが流行(りうこう)に相成ましたので彼處(あちら)でも此處(こちら)でも此(この)速記(そくき)を致(いた)させますが是(こ)れは文章(ぶんしやう)と違(ちが)ひ御覧(ごらん)遊(あそ)ばすには至極(しごく)お譯(わか)り易(やす)うござゐ升……書肆(しよし)三林堂主人(しゆじん)は三世(おのれ)と一日(あるひ)四方山(よもやま)の談話(だんわ)に亘(わた)りました序(ついで)……主人(あるじ)の申しますには何(な)にか速記法(そくきはふ)で宜(よ)さそうものを一版(いつぱん)印刷(こしらへ)て見(み)たいが何(な)にか、善(よ)い種(たね)はないかとの話(はなし)から致(いた)して此(この)俊徳丸の説(せつ)に亘(わた)りました近頃(ちかごろ)は兎角(とかく)文學(ぶんがく)の世界(せかい)とは申しながら、未(ま)だ中々(なか/\)學術(がくじゆつ)の進歩(しんぽ)は容易(ようゐ)では御座いません、表(うわべ)斗(ばか)り進歩(しんぽ)致(いた)して居(お)りましても其(その)業(わざ)に長(た)けんければ眞(しん)の進歩(しんぽ)と云(い)ふ譯(わ)けには相成(あいな)りません然(さ)れば生地(なまぢ)、自稱(じしやう)天狗(てんぐ)で文章(ぶんしやう)を賣(う)る先生よりは、返(かへ)つて此(この)速記方(そくきはふ)の方(はう)が余(よ)ツ程(ほど)宜(よろ)しうござゐ升、三世(わたくし)も是(こ)れが初(はじ)めてゝございますから、何(ど)んな事を看客(かんかく)に申上て宜(よ)いか殆(とん)と相分(あいわか)りませんが三林堂(さんりんどう)主人(しゆじん)の申しますのには人(ひと)が聽(き)ひて面白(おもしろ)いのが一番(ばん)だから、先(ま)ァ遣(やつ)て見(み)ろとの勸(すゝ)めを便(たよ)りと致してヤツト大尾(たいび)までこぢつけましたが、何(なに)に致(いた)しても深(ふか)く取調(とりしら)べます間(ま)が御座いませんので、充分(じうぶん)看客(かんかく)の御意(ぎよい)に入(い)るか、入(い)らぬかわ相(あい)わかりませんが、從來(これまで)祭文(さいもん)讀(よ)みが唄(うた)ひますやうな物(もの)とはチト事が變(かは)ッて居(お)ります、故人(こじん)振鷺亭(しんろてい)と申す作者(さくしや)が著(つく)りました、俊徳麻呂謡曲演義(しゆんとくまろようきよくゑんぎ)と申す稗史(よみほん)がございます小生(わたくし)參考(さんこう)の爲(た)め一閲(いちゑつ)致(いた)しましたが、古人(こじん)の作(さく)と云(い)ひ當世(とうせい)から見(み)ると余(あま)り虚々敷(そら%\し)い事が書(かい)てあッて、夫(それ)に讀(よ)み難(にく)うござゐ升から小生(わたくし)は偶意(ぐうゐ)をもつて、別(べつ)に趣向(しゆこう)を相立(あいた)てまして御機嫌(ごきげん)を伺(うか)ゝひ升(まし)タ、元(もと)より歴然(れきぜん)と致(いた)した、正史(せいし)を以(も)つて、編(つゞ)りましたものでハ御座(ござ)いません只(たゞ)俊徳丸、合法(かつぱう)の古跡(こせき)を仮(か)りて忠信(ちうしん)孝貞(かうてい)の形状(さま)を口(くち)にまかせて演(の)べました丈(だ)けのものでございますから振鷺亭(しんろてい)の著作(さく)と小生(おのれ)の口演(こうゑん)とお見並(みくら)べを願(ねが)ひ升焉(ゑん) 
速記を用いた舌耕文芸の単行本活字化の早い例としては、三遊亭圓朝の人情話を若林[王甘]藏と酒井昇造とが速記した『怪談牡丹燈篭』(東京稗史出版曾社刊、一八八四年)が有名である。一方、明治十九年(一八八六)からは「やまと新聞」に圓朝の作品が連載され始め、好きな時に好きな場所で読めるという速記本講談小説の流行に一層の拍車がかかった。この速記本講談小説について神田伯治口演、吉岡欽一速記の『自來也18』に付された呑鯨主人の「序」に、 
速記術(そつきじゆつ)なる言語(げんご)の寫眞(しやしん)を以(も)て記(しる)せし冊子(さつし)は近來(きんらい)の普通(ふつう)小説(しやうせつ)に優(まさ)るも劣(おと)る事(こと)なし去(さ)れば小説(しやうせつ)の出版(しゆつはん)數多(かずおほ)しといへども都下(とか)有(いう)講談師(こうだんし)が十八番(とくい)とする物(もの)を選(ゑら)び之に加(くわゆ)るに老練(ろうれん)の速記者をして記(しる)せる講談(こうだん)小説(しやうせつ)には遠(とを)く及ぶ處(ところ)にあらず 
とある。つまり、速記という「言語の寫眞」によった講談小説は、高座での語りを髣髴とさせ耳目に入りやすいから「普通小説」に劣らないというのである。ところが、同体裁の『自雷也物語』という本19があり、こちらは紛れもなく江戸読本『報仇竒談自來也説話20』の翻刻本なのである21。 
速記本講談小説『自來也』の方は、どちらかといえば合巻の『児雷也豪傑譚』に基づく神田伯治の創作といってよい。つまり、この時期の大衆読物には、実録体小説種の速記本講談小説と近世小説の翻刻という二つの潮流があったのである。 
五速記本講談小説 
ところで、前に引いた速記本『俊徳丸一代記』の付言に振鷺亭の江戸読本『俊徳麻呂謡曲演義』に基づくとあったように、単なる翻刻でも自由な創作でもなく、いわば江戸読本の講談化とでもいうべき作品も行なわれていたのである。改めて序を見ると、 
換序 
排呈(はいてい)御口演(ごこうゑん)の俊徳丸(しゆんとくまる)一代記清書(せいしよ)出來(しつたい)に付(つ)き御印刷(ごゐんさつ)へお廻送(くわいそう)被下度。就(つ)ひては再讀(さいどく)致(いた)し候處(ところ)。是(こ)れは貴君(きくん)が別(べつ)に御著作(ごちよさく)遊(あそ)ばされ候ものと存(ぞん)じ候。小生(しやうせい)も。御案内(ごあんない)の如(ごと)く。小説は飯(めし)よりも好(すき)にて。從來(じうらい)印板(いんばん)に附(ふ)し世(よ)に流布(るふ)するものは大概(おそらく)閲(み)ざるものなし(是(こ)れは自稱(じしやう)天狗(てんぐ))と申(まうし)ても宜(よろし)き次第(しだい)に御坐候然(さ)れば天明(てんめい)時代(じだい)の作者(さくしや)。振鷺亭(しんろてい)と申す人(ひと)が著作(つくら)れし俊徳麻呂謡曲演義(しゆんとくまろようきよくゑんぎ)と申す稗史(ふみほん)も。一度(ひとたび)閲讀(ゑつどく)仕候得共。如何(いか)にせん。作(つく)り物語(ものがたり)を目前(もくぜん)へ出(いだ)し。虚(きよ)とし見(み)。實(じつ)として窺(うかが)ふに足(たら)ず。殊(こと)に支那(しな)の説(せつ)を諸書(しよしよ)より引用(いんよう)して作(つく)るものをもつて往々(わう/\)空々敷(そら/\し)き箇處(かしよ)澤山(たくさん)に相見(あいみ)へ候。貴君(きくん)の御著作ハ之(こ)れと反(はん)して温故知新(おんこちしん)。能(よ)く其(その)情態(じやうたい)を穿(うが)ち。以(もつ)て今様風(いまやうふう)に御著作(ごちよさく)せられしハ是(こ)れ眞(しん)に今日の童蒙(どうもう)婦幼(ふやう)をして讀(よ)むに適(てき)し其感(そのかん)を抱(いだ)かしむ可(べ)し。元來(げんらい)俊徳丸(しゆんとくまる)は古説(こせつ)と雖(いへど)も。事(こと)を其間(そのかん)に存(そん)し以(もつ)て風俗(ふうぞく)を疇昔(ちうせき)に當(あ)て而(しかう)して其實(そのじつ)を現時(げんじ)に説(と)れしは實(じつ)に小生感腹(かんぷく)の外(ほか)無之(これなく)候本文、荻葉(おぎは)と奇妙院(きめうゐん)と小冠者(こくわんじや)と神經談(しんけいだん)、春緒(はるを)、小式部(こしきぶ)の薄命(はくめい)、俊徳丸(しゆんとくまる)、合法(がつはう)の心裡(しんり)一々(いち/\)其人(そのひと)を目撃(もくげき)するが如(ごと)くにして眞(しん)に愉快(ゆくわい)を相覺(あいおぼ)へ候よつて筆序(ふでついで)に小生の想像(そうざう)を申上可(べ)く候敬具(けいぐ) 
明治廿三年九月二日 
山口徳太郎拝呈 
櫻井三世仁兄玉案下 
と、速記者が講釈師の提灯持ちをしているが、基本的な筋は原話を逸脱していない上に、口絵と挿絵は描き直されているものの、明らかに北馬の手になる原画を踏まえたものである。改変されているものは、「波瀲」という女敵役を「荻葉」という名前に変えて〈毒婦〉と形容している点。また、「其性淫毒なり」という山獺の趣向や、合邦道人が級照媛の体内から三尺九虫三魂七魄を追い出す場面の描写、さらには狐の怪異や入定の詐術などという、振鷺亭が好んで書き込んだと思われる江戸読本らしい伝奇的モチーフは悉く排除され、ことさらに道徳教訓的な叙述が補われているのである。これらは「作り物語を目前へ出し。虚とし見。實として窺ふに足ず。殊に支那の説を諸書より引用して作るものをもつて往々空々敷き箇處澤山に相見へ候」と巻末附言にいう部分を、敢えて避けたということになるだろう。 
このような江戸読本を典拠とする速記本講談小説は、ほかにもいくらか挙げられると思われるが22、たとえばこれも同じく菊判洋装本『苅萱石堂丸23』は、第一回の冒頭部で、石堂丸の実伝は芝居狂言などとは大いに違うので「一口(わたくし)も幼年(えうねん)の砌(みぎり)より、二三の原書(げんしよ)に基(もとづ)いて、樣々(さま%\)に苦心(くしん)を致(いた)し、至(いた)らぬながらその事實(じゞつ)に潤色(じゆんしよく)を加(くわ)へ、言葉(ことば)に文(はな)を飾(かざ)ッて演(えん)じ」るといいながら、実のところ中身は馬琴の中本型読本『苅萱後傳玉櫛笥(かるかやごでんたまくしげ)』24の筋をなぞっただけのものである。基本的には安政期に流行した切附本25の一部に見られる読本を抄出したものと同趣である。ただ、『苅萱石堂丸』は典拠を秘匿しているだけ非良心的であるといえるかもしれないが、にもかかわらず、剽窃とか抄出として片付けてしまうわけにはいかない。切附本との最大の相違は、高座で口演されたものを速記した(という様式を採る)読み物であるという点である。当然、速記術という「言語の寫眞」技術の確立が前提になるわけであるが、実はその速記された原稿に、さらに後から手を入れたようである。つまり、講談という場の枠を嵌めた口述筆記という装置を仮設することによって作られたものが、速記本講談小説という様式なのである。 
江戸読本の翻刻本が大量に出版された近代の一時期に、よく知られている「八犬士伝」や「自来也」など以外にも、江戸読本に題材を求めた講談や速記本講談小説が存在したことは看過できない。そして、それらの本が同様の菊判洋綴装にカラー表紙という体裁を持っていたということは、前述した通り造り手側が同じ読まれ方を想定しているということであるから、ほぼ同一の読者層を想定してもよいかと考えられるのである。 
六意味としての体裁 
ところで、翻刻本によって江戸読本の原文を読むのと、講談速記本によって語り手の独演を媒介とした会話体で同様の筋を読むのとでは、本質的にどこが違うのであろうか。言文一致の問題を持ち出すまでもなく享受の位相は違う。作品世界に対して文字通りの〈語り手〉が具体的な存在としてあらかじめ設定された文体は、〈語り手〉による要約や注釈や脱線が自在である。と同時に作品世界の情報はすべて〈語り手〉の管理下におかれているわけで、前述の『俊徳丸一代記』のように近代合理主義的な発想で、本来的な江戸読本の魅力を削ぎ落して、いたずらに教訓化されてしまいかねないのである。このことは、江戸読本の文体にも多声的な叙述が備わっていることに改めて気付かせてくれる。つまり、叙述を問題にせずに筋や登場人物の行動がすべてであるかのごとき錯覚を持って近世後期小説を読むことはできないのである。 
『俊徳丸一代記』という題名を持った作品を追いつつ明治期の出版についても見てきたが、最初に触れた『俊徳麻呂謡曲演義』にも翻刻が備わっている。四六判錦絵風摺付表紙の和装本『俊徳丸白狐蘭菊』(明治十八年三月廿四日翻刻御届\同年七月(ママ)日出版、野村銀次郎)と、四六判洋装『古今小説名著集』第十七巻(明治廿四年、礫川出版會社)とである。これらは、四六判であり、菊判洋装という現代の文芸雑誌風の速記本講談小説の類とは別の存在として見るべきである。何度か述べてきたように、本の大きさや体裁とは確実にその享受の様相を規定したものだからである。 
注 
1.和泉書院の読本善本影印叢刊の一冊として入れられる予定なので、書誌および諸本研究はそちらへ譲りたい。 
2.一概にはいえないが『国書総目録』や国文学研究資料館のデータベースに登載されていなくても、どこかに所蔵されていることがある。したがって現存本の数を問題にする時に『国書総目録』の登載本数を根拠にするのは危険である。ただし、中には当時の出板記録類に記されながらも現存本が発見されていない振鷺亭作北斎画『安褥多羅賢物語』などもある。いずれにしても保存のよい初印本は稀であり、とりわけ不当に価値を貶められた再刻本(改題再刻本)の方の善本となると伝本は少ないようだ。また、当時評判になって売れたとしても、本が多数残っているわけではないし、逆に馬琴が売れなかったと記して有名な山東京伝の『雙蝶記』ですら幕末の後印本を確認できるのである。 
3.栗杖亭鬼卵作『謡曲春榮物語』(文化十五年、河内屋嘉七板)も同体裁の序文を持つ謡曲に基づく作であり、三熊野文丸作『小説竒談峯の雪吹』(文化七年、玉集堂板カ)も同様の序を備えている。また、馬琴の『旬殿實々記』巻之九でも龍宮の珠取として謡曲「海土」の一部分が引用されている。 
4.大本五巻五冊、序「享保十五戌の\としの始作者其磧\作者自笑」、刊記「享保十五年戌ノ正月吉日\ふ屋町通せいぐはんじ下ル町八文字屋八左衛門」。 
5.柴田美都枝「江戸読本の展開文化年間」(『読本の世界―江戸と上方―』、世界思想社、一九八五年)五三頁。 
6.火炎太鼓風の絵の中に書かれている。なお、句点を私に補った。 
7.享保二十一年刊『日本輿地通志』河内之七、二丁表に、「鏡冢山畑村ニ在。俗云眞徳麻呂ノ舊蹟。事ハ與呂法師曲詞ニ見。或曰女孺従五位下百濟王眞徳ノ墓。延暦中ノ人」とある。 
8.享和元年刊。『日本名所風俗図会』十一巻(角川書店、一九八一年)所収。 
9.この場面は歌舞伎の舞台を髣髴とさせる画組である。しかし、巻物を掴んだ腕ごと切り落すのは『莠伶人吾妻雛形』に見られる趣向であり、本文中の記述とは齟齬している。 
10.序末「天明七つのとし\未正月吉日」、柱「富士」、刊記「天明八年戊申正月吉日\書林\大坂心斎橋北詰和泉屋卯兵衛」。さらに、刊記を「大坂上難波町播磨屋新兵衛\同心斎橋博労町勝尾屋六兵衛」と改めた後印本も存。 
11.長谷川強『浮世草子考証年表―宝永以降―』(日本書誌学大系42、青裳堂書店、一九八四年)によれば、『梅若丸一代記』は享保十九年正月刊『都鳥妻恋笛』の改題改竄本、『愛護若一代記』は享保二十年正月刊『愛護初冠女筆始』の改題本とある。 
12.神谷勝広「浮世草子の挿絵―様式の変遷と問題点―」(「近世文芸」五十号、日本近世文学会、一九八九年六月)によれば、絵入狂言本の挿絵から影響を受けて八文字屋が意識的に採用した詞書入異時同図法様式は、享保末年にはほぼ定着し、また、それが次第に読本風に変化していくとする。 
13.刊記脇の広告に「繪入敵討綴之錦全部六冊敵討の始末ひらかなニ委敷して面白きよみ本也出来」とあり、原板木に改修を加えた本ではない。 
14.刊記には河内屋藤四郎以下河内屋藤兵衛まで三都九書肆が列記されている。宝暦板の改題改修板の後印本だと思われる。 
15.横山邦治「序にかえて」(『讀本の研究―江戸と上方と―』、風間書房、一九七四年)。 
16.新島広一郎編著『講談博物志』(私家版、一九九二年)では、多くの版元とその手掛けた講談本シリーズについて、長年にわたって蒐集された実物のカラー図版を示して解説している。なお、国立劇場演芸図書室蔵の『合邦辻敵討俊徳丸』(錦城齊貞玉口演、加藤由太郎速記、明治卅九年、春江堂)はまったく別のもの。 
17.旧稿に引用した架蔵本には一部破損していて不明の部分があった。此処の引用(web版)では、後日入手した次の刊記を持つ別の再版本『俊徳丸一代記』に拠った。 
明治四十年一月十九日再版印刷 
明治四十年一月十九日再版發行 
{明治廿三年十月七日印刷/同年十月九日出版} 
京橋區元數寄屋町一丁目三番地 
***著作者岩本五一 
*版*東京市淺草區三好町七番地 
*權*發行者大川錠吉 
*所*東京市淺草區南元町廿六番地 
*有*印刷者川崎清三 
***東京市淺草區南元町廿六番地 
印刷所大川屋印刷所 
東京市淺草區三好町七番地 
發行所聚榮堂大川屋書店 
18.大正元年十一月廿五版、大川屋書店。初版(未見)は明治二十九年。 
19.洋装、菊判、百八十三頁、序「明治三十一年秋十月、志摩蒼海漁夫識」、刊記「明治三十三年二月十四日印刷\明治三十三年二月十九日出版\飜刻發行者・東京市日本橋區通三丁目十三番地・内藤加我\印刷者・東京市日本橋區新和泉町一番地・瀧川三代太郎\發行所・東京市日本橋區通三丁目十三番地・金櫻堂\印刷所・東京市日本橋區新和泉町一番地・今古堂活版所」。 
20.感和亭鬼武作、高喜斎校合、蹄斎北馬画、半紙本五巻六冊、文化三年丙寅歳孟春、中村藤六板。蛇足ながら、この序文に洋装菊判という体裁について「現今流行の洋綴製」と記されているのが興味深い。 
21.序末に「以て巻端の半丁を塞ぐと云爾」とあるにもかかわらず、二頁にわたって序文が書かれているのが妙だと思っていたら、ボール表紙本『兒雷也豪傑物語』(四六判、洋装、百十五頁、内題「自來也物語」、明治二十年一月十日御届、同廿二年四月三十日印刷、同年五月一日再版、柳葉亭繁彦閲、漫遊曾發兌)に付された序文と、振仮名の多寡を除けばまったくの同文であった。この本は明治二十年に鶴聲社から出されたものの再版と目されるが、さらに早く明治十七年に四六判の和装本として共隆社からも柳葉亭繁彦閲で出されており、版元や版型を変えながら何度も出版されたようだ。ただしその間にいく度か挿絵の描き換えと活字の組み直しを行なっており、どうやら前版を原稿として用いたものと思われる。近代に入ってからの、このような江戸小説翻刻本出版をめぐる様相は、なお一層の資料収集が必要であり、版元の関係を含めて今後の課題として残されている。 
22.鬼卵の読本『長柄長者繪本黄鳥墳』(文化八年)にも、同様の速記本講談小説『鴬塚復讐美談』(錦城齋貞玉講演・今村次郎速記、いろは書房、明治三十年十一月)があり、同時に『今古實録鴬墳物語』(上下二巻、榮泉社、明治十七年十一月)に翻刻され、さらに四六判和装『鴬墳物語』(榮泉主人序、巻末破損で書誌事項不明)も出ている。この鴬塚の話は合巻でも扱われ、演劇にも仕組まれ、山々亭有人・松亭金水『鴬塚千代廼初声』(全四編、安政三年〜明治二年)という人情本にもなっている。これらの検討は別稿「草双紙・読本の雅俗−黄鳥塚説話の諸相−」(「國文學」學燈社1999/02)に譲りたい。 
23.石川一口講演、中村卯吉速記、明治四十年再版、駸々堂。 
24.曲亭馬琴作、葛飾北斎画、三巻三冊、文化四年、榎本惣右衛門・同平吉板。 
25.本書第二章第五節参照。 
第四章江戸読本の周辺

 

第一節読本の校合−板本の象嵌跡− 
一はじめに 
読本とは板本として出板されて流布した近世小説における一文芸様式の謂いである。したがって写本として流布した作品群とは、おのずから別の位相を備えているはずである1。 
この板本と写本との差異は、テキストと作者や読者との距離として計測可能である。まず読者の側から見ると、写本の読者たちは本文を読むのみならず、由緒正しい本文を校合という作業によって仮想化していく試みをしたり、逆に勝手な本文の改稿も可能であった。つまり作者と読者との立場が未分化な状態での享受が可能なのであった。そのいずれにしても、限定的な範囲の人に向けた新たな異本の作成にほかならない2。ところが板本の読者に許されているのは、定稿化された本文を読むことだけである。 
一方作者の側から見ると、写本である限りは未定稿として放っておくことができ、気が向けばいつでも推敲を続けることが可能であった。また求められれば特定の相手に向けた異本を作成して与えることもあったろう。ところが板本として上梓する場合は、ある日限までに不特定多数の読者たちへ向けた定稿を作り上げる必要があり、一旦出板されてしまえば、作者の手による改訂はまず不可能であった3。 
このような板本と写本との差異は、大半の板本が商品として出板されたことに起因して生じたものと考えられ、作者の書く意識にも大きな相違をもたらしたはずである。板本が少なからざる先行投資を必要とする商品である以上、作者は必ずしも書きたいことを思い通りには書けなかったはずだし、何よりも板元の意向として売れる内容が要求されたからである4。 
つまり印刷という複製技術の導入が促した写本から板本へという変化は、常に定稿を求められる作者と、大多数の単に読むだけの読者とを、明確に別の立場として分節化させ、その一方で商品としての本を流通させる機構の発展を促すことになるのであった。 
二『繁野話』の場合 
いま写本の問題は措くとして、板本の制作過程と作者との関わりについて考えてみたい。写本と違って板本は制作工程に複数の人間が関与するために、筆耕の誤写や彫師の彫り損ないなど、作者の与り知らぬところで、さまざまの間違いが生じる。そこで何度かの校合を経てから、最終的に印刷製本されることになるのである。これらの修正は、板木の該当部分を削って新たに彫り直した板木を象嵌(入木)することによって行なわれた。 
板本を手にして読んでいると、ところどころで明らかに象嵌したとわかる部分が見付かることがある5。刊記などに入木跡がある場合は神経質になるのであるが、板本の本文には異同がほとんどないという先入観からか、本文の吟味は比較的等閑視されてきた気がする。しかし、これらの修正には注意を要する場合がある。一つには作者の改稿であり、もう一つは検閲による修正である6。 
そこで板本制作の最終過程で行なわれる校合についての資料として、天理図書館に所蔵されている『古今奇談繁野話』の校合本(九一三・六五―イ四一)について具体的に見ていきたい。まず書誌を記しておく。 
巻冊半紙本五巻(巻五は上下)合一冊 
表紙後補狐色表紙(唐花亀甲繋) 
題簽左肩「奇話全[艸+繁]」(墨書) 
刊記 
明和三丙戌年正月刊 
江戸通本町三丁目西村源六 
大坂心斎橋筋順慶町柏原清右衛門 
南新町壱丁目菊屋惣兵衛 
どうやら校合本を貸本屋本として使っていた本らしく、口ノ一オに「本定」(黒印)とあり、いたずら書きが多い。全丁に入紙し、天を二糎ほど截ったようで、校合の書き入れ(朱と墨)の上部が切れており、ほぼ全丁表左肩に「本屋」という三糎ほどの丸黒印が押してある。また巻五上四オの挿画の脇に「桂雪典圖[眉仙]」とある7。なお巻五下の三〜四丁目が落丁している。 
以下、丁数行数・上部余白に朱筆(一部墨)で記された指示内容・校合本→板本という順に示す。なお不明箇所は〜で示し、推読箇所は〈〉で括り、補足事項は「*」印の下に示した。 
巻一 
口一オ7・〈にこり〉さす・過(よき)る→過(よぎ)る 
口二オ1・〜りさす・月(つき)→月(づき) 
3・〈けう〉ぎ・侠妓(けんぎ)→侠妓(けうぎ) 
5・〜りさす・軍機(くんき)→軍機(ぐんき) 
7・〜うちて〜べし・[巾+意]談→憶談 
*心偏に訂正 
一オ4・〜り〈取〉へし・遺地(いぢ)→遺地(いち) 
9・〈あ〉たま取へし・染て→染て*上に突き出た部分を削除 
11・にこりさす・五層(こさう)→五層(ごさう) 
一ウ5・けう・興→興(けう) 
10・〜りさす・つゝ→づゝ 
二オ9・〜・人望(しんばう)→人望(じんばう) 
三オ2・〈わ〉がひ・我日→我日(わがひ) 
4・にこりさす・山かつら→山かづら 
7・〜り〈取〉へし・害(がい)す→害(かい)す 
五オ2・〜ごりさす・露はかり→露ばかり 
五ウ11・〜りさす・あらされば→あらざれば 
六オ5・〜りさす・名つけ→名づけ 
六ウ4・さす・指→指(さす) 
9・〜へし・害(がい)→害(かい) 
九オ1・〜さす・実(しつ)→実(じつ) 
5・賢・監→賢 
九ウ5・〈まぬ〉か・免れ・免(まぬか)れ 
10・〜りさす・されば→ざれば 
十オ1・〜ごりさす・ならさる→ならざる 
十ウ2・〜し・害(かい)し→害(がい)し 
十一オ3・埋(うつ)む→埋(うづ)む*本文に朱で濁点、直っていない 
3・おぎ・荻(おき)→荻(おぎ) 
7・〜りさす・肇(はし)め→肇(はじ)め 
11・〜こりさす・垢(あか)つき→垢(あか)づき 
十四ウ8・にこりさす/〈じゆ〉ん・順(しゆん)→順(じゆん)*濁点部彫り残し 
巻二 
一オ3・〈取へ〉し・ひ。雄(を)→ひ雄(を) 
6・〜へし・類。矢(や)→類矢(や) 
9・〜し・郎。家(か)→郎家(か) 
10・〜へし・子(し)。雪(ゆき)→子雪(しゆき) 
一ウ3・〜し・ず。夫(おつと)→ず夫(おつと) 
8・取へし・バ。何→バ何 
8・・く。竃(かまど)→く竃(かまど) 
8・入れる・ん妻(め)→ん。妻(め) 
二オ5・〜・ずあ→ず。あ 
二ウ11・〜こりさす・淀(よど)→淀(よど) 
三オ2・〜・面目(めんほく)→面目(めんぼく) 
四オ*挿絵中路傍の小石の彫り残しに朱が入っており、直っている。 
四ウ3・。・ふ妻(つま)→ふ。妻(つま) 
6・許・刀祢子(とねこ)に→刀祢子(とねこ)許(もと) 
7・にこりさす・臨(のそ)み→臨(のぞ)み 
12・にこりさす・けにも→げにも 
五オ5・た・他(たれ)→他(かれ) 
10・。・て誠(まこと)→て。誠(まこと) 
五ウ9・〈な〉し・日として→日となし 
9・。・ず此・ず。此 
9・〈お〉き・立よせて→立おきて 
六オ2・〈とびゆ〉く・飛行→飛行(とびゆく) 
8・〜こりさす・ちり問ふ→ぢり問ふ 
八ウ10・〈ざ〉き・崎(たき)→崎(ざき) 
九オ6・〜こりさす・のかれ→のがれ 
8・〈きうし〉ん・舊臣→舊臣(きうしん)*振仮名部に貼紙存 
十ウ2・〜をとらは〈取〉へし・徒(つき)て→従(つき)て 
*突出部を削る 
11・〈せん〉りよ・千慮→千慮(せんりよ) 
12・・姓→姓(せい) 
十一オ2・・根→根(ね) 
3・〜りさす・さし→ざし 
十一ウ9・〜りさす・談者(たんしや)→談者(だんしや) 
十六オ4・〈い〉ちぶん・一分→一分(いちぶん) 
十七オ2・〈いか〉ん・如(い)何→如何(いかん) 
十七ウ5・ける・? 
8・〜の/たり也・傳(つた)ん→傳(つた)へ 
巻三 
一オ3・〜へし・鬼神(きじん)→鬼神(きしん) 
3・るい・類→類*振仮名貼紙剥離跡存、直っていない 
一ウ2・〜かゆへ・故→故(かるがゆへ) 
?・〜んべし・? 
二オ3・いた・傷(した)ハり→傷(いた)ハり 
3・〜・し→し。 
5・〜りさす・さま/\→さま%\ 
11・〜・召具(めして)し→召具(めしぐ)し 
三オ1・〜ごりさす・せさる→せざる 
5・〜・掌上(てのうち)→掌上(てのうへ) 
四オ*挿絵中に朱で「〇ゆびふとくする」「〇カミ」 
四ウ1・〜こりさす・従者(すさ)→従者(ずさ) 
10・〜ごりさす・帯(おひ)→帯(おび) 
五ウ6・〜りさす・べからす→べからず 
6・取へし・ど。猟→と。猟 
六ウ2・〜ごり取へし・阿野(ぐまの)→阿野(くまの) 
七ウ8・〜りさす・成(しやう)→成(じやう) 
十一オ5・〜ごりさす・山祇(やますみ)→山祇(やまずみ) 
7・〜りさす・物語(ものかたり)→物語(ものがたり) 
十三オ5・〜・日日(ひひ)→日日(ひび) 
十四オ7・引・引→引*偏の上に点を加える 
9・〈に〉こり/見えるか・時(し)→時(じ) 
十四ウ?・〜りあり・? 
十六オ11・見へず・少女(せうし)→少女(せうじよ) 
十七オ*挿絵中に朱で「女ノ目下より少シケヅル」とあり、矢を持つ指や袖の部分の彫り残しに朱で印が付けられている。 
十七ウ1・〈げ〉ん・化現(けけん)→化現(けげん) 
11・見へるか・支(し)→支(し) 
十八オ2・〜こりさす・業(こう)→業(ごう) 
3・〜さす・神通(しんつう)→神通(じんつう) 
6・とぐ・遂(どく)→遂(とぐ) 
?・〜なり・? 
9・〜こり取へし・丈夫(ぢやうぶ)→丈夫(ぢやうふ) 
二十オ3・〜・日々→日々(にち/\) 
5・〜ん・なへ→なん 
巻四 
一ウ6・取へし・財帛(ざいはく)→財帛(さいはく) 
8・〜へし・男子。母→男子母 
三ウ*挿絵中海の中にある砂など彫り残しに朱で印がある。 
四ウ2・〜のにごり取へし・渓水(たにがば)→渓水(たにがは) 
6・〜へし・と斗。云(いゝ)→と斗云(いゝ) 
六オ8・〜絹・物見→〓絹(たれきぬ) 
六ウ12・ん・大監(たいかん/やくに)→大監(たいかん/やくにん) 
七ウ?・〜なもの取へし・? 
9・〜こりさす・拒(こは)む→拒(こば)む 
八オ7・取へし・に、合(あい)→に合(あい) 
7・・定め。ヘ家(いへ)→定め。家(いへ) 
7・う・丹二(たじ)→丹二(たうじ) 
8・〜・示(しめし)し→示(しめ)し 
九オ1・び・竊候(しのと)→竊候(しのび) 
十オ*挿絵中に朱で「〇ヒゲ取」とあり、左端の男の髭に印がある。 
十ウ1・〜し・に。待・に待 
11・鱗・眉鮮王→眉鱗王 
十一ウ7・行・引べき→行べき 
十二オ9・りて・さがり→さがりて 
十四ウ*上に「〜のしるし」とある。 
十五ウ8・ごとし・かことじ→がごとし 
十六オ10・〜りさす・さる→ざる 
十七ウ尾・終・四巻→四巻終 
巻五上 
四オ*挿絵左下隅に墨で「桂雪典圖[眉仙]」とあるが、板本には見えない。 
五オ4・〜りさす・直(しき)→直(じき) 
11・〜なし・出さず→出さず*彫残しを削る 
五ウ9・〜・空(ただ)→空(むだ) 
12・〜取べし・我(われハ)に→我に 
六オ4・〈あ〉たま取へし・乏しこと→乏しと 
六ウ2・〜りさす・わひしけに→わびしげに 
12・かへ・辺(とう)し→辺(かへ)し 
七ウ2・〜?・財→財(さい) 
5・〜づく・憤(ふつく)→憤(ふづく) 
9・〜?・川下→川下(かわしも) 
八ウ*挿絵上部に朱で「〜をし〜にて」、挿絵中男の両目の下に朱。 
十一オ1・〜だけ・棄却(たあけ)→棄却(あだけ) 
2・底(そこ)・底→底(そこ) 
7・〜・為重(ためかす)→為重(ためかず) 
十一ウ1・〜・當時(たうし)→當時(たうじ) 
十二オ1・しで・仕出(して)→仕出(しで) 
巻五下 
一オ4・〜・宿(とま)り→宿り 
一ウ1・〜へし・で→て 
2・もの・親の→もの 
2・〜取へし・至(いた)。る→至(いた)る 
3・[人+尓](なんぢ)・〓→[人+尓]*本文中に朱で「つめ取べし」とある。 
4・〜ごりさす・偶(あいた)→偶(あいだ) 
9・〜りさす・は→ば 
9・〜り取へし・為(だめ)→為(ため) 
二オ12・〜ひ・應承(うけかひ)→應承(うけがひ) 
二ウ11・うつ・写(つ)→写(うつ) 
五オ1・にこりさす・草紙(さうし)→草紙(さうし)*「ざ」に直ってない 
6・〜り取へし・二層(ぞう)→二層(そう) 
9・にこりさす・小合(せうかう/こばこ)→小合(せうがう/こばこ) 
五ウ1・〜ごりさす・出せは→出せば 
6・まじ・まし→まじ 
6・〜・まじ。・そ→まじ。そ*本文中に朱で「□□取へし」とある。 
六オ2・〜志(〜ろざし)・志→志(こゝろざし) 
六ウ3・〜・言→言(いゝ) 
10・〜・惑(まと)ふ→惑(まど)ふ 
七ウ7・〜づかたも/〜や・宇佐美(うさみ)→九宇佐美(うさみ) 
八オ?・〜かな・? 
八ウ6・にこりさす・信(つれ)→信(づれ) 
九ウ*挿絵上部に朱で「〜か/ことし」とある。 
十一オ3・〜・利貞→利貞(としさだ) 
十一ウ12・〈に〉こりに/なをすへし・に。そ→にぞ 
十二ウ12・〜くる・助(たすけ)→助(たすくる) 
十三オ11・〜・たゝ・しく→たゝしく*本文中に朱で「取へし」とある。 
十三ウ2・と・對陣すりて→對陣とりて 
十四ウ10・〜いさくはたへ/つけべし・四方かくれ→四方ニかくれ 
十五オ1・にごりさす・しらさて→しらさで 
十五ウ*挿絵上部に朱で「〜の/ことし」 
十六ウ1・得ず/にこりさす・得す→得ず 
十七オ9・〜・偽引(をひく)・偽引(をびく) 
12・にごりさす・擧(あけ)て→擧(あげ)て 
十七ウ3・會(あひ)・〓→會(あひ) 
4・〜りさす・肌具(はたく)→肌具(はだぐ) 
4・ご・堅固(けんこ)→堅固(けんご) 
4・だいが・臺尻(たいしり)か→臺尻(だいしり)が 
8・〜・立しと→立じと 
9・ひらき・ひゝき→ひらき 
以上の書き抜きに一瞥を加えてわかることは、校合という作業が推敲(書き換え)ではなく、濁点の有無、仮名遣い、句読点、誤刻などの訂正に留まっていることである8。その訂正の仕方は、「害」の振仮名「がい」を徹底して「かい」に直すなど、反切に基づいて細かく注意が払われたものである9。また訂正の朱筆は本文のみならず、挿絵中の彫り残しを削る指示にまで及んでいる。これらのことから、この校合が作者の手によるものと判断してよいように思う。ただ校合本には、すでに入木されていると思われる部分も見られ、事前に内校がなされたものなのか、それとも初校の校合本ではないのか判然としない。つまり当時は一般的に何回の校合が行なわれたのかもわからないのであるが、板本と比較をしてみた限りでは、この校合本が最終校であったものと思われる。 
一方、技術的な側面から見ると、錦絵に見られるような、ほとんど痕跡を留めることなく象嵌を施す技術がすでに存在しながら、本文の入木に関しては、かなり雑な作業を行なったとしか思えない。もちろん匡郭際の濁点の入木などには非常に細かい作業を要したことは確かであるが、大部分が一目で入木とわかるからである。 
三『雨月物語』の場合 
さて、本文の象嵌跡が問題となる作品として安永五(一七七六)年刊の『雨月物語』がある。序文の年記が明和五(一七六八)年であることから、刊記との八年間のずれと成立時期をめぐって未解決の問題が残されている。いま、『雨月物語』の入木跡と思われる箇所を検討することによって、改めてこの問題を考えてみたい。 
現在に至るまで、最終稿ができたのは「安永五年、もしくはそれを隔ることのあまり遠くない以前」という重友毅氏の説が定説となっているようである10。 
……すなわちそれは、『雨月』の最初の稿がひとまずこの年にでき上ったことを意味するものであり、それを書肆の手に渡したというのも、単に作者の予定であったに過ぎないものを、一般序文の形式に従っていいあらわしたにとどまる。そして推敲癖のある作者は、その後数年にわたり、最初の稿にかなりの筆を加えながらも、なおかつその刊行に際しては、これを記念する意味で当初の年月をそのままにしておいたのであろう。と同時に、彼が競争相手として、その生涯を通じて敵愾心を捨て得なかった建部綾足の『西山物語』が、同じ明和五年の二月に刊行せられていたことに対する気持の拘泥が、その負けじ魂を刺戟して、あくまでも最初の稿成るの日を、そこに固執せしめたとも考えられるのである。 
まず「推敲癖」というのが気になる。秋成がどのような癖を持っていようと、前述の通り板本には定稿が要求されるものである。かつ板本の出板には少なからぬ先行投資が必要とされたのであるから、常識的に考えれば板木を彫ってからの推敲は考えにくいし、まして板木のままで八年間も寝かしておくなどということは、まずありえないことだと思われる。また重友氏一流の修辞ではあるが、「敵愾心」やら「負けじ魂」やらで文学史を記述していく方法にも問題がある11。 
ところが、中村幸彦氏が、 
明和五年三月の序と、刊年の間八年の長きも、秋成の年譜を繙いて、国学に専念し、生計のために医を学び、居を転じ、実生活にも精神生活にも大いに変化のあったことを思えば、おくれたのも首肯できる。かえって、宇万伎門や庭鐘塾での教養はこの作品には幸して、頭注に示すごとく、おびただしい古典から、一文一語を得るごとに使用され、板本につけば出版直前まで入木訂正の跡も生々しく、推敲が重ねられたのである。 
という通り12、『雨月物語』の板面は、一行が左右に蛇行していたり、一部の字が歪んでいたり、文字の大きさや太さが不揃いであるなど、一見した印象だけでも随分と汚い。京大本など保存のよい初印本を見ても墨付の違いや摺りむらが多く、入木箇所の判断に苦しむ場合が多い。もっとも、入木箇所の判断には、国会図書館に蔵する一本のように、小口が破損していて袋綴の裏側から見られる後印本が便利である。ただし、『雨月物語』には板木はもちろん稿本や校合本の所在が知られていないため、確実なことは明らかにできない。疑い出せばきりがないほどの疑問箇所が出てくるのであるが、ここでは入木跡である蓋然性が高いと判断した箇所に限って挙げてみることにする13。 
以下、丁数・行数・入木と思われる箇所を順に挙げ、振仮名の場合は括弧で括った上で「*」の下に該当する漢字を示した14。 
巻之一 
一ウ6・たる所に。土(つち) 
二ウ7・新院 
11・隔生(きやくしやう) 
11・佛果(ぶつくは) 
12・新院 
三オ1・近 
1・魔(ま) 
5・聡明(さうめい)乃聞えましませば。 
5・王道(わうたう)のことわりハあ 
11・體(とし) 
12・體(とし) 
四ウ1・皇子(みこ)の重(しげ) 
2・美福門院(びふくもんいん)が妬(ねた)ミ 
五オ3・(きミ)*王 
9・本朝 
10・王道(わうだう) 
10・王(わ)*王仁(わに)の王 
五ウ6・天照すおほん神乃開闢(はつぐに) 
六ウ3・なるとも 
9・少納言(せうなごん)信西(しんせい) 
七オ3・して。恨をはるかさんと。一すぢにお 
七ウ4・信西(しんせい) 
4・を博士(はかせ) 
6・(あな)*坑 
八オ12・魔王 
八ウ6・敵(ども) 
九ウ7・青々(せい/\)たる春乃 
十オ1・孟(もう) 
3・里 
6・里 
十一オ2・愛憐(あはれミ) 
9・赤穴(あかな)宗 
十一ウ3・三沢(ミざは)三刀屋(ミとや)を 
12・赤穴(あかな)も諸子(しよし)百家(ひやくか) 
12・わきまふる 
十二オ3・赤穴(あかな) 
十二ウ2・赤穴(あかな)親子(おやこ) 
5・赤穴(あかな) 
7・赤穴(あかな) 
10・赤穴(あかな) 
十三オ3・赤穴 
十四オ2・赤穴宗 
4・南 
7・赤穴 
9・赤穴 
11・赤穴 
十五ウ2・霊(たま) 
4・赤穴 
6・赤穴(あかな)丹 
十六オ7・見え 
12・赤穴(あかな) 
十七オ2・赤穴(あかな)ハ一生を 
6・(あさ)*旦 
10・赤穴丹 
11・丹 
十七ウ1・(ふうき)*富貴 
3・(まな)*斈 
8・(きさい)*竒才 
12・(がい)*害 
十八オ4・(おも)*重 
5・(こつにく)*骨肉 
7・(まじ)*交 
7・(ひそか)*私 
10・(おも)*重 
十八ウ2・咨(あゝ) 
巻之二 
一オ4・(ぬし)*主 
4・(ゆたか)*豊 
一ウ2・(かへ)*代 
2・(かい)*買 
4・ゑ 
4・(おろか)*愚 
6・(ゆみすゑ)*弓末 
二オ1・(あつ)*東(ま)を除く 
3・(うへすぎ)*上〓 
4・(ミかた)*味方 
5・(いくさひと)*軍民 
6・(あす)*明 
6・(おち)*東 
8・(まて)*待 
8・(おつと)*夫 
二ウ3・(ミやぎ)*宮木 
5・(ひとり)*一人 
7・(しやう)*上 
7・(ぬしとう)*主。東 
7・(つね)*常 
8・下野 
四ウ3・き 
6・(なほ)*直 
7・(まじハ)*交 
8・(こだ)*児玉(ま)を除く 
8・と 
12・魄*偏(白)の部分だけ 
五オ6・(ふるさと)*古郷 
七オ10・(すで)*既 
九オ11・(なげ)*歎 
十一ウ10・(うご)*動 
12・(すで)*既 
十二オ1・(むつ)*睦 
10・(もり)*守 
12・止(やめ) 
十二ウ1・(ぎ)*義 
3・(ぎよ)*漁 
4・(こうぎ)*興義 
4・(ぎよふ)*漁父 
5・南面(ミなミおもて) 
十四オ3・(いましめ)*戒 
5・(ゑ)*餌 
7・(を)*嗚 
12・(かもり)*掃守 
十四ウ3・(こうぎ)*興義 
3・て 
4・(かしハて)*鱠手 
11・(なまず)*鱠 
11・(うみ)*湖 
十五オ3・(こうぎ)*興義 
3・(しん)*神 
巻之三 
一オ4・(たづ)*尋 
10・(べつげう)*別業 
二オ5・(あまく)*雨具 
6・(ふけ)*更 
9・(しミ)*茂 
9・(さか)*界 
二ウ7・(ぜん)*善 
12・(すミ)*栖 
三オ12・(きめう)*竒妙 
十ウ6・(おき)*起 
6・(ふし)*臥 
十五ウ8・陰陽師(をんやうじ) 
9・陰陽師 
10・陰陽師 
十七ウ4・陰陽師 
巻之四 
二ウ4・あはれなり 
七オ5・(いた)*徒(もの)を除く 
八オ11・(したつかさ)*下司 
九オ8・(あかた)*縣 
九ウ10・(と)*外 
十ウ10・ほ 
十一オ5・(まうで)*詣 
十二ウ11・(まなこ)*真女児 
十三ウ2・(ばう)*坊 
巻之五 
一ウ8・(つミ)*罪 
二オ10・(わらハ)*童児 
12・(ひ)*終(つ)を除く 
二ウ5・(にく)*肉 
6・(じゆ)*主 
六オ8・(ね)*子 
六ウ9・(らい)*来 
七オ5・(をしへ)*教 
八オ4・堂閣(だうかく) 
5・(こけ)*苔 
十ウ6・(ふうき)*富貴 
十二オ8・お 
十七ウ1・五 
1・丙申 
特徴的なのは巻之一、すなわち「白峯」と「菊花の約」には大幅に象嵌した跡が認められ、それも語句の訂正が行なわれていることである。これについては、つとに中村幸彦氏の指摘が備わる。 
『雨月物語』の板本は、所々に入木による改訂があって、彼の推敲のあとを明瞭にとどめている。振仮名や、仮名遣いが多く、時に文章もある中で、この「赤穴丹」「丹」の文字は入木で、人名を変えた珍しい例である。「治」のみはもとのまま。この本の出た安永五年に近づくと、秋成の国学に対する関心も高まる。『弁弁道書』の著者についての噂も聞き、既に丈部は播磨の人、赤穴宗右衛門は出雲の人とした。それらに見合せて、今まで、□□□治であったを、赤穴丹治と改めたと見てはいかがであろうか。ことは仮空人物の名前であるが、この著述で、厳しく推敲を加えた秋成を物語る一証とはなる15。 
つまり、「白峯」や「菊花の約」に関する限り、板刻が終わってから語句の訂正が行なわれたことは確かだと思われる。それも、固有名詞を含んでおり、大きな問題を孕んでいる。しかし、巻之二以下では、振仮名の訂正が大部分を占めており、前に見た『繁野話』の例から見ても、ごく普通の校合の範囲を出ていないものと判断してよい。ならば、板が彫られたのは一体いつなのか。入木跡から得られる情報は、刊記の部分の「五」「丙申」が入木されているように見えることである。さらに、二書肆の字体や配置も心なしか不揃いである。もし、「安永」の部分が元来板木に彫られていた部分だと仮定するならば、明和八、九年に集中する予告から考えて、安永初年頃の整板を想定できるかもしれない。 
残念ながら入木跡の調査から『雨月物語』の成稿時期を知る確証は得られないが、高田衛氏は、 
秋成は明和八年中に火災に家を焼かれている。『雨月物語』は、その前に、「序」にあるとおりに、書肆野村長兵衛に渡され、「蔵版目録」中に近刊予告されるほどに出板準備がすすんでいた。ということは、さきに渡された『雨月物語』が、初稿(草稿)ではなくて、おおむね決定稿であったと解し得よう。ただ、「序」に記す明和五年三月から、明和七年後半の出板準備までに、約二年間の歳月がある。この間に、いったん手渡された『雨月物語』の推敲があるとすればあった16。 
と、従来の定説に対して、明和五年に「おおむね決定稿」が書肆に渡されたとする明和五年脱稿説を提出している。前述した通り、板本にする場合には定稿が不可欠である。板刻後の推敲を前提として草稿を渡すなどということは絶対に考えられない。しかし、問題はその時期である。そもそも、近刊予告というものは企画が固まった後はいつでも可能であるから、出板準備の進行とは関係なく入稿前に出されることも充分に考えられる。後になると〈縄張〉と称して、一種の企画の囲いこみとして、場合によっては作者に対する圧力として積極的に予告広告が利用されるようになるのである。 
さらに、高田氏が右に続いて、 
わたしには入木の跡は文字の訂正ていどのように見える。入木によって校正できるかぎりで、板刻の後も、推敲したことになる。 
と述べている通り、少なくとも「白峯」「菊花の約」の以外の七作は、文字通りの校正なのである。逆にいえば、板木の入木跡から見る限り、推敲したといい得るのは「白峯」と「菊花の約」だけである。そして、おそらくこの修正は刊行直前になされたと考えるのが自然だと思われる。中村博保氏は安永五年に刊行された最大の理由として決定稿の完成を想定するが17、決定稿ができてから、直ちにあれだけの訂正をするのは不自然である。むしろ、旧稿がやっと上梓にこぎ付けたが、どうしても直さなければならない事情があったと考える方が自然ではないだろうか。そして、それも「白峯」と「菊花の約」とだけに限って行なわれたのである。 
いま、ここで決定的な結論を出すことは不可能であるが、本としての『雨月物語』が造られた環境からも考えてみたい。『雨月物語』は執筆に際して、読本という文学様式が選び採られたわけであるが、内容的には浮世草子の気質物としての性格が色濃い。登場人物にも実在人物の面影を想起させる要素があり、これを戯画化した一種の偏執者たちを、怪異小説という幻想の方法を用いて和漢混淆文脈においてみせた作品だと見ることができる。つまり、『雨月物語』は閉じた空間の人々を第一義的な読者として想定していた気質物として読むことが可能なのである。それは『諸道聴耳世間猿』や『世間妾形気』から遠く隔たっていない時期の大坂文化壇18の内部における創作であることを考え併せれば、あながち誤った理解でもなかろう。このように考えてくると、やはり定稿は比較的早い時期に完成しており、何らかの理由で出板が遅延し、「白峯」と「菊花の約」に限って刊行の直前に推敲されたと見ておきたい。 
四板本の出来 
板本が出来するまでの多くの工程で、実際に何がどのように行なわれたかは、意外にわかっていない。化政期以降の馬琴の場合だけは残された資料から少し判明したが、これとてほかの作者の場合とは必ずしも同じではなかったものと思われる。 
どんなに厳密に校訂を加えた活字翻刻本や、入念な影印本が整備されても、入木跡など原本の持つ情報のすべてを盛り込むことは不可能である。やはり原本に触れなければ得られないことが存在するのである。もちろん、いくら板本を見ても板木や稿本や校合本が残されていないと確実なことはいえないが、出板が板元の主導で行なわれた書物という一商品の生産にほかならないという本質を押さえておけば、本の成立に関する事情の一定程度の推測は可能だと思われるのである。 
注 
1たとえば、秋成の『春雨物語』は、改稿過程がそれぞれに独立した異本群を形成しており、それも定稿へ向けた軌跡として捉えることはできない。そもそも『春雨物語』という安定したテキストが存在しているわけではない。『藤簍冊子』との関連も含めて〈散文〉とでも呼ぶしかない作品なのである。これは明らかに〈読本〉という文芸様式では括れないテキストであると思われる。 
2手控えとして複製する場合や、資料的な価値を尊重する場合、また板本が高価で買えない場合など、借覧本を傭筆を雇って厳密に写させることも決して少なくはなかった。 
3馬琴の『南總里見八犬傳』には校合漏れの正誤表が付けられたことがあるが、板木に改訂を加えることはできなかった。超人気作で毎年続けて出されたという特殊事情から正誤表は掲載されたが、一般に本が出板された後は完全に作者の手の届かない存在になってしまう。 
4たとえ出板を前提としたと思われる稿本が現存していたとしても、それが板本として出板されなかった場合には、板本と同等に扱うことはできない。なぜなら上梓されなかったのには何らかの理由があったはずであり、商品として不特定多数に向けて出板された本と、一般に流通しなかった本とは、作品の制作と受容との両面において本質的に違う性質を帯びてしまうからである。もっとも禁忌に触れるような内容で出板できない本は、おのずから写本でしか伝わらないが、それは書本(かきほん)として貸本屋では立派に商品価値を持っていた。 
5象嵌箇所は影印本でもわからないことが多い。とりわけ教科書用の影印本に多く見受けられるような、板下に修正を加えた本などでは精確な判断はできない。板木が残っていない場合は、やはり摺りの違う複数の原本を比較検討する以外に確認するすべはない。 
6佐藤悟「読本の検閲―名主改と『名目集』―」(「読本研究」六輯上套、渓水社、一九九二年)。 
7『中村幸彦著述集』十二巻、一七六頁の補記(三)に、「木村三四吾氏御教示に、天理図書館蔵『繁野話』(明和三年刊庭鐘作)の校正刷には挿絵の一葉に眉仙の署名がある。刊行されたものには削ってない」という指摘がある。 
8「物見」を「〓絹(たれきぬ)」(六オ8)に直している以外の書き換えは見当らない。これは、安永九年刊の『唐錦』の校合本(天理図書館蔵)についても同様のことがいえそうである。 
9徳田武氏の教示。『康煕字典』には「[唐韻]何−蓋切。[集韻][正韻]下−蓋切。[韻會]合−蓋切。並孩去聲」などと見える。なお、『繁野話・曲亭伝奇花釵児・催馬楽奇談・鳥辺山調綫』(新日本古典文学大系80、岩波書店、一九九二年)では、シリーズの編集方針として清濁に関して補正する方針を立てている。 
10重友毅「『雨月物語』の知識的性格」(重友毅著作集第四巻『秋成の研究』、文理書院、一九七一年、初出は一九三八年)。 
11同様の問題として、やはり、重友氏によって定説化された「京伝馬琴の対立抗争によって江戸読本が形成された」という立論の根本的な誤りについては本書第一章第二節で述べた。 
12中村幸彦「解説」(日本古典文学大系56『上田秋成集』、岩波書店、一九五九年)。 
13たとえば鵜月洋『雨月物語評釈』(中村博保補、角川書店、一九六九年)二四三頁に写真が掲載されて入木だと示されている[巾+皮]の振仮名部分は、入木跡には見えない。 
14この一覧表の作成に当って、三浦洋美氏による十本余りの調査結果をも参考にした。ただし掲載に際しての責任は筆者に帰する。 
15中村幸彦「秋成に描かれた人々」(『中村幸彦著述集』六巻、中央公論社、一九八二年、初出は一九六三年)、三〇六頁。 
16高田衛「『雨月物語』成立の一問題」(『上田秋成年譜考説』別論三、明善堂書店、一九六四年)。 
17中村博保『雨月物語評釈』「概説」の成立の条。 
18長島弘明「作者・絵師・書肆・読者―秋成と綾足の物語を例に―」(『日本文学講座5物語・小説II』、大修館書店、一九八七年)。 
第二節江戸読本享受史の一断面−明治大正期の翻刻本について− 
江戸読本やその周辺ジャンルの諸本の書誌調査をしてみると、後印本が思いのほか息長く、そして大量に摺られていることに驚かされる。流布している大半の本が、幕末から明治初期にかけて刊行された粗悪本であることから、書誌調査の第一義的な目的は初板初印本の発見におかれてきた。これは〈作者の意図〉を直接反映しているのは初板初印本に限られるということが、多くの資料によって明らかにされてきたからである。 
いま、読本の研究状況に即していえば、一部の著名な作品を除いて初板初印本の所在調査ですら不充分な状態である。だが書誌研究は、初板初印本探求へ向けた遡源的な方向へ進むだけでよいのであろうか。一般に原理的本質的な問題は始源に存すると見做す傾向が強く、研究意義をそこに見出すことが多い。この傾向は文学研究においても例外ではなく〈作者の意図〉を探る方向へ向かう研究が大部分である。しかし逆に享受者の側に視点を転じてみると、読者の大半が手にしたのが後印本であったことに気が付く。ならば後印本の流布相を究明することも必要だと思われるのである。とりわけ出板史や文化史の分野では、享受の実態がそのまま商品生産業者としての板元を規制したはずで、作者の手を離れて板元の意のままに扱われている作品のあり方を考えると、およそ看過し得る問題ではないのである。 
すでに周知のことではあるが、問題点を整理するために当時の出板事情を振り返ってみる。ある程度の数が摺られた初板本の板木は、次の出板の資金繰りのために別の板元に売られることが多かった。これを手にした板元は、時にはそのまま摺ることもあるが、通常は時流に即して、序跋を差し替えたり挿絵を彫り直したりする。また単に改竄を加えるのみならず、別の本を装うために改題本に仕立て直したりもした。ひどい場合は、板本を板下作成に用いた覆刻(おつかぶせ)による再刻本を勝手に出板する板元すら存在したのである。これらの改竄改題再刻本までを視野に入れると、わずか一作品の調査ですら、容易に調べきれないことが多い。その上、厄介なことに、現存するこれらの後印本がまったく同じ本であることは、ごく稀なのである。表紙の違いや大きさの相違、口絵や挿絵の色板使用の程度、広告の有無や刊記の象嵌、摺った後の貼紙による訂正など、〈板〉の相違だけでなく〈印〉ごとに異本が作成されていたといっても過言ではないのである。だから、たとえ同一の板木で摺られたと思われる板本であっても、細かい吟味を抜きにしたまま、後印本の諸本調査を等閑に付してよいはずがない。大多数の読者が手にしたであろう後印本こそが、享受の諸相を明らかにするための有効な手掛りを提供する可能性があるからである。このように考えてみると、まったく同様の意味において、近代の活字翻刻本について調べておくのも意義なしとはしないであろう。 
そこで国会図書館編『明治期刊行図書目録』に一瞥を加えてみると、予想以上に多くの読本や実録類が翻刻されていることに気が付く。これだけの量が出版されていたということは、すなわちそれだけの需要があったことを示しているのである。とりわけ明治十年代の半ばから二十年代にかけて出されたいわゆる〈ボール表紙本〉と呼ばれる本が目に付く1。これはボール紙を芯にして色摺りの絵入表紙を貼り付けたもので、四六判が多く、中には菊判や四六判半截の本も見受ける。変体仮名の活字を用いた総ルビに近い一段組み。紙質が悪く保存の悪い汚い本が多いため、一見廉価版という印象を持つが、よく見ると天地と小口にマーブルが施してあったり、見返しに色摺りで内容に即した意匠を加えたりしてあり、値段も一冊あたり五拾銭〜壱圓と比較的高価な本であった。一方、中本型の和装活字本も並行して出されていたようで、こちらは錦絵風摺付表紙に色摺りの口絵を持ち、袋入りで売られていた。値段的には洋装本より少し安く、拾弐銭〜七拾五銭ほどであった。ただし、かなり派手な値引きをしていたらしく実質的な売り値となるとよくわからない。 
これらの単行本以外にも数多くの翻刻が出されていた。新聞の付録、全集や叢書と、出版の形態はさまざまであるが、その全貌はとても容易には明らかにできないほどの広がりを持っていたものと推測される。しかし既刊の書目、たとえば『国書総目録』所収の「叢書目録」や国会図書館編『全集・叢書細目総覧(古典編)』などから洩れている全集叢書類は少なくない。まして単行本や雑誌は未整理のまま放置されている。これは当時の翻刻本が暇潰しの娯楽読み物として刊行されたものであるが故に、なかば消耗品として扱われ、すでに早くから散逸してしまっていたことに起因する。しかし出板史や受容史の観点から見れば貴重なもので、このような資料も早いうちに整理しておく必要があろう。 
たとえば文庫本に関する鈴木徳三氏の調査2は、シリーズ化された小型本について多くの資料を蒐集しつつ不明であった出版の実態を示している。また榊原貴教編『近代日本黎明期文学書集成目録』は国会図書館所蔵本のマイクロフィルムの目録でありながら、「編者が調査した限りをすべて目録化」せんと3、マイクロフィルムに収録していない作品までをも含み、若干ではあるが翻刻本も掲載している。一方、青木稔弥氏は馬琴に関連する文献の「抄録、現代語訳、外国語訳をも採録対象」とする目録を編んでいる4。いずれにしても、このような仕事の積み重ねが、明治期以降の近世文学享受史を明らかにしていく基礎となるのは間違いない。 
そこで、本節では従来の叢書目録類では拾えないか、もしくは記述が不充分であると思われるものを紹介しつつ、近代初期における江戸読本の享受史の一端を明らかにしたい。 
「護寶奴記」四六判(一八〇×一三〇粍)、明治十五年五月〜十六年五月、二十七冊、鶴聲社、定價一部八錢五厘。 
これは五種の翻刻を、およそ五丁ずつ一冊にまとめて月に二〜三度発行し、揃ったところで一冊に製本するという形式の出版である。 
護寶奴記(ごぼうぬき)序 
儒書(じゆしよ)の親玉(おやたま)ハ孔子(こうし)佛經(ぶつきやう)の親玉(おやたま)ハ釋迦(しやか)と相場(さうば)を立(たて)れバ微塵(みじん)も懸直(かけね)無(ない)ところと直(ね)ぎり人(て)無(な)るべし又(また)戯作(けさく)ハ山東京傳(さんとうきやうてん)曲亭馬琴(きよくていばきん)を親玉(おやたま)とし滑稽(こつけい)道中記(だうちうき)ハ十遍者一九(じつぺんしやいつく)を親玉(おやたま)と代盛(だいもり)すれバ又(また)偽(いつは)りのない正札(しやうふだ)と言(いは)ん然(さ)れバ其(その)親玉株(おやだまかぶ)が著(あらは)したる書中(しよちう)の親玉(おやたま)と賞(しよう)せらるゝ佳作(かさく)を一冊(いつさつ)に纒(まと)めたるものなれバ是又(これまた)面白(おもしろい)の親玉(おやたま)にしてずるい趣向(しゆかふ)の親玉(おやたま)濡手(ぬれて)で粟(あわ)の親玉(おやたま)とハ思(おも)ふものから其版(そのはん)ハ磨滅(まめつ)し其本(そのほん)ハ紙破(かみやぶ)れ蠧魚(しみ)食(くひ)あらし殆(ほとんど)世(よ)に絶(たえ)んとするを猶(なほ)棄(すて)おかバ惜(をし)むべきの親玉(おやたま)勿体(もつたい)ないの親玉(おやたま)遠慮(ゑんりよ)して因循(いんじゆん)の親玉(おやたま)たらんより寧(むしろ)急進(たうせい)の親玉(おやたま)ぞよきと思維(しゆゐ)しさてこそ護寶奴記(ごぼうぬき)とハ題(だい)するなれ 
黄鳥頻りに囀り若葉 
やうやく窓に暗き時 
松亭鶴仙識 
凡例 
一、巻中(くわんちう)毎題(まいたい)大尾(たいび)に到(いた)れバその跡(あと)へ又(また)他(た)の面白(おもしろ)き物(もの)を出(いだ)す 
一、諸(もろ/\)の畫圖(ぐわと)序文(じよぶん)とうを除(のぞ)きしハ價(あたへ)の廉(れん)ならんことを欲(ほつ)してなり 
一、何(なに)にても大尾(たいび)に到(いた)れば分(わけ)て一部(いちぶ)の書(しよ)となし所藏(しよぞう)とするの趣意(しゆい)なる故(ゆゑ)始(はじ)めに序文(じよぶん)を載(のせ)ざるハ其(その)もの終(をは)るのせつ右(みぎ)序文(じよぶん)口繪(くちゑ)さし繪(ゑ)とうを附録(ふろく)として出(いだ)し一部(いちぶ)に纒(まと)むるの便(べん)となすなり 
明治十五年五月十三日に出た第一号には、『稲妻表紙』『東海道膝栗毛』『慶安太平記』『三七全傳南柯夢』『六部集』が五丁ずつ仮綴され、同月二十五日に出された二号には、それぞれ前の続きの五丁が仮綴されていた。こうして、翌十六年の五月十五日に出た二十七号までに、前述した作品のほかに『旬殿實々記』『太平記』が完結に至ったのである。そこで、次のような広告が出た。 
鶴聲社出版書目 
三七全傳南柯夢全部合本金三十三錢 
昔語稲妻表紙全部合本金三十三錢 
太平記巻之壹巻之二合本金貮拾五錢 
東海道中膝栗毛江戸ヨリ赤坂宿迄合本金貮拾五錢 
慶安太平記上巻中巻合本金貮十六錢 
六部集放屁論上下合本金五錢 
右之品々出來相成候ニ付御注文ヲ乞 
つまり、多くの種類の作品を少しずつ出しながら、完結したときには別々の本に仕立てて出したのである。なお、二十八、二十九冊目として『実々記』巻二、三(明治十五年九月二十七日)が出ているが、刊行日時に聊か不整合がある。 
また、明治十六〜十七年にかけて松本で出された「娯覧喃誌」(吟天社)も同様の方式であった。 
序 
近頃(ちかころ)古(ふる)き書(ふみ)の新(あらた)に出版(しゆつぱん)せるもの數多(かずおほ)き中(うち)にも稗史小説(ひしせうせつ)の如(ごと)きは最(もつと)も夥多(おびたゞし)きやう思(おも)ハる此(こ)は時好(じかう)に投(とう)ずる書肆(ふみや)の機智(はたらき)當世(たうせん)にては斯(か)くや有(あり)なんなど理窟(りくつ)を付(つけ)るも些(ち)と手前味噌(てまへみそ)鹽辛(しほから)しと云(いは)んか己(おの)れ爰(こゝ)に伊達顯秘録(だてげんひろく)兒雷也物語(じらいやものがたり)娘節用(むすめせつよう)の三書(さんしよ)を合(あは)せて漸次(しだい)に出板(しゆつぱん)し外(ほか)ハ看客方(おとくいかた)の御目覺(おめざめ)に供(そな)へ内(うち)は書肆(ほんや)の金筐(かねばこ)を肥(こや)さむと計(はか)りぬ抑(そも)本誌(ほんし)ハ前(まえ)の三書を一綴(いつしよ)にして出板(しゆつぱん)すれど各書(いづれも)紙面(かみ)を異(こと)にして編輯(へんしう)いたし殊(こと)に原書(げんしよ)の序文(じよぶん)口繪(くちゑ)等(とう)まで時機(をり)を見(み)て出板(しゆつぱん)する故(ゆゑ)後日(ごじつ)に至(いた)り更(さら)に改綴(とぢなほ)すれバ各(めい/\)編(べつ%\)単行の全書(よきほん)となりてお小兒衆(こどもしゆう)にハ目(め)の藥(くすり)御婦人方(ごふじんがた)のお慰(なぐさ)み唯(たつ)た一冊(いつさつ)三錢五厘(さんせんごりん)廉價(やすい)もんだに皆(みな)さん方(がた)一寸(ちよつし)買(かつ)て娯覧喃(ごらんなん)しと云爾(しかいふ) 
校訂者識 
細切れの小説を何種類も読んで、はたして筋を追えるものなのかどうか疑問であるが、続きものの草双紙や新聞連載小説の感覚からすれば、さほど奇異なことでもなかったものと想像できる。 
「今古雜録」菊判(二二六×一五〇粍)、錦絵風摺付表紙、和装、榮泉社、定價一冊二十錢。 
榮泉社の今古實録シリーズの続編として企画されたもので、『朝夷島巡記』初編上巻の巻末に次のようにある。 
〇今古雜録(きんこざつろく)出版(しゆつぱん)廣告(くわうこく) 
弊社(へいしや)出版(しゆつぱん)今古実録(きんこじつろく)の儀(ぎ)ハ追々(おい/\)盛大(せいだい)に赴(おもふ)き既(すで)に太閤記(たいかふき)三代記(だいき)盛衰記(せいすゐき)の如(ごと)き大部(たいぶ)を始(はじ)め二百八十餘種(よしゆ)の發兌(はつだ)に及(および)候事(こと)偏(ひとへ)に御贔負(ごひいき)の故(ゆゑ)と有難(ありがた)く奉存候就(つい)ては是(これ)まで有名(いうめい)の稗史類(さくほんるい)諸方(しよはう)より出版(しゆつぱん)相成候へ共(ども)兎角(とかく)半途(なかば)にて瓦解(ぐわかい)し看客(かんかく)の御不便(ごふべん)少(すくな)からざるにより弊社(へいしや)に於(おい)て出版(しゆつぱん)致(いた)し候様(やう)看客方(おとくゐがた)より屡々(しば%\)御勸(おすゝめ)之(これ)あり候に付(つき)今度(このたび)稗史小説(はいしせうせつ)の作者(さくしや)にて有名(いうめい)なる京傳(きやうでん)馬琴(ばきん)種彦(たねひこ)を始(はじ)め其他(そのた)の小説(かきほん)中(ちう)別(わけ)て面白(おもしろ)きものを選(えら)み今古雜録と題(だい)し實録(じつろく)に並(ならび)て期實(きじつ)を誤(おやま)らず一層(そう)勉強(べんきやう)仕り看客様方(おとくいさまがた)の御意(ぎよい)に適(かな)ひ候様(やう)美本(びほん)廉價(ねやす)に發賣(うりだし)候間實録(じつろく)同様(どうやう)御高評(ごかうひやう)の程(ほど)偏(ひとへ)に奉希上(ねがひたてまつり)候 
今古實録・今古雜録出版所三十間堀二丁目榮泉社 
この『朝夷嶋巡記』は、初編上下、二編上下の四冊で、明治十八年十月刊。芳春が挿絵を描いている。これが「今古雜録」の最初だと思われるが、どれだけ出たのかわからない。管見に入ったのは『本朝酔菩提』(三冊、明治十八年十月)と『俊傑神稲水滸傳』(二冊、明治十八年十二月)だけである。おそらく、この企画は「兎角半途にて瓦解し看客の御不便少からざる」という轍を踏んだものと思われる。 
一方、「今古實録」の方は貸本屋の写本等を大量に翻刻したもので、後に実録全書などの底本として使われたらしい5。実録の活字翻刻本として重要な叢書である。 
「古今小説名著集」四六版(一九〇×一二五粍)、紙装角背、一冊百五十頁内外、礫川出版會社、定價五銭。 
古今小説名著集序 
往昔の史を編するや大事は之を策に取り小事ハ之を簡牘に取る綱擧り目張りて而し褒貶勸懲亦自ら其間に行はる眞に備れりと謂べし中世以降邦家益々多事大史氏亦古に及ばざる者あり於是好事の徒輩出し或ハ筆を野乗に假りて潜徳を發し或ハ文を小説に託して陰慝を誅す其觀るべき者亦鮮からず此種の世を益する蓋し言を竢ざるなり一は童蒙婦女をして時代の先後當世の風俗を解し知らず識らず名教の樂地に逍遥することを得せしめ一は好學の士をして文章の沿革言語の變遷制度の推移等を察し以て之を正史に對照して細かに時事の得失斯道の隆汚を議することを得せしむ夫れ如是然らハ則ち之を編する者固より無かるべからず之を讀む者固より禁ずべからず本集ハ勉て古今の名著傑作を網羅して上は箕山、近松、出雲、其碩、西鶴、源内、可笑、鬼卵、鬼武、如皐、壽來、眸川子、天歩子、閑鵝齋、陸可彦、光定、信清、宗義、直方、九二軒、一瓢軒、其鳳、其笑、瑞笑、自笑、龜友、蛙井、錦文流、其樂齋、墨雀、木鶏、文臺、梅嶺、石別子、秋扇翁、由易、春樹、嘉茂、山住、久爲、元隣、馬呑、京傳、万象、三馬、金交、京山、一九、春水、種彦、靜盧、徳升、馬琴、蘭山、英泉、種員、金水、焉馬、洞蘿、峨眉、離醗、平魚、北壷游、鼻山人、六樹園、等諸先輩の作より下は現今の新著に至る迄細大漏すことなく號を追て纂録し再號大低二三部を全載して以て世俗の妄りに章を斷し回を拆し看客をして隔靴掻痒の感を懷かしめ強て次號を購讀せしむる等の手段を用ひざらんことを期せり然れとも長篇大作にして牒數限りある本集中に於て完結を見る能はず連々數號に渉るべき者〓に諸彦が寄贈を辱くせられたる珍書等は特に本集號外として以て之を發行す其編者微意の存する所及ひ價根の高低等の如きハ擧て諸彦の高評に付する耳 
礫川出版會社 
第一帙廿四巻が全巻刊行されたことは、二帙第一巻の「古今小説名著集發行趣旨」(第一帙の序と同文)の裏に付けられた次の文章で判明する。 
謹告 
本書ハ明治廿四年二月第一巻を發刊引續き明治廿五年二月迄に廿四巻發行なし満一ヶ年を以て廢刊せし處愛讀諸君中御秘藏の珍書佳籍數多御投與在つて猶引續き發行候様御注告の向も不尠依て今般御所藏の便利を計り前一ヶ年分廿四巻を以て第一帙となし本年四月以降發行の分を第二帙として第一巻より續々發行可致候間倍舊御購讀あら舞ことを茲に謹告す 
但第一帙第壹巻より第廿四巻まで欠巻なく備置候間是又御購求願上候 
また、巻末に「名著集第一帙目次」として所収本の題名が挙げられている。第十九巻以降の部分については従来の叢書目録等に挙げられていない。 
第一巻 
復讐月氷奇縁完曲亭馬琴著 
小春治兵衛花廼島臺完松亭金水著 
第二巻 
碗久松山柳巷話説完曲亭馬琴著 
大津土産吃又平名畫助刀完式亭三馬著 
邂逅物語完天歩子著 
湘中八雄傳完北壷游著 
第三巻 
吾妻餘五郎雙蝶記完山東京傳著 
淺間ヶ嶽面影草紙完柳亭種彦著 
第四巻 
淺間ヶ嶽后編逢州執着譚完柳亭種彦著 
怪談雨夜の鐘完十返舎一九著 
夕霧書替文章完栗杖亭鬼卵著 
第五巻 
艶廓通覧完洞蘿山人著 
貞操美談園の花完爲永春水著 
第六巻 
恩愛二葉草完鼻山人著 
小夜の中山石言遺響完曲亭馬琴著 
第七巻 
飛弾匠物語完六樹園著 
邯鄲諸國物語近江の巻出羽の巻完柳亭種彦著 
五色の糸屑完峨眉山人著 
第八巻 
三十三間堂棟材奇傳柳の糸完小枝繁著 
花暦封じ文完朧月亭有人著 
第九巻 
新累解脱物語完曲亭馬琴著 
於三慕平宗像暦完ちぬ平魚著 
第十巻 
邯鄲諸國物語大和巻完柳亭種彦著 
胸算用(大晦日ハ一日千金)完井原西鶴著 
第十一巻 
昔語稲妻表紙完山東京傳著 
姫萬兩長者廼鉢木完曲亭馬琴著 
第十二巻 
糸櫻春蝶奇縁完曲亭馬琴著 
第十三巻 
邯鄲諸國物語播磨巻完柳亭種彦著 
記録曾我女黒船完江島屋其磧八文字屋自笑著 
第十四巻 
蹇廼復讐戀の宇喜身完松亭金水著 
玉箒木完義端著 
第十五巻 
邯鄲諸國物語伊勢の巻完笠亭仙果著 
邯鄲諸國物語遠江の巻完笠亭仙果著 
怪談登志男完慙雪舎素及子著 
第十六巻 
佐野常世物語完曲亭馬琴著 
小説浮牡丹全傳完山東京傳著 
痴漢三人傳完感和亭鬼武著 
第十七巻 
俊徳麻呂謡曲演義完振鷺亭著 
繪本連理の片袖完十返舎一九著 
第十八巻 
綟手摺昔木偶完柳亭種彦著 
異國奇談和莊兵衛完遊谷子著 
第十九巻 
常夏双紙完曲亭馬琴著 
櫻姫曙双紙完山東京傳著 
第二十巻 
忠臣水滸傳完山東京傳著 
第廿一巻 
大晦日曙草紙完山東京傳著 
化競丑満の鐘完曲亭馬琴著 
第廿二巻 
己惚鏡完式亭三馬著 
三七全傳楠柯夢完曲亭馬琴著 
第廿三巻 
孝子嫩物語完高井蘭山著 
春色淀の曙完松亭金水著 
第廿四巻 
菊の井草紙完爲永春水著 
會稽松の雪完峨洋堂著 
但シ壹冊定價金五錢全部廿四冊代價金壹圓但シ壹冊ニ付郵税金貮錢ヅヽ 
發行所礫川出版社 
また「號外」として『新編金瓶梅』(明治二十四年七月)、『景清外傳松の操』(明治二十四年十月)とが確認できたが、『国書総目録』に載る『小説六佳撰』は管見に入らなかった。「號外」の出来に至る事情については、『新編金瓶梅』の冒頭に次のようにある。 
古今小説名著集號外發行の社告 
分店は商業の繁昌より開き支線は銕道の延長より起る本集の進行は駸々乎として止まず頗る看客諸彦の御満足を希圖せしより竟に諸彦をして却て待遠だとの御歎聲を發せしむるに至る嗚嗟本集の月日に其繁昌を極むる推して知るべきなり今日の勢本集は定期外に其分店支線を設けて諸彦の厚眷に報答せざるべからざるの時運に遭遇せりと謂べし依て向後は長篇大作にして牒數限りある本集中に全載すること能はす聯々數回に渉る者及び諸彦が本社の豫告に負かず惠贈せられし珍籍等は特に號外として發行して以て聊か編者の寸誠を表する事とは爲しぬ 
礫川出版會社謹白 
また、第二帙第一巻の刊記に「名著集第二帙追次發行目次」として、以下の通りある。 
松染情史秋の七草美濃古着八丈奇談那智白糸諸國回廊傾城畸人傳安積沼更科草紙邯鄲諸國譚攝津巻本朝酔菩提南柯後記旬殿實々記うとう忠義傳松風村雨物語三日月お專縁結月下菊園の朝貌手鞠唄三人娘小栗外傳阿古義物語皿々郷談松王物語稚枝鳩雲の妙間雨月夜皿山奇談裏見葛葉物草太郎あやめ草末つむ花戀の染分玉川日記高雄外傳女水滸傳 
右者追次發行可致此段豫廣告す但前記載の外目録は次巻を以てす 
これらのうち、確認できたのは次に挙げた十六点である6。 
第一巻曲亭馬琴『頼豪阿闍梨恠鼠傳』、小枝繁『梅川忠兵衛この花双紙』、明治廿五年四月 
第二巻笠亭仙果『邯鄲諸国物語摂津巻』、狂訓舎楚満人『復讐高尾外傳』、明治廿五年四月 
第三巻四方歌垣『月宵鄙物語』、曲亭馬琴『孔子一代記』、明治廿五年五月 
第四巻東籬亭『壇風物語』、山東京傳『伽三味線』、菊廼舎東籬『近世日本蒙求』、明治廿五年六月 
第五巻為永春水『春色田家花』、明治廿五年月 
第六巻曲亭馬琴・高井蘭山『新編水滸畫傳』一、明治廿五年月 
第七巻曲亭馬琴・高井蘭山『新編水滸畫傳』二、明治廿五年月 
第八巻曲亭馬琴・高井蘭山『新編水滸畫傳』三、明治廿五年月 
第十巻曲亭馬琴・高井蘭山『新編水滸畫傳』五、明治廿五年月 
第十一巻曲亭馬琴・高井蘭山『新編水滸畫傳』六、明治廿五年月 
第十二巻曲亭馬琴・高井蘭山『新編水滸畫傳』七、明治廿五年月 
第十三巻曲亭馬琴・高井蘭山『新編水滸畫傳』八、明治廿五年月 
第十四巻曲亭馬琴・柳下亭種員・柳水亭種清『女郎花五色石臺』上編、明治廿五年十一月) 
第十五巻馬琴・種員・種清『女郎花五色石臺』下編、伊丹椿園『女水滸傳』、明治廿五年十二月) 
第十八巻曲亭馬琴『旬殿實々記』、明治廿六年七月) 
第十九巻曲亭馬琴『美濃旧衣八丈奇談』、明治廿六年七月) 
したがって確証は得られないものの、第二期が巻数順に配本されたとすれば、少なくとも十九巻までは刊行されていたと思われる。 
「通俗小説文庫」明治三十九年に東京の合名會社近事畫報社から刊行された月刊誌。 
やや幅の狭い菊版(二二二×一四七粍)で、紙装角背、口絵に色摺りの木版画を二〜四図折り込み、本文は五号活字の二段組、挿絵はなく、一冊四百頁内外で三十五銭。架蔵しているのは一月〜三月刊と五月刊との四冊である。おそらく四月刊は出たものと思われるが、六月以降の刊否は不明である。一月刊(第一巻)の冒頭に「序に代へて」として、次のようにある。 
實話を敷衍して一種の讀本躰となしたるもの、徳川氏の中世以後頗る世に行はれ、草双紙の人情本と共に讀書社會を風靡せり、其經緯とする處、武勇談あり、軍記あり、烈女傳あり、貞節譚あり、或は騒動物、侠客傳、奇譚逸聞等、あらゆる面白き物語を羅織し、士人より婦女童幼に至る凡ての階級を通じて、何人にも讀み易からしめたるを以て、書肆の虎の巻となり、家庭の教へ草となり、百餘年の間一種の潜勢力を涵養し、赤本の名今も喧傳せらる、然れども是等の書冊多く散佚して、今容易く求むる能はず、空しく隔靴掻痒の歎を發せしむるを以て、弊社新たに通俗小説文庫の名の下に、赤本中の粹を抽き、精を萃め、月次號を逐ふて發售せんとす、全部十二巻、續編十二巻、毎號凡そ四百頁の大冊子なれども、極めて價格を低廉にし、刷出部數を多くし、普く一般に流布せしめん事を期す、今や我讀書社會は、淫靡なる戀愛小説に飽き、漸く新なる傾向を生ぜんとするに際し、本書の世に出づるは、是等の渇を慰する尠少なりとせず、希くは家庭間の讀物として本書を迎へられんことを。 
すなわち、娯楽読物の供給を意図したものであることがわかる。とくに「今や我讀書社會は、淫靡なる戀愛小説に飽き、漸く新なる傾向を生ぜんとするに際し、本書の世に出づるは、是等の渇を慰する尠少なりとせず」という部分は、流行を促そうとする板元の意欲が示唆されていて興味深い。つぎに「實話を敷衍して一種の讀本躰となしたるもの」という所収予定書目を「總目次」として挙げている。 
通俗小説文庫總目次 
相馬大作忠勇傳北雪美談名譽長者鑑後藤美勇傳鎗の郷藏 
袈裟貞操譚本多平八郎黒田騒動松前屋五郎兵衛日蓮大士眞實傳 
關東十人男名畫血達磨山鹿甚五左衛門楠廷尉秘鑑合邦辻 
吉村兼房宮本武勇傳高田馬場慶安太平記三都勇劔傳 
孝子嫩物語尼子十勇士梁川武勇傳村井長庵彦左衛門一代記 
著聞奇集天下茶屋豊臣鎭西軍記車丹波守伊達顯秘録 
黄門仁徳録鼠小僧神明強勇傳幡随長兵エ奴小萬 
直助權兵衛水呑村九助古今名婦傳將門記傳教大師傳 
宇都宮騒動草木軍談弘法大師傳岡山奇聞栗原百助豪勇傳 
源空上人傳義經勲功記曾我物語箱根靈驗記桶間軍記 
豊川利生記佐倉義民傳大坂軍記柳生旅日記白木屋お熊 
自來也物語川中島軍記畔倉重四郎笹野權三雲井龍雄 
越後傳吉柳荒美談鎌倉顯晦録傾城瀬川元和三勇士 
護國女太平記雲切仁左衛門天保水滸傳岩見武勇傳松田お花 
稲生武勇傳嘉永水滸傳小栗外傳加賀千代物語越後騒動 
孝女傳祐天上人傳汗血千里駒千代田刄傷業平文治 
二島英勇傳西國巡禮娘仇討 
これを通覧して気が付くのは、いわゆる〈実録〉と呼ばれるジャンルで、主として写本で流布したものが多く含まれている点である。近世後期の上方で陸続と出された〈絵本読本〉もこれらの実録を扱ったものが多かった。また、次の凡例からは厳密さを期そうとする意気が読み取れるが、現在の学問水準から見れば不充分なものであるのはやむを得ない。 
凡例 
改竄本書の編纂に方りて、編者は成るべく原本の字句を改竄するを避けたり。然れ共是等の書は、重に冩本を以て轉輾し來りたるを以て、其間筆冩の誤りを生じ、往々字句滅裂し、殆ど自他を辨ぜさるが如きものは、或程度迄訂正したり。若し盡く之を添削する時は、全く改作となりて、當時の所謂筆僻なるものを滅却し、爲に淳樸の文體を傷つくるを畏るればなり。 
句讀原本は大概句讀なるものなけれど、近年句讀附の書册を讀み習ひたる人には、無點は讀過に便ならざるを以て、敢て之を添えたり。 
編纂本書は毎巻約四五册種を収むるを期すれど、往々浩澣に度るものは、一種一巻又は二巻に度る事あるべく、或は七八種を一巻に収むるの已むなきもあるべし。 
珍書本書編纂豫定として、別に掲ぐる總目次以外、珍書佳什を藏せらるゝ人士あらば希くは發行所に寄せられむ事を、編者は喜んで誌上に掲ぐべし。 
出版事業が予定通り進行しない点は古今の差がなく、実際の刊行された本に所収されたのは次の通りであった。なお原作品についての私見を〔〕で括って記しておいた。 
第一巻 
名譽長者鑑〔実録、紀文大盡〕 
北雪美談金澤實記〔実録〕 
相馬大作忠勇傳〔実録〕 
後藤美勇傳〔実録〕 
村井長庵實記〔大岡政談〕 
第二巻 
尼子十勇士傳〔読本、栗杖亭鬼卵『繪本更科草紙』文化八、文政四年、文栄堂刊〕 
袈裟御前貞操譚〔読本、小枝繁『文覺上人發心之記橋供養』文化十二年、角丸屋甚助刊〕 
自來也物語〔読本、感和亭鬼武『報仇奇談自來也説話』文化三、四年、中村藤六ほか刊〕 
車丹波守武勇傳〔実録〕 
槍の郷藏〔実録〕 
第三巻 
嘉永水滸傳〔実録〕 
金紋藤巴箱崎文庫〔実録〕 
本多平八郎〔実録〕 
第四巻(未見。同じ版元の「絵入史談」二、明治三十九年四月二十一日刊、広告による。) 
(大阪軍記) 
(小堀政談天人娘) 
(靈狐竒談小倉の色紙) 
第五巻 
筆の面影岡山奇聞〔実録〕 
五大力後日物語〔読本、狂蝶子文麿『五大力後日物語』文化十一年、西宮彌兵衛刊〕 
東侠客河内山實傳〔実録〕 
姫萬両長者廼鉢木〔合巻、曲亭馬琴『姫萬両長者鉢木』文政九年、森屋治兵衛刊〕 
花廼志満臺〔人情本、四編十二冊、天保七〜九年刊、松亭金水〕 
仙石騒動實記〔実録〕 
「錦葵文庫」菊判半截(一五一×九六粍)で、クロス装丸背、一冊二百頁余、葵文會、吉川弘文館、正價卅銭。 
第一輯一編、二編の二冊のみ架蔵。三編以降の刊否不詳。冒頭に次のように見える。 
本會曩に葵文庫を刊行して徳川文學の精華を遠永に保全し併せて高尚なる趣味を家庭に普及せん事に努め今や既に數種の名篇珍籍を世に紹介せりされど同文庫は重に該書一冊以上の長篇を刊行するの計畫なるが故に比較的名作多き短篇物を脱遺するの憾あるを免れず茲に於てか別に葵文庫の姉妹本として錦葵文庫を刊行し多くの短篇中に於ける名作を網羅し價格を廉にし携帶を便にし其遺を拾ひ漏を補はんとす如斯して始て徳川文學研究者をして長短失ふ處なく而かも本會の主義目的を遺憾なく遂行し得べしと信ず乞ふらくは讀者之を諒とし葵文庫と同じく愛讀の榮を賜はらん事を 
葵文會 
第一輯一編、牧野望東(解題)、明治四十四年二月十五日。 
化競丑満鐘〔曲亭馬琴、浄瑠璃読本、寛政十二年刊〕 
獸太平記〔木容堂、滑稽本、安永七年刊〕 
第一輯二編、雨谷一菜庵(解題)、明治四十四年七月十日。 
江戸名所花暦〔岡山鳥、地誌、文政十年刊〕 
都の手ぶり〔石川雅望、狂文、文化六年刊〕 
「日本文藝叢書」菊判半截(一五七×九〇粍)、紙装丸背カバー、一冊三百頁内外、東亜堂書房、二十錢。 
幸田露伴校訂のシリーズで、毎冊巻首の二頁ほどに解題が付されている。当初は二百冊を計画したようであるが、これまたどれだけ出たのかがわからない。手許にある本のうち一番新しい刊記が付いている『續大岡政談』巻末「日本文芸叢書全二百巻新刊目録」には第五十巻まで(既刊)となっており、「第五十一巻以下原稿整理中=續々刊行」とある。このシリーズは巻数順に刊行されたのではないようで、明治四十四年の三月ころから毎月数冊が刊行されていたと思われる。確認したものは下の〔〕に発兌年月日を入れたが、数ヵ月後に再刷が確認できたものもある。なお『露伴全集』所収の序文より年月の判明したものは*を付した。 
第一巻椿説弓張月上編〔*明治四十四年二月〕 
第二巻新訂通俗三國志第一〔明治四十四年三月一日〕 
第三巻椿説弓張月中編 
第四巻東海道中膝栗毛前編〔明治四十四年四月三日〕 
第五巻新訂太平記第一〔*明治四十四年四月〕 
第六巻新訂通俗三國志第二〔明治四十四年四月二十五日〕 
第七巻近松浄瑠璃佳作集第二〔明治四十四年十一月五日〕 
第八巻椿説弓張月(附昔語質屋倉)下編〔*明治四十四年四月〕 
第九巻新訂太平記第二 
第十巻東海道中膝栗毛(附金毘羅參詣膝栗毛)後編 
第十一巻新訂通俗三國志第三 
第十二巻西鶴佳作集第一〔明治四十四年七月一日〕 
第十三巻新訂太平記第三 
第十四巻開巻驚奇侠客傳上編〔明治四十四年五月十五日〕 
第十五巻其磧佳作集合巻〔明治四十四年五月二十五日〕 
第十六巻新訂通俗三國志第四 
第十七巻新訂太平記第四 
第十八巻一休諸國物語全〔*明治四十四年六月〕 
第十九巻開巻驚奇侠客傳中編 
第二十巻浮世風呂全〔*明治四十四年〕 
第廿一巻新訂通俗三國志第五 
第廿二巻開巻驚奇侠客傳下編 
第廿三巻浮世床全〔明治四十四年十一月五日〕 
第廿四巻新訂太平記第五 
第廿五巻新訂通俗三國志第六 
第廿六巻大岡政談全〔*明治四十五年一月〕 
第廿七巻新訂通俗三國志第七 
第廿八巻續大岡政談全〔明治四十五年二月十八日〕 
第廿九巻邯鄲諸國物語前編〔*明治四十四年七月〕 
第三十巻邯鄲諸國物語後編 
第卅一巻八笑人全 
第卅二巻新訂通俗三國志(附録支那歴史地圖)第七〔明治四十四年十月二十五日〕 
第卅三巻馬琴佳作集全 
第卅四巻義士實傳いろは文庫前編〔明治四十四年七月十五日〕 
第卅五巻義士實傳いろは文庫後編〔明治四十四年九月三十日〕 
第卅六巻近松浄瑠璃佳作集第二 
第卅七巻平家物語前編〔*明治四十四年七月〕 
第卅八巻平家物語後編〔明治四十四年七月十日〕 
第卅九巻新訂水滸傳第一〔明治四十四年八月二十五日〕 
第四十巻西鶴佳作集第二 
第四十一巻枕草子・徒然草合巻〔明治四十五年二月十五日〕 
第四十二巻新訂水滸傳第二 
第四十三巻保元物語平治物語合巻〔明治四十四年十一月五日〕 
第四十四巻新訂水滸傳第三 
第四十五巻偐紫田舎源氏第一〔*明治四十五年五月〕 
第四十六巻偐紫田舎源氏第二 
第四十七巻偐紫田舎源氏第三 
第四十八巻偐紫田舎源氏第四〔大正二年序〕 
第四十九巻新訂水滸傳第三 
第五十巻雨月物語聴耳猿疳癖談合巻〔明治四十四年八月二十五日〕 
さて、このシリーズは再編成して文庫本風仮綴体裁に改めて大正から昭和初期にかけて出されている。発行所は「金星堂内日本文藝叢書刊行會」で「六十錢」となっている。手許の一番新しい『水滸傳』の奥付には以下の書目が出ている。〔〕は所収本と『露伴全集』所収の序文から判明する年月。なお、明治四十四年九月に『海道記』と『回国雑記』にも序文を書いているが、別のシリーズであろうか。 
第壹期刊行書目(十巻二十五冊) 
第一巻椿説弓張月全三冊 
第二巻東海道中膝栗毛全二冊 
第三巻太平記全五冊 
第四巻平家物語全二冊 
第五巻偐紫田舎源氏全四冊 
第六巻開巻驚奇侠客伝全三冊 
第七巻大岡政談全二冊 
第八巻いろは文庫全二冊 
第九巻雨月物語全一冊 
第十巻一休諸國物語全一冊 
第貮期刊行書目(十三巻二十三冊) 
第十一巻馬琴佳作集全一冊〔雲妙間雨夜月・皿々郷談・俊寛僧都島物語*明治四十四年〕 
第十二巻近松佳作集全一冊 
第十三巻其磧佳作集全一冊 
第十四巻枕草子・徒然草全一冊 
第十五巻保元物語・平治物語全一冊 
第十六巻七偏人全一冊〔*明治四十五年六月〕 
第十七巻八笑人全一冊〔*明治四十四年〕 
第十八巻漢楚軍談全一冊〔*明治四十五年六月〕 
第十九巻邯鄲諸國物語全二冊 
第二十巻通俗三國志全八冊 
第二十一巻水滸傳全三冊〔新篇水滸畫傳〕 
第二十二巻浮世床全一冊 
第二十三巻浮世風呂全一冊 
第參期刊行準備中 
現存を確認できたのは、『馬琴佳作集』(大正十年十一月)、『開巻驚奇侠客伝』第一〜三巻(大正十五年九月)、『一休諸國物語』(大正十五年九月)、『雨月物語』(大正十五年九月)、『偐紫田舎源氏』第四巻(大正十五年九月)、『新訂水滸傳』第一〜三巻(昭和二年二月)であるが、『一休諸國物語』の巻末にある第貮期刊行書目は十五巻二十六冊で、『西鶴佳作集』が入り、『枕』と『徒然』を分冊した若干異なった編成になっている。 
また『開巻驚奇侠客傳』(大正十五年九月發行、昭和四年十一月再版發行、玉文社、貮圓)は、全三巻を一回り大きな一冊に合冊した本であり、三星文庫『馬琴傑作集』(大正十三年四月、三星社出版部、貮圓)もハードカバーで出ている。 
随分と長期間にわたって版元を移して刊行が続けられている様子なので、精確にはなお一層の調査が必要である。 
「家庭繪本文庫」菊判(二二七×一五五粍)、桜色地に菱形繋文様表紙、和装。木板多色摺り口絵一葉、一冊百五十頁内外、大正六年四月から配本開始、國書刊行會。 
第一期として次の全二十四冊が計画されたようだ。 
邯鄲諸國物語全五冊 
稗史水滸傳全四冊 
絵本太閤記全七冊 
殺生石後日怪談全二冊 
風俗金魚傳全二冊 
新編金瓶梅全四冊 
実際の配本順、刊記は次の通り。 
配本書名巻刊記 
1邯鄲諸國物語1大正六年四月十二日 
1邯鄲諸國物語2四月十二日 
2稗史水滸傳1五月十日 
2稗史水滸傳2五月十日 
3邯鄲諸國物語3六月十日 
3繪本太閤記1六月十日 
4邯鄲諸國物語4七月十日 
4繪本太閤記2七月十日 
5稗史水滸傳3八月十日 
5繪本太閤記3八月十日 
6稗史水滸傳4九月十日 
6繪本太閤記4九月十日 
7殺生石後日恠談1十月十日 
7繪本太閤記5十月十日 
8繪本太閤記6十一月十日 
8繪本太閤記7十一月十日 
9邯鄲諸國物語5十二月十日 
9繪本太閤記8十二月十日 
10殺生石後日恠談2大正七年一月十日 
10繪本太閤記9一月十日 
11繪本太閤記10二月十日 
11繪本太閤記11二月十日 
12新編金瓶梅1三月十日 
12繪本太閤記12三月十日 
(不明)風俗金魚傳 
『風俗金魚傳』と『新編金瓶梅』2巻以下三冊は未見ゆえ刊否不明。そのほかは架蔵本にて確認。ただし『繪本太閤記』は、全七編を十二冊に分冊している(二三四六七編を各二冊に分ける)。この『繪本太閤記』は大正八年一月(帙に刊記存)に國民出版社から藍色表紙の和装本で再版されており、さらに出版事項は未詳ながら一冊に合本したものがある。また『邯鄲諸國物語』にも藍色表紙の國民出版社版がある。 
なお、このシリーズは合巻が多いせいか、原本から挿絵を入れており参考になる。 
「袖珍文庫」四六判半截(一二六×九五粍)、クロス装角背、一冊三百頁内外、三教書院、二十五錢。 
鈴木徳三氏の調査(前述)によれば、大正三年一月の七十八巻まで確認されているようだが、全部で何巻出たのかわからない。管見に入った八十巻までを記しておく。 
1いろは文庫(上)[明治43] 
2いろは文庫(中) 
3武将感状記(全) 
4文章軌範(全) 
5平家物語(上) 
6俳諧七部集(全) 
7平家物語(中) 
8偐紫田舎源氏(1) 
9いろは文庫(下) 
10平家物語(下) 
11墨田川梅柳新書・昔語質屋庫(合) 
12偐紫田舎源氏(2) 
13萬葉集(上) 
14東海道膝栗毛(上) 
15俳風やなぎ樽(1) 
16古今集(全) 
17偐紫田舎源氏(3) 
18枕の草子(全) 
19東海道膝栗毛(下) 
20偐紫田舎源氏(4) 
21武經七書(全) 
22徒然草・それ/\草(全) 
23十三種百人一首(全) 
24聯珠詩格(全) 
25俳風やなぎ樽(2) 
26雨月物語・諸道聴耳世間猿(合) 
27蕪村七部集(全) 
28浮世風呂(全)[明治44] 
29繪本太閤記(1) 
30常山紀談(1) 
31釋迦八相倭文庫(1) 
32風俗文選(全) 
33梅ごよみ(全)[發禁] 
34假名文章娘節用・清談若緑(合) 
35世間子息気質・世間娘気質(合) 
36近世説美少年録(1) 
37繪本太閤記(2) 
38松の葉・松の落葉(合) 
39新編水滸畫傳(1) 
40西鶴物(1) 
41花暦八笑人(全) 
42釋迦八相倭文庫(2) 
43常山紀談(2) 
44南総里見八犬傳(1) 
45東遊記(全) 
46新編水滸畫傳(2) 
47源平盛衰記(1) 
48西遊記(全) 
49古事記(全) 
50萬葉集(中) 
51保元物語・平治物語(全) 
52常山紀談(3) 
53神皇正統記(全) 
54萬葉集(下) 
55日蓮大士眞實傳(全) 
56山家集(全) 
57新編水滸畫傳(3) 
58南総里見八犬傳(2) 
59釋迦八相倭文庫(3) 
60近世畸人傳(全) 
61近松心中物(全) 
62新編水滸畫傳(4) 
63繪本太閤記(3)[大正元年] 
64唐詩選・三體詩(合) 
65木曾道中膝栗毛(全) 
66俳人紀行文(全) 
67竹取・伊勢物語・方丈記・十六夜日記(合) 
68南総里見八犬傳(3) 
69南総里見八犬傳(4) 
70鳩翁道話(全) 
71繪本太閤記(4)[大正二年] 
72南総里見八犬傳(5) 
73新編水滸畫傳(5) 
74近世説美少年録(2) 
75南総里見八犬傳(6) 
76南総里見八犬傳(7) 
77南総里見八犬傳(8) 
78唐物語・住吉物語・濱松中納言物語[大正三年] 
79南総里見八犬傳(9)[大正二年九月] 
80梅暦(全)[大正三年七月] 
割に早いペースで重印(版)されているようで、その際に巻数が換えられているものもある。いずれにしても、かなり流布したシリーズであると思われる。 
「江戸軟派全集」第一期二十冊、菊判半截(一五五×一一〇粍)、紙装ちり付洋装、一冊二百六十頁内外、西村新解題、大正十五年〜昭和三年、江戸軟派全集刊行會、非売品。 
1閑情末摘花(人情本集)大正十五年十一月二十日 
2洒落本集第一(傾城買四十八手・柳巷訛言)十二月二十五日 
3梅之春(爲永春水集)昭和二年一月二十五日 
4娘太平記操早引(人情本集)一月二十五日 
5春色江戸紫・春色玉襷(人情本集)二月二十八日 
6春色傳家之花(爲永春水集)二月二十八日 
7通俗巫山夢・世中貧福論四月十日 
8假名文章娘節用・艶競金化粧(人情本集)四月十日 
9洒落本集第二(辰巳婦言・船頭深話・船頭部屋・傾城買談客物語)六月十日 
10春色恵の花・春色梅暦(爲永春水集)六月二十日 
11清談若紫(人情本集)六月二十日 
12毬唄三人娘(人情本集)六月二十日 
13好色一代男・好色一代女(井原西鶴集)七月二十五日 
14人情廓の鴬・仇競今様櫛(人情本集)七月二十五日 
15春色辰巳園(爲永春水集)九月二十五日 
16いろは仮名四谷怪談・於染久松色読販(鶴屋南北集)九月二十五日 
17洒落本集第三(娼妓絹〓・錦之裏・仕懸文庫・繁千話・志羅川夜船・夜半の茶漬)十月三十一日 
18花筐(人情本集)十月三十一日 
19随筆雑文集(吉原大全・俳諧通言・容顔美艶考)十二月二十八日 
20春告鳥(爲永春水集)十二月三十日 
「江戸軟派全集」第二期八冊、菊判半截(一五九×一一〇粍)、和装袋綴(袋入)、一冊六十丁内外、昭和三年、江戸軟派全集刊行會、非売品。 
1駅路風俗廻しまくら・客衆一華表(洒落本集第壹)昭和三年五月七日(翻刻) 
2敵討身代利名號(草双紙集第壹)五月二十日(影印翻刻) 
3傾城買二筋道・商内神(洒落本集第貮)六月十五日(翻刻) 
4昔語丹前風呂(草双紙集第貮)六月二十日(影印翻刻) 
5好色五人女(伊原西鶴集)六月二十日(翻刻伏字) 
6賣色安本丹七月二十日(翻刻) 
7お夏清十郎風流伽三味線上(草双紙集第參)八月二十日(影印翻刻) 
8お夏清十郎風流伽三味線下(草双紙集第四)八月二十日(影印翻刻) 
このうち第二期の草双紙集(第壹〜四)は、『草双紙選集(第一巻)』(洋装一冊、昭和三年三月五日、桃林房)として少し先に出されている。編輯發行兼印刷者・中川初伊も、發行所の場所も同一である7。 
このほか叢書としては扱えないが同時期に同一の版元からまとまった出版が見られるので、手許にある本を挙げておこう。 
「ふたりかむろ」四六判(一九〇×一二九粍)、クロス装角背、江戸文學研究會、大正五年六月、向陵社出版部、非賣品。所収書について私見により〔〕に補記した。 
娘評判記(あづまの花軸)〔洒落本、明和刊、道楽散人〕 
侠太平記向鉢巻〔黄表紙、寛政十一年刊、式亭三馬〕 
婦足〓〔洒落本、享和二年序、成三楼主人、『傾城買婦足禿』〕 
戊戌夢もの語〔随筆、天保十年成、高野長英〕 
鹿の巻筆〔咄本、(元禄五年跋)、鹿野武左衛門〕 
阿古義物語後編〔読本、文政九年刊、為永春水補〕 
花紅葉都噺〔随筆、天明八年刊、千秋老人〕 
海外新話〔歴史、嘉永二年刊、烏有生〕 
異人恐怖傳〔抄訳、嘉永三年刊、檢夫爾著、志筑忠雄訳〕 
「江戸八景」四六判(一九〇×一二九粍)、クロス装角背、江戸文學研究會、大正五年九月、向陵社出版部、非賣品。所収書について私見により〔〕に記した。 
当世虎之巻〔洒落本、安永七年刊、田螺金魚の改題改修本〕 
閑情末摘花〔人情本、天保十〜十二年刊、松亭金水〕 
伊達模様錦廼袿〔人情本、天保六〜八年刊、松亭金水〕 
花街三所世帯〔浮世草子、貞享五年刊〕 
眞實伊勢物語〔浮世草子、元禄三年刊〕 
逸著聞集〔説話、寛文五年序、山岡俊明〕 
「粋色風流男」四六判(一八七×一二七粍)、和装、廣瀬夏樹校訂、大正七年八月、東京トモエ文庫、壹圓。 
『粋色風流男』二篇は人情本、文政八序鼻山人作で、『風俗粋好傳』の改題本。 
「風流江戸紫」四六判(一八七×一二七粍)、和装、廣瀬夏樹校訂、大正八年一月、東京トモエ文庫、壹圓五拾錢。 
春色雪の梅〔合巻、柳亭種彦『忍笠時代蒔絵』、文政十一年刊〕 
封じふみ廓の初買 
風流江戸むらさき〔平賀源内『風流志道軒傳』、宝暦十三年刊〕 
「花かたみ」四六判(一八七×一二七粍)、和装、廣瀬夏樹校訂、大正八年三月、東京トモエ文庫、壹圓五拾錢。 
『花かたみ』は人情本、五編十五冊、天保十二年刊、松亭金水作。 
「岩戸神楽」四六判(一八七×一二七粍)、和装、廣瀬夏樹校訂、大正八年四月、東京トモエ文庫、壹圓五拾錢。 
風流岩戸神楽 
根なし草女護の島風 
里鶴風語〔洒落本、安永年間、風來山人〕 
恵比良の梅〔洒落本、享和元年刊、十返舎一九〕 
「小夜衣草〓」四六判(一八七×一二七粍)、和装、廣瀬夏樹校訂、大正八年四月、東京トモエ文庫、壹圓五拾錢。 
小夜衣草紙〔式亭三馬『辰巳の園』の改題本〕 
十八大通百手枕〔田水金魚『箱まくら』、安永七年〕 
亂れ櫻戀の出雲〔西澤一風『亂脛三本鎗』、享保三年〕 
戀の花染〔為永春水〕 
男女川草紙〔笑亭楼山人〕 
「嵯峨の假寝」四六判(一八八×一三一粍)、クロス装角背、廣瀬夏樹校訂、大正九年七月、昇文館、金貮圓五拾錢。 
『雪廼耶麻嵯峨の假寝』は松亭金水作の人情本、七編廿一巻、刊年未詳。 
「花曇朧夜草子」四六判(一八八×一三一粍)、クロス装角背、廣瀬夏樹校訂、大正九年七月、昇文館、金貮圓。 
花曇朧夜草紙〔合巻、六編廿四巻、安政四〜万延二年刊、二世為永春水〕 
戀の闇篝火草紙(朧夜草紙續篇) 
春色曙草紙(花曇朧夜草紙續篇) 
「賣色安本丹」四六判(一九二×一三〇粍)、クロス装丸背、田村西男校訂、大正九年十二月、名作人情文庫刊行會、非賣品。 
文政十二年序、十返舎一九作の前編に、二世為永春水作の後編を付し、さらに続編を松本春浪が付け足したもの。 
「春暁八幡佳年」四六判(一八八×一三三粍)、クロス装丸背、昭和七年八月、東京普及社、四圓五拾錢。 
為永春水作の人情本、六編十八巻、天保七〜九年刊。 
このほかにも、明治二十年代の幕末時代小説叢書、今古實傳(錦耕堂)、滑稽名作叢書(光村合資会社出版部)などは、ほんの僅かの部分しかわからないし、『女非人綴錦』『世間手代気質』『善光倭丹前』『高砂大島台』『歳徳五葉松』などの浮世草子類を集めた温古小説(明治二十五年、礫川出版)も全貌は不明である。明治四十年代半ばの十錢文庫(大川屋)や、今古文學(鍾美堂)、大正期に入って実録を主として出した袖珍本の史談文庫(岡本偉業館)、昭和十年代のいてふ本(三教書院)なども、叢書全体の書目は完備していない。 
この種の叢書類の白眉は帝國文庫(博文館)で、續帝國文庫を含めて大部百冊に及ぶ。さすがに細目は備わっているが、たとえば『校訂種彦傑作集』に収められる『天縁奇遇』は、文化九年刊の神屋蓬洲作の読本である。改竄後印の際に内題下に「柳亭種彦著作」と入木された本を吟味せずに底本にしたための錯誤であろう。つまり、所収書目を全面的に信頼することはできないのである。また、昭和版帝國文庫はすべて別の校訂者が手掛けたもので、単なる明治版の再版ではないが、やはり使用上問題はある。このほか、國民文庫、續國民文庫、有朋堂文庫、文芸叢書、繪入文庫、袖珍繪入文庫、袖珍名著文庫、繪本稗史小説、人情本刊行會叢書、近代日本文學大系、名著全集、評釋江戸文学叢書、近世實録全書、葵文庫、滑稽文學全集、女流文學全集などには一応細目が備わっているが、改題本などの書名で入れられているのも散見する。つまり、すでに叢書目録に掲載されているからといって、安心して使える状態でもないのである。 
以上見てきたのは、叢書という性格からとくに江戸読本だけに限定できなかった。だが、むしろ結果的にはその方が、当時の享受の実態に即したものになったと思われる。つまり、実録、浮世草子、滑稽本、人情本、草双紙などの中に混って江戸読本が位置しているのであり、ことさらに江戸読本だけを取り出してみても、あまり意味がないのである。同時に、馬琴や京伝の作品ばかりでなく、マイナーな作家たちの作品が多く混っている点にも注意を要する。つまり、馬琴翁叢書のように整然とした編集意識に基づいたテキストは比較的少なく、種々雑多なジャンルの作品が蒐められている点に、享受者側の読書傾向を見て取れる。版元は時代の流行に敏感に対応しつつ出版をしていたはずだからである。 
このような考えに至ったのは、当時盛んに出版された名家名文集の編纂意識に示唆を受けたからだが、これらは、近世近代という時代区分やジャンルや作者という枠を越えて新旧文学が享受されていたことを示していて、明治大正期の状況を顕著に反映しているのである。となると、近世小説の翻刻本とほぼ同時期に出ている明治期の草双紙についても無視できないはずで、これらの書目をも整備しつつ、広い視野から江戸読本の享受を考える必要があると思われる。 
注 
1鈴木徳三「明治期における『ボール表紙本』の刊行」(「大妻女子大学紀要―文系―」二十四号、一九九二年)。 
2鈴木徳三「明治期における文庫本考(一)―冨山房:袖珍名著文庫を中心に―」(「大妻女子大学文学部紀要」十一号、一九七九年)をはじめとする一連の仕事。 
3榊原貴教「あとがき」(『近代日本黎明期文学書集成目録』、ナダ書房、一九九〇年)。 
4青木稔弥「曲亭馬琴テキスト目録―明治篇―」(『読本研究文献目録』、渓水社、一九九三年)。 
5小二田誠二「「大岡仁政録」の謎、又は『近世実録全書』種本考」(「近世部会会報」9、日本文学協会近世部会、一九八八年)。藤沢毅「「古今実録」シリーズの出版をめぐって」(『明治開化期と文学』、臨川書店、一九九八年) 
6山本和明氏より、旧稿執筆時には未確認だった第一帙の第十九巻〜第廿四巻と、第二帙の第一巻〜第四巻を御所蔵本により示された。また、巻五〜八と巻十〜十三は早稲田大学蔵本のマイクロフィルム目録に拠る。 
7鈴木俊幸氏の教示による。 
第三節草双紙の十九世紀−メディアとしての様式− 
一はじめに 
近世期全般を通じて、もっとも広く大勢の読者に読み継がれてきた文芸ジャンルは草双紙であった。十七世紀後半、赤本に始まった草双紙は、時代が下るにつれて黒本、青本、黄表紙と、内容に見合った装いの変化を遂げつつ出板され続けた。十九世紀に至り合巻としての様式が定着した後は、「今じや合巻といへば子どもまでが草双紙のことだと思ひやす1」ということになったのである。 
この草双紙が近世小説の一ジャンルとして異例な息の長さを保った理由は、継続的な需要に支えられた商品価値を維持すべく、時世の流行に合わせて体裁と内容とを変化させ続けたからにほかならない。 
従前の文学史に従えば、十九世紀後半という時期は、幕末開化期として括られ、いわば発展史観的に近代文学発生前夜として見做されてきた。草双紙合巻も末期戯作と位置付けられ、低俗なものとされてきたのである。しかし本来の戯作というものは、十八世紀末に安永天明期の黄表紙や洒落本を中心とした狂歌壇に生きた人々の、自己顕示と自己韜晦の微妙な平衡感覚に基づく表現主体の精神性に関する謂いである2。すなわち戯作であることは、作品自体の文学的価値とは次元を異にする問題のはずである。確かに近世後期になると、後期戯作という用語でいわゆる通俗小説を指示するようになった。だが通俗的でない近世後期小説などは存在しなかったのであるし、やはり文学的価値を表わす用語としてではなく、表現主体の作品との距離観を含んだ意味合いをも考えるべきであろう。ならば幕末開化期の草双紙を取り上げて、末期戯作としての低俗性だけをあげつらってみても何の意味もないのである。 
文化史的な観点に立脚すれば、過去に出板された本というモノ自体には、本質的な価値の相違はないのである。つまり出板されて流通していた以上は、それを維持していた社会機構と、それを享受した少なからざる人々とが存在していたわけで、そのことは本自体の文学的価値とはまったく次元を異にする問題なのである。敢えて強弁すれば、文学的価値の発見や顕彰のみが国文学研究の目的ではないはずであるし、まして見るべきものはないと等閑視されてきた作品群を研究対象としなければ、我が国の十九世紀小説の大半は放置されたままでよいことになってしまう3。 
そこで本節では、近世近代という時代区分を相対化するために、幕末維新開化期を包括した十九世紀を一つの時代区分として見る視点に立ち、まずは作品評価を留保しつつ、草双紙というジャンルについて考えてみることにしたい。 
二合巻の史的展開 
まず草双紙合巻の変遷について、鈴木重三氏の所説4にしたがって整理すると次のようになる。 
勃興期(前)文化四年〜文化六年短編読切。形式の揺籃期。 
勃興期(後)文化七年〜文化十四年短編読切。形式の定着期。 
爛熟期(前)文政元年〜文政六年短編読切が中心。発展期。 
爛熟期(後)文政七年〜天保十四年短編長編の併存。転換期。 
衰退期弘化元年〜慶応三年長編続物が中心。沈滞期。 
衰滅期明治元年〜明治二十年頃新聞雑誌へ解消。終息期。 
勃興期前期には、敵討物流行による黄表紙の長編化という変化から二〜三冊(巻)を合冊(巻)するようになり、読本からの影響を受けつつ試行錯誤をしていた。後期になると、次第に錦絵風摺付表紙を持つ前後二巻(全三十丁)という形式でほぼ安定する。短編読切合巻が中心の時代で、内容的には歌舞伎と接近し、表紙や挿絵に役者似顔が多く用いられるようになる。 
爛熟期前期に入ると、内容も外観も洗練され、上中下三巻(全三十丁)をもって一編とするものが見え始める。ただし文政元年の出板部数だけが極端に減じており、これは前年に「慰みもの花美の上甚だ高料なる事然るべからずと御沙汰有之」(文政元年十月二十八日付鈴木牧之宛馬琴書翰5)という取り締りがあったためである。後期になると、文政七年に「西遊記」の翻案作である『金毘羅舩利生纜』(馬琴作、英泉画)が出されたのを契機に、『偐紫田舎源氏』などの長編合巻が流行していく。一方、飢饉や社会不安の中で、山東京山『豊年百姓鏡』のように新風を樹立しようとする動きも見られた6。 
衰退期は、天保改革直後の弘化年間の自粛期を経て、嘉永以降になると長編続物が刊行されていく。一方、新興板元の手によって上演歌舞伎の筋書風草双紙である正本写7や、実録講談を抄録した切附本8が流行する。 
衰滅期の初めは、明治維新後の混乱中にも長編合巻の続編が出された。明治十年代に入って小新聞の続き物や雑誌から独立した明治合巻9が出始めるが、活版印刷による<東京式合巻10>が出現すると、明治十五年頃を境にして木板の<江戸式合巻>は早々に姿を消す。さらに二十年代に入ると活字洋装本が主流をしめ、ついに草双紙は見られなくなる。 
三天保の改革 
以上見てきたような変遷をたどった十九世紀の草双紙史にとって、最初の大きな転換点は天保改革である。草双紙というジャンル自体の内包していた問題が顕在化した契機に過ぎないとも考えられるが、少し具体的に見てみよう。 
天保改革によって人情本が大打撃を蒙ったことは言を俟たない。しかし草双紙も、天保十四年には新作がほとんど見られなかった。翌弘化元年に出たものでも、表紙は悉く濃淡の墨だけを用いた地味な絵柄で、教訓的な作品か、さもなければ再板(摺)ものであった。一方、人気作であった『偐紫田舎源氏』も絶板にされ、板元であった老舗鶴屋喜右衛門も衰退の一途をたどることになる。だが肝心なのは、天保十二年十二月に改革の要諦として打ち出された株仲間解散令が、嘉永四年三月の再興令まで効力を持ち続けたことである11。検閲の強化や教訓の奨励が行なわれたと同時に、重板類板を監視する機構がなくなり、新規開業が勧められた。類板重板の心配がないから、新興の板元が参入するのは比較的容易であった。これらの板元は嘉永再興時には<仮組>となり、以後の草双紙出板を担っていくことになる。結果的には、書物問屋や地本問屋は解体し、業界の再編成が行なわれることになったのである。 
その渦中、鶴喜と対照的に飛躍的発展を遂げたのが紅英堂蔦屋吉蔵。種彦や春水という作者を失った天保改革後、読本抄録などを中心とする長編続物という方向を定め、衰退期から衰滅期にかけて陸続と長編合巻を出し続けたのであった。 
明治期後印本特有の黄色無地表紙を持つ『八犬傳犬廼草紙』巻四十四巻末に付された蔦屋吉蔵の広告「明治七年甲戌陽春開板標目」には十一種の長編合巻が挙げられ、「何編迄出板」などと記されている。明治四年刊の蔦吉(林吉蔵)板『薮鴬八幡不知』(有人作、芳虎画)巻末広告では、「厚化粧萬年嶋田、廾編大尾」以下「七ふしき葛飾譚、十五大尾」まで、十作の長編合巻がすべて「大尾」となっている。これらの広告は嘉永以降、蔦吉が続けてきた様式であり、予告の意味合いも含まれていたので信用はできない。実際に出た最終巻数と出板時期については、原本で確認しながら今後の精査が必要ではあるが、天保改革以後の継続的な出板が明治十年頃まで続けられていたことは確認できる。 
また同じ黄色表紙の『水鏡山鳥奇談』(秀賀作、國周画、元治二年)には、見返しに「假名垣魯文著\明治十四年四月新刻」と見え、こちらは鶴喜から地本問屋元組株を譲り受けた辻岡文助の手になる本の後印であった。これらの事例からは、明治に入ってからも長編合巻の続編だけでなく、旧作の後印本も出されていたことがわかる。 
四合巻の丁数と冊数 
ではつぎに、もう一つの大きな転換点であった明治合巻の登場と、活版印刷の普及について見ることにしたい。 
まず気になるのは編巻の構成の変化である。勃興期は六巻二冊(三十丁)や五巻二冊(二十五丁)などが一般的であったのが、次第に六巻三冊(三十丁)という構成のものが出てくる。爛熟期に入り長編続き物が流行しだすと四巻二冊(二十丁)が標準になり、これが衰滅期まで続く。もちろん黄表紙仕立の廉価版でしか出板されなかった作品もあったし、上紙摺りの半紙本仕立の編成とは相違する場合もある。さらに景物本などでは二巻一冊(十丁)という編成も見られるから、一概にはいえないが、大きな変化の流れとしては、六巻二冊・六巻三冊・四巻二冊というように変化していったものと思われる。表紙の絵柄を考えれば、二枚続きより三枚続きの方が見映えがする。だが三で割り切れない巻数の場合に中途半端な丁で綴じ分けなければならず、現に二冊の作品を三冊に綴じ分けた後印本なども存在する。ただ明治十一年以降に出た明治合巻になると、今度は三冊が標準になるのである。 
この現象を読本の場合と同じように、貸本屋が見料を稼ぐためにする分冊だとすれば理解しやすいが、草双紙の場合は個人購入の方が多かったと思われるので、そう簡単には片付かない。あるいは表紙の作成経費などを考慮した仕込みと売価という損得勘定の結果であろうか。 
一方、丁数の問題でいえば、五丁で一冊を構成するという伝統は近世末期まで律義に守られていた。次の馬琴書翰によれば12、 
一金瓶梅稿本、極細字ニて、難義の趣申上候ニ付、画と文ト別冊ニいたし、書ハ大字ニ書候ハヽ宜しかるへきト思召候よし被仰示、此義は野生もかねてさいたし度存候へとも、草紙類改名主抔申者ハ、本性頑ニて、聊も例ニちかひ候へハ、稿本を不受取候。只今の合巻物ハ一冊十丁つゝニ候へとも、それすら赤本の例を推て、稿本ハ五丁を一冊ニして出し候様、諸板元へ被申示候。況や画と文ト別冊なとにせん事ハ、中/\諾ひ不申候。これニて餘は御亮査可被成候。 
(天保九年十月二十二日篠齋宛) 
とあるように、改名主の側からの要求であったことが知れる。 
きわめて特殊な例外と考えてよいのであろうが、『大内山月雪誌』(東里山人作、国直・英泉画、文政六年、岩戸屋板)は、前後二編で五巻各九丁の四十五丁、『新型染松之葉重』(春町作、安秀画、文政十二年、鶴喜板)は、二巻各八丁の十六丁というように、規格外の作品もあった。 
天保以降の合巻では五丁区切りの意識が次第に薄くなり、絵柄や文章が五六丁の間でも続くものが出てくる。それでも基本的に五丁で一冊という意識は、中本型読本や人情本、滑稽本にはまったく見られないものであるから、草双紙に一貫する要件と考えてよいと思われる。 
ところが明治期の草双紙になると、九丁で一冊という規格が生じる。『新門辰五郎游侠譚』13二編の叙を見ると、 
新門辰五郎游侠譚叙 
草双紙を合巻と稱ふるハ。原五枚一冊を。二冊合して一冊とし。四冊を上下二冊一帙に。製したれバ尓いふなり。然るを方今の草双紙をも。書肆ハ是亦合巻と。稱ふるハ謂なし。又草双紙ハ其昔。人情世態質素の頃。還魂紙に武佐墨もて。摺たる草紙なりけれは。最臭かりしより臭草紙と。世に之を稱へしと歟。些下さらぬ名義なりしを。文明の今日に至り。九枚三冊一帙の。製本と做るを以て。之をこそ九三草紙の。稱謂を得たれと云ハまく耳。とばかりにして陋拙杜撰の。余が是の綴る九三草紙ハ。少し時代の楔なれバ。故九三草紙と云ハれやせん。遮莫傍訓新聞の。續雜報を再綴なる。世話狂言の新奇を競ふ。少壮編輯先生方にハ迚も及ばぬ梅星叟。今の世態ハしら髪天〓を。撥くも烏滸なる所興にこそ 
明治十二年第五月立夏後五日 
梅星叟乙彦記 
とあり、九丁三冊だから草双紙だという珍説を開示している。 
この規格が一体どこから生じたのかわからないけれども、明治十一年の『鳥追阿松海上新話14』『夜嵐阿衣花廼仇夢15』『藻汐草近世竒談16』などは、九丁ものの早い例であろう。この時期には八丁一冊という体裁で出された草双紙も見掛けるから、混乱はあったのであろうが、五丁一冊の規格から自由になったことは注目に値する。 
五活字本の板面 
明治になって変わったのは丁数だけでなく、赤い化学染料を主体とした派手な色使いの表紙絵や、袋や口絵に施された色摺りなどである。しかしこれらは華やかではあるが、絵は全般的に稚拙になった。また総傍訓の新聞からの影響もあろうが、振り仮名付漢字混じりの本文は切附本に先例があり、少しく教育的配慮があったことがうかがえる。しかし文字自体が大きくなったせいで挿絵全体は弛緩した緊張感のないものになった。とくに正本写は下手な似顔で趣に乏しい上、舞台の再現というよりは筋書に近いものに変っていったようだ。 
内容的には完結していることに対するこだわりが強まったものと見え、だらだらと続いた長編続き物合巻に対して「三編読切」という広告が目に付く。これも挿絵ごとの場面性よりも筋の展開へと興味が移っていったことをうかがわせる現象である。金属活字を使用した活版の普及も、見ることより読むことへの傾斜に一層の拍車をかけたのである。 
活版印刷が用いられた草双紙の濫觴とされる明治十二年の『高橋阿傳夜叉譚17』も、初編の中下冊だけが各八丁で、木板に戻った二編からは各九丁となっており、明治合巻の規格で出されている。また全編が活版で出版された草双紙のはじめとされる明治十二年の『巷説兒手柏18』と同年の『松之花娘庭訓19』も、本文は活版で一編三冊(二十七丁)の「読切」である。本文以外は刊記も木板で、袋や表紙、見返し、序文、口絵には色摺りを施している。この二作品は「芳譚雑誌」に発表されたものの単行本化であるが20、使用済みの挿絵板木をトリミングして転用するなどして21、挿絵をほぼ一丁おきに入れているが、大部分の頁は本文だけで、絵を見る読み物としての草双紙からは離れてしまった。しかし造本上は律義に草双紙の体裁を保持しているのである。 
この様式は明治十六年頃から出版され始める読本や草双紙の翻刻本と同様である。共隆社の引札には次の通り見えている22。 
藏版稗史發賣御披露 
玩弄の赤本一變して。敵討物の前編後編と巻を分ちしハ。南仙笑楚満人の發明にて。續き話の十冊物を合巻二冊に分たるハ。式亭三馬が(雷太郎強惡物語)に嚆矢り。近年までも合巻ハ。丸假名ばかりの筆工なりしを。活字に代用て傍訓をせしハ。小學生徒の便利を計る。拙き僕が考へにて。明治十二年の秋九月。彌左衛門町の文永堂より。(巷説兒手柏)といふ上下二帙の讀切物を出版したるが創めにて。意外の高評を得たりしより。今日江湖の草双紙ハ活字に限る物とハ成ぬ。斯いへバ相撲取の。己が勝たる話のみを誇面にするに似たれど。今流行の活版の。鉛にあらぬ銀座二丁目六番地へ。假本局を新に設けし共隆社ハ。繪入の稗史を盛大に發兌す。社員ハ何れも柳亭を遊び所とする友ゆゑ。僕も亦向後ハ。近所の同社を筆勞れの休息所に往復て。門人等に校合を托ね。摺彫なんども他に優て。美麗を旨とする而巳ならず。精々廉價に賣捌けバ。拙著に限らず諸先生が新作の續物も。實録の古い譚も。歳々數百部混雜て。積出す主〓ハ紙型の文字の。欠ず崩れず山なす程に。續々御用の御引立を。社員に代つて希がふハ小説の作者。 
柳亭種彦[印] 
東京々橋區銀座貮丁目六番地 
明治十七年八月日開業 
共隆社 
再拝 
たとえば同社刊行の『膏油橋河原祭文23』を手にとってみると大層美麗な本で、この広告に虚偽のないことが一目瞭然である。原本は馬琴作豊国画文政六年鶴喜板の読切合巻であるが、原表紙の意匠を生かし原序文を摸刻し、厚手の和紙に布目空摺りを施した口絵は、あっさりとした色摺りで原本の構図を生かしてある。さらに挿絵も駒割風のものではなく全頁か見開全部を用いており、詞書(書き込み)まで例の変体仮名で入れてある。本文は漢字を宛て振仮名を附した活字を用いて翻刻してあるが、本全体としては原本の持っている雰囲気の保存に努めているのである。 
それでも、さすがに絵を見てから本文を読むという、草双紙の本来的な鑑賞法に耐えるものではない。活字になって読む速度も大幅に速くなったはずで、加えて挿絵が簡略化されて減ったので、同時に出ている読本の翻刻と、字面上では変らなくなってしまったのである。 
前の『膏油橋河原祭文』巻末に付された「稗史出版書目」を見れば、「柳亭種彦閲尾形月耕畫\〇復讐浮木龜山\繪入上下二冊\定價金六拾錢」以下「曲亭馬琴作尾形月耕畫\〇殺生石後日怪談\繪入上中下三冊\近刻」まで、読本を主体として草双紙をも交えた二十八作の既刊本と近刻予告(活版)とが載る。ここで近刻予告されていた『殺生石後日怪談24』も、確かに出版されている。最初和装本で出され、後に洋装本(ボール表紙本)になっているが、この時点では洋装本の方が若干高価であった。 
六メディアとしての様式 
明治十年代には、文政期以降の合巻の序文を集めた『曲亭馬琴戯作序文集25』や、京伝馬琴三馬の読本類の序文を集めた『稗史三大家文集26』、さらには『稗官必携戯文軌範27』などという序文集の類が木板和装本で多く出されるが、これらも後に『馬琴妙文集28』のような活版洋装本で流布することになる。この序文集や美文妙文集の存在も、近世期の享受とは位相を異にすることをうかがわせている。筋を追うという読み方ではなく、味読暗誦のための本だと思われるから、必然的に手許に置いておく必要があるはずである。どう考えても貸本屋が媒介する類の本ではあり得ないのである。また維新後は諸大名の勤番が離散してしまい、貸本屋は多くの得意先を失った29。そのうえ新聞が普及し、同時に従来は貸本屋本として流布していた写本の実録本も、榮泉社の古今實録シリーズ(明治十五年一月〜十八年九月)に収められ、共隆社の翻刻シリーズと併せて大量の読物が短期間に供給された。すでに旧来の商売を成立させられる状況ではなくなってしまったのである。この貸本屋の衰退により、近世期の板本の流通は著しく滞ったものと思われる。つまり、草双紙が読みたくてもその機会が少なくなったのである。 
ところで明治合巻であるが、本来的に画の比重が軽い雑誌や新聞記事を単行本化したにもかかわらず、当初は草双紙の約束事通りに全丁に画が入っていた。ところが活版による東京式合巻が出てくると、本来の草双紙が持っていた画が主で文が従という側面が急速に失われていったのである。木板に比べて組版の自由度が著しく低いせいもあろうが、画は文字通りの挿絵となり、詞書(書き込み)も見られなくなった。さらに一頁あたりに収まる文字数も格段に増え、読みやすい、読むための本となってしまったのである。 
すなわち活字媒体が草双紙を草双紙でなくしてしまったのである。と同時に、草双紙が享受される基盤の方も失われていた。この活字メディアへの推移は、商業出版および流通機構そのものを再編成しただけでなく30、作品の様式までも変更を余儀なくしていったのである。文学がメディアやそれに規定される様式から自由に存在できないのは、むしろ当然のことかもしれない。しかし、草双紙という様式それ自体がメディアとして機能できた時代、それが十九世紀でもあった。 
かつて黄表紙の時代には戯作者として活動していた草双紙の作者たちの一部は、次第に出板資本に囲い込まれて職業作家となった。その後しばらくは業界周辺に雑家として存在することが可能な時代もあったが31、最後に自らが記者編集者として新しいメディア自体を創出しなければならない時代を迎えた時、草双紙というジャンルとともに、近世という時代もまた終ったのであった。 
注 
1山東京山『先讀三國小女郎』(文化八年)。石田元季『草雙紙のいろ/\』(南宋書院、一九二八年)にも引かれている。 
2鈴木俊幸「戯作と蔦屋重三郎(上)」(「中央大学国文」三十五号、一九九二年)。 
3平岡敏夫「明治二十年代前後の埋没小説の研究」(「稿本近代文学」十二集、一九八九年)は、近代文学の成立期・出発期についての研究が、既成の近代文学史を相対化できる可能性を説いている。なお「稿本近代文学」の十二集と十四集では「明治二十年代前後の埋没小説」という特集を組んでいる。 
4鈴木重三「合巻について」(文化講座シリーズ9、大東急記念文庫、一九六一年)。 
5水野稔「馬琴雑記」(『江戸小説論叢』、中央公論社、一九七四年、初出は一九六三年)所引の転写本翻刻による。 
6渡辺守邦「天保合巻の一傾向」(「近世文芸」十号、日本近世文学会、一九六四年)。 
7坪内逍遥「繪入刊行脚本(其一)草双紙仕立の部」(『逍遥選集』十二巻、春陽堂、一九二七年、初出は一九二〇年)、渥美清太郎「歌舞伎小説解題」(「早稲田文学」261号、一九二七年十月)、鈴木重三「後期草双紙における演劇趣味の検討」(「国語と国文学」、東京大学国語国文学会、一九五八年十月号)。 
8草双紙と中本型読本の折衷様式を持つ。本書第二章第五節参照。 
9単に明治期に出板された草双紙という意味だけでなく、旧来の体裁を継承しながらも、一冊が九丁であり、本文に振り仮名付漢字が用いられている様式の草双紙をも指す。主として木板のものをいうが、活版のものを指す場合もある。 
10三田村鳶魚「明治年代合巻の外観」(『三田村鳶魚全集』廿三巻、中央公論社、一九七七年)に「外形から錦絵表紙袋入りの合巻を、木版と活版とで、江戸式、東京式と言っている」とある。 
11この件についての意義の指摘と分析とは、前田愛「天保改革における作者と書肆」(『前田愛著作集』二巻、筑摩書房、一九八九年、初出は一九六〇年)による。 
12大澤美夫・柴田光彦・・高・木元編校『日本大学総合図書館蔵馬琴書翰集』(八木書店、一九九二年)。 
13明治十二年五月七日御届、武田傳右衛門(出版人)。聚栄堂(大川屋錠吉)・文栄堂(武田傳右衛門)合梓。梅星叟(萩原)乙彦綴、一梅齋(生田)芳春画。二編六巻六冊(各九丁)。木板。 
14明治十一年一月十八日出版御届、假名垣魯文閲・久保田彦作著、周延画、錦榮堂、三編九冊(各九丁)。木板。明治十七年刊の活字版存。 
15明治十一年六月十八日出版御届、芳川俊雄閲・岡本勘造綴、孟齋画、金松堂、五編十五冊(各九丁)。木板。 
16明治十一年十二月十七日刊(明治十二年一月・篠田仙果序)、篠田仙果録(編輯人)、永島孟齋(芳虎)画、見返し虎嶺画、青盛堂(堤吉兵衛)、三編九冊(各九丁)。木板。 
17明治十二年二月十三日〜四月二十二日刊、假名垣魯文作、守川周重画、金松堂(辻岡屋文助)、八編二十四冊(各九丁、初編中下冊は八丁)。 
18明治十二年九月、轉々堂主人(高畠藍泉)著、惠齋芳幾畫、文永堂・大島屋、二編四冊(各十丁)。 
19明治十二年十二月廿日御届(于時明治己卯猟月下澣・轉々堂藍泉識)、高畠藍泉作、落合芳幾画(題外口画・豊原國周画)、具足屋(福田熊次郎)、三冊(各九丁)。 
20本田康雄「版木から活字へ―稿本の終焉―」(「国語と国文学」、一九八八年十二月号)に詳細な比較考証が備わる。 
21前田愛「明治初期戯作出版の動向―近世出版機構の解体―」(『前田愛著作集』二巻、筑摩書房、一九八九年、初出は一九六三〜四年)。この時期の出板機構の変遷については、すでに前田氏の行き届いた見取図が備わっている。本稿は主としてこの仕事によっている。 
22中央大学図書館所蔵の長谷川如是閑旧蔵「引札集」所収。鈴木俊幸氏の教示による。 
23和装本(和紙袋綴)、中本一冊、四十丁。「明治十八年五月十二日飜刻御届\同年七月出版\定價金三拾錢\著作人故曲亭馬琴\飜刻出版人千葉茂三郎\發兌所稗史出版共隆社\賣捌所東京及各府縣書肆繪双紙店\東京地本同盟組合之章[組合][証]」。表紙口絵に布目空摺りを施し色摺り。見返しに「瀧村弘方畫」、一丁表に原板の馬琴序を摸刻しノドに「小倉刀」とある。 
24洋装本(ボール表紙本)、中本一冊、三百十八頁。「明治十八年五月十二日飜刻御届\同十九年四月出版\同年七月七日別製本御届\同七月出版\同二十年一月十七日再版御届\同二月出版\同年三月廿四日三版御届\同年四月出版\定價金三拾錢\著作人故曲亭馬琴\飜刻出版人千葉茂三郎\發兌所稗史出版共隆社\賣捌所東京及各府縣書肆繪双紙店」。 
25半紙本一冊、四十二丁、渡部白鴎纂輯、明治十一年官許、渡部氏蔵版。 
26中本二冊、三十九丁+二十四丁、萩原乙彦編輯標注、仮名垣魯文序、明治十二年十月出版、出版人松嵜半造、發賣人瀬山直次郎。 
27中本、岡本竹二郎編輯、明治十六年序。焉馬や文京、種彦らの書いた報條を集めてある。 
28洋装四六版一四五頁、大月隆編、明治三十一年、文學同志會。 
29塚原渋柿「江戸時代の軟文学」(『趣味研究大江戸』、一九一三年、大屋書房)。 
30矢作勝美「近代における揺籃期の出版流通―明治初年〜明治二十年代へ―」(「出版研究」十二号、講談社、一九八一年) 
31本書第四章第四節参照。 
第四節岡山鳥著編述書目年表稿−化政期出板界における(雑家)− 
化政期における出板界をめぐる状況を考えるに際して、少しばかり興味ある人物がいる。内職として筆耕をしつつ、いくつかの作品をも執筆した嶋岡権六である。本稿ではこの人物の出板界における仕事の軌跡を追うことによって、職業作家でもなく、かといって入銀本を出すような素人作家でもない〈雑家〉、すなわち文化人とでも呼ぶべき人々が活躍した化政期の出板という場について考えてみたい。 
嶋岡権六について、正確な生歿年をはじめとする具体的な伝記事項は、残念ながらほとんどわかっていない。馬琴の『作者部類1』には、 
岡山鳥 
近藤淡州の家臣嶋岡權六の戲號也。文化年間讀本の筆工を旨として五六六と稱し又節亭琴驢と號せしを文化の季の比より岡山鳥と改めたり。琴驢と稱せし比鈴菜物語といふ中本二巻を綴り曲亭に筆削を請ひ且曲亭の吸引によりて柏屋半藏か刊行したり。その後今の名に改めても一二種中本の作ありと聞にき。文政中退糧して濱町なる官醫石坂氏の耳房を借りてありしか舊主に帰参して又佐柄木町の屋敷に在り。戯作は素より多からす。筆工も今は内職にせさるなるへし。 
と見えている。嶋岡権六は島五六六、節亭琴驢、岡山鳥等と名乗って筆耕や戯作を手掛けた下級武士であり、馬琴とも交流があったのである。また、『戯作者小伝2』には、 
名長盈、字は哲甫、号を竹の戸、又丹前舎といひ、通称を島岡芳右衛門旧名権六といふ、神田四軒町近藤君に仕ふ、一度浪人して駒込大番町に住し、大衛の卒と也、再又旧主に帰参す、初め曲亭翁の門に入、節亭琴驢といへり、狂歌を嗜み、また書をよくして傭書するもの多し、古人式亭と交り深くして、門弟のごとし 
と記されている。狂歌は当代文化人の教養であったから当然として、馬琴に入門後、式亭三馬と親しく交わり門弟のようであったとある。さらに山崎麓「日本小説作家人名辭書3」の「岡山鳥」の項には、 
岡長盈、字は哲甫、通称權六、後芳右衛門と改む。神田五軒町の旗本近藤某に仕へ神田小川町に住む。丹前舎、竹之戸、節亭琴驢、岡三鳥4、山鳥、五六五六等の號がある。始め馬琴の門に入り、節亭琴驢と號し、讀本の著があり、突然文化七年式亭三馬の門に入り、岡山鳥と號す。文政十一年歿。「驛路春鈴菜物語」(文化五年)、「女釣話」(文政二年)等の作者。 
とある。この記述には誤りが多く、「五六六」が「五六五六」、「岡釣話」が「女釣話」などとなっているが、ここで問題にすべきは文政十一年という歿年である。 
『訂正改版名人忌辰録5』には「近藤金之丞臣文政十一年没す」とあり、『狂歌人名辞書6』にも「文政政十一年歿す」とある。これらの記述には根拠が示されていないのであるが、『馬琴日記7』を見るに、文政十一年二月廿二日の条に、 
一嶋岡権六来ル。白扇二本持参。当月廿七日、浮世小路百川ニて、書画会いたし候ニよつて也。右同人、去年九月より、駒込御書院組やしきへ転宅。養子和田鋭之助同居のよし也。 
とあり、同月廿七日(宗伯代筆)には、 
一七時出宅、宗伯出懸、目出度屋江立寄、明日祝儀来客入用之焼物肴・吸物肴等、注文頼置。夫より嶋岡山鳥書画会、日本橋百川江出席、帰路(以下略) 
と、書画会が催されたことが判明する。おそらく、さまざまな書画会にも顔を出し多くの人たちとの交流があったものと思われる。同年三月十日には 
一今朝、嶋岡権六使札。書画会之節、致出席候謝礼也。近所ニ而摘候由、よめな被恵、宗伯、返翰遣之。 
と挨拶を寄越して心を配っている。さらに、翌文政十二年十月廿四日の条に、 
一昼後、嶋岡権六来ル。予、対面。去秋中、当番衆供ニて大坂へ罷越、当四月中帰府、九月に至り、故主近藤讃岐守殿へ帰参いたし、哲甫と改名のよし、被告之。雑談後、帰去。 
とある。これらの記述は、『瀧沢家訪問往来人名簿8』に見られる、 
一神田橋通り近藤淡路守殿ニてひつこう書島岡権六 
一神田橋外近藤淡路守様ニて筆耕書島権六 
戊子二月廿二日會ふれニ而来ル 
一駒込追分の先御書院組やしきニて嶌岡権六養子 
和田鋭之助 
但権六同居 
己戌九月帰参のよし同十月廿四日来ル 
一神田橋通小川町近藤讃岐守殿内権六事嶋岡哲輔 
という記録にも符合しており、一応信頼してよい記事だと思われる。つまり、文政十二年十月の時点ではまだ生きていたことになる。さらに、後述する『書畫薈粋初編』など天保期の人名録類にもその名が記されており、おそらく歿年は天保頃までは下ることになると思われる。 
また、「突然文化七年式亭三馬の門に入り、岡山鳥と號す」という部分も問題がある。実際には文化六年から「岡山鳥」という号の使用が認められ、それも筆耕としての号として使用しているのである。 
水谷不倒は『選擇古書解題9』「驛路春鈴菜物語」の項で、序跋文の行文を分析して「馬琴との間に、感情の融和を缺くものがあつたに相違ない」とする。さらに、『江戸時代戯曲小説通志10』の「岡三鳥」の項には「文化七年馬琴の門を去り。更に式亭三馬に就いて。岡山鳥と改號したりしかば。馬琴大に怒りしといふ」とあるが、根拠のない風説に過ぎない。馬琴と三馬との仲が悪かったという前提が、馬琴と岡山鳥との問題に予断を与えたものと思われる。事実、馬琴の門を去ったという文化七年以後も馬琴読本の筆耕を続けている。一般に、板本を出板する過程では、作者と筆耕は稿本を介して頻繁に行き来するものである。また、いま見てきたように、文政期に至って馬琴宅を訪問して直接面会しているのであるから、馬琴との関係が悪くなったとは考え難いのである。 
さて、本稿では伝記的詮索はひとまず措き、残された業績としての出板物を通して出板界との関わりをたどっていくことにしたい。以下、関連資料を発行年順に挙げ、見出しに立てた題名(内題)の上に[筆]耕、[作]者、[賛]詠、[校]正、[広]告、[序]文、という具合に関わり方を示した。また、直接の業績ではないが関連する記述が見られる資料には[参]考と付けた。 
文化三寅丙(一八〇六)年 
[作]繪本復讐放下僧 
読本、半紙本三巻四冊、節亭山人著、蘆渓画、維時文化三歳丙寅仲秋良辰兌行、東叡山下谷広小路・伏見屋卯兵衞板。見返し「画本復讐放家僧談、節亭主人著、畫工蘆溪」。序「報仇奇談放下僧序、文化丙寅六月、位田因幹併書11」。 
実は、本作の作者「節亭山人」が節亭琴驢である確証は、いまのところ何一つない。『京摂津戯作者考12』には具体的な記述はないが「節亭山人」の項目がたてられ、漆山天童『近世人名辞典13』には「節亭山人関西の戯作者」とあり「節亭琴驢」と別に立項している。 
一方、水谷不倒『草雙紙と讀本の研究14』の岡山鳥の項目では本作を挙げていないが、『選擇古書解題』の方では、内題下に「東都節亭山人」とあることから、江戸の人に相違ないので節亭琴驢の外には考えられず、とすれば処女作になるとの判断を下している。 
しかし、本作を節亭琴驢の処女作とするには、男色模様を含む敵討という内容も含めて、何か釈然としないものがある。明確な根拠を示せないのがもどかしいのであるが、画工である蘆渓(浅山蘆國)は上方の絵師であり、文化末年以降、栗杖亭鬼卵や浜松歌国や文亭箕山など、上方作者による上方出来の読本は手掛けているものの、この時期の江戸出来の読本には筆を執っていない。また、板元の伏見屋卯兵衛も、この時期の江戸読本には見慣れぬ板元である。もし伏見屋宇兵衛と同一人物であれば、安永八年に「天狗通」を出した大坂の本屋と関係があるかもしれない。また、内題や内題下署名、刊記の刊年や住所が象嵌されたものであるように見えるのも気になる。 
本の体裁からいえば、半紙本でありながら、匡郭はやや小さく天地に子持罫を用い、「画(絵)本」を標榜している。目録の形式が実録小説風であり、序文に色摺りを用いている。これらの特徴は上方出来を想起させる上、江戸読本のカタログでもある『出像稗史外題鑑』にも登載されていない。そして後の節亭琴驢の発言はもちろんのこと、同時代の記録類でも作者について触れられた形跡はない。以上のことから、節亭琴驢の作品であると認定するには躊躇せざるを得ないのである。 
ただし、序文には「奇談放下僧乃節亭主人之所撰也。……余舁節亭主人善矣。聞此書刻成、書為序」とあり、本書の成立が文化三年で「節亭主人」なる人物の作として出板されたことは動かないと思われる。 
これ以上推測を重ねても仕方ないが、本作が節亭琴驢の作品であるかどうかについては、疑いの余地があることを指摘しておきたい。 
文化四卯丁(一八〇七)年 
[筆]新累解脱物語 
読本、半紙本五巻五冊、馬琴作、北斎画、筆耕島五六六、〓人(京師)井上治兵衛・(大阪)市田治郎兵衛、文化四年丁卯春王月發兌、鶴屋喜右衛門・菱屋孫兵衛・〓屋安兵衛・河内屋太助(文金堂板15)。 
江戸読本の中で、筆耕として名前が見えるのは本作が最初である。板本の制作過程における板下書き(筆耕)は、稿本の成稿後直ちに行なわれたはずであるから、実際に出来した時期より半年以上前に書かれたと考えてよいだろう。ただし、必ずしも出来した順番通りに仕事が行なわれたともいえないが、ここでは刊行順に挙げることにする。 
本書では〓人と共に刊記に名前を並べて貰えず、巻之五最終丁の隅に「島五六六」と署名している。島岡「権六」の「ごむろく」という音をあてた号であろう。板元が上方の文金堂であるから〓人は京阪の人を使っているものの、筆耕には江戸の岡山鳥を使っている。あるいは馬琴の意向が反映したものであろうか。 
文化五辰戊(一八〇八)年 
[筆]巷談坡〓庵 
中本型読本、中本三巻三冊、馬琴作、豊広画、筆耕嶋五六六謄冩、剞〓綉像朝倉卯八刀・筆耕三猿刀、文化五戊辰年正月吉日発販、村田次郎兵衛・上総屋忠助梓16。 
本作は挿絵の中に詞書がある、やや草双紙寄りの中本型読本であるが、序の年記「文化丙寅ふみひろけ月なぬかのゆふべ」(文化三年七月七日)には稿了していたと推測でき、何らかの事情で出板が遅延したものであろう17。しかし、実際に稿本が清書され板下ができた時期は、早ければ文化三年七月、遅くとも文化四年の前半であったものと思われる。 
なお、「嶋五六六」という号は江戸読本に限れば、これまでの二作にしか見えないので、文化四年以前に使われた号だと考えられる。 
[筆]頼豪阿闍梨恠鼠傳前編 
読本、半紙本五巻五冊、馬琴作、北斎画、節亭琴驢筆、桜木松五郎刀、文化第五載戊辰正月吉日発販、仙鶴堂鶴屋喜右衛門。 
文化四年中に書かれたと思われる本作以後は「節亭琴驢」という号を使ったようだ。なお、後編は鈴木武筍が筆を執っている。 
[筆]復讐竒語雙名傳前篇 
読本、半紙本五巻五冊、藁窓主人作、馬琴校合、小石軒一指画、(刊年なし)、蔦屋重三郎・中村屋善蔵(瑶池堂板)。序「文化三年秋八月編同五年初冬発兌・蒿窗主人」。 
無名作者の作品を馬琴が校合したもの。馬琴の序文「文化第肆彊圉單閼陽月下浣」(文化四年十月下旬)の末に「門人節亭琴驢書」とあるが、本文は別人の手になる。後編は未見、おそらく未刊で終わったものと思われる。 
[作]復讐快事驛路春鈴菜物語前編 
中本型読本、二巻二冊、節亭琴驢作・曲亭馬琴補綴・魁蕾清友校正、歌川豊広・俵屋宗理画、翰墨鈴木武旬、剞〓田龍二、文化五年歳次戊辰正月吉日発販、角丸屋甚助・和泉屋平吉・柏屋半蔵18。 
節亭琴驢の処女作とされている中本型読本。後編は未見、おそらく出ていないと思われる。かなり馬琴の手が入っているようで、馬琴「補綴」とあり序文も書いている。 
[校]由利稚野居鷹 
読本、五巻五冊、萬亭叟馬作、北斎画、校正節亭琴驢、傭書石原駒知道、刻工高橋待人、文化戊辰正月吉日、須原屋市兵衛・榎本惣右衛門・榎本平吉(木蘭堂板)。 
本作は、『墨田川梅柳新書』や『新編水滸画傳』の巻末に見える広告「〇曲亭主人著述目録」(近刻披露)に、「姿ノ姫心の鬼百合稚栄枯物語」として予告されていた本であると思われる。「校正」というのが具体的に何を意味するのか、いま一つ明確にできないが、少なくとも出来した本には馬琴の名前が見えず、校正として琴驢の名が入れられている点は見過し難い。さらに、『名目集19』には蒙古退治の一条が当時の夷賊のことに差し障りがあった旨が記されている。改めに引っ掛り、冒頭部を書き替えて出板されたいわく付の本なのである20。 
[参]雲絶間雨夜月 
読本、半紙本五巻六冊、馬琴作、豊広画、〓人朝倉伊八、文化御年戊辰正月吉日発販、和泉屋平吉・和泉屋幸右衞門・北嶋長四郎・柏屋清兵衞・柏屋忠七・柏屋半蔵(柏榮堂板)。 
本作には筆耕名の記載がないが、琴驢の手ではないようだ。ただ、巻之五巻末(廾七丁裏)に「俊寛僧都嶋物語全六冊」以下「浮世猪之介暁傘全三冊」までの六作品を挙げ、「右曲亭子來載新著編の題目今聞る所を以録之門人琴驢」と見えている。次の廾八丁表の「〇柏榮堂藏版目次」には、その最初に「驛路春鈴菜物語節亭琴驢子著曲亭主人補綴前編二冊」を挙げている。 
「鈴菜物語」と同じ板元から出された本で、文化四年の時点では馬琴が「門人」として見做していたことがわかる。 
文化六巳己(一八〇九)年 
[筆]報怨珎話とかえり花 
読本、半紙本五巻五冊、良々軒器水作、北岱画、筆者岡山鳥、剞〓渡辺喜平二、文化六年己巳年春正月吉日令開板也、竹川藤兵衛・伊勢屋治右衛門(咬菜堂板)。 
巻末広告「〇庚午春新鐫(咬菜堂)」には、 
渡守矢口話説岡山鳥作全五冊 
鵜飼石妙字賦岡山鳥作全三冊 
玉手箱錦浦嶋岡山鳥作全三冊 
という三点の予告広告が出るが、いずれも未見。おそらく未刊に終ったものと思われる。 
[筆]忠兵衛梅川赤縄奇縁傳古乃花双紙 
読本、半紙本三巻四冊、〓〓陳人作、北岱画、傭筆岡山鳥、剞〓宮田六左衛門、文化六己巳年孟春発行、竹川藤兵衛・住吉屋政五郎。伊勢屋治右衛門(咬菜堂板)。 
右の「とかえり花」と同じ板元であるから、文化五年の間に伊勢治の仕事を二本したことになる。 
[作]かたきうち岸柳縞手染色揚 
合巻、中本四巻一冊、岡山鳥作、歌川国貞画、野代柳湖刀、柱「いろあげ」、文化六己巳春(序)、西村源六(文刻堂刊21)。 
本作は合巻の初作である。自序に、 
ある人予が草庵にきたつて雅談のあまりいふていわく、足下ハ人のつくりなせる物の本を謄寫することひさし、一へんのしよをあむこといかにととふ、予こたへていふ、そのこゝろざしはなきにしもあらずといへども、さえみじかうしてぜんをすゝめあくをこらすのゐをのべがたし、客のいわくしからは一日の戲場をもつてこれをつゞらば児女子にさとしやすからんといふゆへに、客の意にまかするのみ 
山鳥欽白 
とある。筆耕をしながら作品を書きたいと思っていたところへ、ある人(板元)から執筆を促された。それも芝居に見立てて書けという注文だと書いているが、おそらく山鳥自身の着想だったものと推測される。出来した本を見ると、登場人物のほぼ全員に役者似顔を用いている。式亭三馬『金神長五郎忠孝話』(文化六年、文刻堂)巻末広告に「これハ三芝居惣役者似顔しやううつし也22」とあるように、歌舞伎趣味が濃厚だった合巻に、さらに徹底した役者似顔利用を促した契機になった作品である。これ以後、文刻堂との関係が強まったようだ。 
文化七午庚(一八一〇)年 
[筆]夢想兵衛胡蝶物語 
読本、半紙本五巻五冊、馬琴作、豊広画、執筆序跋岡山鳥・本文鈴木武筍、文化七年庚午春正月吉日発販、西宮彌兵衛・大和屋源次郎・三河屋〓兵衛(螢雪堂板)。自序「文化六年己巳六月」。 
筆耕は序跋のみ。同年十二月刊後編の筆耕は鈴木武筍。 
[序]當世七癖上戸 
滑稽本、半紙本三巻三冊、三馬作、国貞画、文化七庚午孟春(岡山鳥序)、西村源六・西宮弥兵衛・西宮平兵衛。副外題簽「雅名新水鳥記23」。 
どこにも書いてないが、本書の筆耕は山鳥だと思われる。序文を引いておこう。 
食前の酒は醉をすゝめ。酒後の茶は醉を醒せり。食前酒後の時をえらばず。克酒を飲で。克茶を吐くものは誰曽。當時石町の親玉なり。其酒を飲に至ては。地黄坊も盃を廢べく。其茶を吐に及では。賣茶翁も爐を投べく。著はす所の新水鳥記。一たび巻を被く則は。おのづから熟柿臭く。閲者醉て泥の如し。されば酒好の西平。茶好の西源。酒を飲み茶を吐くを喜で。竟には上梓する事とはなりぬ。予も左の利方なれば。醉心地にまかり出て。さらば躍で見しらさんか。醉ては思案にあたまから。浴るばかりの大醉客。舌より回らぬ亳を採て。猩々盃のよろ/\と。書なぐりたる醉筆は。鸚鵡盃の口まねながらも。順の盃お順を構はず。吁酒にして茶なるかな。茶で茶にあらぬ酒なるかな。とくだらぬ管を巻舌も。御亭主役の序の一盃たのみもせぬにお助まうす事しッかり。 
文化七庚午孟春 
神田丹前の好男子 
岡山鳥叙 
[岡][山鳥] 
この頃、三馬との交際が深くなっていたことがわかる。 
なお、本書の東京国立博物館所蔵本の中冊見返しに、岡山鳥の口上が記されている24。 
是より上の巻の末にうつればしだいに酔のまはるにしたがひ亭主は怒て女房を罵り女房は泣て亭主を恥しむ。客は笑てとりさへるといへども酢の蒟蒻の論は肴とともにつきづ隣の亭主の利屈上戸が利屈づくめに云ひふせるの段に至つて式亭先生の滑稽其穿実に奇なり。読者頤をはづせばきくもの腹をかゝえて笑ふ。必ず封を切て末の巻を見給ふべしとまうす。 
岡山鳥謹言 
あくまでも、三馬の引き立て役に徹しているが、雇われ仕事の筆耕以上に本造りに関わっていることがわかる。 
なお、巻末に附された「物の本くさ/\の目録」(この年の西源板には同じ広告存)には、三馬の二作の次に、「爲朝實記上弦筑紫勲全五冊西刻堂作」「伊勢え七度熊野え三度愛宕山鬼灯由来五冊岡山鳥作」とあり、さらに京伝と京山の作を挙げた上で、「右彫刻間に合ひ不申當年取急候而午の初秋より早々賣出し申候」とある。『上弦筑紫勲』は前編五冊が岡山鳥作として刊行されるが、『愛宕山鬼灯由来』は未刊か。 
[作]ふとり女聟八人新曲調糸竹 
合巻、中本二巻一冊、山鳥作、国房画、柱「いとたけ」、午のとし新はん西村源六。 
本作は現在所在不明で未見。ただし、今中宏「大江戸文庫7」(江戸藝術社、一九五九年)に写真図版入で翻刻されており、出板されたことが確認でき、大方の様子はうかがい知れる。また、冊数は『七癖上戸』に付された「庚午歳新刻稗史己巳年競魁發兌」に「全二冊合一冊」とある。 
[作]菅原流梅花形 
合巻、中本五巻一冊、山鳥作、国貞画、彫工萩原浪次郎、柱「はながた」、文化七庚午の春(自序)、西村源六。外題「新板天神記」。25 
『七癖上戸』広告には「大文字のひとつまつちらし書の児さくら」と角書があり、「惣役者似かほ正うつし」「全五冊合一冊」とある。これもまた、徹底した役者似顔の利用を試みた作品である。 
[作]一魚〓大當利仇討鯨百尋 
合巻、中本三巻一冊、山鳥作、国房画、柱「くじら」、むまのはる、丸文。見返題の角書の前に「那智御利生」。外題「熊野浦の鯨舟は一之森の茶屋娘艶容娘嶋多」。26 
本作では明確に役者似顔と判断できる登場人物は見当らない。ただ、表紙に鐶菊の紋を大きくあしらっている。源之助と特別の関係があったのであろうか。 
なお、同じ丸文から文化七年に出されたと思われる山東京山の合巻『誂染劇模様』に付された広告には「くまの浦鯨舟ハ一の森茶や娘艶容一對男」とある。 
[広]鷲談傳奇桃花流水 
読本、半紙本五巻五冊、京山作、豊広画、筆耕橋本徳瓶、文化七年庚午歳正月発兌、前川弥兵衛・丸山佐兵衛。 
架蔵の初板初印と思しき本作巻二の見返しに『催原樂奇談』の予告広告がある。 
絵入小枝繁先生作全部六冊 
催原樂奇談 
読本蹄齋北馬先生画近日賣出 
〓〓先生著す処の小説ハ恋女房染分手綱といへる院本にもとづき丹波少将俊寛僧都がことをまじへ團介といへる悪焜山神の祟にて馬と化畜生道に落るといへども多々の仇をなす與作重井が若盛ハ花盛の遊山に奇縁を結逸平が忠義ハ左内が得實と日を同ふす財宝をつかむ爪の長ハ鷲塚兄弟が悪行也。小満染絹が婬邪の甚しきあれバ景政法師の道徳あつて火車にさらわる亡者を助け終に成仏なさしむれバ山神再び現て團介が妖馬を本に帰せしむ善悪二道に染分る心の駒に手綱ゆるすなと唄ふも読も催原楽の鼻綱を取し三橘が人間一生五十三次の戒とせし作物語也 
雄飛閣の主人にかわつて 
岡山鳥述 
『催馬樂奇談』は筆耕を担当していたので、紹介を書くのも容易だったに相違ない。この広告の板下も山鳥の手だと思われ、板元にとっては重宝な存在であった。 
[筆]昔語質屋庫 
読本、半紙本五巻五冊、馬琴作、春亭画、執筆嶋岡節亭・鈴木武筍、〓人(京都)井上治兵衛・(大坂)山崎庄九郎・市田治郎兵衛、文化七年庚午冬十一月吉日発販、西村屋與八・河内屋太助(文金堂板)。 
[筆]常夏草紙 
読本、半紙本五巻五冊、馬琴作、春亭画、執筆嶋岡節亭、繍像朝倉伊八、刊字木村嘉兵衛、文化七年庚午冬十二月令日発行、松本平介・榎本〓右衛門・榎本平吉梓。 
文化八未辛(一八一一)年 
[筆]馬夫與作乳人重井催馬樂奇談 
読本、五巻六冊、小枝繁作、北馬画、岡山鳥筆、文化八辛未歳孟春発行、西宮弥兵衛・伊勢屋忠右衛門・田辺屋太兵衛梓。 
刊記に「催馬楽奇談全部六巻不顧拙筆清書之畢\神田丹前住岡山鳥」とあり、口絵末にも瑞馬の書いたという扇面を模写して説明を加えている。本作の場合も、単なる筆耕というよりは、いま少し本造りに関与した様子である。 
[筆]燕石雑志 
随筆、大本五巻六冊、馬琴作、嶋岡長盈[節亭]筆、文化八年辛未正月発行、(江戸)和泉屋平吉・(大坂)今津屋辰三郎・河内屋喜兵衛・河内屋吉兵衛・河内屋太助(文金堂板)。 
刊記に「燕石雑志五巻不顧拙筆清書之畢\神田嶋岡長盈[節][亭]」とある。 
[筆]十五番武者合竹馬の〓 
絵本、半紙本三巻三冊、馬琴作、北馬画、執筆嶋岡節亭做書、剞〓氏朝倉伊八、文化八年辛未冬月令日発販、鶴屋金助・柏屋半蔵・柏屋忠七(柏悦堂板27)。 
[作]今朝御前操之松枝 
合巻、中本五巻一冊、岡山鳥作、国貞画、柱「松が枝」、文化八辛未春新板(広告)、西村源六28。 
表紙に源之助の似顔を大きく描く。巻末広告には「夫ハながらのはし柱是ハわたなべ橋くやう」という角書が添えられ、「全五冊合一冊」「のこらず役者にがほ画仕候」とある29。これまた、徹底した役者似顔を利用したものである。 
また、「新板歌川目附繪、さいしき摺一枚でんじゆ書そえ、惣役者にがほ正うつし、歌川豊国画、岡山鳥戯作」とあるが未見。 
次に挙げられた「しんはんかハつた江戸めいしよ・よし原双六、一枚大形、ことしこそまちがひなくうりいだし申候、同作、歌川国満画」というのは、文化六年『巌柳嶋手染色揚』見返しに「しんぱんのひろめ江戸名所・よし原雙六、岡山鳥作、歌川國満画。此双六は日本橋より吉原まで道すがらの名所名物ならびに両国橋より舟道むかふじま本所めいしよめぐりちかみちとまハり道ありてしんぱんかハりし大すご六初春のよきおなぐさミ也」と広告されたもので、文化七年『七癖上戸』にも「日本橋より新吉原まで道すがらの名物向島辺名所旧跡を出し舟でもかごでもお好次第新板かハつた大双六なり」と見え、同年『新曲調糸竹』では最終丁に「この春は面白い吉原双六と似顔の珍しい目付絵が出るから、女の子は別してそんなことをして内で遊ばしやれよ」と書き込んでいた。これも未見。実際に出たかどうか不明。 
「宿昔話説近江源氏湖月照、全六冊合一巻、紀の十子戯作、歌川国貞画」これは、次項参照。「同(繪本)為朝實録、鎮西八郎一代のものがたり繪本也、當未秋よりうりいだし申候、岡山鳥作、歌川国房画、全五冊」は『為朝勇傳上絃筑紫勲』として出された本であろう。 
[作]近江源氏湖月照 
合巻、中本六巻二冊、紀の十子作、国貞画、武しゆん書、板木師田中仲次郎・西村佐吉、柱「(あふみミ)けんじ」、文化八年、西村源六30。 
本作は役者名義合巻の先鞭を付けた作品である。岡山鳥の名前で、源氏物語の巻名尽くしの序文を書いているが、このような形で実作者名を出しているのである。この役者名義合巻を代作者によって出すという工夫は、おそらく山鳥のものだと思われるが、以後多くの追従作を生み出すことになる。なお、本作には役者似顔を用いていないようである。 
[参]滝口左衛門横笛姫咲替花之二番目 
合巻、中本六巻二冊、京伝作、国貞画、筆耕石原知道、柱「咲かえて」、文化八年辛未春、岩戸屋板。 
廿一丁裏挿画中の衝立に「岡三鳥書」と見える。 
[参]腹之内戯作種本 
合巻、中本三巻一冊、三馬作、美丸画、鶴屋板。 
挿画中十三丁裏十四丁表に、三馬・徳亭三孝・益亭三友と共に岡山鳥が登場する。 
山鳥「げいしやといふものハ三みせんをひくはずの役だからやすまずにひいたり/\さらバそこらでをどりをおめにかけようかヱヘン/\」 
三馬「まだしもたのみとするなまゑひハ神田丹前のいろ男だ」 
[序]忠婦美談薄衣草紙 
読本、半紙本五巻五冊、津川亭作、(北岱画)、執筆鈴木武筍、文化八辛未初秋・西村源六。 
次のような序文を書いている(句読点を補った)。 
薄きぬ草帋序[筆三昧] 
一日、文刻堂をとふに、かたはらに書みあり。おのれうちみておもひけらく、およそくすしのやまひをおさむるに、木の実草の根よりはしめて、あるハけかれたる、あるハきたなきものをさへ、なにくれとたくはへおきて、其をり/\にあたりて用ふといへり。近頃世に行なはるゝ書もまたしかり。さるは、からやまとの正きよりはしめて、あるハことわさ、あるハさとひことなとをさへ、なにやかやと、とりましへて、そのほと/\につきてつくりなせり。かれハやむ人のためになし、これハ見る人の為になす。そのわさハことなれと、そのいさをハひとしといふべし。されハ此物が〔た〕りハ、ふるくよりあなるを、ゑのさまつたなく、詞のしなおくれて、いまの世人の心には、うちあはぬ所のみおほかれハ、たえて手にたにとることなきを、津川亭のあるし是をみて、詞をいまやうのすかたにあらため、絵をとき、世のよそほひにうつして、すてに梓にのぼせんとす。これそ、いはゆるやれ敗たるつゝみ鼓のたくひならんか 
文化の八とせといふとしのみなつきとをかいつかの日 
神田丹前の岡山鳥しるす[神田丹前][節亭] 
これも板元西源との関係で書いたものと思われるが、津川亭との関係は未詳。 
文化九申壬(一八一二)年 
[筆]三七全傳第二編占夢南柯後記 
読本、半紙本五巻五冊、馬琴作、北斎画、做書嶋岡節亭・鈴木武筍、剞〓朝倉伊八・木村嘉兵衛、文化九年壬申春正月良節発販大吉利市、松本平介・榎本惣右衛門・榎本平吉(木蘭堂板)。 
[筆]青砥藤綱摸稜案 
読本、半紙本五巻五冊、馬琴作、北斎画、浄書石原知道・岡節亭・鈴木武筍、〓人櫻木藤吉、文化九年壬申春正月吉日発販、鶴屋金助・平林荘五郎梓。 
後編には石原知道と岡節亭の名は見えない。 
前年の文化八年中に、馬琴の読本二作の筆耕をしたことがわかるが、いずれも一人で一作の全部を担当したわけではない。 
文化十酉癸(一八一三)年 
[序]柳髪新話浮世床(初編) 
滑稽本、中本三巻三冊、三馬作、国直画、文化十年癸酉孟春発売、鶴屋金助・柏屋清兵衛。ただし、自序は文化八年辛未皐月十日。 
蓬左文庫尾崎久弥コレクション蔵の初編上冊には、岡山鳥による次の序文が付されている31。 
[神田丹前] 
唐の剃頭店。我朝の髪結床。けし坊主も来れは。若衆も来り。通人あり。野暮あり。其場のことをよくうがちて。水がみにすきあげたるハ。本町の親方なり。小髷をこのむ勇も承知し。いてふにかたき。番州もぐつとゑらうけなるべし。あゝ。よくも人情を解したるもの哉と。おのれ刺出しの身分ながらも。序すことしかり。 
丹前堂岡山鳥[印] 
正確な執筆および出板年次は確定できないが、三編(文政六年)下巻巻末にも付されている。しかし柱には「序」とあり、やはり文化八〜九年のあいだに書かれたものと思われる。なお、二編巻之下の冒頭に、「昨日酒楽和尚とあの男とわたしと三個で岡山鳥が庵を訪らつたのさ山鳥大の酒客で頗るおもしろき男さネ」とある。 
[作]爲朝勇傳上弦筑紫勲(前集) 
合巻、半紙本五巻一冊、岡山鳥作、歌川国房画、文化十年癸酉春、岩戸屋板。 
管見に入った国会本は半紙本一冊であったが、本来は中本だったかもしれない。見返しには「前集全五冊」とあり、巻末二十五丁裏にも「これより後へん五冊おひ/\出板」とあるが、後編は管見に入っていない。 
見返し「文化十年癸酉春新刻榮林堂梓」の部分は入木だと思われ、前述の文化七、八年の文刻堂(西源)板の本に付された広告にも見えているので、後にそれを岩戸屋が求板したものか。いまのところ文刻堂板の有無は未詳であるが、『七くせ上戸』(文化七年、文刻堂板)の広告では本作を「西刻堂作」としているから、当初は板元名義の合巻を岡山鳥の代作で出す企画があったようだ。 
文化十一戌甲(一八一四)年 
[作]四季日待春廿三夜待 
滑稽本、中本三巻三冊、岡山鳥作、国貞・国繁画、名古屋治平刀、文化十一甲戌春発行、西村屋與八・丁子屋平兵衛・柏屋半蔵32。 
筆耕名の記載はないが岡山鳥自身であることが序文から知れる。その序文は、「素より繁多。活業の片手間に。やつて見たいがわるい癖」と、自分から板元に草稿を持ち込んで出板を交渉する趣向で、「画工の催促。主人を労せず。〓人のどふだ/\に。番州をも。走らせまい。不残此方で歩行ます。まだ其うへに筆耕は。もちだします」と売り込み、本屋は「すんならやつて見ませう」と返事をするというもの。多少の誇張もあると思われるが、序の年記が「文化九年正月」となっているのに、実際の出来が二年遅れた事情もうかがえそうである。 
ところが、下巻末二十七丁裏に国貞描く岡山鳥の像を載せた上に、「板元消息之縮圖」を掲げる。 
先日は御出被下候処早々之仕合恐入候。然は兼て御噂御座候古物を内より見出し候。此本為持さし上候。是は落丁も有之虫ばみも有之候間何卒御補ひ可被下候。作者の名も相見へ不申候之間御名前にて板行可仕候。御校合被下候様奉願候。余程/\古きものとは相見へ申候。書余は得貴顔可申上候。頓首 
正月吉日 
柏栄堂 
岡山鳥様 
これには、手許の作者名の記載がない古書を岡山鳥の名前で板行したいから校合して欲しい、という板元の依頼が記されている。 
本作が出来するまでの実際の経緯はわからないが、少なくとも岡山鳥は毎年継続して本を出し続けられるだけの売れっ子ではなかった。反面、板元にとっても重宝な存在であったことは間違いない。 
本来、本作は士農工商を四季に配し、春の廿三夜待の後には夏の庚申待、秋の甲子待、冬の己巳待と続ける構想であった。続編は管見に入っていないが、刊記に見える「廿三夜餘興士至而舞楼」が『廿三夜續編如月稲荷祭』として十年後に出されている。 
[序]花標因縁車 
読本、半紙本五巻五冊、萬壽亭正二作、勝川春亭画、文化十一甲戌年春正月、伏見屋半三郎、西村源六、播磨屋十郎兵衛、海部屋九兵衛、山田屋嘉右衛門。 
これも文刻堂板の読本であるが、次のような序文を書いている。 
序[筆三昧]> 
ある日文刻堂を訪ふに老翁は獨茶を煎し喫しなからこの草稿を閲てしめしていはく是ハこれ萬壽亭の編述なり尋常の復讐の譚にあらて愚なる者を賢にし曲れる者を直くすかゝる文はいまた世にまれなり親しく見給へとあるをおのれ眼しゐの佳記のそきに是を見れは実に毫のあやこそ玉章地蔵の玉をつらね言葉ハ金子の小金彦三にして花をさかす想ふに正二大人姓ハ〓田一に葛葉山人とあれハ人をして譱に化さしむること通力自在なるへしと答ふるを翁ははやくもふんてをとりてかいつくるまゝに因縁車の紀を引いたすことゝハなりぬ 
文化十癸酉五月文刻堂において 
神田丹前基生 
江戸岡山鳥識[山鳥][節亭] 
[筆]骨董集上編前帙 
随筆、大本二巻二冊、山東京伝作、文化十一年甲戌冬十二月発行、鹽屋長兵衛・鶴屋喜右衛門33。 
刊記に「傭書上巻・嶋岡長盈\中巻・橋本徳瓶」とある。 
[参]人心覗機関 
滑稽本、中本二巻二冊、式亭三馬作、国直画、丁子屋平兵衛板。「昨日も聴給へ山鳥子とふたりで枯野見に往つたけれどおらァ堤から別れて帰つたナントきつくなつたらう」 
[参]浮世夢助魂胆枕 
合巻、中本二巻二冊、式亭三馬作、国直画、鶴屋金助板。「採菊園みちとせさんがむかふのふね二見えるハヱ岡山鳥さんがとつちりものでアレ/\」 
「いやこれはどうも/\京の四條がいゝのなんのとうそのかは此兩國につゞく物かアレ/\むかふの舟には山鳥が居る」(13ウ14オ) 
文化十二亥乙(一八一五)年 
[筆]骨董集上編下帙 
随筆、大本二巻二冊、山東京伝作、文化十二年乙亥冬十二月発行、鹽屋長兵衛・鶴屋喜右衛門。 
刊記に「傭書嶋岡長盈\同凡例目六下之巻末自廿四紙至卅六紙藍庭林信」とある。 
文政二卯己(一八一九)年 
[作]水中魚論岡釣話 
滑稽本、中本一巻一冊、岡山鳥作、錦亭鳴虫画、文政二年正月吉日、鶴屋喜右衛門・堺屋国蔵梓34。 
自序は文政元年戌寅夏五月。巻末広告に「岡釣話二編」「楊弓一面大當利三冊岡山鳥作」「廿三夜餘興如月稲荷祭三冊岡山鳥作歌川国貞画」とある。岡釣話の続編は本作末に内容の予告が出ているが、管見には入っていない。あとの二作は順次出来される。 
文政三辰庚(一八二〇)年 
[作]進上坂東三津五郎丈江戸狂歌連 
狂歌摺物、文政三年九月に上阪する三津五郎に進上した餞別狂歌、四方真顔より三馬まで百二十三人が名を連ねている。「文政三年庚辰十月中浣刻成贈秀佳35」。岡丹前亭山鳥 
摺物も雄々しきていの催しはおむかしうかの大和たましひ 
文政四巳辛(一八二一)年 
[作]ぬしにひかれて善光寺参詣 
滑稽本、中本二巻二冊、岡山鳥作、歌川貞房、文政四年巳孟春発行、鶴屋金助・堺屋国蔵。 
文政三年夏に回向院にて善光寺の出開帳が開かれている。序末に「文政三年庚辰冬十一月信濃國駒嶽の麓に旅寝し硯の氷をうち砕て」とある。また、巻末広告に「如月稲荷祭」と「廿三夜餘興上巳雛祭」「(驛路春鈴菜譚)後編」とが近刻として予告されている。 
[序]假名手本團扇張替 
合巻、中本三巻二冊、礫川南嶺作、勝川春亭画、岡嶌山人序、文政四年、伊藤屋與兵衛板。[印] 
とらまへよ/\と。藝伎をおいしハ。由良之助どのゝ御醉興。とらまへて児に。よませんとするハ。南嶺子の新作。勧善懲悪は。素よりにて。こゝをしきつて。こふやつて。水門物置侍部屋。七役或ハ十二役。又ハ幕なし大仕掛も。ちよッくら。ちよつと。筆にあやなして。馬喰街の先生に。たのミのしるしの聟ひきで。御所望もふすハ。此品と先板元におさまれバ。千秋萬歳ちはこの玉。春まちかねて。ことしよりほしがるところハ。山々とゑん喜をことほく。このほんの序ともふすのも。おこがましい御免候へたハい/\。 
文政四年辛巳のはる 
神田丹前岡嶌山人誌[山鳥] 
文政六未癸(一八二三)年 
[筆]神田明神御祭典 
番付、中本一巻一冊(十五丁)、歌川国丸画、岡山鳥書、文政六未年九月十五日、森屋治兵衞。 
文政七申甲(一八二四)年 
[作]揚弓一面大当利 
滑稽本、中本三巻三冊、岡山鳥作、英泉画、濱山考浄書、文政七甲申歳孟春発行、鶴屋金助・伊勢屋忠右衛門。 
巻末広告に「小野小町照々法師・天道一梼二道岡山鳥作中本三冊酉年新板」とあるが、おそらく未刊に終ったものと思われる。 
また、『的中新話』なる改竄改題本がある。岡山鳥作、英泉・貞舛画、天保三壬辰年発行、(大阪)河内屋直助。序文「壬辰の初春萬器堂主人」と貞舛画の口絵(南里亭其楽の賛あり)とを新刻し、内題尾題に象嵌して「的中新話」としている。広告に「天竺得兵衛虚實譚本朝春秋外傳六冊近刻」とある。 
[作]梅川忠兵衛咲匂心梅川 
合巻、中本二巻一冊、一九校、国丸画、申孟春、江崎屋吉兵衛。 
本作は『むめ川忠兵衛戀初旅』(二巻一冊、一九作、国丸画、文化乙亥年、森治板)の改竄本である。序文も本文も概ね同一であるが、絵組みや役者似顔をまったく替えて彫り直している。なお、巻末江崎屋の広告に挙げられた本作に「岡山鳥作」と見えているが、本文中に記載はない。 
序文で『和漢三才図会』「魃」の項を図と一緒に引用しているが、『戀初旅』では作中にも図を示していたにもかかわらず、『咲匂心梅川』の方では「〇この神ほんもんのうちたゝりをなすことたひ/\あれどもこと/\くづをあらはさず」と一切描かれていない。前年夏の諸国大干魃の影響か。 
[作]乗懸合羽雫仇討 
合巻、中本二巻一冊、国丸画、申孟春、江崎屋吉兵衛板。 
本作も『旅眼石伊賀越日記』(二巻一冊、一九作、美丸画、文化十一年、森治板)の改竄本である。序文はまったく別のものに替え、口絵を省き、絵組みや似顔も別のものにしている。本文はほとんど同一であるが、一部挿絵の意味が不明の部分がある。 
なお、『咲匂心梅川』と同一の巻末広告が付されており、そこに「岡山鳥作」とある。 
[作]毛谷村孝行次第(けやむらかう/\のしたい) 
合巻、中本二巻二冊、国丸画、申孟春、江崎屋吉兵衛板。 
本作もまた『毛谷村孝行男』(合巻、中本二巻一冊、一九校、美丸画、文化十一年、森治板)の改竄本。 
本作にも作者名の記載はないが、巻末十丁裏の余白に「水晶散\御はみがき\右岡山鳥せいす」とある。また、『咲匂心梅川』と同一の江崎屋の広告が付されており、そこに「岡山鳥作」とある。この広告中に「白井権八紫の腰帯全二冊同作同画」とあるが、これだけが管見に入っていない。 
これら江崎屋板の三作は、いずれも十年前の一九作で、それも二冊物の丸取りである。造りも粗雑で絵との不整合もはなはだしく、かなり安直な出板ではある。三作の画工である国丸の名が最終丁に出ていることから、国丸が江崎屋の企画に噛んでいる可能性がある。それにしても、このような作の〈作者〉として(あるいは序文ぐらいは書いたのかもしれないが)、岡山鳥が使われているのが興味深い。 
[作]廿三夜續編如月稲荷祭 
滑稽本、中本三巻三冊、岡山鳥作、英泉画、傭書濱山考、文政七甲申歳、西村屋與八・鶴屋金助・丁子屋平兵衛・堺屋国蔵36。 
筆耕名は記されていないが山鳥自身と思われる。 
自序には「此後編廿三夜を著述せしは。文化十一戌の春。わんと遅きも程あるべし」と書いている。序末には「文政七甲申二月初午おいなりさまの神酒の酔中葛飾の別業竹門に筆を採る」とあり「神田豈山人[山鳥]」と署名している。 
絵の後、本文の前に次の様な「口上」がある。 
口上 
東西/\高うハ厶リ升れと是より口上のもつて申上ます段まつひら御めん願ひ奉ります前編廿三夜の儀御子様がたの思召に相叶ひ候段いか斗ありがたき仕合にぞんじ奉ります後編如月初午此たび出板につきまして相替らす御ひゐき御一覧の程奉希ますもちろん廿三夜をはじめこの初午にいたるまで素より推量の著作に厶リ升れハこれぞともふす鑿穿もこれなくやんやと申滑稽も厶リ升せんことに前編とおくるゝこと十とせがあひだ世の中ハ三日見ぬ間の桜にて時代違ひに假名ちがひ流行ちがひの間違だらけ扨また次の後編ハ上巳雛祭三冊もの是へこそ續てさし出します只今より御評判のほど〓に/\あつかましく希ひ奉ります 
下巻末に追加二巻の梗概が記され、巻末広告にも「廿三夜餘興如月稲荷祭追加三冊嗣出」とある。各内題と柱心の巻名「上(中下)」に象嵌の跡が認められることから、稿本が長過ぎたために分割されたと思われる。この追加(二〜三巻)は未見。 
作中、「京山がみせの初音丸」「梅幸が製する白梅香37のかほのくすり。白芙蓉のおしろい」「三馬がところの江戸の水」「山鳥が製する。金のへヘッてゐる。水晶散の歯磨」などが話題にされ、挿絵中の衝立には「北越牧之筆」と見える。 
文政十亥丁(一八二七)年 
[作]江戸遊覧花暦 
地誌、大本四巻三冊、岡山鳥著編、雪旦画、文政十年丁亥孟春新彫、守不足齋蔵板。外題、見返題、目録題などは『江戸名所花暦』となっている38。 
それぞれの季節にふさわしい花鳥風月の名所を紹介した実用書で、おそらく岡山鳥の著作中一番多く流布している本だと思われる。未刊に終わったものと思われるが、初板本の巻末には「花暦次編・花暦註譚」なる近刻予告が出ており、自序では『西湖志』『雍州府志』と比べ、本文中でも「山鳥按ずるに」などと考証を加えている部分も見られる。ただならぬ自負と意気込みが感じ取れる一作である。 
後印本には、少なくても「天保八年丁酉春正月発行、須原屋茂兵衛・須原屋伊八」の刊記を持ち、序を付け替えた千鐘房・青黎閣板の大本三冊と、これを求板し「明治廿六年十二月廿六日印刷発行」との刊記を加えた博文館板の半紙本四冊がある。さらに近代になってから出た翻刻本も数種類に及ぶ。 
天保三辰壬(一八三二)年 
[賛]書畫薈粹初編 
書画、三巻三冊、畑銀鶏編、天保三年39。 
戯作名長盈字哲甫号竹之戸又号丹前舎世人呼曰岡山鳥駒込大番町嶋岡芳右衛門 
江戸ノ人戯作ヲ以世ニナリヌ又俳諧哥ヲ詠テ其名高シ性滑稽ニ長シ酒ヲコノンデ磊落也 
こつそりとあやめをひけハあしもとへ 
打よするのも池のしら波 
天保四巳癸(一八三三)年 
[賛]江の島まうで浜のさゞなみ 
地誌、半紙本一巻一冊、平亭銀鶏撰、文晁他画、天保四年刊。 
挿絵の賛に「江のしまのゑにもおよはぬ開帳へゑにかくやうなつれはひめ貝岡山鳥」とある40。 
天保六未乙(一八三五)年 
[参]銀鶏一睡南柯乃夢 
随筆、半紙本二巻二冊、平亭散人作、貞広画、天保六年刊。 
口絵の「連月廿五日於平亭書画會諸先生入來之圖」に「山鳥先醒」として描かれている。 
嘉永二酉己(一八四九)年 
[参]歌城歌集 
歌集、大本四冊嘉永二年篠崎小竹序、嘉永五年春二月、(大阪)河内屋新二郎・(江戸)岡田屋嘉七刊41。 
岡三鳥か家にて海邊春夕 
泉郎の子のめかるわさもか夕なきにあくまて春のうらなれてみむ(巻一30オ) 
夕顔 
岡三鳥か家にておなしこゝろを 
賎かやのあはらまかきをことさらにつくろひたてゝゆふかほの花(巻二10オ) 
岡三鳥か家にて雪中早梅を 
春たゝは鴬きてやまとふらむ雪なかくしそうめの花かき 
さしてこむ鳥もまたゐす降雪のかくれかさきるうめのはつ花(巻三13ウ14オ) 
[賛]木石餘譚 
読本、半紙本六巻六冊、閲訂曲亭馬琴、編述〓画圖齋藤桂屋、校合〓浄書伊藤丹丘、嘉永六年丑春発兌、(東武)丁子屋平兵衛・(浪華)秋田屋市兵衛・(同)河内屋茂兵衛・(皇都)山城屋佐兵衛(文政堂板)。外題見返題角書「楠家外傳」、「弘化元年冬十二月立春前五日」馬琴序。 
本書は第一輯のみで未完であるが、馬琴は「稗説虎之巻」という批評を書いている42。 
口絵の賛に、 
夏くれハしける若葉のかけそひて 
みとりに見ゆるしら川の瀧 
右賛片岡義明節亭(口ノ3ウ) 
明かたの雰のたえ間の月かけに 
ほの見えそむる遠の山里 
右賛深垣重量節亭(口ノ6オ) 
もみちはに立ましれとも山松は 
色にそまらぬものにさりける 
右賛宇佐美正俊節亭(口ノ6オ) 
と見えるが、この「節亭」は岡山鳥ではないだろうか。 
未詳 
[序]絵本子供あそび 
疱瘡絵本、中本一冊(八丁)、岡山鳥序、春扇画。 
狂歌入の絵本である。花咲一男編著『疱瘡絵本集』(太平文庫3、一九八一年、太平書屋)にも序文と一図が影印で紹介されている。 
序[印] 
伊豆の下田と急でおせば。波のあなたに疱瘡なく。波より是方に疱瘡あり。なくてもわるし。あればとて。重きハ嫌ふ世のならひ。軽きハ誰も聞がたの。その耳づくに。起上り小法師。昨夜も乾たが。また乾た。翌は早からおひんなれ。真赤な。鯛の魚さんて。赤小豆飯も。酒湯の悦ひ。堅固で仕てとる豆太鼓。さゝらり三八。さつはりと。あとのつかぬが。紅画の奇特。童さん御覧童さん御覧。疱瘡が軽るい疱瘡が軽るい。と欽白 
夜伽の眼覚し紅紙燭を照して 
神田丹前岡山鳥識[山鳥] 
刊年は記されていないが、文化末年頃であろうか。 
[筆]信濃國繪圖 
地図、一枚摺、九十八×二百十糎、長谷川雪堤画、岡山鳥書、川澄維保刀。信濃国の全図で「禁賣買」とある43。 
以上見てきた嶋岡権六の業績は、もちろんまだ完璧なものではないが、ほぼ輪郭を把握できるだけの情報は提示できたと思われる。では、これらの仕事から嶋岡権六を一体どのように位置付けるべきであろうか。 
彼の存在を知った当初は、筆耕から作者になり上がった戯作者のあり様が、いかにも化政期らしいと漠然と考えていた。筆耕をしつつ出板界の様子を知り、草稿の筆写という作業を通じて著述の修業ができたからである。そこで、ジャンルという様式性を認識しさえすれば、作品をなすことは容易だと思ったのである。確かに、そのような側面は存在したようで、嶋岡権六以外にも筆耕から作者になった者に、橋本徳瓶(千代春道)、晋米斎玉粒、曲山人、松亭金水、宝田千町などがいた。しかし、これらの人々とは行き方が少し違ったようだ。 
嶋岡権六は基本的に武士であった。内職としての筆耕を始めたのであり、本職としての作家を目指していたものとは考えられないのである。そもそも、職業作家として飯を喰っていけたのは、ごく限られた人気作家だけであることは、出板界に首を突っ込めばすぐにわかったことであろう。むしろ、業界に顔を繋いで自作を出せる機会を待つ気楽な遊び人としての位置を望んだのである。 
『江戸現存名家一覧』や『當時現在廣益諸家人名録』などを見ると、嶋岡権六は「岡山鳥」として、畑銀鶏らと共に〈雑家〉に分類されている。〈書家〉でも〈画家〉でも〈儒者〉でもなく、まさに〈雑家〉なのである。この〈雑家〉というのは、マルチタレントという程度の意味で使われていた用語と考えてよいだろう。そして、出板メディアこそが彼らの才能を発揮できる唯一の場であった。しかし、出板は商売であるから採算を度外視できるはずがない。そこで発揮されたのが〈雑家〉としての多才ぶりなのであった。 
嶋岡権六の場合は、自分で板下を作製できるのみならず、書画会を催すほどであるから、おそらく人脈的にも広い付き合いがあったはずである。これらを駆使して板元に利害を説きつつ自作を梓に上せたに違いない。一方、板元の側にとっても彼の存在価値は小さくなかったはずである。合巻における徹底した役者似顔の使用を工夫して一世を風靡したり、自ら代作者となり役者名義合巻という新規な企画を生み出して成功させたり、出板事業を活性化させるのに不可欠なブレーンだったからである。そのせいか、柏栄堂や文刻堂そして堺屋など交渉のあった板元は限られていたようだ。 
嶋岡権六は、岡山鳥として著名な傑作を残したわけではなかった。だから文学史がその名を記憶しなくても、それはそれで仕方のないことかもしれない。だがしかし、かつては知的遊戯だった〈戯作〉が出板資本に取り込まれ、商品としての本の生産と出板事業の拡張に取り組んだ化政期という時代だからこそ、岡山鳥としても生きられる場が存在したのである。もはや戯作者にはなれない彼は、〈雑家〉として受け入れられ、そして己の多才ぶりを発揮しつつ生きいきと仕事ができたのである。その結果残されたじつに多岐にわたる仕事は、やはり出板という文脈を抜きにしては見えないも 
のであろう。逆にいえば彼のような人間が存在できた出板という場が、化政期を端的に象徴しているともいえる。近代化への歩みを急速に早める幕末期に突入する寸前の幸せな時代だったのかもしれない。 
注 
1木村三四吾編『近世物之本江戸作者部類』(八木書店、一九八八年)。 
2『燕石十種』二巻(中央公論社、一九七九年)。 
3『日本小説年表附總目録』(近代日本文学大系25、国民図書、一九二九年)。本書は『訂改日本小説書目年表』(ゆまに書房、一九七七年)として再版。 
4「山鳥」の表記は時として「三鳥」と混同して用いられることがある。しかし、本姓「嶋岡」の「嶋(嶌)」を偏と旁とに分解し、その上に「岡」を持ってきたのが「岡山鳥」という戯号の由来であると考えられるから、本人が使っていたのは「山鳥」だけのはずである。ところが、同時代でも表記が揺れている。とくに式亭三馬の門弟であった「古今亭三鳥」の「三(山)鳥」とは、まったくの別人であるので注意を要する。 
5関根只誠編、関根正直訂『訂正改版名人忌辰録』、六合館、一九二五年。 
6狩野快庵編『狂歌人名辞書』、文行堂・廣田書店、一九二八年。再版は臨川書店、一九七七年。 
7木村三四吾・柴田光彦ほか編『馬琴日記』、中央公論社、一九七三年。 
8柴田光彦「翻刻滝沢家訪問往来人名簿(上・下・索引)」(「近世文芸研究と評論」三十三・三十四・三十七号、研究と評論の会、一九八七〜九年)。 
9水谷不倒『選擇古書解題』(『水谷不倒著作集』七巻、中央公論社、一九七四年)。 
10雙木園主人編『江戸時代戯曲小説通志』(弘文社、一九二七年)。 
11国会図書館本・京都大学附属図書館本・早稲田大学図書館本はいずれも同体裁。広島大学本は未見。 
12『京摂津戯作者考』(『続燕石十種』一巻、中央公論社、一九八〇年)。 
13漆山天童『近世人名辞典』(日本書誌学大系36、青裳堂書店、一九八四年)。 
14水谷不倒『草雙紙と讀本の研究』(『水谷不倒著作集』二巻、中央公論社、一九七三年)。 
15大高洋司編『曲亭馬琴作新累解脱物語』(和泉書院、一九八五年)による。本影印は、現存する最善本と思われる関西大学本を底本にしたものである。 
16天理図書館本による。拙稿「巷談坡堤庵―解題と翻刻―」(「愛知県立大学文学部論集国文学科編」四十一号、一九九二年)、林美一「未刊江戸文学」十四、十七号(未刊江戸文学刊行会、一九五五、五九年)に翻刻が載る。 
17本書第二章第三節参照。 
18服部仁氏の翻刻が備わる。上下二冊を「同朋国文」二十一号(一九八八年)、「同朋大学論叢」五十九号(一九八九年)に分けて掲載。 
19「画入読本外題作者画工書肆名目集」(「国文学論叢一輯西鶴―研究と資料―」、慶応義塾大学国文学研究会、一九五七年)。 
20佐藤悟「読本の検閲―名主改と名目集―」(「読本研究」六輯上套、渓水社、一九九二年)。 
21九州大学文学部所蔵本による。国文学研究資料館にマイクロフィルムが所蔵されている。九大本は原表紙を欠くが、管見に入った一本は中本一冊は錦絵風摺付表紙で、外題「巌柳嶋」、幸四郎と路考の似顔を描く。 
22使用されている役者似顔は次の通り。なお、以下に挙げる三作の役者似顔の考証は、故向井信夫氏の教示による。官次郎(高島岸流)=五世松本幸四郎、月元武者輔=三世坂東三津五郎、荒志郡次兵衛=初世市川男女蔵、天竺徳兵衛=三世中村歌右衛門、吉田女児阿天流=五世岩井半四郎、吉田奴隷与五郎=初世澤村源之助、高島奴隷与九郎=初世尾上榮三郎、飾磨殿の妾萩の方=初世瀬川仙女、飾磨柴丸=四世市川高麗蔵、吉田民右衛門=三世坂東彦三郎、吉田妹女児阿雪=四世瀬川菊之丞、吉田妻女阿くら=二世小佐川常世、吉田民之介=七世市川團十郎、飾磨家近臣=二世関三十郎、与九郎姉おゆり=初世尾上松助。 
23京都大学附属図書館所蔵の大惣本による。 
24棚橋正博『式亭三馬集』(叢書江戸文庫20、国書刊行会、一九九二年)解題で指摘している。棚橋氏はこれを「封切紙」とする。 
25慶應義塾大学三田情報センター所蔵本による。使われている主な役者似顔は次の通り。松尾麻呂=五世松本幸四郎、梅王麻呂=初世市川男女蔵、佐久羅麻呂=五世岩井半四郎、時平=初世中嶋三甫右衛門、荒藤太経景=四世市川八百蔵、原三妻外浪=三世瀬川菊之丞、松尾妻千世=四世瀬川菊之丞、道明寺住職木公=初世尾上松助、猛部原三定胤=三世坂東三津五郎、菅原道真=三世坂東彦三郎、須久根太郎=二世尾上松助、判官代照国=初世澤村源之助、かく尼=二世荻野伊三郎、八重=三世市川田之介、白太夫=初世浅尾工左衛門、黒太夫=二世小佐川常世、稲たつた=三世市川団之介。 
26向井信夫氏所蔵本による。 
27東京国立博物館所蔵本は三巻合一冊の初印本。東京大学総合図書館にも外題欠ながら一本を蔵す。林美一「江戸春秋」二十に影印翻刻が備わる。その解題によれば天保九年改題後印本『英雄奇人傳』があるという。 
28大阪府立中之島図書館所蔵本による。国会本は半紙本仕立の上紙摺。 
29役者似顔は次の通り。袈裟御前=五世岩井半四郎、遠藤武者盛遠=五世松本幸四郎、渡辺左衛門尉渉=三世坂東三津五郎、縞原傾城由谷太夫=四世瀬川菊之丞、朝皃咲兵衛=成田屋宗兵衛、加奈屋管家東禄=初世市川市蔵、祇園火燈文悪=三世中村歌右衛門、守唯蔵人=七世市川団十郎、巻水新兵衛=初世澤村源之助、伎者絞の阿花=二世沢村田之介、材木問屋鹿子勘兵衛=二世尾上松、助衣川=三世市川団之助。 
30佐藤悟『役者合巻集』(叢書江戸文庫24、国書刊行会、一九九〇年)に影印翻刻されている。「近江源氏雨夜の金竜」という改題後印本がある。 
31本田康雄『浮世床・四十八癖』(新潮日本古典集成52、新潮社、一九八二年)に注釈付で翻刻されているが、この序文は掲載されていない。 
32『名家短編傑作集』(続帝国文庫、博文館、一九〇三年)。 
33『日本随筆大成』一期十五巻(吉川弘文館、一九七六年)。 
34『珍本全集』下巻(帝国文庫、博文館、一八九五〈明治二十八〉年)。 
35土田衛「〔受贈図書紹介〕『進上坂東三津五郎丈江戸狂歌連』」(「女子大文学国文篇」四十一号、大阪女子大学、一九九〇年)。 
36鈴木俊幸氏の所蔵本による。また、鈴木圭一氏所蔵本は巻中を欠く後印本(釜谷又兵衛板)で、外題は「滑稽二十三夜後編」となっている。 
37この白梅香であるが、文政七年『大星物語いろは歌二ッ巴』(志満山人作、森治板)巻末広告に「調合所は岡山鳥賣弘所ハふきや町柳屋幸助取次所は所々に御座候」とある。 
38今井金吾『江戸名所花暦』(生活の古典双書8、八坂書房、一九七三年)解題によれば、岡山鳥の自序を載せる初印本は見返しが黄色地に桜や紅葉を散らし「岡山鳥著編・江戸名所花暦春夏秋冬四冊・長谷川雪旦画」とある内閣文庫本などで、同じ刊記を持つ本でも見返しが白地で「丁亥初秋新彫發兌」とある本は、やや後印で自序を欠くという。なお、右の改訂新装版『江戸名所花暦』(八坂書房、一九九四年)が出ている。 
39『近世人名録集成』(勉誠社、一九七六年)による。 
40『團扇張替』と併せて、鈴木俊幸氏の教示による。 
41引用は、刈谷市立図書館村上文庫本による。なお、岡山鳥との関係については、山本和明「「幽篁庵」の周辺―伝笑・祐之・京山―」(「国文学研究ノート」二十六号、神戸大学「研究ノート」の会、一九九一年九月)が指摘している。 
42服部仁「馬琴晩年の読本観―『稗説虎之巻』を通して『木石余譚』を見る―」(「国語国文学会誌」二十五号、一九八二年)。後藤丹治「木石余譚考證―日本精神を謳歌せる讀本史上の一作品―」(「日本文化」十六、一九三九年)。 
43慶應義塾大学三田情報センター蔵(240-193-1)。鈴木圭一氏の教示による。 
第五節感和亭鬼武著編述書目年表稿 
江戸戯作界における感和亭鬼武の位置は、決して高いものではなかった。それゆえ代表作とされる『報仇竒談自来也説話』や『有喜世物真似舊觀帖』に関する言及はあっても、まとまった研究は備わっていないのが現状である。 
近年、山東京伝や曲亭馬琴以外の作家に関する研究も着実に積み重ねられつつあり、速水春暁斎、十返舎一九、振鷺亭、柳亭種彦、式亭三馬、楚満人をはじめとして、笠亭仙果、柳園種春等に関する精緻な報告が備わり、次第に江戸も上方も戯作界の実相が解明されてきた。江戸後期の戯作界に出板産業が深く関与したのは周知のことであり、書肆や貸本屋に関する研究も一層充実してきた。このような研究情況の中で、特定の一作家に関する研究の蓄積は、総体としての江戸戯作界、もしくは江戸後期の出板文化情況の解明に供されるはずである。 
ところがいわゆる二流三流の作者たち(鬼武をはじめとして小枝繁、東西庵南北、山東京山等を念頭においている)に関しては、評価するに足るだけの材料が整備されていないのにもかかわらず、見るべき作品のない群小作家の一人とされて等閑視されてきた嫌いがある。 
いま、ここで鬼武を取り上げたのは、数多くの中本型読本に見られる新奇な趣向を備えた面白さもさることながら、広い交際範囲を持つ遊民的な渡世が当時の戯作者の一典型を示したものと考えられるからである1。 
伝記に関しては不明な点が多く、『近世物之本江戸作者部類』に、 
曼亭鬼武一號感和亭 
実名を忘れたり寛政中まて御代官の手代にて飯田町万年樹坂の邊リに處れりこの頃の姓名倉橋羅一郎とかおほえしかさたかならすなほよく考て異日追録すへし後に橋のみたちの御家人某甲の名跡を續て御勘定を勤め淺草寺の裏手に卜居し後又家督を壻養嗣某に渡してをさ/\戯作を旨としたり初ハ山東庵に交加し文化の初より曲亭に就て自作の臭草紙を印行せられん事を請しかハ馬琴則山城屋藤右衛門馬喰町書賈也に紹介してその作初て世にあらはれしハ文化五年の事なりきこれより後新編の臭草紙を印行せられしかともさせるあたり作ハなし性酒を嗜み退隱の後放蕩無頼を事として疱瘡を患ひ遂に鼻を失ひたれとも羞とせす歌舞伎の作者たらん事を欲りして一年木挽町の芝居にかよひてやうやく前狂言を綴ることを得たれともその徒に撩役せらるゝに堪すとて果さすして退きたりかくていよ/\零落して身のさま初にも似すなりしかと猶浮れあるきつゝ瘡毒再發して身まかりけり没年文政のはしめにやありけんたつぬへしこの人の戯作夛かりしそか中に自來也物語といふよみ本のみ頗時好に稱ひたりそハよみ本の絛下にいふへし 
と見え、『戯作者考補遺』には、 
鬼武初淺草姥ヶ池近邊ニ住居後新寺町江移りぬ 
墨川亭云 
寛政中飯田町ニ居しや作名ノ傍ニ飯顆山トしたりト云々 
千光院内 
感和亭と号す初号曼亭ト云前野曼七初ハ或藩中のよし仕辞し市ニ隱る算術ニ達撃劔ニ長ス後ニ画ヲ写山翁ニ学ト自語らるゝ 
また、『銀鶏三余雑記2』には、 
感和亭鬼武は、前野満治郎といへる人なり、ひととほりの戯作者にはあらず、撃剣をよくし書をよくし、和歌をよくし狂文狂詩をよくし、地理に委く算法に工なり、好んて土鼈をくはれしゆゑ、庵号を土鼈庵と名づく、寛政年中かぐら坂にて、富吉といへる者、親のかたきをうちしとき3、鬼武子助太刀してうたせしこと、人皆知所也、十月十一日のことなりとかきけり、常に戯作を好んで作られしが、作はあまり面白からず、自来也物語は自満の作なれども、評判なし 
とあり、さまざまな逸話を記すも正確な生歿年すら定かではない。 
歿年が記されている記録としては関根只誠編『名人忌辰録』(明治二十七年)があり、「文政元年二月廿一日歿す歳五十九」と見えるが、典拠が示されておらず確認するすべがない。これ以後の鬼武に関する記述、たとえば『増補青本年表』や『日本小説年表』などは、この記述を繰り返すだけである。 
一方、鈴木俊幸氏は新資料『素吟戯歌集』を発見し、その分析を通じて従来曖昧であった寛政三〜五年における動静の一端を明らかにし、また『懐宝日札』文化九年十一月廿日の記述から神道無念流の免許を受けた五人の中に「前野萬七江戸住一橋殿ニ仕フ」とあるのを見出した4。しかし、氏も述べているように、寛政期後半から享和二年までの空白期間、京伝から一九への交友の変化など、まだまだ多くの不明事項が残されているのである。本稿では、基礎作業として行なった諸本の調査に基づいて、寛政期より文化末年に至る鬼武の文学活動の足跡を年代順にたどってみることにする。 
凡例 
一、ジャンルは以下のように略した。[黄]黄表紙、[洒]洒落本、[噺]噺本、[狂]狂歌、[滑]滑稽本、[読]読本、[合]合巻、[随]随筆。なお、鬼武の著編述作品でない場合は()で括った。 
一、書名は原則として内題を採った。ただし、黄表紙合巻に関しては第一冊目の外題を採った。いずれも原則を変更した場合は注記した。また、ほかの箇所に記された題名が内題と大きく異なる場合は備考に記した。 
一、書型は以下のように略した。半(半紙本)、中(中本)、小(小本)。読本で「中」とあるのは中本型読本のことである。 
一、巻冊数は所見本の状態から判断して、刊行後に手を加えられたと思われる場合は備考に注記した。また黄表紙で前後編に分かれている場合は「前三後二」のように表記した。 
一、画工名は原則として名前のみを示し、後に「画」を付した。 
一、板元は、蔵板が明らかな場合は後に「板」を付した。なお複数の板元があり蔵板が不明の場合は、刊記の最後に記されている書肆名を示し、後に「他」を付した。 
一、所蔵は管見の範囲で善本だと思われる箇所だけを示したが、必ずしも初板初印本を示すとは限らない。 
一、所蔵先の略称は概ね『国書総目録』の凡例に準じたが、以下の通り変更した。加賀(都立中央図書館加賀文庫)、諸家(同館諸家文庫)、東誌(同館東京誌料)、尾崎(名古屋市蓬左文庫尾崎コレクション)、八戸(八戸市立図書館)、岩崎(東洋文庫岩崎文庫)、資料(国文学研究資料館)、中村(同館中村幸彦氏所蔵本マイクロフィルム)、東大国(東京大学国文学研究室)、狩野(東北大学附属図書館狩野文庫)、東急(大東急記念文庫)。 
一、改題本細工本等は刊年にかかわらず、初板本の項の後に「〇」を付して示した。 
一、鬼武の印記などについては次の通りA・B・C・O・Qの記号で示した。 
ABCOQ(図版略) 
一、翻刻のある作品は、「◇」を付して所収書誌名を示した。 
一、備考は「*」の下に記した。 
安永五丙申(一七七六)年 
[俳]蓮華会集蓼太編酒竹 
まつ宵や影もそのまゝ翌ならう少年s鬼武 
天明三卯癸(一七八三)年 
[俳]越旦歳暮雪中庵蓼太 
*次の三句入集(十九丁表) 
乃の字にも杖はわすれし筆始鬼武 
黄鳥やほとゝきすには寝もやらすゝ 
行年の跡へ戻るや車牛ゝ 
寛政三亥辛(一七九一)年 
(洒)手段詰物娼妓絹〓小一巻一冊山東京伝蔦重板東急 
*跋「寛政辛亥孟陬飯顆山曼鬼武誌A」と、後跋「京伝草廬食客煙花浪子」が付されている。 
◇『洒落本大成』十六巻(中野三敏氏解題、中央公論社、一九八二年)。 
[噺]一雅話三笑[外]小一巻一冊蔦重板国会 
*序「京伝門人曼鬼武述」。巻末に蔦重板の「晒落本類目録」が二丁ある。この広告に寛政三年の京伝三部作が掲載されていることや、「京伝門人」と称していること、また本書中に当時の流行を「壬生狂言大繁盛」としていること等を考え合わせると、従来「文化年間」とされてきた刊行時期は、寛政三年頃まで遡るのが妥当だと思われる。なお、名著全集に袋の写真が出ている。 
◇日本名著全集『滑稽本集』(同刊行会、一九二七年)、武藤禎夫編『噺本大系』十五巻(東京堂出版、一九七九年)。 
寛政四子壬(一七九二)年 
(黄)唯心鬼打豆中三巻三冊山東京伝鶴喜板岩崎 
*五丁裏、画中の衝立に「鬼武画」とある。『小説年表』は本書を「鬼武画」とするが、水野稔氏は「この事実だけでこの作品の画工を鬼武と断定することにはなお躊躇されるが、寛政三、四年ごろにおける鬼武と京伝との親近ぶりは察せられる5」とし、鈴木俊幸氏は同様に鬼武の名前が書き込まれている『桃太郎発端説話』や『貧福両道中之記』とともに、鬼武が代作した可能性を示唆している6 
(黄)昔々桃太郎発端説話中三巻三冊山東京伝北斎画蔦重板東誌 
*中巻七丁裏の画中衝立に「鬼武画」とある。 
◇『黄表紙廿五種』(日本名著全集、同刊行会、一九二六年)所収。 
[狂]狂歌仁世物語半一冊曼鬼武撰板元未詳大妻女子大濱田文庫 
*叙「寛政みつのへ子のはる日曼鬼武しるすO」、跋「寛政壬子春正月阿田口麿謹跋」、もう一本には「曼鬼武門人みちのおく桑折の駅早根朝興識」という跋が加えられ、本書の撰者を「難浅簾のあるし」とするが、『嗚呼蜃気楼』自序題下の印[難淺簾]から、鬼武本人と考えてよいと思われる。集中に京伝の作が多く入れられている。また、鬼武が「むつきの頃みちのくにおもむきける」旨の記述がある。 
◇水野稔「狂歌仁世物語」(『天明文学−資料と研究−』、東京堂出版、一九七九年)。 
[噺]和良嘉吐富貴樽小一巻一冊蔦重板東大国 
*自序「寛政四つ子のはる日曼鬼武O」、跋「難浅窓主人識」、跋の前に「右落咄三十一篇曼鬼武戯作」とある。「難浅窓主人」も鬼武自身だと思われる。 
◇『噺本大系』十五巻。 
〇落咄梅の笑小一巻一冊寛政五序蔦重板国会 
*序「癸丑はつ春曲亭主人序並校」と本文五丁を新刻し、『富貴樽』の前半十六丁までを流用した細工本。巻末に「上手山中瓢子作」とある。同年『梅の魁』と題し再摺(宮尾しげを「中期咄本の調べ〈八〉」『小はなし研究』十二号)。 
◇『噺本大系』十九巻。 
〇戯話華靨小一巻一冊寛政五序蔦重板国会 
*序「癸丑はつ春曲亭馬琴」と本文五丁を新刻し『富貴樽』の後半十七丁以降を流用、さらに新刻一丁を加えた細工本。巻末に「おに武作\馬琴校」とある。嘉永六年『戯談花靨』となって後印7。 
◇東洋文庫『江戸小咄集1』(平凡社、一九七一年)、『噺本大成』十九巻。 
(噺)木の葉猿小一巻一冊桜川慈悲成豊廣画寛政十二年大和屋久兵衛刊東博東誌 
◇『未翻刻江戸小咄本八集』。 
〇〔咄の親玉〕小一巻一冊耕書堂(蔦重)刊国会 
※本書は「木の葉猿」の二十一丁から三十丁まで(「通り者」〜「大社」)の板木を利用した細工本。所見本にはどこにも書名の記載はない。京大本には袋に墨書で「鬼武作豊廣画\世にはなし全\寅年刊耕書堂」とある。また文化十五年刊(宮尾しげを『小咄年表』)とされているが、この「寅」は文化三年ではないだろうか。 
鬼武が次の序を書いている。 
世に話てふものハ無而不叶もの也唖禽獣ハしらず陶にも口あれバ岩かものいふ世の習ひ惣て口を開くもの話にあらずして何ぞ也夫が中にも落咄なるものハ話乃滑稽巧にして鶏がなく東の都よりその咄の種を卸し今也鄙の端/\迄も這をもて一興とす其種本の問屋株耕書堂へちよびと音信れバ一盃をもて誑し此本に序せよと乞ふまゝに是も噺か序になる歟叙か噺かハ予もわからず此いとぐちに妄言書做し先半枚をちやかすのみ 
寅のはつ春 
一盃きげんで鬼たけしるすQ 
[狂]素吟戯歌集大一冊(写本)鈴木俊幸氏蔵 
*序一「山東京伝」、序二「門人千鬼文謹撰」、「素吟戯歌集叙」末に「寛政四つのとし\子のはる日曼鬼武述」、跋「明のかね成謹述」、跋題「狂歌集跋」末に「寛政壬子春三月白壁道人」。 
鬼武が東奥桑折に代官手付として下っていた時に編まれたもの。この資料を発見した鈴木氏が「寛政期の鬼武」で行き届いた考証を展開している。 
◇鈴木俊幸「『素吟戯歌集』−感和亭鬼武初期活動資料−」(「読本研究」三輯下套、渓水社、一九八九年)。 
寛政五丑癸(一七九三)年 
(黄)貧福両道中之記中三巻三冊山東京伝春朗画蔦重板東誌 
*三丁裏に「鬼武画」とある。[狂]年始物申どうれ百人一首中一冊真顔序蔦重板国会 
*一首入集「春来れは色を十寸見かこゑまてもめてたくかたる松の内かな」。 
[狂]四方の巴流中一冊京大潁原 
*一首入集「ちゝまりし去年の日あしも野邊にけさ春立そむる初霞哉\蛭牙亭鬼武」。 
寛政期か 
[狂]短冊(『短冊』復刊四号所載) 
*「人々にしはしの\わかれを\おしめとも\春はまた\逢ひ見んことを 
行水にあふくま川の名にしあれと\しはしはよとむ瀬々のしからみ鬼武」。 
[賛]「浮世絵肉筆名品展」図録(日本橋三越、一九八一年三月) 
*「客の気も春とてものは入相のくれ行かねに花や咲らむ感和亭鬼武Q」。 
(〓塵斎画、肉筆「桜下太夫立姿図」賛) 
享和二戌壬(一八〇二)年 
[黄]異療寝鼾種中三巻三冊一九画山口屋板慶大 
*原装題簽完備。自序「戌孟春曼亭鬼武O」、末丁「鬼武作」。 
[黄]〔富士世界夢親玉鬼武作同(上中下)〕未見 
*黄表紙「衣食住三箇図世帯評判記」(三冊、馬琴作豊国画、蔦重板)巻末に付された蔦屋新板目録の「戌のとし新板草帋もくろく左のごとし」の最後に掲載されているが刊否未詳。 
享和三亥癸(一八〇三)年 
[黄]苦貝十念嗚呼蜃気楼中三巻三冊北斎画山口屋板早大 
*合一冊題簽上中欠。自序「嗚呼蜃氣楼自序[難淺簾]」「癸亥初春曼亭鬼たけO」、末丁「曼亭鬼武作」。『青本絵外題集8』に中巻の題簽存(上巻の題簽未見)。外題は中下とも同じ。 
[黄]三国昔咄和漢蘭雑話中三巻三冊可候画山口屋板長崎市博 
*合一冊題簽中下欠。自序「癸亥春日これを序とす曼亭鬼武O」、末丁「曼亭鬼武作」。加賀文庫本は合一冊題簽欠。『国書総目録』によれば尾崎久弥氏も旧蔵していたようだが(岩波書店に保存されている自筆のカードにも記載あり)、所在不明。『絵外題集』に上巻の題簽存。 
[黄]慎道迷尽誌中三巻三冊春亭画榎本板「めいづくし」東洋岩崎 
*原装題簽完備。自叙「享和三癸亥初春曼亭鬼武O」、末丁「鬼武著述」。 
享和四子甲(一八〇四)年(二月十一日改元、文化元年) 
[黄]前編信夫摺錦伊達染中三巻三冊豊国画村田屋板「しのぶ」加賀 
※原装題簽完備。中巻題簽の角書「敵討」、自叙題の角書「瞽女復讐」「享和甲子年\春正月朔曼亭鬼武撰B」、末丁「鬼武戯作」。 
[黄]忍摺後編陸奥瞽女仇討中二巻二冊豊国画村田屋板「しのぶ」加賀 
*原装題簽下欠。末丁「曼亭鬼武著」。『絵外題集』に下巻の題簽存。なお、狩野文庫本は前編と合綴されて改装裏打ちされているが、見返し等に原題簽がすべて貼られている。また、岩瀬文庫本は楚満人作豊広画の別作十五丁と合綴されている。 
[黄]敵討磐手躑躅中三巻三冊豊国画山口屋板「やざへ」狩野 
*合一冊題簽上欠。目末「甲子初春執筆\曼亭鬼武」、末丁「曼亭鬼武著」。『絵外題集』に上巻の題簽存。なお、本書は趣向に森羅子『月下清談』(寛政十年刊)を取り入れ、仇討も一応終わっているが、後編『金沢弥二郎回国奇談』に筋は続いている。 
[狂]國字詩階梯小一巻一冊村田屋板静嘉 
※見返し「感和亭鬼武著\十返舎一九校[印]」「國字詩階梯全」「書林榮邑堂訂本」。序「于〓文化改元紀\甲子春三月\十返舎一九誌[貞][弌]」。自序末「感和亭鬼武O」。後書「右和詩初学のよみかた大既等を記しはへれハ猶得かたき處ハ其道の雅家にたより師傳を得て巧者に至るへきものなり\文化元\子の仲春感和亭\鬼武\しるす」。跋「國字詩階梯跋」「南湖」。刊記「文化元甲子仲春發兌\書房\大阪心斉橋唐物町\河内屋太助\江戸通油町\〓屋喜右衞門\同所\村田屋治郎兵衞」。刊記右に続編予告、巻末に「村田榮邑堂藏版目録」が一丁あり「國字詩階梯感和亭鬼武著小本一冊\狂哥のよみかたかなの詩のつくりやうをくはしく書あらはしたる也」以下「東海道中膝栗毛」まで十二点の広告が裏表に載る。 
本書は「此書ハ狂哥のよみかたかなつかひ等を正し日本紀万葉の真名字をあつめ懐紙のしたゝめかた国字詩のつくりやうかなの韻字ふみやう等を初心の人の見安きやうに書あらはし和歌連俳狂哥をもてあそぶ人のふところにして便となるべき重宝の小冊なり」(『信夫摺錦伊達染』前編上巻末広告)というものである。 
なお、この広告に見える「感和亭鬼武」が「感和亭」という号の初出であると思われる。 
(噺)落噺熟志柿小一巻一冊十返舎門人美屋一作十返舎一九校村田屋板武藤禎夫氏(未見) 
*一九の序並校。『落噺広告夜鑑』(一作、享和三年刊)の嗣足改題本。新刻された口絵「榮邑堂咄之會席」(画工未詳)に、一竹斎、バカ吉、一九、一磨、一作、イタコおかね等と共に鬼武が描かれている。序末の「噺の会」と「仕形ばなし」の近刻広告に「来丑春出板差出シ申候」とあり、鬼武と一九との関係や板元の転居時期、さらに文化二年刊同板『鬼外福助噺』の序文等を考慮すると、確証は見出せないものの、本書の刊行は享和四年刊ではないかと思われる9。 
◇『未翻刻江戸小咄本集』八集、『噺本大系』十五巻。 
文化二丑乙(一八〇五)年 
[黄]磐手躑躅金澤彌二郎廻國竒談中三巻三冊北斎門人北周山口屋板「かなざハ」東大 
*原装題簽完備。序文はなし。中下巻外題「金澤弥二郎廻國談」、末丁「曼亭改作者\感和亭鬼武Q」。Qの初出であろう。 
[黄]夭怪報仇夜半嵐中三巻三冊北斎門人北周山口屋板「ばけ物」東急 
*合一冊題簽上下欠。序題「復讐化物世界夜半嵐自序[難淺簾]」、序末「丑の孟春曼亭改\感和亭鬼武O」、末丁「戯作\鬼たけQ」。『絵外題集』に上巻の題簽存。 
[黄]返咲八重之仇討中三巻三冊北周画岩戸屋板慶大 
*原装題簽完備。序題「返咲八重之仇討自叙」、序末「文化乙丑孟春曼亭改\感和亭鬼武誌O」、末丁「戯著\鬼武Q」。 
[黄]悟迷惑心之鬼武中二巻二冊豊広画榎本板「おにたけ」狩野 
*原装題簽完備。序題「悟迷惑心之鬼武叙」、序末「乙丑孟春浸酒樓摘華しるす」。末丁「曼亭改\感和亭鬼武作B」。 
(黄)〔敵討怪談鬼武作物語中五巻五冊北周画〕未見 
*『増補青本年表』など10に載るが刊否未詳。 
[滑]有喜世物真似舊觀帖(初編)中一巻一冊栄枩斎画村田屋板尾崎 
*自序「乙丑孟春QO」。巻末に「村田榮邑堂新版目録」。再刻版に比べて書型も匡郭も少し大きい。 
◇帝国文庫『校訂滑稽名作集』上巻(博文館、一八九四〈明治二十七〉年)、『滑稽本名作集』(評釋江戸文学叢書、講談社、一九三六年)、『滑稽本集[一]』(叢書江戸文庫19、国書刊行会、一九九〇年)。 
〇浮世物真似舊觀帖初編中一巻三冊白馬白華補岡島真七板文化六年刊東誌 
*再刻本。再刻後印に「中村屋幸蔵・(賣買所)釜屋又兵衛」板あり(京大本)。 
[滑]竒談白痴聞集中一巻一冊指月門人桃舎画(38オ)中村屋善藏板国会> 
*外題には角書なし。見返し「感和亭鬼武著述\丑春\竒談白痴聞集全\江都瑶池堂版」。自序「竒談白痴聞集叙[強斎]」序末「文化乙丑はる日感和亭鬼武O」。口絵第一図は蹄齋北馬の画賛、同第二図は一九畫賦。巻末「作者\鬼武著述BQ」。跋「感和亭の主人に代て。伸越山人なるもの其後にしるす」。予告「後遍白痴聞集全一冊近刻感和亭鬼武作\中村善蔵板」。末丁裏に「瑶池堂藏書目録通新石甼\中村屋善藏」がある。 
なお、口絵第二図は、Qを意匠した着物の鬼武を描き「ねにかへる気はなし春のはなし客」とあるが、この句は『落噺熟志柿』の口絵「栄邑堂咄之會席」に山里亭東土として載る句と同じものである。 
[噺]鬼外福助噺〔外題〕小一巻一冊一九作栄松斎画村田屋国会 
*序末「文化乙丑春十返舎一九誌」。序と本文八話、挿絵二図を新刻し、『落噺臍くり金』(一九作画、享和二年刊)の板木を流用した細工本。新刻八話のうち「女郎買」「色筆」の二話が鬼武作である。 
◇『噺本大系』十九巻。 
(黄)御誂向叶福助金生木息子中三巻三冊一九作画山口屋板「ふくすけ」国会 
*叶福助を題した七絶を序として「文化二年丑の春感和亭鬼武O」とある。 
(黄)滑稽しつこなし中三巻三冊一九作改名\月麿画山口屋板「上だん」国会 
*一九の取り巻きとして月麿や一作と共に鬼武が登場し、挿絵にも描かれている。 
◇林美一「江戸春秋」十八号(未刊江戸文学刊行会、一九八四年)。 
[狂]〔酒井仲遺稿抄〕 
*寛政から文化にかけての記述があるので一応ここに入れたが、成立年は不明。「観文楼叢刊第八」(「日本美術協会報告」五十四号所収、相見香雨刊、一九三四年十二月)。鬼武に関する部分を引いておく。 
感和亭鬼武を誘ふて花街の鶴楼にあそひし時鬼武といへる文字をかくし題にてよめとありければ 
鬼武もゐのしゝ武者も顔よりはまづ手みしかに恋てひしがん 
このほか扇屋墨河や花扇に関する言及があり、この二人は『狂歌仁世物語』にも入集していることから、酒井仲の広い交遊関係の一部分は鬼武の交遊範囲とも重なる部分があると思われる。 
文化三寅丙(一八〇六)年 
[読]報仇竒談自来也説話半五巻六冊北馬画中村藤六板「自来也説話」尾崎 
*外題角書「報讎竒談」、見返しは作者画工書名のほかに「松涛館梓」「六冊」とある。一本は飾枠にQを散らし「五巻」とある(尾崎)。序「蘭洲東秋〓識」、自序「報仇竒談自来也説話叙」「文化三年丙寅春正月朔旦」「於武江摩艸姥池邊草庵\感和亭\鬼武誌OQ」「南岳書」。内題下「武江感和亭鬼武著\高喜斎校合」。跋「後叙千鶴庵萬亀」。巻末「這より自来也生涯乃行状竒術併西天草のわけ万里野破魔之介と出逢そのほか不残後篇に書顕し備一覧申候」。刊記「彫刀朝倉宇八」「文化三丙寅歳\孟春東都京橋常盤町版元中村藤六」 
本書は歌舞伎化された最初の読本として知られ、文化四年九月『柵自来也談』という外題で大阪で上演された。また、美図垣笑顔等によって『児雷也豪傑物譚』という長編合巻に題材を提供した。 
◇単行本は一八八四〈明治十七〉年(共隆社)、一八八七〈明治二十〉年(漫遊會)等。続帝国文庫『児雷也豪傑譚』(博文館、一八九八〈明治三十一〉年)、「通俗小説文庫」(近事画報社、一九〇六〈明治三十九〉年二月)。佐藤悟『自来也説話』前編(「実践女子大学文学部紀要」三十五集、一九九三年)。 
[読]竒児酬怨櫻池由来中三巻四冊北馬画伊勢屋藤六板「桜が池」個人 
*外題角書「復讐竒談」、外題下に「春夏秋(冬)」とある。見返しなし(未見)。序「文化三歳丙寅春正月感和亭鬼武誌」。跋「文化乙丑晩夏書于浅水中田草舎蘭洲東秋〓」。巻末「當寅春出版目録11」に、 
一報仇竒談自来也説話繪入讀本六冊感和亭鬼武作蹄齋北馬画 
一竒児酬怨櫻池由来繪入中本三冊同作同画 
一孝子美談越路雪繪入中本同二冊同一九作北馬画 
一復讐竒談鴫立澤繪入中本二冊鬼武作北馬画」 
一出村新兵衞三國小女郎玉屋新兵衞富賀岡戀山扉前編三冊後篇三冊一陽齋豊國画 
此外新板追々差出候間御求御一覧可被下候 
京橋常盤町 
伊勢屋藤六 
蔵板」 
とあり、本書は「三冊」となっている。ただ、上巻が卅丁、中巻が廿四丁、に対して下巻が四十一丁あるため、廿丁目で二分冊にしたものと考えて不自然ではない。なお、天理本は上巻のみ(破損本)。 
[読]復讐鴫立澤中二巻二冊北馬画伊勢屋藤六板「鴫立沢」尾崎 
*改装本外題後補。見返しなし(未見)。自叙「復讐鴫立澤自叙」「于時文化二丑の年空を翔る子規地を走しる初松魚の聲聞頃綴り置るを同三歳寅乃初春出版す感和亭鬼武」。巻末には『櫻池由来』と同じ伊勢屋藤六板「當寅春出版目録」が付されている。 
なお、本書に登場する「有坂五郎三郎」には初代市川男女蔵、「お町」には三代目路考の似顔が用いられている。また、本書の画工である北馬の実名が「有坂五郎八」である点、鬼武が挿絵中に通行人として描かれている点に注意が惹かれる。 
◇拙編『中本型読本集』(叢書江戸文庫25、国書刊行会、一九八八年)。 
[黄]報仇竒説響数千里虎尾峠中二編六巻(前三後三)春亭画村田屋板「かたき打」(「カタキ」)慶大 
*題簽各編上巻のみ存、合二冊裏打ち本。叙題と後篇外題は「報仇竒説響数千里虎尾峠」。叙「作者\感和亭鬼武OQ」。前末丁「鬼武作Q」、後編末丁「感和亭鬼武作Q」。『絵外題集』に前下と後上の題簽あり、前中は東急本に存(後中下は未見)。 
[滑]〔有喜世物真似舊觀帖(次編)中二巻二冊下巻は一九作村田屋板〕未見 
*序「于〓文化みつとし丙寅孟春感和亭鬼武述」。上巻末に栄邑堂の口上、下巻末に一九の後序がある(翻刻本による)。 
〇浮世物真似旧観帖二編中三巻三冊岡島真七板文化六年刊東誌 
*初編の項参照。 
[滑]痴漢三人傳中一巻一冊(尋雪斎)雪馬画相模屋仁右衛門板架蔵 
*自叙「文化丙寅はる日感和亭鬼武述OQ」。跋「伸越山人しるす」。自跋「作者鬼武みつから素痴を尽すこと爾り」「文化三丙寅孟春江戸京橋弓町相模屋仁右衛門板」。後ろ表紙見返しに「相模屋仁右エ門・庄右エ門」の広告存。卯春出板として後編の予告あり。また『日本小説年表』の文化四年に「痴漢三人傳後篇」とあるが後編は未見。 
◇『古今小説名著集』十六巻(礫川出版会社、一八九一〈明治二十四〉年)。 
文化四卯丁(一八〇七)年 
[読]報仇竒説自来也説話後編半五巻五冊北馬画吉文字屋市左衞門「自来也説話後編」鶴舞 
*外題角書「復讎竒談」。見返しは藍白地に書名作者画工を記す。序「丁卯初春\東汀間人撰」。自叙「文化丁卯春正月\感和亭鬼武誌\南岳書」。内題下は「武江感和亭鬼武著」(校合者はない)。末丁に「此前編者自来也行状〓勇侶吉郎房州鏡浦仇討之始末書綴五巻出来在之候御求御一覧可被下候」。刊記「時維文化四年星次丁卯孟春\浪華書肆吉文字屋市左衞門」。 
なお、『享保以後大阪出版書籍目録』に、「作者感和亭鬼武(江戸京橋弓町)\板元吉文字屋市左衛門(木挽町中之丁)\出願文化三年十一月\〔附記〕江戸にて同種のもの出板されしにより出願を取消す」とある。実際に管見に入った初印本と思しき五本の中で「吉文字屋」の刊記を持つのは鶴舞本だけで、まったく同体裁の尾崎本(見返し白地)は刊記の前編案内を削り、板元名に入木して「東都書林銀座町壹町目\布袋屋彦兵衞」とする。 
後印本としては薄墨が省かれた吉野屋仁兵衛板(個人)や、六冊に分冊された河内屋源七郎板(狩野)、前川善兵衛板(早大)などがある。 
◇単行本は一八八四〈明治十七〉年(共隆社)、一八八七〈明治二十〉年(漫遊會)等。続帝国文庫『児雷也豪傑譚』(一八九八〈明治三十一〉年、博文館)、「通俗小説文庫」(一九〇六〈明治三十九〉年二月、近事画報社)。 
[黄]仁王阪英雄二木中二編六巻(前三後三)豊広画岩戸屋板「にわうさか」国会・慶大 
*題簽上欠前編のみ大惣本(国会)・題簽欠後編のみ合一冊裏打ち(慶大)。前編目次末「文化四丁卯春日感和亭鬼武著Q」。前編末丁「感和亭鬼武作Q」。後編目録末「丁卯春感和亭鬼武著」。後編末丁「おに武作Q」。東急本は後編のみ(上巻題簽存)、狩野本には前編上巻の題簽存。『絵外題集』に前中と後中の題簽存(後下の題簽未見)。 
[黄]化粧坂閨中仇討中二編五巻(前三後二)北馬画村田屋板「けわい坂」加賀 
*題簽上のみ合一冊裏打ち。前編目次末「文化丁卯孟春感和亭鬼武著Q」。前末丁「作者\鬼たけQ」。後末丁「鬼武作Q」。東急本に前下の題簽存。『絵外題集』に前上、後上の題簽存。前中後下の題簽未見。岩崎文庫蔵『書物袋絵外題集』に袋存「化粧坂閨中仇討全」「丁卯新板感和亭鬼武作」。 
[黄]不敵討神佛應護中二巻二冊春亭画榎本板「じんぶつ」東急 
*題簽下欠。自叙「卯春正月鬼武戯作Q」。末丁「作者鬼たけQ」。『絵外題集』に下の題簽存。 
[滑]春岱〓釣形中一巻一冊北馬画永楽屋五兵衛板「春岱」東博 
*外題欠。序「ふみおしゆるよつのとしむつき洛陽橋處士\萬字楼壽佐美しるす」。自叙「文化四丁卯春感和亭鬼武Q」。内題下「武江感和亭鬼武著\門人五斗八木丸校合」。跋「北馬誌」。末丁「于時文化丁卯春正月本所亀澤街\永樂屋五兵衛版」(十七オ)、「卯春新版目録\一〓お長死霊物語式亭三馬作\全部十冊合巻二本勝川春英画\一春岱〓釣形感和亭鬼武作\蹄齋北馬画\一天保太平記同作\同画」。 
本書には蹄齋、東汀、松波、上忠等が登場し挿絵にも描かれている。鬼武の交遊関係がうかがわれる。なお、早大東大本は跋が序の直後に付されている。 
文化五辰戊(一八〇八)年 
[読]報寇文七髻結緒中二巻二冊北馬画伊勢屋忠右衛門板国会 
*見返し「報寇文七髻結緒」「感和亭作\蹄齋画」「平川館梓」。自叙「于時文化戊辰春正月東武荒川\下流書于朝草媼池草廬燈下\感和亭\鬼武OQ」。刊記「文化五辰年春月\通油町\蔦屋重三郎\田邉屋太兵衞\麹町平河貮丁目\伊勢屋忠右衞門」。大惣本。 
〇男達意気路仇討中二巻二冊北馬画鶴屋金助板石川郷土資料館 
*改題改修本(下巻のみ)。合巻風の大きな絵題簽に役者似顔(幸四郎と源之助)を描く。後述する『時代模様室町織』に付された広告を見るに、文化六年刊か。なお、薄墨は省かれている。 
[読]函嶺復讐談中二巻二冊北馬画上総屋忠助板国会 
*見返し欠。叙「文化五戊辰歳春正月感和亭鬼武誌QO」。跋「于時文化戊辰孟春\于麻艸姥池草廬書\感和亭鬼武Q」。刊記「文化五年戊辰正月吉日\書肆江戸通油町村田次郎兵衛\同日本橋新右衛門町上総屋忠助」。脇に「彫工朝倉卯八」。巻末に「戊辰新版慶賀堂藏」一丁が付されている。なお、本書の袋(見返しか)が岩崎文庫蔵『書物袋絵外題集』にある12。 
[黄]復讐最上紅花染中三巻三冊国長画榎本屋板「もがみ」東大 
*原題簽欠合一冊。外題には「感和亭鬼武作」(『絵外題集』所収の下巻題簽による)とあるが、序に「友どち三芳野多賀安なるもの一日予が草廬を訪ひ四方山乃雜話ありし中に頃日斯る仇討の作意をつゝりしと説話あるを逕に予筆を採て書写し三巻乃冊子と做して書肆にあたふ作乃善悪は児童衆乃目巧を請ふのみ\辰の春日感和亭鬼武誌Q」とある。末丁「三芳野多賀安作を\感和亭鬼武著Q」。なお、本作の画工は北馬ではないが、敵役の名前が「かにさか五郎八」となっている。 
[合]宝入舩七福大帳中二巻一冊松尓楼画村田屋「ふく神」東急 
*合巻風絵外題簽(袋か)。序文は「板元邑次」と「作者鬼武」の掛け合いになっている。序末「辰の春作者鬼武Q」。末丁「鬼武作Q\松尓樓戯画」。九丁表と十丁裏に「板元村田」「作者鬼たけ」「画工松尓楼」が登場し、挿絵にも描かれている。なお、大阪府本は題簽欠裏打ち本で後半の破損がひどい。慶大本は後補書題簽に『七福神茶番狂言』とあり、共に十丁目欠。「奈古曽之関と申よみ本五冊鬼武作にて差出申し御一らん可被下候」(10オ)。 
[読]〔婦人撃寇麓の花中三巻三冊北渓画竹川藤兵衛〕未見 
*未見。外題等は『割印帖13』による。『名目集14』では「婦人撃讐麻鹿の花中三冊鬼武作北渓画同断(竹川藤兵衛)\三月廿九日来ル同十月廿七日校合本廻ル同十一月二日賣出し」とあり、文化六年の新板として刊行されたものと思われるが所在不明。 
〇三島娼化粧水茎中三巻三冊鶴屋金助板文化七年刊狩野 
*改題改修本。合巻風の大きな絵題簽(国安画)に役者似顔(上巻が幸四郎、中巻が半四郎、下巻が四代目路考)を描く。また、外題脇に「蔓亭鬼武作」「蹄齋北馬画」とある(この時期には「曼亭」は使わないし、まして「蔓」を使ったことはない。その上画工は「北渓」であり「北馬」ではない)。刊年は題簽に「午の春」とあることによる。本書は内題尾題に入木し、序文や目録を削除したと思われ、上巻三〜七丁を欠いており、見返しや刊記、薄墨の使用も見られない。 
なお、本書を未見の『麓の花』の改題本と推定したのは、女の敵討という内容、下巻最終回を「麓の仇討」とする点、内題下の「感和亭鬼武著」が入木したものとは見えないことなどによる。また、山城屋佐兵衛(京寺町通五条上ル町)の「蔵板小説目録15」に「三嶋女郎麓の花鬼武作馬圓画五冊」「孝女かつ弟嘉市千辛して父の仇濱名額五郎をねらひしに助刀の賢造〓嘉市返り討に合ふ勝女さま/\に猶万苦をなし終に額五郎を見あらはし討取たる小説也」とあり、画工名は誤っているものの本書を「鬼武作」としている。さらに、『増補外題鑑』にも「三嶋小女郎麓の花全五巻」と見え、本書の後印本が五分冊されて出たことがうかがわれる。 
文化六巳己(一八〇九)年 
[読]増補津國女夫池中二巻二冊北馬画松本屋新八他中村 
*見返しなし。自序「[難淺簾]」「文化むつの年巳の春日感和亭鬼武誌OQ」。刊記「庸書鈴木武筍」「彫工能也須」「文化六己巳年正月吉旦發販\江戸書肆\江戸橋四日市竹川藤兵衞\麹町平川町二丁目角丸屋甚助\麹町平川町二丁目伊勢屋忠右エ門\同松本屋新八」。『名目集』には「増補津國女夫池上下同断(鬼武作\北馬画)竹川藤兵衛\三月廿九日来ル八月廿四日本来ル同廿八日賣出し」とある。 
〇女夫池鴛鴦裁時代模様室町織中二巻二冊鶴屋金助板文化六年刊架蔵 
*改題改修本。合巻風の大きな絵題簽(国安画)に役者似顔(上巻が源之助、下巻が半四郎)を描く。内題尾題に入木、序や目次刊記を削除。下巻見返しに「文化六巳歳稗史目」があり、本書と同体裁の改題改修本である『石堂丸苅萱物語』『男達意気路仇討』『島川太平犬神話16』が挙げられ「右のさうし先達より諸方へ賣出し置候もよりのゑさうしやにて御もとめ被下御ひやうばんよろしく奉希候以上」とある(刊年はこの広告による)。左側には「來午春新鐫」として三馬の合巻二書が挙げられ「これは當巳の九月より賣出し申候」とあり、当時は次年新板が九月頃より出されていたことがわかる。 
文化五年六月に地本問屋仲間に加入した鶴金は、文化六、七年に管見に入ったものだけでも五種に及ぶ中本型読本を求板し、合巻風に仕立直している17。中本型読本を外見上草双紙化したものと見ることができるが、その中に鬼武の作が三種も含まれていることに注意が惹かれる。 
[読]尼城錦半三巻三冊葛飾隠士吉満作北馬画上総屋忠助板「尼城錦」国会 
*見返し「感和亭鬼武校」「慶賀堂」。自序「尼城錦叙」「文化六とせ巳の春日かつしかの隠士\吉満述」。跋「後説」「文化六ッつちのと巳のはる日鬼武しるすOQ」。中下巻の内題には角書「復讐奇談」、内題下には「鬼(おに)たけ校」とだけある。刊記「作者葛飾隱士吉満\校合感和亭鬼武」「畫人蹄齋北馬」「彫工朝倉卯八郎」「江都書肆\江戸橋四日市西宮彌兵衞\日本橋新右エ門町上総屋忠助」。『名目集』に「復讐奇談尼城錦三冊吉満作\北馬画西宮彌兵衛\五月廿八日来ル十一月廿一日校合本出来ル同廿四日賣出し」(『割印帖』では同月廿三日)とある。 
なお、叙跋を見るに「吉満」なる者の草稿を慶賀堂の主人が持ち込み添削を乞うたとあり、いわゆる入銀本ではないかと思われる。このような稿本のリライト(口絵挿絵の指定も含む)をしたところからも、鬼武と板元との深い関係が推測できる。薄墨を省いた河内屋茂兵衛板などの後印本もある。 
[合]敵討十三鐘中二編六巻一冊月麿画(前)月麿門人式麿画(後)濱松屋幸助板「十三がね」個人 
*貼絵外題簽(月麿画)に「全部六冊\合巻一冊」とある。見返しに鬼武と月麿を描き、一丁表に合巻の画工として復帰する旨の口上があり、一丁裏に「武江金龍山下\作者感和亭鬼武」、二丁表に「于時文化六己巳春新刻」。前編一冊目だけは七丁あり、通常より二丁多くなっている。前三末「作者鬼たけQ」、後三末「感和亭鬼武作Q」。後ろ表紙見返し「文化六年己巳春新刻目録」末に「江戸とをり油町\地本問屋濱松屋幸助」。加賀本は後印、外題や奥付を欠き二冊に分冊されている。 
なお、『国書総目録』などには「復讐十三鐘由来」とするが、「由来」の文字はどこにも見当たらない。 
[合]御伽ばなし小人嶋仇討中二巻一冊(九丁)北馬画村田屋板「小人しま」国会 
*貼絵外題簽(式麿画)。序「畧縁起」「辰のとしむつ月の一夜作りを巳春の新板とせるものは則観世音の裏門前に住る奥山の地廻り\感和亭鬼武誌Q」。文化四年仲秋の浅草寺開帳時に小人島の見世物を見て急いで草したとある。末丁「鬼武作Q」。巻末「文化巳春新版草紙目録\版元東都通油町村田屋治郎兵衛版」。この目録中の本書は「全二冊」とある。なお、国会本は五丁目落丁。 
〇〔略縁起稗蒔仇討〕中二巻一冊北馬画「小人しま」早大 
*(改題)後印本。ただし原題簽を備える本は未見。加賀本も東急本も所蔵目録にはこの題名となっている。[黄]敵討於半紅中二編五巻(前三後二)美丸画村田屋板「お半がべに」京大 
*原装題簽完備。序「敵討於半紅叙」「于時文化巳の春日\鬼たけなるものしかいふQ」。前末丁「作者\鬼たけQ」、後末丁「鬼武作Q」。 
[合]業平塚由来中二編七巻(前四後三)式麿画村田屋板「なりひら」加賀 
*改装外題欠。見返題の角書「磐岳楯之助鬼ヶ嶽夜叉五郎」。序「業平塚由来自序」「于時文化己巳春正月感和亭鬼武誌Q」。発端冒頭(4オ)「浅草媼池之邉感和亭鬼武著」。前末丁「作者鬼たけQ」、後末丁「作者鬼たけQ」。なお、後十五丁表に式麿初舞台の口上がある。後ろ表紙見返しに「文化巳春新版草紙目録\版元東都通油町村田屋治郎兵衛版」。 
〇同右中三編七巻(上三中二下二)村田屋板国会 
*黄表紙仕立。題簽(下巻下冊のみ欠)には「巳の新版」とあるが後印か。 
[噺]落噺恵方土産小一巻一冊美丸画鶴屋金助板加賀 
*序「落噺恵方土産叙」「維時文化五つちのと巳初春感和亭鬼武誌Q」。一九作『落噺腰巾着』(享和四年)の板木を利用した細工本。新刻した「道理、曽我狂言、夫婦喧〓」の三話が鬼武の作である。巻末に「午春新作噺目次\会談文盲雅話鬼武作\蛙飛出/\噺同作\板元田所町〓屋金助」とあるが、この二作の刊否は未詳。 
◇『噺本大系』十九巻。 
[噺]落咄春雨夜話小一巻一冊美丸画(鶴屋金助)東大国 
*序「落咄春雨夜話叙」「ちよつと巳のとし\アハヽトわらふ\三太郎月感和亭鬼武誌Q」。『落噺腰巾着』利用の細工本。新刻の「〓、客物語、狐狸」は鬼武作か一九作か不明。 
◇『噺本大系』十九巻。 
[滑]有喜世物真似舊觀帖三編中一巻一冊美丸画村田屋板尾崎 
*序「文で化すとよめる六つのとし巳のはる日\感和亭鬼武いふOQ」。跋「後序」「維〓文化第六聖節日千鶴庵萬亀識」。両国花火の初日(皐月廿八日)の趣向。全三十丁。 
〇同右 
*初編の項参照。 
[合]大矢数誉仇討中六巻二冊一九作春亭画西村与八板「大矢かず」「三十三間とう(堂)」早大 
*見返題角書「京三拾三間堂」。巻末に絵馬の意匠で「たつ春の的ははづさぬくさざうしあたり祝せる弓もひきかた\感和亭鬼武」とある。 
〇京三拾間堂大矢数誉仇討二編六巻(前三後三)加賀 
*黄表紙仕立。(読)復仇女實語教中二巻二冊一九作北馬画東誌 
*挿絵中二箇所に鬼武がさりげなく描き込まれている。 
◇拙編『中本型読本集』(叢書江戸文庫25、国書刊行会、一九八八年)。 
文化七午庚(一八一〇)年 
[読]撃寇奇話勿來關中四巻四冊長喜画近江屋新八他「勿来関」東博 
*見返題「撃寇竒話奈古曾之關」。自序「于時文化己巳孟春感和亭鬼武誌OQ」。自跋「文化六巳春正月」。刊記「文化七丙午孟春發行\感和亭鬼武著\榮松斎長喜画\東都書店\石町十軒店西村源六\〓町平川町角丸屋甚助\通油町鶴屋喜右衛門\同村田屋治郎兵衛\神田弁慶橋近江屋新八」。『割印帖』には「文化六年九月奈古曾之關全四冊近江屋新八」とある。『名目集』では「撃寇竒談奈古曾關前編四冊鬼武作\長喜画西村源六外二人\四冊目辰五月廿七日改出ル五月廿四日出ル十二月三日渡巳九月八日本出ル九日賣出し」とある。序跋の日付は文化六年春正月となっているが、文化五年に書かれ六年出来の予定だったのが、何らかの事情で遅れ、七年の新板として六年九月に刊行されたものと思われる。 
〇復讐竒譚那古曽の関[外]半四巻四冊個人 
*後印本改外題(角書を変更)。板元刊年不明。 
〇絵本奈古曽関[外]半四巻五冊河内屋源七板国会 
*後印本改外題。刊年不明。河内屋卯助ほか三都十二書肆板あり(中村)。 
文化八未辛(一八一一)年 
[読]東男〓糸筋半五巻五冊蘆国画西宮彌兵衛他「東男〓糸筋」京大 
*見返題「東男竒遇糸筋」。自序「〓綱五郎髯黒兵衛東雄竒遇絲筋自叙」「文化辛未年春三月感和亭鬼武OQ」。跋「文化八辛未春\門人五斗八木丸誌」。刊記「東都感和亭鬼武著述O」「浪花狂画堂蘆國畫圖[印]」「同淺野高藏筆工[印]」「文化八年辛未春三月\書林\大阪\秋田屋太右衛門\平野屋宗七\江戸\關口平右衛門\竹川藤兵衛\西宮弥兵衛」。『名目集』には「〓綱五郎髯黒兵衛東男〓糸筋同(五冊)鬼武作北馬画同断(西宮弥兵衛)\二月廿七日来ル未五月廿九日校合本同六月廿四日上本廿五日賣出し」とある。一方『割印帖』は「文化辰三月」の項に「東男竒遇糸筋墨付百一丁全五冊\同八年未三月\鬼武作芦国画\板元売出西宮弥兵衛\同竹川藤兵衛」とある。なお、一本は同板だが巻末に一丁「来壬申年新版読本並ニ絵草紙目録」(西村屋与八板、柱刻に「夕霧」とある)が付されている(個人)。後印本として伏見屋半三郎板がある(中村)。 
◇帝国文庫『侠客傳全集』(博文館、一八九七〈明治三十〉年)。 
文化九申壬(一八一二)年 
(読)復讐竒談信夫摺在原双紙半六巻六冊中川昌房著馬円画西村与八板「在原草帋」国会 
*見返し「感和亭鬼武著」。序「文化壬申孟春武江感和亭鬼武談Q」。刊記「文化九年壬申孟春発行西村与八」。『享保以後大阪出版書目』に「忍摺在原草紙五冊作者中川徳次郎(西高津新地六丁目)板元本屋久兵衛\文化四年四月\再願文化四年七月\〔付記〕本書の板行は再度願ひ出でたるも惣年寄より度々本屋行司を呼出され質問さるゝことあり結局板元より出願を取消す」とあり、『名目集』には「復讐竒談信夫摺在原草紙五冊中川昌房西村屋与八\(文化五年)二月五日来ル未十一月廿四日校本申二月五日廻本六日賣出し」、『割印帖』には「文化八年未十二月\信夫摺在原双紙墨付百廿一丁全六冊文化九申正月鬼武著馬円画板元願人西村与八」とある。 
◇『小野小町業平草紙』(開花堂、一八八六〈明治十九〉年)、『繪本稗史小説』三集(博文館、一九一八年)。 
(合)初昔濃茶口切中三巻一冊不乾斎雨声作月麿画山田屋三四郎板「口きり」国会 
*摺付表紙に「全一冊」とある。見返題角書「白髪戯男墨染浮女」、見返しの絵中に「一亭式麿画」「文化八辛未\發販山林堂梓」。序「鬼武誌Q」。末丁「不乾齋雨聲作\感和亭鬼武校合」「武しゆん書」「墨亭月麿画」。 
序文に、雨声子が訪れて筆削を乞うたので少し筆を加えて書肆に与えたとある。 
[合]浮樂鏡虫義見通中三巻一冊英山画西村与八板「見通し」国会 
*摺付表紙。見返題角書「復讐」。序「浮樂鏡忠義見通」「文化九年壬申正月永壽堂青江誌」。末丁「感和亭鬼武作Q」「筆耕石原知道」。 
文化十二亥乙(一八一五)年 
[読]新編熊阪説話半五巻五冊馬円画河内屋嘉七他「新編熊阪説話」八戸 
*見返しなし。自序「文化乙亥春正月感和亭鬼武述OQ」、刊記「文化十二年乙亥春正月発兌\三都書林\京蛸薬師寺町西ェ入伏見屋半三郎\江戸田所町鶴屋金助\大阪堺筋備後町和泉屋善兵衛\同心斎橋久宝寺町河内屋嘉七」。後印本に山城屋佐兵衛板がある(中村)。 
◇『熊阪一代記』(大阪浜本伊三郎、一八八六〈明治十九〉年)、『熊阪一代記』(競争屋、一八九〇〈明治二十三〉年)。 
[合]亀が瀬敵討中三巻一冊国丸画森屋治兵衛板「かめがせ」「亀がせ」国会 
*摺付表紙に「乙亥新板」とある。見返題「敵討十三塚由来」「合一冊」。末丁「東武鬼武作Q」。後ろ表紙見返しには森治の広告。〇龜ヶ瀬敵討十三塚由来中三巻三冊森屋治兵衛板慶大 
*黄表紙仕立原装題簽完備。題簽に「文化十二乙亥新板」とある。 
文化十四丑丁(一八一七)年 
[合]〔女仇討菩薩角髪〕中三巻一冊美丸画〔森屋治兵衛板〕「女仇討」国会 
*改装裏打ち本。外題は「伊香保土産女敵討」と墨書。序「文化十三丙子の秋稿なれるを\同十四丁丑の春の新板に発兌す\上野伊香保木暮八左衛門子の\浴亭におゐて\感和亭鬼武C」。末丁「感和亭鬼武作」。国会本には表紙も見返しもなく、摺りもあまりよくないので初印本とは思えない。なお、序文に文化十三年秋に伊香保温泉へ湯治に行き聞いた話を趣向化したとある。本作にも「有阪五郎八」という名の若党を登場させている。 
序末の年記を削った後印本で「仇競花夕栄」と「東海道女仇討」の表紙を流用した本があるが、いつの改変かは未詳。 
〇女仇討菩薩角髪中三巻三冊森屋治兵衛板慶大 
*黄表紙仕立。題簽下巻のみ存「丑はる\もり治版」。序の年記の部分(文化十三〜発兌す)を削除した後印本。 
〇かたき討白坂咄中三巻二冊個人 
*摺付表紙上下二冊。題名は上巻の外題による。下巻外題は「敵討白坂ばなし」。序の年記を削る。刊年板元は未詳。 
文政元寅戊(一八一八)年 
[洒]四十八手後の巻京伝居士談小本一冊馬鹿山人作東急 
*本書中に「わたし(京伝)もあつちへいつておほきに心ぼそかつたが浅草の鬼武竹の塚東子といふものゝこのころあつちへきて又はなせやす(おにたけ東子去年古人となる)」とある18。 
◇『洒落本大成』第二十六巻(中央公論社、一九八六年)。 
弘化年間 
[隋]才子必読弘化奇話(初編)中二巻二冊何毛呉〓内著架蔵 
*画工板元刊年不明。『才子必讀當世妙々奇談』(外題)という、所謂妙々奇談物の末流に位置する作品の一つである。匿名作者が、当代の文人や戯作者等を罵倒し扱下したもので、歯に衣を着せない毒舌は読む者の苦笑を誘う。かつての古きよき時代の黄表紙に見られた〈うがち〉や〈楽屋落ち〉ほどは品がよくないが、幕末の〈悪摺〉ほどはひどくない。いずれにしても文人界や戯作壇に精通していなければ書けない内容であることに違いはない。あるいは書肆がこれらの情報の接点に立っていたのかもしれない。残念ながら確かなことはわからないが、栄久(書肆栄久堂山本平吉)が登場するところなど怪しい。 
所見した下之巻の内題は「才子必讀當世奇談初篇巻之下」と、「弘化」に入木し「當世」とした改修後印本。内題下に「何毛呉〓内著」とある。この名を『国書総目録』の著者別索引では「なにもくれとうない」と訓んでいるが、「いずれもごあんない」と訓む方がふさわしい。全部で七つの小話からなり、最終話を除いて各一葉の挿絵が入っている。すなわち、巻之上「水滸を評して羅貫中馬琴を罵しる」「俳諧を論じて桃青翁鳳朗を懲らす」「董太史塩河岸に盛儀を訪ふ」、巻之下「谷文晁八丁堀に武清に遇ふ」「難語之考濱臣守部を嘲ける」「先哲之話原念齋琴薹を説く」「地獄之奇談」である。鬼武に関係ある最終話を引いておく。「弘化二」は入木か。 
地獄之奇談 
弘化二年のことなりし栄久が主人身まかりて冥途の旅に趣けるがあちらにてはからずも京傳種彦一九春水三馬などの諸大人に出會けるまづひさしぶりのことなれバ互に積る物語せしが栄久主人いふやうさてこのせつハしやばもまことに戯作者の種ぎれにて先生方御引とりの後はなにひとつ本らしきものハ出来申さずたま/\出来れバ熱病人のうはことをいふやうな前後乱脈のわからぬことばかりつゞくりそのうへ作料ばかりほしがり候ゆゑ書肆も一統こまりきつてそれにつけても先生方御在世のことばかり御噂まうし居ることとのものがたりに京傳三馬の諸人大にわらつてこれハいかにも左もあらんそのことにてわれ/\もきのどくにぞんずる一躰われ/\が仲間にて至極下手な作者に鬼丈といふものありしがそこもともしりつらんこの男あまりに戯作が下手でそのくせ錢ばかり欲がりしゆゑ冥府にて閻王大に立腹あり数年餓鬼どうにまごつかせおかれしがわれ/\度々/\訴訟してこの間中責らるゝ苦をまぬがれさせておきたりしかるに當時戯作者種ぎれにて今作者になれバよい時節なりとて無下に文盲な輩できもせぬくせに筆を弄し頻に思案をこらせどももと腹にないことは出来やう道理なけれバ今の十返舎一九柳下亭種員萬亭應賀松亭金水二代目春水画工英泉など毎朝われ/\が靈をまつりて何卒戯作上達いたすやうにとていのるほどにわれ/\もうるさくおもひ此間中より鬼丈をほやうにつかわし彼ともがらの形骸へいれおきたりかの輩六人ともに鬼丈の魂とりつきいたれバ定めて種々/\のうはことをならべたて嘸かし世上のものわらひならんとて毎日うはさをいひくらせりとあるに栄久主人はじめてことのもとをしりさては左様にて候かいかにもうはことのやうなつまらぬものばかり出来いたし候根本を承り初めて疑心氷解いたしたりしかしうはことながらまだしもそのやうなものゝ魂とりつきをれバこそ作も出来候ことゝおぼへたり左もなくて中々/\あの衆に戯作どころか田作も出来るはずがないといふにかの諸人さりながら書肆がこまるであろふ接魂鬼をつかはして鬼丈が魂をとりかへすやうにいたすべしとあるに栄久主人これをとゞめてそれは御無用になさるべし唯今もまうすとをりあの衆に作ができるといふはまつたく鬼丈の魂とりつきおれバならんもし御よびもどしなさるれバ唯一人作の出来る者なく書肆ども却てこまりきりまうすべしうはことながらもまだしも作が出来るこそめつけものにて候へバまづ名人のできるまでそのまゝにいたしおかるゝがよろしかるべきといふにかの諸人大にわらつて栄久主人のいふところまた一理ありさりながらわれ/\の作をせんたくして自分どもがあたらしく仕立しやうにほこる族もあれバ一まづかれらをよびよせて一統にいひきかせんとおもふなり此儀ハいかゝあるべきととふにかたはらにしやうつかの婆ゐたりけるがそれハ至極よろしからんわれら此せつ罪人の衣類せんたくにいとまなくこまりきつてあるなれバその輩ふるものゝ洗濯上手とうけ給はれバ何とぞおよびなされせんたくの手助いたしてもらひたしといふにかの諸人なる程そのことにハわれ/\より器用ならん早速よびよせべきなれバ古ものゝあらひはり御手助になさるべしとあるに栄久主人イヤ/\それも御無用/\かの人達はせんたくの上手なるのではなし古ものを其まゝとり用ゆるが得手なれバ折角はる/\御よびなされても何の御用にもたちますまいといふ彼諸人も婆も大にうちわらふて終によびよせることはやみけるとぞ 
未詳 
○[合]〔近世英雄談〕後編豊広画 
「並立英雄談」として図版が掲載されている。「合巻後編感和亭鬼武作豊広画色摺江戸中」(「黒崎書店古書目録」第五一号、二○○二年五月) 
注 
1三田村鳶魚は早くから鬼武に注目し「『有喜世物真似旧観帖』解題」(『三田村鳶魚全集』廿二巻、中央公論社、一九七六年)で、鬼武と似通った人物として岡山鳥を例示し、武士階級にも庶民階級にも固着しない作家が多かったようだと述べている。 
2平亭銀鶏の雑記(大東急記念文庫蔵)。中村幸彦氏が「未刊随筆談」(『中村幸彦著述集』十四巻、中央公論社、一九八三年)で紹介しているものによる。 
3平出鏗二郎「江戸牛込行元寺富吉の敵討」(中公文庫『敵討』、一九九〇年、初出は一九〇九年)によれば天明三年十月とある。 
4鈴木俊幸「寛政期の鬼武」(「近世文芸」四十四号、日本近世文学会、一九八六年)。以下本稿で引く鈴木氏の所説は、この論考による。 
5水野稔『狂歌仁世物語』解説(濱田義一郎編『天明文学』、東京堂出版、一九七九年)。 
6鈴木俊幸、前掲「寛政期の鬼武」。 
7宮尾しげを「中期咄本の調べ(八)」による。宮尾氏は「年代不詳『江戸の花おとしばなし』となって補足再摺されてゐる」とするが、都立中央図書館蔵の該書には刊記はなく、東京大学総合図書館霞亭文庫本には、『華靨』の馬琴序と『富貴樽』の鬼武序が付されているが、本書と同じ話は含まれていないようだ。 
8『青本絵外題集U』(岩崎文庫貴重本叢刊〈近世編〉別巻下、貴重本刊行会、一九七四年)。以下『絵外題集』と略す。 
9この項の記述は武藤禎夫氏の『噺本大系』十五巻の解説による。刊年について、享和四子年か文化十三子年のいずれとも判断可能であるが、武藤氏は「今は文化十三年刊と推定しておく」としている。また、小池正胤「十返舎一九作黄表紙・合巻・噺本作品年表」(「東京教育大学文学部紀要」六十二、一九六七年)では文化十四年とする。 
10『戯作者考補遺』『江戸時代戯曲小説通史』『日本小説年表』『草双紙と讀本の研究』などの鬼武の条、著作一覧。 
11拙編『中本型読本集』(叢書江戸文庫25、国書刊行会、一九八八年)に所収した「鴫立澤」の最後(一七九〜一八〇頁)に影印で示したものと同一。 
12『曲亭馬琴』(図説日本の古典19、集英社、一九八〇年)に、カラーで紹介されている。 
13「〇同(五)年十一月八日不時\春掛り行事\婦人撃讐麓の花全三冊\墨付七十七丁\同(文化五年辰正月)\鬼武作\北渓画\板元売出竹川藤兵衛」(未刊国文資料別巻一『享保以後江戸出版書目』、一九六二年、未刊国文資料刊行会)。『江戸本屋出版記録』全三冊(ゆまに書房、一九八四年)。『享保以後江戸出版書目新訂版』(臨川書店、一九九三年)。 
14『絵入読本外題作者畫工書肆名目集』(慶応大学三田情報センター蔵)。翻刻が「国文学論叢西鶴―研究と資料―」(慶応大学国文学会、一九五七年)に備わる。 
15天保以降と思われる読本の後印本に付いている二丁にわたる梗概付の広告。 
16一溪庵市井作の中本型読本『復讐奇談七里濱』(文化五年刊)の改題改修本。なお、『国書総目録』では一溪庵を鬼武としているが、何の根拠も示されていない。おそらく別人だと思われる。 
17本書第二章第一節参照。 
18『戯作者考補遺』に引かれており、この記事を根拠に「文化十四十五ノ内に没せしなるへし」とある。  
 
江戸読本諸説

 

 
書店・古本屋・圖書館
本屋と云へば良く待合せ場所に利用する。勿論デートする相手に拠つて店内のコーナーを變へるし、時には同じフロアに在る喫茶店の場合もある。互ひに相手を待たせても退屈させない爲の配慮でもあるのだが、實は大量の本を目の前にして情報交換をしようと云ふ魂膽を祕めてゐるのである。  
日々厖大な本が出版され續けてゐる中で、何を讀むべきかと云ふ情報は、限られた時間を生きる我々にとつて最も價値の高い情報の一つであらう。特に大部分の本は初版で絶版にされ品切になるので、店頭に竝んでゐる時期を逸すると手に入り難くなる。どうしても欲しい場合は古書店を搜す事になるが、多くの時間と勞力とが掛るし、古書價格の方が高いのが普通である。勢ひ普段から氣を弛めることなく、新聞や雜誌の書籍廣告には必ず一瞥を加へるし、色々な書評にも目を通す。尤も書評と云ふものは基本的には販賣促進の爲のものであるから、評價の方は鵜呑みには出來ない。一度書評を引受けてみれば分かるが、樣々な軋轢と妥協して周圍に行屆いた配慮を施さなければならないものだからである。それでも割切つて内容紹介付の廣告と考へれば、やはり利用價値は存する。ごく限られた既知の筆者が書いた本の場合は、贈つて貰ふ事もあるし、比較的見逃す事は尠い。だが、未知の方や專攻分野が異なる場合、地方出版や私家版の場合等が危ない。中でも一番困るのは、全集の月報やパンフレット圖録、雜誌別册の類で、場合に據ると數年間も知らずに安穩と暮して居ることもある。  
東京には建物全館が賣場と云ふ書店が何軒かあるが、名古屋で大規模書店と云へるのは廣小路の丸善や千種の正文館、近鉄百貨店の星野書店、名驛地下の三省堂等であらうか(その後ナディアパークに紀伊國屋ができた)。孰れにしても斯樣な情報の交換は、氣心の知れた相手と大きな本屋でするのが一番である。何しろ、實物を手に取つて見る事が出來、必要とあらばそのまゝ買つて歸る事が出來るのであるから。  
ところで、江戸時代の本屋と云へば、本を商ふ店であると同時に板元である場合が多かつた。本と云つても、板木を彫つて和紙に摺る製版本(板本)と、人手で書き寫した書き本(寫本)と云ふ二樣の異なる性格の本(和本)が流通してゐた。板本には佛書や啓蒙書の他に小説や隨筆等もあつたが比較的高價であつた。亦、寫本の方は巷の事件等を題材として書かれたもので實録と呼ばれ公刊が認められない本であつた。そして、此等の本の流通を擔つたのが貸本屋。この貸本屋もまた本屋と呼ばれたが、現在と違ふのは、新刊本、古本と輸入本(唐本)を區別なく竝行して扱つてゐた事で、更には貸本屋が出板を兼業する場合もあつた。つまり、製品の製造と流通が未分化な状態なのであつた。現在のレンタルビデオ屋の繁盛を見れば容易に想像できる状況だと思はれるが、貸本屋は客の反應から流行を逸早く察知できる位置に居た爲、江戸後期の大衆小説である讀本(よみほん)と云ふジヤンルを産出し、不朽の名作『南總里見八犬傳』を世に送り出すことになつたのである。さう云へば、當時の名古屋には大惣と呼ばれた大きな貸本屋が在り、この地域の圖書館の役割をも擔つてゐた。あの坪内逍遥も大惣の貸本で育つた一人である。  
現在の書店、古本屋、圖書館と出版社は、全て江戸時代の本屋が持つてゐた機能が分散したものと考へることが出來る。そして我々の學問は、此等の本屋の流れの上に在つて初めて可能なのである。 
メディアとしての本

 

文學が學問の對象とするのは主として言葉で表現されたものである(此等は普通、文字を紙に綴った〈本〉と云う形態で遺されている)。文化遺産として〈本〉は、典籍、書籍、書物、圖書、草紙、册子等と樣々の名稱で呼ばれる如く品格の差を保持しているが、内容と體裁とには有機的な關聯が存する。即ち大きく重厚な裝幀の<本>は、その體裁に相應しく重々しい内容が多いのである。しかし中には一枚摺りのチラシの如きものや卷物(卷子)に仕立てられたのもある。更に文字が書かれているのは紙とは限らないし、文字のみならず繪だって讀むことが出來、近年近世文學の分野では插繪の研究も盛んに成って來た。斯樣に廣く目を配る必要を知りつつ、取り敢えずは本を相手にする譯である。  
しかし手輕に見られる活字本や影印復刻本でしか本文を讀まないのでは、オリジナルの持っている雰圍氣は理解できない。そして雰圍氣と云うのが意外と本文の讀みに關わって重要な意味を持って來るのである。初板本とか初摺本とかを問題にする事が單に好事家趣味に留まらない所以である。つまり研究對象となる作品は本文の文字列だけでなく、〈本〉全體をテクストとして讀む必要があるのだ。最早メディアの問題を拔きにして悠長に文學などを論じて居られる幸福な時代ではないのである。  
また寫本と製版本板本との差異も看過できない。印刷術の進捗に據って本そのものが大量に複製可能に成った結果として、本來はテクストとは何一つ關係の無かったメディアとしての〈本〉が商品としての價値を備えてしまったのである。從って近世中期以降に刊行された作品は、本文からに直に作者の意圖を讀むことは不可能に成ったと云っても過言ではない(何故ならメディアと云うものは商品の生産流通を促進する方向でしか機能しないものだからある)。具體的にはジャンルと云う樣式性を強く要求し、その規格が備わるやいなや商品としての作品を制作する工房が出來、ブランドとしての板元名や作者名が生まれ、人氣哥舞伎役者達のゴーストライター(岡山鳥が紀十子(沢村宗十郎)の名前で出した草双紙(文化六年)が最初のものだと思われる)迄登場したのである。  
つまり本文を讀むと云う本來の文學研究(それ自体も幻想なのであろうが)に着手する以前乃至はそれと竝行して、メディアとしての〈本〉が制作される過程についての研究(近年発展しつつある出板文化史研究)や、ジャンルとしての樣式性の問題、社會環境の中に於ける讀者の嗜好及び官禁の有無、出板に到る經過等々についても思いを繞らす必要があるのだ。  
つまり一寸と圖書館へ行って本を借りてきただけでは研究に成らないのであるから、全くえらいことに成ったものである。取り敢えず、可能な限り原本に觸ってみること、そして廣く大量に讀むこと以外に我々の進む途は無いのである。そう、國文學とは實は體力が必須の格鬪技だったのである。  
喰へ(れ)ぬ性格

 

不肖の惡い性格で小供の時から損ばかりしてゐる。近年益々臍曲に成つて行く己に氣付て愕然とする事が在る。研究對象として選んだ作家に影響を受けたのか。否、無意識に自分と似た人物を選んでゐたのかも知れない。孰れにしても馬琴(瀧澤+馬琴と云ふ呼び方は誤り。本名は瀧澤解、作家としてなら戲號である曲亭馬琴、著作堂等と云ふべき。)は性格の惡さでは際立つてゐる。量の問題か質の問題か分からないが多くの作品を放置した儘(長命だつたせいもあり、生涯に書いた作品數は長短取混ぜて二百數十タイトルにのぼる。それも勸善懲惡のレッテルを貼られた儘で放置されてゐる感が在る。)これまた大量に殘されてゐる日記や書翰を通じた傳記研究が先に進められて來た。下手糞な筆跡で事細かく延々と續く執拗な文體から彷彿とする性格の惡さ。馬琴嫌ひは近世文學研究者の中でも決して尠くない。だが誰が何と云つても好きなものは好きなのだから仕様がない。  
誤解しないで頂きたいのだが彼の作品群の行間から馬琴の實體が伺へるからと云ふのではない(テキストの向かう側に実体としての作者を「讀む」のは今時流行らない。)。年老てから知己に藏書估却を申入れる書面の厭味は縦令孫の爲とは云ひ乍ら讀む者を不快にせずには措かない。しかし失明した後にまで口述筆記に拠る著作を續けた背景には飯を喰ふ爲と云ふ第一義的な目的とは別途に慥に或種の快樂が存在してゐたに違ひない。聊か牽強附會の嫌ひが在るが嫌味な性格は此快樂に耽るのを疎外する者に對して研ぎ澄まされて用意されてゐたと見たら如何。  
此處で翻つて吾身を見ると斯樣な文に態々舊漢字舊假名遣ひを用ゐ(實は普通の文章を斯樣に變換するフィルターを作つて通したゞけである。流石パソコンは便利、ワープロ專用機では出來ない相談だ。)殊更に不要な注を振る(これも、文中に注を示すフラグを埋めこんでおくと後で前から順に番號を振つて後ろに廻すプログラムを作つて使つてゐる。)  
亦、「見れる」「來れる」「食べれる」等と云う奇矯な言葉が耳に入らうものなら逐一チェックしたり一限目の授業を九時三分に始めたりと果敢に吾が快樂を疎外する者と闘つてゐるではないか。然り嫌味な性格とは創られるものなのだ。決して先天的に保有してゐるわけではない。  
一方嫌味には權威主義的な正統觀に對する一種の抵抗と云ふ側面も兼備へてゐる。絶對に間違つて欲しくないのであるが舊漢字舊假名遣ひ(歴史的仮名遣)が正しいとは云つてゐない。まして皆が使ふべきだ等とは微塵も思はない。勿論「見れる」「來れる」等が正しいかどうかと云ふ議論とも別次元の問題。要は耳に障ると云ひ續けたいだけなのだ。元來表現とは單なる趣味の問題に過ぎないと見做される向きが多い。だがしかし表現(文體)とは思想心情の表出方法であると同時に實は思想心情其物でもあり其故一歩も讓れないものなのである。  
實は先驗的價値觀に對する抵抗は研究對象の選擇から既に始つてゐたのである。某アンケートで出身を問はれる。其選擇肢は「一、國立大 二、私立大 三、短大 四、その他」。我公立大は交ぜてもらつてゐない。專攻の方でも近世文学の下に「一、西鶴 二、近松 三、芭蕉 四、秋成 五、その他」。馬琴は無い。斯く成れば自棄糞だ。研究文獻目録の「その他」の部分にしか收録されることのないやうな重箱の隅をつつく仕事を續けやう。薄暗い書庫に潜込み飯も喰はずに終日に亙つて縦何寸横何寸と計測し續けてやる。‥‥‥斯様にして益々臍曲の種子が沈殿して行くのだ。だがしかし今假に主観的価値と個人的趣味の押付けと言ふ兩者が嫌味の基本型だとすれば性格の良い文學研究者などゝ云ふのは決して譽め言葉とは成らないとも言へるかも知れぬ。  
明治期の妙文集

 

明治時代に入ってから「○○戯文集」とか「□□妙文集」、あるいは「△△文範」などというタイトルを持つ本が夥しく出版されている。加えて「××序文集」などと銘打つ本も少なくない。これらは、主として近世期に出板されたテキストの一部分を抄出したり、それらの序跋類を集めたりして編纂されたものである。  
少し具体例を挙げると、打越光亭編輯・假名垣魯文閲『諸名家戯文集』(明治十二年十一月、玉海書房梓)は、和装袋綴一冊の板本で、板心に「滑稽序文集」と見られるごとく、風来山人「吉原細見里のをだまき評自序」、山東京傳「京傳餘師序」、十返舎一九「道中膝栗毛序」、式亭三馬「戯場粋言幕之外」、感和亭鬼武「旧觀帖自序」、八文舎自笑「客者評判記序」、古今亭三鳥・樂亭馬笑「同」、徳亭三孝「同前編跋」、神田豈山人(岡山鳥)「廿三夜續編如月稲荷祭序」、琴通舎英賀「花暦八笑人序」、溪齋「滑稽和合人序」、松亭「妙竹林話七遍人初編序」、河丈紀「西洋道中膝栗毛初編序」など、主として滑稽本の序跋を抄録している。  
また、松村操纂輯『東都八大家戯文』(明治十五年十一月、巖々堂藏版)は、和装袋綴二冊の活版本で、風来山人「細見嗚呼御江戸序」・蜀山人「豆男畫巻序」・十返舎一九「道中膝栗毛序」・山東京傳「契情四十八手叙」・式亭三馬「送麻疹神表」・曲亭馬琴「再編胡蝶物語序」・為永春水「風月花情春告鳥の序」・柳亭種彦「偐紫田舎源氏初編序」など、狂文や序跋類など六十余編を集めたものである。  
さて、以前から不思議に思っていたのであるが、このような本は一体どのように読まれていたのであろうか。今から考えると、内容も知らないテキストの序跋ばかりを読むという行為は甚だ不可解である。  
しかし、『吉原細見』の序文や、近世後期小説に付されている「序跋」は、本文から独立した叙述の場として様式を備えたものであったと考えられる。それにしても、画が主体であった草双紙に不釣合いな小難しい序文が備わっていたり、読本に漢文で書かれた読みにくい序文が存したりし、さらにそれらが大幅に崩された草書体で記されているものなどを見るにつけても、およそ読まれることを拒否しているとすら考えたくなる。  
となると、斯様な序跋を集めた本が何故明治期に入ってから出版されたかという点に、まず疑問が生じる。それは同時に、近世期の出板物とりわけ小説類が近代に入って如何に受容されたかという問題を考える手掛かりにもなるはずである。  
折りしも、書物というメディアが和装袋綴の整版本から洋装活版本へと変化していく明治初頭にあって、基本的には出版すべきテキストの不足といった事態が推測できる。拙著『江戸読本の研究』(ぺりかん社、一九九五)でもその一端に関する調査を報告したが、大量の江戸小説類の翻刻本が、時にはシリーズ化されて明治初期に出版されているからである。しかし、ストーリーを追って通読可能な本文テキストの翻刻と、序跋類を集めたアンソロジーとでは根本的に読まれ方が相違しているはずである。  
いずれにしても、この問題を考える材料としては序跋類を集めた本だけでなく、やはり同時期から大量に出版され続けた妙文集や文範集、さらに作文の教科書や名文観賞の類いをも視野に入れておく必要があろう。すなわち、当時に於ける読みもの出版の全容を把握しておく必要がある。となると少なく見積もっても二千五百タイトルは下らない本が現存しており、これらは必ずしも当時の全容ではないかもしれないが、取り敢えずこれらの資料の書誌解題を記述する所から始めなければ成らない。前途遼遠たる仕事ではあるが‥‥‥。  
近世後期の出板界

 

ここに板木師朝倉力蔵こと東西庵南北の処女作『復讐源吾良鮒魚』(文化五年刊)という合巻がある。見返しに  
山林堂主人のすすめにより顰に倣ふのそしりをわすれて〓木丁々のひまにふんてをとりつゐには六〓の双帋とはなりぬるたゞ四方の諸作者を学の親と思へは東西菴南北と作名をあらはすのみ  
木兎や百囀のしたの枝[南北]  
と、作者としての初御目見えの挨拶が書かれている。ここで問題にすべきは、板元がなぜ彫工に執筆を依頼したのかという点である。裏表紙の見返しに書かれている板元山田屋三四良の口上を見ると、  
當時艸双紙益々流行仕候ニ付私義も誠に卵魚の大魚交りながら源五郎鮒と申外題を思ひ付頼ミし作者ハなんにも知らぬ井のうちの鮒その井戸に縁のある糀町の春扇が画も始て作も始て版元も始めての三人竒れハ合巻の智恵も身もなひ敵打人をば鱗にした埜奴と誂の程は御用捨あれ只面白と尾〓を附て御評はん元の名と作者の顔も辰の初春  
とある。地本問屋である板元にとっても、合巻の処女出板であったことがわかる。つまり、合巻の出板点数が激増した文化期なかばに、その流行に乗ろうとした板元の事業拡張なのであった。このような新規参入の板元が使える作者や画工は、当代一流の売れっ子であるはずがなく、やはり無名の新人を発掘するしか方法がなかったのである。そこで、狂歌を嗜んでいた板木師に、まんざら戯作を知らないわけでもないはずと、企画を持ち込んだものと思われる。  
また、この本はなかなか凝った造りをしており、口絵に薄墨と艶墨とを用いている。画工の春扇が合巻の初舞台ということであえて口絵にも手数を掛けたものと思われる。  
このような企画とそのプロデュースは、紛れもなく板元によって主導されたものである。そして、この南北と春扇とをペアにして出板界に売り出す板元の計画は、一応成功をおさめた。この両名は一流の作者や画工にこそ成れなかったが、それでもその後多くの草双紙を手掛けているからである。さらに春扇の方は妻も月光亭笑寿として合巻を書くに至るのであった。  
さて、彫工だけでなく作者の草稿を浄書して板下を作成する筆耕(筆工、傭書とも)から作者に成った者もいた。数少ない馬琴の弟子である、岡山鳥こと嶋岡哲輔もその一人。島五六六(権六)や嶋岡節亭と名のり、多くの馬琴読本の筆耕をしていたが、実は近藤淡路守家臣の内職仕事であった。処女作は、馬琴の補綴を受けて出した中本型読本『驛路春鈴菜物語』前編(文化五年刊)である。これには節亭琴驢と署名していたが、残念ながら前編のみで中絶してしまった。翌六年刊の合巻『かたきうち岸柳縞手染色揚』の序を見ると、  
ある人予が草庵にきたつて雅談のあまりいふていわく足下ハ人のつくりなせる物の本を謄寫することひさし一へんのしよをあむこといかにととふ予こたへていふそのこゝろざしはなきにしもあらずといへどもさえみじかうしてぜんをすゝめあくをこらすのゐをのべがたし客のいわくしからは一日の戲場をもつてこれをつゞらば児女子にさとしやすからんといふゆへに客の意にまかするのみ  
山鳥欽白  
とあり、客とは板元のことだと思われるので、この場合も板元からのアプローチだったものと考えられる。筆耕の場合は草稿の筆写という作業を通じて著述の修行ができるわけで、彫工や画工よりは実作に転じやすい位置にいたといえるかもしれない。同様に筆耕から作者に転じたものに、橋本徳瓶や晋米齋玉粒、更に時代が下ると曲山人、松亭金水、宝田千町らがいる。  
また、岡山鳥は所謂ゴーストライターの走りとして紀十子(沢村訥子)の合巻を代作し、歌舞伎役者名義の草双紙刊行の端緒を担っている。他にも、貸本屋から市川三升の代作者と成った五柳亭徳升や、代作屋大作と号し尾上菊五郎の代作をした狂言作者花笠文京を始めとして、東里山人、欣堂間人、墨川亭雪麿らが代作をしていた。  
一方、あの『八犬伝』の板元にも成ったことのある書肆美濃屋甚三郎は、後に『児雷也豪傑譚』の作者美図垣笑顔として一躍有名になる。為永春水も作者に転ずる以前は越前屋長次郎という書肆であった。さらに、北齋も草双紙を書いているし、美人画で聞こえた渓齋英泉は人情本を書いている。志満山人こと、歌川国信なども自画作を出している。画工の中にも作をなした者がいたのである。  
以上、概観してきたように、近世後期の出板界では産業としての本造りの分業化専業化が進む一方、十返舎一九がみずから筆工を兼ねていた例を持ち出すまでもなく、それらを兼ねて出来る器用な者が重宝がられたのである。このような出板界の状況については、つとに水野稔氏が「江戸末期小説の特質を考える上に何らかの示唆を与えるものがありはしないか」(「曲山人考」『江戸小説論叢』、中央公論社)とされて、「筆工文学」という用語を用いて分析されている。この提起を受けて、改めて近世後期小説に於けるテキストと「作者」の位置関係を考え直して見るのも意義なしとしないのではないだろうか。  
櫻姫全傳曙草紙等の清玄

 

清玄の悲劇は、偶然に桜姫の姿を見てしまったことから始まった。  
春爛漫の清水寺の境内、清玄の眼が艶やかな桜姫の姿を捉えたその瞬間「一陣(いちゞん)の冷風(れいふう)さと吹(ふき)おろして梢(こずへ)の花(はな)をちらし清玄(せいげん)が皮肉(ひにく)にぞつと冷(ひえ)とほる」と、清玄は深い恋の淵に陥ちてしまった。一旦その美しさに魅せられてしまった心は、どう足掻いても取り戻しようがなく、かなわぬ想いは次第に募って執愛と化し「我(わが)執着(しうぢやく)の一念(いちねん)にていづくにありともたづね出しおもひをとげておくべきか」と寺を出る。時は過ぎ、零落して鳥部山の菴室で墓守をしている清玄の前に桜姫の棺が運ばれてくる。死してもなお美しい遺体に無常を観じて流した清玄の涙が桜姫の口に入ると、姫はたちまち蘇生する。「俄(にわか)に一陣(いちじん)の冷風(れいふう)さと吹(ふき)清玄(せいげん)が身(み)うちに冷(ひえ)とほるとひとしく忽(たちまち)心中(しんちう)恍惚(くわうこつ)として再(ふたゝび)愛着(あいぢやく)の念(おもひ)を生(しやう)じ」て、かきくどく。「我(われ)日来(ひころ)恋慕(こひしたひ)つる一念(いちねん)とゞきし今日唯今(たゞいま)いかでかむなしく過(すご)すべきたとひ戒行(かいぎやう)を破(やぶ)り阿鼻地獄(あびぢごく)に堕(だ)するとも姫(ひめ)ゆゑならばいとはじ師(し)の房(はう)の怒(いかり)をうけ世間(せけん)に面(おもて)をむけがたき身(み)となりしも皆(みな)是(これ)姫を思ひしゆゑなり」「いざ/\我(わが)執念(しうねん)をはらさせよ」と桜姫に迫ったその時に、たまたま居合わせた弥陀二郎に殺されて、ついに亡霊と化した清玄は「あな怖(うらめ)しや腹(はら)たちや目前(もくぜん)修羅(しゆら)の苦(く)を見るハ誰(たれ)ゆゑぞ姫(ひめ)ゆゑに生(いき)ながら地獄(ぢごく)に堕(だ)する此(この)恨(うらみ)み生(いき)かハり死(しに)にかハり思ひしらさでおくべきか」と、「清玄(せいけん)が姿(すがた)柳(やなぎ)の梢(こずゑ)にあらハれてなほもやらじとうしろ髪(かみ)を引戻(ひきもど)す」が、弥陀二郎は桜姫を連れて館へ帰る。  
この京伝読本の代表作とも称すべき『櫻姫全傳曙草紙』(文化二年刊)に描かれた清玄の救いのなさは一体何故であろうか。古浄瑠璃『一心二がびやく道』以来の清玄桜姫説話や仏教長編説話『勸善櫻姫傳』に基づいていることはもちろんだが、清玄が桜姫に眷恋したのは彼女の美しさ故であると書かれている。さらに清玄自身は何も積極的に行動を起こしたわけではなく、むしろ自らの内なる恋情をもてあまして、ただひたすら苦しみ、そして流離零落し最後には殺されてしまうのである。この悲惨な人生を悲劇と呼ばずして何と呼ぼう。  
そもそも恋とは、相手に意思にかかわらず一方的に想いを募らせ、なおかつその熱情を相手に突きつけていく過程に過ぎない。そして恋の始まりの多くが異性の容貌に魅せられたことに発するのだとすれば、外見的な美しさにこそ罪があるはずである。  
たとえば、清水の観音が桜姫の前に老僧として現れ「やあいかに櫻姫。おこと古今の美人ゆへ。人のおもひのかづつもり。罪障の山たかく。るてんしやうしの海ふかし。とりわけみやこきよ水の。せいげんが執心にて。御身夫婦もふたおやも。おつつけかれにとりころされ。死してはならくにをちいらん。」(半太夫節『櫻姫ねやのつげ』)と告げるこのテキストは、形式的には桜姫の発心譚となっているが、桜姫の罪障性を認めたものであるといえよう。  
ところで、清玄説話の一変奏として、近松半二『花系圖都鏡』(宝暦十二年竹本座)やその改作である近松半二・三好松洛・竹本三郎兵衛等『菊池大伴・姻袖鏡(こんれいそでかがみ)』(明和二年九月竹本座)などの浄瑠璃に仕組まれた岩倉宗玄説話がある。早くに飯塚友一郎『歌舞伎細見』が指摘しているように、この宗玄が折琴姫に迫る庵室の場はそのまま清玄庵室の場に踏襲されているのである。一方、西沢一鳳『脚色余録』初編下に「総体清玄は清水場と庵室の場より外に狂言なく跡は執着の所作事となれば一日の趣向にたらずゆへにいつも抱合せの狂言は変るとしるべし」とあるように、基本的なプロットに変更はなかったものの、鶴屋南北『隅田川花御所染』(文化十一年三月市村座)では女清玄や加賀見山とない交ぜにされたり、黙阿弥『戀衣雁金染』(嘉永五年正月河原崎座)では雁金五人男と抱合わせにされたりしている。しかし、歌舞伎の方では清玄桜姫の前生を設定し生世話の作劇の面白さをつくした南北の『櫻姫東文章』(文化十四年三月河原崎座)が代表作であろう。  
さて、京伝の『曙草紙』に戻るが、最初の引用で気付かれたであろうか。実は「一陣の冷風」という表現によって、すべての清玄の行為は、正妻野分方になぶり殺しにされた妾玉琴の怨念に拠るものであったことが暗示されていたのである。それも直接野分方に祟るのではなく、我が子である清玄をして野分方の子どもである桜姫に恋着させるという、親子の情愛を媒介した間接的な手段を用いた復讐劇である。すなわち結末になって明らかにされる通り、清玄と桜姫は「別腹の兄弟」だったというかなり際どい設定だったのである。はたして桜姫と結ばれなかった清玄は却って救われたということになるのであろうか。  
最後に関連する作品を挙げておこう。『曙草紙』を歌舞伎化したものとしては『櫻姫操大全』(文化四年九月大阪)や奈河篤助『清水清玄廓室曙』(文化五年五月京都北側布袋屋座)があり、合巻では『櫻姫筆再咲』(文化八年刊、京伝作)や『姥櫻女清玄』(文化七年刊、馬琴作)、『朝櫻曙草紙』(文政三年刊、京山作)、『櫻姫面影草紙』(嘉永五年刊、京山作)など、読本でも『小櫻姫風月竒観』(文化八年刊、京山作)がある。このように清玄桜姫説話は〈世界〉として定型化して近世後期小説や演劇の中に長くその生命を保ったのである。  
江戸の出板事情

 

いうまでもなく江戸時代の出板物の大半は木版であるが、文化九(一八一二)年に出板された読本に『復讐雙三弦』という板本がある。読本(よみほん)と呼ばれる絵入り小説は、江戸後期に出板された文学作品の中では、一番格調の高いジャンルに属する一群の読み物であった。この本の内題下には「蓬洲著作並書画」とあるが、これは作者である神屋蓬洲が挿絵を自ら描いたのみならず、板下の清書(筆耕)までも手掛けたものと受け取れる記述である。蓬洲は物好きの変わり者で彫りまで自分でやったともいわれているが、もし本当に板木彫りまで自分でしたとすれば、この本は究極の手作り本ということになる。にもかかわらず決して私家版として作られたのではなく、きちんと板元から公刊されたもので、貸本屋を通じてそれなりに読まれたものと思われる。  
このように作者が画工や筆耕を兼ねて作られた本は、江戸期にあっては、とりわけ珍しく特別な例とはいえない。たとえば十返舎一九が自画作の筆耕をも兼ねていたことはよく知られていて、板元側から見れば一九などは出板に必要な経費が掛からない重宝な作者であった。また近藤淡路守家臣である島岡権六は内職として筆耕をしていたが、後に節亭琴驢や岡山鳥という名で著作を始め、歌舞伎役者名儀の草双紙のゴーストライターをして以後の役者合巻流行の端緒を開いた。この他にも筆工から実作へ転じた人として、橋本徳瓶、晋米斎、曲山人、松亭金水、宝田千町らがいる。画工では葛飾北齋や渓斎英泉が作をなしているし、志満山人こと歌川国信も草双紙を書いている。彫り師である朝倉力蔵は東西庵南北と名のって多くの合巻を書いており、さらに板元から作者に転じた人としては『児雷也豪傑譚』で有名な美図垣笑顔や、人情本の元祖を名のる為永春水がいる。このように業界の内部から作者が輩出しているのも、やはり出板界の実状に通じている上に、制作経費の掛からない手軽な人材達であったからに相違ない。  
江戸時代の本屋は出板業と小売業とを兼ね、同時に古書の流通をも担っていた。現在新刊本の企画制作は出版社の編集、印刷製本は印刷会社、流通販売は取次と小売店が担当しており、一方古本には古書専門の流通機構が形成されているという具合に、印刷と出版と流通とが分業化されている。だが江戸時代においてはこれらすべてが本屋の仕事であった。もっとも江戸の地では、読本など高価で格調の高い書物を扱った書物問屋と、錦絵や草双紙などの安価な本を扱った地本問屋の区別があったが、いずれにしても板元が出板の全体を統括的にプロデュースしていた。だからそれぞれの職能集団から的確な職人を選んで使う必要があり、そこに二つ以上の役割を兼ねてこなせる人材がいれば、経済的にだけでなく本作りの上で効率的だったはずである。  
ところで江戸時代の本の流通を中心となって担ったのは貸本屋である。無数の貸本屋によって全国津々浦々に及ぶまで本が供給されていた。このことは現存する本に捺された貸本屋の蔵書印に示された地名が全国に分布していることからも明らかである。貸本屋の多くは店舗を構えていたわけではなく、特定の得意先を巡回していたものと思われる。無店舗カタログ販売という方式も、現在のように郵便や宅配業が整っていない時代には自らが巡回するほかなかったため、それほど広範囲には行けなかった。業態としては、かつてあった月刊雑誌の回覧業に似ているとも思われる。  
貸本屋の営業としては単に本を貸して回るだけでなく新刊本や古本を売る場合もあった。繁原央氏が翻刻された静岡県立中央図書館蔵『鳴雁堂蔵書目録』(「常葉国文」十八号所収)は、駿府の貸本屋の蔵書目録で軍記や読本や実録などを千タイトルほど掲載している。貸本屋の蔵書目録としては珍しく板本として出板されたものであるが、その国学書の箇所には「見料三割/売本にも仕候」と見えている。また山本卓氏が紹介された姫路の灰屋輔二『貸本目録』(関西大学「国文学」七十三号所収)は軍書・実録・読本・随筆・人情本など約二百六十タイトルが記載された写本であるが、その一部に「沽」という印が捺されていて、あるいは売れたものを示すかとも思われる。  
残念なことに残存している貸本屋の蔵書目録は少ないのであるが、一枚摺りの見立番付に「読本外題一覧」というものがあり、江戸読本や滑稽本を百二十タイトルほど載せる(拙稿「讀本研究」第十輯所収)。これは文化末年頃に出された「出像稗史・外題鑑」に基づくものだと思われ、資本屋の品揃えの手引きや読書案内のために作られたものであろう。なぜなら江戸読本という新しいジャンルの商品を開発しそれを流行させたのは、貸本屋だったからである。江戸読本を代表する曲亭馬琴の不朽の名作『南総里見八犬伝』は、二十八年間掛かって三度も板元を移しながら刊行され続けた超大作であるが、これを出板したのも実は貸本屋であった。  
このように貸本屋が出板を手掛けたのは劃期的なできごとであった。それは読者に一番近いところで流行を敏感に察知できるという立場からの出板企画をしたからである。現代ではマーケッティングリサーチは当然の手順ではあるが、流通業者が商品開発を手掛けるという方法の先駆的現象といえよう。おそらく比較的資本を必要としない貸本屋から始めて、次に古本屋や新刊本の取次を兼業し、さらに覆刻を手始めとした出板をも手掛けるというように発展して行ったものと思われるが、戦後日本における業者のありようを先取りしていたとも考えられるのである。  
さてここで少し印刷の問題に目を転じてみよう。江戸時代に普及発展した木版印刷の技術は、明治十年代半ばに活版にとって代わられ、昨今は電算写植が全盛になり、さらに紙を必要としないデジタル化へと進んでいる。このような印刷技術の進歩変遷はメディアの進化を促し、経済的文化的システムの中で、より速く大量に同一のテキストを生産するという方向で進化を遂げてきた。  
日本文学におけるテキストが写本から古活字版を経て整版に落ち着いたのには、それなりの合理的な理由が存した。長い伝統を経て洗練され発達してきた木版という板木を彫って製版する技術は、とりわけ連綿体である日本語の仮名漢字混じり文や、絵入り本にとって木版は好都合の技術であったと思われる。またジャンルごとに独自のタイプフェイスが用いられているのも木版ゆえであった。象嵌による訂正や改変も比較的容易であるし、場合によっては摺ったものを板下にすれば、手軽に覆刻も可能であった。とりわけ重ね摺りの技法は、色板を用いた多色摺りを可能にし、錦絵などを生み出すことになる。だが一番大きな特性は、一度板木を作ってしまえばあとは摺るだけで本ができるわけで、板木自体が金を生み出す財産として扱われたことである。  
一方活版は活字の鋳造という技術的な課題を超えた時、安価で早い大量印刷への途が開かれた。この活字メディアの急成長は、ひたすらに供給すべきテキストを要求した。その結果として、江戸時代小説の翻刻本が大量に刊行されることとなったのである。栄泉社の「今古実録」シリーズは講談種の実録を次々に翻刻したし、博文館の「帝国文庫」は二流三流作者の作品までも網羅した一大江戸文芸叢書となった。  
しかし活版にとっての問題は、紙型が一般化するまで、摺る度に何度も活字を組み直すことを余儀なくされた点にあった。この非能率きわまりない新技術は、明治初期の活字本に実に多くの異版を生じることになった。だから明治初期の活字本に比べれば、むしろ江戸時代の板本の方が安定した静的な本文を維持しているのである。  
木版印刷は技術的にも高度な達成を誇っていたが、場合によっては素人にもそれなりに可能であった。だが活版印刷には高価な設備が不可欠であり、素人には手の届かない手段となってしまい、その結果として活字印刷された物が一種の権威性を帯びてしまうことになった。ところがパソコンやワープロの普及が容易に美しい印刷を可能にしたことにより、誰にでも板下の作成ができるようになった。さらにパソコン通信やインターネットの普及により、テキストの流通手段さえもが容易に入手可能になったのである。これは今までに経験したことのない状況であり、あるいは出版の本質的な変容を招来するかもしれない。  
ともあれ印刷技術は出板にとって不可欠の基盤ではあるが、今までのところは、本自体に商品価値を添付して流通機構に乗せなければ商売には成らない。つまり、本のコンセプトを企画立案し、それにふさわしい書き手や人気のある挿絵画家と契約し、その書型や装幀にも神経を用いて造本し、その一方で予告広告や看板にも気を配り、可能な限りの利益を上げるべく販売戦略を練る。これら一連の経済活動こそが出板にほかならない。商品の企画開発から製品化して流通に乗せるまでの手順は、本も他の商品と何一つ変わりはないのである。  
このような出板の本質についての把握は、本というメディアについて考える時にとりわけ重要な意味を持っている。なぜなら、出板の主体はあくまでもプロデューサーとしての板元に存し、極論すれば、作者は本の制作に不可欠な一機能に過ぎないと考えられるからである。その結果として本に記された言説から無媒介に作者の意図のみを読み取ることは困難であり、たとえ作品論であっても出板事情に対する顧慮が不可欠である。  
すなわち江戸時代における出板は、文化的営為である以前に純然たる商行為であったといわなければならないのである。  
戯作者たちの天徳

 

文化元(一八〇四)年に初演された『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)』は、蝦蟇の妖術を用いた謀反人劇として好評を博し、後の江戸戯作に大きな影響を与えました。しかし残念なことに、四代目鶴屋南北の台帳(シナリオ)は残っていないので、初演時の様子は良く分かりません。『鶴屋南北全集』第一巻に収まる『天竺徳兵衛万里入船(てんじくとくべえばんりのいりふね)』は、天保十二(一八四一)年のもので、その内容は、役者評判記や『歌舞妓年代記』などの記述によると、初演時とは大きく様子が違うのです。ただ幸いなことに、文化三年に市村座で上演された『波枕韓聞書(なみまくらいこくのききがき)』の台帳が残っていました。これは南北のものではないのですが、初代尾上松助自身による天竺徳兵衛の再演であるため、初演時の様子を知るための貴重な資料となっています(鵜飼伴子「蝦蟇の妖術考」)。  
〈絢交(ないま)ぜ〉と呼ばれる、別の話を強引に付会する作劇法を得意とした南北は、文化五年上演の『彩入御伽艸(いろえいりおとぎぞうし)』では皿屋敷や小幡小平次怪談と、文化六年上演の『阿国御前化粧鏡(おくにごぜんけしようのすがたみ)』では、累の怪談と付会した天竺徳兵衛物を書いています。以下、これらの南北劇に影響を受けて作られた戯作小説を紹介してみましょう。  
南北とも影響を与えあった山東京伝(さんとうきようでん)の草双紙合巻『敵討天竺徳兵衛(かたきうちてんじくとくべえ)』 (文化五年)は、天徳が肉芝道人から授かった蝦蟇の妖術を駆使して御家再興足利家滅亡の陰謀を企てるが、妖術封じの蛇によって失敗するという筋立てです。また、同じく京伝が〈徳兵衛〉という名から連想して曾根崎心中に付会した『天竺徳兵衛/お初徳兵衛・ヘマムシ入道昔話(にゆうどうむかしばなし)』 (文化十年)や、世界を鏡山に求めて小紫権八譚と絢交(ないま)ぜにした『尾上岩藤/小紫権八/天竺徳兵衛・草履打所縁色揚(ぞうりうちゆかりのいろあげ)』 (文化十二年)があります。ちなみに、岳亭梁左の切附本『報讐海士漁船(かたきうちあまのつりふね)』 (安政期)は、京伝の『敵討天竺徳兵衛』に別趣向を加えて書き換えたものです。  
草双紙の一種として〈正本写(しようほんうつし)〉と呼ばれる歌舞伎の筋書き合巻があります。『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)』 (天保四〈一八三〇〉年)は、天保三年に河原崎座で上演された『天竺徳兵衛韓噺』を、配役通りの役者似顔を用いて紙上に再現したものです。また、安政四 (一八五七)年春の森田座上演『入船曾我倭取舵(いりふねそがにほんのかじとり)』を綴った「狂言堂如皐原稿・柳水亭種清綴合、梅蝶楼国貞画図・国綱補助」という『入艤倭取楫(いりふねにほんのとりかぢ)』 (安政四年)も同様です。これらの正本写からは、当時の舞台風景を垣間見ることがができます。  
一方、本格的な小説ジャンルであった読本(よみほん)では、為永春水の『天竺/徳瓶・仙蛙奇録(せんけいきろく)』 (嘉永四〈一八五一〉〜安政五〈一八五八〉年)くらいのもので、天徳を扱った作品は多くはありません。ただし、蝦蟇の妖術を趣向として利用したものには、京伝読本『桜姫全伝曙草紙(さくらひめぜんでんあけぼのぞうし)』 (文化二年)や、同『善知鳥安方忠義伝(うとうやすかたちゆうぎでん)』 (文化三年)があります。京伝は特に天徳が気に入っていたとみえて良く使っていまして、『曙草紙』の蝦蟇丸が鷲尾義治の首級を口にくわえて水門より逃走する場面の挿絵などは、南北の舞台 (吉岡宗観邸裏手水門の場)を思い起こさせるものがあります。式亭三馬による唯一の読本である『流転/数回・阿古義物語(あこぎものがたり)』 (文化七年)でも、蝦蟇の妖術が趣向化して用いられています。  
これらの作品群からは、南北の天徳物が近世後期の戯作に与えた影響の大きさを知ることができるでしょう。天徳という蝦蟇の妖術使いが反逆者として形象化されていく背景として、天草四郎の幻影が垣間見えることについては、すでに指摘がありますが、式亭三馬の『戯場訓蒙図彙(しばいきんもうずい)』 (享和三〈一八〇三〉年)「蝦蟇」の項には、印を結ぶ男と巨大な蛙が描かれていて、蝦蟇のイメージが良く分かります。この天徳物は、さらに〈自来也(児雷也)物〉という蝦蟇文学を代表する作品群へと継承されていくことになるのでした。  
江戸読本の後摺本と活版本

 

近世期に板本として出板された江戸読本やその周辺ジャンルの本は、明治の半ば過ぎに及ぶまで後摺本が発行され続けていた。現存している大部分の板本は、これら幕末から明治初期にかけて刊行された後摺本である。そのせいか読本研究の主眼は初板初摺本の探求に精力が注がれてきた。  
一般に問題の本質は始源に存すると見做す傾向が強く、研究意義をそこに見出すことが多い。しかし、書誌学的研究は、初板初摺本の探求へ向けた遡源的な方向へ進めるだけでよいとは思えない。享受史の側から発想してみると、江戸時代に板本を手にした読者の多くは初摺本で読んだわけではなく、その後の大多数の読者たちも後摺本に拠って読書生活を営んでいたことに思い至るからである。  
具体的に『南総里見八犬伝』を例にして考えてみれば、刊行され続けていた二十八年間にわたって、初摺本だけで読み通すことが出来た読者は、ごく少数に限られていたものと思われる。大部分の読者が利用した貸本屋でさえ、様々な摺りの本を取り合わせて揃えていたはずで、初摺本だけの揃いを備えていた業者は、さほど多くはなかったであろう。なぜなら、板元が変わった時は当然として、次編が出る度に既刊分の増し摺りが行われており、出板直後に購入しないかぎりは取り合わせ本になってしまうからである。  
すでに周知のことではあるが、近世期の出板事情を振り返ってみる。文化年間に江戸読本の隆興を創出したのは当時の貸本屋たちであった。彼等は零細な流通業者ではあったが、一番読者に近いところに位置していたため、流行を容易に察知できた。そこで、貸本屋の商品としては一番価値の高い新作読本について、筋や趣向などの企画から作者や画工の選定に至るまでの読本出板に関わるプロデュースをしたのである。しかし、主たる買い手である貸本屋たちに行き渡る程度の数が摺られた板木は、次の出板の資金繰りのために別の板元に売られることが多かった。新たに板木を手にした板元は、時にはそのまま摺ることもあるが、通常は摺りの作業工程を減らすために重ね摺り用の色板を省略したり、見料を稼ぐために分冊して冊数を増やしたりもした。また、初摺から時間を経たものは、時流に即して、序跋を差し替えたり挿絵を彫り直したりする。また単に改竄を加えるのみならず、別の本を装うために改題本に仕立て直したりもした。ひどい場合は、板本を板下作成に用いた覆刻(おつかぶせ)による再刻本を勝手に出板する板元すら存在したのである。その上、厄介なことに、現存するこれらの後摺本がまったく同じ本であることは、ごく稀なのである。表紙の違いや大きさの相違、口絵や挿絵の色板使用の程度、広告の有無や刊記の象嵌、摺った後の貼紙による訂正など、〈板〉の相違だけでなく〈摺り〉ごとに異本が作成されていたといっても過言ではない。したがって、たとえ同一の板木で摺られたと思われる板本であっても、細かい吟味を抜きにしたまま、後摺本の諸本調査を等閑に付してよいはずがない。大多数の読者が手にしたであろう後摺本こそが、享受の諸相を明らかにするに違いないからである。  
近年、福田安典氏が「伊予の貸本屋について」という発表(二〇〇四年度日本近世文学会秋季大会)で、愛媛県立図書館に汲汲堂という伊予の貸本屋が所蔵していた読本百五十六タイトルが所蔵されていることを紹介された。その大半が新たに購入された後摺本であることから、新規に開業する貸本屋にとっては、たとえ旧作の後摺本であっても江戸読本は必要欠くべからざる品揃えであったことがわかる。  
また、鈴木俊幸氏が「貸本屋の営業資料」(『中央大学文学部紀要』文学科九十三、二〇〇四年三月)で実証されたように、幾つかの貸本屋で使用された古本を入手し、草臥れた本を丁寧に補修した上で、それを商品として使用していた例を御架蔵本によって示され、その表紙の芯に使われた反古や、裏打ちに使用された紙に記された貸本屋の営業記録の断片を集めて、明治十年代の半ばにおいても、貸本屋の主力商品は江戸読本(特に馬琴作)であったことを示された。  
ところで、明治期の『八犬伝』板本について小池藤五郎氏は旧岩波文庫『南総里見八犬伝』三巻「解説」(一九三七年)に次のように記している。  
『八犬傳』の版本は明治になつて和泉屋吉兵衞・兎屋等の手に移り、遂に博文舘の所有となつて現存する。版木の所有者がその時々に刷出したので、名山閣版・稗史出版社版・博文舘版その他の後刷本が遺されてある。これらの後刷本の多くは、册數を變じ、口繪を缺き、原本の體裁は見る由もない。原版木使用の最後は、明治三十年に刷出した博文舘版の三十七册本である。  
東京名山閣(和泉屋吉兵衞)版『里見八犬傳』も確認はしているが、全体像は未詳。  
一方、明治三十年博文舘版とは、全九輯五十三巻 半紙本三十七冊、表紙は小豆色地絹目に唐草模様、外題「南總里見八犬傳 一(〜三十七)」、見返「曲亭馬琴著作\南總里見八犬傳\東京 博文舘藏版」(赤色地墨摺)、刊記「明治三十年七月二十八日翻刻印刷\明治三十年七月三十一日發行\發行兼\印刷者 日本橋區本町三丁目八番地 大橋新太郎\發兌書林 東京市日本橋區本町三丁目 博文舘」というもので、木箱(高さ四十七糎×幅十八糎×奥行二十六糎)に収まるというものである。  
「博文舘出版圖書目録」(創業二十週年記念發兌「太陽増刊」、明治四十年六月十五日、博文舘)に、「曲亭馬琴翁著(本箱入)全五十册(大判三〇五一枚)\[和装並製]南總里見八犬傳 正價九円五拾錢\小包料六拾四錢」と見えているのは、冊数は異なるが同様の板本であろうか。実物は未見であるが、もし明治四十年に出ていたとすれば、原板木を用いて摺られた最も新しい板本ということになろう。  
ここで、活字翻刻本に目を転じてみよう。『八犬伝』の活版本は明治十年代の半ばから和装本で出版され始め、東京稗史出版社版(明治十五〜十八年)は半紙本仕立ての四十二冊にわたる立派なものである。各輯巻頭の口絵だけを薄墨板まで覆刻しているが、原板木を使用したものではない。第九輯三十二巻の巻末広告には「畫圖原本飜刻」とあるが、原本を摸して改刻された板を使ったもので、新たに描き直されたものではないという意味のようだ。黄土色表紙の半紙本で全四十二冊、挿絵の大部分は省かれている。第三輯までが明治十五年十一月、第七輯までが明治十六年三月、第九輯巻十八までが明治十六年十一月、同巻三十二までが明治十七年四月、同巻五十三までが明治十八年三月に出されている。  
その後も明治二十年前に四種ほどの和装活字本が出版されていたことが確認できる。ところが、明治二十年代に入ると洋装の活字本が出てきた。とりわけ明治二十六年六〜七月に博文館が出した帝國文庫『南総里見八犬傳』を見るに、手許の本の刊記は「(上巻)明治二十六年六月十三日印刷\明治二十六年六月十六日發行〜明治四十五年六月十五日卅二版發行 定價金七拾五錢、(中巻)明治二十六年六月廿七日印刷\明治二十六年六月三十日發行〜明治四十四年十一月廿六日廿六版發行 定價金七拾五錢、(下巻)明治二十六年七月十五日印刷\明治二十六年七月十八日發行〜明治四十四年十一月十四日廿三版發行 定價金七拾五錢」とあり、明治四十年代に至るまで多くの刷りを重ねていることが確認できる。これ以外にも、袖珍文庫をはじめとした叢書や全集類にも『八犬伝』は必ずといって良いほど入れられているのである。  
確かな証拠は用意できないが、ほぼ明治二十年を境として、板本(整版本)から活版へと出版メディアの中心が移行していったと思われる。このメディア転換が展開するにつれて、本自体の価格が下がり、同時に全国的な本の流通機構が整備されたことによって、人々の読書生活は貸本屋に依存したものから個人所有へと移行していったと考えられてきた。  
今、手許に「小説本目録」と題する半紙二折仮綴九丁の貸本屋の目録と思しき写本がある。末尾に「福島町南裡通貳丁目四番地\貸本舗高田」と記されており、一丁あたり三段に、『西洋復讎竒譚』以下『宇都之宮騒動 上中下』まで四百点弱の書名が列記してある。冒頭の『西洋復讎竒譚』は関直彦訳『開巻驚奇・西洋復讐奇談』前編(明治二十年四月、東京、金港堂、洋装四二九頁、六十五銭)のこと、末尾の『宇都之宮騒動 上中下』は確信は持てないものの『村井長庵大恩仁政録 上下』や『鈴木主水 上中下』などが見られることから、今古實録シリーズ(明治十五年〜、榮泉社、和装)ではないかと思われる。詳しい紹介は稿を改めるとして、その概要を示せば、『浮雲』(明治二十年〜、金港堂)や『経國美談』(明治二十年、報知社)、『惨風悲雨 世路日記』(明治十八年、文事堂)などの近代小説を交えて、『里見八犬傳 天地玄黄』や『山中三之助復讎美談 鷲談傳桃花流水』など多くの江戸読本や、『慶安太平記』『名鎗笹野實記』などの実録物、『春色辰巳園』『春色英對談話(ママ)』などの人情本が掲出されている。  
貸本舗高田「小説本目録」  
気になるのは『里見八犬傳』に「天地玄黄」と注記が施されている点である。これは板本ではなくて明治十九年十月に東京の文事堂から出された四巻本の活版本だと思われる。さらに、『鷲談傳桃花流水』(山東京山作、豊国画、文化七年)は、原本には見られない角書が付されていることと『鷲談傳奇』の「奇」の字が抜けていることから、『山中三之助復讐美談 鷲談傳桃花流水』、和装本(十七・六×十一・三糎)一冊、袋綴七十丁、「明治十八年八月四日御届、同九月 日出版\望斎秀月画・山東京山作\菱花堂發兌\定價金六拾五錢\編集兼出版人 元阿彌已之吉、發兌人 武田平治」という活版本であることは確実である。そう思って資料全体を眺めてみると、近世小説類も活字翻刻本を主として掲載されていると推測できるのである。  
つまり、この資料から、明治二十年代の貸本屋においては、板本ばかりではなく、活字翻刻本も利用に供されていたことが判明する。とりわけ不可解な現象だとも思われないが、活版本が流布するにつれて読者が本を所有するように移行していったとの「常識」も、貸本屋を通じて江戸小説の活字翻刻本を読むという過渡期があってのことだったということになるのである。
絵入本についての覚え書き

 

本とは、紙に情報が記されて綴られた物体の謂いである。本にテキストが記されるに際して、手で書かれた写本と印刷された印本とが存在する。印刷の手段については、整版(木板) であったり、銅版や石版であったり、活字(木や金属)であったり様々である。近年では、フィルムや電子的な方法を用いて刷版を起こす平版印刷が用いられるのが一般的である。  
こと印刷に関しては、単なる文字列以外の画像情報を扱うには相応の技術や方法が不可欠であり、近世初期にもたらされた活字印刷術が整版に取って代わられた原因の一つとして、この画像情報の処理に関わる技術的な問題が上げられているのは周知の通りである。が、今ここではメディアや印刷方法は問わないことにする。問題にしたいのは、本における本文と画像という構成要素だからである。  
テキストといえば普通〈本文=文字列〉を考えるが〈絵=画像〉もテキストとして扱いたい。本を読む時に目に入るのは本文の文字列だけではなく、口絵や挿絵などの絵画も鑑賞の対象となっているからである。尤も、さらに広げて考えれば、本の大きさや重さ、装丁に用いられている皮や布や紙など素材の質感、そこに用いられている色合い、箱や表紙などに施された装飾的な意匠、さらに組版すなわち文字列のレイアウトや書体フオント、そして使われている料紙(用紙)の種類や色柄その手ざわりまで、本を手にしたときに五感で感受し得る総てが鑑賞すべきテキストだとも云うことができる。  
文字のみで一冊を構成されている本も少なくないが、一般に、本文に絵が添えられたものを「絵入本」と呼んでいる。この「絵入本」という用語について、『日本古典籍書誌学辞典』(一九九九年、岩波書店、湯浅淑子執筆)に「文を主体として巻頭に口絵、本文中に挿絵などの絵を伴った版本・写本の総称。現在では、絵を主体としてものはこの範疇に含めないことが多いが、草双紙や絵本との境界を明確にせずに、絵入り本という語句を用いている例も見られる。」とあるように、一冊の本すべてが絵や写真で構成される場合は、「絵本」や「画譜」もしくは「写真集」などと呼ばれ、文字列はキャプションなど補足的な機能を持っている場合が多い。しかし、狭義の「絵入本」は、本文テキストに絵が添えられている本、いいかえれば〈読むべきテキスト〉に〈口絵〉なり〈挿絵〉なりが付加されている形態を持つ本ということになろう。  
ただし、本文に有機的な関連を持った絵が用いられる場合と、本文には関連のない絵が添えられる場合、たとえば、黄表紙を改竄して造られた咄本(古くなった黄表紙の本文だけを削って絵だけを残し、その板木に入木して新たに落咄を入れた本)は、当然、絵自体が本文に関係を持つはずがない。また、狂歌絵本や摺物などにしても、記された狂歌の内容に則した絵柄でないものも多数見受ける。このように考えてみると、「絵入本」といっても、単に〈絵が入っている本〉ということでは済まず、厳密に考えるとその定義は甚だ難しい。  
特に草双紙の場合は、赤本など初期のものは、明らかに絵を主体として文字が添えられるという構成を持っており、中には記された文字列に本文としての筋(話柄)を持たない場合すら見られる。が、青本・黒本などの時代になると次第に本文が長くなり板面に占める文字の割合も大きくなる。黄表紙はもとより合巻の時代ともなると、最早挿絵が中心だとは云いきれないほどに本文の位置が大きくなり、最後には読本や中国小説を翻案し原話の筋に悉く絵を添えた草双紙も出現する。そして、いずれの草双紙も作者が画稿をも描いたものと考えられることから、絵にも作者の含意が存するものとして見る必要がある。  
このように草双紙においては本文と挿絵との関係が密接で、やや特殊なジャンルだと思われるが、それでも「絵入本」と呼ぶのに一向に差し支えがないと考えるので、本の全丁に絵が入っているかどうかではなく、本文に有機的な関連を持つ絵が添えられた本を「絵入本」として括ってみたい。  
さて、日本文学史上最初の絵入本は何かとなると難しいが、本文テキストに対して付加的に絵が加えられたという意味では、平安朝物語を絵巻化したものが挙げられるであろう。『源氏物語絵巻』を持ち出すまでもなく、巻子体(巻物)のテキストは逐次的シーケンシヤルな閲覧を強いるメディアであり、本文と挿絵が交互に出現する。絵巻の編者は、必ずしも名場面だけではなく、巻毎に絵にするに相応しい叙情的な場面を選んで作成したといわれている。すなわち、『源氏物語』の内容を既に知っている人が見るべきものとして『源氏物語絵巻』が編まれたということである。これらの絵巻は量産の出来ない写本であるから、何等かの権威付けられた祖本の写しが作られ続けられたのかと思いきや、田口榮一「源氏絵の系譜主題と変奏」(『豪華「源氏絵」の世界源氏物語』、学習研究社、一九八八)を見るに、屏風や色紙など多様なメディアでも展開し、様々な場面を描いた多数が存することが知れる。ということは、本文テキストから喚起された絵画的なイメージの多様性から、享受の多様性を見て取れると考えられる。  
物語の一場面を可視化して見せるという絵巻は、本文の読みを前提に描かれたという点で、やはり絵が付随したメディアだといえよう。また、古くから傭筆という写字の専門家がいたが、取り敢えず文字であれば専門家でなくとも書くことができたと思われる。しかし、絵は誰でも描けるというものでもあるまい。絵師や画工と呼ばれる技術者が担わなければ絵巻は生まれなかったであろう。そして、次第に時代が下るにつれて物語絵が普及し、その結果として各場面のイメージ共有されて「源氏絵」などと呼ばれる様式が、時に本文から離れた絵画として自立的に発生することになる。  
この絵画の様式は〈画題〉とも呼ばれるが、絵を鑑賞する者たちが未知の場面の画題コード化は不可能である。つまり物語の流布が在って、はじめて絵が特定の場面を描いたものと理解可能になるわけである。時には、絵が先に流布してから基になった物語が広まることもあったかも知れないが、何れにしても画題として定着するには本話の流布が不可欠だったはずである。さらに、所謂〈見立て〉という技法も、基になった話の場面が画題として定着していなければ、描き手の単なる独り善がりで終わってしまうはずである。つまり、鑑賞者が既知であることを前提に成り立つものであり、それは必ずしも本文テキストではなかった可能性がある。能や浄瑠璃・歌舞伎など芸能化された物語も、その舞台は既知のものとして扱うことが可能であった。錦絵などに見られる見立てには諸芸能に基づくものが少なくないのである。  
近世期における古典受容についてみると、古典研究は本文の注釈が主であった。つまり、絵入本は研究対象としての古典を支えたものではなく、より広範な読者に向けて作成されたものである。それゆえ、整版印刷が広まって板本が普及し出すのと軌を一にして、絵入本の出板が盛んになるわけで、出板流通業の発展と伴に広まっていったものということができる。文化の大衆化というべきか、諸芸能の普及が果たした機能と同様であり、絵入本も筋を知っている者を対象としたものではなく、物語などの梗概や名場面の絵解きとして啓蒙的に受容されるようになったのである。  
さて、ここで問題にしなければならないのは、これらの物語に基づく絵巻や絵入本などは、本来のテキストには備わっていなかった絵を、後年になって付加して作成されたという点である。近世後期の小説ジャンルにおいては作者が挿絵の画稿を描いており、それとは本質的に相違する成り立ちなのである。ただ、草双紙の場合は、画工が描き始めて次第に本文の作者と分離していったことが知られているが、他のジャンルの場合は限られた自画作を除いて、基本的には作者と画工とに分業されていたものと考えられる。いずれにしても、近世後期の絵入本は、作成された時点で本文と絵とが備わって出来したと考えて差し支えないと思われる。  
しかし、馬琴の読本『勧善常世物語』などのように長い間摺られ続けた絵入本が、後年再刻された際に挿絵や口絵が描き直されることもあった。板木が焼失するなどで無くなった場合や、時流の変化に適応させるためであろう。また、それまでにテキストだけで伝わっていた古典や実録体小説などに絵を描き加えて出された『平家物語図会』や『絵本亀山話』『絵本漢楚軍談』などのような本も少なくなかったし、中国小説や読本を翻案抄録して作られた『傾城水滸伝』や『仮名読み八犬伝』などの草双紙も、後から絵が加えられた絵入本ということができる。  
後から絵が加えられたり、備わっていた絵が変えられたりするのは、テキスト本文の作者とは直接関わりはなく、謂わば一読者としての立場からの享受を示しているという側面がある。もちろん、出板する以上は売れるものを作らなければならないのは当然であるが、にもかかわらず描き手のイメージは本文に触れて湧き出たものであるといえるから、享受の有り様をそこに見ても差し支えないと考える。  
以下、近世後期の小説本、とりわけ近世小説を代表する不朽の名作『南総里見八犬伝』と、その抄録本を具体例として挙げて、絵入本における「絵」の位相の相違を確認しておきたい。『八犬伝』には名場面が幾つかあるが、伏姫の腹から白気が閃き出て水晶の数珠を虚空高く舞上げ、八つの玉が八方に飛び散るという場面は、『水滸伝』の発端部を摸したものとして有名である。原本だと第二輯巻之二に挿絵「肚はらを裂さきて伏姫ふせひめ八犬士はつけんしを走はしらす」として掲げられ、薄墨で伏姫の腹から立ち上る白気を描き、その中に八匹の子犬を白く抜いている。この意匠は馬琴の着想に出たものと思われる。しかし、その後出た抄出本ダイジエストでは構図は大差ないものの、切附本『英名八犬士』初編(鈍亭魯文、芳直画)を除き、草双紙『雪梅芳譚犬の草紙』四編下(笠亭仙果、豊国画)や切附本『義勇八犬伝』(岳亭定岡、芳宗画)、常磐津『八犬義士誉れ勇猛』(立川焉馬、豊国画)などでは飛び散るのは子犬ではなく光る玉(星)にしてしまってる。  
もう一つ、芳流閣の戦いのくだりを見てみよう。この場面は教科書に取り上げられたほど知られた段で、歌舞伎でも屋根の上での大立ち回りは見せ場の一つである。原本では、第三輯巻之五の最後に挿絵「君命くんめいによつて見八けんはち信のし乃を搦補からめとらんとす」として芳流閣の高殿の廂の上下に二犬士が描かれ、第四輯巻之一の最初の挿絵では屋上で組み討つ二犬士が描かれている。三輯では対決が始まるまでを書き、「畢竟ひつきやう犬塚犬飼両雄りやうゆうの勝負如何いかん。そは編へんを嗣つぎ、巻まきを更かえて、第四輯だいししふの端はじめに解とかかん。出像さしゑを観みて余韻よいんを味あぢはふべし。」とあるが、さぞ一年後の四輯の出板を心待ちにした読者が多かったことだろう。この場面は、その後、多くの錦絵に画題を提供することになるが、館山市の公式サイトにある「里見八犬伝デジタル美術館」などで手軽に見ることが出来る。何れも原本の構図からやや離れて、歌舞伎の舞台を彷彿とさせる描かれ方が多いようだが、鮮烈な印象を与えるのは月岡芳年の「芳流閣両勇動」(縦二枚続き)であろう。  
馬琴は「文外の画、画中の文」といっているが、本文に記されていない情報を口絵や挿絵に描きこんでいるのである。時には目録の周囲を囲んでいる飾り枠の中に描く品にまで細心の仕掛けを施している。これらの、謂わば〈馬琴コード〉の謎解きは、『八犬伝』の原本でしかできないのである。  
今見てきた二つの例は、原本に絵が在る場面であるが、草双紙化すると毎丁絵が入るわけであるから、原本には絵が備わらない部分をも大幅に描き加えなければならない。そもそも抄出本では登場人物名を微妙に変更したりすることが多く、時に役者似顔を用いることもあり、挿絵を描き加える者は、各人物の風体の設定からして破綻や矛盾のないように案じることが要求されるのである。このような作業も何等かの創造的な営為として見ることは出来るのではないか。  
ここまで取り留めなく絵入本について考えてきたが、絵の注釈は字と違って辞書が備わっていないので、大変な困難を伴うが、本文の言葉と同様に注意深く読むべき対象であることは疑いない。馬琴のように仕掛けに満ちた本造りをする作者ばかりではないが、和漢の古典に絵を加えて絵解きをするという行為自体に、単なる啓蒙以上の創造的な営為としての意義を見て取ることはできないだろうか。  
従来は、読む本としての稗史小説が「よみほん」と呼ばれる小説群だと説明されてきたが、絵入りである意味を再考してみる必要がなかろうか。所謂「絵本もの」と呼ばれる読本は『絵本浅草霊験記』『絵本簣草紙』『絵本伊賀越孝勇伝』『絵本石山軍記』という具合に枚挙に遑がない。同時に「図会もの」と呼ばれる『頼光朝臣勲功図会』『真柴勲功図会』『北条時頼記図会』『木曾義仲勲功図会』なども少なくない。のみならず、山東京伝の名作『桜姫全伝曙草紙』でさえも、早印本の表紙に貼られた外題簽には『絵入り桜ひめ』とあるのだから。そして、おそらく、この問題の追究は、草双紙と読本との差異を論理化することに繋がる道程にもなるはずである。  
黄鳥墳の世界

 

化政天保期(十九世紀)における江戸歌舞伎の隆盛は、団十郎をはじめとして幸四郎、菊五郎、三津五郎、半四郎、菊之丞と続々と輩出した花形役者によって支えられたものということができるかもしれない。他方、演目から見ると、様々の典拠を持つ多様で変化に富んだ筋立てや魅力的な演出に負うところも少なくなかったと思われる。  
さて、橋本治『江戸歌舞伎はこんなもの』(ちくま文庫)が分かりやすく説くように、江戸歌舞伎は顔見世など様々な約束事によって成り立っている。しかし、演目に変化を与えるために、その様式という器には実に多様な伝承や説話が盛り込まれたのである。とりわけ狂言の枠組は〈世界〉と呼ばれ、『世界綱目』という狂言作者に珍重されていた便覧が写本で伝わっている。これを見るに「曽我」「角田川」「道成寺」など軍記物語や説経浄瑠璃、謡曲などに基づく〈世界〉が並べられている。ところが、この〈世界〉の中には同時代に流行した江戸小説に材を求めたものもあったのである。  
近世小説の中にでも読本《よみほん》と呼ばれる小説ジャンルは、漢文体の序文を備えたり、中国の白話小説を粉本として見慣れぬ漢語を用いたり、多くの史料を駆使した考証を挿入したりという具合に、やや格調の高い稗史小説であった。この傾向は馬琴読本に強く見られ、代表作として後に歌舞伎化されることになる『南総里見八犬伝』が知られている。これら馬琴読本が歌舞伎に新鮮な趣向をもたらしたのである。  
曲亭馬琴は文壇史『近世物之本江戸作者部類』で  
「丁卯〔文化四年(一八〇七)〕曲亭(略)『三七全伝南柯夢《さんしちぜんでんなんかのゆめ》』六巻を綴る(略)この年〔文化五年〕の秋九月、大坂道頓堀、中の芝居にて、この読本《よみほん》の趣を狂言にとり組て、名題を『舞扇南柯話《ハナシ》』といふ。九月十七日より開場せしに、看官《みるもの》日々に群聚せざることなく  
と、自作の読本を脚色した歌舞伎の評判の高さを記し、流行を当て込んだ「三勝櫛」や「南柯話飛廻り雙陸《すごろく》」が売出されたこと、歌舞伎狂言の彩色絵入正本〔役者似顔を用いた挿絵入り台本風読み物〕までが出板されたことを、少なからず誇らしげに記している。この後、  
秋より冬に至て、曲亭のよみ本を浪速にて歌舞伎狂言にせしもの、四座五たびに及べり、当時の流行、想像すべし。江戸にても文化年間、中村座の秋狂言に曲亭のよみ本『稚枝鳩《わかえのはと》』の復讐の段を狂言にして、瀬川仙女が烈女の五人殺をせし事あり  
と、上方のみならず江戸でも同様であったと述べている。  
一方、美麗な錦絵風摺付表紙を備え、全丁に絵が入り、ひらがなで書かれた草双紙(合巻)は、より広範な読者に読まれていたと思われ、『児雷也豪傑譚』や『白縫譚《しらぬいものがたり》』など評判になった作も、後に歌舞伎化されることになる。もとより草双紙は「紙上歌舞伎」と呼ばれるほど芝居とは関係が強く、草双紙の読者層と歌舞伎の観客とは重なっていたのである。  
さて、歌舞伎の『昔語《むかしがたり》黄鳥墳』も、栗杖亭《りつじようてい》鬼卵《きらん》の読本《よみほん》『長柄長者絵本黄鳥墳』(文化八年刊)を脚色して作られた芝居である。歌舞伎狂言の常として名題を変えながら、上方のみならず江戸でも上演され続けてきた。  
作者である鬼卵は延享元年(一七四四)生まれ、若い頃は絵画や連歌、狂歌、俳諧に遊び、享和三年(一八〇三)には『東海道人物志』を出している。本作執筆時には六十七歳。自著の署名に敢えて「遠州日阪」と冠しており、遠江国佐夜之中山の西に位置する東海道日坂の宿に在住していることを主張しているが、鬼卵自身は若い頃を河内国佐太で過ごしているから、上方の出身であろう。また、読本は主として上方の板元からの依頼で執筆していた。上方読本は、中国臭があまり強くない世話物風のものが多く、口碑や説話などに基づく平易な作品や、軍記や実録の絵解きという性格を強く持った絵本読本が多い。そのせいか、鬼卵の作品も馬琴流の江戸読本とは違って、比較的平易な行文が多いのが特徴であるが、生涯に二十余作の読本を執筆しており、馬琴京伝等に次ぐ読本作者であった。一番知られているのは、歌舞伎化されたこともあり『長柄長者絵本黄鳥墳』であろう。後摺本が広く流布しているのみならず、近代に成ってから何度も活字に翻刻され出版されている。  
この読本は、加賀と河内とに佐々木源太左衛門という同姓同名の武士がいて、はからずも大井川の側に同宿し、具足櫃の取違えから遺恨を生じ、河内の源太左衛門が殺害される。遺児である源之助は佐々木家を横領した叔父(源吾)に追放され、母(渚)と共に乞食となって仇の詮索をする。ある日、長柄長者の娘(梅枝)が愛育していた鶯(唐琴)を助けたことから懸想され長者の婿になるが、長者の後妻(環)に毒殺されそうになって遁れる。その後、梅枝のみならず長者までもが環と結託した悪僧(大仁坊)に殺害されてしまう。梅枝の霊は鶯に宿って源之助の危急を助け、遂には父の仇を報ずる。また長者の養子と忠臣等も大仁坊を討ち、両家はめでたく栄えるという話柄である。二つの敵討を果たすまでの浮沈安危の様子を描いた敵討物としての枠組を持ち、題名通り鶯塚の由来譚にもなっている。  
発端部では遊郭での放蕩零落譚と遊女をめぐる三角関係に始り、佐々木家の御家騒動では〈系図の巻物〉と〈旭丸の宝剱〉という小道具が使われる。宝山比丘という超越的存在が設定されて、長柄長者の過去の因果として水難を予言する。また源之助が流浪する途中では、大牡丹で有名な遠州の京丸という人外境における纐纈城(脂取)説話と、鳥目の治癒譚が挿入される。この他、没落した長者の荒屋敷における怪異、鶯や神仏による敵討ちの冥助、水魚石という奇石等々と実に多くの趣向が盛り込まれ、伝奇小説としての読本らしさに溢れた佳作である。  
ところが脚色された時に、これらの読本らしい凝った趣向はみな削ぎ落されてしまった。馬琴が前述した『作者部類』で  
江戸の歌舞伎作者は、当時流行の読本の趣を、その侭《まま》狂言に作ることを恥て、或《ある》は人物の姓名をおなじくせず、或《ある》は別の世界にとり易《かえ》などすなるに、江戸の俗客婦女子は読本を看《み》ぬも多かれば、その狂言の憑《よ》る所を知らずして、新奇也《なり》と思ふなるべし  
としているように、本作でも「加賀」は「多賀」に、「比丘」は「和尚」に、「環」は「玉木」にという具合に呼称や表記が変えられ、筋立ても舞台での上演に都合が良いように再編され、簡潔に縮められているのである。  
実は、この読本『長柄長者絵本黄鳥墳』が与えた影響は歌舞伎だけではなかった。「かな読み絵本黄鳥墳」とでも呼ぶべき抄録合巻『鶯塚梅赤本』全六編(嘉永三〜明治十四年、松亭金水・泉竜亭是正作、国政・芳虎画)や、合巻『邯鄲諸国物語』摂津の巻(嘉永四〜安政三年、柳亭仙果作、豊国・貞秀画)も読本に筋を借りたもの。人情本『鶯塚千代廼初音』全四編(安政三〜明治二年、松亭金水・山々亭有人作、芳虎画)も、同様に読本を人情本化したもの。講談の速記本でも『佐々木源之助・諏訪道仙 鶯塚の仇討』(邑井一講演、加藤由太郎速記、求光閣、明治三十年序)や、「鶯塚の仇討」(桃流舎至高口演、求光閣、明治三十四年)、『鶯塚復讐美談』(錦城齋貞玉口演、今村次郎速記、いろは書房、明治三十年)などが見出せ、刊否は未詳であるが「駸々堂発行書目神田伯龍口演・丸山平次郎速記」には「講談鶯塚/同後編長柄長者」が掲載されている。これらの講談も読本の筋を軸に語られたものであった。  
このように、鬼卵の一読本が周辺諸ジャンルに与えた影響は大きく、あたかも〈世界〉を構成したと言っても差し支えないものと思われる。馬琴が吹聴した自作読本の歌舞伎化と同様に、実は鬼卵の『長柄長者絵本黄鳥墳』も文学史上見過ごしがたい作品の一つなのである。  
草双紙の明治

 

草双紙合巻の史的変遷については、早くに鈴木重三氏の提示された時代区分(「合巻について」、大東急記念文庫、一九六一年)が備わるが、これを要約しつつ多少修正を加えて、  
 揺籃期 文化元年〜文化六年   短編読切  
 定着期 文化七年〜文化十四年  短編読切  
 発展期 文政元年〜文政六年   短編読切が中心  
 転換期 文政七年〜天保十四年  短編長編の併存  
 沈滞期 弘化元年〜明治九年   長編続物が中心  
 終息期 明治十年〜明治二十年頃 新聞雑誌へ解消  
という具合に整理できる。〈発展期〉が始まる文政元年や〈転換期〉が終わる天保十四年には刊行数が極端に減っていて、ジャンル変遷の劃期として政治改革や取締りの影響が見られる。さらに〈沈滞期〉は、天保改革により株仲間が解散された後、嘉永四年の仮組として新興地本問屋が多数開業し、その結果として長編合巻が陸続と出し続けられることになる。蔦屋吉蔵「明治七年甲戌陽春開板標目」には十一種の長編合巻が列挙されており、明治期後印本特有の黄色無地表紙を持つ辻岡文助求板『水鏡山鳥奇談』(秀賀作、國周画、元治二年原刊)の見返しには「假名垣魯文著\明治十四年四月新刻」と見え、〈終息期〉に入ってからも、長編合巻の続編のみならず旧作の後印本が出し続けられていたことがわかる。  
さて、明治十年代に入ってから一編三冊(各冊九丁)という様式で刊行された草双紙については、佐々木亨氏の継続的な業績が備わり、「従来の〈江戸式/東京式〉合巻という呼称は文学史用語として相応しくない。すべからく〈明治期草双紙〉と称すべし」という提唱がなされており(早稲田大学モノグラフ21『明治戯作の研究―草双紙を中心として―』、早稲田大学出版部、二〇〇九年の序章参照、初出は「活版草双紙の誕生」、国文学研究資料館紀要32号、二〇〇六年など)一応は首肯すべき説だと思う。  
以下、当時の資料に見られる言説を追いつつ検証してみたい。まず、梅星叟乙彦『新門辰五郎游侠譚(しんもんたつごらうをとこだてものがたり)』二編自序(明治十二年五月、聚栄堂・文栄堂合梓)を見ると  
草双紙(くさざうし)を合巻(がふくわん)と稱(とな)ふるハ、原(もと)五枚(まい)一冊(さつ)を、二冊(さつ)合(あは)して一冊とし、四冊を上下(しやうげ)二冊一帙(ちつ)に、製(せい)したれバ〓(しか)いふなり。然(しか)るを方今(いま)の草双紙(くさざうし)をも、書肆(ふみや)ハ是亦(やつぱり)合巻(がふくわん)と、稱(とな)ふるハ謂(いはれ)なし。(中略)文明(ぶんめい)の今日(けふ)に至(いた)り、九枚(まい)三冊(さつ)一帙(ちつ)の、製本(せいほん)と做(な)るを以(も)て、之(これ)をこそ九三(くさ)草紙(ざうし)の、稱(しよう)謂(ゐ)を得(ゑ)たれと云(い)ハまく耳(のみ)。(中略)遮莫(さばれ)傍訓(ふりがな)新聞(しんぶん)の、續雜報(つゞきばなし)を再綴(またがき)なる、世話(せわ)狂言(きようげん)の新奇(しんき)を競(きそ)ふ、少壮(わかい)編輯(へんしふ)先生(せんせい)方(がた)にハ迚(とて)も及(をよ)ばぬ梅星叟(うめほしぢゞい)  
とある。  
九丁三冊だから「九三(くさ)草紙」だという与太話は措いて、合巻の原義に触れて「明治期の板元がいう合巻は本来の合巻ではない」という点は正論である。 現に、「今度(こんど)一帙(じつ)三冊(さつ)の合巻(がふくわん)に綴(つゞ)りなして、三編(へん)を以(も)て大尾(たいび)となし」(伊東専三『水錦隅田曙(みづのにしきすだのあけぼの)』、明治十二年、金松堂、三編自序)、 「是(これ)を晴着(はれぎ)の合巻(がふくわん)に……三袋(みふくろ)揃(ぞろ)ひ三枚(まい)着(ぎ)に」(同『綾重衣紋廼春秋(あやがさねえもんのはるあき)』、明治十二年、金松堂、初編自序)、 「濱(はま)の真砂(まさご)のかず/\ある、合巻(がふくわん)ものゝ賣口(うれくち)よき二三の中(うち)へ算(かぞ)へられ」(久保田彦作『浪枕(なみまくら)江(え)の嶋(しま)新語(しんご)』、明治十三年、延壽堂、三編自序)、 「巧妙(こうみやう)を得(え)し此(この)合巻(がふくわん)」(武田交來『霜夜鐘十時辻筮(しもよのかねしふじつじうら)』、明治十三年、錦壽堂、四編芳川春濤序)、 「余(よ)が机下(きか)の壮史(さうし)渡邉(わたなべ)文京(ぶんきやう)彼(かの)顛末(てんまつ)を筆記(ひつき)して本社(ほんしや)新聞(しんぶん)毎號(まいかう)に掲載(けいざい)する処(ところ)書肆(しよし)金松堂(きんしようだう)切(せつ)に乞(こふ)て別(べつ)に合巻(がうくわん)の小冊(せうさつ)に製(せい)し」(文京舎文京『名廣(なもひろき)澤邊萍(さはべのうきくさ)』、明治十三年、金松堂、二編金花猫翁序)、 「此(この)合巻(がふくわん)を綴(つゞ)れとある錦榮堂(きんゑいだう)が切(せつ)なる頼(たの)みにヲツト承知(せうち)ハするものゝ」(梅素薫『黒白論織分博多(こくびやくろんおりわけはかた)\色成楓夕栄(いろなるもみぢのゆふばえ)\僞甲當世簪(まがいかうたうせいかんざし)』、猿若座當狂言・三冊讀切、明治十五年、錦榮堂、自序)などという具合に「合巻(ごうかん)」の用例は枚挙に遑がない。  
しかし、「一向(ひたすら)正史(せいし)にのみ因(よれ)バ、合巻(くさゞうし)の御花主(おとくい)にハ、倦(あか)れて不向(ふむき)なる故(ゆゑ)に」(桃川燕林編輯『賞集花之庭木戸(ほめつどふはなのにはきど)』、明治十三年、金松堂、二編轉々堂主人序)、 「此合巻(くさゞうし)」(久保田彦作『荒磯烹割鯉魚腸(あらいそれうりこひのはらわた)』、明治十四年夏、青盛堂、叙)、 「河竹氏(かわたけし)が。新作(しんさく)の仕組(こんだて)を。そつくり其(その)儘(まゝ)やき直(なを)し。即席(そくせき)合巻(りやうり)の上下綴(おてがる)にと」(野久和橘莚『月梅薫朧夜(つきとうめかほるおぼろよ)』、明治二十一年、栗園堂、自序)、巻末「このきやうげんの合巻(くささうし)」(同前)というように「合巻(くさぞうし)」と訓む場合もあった。  
ならば、武田交來の正本写に頻出する「演劇(しばゐ)とともに此(この)草双(くさそう)紙も瓢箪(ひやうたん)/\」(『鏡山錦〓歯(かゞみやまにしきのもみぢば)』、明治十二年、錦榮堂、自序)、 「世話(せわ)演劇(きやうげん)、其(その)脚色(すぢがき)に挿畫(さしゑ)をした、相(あひ)も変(かは)らぬ草双帋(くさぞうし)」(『星月夜見聞實記(ほしづきよけんもんじつき)\霜夜鐘十時辻筮(しもよのかねしふじつじうら)』、新富座新狂言、明治十三年、錦榮堂、自叙)、 「舞臺(ぶたい)の形容(けいよう)夫(それ)を其侭(そつくり)復冩(かきぬい)て當今(たうこん)流行(はや)る草双紙(さうし)になさんと錦壽堂(きんしゆだう)の主人(あるじ)が目論見(もくろみ)」(『霜夜鐘十時辻筮(しもよのかねしふじつじうら)』、歌舞伎新報抜萃、明治十三年、錦壽堂、初編自序)、 「初春(はつはる)きやうげん毎日(まいにち)替(かは)る手習鑑(てならひかゞみ)、けいこがてらの草双紙(くさざうし)も源蔵(げんざう)ならぬ筆耕(ふでとり)の業(わざ)を兼(かね)たる吉書(きつしよ)始(はじ)め」(『松梅雪花三吉野(あひじゆのゆきはなとみよしの)』、新富座新狂言、明治十四年、錦榮堂、自序)など、正本写に用いられている「草双紙(くさぞうし)」とも意味が通うものと考えられる。  
一方、『新門辰五郎游侠譚』の叙で「傍訓(ふりがな)新聞(しんぶん)の、續雜報(つゞきばなし)を再綴(またがき)なる、世話(せわ)狂言(きようげん)の新奇(しんき)を競(きそ)ふ、少壮(わかい)編輯(へんしふ)先生(せんせい)方(がた)」という部分は、「草双紙(くさぞうし)の趣向(しゆかう)に於(おけ)るや、黄表紙(きびやうし)の滑稽(こつけい)其(その)色(いろ)と共(とも)にさめ、覆討(かたきうち)流行(りうかう)せしが、其後(そのご)竒術(きじゆつ)の賊話(ぞくばな)しも、柯空(かくう)を論(ろん)じて幼稚(こども)衆(しゆ)も手(て)にとらず。依(よつ)て繪入(ゑいり)新聞(しんぶん)の内(うち)、人情(にんじやう)ものハ箱田(はこだ)の大人(うし)が、妙筆(めうぴつ)を抄録為(かきぬく)ものハ月兎(つきと)泥亀(すつぽん)池(ち)の編輯(へんしう)人」(篠田仙果『藻汐草近世竒談(もしほぐさきんせいきだん)』、明治十一年、青盛堂、初編自序)とあるように、新聞記事の抄録(再綴)をすることを「編輯」と称している。また、岡本起泉の「兼(かね)て東京新聞(ぶん)にて御評判(ひやうばん)に預(あづか)りし毒婦(どくふ)お竹(たけ)が來歴(らいれき)を幻阿竹噂聞書(まぼろしおたけうはさのきゝがき)と題(だい)し三編(べん)讀切(よみきり)の古今(こゝん)無類(むるゐ)極(ごく)面白(おもしろ)き冊子(さうし)に綴(つゞ)り引つゞき出板(しゆつばん)仕り升れバ高覧(かうらん)の程(ほど)を願(ねが)ひ上升」(『澤村田之助曙草紙(さはむらたのすけあけぼのさうし)』、明治十三年、島鮮堂、五編巻末)という自作の予告が見られ、同様に新聞記事を「近頃(ちかごろ)流行(はやる)三編(べん)讀切(よみきり)」(久保田彦作『浪枕(なみまくら)江(え)の嶋(しま)新語(しんご)』、明治十三年、延壽堂、初編自序)にして出すといっている。  
この「三編讀切」という明治期草双紙の新形式は久保田彦作『鳥追阿松海上新話(とりおひおまつかいじやうしんわ)』(三編、明治十一年、錦榮堂)を濫觴とするといわれてきた如く、「鳥追(とりおひ)阿松(おまつ)の新作(しんさく)から、稗史(くさざうし)の廢(すた)れを興(おこ)し、當今(いま)流行(りうかう)の讀法(よみふり)に、折衷(とりあはせ)たる功績(いさほし)ハ、是(これ)なん久保田(くぼた)先醒(せんせい)が、假名讀(かなよみ)記者(きしや)の繁机(はんき)の餘暇(いとま)、硯(すゞり)の海(うみ)の干潟(ひかた)を開墾(ひら)き、鋤鍬(すきくは)ならぬ筆頭(ふでさき)もて、耕(たがや)す文(ふみ)の熟實(みのり)よけれバ」(同『菊〓延命嚢(きくがさねえんめいぶくろ)』、明治十一年、錦榮堂、三編、岡丈紀序)とあり、さらに同四集自序に「亦(また)第(だい)四編(へん)を版元(はんもと)の、錦栄堂(きんえいだう)が頻(しき)りと催促(さいそく)。是(これ)も昨年(さくねん)鳥追(とりおひ)於松(おまつ)が、稀(まれ)の當(あた)りの味(あぢ)をしめ、再(ふたゝ)び苗字(めうじ)の大倉(おほくら)入(いり)、利潤(まうけ)を得(え)んとの結構(けつこう)なれど、あれハ所謂(いはゆる)僥倖(まぐれあたり)、决(けつ)して僕(ぼく)が功(こう)にハあらずと思(おも)へど%聊(いさゝ)か己惚(うぬぼれ)て、扨(さて)此編(このへん)の筆(ふで)を執(と)り、調度(てうど)九月(ぐわつ)の發兌(うりだし)に、大吉(たいきち)利市(りし)の斧(よき)琴(こと)を、きくを力(ちから)と有(あり)の侭(まゝ)」などと述べている。この「稗史(くさざうし)の廢(すた)れ」は、江戸期からの所謂合巻の衰退を謂っているのである。  
さて、衰退の原因については、「疾(はやい)が勝(かち)の今(いま)の世(よ)の中(なか)。合巻(がうくわん)もまた時世(じせい)に連(つ)れ初編(しよへん)を出(だ)せバ引續(ひきつゞ)いて、二編(へん)三編(へん)結局まで、間(ひま)なく出(だ)さねバ看客(かんかく)方(かた)が、飽(あき)て後(あと)さへ見(み)たまはず」(伊東専三『月雲鳫玉章(つきのくもかりのたまづさ)』、明治十五年春、青盛堂、初編自序)とあるように、長編合巻の冗長な筋立てと長期にわたる刊行が時勢に合わない上に、平仮名ばかりの表記にも起因していたものと思われる。となると、川上鼠邉序「流行(りうかう)の三冊(さんさつ)合巻(もの)の讀切(よみきり)に著(はめ)たる趣向(しゆかう)」(春亭史彦『白糸主水・戀情縁橋本(こひとなさけゑんのはしもと)』三冊、明治十四年、金永堂)などの謂いから、「草双紙(くさざうし)類一代記(いちだいき)讀切(よみきり)本類品々」(明治十一年『五人殲苦魔物語(ごにんぎりくまものがたり)』初編、延壽堂、奥目録)の「草双紙」は(江戸から続く)合巻を、「讀切本」は明治期草双紙(切附本)を意識した謂いであると考えて良いのかもしれない。  
しかし、明治期草双紙を意味する用例としては、「講談(かうだん)に演(ゑん)ずる群馬縣(ぐんばけん)の新説(しんせつ)を繪入(ゑいり)讀本(よみほん)に編輯(へんしふ)せよと需(もとめ)に應(おう)じて」(松林伯圓『新編伊香保土産(しんへんいかほみやげ)』二編、明治十二年一月、松延堂、自叙)や、 「此(この)稗史(はいし)は奇(き)中の奇(き)を示(しめ)して」(岡本起泉『花岡奇縁譚(はなをかきえんものがたり)』初編、明治十五年二月、嶋鮮堂、芳川春濤序)、 「今(いま)流行(りうかう)の三冊(さつ)物(もの)に、……繪草紙(ゑざうし)の、趣向(しゆかう)ハ實(み)ある花(はな)紅(くれな)ひ」(川上鼠邊『腕競心三俣(うでくらべこゝろのみつまた)』三編、明治十三年四月、金松堂、初編魯文序)等が見い出せ、「絵入読本」「稗史」「絵草紙」等ということもあった。(ちなみに『腕競心三俣』三編下冊(八ウ九オ)に金松堂(辻岡文助)の店頭が描かれている。)  
様式的には切附本が先行する明治期草双紙(拙稿「草双紙の十九世紀」、『江戸読本の研究』所収、ぺりかん社、一九九五年)の発生に関して、佐々木亨氏は明治十年に集中的に刊行される西南戦争ものの影響を明証している(早稲田大学モノグラフ21『明治戯作の研究―草双紙を中心として―』、早稲田大学出版部、二〇〇九年参照、初出は「西南戦争と草双紙」、「近世文藝」69、一九九九年)が、一方で江戸以来の伝統を持つ正本写の系譜も考慮に入れる必要があるかもしれない。例えば、「狂言(きやうげん)の筋書(すぢがき)ハ歌舞伎(かぶき)新報(しんぱう)の株(かぶ)に等(ひと)しく尚(なを)亦(また)目今(もつこん)賣出(うりだ)しの諸藝(しよげい)新報(しんぱう)の社(しや)に於(おい)ても活版(くわつぱん)を以(もつ)て直(たゞち)に摺立(すりたて)遅速(ちそく)を争(あらそ)ひ刊行(かんかう)なせバ今(いま)の世界(せかい)に劇場(げきぢやう)の合巻(がふくわん)抔(なぞ)ハ因循(いんじゆん)ならんと版元(ふみや)の主人(あるじ)に断(ことは)りしも是(これ)ハ子供(こども)衆(しゆ)のお眠気(ねむけ)覚(ざま)しに御覧(ごらん)に入(いれ)る草紙(さうし)なれバ画組(ゑぐみ)ばかりで苦(くる)しからずと再應(さいおう)の依頼(いらい)に任(まか)せ聊(いさゝか)餘白(よはく)の埋草(うめくさ)に荒筋(あらすぢ)のみを綴合(つゞりあは)せ……」(竹柴琴咲『御殿山桜木草紙』、明治十四年、榮久堂、自序)とあるが、「劇場の合巻」とは市村座の正本写で十丁二冊もののことである。江戸時代の正本写は台帖風であったが、次第に筋書風に変遷することになるが、紛れもなく合巻体裁(十丁一冊)を継承しているのである。  
実際のところ十丁一冊を単位とする明治期の合巻も少なくないのである。『大久保仁政談』(第一〜四号、各八丁、明治十一年、紅木堂)、『時代模様鼠染色(じだいもやうねずみのそめいろ)』(二十丁二冊、明治十四年、松延堂)、『心筑紫博多今織(しんちくしはかたいまをり)』(十丁三冊、後補奥目録に宮田伊助)、『筑紫潟箱崎文庫(つくしがたはこざきぶんこ)』(二十丁二冊、永島孟齋畫、松延堂)、『梅加賀金澤實記(うめのかゞかなざはじつき)』(二十丁二冊、松延堂)、『伊達評定奥之碑(だてひやうぢやうおくのいしぶみ)』(二十丁二冊、松延堂)、『大久保政談 松前屋五郎兵衛一代記』(二編二十丁、明治十四年、宮田孝助)、『おしゆん傳兵衞・赤縄(ゑにし)の猿曳(さるひき)』(上下二冊各十丁、國政画、明治十六年、関根孝助。後印「明治二十年一月\沢久次郎」)等々、赤色を基調とする安っぽい摺付表紙を備えた草双紙で、多くは大西庄之介(松延堂)板である。これら文字通りの合巻に関しては調査が充分に及んでおらず、今後の精査が必要である。  
新しい様式の明治期草双紙が明治十年代に大量に出され、京阪の活字版や、轉々堂主人『巷説兒手柏(かうせつこのてがしは)』(二編四冊、明治十二年、文永堂)や同『松之花娘庭訓(まつのはなむすめていきん)』(全三冊讀切、明治十二年、具足屋)等を先駆として、二十年代に入ると次第に活版化してゆくことになるが、活版のものは全丁に絵が入っているわけではなく、最早〈草双紙〉とは呼べない。つまり、固より〈東京式合巻(活版草双紙)〉など存在し得なかったのである。その一方で、萬亭應賀の美麗な新刊合巻と平行して、全丁絵入の切附本の如き廉価な合巻が出し続けられていたことも忘れてはならない。  
鄭成功の物語

 

二十一世紀の現在に至るまで、臺灣(中華民國)と中華人民共和国(中国)との双方に於いて、民族的英雄として顕彰され祭祀され続けている鄭成功は、肥前国松浦で日本人の母から誕生したということで、日本に於いても多くの〈物語〉上で民族的英雄として扱われてきた。  
北アジア諸国が国民国家としての近代的再編を果たす遙か以前の十七世紀、大陸に於ける王朝の交代劇で敗れた明王朝の復興に尽力して敗れた勇将への同情と、臺灣から和蘭陀を放逐し西欧列強の植民地支配を打破した英雄への喝采とが混淆したものと思しき臺灣と中国と日本の人々の心情は、決して汎亜細亜主義への憧憬や賛美ではなかった筈である。  
にも拘わらず三つの国に於いて、それぞれ鄭成功を顕彰し祀り続けているという現象は、第二次世界大戦後のギクシャクした隣国間の相互関係の実情から考えるに、頗る奇妙な現象であるといわざるを得ない。このことは、今回の共同研究「北東アジアにおける「記憶」と歴史認識」という視点から見るに、歴史と文学(物語)とに通底する民族的「記憶の記述」という問題系に在って、日本に於ける鄭成功の〈物語〉について考察することは、甚だ大きな問題提起ができる可能性を孕んでいると思われるのである。  
 
鄭成功は、清に拠って滅ぼされた明を擁護し、厦門(アモイ)を拠点として抵抗運動(抗清復明)を続けたが清軍に敗れ、折しも臺灣を支配していた和蘭陀軍を撃破して臺灣の鄭氏政権の祖となった人物である。寛永元(一六二四=天啓四)年七月十四日(同月十五日とも、二十三日とも)に日本の平戸で生まれ、幼名福松、中国名森、字は明儼、号は大木、諡は忠節。父は明の亡命遺臣である鄭芝龍、母は田川七左衛門の娘であった。七歳で単身明に渡り安南県学員生となり江蘇の太学に学んだ。明が滅んだ後、隆武帝の知遇を得て皇帝の姓(国姓)である朱を賜り成功と改名。それゆえ国姓爺として有名であるが、自身は朱成功とは称しなかったという。父芝龍が清に降り、母が安平城で自殺した後、抗清復明の決意を固め南京攻略を敢行したが敗退し、和蘭陀(東印度会社)の拠る臺灣を攻略し、永暦十六〈一六六二〉年五月八日に三十九歳で急死した。(『国史大辞典』石原道博執筆〈鄭成功〉の項等に拠る)  
さて、わが国において鄭成功の〈物語〉が出されたのは、鵜飼石齋『明清闘記』(寛文年中〈一六六一頃〉刊)などが早く、仮名草紙『国性爺実録』や古浄瑠璃六段本『こくせんやぐんき』も見られるが、その後、錦文流の手によって浄瑠璃『国仙野手柄日記』(元禄十四〈一七〇一〉年)が作られ、さらに、近松門左衛門の浄瑠璃代表作である『国性爺合戦(こくせんやかつせん)』(正徳五(一七一五)年十一月に大阪竹本座初演)が著されたが、その際に大喝采を受けて十七ヶ月間にわたる長期興行(ロングラン)を記録し、後代に大きな影響を残した。角書に「父は唐土・母は日本」と見えるように、中国人を父に、日本人を母に持ち、明朝の復興運動を行って清(韃靼)と戦ったとされる鄭成功を題材にして脚色されたスケールの大きな創作であった。結末を含めて歴史上の出来事とは異なる筋の運びとなっている。主人公の「和藤内」という命名は、日本を表わす「和」と中国を表わす「藤」をつけて混血児(ハーフ)であることを表現したもので、「和藤内」を「和」でも「唐」でも「ない」という洒落と解釈する向きもある。  
便宜上、梗概を『日本古典文学大辞典』(今尾哲也執筆〈国性爺合戦〉の項)より引用しておく。  
初段 大明十七代思宗烈皇帝は、酒色にふけって国政を顧みない。その帝のもとに韃靼国の使者梅勒王がきて、寵姫華清夫人を王の后に申し受けたいと申し出る。実は、懐妊中の后を召し捕って、大明の帝の胤を絶やそうとの魂胆である。佞臣李蹈天は上辺に忠義を装い、自分の左眼をえぐり取って韃靼王に献上、帝の危機を救うが、それこそ、韃靼に内通して国を売り渡す一味の印に他ならなかった。帝には栴檀皇女という妹がいる。帝は皇女を李蹈天にめあわせようとするが、皇女は承知しない。その帝に対して、忠臣呉三桂は、李蹈天と韃靼との陰謀をあばき、諫言する。そこへ、梅勒王に率いられた韃靼軍が攻め寄せる。呉三桂はわずかな手勢とともに戦うが、利なく、帝は李蹈天に首をはねられてしまう。妻柳歌君に皇女をゆだねた呉三桂は、后を助け、即位の印綬を持って立ち退くが、后は敵弾に倒れる。呉三桂は遺骸から胎児を取り出して落ちて行く。柳歌君も深手を追いながら、皇女を舟に乗せて沖へ突き出す。  
二段目 平戸の浜。和藤内・小陸夫婦が貝を拾っている。かつて帝に諫言して追放された明の忠臣鄭芝竜は、日本に渡って老一官と名乗り、浦人と契って一子をもうけた。それが、和藤内である。浜辺に、皇女を乗せた舟が流れ着く。その口から大明の危機を知った和藤内と老一官夫婦は、渡明して韃靼と戦う決意を固め、小陸に皇女を預けて舟出する。三人は明に着く。明には、老一官が残してきた娘、今は獅子が城の主五常軍甘輝の妻錦祥女がいる。それを頼って甘輝を味方に付けるために、老一官は出立、和籐内は母を連れ、千里が竹の虎を威服して、跡を追う。  
三段目 錦祥女は形見の姿絵によって老一官を父と確認するが、韃靼王の掟によって三人を城内に入れることができない。母は、自分が虜囚の恥を忍んで城に入り、意志を伝えようと、自ら縛に就く。錦祥女は、願いがかなえば白粉を溶いて黄河に通じる泉水に流し、かなわなければ紅を溶いて流すと合図を決め、母(義母)を中に入れてかしずく。和籐内討伐のために、韃靼王から散騎将軍に任ぜられた甘輝が帰ってくる。明を救うために味方になってくれとの母の頼みを甘輝は快諾。しかし、女房の縁に引かれて味方したといわれては末代までの恥辱と、錦祥女を殺そうとする。母はそれをとどめ、義理の娘を見殺しにしては日本の恥、殺すなら自分を殺して欲しいと哀願、結局、甘輝は和籐内と敵対することとなる。錦祥女は、願いのかなわぬ印に紅を流す。その流れを見た和籐内は城に飛んで帰り、母の縛を解き、味方に付けと甘輝に迫る。争う二人の中に入った錦祥女が、紅の水上はここにと胸を開くと、胸元は血に染まっている。錦祥女は自刃したのであった。甘輝は、その志を汲んで味方になり、延平王国性爺鄭成功の名を和籐内に贈る。母は錦祥女の懐剣を取って自害する。  
四段目 小睦は皇女を連れて明に渡る。一方、呉三桂は、山から山に隠れて太子を育て、九仙山に登り、五年の歳月を過ごす。その間、和籐内は連戦連勝。皇女と小睦を伴って、老一官が九仙山にやってくる。そして、皇女を追ってきた梅勒王の軍勢を、呉三桂とともに打ち倒す。  
五段目 太子は印綬を受けて即位し、永暦皇帝となる。和籐内たちは韃靼王の最後の拠点である南京城を攻め、韃靼王を捕え、李蹈天を処刑。天下は治まる。  
この浄瑠璃が大当たりした要因として、均整のとれた全体構造、用意された多種多様な趣向と見せ場、世話物的要素を取り入れた時代物である点などが挙げられている。スケールの大きな世界に細やかな叙情性を兼ね備えた作品であったことは「古今の人情に通ずる」として『南水漫遊拾遺』(二巻)や『声曲類纂』(巻二の近松門左衛門の条)でも触れられている。『国性爺合戦』の評判は、早くも江戸中期に海外にまでおよび、長崎の通詞である周文二右衛門が「楼門の段」を翻訳して支那へ送ったことが、上記『南水漫遊拾遺』に記されている。  
また、本作は直ちに歌舞伎化され、和藤内の〈荒事〉として演出された。その隈取りは「鴫蛤(しぎはまぐり)の場」「千里竹の場」「紅流(べにながし)の場」と三変し、次第に赤色部分が増えて怒りが高まることを表現している。また、二回用いられる「飛び六法」の引込みも象徴的な荒事芸であった。つまり荒事で表現されるのは主人公の英雄性であり、『国性爺合戦』でも「千里竹の場」では〈虎退治〉の場面が用意されている。日本には生息しない虎を退治することに拠って英雄性を表現することは、加藤清正が文禄慶長の役で朝鮮侵略中に虎退治をした逸話が〈武者絵〉の画題にもなっているし、一休禅師の「屏風絵の虎退治」に関する噺(足利義満が一休禅師に屏風絵の虎退治を依頼すると「捕まえますから虎を屏風絵から出して下さい」と切返し義満を感服させた話)や、『水滸伝』の武松の虎退治、さらには『南総里見八犬伝』の犬江親兵衛に拠る虎退治の挿話など枚挙に遑がない。つまり、明確に『国性爺合戦』の和藤内は〈英雄(ヒーロー)〉として形象化されていたわけである。  
 
さて、近松の『国性爺合戦』は後代に大きな影響を及ぼし、浄瑠璃としては紀海音『傾城国性爺』(享保二〈一七一七〉年)や、近松自身にも『国性爺後日合戦』『唐船噺今国性爺』などがある。一方、浮世草子『国姓爺御前軍談』(西沢一風、享保元〈一七一六〉年、菊屋長兵衛刊)、八文字屋本『国姓爺明朝太平記』(其磧)や、所謂〈通俗もの(漢文書下し体の歴史小説)〉『明清軍談通俗国姓爺忠義伝』(作者未詳、十九巻二十巻、享保二〈一七一七〉年、田中庄兵衛板)が出され、後に絵入読本『繍像国姓爺忠義伝』(前編十三冊、石田玉山、文化元〈一八〇四〉年、柏原屋清右衛門板・後編十冊、好華堂野亭、天保五〈一八三四〉年、柏原屋源兵衛板)として挿絵を多く加えて俗化され、さらに鈍亭魯文の袋入本『父漢土・母和朝 国姓爺一代記』全三編(安政二〈一八五五〉〜文久元〈一八六一〉年、山口屋藤兵衛板)として抄録されている。  
草双紙にも多くの国姓爺ものがあり、黄表紙『国性爺合戦』(寛政六〈一七九四〉年刊)、合巻『国性爺倭談』(東西庵南北、文化十二〈一八一五〉年刊)、『唐人髷今国姓爺』(柳亭種彦)などが知られており、明治に入っても豆本『絵本国姓爺合戦』(明治十九〈一八八六〉年六月、尾関トヨ刊)などがある。一方、歌舞伎の人気に肖って錦絵も多く摺られており『當世見立三十六花撰』というシリーズの「和藤内」(三代豊国)など多数が残されている。  
また『白麓蔵書鄭成功伝』(鄭亦鄒撰 、木村孔恭点 安永三〈一七七四〉年、木村蒹葭堂刊) は、後に河内屋茂兵衛板として再摺されているようであるが、『和刻本明清資料集』第二集(汲古書院、一九七四)に影印が収められている。  
その他、謡曲『和藤内』(宝暦六〈一七五六〉年)を生み、歌舞伎では、河竹黙阿弥の『三題咄高座新作』(文久三〈一八六三〉年)や『国性爺姿写真絵』(明治五〈一八七二〉年)、『唐人髷今国性爺』(竹柴金、明治二十二〈一八八九〉年)が作られた。昭和三〈一九二八〉年には、小山内薫改作の『国性爺合戦』が築地小劇場で上演された。  
注目すべきは、明治期の日清戦争に関連して出された国姓爺もので、『国姓爺討清記』(依田学海、六合館弦巻書店、明治二十七〈一八九四〉年十月)、『通俗征清戦記』(服部誠一、東京図書出版、明治三十〈一八九七〉年九月) 、『国姓爺後日物語』(鹿島桜巷、愛国婦人会台湾支部、大正三〈一九一四〉年)など、日清戦争に重ねられた国威鼓舞色の濃いものである。  
露伴も『鄭成功』(全集十一巻所収)を書いているが、実は現代に於いても、陳舜臣『鄭成功―旋風に告げよ 』(中公文庫、一九九九年)などがあり、国立劇場での『国性爺合戦』の上演も繰り返し行われている。  
さらに、長崎平戸には鄭成功の遺跡「鄭成功居宅跡」「鄭成功児誕石」などが多くあり、「鄭成功まつり」が毎年実施され、台南の鄭成功廟から平戸丸山に分祀された「鄭成功廟」には鄭成功が祀られている。また臺灣にも「鄭成功紀念公園」があり、台南市延平郡王祠では「鄭成功文化祭」が毎年実施されているという。さらに、福建省夏門市鼓浪嶼永春路にも「鄭成功記念館」が〈中華民族の英雄鄭成功の台湾奪回三百周年〉を記念して一九六二年に建設され、鄭成功が兵を率いて和蘭陀植民者を追い払い臺灣を奪回した輝かしい業績を詳しく紹介しているそうだ。  
二〇〇一年には「日中国交正常化三十周年記念」として、日本中国の合作映画『国姓爺合戦』が作成され公開されている。そのサブタイトルは「明から清へ―アジアを救った日本の英雄がいた。\その男の名は、鄭成功」。きわめて政治色の強い映画で、臺灣が中華人民共和国の領土であるという強烈なメッセージが託されたものであった。  
 
以上、国姓爺ものの展開を概観してきたが、これらの十七世紀から現代の二十一世紀に至る「鄭成功の〈物語〉」が孕む問題系は究めて興味深いものであり、日本古典文学研究が安閑として日本文化研究に安住していられないという問題提起を我々に突きつけているものと思われる。  
具体的に分析検討を続けている段階で、いまだ成果を出せないでいるが、取り敢えずは問題の所在を示しておくことにする。なお、斯様なエッセイとして書いたので、参考文献等の詳細な注は付さなかったが、論文として発表する際には細大漏らさず記す所存であるので諒とされたい。  
板本から活字へ

 

わが国における「書誌学」が、たとえ誤訳に由来するものであったとしても(山下浩「[学会報告]「日本近代書誌学」を成立させるために(第一回)」、「言語文化論集」46、1998年1月)、実態的には図書学・図書館学の一部として体系化されてきた歴史がある。所謂「形態書誌学」のみならず、モノとしての書物のありようを言葉で記述するために、深遠な知見が積重ねられてきたことは、決して誰にも否定できないだろう。その結果、個々の書物の実態は「分類」「書目」「年表」という形で整理されて体系化された情報として提供されている。  
尤も、写本に始まり古活字本から板本(整版本)〔敢えて板木を用いて作成されたことを示す場合は「板」を使って「出板」「板本」「板木」などと表記し、一般的な「版」と区別して書くことにしている。〕へというメディアの変遷過程においては、圧倒的に板本以前に関する研究(文献学)が多かった。そして板本も主として漢籍関係の書誌学が先行していたのである。だが、近年になってやっと板本書誌学の体系化に先鞭が付けられた(中野三敏『書誌学談義・江戸の板本』、岩波書店、1995)。それでも、板本の場合にはジャンルごとに異なった知見の蓄積が不可欠であり、人情本などは誰の手にも負えずに放置されている。つまり、板本全般となると、いまだ充分に深化されているとはいえないのが実状である〔例えば、滑稽本については中村幸彦「滑稽本の書誌」(「ビブリア」83、1984)が、読本については高木元「読本の書誌について」(『読本研究』第4輯上套、渓水社、1990)が備わる。斯様なそれぞれのジャンルに特化したマニュアルの整備が望まれる。〕。  
いずれにせよ、書誌学は国文学(とりわけ古典文学)に携わる者にとって、避けて通れない基礎学であった。しかし、日本文学(とりわけ近代文学)の分野では、モノとしての書物に対する研究は等閑に付されてきたようだ。近年になってやっと活字本に関する書誌の問題として俎上にのぼってきた(青木稔弥「尊敬される書誌とは何か」、「日本近代文学」49、1993年10月)。近い将来にはモノとしては実態のない電子本(機械可読テキスト)における「書誌学」にも取組まなければなくなるはずである。しかし、対象とする時代やメディアが違っても、書誌学の基本的な役目は、一つひとつの書物を相対化して時間軸上に位置付けて行く作業の積重ねにあり、そこでは確かな問題意識に支えられた豊富な経験に基づく主観的な判断が不可欠になるはずである。  
ところで、ただちに本文研究に直結しないかに見える日本の「書誌学」は、低レベルな批評的学問に対する図書学派の矜恃とも理解される。が、もとより「文学研究のための補助学」などという物言いは書誌学に対して僭越至極である。何故なら、書誌学自体が奥行きの深い完結した学問体系を持っているからである。モノとしての書物には、書誌学者が見ないと到底発見不能な諸問題が秘められているからである。  
したがって、国文学研究資料館のプロジェクトから発展したと思われる『日本古典籍書誌学辞典』(岩波書店)の企画も、大勢の国文学者の分担執筆によって進められているが、見識ある書誌学者によって全体が体系化されないと、無用な混乱を起してしまうのではないかと危惧される。  
 
近世文学研究における書誌学の位置は、少しづつ変わってきているように思われる。  
板本の書誌学的吟味は、基本的には現存本の諸本研究につきるわけであるが、これを通じて様々な問題を発見することができる。作者の手になった種本は検閲され校合を経て摺られ製本されて発兌される。時に貸本屋を通して流通した書物は、やがて一部を手抜きして後摺されたり、板木が他の板元に売られた結果として改題されたりして、さらに異なった板や摺りのテキストが流通する。評判が良ければ他ジャンルに移植されたり、演劇の種本になったりすることもある。斯様な流行性の商品の常として、残存している多くのテキストは粗悪な後摺本が多いわけである。基本的に、著作権がなかった時代ゆえ「作者」の意図が直接反映していると思しき板は初板初摺本に限られると思われるから、今までの書誌学的研究では取敢えず初板本捜しが目的であった〔近世小説における底本選びは、本文というよりは、寧ろ挿絵に初摺本の特徴を求める場合が多いかもしれない。後摺本になると重摺りの技法を省いた本が多いからである。〕。  
近世が出板の時代だといわれて久しいが、具体的な書物の物理的状態の記述から出発した書誌学は、印刷製本術や表紙の具合など具体的な本作りの技術に対する興味から、板元の位置や分業体勢の仕組みなどという出板の問題に出会い、さらに出板物のみならず写本の流通を媒介した貸本屋の業態に関する研究へと展開してきた。すなわち、作者や板元という供給側に関する問題から、享受のありように関わる流通の問題へと広がってきた。そして、一旦享受史の側に立てば流布しているテキストの諸相こそが問題になるから、当然の帰結として、書誌調査は初板本探求に留まらず後摺本や改修板・再板などへと広がり、さらに明治期以降の活字本翻刻本に関する調査も欠かすことができなくなってきた(高木元「〈読本研究の五十年と今後〉書誌」、『読本研究』第9輯、渓水社、1995)。  
このようにして、出板研究は、必要以上に神格化されてきた「作者」の位置の相対化を促し、「作品」とは紛れもなく一商品に過ぎないという観点から、徹底的に流布相を明らかにした上で、改めて作者や板元の個性の問題を冷静に論ずる必要があることを認識させた(高木元「江戸読本の成立」「江戸読本享受史の一断面−明治大正期の翻刻本について」、『江戸読本の研究 −十九世紀小説様式攷−』、ぺりかん社、1995)。それは、先験的な価値を幻想させる〈文学〉なるものの研究から、書物をめぐる〈文化〉状況に対する研究へと、興味が変質してきたといっても良いかもしれない。  
したがって、現在は簡単に「書誌学」とはいっても、書物をめぐる問題の周縁、とりわけ出板流通享受に関る研究などとも関連を持ちつつある。とりわけ近世については広い視野と研究の展望を切拓く指針となり得る研究文献目録が整備され、その全貌が見渡せるようになった(鈴木俊幸『近世書籍研究文献目録』、ぺりかん社、1997)。この目録は、現在までの研究史では作者や版元という書物を供給する側からの研究に終始し、享受の側からの視座が欠落していること、所謂文学書以外の実用書や摺りもの、さらには出板を経ないで流通していた写本などを顧みてこなかったことなどの問題を先鋭に提起している。  
また、最近幾つかの雑誌で「出版」が特集されたが〔「江戸文学」15・16号〈江戸の出版I・II〉、ぺりかん社、1996。「國文學」42-11〈近世の出版−本屋と作者−〉、學燈社、1997年9月。「本とコンピュータ」2号〈電子出版は未来を開くか?〉、トランスアート、1997秋。「文学」9-1〈出版文化としての近代文学〉、岩波書店・1998冬など。〕、各誌の目次や構成を見ると、昨今の研究状況に対する編集企画者の認識具合(低度)が良く分かる。  
 
近代文学においては、全集の底本選定と云う問題が本文研究の当面の課題のようだが、近世文学においては板本の本文に関しての問題は余り深刻ではないかもしれない。たしかに板本は入木(象嵌)による修訂が容易であり、現に改修された本も少なくないが、本文に関するかぎり明治十年頃まで(紙型が用いられるようになったのは明治九年頃か、正確には未調査。)の活版に見られるほどの著しい異同はないからである。  
ただ、稿本と板本(初摺本)とに異同が存する場合は、検閲による本文改修の疑いがあり、厳密に調べてみる必要がある。とりわけ、天保末年の改革前後は注意を要する。本文のみならず、挿絵の役者似顔絵が削られて直されたりするように、表紙絵や挿絵には見るも無残な(自主)規制の痕跡が見て取れる(これは、どう考えても「作者」の〈意図〉からも遠く隔たったものである。)。また、上方と江戸とでは規制の程度が相違しており、比較的規制の緩かった上方出来の読本を江戸で売る場合には色板が省かれたりし、場合によっては書名の改変すら行われていた(佐藤悟「読本の検閲」、『読本研究』第六輯、渓水社、1992)。  
研究に用いるテキストとしての底本は、諸本書誌調査の結果に基づいて適切な善本を底本として選べば良いのであるが、影印本の底本に用いる場合は保存状態や落書の有無なども問題になり、一概に一番早い摺りの本が写真原稿に適するとは限らない。ことは影印本に限らず、完璧な一本が残存することは稀であるから、翻刻する場合でも同様の問題が存し、破れや掠れなどの不鮮明な部分は摺りの遅い他本から補う必要が出てくる。その際、後摺本に改変が加えてられないか、改刻(覆刻)本ではないかの吟味が必要になる。近世期は火災が多く、焼けてしまった板木だけを部分的に再刻(覆刻)したり、再板に際して編成を替えたり、流行らなくなった挿絵の画風を嫌って挿絵だけ描き直して再刻した異板などが存するからである。  
また、仮名遣いは当然として、句読点や濁点などにも統一的な規範意識が稀薄で、登場人物の表記が無節操に変わることも珍しくない(ひどいものは、死んだはずの登場人物が再び出てきてしまったりする。)。したがって、校訂者は可能な限り本文には手を入れずに翻刻するか、もしくは、現代の読者に読みやすい本文を提供するために、厳密さを捨てて、常用漢字を用いて句読点や会話の括弧を補ったりするという凡例をたてることが多いのである。ただし、草双紙は絵が重要なので原本の写真を可能な限り大きく掲げた上で、翻刻には適宜漢字を宛てることが普通になっている。  
造本工程から考えれば、稿本を筆耕が清書して板下を作成し、彫工が板を彫り、校合を経てから製品になるわけであるから、筆耕や彫りの過程での誤りや、校正洩れなどの不都合が考えられる。活版における編集者による原稿整理やリライト、また文選植字のプロセスとは異なり、基本的には作者の制御下で造本されると考えてよいように思われる。ただし、筆まめな馬琴以外の作者の場合、果たしてどの程度造本に関与していたかは資料に乏しく、むしろ作者の関与を離れて粗製乱造された地本も多かったものと思われる(「八犬伝第九輯中帙附言」参照。)。つまり、読捨てられた流行性商品としての近世通俗小説における本文は、かなりいい加減なものと考えておいた方が無難で、厳密な意味で作者の意図した本文の復元など不可能だし、あまり意味を持たないかもしれない。  
一方で、幕府の禁忌に触れるような内容を持つ実録体小説などは、板本として出板できずに写本で流布した。これら写本は、近世以前の語りものや『平家物語』などのように、多くの異本群が流布しているので、現存本の叙述の疎密や挿話の有無などを詳しく検討する必要がある。これら浮遊するテキストには、固定すべき正しい本文などはあり得ず、まして「作者の意図」を復元することは不可能である。板本の時代と呼ばれた近世期に、一方で写本が確実に商品価値を保持して貸本屋を媒介して流布していたことは注目に値する。さらに重要なのは、これら近世期には出板不可能だったテキスト群が、明治十年の半ば頃、活版印刷技術が成熟した後に榮泉社版「今古実録シリーズ」などとして大量に翻刻されて出版されたことである。  
活版印刷の揺籃期である明治五年頃からボール表紙本の出版が確認されているが、同時に和装の活字本の形でも近世小説が大量に翻刻出版されている。これらの現象は、新しいメディアに拠って供給すべきテキスト(商品)の不足を補うものと考えて良いだろう。また、気になるのは俗に「赤本」と呼ばれた速記本講談小説である。こちらは高座での語りを髣髴とさせる口語体で記された実録体小説種の読み物である(高木元「意味としての体裁」、『江戸読本の研究 −十九世紀小説様式攷−』、ぺりかん社、1995)。  
 
わが国の十九世紀小説を質量ともに代表する江戸読本、その魅力は伝奇的な起伏に富んだ筋の運びだけではなく装幀や挿絵にも存する。味気ない縹色無地表紙で、いかにも書物然として流布していた十八世紀の浮世草子や前期上方読本に対して、江戸読本は次第に色摺りで華やかな意匠を凝した表紙を持つに到る。袋こそあっさりとした文字だけのものが多かったと思われるが、見返にはさり気なく内容に則した飾り枠などを用い、繍像には主な登場人物を描いてその運命を暗示する賛が入れてある。多くは漢文序を備え、目録は章回体小説に擬した独特の様式を持ち、さらに本文中には時に刺戟的な画柄の挿絵が入れられていた。  
斯様な江戸読本の気取った華やかさは、読者に対する本自体の自己主張として意識的に造本された結果である。ひとたび手にとってみると、重ね摺りを施した華麗な口絵は展開を暗示し、目録は大まかな筋を示し、さらに挿絵に一瞥を加えると、もう読まずには居られなくなる、という具合に本が造られているのである。きわめて単純化してしまえば、同時期の草双紙が絵外題簽から錦絵風摺付表紙に移行していったように、商品としての魅力を持たせるための所為と見做せるかもしれない。  
しかし、作品内容と体裁とが不可分な関わりを持ちつつ各ジャンルを形成していた近世文芸にあって、比較的格調高く堅い雰囲気を保持しようとした江戸読本が、何故に派手な装いを持つに到ったのであろうか。おそらく〈読本〉という名称とは裏腹に、単に筋を読むだけのものから、次第に口絵や挿絵という視覚的な要素の比重が増し、現代の読者たちと同様に、モノとしての本自体の美しさをも愛玩するように成ったからであろう。本というモノは本質的に手で弄んで読むものであり、単に文字列が記されていれば良いという実用品ではないのである。  
近世文芸が様式性を強く保持していたことは周知の通りである。大本半紙本中本という書物のサイズや仮名漢字片仮名という表記の使い分けは、その内容を反映し、かつ規定もしていた。ところが、江戸読本においては、板型はもちろんのこと、行数や字詰めというレイアウト、匡郭の有無、句読点の有無、基本的には総傍訓であった漢字の左側にわざわざ意味を付したり、本文の中途で二行細字の割注を入れたり、時には頭注を付け加えたりして、学問書の板面を真似たりした。  
また、序文だけ院本風の板面を持ったり、道行きの場面に浄瑠璃本書体が用いられたりする例も見られる。谷峯藏氏は「各職域独特の書体書法を索定、それらを各自に自己職域のロゴタイプ、またタイプフェイスに固定している」(谷峯藏『日本レタリング史』、岩崎美術社、1992)と述べており、江戸文字という構成書体(タイポグラフィ)に総括されている書体書法の独自性を、その社会的アイデンティティの主張として捉えている。この視点は、はなはだ示唆的で、近世小説が各ジャンルごとに異なる印刷書体(タイプフェイス)を持っていたことの意味を、そのジャンルの独自性の主張、もしくは、そのジャンルへの帰属意識の表現として捉えることができる。つまり、江戸読本における引用の織物(インターテクスチュアリティ)としての浄瑠璃を、板面(テキスト)上で顕在化させていると見ることができるのである。  
一方、繍像や挿絵もその魅力の一端を担っていたが、本文を囲う匡郭の上部数丁にわたって陰火が飛んでいく絵が描き添えられたり、本文の一部に挿絵が入り込んだり、場合によっては本文の上から朱摺りで絵が加えられたりもする。このように、江戸読本は視覚的享受を期待して、文字と絵とが融合された板面(テキスト)を持っているのである。それゆえ、ピクチャレスクに関する議論が江戸小説におよぶ場合(高山宏『黒に染める − 本朝ビクチャレスク事始め』、ありな書房、1994。高山宏編『江戸の切口』、丸善ブックス1、1994など。)、対象化されるのは本文の文字列だけではなく、タイプフェイスや本文のレイアウトなど板面全体なのである(府川充男『組版原論』、太田出版、1996。西野嘉章編『歴史の文字』、東京大学総合研究図書館、1996など。)。  
ただし、これら板面(テキスト)に刻まれた情報は原本につかなければ得られない。活字翻刻本は当然のこと、たとえ影印本であっても、色摺りの部分がわからなくなったり、落書と印字との識別が不能になったりする。つまり、写本板本活版本というメディアの変換に伴って、必ず何らかの情報が欠落し、かつ別の情報が付け加えられるのである。たとえば、活字本では板本『雨月物語』と写本『春雨物語』の区別はつかない。  
草双紙における書式について水野稔氏は「男女の見染めと契り、強悪人の横恋慕から殺害、宝物の紛失、悪人の惨虐の累加、孝子の受難、密通と悪計、怨念と執念と怪異、亡霊の告げと冥助、敵の遊蕩、討手の辛苦、仇討本望の成就、紛失の宝物出現、家中の陰謀の暴露、誅罰、肉親の不測の邂逅、婚姻と大団円」(水野稔「京伝合巻の研究序説」、『江戸小説論叢』、中央公論社、1974)と指摘しているが、江戸読本の場合も同様である。もちろん、演劇の分担執筆を可能にしている〈世界〉に依拠している部分も大きく、それを含めた書式と考えてよい。  
したがって、江戸読本というジャンルを構成しているのは、じつはその形式的体裁にほかならなかったのであり、決して内容ではなかった。多くの読者たちが読んだのは、たとえば勧懲などという主題ではなくて、その書式(フォーマット)そのものだったからである(ロジェ・シャルチェ『書物の秩序』、長谷川輝夫訳、文化科学高等研究院、1993)。この本は VHS版のビデオカセットかと見紛う半透明のプラスチックケースに入れられており、そのありよう自体が体裁と中身の問題を顕在化している。)。  
流通(コミュニケーション)が書物(メディア)の持つ機能であるとすれば、商品価値こそがメディアとして機能している書物の実態である。すなわち書物がメディアたりうるとすれば、それは商品価値を持つからにほかならない。 
「八犬伝」を読む / 文学史上の位置づけ

 

みなさん、こんにちは。今日は「八犬伝」、精確には『南総里見八犬伝』と云いますが、このテキストをめぐる問題、とりわけ文学史における問題についてお話しいたしましょう。  
『八犬伝』は、近世文学において最も格調の高かった読本(よみほん)と呼ばれる本格的な小説ジャンルを代表する長編史伝物の最高傑作です。我が国の小説史上の雄編で全九輯九十八巻百六冊にも乃びます。  
作者は一般に「滝沢馬琴」と誤った呼びかたで伝えられていますが、馬琴という人は自らの著作物に署名する時に「滝沢」と云う本姓を使うことは決してありませんでした。ですから、作者としては原本にあるように「曲亭馬琴」という戯号で呼ぶべきです。ちなみに「曲亭」の「曲」は作曲の「曲」、「亭」は亭主の「亭」と書きます。  
たとえば、式亭三馬のことを「菊池三馬」とは呼ばないし、十返舎一九のことを「重田一九」とは呼ばないのと同じことで、本姓プラス戯号である「滝沢馬琴」という呼び方は正しくないのです。おそらく、日記や手紙を膨大に書き残したこともあり、本名「滝沢興邦(おきくに)・解(とく)」という人物に注目が集まって伝記研究が先行したという事情と、明治期の作家達が「夏目漱石」と云うように本姓プラス戯号と云う使い方をした影響だと推測されます。  
それにしても、いまだに教科書や副読本などに「滝沢馬琴」と記す不見識なものが存在しており、はなはだ困ったことだと思います。一見、些細な問題のようですが、特別に人称についてはうるさかった馬琴のことですから、草葉の陰から憤懣やるかたなくしていることと思います。  
さて「八犬伝」は、その曲亭馬琴に拠って、文化十一(一八一四)年正月から天保十二(一八四一)年八月まで、ということは四十八歳から七十五歳に至るまでですが、その二十八年間の長きに渉って断続的に執筆されました。生涯の苦楽を尽くしたライフワークといってもいいでしょう。その道程では、板元が二度変わり、最愛の息子「宗伯」に先立たれ、自らも失明してしまい、妻にも先立たれます。最後は、亡き宗伯の妻である「お路」の口述筆記によって、やっと完結に至ったという逸話は、どこかでお聞きになったことがあるでしょう。  
おそらく、みなさん方の大部分が、この『八犬伝』というタイトルと里見家にゆかりを持つ「犬」を姓に持つ八人の犬士達が大活躍するという概略はご存知だと思われますが、実際に原文で読み通された方は、どれほどいらっしゃるでしょうか。テキストは、岩波文庫に全十冊で収められていますので比較的入手しやすいのですが、実際に手にされた方でも、全十冊を読破するには大変な時間と労力が必要ですので、前半の列伝部までで頓挫されてしまった方が多いのではないでしょうか。  
かつて、馬琴が「読まれざる文豪」と呼ばれたことがあります。近年になって数少ないテキストではありますが『近世説美少年録』が小学館の「新編日本古典全集」三冊に収められ、『開巻驚奇侠客伝』が岩波書店の「新日本古典文学大系」に収められるなど、注釈付きの精確な本文が挿絵付きで出版されました。しかし、現在のところ「八犬伝」には注釈付きの完全なテキストはありません。「馬琴全集」の企画も聞きませんから、馬琴が「読まれていない」と云う状況は何一つ変わっていないのかもしれません。  
その一方で、原本テキスト以外のメディアを通じて、「八犬伝」をご存知の方も多いではないでしょうか。年配の方であれば、犬士の列伝風に語られた講談本や、しばしば上演された歌舞伎、または東映映画『里見八犬伝』第一〜三部(一九五九年)などを通じて、中年の方々の大部分は、石山透脚本一九七三〜一九七五年にNHKで放送された人形劇『新八犬伝』や、鎌田敏夫脚本の角川映画『里見八犬伝』でしょう。お若い方ですと、横内謙介による斬新な台本と市川猿之助演出主演のスーパー歌舞伎『八犬伝』(新橋演舞場、一九九三年初演)や、アニメの原作として出発したコミック版である碧也ぴんく『八犬伝』全十五巻(角川書店、一九八九〜二〇〇二年)などが多いかもしれません。この他にも子ども向きから大人向きまで、実に数多くのダイジェストが出版されていますし、影響作というかアナザーストーリーとしてのテキストも数多く出されています。  
ところが、この現象はとくに近現代に始まったことではありませんでした。既に、江戸時代においても、全ページ絵入りで平仮名ばかりで書かれた『仮名読八犬伝(かなよみはっけんでん)』(三十一編、二代為永春水・曲亭琴童〈お路(みち)〉・仮名垣魯文、嘉永元〜明治元)や、『雪梅芳譚犬の草紙(せつばいほうだんいぬのそうし)』(六十編、笠亭仙果抄録、嘉永元〜明十五)をはじめとする「草双紙」と呼ばれるメディアや、歌舞伎狂言に脚色された上演や、浄瑠璃本『花魁莟八総(はなのあにつぼみのやつぶさ)』、常磐津正本『八犬義士誉勇猛(ほまれのいさおし)』や、俳書『狗児草』や狂歌本などがあり、さらに錦絵と呼ばれた浮世絵で、二代目国貞画「大錦絵・八犬伝犬廼草紙」全五十枚シリーズや、芳流閣などの名場面集があり、そのうえ、「八犬伝双六」なども出されていました。他にも、鈍亭魯文による切附本『英名八犬士』八編など数多くのダイジェストや、為永春水に手になる『貞操婦女八賢誌(ていそうおんなはっけんし)』などの作り替えものや、艶本化された『恋のやつふぢ』に至るまで、数多く出板されていました。そして、多くの人々がそれら原本以外のメディアを通じて「八犬伝」を享受してきました。ですから、単に「八犬伝」と云っても実に様々なバリエーションが存在し、それらを通じて現在に到るまで多くの人々に享受され続けてきたわけです。  
文学史を問題にする時には、このような享受の諸相に想いを馳せる必要があると思います。  
なお、八犬伝関連の資料の蒐集で有名なのが千葉県の館山市立博物館です。原本は勿論のこと、様々な関連資料の所蔵量では今のところ日本一ではないでしょうか。多数の資料が定期的に入れ替えられて常設展示されていますので、機会があれば足をお運びになると良いと思います。  
ここで、少し原本に関するお話をしたいと思います。  
江戸時代は出板が盛んになった時代として知られていますが、それは印刷技術の進歩だけではなく、商業の発達に見合った形で流通機構が整備された結果です。江戸時代の最初には、もっぱら寺などが自家用として本を印刷し供給していました。その後、不特定多数に向けて流通させることが可能になっため、書物に商品としての価値が生まれ、出板と云う業体が発展したのです。もちろん、リテラシィの向上に拠る読者層の拡大という要因も無視できないと思います。  
江戸時代も後半になると、江戸の地に於いて「地本」と呼ばれた「草双紙」や「錦絵」など安価な本は地本問屋の管轄となり、大量に出板販売されることになります。一方、以前から上方を中心に流通していた書物問屋の管轄する「物の本」には高価な書物が多く、貸本屋が流通の媒介を担ってきました。このような状況の中で、十九世紀に入ると、江戸の貸本屋が江戸読本という新たなジャンルのプロデュースを始めます。貸本屋は現在のアンテナショップのように、流通の最先端を敏感に知ることが出来る位置にありましたから、新たに流行性の商品としての「江戸読本」を企画プロデュースすることが容易にできたのです。  
例えば、鶴屋喜右衛門という板元が、当時の流行人気作家であった山東京伝と、新進気鋭の作家であった曲亭馬琴との読本を、まるで競わせるように相次いで出板し、江戸読本の流行を演出したことが分かっています。その際、特徴的なことは、従来、縹色(はなだいろ)無地に、題名を記した短冊形の紙を貼っただけの地味な体裁であった本に美しい意匠が凝らされ、色とりどりの装飾が加えられたということです。読者に対する本の「自己主張」と云っても差し支えないでしょう。これは、一人でも多くの人に、手に取って読んで貰いたいと云う、文字通り「商品」としての本ゆえに必要なデコレーションだったのです。「八犬伝」も輯毎に犬をあしらった意匠の美しい表紙が備わっています。  
余談ですが、今回のお話では画像資料が一切使えなかったのが残念です。具体的なモノについての話の場合は、視覚資料が大変な有効性を持つからです。以下、お話しする内容も言葉だけではうまく伝わらないかも知れませんが御容赦下さい。  
さて、本の出板に関する先行投資やプロデュースは、板元である貸本屋側の才覚で進められたのですが、実際の現場で本を作り上げたのは「作者」でした。その作業は、本文の記述だけではなく、挿絵の下絵、見返や目次のデザイン、板元の広告文にいたるまで、本の隅々まで、全て「作者」の指示で作られていったのです。このことは、現存している「稿本」と呼ばれる「自筆原稿」と、実際に出板された「板本」とを比較すれば、一目瞭然です。特に、馬琴の場合は細かくて、口絵の下書きに「老人ひとがらよく」などという画工に対する指示を、こまめに朱筆で加えています。  
ところで、『八犬伝』のように板木によって摺られた本のことを「板本」と呼んでいます。この板本が出板されるまでの手順を簡潔に紹介しておきます。作者の書いた原稿すなわち「稿本」は、仲間行事の検閲を経てから、「筆耕」と呼ばれる職人の手で清書されて板下となります。一方、「画稿」と呼ばれる下絵は浮世絵師が担当する画工に渡され、挿絵の板下が描かれます。この板下を桜の木で作られた「板木」に裏返して貼り付け、彫刻職人である「彫り師」が彫るわけです。できあがった板木は、摺り師の手に渡って摺られます。ここで「校合」いま云うところの校正が何回か行われたようです。作者の訂正が朱筆で入れられた、現存している「校合本」を見る限り、間違えの訂正だけで、所謂「推敲」が行われた形跡はありません。間違えた部分を削り取って入木し、「象眼」を施して訂正をしたのです。これが終わると、正式に摺りの作業に入り、摺られた紙は半分に折られて、表紙を付けて、糸綴じ製本されて、「袋」に入れられて売り出されるわけです。なお、この「袋」とは、毎輯ごとに何冊か(普通は五冊)を帯状に、海苔巻きのように巻いたもので、紙袋のようになっているわけではありません。  
このような按配ですから、出板とは云っても、いわば「家内制手工業」のような仕組みで生産されていたわけです。とりわけ、初摺りと呼ばれる最初のロットは板木も摩耗していなく、ことさら入念にこしらえられるため、手工芸美術品と云っても良い程に、それは美しいものでした。現在、この出板された当時の初摺本を彷彿とさせる程に刷りの状態も保存状態も良い本はめったにお目に掛かれませんが、八犬伝の場合は国立国会図書館に馬琴の手沢本が所蔵されており、この本は比較的ウブな状態を保ったものです。  
以上の説明でお分かり頂けると思いますが、「本」と云うものは単に本文が読めれば良いと云うモノではないのです。とりわけ『八犬伝』は、表紙の意匠から始まって文字も絵も含めて、板木によって摺られた板面の全てが読むべきテキストとして存在しているのです。ですから可能な限り早い刷りの、それも保存の良い原本で読みたいものですが、現実的には大変に難しいことです。岩波文庫本の『八犬伝』は、残念なことに、表紙も見返も刊記や広告も図版が入ってません。最近出版された新潮社版『南総里見八犬伝』は、大きな活字で読みやすく刊記や広告の翻刻も入っているのですが、残念ながら表紙の意匠が分かるカラー写真図版は入れられていません。  
この様に良い本にこだわるのは、単にマニアックな欲望からだけではありません。著作権の無い時代ですから、初板初摺本にしか作者の意図が直接反映しなかったと考えられるからなのです。また、当時の板元の賢しらで、後摺になってから摺り手間を省いて薄墨や艶墨板の使用が止められたり、場合によっては、分冊されたり、改題されたり、挿絵そのものが省かれてしまっている例すら見受けるのです。『八犬伝』の場合も、七輯巻五に折込まれていた「闘牛図」は早い段階で省かれていますし、七輯巻四の挿絵中に薄墨で入れられた浜路の亡霊は後摺本では埋木してつぶされています。したがって、初板初摺の状態の確認は、正しい読解のために是非とも必要な手続きであるといえましょう。  
ただ、その一方で、享受の問題を考えた場合、初板初摺本を手にして読んだ読者は非常に限られていたものと思われます。現在に至るまでで、一番ポピュラーで多くの読者が読んだテキストは、間違いなく新旧の岩波文庫版テキストだといえるからです。さらには先程お話しした通り、原本以外の「読者」は更に多いと予想されます。つまり、テキストの問題としては、最初の板本についてのみならず、後摺本や原本以外にも広い視野が必要であるということになります。
この辺で八犬伝の内容に話題を移しましょう。  
八犬士の名前は『合類大節用集』という辞書の「巻十・数量門」に、「里見八犬士」として「犬山道節・犬塚信濃・犬田豊後・犬坂上野・犬飼源八・犬川荘助・犬江親兵衛」の名が挙げられています。しかし、八犬士の行跡にについては伝えるところがなかったので、里見氏の事跡を伝える『房総志料』や『里見軍記』などに拠って時代背景を考証して、その世界に野史として『八犬伝』を虚構したのです。  
物語の発端部は、所謂「伏姫物語」と呼ばれて、肇輯巻一第一回から二輯巻二第十四回まで、独立した物語を形作っています。簡単に要約してみましょう。  
安房国の滝田城では、山下定包が主君・神余(じんよ)光弘を奇計をもって討って主家横領を謀り、主君の愛妾玉梓を妻として富貴歓楽をきわめていました。その定包を狙う忠臣金碗八郎は、嘉吉の乱に破れて安房の国に落ち延びた、里見義実に出会い、定包を滅ぼします。義実はひとたびは玉梓を許そうとしたのですが、金碗八郎の諫めで断罪します。しかし、玉梓は深く怨んで、里見と金碗に長く祟ることを口走って死にます。  
その後、金碗八郎は故主神余(じんよ)対する義によって切腹しますが、一子金碗大輔を、義実が面倒見ることを約束します。義実はやがて妻を娶って一女伏姫と一男義成をもうけますが、伏姫は三歳になってもものが云えません。ある日、役行者の化身と思しき翁が姫を相し、仁義礼智忠信孝悌の八字を彫った水晶の数珠をお守りとして与えます。そののち、姫は美しく健やかに成長します。  
そのころ近村の百姓の子犬が牝狸に育てられるという噂がありました。義実はその犬を召して八房と名付け、伏姫の愛玩犬とします。しばらく後、凶作で疲弊していた滝田城は、隣国の安西景連に攻め込まれ、落城寸前でした。義実は愛犬八房に向かって「敵将景連の首を持ってきたら娘をやる」と戯言(たわむれごと)を云います。ところが、八房は本当に景連の首を銜えて戻ってきてしまいます。動揺した敵陣に逆襲に出た義実は、大勝利をおさめ、結局、安房国四郡を統治下におさめて仁政をひきます。  
その日以来、八房は只管伏姫を求めるようになります。怒った義実が八房を殺そうとすると、娘伏姫は「主君たる者は信義を果たさなければならない」と諫め、父の言葉を成就するために、冨山(とやま)へと、八房に伴われて行きます。数珠の文字は、何時しか「如是畜生発菩提心」と変わっていました。山中では、読経三昧の日々を送るのですが、妖犬八房の「物類相感」による気を受け、懐胎してしまいます。偶然訪ねてきた父と金碗大輔の前で、その身の潔白を証すために、自らの腹を裂きます。すると白気が立ちのぼり、「仁義礼智忠信孝悌」という文字に戻った八つの玉が飛散します。大輔はその場で剃髪し「ヽ大」の名乗って、飛び散った玉の行方を尋ねる旅に出るのでした。  
この玉が飛び散るという趣向は、有名な中国白話小説『水滸伝』発端部に拠るものです。しかし、ここで注意したいのは、義実の二度に及ぶ《失言》が『八犬伝』物語の発端部を動かす大きな契機として書かれている点です。一度は「許す」と云ったにも関わらず結局は討つことを命じたという《失言》は、「人の命をもてあそんだ」と玉梓の怨念を発動してしまいます。その結果、八房に伏姫が伴われると云うことになるのです。しかし、そのことが無ければ八犬士が生まれる契機となる八つの玉が飛び出すことにも成らなかったわけで、馬琴は良く「禍福は糾ふ縄の如し」(『史記』南越伝)、「人間万事塞翁が馬」(『淮南子』人間訓)、「福の倚る所、禍の伏する所(倚伏)」(『老子』五十八章)、「盈つれば虧くる」(『史記』蔡沢伝)などという故事を用いて繞り行く因果を言い表しています。  
そういえば、「名詮自性」と云うのも『八犬伝』の構想に深く関わる方法です。例えば「伏姫」の「伏」と云う字は人偏に犬と書きます。したがって、人間でありながら犬に従っていく運命だったと馬琴は説明するのです。同様に、「八房」と云う漢字を解体すると(ちょっと苦しいのですが)「一つの尸八方へ散る」と成るわけです。つまり、名が体を表すと云う単純な「名詮自性」は、『八犬伝』においては、アナグラム(文字の謎)として、緻密に構想化されているということができるでしょう。  
発端部に登場する役行者には、大島から富士山に海上を渡って通って修行したと云う説話が『日本霊異記』などに見られます。となると「富山」は富士山を思い起こさせます。この発端部の典拠として『富士山の本地』を置いて見ようとする信多純一氏の所説があります。其処には獅子に乗る女仙も登場し、八房に騎乗する伏姫のイメージとの類似も指摘されています。さらにこのイメージは、後に女装している犬塚信乃が与四郎犬にまたがって馬術を修行すると云う趣向の挿絵にまで影響を与えているのです。  
伏姫物語では結ばれることのなかった伏姫とヽ大は、「義烈の一婦一夫は八士の父母」と本文にもありますが、孤児達の物語とも云うことの出来る八犬士列伝において、幻影としての父母となっていると見ることも出来るかも知れません。この玉を所有する八人の少年たちは、名字に「犬」の一字がつきます。すなわち犬塚信乃、犬川壮介、犬山道節、犬飼現八、犬田小文吾、犬村大角、犬坂毛野、犬江親兵衛で、いずれも体のどこかに牡丹形のあざを持っています。不思議な因縁を持つ、この犬士たちが邂逅離散を繰り返していく中途、古那屋の段などにおいて、ヽ大は八犬士と里見家との縁を知らせる役目を果たし、伏姫は伏姫神として犬士達を援護し、ついには安房国に集結して里見家に仕え、対管領戦の重鎮となり、完全な勝利をもたらすことになるのです。  
さて、ここで少しだけ本文を声に出して読んでみることにします。富山の段と呼ばれている、八房に伴われた伏姫の冨山での生活の様子を述べた部分です。(【注】音の問題なので敢えて現代仮名遣いの平仮名で表記する。)  
ぢょくせぼんなうしきよくかい、たれかこぢんのかたくをのがれん。ぎおんしょうじゃのかねのこえは、しょぎょうむじょうのひゞきあれども、あくまでいろをこのむものは、きぬぎぬのわかれをおしむがゆえに、たゞこれをしもあたとしにくめり。さらそうじゅのはなのいろは、じょうしゃひっすいのことわりをあらわせども、いたずらにかをめずるものは、ふううのすぎなんことをねたむがゆえに、ひとえにえんねんのはるをちぎれり。かんずればゆめのよ、かんぜざるもまたゆめのよに、いずれかまぼろしならざりける。おもいうちにあるものは、りうげのさんえにあうといえども、ぼんぶしゅつりのちょくろをしらず。さめてまたさとるものは、こけつりゅうたんにありといえども、ゆかじょうじゅのけらくおおかり。かくまでによを思ひすてて、とやまのおくにふたとせの、はるとしあきをおくるかな。  
さてもさとみぢぶのたいふよしさねのおんむすめふせひめは、おやのため、またくにのために、ことのまことをたみくさに、うしなわせじとみをすてて、やつふさのいぬにともなわれ、やまじをさしていりひなす、かくれしのちはひととわず。きしのはにゅうとやまかはの、さやまのほらにますげしき、ふしどさだめつふゆごもり、はるさりくればあさとりの、ともよぶころはやえかすみ、たかねのはなを見つゝおもう、やよいはさとのひなあそび、うないおとめがみかもなす、ふたりならびいけさぞつむ、なもなつかしきはゝこぐさ。たがうちそめしみかのひの、もちいにあらぬひしかたの、しりかけいしもはだふれて、やゝあたゝかきこけごろも、ぬぎかえねども、なつのよの、たもとすゞしきまつかぜに、くしけずらしてゆうだちの、あめにあらうてほすかみの、おどろがもとになくむしの、あきとしなればいろいろに、たにのもみぢばおりはえし、にしきのとこもかりそめの、やどとしらでやしかぞなく、みさわのしぐれはれまなき、はてはそこともしらゆきに、いわがねまくらかどとれて、まきもまさきもはなぞさく、しじのながめはありながら、わびしくおればししじもの、ひざおりしきてとにたゝず、のちのよのためとばかりに、きょうもんどくじゅしょしゃのこう、ひかずつもればうき事も、うきになれつゝうしとせず、うきよの事はきゝしらぬ、とりのねけもののこえさへに、いちねんけくのともとなる、こゝろばえこそしゅしょうなれ。(第十二回 冨山の洞に畜生菩提心を發す 流水に泝て神童未来果を説く)  
前田愛は「近代読者の成立」(『前田愛著作集』二巻所収)において、この場面は「法華経読誦という音読を意識した文体である」と指摘している。しかし今、実際に耳からお聞きになった通りで、音読してしまうと音読する側も『八犬伝』の漢字文脈の本文がまったく分からない。これでは、八犬伝独特の漢語に和語を振仮名として振るという表記の二重性という豊かさが失われてしまいます。つまり、音読を意識した文体ではあるが、だからと云って皆が皆『八犬伝』を音読していたとはとても思えないのです。  
さて、いま読んだ最初の部分に、有名な『平家物語』の冒頭がうまく取り込まれていましたが、何故ここに唐突に『平家物語』の冒頭が出てきたのでしょうか。播本眞一氏は、この冒頭に対応する末尾、此処には引かれていないわけですが、すなわち「灌頂巻」に描かれる「建礼門院が大原に隠棲して一門の後世菩提を弔う」という内容が、伏姫の境遇に引き継がれているのだと読まれています。曰く「『平家物語』が祇園精舎ではじまり女院死去で終わるように、『八犬伝』富山は、平家の冒頭によって語りだされ、伏姫の死で幕を閉じる」(播本眞一「『南総里見八犬伝』第十二回を読む」、『近世文学の新展開』、二〇〇四年、ぺりかん社、所収)と。卓見だと思います。  
ところで、このような所謂「美文調」である七五調の和漢混淆文体が『八犬伝』には時々出てきます。古語や雅語、掛詞や縁語など、修辞的文辞を目一杯駆使した調子の高い、そして無内容な文章でして、現代の小説ではまずお目に掛かることがなくなってしまいました。尤も、『太平記』などの語り物軍記の系譜を継承した文体であると云えるでしょう。『八犬伝』と『朝夷巡島記』との評判記である『犬夷評判記』でも「すべて万葉集の歌の言葉をもて綴りたる文辞のこなし、どうもいへぬ/\」と自評しています。つまり『万葉集』的世界を背景化した記述というわけです。ならば、播本真一氏が云うように「うないおとめ」から、伏姫・金碗大輔・八房の関係に、謡曲『求塚』の素材となった二男一女型の妻争い説話が透けて見えることになります(前出「『南総里見八犬伝』第十二回を読む」)。  
このように、『八犬伝』に用いられている言葉は一見単なる修辞に見えても周到に選び取られたものであり、何処に出典があるのかは細かな注釈作業を積み重ねて見付けていく他に方法がありません。一読しただけでも一通りの文脈が取れてしまうために読み流してしまうことが多いのですが、留意すべき点だと思います。その意味では注釈付きのテキストが備えられると一段と面白く読めるようになると思うのですが‥‥。  
考えれば考える程『八犬伝』と云うテキストは実に複線的です。壮大な構想に基づく本筋のみならず、所々に割り込んでくるノイズとしての考証があります。冒頭の三浦岬での義実による「龍の講釈」が象徴的ですが、江戸読本というジャンルが、考証の混入を許すものとして作り上げられてきたと云えるかも知れません。割注や頭注で示される部分もありますが、会話や地の文中を割いて延々と繰り広げられる蘊蓄も、実は『八犬伝』にとって大切な一要素だと思います。  
世の中が忙しく安閑と長編大作を読んでいられない明治時代になり、原文の味わいを損なわずに通読できるという点が新機軸であった『校訂略本八犬傳』(逍遙序、鴎村抄、明治四十四年九月刊、丁未出版社)という原文を生かした縮約本があります。「八犬傳の校畧に就いて」という序文において、不要な形容語や古事の引用を省き、閑話、挿話、講釈を削り主人公のエピソードのうち面白い部分だけを採って、繋ぎの部分にも馬琴の使った本文の語句を用い、本筋を外れた余譚も省いて約六分の一に縮めたが「八犬傳の梗概を略述したる物語の類でも無く、また八犬傳の美文を抄略したるものでも無くて、原著者其人の筆法を以て縮圖せられたる小八犬傳」であると述べています。しかし、序跋もなく、ノイズのない整序された本文を読んでみても、少しも『八犬伝』らしくないのです。  
もう一つ大切なのは、『八犬伝』のテキストに〈馬琴自身の物語〉を埋め込んでいる点です。執筆上の苦労や問題について、実に饒舌に舞台裏を語っているかに見えます。その最たるものが「回外剰筆」と名付けられた最後の一冊です。そこでは、お路に口述筆記をさせるのが如何に大変であったかを大袈裟に書き記しています。どうもそれが「江戸時代の漢字を知らない女に偏旁を教えながらの続稿は如何に大変だったか」と云う逸話として一人歩きしてしまったようです。岩波文庫本で云えば十冊目の二十二ページ五行目あたりなのですが、九輯巻四十六第百七十七回半ばが、馬琴が筆記を断念したところで、其処からお路が書き継いだわけです。丁度この部分を含む自筆稿本が早稲田大学図書館に所蔵されており、多くの本や図録に図版として紹介されています。右半丁は筆もかすれ罫線からはみ出した目の見えない馬琴のにじり書きで、左の半丁はお路の整然とした文字が確かな筆運びで書かれています。何処から見ても「漢字を知らない女」の書いたものとは見えません。つまり『八犬伝』と云うテキストは、その執筆状況すらも物語化した文脈を孕んだテキストなのです。  
一方、馬琴は本文テキスト以外でも自作の『八犬伝』に言及することが度々ありました。高松藩家老木村黙老、松阪の富商殿村篠齋・小津桂窓、江戸の旗本石川畳翠ら愛読者グループとの文通です。後には『評答集』としてまとめられています。これは、人々の批評に対して馬琴が答えていくという形式で、もっぱら馬琴が主導したものです。とりわけ「稗史七法則」と呼ばれた「主客・伏線・襯染(しんせん)・照応・反対・省筆・隠微」という法則が、中国小説に用いられていると云う主張を、天保六年八月二十二日に記した『南総里見八犬伝』「第九輯中帙附言」で公開し、これに関する応答が主になっていきました。しかし、この批評理論は馬琴にとっては同時に創作原理でもあったわけです。ただ、「隠微」だけは構想や趣向に関するものではなく、基本的には「勧善懲悪」という作者の姿勢を云ったものだと思われます。  
この勧善懲悪ですが、馬琴の思想のように受け取るのは如何でしょうか。「主義」ではなく謂わば「制度(書式)」とでも云ったら良いのでしょうか。基本的に、万民向け普遍的倫理観(因果応報の理)に基づく書きぶりは、江戸読本を書くための前提であって、現代に至るまで、勧懲ではない大衆小説(ドラマ)はないのです。しかし、勧懲は啓蒙的で下等なものなのでしょうか? 例えば〈勧懲が正しくない現実社会〉を相対化する仕掛けという考え方も出来るかも知れません。  
勧善懲悪については、江戸読本に於ける〈世界〉と〈趣向〉を軸に考えてみることが出来ます。この〈世界〉と〈趣向〉という用語は近世演劇で使われる術語なのですが、テキスト全体を覆う具体的な設定が〈世界〉で、例えば「忠臣蔵の世界」と云うように云います。これに対して〈趣向〉は、仕掛けに相当するもので「お家騒動の趣向」と云うように使います。言い換えれば、〈趣向〉とは、場面毎の挿話(エピソード)(俳諧の附合、芝居の場、黄表紙、説話的短編の前期讀本)で、〈世界〉は、構想(プロット)(筋、章回體小説、敵討物合巻、後期讀本)というふうに云えるかもしれません。つまり、「勧善懲悪を正す」と云う枠組みが要求されるのは、ある程度、筋の長さを備えた中長編ものなのです。そこで、江戸読本に要求された「制度」が勧善懲悪であるというふうに云ってみたのですが、いかがでしょうか。  
勧善懲悪というレッテルが『八犬伝』を始めとする馬琴読本に貼られて久しいものになりますが、文学的価値の無さを示すがごとくに認識され続けてきたようです。これは、例の坪内逍遙の『小説神髄』(明治十八年)における「批判」に発端があると云われていますが、本当にそうでしょうか。  
彼の曲亭(きよくてい)の傑作(けつさく)なりける八犬傳(はつけんでん)中(ちう)の八士(はつし)の如(ごと)きは仁義(じんぎ)八行(はつかう)の化物(ばけもの)にて決(けつ)して人間(にんげん)とはいひ難(がた)かり  
勧懲(くわんちやう)を主眼(しゆがん)として八犬士傳(はつけんしでん)を評(ひやう)するときには東西(とうざい)古今(こゝん)に其類(そのるい)なき好(かう)稗史(はいし)なりといふべけれど他(た)の人情(にんじやう)を主脳(しゆなう)として此(この)物語(ものがたり)を論(あげつろ)ひなば瑕(きづ)なき玉(たま)とは稱(たゝ)へがたし  
八犬傳(はつけんでん)をば小説(せうせつ)ならずといふにはあらねど今(いま)証例(しようれい)に便(べん)ならんが為(ため)にしばらく人口(じんこう)に膾炙(くわいしや)したる彼(かの)傑作(けつさく)を引用(いんよう)せしのみ  
これを全面否定の文章とは云えないでしょう。勧懲小説としては評価しているわけで、つまり江戸読本の傑作であることは充分に認知していたわけです。また、ここで用いられている「人情」と云う用語も厳密には難しいのかも知れませんが、キャラクタと考えれば、八人それぞれキャラが立っていると云えなくもありません。  
文学史の評価が、如何に逸話や不正確な理解に拠って形成され、そしてそれが、そのまま継承されて行くと云うことに対して、私たちは充分に警戒する必要があるのです。特に『八犬伝』についての評価は、毀誉褒貶が激しかったため、やはりご自分の目で確かめるのが一番だと思います。  
最後に、『八犬伝』というテキストに、馬琴が仕掛けた「謎解き」の面白さについて触れておきたいと思います。以前、高田衛氏が『八犬伝の世界』(中公文庫)において明らかにした、八字文殊曼荼羅を典拠としたと云う説は、八犬士の二人が何故「女」として登場したかと云う謎についての明確な回答を示したものだと思います。最近、明らかにされたのは、肇輯の口絵「八犬士髻歳白地蔵之圖(はつけんしあげまきのときかくれあそびのづ)」が「唐子遊び」という画題を踏まえていると云う播本眞一氏による指摘で、根拠は、周囲の宝づくし模様の枠とヽ大が布袋として描かれている点でした。『寺子宝鑑字福伝』(享保五年)の見返がその典拠となっているそうです。「宝にかこまれて福神と唐子が遊ぶ図像は邪悪なものの存在しない空想の理想郷を表現しているだろう。‥‥‥「白地蔵之図」は理想の世界をかいま見せて幼い犬士たちの未来を予祝し」たものとされています(播本眞一「『南総里見八犬伝』を読む」、「近世文芸研究と評論」63号、二〇〇二年十一月、所収)。  
ここで、みなさんにお考え頂きたいのは、第二輯の二番目の口絵の絵解きです。豪華な籠に乗っている犬塚信乃が柄杓を持ち、上に「一万度太麻」「いせのあまか かつきあけつゝ かたおもひ あはびの玉の輿になのりそ」とありますから、お伊勢参りに関係するのでしょうか。左側に「遠き泉は中途の渇きを救わず、独木は大厦の傾くを指(ささえ)ること難し」とあり、赤子を懐にした額蔵が描かれていますが、この赤子は誰でしょう。二人間に描かれている蝦蟇と亀は蟇六と亀笹を示していると思うのですが、その回りの虫はなんでしょうか。この口絵などは確実に何等かの意味が秘匿されていると思いますので、是非お考え頂きたいと思います。  
江戸読本に於ける文字と絵画

 

江戸読本(よみほん)とは十九世紀に木版印刷に拠って出板された絵入小説のことである。江戸時代の小説諸ジャンルの中でもとりわけ格調が高かったもので、その多くは中国小説に影響を受けた歴史小説と概括することが出来る。しかし、本来〈読本〉というジャンル名は、読むための本という意味で、絵画の鑑賞を主とする〈絵本〉に対する謂いであった。  
さて、絵を中心として鑑賞すべき文芸ジャンルである絵本や草双紙などは、専ら文字を読むための書物に比べて比較的低俗なものと見做されてきた。しかし、江戸読本に関するかぎり、読むための本であるにもかかわらず、口絵や挿絵は単なる彩り程度の添え物ではなかった。作者が自ら画稿(下絵)を描き、それを浮世絵師が清書していたという分業が成立していた時期でもあり、馬琴なども稿本(原稿)にラフスケッチを描いて画工に細かい指示を朱筆で認めている。とりわけ、江戸読本の代表作『南総里見八犬伝』では「文外の画、画中の文」(第二集巻二)などと述べている。つまり、江戸読本においては、作者の意図が本文のみならず画にも反映されていたのであり、それゆえ〈画〉と〈文〉とは不可分なものとして鑑賞する必要がある。  
このことは、用いられている絵画のみに止まらず、凝った意匠の装幀を備えた江戸読本の造本意識からも見て取れる。江戸読本以前の刊本は、一様に縹色無地表紙に題名を記した短冊形題簽を持つ質素な仕立てであった。しかし、江戸読本が流行し始める十九世紀に入ると、様々な意匠の凝らされた美しい表紙を持つ読本が刊行されるようになる。ほぼ同時に、袋に流用されることも多かった見返にも、工夫を凝らした飾り枠や意匠が施されるようになり、さらには口絵や目録の飾り枠にまでも、様々な意匠が凝らされるようになるのである。ちなみに、これらの現象は上方読本には見られないようである。  
しかし、問題は〈画〉と〈文〉のみならず、本文が記された〈文字〉に用いられた意匠にも存する。江戸時代には様々な職能集団に拠って使用される文字の書体が異なっていたのであるが、書物の世界でもジャンル毎にそれぞれ特徴的な字体が採用されていた。例えば、謡本や浄瑠璃本などは一見しただけでそれと分かる字体が使用されているのである。江戸読本では、これらのジャンルからの引用を示す時に、本文テキストのみならず、その字体までをも引用することがある。さらには、他ジャンルの造本そのものを模倣することすらあったのである。  
本発表では、江戸読本に凝らされている文字と絵画に関する意匠や造本上の特徴を具体的に挙げつつ、その意味を考えてみたい。  
 
江戸読本に於ける文字と絵画  
発表題目に用いた「絵画(peinture)」と云う語彙は適切ではなかった。「文字(lettre)」に対して装幀や意匠抔を含めた非文字情報という意味で用いたかったので「画像(image)」の方が相応しかったように思う。  
読本とは江戸時代中期(十八世紀)から後期(十九世紀)にかけて大量に出板された一ジャンルの呼称で、江戸小説中では一番知的で格調高いものといって差し支えない。従来の文学史では中期に上方で出板された短編怪談奇談集である『雨月物語』に代表される「前期読本」と、後期に江戸で出板された中長編稗史小説である『南総里見八犬伝』に代表される 「後期読本(=江戸読本)」とに概括分類されてきた。  
一般に「絵(解き)本は低俗である」乃至は「通俗な本には絵が入っている」と云う、絵入本に対する近代的な文学(価値)観が存する。しかし、近世期の小説に関する限り「絵入本」でないものは甚だ少ない。とすれば、近世小説は〈通俗〉で〈低俗〉なものであると云うことになり、従来の日本文学史の言説では、近世小説は勧善懲悪に堕して近代小説に対して劣ったものであると位置付けられてきた。尤も、明治期に入って成った近代小説と云っても十九世紀の間は(扱われた内容は兎も角も)江戸時代と変わり映えがしなかったし、明治二十年代に活版印刷本が整版本の出板(版)数を越えるまでは、整版本の様式を色濃く残した組版を採用した物が多く、何を以って近代小説と位置付けるかと云う点をも問題にする必要があると思われる。  
ところで「読本」と云う語彙は「絵本」に対して用いられるようになったと考えられるのであるが、同時に「読本」は随所に風俗歴史考証が散りばめられた近世小説中で最も格調の高い知的な読み物なのであった。つまり、近世期の「絵入本」(筋を備えた上で挿絵等を備えた本)と「絵本」(筋がなく絵の鑑賞を主とした本)とは区別して理解する必要が在る。  
例えば、宝永七(一七一〇)年の絵入浄瑠璃本『太閤記大全』(鱗形屋板)の後印本に付された表紙には外題の上に「繪入讀本」とある。浄瑠璃本が読み物として享受されていたことは云うまでもないが、其処に挿絵が施されて絵入本として刊行され「絵入読本」と名づけられていたことが分かる。このケースはジャンルの名称ではないが、〈挿絵入りの読む本〉と云う意味相で付けられたことは明らかである。尤も、挿絵入の小説である浮世草子などでも「風流読本」などと云う呼称が使われていたので、「読本」と云う名称は「絵入」であることとは対立していなかったと思われる。  
化政期(十九世紀)に入ると、板本の挿絵は作者の下絵に基づいて画工(浮世絵師)が描くものとなった様である。  
大約草紙物語の剿入画を看て。その好歹をいふ者ハ。画の巧拙をのみ論じて。本文の意に違ると。違ざるとを思はぬも夛かり。縦その画ハ巧也とも。く蛇足の為に画れしハ。只是作者の面目を。損ざるものあること稀也。かゝる故に。予ハ画を学ざりけれども。とし来著す物の本ハ。必手づから画稿をものして。その趣を画者に示して。もて画せずといふものなし。曲亭馬琴『近世説美少年録』第二輯「附言」(文政十三〈一八三〇〉年)  
絵入本と云っても挿絵画家が勝手に描いたものではないのである。それのみならず、見返や刊記広告などの意匠や口絵目録の飾り枠の模様まで事細かに画工に指示していた。これらのことは、現存している稿本や校合本、また饒舌な馬琴の言説などから分かる。  
江戸読本に関する限り、原本の本文のみ成らず口絵挿絵などにも作者の意図が反映したものと見做して差し支えないと思われる。 
ただし、時に画工が勝手に描く場合もあったようで、 
馬琴が然けれども画工の意をもて。そを潤色する処。動もすれバ本文の意に。違ふ事なきにあらず。譬ば這書の前輯なる。摺針山の画中にも。又その次なる巻の画にも。いかにぞやかくはあらじ。と思ふ画像のありけるを。よく觀る人ハ知りぬべし。纔一巻に三頁なりける。剿入画すらかくの如し。况本文に至てハ。誤脱を正し漏せるも夛かり。總て印本ハ人に誂へて。書せ画するものなるに。又板木師の刊遺し。 鐫愆るも少からず。 
同右と記しているように、一筋縄ではいかなかったようだ。  
江戸読本は比較的高価な本であったので、一般的には貸本屋を通じて読まれていた。事情は明治期に入ってからも同様で、数多くの後印本が流布していた。しかし、これらの後印本は摺りが悪いだけでなく、板元の都合で改題されたり口絵挿絵が改刻されたりすることもあり、後印本からは直接作者の意図を汲み取ることはできない。ただ、加えられた改変にはそれなりの合理的な理由が存したはずで、享受史を知る資料としては見過ごしがたい。
仮名垣魯文

 

仮名垣魯文 (1829 - 1894)
江戸末期から明治初頭にかけての戯作者、新聞記者。江戸の京橋生まれ。本名は野崎文蔵、字は能連、幼名兼吉、また庫七、後に文蔵と改めた。別号に鈍亭、猫々道人(みょうみょうどうじん)、和堂開珍、英魯文、戯作書太郎、野狐庵。俳号は香雨亭応一、狂名は斜月窗諸兄。
京橋の鑓屋町に生まれる。魚屋を営む父野崎佐吉は、星窓梶葉という号を持ち俳句や狂歌を好み、文蔵も戯文や小説を好んで育った。大きな商家の丁稚となったが、人相見に小説家になれば出世すると言われ、18の年に花笠魯介文京の弟子となる。1849年(嘉永2年)19歳の時に名弘めの摺物「名聞面赤本(なをきいておもてあかほん)」を書き、それに先輩の文人や芝居作家に賛助の俳句や短歌を書いてもらったが、最後に当時82歳の滝沢馬琴に頼んで「味噌揚げて作り上手になりたくば世によく熟れし甘口ぞよし」ちう狂歌を贈られた。自作の執筆の他に、先輩の仕事の手伝い様々などをこなし、生活のために古道具屋を営み、黒牡丹という丸薬の販売も行った。
1855年に安政の大地震で生き埋めになりかけたが、三河屋鉄五郎という版元から地震にかかわる「安政見聞誌」の執筆を十両で持ちかけられ、渓斎英泉の弟子の英寿が見て回った様子を魯文が書いて、原稿料を二人で折半した。当時の後援者には、榎本総助、高野酔桜軒、豪商の勝田幾久、津藤香以山人などがいた。同じ香以山人の取り巻きである、条野採菊(山々亭有人)、河竹新七(黙阿弥)、瀬川如皐、落合芳幾、其角堂永幾らとも親しくした。巻物の草双紙や滑稽本数十を著し、安政年間には名を為し、1860年(万延元年)十返舎一九流の作品『滑稽富士詣』『荏土久里戯』は出世作となった。
筆名は初め「英(はなぶさ)」または「鈍亭」としていたが、1873年(明治6年)に仮名垣魯文とした。師の魯と文の字を取って「魯文」、「仮名垣」は、柳亭種彦の『正本製』三編、『当年積雪白標紙』の登場人物、赤本入道仮名垣による(歌川豊国による入道の挿絵と魯文の顔とが似ていたため)。山々亭有人たちと三題噺のグループ「粋狂連」を結成し、作品でも落語から取ってきた笑いを使っている。
明治期
明治になって十返舎一九の『東海道中膝栗毛』をもじって、滑稽本の手法で、福沢諭吉『西洋旅案内』『世界国尽』を種本にした『西洋道中膝栗毛』、続いて当時牛屋と呼ばれた鋤焼きの店を中心に当時の風物描いた『安愚楽鍋』を書く。八犬伝を小形読み本に引き直した『仮名読八犬伝』、福沢の科学入門書『窮理図解』をもじった『胡瓜遣(きゅうりづかい)』、さらに福沢を元にして『西洋料理通』『世界都路』などを執筆、明治維新によって江戸以来の戯作文芸に批判的な風潮が生まれる中で、プロの小説家として活動した数人のうちの一人となる。その後も江戸式合巻で『松飾徳若譚』などを出版。
1872年(明治5年)に教部省から「三条の教憲」が出され、愛国や実学志向を小説で表現するようにと命じられると、条野採菊と共に「著作道書き上げ」と称する文書を提出した。
新聞人
この頃、戯作本は新聞に取って替わられるようになり、1873年に横浜に移って、神奈川県庁に月給二十円で勤める。並行して『横浜毎日新聞』に寄稿していたが、1874年に県庁を辞めて横浜毎日社員の雑報記者となり、翌年に『読売新聞』や『平仮名絵入新聞』と同じように庶民向けの新聞として、自ら『仮名読新聞』を創刊。その後書肆磯部屋などを資本主として東京に移した。芸妓の内幕についての記事「猫々奇聞」が喜ばれ、新聞で劇評を載せたことの嚆矢でもあった。平仮名中心の紙面は、後の口語体新聞の先駆けとなった。魯文の続き物は『花裳柳絮綻(はなごろもやなぎのいとのほころび)』『夜嵐於衣花仇夢(よあらしおきぬはなのあだゆめ)』などの実話小説となり、挿絵は、猩々亭暁斎を名乗った河鍋暁斎が描いていた。1879年に高橋お伝の死刑があり、魯文はこれを実話小説「高橋お伝のはなし」と題して『仮名読』に連載し、『高橋阿伝夜刃譚』として刊行した。次いで『いろは新聞』社長。1884年『今日新聞』創刊し主筆となる。
晩年は玩物居士と号して古仏像や仏具を蒐集して、骨董にも鑑識眼を持ち、またしばしば書画会を催して収入を得た。1890年に文壇退隠の名納め会を開き、所蔵する書画、骨董、書翰等一千点を来会者に配った。その後は都々逸の選者をしたり、狂歌や民謡を作る弟子の集まり「いろは連」を戯作者など47人で組織。劇通で『歌舞伎新報』でも記事を執筆した。酒は少しで、甘い物も食べず、鰻、天麩羅、ももんじ屋の猪肉が好物。芸妓を「猫」、九代目市川団十郎を「団洲」、新史劇を「活歴」と呼ぶ名付け親でもある。
1894年没、戒名は仏骨庵独魯草文居士、谷中の永久寺に葬られた。門人に、二世花笠文京(渡辺義方)、採霞園柳香(広岡豊大郎)、胡蝶園若菜(若菜貞爾)、蘭省亭花時(三浦義方)、二世一筆庵可候(富田一郎)、野崎左文、斎藤緑雨がいて、当時の新聞小説家は大きくこの仮名垣派と、柳亭種彦の門流の柳亭派に二分されていた。野崎左文の書いた伝記「仮名反故」(『列伝体小説史』所収)がある。 
魯文の填詞 (てんし)
[ 填詞 (てんし) / 中国、古典文学の一ジャンル。唐代に西域からはいった音楽につけてうたった歌詞が文学形式として定着したもの。曲によって句数・字数・平仄(ひょうそく)・脚韻が定まっており、それにあわせて歌詞を填(う)めて作るところからこの名がある。宋代に大流行し、長編の新しい曲も多く生まれ、宋代を代表する文学となった。詞。詩余。長短句。 ]
假名垣魯文の多岐に亙る文業に一瞥を加えた時、〈文学〉などと称することは憚られるような、夥しい〈雑文〉をものしていることに気付く。斯様な魯文の仕事は、文業などと呼ぶより寧ろ売文業というべきかもしれない。だかしかし、それ故に「魯文は、近世と近代とを通貫する十九世紀末期戯作界の様相を典型的に体現した戯作者であった」と位置付けても差し支えないであろう。此処に魯文研究の意義が存すると思われるので、様々なジャンルに広がるその言説を調査し蒐集してきた。嘗て、魯文が他作者の著作に寄せた序跋類について紹介したことがあるが※1、本稿では冊子体ではない一枚摺に注目してみたい。ただし、宣伝用チラシである〈引札〉〈報条〉や、絵画に詠歌等を加えた〈画賛〉類に関しては稿を改めるとして、此処では錦絵の〈填詞〉※2について見ていきたい。尤も、他ジャンルと同様に、全貌を把握するのは著しく困難であるので、取り敢えず知り得た範囲ではあるが、具体例を示しつつ紹介してみよう。
本来填詞(てんし)という用語は『大漢和辞典』に拠れば「漢詩の一體。樂府から變化した一種の詞曲で、樂府の譜に合はせて字句を填入したもの。宋末に詩餘といひ、明の呉訥及び徐師曾に至つて填詞といふ。一定の圖式により字を填めるからいふ。」とある、また『日本国語大辞典』(第二版)に就けば「中国、古典文学の一ジャンル。唐代に西域からはいった音楽につけてうたった歌詞が文学形式として定着したもの。曲によって句数・字数・平仄(ひようそく)・韻脚が定まっており、それにあわせて歌詞を填めて作るところからこの名がある。宋代に大流行し、長編の新しい曲も多く生まれ、宋代を代表する文学となった。詞。詩余。長短句。」とある如く、中国に於ける詩文形式の名称であった※3。
さて、我国の近世期における「填詞」という用語は、中国での意味用法とは異なっているので、まずはその用例を追いつつ、文脈に則して「填詞」が意味するところを確認しておこう。残念ながら、初出を詳らかにし得る資料の提示は未だ出来ないが、管見に拠れば山東京山作の江戸読本『国字小説小櫻姫風月竒觀』 (文化6〔1809〕年10月刊)の口絵に、「 [九種曲]\廿載旁觀笑與顰\凡情丗態冩来眞\誰知燈下填詞客\原是詼諧郭舎人\空香女史題」とあり(傍点筆者、以下同断)、また同書巻末の跋文に「京山先醒は京傳先醒の令弟也。彫蟲鼓刀をもて業とし詩を篇画を嗜む。本編填詞の如きは一時游戯の筆にして耳目玩好の書に属し、適口充腹の集には非さるへし。先醒本姓は嵒瀬名凌寒字鐡梅京山と號す。一字驛齋その堂を鐡筆と云。その居を方半と呼その家は江戸日本橋第四街東に折する北巷にあり\詩事 天山老人識」と見えていて、これなどは比較的早い用例かも知れない。いずれにしても、序文の「燈下填詞客」は「燈下に戯作する者」と解せるし※4、跋文の「本編填詞の如きは一時游戯の筆」とは、つまり「小説の著述などは閑時の筆遊(ずさ)み=戯作」と解せられ、文脈から判断して此等の「填詞」は「戯墨=戯作の著述」という意味で用いられていると考えられる。
幕末になると用例は頻出する。魯文の切附本※5では、『平井権八一代記』の序末に「嘉永七甲寅林鐘稿成談笑諷諫滑稽道場\鈍亭魯文填詞」と見え、野狐菴主人著述『神勇毛谷邑孝義傳(しんゆうけやむらかうぎでん)』の序では「……草稿(さうかう)を脱(だつす)と雖(いへども)未(いまだ)序言(じよげん)なし。願(ねがは)くは填詞(てんし)を記(き)せよと、……乞(こは)るゝまに/\、其席(そのせき)の談話(だんわ)を序(じよ)として、攻(せめ)を塞(ふさ)ぐといふことしかり\嘉永七甲寅後名月\夢借舎主人筆記 [尚古]」とある※6。此処の「填詞」は「攻めを塞ぐ」と言い換え(パラフレーズ)られている如く、依頼された序文を書くという謂だと思われる。
また、鈍亭魯文標記『摘要漢楚軍談後輯(てきえうかんそぐんだんこうしう)』の序末に「……此(この)一条(ひとくだり)を論(あげつらふ)は、後輯(こうしう)稿(かう)成(なり)、序跋(しよばつ)なきものから、填詞(うめくさ)をものせんとてのわざくれなりかし\于時(ときに)安政(あんせい)三(さん)丙辰(ひのへたつ)穐(あき)文月(ふみづき)星合(ほしあひ)の夜(よ)\妻戀岱(つまごひざか)の戯作舎(けさくしや)に毫(ふで)を採(と)る\談笑(だんしやう)諷諫(ふうかん)滑稽(こつけい)道場(だうじやう) 鈍亭魯文漫題」とあり、さらに『繪本早學(ゑほんはやまなび)』初編の叙末にも「……簡端(かんたん)に序(じよ)して。填詞(うめくさ)をかいしるすも。所謂(いはゆる)蛇(へび)を画(ゑがい)て。足(あし)を添(そふ)るすさみそやあらんかし\時維(ときにこれ)安政四丁巳葉月(はつき)初旬(しよじゆん) 毫採于戀岱小説書屋(れんたいのせうせつしよをくにふでをとる)\稗史著作郎(はいしちよさらう) 鈍亭魯文題」とある。此処でも「填詞」は序文のことを指していて、「埋め草」と振仮名が振ってある。
魯文以外では、出子散人作の合巻※7『天竺徳兵衛蟇夜話(てんぢくとくべゑがまのよばなし)』(歌川國久画、文久元年)の序にも「……僕やつかれ短才たんさいもて此この半丁はんてうへ填詞(うめくさ)ハさりとハ押(おし)の蹲踞(つくばつた)蝦蟇(かえる)の面(つら)へ水(みづ)の音(おと)。いけしやあ/\と述(のぶ)るになん\文久元辛酉初冬\忍川の北窓に\山亭秋信」とあり、此処でも序文のことをいっている。
一方、「鈍亭魯文謹述」とする切附本『成田山霊驗記なりたさんれいげんき』の序末には「安政元甲寅晩冬\同二乙卯新春上梓\物の本作者 鈍亭魯文填詞」とあり、鈍亭魯文抄録『國姓爺一代記(こくせいやいちだいき)』二編の序末にも「……此(この)猛者(もさ)が奇(くし)き美事(うまごと)を衆幼(わこさまがた)にしらせまほしくて、野末(のずへ)の爺(ぢゝ)が懇意(まこゝろ)をしるす事しかり\鈍亭嵜魯文填詞」とある。
さらに、鈍亭魯文鈔録『雙孝美談曽我物語(さうかうびだんそがものがたり)』の序末にも「……鈔録(しやうろく)巻(もの)を老舗(しにせ)として、爰(こゝ)に補集(まとめる)曽我物語(そがものがたり)、……燈下(どうだい)暗記(くらき)一(いつ)小冊(せうさつ)を借宅(しやくたく)假舎(かりや)に筆(ふで)を採(と)る。\安政二卯歳秋新鐫\鈍亭魯文填詞」とある。これらは自作の自序であるから「填詞」は「戯作」の謂であり、特に切附本というジャンルは既刊作の抄録本であるから、「燈火の下に暗記した物語の抄録をする」というのも、きわめて様式的な序文の書式で書かれたものであるが、やはり「著述する」という意味で用いられている。ちなみに、安政三年刊の合巻『當世八犬傳』でも、本文を抄録したことを「鈍亭魯文填詞」としているのである。
以上、安政期における魯文の用例を中心に見てきたが、近世後期に使用されている「填詞」という用語は、依頼された序文を執筆するという行為の卑下謙譲もしくは自己韜晦的な用語として使われ、その意味から派生して戯作の著述自体にも用いられるようになってきたものと考えられる。
ところで、一魁齋芳年の絵本『英雄太平記』(外題「繪本大功記」、外題芳宗画)でも、叙言末に「于時(ときに)萬延(まんえん)二ツの年(とし)辛酉(かのとのとり)の睦月(むつき)下旬(げじゆん)東都(とうと)妻戀岱(つまこひたい)の南窓(なんさう)に毫(ふんて)を採(とり)て繍像(さしゑ)に填詞(てんし)するものは鈍亭主人(どんていのあるし)\假名垣魯文題」とあり、明確に「絵の余白に詞書き」を書くという意味で用いられている。これを踏まえて浮世絵に見られる「填詞」を見ると、『芋喰僧正魚説法(いもくひそうじやううをせつぱう)』(未十二改(安政六年十二月)・一惠齋芳幾戯画・山本平吉版)には長文の「填詞(てんし)」と題する話が書かれ末尾に「忍川市隠 岳亭春信戲誌」とあるように、やはり「埋め草」として絵の余白に文字を填めるということから、画中の文章を示す用語として「填詞」が用いられている。ただし、近世期における常であるが、「填詞」という用語に統一されていくわけではなく、同様の意味で用いられている「記」「筆記」「酔題」「操觚」「暗記」「賛辞」「誌」「略傳」などという用語も見受けられるが、本稿では、魯文が良く使っていて他の戯作者にも波及し、明治期にまで使用例が及んだ「填詞」という用語を用いて、浮世絵に書かれた一定程度の分量を持つ文字部分を表すことにする。
以下、管見に入った魯文に拠る「填詞」が入った浮世絵を内容に則して例示していくことにする。本来ならば図版と倶に本文を紹介すべきであるが、紙数の関係から、今回は本文(の一部)だけを翻刻しておく。 
海外風俗 
異国を紹介する書は少なからず出されていたが、魯文は『萬國人物圖繪』(中本二冊、芳虎画、文久元年、山田屋庄次郎板)なども手掛けており、同趣の一枚摺をシリーズで出している。
歐羅巴州(えうらつぱしう)之内 佛蘭西國(ふらんすこく) (一川芳員画、泉市、[改戌二]文久二年二月) 国文研
此(この)國(くに)八十六州(しう)に分(わか)つ其(その)首府(しゆふ)を把理斯(はりす)と号(なづ)く舎搦河(せうねがは)の畔(ほとり)にあり城門(じやうもん)十七街衢(まち/\)七百十三あり府内(ふない)人(じん)煙(えん)櫛(くし)の歯(は)をひきたるごとく百貨(もゝのたから)具(そなは)らざるものなし戸数(いへかず)三萬人口(にんべつ)六十万諺(ことはざ)に曰(いはく)佛蘭西(ふらんす)の人民(じんみん)は伊斯把尼(いすばに)亞(や)の馬(うま)の如(ごと)しと蓋(けだ)し其(その)數(かず)過多(あまた)なるを称賛(しようさん)するなり國人(こくじん)怜悧(さかしく)能(よく)百事(ひやくじ)に勉強(べんきやう)す婦女(をんな)は貞操(ていさう)正(たゞ)しくて容顔(えうがん)艶麗(えんれい)なり   假名垣魯文記\[南京なんきん] 
〈萬國名勝(ばんこくめいしやう)|盡競之内(づくしのうち)〉 大清南京府市坊(たいしんなんきんふのしばう) (三枚続、芳虎画、山庄、[改六戌]文久二年六月) 国文研
南京(なんきん)は支那(から)の一大(いちだい)府(ふ)にして當時(たうじ)清国(せいこく)王(わう)族(ぞく)の居城(きよじやう)たり三方(さんぱう)海洋(かいよう)に臨(のそ)み城下(じやうか)巷街(まち/\)に下流(ながれ)をせき入いれ諸所(しよ/\)に橋(はし)を渡(わた)し市坊(しばう)の商家(しやうか)數万(すまん)軒(げん)両邊(りやうへん)に棟(むね)を並(なら)べ將(はた)蠻(ばん)国(こく)の商官(しやうくわん)此所(こゝ)彼所(かしこ)に居舘(きよくわん)を設(まう)け国(こく)産(さん)をひさぎ土産(とさん)をあがなふこと本朝(ほんてう)横(よこ)濱(はま)の地(ち)に異(こと)ならず異人(ゐじん)は海港(かいこう)に舶(ふね)をよせ出(いづ)るあれば入(いる)ありて繁昌(はんじやう)餘州(よしう)に比(ひ)する〔な〕し且(かつ)都下(とか)一里(り)を隔(へたて)柳巷(いろ)花街(ざと)の一廓(いつくわく)□□妓女(ぎぢよ)三千嬋娟(せんけん)として錦繍(きんしう)の袖(そで)をひるかへし歌舞(かぶ)艶曲(えんぎよく)の調(しら)べ昼夜(ちうや)に絶(たへ)ず總(すべ)て支那(もろこし)五十八省(しやう)の内(うち)南京(なんきん)の男女(なんによ)は形容(けいよう)は艶優(えんゆう)にして技藝(ぎげい)にのみ心(こゝろ)をゆだね利(り)に走(はし)る事(こと)を専(もつぱ)らとなせるにありそは暖地(だんち)繁(はん)花(くわ)の国風(こくふう)によるところ也(なり)とぞ   萬國ばんこく噺ばなしの作者 假名垣魯文譯誌◇ 
外國人盡\亜墨利加人(あめりかじん) (芳虎画、芝若与、[改酉二]万延二年二月) 国文研
洲中(しゆうちう)一部(いちぶ)の國名(こくめい)を共和(きやうわ)政治(せいぢ)州(しう)また合衆國(かつしゆうこく)と号(ごう)す近來(ちかごろ)版圖(りやうぶん)ます/\加(くは)はり三十六州にいたる都府(みやこ)を華盛頓(わしんとん)といふ萬國(ばんこく)に往還(わうくはん)して専(もつぱ)ら貿易(ほうえき)を盛(さかん)にし通商(つうしやう)を家産(かさん)とす   魯文記 
亜米利加婦人(あめりかじん) (芳虎画、芝若与、[改酉二]万延二年二月) 近森文庫
此國(このくに)は元(もと)歐邏巴人(えうらつぱじん)の開(ひら)ける地(ち)なり季(き)候(こう)大抵(たいてい)本朝(ほんてう)に同(おな)じ北(きた)は新(しん)英吉利(いぎりす)に接(せつ)し南(みなみ)は墨是可(めきしこ)にいたりその東西(とうざい)は大洋(たいよう)に臨(のぞ)めりその國(くに)の海港(みなと)カリホルニヤより舶(ふね)を出(いだ)し萬國(ばんこく)に往還(わうくはん)し通商(つうしよう)を以(もつ)て家産(かさん)とす   假名垣魯文記 
外國人盡\英吉利人(いぎりすじん) (芳虎画、芝若与、[改酉二]万延二年二月) 国文研
國(くに)の總称(そうしよう)を大貌利(だいふり)太泥亜(たにあ)と云分(わか)ちて五十二州(しう)とす中(うち)に六十二の諸侯(しよこう)あり都府(みやこ)を龍動(らんどん)といふ四達(よつのみち)□(さかん)にして數所(すうしよ)の互市場(かうえきば)きはめて繁盛(はんせい)なり府中(ふちう)の大河(たいが)□摸斯河(てうむすがは)に奇巧(きこう)の橋(はし)を架(わた)せり長(ながさ)百八十丈(ぢやう)幅(はゞ)四丈餘(よ)ありといふ   假名垣魯文記  
諷刺戯画
『芋喰僧正魚説法(いもくひそうじやううをせつはう)』(芳幾戯画、山本平吉、安政六年十二月改) などは、蛸が大量に捕れ江戸市中に出回った際にだされたようであるが※8この種の錦絵も少なくない。異様に文字が多いのが特徴か。
〔目口耳鼻の自慢話を足叱るの図〕 (大判二枚続、一惠斎芳幾戲墨、慶応期カ)
目の曰
「コウ皆(みんな)の前(まへ)で云(いつ)ちや ァ目に角(かど)立(たつ)て目闇(やみ)に味噌(みそ)を上(あげ)るやうだが凡(およ)そ身体(からだ)の内(うち)に己等(おいら)ほど重宝(ていほう)なものハ有(あり)やすめへ。早(はや)いことが良(いゝ)ハサ。ハテ昔(むかし)から己等(おいら)を日月に譬(たと)へて有(あり)やす。本当(ほん)のことだが己等(おいら)が無(な)くバ一切(いつさい)万物(ばんもつ)面(おも)白ィことも面黒(おもくろい)ものも見ることハ出来(でき)やすめヘ。それだから悦(よろこ)ぶことを目出度(でたい)と云(い)ふョ。だれたと思(おも)ふアヽつがもねヘ。
口の曰
「モシ皆みなさん憚はゞかり乍ながら御お慮外りよげへ乍ながら私わちきの云いふことを静しづかにして御お聞きゝなはい。野暮やぼな奴やつの譬たとへに口くちハ災わざはひの門かど舌したハ災わざはひの根だとか葉だとか吐ぬかしたのハホンノ岡をか焼餅やきもちの甚助ぢんすけだよ。口くち広ひろいことを云いふのぢやァありませんが私わたしが無なくバハイ命いのちを繋つなぐことハ出来できません。旨うまい不味まづいの五味(ご み)の味あぢ酸すいも甘あまいも噛分かみわけて縺もつれたことを捌さばくも口くちサ。それを何なんの彼かのと悪口わるくちを云いはれると口くちに年貢ねんぐは要いらないから此方こつちでも喋しやべりつける気きに成なりますハネ。べちやくちや/\/\/\アヽ気怠けつたるく成なつて来きた。
耳の曰
「皆みなさんの御話おはなしを一々いち/\聞分きゝわけて見ましたがそれハ所謂いはゆる水掛論みづかけろんサ。唐土もろこしの老(らう)子とかいふ変人へんじんが云いつたにハ大声(だいせい)里耳(り じ)に入いらずトサ。しかしネ雅俗(がぞく)共ともに善ハぜん惡ハあくと聞きゝ分わけるが私わつちの役やくサ。金言きんげん耳(みゝ)に逆さかふとハ云いひますが耳みゝの穴あなを掻かつ穿ぽぢつて聞きく時ときにやァ又耳みみ寄よりなことに聞ききます。兎角とかく耳糞みゝくその溜たまらねへ様やうに用心ようじんして呉くれさへすれバ分わからぬことハ御座ござりやせんハサ。
鼻の曰
「甚はなはだ失礼しつれいな申分ぶんで御座居こざいますか私わたくしハ大山たいさんに喩たとへられて面部(めん)ぶ の中うちでハ一座いちざの座頭ざがしら。自慢じまんハ私わたしの持前もちめへだが満更まんざら耳みゝを取とつて鼻はなへ付つけるやうな御託ごたくハ上あげやせん。しかし私わたしがなけりやァ柴舟しばぶね蘭奢待らんじやたい伽羅きやらや麝香じやかうを嗅分かぎわける理屈りくつにやァ参まゐりやせん。夫それだから世の譬たとへにも一番いつち先さきへ出でることを鼻駆はながけだの鼻腹はなばらだ等なぞと申シやす。天狗てんぐじやァねへがこりやァ真似まねてハ御座ごぜへスめへ。
足の曰
「これサ/\ 目の寄よるところへ玉でも寄よるかと思おもつたら口広くちひろい喋しやべりだて耳みみやかましくつて鼻はなもちがならねへ。御前おまへ方がたよく聞きかつせへ。皆みんなハ用ようあるものゝ理りを知しつて用ようなきものゝ理屈りくつを知しらねへからはなせねへ。夫それ有用(うよう)ハ無(む)用の道具だうぐでござる。そも/\大地を踏ふむを見よ。己おのれが踏ふむところ有(う)用にして踏ふまざるところ無(む)用ならずや。その無用なるところハ余人(よじん)これを踏ふむべし。各自おのれ/\が勝手かつてのみを知しつて足(あし)の難儀なんぎをさつぱり知しらず。又災わざはひハ口くちより起おこる。耳みみハ淫声(いんせい)を聞きいて汚けがれを悟さとらず五欲(よく)煩悩ぼんなうを萌きざし目め鼻はなハ香氣(かうき)を嗅かいで費ついゑを厭いとはず。顔かほハすなはち目口の置所おきどころなり。もし一ひとつにても居所ゐどころ違ちがへば此これを片輪かたわと謗そしるべし。見聞ききも嗅かぐも味あぢはふも此この足あしなくてハ適かなふまじ。汝等なんぢら口くちを養やしなふも手に具足ぐそくする足あしあつて心こゝろの欲ほつする所ところへ行ゆくに自由じゆうの足たりると知しらざるか。夫それ故ゆゑ足たりぬを不足(ふそく)と云いひ余あまるを足(たり)ると云いふならずや。まだ/\沢山たくさん云いふことあり。コレヤイ目玉だま汝なんぢ逆上のぼせで煩わずらう時ときハヤレ引ひきさげよ三里りよと足あしへ灸やいとハ何事なにごとぞ。口くち奴めが飲酒酔狂(いんしゆすいきやう)の挙句あげくの果はてハ我等われらにあたり傘灸からかさぎうの苦くるしみハ如何いかばかりと思おもひやれ。其その上うへ目玉だまがぐらつく故ゆゑ足あしの我等われらハ溝どぶへ嵌はまり又またハ昼中ひるなか犬いぬの糞くそを踏ふむ時ときは己おのが粗相そさうを知しりをらず足あしの汚けがれを数かぞへたてヤレ汚きたねへのどうだのと他人たにんのやうに抜ぬかしをる。汝等わいらがおごるその時ときハ足あしハ何時いつでも尻しりに敷しかれ痺しびれの切きれるが儲まうけとハ、余あんまり情なさけなからうト云いはれて顔かほハ真赤まツかいに面目めんぼく無なげに聞きゝ、耳みみ潰つぶし鼻はなの頭あたまに汗あせたら%\一句(く)も出いでず閉口(へいこう)/\。   物の本作者 假名垣魯文戯誌\一惠斎芳幾戲画 
見世物
「舶來大象圖はくらいたいさうのづ」(大判一枚、一龍斎芳豊画、[亥二改]文久三年二月、藤岡屋慶次郎)は「天竺てんぢく馬爾加まるか國こくヒツーベルケン山さんの麓ふもと大原野だいげんのに生しやうする処ところ産うまれてより三歳さい女象めざうなり\于時文久癸亥三月上旬より西兩國廣小路に於て奉入御覧に候\魯文。象潟やむかしを今の朧月」とあるが、興行宣伝のために使用されたのかもしれない。引札や報条との区別が微妙であるが、「大曲馬」のごとく興行の内容を詳説してあれば後日の記録のために作成されたものであると判断できる。
中天竺馬爾加國出生ちうてんぢくばるかこくしゆつしやう\新渡舶來大象之圖しんとはくらいだいぞうのづ (假名垣魯文、一龍齋芳豊画、[改亥二]文久二年二月、藤慶梓、彫長)
来ル三月上旬より\西両國廣小路に於\て興行仕候
夫それ象ざうハ獣類じうるいの君主くんしにして行状おこないさながら人林じんりんも及およばす。夜よハ子ねに臥ふして寅とらに起おき、清浄きよきを食しよくして紅塵かうぢんをいとへり。支那しなの大国たいこくなるも其その地ちに生しやうぜず。支那しな人びと其その象かたちを画ゑにて観みるのみ。故かるがゆへに漢土かんどにハ象ざうと号なづく。一身いつしんの運動うんどう鼻はなにあり。總體そうたいの力量ちから背そびらに止とゞまる。一度ひとたび此この霊れい獸じうを見る者ものハ、七難しちなんを即滅そくめつし七福しちふくを生しやうず。看官かんくわん駕がを枉まげて竒々きゝとして拍掌はくしやうすべし。「大象の鼻にかけてはほのめかす\濁らぬ江戸の水の味ひ」   假名垣魯文
中天竺舶來大象之圖ちうてんぢくはくらいだいさうのづ (大判竪絵一枚、假名垣魯文賛、一龍齋芳豊画、[改亥二]文久三年二月、藤岡屋慶次郎板)
亞細亞洲あぢあしう中天竺てんぢく馬爾加ばるか国こく出生しゆつせう。生じてより僅わづかに三歳。形象かたちハ泰たい山のごとく鼻はなハ桟かけはしに似にたり。總身そうしん黒色こくしよく骨ほね太ふとく肉にく肥こへ前まへ足あしの爪つめハ鼈甲べつかうに等ひとしく後足うしろあしの爪つめハ碁ご石のごとし。尾をハ劔けんに似にて耳みゝハ袋ふくろをかけたるごとし。于時ときに文久三癸亥弥生やよい上旬、西両国廣小路しろこうじにおゐて観物場くわんぶつじやうを開ひらき、諸人しよにんの目前もくぜんに一見いつけんを新あらたにすることゝハなりぬ。「姫氏國の毛綱につなく大象は\うこかぬ御代のためしとそなる」   假名垣魯文賛
佛蘭西 大曲馬 CROUE SOUEIE (大錦三枚続、仮名垣魯文記、朝香楼芳春画、[改未十一]明治四年十一月、木屋宗次郎板)
佛國ふらんすの曲馬きよくば師し「スヱリ」と云るハ積年せきねん六十二歳さい、肥満ひまん勇壮ゆうそうの老人らうしんにして、馬術ばしゆつ曲乗きよくのりの業わさに於けるや、五大洲たいしうに雷鳴らいめいハ轟とゝろき、世界せかい第一と称しやうするに足べき名誉めいよ稀代きたいの人物じんぶつなり。子弟してい子しいづれも熟煉しゆくれんせざるハなく、衆目しゆうもくを驚おどろかすが中に、女むすめ、スリヱ氏しの曲馬きよくば早業はやわざ千古せんこ未發みはつの藝けい實じつに、神仙しんせん中ちうの人ひとなる歟か   假名垣魯文記
○スリヱ大きなる馬を自在(じざい)につかひ、馬その言葉ことばに応おうじて、あるひハ横よこに寝(ね)、又ハ膝ひざを屈かゞめ、早はやく駆かけり静しづかに歩あゆみ、隠かくしたる物を嗅付かぎつけてその在処ありかを知しる也。\三ッ毬まりを両の手にて使つかひわけ、馬うまの背中せなかにて拍子ひやうしをとるなり。\並ならびて駆かける二ひきの馬に彼方此方あちこちと乗のり移うつりて、布ぬのをあやどり様々さま%\の曲をなして、後のちにわざごとあり」右
三びきのかけを追おひ走はしりながら、一人ハ途中とちうにて一人の肩かたへ飛とひ付、図のごとくして走はしること、かはる%\なり。これ皆みなスリヱ門人の曲にして目を驚せり。\二ひき並ならびて乗のり、一人ハ馬上にて宙返ちうがへりをなし、今いま一人の股またを潜くゞる早業はやわざ。\スリヱの女むすめ、馬の横腹よこはらに立たち駆かけ乗のり、板子いたごへ輪を括くゝりて馬のえんを離はなれる名曲。\馬の後方しりへに腰こしを掛かけ、あるひハ横よこになり、又ハ俯うつぶしながら輪乗のりの早業はやわざ、筋斗もんどりをきり楽屋がくやに入はいる。\馬うまの背中せなかに鯱立しやちほこだちとなり、かけをおひ、あるひハとんぼ返がへりをして、つゝ立たち、又ハ片足かたあしにてかけをおびながら横よこになり、仰向あほむき俯うつぶしとなりて曲きよくを尽つくす。」中
スリヱの門人軽業かるわざの一曲、高サ五丈余の上なる房ふさより下さがり、身を反そらして彼方あなたに下さがりたる撞木しゆもくに飛とび付つくこと、猿ましらの木こずゑを伝つたふよりも速すみやか也。\スリヱの弟子でし三人、梯子はしごより下さがり、一人ハ手足を図(づ)のごとく反そらして左の一人の身体からだに飛とび付つき、両人絡からみてぶら下さがる軽業かるわざのはやごと、見物けんぶつの肝きもを寒さむからしむ。\スリヱ氏大馬に跨またかりながら身を輪にして馬上に筋斗もんどりをきること屡々しば/\、首尾しゆびに纏まとひての離はなれ業わざ、馬の背せを離はなるゝこと五丈余なり。」左 
鯰絵 
「老なまづ」が魯文の手になるものであることが野崎左文『仮名反古』に記されており、北原糸子『地震の社会史』(講談社学術文庫、2000。初出は1983年『安政大地震と民衆』)では、他の魯文作という鯰絵と共に紹介されている。また、宮田登・高田衛監修『鯰絵』(里文出版、1995)に所収されている「鯰絵総目録」では、これらの鯰絵が図版とともに翻刻されている。しかし、鯰絵は〈際物〉であるが故に作者や画工名も板元も記されていないのが一般的であり、魯文の手になるものが多数在ると言われつつも考証は困難をきわめ進捗していないが、先行研究に拠って掲出しておく。 安政の大地震直後に出されたと思しき仮綴じの小冊子の方では、三田村鳶魚氏が「大道散人」という魯文の戯名を指摘している。鯰絵に見える「地震亭念魚」などと云う戯号も魯文かと思われる。
「老なまづ」\常磐壽無事大夫直傳
「そも/\鯰なまづの荒あれたること、盤石ばんしやくに押おされ、諸々八方の災わざはひ数千人(すせんにん)の見ごりをなして、古今(こゝん)の憂うれひを増ます。しゆんの時候(じこう)の怒いかりの時とき、天てん俄にはかに掻かき曇くもり、大地頻しきりに揺ゆりしかバ、蔵くらと壁かべを防ふせがんと、小藪やぶの陰かげに寄よりたまふ。此折おり町々まち/\廃屋はいほくとなり、根太ねだを折おり戸を重かさね、おのが軒端のきばを塞ふさぎて、その梁はりをもたささりしかハ、むざと最期さいごと入寂(にうじやく)のおはり、無駄むだ死(し)たまひしより、鯰なまづをあやふと申とかや、かやうにすでかき間違(まちがひ)に身を悔くふ民たみの憂うれひをバ、君きみの情なさけでお救すくひの、米(こめ)の五合(ごんかふ)古壁ふるかべのほこりたへせぬ天変(てんへん)地(ち)獄ごく、どう/\/\と、みくらのつちに、打うたるゝ者ものこそせつなけれ」 安政二乙卯年十月二日\新吉原仮宅場所付「浅草之分\一 東仲町\西 同\花川戸丁\山の宿\聖天町\目瓦丁\山谷丁\今戸丁\馬道\田町\深川仲町」「深川\一 永代寺門前仲丁\同 東仲丁\山本丁佃丁\松村丁\八幡御旅所門前丁\続御舟蔵前丁\八郎兵衛屋敷\松井丁\入江丁\長岡丁\陸尺屋敷\時ノ鐘屋敷\常ハ丁」げい者「おめにかけます軽わざハ野中の一本すぎてござります」\なまず「七分三分のかね合/\」
〈{雨あめにハ|困こまり□〔ます〕〉 野宿のじゆく 暫しばらくの外寝そとね 市中三畳\自作
「東医とうい南蛮なんばん骨ほね接つぎ外料ぐはいりやう日々あら/\發はつ行こう地震ぢしん出火しゆつくはのその間あいだに、けがをなさゞるものあらんや。数かず限かぎりなき仲なかの丁ちやう先まづ吉原よしはらが随ずい市川いちかは、つぶれし家いへの荒あら事ごとに、忽たちまち火事くはじに大おほ太刀だちハ、強つよくあたりし地ぢしんの筋すぢ隈ぐま、日本堤にほんづゝみのわれさきと、轉ころびつ起おきつかけゑぼし、きやつ/\と騒さはぐ猿若さるわか町、芝居しばゐの焼やけも去年こぞと二度にど、重かさね〓菱つるびし又また灰はいを、柿かきの素袍そほうハ何いづれも様さま、なんと早はやひじや厶りませぬか、実じつに今度こんどの大たい變へんハ、嘘うそじや厶らぬ本所ほんじやう深川ふかがは、咄はなしハ築地つきぢ芝しば山やまの手て、丸まるの内うちから小川をがは町まち、見渡みわたす焼場やけばの赤あかッら、太刀たち下したならぬ梁下はりしたに、再ふたゝび鋪しかれぬ其その為ために、罷まかり出いでたる某それがしハ、鹿嶋かしま大だい神宮じんぐうの身内みうちにて、盤石ばんじやく太郎礎いしずへ、けふ手始てはじめに鯰なまづをバ、要石かなめいしにて押おさへし上ハ、五重ごぢうの塔とうの九く輪りんハおろか、一厘いちりんたり共動うごかさぬ、誰たれだと思おもふ、ヤヽつがも内證ないしよの立退たちのき藝げい者しやの燗酒かんざけ、焼やけたつぶれた其その中なかで、色いろの世せかいの繁昌はんじやうハ、動うごかぬ御代みよの御惠おんめぐみ、ありが太鼓たいこに鉦かねの音おと絶たへぬ二日の大せがき、ホヽつらなつて坊主ぼうず」
家苦やくはらひ
アヽラ うるさいな/\。今こんばんこよひの雨風あめかぜに、家いへくら堂どう社しやおしなべて、町まちもやしきも、おに瓦かはら家根やね板いた迄までもさらひませう。去きよねんのやくの鯰なまづめが、一周忌いつしうきにハはやて風かぜ、八月すへの五日いつか、はや軒のきなみそろふ家々いへ/\も、きのふの無事ぶじハけふの苦と、かはるもはやき飛鳥川あすかがは、岡おかハ淵瀬ふちせの大出水おほでみづ、かぜハおそれ入いり豆まめの、さて/\ふくハ福ふくハうち□□お門かどをながむれバ、そらに戸板といたが舞上まひあがり、平地ひらちの池いけとなるかみに、泪なみだの雨あめの水みづまして、ながるゝ舩ふねや竹たけいかだ、ながいものにハまきはしら、立たちよるかげの大木たいぼくも、根ねから折口おりくち死出しでの山寺やまでらに、はかなきおりからに、このやくはらひがとんで出、ふくろの中へさらり/\。   風雷散人戯述 [印](丸に三つ巴)  
死絵
「三代歌川豊国 死絵」(大判二枚続、一鶯齋國周、[改子十二]元治元年十二月、松嶋彫政、錦昇堂板)は元治元年十二月十五日に歿した三代豊国の追悼のために出されたものであるが、伝記事項を含む長文の「填詞」が付されており絵師の死絵としては破格であろう※9。魯文は「今年こんねん暮くれて今年の再來さいらいなく古人こじん去さつて古人に再會さいくわいなし\哥川うたがはの水原みなかみも涸かれて流行りうかう半月はんげつに變へんずべし\水莖の跡ハとめても年波の寄せて帰らぬ名殘とそなる\應畧傳悼賛需\戯作者假名垣魯文誌」と追悼の賛を書いている。一般的に「死絵」は歌舞伎役者の追悼として出されたものが多い。似顔で描かれ辞世や追悼の詩句が入れられているものが多く、「填詞」が入っているものは少ないと思われる。 
実録講談 
講釈師が読んだ剣豪の実録などの粗筋を紹介するものである。揃物が多かったと思われるが、大揃いで何枚になるか不明なものが多い。たとえば、『英名二十八衆句』 (芳幾・芳年画、錦盛堂、慶応二年十二月改)は二十八枚組の最初に「目録」が附され、上に「勝間源五兵衛」以下「濱島正兵衛」まで二十八人が上げられ、下に「繍像略傳」の担当者として順に「假名垣魯文・岳亭定岡・山々亭有人・爲永春水、瀬川如皐・河竹其水、一葉舎甘阿・巴月庵紫玉・井雙菴笑魯・可志香以」が並べられ、「傭書 松阿弥交來」「彫工 清水柳三」「慶応三丁卯秋\梓客 錦盛堂」とある。
東錦浮世稿談 三好屋魯山 (「一魁齋芳年筆」) 国文研
是これ此この一個いつこの大剛だいがう勇士ゆうし父兄ふけいの仇あたをむくはんと、廻國くわいこく修行しゆぎやうの武者わらぢ、ひまゆく駒の足がきをはやめ、光陰くわういんすでに古郷ふるさととほき彼かのみちのくの二本松に、はからず蒙うけし禍まがつみの、罪つみならぬ身を言觧いひとけども、とくによしなき縛いましめの縄なは引ひきちぎり、獄舎ひとやをやぶりて竟つひに天日を見る時を得たり。   填詞 かな垣魯文記   岩見重太郎包輔
東錦浮世稿談あつまのはなうきよかうだん 伊東凌西 (「一魁齋芳年、[辰二改]明治元年二月) 国文研
狐きつね千歳せんさいを經へて美女びぢよと化けすと唐土もろこしの書しよに見みへたれど、五百歳こひやくさいをたもちて美童ひとうと化けすの正説しやうせつなし。虚うそか実まことかしらぬ火ひの筑紫つくしの壮士さうし宮本みやもと氏うし妖狐えうこと試合しあいの竒々きゝ怪々くはい/\、虚々実々きよ/\しつ/\の談〓たんへいハ凌西りやうさい生せいが舌頭せつとうより講かうする所ところの名話めいわにして最いと面白をもしろきハ白はく面の狐きつねを説とける故ゆへなりしか。   填詞 假名垣魯文記   「宮本無三四正名」「妖狐の怪」
講談一席話かうだんいつせきわ 邑井貞吉 (大判、松雪斎銀光筆、「淺尾之局 尾上菊五郎」、渡辺彫栄、具足屋嘉兵衛) 都中央
善惡両面加々見の裏うら梅芳き名に似すやらで残忍さんにん非道に組せし女夜刄奸毒どく忽たちまち報むくひハ覿てき面縛いましめのみか青蛇くちなはの苛責かしやくに苦痛くつうの七轉てん八倒すねに疵きづもつ小笹原千里を走はしる惡事の條々浅きたくみの尾をあらはしてハ妖狐えうこも裘かわを剥はがるゝに至れり   魯文述
於下總國笠河原竸力井岡豪傑等大闘争圖しもふさのくにかさかはらにおゐてけいりきゐおかのがうけつらおほけんくはのづ (芳虎畫、子二改 元治元年、伊勢兼、彫長・松嶋彫大・片田彫長) ルーアン美術館
近世水滸傳 完   異朝もろこし大宋たいそうの時とき、洪信こうしん伏魔ふくま殿でんを壊あばきて、百八の豪傑がうけつ世よに顕あらはれ、宋そうの天下を閙さわがせし小説せうせつハ、元けんの羅貫中らかんちうが水滸傳すゐこでんに著明いちしるし。我朝わがてういつの頃ころにや有ありけん、下總國しもふさのくに笠河原かさかわらといへる地ちに、其頃そのころ有名いうめいの侠客けうかく、竸力けいりき富五郎とみごらうといへる者、親分おやぶん笠川かさがわの髭造しけそうが仇あだとしねらふ、井岡ゐおかの郷さとの侠首けうしゆ、捨五郎すてごらうと出會しゆつくわいし、互かたみに子分こぶん弟おとゝ分と称となふる者数人すにんを従したがへ、義ぎを泰山たいさんの重おもきに比ひし、命めいを鴻毛こうもうの輕かろきに竸たくらべ、耻はぢを知しり名をおしみ、双方さうはう一足も退しりぞかず、血ちハ流ながれて河原をひたし、骸かばねハ積つんで山をなし、さけぶ声こゑ、天にひゞき、劔つるぎの音おと、地を震ふるふ。そが中に、武者修行むしやしゆぎやうの浪士らうし、平手ひらて壹岐いきといへる者、身找たけ六尺有余いうよ、劔道司馬しば秀胤ひでたねの門人にして、出没ぼつ自在じざいの奥儀おうぎを極きはめ、當世たうせい不思儀ふしぎの名人なりしか、此人にして此この病やまいあり。平生へいぜい酒癖へきあしかりけれバ、師しの勘氣かんきをうけて浪々らう/\し、下總千歳せんざいの里なる竸力が食客しよくかくと成なつて在けるが、此この闘争けんくわのおり、随ずい一の竸力方にて、井岡の夛勢たぜいと手いたく戦たゝかひ、終ついに多勢の爲ために討死うちじにをぞ遂とげたりける。竸力けいりき方も数多の井岡ゐおか勢とたゝかふて、捨すて五郎を見失うしなひ、了ついに夲意ほんゐを遂とげずといへども、名なを後世こうせいにとゝめたり。   概畧  假名垣魯文記
〈画工一魁齋くはこうはいつくわいさい・名目一對競めうもくのいつゝいくらべ〉 美勇水滸傳びゆうすいこでん (中錦五十番続、一魁齋芳年画、假名垣魯文記、[卯八改]慶応三年八月、亀遊堂壽梓)
龍 宮 炎出見命
龍 種 竜王太郎
時 代 黒雲皇子   横 行 赤松重太丸  梅 容 夢野蝶吉
世 話 白木駒吉   飛 行 姫松力之助  柳 髪 女勘助
旧 館 滝夜刄姫   桟 橋 木曾義仲   二 郎 大原武松
旧 鼠 清水冠者   虹ノ橋 尾形児雷也  二 刀 宮本武蔵
仁 王 金神長五郎  残 刄 蝦蟇九郎   箱 根 高木虎之助
不 動 倶利加羅釼五郎 虎 狼 大蛇丸   山ノ井 六木杉之助
良 門 相馬太郎   勇 善 鳥山秋作   強 力 明石志賀之助
鬼 門 稲葉太郎   美 惡 青柳春之助  強 勇 大島丹蔵
〈画工一魁齋くはこうはいつくわいさい|名目一對競めうもくのいつゝいくらべ〉美勇水滸傳びゆうすいこでん〈惣|揃〉〈一魁齋芳年画|亀遊堂壽梓〉中錦五十番續
金 猫 瑳峩の大領  東 奥 松ヶ枝関之助 怪 力 神洞小二郎
金 鈴 魔陀羅丸   北 雪 藤波由縁之助 怪 傳 木鼠小法師
江ノ島 白菊丸    矢 武 勇婦綱手   不 人 姐妃のお百
大 嶋 白縫姫    弓 張 勇妻八代   不 二 三國太郎
侫 士 仁木弁之助  天 麗 大友若菜姫  良 将 里見義成
勇 士 高木午之助  天 狗 小僧霧太郎  良 士 牛若三郎
妖 狸 犬江親兵衛  駿 河 宇治常悦   美 少 末珠之助
野 猪 犬田小文吾  駿 馬 犬山道節   美 性 尾ノ虎王丸
                      假名垣魯文記

玄治店げんやだなの画漢中ぐハかんちう。水滸すいこ一百いつひやく八個はちにんを画巧ゑがきて。画中ぐハちうの豪傑がうけつと称誉たゝへられしも。天岡てんかう地〓ちさつの星霜せいさう久ひさしく。繪櫃ゑびつの石碣せきかつ堅固かたく鎖とざして。再度ふたゝび開ひらく洪信こうしんなきを。一魁齋いつくはいさい芳年よしとし教頭きやうとう。單身ひとり勇ゆう門もんの末坐すへに出いでて。師風しふうを奪體ばつたい換骨くわんこつし。梓客はんもとの應需もとめにおうじ。義勇ぎゆう 善惡ぜんあく好漢かうかん麗婦れいふの容像かたちを画成なすこと五十ごじう員いん題号なづけて美勇びゆう水滸傳すいこでんと爲す。嗚呼あゝ大哥うしの號かう架空むなしからす 芳梅はうはい未春みしゆんの諸木しよぼくの魁さきがけ。譬たとへ 金聖嘆きんせいたんの繪難坊ゑなんほう。伏ふく魔殿まてんの穴あなを鑿索うかち。佳不佳よしあしの批評ひひやうありとも水滸すいこ贔ひい屓きの稗官者流はいくわんしやりうが。當世とうせい二代にたいの画勇子くはゆうじと。ホヽ請證うけあつて白まうす。   假名垣魯文題 
炎出見命
炎出見尊ほでみのみこと兄あにの釣針つりばりを かり給ひ、海辺うみべに釣つりをたれ たまひ、終ついに失うしなひ、兄の怒いかり 甚はなはだしきゆへ、あかめだいに 乗のり、針はりを尋たづねんとして龍宮りうぐう に至いたり、思はず豊玉姫とよたまひめと契ちぎり、 于珠うんじゆ満珠まんじゆの二ッを得え給ふ。※以下略
〔将門〕 (大判二枚続、改印 [午十]安政五年十月、芳虎画)  都中央
相馬さうま小次郎こじらう将門まさかと、比叡山ひえいさんに伊豫掾いよのぜう純友すみともと倶ともに、平へい安城あんじやうを見みおろして、四海しかい平呑へいどんの逆意ぎやくいを企くはだて、直たゞちに東國とうごくに走下はせくだり、下総國しもふさのくに猿嶋郡さるしまこほり廣山ひろやまに内裏だいりを建たて、一門いちもん従類じふるいに高官かうくわんを授さづけ、自みづから新しん皇くわう帝ていと号がうし、専もつはら叛企むほんの色いろを顕あらはし、まづ軍陣くんじんの手初てはじめに、常ひた陸ちの大掾だいぜう国香くにかを亡ほろぼし、逆位ぎやくゐ旭あさひの登のぼるが如ごとく、空行そらゆく雁かりも面前まのあたりに落おちて忽地たちまち死しせりといへり。   鈔録一家 鈍亭魯文記 
役者芝居 
役者絵は浮世絵において中心的な題材だといえるが、役者名や狂言の外題だけではなく、台詞や長文の「填詞」が入っているものも少なくない。『源氏雲浮世画合げんじくも うきよゑあはせ』(一勇齋國芳画、伊勢市板、弘化三、五十四枚揃)は、各巻に則して巻中歌を色紙風に記した下に、芝居の登場人物を一部役者似顔を用いて描き、説明文の最後に「填詞 花笠外史」などとある。これらは揃物としてシリーズ化されているものが多いが、一部分だけを掲出しておく。
〈美伊達みたて|五節句ごせつく〉花方揃侠気名弘わかてぞろひいきぢのなびろめ 一名ほめことば (大判五枚組、豊國筆、假名垣魯文讃詞、[亥九改]文久三年九月、錦昇堂) 都中央
〈新玉あらたまの|春五郎はるごらう〉 坂東彦三郎 〈音羽屋|薪 水〉
定紋ぢやうもんの鶴つるハ。青陽せいやうの空そらに翅はを伸のし。藝頭げいとうの評判ひやうばんハ三都みつの櫓やぐらに殊ほとんど高たかし。幼遊おさなあそびの凧いかのぼりに。九字くじ菱びしの骨組ほねぐみよく。上あがる出世しゆつせの位附くらいづけ立身りつしん大吉だいきち門松かどまつの。竹三たけさとよびしも昨日きのふとくれ。今朝けさ新玉あらたまの春はる五郎。未まだ年玉としだまも若水わかみづの。元日ぐわんじつ二日ふつか三坐さんざの稀物まれもの。彼かの刈萱かるかやの山やま乃段だんにハ。名誉ほまれ高野たかのの奥おく儀ぎをきはめ。汲くみやしつらん玉川たまがはに。古人こじん紀伊國きのくにのおもがけをよくも写うつせし鏡山かゞみやま尾上をのへにからむ岩いはふぢハ。草履ざうりの手煉しゆれんたしかにこたへ。小田をだに種蒔たねまく春永はるながの長閑のどけき業わざをみどりの松永まつなが。大入成なせる大膳だいせんの。いきほひ竜りようの登のぼるがごとく。實盛さねもりがものがたりにハ。弁舌べんぜつ布引ぬのびきの滝たきに似にてよどまず道風たうふうの蛙場かはづばには。青柳あをやぎのすゞりの深ふかきをさぐれり。これを仰あをげバいよ/\たかき。銀杏いてう花菱はなびし鼻はなばしら仁木につき弾正だんじやうがせり出だしは。高麗こま唐土もろこしにきこえたる。甘輝かんきも稀代きたいの秘術ひじゆつをあらはし 我わが日ひの本もとの神風かみかぜや。福岡ふくをか貢みつぎの十人切ぎり。こハふるいちの古ふるきをしたひし 二見ふたみがうらの日ひの出での俳優わざおぎ。伊勢いせ音頭おんどの音羽屋おとはやにひゞきわたりし坂東ばんどう武者むしや。加役かやくに若女形おやまの大将軍たいしやうぐん。諸藝しよげい兼備けんびの座頭ざがしら。かぶ衆こぞつて旦那だんなと侠客たてしゆの花方はなかた。右みぎも左ひだりもきゝもの/\。   江戸前の戯作者 假名垣魯文讃詞 
近世水滸傳きんせいすゐこでん (大錦繪三十六番續、豊国画、[戌九改]万延二年九月、伊勢兼)
湯灌場ゆくわんば 小僧こぞう 吉三 市村竹之丞 吉三きちさハ礫つぶて川浄圓寺じやうゑんしの門番もんばん吉平きちへいの忰せかれにして幼稚いとけなきより膽太きもふとく未いまだ前髪まへがみ立たちよりして賭かけに耽ふけり悪事あくじにさかしき曲者くせものなり茲こゝに當時たうじの小姓こしやう戸戍もり左門さもんといへる者もの頗すこふる文学がくありて殊ことに無双ぶそうの美男びなんなれバ檀家だんかの中なる八百屋久兵衛きうべゑが娘むすめ於七といへる美女びぢよ此この左門を深ふかく戀慕れんぼし密ひそかに吉三を仲立として艶書えんじよを送おくり了ついに階老かいらうの契ちぎりを結むすべるを父ちゝ久兵衛これを推すゐし娘をとゞめて浄円寺に詣まうづる事ことを許ゆるさゞれバ於七思おもひにあこがるゝをりから吉三來きたりて於七にいふやうおん身さまてに左門ぬしに會あはんことを思召おほしめし給ハゝ火ひを放はなち出火しゆつくわの紛まきれに浄円寺に趣おもむき給へと言葉ことはを巧たくみに示しめすにぞおぼこ心こゝろの一筋すちに吉三がをしへしまに/\しけれバ吉三出火しゆつくわを幸さいはひに金銀財宝さいほうを若干そくばく盗ぬすみとりし事忽たちまちに露顕あらはれて官府くわんふにひかれ於七と共ともに火あふりの罪科さいくわに所しよせられしかバ後人こうしん於七吉三郎と對つゐせし浮うき名を世よにうたひぬ   畧傳史 假名垣魯文記 
蜘絲錦白縫くものいとにしきのしらぬひ 〈義婦|雄浪〉岩井紫若 (國周画、本、片田彫長、[改子八]元治元年八月) 国文研
長門國ながとのくに竹嵜たけさきに近ちかき堀江ほりえの漁夫ぎよふ櫓作ろさくが女むすめ也。心操こゝろばへ人ひとに勝すぐれ、兩親ふたおやに孝心かうしんふかく、其その歳とし三十みそじに近付ちかづく迄まて、他人ひと勸すゝむれ共ども夫をつとを持もたず。老父らうふを養はごくまんが爲ために、沖おきに出いでて釣つりをたれ、魚うをを取とりては市に賣うり、或時あるときハ人に雇やとはれ磯山いそやまに行ゆき、焚木たきゞを樵こるに、生うまれ得えて力つよく、男も及ぬはたらきせり。或ある夜よいさき川に漁すなどりせし〓あみの中うちに、父ちゝの恩人おんじん雪岡ゆきをか夛太夫たゞいふが女むすめ照葉てりはを引上て家に伴ともなひ、其來由を問とひけるに、照葉ハなく/\兄冬次郎が横死わうしのことより、弟おとゝ力松と倶ともに家來けらい村岡むらをか真平しんへいを便たよりて、はる%\と長門路なかとちへ渡わたり來て、惡者わるものの爲ために力松がゆくへをうしなひ、その身はいさぎ川の土橋とばしより落入おちいりしこと、しか%\と語かたるに、恩家おんかの退轉たいてんを、櫓作ろさく親子おやこハうちなげき、てりはをいたはりかくまひける。かくて櫓作病死ひやうしの後のち、雄浪をなみがはら水棹みさほが兄あに無理むり右エ門ゑもんと其その伜せがれ牙八きばはちが爲ために仇あだせられ、水棹みさほは兄を討うつて深疵ふかでに死しし、雄波をなみは従兄いとこ牙八を討とりて、照葉てりはを伴ともなひ國を去さり、出雲國いづものくに琴彈山ことひきやまなる露月尼ろげつにが庵いほりに趣おもむき、しばらく爰こゝに身をかくせしが、又また三賊さんぞくの爲にしも大だい厄難やくなんを蒙かふむりて、大力たいりき無双ふさうの義婦きふ雄波も、鶏矇眼とりめの病に賊手そくしゆにかゝり、墓場はかばのつゆとぞきえにける。   假名垣魯文抄録 
料亭芸者
〈春色|今様〉三十六會席 (山々亭有人・假名垣魯文 戲述 一〓斎芳幾筆 [巳四改]明治二年四月) 高知市民図
山谷八百膳/深川平清/木挽町醉月/千束田川屋/代地川長/今戸大七/同有明樓/芝車家/坂本町錦語樓/本街小櫻/山谷八百半/築地青柳/平松町魚仙。 品川町萬林/深川山松茂堂/両ごく青柳/柳ばし梅川/下谷松源/甚左衞門町百尺/おなじく豊田屋/高砂町万千/柳島はし本/金春三のへ/橋場川口/深川福安。 しば大もん宝治/王子ゑびや/おなじくあふぎ屋/淺草廣小路壽仙楼/木母寺うゑはん/よし原京まち金子/同江戸町海老長/きはら店千歳楼/代地ともへや/厩ばし昇月/高輪萬清
花はなハ盛さかりに月ハ隈くまなきを見みて春秋しゆんじう長きを樂たのしむは東京とうけいの餘澤よたくにして。九夏きうかの炎暑あつさを兩国りやうごくの橋間はしま。隅田川すみだがはの中洲なかずにながし。玄冬げんとうの素雪そせつを巨燵こたつぶとんに眺ながめて。家根舟やねぶねの簾すだれをかゝぐ四時しいじの觀樂くわんらく。その主しゆとするハ食しよくにあり。されバ割煮れうり通つうの通家つうかを撰えらみて。是これに祥瑞しやうずいの歌妓うつわを添そゆるは。〓齋けいさい大人うしの筆頭ひつとうに發おこり。並ならんで寸楮すんちよに戲文けぶんを述のぶるハ。魯文ろふん有人ありひとの兩兄りやうけいが筆端ひつたんに成なれり。此この三子さんし當世たうせい画作くわさく中ちうの三聖さんせいにして。所謂いはゆる酢甞すなめの粋達すいたちなれバ流行りうかう此この画ゑの中うちに籠こもり。製巧せいこうの美び至いたれり盡つくせり。時勢粧じせいそうの案内しるべ。是これより穿うがてるハなしとせん。   応需 秋津齋我洲戲述 [印]   亀遊堂 集玉堂 愛錦堂 亀松堂合梓 
春色三十六會席 〈中代地|川長〉「柳橋小勝・柳はし小満」(朝霞楼芳幾画 玉惣 [辰十二改]明治元年十二月)
同とう朋町を出る唄妓裏河岸を通ふ小唄、細腰ほそごしの柳橋やなぎばしを渡わたりて右へ入る川長ちやうの楼ろう上、角力すまふ甚九しんくハ櫓太鼓やくらだいこの赤萬あかまんが聲こへにして、すてゝこ踊をどりハ阿房珎丹あぼちんたんが足拍子あしびやうしなるべし。澤瀉鶴おもだかづるかすかに囀さへづり、哥澤うたざはの水細ほそく流ながる。花柳はなやぎの手振てふりしなやかなる狐きつねさんの腕前うでまへ、節ふしくれたる共ともに酒興しゆけうの景物けいぶつにて主とするハ當この調進てうしんなめり。   假名垣魯文填詞 

以上、甚だ不完全ではあるが、魯文の関わった填詞の概略を紹介してきた。魯文研究にとって大量の逸文が存在していることを示したことになる筈である。此等を調査蒐集することは浜の真砂を数えるようなものかもしれないが、ある程度デジタル化した画像が公開され始めているので、嘗てよりは効率的に調査が可能になってきていると思われる。しかし、浮世絵の場合は填詞者の名前がメタデータとして登録されていないことが多く、一標目づつ見て行かなければならない。画像データを公開する時には、資料に記述されている文字情報は細大漏らさず書誌として付して欲しいものである。

※1.高木元「魯文の売文業」(「国文学研究資料館紀要」第34号、国文学研究資料館、2008)。なお、拙サイトで公開している版では多少増補してある。
※2.高木元「十九世紀の絵入メディア−錦絵の〈填詞〉をめぐって−」(「國語と國文學」1095号、東京大学国語国文学会、2015・2)
※3. 現代に於いて「填詞」は楽曲の歌詞を意味するようで、「原文歌詞、中文填詞」という用例を多数見受ける。
※4.享和2年刊の森羅子著『燈下戯墨玉之枝』という江戸読本がある。また、馬琴が「とるにしも足らぬ燈下の戯墨、或は一時半閑の随筆」(文化12年6月24日黒沢翁麿宛書翰)と記す如く、「燈下」と「戯墨」とは続けて用いられることが多かった。
※5.切附本とは主として安政期に魯文が主導して創出したジャンルで、すでに出ている読本や実録などの抄出ダイジエストを目的として粗製濫造された。高木元「末期の中本型読本−所謂〈切附本〉について−」(『江戸読本の研究−十九世紀小説様式攷−』、ぺりかん社、1995)参照。また、魯文が仮名垣を使い出すのは万延以降であり、それまでは鈍亭を名告っていた。高木元「鈍亭時代の魯文−切附本をめぐって−」 (「社会文化科学研究」第11号、千葉大学大学院社会文化科学研究科、2005・9)。
※6.野狐庵は魯文の別号であり、序者の署名下の印に[尚古]とあることから、これも魯文である。つまり他序に見せかけた自序であり、江戸後期の戯作ではよく見掛けた。
※7.高木元「二代目岳亭の遺業」(「人文社会科学研究」第23号、千葉大大学院人文社会科学研究科、2011・9)参照。拙サイトでは増補版を掲載してある。
※8.この資料はすでに注2拙稿「十九世紀の絵入メディア」で紹介した。なお、以下の原文は平仮名ばかりなので適宜漢字を宛て原表記は振仮名に残した。振仮名のない漢字と振仮名が括弧に入っているものは原表記。
※9.この資料も注2拙稿「十九世紀の絵入メディア」で紹介した。 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
活字

 

 
世界最古の金属活字
印刷の歴史は、今日一般には1450年のドイツのグーテンベルクによる金属活字を用いた聖書の印刷に始まると言われている。しかし、印刷自体については、グーテンベルク以前に自分の国で行われていたという主張がヨーロッパのさまざまな国にある。そのことは、こちらのページで詳しく紹介されているが、大量印刷の元祖としてのグーテンベルクの功績は否定できない。ヨーロッパには、ぶどうやオリーブを搾るためのプレス機が古くからあったが、それを転用して大量印刷を可能にする印刷機をつくるというアイデアはグーテンベルクの創意によるものと言ってよい。  
印刷術の発明は、火薬や羅針盤とともに、ルネサンスの三大発明と呼びならわされている。しかし、歴史的には「発明」と呼ぶより、「改良」と呼ぶほうがふさわしい。火薬も羅針盤も印刷術も、ヨーロッパよりずっと早く東アジアで始まったものであり、イスラム商人らの活動によってヨーロッパに伝えられたものだからである。火薬に不可欠な硝石は、紀元前の秦の始皇帝のころから中国ではすでに知られ、3世紀ごろには炭素や硫黄を加えた黒色火薬が作られ、爆竹や花火が使用されていた。北宋(960〜1126)の時代にはすでに兵器にも用いられた。元寇のとき、モンゴル軍が「てつはう」という兵器を使って日本軍を驚かせたことは有名である。方位磁石についても、北宋の時代には、水に磁針をとりつけた木片を浮かべて方位を知ることが行われ、航海にも応用されていた。東アジアでは印刷の起源も古い。長く世界最古の印刷物とされてきたのは、日本の法隆寺に保存されてきた。「百万塔陀羅尼経」であり、恵美押勝の乱による戦死者を供養するために西暦770年に作られたと伝えられている。ところが1966年、韓国慶州の仏国寺の釈迦塔の中から「無垢浄光大陀羅尼経」が発見された。釈迦塔の創建が751年のことなので、法隆寺の印刷物より古いということになる。火薬も羅針盤も印刷術も、ヨーロッパで始まったのは、ようやく14世紀になってからのことであった。そして、印刷には不可欠な紙も、遠く東アジアから伝えられたものであることも、忘れてはならない。  
中国での火薬の発明は、不老不死の薬を求めて繰り返された試行錯誤の中での偶然の産物だったようである。羅針盤によって方位を求めることも、風水の必要から始まったというところが、いかにも中国らしい。東アジアでの印刷も、文面を美しく整えることに主眼があったようだ。これに対して、さまざまな国が覇権を争うヨーロッパでは、火薬は強力な武器を作るため、羅針盤は航海に役立てるため、印刷は文書を大量に配るために役立つものと考えられた。中でも、のちのヨーロッパの世界制覇を可能にしたのは火薬の改良だったといってよい。ヨーロッパの黒色火薬の性能は中国のものを遥かにしのぐものとなり、17世紀には大規模な工事の発破にも用いられるようになった。羅針盤についても、方位盤の上にピボット(垂直軸)を立てそれに針をつけるという改良が、すでに14世紀の初頭に行われていた。これだと水がこぼれる心配がないので、航海への応用が飛躍的に容易になり、いわゆる大航海時代が到来した。印刷についても、大量印刷を可能とするため、一枚の版木に文章全体を掘り込む整版印刷から活字を用いた活版印刷への改良が行われた。  
ところが、活字が最初に作られたのも、東アジアでのことであった。宋代の慶歴年間(1041〜1048)に畢昇という人物によって陶活字が作られたのが最初とされ、木の活字も作られるようになった。そして、金属活字が初めて作られたのは、高麗時代の朝鮮半島でのことであった。記録では、12世紀にできた『詳定礼文』という書物の一部を金属活字で作ったということが、現存する跋文に記されているのが最古である。これによれば、世界最古の金属活字の鋳造は、モンゴル軍の侵入で高麗王朝が江鼻島に遷都した1232年ごろのこととなり、グーテンベルクより200年以上も前のこととなる。しかしこのことは、肝心の『詳定礼文』の原本が失われているため、まだ裏付けられてはいない。しかし、その後の1377年に金属活字で印刷された仏教書直指心体要節の原本(下巻のみ)が、1972年にフランス国立図書館で見つかり、グーテンベルクより少なくとも73年前に高麗で金属活字による印刷が行われたことが裏付けられるにいたった。  
高麗は、それ以前から高い印刷技術を持っていた。そのことを端的に物語るのが、有名な八万大蔵経である。大蔵経とは仏教の経典の全集のことであり、仏教圏ではあちこちで編纂が行われたが、高麗で編纂された大蔵経は、表裏にそれぞれ644字(14×23行)の漢字が刻まれた約86600枚もの版木に刻まれていたため、八万大蔵経と呼ばれている。これだけの版木が、1236年から16年間をかけて作られた。強大なモンゴルの脅威にさらされていた高麗は、仏の力でモンゴルの退散を図ったのである。版木はたぶの木を数年間海水につけ、塩水で蒸して樹脂を取り除いたのち、数年間陰干しにして湿気を除くという丁寧な作業を経てつくられた。もちろん印刷は版木だけではできない。高麗は紙や墨の技術にも優れ、大量の紙や墨が宋に輸出されていたことが記録に残っている。金属活字の場合は、高度の鋳造技術も必要である。  
中国では、活字印刷は全面的には発展せず、むしろ整版印刷が好まれた。これも、主眼が大量印刷ではなく、字を美しく整えることにあったためであり、文字を美しく彫り込む技術を持った職人が多かったことが、その傾向に拍車をかけた。しかし、朝鮮では活字による印刷は、つぎの李朝時代にも盛んに行われ、金属活字も盛んに作られた。15世紀に創製された訓民正音(ハングル)の普及にも、活字が大きな役割を演じた。そして、豊臣秀吉による侵略によって、日本にも大量の朝鮮の活字が日本にもたらされることになる。江戸時代初期の盛んな出版は、朝鮮の活字を用いて行われた。しかし、やがてこのころまでに飛躍的な進歩を遂げていたヨーロッパの活版印刷が東アジアをも席捲することになる。朝鮮の活字を用いて印刷された書物は、今日の日本では「古活字本」と呼ばれている。一方、膨大な量の活字を日本に持ち去られた朝鮮の印刷技術は、独自の発展を続ける力を失っていった。  
近代に世界中にひろまった活版印刷技術は、確かにグーテンベルクに始まると言ってもよいであろう。しかし、ヨーロッパにおける印刷の開始自体が、遠く東アジアから伝わったものであること、のちの時代には直接につながらないにせよ、活字の発明も東アジアが最初であったことは、忘れてはならないことである。グーテンベルクにさきがけて印刷が自国で行われていたという主張がヨーロッパ各国にあることは、近代ナショナリズムの表れなのであるが、もし日本人が近代印刷に直接つながらないことをもって朝鮮半島での金属活字の発明の意義を軽視するとしたら、ヨーロッパの近代ナショナリズムの卑小な物真似ということにしかならないであろう。日本を含む文明圏での発明を貶めることは、自らをも貶めることになることを忘れてはならない。一方、今日の朝鮮半島では、金属活字の発明をもっぱら自民族の英知の成果として誇ろうとする傾向があるが、それを高麗だけの出来事としてとらえるのではなく、東アジアの文明圏で起こった技術革新の中で高麗が最先端をいったものとしてとらええなおす必要がある。ヨーロッパ中心の歴史像を改めるには、互いの脚を引っ張る視野の狭いナショナリズムは克服されなければならない。  
 
活字

 

狭義においては活版印刷の際に文字の図形を対象(特に紙)に印字するもので、木や金属に字形を刻み、それにインクをつけて何度も印刷できるようにしたものである。また広義においては、写真植字の文字盤やデジタルフォントをはじめ、広く文字を同一の字形で繰り返し表現するものを含む。 
製造  
活字の製造手法は大きく彫刻活字と鋳造活字に二分される。彫刻活字が先に開発され、鋳造活字は後からきた。彫刻活字ではできなかった「全く同じ形の文字を大量に製造する」ことが鋳造活字によって可能となり、活版印刷をより実用的なものとした。  
彫刻活字  
彫刻活字は、あらかじめ用意してある駒に印字したいものを彫ることによって活字を作るものである。彫れればなんでもよいのであるから、さまざまな材質の活字があった。最も古い活字であるといわれる膠泥活字は陶器製だったとされる(カーター・グッドウィッチ)。そのほか金属のものも中にはあったが、ほとんど木に彫ったものである。木活字は、容易に制作できたことから、金属活字主体の印刷現場においても、特殊な用途(見出し用巨大活字・作字など)で用いられることがあった。  
木活字  
鋳造活字  
鋳造活字はまず高麗によってなされた。高麗の銅活字は、銭の鋳造技術を援用したと考えられており、父型を作り砂型を取って、そこに銅を流し込んで作ったと見られている(百瀬)。グーテンベルクが開発したものはそれとは異なり、作った父型をまた金属に打ち込んで母型とし、それを枠にはめて鉛・アンチモン・錫の合金を流し込んで作る、パンチ法と呼ばれる手法であった。グーテンベルクの独創はこの合金の発明にあったといわれる。  
高麗銅活字  
パンチ法  
電胎母型法  
ベントン法  
自動鋳造機 
歴史  
活字製造技術の中で最も影響力を持ったのは、グーテンベルクに起源を持つ活字であるのは疑いないことである。しかしそれ以外にも活字は作られてきた。この節ではさまざまな活字技術の歴史と、さまざまな文字における活字開発の歴史を俯瞰していく。 
中国・朝鮮  
活字は中国で発明された。漢字の数の膨大さは活版印刷をおこなう上で常に障壁となり、後々までも小規模な設備で印刷をおこなうことを困難たらしめた。このため、活字印刷の淵源は中国での漢字にあるが、漢字が最も印行に困難でもあった。  
『夢渓筆談』によれば畢昇の膠泥活字(こうでいかつじ)が知られている最古の活字である。同書によれば、粘土(膠泥)の一字一字の駒に文字を彫り、焼いて活字を得た。必要に応じて数十個まで作られた活字は、韻によって木箱に分納された。陶を使ったのは、木では彼の考案した印刷法にむかないためであったという。  
1300年代には王禎が木活字を作った。王禎は、韻書にそって字を選び、能書家に字を書かせ、それを板木に裏返しにのり付けし、工人に彫らせたと記録している。木活字版はおもに仏典や学術書などの開版に使われた。木活字は欧州へも伝播した。  
朝鮮でも金属活字や木版が古くから用いられ、高麗末の14世紀後半に印刷された直指心体要節が現存する世界最古の金属活字本であるといわれている。1403年には青銅製の活字が作られ(銅活字と呼ばれる)、実用化したといわれている。高麗に於いては発達を見せず、李氏朝鮮に至ってはじめて本格化した。永楽元年(1403年)に李成桂の命により活字鋳造がはじめられた。このときの字は癸未活字という。その後数回の改刻を経たらしいが、この活字も現存していない。  
中国では活字技術は元の時代にほぼ消滅した。 
ヨーロッパ  
近代活版印刷技術はヨハネス・グーテンベルクによって1445年頃、ドイツのマインツで一応の完成をみた。すなわち、  
1.鋳造しやすい鉛合金(活字合金)の活字材料  
2.正確で生産性の高い活字鋳造技術  
3.金属活字に適した印刷インキ  
4.葡萄絞り機を元にした平圧印刷機  
の開発である。この技術はまたたく間にヨーロッパ中に広がった。  
グーテンベルクは本というものの新しい概念を追求したのではなく写本の再現につとめたため、彼の作った活字は、ブラックレターとかゴシック体と分類される、写本に使われる黒みの強い書体であった。『グーテンベルク聖書』を誤って写本として分類した図書館も存在する。  
やがて単なる手書きの再現ではなく、印刷の特性に合わせた書体が生み出されるようになり、イタリアでニコラ・ジャンソンによってローマン体が作られるなど、さまざまな活字書体が生み出された。 
日本  
キリシタン版・古活字版  
日本語を活字で印字しようとしたのは16世紀、イエズス会がグーテンベルク系の印刷機を持ち込み、教育や伝道に用いる書物を印刷した(キリシタン版と呼ばれる)のに始まる。また、豊臣秀吉が朝鮮へ出兵した際(文禄2年、1593年)に朝鮮の金属活字を日本に持ち込み、後陽成天皇に献上とされるが、これで印刷されたものは知られていない。いずれにせよ、これらの環境によって、木活字による印行を活発にし、古活字版と通称される書籍群を生み、出版文化の基礎を築いた。その代表例が、慶長勅版(慶長2-4年)、伏見版(慶長6-11年)などである。伏見版で使われた木活字の一部は、開版の地であった円光寺に今もって保存されている(重要文化財)。古活字版は市場に対応できず、整版に譲って、印行部数も少なく写本と同じ扱いであった。キリシタン版及び嵯峨版は、連綿させた複数の字で一つの活字のブロックを作ったもの(連綿活字)を多用しているが、それ以降は散見されるのみであった。  
江戸時代  
江戸初期には盛行した木活字印刷であるが、その後、版本の主流は、活字ではなく版木による整版印刷本に移り変わる。これは、近代の活版印刷と異なり、組み直しに時間と手間がかかり、増刷のたびに校正を伴うなど、利便性とコストにおいて、劣勢であったことに起因する。一方の整版印刷は、刻工の手で板木を彫るにはコストと手間がかかっても、増刷も容易であり、版木を蔵する(蔵版する)ことによって、版権も容易に維持できるなどのメリットが大きかった。  
ただし、そのような状況の中でも、幕末までの間、木活字による印刷出版は、主流とはならなかったものの、継続された。そのような木活字本を、江戸初期の木活字版と区別するために、近世木活字本と呼びならわしている。また、幕末には、この近世木活字版による出版は、個々の出版部数は百部以下と少数であったが、一部では非常に盛行した。その理由は、今日の私家版や自費出版に相当するような印刷物を出版するのに、木活字版が適していたことによる。  
増刷さえ行なわなければ、活字版は経済的であり、また、整版に比べて多少いびつな文字の並びになったり、凹凸によって文字ごとの濃淡ができたとしても、小部数の出版には、木活字版は適していた。当然、それらの版本は、一般の書肆が関与した町版とは異なり、写本と同様の流通をしていた。また、その特徴として、小部数の発行であったことから、幕府公儀の許可を得なくても出版することが可能であった。そのため、堂々と書肆の手を経て出版できない類いの思想性を帯びた図書などが、木活字版として出版された。一方、このような形態で出版されたため、公儀の許可を得るための奥付も附されていないのが、近世木活字本の特徴となっている。それ故、「無届内証」による板行という呼び方もされていた。  
近代  
幕末期、鎖国下の日本では、外国との交流の気運が高まり、さまざま形で西ヨーロッパの技術を移入しようという試みがなされた。活字もまた同様で、大鳥圭介、島霞谷、本木昌造らが試行し、一定の成果を得た。ヨーロッパにおける東洋学のなかで、日本語活字が製造されもしている。  
ジェームス・カーティス・ヘボンは和英辞典の出版を考えたが、日本では印刷できずに中国上海に渡り美華書館で印刷した(『和英語林集成』1867年出版)。そのとき、岸田吟香の字をもとにして片仮名活字が作られた。  
本木昌造は、しかし、欧文活字をわずかに鋳造するのに成功したのみで日本語活字はできていなかった。そこで、フルベッキの紹介にあずかり、当時上海にいたウィリアム・ギャンブル(日本ではガンブルと表記されることが多い)を招聘し、文字の細部まで高い再現性を持つ電胎母型法などを教授された。初期の本木らの活字はギャンブルが将来した美華書館の明朝体活字をそのまま複製したものに過ぎなかった。本木らのグループは、日本語を印行するために仮名文字を整備し、やがて築地活版製造所として会社組織を組みしていき、活字市場を覇することとなった。  
その後、築地活版の活字を購入し、そこから自らの活字にしていく動きが出た。その主たるものが秀英舎(現在の大日本印刷)の活字であり、これは築地体と並んで金属活字の二大源流と呼ばれるようになっていく。  
 
世界最古の金属活字と公開された「証道歌字」活字

 

現存する世界最古の金属活字印刷物、直指心体要節(1377年)より最低138年以上先んじた金属活字という主張が提起された「証道歌字」に付いた墨が高麗時代のものという研究結果が出た。  
韓国地質資源研究院ホン・ワン責任研究員は17日、ソウルプレスセンターで開く「高麗時代の金属活字、証道歌字学術発表会」で証道歌字7個の活字面に残っている墨を放射性炭素年代測定法で分析した結果、有効な結果を得た活字4個全部が高麗時代のものであることが明らかになった」と述べた。  
調査対象金属活字は墨が比較的多く付いた'仏''悲''大''人''源''醯''胱'など7個。年代測定の結果悲の字の墨が西暦1210〜1270年に属する確率が68.2%、1160〜1280年に属する確率が95.4%と明らかになり、仏の字の墨は1030〜1160年(68.2%)、1010〜1210年(95.4%)と明らかになった。大の字jの墨は西暦770〜980年(94.0%)、人の字の墨は810〜1030年(95.4%)という数値が出た。  
ホン研究員は「今回の測定結果は試料から採取した墨を利用して得た結果だから、活字の製作年代を直接現わすのではなく、厳密に言えば墨の材料になった有機物、すなわち木の生存が止まった時期を現わす」と話した。彼は「墨の製作に使われた部分が木のどの部位かにより多少年代差がありえる」としながら「換言すれば木内部年輪の炭素年代は木の枯死時期と関係なく、その年輪が生成された時期を現わす」と付け加えた。  
この日の発表会場では「高麗時代の墨を違うところからとって金属活字に塗ったら、その墨の製作年代が高麗時代と出ることはあるか」という質問が出た。ホン研究員は「そのようなこともある」と答え、この日の発表会を主導したナム・クォンヒ慶北(キョンブク)大教授は「現在まで知られた高麗時代の墨は一点だけと理解している」としながら可能性を否定した。  
だが、このような分析結果にもかかわらず、これら金属活字が高麗時代のものと学界の公認を受けることは容易ではないと見られる。書誌学界権威者のチョン・ヘボン前成均館大教授は「何より活字の出処が正確であるべきで、この活字は出処が曖昧なだけでなく鋳造方法、字体など技術史的側面でも問題が多い」とし「慎重に考証しなければならない」と話した。  
 
金属活字と「直指」

 

知識と情報のテクノロジー、金属活字  
金属活字の印刷術には、アイパッドや携帯、パソコンに匹敵するテクノロジーが集約されている。金属活字の印刷術は、特権層に限られていた知識を一般庶民にまで広げ、人類の歴史と文化に多大な影響を及ぼした。 
書籍は記録と伝達における最も画期的で合理的な手段  
意思表現による相互伝達は、人間の基本的な欲求であり、人類文化の起源ととも存在して来た。時代の変遷にしたがい、原始的な意思疎通の手段は、言語や文字という形で具体化され、やがてさまざまな媒体が発達することによって、記録と伝達という新しいシステムが形成された。人間の思考や表現を書き記した書籍は、記録と伝達において、最も画期的で合理的な手段であると考えられてきた。書籍を通して、人類は知識や情報を物理的な形として記録し、その内容を時間および空間を超えて、伝達することができるようになった。したがって、書籍は人類の歴史以来、知識と文明を発達させてきた最高の手段であると言えよう。 
活字の発明と組み技術は書籍の大量印刷を可能に  
印刷史において、活字の発明は最も重要な技術革命をもたらしたものと評価されている。必要な内容を必要な量だけ、一つ一つ手書きしなければならなかったことを考えると、活字や木板を用いて、記録したい内容や絵を大量に印刷する技術の発明は、まさに印刷史において画期的なものであった。また、印刷技術によって、手書きする過程で犯しやすい誤字、脱字の問題はもちろん、記録物の保管や伝達過程において、容易に内容が修正されてしまうといった問題も解決された。知識や文化が発展し、それを正確に記録した書籍に対するニーズが高まるにつれ、印刷技術が発達したのは必然的である。特に、活字の発明と活字の組み技術の発達は、書籍の大量印刷を実現させた中核技術であると言えよう。 
活字印刷は活字製作だけではなく、活字鋳造、組版などの印刷技術と、紙、墨などの関連技術の集大成によるもの  
必要な枚数だけ、板を彫らなければならない木版と違い、活字は一度作っておけば、必要な書籍を簡単に印刷することができるため、知識の伝達や書籍の生産に大きな変化をもたらした。しかし、印刷は活字を作ることだけで可能であるように思われがちだが、実はより多くの分野における技術の進歩が必要とされる。活字の鋳造と組版技術以外にも、印刷に欠かせない紙や墨の発達が伴ってこそ、印刷を成功裏に行うことができるからだ。したがって、知識や情報を可視的に具現化したものである印刷物の大量生産を、より経済的かつ技術的に可能とするためには、活字鋳造と組版などの印刷技術のみならず、紙や墨などの多様な関連技術も発展しなければならなかった。言い換えれば、現代のアイパッドや携帯電話、パソコンに匹敵するようなテクノロジーが、金属活字の印刷技術の中に集約されているのである。現代のいかなるテクノロジーも、金属活字の印刷技術のように、人類の歴史と文化に大きな影響を及ぼしたものはないと言えるかもしれない。 
グーテンベルクの金属活字は「過去1000年におけるもっとも重要な出来事」第1位に  
 しかしそれより78年も前に発明された韓国の金属活字  
金属活字の影響力については、現代においても高く評価されている。西洋で最も早い金属活字印刷とされるグーテンベルクの金属活字は、新ミレニアムを前にアメリカのタイム誌が選んだ「過去1000年におけるもっとも重要な出来事と人物」で、第1位に選ばれている。金属活字は特権階層によって独占されていた知識を、一般庶民にまで広め、ルネサンスにはじまり、宗教改革、市民革命、産業革命、民主主義にいたるまで、現代文明の発達の土台となったというのがその理由である。しかし、金属活字は、西洋人の知っているグーテンベルクに先立つこと78年も前に、東洋の小さな国、高麗ですでに発明されていたのである。 
世界最古の金属活字本 『直指』  
『直指』は、最古の金属活字本とされていたグーテンベルクの『42行聖書』より、78年も前に制作されており、現存する最古の金属活字本としてユネスコの認定を受けている。『直指』は1377年に、清州の興徳寺で刊行された。釈迦と上人の参禅に関する教えを編纂したもので、金属活字で印刷されている。  
『直指(チクチ)』とは、「直指人心見性成仏」の略語で、参禅を通じて人の心を正しく見る時、その心の本性が即ちお釈迦様の心であるのを悟るという意味である。『直指』の本来の題目は、『白雲和尚抄録仏祖直指心體要節』で、お釈迦様と上人の参禅に関する教えが編纂されている。この書は1377年に、清州(チョンジュ)の興徳寺(フンドクサ)で、金属活字を用いて印刷されており、上・下2巻に分けられている。現在、上巻は残されておらず、下巻だけがフランス国立図書館に所蔵されている。これに対して、ドイツのグーテンベルクの『42行聖書』は、現在、全世界に49部が保存されている。  
『直指』の著者・白雲(ペグン)和尚(名前:景閑(キョンハン))は、全羅道(チョルラド)生まれ。高麗末期の3代禅師の一人である。『直指』は、白雲和尚の入寂後、その弟子の釋璨(ソクチャン)と達湛(タルジャム)が、尼僧妙徳の助けにより、清州興徳寺で金属活字を用いて印刷したものである。現在、フランス国立図書館に所蔵されている『直指』下巻は、表紙を除いて39ページから成っているが、最初の1ページは無くなっている。各ページは11行で、1行に18字〜20字印刷されている。最後のページに、印刷時期(宣光七年)、場所(清州牧外興徳寺)、方法(鋳字印施)などが記されている。 
金属活字は、1200年代の初めに、高麗王室で作られ、使用されたという記録がある。 
 14世紀後半には、地方の寺院でも金属活字を用いて本を印刷するほど発達していた。『直指』は世界最古の金属活字本として、公式に認定され、ユネスコ世界記録遺産に登録された。  
『直指』はこれまで最古の金属活字本として知られていたグーテンベルクの『42行聖書』より78年も前に、金属活字で印刷されており、現存する世界最古の金属活字本である。韓国では1200年代の初めに、すでに高麗王室で作られ、使用されたという記録があり、14世紀後半には地方の寺院でも金属活字を用いて印刷するほどに印刷術が発達していた。ドイツでは、1453〜55年の間に、グーテンベルクが『42行聖書』を金属活字で印刷したのが最初であり、中国では1490年頃明朝で金属活字を使用されたとされる記録が残っている。日本には、16世紀末壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の際に、朝鮮の金属活字の印刷術が伝わったとされている。  
このように、世界で最初に金属活字を用いて本を印刷したということは、韓国が長い歴史と高い文化を有する優れた民族であるということを示している。現在、『直指』はフランス国立図書館に所蔵されており、2001年の「第5次ユネスコ世界記録遺産国際諮問会議」において、現存する世界最古の金属活字本として公式に認定され、ユネスコ世界記録遺産として登録されている。  
 
金属活字

 

韓国人は世界で初めて金属活字を発明して印刷技術の新紀元を開きました。金属活字の起源に関してはいろいろな学説がありますが、高麗時代に金属活字で本を印刷した事例はすでに13世紀前期に現れています。  
『南明泉和尚頌証道歌』の重彫本の巻末によると、高麗が1232年に江華島に遷都する前の13世紀初めに金属活字を作ったものと思われます。  
また、高麗時代の金属活字に関する記録で現在まで残っている最も古いものは高麗が江華島に遷都した後、李奎報が著わした『新印詳定礼文跋文』です。この本は1234年から1241年の間に刊行されました。  
金属活字による印刷技術はそれを可能にするためのいくつかの技術的先行条件が揃っていなければなりません。それは丈夫できれいな紙と印刷に適した墨の製造、活字の鋳造技術などが必要ですが、高麗にはそのような技術が発達していました。高麗は11世紀後半から多くの紙を中国に輸出し、また高麗の松煙墨も中国で大変好評を得ていました。これは高麗の紙と墨の製造技術が高水準であったことを示しています。ところで高麗は仁宗4年(西暦1126年)と毅宗24年(西暦1170年)の2度にわたって宮廷に火災が起こり数万巻の蔵書が焼けてしまうという悲劇にも見舞われました。そのうえ中国ではその頃、宋と金の泥沼の戦争が続いていて宋からの書籍輸入も絶望的な状態でした。  
結局、高麗は自分たちが持っていた技術で必要な書籍を印刷するしかなかったのですが、少ない部数を幾種類も印刷しなければならない場合、木版印刷は多くの経費と時間がかかるという問題がありました。さらに高麗には木版や木活字を作るのに適した堅固な木が少なかったのです。ところが、その当時の高麗には青銅が多くあり、高麗の職工たちは新羅以降の金属細工技術と青銅鋳造技術の伝統を受け継いでいて鼓鋳法によって青銅鐘に銘文を鋳字した伝統と経験がありました。  
かくして高麗は12世紀末から13世紀初めにいたる間についに金属活字を発明し、木版印刷の問題点が解決されました。  
ところが、高麗の金属活字が世界で初めて公認されたのは1972年のことです。その年『世界図書の年』を記念するための展示会にパリ国立図書館所蔵の『直指心体要節』が初めて公開されたが、この本は 王3年(西暦1377年)に清州の興徳寺で金属活字によって印刷されたものでした。  
朝鮮太宗3年(西暦1403年)に鋳字所を設置して以来、朝鮮王朝末期にいたるまで数多くの活字が作られ、韓国の金属活字は世界の印刷文化史上その類例を見ないほど大きく発達しました。  
 
金属活字の起源

 

西暦1000年代の前半、北宋の神宗皇帝に仕えた(つまり王安石と同時代の)沈括(しんかつ)という官僚が書いた『夢渓筆談(むけいひつだん)』という随筆があります。当時の自然科学に関する記述が多いのですが、この中に、畢昇(ひっしょう)という学者が、粘土(膠泥 こうでい)を使って活字を作った、という記事があります。  
木の一枚板に文章を裏表逆に彫りこんで紙に刷る木版印刷というのは唐代からあります。しかし文字を一つ一つバラして活字として掘り込み、文章を組むという活版印刷の記録としては、これが世界最古のものです。ただし、畢昇が発明したという活字の現物も、印刷物も残っていません。その後、銅活字、木活字が作られ、14世紀の元朝末には王禎(おうてい)という人が木の活字3万個(!)を作りましたが、これも普及していません。  
漢字は数が多すぎて、数千、数万の活字の中から必要な文字を拾い出すだけでもたいへんな作業です(漢和辞典を引く時のめんどくささ!)。だったら、一枚の板に彫りこんでしまう木版のほうが早いのです。  
私はいま、漢字カナ交じり文をパソコンのキーボードで打ち込んでいます。キーボードに並んでいるのは漢字ではなく、アルファベットです。「k a n j i」と打ち込んで変換キーを押すと、パソコンの人工知能が「漢字」と表示するのです。中国人がワープロを打つ時も、ピンインという中国語のローマ字で「h a n z i」と打ち込み、「漢字」と変換しているのです。  
アルファベットは26文字なので、キーボードの位置を簡単に覚えることができるのです。活版を組むのも同じ原理ですから、グーテンベルクの活版印刷(1440年代に発明)が大ヒットして、のちの宗教改革に影響を与えたのは、西洋の文字が活版印刷に向いていたからです。  
ワープロが普及する前、和文タイプライターという機械がありましたが、膨大な漢字の表の中から必要な文字を拾わなければならないという、職人技を要求する機械でした。  
このように、漢字というのは、活版印刷に向かないのです。ですから、東アジア文化圏では、長く木版が主流だったのです。ところが、なぜか朝鮮半島では活版印刷が盛んだったというのです。  
1230年代、モンゴルの侵攻を避けて江華島に遷都した高麗王朝が、『詳定礼文(しょうていれいぶん)』という書物を金属活字で28部印刷したという記録があります。これが、金属活字の最古の記録です。しかし活字の現物も、印刷されたものも残っていません。おそらく、モンゴル軍に焼かれたのでしょう。  
1377年、高麗末期の『直指身体要節(ちょくししんたいようせつ)』という坐禅の解説書が、現存する活字本としては世界最古のものです。ご覧のとおり、すべて漢文ですね。  
1403年、朝鮮(李朝)の初代・李成桂が、国家事業として銅活字を鋳造。これを癸未(きみ)活字といいます。おそらく、高麗の宮廷で受け継がれていた技術を、継承したのでしょう。  
1420年代、3代太宗のときが活版印刷のピークで、庚子(こうし)活字、甲寅(こういん)活字が鋳造されます。科挙のテキストや仏教書が出版され、いずれもオール漢文です。この甲寅活字が朝鮮活字の最高峰といわれます。次の4代世宗が訓民正音(ハングル)を制定しますが、漢字を「正しい字」とするヤンバン(官僚)層がハングルを排斥したため、ハングル活字は作られませんでした(注)。このあたりのことが、今年(2010)の東大第2問で出題されました。  
「15世紀前半の朝鮮で行われた文化事業について60字で説明せよ」  
(注)最初のハングル活字を鋳造したのは日本人。金玉均ら開化派官僚を支援した福沢諭吉の弟子で、実業家の井上角五郎(かくごろう)。井上はこれを使い、ソウルで『漢城周報』という新聞を発行した(1886)。最初の漢字・ハングル交じり文の新聞だった。  
1500年代末、豊臣秀吉軍の朝鮮出兵のとき、秀吉軍が戦利品として甲寅活字を日本へ持ち帰り、日本初の活版印刷が行われます。徳川家康は、甲寅活字を参考に日本独自の銅活字を鋳造し、出版を行っています。これを駿河版と言います。  
しかし、漢字カナ交じり文を使う日本では、木版のほうが便利なので、活字は廃れていきました。中国明朝でも活字は完全に廃れ、木版が主流になります。なぜ、朝鮮でだけ活版印刷が続いたのか、私には合理的な説明ができません。朝鮮の民衆はそもそも漢文を読めないので、活版印刷の恩恵を受けるのは両班だけです。しかし両班は漢文しか読まないので、木版のほうが便利なはず。青本の解説を書いていて、この部分がどうしても説明がつかなかったので、うまくごまかしました。  
さて、韓国の新聞に、面白い記事がのっていました。  
金属活字で印刷された文献で現存するものとしては世界最古の「直指心体要節」(1377年)より少なくとも138年古いとの説がある金属活字の実物が2日午前、ソウル市鍾路区の多宝星古美術展示館で公開された。しかし、展示の主催者側は12点の金属活字に対して指摘された疑問点を明確には説明できず、「今後積極的に学界による検証過程を踏みたい」との発言を繰り返すにとどまった。  
おっ、ついに活字本体が見つかったか!  
この日、公開された金属活字が13世紀に作られたものと主張する南権煕(ナム・グォンヒ)慶北大教授(書誌学)は、高麗高宗26年(1239年)に刊行された木版本「南明泉和尚頌証道歌」(宝物第758号)の活字(字体 の間違い)と比較して、書体や文字の大きさが同じ点を主な根拠として挙げた。特に「明」という漢字は、現在は使われない古い字体で、書体と筆画のはねの部分などが木版本と一致していると説明した。  
何だって?13世紀の木版本と「字体が似てるから」、その活字も13世紀だって? 後世の活字製作者が13世紀の字体を真似した可能性は無視するのか?  
しかし、韓国文化遺産研究院のパク・サングク院長は、「金属活字を手本に版木を彫ったとしても、木版本は刻工の手で歪曲(わいきょく)されやすく、木版本を比較対象にしたのは問題だ。活字を紙に印刷せずに比較するのは無理がある」と反論した。  
金属活字の大きさは縦1−1.3cm、横1.2−1.5cm、厚さ0.1−0.7cmで、重さは4.3−4.9g。非破壊検査の結果、成分は銅40−80%、すず25−38%、鉛22−32%と判明した。南教授は「銅の含有量は大体が40−50%だったが、これは国立中央博物館が所蔵する高麗時代の「福」という活字とほぼ同じ数値だ」と主張した。  
厚さ0.1-0.7って薄すぎ。わざわざ木製の柄を付けたってことか?  
金属活字の製作時期を科学的に証明する方法はほとんどない。同展示会に出席した韓国伝統文化学校のイ・オヒ碩座教授は、「金属は炭素年代の測定が不可能だが、活字に残された墨から炭素年代を測定できる可能性はある」と述べた。しかし、墨の量は少量で、金属活字の表面を傷つける恐れもあるため、こうした調査は困難な見通しだ。  
一方、金属活字の入手経緯も依然として不透明だ。南教授は、「日帝による植民地統治期に(現在北朝鮮領の)開城で出土したもの」と説明したが、その証拠については言及しなかった。  
入手経路不明…ですか、ナム教授!  
で、これがその12点の「金属活字」だそうですが…  
念のため言っておきますが、活字というのはハンコと同じで左右を逆に掘るのです。12個のうち、明・善・我・福・不・予の6字は左右逆になっています(これが正しい)が、所・平・於・方・菩・法の6字は、左右逆になっていません。  
ナム教授!これはどういうことですか?  
韓国は1970年代に漢字教育をやめてしまったため、現代韓国人はハングルしか読めません。しかし書誌学の教授であるあなたが、漢字読めないってことは、まさかないですよね。あったりして…  
で、今度は中国のメディアがこのニュースに噛みついています。  
韓国・慶北大学の南権熙教授が1日、ソウル・仁寺洞の多宝星美術館が所蔵する金属活字を分析した結果、12点が世界最古の金属活字であると確認したと発表した。  
活版印刷は中国四大発明の一つとされ、中国もその起源を自負しているが、韓国で「世界最古」の金属活字が発見され、韓国メディアも「世界の印刷術の歴史が書き換えられるだろう」と報じたことで、中国国内では有識者をはじめとする人びとが反論している。  
中国新聞社によれば、北京大学の王岳川教授は、「韓国で発見された金属活字は、鉄を版に用いた活版印刷で、わが国から伝わったものだ」とし、韓国側の主張に真っ向から反論した。  
韓国の聯合通信によれば、慶北大学の南権熙教授は13世紀初頭に作られたと見られる金属活字を発見、これまでに世界最古とされていた「直指心体要節」よりも138年以上も古いと主張。さらに、同教授は、「発見が認められれば、世界の印刷術の歴史は書き換えられるだろう」と述べた。  
一方、中国メディアは「韓国側が主張するように、今回の発見は印刷術の歴史を変えるものだろうか?」とし、北京大学の王岳川教授の話として、「活版印刷は中国が起源であり、中国人が11世紀に発明したものだ。はじめは泥活版、次に木活版、銅活版が順に発明され、その後に発明されたのが、韓国で今回発見された鉄の活版だ」と主張した。  
続けて、王岳川教授は、「一歩譲って、金属活字が韓国で発明されたものだとしても、印刷術の歴史は変わらない」と主張、印刷術の起源は中国にあり、金属を用いた方法は印刷術の発展の一段階に過ぎないとの見解を示した。 
 

 

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