二宮尊徳

二宮翁夜話1夜話2二宮尊徳1尊徳2後世への最大遺物尊徳の現実と実践二宮金次郎の思想・・・
 

雑学の世界・補考   

二宮翁夜話1

1、誠の道の諭し
翁曰く、それ誠の道は学ばずして自(おの)ずから知り、習わずして自ずから覚え、書籍もなく記録もなく、師匠もなく、而して人々自得して忘れず。これぞ誠の道の本体なる。渇して飲み飢えて食らい、労(つか)れて寝(いね)醒(さ)めて起く。皆この類(たぐい)なり。古歌に「水鳥のゆくもかへるも跡たえて されども(「経れども」)道は忘れざりけり」(良寛の歌)と云えるが如し。それ記録もなく、書籍もなく、学ばず習わずして、明らかなる道にあらざれば誠の道にあらざるなり。
それ我が教えは書籍を尊まず。故に天地を以て経文とす。予が歌に「音もなくかもなく常に天地(あめつち)は 書かざる経をくりかへしつ ゝ」と読めり。かくのごとく日々、繰返し繰返して示さるゝ天地の経文に誠の道は明らかなり。かかる尊き天地の経文を外(ほか)にして、書籍の上に道を求める学者輩(やから)の論説は取らざるなり。能(よ)く々目を開きて、天地の経文を拝見し、これを誠にするの道を尋ねるべきなり。
それ世界、横の平(たいら)は水面を至れりとす、竪(たて)の直(すぐ)は、垂針(さげぶり)を至れりとす。凡そかくの如き万古動かぬものあればこそ、地球の測量もできるなれ。 これを外にして測量の術あらんや。 暦道の表(ひょう)を立てゝ景(かげ)を測るの法、 算術の九々の如き、 皆自然の規(のり)にして万古不易のものなり。このものによりてこそ、天文も考うべく 暦法をも算すべけれ。この物を外にせばいかなる智者といえども 術を施すに方なからん。それ我が道も又然り。
天、言(もの)、而して、四時(しいじ)行われ百物成る処の不書の経文、不言の教戒、則ち米を蒔けば米がはえ、麦を蒔けば麦の実法(みの)るが如き万古不易の道理により、誠の道に基きて之を誠にするの勤めをなすべきなり。

論語 陽貨「天何言哉、四時行焉、百物生焉」(天何をか言うや、四時行なわれ、百物生ず)。
孔子が門人の子貢に、私が何も言わなくとも、自然界に学ぶべき教えはある。言葉だけを頼るな、と言った時の言葉。
論語 中庸「誠者、天之道也。誠之者、人之道也。誠者、不勉而中、不思而得、從容中道、聖人也。誠之者、擇善而固執之者也」(誠なるものは天の道なり。これを誠にするものは、人の道なり。誠なるものは、勉めずしてあたり、思わずして得、従容として道にあたる、聖人なり。これを誠にするものは、善をえらびて固くこれを執るものなり) 
尊徳は、この夜話の全編を通して、「論語」、「大學」、「中庸」等からの言葉を引用しているが、それらを十分に咀嚼して用いている。書籍の受け売りではなく、書籍の中で述べていることを参考にして、自身の思想として紡ぎだしている点が注目されるべきであろう。且つ尊徳の説話は、農道のみならず商道その他社会全般に及んでおり、単なる「農」の人だけでなかったことが証明される。尊徳の偉さは、自身の立脚する農の持ち場から、主として当時の社会の財政再建を通しての世直し、世の立て替えを企図していたことに認められる。  
2、 天理と人道の諭し
翁曰く 、それ世界は旋転してやまず。寒往けば暑来り、暑往けば寒来り、夜明れれば昼となり、昼になれば夜となり、又万物生ずれば滅し、滅すれば生ず。譬えば銭を遣(や)れば品が来たり、品を遣れば銭が来るに同じ。寝ても醒(さめ)ても、居ても歩行(あるい)ても、昨日は今日になり今日は明日になる。田畑も海山も皆その通り。ここにて薪(たきぎ)をたきへらすほどは山林にて生木(せいぼく)し、ここで喰いへらす丈(だけ)の穀物は田畑にて生育す。野菜にても魚類にても、 世の中にて減るほどは田畑河海山林にて生育し、生れたる子は時々刻々年がより、築(つき)たる堤は時々刻々に崩れ、掘りたる堀は日々夜々に埋(うずま)り、葺きたる屋根は日々夜々に腐る。これ即ち天理の常なり。
然るに人道は、これと異なる也。 如何(いかん)となれば、風雨定めなく、寒暑往来する。この世界に、毛羽なく鱗介(りんかい)なく、裸体(はだか)にて生れ出で、家がなければ雨露(あめつゆ)が凌がれず、衣服がなければ寒暑が凌がれず。ここに於て、人道と云うものを立て、米を善とし、莠(はぐさ)を悪とし、家を造るを善とし、破るを悪とす。皆人の為に立てたる道なり。よって人道と云い、天理より見る時は善悪はなし。その証には、天理に任する時は、皆荒れ地となりて、開闢(かいびゃく)の昔に帰る也。如何となれば、これ則ち天理自然の道なれば也。それ天に善悪なし。故に稲と莠(はぐさ)とを分(わ)かたず、種ある者は皆生育せしめ、生気ある者は皆発生せしむ。人道はその天理に順(したがう)といえども、その内に各区別をなし、稗(ひえ)莠(はぐさ)を悪とし、米麦を善とするが如き。皆人身に便利なるを善とし、不便なるを悪となす。ここに到りては天理と異なり。如何となれば、人道は人の立つる処なれば也。人道は譬えば料理物の如く、三倍酢の如く、 歴代の聖主賢臣料理し塩梅 (あんばい)して拵らえたるもの也。されば、ともすれば破れんとす。故に政(まつりごと)を立て、教えを立て、刑法を定め、礼法を制し、やかましくうるさく世話をやきて、漸く人道は立つなり。然(しか)るを天理自然の道と思うは大なる誤り也。能く思うべし。

尊徳は、この説話で、天理と人道を採り上げている。天然自然の摂理である天理を聞き分けすること、天理に合わせて人道を打ち立てることの必要を説いている。但し、人道は、天理をそのままに引きうつすことではないと戒めている。  
3、中庸の諭し
翁曰く、それ人道は譬えば、(小川に懸けられた)水車の如し。その形半分は水流に順い、半分は水流に逆(さから)いて輪廻す。丸に水中に入れば廻らずして流るべし。又水を離るれば廻る事あるべからず。それ仏家に所謂(いわゆる)知識の如く、世を離れ欲を捨てたるは、譬えば水車の水を離れたるが如し。又凡俗の教義も聞かず義務もしらず、私欲一偏に着(ちゃく)するは、水車を丸に水中に沈めたるが如し。共に社会の用をなさず、 故に人道は中庸を尊む。水車の中庸は、宜(よろし)き程に水中に入て、半分は水に順い、半分は流水に逆昇りて、運転滞らざるにあり。人の道もその如く天理に順いて種を蒔き、天理に逆ろうて草を取り、欲に随(したがい)て家業を励み、欲を制して義務を思うべきなり。

中庸とは、朱子の「中とは不偏不倚(ふい、気持ちが片寄らないこと)で、過不及の無いこと、庸とは平常の意味」。  
4、分限の戒めの諭し
翁曰く、それ人道は人造なり。されば自然に行わるゝ処の天理とは格別なり。天理とは、春は生じ秋は枯れ、火は燥(かわ)けるに付き、 水は卑(ひきき)に流る。昼夜運動して万古易(かわ)らざるこれなり。人道は日々夜々人力を尽し、保護して成る。故に天道の自然に任すれば、忽(たちまち)に廃(すた)れて行われず。故に人道は、情欲の侭(まま)にする時は立たざるなり。譬えば漫々たる海上道なきが如きも、船道(ふなみち)を定め、これによらざれば岩にふるゝ(座礁する)也。 道路も同じく、己が思うままにゆく時は突き当り、言語も同じく、思ふまゝに言葉を発する時は忽ち争(あらそい)を生ずる也。これによりて人道は、欲を押え情を制し勤め々々て成る物なり。それ美食美服を欲するは天性の自然、これをためこれを忍びて家産の分内(ぶんない)に随わしむ。身体の安逸奢侈を願うも又同じ。好む処の酒を扣(ひか)へ、安逸を戒め、欲する処の美食美服を押え、分限の内を省(はぶ)いて有余を生じ、他に譲り向来に譲るべし。これを人道と云うなり。

尊徳は、この説話で、分限の戒めを説いている。分限の戒めとは、欲望の調御を云う。欲を押さえた結果、時間や財産に余裕が出た時には社会へ活用すべしとしている。これを推譲と云う。(推譲に付いては、第七十九話で詳しく述べている)  
5、人道作為の道の諭し
翁曰く、それ人の賤(いやし)む処の畜道は天理自然の道なり。尊む処の人道は天理に順うといえども 、又作為の道にして自然にあらず。如何となれば、雨には濡れ日には照られ風には吹かれ、春は青草を喰い秋は木の実を喰い、有れば飽くまで喰い無き時は喰(くらわ)ずに居る。これ自然の道にあらずして何ぞ。居宅を作りて風雨を凌ぎ、蔵を作りて米粟を貯え、衣服を製して寒暑を障(ささ)え、四時共に米を喰うが如き。これ作為の道にあらずして何ぞ。自然の道にあらざる明らか也。それ自然の道は、万古廃(すた)れず、作為の道は怠れば廃る。然るにその人作の道を誤って、天理自然の道と思うが故に、願う事成らず思う事叶わず。終(つい)に我が世は憂世なりなどゝいうに至る。それ人道は荒々たる原野の内、土地肥饒にして草木茂生する処を田畑となし、これには草の生ぜぬようにと願い、土性瘠薄(せきはく)にして草木繁茂せざる地を秣場(まぐさば)となして、ここかしこには草の繁茂せん事を願うが如し。ここを以て、人道は作為の道にして自然の道にあらず、遠く隔りたる所の理を見るべきなり。

尊徳は、この説話で、人道作為の道を諭している。  
 

 

6、克苦の諭し
翁曰く、天理と人道との差別を、能く弁別する人少し。それ人身あれば欲あるは則ち天理なり。田畑へ草の生ずるに同じ。堤は崩れ堀は埋(うづま)り橋は朽(くち)る。これ則ち天理なり。然れば、人道は私欲を制するを道とし、田畑の草をさるを道とし、堤は築立(つきたて)、堀はさらい、橋は掛け替えるを以て道とす。かくの如く天理と人道とは格別の物なるが故に天理は万古変ぜず、人道は一日怠れば忽ちに廃す。されば人道は勤(つとむ)るを以て尊(とうと)しとし、自然に任ずるを尊ばず。それ人道の勤むべきは、己に克(かつ)の教えなり。己は私欲也。私欲は田畑に譬えれば草なり。克つとは、この田畑に生ずる草を取り捨つるを云う。己に克つは、 我が心の田畑に生ずる草をけづり捨て、とり捨て、我が心の米麦を、繁茂さする勤め也。是を人道という。論語に、己に克ちて礼に復(かえ)るとあるは、この勤めなり。

論語顔淵「克己復礼為仁」(己にかちて、礼にかえるを仁となす)  
7、人道の罪人の諭し
翁常に曰く、人界に居て家根(やね)の漏るを坐視し、道路の破損を傍観し、橋の朽ちたるをも憂えざる者は、則ち人道の罪人なり。

尊徳は、この説話で、「不作為、無作為の罪」について述べている。  
8、 神儒仏合一の諭し 
翁曰く 、 世の中に誠の大道は只一筋なり。神と云い 儒と云い仏と云う、皆同じく大道に入るべき入口の名なり。或は天台と云い真言と云い法華と云い禅と云うも、同じく入り口の小路の名なり。それ何の教え何の宗旨と云うが如きは、譬えばここに清水あり、この水にて藍(あい)を解きて染(そ)むるを紺やと云い、 この水にて紫を解きて染むるを紫やと云うが如し。その元は一つの清水也。紫屋にては我が紫の妙なる事、天下の反物染むる物として紫ならざるはなしと誇り、紺屋にては我が藍の徳たる洪大無辺也。故に一度この瓶(かめ)に入れば、物として紺とならざるはなしと云うが如し。それが為に染められたる紺や宗の人は、我が宗の藍より外に有り難き物はなしと思い、紫宗の者は、我が宗の紫ほど尊き物はなしと云うに同じ。これ皆いわゆる三界城内を、躊躇して出る事あたはざる者也。それ紫も藍も大地に打ちこぼす時は、又元の如く紫も藍も皆脱して本然の清水に帰る也。
そのごとく神儒仏を初め、心学性学等枚挙に暇(いとま)あらざるも、皆大道の入り口の名なり。この入り口幾箇(いくつ)あるも至る処は必ず一の誠の道也。これを別々に道ありと思うは迷い也。別々也と教えるは邪説也。譬えば不士山に登るが如し、先達に依りて吉田より登るあり、須走(すばしり)より登るあり、須山より登るあり と云えども、その登る処の絶頂に至れば一つ也。かくの如くならざれば真の大道と云うべからず。されども誠の道に導くと云うて誠の道に至らず無益の枝道に引き入るを、これを邪教と云う。誠の道に入らんとして邪説に欺(あざむか)れて枝道に入り、又自ら迷いて邪路に陥るも世の中少からず。慎まずばあるべからず。

三界(さんがい) 三種の迷いの世界(欲界、色界、無色界)  
9、小を積んで大をなすの道の諭し
越後国の産にて笠井亀蔵と云う者あり。故ありて翁の僕たり。翁諭して曰く、 汝は越後の産なり、越後は上国と聞けり。いかなれば上国を去りて他国に来れるや。亀蔵曰く、上国にあらず、田畑高価にして田徳少し。江戸は大都会なれば、金を得る容易(たやす)からんと思うて江戸に出づと。翁曰く、 汝過(あやま)てり。それ越後は土地沃饒(よくじょう)なるが故に食物多し、食物多きが故に人員多し、人員多きが故に田畑高価なり。田畑高価なるが故に薄利なり。然るを田徳少しと云う。少きにあらず、田徳の多きなり。田徳多く土徳(どとく)尊きが故に、田畑高価なるを下国と見て生国を捨て、他邦に流浪するは大なる過ちなり。過ちと知らば、速(すみやか)にその過ちを改めて帰国すべし。越後にひとしき上国は他に少し。然るを下國と見しは過ちなり。
これを今日、暑気の時節に譬えば、蚯蚓(ミヽズ)土中の炎熱に堪え兼ねて、土中甚(はなはだ)熱し、土中の外に出でなば涼しき処あるべし、土中に居るは愚(ぐ)なりと考え、地上に出でて照り付けられ死するに同じ。それ蚯蚓は土中に居るべき性質にして、土中に居るが天の分なり。然れば何程熱(あつ)しとも外を願はず、我が本性に随い、土中に潜みさえすれば無事安穏なるに、 心得違いして地上に出でたるが運のつき、迷(まよ)いより禍を招きしなり。それ汝もその如く、越後の上国に生れ、 田徳少し、 江戸に出でなば、 金を得る事いと易からんと思い違い、自国を捨てたるが迷いの元にして、みづから災を招きしなり。 然れば、今日過ちを改めて速に国に帰り、小を積んで大をなすの道を勤むるの外あるべからず。心誠にここに至らば、おのづから安堵の地を得る必定なり、猶(なお)迷いて江戸に流浪せば、詰まりは蚯蚓の土中をはなれて地上に出でたると同じかるべし。能くこの理を悟り過ちを悔い能く改めて安堵の地を求めよ。然らざれば今千金を与うるとも無益なるべし、我が言う所必ず違(たが)わじ。 

尊徳は、この説話で、諺にある「隣の糂汰味噌」(となりのじんだみそ、他人の物は何でも自分のよりも良く見える)ということを引き合いにして、軽はずみに自国を捨ててしまってはいけない、と教えている。  
10、 奉仕の精神の諭し
翁曰く、 親の子における、農の田畑に於る、我が道に同じ。親の子を育つ。無頼(ぶらい)となるといえども養育料を如何せん。農の田を作る、凶歳なれば、肥代(こやしだい)も仕付料も皆損なり。それこの道を行わんと欲する者はこの理を弁(わきまえ)るべし。吾始(はじめ)て、小田原より下野(しもつけ)の物井の陣屋に至る。己が家を潰して、四千石の興復一途(いちず)に身を委(ゆだ)ねたり。これ則ちこの道理に基けるなり。
それ釈氏は、生者必滅の理を悟り、 この理を拡充して自ら家を捨て、妻子を捨て、今日の如き道を弘めたり。只この一理を悟るのみ。それ人、生れ出でたる以上は死する事のあるは必定(ひつじょう)なり。長生と云えども、百年を越(こゆ)るは稀なり。限りの知れたる事なり。 夭(わかじに)と云うも寿(ながいき)と云うも、 実は毛弗の論(わずかな違い)なり。譬えば蝋燭に大中小あるに同じ。 大蝋と云えども、火の付きたる以上は四時間か五時間なるべし。 然れば人と生れ出でたるうえは、必ず死するものと覚悟する時は、一日活きれば則ち一日の儲け、一年活きれば一年の益也。故に本来我が身もなきもの、我が家もなきものと覚悟すれば跡は百事百般皆儲けなり。
予が歌に「かりの身を元のあるじに貸し渡し 民安かれと願ふこの身ぞ」。それこの世は、 我、人ともに僅(わずか)の間の仮の世なれば、この身は、仮の身なる事明らかなり。 元のあるじとは天を云う。この仮の身を我が身と思わず、生涯一途(ず)に世のため人のためのみを思い、 国のため天下の爲に益ある事のみを勤め、一人たりとも一家たりとも一村たりとも、困窮を免れ富有になり、土地開け道、橋整い安穏に渡世の出来るようにと、それのみを日々の勤めとし、朝夕願い祈りて、おこたらざる我がこの身である、と云う心にてよめる也。これ我(われ)畢生(ひっせい)の覚悟なり。我が道を行わんと思う者は知らずんばあるべからず。

尊徳は、この説話で、人の生き方に於ける心構えについて諭している。親が子育てを例に挙げ、見返りを求めてはならないと厳しく戒めている。寿命の例を挙げ、僅かの命を社会に奉仕すべきだと説いている。
 

 

11、分限と中庸の諭し
儒学者あり。曰く、孟子は易(やす)し中庸は難(かた)しと。翁曰く、予(われ)文字上の事はしらずと云えども、これを実地正業に移して考うる時は、孟子は難し中庸は易し。いかんとなれば、それ孟子の時道行れず、異端の説盛んなり。故にその弁明を勤めて道を開きしのみ、故に仁義を説いて仁義に遠し、卿等(きみたち)孟子を易しとし孟子を好むは、己が心に合うが故なり。卿等(きょうら)が学問するの心、仁義を行なわんが為に学ぶにあらず、道を蹈(ふ)まんが為に修行せしにあらず、只書物上の議論に勝ちさえすれば、それにて学問の道は足れりとせり。議論達者にして人を言い伏すれば、それにて儒者の勤めは立つと思えり。
それ聖人の道、豈(あ)に然るものならんや。聖人の道は仁を勤むるにあり、五倫五常を行うにあり。何ぞ弁を以て人に勝つを道とせんや。人を言い伏するを以て勤めとせんや。孟子は則ちこれなり。かくの如きを聖人の道とする時は甚だ難道也。容易になし難し、故に孟子は難しと云う也。それ中庸は通常平易の道にして、一歩より二歩三歩とゆくが如く、近きより遠きに及び、卑(ひきき)より高きに登り、小より大に至るの道にして、誠に行い易し。譬えば百石の身代の者、勤倹を勤め五十石にて暮し、五十石を譲りて国益を勤むるは、誠に行い易し。愚夫愚婦にも出来ざる事なし。この道を行えば、学ばずして、仁なり義なり忠なり孝なり。神の道、聖人の道、 一挙にして行わるべし。至って行い易き道なり。故に中庸と云いしなり。予(われ)人に教うるに、吾が道は分限を守るを以て本とし、分内を譲るを以て仁となすと教ゆ。豈(あに)中庸にして行い易き道にあらずや。

中庸「君子之道、辟如行遠必自邇、辟如登高必自卑」(君子の道は、例えば遠きに行くに、必ずちかきよりするがごとく、例えば高きに登るに必ずひくきよりするがごとし)
孟子(前372〜289)の時代は、戦国時代。孟子は各地で自説を諸侯に説いたが受け入れてもらえなかった。やむを得ず郷里に戻って、古典の整理と著作に励んだ。五倫とは、人の守るべき五つの倫理、人倫。父子(親)・君臣(義)・夫婦(別)・長幼(序)・朋友(信)。五常とは、一般には、人が常に行うべき正しいこと。仁、義、礼、智、信。また、父(義)母(慈)兄(友)弟(恭)子(孝)。
尊徳は、この説話で、指導者は、判り易く、実行し易いことを人に説けと教えている。世の中には、良く弁が立つ人に出会うと、そのことだけで優秀な人材と思い込んでしまう人が多い。いわゆる、ハレーション効果と言われる現象に幻惑されてしまうのである。尊徳は、弁よりも実行力、行動力が大事と諭している。  
12、 国家復興の道の諭し
翁曰く、道の行はるるや難(かた)し、道の行れざるや久し。その才ありといえども、その力なき時は行われず。その才その力ありといえども、その徳なければ又行われず。その徳ありといえども、その位(くらい)なき時は又行われず。然れども、これはこの大道を国天下に行うの事なり。その難き勿論なり。 然れば何ぞ、この人なきを憂えんや。何ぞその位(くらい)なきを憂えんや。茄子(なす)をならするは茄子作り能くすべし、馬を肥(こや)すは馬士(まご)能くすべし、一家を斉(ととの)うるは亭主能くすべし。 或いは兄弟親戚相結んで行い、或は朋友同志相結んで行うべし。人々この道を尽し、家々この道を行い、村々この道を行わヾ、豈(あ)に国家興復せざる事あらんや。    

尊徳は、この説話で、良きことを学べば行うことが肝要であることを諭している。尊徳は、この説話では引用していないが、後のところでは、「大學」から、「一家仁なれば、一国仁に興る」を引用し、一家が治められない者に一国が治められる訳は無いとしている。最小単位の一家が正しく治められ、仁が実現していれば、やがてはそれが波及して、国も自動的にそうなるとしている。  
 13、吝(リン)か倹かの諭し
翁曰く、世の中に事なしといえども、変なき事あたわず、これ恐るべきの第一なり。 変ありといえども、これを補うの道あれば、変なきが如し。変ありて是を補う事あたわざれば大変に至る。古語に、三年の貯蓄(たくわえ)なければ国にあらずと云えり。兵隊ありといえども、武具軍用備わらざればすべきようなし。只国のみにあらず、家も又然り。それ万(よろづ)の事有余(ゆうよ)無ければ、必ず差し支え出で来て家を保つ事能わず。然るをいはんや国天下をや。人は云う、我が教え、倹約を専らにすと。倹約を専らとするにあらず、変に備えんが爲なり。人は云う、我が道、積財を勤むと。積財を勤むるにあらず、世を救い世を開かんが爲なり。古語に、 飲食を薄うして 孝を鬼神(きじん)に致し、衣服を悪(あし)うして美を黻冕(ふつべん)に致し、宮室を卑(いやしう)して力を溝洫(こういき)に尽すと。能く々この理を玩味せば、吝(りん)か倹か弁を待(また)ずして明らかなるべし。  

論語 泰伯「菲飲食、而致孝乎鬼神、悪衣服、而致美乎黻冕、卑宮室、尽力溝洫」(いんしょくをうすくして、こうをきしんにいたし、いふくをあしくしてびをふつべんにいたし、きゅうしつをひくくしてちからをこうきょくにつくす) (飲食を切り詰めて神々に真心を尽くし、衣服を質素にして祭りの前垂れと冠を立派なものにし、住まいを粗末にして灌漑の水路のために力を尽くす) 
黻冕(フツベン)=礼服の、ひざかけとかんむり。 
溝洫(コウイキ)=「コウイキ」とあるが、漢和辞典によれば、「コウキョク」である。田間のみぞ。<ママ>は引用者が付けたもの。ここに「古語」とあるのは、 『論語』(泰伯篇)にある孔子の言葉。  
14、「積小為大」の諭し
翁曰く、大事をなさんと欲せば、小なる事を怠らず勤むべし、小積りて大となればなり。凡そ小人の常、大なる事を欲して小さなる事を怠り、出来難き事を憂いて 出来易き事を勤めず。それ故、 終(つい)に大なる事をなす事あたわず。それ大は小の積んで大となる事を知らぬ故なり。譬えば 百万石の米と雖(いえど)も粒の大なるにあらず。万町の田を耕すも、その業(わざ)は一鍬づゝの功にあり。千里の道も一歩づゝ歩みて至る、山を作るも一簣(ひともっこ)の土よりなる事を明かに弁えて、励精(れいせい)小さなる事を勤めば、大なる事必ずなるべし。小さなる事を忽(ゆるがせ)にする者、大なる事は必ず出来ぬものなり。

尊徳は、この説話で、「積小為大」の教えを説いている。尊徳の基本的な思想を構成する大事な諭しである。これを「塵も積もれば山となる」という風に捉えたり、「ケチ」の教えと理解するのは間違いである。尊徳は、総てのものごとは、最小単位から構成されることは間違いの無い事実であるから、その最小単位に眼を向けて、そこからしっかりと組み上げていかなければ、目的とするものごとの完成はおぼつかないという旨を主張している。これが「積小為大」である。  
15、 基礎より積むべしの諭し
翁曰く、万巻の書物ありといえども、無学の者に詮(せん)なし。隣家に金貸しありといえども、我に借りる力なきを如何せん、向いに米屋ありといえども、銭なければ買う事はならぬ也。されば書物を読まんと思わゞ、いろはより習い初めるべし。家を興さんと思わゞ、小より積み初むべし。この外に術はあらざるなり。

尊徳は、この説話で、何事も初歩から確実に進めて行くことが大事であると教えている。  
 

 

16、富国の道への諭し 
翁曰く、多く稼いで、銭を少く遣(つか)い、多く薪(たきぎ)を取って焚く事は少くする。これを富国の大本、富国の達道と云う。然るを世の人これを吝嗇(りんしょく)と云い、又強欲と云う。これ心得違いなり。それ人道は自然に反して、勤めて立つ処の道なれば貯蓄を尊(とうと)ぶが故なり。それ貯蓄は今年の物を来年に譲る、一つの譲道なり。親の身代を子に譲るも、則ち貯蓄の法に基(もとい)するものなり。人道は言いもてゆけば貯蓄の一法のみ。故にこれを富国の大本、富国の達道と云うなり。  
17、節約の諭し 
翁曰く、米は多く蔵につんで少しづゝ炊き、薪(たきぎ)は多く小屋に積んで焚く事は成る丈少くし、衣服は着らるるやうに扱(こし)らえて、なる丈着ずして仕舞いおくこそ、家を富(とま)すの術なれ。則ち国家経済の根元なり。天下を富有にするの大道も、その実この外にはあらぬなり。  
18、神楽芸の諭し
翁、宇津氏の邸内に寓す、邸内稲荷(いなり)社の祭礼(まつり)に大神楽(かぐら)来たりて、建物の戯芸(ぎげい)をせり。翁、これを見て曰く、凡そ事この術の如くなさば、 百事成らざる事あらざるべし。 その場に出(いず)るや少しも噪(さわ)がず、 先ず体を定めて、両眼を見澄(すま)して、棹の先に注し、脇目も触らず、一心に見詰め、器械の動揺を心と腰に受け、手は笛を吹き扇を取りて舞い、足は三番叟(さんばそう)の拍子を蹈(ふ)むといえども、その歪みを見留(みとめ)て腰にて差引す。その術至れり尽せり。手は舞うといえども、手のみにして体に及ばず、足は蹈むといえども、足のみにして腰に及ばず。舞うも躍るも両眼は急度(きっと)見詰め、心を鎮め、体(たい)を定めたる事、大学論語の真理、聖人の秘訣、この一曲の中に備(そなわ)れり。然るを之を見る者、聖人の道と懸隔すと見て、この大神楽の術を賤しむ。儒生の如き、何ぞ国家の用に立たんや。嗚呼(あぁ)術は恐るべし。綱渡りが綱の上に起臥して落ちざるも又、これに同じ。能く思うべき事なり。

尊徳は、この説話で、まず観察を正しく細密に行なうことが総ての問題解決の基本であることを教えている。  
19、命あってのもの種の諭し
翁曰く、松明(たいまつ)尽て、手に火の近付(づ)く時は速(すみやか)に捨つべし。火事あり、危(あやう)き時は荷物は捨てて逃げ出すべし。大風にて船くつがえらんとせば、上荷を刎(はね)るべし。甚しき時は帆柱をも伐るべし。この理を知らざるを至愚と云う。  
20、先に奉仕すべしの諭し 
川久保民次郎と云う者あり。翁の親戚なれども、貧にして翁の僕たり。国に帰らんとして暇(いとま)を乞う。翁曰く、それ空腹なる時、他にゆきて一飯をたまわれ。予、庭をはかんと云うとも、決して一飯を振舞う者あるべからず。空腹をこらえて、まず庭を掃かば或いは一飯にありつく事あるべし。これ己を捨てて人に随うの道にして、百事行われ難き時に立ち至るも、行わるべき道なり。我、若年初(はじめ)て家を持ちし時、一枚の鍬(くわ)損じたり。隣家に行きて鍬を貸してくれよと云う。隣の翁曰く、今この畑を耕し菜を蒔かんとする処なり。蒔き終らざれば貸し難しと云えり。我家に帰るも別に為すべき業(わざ)なし。予、この畑を耕して進ずべしと云うて耕し、菜の種を出されよ、序(ついで)に蒔(ま)きて進ぜんと云いて、耕し且つ蒔きて、後に鍬を借りし事あり。隣の翁曰く、鍬に限らず何にても差し支(つか)えの事あらば遠慮なく申されよ。必ず用達べしと云える事ありき。かくの如くすれば、百事差し支えなきものなり。
汝国に帰り、新(あらた)に一家を持たば、必ずこの心得あるべし。それ汝未(いま)だ壮年なり。終夜(よもすがら)いねざるも障(さわ)りなかるべし。夜々寝る暇(ひま)を励まし勤めて、草鞋(わらじ)壱足或は二足を作り、 明日開拓場に持出し、草鞋の切れ破れたる者に与えんに、受くる人礼せずといえども、 元寝る暇にて作りたるなればその分なり。礼を云う人あれば、それだけの徳なり、又一銭半銭を以て応ずる者あればこれ又それ丈の益なり。能くこの理を感銘し、連日おこたらずば、何ぞ志の貫かざる理あらんや。何事か成らざるの理あらんや。我、幼少の時の勤めこの外にあらず、肝に銘じて忘るべからず。又損料を出して、差し支えの物品を用弁するを甚(はなはだ)損なりと云う人あれど、しからず。それは事足る人の上の事なり。新(あらた)に一家を持つ時は百事差し支えあり。皆損料にて用弁すべし。世に損料ほど弁理なるものはなし。且つ安き物はなし。決して損料を高き物、損なる物と思う事なかれ。

尊徳は、この説話で、人との付き合いの中では、先に相手に奉仕をするようにしていくべきだと教えている。現代では、「配置薬業」という名称になったが、いわゆる「富山の置き薬」商法がそれである。この商法では、必要な時に直ぐに薬が手に入るということで、商売でありながら、お客さまに感謝をされる、ありがたい立場にあると共に、一度置いてもらえば、それこそ、その家が続く限り、孫子の代までの固定客になってもらえる有り難さの、両方が一気に成立する素晴らしい商法である。現代においても、お客様への信頼を前提とした事業運営を行う企業は、日本ばかりでなく、世界中において、社会に歓迎され、繁栄している。 
 

 

21.、自己錬磨の諭し 
年若きもの数名居れり。翁諭して曰く、世の中の人を見よ。一銭の柿を買うにも、 二銭の梨子(なし)を買うにも、 真頭(しんとう)の真直(ますぐ)なる瑕(きず)のなきを撰(え)りて取るにあらずや。又茶碗を一つ買うにも、色の好き形の宜(よ)きを撰り撫(な)でて見、 鳴らして音を聞き、撰りに撰りて取るなり。世の人皆然り。柿や梨子は買うといえども悪(あ)しくば捨てて可なり。それさえもかくの如し。 然れば人に撰(えらば)れて、聟となり嫁となる者、或いは仕官して立身を願う者、己が身に瑕ありては人の取らぬは勿論の事、その瑕多き身を以て、上に得られねば、上に眼がないなどゝ上を悪(あし)く云い、人を咎(とがむ)るは大なる間違いなり。自らかえり見よ。必ずおのが身に瑕ある故なるべし。
それ人の身の瑕とは何ぞ。譬えば酒が好きだとか、酒の上が悪いとか、放蕩だとか、 勝負事が好きだとか、 惰弱だとか、無芸だとか、何か一つ二つの瑕あるべし。買手のなき勿論なり。これを柿梨子に譬えれば真頭(しんとう)が曲りて渋そうに見ゆるに同じ。されば人の買わぬも無理ならず、能く勘考すべきなり。古語に、内に誠あれば必ず外に顕(あら)わるゝとあり。瑕なくして真頭の真直(ますぐ)なる柿の売れぬと云う事、あるべからず。それ何ほど草深き中にても薯蕷(やまいも)があれば、人が直(すぐ)に見付て捨ててはおかず、又泥深き水中に潜伏する鰻(うなぎ)鰌(どじょう)も、必ず人の見つけて捕える世の中也。されば内に誠有て、外にあらわれぬ道理あるべからず。この道理を能く心得、身に瑕のなき様に心がくべし。  

尊徳は、この説話で、自分を磨いていけば、必ず社会は見出してくれるのであるから、常に勉強、修練に努めるべきであると諭している。尊徳の説くように、果物一つを買うのにも、良く吟味するのであるから、人を雇う際に、あるいは人を登用するに際して、十分な吟味をしてその人の資質や性格などを見抜こうとするのは、当然のことである。特に企業経営にあっては、人件費は、最大のそして継続した費用となるのであるから、機械の購入の時よりも厳しくなって当然であろう。それに対応できるように、知識や技能を高めると同時に、人品骨柄という項目に関しても、十分に高めていくことを意識し、修練していかなければならないのである。  
22、経験智の諭し
翁曰く、 山芋掘は、山芋の蔓(つる)を見て芋の善悪(よしあし)を知り、 鰻(うなぎ)釣りは、泥土の様子を見て鰻の居る居らざるを知り、 良農(りょうのう)は草の色を見て土の肥痩(こえやせ)を知る。みな同じ。いわゆる至誠神の如しと云うものにして、永年刻苦経験して発明するものなり。技芸にこの事多し、侮るべからず。  

中庸「至誠如神」(しせいはしんのごとし)(完璧な誠を持った人の働きは神のようだ) 
尊徳は、この説話で、何事も道の専門家に対して敬意を払うよう諭している。  
23、報徳法方の諭し
翁、多田某に謂(いい)て曰く、我、東照神君の御遺訓と云う物を見しに、曰く、我れ敵国に生れて、只父祖の仇(あだ)を報ぜん事の願いのみなりき。祐誉(ゆうよ)が教えに依(よ)りて、国を安んじ民を救うの天理なる事を知りてより今日に至れり。子孫長くこの志を継ぐべし。もし相背くに於ては我が子孫にあらず。民はこれ国の本なればなりとあり。しかればその許(もと)が遺言すべき処は、我れ過ちて新金銀引替御用を勤め、自然増長して驕奢に流れ、御用の種金(たねきん)を遣(つか)い込み大借に陥り。身代破滅に及ぶべき処、報徳の方法に因(よ)って莫大の恩恵を受け、 かくの如く安穏に相続する事を得たり。この報恩には、子孫代々驕奢安逸を厳に禁じ、節倹を尽し身代の半ばを推し譲り、世益を心掛け、貧を救い、村里を富ます事を勤むべし。もしこの遺言に背く者は、子孫たりといえども子孫にあらざる故、 速に放逐すべし。 婿嫁は速に離縁すべし、我が家株(かかぶ)田畑は、本来報徳法方のものなれば也と子孫に遺物(ゆいげん)せば、神君の思召と同一にして、孝なり忠なり仁なり義なり。その子孫、徳川氏の二代公三代公の如く、その遺言を守らば、その功業量るべからず。汝が家の繁昌長久も又限りあるべからず。能く々思考せよ。

尊徳は、この説話で、事業は社会的存在、というよりは、社会の恩恵を受けて成り立っているものであるから、利益の社会への還元を意識していかなければならない、と諭している。現代の企業人の安易な自己本意の哲学を、尊徳は確実に本気で怒っていることと思われる。  
24、推譲の教えの諭し
翁曰く、農にても商にても、富家(ふけ)の子弟は、業として勤むべき事なし。貧家の者は活計の為に勤めざるを得ず。且つ富を願うが故に自ら勉強す。富家の子弟は、譬えば山の絶頂に居るが如く、登るべき処なく、前後左右皆眼下なり。これに依りて分外の願を起し、士の真似をし、大名の真似をし、増長に増長して、終(つい)に滅亡す。天下の富者皆然り。ここに長く富貴を維持し、富貴を保つべきは、只我が道の推譲の教えあるのみ。富家の子弟、この推譲の道を蹈(ふ)まざれば、千百万の金ありといえども、馬糞茸(ばふんたけ)と何ぞ異らん。それ馬糞茸は季候に依りて生じ、幾程もなく腐廃し世上の用にならず、只徒(いたず)らに生じて徒らに滅するのみ。世に富家と呼ばるゝ者にして、かくのごとくなる、豈(あに)惜しき事ならずや。

推譲(すいじょう) 尊徳の思想の根幹的考え 詳しくは第七十九話を参照されたい。  
25、店卸しの諭し
翁曰く、百事決定(けつじょう)と注意とを肝要とす。如何となれば、何事によらず、百事決定と注意とによりて事はなる物なり。小事たりといえども、決定する事なく、注意する事なければ、百事悉(ことごと)く破る。それ一年は十二ヶ月也、然して月々に米実法(みの)るにあらず。只初冬一ヶ月のみ米実法りて、十二月米を喰(くら)うは、人々しか決定して、しか注意するによる。これによりて是を見れば、二年に一度、三年に一度実法るとも、人々その通り決定して注意せば決して差し支えあるべからず。 凡そ物の不足は、皆覚悟せざる処に出(いず)るなり。されば人々平日の暮し方、大凡(おおよそ)この位の事にすれば、年末に至て余るべしとか、不足すべしとか、しれざる事はなかるべし。これに心付(づ)かず、うかうかと暮して、大晦日に至り始めて驚くは、愚の至り不注意の極(きわまり)なり。ある飯焚(めしたき)女が曰く、一日に一度づゝ米櫃の米をかき平均(なら)して見る時は、米の俄(にわか)に不足すると云う事、決してなしといえり。これ飯焚女のよき注意なり。この米櫃をならして見るは、則ち一家の店卸(たなおろ)しに同じ、能く々決定して注意すべし。

決定(けつじょう)とは、あることをこうと決めて信じて疑わずに動かさないことを云う。
尊徳は、この説話で、ことを進める際には、前以て環境を十分に調査し、対応できる意思決定に基づいた計画を作成し、それを周囲の変化に注意を払いながら確実に実行していけば、殆どのことは乗り切っていけるのであるから、良い計画造りを行なうようにと教えている。 
 

 

26、 万事相対弁証法の諭し
翁曰く、善悪の論甚(はなはだ)むづかし。本来を論ずれば善も無し悪もなし。善と云いて分つ故に悪と云う物出来るなり。 元(もと)人身の私より成れる物にて人道上の物なり。故に人なければ善悪なし、人ありて後に善悪はある也。故に人は荒蕪(あれち)を開くを善とし、田畑を荒すを悪となせども、^(い)鹿(しか)の方にては、 開拓を悪とし荒すを善とするなるべし。世法盗(ぬすびと)を悪とすれども、盗中間(なかま)にては盗を善としこれを制する者を悪とするならん。しかれば、如何なる物これ善ぞ、如何なる物これ悪ぞ。この理明弁し難し。この理の尤(もっと)も見安きは遠近なり。遠近と云うも善悪と云うも理は同じ。譬えば杭(くい)二本を作り、一本には遠しと記し一本には近しと記し、この二本を渡して、この杭を汝が身より遠き所と近き所と、二所に立つべしと云い付(つ)くる時は、速かに分る也。
予が歌に「見渡せば遠き近きはなかりけり おのれおのれが住処(すみど)にぞある」と。この歌善きもあしきもなかりけりと云う時は、人身に切なる故に分らず、遠近は人身に切ならざるが故によく分る也。工事に曲直を望むも、余り目に近過る時は見えぬ物也。さりとて遠過ぎても又眼力及ばぬ物なり。古語に、遠山(とおきやま)木なし、遠海(とおきうみ)波なしと云えるが如し。故に我が身に疎き遠近に移して諭す也。それ遠近は己が居る処先(ま)ず定りて後に遠近ある也。居る処定らざれば遠近必ずなし。大坂遠しと云わば関東の人なるべし、関東遠しと云わば上方の人なるべし。禍福吉凶是非得失皆(みな)これに同じ。禍福も一つなり、善悪も一つなり、得失も一つ也。元一つなる物の半ばを善とすれば、その半は必ず悪也。然るにその半に悪なからん事を願う。これ成り難き事を願うなり。それ人、生れたるを喜べば、死の悲しみは随(したがい)て離れず、咲きたる花の必ずちるに同じ、生じたる草の必ず枯るゝにおなじ。
涅槃経(ねはんきょう)にこの譬えあり。或人の家に容貌(かおかたち)美麗(うるわしく)端正なる婦人入り来たる。 主人如何なる御人ぞと問う。婦人答て曰く、我は功徳天(くどくてん)なり。我至る所、吉祥(きっしょう)福徳(ふくとく)無量なり。主人悦んで請(しょう)じ入る。 婦人曰く、我に随従の婦一人あり、必ず跡より来る、これをも請ずべしと。主人諾(だく)す。時に一女来る、容貌醜陋(しゅうろう)にして至って見悪(にく)し、如何なる人ぞと問う。この女答て曰く、我は黒闇天(こくあんてん)なり、我至る処、不詳災害ある無限なりと。主人これを聞き大に怒(いか)り、速やかに帰り去れと云えば、この女曰く、 前に来れる功徳天は我が姉なり、暫くも離るる事あたわず、 姉を止(とど)めば我をも止めよ、我をいださば姉をも出だせと云う。主人暫く考えて、二人ともに出(だしやりければ、二人連れ立ちて出で行きけり、と云う事ありと聞けり。これ生者必滅会者定離(えしゃじょうり)の譬えなり。死生は勿論、禍福吉凶損益得失皆同じ、元(もと)禍と福と同体にして一円なり。吉と凶と兄弟にして一円也、百事皆同じ、只今もその通り、通勤する時は近くて良いと云い、火事だと云うと遠くてよかりしと云う也。是を以てしるべし。

尊徳は、この説話で、万事相対弁証法の理を諭している。  
27、禍福の理の諭し
禍福二つあるにあらず、元来一つなり。近く譬えれば、庖丁を以て茄子(なす)を切り大根を切る時は福なり。もし指を切る時は 禍(わざわい)なり。只柄(え)を持て物を切ると、誤(あやま)って指を切るとの違いのみ。それ柄のみありて刃無ければ庖丁にあらず、刃ありて柄無ければ又用をなさず。柄あり刃ありて庖丁なり、柄あり刃あるは庖丁の常なり。然して指を切る時は禍とし、菜を切る時は福とす。されば禍福と云うも私物にあらずや。水もまた然り。畦(あぜ)を立てて引けば、田地を肥(こや)して福なり、畦なくして引くときは、肥(こえ)土流れて田地やせ、その禍たるや云うべからず。只畦有ると畦なきとの違いのみ。元同一水にして、畦あれば福となり、畦なければ禍となる、富は人の欲する処なり。然りといえども、己が爲にするときは禍これに随ひ、世の為にする時は福これに随う。財宝も又然り、積んで散ずれば福となり、積で散ぜざれば禍となる。これ人々知らずんばあるべからざる道理なり。

尊徳は、この説話でも、対立概念について、別な例を取り上げて、人道の維持のためにどのようにすれば良いかを諭している。  
28、段々の理の諭し
翁曰く、 何事にも変通と云う事あり、しらずんばあるべからず。則ち権道(けんどう)なり。それ難きを先にするは、聖人の教えなれども、これは先仕事を先にして、而して後に賃金を取れと云うが如き教えなり。ここに農家病人等ありて、耕(たがやし)耘(くさぎり)手後れなどの時、草多き処を先にするは世上の常なれど、右様の時に限りて、草少く至って手易き畑より手入れして、至て草多き処は最後にすべし。これ尤も大切の事なり。至て草多く手重(ておも)の処を先にする時は大に手間取れ、その間に草少き畑も、皆一面草になりて何(いづ)れも手後れになる物なれば、草多く手重き畑は、五畝や八畝は荒すとも侭(まま)よと覚悟して暫く捨て置き、草少く手軽なる処より片付くべし。しかせずして手重き処に掛り、時日を費す時は、僅の畝歩の為に、惣体の田畑、順々手入れ後れて、大なる損となるなり。国家を興復するも又この理なり。しらずんばあるべからず、又山林を開拓するに、大なる木の根は、そのまま差し置きて、回りを切り開くべし。而して三四年を経れば、木の根自ずから朽(く)ちて力を入れずして取るゝなり。これを開拓の時一時に掘取らんとする時は労して功少し。百事その如し。村里を興復せんとすれば、必ず抗する者あり。これを処する又この理なり。決して拘(かかわ)るべからず障(さわ)るべからず。度外に置きてわが勤めを励むべし。

権道(けんどう)とは、手段は多少道に外れるが、結果から見ると道にあっている処理方法。目的を達するためにとる臨機応変の処置、方便を云う。
尊徳は、この説話で、人道に基づいた臨機応変は、決して悪ではないと説いている。その内でも、「積小為大」ということを、業務執行活動に取り入れていくことは、非常に有効なことであるとして勧めている。但し、「積小為大」は「塵も積もれば山となる」ということだけの意味ではない。業務処理の手順としても奨励していることに留意すべきである。  
29、算用の諭し
翁曰く、今日は則ち冬至なり、夜の長き則ち天命なり。夜の長きを憂いて、短くせんと欲すとも、如何ともすべなし、これを天と云う。而してこの行灯(あんどん)の皿に油の一杯ある、これも又天命なり。この一皿の油、この夜の長きを照すにたらず。これ又如何ともすべからず。共に天命なれども、人事を以て、灯心を細くする時は、夜半にして消ゆるべき灯(ともしび)も暁に達すべし。これ人事の尽さゞるべからざる所以なり。譬えば伊勢詣でする者東京(えど)より伊勢まで、まづ百里として路用拾円なれば、上下廿日として一日五十銭に当る。これ則ち天命なり。然るを一日に六十銭づゝ遣(つか)う時は二円の不足を生ず。これを四十銭づゝ遣う時は二円の有余を生ず。これ人事を以て天命を伸縮すべき道理の譬え也。それこの世界は自転運動の世界なれば決して一所に止らず、 人事の勤惰に仍て、天命も伸縮すべし。たとへば今朝焚(た)くべき薪(たきぎ)なきは、これ天命なれども、明朝取り来れば則ちあり。今水桶に水の無きも、則ち差し当たりて天命なり。されども汲(く)み来れば則ちあり。百事この道理なり。

この説話で、江戸を東京と呼び、貨幣単位を円、銭としているのは、「夜話」が出版された明治当時の人々の理解に合致するようにしたためである。尊徳の時代には、地名は江戸であり、貨幣の単位は、両、分、朱、貫、文であった。  
30、御恩返しに報いるの諭し
翁、常陸国青木村のために力を尽されし事は、予が兄大沢勇助が、烏山藩の菅谷某と謀りて、起草し、小田某に托し、漢文にせし、青木村興復起事の通りなれば、今贅(ぜい)せず。扠(さて)年を経て翁その近村灰塚(はいつか)村の興復方法を扱われし時、青木村、旧年の報恩の爲にとて冥加(みょうが)人足と唱え、毎戸一人づゝ無賃にて勤む。翁これを検(けん)して、後に曰く、今日来り勤る処の人夫、過半二三男の輩(ともがら)にして、我が往年厚く撫育せし者にあらず。これ表に報恩の道を飾るといえども、内情如何(いかん)を知るべからず。されば我れ、この冥加人足を出だせしを悦ばずと。青木村地頭の用人某(それがし)、これを聞きて我れ能く説諭せんと云う。翁これを止(とど)めて曰く、これ道にあらず。たとえ内情如何(いか)にありとも、彼旧恩を報いん爲とて、無賃にて数十人の人夫を出だせり。内情の如何を置いて、称せずばあるべからず。且つ薄きに応ずるには厚きを以てすべし。これ則ち道なりとて人夫を招き、旧恩の冥加として、遠路出で来(きた)り、無賃にて我が業を助くる。その奇特(きとく)を懇々賞し、且つ謝し過分の賃金を投与して帰村を命ぜらる。一日を隔(へだて)て村民老若を分かたず、皆未明より出で来て、終日休せずして働き賃金を辞して去る。翁又金若干(そこばく)を贈られたり。

尊徳は、この説話で、指導者、発注者等、上位の地位に居ると考えられている人は、相手の好意を上回る謝意を持って対応することが、望ましいと教えている。
なお、この説話に登場する「小田」とは、幕吏としての尊徳の上司に当たる、下谷根津に屋敷のあった勘定奉行配下普請組元締・小田又蔵のことである。弘化四年二月二十四日の日記に高野丹吾が青木村関係の書類を、小田宅に一覧のために持参したところ、しばらく預かりたいといわれたので、置いてきたと記されている。烏山藩元家老菅谷八郎衛門も小田宅に何度か出入りしていることが、日記や菅谷の手控えから覗える。小田又蔵は、漢文の素養があったと見え、菅谷を始めとした何人かが、尊徳の業績を幕府上層部に上奏する事を狙って、その力を借りて書類造りを行なっていたようである。 
 

 

31、勤惰性情の諭し
翁曰く、一言を聞ても人の勤惰は分る者なり。東京(えど)は水さえ銭が出ると云うは懶惰(らんだ)者なり。水を売リても銭が取れると云うは勉強人なり。夜は未だ九時なるに十時だと云う者は、寝たがる奴(やつ)なり。未だ九時前也と云は、勉強心のある奴なり。すべての事、下に目を付け、下に比較する者は、必ず下り向の懶惰者也。たとえば碁を打て遊ぶは酒を飲むよりよろし、酒を呑むは博奕よりよろしと云うが如し。上に目を付け上に比較する者は必ず上り向なり。古語に、一言以て知とし一言以て不知とすとあり、うべなるかな。

論語 子張「一言以為知、一言以為不知」(一言を以って知とし、一言を以って不知とす)(一言でも賢い人と判るし、一言でも愚かな人であると判る)
尊徳は、この説話で、人が発する言葉は、その人が志向する方向が表れるものである。従って、いつも、上向きの志向を維持すると共に、言葉を発する際には十分注意するようにと教えている。人が発する言葉の意味するところは、常に一つの傾向に沿っていることが多いことは間違いない。このことも、第二十一話に取り上げられた、「誠於中、形於外」(うちにまことなれば、そとにあらわる)の一形態である。  
32、聖人の諭し
翁曰く、聖人も聖人にならんとて、聖人になりたるにはあらず、日々夜々天理に随い人道を尽して行うを、他より称して聖人と云いしなり。堯舜も一心不乱に、親に仕え人を憐み、国の為に尽せしのみ、然るを他よりその徳を称して聖人と云えるなり。諺に、聖人々々と云うは誰(た)が事と思ひしに、おらが隣の丘(きゅう)が事かと云えへる事あり。 誠にさる事なり。 我れ昔鳩ヶ谷駅を過し時、同駅にて不士講に名高き三志と云う者あれば尋(たず)ねしに、三志と云いては誰もしるものなし。能く々々問い尋ねしかば、それは横町の手習師匠の庄兵衛が事なるべしと云いし事ありき。これにおなじ。

聖人も、自分で聖人とは名乗っていない。他人が認めた結果、そう呼ばれるだけである。
三志 小谷庄兵衛 不二講の指導者 従来の富士山信仰を超越して、人の生き方に、社会への謝恩、助け合い、奉仕、という概念を導入し、多くの人達にそれを実践するように説いている。尊徳の桜町での活動の初期に三志の教えを受けた人達が多数協力している。三志も桜町の尊徳を訪ね、尊徳も宇都宮まで出掛けたりして面会している。  
33、家宝取り扱いの諭し
下館侯の宝蔵(ほうぞう)火災ありて、重宝(じゅうほう)天国(あまくに)の剣(つるぎ)焼けたり。官吏城下の富商中村某(それがし)に謂(いい)て曰く、かく焼けたりといえども、当家第一の宝物なり。能く研ぎて白鞘(しらさや)にし、蔵に納め置かんと評議せり、如何(いかん)。中村某焼けたる剣を見て曰く、尤もの論なれど無益なり。たとえこの剣焼けずとも、かく細し、何の用にか立たん。然る上にかく焼けたるを、今研ぎて何の用にかせん。このままにて仕舞置くべしと云えり。翁声を励まして曰く、 汝大家の子孫に産(うま)れ、 祖先の余光に因りて格式を賜り、人の上に立ちて人に敬せらるゝ。汝にして、右様の事を申すは、大なる過ちなり。汝が人に敬せらるゝは、太平の恩沢なり。今は太平なり、何ぞ剣の用に立つと立たざるとを論ずる時ならんや。それ汝自ら省(かえ)り見よ。汝が身用に立つ者と思うか、汝はこの天国の焼剣(やけみ)と同じく、実は用に立つ者にあらず、只先祖の積徳と、家柄と格式とに仍りて用立つ者の如くに見え、人にも敬せらるゝなり。焼身(ヤケミ)にても細身にても重宝と尊むは、太平の恩沢この剣の幸福なり。汝を中村氏と人々敬するは、これ又太平の恩徳と先祖の余蔭(よいん)なり。 用立つ、用立たざるを論ぜば、汝が如きは捨てて可なり。たとえ用立たずとも、 当家御先祖の重宝(じゅうほう)、古代の遺物、これを大切にするは、太平の今日至当の理なり。我はこの剣の為に云うにあらず、汝がために云うなり、能く々沈思せよ。
往時水府公、寺社の梵鐘(つりがね)を取上げて、大砲に鋳(ヰ)替へ玉いし事あり。 予この時にも、 御処置悪(あ)しきにはあらねども、未だ太平なれば甚だ早し、太平には鐘や手水鉢(てみずばち)を鋳て、社寺に納めて、太平を祈らすべし。事あらば速(すみやか)に取りて大砲となす、誰か異議を云わん。 社寺ともに悦んで捧ぐべし。かくして国は保つべきなり。もし敵を見て大砲を造る、いわゆる盗(ぬすびと)を捕えて縄を索(な)うが如しと云わんか。然りといえども尋常の敵を防ぐべき備えは、今日足れり。その敵の容易ならざるを見て、我が領内の鐘を取て大砲に鋳る、何ぞ遅からんや。この時日もなき程ならば、大砲ありといえども、必ず防ぐ事あたわざるべし、と云し事ありき。
何ぞ太平の時に、乱世の如き論を出ださんや。かくの如く用立たざる焼身をも宝とす、況(いわん)や用立べき剣に於てをや。然らば自然(おのずと)よろしく剣も出で来たらん。されば能く研ぎあげて白鞘(しらさや)にし、元の如く腹紗(ふくさ)に包み二重の箱に納めて重宝とすべし。これ汝に帯刀を許し格式を与うるに同じ、能く々心得べしと、中村某叩頭(こうとう)して謝す。時九月なり。
翌朝中村氏発句(ほっく)を作りて或人に示す。その句「じりじりと照りつけられて実法(みの)る秋」と。ある人これを翁に呈す、翁見て悦喜(えっき)限りなし。曰く、我昨夜中村を教戒す。定めて不快の念あらんか、怒気内心に満(みた)んかと、ひそかに案じたり。然れども家柄と大家とに懼(おそ)れ、おもねる者のみなれば、しらずしらず増長して、終に家を保つ事覚束(おぼつか)なしと思ひたれば、止むを得ず厳に教戒せるなり。然るに怒気を貯へず、 不快の念もなく、虚心平気にこの句を作る、その器量按外にして大度見えたり。この家の主人たるに恥(はじ)ず、この家の維持疑いなし。古語に、我を非として当る者は我師也とあり。且つ大禹(たいう)は善言を拝すともあり、汝等も肝銘(かんめい)せよ。それ富家(ふか)の主人は、何を言ても御尤御尤と錆付(さびつく)者のみにて、礪(と)に出合て研ぎ磨かるゝ事なき故、慢心生ずる也。 譬えば、ここに正宗の刀ありといえども、 研ぐ事なく磨く事なく錆付(さびつく)物とのみ一処におかば、忽(たちまち)腐れて紙も切れざるに至るべし。その如く、三味線(しゃみせん)引や太鼓持などゝのみ交り居りて、それも御尤これも御尤と、こび諂(へつら)うを悦んで明し暮し、争友(そうゆう)一人のなきは、豈あやうからざらんや。 

筍子 修身「非我而当者、吾師也」(われをひとしてあたるものは、わがしなり)(私の非を指摘してくれる人は、私の先生である。) 
孟子 公孫丑上「禹聞善言則拝」(うぜんげんをきいてすなわちはいす)(禹は参考になる良いことを聞いて直ちに拝礼をした) 
尊徳は、この説話で、旧家の主が尊敬され、その発言が重要視されるのは、代々築かれてきた信頼の賜物であり、当人の功績を評価してのことではないことを自覚しなければならないと教えている。老舗は、過去の人達の努力の上に成り立っている。それを今の自分の力で成り立っていると勘違いするな。また、乱世と平時は同じではないから、時代に応じた考え方が必要と諭している。。※ 中村家は、現在も筑西市(茨城県 旧下館市)に商家として続いている。  
34、 権勢謙虚の諭し
翁、高野某を諭して曰く、物各(おのおの)命(めい)あり数(すう)あり、猛火の近づくべからざるも、薪(たきぎ)尽き)れば火は随(したがっ)てきゆるなり。矢玉の勢い、あたる処必ず破り必ず殺すも、弓勢(ぜい)つき、薬力(やくりょく)尽くれば叢(くさむら)の間に落ちて、人に拾わるゝにいたる。人もその如し、おのれが勢い、世に行はるゝとも、己が力と思うべからず。親先祖より伝へ受けたる位禄(いろく)の力と、 拝命したる官職の威光とによるが故なり。それ先祖伝来の位禄の力か、職の威光がなければ、いかなる人も、弓勢の尽きたる矢、薬力の尽たる鉄炮玉に異ならず。草間に落て、人に愚弄さるゝに至るべし、思わずばあるべからず。

中村藩 相馬氏が藩主 相馬藩と呼ばれることもある。現福島県相馬市付近  
35、仕法遣い方の諭し
同氏は、相馬領内衆に抽(ぬき)んでゝ、仕法発業(ほつぎょう)を懇願せし人なり。よって同氏預りの、成田坪田二村に開業也。仕法を行う僅(わずか)に一年にして、分度(ぶんど)外の米、四百拾俵を産み出だせり。同氏蔵を建てて収め貯え、凶歳の備えにせんとす。翁曰く、村里の興復を謀(はか)る者は、米金を蔵に収むるを尊まず、この米金を村里の為に、遣い払うを以て専務とする也。この遣い方の巧拙によって興復に遅速を生ず。 尤も大切なり。凶荒予備は仕法成就の時の事なり。今卿(きみ)が預りの、村里の仕法、昨年発業。これより一村興復、永世安穏の規模を立つべきなり。まずこれこそ、この村に取りて急務の事業なれと云う事を、能く々協議して開拓なり、道路橋梁(きょうりょう)なり、窮民撫育なり、尤も務むべきの急を先にし、又村里のために、利益多き事に着手し、害ある事を除くの法方に、遣(つか)い払うべし。急務の事皆すまば、山林を仕立てるもよろし、土性転換もよろし、非常飢疫(きえき)の予備尤もよろし。卿等(きみら)能く々思考すべし。

積小為大の方式を活用して、小さな組織単位だけで良いから、見本としての単位を選定し、その単位に全力を投入して、思い切ってばっさりと変えれば、少なくともその部分は変革が出来る。他の単位の人達がそれを見れば、変革の可能性について確信を持つようになる。そこで、すぐさま、二倍程度の組織単位部分を対象範囲と決めて、そこに全精力を注いで、素早く変革を行なう。その後もまた、二倍にして変革をするという風に、波紋が広がるように素早く広げていくと、全体の改革に到達することが出来る。ここでは、手をつけた部分は、必ず、ドラスティックに切り替えるということを守れば、間違いなく全体の変革を達成出来る。 
 

 

36、過ぎたるは及ばざるの諭し
某氏事をなして、過(すぐ)るの癖(へき)あり。翁諭して曰く、凡そ物毎に度と云う事あり。飯(めし)を炊くも料理をするも、皆宜しき程こそ肝要なれ。我が法方も又同じ。世話をやかねば行れざるは、勿論なれども、世話もやき過ぎると、 又人に厭(いと)はれ、如何(いかに)して宜しきや分らず。 先ず捨ておくべしなどゝ、云うに至るもの也。古人の句に、「さき過ぎて 是さへいやし梅の花」とあり、云い得て妙なり。百事過ぎたるは及ばざるにおとれり。心得べき事也。

論語 先進「過猶不及也」(すぎたるはなおおよばざるがごとし)  
37、 内省の諭し
浦賀の人、飯高六蔵、多弁の癖あり、暇を乞うて国に帰らんとす。翁諭して云う。汝国に帰らば決して人に説く事を止(や)めよ。人に説く事を止めて、おのれが心にて、己が心に異見せよ。己が心にて己が心に異見するは、柯(か)を取りて、柯を伐るよりも近し。元(もと)己が心なればなり。それ異見する心は汝が道心なり、異見せらるゝ心は汝が人心なり。寝ても覚ても坐しても歩行(あるい)ても 離るゝ事なき故、行住坐臥油断なく異見すべし。 もし己(おのれ)酒を好まば、多く飲む事を止めよと異見すべし。速に止(や)めばよし、止めざる時は幾度(いくたび)も異見せよ。その外驕奢の念起る時も、安逸の欲起る時も皆同じ。 百事かくの如くみづから戒めば、これ無上の工夫なり。この工夫を積んで、 己が身修(おさま)り家斉(ととの)いなば、これ己が心己が心の異見を聞きしなり。この時に至らば、人汝が説を聞く者あるべし。己修(おさまっ)て人に及ぶが故なり。己が心にて己が心を戒しめ、己聞かずば必ず人に説く事なかれ。且つ汝家に帰らば、商法に従事するならん。土地柄と云い、累代の家業と云い至当なり。さりながら汝売買をなすとも、必ず金を設(もうけ)んなどゝ思うべからず。只商道の本意を勤めよ。 商人たる者、商道の本意を忘るゝ時は、 眼前は利を得るとも詰り滅亡を招くべし。能く商道の本意を守りて勉強せば、財宝は求めずして集り、富栄繁昌量(はか)るべからず。必ず忘るゝ事なかれ。

論語 憲問「脩己以安人」(おのれをおさめてもってひとをやすんず)(修行して自分を磨いた後に人を教え、安らかにさせる) 
弘化 天保と嘉永の間の四年間の短い年号 この時期、尊徳は既に幕吏となっていた。  
38、仁政の諭し
嘉永五年正月、翁おのが家の温泉に入浴せらるゝ事数日、予が兄大沢精一、翁に随(したがい)て入浴す。翁、湯桁(ゆげた)にゐまして諭して曰く、それ世の中汝等が如き富者にして、皆足る事を知らず。飽くまでも利を貪(むさぼ)り、不足を唱うるは、大人(だいにん)のこの湯船の中に立ちて、屈(かが)まずして、湯を肩に掛けて、 湯船はなはだ浅し、 膝にだも満たずと罵るが如し。もし湯をして望みに任せば、小人(しょうにん)童子(どうじ)の如きは、入浴する事あたはざるべし。これ湯船の浅きにはあらずして、己が屈まざるの過(あやまち)なり、能くこの過ちを知りて屈まば、湯忽(たちまち)肩に満ちて、おのづから十分ならん。何ぞ他に求むる事をせん。世間富者の不足を唱うる、何ぞこれに異らん。それ分限を守らざれば、千万石といえども不足なり。一度過分の誤りを悟りて分度を守らば、有余(ゆうよ)おのづから有りて、人を救うに余りあらん。それ湯船は大人は屈んで肩につき、小人は立て肩につくを中庸とす。百石の者は、五十石に屈んで五十石の有余を譲り、千石の者は、五百石に屈んで五百石の有余を譲る、これを中庸と云うべし。 もし 一郷(いっきょう)の内一人、この道を蹈(ふ)む者あらば、 人々皆分を越ゆるの誤りを悟らん。人々皆この誤を悟り、分度を守りて克(よ)く譲らば、一郷富栄にして、和順ならん事疑いなし。古語に、一家仁なれば一国仁に興ると云えり。能く思うべき事なり。
それ仁は人道の極みなり。儒者の説甚だむづかしくして用をなさず。 近く譬えれば、この湯船の湯の如し。これを手にて己が方に掻けば、湯我が方に来るが如くなれども、皆向うの方へ流れ帰る也。これを向うの方へ押す時は、湯向うの方へ行くが如くなれども、又我方へ流れ帰る。少しく押せば少しく帰り、強く押せば強く帰る。これ天理なり。それ仁と云い義と云うは、向こうへ押す時の名なり。我が方へ掻く時は不仁となり不義となる、慎まざるべけんや。古語に、己に克ちて礼に復(かえ)れば天下仁に帰す、仁をなす己による、人によらんや、とあり。己とは、手の我方(わがかた)へ向く時の名なり。礼とは、我が手を先の方に向くる時の名なり。 我方へ向けては、仁を説くも義を演(のぶ)るも、皆無益なり、能く思うべし。それ人体の組立(くみたて)を見よ。 人の手は、我方へ向きて、 我為に弁利に出来たれども、 又向うの方へも向き、向うへ押すべく出来たり。これ人道の元なり。鳥獣(とりけもの)の手は、これに反して、只我方へ向きて、我に弁利なるのみ。されば人たる者は、他の爲に押すの道あり。然るを我が身の方に手を向け、我が為に取る事而已(のみ)を勤めて、先の方に手を向けて、他の為に押す事を忘るゝは、人にして人にあらず。則ち禽獣なり。豈(あ)に恥かしからざらんや。只恥かしきのみならず、天理に違(たが)うが故に終(つい)に滅亡す。故に我、常に奪うに益なく譲るに益あり、譲るに益あり奪うに益なし。これ則ち天理也と教える。能く々玩味すべし。

大学「一家仁、一国興仁」(いっかじんなれば、いっこくにじんおこる)(指導者がわが家を仁徳で満たせば、その指導者の下にある一帯が仁徳で満たされる)
論語 顔淵「克己復礼為仁、一日克己復礼、天下帰仁焉、為仁由己、而由人乎哉」(おのれにかちてれいにかえればじんをなす、いちにちおのれにかちてれいにかえれば、てんかじんにきす、じんをなすことおのれによる、しこうしてひとによらんや)(自分に打ち克って世の中の本質に従えば、仁が行なえる。一日でも世の中の本質に立ち返れば、世界中が仁で満たされる。仁を行うのは自分だ、どうして人頼みにできようか)  
39、実践の諭し
翁曰く、学問は活用を尊ぶ。万巻の書を読むといえども、活用せざれば用はなさぬものなり。論語に、里は仁をよしとす、撰(えら)んで仁に居らずんば焉(いづくん)ぞ智を得ん、とあり。誠に名言なり、然といえども、遊歴人(ゆうれきじん)や店借人などならば、撰んで仁の村に居る事も出来べし。されど田畑山林家蔵を所有する何村の何某なる者、如何なる仁義の村があればとて、その村に引越す事出来べきや。さりとてその不仁の村に不快ながら住居ては、智者とは云われざる勿論なり。さて断然、不仁の村を捨て、仁義の村に引越す者ありとも我は是を智者とは云わず。書を読んで活用を知らざる愚者と云うべし。如何となれば、何村の何某と云わるゝ程の者、全戸を他村に引移す事容易にあらず、その費用も莫大なるべし。この莫大の費金を捨て、住み馴(な)れし古郷を捨てる、愚にあらずして何ぞ。
そレ人に道あり、道は蛮貊(ばんばく)の邦といえども行わるゝ物なれば、如何なる不仁の村里といえども行れざる事あるべからず。自からこの道を行いて、不仁の村を仁義の村に為して、先祖代々其処に永住するをこそ智と云うべけれ。この如くならざれば、決して智者と云うべからず。然してその不仁の村を、仁義の村にする、甚だ難からず。先ず自分道を蹈(ふ)んで、己が家を仁にするにあるなり。己が家仁にならずして、村里を仁にせんとするは、白砂を炊(かしい)で飯(めし)にせんとするに同じ。己が家誠に仁になれば、村里仁にならざる事なし。古語に曰く、一家仁なれば一国仁に興(おこ)り、一家譲(ゆずり)あれば一国譲に興る。又曰く、誠に仁に志せば悪なし、とある通り、決して疑いなきものなり。
それ、ここに竹木など本末入交り、竪横(たてよこ)に入り乱れたるあり。これを一本づゝ本を本にし、末を末にして止ざる時は、終に皆本末揃(そろ)いて整然となるが如し。古語に、直(なお)きを挙げて諸(もろもろ)の曲がれるを措(お)く時はよく曲れる者をして直からしむ、とある通り、善人を挙げ直人を挙て、厚く賞誉(しょうよ)して怠らざる時は必ず四五ヶ年間を出ずして、整然たる仁義の村となる事、疑いなきものなり。世間の富者、この理に闇(くら)く書を読んで活用を知らず、我家を仁義にする事を知らず、徒(いたず)らに迷いを取りて、村里の不仁なるを悪み村人義を知らず、人気悪し風儀悪しと詈(ののし)り、他方に移らんとする者往々あり、愚と云うべし。
さて村里の人気を一新し風俗を一洗すると云う事、尤も難(かた)き事なれども、誠心を以てし、その法方を得れば、左程難き事にはあらざるなり。先ず衰貧(すいびん)を挽(ばん)回し、頽廃(たいはい)を興復するより手を下し方法の如くして漸次(ぜんじ)人気風儀を一洗すべし。さて人気風儀を一新なすに機会あり。譬えば今ここに戸数一百の邑あり。その中四十戸は衣食不足なく、六十戸は窮乏なれば、一邑その貧を恥とせず。貧を恥とせざれば租税を納ざるを恥ず、借財を返さゞるを恥ず、夫役を怠(おこた)るを恥ず、質(しち)を入るを恥ず、暴を云うを恥ず。この如くなれば、上の法令も里正の権も行れず、法令行れざる時は悪行至らざる処なし、何を以て之を導かん。ここに到ては法令も教諭も皆益なきなり。又百戸の中、六十戸は衣食不足なく、四十戸は貧窮なる時は、教えずして自ずから恥を生ず。恥を生ずれば、義心を生ず、義心生ずれば、租税を納めざるを恥ぢ、借財を返さゞるを恥ぢ、夫役を怠るを恥ぢ、質を入るを恥ぢ、暴を云うを恥るに至る。ここにに至りて法令も行れ、教導も行れ、善道に導くべく、勉強にも趣(おもむか)しむべし。その機かくの如し。
譬えば権衡(ハカリ)の釣合の如し、左重ければ左に傾むき、右重ければ右に傾むくが如く、村内貧多き時は貧に傾き、悪多き時は悪に傾く、故に相共に恥なし。富多き時は富に傾き、善多き時は善に傾く、故に恥を生ずれば義心を生ず。汚俗を一洗し、一村を興復するの業、只この機あるのみ、知らずばあるべからず。如何なる良法仁術と云うとも、村中一戸も貧者無からしむるは難しとす。如何となれば、人に勤惰(きんだ)あり強弱あり智愚あり、家に積善あり不積善あり、しかのみならず前世の宿因もあり、これを如何とも為べからず。この如きの貧者は、只その時々の不足を補うて、覆墜(ふくつい)せざらしむるにあり。

論語・里仁「里仁為美、択不處仁、焉得智」(さとはじんをよしとなす、えらんでじんにおらずんば、いずくんぞちなることをえん)(人として住む村は、仁徳にあふれる村が良い。そのような村に住んでいなければ、知恵ある人とは言わない)
大学「一家仁、一国興仁、一家譲、一国興譲」(いっかじんなれば、いっこくじんにおこり、いっかじょうなれば、いっこくじょうにおこる)
論語・里仁「苟志於仁矣、無惡也」(まことにじんにこころざせば、あしきことなし)
論語 為政「擧直錯諸枉、則民服」(なおきをあげて、もろもろのまがれるにおけば、すなわちたみふくす)
尊徳は、この説話で、勉強するのは、それを実地に生かすためである。生かすことができないのなら、その勉強は無用の長物でしかない、と教えている。知っていることと、出来ることとは別のものである。そのことは、色々な分野で当てはまり、それぞれの分野で、知っているができないという人は沢山いる。しかし、指導者としての立場にある人は、それではいけない。達人の域に達している必要はないが、一通りは実行して見せられるだけの段階には、至っていなければならないのである。尊徳は、この説話で、人の意識を変えるのにもっとも有効な方法について述べている。それは、「擧直錯諸枉、則民服」である。表彰制度を活用してそれを実行するのである。この方法の基本的な考え方も、「積小為大」である。この説話は、総ての組織・団体において、人心の一新に活用できる教えである。  
40、帝王学の諭し
翁曰く、それ入るは出たる物の帰るなり、来るは押し譲(ゆず)りたる物の入り来るなり。譬えば、農人田畑の為に尽力し、人糞(こやし)を掛け干鰯(ほしか)を用い、作物の為に力を尽せば、秋に至りて実法りを得る事、必ず多き勿論なり。然るを菜を蒔きて、出るとは芽をつみ、枝が出れば枝を切り穂を出せば穂をつみ実がなれば実を取る。この如くなれば決して収獲なし。商法も又同じ。己が利欲のみを専らとして買人の為を思わず、猥(みだ)りに貪(むさぼ)らば、その店の衰微、眼前なるべし。古語に、人心は惟危(あやう)し道心惟微(かすか)なり。惟精惟一允(まこと)にその中を執(と)れ、四海困窮せば天禄永く終らん、とあり。これ舜(しゅん)禹(う)天下を授受するの心法なり。上として下に取る事多く、下困窮すれば上の天禄も永く終るとあり。終るにはあらず、天より賜りたるを天に取上げらるゝなり。その理又明白なり、誠に金言と云うべし。然りといえども、儒者の如く講じては、今日上、何の用にもたゝぬ故、今汝等(なんじら)が為に分り安く読みて聞かせん。支那(から)の咄しと思うて、迂闊(うかつ)に聞かず、能く肝に銘ぜよ。人心惟危(あやう)し道心惟微(かすか)なりとは、身勝手にする事は危き物ぞ。他の為にする事は、いやになる物ぞと云う事なり。惟精惟一允(まこと)に其の中を執れとは、能く精力を尽し、一心堅固に二百石の者は百石にて暮し、百石の者は五十石にて暮し、その半分を推し譲りて、一村の衰(おとろ)えざる様、一村の益々富み益々栄える様に勉強せよ、と云う事なり。四海困窮せば、天禄永く終らんとは、一村困窮する時は、田畑を何程持ち居るとも、決して作徳は取れぬ様になる物ぞ、と云う事と心得べし。帝王の咄しなればこそ、四海と云い、天禄と云うなれ。汝等が為には、四海を一村と読み、天禄は作徳と読むべし。能く々肝銘せよ。

中庸「人心惟危、道心惟微、惟精惟一、允執厥中者」(じんしんこれあやうく、どうしんこれかすかなり、これせいこれいち、まことにそのちゅうをとれ) 
論語 尭日「允執其中、四海困窮、天禄永終」(まことにそのちゅうをとれ、しかいこんきゅう、てんろくながくおえん) 
 

 

41、四つの道の諭し 
翁曰く、吉凶、禍福、苦楽、憂歓等は相対する物なり。如何(いかん)となれば、猫の鼠を得る時は楽の極みなり。その得られたる鼠は苦の極みなり。蛇の喜極る時は蛙の苦極まる。鷹の悦極まる時は雀の苦極まる。猟師の楽は鳥獣の苦なり。漁師の楽は魚の苦なり。世界の事皆かくの如し。こちらが勝ちて喜べば、彼は負けて憂う。こちらが田地を買って喜べば、彼は田地を売りて憂う。こちらが利を得て悦べば、彼は利を失うて憂う。人間世界皆然り。たまたま悟門に入る者あれば、これを厭(いと)いて山林に隠れ、世を遁(のが)れ世を捨つ。これ又世上の用をなさず。その志その行い、尊(とうと)きが如くなれども、世の為にならざれば賞するにたらず。予が戯(たわむれ)歌に「ちうちうとなげき苦しむ声きけば 鼠の地獄猫の極楽」、一笑すべし。ここに彼悦んで是も悦ぶの道なかるべからずと考うるに、天地の道、親子の道、夫婦の道、又農業の道との四ツあり。これ法則とすべき道なり、能く考えるべし。

尊徳は、この説話で、天地の道、親子の道、夫婦の道、農業の道の四つの道を諭している。  
42、貸し付けの道の諭し
翁曰く、世界の中、法則とすべき物は、天地の道と親子の道と夫婦の道と農業の道との四ツなり。この道は誠に両全完全の物なり。百事この四ツを法とすれば誤りなし。予が歌に「おのが子を恵む心を法(のり)とせば 学ばずとても道に到らん」とよめるはこの心なり。それ天は生々の徳を下し、地は之を受けて発生し、親は子を育して、損益を忘れ混(ひたす)ら生長を楽み、子は育せられて父母を慕う。夫婦の間、又相互に相楽しんで子孫相続す。農夫勤労して、植物の繁栄を楽み、草木又近欣(きん)々として繁茂す。皆相共に苦情なく、悦喜の情のみ。さてこの道に法取(のっと)る時は、商法は、売りて悦び買いて悦ぶ様にすべし。売りて悦び買いて喜ばざるは道にあらず、買いて喜び売りて悦ばざるも道にあらず。貸借の道も亦同じ、借りて喜び貸して喜ぶ様にすべし。借りて喜び貸して悦ばざるは道にあらず。貸して悦び借りて喜ばざるは道にあらず。百事この如し。
それ我が教えはこれを法(のり)とす。故に天地生々の心を心とし、親子と夫婦との情に基づき、損益を度外に置き、国民の潤助と土地の興復とを楽しむなり。然らざれば能わざる業なり。それ無利息金貸付の道は、元金の増加するを徳とせず、貸付高の増加するを徳とするなり。この利を以て利とせず、義を以て利とするの意なり。元金の増加を喜ぶは利心なり。貸附高の増加を喜ぶは善心なり。元金は終に百円なりといえども、六十年繰返し繰返し貸す時は、その貸附高は一万二千八百五十円となる。而て元金は元の如く百円にして増減なく、国家人民の為に益ある事莫大なり。正に日輪(りん)の万物を生育し万歳を経(ふ)れども一ツの日輪なるが如し。古語に、敬する処の物少くして悦ぶ者多し、之を要道と云うとあるに近し。我、この法を立てし所以(ゆえん)は、世上にて金銀を貸し催促を尽くしたる後、裁判を願い取れざる時に至て、無利足年賦となすが通常なり。この理を未だ貸さざる前に見て、この法を立たるなり。されども未だ足らざる処あるが故に、無利足何年置据貸(おかすえかし)と云う法をも立たり。この如く為さざれば、国を興(おこ)し世を潤(うるお)すにたらざればなり。凡そ事は成行くべき先を、前に定るにあり。人は生まるれば必ず死すべき物なり。死すべき物と云う事を前に決定すれば、活(いき)て居る丈(だケ)日々利益なり。これ予が道の悟りなり。生れ出ては死のある事を忘るゝ事なかれ、夜が明けなば暮れるゝと云う事を忘るゝ事なかれ。

大學「不以利為利、以義為利」(りをもってりとなさず、ぎをもってりとなす)
中庸「凡事予則立、不予則廃」(およそことはあらかじめすればすなわちたち、あらかじめせざればすなわちはいす) 
当時の借入金は、利率が、年利十五%〜二十五%であったので、殆どの借り手は利息分しか支払ができず、元金はいつになっても全く減らない状態にあったから、借り手は、いつまでも利息の支払いをしなくてはならないという苦しさがあった。尊徳は、無利息年賦貸付金を開始した。無利息という約束で貸出していたので、期間五年の年一回分割払いの約束であれば、それまでの利息分と同等の支払いをすれば、毎年二割ずつ確実に元金が減ったことから、借り手の農民の精神的負担は大幅に減少した。その元金全額を返済した後に、それまでの年間返済額と同額を、一回か二回、冥加金・謝礼として払うこととなっていたから、実質的には無利息とは言えないが、元金が先に無くなるということは、借り手の実質的負担と精神的負担は、大幅に軽減されていたし、冥加金を払ってしまえば、長くとも七年後には、借入金を確実に消滅させることができた。現在の元利均等払い方式に近いが、期限後の支払は、あくまでも冥加金であるので、最初には負担と感じられない。借財が無くなったという精神的開放感から、その冥加金の支払いには皆応じている。また、それを含めても、実質利率は当時としては極端に低くなっていた。
尊徳が、貸付金の残高を増加させるのを目的としている、と言っているのは、実質残高の増加と言うことで無く、初回貸付高の増加(一度の貸付額が同じであれば借り手数の増加)のことである。それは、一人でも、旧来の借入金制度から逃れる人を多くする、という目的を果たすためである。従って、約定通りに返済してもらった分は、ひとまとめにして、すぐに次の人に貸しつけられている。返済が滞らないことが、この制度がうまく回転していく前提である。なお、冥加金によって、実質的に貸付用資金総額は増加している。  
43、貸し付けの見立ての諭し
翁曰く、村里の興復は直を挙げるにあり。土地の開拓は沃土(よくど)を挙るにあり。然るに善人は、とかくに退いて引き籠る癖ある物なり。勤めて引出さゞれば出ず。沃土は必ず卑(ひく)く窪き処にありて、掘出さゞれば顕(あらわ)れぬ物なり。ここに心付ずして開拓場をならす時は、沃土皆土中に埋(うづま)りて永世顕われず。村里の損、これより大なるはなし。村里を興復する、又同じ理なり。善人を挙て、隠れざる様にするを勤とすべし。又土地の改良を欲せば、沃土を掘出して田畑に入るべし。村里の興復は、善人を挙げ出し精人を賞誉(しょうよ)するにあり。これを賞誉するは、投票を以て耕作出精にして品行宜しく心掛け宜しき者を撰み、無利足金、旋回(せんかい)貸附法を行うべし。この法は譬えば米を臼(うす)にて搗(つく)が如し。杵(きね)は只臼の正中を搗くのみにして、臼の中の米、同一に白米となると同じ道理にて、返済さへ滞(とどこお)らざれば、社中一同知らず知らず自然と富実すべし。而て返済の滞るは、譬えば臼の米の返らざるが如し。これこの仕法の大患なり。臼の米返らざる時は、村搗きとなりて折れ砕くる物なり。この仕法にて返済滞る時は、仕法痿靡(いび)して振(ふる)わざる物なり。貸附取扱いの時、能く々注意し説諭すべし。

論語 顔淵「擧直錯諸在、能使枉者直」 なおきをあげて、これをまがれるにおけば、よくまがれるものをしてなおからしめん」
投票に際しては、上から指示をしたり、役職にある者が選ばれてしまうようなことのないように、良く説明をしてから、自由な意思で投票させるようにしなければならない。と、二宮尊徳は、別なところで注意している。褒賞の中でも、無利息貸付に効果がある。復興の初期は借財を抱えている者が多い故である。  
44、因報の理の諭し
翁曰く、世人運という事に心得違いあり。譬えば柿梨子などを籠(かご)より打明る時は、自然と上になるあり、下になるあり、上を向くあり、下を向くあり。かくの如きを運と思えり。運というものこの如きものならば頼むにたらず。如何となれば、人事を尽してなるにあらずして、偶然となるなれば、再び入れ直して明る時はみな前と違うべし。これ博奕(ばくえき)の類にして運とは異なり。それ運というは、運転の運にして所謂廻り合せというものなり。それ運転は世界の運転に基元(きげん)して、天地に定規あるが故に、積善の家に余慶(よけい)あり。積不善の家に余殃(よおう)あり。幾回(いくたび)旋転(せんてん)するも、この定規に外(はず)れずして廻り合わするを云うなり。能く世の中にある事也。灯燈(ちょうちん)の火の消えたるために禍を免れ、又履き物の緒(を)の切れたるが為に災害を逸(のが)るゝ等の事、これ偶然にあらず真の運なり。仏に云う処の、因応の道理則ち是なり。
儒道に積善の家余慶あり、積不善の家余殃(おう)あるは天地間の定規、古今に貫きたる格言なれども、仏理によらざれば判然せざるなり。それ仏に三世の説あり。この理は三世を観通せざれば、決して疑いなき事あたはず。疑いの甚(はなはだ)しき、天を怨み人を恨むに至る。世を観通すれば、この疑いなし。雲霧(くもきり)晴れて、晴天を見るが如く、皆自業自得なる事をしる。故に仏教三世因縁を説く、これ儒の及ばざる処なり。今ここに一本の草あり、現在若草なり、その過去を悟れば種なり、その未来を悟れば花咲き実法りなり、茎(くき)高く延びたるは肥(こえ)多き因縁なり。茎の短かきは肥のなき応報なり。その理三世をみる時は明白なり。而て世人この因果応報の理を、仏説と云えり。
これは書物上の論なり。これを我が流儀の不書の経に見る時は、釈氏未だこの世に生れざる昔より行れし、天地間の真理なり。不書の経とは、予が歌に「声(おと)もなく臭(か)もなく常に天地は書かざる経を繰返しつゝ」と云る、四時行れ百物成る処の真理を云う。この経を見るには、肉眼を閉じ、心眼を開きて見るべし。然らざれば見えず、肉眼に見えざるにはあらねども徹底せざるを云うなり。それ因報の理は、米を蒔けば米が生へ、瓜の蔓(つる)に茄子(なす)のならざるの理なり。この理天地開闢(かいびゃく)より行れて今日に至りて違わず。皇国のみ然るにあらず、万国皆然り。されば天地の真理なる事、弁を待たずして明らかなり。

易経 坤文言伝「積善之家必有余慶、積不善之家必有余殃」(せきぜんのいえかならずよけいあり、せきふぜんのいえかならずよおうあり)  
45、心眼の諭し
翁曰く、それ天地の真理は、不書の経文にあらざれば、見えざる物なり。この不書の経文を見るには、肉眼を以て、一度見渡して、而て後肉眼を閉じ、心眼を開きて能く見るべし。如何なる微細の理も見えざる事なし。肉眼の見る処は限りあり、心眼の見る処は限りなければなりと。大島勇助曰く、師説実に深遠なり、おこがましけれど、一首を詠(よめ)りと云う。その歌「眼(め)を閉じて世界の内を能く見れば晦日(みそか)の夜にも有明の月」。翁曰く、卿が生涯の上作と云うべし。

尊徳は、ここで、心眼の諭しをしている。 
 

 

46、或る神学者講談との違いの諭し
加茂社人、梅辻と云う神学者東京(えど)に来て、神典竝に天地の功徳、造化の妙用を講ず。翁、一夜竊(ひそか)にその講談を聞かる。曰く、その人となり、弁舌爽(さわやか)にして飾りなく、立居ふるまいも安らかにして物に関せず、実に達人と云うべし。その説く処も、おおよそ尤もなり。されども未だ尽さゞる事のみ多し。彼位の事にては、一村は勿論、一家にても衰(おとろ)えたるを興す事は出来まじ。如何となればその説く所目的立たず、至る処なく専ら倹約を尊んで、謂(いわ)れなく只倹約せよ倹約せよと云うて倹約して何になると云う事なく、善を為せよと云うてその善とする処を説かず。且つ善を為すの方を云わず。その説く処を実行する時は上下の分立たず、上国下国の分ちもなく、この如く、一般倹約を為したりとも、何の面白き事もなく、国家の為にもならざるなり。その他の諸説は、只論弁の上手なるのみ。それ我が倹約を尊ぶは用いる処有るが為なり。宮室を卑(いやしゅう)し、衣服を悪しくし、飲食を薄うして、資本に用い、国家を富実せしめ、万姓を済救(さいきゅう)せんが為なり。彼が目途なく至る処なく、只倹約せよと云うとは大に異なり。誤解する事勿れ。

梅辻 梅辻則清 天保から弘化に掛けて江戸で独自の神道理論を講釈し人気を集めた。  
47、無尽蔵の理の諭し
翁曰く、遠を謀(はか)る者は富み、近きを謀る者は貧す。それ遠きを謀る者は、百年の為に松杉の苗を植う。まして春植て、秋実(み)のる物に於てをや。故に富有るなり。近きを謀る者は、春植えて秋実法(みの)る物をも、猶(なお)遠しとして植えず。只眼前の利に迷うて、蒔(ま)かずして取り、植えずして刈取る事のみに眼をつく。故に貧窮す。それ蒔かずして取り、植ずして刈る物は、眼前利あるが如しといえども、一度取る時は、二度刈る事を得ず。蒔きて取り、植えて刈る者は歳々尽る事なし。故に無尽蔵(むじんぞう)と云うなり。仏に福聚海(ふくじゅかい)と云うも、又同じ。

論語 衛霊公「人而無遠慮、必有近憂」(ひととしてとおきおもんばかりなければ、かならずちかきうれいあり)
福寿海無量 仏教語。観音の福徳を賛美したことば。福徳の集まることが海のように計り知れないほど大量である。  
48、不潔清潔の理の諭し
翁、某村を巡回せられたる時、惰弱にして掃除をもせぬ者あり。曰く、汚穢(おくわい)を窮(きわ)むる。この如くなれば、汝が家永く貧乏神の住所となるべし。貧乏を免かれんと欲せば、先ず庭の草を取り、家屋を掃除せよ。不潔この如くなる時は、又疫病(やくびょう)神も宿るべし。能く心掛けて、貧乏神や疫病神は居られざる様に掃除せよ。家に汚物あれば汚蠅(くそばえ)の集まるが如く、庭に草あれば蛇蝎(へびとかげ)所を得て住むなり。肉腐(くさ)れて蛆(うじ)生じ、水腐れて孑孒(ぼうふら)生ず。されば、心身穢(けが)れて罪咎(つみとが)生じ、家穢れて疾病生ず。恐るべしと諭さる。又一戸家小にして内外清潔の家あり。翁曰く、彼は遊惰無頼博徒(ばくと)の類か、家内を見るに俵なく好き農機具なし、農家の罪人なるべしと。村吏その明察に驚ろけり。

尊徳はここで、不潔清潔の理の諭しをしている。不潔を戒め、且つ行き過ぎの清潔を戒めている。  
49、復讐の非の諭し
両国橋辺に、敵(かたき)打ちあり。勇士なり孝子なりと人々誉(ほ)む。翁曰く、復讐を尊むは、未だ理を尽さゞるものなり。東照公も敵国に生れ玉えるを以て父祖の讐(あだ)を報ぜんとのみ願われしを、酉誉(ゆうよ)上人の説法に、復讐の志は、小にして益なく、人道にあらざるの理を以てし、国を治め、万民を安んずるの道の天理にして、大なるの道理を以てす。公始めてこの理に感じ、復讐の念を捨てて、国を安んじ、民を救うの道に心力を尽されたり。これより大業なり、万民塗炭(とたん)の苦を免(まぬか)る。この道独(ひとり)東照宮のみに限らざるなり。凡人といえども又同じ。こちら敵を打てば、彼よりも亦この恨みを報ぜんとするは必定なり。然る時は怨恨(えんこん)結んで解(とく)る時なし。互いに復讐復讐と、只恨みを重ぬるのみ。これ則ち仏にいわゆる輪廻(りんね)にて永劫修羅道に落て人道を蹈(ふ)む事能わじ。愚の至り悲しい哉。又たまたまは、返り打ちに逢うもあり、痛(いたま)しからずや。これ道に似て、道にあらざるが故なり。されば復讐は政府に懇願すべし。政府又草を分けて、この悪人を尋ねて刑罰すべし。よって自らは、恨みに報うに直(なお)きを以てすの聖語に随(したがい)て復讐を止め家を修め、立身出世を謀り、親先祖の名を顕(あら)はし、世を益し人を救うの天理を勤むるにしかず。これ子たる者の道、則ち人道なり。
世の習風は、人道にあらず。修羅道なり。天保の飢饉に、相州大磯駅川崎某と云う者、乱民に打毀(こわ)されたり。官乱民を捕(とら)へて禁獄(きんごく)し、又川崎某をも禁獄する事三年、某憤怒(ふんぬ)に堪(たえず、上下を怨(うら)み、上下にこの怨を報ぜんと熱心す。我れ、これに教うるに、復讐は人道にあらざるの理を解き、富者は貧を救い、駅内を安ずるの天理なる事を以てせり。某決する事能わず、鎌倉円覚寺淡海和尚に質(ただ)して、悔悟し決心して、初めて復讐の念を断ち、身代を残らず出して、駅内を救助す。駅内俄然(がぜん)一和して、某を敬する事父母の如し。官又厚く某を賞するに至れり。予只復讐は人道にあらず、世を救い世の為を為すの天理なる事を教えしのみにして、この好結果を得たり。もし過ちて、復讐の謀(はかりごと)をなさば、如何なる修羅場を造作するや知るべからず、恐れざるべけんや。

論語 憲問「以直報怨、以徳報徳」(なおきをもってうらみにむくい、とくをもってとくにむくいる)
論語 憲問「以直報怨」(なおきをもってうらみにむくいる)(怨んでいるその人の心を真っ直ぐにしようとして、こちらが真っ直ぐな気持ちを持って当たれば通じる) 
老子「報怨以徳」(うらみにむくゆるにとくをもってす)  
50、不動心の諭し
翁、床(とこ)の傍(かたわら)に、不動仏の像を掛らる。山内董(ただ)正曰く、卿、不動を信ずるか。翁曰く、予、壮年、小田原侯の命を受て、野州物井に来る。人民離散土地荒蕪、如何ともすべからず。仍て功の成否に関)せず、生涯この処を動かじと決定す。たとえ事故出来、背に火の燃え付きが如きに立ち到るとも、決して動かじと死を以て誓う。然るに不動尊は、動かざれば尊しと訓ず。予、其名義と、猛火背を焚(やく)といえども、動ざるの像形を信じ、この像を掛けて、その意を妻子に示す。不動仏、何等の功験あるを知らずといえども、予が今日に到るは、不動心の堅固一ツにあり。仍て今日も猶この像を掛けて、妻子にその意を示すなり。 
 

 

51、 百人一首の理の諭し
翁曰く、百人一首に「秋の田のかりほの菴(いほ)の苫(とま)をあらみ 我が衣手(ころもで)は露にぬれつゝ」(天智天皇作)とあり。この御歌を、歌人の講ずるを聞けば、只言葉丈(だケ)にして深き意もなきが如し。何事も己が心丈(だケ)ならでは解せぬ物なればなるべし。それ春夏は、百種百草芽を出し生い育ち、枝葉繁り栄え百花咲満ち、秋冬に至れば、葉落ち実(み)熟して、百種百草皆枯れる。則ち植物の終りなり。凡そ事の終りは、奢(おご)る者は亡び、悪人は災(わざわい)に逢(あ)い、盗(ぬすびと)は刑せられ、一生の業果の応報を、草木の熟する秋の田に寄せての御製なるべし。とまをあらみとは、政事あらくして行き届かざるを、歎かせ玉ふなり。御慈悲御憐みの深き、言外にあらはれたり。この者は何々に依て獄門に行う物なり。我衣手は露にぬれつゝ、この者は火炙(あぶ)りに行う者也。我衣手は露にぬれつゝ、誰は家事不取締りに付き蟄居(ちっきょ)申し付ける、我衣手は露にぬれつゝ、悪事をして刑せらるゝ者も、政事の届かぬ故、奢りに長じて滅亡する者も、我が教えの届かぬ故と、御憐みの御泪(なみだ)にて、御袖を絞(しぼ)らせ玉ふと云う歌なり。感銘すべし。予、始めて野州物井に至り、村落を巡回す。人民離散して、只家のみ残り、或いは立ち腐(くさ)れとなり、石据(すえ)のみ残り、屋敷のみ残り、井戸のみ残り、実に哀(あわ)れはかなき形を見れば、あはれこの家に老人も有つるなるべし。婦女児孫もありしなるべきに、今この如く萱葎(かやむぐら)生い茂り、狐狸(きつねたぬき)の住処と変じたりと思えば、実に、我衣手は露にぬれつゝ、の御歌も思い合わせて、予も袖を絞りし也。京極黄門、百首の巻頭に、この御製を載(の)せられて、今諸人の知る処となれるは、悦ばしき事なり、感拝すべし。

秋の田の刈り取った稲の穂を見張る仮小屋にいると、屋根や壁に用いている苫の目が粗いことから、晩秋の冷たい露が流れこみ、着物の袖を濡らした。また、農民は、このような粗末なところで、素晴らしい仕事をしているのかと考えると、そのことでも涙が袖を濡らした。苫(とま)とは、菅や葦などで作った筵のこと。屋根や壁をこれで囲って間に合わせた小屋でのことを歌にしている。  
52、おもいやりの諭し
道路の普請(ふしん)に人多く出居れり。小荷駄(こにだ)馬驚き噪(さわ)ぎて静まらず。人々立ち噪ぐを、馬士止めて静かに静かにと云て手拭(てぬぐい)にて馬の目を隠し、額(ひたい)より面を撫(な)でたり。馬静まりて過ぎ行く。 翁曰く、馬士のする処、誠に宜(よろ)し。論語に、礼の用は和を尊しとす、小大是に因るとあるに叶えり。予、初め野州物井を治(おさめ)しも、この通りなり。噪ぎ立つを静むるは、この道理にあり。我(わレ)物井を治し時、金は無利足に貸し、返さゞるも催促せず、無道なるをも敢えて咎(とが)めず、年貢も難儀とあらば免(ゆる)すべしと云えり。然りといえども、勤労し糞培(ふんばい)せざれば、米も麦も得られず。いやながらも、勤労すればこそ、芋も大根も食う事を得るなれ。難儀と思う年貢を出せばこそ、田畑も我物となりて、耕作も出来るなれと。只この理を諭し、己が分度を定めて、己を尽したるのみ。この如くすれば、行れざる処なし、草木禽獣(きんじゅう)にも行わるゝ道理なり。如何となれば、菓物熟して、自然に落ちるを待つの道理にして、只、我(が)の一字を去るのみ。我が畑へ我植し茄子にても、我(が)にてならする事は出来ず、理屈にては必ずならぬ物なり。この時理屈もやめ、我(が)を捨て、肥(こやし)をすれば、なれと言わずしてなり、実法れと言ずしてみのる。我が教はこの道理を能くしるにあらざれば、行うべからず。

論語 学而「禮之用和爲貴、先王之道斯爲美、小大由之、」(れいのようはわをもってとおとしとなす、せんおうのみちもこれをびとなす、だいしょうこれによる)(社会的な仕組は、調和を第一とする。喩え小さな事でも、大きな事でも同じである)  
53、老子の道論の諭し 
或る人問う。老子に、道の道とすべきは常道にあらず云々とあるは如何なる意ぞ。翁曰く、老子の常と云えるは、天然自然万古不易のものをさして云える也。聖人の道は、人道を元とす。それ人道は自然に基くといえども、自然とは異なるものなり。如何となれば、人は米麦を食とす。米麦自然にあらず、田畑に作らざればなき物なり。その田畑と云う物、又自然にあらず。人の開拓に依りて出来たる物なり。その田を開拓するや、堤を築き川を堰(せ)ぎ、溝を掘り水を上げ畦(あぜ)を立て、初めて水田成る。元自然に基くといえども、自然にあらずして、人作なること明らかなり。惣(すべ)て人道はかくの如き物なり。故に法律を立て、規則を定め、礼楽と云い刑政(けいせい)と云い、格と云い式と云うが如き、煩(わずら)わしき道具を並べ立て、国家の安寧(あんねい)は漸(ようや)く成るものなり。これ米を喰わんが為に、堤を築き堰(せき)を張り、溝を掘り畦を立てゝ、田を開くに同じ。これを聖人の道と尊(とうと)むは、米を食わんと欲する米喰仲間の人の事なり。
老子これを見て、道の道とすべきは常の道にあらずと云えるは、川の川とすべきは常の川にあらずと云うに同じ。それ堤を築き堰を張り、水門を立てゝ引きたる川は、人作の川にして、自然の常の川にあらぬ故に、大雨の時は、皆破るゝ川なりと、天然自然の理を云えるなり。理は理なりといえども、人道とは大に異なり。人道は、この川は堤を築き、堰(を張(りて引たる川なれば、年々歳々普請(ふしん)手入をして、大洪水ありとも、破損のなき様にと力を尽し、もし流失したる時は、速に再興して元の如く、早く修理せよと云うを人道とす。元築たる堤なれば崩るゝ筈(はず)、開きたる田なれば荒るゝ筈というは、言わずとも知れたる事なり。彼は自然を道とすれば、それを悪しと云うにはあらねど、人道には大害あり。到底老子の道は、人は生れたる物なり、死するは当り前の事なり、これを歎くは愚なり、と云えるが如し。人道はそれと異なり、他人の死を聞きても、さて気の毒の事なりと歎くを道とす。況(いわん)や親子兄弟親戚に於るをや。これ等の理を以て押して知るべきなり。

尊徳一流の老子解釈であるが、彼には老子の字句解釈が目的ではなく、論語もそうであるが、古典は、人の心の開発に役立てるもの、役立たなければ何の意味もない、という信念から、その目的に活用しているのである。一言一句の解釈にこだわる学者は、かえって見えるべきものを見えなくしていると、私(翻訳者)も考えています。  
54、太閤の諭しの諭し
翁曰く、太閤(たいこう)(豊臣秀吉)の陣法に、敵を以て敵を防ぎ、敵を以て敵を打つの計(はかりごと)ありと。実に良策なるべし。水防にも、水を以て水を防ぐの法あり。知らずばあるべからず。町田亘(わたり)曰く、近来富士川に雁がね堤と云うを築けり。これその法なるべし。翁曰く、実ならば、能く水を治るの法を得たる者なり。それ我が仕法又然り。荒地は荒地の力を以て開き、借金は借金の費(ついえ)を以て返済し、金を積むには金に積ましむ。教えも又然り。仏教にて、この世は僅(わず)かの仮の宿、来世こそ大事なれと教ふ。これ又、欲を以て欲を制するなり。それ幽(ゆう)世の事は、眼に見えざれば、皆想像説なり。然りといへども、草を以て見る時は粗(ほぼ)見ゆるなり。今ここにに一草あらん。この草に向ひて説法せんに、それ汝は現在、草と生れ露を吸い肥(こやし)を吸ひ、喜び居るといへども、これは皆迷いと云う物ぞ。それこの世は、春風に催(もよう)されて生まれ出たる物にて、実に仮の宿ぞ。明朝にも、秋風立たば、花も散り葉も枯れ、風雨の艱難を凌ぎて生長せしも、皆無益なり。この秋風を、無常の風と云う、恐るべし。早く、この世は仮の宿なる事を悟りて、一日も早く実を結び種となりて、火にも焼けざる蔵の中に入りて、安心せよ。この世にて肥を吸い露を吸ひ、葉を出し花を開くは皆迷いなり、早く種となり、草の世を捨てよ。その種となりて、ゆく処に、無量斯々の娯楽あり、と説くが如し。これ欲の制し難きを知て、これを制するに欲を以てして勧善懲悪の教えとせしなり。然るを末世の法師等、この教えを以て米金を集むるの計策をなす、悲しからずや。

雁がねとは、「雁金」という説もあるが、「雁が音」と思われる。家紋に「雁が音」というのがある。その羽根を広げた部分の形が、堤に応用されたものと考えられる。(翻訳者推察 未確認)  
55、古歌の諭し
門人某、常に好んで「笛吹ず大鼓(たいこ)たゝかず獅子舞の跡足になる胸の安さよ」と云う古歌を誦(じゅ)す。翁曰く、この歌は、国家経綸の大才を抱き功成り名を遂げその業を譲り、後に詠吟(えいぎん)せば許すべし。卿(きみ)が如き是を誦(じゅ)すは甚だ宜しからず。卿が如きは、笛を吹き大鼓をたゝき、舞う人があればこそ、不肖予輩も跡足となりて、世を経(ふ)る事が出来るなれ。辱(かたじけな)き事なりと云う意の歌を吟ずべし。然(しから)ざれば道に叶はず。それ人道は親の養育を受けて、子を養育し、師の教えを受けて、子弟を教え、人の世話を受けて、人の世話をする。これ人道なり。この歌の意を押し極むる時は、その意不受不施(ふじゅふせ)に陥るなり。その人にあらずしてこの歌を誦するは、国賊と云うて可也。論語には、幼にして孫弟(そんてい)ならず、長じて述(のぶ)る事なく、老て死なざるをさえ賊と云えり。まして況(いわん)や、卿等がこの歌を誦するをや。大に道に害あり。それ前足になりて舞う者なくば、奚(いずくん)ぞ跡足なる事を得んや。上に文武百官あり、政道あればこそ、皆安楽に世を渡らるゝなれ。この如く、国家の恩徳に浴しながら、この如き寝言を言うは、恩を忘れたるなり。我れ今、卿が為にこの歌を読み直して授くべし。向後はこの歌を誦されよと教訓あり。その歌「笛をふき大鼓たゝきて舞へばこそ 不肖の我も跡あしとなれ」。

論語 憲問「幼而不孫弟、長而無述焉、老而不死、是爲賊」(ようにして、そんていならず、ちょうじてのぶることなく、おいてしせず、これをぞくとなす)(幼い時はへりくだらず、成長しても特別なことはなく、老いても死なない。このような人が社会の賊である。) 
 

 

56、嘉七問答の諭し
東京深川原木村に、嘉七と云う者あり。海辺の寄り洲(す)を開拓して、成功すれば売り、出来上れば売り、常に開拓を以て家業とす。土人原嘉の親方と云えば知らざる者なし。その開拓の事に付き決し難(がた)き事あり。翁に実地の見分を乞(こ)う。翁一日往て見分せられ、その序(ついで)、彼の海岸を見らるゝに、開拓すべき寄り洲、町五町歩の地は数しらずあり。嘉七曰く、寄り洲は自然になるといえども、又これを寄する方法あり。その地形を見定めて、勢子(せこ)石勢子杭(くい)を用いる時は速(すみやか)に寄る物なりと。翁曰く、勢子石とは如何なる物ぞ。嘉七曰く、その方法云々なり。翁曰く、良法なるべし。嘉七又曰く、誠(まこと)に寄り洲は天然の賜(たまもの)なりと。翁曰く、天然の賜にはあらず、その元人為に出る物なり。嘉七曰く、願わくはその説を示し玉え。翁曰く、川に堤防あるが故に、山々の土砂、遠くこの処迄流れ来て、寄り洲付け洲となるなり。川に堤防なき時は、洪水縦横(じゅうおう)に乱流して一処に集まらず。故に寄り洲も附け洲も出来ざるなり。さればその元人為に成るにあらずや。嘉七退く。翁左右を顧(かえりみ)て曰く、嘉七は才子と云うべし、かゝる大才あり。今少し志を起し、国家の為を思はゞ、大功成るべきに、開拓屋にて一生を終るは、惜しむべし。
正兄曰く、予佐藤信淵氏の著書を見しに、内洋経緯記又勢子石用法図説等あり。今にして是を思えば、嘉七は佐藤氏の門人にはあらざるか。経済要録の序に云われし事あり、開き見るべし。  
57、高須和十郎問答の諭し
三河国吉田の郷士に、高須和十郎と云う人あり。舞坂駅と荒井駅の間に湊(みなと)を造らんと企(くわだ)て、絵図面を持来て、成否を問う。翁曰く、卿(きみ)が説の如くなれば、顧慮する処なきが如くなれども、大洋の事は測るべからず。往年の地震にて、象潟(きさがた)は、変地して景色を失い、大坂の天保山は、一夜に出来たりと、皆近年の事なり。かゝる大業は、実地に臨むといえども、容易に成否を決す可からず、況(いわん)や絵図面上に於てをや。かくの如き大業を企つるには、万一失敗ある時は、かくせんと云う。叩堤(ひかえつつみ)の如き工夫あるか、又何様の異変にても、失敗なき工夫がありたきものなり。然らざれば、卿が為に贊成する者、共に成仏する事なしとも言い難(がた)かるべし。然る時は、山師の誹(そしり)あらん。予、先年印旛(いんば)沼、堀割見分の命を蒙(こうむ)りし時、何様の変動に遭遇しても、決して失敗なき様に工夫せり。たとひ天変はなくとも、水脈土脈を堀り切る時は、必ず意外の事ある物なり。古語に、事前に定まれば躓(つまずか)ずと。予が異変ある事を前に定めたるは、異変を恐れず、異変に躓(つまづか)ざるの仕法なり。これ大業をなすの秘事なり。卿又この工夫なくばあるべからず。然らざれば、第一自ら安ぜざるべし。古語に、内に省りみて疚(やま)しからざれば何をか憂い(何をか懼(おそ)れんとあり。されば天変をも恐れず、地変をも憂ひざる方法の工夫を先にして、大事はなすべきなり。

中庸「言前定則不跲、事前定則不困」(げんまえにさだまればすなわちつまづかず、ことまえにさだまればすなわちくるしまず)(言葉を発しようとする時に良く思考しておけば躓かず、事をなそうとする時は、まず良く思考しておけば、事に臨んで困ることはない)
論語 顔淵「内省不疚、夫何憂何懼」(うちにかえりみてやましからずんば、それなにをかうれえなにをかおそれん)
尊徳は、この説話で、事業の遂行に際しては、必ず事前に、危機や間違いなどの発生に対応する計画を、備えていかなければならない、と説明している。これを現代の企業経営においては、コンティンジェンシー(Contingency 不測事態)プランと呼ぶ。世の中は、当初予測した通りに進展していくとは限らないものであるから、進行に大きな影響を与えるような事態が発生した時への対応も、計画しておくということであり、まさに、尊徳の提案と同じである。というよりも、既に孔子の時代にもそれが求められていたのであるから、人の英智の素晴らしさを感じると共に、いつになっても同じなのだなと少し落胆を感じる面もなきにしもあらずである。  
58、吉原村某との問答の諭し
駿河国元吉原村某、柏原の沼水を海岸に切り落して、開拓せん事を出願し許可を受く。帰路予が家に一泊し、地図書類を出して、願望成就せり。能き金主はあるまじきやと云えり。予曰く、なし。然りと云えども思ふ処あり。地図を明朝までと云いて留め置きたり。この時翁、予が家に入浴なり。竊(ひそか)に地図を開きて翁に成否を問う。翁曰く、実地にあらざれば、可否は言うべからず。然りといえども、云う処の如く沼浅く、三面畑ならば、畑にても岡にても、便(たより)よき処より切り崩(くず)して埋め立るを勝(まさ)れりとすべし。この水を海に切り落すとも、水思う様に引(ひ)かざるや計り難し。又大風雨の時、砂を巻き潮(うしお)を湛(たた)へまじき物にもあらねば埋め立てるにしかざるべし。これを埋め立てるは愚なるが如しといえども、一反埋れば一反出来、二反埋れば二反出来、間違いもなく跡戻(あともど)りもなく、手違いもなく、見込違いもなし。埋立るを上策とすべし。予又問う、埋立る方法如何。曰く、実地を見ざれば、今別に工風なし。小車にて押すと、牛車にて引くとの二ツなり、車道には仮に板を敷くべし、案外にはかゆく物なり、且つ埋地一反なれば、土を取たる跡も、二畝三畝は出来べし。一反手軽きは何程位、手重きも幾許(いくばく)位なるべし。鍬(くわ)下用捨を少し永く願はゞ、熟田を買うより益多かるべしと、教えらる。予、この事を予が工風にして某に告ぐ。某笑いて答えず。

尊徳は、この説話で、土木工事は、簡単なように見えても、難しい面がある。易しいと見える分だけ、その反動も起こり易いということであるから、備えは十分にしておかなければならない、と教えている。  
59、心の開拓の諭し 
弘化元年八月、その筋より日光神領荒地起返し方申し付ける見込の趣(おもむき)、取調べ仕法書差出すべしと、翁に命ぜらる。予が兄大沢勇助出府し恐悦を翁に申す。予随(したが)えり。翁曰く、我が本願は、人々の心の田の荒蕪(こうぶ)を開拓して、天授の善種、仁義礼智を培養して、善種を收獲し、又蒔(ま)き返し蒔返して、国家に善種を蒔き弘めるにあり。然るにこの度の命令は、土地の荒蕪の開拓なれば、我が本願に違えるは汝が知る所ならずや。然るを遠く来て、この命あるを賀すは何ぞや。本意に背(そむ)きたる命令なれど、命なれば余儀なし。及ばずながら、我が輩も御手伝い致さんと、云わゞ悦ぶべし、然らざれば悦ばず。それ我が道は、人々の心の荒蕪を開くを本意とす。心の荒蕪一人開くる時は、地の荒蕪は何万町あるも憂(うれ)うるにたらざるが故なり。汝が村の如き、汝が兄一人の心の開拓の出来たるのみにて、一村速に一新せり。大学に、明徳を明にするにあり、民を新たにするにあり。至善に止るにありと、明徳を明にするは心の開拓を云う。汝が兄の明徳、少し斗り明になるや直(すぐ)に一村の人民新になれり。徳の流行する、置郵(チユウ)して命を伝えるより速(すみやか)也とはこの事也。帰国せば早く至善に止まるの法を立て父祖の恩に報ぜよ。これ専務の事なり。

大学「大学之道、在明明徳、在親民、在止於至善」(だいがくのみちは、めいとくをあきらかにするにあり、たみをあらたにするにあり、しぜんにとどまるにあり)(たみにしたしむにあり、と読む読み方もある)
「孟子」公孫丑・上「徳之流行、速於置郵而伝命」(とくのりゅうこうは、ちゆうしてめいをつたうるより、すみやかなり)
尊徳は、この説話で、尊徳仕法の方式を日本全国にあまねく広げて、苦境にある多くの農民を救う抱負を披歴している。  
60、芋(いも)の諭し
小田原藩にて報徳仕法の儀は、良法には相違無しといえども、故障の次第有りて、今般畳み置くと云う布達出ず。領民の内、これを憂いて、翁の許(もと)に来り歎く者あり。手作の芋(いも)を持ち来て呈せり。翁諭して曰く、それこの芋の如きは、口腹を養い、必用の美菜なれば、これを弘く植えて、その実法(みの)りを施こさんと願うは尤もなれども、天運冬に向い、雪霜降り、地の氷るを如何せん。強いて植えなば凍(いて)に損じ霜に痛み、種をも失うに至るべし。是非もなき事なり。これ人の口腹を養う徳ある美物なるが故に、寒気雪霜を凌ぐ力なし。食料にもならざる麁物は却って寒気雪霜にも痛まぬ物なり。これ自然の勢い、如何とも仕方なし。今日は寒気雪中なり、早く芋種(いもだね)は土中に埋ずめ、藁(わら)にて囲い、深く納めて、来陽雪霜の消ゆるを待つべし。山谷原野一円、雪降り水氷り寒威烈(はげ)しき時は、もはやこれ切り暖(あたたか)には成らぬかと思う様なれども、雪消え氷解けて、草木の芽ばる時も又必ずあるべし。その時に至りて囲い置きし芋種を取り出し、植る時は忽(たちまち)その種田甫に満ちて、繁茂する疑いなし。かゝる春陽に逢うとも種を納め囲わざれば、植え殖やす事あたはず。それ農事は春陽立ち帰り、草木芽立んとするを見て種を植え、秋風吹(ふ)きすさみ草木枯れ落する時は、未だ雪霜の降らざるに、芋種は土中に埋めて、この処に埋ると云う。心覚(おぼ)えをし、深く隠して来陽を待つべし。道の行るる行れざるは天なり、人力を以て如何とも為し難し。この時に至りては、才智も益なし、弁舌も益なし、勇あるも又益なし、芋種を土中に埋るにしかず。それ小田原の仕法は、先君の命に依りて開き、当君の命に依りて畳む、皆これまでなり。凡そ天地間の万物の生滅する、皆天地の令命による、私に生滅するにはあらず。春風に万物生じ、秋風に枯落する、皆天地の命令なり。豈に私ならんや。曾子死に臨んで、予が手を開け、予が足を開け云々と云えり。予も又然り、予が日記を見よ、予が書翰留を見よ、戦々競々深淵に臨むが如く、薄氷を蹈(ふ)むが如し。畳み置きに成りて予免(まぬか)るゝ事を知る哉と云うべし。汝等早く帰りて芋種を囲い置き、来陽春暖を待て又植え弘むべし。決して心得違いする事なかれ、慎めや慎めや。

論語・泰伯 啓予足、「啓予手、詩云、戦々兢々、如臨深淵、如履薄氷、而今而後、吾知免夫」(わがあしをひらけ、わがてをひらけ、しにいう、せんせんきょうきょうとして、しんえんにのぞむがごとく、はくひょうをふむがごとしと、いまよりしてのち、われそれをまぬがれることをしる) 
尊徳は、この説話で、事業を行なうのにも、芋を育てるのに都合の良い時節があるのと同じで、丁度良い時期というものがある。その時期ではない時には、種芋を土中にうずめて時期を待つように、じっと待つしかない。このような時には騒いではならない、と諭している。 
 

 

61、公明正大の生き方の諭し
下館藩に高木権兵衛と云う人あり。報徳信友講、結社成り、発会投票(いれふだ)の時、その札に、予は不仕合にて借金も家中第一なり、慥(たしかカ)成る事も又第一なり、然りといえども、自分にて自分へは入札為し難し、是に依りて鈴木郡助と書き付けて入れられし事ありき。年を経(ヘ)て、高木氏は家老職となり、鈴木氏は代官役となれり。翁曰く、今日にして、往年入札の事思い当れり。自から藩中第一慥(たしか)成る者と書たるに恥ず、又是に依て鈴木某と書たるにも恥ず、真に意我(いが)なし、無比の人物と云うべし。

宮尊徳は、この説話で、私欲を離れた公明正大の生き方を賛辞して諭している。  
62、書物、評論の理の諭し
翁曰く、大道は譬えば水の如し。善く世の中を潤沢(じゅんたく)して滞(とどこお)らざる物なり。然る尊き大道も、書に筆して書物と為す時は、世の中を潤沢する事なく、世の中の用に立つ事なし。譬えば水の氷りたるが如し。元水には相違なしといえども、少しも潤沢せず、水の用はなさぬなり。而て書物の注釈と云う物は又氷に氷柱(つらら)の下りたるが如く、氷の解(と)けて又氷柱と成しに同じ。世の中を潤沢せず、水の用を為さぬは、やはり同様なり。さてこの氷となりたる経書を、世上の用に立たさんには胸中の温気を以て、能く解(とか)して、元の水として用いざれば世の潤沢にはならず。実に無益の物なり、氷を解すべき温気胸中になくして、氷の儘(まま)にて用いて水の用をなすと思うは愚の至なり。世の中神儒仏の学者有りて世の中の用に立たぬは是が為なり。能く思うべし。故に我が教えは実行を尊む。それ経文と云い経書と云う。その経と云うは元機(はた)の竪(たて)糸の事なり。されば、竪糸ばかりにては用をなさず、横に日々実行を織り込みて初めて用をなす物なり。横に実行を織らず、只竪糸のみにては益なき事、弁を待たずして明らか也。  
63、神道の理の諭し
翁曰く、それ神道は、開闢(かいびゃく)の大道皇国本源の道なり。豊芦原を、この如き瑞穂(みずほ)の国安国と治(おさ)めたまいし大道なり。この開国の道、則ち真の神道なり。我が神道盛んに行れてより後にこそ、儒道も仏道も入り来れるなれ。我が神道開闢(かいびゃく)の道未(いま)だ盛んならざるの前に、儒仏の道の入り来るべき道理あるべからず。我が神道、則ち開闢の大道先ず行われ、十分に事足るに随(したが)いてより後、世上に六かしき事も出来るなり。その時にこそ、儒も入用、仏も入用なれ。これ誠に疑いなき道理なり。譬えば未だ嫁のなき時に夫婦喧嘩あるべからず。未だ子幼少なるに親子喧嘩あるべからず。嫁有りて後に夫婦喧嘩あり、子生長して後に親子喧嘩あるなり。この時に至てこそ、五倫五常も悟道治心も入用となるなれ。然るを世人この道理に暗く、治国治心の道を以て、本元の道とす。これ大なる誤りなり。それ本元の道は開闢の道なる事明なり。予この迷いを醒(さま)さん為に「古道につもる木の葉をかきわけて 天照す神の足跡を見ん」とよめり。能く味うべし。大御神の足跡のある処、真の神道なり。世に神道と云うものは、神主の道にして、神の道にはあらず。甚(はなはだ)しきに至ては、巫祝(ふしく)の輩(ともがら)が、神札を配りて米銭を乞う者をも神道者と云うに至れり。神道と云う物、豈(あに)この如く卑(いやし)き物ならんや。能く思うべし。  
64、九鬼氏所蔵の神道書の諭し 
綾部の城主九鬼侯、御所蔵の神道の書物十巻、これを見よとて翁に送らる。翁暇なきを以て、封を解き玉はざる事二年、翁一日少しく病あり。予をしてこの書を開き、病床にて読ましめらる。翁曰く、この書の如きは皆神に仕える者の道にして、神の道にはあらざるなり。この書の類(たぐい)万巻あるも国家の用をなさず。それ神道と云う物、国家の為、今日上、用なき物ならんや。中庸にも、道は須臾(しばらく)も離るべからず、離るべきは道にあらず、と云えり。世上道を説ける書籍、おおよそこの類なり。この類の書あるも益なく、無きも損なきなり。予が歌に「古道に積る木の葉をかき掻(か)き分けて 天照す神のあし跡を見む」とよめり。古道とは皇国固有の大道を云う。積もる木の葉とは儒仏を始め諸子百家の書籍の多きを云う。それ皇国固有の大道は、今現に存すれども、儒仏諸子百家の書籍の木の葉の為に蓋(おおわ)れて見えぬなれば、これを見んとするには、この木の葉の如き書籍をかき分けて大御神の御足の跡はいづこにあるぞと、尋(たず)ねざれば、真の神道を見る事は出来ざるなり。汝等落ち積もりたる木の葉に目を付けるは、大なる間違いなり。落積りたる木の葉を掻(か)き分け捨て、大道を得る事を勤よ。然らざれば、真の大道は決して得る事はならぬなり。  
65、無利足金貸附の法の諭し 
翁曰く、仏書に、光明遍照(十方世界、念仏衆生(しゅじょう)摂取不捨(ふしゃと云えり。光明とは大陽の光を云い、十方とは東西南北乾(いぬい)坤(ひつじさる)巽(たつみ)艮(うしとら)の八方に、天地を加えて十方と云う也。念仏衆生とは、この大陽の徳を念じ慕(した)う、一切の生物を云う。それ天地間に生育する物、有情(うじょう)蠢動(しゅんどう)の物は勿論、無情の草木と雖(いえども)、皆大陽の徳を慕いて生々を念とす。この念ある物を仏国故に念仏衆生と云う也。神国にては念神衆生と読むべし。故にこの念ある者は洩らさず、生育を遂げさせて捨て玉わずと云う事にて、大陽の大徳を述し物也。則ち我が天照大神の事也。この如く大陽の徳は、広大なりといえども、芽を出さんとする念慮、育たんとする気力なき物は仕方なし。芽を出さんとする念慮、育たんとする生気ある物なれば、皆是を芽だたせ、育たせ給う。これ大陽の大徳なり。
それ我が無利足金貸附の法は、この大陽の徳に象(かたど)りて立たるなり。故に如何なる大借といえども、人情を失わず利足を滞(とどこお)りなく済まし居る者、又是非とも皆済まして他に損失を掛け)じ、と云う念慮ある者は、譬えば、芽を出したい、育ちたいと云う生気ある草木に同じければ、この無利子金を貸して引き立てるべし。無利子の金といえども、人情なく利子も済まさず、元金をも蹈み倒さんとする者は、既に生気なき草木に同じ、いわゆる縁無き衆生なり。之を如何ともすべからず、捨て置くの外に道なきなり。 
 

 

66、色則是空空則是色の諭し 
或る人問いて曰く、仏経に色則是空々則是色といえるは、如何(いか)なる意ぞ。翁曰く、譬えば二一天作の五、二五十と云うに同じ。只その云い様の妙なるのみなり。深意あるが如く聞ゆれども、別に深意あるにあらざるなり。それ天地間の万物、眼に見ゆる物を色といい、眼に見えざる物を空と云えるなり。空といえば何も無きが如く思えども、既に気あり。気あるが故に直(ただち)に色を顕(あらわ)す也。譬えば氷と水との如し。氷は寒気に依て結び暖気に因て解く、水は寒に因て死して氷となり、氷は暖気に因て死して元の水に帰す。生ずれば滅し、滅すれば生ず。然れば、有常も有常にあらず無常も無常にあらず。この道理を色則是空空則是色と説けるなり。  
67、諸悪莫作(まくさ)、衆善奉行の諭し 
翁、僧弁算(べんさん)に問うて曰く、仏一代の説法無量なり、然りといえども、区々の意あるべからず。若し一切経蔵に題せん時は如何。弁算対して曰く、経に、諸悪莫作(まくさ)、衆善奉行と云えり。この二句以て、万巻の一切経を覆(おお)うべし。翁曰く、然り。

「諸悪莫作、衆善奉行」(しょあくまくさ、しゅぜんぶぎょう)各種の経文に見える言葉として有名。色々な悪いことは行わず、多くの良いことを実行すべしという意味。  
68、仏教の極楽世界の諭しの諭し 
翁曰く、仏教に極楽世界の事を説きて、赤色には赤光有り、青色には青光ありと云えり。極楽といえども珍(めず)らしき事あるにあらず。人皆銘々己が家株田畑は、己に作徳あり。己が商売職業は、己に利益あり。己が家屋敷は、己が安宅となり、己が家財は、己が身の用便になり。己が親兄弟は、己が身に親しく、己が妻子は、己が身に楽しく、又田畑は美(うるわ)しく米麦百穀を産出し、山林は繁茂して良材を出す。これを赤色には赤光あり、青色には青光ありというなり。この如くなれば、この土則ち極楽なり。
この極楽を得るの道、各受得たる天禄の分内を守るにあり。若し一度天禄の分度を失わゞ、己が家株田畑己が作徳にならず、己が商売己が職業己が利益にならず。己が安住すべき家屋敷己が安宅にならず、己が家財己が身の用便にならず、己が妻子親族も己に楽しからず、又田畑は荒れて米麦を生ぜず、山林は藤蔦(ふじつた)にまとはれ野火に焼けて材木を出さず。これを赤色には赤光なし、青色には青光なしと云う。苦患これより大なるはなし。則ちいわゆる地獄なり。餓鬼界に落るものは、飢えて喰(くら)はんとすれば食忽(たちまち)に火となり、渇して飲まんとすれば水直(ただち)に火となると云えり。これ則ち人々天より賜わり、父祖より請け伝えたる天禄を利足に取られ賄賂(わいろ)に費(ついや)し、己が衣食の足らざるは、何ぞこれに異ならん。これ苦患の極にあらずや。それ我が仕法は経を読まず念仏も題目も唱えずして、この苦罪を消滅せしめて極楽を得させ、青色をして青色あらしめ、赤色をして赤色あらしむるの大道なり。

「極楽国土有七宝池八功徳水充満其中 …… 池中蓮華大如車輪青色青光黄色黄光赤色赤光白色白光」阿弥陀経 極楽には八功徳水が満ちた七宝池がある。池の中には車輪のような大きな蓮の花が咲いている。その花には、青色には青い光が、黄色い花には黄色い光が、赤い花には赤い光が、白い花には白い光が注いでいる。  
69、一草万理の諭し 
翁曰く、世界万般皆同く一理なり。予一草を以て万理を究(きわ)む。儒書に、その書き始めは一理を言い、中は散じて万事となり、末た復合して一理となる。これを放てば則ち六合に弥(わた)り、これを巻けば退(しりぞ)いて密(みつ)に蔵(かく)る。その味わい窮(きわま)りなし、とあり。今戯(たわむれ)に、一草を以て之を読まん。曰く、この草始は一種なり、蒔けば発して根葉となり、実法(みの)れば合して一種となる。之を蒔き植えれば六合に弥(わた)り、之を蔵(おさむ)れば密に蔵(かく)る。之を食すればその味わい窮(きわま)りなし。又仏語に、本来東西無し、何れの処に南北ある。迷うが故に三界城(がいじょう)、悟るが故に十方空、とあり。又一草を以て之を読まん。曰く、本来根葉なし、何れの処に根葉ある、植えるが故に根葉の草、実法るが故に根葉空し、呵々。  
70、悟道と人道の諭し 
或る人道を論じて条理無し。翁曰く、卿(きみ)が説は悟道と人道と混ず。悟道を以て論ずるか、人道を以て論ずるか、悟道は人道に混ずべからず。如何(いかん)となれば、人道の是とする処は、悟道にいわゆる三界城なり。悟道を主張すれば、人道蔑(べつ)如たり。その相隔(へだつ)るや、天地と雲泥とのごとし。故に先ずその居所(いどころ)を定めて、然して後に論ずべし。居所定らざれば、目のなき秤(はかり)を以て軽重を量(はか)るがごとく、終日弁論するといえども、その当否を知るべからず。それ悟道とは、譬えば当年は違作ならんと、未だ耕(たがや)さゞるの前に観ずるが如きを云う。是を人道に用いて違作なるべき間、耕作を休まんと云うは、人道にあらず。田畑は開拓するとも又荒(あ)るゝは自然の道なりと見るは、悟道なり。而て荒るればとて開拓せざるは、人道にあらず。川附の田地洪水あれば流失すると云う事を平日に見るは、悟道なり。然して耕(たがや)さず肥しせざるは、人道にあらず。それ悟道は只自然の行処を見るのみにして、人道は行当る所まで行くべし。古語に、父母に事る機(ようや)く諌(いさ)む、志の随はざるをみて、敬して違わず、労して恨みず、とあり。これ人道の至極を尽せり。発句にも「いざゝらば雪見にころぶ所まで」と云えり。これ又その心なり。故に予常に曰く、親の看病をして、最早(もはや)覚束(おぼつか)なしなどゝ見るものは、親子の至情を尽すことあたはじ、魂(たましい)去り体(たい)冷(ひ)えて後も、未だ全快あらんかと思う者にあらざれば、尽すと云うべからず。故に悟道と人道とは混合すべからず、悟道は只、自然の行く処を観(じて、然して勤むる処は、人道にあるなり。それ人倫の道とする処は、仏にいわゆる三界城裏(じょうり)の事なり。十方空を唱(となう)る時は、人道は滅すべし。知識を尊み娼妓(しょうぎ)を賎(いや)しむは迷いなり。左はいえども、かくの如く迷わざれば人倫行われず、迷うが故に人倫は立つなり。故に悟道は人倫に益なし。然りといえども、悟道にあらざれば、執着を脱する事能(あた)わず、これ悟道の妙なり。
人倫は譬えば繩を索(な)うが如し。よりのかゝるを以てよしとす。悟道は縷(より)を戻すが如し。故によりを戻すを以て善とす。人倫は家を造るなり。故に丸木を削(けず)りて角とし、曲れるを揉(ため)て直とし、長を伐りて短とし、短を継ぎて長くし、穴を穿(うが)ち溝を掘り、然して家作を為す。これ則ち迷い故三界城内の仕事也。然るを本来なき家なりと破るは悟道なり、破て捨る故に十方空に帰するなり。然りといえども、迷と云悟と云うは、未だ徹底せざる物なり。その本源を極むれば迷い悟りともになし、迷といえば悟と言わざる事を得ず、悟といえば迷と言わざる事を得ず。本来迷悟にて一円なり。譬えば草木の如き、一種よりして、或は根を生じて土中の潤沢をすい、或いは枝葉を発して大虚の空気を吸い、花を開き実を結ぶ。これを種より見ば迷と云うべし。然りといえども、忽(たちまち)秋風に逢えば枯れ果てて本来の種に帰す。種に帰するといえども、又春陽に逢えば忽(たちまち)枝葉花実を発生す。然らば則ち、種となりたるが迷か草となりたるが迷か、草に成りたるが本体か種になりたるが本体か。これに因りて是を観(み)るに、生ずるも生ずるにあらず枯るゝも枯るるに非ず。されば、無常も無常にあらず有常も有常にあらず。皆旋転(せんてん)不止の世界に住する物なればなり。予が歌に「咲けばちりちれば又さく年毎に詠(なが)め尽せぬ花のいろいろ」、一笑すべし。

「事父母幾諌、見志不従、又敬不違、労而不怨」(ふぼにつかうるにはようやくにいさめ、こころざしのしたがわざるをみては、またけいしてたがわず、ろうしてうらみず)(父母の傍に居て、その悪いところが見えた時には、父母を穏やかに諌め、それでも駄目な時にも、更に慎み深くして、逆らわずに心配はするけれども怨みには思わないことだ)論語・里仁 
 

 

71、俗儒問答の諭し 
俗儒あり、翁の愛護を受けて儒学を子弟に教える。一日近村に行きて大飲し酔うて路傍に臥し醜体を極めたり。弟子某氏の子、これを見て、翌日より教えを受けず。儒生憤りて、翁に謂て曰く、予が所行の不善云までにあらずといえども、予が教うる処は聖人の書なり。予が行の不善を見て併(あわ)せて聖人の道を捨るの理あらんや。君説諭して、再び学に就(つ)かしめよ、と乞う。翁曰く、君憤る事なかれ。我譬えを以て是を解(せん、ここに米あり。飯(めし)に炊(かしい)で糞桶(くそおけ)に入れんに、君これを食わんか。それ元清浄なる米飯に疑いなし。只糞桶に入れしのみなり。然るに、人これを食する者なし。これを食するは只犬のみ。君が学文又これにおなじ。元赫(かく)々たる聖人の学なれども、卿が糞桶の口より講説する故に、子弟等聴かざる也。その聴かざるを不理と云うべけんや。それ卿は中国の産と聞けり。誰に頼まれてこの地に来りしぞ、又何の用事ありて来りしや。それ家を出ずして、教を国になすは聖人の道なり。今この処に来りて、予が食客となる。これ何故ぞ、口腹を養うのみならば、農商をなしてたるべし。卿何故に学問をせしや。儒生曰く、我過(あやま)てり。我れ只人に勝む事のみを欲して読書せるなり。我過てりと云いて謝して去れり。  
72 論語曾点(そうてん)の章の諭し
或る人、論語曾点(そうてん)の章を問う。翁曰く、この章は左程に六ヶ敷(しき)訳にはあるまじ。三子の志余り理屈に過ぎたれば、我は点に組せんと、一転したるのみなるべし。三子同く皆、舞雩(ぶう)に風して詠じて帰らん、と云わゞ、孔子又一転して、用を節にして人を愛し、民を使うに時を以てす、とか、言忠信行篤敬などゝ云うなるべし。別に深意あるにはあらず。則ち前言は是に戯(たわぶ)るゝのみの類なるべし。

ここに取り上げられた論語の一節は、先進第十一 二十五である。  論語・先進 「浴乎沂、風乎舞、詠而帰」(きによくし、ぶうにふうして、えいじてかえらん)(沂河でゆあみをし、雨乞いの舞台あたりで風に吹かれ、歌を歌いながら帰る)
論語・学而 「節用而愛人、使民以時」(ようをせっしてひとをあいし、たみをつかうにときをもってす)(費用を節約して国民を大事にし、国民を用いるにも、農繁期を避ける。)
論語・衛霊公 「言忠信、行篤敬、・・」(げんちゅうしん、おこないとくけいなれば、・・)(言葉に真心があり、行いが思いやりに溢れていれば、云々)  
73、仏氏の工夫の諭し 
翁、売卜(ばいぼく)者の看板に日月を画きたるを見て、曰く、彼が看板に日月を画(か)きたると、仏寺にて金箔(ぱく)の仏像を安置すると、同じ思い付きにて、仏は巧みを極め、売卜者は、拙(せつ)を極めたり。それ日は丸く赤く、三日月は細く白し。それをその儘(まま)に画きたるは正直なりといえども愚の至り拙の至りなり。故に尊けなし。然るに仏氏は是を人体に写し、尤も人の尊む処の黄金の光をかりて、その尊きをす。仏氏の工夫の巧妙なる、売卜者の輩(ともがら)の遠く及(ばざる処也。

二宮尊徳は、この説話で、同じものを描いても、頭を使い工夫して描いたほうが、ずっと有難味が出てくる。どうせ描くなら、そのあたりに気配りをした方が良い、と説明している。
対象とする人からの信頼を得るのを促進するために用いるのであれば、それは、まず目立つことが条件となるが、次の段階では、多少誇張されていても良いから、福々しさと上品さを同時に備えているような形と色彩を確保することである。稚拙さと品の無い安っぽさが目立ってしまっては、とても信頼を得るということは難しい。企業の製品造りにおいても同じである。戦争に用いる戦車でさえも、機能一点張りではなく、平時に一般人が見たときに、強そう、とか、機能が充実していそう、と感じさせることも、装備資金の捻出のためには大事な要素であるそうである。  
74、難解(なんげ)の理の諭し 
予、暇を乞うて帰国せんとす。翁曰く、二三男に生るゝ者、他家の相続人となるは、則ち天命なり。その身の天命にて、養家に行き、その養家の身代を多少増殖したく願うは、これ人情にして、誰にも見ゆる常の道理なり。この外に又一ツ見え難き道理あり。他家を相続すべき道理にて、他家へゆく、往く時は、その家に勤むべき業あり、これを勤るは天命通常の事なり。而てその上に、又一段骨を折り、一層心を尽し、養父母を安ずる様、祖父母の気に違わぬ様にと心を用い力を尽す時は、養家に於て気が安まるとか、能く行届くとか、祖父母父母の心に安心の場が出来て養父母の歓心を得る、これ養子たる者の積徳の初めなり。それ親を養うは子たる者の常、頑夫(がんぶ)といえども、野人といえども養はざる者なし。その養う内に、少しも能く父母の安心する様に、気に入る様にと心力を尽す時は、父母安心して百事を任ずるに至る。これその身の、この上もなき徳なり。養子たる者の積徳の報と云うべし。この理凡人には見え難し。これを農業の上に譬えれば、米麦雑穀何にても、肥(こやし)は二度為し、草は三度取るとか、凡そ定りはあれども、その外に一度も多く肥しを持ち、草を去り、一途に作物の栄えのみを願い、作物の為に尽す時は、その培養の為に作物思う儘(まま)に栄えるなり。而して秋熟するに至れば、願はずして、取実俵数多く自ら家を潤(うるお)す事、しらずしらず疑いなきが如し。この理は人々家産を増殖したく思うと同じ道理なれども、心ある者にあらざれば解し難し。これいわゆる難解(なんげ)の理なり。

江戸時代は、武家と農家は、勝手に世帯を増加させることはできなかった。また、家・世帯を持続させられないのは、世帯主の力量がないからであり、人として恥ずかしいという考えがあり、そのことから、家を存続させようとする意思が強く働き、養子を取ってでも相続させようとした。それには、生家では後継ぎとなれない次三男が当てられることが多かった。 しかも、もし、養子に行かなければ、次三男は、生まれた家で、結婚も出来ずに飼い殺しにされてしまうことから、積極的に養子に出ようとしたのであった。
尊徳は、この説話で、養子に入ったときは、その家の身代を少しでも増加させようという気持ちを持つと同時に、実子の跡取よりも、養父母に対して孝養を尽くさなければならない。そうすることで、養父母の心も開かれて、一層の親子関係の充実が吐かれて、結果的によい相続人となれる、と説明している。最近では、家という概念が薄くなってきたことから、養子、婿入りということがそれほど多くは無くなったが、その代わりに、「ますおさん」(漫画サザエさんからそのネーミングが生まれた同居形態。女性の両親と同じ屋敷に同居すること)が多くなっているが、この場合でも、同じような気持ちで同居生活を送れば、問題は少なくなる。  
75、一心決定の諭し 
翁又曰く、茶師利休が歌に「寒熱の地獄に通ふ茶柄杓(びしゃく)も 心なければ苦しみもなし」と云えり。この歌未だ尽さず。如何となれば、その心無心を尊ぶといえども、人は無心なるのみにては国家の用をなさず。それ心とは我心(がしん)の事なり。只我(が)を去りしのみにては、未だ足らず。我を去てその上に一心を決定し、毫末も心を動かさゞるに到らざれば尊むにたらず。故に我(わレ)常に云う。この歌未だ尽さずと。今試みに詠み直さば「茶柄杓の様に心を定めなば湯水の中も苦みはなし」とせば可ならんか。それ人は一心を決定し動かさゞるを尊むなり。それ富貴安逸を好み貧賤勤労を厭(いと)うは凡情の常なり。婿嫁たる者、養家に居るは、夏火宅に居るが如く、冬寒野に出るが如く、又実家に来る時は、夏氷室(ひむろ)に入るが如く、冬火宅に寄るが如き思いなる物なり。この時その身に天命ある事を弁(わきま)え、天命の安んずべき理を悟り、養家は我家なりと決定して、心を動かさざる事、不動尊の像の如く、猛火背を焼くといえども動じと決定し、養家の為に心力を尽す時は、実家へ来らんと欲するともその暇あらざるべし。かくの如く励む時は、心力勤労も苦にはならぬ物なり。これ只我を去ると、一心の覚悟決定(けつじょう)の徹底にあり。それ農夫の、暑寒に田畑を耕やし、風雨に山野を奔走する、車力の車を押し、米搗(つ)きの米を搗くが如き、他の慈眼を以て見る時は、その勤苦云べからず。気の毒の至なりといえども、その身に於ては、兼て決定して、労動に安ずるなれば、苦には思はぬなり。武士の戦場に出で野にふし山にふし、君の馬前に命を捨てるも、一心決定すればこそ出来るなれ。されば人は天命を弁え天命に安んじ、我を去て一心決定して、動かざるを尊しとす。  
 

 

76、恭(うやうやし)くして正しくの諭し
翁又曰く、論語に大舜(しゅん)の政治を論じて、己を恭(うやうやし)くして正しく南面するのみ、とあり。汝、国に帰り温泉宿(ゆやど)を渡世とせば、又己を恭して正しく温泉宿をするのみと読んで、生涯忘るゝ事なかれ。この如くせば利益多からん。かようになさば利徳あらんなどゝ、世の流弊(りゅうへい)に流れて、本業の本理を誤るべからず。己を恭くするとは、己が身の品行を敬(つつし)んで堕(おと)さゞるを云う。その上に又業務の本理を誤らず、正しく温泉宿をするのみ。正しく旅籠屋(はたごや)をするのみと、決定して肝に銘ぜよ。この道理は人々皆同じ。農家は己を恭くして、正しく農業をするのみ、商家は己を恭くして、正しく商法をするのみ。工人は己を恭くして、正しく工事をするのみ。この如くなれば必ず過ちなし。それ南面するのみとは、国政一途に心を傾けて、外事を思はず、外事を為さゞるを云うなり。只南を向きて坐して居る、と云う事にあらず。この理深遠なり。能く々思考して、能く心得よ。身を修るも、家を斉(ととのふ)るも、国を治るも、この一つにあり、忘るゝ事勿れ、怠る事なかれ。

「恭己正南面而巳矣」(おのれをうやうやしくして、ただしくなんめんするのみ)(正しく南を向いているだけである) 論語・衛霊公  
77、中を執(と)れの諭し
山内董正氏の所蔵に、左図の幅あり。翁曰く、この図この説面白しといえども、満の字の説、分明ならず。且つ満を持するの説、又尽さず。論語中庸の語気とは少しく懸隔(けんかく)を覚う、何の書に有りや。門人曰く、願わくは満の字の説、又満を持するの法聞く事を得べしや。翁曰く、それ世の中、何を押えてか満と云はん。百石を満といえば、五百石八百石あり、千石を満といへば五千石七千石あり、万石を満といへば五十万石百万石あり。然れば如何なるを押へて満と定めん。これ世人の惑う処なり。おおよそ書籍に云へる処、皆この如く云う可くして、実際には行ひ難き事のみ。故に予は人に教ふるに、百石の者は五十石、千石の者は五百石、惣てその半にて生活を立て、その半を譲るべしと教える。分限に依てその中とする処、各々異なればなり。これ、允(まこと)にその中を執(と)れ、と云へるに基づけるなり。この如くなれば、各々明白にして迷いなく疑いなし。この如くに教えざれば用を成さぬなり。我が教是を推譲(すいじょう)の道と云う。則ち人道の極なり。ここに中なれば正しと云るに叶へり。而てこの推譲に次第あり、今年の物を来年に譲るも譲なり。則ち貯蓄を云う。子孫に譲るも譲るなり。則ち家産増殖を云う。その他親戚にも朋友にも譲らずばあるべからず、村里にも譲らずばあるべからず、国家にも譲らずばあるべからず。資産ある者は確乎と分度を定め法を立て能く譲るべし。
山内氏蔵幅之縮図    
 孔子観於魯桓公之廟有欹器焉夫子 
 問於守廟者曰此謂何器対曰此蓋為 
 宥坐之器孔子曰吾聞宥坐之器虚則
 欹中則正満則覆明君以為至誠故常
 置之於坐側顧謂弟子曰試注水焉乃
 注之水中則正満則覆夫子喟然歎曰 
 嗚呼夫物悪有満而不覆者哉子路進
 曰敢問持満有道乎子曰聡明睿智守
 之以愚功被天下守之以譲勇力振世
 守之以怯富有四海守之以謙此所謂
 損之又損之之道也 
編者曰く、この語荀子ノ宥坐篇ニ見ヘタレド少ク異ナリ姑ク蔵幅ニ遵フ

論語・尭日「允執其中」(まことにそのちゅうをとれ)
絵の概要:孔子他の人々が居り、その中央に三つの器が下げられている什器が置いてある。器は、上からぶら下がっているのではなく、器の胴の向い合う二方の外側の中ほどより少し下に取りつけられた二本の紐で、両側に立てられた桟に結び付けられて、空中に浮いている。三つの内の一つの器は、口が下を向いていて、中に入っている水が勢い良く下に吐き出されている。添付の言葉によれば、この器は、水が少し入った段階から、中間くらいまで入った段階では重心の位置が、低いので全く安定しているが、一杯に満たされる直前では、重心が紐の取りつけ位置よりも上に移動することから、自動的に口が下を向いてしまって、器の中の水は総て流出する。そして、器の重心は底に移動するので、器は再び正しい姿で安定する。  
78、謾(みだり)に驕倹を論ずる事勿れの諭し
翁又曰く、世人口には、貧富驕倹(きょうけん)を唱えるといえども、何を貧と云い何を富と云い、何を驕と云い何を倹と云う、理を詳(つまびらか)にせず。天下固(もと)より大も限りなし小も限なし。十石を貧と云えば、無禄(ろく)の者あり。十石を富といえば百石のものあり、百石を貧といえば五十石の者あり、百石を富といえば千石万石あり、千石を大と思えば世人小旗本という。万石を大と思えば世人小大名という。然らば、何を認(みとめ)て貧富大小を論ぜん。譬えば売買の如し、物と価(あたい)とを較べてこそ、下直高直を論ずべけれ。物のみにして高下を言べからず、価のみにて又高下を論ずべからざるが如し。これ世人の惑う処なれば、今これを詳に云うべし。曰く、千石の村戸数一百、一戸十石に当る。これ自然の数也。これを貧にあらず富にあらず、大にあらず小にあらず、不偏不倚(い)の中と云うべし。この、この中に足らざるを貧と云い、この中を越(こ)ゆるを富と云う。この十石の家九石にて経営(いとな)むを是を倹という。十一石にて暮すを是を驕奢(きょうしゃ)と云う。故に予常に曰く、中は増減の源、大小兩名の生ずる処なりと。されば貧富は一村一村の石高平均度を以て定め、驕倹は一己一己の分限を以て論ずべし。その分限に依ては、朝夕膏粱(こうりょう)に飽き錦繡(きんしゅう)を纏(まと)うも、玉堂に起臥するも奢(おごり)にあらず。分限に依りては米飯も奢也。茶も烟草(たばこ)も奢也。謾(みだり)に驕倹を論ずる事勿れ。

程子は、「中庸」の「中」とは、「不偏不倚の中」(ふへんふいのちゅう)(依らず偏らない位置、全くの中間にあたると言う意味の中)であるとする。  
79、推譲の諭し 
或る人問う。推譲の論、未だ了解する事能わず。一石の身代の者五斗にて暮し、五斗を譲り、十石の者五石にて暮し、五石を譲るは、行い難かるべし、如何。翁曰く、それ譲は人道なり。今日の物を明日に譲り、今年の物を来年に譲るの道を勤めざるは、人にして人にあらず。十銭取て十銭遣い、廿銭取て廿銭遣い、宵越しの銭を持たぬと云うは、鳥獣(とりけもの)の道にして、人道にあらず。鳥獣には今日の物を明日に譲り、今年の物を来年に譲るの道なし。人は然らず、今日の物を明日に譲り、今年の物を来年に譲り、その上子孫に譲り、他に譲るの道あり。雇人と成りて給金を取り、その半を遣いその半を向来の為に譲り、或は田畑を買い、家を立て、蔵を立るは、子孫へ譲るなり。これ世間知らず知らず人々行う処、則ち譲道なり。されば、一石の者五斗譲るも出来難き事にはあらざるべし。如何(いかん)となれば我が為の譲なればなり。この譲は教えなくして出来安し。これより上の譲は、教に依らざれば出来難し。これより上の譲りとは何ぞ。親戚朋友の為に譲るなり、郷里の為に譲るなり。なお出来難きは、国家の為に譲るなり。この譲も到底、我が富貴を維持せんが為なれども、眼前他に譲るが故に難きなり。家産ある者は勤めて、家法を定めて、推譲を行うべし。
或る人問う。それ譲は富者の道なり。千石の村戸数百戸あり、一戸十石なり。これ貧にあらず富にあらざるの家なれば、譲らざるもその分なり。十一石となれば富者の分に入るが故に、十石五斗を分度と定め、五斗を譲り、廿石の者は同く五石を譲り、三十石の者は十石を譲る事と定めば如何。翁曰く、可なり。されど譲りの道は人道なり、人と生るゝ者、譲りの道なくば有べからざるは、論を待ずといえども、人に寄り家に寄り、老幼多きあり、病人あるあり、厄介あるあれば、毎戸法を立て、厳に行へと云うといえども、行るゝ者にあらず。只富有者に能く教え、有志者に能く勧(すす)めて行わしむべし。而てこの道を勤むる者は、富貴栄誉之に帰し、この道を勤ざる者は、富貴栄誉皆之を去る。少く行えば少く帰し、大に行えば大に帰す。予が言う処必ず違わじ。世の富有者に能く教え度(た)きはこの譲道なり。独富者のみにあらず、又金穀(こく)のみにあらず、道も譲らずばあるべからず、畔も譲らずばあるべからず、言も譲らずばあるべからず、功も譲らずばあるべからず、二三子能く勤めよ。  
80、とどまらざる富貴の戒めの諭し 
翁曰く、世人富貴を求めて止る事を知らざるは、凡俗の通病なり。これを以て、永く富貴を持つ事を能わず。それ止る処とは何ぞや。曰く、日本は日本の人の止る処なり、然らばこの国は、この国の人の止る処、その村はその村の人の止る処なり。されば千石の村も、五百石の村も又同じ、海辺の村山谷の村皆然り、千石の村にして家百戸あれば、一戸十石に当る、これ天命、正に止るべき処なり。然るを先祖の余蔭により百石二百石持ち居るは、有難き事ならずや。然るに止る処を知らず、際限なく田畑を買い集めん事を願うは、尤も浅間(あさま)し。譬えば山の頂(いただき)に登りて猶登らんと欲するが如し。己絶頂に在りて、猶下を見ずして、上而已(のみ)を見るは、危し。それ絶頂に在て下を見る時は、皆眼下なり。眼下の者は、憐れむべく恵むべき道理自らあり。然る天命を有する富者にして猶己を利せん事而已を欲せば、下の者如何ぞ貪らざる事を得んや。若し上下互いに利を争そわば、奪わざれば飽かざるに到らんこと必せり。これ禍(わざわい)の起るべき元因なり、恐るべし。且つ海浜に生れて山林を羨(うらや)み、山家に住して漁業を羨む等、尤も愚なり。海には海の利あり、山には山の利あり、天命に安じてその外を願う事勿れ。

老子 「知足不辱、知止不殆」(たるをしればはずかしめられず、とどまるをしればあやうからず)(満足することを知れば辱めをうけることなく、満足して踏み止まることを知れば、危ない目にあうこともない、欲望を押さえて、十分ということを知れば身も心も安定する。)
大学 「大学之道、(中略)、在止於至善」(だいがくのみちは、しぜんにとどまるにあり)(大学という書物の目的は、最高の善に基づいて実行することである) 
大学 「知止而后有定」(とどまるをしりてのち、さだまるあり)(最高の善にとどまれば、心は穏やかに収まる。)  
 

 

81、分度の諭し
(小田原藩士)矢野定直来りて、「僕今日存じ寄らず、結構の仰せを蒙(こうむ)り有難し」と云えり。翁曰く、卿今の一言を忘れざる事、生涯一日の如くならば、益々貴(とうと)く益々繁栄せん事疑いあらじ。卿が今日の心を以て、分度と定めて土台とし、この土台を蹈み違(たが)えず生涯を終(おは)らば、仁なり忠なり孝なり。その成る処計(はか)るべからず。おおよそ人々事就りて、忽ち過(あやま)つは結構に仰せ付けられたるを、有(あリ)内の事にして、その結構を土台として、踏み行うが故なり。その始の違いこの如し。その末だ千里の違に至る必然なり。人々の身代も又同じ。分限の外に入る物を、分内に入れずして、別に貯(たくわ)え置く時は、臨時物入不慮の入用などに、差し支えると云う事は無き物なり。又売買の道も、分外の利益を分外として、分内に入れざれば、分外の損失は無かるべし。分外の損と云うは、分外の益を分内に入れるればなり。故に我が道は分度を定るを以て大本とするは、これを以てなり。分度一たび定まらば、譲施(じょうせ)の徳功、勤めずして成るべし。卿今日存じ寄らず、結構に仰せ付られ有難しとの一言、生涯忘る事勿れ。これ予が卿の為に懇祈(こんき)する処なり。  
82、重職に居る者への諭し
翁曰く、某藩某氏老臣たる時、予礼譲謙遜を勧(すすむ)れども用いず、後終に退けらる。今や困乏甚くして、今日を凌(しの)ぐ可からず。それ某氏は某藩、衰廃(すいはい)危難の時に当て功あり。而して今この如く窮せり。これ只登用せられたる時に、分限の内にせざる過ちのみ。それ官威盛んに富有自在の時は礼譲謙遜を尽し、官を退いて後は、遊楽驕奢(きょうしゃ)たるも害なし。然る時は一点の誹(そしり)なく、人その官を妬(ねた)まず。進んで勤苦し、退て遊楽するは、昼勤めて夜休息するが如く、進んでは富有に任せて遊楽驕奢に耽り、退て節倹を勤るは、譬えば昼休息して夜勤苦するが如し。進んで遊楽すれば、人誰かこれを浦山ざらん、誰かこれを妬まざらん。それ雲助の重荷を負うは、酒食を恣(ほしいまま)にせんが為なり。遊楽驕奢をなさんが為に、国の重職に居るは、雲助等が為る所に遠からず。重職に居る者、雲助の為る処に同じくして、能く久安を保たんや。退けられたるは当然にして、不幸にはあらざるべし。  
83、忠諫阿諛の諭し
翁又曰く、世に忠諫(かん)と云うもの、おおよそ君の好む処に随(したがい)て甘言を進め、忠言に似せて実は阿諛(あゆ)し、己が寵(ちょう)を取らんが為に君を損(そこ)なう者少からず。主たる者深く察して是を明にせずんば有るぺからず。某藩の老臣某氏曾(かっ)て植木を好んで多く持てり。人あり、某氏に語りて曰く、何某(なにがし)の父植木を好んで、多く植え置きしを、その子漁猟のみを好んで、植木を愛せず、既に抜き取て捨てんとす。予是を惜(お)しんで止たりと、只雑話(ぞうわ)の序(ついで)に語れり。某氏是を聞いて曰く、何某の無情甚いかな。それ樹木の如き植え置くも何の害かあらん。然るを抜て捨るとは如何にも惜き事ならずや。彼捨てば我拾はん。汝宜しく計(はから)えと、終に己が庭に移す。これ何某なりし人、老臣たる人に取り入らん為の謀(はかりごと)にして、某氏その謀計に落し入られたる也。而て某氏何某をして、忠ある者と称し、信ある者と称す。凡そこの如くなれば、節儀の人も、思わず知らず不義に陥るなり。興国安民の法に従事する者恐れざるべけんや。  
84、賄賂の諭し
翁曰く、太古交際の道、互いに信義を通ずるに、心力を尽し、四体を労して、交を結びしなり。如何となれば金銀貨幣少きが故なり。後世金銀の通用盛んに成りて、交際の上、音信贈答皆金銀を用いるより、通信自在にして便利極まれり。これより賄賂(わいろ)と云う事起り、礼を行うと云い、信を通ずると云い、終に賄賂に陥いり、これが為に曲直明かならず、法度正からず、信義廃(すた)れて、賄賂盛んに行われ、百事賄賂にあらざれば弁ぜざるに至る。予始めて、桜町に至る。彼の地の奸民争うて我に賄賂す。予塵芥(じんかい)だも受ず。これより善悪邪正判然として信義貞実の者初めて顕(あらわ)れたり。尤も恐るべきはこの賄賂なり。卿等誓いて、この物に汚(けが)さるゝ事なかれ。

尊徳は、この説話で、賄賂の弊害について、説明している。本来は、心を尽くすための交流、交際であるはずが、心を金銭や物に変えて贈るようになって、心づくしの交際を超えて、相手の歓心を買うことだけを目的にした、多額の金銭や高価な品物を送るようになってしまった。その贈り物が、何らかの奉仕に対する感謝の気持ちであり、贈り物としての社会常識の範囲内であれば、問題はないが、歓心を買おうという気持ちであるから、当然に、社会常識を遥かに超えた贈り物となってくるのである。それが、賄賂である。
尊徳全集の日記を見ても、尊徳が指導している村人が、正月、初午などに多少の贈り物を持って陣屋を訪れているが、それは歓心を買う目的ではなく、普段の指導に対する感謝としての進物であるから、受け取っている。それで良いのである。度を越えた、と思える進物には、必ず裏があると見るべきである。企業の関係においても、飲食代金の肩代わりや、高価な海外旅行パックの贈り物などが、購買部門の人に贈られているケースもある。そこには、当然のこととして、その贈り物の価格を超える何らかの利得が贈り主に与えられているか、今後与えられるのであろう。一家が路頭に迷うことになるかもしれないのであるから、家人は、贈られて喜ぶのではなく、良く気をつけなければならないのである。  
85、中村藩士問答の諭し
伊東発身、斎藤高行、斎藤松蔵、紺野織衛、荒専八等、侍坐す。皆中村藩士なり。翁諭して曰く、草を刈らんと欲する者は、草に相談するに及ばず。己が鎌を能く研(と)ぐべし。髭(ひげ)を剃(そ)らんと欲する者は、髭に相談はいらず、己が剃刀(かみそり)を能く研ぐべし。砥(と)に当りて、刃の付ざる刃物が、仕舞置きて刃の付し例(ためし)なし。古語に教えるに孝を以てするは、天下の人の父たる者を敬する所以(ゆえん)なり。教るに悌を以てするは、天下の人の兄たる者を敬する所以なり、と云えり。教わるに鋸(のこぎり)の目を立てるは、天下の木たる物を伐(き)る所以なり。教るに鎌(かま)の刃を研ぐは、天下の草たる物を刈る所以也。鋸(のこぎり)の目を能く立てれば天下に伐れざる木なく、鎌の刃を能く研げば、天下に刈れざる草なし。故に鋸の目を能く立れば、天下の木は伐れたると一般、鎌の刃を能く研げば、天下の草は刈れたるに同じ。秤(はかり)あれば、天下の物の軽重は知れざる事なく、桝(ます)あれば天下の物の数量は知れざる事なし。故に我が教えの大本、分度を定る事を知らば、天下の荒地は、皆開拓出来たるに同じ。天下の借財は、皆済(かいざい)成りたるに同じ。これ富国の基本なればなり。予、往年貴藩の為に、この基本を確乎と定む。能く守らばその成る処量(はか)るべからず。卿等能く学んで能く勤めよ。

孝経 広至徳章「教以孝所以敬、天下之為人父者也、教以弟所以敬、天下之為人兄者也」(教えるに孝をもってするは、敬をもって天下の為の人を父とするものなり。教えるに弟をもってするは、敬をもって天下の為の人を兄とするものなり)。 
尊徳は、この説話で、努力の対象を間違わぬよう諭している。尊徳の仕法事業にあっては、それは分度の決定であった。分度が決定していなければ、基がぐらつくわけであるから、末端でどれだけ頑張ってみても成功には到達しない。烏山藩の仕法が、良いところまで進みながら瓦解してしまったのも、分度が決まらなかったことによった。それを招いたのも、仕法の責任者であった家老の菅谷八郎衛門が、最後の決断をわが身に代えてでもという強い意思で、藩主達に迫らなかったからであった。決断をしなければならない時には、責任者はわが身に代えてでもという意志を持ってトップに相対することが必要である。葉隠れ武士道の「武士道とは、死ぬことと見つけたり」の意味に通ずる。 
 

 

86、富貴天にありの理の諭し
翁又曰く、ここに物あり。売らんと思う時は飾らざるを得ず。譬えば芋大根の如きも、売らんと欲すれば、根を洗い枯葉を去り、田甫にある時とはその様(さま)を異にす。これ是売らんと欲する故なり。卿等この道を学ぶとも、この道を以て、世に用いられ、立身せんと思う事なかれ。世に用いられん事を願い、立身出世を願う時は、本意に違(たが)い本体を失うに至り。それが為に愆(あやま)つ者既に数名あり。卿等が知る所なり。只能くこの道を学び得て、自ら能く勤めれば、富貴は天より来るなり。決して他に求る事勿れ、偖(さて)古語に富貴天にありと云えるを、誤解して、寝て居ても富貴が天より来る物と思う者あり。大なる心得違いなり。富貴天に有りとは、己が所行天理に叶う時は、求ずして富貴の来るを云うなり。誤解する事勿れ。天理に叶うとは、一刻も間断なく、天道の循環するが如く、日月の運動するが如く勤めて息(やま)ざるを云うなり。

「死生有命 富貴在天」(しせいめいあり、ふうきてんにあり)(生死には定めがあり、富貴は天にあるので人の意のままにはならない) 論語 顔淵  
87、天地の経文聞き分けの諭し
翁曰く、それ世の中に道を説たる書物、算(かぞ)ふるに暇(いとま)あらずといえども、一として癖(へき)なくして全(まった)きはあらざる也。如何となれば、釈迦も孔子も皆人なるが故也。経書と云い、経文と云うも、皆人の書たる物なればなり。故に予は不書の経、則ち物言わずして四時行われ百物なる処の、天地の経文に引き当て、違(たが)いなき物を取て、違(たが)えるは取らず。故に予が説く処は決して違わず、それ燈皿(とうがい)に油あらば、火は消えざる物としれ。火消えば油尽きたりと知れ。大海に水あらば、地球も日輪も変動なしと知れ。万一大海の水尽る事あらば、世界はそれまでなり。地球も日輪も散乱すべし。その時までは決して違いなき我が大道なり。それ我が道は、天地を以て経文とすれば、日輪に光明ある内は行われざる事なく、違う事なき大道なり。

尊徳は、この説話で、人が書いた書物は、必ず何処かで主観が入り、何らかの片寄りが出てくる。そのような主観が混じった書物に頼るよりは、永遠に変わることのない、天然自然の原理、定理に焦点を合わせて、そこから人としての生き方を探るほうが、正しいことを見つけ出しやすいので、皆もそのようにするように、と教えている。  
88、家船の諭し
翁曰く、家屋の事を、俗に家船(やふね)又は家台船(やたいぶね)と云う、面白き俗言なり。家をば実に船と心得べし。これを船とする時は、主人は船頭なり、一家の者は皆乗合(のりあい)いなり、世の中は大海なり。然る時は、この家船に事あるも、又世の大海に事あるも、皆遁(のが)れざる事にして、船頭は勿論、この船に乗り合たる者は、一心協力この屋船を維持すべし。さてこの屋船を維持するは、楫(かじ)の取り様と、船に穴のあかぬ様にするとの二つが専務なり。この二ツによく気を付れば、家船の維持)疑いなし。然るに楫の取り様にも心を用いず、家船の底に穴があきても、これを塞(ふさが)んともせず、主人は働かずして酒を呑み、妻は遊芸(ゆうげい)を楽しみ、悴(せがれ)は碁将棋に耽(ふけ)り、二男は詩を作り歌を読み、安閑として歳月を送り、終に家船をして沈没するに至らしむ。歎息の至りならずや。たとえ大穴ならずとも、少しにても穴があきたらば、速に乗合一同力を尽して穴を塞ぎ、朝夕ともに穴のあかざる様に、能く々心を用いるべし。これこの乗合の者の肝要の事なり。然るに既に大穴明きてなお、これを塞んともせず、各々己が心の儘(まま)に安閑と暮らし居て、誰か塞いでくれそうな物だと待て居て済むべきや。助け船をのみ頼みにして居て済むべきや。船中の乗合い一同、身命をも抛(なげうっ)て働かずば、あるべからざる時なるをや。

この話から、類推すると、いま我々が「屋台骨」(やたいぼね)と言っているのは間違いで、「家台船」(やたいぶね)が正しいのではなかろうか。なぜならば、「屋台骨が揺らぐ」と言うより「家台船」が揺らぐの方が意味がまともに通ってくるからである。  
89、願うものを暫し耐えるの諭し
某村に貧人の若者あり。困窮甚しといえども、心掛け宜し。曰く、我が貧窮は宿世の因なるべし、これ余儀なき事なり、何卒して、田禄(ろく)を復古し、老父母を安ぜんと云うて、昼夜農事を勉強せり。或る人両親の意なりとて、嫁を迎えん事を勧(すす)む。某曰く、予至愚且無能無芸、金を得るの方を知らず、只農業を勉強するのみ。仍て考うるに、只妻(つま)を持つ事を遅くするの外、他に良策無しと決定せりと云いて固辞す。翁これを聞て曰く、善哉(よいかな)その志や。事を為さんと欲する者は勿論、一芸に志す者といえども、是を良策とすべし。如何となれば人の生涯は限りあり、年月は延(のば)す可らず。しからば妻を持つを遅くするの外、益を得るの策はあらざるべし。誠に善き志なり、神君の遺訓にも、己が好む処を避けて、嫌う処を専ら勤むべし、とあり。我が道は尤もこの如き者を賞すべし。等閑(なおざり)に置く可からず。世話掛たる者心得あるべし。それ世の中好む事を先にすれば、嫌う処忽(たちまち)に来る、嫌う処を先にすれば、好む処求めずして来る、盗(ぬすみ)をなせば追手が来り、物を買えば代銀を取りに来る、金を借用すれば返済の期が来り、返さゞれば差紙が来る。これ眼前の事なり。  
90、あやまち改めるの諭し
門人某、過(あやまち)て改る事あたわざるの癖あり。且つ多弁にして常に過を飾る。翁諭して曰く、人誰か過ちなからざらん、過ちと知らば、己に反求(はんきゅう)して速(すみやか)に改る、これ道なり。過ちて改めずして、その過ちを飾り且つ押し張るは、知に似たり勇に似たりといえども実は智にあらず勇にあらず。汝は之を知勇と思えども、これはこれ愚か且つ不遜というものにして、君子の悪む処なり。能く改めよ。且つ(若年の時は言行共に能く心を付くべし。嗚呼馬鹿な事を為したり、為なければよかりし、言なければよかりし、と云う様なる事のなき様に心掛くべし。この事なければ富貴その中にあり。戯(たわむれ)にも偽を云う事勿れ。偽言より大害を引き起し、一言の過ちより、大過を引出す事、往々あり。故に古人禍(わざわい)は口より出づと云えり。人を誹(そし)り人を云い落すは不徳なり。たとえ誹りて至当の人物なりとも、人を誹るは宜しからず。人の過を顕(あらわ)すは悪事なり。虚を実に云いなし、鷺(サギ)を烏(カラス)と云い、針程の事を棒程に云うは大悪なり。人を褒(ほむ)るは善なれども、褒(ほめ)過すは直道にあらず。己が善を人に誇り、我が長を人に説くは尤も悪し。人の忌み嫌う事は必ず云う事勿れ。自から禍ちの種子を植えるなり、慎しむべし。

論語 衛霊公 「過而不改、是謂過矣」(あやまちてあらためざる、これをあやまちという)
論語 学而 「巧言令色、鮮矣仁」(こうげんれいしょく、すくなしじん)((指導者で)ことばが巧みで顔が良い(表情をとりつくろっている)人には、(指導者として保有していなければならない、大切な)仁の心が欠けているものだ。) 
論語 衛霊公 「巧言乱徳」(こうげんはとくをみだす)(指導者が、言葉上手であることは、世の中の善意を乱すことになる) 
 

 

91、無活用物の活用の諭し
翁の歌に「むかしより人の捨てざるなき物を 拾(ひろ)ひ集めて民に与へん」とあるを、山内董正氏見て、これは人の捨てたると云うべしと云えり。翁曰く、然る時は人捨てざれば拾う事あたわず。甚だ狭(し。且つ捨てたるを拾うは僧侶の道にして、我が道にあらず。古歌に「世の人に欲を捨よと勧(すす)めつゝ 跡(あと)より拾う寺の住職」と云えり。呵々。董正氏曰く、捨てざる無き物とは如何。翁曰く、世の中人の捨てざる物にして無き物至って多し。挙げて数う可からず。第一に荒地、第二に借金の雑費と暇潰し、第三に富人の驕奢(きょうしゃ)、第四に貧人の怠惰等なり。それ荒地の如きは、捨てたる物の如くなれども、開かんとする時は、必ず持主ありて容易に手を付くべからず。これ無き物にして捨てたる物にあらず。又借金の利息借替成替の雑費、又同じ類なり。捨るにあらずして、又無き物なり。そのほか富者の驕奢の費(ついえ)、貧者の怠惰の費、皆同じ。世の中この如く、捨るにあらずして廃(すた)れて、無に属するもの幾等(いくら)もあるべし。能く拾い集めて、国家を興す資本とせば、普(あまね)く済(すく)ふて、猶余りあらん。人の捨ざる無き物を拾い集めるは、我れ幼年より勤める処の道にして、今日に至る所以なり。則ち我が仕法金の本根なり。能く心を用いて拾い集めて世を救うべし。

二宮尊徳は、この説話で、世の中には、捨ててはいないが、あきらめかけて、放ったままにしてある物事が沢山ある。これを「捨てざるなきもの」と呼ぶ。このようなものに出会ったならば、勿体無いから拾い集めて、社会の役に立つように活用するのが、指導者である、と教えている。世の中には、あきらめかけられたり、忘れられたりして、半分捨てられたような形で据え置かれているものが多数あるはずである。大いに拾い集めて、表に出して欲しいものである。  
92、 荒蕪(こうぶ)活用の諭し
翁曰く、我道は、荒蕪(こうぶ)を開くを以て勤めとす。而て荒蕪に数種あり。田畑実に荒れたるの荒地あり。又借財嵩(かさ)みて、家禄を利足の為に取られ、禄ありて益なきに至るあり。これ国に取りて生地にして、本人に取りて荒地なり。又薄(はく)地麁(そ)田、年貢高く掛(かか)り丈(だケ)の取実のみにして、作益なき田地あり。これ上の為に生地にして、下の為に荒地なり。又資産あり金力ありて、国家の為をなさず、徒(いたずら)に驕奢(きょうしゃ)に耽り、財産を費(ついや)すあり。国家に取りて尤も大なる荒蕪なり。又智あり才ありて、学問もせず、国家の為も思わず、琴棋書画などを弄して、生涯を送るあり。世の中の為尤も惜しむべき荒蕪なり。又身体強壮にして、業を勤めず、怠惰博奕(ばくえき)に日を送るあり。これ又自他の為に荒蕪なり。この数種の荒蕪の内、心田荒蕪の損、国家の為に大なり。次に田畑山林の荒蕪なり、皆勤て起さずばあるべからず。この数種の荒蕪を起して、悉(ことごと)く国家の為に供するを以て、我が道の勤めとす。「むかしより人の捨ざる無き物を 拾集めて民にあたへん」、これ予が志なり。  
93、孝弟の至りの諭し
翁曰く、孝経(こうきょう)に、孝弟の至りは神明に通じ、四海に光り曁(およ)ばざる処なし、又東より西より、南より北より、思て服せざる事なしと。この語俗儒(ぞくじゅ)の説何の事とも解し難し。今解し易く引下して云はゞ、それ孝は、親恩に報うの勤なり。弟は、兄の恩に報うの勤めなり。凡て世の中は、恩の報わずばあるべからざるの道理を能く弁知すれば、百事心の儘(まま)なる者なり。恩に報うとは、借りたる物には利を添えて返して礼を云い、世話に成りた人には能く謝儀(しゃぎ)をし、買い物の代をば速に払い、日雇賃をば日々払い、総て恩を受けたる事を、能く考へて能く報う時は、世界の物は、実に我が物の如く何事も欲する通り、思う通りになる。ここにに到りて、神明に通じ、四海に光り、西より東より、南より北より、思として服せざる事なしとなるなり。然るに、ある歌に「三度たく飯さへこはしやはらかし 思ふまゝにはならぬ世の中」と云えり。甚だ違(たが)えり。これ勤むる事も知らず働く事もせず、人の飯を貰うて食う者などの詠(よ)めるなるべし。それこの世の中は前に云えるが如く、恩に報う事を厚く心得れば、何事も思うまゝなる物なり。然るを思ふ儘にならぬと云うは、代を払わずして品を求め、蒔かずして米を取らんと欲すればなり。この歌初句を「おのがたく」と直して、我が身の事にせば可ならんか。

「孝弟之至、通於神明、光於四海、亡所不曁、詩云、自東自西、自南自北、亡思不服」(こうていのいたりは、しんめいにつうじ、しかいにみち、およばざるところなし、しにいう、ひがしよりにしより、みなみよりきたより、おもいてふくせざるなしと) 孝経 応感章  
94、下流の諭し
翁曰く、子貢曰く、紂(ちゅう)の不善この如く甚しからず。これを以て君子は下流に居るを悪(にく)む。天下の悪(あく)皆帰すとあり。下流に居るとは、心の下れる者と共に居るを云う。それ紂王も天子の友とすべき者、則ち上流の人をのみ友となし居らば、国を失い悪名を得る事も有るまじきに、婦女子佞悪(ねいあく)者のみを友となしたる故に、国亡びて悪これに帰したり。只紂王のみ然るにあらず。人々皆然り、常に太鼓持や、三味線引などとのみ交り居らば、忽ち滅亡に至るは必定。それも御尤これも御尤と、錆付(さびつく)者のみと交わらば、正宗の名刀といえども腐(くさ)れて用立ざるに至らん。子貢はさすが聖門(せいもん)の高弟なり。紂の不善この如く甚しからずと云い、これを以て君子は下流に居る事を悪むと教えたり。必ず紂が不善も、後世伝えるが如く甚しきにはあらざるなるべし。汝等(なんじら)自ら戒めて下流に居る事なかれ。

「子貢日、紂之不善也、不如是之甚也、是以君子悪居下流、天下之悪皆帰焉」(しこういわく、ちゅうのふぜんや、かくのごとくこれはなはだしからざるなり。これをもってくんしはかりゅうにいることをにくむ。てんかのあく、みなこれにきす。) 論語 子張 
紂王 殷王朝最後の王であり、酒色を好む暴君として悪名高く、そのために殷王朝が滅んだといわれる。  
95、仁政の諭し
翁曰く、堯(ぎょう)仁を以て天下を治む。民歌いて曰く、井を掘て以て飲み、田を耕して以て喰う。帝の力何ぞ我に有らんやと。これ堯の堯たる所以にして、仁政天下に及んで跡(あと)なきが故なり。子産の如きに至ては、孔子、恵人と云えり。 
 

 

96、孔子の知らずの理の諭し
翁曰く、論語に、孔子に問う時、孔子知らずと答える事しばしばあり。これは知らざるにあらず、教えるべき場合にあらざると、教えるも益なき時となり。今日金持の家に借用を云込(こむ)に、先方にて折悪く金員なしと云うに同じ場合なり。知らずと云うに大なる味わい。能く味いてその意を解すべし。

「知らない」と答えている例 公治長八「孟武伯問、子路仁乎、子曰、不知也」。  
97、理外の理の諭し
翁曰く、哀公問う、年饑(うえ)て用足らず是を如何。有若答えて曰く、何ぞ徹せざるやと。これ面白き道理なり。予常に人を諭す、一日十銭取て足らずんば九銭取るべし、九銭取て足らずんば八銭取るべしと。それ人の身代は多く取れば益々不足を生じ、少く取りても不足なき物なり。これ理外の理なり。

「哀公、問於有若曰、年饑用不足、如之何、有若対曰、盍徹乎。・・」(あいこう、ゆうじゃくにといていわく、としうえてようたらず、これをいかん、ゆうじゃくこたえていわく、なんぞてっせざるや)(哀公が有若に凶作で税収が足りないが、どうしたらよいだろうか。と尋ねた。有若は、いっそ徹(一割の税)にしては、と税の引き下げを提案した)論語 顔淵
「理外の理」 一般的な道理では判断できないような状態にあることを「理外」という。その状態での道理のことであるから、一般的な道理では判断できないような不思議な理屈、という意味になる。  
98、聖人の学の諭し
翁曰く、君子は、食飽かん事を求る事なく、居安からん事を求る事なし。仕事は骨を折り、無益の言は云わず。その上に有道に就(つい)て正す。余程(よほど)誉(ほむ)るならんと思いしに、学を好むと云うべきのみとあり。聖人の学は厳なる物なり。今日の上にいわゞ、酒は呑ず仕事は稼ぎ、無益の事は為さず、これ通常の人なりと云えるが如し。

「君子食無求飽、居無安、敏於事而慎於言、就有道而正焉、可謂好学也己矣」(くんしは、しょくあかんことをもとめることなく、きょやすからんことをもとめることなし、ことにびんにしてげんにつつしみ、ゆうどうにつきてただす、がくをこのむというべきのみ)(君子は、腹いっぱいに食べることは求めず、家に安らぎのあることを求めはしない、仕事には良く努め、言葉は慎み深くして、道を修めた人に就いて自分を正す、まさにその人は、学を好む人だというべきであろう。) 論語 学而  
99、大極無極の理の諭し
翁曰く、儒に大極無極の論あれど、思慮の及ぶを大極と云い、思慮の及ばざるを無極と云えるのみ。思慮及ずとて無と云うべからず。遠海波なし遠山木なしと云えど無きにあらず。我が眼力の及ばざるなり。これに同じ。  
100、思慮の理の諭し
翁曰く、大学に、安じて而て后(のち)能く慮(おもんばか)り、慮りて而て后能く得(う)とあり。真(まこと)に然るべし。世人は大体苦し紛(まぎ)れに、種々の事を思ひ謀(はか)る故に皆成らざるなり。安じて而て后に能く慮りて事を為さば、過(あやまち)なかるべし。而て后に能く得ると云える、真に妙なり。

「安而后能慮、慮而后能得」(やすんじてしこうしてのちによくおもんばかり、おもんばかりてしこうしてのち、よくうる)(心を平穏にした後であれば、じっくりと思いをめぐらせ(考え)ることができ、よく考えた後にこそ良い案が生み出せる) 大學 
 

 

101、道徳の本理の諭し
翁曰く、才智勝(すぐ)れたる者は、おおよそ道徳に遠きものなり。文学あれば(深く書物を読み解く学問をした人は)申韓(しんかん)を唱え(中国の戦国時代の韓非子や申不害の刑学、その法の説を話し)、文学なければ三国志、太閤記を引く。論語中庸などには一言も及ばざる物なり。如何となれば、道徳の本理は才智にては解せぬものなればなるべし。この流の人は必ず行い安き中庸を難(かた)しと為(す)るものなり。中庸に、賢者は之に過ぐとあり。うべなり、凡そ世人は、太閤記、三国誌等の俗書を好めども、甚だ宜しからず。さらでだに争気(そうき)盛んに、偽心(ぎしん)萌(きざ)し初(そめ)る若輩の者に、かゝる書を読ましむるは悪し。世人太閤記三国誌等を能く読めば怜利になるなどゝ云うは誤りなり。心すべし。

中庸 「賢者過之」(けんじゃは、これにすぐ)(すぐれた者は、中庸を超えて過ぎるという誤りを犯しがちである。)
尊徳がここで三国志と言っているのは「通俗三国志」のことである。これは、「三国志」を基にして小説風に仕立てた「三国志演義」を翻訳した書物で活劇風に記されている。尊徳は、その「通俗三国志」や太閤記を読むことを全く否定しているのではなく、それらを読む前に、その基本的な思想を解説した論語や中庸などを読んで、心構えや信念、あるいは構想力などを高めて置くべきである、と主張している。  
101、修行の理の諭し
翁曰く、仏者も釈迦が有難く思われ、儒者も孔子が尊く見ゆる内は、能く修行すべし。その地位に至る時は、国家を利益し、世を救うの外に道なく、世の中に益ある事を勤めるの外に道なし。譬えば山に登るが如し。山の高く見ゆる内は勤めて登るべし、登り詰めれば外に高き山なく、四方共に眼下なるが如し。この場に至りて、仰ぎて弥々高きは只天のみなり。ここまで登るを修行と云う。天の外に高き物ありと見ゆる内は勤めて登るべし学ぶべし。  
103、先んずる理の諭し
翁曰く、何程勉強すといえども、何程倹約すといえども、歳暮に差し支える時は、勉強も勉強にあらず、倹約も倹約にあらず。それ先んずれば人を制し、後(おく)るれば人に制せらるという事あり。倹約も先んぜざれば用をなさず、後る時は無益なり。世の人この理に暗し。譬えば千円の身代、九百円に減ると、先ず一年は他借を以て暮す。故に又八百円に減るなり。この時初めて倹約して九百円にて暮す故に又七百円に減る。又改革をして八百円にて暮す。年々この如くなる故、労して功なく、終(つい)に滅亡に陥るなり。この時に至って、我れ不運なりなどゝ云う。不運なるにあらず、後るゝが故に借金に制せられしなり。只この一挙、先んずると後るゝとの違いにあり。千円の身代にて九百円に減らば、速にに八百円に引き去りて暮しを立つべし。八百円に減らば七百円に引き去るべし。これを先んずると云うなり。譬えば難治(なんじ)の腫物(はれもの)の出来たる時は、手にても足にても断然切りて捨つるが如し。姑息に流れ因循(いんじゅん)する時は、終(つい)に死に至り悔いて及ばざるに至る、恐るべし。  
104、国家の盛衰存亡の理の諭し
翁曰く、国家の盛衰存亡は、各々利を争うの甚(はなはだ)しきにあり。富者は足る事をしらず、世を救う心なく、有るが上にも願い求めて、己が勝手のみを工夫し、天恩も知らず国恩も思はず。貧者は又何をかして、己を利せんと思えども、工夫あらざれば、村費(そんぴ)の納む可きを滞(とどこお)り、作徳の出すべきを出さず、借りたる者を返さず、貧富共に義を忘れ、願いても祈りても出来難(がた)き工夫(くふう)のみをして、利を争い、その見込の外れたる時は身代限りと云い、大河のうき瀬に沈むなり。この大河も覚悟して入る時は、溺(おぼ)れ死するまでの事はなき故、又浮(うか)み出る事も向うの岸へ泳ぎ付く事も、あるなれども、覚悟なくして、この川に陥る者は、再浮(うか)み出る事出来ず、身を終るなり。愍(あわれ)む可し。我が教えは世上かゝる悪弊を除(のぞ)きて、安楽の地を得せしむるを勤めとす。  
105、天下国家、真の利益の諭し
翁曰く、天下国家、真の利益と云うものは、尤も利の少き処にある物なり。利の多きは、必ず真利にあらず。家の為土地の為に、利を興さんと思う時は、能く思慮を尽すべし。 
 

 

106、農工商の大道の諭し
翁曰く、財宝を産み出して、利を得るは農工なり。財宝を運転して、利を得るは商人なり。財宝を産出し、運転する農工商の大道を、勤めずして而て、富有を願うは、譬えば水門を閉じて、分水を争うが如し。智者のする処にあらざるなり。然るに世間智者と呼ばるゝ者のする処を見るに、農工商を勤めずして、只小智猾(かつ)才を振うて、財宝を得んと欲する者多し。誤まれりと云うべし、迷えりと云うべし。  
107、堅き身代の諭し
翁曰く、千円の資本にて、千円の商法をなす時は、他より見て危うき身代と云うなり。千円の身代にて八百円の商法をする時は、他より見て小なれど堅き身代と云う。この堅き身代と云はるゝ処に味わいあり益あるなり。然るを世間百円の元手にて弐百円の商法をするを働きき者と云へり。大なる誤謬(ごびゅう)と云うべし。  
108、常人の願いの非の諭し
翁曰く、常人の情願(じょうがん)は、固(もと)より遂(と)ぐべからず。願いても叶(かな)はざる事を願えばなり。常人は皆金銭の少きを憂いて、只多からん事を願う。若し金銭をして、人々願う処の如く多からしめば、何ぞ砂石と異(ことな)らんや。かくの如く金銭多くば、草鞋(わらじ)一足の代、銭一把(は)、旅泊一夜の代、銭一背負(せおい)なるべし。金銭の多きに過ぐるは、不弁利(フベンリ)の到りと云うべし。常人の願望は、かくの如き事多し。願いても叶わず、叶うても益なき事なり。世の中は金銭の少きこそ面白けれ。  
109、不止不転循環の理の諭し
翁曰く、仏説面白し、今近く譬えを取て云わゞ、豆の前世は草なり、草の前世は豆なり、と云うが如し。故に豆粒に向えば、汝は元草の化身なるぞ、疑わしく思わゞ、汝が過去を説いて聞せん、汝が前世は草にして、某の国某の村某が畑に生れて、雨風を凌ぎ炎暑を厭い草に覆(おお)われ、兄弟を間(ま)引きされ、辛苦患難を経て、豆粒となりたる汝なるぞ。この畑主の大恩を忘れず、又この草の恩を能く思いて、早くこの豆粒の世を捨て元の草となり、繁茂せん事を願え。この豆粒の世は仮の宿りぞ、未来の草の世こそ大事なれと云うが如し。又草に向えば汝が前世は種なるぞ、この種の大恩に依て、今草と生れ、枝を発し葉を出し肥を吸い露を受け、花を開くに至れり。この恩を忘れず、早く未来の種を願え。この世は苦の世界にして、風雨寒暑の患(うれい)あり。早く未来の種となり、風雨寒暑を知らず、水火の患もなき土蔵の中に、住する身となれと云うが如し。予、仏道を知らずといえども、おおよそこの如くなるべし。而て世界の百草、種になれば生ずる萌(きざ)しあり、生れば育つ萌しあり。育てば花咲く萌しあり、花さけば実を結ぶ萌しあり、実を結べば落る萌しあり、落れば又生ずる萌しあり。これを不止不転循環の理と云う。  
110、一休の歌問答の諭し
宮原瀛洲(えいしゅう)、問いて曰く、一休の歌に「坐禅する祖師の姿は加茂川に ころび流るゝ瓜か茄子か」とあり、歌の意如何。翁曰く、これは盆祭済みて精霊棚(しょうりょうだな)を川に流すを見てよめるなるべし。歌の意は、坐禅する僧を嘲(あざけ)るに似たれども、実は大に誉(ほめ)たるなり。瓜(うり)茄子(なす)の川に流れゆくを見よ、石に当り岩に触れても、障(さわ)りなく痛みなく、沈むといえども、忽ち浮かみ出で沈む事なし。これを如何なる世の変遷に遭遇するも、仏者の障りなく滞(とどこお)りなきを誉て、世上の人の、世変の為に浮瀬に沈むを賤しめ。且つこの世のみならず、来世の事をも含ませたるなるべし。それ鎌倉を見よ、源家も亡び、北条も上杉も亡びて、今跡形(あとかた)もなけれど、その代に建立せる建長、円覚、光明の諸寺は、現に今存在せり。則ちこの意なり、仏は元より世外の物なるが故に、世の海の風波には浮沈せずと云う道理をよめる歌にして別の意あるにはあらざるべし。

宮原瀛洲(みやはら えいしゅう、三浦・浦賀の豪商) 大磯宿の川崎屋孫衛門の遠縁に当たることから、知己を得、尊徳の教えと支援を受けて、事業を立て直した。 
 

 

111、暴風雨の諭し
翁曰く、天に暴風雨あり。これを防がんが為に四壁(へき)に大木を植え、水勢(せい)の向ふ堤(つつみ)には、牛枠(わく)に蛇籠(じゃかご)を設け、海岸に家あれば、乱杭(らんぐいに柵を掛(か)く。これ皆平日は無用の物なれども、暴風雨あらん時の為に、費用を惜しまずして修理するなり。それ天地にのみ暴風雨あるにあらず、往年大磯駅、その他所々に起りし暴徒乱民は、則ち土地の暴風雨なり。この暴風雨は必ずその地の大家に強く当る事、大木に風の強く当るが如し。地方豪家と呼ばるゝ者、この暴徒の防ぎを為さゞるは危うからずや。瀛洲(えいしゅう)問いて曰く、この予防の法方如何。翁曰く、平日心掛けて米金を蓄わえ、非常災害あらんとする時、これを施与するの外、道なし。敢(あ)えて問う、この予防に備ふる金員、その家の分限に依るといえども、おおよそ何程位備へて相当なるべきや。翁曰く、その家々に取りて第一等の親類一軒の交際費丈(だけ)を、年々この予防の為と、別途にして米麦稗(ひえ)粟(あわ)等を蓄わえ置いて、慈善の心を表わさば必ず免るべし。然りといえども、これはこれ暴徒の予防のみ、慈善に非ず。譬えば雨天の時、傘(からかさ)をさし蓑(みの)を着るに同じ。只ぬれざらんが為のみ。

「牛枠」(うしわく)河川の水防用に設けられた木材や竹の枠組 その中に石を詰める。
「蛇籠」(じゃかご)河川の水防用に、竹や鉄線で円筒形に長く編んだ駕篭 その中に栗石(大きめの玉石)や砕石を詰めて、水流の方向等の調整用に、流れの中や河原と流れの境界辺りに設置する。
「乱杭」(らんぐい) 河川や海岸の治水のために、水中や河原、海岸などに、特に規則性を持たせずに多数打ち込んだ杭杭の間に、木材を置いて柵としたりする。  
112、暴風に倒れし松の諭し
翁曰く、暴風に倒れし松は、雨露(ウロ)入にて既に倒れんと為る処の木なり。大風に破れし籬(まがき)も、杭(くい)朽繩(くちなわ)腐(くさ)れて、将(まさ)に破れんとする処の籬なり。それ風は平等均一に吹く物にして、松を倒さんと殊更(ことさら)に吹くにあらず。籬(マガキ)を破らんと分て吹くに非らねば、風なくとも倒るべきを、風を待て倒れ破れたるなり。天下の事皆然り。鎌倉の滅亡も、室町の亡滅も、人の家の滅却も皆同じ。  
113、不止不転の理、循環の理の諭し
翁曰く、それこの世界咲花は必ず散る。散るといへども又来る春は必ず花さく。春生ずる草は必ず秋風に枯る。枯るといへども又春風に逢(ア)ヘば必ず生ず。万物皆然り、然れば無常と云うも無常に非ず、有常と云も有常に非ず。種と見る間に草と変じ、草と見る間に花を開き、花と見る間に実となり、実と見る間に、元の種となる。然れば種と成りたるが本来か、草と成りたるが本来か、これを仏に不止不転の理と云ひ、儒に循環の理と云う。万物皆この道理に外(はず)るゝ事はあらず。  
114、善悪の理の諭し
翁曰く、儒に至善に止るとあり。仏に諸善奉行と云えり。然れどもその善と云う物、如何なる物ぞと云う事、慥(たしか)ならぬ故に、人々善を為す積(つも)りにて、その為す処皆違(たが)えり。それ元善悪は一円也。盗人(ぬすびと)仲間にては、能く盗むを善とし、人を害しても盗みさえすれば善とするなるべし。然るに、世法は盗を大悪とす。その懸隔(けんかく)この如し。而して天に善悪あらず、善悪は、人道にて立てたる物なり。譬えば草木の如き、何ぞ善悪あらんや。この人体よりして、米を善とし、莠(はぐさ)を悪とす。食物になると、ならざるとを以てなり。天地何ぞこの別ちあらん。それ莠草(はぐさ)は、生るも早く茂るも早し、天地生々の道に随(したが)う事、速かなれば、これを善草と云うも不可なかるべし。米麦の如き、人力を借りて生ずる物は、天地生々の道に随う事、甚だ迂闊(うかつ)なれば、悪草と云うも不可なかるべし。然るに只食うべきと、食う可からざるとを以て、善悪を分つは、人体より出たる、癖(へき)道にあらずして何ぞ。この理を知らずばあるべからず。それ上下貴賤は勿論、貸す者と借りる者と、売る人と買う人と、又人を遣(つか)う者、人に遣わるゝ者に引当て、能く々思考すべし。世の中万般の事皆同じ。彼に善なれば是に悪しく、是に悪きは彼によし。生を殺して喰う者はよかるべけれど、喰わるゝ物には甚だ悪し。然りといえども、既に人体あり、生物を喰わざれば、生を遂(と)ぐる事能わざるを如何せん。米麦蔬菜(そさい)といえども、皆生物にあらずや。予、この理を尽し「見渡せば遠き近きは無かりけり 己々が住処(すみど)にぞある」と詠るなり。されども、これはその理を云るのみ。それ人は米食い虫なり。この米食虫の仲間にて、立たる道は、衣食住になるべき物を、増殖するを善とし、この三ツの物を、損害するを悪と定む。人道にて云う処の善悪は、是を定規とする也。これに基きて、諸般人の為に便利なるを善とし、不便利なるを悪と立し物なれば、天道とは格別なる事論を待たず。然といえども、天道に違うにはあらず、天道に順(したが)いつゝ違う処ある道理を知らしむるのみ。

大學「在止於至善」(しぜんにとどまるにあり)(人は最高の善を実行する状態に止まるのを目標とすべし)
「諸悪莫作、衆善奉行」(しょあくまくさ、しゅぜんぶぎょう)悪をしてはならない、多くの善を実行せよとの意味。  
115、天道と人道と異る道理の諭し
翁曰く、世の中、用をなす材木は、皆四角なり。然りといえども、天、人の為に四角なる木を生ぜず。故に満天下の山林に四角なる木なし。又皮もなく骨もなく、鎌鉾(かまぼこ)の如く半片(ぺん)の如き魚(うお)あらば、人の為弁利(べんり)なるべけれど、天これを生ぜず。故に、漫々たる大海に、かくの如き魚一尾もあらざるなり。又籾(もみ)もなく糠(ぬか)もなく、白米の如き米あらば、人の世この上もなき益なれども、天これを生ぜず。故に全国の田地に一粒もこの米なし。これを以て、天道と人道と異る道理を悟るべし、又南瓜(かぼちゃ)を植えれば必ず蔓(つる)あり、米を作れば必ず藁(わら)あり。これ又自然の理也。それ糠(ぬか)と米は一身同体なり。肉と骨も又同じ。肉多き魚は骨も大なり。然るを糠と骨とを嫌い、米と肉とを欲するは、人の私心なれば、天に対しては申し訳なかるべし。然りといへども、今まで喰いたる飯も(す)へれば喰ふ事の出来ぬ人体なれば仕方なし。能々この理を弁明すべし。この理を弁明せざれば、我が道は了解する事難(かた)く、行う事難し。 
 

 

116、悟道者流の悟りの諭し
翁曰く、「咲ばちり ちれば又さき 年毎(としごと)に詠(なが)め尽せぬ花の色々」。困窮に陥り、如何ともすべき様(よう)なくて、売り出す物品を、安い物だと悦(よろこ)んで買い、又不運極(きわま)り拠(よりどころ)なく家を売りて裏店(うらだな)へ引込めば、表店(おもてだな)へ出て目出度しと悦ぶ者、絶えずある世の中なり。「増減は器(うつわ)傾く水と見よ こちらに増せばあちらへるなり」。物価の騰貴に、大利を得る者あれば大損の者あり。損をして悲しむあれば、利を得て悦ぶ者あり。苦楽存亡栄辱(えいじょく)得失、こちらが増すとあちらの減るとの外になし。皆これ自他を見る事能わざる半人足の、寄合(よりあい)仕事なり。「喰えばへり減れば又喰い いそがしや永き保ちのあらぬこの身ぞ」。屋根は銅板(あかがねいた)で葺(ふ)き、蔵は石で築くべけれども、三度の飯(めし)を一度に喰い置く事は出来ず、やがて寒さが来るとて、着物を先に着て置くと云う事も出来ぬ人身なり。されば長くは生られぬは天命なり。「腹くちく喰(く)ふてつきひく女子等は 仏にまさる悟りなりけり」。我が腹に食満(みつ)れば寝て居るは、犬猫はじめ心無き物の常情なり。然るに食事を済ますと、直に明日喰うべき物を拵(こしらえ)るは、未来の明日の大切なる事を能く悟る故なり。この悟りこそ人道必用の悟りなれ。この理を能く悟れば、人間はそれにて事足るべし。これ我が教え、悟道の極意なり。悟道者流の悟りは、悟るも悟らざるも、知るも知らざるも、共に害もなし益もなし。「我といふその大元を尋(たずぬ)れば 食ふと着るとの二つなりけり」。人間世界の事は政事も教法も、皆この二つの安全を計る為のみ。その他は枝葉のみ潤色のみ。  
117、増殖の道の諭し
翁曰く、世の中、とかく増減の事に付き、さわがしき事多かれど、世上に云う増減と云うものは、譬えば水を入たる器の、彼方(かなた)此方(こなた)に傾むくが如し。彼方増せば此方へり、此方増せば彼方減るのみ。水に於ては増減ある事なし。彼方にて田地を買て悦べば、此方に田地を売て歎く者あり。只、彼方此方の違いあるのみ。本来増減なし。予が歌に「増減は器(うつわ)傾く水と見よ」と云う通り也。それ我が道の尊(とうと)む増殖の道はそれと異なる也。直(ただち)に天地の化育を賛成するの大道にして、米五合にても、麦一升にても、芋(いも)一株にても、天つ神の積み置かせらるゝ無尽蔵(むじんぞう)より、鍬(くわ)鎌(かま)の鍵を以てこの世上に取出す大道なり、これを真の増殖の道と云う。尊むべし務むべし。「天つ日の恵み積み置く無尽蔵 鍬でほり出せ鎌でかりとれ」。  
118、賤女(シヅノメ)賤男(シヅノオ)の諭し
翁曰く、それ日月清明(せいめい)、風雨順時を祈るの念は、天下の祈願所の神官僧侶は、忘るゝ時多かるべし。入作小作の作徳を頼みに、生活を立る、賤女(しずのめ)賤男(しずのお)に至りては、苗代(なわしろ)の時より刈り収むる日までは、片時も忘るゝ暇(ひま)あるべからず。その情、実に憐れむべし。予この情を、歌に述べんと思えども、意を尽す事あたはず。言葉足らざれば、聞こえ難(がた)からんか。「諸共(もろとも)に無事をぞ祈る年毎(としごと)に 種かす里の賤女(しずめ)賤(しず)の男(お)」。  
119、善因善果、悪因悪果の諭し
翁曰く、善因には善果あり。悪因には悪果を結ぶことは、皆人の知る処なれども、目前に萌(きざ)して、目前に顕(あらわ)るゝものなれば、人々能く恐れ能く謹(つつし)みて、善種を植え悪種を除くべきなれども、如何せん。今日蒔(ま)く種の結果は、目前に萌さず、目前に現れずして、十年廿年乃至四十年五十年の後に現わるゝものなるが故に、人々迷うて懼(おそ)れず、歎(なげか)はしきことならずや。その上に又前世の宿縁あり。如何ともすべからず。これ世の人の迷いの元根なり。しかれども、世の中万般の事物、元因あらざるはなく結果あらざるはなし。一国の治乱、一家の興廃、一身の禍福皆然り。恐れ慎(つつし)んで迷う事勿(なか)れ。  
120、虚実の諭し
翁曰く、方今の世の中は虚(うそ)にても、差し支(つか)えなきが如くなれども、これはその相手も、又虚なればなり。虚と虚なるが故に、隙(げき)なく滞(とどこお)りなし。譬えば雲助(くもすけ)仲間の突合(つきあい)の如し。もし虚を以て実に対する時は、直に差し支うべし。譬えば百枚の紙、一枚とれば知れざるが如しといえども、九十九枚目に到りて不足す。百間の繩を五寸切るも同様、九十九間目に到りて、その足らざるを知る。人の身代一日十銭取りて十五銭遣(つか)い、廿銭取りて廿五銭遣う時は、年の暮迄はしれずといえども、大卅日に至りて、その不足あらはるゝなり。虚の実に対すべからざる、この如し。

雲助 江戸時代、宿駅で人足を確保するために、無宿の者を雇っておいて、必要な時に助郷役の代わりに使った。ここでは、街道筋の性質の良くない駕篭かき人夫のこと。 
 

 

121、原因と結果の諭し
翁曰く、貧(ヒン)となり富(トミ)となる、偶然(グウゼン)にあらず。富も因(ヨツ)て来る処あり、貧も因て来る処あり。人皆貨財(クワザイ)は富者の処に集ると思へ共然らず、節倹(セツケン)なる処と勉強する処に集るなり。百円の身代の者、百円にて暮(クラ)す時は、富の来る事なく貧の来る事なし。百円の身代を八十円にて暮し、七十円にて暮(クラ)す時は、富(トミ)是に帰(キ)し財(ザイ)是に集(アツマ)る。百円の身代を百廿円にて暮し、百三拾円にて暮す時は、貧是に来り財是を去る。只分外に進むと、分内に退くとの違ひのみ。或る歌に「有といへば有とや人の思ふらむ呼(ヨベ)ば答ふる山彦(ヤマビコ)の声」と云る如く、世人今有れ共、其有(あル)原因を知らず、「無といへば無しとや人の思ふらんよべば答ふる山彦の声」にて、世人今なきも其無きもとをしらず。それ今有物は今に無くなり、今無きものは今にあり。譬えば今有し銭のなくなりしは、物を買へば也。今無き銭の今あるは、勤ればなり。繩一房なへば五厘手に入、一日働けば十銭手に入る也。今手に入る十銭も、酒を呑めば直になし、明白疑(ウタガヒ)なき世の中なり。中庸曰く、誠なれば則明なり、明なれば則誠なりと、繩一房なへば五厘となり、五厘遣(ヤ)れば繩一房来る、晴天白日の世の中なり。

「誠則明矣、明則誠矣」(まことなればすなわちあきらかなり、あきらかなればすなわちまことなり) 中庸  
122、仁義礼法の諭し
翁曰く、山畑に粟(あわ)稗(ひえ)実法(みの)る時は猪(ヰ)鹿(しか)小鳥までも出で来たりて、これを取り食(くらラ)ふ。礼もなく法もなく、仁義もなし。己々が腹を養ふのみ。粟を育てんと肥(こやし)をする猪鹿もなく、稗を実法らせんと草を取る鳥もなし。人にして礼法なき、何ぞ是と異らむ。予が戯(たわむれ)に詠る歌に「秋来れば山田の稲を猪(しし)と猿、人と夜昼争ひにけり」。それ検見(けんみ)に来る地方官は、米を取らんが為なり。検見を受くる田主も、作徳(さくとく)を取らん為なり。作主は元よりなり。されども、皆仁あり義あり、法あり礼あるが故に、心中には争へども乱に及ばぬなり。もしこの三人の内、一人仁義礼法を忘れて、私欲を押張(オシハ)らば忽(タチマチ)乱るべし。世界は礼法こそ尊とけれ。  
123、地獄極楽の理の諭し
或る人問う。地獄極楽と云うもの実(まこと)にありや。翁曰く、仏者はありといへども、取り出して人に示す事は出来ず、儒者はなしといへども、又往(ゆ)きて見きはめたるにはあらず。ありと云もなしと云うも、共に空論のみ。然りといえども、人の死後に生前の果報はなくて、叶はざる道理也。儒者のなしと云うは、三世を説かざるに依る。仏は三世を説く也。一つは説かず一ツは説くも、三世は必ずあり。されば地獄極楽なしと云うべからず。見る事ならざればとて、なしと極むべからず。さて地獄極楽はありといへども、念仏宗にては、念仏を唱ふる者は極楽へゆき、唱へざる者は地獄へおつと。法華宗にては、妙法を唱ふる者は浮(うか)み、唱へざる者は沈むと。又甚しきは寺へ金穀(きんこく)を納める者は極楽へゆき、納めざる者は地獄におつと。かくの如き道理は決してあるべからず。それ元地獄は悪事をなしたる者の死してやらるゝ処、極楽は善事をなしたる者の死してゆく処なる事疑いなし。それ地獄極楽は勧善懲悪の為にあるものにして、宗旨の信不信の為にあるものにあらざる事明らか也。迷ふべからず疑ふべからず。  
124、神儒仏の理の諭し
翁曰く、鐘(カネ)には鐘の音あり、鼓(つづみ)には鼓の音あり、笛には笛の音あり。音各異なりといへども、その音たるや一なり、只その物に触れて、響きの異なるのみ。これを別々の音に聞くを、仏道にて、迷いといひ、これを只一音に聞くを悟りと云うが如し。されども、これを悉(ことごと)く別音に聞て、その内をも幾箇(いくつ)にも分ちて聞かざれば、五音六律分かたざる故、調楽(ちょうがく)は出来ぬなり。水も朱にすられて赤くなり、藍(アイ)に和して青く成るといへども、地に戻(もど)せば元の清水と成るに同じ。音は空にして打てばひゞき、打たざれば止む。音の空に消ゆるは、打たれたる響(ひびき)の尽きたるなり。されば神といひ儒といひ仏と云も、本来は一なり。一の水を酒屋にては酒といひ、酢屋にては酢と云うが如き違ひのみ。

五音六律(ごいんりくりつ) 日本古来の音と音階  
125、人道の大元、政道の本根の諭し
翁曰く、衣は寒を凌(しの)ぎ、食は飢えを凌ぐのみにてたれる物なり。その外は皆無用の事なり。官服は貴賤を分つ目印にて、男女の服は只粧(よそお)いのみ。婦女子の紅白粉(べにおしろい)と何ぞ異らむ。紅白粉なくとも婦人あれば、結婚に支(つか)えなし。飢えを凌ぐ為の食、寒を凌ぐ為の衣は、智愚(ちぐ)賢不肖(けんふしょう)を分たず、学者にても無学者にても、悟りても迷うても、離るゝ事は出来ぬ物なり。これを備うる道こそ人道の大元、政道の本根なり。予が歌に「飯と汁木綿着物ぞ身を助く その余は我をせむるのみなり」と詠(よ)めり。これ我が道の悟門(ごもん)なり。能く々徹底すべし。予、若年より食は飢えを凌ぎ、衣は寒を凌で足れりとせり。只この覚悟一にして今日に及べり。我が道を修行し施行せんと思う者は、先ず能くこの理を悟るべきなり。 
 

 

126、とある歌の諭し
翁、某の駅の旅舎(はたごや)に宿泊せらる。床(とこ)に「人常に菜根(さいこん)を咬(か)み得ば 則ち百事做(な)すべし」と書ける幅(ふく)あり。翁曰く、菜根何の功能ありて、然るかと考えるに、これは麁(そ)食になれて、それを不足に思わざる時は、為す事皆成就すと云う事なり。予が歌に「飯と汁木綿着物」とよめるに同じ。能(よ)き教訓なり。又傍(かたわら)に「かくれ沼の藻(も)にすむ魚も 天伝(あまつた)ふ日の御影(かげ)にはもれじとぞ思ふ」とかける短冊(たんざく)あり。翁曰く、この歌面白(おもしろ)し。それ米は地より生ずる様なれども、元は天より降るに同じ。大陽日々天より照す処の温気が地に入り、その力にて米穀は熟するなり。春分耕(たがや)し初むる頃より、秋分実法るまでを、尺杖の如く図して見よ。十日照れば十日丈(だけ)、一月照れば一月丈、地に米穀となるべき温気が入りて居る故、たとえその間に雨天冷気等ありといえども、それまで照り込んで居る丈は実法るなり。然れども人力を尽さゞれば、実法り少きは、耕し鋤(す)き掻(か)きの功多ければ、大陽の温気地に入る事多きが故なり。地上の万物一ツとして、天日の御影にもれたる物はなし。海底の水草すら雨天冷気の年は繁茂せずと云えり。左もあるべし、この歌、歌人の詠には珍らし。  
127、富と貧の理の諭し
翁曰く、富と貧とは、元遠く隔(へだ)つ物にあらず、只少しの隔なり。その本源只一ツの心得にあり。貧者は昨日の為に今日勤め、昨年の為に今年勤む。故に終身苦しんでその功なし。富者は明日の為に今日勤め、来年の為に今年勤め、安楽自在にして、成す事成就せずと云う事なし。然るを世の人、今日飲む酒無き時は借りて飲み、今日食ふ米なき時は又借りて食ふ。これ貧窮すべき元因なり。今日薪を取て、明朝飯を炊(た)き、今夜繩を索(な)ふて、明日籬(マガキ)を結ばゞ、安心にして差支へなし。然るを貧者の仕方は、明日取る薪(たきぎ)にて今夕の飯を炊んとし、明夜索(ナ)ふ繩を以て今日籬(マガキ)を結ばんとするが如し。故に苦んで功成らず。故に予常に曰く、貧者草を刈らんとする時、鎌なし、之を隣に借りて草を刈る常の事なり。これ貧窮を免るゝ事能(あた)はざるの元因なり。鎌なくば先ず日雇取りを為すべし。賃銭を以て鎌を買ひ求め、然る後に草を刈るべし。この道は則ち開闢元始の大道に基くものなるが故に、卑怯卑劣の心なし。これ神代の古、豊芦原に天降(あまくだ)りし時の、神の御心なり。故にこの心ある者は富貴を得、この心無き者は富貴を得る事能はず。  
128、徳行の諭し
翁曰く、我が教えは、徳を以て徳に報うの道なり。天地の徳より、君の徳、親の徳、祖先の徳、その蒙(こうむ)る処人々皆広太也。之に報うに我が徳行を以てするを云う。君恩には忠、親恩には孝の類、之を徳行と云う。さてこの徳行を立てんとするには、先ず己々が天禄の分を明かにして、之を守るを先とす。故に予は入門の初めに、分限を取調べて能く弁へさするなり。如何となれば、おおよそ富家の子孫は、我家の財産は何程ありや、知らぬ者多ければなり。論語に、師(し)冕(べん)見ゆ、皆坐す。子の曰く、某は斯(ここ)にありと。師(シ)冕(ベン)出づ。子張問いて曰く、師と言うの道か。子の曰く、然り、固より師を助るの道なり、とあり。予が人を教うる、先ず分限を明細に調(しら)べ、汝が家株田畑何町何反歩、この作益金何円、内借金の利子何程を引、残何程なり。これ汝が暮すべき一年の天禄なり。この外に取る処なく入る処なし、この内にて勤倹を尽して、暮しを立て、何程か余財を譲る事を勤むべし。これ道なり。これ汝が天命にして、汝が天禄なりと。皆この如く教ふるなり。これまた心盲の者を助るの道なり。それ入るを計(はか)りて天分を定め、音信贈答も、義理も礼義も、皆この内にて為すべし。出来ざれば、皆止むべし。或は之を吝嗇(りんしょく)と云う者ありとも、それは言う方の誤りなれば、意とする事勿れ。何となればこの外に取る処なく、入る物なければなり。されば義理も交際も出来ざれば為さゞるが、則ち礼なり義なり道なり。この理を能く々弁へて、惑う事勿れ。これ徳行を立てる初めなり。己が分度立ざれば徳行は立たざるものと知るべし。

論語 衛霊公 「師冕見、及階、子曰、階也、及席、子曰、席也、皆坐、子告之曰、某在斯、某在斯、師冕出、子張問曰、與師言之道與、子曰、然、固相師之道也、」(しべんまみゆ、かいにおよべり、しのたまわく、かいなり、せきにおよべり、しのたまわく、せきなり、みなざす、しこれにつげていわく、ぼうはここにあり、ぼうはここにあり、しべんいづ、しちょうといていわく、しというのみちか、しのたまわく、しかり、もとよりしをたすくるのみちなり)(盲目の楽師の冕が見えられた。楽師が階段のところに来ると、孔子は、階段ですと言い、皆が座る所まで来て座ると、孔子は、誰々はここに、誰々はそこに座っています、と教えた。冕が退出されると、子張が孔子に尋ねた。あれが楽師を迎えた時の礼ですか。孔子は、そうだ、勿論盲目の楽師に対する礼だ、と言われた)  
129、天禄の諭し
翁曰く、人生尊ぶべきものは天禄を第一とす。故に武士は天禄の為に一命を抛(なげう)つなり。天下の政事も神儒仏の教えも、その実衣食住の三つの事のみ。黎民(レイミン)飢え寒(こご)えざるを王道とす。故に人たる者は、慎(つつし)んで天禄を守らずばあるべからず。固く天禄を守る時は、困窮艱難の患なし。仮初(かりそめ)にも、我が天禄を賤(いやし)むの心出る時は、困窮艱難忽(たちまち)に至る。それ天禄の尊き事は云う迄もなし。日々の衣食住その他、履き物笠(カラカサ)傘よりして鼻をかむ紙迄も、皆天禄分内の物なり。嫁は他家より来る者といへども、云もてゆけば、天禄の中より来ると云んも違るにあらず。然に我がこの方法は、天禄なき者に天禄を授け、天禄の破れんとするを補い、天禄の衰(おとろ)へたるを盛んに為し、且つ天禄を分外に増殖し、天禄を永遠に維持するの教えなれば、尊き事論を俟(また)ず。古語に、血気ある者、尊信せざる事なし、といへるは、我が道の事なり。

「凡有血気者、莫不尊親」(およそけっきあるものは、そんしんせざることなし)(血気 血と気 生命のこと  凡そ生命有るもので、これを尊ばず親しまない者はいない。という意味。その尊び親しむ対象は、この句の前に、延々と形容の言葉が述べられている人、この世で最高の聖人で、尭、舜のような人のことである)中庸  
130、驕奢(きょうしゃ)の諭し
翁曰く、某藩士某(それがし)、東京(エド)詰にて、顕職(けんしょく)を勤めたり。一朝退勤の命あり、帰国せんとす。予往て暇(いとま)を告げ、且つ曰く、卿がこれ迄の驕奢(きょうしゃ)、実に意外の事なりといへども、職務なれば是非無し。今帰国せんとす、これ迄用ふる処の、衣類諸道具等は皆分不相応の品なり。これを持帰る時は、卿が驕奢退かず、妻子厄介も同く奢侈(しゃし)止らざるべし。然る時は卿が家、財政の為に滅亡に至らん、恐れざるべけんや。刀は折れず曲(まが)らざる利刀の、外飾(がいしょく)なきを残し、その他は衣類諸道具、一切これ迄用ひし物品は残らず、親戚朋友懇意出入の者等に、形見として悉(ことごと)く与へ、不断着(ふだんぎ)寝巻の儘(まま)にて、只妻子而已を具して、帰国して、一品も国に持ち行く事勿れ。これ奢侈を退ぞ)け、驕意を断つの秘伝也。然らざれば、妻子厄介迄染(しみ)込んだる奢侈決して退かず、卿が家終に亡びん事鏡に掛けて見るが如し。迷ふ勿れと懇々教えたれど、某(それがし)用ふる事能はず。一品も残さず船に積みて持帰り、この物品を売り売り生活を立て、終(つい)に売り尽して、言可らざるの困窮に陥り果てたり。歎ずべし、この分限を忘れ、驕奢に馴れて、天をも恐れず人をも憚(はばか)らざるの過(あやまち)なり。我が驕奢、誠に分に過ぎたりと心付ば、同藩に対しても、憚らずば有べからず。これ驕奢に馴れて自ら驕奢としらざるが故なり、歎(タン)ずべし。 
 

 

131、おも柁(かじ)取柁の諭し
高野丹吾帰国せんとす。翁曰く、伊勢の国鳥羽の湊(みなと)より、相模(さがみ)国浦賀の湊までの間に、大風雨の時、船の掛かるべき湊は、只伊豆国の下田湊のみ。故に燈(とう)明台あり。大風雨の時は、この燈台の明りを目的(めあて)として、往来の船は下田湊に入るなり。この脇に妻良子浦(めらこうら)と云う処あり。岸巌(がんがん)高く大岩多く、船路なき処なり。この辺に悪民有て風雨の夜、この処の岸上に焚(た)きて、下田の燈台と見違ふ様にしければ、難風を凌(しの)がんと、燈台を見当に走り来る船、燈台の火と見紛(みまが)ひ入り来る勢ひに、大岩に当り破船すること数度なり。この破船の積荷物品を奪ひ、取り隠し置て分配せし事、度々有りし由、終(つい)には発覚し皆刑せられたりと聞けり。己が聊(いささか)の欲心の為に、船を破り人命を損じ、物品を流失せしむ、悪(あし)き仕業(しわざ)ならずや。我仕法にも又是に似たる事あり。烏山(からすやま)の燈台は菅谷氏なり、細川家の燈台は中村氏なるに、二氏の精神半途に変じ、前の居処と違(たが)へるが為に、二藩の仕法目的を失い今困難に陥れり。かりそめにも、人の師表(しひょう)たらん者、恐れざるべけんや、慎しまざるべけんや。貴藩の如きは、草野氏池田氏の如き、大燈明上にあれば、安心なりといへども、卿も又成田坪田二村の為には大燈明なり。万一心を動かし、居処を移すが如き事あらば、二村の仕法の破れん事、船の岩に当れるが如し。されば二村の盛衰安危、卿が一身にあり。能々感銘せらるべし、二村の為卿が為、この上もなき大事なり。卿能くこの決心を定め、不動仏の猛火背を焼くといへども、動かざる如くならば、二村の成業に於ては袋(のう)中の物を探(さぐ)るよりも安し。卿が心さへ動かざれば、村民は卿を目的となし、船頭の船路を見て、おも柁(かじ)取柁と呼ぶが如く、驕奢に流れぬ様(よう)おも柁と呼んで直し、遊惰に流ぬ様取り柁と呼んで漕ぐのみ。然る時は興国安民の宝船、卿が所有の成田丸坪田丸は成就の岸に安着せん事疑ひなし。この時君公の御悦びは如何計(ばか)りぞや、草野池田の二氏の満足も如何計ならんや、勤めよや勤めよや。  
132、これしきの事、これ位の事の諭し
高野氏旅粧(たびよそおい)成りて暇(いとま)を乞ふ。翁曰く、卿に安全の守りを授けん。則ち予が詠る「飯と汁木綿着物は身を助く その余は我をせむるのみなり」の歌なり。歌拙(つたな)しとて軽視する事勿れ。身の安全を願はゞこの歌を守るべし。一朝変ある時に、我が身方と成る物は、飯と汁木綿着物の外になし。これは鳥獣の羽毛と同じく何方迄も身方なり。この外の物は、皆我身の敵と知るべし。この外の物、内に入るは敵の内に入るが如し。恐れて除(のぞ)き去るべし。これしきの事は、これ位の事はと云つゝ、自ら許す処より人は過(あやま)つものなり。初めは害なしといへども、年を経る間に思はず知らず、いつか敵と成りて、悔(くゆ)るども及ばざる場合ひに立ち至る事あり。それこれ位の事はと自ら許す処のものは、猪(ヰ)鹿(しか)の足跡の如く、隠す事能(あた)はず。終に我が足跡の為に猪鹿の猟師に得らるゝに同じ。この物内に無き時は、暴君も汚吏(おり)も、如何共する事能はず。進んで我が仕法を行ふ者、慎まずばあるべからず。必ず忘るゝ事勿れ。高野氏叩頭(こうとう)して謝す。波多八郎傍(かたわら)にあり、曰く、古歌に「かばかりの事は浮世の習ひぞとゆるす心のはてぞ悲しき」と云るあり、教戒によりて思ひ出たり、予も感銘せり、と云ひ生涯忘れじと誓う。  
133、仁義礼智の徳性の諭し
翁曰く、人の神魂に就(つき)て、生ずる心を真心と云う。則ち道心なり。身体に就て生ずるを私心と云う。則ち人心なり。人心は譬えば、田畑に生ずる莠草の如し。勤めて耘(くさぎ)り去るべし。然せざれば、作物を害するが如く、道心を荒らす物なり。勤て私心の草を耘(くさぎ)り、米麦を培養するが如く、工夫を用ひ、仁義礼智の徳性を養い育つ可し。これ身を修め家を斉(ととの)ふるの勤なり。  
134、信なれば則ち民任ずの諭し
翁曰く、論語に曰く、信なれば則ち民任ずと。児(こ)の母に於る己(おのれ)何程に大切と思ふ物にても、疑わずして母には預(あず)くる物なり。これ母の信、児に通ずればなり。予が先君に於る又同じ。予が桜町仕法の委任は、心組(ぐみ)の次第一々申立るに及ばず。年々の出納計算するに及ばず、十ヶ年の間任せ置く者也とあり。これ予が身を委(ゆだ)ねて、桜町に来りし所以(ゆえん)なり。さてこの地に来り、如何にせんと熟考するに、皇国開闢(かいびゃく)の昔、外国より資本を借りて、開きしにあらず。皇国は、皇国の徳沢にて、開たるに相違なき事を、発明したれば、本藩の下附金を謝絶し、近郷富家に借用を頼まず、この四千石の地の外をば、海外と見做(な)し、吾(わレ)神代の古に、豊葦原へ天降りしと決心し、皇国は皇国の徳沢にて開く道こそ、天照大御神の足跡なれと思ひ定めて、一途に開闢元始の大道に拠(よ)りて、勉強せしなり。それ開闢の昔、芦原に一人天降りしと覚悟する時は、流水に潔身(みそぎ)せし如く、潔(いさぎよ)き事限りなし。何事をなすにもこの覚悟を極むれば、依頼心なく、卑怯卑劣の心なく、何を見ても、うらやましき事なく、心中清浄なるが故に、願ひとして成就せずと云う事なきの場に至るなり。この覚悟、事を成すの大本なり。我が悟道の極意なり。この覚悟定まれば、衰(すい)村を起すも、廃(はい)家を興すもいと易(やす)し、只この覚悟一つのみ。

「信則民任焉」(しんなればすなわちたみにんず)(信=真 まことがあれば人民から頼られる) 論語 尭日
二宮尊徳は、この説話で、事業の遂行に当たっては、関係者の信頼関係の樹立が、何よりも大事なことであるから、指導者はそのことに向って努力をしなければならない、と教えている。
望ましいのは、この説話のような、全幅の信頼、という形態である。しかし、それが無理であっても、疑いの心を持たないという程度までは、信頼関係を進めて行けるはずであるから、そこまでは努力してみることである。
最近では、家族間でも、信頼という言葉が失われつつある。物欲偏重、甘やかし、ということなどが原因となっているのであろうが、テレビの娯楽番組などでの、「仁」「礼」「義」「智」の欠落も大いに影響していると考えられる。最近の笑いのネタに、相手の心身の弱みをついて笑いをとるというものが多いことにも、影響しているようである。 
135、鄙俚(ひりリ)の言の諭し
翁曰く、惰風極まり、汚俗深染(しんせん)の村里を新にするは、いとも難き業なり。如何となれば、法戒む可からず、令行はる可からず、教施す可からず。之をして精励に趣(おもむ)かしめ、之をして義に向はしむる、豈難からずや。予、昔桜町陣屋に来る。配下の村々至惰(だ)至汚(う)、如何ともすべき様なし。之に依て、予深夜或は未明、村里を巡行す。惰を戒むるにあらず、朝寝を戒るにあらず、可否を問はず、勤惰を言はず。只自らの勤めとして、寒暑風雨といへども怠らず、一二月にして、初て足音を聞て驚く者あり。又足跡を見て怪しむ者あり、又現に逢ふ者あり。これより相共に戒心を生じ、畏心を抱き、数月にして、夜遊博奕(バクエキ)闘争等の如きは勿論、夫妻の間、奴僕(ぬぼく)の交、叱咤の声無きに至れり。諺に、権平種を蒔けば烏(からす)之を掘る、三度に一度は追ずばなるまい、と云えり。これ鄙俚(ひり)戯言(ざれごと)といへども、有職の人知らずば有る可からず。それ烏の田甫を荒すは、烏の罪にあらず、田甫を守る者追わざるの過ちなり。政道を犯す者の有るも、官之を追ざるの過ちなり。之を追ふの道も、又権兵衛が追ふを以て勤として、捕(とらふ)るを以て本意とせざるが如く、あり度き物なり。これ戯言政事の本意に適(かな)へり。鄙俚(ひりリ)の言といへども、心得ずば有るべからず。

二宮尊徳は、この説話で、桜町に赴任した当時に、どのようにして村の風紀の改善に当たったかと説明し、法律や規則でなく、こちらが誠意を継続することの方が、ずっと効果がある、と教えている。最近では、法律や規則が幅を利かせている時代となっている。いずこかで、事故や不祥事が起きると、必ず、もっと規則を整備して、再発防止に当たる、という言葉が出てくる。しかし、それは本当の解決にはならないのである。抜本的な解決のためには、そのようなことを起こさない、人の気持ちを作り上げなければならないのである。良識とそれに基づく誠意、これが総ての解決策である。そこに向って努力したいものである。 
 

 

136、食を足すの諭し
翁又曰く、凡そ田畑の荒るゝその罪を惰農に帰し、人口の減ずるは、産子を育てざるの悪弊に帰するは、普通の論なれども、如何に愚民なればとて、殊更(ことさら)田畑を荒して、自ら困窮を招く者あらんや。人禽獣(きんじゅう)にあらず、豈(あに)親子の情なからんや。然るに産子を育てざるは、食乏しくして、生育の遂げ難きを以てなり。能くその情実を察すれば、憫然(びんぜん)これより甚きはあらず。その元は、賦税(ふぜい)重きに堪(たえ)ざるが故に、田畑を捨てて作らざると。民政届かずして堤防溝洫(こういき)道橋破壊(はえ)して、耕作出来難きと、博奕(バクヱキ)盛んに行れ風俗頽廃(たいはい)し、人心失せ果て、耕作せざるとの三なり。それ耕作せざるが故に、食物減ず、食物減ずるが故に、人口減ずるなり。食あれば民集まり、食無ければ民散ず。古語に、重んずる処は民食葬祭とあり。尤も重んずべきは民の米櫃(びつ)なり。譬えばこの坐に蠅(はえ)を集めんとするに、何程捕(とら)へ来りて放つとも追い集むるとも、決して集るべからず。然るに食物を置く時は、心を用いずして忽(たちまち)に集るなり。之を追い払うとも決して逃げ去らざる事眼前なり。されば聖語に、食を足すとあり。重んづべきは人民の米櫃なり。汝等又己が米櫃の大切なる事を忘るゝ事勿れ。

論語 尭日「所重民食喪祭」(おもんずるところはたみしょくそうさい) 
論語 顔淵「足食足兵、民信之矣、」(しょくをたしへいをたし、たみをしてこれをしんじせむ)
二宮尊徳は、この説話で、人口が減少するのは、民政が行き届かないからである。政治が、人々が豊かに生活できることを最優先にしていかなければ、人々の心は落ち着かず、将来への不安ばかりが大きくなる。このような村や国では、人口が増加することはない。指導者となる者は、まずは自分の米びつを気にかけて、そこから人々の米びつに気持ちを移して、人々が、できるだけ安定した生活ができるように、整えていかなければならない、と教えている。わが国でも、少子化、人口減少という時代に来ている。尊徳の時代とは違って、物的生活水準は、大幅に上昇していることは間違い無いが、本当に安心して未来に対応できるのかと考えてみると、果たしてどうであろうか。天保七年の凶作に際して、烏山藩をはじめとした支援する藩や村に、桜町の農民が、進んで自らの蓄えを提供したときのように、自分の来年を心配せずに、そのように出来るであろうか。為政者は、まずは自分の米びつを通して、人々の米びつに気を使うべきである。  
137、民政の諭し
或る人来り訪(と)う。翁曰く、某の家は無事なりや。曰く、某の父稼穡(かしょく)に勤労する事、村内無比なり。故に作益多く豊に経営(いとなみ)来りしに、その子悪(あし)き事はなしといえども、稼穡を勤めず、耕耘培養行届かず。只蒔ては刈り取るのみ。好き肥しを用いるは損なりなど云うて、田畑を肥すの益たるを知らず。故に父死して、僅(わずか)に四五年なるに、上田も下田となり、上畑も下畑となりて、作益なく、今日は経営にも差し閊(つかえ)る様になれりと、翁左右を顧(かえり)みて曰く、卿等聞けりや、これ農民一家の事なれども、自然の大道理にして、天下国家の興廃存亡も又同じ、肥を以て作物を作ると、財を散じて領民を撫育(ぶいく)し、民政に力を尽すとの違ひのみ。それ国の廃亡するは民政の届かざるにあり。民政届かざるの村里は、堤防溝洫(こういき)先ず破損し、道路橋梁次に破壊(はえ)し、野橋作場道等は通路なきに至るなり。堤防溝洫破損すれば、川付きの田畑は先ず荒蕪す。用悪水路破壊すれば、高田卑(ひく)田は耕作すべからず、道路悪しければ牛馬通ぜず、肥料行届かず、精農の者といえども、力を尽すに困却し、之が為に耕作するといへ共作益なし。故に人家手遠(とお)、不便の地は捨てて耕やさざるに至る。耕さゞるが故に、食物減ず、食物減ずるが故に、人民離散する也。人民離散して、田畑荒るれば租税の減ずるは眼前ならずや。租税減ずれば、諸侯窮するは当然の事なり。前の農家の興廃と少しも違う事なし。卿等心を用いよ。譬えば上国の田畑は温泉の如し、下国の田畑は、冷水の如し、上国の田地は耕耘行届かざれども、作益ある事温泉の自然に温なるが如し、下国の田畑は冷水を温湯にするが如くなれば、人力を尽せば作益ありといえども、人力を尽さゞれば、作益なし。下国辺境人民離散し、田畑荒蕪するは是が為なり。

二宮尊徳は、この説話で、指導者の心の置き方について説明している。指導者が、人々の生活全般に心を砕き、国の環境を整備し、食糧を確保し、人心の安定に努めていかなければ、大国といえども崩壊する。特に、心の安定を実現していかなければ、国を内側から支える力が減少するので、繁栄は、永くは続かない。古くは、ローマが崩壊したのも、他の大国が崩壊したのも、人の心に驕りが増え、慈しみが減少したことが最大の原因である。決して、食糧やその他の物資が減少したからではない。日本でも、驕れる平家久しからずというように、心のあり方が正しい位置ではなくなったときに、一致団結が不可能になり、滅亡に向ってしまったのである。平家に限らず、鎌倉、室町幕府も同様である。  
138、至誠を尽せの諭し
翁曰く、江川県令問て曰く、卿桜町を治る数年にして、年来の悪習一洗し、人民精励に赴(おもむ)き、田野開け民聚(あつま)ると聞けり。感服の至り也、予。支配所の為に、心を労する事久し、然して少も効(しるし)を得ず、卿如何なる術かあると。予答て曰く、君には君の御威光あれば、事を為す甚(はなはダ)安し。臣素より無能無術、然りといへども、御威光にても理解にても行れざる処の、茄子(なす)をならせ、大根を太らする事業を、慥(たしか)に心得居る故、この理を法として、只勤めて怠らざるのみ。それ草野一変すれば米となる。米一変すれば飯となる。この飯には、無心の鶏犬といへども走り集り、尾を振れといへば尾を振り、廻れといへば廻り、吠えよといへば吠ゆ。鶏犬の無心なるすらこの如し。臣只この理を推して、下に及ぼし至誠を尽せるのみ、別に術あるにはあらず、と答ふ。是より予が年来実地に執行ひし事を談話する事六七日なり、能く倦まずして聴れたり、定めて支配所の為に、尽されたるなるべし。

江川太郎左衛門 伊豆韮山の天領地管轄の永代代官 幕末期に活躍、配下の韮山の商人と管轄地の大磯の商人等が、二宮尊徳翁の指導を受けて、傾いた身代を復興させたことを知り、翁の一門数名が韮山の商人宅に立ち寄った時に、翁と豊田正作とを招待し、数日に亘って懇談している。
二宮尊徳はこの説話で、事業成功には、絶対の秘訣というものは無いことを説明している。世の中の人は、成功の秘訣というものがあるのではないか、それがあるならば、それを知って自分も利用すれば、直ぐに成功できる、と思いこんでいる。視察などと言って見に来る人達の大部分は、そういう考え方である。トヨタ生産方式が話題になると、セミナーも定員を遥かに超える人数が集まった。しかし、トヨタ自動車では、昭和二十三年頃から始めて、三十年以上を掛けて作り上げてきた方式である。今でも少しずつ変化をしているのである。それを僅か、二、三時間の話で判った積りになることが間違いである。商店街もそうである。何年も掛けて、顧客とのコミュニケーションを通じて、対応する方法に到達したのである。その結果の今だけを見て、真似してもうまく行くはずは無いのである。最近では、祭りまでも猿真似が横行している。ブラジルのカーニバルは、虐げられた人達が、せめて一年に一度は大手を振って大通りに出て行きたいと、一年掛りで仕上げるのである。日本の祭りも同じである。札幌よさこいソーラン祭りは、自分達の財産に他からの力を借りて作り上げたのであるから、まだ許せるが、それを、どこどこ阿波踊り、とか、何とかよさこいとか、自分たちの智慧はどこにも見えない、タイトルを聞くだけでも恥ずかしい祭りが堂々と行われ、テレビが批判も無く放送する世の中である。人まねで経済発展に寄与してきた、この日本文化も、ここまで至ったかと、情け無くなる今日である。  
139、至誠と実行の諭し
翁曰く、我が道は至誠と実行のみ、故に鳥獣虫魚草木にも皆及ぼすべし。況(いわん)や人に於るをや、故に才智弁舌を尊まず。才智弁舌は、人には説くべしといえども、鳥獣草木を説く可からず。鳥獣は心あり。或は欺(あざむ)くべしといへども、草木をば欺く可からず。それ我が道は至誠と実行となるが故に、米麦蔬菜(ソサイ)瓜茄子にても、蘭(ラン)菊(キク)にても、皆これを繁栄せしむるなり。たとえ知謀孔明を欺き、弁舌蘇(ソ)長(テフ)を欺くといへども、弁舌を振って草木を栄えしむる事は出来ざるべし。故に才智弁舌を尊まず、至誠と実行を尊ぶなり。古語に、至誠神の如しと云といえども、至誠は則ち神と云うも、不可なかるべきなり。凡世の中は智あるも学あるも、至誠と実行とにあらざれば事は成らぬ物と知るべし。

孔明 中国三国時代の人、諸葛 亮 字が孔明 軍神と言われるほどの策略家
蘇張 中国戦国時代の雄弁家 蘇秦(そしん)と張儀 から来ている。
二人の名前をつなげて弁舌の巧みなことを 蘇張と言う
「故至誠如神」(ゆえにしせいはしんのごとし) 中庸
二宮尊徳は、この説話で、尊ぶのは至誠と実行であり、才知と弁舌は価値を認めない。才知は一時的に相手を騙すことに使えたとしても、草木や作物などには、その効果は及ばない。誠実に育成に努めれば、草木、作物も、こちらの意を受けとめて育ってくれる。と教えている。「巧言令色、鮮矣仁」(こうげんれいしょく、すくなしじん)「(指導者で)言葉が巧みで、表情をとりつくろっている人には、(指導者として保有していなければならない、大切な)仁の心が欠けているものだ。」と、論語「学而」にある。また、「巧言乱徳」(こうげんはとくをみだす)「(指導者が)言葉上手であることは、世の中の善意を乱すことになる。」「衛霊公」とある。まことに、これらの言葉を尊重していきたい世の中である。 
140、実地実行の諭し
翁曰く、朝夕に善を思ふといえども、善事を為さゞれば、善人と云うべからざるは、昼夜に悪を思うといえども、悪を為さゞれば、悪人と云うべからざるが如し。故に人は、悟道治心の修行などに暇(いとま)を費さんよりは、小善事なりとも身に行うを尊しとす。善心発(おこ)らば速に是を事業に表わすべし。親ある者は親を敬養すべし。子弟ある者は子弟を教育すべし。飢え人を見て哀れと思はゞ速に食を与ふべし。悪しき事仕たり、われ過(あやま)てりと心付とも、改めざれば詮なし。飢え人を見て哀れと思ふとも、食を与へざれば功なし。故に我が道は実地実行を尊ぶ。それ世の中の事は実行にあらざれば、事はならざる物なればなり。譬えば菜虫の小なる、是を求むるに得べからず。然れども菜を作れば求ずして自ら生ず、孑孒(ボウフリ)の小なる、これを求るに得べからず。桶(おけ)に水を溜(た)めおけば自ら生ず。今この席に蠅(はえ)を集めんとすとも、決して集らず。捕(とら)へ来りて放つとも、皆飛さる。然るに飯粒を置時は集めずして集まるなり。能く々この道理を弁えて、実地実行を励むべし。

二宮尊徳は、この説話で、口で言葉としての善を何遍唱えようとも、善を実行しなければ、善人とは言わない。私の事業の遂行においても、言葉が巧みでも実行しないで居る人は、重要な仕事は任せられない。なお、実行するにあたっては、事前に目的を果たすのに必要な事項を良く見極めてから、実行するように、と教えている。 
 

 

141、農本主義の諭し
翁曰く、凡そ物の根元たる者は、必ず卑(いやし)きものなり。卑しとて根元を軽視するは過ちなり。それ家屋の如き、土台ありて後に、床も書院もあるが如し。土台は家の元なり。これ民は国の元なる証なり。さても諸職業中、又農を以て元とす。如何となれば、自ら作りて食い、自ら織りて着るの道を勤むればなり。この道は、一国悉(ことごと)く是をなして、差閊(さしつかえ)無きの事業なればなり。然る大本の業の賤(いやし)きは、根元たるが故なり。凡そ物を置くに、最初に置し物、必ず下になり、後に置たる物、必ず上になる道理にして、これ則ち農民は、国の大本たるが故に賤きなり。凡そ事天下一同に之を為して、閊(さかえ)なき業こそ大本なれ。それ官員の顕貴なるも、全国皆官員とならば如何。必ず立つ可からず。兵士の貴重なるも、国民悉く兵士とならば、同じく立つ可からず。工は欠く可からざるの職業なりといえども、全国皆工ならば必ず立つ可からず。商となるも又同じ。然るに農は、大本なるを以て、全国の人民皆農となるも、閊(つかえ)なく立ち行く可し。然れば農は万業の大本たる事、ここに於て明了なり。この理を究(きわ)めば、千古の惑い破れ、大本定りて、末業自ら知るべきなり。故に天下一般これをなして、閊あるを末業とし、閊なきを本業とす、公明の論ならずや。然れば農は本なり、厚くせずば有る可からず。養わずば有る可からず。その元を厚くし、その本を養へば、その末は自ら繁栄せん事疑いなし。さても枝葉とて猥(みだり)に折る可からずと雖(いえ)ども、その本根衰うる時は、枝葉を伐り捨て根を肥すぞ、培養の法なる。

二宮尊徳は、この説話で、根源的な仕事は、意外に低い地位にあると見られがちである。しかし、その仕事が無ければ、他の仕事が世の中に存在していくことはできない。と教えている。この尊徳の考えは、今でも同じく通用する。経済がグローバル化して、外国から、何でも安く手に入るようになって、国内産業の規模を縮小させる方向に進んでいる。特に、食糧の自給率は、極端に低い比率まで落ち込んでいる。現在は、食糧輸出国の政治と経済が安定しているから良いが、もし何かあれば、大変なことになる。食料の多くは、春から秋の季節にしか収穫できないし、殆どの食糧の生育期間は、六ヶ月程度となっているので、緊急時には簡単に対応できない。長期的視野に立って、食糧の自給率の向上に向っていくべきであろう。なお、この説話で、尊徳は非常に面白いことを言っている。それは、全国民が同じ職業についたとしても、国が立ち行かなくなることが無いのは農業だけである、ということである。確かにそうである。第二次大戦直後に、戦地や外地から数多くの人が戻ってきたとき、農村地区でその多くを受け入れたが、それが可能であったのも、その地区の主要産業が、農業という受け入れ許容範囲の広い産業であったからである。やはり、今でも、農業が、総ての大本に位置する業であることは間違い無い。  
142、創業、守業の諭し
翁曰く、創業は難し、守るは安しと。守るの安きは論なしといえども、満ちたる身代を平穏に維持するも又難き業なり。譬えば器に水を満ちて、これを平に持て居れと命ずるがごとし。器は無心なるが故に、傾むく事はあらねど、持つ人の手が労(つか)るゝか、空腹になるか、必ず永く平に持て居る事は出来ざるに同じ。さてもこの満を維持するは、至誠と推譲の道にありといえども、心正平ならざれば、之を行うに至て、手違いを生じ、折角の至誠推譲も水泡に帰する事あるなり。大学に心忿懥(ふんち)する所、恐懼する所、好楽する処、憂患する処あれば、則ちその正を得ずと云えり。実に然るなり、能く心得べし。能く研(みが)きたる鏡も、中凹(くぼ)き時は顔痩(や)せて見え、中凸(たか)き時は顔太りて見ゆる也。鏡面平ならざれば、能く研(と)ぎたる鏡もその詮なく、顔ゆがみて見ゆるに同じ。心正平ならざれば、見るも聞くも考へも、皆ゆがむべし。慎しまずばあるべからず。

「貞観政要」(じょうがんせいよう) 中国の唐時代の二代目皇帝「太宗」と家臣の間でのやり取りを後年まとめた書物。太宗は、父初代皇帝を助けて唐を樹立したが、二代目となる過程では、兄弟を討つなどの身内との戦いもしている。ここまでは、織田信長に似ているが、異なるのは次のことである。それは、皇帝となってからは、諫言を行なう心の強い家臣を置いて、自分の間違いを積極的に正そうとしたことである。その諫言などをまとめた書物が「貞観政要」であり、指導者としての心構えなどを学ぶ書物として、現代にも通じる良書である。徳川家康も、唐代三百年の基たる心を学ぼうとして、愛読したと言われている。
二宮尊徳は、この説話で、守勢は易しいと思われているが、それは、水を満々に入れた器を、水をこぼさないように水平を保って持ち続けるのと同じで、実際にはなかなか難しいものである。特に、心を正しくして、私欲を滅して、心の水平を保つことが必要である、と教えている。この説話で、後継者たる者は「心の水平を保て」と尊徳は教えているが、それは、まことに当を得た言葉である。後継者は、後継者となった時に、色々なことが心を揺るがすものである。自分が本当に後継者としての資格があるのであろうかということで悩む人も居るであろうし、後継者となった途端に、おべっかを使って擦り寄ってくる人も居るであろうし、逆に、後継者を非難の眼で見る人も居るであろう。色々と、心を揺さぶられるものである。この内、資格については、後継者となってしまったからには、少なくとも「ある」と無理やりにでも思いこむことである。そして、日常活動の中から、不足事項が見えてきたならば、書物や先輩の助言などから学んで、補うようにすれば良い。怖いのは、おべっか使いを受け入れて、回りに取りこんでしまうことである。守勢の難易の問いを発した「貞観政要」が、実は、皇帝がおべっかに負けまいとして、逆に諫言をしてくれる強い意思の家臣を置いたことに端を発した書物であることを知って、非難をしてくれる人は、有り難い存在であると考えるようにすれば、心の水平が実現できる。学んで欲しいところである。  
143、道徳の本体の諭し
世の中刃物を取り遣りするに、刃の方を我が方へ向け、柄(え)の方を先の方にして出すは、これ道徳の本意なり。この意を能く押し弘めば、道徳は全かるべし。人々この如くならば天下平かなるべし。それ刃先を我方にして先方に向ざるは、その心、万一誤りある時、我が身には疵(きず)を付けるとも、他に疵を付けざらんとの心なり。万事この如く心得て我が身上をば損すとも、他の身上には損は掛(かけ)じ、我が名誉は損するとも、他の名誉には疵を付けじと云う精神なれば、道徳の本体全しと云うべし。これより先はこの心を押し広むるのみ。

二宮尊徳は、この説話で、礼儀について説明し、礼儀のすべてを教える基として、刃物の正しい受け渡し方を例に上げて、教えている。尊徳の言う通り、刃物の正しい受け渡し方こそ、その中に礼儀が備えていくべき心の有り方が全部詰まっている。元々、礼儀は、人と人の間で、どちらかが利益を得ると言う関係でなく、両方が好ましい利益を得られる状態を実現しようという心の下に,創り出された行動方式である。その行動方式の下では、働きかけをする方の人が、一歩下がった位置に居るとして行動すれば、それが実現できるという考え方が望まれる。そうすることで、働きを受け取る側の人も、自分も一歩下がったところから行動をしようと考えることとなり、結果として、双方が好ましい利益、この場合は、好ましい心持、を得ることとなるのである。つまり、礼儀は、求めないことから始まるのである。現代の日本において、果たしてこの心が保たれているのであろうか。皆無であるとは言わないが、失われている割合が多くなっているのではないか。礼儀は形ではなく、心である。心が、形となって表れるだけである。「誠於中、形於外」(内に誠有れば、外にあらわる 大學)なのである。  
144、鉢植(はちうえ)の諭し
翁曰く、人の身代はおおよそ数ある物なり。譬えば鉢植(はちうえ)の松の如し。鉢の大小に依りて、松にも大小あり。緑を延(のび)次第にする時は、忽(たちまち)枯気付く物なり。年々に緑をつみ、枝をすかしてこそ美(うるわ)しく栄ゆるなれ。これ心得べき事なり。この理をしらず、春は遊山に緑を延し、秋は月見に緑を延ばし、かくの如く拠(よりどころ)なき交際と云うては枝を出し、親類の付き合いと云うては梢(こずえ)を出し、分外に延び過ぎ、枝葉次第に殖(ふ)えゆくを、伐り捨てざる時は、身代の松の根、漸々(ぜんぜん)に衰(おとろ)えて、枯れ果(は)つべし。さればその鉢(に応じたる枝葉を残し、不相応の枝葉をば年々伐りすかすべし。尤も肝要の事なり。

二宮尊徳は、この説話で、鉢植えの松を例に挙げて、身代を維持していくための方法について述べている。その中で、こまめに気を使っていくことが絶対に必要なことであり、身代の基に相当する松の根が負担できる限界を知って、その力の内で枝葉を伸ばしてやるようにしていくことが大事である、と教えている。松は、植木鉢の中にあることは意識していないから、常に、自分が伸ばせる精一杯のところまで枝葉を伸ばそうとするので、バランスが崩れるのである。松を鉢に植えた責任者である人間が、その鉢の中の根が耐え得る限界を知って、枝葉を整理してやらねばならないといっているのである。このようなことは、社会の中においても多数ある。根の耐力を見極める能力が大事である。 
145、植樹の諭し
翁曰く、樹木を植えるに、根を伐る時は、必ず枝葉をも切り捨つべし。根少くして水を吸う力少なければ枯るゝ物なり。大に枝葉を伐すかして、根の力に応ずべし。然せざれば枯るゝなり。譬えば人の身代稼ぎ人が欠け家株(かかぶ)の減ずるは、植え替えたる樹(き)の、根少くして水を吸い上る力の減じたるなり。この時は仕法を立ちて、大に暮し方を縮(ちぢ)めざるを得ず。稼ぎ人少き時大に暮せば、身代日々減少して、終(つい)に滅亡に至る。根少くして枝葉多き木の、終に枯るゝに同じ。如何とも仕方なき物なり。暑中といえども、木の枝を大方伐り捨て、葉を残らずはさみ取りて、幹を菰(こも)にて包みて植え、時々この菰に水をそゝぐ時は枯れざる物なり。人の身代もこの理なり、心を用いるべし。

二宮尊徳は、前の説話に続いてこの説話でも、樹木を例に挙げて、根と枝葉とのバランスについて、その大切さを述べている。事業や家庭の力が弱まってきた時は、根である基本的な力、財務力や技術力、開発力などの現状を良く把握して、その力に応じた事業展開に止めることが必要である、と教えている。 
 

 

146、推譲の道の諭し
翁曰く、樹木老木となれば、枝葉美(うるわ)しからず。痿縮(いしゅく)して衰えものなり。この時大に枝葉を伐りすかせば、来春は枝葉瑞(みず)々しく美しく出るものなり。人々の身代も是に同じ。初めて家を興す人は、自ら常人と異なれば、百石の身代にて五十石に暮すも、人の許すべけれど、その子孫となれば、百石は百石丈(だけ)、二百石は二百石だけの事に交際をせざれば、家内も奴婢(ぬひ)も他人も承知せざるものなり。故に終に不足を生ず。不足を生じて、分限を引去る事を知らざれば、必ず滅亡す。これ自然の勢(いきおい)、免れざる処なり。故に予常に推譲の道を教える。推譲の道は百石の身代の者、五十石にて暮しを立て、五十石を譲るを云う。推譲の法は我が教え第一の法にして、則ち家産維持且つ漸次増殖の法方なり。家産を永遠に維持すべき道は、この外になし。

二宮尊徳は、この説話でも前二つの説話と同様に、樹木を例にして事業や家の維持、継続に関わる良い方法として、推譲があると教えている。尊徳が言うように、天道には善悪は無く、天道の下では、それぞれの要因が、すべて能力の限りに成長しようとするから、力関係しか最後に残るものはなくなる。また、人道は、天道に反して作り上げている部分があるので、天道は、その反している部分を少しでも早く自分の支配下に戻そうとする。そのために、人道の弱い部分に目をつけて、そこに攻撃を仕掛けてくる。その時に適切な対応ができなければ、天道の支配を受けて、人道は崩れ去る。人が、管理や耕作を放棄した土地では、二年も経たない内に、葛やすすき、芦がその土地を覆い、地中深く根を張り込ませ、いわゆる荒地にしてしまうのが、その一例である。天道に任せれば、天道は、人道を壊して、その人道の上に築き上げた仕組を滅ぼす方向に進ませる、と捉えていかなければならないのである。人は、可能な限り、管理を怠らないようにしていかなければならない。  
147、楠公の旗文の諭し
大和田山城、楠公の旗の文也とて、左の文を写し来りて真偽如何と問う。
 楠 非は理に勝つ事あたはず
 公 理は法に勝つ事あたはず
 旗 法は権に勝つ事あたはず
 文 権は天に勝つ事あたはず
 天は明らかにして私なし
翁曰く、理法権(けん)と云う事は、世に云う事なり。非理法権天と云わるは珍(めづら)し。世の中はこの文の通り也。如何なる権力者も、天には決して勝つ事出来ぬなり。譬えば理ありとて頼むに足らず、権に押(お)さるゝ事あり。且つ理を曲げても法は立つべし。権を以て法をも圧すべし。然りといえども、天あるを如何せん。俗歌に「箱根八里は馬でも越すが 馬で越されぬ大井川」と云えり。その如く人と人との上は、智力にても、弁舌にても、威権(いけん)にても通らば通るべけれど、天あるを如何せん。智力にても、弁舌にても、威権にても、決して通る事の出来ぬは天なり。この理を仏には無門関(むもんかん)と云えり。故に平氏も源氏も長久せず、織田氏も豊臣氏も二代と続かざるなり。されば恐るべきは天なり。勤むべきは事天の行いなり。世の強欲者、この理を知らず、何処(いづこ)迄も際限なく、身代を大にせんとして、智を振い腕を振うといえども、種々の手違い起りて進む事能わず。又権謀(けんぼう)威力を頼んで専ら利を計(はか)るも、同じく失敗のみありて、志を遂る事能わざる。皆天あるが故なり、故に大学には、止る処を知れと教えたり。止る処を知れば、漸(ぜん)々進むの理あり。止る処を知らざれば、必ず退歩を免れず、漸々退歩すれば終(つい)に滅亡すべきなり。且つ天は明かにして私なしと云えり。私なければ誠なり。中庸に、誠なれば明らかなり、明らかなれば誠なり、誠は天の道なり、之を誠にするは人の道なり、とあり。之を誠にするとは、私を去るを云う。則ち己に克(か)つなり。難しき事はあらじ。その理よく聞えたり。その真偽に至りては予が知る処にあらず。

二宮尊徳は、この説話で、人道を超えて、天が人に求めることがある。それがまこと(誠、真)であり、それを実現しようとすることで、人道における善が実現できる、と教えている。人道は、人類が生きていくために、天道のある部分を人力によって変更して、打ちたてた道であるが、天道の支配下にあることからは逃れられない。人道が、天道の下で、活動を許されるのは、天道が求める「まこと」に従っている時であり、その「まこと」にそむく最大の要素が「私欲」である、と尊徳は言う。つまり、人道は、人類全体のために作られたのであり、その人道を破壊する要素として最も大きいのが、一個人のための欲望、「私欲」である。従って、人は、可能な限り私欲を押さえて、他の人も含めた、公のために良いことを望んで、行動していかなければなせないのである。尊徳は、そのように言っている。  
148、悟道の諭し
或る人問う、「春は花 秋は紅葉と夢うつゝ 寝(ね)ても醒(さめ)ても有明の月」とは如何なる意なるや。翁曰く、これは色則是空々則是色と云う心を詠(よめ)るなり。それ色とは肉眼に見ゆる物を云う。天地間森羅万象これなり。空とは肉眼に見えざる物を云う。いわゆる玄の又玄と云えるもこれなり。世界は循環変化の理にして、空は色を顕(あらわ)し、色は空に帰す。皆循環の為に変化せざるを得ざる、これ天道なり。それ今は野も山も真青(まっさお)なれども、春になれば、梅が咲き桃桜咲き、爛漫(らんまん)馥郁(ふくいく)たり。それも見る間に散り失(う)せ、秋になれば、麓(ふもと)は染まりぬ、峰も紅葉しぬ。実に錦繡(きんしょう)をも欺(あざ)むけりと詠(なが)むるも、一夜木枯(こがらし)吹けば、見る影もなくちり果てるなり。人も又同く、子供は育ち、若年は老年になり、老人は死す。死すれば又産(うま)れて、新陳交代する世の中なり。さりとて悟りたる為に、花の咲くにあらず、迷ひたるが為に、紅葉の散るにあらず、悟りたる為に、産るゝにあらず、迷ひたる為に、死するにもあらず。悟りても迷いても、寒い時は寒く、暑い時は暑く、死ぬ者は死し、生るゝ者は生れて、少しも関係なければ、これを「ねても覚めても在明の月」と詠るなり。別意あるにあらず。只悟道と云うものも、敢えて益なきものなる事をよめるなり。

二宮尊徳は、この説話で、仏道などで、悟りということを言うが、仏道を極めて多くの人を救おうと考える人には、自分の精神を清浄にしておくための悟りも良いが、この世界で人との交わりをしながら、協働して幸せを求めていく人達にとっては、この世界から遊離するような悟りは、逆に害になるだけであるから、注意せよ、と教えている。曹洞宗の開祖である道元が、中国に修行に行ったときに、高僧と言われる人に教えを請おうとして尋ねたところ、食事を作っている僧しか居なかった。道元が、散々探したところ、目的の高僧は、その食事当番の僧であった、という話も伝わっている。道元は、修行を終わって日本に帰るときに、寺院用の器具も経典も一つも持ち帰らなかった。本来の悟りとは、そのようなものである。禅問答で、便所に備えてあるくそ掻き棒も仏である、というのがある。われわれ誰でもが、いつでも仏なのである、ということらしい。悟りなどと言って、特別な境地があると考えるのが間違いなのである。ただ少し、余分に世の中が見えるようになるだけと、理解すべきである。  
149、神儒仏の書の諭し
神儒仏の書、数万巻あり。それを研究するも、深山に入り坐禅するも、その道を上り極(きわむ)る時は、世を救い、世を益するの外に道は有るべからず。もし有りといえば、邪道なるべし。正道は必ず世を益するの一つなり。たとえ学問するも、道を学ぶも、この処に到らざれば、葎(むぐら)蓬(よもぎ)の徒(いたずら)にはい広がりたるが如く、人の世に用無きものなり。人の世に用無きものは、尊ぶにたらず。広がれば広がる程、世の害なり。幾年の後か、聖君出て、この如き無用の書は焼き捨てる事もなしと云うべからず。焼捨る事なきも、荒蕪を開くが如く、無用なる葎(むぐら)蓬(よもぎ)を刈り捨て、有用の道の広まる、時節もなしと云べからず。ともかくも、人の世に益なき書は見るべからず、自他に益なき事は為すべからず、光陰は矢の如し、人生は六十年といえども、幼老の時あり、疾病あり、事故あり、事を為すの日は至って少ければ、無用の事はなす勿れ。

二宮尊徳は、この説話で、この世の中には色々な教えと称するものがあるが、本物は、いずれもこの世の苦しみから人を救い、人々の心を豊かにすることを目的にしていなければならない。もし、それ意外の目的があるとすれば、それは邪道である。正しい道、正しい教えというものは、必ずこの世界に有用なものなのである,と教えている。 
150、弘法大師の法力と尊徳道の諭し
青柳又左衛門曰く、越後の国に、弘法大師の法力に依りて、水油地中より湧(わ)き出、今に到て絶(た)えずと。翁曰く、奇は奇なりといえども、只その一所のみ、尊ぶに足らず。我が道はそれと異(こと)にして、尤も奇(き)也。何国にても、荒地を起して菜種(なたね)を蒔き、その実法りを得て、これを油屋に送れば、種一斗にて、油二升はきっと出て、永代絶えず。これ皇国固有天祖伝来の大道にして、肉食妻帯暖衣飽食し、智愚(ちぐ)賢不肖(けんふしょう)を分たず、天下の人をして、皆行わしむべし。これ開闢以来相伝の大道にして、日月の照明ある限り、この世界有らん限り、間違いなく行るゝ道なり。されば大師の法に勝れる、万々ならずや。且つ我が道又大奇特(きどく)あり。一銭の財なくして、四海の困窮を救い、普(あまね)く施(ほどこ)し海内を富饒(ふにょう)にして猶余りあるの法なり。その方法只分度を定るの一のみ。予、これを相馬、細川、烏(からす)山、下館(しもだて)等の諸藩に伝う。然りといえども、これは諸侯大家にあらざれば、行うべからざるの術なり。この外に又術あり。原野を変じて田畑となし、貧村を変じて福村となすの術なり。又愚夫愚婦をして、皆為さしむ可き術あり。山家に居て海魚を釣り、海浜(かいひん)に居て深山の薪(たきぎ)を取り、草原より米麦を出し、争わずして必ず勝つの術なり。只一人をして、能くせしむるのみにあらず、智愚を分かたず、天下の人をして皆能くせしむ。如何にも妙術にあらずや、能く学んで国に帰り、能く勤めよ。

二宮尊徳は、この説話で、越後では、弘法大師の法力で湧出するようになった石油が出ているという話を聞き、私が進めている事業でも、全国どこでも、菜種を栽培し、それを油にすれば、毎年、不足無く油を手に入れることができる。このことは、太陽の光がある限り、何年でも続けていくことができる方法である。この方法をどう評価するのか。また、私の事業方法によれば、毎年繰り返して食物や綿などを産出し、多くの人を幸せにすることが出来ている。しかも、これを日本全国に広めたいと考えているのである。既に、幾つかの藩や村へそれを広げた。それについて良く考えてみよと諭している。尊徳は、あまねく全国に仕法を広げようとしていた。それに向けて、仕法の手続きと使用する書式の標準化に努めていた。幕府から、日光神領の仕法を命じられた時に、これを突破口として、幕府を通して全国に仕法を広げられると内心喜んで、精力的に標準化の完成に取り組み、一応の達成を見て、それを幕府に提出して、四方実施の命令を得たのである。しかし、尊徳は、日光神領の仕法途中で命を終わらせ、その後数年で幕府もその役目を終わらせてしまった。残念ながら、尊徳の夢も、半ばでしぼんでしまったのである。尊徳と幕府の命が、十年程度長かったならば、明治大正昭和初期の農民の苦しい生活は、もう少し和らげることが出来ていたのではないかと思われる。真に残念なことであった。 
 

 

151、奇々妙々の世の中の諭し
翁又曰く、杣(そま)が深山に入りて木を伐(き)るは、材木が好きにて伐るにはあらず。炭焼(すみやき)が炭を焼くも、炭が好きにて焼くにはあらず。それ杣も炭やきも、その職業さへ勉強すれば、白米も自然に山に登り、海の魚も里の野菜も、酒も油も皆自ら山に登るなり、奇々妙々の世の中と云うべきなり。

二宮尊徳は、この説話で、天分に従って職業を極めた人は、比較的所得が多くなる。その所得を目指して、白米その他が、山さえも登っていく、と教えている。  
152、生前仏、生前神の諭し
翁曰く、世界、人は勿論、禽獣虫魚草木に至るまで、凡そ天地の間に生々する物は、皆天の分身と云べし。何となれば孑孒(ぼうふり)にても蜉蝣(ぶゆう)にても草木にても、天地造化の力をからずして、人力を以て生育せしむる事は、出来ざればなり。而て人はその長たり、故に万物の霊と云う。その長たるの証は、禽獣虫魚草木を、我が勝手に支配し、生殺して何方よりも咎(とがめ)なし。人の威力は広太なり。されど本来は、人と禽獣(きんじゅう)と草木と何ぞ分たん。皆天の分身なるが故に、仏道にては、悉皆成仏と説けり。我国は神国なり、悉皆成神と云うべし。然るを世の人、生(い)きて居る時は人にして、死して仏と成ると思ふは違(たが)へり。生て仏なるが故に、死て仏なるべし。生て人にして、死して仏となる理あるべからず。生きて鯖(さば)の魚が死して鰹節(かつおぶし)となるの理なし。林にある時は松にして伐て杉となる木なし。されば生前仏にて、死して仏と成り、生前神にして、死して神なり、世に人の死せしを祭て、神とするあり。これ又生前神なるが故に神となるなり。この理明白にあらずや。神と云い、仏と云う名は異(こと)也といへども、実は同じ。国異なるが故に名異なるのみ。予この心をよめる歌に「世の中は草木もともに神にこそ死して命のありかをぞしれ」、「世の中は草木もともに生如来死して命の有かをぞしれ」、呵々。

二宮尊徳は、この説話で、地上に生きるもの、動植物すべては、天の配慮によってこの世に登場したのであり、天の分身といえる。従って、すべての存在の間に差はないはずであり、どのような人も等しく差別なく待遇されるべきである、と教えている。この時の説話で、尊徳が話していることは、すべての生物は天の分身として平等であるということである。当然のことながら、人もすべて平等の存在である、という考え方である。尊徳の発言には、士農工商を身分差としているものはない。すべて、職業としての捉え方であり、皆平等という意識が充満している。その意識の下に事業を行なっているので、管理層である武士層に対して、堂々と分度の設定を求め、分度外の収益は、農民などの生活向上に寄与する方向に使用している。事業の遂行に際しても、農民層の人々を尊徳の名代として活用し、各地で仕法の実地指導に当たらせてもいる。  
153、循環輪転の諭し
翁曰く、儒に循環と云い、仏に輪転と云う。則ち天理なり。循環とは、春は秋になり暑は寒に成り、盛は衰に移り富は貧に移るを云う。輪転と云うも又同じ。而て仏道は輪転を脱っして、安楽国に往生せん事を願い、儒は天命を畏(おそ)れ天に事(つか)えて泰山の安を願うなり。予が教える所は貧を富にし衰を盛にし、而て循環輪転を脱して、富盛の地に住せしむるの道なり。それ菓木今年大に実法れば、翌年は必ず実法らざる物なり。これを世に年切りと云う。循環輪転の理にして然るなり。これを人為を以て、年切りなしに毎年ならするには、枝を伐すかし。又莟(つぼみ)の時につみとりて花を減(へら)し、数度肥を用いれば、年切りなくして毎年同様に実法る物なり。人の身代に盛衰貧富あるは、則ち年切りなり。親は勉強なれど子は遊惰とか、親は節倹なれど子は驕奢(きょうしゃ)とか、二代三代と続かざるは、いわゆる年切りにして循環輪転なり。この年切なからん事を願わゞ、菓木の法に俲(なら)いて、予が推譲の道を勤むべし。

二宮尊徳は、この説話で、輪廻、循環は天理であるから不変のものと言うが、そのようなことはない。例えば、推譲を行なうなどの人智を尽くせば、変えることが出来るのであるから、諦めずに挑戦すべきである、と教えている。尊徳の言うように、一部の循環は、果樹栽培のようにそれほどの難しさを伴わないで、変更することはできるが、それは短い期間の循環であって、世代交代やそれ以上の長い期間にわたる循環を変化させることは、なかなか難しいことである。だが、人の生活に多大な悪影響を与える循環だけは、あらゆる人達の英知を集めて、何としても変化させなければならないのである。  
154、循環の理の諭し
翁曰く、人の心よりは、最上無類清浄と思ふ米も、その米の心よりは、糞(ふん)水を最上無類の好き物と思ふなるべし。これも又循環の理なり。

二宮尊徳は、この説話で、人の食べた食糧が、人の糞尿となり、それが作物や牧草の良い肥料となって、作物や牧草の中に取り込まれ、食料となって、また人の前に来る。これも、循環である、と教えている。不潔、寄生虫の伝播などということから、糞尿を肥料として用いることが行なわれなくなって久しいが、家畜の糞尿の清浄肥料化技術の進展などが契機となって、一部に人の糞尿も肥料化して使用することが、リサイクルを理念とする時代の要請にも合うということで、一部に見なおしの機運もあるとのことである。究極のリサイクルとして、現代の科学を活用して、実現すべきであろう。 
155、女大学の諭し
或る人曰く、女大学は、貝原氏の著なりといへど、女子を圧する甚(はなはだ)過ぎたるにあらずや。翁曰く、然らず。女大学は婦女子の教訓、至れり尽せり、婦道の至宝と云うべし。かくの如くなる時は、女子の立つべき道なきが如しといへども、是女子の教訓書なるが故なり。婦女子たる者、能くこの理を知らば、斉(ととの)はざる家はあらじ。舜(シユン)の瞽瞍(コソウ)に仕へしは、則ち子たる者の道の極にして、同一の理なり。然りといへども、もし男子にして女大学を読み、婦道はかゝる物と思ふはもっての外の過(あやまち)なり。女大学は女子の教訓にして、貞操心を鍛練するための書なり。それ鉄も能々鍛練せざれば、折れず曲がらざるの刀とならざるが如し。総(すべ)て教訓は皆然り。されば、男子の読むべき物にあらず。誤解する事勿れ。世にこの心得違い往々あり。それ教えは各々異なり。論語を見ても知らるべし。君には君の教えあり、民には民の教えあり、親には親、子には子の教えあり。君は民の教えを学ぶ事勿れ、民は君の教えを学ぶなかれ、親も又然り、子も又然り、君民親子夫婦兄弟皆然り。君は仁愛を講明すべし、民は忠順を道とすべし、親は慈愛、子は孝行、各々己が道を違へざれば、天下泰平なり。之に反すれば乱なり。男子にして、女大学を読む事勿れと云うは、是が為なり。譬えば教訓は病に処する藥方の如し。その病に依て施す物なればなり。

二宮尊徳は、この説話で、貝原益軒の女大學は、男が読んで、それに基づいて女性に対して、ああしろこうしろと言う為の書物ではないのだから、男は読んではならない。あくまでも、女性が読んで、自らを律する気持ちを養う書物であるから、勘違いしないように、と教えている。 
 

 

156、嫁と姑の不平の諭し
翁の家に親しく出入する某なる者の家、嫁と姑(しうと)と中悪しゝ、一日その姑来て、嫁の不善を並べ喋(ちょう)々せり。翁曰く、これ因縁にして是非なし、堪忍するの外に道なし。それ共にその方若き時、姑を大切にせざりし報(むくい)にはあらずや。とにかく嫁の非を数へて益なし。、自ら(省(かえ)りみて堪忍すべしと、いともつれなく言い放ちて帰さる。翁曰く、これ善道なり。かくの如く言い聞す時は、姑必ず省みる処ありて、向来の治り、幾分か宜しからん。掛(かか)る時に坐(ざ)なりの事を言て共共に嫁を悪(あし)く云う時は、姑弥(いよ)々嫁と中悪敷なる者なり。惣(すべ)てこれ等の事、父子の中を破り嫁姑の親しみを奪ふに至る物なり、心得ずばあるべからず。

二宮尊徳は、この説話で、嫁と姑の間のもめごとなど、家族内のいさかいで間に入った時は、お座なりなことを言ったりすると、その者に気を持たせることになる。こういう場合は、反省を促すように少し厳し目に諭したほうが良い、と教えている。嫁と姑の間がしっくり行かないのは、永遠の課題である。それはさておいて、尊徳の前におばちゃんが現れて、井戸端会議風な題材で喋っているという場面設定が、いかにも、広い心で村の誰とでも差別なく付き合い、話をする、尊徳の面目躍如たるところである。このように、人々の心の中にまで入って、安心して交われる関係が作り上げられたことこそが、事業を成功に進ませた最高の要因なのである。それは、長い間の回村(人々と接し、作物の出来具合や環境の状況を把握するために、村中を巡回すること)の実施、村人達と同じレベルの目線での喜怒哀楽の共有、共感、等々を基にしてじっくり醸成されたものである。  
157、歌の深意の諭し
翁曰く、「郭公鳴つる方をながむれば 只有明の月ぞ残れる」。この歌の心は、譬えば鎌倉の繁花(はんか)なりしも、今は只跡(あと)のみ残りて物淋(さび)しき在様(ありさま)なりと、感慨の心をよめる也。只鎌倉のみにはあらず、人々の家も又然り、今日は家蔵(いえくら)建ち並べて人多く住み賑(にぎ)はしきも、一朝行違へば、身代限りとなり、屋敷のみ残るに至る。恐れざるべけんや、慎(つつまし)まざる可けんや。惣(すべ)て人造物は、事ある時は皆亡びて、残る物は天造物のみぞ、と云う心を含みて詠めるなり。能く味わいてその深意を知るべし。

二宮尊徳は、この説話で、人道を維持していくためには、日々、細かく心を配り、努力をしていくことが不可欠であり、これを怠った時に、後に残るのは、ただ、天の作った自然物だけである、と教えている。  
158、網の目の諭し
翁曰く、凡そ万物皆一ツにては、相続は出来ぬものなり。それ父母なくして生ずる物は草木なり。草木は空中に半分幹枝を発し、地中に半分根をさして生育すればなり。地を離れて相続する物は、男女二ツを結び合せて倫をなす。則ち網の目の如し。それ網は糸二筋(すじ)を寄ては結び、寄せては結びして網となる。人倫もその如く、男と女とを結び合せて、相続する物なり。只人のみならず、動物皆然り。地を離れて相続する物は、一粒の種、二つに割れ、その中より芽を生ず。一粒の内陰陽あるが如し。且つ天の火気を受け、地の水気を得て、地に根をさし、空に枝葉を発して生育す。則ち天地を父母とするなり。世人草木の地中に根をさして、空中に育する事をば知るといへども、空中に枝葉を発して、土中に根を育する事を知らず。空中に枝葉を発するも、土中に根を張るも一理ならずや。

二宮尊徳は、この説話で、動植物の子孫への生命伝達の仕組について述べている。人や鳥獣は、子供が一人立ちするまで親がそばについて育成するが、植物は、種が地面に落ちて、そこから芽や根を出して育ち始めるが、その時に、太陽は光を与え、地面は水分を与えているので。天地が父母のようである。だが、それだけでは足りないので、人が地中に根を張れるように、土地を耕しておくなどの手助けをしてやることが必要なのである、と教えている。尊徳は、田畑を耕した跡に種を蒔くが、なぜ耕さなければならないのかということを、ここで説明している。それは、根を深く張れるようにしてやるためである。目に見える枝葉の部分の成長を助けることも大事だか、しっかり根を張らせることも同じくらい大事なことなのである。  
159、勤と倹と譲の諭し
翁曰く、世上一般、貧富苦楽と云い、躁(さわ)げども、世上は大海の如くなれば、是非なし。只水を泳ぐ術の上手と下手とのみ。舟を以て用便する水も、溺死(できし)する水も水に替りはあらず。時によりて風に順風あり逆風あり。海の荒き時あり穏やかなる時あるのみ。されば溺死を免かるゝは、泳ぎの術一つなり、世の海を穏やかに渡るの術は、勤と倹と譲の三つのみ。

二宮尊徳は、この説話で、貧富、苦楽と言っても、海で泳ぐのがうまいか下手かという位のことで、生まれ出た違いなのである。この違いを解消する泳ぎの術は、、勤勉と倹約と推譲との、僅か三つだけなのである、と教えている。貧困、苦悩という、どちらかといえば暗くなる題材を、僅かな違いしかないことであり、それを解消するにも、たった三つを実行すれば良いのだと明るく言いきって、希望を持たせるようにしている尊徳流の、人心掌握術の極意である。 
160、陰陽の諭し
翁曰く、凡そ世の中は陰々と重なりても立たず、陽々と重るも又同じ。陰陽々々と並び行るゝを定則とす。譬えば寒暑昼夜水火男女あるが如し。人の歩行も、右一歩左一歩、尺蠖(シヤクトリ)虫も、屈(かがみ)ては伸び屈ては伸び、蛇も、左へ曲り右に曲りて、この如くに行なり、畳の表や莚(むしろ)の如きも、下へ入ては上に出、上に出ては下に入り、麻布(あさぬの)の麁(あら)きも羽二重の細(こまか)なるも皆同じ。天理なるが故なり。

二宮尊徳は、この説話で、この世では、総てが、寒暑、高低、陰陽など二つの対立する物事が構成している。しかもその対立する物事は、順番に出現してくるのである、と教えている。尊徳の基本的な思想では、対立概念はすべて一つの円の中での対極であるから、円が転がるようにして次々と現れて来る、と説明されている。しかも、対極とは言っても、その間は連続しているので、何処から何処までという区分はつけられないのである。その上、この対極概念を作り出したのは、人が生きるために打ち立てた人道であり、天道には、そのような概念は存在しない。ということなのである。その対極にある物事が、きちんと交互に現れてこそ、人道に役立つものになると言っているのである。 
 

 

161、循環の道理の諭し
翁曰く、火を制する物は水なり。陽を保つ物は陰なり。世に富者あるは貧者あるが為なり。この貧富の道理は、則ち寒暑昼夜陰陽水火男女、皆相持合て相続するに同じ。則ち循環の道理なり。

二宮尊徳は、この説話で、前の説話に続いて、対極概念について、判りやすく説明している。ここでは、対極に物事が存在し合うことで、それらが交互に出現することや、相互に引き合い均衡することでこの世の釣り合いを生み出し、永遠を生み出す力になっている、と教えている。この対極思想こそが、尊徳思想の根幹を構成しているのである。  
162、孝行の諭し
翁曰く、飲食店に登りて、人に酒食を振舞うとも、払いがなければ、馳走(ちそう)せしとは云う可らず。不義の財を以てせば、日々三牲(せい)の養いを用いるといえども、何ぞ孝行とせん。禹(う)王の飲食を薄うし衣服を悪(あし)うし、と云えるが如く、出所が慥(たしか)ならざれば孝行にはあらぬなり。或る人の発句に「和らかにたけよ ことしの手作麦」。これ能くその情を尽せり。和らかにと云う一言に孝心顕(あらわ)れ、一家和睦の姿も能く見えたり。手作麦と云わるに親を安ずるの意言外にあふる、よき発句なるべし。

二宮尊徳は、この説話で、この世では、買い物をすれば必ず対価を支払わなければならない。また、支払う金は、正しい行為をして得た金で無ければならない。親孝行をしたとしてもその金の出所が正しいと明確に証明できなければ、それは親孝行にならない。尊徳の事業世界ではそのことを堅く守っていくように、と教えている。この説話から、当時も既に、汚いお金が横行していたことが覗える。博打、窃盗、汚職などで稼いだ金を近づけないようにしていくことが大事である。  
163、小積富致の諭し
翁曰く、世の中大も小も限りなし。浦賀港にては米を数えるに、大船にて一艘(そう)二艘と云い、蔵前にては三蔵(くら)四蔵と云うなり。実に俵(たわら)米は数を為ざるが如し。然れども、その米大粒なるにあらず、通常の米なり。その粒を数えれば一升の粒六七万有るべし。されば一握りの米も、その数は無量と云うて可なり。ましてその米穀の功徳に於てをや。春種を下してより、稲生じ風雨寒暑を凌(しの)ぎて、花咲き実り、又こきおろして、搗(つ)き上げ白米となすまで、この丹精容易ならず実に粒々辛苦なり。その粒々辛苦の米粒を日々無量に食して命を継ぐ。その功徳、又無量ならずや。能く思うべし。故に人は小々の行を積むを尊むなり。予が日課繩索(なわない)の方法の如きは、人々疑わずして勤るに進む。これ小を積て大を為せばなり。一房の繩にても、一銭の金にても、乞食に施すの類にあらず、実に平等利益の正業にして、国家興復の手本なり。大なる事は人の耳を驚すのみにして人々及ばずとして、退けば詮無き物なり。たとえ退かざるも、成功は遂げ難き物なり。今ここに数万金の富者ありといえども、必ずその祖その先一鍬の功よりして、小を積んで富を致せしに相違なし。大船の帆柱、永代の橋杭(くい)などの如き、大木といえども一粒の木の実より生じ、幾百年の星霜を経て寒暑風雨の艱難を凌ぎ、日々夜々に精気を運んで長育せし物なり。而て昔の木の実のみ長育するにあらず。今の木の実といえども、又大木となる疑ひなし。昔の木の実今の大木、今の木の実後世の大木なる事を、能く々弁えて、大を羨(うらや)まず小を恥じず、速ならん事を欲せず、日夜怠らず勤るを肝要とす。「むかし蒔(ま)く木の実大木と成にけり 今蒔く木の実後の大木ぞ」。

二宮尊徳は、この説話で、人々は、大小ということに関心を寄せており、小よりも大を望むことが多いが、世の中の大というものは、総て、小が元になっているのであるから、最初から大ばかり望んではならない。特に、米の数え方について、浦賀では、大船で「何艘」と数え、蔵前では、「何蔵」と言って数えるが、その基となる米の大きさが特別大きいわけではなく、皆、同じように小さな一粒から、作られているのである。と教えている。これも「積小為大」の一面である。決して、小さいことや少ないことを嘆いて、諦めずに、実施すべきことを一つずつ確実にこなしていけば、やがて大きくなれることを、信じて進むべきである。  
164、ホドナンパンナムサマダの諭し
或る人、一飯に米一勺づゝを減ずれば、一日に三勺、一月に九合、一年に一斗余、百人にて十一石、万人にて百十石なり。この計算を人民に諭(さと)して富国の基(もとい)を立んと云り。翁曰く、この教諭、凶歳の時には宜しといへども、平年この如き事は、云ふ事勿れ。何となれば凶歳には食物を殖(ふや)す可らず、平年には一反に一斗づゝ取り増せば、一町に一石、十町に十石、百町に百石、万町に万石なり。富国の道は、農を勧(すす)めて米穀を取増すにあり。何ぞ減食の事を云んや。それ下等人民は平日の食十分ならざるが故に、十分に食ひたしと思ふこそ常の念慮)なれ。故に飯の盛方の少きすら快(こころよ)からず思ふ物なり。さるに一飯に一勺づゝ少く喰へなどゝ云事は、聞くも忌(いま)々しく思ふなるべし。仏家の施餓鬼供養(せがきくよう)に、ホドナンパンナムサマダと繰り返し繰返し唱(とな)ふるは、十分に食ひ玉へ沢山に食ひ玉へ、と云事なりと聞けり。されば施餓鬼の功徳は、十分に食へと云ふにあり。下等の人民を諭さんには、十分に喰て十分に働け、沢山喰て骨限り稼げと諭し、土地を開き米穀を取増し、物産の繁殖する事を勤むべし。それ労力を増せば土地開け物産繁殖す、物産繁殖すれば商も工も随て繁栄す。これ国を富すの本意なり。人或は云ん、土地を開くも開くべき地なしと、予が目を以て見る時は、何国も皆半開なり。人は耕作仕付あれば皆田畑とすれども、湿地乾地、不平の地麁悪(そあく)の地、皆未だ田畑と云う可らず、全国を平均して、今三回も開発なさゞれば、真の田畑とは云うべからず、今日の田畑は只耕作差支なく出来るのみなり。

二宮尊徳は、この説話で、指導者は、目を下につけて、減らすとか減食ということを考えてはいけない。そのようなことに頭を使う暇に、どうしたらもう少し増やせるかと考えるべきである、と教えている。人は、減らすことの方が、楽に出来ると思いこんで、何か困難に出会うと、すぐに、減少の手筈について思案を始める。限られた収入しか無いと明確に判っている時や、余分な支出を多量にしている時には、それを実施することも必要であるが、良く調べてみれば、まだ拡大の余地がありそうな時には、思いきって投資して、拡大を図ることも必要である。 
165、分度の諭し
翁曰く、凡そ事を成さんと欲せば、始にその終を詳(つまびらか)にすべし。譬えば木を伐(き)るが如き、未だ伐らぬ前に、木の倒るゝ処を、詳に定めざれば、倒れんとする時に臨んで如何とも仕方無し。故に、予印旛沼(いんばぬま)を見分する時も、仕上げ見分をも、一度にせんと云うて、如何なる異変にても、失敗なき方法を工夫せり。相馬侯、興国の方法依頼の時も、着手より以前に百八十年の収納を調べて、分度の基礎を立てたり。これ荒地開拓、出来上りたる時の用心なり。我が方法は分度を定むるを以て本とす。この分度を確乎と立て、之を守る事厳なれば、荒地何程あるも借財何程あるも、何をか懼(おそ)れ何をか患えん。我が富国安民の法は、分度を定むるの一ツなればなり。それ皇国は、皇国丈(だけ)にて限れり。この外へ広くする事は決してならず。然れば十石は十石、百石は百石、その分を守るの外に道はなし。百石を二百石に増し、千石を二千石に増す事は、一家にて相談はすべけれども、一村一同に為る事は、決して出来ざるなり。これ安きに似て甚だ難事なり。故に分度を守るを我が道の第一とす。能くこの理を明にして、分を守れば、誠に安穏にして、杉の実を取り、苗を仕立、山に植て、その成木を待て楽しむ事を得る也。分度を守らざれば先祖より譲られし大木の林を、一時に伐り払いても、間に合ぬ様に成行く事、眼前なり。分度を越ゆるの過ち恐るべし。財産ある者は、一年の衣食、これにて足ると云う処を定めて、分度として多少を論ぜず、分外を譲り、世の為をして年を積まば、その功徳無量なるべし。釈氏は世を救わんが為に、国家をも妻子をも捨てたり。世を救うに志あらば、何ぞ我が分度外を譲る事のならざらんや。

二宮尊徳は、この説話で、事業を開始しようとする時には、樹木を切り倒そうとする時に、どの方向に倒すかを決めるように、事業の完成時の状況をきちんと把握して、対処する方法を考えておくべきである。と教えている。特に、大きな単位の財政を再建、復興させる事業の場合には、その対象地区範囲において、現在の収入や収益を短期間に二倍にするなどは、とても出来る相談ではないので、それを望まずに、現在の無理のない収入水準を設定し、その範囲内で、借入金の返済、必要経費の支弁などを行う覚悟を固めなければならない。これが、分度である。それを関係者の間でしっかり遵守する意思を決めて掛かれば、成功への道は必ず開ける。また、富裕者は、世の中のために推譲を行なっていくべきであるとしている。米英などでは、社会への還元実施が、富裕者の必要条件のように考えられているとも聞く。美術館等々の文化施設、社会福祉施設等は、その寄付によって運営費の大半を賄っている。わが国の、社会福祉法人も、そのような理念で法律が作られているものの、実体は、一部関係者の利益確保のための隠れ蓑に利用されているのである。マスコミでも、「○○経営の」「○○傘下の」特別養護老人施設と、まるで資本関係があるように報道されている。社会福祉法人は、その法律からみても、特別な人の手の中にあるのではなく、社会全体に所属するものなのである。良く勉強して、報道してもらいたい。 
 

 

166、学問の心がけの諭し
翁曰く、某の村の富農に怜悧なる一子あり。東京(えど)聖堂に入れて、修行させんとて、父子同道し来りて、暇(いとま)を告ぐ。予、之を諭すに意を尽せり。曰く、それは善き事なり。然りといえども、汝が家は富農にして、多く田畑を所持すと聞けり。されば農家には尊き株なり、その家株を尊く思い、祖先の高恩を有難く心得、道を学んで、近郷村々の人民を教え導き、この土地を盛んにして、国恩に報いん為に、修行に出るならば、誠に宜(よろ)しといえども、祖先伝来の家株を農家なりと賤(いや)しみ、難しき文字を学んで只世に誇(ほこら)んとの心ならば、大なる間違ひなるべし。それ農家には農家の勤めあり、富者には富者の勤めあり、農家たる者は何程大家たりといえども、農事を能く心得ずば有るべからず。富者は何程の富者にても、勤倹して余財を譲り、郷里を富し、土地を美にし、国恩に報ぜずばあるべからず。この農家の道と富者の道とを、勤るが為にする学問なれば、誠に宜しといえども、もし然らず、先祖の大恩を忘れ、農業は拙(つたな)し、農家は賤(いや)しと思う心にて学問せば、学問益々(ますます)放心の助けとなりて、汝が家は滅亡せん事、疑いなし。今日の決心汝が家の存亡に掛(かか)れり。迂闊(うかつ)に聞く事勿れ。予が云う処決して違わじ。汝一生涯学問するとも、掛かる道理を発明する事は必ず出来まじ。又この如く教戒する者も必ず有るまじ。聖堂に積みてある万巻の書よりも、予がこの一言の教訓の方、尊かるべし。予が言を用れば、汝が家は安全なり。用いざる時は、汝が家の滅亡眼前にあり。然れば、用いればよし、用うる事能ずば二度と予が家に来る事勿れ。予はこの地の廃亡を興復せんが為に来て居る者なれば、滅亡などの事は、聞くも忌々し。必ず来る事勿れと戒しめしに、用いる事能はずして東京(えど)に出たり。修行未だ成らざるに、田畑は皆他の所有となり、終(つい)に子は医者となり、親は手習師匠をして、今日を凌(しの)ぐに至れりと聞けり。痛(いたま)しからずや。世間この類の心得違ひ往々あり。予がその時の口ずさみに「ぶんぶんと障子にあぶの飛ぶみれば 明るき方へ迷ふなりけり」といえる事ありき、痛しからずや。

二宮尊徳は、この説話で、農家には農家としての生き方がある。その生き方の中で役に立てるために学問に励むのであれば、その学問修得は有効であるが、ただ、自分のために、何でも良いから学問をするというのであれば、それは無意味であり、農家としての家業にも力が入れられなくなって、やがては滅亡する方向に進んでしまう、と教えている。尊徳は、学問をするこをは決して悪いことだと言っているのではないのである。修学も自分のためではなく、いかにすれば人々のために役に立てるかということを、探求する目的で行なうべきものなのである。  
167、質入れの諭し
門人某、若年の過ちにて、所持品を質に入れ遣(つか)い捨てて退塾せり。某の兄なる者、再び入塾を願い、金を出し、質入品を受け戻して本人に渡さんとす。翁曰く、質を受るはその分なりといえども、彼は富家の子なり。生涯質入れなどの事は、為す可き者にあらず。不束(ふつつか)至極といえども、心得違いなれば是非なし。今改めんと思わゞ、質入品は打捨てる可きなり。一日も質屋の手に掛りし衣服は身に付けじと云う位の精神を立ざれば、生涯の事覚束(おぼつか)なし。過ちと知らば速にに改め、悪しと思わゞ速に去るべし。穢(きたなき)物手に付けば、速に洗い去るは世の常なり。何ぞ質入したる衣服を、受戻して、着用せんや。過ちて質を入れ、改めて受け戻すは困窮家子弟の事なり。彼は忝(かたじけなく)も富貴の大徳を、生れ得てある大切の身なり。君子は固く窮すとある通り、小遣いがなくば遣わずに居り、只生れ得たる大徳を守りて失わざれば、必ず富家の婿と成りて安穏なるべし。この如き大徳を、生れ得て有りながら、自らこの大徳を捨て、この大徳を失う時は、再び取り返す事出来ざる也。然る時は芸を以て活計を立るか、自ら稼がざれば、生活の道なきに至るべし。長芋すら腐(くさ)れかゝりたるを囲うには、未だ腐れぬ処より切り捨てざれば、腐り止らず。されば質に入たる衣類は、再び身に附じと云う精神を振り起し、生れ得たる富貴の徳を失わざる勤めこそ大切なれ。悪友に貸したる金も、又同く打捨べし。返さんと云とも、取る事勿れ。猶又貸すとも、悪友の縁を絶ち、悪友に近付ぬを専務とすべし。これ能く心得べき事なり。彼が如きは身分をさへ謹(つつしん)で、生れ得たる徳を失わざれば、生涯安穏にして、財宝は自然集まり、随分他の窮をも救うべき大徳、生れながら備わる者なり。能くこの理を諭て誤らしむる事勿れ。

二宮尊徳は、この説話で、一度悪に染まったならば、厳しく切り捨てていくことが、回復のために、一番良い、と教えている。中途半端に始末していては、旧悪の一部が身の回りに残り、一気に決別させることができなくなる。そうなると、また、悪に戻りやすくなる。昔の戦争などにおいては、過ちを犯した者を「泣いて馬謖(ばしょくという人の名)を切る」として、処罰したということもある。企業や官庁などでの法令違反や規律違反などでも、本人が、十分反省しているから等との理由をつけて、温情主義的な中途半端な処分しか行なわない時には、その違反を起こす根底部分からの改革はできない。この場合も、第三者の眼で見た時に、少し厳しすぎるのではと感じられる程度の処分を、一度は厳然と行ならなければならないのである。ただし、その後に、本人の仕事への心構えが確かであり、やる気と実績を示すことができたならば、再び、登用できるように、仕組を作っておくべきである。  
168、驕奢(きょうしゃ)、慢心、増長戒めの諭し 
翁曰く、山谷は寒気に閉(とじ)て、雪降り氷れども、柳の一芽開き初る時は、山々の雪も谷々の氷も皆それ迄なり。又秋に至り、桐(きり)の一葉落ち初(そむ)る時は、天下の青葉は又それ迄なり。それ世界は自転して止まず、故に時に逢う者は育ち、時に逢わざる物は枯るゝなり。午前は東向の家は照れども、西向きの家は蔭り、午后は西に向く物は日を受け、東に向く物は蔭るなり。この理を知らざる者惑うて、我不運なりといい、世は末になれりなどゝ歎くは誤りなり。今ここに幾万金の負債ありとも、何万町の荒蕪地ありとも、賢君有りてこの道に寄る時は憂うるに足らず、豈喜ばしからずや。たとえ何百万金の貯蓄あり、何万町の領地ありとも、暴君ありて、道を踏まず、これも不足彼も不足と驕奢(きょうしゃ)、慢心、増長に増長せば消滅せん事、秋葉の嵐に散乱するが如し、恐れざるべけんや。予が歌に「奥山は冬気に閉ぢて雪ふれど ほころびにけり前の川柳」。

二宮尊徳は、この説話で、人は、天然自然の循環とその影響から逃れられない存在である。毎日朝になれば、太陽が東から上昇し、夕方になれば西に沈むのも、循環である。指導者になろうとする者は、この循環の理屈を良く知って、それを活用して、人々の置かれた状況を改善してやる方向に進めることが大切である、と教えている。指導者は、循環を循環として捉えて、今陰の部分にいるとしても、間違いなく明るい陽の部分に移っていくのであるから、明るい将来が必ず来るという信念のもとに、正しいことを確実に実行させていく指導者にならなければならない、と尊徳は言っているのである。循環に関する尊徳の思考は、天然自然の運行に関わる基本的循環は、人力で変化させることは出来ないが、それ以外の循環は、人の努力によってある程度の変更は可能である。従って、人にとって好ましくない循環の部分は、出来るだけ短い期間で、あるいは、人に対する影響を出来るだけ小さくするようにして、通過させて、人にとって好ましい循環の部分は、多くの人にその影響を及ぼすように、そして、出来るだけ長い期間続いていくように、それぞれの部分場面で、人智を集めた対応を取っていくべきである、というものである。その思考が、尊徳を辛抱強く改革の指導に向わせ、その指導下に入った人々にも、未来に対する明るい希望を持たせ、意識を勤勉の方向に変化させて、自らの力で自らの道に進む力を生み出させてきたのである。指導者が、未来を正しく見つめ、未来に明るい希望を持って進むことが大事なのである。  
169、根の諭し 
翁曰く、仏に悟道の論あり、面白しといへども、人道をば害する事あり。則ち生者必滅会者定離の類なり。その本源を顕(あらわ)して云うが故なり。悟道は譬えば、草の根はこの如き物ぞと、一々顕(アラ)はして、人に見するが如し。理は然といへども、之を実地に行ふ時は皆枯るゝなり。儒道は草の根の事は言ず、草の根は見ずして可なる物と定め、根あるが為に生育する物なれば、根こそ大切なれ、培養(バイヤウ)こそ大切なれと教るが如し。それ松の木の青々と見ゆるも、桜(サクラ)の花の美(ウルハ)しく匂ふも、土中に根あるが故なり。蓮花の馥郁(フクイク)たるも、花菖蒲の美麗(ビレイ)なるも、泥中に根をさし居ればなり。質屋の蔵の立派なるは、質を置く貧人の多きなり。大名の城の広大なるは、領分に人民多きなり。松の根を伐(キ)れば、直に緑(ミドリ)の先が弱(ヨハ)り、二三日立(たテ)ば、枝葉皆凋(シボ)む、民窮すれば君も窮し、民富めば君も富む。明々了々、毫末も疑(ウタガ)ひなき道理なり。

二宮尊徳は、この説話で、ことさらに、「生者必滅」「会者定離」等と唱えて、変転、循環の悪い面を意識させようとする「悟り」、という存在は、まるで、植物を根ごと引き抜いて、植物の根とはこういうものである、と見せているようなものである。根は、すべての植物にとって、その生死に関わる大切な部分である。これでは、その教えをする都度、植物が枯れていく。何のために悟りを教えているのか判らなくなる。根が有ってこそ、栄えるのである。このような「悟り」は、世の中にとって害である。と教えている。現在でも、人が無を悟って何になるのか、はっきりしたことは説明されていない。釈迦の教えを広めるのが役目の僧侶には、人の世界にまぎれた時に、余分な欲望を出さないようにと、悟りの世界に入るのも必要であろうが、一般の人には、それは無用である。 
170、天上天下唯我独尊の諭し 
翁、某の寺に詣す。灌(かん)仏会あり、翁曰く、天上天下唯我独尊と云う事を、俠客者流など、広言を吐いて、天下広しといえども、我に如(し)く者なしなど云うと同じく、釈氏の自慢と思う者あり。是誤りなり。これは釈氏のみならず、世界皆、我も人も、唯これ、我(わレ)こそ、天上にも、天下にも尊き者なれ、我に勝(まさ)りて尊き物は、必ず無きぞと云う、教訓の言葉なり。然らば則ち銘々各々、この我が身が天地間に上無き尊き物ぞ。如何となれば、天地間我なければ、物無きが如くなればなり。されば銘々各々皆、天上天下唯我独尊なり、犬も独尊なり、鷹(タカ)も独尊也。猫も杓子(しゃくし)も独尊と云うて可なる物なり。

二宮尊徳は、この説話で、世界中の誰もが、自分がこの世で最も尊い存在であると、考えて良いのである、と教えている。この説話は、第百五十二話の追補のところでも述べたが、尊徳の平等感の現われである。釈迦でなくとも、誰もが、自分をこの世で最も尊い存在であると公言して良いなどと、この時代に言い切った人はいないし、それを行動に顕わしてきた人もいない。ここが、尊徳の尊徳たるゆえんである。この考え方が、彼に、支配階級に対しても毅然とした態度で対応させ、農民であっても、堂々と武士階級の人たちに対する指導者としての地位を与えているのである。ただ、残念なことに、農民層で重要な職務を担当していた人達も、尊徳に相前後して死亡してしまったために、尊徳の死後、彼の家族の庇護者となったのが武士階級の人達であったことから、尊徳の歴史の表面から、多くの功績のあった農民が見えなくなってしまったのである。 
 

 

171、自然の勢いの諭し 
翁曰く、仏道の伝来祖々厳密なり。然りといえども、古と今と表裏の違いあり。古の仏者は鉄鉢(てつばち)一つを以て世を送れり。今の仏者は日々厚味に飽けり。古の仏者は、糞雑(ふんぞう)衣とて、人の捨たる破れ切を、緘(と)ぢ合わせて体を覆(おお)う。今の仏者は常に綾羅錦繡(りょうらきんしょう)を纏(まと)えり。古の仏者は、山林岩穴、常に草坐せり。今の仏者は、常に高堂に安坐す。これ皆遺教(ゆいきょう)等に説く所と天地雲泥の違いに非ずや。然りといえども、これ自然の勢なり。何となれば、遺教に田宅を安置する事を得ずとあり。而て上朱印地を賜う。財宝を遠離(えんり)する事、火坑を避(さ)けるが如くせよとも、又蓄積(する事勿れともあり。而て世人、競うて財物を寄附す。また好(よし)みを、貴人に結(ぶ事を得ずと。而て貴人自ら随従して、弟子と称す。譬えば大河流水の突き当る処には砂石集らずして、水の当らざる処に集るが如し。これ又自然の勢なり。

二宮尊徳は、この説話で、仏教でさえも、伝道者たる者に対する当初の教えはそのまま踏襲されてはいない。世の中の動きに流されてきているのである。厳しい行をしてきた人でもそうなのであるから、指導者たろうとするものは、世の中の人の心には注意して対応するように、と教えている。尊徳は、説話の中では直接的に批判をしてはいないが、話全体を通して、うっすらと不満を述べながら、でも、仕方がないのだ、と認めている。私(翻訳者)も、ある寺に参拝した時に、住職から寺にまつわる話を聞こうとして、庫裏の方向に回ったところ、住職らしい人が、高級自家用車の洗車を鼻歌交じりで嬉々として行っており、私が近づいたことに気付いても、その行動を少しも止めようとしないので、申し訳なくなって、その寺を出たということがあった。仏教者を責めるわけではないが、そういう時代になってきた、と認めざるを得ないのである。  
172 神道の極意の諭し
或る人曰く、恵心僧都の伝記に曰く、今の世の仏者達の申さるる仏道が誠の仏道ならば、仏道ほど世に悪き物はあるまじ、といはれし事見えたり、面白き言葉にあらずや。翁曰く、誠に名言なり。只仏道のみにあらず、儒道も神道も又同じかるべし。今時の儒者達の行わるゝ処が、誠の儒道ならば、世に儒道ほどつまらぬ物はあるまじ。今時の神道者達の申さるゝ神道が、誠の神道ならば、神道ほど無用の物はあるまじ、と予も思うなり。それ神道は天地開闢(かいびゃく)の大道にして、豊蘆原を瑞穂(みずほ)の国、安国と治め給びし、道なる事、弁を待ずして明なり。豈(あに)当世巫祝(ふしく)者流、神札を配りて、米銭を乞う者等の、知る処ならんや。川柳に「神道者身にぼろぼろを纏(まと)ひ居り」と云えり。今の世の神道者、貧困に窮する事かくの如し。これ真の神道を知らざるが故なり。それ神道は、豊芦原を瑞穂の国とし、漂(ただよ)える国を安国と固め成す道なり。然る大道を知る者、決して貧窮に陥るの理なし。これ神道の何物たるを知らざるの証なり。歎(なげか)わしき事ならずや。

二宮尊徳は、この説話で、前の説話に続いて、そう認めざるを得ないのだという、話をして、でも、それが本当の宗教のあり方ではないのだ、と教えている。  
173、注文の諭し 
翁曰く、庭訓往来に、注文に載せられずといえども進じ申す処なり、と書かるは、能く人情を尽せる文なり。百事かくの如く有り度(た)きものなり。「馳(は)せ馬に鞭(むち)打ちて出る田植かな」。馳せ馬は注文なり。注文に載せられずといえども、鞭打つ処なり。「影膳(かげぜん)に蠅(はえ)追う妻のみさをかな」。影膳は注文の内なり。注文になしといえども、蠅追う処なり。進んで忠を尽すは注文なり。退いて過ちを補うは注文に載られずといえども、勤める処なり。幾(ようや)く諌(いさ)む迄は注文の内なり。敬して違わず労して怨(うら)まずは、注文に載せられずといえども、尽す処也。菊花を贈るは注文なり。注文になしといえども、根を付けて進ずる処なり。凡そ事かくの如くせば、志の貫ぬかざる、事のならざる事、あるべからず。ここに至て、孝弟の至は神明に通じ、西より東より南より北より、思として服せざる事なしと云うに至るなり。

二宮尊徳は、この説話で、人は、常に、相手に良かれと思う気持ちを持って生きていくようにすべきである。そうすれば、注文にはなかったが、これも必要と思って添付しました、ということまでできるようになる。特に指導者は、このことを肝に命じて、実行していくべきである、と教えている。この説話は、商道の基本に当たることを教えている、素晴らしい話である。現代でも、その業務を専門にする者であれば当然に付随させるべきものを、注文になかったと主張し、漏らして、平然としている事業者がいる。陰膳という習わしについても、語られている。誰も見ていないところであっても、本当に愛しているのであれば、旅行に出ている人の安全を願って、そっと膳を用意して、病気にならないように、事故に遭わないように、仕事で出かけているのであれば、仕事がうまく進みますように、と天に祈ることになるのである。それらが、人が相手を思いやる気持ちを持つ時の、自然な行いなのである。  
174、学問の真意の諭し 
家僕芋種(イモダネ)を埋(ウヅ)めて、その上に芋種と記せし、木札を立たり。翁曰く、卿等大道は文字の上にある物と思ひ、文字のみを研究して、学問と思へるは違り。文字は道を伝(ツタ)ふる器械にして、道にはあらず。然るを書物を読(ヨミ)て道と思ふは過ちならずや。道は書物にあらずして、行ひにあるなり。今彼の処に立たる木札の文字を見るべし。この札の文字によりて、芋種を掘出し、畑に植て作ればこそ食物となれ。道も同く目印の書物によりて、道を求めて身に行ふて、初て道を得るなり。然らざれば、学問と云ふべからず、只本読みのみ。

二宮尊徳は、この説話で、文字や言葉は、意味を伝えることはできるが、その文字や言葉のままでは、何も変化は起こらない。その文字や言葉が伝えようとしている意味を知って、その意味にしたがって行動した時に、その文字や言葉の存在が意義を持ってくる。と教えている。現代の私達も良く見かけることがある。それは、「故障中」、「使用不可」などと言う張り紙である。しかも、その張り紙が何日も、そのまま続いていることがあるのである。「故障中」、「使用不可」と知らせれば、それで良し、と考えている人がいるということである。その張り紙の本来の目的は、故障したので、至急修理する、という意味を伝えることであるから、「故障しましたので、直ぐ修理します。恐れ入りますが、修理が終わるまでの間は、使用できません」とすべきものである。そして、そこに書いた通りに、直ぐ修理を始めなければならない。注意したいことである。 
175、貸借両全の道の諭し 
翁曰く、方今の憂(ウレヒ)は村里の困窮にして、人気の悪敷なり。この人気を直さんとするには、困窮を救(スク)はざれば免(マヌカ)るる事能はず。之を救ふに財を施与(セヨ)する時は、財力及ばざる物なり。故に無利足金貸附の法を立たり。この法は実に恵(メグン)で費(ツイ)えざるの道也。此法に一年の酬謝(シウシヤ)金を附するの法をも設(マフ)けたり。是は恵(メグン)で費(ツイ)えざる上に又欲して貪(ムサボ)らざるの法也。実に貸借両全の道と云べし。

二宮尊徳は、この説話で、困窮した人を助けるにも、色々な方法があるが、直接的に食糧などの物資や資金を与えるよりも、自分で回復しようという気持ちを起こさせるような方法を採用して、その気持ちに沿う支援法を考えて、実施するのが指導者の役目である、と教えている。良く出てくる尊徳の言葉の中に、恵んで費えず、というのがある。乾いた畑を潤すのに、水を畑まで運んで撒くという方法もあるが、これは、費用が掛かる割には、効果がその時だけしかない。しかも、畑の耕作者である農民には、金銭収入はない。では、その農民に、水を畑まで持参する費用の資金を交付すれば良いかとなるが、それもその時限りで、同じように金銭的利益は、農民には行かない。そこで、尊徳が良く行う方法が登場する。農民に作業者として用水路の掘削に参加させ、労働に応じた賃金を支払って、灌漑用の用水路を完成させるという方法である。農民は、人夫として参加することで現金収入があるので、生活の足しになる。しかも、それによって、必要な水が、恒常的に入手できるようになる。水路が完成して、畑作の収穫が増加した時点で、水路の使用料を徴収すれば、何年かして、材料などの費用と賃金として投下した資金類は回収できる。誰も損をせず、皆得をする、これが、尊徳の、恵んで費えず、の中身である。 
 

 

176、天下の経済の諭し
翁曰く、経済に天下の経済あり、一国一藩の経済あり。一家又同じ。各々異にして、同日の論にあらず。何となれば、博奕(ばくえき)をなすも娼妓(しょうぎ)屋をなすも、一家一身上に取りては、皆経済と思うなるべし。しかれども政府これを禁じ、猥(みだり)に許さゞるは、国家に害あればなり。この如きは、経済とは云うべからず。眼前一己の利益のみを見て、後世の如何を見ず、他の為をも顧(かえりみ)ざるものなればなり。諸藩にても、駅宿に娼妓を許して、藩中と領中の者、これに戯(たわむ)るるを厳禁す。これ一藩の経済なり。この如くせざれば、我が大切なる一藩と、領中の風儀を害すればなり。米沢藩にては、年(とし)少し凶なれば酒造を半に減じ、大に凶なれば厳禁にし、且つ他邦より輸入をも許さず、大豆違作なれば、豆腐(とうふ)をも禁ずと聞けり。これ自国の金を、他に出さゞるの策にして、則ち一国の経済なり。それ天下の経済はこの如くならずして、公明正大ならずばあるべからず。大学に、国は利を以て利とせず、義を以て利となす、とあり。これをこそ国家経済の格言と云うべけれ。農商一家の経済にも、必ずこの意を忘るゝ事勿れ。世間富有者たるものしらずばあるべからず。

二宮尊徳は、この説話で、指導者になろうとする人は、一村、一地域の発展を願うのは勿論であるが、その時に、広く、各地方や日本全国の人達の発展にも寄与するものであるか、ということにも配慮していかなければならない、と教えている。尊徳が活躍したのは、藩や領地、村という単位で経済が動いていた時代であるが、尊徳は、経済というものは、そのような閉鎖された中だけで完結していくものではないはずだと、考えていた。境を接して存在している経済単位が、相互に交流、流通しあっていくことで、相互に豊かさがもたらされるという、考え方であったのである。その考えから、偏狭な心で政治に当たってはならない、と言っているのである。  
177、人畜の別の諭し 
翁曰く、万国とも開闢の初めに人類ある事なし。幾千歳の後初めて人あり、而して人道あり。それ禽獣は欲する物を見れば、直に取りて喰う。取れる丈(だけ)の物をば憚(はばか)らず取りて、譲ると云う事を知らず。草木も又然り。根の張らるゝ丈の地、何方迄も根を張りて憚らず。これかれが道とする処也。人にしてかくの如くなれば、則ち盗賊なり。人は然らず。米を欲すれば田を作りて取り、豆腐(とうふ)を欲すれば銭を遣(や)りて取る。禽獣の直に取るとは異なり。それ人道は天道とは異にして、譲道より立つ物なり。譲とは、今年の物を来年に譲り、親は子の為に譲るより成る道なり。天道には譲道なし。人道は、人の便宜を計りて立てし物なれば、動(やや)ともすれば奪心を生ず。鳥獣は誤っても譲心の生ずる事なし。これ人畜の別なり。田畑は一年耕さゞれば荒蕪となる。荒蕪地は、百年経るも自然田畑となる事なきに同じ。人道は自然にあらず、作為の物なるが故に、人倫用弁する所の物品は、作りたる物にあらざるなし。故に、人道は作る事を勤めるを善とし、破るを悪とす。百事自然に任すれば皆廃(すた)る。これを廃れぬ様に勤めるを人道とす。人の用いる衣服の類、家屋に用いる四角なる柱、薄き板の類、その他白米、搗麦(つきむぎ)、味噌、醤油の類、自然に田畑山林に生育せんや。さて人道は勤めて作るを尊び、自然に任せて廃(すた)るを悪(にく)む。それ虎豹(こひょう)の如きは論なし、熊猪の如き、木を倒し根を穿(うが)ち、強き事言うべからず。その労力も又云うべからず。而して、終身労して安堵の地を得る事能わざるは、譲る事を知らず、生涯己が為のみなるが故に、労して功なきなり。たとえといえども譲の道を知らず。勤めざれば、安堵の地を得ざる事、禽獣に同じ。さて人たる者は、智恵は無くとも、力は弱くとも、今年の物を来年に譲り、子孫に譲り、他に譲るの道を知りて、能く行わゞ、その功必ず成るべし。その上に又恩に報うの心掛けあり。これ又知らずば有るべからず、勤めずば有るべからざるの道なり。

二宮尊徳は、この説話で、人は、生きるために、人道を自ら作り、その人道を守ることで、人の世界を発展させてきた。この世界を守り、維持発展させていくのもまた、人の役目である、と教えている。ここで述べているのは、尊徳思想の原点である人道思考である。これは、何度でも、何処でも説いていくべくことと、彼は信じているのである。この話を聞くたびに、私は人として、努めていかなければならないことを、思い致させられるのである。  
178、碁将棋の理の諭し 
翁曰く、交際は人道の必用なれど、世人交際の道を知らず。交際の道は碁将棋の道に法(のり)とるをよしとす。それ将棋の道は強き者駒を落して、先の人の力と相応する程にしてさす也。甚だしき違いに至りては、腹金とか又歩三兵と云うまでに外(はず)す也。これ交際上必用の理なり。己(オのれ)富み且つ才芸あり学問ありて先の人貧ならば、富を外すべし。先の人不才ならば才を外すべし。無芸ならば芸を外すべし。不学ならば学をはづすべし。これ将棋を指すの法なり。この如くせざれば、交際は出来ぬなり。己(おのれ)貧にして不才且つ無芸無学ならば、碁を打つが如く心得べし。先の人富みて才あり且つ学あり芸あらば、幾目(いくもく)も置きて交際すべし。これ碁の道なり。この理独(ひと)り、碁将棋の道にあらず、人と人と相対する時の道も、この理に随うべし。

二宮尊徳は、この説話で、人と人との交流においては、力と力でそのまま対峙していくのではなく、囲碁や将棋のように、力の差に応じて、その差を解消するような水準調整を行なっていくべきである、と教えている。人と人との間の平等を求めていく尊徳らしい発想である。この発想が、貧しくても、卑屈になる必要はなく、堂々と正しく努力を重ねていけば、やがて花が咲き、実を結ぶことになるのだと言って、農民を奮い立たせる行動となったのである。  
179、礼法の諭し
翁又曰く、礼法は人界(じんかいの筋(すじ)道なり。人界に筋道あるは、譬えば碁盤将棋盤に筋あるが如し。人は人界に立たる、筋道によらざれば、人の道は立たず。碁も将棋もその盤面の筋道によればこそ、その術も行われ、勝敗(かちまけ)も付くなれ。この盤面の筋道によらざれば、小児の碁将棋を弄(もてあそ)ぶが如く、碁も碁にならず、将棋も将棋にならぬ也。故に人倫は礼法を尊ぶべし。

二宮尊徳は、この説話で、礼は、将棋盤や碁盤に引かれた筋のようなものであり、駒や碁石が進んで行く道筋を示しているのと同じく、人がこの世の中を生きて進む時の道筋となるものである、と教えている。筋が引いてない将棋盤や碁盤を使って、囲碁、将棋をせよと言われたら、いかに名人と言われる人でも、躊躇するに違いない。恐らく、ゲームとして成立しないのではないだろうか。また、だれでもが、そんな馬鹿なことがあるか、と怒るのではないか。ひるがえって、礼について考えてみるとどうか。尊徳の、例示の仕方の奥深さには、驚くばかりである。 
180、報徳は百行の長、万善の先の諭し 
翁曰く、汝輩、能く々思考せよ。恩を受けて報いざる事多かるべし。徳を受けて報ぜざる事少からざるべし。徳を報う事を知らざる者は、後来の栄えのみを願いて、本(もと)を捨つるが故に自然に幸福を失う。能く徳を報う者は、後来の栄えを後にして、前の丹精を思うが故に自然幸福を受けて、富貴その身を放れず。それ報徳は百行の長、万善の先と云うべし。能くその根元を押極めて見よ。身体の根元は父母の生育にあり、父母の根元は祖父母の丹誠にあり、祖父母の根元はその父母の丹誠にあり。かくの如く極むる時は、天地の命令に帰す。されば天地は大父母なり。故に、元の父母と云えり。予が歌に「きのふより知らぬあしたのなつかしや 元の父母ましませばこそ」。それ我(わレ)も人も、一日も命長かれと願う心、惜しいほしいの念、天下皆同じ。何となれば明日も明後日も、日輪出で玉いて、万世替(かわ)らじと思えばなり。もし明日より日輪出ずと定まらば、如何にするや。この時は一切の私心執着、惜(お)しいほしいも有るべからず。されば天恩の有難き事は、誠に顕然(けんぜん)なるべし、能く思考せよ。

二宮尊徳は、この説話で、人は、恩に報いるということを実行しなければならない。恩や徳に報いる気持ちが、今をしっかり見つめて、未来に思いを馳せる基となる。恩に報いる気持ちが、将来の豊かさを創り出すのである。徳に報いることは、恩に報いるよりもずっと次元の高いことであり、人にとって大事なことである。指導者となろうとする者は、そのことも忘れないように、と教えている。いつの世でも、直接個人として受けた恩恵に対しては、感謝の気持を持ち、そのことを忘れずに、相手のその人が苦しんだり困っている時には、手を差し伸べなければならないのである。徳は、具体的に恩を感じるような行為を導き出す基礎的事項一般の概念であるため、一般に徳の恩恵に浴したという印象が薄く、報いるという気持ちが起こりにくいものである。しかし、この基礎的一般概念の存在こそが、恩恵を感じる行動の基であるから、これに対して、正しく報いていくことが大事なのである。 
 

 

181、天理、人道、老子、仏の教えの諭し
翁曰く、自然に行るゝこれ天理なり。天理に随(したが)うといえども、又人為を以て行うを人道と云う。人体の柔弱なる、雨風雪霜寒暑昼夜、循環不止の世界に生れて、羽毛鱗介(りんかい)の堅(かた)めなく、飲食一日も欠くべからずして、爪(つめ)牙(きば)の利なし。故に身の為に便利なる道を立たざれば、身を安ずる事能わず。さればこそ、この道を尊(たっと)んで、その本原天に出づと云い、天性と云い、善とし美とし大とするなれ。この道の廃(すた)れざらん事を願えばなり。老子その隙(すき)を見て、道の道とすべきは常の道にあらず、などゝ云わるは無理ならず。然りといえども、この身体を保つが為、余義なきを如何せん。身、米を喰い衣を着し家に居り、而してこの言を主張するは、又老子輩の失と云うべし。或いは曰く、然らば仏言も失と云うべき歟。翁曰く、仏は生といえば滅と云い、有と説けば無と説き、色則是空と云い、空則是色と云えり。老荘の意とは異なり。

二宮尊徳は、この説話で、人道は、人が生きていく上で不可欠な道である。人は、その人道の維持に努める義務があるが、人道を突き詰めると天を尊ぶことに行き当たる。そこで、求道者の老子が「道可道非常道」と言ったが、天の道だけでは、人が生きられないということを認めずに、そう言ったのは失言に値する。それは、老子であっても、食事をしなければ生き長らえられなかったのであるからである。釈迦の言葉は、また次元が違うのである、と教えている。老子が、常の道にあらず、と言ったときに、一般の人は、それを求道者の高潔な言葉として、尊んでいるのであるが、常に論理と実戦の一体化、同時化を尊重する尊徳は、それを空論に過ぎないとして、失言という。まさに、実践主義の勝利である。  
182、仁智の諭し
翁曰く、天道は自然なり。人道は天道に随(したが)ふといえども、又人為なり。人道を尽して天道に任すべし。人為を忽(ゆるがせ)にして、天道を恨る事勿れ。それ庭前の落葉は天道なり。無心にして日々夜々に積もる。これを払わざるは人道に非ず。払えども又落る。之に心を煩(わずらわ)し、之に心を労し、一葉落れば、箒(ほうき)を取て立つが如き。これ塵芥(ちりあくた)の為に役せらるゝなり。愚かと云うべし。木の葉の落るは天道なり。人道を以て、毎朝一度は払うべし。又落るとも捨て置きて、無心の落葉に役せらるゝ事勿れ。又人道を忽にして積り次第にする事勿れ。これ人道なり。愚人といえども悪人といえども、能く教うべし。教えて聞かざるも、これに心を労する事勿れ。聞かぬとて捨てる事なく、幾度も教うべし。教えて用いざるも憤る事勿れ。聞かずとて捨るは不仁なり、用いぬとて憤るは不智なり。不仁不智は徳者の恐るゝ処なり。仁智二つ心掛けて、我が徳を全うすべし。

二宮尊徳は、この説話で、落ち葉とその片付けについて、葉が落ちるのは天道によるものであり、片付けるのは人道であるが、落ち葉は寿命が尽きれば、その都度天道に従って落ちてくる。それに気を取られて、人道であるからと、一枚一枚を追いかけて片付けるのも、天道に振り回されて、自分を見失っている状態である。人道として求められるのは、毎朝一回の片付けで十分である。このような人の場合には、人道として求めているものの、本意を十分に理解するように、良く教え、良く諭さなければならない、と教えている。この説話では、人道への対応の在り方について、説明しているばかりでなく、人道は人為の道であるから、それを弁えた人は、理解の不充分な人に、良く教えなければならないとしている。しかも、教える時には根気強くして絶対に見捨てずに、また、教えてもそれを用いないとか、実行しないといって怒ってはならないとも言っている。教えることも人道であり、教えないでいることと、途中で止めることは、人道に違背する行為であり、好ましくないものである。  
183、廿四孝図の諭し
某の寺に、廿四孝図の屏風(びょうぶ)あり。翁曰く、それ聖門は中庸を尊ぶ。然るにこの廿四孝と云う者皆中庸ならず。只王裒、朱寿昌等、数名のみ奇もなく異もなし。その他は奇なり異なり。虎の前に号(なき)しかば、害を免るゝに至ては我之を知らず。論語孝を説く処と、懸隔(けんかく)を覚う。それ孝は親の心を以て心とし、親の心を安ずるにあり。子たる者平常の身持心掛け慥ならば、たとえ遠国に奉公し、父母を問ふ事なしといへども、某の藩にて褒賞(ほうしょう)を受けし者ありと聞く時は、その父母我が子ならんと悦び、又罪科(つみとがガ)を受し者ありと聞く時は、必ず我が子にあらじと苦慮せざる様なれば、孝と云べし。又同く罪科に陥りし者ありと聞く時は、我が子ならんかと苦慮し、褒賞の者ありと聞く時は、我が子にあらじと、悦ばぬ様ならんには、日に月に行通ひて、安否を問ふとも、不孝とす。古語に、親に事る者は、上に居て驕(おご)らず、下に居て乱れず、醜(しゅう)に在て争わずと云ひ、又違ふ事なしとも、又その病をこれ患(うれ)ふとも云り。親子の情見るべし、世間親たる者の深情は、子の為に無病長寿、立身出世を願ふの外、決して余念なき物なり。されば子たる者は、その親の心を以て心として親を安んずるこそ、至孝なるべけれ。上に居て驕らざるも、下と成りて乱れざるも、常の事なれど醜に在て争はずと云へるに、心を付べし。醜俗に交る時は、如何に堪忍するとも、忍び難き事多かるべきに、この場に於て争はぬは、実に至孝と云ふべきなり。

二宮尊徳は、この説話で、親に孝行を尽くすということについて、子が親の気持ちの在り方を良く理解し、それを基に正しく行動していれば、それだけでも親に安心を与えることとなって、最高の孝行ができたことになる、と教えている。親への孝行ということを言うと、すぐ、封建的という言葉を聞きそうであるが、それは、早とちりと言う外はない。親孝行とは、どんな時でも親に盲従するとか、常に自己犠牲をして親に仕えるということでもない。第七十話にあるように、親を諌めることも、孝行の内であり、第二百九話の話も孝行なのである。最近ブームの韓国ドラマの中には、随所に親に対して配慮するシーンが出てくるが、日本の人達がそれを正しく受けとめてくれるのを待ちたい。また、モンゴル等の外国から来ている力士の親思いの心も、日本人が正しく受けとめて見習って欲しいところである。  
184、父子の道の諭し
翁曰く、人の子たる者甚(はなはた)不孝なりといへども、もし他人がその親を譏(ソシ)る時は必ず怒るものなり。これ父子の道天性なるが故に怒るなり、詩に曰く、汝の祖を思ふ事無からんや、と云えり、うべなり。

二宮尊徳は、この説話で、親子の情というものは、誰もが元々持っているものだけに、その深さは、並々ならないものだ、と教えている。親が子を育てる時に注ぐ、深い慈しみの気持ちが、物心がつかない幼子の生命の中に、いつのまにか、しっかり浸み込んでいるので、その受けた愛に報いる気持ちが、無意識下で大きな位置を占めているのである。説話にあるように怒ることができる者は、幼い時に、愛情一杯に育てられた記憶の持ち主であることを証明しているのである。この人は、怒った時点で、親に孝行しているのである。またこの人は、本当は良い人なのである。 
185、善導の諭し
翁曰く、深く悪習に染みし者を、善に移らしむるは、甚だ難し。或は恵み或は諭す。一旦は改る事ありといへども、又元の悪習に帰るものなり。これ如何ともすべなし。幾度もこれを恵み教ふべし。悪習の者を善に導くは、譬えば渋柿の台木に甘柿を接穂(つぎほ)にしたるが如し。やゝともすれば台芽の持前(モチマヘ)発生して継穂の善を害す。故に継穂をせし者、心を付て、台芽(ダイメ)を掻(カ)き取るが如く厚く心を用ふべきなり。もし怠れば台芽の為に、継穂の方は枯れ失せべし。予が預りの地に、この者数名あり。我この数名の為に心力を尽せる甚だ勤たり。二三子これを察せよ。

二宮尊徳は、この説話で、一度悪習に染まると、そこから抜け出すのは大変なのであるから、指導者は、根気強く、抜け出せるよう支援をしていかなければならない、と教えている。好んで悪に入ろうとする人は、本来いないのである。何らかの理由があったはずであるから、そこを見抜いて、対応を考えて支援していくことが大切なのであろう。 
 

 

186、履き物の諭し
翁曰く、富人小道具を好む者は、大事は成し得ぬ物なり。貧人履(はき)物足袋(たび)等を飾る者は立身は出来ぬものなり。又人の多く集り雑踏する処には、好き履物をはく事勿れ。よき履物は紛失する事あり。悪きをはきて紛失したる時は尋ねずして、更に買求めて履きて帰るべし。混雑の中にて、これを尋ねて人を煩すは、麁悪(そあく)なる履き物をはきたるよりも見苦し。

二宮尊徳は、この説話で、人は、余り小さな所に目をつけないで、できるだけ大きいところを見ていくべきである。そのためには、小さなことで悩まなくて済むように、そして、小さなことで他人に迷惑をかけないように、ちょっとした配慮をしておくことが大切である、と教えている。説話の主題は、日々の生活での、目の付け所ということである。だが、目の付け所とは、実際には、目線の行き先ではなく、心の置き所のことなのである。つまり、心眼で何を見ようとしているのかということである。尊徳は、心眼では、なるべく上を、そして、なるべく大きいものを見るようにせよ、と言っているのである。常にその時点での可能な限り良い因を投入するように努力しなければならない。  
187、中庸の諭し
翁曰く、聖人中を尊ぶ。而てその中と云ものは、物毎にして異なり。或はその物の中に中あるあり。物指(モノサシ)の類これなり。或は片寄(カタヨリ)て中あるあり。権衡(ハカリ)の垂針(おもり)の平これなり。熱(あつ)からず冷(ひややか)ならざるは温湯の中、甘からず辛からざるは味の中、損なく徳なきは取り遣りの中、盗(ぬす)人は盗むを誉め、世人は盗むを咎むる如きは、共に中にあらず。盗まず盗まれざるを中と云うべし。この理明白なり。而て忠孝は、他と我と相対して、而て生ずる道なり。親なければ孝を為さんと欲するとも為べからず。君なければ忠をなさんと欲するとも、為す事能はず。故に片よらざれば、至孝至忠とは言い難し。君の方に片より極りて至忠なり。親の方に偏倚(へんい)極りて至孝なり、片よるは尽すを云なり。大舜(シユン)の瞽瞍(コソウ)に於る、楠公の南朝に於る、実に偏倚の極みなり。至れり尽せりと云べし。この如くなれば、鳥黐(モチ)にて塵(チリ)を取るが如く、天下の父母たる者君たる者に合せて合ざる事なし。忠孝の道はここに至て中庸なり。若し忠孝をして、中分中位にせば、何ぞ忠と云ん、何ぞ孝と云ん。君と親との為には、百石は百石、五十石は五十石、尽さゞれば至れりと云べからず。もし百石は五十石にして、中なりと云が如きは、過(アヤマチ)の甚しきものなり。何となれば、君臣にて一円なるが故なり、親子にて一円なるが故なり、夫君と云時は必臣あり、親と云時は必子あり、子なければ親と云べからず、君なければ臣と云べからず、故に君も半なり、臣も半なり、親も半なり、子も半なり、故に偏倚(ヘンイ)の極を以て、これを至れりと云う。左図を見て悟(サト)るべし。

二宮尊徳は、この説話で、中庸ということを実現する時の、中とは、どのような位置であるのかについて、教えている。尊徳は、人が求める中庸とは、心の置き所についての中庸である、としている。従って、言葉としての中庸からは、何の片寄りもなく、物差しで計ったように真中である中央ということが連想されるが、心の中庸とは、そういう位置のことではない。心でなくても、竿秤の重りの位置のように、真中ではないところに、釣り合いが取れたことを示す中が示されるものもある。人の行為に於ける中庸の時の心のあり方は、実際には、中央、水平に位置しているのではなく、ある方向、つまり、対応する人や物の方に片寄って位置し、その上、その方向に傾いているものなのである。しかも、そうなっていなければ、本当の行為は実現できない、と尊徳は言っている。確かに、人が人や動物、あるいは物を愛し、めでる時には、心のありかは、ぐっとその対象の方に近づき、心はその対象に向って大きく傾いているのである。しかし、それでバランスが大きく崩れてしまうかというと、そうではない。勿論、一時的に多少バランスが崩れるかもしれないが、通常の場合は、すぐに元に戻ってその後遺症はなくなるのであるから、問題はない。なお、この説話で、忠義という言葉があるが、これは、忠誠と読みかえれば良い。忠誠という言葉は、現在でも君主以外の人等への片寄り度として用いられるものである。  
188、草根木皮食せ本の諭し
救荒の事を詳(つまびらか)に説き、草木の根、幹の皮、葉等食す可き物数十種を調べ、且つその調理法等を記せし、小冊を贈れる人あり。翁曰く、草根木葉等、平日少しづゝ食して試むる時は、害なき物も、これを多食し日を重ぬる時は病(やまい)を生ずる物なり。軽々しく食するは悪しき事なり。故に、予は天保両度の飢饉の時、郡村に諭すに、草根木葉等を食せよと云う事は、決して云わず。病を生ずる事を恐るゝが故なり。飢民(きみん)自ら食するは仕方なけれど、牧民の職に居る者、飢民に向て、草根木皮を食せよと云ひ、且つ之を食せしむるは、甚だ悪(ア)しゝ。これを食する時は、一時の飢えは補ふべしといへども、病を生ずる時は救ふべからず。恐れざるべけんや、されば人を殺すに杖と刃(やいば)との譬えと、何ぞ異ならん。これ深く恐るべき処なり。然りといへども、食なければ死を免かるべからず。之を如何せん。これ深く考へずばある可らざる所以なり。予之に依て、飢人を救ふて、病を生ずるの恐みなき方法を設けて、烏山、谷田部茂木、下館、小田原等の領邑に施したり。さればこれ等の書は、予が為る処と異る物なれば、予は取らざる也。

二宮尊徳は、この説話で、机の前で、頭だけを使って考えたものは、意外に使えないものが多い。特に、人を救う施策については、本当に救えることになるのかどうか、できれば実証してから用いよ、と教えている。施策を立案する人は、一般に、机の前で長いこと学問をしてきた聡明で学問的知識の豊富な人が多いので、色々なことを考えるが、残念ながら、実体験が少ないことが、その立案施策の弱点に気付かない。施策の良否のポイントは、それを受ける人が、施策の目的通りの効用を受け取ることができるかどうかという点にある。実際に受け取るものが、目的に反して害であったならば、悲惨である。折角の施策も、なかったほうが良いということになってしまう。また、世の中が変化して、必要とする効用の内容が変化している時もある。これは、公共工事の実施に関して良く問題となることである。企画した時期には不可欠と信じられていたことが、時代が変わって、無くても済むという風になっていることもある。その時には、思い切って中止することが、人々にとっての効用となる。施策は、あくまでも、受ける側にとっての効用を目的とすべきであり、実施する側の立場を重視してはならない。  
189、囲穀(カコヒコク)の諭し
翁曰く、世の学者皆草根木葉等を調(シラ)べて、これも食すべし彼も食すべしと云といへども、予は聞くを欲せず、如何となれば自ら食して、能く経験せるにはあらざれば、甚だ覚束(おぼつか)なし。且つ(かゝる物を頼みにせば、凶歳の用意自ら怠(おこた)りて世の害となるべし。それよりも凶歳飢饉の惨状、甚だしきを述ぶる事、僧侶地獄の有様を絵に書きて、老婆を諭すが如く、懇々説き諭して、村毎に積穀(ツミコク)を成す事を勧むるの勝れるに如ざるべし。故に予は草根木皮を食すべしと決して言ず、飢饉の恐るべく、囲穀(カコヒコク)の為さゞるべからざる事をのみ諭して、囲穀をなさしむるを務めとす。

二宮尊徳は、この説話で、前の説話と同じく、施策を受ける側を害する怖れのある施策は、採用すべきではない、と教えている。この二つの説話は、救済を成功させている尊徳の主張だけに、重みを感じさせ、人々に対する慈愛の深さを感じさせる話である。形式や自己の栄誉のためで無く、相手に対する思いやりの気持ちから救済に乗り出すのであれば、相手の身体や財産に危害を加えるようなことはすべきではない。尊徳の言うように、普段から、危機に対応する備えの重要さを懇々と説いて、その備えに進んでおくべきである。 
190、飢饉の救助方法の諭し
翁曰く、予が烏山その他に施行せし飢饉の救助方法は、先ず村々に諭して、飢渇(きかつ)に迫りし者の内を引き分けて、老人幼少病身等の力役に付き難き者、又婦女子その日の働き十分に出来ざる者を、残らず取り調べさせ、寺院か又大なる家を借り受け、ここに集めて男女を分かち、三十人四十人づゝ一組となし、一所(ひとところ)に世話人一二名を置き、一人に付き一日に白米一合づゝと定め、四十人なれば、一度に一升の白米に水を多く入れて、粥(かゆ)に炊(かし)ぎ塩を入れて、これを四十椀(わん)に甲乙なく平等に盛りて一椀づゝ与へ、又一度は同様なれど、菜(な)を少しく交(ま)ぜ味噌を入れて、薄き雑炊(ぞうすい)とし、前同様に盛りて、一椀づゝ代わる代わる、朝より夕まで一日四度づゝと定めて与えるなり。されば一度に二勺五才の米を粥の湯に為したる物なり。之を与える時懇(ねんごろ)に諭さしめて曰く、汝等の飢渇深く察す、実に愍然(びんぜん)の事なり。今与える処の一椀の粥湯、一日に四度に限れば、実に空腹に堪え難かるべし。然りといえども、大勢の飢人に十分に与えるべき米麦は天下になし。この些(さ)少の粥湯、飢えを凌ぐに足らざるべく、実に忍び難かるべけれど、今日は国中に、米穀の売り物なし、金銀有て米を買う事の出来ざる世の中なり。然るに領主君公莫太の御仁恵を以て、倉を開かせられ、御救ひ下さるゝ処の米の粥なり。一椀なりといえども、容易ならず、厚く有難く心得て、夢々不足に思ふ事勿れ。
又世間には、草根木皮等を食せしむる事も有れど、これは甚だ宜(よろ)しからず。病を生じて、救うべからず。死する者多し。甚だ危うき事なり、恐るべき事なり。世話人に隠して、決して草根木皮などは、少しにても食う事勿れ。この一椀づゝの粥の湯は、一日に四度づゝ時を定めて、急度(きっと)与ふるなり。左すれば、たとえ身体は痩(や)するとも決して餓死するの患いなし。又白米の粥なれば、病の生ずる恐れも必ずなし。新麦の熟するまでの間の事なれば、如何にも能く空腹を堪(こら)へ、起臥(おきふし)も運動も徐(おもむろ)にして、成る丈け腹の減らぬ様にし、命さえ続けば、それを有難しと覚悟して、能く空腹を堪えて、新麦の豊熟を天地に祈りて、寝たければ寝るがよし、起たければ起るがよし、日々何も為(ス)るに及ばず。只腹のへらぬ様に運動し、空腹を堪ゆるを以て、それを仕事と心得て、日を送るべし。新麦さへ実法れば十分に与ふべし、それ迄の間は死にさへせざれば、有難しと能々覚悟し、返す返すも草木の皮葉等を食ふ事勿れ。草木の皮葉は、毒なき物といへども腹に馴れざるが故に、多く食し日々食すれば、自然毒なき物も毒と成りて、それが為に病を生じ、大切の命を失ふ事あり。必ず食する事なかれと、懇(ねんごろ)に諭して空腹に馴れしめ、無病ならしむるこそ、救窮の上策なるべけれ。必ずこの方に随ひ、一日一合の米粥を与へ、草木の皮葉などは、食せよと云はず、又食せしめざるなり。これその方法の大略なり。
又身体強壮の男女は別に方法を立て、能々説き諭して、平常五厘の繩一房を七厘に、一銭の草鞋(わらじ)を一銭五厘に、三十銭の木綿布を四十銭に買上げ、平日十五銭の日雇賃銭は、二十五銭づゝ払ふべきに依り、村中一同憤発勉強し、勤て銭を取て自ら生活を立つべし。繩、草鞋、木綿布(もめんぬの)等は、何程にても買取り、仕事は協議工夫を以て、何程にても、人夫を遣(つか)ふべければ、老幼男女を論ぜず、身体壮健の者は、昼は出て日雇賃を取り、夜は入て繩を索(な)ひ、沓(くつ)草鞋を作るべし、と懇々説諭して、勉強せしむべし。偖(さて)その仕事は、道橋を修理し、用水悪水の堀を浚(さら)ひ、溜(た)め池を掘り、川除け堤を修理し、沃土(よくど)を掘出し、下田下畑に入れ、畔(あぜ)の曲れるを真直に直し、狭き田を合せて、大にするなど、その土地土地に就(つい)て、能く工夫せば、その仕事は何程もあるべし。これ我手に十円の金を損して、彼に五十円六十円の金を得さしめ、これに百円の金を損して、彼に四百円五百円の益を得さしめ、且つその村里に永世の幸福を貽(のこ)し、その上美名をも遺(のこ)す道なり、只恵んで費(ツヒ)へざるのみにあらず、少く恵んで、大利益を生ずるの良法なり。窮の甚きを救ふ方法は、これより好きはあらじ。これ予が実地に施行せし、大略なり。

二宮尊徳は、この説話で、凶作、飢饉に際しての救済のあり方について、指導者を目指す人達に、こと細かに教えている。尊徳の発想の素晴らしいところは、統計的数値把握を重視して調査を行い、その結果に基づいて層別を行い、効果的で効率的な管理を目指し、単に食物を支給するだけではなく、同時に人々の心のケアーまでも計画に内包させて、且つ、実行しているところである。そのために、最初に、その時点の組織を最大限に活用して、何処に、どのような状態の人が、どれだけいるのかということを、詳しく調べている。次には、その調査データを基に、全体を「層別化」して、その各層を対象として、細かい救援手段を計画し、その計画に基づいて支援者の配置まで細かく実行している。是非、見習いたい救援法である。 
 

 

191、仁政の諭し
翁又曰く、天保七年、烏山侯の依頼に依て、同領内に右の方法を、施行したる大略は、一村一村に諭して、極難の者の内、力役に就くべき者と、就くべからざる者と、二つに分ち、力役に就くべからざる、老幼病身等千有余人を烏山城下なる、天性寺の禅堂講堂物置その外寺院又新たに小屋廿棟(むね)を建設(たてもう)け、一人白米一合づゝ、前に云る方法にて、同年十二月朔日より翌年五月五日まで、救ひ遣し、飢人欝散(うっさん)の為に藩士の武術稽古をこの処にて行はせ、縦覧を許し、折々空砲を鳴して欝気(ウツキ)を消散せしめたり。その内病気の者は自家に帰し、又別に病室を設けて療養せしめ、五月五日解散の時は、一人に付白米三升、銭五百文づゝを渡して、帰宅せしめたり。又力役に付べき達者の者には、鍬(くわ)一枚づゝ渡し遣わし、荒れ地一反歩に付き、起返し料金三分二朱、仕付料二分二朱、合わせて一円半、外に肥(こやし)代壱分を渡し、一村限り出精にて、事に幹(かん)たるべき者を人撰し、入札にて高札の者に、その世話方を申付、荒田を起反(おこしかえ)して、植え付させたり。この起返し田、一春間に五十八町九反歩植付になりたり。実に天より降るが如く、地より湧くが如く、数十日の内に荒田変じて水田となり、秋に至りてその実法り直に貧民食料の補ひとなりたり。その外沓(くつ)草鞋、繩等を、製造せし事も莫太の事にして、飢民一人もなく、安穏に相続し、領主君公の仁政を感佩(かんばい)して、農事を勉励せり。豈(あに)悦(よろこば)しからずや。

二宮尊徳は、この説話で、前説話に続いて、飢饉の救済法について、教えている。尊徳の救援の特徴的なことは、救援者を層別化していることである。この説話では、働ける体力をもっている者とそうでない者、というように区分したとなっているが、烏山藩の城代家老菅谷の書いた書物によれば、より細かく区分しているのがわかる。飢餓に陥った人々の心が暗く沈むのを憂慮し、元気を出させるために、藩士の撃剣の訓練等を避難所で行なわせて見物できるようにしたり、太鼓を鳴らし、鉄砲を撃たせたりして、意識の覚醒化を図ったりしているのである。力仕事ができる者に向けては、荒地や放置された田畑の開発事業を企画し、その事業に従事することで、日銭さえ稼がせているのである。その結果は、多くの田畑の開発となって、将来の食糧増産への寄与となっている。尊徳が、常に考慮していたことは、恵んで費えない、ということである。  
192、窮を救う良法の諭し
翁又曰く、右の方法は只窮救の良法のみにあらず、勧業の良法なり。この法を施(ほどこ)す時は、一時の窮を救ふのみならず、遊惰の者をして、自然勉強に趣(おもむか)しめ、思はず知らず職業を習ひ覚えしめ、習い性と成りて弱者も強者となり、愚者も職業に馴れ、幼者も繩を索(な)ふ事を覚え、草鞋(ワラジ)を作る事を覚へ、その外種々の稼を覚えて、遊手徒食の者なくなりて、人々遊手で居るを恥ぢ、徒食するを恥ぢて、各々精業に趣く様に成行ものなり。それ恵んで費えざるは、窮を救ふの良法たり。然りといへども右の方法は、これに倍したる良法と云うべし。飢饉凶歳にあらずといへども、救窮に志ある者、深く注意せずばあるべからず。世間救窮に志ある者、猥(みだ)りに金穀を施与するは、甚宜しからず。何となれば、人民を怠惰に導くが故なり。これ恵んで費(つい)ゆるなり。恵で費えざる様に、注意して施行し人民をして、憤発勉強に趣(おもむ)かしむる様にするを、要するなり。

二宮尊徳は、この説話で、救済という言葉にとらわれて、食物や資金を直接与えてしまうと、人々に怠惰を推奨してしまうなことになりかねない、そこで注意して、仕事に対する意欲を盛り上げたり、仕事を学ぶ意欲を持ったりするようにさせる方向を選んで、意識改革に期する事業に投資していくべきである、と教えている。我が日本でも、バブル経済崩壊後の経済を復興するためにと、大量の直接投資が行なわれたが、大した効果も上げない内に、債務がどんどん膨らみ、その解消課題だけがつけとなって今に残っている。まさに、恵んで費えた結果となってしまったのである。尊徳流の、恵んで費えない、国家的規模の景気回復支援の仕組を、今後のために構築していく必要があろう。但し、その前に、現在の借金財政の基を作った当事者である、全国規模の行政従事公務員の給与の訂正を含めた、分度の決定が先決であるが。  
193、囲穀(かこいごく)の諭し
翁曰く、囲穀(かこいごく)数十年を経て少しも損ぜぬ物は、稗(ひえ)に勝れるはなし。申合せて成丈多く積み置くべし。稗を食料に用ふるに、凶歳の時は糠(ぬか)を去る事勿れ。から稗一斗に小麦四五升を入れて、水車の石臼(うす)にて挽(ひ)き、絹篩(キヌブルヒ)に掛けて、団子に制して食すべし。俗に餅草(モチグサ)と云う蓬(よもぎ)の若葉を入るれば味好し。稗を凶歳の食料にするには、この法第一の徳用なり。稗飯にするは損なり、されど上等の人の食料には、稗を二昼夜間、水に漬けて、取上げて蒸籠(せいろう)にて蒸(む)して、而して能く干し、臼にて搗(ツ)き、糠を去りて、米を少く交(ま)ぜて、飯(メシ)に炊(カシ)ぐなり。大に殖える物なれば、水を余分に入て、炊くべし、上等の食に用ふるにはこの法に如くはなし。されば富有者自分の為にも、多く囲ひ置て宜敷物なり、勉めて積囲(ツミカコ)ふべし。

二宮尊徳は、この説話で、当時の備蓄技術においては、稗が一番長く品質を保てる作物であるから、これの備蓄に取り組むように、と教えている。これは、当時の保管、備蓄の技術水準を前提とした説話であるから、現代に応用するのであれば、現代の水準で最も良い作物と方法を編み出せば良いのであり、この尊徳の話を卑下してはいけない。特に、食糧自給率の低下への対応として、万一の時のための食糧備蓄を行なっていく必要がある。野菜の価格の低下の際に、廃棄している場面を見ることがあるが、このような時には、フリーズドライなどの方法によって、備蓄食糧に組入れることをすべきである。  
194、60年周期の諭し
翁曰く、人の世の災害凶歳より甚だしきはなし。而して昔より、六十年間に必ず一度ありと云い伝ふ。さもあるべし。只飢饉のみにあらず、大洪水も大風も大地震も、その余非常の災害も必ず六十年間には、一度位は必ずあるべし。たとえ無き迄も必ず有る物と極めて、有志者申合せ金穀を貯蓄すべし。穀物を積囲(ツミカコ)ふは籾(モミ)と稗(ヒヘ)とを以て第一とす。田方の村里にても籾を積み、畑方の村里にては、稗を囲ふべし。

二宮尊徳は、この説話で、大きな災害は、必ず来る。忘れた頃にやって来ると言われる位に、間を空けてやって来るのであるから、平常時にも、凶作、地震、暴風雨等の天災や、大火、暴動等への対策を怠らないようにせよ、と教えている。現在でも、大雨が続けば、洪水や土砂崩れで、大勢の人が死んだり、怪我したり、あるいは、財産を失うなどの被害が毎年発生している。科学も発達し、被害に対応する資金も物資も豊富になった世の中でも、そうなのである。やはり、何処かに、見落としていることが、多数残っているのではないかと、謙虚に反省して、国を挙げて改善に取り組む必要があるようである。前説話の追補で述べたが、余剰が出た時に、冷凍乾燥(フリーズ・ドライ)法による保存食物化を、大いに行って、万一への備えを大規模に行うべきときであろう。 
195、暴動の諭し
翁曰く、窮の尤も急なるは、飢饉凶歳より甚きはなし。一日も緩(ゆるがせ)すべからず。これ緩(ゆる)うすれば、人命に関し容易ならざるの変を生ず。変とは何ぞ、暴動なり。古語に、小人窮すれば乱す、とある通り、空しく餓死せんよりは、たとえ刑せらるゝも、暴を以て一時飲食を十分にし、快楽を極めて、死に付んと、富家を打毀(こわ)し、町村に火を放ちなど、云うべからざる悪事を引起す事、古より然り。恐(オソ)れざるべけんや。この暴徒乱民は、必ずその土地の大家に当(アタ)る事、大風の大木に当るが如し。富有者たるもの、その防ぎ無くばあるべからず。

二宮尊徳は、この説話で、凶作飢饉が、人の心まで飢えさせてしまうと、暴動に発展する。その前に素早く救済に移れるように、対応をしておかなければならない、と教えている。最近の日本では、暴動ではない大規模な市民運動も殆ど無くなった。米国のイラク侵攻の時には、米国や英国では、十万人単位の開戦反対のデモ行動があったが、日本では、国会で論戦があった程度で、街頭における大規模な示威行動は起きなかった。自衛隊のイラク派遣のときもそうであった。やはり、人々の心に不満が少なくなっていることが、その原因なのであろうか。 
 

 

196、飢饉を救ひし方法の諭し
翁曰く、天保四年同七年、両度の凶歳七年尤も甚し。早春より引続き、季候不順にして梅雨より土用に降続き、季候寒冷にして、陰雨(いんう)曇天(どんてん)のみ。晴日稀なり。晴ると思えば曇り、曇ると思えば雨降る。予土用前より、之を憂い心を用いしに、土用に差掛り空の気色何となく秋めき、草木に触(ふ)るゝ風も、何となく秋風めきたり。折節他より、新茄子(ナスビ)到来せるを、糠味噌(ぬかみそ)に付て食せしに、自然秋茄子(なす)の味あり。これに依て意を決し、その夕より、凶歳の用意に心を配り、人々を諭して、その用意を為さしめ、その夜終夜書状を作りて諸方に使を発して、凶歳の用意一途に尽力したり。その方法は明き地空地は勿論、木綿の生立たる畑を潰し、荒地廃地を起して、蕎麦(そば)、大根、蕪菁菜(かぶらな)、胡蘿葡(にんじん)等を、十分に蒔付させ粟(あわ)、稗(ひえ)、大豆等惣(すべ)て食料になるべき物の耕作培養精細を尽させ、又穀物の売物ある時は、何品に限らず、皆之を買い入れ、既に借入れの抵当なく貸金の証文を抵当に入れて、金を借用したり。
この飢饉の用意を、諸方に通知したる内、厚く信じて能く取行いたるは、谷田部茂木(もてぎ)領邑なり。この通知を得るや、その使と同道にて、郡奉行自ら馬に鞭(むち)打て来りて、その方法を問い、急ぎりて郡奉行代官役等、属官を率いて、村里に臨み懇々説諭して、先ず木綿(もめん)畑を潰し、荒地を起し廃地を挙げて食料になるべき蕎麦大根の類を蒔付けたる事夥(おびただ)しく、堂寺の庭迄も説諭して蕎麦大根を蒔かせたりと云えり。下野国真岡近郷は、真岡木綿の出る土地なれば、木綿畑尤多し。その木綿畑を潰して、蕎麦を蒔き替えるを愚民殊(こと)の外歎(なげ)く者あり。又苦情を鳴らす者あり。仍て愚民明らめのため、所々に一畝づゝ、尤も出来方のよろしき木綿畑を残し置きたるに、綿実(わたのみ)一ツも結ばず、秋に至りて初めて予が説を信じたりと聞けり。愚民の諭し難きには殆(ほとん)ど困却せり。又秋田を刈り取りたる干田に、大麦を手の廻る丈け多く蒔せ、それより畑に蒔たる菜種の苗を、田に移し植えて、食料の助けにせり。凶歳の時は油断なく、手配りして食物を多く作り出すべし。これ予が飢饉を救いし方法の大略なり。

二宮尊徳は、この説話で、指導者は、普段からその土地の自然環境の在り方等を良く観察して、把握しておき、その土地では、何を、どのようなことが起こった時を、異常と考えれば良いのかという基準を、持つようにしておかなければならない、と教えている。色々調べてみて、集めたデータを総合した時に、その基準に沿えば異常であると判断した時には、躊躇無く、対応策を昂じていかなければならないが、それには、指導者と人々との間に信頼関係が醸成されていなければ、うまく行かない。それは、異常対応であるから、人々に求めることも、通常では考えられないほど異常なはずであるからである。その異常を、半ば強いる訳であるから、信頼関係が大切になるのである。それには普段からの交流を通して、信頼関係を樹立しておかなければならない。また、指導者は、自分のことよりも、人々の幸福と利益のために、全力を尽くす必要がある。  
197、先ず自分支配の村々の救済の諭し
翁曰く、天保七年の十二月、桜町支配下四千石の村に諭し、毎家所持の米麦雑穀の俵数を取り調べさせ、米は勿論大小麦、大小豆、何にても一人に付き、俵数五俵づゝの割り合を以て、銘々貯(たくわ)へ置き、その余所持の俵数は勝手次第に売り出すべし。この節程穀価(こくか)の高き事は、二度とあるまじ。誠に売るべき時はこの時なり。速かに売りて金となすべし。金不用ならば、相当の利足にて預り遣(つかわ)すべし。且つ当節売出すは、平年施すよりも功徳多し。何方へなりとも売出すべし。一人五俵の割に、不足の者、又貯へなき者の分は、当方にて慥(たしか)に備へ置くべき間、安心すべし。決して隠し置くに及ず、詳細に取調て届け出べしと言て四千石村々の、毎戸の余分は売出させ、毎戸の不足の分は、郷蔵に積み囲い、その余は漸次倉を開て、烏(カラス)山領を始め、皆他領他村へ出して救助したり。他の窮を救ふには先ず自分支配の村々の安心する様に方法を立て而して後に他に及すべし。

二宮尊徳は、この説話で、凶作に対応する際に最初に行うべきことは、個々の家庭に、規定量の食料を確保させ、それが不可能な家庭に対しては公が対応し、対象地区内の何処にも、不安を抱える家庭が無いようにすることことである、と教えている。尊徳は、規定量を確保して余剰のある家庭は、すべて売り払ってよいとしている。しかも、今売れば相当高い価格で売れるから、と売却を奨励している。これは、彼の基本的な考え方としての、その時点で日本全国の経済にとって良いこととは何かという、大局的な判断によるものなのである。決して、今売れば利益が多くなるという狭い考えからだけではない。日本全国が凶作なのであるから、市場に少しでも多くの食糧を供給することが、他の飢えている人々を助けることにつながるという、考えなのである。こうして、まず、自分の管理下にある人々を安心させ、その上で、請願のあった地区に対して、食糧の支援を行なっているのである。自分の身を固めてこそ、他の人の支援ができる、という考えなのである。  
198、開倉の諭し
駿(すん)州駿東郡は、富士山の麓(ふもと)にて、雪水掛かりの土地なる故天保七年の凶荒、殊(こと)に甚し。領主小田原侯、この救助法を東京にて翁に命ぜられ、米金の出方は、家老大久保某に申付たり。小田原に往て受取べし、と命ぜらる、翁即刻出発夜行して、小田原に至られ、米金を請求せられしに、家老年寄の評議未だ決せず。翁之を待つ久し。日午に到る、衆皆弁当を食して、後に議せんと也。翁曰く、飢民今死に迫れり。之を救ふべきの議、未だ決せず、然るに弁当を先にして、この至急の議を後にするは、公議を後にして、私を先にするなり。今日の事は、平常の事と違ひ、数万の民命に関する重大の件なり。先ずこの議を決して後に弁当は食すべし。この議決せずんば、たとえ夜に入るとも、弁当は用ふる事勿れ。謹(つつし)んでこの議を乞ふと述られたれば、尤もなりとて、列座弁当を食する事を止めてこの議に及べり。速にに用米の蔵を開く可しと定りて、この趣(おもむき)を倉奉行に達す。倉奉行又開倉の定日は、月に六回なり。定日の外漫(みだり)に開倉する例なし、と云て開かず。又大に議論あり。倉奉行、家老の列座にて、弁当云々の論ありし事を聞て、速かに倉を開らけりとぞ。これ皆翁の至誠による物也。

二宮尊徳は、この説話で、官僚化が激しくなると、規定を重視し過ぎて、会議を開いても、何のために会議を行っているかという、目的さえ忘れてしまうことがある。このような人達には、正論を説いて、少しでも目を覚ますように仕向けてやる必要がある、と教えている。だが、それも、聞き入れる度量と能力を持った官僚の場合には通用するが、そうでない場合には、注意が必要であろう。官僚達の行動を見ていると、この説話のように、規定や法律に気を取られていて、結果として、枝葉末節にばかり注意が行き過ぎ、その樹木の全体的な状況が掴めないということが多い。数年前の話であるが、ある法人を設立する際に、役員の氏名の記載に関して、提出書類の訂正の要求が主務官庁からあった。当方としては、住民登録票の証明書を添付し、それによって記載事項が正しいことを確認していたので、半信半疑で出掛けたところ、一人の役員の姓名欄の、名の文字「邦」が、住民登録票では「手」の字のように、縦の棒が上に飛び出していないのに、提出書類では「邦」と、飛び出しているので、訂正せよ、とのことであった。この違いが、一体全体、どこにどのような損害を与えるのかと食い下がってみたが、所詮は、先方が認可権を保持しているのであるから、当方が折れるほか無いと諦め、パソコンで外字として新文字を作り、時間と交通費をかけて再提出をしたのである。その後に、何度か経過の報告書類を提出したが、総てに外字の新文字を使っているわけではないが、無事に通っている。おかしな話である。  
199、両全の道の諭し
二宮尊徳は、この説話で、官僚化が激しくなると、規定を重視し過ぎて、会議を開いても、何のために会議を行っているかという、目的さえ忘れてしまうことがある。このような人達には、正論を説いて、少しでも目を覚ますように仕向けてやる必要がある、と教えている。だが、それも、聞き入れる度量と能力を持った官僚の場合には通用するが、そうでない場合には、注意が必要であろう。官僚達の行動を見ていると、この説話のように、規定や法律に気を取られていて、結果として、枝葉末節にばかり注意が行き過ぎ、その樹木の全体的な状況が掴めないということが多い。数年前の話であるが、ある法人を設立する際に、役員の氏名の記載に関して、提出書類の訂正の要求が主務官庁からあった。当方としては、住民登録票の証明書を添付し、それによって記載事項が正しいことを確認していたので、半信半疑で出掛けたところ、一人の役員の姓名欄の、名の文字「邦」が、住民登録票では「手」の字のように、縦の棒が上に飛び出していないのに、提出書類では「邦」と、飛び出しているので、訂正せよ、とのことであった。この違いが、一体全体、どこにどのような損害を与えるのかと食い下がってみたが、所詮は、先方が認可権を保持しているのであるから、当方が折れるほか無いと諦め、パソコンで外字として新文字を作り、時間と交通費をかけて再提出をしたのである。その後に、何度か経過の報告書類を提出したが、総てに外字の新文字を使っているわけではないが、無事に通っている。おかしな話である。翁曰く、予この時駿州御厨(みくりや)郷、飢民の撫育を扱ふ。既に米金尽き術計なし。仍て郷中に諭して曰く、昨年の不熟六十年に稀なり。然りといへども、平年農業を出精して米麦を余し、心掛けよろしきものは差し閊(つかえ)有るまじ。今飢える者は平年惰農にして、米麦を取る事少く、遊楽を好み博奕(ばくえき)を好み飲酒に耽り、放蕩無頼の心掛け宜しからざる者なれば、飢えるは天罰と云うて可なり。然らば救はずとも可なるが如しといへども、乞食(こつじき)となるものを見よ。無頼悪行、これより甚しく、終に処を離れて、乞食する者なれば、悪むべきの極なり。されども、これをさへ憐れんで、或は一銭を施し、或は一握りの米麦を施すは、世間の通法なり。今日の飢民は、これと異なり、元一村同所に生れ同水をのみ同風に吹かれ、吉凶葬祭相共に、助け来れる因縁浅からねば、何ぞ見捨てて救わざるの理あらんや。今予飢民の為に、無利足十ケ年賦の金を貸与えてこれを救はんとす。然りといへども飢えに望む程のものは、困究(甚だしければ、返納は必ず出来ざるべし。仍て来年より、差支なく救を受ざる者といへども、日々乞食に施すと思ひ、銭十文又廿文を出すべし。その以下中下のものは、銭七文又五文を出すべし。来年豊年ならば、天下豊かならん。御厨郷のみ、乞食に施さゞるも、国中の乞食、飢る事あらじ。乞食に施す米銭を以て、彼が返納を補なはゞ、自ら損せずして、飢民を救ふべし。これ両全の道にあらずや、と諭せしに郡中の者一同、感戴(かんたい)して承諾せり。仍て役所より、無利子金を十ケ年賦に貸し渡して、大に救助する事を得たり。これ上に一銭の損なくして、下に一人の飢民なく、安穏に飢饉を免れたり。この時小田原領のみにして、救助せし人員を、村々より書上げたる処、四万三百九十余人なりき。

二宮尊徳は、この説話で、飢饉、地震などの緊急の高い救援を要する災害に際しては、地域が運命共同体的な思考で、一致団結していかなければ、支援の効果があがらない。そのためには、その必要性と効用について、判り易く説明して納得させなければならない、と教えている。一般に、災害の規模がさほど大きくない場合は、個別の利害という姿がそのまま残るが、災害がある程度大きく、地域の社会資本なども大きな被害を受けた時には、運命共同体的な発想が生まれて、個々の利害を離れて共同していく形態ができるようである。この説話の場合は、被害救済のために、十年無利子貸付という非常に優遇された条件の貸付が行なわれた。普通の一般借入金であれば、毎年十五%から二十%の利息を払わなければならないのであるから、この借入金の場合は、毎年の返済額が利息金よりも遥かに少額となる。ここで尊徳の提案を断って、それが借りられなくなる損害と、天秤にかけたと考えられる部分も無いではないが、それでも、運命共同体的発想になれたのは、村落として助け合ってきた土台があったからこそであろう。 
200、工夫の諭し
翁曰く、予不幸にして、十四歳の時父に別れ、十六歳のをり母に別れ、所有の田地は、洪水の為に残流失し、幼年の困窮艱難実に心魂に徹し、骨髄に染み、今日猶忘るゝ事能はず。何卒して世を救ひ国を富まし、憂き瀬に沈む者を助けたく思ひて、勉強せしに、斗(はか)らずも又天保両度の飢饉に遭遇せり。ここに於て心魂を砕き、身体を粉にして、弘くこの飢饉を救はんと勤めたり。その方法は本年は季候悪(あし)し、凶歳ならんと、思ひ定めたる日より、一同申合せ、非常に勤倹を行ひ、堅く飲酒を禁じ、断然百事を抛(なげう)ちて、その用意をなしたり。その順序は先ず申合せて、明地空地を開き、木綿畑を潰して瓜哇薯(じゃがたらいも)蕎麦菜種(なたね)大根蕪菜(かぶな)等の食料になるべき物を、蒔付る手配りを尽し、土用明け迄は隠元(いんげん)豆も遅からねば、奥の種を求めて多く蒔かせ、それより早稲(わせ)を刈取り、干田は耕やして麦を蒔き、金銭を惜しまず、元肥(ごえ)を入れて培養し、それより畑の菜種の苗を抜きて田に移し植えて、食料の助とせり。この如くその土地土地に於いて油断なく勉強せば、意外に食料を得べし。凶荒の兆しあらば油断なく食料を求る工夫を尽すべし。

二宮尊徳は、この説話で、指導者が自信を持って凶作と予想した時には、何を恐れることなく人々の説得に向かい、多少の現金収入を減らすことになろうとも、生き長らえることが先決であると自覚させ、可能な限りの方策を講じて食糧確保に向わせるべきである、と教えている。この話の前提としては、既に見たように、平常時の信頼関係の確立とい前提があるが、それは当然できているものとしての話である。 
 

 

201、恩の諭し
翁曰く、世人の常情、明日食うべき物なき時は、他に借りに行かんとか、救いを乞わんとかする心はあれども、弥(いよいよ)明日は食うべき物なしと云う時は、釜も膳(ぜん)椀(わん)も洗う心なし、と云えり。人の情実に恐るべく尤もの事なれども、この心は困窮その身を離れざるの根元なり。如何となれば、日々釜を洗い膳椀を洗うは明日食わんが為にして、昨日迄用いし恩の為に洗うにあらず。これ心得違いなり。たとへ明日食うべき物なしとも、釜を洗い膳も椀も洗い上げて餓死すべし。これ今日迄用い来りて、命を繋(つな)ぎたる恩あれば也。これ恩を思うの道なり。この心ある者は天意に叶う故に長く富を離れざるべし。富と貧とは、遠き隔てあるにあらず、明日助らん事のみを思いて、今日までの恩を思わざると、明日助らむ事を思うては、昨日迄の恩をも忘れざるとの二ツのみ。これ大切の道理也。能く々心得べし。
仏家にては、この世は仮の宿、来世こそ大切なれと教える。来世の大切なるは、勿論なれど、今世を仮の宿として軽んずるは誤れり。今一草を以て之を譬えん。それ草となりては、来世の実の大切なるは無論なりといえども、来世好き実を結ばんには、現世の草の時、芽立より出精して、露を吸い肥しを吸い根を延し葉を開き、風雨を凌ぎ、昼夜精気を運びて根を太らせ、枝葉を茂らせ、好き花を開く事を丹精せざれば、来世好き実となる事を得ず。されば草の現世こそ大切なれ。人もその如く、来世のよからん事を願わゞ、現世に於て邪念を断ち身を慎しみ道を蹈(ふ)み、善行を勤むるにあり。現世にて人の道を蹈まず、悪行をなしたる者いづくんぞ、来世安穏なる事を得んや。
それ地獄は悪事を為したる者の、死後に遣(や)らるゝ処、極楽は善事を為したる者の行処なる事、鏡に掛(か)けて明なれば、来世の善悪は、現世の行いにあり。故に現世を大切にして、過去を思うべき也。先ずこの身は如何にして生れ出しやと、跡を振り返りて見る是なり。論語にも、生を知らざれば焉(いずくん)ぞ死を知らん、と云えり。それ性は天の令命なり。身体は父母の賜なり。その元天地の令命と父母の丹精とに出づ。先ずこの理より窮めて、天徳に報い、父母の恩に報う行いを立つべし。性に率(したが)いて道を蹈むは人の勤めなり。この勤めを励む時は、来世は願わずして、安穏なる事疑いなし。何ぞ現世を仮の宿と軽んじ、来世のみを大切とせんや。
それ現在に君あり、父母あり妻子あり、これ現世の大切なる所以なり。釈氏の之を捨て、世外に立しは、衆生を済度(さいど)せんが為なり。世を救わんには、世外に立ざれば、広く救い難きが故なり。譬えば己が坐して居る畳を揚(あ)げんとする時は、己外に移らざれば、揚ぐ可らざるが如くなればなり。然るに世間一身を善くせんが為に、君父妻子を捨つるは迷えるなり。然れども僧侶はその法を伝えたる者なれば、世外の人なるが故に別なり。混ずべからず。これ君子小人の別るゝ処にして、我が道の安心立命はここにあり。惑うべからず。

二宮尊徳は、この説話で、人は、常に、将来に向って生きていくという思考の基に、日々の行動を行なうべきであるが、将来にばかり希望をかけていては、現在を努めるという気持ちが薄くなる。自分のため、家族のため、子孫のために、まずは現在を可能な限り努めて、余剰を生み出して、将来のために、家族のために、社会のために譲る、ということに努めるべきである、と教えている。  
202、能く勤めよの諭し
翁曰く、予飢饉救済の為、野常相駿豆の諸村を巡行して、見聞せしに、凶歳といへども、平日出精人の田畑は、実法(みの)り相応にありて、飢渇(きかつ)に及ぶに到らず。予が歌に「丹精は誰しらねどもおのづから 秋の実法のまさる数(かず)々」といへるが如し。論語に、苟(まこと)に仁に志さば悪なし、と云えり。至理なり。この道理を押すに苟(マコト)に農業に志せば、凶歳なしと言て可なる物なり。されば苟(マコト)に商法に志せば、不景気なしと云うて可ならん。汝等能く勤めよ。

二宮尊徳は、この説話で、普段から自分の職業に精を出し、貯蓄に努めている人は、凶作や不況にも、大した影響を受けていない。指導者は、普段からの出精が大切であることを認識して、そのように指導せよ、と教えている。まことに、その通りである。  
203、正月餅の諭し
桜町陣屋下に翁の家出入の畳職人、源吉と云う者あり。口を能くきゝ、才ありといえども、大酒遊惰なるが故に困窮なり。年末に及んで、翁の許(もと)に来り、餅米の借用を乞へり。翁曰く、汝が如く、年中家業を怠りて勤めず、銭あれば酒を呑む者、正月なればとて、一年間勤苦勉励して、丹精したる者と同様に餅を食んとするは甚だ心得違いなり。それ正月不意に来るにあらず。米偶然に得らるゝ物にあらず。正月は三百六十日明け暮れして来り。米は、春耕し夏耘(くさぎ)り秋刈りて、初めて米となる、汝春耕さず夏耘(くさぎ)らず秋刈らず。故に米なきは当り前の事なり。されば正月なりとて、餅を食うべき道理ある可からず。今貸すとも何を以て返さんや。借りて返す道無き時は罪人となるべし。正月餅が食いたく思わゞ、今日より遊惰を改め、酒を止めて、山林に入て落葉を掻(か)き、肥(こやし)を拵(こし)らえ、来春田を作り米を得て、来々年の正月、餅を食うべきなり。されば来年の正月は、己が過ちをくいて餅を食う事を止めよと懇々説諭せられたり。源吉大に発明し、先非を悔い、私(わたくし)遊惰にして、家業を怠り酒を呑み、而て年中勉強せらるゝ人と同様に、餅を食て春を迎えんと思いしは全く心得違ひなりき。来年の正月は、餅を食わず過ちをくいて年を取り、今日より遊惰を改め、酒を止め、年明けなば、二日より家業を初め、刻苦勉励して、来々年の正月は、人並に餅を搗(つ)き祝ひ申すべしと云い、教訓の懇切なるを厚く謝して、暇乞(いとまごい)をし、しほしほと門を出づ。時に門人某、密(ひそか)に口ずさめる狂歌あり。「げんこう(言行・源公)が一致ならねば年の暮 畳み(重なるむねや苦しき」。翁この時金を握り居られて、源吉が門を出て行くを見て俄(にわか)に呼び戻し、予が教訓能く腹に入りたるか。源吉曰く、誠に感銘せり、生涯忘れず、酒を止めて、勉強すべしと。翁則ち白米一俵餅米一俵金一両に大根芋等を添えて与へらる。これより源吉生れ替わりたるが如く成りて、生涯を終れりと云う。翁の教養に心を尽さるゝ事この如し。この類枚挙に暇(いとま)あらずといえども、今その一を記す。

二宮尊徳は、この説話で、怠惰な生活をしている者でも、きちんと理を説いてやれば、普通の生活知識を持っている者ならば、それを聞いて、少しは怠惰から逃れようと努力してみようと思うものである。そのような気持ちになった時には、それに報いてやるようにしてやれば、その者はより一層正しい生活を送ろうと決心するのである。指導者は、そのようにせよ、と実例を見せて教えている。この話はいつ頃発生したのかわからないが、畳屋源吉は、高田孝慶(のちに、尊徳の一番の弟子という位置を占める中村藩相馬家の家臣)の入門に際して、尊徳への紹介者として日記に登場している人物である。  
204、肥良の土の諭し 翁曰く、山の裾(すそ)、また池のほとりなどの窪き田畑などには大古の池沼などの、自ら埋(うま)りて田畑となりたる処ある物なり。この処は、凡て肥良の土の多くある物なれば、尋ねて掘出して、麁(そ)田麁畑に入るゝ時は大なる益あり。これを尋ねて掘り出すは天に対し国に対しての勤めなり。励みて勤むべし。 
205、骨折りの諭し
下野国某の郷村、風俗頽廃(たいはい)する事甚し。葬地(そうち)定所なく、或は山林原野、田畑宅地皆埋葬して忌(いま)ず、数年を経れば墓を崩し菽(まめ)麦を植えて又忌ず。故に荒地開拓、堀割り、畑捲(まく)り等の工事に、骸骨(がいこつ)を掘出す事毎々あり。翁之を見て曰く、それ骸骨腐朽すといえども、頭骨と脛(けい)骨とは必ず存す。如何となれば、頭は衆体の上に有て、尤も功労多き頭脳を覆(おお)ひて、寒暑を受る事甚し。脛(はぎ)は衆体の下に有て、身体を捧(ささ)げ持ち、功労尤も多し。その人、世に有て功労多き処、没後百年その骨朽(くち)ず、その理感銘すべし。汝等頭脛(づけい)の骨の如く、永く朽ざらん事を勤めよ。古歌に「滝のおとは絶えて久しく成ぬれど 名こそ流れて猶聞えけれ」とあり。本朝の神聖は勿論、孔子釈氏等も世を去る事三千年なり。然るに今に至りて大成至聖文宣皇帝孔夫子と云ひ、大恩教主釈迦牟尼仏と云えり。その人は死していと久しく成りぬれど、名こそ我朝にまで、流れ来りて、猶聞えたれ。感ずべきなり。おおよそ人の勲功は、心と体との二ツの骨折に成る物なり。その骨を折て已(や)まざる時は、必ず天助あり。古語に、之を思い思いてやまざれば天之を助く、と云り。之を勤め勤めて已まざれば又天之を助く可し。世間心力を尽して、私なき者必ず功を成すは是が為なり。それ今の世の中に、勲功残りて、世界の有用となる処の物、後世に滅せずして、人の為に称讃せらるゝ処の者は皆悉(ことごと)く前代の人の骨折りなり。今日この如く国家の富栄盛大なるは、皆前代の聖賢君子の遺(のこ)せる賜物にして、前代の人の骨折りなり。骨を折れや二三子、勉強せよ二三子。

二宮尊徳は、この説話で、現在の繁栄は、昔の人の努力の賜物であり、それを忘れてはならない。今の人達も、未来の人達のために大いに努力をしていくべきである、と教えている。 
 

 

206、吝嗇(りんしょく)戒めの諭し
翁曰く、何程富貴なりとも、家法をば節倹に立て、驕奢に馴るゝ事を厳に禁ずべし。それ奢侈は不徳の源にして滅亡の基(もとい)なり。如何となれば、奢侈を欲するよりして、利を貪(むさぼ)るの念を増長し、慈善の心薄(うす)らぎ、自然欲深く成りて、吝嗇(りんしょく)に陥いり、それより知らず知らず、職業も不正になり行きて、災を生ずる物なり。恐るべし。論語に、周公の才の美ありとも奢(おご)り且つ吝(やぶさか)なれば、その余は見るに足らず、とあり。家法は節倹に立て、我身能く之を守り、驕奢に馴るる事なく、飯と汁木綿着物は身を助くの真理を忘るる事勿れ。何事も習い性となり馴れて常となりては、仕方無き物なり。遊楽に馴るれば面白き事もなくなり、甘(うま)き物に馴るれば甘き物もなくなるなり。これ自ら我が歓楽をも減ずるなり。日々勤労する者は、朔望(さくぼう)の休日も楽みなり。盆正月は大なる楽しみなり。これ平日、勤労に馴るゝが故なり。この理を明弁して滅亡の基を断ち去るべし。且つ若き者は、酒を呑むも、烟草(たばこ)を吸うも、月に四五度に限りて、酒好きとなる事勿れ、烟草好きとなる事勿れ。馴れて好きとなり、癖となりては生涯の損大なり。慎しむべし。

二宮尊徳は、この説話で、どのような人も、節約、倹約を旨として心に決めて、守り通すことが大事なことである。特に、贅沢に慣れると、益々贅沢を求めるようになるので、注意すべきである、と教えている。  
207、仁者仁心の諭し
翁曰く、大学に、仁者は財を以て身を起す、といへるはよろし。不仁者は身を以て財を起す、といへるは如何。それ志ある者といへども、仁心ある者といへども、親より譲られし財産なき者は、身を以て財を起すこそ道なれ。志あるも、財なきを如何せん。発句に「夕立や知らぬ人にも もやひ傘」と云えり。これ仁心の芽立(めだち)なり。身を以て財を起しながらも、この志あらば、不仁者とは云べからず。身を以て財を起すは貧者の道なり。財を以て身を起すは富者の道也。貧人身を以て財を起して富を得、猶財を以て財を起さば、その時こそ不仁者と云うべけれ。善をなさゞれば善人とは云うべからず。悪を為さゞれば悪人とは云うべからず。されば不仁を為さゞれば不仁者とは云うべからず。何ぞ身を以て財を起す者を、一向に不仁者と云わんや。故に予、常に聖人は大尽子(ジンコ)なりと云うなり。大尽子は袋中自ら銭ありと思へり、自ら銭ある袋決してあるべき理なし。この如き咄は、皆大尽子の言なり。又人あれば土ありともあり。本来を云へば、土あれば人ありなる事明らかなり。然るを、人あれば土ありと云へる土は、肥良の耕土を指せるなり。烈公の詩に「土有て土なし常陸の土、人有て人なし水府の人」とあり。則ちこの意なり。

二宮尊徳は、この説話で、大學では、身をもって財を興すのを、不仁と言っているが、その通りだとすると、金持ちの子供以外は、財を興して仁の実現をしてはいけないこととなる。従って、その言葉は、それくらいの気持ちで当たれと言っていると理解しても良いのである。その代わりに、財を成した後も財を求めず、財を仁の実現に用いることが大事である、と教えている。現在では、財を以って財を興す、という人が多くなっている。そして、興した後は、仁とは何だとばかりに、金の亡者に成り下がっていく。その人達が、アメリカ流に資本主義の制度に従って行動していると言っているアメリカでは、金持ちとして社会に認められる条件として、社会奉仕に資金を投じていることがあるのである。自分達に都合の良い部分だけを取り上げて、米国流と言うのは、身勝手過ぎるのである。  
208、硯箱の墨(すみ)の諭し
硯箱の墨(すみ)曲(まが)れり。翁之を見て曰く、総(スベ)て事を執(と)る者は、心を正平に持たんと心掛くべし。譬えばこの墨の如し。誰も曲げんとて摺(す)る者はあらねど、手の力自然傾くが故にこの如く曲るなり。今之を直さんとするとも、容易に直るべからず。百事その通りにて、喜怒愛憎ともに、自然に傾(かたぶ)く物なり。傾けば曲るべし、能く心掛けて心は正平に持べし。

二宮尊徳は、この説話で、心のあり方が水平で無いと、その結果、行動が自然とどちらかに曲がっていくものであるから、水平を保つように十分注意すべきである、と教えている。これも、既に何度か出ている「誠則形」(まことなれば、すなわちあらわる)(中庸)のことである。表に現われる言動というものは、内なる心の反映でしかないのであるから、心を水平に保たなければ、摺る墨も偏って減ってくるのである。  
209、諫めの諭し
或る人問て曰く、三年父の道を改めざるを孝と為すとあり。然りといへども、父道不善ならば、改めずばあるべからず。翁曰く、父の道誠に不善ならば、生前能く諫(いさ)め又他に依頼しても改むべし。生前諫めて改るまでに及ばざるは、不善と云といへども、不善と云う程の事にはあらざる、明なり。然るを、没するを待て改るは、不孝にあらずして何ぞ。没後速にに改んとならば、何ぞ生前諫て改めざる。生前諫ず改る事もせず、何ぞ没するを待て改るの理あらんや。

二宮尊徳は、この説話で、親の行ないが、不仁、不善であると気が付いた時には、親であっても、穏やかに諌めて、直してくれるように頼むべきである、と教えている。これは、第七十話の「事父母幾諌、見志不從、叉敬不違、勞而不怨」にあるように、諌めることも孝行の内なのである。生前に、親に諫言するほどのことが無かったのであれば、死後の、喪が明けるまでの期間くらい何もせずに待つことは、一つも難しいことではない。 
210、城の修理の諭し
翁曰く、大久保忠隣(ちか)君、小田原城拝領の時、家臣某諫(いさめ)て曰く、当城は北条家築(つき)建にして、代々の居城なれば拝領相なるとも、当城守護と思召れ。本丸の住居は、遠慮有て然るべし。拝領なればとて拝領と思召す時は、御為如何あらん。且つ城の内外共、御手入れ等なく、先ずその儘に置れたしと献言せしかど、忠隣君剛強の性質なれば、たとえ北条の居城にもせよ、築建にもせよ、今忠隣が拝領せり。本丸の住居、何の不可か有らん。城の修理何の憚(はばか)る処か有らんとて、聴ききヽ)たまはず。その後行違ひありて、改易の命あり。これ嫌疑に依るといへども、その元、気質の剛強に過て、遠慮無きに依れるなり。それ熊本城も本丸は住居なく、水戸城も佐竹丸は住居なしと聞けり。何事にもこの理あり、心得べき事なり。

二宮尊徳は、この説話で、剛毅なのは悪くは無いが、この世の中では、遠慮ということも必要である。それが、剛毅を和らげて、回りとの融和を促進してくれるのである、と教えている。洋の東西を問わず、剛毅一本槍で大成した人はいない。剛毅な人は、どうしても遠慮が無いことから、周りに人がいなくなってしまい、協力、支援する人が居なくなってしまうからである。注意すべきである。 
 

 

211、一得一失の諭し
翁曰く、凡そ物一得あれば一失あるは世の常なり。人の衣服に於る甚煩(わずら)はし。夏の暑にも冬の寒きにも、糸を引機(はた)をおり、裁縫(たちぬ)ひすゝぎ洗濯、常に休する時なし。禽獣(キンジウ)の自ら羽毛あり、寒暑を凌ぎ、生涯損ずることなく、染めずして彩色ありて、世話なきに如ざるが如しといへども、蚤(ノミ)虱(シラミ)羽虫など羽毛の間に生じ、これを追ふに又暇(イトマ)なきを見れば、人の衣服、ぬぎ着自在にして、すゝぎ洗濯の自由なるに如ざる事遠し。世の他をうらやむの類、おおよそかくの如き物也。

二宮尊徳は、この説話で、物事には、良い面があれば必ず悪い面、欠点が有るものである。自分の近くの物事は、ついつい、良い面よりも、欠点や悪い面の方が見えてきてしまうものであるが、今見ていないところに、良い面があるのであるから、視点を変えて見直してみれば、必ず、その良い面が見えてくる、と教えている。 
212、生物殺生の諭し
或(ある)ひと日光温泉に浴す。山中他邦の魚鳥を喰ふ事を禁じて、山中の魚鳥を殺すを禁ぜず、他の神山霊地等は境内(けいだい)に近き沼地山林にて、魚鳥を殺すを禁ず。これ庖厨(ほうちょう)を遠づくるの意。耳目の及ぶ所にて、生を殺すを忌(い)むなり。而て日光温泉の制、これに反対せり。山中の殺生を禁ぜずして、他境の魚鳥を禁ず。これ山神の意なりと云ふ。この理あるべからずと云えり。翁曰く、仏者殺生戒を説くといへども、実は不都合の物なり。天地死物にあらず万物また死物にあらず、然る生世界に生れて殺生戒を立つ。何を以て生を保(たもた)んや。生を保つは、生物を食するに依る。死物を食して焉(いずくんぞ)生を保つ事を得ん。人皆禽獣(きんじゅう虫魚飛揚(ひよう)蠢動(しゅんどう)の物を殺すを殺生と云いて、草木菓穀(かこく)を殺すの殺生たるを知らず。飛揚蠢動の物を生と云ひ、草木菓穀を生物に非ずとするか。鳥獣を屠(ほふ)るを殺生と云ひ、菓穀を煮るを殺生に非ずとするか、然らば木食行者と云うといへども、秋山の落葉を食して生を保つべけんや。然れば殺生戒と云うといへども、只我と類の近き物を殺すを戒めて、類を異にする物を戒めざるなれば、不都合なる物也。されば殺生戒とは云う可からず、殺類戒と云うて可なる物なり。凡そ人道は私に立たる物なれば、至る処を推し窮むる時は皆この類なり。怪(あやし)むにたらず。而て日光温泉は深山なり、深山などには往古の遺(い)法残る物なれば、私に立たる往古の遺法なるべし。且つ深山は食に乏し。四境通達の処と同じからざれば、往古食物を得るを以て善とせしより、この如き事になれるなるべし、怪むにたらざるなり。

二宮尊徳は、この説話で、殺生を禁じている仏教の教えは、不可解で、その内容には承服し難いと言い、生物総てを殺してはいけないと言うならば、野菜も、米も食べられない、とその矛盾をついている。似たような話に、捕鯨禁止のことがある。日本の食文化については、一切認めずに、クジラは利口な生物であるから、殺してはならないと言うが、それを唱えているアメリカを初めとした国では、家畜を中心にした動物を多量に食べている。それらも、生きた動物を殺して食べるのである。昨日まで、可愛いとか何とか言って育てていた家畜を、今日は殺して食べるのである。これも文化である。国や地域によって、文化は色々変わるのであるから、自分の文化と違うからと、一概に批判してはならないのである。  
213、法度を審(つまびらか)にするの諭し
翁曰く、学者書を講ずる悉(くわ)しといへども、活用する事を知らず。徒(いたづ)らに仁は云々義は云々と云り。故に社会の用を成さず、只本読みにて、道心法師の誦経(じゅきょう)するに同じ。古語に、権量(けんりょう)を謹(つつし)み法度を審(つまびらか)にす、とあり。これ大切の事なり。之を天下の事とのみ思ふ故に用をなさぬ也。天下の事などは差し置て、銘々己が家の権量を謹しみ、法度を審かにするこそ肝要なれ。これ道徳経済の元なり、家々の権量とは、農家なれば家株田畑、何町何反歩、この作徳何拾円と取調べて分限を定め、商法家なれば前年の売徳金を取調べて、本年の分限の予算を立る、これ己が家の権量、己が家の法度なり。これを審にし、之を慎んで越えざるこそ、家を斉(ととの)ふるの元なれ。家に権量なく法度なき、能く久きを保たんや。

二宮尊徳は、この説話で、この世の中は、儒者のように、「仁」がどうのこうの、「義」がどうのこうの、と大きなことばかり言っていても、何の役にも立たない。それよりも、もっと足下をしっかり見つめて、自分の家の現状をきちんと把握し、それに基づいて分度を決めて、推譲に励むほうが、ずっと役に立ち、ひいては、国家の繁栄につながる、と教えている。 
214、家僕の諭し
老中某侯の家臣、市中にて云々の横行あり、横山平太之を誹(そし)る。翁曰く、執政は政事の出る処、国家を正しうして、不正無からしむるの職なるにその家僕(ぼく)その威をかりて、不正を行ふ者往々あり。譬えば町奉行の奴僕(ぬぼく)等、両国浅草等に出る。予が法皮(はっぴ)を見よなどゝ罵(ののし)るに同じ。国を正しうする者、家を正しうする事能はざるが如しといへども、これ家政の届かざるにあらず、勢の然らしむるものなり。かの河水を見よ、水の卑(ひききヽ)に下るの勢い、政事の国家に行はれて置郵伝命(チユウデンメイ)より速かなるが如し。而て水流急にして、或は岩石に当り、石倉に当る処、急流変じて逆流となるものなり。それ老中の権威は、譬えば急流の水勢防ぐべからざるに同じ。家僕等法を犯す者あるは、急流の当る処逆流となるが如し。これ自然に然らざるを得ざるものなり、咎むる事勿れ。

二宮尊徳は、この説話で、高い官職にあるものの家僕などが、虎の威を借る狐のように、威張り散らしているのは、その人が家の管理ができないという理由ばかりではなく、その官職が持つ強さが、勢い余って、それらの家僕を押し上げてしまうからなのである、と教えている。これに似た、虎の威を借りた狐は、現代でも至るところに出没している。特に、各種議員に関係する者と暴力団関係者が多い。 
215、酒宴の法の諭し
翁、折々補労(ホロウ)のために酒を用ひらる、曰く、銘々酒量に応じて、大中小適意の盃を取り、各々自盃自酌たるべし。献酬(ケンシウ)する事勿れ。これ宴を開くにあらず。只労を補はんがためなればなりと。或曰く、我が社中これを以て、酒宴の法と為すべし。

二宮尊徳は、この説話で、酒は、飲む人の身体に溜まった一日の疲れを癒すために呑むものと考えて呑むことが正しい。また、指導者は常に孤独であることが多い。それ故に酒を飲むときには、酒によって気持ちを紛らわせたいとの誘惑が襲うことがある。そのような時には、酒に呑まれないように、注意して呑むことが大切である。指導者は、孤独感に負けるな、と教えている。「呑みにゅけーしょん」という言葉がある。酒を呑みながら、意思疎通を図ろうということであるが、これは、指導される立場に居るか、常に支援を受ける立場に居る人達の間の話である。「呑みにゅけーしょん」は、西洋のパーティとは、また違うものである。パーティは、話を弾ませるために軽く酒を呑むのであるが、「呑みにゅけーしょん」は、酒の間に話が入ってくる種類のものである。結果として、意思の余り強くない、非指導者の慰め合いなのである。 
 

 

216、丸の字の諭し
翁曰く、九の字に一点を加えて、丸の字を作れるは面白し、○は則ち十なり、十は則ち一なり。「元日や うしろに近き大卅日(ミソカ)」と云わる俳句あり。又この意なり、禅語にこの類の語多し。この句「うしろに近き」を「うしろをみれば」と為さば、一層面白からんか。

二宮尊徳は、この説話で、九の字に「点」を一つ加えた字を、「まる」と読むのは、なかなか面白い、と言う。ここで、尊徳が、○(丸)は、すなわち十である、と言う意味が、私には良くわからない。今後、時間をかけて調べてみたいが、現段階で勝手に推理してみると、次のとおりとなる。弘化元年(夜話の著者、福住正兄が入門する前年)四月十一日に古河藩の鷹見泉石宅で世界地図などを見せてもらっているので、その時に西洋で用いている0、1、2、3、10、20、という算用数字も見ていた可能性もある。また、その時に、九の次の十を表現する時や、二十、三十の表現に0(れい)が使われていることを知って、十は、西洋風で1と0であり、しかも和風では、0は九に「点」を加えたものであるから、和風の十が1(一)と「点」、(一とー(組合わせると十))の組合わせであるのと附合するので、1から始まり9に来て、また1が改めて使われて次の位が始まるのを正月と見たてて、「うしろを見れば」の言葉になったのではないか、ということである。  
217、聖人、賢人、凡夫の諭し
翁曰く、世人皆、聖人は無欲と思へども然らず。その実は大欲にして、その大は正大なり。賢人之に次ぎ、君子之に次ぐ。凡夫の如きは、小欲の尤も小なる物なり。それ学問はこの小欲を正大に導くの術を云う。大欲とは何ぞ、万民の衣食住を充足せしめ、人身に大福を集めん事を欲するなり。その方、国を開き物を開き、国家を経綸し、衆庶を済救するにあり。故に聖人の道を推し窮むる時は、国家を経済して、社会の幸福を増進するにあり。大学中庸等にその意明らかに見ゆ。その欲する処豈正大ならずや。能くおもふべし。

二宮尊徳は、この説話で、聖人は、無欲ではなく正大な欲を持った人である。正大な欲の内容は、国家の財政の収支を調和させて、蓄積を作り、社会の幸福を増進させることであるから、指導者を目指す者は、この正大な欲に向って良く勉強しなければならない、と教えている。尊徳は、その正大な欲を達するためには、国を開き、物を開き、国家を経綸することが必要であると言う。物質文明が盛んな現代においては、国を開き、物を開いていくことは、それ程難しいことではないように思われるが、現実には、国を開くということに、まだまだ達成されていない面がある。物を開くと言う面では比較的良い関係を保っていても、国を開き合っていくと言う面で十分であるとはいえない状況にある。また、経綸ということでは、物質文明の進化と反比例する速さで、後退する方向に進んでいるとさえ感じられてならない。  
218、仁義礼智の諭し
門人某居眠りの癖あり。翁曰く、人の性は仁義礼智なり。下愚といへども、この性有らざる事なしとあり。されば汝等が如きも必ずこの性あれば、智も無かる可からず。然るを無智なるは磨(みが)かざるが故なれば、先ず道理の片端(かたはし)にても、弁へたし覚えたしと、願ふ心を起すべし。之を願を立てると云う。この願立つ時は、人の咄(はなし)を聞て居眠りは出ざるべし。それ仁義礼智を家に譬ふれば、仁は棟(むなぎ)、義は梁(はり)也。礼は柱也、智は土台也。されば家の講釈をするには、棟、梁、柱、土台と云うもよし。家を作るには、先ず土台を据え柱を立て梁を組んで棟を上るが如く、講釈のみ為すには、仁義礼智と云うべし。之を行ふには、智礼義仁と次第して、先ず智を磨き礼を行ひ義を蹈み仁に進むべし。故に大学には、智を致すを初歩と為り。それ瓦(かわら)は磨けども玉にはならず、されど幾分の光を生じ且つ滑(なめ)らかにはなる。これ学びの徳也。又無智の者は能く心掛けて、馬鹿なる事を為さぬ様にすべし。生れ付き馬鹿なりとも、馬鹿なる事をさへせざれば馬鹿にはあらず。智者たりとも、馬鹿なる事をすれば馬鹿なるべし。

二宮尊徳は、この説話で、どのような人でも、守っていくべきは、一言で言えば、智義礼仁であり、これを懸命に学べば、聖人には成れなくとも、少しは光る人になれる、と教えている。尊徳は、まず智を磨き、礼を行ない、義を踏んで、仁に進むことを、正しい過程としているが、世の中の価値観が変わった現代では、礼よりも先に義を踏む(世の中の正義に叶っているかどうかを判定する)ことを行って、それから礼を行なうべきである、と私は考えている。その考えから、本文では、義礼と順序を入れ替えているのである。現在の日本で、翻って世界でも、最初に大事にしていかなければならないのが、正義である。或る行動をとる時に、そのことが本当に、人類正義に、国民の正義、国益に叶っていることを、しっかり確認していくことが大切なのである。このとき、国益とは「国民の最大幸福」である。その上で、礼をきちんと意識することが、仁に近づく道であると考えている。  
219、押領(おうりょう)咎めの諭し
某の村の名主押領(おうりょう)ありとて、村中寄り集り、口才ある者に托(たく)して、出訴せんと噪(さわぎ)立てり。翁其村の重立たる者二三を呼び)て曰く、押領何程ぞ。曰く、米二百俵余なるべし。翁曰く、二百俵の米は少からずといへども、之を金に替る時は八十円なり。村民九十余戸に割る時は一戸九十銭に足らず。村高に割る時は一石に八銭なり。然るに、名主組頭等は持高多し。外十石以上の所有者は三十戸なるべし。その他は三石五石にして無高の者もあるべし。この者に至ては取る物なく、たとえ有るも、僅(きん)々の金なり。然るをかように噪ぎ立つは大損にあらずや。この件確証ありと云といへども、地頭の用役に関係ありと聞けば、容易には勝ち難し。たとえ能く勝ち得るとも、入費莫大となり。寄合暇潰し、且つ銘々が内々の損迄を計算せば、大損は眼前なり。何となれば、未だ出訴せざるに数度の寄合ひ、下調べ等の為に費(つい)えたる金少からず。且つ彼は旧来の名主なり。之を止めて、跡に名主にすべき人物は誰なるぞ。予が見渡す処、これと指す者見えず。能々思慮すべき処也。然れば向後押領の出来ざる様に厳に方法を設けて、悉(ことごと)く通ひ帳にて取立て、役場の帳簿法を改正し遣(つかわ)すべき間、願わくは名主もその儘置くにしかじ。その儘に置かば、給料を半に減じ、半を村へ出さすべし。押領米の償(つぐの)ひ方は、予別に工夫あり。字某の荒蕪地は、云々の処より水を引ば田となるべし。この地に一村の共有地、二町歩程は良田となるなり。之を開拓し遣すべき間、一同出訴を止めて、賃銭を取るべし。その上寄合をする暇(いとま)にて、共同して耕作せば、秋は七八十俵の米は受合なり。来秋は八九十俵、来々年は百俵を得べし。三ヶ年間は一同にて分け取り、四年目より開拓料を返済せよ。返済皆済の上は、一村永安の土台田地として法を立べしと、懇々説諭せられたり。一同了承せりとの報あり。翁自ら集会場に臨み、説諭に服せしを賞讃し、酒肴を与へられ、且つ右の開拓は明朝早天より取掛り、賃銭は云々づゝ払ふべし、遅参する事勿れと告げらる。一同拝謝し悦こんで退散す。名主某も五ヶ年間、無給にて精勤致度旨を云出たり。翁曰く、一村に取ての大難を僅々の金にて買得たり、安き物なり、かくの如き災難あらば卿等も早く買取るべし。一村修羅場に陥るべきを一挙にして、安楽国に引止めたり。大知識の功徳に勝るなるべしとて、悦喜せられたり。翁の金員を投じ、無利子金を貸与して、紛議を解れし事枚挙に暇(いとま)あらず。今その一を記す。

二宮尊徳は、この説話で、公的な財産を横領するという罪を犯した者を、いつまでも追求していても、その損害が戻ってくるものでもない。本人も改める積りでいるのであるから、今後、少しでも速く、損害分を回収することを考えさせた方が良い。また、この例のように、機転を利かせれば、殆ど実損失なく治めることもできる、と教えている。この説話は、尊徳の敵討ち反対、人はきちんと理を説いてやれば立ち直れる、無駄に時間を過ごしてはならない、という基本思想の集大成のような話である。この時の対象者が、名主という地位の者であるから、特別扱いしているのではなく、彼の心の中にある、性善説的人間観が、いかなる人にも同じように発露されているのである。著者の福住正兄は、解決の要因を無利子金貸与としているが、それはあくまでも一面であって、人は誰でも立ち直れる、という考え方が根本にあるのである。 
220、勉強の諭し
翁曰く、汝等勉強せよ。今日永代橋の橋上より詠(ながむ)れば、肥取船に川水を汲入れて、肥しを殖(ふや)し居るなり。人々の尤も嫌ふ処の肥しを取るのみならず、かゝる汚(お)物すら、殖やせば利益ある世の中なり、豈妙ならずや。凡そ万物不浄に極(きわま)れば、必ず清浄に帰り、清浄極れば不浄に帰る。寒暑昼夜の旋転(せんてん)して止まざるに同じ。則ち天理なり。物皆然り。されば世の中に無用の物と云うはあらざるなり。それ農業は不浄を以て、清浄に替わるの妙術なり。人馴れて何とも思はざるのみ。能く考へば真に妙術と云べし。尊ぶべし。我方法又然り。荒地を熟田に帰し、借財を無借になし、貧を富になし、苦を楽になすの法なれば也。

二宮尊徳は、この説話で、糞尿運搬船の上での水での増量作業を例に挙げながら、この世の中には、無用なものは何もないのであり、農業は、人が不浄といやがる糞尿を肥料として用いて、清浄な米や野菜などに転化させている、素晴らしい職業である。と教えている。人が無用と考えているものでも、正しく使用してやれば、すばらしい効果を発揮するものである。尊徳は、それを良く知っているので、「人の捨てざるなきもの」を拾い集めて、人の役に立つように活用しているのである。今、「もったいない」と言う言葉が、一人歩きしている。感覚的に良さそう、耳触りが良い、人よりも何か良さそうなことをしているように感じられる、ということからなのであろう。しかし、その言葉の前には、「おかげさまで」という言葉がなければならないことを知らない人が多い。「もったいない」を標榜する人がもてはやされてはいけないのである。それは、当たり前でしかない。常に、「おかげさまで」を考えている人を、もてはやさなければならないのである。
 

 

221、親鸞の肉食妻帯免(ゆる)しの諭し
或る人曰く、親鸞は末世の比丘戒(びくかい)行の持(たも)ち難きを洞察して肉食妻帯を免(ゆる)せり。卓見と云うべしと。翁曰く、恐らくは非ならん。予、仏道は知らずといえども、之を譬えば、田地の用水堰(せき)の如き物なるべし。それ用水堰は、米を作るべき地を潰(つぶ)して水路とせしなり。その如く人の欲する処を潰して法水路となし、衆生を済度(さいど)せんとする教えなる事明らか也。それ人は男女有りて相続すれば男女の道は天理自然なれども、法水を流さん為に、男女の欲を潰して堰路となしゝなり。肉身なれば肉食するも天理なれども、この欲をも潰して法水の堰路とせしなり。男女の欲を捨つれば、惜しい欲しいの欲念も、悪(にく)いかわゆいの妄(もう)念も、皆随(したがっ)て消滅すべし。これ人情捨て難き物を捨て、堰代と為せばこそ、法水は流るゝなれ。されば肉食妻帯せざる処を流伝して、仏法は万世に伝る物なるべし。仏法の流伝する処は、肉食妻帯せざる処にあるべし。然るを肉食妻帯を免(ゆる)して法を伝え(んとするは、水路を潰して、稲を植えんとするが如しと。予は竊、我(ひそか)に恐るゝなり。

二宮尊徳は、この説話で、親鸞以来の妻帯、肉食を許されている僧侶のあり方について、灌漑水路を例に挙げて、このままで良いとは考えていない、やがて堕落してしまうのではないかと怖れている、と自分の気持ちを表現している。尊徳の心配は、今現実となっている。現代において、邪悪な宗派は別として、純粋な仏教にどれほどの人が精神的依存をしているであろうか。一見良さそうな理由をつけては金銭を集め、伽藍、その他の大規模箱物をつくり、教義と称するまやかし言葉で人の自由を奪う、そんな宗教株式会社が、表面に突き出した、ちょっと見では、この世で最も清浄で、まともと見えるようにカモフラージュした吸い込み口を使って、迷える人達の心を吸いつけ、集めて、大手を振る時代になってしまった。いつの時代でも、人の前に立つ人には、どこかに「孤高」「節度厳守」というような、普通の人ではできない何かを行なっている、という感じが見えなければならないのである。  
222、謀計機巧戒めの諭し
或る人曰く、毛利元就曰く、百事思う半分も成就せぬ物なり。中国の主たらんと思うて、漸(ようや)く一国の主たるべし。天下の主たらんと願うて、漸く中国の主たるべしと。実に然るべし。翁曰く、理或は然らん、然りといえども、これ乱世大将の志にして、我が門の称せざる処なり。それ舜(しゅん)禹(う)の帝王たるや、その帝王たらん事を願わず、只一途に勤むべき事を勤めしのみ。親に事えては親の為に尽し、君に事えては君の為に尽し、耕稼(こうか)陶漁(とうぎょ)、皆その事に就(つ)きて尽せるのみ。舜の歴山にある、禹の舜に事える時、何ぞ帝王たる事を願うて然らんや。己の身ある事を知らず、只君親ある事を知るのみ。古書に舜禹の事を述るを、見て知るべし。この如くならざれば、一家一村といえども、歓心を得る事難し。平治する事難し。譬えば家を取らん事を願うて、家を取り、村長とならん事を願うて、村長となるの類、その家その村必ず治まらず。如何となれば、かくせんと欲して為せば、謀計(ぼうけい)機巧(きこう)を用うればなり。謀計機巧は、衆恨(こん)の聚(あつま)る処なれば、一旦勢いに乗じ智力を用い、これを為すといえども、焉(いづくん)ぞ能く久しきを保たんや。焉(いずくん)ぞ能く治平を得んや。これ我が門の戒むる処なり。それ東照公は国を治め民を安ずるの天理なる事を知りて、一途に勤めたりと宣へり。乱世にしてすらこの如し、敬服せざるべけんや。富商の番頭、忠実をその主家に尽して終に婿(むこ)となり、主人となる者多し。それ商法家は家を愛する事、堯舜の天下を愛するが如くなる、故に然るなり。

舜(しゅん) 中国古代の仁政を敷いた皇帝 先帝 尭から次の皇帝にふさわしい者として選ばれ、地位を禅譲された。舜も尭を見習って、世襲をせずに、禹に地位を禅譲した。
禹(う) 舜から帝位の禅譲を受けたが、自分は王朝を立てて、子孫に世襲してしまった。
耕稼陶漁(こうかとうぎょ)(田畑を耕し、作物を作り、陶器を作り、魚を取ること)孟子 公孫 丑上
謀計機巧(ぼうけいきこう)はかりごとや、からくり
二宮尊徳は、この説話で、人は、自分の与えられた役目を、「義」と「礼」を重んじて、一心に努めていくことが、大事なことである。そうしていれば、周囲の人は必ずその人を認め、信用するようになってくれる。指導者になりたい、その地位を奪い取りたい、という一心だけで日々を送っていては、策略などを用いることになるので、人から慕われることはなくなる。指導者になろうとする者は、間違えた方向に行かないよう良く注意するように、と教えている。尊徳が言うように、家業的企業の世界では、娘婿を後継者として永く繁栄を続けている企業も多数ある。少し前までは、一部上場の「K」社もそのような後継を行っていたことは有名である。「M」社でも、経営の神様の後継者としてそれを行なったが、そのときは、必ずしも有能ではなかったらしく、うまく行かなかったことは、これも、周知の事実である。単に、娘婿という形ではなく、有能な者を娘婿とした時、という前提があるのである。  
223、鉢植(はちうえ)の松の諭し
翁曰く、論語に、哀公問うて曰く、年饑(うえ)て用足らず、之を如何。対して曰く、何ぞ徹せざるや。曰く、二にして吾猶足らず、之を如何ぞそれ徹せん。対して曰く、百姓足らば君誰と共にか足らざらん。百姓足らずんば君誰と共に足らん、とあり。これ解(げ)し難き理なり。之を譬えるに鉢植(はちうえ)の松養ひ足らず、将に枯れんとす、之を如何と問ふ時、何ぞ枝を伐(き)らざると答へたるに同じ。又問ふ、この儘(まま)にてすら枯んとす、何ぞそれ枝を伐(き)らん。曰く、根枯ずんば、木誰と共に枯れん、と答へたるが如し。実に疑いなき問答なり。それ日本は六十余州の大なる鉢なり、大なれどもこの鉢の松、養ひ足らざる時は、無用の枝葉を伐(きり)すかすの外に道なし。人の身代も、銘々一ッづゝの小鉢なり。暮し方不足せば、速に枝葉を伐捨べし。この時にこれは先祖代々の仕来りなり、家風なり、これは親の心を用ひて、建たる別荘なり、これは殊に愛翫(あいがん)せし物品なりなどゝ云て、無用の枝葉を伐り捨てる事を知らざれば、忽(たちまち)枯気付く物なり。既に枯気付ては、枝葉を伐り去るも、間に合ぬ物なり。これ尤も富有者の子孫心得べき事なり。

「哀公問於有若曰、年饑用不足、如之何、有若對曰、盍徹乎、曰、二吾猶不足、如之何其徹也、對曰、百姓足、君孰與不足、百姓不足、君孰與足」(あいこうゆうじゃくにといていわく、としうえてようたらず、これをいかん、ゆうじゃくこたえていわく、なんぞてつせざるや、いわく、ににしてわれなおたらず、これをいずくんぞそれてつせん、こたえていわく、ひゃくせいたらば、くんたれとともにかたらざらん、ひゃくせいたらずんば、くんたれとともにかたらん)(「凶作で費用が足りないが、どうしたらよいか」「いっそ、徹(てつ、一割の税)になさっては」「二割でも私は足りないのに、なぜ徹なのか」「万民が十分なのに、王は誰と一緒で足りないのですか。万民が足りないのに。王は誰と一緒で足りるのですか」) 論語 顔淵
二宮尊徳は、この説話で、一般の人々が苦しい生活をしていて、国が栄えるはずがない。人々が苦しい時には、国が余分な枝葉を思い切って切り捨てて、根である国民の生活を楽にしてやることで、国民に活力が出る。そうなって、また国が栄え始めるのであるから、指導者は、その考え方を忘れないように、と教えている。紀元前五百年の中国(日本ではまだ縄文時代、歴史は記録されていない)で唱えられたことが、未だに日本ではないがしろにされている。一般財政を初めとして年金財政、健康保険財政、その他財政、誰も為政者や実施者が苦しみを引き受けず、国民に負担を要求するだけである。財政が緊迫した責任の七割以上は、為政者と、その政策決定に関与し、政策を実行してきた公務員にある。その人達は、責任を感じれば、まず業務遂行手順の効率化を行なって人数の削減を行ない、自分達の給与や運営経費を削減して、三割から四割程度の経費の圧縮を行なって分度とすべきである。責任者が先に痛みを感じて、その後に、国民に負担を求めるのが筋というものである。民間企業では、負債超過となった時には、それ以上の荒っぽい治療法を採用しているのであるから、行政も当然見習うべきである。尊徳は、分度を定められない為政者を、無能力者と言っている。烏山藩、谷田部・茂木藩、小田原藩、この三藩とも、仕法に期待を寄せた藩士や農民の意欲が高まり、農地開発、食糧増産では、かなりの成果を挙げていたのであるが、残念ながら最高指導部が軟弱であったために、分度の決定ができずに、結果的に仕法は途中で頓挫してしまい、最終的に被害を蒙ったのは、仕法に真剣に取組んでいた農民と一般藩士であった。現在の日本でも、早急な人員削減と経費削減を行い、分度を決定していかなければ、国の将来に悔いを残すこととなる。人員と経費の削減は、アウトソーシングによる業務の削減を大幅に超えるものでなければ、削減と言ってはならない。  
224、廃邑興しの諭し
翁曰く、村里の衰廃を挙(あぐ)るには、財を抛(なげう)たざれば、人進まず、財を抛つに道あり。受る者その恩に感ぜざれば益なし。それ天下の広き、善人少なからず。然りといへども、汚俗を洗ひ、廃邑を起すに足らざるは、皆その道を得ざるが故也。凡そ里長たる者、その事に幹たる者は、必ずその邑の富者なり。たとえ善人にして能く施すとも、自ら驕奢に居るゆへに、受ける者、その恩を恩とせず、只その奢侈を羨(うらや)んで、自らの驕奢を止めず、分限を忘るゝの過ちを改ず、故に益なきなり。これに依て村長たらん者自ら謙して驕(ほこ)らず、約にして奢(おご)らず、慎しんで分限を守り、余財を推し譲りて、村害を除き、村益を起し、窮を補ふ時は、その誠意に感じ、驕奢を欲するの念も、富貴を羨(うらや)むの念も、救ひ用捨を欲するの念も、皆散じて、勤労を厭(いと)はず、麁(ソ)衣麁食を厭はず、分限を越すの過ちを恥ぢ、分限の内にするを楽しみとす。このの如くならざれば、廃邑を興し、汚俗を一洗するに足らざるなり。

二宮尊徳は、この説話で、裕福な者の贅沢な生活ぶりを知っている者に対して、その富裕者が奉仕をしても、受け取る側が感謝を感じるということは、殆ど無い。逆に反感さえ買うこともある。指導者を目指す人は、裕福であっても、驕らずに、贅沢を謹んで生活をし、時折、社会福祉にも、金銭を寄付すると共に、実際に参加して労力も投入していくようにしておくべきである、と教えている。大きな災害があると、担当大臣や国会議員が視察に訪れるが、如何にも取って付けたという感じである。普段からボランティア活動や、災害防止の啓蒙活動に参加したり、そのような政策の実現に努力していることが知られている人であれば、来てもらってもうれしいのであろうが、そうでなければ、救援物資を抱えて行かない限り、お邪魔な人でしかないのではないか。 
225、道の大意の諭し
翁曰く、己に克ちて礼に復(かえ)れば天下仁に帰す、と云り。これ道の大意なり。それ人己が勝手のみを為さず、私欲を去りて、分限を謙(へりくだ)り、有余を譲るの道を行ふ時は、村長たらば一村服せん、国主ならば一国服せん、又馬士ならば馬肥(こえ)ん、菊作りならば菊栄えん。釈(シヤク)氏は王子なれども、王位を捨て鉄鉢一つと定めたればこそ、今この如く天下に充満し、賤(しず)山勝といへども、尊信するに至れるなれ。則ち予が説く所の、分を譲るの道の大なる物なり。則ち己に克つの功よりして、天下これに帰せしなり。凡そ人の長たらん者、何ぞこの道に依(よ)らざるや。故に予常に曰く、村長及び富有の者は、常に麁(ソ)服を用ふるのみにても、その功徳無量なり、衆人の羨む念をたてばなり。況(いわ)んや分限を引て、能く譲る者に於てをや。

二宮尊徳は、この説話で、指導者を目指す者は、私欲を取り去り、経済的には、自分の収入の中程までに支出を抑えて、奢侈を避け推譲を行ない、人との交際においては、おごり高ぶらないようにして、天から与えられた職分に努めるようにせよ、と教えている。  
 

 

226、尊徳碑の諭し
伊藤発身曰く、翁の疾(やまい)重(おも)れり。門人左右にあり、翁曰く、予が死近きにあるべし。予を葬るに分を越ゆる事勿れ。墓石を立る事勿れ、碑を立る事勿れ。只土を盛り上げてその傍(かたわら)に松か杉を一本植え置けば、それにてよろし。必ず予が言に違(たが)う事勿れと。忌明に及んで遺言に随うべしと云あり。又遺言ありといえどもかゝる事は弟子の忍びざる処なれば、分に応じて石を立つべしと言あり。議論区々(まちまち)なりき。終に石を建(たて)しは、未亡人の意を賛成する者の多きに随(したが)えるなり。

二宮尊徳は、自分が死んだ後のことについて、全て質素にするようにと遺言している、と福住正兄はこの説話で述べている。墓石も立てるなという尊徳の遺言にもかかわらず、せめて墓石だけは、と考えた夫人の意思は、社会通念としてやむをえないと同情するが、その後に、神社まで作って神と祭りあげて、農民などの権力から離れた人々を、悪意に満ちた国家の意向に沿わせる手伝いをした人達の存在は、故人の意思を踏みにじった行為として、許しがたいものといえる。二宮尊徳の伝記として名高い「報徳論」と、その著者の高田高慶は、そして、この「二宮翁夜話」と著者福住正兄は、尊徳の思想と業績を最初に世に知らせた功績者であることは認めるが、高田は、天保十年九月、福住は弘化二年の入門であり、桜町、青木村、大磯の仕法がほぼ完成し、谷田部・茂木、烏山、小田原の飢饉救済が済んで、その三藩での仕法が始まってからである。ということは、二人とも、尊徳の活躍の最も激しく華やかで、最も大事であった時期を、肌身では味わっていないということである。二人の著作から、そのあたりがやや欠落しているところがあるのはそのためである。  
227、尊徳道の諭し
翁曰く、仏家にては、この世は仮の宿なり、来世こそ大切なれと云うといえども、現在君親あり、妻子あるを如何せん。たとえ出家遁世して、君親を捨て妻子を捨(すつ)るも、この身体あるを如何せん。身体あれば食と衣との二ツがなければ凌(しの)がれず、船賃(ふなちん)がなければ、海も川も渡られぬ世の中なり。故に西行の歌に「捨て果て身は無き物と思へども 雪の降る日は寒くこそあれ」と云えり。これ実情なり。儒道にては、礼に非れば、視る事勿れ、聴(き)く事勿れ、云う事勿れ、動く事勿れ、と教えれども、通常汝等の上にてはそれにては間に合わず、故に予は我が為になるか、人の為になるかに非れば、視る事勿れ、聴(き)く事勿れ、言う事勿れ、動く事勿れと教えるなり。我が為にも、人の為にもならざる事は経書にあるも、経文にあるも、予は取らず。故に予が説く処は、神道にも儒道にも仏道にも、違う事あるべし。これは予が説の違えるにはあらざるなり。能く々玩味すべし。

西行法師 平安末期から鎌倉時代初期の僧で歌人 元北面の武士 二十三歳で出家 奥州への旅を行なった、途上で読んだ歌も有名 松尾芭蕉も奥の細道紀行の際に、西行の由緒地を訪れて句を詠んでいる
「非禮勿視、非禮勿聽、非禮勿言、非禮勿動」(れいにあらざればみることなかれ、れいにあらざればきくことなかれ、れいにあらざればいうことなかれ、れいにあらざればうごくことなかれ) 論語 顔淵
二宮尊徳は、この説話で、仏教者には、この世は仮の世であり、来世こそが本当の世であるから、この世では、一切の欲を捨てて無の境地に入れ、という人がいる。言わんとしていることが判らないではないが、一家を構え、組織に勤めている者にとっては、それらを一切捨てよといっているようなものであり、受け入れ難い。一般の人にとっては、この世を生きることこそ大事なことであり、そのような教えは、人にとっては全く役に立たないものであるから、採用する意味も無い、と述べている。指導者は、一つの確固たる価値観を持たなければならないが、それは、独りよがりの価値観ではなく、人々にあまねく幸せをもたらす、有益で正しい価値観でなければならない。そして、この価値観を唯一つのものさしとして用い、全ての事象の価値を判断して、自己の指導業務に活用していかなければならないのである。  
228、棟梁の器の諭し
翁山林に入て材木を検す。挽(ひき)割たる材木の真(しん)の曲がりたるを指して、諭して曰く、この木の真は、則ちいわゆる天性なり。天性この如く曲れりといえども、曲りたる内の方へは肉多く付き、外へは肉少く付きて、長育するに随(したがい)ておおよそ直木となれり。これ空気に押るゝが故なり。人間世法に押れて、生れ付きを顕(あらわ)さぬに同じ。故に材木を取るには、木の真を出さぬ様に墨を掛(かく)るなり。真を出す時は、必ず反(そ)り曲る物なり。故に上手の木挽(こびき)の、材木を取るが如く、能く人の性を顕(あらわ)さぬ様にせば、世の中の人、皆用立つべし。真を顕さぬ様にするとは、佞(ねい)人も佞を顕さず、奸人も奸を顕さぬ様に、真を包みて、其直(すぐ)なるをば柱とし、曲れるをば梁(はり)とし、太きは土台とし、細きは桁(けた)とし、美なるをば造作の料に用いて残す事なし。人を用うる又この如くせば棟梁の器と云うべし。又山林を仕立るには、苗を多く植え付くべし。苗木茂れば、供育ちにて生育早し、育つに随い木の善悪を見て抜き伐(き)すれば、山中皆良材となる物なり。この抜き伐りに心得あり。衆木に抜きんでゝ長育せしと、衆木に後れて育たぬとを伐り取るなり。世の人育たぬ木を伐る事を知りて、衆木に勝れて育つ木を伐る事を知らず。たとえ知るといえども伐る事能ざる物なり。且つこの抜伐り手後れにならざる様、早く伐り取るを肝要とす。後るれば大に害あり。一反歩に四百本あらば三百本に抜き又二百本に抜き、大木に至らば又抜き去るべし。

二宮尊徳は、この説話で、人を活用することに関して、どのような人でも、熟練した木挽き職人が真の曲がった材木を真っ直ぐな木材として創り出すように、使い方次第で総て役立つ人として活用することができる、と教えている。尊徳は、苗木から林に育成していく際に行なっていく間引きに関して、大事なことを述べている。それは、一般には、生育の遅い苗だけを間引いているが、良い林を作るためには、他よりも伸びの速い苗も間引きしなければならない、と言っている。樹木の場合は、生育の早い苗木は、地面から栄養分を吸い上げる力が、他の苗木よりも強いことを示しているのであるから、そのままにしておくと、周りの苗木に栄養分が回らなくなり、苗木の均一な成長の阻害要因になる、という考えであろう。樹木の場合は、それが正しいと賛同できる。尊徳が、前段の真の曲がりとは違って、この間引きについて、人材活用と結び付けていないのは、そのためであろう。  
229、垣根の内に籠れる論の諭し
翁曰く、天地は一物なれば、日も月も一つなり。されば至道二つあらず、至理は万国同じかるべし。只、理の窮(きわ)めざると尽さゞるあるのみ。然るに諸道各々道を異にして、相争うは各区域を狭く垣根を結回(ゆいまわ)して、相隔(へだ)つるが故なり。共に三界城内に立て籠(こも)りし、迷者と云うて可なり。この垣根を見破りて後に道は談ずべし。この垣根の内に籠れる論は聞くも益なし、説も益なし。

二宮尊徳は、この説話で、色々な立場で、人の生き方を含めたこの世の真理に付いての説や議論があるが、真理はただ一つであり、立場の違いを生み出す基は、その真理を見るための場所を小さく区切って、その中からだけ見ているから出て来るのである、と教えている。 
230、尊徳の教え蓮花論の諭し
翁曰く、老仏の道は高尚なり。譬えて云えば、日光箱根等の山岳の峨(が)々たるが如し。雲水愛すべく、風景楽しむべしといえども、生民の為に功用少し。我が道は平地村落の野鄙(やひ)なるが如し。風景の愛すべきなく、雲水の楽しむべきなしといえども、百穀涌(わ)き出れば国家の富源はこの処にある也。仏家知識の清浄なるは、譬えば浜の真砂(まさご)の如し。我が党は泥沼の如し。然りといえども蓮花は浜砂に生ぜず、汚泥に生ず。大名の城の立派なるも市中の繁花(はんか)なるも、財源は村落にあり。これを以て至道は卑近に有りて高遠にあらず。実徳は卑近にありて高遠にあらず。卑近決して卑近にあらざる道理を悟るべし。

二宮尊徳は、この説話で、現実的に人々の役に立つものは、それほど高尚な位置付けにはない。食糧を生み出す田畑は、高山の雪をかぶった頂上にあるのではなく、すぐ近くの低地で、水が引き込みやすい場所にある。蓮の花も、波に現われていつも美しい砂浜には咲くものではなく、泥の多い池や沼に咲く。高尚だからといって、人の役に立つとは限らない。卑近な所に、大切なものが存在するのである。と教えている。  
 

 

231、神儒仏正味一粒丸の諭し
翁曰く、予、久しく考えて、神道は何を道とし、何に長じ何に短なり。儒道は何を教とし、何に長じ何に短なり。仏教は何を宗とし、何に長じ何に短なり、と考えるに皆相互(たがい)に長短あり。予が歌に「世の中は捨足代木(すてあしろぎ)の丈くらべ それこれ共に長し短し」と云いしは、慨歎に堪(たえ)ねばなり。よって今道々の専(もっぱら)とする処を云わゞ、神道は開国の道なり、儒学は治国の道なり、仏教は治心の道なり。故に予は高尚を尊ばず、卑近を厭わず、この三道の正味のみを取れり。正味とは人界に切用なるを云う。切用なるを取りて、切用ならぬを捨てて、人界無上の教えを立つ。これを報徳教と云う。戯(たわむれ)に名付けて、神儒仏正味一粒丸と云う。その功能の広太なる事、挙げて数うべからず。故に国に用れば国病癒(い)え、家に用れば家病癒へ、その外荒地多きを患(うれ)うる者、服膺(ふくよう)すれば開拓なり、負債多きを患る者、服膺すれば返済なり、資本なきを患る者、服膺すれば資本を得、家なきを患る者、服膺すれば家屋を得、農具なきを患る者、服膺すれば農具を得、その他貧窮病、驕奢病、放蕩病、無頼病、遊惰病、皆服膺して癒えずと云う事なし。衣笠兵太夫、神儒仏三味の分量を問う。翁曰く、神一匕(さじ)、儒仏半匕づヽなりと。或る人傍(かたわら)に有り、これを図にして、三味分量 この如きかと問う。翁一笑して曰く、世間この寄せ物の如き丸薬(がんやく)あらんや。既に丸薬と云えば、能く混和して、更に何物とも分らざる也。この如くならざれば、口中に入りて舌に障(さわ)り、腹中に入て腹合い悪(あし)し、能く々混和して何品とも分らざるを要するなり、呵々。

二宮尊徳は、この説話で、神道、仏教、儒学とも一長一短があり、優劣がつけがたい。また、説いていることを突き詰めていくと、皆同じ所に行き着く。そこで、自分の思想には、それらを全部取り入れ、かき混ぜて、どれがどれであるか判らないようにして、丸薬とした。と自分の思想の特徴を説明している。尊徳は、そう言っているが、最も多く思想の中に取り入れているのは、儒学の思想である。そうした理由は、神道、仏教の教義は、あくまでも、こうすべきであるという概念論であるのに対して、儒教が取り上げている事柄とそこにある言葉は、現実に為政者の立場で実行したことの結果、つまり、言葉遊びではなく、実践の中から見つけ出してきた言葉として、現実に人々を正しい道に進ませる事業を実施している尊徳には、共鳴する部分が多かったからであろうと考えられる。  

「神仏儒三味即席料理考」
尊徳先生はおっしゃった。
私は久しく考えて、神道は何を道とし、何に長じて何に短であるか、儒道は何を教えとし、何に長じ何に短であるか、仏教は何を宗として、何に長じ何に短であるか、と考えるに皆互いに長短がある。
私の歌に「世の中は捨て足代木(あじろぎ)の丈(たけ)くらべそれこれともに長し短し」
と詠ったのは、慨歎にたえないからである。
だから今それぞれの道の専らとするところを言うならば、神道は開国の道であり、儒学は治国の道であり、仏教は治心の道であるといえよう。
だから私は高尚を尊ばず、卑近を厭わず、この三道の正味だけを取ったのだ。
正味とは人間界に必要なことをいう。
必要なところを取って、必要でないところを捨てて、人間界において無上の教えを立てた。
これを報徳教という。
たわむれに名づけて、神儒仏正味一粒丸という。
その功能の広大である事は、数えあげることができない。
だから国に用いれば国の病いが癒え、家に用いれば家の病いが癒え、そのほか荒地が多いのを憂える者が、服用すれば開拓ができ、負債が多いことを憂える者が服用すれば返済ができ、資本がないことを憂える者が服用すれば資本を得、家がないことを憂える者が服用すれば家を得ることができ、農具がないのを憂える者が服用すれば農具を得、その他貧窮病や贅沢病、放蕩病、無頼病、遊惰病、すべて服用して癒えないという事がない。
衣笠兵太夫が、神儒仏三味の分量を問うた。
尊徳先生がおっしゃった。
神一さじ、儒仏半さじずつであると。
ある人が傍らにいて、これ図にして、三味分量はこのようですかと問うた。
尊徳先生は一笑されておっしゃった。
世間にこの寄せ物のような丸薬があろうか。
既に丸薬というならば、よく混和して、更に何物とも、分らないようになっているものだ。
このようでなければ、口の中に入って舌に障りがあり、腹の中に入って腹の具合が悪いであろう。 よくよく混和して何品とも分らないようになっている必要がある、ハハハ。
佐々井典比古氏によると、弘化4年(1847)5月〜翌嘉永元年(1848)7月までの、東郷(ひがしごう)神宮寺仮住時代のことだろうと推定されている。岡田氏は天保12年(1841)12月、それより6年前、小谷三志の弟子である不二行者柴兵右衛門と若林金吾に宛てた手紙に同様の内容があると紹介されている。
幸便に任せ一翰啓上候、・・・ (大学、論語など臼でひいて、切り刻んでひらかなで道歌を作ったのでご賞味ください) その外神儒仏の三味悟道即席御料理なども、これまた数年天地の間に借地つかまつり、人様の厚き御世話を蒙り、渡世つかまつりおり候、右報徳のため、お望み次第案外安く差し上げ申し候につき、お求めご賞味くだされ候はば、朝夕日用の一助にもあいなり申すべく候。
同様の内容は浦賀の宮原屋にも送っており、尊徳先生はユーモアを好まれて、ごく親しい人にはこういうジュークのような語り口をされたのであろうか。しかし内容はごくまじめなものである。 
232、尊徳教の諭し
或る人問いて曰く、因果と天命との差別如何。翁曰く、因果の道理の尤も見易きは、蒔く種の生えるなり。故に予、人に諭すに「米蒔けば米の草はへ 米の花咲つゝ米の実のる世の中」の歌を以てす。仏は、種に因て生ずる方より見て、因果と云えり。然りといえども、之を地に蒔かざれば生ぜず、蒔くといえども、天気を受ざれば育せず、されば種ありといえども、天地の令命に依らざれば生育せず、花咲き実のらざる也。儒は、この方より見て天命と云えるなり。それ天命とは、天の下知と云うが如し。悪人の刑を免れたるを見て、仏は因縁未だ熟せずと云い、儒は天命未だ降らずと云い、皆米を蒔て未だ実らざるを云うなり。この悪人捕縛(ほばく)に就(つ)くを見て、仏は因縁熟せりと云い、儒は天命到れりと云う。而して之を捕縛する者は上意と云えり。この上意則ち天命と云うに同じ。それ借りたる物を約定の通り返すは、世上の通則なり。されば規則の通り踏むべきは定理なるを、履まざる時は、貸方之を請求して、上命を以てこの規則を履ましむ。ここに至て身代限りとなる。仏は之を見て、借りたる因によりて、身代限りとなるは果也と云い、儒は借りて返さゞる故に身代限りの上命降れりと云うなり。共に言語上に聊(いささか)の違いあるのみ。その理に於ては違いなし。又問い、因縁とは如何。翁曰く、因は譬えば蒔たる種也。之を耕耘培養するは縁なり。種を蒔きたる因と、培養したる縁とに依りて、秋の実のりを得る、之を果と云うなり。

二宮尊徳は、この説話で、因果と言っても、天命と言っても、同じものを見方を変えて、それぞれの立場から説明しているに過ぎない、と諭している。だが、尊徳は、天命も人の努力によって変化させることが出来る、とこの夜話の中で何度も述べている。同じ米を蒔いても、生育する時の手入れの仕方で、収穫は大きく変わる。そのことである。何処が大事なことかを良く把握して、そこに力を注いで努力すれば、天命である収穫量が変化するのである。良い因としての良い種を蒔き、心から慈しんで育てれば、よい果を得られるのであるから、少しでも速く、良い種を蒔くことに精を出すべきである。  
233、尊徳党の諭し
翁曰く、昔(むかし)堯帝(ぎょうてい)、国を愛する事厚し。刻苦励精(れいせい)国家を治む。人民謳(うたい)て曰く、井を掘りて呑み、田を耕やして食う。帝の力何ぞ我にあらんや。帝之を聞て大に悦べりとあり。常人ならば、人民恩を知らずと怒るべきに、帝の力何ぞ我に有んやと謳(うた)うを聞きて悦べるは、堯の堯たる所以(ゆえん)なり。それ予が道は、堯舜も之を病めりと云える。大道の分子なり。されば予が道に従事して、刻苦勉励、国を起し村を起し、窮を救ふ事有る時も、必ず人民は報徳の力、何ぞ我に有らんやと謳(うた)うべき也。この時これを聞て、悦ぶ者にあらざれば、我が徒にあらざる也、謹めや謹めや。

二宮尊徳は、この説話で、人々が仁政の恩恵を受けていると感じているようでは、まだ本物の仁ではない。それを感じなくなれば本当の仁であると、説明している。人々にとってマイナスになること、例えば治安が悪くなるとか、物価が高騰するとかがあれば、政治は何をしているのかという不満が出てくるが、治安が良く、物価が安定している時には、政治がうまくいっていることに、殊更の感謝はしないで暮らしているのである。少し前までの日本でも、おいしい水が飲めることと、治安が守られていることは、当たり前のことであり、水と安全は無料と言っていた位に、それについて、特別に感謝するということは無かったのである。これは、中国太古の時代も今も変わらない人の意識なのである。良い状態が常の状態になると、それに馴れて、何も感じなくなるのである。尊徳の活動目的が、そういう状態を作ることにあったことから、それを知っている福住正兄がわざわざ、第九十五話にもある寓話を、最後に再度掲出したのであろう。ところが、今の日本は、おいしい水はお金を払って買い、治安の悪さに震える時もある世の中になってしまった。総てが悪いことと言うわけではないが、いかにも残念である。  
 
二宮翁夜話2

 

1、天道と人道の違いの諭し
翁曰く、天道は自然に行はるゝ道なり。人道は人の立つる所の道なり。元より区別判然たるを相混するは間違いなり。人道は勤めて人力を以て保持し、自然に流動する天道の為に押し流されぬ様にするにあり。天道に任する時は、堤は崩れ、川は埋(うずま)り、橋は朽ち、家は立ち腐れとなるなり。人道は之に反し、堤を築き、川を浚(さら)へ、橋を修理し、家根を葺きて雨のもらぬ様にするにあり。身の行も亦この如し。天道は寝たければ寝、遊びたければ遊び、食ひたければ食い、飲みたければ飲むの類なり。人道は眠たきを勤めて働き、遊びたきを励まして戒め、食べたき美食を堪え、飲みたき酒を控えて明日の為に物を貯わう。これ人道也。能く思うべし。  
2、地獄極楽道の諭し
翁曰く、定九郎曰く地獄の道は八方にありと。実に八方にあるなるべし。凡てひとり地獄の道のみならず、極楽の道も又八方にあるべし。豈に念仏の一道ならんや。何れより入るもその到る処は必ず同じ極楽なり。八方にある極楽の道には、平坦の道もあり、険阻なるもあり、遠きもあり、近きもあるべし。予が教える所は平坦にして近し。無学の者、無気力の者これより入るべし。  
3、報徳金貸付の道第一の諭し
翁曰く、身体一所(ひとところ)悩む所あれば、惣身之が為に悩むは人の知る所なり。脳なり胃なり肺なり皆同じ。甚しき時は死に至る。これ一体なるが故なり。国家も亦同じ、一家負債あれば是が為に悩み、国凶作なれば之が為に悩む。皆人の知る所なり。故に身も家も国も悩む所無らんことを欲するを衛生と云い、勤倹と云う。又泰平を祈ると云う。而して家に負債多ければ、人身に及んで神経を悩ますに至るも皆人の知る所なり。方今の世の中、驕奢行るゝが為にこの悩み多し。この悩み甚しければ家を失い身を失うに至る。愍然(びんぜん)の至りなり。之を自業自得と云えばそれまでなれど、自業自得は戸主に在りて、老幼婦女は相伴(しょうばん)をするなり。いたましからずや。之を救うの道を考えるに、予が立てたる報徳金貸付の道を第一とす。如何となればこの報徳金の貸付は、日輪の神徳と同じければなり。この功徳の広大なる事は、予が数年心を尽して考え、数年自ら取り扱いて経験したる法なればなり。天地の万物を生育し給いて、恵まざる所なき、天地の徳に法りたる法なればなり。  
4、人物の諭し
翁曰く、官祿家格ありて世に知られ、人に用いらるゝは、そは官祿家格あるが故なり。之なくして世に知られ、人に用いらるゝ者は、賎業の者と云えども侮るべからず。これは生れつき勝れたる者なればなり。六尺手廻(ろくしゃくてまわり)の頭、雲助の頭などこれなり。過日火事あり。予、火の見に上りて見居りしに、当時江戸にて名高く、人に知られし男伊達と聞えたる某、湯より上りてぶらぶらと来る時、火消し大勢どやどやと来掛りたる中に、壹人水溜りに飛入りて、男伊達に泥をあびせて去り過ぎぬ。彼莞爾(かんじ)と笑い、今日なるぞ然(そう)せよと云いつゝ、少しも怒る色なく傍なる天水桶にて泥を洗ひて、静々と過ぎ行きぬ。その容体のおとなしさ、威有りて猛からず、恭しくして安しと云うべき形状云わん方なし。誠に感服せり。論語に君子に三変あり、之に望むに儼然たり、之に即くに温なり、その言を聞くや獅オと。子、夏氏の言える通り、かかる賎民にても、その変りたる所いちじるし。賎民とて侮るべからず、賎業とて賎むべからず。 
5、真の譲道の諭し 
翁曰く、一村千石の高にて、戸数百戸あれば一戸十石に当る。これその村に住む者の天命なり。之より多きは富者と云うべし。富者の務めは譲なりと。門人中一人進んで曰く、予、村内にて天命に当れり。予は足ることを知りて、この天命に安んじて、勤倹を守り、年々不足なく暮しを立て、足れりとして金を積みて、田畑を買う事をなさず。これ則ち譲道に当るべしと。翁曰く、これは不貧と云うべし。何ぞ譲と云うことを得ん。この如き論老仏者流に多し。悪しからずと雖も、今一段上らざれば国家の用をなさず。然らざれば何を以て天恩四恩に報ゆべき。それ勤倹以て財を積み、田畑を買い求め、家産を増殖して、天命あることを知らず、道に志さず、飽く迄も増殖を欲し、又自奉にのみ費すは、云うに足らざる小人なり。その心志奪にあり。勤倹以て財を積み、田畑を買い求め、家産を増殖する迄は同じと云えども、ここに於て天命あることを能く知り、道に志して譲道を行い、土地を改良し、土地を開き、国民を助くる。このの如くにしてこそ譲道を行うと云べきなれ。この如くにしてこそ国家の用ともなり、報徳ともなるなれ。何ぞ前の不貧者を譲者と云うべけんや。 
 

 

6、確かな富貴の道の諭し 
翁曰く、我が道は譲道を貴とぶ、譲道は富貴を永遠に保持するの道にして、富貴の者怠るべからざるの道なり。されば我が道は富貴を永遠に維持するの道なりと云うも不可なかるべし。されば富貴者たる者は、必ず我が道に入りて誠心相勤め、永遠に富貴を祈るべし。  
7、家道の諭し 
翁曰く、若輩の者は、能く家道を研究すべし。家道とは分限に応じて我が家を持つ方法の事なり。家の持ち方は、安きが如くなれども、至て六ヶし。先ず早起きより始めて、勤倹に身を馴らすべし。それより農なり、商なり、家業の仕方を能学ばずして家を相続するは、将棊(しょうぎ)に譬えれば、駒の並べ方も能く知らずして指さんとするが如し。指す毎に打ちまけて、詰り失敗するは眼前なり。もし余儀なくこの修業出来ずして相続せば、親類後見など能(よき)人を師として、一々差図を乞うて、それに随ふべし。これ将棊を一手毎に教えを受けて指すに同じ。さすれば間違なし、然るに慢気して人に相談せず、気儘に金銀を遣はゞ、忽ち金銀を相手に取らるべし。譬えば父の拵へたる家を相続するは、将棊の駒を人に並べて貰ひたるが如し。凡て将棊の道を知らずして、我が思う儘にさゝば、失敗は知れたる事なり。中庸に愚にして自用を好み、賎にして自専を好み、今の世に生れて古の道に反く、この如くなれば(わざわい)必ずその身に及ぶとあり。今の世に生れて古の道に反くとは、後世の子孫と生れて、先祖数代の家を不足に思い、伝来の家具を不足に思い、先祖の家を誹(くさ)したり、勤倹の道に背きて驕奢にふけるを云うなり。古人はかく懇に戒め置けり慎しむべし。  
8、毫厘の差、千里の違いの諭し 
翁曰く、毫厘の差、千里の違いと云う事あり。皆人は譬えと思えり。予利倍帳を取調べたる時、二ヶ年目の利子、永一文の違いありたれば、百八十年目に至り、一百四十一万九千八百九十五両永貳百九十四文九分五厘の差となれり。実に毫厘千里なり。譬えにはあらず実事なり恐るべし。  
9、肉眼心眼の諭し 
翁曰く、肉眼にてみれば見えざる所あり、心眼を以て見れば見えざる所なし。肉耳にて聞けば聞えざる所あり、心耳にて聞けば聞えざる所なし。これは禅家などの主張する所なり。世を治むるも、人を治むるも、徳を以てすると、法を以てするとの差別も又この如し。  
10、財を惜しむ者、命を惜しむの諭し 
翁曰く、財を惜しむ者は、如何程愍然の者を見るも扱う事能わず。命を惜しむ者は、君の不能を見て強諫(きょうかん)すること能わず、又馬前に死する事も能わず。この如き者は農事も十分にする事は出来ざるべし。それ農は天変凶歳風雨を恐れては十分に肥を用い、力を尽す事は出来ぬなり。損害は天に任せて、天下の農人は農をするなり。然るを況んや仕官して君に仕うる者をや、況(ま)して累代仕官の者をや。 
 

 

11、君を諫める諭し 
翁曰く、君を諫めて用いられざるを憤るは、諫争にはあらずして、憤争なり。真の忠諫は一旦君意に違い退けらるゝとも、正鵠を失すれば之をこの身に求るの金言を師として、君を不明と云はず、我が忠心の至らざるを責めて、敬を起し忠を起し、憤らず怨まず慎んであらば、用いられざる事あらんや。然るに君を諫る者、用いられざれば、君を怨み憤を含んで、君を不明と言うに至り、忠臣と云うふべけんや。  
12、公地の艸刈り取りの諭し
翁の家に出入る者曰く、予、今日真岡にて聞きたり。同町と久下田町との間の道は、敷地の巾十一間なりと。道は公地なり、されば久下田町に米を運送して帰路に、路傍の艸を刈りて戻らんと考えたりと。翁曰く、汝が屋敷は本歩は五畝歩なり。然るに、壹反余あるべし。人来りて汝が屋敷の竹木を取らば如何、汝黙するや、能く思ふべし。仮令道路敷地といえども自村と他村との区別あり。右様の事は云うべき事にあらず。隣家某の家敷は広し、さればとて余歩の地の竹木を伐り取らんと云わゞ無道なり。自ら私の屋敷は余歩多し。竹木の入用の方は遠慮なく伐り取らるゝも苦しからずと云うは誠によし。路傍の艸も、久下田の町にて、道敷地十一間なれば、他村の人たりとも、馬を引て空しく帰るは損なり。艸を刈りて附行くもよろしと云わゞ誠に宜し。この方より刈り取るも何かあらんと云うは悪しゝ。思うべきことなり。  
13、芭蕉の句の諭し 
翁曰く、芭蕉の句に、「古池や蛙飛込む水のおと」、この音は只の音と聞くべからず、有の世界より無の世界に入る時の音と観じて聞くべし。木の折るゝ時の音、鳥獣の死する時の声と同じ。これを通常の水の音とする時は、称讃すべき処なし。  
14、両全の諭し 
或る人曰く、某は借も千円なり、貸も千円なり、如何為(な)して然るべきや。翁曰く、これ誠に面白き事なり。汝が借り方に向て言う心を以て、貸方に云い、汝が貸し方に向て言う心を以て、借り方に向って談判すべし。然せば両全なるべし。 
15、飼葉桶の諭し 
宇津氏の馬、厩を離れて邸内を馳せ廻れり。人々大に噪ぎ立てける時、別当出来りて、静にすべしと云て、飼葉桶をたゝきて小声に呼ければ、流石に猛く刎廻りし馬急に静りて飼葉に付けり。翁曰く、汝等心得よ、世の中は何も六ヶしき事決してなし。狗も来よ来よと云う計りにては来ず、時々食を以て呼ぶ時速に来る。茄子(なす)もなれなれと云うて、なるにあらず、肥をすれば必ずなる。猫の脊中も順に撫れば知らぬふりをして眠り、逆に撫ると一撫にて爪を出す。予、桜町を治むるもこの理を法として、勤めて怠らざりしのみ。 
 

 

16、内済示談の諭し 
翁曰く、それ人の紛議を解くは道徳の一つにて、世を救うの一つなれど、又一つ心得べき事あり。訴訟の内済示談なり。これ実に両全の道なれども、又弊害も少からず。予、桜町にあり、近郷この扱という事盛んに行われて、訴訟甚だ繁し。習って察せず、法を厳にして之を制すれば、方今の訴訟その幾分を減ずべし。如何となればこの道にて内済の事を扱うものを見るに、必ず智力もあり、弁才もあって、白を黒にし、黒を白になすの奸人、表を餝りてこの事を業の如くする者あり。この者よく弱きを助け、強きを拆き、訴訟を内済して、衆の難を救うが如く見ゆれども、竊にその内情を聞き、能く能く観察する時は、この紛議の因はこの者に因て発する事多し。それ村里に一紛議の起るや、或は激言して之を争わしめ、また和言を以てこれを止め、始終その間に周旋して利と誉とを己に取る奸人あり。然るに世の中不明にしてこれを尊み、これを用いる。往時桜町に奸人あり。予、先ずこの者を退けぬれば、訴訟の事断然止み、柔善の者里正たることを得たり。某の如き好き人里正に居て、流来の細民鰥寡孤独に至るまで、皆その利を利とすることを得るなり。凡そ国家を治むる者、前に云う所の如き奸民を退けて、良民を撫するを以て勤めとすべし。人道は元作為の道なるが故に、農夫の勤めて草を去るが如く、悪民を去て良民を養はざれば、良民立つ事あたわず。良民立つ事能わざれば、邦家の衰廃見るべきなり。それ奸民は譬えば莠艸の如し。茂生すれば田園蕪廃す。故に奸民志を得れば村里衰廃す。良民は譬えば稲の如し。莠艸を去らざれば稲栄えず。故に奸民を退けざれば良民困苦す。莠艸を去りて稲を助くるは農業なり。奸民を退けて良民を撫するは政事なり。それ農業を勤むるは下の職なり、政事を勤むるは上の職なり。下その職業に怠らざれば、国豊饒す、上その職を勤れば国用余りあり、上下各その職分を尽さば、天下平なるべし。故に古人も政事をなすは農の田を作るが如しと云えり。それ農の業は莠艸を抜除して稲を肥すにあり、上の職は奸民を退けて良民を育するにあり。而して農は莠艸の悪むべきを知りてこれを去るを勤めとす。その上この奸民を愛して是を重んずるは過れり。彼の奸民は才力弁舌衆に越え、これに加うに能く世事に馴れ、上下に通じて始終之をあやつりて事を起し、事を鎮め、その中間に立ちて利を己に占むる物なり。然るを人之を知らず、これを尊み之を用う、過てり。それこの如きは莠艸を以て善とし、美とし、之を糞培せば、邦家の衰えざることを得んや。  
17、真菰の諭し 
翁曰く、真菰を俵に作る、虫喰わざるものなり。木綿を入るゝに用うべし。塵付かずしてよろし。  
18、惜しい人の諭し 
翁曰く、某村某は強欲にして積財を勤め、隣に艱難あるも救わず、貧窮に陥るあるも憐れまず、金を貸すこと酷にして高利を貪り、恨を村里に結んで意とせず、その行い甚だ悪むべきが如し。然りと云えどもその力を農事に尽す処を見る時は、近郷比類なし。耕種培養、能く時に先後せず、春は原野に草を刈り、秋は山林に落葉を掻き、夏は炎暑を厭わず、冬雪霜を侵し、晨に起き夜半に寝て、力を農事に尽せり。その勤農実に至れりと云うべし。聖賢をして農業を勤めしむるも、之に過ぐべからず。その作物の為に尽せば、秋に至って己に利ある事を了知すること、釈氏といえども又之に過ぐべからず。もしこの理を人倫の間に用い、自ら能く勤むる所の農術を人に教え、郷里の為に懇誠を尽さば、聖賢に彷彿たらん者なり。惜しいかなこの地の賢人と呼ばれんものを、惜しいかな予之を諭しゝも悟る事能わず、惜しいかな。  
19、洪水予兆の諭し
翁曰く、大雨の時井水溢るれば、洪水ありと知るべし。洪水の時は天より降る而已にあらず。地よりも湧くかと思はるゝ様に、井の水溢るゝものなり。又川流に随て風吹く時は、大雨といえども洪水少し。川流に逆いて風の吹き上る時は、必ず洪水あり、知るべし。 
20、彼岸の諭し 
或る人曰く、彼岸の文字は素儒書より出づと梧窓漫筆にありと。翁曰く文字の出所は知らずといえどもその言は仏意なり。何となれば、此岸を離れて彼の岸に到るの云いなればなり。それ寒より暑に至るを春の彼岸と云い、暑より寒に至るを秋の彼岸と云う。今一艸を以て之を云わん。春の彼岸は種の岸を離れて艸の岸に到るなり。秋の彼岸は艸の岸を離れて種の岸に到るなり。凡事此岸を離れざれば、彼の岸に到る事能わず。故に艸より艸の生ずる事なく、種より種の生ずる事なし。或は艸となり、或は種と成りて、百艸相続す。これいわゆる循環の理なり。されば彼岸は、仏意なる事明らかなり。この季節に先祖を祭る事の起りは儒も仏も同感なるべし。 
 

 

21、不遇の諭し 
某曰く、予薄運か、神明加護なきか、為す事成らず、思う事齟齬すと。翁諭して曰く、汝過てり、薄運なるにあらず、神明加護なきにあらず、これ則ち神明の加護にして則ち厚運なるなり。只願ふ所と為(す)る所と違へばなり。それ汝が願ふ所は瓜を植えて茄子を欲し、麦を蒔て米を欲するなり。願う事ならざるに非ず、成らざる事を願えばなり。然して神明加護なしと云いひ、又薄運と云、過にあらずや。それ瓜を蒔て瓜の熟(な)り、米を蒔て米の実法るは、天地日月の加護なり。然らば則ち悪をなして刑罰来り、不善をなして禍来るは、天地神明の加護、米を蒔て米を得ると同じ。然るに神明加護なしと云う、過ならずや。  
22、翁の先見 
翁天保三年桜町陣屋下の畑租を免じ、壹町歩に付貳反歩づゝの割を以て稗を蒔かせ、常の囲とせられしに、翌四年違作にて積み置くまでもなく用に立ち、又同六年同じく稗を蒔かせたるに、翌七年大凶荒なりき。爾来囲穀の命を下さゞりしに弘化二年また俄にそれ食の用意と囲穀を命じ、稗を蒔かせられしが、同年違作にて又々之を蓄積するまでもなく用を足せり、その先知神の如し。  
23、家業と欲の違いの諭し 
翁曰く、世人家業と欲とを混じてその弁別を知らざるものあり。故に家業を出精するを欲深しと思うなり。大なる誤と云うべし。家業は出精せねばならぬ物なり、怠りては済まぬものなり、欲はそれとは違い、押へねばならぬものなり。それ人皆家の業あり、官吏の国家の為に尽力するは家業出精なり、教師の教育に勉強するも家業出精なり、僧侶の戒律を能く守るも家業出精なり、医師の病者に心力を尽すも家業出精なり、農工商皆同じ。能く心得て思い混ふべからず。  
24、荒蕪を開くの諭し 
翁曰く、予が生涯の業は、総て荒蕪を開くを以て勤めとす。然して荒蕪に数種あり、田畝の荒れたるあり。これは国家の荒地なり。又負債多くして家祿を利足の為に取られ、祿ありて祿なきに至るあり。これ国家の為に生地にして、その人の為に荒地なり、又薄地麁田、公租と村費丈けの取穀あって、作益無き田畑あり。これは上の為に生地にして、下の為に荒地なり。又身体強壮にして怠惰に日を送る者あり。これ自他の為に荒地なり。資産あり金力ありながら、国家の為になることを為さず、徒に驕奢に耽り、財宝を費すあり。これ世上大なる荒蕪なり。又智あり才ありて遊芸を事とし、琴棋書画などをもて遊びて世の為を思はず、生涯を送るあり。これも世の中の荒蕪なり。これら数種の荒蕪はその元心田荒蕪よりするものなれば、我が道は先づ心田の荒蕪を聞くを先とすべし。心田の荒蕪を開きて後は、田畑の荒蕪に及びてこの数種の荒蕪を開きて熟田となさば、国の富強は掌に運らすが如くなるべきなり。 
25、孝行の諭し 
翁曰く、若き者は、毎日能く勤めよ。これ我が身に徳を積むなり。怠りなまけるを以て得と思うは大なる誤りなり、徳をつめば天より恵あること眼前なり。今雇人を以て譬えん。彼の男は能く働きて貞実なり。来年は我が家に頼むべしと云い、能く勤むれば聟に貰うべしと云うに至るものなり。これに反する者は本年は取り極めたれば是非なし、来年は断るべしと云う様になるは眼前の事なり。無智短才なりとも能く謹み、能く顧み、身に過ち無き様にすべし。過ちは則ち身の疵なり。古語に「身体髪膚之を父母に受く、敢て毀傷せざるは孝の始めなり」とあり。人過てば身の疵となる事を知らず、傷さへせざればよしと思うは違へり。且つ過ちは身の疵なるのみならず、父母兄弟の顔をも汚すなり慎まざるべけんや。 
 

 

26、理を明らかにすることの諭し 
翁曰く、凡庸の者は、繁多なることの記憶は出来兼ぬるものなり。譬えばこの茶碗十や二十は、誰にても数える事容易なれども、之を四百五百とする時は中々間違えぬ様に数える事は出来ぬものなり。数多き物に番号を付ける時、二十や三十迄は間違う事無けれど、三百四百となると知らず知らず間違うものなり。故に予は唯一理を明かにする事を尊むなり。一理誠に明かなれば、万理に通ず。天地の間最知り難き道理は言論強く雄弁の者の勝となるべし。故に孔子は一以て之を貫くと言はれたり。卿等此処に眼を付けて能く思考せば、世界万般の道理おのづから知らるべし。予が歌に「古道につもる木の葉をかきわけて、天照す神の足跡を見ん」。足跡を見る事を得ば万理一貫すべし。然せずして徒らに仁は云々、義は云々と云時は、之を聴くも之を講ずるも共に無益なり。余は云うに足らず、聞くに足らず。  
27、大道の大罪人の諭し 
門人某平日悟道論を喜んで、大悟は小節に拘泥せずと云えり。翁曰く、儒者は大行は細瑾を顧みずと云うて放薄なり、仏者は大悟は小節に拘わらずと云うて無頼なり。これ道の罪人と云うべし。何となれば徒らにこの為にする事有りて、いはゆる古言を持出して、己大行もなく、大悟を夢にも見ずして忠言を防ぐの垣根となし、過を餝るの道具となして、人にほこりて大言を吐きて憚らざるは、大道の大罪人なり。汝等皷を鳴らして之をせめて可なりと云わんのみ。  
28、凶歳時の供えの諭し 
翁曰く、季候あしく、本年は凶歳にもならんかと云う様なる模様あらば、食料になるべきジヤガタラ芋を早く掘り取りて、直に明畑に肥して植付くべし。次に大根、蕪なり、次に蕎麦なり。この蕎麦を蒔く時に、そば種の中へ油菜の種を交ぜて蒔くべし。然する時は蕎麦実のりて刈り取る時には、菜も大きく成るなり。これを蕎麦と共に刈り取るも、根も茎も残りてあれば害無し。そばを刈り取て直に肥しをなし、中打手入れをすれば、忽菜畑となって栄ゆる物なり。山畑などには必ずこの作法を用いるべし。  
29、桃栗三年柿八年の諭し
翁曰く、方位を以て禍福を論じ、月日を以て吉凶を説く事、古よりあり。世人之を信ずれどもこの道理あるべからず。禍福吉凶は方位日月などの関する所にあらず。之を信ずるは迷いなり。悟道家は本来無東西とさへ云うなり。それ禍福吉凶は己々が心と行いとの招く所に来るあり。又過去の因縁に依りて来るもあり、或る智識の強盗に遭いたる時の歌に「前の世の借りを返すか今貸すか、何れ報いは有りとこそしれ」と詠める通りなるべし。必ず迷う事勿れ。それ盗賊は鬼門より入り来らず、悪日にのみ来らず、締りを忘るれば賊は入り来ると思へ。火の用心を怠れば火災起るべし。試に戸を明けて置て見るべし、犬這入りて食物を求むるなり。これ眼前なり。古語曰く積善の家に余慶あり、積不善の家に余殃ありと。これ万古を貫きて動かざる真理なり、決して疑ふべからず、之を疑うを迷と云う。それ米を蒔て米実法り、麦を蒔て麦実法るは眼前にて、年々歳々違はず。天理なるが故なり。世に不成日(ふじやうび)と云えるあり。されどこの日になす事随分成就す。吉日なりとて為せし事必ずしも成就するにあらず。吉日を選んで為せし婚姻も、離縁になる事あり。日を選まずして結婚したるに偕老するもあるなり。かゝる事は決して信ずべからず、信ずべきは積善の家余慶ありの金言なり。されど余慶も余殃も速に回り来ものにあらず、百日にして実法る蕎麦あり、秋蒔て来夏に実のる麦あり。諺に桃栗三年柿八年と云うが如し。因果にも応報にも、遅速ある事を忘るゝ事勿れ。 
30
翁曰く、本来東西無し、また過不及無しなど云は、平なる器を見て云ふ語なり、則ち本然の天理なり、既に一器あり、之に己あれば傾かざるを得ず、傾く時は其器の中の水必前後左右に増減す、之を世に某は厚運、某は薄運などゝ云ふなり、是某と云ふ己がある故なり、己なき時は東西も無く遠近も無く、過不及もなし、是本然の天理なり、古語に「天運循環して往て復らざるなし」と云へり、是傾きたる器の水の増減するを云ふなり、某は厚運、某は薄運など云ふも則ち是なり、予が歌に「増減は器傾く水と見よ、あちらにませばこちらへるなり」皆此通りなり、縦令蓋をするも只目に見えぬのみ、水の増減するは疑ひなし、今爰に薪を取りて自(みづから)焚(た)かずして売る者は、賎しきが如しといへども、夫丈けの運を増すなり、此銭にて酒を呑めば、又直に夫丈けの運を減らすなり、田畑へ肥しをする者は、眼前益無しといへども、秋に至れば実法多し、此時に則運をますなり、遊びなまけて田畑を麁作したる者は、秋に至つて取実少し、爰に至つて運の減ずる事知るべし、皆明白にして愚夫愚婦といへども、此道理は知るなるべし、此道理を知つて能く勤むるは則道を悟りたるに同じ、是に於ては何を成すにも利益あるなり、是に反すれば何をなしても損失なり、誠に明白の理なり。 
 

 

31 
翁曰く、世界元吉凶禍福苦楽生滅なし、予が示せる一円図の如し、而して是あるは其半に己と云者を置て隔つる故なり。人は云ふ万物土より生じて土に帰ると、是まだ尽さず眼前の論なり、是は江戸人が旅客は品川より出ると云が如し、其の出京は区々あるなり、艸木の春生育して秋枯るゝを見て、秋を無常といへども、農家にては秋実を得て悦ぶなり、艸の上より見れば誠に無常なれども、種の上より見る時は有常なり、されば無常も無常にあらず、有常も有常にあらずと云ふべし。  
32
某藩の重臣某氏、藩の財政の方法を問ふ、翁曰、爰に十万石の諸侯あり、之を木に譬ふれば、百姓は土際(つちきは)より木にある根の如し、幹と枝葉は藩中の如し、然れば十万石と云ふ時は、其領中一円神主僧侶も乞食も皆此中の物なり、此十万石を四公六民とする時は、藩が四分、民が六分なり、然るに何方より頼談せらるゝも、皆藩の財政のみを改革せんとせられ、領中の事に及ばるゝはなし、古語に「其本乱れ末治まる者はあらず」とあり。其元を捨置て、其末のみを挙んとするも、順序違へば、労するとも功無かるべし。真に藩の疲弊を救はんとならば、民政も共に改革せらるべし、さ無き時は、木の根を捨置て、枝葉に肥しを施すが如し、是卿が尤も心を用ひらるべき所にて、卿が職務なり、帰藩の上能々勘考せらるべしと、某氏感服感服と云て去れり。  
33
翁曰く、内に実ありて外に顕はるゝは、天理自然なり。内に実有て外に顕れざるの理必なし、譬ば日暮に燈火を点ずるを見るべし、附木に火の付や早、障子に火の影は移りて外より家の内に燈火のある事の知らるゝなり、其外深山の花木、泥中の鰌は、自(みづから)知らざる積りにても、人は早くも彼の山に花さきたり、此泥中に鰌の居ると知るなり、思はざるべけんや。  
34
翁曰く、商業の繁栄し、大家となるは高利を貪らず、安価(あんか)に売るを以てなり、其高利を貪らざるが為に、国中の買人集り来るは当然の事なれど、売る物も又之に集るは妙と云ふべし、買ふと売るとの間に立て、高く買て安く売るは、行はるべからず、然らば安く売るは買ひ方も安かるべし、安く買ふ所に売る者の集るは、実に妙なり、是皆双方に高利を貪らざるの致す所なり、高利を貪らざるのみにて、買ふ者も売る者も共に集りて、次第に富を致す、是又妙なり、商家にして高利を貪らざるすら此の如し、然るを況んや我方法は、無利足なり、尊ばざるべけんや。 
35
翁曰く、仏説は誠に妙なり、日輪朝東方に出る時の功徳を薬師と名付け、中天に照す時の功徳を大日といひ、夕陽の功徳を阿弥陀と云へり、然れば薬師、大日、阿弥陀と云へど、其実かゝる仏あるにはあらず、皆太陽の功徳を表せしなり。又大地の功徳を地蔵と云ひ、空中の功徳を虚空蔵と云ひ、世の音づれを観ずる功徳を観世音と云へり。或問大地の功徳大なり、虚空の功徳も大なるべし、世音を観ずる功徳とは如何、翁曰、商法などの類総て世の音信を能く考へて利益を求むるを観世音の力を念ずると云へるなり、観は目にて見る字にはあらず、心眼に見るを云字なり能思ふべし能思ふべし。 
 

 

36
翁曰く、農家は作物の為とのみ勤めて朝夕力を尽し、心を尽す時は、自然願はずして穀物蔵に満るなり、穀物蔵にあれば呼ばずして魚売りも来り、小間物屋も来り、何もかも安楽自在なり、又村里を見るに籬丈夫に住居の掃除も届き、積肥沢山積重ねたるは、何となく福々しき。其家の田畑は隅々まで行届き出来、平に穂先揃ひて見事なるものなり。又之に反して出来不平にして穂先揃はず、稗あり艸あり、何となく見苦しき田畑の作主の家は、籬も破れ、家居不潔なるものなり、又一種不精者の困窮ながらも家居は清潔に住むあり、是は籬其外も行き届きたれど、家に俵なく、農具なく、庭に積肥なく、何となくさみしきものなり。又人気和せざる村里は四壁の竹木も不揃にて、道路悪敷(あしく)堰用水路に笹茂るなど見苦しきものなり大凡違はじ。 
37
翁曰く因果の理を此柿の木の上にて説かんに、柿の実を見よ人の食となるか、鳥の食となるか、落て腐るか、未だ其将来は知れざる以前、枝葉の陰にある時の精力の運びに因り熟するに及んで、市に出し売らるゝ時三厘になり五厘になり、一銭になるあり、其始は同じ柿にして、熟するに随て此の如く区々に価直の異なるは、是皆過去枝にある時の精力の運び方の因縁に依るなり。天地間の万物皆同じ、隠微の中に生育して、而して人に得られて、其徳をあらはすなり。人又此の如し、親の手元にある時、身を修めて諸芸を学び、能く勤めたる其徳に依て一生の業は立つなり。凡人少壮の時能学べばよかつたと後悔心の出るは、柿の市に出て後に、今少し精気を運んで、太く甘くなればよかつたと思ふに同じ、後悔先に立たぬなり。古人前に悔めと教へたるあり、若輩者能く思ふべし、故に修行は入るか入らぬか、用に立つか、用にたゝぬか知れぬ前に、能く学びおくべし、然せざれば用に立たぬものなり、柿も枝葉の間にある時太くならざれば、市に出でゝ仕方なきに同じ、此れ則ち因果の道理なり。 
38
翁曰く、仏は諸行無常と云なり、世上に諸の行はるゝ物は、皆常に無き物なり。然るを有ると見るは迷なり、汝等が命、汝等が体(からだ)皆然り。長短遅速は有りといへども、皆有るにはあらず、有ると思ふは迷ひなり。本来は長短もなし、遅速もなし、遠近もなし、生死もなし、蜉蝣の一時を短しと見、鶴亀の千年を長しと思ふが如き是皆迷なり。然といへども、此理は見え難し、凡人に之を見するは遠近のみ、是は我が悟道の入門なり「見渡せば遠き近きは無かりけり、己々が住処(すみか)にぞよる」見渡せば生死生滅無かりけり、見渡せば善きも悪しきもなかりけり、見渡せば憎いかはゆい無かりけり。この歌を感ずる時は其の道理知らるべきなり。夫生と云も死と云も共に無常にして、頼みにならぬ事は明白なり。氷と水とを見よ、何をか生と云ひ、何をか死と云ふ。水は寒気に感じて氷となり、氷は暖気に感じて水となる。今朝寒しといへども、一朝暖気なれば速に消ゆ、之を如何せん、水か氷か、氷か水か、生か死か、死か生か、何をか生と云はん、何をか死と云はん。諸行無常なる事知らるべし。然して又無常も無常にあらず、有常も有常にあらず、惜しい、欲しい、憎い、かはゆい、彼も我れも皆迷なり。此の如く迷ふが故に三界城と云ふ堅固な物が出来て人を恨み、人を妬み、人をそねみ、人に憤り、種々の悪果を結ぶなり。之を諸行無常と悟る時は、十方空となつて恨むも、妬むも、悪むも、憤るも馬鹿馬鹿しくなるなり、是の所に至れば自然怨念死霊も退散す、之を悟りと云ふ、悟るを成仏と云ふなり、玩味して悟門に入るべきなり。 
39 
翁曰く、古語に曰く、功成り名遂げて身退くは天の道なりと云へり、天道誠に然り、然りといへども是を人道に行ふ時は智者と云ふべくして、仁者とは云ふべからず、如何となれば全く能く尽すと云ふに至らざればなり。 
40
斎藤高行曰く、儒者仏者に問ふて曰、地獄の釜は誰が作りしぞと、仏者答へて郭公が掘出せし黄金の釜と同作なりといへり面白き咄に候はずやと、翁曰く面白し、されど智者の言にして仁者の言にあらず、称するに足らず。 
 

 

41
翁曰く、論語に己に如かざる者を友とする事勿れとあるを、世に取違へる人あり、夫人々皆長ずる所あり、短なる所あるは各々免れ難きなり、されば其人の長ずる所を友として、短なる所を友とする事勿れの意と心得べし、譬へば其人の短なる事をば捨て、其人の長所を友とするなり、多くの人には短才の人にも手書きあるべし、世事には疎きも学者あるべし、無学にも世事に賢こきあるべし、無筆には農事に精しき有るべし、皆其長所を友として短所を友とする事勿れの意なり。 
42
翁曰く、心狭く局りては、真の道理を見る事能はざる物なり、夫世界は広し、故に心をば広く持つべし、されども其の広き世界も己と云ひ、我と云ふ私物を一つ中に置て見る時は、世界の道理は其の己に隔てられて、其の見る所は皆半になるなり、己と云物にて半分を見る時は借たる者は返さぬ方が都合よく、人の物を盗むは尤都合よかるべけれど、此隔てなる己と云物を取り捨て、広く見る時は、借りたる物は返さねばならぬと云道理が明らかに見え、盗むと云事は悪事なる事も明らかに分るなり。故に此己と云私物を取り捨るの工夫が専一なり、儒も仏も此取捨方を教るを専一とす、論語に己に克て礼に復れと教えたるも、仏にては見性といひ、悟道といひ、転迷と云ふ、皆此私を取り捨るの修行なり。此私の一物を取捨る時は、万物不生不滅不増不滅の道理も又明かに見ゆるなり、如此明白なる世界なれども、此己を中間に置て彼と是とを隔つる時は、直ぐ其座に得失損益増減生滅等の種々無量の境界現出するなり、恐るべし。然(さ)れど是又是非無き次第なり、其は豆の艸になる時は、豆の実を見る事能はず、豆の実になる時は豆の草は出来ざる世界なる故に、万物の霊なる人といへども免れ難きなり。此免れ難きを免るゝを悟といひ、免れざるを迷と云ふなり。予が戯に詠める歌に「穀物の夫食(ふじき)となるも味も香も、草より出でゝ艸になるまで」「百艸の根も葉も枝も花も実も、種より出でゝ種になるまで」。この理を見るの一つのみ呵々。 
43
翁曰く、我道は勤倹譲の三つにあり、勤とは衣食住になるべき物品を勤めて産出するにあり、倹とは産出したる物品を費さゞるを云ふ、譲は此三つを他に及ぼすを云、扨譲は種々あり、今年の物を来年の為に貯ふるも則譲なり、夫より子孫に譲ると、親戚朋友に譲ると、郷里に譲ると、国家に譲るなり、其身其身の分限に依て勤め行ふべし、たとひ一季半季の雇人といへども、今年の物を来年に譲ると、子孫に譲るとの譲りは、必勤むべし、此三つは鼎足の如し、一をも欠くべからず、必兼行ふべし。 
44
或問、今日中庸の講釈を聞けり誠に六ヶ敷講釈にて、聞ても分らず、喜怒哀楽の未だ発せざる之を中と云とは如何なる道理なるや、翁曰、是は尤も六ヶ敷道理なり、されど之を他物に移して説く時は了解出来る物なり、之を艸木にて云はゞ、根幹枝葉未だ発せざる之を種と云と見るべし。之を艸木に移して然る後に中と云の何物たるやを考ふるを近道とす、如何に分りたるや、或人感拝して帰れり。 
45
翁曰く、世の人とかく小事を厭ひて大事を欲すれども、本来大は小の積りたるなり、されば小を積んで大をなすの外に術はなきなり、夫国中の田は広太無辺無数なり、然るに其田地は皆一鍬づゝ耕し、一株づゝ植え、一株づゝ刈り取るなり、其田一反を耕す鍬の数三万以上なり、其の稲の株数は一万五千内外なるべし、皆一株づゝ植えて、一株づゝ刈るなり、其田より実法りたる米粒一升の数は六万四千八百余あり、此米を白米にするには、一臼の杵の数千五六百以上なり、其手数思はざるべけんや、小の勤めざる可からざる知るべきなり。 
 

 

46
翁曰く、学者皆大学の三綱領と云といへども、至善に止るの至善とは何なるや明かならず、予はひそかに其実は二綱領なるべしと愚考せり、如何となれば、明徳を明にするは道徳の至極なり、民を新にするは、国家経綸の至極なり、其上に至善に止るといへども明に徳と新民との外に至善とさす物はあるまじと思へばなり、仍て三綱領と云といへども其実二綱領と心得て可なり。 
47
翁日光御神領の興復法の取調帳数十巻を指して曰く、夫れ此興復法、計算は独日光のみにはあらず、国家興復の計算なり、日光神領の文字誠に妙なり、世界の事と見て可なり、されば此帳簿は計算帳と見るべからず、是皆一々悟道にして天地自然の理なり。夫れ天地は昼夜変満して違ひなく、偽りなし、而して算術又然り、故に算術をかりて世界の変満するは此の如き道理なれば、決して油断は出来ぬぞと示して誡めしなり、此帳を開かば初の一を何になりとも定めて見るべし、善なり、悪なり、邪なり、正なり、直なり、曲なり、何なりとも定め置て見る時は、元に仍て利を生み、利が返て又元となり、其の元に利が付き繰返し繰返し、仏説に云因果因果と引続きて絶えざる事年々歳々此の如し。譬へば毎朝己先に眼を覚して人を起すか、又人に毎朝起さるゝか、是一事にても知らるべし。人世は一刻勤むれば一刻丈け、一時働けば一時丈け半日励めば半日丈け、善悪邪正曲直皆此計算の如く、一厘違へば一厘丈け、五厘違へば五厘丈け、多きは多き丈け、少きは少き丈け、此の通りと皆八十年間明細に調べ上げたり。朝早く起きたる因縁によりて麦が多く取れ、麦が多く取れた因縁によりて田を多く作り、田を多く作りたる因縁によりて馬を買ひ、馬を買ひ求めたる因縁によりて田畑が能く出来、田畑が能く出来たる因縁によりて田が殖え、田が殖えたる因縁によりて金を貸し、金を貸したる因縁によりて利が取れる。年々此の如くなるに依て富有の者となるなり。而して富有者の貧困になりゆくも又此道理なり。原野の艸、山林の木の生長も又同じ理なり。春延びたる力にて秋根を張り、秋根を張りたる力を以て、春延び、去年延たる力を以て今年太り、今年太りたる力を以て、来年又太るなり、天地間の万物皆然り是を理論にて云ふ時は種々の異論ありて面倒なれば、予は算術をかりて示せるなり、算術にて示す時は、如何なる悟道者も、いかなる論者も一言あらず。天地開闢の昔、人も禽獣も未だ無き時より、違ひ無き物を以て証拠として、天地間の道理は、此の如き物ぞと知らしめたるなり、決して此帳を計算と見る事勿れ、夫(それ)数は免るゝ事能はず、此数理によりて道理を悟るべし、是悟道の捷径なり。弁算和尚傍にありて曰、是ぞ真の一切経なる。仰ぐべし尊ぶべしと。 
48
翁曰く、国に上中下あり、上国の土又上中下あり、下国の土又上中下あり。或は上と云、或は下と云、名は同じといへども、所を異にすれば其実又大に異なる。如何となれば、下国の所謂上田は、上国の下田にだもしかず、況や中下におけるをや、上国の下田は、下国の上田に比すれば勝れる事遠し、況や中上に於けるをや。而て下国の上田の租税は、上国の下田の租税に倍して、粗(ほゞ)上田の租に近し。上国の下田の租税は、下国の上田の租税に比すれば、其半にして、下田の租に近し。諸役銭(しよやくせん)、高掛(たかがゝ)りも又是に準ず。是上国の民ますます富饒(ふぜう)にして、下国の人民離散逃亡を免れざるゆへんなり。野常(やじやう)の土(ど)瘠薄(せきはく)にして利少し、其上田は上国の下田の如し、然ば則上国の下田の取箇(とりか)を以て、下国の上田の取箇となし、中下も亦是に随て、其租数を定むれば、富栄上国に如かずといへども、何ぞ廃亡此の如きに到らんや、上たる者尤心を用ひずば有可からざる所なり。 
 
二宮尊徳1

 

(にのみや たかのり/にのみや そんとく) 天明7年-安政3年(1787-1856) 江戸時代後期の農政家・思想家。通称は金治郎(きんじろう)であるが、一般には「金次郎」と表記されてしまうことが多い。また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と訓む。「報徳思想」を唱えて「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導した。
生涯
相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山〔かやま〕)に百姓利右衛門の長男として生まれる。当時の栢山村は小田原藩領であった。彼が5歳の時の1791年(寛政3年)8月5日、南関東を襲った暴風で付近を流れる酒匂川の坂口の堤が決壊し、金次郎の住む東栢山一帯が濁流に押し流されてしまった。その影響で田畑は砂礫と化し、父利右衛門の田畑も流失した。
14歳で父利右衛門が死去、2年後には母よしも亡くなり、尊徳は伯父二宮万兵衛の家に身を寄せることとなった。伯父の家で農業に励むかたわら、荒地を復興させ、また僅かに残った田畑を小作に出すなどして収入の増加を図り、20歳で生家の再興に成功する。この頃までに、身長が6尺(約180センチ強)を超えていたという伝承もある。 また体重は94kgあったと言われている。
生家の再興に成功すると尊徳は地主経営を行いながら自身は小田原に出て、武家奉公人としても働いた。奉公先の小田原藩家老服部家でその才を買われて服部家の財政建て直しを頼まれ、見事に成功させて小田原藩内で名前が知られるようになる。その才能を見込まれて、小田原藩大久保家の分家であった旗本宇津家の知行所であった下野国桜町領(栃木県旧二宮町周辺、なお同町の町名の由来は二宮尊徳である。現在の真岡市)の仕法を任せられる。後に東郷陣屋(同じく真岡市)にあって天領(真岡代官領)の経営を行い成果を上げる。その方法は報徳仕法として他の範となる。その後、日光山領の仕法を行う。下野国今市村(現在の栃木県日光市)報徳役所にて没。戒名は,誠明院巧譽報徳中正居士。尊徳の娘文子は尊徳四大門人の筆頭富田高慶に嫁いでいる。
尊徳の仕法は他の農村の規範となった。没後の1891年(明治24年)11月16日に従四位が追贈されている。
二宮尊徳をまつる『二宮神社』が、生地の小田原(報徳二宮神社)、終焉の地・今市(報徳二宮神社)、仕法の地・栃木県真岡市(桜町二宮神社)などにある。尊徳記念館が神奈川県小田原市栢山にある。栃木県真岡市にも二宮尊徳資料館がある。 
逸話
尊徳に関しては多くの逸話が残っている。事実かどうか確認できないものも多いが、伝記などに多く記述される代表的な逸話には次のようなものがある(これらの逸話の多くは、尊徳の伝記『報徳記』を由来とする)。
小田原時代
子供の頃、わらじを編んで金を稼ぎ、父のために酒を買った。
両親の死後、叔父の家にて暮らしていた頃、寝る間も惜しんで読書をした。油代がもったいないと叔父に指摘されると、荒地に菜種をまいて収穫した種を菜種油と交換し、それを燃やして勉学を続けた。
荒地を耕して田植え後の田に捨てられている余った稲を集めて植えて、米を収穫した。
一斗枡を改良し、藩内で統一規格化させた。役人が不正な枡を使って量をごまかし、差分を横領していたのをこれで防いだ。
倹約を奨励し、かまど番から余った薪を金を払って買い戻した。
桜町時代
ナスを食べたところ、夏前なのに秋茄子の味がしたことから冷夏となることを予測。村人に冷害に強いヒエを植えさせた。二宮の予言どおり冷夏で凶作(天保の大飢饉)となったが、桜町では餓死者が出なかった(実際には、数年前からヒエを準備させていたことが分かっている)。
早起きを奨励した。
開墾した田畑は、既存の田畑に比べると租税負担が軽くなることに注目、開墾を奨励した。
村人らに反感を持たれ、復興事業が上手く行かなくなると、突然行方不明になった。間もなく成田山で断食修業していることが判明。修業を終えて戻ると村人らの反感もなくなっていた。
村人の仕事ぶりを見て回り、木の根しか撤去できない、周りの村人から馬鹿にされていた老人に15両もの褒美を与え、逆に、人が見ている時だけ他の村人より3倍近く働いているように見せかけて普段はサボっている若者を厳しく叱った。
子孫
二宮尊行-次男。通称、弥太郎。文政4年(1821年)生まれ。尊徳の長男・徳太郎が生後まもなく没したため、嫡男となる。尊徳没後も御普請役の命を受け、遺志を受け継ぎ日光山領89村の仕法を推進した。嘉永5年(1852年)4月、近江国大溝藩士三宅頼母の娘ホ子(こうこ)と下野国東郷陣屋で結婚する。慶応4年(1868年)6月戊辰戦争の戦火が今市に及び母、妻子と相馬藩領内に移った。これにより日光山領の仕法は打ち切られた。明治4年、尊徳夫人(歌子)と尊行没する。
二宮尊親-尊行の長男。通称、金之丞、金一郎。安政2年(1855年)11月16日生まれ。明治4年父の後を継ぎ家禄700石を給される。明治10年(1877年)報徳農法を民間で実践する為、冨田高慶を社長に興復社が設立され、副社長に斎藤高行が就任するが間もなく尊親が就任した。富田高慶が没すると社長に就任し、新天地にて実践することを求め、明治29年に社員と探検隊を組織し、開墾に適した土地を探して周り、ウシシュベツ原野を発見した。明治30年(1897年)第1 期移住民75名とともに北海道豊頃村(現在の豊頃町茂岩地区)に移住し二宮農場として豊頃村牛首別(ウシシュベツ)原野を10年で840haも開墾し、宅地や防風林等も含めて興復農場は1345haにも及ぶ大農場となった。またこの間母のホ子は、尊親の子徳(とく)を札幌に居を構えて養育した。明治40年(1907年)開拓が一段落した為、再び相馬に来住し、妻は報徳婦人会会長となり、尊親は中村城三の丸跡にある相馬家事務所に執事として勤め、「報恩全集」の編纂をした。その後、銀行の取締役、大正6年福島県立薫陶園園長、大正8年(1918年)には報徳学園2代目校長に就任した。
富田高英-尊行の次男。通称、延之助。安政5年(1858年)生まれ。富田高慶の娘と結婚し高慶の養子となる。娘は、相馬家に嫁いでいる。
二宮四郎-尊親の四男。太平洋戦争後に富士山麓に「富士豊茂開拓農業協同組合」を発足させた。
二宮精三-尊徳の玄孫。
門人
富田高慶-相馬藩士齋藤(富田)嘉隆の次男。相馬藩士。久助。弘道任斎と号する。尊徳の娘婿。文化11年(1814年)生まれ。藩世継の相馬充胤の近侍となるが藩復興の志のもと江戸に出る。天保10年(1839年)6月1日入門。4大門人の1人で、報徳仕法を支えた。片腕として活躍し、嘉永5年尊徳の娘文子と結婚するが、翌年出産で実家に帰り実家にて母子ともに亡くなった。日光仕法、相馬仕法に従事した。相馬仕法は尊徳の代理として、弘化2年(1845年)から廃藩置県まで領内226村のうち101村を対象に行い成果を得た。維新時、尊行一家とともに相馬に移住した。明治2年、相馬藩家老上席および政治総裁となった。廃藩置県後は、明治10年(1877年)興復社を設立し社長となった。また、尊徳没後「報徳記」「報徳論」を著した。明治23年(1890年)77歳で没する。二宮尊行の次男高英を婿養子とした。
大友亀太郎-旧幕府下で札幌村の開拓を指導。札幌開拓の始祖と呼ばれた。
岡田良一郎-4大門人の1人。
齋藤高行-4大門人の1人。富田高慶の甥。久米之助。弘化2年(1845年)入門。相馬仕法の後半を高慶に代わって指導した。晩年、大原村(南相馬市原町)に隠棲し大原山人と号した。明治27年(1894年)6月、76歳で中村にて没した。
福住正兄-弘化2年(1845年)入門。
新妻助惣
志賀直道-志賀直哉の祖父。 
金次郎像
各地の小学校などに多く建てられた、薪を背負いながら本を読んで歩く姿に関する記述は、1881年発行の『報徳記』で現れる。報徳記を基にした幸田露伴著の『二宮尊徳翁』(1891年)の挿絵で、はじめて薪を背負って歩く姿の挿絵が使われた。確認されている最初のこの姿の像は、1910年に岡崎雪聲が東京彫工会に出品したものである。1904年以降、国定教科書に修身の象徴として尊徳が取り上げられるようになった。小学唱歌にも二宮金次郎という曲がある。
これらの学校教育や、地方自治における国家の指導に「金次郎」が利用された経緯には、尊徳の実践した自助的な農政をモデルとすることで、自主的に国家に献身・奉公する国民の育成を目的とした統合政策の展開があった。この「金次郎」の政治利用は、山縣有朋を中心とする人脈によって行われており、特に平田東助・岡田良平・一木喜徳郎らによる指導が大きかった。
小学校の校庭などに見られる「金次郎像」は、彼らの政策によって展開された社会環境を前提として、国家の政策論理に同調することで営業活動を行った石材業者や石工らによって広まったとされる。小学校に建てられた「金次郎像」でもっとも古いものは、1924年、愛知県前芝村立前芝高等尋常小学校(現豊橋市立前芝小学校)に建てられたものである。その後、昭和初期に地元民や卒業生の寄付によって各地の小学校に像が多く建てられた。そのとき、大きさが1mとされ、子供たちに1mの長さを実感させるのに一役買ったといわれることがあるが、実際に当時に製作された像はきっかり1mではないことが多い。これは、1940年ごろに量産された特定の像に関する逸話が一人歩きしたものと考えられる。この像が戦後、GHQの指令により廃棄されたといわれることがあるが、二宮尊徳が占領下の1946年に日本銀行券(1円券)の肖像画に採用されていることからも分かるとおり、像の減少と連合軍総司令部は特に関係は無い。戦前の像は銅製のものが多く、これらの多くが第二次世界大戦中の金属供出によって無くなったため、混同されたものと考えられる。石像のものはその後の時代も残った。また、残った台座の上に、新たに銅像やコンクリート像などがつくられることもあった。像のように薪を背負ったまま本を読んで歩いたという事実が確認できないことと、児童が像の真似をすると交通安全上問題があることから、1970年代以降、校舎の立替時などに徐々に撤去され、像の数は減少傾向にある他、「児童の教育方針に合わない」などの理由で、破損しても補修に難色を示す教育委員会もある。岐阜市歴史博物館調べによると、市内の小学校の55.1%に「二宮金次郎像」が存在し(2001年現在)、近隣市町村を含めると、58.5%の小学校に「二宮金次郎像」が存在する。ただしこれは局地的な統計であることに注意する必要がある。栃木県芳賀郡二宮町では、町内の全小中学校に像がある(2004年現在)。また、2003年に小田原駅が改築され橋上化された際、デッキに尊徳の像が新しく立てられた。
また、撤去した像が骨董品として売却されることもある。「金次郎像」が何者かによって持ち去られるという盗難事件もこれまでに全国で数件発生している。持ち去りには建設用機材が必要であるのでプロの犯行と見られる。幸いにして発見され、元の場所に戻すことができたケースもあった。 
 
二宮尊徳2

 

日本人のお手本
日本人の生き方が崩れ社会と人心の荒廃が凄じい今日、想い起こされる人物はかつて日本人の最高の手本であった二宮尊徳である。この人物に代表される日本人本来の生き方が戦後六十余年問疎かにされてきたところに、現在の日本人の苦悩がある。尊徳こそ世界のいかなる偉人と比較して遜色なき、わが国が世界に誇りうる代表的日本人の一人である。
昭和二十年までは尊徳を知らぬ日本人はなかった。戦前の学校教育において、「修身」で最も多く登場した一人である。誠実、正直、親孝行、思いやり、勤勉等日本人のよき国民性を体現した模範として教えられ、全ての小学校に薪を背負って本を読む銅像がおかれていた。
しかし敗戦に伴うアメリカの占領政策によりわが国の誇りある歴史、伝統、人物が否定され、戦後の社会と教育は二宮尊徳を忘却し葬り去ってきた。だがいかに無視してもかくの如き偉人の精神とその貢献を抹殺することは到底不可能であり、日本民族が地上に存在する限り日本人の胸に永遠に生き続ける人物であることは間違いない。
父母を助けて働き続けた至孝の人、今年は尊徳没後百五十年である。
安政三(一八五六)年十月二十日、七十歳で亡くなった。
天明七(一七八七)年七月二十三日、相模国足柄上郡栢山村(現小田原市)に生まれた。父は利右衛門、母はよしの長男で名前は金次郎。
晩年尊徳(たかのり)と名乗るが、農村復興の神様と称えられ歴史上の人物となってからは尊徳と音読みされ今に至っている。
父利右衛門は二町三反の田を有する立派な自作農だった。「楯山の善人」と村人からいわれた底なしの好人物で、他人の困苦を見ると同情して何かを恵与せずにおられなかった。またこの父は読書好きだった。母よしも心のやさしい人で似た者夫婦だった。金次郎はこの父母の性格を一身に受けた。家族はほかに弟が二人いた。
生まれて数年間平穏な生活が続いたが、五つのとき不幸が襲った。
すぐそばを流れる酒匂川の洪水で田畑が石の河原の荒地になった。これより貧苦に陥り、金次郎の困難に満ちた人生が始まる。利右衛門とよしは幼い子を育てつつ懸命に働き農地の復旧に努力した。ところが父は生来体が強健でなく長年の苦闘が心身にこたえて、金次郎が十一の時病気にかかった。病いは一度治ったが翌年再発した。この間金次郎は少年ながら母を助けて一日中働き続けた。昼間は田畑の仕事、夜は縄ないである。
金次郎は父に早くよくなってもらおうと夜遅くまで草鞋を編みそれを売り、毎日わずか一合の酒を買ってきては薬代りに父に進めた。
父は涙を流して喜んだ。金次郎は実に親思いの至孝の少年だった。
よしや金次郎の看病の甲斐あって父はようやく回復したが、その為に使った薬代、治療費が少なくなかった。
利右衛門はやむなく田を売り二両(今の金で約六十万円) の金を作り医者村田道仙に支払おうとした。ところが村田は貧苦に陥っている利右衛門が大金を持参したので不審に思って尋ねた。
「利右衛門さん、お前さんの家は今困窮しているのに、このお金はどうしておこしらえなすった」
「誠に先生のおっしゃる通り私の家は貧窮していますが、たとえ貧しいからといって治療費を払わず治療の御恩に感謝しなかったならば、人の道は立ちません。貧苦といえどもまだ少しばかりの田がありますので、これを売りお金をこしらえ謝礼としたいと存じます。どうかご心配なさらないで下さい」
利右衛門はこういう人だった。村田は利右衛門の言葉に覚えず涙を流した。
「利右衛門さん、私はいま治療代をいただかなくても生活にさしつかえはない。だがお前さんは田を売ってしまって明日からどうして妻子を養育なさるのです。私は病気を直してかえってお前さんの貧窮を増すのを見るに忍びない。何も心配いらないから、このお金をもってすぐに田地を買い戻しなさい」
しかしあくまで義理固い利右衛門は払おうとする。村田は重ねて言った。
「何もそんなに遠慮することはないじゃないか。世の中の貧富は車の回るようなもので、今貧乏でも後になって富まぬとも限らない。お前さんが金持になった時に持って来て下さるなら喜んで頂きましょう。その時までお預けしておくわけだから、何も別に悩むことはない」
村田は「医は仁術」を実践する人だった。利右衛門は再拝三拝し村田の厚意を謝しながら、強いて一両を差し出し残り一両を持ち帰った。
金次郎は父の帰りが遅いので心配して途中まで出迎ると、父は嬉しさを一杯にして村田の情ある言葉を伝え、「これで当分お前たちを養うことが出来る」と言った。
金次郎はこのときのことを一生忘れなかった。後年、桜町復興に成功してから各地より指導を求めてやってきた人々に対し、金次郎はいつも涙を流して、「私どもの養育の為、辛苦敷難を尽せし父母の丹誠(真心)、自然と骨髄に徹し…」と、父母の大恩の無量なることを語った。 
寸暇を惜んで読書に励む
農閑期になると村人の共同作業として、酒匂川の堤防修理が行われる。各家から一人ずつ出るが、父が病気のため十二歳の金次郎が代りに出た。しかしまだ子供だから一人前の仕事が出来ない。これをすまなく思った金次郎は毎晩おそくまで草鞋をあみ何足かたまると翌朝持参して、「私はまだ一人前の仕事が出来ず申訳ありません。どうかこれをお使い下さい」と据供した。
こうして金次郎は朝早くから夜中まで一心に働き続け、父母を助け弟友吉の面倒を見た。利右衛門は回復後、三男富次郎を授かるが、その翌年金次郎が十四歳のとき三たび病いに倒れついに亡くなった。四十八歳だった。貧苦は益々加わった。このままでは四人が飢え死にしてしまうので、よしはやむを得ず赤ん坊の富次郎を縁者に預けた。
ところがよしは毎晩ほとんど眠らず泣いてばかりいた。心配した金次郎がわけを尋ねると、「富坊がいないので乳が張って眠られないのだよ」と涙を流した。富次郎を手放した悲しみで今どうしているかと思うと心配で眠られず毎夜泣き続けたのであった。金次郎もまた母の富次郎を思ってやまぬ慈愛に涙した。
金次郎は母にこう言った。
「お母さん、赤ん坊一人ぐらいどうにかなりますよ。明日から私が山にゆき薪を採って売り、富坊の養育費を稼ぎます。すぐに戻しましょう」
よしの顔は喜びに輝いた。「お前がそういってくれるなら、これからすぐに連れてこよう」
すぐさまよしは真夜中一走りして富次郎を抱いて帰ってきた。
それから金次郎は一層早起きして約五キロある入会地(村人が利用できる共用地)のある山へ毎日二回通い、薪を伐りそれを町へ持ってゆき売った。これまで以上猛然と働き母を助け弟たちの世話をした。母と弟達を思ってやまぬ深い真心の持主が金次郎だった。後年金次郎は親への孝につき、「父母の憂いを以てわが憂いと為し、父母の楽しみを以てわが楽しみと為す。
かくの如きは父子一体なればなり」とのべている。この頃、金次郎の家は極貧だった。正月はいつも土俗大神楽とよばれるものが戸別に回りその年を祝って一曲を舞う。その時百文を払う。
ことわるときは十文出す習わしだが、その金すらなくやむなく雨戸を閉じて一家外出のまねをしなければならなかった。
このような苦境にありながら、金次郎は決して挫けることなく働き続けた。そして寸暇を見つけて勉強したのである。父に似て読書好きだった金次郎にはもって生まれた熱烈な向学心があった。ところが朝から夜中まで働き続ける金次郎にはゆっくり本を読み勉強する時間がほとんどなかった。
そこで山へ薪を探りにゆく途中、本を読んだのである。金次郎が読んだのが儒教の経典である四書の中の「大学」や「論語」であった。
江戸時代の日本人の読み書き能力は世界一で、庶民で文字を読めぬ者はほとんどないが、大学や論語などは一般の百姓には不要とされた。しかし金次郎はこれらの書物を道中、大きな声を出して読んだ。村人は金次郎をからかい、かげで「キ印の金さん」「キ印の金次郎」とよんだ。金次郎は少々頭がおかしい、気が変になったという軽い椰稔である。金次郎はことに大学を好んだが、その中の「天子より庶民に至るまで皆修身を以て本と為す」という一節に最も打たれた。
たとえ身分が異っても人問として生まれた以上、誰もみな修身(立派な人間となるために身を修めること)が必須不可欠ということに深く感銘したのである。この金次郎の向上心の高さ、道を求めてやまぬ心が、道中の読書となったのである。
金次郎につけられたあだ名がほかに二つある。一つが「グルリ一ぺん」で、臼で米をつく時、臼の回りを一ぺんまわるたびにそばの台において書物を少しずつ読んだから。もう一つが「土手坊主」。
田畑を荒地にした酒匂川の土手に立ち水流の動きを見つめ、堤防を直すことを考え続けたから。あだ名を三つも持つ金次郎は並の少年ではなかったのである。 
一家離散の不幸にめげず
金次郎一家に不幸がさらに追い打ちをかけた。十六歳の時、母よしが三十六歳で病死した。
病弱の夫と三人の子供をかかえて苦労し続けたよしは、夫の死後貧苦のどん底に陥った末ついに倒れたのであった。金次郎と弟達の嘆きはこの上なかった。加えてこの年、母の死去直後、酒匂川の洪水がありわずかに残っていた六反余りの田が流失した。不幸の止めであった。
十三の友吉と四つの富次郎は母の実家、金次郎は伯父の下に預けられた。金次郎は二年の間に両親をなくし田畑を失い一家離散という悲惨な境遇にたたきこまれたのである。
こんなひどい目にあえば普通の人間なら、どうして自分ばかりがと亡くなった両親や世の中を恨み自暴自棄となったり、失望落胆の底に沈むところである。しかし金次郎はこれまで自分ら兄弟を養育してくれた両親の大恩に涙して感謝する人間であったから、決して自分の不幸不運を嘆いたり世を呪ったりはしなかった。
金次郎は衣食住の面倒を見てくれる伯父に感謝し、ここでもよく働き夜遅くまで縄ないをした。
そしてそのあと本を開いて勉強した。ところが万兵衛はこれをとがめ、怒り罵った。
「わしはお前を養うのに少なからぬ金をかけているが、お前はまだ子供だから毎日働いてもそれを補うことはできん。お前はそれも考えずに夜不用の本を読み、燈油を費すとは全く恩知らずもいいところだ。人の助けを受けて命をつなぐ身に学問はいらん。すぐやめろ」
金次郎は涙を流して詫びた。金次郎は世話になっている身だから決して伯父にさからわなかった。そこで川べりの空地に菜種をまきそれを育て上げて燈油を得て、今度は伯父も叱るまいと思って本を読んだ。ところがそれでも万兵衛は、「無益な学問をするくらいなら、深夜まで縄をなえ」と激しく叱りつけた。
やむなく金次郎はさらに一刻縄をない、万兵衛が寝静まった頃、行燈を衣で覆い火がもれないようにして読書した。
金次郎は生涯学び続けた。四書などは全部暗誦していた。これほど好学だったが、貧しかった金次郎は師について学んだことはない。家計が豊かになってからも師はなく独学だった。
金次郎は儒教のみならず仏教、そして神道の真髄、奥義を学び尽している。もし学者の道を進めば大学者となるだけの才能があった。金次郎は人格も手腕もそして頭脳においても天成の素質を受けて生まれてきた稀有の人物であった。
やはりこの頃のこと、金次郎は隣村のある寺の観音様にお参りした。するとお坊さんが読経していた。それを終りまで聞いた金次郎はそのお経に感激、心から悦びが沸き上った。僧にお経の名を聞くと「観音経」という。僧は観音経を漢文シナ音の棒読みではなく国音の読み下しを以て読んだので金次郎はよくわかったのである。
金次郎はふところから二百文出しもう一度読経を頼んだ。
観音経とは法華経の中の観世音菩薩普門品経のことで、観世音菩薩(俗に観音様という)が深い慈悲心を以て人々の苦しみを救済することを説くお経である。天性の思いやりと慈悲心の持主である金次郎は初めて日本語読みの観音経をきいて言い知れぬ感銘を覚えたのである。
金次郎はその喜びを相山村善栄寺の和尚に語ったところ、和尚は金次郎を「菩薩の再来か」と驚嘆した。仏教的にいうなら金次郎の一生は衆生済度(苦しむ人々を救い真に幸福にすること)の菩薩の生涯そのものであった。金次郎がもしこの方面に進めば一大宗教家になったであろう。十八歳の時のことである。 
天と地と人の恵みに生かされて
金次郎は伯父萬兵衛のもとで貴重な人生経験を積んだ。中でも金次郎若年時における最も大切な体験が次のものだった。
十七歳のとき田植が終った頃、村のあちこちに拾苗がころがっていた。田植の後は余った苗が出る。捨てられた苗はもう誰の所有でもない。金次郎は捨て苗を拾い集め、かつて用水堀として使われていた不用の古堀のあとを開墾して水田を作り、捨苗を植え、除草をしたんねんに育て上げた。
その結果、一俵(四斗一升、約六十キロ)の米を収穫できた。
わずかだがはじめて自分の努力で一俵の米を得たことに、金次郎は深い喜びとともに大きな悟りに似たものを感得したのである。年少にして両親と田畑財産を失い一家離散の憂日を見た自分、世間的には最も不幸な境遇にあると思われるわが身にも、こうして天と地と人の恩恵がある。村人が捨てた苗があり、太陽始め天の恵みと空地や水という地の恵みにより一俵の米が得られたのであった。
金次郎はこの天と地と人の恵みを天と地と人の徳とよんでいる。すべて人間は天と地と人の徳によって生かされているという深い感動を伴った得難い体験であった。
ここより金次郎は天、地、人の恵みに感謝し、天、地、人の徳に報いることこそ人間の根本の道であることを知るのである。金次郎の生涯を貫く報徳の道はこの体験から出発する。
もう一つは、すべて物事は小さなことから始まり、一歩一歩着実に努力を積み重ねてはじめて大きな成果が得られるということであった。
村人が顧みない不用の捨苗を拾い集め、空地を耕し田植えをし手間暇かけ世話し、時至って豊かな収穫が得られた。金次郎はこれを、「小を積んで大を為す(積小為大)」または「小を積んで大を致す(積小致大)」とよび、「積小為大」が自然の道と感得したのである。
その後の金次郎の人生はこの「積小為大」の道の展開であった。
農閑期はいつも酒匂川の堤普請に出たが、そのときわずかだが労賃が得られる。金次郎はこれをためてそこそこの金額になると、村内の身寄りなき者や極貧者に、二百文、三百文と分ち恵むことを楽しみとした。若年にして人生の不幸をなめ尽した金次郎は、亡き父同様困窮者を見ては心から同情しこうして恵与せずにおられなかった。
自分も両親を失い人に養われる不幸者だが、しかしそれでも自分は伯父の庇護で衣食は足りている。世の中には自分よりもっと不幸な人々がいる。その人達に出来るだけのことをしようという金次郎であった。この慈悲心、同情、思いやりの深さが金次郎の身上であった。 
金次郎の人格を玉成した二十年間の試練
伯父の家に約一年半いた金次郎は、十八歳の春、同村の名主岡部伊助宅に移りここで世話になり働いた。伊助は学問好きの百姓で、近隣の少年を集め学問を授けていた。ある日、金次郎は縁先で立ち聞きしていたが、伊助が書物のむずかしい所を説明できないでいた。そこで金次郎が代って説明してあげた。金次郎の勉強は人知れず進んでいた。
金次郎は心身ともに遅しい青年として成長していった。身長六尺 (一八二センチ)、体重二十四、五貫(九十余キロ)という堂々たる偉丈夫であった。声も大きく後年、過ちをした者を戒しめ叱咤するときの声は雷のごとき大音声で、その場に居合わせた者は誰一人顔を上げることが出来ず慄き震えたという。
金次郎は並はずれた慈悲心とともに百獣の王の如き、不動明王の如き威厳の持主でもあった。
十九歳の時、同村の親戚で名主二宮七右衛門宅に寄食し働いた。この年余暇を利用して自力で米二十俵を収穫している。こうして多少の貯えも出来、一人前の百姓としてやってゆく自信のついた金次郎は二十歳の春二月、悲願である家の再興にとりかかった。
貯蓄していた資金で、田畑を少しずつ買い戻し四年間懸命に働いた。その結果二十四歳のとき一町四反の自作農として再興がなった。当時これだけの田を持てばりっぱな中流農家である。金次郎は徐々に田をふやし三十一歳の時には三町九反を有する村二番目の地主になる。
二十四歳の秋、金次郎は初めて江戸へ出てそれから京都、大阪、奈良、吉野山、金比羅をめぐり、伊勢神宮にお参りした。神宮には三十五歳のとき再び参詣している。江戸時代の庶民の願いは一生一度の伊勢参りだが、再度参拝した金次郎の神宮に対する崇敬心がいかに深かったかがわかる。
一度すたれた家を見事再興した金次郎は栢山村の模範青年であった。金次郎のすぐれた人柄非凡な才覚、勤勉さと実行力は村人の賛嘆の的となり、村の青年たちは金次郎に敬服し慕い寄った。もう「キ印の金さん」と陰口をたたく者は一人もなかった。
金次郎は年少時、数々の辛酸をなめた。しかし金次郎は天地と人への感謝と報恩の心を一日も忘れず、沸々とたぎるやみがたい向上心と求道心をもって、忍耐強く挫けることなく地道に努力を積み重ねた。
五歳から二十代前半までの二十年間の逆境と敷難辛苦が金次郎を磨き上げ、何事にも屈しない強勒な人間を作りあげ、類い稀な人格を玉成したのであった。
それは金次郎がより立派な人間になるために、天が下した試練であったといえよう。
金次郎は人並すぐれた素質をもって生まれたが、もしこの逆境、親書、試練がなかったならば、到底これほどの人物にはなりえなかったであろう。このあとも金次郎にはより厳しい試練が待ち受け、天はなおも鉄槌を下し続け、百錬の鋼鉄のごとき人間に鍛えに鍛え上げたのであった。
それは金次郎が日本史上の偉人として登場する上に不可避の宿命であった。 
 

 

服部家における若党修行
二十六歳のとき金次郎は小田原藩家老服部十郎兵衛の家に、自ら願って若党(武家で下働きする家来、男の召使い)となって住みこんだ。
せっかく堂々たる自作農になったのに一体田畑はどうするのか、百姓がいやになったのだろうか。決してそうではない。
金次郎はもっと本格的に学びたかったのである。百姓として家にいる限り朝から晩まで休みなく働き続ける金次郎には、まとまった勉強、読書の時間がどうしても取れなかった。
そこで田畑は小作人に借し田植から収穫まで全部やって貰い、金次郎は小作料をとって生活すれば家を空けてもかまわない。小作料だけでも十分やれる田畑があった。こうして金次郎は服部家の若党として働くかたわら、勉強し読書に打込み一層修養に努めた。
若党としての主な仕事は、服部十郎兵衛の若い三人の息子の学問、読書の手伝いである。三人の若様は日中、藩校へ通う。金次郎はそのお供をして三人が講堂で講義を聴いている問、講堂の窓の外でこれを聴く。帰宅すると復習の相手をする。三人の学習の手伝いをするだけの学力は金次郎に十分あった。
手伝いが終れば自習である。以後三年間、猛烈に学んだ。わずか三年だが常人の十年分位やった。天性の頭脳の持主であった金次郎は、儒教のみならず仏教、神道についても深く学び、神仏借の教えの根本を究め尽し自家薬籠中のものとした。
金次郎が熱烈な向学心をもって学問したのは、立派な百姓になる為であった。後年の「二宮尊徳」となる日を予想してやったのではない。身分はいかにあれ、人はただ「修身を本と為す」という大学の一句に従い、日々自己を高め上げて行ったのである。
服部家では当主十郎兵衛とその息子たちから信頼され、使用人、召使いたちも金次郎を親愛した。やがて金次郎は彼らから借金を申しこまれるまでになる。服部家の家計は火の車で使用人らは低い給料で曹生活に苦しんでいた。そこで百姓ながら裕福な金次郎に頼ってきた。金次郎は召使いの下男、下女だけではなく、当主の長男にまで金を貸してやり、各々の家計のやりくりの相談相手にもなってやった。 
服部家の家政立直し
二十九歳になった金次郎は奉公をやめ自宅に戻った。
ところが三十二歳のとき、服部十郎兵衛より家政の再建を依頼されるのである。
服部家は千二百石の禄高だが、家計は長らく赤字続きで数百両の借金をかかえでいた。これまで色々手をつくしてみたものの立直しに失敗してきた。服部は三年間わが家で奉公した金次郎の人物に惚れこんだ。あらゆる辛苦を経て一家を再興した金次郎を身近に見て、この男ならばわが家政の再建が出来るに相違ないと信じたのであった。思いもよらぬ頼みに金次郎は固辞してこうのべた。
「これは容易なことではありません。私は百姓として仕事に尽し廃家を興したのは、もとより百姓の道を勤めたからであります。服部家は家老として千二百石という高い家禄を頂戴しています。にもかかわらずこの多大な借金を生じ衰貧を極めているのは、武士として家を治める道を失っているからではありませぬか。
百姓として武士の家を興すとは、私の知るところではございません。固くおことわり致します」 服部は金次郎の道理にかなった言葉に打たれた。これまで思っていた以上に賢明な人物であることを思い知らされた服部は、益々金次郎に嘆願してやまなかった。
やむなく金次郎は承知し、以後四年間再び服部家に住みこみ、家政の立直しに当った。金次郎は服部に対して、以後金次郎が全権を以て家政をとりはからい、服部以下全使用人が金次郎の指示に従うこと、並びに一定の生活費の中で食事は飯と汁だけ、衣服はこれから作るのは全て木綿、無用のことに一切金を使わずの三条件の厳守を求めた。
それから四年間、金次郎が全力を尽した結果、数百両の借金を払うのみならず、三百両の貯えまで出来た。金次郎はその金を服部夫妻の前にさし出してこうのべた。
「五年前、御家老様の依頼辞し難くこれを受けて以来、昼夜心を尽してやって参りましたが借金を皆済、三百両の貯えが出来ました。これひとえに御家老様が私をご信任下さったゆえ、この困難を乗りこえることが出来ました。
三百両のうち百両はお手元において非常にお備え下さい。百両はこれまで敷苦してご努力下さったご褒美として、奥方様におあげ下さい。もう百両は御家老様がご随意にお使い下さい」
服部夫妻の喜びはたとえようもなかった。服部は金次郎に心から頭を下げ深く感謝しつつこうのべた。
「すでに顛覆せんとしていたわが家は、お前の丹誠(真心)によって今全く復興した。何をもってその恩に報いたらよいかわからぬ。この余金はわが金に非ず、金次郎の誠心によってもたらされたものだ。
感謝報恩の為残らずお前に差し上げたいと思うが、今お前が私どもに将来のことを思って教戒(教えいましめること)してくれたので二百両だけ頂くことにして、せめてこの百両(約三千万円)はどうか受け取りお前の家の為につかってくれ」
金次郎は服部の厚意をうけて百両を頂き引き下がった後、すべての召使をよびこうのべた。
「皆さん、4年間、約束を守って私とともに辛苦をしのいでくれました。賞するに余りあります。多大の借金は全て支払いました。その上百両が余りました。御家老様は私の愚誠を賞してこれを与えられましたが、私が四年間勤めたのは一身の為ではありませんからその報いを受けるわけにゆきません。皆さんの勤苦を心から貧してこの百両をわけ与えようと思います。
これは私が授けるのではありません。ご主人の賜です。謹んでお受け下さい」
召使いたちは驚きかつ喜び、金次郎に手を合わせた。世のため人のため誠を尽して生きる金次郎の美しく立派な行為であった。 
妻との別れ
金次郎は三十一歳の時、隣村堀之内村の中島禰之右衛門の娘きのと結婚した。きのは十九歳だった。
金次郎は結婚後一年足らずで新妻を家に残して服部家に出向いたのである。
時々は帰ってくるがほとんど家にいないのだから、きのにとってはさびしくつらいことだった。服部家の家政再建に没頭せざるを得なかった金次郎だったが、きのにすれば新婚早々家をあけっ放しにする夫のなすことを十分理解できず、心安らかならず不満を抱いたのは無理なかった。武家の妻ならば辛抱もできようが、百姓の新妻にとりそれは過酷な忍耐だったのである。四年間も不在の金次郎との生活に耐えられなくなったきのはついに離縁を申し出、結婚二年後二人は離別した。生まれたばかりの長男徳太郎がすぐ亡くなったのもきのの心を一層離れさせた。
金次郎はやむを得ぬ事情とはいえ結婚生活を犠牲にし、きのを失望させ離縁という不幸な目に合わせたことを深く悔いすまなく思った。金次郎の生涯における唯一の蝦といえよう。金次郎ほどの偉人にして、離婚という挫折、失敗を味わったのである。この体験は金次郎をより内省的にさせる砥石になった。 
名君との出会い
一度廃れた家を再興し、小田原藩家老服部十郎兵衛の家政を立直した金次郎に誰よりも注目し、その人物が並々ではないことを見抜いたのが小田原藩主大久保忠実である。
有力な譜代大名たる大久保は大阪城代、京都所司代を経て文政元年(一人一人)老中に就任、やがて老中首座(今日でいうと内閣総理大臣)になったほどの当時幕閣きっての賢明な人物であった。大久保は老中になった年、藩内の善行者十四名を召し出して表彰したがその中の一人が金次郎である。
三十二歳の時だが、金次郎は深く感激した。
その金次郎が服部家の家政立直しを見事やりとげたのを見た大久保は、金次郎に藩の財政再建をやらせてみようと思い立ったのである。
いかに金次郎の人物を高く評価したか思いやられる。そこで重臣たちにはかった。
すると彼らは皆激しく反対して言った。
「小田原藩士がいかに衰えたといっても、一百姓の指揮下に立ったならどうして領民に対する権威を保てましょう。私どもは代々御恩を受け民百姓を治めることを任務とする武士であります。教えを下民より聞きその命令指揮に従うなどということは絶対できません。殿様が強いて二宮を上に立てるというのであれば私どもは死を以てお応えし、先祖に対して謝罪するほかございません」
この時代は厳然たる士農工商の身分秩序があったから、百姓を藩財政再建の最高責任者にするということはありうべからざることであり、武士として到底耐え難いことであった。大久保は封建的身分秩序を無視してまで金次郎を登用せんと切望したのである。大久保が金次郎をいかに深く認めていたかは、後年語った次の言葉でも明らかである。
「今は泰平の世なればこそ私は主君として彼に臨んでいるが、これがもし乱世であったならば全く位置は転倒して、彼こそ実に三軍を叱咤する英雄となったであろう」
これが当時わが国第一の政治家たる大久保息真の金次郎観である。もし戦国乱世の時代であったなら、金次郎こそ天下を統一しうる英雄であり、自分の如きは立場が逆転、彼の部下であったろうというのだ。金次郎の卓越した人物を見抜いた大久保の眼識はさすがだが、家臣らには到底金次郎の倖さがわかるはずもない。
そこで大久保は分家である宇津家の所領桜町の再建を金次郎にやらせようとした。これに成功すれば家臣も金次郎の手腕を認め、藩財政再建の大役を任せることに反対しないだろうと考えたのである。そこで金次郎に桜町再建の命を下した。しかし金次郎はいかに尊敬してやまぬ藩主の命とはいえ、思いもよらぬことだから固辞したのは当然である。
「私のごとき身分卑しき百姓がどうしてかくごとき大事業を為すことが出来ましょう。私は農家に生まれ極貧の中で育ち、ただ農具を手にして田畑を耕し、先祖の余徳のお蔭でようやく家を再興したにすぎません。一百姓の私にどうして国を興し民を安んずるという大きな仕事が出来ましょう。お殿様のご命令がいかに重いといえども、私のごとき非力の者がお受けするわけに参りません」
しかし大久保はあきらめず、再び三たび懇請した。金次郎は天と地ほどの身分の開きがあるにもかかわらず、こうしてお殿様から再三声をかけられる人智のはからいを超えた自己の不可思議な運命を、つくづく思わずにはおられなかった。大久保の決意が不動であることを知った金次郎は、一度現地に赴き桜町領の現状をよく調査した上、遂に文政五年(一八二二)謹んでこれを引受けた。時に三十六歳である。金次郎はかくまで自分を認め深く信じてやまぬ大久保忠真に対し、自己の全てを捧げて応えんとしたのである。 
金次郎と妻の不退転の覚悟
下野国(栃木県)芳賀都にある桜町(現二宮町)は元は小田原語領の一部で飛地であった。
元禄期の藩主大久保忠増が弟の数倍に桜町四千石を与え分家とした。教信はやがて旗本字津家を嗣ぎ、字津氏を名乗る。この当時の当主は宇津教成である。
桜町は物井、横田、東沼の三村から成り、元禄の最盛期は実収四千石、年貢は三千俵を収め、戸数は四百五十余軒、人口約二千人だった。ところが段々衰退してゆき、米の収穫は千石、宇津家に収められる年貢は九百俵にまで激減、戸数は三分の一の百四十余軒、人口七百余人となり、田畑の三分の二が荒野と化した。
これまで宇津家は無論、本家の小田原藩も手を貸して復興につとめてきたがことごとく失敗し、この百年間にわたる衰退、荒廃は今やいかんともしがたい状態となっていた。従って字津氏の家計は全く崩壊、もはや旗本としての体面を保ち得ず幕府への出勤も出来ず、本家の江戸藩邸内で寄食するという無惨な有様であった。
金次郎が大久保忠真に約束したことは、十年間で二千石まで回復することであった。宇津家に対しては十年間毎年必ず年貢千五俵、畑収入百四十五両を収めることを約束するとともに、それ以上の田畑による収入は一切宇津家に納入せず、全て桜町復興の資金として使うことを承諾させた。
金次郎が藩主の命を受けて桜町復興の任に当ることは、もとより一大決意を要した。金次郎は一度つぶれた家を立派に再興したが、桜町の復興の為にはせっかく立直したわが家を捨て背水の陣を布いてかからねば、とてもこの至難の事業をなしとげることはできない。当然家族に犠牲を強いることになるが、服部家の家計立直しの際、妻と離縁した苦い体験を再び繰返してはならなかった。
金次郎は三十四歳の時、飯泉村の岡田峯右衛門の娘波子と再婚している。波子はその頃服部家に奉公していた。服部十郎兵衛は金次郎が自家に住みこみ家政立直し中に離婚したことを心より気の毒に思い、後妻として波子をすすめたのである。波子はまだ十六歳だったが、一身を捧げて服部家の為に尽力する金次郎に尊敬の念を抱いていたから、かなり年が離れていたがこの人ならばと結婚したのである。その翌々年の桜町行の任命であった。新婚間もない年若い妻が果して心よく納得するだろうか。先妻きのの二の舞になりはしまいか。金次郎は思い悩んだが、自分の固い決意をのべ同意を求めた。
「賢明なるお殿様は非力の私をお認め下さり、桜町を復興し領民を安んぜよと命ぜられた。私は幾度もお断りしたがお殿様はお許し下さらない。よってこのたびこの命を受けることにした。かくのごとき大事業は普通のやり方では決して成功はおぼつかない。それゆえ一たん立直した二宮の家を廃して、一身を投げうって努力するしかない。しかしこれは婦女子に理解できることではないかもしれぬ。お前が私とともに千辛万苦を厭わず、お殿様のご命令をやりとげようという心があるなら、どうか一緒に桜町に行ってくれ。もし普通の家の女房の棟に平穏に生活したいと願うなら今直ちに離縁するほかない。どうかよく考えてくれ」
波子は答えた。
「これは意外なお言葉です。女は一度嫁いだら再び帰る道はありません。嫁いだときから私の心はすでに決まっています。あなたが水火の中に入るならば私も入ります。ましてあなたはお殿様の命を受けて大事業をなさろうとしております。それは私にとりましても光栄です。私もまた一心をささげあなたと辛苦をともに致します」
十八歳の妻の覚悟はまことに立派であった。
これまでの心配を一度に吹き飛ばされた金次郎は、心から悦び妻に感謝した。波子は世の為人の為に生きんとする金次郎を深く敬愛し、生涯内助の功を尽した賢夫人であった。
かくして名君大久保息真との運命的出会いが、金次郎の生涯を決した。金次郎は「一家を廃して万家を興す」決意で、妻子とともにこの難事業に臨んだ。金次郎はこの時もっていた二町人反の田の半分と家屋、家財道具を売り払い七十八両を得たがこれを全て桜町復興資金として投入する。 
金次郎が妻と三つになる禰太郎を伴い故郷を立ったのが、文政六年(一八二三)三月である。
栢山村の人々約八十人が涙を流して別れを惜しみ見送ってくれた。以後金次郎はついに故郷に帰ることはなかった。 
 

 

毎日の村内巡回
桜町赴任に当り金次郎の身分は名主格で、給与として年五石(米十一俵)と二人扶持(九俵)及び特別手当として年五十俵が支給された。桜町復興という重任を担う者の待遇としては甚だ手薄であった。
金次郎の生活は質素そのものであった。衣類は木綿、食事は飯と汁のほかせいぜい一采。四時起床、十二時就寝、その間働き続けた。この生活がなくなる時まで続く。金次郎は年七十俵の給与を受け約八十両(約二千四百万円)の蓄えがあるのだから、身分相応の収入に見合ったゆとりある生活が可能であったが、極力自分の生活をきりつめ余ったお金を桜町復興につぎこんだのである。
こうして桜町再建に全てを献げた金次郎の生活が始まった。四時に起きすぐ朝食をとり、桜町三ケ村を巡回するのが一日の仕事の始まりであった。百四十余軒を一軒一軒訪問し、その家について全てのことを知ることにつとめたのである。家族一人一人の人柄、働きぶり、その家の暮しぶり、経済状態、借金状態、屋根、台所、便所の状態等一軒残らず把握するとともに、村人のあらゆる相談ごと、悩みごとを聴き懇切に指導した。また田畑、用水、道路、橋、山林等はいうまでもなく三ケ村の隅々まで知り尽した。この全村巡回は毎日休みなく続けられた。
金次郎自身は生活をつつましくしたが、桜町陣屋(毎日つとめる役所兼自宅)で働くまわりの人達には心を配り、毎月一、十五、二十八の三日はご馳走を出し十分飲ませた。その日の宴会で金次郎はまず八合入りのどんぶりに酒をつがせ一気に飲みほす。続いて二杯目も一口でのむ。そのあとどんぶりを回してみなに一口ずつのませ一巡すると、三杯日をつがせまた一気にのみ、「みな好きにやれ」といって立上り自室に戻る。そのあと無礼講である。二升四合をたちどころに飲んで平然たる大酒豪だった。好物だったが金次郎はこの三日以外は大酒をつつしんだ。 
極貧者の救済と善行者の表彰
金次郎はいかにして桜町復興の事業を行ったか。その方針は次の五つである。
(一)極貧者の救済
(二)善行者の表彰
(三)荒地開墾、用水路・道路・橋の修復
(四)神社、仏寺の修復
(五)無利息金の貸付
まず(一) について。
桜町のほとんどの家が長年の衰退により貧窮生活を送っていたが、その中で特に困窮甚しい極貧者に対して当座の救いの手をさしのべ米や金を与えた。また金次郎は屋根がひどく破れ便所がこわれている家はすぐ直してやった。雨降りがし便所がこわれている状態では、人々は益々気が滅入り働く意欲をなくしてしまうから、金次郎はことに各家のこの二つを気遣い憂いを取り除いたのである。
次に金次郎が念入りに実施したのが善行者の表彰である。百年の衰退の結果、桜町の人心は荒廃し怠惰の風が全村を蔽っていた。誠実と勤労の精神を取戻し村人の生活習慣を改善せんとする金次郎は、善行者、篤行者、精業者の表彰を行うことにし、この実施に当り一工夫も二工夫もした。善行、篤行、精業につき具体的項目をあげて少しでも人の手本となる善き行いをした人々を洩らさずはめたたえ金品を与えたのである。
表彰の種類は、耕作出精、荒地開墾、田畑一段と見事、病人への田植、耕作手伝い、除雪出精、手習い子供の世話等々である。これらの善行者を選ぶに金次郎は村人の投票(入札という) によって行った。一位から三位まで選び、一位は金一両(約三十万円)に
鍬一枚、二位は鎌二丁、三位は鎌一丁が与えられた。
金次郎は三ケ村のすべての人々の勤惰を知り抜いているから、自分で選ぶことも出来た。しかしそうせず村人の投票によって選ばせたところに彼のすぐれたやり方があった。金次郎が選べば必ずえこひいきしているという不平批判が出てくるが、投票にすれば誰も文句をいえなかった。
こうした表彰により、正直、勤勉に働く者がもれなく認められほめられることになる。勤労意欲を失ない惰風極まり日中から酒や賭事に浸る悪習に染まって久しい桜町であったが、まじめに働いたなら称賛されて金品まで与えられるという悦びがこうして生まれ、村の雰囲気が徐々に変ってゆくのである。金次郎はこの表彰を桜町復興に当った十五年間、毎年やり続けた。
正直者が馬鹿を見ず、善行者が称賛され金品まで与えられ、人々が勤労意欲を取戻し、誠実と勤勉の尊さを知り、村々に清新な空気が流れこむことにより、復興事業を推し進めてゆく。
これが金次郎やり方であったが、この方法は桜町以後全ての村々の復興において踏襲されてゆくのである。 
荒地開墾
金次郎は農閑期、村民の総力をあげて最も主要な仕事である荒地開墾に取り組んだ。
同時に用水路の修復、新たな用水路作り、冷水抜き、湿地の土かえ、乾地の掘り下げ、道路・橋の修復等に尽力した。
金次郎は農業指導者としてそのすぐれた手腕を存分に発揮して、以後十年間心血を注ぎ肝胆を砕いた。金次郎は農作業の一切、百姓仕事の全てにつき誰よりもすぐれた才腕と経験を持っていた。また計数にきわめて明るく、ソロバンをはじけばいかなる計算でも一度やるだけで決して間違わなかった。
金次郎はまた用水路、堰作り、土手作り等の土木工事の名人でもあった。今でいうと文科理工科双方とも傑出した才能の持主であったのである。
荒地開墾の為に金次郎は他郷の人々をどんどん使った。村人だけでは人手が足りないからである。一時に百人二百人もの他郷人を使うことも少なくなかったが、金次郎はそれら一人一人の働きぶり、勤惰をよく見ており精勤者には褒美を与えた。
ある時、一役夫がことさら目立って精を出していた。人々はきっと金次郎が褒美を出すと思った。しかし金次郎は少しも褒めぬどころか、この者を呼び出し声高く叱りつけた。「お前は私を欺こうとして見えすいた働きをしているが不届きな奴だ。私がここに来るとお前は力を極めて人一倍働いて見せているが、私がここを去れば手を抜くに違いない。およそ人の力には限りがある。一日中そのようにしたならば、お前は一日で倒れたこと疑いない。お前はきっと陰日向をするに決まっている。そうでないというなら、私が終日そばについているからやって見せろ。どうだ、出来るか」
本心を見抜かれたその男は地に伏して何もいうことができない。金次郎は厳しく言い放った。
「お前のような不正直者があっては、骨がなまけるもとになる。人をだまして事を成そうとする者を許すことはできぬ。すみやかに去れ。二度と来るな」
こうして金次郎が叱咤する時の表情は誰も顔を上げて見られないほど恐ろしく、その声は雷のようであった。男は地べたに額をすりつけ震え上った。その時、名主がとりなして男に深く謝罪させ慈悲を請うたので金次郎は許してやった。
金次郎の目をごまかすことの出来る者はなかった。金次郎は決してやさしいだけの善人ではなかった。正邪の念きわめて強く不正不義を許さなかった。人生の辛酸を嘗めつくし人心の裏を知り抜いていたから、いかなる人間も一瞥してその善悪を見抜く鋭い眼識を持っていた。
容易にだまされるお人好しではなく、天性の慈悲心、明智とともにこの峻厳さをあわせ持っていた。身分は百姓だったが、生来の天分は天下に号令するに足る英雄のそれであったのである。 
再建は心田の開拓から
一老役夫への褒賞
一方このとき六十代の老人が毎日根気よく木の根を掘っていた。人々が休憩する時もやっている。少しは休んだ方がよいとまわりがいっても、「いやいや若い人は休んでも一日の働きは余るほど出来ますけれども、私は年老い力が衰えていますから、若い人と同じ様に休んでいては何ほどのことも出来ません」とこつこつ掘り続けた。
桜町陣屋の一下役が「あの老人が木の根にばかりかかっているのは、他の人々と一緒に働くのがいやだからであろう。一日の働きは他人の三分一にも及ばない。先生(金次郎)はなぜこんな無益な老人を追い払わないのだろう」と陰口をたたいた。
やがて開墾が終了した時、金次郎はこの老人を陣屋に呼んでたずねた。
「お前はどこの国の者か」「私は常陸国笠間領の百姓でございます。家は貧乏ですが倅が成人しましたので、百姓仕事は倅に任せて少しでも貧乏を補わんがためにこの地に働きに参りました。旦那様は私のような老人もお捨てにならず、若い人と同様の賃金を下さってまことに有難い幸せでございます」と老人は心から感謝した。すると金次郎は、「お前は衆人に抜きんでて丹誠(真心をつくすこと)したから、いささか褒美としてこれを与える」と言って十五両(約四百五十万円)を授けた。
老人は驚いて固辞した。
「人並の働きがかなわぬ私が同様の貸金を頂くのさえ勿体ないのに、どうしてこのようなご褒美を頂くことができましょうか。身のおき所もありません」
金次郎はやさしく言った。
「お前はその様に辞退するに及ばない。私は多くの役夫を使用するにも、一人一人の働きをよく見ている。お前の数ヶ月の働きぶりを見るに、少しも自分の手柄を現わそうとしない。他人はみな起こし易い所を選んで少しでも多く開いた所を見せようとするけれども、お前はひとり他人の嫌う木の根を掘って力を尽して怠らない。人が休んでもお前は休まない。
きけば老人のため労力少ないがゆえ休まぬと。その功は目に見えないようだけれども、その労苦は他に倍している。その為にこの開田は非常に速く出来上った。これは全くお前の誠実の力だ。これをすら褒めないで諸人と同様に見たならば、将来どうして土功を挙げることが出来ようか。お前は家が貧しいために他国に出て働くと言いながら、今与えるところの金をも辞退しようとする。
その心の清らかで正直なことは他人の及ぶところではない。今与える金は天がお前の誠実をあわれみはめて下し賜るものと思って有難く頂き、帰郷して貧苦を免れ老いを養う助けともなれば私もまたそれを喜ぶのだ」
老人は涙を流し、合掌再拝して十五両の金を押し戴いた。金次郎の目にも涙が光った。
これが金次郎の人の使い方であった。
人一倍誠実、正直に勤め励む者を十分に認め破格の褒美を与えることをいささかも惜しまなかった。
戦後の日本において金次郎のことをコツコツ金をためるだけの勤倹貯蓄一点張りの情薔家、ケチくさい人間の様に誤解した人もあるがそうではない。世のため人のためそしてこの様な立派な誠実な人間のために使うべく、金次郎は自らの生活を質素にして貯蓄したのである。 
神社・仏寺の修復
金次郎が桜町再建において最初に手を下したことの一つが、神社・仏寺の修復である。
いまの人間ならこう言いそうである。桜町が衰退し人々が生活に苦しんでいる時、神社や仏寺の修復を先にやるとは迂愚も甚しい。それは桜町再建が成った後やることではないか、順序が道ではないかと。
金次郎の考えはこうだ。
桜町が衰退したのは、その原因として必ず人心の荒廃がある。人々が人間としての正しい生き方を忘れ、報恩感謝の心を失ったことが桜町衰退の根因であるとしたのである。それゆえ桜町再建に当りまず皇祖、神々、土地の氏神、祖先の祭祀を営む神社、仏寺に対して報恩感謝の真心、誠意を表すことが版本であり、そのため荒れはてた神社、仏寺の修復を第一に行ったのである。
こうしたやり方に金次郎の金次郎たる所以がある。少年時、天、地、人の恵みに生かされている自分を知り、報恩と感謝こそ人間の道の根本であることを感得した金次郎にとり、神社、仏寺の修復こそ最初に為さねばならぬことであった。
桜町百年の衰退は金次郎をして「惰風極まり如何ともすべき様なし」といわしめるまで、人心は荒み怠惰の悪風全村を蔽い、ほとんど亡村といってよい惨状であった。こうした村人に人の人たる道の根本に目覚めさせる為に、金次郎はまずこれを行ったのである。
桜町再建の指導者たる金次郎のこの神仏に対する姿勢こそ時代の違いをこえて大切である。
これは一国においても同様である。国家の指導者が皇祖、神々、護国の英霊に対して衷心より感謝と報恩の誠を捧げる姿勢を明かにすることが、他の何事にも増して重要であることをさし示している。金次郎は改革、再建、復興の任に当る指導者が堅持すべき基本的姿勢がいかにあるべきかを今日に教えているといえよう。 
 

 

無利息金の貸付
桜町三ケ村のほとんどの百姓は借金に苦しんでいたが、金次郎が人々を借金苦から救い上げるとともに自力で立上らせるために考えついたのが無利息金の貸付であった。農民は高利貸から借金したが、当時の利息は大体年二割である。
もし五両借りて五年間で支払う場合、利息は五両、元利合計十両を支払わねばならない。この借金地獄から百姓を救済しない限り、家々は立直りえない。金次郎は赴任に当り、藩が村人に下賜する補助金を謝絶している。現代人の目から見るなら、金次郎は何と馬鹿なことをするのか、なぜそれを貰い村人に与えないのか、愚劣も甚だしいと思うことだろう。
しかしここに金次郎の深慮があった。金次郎は桜町衰退の歴史を調べ抜いていた。これまで小田原藩から派遣された再建担当者はみな藩より多額の補助金を受け、これを赴任時各家に与えた。ところが補助金を貰い続けても百姓達の生活は一向によくならず、桜町は再建されず益々窮乏していった。
補助金を貰った時は借金の一部も払いひととき生活は楽になるものの、しかしその金もすぐ使い果し人々は一層貧窮していった。つまり補助金は桜町の人々を救えなかったのである。
なぜだろうか。
補助金はただ金である。この補助金というただ金は結局人から自立心を奪い、依頼心を増し、なまけ心と乞食根性をつけさせ人々を堕落させただけであったのである。人が他人からただ金を貰うことは乞食の所行である。自尊心のある人間の為すべきことではなかった。つまり金次郎は福助金が人々に依存心を増長させ人々から勤労意欲を失わせ人々を堕落せしめる元凶と見たのであった。金次郎は人々に依頼心を起こさせず自ら奮発して立上らせるにはどうしたらよいかを考えた。
そこで金次郎は利息のつかぬ金を村人に貸したのである。自ら立上る手助けとして無利息金を貸す。たとえ生活に苦しむ人であっても、極貧者でない限りただ金を与えない。借りた金、受けた恩は必ず返すという義務と責任を負わすことこそ、人の人たる道であることを教えんとし、これにより人々の精神と生活を立直すことが可能と考えた。そしてこうしたやり方こそ人々に対する真の慈悲と思った。
金次郎はこの無利息金をいかに準備したのか。それが田畑家財を売った約八十両の金である。これに日々の生活をきりつめ蓄えた金を継ぎ足していった。この無利息金はやがて報徳金とよばれるが、全て金次郎が粒々辛苦してたくわえた彼自身の金だがこれを桜町再建の為に使った。最盛期、金次郎は五千両(十五億円)もの報徳金を運用し村々、人々を救った。
村人はこの無利息金の貸与に干天に慈雨を仰ぐ思いがした。もう高利貸から借りる必要はなかった。金次郎は人々を高利貸からの借金地獄と補助金による堕落から救い上げるとともに、人々が誠実、勤勉に働き自力で立上る心と報恩感謝の念を取戻すことにかくの如く骨を折ったのである。
更に金次郎は貸付にあたり、人々に対し借金を返したあと余力があれば、御恩返しとして幾分かの金を添えるのが人としての道であり義務であることを教えた。五両を五年かりた場合、一両つけ足して六両を支払う。
人々は金次郎の指導に悦んで服した。また一両を払えないものは米の一俵とか野菜を持参した。これらの金、米等は無論全て報徳金に繰りこまれた。報徳金は多ければ多いほど人々を救うことができるのである。こうして金次郎は無利息金貸付の実施により人々を物心両面から救い、人々に報徳の心を植えつけたのである。 
復興事業の精神−心田の荒蕪を開くこと
金次郎の復興事業の根本は結局人々の心を変えること、精神を立直すことが第一であった。
一村を救済し再建するには何よりも人間の道の根本を知らせ人心を教化し、自力復興の精神を植えつけることにあると信じた。
村またはこれを大きくした国の復興、あるいは経済の再建、または改革は、人心の立直し、人心の教化なしにはありえないことを誰よりも深く理解していたのが金次郎である。人心の教化つまり教育と経済の再建・復興は不可分にして一体であり、道徳という土台なくして経済の再建、発展はありえない。村や藩、そして国家あるいは経済の真の再建は、人々の心を立直す心の改革が根本となることを教えているのが金次郎の復興事業であった。金次郎はかく力説する。
「わが本願は人々の心の田の荒井を開拓し、天授の善種(よき心の種)、仁義礼智を培養して善種を収穫しまた蒔返し蒔返して国家に善種を蒔き弘めるにあり。わが道は人々の心の荒蕪を開くを本意とす。心の荒蕪一人開くる時は地の荒蕪は何万町あるも憂うるに足らざるなり」 
偉大な魂は大きな試練を超えて、さらに向上発達します。三月十七日より毎日水をのむだけの断食修行が始め、四月六日、二十一日目の満願の日、いかなる反対者に対しても怒らず憎まず怨まず、許し包容し、一切を自己の責任とする高い悟りの境地についに達します。動機に私心はまったくありません。
「自己の病いや繁栄の為ではありません。野州 (下野国)芳賀郡桜町の復興と人々の救済の為です。桜町に来てすでに七年、着々実行すれども人心いまだこれを理解せず障害少なくありません。そこで私は、天地神明にわが誠が通じるまでは死すとも食せず、桜町の民を救うことができなければ我が身を猛火に投ずる覚悟をして不動尊に祈願したいと思います」
以下のことを悟ります
1 「忠勤の弊」  
忠勤とは誠の心で勤めることである。たとえ誠の心をもって勤めても、自分は桜町と村民の為にこの上ない善いことをこんなに懸命にやっているのにという自負心、自己を誇る心、自ら恃む心が少しでもあると、それは人々に対する真の忠信(誠、真心)にはならないという意味である。
この心があると反対者を強く非難し憎む心が出てくるのである。金次郎は極めて心正しい人間だったから邪心を持つ不正直、不誠実の人間を強く批判し許すことが出来なかった。
しかしこの相手を打つ心が反対派をして反発させてきた。
2 「慈愛の弊」
金次郎は自分ほど村民に慈愛を以て接している者はないという自負心があった。しかしそれは思い上がりであった。こうした高ぶった心、思い上りがあやまちのもとであったことに気づく。
3 「一円仁」「万物一円相」「一円融合」
いかなる反対者に対しても怒らず憎まず怨まず、許し包容し、一切を自己の責任とする高い悟りの境地で、彼は以下のようにも表現しています。
「己が身をうちすてて見よそのあとは1つのほかにあるものはなし」
「己が身を打ちすてて見よそのあとはみんな一つの心なりけり」
私は、人間の意識が発達すると、モナドあるいはインデビデュアリティになり、 発達するインデビデュアリティは、やがて個々のインデビデュアリティを総括する意識する主体というものになる。
このような、向上、進化、発達、による私という意識の拡大は究極的には、すべてが、私であるという意識する主体になる。 
私は頭で考えているだけですが、二宮尊徳は、これを、体験していると推定します。
天才ともいえるトッププロゴルファーほど練習するとのことですが、偉い人の修行は、その動機も含めて、偉いし、また、得る結果も物凄いものであると考えます。 
反対派の抵抗、妨害
大事業には必ず困難がつきまとう。桜町復興に自己の全てを捧げて尽力する金次郎に大半の村民がつき従ったが、一部がそっぽを向き抵抗し妨害した。
彼らの心の内はこうであった。桜町は百年来衰退の一途を辿り、今や再建は絶対不可能である。これまで小田原藩から多くの者が派遣されてきたが悉く失敗、みな数年で逃げ帰った。今度は百姓上りの金次郎がやって来たが成功するはずがない。失敗確実の再建事業に協力したところで、骨折り損のくたびれ儲けに決まっている。
反対派は自分さえよければという自己中心的な者と、怠惰と安逸を求める者である。彼らは誠実と勤勉さが欠けているから、金次郎の真面目なやり方、精勤さにとてもついてゆけない。
補助金をもってこなかったことも癖にさわった。朝早くから夜遅くまで働き続けることなど馬鹿々々しくてしかたがないのである。自分の家族さえ食べてゆければあとは好きに遊んで過したいという連中だった。その日暮しで一年先のことも考えない彼らは、十年後の桜町の再生を目指す金次郎の高遠な理想と願いを到底理解しえないのである。
彼らは金次郎が田畑の境界を正そうとして、水帳(田畑の図面) の提出を求めるとなくなったといって出さない。村人の共同作業である道路改修を命ずると、道路を作っても米や麦もとれないと言って出てこない。荒地開墾においては、自分の田畑さえ手間が足りないのに新しく開田しては益々手不足で困るという。金次郎がいかに情理を尽して説得しても応じなかった。金次郎は桜町の村民だけではとても足りないので、越後、加賀から農民を招き、土地、家屋、農具を与え開墾させた。すると反対派は他国からきた農民を「亡民」といやしめいやがらせをし、迫害した。
この一部の村民の抵抗に加えて、金次郎を悩まし続けたのが上役の妨害であった。
桜町陣屋の責任者は勤番というが、その主席と補佐役の二人が金次郎の上司であり小田原藩から派遣されていた。金次郎は桜町復興事業の主任ではあるが、百姓出の悲しさ、無能な上役がついていた。二人とも金次郎の人物と桜町再建にかけた深い思いを理解しないのみならず、「百姓出の金次郎がもし成功したなら、我ら武士の面目が潰れる」と思って、何かにつけ足を引っ張って反対した。村民への政令が二途に出るという有様である。 
最悪の上役の赴任
金次郎はこの上役の無理解と妨害に四年間苦しんだ。五年目になり二人の勤番が解かれほっとしたところ、六年目の文政十年(一八二七)十二月、豊田正作が勤番として赴任した。この男が前任者よりさらにひどい最悪の上司であった。小田原藩はなぜよりによってこのような人物を送りこんだのか。それは藩上層部に金次郎の桜町復興事業の進展を喜ばぬ者が大勢おり、彼らとしては金次郎が成功して藩の財政再建の主任となることだけは、何としても阻止せねばならなかったからである。
豊田は公然と金次郎に反対し、村民に金次郎の命をきくことは許さぬ、自分の命に従うべし、そうせねば厳罰を下すと威し、口を極めて金次郎を罵り嘲った。金次郎は言葉を尽して説得したがどうにもならなった。豊田が赴任した六年日暮から七年日、金次郎は復興事業の最難関にぶつかったのである。金次郎はこう嘆息した。
「小田原藩ではもてあまし者を送りこみ、私をして感化させようとするのであろうか。もし私の下役として来るならば、私は彼を導くことはむつかしくないが、私の上役として来るのだからどうしようもない。彼は私を目下に見て事業を妨げ、百姓たちもまた彼の言に従いこぞって復興を妨害する。彼と反対派の百姓を矯正しょうとすれば益々日を要し、私の復興事業はついに失敗に終ってしまう」
そこで金次郎はやむをえず不本意ながら夫人の波子に命じ、酒肴を十分ととのえ豊田をご馳走攻めにした。そのとき夫人にこう言わしめた。
「あなた様はこの地にこられてより村の為に毎日ご苦労をなされているから、せめて一杯お飲み頂き日頃の労苦をいやして下さいと金次郎が私に命じました。」
酒好きな豊田は数日間酒浸りですごし、しばらく口を出さなかった。金次郎は表からは諌言し、裏からこうまでして努力した。金次郎らしからぬ権道まで使ってみたが結局失敗し、豊田の妨害はやまなかった。
金次郎の復興事業は前任者や反対派の抵抗があったものの次第に成果を上げ、文政九、十年(五、六年目) の米の収穫は大きく増加し、余剰米(字津家に納める年貢の余り)が各々千俵も出ていたのである。にもかかわらず豊田がやってきて、七年目金次郎は抜き差しならぬ窮地に陥ったのである。あたかもこの年四十二歳の厄年であった。 
 

 

断食祈願
八年目を迎えた文政十二年(一八二九)正月始め、金次郎は江戸へ出て大久保忠実と桜町領主津教成に新年の挨拶をした。毎年の恒例である。
このとき桜町の村役人である名主らが同行した。その後川崎大師にお参りした金次郎は一行と別れた。
ところが二十日がすぎても金次郎は戻らなかった。名主らはすぐ江戸の小田原藩邸に問い合わせてみたが皆目足取りがつかめず、桜町は大騒ぎとなった。
金次郎は故郷の弟を訪れた。次弟友吉は伯父萬兵衛の本家を嗣ぎ立派な百姓になっていた。
そのあと箱根から伊豆を歩き温泉宿を転々として、三月半ばすぎ千葉の成田不動にたどりついた。この二ケ月間、金次郎は悩みに悩み考えに考えた。どうして一部の反対派はかくも抵抗妨害をやめないのだろう。わが誠心誠意がいまだ至らざる為だろうか。桜町再建のため私を捨て身命を捧げている努力が成就しないのはいかなるわけか。そもそも自分はこの様な大任に当るべき人間としてふさわしくないのではなかろうか。
為すべきことはすべて尽したけれども、もう人力ではいかんともならぬ絶体絶命の立場に追いやられた金次郎は、成田不動において断食祈願を決行したのである。成田山新勝寺の住職は何の為の祈願かを問うと、金次郎はこう答えた。「自己の病いや繁栄の為ではありません。野州 (下野国)芳賀郡桜町の復興と人々の救済の為です。桜町に来てすでに七年、着々実行すれども人心いまだこれを理解せず障害少なくありません。そこで私は、天地神明にわが誠が通じるまでは死すとも食せず、桜町の民を救うことができなければ我が身を猛火に投ずる覚悟をして不動尊に祈願したいと思います」
こうして三月十七日より毎日水をのむだけの断食修行が始まった。一日数回冷水をかぶる。
朝夕は本堂で行われる護魔行にでる。それに不動尊の前での読経と祈りである。それは命がけの祈願であり修行であった。金次郎が不動尊に祈ったのが次の七つの誓願である。
「禍いを転じて福と為し凶を転じて吉と為し、借財変じて無借と為し、荒地変じて開田と為し、瘡地変じて沃土と為し、衰貧変じて官有と為し、困窮変じて安楽と為し、一切の人民悪む所を除き一切人民の好む所を悉く之を与えよ」
私なき聖なる祈りであった。
人々から苦しみを取り除き楽を与えんとする観世音菩薩の慈悲の祈りそのものであった。少年時、観音経を聴いて感動した金次郎は観世音菩薩の化身、権化であるかのようにひたすら祈り続けたのである。 
深い反省と大悟
金次郎は日々己を深く省みたがその結果こう思い至るのである。
自分は桜町復興と村民救済のため全てを捧げ誠意の限りを尽してきたにもかかわらず、一部の者は自分の心を理解せず反対、妨害してきた。己れを罵倒し抵抗する者に対して、なぜ自分のこの気拝がわからないのかと許し難く思い強く非難する気拝が金次郎の心に生じたのは自然である。しかしここに自分の大きな間違いがあったことに気づいた。金次郎はこれを「忠勤の弊」と呼んでいる。
金次郎はこう記している。「忠勤を尽くしてその弊に(弊害)を知らざれば、忠臣(誠、真心I)に至らず、」「忠勤を尽くして至善(この上なき善)と思うものは忠信に至らず」
忠勤とは誠の心で勤めることである。たとえ誠の心をもって勤めても、自分は桜町と村民の為にこの上ない善いことをこんなに懸命にやっているのにという自負心、自己を誇る心、自ら恃む心が少しでもあると、それは人々に対する真の忠信(誠、真心)にはならないという意味である。
この心があると反対者を強く非難し憎む心が出てくるのである。金次郎は極めて心正しい人間だったから邪心を持つ不正直、不誠実の人間を強く批判し許すことが出来なかった。
しかしこの相手を打つ心が反対派をして反発させてきたことに気づくのである。金次郎はいう。
「打つ心あれば打たるる世の中よ打たぬ心に打たるるはなし」
またこう記している。
「慈愛を尽してその弊あるを知らざれば慈愛に至らず」
慈愛の場合も同じであった。金次郎は自分ほど村民に慈愛を以て接している者はないという自負心があった。しかしそれは思い上がりであった。こうした高ぶった心、思い上りがあやまちのもとであったことに気づくのである。
そして四月六日、二十一日目の満願の日、いかなる反対者に対しても怒らず憎まず怨まず、許し包容し、一切を自己の責任とする高い悟りの境地についに達するのである。それはすぐれた宗教者、高徳の大悟と全く同様であった。金次郎はこの自他の対立を超えた自他一体の心を、「一円仁」「万物一円相」「一円融合」という言葉で表現している。又こうも言っている。
「己が身をうちすてて見よそのあとは1つのほかにあるものはなし」
「己が身を打ちすてて見よそのあとはみんな一つの心なりけり」 
桜町復興成る
一方、桜町の人々は金次郎が上役と反対派の執拗な妨害に対してついにさじを投げ堪忍袋の緒を切り復興を断念、桜町を見捨て出て行ってしまったと思った。金次郎が一ケ月たっても二ケ月たっても帰ってこないのをみて、憂慮心痛していた村民は落胆し絶望のどん底にたたきこまれ親を失った子のように嘆き悲しんだ。
金次郎が行方不明になって、彼が桜町にとりいかにかけがえのない存在であるか身に沁みて知らされたのである。彼らは金次郎を唯一の希望の光として仰ぎ、「二宮様に従ってゆくなら百年荒廃した桜町はきっと救われるに違いない」と信じてやってきたのである。その金次郎が桜町を捨てた。金次郎をそうさせた上役と反対派に対して村民の激しい怒りと非難が集中した。
ここに奇蹟が起こった。反対派は村人の憤怒に戦慄するとともにはじめて自分らのあやまちに気づき、前非を悔い心を入れ変えたのである。
また元凶豊田正作は三月二十一日首になり江戸に召還された。
村人が血眼になって探し回った末、金次郎は成田不動にいることがわかった。村民代表は恰皮満願の日、成田を訪れて「桜町三村の人々全て先生の不在を心から憂え、今後万事先生の指揮に違わず勉励致す決意です。先生どうか村人を憐み下さりご帰還下さいませ」と懇願した。金次郎の桜町の人々を切に思う大慈大悲の神願、命懸けの至誠がついに桜町全ての人々の心を変えたのである。金次郎が帰村したとき、村人はみな涙を流して悦び迎えた。
上役が去り(この後は上役なし)反対派が一人もいなくなった八年目より十年目までの三年間、村民は一丸となって尽力、復興は急速に進行、十年目の天保二年(一八三一) ついに桜町の再建が成就した。金次郎は約束の二千石を上回る三千石まで回復した。時に四十五歳である。
約束の十年は終ったが、村民がなお指導を強く懇願したので金次郎は承諾し、さらに五年続けた。十五年目、天保七年(一八三六)桜町領は本来の四千石に回復した。
従って三千俵の年貢が可能であったが、金次郎は千俵減じ以後二千俵を宇津家に納めることを約束させた。三千俵にするならば宇津家はまた気がゆるみ元のもくあみになるからである。残りの一千俵は貯蓄し非常に備えさせた。
天保の飢饉のとき、これが為桜町に餓死者が出なかった。桜町の村民にとり三千俵の年貢が二千俵に下ったことは少なからぬ減税であり大きな恵みであった。十五年間に蓄えた米は八千五百俵、金は二百両であった。造営した建物は二社二寺、民家九十六軒。桜町の三分の二が新しく家を建てることができたのである。こうして桜町の人々は百年の衰退、荒廃から救われたのである。桜町復興に全身全霊を捧げ至誠の限りを尽し、村々人々を真に救済した金次郎の事業ほど尊いものはほかにあまりない。 
岸右衛門の俄悔更生
金次郎が桜町復興を成就しえたのは、人心の立直しに成功したからである。金次郎により救われ生まれ変った一人が反対派の頭、岸右衛門であった。岸はかなりの田畑、財産を有した大百姓である。才知はあったが我意の強い利己主義者で、−共同作業その他協力を一切拒絶し金次郎を非難罵倒し、余暇は三舷をひき謡曲をやり勝手放題の限りを尽していた。ところが金次郎が失踪し成田で断食祈願を行った年の春、ようやく自分の犯した過ちに気づき反省、金次郎に深く詫びた。
以後、岸は共同作業に出て汗を流して働いた。しかし村人は岸の改心を信用しなかった。桜町の再建がもはや確実となり岸は村民全体の糾弾を恐れて、一身の安全を願う利己心からうわべだけとりつくろっていると見られたのである。
それほど岸従来の所行は村人の反感を買っていたのであった。岸は憤怒に耐えず金次郎に、
「先生、私が心を入れかえて一心につとめているのに、人々はどうして信じてくれないのでしょうか」と訴えた。金次郎はこう言った。
「お前は前非を改め桜町の為に尽力はしているが、しかし村民はどうしてお前の心の底を知ることが出来よう。人が困難とするところは私欲を去ることにある。お前はこれまで私欲の固りだった。だからお前が私欲を去らぬ限り人々は信用しないのだ」
「お教えに従い私欲を捨てようと思いますが、どうすればよいのでしょうか」
「お前がこれまで貯えてきた金銀財産を出し窮民救助の用にせよ。また田畑ことごとく売り払い桜町の為に出せ。私欲を去り私財を譲り村人の為に力を尽すことこそ人の為す大なる善事だ。人の人たる道、己れを棄てて人を恵むより尊きものはない。
しかるにお前のこれまでの所行は唯私利私欲のほか他念がなかった。だからたとえいかに共同作業で働いて見せようが、村人はお前を信じはしないのだ。己れを利せんとして他を顧みないのは禽獣の憩だ。人と生まれて一生動物と行いを等しくすることはまことに悲しむべきことではないか。今私の言葉に従い禽獣の行いを去り人道のこの上なき善を行うならば、お前の私欲の汚れがとれ清浄に帰し、人々もこれを見てお前の行いに感じ、お前を信ずることは疑いない。お前はこれが出来るか」
これまでの私利私欲の振舞が人の道に反する獣の行いとの言葉は、岸の骨身を鋭く刺した。今こそ本当の人間に生まれ変りたいと思った。
しかしその為には住む家を除いて田畑ほか全財産を村の為に出し素裸の無一文にならねばならない。いくら何でもそれは出来ることではない。
岸はありありと苦問の表情を浮かべ返答が出来なかった。そこで金次郎は言った。
「お前が決心できない理由は、もしそうすれば一切を失い家族を養うことができなくなることを心配するからではないか。
お前がひたすらこの善道を踏まんとして一家田畑ともになげうち非常の行いを断行するならば、どうして私はお前と家族の飢え死にするのを黙って見ていようか。お前にはお前の道があり、私には私の道がある。桜町三村の興廃は私の一身にかかっている。
怠け者が己れの家を失うに至る場合でも、私は彼らを教育しその家を再興せしめその生活を安らかにしてきた。いわんや今お前が一大決心をし、上は主君のため下は桜町の人々のため自己の財産をなげうたんとするにおいて、かくの如き立派な行いをする者をして路頭に立たし飢えさせるならば、桜町復興の任を担う私の面目はなくなる。私はお前が躊躇遽巡し私欲を去ることが出来ず、生涯禽獣同様に空しく朽ち果てることを嘆くのみだ」
金次郎の哀憐に満ちた情理ある諭しに、岸は意を決して断然実行を誓った。岸は帰宅するや老母と妻子にその決心を告げた。するとみな驚いて泣き悲しみ、岸に翻意を迫った。岸は心ぐらつきどうにもならなくなり、とても自分ではいえず人をして実行不能を金次郎に伝えた。金次郎は嘆息して言った。
「これ岸の一心にありて婦女子にあるにあらざるなり。岸の心、目前の欲に掩われるるにあるのみ。ああ小人はもとより君子の行いを踏むことはできない。岸にこれを教えたのは私の誤りだった」
この言葉をきいた岸は今度こそ心を定め、田畑財産全てをさし出したのである。金次郎は直ちに当座の米、生活費とともに荒地数町を岸に与え、村人全員を使ってこれを開墾させた。
その秋百俵もの収穫があった。新しく開田された所は数年問無年貢となる。岸は七、八年間毎年無年貢で百俵の収入が入った。それは約六町の田をもつ豪農の収入である。岸は桜町の為に全てをさし出したが、やがて以前に倍する財産をもつに至った。以後岸は金次郎の教えの忠実な信奉者となり村の為に尽した。これが金次郎の人心教化のやり方であった。 
青木村復興の指導
桜町復興を成し遂げた四十代後半から亡くなるまでの二十年余間、金次郎は農村復興の神様と仰がれ、数多くの村あるいは藩を救済し立直らせた。金次郎がいかにして村々、人々、藩を救済、再建したか桜町以外の代表的なものをのべてゆこう。
桜町の南三里(十二キロ)に青木村(茨城県真壁都大和村青木)があった。石高は八百五十石、旗本川副勝三郎の所領である。元禄期は百三十戸であったが今は三十九戸と衰退していた。
こうなった原因の一つは港漑用水の不便である。青木村は桜川を堰き止めてその水を田に引いたが、その堰が大雨のたびに壊れ田水が滑れてしまうのであった。堰のある所の川底と両岸は細かい砂ばかりで大きな岩石を礎として堰を作ってもすぐ壊れた。その結果、田が荒廃し多くの百姓が村を離れた。残った百姓は年貢が重くなるばかりで、やがて人々はやる気と希望を失い怠惰な生活に陥り、荒れ果てた田畑は茅やよしが生い茂る原野となり廃村寸前のところまで追いこまれたのである。
ここにおいて青木村名主館野勘右衛門が村人と相談した上、領主川副勝三郎の直書を持参し金次郎に再建の指導を懇願したのである。それが桜町復興が成った天保二年(一八三一) の時である。しかし事業をあと五年延長した金次郎に暇はなかったから依頼を断った。館野は必死になり再三懇願した。そこで金次郎は言った。
「あなた方の村が衰廃極ったのは、ただ用水がなくなり農業ができなかったからではない。用水がないなら田を畑に変え雑穀を得て生計を立てればよいではないか。人命を養うのはひとり米だけではない。しかるに用水が乏しいことを口実にして良田を荒廃させ、怠惰な生活をし借金づけになり一時しのぎをしている。これこそ家々が困窮し大半の百姓が離散した原因ではないか。用水がないといって田を荒らしているが、それならば田を畑にかえてやれば畑の利益は田に優る。田は一年に一度しか収穫できないが、畑ならば二回とれる、それをしないのはあなた方が労苦を厭い怠惰を旨としているからだ。私のやり方は質素節約を以て無駄を省き余剰を生み出し、それをもって人々の苦難を救い、それぞれが刻苦精励し生涯善行を積み悪行を為さずよく働いて、一家の安寧を全うするところにある。このようにするならば貧しい村も必ず豊かになり、滅亡寸前の村も必ず再興できる。だがあなた方の村は私のやり方の反対をしている。その困窮はかわいそうだが自業自得だ。とても私のやれるところではないので、再びこないでほしい」 
 

 

安請合をしなかった金次郎
金次郎の厳しい言葉に館野は涙を流して反省し、村民一同心を入れかえ敷昔に耐えて粉骨砕身することを誓い、重ねて指導を嘆願した。
しかし金次郎はおいそれとは承諾せず更に言った。
「怠惰と無頼の習慣が長らく続いているから、今一時の約束をしたところでどうして長く保つことができよう。人は困苦に陥った時はむつかしく苦しい仕事も厭わずするが、少し楽になるとたちまちなまけ心をおこし、旧来の悪業が再びおこるものだ。せっかく復興の大仕事を始めても、後でやめるくらいならはじめからしない方がよい」
それでも館野らは泣訴してやまなかった。
そこで金次郎は言った。
「そもそも衰村を再興することは甚だ困難な仕事だ。あなた方は目前の簡単なことを何一つせずして、より困難な仕事をしようとするのはおかしいではないか。今すぐ出来る簡単なことを示そう。青木村の田畑は荒れ果て茅がぼうぼう生い茂り、これまで冬になると茅が焼けて大火事となり民家が焼けたことがたびたびという。茅も刈らず家を焼き他国に離散するとは何と患かなことか。一村再興などという前にまず火事の本たる茅を刈れ。刈り取ったならそれを私が買い取ろう。」
館野らははじめて日が覚める思いがして直ちに帰村、村人あげて三日間で茅を全て刈り取った。金次郎はそれを高く買い取ってやった。そのあと金次郎は屋根が破れ雨もりする家を全て修復してやった。続いて神社と仏寺を修復して館野らにこういった。
「村中、社寺民屋ことごとく屋板をふきかえもう雨もりの憂いはなく、これからは火災を免れ安心して生活できる。私の復興方法の如きはあなたらの行いうることではないからそれはやめなさい」
しかし館野ら村民は復興指導を懇願してやまない。そこで金次郎はこう言った。
「村中の田ことごとく荒廃しているが、これを開かずして何を以て生活しえよう。みんなはこれを開墾できるかどうか。もし村中が憤発し開墾したならば、私もまた力を尽して決して壊れない堅固な堰を作り十分な田水を供給しよう」
金次郎は長年月怠惰に浸りきった青木村の人々が、真に心を変え自力で立上る心をもたない限り、再建は不可能であることをこうして一つ一つ教えた。金次郎は農村復興において決して安請合をしなかった。 
極楽普請
以後二、三ケ月間、村民はそれまで荒放題にしていた各自の田の開墾に全力を奮いほぼ元通りにした。青木村にやってきた金次郎はこれをみて言った。
「各自の荒地開墾が速かに出来たのは、村人がみな奮起してつとめたからだ。前日の怠惰の村民も今日の勤勉な村民も同じ人問だ。一人の人間の中に勤勉な心と怠惰な心がある。どちらでもやろうと思えばできる。善悪、貧富、盛衰、存亡みなそうだ。ゆえに繁栄の道を行えば必ず富み、貧窮の道に入れば必ず貧乏になる。従来の怠惰を反省し、この様に勤勉にやるならば、青木村の再興は決して困難ではない。約束通り堰を築き、十分の用水をこの開田に注ぎ入れよう」
村人は欣喜雀躍した。
天保四年(一八三三)三月、金次郎は桜町より大工、職人らを引き連れてやって来、堰作りを開始した。まず桜川の水流、水勢をよく観察、そのあと山から岩石を掘り出し村民に運ばせた。人夫小屋を建て多数の人夫を雇った。いつ大雨で出水するか知れないので短期間で迅速に工事をする必要があった。金次郎は人夫の労賃をはずみ一日金二朱(一両の八分の一、約四万円弱)を与えた。また通常の食事のほかに酒好きには酒、下戸には餅を用意し十分に飲み食いさせた。
二度と壊れぬ堅固な堰をいかにして作り上げるかを考え抜いた金次郎は、大工に川幅に応じた茅ぶきの屋根をつくらせた。人々は金次郎がなぜこんなものをつくらせるのか全く見当がつかなかった。金次郎は屋根が出来上るとそれを川に浮かべ、両端を縄で両岸の杭に結びつけ固定させてからこう命じた。
「誰か屋根の上に登り、縄を切り屋根を水中に落とせ」
しかし屋板もろとも人も沈んでしまうことを恐れて、誰一人上ろうとしない。金次郎は「お前らが出来ないなら私がやる」と、屋根に飛び上り小刀をふるって数ヶ所の縄を切った。屋根はどっと水中に落ちた。下半身は水中に浸ったが、金次郎は屋上に立ったまま何事もなかった。
そのあと金次郎は両岸に準備した大量の岩石と木を屋根の上に投げ入れさせた。茅ぶきの屋根は川底にしっかり沈み、その上に木石がおおいかぶった。こうして水の流れを弱めたあと、金次郎の設計に基づく堰が築かれた。
金次郎が茅の屋根を沈めたのは、川底と両岸の細かい砂を閉塞するとともに水をせきとめ、いかに大雨があっても堰が破壊されない様にする為であった。金次郎は民家の茅の屋根が雨を防ぐのをみて、この茅の屋根を川底に沈めるならば流水を防ぐことが出来ると考えたのだ。
全く前人未踏の堰作りであった。こうして堅固比類なき堰が出来上り、以後数十年いかなる洪水にもびくともしなかった。
普通五十日かかるところを十八日でやりとげた。使った人夫は千三百人。彼らは高い労賃のほかに酒と餅というおまけがついたから喜び勇んで働いた。人々はこれを「青木村の極楽普請」とよんだ。金次郎は堰作りにおいても名人であった。かくして青木村は百年来の悩みから解放され、以後復興の一途を辿った。 
烏山の飢饉を救う
天保年間は全国的な大飢饉に見舞われたが、金次郎は天保七、八年(一八三六〜七)鳥山藩と小田原藩の飢饉を救った。まず鳥山藩からのべよう。
鳥山藩主大久保恩威は小田原藩主大久保息真の親戚で、領地は下野国那須都鳥山(栃木県那須都鳥山町)ほか四万右である。
この飢饉の際、鳥山藩主の菩捷寺天性寺住職円応は苦しむ人々を何とか救わんと焦慮していたが、そのとき人から金次郎のことを聞き及んだ。円応は藩家老菅谷八郎衛門と相談の上、金次郎に救いを求めて十里(四十キロ)ほど離れた桜町を訪れた。ところが金次郎は会おうとせず、取次の者にこう言わせた。
「僧侶には僧侶の道がある。私の行う所は廃村を起して民百姓を安らかにすることにある。僧侶に会って話をする暇など少しもないから速かにお帰りなさい」
円応は取次にこう応えた。
「私は僧侶ですがその志すところは人々を幸せにすることにあります。いま鳥山の民に飢渇が迫っているのを見るに忍びませんので、はるかに先生の高徳を聞きこうして参りまして教えを請う次第であります。もし先生がお許し下さらないならば、鳥山の民は餓死してしまうのを黙って見ていることは出来ません。どうか憐みを垂れて頂きとうございます」
これを聞いた金次郎は憤然として言う。
「彼の僧が何を言うか。私には責任を以て果すべき職務がある。鳥山の民の安否はその藩主の職分であって、私の関するところではない。
しかるに僧侶の身としてここに推参して、強いて面会を求め私の仕事の邪魔をするとは何事か」 だが円応は引下らない。
「私の進退は鳥山の民の命にかかっております。先生がもし面会をお許し下さらないなら、私はここを去らず鳥山の民に先立ちここで餓死します」
こうして円応は陣屋の芝原に坐り動こうとはしなかった。金次郎は怒って言った。
「彼の僧は強いて面会を求め、あまつさえわが陣屋の門前で餓死せんとはいまだ類のない曲者だ。すぐ連れてこい。いましめてやる」 
金次郎の説く道理
金次郎は鋭く円応に言った。
「貴僧は道を知らぬ。世の中にはそれぞれ職分があって互いに奪い合ってはならない。領主は領主の道があり、臣下には臣下の道があり、僧には僧の道がある。
仏者にして国君の道を行わんとすることは正しい道といえようか。
民を治め荒廃した農村を立直し、民百姓の飢渇を救うのは人君の職分ではないか。人君がこの職分を放棄して他に何の職務があろうか。しかるにいま鳥山の君臣がこれを憂うる心なく坐して人民の飢渇をみるか、あるいはこれを救うか、もとより貴僧の興るべきことではない。
興るべからざることをもって己れの任となし、他国まで来て私に相談しようというのは道を違えたことだ。
その志は不善ではないが、その行いは大いに道を失っている。誠に民の飢渇を嘆くならば、
なぜ藩主に告げて民を救済しないのだ。告げるといえども藩主愚にして民を救済しえないならばこれまた運命だ。いかんとも出来ない。
貴僧はせめて仏に祈り、わが門前に飢えんとする所行を自分の寺にて行うならば貴僧の職分を遂げたことになろう。かくの如く本来貴僧が行うべき道をなさず、己れの任務に非ざることを企てそれが仏意に叶うというが、どうしてそれが仏の道を知るといえるのか。まだいうことがあればすみやかに答えよ」
それは部屋一杯に響き渡る大音声であった。
金次郎の言葉はまことに道理であった。金次郎は民の苦しみを救わんとする円応の気拝は十分わかったが、そのやり方が当を得ず道にはずれていることを指摘したのである。円応は金次郎の言に強く打たれ己れの非を悟り、頭を垂れて一言も返すことが出来なかった。
金次郎は「言うことがなければ速かに帰るべし。私は忙しく貴僧の相手をしている暇はない」と促した。
玄関を出た円応は金次郎の居室に向って深々と礼をして立ち去ったが、鳥山に戻り長大息してこう言った。
「ああ思わざりき。今の世にかくのごとき大人物あらんとは。私は幸いにしてこの人に会うことが出来た。民の飢渇を救おうとする心のせくあまり、わが藩主を不仁の君に陥らせるところであった。この罪ほど大きいものはない。二宮先生の教えを聴き厳しい訓戒を聞かなかったならば、私の過ちを知ることは出来なかった」
円応は直ちに家老の菅谷にこれを伝えた。菅谷もまた深く感動した。その後菅谷は自ら金次郎を尋ねたが、厳しく教え諭された。その結果、鳥山藩主から小田原藩主へ金次郎の指導を正式に依頗した。かくして金次郎はこの年十二月から、飢民の救済にかかった。翌年五月新麦が出来る迄の半年間、金次郎は桜町から千六百俵もの米を送り続け飢えに苦しむ人々を救い、ついに一人の餓死者も出さなかった。 
小田原藩の救済
同じ頃、小田原藩の民も飢渇に苦しんでいた。
苦慮した藩主大久保息真は金次郎に救済を依頼した。天保七年十二月、金次郎は江戸の小田原藩邸に出向くやいなや、藩主よりこれまで功宙を賞され麻裃を授けられた。ところが金次郎はこれを持参した側近の臣に対して憤然として言った。
「私にこの礼服を賜りましたが、私には不用のものです。どうしてこれを受けることが出来ましょうか。返上致します」
その臣は「何たる言葉か、臣の道を知らぬのか」と怒った。
金次郎は励声一番こうのべた。
「臣の道を知らないわけではありません。殿様が君の道をお知りにならないのです。いま数万の領民は餓死に瀕しています。主君自らこれを救うことが出来ず、蓮か遠い桜町にいる私を呼び救済の任を命ぜられました。私思いますに、殿様は私が来るや民を救済する方法を問われ、直ちに救済用の米穀を下さると思っておりましたのに、あにはからんやこの礼服を賜らんとは。私はこれを寸断して飢民に与えましょうか。
領民はこの物を食べて命を全うすることが出来ましょうか。かつ私にこの礼服を着せて何になりましょうか。餓死寸前の民を救おうとするに当り、昼夜を分たず奔走してわずかの時間でも救助の道に遅れることを恐れています。どうしてこの服を着て飢渇の民を救うことができましょうか。それゆえこの礼服は不用です。無益の賜物を受けることは思いもよりません。速かに返上して下さい」
側近の臣は益々怒ってそれを藩主に告げた。すると大久保は言った。
「鳴呼、賢なるかな、二宮。その言、古今の金言なり。われ甚だ過てり。その物を与うるなかれ」
このあと大久保は金次郎を呼び出し、しかるべき禄位を与えんとした。だが、それを察した金次郎は取次の者にこういって謝絶した。
「私に何の用があるというのです。ただ速かに小田原に徒かんとするのみ。しかるに今私を呼び出すのは私に恩賞を下さる為ではありませんか。私の任はいま数万の領民を飢餓から救うことです。しかるに餓死寸前の領民をおき、禄位の賞を受けるにしのびません。たとえ君命たりとも私は参りません。もし私に禄を与えんとされるなら、私に千石を下さい。この千石で飢民を救いたいと思います」
返事をきいた大久保は、「二宮の言、全くその通りである。まず位禄の命は下すことをやめて後日としよう。今わが手元金千両(千石の米は千両の値)を二宮に与え飢民救助の費用にあてよ。また藩の米倉を開き領民を救うべし」と命じた。 
 

 

米倉を開かせる
金次郎は天保八年(一八三八)二月、藩主のお手元金千両及び桜町復興の為に運用してきた報徳金の内四千両を持って、すぐさま小田原に駆けつけた。
金次郎は役人に藩主の命令を伝え、直ちに米倉を開くことを要請した。ところが彼らは未だ江戸藩邸より正式の命令が届かず、勝手に問いでは罪を免かれずと理屈をこねて応じなかった。救い難い役人根性に義憤を発した金次郎は雷声を轟かせた。
「いま幾万の飢民が餓死寸前に至っております。民の困苦と悲嘆は計りしれません。わが君は病苦を忘れて日夜心痛され私に救済を命ぜられ、救助が遅れることを嘆いておられます。しかるに皆様方は領民を安泰にすることを職務とし、上は主君の心を安んじ下は万民の辛苦を除き藩をして永く憂えなからしめることを任務とするのではありませぬか。にもかかわらず民を救わんとする心なくわが君の憂慮をも省みず、平時の形式にとらわれくだらぬことを言って日時を費しております。そんなことをしてもし多くの餓死者が出るならば、何をもって主君に忠義を尽したことになりましょうか。たとえ私が君命を受けてこの地に至らなくても、皆様方はすみやかに救済の道を講じ、一人たりとも餓死藩国を守り政を執る者の任務ではありませぬか。もしあとでお咎めがあったなら、潔く罪に服すというのが真の忠誠ではありませぬか。いわんや私が君命を伝えて米倉を開くことを請うているのに、尚これを疑って江戸に伺いを立てんとしています。そんなことをしていればいよいよ救助が遅れ、領民の過半が餓死してしまうのは必至です。それでもなお議論をするというのなら、決定するまで各々方は断じて食べてはなりません。飢民を救助せんとするに飽食して議論することは、許されることではありません。私もまた断食しましょう」 
金次郎のこの有無を言わせぬ断固たる諌言により、ようやく米倉は開かれた。金次郎は直ちに回村に出て村々の状況を把握、無難、中難、極難に分け、極難、中難の村に救済米を与えた。
また藩主から下された千両の金は領内全三百七ケ村に分配された。さらに報徳金四千両を希望に応じて貸与した。
その結果困窮甚しかった百六十ケ村が救済された。救済米は三千三百俵に逢した。こうして小田原藩はついに一人の餓死者も出さずにすんだ。領民は領内を東奔西走する金次郎の後姿に両手を合わせ、「生神様」と仰いだのであった。 
大久保忠真の死と小田原追放
ところが金次郎が必死の救済活動をしていた同年三月九日、かねて病床に臥していた大久保息真が亡くなるのである。知らせをきいた金次郎は天を仰いで働果した。金次郎を深く認め信頼し親愛してやまなかった唯一人の人物の死に金次郎の悲嘆はこの上なかった。
「ああわが道既にここに窮まれり。賢明なるお殿様が上にいまし私を認めて下さり、農村の復興と民の生活を安泰にする道を行わしめた。
命を受けてより十数年、千辛万苦を尽してきたのは何の為であったろうか。すべてこの明君の至仁至愛のお心を広め万民にその恩恵を蒙らせることにあった。しかしついにその仕事が半ばに至らず、お殿様はお亡くなりになった。これからは誰とともに民百姓を安んずることができられないのだ」
身も心もないほど嘆き悲しむが、金次郎はやがて己れを取り戻した。
「ああ憂心嘆息が度を過ぎてしまい、飢民救助の道を怠り、一人でも餓死者が出るなら、あの世のお殿様の嘆きはいかばかりであろう。一刻も早く亡きお殿様の仁愛の心にもとづく恩恵を人々に施し救民を救うのみ」
大久保の本願は藩財政の再建を金次郎にさせることであった。金次郎もまたその負託に応えるつもりであった。大久保は亡くなる直前こう語っていた。
「領内の民が奢侈に流れ困窮に及び、わずか一年の飢饉で民は飢渇に苦しんでいる。こうなったのは民の罪に非ず、領主の過ちである。
数年来これを一変して領民の憂いを除き永久に安泰の道を開こうとしたが、拙い自分はそれが出来なかった。
ところが幸いなことに、二宮金次郎なる者が領内から出た。この者は才徳抜群なのでこれを挙用するなら必ずわが志は達せられること疑いなしと思い、群臣にはかったが皆反対した。
そこでやむを得ず、分家の桜町復興の任を与えた。私が思った通り、金次郎は見事にこれをなしとげた。その事業は古の偉人といえどもかなうまい。金次郎もまた私の心を体し、小田原の民を安んじ私の心労を休めんと願っている。時を待って大いに彼を挙げて任用し、私の志を遂げさせんと願い今日に至った。
しかるにその事を果せずして私の命は尽きようとしている。末期の遺憾はただこの一事である」
結局、忠実死後、小田原藩は金次郎を登用せぬのみならず、やがて小田原領内への立入りを禁じ追放処分にした。金次郎は飢饉救済後、村民のたっての要望で領内七十二ケ村で復興事業を行っていたがそれも中止となった。金次郎は愛すべき母国に容れられなかった。二宮金次郎というわが国史上稀有の偉才を真に理解しえたのは、亡き主君だけであったのである。 
川崎屋孫右衛門の場合では
1 六十年前の天明の大飢饉の時に、多くの米麦を高く売りつけ暴利を食って家を富ました。
2 これが因となって、打ち壊しの一番大きな被害を受け、代官所へ引っ立てられ牢獄にぶちこまれ、川崎屋の家はほとんど焼失するという果となって報われた。
3 家破れ余財焼亡し、なお残っている五百両(一億五千万円)ほどを大磯の人々に出すべし。一毫も惜しむべからずとの二宮尊徳の指導にしたがって 孫右衛門はこれを実行した。
4 大磯の人々は驚博した。人々は孫右衛門の怨みを忘れて徳を以て報いんとする態度に漸愧し、川崎屋への積年の怨みと憤怒の念を消し去り彼をほめ称えた。
5 数千万人を粛清し極めつけの悪行を行ったスターリン、文化大革命と大躍進で数千万人を餓死させ最高度の悪行を行った毛沢東が、寿命をまっとうし、ベッドの上で最高権力を保持したまま、大往生し、いまでも英雄として神のごとく崇められているといったケースもあります。
6 この世の因がこの世での果となって応報するのが法則なら、とてもわかりやすく、悪いことをする人は激減し、良いことをする人は激増するでしょう。
7 現実は前世、前々世の因が今世に応報したり、今世の因が来世、来々世に応報するケースが大部分です。
8 ところが認識性能が限定された通常の人間は、斜眼帯をされた馬のように、現世のみ明確に理解できるように設計されています。
9 このような極めて巧みな工夫により、多くの人間は、因果応報の法則の存在を明確に悟れず、短期的利益追求の様々な愚かな言動を繰り返し、人間社会、人間の人生に深い意味での面白さが生ずるシステムになっています。
10 7の要因を考慮にいれると、3の残っている五百両(一億五千万円)ほどを大磯の人々に出すべし。一毫も惜しむべからずとの指導、それに従った行動も現世では応報せず、したがって、二宮尊徳の指導の誤り、川崎屋孫右衛門の絶対的窮乏をもたらす可能性のほうが大きいと考えます。
11 さすが、偉大な霊魂である二宮尊徳の指導は誤らなかった。偉大な守護霊、霊団の大きな活動の存在が推定されます。通常人がまねをすると大怪我をする可能性が大きいと考えます。 
川崎屋の因果応報
前非を深く悔い心を入れ換え一家を立直した例として、大磯の川崎屋孫右衛門の話は高弟富田高慶の著した尊徳伝『報徳記』に特筆されている。
川崎屋は幕府天領大磯で代々米屋を営む有数の豪商であった。孫右衛門は手腕はあったがケチで欲深く剛情で慈悲の心が薄かった。天保七年(一八三六)の飢饉において、大磯付近は米価が高騰、倍以上になり人々が苦しんだ。町の人々は大磯にある七軒の米屋に安く売ってくれるよう交渉したが、彼らは米価を協定し安売りに応じなかった。このとき孫右衛門は江戸へ出て米価を調べ、人々に少し安く売るかまた救助米を供出するか思案しぐずぐず滞在していた。
一方、食べ物がなくなり飢饉が迫ってきた大磯の人々は、ついに七軒の米屋やほかの富豪を襲い打ち壊しを行い、米蔵をあけて米、麦、大豆等を奪い去った。一番の標的にされたのが日頃強欲、無慈悲で人々から怨まれていた川崎屋である。
江戸から戻った孫右衛門は破壊された屋敷を見て激怒した。すぐさま代官所へ訴え出ようとしたが、逆に代官所へ引っ立てられ牢獄にぶちこまれた。代官所は「お前は官有なのに人々への憐みの心が少しもなかったからこの乱暴にあったのだ。お前に少しでも慈悲の心があれば、どうして人々はお前の家の打ち壊しをしよう。
その罪はみなお前のこれまでの所業にある」と厳しく言い渡した。そのあと大磯に大火があり、川崎屋の家はほとんど焼失した。妻と二人の子供は毎日泣き泣きすごしたが、やがて妻は病死した。孫右衛門は獄中で妻の死を知り悲涙を流し、拳を壁にたたきつけ人々の暴虐を怒り、代官所の処置を怨み己れの不運を嘆き憤閑はとどまるところを知らなかった。
孫右衛門には妹があり、伊勢原村の加藤宗兵衛の妻であった。加藤は妻とともに孫右衛門の災難に心痛し、天保九年(一八三八)四月、かねて教えを受けていた金次郎に指導を仰いだ。
事情をきいた金次郎は深く嘆息してこう言った。
「それは一朝一夕にやってきたことではない。禍いの原因は遠い所にある。世間の富豪が滅亡するのは往々にしてこの様な径路をたどるものだ。人力をもっては到底救い難い。私は孫右衛門一家のことは知らぬが、その宮を築くに必ず自然の道に反したことがあったであろう。飢饉の年には打ち壊しの禍いにあうものもあるが、孫右衛門の様に多くの災難が一時にふりかかってくるものは少い。必ず過去に深い罪があったに違いない。思うに六十年前の天明の大飢饉の時に、多くの米麦を高く売りつけ暴利を食って家を富ましたのではないか。他人が禍いを受けた時はこれを憐み助けるのが人道であるのに、他人が憂え苦しむ時に我一人利を食る者は必ず天が罰する。積善の行いなく今や陰徳すでにつき、天明時に作った禍いの原因が今結果となって現われ、家産ことごとく破れ、火災、病難ともに来ったのだ。孫右衛門はこの因果の理を知らず、己れが罪を責めず、ただ他人でやまない。天地間の万物みな同じで、蒔く種により実はきまっている。一人孫右衛門のみ善を植えて悪の実りがあろう。必ず一家廃亡の種を蒔き、今その実りを得たのである。憐むべき至りだがいかんともしがたい」 
加藤は金次郎の明察に驚嘆した。川崎屋一家は天明の大飢饉の時に汚いやり方で大財産を作ったのであった。金次郎の話を涙を流して聴いた加藤は一身にかえても孫右衛門を救おうとして、再三金次郎に懇願した。 
孫右衛門ひとたび改心しまた惑う
そこで金次郎はこういった。
「あなたの妻君は孫右衛門の妹だが、兄のことを哀れみ悲しんでいようか」
「悲痛は私に倍しています」
「しからば身に粗衣を着し、口に粗食を喰うか」
「そこまではしていません」
「誠に哀れむ者はおいしい食べ物を味わう気にもならず美しい着物を着るに忍びず寝ても眠られない。いま実兄獄中に苦しみ家の滅亡が迫っているのに、妹の真心が薄いのはどうしてか」加藤はうつむいて三日も答えられない。
「妻君にこう言いなさい。『骨肉の兄はかくのごとき艱難にあっている。たとえ救助できるかどうかわからぬが、兄と粗雑をともにすべし。兄は獄中で寒さと飢えをしのいでいるのだから、お前も粗衣粗食に甘んじ、生家からもってきた衣類、器物一切を売って生家再興の一助しなさい。この代金は些少なりといえども、兄と艱難を共にせんとするお前の真心が立つならば、ここより兄の禍いを免れる道も生じよう』と人の誠心一旦感奮してやまないときは、至誠は天に通ずる。これが今あなたのできる唯一の方法だ」 
加藤は金次郎を伏し拝み飛んで帰り妻に告げた。喜んだ妻はその通りすぐさま実行した。加藤も協力した。孫右衛門は妹夫妻のこの真心の振舞を知り始めて漸愧の心がわき上り、わが身の犯した罪に気づき懺悔の涙を流した。己れを反省し心をいれかえてゆく日々が続いた。やがて代官所は出獄を許した。
孫右衛門が二年ぶりに破れ果てた家に戻ると、まだ二人の子供が母を慕って泣いていた。番頭がこれまでのことを嘆きながら語った。わが家の悲惨な有様を見た孫右衛門はせっかくの懺悔改心が吹き飛びまたもや憤怒に胸を焦がし自分らをこんな目にしたのは誰だと怨恨をつのらせた。そして必ず家を再興してこの恥辱をそそがねば死ぬに死なれずと思い詰めた。全く業の深い人間であった。
その時、孫右衛門の妻の父が浦賀から一縁者と共にやってきて孫右衛門に加勢、三人は力を合わせ怨みに報い家を興そうと謀った。
これを知った加藤は驚き心を痛めたが、どうしても救ってやりたい一心で、金次郎が無利息金をもって多くの村々人々を救助してきたことを話し、金次郎に会って救いを求めることをすすめた。
孫右衛門はこの世にただで金を貸す愚か者がいるはずがないと取りあわなかったが、加藤の強い勧めにもしただで借りられたなら儲けものと思いこれに応じた。
その頃金次郎は飢饉救済後、小田原領内で村々の復興に奔走し竹松村の村長の家にいた。
そこに孫右衛門、縁者、加藤の四人が来た。
ところが金次郎は会おうとせずそっと家を抜け出した。金次郎は孫右衛門の心中を見抜いていた。
村長は四人にこう語った。
「二宮先生は善人を賞し困窮した人々の生活を安らかにし、田を開き道、橋、用水路を修復し、あらゆる村人の苦しみを除かざるはありません。朝は星がまたたく時に家を出、夜遅く帰ります。村々の救済の為いささかも労を厭わずひたすら私どもの為に尽します。ですから村民はみな先生を父母のごとく仰いでいます」
これを聞いて孫右衛門は再び漸愧の心をおこした。そこで村長は金次郎に彼らの願いを取次いだ。金次郎はようやく面会を許したが、顔を合わすや言い放った。
「汝ら何の為にここに来て私の村々救済の仕事を妨げるのだ。私は小田原侯の命黙し難きによりこれを努めている。汝らの願いは私のあずかり知るところではない。速かに帰れ」
大鐘のごとき声に四人は恐れおののき体が震えた。加藤は平伏して「願わくは今一度孫右衛門を導き、彼の一家が再興する道をお教え下さいませ」と慈悲を請うた。 
 

 

金次郎の教戒
金次郎は孫右衛門をにらみすえて言った。
「孫右衛門、お前は自己の多罪を自覚せずいまなお己れを是とし他を怨んでいる。お前の妹は私の一言に従い兄の為に精一杯心を尽した。しかるに当人たるお前は一婦人の心がけにも及ばず我意を張り、他人の力をかり自家を興し、他人の怨みに対し怨みを以て報いようとしている。何たる愚か者か。救い難い痴れ者ぞ。一家が断絶し汝の一身が滅ぶまでお前は私利私欲に執着してやむまい。私の所に来て道を求める真心などある筈もない。私は身を捨てて人々の憂苦を除かんとしてきた。お前はあくまでも自己の過ちを認めず他人を苦しめている。速かにここを去り、お前はお前の滅亡の道を行うがよい。私の人々を安んずる道を汚すことは断じて許さん」
再び雷声が轟き渡った。四人とも平伏したまま頭を上げられなかった。孫右衛門は畳に額をすりつけ全身から汗を流し、体をぶるぶる震わせ続けた。金次郎の言葉は孫右衛門の心臓を刺し貫いたのである。孫右衛門は心から懺悔の涙を流して教えを請うた。金次郎はやや顔色を和げてこう教え諭した。
「善を積むのと不善を積むとにより吉凶、禍福を生ずることは、古来聖賢の教えるところで少しも間違いない。お前の家は天明の飢饉において多くの人々が命を失ったとき、裕福なのにもかかわらず人々を救助せず米を高く売りつけ利益を独占し益々富有になった。天はこれを憎み、神はお前の一家を見捨てた。一家の廃絶する原因はこのとき作られたのだ。しかし祖先の余徳によりその後六十年無事を保ったが、天命、運命がめぐり来り遂にお前の代に至り飢饉がやってきた。もしお前に仁慈の心があれば家産を尽して人々を救助し、一人でも助命の多いことを願うのが当然だ。たとえその心があったとしても、速かに実行せず江戸でぐずぐずしていたのは何の為か。誰がお前に救助の心ありと思うだろうか。大磯の人々がお前の家を破壊し法を犯して罪に陥ることを好むわけではないが、餓死が切迫したからお前の不仁を怨んで暴行に及んだのだ。その悪事は彼にあるが、これをもたらした根元はお前にある。かくのごとき災害はお前の一心から起ったのだ。かくみるときお前は自分自身を責めるのにいとまがない筈だ。どうして人々を怨むことができよう。人々に罪はない。天が人々をしてお前の家を打ち壊し、また火の力をかりてお前の余財を焼いたのだ。お前はこれを少しも察せず、己れを善とし他人を悪として憤怒してそのあだを報ぜんとした。しかしお前は一人、町の人々は多数、できる筈もない。またそうできたとしても今度は人々がお前の子供に復讐しょう。それゆえ代官所はお前を牢獄に入れ、人々との争いを回避せしめたのだ。お前はそれも知らず処置不公平なりと怨んだ。全くお前の間違いだ。家の再興は全く以てお前の一心にあり他にあるのではない。もし己れの罪を知り大いに天を恐れ、一身を艱難の地におき他人の困苦を除かんとする行いを積み重ねるならば、禍いは変じて福となり求めずして一家再興の道は自らその中に生じょう」 
孫右衛門の善行
金次郎の三一日一言が孫右衛門の骨身に沁みた。孫右衛門はいかにすべきかを尋ねた。金次郎は「家破れ余財焼亡というが、なお残っているものもあろう。その価如何」ときくと、彼は「五百両(一億五千万円)ほどあります」と答えた。金次郎はこう指導した。
「これを家に置く時は、一物といえども家の禍いを残すことになる。一家が壊されるときその場にあったものは悉く禍いの物であってお前の身に害あるものだ。なぜならこのものあるがゆえにこの大災に及んだのだ。もしこれわが物なりとしてその残った物を悦ぶ心があれば、災害の根を残して再び家を滅ぼすものである。この余財はお前の家の病毒だから速かに除くがよい。これができなければお前の家は必ず滅ぶ」
改心したはずの孫右衛門は金次郎のこの言葉に甚だ惑い返事が出来なかった。金次郎は言った。
「私が教える所は君子の踏む道であって小人の忌み嫌う所だ。お前は唯 目前の損益得失にのみ心が奪われているから、到底君子の道を行うことができない。速かに去り自分の思うようにやれ」
孫右衛門は必死になって言った。
「先生は私を憐みこのような尊い教えをお示し下さいました。私はこの教えに随って参ります。余財を去るとしまして、どこにこれを去りましょう」
「決して川や海に捨てよというのではない。お前の家を壊した大磯の人々は決して仇ではなく、お前の欲心を砕き祖先以来の悪因緑を破り、お前をして善心を発し永続せしめんが為に、身の罪科をも省みず一身を投げうってお前の家を打ち壊した恩人でなくて何か。従ってこの五百両を大磯の人々に出すべし。一毫も惜しむべからず。かくのごとくしてうまく治まらなかった例は昔からあったことはない。お前の生活費はこれまで江戸へ通船を出してその運賃を得ていたが、これは打ち壊しの禍いと関係ないことだからこれをもって生活したらよい」
孫右衛門はこれを実行した。大磯の人々は驚博した。人々は孫右衛門の怨みを忘れて徳を以て報いんとする態度に漸愧し、川崎屋への積年の怨みと憤怒の念を消し去り彼をほめ称えた。
これほどの指導と教化は一体ほかに誰が出来るであろうか。 
相馬藩の困窮
金次郎は桜町を始めとして鳥山藩、小田原藩のほか谷田部藩(常陸国)、下館藩(常陸国) 等いくつかの藩及び多くの村々の救済、復興に終生尽力したが、中でも顕著な成果が上った一つが相馬藩の再建であった。
相馬藩は鎌倉時代以来の名家で石高六万石、磐城の国(福尽力、正徳五年(一七一五) には実高島県)の東海岸に沿う地(現相馬市で二百六十村からなる。江戸初期より新田)開発に尽力、正徳五年(一七一五)には実高十七万石、年貢米十七万俵に達した。表高の3倍ちかくの莫大な収入があったから、藩財政は潤い、武士も民百姓も生活が豊かになるのみならず、やがて人々の生活は奢修に流れていった。
長らく繁栄が続いたが、六十年後の天明の大飢饉により相馬藩は困窮に陥った。
人々は長年、贅沢な生活を続け勤倹節約を忘れ儲畜が空しくなった時にこの大災害が起きたのである。これより藩財政は赤字に転落しやがて文化年間(一八〇四〜一七)、借金が三十万両にもなった。
財政赤字により百姓の年貢は段々高くなった末、重い負担に耐えられなくなった百姓の逃亡離散が相次ぎ人口は半減、年貢収入は最盛期の三分の一に激減、田畑の大半が荒野と化した。
ここおいて藩主相馬益胤はどん底に陥った藩政再建のため、草野正辰と池田胤直を登用し改革にあたらせた。
すぐれた才腕を有していた草野と池田は相協力して長年月を費し全力を尽した結果、ようやく成果が上がり、三十万両の借金を少しずつ払い始めたとき、天保四年(一八三三)と七年(一八三六) の大飢饉に襲われたのである。
天保七年の年貢収入はわずか四千二百俵という惨憺たる有様であった。藩は文化・文政期に備蓄した米穀を全て放出するのみならず豪商より米を買い民百姓に与え辛うじて飢饉を乗り切った。
しかし草野と池田の必死の再建事業は挫折し藩財政状態は元に戻ってしまった。時に草野は七十歳、池田は五十歳を越えていた。二人は天保両度の飢饉に打ちのめされ、再び立上る気力を失いかけた。 
金次郎と富田高慶の出会い
相馬藩の最初の危機は草野、池田という二人の忠臣により乗り切ったが、天保の飢饉による再度の危機に為すすべがなかった。二人が百計つきたころ、金次郎が桜町復興に大成功した話が各地にひろがりつつあった。それを二人に知らせたのが富田高慶であった。
富田は相馬藩士斉藤義隆の次男である。斉藤は一藩の模範とまでいわれたすぐれた人物で、
高慶とその兄は藩内きっての秀才とうたわれていた。富田は少年時より草野、池田を始めとする人々が一藩復興の為に尽力するのを見て深く感じ、自らもまた相馬藩を救う人間たらんとの志を立て、十七歳の時江戸へ出て当時高名な儒者屋代弘賢の門に入り猛烈に学んだ。
富田の学才は傑出しておりやがて屋代の代講を行うまでになった。富田は藩再興の具体的方法につき多くの学者を訪ね問うてみたが、何一つ納得ゆく答が得られず悶々としてついに病気となり床に臥した。
この時ある人から金次郎が桜町始め各地の村々を再建しているめざましい働きにつき聞いたのである。富田はその話に深く感じ、書籍やわずかな調度を売り払い金次郎を尋ねる決心をした。天保十年(一八三九) 二十六歳のときである。六月一日、富田は桜町の陣屋を訪れ入門を請うたが、金次郎は面会を拒否し取次にこう言わせた。
「儒者や学者に用はない。儒者はその学んだ学問を以て身を修め国を治むることを教えればよい。自分は荒廃した農村を興し、衰亡に赴く民家を起こきしめることに忙しい。これを救うのに日も足らざる状態である。これにひきかえ学者は理屈が多い。その理屈屋に取りかまっている暇がない」
金治郎は儒者とか学者とよばれる者を嫌った。彼らは机上の学問において理屈を並べるのは上手だが、実際にはほとんど役立たない者が多いからである。しかし富田は金次郎の言を聞きこれこそ自分の求める師だと思った。そこであきらめず四日、九日、十三日と尋ねたが金次郎は会わない。
だが梃子でも動くまいと決意した富田は近くの村で寺子屋を開き乏しい生活費をかせぎつつ、いつか金次郎が会ってくれる日を待った。
8月半ば金次郎は側近に「あの学者はまだいるか」ときいた。「何としても入門せんと待っていまいます」 すると金次郎は「それなら見込みがあるから会ってみよう」といった。
八月十七日、金次郎は富田に会ってこうのべた。
「貴下は大変な学者と聞くが定めし多くのことを学ばれたであろう。それゆえ豆という字を知っておられるか。知っているなら書いて見給え」
あっけにとられた富田はやむなくその字を書いた。それを見て金次郎はいう。
「ははあ、貴下の豆の字はこれか。私のは少々異っておる」
といって手にもつ大豆を示した。
「これが私の豆の字だ。かくのごとき紙上の文字何万字あろうとも馬一匹を飼うことは出来ない。おおよそ学者はかくのごとく机上の文字の研究に没頭没却して用を為さぬものである。
豆があって豆の字が生まれたものである。私は豆を作って馬を飼い、米を作って人を養うことを本務とする。報徳の学問は世間日常生活における真実兵事を行うことである。ゆえに真に興国の志を果さんとするならば学者の常習とするところを改め、実地正業、一村復興の帳簿調べの助手を為して習熟すれば中村(相馬藩のこと)六万石の衰廃は必ず再興しうるであろう」 
富田は金次郎の言に深く感銘し、金次郎こそ自分が仰ぐべき師と再び確信した。こうして入門を許された富田は金次郎に問うた。
「先生はこの仕法(復興のやり方のこと)を学べば、わが相馬藩は直ちに復興するであろうと教えられましたが、わが藩の衰廃は一朝一夕ではありません。復興の業は至難であります。先生の言は極めて平易にやり遂げられるように思われますが、果してそうでしょうか」
金次郎は答えた。
「たとえば包装した樽は一見何であるか分らぬが、錐を刺して洩るる所の一滴を嘗めると酒か酢か醤油かを知り得る。貴下は相馬の一滴である。小臣にして次男たる者が既に一身を忘れて藩のために苦心しつつある。今これを嘗めて相馬の国情、息烈の臣多きを知り得る。他日必ず有司来って一国再興の事を講ずるであろう」
富田はこの言をきいて益々金次郎に服した。
金次郎もまた富田のひたむきな姿勢に深く感ずるものがあり、一見して彼が並々ならぬすぐれた人物であることを見抜いた。以後金次郎は富田を厳しく指導誘放した。富田は全心身を以て金次郎の指導に従い、復興事業の帳簿調べを始め実務に精通していった。金次郎はこの富田をわが子のごとく愛した。やがて富田は三十八歳のとき、金次郎の長女文子と結婚する。富田は第一の高弟として金次郎没後も報徳の道の実践に尽した。金次郎伝の古典たる名著『報徳記』の著者こそ富田高慶であった。 
相馬藩士の訪問
入門後、富田は直ちに草野、池田の両家老に、「不世出の才徳を以て衰廃した農村に勧農の法を施し次々に再興を遂げる二宮先生あり。この先生に相馬藩の復興指導を依頼するなら成功疑いなし」と報じた。
二人はこの知らせに大いに喜び、金次郎に藩政再建の依頼をすることに決し藩主の了承を得た。そして天保十二年(一八四一)十二月、一藩士一条七郎左衛門を派遣した。だが金次郎は「忙しくて会う暇はない」と謝絶した。一条が再三懇願しても頑として応じない。金次郎はついに会わず、そばで気をもむ宮田にこう言った。
「私は君命を受けてこの地の民百姓の安寧幸福をはかっている。どうして相馬藩のことにつき関与すべきであろうか。幾度面会を求めても会うべき筋道がなければ決して会うことはできない。しかしながら相馬藩は君臣ともに藩の衰退を憂え困難に耐え民百姓の為に恵むこと久しいときいている。ゆえに一条にこう伝えなさい。藩再建の根本は藩の分度(収入に見合った財政の規模、生活程度のこと)を定め、そこより余分の収入を生み出し人々を救済しうる復興計画を立てざる限り、百姓は高い年貢をしぼり取られるばかりである。私の復興方法の基本は、分度を確立することである。藩の分度が確立されぬ限り、幾度要請されようとも断じて応ずるわけにはゆかぬ。この藩の分度を確立し藩を再建し人民を安ずることは、そもそも藩主が自ら行うべき任務ではないか。であるなら藩主自らが教えを聞きに来るべきである。それが無理というなら代って家老がここに来るべきではないか」
富田はこれを一条に伝えた。
富田は金次郎が一条に会わなかったことに不満で、「何ゆえ会ってやって下さらぬのですか」と迫った。
金次郎はこたえた。
「これはお前の知るところではない。相馬の君臣は藩の再建に尽力はしているが、私のやり方、報徳の道について理解は浅い。一条を寄こしたは未だ本気になっていないからだ。誠にわが道を行わんとするのではない。もし一条に会ってやり話を聞かせば一条は感激して帰り、藩の者に真剣に私の方法の採用を説くだろう。しかし必ず群臣らが疑惑し一条を嘲笑し、その結果一条は退けられるに違いない。だから会わなかったのだ」
富田は必死に喰い下った。
「先生、それでは相馬藩の復興は絶望なのでしょうか」
「いや違う。誠に道が行われるべき時節が到来すれば、必ず家老がやって来るだろう」
藩の再建に当って最も重要なことは、藩主及び家老という首脳が全責任を以てすべてを捧げ命がけの覚悟をもって行わぬ限り到底成功はあり得ず必ず挫折する。金次郎はあくまで上に立つ者の覚悟を求め、決して復興事業を安易に引き受けなかった。物事の成就においてそのときが至る時節ということを知り抜いていた。富田は金次郎の深慮に改めて敬服した。 
 

 

尊徳と家老草野正辰
金次郎は天保十三年(一八四二)五十六歳の時、幕府に登用された。
以後尊徳(たかのり)と名乗る。
その年秋ようやく相馬藩家老草野正辰が江戸の字津邸に仮住まいをしていた尊徳を訪問した。富田高慶から尊徳のことを聞いて既に三年がすぎていた。
草野は相馬藩の窮状を説きこれまで三十年に及ぶ再建の苦労をのべ、もはや尊徳の指導なしに復興の道なしとして教えを仰いだ。そこで尊徳は桜町復興の体験をもととして語った。その要点はこうである。
「藩の政治は要するに取ることと施すことの二つにとどまります。また藩の盛衰、安定危機もこの二つにあります。取ることを先にすれば藩は衰退、民は困窮し藩を怨みます。甚しい場合は藩が滅亡します。
しかし施すことを先にすれば国は栄え民は豊かになります。暗君は取ることを先とし施すことを恵みます。ここから藩政が乱れ衰退が始まります。藩再建の道はただ与えることを先務とすべきであります」
会見のあと草野はかつて富田が尊徳の人物につき才徳無比と評したことが、決して過褒でないことをつくづく思い知られてこう嘆じた。
「私は壮年より極老に至るまで相馬藩を再興し百姓を安んぜんとして身命を投げうち肺肝を尽してきたが、ついに志を達せずしてここに挫折に終ることのみ嘆いてきた。しかるに下野国にかくの如き傑出した仁者があろうとは思いも寄らぬことであった。この人を知らずして数十年空しく心力を労したことは遺憾の至りだ。
しかれども最晩年この人に逢うことが出来たことは、私の長年の真心が決して空しいものでなかったあかしである。二宮先生の教える道を以てするなら相馬藩の復興は疑いない」
金次郎もまた草野の人物を嘆質した。
「かつて草野が忠臣であることを聞いたが、今その人と為りをみるに、内誠実正直にして外温和なり。のみならず度量大きく見識は高い。
私のいうことを水が砂にしみ通るが如くよく理解する。この人が家老としてわが道を行うなら、相馬藩は必ず復興するに違いない」
草野は直ちに藩主相馬光胤に報告、尊徳につきこうのべた。
「万物の理、国家盛衰の根元、治国安民の大道を説くこと渾々として流水の尽くることなきが如く、外耳目を驚かし内心魂を感動せしめました。誠に古今に傑出した人物で他に比較する人物はほとんど見当りません。近国下野国にかくの如き賢者があろうとは思いもよりませんでした。今この人ありてこの道を聞き得たことは先君以来の千辛万苦を尽し給うた至誠が空しからず天に通じたものと存じます。この二宮という大徳の指導を仰ぐなら、わが藩の復興は必ず成就することは間違いありませぬ」
藩主は深く悦び改めて尊徳に指導を依頼し、速かに事業を開始する様家臣に通達すべきことを草野に命じた。 
一度も相馬の地に行くことが出来ないにもかかわらず、偉大な霊魂「尊徳」の影響は富田高慶、池田胤直、草野、相馬藩藩主相馬光胤、家臣、村人の心を揺り動かし、次のような指導により大成果をあげることができた。
倹約、勤勉、仁沢(恩恵の意)など、日本民族の美点、底力を目にしてうれしいかぎりです。
1 180年間の合理的なデータに基づいた実現可能な分度(実現可能な収入であり、藩財政の支出予算限度)の策定
2 分度は第一次10年間長期事業計画ともよぶべきもので、10年ごとに、実績に基づき改定する。
3 年々一定の分皮内にて財政を運用し、民百姓に仁慈、恩恵を施し分度外の収入を増やしてゆく。
4 君臣が力を合せ分度を堅く守り決して奪修を行わず、民百姓へ仁恵を施さざることを憂えて一心につとめた。
5 安政三年(一八五六)の尊徳の死後の事業は富田高慶の手により立派に推進され、明治四年の廃藩置県まで計二十七年間にわたり継続された。相馬藩は幕末の理想郷とまで謳われる。
群臣の疑惑と反対
草野は早速、国元の家老池田胤直に書を送り、尊徳の卓越した人物、事業についてのべ、尊徳に藩復興の指導を依頼する君命を伝えた。池田はすぐ藩士を召集してこれを伝達したが、多くの者は疑惑し反対した。草野の言うが如き人物が今の世にあろうはずがない、草野は二宮を覚め過ぎ、人物を見誤っているに違いないと信じなかったのである。国元の状態に草野は嘆息してこう言った。
「二宮の才徳、言語に尽し難し。私も会ってその話を聞くまでは疑惑せざるを得なかった。いわんや私の言うことだけで藩士がどうしてすぐに二宮の大徳を倍ずることができよう」 池田は必死に説得し続けた。
だが、依然として大多数の群臣は強い不服を唱えてやまなかった。源頼朝時代以来六百年の歴史を誇る名門たる相馬藩が、他藩の百姓上りの尊徳の指揮を受けることは理屈からも感情からもどうしても納得ゆかず、武士の誇りが許さないのである。池田は草野に群臣の反対強くいかんともしがたいと伝えた。
草野は次の書を以て池田を強く励ました。
「国家の大業を為すにおいて衆人の意見に従うなら、必ず成就しえない。凡人は賢者の心を知りえない。いささかの私なく百姓を安んぜんとして、わが身を忘れて己れを捧げる二宮の至誠を察することは到底できない。従って二宮のことを聞いても凡人はただ疑惑を深めるだけだ。
しかるに群臣らが疑惑のゆえをもってたとえ身を退いても同意せずというのは、我見を以て国家永安の道をふせぐものではないか。それは不忠の臣というべきだ。不忠の者を退け賢を用いざれば、六十余年間の衰国をどうして復興できよう。相馬藩復興の道は凡庸な群臣に非ず、貴兄の一心にある」 
池田は懸命に群臣を説いたが尚も衆議は決しなかった。そこで相馬藩主は池田に上府させ尊徳に会わせることを草野に命じた。天保十三年(一八四二)十二月、尊徳は草野に伴われた池田に会った。尊徳はこう教え諭した。
「国家復興の道は本源を立てることにあります。本源を立てるとは、分度を定めることであります。
万民を安んぜんとするならば仁沢(恩恵の意) の本源を立てねばなりません。
分度を定めるには、相馬藩過去十〜二十年の年貢の平均をもってします。
これが相馬藩の天分の分度(財政規模、生活程度) であります。
この分度において財政をまかない、民百姓より食るに取らず彼らに仁恵を与え、荒地の開墾に全力を尽し田畑の収穫を増加させ、この分度外の収入は分皮内に入れず藩の再建と借金返済用にあてます。
こうして年々一定の分皮内にて財政を運用し、民百姓に仁慈、恩恵を施し分度外の収入を増やしてゆくならば必ず相馬藩の再建は成就しましょう。結局、藩再興の道は本源を確立すること、すなわち分度を定めることにあります」 
相馬藩の復興
池田は尊徳の人物を眼のあたりにして、草野から度々さかされていたことが誤りではなく、
聞きしに優る大人物であることが心底から納得できた。二人の報告に藩主は深く満足し、直ちに尊徳に藩再興の指導を依頼する手書を書いた。二人からその書を渡された尊徳は、「君仁にして臣忠なることかくのごとし。藩再興せんこと難からず」と悦んだ。
藩の分度の確立
相馬藩の復興事業が開始されたのは弘化二年(一八四五) である。時に尊徳五十九歳、富田高慶が入門して六年がすぎていた。
草野と池田はまず尊徳の教諭に従い、過去百八十年間の年貢収納状況を調べ上げて、その調査書を尊徳に提出、藩の分度を定めることを願った。これを見て尊徳は驚いた。
「衰退している藩は帳簿も紛失しわずか二三十年前の租税や財政状態も不明です。しかるに相馬藩は百八十年間もの租税状態が明白なのはさすが由緒ある名門です。この資料をもってするなら必ず中正の分度を定めることが出来ましょう」
尊徳は以後二、三ケ月間、深慮を重ね計算を繰返し次の様に分圧を定めた。
まず百八十年を六十年ごとに分けた。
最初の六十年は元禄・正徳期を含む最盛期、中の六十年は盛衰の中間、後の六十年は衰退期。
三期の年貢収入の平均は次の通り。
第一期 十四万七十九俵
第二期 十一万八十六俵
第三期 六万三千七百九十三俵
平 均  十万七千三百十二俵
尊徳は次に前半と後半及び最近十年の平均を出した。
前半 十三万八千俵
後半 七万六千俵
最近 五万七千俵
尊徳はこうした数字を出した上、後半九十年と最近十年の平均約六万六千俵をもって相馬藩の分度と決定した。
相馬藩は以後十年間毎年六万六千俵の年貢収入を分度とし、これをもって財政のやりくりをし、勤倹節約につとめるとともに、荒地開墾により毎年分度外の収入、余財を生み出しこれを予算外として貯蓄、民百姓の救済、借金返済、飢饉等の非常の備えとする再建策を尊徳は三巻の書物にして草野、池田に提示した。
そして十年後、収入増に従い分度を改めまた十年継続する。これを忍耐強く堅持するならば必ず藩は復興するという指導であった。
草野と池田は三巻の書をみて藩再興の基本を得たとして驚嘆歓喜した。
藩主相馬光胤は熟覧して「二宮の深智遠大というべし。他邦の盛衰を見ること掌を指すが如く、数百年を見ること目前のごとし。国家再興の道この三巻に全備せり」と嘆賞してやまなかった。
池田は直ちに国元にもどりこれを群臣に示した。ここにおいて群臣の疑惑はようやく消散、復興事業が始まった。 
成田村、坪井村の復興事業開始
藩の分度が定まったあと、次に為すべきは大半が荒野と化した農村の再建である。相馬藩は衆議してまず草野村の復興の指導を尊徳に依頼した。この村は山中にあり、夏冷たく冬寒く、五穀の実り悪く貧民の多い難村中の離村だった。ところが、尊徳は承諾せずこう言った。
「私の復興方法はよい者をほめよくない者をこれに習わせることを主とする。従って最初の村は藩内でも手本となるよい村を選ぶべきである。そうすれば他村もよき感化をうける。惰農貧村を先とすべきではない。物には順序があり水は高きより低きに流れる。勧善の道は善を先にすることが要である」
そこで藩は草野村に代え、大井村と塚原村を選んだ。だが、この両村も再建の容易ならぬ難村であった。藩の考えはむつかしい村を尊徳の手ですぐ再建してもらえば、他村の再建は容易と考えたのである。しかし、尊徳は公務多忙といって応じなかった。
ところが、成田村と坪田村の再興を担当していた代官助役高野丹吾は家老池田の教示に感ずるところがあり、自ら五十俵の米を両村再興の費用として差し出すとともに両村の名主らを説得した。名主ら有志が高野の誠意に打たれ、それぞれ応分の米銭を村の為に出し、池田に尊徳による復興指導の嘆願書を掟出したのである。
悦んだ池田はこれを江戸の草野に送った。草野はこれを尊徳に差し出し指導を切願した。尊徳はこう言った。
「いま成田、坪田の両村は誠意を顕し骨に先立ち仕法を嘆願しましたが賞賛の至りです。私のやり方は難村を先にするのではありませんが、この誠意に応えなければ勧善の道を欠くことになりますので、願いに応じ開業しましょう」
こうして弘化二年(一八四五)十一月、尊徳は相馬藩士たる愛弟子富田高慶を代理として派遣、両村の指導に当たらせた。
尊徳のもとで六年の修業を積み重ねた富田の感激はこの上なかった。衰退した相馬藩の再建を志して尊徳の懐に飛びこみ日夜尊徳の言行を見習い命がけで本当の学問、修業をしてきたが、いま尊徳に代って母国復興の指導者として立上ったのである。
富田は十二月始め成田村に到着し、高野以下主な者に復興事業のやり方を説明、続いて村内の善行者、勤勉者十二名を投票により表彰した。
また家屋のいたみの激しい村民をこれも投票で決め、三軒の屋根を修繕してやった。次いで坪田村で同様に行った。両村の百姓はこの富田の指導に感激した。これまで両村の人々は正月十五日頃まで酒食におぼれ遊びほうけていた。ところが、富田がやって来てから村の空気が変り、人々は二日から縄ないを始め、四日より山に入り薪とりなど仕事に精出し、怠惰の風が一変してしまった。
続いて富田は村人を指揮し道路、橋、用水路を修復し荒地開墾に着手した。村人は希望と悦びとに溢れて高野及び名主を先頭に一丸となって村再建に邁進した。
成田、坪田両村の状況はたちまち四方に伝えられた。人々はようやく気がついた。村の復興は上からの指示を待っていては成就せず、村再興のため村人が自らの米銭を捧げる誠意を見せなければならないということであった。
先を越された大井村と塚原村の人々は、すみやかに自らの誠意を表すべしとして各自が応分の米銭を出して嘆願した。尊徳は翌弘化二年(一八四六)これを許した。これを見た他村は遅れてはならじと次々に願書を出した。かつて疑惑し反対した多くの藩士たちは競い合って再建に立上る村々の姿を見、喜悦して前非を悔いたのであった。 
国俗十年にして一変、再興成る
復興指導を請願する村がたちまち三十余村に及んだので、池田は尊徳に開業を請うた。すると尊徳はこう応えた。
「大業を成さんとして速かなることを求めて一時に数十ケ村に手を下すときは、民百姓への指導と安撫救済はとても手が回らず人々を失望させ、しまいには事業の失敗をもたらします。
それゆえ一村を確実に指導しその再建を成就した上、次の村に及びその復興が成就してまた次の村と進むべきです。これは迂遠のように見えますが、天地間の万事すべてこれより順なるはなく、また速かなるはありません。たとえ百里の道を速かに行かんと欲しても一歩より発するほかありません」
池田は尊徳の言に服し村々を諭した。しかし村々の嘆願はやまず、池田は再び懇請した。
尊徳は村々の誠意に応えるべきとして数十ケ村中五ケ村の開業を許した。
かくして村々の復興事業は着実に進んだ。まず成田村が五年間で再建され、荒地は全て開墾され村民は借金を払い、飢饉用に米九百俵を備蓄した。
次いで坪田村が十年かけて復興、米二千二百俵を備蓄した。時間がかかったのは戸数が成田村よりずっと多かったからである。この成田・坪田の二村が農村復興の模範となった。
この二村に続いた大井、塚原両村の復興は九年間を要した。その次の五村は弘化四年(一八四七)に始まり青木村が六年、立谷村が十一年、村上村が四年、探野村が八年、立瀬村が四年間で復興を完了した。
相馬藩第一期の復興事業は弘化三年(一八四六)から安政三年二八五六)までの十年間だが、この間に開業した村は五十、復興を遂げたのは十五村に及んだ。この間、百年来の相馬士民の怠惰の汚俗が一変、人々は尊徳の報徳の道に基づく至誠と勤勉の生活の尊さを知った。
十年間にわたる相馬士民の渾身の努力の結果、荒地の開墾が進み収穫量が増大したので、
尊徳は第二期十年の藩の分度を六万六千俵から七万俵に引上げた。藩財政はわずかだがゆとりが生じた。第一期復興事業に成功した尊徳はこう言った。
「私は公務いそがしく一度も相馬の地に行くことが出来ず、遥か遠くの地から指揮せざるを得なかったが、わずか十年にして国俗一変して藩衰亡の危機を脱し第一期の復興は成功した。これができたのは君臣が力を合せ分度を堅く守り決して奪修を行わず、民百姓へ仁恵を施さざることを憂えて一心につとめたからにほかならない。この道を行ってゆくなら相馬藩復興は必ず成就する。私は若年より心恩を尽しこの復興の道を生み出し、三十年間求めに応じて行ってきたが、往々にして藩主が分度を守らずに挫折している。しかし相馬侯は十年間分度を守り続け顕著な成果を上げた。ただまことに嘆ずべきことは、これをなし遂げるうえにこの上なき貢献をした非常の忠臣たる草野、池田の両家老が復興事業の成就を見ずに亡くなったことである。しかし二人の後に継ぐ立派な人々にはいる。大業の成否はただ君と執政(家老)との一心にある。相馬開国以来六百余歳、始めて国民はこの恩恵を被ることを得た。実に千歳の一時にあらずや。時の得がたくして失いやすきことを顧み、事業の成功不成功のよって来るところをよく知り、私心を去り誠心をもっぱらとして今後益々この国家と民百姓を安ずる道につとめようではないか」
安政三年(一八五六)、尊徳終焉の年の言葉である。その後の事業は富田高慶の手により立派に推進され、明治四年の廃藩置県まで計二十七年間にわたり継続された。相馬藩は幕末の理想郷とまで謳われるのである。 
 

 

やはり二宮尊徳は偉大な霊魂であるとしか言いようがありません。
「われ不幸にして十四歳の時父に別れ、十六歳のおり母に別れ、所有の田地は洪水の為に残らず流失し、幼年の困窮艱難実に心魂に徹し骨髄に染みた」結果、なんと、「どうかして世を救い国を富まし、憂き瀬に沈む者を助けたく思いて勉強せし」たにもかかわらず「天保両度の飢饉に遭遇せり。ここにおいて心魂を砕き身体を粉にしてひろくこの飢饉を救わんと勤めた」というのですからおそれいります。
通常人なら、度重なる身の不運を嘆き、世の不公平をなげき、卑屈になったり、悪に走ったり、というところを「どうかして世を救い国を富まし、憂き瀬に沈む者を助けたく思い」というこころの働きが尋常ではありません。
刻苦勉励し成功すれば、自分のことのみ考え、傲慢になる可能性のほうが大きいはずです。
「尊徳は世を救い人を助け村々を再興する悲願、神願を立て生涯わき目もふらずこの聖業に邁進した」だけでも凄いですが、「誠、至誠でありその実行」でこれを実現したのももの凄いことです。
この至誠の心をもって天地人の恩徳に報いることが人間の真の生き方であると悟り実行したのも凄いことです。
「この仮の身をわが身と思わず、生涯一途に世のため人のためのみを思い、国のため天下のために益あることのみ勤め、一人たりとも一村たりとも困窮を免れ富有になるように朝夕願い祈り」ということは、スピリチュアリズム、シルバーバーチの啓示にてらしあわせると、人間の生き方で最良のもので、マザーテレサなどにも通ずるものがあります。
「音もなく香もなく常に天地は書かざる経をくりかへしつつ」もシルバーバーチの大霊、宇宙の法則に通ずるものがあります。
神儒仏正味一粒丸たる『神、仏、倭の三教の真髄を一つにしたいわば「報徳教」』まで霊魂が発達してゆくのも見事です。
まさに、スーパーマンとしかいいようがありません。
人類の歴史上このようなスーパーマンが何人か登場して、人類の発達に寄与していますが、このようなスーパーマンが増加し、やがて、大多数を占めることにより、人類はネアンデルタール人からクロマニオン人に発達したように、超人類に発達し、より素晴しい文化文明を築くものと考えます。 
 

 

わが道は至誠と実行のみ
尊徳は生涯自己の全てを捧げて村々、人々を救済したが、その復興事業の根底を貫く高貴なる至誠と慈悲の心、報恩報徳の心、神仏への深い信仰心、そして日々の怠りなき修身と反省について最後にのべよう。
尊徳は子供、弟子、指導を求めてやってくる人々に対して随処で自己の信念、精神をのべ教え諭したが、それらの言葉を弟子たちが『報徳記』や『二宮翁夜話』等に書きとどめた。それは骨尊徳生涯の実践に裏打ちされた言葉で、机上の空論は何一つない。
それはまさに金言玉條の数々であり、後世の人々への貴重な指針、教訓ならざるはない。
「われ不幸にして十四歳の時父に別れ、十六歳のおり母に別れ、所有の田地は洪水の為に残らず流失し、幼年の困窮艱難実に心魂に徹し骨髄に染み今日なお忘るることあたわず。
何卒して(どうかして)世を救い国を富まし、憂き瀬に沈む者を助けたく思いて勉強せしにはからずも天保両度の飢饉に遭遇せり。ここにおいて心魂を砕き身体を粉にして弘くこの飢饉を救わんと勤めたり」
年少時の困窮艱難こそ天が尊徳に下した鉄槌の試練であった。
尊徳は世を救い人を助け村々を再興する悲願、神願を立て生涯わき目もふらずこの聖業に邁進したのであった。それはいかなる賛嘆の言葉を以てしても尽し難いこの上なく尊く気高い生涯であった。尊徳が最も重んじたのが誠、至誠でありその実行であった。
「わが道は至誠と実行のみ。ゆえに才智弁舌を尊まず。古語に至誠神の如しというといえども、至誠則神というも不可なかるべきなり。およそ世の中は智あるも学あるも、至誠と実行とにあらざれば事は成らぬものと知るべし」
「唯、至誠これを感ず(至誠だけが天地と人の心を動かすことができる)。一の誠心もってわが身を投げうちこの民を安撫(幸福にすること)せんに何ぞ再興せざることあらんや」
「一人の心はまことに僅々(わずか)たるが如しといえども、その至誠に至りては鬼神(死者の霊魂)これが為に感じ、天地の大なるものこれが為に感動す」
尊徳は徳のみならず才智と弁舌においても並ぶ者がなかったことは既述の通りだが、その尊徳が「才智弁舌を尊まず」というのである。才智弁舌は世を渡る上に必要ではあるが、人間として何より大切なものはそれではなく至誠でありその実行というのが尊徳の根本信念であった。そしてこの至誠の心をもって天地人の恩徳に報いることが人間の真の生き方であるとしたのである。
「わが道は徳に報ゆるに在り。何をか徳に報ゆるという。三才(天、地、人の総称) の徳に報ゆるなり。何をか三才の徳に報ゆという。日月運行し四時(春夏秋冬)循環し万物を生滅して息むことなきは天の徳なり。草木百穀生じ禽獣魚類殖(繁殖すること)し人に生を養わしむるは地の徳なり。神聖(神のこと)人道を設け、王侯天下を治め、士大夫(武士)邦家を衛り、農は稼穂 (農業)を勤み、工は宮室を造り、商は有無を通じ(商売を行うこと)以て人生を安んずるは人の徳なり。鳴呼三才の徳また大ならずや。それ人の世にあるや、三才の徳に頼らざるなし。ゆえにわが道、その徳に報ゆるを以て本と為す」
生涯を貫いた信念、覚悟につき尊徳はまたこうのべた。
「 仮の身を元のあるじに貸渡し民安かれと願ふこの身ぞ元のあるじとは天をいう。この仮の身をわが身と思わず、生涯一途に世のため人のためのみを思い、国のため天下のために益あることのみ勤め、一人たりとも一村たりとも困窮を免れ富有になり、土地開け道橋整い安穏に渡世できるようにとそれのみを日々の勤めとし、朝夕願い祈りて怠らざるわが身であるという心にてよめるなり。これはわが畢生 (一生)の覚悟なり。わが道を行わんと思う者は知らずんばあるべからず」 
日々の修養と反省
尊徳は当時のいかなる仏教者、儒学者よりも高徳の真人(まことの道を体得した完き道徳を身につけた人) であったが、日々修養につとめ深い反省を怠ることがなかった。次はある人への教戒だが、同時に自身へのいましめであった。
「人に説くことを止めておのが心にておのが心に異見(意見)せよ。寝ても覚めても坐しても歩いても行住坐臥油断なく異見すべし。もし己れ酒を好まは多く飲むことをやめよと意見すべし。そのほか厳春の念起る時も安逸の欲起る時も骨同じ。百事かくのごとく自ら戒めばこれ無上の工夫なり。この工夫を積んで己が身修まり家斉いなば、これ己が心が己が異見を聞きしなり。この時に至らば人汝が説を聞く者あるべし。己れ修まって人に及ぶがゆえなり。己が心にて己が心を戒しめ、己れ開かずは必ず人に説くことなかれ」
至誠、誠の心は嘘、偽りをいわぬことから出発するが尊徳はこういう。
「戯れにも偽りを言うことなかれ。偽言より大事を引き起し、一言の過ちより無恥を引き出すこと往々あり。ゆえに古人、禍いは口より出ずといえり」
人を悪くいい咎めること、また、ほめることについてはこういう。
「上を悪しくいい人を咎めるは大なる間違いなり。自らをかえり見よ。必ずおのが身に蝦あるゆえなるべし。何か一つ二つの澱あるべし」
「人を誹り人を言い落すは不徳なり。たとい誹りて至当の人物なりとも人を誹るは宜しからず。人の過ちを顕すは悪事なり」
「人を褒めるは善なれども褒めすごすは直道にあらず。己が善を人に誇り、我が長を人に説くはもっとも悪し。人の忌み嫌うことは必ず言うことなかれ。自ら禍いの種を植えるなり、憤しむべし」
尊徳は生涯質素倹約の生活をしたがこれにつき次のようにのべる。
「驕倹(豊かで贅沢な生活と質素倹約の生活)は一己一己の分限(地位、分際、収入程度)を以て論ずべし。その分限によりては朝夕膏梁に飽き(おいしい食べ物を十分とること)錦繍を纏う (立派な衣服を着ること) も玉堂(豪華な家)に起臥するも香りにあらず。分限によりては米飯も香りなり。茶も煙草も馨りなり」
つまり尊徳は分相応を知るべしということをのべている。
収入が少ない人は生活をきりつめて質素にしなければならない。収入が多い人はそれ相当の生活をしてよい。
尊徳は誰に対しても倹約を求めたのではなく、程度を超えない抑制のある分相当の生活上の楽しみを肯定している。
但し尊徳自身は十分豊かに生活できる収入、貯えがあったがそのほとんどを世のため人のために献げたから、生涯粗衣粗食に甘んじたのである。
尊徳は自室に不動尊の画像を掲げていた。誰かが「先生は不動尊を信じているのですか」と問うとこう答えた。
「予(私)壮年、小田原侯の命を受け野州 (下野国即ちしもづけのくに)物井(もののい)に至る。人民離散、大地荒蕪いかんともすべからず。よって功の成否に関せず、生涯ここを動かじと決定す。たとい事故出来、背に火の燃えつくがごときに立ち至るとも決して動かじと死を以て誓う。しかるに不動尊は、動かざれば尊しと訓ず。予その名義と猛火背を焼くといえども動かざるの像形を信じ、この像かけてその意を妻子に示す。不動仏何らの功験あるを知らずといえども、予が今日に至るは不動心の堅固一つであり」
まことに尊徳こそは不動明王の権化であった。 
神儒仏正味一粒丸
神道、仏教、儒教の根本を深く学びその精髄を極めた尊徳の深厚な宗教心につき彼の言葉をきこう。
「世の中に誠の大道は只一筋なり。神といい儒といい仏という。みな同じく大道に入るべき入口の名なり。あるいは天台といい真言といい法華といい禅というも同じく入口の小路の名なり。この人口いくつもあるも至るところは必ず一つの誠の道なり。これを別々に道ありと思うは迷いなり。別々なりと教うるは邪説なり。たとえば富士山に登るがごとし。先達によって吉田より登るあり、須走より登るあり。須山より登るあり。その登るところの絶頂に至れば一つなり。かくのごとくならざれば真の大道というべからず」
「仏者も釈迦が有難く思われ、儒者も孔子が尊く見ゆるうちはよく修行すべし。その地位に至る時は国家を利益し世を救うの外に道なく、世の中に益あることを勤むるの外に道なし。たとえば山に登るが如し。山の高く見ゆるうちは勤めて登るべし。登り詰むれば外に高き山なく四方ともに眼下なるが如し。この場に至りて仰いよいよぎて弥々高きはただ天のみなり。ここまで登るを修行という。天の外に高さ物ありと見ゆるうちは勤めて登るべし学ぶべし」
尊徳は仏教の山も儒教の山も登り尽し「誠の大道」に至り天を仰いだ人物であった。尊徳は神、仏、儒の書を学ぶ目的をこういう。
「神儒仏の書、数万巻あり。それを研究するも深山に入り坐禅するも、その道を極むる時は世を救い世を益するのほかに道はあるべからず。もしありといえば邪道なるべし。正道は必ず世を益するの一つなり。たとえ学門するも道を学ぶもここに到らざれば葎蓬のいたずらにはい広がりたるが如く人の世に用なきものなり。人の世に用なきものは尊ぶに足らず。広がれば広がるほど世に害なり」
神と仏との関係についてはこういう。
「およそ天地の間に生々する物はみな天の分身というべし。本来は人と禽獣と草木と何ぞ分たん。みな天の分身なるがゆえに仏道にては悉皆成仏と説けり。わが国は神国なり。悉皆成神というべし。生前仏にして死して仏となり、生前神にして死して神なり。世に人の死せしを祭りて神とするあり。これまた生前神なるがゆえに神となるなり。この理明白にあらずや。神といい仏という名は異なるといえども実は同じ、国異なるがゆえに名異なるのみ」
尊徳は仏教、儒教それぞれのよさを十分認めたが、仏教につきこういっている。
「仏に三世の説あり。この理は三世を観通せざれば決して疑いなきことあたわず。疑いの甚しきは天を怨み人を恨むに至る。三世を観通すればこれ疑いなし。雲霧晴れて晴天を見るが如く、皆自業自得なることを知る。ゆえに仏教三世因縁を説く。これ儒の及ぼざる処なり」
三世因縁(三世因果ともいう) の説とは、過去の因縁によって現在の結果を生じ、現在の因縁によって未来の結果を生じ、過去・現在・未来の三世にわたって因果応報の道理は免れぬというものであり、その実例は川崎屋孫右衛門のところでのべた。
さらに尊徳は仏教、儒教につきこう語る。
「世の中に道を説きたる書物、数うるに暇あらずといえどもひとつとして癖なくして全きものはあらざるなり。如何となれば釈迦も孔子もみな人なるがゆえなり。経書(儒教の経典)といい経文(仏典)というもみな人の書きたる物なればなり。ゆえに予は書かざるの経、則ち、物言わずして四時行われ、百物成るところの天地の経文に引き当てて違いなきものを取りて、違えるは取らず。ゆえに予の説く所は決して違わず。(天地が存する限り)その時までは決して違いなさわが大道なり。それわが道は天地を以て経文とすれば、日輪に光明あるうちは行われざることなく違うことなき大道なり」
尊徳の面目が躍如としている。ここまでくれば釈迦も孔子も顔色なしである。尊徳のたどりついた宗教的境地がいかに高く並びなきものであったかが思いやられる。尊徳は師匠なくしてこの宗教的悟りに適した。尊徳の師は天地自然であった。
「わが教えは書籍を尊まず、ゆえに天地を以て経文とす」という尊徳は次の歌を詠んだ。音もなく香もなく常に天地は書かざる経をくりかへしつつ尊徳は神道、仏教、儒教は根本において一致するとしてこういっている。
「神道は開国の道なり。儒教は治国の道なり。仏教は治心の道なり。ゆえに予は高尚を尊ばず卑近を厭わず、この三道の正味のみを取れり。正味とは人界(人間の世界)に切用(重要なこと)なるをいう。切用なるを取りて切用ならぬを捨てて、人界無上の教えを立つ、これを報徳教という。戯れに名付けて神儒仏正味一粒丸という。その効用の広大なることあえて数うべからず」
ある人が神儒仏三味の分量を問うと、尊徳は 神一匙、儒仏半匙と答えた。
そこで人がこれを円にして示すと、尊徳は「世にこの寄せ物のごとき丸薬あらんや」と言って一笑した。
尊徳は神、仏、倭の三教の真髄を一つにしたいわば「報徳教」 の開祖でもあった。この報徳教による村々人々の救済力は当時の神仏儒三教を凌いだのである。至誠に基づく感謝報徳の道すなわ真の人間の道、真の日本人の道を永遠に指し示す人こそ二宮尊徳であった。 
まことに二宮尊徳はスーパーマンであったとおもいます。
1 「農村復興の大事業家であり、藩政再建の政治的経済的指導者すなわち経世家、政治家、財政家であり、土木技術者であり、教育者であり、宗教家でもあった。」・・・万能型スーパーマンです。
2 「勤倹推譲」すなわち、分限をまもり、勤勉、倹約して蓄財し推譲を行う(慈悲の心、利他の精神を以て世のため人のため自己を捧げる心と行為で、収入の幾分かを将来の備え、子孫に残し他人を救助し社会や国の為に提供する)・・・シルバーバーチ、マザーテレサ、シルディサイババ等にもみられる、スーパーマンの特徴でしょう。
3 長期のみとうし、計画のもとに、超人的な忍耐心で、超困難な大事業を実現成功させるという特徴もあります。
4 内村鑑三の「わが日本は、この二宮先生を有するにおいて至大の光栄となすべき」であるという評価も当然でしょう。
5 「尊徳により救われた各地ではその感化と影響はとだえることなく、心ある人々によりその精神がうけつがれている。尊徳にかかわり深い各地の人々は平成時代になってから「全国報徳サミット」を挙行し今年で十二回目となる。また東北のある町では、「至誠・勤労・分度・推譲」を町の一指針として掲げている」・・・まことによろこばしいことであると考えます。 
皇国固有の大道
既述の通り尊徳は儒教と仏教を深く学んだが決して儒仏に偏ることなく、江戸時代の儒者がとかくそうであった様にシナかぶれ、シナ崇拝者にならずまた仏教くさくもならなかった。わが国には固有の大道たる神道があることを深く自覚していた。次の歌はそれを詠んだものである。
おもへただから(または天竺)学びする人とてもわが身をめぐむこの日の本をから学びとは儒教を始めとするシナの思想教えを学ぶこと、天竺(インドのこと)学びとは仏教を学ぶこと。いくら儒教、仏教を学んでもよいがこの日本の国土の恵みを享けて日本人として生きる上に決して忘れてはならぬことは、先祖より世々受け継いできた皇国の大道たる神道の存在であるという意味である。
「神道は開聞の大道。皇国本源の道なり。豊葦原をかくの如き瑞穂の国安国と治め給いし大道なり。
この開国の道、別ち真の神道なり。我が神道盛んに行われてより後にこそ、儒道も仏道も入り来れるなれ。わが神道開聞の道未だ盛んならざる前に、儒仏の道の入り来るべき道理あるべからず。わが神道則ち開聞の大道先ず行われ十分に事足るに随いてより後、世上にむつかしき事もいで来るなり。その時にこそ倭も入用、仏も入用なれ。これ誠に疑いなき道理なり。しかるを世人この道理に暗く治国治心の道(儒教と仏教)を以て本元の道とす。これ大なる誤りなり。それ本元の道は開聞の道(神道)なること明かなり。予(私) この違いを醒さん為に、古道に積もる木の勢をかきわけて天照す神の足跡を見んとよめり。よく味わうべし。大御神の足跡のあるところ、真の神道なり」
尊徳は天照大御神始め皇祖皇宗が日本の国を開き建ててゆかれた「開国の道」「開聞の大道」そのものが「皇国本源の道」であり、これを神道と言っている。日本は儒教や仏教が伝来するはるか以前に立派な国が建てられ営々たる国づくりが行われてきたが、そこには日本本来のすぐれた大道が存したのである。儒仏が入るまで日本人は決して未開の野蛮人であったわけではない。儒教仏教が入ってからそれがわが国本来の神道と共存調和し、両者が「治国治心の道」として日本人に受容されたのであった。
尊徳はこの歌につきこう説明している。
「古道とは皇国固有の大道をいう。積もる木の葉とは儒仏を始め諸子百家の書籍の多きをいう。それ皇国固有の大道は今現に存すれども儒仏諸子百家の書籍の木の葉に蓋われて見えぬなれば、これを見んとするにはこの木の葉の書籍をかきわけて大御神の御足の跡はいずこにあるぞと尋ねざれば、真の神道を見ることは出来ざるなり。汝等落ち積りたる木の葉に目を付くるは大なる間違いなり。落ち積りたる木の葉を掛きかけ捨て大道を得ること勤めよ。しからざれば真の大道は決して得ることはならぬなり」
尊徳の神道観は本居宣長によって大成された国学の神道観と根本的に同じである。かくの如き尊徳が真に敬神尊皇の人物であったことはいうまでもない。
天地の神と皇との恵みにて世を安く経る徳に報えや天地の君と親との恵みにて世を安らはむ徳に報えやこの二首こそ尊徳の全精神を凝縮したものである。 
 

 

至誠・勤労・分度・推譲
尊徳の報徳の道をもう少し具体的な言葉に置き換えるとこうなる。
「至誠を以て本となし、勤労を以て主となし、分度を立て、推譲を行う」
推譲とは慈悲の心、利他の精神を以て世のため人のため自己を捧げる心と行為で、収入の幾分かを将来の備え、子孫に残し他人を救助し社会や国の為に提供することである。
分度と推譲につき尊徳はこうのべている。
「わが方法は分度(収入に応じた生活、財政規模)を定むるを以て本とす。この分度確乎と立てこれを守る事厳なれば荒地何程あるも何をか懼れ何をか患えん。わが富国安民の法は分度を定むるの一つなればなり」
「吾が道は分限を守るを以て本となし、分内(自己の収入の内)を譲るを以て仁となす」
「わが教え倹約を専らにすと。倹約を専らとするにはあらず、変に備えんが為なり」
「人として一日も推譲なければ人倫の道(人の踏むべき正しい道)立たず。推譲は人の道なり。争奪は禽獣の道なり」
「われ劫より人の禽獣に異なる所以は、一の譲道(推譲のこと) にあるを察せしより以来すでに五十年もっぱら譲って怠らず。これゆえにあるいは廃邑(荒廃した村)を興しこれを富ましめ、あるいは衰国(衰退した藩)を再生して百姓を撫育(幸福にすること) これを安んじ上下の憂苦を除くも他なし、この譲道を主として行うがゆえなり」
尊徳というと単に勤倹貯蓄の人と思われがちだが、「勤倹推譲」が尊徳の真精神であった。
至誠を本に勤勉に働き生涯質素倹約につとめ貯蓄に励んだのは、公の為に惜し気なく「推譲」することにあったからである。 
十年の忍耐
尊徳の事業は大体長期的なものであり、その場凌ぎの仕事は飢饉の際の応急措置以外にない。尊徳は基本的に十年を目途に忍耐強く不屈不凍の努力をした。尊徳はいう。
「およそ事を成さんとして成就せざるものは、速かなることを欲して一挙にその業を遂げんとするがゆえなり」
「一挙にやりとげようとすると失敗する」
「仕事をするに急いではならぬ」
「大事業はあせってはならぬ」
数十年間も荒廃、衰退した農村や藩の再建という多くの困難の横たわる大事業はとても二、三年あるいは四、五年では出来ない。最低十年ほどの長年月を要する。尊徳は桜町の復興に十年を費した。その間村人の習慣と化した怠惰、反対派の抵抗、上役の妨害等の困難と戦った。
八年目に遂に行詰り成田不動で命がけの断食祈願までやった。真の再建、改革がいかにむつかしいものかを肌身で味わった尊徳の金言である。
今日わが国では根本的改革が叫ばれている。
しかし平成時代に入ってから首相は十二人も交代した。一人平均の在職期間は二年に満たない。
わずか一、二年で一体何が出来ようか。
たとえいかに有能であってもほとんど何も出来ない。
結局場当り仕事、大衆迎合・人気取りの政治、枝葉末節に終始し真に価値ある仕事、抜本的変革は到底不可能である。尊徳のみならず江戸期の顕著な改革者の事業はやはり時間がかかっている。上杉鷹山の半沢藩再建は三十年、最も短期でなしとげた備中杉山藩の山田方谷でも八年ないし十年である。
困難な大事業を行う場合、何より大切なことはその場凌ぎに陥らず大衆迎合に走らず大局に立ち長期的展望を見失わず五十年百年先を考え、真に国家社会に禅益することを根本としなければならない。尊徳はこれを「永生の御為第一」、また「成功を永遠に期しその比較を天地にとる」といっている。
尊徳最後の仕事は幕府領日光神領の復興であった。日光東照宮のあるこの地は九十一ケ村二万名だが、四分の一が荒廃していた。嘉永六年(一八五三)六十七歳の尊徳は同年春病いに倒れたがやがて回復、七月神領の全村を巡回し復興を開始した。だが二年後再び病床に臥し亡くなる。
しかし事業は子息禰太郎や高弟富田高慶らの手により明治元年まで十六年間継続された。荒地九百町を三十年間で開墾する予定だったがその半分をやりとげ大きな成果が上った。
最期を迎えたとき尊徳が子女及び弟子たちへ遺した言葉がこれである。
「鳥のまさに死せんとするその鳴くや哀し。人のまさに死せんとするその言や善し。慎めよや小子(子供、弟子のこと)。速かならんことを欲するなかれ。速かならんと欲すれば則ち大事を乱る。勤めよや、小子。倦むなかれ」
尊徳と並ぶもう一人の人物、上杉鷹山は「事は速成を望むべからず」「永く堪忍すべし」と言っている。江戸期最大の偉人の至言は符節を合わせている。 
尊徳の精神は不滅
尊徳は安政三年(一八五六)十月二十日、日光今市で亡くなった。享年七十歳。内助の限りを尽した波子、長男爾太郎、長女文子とその夫富田高慶、次弟の伯父萬兵衛の本家を嗣いだ二宮三郎左衛門と弟子たちに見送られての大往生であった。
死後、尊徳の精神、事業は禰太郎と富田ら数多い弟子たちにより関東、東海、甲信越、東北、関西等各地で長らく継承された。
一番弟子の富田は師逝去直後いまだ涙の乾かぬ翌十一月、一気に『報徳記』を著した。
この書こそ尊徳の真面目、精神、事業を括写した不朽の名著である。本書は明治十四年、天覧を賜った。明治天皇は深く感銘され十六年、宮内省に刊行を命じ全国の知事に配布された。また二十年、尊徳を知る上に欠くべからざるもう一つの書「二宮翁夜話」(高弟福住正兄著)が天覧を賜った。
明治二十四年、特旨により尊徳に従四位が贈られた。そして二十七年小田原、三十年日光今市に二宮神社が建立された。小学校の修身教科書に登場したのが明治三十七年、はじめて銅像がつくられたのが三十四年、全国のほとんどの小学校に建てられたのが昭和十年前後である。尊徳の伝記、物語は戦前ことに多く全部で二百以上に上る。
尊徳は戦後忘れ去られたかに見える。
しかし尊徳により救われた各地ではその感化と影響はとだえることなく、心ある人々によりその精神がうけつがれている。尊徳にかかわり深い各地の人々は平成時代になってから「全国報徳サミット」を挙行し今年で十二回目となる。また東北のある町では、「至誠・勤労・分度・推譲」を町の一指針として掲げている。金次郎の銅像を校庭に復活する動きが少しずつ出てきている。
尊徳ほどの大偉人はいかに否定し葬り去ろうとしても到底不可能であり、必ずその人物と事業は再評価されずにはおかないのである。
なぜならば尊徳を抹殺することは、日本人の自己否定であるからである。
日本人が真に日本人であろうとする限り、尊徳は必ず日本人の心に蘇らずにはいないのである。 
万世の模範
尊徳は一農民として出発したが、農村復興の大事業家であり、藩政再建の政治的経済的指導者すなわち経世家、政治家、財政家であり、土木技術者であり、教育者であり、宗教家でもあった。
政治、経済、農業、技術、教育教化等の各分野において実に多面的な大活躍をしたとてつもない巨人であった。
尊徳を単に正直、勤勉で慈悲深い善人と見るなら的はずれである。
戦前の修身教科書に最も多く登場し誰一人知らぬ者はなかったが、多くは尊徳を見損った。修身に出てくる話は小学生向きの子供時代の逸話が主だから、戦前の人々といえども後半生の尊徳についてはあまり知らず、尊徳の人物を矮小化してうけとめている人が多い。
また苦学力行勤倹貯蓄の人として通俗化、功利化、化石化された形で理解している人も少なくない。
つまり戦前の修身教育は大人物たる尊徳を子供向きに小さくしてしまったきらいがある。しかし尊徳の人物、精神、才幹並びに事業は万世に吃立している。尊徳ほど英気凛々として恭謙なる偉傑は稀有である。
明治二十七年英文で 『代表的日本人』 を書き欧米人に大きな反響をまきおこした内村鑑三はこうのべている。
「英米人の最も驚嘆せしは二宮尊徳先生なりしという。彼らが異教国と称するこの国にかくの如き高潔偉大の聖人あらんとは、彼らの意外とせしところとなると見ゆ。もし英米人がつまびらかに先生の性行(性格、行為)閲歴(生涯)を知り得たらんには、おそらく先生をもって世界における最高最大の一人に数うるならん。英人は世界の宝庫といわるるインドを有するよりも、シェークスピア全集を有するを誇りとなす。否、シェークスピア全集を有するは誇りにあらず、シェークスピアその人を生じたるをもって光栄となすという。しからばわが日本は、この二宮先生を有するにおいて至大の光栄となすべきか」
決して褒め過ぎではなく、至言である。
わが国が二宮尊徳という人物をもちえたことは、日本人として最大の誇りの一つである。名利を求めず報恩報徳、大慈大悲の推議、利他の心をもって献身奉仕の崇高極まりない至誠の生涯を貫いた二宮尊徳は、世界のいかなる宗教的道徳的偉人に優る古今独歩の大聖大徳であり、救世済民の比類なき一大経世家であった。二宮尊徳こそ日本民族の至宝の一人、万世の模範として永久に仰がれるべき人物にほかならない。 
 
後世への最大遺物 / 内村鑑三

 

はしがき
この小冊子は、明治二十七年七月相州箱根駅において開設せられしキリスト教徒第六夏期学校において述べし余よの講話を、同校委員諸子の承諾を得てここに印刷に附せしものなり。
事、キリスト教と学生とにかんすること多し、しかれどもまた多少一般の人生問題を論究せざるにあらず、これけだし余の親友京都便利堂主人がしいてこれを発刊せしゆえなるべし、読者の寛容を待つ。
明治三十年六月二十日 東京青山において   内村鑑三
再版に附する序言
一篇のキリスト教的演説、別にこれを一書となすの必要なしと思いしも、前発行者の勧告により、印刷に附して世に公おおやけにせしに、すでに数千部を出いだすにいたれり、ここにおいて余はその多少世道人心を裨益ひえきすることもあるを信じ、今また多くの訂正を加えて、再版に附することとはなしぬ、もしこの小冊子にしてなお新福音を宣伝するの機械となるを得ば余よの幸福何ぞこれに如しかん。
明治三十二年十月三十日 東京角筈村において   内村鑑三
改版に附する序
この講演は明治二十七年、すなわち日清戦争のあった年、すなわち今より三十一年前、私がまだ三十三歳の壮年であったときに、海老名えびな弾正だんじょう君司会のもとに、箱根山上、蘆の湖の畔ほとりにおいてなしたものであります。その年に私の娘のルツ子が生まれ、私は彼女を彼女の母とともに京都の寓居に残して箱根へ来て講演したのであります。その娘はすでに世を去り、またこの講演を一書となして初めて世に出した私の親友京都便利堂主人中村弥左衛門君もツイこのごろ世を去りました。その他この書成って以来の世の変化は非常であります。多くの人がこの書を読んで志を立てて成功したと聞きます。その内に私と同じようにキリスト信者になった者もすくなくないとのことであります。そして彼らの内にある者は早くすでに立派にキリスト教を「卒業」して今は背教者をもって自から任ずる者もあります。またはこの書によって信者になりて、キリスト教的文士となりて、その攻撃の鉾ほこを著者なる私に向ける人もあります。実に世はさまざまであります。そして私は幸いにして今日まで生存いきながらえて、この書に書いてあることに多く違たがわずして私の生涯を送ってきたことを神に感謝します。この小著そのものが私の「後世への最大遺物」の一つとなったことを感謝します。「天地無始終てんちしじゅうなく、人生有生死じんせいせいしあり」であります。しかし生死ある人生に無死の生命を得るの途が供えてあります。天地は失うせても失せざるものがあります。そのものをいくぶんなりと握るを得て生涯は真の成功であり、また大なる満足であります。私は今よりさらに三十年生きようとは思いません。しかし過去三十年間生き残ったこの書は今よりなお三十年あるいはそれ以上に生き残るであろうとみてもよろしかろうと思います。終りに臨のぞんで私はこの小著述をその最初の出版者たる故中村弥左衛門君に献じます。君の霊の天にありて安からんことを祈ります。
大正十四年(一九二五年)二月二十四日 東京市外柏木において   内村鑑三 
第一回  

 

時は夏でございますし、処ところは山の絶頂でございます。それでここで私が手を振り足を飛ばしまして私の血に熱度を加えて、諸君の熱血をここに注ぎ出すことはあるいは私にできないことではないかも知れません、しかしこれは私の好まぬところ、また諸君もあまり要求しないところだろうと私は考えます。それでキリスト教の演説会で演説者が腰を掛けて話をするのはたぶんこの講師が嚆矢こうしであるかも知れない(満場大笑)、しかしながらもしこうすることが私の目的に適かなうことでございますれば、私は先例を破ってここであなたがたとゆっくり腰を掛けてお話をしてもかまわないと思います。これもまた破壊党の所業だと思おぼし召されてもよろしゅうございます(拍手喝采)。
そこで私は「後世への最大遺物」という題を掲げておきました。もしこのことについて私の今まで考えましたことと今感じますることとをみな述べまするならば、いつもの一時間より長くなるかも知れませぬ。もし長くなってつまらなくなったなら勝手にお帰りなすってください、私もまたくたびれましたならばあるいは途中で休みを願うかも知れませぬ。もしあまり長くなりましたならば、明朝の一時間も私の戴いた時間でございますからそのときに述べるかも知れませぬ。ドウゾこういう清い静かなところにありまするときには、東京やまたはその他の騒がしいところでみな気の立っているところでするような騒がしい演説を私はしたくないです。私はここで諸君と膝を打ち合せて私の所感そのままを演説し、また諸君の質問にも応じたいと思います。
この夏期学校に来ますついでに私は東京に立ち寄り、そのとき私の親爺おやじと詩の話をいたしました。親爺が山陽さんようの古い詩を出してくれました。私が初めて山陽の詩を読みましたのは、親爺からもらったこの本でした(本を手に持って)。でこの夏期学校にくるついでに、その山陽の本を再ふたたび持ってきました。そのなかに私の幼ちいさいときに私の心を励ました詩がございます。その詩は諸君もご承知のとおり山陽の詩の一番初めに載のっている詩でございます、「十有三春秋じゅうゆうさんしゅんじゅう、逝者已如水ゆくものはすでにみずのごとし、天地無始終てんちしじゅうなく、人生有生死じんせいせいしあり、安得類古人いずくんぞこじんにるいして、千載列青史せんざいせいしにれっするをえん」。有名の詩でございます、山陽が十三のときに作った詩でございます。それで自分の生涯を顧みてみますれば、まだ外国語学校に通学しておりまする時分じぶんにこの詩を読みまして、私も自おのずから同感に堪たえなかった。私のようにこんなに弱いもので子供のときから身体からだが弱よおうございましたが、こういうような弱い身体であって別に社会に立つ位置もなし、また私を社会に引ッ張ってくれる電信線もございませぬけれども、ドウゾ私も一人の歴史的の人間になって、そうして千載青史に列するを得うるくらいの人間になりたいという心がやはり私にも起ったのでございます。その欲望はけっして悪い欲望とは思っていませぬ。私がそのことを父に話し友達に話したときに彼らはたいへん喜んだ。「汝にそれほどの希望があったならば汝の生涯はまことに頼もしい」といって喜んでくれました。ところが不意にキリスト教に接し、通常この国において説かれましたキリスト教の教えを受けたときには、青年のときに持ったところの千載青史に列するを得んというこの欲望が大分なくなってきました。それで何となく厭世的えんせいてきの考えが起ってきた。すなわち人間が千載青史に列するを得んというのは、まことにこれは肉欲的、不信者的、heathenヒーゼン 的の考えである、クリスチャンなどは功名を欲することはなすべからざることである、われわれは後世に名を伝えるとかいうことは、根コソギ取ってしまわなければならぬ、というような考えが出てきました。それゆえに私の生涯は実に前の生涯より清い生涯になったかも知れませぬ。けれども前のよりはつまらない生涯になった。マーどうかなるだけ罪を犯さないように、なるだけ神に逆らって汚けがらわしいことをしないように、ただただ立派にこの生涯を終ってキリストによって天国に救われて、未来永遠の喜びを得んと欲する考えが起ってきました。 
そこでそのときの心持ちはなるほどそのなかに一種の喜びがなかったではございませぬけれども、以前の心持ちとは正反対の心持ちでありました。そうしてこの世の中に事業をしよう、この世の中に一つ旗を挙げよう、この世の中に立って男らしい生涯を送ろう、という念がなくなってしまいました。ほとんどなくなってしまいましたから、私はいわゆる坊主臭い因循的いんじゅんてきの考えになってきました。それでまた私ばかりでなく私を教えてくれる人がソウでありました。たびたび……ここには宣教師はおりませぬから少しは宣教師の悪口をいっても許してくださるかと思いまするが……宣教師のところに往いって私の希望を話しますると、「あなたはそんな希望を持ってはいけませぬ、そのようなことはそれは欲心でございます、それはあなたのまだキリスト教に感化されないところの心から起ってくるのです」というようなことを聞かされないではなかった。私は諸君たちもソウいうような考えにどこかで出会ったことはないことはないだろうと思います。なるほど千載青史に列するを得んということは、考えのいたしようによってはまことに下等なる考えであるかも知れませぬ。われわれが名をこの世の中に遺のこしたいというのでございます。この一代のわずかの生涯を終ってそのあとは後世の人にわれわれの名を褒め立ってもらいたいという考え、それはなるほどある意味からいいますると私どもにとっては持ってはならない考えであると思います。ちょうどエジプトの昔の王様が己おのれの名が万世に伝わるようにと思うてピラミッドを作った、すなわち世の中の人に彼は国の王であったということを知らしむるために万民の労力を使役して大きなピラミッドを作ったというようなことは、実にキリスト信者としては持つべからざる考えだと思われます。有名な天下の糸平が死ぬときの遺言ゆいごんは「己れのために絶大の墓を立てろ」ということであったそうだ。そうしてその墓には天下の糸平と誰か日本の有名なる人に書いてもらえと遺言した。それで諸君が東京の牛うしの御前ごぜに往いってごらんなさると立派な花崗石かこうせきで伊藤博文さんが書いた「天下之糸平」という碑が建っております。それは、その千載にまで天下の糸平をこの世の中に伝えよというた糸平の考えは、私はクリスチャン的の考えではなかろうと思います。またそういう例がほかにもたくさんある。このあいだアメリカのある新聞で見ましたに、ある貴婦人で大金持の寡婦やもめが、「私はドウゾ死んだ後に私の名を国人に覚えてもらいたい、しかし自分の持っている金を学校に寄附するとかあるいは病院に寄附するとかいうことは普通の人のなすところなれば、私は世界中にないところの大なる墓を作ってみたい、そうして千載に記憶されたい」という希望を起した。先日その墓が成ったそうでございます。ドンナに立派な墓であるかは知りませぬけれども、その計算に驚いた、二百万ドルかかったというのでございます。二百万ドルの金をかけて自分の墓を建ったのは確かにキリスト教的の考えではございません。 
しかしながらある意味からいいますれば、千載青史に列するを得んという考えは、私はそんなに悪い考えではない、ないばかりでなくそれは本当の意味にとってみまするならば、キリスト教信者が持ってもよい考えでございまして、それはキリスト信者が持つべき考えではないかと思います、なお、われわれの生涯の解釈から申しますると、この生涯はわれわれが未来に往く階段である。ちょうど大学校にはいる前の予備校である。もしわれわれの生涯がわずかこの五十年で消えてしまうものならば実につまらぬものである。私は未来永遠に私を準備するためにこの世の中に来て、私の流すところの涙も、私の心を喜ばしむるところの喜びも、喜怒哀楽きどあいらくのこの変化というものは、私の霊魂をだんだんと作り上げて、ついに私は死なない人間となってこの世を去ってから、もっと清い生涯をいつまでも送らんとするは、私の持っている確信でございます。しかしながらそのことは純粋なる宗教問題でございまして、それは私の今晩あなたがたにお話をいたしたいことではございません。
しかしながら私にここに一つの希望がある。この世の中をズット通り過ぎて安らかに天国に往き、私の予備学校を卒業して天国なる大学校にはいってしまったならば、それでたくさんかと己れの心に問うてみると、そのときに私の心に清い欲が一つ起ってくる。すなわち私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない、との希望が起ってくる。ドウゾ私は死んでからただに天国に往くばかりでなく、私はここに一つの何かを遺して往きたい。それで何もかならずしも後世の人が私を褒めたってくれいというのではない、私の名誉を遺したいというのではない、ただ私がドレほどこの地球を愛し、ドレだけこの世界を愛し、ドレだけ私の同胞を思ったかという記念物をこの世に置いて往きたいのである、すなわち英語でいう Mementoメメント を残したいのである。こういう考えは美しい考えであります。私がアメリカにおりましたときにも、その考えがたびたび私の心に起りました。私は私の卒業した米国の大学校を去るときに、同志とともに卒業式の当日に愛樹を一本校内に植えてきた。これは私が四年も育てられた私の学校に私の愛情を遺しておきたいためであった。なかには私の同級生で、金のあった人はそればかりでは満足しないで、あるいは学校に音楽堂を寄附するもあり、あるいは書籍館を寄附するもあり、あるいは運動場を寄附するもありました。
しかるに今われわれは世界というこの学校を去りまするときに、われわれは何もここに遺さずに往くのでございますか。その点からいうとやはり私には千載青史に列するを得んという望みが残っている。私は何かこの地球に Memento を置いて逝ゆきたい、私がこの地球を愛した証拠を置いて逝きたい、私が同胞を愛した記念碑を置いて逝きたい。それゆえにお互いにここに生まれてきた以上は、われわれが喜ばしい国に往くかも知れませぬけれども、しかしわれわれがこの世の中にあるあいだは、少しなりともこの世の中を善くして往きたいです。この世の中にわれわれの Memento を遺して逝きたいです。有名なる天文学者のハーシェルが二十歳ばかりのときに彼の友人に語って「わが愛する友よ、われわれが死ぬときには、われわれが生まれたときより、世の中を少しなりともよくして往こうではないか」というた。実に美しい青年の希望ではありませんか。「この世の中を、私が死ぬときは、私の生まれたときよりは少しなりともよくして逝こうじゃないか」と。ハーシェルの伝記を読んでごらんなさい。彼はこの世の中を非常によくして逝った人であります。今まで知られない天体を全まったく描いて逝った人であります。南半球の星を、何年間かアフリカの希望峰植民地に行きまして、スッカリ図に載せましたゆえに、今日の天文学者の知識はハーシェルによってドレだけ利益を得たか知れない。それがために航海が開け、商業が開け、人類が進歩し、ついには宣教師を外国にやることが出き、キリスト教伝播の直接間接の助けにどれだけなったか知れませぬ。われわれもハーシェルと同じに互いにみな希望 Ambitionアムビション を遂とげとうはございませぬか。われわれが死ぬまでにはこの世の中を少しなりとも善くして死にたいではありませんか。何か一つ事業を成し遂げて、できるならばわれわれの生まれたときよりもこの日本を少しなりともよくして逝きたいではありませんか。この点についてはわれわれ皆々同意であろうと思います。 
それでこの次は遺物のことです。何を置いて逝こう、という問題です。何を置いてわれわれがこの愛する地球を去ろうかというのです。そのことについて私も考えた、考えたばかりでなくたびたびやってみた。何か遺したい希望があってこれを遺そうと思いました。それで後世への遺物もたくさんあるだろうと思います。それを一々お話しすることはできないことでございます。けれども、このなかに第一番にわれわれの思考に浮ぶものからお話しをいたしたいと思います。
後世へわれわれの遺すもののなかにまず第一番に大切のものがある。何であるかというと金です。われわれが死ぬときに遺産金を社会に遺して逝く、己の子供に遺して逝くばかりでなく、社会に遺して逝くということです、それは多くの人の考えにあるところではないかと思います。それでソウいうことをキリスト信者の前にいいますると、金かねを遺すなどということは実につまらないことではないかという反対がジキに出るだろうと思います。私は覚えております。明治十六年に初めて札幌から山男になって東京に出てきました。その時分に東京には奇体きたいな現象があって、それを名づけてリバイバルというたのです。その時分私は後世に何を遺さんかと思っておりしかというに、私は実業教育を受けたものであったから、もちろん金を遺したかった、億万の富を日本に遺して、日本を救ってやりたいという考えをもっておりました。自分には明治二十七年になったら、夏期学校の講師に選ばれるという考えは、その時分にはチットもなかったのです(満場大笑)。金を遺したい、金満家になりたい、という希望を持っておったのです。ところがこのことをあるリバイバルに非常に熱心の牧師先生に話したところが、その牧師さんに私は非常に叱られました。「金を遺したい、というイクジのない、そんなものはドウにもなるから、君は福音のために働きたまえ」というて戒いましめられた。しかし私はその決心を変更しなかった。今でも変更しない。金を遺すものを賤いやしめるような人はやはり金のことに賤しい人であります、吝嗇けちな人であります。金というものは、ここで金の価値について長い講釈をするには及びませぬけれども、しかしながら金というものの必要は、あなたがた十分に認めておいでなさるだろうと思います。金は宇宙のものであるから、金というものはいつでもできるものだという人に向って、フランクリンは答えて「そんなら今拵こしらえてみたまえ」と申しました。それで私に金などは要いらないというた牧師先生はドウいう人であったかというに、後で聞いてみると、やはりずいぶん金を欲しがっている人だそうです。それで金というものは、いつでも得られるものであるということは、われわれが始終持っている考えでございますけれども、実際金の要いるときになってから金というものは得るに非常にむずかしいものです。そうしてあるときは富というものは、どこでも得られるように、空中にでも懸っているもののように思いますけれども、その富を一つに集めることのできるものは、これは非常に神の助けを受くる人でなければできないことであります。ちょうど秋になって雁かりは天を飛んでいる。それは誰が捕とってもよい。しかしその雁を捕ることはむずかしいことであります。人間の手に雁が十羽なり二十羽なり集まってあるならば、それに価値があります。すなわち、手の内の一羽の雀は木の上におるところの二羽の雀より貴い、というのはこのことであります。そこで金というものは宇宙に浮いているようなものでございますけれども、しかしながらそれを一つにまとめて、そうして後世の人がこれを用いることができるように溜ためて往かんとする欲望が諸君のうちにあるならば、私は私の満腔まんこうの同情をもって、イエス・キリストの御名みなによって、父なる神の御名によって、聖霊の御名によって、教会のために、国のために、世界のために、「君よ、金を溜めたまえ」というて、このことをその人に勧めるものです。富というものを一つにまとめるということは一大事業です。それでわれわれの今日の実際問題は社会問題であろうと、教会問題であろうと、青年問題であろうと、教育問題であろうとも、それを煎せんじつめてみれば、やはり金銭問題です。ここにいたって誰が金が不要だなぞというものがありますか。ドウゾ、キリスト信者のなかに金持が起ってもらいたいです、実業家が起ってもらいたいです。われわれの働くときに、われわれの後楯うしろだてになりまして、われわれの心を十分にわかった人がわれわれを見継みついでくれるということは、われわれの目下の必要でございます。それで金を後世に遺そうという欲望を持っているところの青年諸君が、その方に向って、神の与えたる方法によって、われわれの子孫にたくさん金を遺してくださらんことを、私は実に祈ります。アメリカの有名なるフィラデルフィアのジラードというフランスの商人が、アメリカに移住しまして、建てた孤児院を、私は見ました。これは世界第一番の孤児院です。およそ小学生徒くらいのものが七百人ばかりおります。中学、大学くらいまでの孤児をズッとならべますならば、たぶん千人以上のように覚えました。その孤児院の組織を見まするに、われわれの今日こんにち日本にあるところの孤児院のように、寄附金の足らないために事業がさしつかえるような孤児院ではなくして、ジラードが生涯かかって溜めた金をことごとく投じて建てたものです。ジラードの生涯を書いたものを読んでみますると、なんでもない、ただその一つの目的をもって金を溜めたのです。彼に子供はなかった、妻君も早く死んでしまった。「妻はなし、子供はなし、私には何にも目的はない。けれども、どうか世界第一の孤児院を建ってやりたい」というて、一生懸命に働いて拵こしらえた金で建てた孤児院でございます。その時分はアメリカ開国の早いころでありましたから、金の溜め方が今のように早くゆかなかった。しかし一生涯かかって溜めたところのものは、おおよそ二百万ドルばかりでありました。それをもってペンシルバニア州に人の気のつかぬ地面をたくさん買った。それで死ぬときに、「この金をもって二つの孤児院を建てろ、一つはおれを育ててくれたところのニューオルリーンズに建て、一つはおれの住んだところのフィラデルフィアに建てろ」と申しました。それで妙な癖があった人とみえまして、教会というものをたいそう嫌ったのです。それで「おれは別にこの金を使うことについて条件はつけないけれども、おれの建ったところの孤児院のなかに、デノミネーションすなわち宗派の教師は誰でも入れてはならぬ」という稀代きたいな条件をつけて死んでしまった。それゆえに、今でもメソジストの教師でも、監督教会の教師でも、組合教会の教師でも、この孤児院にははいることはお気の毒でございますけれどもできませぬ(大笑)。そのほかは誰でもそこにはいることができる。それでこの孤児院の組織のことは長いことでございますから、今ここにお話し申しませぬけれども、前に述べた二百万ドルをもって買い集めましたところの山です。それが今日のペンシルバニア州における石炭と鉄とを出す山でございます。実に今日の富はほとんど何千万ドルであるかわからない。今はどれだけ事業を拡張してもよい、ただただ拡張する人がいないだけです。それでもし諸君のうち、フィラデルフィアに往く方があれば、一番にまずこの孤児院を往って見ることをお勧め申します。 
また有名なる慈善家ピーボディーはいかにして彼の大業を成したかと申しまするに、彼が初めてベルモントの山から出るときには、ボストンに出て大金持ちになろうという希望を持っておったのでございます。彼は一文なしで故郷を出てきました。それでボストンまではその時分はもちろん汽車はありませんし、また馬車があっても無銭ただでは乗れませぬから、ある旅籠屋はたごやの亭主に向い、「私はボストンまで往かなければならぬ、しかしながら日が暮れて困るから今夜泊めてくれぬか」というたら、旅籠屋の亭主が、可愛想だから泊めてやろう、というて喜んで引き受けた。けれどもそのときにピーボディーは旅籠屋の亭主に向って「無銭ただで泊まることは嫌いやだ、何かさしてくれるならば泊まりたい」というた。ところが旅籠屋の亭主は「泊まるならば自由に泊まれ」というた。しかしピーボディーは、「それではすまぬ」というた。そうして家を見渡したところが、裏に薪がたくさん積んであった。それから「御厄介になる代りに、裏の薪を割らしてください」というて旅籠屋の亭主の承諾を得て、昼過ぎかかって夜まで薪を挽ひき、これを割り、たいていこのくらいで旅籠賃に足ると思うくらいまで働きまして、そうして後に泊まったということであります。そのピーボディーは彼の一生涯を何に費ついやしたかというと、何百万ドルという高は知っておりませぬけれども、金を溜めて、ことに黒人の教育のために使った。今日アメリカにおります黒人がたぶん日本人と同じくらいの社交的程度に達しておりますのは何であるかというに、それはピーボディーのごとき慈善家の金の結果であるといわなければなりません。私は金のためにはアメリカ人はたいへん弱い、アメリカ人は金のためにはだいぶ侵害されたる民たみであるということも知っております、けれどもアメリカ人のなかに金持ちがありまして、彼らが清き目的をもって金を溜めそれを清きことのために用うるということは、アメリカの今日の盛大をいたした大原因であるということだけは私もわかって帰ってきました。それでもしわれわれのなかにも、実業に従事するときにこういう目的をもって金を溜める人が出てきませぬときには、本当の実業家はわれわれのなかに起りませぬ。そういう目的をもって実業家が起りませぬならば、彼らはいくら起っても国の益になりませぬ。ただただわずかに憲法発布式のときに貧乏人に一万円……一人に五十銭か六十銭くらいの頭割をなしたというような、ソンナ慈善はしない方がかえってよいです。三菱のような何千万円というように金を溜めまして、今日まで……これから三菱は善い事業をするかと信じておりますけれども……今日まで何をしたか。彼自身が大いに勢力を得、立派な家を建て立派な別荘を建てましたけれども、日本の社会はそれによって何を利益したかというと、何一つとして見るべきものはないです。それでキリスト教信者が立ちまして、キリスト信徒の実業家が起りまして、金を儲もうけることは己れのために儲けるのではない、神の正しい道によって、天地宇宙の正当なる法則にしたがって、富を国家のために使うのであるという実業の精神がわれわれのなかに起らんことを私は願う。そういう実業家が今日わが国に起らんことは、神学生徒の起らんことよりも私の望むところでございます。今日は神学生徒がキリスト信者のなかに十人あるかと思うと、実業家は一人もないです。百人あるかと思うと実業家は一人もない。あるいは千人あるかと思うと、一人おるかおらぬかというくらいであります。金をもって神と国とに事つかえようという清き考えを持つ青年がない。よく話に聴きまするかの紀ノ国屋文左衛門が百万両溜めて百万両使ってみようなどという賤しい考えを持たないで、百万両溜めて百万両神のために使って見ようというような実業家になりたい。そういう実業家が欲しい。その百万両を国のために、社会のために遺して逝こうという希望は実に清い希望だと思います。今日私が自身に持ちたい望みです。もし自身にできるならばしたいことですが、ふしあわせにその方の伎倆は私にはありませぬから、もし諸君のなかにその希望がありますならば、ドウゾ今の教育事業とかに従事する人たちは、「汝の事業は下等の事業なり」などというて、その人を失望させぬように注意してもらいたい。またそういう希望を持った人は、神がその人に命じたところの考えであると思うて十分にそのことを自から奨励されんことを望む。あるアメリカの金持ちが「私は汝にこの金を譲り渡すが、このなかに穢きたない銭ぜには一文もない」というて子供に遺産を渡したそうですが、私どもはそういう金が欲しいのです。 
それで後世への最大遺物のなかで、まず第一に大切のものは何であるかというに、私は金だというて、その金の必要を述べた。しかしながら何人も金を溜める力を持っておらない。私はこれはやはり一つの Geniusジーニアス(天才)ではないかと思います。私は残念ながらこの天才を持っておらぬ。ある人が申しまするに金を溜める天才を持っている人の耳はたいそう膨ふくれて下の方に垂れているそうですが、私は鏡に向って見ましたが、私の耳はたいそう縮んでおりますから、その天才は私にはないとみえます(大笑)。私の今まで教えました生徒のなかに、非常にこの天才を持っているものがある。ある奴やつは北海道に一文無しで追い払われたところが、今は私に十倍もする富を持っている。「今におれが貧乏になったら、君はおれを助けろ」というておきました。実に金儲けは、やはりほかの職業と同じように、ある人たちの天職である。誰にも金を儲けることができるかということについては、私は疑います。それで金儲けのことについては少しも考えを与えてはならぬところの人が金を儲けようといたしますると、その人は非常に穢きたなく見えます。そればかりではない、金は後世への最大遺物の一つでございますけれども、遺しようが悪いとずいぶん害をなす。それゆえに金を溜める力を持った人ばかりでなく、金を使う力を持った人が出てこなければならない。かの有名なるグールドのように彼は生きているあいだに二千万ドル溜めた。そのために彼の親友四人までを自殺せしめ、アチラの会社を引き倒し、コチラの会社を引き倒して二千万ドル溜めた。ある人の言に「グールドが一千ドルとまとまった金を慈善のために出したことはない」と申しました。彼は死ぬときにその金をどうしたかというと、ただ自分の子供にそれを分け与えて死んだだけであります。すなわちグールドは金を溜めることを知って、金を使うことを知らぬ人であった。それゆえに金を遺物としようと思う人には、金を溜める力とまたその金を使う力とがなくてはならぬ。この二つの考えのない人、この二つの考えについて十分に決心しない人が、金を溜めるということは、はなはだ危険のことだと思います。 
さて、私のように金を溜めることの下手なもの、あるいは溜めてもそれが使えない人は、後世の遺物に何を遺そうか。私はとうてい金持ちになる望みはない、ゆえにほとんど十年前にその考えをば捨ててしまった。それでもし金を遺すことができませぬならば、何を遺そうかという実際問題が出てきます。それで私が金よりもよい遺物は何であるかと考えて見ますと、事業です。事業とは、すなわち金を使うことです。金は労力を代表するものでありますから、労力を使ってこれを事業に変じ、事業を遺して逝くことができる。金を得る力のない人で事業家はたくさんあります。金持ちと事業家は二つ別物のように見える。商売する人と金を溜める人とは人物が違うように見えます。大阪にいる人はたいそう金を使うことが上手であるが、京都にいる人は金を溜めることが上手である。東京の商人に聞いてみると、金を持っている人には商売はできない、金のないものが人の金を使つこうて事業をするのであると申します。純粋の事業家の成功を考えてみまするに、けっして金ではない。グールドはけっして事業家ではない。バンダービルトはけっして事業家ではない。バンダービルトは非常に金を作ることが上手でございました。そして彼は他の人の事業を助けただけであります。有名のカルフォルニアのスタンフォードは、たいへん金を儲けることが上手であった。しかしながらそのスタンフォードに三人の友人がありました。その友人のことは面白い話でございますが、時がないからお話をしませぬけれども、金を儲けた人と、金を使う人と、数々あります。それですから金を溜めて金を遺すことができないならば、あるいは神が私に事業をなす天才を与えてくださったかも知れませぬ。もしそうならば私は金を遺すことができませぬとも、事業を遺せば充分満足します。それで事業をなすということは、美しいことであるはもちろんです。ドウいう事業が一番誰にもわかるかというと土木的の事業です。私は土木学者ではありませぬけれども、土木事業を見ることが非常に好きでございます。一つの土木事業を遺すことは、実にわれわれにとっても快楽であるし、また永遠の喜びと富とを後世に遺すことではないかと思います。今日も船に乗って、湖水の向こうまで往きました。その南の方に当って水門がある。その水門というは、山の裾をくぐっている一つの隧道ずいどうであります。その隧道を通って、この湖水の水が沼津の方に落ちまして、二千石乃至ないし三千石の田地を灌漑しているということを聞きました。昨日ある友人に会うて、あの穴を掘った話を聞きました。その話を聞いたときに私は実に嬉しかった。あの穴を掘った人は今からちょうど六百年も前の人であったろうということでございますが、誰が掘ったかわからない。ただこれだけの伝説が遺っているのでございます。すなわち箱根のある近所に百姓の兄弟があって、まことに沈着であって、その兄弟が互いに相語っていうに、「われわれはこの有難き国に生まれてきて、何か後世に遺して逝かなければならぬ、それゆえに何かわれわれにできることをやろうではないか」と。しかし兄なる者はいうた。「われわれのような貧乏人で、貧乏人には何も大事業を遺して逝くことはできない」というと、弟が兄に向っていうには、「この山をくり抜いて湖水の水をとり、水田を興してやったならば、それが後世への大なる遺物ではないか」というた。兄は「それは非常に面白いことだ、それではお前は上の方から掘れ、おれは下の方から掘ろう。一生涯かかってもこの穴を掘ろうじゃないか」といって掘り始めた。それでドウいうふうにしてやりましたかというと、そのころは測量器械もないから、山の上に標しるしを立って、両方から掘っていったとみえる。それから兄弟が生涯かかって何もせずに……たぶん自分の職業になるだけの仕事はしたでございましょう……兄弟して両方からして、毎年毎年掘っていった。何十年でございますか、その年は忘れましたけれども、下の方から掘ってきたものは、湖水の方から掘っていった者の四尺上に往ったそうでございます。四尺上に往きましたけれども御承知の通り、水は高うございますから、やはり竜吐水りゅうどすいのように向こうの方によく落ちるのです。生涯かかって人が見ておらないときに、後世に事業を遺そうというところの奇特きとくの心より、二人の兄弟はこの大事業をなしました。人が見てもくれない、褒めてもくれないのに、生涯を費してこの穴を掘ったのは、それは今日にいたってもわれわれを励ます所業ではありませぬか。それから今の五ヵ村が何千石だかどれだけ人口があるか忘れましたが、五ヵ村が頼朝よりとも時代から今日にいたるまで年々米を取ってきました。ことに湖水の流れるところでありますから、旱魃かんばつということを感じたことはございません。実にその兄弟はしあわせの人間であったと思います。もし私が何にもできないならば、私はその兄弟に真似たいと思います。これは非常な遺物です。たぶん今往ってみましたならば、その穴は長さたぶん十町かそこらの穴でありましょうが、そのころは煙硝えんしょうもない、ダイナマイトもないときでございましたから、アノ穴を掘ることは実に非常なことでございましたろう。 
大阪の天保山を切ったのも近ごろのことでございます。かの安治川あじがわを切った人は実に日本にとって非常な功績をなした人であると思います。安治川があるために大阪の木津川の流れを北の方に取りまして、水を速くして、それがために水害の患うれいを取り除いてしまったばかりでなく、深い港を拵こしらえて九州、四国から来る船をことごとくアソコに繋つなぐようになったのでございます。また秀吉の時代に切った吉野川は昔は大阪の裏を流れておって人民を艱なやましたのを、堺と住吉の間に開鑿かいさくしまして、それがために大和川の水害というものがなくなって、何十ヵ村という村が大阪の城の後ろにできました。これまた非常な事業です。それから有名の越後の阿賀川あがのがわを切ったことでございます。実にエライ事業でございます。有名の新発田しばたの十万石、今は日本においてたぶん富の中心点であるだろうという所でございます。これらの大事業を考えてみるときに私の心のなかに起るところの考えは、もし金を後世に遺すことができぬならば、私は事業を遺したいとの考えです。また土木事業ばかりでなく、その他の事業でももしわれわれが精神を籠こめてするときは、われわれの事業は、ちょうど金に利息がつき、利息に利息が加わってきて、だんだん多くなってくるように、一つの事業がだんだん大きくなって、終りには非常なる事業となります。
事業のことを考えますときに、私はいつでも有名のデビッド・リビングストンのことを思い出さないことはない。それで諸君のうち英語のできるお方に私はスコットランドの教授ブレーキの書いた“Lifeライフ andアンド Lettersレターズ ofオブ Davidデビッド Livingstoneリビングストン”という本を読んでごらんなさることを勧めます。私一個人にとっては聖書のほかに、私の生涯に大刺激を与えた本は二つあります。一つはカーライルの『クロムウェル伝』であります。そのことについては私は後にお話をいたします。それからその次にこのブレーキ氏の書いた『デビッド・リビングストン』という本です。それでデビッド・リビングストンの一生涯はどういうものであったかというと、私は彼を宗教家あるいは宣教師と見るよりは、むしろ大事業家として尊敬せざるをえません。もし私は金を溜めることができなかったならば、あるいはまた土木事業を起すことができぬならば、私はデビッド・リビングストンのような事業をしたいと思います。この人はスコットランドのグラスゴーの機屋はたやの子でありまして、若いときからして公共事業に非常に注意しました。「どこかに私は」……デビッド・リビングストンの考えまするに……「どこかに私は一事業を起してみたい」という考えで、始めは支那しなに往きたいという考えでありまして、その望みをもって英国の伝道会社に訴えてみたところが、支那に遣やる必要がないといって許されなかった。ついにアフリカにはいって、三十七年間己れの生命をアフリカのために差し出し、始めのうちはおもに伝道をしておりました。けれども彼は考えました、アフリカを永遠に救うには今日は伝道ではいけない。すなわちアフリカの内地を探検して、その地理を明かにしこれに貿易を開いて勢力を与えねばいけぬ、ソウすれば伝道は商売の結果としてかならず来るに相違ない。そこで彼は伝道を止めまして探検家になったのでございます。彼はアフリカを三度縦横に横ぎり、わからなかった湖水もわかり、今までわからなかった河の方向も定められ、それがために種々の大事業も起ってきた。しかしながらリビングストンの事業はそれで終らない、スタンレーの探検となり、ペーテルスの探検となり、チャンバーレンの探検となり、今日のいわゆるアフリカ問題にして一つとしてリビングストンの事業に原因せぬものはないのでございます。コンゴ自由国、すなわち欧米九ヵ国が同盟しまして、プロテスタント主義の自由国をアフリカの中心に立つるにいたったのも、やはりリビングストンの手によったものといわなければなりませぬ。 
今日の英国はエライ国である、今日のアメリカの共和国はエライ国であると申しますが、それは何から始まったかとたびたび考えてみる。それで私は尊敬する人について少しく偏するかも知れませぬが、もし偏しておったならばそのようにご裁判を願います、けれども私の考えまするには、今日のイギリスの大なるわけは、イギリスにピューリタンという党派が起ったからであると思います。アメリカに今日のような共和国の起ったわけは何であるか、イギリスにピューリタンという党派が起ったゆえである。しかしながらこの世にピューリタンが大事業を遺したといい、遺しつつあるというは何のわけであるかというと、何でもない、このなかにピューリタンの大将がいたからである。そのオリバー・クロムウェルという人の事業は、彼が政権を握ったのはわずか五年でありましたけれども、彼の事業は彼の死とともにまったく終ってしまったように見えますけれども、ソウではない。クロムウェルの事業は今日のイギリスを作りつつあるのです。しかのみならず英国がクロムウェルの理想に達するにはまだズッと未来にあることだろうと思います。彼は後世に英国というものを遺した。合衆国というものを遺した。アングロサクソン民族がオーストラリアを従え、南アメリカに権力を得て、南北アメリカを支配するようになったのも彼の遺蹟といわなければなりませぬ。 
第二回 

 

昨晩は後世へわれわれが遺して逝くべきものについて、まず第一に金のことの話をいたし、その次に事業のお話をいたしました。ところで金を溜める天才もなし、またそれを使う天才もなし、かつまた事業の天才もなし、また事業をなすための社会の位地もないときには、われわれがこの世において何をいたしたらよろしかろうか。事業をなすにはわれわれに神から受けた特別の天才が要いるばかりでなく、また社会上の位地が要る。われわれはあるときはかの人は天才があるのに何故なんにもしないでいるかといって人を責めますけれども、それはたびたび起る酷こくな責め方だと思います。人は位地を得ますとずいぶんつまらない者でも大事業をいたすものであります。位地がありませぬとエライ人でも志を抱いだいて空むなしく山間に終ってしまった者もたくさんあります。それゆえに事業をもって人を評することはできないことは明かなることだろうと思います。それゆえに私に事業の天才もなし、またこれをなすの位地もなし、友達もなし、社会の賛成もなかったならば、私は身を滅ぼして死んでしまい、世の中に何も遺すことはできないかという問題が起ってくる。それでもし私に金を溜めることができず、また社会は私の事業をすることを許さなければ、私はまだ一つ遺すものを持っています。何であるかというと、私の思想です。もしこの世の中において私が私の考えを実行することができなければ、私はこれを実行する精神を筆と墨とをもって紙の上に遺すことができる。あるいはそうでなくとも、それに似たような事業がございます。すなわち私がこの世の中に生きているあいだに、事業をなすことができなければ、私は青年を薫陶くんとうして私の思想を若い人に注いで、そうしてその人をして私の事業をなさしめることができる。すなわちこれを短くいいますれば、著述をするということと学生を教えるということであります。著述をすることと教育のことと二つをここで論じたい。しかしだいぶ時がかかりますからただその第一すなわち思想を遺すということについて私の文学的観察をお話ししたいと思います。すなわちわれわれの思想を遺すには今の青年にわれわれの志を注いでゆくも一つの方法でございますけれども、しかしながら思想そのものだけを遺してゆくには文学によるほかない。それで文学というものの要はまったくそこにあると思います。文学というものはわれわれの心に常に抱いているところの思想を後世に伝える道具に相違ない。それが文学の実用だと思います。それで思想の遺物というものの大なることはわれわれは誰もよく知っていることであります。思想のこの世の中に実行されたものが事業です。われわれがこの世の中で実行することができないからして、種子たねだけを播まいて逝こう、「われは恨みを抱いて、慷慨こうがいを抱いて地下に下らんとすれども、汝らわれの後に来る人々よ、折あらばわが思想を実行せよ」と後世へ言い遺すのである。それでその遺物の大おおいなることは実に著しいものであります。 
われわれのよく知っているとおり、二千年ほど前にユダヤのごくつまらない漁夫や、あるいはまことに世の中に知られない人々が、『新約聖書』という僅かな書物を書いた。そうしてその小さい本がついに全世界を改めたということは、ここにいる人にはお話しするほどのことはない、みなご存じであります。また山陽という人は勤王論を作った人であります。先生はドウしても日本を復活するには日本をして一団体にしなければならぬ。一団体にするには日本の皇室を尊んでそれで徳川の封建政治をやめてしまって、それで今日いうところの王朝の時代にしなければならぬという大思想を持っておった。しかしながら山陽はそれを実行しようかと思ったけれども、実行することができなかった。山陽ほどの先見のない人はそれを実行しようとして戦場の露と消えてしまったに相違ない。しかし山陽はソンナ馬鹿ではなかった。彼は彼の在世中とてもこのことのできないことを知っていたから、自身の志を『日本外史』に述べた。そこで日本の歴史を述ぶるに当っても特別に王室を保護するようには書かなかった。外家がいかの歴史を書いてその中にはっきりといわずとも、ただ勤王家の精神をもって源平以来の外家の歴史を書いてわれわれに遺してくれた。今日の王政復古を持ち来きたした原動力は何であったかといえば、多くの歴史家がいうとおり山陽の『日本外史』がその一つでありしことはよくわかっている。山陽はその思想を遺して日本を復活させた。今日の王政復古前後の歴史をことごとく調べてみると山陽の功の非常に多いことがわかる。私は山陽のほかのことは知りませぬ。かの人の私行については二つ三つ不同意なところがあります。彼の国体論や兵制論については不同意であります。しかしながら彼山陽の一つの Ambitionアムビション すなわち「われは今世に望むところはないけれども来世の人に大いに望むところがある」といった彼の欲望は私が実に彼を尊敬してやまざるところであります。すなわち山陽は『日本外史』を遺物として死んでしまって、骨は洛陽東山ひがしやまに葬ってありますけれども、『日本外史』から新日本国は生まれてきました。
イギリスに今からして二百年前に痩ッこけて丈せいの低いしじゅう病身な一人の学者がおった。それでこの人は世の中の人に知られないで、何も用のない者と思われて、しじゅう貧乏して裏店うらだなのようなところに住まって、かの人は何をするかと人にいわれるくらい世の中に知れない人で、何もできないような人であったが、しかし彼は一つの大思想を持っていた人でありました。その思想というは人間というものは非常な価値のあるものである、また一個人というものは国家よりも大切なものである、という大思想を持っていた人であります。それで十七世紀の中ごろにおいてはその説は社会にまったく容いれられなかった。その時分にはヨーロッパでは主義は国家主義と定きまっておった。イタリアなり、イギリスなり、フランスなり、ドイツなり、みな国家的精神を養わなければならぬとて、社会はあげて国家という団体に思想を傾けておった時でございました。その時に当ってどのような権力のある人であろうとも、彼の信ずるところの、個人は国家より大切であるという考えを世の中にいくら発表しても、実行のできないことはわかりきっておった。そこでこの学者は私ひそかに裏店に引っ込んで本を書いた。この人は、ご存じでありましょう、ジョン・ロックであります。その本は、“Humanヒューマン Understandingアンダスタンディング”であります。しかるにこの本がフランスに往きまして、ルソーが読んだ、モンテスキューが読んだ、ミラボーが読んだ、そうしてその思想がフランス全国に行きわたって、ついに一七九〇年フランスの大革命が起ってきまして、フランスの二千八百万の国民を動かした。それがためにヨーロッパ中が動きだして、この十九世紀の始めにおいてもジョン・ロックの著書でヨーロッパが動いた。それから合衆国が生まれた。それからフランスの共和国が生まれてきた。それからハンガリアの改革があった。それからイタリアの独立があった。実にジョン・ロックがヨーロッパの改革に及ぼした影響は非常であります。その結果を日本でお互いが感じている。われわれの願いは何であるか、個人の権力を増そうというのではないか。われわれはこのことをどこまで実行することができるか、それはまだ問題でございますけれども、何しろこれがわれわれの願いであります。もちろんジョン・ロック以前にもそういう思想を持った人はあった。しかしながらジョン・ロックはその思想を形に顕あらわして“Human Understanding”という本を書いて死んでしまった。しかし彼の思想は今日われわれのなかに働いている。ジョン・ロックは身体も弱いし、社会の位地もごく低くあったけれども、彼は実に今日のヨーロッパを支配する人となったと思います。 
それゆえに思想を遺すということは大事業であります。もしわれわれが事業を遺すことができぬならば、思想を遺してそうして将来にいたってわれわれの事業をなすことができると思う。そこで私はここでご注意を申しておかねばならぬことがある。われわれのなかに文学者という奴がある。誰でも筆を把とってそうして雑誌か何かに批評でも載のすれば、それが文学者だと思う人がある。それで文学というものは惰なまけ書生の一つの玩具おもちゃになっている。誰でも文学はできる。それで日本人の考えに文学というものはまことに気楽なもののように思われている。山に引っ込んで文筆に従事するなどは実に羨うらやましいことのように考えられている。福地源一郎君が不忍しのばずの池のほとりに別荘を建てて日蓮上人の脚本を書いている。それを他から見るとたいそう風流に見える。また日本人が文学者という者の生涯はどういう生涯であるだろうと思うているかというに、それは絵艸紙えぞうし屋へ行ってみるとわかる。どういう絵があるかというと、赤く塗ってある御堂のなかに美しい女が机の前に坐っておって、向こうから月の上ってくるのを筆を翳かざして眺めている。これは何であるかというと紫式部の源氏の間である。これが日本流の文学者である。しかし文学というものはコンナものであるならば、文学は後世への遺物でなくしてかえって後世への害物である。なるほど『源氏物語』という本は美しい言葉を日本に伝えたものであるかも知れませぬ。しかし『源氏物語』が日本の士気を鼓舞することのために何をしたか。何もしないばかりでなくわれわれを女らしき意気地なしになした。あのような文学はわれわれのなかから根コソギに絶やしたい(拍手)。あのようなものが文学ならば、実にわれわれはカーライルとともに、文学というものには一度も手をつけたことがないということを世界に向って誇りたい。文学はソンナものではない。文学はわれわれがこの世界に戦争するときの道具である。今日戦争することはできないから未来において戦争しようというのが文学であります。それゆえに文学者が机の前に立ちますときにはすなわちルーテルがウォルムスの会議に立ったとき、パウロがアグリッパ王の前に立ったとき、クロムウェルが剣を抜いてダンバーの戦場に臨のぞんだときと同じことであります。この社会、この国を改良しよう、この世界の敵なる悪魔を平たいらげようとの目的をもって戦争をするのであります。ルーテルが室へやのなかに入って何か書いておったときに、悪魔が出てきたゆえに、ルーテルはインクスタンドを取ってそれにぶッつけたという話がある。歴史家に聞くとこれは本当の話ではないといいます。しかしながらこれが文学です。われわれはほかのことで事業をすることができないから、インクスタンドを取って悪魔にぶッつけてやるのである。事業を今日なさんとするのではない。将来未来までにわれわれの戦争を続ける考えから事業を筆と紙とにのこして、そうしてこの世を終ろうというのが文学者の持っている Ambitionアムビション であります。それでその贈物おくりもの、われわれがわれわれの思想を筆と紙とに遺してこれを将来に贈ることが実に文学者の事業でありまして、もし神がわれわれにこのことを許しますならば、われわれは感謝してその贈物を遺したいと思う。有名なるウォルフ将軍がケベックの市まちを取るときにグレイの Elegyエレジイ を歌いながらいった言葉があります、すなわち「このケベックを取るよりもわれはむしろこの Elegy を書かん」と。もちろん Elegy は過激なるいわゆるルーテル的の文章ではない。しかしながらこれがイギリス人の心、ウォルフ将軍のような心をどれだけ慰めたか、実に今日までのイギリス人の勇気をどれだけ励ましたか知れない。 
トーマス・グレイという人は有名な学者で、彼の時代の人で彼くらいすべての学問に達していた人はほとんどなかったそうであります。イギリスの文学者中で博学、多才といったならばたぶんトーマス・グレイであったろうという批評であります。しかしながらトーマス・グレイは何を遺したか。彼の書いた本は一つに集めたらば、たぶんこんなくらい(手真似にて)の本でほとんど二百ページか、三百ページもありましょう。しかしそのうちこれぞというて大作はありませぬ。トーマス・グレイの後世への遺物は何にもない、ただ Elegy という三百行ばかりの詩でありました。グレイの四十八年の生涯というものは Elegy を書いて終ってしまったのです。しかしながらたぶんイギリスの国民の続くあいだは、イギリスの国語が話されているあいだは Elegy は消えないでしょう。この詩ほど多くの人を慰め、ことに多くの貧乏人を慰め、世の中にまったく容れられない人を慰め、多くの志を抱いてそれを世の中に発表することのできない者を慰めたものはない。この詩によってグレイは万世を慰めつつある。われわれは実にグレイの運命を羨むのであります。すべての学問を四十八年間も積んだ人がただ三百行くらいの詩を遺して死んだというては小さいようでございますが、実にグレイは大事業をなした人であると思います。有名なるヘンリー・ビーチャーがいった言葉に……私はこれはけっしてビーチャーが小さいことを針小棒大にしていうた言葉ではないと思います……「私は六十年か七十年の生涯を私のように送りしよりも、むしろチャールス・ウェスレーの書いた“Jesusジーザス, Loverラヴァー ofオブ myマイ soulソール”の讃美歌一篇を作った方がよい」と申しました。チョット考えてみるとこれはただチャールス・ウェスレーを尊敬するあまりに発した言葉であって、けっしてビーチャーの心のなかから出た言葉ではないように思われますけれども、しかしながらウェスレーのこの歌をいく度か繰り返して歌ってみまして、どれだけの心情、どれだけの趣味、どれだけの希望がそのうちにあるかを見るときには、あるいはビーチャーのいったことが本当であるかも知れないと思います。ビーチャーの大事業もけっしてこの一つの讃美歌ほどの事業をなしていないかも知れませぬ。それゆえにもしわれわれに思想がありまするならば、もしわれわれがそれを直接に実行することができないならば、それを紙に写しましてこれを後世に遺しますことは大事業ではないかと思います。文学者の事業というものはそれゆえに羨むべき事業である。
こういう事業ならばあるいはわれわれも行ってみたいと思う。こう申しますると、諸君のなかにまたこういう人があります。「ドウモしかしながら文学などは私らにはとてもできない、ドウモ私は今まで筆を執ったことがない。また私は学問が少い、とても私は文学者になることはできない」。それで『源氏物語』を見てとてもこういう流暢りゅうちょうなる文は書けないと思い、マコーレーの文を見てとてもこれを学ぶことはできぬと考え、山陽の文を見てとてもこういうものは書けないと思い、ドウしても私は文学者になることはできないといって失望する人がある。文学者は特別の天職を持った人であって文学はとてもわれわれ平凡の人間にできることではないと思う人があります。その失望はどこから起ったかというと、前にお話しした柔弱なる考えから起ったのでございます。すなわち『源氏物語』的の文学思想から起った考えであります。文学というものはソンナものではない。文学というものはわれわれの心のありのままをいうものです。ジョン・バンヤンという人はチットモ学問のない人でありました。もしあの人が読んだ本があるならば、タッタ二つでありました、すなわち『バイブル』とフォックスの書いた『ブック・オブ・マータース』(“Book of Martyrs”)というこの二つでした。今ならばこのような本を読む忍耐力のある人はない。私は札幌にてそれを読んだことがある。十ページくらい読むと後は読む勇気がなくなる本である。ことにクエーカーの書いた本でありますから文法上の誤謬ごびゅうがたくさんある。しかるにバンヤンは始めから終りまでこの本を読んだ。彼は申しました。「私はプラトンの本もまたアリストテレスの本も読んだことはない、ただイエス・キリストの恩恵めぐみにあずかった憐れなる罪人であるから、ただわが思うそのままを書くのである」といって、“Pilgrim'sピルグリムス Progressプログレス”(『天路歴程』)という有名なる本を書いた。それでたぶんイギリス文学の批評家中で第一番という人……このあいだ死んだフランス人、テーヌという人であります……その人がバンヤンのこの著を評して何といったかというと「たぶん純粋という点から英語を論じたときにはジョン・バンヤンの“Pilgrim's Progress”に及ぶ文章はあるまい。これはまったく外からの雑まじりのない、もっとも純粋なる英語であるだろう」と申しました。そうしてかくも有名なる本は何であるかというと無学者の書いた本であります。それでもしわれわれにジョン・バンヤンの精神がありますならば、すなわちわれわれが他人から聞いたつまらない説を伝えるのでなく、自分の拵こしらった神学説を伝えるでなくして、私はこう感じた、私はこう苦しんだ、私はこう喜んだ、ということを書くならば、世間の人はドレだけ喜んでこれを読むか知れませぬ。今の人が読むのみならず後世の人も実に喜んで読みます。バンヤンは実に「真面目なる宗教家」であります。心の実験を真面目に表わしたものが英国第一等の文学であります。それだによってわれわれのなかに文学者になりたいと思う観念を持つ人がありまするならば、バンヤンのような心を持たなくてはなりません。彼のような心を持ったならば実に文学者になれぬ人はないと思います。 
今ここに丹羽さんがいませぬから少し丹羽さんの悪口をいいましょう(笑声起る)……後でいいつけてはイケマセンよ(大笑)。丹羽さんが青年会において『基督キリスト教青年』という雑誌を出した。それで私のところへもだいぶ送ってきた。そこで私が先日東京へ出ましたときに、先生が「ドウです内村君、あなたは『基督教青年』をドウお考えなさいますか」と問われたから、私は真面目にまた明白に答えた。「失礼ながら『基督教青年』は私のところへきますと私はすぐそれを厠かわやへ持っていって置いてきます。」ところが先生たいへん怒った。それから私はそのわけをいいました。アノ『基督教青年』を私が汚穢きたない用に用いるのは何であるかというに、実につまらぬ雑誌であるからです。なにゆえにつまらないかというに、アノ雑誌のなかに名論卓説がないからつまらないというのではありません。アノ雑誌のつまらないわけは、青年が青年らしくないことを書くからです。青年が学者の真似をして、つまらない議論をアッチからも引き抜き、コッチからも引き抜いて、それを鋏刀はさみと糊とでくッつけたような論文を出すから読まないのです。もし青年が青年の心のままを書いてくれたならば、私はこれを大切にして年の終りになったら立派に表装して、私の Libraryライブラリイ(書函)のなかのもっとも価値あるものとして遺しておきましょうと申しました。それからその雑誌はだいぶ改良されたようであります。それです、私は名論卓説を聴きたいのではない。私の欲するところと社会の欲するところは、女よりは女のいうようなことを聴きたい、男よりは男のいうようなことを聴きたい、青年よりは青年の思っているとおりのことを聴きたい、老人よりは老人の思っているとおりのことを聴きたい。それが文学です。それゆえにただわれわれの心のままを表白してごらんなさい。ソウしてゆけばいくら文法は間違っておっても、世の中の人が読んでくれる。それがわれわれの遺物です。もし何もすることができなければ、われわれの思うままを書けばよろしいのです。私は高知から来た一人の下女を持っています。非常に面白い下女で、私のところに参りましてから、いろいろの世話をいたします。ある時はほとんど私の母のように私の世話をしてくれます。その女が手紙を書くのを側そばで見ていますと、非常な手紙です。筆を横に取って、仮名で、土佐言葉で書く。今あとで坂本さんが出て土佐言葉の標本を諸君に示すかも知れませぬ(大笑拍手)。ずいぶん面白い言葉であります。仮名で書くのですから、土佐言葉がソックリそのままで出てくる。それで彼女は長い手紙を書きます。実に読むのに骨が折れる。しかしながら私はいつでもそれを見て喜びます。その女は信者でも何でもない。毎月三日月様みかづきさまになりますと私のところへ参って「ドウゾ旦那さまお銭あしを六厘」という。「何に使うか」というと、黙っている。「何でもよいから」という。やると豆腐を買ってきまして、三日月様に豆腐を供そなえる。後で聞いてみると「旦那さまのために三日月様に祈っておかぬと運が悪い」と申します。私は感謝していつでも六厘差し出します(大笑)。それから七夕様たなばたさまがきますといつでも私のために七夕様に団子だの梨だの柿などを供えます。私はいつもそれを喜んで供えさせます。その女が書いてくれる手紙を私は実に多くの立派な学者先生の文学を『六合雑誌』などに拝見するよりも喜んで見まする。それが本当の文学で、それが私の心情に訴える文学。……文学とは何でもない、われわれの心情に訴えるものであります。文学というものはソウいうものであるならば……ソウいうものでなくてはならぬ……それならばわれわれはなろうと思えば文学者になることができます。われわれの文学者になれないのは筆が執とれないからなれないのではない、われわれに漢文が書けないから文学者になれないのでもない。われわれの心に鬱勃うつぼつたる思想が籠こもっておって、われわれが心のままをジョン・バンヤンがやったように綴ることができるならば、それが第一等の立派な文学であります。カーライルのいったとおり「何でもよいから深いところへ入れ、深いところにはことごとく音楽がある」。実にあなたがたの心情をありのままに書いてごらんなさい、それが流暢なる立派な文学であります。私自身の経験によっても私は文天祥ぶんてんしょうがドウ書いたか、白楽天がドウ書いたかと思っていろいろ調べてしかる後に書いた文よりも、自分が心のありのままに、仮名かなの間違いがあろうが、文法に合うまいが、かまわないで書いた文の方が私が見ても一番良い文章であって、外の人が評してもまた一番良い文章であるといいます。文学者の秘訣ひけつはそこにあります。こういう文学ならばわれわれ誰でも遺すことができる。それゆえに有難いことでございます。もしわれわれが事業を遺すことができなければ、われわれに神様が言葉というものを下さいましたからして、われわれ人間に文学というものを下さいましたから、われわれは文学をもってわれわれの考えを後世に遺して逝くことができます。 
ソウ申しますとまたこういう問題が出てきます。われわれは金を溜めることができず、また事業をなすことができない。それからまたそれならばといって、あなたがたがみな文学者になったらば、たぶん活版屋では喜ぶかもしれませぬけれども、社会では喜ばない。文学者の世の中にふえるということは、ただ活版屋と紙製造所を喜ばすだけで、あまり社会に益をなさないかも知れない。ゆえにもしわれわれが文学者となることができず、またなる考えもなし、バンヤンのような思想を持っておっても、バンヤンのように綴ることができないときには、別に後世への遺物はないかという問題が起る。それは私にもたびたび起った問題であります。なるほど文学者になることは私が前に述べましたとおりヤサシイこととは思いますけれども、しかし誰でも文学者になるということは実は望むべからざることであります。たとえば、学校の先生……ある人がいうように何でも大学に入って学士の称号を取り、あるいはその上にアメリカへでも往って学校を卒業さえしてくれば、それで先生になれると思うのと同じことであります。私はたびたび聞いて感じまして、今でも心に留とめておりますが、私がたいへん世話になりましたアーマスト大学の教頭シーリー先生がいった言葉に「この学校で払うだけの給金を払えば学者を得ることはいくらでも得られる。地質学を研究する人、動物学を研究する人はいくらもある。地質学者、動物学者はたくさんいる。しかしながら地質学、動物学を教えることのできる人は実に少い。文学者はたくさんいる、文学を教えることのできる人は少い。それゆえにこの学校に三、四十人の教授がいるけれども、その三、四十人の教師は非常に貴とうとい、なぜなればこれらの人は学問を自分で知っているばかりでなく、それを教えることのできる人であります」と。これはわれわれが深く考うべきことで、われわれが学校さえ卒業すればかならず先生になれるという考えを持ってはならぬ。学校の先生になるということは一種特別の天職だと私は思っております。よい先生というものはかならずしも大学者ではない。大島君もご承知でございますが、私どもが札幌におりましたときに、クラーク先生という人が教師であって、植物学を受け持っておりました。その時分にはほかに植物学者がおりませぬから、クラーク先生を第一等の植物学者だと思っておりました。この先生のいったことは植物学上誤りのないことだと思っておりました。しかしながら彼の本国に行って聞いたら、先生だいぶ化ばけの皮が現われた。かの国のある学者が、クラークが植物学について口を利きくなどとは不思議だ、といって笑っておりました。しかしながら、とにかく先生は非常な力を持っておった人でした。どういう力であったかというに、すなわち植物学を青年の頭のなかへ注ぎ込んで、植物学という学問の Interestインタレスト を起す力を持った人でありました。それゆえに植物学の先生としては非常に価値のあった人でありました。ゆえに学問さえすれば、われわれが先生になれるという考えをわれわれは持つべきでない。われわれに思想さえあれば、われわれがことごとく先生になれるという考えを抛却ほうきゃくしてしまわねばならぬ。先生になる人は学問ができるよりも――学問もなくてはなりませぬけれども――学問ができるよりも学問を青年に伝えることのできる人でなければならない。これを伝えることは一つの技術であります。短い言葉でありますけれども、このなかに非常の意味が含まっております。たといわれわれが文学者になりたい、学校の先生になりたいという望みがあっても、これかならずしも誰にもできるものではないと思います。 
それで金も遺すことができず、事業も遺すことができない人は、かならずや文学者または学校の先生となって思想を遺して逝くことができるかというに、それはそうはいかぬ。しかしながら文学と教育とは、工業をなすということ、金を溜めるということよりも、よほどやさしいことだと思います。なぜなれば独立でできることであるからです。ことに文学は独立的の事業である。今日のような学校にてはどこの学校にても、Missionミッション Schoolスクール を始めとしてどこの官立学校にても、われわれの思想を伝えるといっても実際伝えることはできない。それゆえ学校事業は独立事業としてはずいぶん難い事業であります。しかしながら文学事業にいたっては社会はほとんどわれわれの自由に任まかせる。それゆえに多くの独立を望む人が政治界を去って宗教界に入り、宗教界を去って教育界に入り、また教育界を去ってついに文学界に入ったことは明かな事実であります。多くのエライ人は文学に逃げ込みました。文学は独立の思想を維持する人のために、もっとも便益なる隠れ場所であろうと思います。しかしながらただ今も申し上げましたとおり、かならずしも誰にでも入ることのできる道ではない。
ここにいたってこういう問題が出てくる。文学者にもなれず学校の先生にもなれなかったならば、それならば私は後世に何をも遺すことはできないかという問題が出てくる。何かほかに事業はないか、私もたびたびそれがために失望に陥ることがある。しからば私には何も遺すものはない。事業家にもなれず、金を溜めることもできず、本を書くこともできず、ものを教えることもできない。ソウすれば私は無用の人間として、平凡の人間として消えてしまわなければならぬか。陸放翁りくほうおうのいったごとく「我死骨即朽わがしこつすなわちくつるも、青史亦無名せいしにまたななし」と嘆じ、この悲嘆の声を発してわれわれが生涯を終るのではないかと思うて失望の極に陥ることがある。しかれども私はそれよりモット大きい、今度は前の三つと違いまして誰にも遺すことのできる最大遺物があると思う。それは実に最大遺物であります。金も実に一つの遺物でありますけれども、私はこれを最大遺物と名づけることはできない。事業も実に大遺物たるには相違ない、ほとんど最大遺物というてもようございますけれども、いまだこれを本当の最大遺物ということはできない。文学も先刻お話ししたとおり実に貴いものであって、わが思想を書いたものは実に後世への価値ある遺物と思いますけれども、私がこれをもって最大遺物ということはできない。最大遺物ということのできないわけは、一つは誰にも遺すことのできる遺物でないから最大遺物ということはできないのではないかと思う。そればかりでなくその結果はかならずしも害のないものではない。昨日もお話ししたとおり金は用い方によってたいへん利益がありますけれども、用い方が悪いとまたたいへん害を来きたすものである。事業におけるも同じことであります。クロムウェルの事業とか、リビングストンの事業はたいへん利益がありますかわりに、またこれには害が一緒に伴とものうております。また本を書くことも同じようにそのなかに善いこともありまた悪いこともたくさんあります。われわれはそれを完全なる遺物または最大遺物と名づけることはできないと思います。 
それならば最大遺物とはなんであるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。他の遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないと思います。しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。その遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないかと思う。もし今までのエライ人の事業をわれわれが考えてみますときに、あるいはエライ文学者の事業を考えてみますときに、その人の書いた本、その人の遺した事業はエライものでございますが、しかしその人の生涯に較くらべたときには実に小さい遺物だろうと思います。パウロの書翰しょかんは実に有益な書翰でありますけれども、しかしこれをパウロの生涯に較べたときには価値のはなはだ少いものではないかと思う。パウロ彼自身はこのパウロの書いたロマ書や、ガラテヤ人に贈った書翰よりもエライ者であると思います。クロムウェルがアングロサクソン民族の王国を造ったことは大事業でありますけれども、クロムウェルがあの時代に立って自分の独立思想を実行し、神によってあの勇壮なる生涯を送ったという、あのクロムウェル彼自身の生涯というものは、これはクロムウェルの事業に十倍も百倍もする社会にとっての遺物ではないかと考えます。私は元来トーマス・カーライルの本を非常に敬読する者であります。それである人にはそれがために嫌われますけれども、私はカーライルという人については全体非常に尊敬を表しております。たびたびあの人の本を読んで利益を得、またそれによって刺激をも受けたことでございます。けれども、私はトーマス・カーライルの書いた四十冊ばかりの本をみな寄せてみてカーライル彼自身の生涯に較べたときには、カーライルの書いたものは実に価値の少いものであると思います。先日カーライルの伝を読んで感じました。ご承知の通りカーライルが書いたもののなかで一番有名なものはフランス革命の歴史でございます。それである歴史家がいうたに「イギリス人の書いたもので歴史的の叙事、ものを説き明した文体からいえば、カーライルの『フランス革命史』がたぶん一番といってもよいであろう、もし一番でなければ一番のなかに入るべきものである」ということであります。それでこの本を読む人はことごとく同じ感覚を持つだろうと思います。実に今より百年ばかり前のことをわれわれの目の前に活きている画のように、ソウして立派な画人えかきが書いてもアノようには書けぬというように、フランス革命のパノラマ(活画)を示してくれたものはこの本であります。それでわれわれはその本に非常の価値を置きます。カーライルがわれわれに遺してくれたこの本は実にわれわれの貴ぶところでございます。しかしながらフランスの革命を書いたカーライルの生涯の実験を見ますと、この本よりかまだ立派なものがあります。その話は長いけれどもここにあなたがたに話すことを許していただきたい。カーライルがこの書を著あらわすのは彼にとってはほとんど一生涯の仕事であった。チョット『革命史』を見まするならば、このくらいの本は誰にでも書けるだろうと思うほどの本であります。けれども歴史的の研究を凝こらし、広く材料を集めて成った本でありまして、実にカーライルが生涯の血を絞って書いた本であります。それで何十年ですか忘れましたが、何十年かかかってようやく自分の望みのとおりの本が書けた。それからしてその本が原稿になってこれを罫紙けいしに書いてしまった。それからしてこれはモウじきに出版するときがくるだろうと思って待っておった。そのときに友人が来ましてカーライルに遇あったところが、カーライルがその話をしたら「実に結構な書物だ、今晩一読を許してもらいたい」といった。そのときにカーライルは自分の書いたものはつまらないものだと思って人の批評を仰ぎたいと思ったから、貸してやった。貸してやるとその友人はこれを家へ持っていった。そうすると友人の友人がやってきて、これを手に取って読んでみて、「これは面白い本だ、一つドウゾ今晩私に読ましてくれ」といった。ソコで友人がいうには「明日の朝早く持ってこい、そうすれば貸してやる」といって貸してやったら、その人はまたこれをその家へ持っていって一所懸命に読んで、暁方あけがたまで読んだところが、あしたの事業に妨さまたげがあるというので、その本をば机の上に抛ほうり放はなしにして床とこについて自分は寝入ってしまった。そうすると翌朝彼の起きない前に下女がやってきて、家の主人が起きる前にストーブに火をたきつけようと思って、ご承知のとおり西洋では紙をコッパの代りに用いてクベますから、何か好い反古ほごはないかと思って調べたところが机の前に書いたものがだいぶひろがっていたから、これは好いものと思って、それをみな丸めてストーブのなかへ入れて火をつけて焼いてしまった。カーライルの何十年ほどかかった『革命史』を焼いてしまった。時計の三分か四分の間に煙となってしまった。それで友人がこのことを聞いて非常に驚いた。何ともいうことができない。ほかのものであるならば、紙幣さつを焼いたならば紙幣を償つぐなうことができる、家を焼いたならば家を建ててやることもできる、しかしながら思想の凝こって成ったもの、熱血を注いで何十年かかって書いたものを焼いてしまったのは償いようがない。死んだものはモウ活いき帰らない。それがために腹を切ったところが、それまでであります。それで友人に話したところが、友人も実にドウすることもできないで一週間黙だまっておった。何といってよいかわからぬ。ドウモ仕方がないから、そのことをカーライルにいった。そのときにカーライルは十日ばかりぼんやりとして何もしなかったということであります。さすがのカーライルもそうであったろうと思います。それで腹が立った。ずいぶん短気の人でありましたから、非常に腹を立てた。彼はそのときは歴史などは抛りぽかして何にもならないつまらない小説を読んだそうです。しかしながらその間に己おのれで己おのれに帰っていうに「トーマス・カーライルよ、汝は愚人である、汝の書いた『革命史』はソンナに貴いものではない、第一に貴いのは汝がこの艱難かんなんに忍んでそうしてふたたび筆を執とってそれを書き直すことである、それが汝の本当にエライところである、実にそのことについて失望するような人間が書いた『革命史』を社会に出しても役に立たぬ、それゆえにモウ一度書き直せ」といって自分で自分を鼓舞して、ふたたび筆を執って書いた。その話はそれだけの話です。しかしわれわれはそのときのカーライルの心中にはいったときには実に推察の情溢あふるるばかりであります。カーライルのエライことは『革命史』という本のためにではなくして、火にて焼かれたものをふたたび書き直したということである。もしあるいはその本が遺っておらずとも、彼は実に後世への非常の遺物を遺したのであります。たといわれわれがイクラやりそこなってもイクラ不運にあっても、そのときに力を回復して、われわれの事業を捨ててはならぬ、勇気を起してふたたびそれに取りかからなければならぬ、という心を起してくれたことについて、カーライルは非常な遺物を遺してくれた人ではないか。 
今時こんじの弊害は何であるかといいますれば、なるほど金がない、われわれの国に事業が少い、良い本がない、それは確かです。しかしながら日本人お互いに今要するものは何であるか。本が足りないのでしょうか、金がないのでしょうか、あるいは事業が不足なのでありましょうか。それらのことの不足はもとよりないことはない。けれども、私が考えてみると、今日第一の欠乏は Lifeライフ 生命の欠乏であります。それで近ごろはしきりに学問ということ、教育ということ、すなわち Cultureカルチュア(修養)ということが大へんにわれわれを動かします。われわれはドウしても学問をしなければならぬ、ドウしてもわれわれは青年に学問をつぎ込まねばならぬ、教育をのこして後世の人を誡いましめ、後世の人を教えねばならぬというてわれわれは心配いたします。もちろんこのことはたいへんよいことであります。それでもしわれわれが今より百年後にこの世に生まれてきたと仮定して、明治二十七年の人の歴史を読むとすれば、ドウでしょう、これを読んできてわれわれにどういう感じが起りましょうか。なるほどここにも学校が建った、ここにも教会が建った、ここにも青年会館が建った、ドウして建ったろうといってだんだん読んでみますと、この人はアメリカへ行って金をもらってきて建てた、あるいはこの人はこういう運動をして建てたということがある。そこでわれわれがこれを読みますときに「アア、とても私にはそんなことはできない、今ではアメリカへ行っても金はもらえまい、また私にはそのように人と共同する力はない。私にはそういう真似まねはできない、私はとてもそういう事業はできない」というて失望しましょう。すなわち私が今から五十年も百年も後の人間であったならば、今日の時代から学校を受け継いだかも知れない。教会を受け継いだかも知れませぬ。けれども私自身を働かせる原動力をばもらわない。大切なるものをばもらわないに相違ない。しかしもしここにつまらない教会が一つあるとすれば、そのつまらない教会の建物を売ってみたところがほとんどわずかの金の価値しかないかも知れませぬ。しかしながらその教会の建った歴史を聞いたときに、その歴史がこういう歴史であったと仮かり定さだめてごらんなさい……この教会を建てた人はまことに貧乏人であった、この教会を建てた人は学問も別にない人であった、それだけれどもこの人は己のすべての浪費を節して、すべての欲情を去って、まるで己の力だけにたよって、この教会を造ったものである。……こういう歴史を読むと私にも勇気が起ってくる。かの人にできたならば己にもできないことはない、われも一つやってみようというようになる。 
私は近世の日本の英傑、あるいは世界の英傑といってもよろしい人のお話をいたしましょう。この世界の英傑のなかに、ちょうどわれわれの留とまっているこの箱根山の近所に生まれた人で二宮金次郎という人がありました。この人の伝を読みましたときに私は非常な感覚をもらった。それでドウも二宮金次郎先生には私は現に負おうところが実に多い。二宮金次郎氏の事業はあまり日本にひろまってはおらぬ。それで彼のなした事業はことごとくこれを纏まとめてみましたならば、二十ヵ村か三十ヵ村の人民を救っただけに止とどまっていると考えます。しかしながらこの人の生涯が私を益し、それから今日日本の多くの人を益するわけは何であるかというと、何でもない、この人は事業の贈物にあらずして生涯の贈物を遺した。この人の生涯はすでにご承知の方もありましょうが、チョット申してみましょう。二宮金次郎氏は十四のときに父を失い、十六のときに母を失い、家が貧乏にして何物もなく、ためにごく残酷な伯父に預けられた人であります。それで一文の銭もなし家産はことごとく傾き、弟一人、妹一人持っていた。身に一文もなくして孤児です。その人がドウして生涯を立てたか。伯父さんの家にあってその手伝いをしている間に本が読みたくなった。そうしたときに本を読んでおったら、伯父さんに叱られた。この高い油を使って本を読むなどということはまことに馬鹿馬鹿しいことだといって読ませぬ。そうすると、黙っていて伯父さんの油を使っては悪いということを聞きましたから、「それでは私は私の油のできるまでは本を読まぬ」という決心をした。それでどうしたかというと、川辺の誰も知らないところへ行きまして、菜種なたねを蒔まいた。一ヵ年かかって菜種を五、六升も取った。それからその菜種を持っていって、油屋へ行って油と取換えてきまして、それからその油で本を見た。そうしたところがまた叱られた。「油ばかりお前のものであれば本を読んでもよいと思っては違う、お前の時間も私のものだ。本を読むなどという馬鹿なことをするならよいからその時間に縄を綯よれ」といわれた。それからまた仕方がない、伯父さんのいうことであるから終日働いてあとで本を読んだ、……そういう苦学をした人であります。どうして自分の生涯を立てたかというに、村の人の遊ぶとき、ことにお祭り日などには、近所の畑のなかに洪水で沼になったところがあった、その沼地を伯父さんの時間でない、自分の時間に、その沼地よりことごとく水を引いてそこでもって小さい鍬くわで田地を拵こしらえて、そこへ持っていって稲を植えた。こうして初めて一俵の米を取った。その人の自伝によりますれば、「米を一俵取ったときの私の喜びは何ともいえなかった。これ天が初めて私に直接に授けたものにしてその一俵は私にとっては百万の価値があった」というてある。それからその方法をだんだん続けまして二十歳のときに伯父さんの家を辞した。そのときには三、四俵の米を持っておった。それから仕上げた人であります。それでこの人の生涯を初めから終りまで見ますと、「この宇宙というものは実に神様……神様とはいいませぬ……天の造ってくださったもので、天というものは実に恩恵の深いもので、人間を助けよう助けようとばかり思っている。それだからもしわれわれがこの身を天と地とに委ゆだねて天の法則に従っていったならば、われわれは欲せずといえども天がわれわれを助けてくれる」というこういう考えであります。その考えを持ったばかりでなく、その考えを実行した。その話は長うございますけれども、ついには何万石という村々を改良して自分の身をことごとく人のために使った。旧幕の末路にあたって経済上、農業改良上について非常の功労のあった人であります。それでわれわれもそういう人の生涯、二宮金次郎先生のような人の生涯を見ますときに、「もしあの人にもアアいうことができたならば私にもできないことはない」という考えを起します。普通の考えではありますけれども非常に価値のある考えであります。それで人に頼らずともわれわれが神にたより己にたよって宇宙の法則に従えば、この世界はわれわれの望むとおりになり、この世界にわが考えを行うことができるという感覚が起ってくる。二宮金次郎先生の事業は大きくなかったけれども、彼の生涯はドレほどの生涯であったか知れませぬ。私ばかりでなく日本中幾万の人はこの人から「インスピレーション」を得たでありましょうと思います。あなたがたもこの人の伝を読んでごらんなさい。『少年文学』の中に『二宮尊徳翁』というのが出ておりますが、アレはつまらない本です。私のよく読みましたのは、農商務省で出版になりました、五百ページばかりの『報徳記』という本です。この本を諸君が読まれんことを切に希望します。この本はわれわれに新理想を与え、新希望を与えてくれる本であります。実にキリスト教の『バイブル』を読むような考えがいたします。ゆえにわれわれがもし事業を遺すことができずとも、二宮金次郎的の、すなわち独立生涯を躬行きゅうこうしていったならば、われわれは実に大事業を遺す人ではないかと思います。 
私は時が長くなりましたからもうしまいにいたしますが、常に私の生涯に深い感覚を与える一つの言葉を皆様の前に繰り返したい。ことにわれわれのなかに一人アメリカのマサチューセッツ州マウント・ホリヨーク・セミナリーという学校へ行って卒業してきた方がおりますが、この女学校は古い女学校であります。たいへんよい女学校であります。しかしながらもし私をしてその女学校を評せしむれば、今の教育上ことに知育上においては私はけっしてアメリカ第一等の女学校とは思わない。米国にはたくさんよい女学校がございます。スミス女学校というような大きな学校もあります。またボストンのウェレスレー学校、フィラデルフィアのブリンモアー学校というようなものがございます。けれどもマウント・ホリヨーク・セミナリーという女学校は非常な勢力をもって非常な事業を世界になした女学校であります。何故なぜだといいますと(その女学校はこの節はだいぶよく揃ったそうでありますが、このあいだまでは不整頓の女学校でありました)、それが世界を感化するの勢力を持つにいたった原因は、その学校にはエライ非常な女がおった。その人は立派な物理学の機械に優まさって、立派な天文台に優って、あるいは立派な学者に優って、価値ねうちのある魂たましいを持っておったメリー・ライオンという女でありました。その生涯をことごとく述べることは今ここではできませぬが、この女史が自分の女生徒に遺言した言葉はわれわれのなかの婦女を励まさねばならぬ、また男子をも励まさねばならぬものである。すなわち私はその女の生涯をたびたび考えてみますに、実に日本の武士のような生涯であります。彼女は実に義侠心に充みち満みちておった女であります。彼女は何というたかというに、彼女の女生徒にこういうた。
 他の人の行くことを嫌うところへ行け。
 他の人の嫌がることをなせ
これがマウント・ホリヨーク・セミナリーの立った土台石であります。これが世界を感化した力ではないかと思います。他の人の嫌がることをなし、他の人の嫌がるところへ行くという精神であります。それでわれわれの生涯はその方に向って行きつつあるか。われわれの多くはそうでなくして、他の人もなすから己もなそうというのではないか。他の人もアアいうことをするから私もソウしようというふうではないか。ほかの人もアメリカへ金もらいに行くから私も行こう、他の人も壮士になるから私も壮士になろう、はなはだしきはだいぶこのごろは耶蘇ヤソ教が世間の評判がよくなったから私も耶蘇教になろう、というようなものがございます。関東に往きますと関西にあまり多くないものがある。関東には良いものがだいぶたくさんあります。関西よりも良いものがあると思います。関東人は意地いじということをしきりに申します。意地の悪い奴はつむじが曲っていると申しますが毬栗頭いがぐりあたまにてはすぐわかる。頭のつむじがここらに(手真似にて)こう曲がっている奴はかならず意地が悪い。人が右へ行こうというと左といい、アアしようといえばコウしようというようなふうで、ことに上州人にそれが多いといいます(私は上州の人間ではありませぬけれども)。それでかならずしもこれは誉ほむべき精神ではないと思うが、しかしながら武士の意地というものです。その意地をわれわれから取り除のけてしまったならば、われわれは腰抜け武士になってしまう。徳川家康のエライところはたくさんありますけれども、諸君のご承知のとおり彼が子供のときに川原かわらへ行ってみたところが、子供の二群が戦いくさをしておった、石撃いしぶちをしておった。家康はこれを見て彼の家来に命じて人数の少い方を手伝ってやれといった。多い方はよろしいから少い方へ行って助けてやれといった。これが徳川家康のエライところであります。それでいつでも正義のために立つ者は少数である。それでわれわれのなすべきことはいつでも少数の正義の方に立って、そうしてその正義のために多勢の不義の徒に向って石撃をやらなければなりません。もちろんかならずしも負ける方を助けるというのではない。私の望むのは少数とともに戦うの意地です。その精神です。それはわれわれのなかにみな欲ほしい。今日われわれが正義の味方に立つときに、われわれ少数の人が正義のために立つときに、少くともこの夏期学校に来ている者くらいはともにその方に起たってもらいたい。それでドウゾ後世の人がわれわれについてこの人らは力もなかった、富もなかった、学問もなかった人であったけれども、己の一生涯をめいめい持っておった主義のために送ってくれたといわれたいではありませんか。これは誰にも遺すことのできる生涯ではないかと思います。それでその遺物を遺すことができたと思うと実にわれわれは嬉しい、たといわれわれの生涯はドンナ生涯であっても。 
たびたびこういうような考えは起りませぬか。もし私に家族の関係がなかったならば私にも大事業ができたであろう、あるいはもし私に金があって大学を卒業し欧米へ行って知識を磨いてきたならば私にも大事業ができたであろう、もし私に良い友人があったならば大事業ができたであろう、こういう考えは人々に実際起る考えであります。しかれども種々の不幸に打ち勝つことによって大事業というものができる、それが大事業であります。それゆえにわれわれがこの考えをもってみますと、われわれに邪魔のあるのはもっとも愉快なことであります。邪魔があればあるほどわれわれの事業ができる。勇ましい生涯と事業を後世に遺すことができる。とにかく反対があればあるほど面白い。われわれに友達がない、われわれに金がない、われわれに学問がないというのが面白い。われわれが神の恩恵を享うけ、われわれの信仰によってこれらの不足に打ち勝つことができれば、われわれは非常な事業を遺すものである。われわれが熱心をもってこれに勝てば勝つほど、後世への遺物が大きくなる。もし私に金がたくさんあって、地位があって、責任が少くして、それで大事業ができたところが何でもない。たとい事業は小さくても、これらのすべての反対に打ち勝つことによって、それで後世の人が私によって大いに利益を得るにいたるのである。種々の不都合ふつごう、種々の反対に打ち勝つことが、われわれの大事業ではないかと思う。それゆえにヤコブのように、われわれの出遭であう艱難かんなんについてわれわれは感謝すべきではないかと思います。
まことに私の言葉が錯雑しておって、かつ時間も少くございますから、私の考えをことごとく述べることはできない。しかしながら私は今日これで御免ごめんをこうむって山を降くだろうと思います。それで来年またふたたびどこかでお目にかかるときまでには少くとも幾何いくばくの遺物を貯えておきたい。この一年の後にわれわれがふたたび会しますときには、われわれが何か遺しておって、今年は後世のためにこれだけの金を溜めたというのも結構、今年は後世のためにこれだけの事業をなしたというのも結構、また私の思想を雑誌の一論文に書いて遺したというのも結構、しかしそれよりもいっそう良いのは後世のために私は弱いものを助けてやった、後世のために私はこれだけの艱難に打ち勝ってみた、後世のために私はこれだけの品性を修練してみた、後世のために私はこれだけの義侠心を実行してみた、後世のために私はこれだけの情実に勝ってみた、という話を持ってふたたびここに集まりたいと考えます。この心掛けをもってわれわれが毎年毎日進みましたならば、われわれの生涯は決して五十年や六十年の生涯にはあらずして、実に水の辺ほとりに植えたる樹のようなもので、だんだんと芽を萌ふき枝を生じてゆくものであると思います。けっして竹に木を接つぎ、木に竹を接ぐような少しも成長しない価値のない生涯ではないと思います。こういう生涯を送らんことは実に私の最大希望でございまして、私の心を毎日慰め、かついろいろのことをなすに当って私を励ますことであります。それで私のなお一つの題の「真面目ならざる宗教家」というのは時間がありませぬからここに述べませぬ。述べませぬけれども、しかしながら私の精神のあるところは皆様に十分お話しいたしたと思います。己の信ずることを実行するものが真面目なる信者です。ただただ壮言大語することは誰にもできます。いくら神学を研究しても、いくら哲学書を読みても、われわれの信じた主義を真面目に実行するところの精神がありませぬあいだは、神はわれわれにとって異邦人であります。それゆえにわれわれは神がわれわれに知らしたことをそのまま実行いたさなければなりません。こういたさねばならぬと思うたことはわれわれはことごとく実行しなければならない。もしわれわれが正義はついに勝つものにして不義はついに負けるものであるということを世間に発表するものであるならば、そのとおりにわれわれは実行しなければならない。これを称して真面目なる信徒と申すのです。われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います。 
 
二宮尊徳3・現実と実践

 

序 
本書は崩れゆく封建制のまっただなかに天人一貫の道を築く即物的実践にその70年の生涯を捧げた二宮尊徳の世界観の諸領域を統一的に叙述せんとするものである。
本書の立場は曲解と無理解の故に可能なる偶像破壊的立場でも無条件的礼讃に終始する偶像崇拝的立場でもない。
「人間」二宮尊徳がいかにしてわが身にそなわるものを生かしぬいて自他一如天人相即の立場に参入し、天地の間に「人」として立ったか、この間の消息を幾分たりとも明らかにしたいのが本書の眼目にほかならない。
道を忘れた立身致富の現実主義も現実を忘れ去った観念的立場もともに、現実を徳の相のもとに生かすことは語りやすくして行いがたいことこの上もない道である。
しかもこの道をおいて真箇の人と国の道はありえないであろう。
二宮尊徳はその苦闘に充ちた生涯の現実的実践自体においてかかる道を証(あか)し示している。
彼こそは日本の大地自然が生んだ一個の求道者であった。
自己内外の運命に徹し自己を究めぬいて天地の間に「人」として立つ道をつかんだ先覚の膏血ににじむ足跡に直接することこそは、まさしく後から行くものの心に永遠なるものへ志向をよびさまし、その身に宿りこの土の上に生きているものを全くする道を開く一助となるであろう。
近く維新の危機と飛躍とをひかえた封建制末期の先覚に生きていた道徳的エネルギーを想起することは、世界をあげての激浪にゆすぶられる今日のわれわれにとって必ずしも無意義にあらずと億念し、あえて別著「天地と人道」と相補い一円相即すべき本書を上梓する所以である。
封建的なるものの否定的超克を西洋文化の媒介によって成就した現代の日本は、まさしくその点に関して多くの問題を包蔵している。
封建的なるものまたは中世的なるものの再認識と再検討こそは、現代の世界一般の問題であり容易に論断しがたき歴史的課題に属するであろうが、別して我が国においてはこの問題は日本的なるものの西欧的なるものという対立の問題と交錯しているだけに複雑を極めている。
この時にあたり、歴史的必然性をもって超克せられた悪しき封建的なるものと封建的なるものと封建的伝統のうちにも宿る真実なるものとを明別し、彼此検討しもって真の歴史的進運に貢献することは、今日の歴史的転換期に生きるものの責務にほかならない。
尊徳における実践的態度を目して唯一無二となすならば、もとより多くの異論がはさまれるであろうが、その徹底的即物的実践の精神こそは真箇の具体的建設を志すものの魂に何ものかを与えるものなることを著者は確信するものである。
複雑なる歴史的現実に行動する尊徳の全行蔵はあげて一なる哲人的主体性に発している。
現実の多に触れるごとに、彼は一なるものを深めて行ったのである。
政治的経済的練達性と哲学的主体的根源性との渾然たる統一をその一身に体現し、「実学」に即して「人為(ひとため)」の経国理想を歴史的現実的に貫いた彼の即物的実践の立場こそは、福徳一致の道徳理想がすでに過去の個人道徳の範疇と目せらる現代において、別して深き意味をもつといわれよう。
何はともあれ本書が世界的深底に達した我が国の先覚の精神を多少とも伝えうるならば著者の本懐これに過ぎるものはない。 昭和17年 下程勇吉 
一  

 

寛政3年酒匂川の岸に狂った怒涛は、大地の哲人二宮尊徳の精神を呼びさます波頭でもあったのである。
田畑ことごとく荒廃に帰し赤貧のうちに彼ら三人の兄弟を養育した両親の艱苦と丹誠とは、少年金次郎の「骨髄に徹す」るものがあった。
終生彼が「父母の大恩無量」を語るとき、語るもの聴くもの共に涙を禁じえなかったという。
人一倍豊富強烈な感情を恵まれた尊徳は、その生涯の第一歩において赤裸無一物天涯孤独ぎりぎりのところに追いこまれ、「人生の道」に思いを致さざるをえざる性格と運命とをうけて出発したのである。
彼の思想・行動は実にかかる運命的主体的な必然性に根ざしている。乾坤孤筇を卓するの寸地なき〔無学租元「臨剣の頌」: 乾坤孤筇(けんこんこきょう)を卓(た)つるに地なし喜び得たり、人も空、法もまた空なることを。珍重す、大元三尺の剣、電光影裏春風を斬る〕とき、よく真理を語るものは断簡零墨といえども、弾力ある魂に対しては深き生命の道を示すであろう。
一家流離の間に人間の涙を味わい尽くしたこの少年こそは、迫りくる運命の暗黒によって、かえって光に向かう求道心を触発せられるがごとき弾力的なる魂の持ち主であった。
豊富熾烈なる感情の核心を貫くに一筋の求道心をもってする孤独の少年に対し、
「富は一代の財、智は是れ万代の財」
「千両の金を積むと雖も、一日の学に如かず」
というごとき「実語教」などの語がその心の根底に触れる何ものかを啓示したことは想像に難くない。
「学文怠る時なかれ、眠を除いて通夜誦せよ、飢を忍んで終日習へ」
こうした単純な言葉は一筋の魂を通じて一つの歴史的勢力を産む原動力を培ったのである。
幼にして書物に親しみ、山に通う道すがら高音書を誦し、「狂児」の名を得たこの少年は、また暇あるごとに酒匂川の土手に姿を現わし、地形や河勢について通ぜざるはなく「ドテ坊主」とも呼ばれたという。
読書と経験、哲学と経験、哲学と実践とは、彼の心と体とを貫く二にして一なるものであった。
哲学なき低級な経験主義も、経験を忘れた迂遠な悟道観も、彼には共に邪道であった。
経験に徹すれば徹するほど、哲学に深まるとともにまた一層深く経験に徹する即物的主体性の立場こそ、二宮尊徳を一貫する「学」の概念にほかならない。
かかる立場より神儒仏三教の精髄を主体的に統一する彼独自の実学主義が生まれるのである。
まず第一に当時の神儒仏三教の教学は、尊徳の目にはいかに映じたであろうか。
☆報徳記では、上述の親の恩について次のように語る。
「素(もと)より赤貧(せきひん)、加ふるに此の水害に罹(かか)り、艱難(かんなん)弥々(いよいよ)迫り、三子(さんし)を養ふに心力を労すること幾千万、先生終身言(げん)此の事に及べば必ず涕泣(ていきふ)して、父母の大恩無量なることを云ふ。聞く者皆之がため為に涕(なみだ)を流せり。」
また、息子弥太郎(尊行)の嫁のコウ子の記録(「尊徳門人聞書集」266ページ)によれば、次のようにある。
一 夕御酒中のお話しには、度々は万兵衛にしかられ候事、又はなし実を食し候事出来ず、かわを食し候事、又は獅子舞が参り候ても一文の銭これなく、雨戸をしめ切、人なき有様に見せ候事など、涙を流しお話し御座候。
また、「翁の逸話及び報徳雑纂」芳賀郡物井尋常高等小学校校長 笠村勝三郎
の談によると
「尊徳先生は、桜町の村民にさとしておっしゃった。『理屈はさしひきの出来ないものなれば、何事も人道を重んずべし。単に理屈のみにて押し通さんとするは、大いなる心得違いなり。諺に塵もつもれば山をなすといえり。されば、いつにても手すきの時には、縄をなえよ、糸をつむげよ、一時にこれを仕上げんと思うべからず。常に怠らずしてこれをなすは、人道なり。常に怠りて、急に理屈をつけてこれをなすは、人道にあらず。すべて人道によるものは、自然に徳をつむ、故に己れのみならず、子孫まで栄ゆるものなり。これにそむくものは、小理屈や、僥倖心にかられて、事をなすゆえに、己のみならず、子孫までも不幸つづきにて、生涯を送るものなり。ゆめおろそかにするなかれ』と。今日、桜町地方の村民にして、先生の教えを遵奉せし子孫は繁昌し、しからざるものは、貧賤に陥りて、他に退転せしもの少なからず。先生の教義は、これを見ても、その尊きことを知るべし。」 
二  

 

これを一言にしていえば、当時の教学一般の徹底的否定である。
「今の世の仏者達の申さるゝ仏道が誠の仏道ならば、仏道ほど世に悪しき物はあるまじ」という言を示された尊徳曰く「誠に名言なり、只仏道のみにあらず、儒道も神道も又同じかるべし。今時の神道者達の行はるゝ処が誠の仏道ならば世に儒道ほどつまらぬ物は有るまじ。今時の神道者達の申さるゝ神道が誠の神道ならば世に神道程無用のものはあるまじと、予も思ふなり」
神仏儒共に当時の姿においては全体的に否定せられるのほかはないのである。
まず第一に神道はいかがであるか。
神道こそは、「豊葦原を瑞穂の国とし漂へる国を安国と固め成す開闢元始の道」たるものとして、仏儒に本来先立つわが国本源の道であるべきであるのに、今やその本源性はおおいかくされている。
「世に神道と云ふものは、神主の道にして、神の道にはあらず。甚だしきに至っては、巫祝の輩が神札を配りて米銭を乞ふ者をも神道者と云ふに至れり」。
さらに仏教はいかがであろうか。
今の仏者は日々厚味に飽き、錦羅錦繍を纏うてゐるさまである。よしや一歩進めて「道体の高妙」を覚るも、塵世を厭い閑寂を楽しむをもって能事終れりとなすにとどまるのである。
第三に大学中庸論語等で早くより尊徳が親しんでいた儒教は、いかがであったであろうか。
幕府時代の一般的傾向として、当時の儒者は一定の流派に立ち籠りその権威のもとに他派を攻撃し、多読博識を誇りみずから高しとするのみで、儒教本来の面目たる「実学」性を完全に喪失し、実生活より遊離し尽くしたる超越性に終始するものが大多数であった。
他人を凌ぐためにのみ書を読み、人を言い伏せれば学者の「勤め」が立つと思うもの、人の問いに答えるための博学のみを事として実践躬行を省みざるもの、眼中食録以上の何ものもなきもの、現実を忘れて空虚なる超越性に安住するもの、かくのごとき当時の儒学者に対する批判は夜話や語録のいたるところに充満している。
実践躬行を通じて儒教より実に多くのものをみずから摂取してきただけに、尊徳は「実学」性を喪失した儒教の弱点を鋭く剔抉(てつけつ)して余すところをとどめないのである。
年少にして儒者の行動に対して疑いなきをえなかった尊徳は、「錐」をもって四書に対決するごとき(*)厳しき批判と主体的実践とを通じて、儒教自体より多くの真理内容を摂取し、自己の人格的主体性を生かす精神的エネルギーに化したのであった。
*「桜街拾実」(烏山藩菅谷八郎右衛門)には、「読書については、少しの暇も無く、ようやく四書(大学・中庸・論語・孟子)を習ったぐらいだと聞きました。そのうち孟子は一切用いることはありません。若い時思ったことは、書を読むやからで世間で役に立つ者が少ないのは、きっと経書のうちに無益の言葉があるからだろう。もしよくない所があれば切り破って、よい所ばかりを抜き出したらよいと思って、錐を持って、大学・論語など熟読しましたが、誠に結構なことばかりで、一字一章も金か玉のようで、生涯行っても用いつくすことができない。このような経書を読みながら、どうして現在の儒者や学者は、身にも行い、国家にも行わないのかと不思議に思ったと申しておりました。」
「語録」では、「私は年少のときから四書を読み、これを儒者の行うところと照らし合わせてみて、はなはだその食い違いを疑問とした。そこでひそかに、巻中どこかきっと道にそむいた言葉があるに違いないと思い、もし、仮に一字一句でも道にそむいた言葉があったならば、天下の書籍をあげて、その不純な箇所を削り、純粋な部分だけ残してやろうと思った。そこで小刀を手にしてこれを読んだ。ところが終編金科玉条であって、ついに一箇所も小刀を下すことができなかった。それからはこれを身をもって行い証拠だてること多年であった。」とある。「錐」ではなく、尊徳に親しく教えを受けた齋藤高行が記す「小刀」のほうが正しいように思われる。
自己の即物的主体性において真理の自証的充実を見出しえざるものは、いかに伝統的権威をもってのぞむものも断乎否定した尊徳は、自家の真理に対して牢乎たる自信を持していた。
「我が説が儒仏神と異なるところあるも、我が説に誤りなし」とさえ彼は断言するのである。しからば、彼自身の立場から見て、当時の教学の根本的欠陥はいかなる点にあったであろうか。
尊徳の眼から見て当時の教学の最大欠陥は、それらが単に超越的であって実人生に触れえないということであった。当時の超越的教学は言葉だけの詮索を事として、活きた人生と社会から游離していたのであった。すなわち経験を離れ具体化を忘れた空虚な抽象的一般論に終始するものが多かった。現実を離れた一般論はいかに美しい外貌を装うとも空虚以外の何ものでもない。
このことは現実自体において鍛えぬかれていた尊徳の感覚にはおおうべくもなかったのである。
加茂の社人梅辻飛騨守が江戸において弁舌態度鮮やかに神典、天地の功徳・造化の妙等を説いたが、一般これに耳を傾けた尊徳の感想はつぎのごとくである、
「実に達人と云うべし。その説く処も大凡尤もなり。されども未だ尽さざる事のみ多し。彼位の事にては、一村は勿論、一家にても衰へたるを興す事は出来まじ。如何となれば其説く所目的立たず、至る処を実行するときは上下の分の立たず、上国下国の分ちもなく、此の如く、一般倹約をなしたりとも何の面白き事もなく、国家の為にもならざるなり、その他の諸説は、只論弁の上手なるのみ」。
一般論だけの口頭禅は無益のみならず有害ですらある。
実に儒教的教学をもって施政の根本方針とした江戸幕府はもはや行き詰っているのである。
それ自身「実学」を標榜した儒学は、その実学性においていまや全然無なのである。
尊徳は疲弊した農村自体におい育っただけに、儒学をはじめひろく超越的観念的教学およびそれに立脚する政治の無力をよく知っていた。
「君民並に窮し国家衰廃に陥る。政刑ありと雖も之を済ふ能はず。三教ありと雖も之を悛(あらた)むる能はず」。
上に文武の政あり、下に神仏儒の教ありて、しかも四海の民、日に窮するは、文武の政と三教との網よりもれるところから生じる患いにほかならない。
「夫れ我が道は邦政と三教を脱し来るの患を済救するものなり」。(*)
*方今天下泰平。上に文武の政有り。下に神儒仏の教え有り。治具ことごとく備わる。然らばすなわち四海の民、まさにその所を得、その生を楽しみ、必ず蕪田負債の患え無かる。然りしかして四海滔滔その患に苦しむ者有るは何ぞや。侯伯国家を治むる、百吏これを助く。すなわちまさに土地荒蕪、戸口消耗、負債山積の患え無かるべし。然りしかして侯伯その患に苦しむ者有るは何ぞや。神儒仏3家、おのおの修身・斉家・治国の道を説く。すなわちまさに負債家を失う患え無かるべし。然りしかして3家おのおのその患に苦しむ者有るは何ぞや。これ皆文武の政と神儒仏の教えとを脱し来るの患なり。その患を済救し、もって政教を補う。独り我が道有るのみ。それ我が道は邦政と三教とを脱し来るの患を済救するものなり。あに大ならずや。
江戸幕府の公認教学たりし儒学、キリシタン宗門圧迫の具たるに甘んぜる仏教等、いずれも時の政治権力の保護のもとに安きを貪り、厳しき自己批判とハツラツたる真理追求を忘れ去った超越的教学であった。
時代と実人生から游離した超越的教学の根本的欠陥を補い充たすものは、実に経験そのものに帰り、そこから出発する立場よりほかはない。ここに二宮尊徳の経験主義が牢乎たる根拠をもって成立するのである。尊徳にとっては、空虚な教学よりも充実した経験の方が遥かに重大であった。 
三  

 

かつて尊徳は宇津家で大神楽を見たが、その至芸についてつぎのように語った。
「この術の如くなさば百事成らざる事あらざるべし。・・・・・・聖人の真理この一曲中に備はれり。然るに之を見る者、聖人の道と懸隔すと見て、この術を賤しむ。儒生の如きは何ぞ。国家の用に立たんや、嗚呼術は恐るべし」。
山芋堀り鰻釣り篤農等の入神の技をたたえ、「永年刻苦経験して発明するものなり。技芸にこのこと多し。侮るべからず」と述べている。
その他鍛冶工・市井の侠客・馬丁の態度等がかえって彼の注目を要求するのである。
尊徳にとっては経験自体において耕され主体化され「身につけ」られたもののみが真理の名に値したのであった。
経験と工夫とによっておのづと光ってくる充実したものに対して、彼は鋭い眼と勘とをもっていた。彼のいわゆる悟道記録には、塩売りや百姓の女の言葉が「天理自然」を語るとなして書きとめられているのである。
彼の感覚と関心とは封建治下にもかかわらず身分の高下を超えて即物的根源性を実現するものにのみひたすらに向かったのであった。
この点でも尊徳はゲーテを想起させるものである。彼の全人格は外形の虚飾を超えて、直接に充実した経験自体に向かったのであった。
「実功」が彼の価値の尺度であった。表面だけ高尚で内容空虚ないわゆる学問よりも、かえって下賎なものの経験のうちに生きている技芸の方がすぐれているとさえ考えられた。彼には真実への感覚が生きていたのである。居なる仮象に対しては虚をもって対するも一応差支えないが、虚はついに実に対すべからずと説いたのも偶然ではない。
経験と実人生とは、ごまかしと虚飾とを許さない。読書や記誦をもって能事終れりとするいわゆる学者のごとき存在は、彼の眼には甘いものであった。
実功なく活用を欠くものは、ほんとうの学問ではない。実人生に根ざし実生活に活用するもののみが真の道である。彼は一切の既成概念を離れて体験と経験につこうとした。 
四  

 

しかし彼の経験主義は単なる実利主義でも功利主義でもなかったのである。功利主義的立場の最後の目的はついに個人的利益を超ええないが、尊徳の経験主義の出発点をなすものは彼のいわゆる「人為(ひとため)」(*)の倫理にほかならない。自家の建て直しに挺身する実地正業の間に君公の直談表彰をうけた32歳の尊徳は、「自家の家業を励むことがなぜに村為になると言われるのであるか」とみずからに問わざるをえなかったのである。
*大久保忠真公は、二宮尊徳に桜町領の復興を依頼し、いわば先生を世に出した人である。
文政元年(1818年先生32歳)の8月、忠真は大阪城代から老中となり、小田原領内に帰着した折り、11月に農政6箇条を公布するとともに、同月15日に酒匂川の河原で領内の孝子節婦奇特者を表彰した。
金次郎も行いが奇特として表彰された。
天保14年に先生が幕府に出した「勤め方住所伺いたてまつりたてまつり候書付」にはこうある。
「京都・大阪の在勤が9ヶ月に及んで、このたび小田原に帰着したついでに、郷中を見渡したところ何となく近年怠惰にながれているようである。このままではいよいよ困難なことになるであろうと、本当に嘆かわしい。これから老中職となると、小田原城に居住することもないだろうから、今回こうして参ったのが良い機会だから、一体の心がけのあらましをさとしておこう。詳しいことは、奉行たちから申し渡すから、一同油断なく励まなければならない。
風俗をつつしんで、世間の悪い習慣に流れず、一途に本心から精出して、良い習慣を失わないことが第一である。右の条々を一同に申し渡されて、さらにわたしには次のとおり直々に仰せになりました。
「かねがね農業に精出して心がけが良いと聞いた。その身はいうまでもなく、村為にもなり、近頃惰弱な風俗の中で、特に一段奇特なことであるからほめておく。
役を勤めるものはその身を怠っては万事ゆきとどかないことにもなり、小作たちの手本にもなることであるから、いよいよ励まねばならない。」
実にこの出会いのときの感激が、二宮尊徳を、一家を再興し、村の貧窮の者を助ける、いわば地域のリーダー的な役割から、内村鑑三氏が「生涯の贈り物」とたたえたような、日本を代表する偉人となった。
そこに見出された答えは、「人為」にまで高められざる努力はついに「吾身勝手のみ」となす人間の道の哲人的把握である。自己中心的功利的立場を根本的に超える「人為」の倫理こそ、人をして人たらしめる--かかる「道」の自覚が、爾後桜町15か年の悪闘苦闘にはじまる二宮尊徳一生のコースを決定するにいたるのである。真実の学の姿は「道」である。いわゆる経験主義は「道」にまで深まらねばならない。その「鍬鎌の辞」に曰く「吾朝、神代の昔、豊葦原を安国と平げたまひしより、今日只今に至るまで、国を治め家を斉え人命を養ふ、是より尊きはなし。」
この点において、二宮教学はまぎれもなく治国平天下の儒教的教義をその本質的契機の一として含むものである。
海辺の地を開いて売る深川の木村嘉七というものに会った尊徳は、彼をわが門下にも見ざる「大才」と称し「今少し志を起し国家の為を思はゞ大功成るべきに開拓屋にて一生を終るは惜しむべし」と語っている。
尊徳の仕法も一部からは「開拓屋」と同じもののように見られていたが、尊徳の実利主義の根底には「道」が厳として生きているのである。
「開拓屋」と天地懸隔する所以である。「道」を根本原理とする実功主義・経験主義である。 
五  

 

功利主義は自分一個の利害を中心とするものであり、尊徳のいわゆる「眼前の凡情」を超えるところのないものである。しかるに治国安民の道は自己中心主義の「執着」を超え天下後世のことを眼中におくものである。
ここに尊徳における「克己復礼」の儒教的立場は、仏教的解脱との結合を要求するのである。
「私欲に克ち」天理に帰するには、広く高き限界を打開することが必要である。
すなわち個人的執着の迷いを去り、いわゆる経験的でなく、過現未の三世を観通する悟道が要請せられるのである。
「悟道にあらざれば、執着を脱する事能わず」という如く、今や二宮教学はその一本質的契機として仏教的超越観照をもまた要請するのである。
真に経験を生かすためには、かえって経験を超えて「悟道」に上りゆかねばならない。
「不二の山のぼりつめたる夕には こころの宿に有明の月」
ここに一円清浄心が個人的執着の雲を払い視野を開き来たるところ、万物一元三世一貫の理を観ずる「悟道」の妙境が可能となるのである。
しかしかかる悟道の高嶺は同時に現実に下りゆくべき限界境位にほかならない。悟道の妙境に観念的陶酔の甘夢を貪るは実は悟道に執着するものである。執着を脱する悟道に執着するは明らかに一つの迷執である。
「志を起し国家の為に」身をもって働く道を開くためにのみ、悟道が要請せられたのである。
山上の月に心を奪われ麓で働くことを忘れるものは、観念的夢遊病者である。
悟道に執着するのみで「道体の高妙を覚り塵世を厭ひ閑寂を楽しむ」をもって能事終れりとし、再び俗界に下り衆生済度に力を致さぬものは「徒らに延るのみで一向実を結ばぬ糸瓜(へちま)」の如きものである。
「高遠隠僻」の悟道もそのままでは無用の長物であり、老仏の悟も「人生の迷惑」である。さらに曰く
「若し夫れ悟を貴びて済度を務めざれば迷者と同じ」。
徒らに手のきれいな学問や悟道は無益有害であり、ついにはかえって「迷ひ」そのものでさえある。尊徳がしばしばあげる自作歌に曰く「ぶんぶん(文々)と障子に虻(アブ)の飛ぶみれば、明るき方へ迷ふなりけり」
かくて「悟道」の高嶺に一円清浄の月を仰ぎえたものは、その清浄一円の心をこの大地にこの体をもって彫り込まねばならない。
この間の消息に関して我々は尊徳の真骨頂を窺うに足る雄渾含蓄の文字をもっている。
「仏者も釈迦が有難く思はれ、儒者も孔子が尊く見ゆる内はよく修業すべし。其地位に至る時は、国家を利益し世を救ふの外に道なく、世の中に益ある事を勤むるの外に道なし。譬へば山に登るが如し、山の高く見ゆる内は勤めて登るべし。登り詰れば外に高き山なく四方共に眼下なるが如し。この場に至て仰ぎて弥弥(いよいよ)高きは只天のみなり。此処まで登るを修業と云ふ。天の外に高き物ありと見ゆる内は勤めて登るべし学ぶべし」
「緇徒(しと:仏者)悟を貴ぶは未だ迷界を免れざる也。既に悟らば則ち何ぞ以て之を貴ぶに足らん。之を高山に登るに譬ふ。その高きを仰ぐ者は未だ絶頂に至らざる也。其の悟を貴ぶ者は、未だ極度に至らざる也。既に絶頂に至れば、則ち四望して降り、既に極度に至れば則ち後迷界に入り、済度を務むるのみ。若し夫れ悟を貴びて済度を務めざれば即ち迷者と同じ」。(*)
*書を読む者すべからく人を済(すく)うの心を存すべし。何となれば書は人を済うの道を載するものなり。ゆえにこれを読みてその心を存せざれば、すなわち何の益かこれ有らん。それ博施・済衆は聖人の功用なり。今の学者、聖賢を仰ぐ、なお高山を望むごとく、及ぶばからずとなす。しかれども孳孳(シシ)よく勉めておこたらずんば、すなわちあるいは山頂に陟(のぼ)るべし。既に山頂に陟(のぼ)れば、すなわち展目・四眺。しかる後、また下らざるをえざるなり。書を読みて道を得。あるいは賢処に到らば、すなわちよろしく衆庶と偕にし、これを教えこれを導き、己を倹し財を推し、もって施済を務むべきなり。
孳々として努めて高きに上り、上りて仰ぐは青天のみという境地にいたれば、すなわち下りて衆庶と苦楽を共にし、勤倹もって世に譲り国を済うを念とせねばならない。
観念的なる語道は心身一如的なる人道にまで具体化せられねばならない。
「人と生まれて衆生を助くる道を勤めざれば、人にして人にあらず。」
高きに上りて視野を開く「悟道」なきところ執着心の低卑偏狭性は超えゆくべきもないが、同時にまた単なる観念的悟道にその心を虚脱し去って、この身をもって現実に「人為」の道を全くすることなければ、人はまたその身を喪うのである。
高きに上りて人間的凡情を棄て去るとともに、現世に下って人のために働く往還二重の道に開ける遍偏相即心身一如の道を尊徳は至誠躬行の道と名づけるのである。 
六  

 

かくて、経験の狭き限界を脱却するために悟道の高嶺に登りゆくとともに、悟道の清浄境を生かすためには、再び現実に下り来たらねばならない。
天地一円の心を体して現実のまっただ中に工夫を尽すことが、真に人をして達せしめるのである。
尊徳によれば、堯舜釈尊ともに師なくして聖仏と称せられる所以のものは、「その知らざる所を思ひ、その能くせざる所を務め、千酸万辛以て百姓を愛恤する」が故である。
かく現実そのものを耕すに天地を貫く一円仁の心をもってするとき、ここに天人一貫の道が開けるのである。これこそはまさしく「哲学」の名に値いするものにほかならない。さきに悟道一円の心を体して現実界に下る道を辿った我々は、今や現実自体において結晶する天人相即心身一如的統一としての「哲学」を見出すのである。
この点を切々たる現実体験の裏づけにおいて物語るものは語録214である。
曰く「野州の廃邑を治むるに及び、その民常産無くして常心を失い、風俗頽廃田野荒頓、貧困已に極る。余、夙夜苦心労力以て之を治む。然るに東を治れば則ち西敗れ、左を治れば則ち右敗れ、復之を如何ともするなし。竊(ひそか)におもへらくこれ蠻貊なりと。乃(すなわ)ち言忠信、行篤敬に止まり、遂に之を治むるを得たり。是に於て聖語の差わざるを知る。この時に当り、儒者仏者を論ずるなく、里正伍保に至るまで、周(あまね)く之を諮詢するも、亦皆與(とも)に議するに足らざるなり。独り諸(これ)を学庸〔大学・中庸〕論語に諮詢し、遂に以て功を奏するを得たり。」
西明寺入道の巡国記以来、各種の風土記が語を極めて土地人柄の荒涼を説く下野の国と取り組んで、十有五年間悪戦苦闘よく三か村を復興するとともにみづからも大成した桜町時代において、あらゆる現実的経験を尽してなおも道の打開を見るべくもなかったとき、尊徳は古典に結晶せる天人一貫の道としての「哲学」によって最後の境地に透入したのであった。
あらん限りの経験に訴えてなお功なきとき、経験はついに「道」といい「哲学」という。
これは人生の閑葛藤事ではなく、骨肉心肝に徹してはじめて開けくる「一なるもの」である。
尊徳は経験に徹し、道に深まり哲学に進まざるを得なかった。
哲学を笑いうる経験主義は浅薄なるが故に幸福なる立場の産物である。
尊徳にとっては経験を裁く最後の法廷が天人一貫の道としての哲学であった。
つとに「幼年の困難心魂に徹し骨髄に染む」の経験に出発し、上に固陋なる吏僚下に蒙昧なる田夫野人の間に立ち微々たる身分をもって仕法に従事し「醜俗に交はる時は如何に堪忍するとも忍び難きこと多かるべき」経験に終始した尊徳にとっては、「道」と哲学とはあってもなくてもよいものではなかった。
現実に即して自己を究め「我身の天」に自己を還元するとき、天地の「間」に立つものとしての人の道は天人一貫の哲学として証示せられる。
現実に徹し自己を究める即物的主体性の立場において、天地人を一つに貫く「一円相」の哲学が成立したのである。
彼の窮極の真面目が経世家よりもむしろ「哲人」に求められる所以である。
彼は経験に徹し世塵を浴びる毎に、塵に反映する「永遠の光明」に向わざるをえなかったのであった。
「善く問ふ者ありてこそ即ち理を尽し得」とは尊徳の言であるが(*)、全人格がその死生を賭して問うごとき経験に透入するときこそ、天人一貫の行道としての哲学または「道」が答えるのである。
*孔子の問に答うるや、一を問えば、則ち一を答うるのみ。甚だしく言に吝なるごとし。けだしその言の深浅、問う者の精粗に在るなり。余もまた善く問う者無ければ、則ち理を尽すあたわず。小子の問い、譬えば一髪を以て洪鐘を撞くごとし。烏んぞ真音を発するを得ん。孔子曰く、これをいかん、これをいかんと曰わざる者、吾れこのごとくいかんもするなきのみと。宜(むべ)なるかな。
困難なる局面の真相に触れるだけ、「道」を思い「哲学」に志さずにはいられないであろう。
尊徳の哲学はかかる消息の生きた歴史的証明である。
経験のうちにあって真に行為するためには「その本に反(かへ)りてその源を詳かにす」べきである。「能々本を知りて勤めたまへ」。
道徳の根底には一円循環してやまぬ天人一貫の理法がある。この理法に徹しそれに即して行う故に、人間の道はただ個人の私道たることを超えて天地に通じ歴史的となるのである。
今や哲学的思索は閑事業でなく、生命自体が証(あか)し来たる天人一貫の道である。
進みか退くか、生死の関頭にまで追いやられた桜町仕法において、成田山参籠を大きな峠として尊徳の哲学的思索は急速に深まったことは、日記が明らかに示し諸家が指摘するとおりである。
天保2、3年頃より4年頃までの日記に悟道的思索が深遠豊富な断片を多くとどめ、尊徳独自の道歌が多く作られたのである。
生活分裂の苦悩の間にその身を尽しその「天」にいたるところにのみ、天人一貫の道として哲学が可能となるといえよう。
真実の哲学が生命の苦難を救うとともに、生命の苦難が哲学の深底を開くのである。
かくも多忙多難なる生涯を通じて尊徳が深き哲学的思索を行いえたことは不思議ではない、むしろ生命の道を行く哲人には天人一貫の道を措いて生命の道はありえなかったのである。
生命の道を阻まれる経験を人一倍深く味わった尊徳は、「心田」を開いて「我身の天」にいたることをもってすべてのはじめと考える哲人であった。 
七  

 

尊徳にとっては、仁義礼智信の文字をもてあそぶかぎりの「青表紙」の学問は一顧に値いしないものであった。
実生活を離れた超越的教学に関するかぎり、尊徳は決然として経験主義を選ぶのである。
しかしながら、彼の実功主義と経験主義の根底には「哲学」がある。
これは実に彼が文飾や戯論を去り、実功につき経験に徹するの極、達せざるをえなかった境地である。
経験に徹しぬくとき、経験の底を割って経験以上のものが天人一貫的に生きてくるのである。
すなわち「道」に達することのみが、経験を生かすのである。
経験は「道」によって生命と意味とを吹きこまれるのである。
経験は「道」によらざれば、その最後の窮境を打開しえない。
経験によって富まされ深められるとともに、経験に「意味」を与える天人一貫の哲学こそ、尊徳のいわゆる至誠躬行としての「学」にほかならない。
経験より悟道の高嶺に上り悟道より現実に帰る上下相即不止不転の天人一貫的一円行道に真箇の哲学が現成するのである。十方空を領得せしめる悟道なくば、我欲の迷執は人倫界の成立を阻むであろう。同時に三界城裏に「迷い」は入る人道なきときころ、高妙清浄境に住する悟道も空虚なる名を擁するにすぎない。まさに「迷悟一円」迷におらず悟に止まらず不四止不転の至誠を貫くのが、天人一貫の行道にほかならない。(*)
*二宮翁夜話 / ある人が、道を論じて筋道が通っていなかった。尊徳先生がおっしゃった。「あなたの説は、悟道と人道と混同している。悟道をもって論ずるのか、人道をもって論ずるのか、悟道は人道に混同してはならない。なぜかといえば、人道のよしとするところは、悟道にいわゆる三界城(迷いの世界)である。悟道を主張すれば、人道は軽蔑すべきである。その間を隔てること、天地と雲泥のようである。だから先にその居場所を定めて、それから後に論ずるがよい。居場所を定めないと、目がなき秤(はかり)で重さを量るようで、終日弁論しても、その当否を知ることはできない。悟道というのは、たとえば今年は不作であろうと、まだ耕さない前に観ずるようなことをいう。これを人道に用いて不作であるから、耕作を休もうというのは、人道ではない。田畑は開拓してもまた荒れるのは自然の道であると見るのは、悟道である。そして荒れるからといって開拓しないのは、人道ではない。川のそばの田畑は洪水があれば流失するということを平日に見るのは悟道である。そうかといって耕さず肥料をやらないのは、人道ではない。
悟道とはただ自然の行くところ見るだけであり、人道は行き当る所まで行くべきものである。論語に、父母につかえては繰り返しいさめ、その志が通じないときは、敬って違わない、努力して怨まない、とある。これが人道の極地を尽したというべきだ。俳句にも「いざさらば雪見にころぶ所まで」という。これがその心である。だから私は常に言うのだ。親を看病して、もはやおぼつかないなどと見るものは、親子の至情を尽すことはできない。魂が去って体が冷えて後も、まだ全快あろうかと思う者でなければ、尽すと言ってはならない。だから悟道と人道とは混合してはならない。悟道はただ、自然の行くところ観じ、そして勤めるところは、人道にある。人間の道とするところは、仏教にいわゆる三界城裏(迷いの世界)の事である。十方空を唱える時は、人道は滅するであろう。善知識(僧侶)を尊び、娼妓(しょうぎ)を賤しむのは迷いである。そうはいってもこのように迷わなければ人倫は行われない。迷うが故に人倫は立つのである。だから悟道は人倫に益はない。そうであっても、悟道でなければ、執着を脱する事はできない。これが悟道の妙である。人倫はたとえば繩をなうようなものだ。よりがかかるのをよしとする、悟道はよりを戻すようなものだ。だからよりを戻すことをもって善とする、人倫は家を造るようなものだ、だから丸木を削って角材とし、曲ったのをためて直とし、長いのを切って短かくし、短いのを継いで長くし、穴をうがって溝を掘り、そして家を作るのである。これはすなわち迷うが故に三界城内の仕事である。それを本来なき家なりと破るのは悟道である。破って捨てる故に十方空に帰するのである。しかし、迷いといい悟りというのは、まだ徹底していない。その本源を極めるならば迷いも悟りもともとない。迷いといえば悟りと言わざる事を得ない。悟りといえば迷いと言わざる事を得ない。本来迷いと悟りで一円の世界である。たとえば草木のように、一粒の種から生じて、あるいは根を生じて土中の潤いを吸って、あるいは枝葉を発して大気の空気を吸い、花を開いて実を結ぶ、これを種から見るときは迷いというべきだ。そうかといって、秋風にあえば枯れはて本来の種に帰る。種に帰ったといっても、また春陽にあえば枝葉花実を発生する、そうであれば、種となったのが迷いか、草となったのが迷いか、草に成ったのか本体か、種になったのが本体か、これに因ってこれを観るに、生ずるのも生ずるのではない、枯れるのも枯れるのではない。そうであれば無常も無常ではなく有常も有常ではない。皆旋転して止まない世界に住するものであるからである。私の歌に「咲けばちりちれば又さく年毎に詠(ナガ)め尽せぬ花のいろいろ」と詠んだのもその心だ。一笑するがよい。
今や哲学は迷悟相即心身一如的統一を天人一貫の一円行道において現成し、悟道と人倫、普遍と特殊とを帰一せしめる。
まず悟道の遍なきところ我々の眼界は徒らに狭く、単なる経験主義に堕するであろう。その限り哲人尊徳は広く万象に通ずる一理を窮め、特殊を貫く一般を求めたのである。
「予は唯一理を明かにすることを尊むなり。一理誠に明かなれば万理に通ず・・・・・・孔子は一以て之を貫くと言はれたり・・・・・・(一貫する一理を見ずして)徒らに仁は云々、義は云々と云ふ時は、之を聴くも之を講ずると共に無益なり」。
語録(*)が語るごとく、万理に通達せざるものは実に経典の名に値いしないのである。
*孔子曰く。民の利する所に因りてこれを利す。これ恵みて費えざるにあらずやと。これを稲を培うに譬う。稲の利する所に因りて肥を澆(そそ)げば、則ち秋実多し。あるいは童子価十銭の玩器を求む。これを易るに二十銭の紙を以てす。又あるいは鮮魚をおくれば、則ち人必ずこれを取る。これをこれ恵みて費えずと謂うなり。もしそれ餒魚をおくれば、則ち人必ずこれを捨つ。玩器を与えば、則ち長物のみ。これ則ち恵みて費えるなり。また曰く。仁を欲して仁を得。またいずくんぞ貪らんと。これを粟と菽とに譬う。粟を欲して糞を澆げば、則ち粟を得。菽を欲して糞を澆げば、菽を得。その欲する所得ざる無し。また何に貪らん。けだし経書万事に通ず。通ぜざれば則ち以て経典と為すに足らざるなり。
しかしただ一理のみを追い普遍を求めて、それが万象を貫き特殊のなかに生きていることを体得しないならば、同様に誤りである。
このことは上述の梅辻飛騨守の一般倹約論に対する批評が明らかに示すところである。
一般なき特殊は狭くして低級であり、特殊なき一般は美しくとも空虚である。
今や一般と特殊とは内面的相即性において動的統一を見出さねばならない。
一円遍満の心と局所凝集の体が相互に貫き含む心身一如的統一を現ずるがごとく、一般と特殊、悟道と経験とは生きたる内面的現実的統一を実現せねばならない。
三世を観通する一円遍き語道の心は刻々現在の我が身の立脚点に即して生かされなければならない。
動きゆく現在自体にその自由無礙の生命を現じ来たるものが全き意味の普遍であり永遠である。
永遠と時間とは刻々創造的にその生を新らしくする「永遠の現在」において相互に帰入して「一なるもの」を現成するのである。
尊徳は永遠の理法として古典に結晶している哲学と時間的経過とを氷と水とに譬え、両者を主体的に円融せしめるものを「胸中の温気」と表現している。
本質を同じうしながらその相貌を異にする永遠の「大道」と現在の経験とは、尊徳のいわゆる「胸中の温気」「永遠の現在」に住する人格的主体性において、天人相即の円的統一を現ずるのである。
夜話に曰く、「大道は譬へば水の如し、よく世の中を潤沢して滞らざるものなり。さる尊き大道も書に筆して書物となすときは、世の中を潤沢する事なく、世の中の用に立つ事なし。譬へば水の氷りたるが如し、元、水には相違なしといへども、少しも潤沢せず。水の用はなさぬなり。而して書物の注釈と云ふ物は又氷に氷柱(つらら)の下りたるが如く、氷の解けて又氷柱と成りしに同じ、世の中を潤沢せず、水の用を為さぬは、矢張同様なり。さて此の氷となりたる経書を、世上の用に立てんには胸中の温気(うんき)を以てよく解して、元の水として用ひざれば世の潤沢にはならず、実に無益の物なり。氷を解かすべき温気胸中になくして、氷のままにて用ひて水の用をなすと思ふは愚の至なり。世の中神儒仏の学者世の中の用に立たぬは是れが為なり、能く思ふべし。故に我が教は実行を尊む。」
「胸中の温気」をもって経書に結晶する「大道」を溶かし活用に転ぜよとは純熟せる体験のみがよくする語であろう。記誦博学に甘んずる衒学の徒に欠けて尊徳に具わるものはただ「胸中の温気」に発する活機のみであるが、その差たるや実に白雲万里である。経典に結晶する永遠の哲理を溶かして即物的活用に転ずる主体的自由において「大道」は現前する。真箇の哲学が求める普遍なるものは、一切の特殊を円融して個性的統一において湛える「胸中の温気」(2)として証示せられる無の主体性にほかならない。
夜話と全く同一主旨を説く語録(*)は「胸中の温気」にあたるものを「通明の温心」と書いている。この語につきては小林秀雄氏「文学と歴史」中に収める「文学と自分」参照。
*経書は道を載するものなり。そのこれを書に筆する、なお水始めて氷るごとくなり。朱子注脚を下す。なお氷箸、垂下するごとく、ますます堅凝解しやすからざるなり。いわんや細註のごとき、嘔吐もって聖経を汗すに似る。難いかな、その蔽固の冷心をもってこれを解するや、通明の温心をもってせば、すなわち渙然氷釈。いずくんぞ注脚をこれ用いん。何ぞや、人倫日用当行の道なればなり。 
八  

 

今や氷として古典に結晶した哲学は「胸中の温気」により水にまで溶かされて経験を潤沢する自由を発揮するものでなくてはならない。哲学の「永遠」は経験の「時間」と内面的動性において帰一しなくてはならない。かく永遠と時間との合一点は、刻々時間と共に移りながらたえずその間に不止不転の天人一貫的一円統一を現ずる「永遠なる現在」のほかはない(1)。
氷の経典を溶かす「胸中の温気」こそ、時間のうちにあって却って時間そのものの中に永遠の新しき相を生かしきたる「永遠なる現在」にほかならない。
かかる「永遠なる現在」こそ、三世を貫く「一円仁」の心をもって日々刻々の我が身に生きるものでなくてはならない。三世を貫く一般の心と現実の身体的立脚点に示される特殊とを円融統一し日々を耕すものが、尊徳のいわゆる「至誠躬行」の道にほかならない。一般に向かう悟道と特殊に向かう人道とが帰一するとき、尊徳は「天道人道相和し自然その身に具はる、是を道と云ふ」と含蓄的に表現するのであるが、特殊と一般、時間と永遠、経験と哲学、人道と天道との心身一如的統一こそは二宮教学の理想であった。
かくて永遠の心をもって現実の大地を耕すことは、実は現実自体のうちに永遠の心が刻刻新たにせられる絶対創造にほかならない。まさに天に深まりて人を深めるとともに、人を新たにして天を新たにする天人相即的根本創造の立場である。尊徳はこれを名づけて「開闢元始道」と称した。
「神代の古、豊葦原に天下りし時の神の御心」を体し、水垢離をとり大地を我が身一つで掘り起こす絶対勤行において人と天とを新たにするのが、「開闢元始の大道」にほかならない。この道を尊徳は二宮教学の根底とし、たえずこれに則らんとしたものである。
*貧農草を刈らんと欲して鎌無きを憂え、すなわちこれを隣人に借る。これその貧を免れざるゆえんなり。もし鎌無きを憂えば、すなわち隣人の雇う所となり、その雇い銭を得、もって鎌を買うにしくはなし。これ一日の雇いをもって、その鎌我が有(もの)となる。すなわちこれ天祖開国の道なり。およそ貧を免れ富を致すの術、この理を拡充するに在るのみ。
清浄一円の心よりして身をもって地を耕して「天」に深まる創造的勤労こそは日々刻々天地人三才の徳を開闢的に新たにするものである。
「夫れ開闢の昔、芦原に一人天降りしと覚悟する時は、流水に潔身(みそぎ)せし如く、潔き事限なし、何事をなすにも此の覚悟を極むれば、依頼心なく、卑怯卑劣の心なく、何を見てもうらやましき事なく、心中清浄なるが故に、願ひとして成就せずと云ふ事なきの場に至るなり。この覚悟、事を成すの大本なり。我が悟道の極意なり。この覚悟定まれば、衰村を起すも、廃家を起すも、いと易し、只この覚悟一つのみ」
かく一切の始源を創める「開闢元始道」が尊徳の理解する神道である。ここに日本の大地に即して開闢せられた天人一貫の道が語られるのである。彼によれば、儒学は治国の学であり、仏道は治心の道にほかならない。治国治心等は開国ありて後の問題であるかぎり、わが神道開闢の道こそ、儒仏にも先んずる本源の道でなければならない。
*尊徳先生はおっしゃった。「神道は、開闢(かいびゃく)の大道で皇国本源の道である。豊芦原を、このような瑞穂の国、安国と治められた大道である。この開国の道こそが真の神道である。神道が盛んに行れ、国が開けてから後に、儒道も仏道もわが国に入って来たのである。神道すなわち開闢の大道がまず行われて、十分に満ち足りるにしたがって後に、世に中に難しい事も出て来た。その時に、儒も必要、仏も必要となったのだ。これは誠に疑いない道理である。たとえばいまだに嫁がない時に夫婦喧嘩があるはずがない、いまだ子が幼少のときに親子喧嘩があるはずがない。嫁があって後に夫婦喧嘩もあり、子が成長して後に親子喧嘩もあるのだ。この時に至ってこそ、五倫五常(儒教における五つの基本的な人間関係を規律する五つの徳目。すなわち父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信をいう。五常)も悟道治心も必要となるのだ。それを世の中の人はこの道理に暗く、治国治心の道を以て、本元の道とする、これは大きな誤りである。本元の道は開闢の道である事は明かである。私はこの迷いをさますために古道につもる木の葉をかきわけて天照す神の足跡を見んとよんだ。よく味うがよい。天照大御神の足跡のあるところが、真の神道である。世に神道というものは、神主の道にすぎない。神の道ではない。はなはだしいのになると、巫女や占いの連中が、神札を配って米や金銭をこう者をも神道者というに至っている。神道というものが、どうしてこのように卑しいものであろうか。よく考えなければならない。

かくて神道もまた二宮教学の根源的契機としてその核心において生かされるのである。かくて神儒仏はそれぞれの本質契機において天人相即の「一円相」哲学に参入し、尊徳の人格的統一を通じて彼のいわゆる「神儒仏正味一粒丸」なる日本的統一を現成したのである。
*尊徳先生はおっしゃった。「私は久しく考えて、神道は何を道とし、何に長じて何に短であるか、儒道は何を教えとし、何に長じ何に短であるか、仏教は何を宗として、何に長じ何に短であるか、と考えるに皆互いに長短がある。私の歌に『世の中は捨て足代木(あじろぎ)の丈(たけ)くらべそれこれともに長し短し』と詠ったのは、慨歎にたえないからである。だから今それぞれの道の専らとするところを言うならば、神道は開国の道であり、儒学は治国の道であり、仏教は治心の道であるといえよう。だから私は高尚を尊ばず、卑近を厭わず、この三道の正味だけを取ったのだ。正味とは人間界に必要なことをいう。必要なところを取って、必要でないところを捨てて、人間界において無上の教えを立てた。これを報徳教という。
たわむれに名づけて、神儒仏正味一粒丸という。その功能の広大である事は、数えあげることができない。
だから国に用いれば国の病いが癒え、家に用いれば家の病いが癒え、そのほか荒地が多いのを憂える者が、服用すれば開拓ができ、負債が多いことを憂える者が服用すれば返済ができ、資本がないことを憂える者が服用すれば資本を得、家がないことを憂える者が服用すれば家を得ることができ、農具がないのを憂える者が服用すれば農具を得、その他貧窮病や贅沢病、放蕩病、無頼病、遊惰病、すべて服用して癒えないという事がない。
衣笠兵太夫が、神儒仏三味の分量を問うた。尊徳先生がおっしゃった。
神一さじ、儒仏半さじずつであると。ある人が傍らにいて、これ図にして、三味分量はこのようですかと問うた。尊徳先生は一笑されておっしゃった。世間にこの寄せ物のような丸薬があろうか。既に丸薬というならば、よく混和して、更に何物とも、分らないようになっているものだ。このようでなければ、口の中に入って舌に障りがあり、腹の中に入って腹の具合が悪いであろう。よくよく混和して何品とも分らないようになっている必要がある、ハハハ。
*われ我が法を創設するや、神何を道となし、何に長、何に短。儒何を要となし、何に益、何に損。仏何を主となし、何に得、何に失。おのおのその理を窮め、三教を合し興国安民の一大法となす。なお薬剤三味を合し一粒丸となすごとくなり。国家衰廃の疾いを患うるもの、これを服用せば、すなわちいえざるなし。いわゆる上医は国を医する者なり。いわく、薬剤おのおの分量有り、いかん。皇国は本なり。異域は末なり。ゆえに神二サジを用い、儒・仏おのおの一サジを用ゆ。
今や永遠一円の心をもって、現実の世界を耕し刻々天と人とを共に新たにすべきである。一般即特殊、永遠即時間、哲学即経験の天人一貫の一円行道こそ真の道である。かかる道はその創造的契機よりいえば「開闢元始道」であるが、その内実的契機よりいえば「至誠躬行の道」にほかならない。かく「至誠躬行の道」が「開闢元始」的創造と表裏相即する点に、尊徳の立場が朱子学や大原幽学の「幽玄道」の立場と異なる特色をもつのである。二宮教学のいわゆる「至誠躬行の実学」なるものは、ただの至善にとどまる至静主義でなく、永遠に新しき天地の心を各人の身において日々生かす創造開闢の道にほかならない[*2]。
[*1] 尊徳の時間論については「天道と人道」参照
[*2] 一切の存在を「誠」のあらわれと説き、寂然不動の太極に帰らんとした朱子学は封建的支配の絶対不変性を合理化したという解釈が提起せられている。それに対し「心即理」の立場において人格的創造を説いた陽明学により実践的性格をもっていたといえよう。これは歴史の事実が示すごとくである。尊徳もその本体論において「太極図説」の影響を少なからずうけているが、その本質において大なる相違を示している。すなわち程子朱子等が寂然不動の太極に帰一する観照的意識の立場で克己復礼を説くに対し、永遠に新しき創造的主体として太極を把握し天人一如の絶対行道を説く尊徳は「天行健、自彊不息」の易経の立場に近く、善悪治乱等の価値成立の根源を「一心」の発動に求める点では、陽明学に近いといわれよう。 
九  

 

上述の如く、ただ特殊を重んずる経験主義は狭く低い。その限りあくまで万理を一貫する天理を求めて、悟道の道を上ってゆかねばならない。しかしその高妙に達し「天の高きを仰ぐ」とき、その「天」をわが身とこの土に実現することこそ、人間本来の道である。
空虚な一般論にとどまる超越的立場は無益有害である。この身において「天」を生かすものでなくては「道」ではない。一々の行為と現実とを貫くものでなくては「道」ではない。一般を窮める教学は特殊を実行する躬行のうちにのみその真理性を発揮する。躬行を欠く読書のごときは緯(たていと)なき経(よこいと)のごとく何一つ織り成すことはできない。
*書を読みて身に行う。すなわち一字一句といえども、しかも終身これを用い、尽くすあたわざるもの有り。たとえば巨多の飯鐺を購うごとし。その飯を炊くや、一にして足る。その他はすなわちいたずらに人の求めに応ずるのみ。多しといえども、また何の益ぞ。
「夫れ我が法は聖教の実行なり。聖教を読むと雖も、その実を行はずんば、則ちその味を知る能はず」
「我が道は実地実行を尊ぶ、それ世の中のことは実行にあらざれば、事はならざるものなればなり」
「人は悟道治心の修行などに暇を費さんよりは、小善事なりとも身に行ふを尊しとす」
よく道を身につけ「我身の天」を習ふことを措いて、学なるものはありえない。真箇の教学は個々の実行のうちに生きていなくてはならない。一般は個別に通じなくてはならない。「道」とは天人相即的一円行道であり、心身一如的なる「至誠躬行」の謂いにほかならない。内外一如の至誠躬行の道を措いて真箇の道なるものはありえない。至誠躬行は内におのずと溢れて物をも動かし、物の中に自己と同じ天地の生命を彫り込むのである。
「我が道は至誠と実行のみ。故に鳥獣・虫魚・草木にも皆及ぼすべし。況んや人に於けるをや。故に才智弁舌を尊まず。才智弁舌は人には説くべしといへども、鳥獣草木を説くべからず。鳥獣は心あり、或は欺くべしといへども草木をば欺くべからず。それ我が道は至誠と実行となるが故に、米麦蔬菜瓜茄子にても蘭菊にても皆是を繁栄せしむる也。たとひ智謀孔明を欺き、弁舌蘇張を欺くといへども、弁舌を振つて草木を栄えしむる事は出来ざるべし。故に才智弁舌を尊まず、至誠と実行を尊むなり。古語に、至誠神の如しと云ふといへども、至誠は即ち神と云ふも、不可なかるべきなり。凡そ世の中は智あるも学あるも、至誠と実行とにあらざれば事は成らぬ物と知るべし。」
人道を天地の実在自体よりつかみ来たる尊徳の天人一貫の宇宙的立場がすでにここに明らかに窺われるであろう。
すなわちこの考えは遡れば中庸(第25章)の「誠は自ら己を成すのみにあらず、物を成す所以也」にまでいたるであろうが、その東洋的真理がここでは尊徳独自の体験を通じて創造的に深く生かされているからである。
誠は今や一個の人間に属するのみでなく、実在自体の根源にまで透徹する天人一貫の道なるが故に、それは自他の一切を育成する。その根底は深く大地に入る柱のごとく「重厚にして不動」である。
至誠こそは身分の大小貴賎を問わず天に通ずるの道でありし一切を包む。無頼の子をも養育する親の心、飢饉の災をも意とせぬ百姓の心、かかる絶対の至誠こそ「我が道を行ふ者」の肝に銘ずべきものである深く内に蔵し発すればすべてを貫き一切を包むがごとき充実をもつものは、至誠躬行の道のみである。
 おのが子を恵む心を法とせば 学ばずとても道にいたらん
内に充ちておのずと一切を包むのが至誠の心である。内外一如なる故におのずと充ち溢れるのである。
「内に実ありて外に顕るるは、天理自然なり」
「姿こそ深山かくれに苔むせど、谷うちこえて見ゆる桜木」
かく内に充ちるの故におのずと外にあらわれる至誠は、その内外一如的天人一貫性の故に絶対的であり現実的である。 
十  

 

かく内外一貫の絶対的現実態に達するとき、至誠の道は単に空虚なる外面的粉飾を超えるのみでなくそれ自身を越えてさながらの「天」を現わし来るのである。
至誠の道が人の主観性を脱して天的現実性を現わし来るのである。
真の悟達が悟道執着を忌み超えるがごとく、真箇の至誠はいわゆる至誠の臭味を脱落しそれ自身を超えるのである。すなわちその内外一如の絶対性の故に、至誠は自己を忘れ対立を絶して天人相即の平常性に帰入するのである。このとき道は道を超え、努力は内より努力を忘れるであろう。
天人一如の絶対的充実は分裂と人間的努力を超え、何一つ外に求むるなき平常心に帰一するが故である。尊徳は「定力我に於て何かあらん」の堯の世を想い起して「我が道に従事して刻苦勉励国を起し、窮を救ふ事ある時も、必ず人民は報徳の力何ぞ我にあらんやと謳ふべきなり、この時これを聞いて悦ぶ者にあらざれば、我が徒にあらざるなり、謹めや謹めや」と自他に厳戒している。
内に充ちておのずと外にあらわれる至誠は、おのずと自己を忘れ自己を超越する。さきに人道を忘れ足が地についていない悟道が斥けられたが、今や人道が天人一貫的具体性に到達することにより人道を超える一境がいわゆる「平常道」として開けるのである。
至誠は内を尽し、しかもその尽していることをも忘れて、それ以上に出る。おのずと充ちておのずと自己を超える天人相即性を欠くとき、いわゆる至誠は自己中毒を起し道徳臭くなるのである。
これを知らない尊徳ではなかった。報徳思索断片(全集第1巻560,561)において
「忠勤を尽してその弊を知らざれば忠信に至らず。」
「忠勤を尽してその弊を知れば、必ず忠信に至る。」
「仁愛を尽してその弊を知らざれば仁愛に至らず。」
「仁愛を尽してその弊を知れば、必ず仁愛に至る。」
と分析し、忠勤、仁愛、孝行等について、深く道徳の自家中毒性を見ぬき、その天人一如的超越を説いたのは、対立を超える一円哲学の必然の帰結であろうが、尊徳の道徳体験の深さと洞察力の鋭さを物語って遺憾がないといわねばならない。
至誠は至誠の極に至誠をも忘れて、奇もなく異もなき平常性に帰るのである。
みずから高しとし、みずから至誠を誇るがごときは、なおその至誠が天人相即心身一如的具体性に達していないが故に、かかる主観的意識を生ずるのである。
仰ぎて天の高さを悟るものは、わが身を尽してその天がこの土とその身に生きることを冷暖自知すべきである。実に道は邇(ちか)きにあるのである。
悟道の高嶺を究め天の心を体し、その身をもって経験の大地を耕して天人と共に新しくする絶対創造のみが至道である。単に高尚なるはかえって道に遠いのである。
「高尚を尊ばず卑近を厭はず」とは尊徳の行き方である。
心の高きを尽して体をもってこの大地を耕す至誠一貫の道である。
「老仏の道は高尚也。譬へて云はば、日光箱根等の山岳の峨々たるが如し、雲水愛すべく、風景楽むべしといへども、生民の為に功用少し。我が道は平地村落の野鄙なるが如し、風景の愛すべきなく、雲水の楽しむべきなしといへども、百穀涌き出づれば国家の富源はここにあるなり、仏家智識の清浄なるは、譬へば浜の真砂の如し、我党は泥沼の如し、然りといへども蓮花は浜砂に生ぜず、汚泥に生ず、大名の城の立派なるも市中の繁華なるも、財源は村落にあり。是を以て至道は卑近に有りて、高遠にあらず。実徳は卑近にありて、高遠にあらず、卑近決して卑近にあらざる道理を悟るべし。」
至道は脚下にあるのである。資生産業すなわち仏道である。
「豆をひき以て豆腐と為す、これ仏なり。米を蒸し以て酒と為す。これ仏なり。糯(もちごめ)を粘り以て餅と為す。これ仏なり。餅酒豆腐名を異にすと雖も、その生を養ふは一なり」。
尊徳にとっては何よりも天人一如の創造的行道としての農耕自体が至道を啓示するものであった。「道の確実なるものは農に如くはなし。故に農に合する者は大道にして、合せざる者は小道なり」。
この点におそらく世界唯一の農耕哲学を深遠なる含蓄において体現しえた尊徳の独自性があるといえよう。 
十一  

 

まさに至道はその天人相即的実徳性の故に「卑近」である。至誠躬行の実学は天の心を明らかにする悟道と地を耕す人の道、すなわち哲学と経験との生きたる相即的一円統一である。
哲学的原理性と経験的即物性との統一が至道である。まさに大道は天人一貫の即物的主体性において現成する。物そのものに即して永遠なる天の心を生かす絶対的創造が至誠躬行の道にほかならない。かかる即物性と原理性との二重性格に対応して、二宮教学は二重の批評を外的立場より下されるのである。すなわち二宮学は「卑近」であるといわれると同時にまた逆に「迂遠」であると称せられたのであった。
この両標語はまさしく二宮教学の本質的二重性格が外面的理解に反映せるものにほかならない。
哲学的原理性を外面的に理解すれば、まさしく「迂遠」であり、経験的即物性を外から見れば、まさに「卑近」と映ずるのである。すなわち功利的現実主義者は天の心を体して治国済民を志す「永遠」の立場を「迂遠」となし、超越的教学に住する者は大地に即して経験的現実的に天人一貫の道を「卑近」となしたのは、まさに外面的理解が到達する必然的帰結にほかならない。
「卑近」と称せられるのは、現実に足を踏みしめて立つ即物的方法の故であり、「迂遠」と称せられるのは、天の心に則して国家百年の計を思う高き志の故である。
高遠幽玄を事とし現実の世界より遊離する悟道的立場から卑近なりと批評せられるならば、「学問高き時は必ず虚にして、卑き時はおのづから実なり」の立場に立つ尊徳はその批評を黙殺甘受して自己の道を行くのである。
上述のごとく老仏の道は高遠愛づべきも、「実徳」を欠いている。平地村落の低卑なるうちにこそ実果は結ぶのである。
「みのるものこそ真理である」というゲーテ的立場はまた尊徳の真理観であったといえよう。平坦の道なればこそ、わが道は万人の道たりうるのである
*1 尊徳先生がおっしゃった。定九郎が言っている。地獄の道は八方にあり、と。実に八方にあるであろう。すべてひとり地獄の道だけでなく、極楽の道もまた八方にあるであろう。どうして念仏の一道だけが極楽の道であろうか。どの道から入っても、その到るところは必ず同じ極楽である。八方にある極楽の道には平坦の道もある。険しい道もある。遠い道も、近い道もあるであろう。私が教える所は平坦であって近い。無学の者や無気力の者はこの報徳の道から入るがよい。
*2 東海道を称し、大路となす。何ぞや。上、王侯より、下、士民に及び瞽者(こしゃ:盲人)、乞人、牛馬に及び、挙げて皆通行すればなり。それ一人行って、十人行うあたわざるもの、大道にあらざるなり。我が日課綯索(とうさく:縄ない)法のごときは、児女子といえども、しかも行うあたわざるなし。あに大道にあらずや。
*2 語録
平地を行く「みのり」の道まるが故に、それは何らいわゆる奇蹟などを含むものではない。青柳又左衛門が越後に弘法大師の法力によって今日まで水油地中より湧き出ると語ったとき、尊徳はこういっている。
「奇は奇なりといへども只その一所のみ、尊ぶに足らず。我が道は夫と異にして、尤も奇なり。何国にても荒地を起して菜種を蒔き、その実りを得て、是を油屋に送れば、種一斗にて、油二升はきっと出て、永代絶へず。是れ皇国固有天祖伝来の大道にして、肉食妻帯暖衣飽食し、智愚賢不肖を分たず、天下の人をして、皆行はしむべし、是開闢以来相伝の大道にして、日月の照明あらん限り、この世界有らん限り、間違ひなく行はるゝ道なり」
奇道は尊徳のとるところではない。平地にみのる天人相即の絶対創造道を行くが故に、わが道は朝野都鄙それぞれの位において「楽しみて行はれ」「日用の間に行はれて滞りなき」ものである。
内外一如の至誠の道として、女子供のごとき「文盲の者」にも行へる道なるが故に、外面的立場からは卑近と称せられるが、その卑近性は低卑性のためではなく、かえって深き一般性の故である。
卑近というも決して俗情凡情に即くのではない。それどころか尊徳は繰り返して俗情の焔の中に道を守る「不動心」を説いているのである。
ただ彼は高遠幽玄な悟道の空虚さを見ぬき、むしろ「微を積み小を尽して大を致す」着実性に就き、大地を耕すことにおいて天人を共に新たにする平常道をもって、万人の道としたのである。大地自体を行く万人の道として、それは広い普遍の道である。
かく着実なる平地の道につくとき、実は百代の後をもその視野のうちに入れ「天と共に行く」の立場に立っていたのである。内外一如の至誠の道が天人一貫の道なるが故である。平地に開く視野無限のるものこそ、尊徳の天人相即的立場にほかならない。この故に彼は卑近どころではなく、上述のごとく、速効を期する現実家からは「迂遠」とも称せられたのである。果して彼の道は迂遠であったのであろうか。
相馬仕法において数十ケ村が一斉に仕法を一日も早く行われることを願ったとき、尊徳は一時に手をつけることは事業破綻のもとであるとなし漸をもって施行すべきを説いた。
曰く、「これ迂遠なるが如しといへども天地間の万事是より順なるは無く是より速かなるはなし。仮令百千里の道を速やかに行かんと欲すといへども、一歩より発するの外に道なきが如し。如何程速かならんことを求むと雖も一歩に二歩を重ねること能はず。強ひて重ねんとするときは倒れんのみ。」
かく説いて彼は「速効」主義を斥けた。百年の計は歩一歩を行く平地の道よりほかにない。彼の法を迂遠となすは「己の一世に比較し以てその成功を見んと欲する」が故である。
後世のために樹を植えるのがまさに人の道である。
わが興国安民創業垂統の道は万古不易天人一貫の大道であるが故に、これを「自己一生に比する」はあまりに近視眼的である。成功を「無窮」に期しその比較を「天地にとるべきである
「国を興し民を安んずる者、創業垂統の道なり。故に其の成功を期するには宜しく之を天地に比較すべし。而も之を我身に比較する勿れ。之を我が身に比較する者は、成功を眼前に期す。故に樹を植うるをなほ迂遠となす。況んや垂統の大業をや。之を天地に比較する者は成功を永遠に期す。故に統を後世に垂れて而も迂遠と為さざるなり。之を永遠に期するものは、以て法となすべきなり。之を眼前に期するものは以て法を為すべからざるなり」。
尊徳が常に斥けたのは「眼前の凡情」につくことであった。これをもって彼は「禽獣の道」となしたのであった。その人道を尽して天地一円の道を全くする根源性に立つが故に、時として尊徳は率直に自信を語るのである。
「門弟子に謂って曰く、我が日夕説く所の理多くは是れ古人の未だ発せざる所なり。小子、日光廟祭田の僅僅たる開蕪に従事せんよりや、寧ろ我が説を記し以てこれを後世に伝えよ」。
かく眼高手低、天人相即にして至誠躬行、一般的にして特殊的なるものが、尊徳の道である。経験より出て悟道の高嶺を窮めて再び現実に帰り天人を共に新らしくする一円行道は、実に瘠薄を極める大地を耕して「天」に徹した一農民によって開かれたのである。 
 
二宮金次郎の思想

 

尋常小学唱歌 二宮金次郎
1.柴(しば)刈り縄ない草鞋(わらじ)をつくり 親の手を助け弟を世話し 兄弟仲よく孝行つくす 手本は二宮金次郎
2.骨身(ほねみ)を惜(お)しまず仕事をはげみ 夜なべ済まして手習(てならい)読書 せわしい中にもたゆまず学ぶ 手本は二宮金次郎
3.家業(かぎょう)大事に費(ついえ)をはぶき 少しの物をも粗末にせず 遂には身を立て人をも救う 手本は二宮金次郎  
碑文報徳訓
碑文報徳訓(太政大臣従一位大勲位公爵三條實美篆額)  
父母根元在天地令命  (父母の根元は天地の令命に在あり)
身體根源在父母生育  (身体の根元は父母の生育に在り)
子孫相續在夫婦丹精  (子孫の相続は夫婦の丹精に在り)
父母富貴在祖先勤功  (父母の富貴ふうきは祖先の勤功に在り)
吾身富貴在父母積善  (吾身の富貴は父母の積善に在り)
子孫富貴在自己勤労  (子孫の富貴は自己の勤労に在り)
身命長養在衣食住三  (身命の長養衣食住の三つに在り)
衣食住三在田畠山林  (衣食住の三つは田畑山林に在り)
田畠山林在人民勤耕  (田畑山林は人民の勤耕に在り)
今年衣食住昨年産業  (今年の衣食は昨年の産業に在り)
来年衣食在今年艱難  (来年の衣食は今年の艱難に在り)
年年歳歳不可忘報徳  (年年歳歳報徳を忘るべからず)
内閣大書記官従五位勲五等金井之恭書 下田喜成刻字  
尊徳思想解析
これらの領主層から依頼され領主の趣法あるいは主法として行った難村復興事業を行政式仕法というが,そのほか地主,豪農が中心となり,村民の自主的な組織である報徳結社によって報徳の教えを実践する結社式仕法が各地に普及した。
報徳仕法が成功した要因のひとつは,事前に詳細な調査を行ってプランをたて,領主をはじめ地主,農民の分に応じた消費を規定した「分度」を画定し,余財を自己の将来や他人のために「推譲」することとし,報徳金と称する領主と農民との中間に位置する資金を創設運用したこと,もうひとつは,窮乏する共同体の経済から上昇農民の自立を目指す「勤労」エネルギーを褒賞制度などによってひき出したことである。
もともと報徳思想は神儒仏3教の折衷より成るが、自然の天道に対し衣食住を生み出す人道を対置し、生産労働と生活規律を重視するなど、民衆の生活意識に根ざす規範を創出した点、農村復興や財政建て直しの為の政策に有効な処方箋を提起していた。これを「尊徳仕法」 と云う。「尊徳仕法」は現在でも十分通じる方法で、数年間の歳入、歳出を算出し、それらのデータを元にして生活の予算を設定する。これによって農民の浪費に歯止めをかけ、又、領主側からの重税に対抗する有効な手段にもなり、荒廃した農村の財政再建をはかった。「入るを計り、出るを制する」。これを「分度」と云う。「二宮仕法」、「報徳仕法」あるいは「興国安民法」などと呼ばれる。非常に具体的で分りやすく日常の生活によく合っていたことから農民に理解された。大自然と人間社会の動きそのものから心理をつかみとった翁の考え方・やり方は、時代を超えて数多くの企業や経営者の中に生き続け、現在も多くの思想が実践されています。その特質は次の点に認められる。
1、報徳至誠の思想
尊徳は、報徳思想を説いた。報徳とは、過去、現在、未来を貫く「天・地・人の徳」に報いることを云う。人間は万物を育む天地の徳によって生存していることを感謝し、報いる気持ちをもって生きなければならないと説いている。その際の根本は「至誠」にあるとしている。まことの道とは、まっすぐで思いやりのある心のことを云い、これが世を救い、世を益すると説いている。
2、勤労
二宮尊徳は天道・人道ということを考えています。天道とは春夏秋冬、夜昼、晴天・雨天等、自然の現象を指します。植物は土によって発芽し日光と水の力で生育します。そして、この植物を動物が食べ物とし生きてゆきます。こうした循環が天道です。人道とは、この自然循環の中で、人類は種である米、栄養を貯蔵した大根など、人間の役に立つものをより分け、水、肥料を与え、雑草を除去し、防除し、収穫を多く得ようとしまが、このように人が手を加え自分達の利益のために行うことを言います。人道は、人間の意志がなければ、行われません。この意志を継続して保持し行為していくことが勤労で、熱心に働くことを説いている。す。
3、積小為大
毎晩勉強していた金次郎は、読書をするための油代を稼ぐために荒地に菜種を植え、たった一握りの菜種から7〜8升の取り入れになった経験や、捨て苗を荒地で丹精こめて育てて、秋には一俵の籾を収穫したことにより、自然の恵みと人の力の素晴らしさを知 ると共に、小さな努力の積み重ねが大切(積小為大)だと学び、これが後の行いや考え方の基になりました。「大事をなさんと欲せば、小なる事をおこたらず勤べし。小積もりて大となればなり」。
4、分度
二宮尊徳は、農村の復興を計画する時、その農村の生産量を過去にさかのぼって調査しています。そして、その地域の生産量を数値で把握し、この現状認識から、生産者、領主の取り分を契約しています。個人についても、それぞれの分限を守り、相応の生活をするということで、収支のバランスをとった生活を勧めています。こうした数値で支出を定めることを分度といっています。まず至誠と勤労をもって収入を増やし、これに見合った支出をするという順番で、計画の策定を重視しているところが、近代の経営を思わせるところです。
大人になった尊徳翁は、生涯を世の中のためにささげ、小田原藩家老服部家の財政再建をはじめ、藩主大久保忠真候の依頼により分家宇津家の桜町領を復興させるなど、自分の体験をもとにして大名旗本等の財政再建と領民救済、北関東から東北にかける各藩の農村総合的復興事業(仕法)を行い素晴らしい成果をあげました。大飢饉で農村が疲弊しきっていた当時、尊徳翁が仕法を手がけた村々は600ヶ村以上に上ります。多くの農村や藩を貧困から救い、独自の思想と実践主義で人々の幸福を追求し、数理、土木建築技術から文学まであらゆる才能を発揮した世界に誇れる偉人です。内村鑑三著『代表的日本人』の中でも、19世紀末、欧米諸国に対して「日本人の中にも、これほど素晴らしい人物がいる」と苦難の時代を救った偉人として尊徳翁は紹介されています。
5、推譲
分度を確立した上で、それ以上の収入があれば、余剰が出ます。この余剰の一部を将来のために譲ることを推譲といいます。自分の子孫のために譲ることは比較的容易ですが、他人のために譲ることはなかなか難しいことですが、二宮尊徳は、これを推進しました。そうしたことができるためには、心の田「心田」の開発が必要といっていますが、尊徳の周辺にはこうした人物が多く育ちました。そして、こうした推譲金を灌漑事業、に充てた結果、干ばつ・洪水の心配もなくなり自己の作物の収穫量も増え、村や社会が豊かになって自分に還元されるという成功サイクルが実現していきました。その後、尊徳の継承者たちは、尊徳の思想を「報徳運動」として実践し、広めていきました。今も各地にある報徳運動は、尊徳の教えが現代まで続いている実際活動であります。
6、最初の信用組合
尊徳翁は藩の使用人や武士達の生活を助けるために、お金を貸し借りできる「五常講」をつくった。信用組合の発祥はドイツといわれていますが、尊徳翁はそれより40年以上も早く信用組合と同じ組織である五常講を制度化し実施したことになる。現在でもこの組合は続いており、「掛川信用組合」として活動している。
7、自然と環境
現在、注目されている自然との共生を尊徳翁は百数十年前にすでに実践し、常に自然と環境のバランスを考えていた。
8、実践
尊徳は、神道、儒教、仏教の三つを混ぜ合わせて作った飲み薬を連想させる「神儒仏一粒丸」なる思想を生みだしていた。その中でも、神道のウェイトが高く、天の徳、地の徳、人の徳に報いる気持ちを常に持ちながら勤労することを基本精神としている。
9、人づくり
「可愛くば、五つ数えて三つ褒め、二つ叱って良き人となせ」。  
 
お白洲無情

 

佐藤雅美 「吾、器に過ぎたるか」改題 主人公となった大原幽学という人物は初めて知った。二宮尊徳同様に農業に関係した人物である。二宮尊徳が農業経営の権威とすれば、大原幽学は共産主義的農業経営実践者とでもいうべき人らしい。人の人物となりは本書の端々にちりばめられているが、本書は大原幽学の人物を若き日から、その活躍ぶりを描いた物語ではなく、八州廻りににらまれて、長い裁判に巻き込まれてからの期間だけを扱っている。そのため、人物のなりを簡単に本書から抽出してみた。大原幽学はまともには学問をしておらず、無学文盲に近い。大原幽学は無学文盲に近いが、聖人であることを実践したただ一人の日本人だった。損得を物差しの基準におかず、身を捨てて実践する。無私無欲の人物。当然そんな人間は理解されない。朱子学では聖人になるための方法を教えている。学問をする者は聖人ならなければならない、もしくはなるための努力をしなければならない。だが、この実践がすこぶる難しい。大原幽学は意識はしていないものの、この実践をしたただ一人の日本人だった。大原幽学の実践したことは様々である。例えば農地の改良。農地の境界線となっている畦道を整備し、農地を交換すれば耕作地が増え、農作業もやりやすくなる。だが、これは江戸の当時にあっては絵空事である。これをやり遂げた。また、教育法。大原幽学の教法に子供を教育する預り子の制がある。七、八歳から一五、六歳まで、扶持を送って他人の家に預け、自分も他人の子を預かるという教育法である。一種の共産主義社会の様な物であった。この思想は身分制度を前提とする幕府体制においては危険な思想である。なぜなら、この思想の行き着く先は四民平等だからである。だが、大原幽学の思考はそうならない。大原幽学は百姓は性来が"下愚"で、武士は"賢人"とし、武士を神聖化している。明らかに矛盾しているのだが、大原幽学の中では一貫しているようだ。
他にも色々書かれているので、その点は本書で補足していただきたい。
さて、本書の中で重要なのが、江戸時代の身分制度である。大原幽学の場合、浪人と称している。浪人は御家(藩)を致仕したという証明、もしくは旗本・御家人、大名の家来の厄介(伯・叔父、もしくは弟)の証明がなければ、正しくは浪人とは認められなかった。だから、浪人といっても、氏素性の知れぬ自称浪人が少なくなかった。これが、本書の一つのキーとなっている。
雑学的だが、江戸にはいわゆる裁判所が八つあった。江戸の者のための南北両町奉行所。関八州の者のための両公事方勘定奉行所。寺社関係者のための四寺社奉行所。
最後に、物語のはじめに八州廻りが登場する。この八州廻りを主人公とした小説を佐藤雅美は書いている。併せて読まれると、八州廻りとはなんぞやというのがわかると思う。また、飯岡ノ助五郎や勢力富五郎などの、いわゆる「天保水滸伝」に登場する人物たちの名が登場する。これについても小説があるので、併せて読まれるとよいと思う。

常州新治郡土浦本町の顔役・佐左衛門を関東取締出役、通称八州廻りの吉岡静助が訪れた。吉岡が訪れた理由はこうだ。下総香取郡長部村に大原幽学という浪人が長逗留している。大原幽学は「中庸」の冒頭にある"天の命、之を性と謂ふ、性に率ふ、之を道と謂ふ"から"性学"と名付けた教えを教えているらしい。さらに、大規模な普請をやって豪壮な居宅を作ったらしい。性学というものを教え、外見上は至って質素だが、何やらいかがわしいことをやっているに違いない。そこで、長部村まで行って大原幽学の素性と、性学の実態、大普請でなにをしているのかを内々に探ってこい。佐左衛門は身分を隠して大原幽学を訪ねた。その結果、特に問題がないように思われた。
だが、大原幽学が自称浪人で、なにか問題があっては八州廻りの落ち度になる。吉岡静助はそれを心配していた。だから、理由、口実を構えて江戸の勘定所に送りたいというのが本音である。
誰かを大原幽学に入門させて、問題がないかを探し出すことになった。だが、ここで入門すると見せかけて、強請まがいのことをしてしまったからややこしくなってきた。そして、八州廻りが大原幽学を調べていることが明るみに出る。また、八州廻りは大規模な普請の結果建てられた改心楼にも狙いを定めたらしい。
江戸の勘定所での調べとなると、大勢でぞろぞろと向かわなければならなくなり、恐ろしく金がかかる。そうならないようにと長部村では手を打ち始めた。
だが、こうした努力もむなしく、江戸の勘定所での調べが始まった。審理をするのは、評定所留役・木村敬蔵、留役助・菊地大助。二人とも才幹のある人物である。
公事出入(民事訴訟)は長くなる。しかし、この大原幽学の一件は差出(送致)物で、吟味物(刑事物)である。お上が独自に判断をして結審すればよい。比較的短く終わる性質の物である。しかし、この一件は長い時間がかかった。なぜ?
時は、ペリー提督が浦賀沖に姿を見せ、世間が大騒ぎをし始める頃である。 
 

 

 ■戻る  ■戻る(詳細)   ■ Keyword    


出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。