終戦記念日

終戦記念日

ちょっと立ち止まって 歴史を思い出す日
正しかった道 間違った道

後世への継承


 


 
 

 

●露営の歌
勝って来るぞと 勇ましく
ちかって故郷を 出たからは
手柄たてずに 死なれよか
進軍ラッパ 聴くたびに
まぶたに浮かぶ 旗の波
   土も草木も 火と燃ゆる
   果てなき荒野 踏みわけて
   進む日の丸 鉄かぶと
   馬のたてがみ なでながら ・・・
弾丸もタンクも 銃剣も
しばし露営の 草まくら
夢に出て来た 父上に
死んで還れと 励まされ ・・・
   思えば今日の 戦闘に
   朱に染まって にっこりと
   笑って死んだ 戦友が
   天皇陛下 万歳と ・・・
戦争する身は かねてから
捨てる覚悟で いるものを
鳴いてくれるな 草の虫
東洋平和の ためならば
なんで命が 惜しかろう
 
 

 

●終戦の詔書 1945年8月14日
天皇の大権に基づいてポツダム宣言受諾に関する勅旨を国民に宣布した文書。1945(昭和20)年8月14日発布され、戦争終結が公式に表明された。同日、天皇は詔書を録音、翌15日正午、その内容はラジオ放送を通じて広く国民に報じられた。
玉音放送
朕(ちん)、深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なるなんじ臣民に告ぐ。朕は帝国政府をして米英支蘇(べいえいしそ)四国(しこく)に対し、その共同宣言を受諾する旨(むね)通告せしめたり。
そもそも帝国臣民の康寧(こうねい)を図り、万邦共栄の楽(たのしみ)をともにするは、皇祖皇宗(こうそこうそう)の遺範(いはん)にして朕の拳々(けんけん)おかざるところ。さきに米英二国に宣戦せるゆえんもまた、実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾(しょき)するに出で、他国の主権を排し領土を侵すがごときは、もとより朕が志にあらず。
しかるに交戦すでに四歳(しさい)を閲(けみ)し、朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、おのおの最善を尽くせるにかかわらず、戦局必ずしも好転せず、世界の大勢また我に利あらず。しかのみならず敵は新たに残虐なる爆弾を使用してしきりに無辜(むこ)を殺傷し、惨害の及ぶところ真(しん)にはかるべからざるに至る。しかもなお交戦を継続せんか、ついにわが民族の滅亡を招来するのみならず、ひいて人類の文明をも破却(はきゃく)すべし。
かくのごとくは朕、何をもってか億兆の赤子を保(ほ)し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。これ朕が帝国政府をして共同宣言に応じせしむるに至れるゆえんなり。朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し遺憾の意を表せざるを得ず。帝国臣民にして戦陣に死し、職域に殉じ、非命にたおれたる者および、その遺族に思いを致せば、五内(ごだい)ために裂く。かつ戦傷を負ひ、災禍をこうむり、家業を失いたる者の厚生に至りては朕の深く軫念(しんねん)するところなり。
おもうに今後、帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず。なんじ臣民の衷情(ちゅうじょう)も朕よくこれを知る。しかれども朕は時運のおもむくところ、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す。朕はここに国体を護持し得て、忠良なるなんじ臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんい)し、常になんじ臣民と共にあり。もしそれ、情の激するところみだりに事端をしげくし、あるいは同胞排擠(はいせい)、互いに時局をみだり、ために大道を誤り、信義を世界に失ふがごときは朕最もこれを戒む。
よろしく挙国一家、子孫相(あい)伝え、かたく神州(しんしゅう)の不滅を信じ、任重くして道遠きをおもい、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操(しそう)をかたくし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。なんじ臣民それよく朕が意を体(たい)せよ。
現代語訳
私は深く世界の大勢と日本の現状に鑑み、非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、忠義で善良なあなた方臣民に告げる。私は帝国政府に米国、英国、中国、ソ連の4カ国に対しその(ポツダム)宣言を受諾することを通告させた。
そもそも帝国臣民の安全を確保し世界の国々と共に栄え、喜びを共にすることは、天皇家の祖先から残された規範であり、私も深く心にとめ、そう努めてきた。先に、米・英2カ国に宣戦を布告した理由もまた、帝国の自存と東亜の安定を願ってのものであって、他国の主権を侵害したり、領土を侵犯したりするようなことは、もちろん私の心志(意志)ではない。
しかしながら、戦闘状態はすでに4年を経て、わが陸海将兵の勇敢な戦闘や、官僚・公務員たちの励精、一億民衆の奉公は、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もわれわれにとって不利に働いている。それだけでなく、敵は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使用して、罪のない人々を殺傷し、その被害ははかり知れない。それでもなお交戦を継続すれば、ついにわが民族の滅亡を招くだけでなく、それから引き続いて人類文明をも破壊することになってしまうだろう。
そのような事態になったとしたら、私はどうしてわが子ともいえる多くの国民を守り、皇祖皇宗の神霊に謝罪することができようか。これが私が政府に宣言に応じるようにさせた理由である。私は帝国とともに終始、東亜の解放に協力してきた友好国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。帝国臣民であり、戦場で没し、職場で殉職し、悲惨な最期を遂げた者、またその遺族のことを考えると内臓が引き裂かれる思いがする。さらに戦場で負傷し、戦禍に遭い、家や仕事を失った者の厚生については、私が深く心配するところである。
思うに、今後、帝国の受けるであろう苦難は尋常ではない。あなたたち臣民の本心も私はよく知っている。しかし、私はこれからの運命について堪え難いことを堪え、忍び難いことを忍んで将来の万世のために太平の世を切り開こうと願っている。私は、ここにこうして国体(天皇を中心とする秩序)を護持して、忠良なあなた方臣民の偽りのない心を信じ、常にあなた方臣民と共にある。もし激情にかられてむやみに事をこじらせ、あるいは同胞同士が排斥し合って国家を混乱に陥らせて国家の方針を誤って世界から信用を失うようなことを私はもっとも戒めたい。
国を挙げて一つの家族のように、子孫ともどもかたく神国日本の不滅を信じ、道は遠く責任は重大であることを自覚し、総力を将来の建設のために傾け、道義心と志操(守って変えない志)をかたく持ち、日本の栄光を再び輝かせるよう、世界の動きに遅れないように期すべきだ。あなた方臣民は私のそのような意を体してほしい。
 
 

 

●1945年8月15日 天皇、正午に「終戦の詔書」放送(玉音放送)
終戦の詔書は、昭和20年(1945)8月14日の午後11時に鈴木貫太郎内閣のもとで発布されたもので、ポツダム宣言受諾による太平洋戦争の終戦決意を述べた文書。翌日の15日正午に天皇が詔書を朗読したレコードが「玉音放送」としてラジオから流された。
玉音放送
天皇の肉声を放送すること。
「玉音放送」と言えば、通常1945年(昭和20年)8月15日正午(日本標準時)に、当時日本唯一の放送局だった社団法人日本放送協会(現在のNHKラジオ第1放送)から放送された「大東亜戦争終結ノ詔書(だいとうあせんそうしゅうけつノしょうしょ)」の音読レコード(玉音盤)のラジオ放送を指すことが多く、本項ではこの放送について記述する。
この放送は、第二次世界大戦における枢軸国側の日本のポツダム宣言受諾による終戦(日本の降伏)を日本国民に伝える目的で、日本ではこの玉音放送の行われた8月15日を終戦の日(終戦記念日)と呼び、以後毎年のように、日本政府主催で全国戦没者追悼式を日本武道館で行い、正午に黙祷を行うのが通例となっている。なお、正式に日本が降伏したのは、それから半月後の対連合国への降伏文書が調印された同年9月2日のことであり、それまでは国際法上交戦状態だった。
概要
ソビエト連邦からの宣戦布告を受けて「最早我が国に勝ち目はない」と判断した内閣総理大臣(海軍大将)鈴木貫太郎は、1945年(昭和20年)8月14日、の御前会議において昭和天皇の裁可を仰ぎ、7月26日に連合国から示されたポツダム宣言の受諾を最終決定し、昭和天皇の裁可(いわゆる聖断)を得た。なお、昭和天皇実録に記載されている一連の和平実現を巡る経緯に対し、歴史学者の伊藤之雄は「ソ連参戦がポツダム宣言受諾を最終的に決意する原因だったことが改めて読み取れる」と述べている。
ポツダム宣言は「全日本国軍隊ノ無条件降伏」(第13条)などを定めていたため、その受諾は大東亜戦争において、大日本帝国の軍隊が降伏することを意味した(「大日本帝国の政府」ではない)。
御前会議での決定を受けて同日夜、詔書案が閣議(鈴木貫太郎内閣)にかけられ、若干の修正を加えて文言を確定した。詔書案はそのまま昭和天皇によって裁可され、終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書)として発布された。この詔書は、天皇大権に基づいてポツダム宣言の受諾に関する勅旨を臣民(国民)に宣布する文書である。ポツダム宣言受諾に関する詔書が発布されたことは、中立国のスイスおよびスウェーデン駐在の日本公使館を通じてイギリス、アメリカ合衆国、中華民国、ソビエト連邦など連合国の政府側に伝達された。
昭和天皇は詔書を朗読してレコード盤に録音させ、翌15日正午よりラジオ放送により国民に詔書の内容を広く告げることとした。この玉音放送は法制上の効力を特に持つものではないが、天皇が敗戦の事実を直接国民に伝え、これを諭旨するという意味では強い影響力を持っていたと言える。当時より、敗戦の象徴的事象として考えられてきた。鈴木貫太郎以下による御前会議のあとも陸軍の一部には徹底抗戦を唱え、クーデターを意図し放送用の録音盤を実力で奪取しようとする動きがあったが、失敗に終わった(宮城事件、録音盤事件)。
前日にはあらかじめ「15日正午より重大放送あり、全国民は皆謹んで聞くように」という旨の報道があり、また当日朝にはそれが天皇自ら行う放送であり、「正午には必ず国民はこれを聴くように」との注意が行われた。当時は電力事情が悪く間欠送電となっている地域もあったが、特別に全国で送電されることになっていた。また、当日の朝刊は放送終了後の午後に配達される特別措置がとられた。
連合国軍の攻撃は、アメリカ軍は数日前から兵庫県宝塚市などに8月15日の空襲予告を行っていたが、15日未明の土崎空襲を最後に爆撃を停止した。しかしイギリス軍では、15日の午前10時過ぎに、イギリス海軍空母「インディファティガブル」から化学製品工場を爆撃すべく千葉県長生郡に向かったグラマン TBF アヴェンジャーらが日本軍に撃墜され、乗組員3名が死亡した。なお、同作戦でスーパーマリン シーファイアが零式艦上戦闘機との戦闘で撃墜され、脱出したフレッド・ホックレー少尉が陸軍第147師団歩兵第426連隊に捕えられ、その約1時間後に玉音放送があったもののそのまま解放されず、夜になり陸軍将校により処刑される事件も発生した(一宮町事件)。
放送は正午に開始された。冒頭に日本放送協会の放送員(アナウンサー)和田信賢によるアナウンスがあり、聴衆に起立を求めた。続いて情報局総裁下村宏が天皇自らの勅語朗読であることを説明し、国歌「君が代」の演奏が放送された。その後4分あまり、天皇による勅語の朗読が放送された。再度君が代の演奏、続いて「終戦の詔書をうけての内閣告諭」などの補足的文書のアナウンスが行われた。
放送はアセテート盤のレコード、玉音盤(ぎょくおんばん)再生によるものであった。劣悪なラジオの放送品質のため音質が極めて悪かった上、天皇の朗読に独特の節回しがあり、また詔書の中に難解な漢語が相当数含まれていたために、「論旨はよくわからなかった」という人々の証言が多い。玉音放送を聴く周囲の人々の雰囲気などで事情を把握した人が大半だった。
玉音放送において「朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」(私は米国・英国・支那・蘇連の4か国に対し、(ポツダム)共同宣言を受け入れると帝国政府に通告させた)という部分が主題であるが、多くの日本国民においては、終戦と戦後をテーマにするNHKなどの特集番組の、“皇居前広場でひれ伏して天皇に詫びる人々”の映像とともに繰り返し流される「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の部分が戦時中の困苦と占領されることへの不安を喚起させ、特に印象づけられて有名である(この文章は「以て万世の為に太平を開かんと欲す。朕は茲に国体を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠に信倚(しんい、信頼)し常に爾臣民と共にあり」(これ―被占領の屈辱に耐えること―によって世界を平和にして欲しい。私はここに国体を護持することができ、忠実なお前たち臣民の赤誠(真心)を頼って常にお前たち臣民とともにある)と続く)。
終戦詔書
『大東亜戦争終結ノ詔書』(だいとうあせんそうしゅうけつノしょうしょ)は「終戦詔書」(しゅうせんしょうしょ)とも呼ばれ、天皇大権に基づいてポツダム宣言を受諾する勅旨を国民に宣布するために8月14日付で詔として発布され、同日の官報号外にて告示された。大まかな内容は内閣書記官長・迫水久常が作成し、8月9日以降に漢学者・川田瑞穂(内閣嘱託)が起草、さらに14日に安岡正篤(大東亜省顧問)が刪修して完成し、同日の内に天皇の裁可があった。大臣副署は当時の内閣総理大臣・鈴木貫太郎以下16名。第7案まで議論された。
喫緊の間かつ、きわめて秘密裏に作業が行われたため、起草・正本の作成に十分な時間がなく、また詔書の内容を決める閣議において、戦争継続を求める一部の軍部の者によるクーデターを恐れた陸軍大臣の阿南惟幾が「戦局日ニ非(あらざる)ニシテ」の改訂を求め、「戦局必スシモ好転セス」に改められるなど、最終段階まで字句の修正が施された。このため、現在残る詔書正本にも補入や誤脱に紙を貼って訂正を行った跡が見られ、また通常は御璽押印のため最終頁は3行までとし7行分を空欄にしておくべき慣例のところ4行書かれており、文末の御璽を十分な余白がない場所に無理矢理押捺したため、印影が本文にかぶさるという異例な詔勅である。全815文字とされるが、異説もある(本文は802文字)。
終戦詔書の原本は、内閣総務課の理事官であった佐野小門太が浄書したものである。
当初、迫水久常は「分かりやすい口語体による放送にしよう」と考えていた。内閣嘱託の木原通雄とともに案を創作し始めたが、「一人称と二人称をどうするか」という基本的な点で行き詰まってしまった。つまり、それまで天皇が国民に直接語りかけることなどなかったため、天皇が自分自身のことを何と呼ぶのか、また、国民に対して「おまえたち」と言うのか「みなさん」と言うのか、適当な表現を考えつかず、結局実現はできずに、無難で済む文語体にすることとなった。
録音と放送
終戦詔書を天皇の肉声によって朗読し、これを放送することで国民に諭旨するという着想は内閣情報局次長の久富達夫が内閣情報局総裁の下村宏に提案したものというのが通説である。
日本放送協会へは宮中での録音について8月14日13時に通達があり、この宮内省への出頭命令を受け、同日15時に録音班8名(日本放送協会の会長を含む協会幹部3人と録音担当者5人)が出かけた(録音担当者は国民服に軍帽という服装であった)。録音作業は内廷庁舎において行われ、録音機2組(予備含む計4台)など録音機材が拝謁間に、マイクロホンが隣室の政務室に用意された。録音の用意は8月14日16時には完了し、18時から録音の予定であった。しかし、前述の詔書の最終稿の修正もあって録音作業はずれ込み、『昭和天皇実録』によると、昭和天皇は警戒警報発令中の23時25分に部屋に入り、宮内大臣や侍従長らが見守る中で朗読は行われた。
2回のテイクにより、玉音盤は合計2種(テイク1が計7枚、テイク2が計5枚)製作された。2度目のテイクを録ることとなったのは、試聴した天皇自身の発案(声が低かったため)といわれ、さらに接続詞が抜けていたことから、天皇から「3度目の録音を」との話もあったが、「下村がこれを辞退した」という(下村宏『終戦秘史』)。
玉音放送は、日本電気音響(現・デノン コンシューマー マーケティング)製のDP-17-K可搬型円盤録音機によって、同じく日本電気音響製の、SP盤規格準拠のアセテート盤(セルロースコーティング録音盤)に録音された。この録音盤は1枚で3分間しか録音できず、約5分間の玉音放送は複数枚(テイク2は2枚組および3枚組)にわたって録音された。
作業は翌8月15日午前1時ごろまでかかって終了。情報局総裁下村宏および録音班は、坂下門を通って宮内省から退出する際に、玉音放送を阻止しようとする近衛歩兵第二連隊第三大隊長佐藤好弘大尉らによって拘束・監禁された。録音盤が宮内省内部に存在することを知った師団参謀古賀秀正少佐の指示により、録音盤の捜索が行われた(宮城事件)。録音盤は、録音後に侍従の徳川義寛により皇后宮職事務官室の書類入れの軽金庫に、他の書類に紛れ込ませる形で保管されていたため発見されなかった。
事件鎮圧後、宮内省は1回目に録音した録音盤を「副盤(「副本」とも呼ばれる)」、2回目に録音した録音盤を「正盤(「正本」とも呼ばれる)」と定め、「正盤」は東京放送会館へ、「副盤」は第一生命館の予備のスタジオへと持ち込まれた。
当日正午の時報のあと、重大放送の説明を行ったのは日本放送協会の放送員(アナウンサー)和田信賢である。
国際放送(ラジオ・トウキョウ)では平川唯一が厳格な文語体による英語訳文書(Imperial Rescript on the Termination of the War)を朗読し、国外向けに放送した。この放送は米国側でも受信され、1945年8月15日付のニューヨーク・タイムズ紙に全文が掲載されることとなった。
玉音放送と前後のラジオ放送
正午以降の玉音盤を再生した玉音放送は約5分であったが、その前後の終戦関連ニュース放送などを含む放送は約37分半であった。また、放送を即時に広く伝達するため10 kWに規制されていた出力を60 kWに増力し、昼間送電のない地域への特別送電を行い、さらに短波により東亜放送を通じて中国占領地、満洲、朝鮮、台湾、南方諸地域にも放送された。
予告放送
玉音放送の予告は14日21時のニュースと15日7時21分のニュースの2回行われた。内容として「このたび詔書が渙発される」「15日正午に天皇自らの放送がある」「国民は一人残らず玉音を拝するように」「昼間送電のない地域にも特別送電を行う」「官公署、事務所、工場、停車場、郵便局などでは手持ち受信機を活用して国民がもれなく放送を聞けるように手配すること」「新聞が午後1時ごろに配達されるところもあること」などが報じられた。
   15日正午の放送内容
特記なき文は、和田信賢によるアナウンス。
1.正午の時報
2.「只今より重大なる放送があります。全国の聴取者の皆様、ご起立願います」
3.「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏くも御自ら大詔を宣らせ給うことになりました。これより謹みて玉音をお送り申します」(情報局総裁・下村宏)
4.国歌君が代奏楽
5.大東亜戦争終結ノ詔書(昭和天皇の録音盤再生)
6.国歌君が代奏楽
7.「謹みて天皇陛下の玉音放送を終わります」(下村)
8.玉音放送の解説(以下全文)・「謹んで詔書を奉読いたします」
9.終戦詔書の奉読(玉音放送と同内容)
10.「謹んで詔書の奉読を終わります」 以降、終戦関連ニュース(項目名は同盟通信から配信されたニュース原稿のタイトル)
11.内閣告諭(14日付の内閣総理大臣・鈴木貫太郎の内閣告諭)
12.これ以上国民の戦火に斃れるを見るに忍びず=平和再建に聖断降る=(終戦決定の御前会議の模様を伝える内容)
13.交換外交文書の要旨(君主統治者としての天皇大権を損しない前提でのポツダム宣言受諾とバーンズ回答の要旨、これを受けたポツダム宣言受諾の外交手続き)
14.一度はソ連を通じて戦争終結を考究=国体護持の一線を確保=(戦局の悪化とソ連経由の和平工作失敗と参戦、ポツダム宣言受諾に至った経緯)
15.万世の為に太平を開く 総力を将来の建設に傾けん(昭和天皇による終戦決意)
16.ポツダム宣言(ポツダム宣言の要旨)
17.カイロ宣言(カイロ宣言の要旨)
18.共同宣言受諾=平和再建の大詔渙発=(終戦に臨んでの国民の心構え)
19.緊張の一週間(8月9日から14日までの重要会議の開催経過)
20.鈴木総理大臣放送の予告(14時からの「大詔を拝し奉りて」と題する放送予告。実際には内閣総辞職を決定する閣議が行われたため、19時のニュースに続いて放送された)
   8. 昭和天皇の録音盤再生後の解説文(日本放送協会 和田信賢放送員)
畏くも天皇陛下におかせられましては、万世の為に太平を開かんと思し召され、きのう政府をして、米英支蘇四国に対して、ポツダム宣言を受諾する旨、通告せしめられました。
畏くも天皇陛下におかせられましては、同時に詔書を渙発あらせられ、帝国が四ヶ国の共同宣言を受諾するのやむなきに至った所以を御宣示あらせられ、きょう正午、畏き大御心より詔書を御放送あらせられました。
この未曾有の御事は拝察するだに畏き極みであり、一億等しく感泣いたしました。
我々臣民は、ただただ詔書の御旨を必謹誓って国体の護持と民族の名誉保持のため、滅私の奉公を誓い奉る次第でございます。
謹んで詔書を奉読いたします。(詔書奉読)
全文
   原文
朕󠄁深ク世界ノ大勢ト帝󠄁國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ吿ク
朕󠄁ハ帝󠄁國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受󠄁諾スル旨通󠄁吿セシメタリ
抑〻帝󠄁國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦󠄁共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺󠄁範ニシテ朕󠄁ノ拳󠄁拳󠄁措カサル所󠄁
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所󠄁以モ亦實ニ帝󠄁國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵󠄁スカ如キハ固ヨリ朕󠄁カ志ニアラス
然ルニ交󠄁戰已ニ四歲ヲ閱シ朕󠄁カ陸海將兵ノ勇󠄁戰朕󠄁カ百僚有司ノ勵薗ス󠄁カ一億衆庻ノ奉公󠄁各〻最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ殘虐󠄁ナル爆彈ヲ使󠄁用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害󠄂ノ及󠄁フ所󠄁眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尙交󠄁戰ヲ繼續セムカ終󠄁ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延󠄂テ人類ノ文󠄁明󠄁ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ朕󠄁何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ~靈ニ謝セムヤ
是レ朕󠄁カ帝󠄁國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所󠄁以ナリ
朕󠄁ハ帝󠄁國ト共ニ終󠄁始東亞ノ解放ニ協力セルゥ盟󠄁邦󠄁ニ對シ遺󠄁憾ノ意󠄁ヲ表セサルヲ得ス
帝󠄁國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及󠄁其ノ遺󠄁族ニ想ヲ致セハ五內爲ニ裂ク
且戰傷ヲ負󠄁ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕󠄁ノ深ク軫念スル所󠄁ナリ
惟フニ今後帝󠄁國ノ受󠄁クヘキ苦難ハ固ヨリ尋󠄁常ニアラス
爾臣民ノ衷情󠄁モ朕󠄁善ク之ヲ知ル
然レトモ朕󠄁ハ時運󠄁ノ趨ク所󠄁堪ヘ難キヲ堪ヘ忍󠄁ヒ難キヲ忍󠄁ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平󠄁ヲ開カムト欲ス
朕󠄁ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情󠄁ノ激スル所󠄁濫ニ事端ヲ滋󠄁クシ或ハ同胞󠄁排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道󠄁ヲ誤󠄁リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕󠄁最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク~州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道󠄁遠󠄁キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建󠄁設ニ傾ケ道󠄁義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ演リヲ發揚シ世界ノ進󠄁運󠄁ニ後レサラムコトヲ期󠄁スヘシ
爾臣民其レ克ク朕󠄁カ意󠄁ヲ體セヨ
御名御璽
昭和二十年八月󠄁十四日
內閣總理大臣男爵󠄂鈴木貫太カ
   現代仮名遣い・常用漢字・ひらがな
朕深く世界の大勢と 帝国の現状とに鑑み 非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し ここに忠良なる汝臣民に告ぐ
朕は帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり
そもそも帝国臣民の康寧をはかり 万邦共栄の楽しみを共にするは 皇祖皇宗の遺範にして 朕の拳々措かざる所
さきに米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず
然るに交戦既に四歳を閲し 朕が陸海将兵の勇戦 朕が百僚有司の励精 朕が一億衆庶の奉公 各々最善を尽くせるに拘らず 戦局必ずしも好転せず
世界の大勢また我に利あらず
しかのみならず 敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに無辜を殺傷し 惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る
しかもなお交戦を継続せんか 遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず ひいて人類の文明をも破却すべし
かくの如くは 朕何をもってか 億兆の赤子を保し 皇祖皇宗の神霊に謝せんや
是れ 朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり
朕は帝国と共に 終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し 遺憾の意を表せざるを得ず
帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉じ 非命に倒れたる者及び 其の遺族に想いを致せば五内為に裂く
且つ戦傷を負い 災禍を被り 家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫念する所なり
思うに今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず
汝臣民の衷情も朕よく是れを知る
然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪え 忍び難きを忍び もって万世の為に太平を開かんと欲す
朕はここに国体を護持し得て 忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し 常に汝臣民と共に在り
もしそれ情の激する所 濫りに事端を滋くし 或いは同胞排擠 互いに時局を乱り 為に大道を誤り 信義を世界に失うが如きは 朕最も之を戒む
宜しく 挙国一家 子孫相伝え かたく神州の不滅を信じ 任重くして道遠きを念い 総力を将来の建設に傾け 道義を篤くし 志操を堅くし 誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし
汝臣民それ克く朕が意を体せよ
御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣男爵鈴木貫太郎
   現代語訳
私は、深く世界の情勢と日本の現状について考え、非常の措置によって今の局面を収拾しようと思い、ここに忠義で善良なあなた方国民に伝える。
私は、帝国政府に、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させた。
そもそも、日本国民の平穏無事を確保し、全ての国々の繁栄の喜びを分かち合うことは、歴代天皇が大切にしてきた教えであり、私が常々心中強く抱き続けているものである。
先にアメリカ・イギリスの2国に宣戦したのも、正に日本の自立と東アジア諸国の安定とを心から願ってのことであり、他国の主権を排除して領土を侵すような事は、元より私の本意ではない。
しかしながら、交戦状態も既に4年を経過し、我が陸海将兵の勇敢な戦い、我が全官僚たちの懸命な働き、我が1億国民の身を捧げての尽力も、それぞれ最善を尽くしてくれたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もまた我が国に有利とは言えない。
それ所か、敵国は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使い、むやみに罪のない人々を殺傷し、その悲惨な被害が及ぶ範囲はまったく計り知れないまでに至っている。
それなのになお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、更には人類の文明をも破滅させるに違いない。
そのようなことになれば、私はいかなる手段で我が子とも言える国民を守り、歴代天皇の御霊(みたま)に詫びることができようか。
これこそが私が日本政府に共同宣言を受諾させるに至った理由である。
私は日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。
日本国民であって戦場で没し、職責の為に亡くなり、戦災で命を失った人々とその遺族に思いをはせれば、我が身が引き裂かれる思いである。
更に、戦傷を負い、戦禍をこうむり、職業や財産を失った人々の生活の再建については、私は深く心を痛めている。
考えて見れば、今後日本の受けるであろう苦難は、言うまでもなく並大抵のものではない。
あなた方国民の本当の気持ちも私はよく分かっている。
然し、私は時の巡り合わせに従い、堪え難くまた忍び難い思いを堪え、永遠に続く未来の為に平和な世を切り開こうと思う。
私は、ここにこうして、この国の形を維持することができ、忠義で善良なあなた方国民の真心を信頼し、常にあなた方国民と共に過ごす事ができる。
感情の高ぶりから節度なく争い事を繰り返したり、或は仲間を陥れたりして互いに世情を混乱させ、その為に人としての道を踏み誤り、世界中から信用を失ったりするような事態は、私が最も強く戒める所である。 
正に国を挙げて一家として団結し、子孫に受け継ぎ、神国日本の不滅を固く信じ、任務は重く道のりは遠いと自覚し、総力を将来の建設のために傾け、踏むべき人の道を外れず、揺るぎない志をしっかりと持って、必ず国のあるべき姿の真価を広く示し、進展する世界の動静には遅れまいとする覚悟を決めなければならない。
あなた方国民は、これら私の意をよく理解して行動して欲しい。
御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣男爵鈴木貫太郎
玉音盤
玉音放送の記録媒体であるレコード盤(玉音盤)には、宮内庁が保管する原盤と、戦後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の複製とがあるとされている。
一般的に知られてきた玉音放送の音声は、終戦の翌年、GHQの命令で複製されたものを録音作業にあたったNHK職員が余分に制作し個人で保管していたもので、その後、NHKに渡されたものとされる。NHKに渡された複製盤はその後さらにLPレコード化され、2015年時点ではLPがNHK浜松支局内のライブラリーに保管され、2017年には同ライブラリーがNHKアーカイブス(川口本館)に統合されたことに伴い川口に移された(元の複製盤は行方がわかっていない)。
玉音放送は2回録音が行われたため「玉音盤」には正副の2組存在する。玉音盤は昭和天皇の住まいで防空施設も兼ね備えていた「御文庫」に長らく収蔵されたのち三の丸尚蔵館に、その後宮内庁の倉庫に移された。
そのうち、1回目に録音され、放送では使われなかった方の玉音盤(副盤)計7枚は1975年(昭和50年)、放送開始50周年記念事業の一環として、宮内庁からNHK放送博物館に移されたが、ひび割れなど時間の経過による劣化により再生不可能な状態となっていた。現在は修復措置を施したうえ、窒素ガスを充填したケースで厳密な温度・湿度管理のもと保管・展示されている。
宮内庁が所蔵する2回目に録音されたもう1組の玉音盤(正盤)計5枚についても劣化が進んでいたものの、2014年(平成26年)末に宮内庁が再生を試みたところ、2枚組で録音された音声の再生に成功した(3枚組はうち1枚が再生不可能)。その後デジタルリマスターが実施され、2015年(平成27年)6月30日には第125代天皇明仁、美智子、皇太子・徳仁親王(現・天皇)、秋篠宮文仁親王の4人がこの復元された音声を聞いたという。原盤はこれまで公にされていたものより10秒ほど短い4分30秒であるが、従来の音源は再生や複製が繰り返されるうちに音が劣化していったものと推測されている。宮内庁では戦後70年の節目にあたることから同年8月1日にこの原盤と復元音声、1946年(昭和21年)5月24日に放送された食糧問題に関する御言葉を録音した原盤も公開(これは1962年にソノシートに収録され、同じものが1995年にCD化されている)、これに合わせる形で、御文庫の防空壕も1965年(昭和40年)以来となる内部の状況を写真や映像を公開した。
エピソード
・公式には終戦の詔書が最初の玉音放送であるが、1928年(昭和3年)12月2日の大礼観兵式に、ラジオ放送のマイクが昭和天皇の肉声を意図せず拾ってしまい、これが放送されるというアクシデントが一度起こっている。宮中筋は「天皇の肉声を放送する事は憚りあり」として、これを数日後に封印されたことがあった。
・佐藤卓己『八月十五日の神話』(ちくま新書、2005年)では、「報道機関には前もって日本の降伏が知らされ、記者は敗戦を知ってうなだれるポーズを撮影した写真を、放送前にあらかじめ準備した」といった捏造記事の制作が紹介されている。
・詔書作成の過程で安岡正篤は「時運ノ趨ク所」(じうんのおもむくところ)は「成り行きまかせ」の意味であるため天皇の言葉としてふさわしくない、ここは道義の至上命令を意味する「義命ノ存スル所」に変えるべきだ、と迫水久常に進言した。迫水はこれを受けて文案を作り直したが、そのあとの閣議で、漢和辞典に出ていないような難しい言葉では国民が理解できないだろうという意見があり、元に戻されてしまった。これについて安岡は「不見識きわまりない」と憤慨し、以後詔書について話すことを一切拒んだ。
・詔書の原案では「遺族ニ想ヲ致セハ断腸ノ思ヒアリ」となっていた。安岡は「断腸ノ思ヒ」は私情であり公の場で使うべきでないとして「五内為ニ裂ク」(ごだいためにさく)に変更するように指示した。この点も閣議で難解と指摘された。迫水は安岡から聞いたとおり、これは「五臓が引き裂かれる思い」の意味であって公に使える、と説明するとこのまま受け入れられた。迫水はのちになって「五内為ニ裂ク」は難解の見本のようなものと回想している。
・その後、式典・行事などの報道で天皇の肉声が放送されるのは珍しいことではなくなったが、2011年(平成23年)3月16日、第125代天皇明仁は東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)の発生から5日後に、メディアを通して全国民へ向け自ら語りかける形のビデオメッセージを発した。このような形での「おことば」は、在位中の天皇では初めてであったため、一部では「平成の玉音放送」とも呼ばれた。
もう一つの詔書案
広く知られている終戦詔書の他に外務省が作成したもう一つの詔書案がある。
8月10日の御前会議のあと、外務省政務局長の安東義良は東郷茂徳外務大臣に呼ばれ、詔書案を作成するよう極秘の指示を受けた。安東は詔書案を作成するのは内閣の仕事であることを認識していたが、クーデターの噂が流れるなか、もし総理大臣官邸が襲撃を受けるようなことになれば詔書案どころではなくなるため、それに備えて外務省が作成すると解釈してあえて「なぜ外務省が?」と問うことはしなかった。安東は詔書案を11日の朝に東郷大臣に渡したが、結局この詔書案が日の目を見ることはなかった。迫水久常もこの詔書案があることを知らなかった。戦後になってから安東が蔵書を整理していると、偶然本の間に挟まっている詔書案の下書きを発見したことにより、存在が明らかになった。安東は「案を大臣に渡す前に、大東亜省次官の田尻愛義に見せて賛同を得た」と言っているが、田尻は戦後に読売新聞社のインタビューに対し、「そのことについては記憶がない」と述べている。
   安東義良が作成した詔書案
敕語
朕󠄁ハ東亞ノ安定ヲ確保シ、以テ世界ノ平󠄁和ニ寄與シ、列國トノ交󠄁誼ヲ篤クシ、萬邦󠄁共榮ノ樂ヲ偕ニセンコトヲ冀ヒタルモ、帝󠄁國ノ自存自衞ノ爲止ムナク米英兩國ト釁端ヲ開クニ至リ、茲ニ四年ニ垂ントス
此間朕󠄁カ勇󠄁武ナル陸海󠄀將兵ハ挺󠄀身國難󠄀ニ赴キ、朕󠄁カ百僚有司ハ碎身職務ニ勵精󠄀シ、朕󠄁カ忠誠ナル衆庶ハ困苦缺乏ニ耐ヘテ其本分󠄁ヲ盡シタルニ拘ラス、戰遂󠄂ニ利アラス、戰爭ハ益󠄁〻慘烈トナリ朕󠄁カ赤子ノ犧牲日ニ月󠄁ニ搗蜒V將ニ國本ヲ危クスルニ至レリ、而モ交󠄁戰相手國ノ流血モ止ル處知ラス人類󠄀ノ不幸之ニ過󠄁キル無シ
朕󠄁ハ戰争ノ慘禍󠄀ヨリ人類󠄀ヲ救フノ道󠄁ハ卽時干戈ヲ收ムル外無キヲ思ヒ、敢テ米英支及󠄁蘇聯ノ參加セル共同宣言ノ條件ヲ受󠄁諾スヘク決意󠄁シ、朕󠄁カ政府ニ命シ交󠄁戰各國トノ交󠄁涉ニ當ラシム
帝󠄁國ノ拂フ犧牲ハ甚大ナリ、來ラントスル艱難󠄀ヲ克服󠄁シテ悠久ナル皇國ノ生命ヲ護持スルハ朕󠄁カ忠良ナル衆庶ニ信倚スル所󠄁ナリ、汝有衆感情󠄁ノ激發ニ動セス、冷靜苦難󠄀ヲ忍󠄁フノ眞勇󠄁ヲ發揮シ、一致協力平󠄁和ト復興ノ大業ニ邁進󠄁センコトヲ期󠄁セヨ
 
 

 

●日本の無条件降伏/終戦の詔書/降伏文書
1945年8月14日に日本政府がポツダム宣言の受諾、つまり無条件降伏を決定。翌15日に天皇が降伏の詔書を放送を通じて国民に発表。9月2日に降伏文書に調印し、正式に第二次世界大戦が終結した。
ポツダム宣言の「黙殺」
連合国が1945年7月26日に発表したポツダム宣言に対して、日本政府(鈴木貫太郎内閣)は、鈴木首相、東郷茂徳外相、米内光政海相らは国体護持(天皇制維持)のみを条件に受諾やむなしと考えていたが、阿南惟幾あなみこれちか陸相ら陸軍は受諾拒否を強く主張し、意見が対立した。首相は裏面での交渉の継続に期待して、回答を保留することにしたが、軍の強い要求によって態度の表明を迫られ、新聞で「黙殺」すると声明を出した。連合国は「黙殺」を受諾拒否と受け取り、アメリカによる広島・長崎への原爆投下、ソ連の対日参戦に踏み切る口実を得た。
ポツダム宣言が「黙殺」されたため、8月6日、9日に広島・長崎に原子爆弾が投下され、8日にはソ連が参戦、戦局が一気に悪化した。
8月10日の御前会議で受諾決定
日本政府は御前会議(昭和天皇の参加する最高決定の会議)において激論の末、8月10日午前2時半に、「国体護持」を条件にポツダム宣言受諾を決定した。「国体護持」とは天皇制維持のことで、このまま戦争を続ければソ連の対日参戦により共産主義の影響が及んで天皇制が崩壊することを時の為政者は最も恐れた。またアメリカ国内の一部に、天皇制擁護の声(知日派の国務次官グルーは日本に終戦を受け入れさせるには天皇制存続を認め、戦後の再建にもその方がアメリカにとって有利であるとトルーマン大統領に具申していた)があることも情報として得ていた。
東郷茂徳外相らは「国体護持」のみを条件としてポツダム宣言受諾を主張したが、阿南惟幾陸軍大臣らは自発的な武装解除、連合軍の本土進駐の回避、戦犯の自主的処罰の3条件を加えることを主張し、無条件降伏に反対した。鈴木貫太郎首相は最後に昭和天皇の判断、いわゆる「聖断」を求め、天皇は外相案を支持して、受諾が決定された。
軍の抵抗と天皇の決断
陸軍の一部には戦争継続を主張してクーデタ決行の準備が進み、緊迫する中、再度御前会議が開かれ、8月14日正午前に天皇の無条件降伏受諾の決断をふたたび仰いで最終的に決定した。敗戦の詔勅は天皇自ら録音し、翌日放送されることになったが、陸軍の一部将校がそれを阻止しようと放送局を襲うなど混乱した。クーデタは阿南陸相の自決などで失敗し、予定どうり15日いわゆる玉音放送(天皇の肉声が放送されたこと)が行われ、戦争は終わった。日中戦争開始からは15年目、 太平洋戦争からは4年目、第二次世界大戦全体では7年目であった。
戦争終結の日付
日本では一般に「終戦の日」は1945年8月15日として定着している。しかし、正確にはその日は「終戦の詔勅を天皇が国民に示した日」であり、日本国家としてのポツダム宣言受諾は8月10日の御前会議で決定し、さらに8月14日に御前会議を経て「終戦の詔勅」に天皇が署名したことで正式に決まった。また、9月2日、東京湾上のアメリカ軍艦ミズーリ号上で日本が降伏文書に調印した日が、正式な太平洋戦争、日中戦争、第二次世界大戦の終わった日付である。8月15日は日本では終戦記念日とされ、韓国・北朝鮮ではその日を日本の植民地支配から解放された日として祝っている。しかし、世界的・国際的には9月2日が戦争の終わった日とされている。
   チャーチルのみた日本の敗戦理由
イギリス首相チャーチルは、その『第二次世界大戦回顧録』で、日本の無条件降伏について次のように述べている。連合国首脳であるチャーチルが、広島・長崎への原爆投下によって日本が降伏したという見方は間違っていると言っていることに注目。
(引用)八月九日、広島の原爆につづいて第二の原爆が、こんどは長崎に投下された。翌日、一部の軍部過激派の反抗にもかかわらず、日本政府ほ、この最後通牒が最高支配者としての天皇の大権を損うものでないという条件のもとに、これを受諾することに同意した。連合軍艦隊が東京湾に入り、九月二日朝、合衆国戦艦ミズーリの艦上で正式降服文書の署名が行なわれた。ロシアは八月八日に宣戦していたが、それは敵の崩壊するほんの一週間前だった。にもかかわらず、ロシアは交戦国としての完全な権利を主張した。
日本の運命が原子爆弾によって決定したと考えるなら、それは間違いであろう。日本の敗北は最初の原爆が投下される前に確定していたのであり、圧倒的な海軍力によってもたらされたものなのである。最後の攻撃の拠点となっていた海洋基地を押え、突撃に出ることなく本土軍に降服を強制することができたのは、ただ海軍力のおかげだったのである。日本の艦船は壊滅していた。日本は五百五十万トン以上の艦船を擁して戦争に入り、その後、分捕りや建造によってそれをかなり増大させていたが、しかし輸送船団の組織や護衛が不十分で、有機的でなかった。日本艦船は八百五十万トン以上が沈められたが、そのうち五百万トンは潜水艦の犠牲になった。同様に海に依存している島国としてのわが国は、この教訓を読みとることができる。われわれがUボートを制圧していなかったら、われわれ自身の運命がどうなったかを理解することができる。<チャーチル『第二次世界大戦』4 河出書房 p.436>>
   原爆使用で米英が合意
その一方、チャーチルはポツダム会談でトルーマンの原子爆弾を対日戦を終わらせるために使用するという提案に全面的に賛成した。広島・長崎への原爆投下は、実行国はアメリカであるが、連合国全体の合意で行われたこと、またトルーマン、チャーチルの意図にはソ連のアジアでの発言力を封じるというもくろみがあったことも重要である。
(引用)(トルーマン)大統領は直ちに会談するため私(チャーチル)を呼んだ。彼はマーシャル将軍とリーヒ提督を同席させた。このときまで、われわれは激烈な空襲と大部隊の進攻とによって日本本土を攻撃するという考えを固めていた。まっとうな戦闘においてのみならず、あらゆる穴や防空壕においても、サムライの捨身精神で死ぬまで戦う日本軍の無謀な抵抗のことを、われわれは考えていた。私の心には沖縄の情景が浮かんでいた。そこでは数千名の日本人が、指揮官たちがハラキリの儀式を荘重に行なった後、降服を選ばずに一列になって手榴弾で自爆する光景であった。日本軍の抵抗を一人ずつ押え、その国土を一歩ずつ征服するにほ、百万のアメリカ兵の命とその半数のイギリス兵の生命を犠牲にする必要があるかもしれなかった。もしイギリス兵を日本に上陸させることができても、イギリスの犠牲はもっと多くなるかもしれなかった。なぜなら、われわれは苦悩をともにする覚悟でいたのである。いまやこの悪魔のような情景はすっかり消えてしまった。それに代って、一、二回の激烈な衝撃のうちに全戦争が終結する光景が浮かんだ。それは実際、快く輝かしいものに思われた。私が瞬間に思い浮かべたのは、私が常にその勇気に感嘆してきた日本人が、このほとんど超自然的な兵器の出現のなかに彼らの名誉を救う口実を見出し、最後の一人まで戦って戦死するという義務から免れるだろうということだった。
さらに、われわれはロシアを必要としなくともよくなった。対日戦の終結はもはや、最後の恐らく長引くであろう殺戮のために、ロシア軍を投入することに依存するものではなくなった。われわれは彼らの助力を乞う必要はなかった。したがって一連のヨーロッパ問題は、このような利点と国際連合の広い諸原理にのっとって討議されうることになった。
われわれは突如として、極東における殺戮戦の短縮に恵まれ、ヨーロッパにおけるはるかに幸福な見通しを与えられたように思われた。アメリカの友人たちの心のなかにも、このような考えがきっと浮かんだことと思う。ともかく、原子爆弾を使用すべきかどうかについては、一刻の議論の余地もなかった。一、二度の爆発の犠牲によって圧倒的な力を顕示し、それによってぼう大な無制限の殺戮を回避し、戦争を終わらせ、世界に平和をもたらし、苦悩する人民に治療の手を与えるということは、われわれがあらゆる労苦と危険を経験してきた後では、奇跡的な救いのように思われた。
 
 

 

●終戦の詔書
1945年8月14日、日本が「ポツダム宣言」の受諾を天皇の詔勅として宣言した文書。鈴木貫太郎首相以下も署名し、日本が正式に無条件降伏することを内外に示し、国民には翌15日に天皇が自ら放送(玉音放送)して発表した。
昭和天皇の詔書
8月14日に終戦の詔書に署名し、翌15日に「玉音放送」された昭和天皇の「終戦の詔勅」は、毎年の8月15日になるとテレビでもその「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・・」の部分が繰り返し流され、天皇のあの独特の調子と、皇居前で土下座して泣いている女性たちの映像と共に、私たちの耳と目に焼き付いている。
少なくとも太平洋戦争は天皇の詔勅によって始められたから、その終結も天皇の詔勅によってなされなければならなかった。そこには天皇個人の思いも反映していたであろうが、基本は閣議を経て決定された、国家意思としての「敗北宣言」であったことは認めなければなるまい。それではどのようなことが語られていたのか、見ておこう。読みやすくするためカタカナをひらがなにし、改行・句読点を加え、難しい語句には意味を( )で補った。
   終戦の詔書
朕ちん(天皇の自称)深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾せんと欲し、茲ここに忠良なる爾なんじ臣民に告ぐ。
朕は帝国政府をして米英支蘇四国(アメリカ・イギリス・中国・ソ連)に対し、この共同宣言(ポツダム宣言)を受諾する旨、通告せしめたり。
抑々そもそも帝国臣民の庸寧(安全)を図り、万邦共栄の楽たのしみを階ともにするは皇祖皇宗の遺範にして朕の眷々措けんけんおかざる所、曩さきに米英二国に宣戦せる所以ゆえんも亦実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾しょき(望むこと)するに出で、他国の主権を排し、領土を侵すが如きは、固もとより、朕が志にあらず。然るに交戦すでに四歳(年)を閲けみし(過ぎ)、朕が陸海将兵の奮戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、各々最善を尽せるにかかわらず、戦局必ずしも好転せず、世界の大勢また我に利あらず、加之しかのみならず敵は新に残虐なる爆弾を使用して頻しきりに無辜むこ(罪のない人々)を殺傷し、惨害の及ぶ所、眞に測るべからざるに至る。
而しかも尚交戦を継続せんが、ついに我民族の減亡を招来するのみならず、延しいて人類の文明をも破却すべし。斯かくの如くは朕、何を以て億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや、是れ朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり。
朕は帝国と共に終始東亜の解放に協カせる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。帝国臣民にして戦陣に死し、職域に殉じ、非命に斃たおれたる者、および其の遺族に想を致せば、五内ごだい(身も心も、の意味)爲に裂く。且つ戦傷を負い、災禍を蒙り、家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念しんねん(心配するという意味の皇帝用語)する所なり。惟おもふに今後、帝国の受くべき苦難は固より尋常にあらず、爾臣民の衷情も、朕善くこれを知る。然れども朕は、時運の趨おもむく所、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かんと欲す。
朕は茲に国体を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠(忠誠心)に信倚しんい(信頼)し、常に爾臣民と共に在り、若しそれ情の激する所、濫みだりに事端を滋く(難しく)し、或は同胞排擠(排除)互に時局を乱り、為に大道を誤り信義を世界に失うが如きは朕、最も之を戒む。
宜しく挙国一家、子孫相伝へ、確く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念おもひ、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操を鞏かたくし、誓て国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。
爾臣民、これ克よく朕が意を体せよ。
御名ぎょめい 御璽ぎょじ
昭和二十年八月十四日 以下、内閣総理大臣鈴木貫太郎以下、閣僚の署名。
玉音放送の意図
この文は「終戦」の詔書と言われ、「敗戦」・「降伏」という文字は直接使われていない。しかし、「ポツダム宣言を受諾す」という文言で、無条件降伏を受けいれたことを表明している。回りくどい言い方だが、これが日本の歴史上初めて、天皇がマイクの前に立ってその声が全国に流れたとき、国民は「敗戦」であり、無条件降伏であることを認識した。これを放送しようというアイディアは、昭和天皇自身から出されたと言われており、政府がそれを承認したが、軍の一部に強硬な反対があり、その録音音源盤を奪取しようとする一部将校がNHKなどを襲撃したが失敗したことは、「日本のいちばん長い日」として、半藤一利の著作や映画でおなじみである。
終戦の詔勅の意図
この文言は、天皇・内閣・軍部のそれぞれの意図が巧みに盛り込まれおり、多くの問題を含んでいる。まず、戦争目的を「帝国の自存と東亜の安定」として開戦の詔勅に対応させ、侵略の意図や天皇みずからの戦争責任には触れていない。また、ポツダム宣言はアメリカ・イギリスと共に中華民国が加わって出されているが、太平洋戦争以前の中国との戦争については触れられていない。そして敗戦の理由は「戦局が好転せず、世界の大勢も利がなかったこと」と「敵は新に残虐なる爆弾(原子爆弾)を使用した」ことを挙げるのみである。これらは、戦後の「天皇には戦争責任がない」という主張や「この戦争は侵略戦争ではなく、自衛のためのやむを得ない戦争」だったという論点の出発点となっている。<終戦の詔書の詳しい分析は、小森陽一『天皇の玉音放送』2003 五月書房 を参照。同書には昭和天皇の玉音放送を収めたCDが付属している。>
たしかに「終戦の詔書」には、見過ごせない問題を含んでいるが、当時としては「国体を護持し・・・」とか「確く神州の不滅を信じ・・・」などの文言は致し方なかったとすべきであろうし、それよりも「大道を誤り信義を世界に失うが如きは朕、最もこれを戒む」という天皇の言葉は素直に受け取っていいのではないだろうか。再び戦争への道を歩もうとすることは天皇の意図ではない、と読み取れることを確認しておこう。
  
 

 

●日本の降伏文書
1945年9月2日、東京湾上のアメリカ軍艦ミズーリ号において、日本代表と連合国代表との間で日本の降伏に関する文書が署名され、日本の無条件降伏が確定した。
降伏文書への署名
1945(昭和20)年9月2日、日本の全権とアメリカ・イギリス・中国・ソ連などの連合国代表によって調印された、日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を認めた文書。署名したのは、日本側が外務大臣重光葵しげみつまもると大本営代表の梅津美治郎うめづよしじろう、連合国軍司令官としてマッカーサー、アメリカ代表としてミニッツ提督、中国が徐永昌、イギリスがフレーザー、ソ連代表がデレヴヤンコ、などなど。
   降伏文書
読みやすくひらがな混じり文とし、一部省略した。
•アメリカ・中華民国・イギリス三国の首班が1945年7月26日「ポツダム」に於て発し、後にソ連が参加した宣言の条項を、日本国天皇、日本国政府及び日本帝国大本営の命に依り、かつこれに代わり受諾する。四国は以下、連合国と称す。
•日本帝国大本営並びに何れの位置に在あるを問はず、一切の日本国軍隊及日本国の支配下に在る一切の軍隊の連合国に対する無条件降伏を布告する。
•何れの位置に在るを問はず、一切の日本国軍隊及び日本国臣民に対し敵対行為を直ちに終止すること、・・・を命じる。
•日本帝国大本営が何れの位置に在るを問はず、一切の日本国軍隊及び日本国の支配下に在る一切の軍隊の指揮官に対し、・・・無条件に降伏すべき旨の命令を直に発することを命じる。
•一切の官庁、陸軍及海軍の職員に対し、連合国最高司令官が本降伏実施の為適当なりと認めて・・・発せしむる一切の布告、命令及び指示を遵守し、且これを施行することを命じる。・・・
•「ポツダム」宣言の条項を誠実に履行すること、並に右宣言を実施するため連合国最高司令官又は其の他特定の聯合国代表者が要求すること・・・かつ一切の措置を執ることを天皇、日本国政府及びその後継者の為に約束する。
•日本帝国政府及び日本帝国大本営に対し、現に日本国の支配下に在る一切の連合国俘虜及び被抑留者を直ちに解放すること・・・を命じる。
•天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、本降伏条項を実施するため、適当と認むる措置を執る連合国最高司令官の制限の下に置かれれるものとする。
署名者は日本が「大日本帝国天皇陛下及び日本国政府の命に依り其の名に於て、重光葵」と「日本帝国大本営の命に依り且其の名に於て、梅津美治郎」・連合国側が連合国最高司令官 ダグラス・マックアーサー、合衆国代表者 C.W・ニミッツ、中華民国代表者 徐永昌、イギリス代表者 B.フレーザー、ソ連代表者 デレヴヤンコ。以下、オーストラリア・カナダ・フランス・オランダ・ニュージーランド代表が署名。 
 
 

 

●核懸念の中、戦没者追悼式 規模縮小開催4年連続 8/15 
終戦から78年となった15日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で行われた。ウクライナ侵攻を続けるロシアの核使用に懸念が高まり、核軍縮を巡っても世界の分断が進む。遺族らは惨禍が繰り返されないよう平和を誓い、先の大戦の犠牲者を悼んだ。台風7号による交通機関への影響などから10府県の遺族が欠席した。
式典は4年連続で規模を縮小しての開催。厚生労働省によると、高齢の参列者が多いことを踏まえ、今年も新型コロナウイルスの感染防止に慎重を期した。
岸田文雄首相は就任後2回目の参列。昨年同様にアジア諸国への加害責任に触れず「積極的平和主義の旗の下、国際社会と手を携え、世界が直面する課題の解決に取り組む」と述べた。
正午の時報に合わせ全員で黙とう。天皇陛下は「過去を顧み、深い反省の上に立ち、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願う」とのお言葉を読み上げられた。 
 
 

 

●78回目の終戦記念日「戦争の惨禍、繰り返さない」戦没者追悼式 8/15
78回目の終戦記念日を迎えた15日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で開かれた。天皇、皇后両陛下や岸田文雄首相、戦没者遺族らが参列し、日中戦争や第二次世界大戦で犠牲になった約310万人を悼んだ。天皇陛下は「かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします」とおことばを述べられた。
式典では正午からの1分間、参列者が黙とう。天皇陛下は「多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります」と振り返った。さらに「過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」と述べた。
岸田文雄首相は、式辞で「今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い命と、苦難の歴史の上に築かれたもの」と言及した。戦没者の遺骨収容については、集中実施期間を2029年度まで延長する改正戦没者遺骨収集推進法が6月に成立しており、国の責務として「全力を尽くす」と強調した。
ロシアによるウクライナ侵攻が1年半にわたるなど緊迫する国際情勢を巡っては、「戦争の惨禍を二度と繰り返さない。この決然たる誓いを今後も貫いていく」とし、国際社会と協力していく姿勢を示した。アジア諸国への加害責任には触れなかった。
遺族を代表しての追悼の辞は、中国に出征した父を亡くした熊本県菊池市の横田輝雄さん(83)が述べる。
新型コロナウイルスの感染対策は過去3年と比べて緩和したが、高齢の出席者が多いため座席の間隔を空けるなどし、開催規模を縮小した。国歌斉唱は見送り、演奏のみとした。
台風7号の影響で遺族の参加見合わせが相次いだ。厚生労働省の14日の発表によると、西日本を中心に9府県で遺族が欠席を決めた。参列遺族は7〜104歳の約1500人になる見通しで、コロナ禍前の3分の1の規模になる。戦没者遺族は高齢化が進み、孫などの戦後生まれが初めて参列遺族の4割を超えた。
 
 

 

●終戦78年、平和の誓い新た 天皇陛下「深い反省」―戦没者追悼式 8/15
終戦から78年となる15日、政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館(東京都千代田区)で開かれた。天皇、皇后両陛下や岸田文雄首相、遺族ら1855人が参列。犠牲となった約310万人の冥福を祈り、不戦の誓いを新たにした。天皇陛下はお言葉で、今年も「深い反省」との表現を用いながら、平和への思いを示された。
新型コロナウイルス感染防止のため、各都道府県から参列する遺族を最大60人とするなど4年連続で開催規模を縮小。台風7号の接近に伴い、愛知や兵庫など10府県の遺族らは欠席した。
式典は午前11時50分すぎに始まり、岸田首相の式辞後、正午に参列者全員で1分間黙とう。その後、天皇陛下が「深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願う」とのお言葉を読み上げた。2020年以降続いていた新型コロナへの言及はなく、「これからも私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願う」とした。
岸田首相は式辞で、「戦争の惨禍を二度と繰り返さない。この決然たる誓いを今後も貫いていく」と強調した。戦没者の遺骨収集について「集中的に実施する」とした一方、近年の歴代首相が表明していたアジア諸国への責任には今年も触れなかった。
父が中国で戦死した熊本県菊池市の横田輝雄さん(83)は遺族代表として追悼の辞を読み上げ、ロシアによるウクライナ侵攻について「現地の惨状を目の当たりにするにつけ、かつての戦争を思い出さずにはいられません」と訴えた。
国歌の斉唱は取りやめ、演奏のみとするなど感染対策を施した。式典の様子は動画投稿サイト「ユーチューブ」で中継された。
厚生労働省によると、この日参列した遺族は1378人。最高齢は104歳、最年少は7歳で、戦没者の父母は1人もいなかった。13日時点の集計では、参列予定遺族1501人のうち、戦後生まれは43.2%に上った。
 
 

 

●天皇陛下、戦没者追悼式で「平和と幸せ希求」  8/15
終戦から78年となる15日、天皇、皇后両陛下は日本武道館(東京都千代田区)で開かれた政府主催の全国戦没者追悼式に出席した。天皇陛下は「おことば」で、これまでと同様に「深い反省」という言葉を交え、「再び戦争の惨禍が繰り返されぬこと」を切に願うと述べた。
2020年の追悼式以降、毎年触れてきたコロナ禍への言及はなかった。
陛下の「おことば」は次の通り。
本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来78年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。
これからも、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。
ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。
今回の「おことば」で、2020年の追悼式で初めて公の場で言及して以降、毎年触れてきたコロナ禍への言及はなくなった。また、これまでの「今後とも人々の幸せと平和を希求」という表現から、「将来にわたって平和と人々の幸せを希求」へと表現が変わった。・・・
 
 

 

●岸田首相、靖国参拝見送り玉串料 終戦記念日、閣僚は高市氏 8/15
岸田文雄首相は終戦記念日の15日、東京・九段北の靖国神社への参拝を見送り、代理人を通じて自民党総裁として私費で玉串料を納めた。昨年と同様の対応で、近く予定している中韓両国との首脳外交への影響を考慮したとみられる。一方、閣僚では高市早苗経済安全保障担当相、自民党では萩生田光一政調会長らが参拝した。
首相は同日、東京都内の千鳥ケ淵戦没者墓苑で献花した後、全国戦没者追悼式に参列した。現職首相の靖国参拝は2013年12月の安倍晋三氏が最後。これ以降、終戦記念日は党総裁名で玉串料を奉納し、保守派に一定の配慮を示す方式が定着している。
閣僚の靖国参拝は4年連続となる。高市氏は記者団に「国策に殉じた皆さまに哀悼の誠をささげた」と強調。「国務大臣高市早苗」と記帳し、私費で玉串料を納めたと説明した。萩生田氏も「先の大戦で尊い犠牲となった先人のみ霊に謹んで哀悼の誠をささげた」と述べた。
超党派の「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」は、衆参両院議員67人が集団で参拝した。自民党の小泉進次郎元環境相らも個別に訪れた。
 
 

 

●高市早苗経済安保相が靖国参拝 終戦の日、閣僚は4年連続 8/15
高市早苗経済安全保障担当相は15日午前、東京・九段北の靖国神社を参拝した。終戦の日に閣僚の参拝が確認されたのは4年連続。岸田文雄首相は昨年に続き参拝せず、自民党総裁として私費で玉串料を奉納した。これとは別に、東京都内の千鳥ケ淵戦没者墓苑を訪れて献花した。自民では萩生田光一政調会長が靖国神社を参拝した。
高市氏は参拝後、記者団に「国策に殉じた皆さんの御霊に哀悼の誠をささげ、感謝の思いを伝えた」と強調。萩生田氏も「先の大戦で尊い犠牲となられた先人の御霊に謹んで哀悼の誠をささげ、恒久平和、不戦への誓いを新たにした」と述べた。首相の玉串料は、代理で訪れた自民の国場幸之助・総裁特別補佐が納めた。
昨年は8月13日に西村康稔経済産業相、15日に高市氏と秋葉賢也復興相(当時)の2人が靖国神社を参った。
超党派の議員連盟「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」は15日午前、副会長の逢沢一郎衆院議員(自民)らメンバーが参拝した。自民の小泉進次郎元環境相らも個別に訪れた。
 
 

 

●超党派の議員連盟メンバー67人「終戦の日」に靖国神社を参拝 8/15
「終戦の日」の15日、超党派の議員連盟のメンバー67人がそろって靖国神社に参拝しました。
超党派の議員連盟「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」は、毎年、春と秋の例大祭と、8月15日の「終戦の日」に靖国神社に参拝しています。
新型コロナの感染拡大の影響で「終戦の日」に一斉参拝するのは4年ぶりで、15日午前10時すぎ、自民党や日本維新の会などの国会議員あわせて67人がそろって参拝しました。
このうち岸田内閣からは副大臣と政務官あわせて8人が参拝しました。
参拝のあと議員連盟の副会長を務める自民党の逢沢 元国会対策委員長は記者会見し「過酷な歴史、戦争の記憶などの風化はあってはならない。若い世代に戦争の悲惨さや平和の尊さを受け止め考えてほしいという祈りや思いを込めて参拝した」と述べました。
また、現職の総理大臣の参拝見送りが続いていることについて「日本国民を代表する重い立場の方が戦争とどのように向き合い行動するか、まさに政治家の真価が問われる。ことばや行動を通じ国民が納得のいく行動をとることを心から願っている」と述べました。
 
  

 

●終戦記念日、上皇ご夫妻も黙とう 東京・元赤坂の仙洞御所で 8/15
終戦から78年となる15日、上皇ご夫妻はお住まいの東京・元赤坂の仙洞御所で、東京都内で開かれた全国戦没者追悼式のテレビ中継を見て黙禱(もくとう)した。天皇、皇后両陛下の長女愛子さまも皇居・御所で黙禱した。宮内庁が同日発表した。
上皇さまは皇太子時代の会見で「どうしても記憶しなければならない」四つの日に、沖縄戦終結の日(6月23日)、広島原爆の日(8月6日)、長崎原爆の日(同9日)、終戦記念日(同15日)を挙げ、毎年これらの日には上皇后美智子さまとともに黙禱を欠かさない。天皇、皇后両陛下や愛子さまも同じように黙禱を捧げている。
 
 

 

●きょう78回目「終戦の日」 戦没者追悼式、遺族は高齢化 8/15
戦後78回目の「終戦の日」となる15日、政府が主催する全国戦没者追悼式が日本武道館(東京・千代田)で開かれる。岸田文雄首相や全国の戦没者遺族らが参列する。新型コロナウイルスの影響で規模は4年連続で縮小されるが、参列予定の遺族は13日午後6時時点で1501人と、2019年以来4年ぶりに1000人を超える見通し。
追悼式は新型コロナウイルスの感染拡大前は例年6千人程度が出席していた。参列する遺族には高齢者が多いことから、参列者同士の座席間隔を左右1席分空ける。22年は左右に加え前後にも1メートルの間隔を取っていたが、今年は前後の間隔を詰める。マスク着用も参列者の任意とする。
厚生労働省は参列できない遺族ら向けに動画投稿サイト「ユーチューブ」で式典の様子を中継する。追悼式では首相が式辞を読み上げた後、参列者全員で1分間の黙とうをささげる。天皇陛下がお言葉を述べられ、衆参両議院の議長や最高裁判所長官、遺族代表が追悼の辞を述べる。
当初は約2000人の遺族が参列予定だったが、台風7号の影響で愛知県や京都府などの遺族が参列を見合わせた。
先の大戦では軍人・軍属約230万人と民間人約80万人の計約310万人が犠牲になった。参列を予定する遺族のうち戦後生まれは43.2%。80歳以上は42.2%で22年から1.8ポイント上昇し、高齢化が進んでいる。
78年前の8月15日、正午に玉音放送
太平洋戦争の末期、1944年末ごろから本土への空襲が本格化した。東京への空襲は終戦までに122回に及んだ。45年3月10日未明、現在の江東区や台東区など下町の木造住宅密集地にB29爆撃機が無差別に焼夷(しょうい)弾を投下した。この東京大空襲で約27万戸が焼失し、約10万人が亡くなったとされる。
原爆投下により広島は約14万人、長崎では約7万4千人が45年末までに亡くなった。45年8月15日、昭和天皇はラジオ放送を通じ「終戦の詔書」を読み上げ、ポツダム宣言を受諾したことを国民に知らせた。玉音放送は正午に始まった。
旧厚生省の1977年のまとめによると日中戦争を含めた戦没者は310万人余りに上る。このうち軍人、軍属らは約230万人。軍人、軍属らの死因について公式統計はないが、歴史学者の故・藤原彰氏は約6割が飢餓や栄養失調による戦病死だったと分析した。
戦後に国の戦没者追悼行事を望む声が上がり、政府は52年5月、全国戦没者追悼式を初めて開いた。63年5月の閣議決定で8月15日の開催が決まり現在に至っている。82年4月には毎年この日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とすると閣議決定された。
日本が東京湾に停泊する米戦艦ミズーリ上で降伏文書に調印したのは45年9月2日で、海外ではこの日を終戦記念日にしているケースも多い。 
 
 

 

●終戦の日・戦没者追悼…恒久平和への祈り込めて「千年和鍾打鐘式」山形市 8/15
きょう8月15日は78回目の「終戦の日」。山形市では、市役所の隣にある「千年和鍾」を鳴らし戦没者を追悼した。
終戦の日を迎えた15日、山形市では千年和鐘の打鐘式が行われ、戦没者の遺族や市の関係者など約80人が出席した。式典は第二次世界大戦の戦没者を追悼し、これからの世界平和を願うもので、正午に鐘をならし全員で黙とうを捧げた。
山形市遺族連合会・畠山重信常任理事(79)「戦争の苦しさと悲惨さをこういう時期になると思い出す。今後、日本の平和が維持できればと思っている」
第二次世界大戦の戦没者は県内で約3万9千人、このうち山形市では4721人が尊い命を失った。「悲劇を繰り返してはいけない」と、集まった人たちは平和への誓いを新たにしていた。 
 
 

 

●全国戦没者追悼式で「ウクライナへの侵攻は言語道断」 遺族代表が訴えた 8/15
終戦から78年を迎えた2023年8月15日、東京・千代田区の日本武道館で行われた政府主催の全国戦没者追悼式で、熊本県菊池市の横田輝雄さん(83)が遺族代表として追悼の辞を述べた。
1945年(昭和20年)5月に父の正則さんを亡くした横田さんは、前年の44年4月に父が召集された当時を次のように振り返った。
「(父は)最愛の家族の安寧を祈りつつ、我が身の危険をかえりみず、祖国の安泰と平和を願い、出征して行きました。母は3番目に産まれた妹の事を知らせるために、何度も手紙を書きましたが父のもとに届くことはなく、父は子の顔も知らず、昭和20年5月、中国の地において無念の死を遂げました」
家族を失った悲しみは深い。心が折れそうになることもあったが、互いに助け合って励まし合いながら懸命に生きてきた、と横田さんは続ける。
「今日の平穏な生活が享受できますことは、戦没者の尊い犠牲の礎の上に築かれたものであることを決して忘れるものではありません」
しかし、依然として世界では紛争などが起こり続けている。22年2月にはロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まった。横田さんは次のように述べる。
「今般のロシアによるウクライナへの侵攻は、言語道断の行いであり、現地の惨状を目の当たりにするにつけ、かつての戦争を思い出さずにはいられません」
こうした状況において、日本が平和実現に向けて果たすべき役割は小さくないとし、「戦争の悲惨さと平和の尊さを、孫、ひ孫の世代へと永遠に語り継ぐことを英霊にお誓い申し上げます」と訴えた。 
 
 

 

●追悼式に遺族参列 ウクライナ戦禍に我が身重ね 「戦争やってはいけない」 8/15
東京・日本武道館で15日行われた全国戦没者追悼式には、本県から遺族46人が参列した。78回目を迎えた終戦記念日。故人を悼み、不戦の誓いを新たにした参列者からは、ロシアによるウクライナ侵攻など国際情勢を憂える声や、遺族の高齢化などに伴う戦争への関心の薄れを危惧する声が聞かれた。
県によると、本県参列者の平均年齢は74・2歳。戦没者の子が11人、きょうだい3人、孫4人、おい・めいなどが28人だった。
「おやじ、来たぞ」。本県を代表して献花に立った足利市駒場町、田名網省史(たなあみせいし)さん(84)は、フィリピンのレイテ島で玉砕した父萬三郎(まんざぶろう)さん(享年34)をしのび、花を手向けた。
父の記憶はほとんどない。だが、母の故マキさんが神社を巡って無事を祈っていたことや、終戦直前の1945年7月、戦死を知らせる手紙を手に涙を流していた姿を覚えている。
ウクライナの戦禍に触れるたび、「生きることに無我夢中」だった自身の体験が重なり、「戦争とはこういうものだ。やってはいけない」との思いを強くする。一方、市遺族会副会長として社会の関心の薄れを肌で感じ「腹が立つが、時代と共に仕方ないことなのかもしれない」とも漏らす。
本県参列者の最高齢で栃木市千塚町、高久八郎(たかくはちろう)さん(86)は、兄二郎(じろう)さん(享年23)やおじ2人を亡くした。兄は教師に憧れ、大学にも合格したが、「兵隊になって国のために尽くせ」との祖父の言葉を受け、旧制中学卒業後、兵役に就いた。最期はニューギニア、パラオ間の海上で射撃を受け、船と共に海に沈んだ。進学した同期は徴兵の時期が遅れたことで存命し、祖父は自責の念に駆られたという。
海外で戦死したおじたちと同様、遺骨はない。3人を合同で弔い、それぞれの最期を墓石に刻んだ。式を終え、高久さんは「戦争の歴史を後世に伝える必要があると再認識した」。
最年少参列者は鹿沼市口粟野、会社員小島幸(こじまみゆき)さん(32)。祖父の兄たちを戦病死で亡くした。遺族が集う会場を見渡して「戦争に関心を寄せるのは高齢の方ばかりになってしまっている」と痛感した。「若い世代がどのように戦争を知ることができるかが、これからの課題だと思う」
ウクライナの戦禍に触れるたび、「生きることに無我夢中」だった自身の体験が重なり、「戦争とはこういうものだ。やってはいけない」との思いを強くする。一方、市遺族会副会長として社会の関心の薄れを肌で感じ「腹が立つが、時代と共に仕方ないことなのかもしれない」とも漏らす。
本県参列者の最高齢で栃木市千塚町、高久八郎(たかくはちろう)さん(86)は、兄二郎(じろう)さん=享年23=やおじ2人を亡くした。兄は教師に憧れ、大学にも合格したが、「兵隊になって国のために尽くせ」との祖父の言葉を受け、旧制中学卒業後、兵役に就いた。最期はニューギニア、パラオ間の海上で射撃を受け、船と共に海に沈んだ。進学した同期は徴兵時期が遅れて生き延び、祖父は自責の念に駆られたという。
海外で戦死したおじたちと同様、遺骨はない。3人を合同で弔い、それぞれの最期を墓石に刻んだ。式を終え、高久さんは「戦争の歴史を後世に伝える必要があると再認識した」。
最年少参列者は鹿沼市口粟野、会社員小島幸(こじまみゆき)さん(32)。祖父の兄たちを戦病死で亡くした。遺族が集う会場を見渡して「戦争に関心を寄せるのは高齢の方ばかりになってしまっている」と痛感した。「若い世代がどのように戦争を知ることができるかが、これからの課題だと思う」 
 
 

 

●「ロシアによるウクライナ侵攻は言語道断の行い」 戦没者追悼式で遺族訴える 8/15
終戦から78年となった15日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で行われた。
岸田文雄首相は式辞で「戦争の惨禍を二度と繰り返さない。いまだ争いが絶えない世界にあって、我が国は積極的平和主義の旗のもと、国際社会と手を携え、世界が直面するさまざまな課題の解決に全力で取り組んでまいります」と述べた。昨年同様、アジア諸国への加害責任には触れなかった。
正午の時報に合わせた1分間の黙とうの後、天皇陛下がお言葉を述べられた。陛下は「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立ち、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民とともに心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」と述べられた。
遺族代表で、父親が中国で戦死した横田輝雄さん(83)は追悼の辞で「今般のロシアによるウクライナへの侵攻は、言語道断の行い」と指摘。「現地の惨状を目の当たりにするにつけ、かつての戦争を思い出さずにはいられない。我が国が平和の実現に向けて果たすべき役割は決して小さくありません」と訴えた。
衆議院を代表し追悼の辞を読む予定だった細田博之衆院議長は体調不良で欠席し、海江田万里副議長が代読した。細田氏は7月、熱中症の症状で病院に搬送されている。また、台風7号による交通機関への影響などで10府県の遺族が式を欠席した。 
 
 

 

●「平和を守るのは武器ではなく国民の意志」 しみる政治家の一文 8/16
終戦の日に合わせて与野党は談話を発表した。自民党は「わが国は、唯一の戦争被爆国として、『核兵器のない世界』の実現に向け、国際社会の機運を高め、一歩一歩、現実的かつ実践的な取り組みを進めていく」。公明党は「11月の核兵器禁止条約締約国会議への政府によるオブザーバー参加を改めて強く求める。『核の先制不使用』の議論を、今こそ日本が主導すべきだ」とした。自民は現実の政治と逆行、公明は野党のごとくのもの言いだ。
野党に至っては立憲民主党が「わが国を取り巻く安全保障環境が緊迫している。こうした時こそ必要な防衛力を整備しつつ、国際協調と対話外交、多国間連携を深め日本周辺の平和を守り、地域の緊張を緩和させる努力を続けねばならない」と与党のような振る舞いだし、日本維新の会は「わが国の主権と国民を守り抜くための積極防衛力を抜本的に強化、整備することは、私たちの喫緊かつ重大な責務、使命だ」と陸軍省の談話のようだ。どの党も終戦の談話になっていない。
その中でしみる政治家の一文を見つけた。「戦争とは人間が生み出した地獄。前線で闘った方々の多くは餓死。紙切れ一枚で招集、補給は絶たれ、飢えと渇きにのた打ち回りながら、苦しんで亡くなった。戦争末期には狂った特攻兵器が考えられ、あまたの若者が命を落とした。そして、敗戦直後、指導者達は責任逃れのため書類を燃やした。『ここまで来たらやめられない』と。官邸、陸軍、海軍が相互に責任を押し付け合い、戦争を止められなくなっていた。常に国民の命より政府の体面や利権が重視された。戦争を知る世代がほとんどいなくなりつつある今、『政治の大罪』について我々は深く考えないといけない。いま本来、冷静であるべき政治が、戦争の危機を盛んに訴え、武力増強のため、巨額の税金を国民に課そうとしている。こんなことが許されているのは敗戦からの時間の経過による。平和を守るのは武器ではなく国民の意志。繰り返さないということを固く誓う日としたい」小沢一郎。 
 
 

 

●660字の9割が一言一句同じ 岸田首相、戦没者追悼式の式辞で「前例踏襲」 8/16
岸田文雄首相は15日、全国戦没者追悼式で式辞を述べたが、大部分は昨年と全く同じ内容で、歴代政権の中でも前例踏襲の姿勢が際立った。先の大戦での加害責任や反省に触れなかったほか、被爆地・広島選出の政治家としての平和へのこだわりも示されず、不戦の決意が十分伝わったとは言い難い。(近藤統義)
追悼式の式辞は政権の歴史認識や恒久平和への姿勢を映し出す。構成や内容は例年似通う傾向にあるが、2000年以降、複数年にわたり式辞を述べた小泉純一郎、菅直人、安倍晋三の三首相には、式辞の言い回しを毎回少しでも変える工夫が見られた。
今回、660字余りの式辞原稿を昨年と比較すると、約9割が一言一句同じだった。追加された言い回しは、戦没者の遺骨収集を巡り「国の責務として集中的に実施する」とした程度。集中実施期間を29年度まで延長する改正法が6月に成立したことを反映したとみられる。
「不戦の誓い」は第2次安倍政権から同じ
式辞の中でも注目される「不戦の誓い」の部分では、「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」と昨年同様に強調したが、第2次安倍政権から同じ言い回しだった。また、1990年代以降の歴代首相が表明したアジア近隣諸国への加害責任と反省には、今年も触れなかった。安倍氏、菅義偉前首相に続き、首相も引き継いだ形だ。
安倍氏が集団的自衛権の行使容認を正当化する根拠とし、2020年の式辞から盛り込んだ外交・安全保障の基本方針「積極的平和主義」への言及は継続し、「(同主義の旗の下)国際社会と手を携え、世界が直面する課題の解決に全力で取り組む」と語った。
前例踏襲が目立つばかりで、自身の言葉が乏しければ、不戦の決意は十分に伝わらない。首相の後に追悼の辞を述べた尾辻秀久参院議長は、戦没者遺族としての経験にも触れながら、「いま、私たちがしなければならないことは『犠牲となられた方々のことを忘れないこと』と、『戦争を絶対に起こさないこと』だ」と力を込め、首相とは対照的だった。
「あいさつは定型で良い」の伝統があるが…
信州大名誉教授の都築勉氏(政治学)は「日本文化には式辞のあいさつは定型で良いとの伝統があり、首相もそれで良いと判断したのだろうが、手抜きに見える。もっとさまざまな場面で、政権の考えや目標をはっきり示す必要がある」と指摘した。 
●「終戦の日」 心に響かぬ首相の誓い 8/16
ロシアのウクライナ侵略が続き、台湾海峡の緊張もやまない。何より、自らが主導した戦後の抑制的な安保政策の大転換を経た「終戦の日」である。「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」と言っても、昨年の式辞をただ引き写しただけの内容からは、その「決然たる誓い」は心に響いてこない。
敗戦から78年のきのう、全国戦没者追悼式が開かれた。岸田首相の式辞は、前任者の安倍・菅両首相をなぞった昨年から、ほとんど変わらず、不戦の誓いの原点である先の戦争をどう見ているのか、政治指導者としての深い見識や歴史観はうかがえなかった。
戦後日本の歩みを「歴史の教訓を深く胸に刻み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてきた」と振り返ったが、アジアの近隣諸国に対する加害責任には今年も触れなかった。
93年の細川護熙氏以来、歴代首相は、自民党政権時代を含め、「深い反省」や「哀悼の意」を表明してきた。ところが、第2次政権下の安倍氏が言及をやめ、後任の菅、岸田氏もそれを踏襲している。
岸田政権は中国や北朝鮮を念頭に、防衛力の抜本的強化を掲げ、敵基地攻撃能力の保有や防衛費の「倍増」を決めた。今改めて加害の事実にも真摯(しんし)に向き合うことは、「平和国家」としての日本の意思を内外に示し、地域の信頼醸成につなげる機会となったのではないか。
きのうは高市早苗経済安全保障担当相が昨年に続き、終戦の日の靖国神社参拝を行った。この日の閣僚参拝は、20年に4年ぶりに行われ、当時の安倍首相に近い高市総務相や萩生田光一文部科学相ら4人が参拝。菅政権の一昨年は萩生田文科相ら3人、岸田政権の昨年は高市氏と秋葉賢也復興相の2人だった。
靖国神社は軍国主義を支えた国家神道の中心的施設であり、東京裁判で戦争責任を問われたA級戦犯14人が合祀(ごうし)されてもいる。今年は高市氏1人のようだが、閣僚ら時の政治指導者による参拝は、遺族や一般の人々が犠牲者を悼むのとは全く意味が異なることを、改めて指摘しておきたい。
日本が戦争への反省を忘れ、過去を正当化しようとしていると受けとる人がいること、憲法が定める政教分離の観点からの疑義もあることに、思いを致す必要がある。
首相は歴史認識について「歴代内閣の立場を全体として引き継いでいる」と言明してきた。戦後50年の村山首相談話が打ち出し、戦後70年の安倍首相談話にも盛り込まれた「痛切な反省」と「心からのお詫(わ)び」を決して忘れてはならない。 
 
 

 

●アメリカと日本の「神話」とぼんやりとした支持 8/16
京都市街の中心部を東西に走る御池通に立つと、8月の日差しは強烈だが、生い茂った街路樹のまぶしい緑と開けた視界が盆地に溜(た)まりがちな熱気を緩ませる。
この片側4車線ずつに街路樹と歩道をそなえた広大な道は、実は78年前に終わった「あの戦争」の記憶を京都で最も強く喚起する場所のひとつだ。
京都市内は幹線道路であっても幅員の狭い道路が多いが、例外的に広いこの御池通や五条通は、戦時中の1944年に空襲対策の防火帯として強制的に家屋が撤去され、幅員が拡張された道路なのである。
だがしかし、京都に対する空襲は他の大都市と比べて格段に少なかった。1945年になると小規模な空襲が5回行われはしたものの、東京をはじめとする当時の大都市が軒並み焼き払われたと形容すべき被害を受けたのに比べると、京都の受けた被害ははるかに軽微なものだった。
京都への大規模空爆が避けられた事情については、「神話」が長年通用してきた。すなわち、京都の持つ歴史的遺産、文化財の価値に配慮した米軍が空襲を避けた、というものだ。そして、東洋美術の専門家、ランドン・ウォーナーが京都を焼き払わぬよう米政府上層部に必死に進言した結果であると信じられ、京都のみならず日本各地でウォーナーの記念碑が建てられるなど、その「徳」が称賛されてきた。
この神話を完全に覆したのが、歴史家の吉田守男氏による研究だった。著書の『原爆は京都に落ちるはずだった』は、米軍関係の史料に基づき、京都の空襲対象からの除外が原爆の投下目標選定と密接に関係していたことを立証している。
京都は地形や人口分布といった面から、原爆の威力を最大限発揮させるには最良の目標と目され、それゆえ、破壊力の正確な計測のために通常の焼夷(しょうい)弾による空襲の対象から除外されたのだった。たたえられてきたウォーナーの尽力なるものは、幻影でしかなかった。
しかし、最終的に京都ではなく広島・長崎が核攻撃の対象に選ばれたのは、陸軍長官のヘンリー・スティムソンが軍部の推す京都案を強硬に却下したためであった。スティムソンは隷下の軍人たちよりも確かに広い視野を持っていた。京都に原爆を投下すれば、日本人のアメリカへの憎悪を燃え立たせることになり、もう始まっていた東西対立における日本のアメリカ陣営への取り込みに支障が出ることを危惧したのである。
つまりは、スティムソンは終戦前にすでに戦後の世界戦略を視野に入れていたのであった。ただし、日本の降伏がさらに遅れ、3発目の原爆投下が実行されていたならば、京都は再び有力候補に指定されたであろうことを吉田氏は指摘している。
この構図は、天皇制の存置と軌を一にしている。スムーズな占領と民主化、そして戦後日本人の対米感情の懐柔のために、天皇に有罪宣告を突きつけるよりも、免責して利用する方針をアメリカは採った。そこにあったのは、政治的計算以外のものではない。
そして、同様の構図による同様の政策に対し、同様の反応を戦後の日本人はしてきた。マッカーサー元帥が昭和天皇との面会において大変な好印象を抱いたがゆえに、言い換えれば、昭和天皇の高潔と真意をマッカーサーが理解したがゆえに、天皇は免責されたという神話を日本人は信じてきた。これと同様に、京都に集約される日本の歴史と文化の価値を解したアメリカは、私たちの宝を焼き払うことを避けたのだ、と。
そう信じたいので信じてきたのだ。どれほど反対の証拠を突きつけられても、この信仰が持続してきたのは、なぜなのか。
それは、「京都を焼き払わなかったアメリカ」「私たちの本当の心を理解してくれたアメリカ」というアメリカ像を私たちが手放したくないし、手放せないからであろう。だが、そのような「アメリカ」はもちろん、私たちの主観的願望の投影にすぎない。
実際のアメリカが何を意図し、何をやったのかについては、すでに多くの先達が明らかにしてきた。ゆえにいま、分析されねばならないのは、「日本に敬愛の念を抱いたアメリカ」というアメリカ像を絶対に手放そうとしない私たち自身の欲望なのだ。
それは即座に政治的な課題である。戦争が終わる前にすでにその形成が始まった戦後日本人のアメリカ像は、占領期において本格的に打ち建てられ、そして日米安保体制を民衆レベルで支える土台となった。
そこから受益したのは、アメリカ自身はもちろんのこと、アメリカが戦争責任の追及に手心を加えたことにより、親米保守派へと転身して戦後再び支配的地位を得た、戦前戦中の旧支配勢力である。この勢力=自民党による支配が、今日まで続いていることは言うまでもない。
この勢力が、米中対立が煽(あお)られるなかで、どのような振る舞いをするか、考えるまでもない。「日本を愛し守ってくれるアメリカ」のイメージを最大限活用することにより、宗主国の覚えめでたい代官の地位を死守し、自己利益を最大化する、そのためには一般庶民からは際限なく搾取する――これ以外の行動原理は彼らにはない。
岸田政権の決めた大軍拡により不可避となった大増税はその表れだ。そして、選挙があるたびごとに、このような権力へのぼんやりとした支持の意思が表明されるばかりである。
そのような人の群れに私たちは成り果ててしまった。その生涯の最期に臨んで「自衛隊は永遠にアメリカの傭兵(ようへい)として終る」と叫んだ三島由紀夫は、「金閣を焼かねばならぬ」(『金閣寺』)と主人公に言わしめた人でもあった。
金閣寺=京都は焼き払われるはずだったのに、焼き払われなかった。だから私たちは、焼き払わなければならないのだ。私たちの歪(ゆが)んだ欲望を。 
 
 

 

●降伏日に靖国神社を参拝した日本の政治家に各国から強い非難の声 8/16
8月15日は第二次世界大戦で日本が降伏した日だ。同日午前、日本の岸田文雄首相は「玉串料」と呼ばれる供物を靖国神社に奉納した。また、高市早苗経済安保担当大臣、荻生田光一自民党政調会長など、複数の政治家も靖国神社に参拝した。中国新聞網が伝えた。
78年前の8月15日、日本は無条件降伏を宣言した。しかし、今日に至るまでなお、日本の一部の政治家は反省も悔悟もせず、第二次世界大戦のA級戦犯を祀る靖国神社の参拝に熱を上げ、日本を再び深い淵へと引きずり込もうとしている。
日本の政治家による靖国神社への参拝及び供物奉納は、各国から強く非難され続けてきた。
すでに韓国外務省は「失望と遺憾の意」を繰り返し表明するとともに、日本の責任を負う者たちに歴史を直視し、歴史の残した問題を実際の行動によって深く反省するよう促してきた。
中国外交部(外務省)報道官も、「中国は靖国神社関連の日本側の否定的な動きに断固として反対するとともに、日本側が侵略の歴史を直視し反省するという姿勢表明と約束を誠実に守り、軍国主義と徹底的に決別し、実際の行動によってアジア近隣諸国及び国際社会の信用を得るよう促す」と繰り返し指摘してきた。
ロシアのラブロフ外相も以前、「ロシアと中国は第二次世界大戦中、ファシズムと軍国主義に抵抗し反撃を加える主戦場として、侵略者の壊滅に決定的な貢献を果たした。ロシアは、歴史を汚すいかなる勢力にも反対する」と表明した。 
●日本閣僚の靖国神社への奉納・参拝 韓国政府「深い遺憾」 8/16 
韓国外交部は光復節(日本による植民地支配からの解放記念日)の15日、日本政府の閣僚が戦争犯罪者を合祀(ごうし)する靖国神社に玉串料を奉納したり参拝を行ったりしたことに対し遺憾の意を表明した。
同部はこの日、「日本の過去の侵略戦争を美化し、戦争犯罪者を合祀した靖国神社に、日本政府と議会の責任ある指導者がまたも供物料を奉納したり参拝を繰り返したりしたことに深い失望と遺憾の意を表する」とする報道官論評を出した。
また、韓国政府は日本の責任ある人々が歴史を直視し、過去の歴史に対する謙虚な省察と真の反省を行動で示すことを促すと強調した。 
日本メディアによると、岸田文雄首相はこの日午前、靖国神社に玉串料を奉納した。奉納は自民党総裁名義で行われた。
また、高市早苗経済安全保障担当相が昨年に続いて靖国神社を参拝し、超党派の議員連盟「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」のメンバーも一斉参拝した。
日本の政治指導者らの靖国神社参拝と供物などの奉納は、日本による侵略戦争を擁護する行為と見なされ、韓国など周辺国と日本との間で長年にわたり対立の火種となっている。 
 
 

 

●全国戦没者追悼式で天皇陛下が「コロナ」に言及されなかった意味 8/16
宮内庁のサイトに、「忘れてはならない4つの日」の一つとして示されている、8月15日の終戦記念日。天皇皇后両陛下は今年も、日本武道館で開かれた「全国戦没者追悼式」に出席された。陛下の追悼のおことばは一見、例年通りの内容だったが、今年は「コロナ」に言及されなかったなどの変化もあった。そこには、陛下のどんな思いが込められているのか。元宮内庁職員で皇室解説者の山下晋司さんに話を聞いた。
――天皇陛下のおことばを聞いて、まず感じたことは?
コロナについてまったく触れられなかったのは、予想外でした。去年までの3年間、陛下はこの追悼式で、「日本は戦後、あれだけの荒廃から復興した。コロナという新たな苦難も力を合わせて乗り越えよう」というメッセージを発してこられました。戦没者の追悼式ですから、必ずしもコロナに言及する必要はないにもかかわらず、国民を励ましたいという強いお気持ちがあったのでしょうね。ですから、今年は「ようやく日常に戻りつつあります」というようなことをおっしゃるのかなと思っていたのですが……。
――コロナへの言及がなくなった以外は、基本的に去年までのおことばを踏襲されていました。
昭和、平成、令和と、おことばの大筋は変わっていません。遺族感情を考えれば、犠牲者を悼み、平和を願うという内容を大きく変えることはないでしょう。また、天皇のおことばですから、少しの変化でも話題を呼んでしまうリスクがあります。戦後70年の追悼式で、上皇陛下が初めて「深い反省」という言葉を入れられたときは、大きな注目を集めました。こういう文言は一度使うとカットするわけにはいかなくなりますので、今年も「過去を顧み、深い反省の上に立って」という文言が盛り込まれていました。
――両陛下のお召し物も、昨年までと大きな変化はないように見えますが、何か決まりがあるのでしょうか?
いえ、特にルールはありませんが、あのような場で、毎年服にバリエーションを出すのは難しいでしょう。皇后陛下は今年もグレーのセットアップでしたが、黒だと喪服のようになってしまいますし、やはり色としてはグレーが無難なんだと思います。
上皇后陛下は、平成24年の上皇陛下の心臓バイパス手術のあとは、平成30年までいつもお着物でした。手術の担当医が、最も注意すべきは「転ばない」こととおふたりに伝えていたそうですが、上皇后陛下は、もし上皇陛下がよろけられたときには、ヒールよりも草履の方が支えやすいからとお着物にされていたそうです。
――今回の追悼式で、山下さんが注目したポイントは何かありますか?
陛下のおことばにあった、「これからも、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います」という一文です。この表現は平成以前にはなく、コロナへの言及をきっかけに新たに加えられたものです。
今年はコロナには触れられなかったにもかかわらず、この表現はあえて残されている。「コロナ禍の後もまた新たな苦難に直面するかもしれませんが、平和と幸せのために、今後も皆で手を取り合って乗り越えていきましょう」という、未来を見据えたメッセージだと感じました。陛下オリジナルの“令和流”の文言として、来年以降も引き継がれていくのではないでしょうか。
――“令和流”は、未来志向ということでしょうか?
私はそう感じています。「過去を忘れないことは大事だけれど、過去にとらわれ過ぎず、未来にもっと目を向ける」という陛下の姿勢は、今年6月のインドネシアご訪問のときにもひしひしと伝わってきました。
ご訪問中、午餐会で予定されていた陛下のおことばが、インドネシア大統領側の提案で取りやめになるハプニングがありました。おことばは、日本という国を代表した公式の発言。まず間違いなく、「先の不幸な戦争への反省」というような内容が入っていたでしょう。しかし大統領は、「戦争についての反省より、これからの両国の関係性を見据えた、打ち解けた会にしたい」とお考えになったのではないでしょうか。
その思いをくまれたのか、陛下は大統領の前で即興でスピーチをすることになった際、過去の戦争には触れずに、「今後、両国の若い人々の交流により、両国間の友好親善が一層発展することを心から願っております」などとお話しされました。外務省や官邸とのすり合わせをしていない、陛下の率直なお気持ちから出たお言葉だと思いますが、未来志向というものを感じさせる内容でした。
陛下は、昭和天皇から直接戦争の話を聞いた経験をもつ最後の天皇になるでしょうが、戦争の実体験者ではありません。世代の移り変わりとともに、国民の側も戦争への向き合い方は少しずつ変わってきます。そんな時代において、過去の反省をきちんと未来につなげるために、天皇として何をなすべきなのか。陛下は、これからも国民の価値観の変化を感じ取りながら、時代に合った天皇の姿を模索し続けていかれることでしょう。 
 
 

 

●「コピペ文章」「話す力もない」岸田首相 追悼式の式辞が前年とほぼ同じ… 8/17 
8月15日、全国戦没者追悼式が東京・千代田区の日本武道館で行われた。広島選出の岸田文雄首相(66)も参列し、式辞を述べた。しかし、“前例踏襲”すぎるその内容に批判が集まっている。
終戦から78年目となったこの日、天皇、皇后両陛下ご臨席のもと、行われた追悼式。台風7号の接近により愛知県や兵庫県など10府県の遺族らが参列を見送るなか、岸田首相が読み上げた式辞は、22年の追悼式で岸田首相が述べた式辞とほぼ同じ言い回しだったのだ。
たとえば、今回の式辞の序盤では「祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦場に斃(たお)れた方々。戦後、遠い異郷の地で亡くなられた方々」と戦没者に思いを馳せたが、この部分は一言一句、22年のものと同じ。
22年に「広島や長崎での原爆投下、各都市での爆撃、沖縄における地上戦など、戦乱の渦に巻き込まれ犠牲となられた方々」と述べた部分は、今回は「広島や長崎での原爆投下、各都市での爆撃、沖縄での地上戦などにより犠牲となられた方々」と発言。言い回しの細かな変化はあるものの、“使い回し”のようにも思える。
日本に帰ってきていない遺骨について触れた場面でも、22年は「未だ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、決して忘れません。一日も早くふるさとにお迎えできるよう、国の責務として全力を尽くしてまいります」と述べたが、今回は「未だ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、決して忘れません。国の責務として、ご遺骨の収集を集中的に実施し、一日も早くふるさとにお迎えできるよう、引き続き、全力を尽くしてまいります」と発言。22年のものに、わずかに表現を追加したのみだ。
そのほか、22年に「今日、私たちが享受している平和と繁栄」と話した部分を今回は「今日の我が国の平和と繁栄」と、22年に「今を生きる世代、明日を生きる世代のために」とした部分を今回は「今を生きる世代、そして、これからの世代のために」と部分的に言葉遣いを変えている。しかしここで挙げた以外の部分はすべて22年の式辞を一言一句踏襲しているのだ。
戦没者を悼み、恒久の平和を願う気持ちは時が経っても変わらないだろう。しかし、ほとんど前年と同じ内容であることから、SNS上では批判の声が続出している。
《これには本当にガッカリする。素直に、日本国民として、一人の大人として。》《コピペ文章を読むだけの簡単なお仕事か?自分で考えて書いて読めよ》《「聞く力」などないことはすでに明らかになっているが、「話す力」がないことも明らかになっている。》《日本の総理大臣はChat GPTに代わって貰ったほうが良いんじゃない》《この人は何のために「広島」を背負って国会議員をやっているんだろうか?こういう日の式辞くらい自分の気持ちを乗せれば良いのに。あ、気持ちなんて元々ないよね。》
5月には被爆地・広島県でG7サミットが開催されるなど、同県選出の政治家として平和路線が期待されたはずの岸田首相。今回の前例踏襲は、あまりにもお粗末だった。 
 
 

 

●天皇皇后両陛下、ノーマスクで追悼式ご出席 「不戦」を願い、平和への眼差し 8/17 
「終戦以来78年、人々のたゆみない努力により、今日のわが国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。これからも、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います」
終戦の日の8月15日、天皇皇后両陛下が全国戦没者追悼式に出席され、平和への祈りを捧げられた。今年はノーマスクでのご出席となった両陛下。「不戦」を願う、平和への眼差しを送られていた。 
 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

 

●日本人だけが8月15日を「終戦日」とする謎 2023/8
日本人だけが知らない世界の「終戦記念日」
われわれ日本人の一般常識では、先の戦争の終戦記念日は8月15日と決まっている。特に今年は戦後70周年ということで、安倍総理の談話や中国が対日戦勝利の軍事パレードを予定しており、ことさら「終戦の日」が強調される年となっている。
しかし、ロシア(旧ソ連)でも対日戦勝利は9月、アメリカでも9月となっている。中国が軍事パレードを予定しているのは9月3日。中国はこの日を「日本の侵略に対する中国人民の抗戦勝利日」としている。これを決めたのが2014年2月に開催された全国人民代表者会議でのことで、まさに70周年を目前にして正式に決定されたものである。このように日本と敵対国であった周辺国をざっと見渡しても、終戦の日は実際には日本人の常識とは違っているのだ。
では、日本人が終戦の日と信じる8月15日とは何か。そもそもこの日は「終戦の日」なのか、「敗戦の日」なのか。あくまでも1945年8月15日は天皇が戦争後の日本の在り方を定めたポツダム宣言の受諾を日本国民と大日本帝国軍人に「玉音放送」という形で直接語り掛けた日であり、武器を置き、敵対行為をやめるように命じたもので、戦闘状態をいったん休止する「休戦宣言」をした日だといえる。
実際に、日本がポツダム宣言を受諾したのは8月14日であり、そのことは全世界に公表されていた。それを知らなかったのはごく一部を除く日本人だけだったといえよう。
事実、アメリカでは8月14日に日本が降伏することが報道されていた。その日にトルーマン大統領はポツダム宣言の内容を国民に説明し、日本がそれを受け入れたことを告げ、VJデー(対日戦勝記念日)は9月2日の降伏文書調印を見届けた上で布告するとしていたのである。
日本の降伏調印式は1945年9月2日、東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号で行われ、その状況はラジオの実況中継で全世界に流された。トルーマン大統領は、ラジオの実況中継後、全国民向けのラジオ放送で演説。その中で9月2日を正式にVJデーとし、第二次世界大戦を勝利で終えたことを宣言したのである。したがってアメリカの第二次世界大戦の終了は1945年9月2日ということになる。
当然のことながら、日本においても天皇の命により、全権大使が署名した降伏文書により、国家として公式な正式な終戦は9月2日の降伏調印の日となる。これを受けて、占領が行われ、日本国憲法が制定された後、サンフランシスコ条約で国際社会に復帰する……という流れになる。
ソ連時代と日付が異なるロシアの「終戦記念日」
われわれ日本人は、1952年9月2日、サンフランシスコで行われた講和条約の締結で、日本は正式に独立国家になったと学校で習った。そして世界中の国々との対等な関係が成立したことになっている。ではこの日を期に、各国との戦闘状態が正式に終了したのかというと、事はそんなに単純ではないのだ。
サンフランシスコ講和条約には、主要な敵対国の中で中国とソ連が参加していなかった。そのため日本はそれらの国々とは別個に条約を交わさなければならなかったのだ。
中国(中華人民共和国)とは1972年に国交を回復し、日中共同宣言を通じて正式に戦争状態を終わらせた。しかし、北方領土問題を抱えたソ連とは1956年に日ソ共同宣言を交わし、両国が国会で批准した条約扱いになっているが、いまだに平和条約は結ばれていない。
このような一連の事実からすれば、政治的事情が絡まって交戦国にはそれぞれに終戦記念日があり、この日が全世界共通の決定的な終戦の日とはなかなか言えないのが実情だ。
例えばソ連。この国ではソ連時代とその後のロシアになってからと、終戦記念日が変わっている。ソ連時代では降伏調印翌日の9月3日を対日戦勝記念日としていた。
ソ連は1945年8月9日に対日戦を開始。降伏調印が行われている9月2日に、北方領土の歯舞島攻略作戦を発動している。そして5日に千島列島全島の占領を完了させた。そのため、日本への侵攻作戦実施中の9月2日を戦勝記念日とは言えなかったのである。
かといって、ソ連を含む連合国が調印式に参加している手前、無視することもできず、とりあえず、翌9月3日に戦勝記念式典を開いて体裁を整えたのである。
その後、またまた政治的な理由で終戦記念日が変わる。ソ連では、戦勝記念式典の開かれた9月3日を正式な対日戦勝記念日と定めていたが、ソ連崩壊後の2010年7月、政権を受け継いだロシア連邦共和国議会が、9月2日を「第二次世界大戦が終結した日」と制定する法案を可決したのだ。
これによって、ロシアが正式にソ連の後継政府であり、連合国として戦った国とアピールしたのである。それと同時に、この終戦記念日の制定は日ソ中立条約違反、シベリア抑留、日本の正式降伏調印以降の不法な戦闘行為、および北方領土の不法占拠など、対日戦で行ったあらゆる行為をソ連が行った事であり、ロシアとは関係がないとして帳消しとし、あらためてロシアが北方領の実効支配者として自らを正当化できるという、したたかな政治的計算の上に成り立った終戦記念日制定だといえよう。
2つの「中国」と対戦し降伏した日本軍
中華民国は中国大陸での戦闘の主役であり、連合国の一員としてポツダム宣言にも参加している。大日本帝国陸軍支那派遣軍は1945年9月9日に南京で正式な降伏調印をして国民党軍に降伏した。だが、国民党政府はミズーリ号上の降伏調印日である9月2日を戦闘の区切りとし、翌9月3日から3日間を抗日戦争勝利記念の休暇としたことから、中華民国では9月3日が記念日となったのである。
では、中華人民共和国ではどうか。冒頭に述べたように、2014年まで正式な終戦記念日は存在していなかったことになる。この原因となるのが、天皇の詔勅が発布された1945年8月15日の時点まで、日本軍は中国大陸でいったい誰と戦っていたのかという問題である。
つまり、日本が正式に降伏するとすれば、その相手は南京に政府を置いていた蒋介石総統の下にある国民党政府ということになる。ましてや日本は中華民国も加わったポツダム宣言を受け入れることで敗戦国となったのである。
ところが中国大陸では戦線が複雑になっていた。主に日中戦争を戦う任務の帝国陸軍支那派遣軍の敵は国民党軍である。だが、北部の華北地方では関東軍(満州国駐屯の日本軍)が共産党軍(八路軍)を主たる敵として戦っていたのである。その上に国民党軍と共産党軍は互いに中国の覇権をめぐって内戦中であったのだ。
この複雑な情勢の中で支那派遣軍は国民党政府に降伏したが、問題は関東軍である。1945年、突如ソ連軍がソ満国境を破ってなだれ込んできた。1946年まで有効であった日ソ不可侵条約を一方的に破棄してのことである。関東軍はソ連軍に圧倒されて投降した。当然、関東軍の投降相手はソ連軍である。その後、ソ連軍は関東軍将兵約57万5000人をシベリアなどに強制連行し、過酷な労働に従事させる。
武装解除は支那派遣軍については国民党軍が行い、日本軍もそれに従った。しかし、関東軍に対しての武装解除は投降相手のソ連軍ではなくて中国共産党軍であった。ソ連が共産党軍に関東軍の投降兵士たちを引き渡したからである。
ここで関東軍は共産党軍による武装解除を拒否した。関東軍は共産党軍に敗れたのではなく、ソ連軍に投降したという意識があったからだろう。防衛庁戦史双書『北支の治安戦(2)』(防衛研修所戦史室)によると、関東軍が武装解除命令を拒んだ事で中国共産党軍は関東軍に攻撃を仕掛け、8月15日から11月末までの間に戦死した日本軍将校の数は2900名に上ったという。
このことからすれば、中国大陸で戦っていた日本軍はそれぞれ2つの勢力から武装解除を受け、支那派遣軍の終戦の日は明確だが、関東軍の終戦の日は明確ではない、という奇妙な形となっている。なぜなら、中華人民共和国が成立したのは1948年であり、明確な形で降伏文書が交わせない状態であったからである。
政府への反発を日本に向けさせた戦後処理
中華人民共和国が国家として正式に戦後処理に取り組んだのは、国民党軍との内戦に勝利して、中華人民共和国が設立され、さまざまな初期的問題が一応解決し、権力が安定してきた1956年になってからのことだ。この年に対日戦争裁判が開始されたのである。
中華人民共和国政府が戦犯容疑者として拘束したのは、満州でソ連軍に捕らえられ、後に移送されて来た966名(内34名は死亡)と共産党軍と戦って捕虜となった140名(内6名は死亡)、総数1106名という極めて少ない人数であった。裁判ではこの中から日本人被告を45名に絞り込み、全員に禁固刑の判決を下した。
このような判決を下す判断の基礎には日本の軍国主義に罪があり、日本の人民には罪がないとして処理をしようとする共産党政府の基本方針があった。その根底には当時、毛沢東などの指導者は厳しさを増す冷戦の中で日本を敵に回したくないという意識が働いていたといえる。
つまり、この裁判では悪い日本人と無実な日本人を勝手に線引きして分けたうえ、自国民に対しては悪い日本人を大陸から駆逐したとして共産党政権の正当性を主張し、同時に大多数の無実な日本人には寛大な態度で接したとすることで、日本人の感情的な部分で好感を得ようとしたものであった。
さらには大躍進政策で多数の餓死者を出すなど、冷戦期の政策の誤りを糊塗(こと)するために、悪い日本人の政治指導者を非難することで、内政の矛盾に対して反発する国民の目を日本に向けさせる手段と利用してきたのである。
だが中華人民共和国政府には日本人戦犯を裁く法的根拠は薄かった。対日戦勝利記念日の正式決定が2014年までなされなかった理由もここにあるといえよう。
このように、終戦記念日は各国さまざまな政治的理由と戦後の政治の在り方で違ってきているのだ。われわれには8月15日を昭和史の中で語り継いでいく傾向が強いが、70年経った今、世界史という大きな流れの中で見ていく視点が必要ではないだろうか。  
 
 

 

●なぜ日本では8月15日が「終戦記念日」なのか 世界では?立場で変わる 2020/8
日本では8月15日を「終戦記念日」としています。毎年、終戦記念日が近づくとテレビでは戦争に関する番組や特別ドラマなどが放送され、当日には政府が主催する戦没者を追悼する式典が催されています。
また、広島と長崎に原子爆弾が落とされた8月6日と9日には、原子爆弾投下の時刻に合わせて式典以外でも各個人で黙祷をしたり、SNS上には戦争への反省や平和を願う多くのコメントが投稿されています。
今年で戦後から75年が経ち戦争の歴史を忘れないようにする取り組みとして、NHK広島では当時の男子中学生の日記をもとに「もし75年前にSNSがあったら?」というTwitterアカウントを作成し公開しています。
この取り組みは広く注目を集めましたが、虚実をおりまぜた構成に批判の起こる一幕もありました。
敗戦国の日本では、終戦記念日はお盆の時期に重なることもあって追悼や鎮魂のイメージが強くありますが、戦勝国や他の敗戦国では日本とは違う意味を持っています。各国での終戦の日の違いや終戦記念日への見解をそれぞれ解説します。
日本の8月15日は「終戦記念日」
日本における第二次世界大戦の終戦の日は、1945年8月15日とされています。この日の正午に昭和天皇による「玉音放送」があり、この放送によって第二次世界大戦における日本のポツダム宣言受諾と休戦が国民に伝えられました。以来毎年8月15日を日本政府は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とし、政府主催で全国戦没者追悼式を行ってきました。
しかし、世界的には9月2日を終戦の日として認識している国がほとんどで、8月15日を終戦の日としているのは世界で日本だけとなっています。
世界では9月2日を終戦記念日として認識している
第二次世界大戦で日本と敵対した連合国(アメリカ・イギリス・フランス・カナダ・ロシア)では、日本がアメリカ戦艦ミズーリ号上で降伏文書へ調印した9月2日を終戦記念日としています。日本でも国家として公式に「終戦」となったのは降伏調印をした9月2日です。
なぜ連合国側と日本とでは終戦の日の認識が違うのかというと、日本がポツダム宣言を受託した8月14日には、すでにアメリカでは日本が降伏する事実が報道されており、当時のトルーマン大統領は日本が降伏文書へ調印したのを見届けてから「VJ Day(Victory over Japan Day:対日戦勝記念日)」の布告をすると宣言していたためです。
戦勝国と敗戦国:ヨーロッパでは5月8日、イタリアは4月25日が「解放記念日」
ヨーロッパの戦勝国では、ドイツが降伏文書に調印して無条件降伏した1945年5月8日を「VE Day(Victory in Europe Day:ヨーロッパ戦勝記念日)」としています。第二次世界大戦のヨーロッパ戦線の終戦記念日として、国旗を掲げたり記念式典が行われたりなどして祝われています。
また、日本と同盟を組んで戦い、同様に敗戦国となったイタリアとドイツでは、終戦の日付やその意味も日本とは違います。
イタリアではムッソリーニが率いたファシスト勢力をミラノなどから追い出した4月25日を「解放記念日」として毎年お祝いしています。
一方、ドイツでは連合国に無条件降伏した5月8日を「Stunde Null(零時)」とし、ナチス支配から解放された日としてイタリアと同様に祝われています。
しかし、国として「終戦記念日」と定められているわけではなく、戦没者への追悼式典は11月末の「国民哀悼の日」に行われています。イタリアとドイツでは「敗戦の日」よりも「解放の日」という認識が強く、同じ敗戦国でも日本とは違う捉え方をされています。
中国では?1949年中華人民共和国政府成立で戦争が終了
第二次世界大戦当時、現在の中華人民共和国はまだ存在せず、当時ポツダム宣言にも参加していた国民党政府が率いる「中華民国」に対して、日本の支那派遣軍は1945年9月9日に南京で降伏文書へ調印し降伏しました。
国民党政府は9月2日のミズーリ号で行われた降伏調印を戦闘の区切りとして、翌日から3日間を抗日戦争勝利記念の休暇としたことから、中華民国では9月3日が「対日戦勝記念日」とされました。
一方、中華人民共和国では2014年に、9月3日を「対日戦勝利記念日」と制定するまで、正式に決められた終戦記念日は存在していませんでした。これは、第二次世界大戦当時の中華民国は、国民党と共産党が覇権を巡っての内戦状態であったことが関係しています。
国民党軍が支那派遣軍と戦闘していた一方で、中国の北部では共産党軍が日本の関東軍と戦闘を行なっていました。
しかし、ソ連軍の介入によって戦線が複雑化し、一度ソ連軍に降伏した関東軍は引き渡された共産党軍による武装解除を拒否したため、共産党軍は関東軍を攻撃し1945年8月以降も戦闘が続きました。
終戦の日が明確ではなかったばかりか、共産党が率いる中華人民共和国の成立が1949年なため共産党軍との正式な降伏文書が交わせず、1972年の日中共同宣言を持って正式に戦争状態が終わりました。
日本が進軍していた地域での記念日
日本が戦争中に侵攻していた3つの国での記念日を紹介します。
   韓国
韓国では8月15日を「光復節」という祝日に制定しています。
光復節という名称には「奪われた主権を取り戻す」「光を取り戻した」という意味が込められ、1911年から36年間続いた日本の統治からの独立を祝う記念日として、記念式典などが行われています。
   台湾
韓国と同じく日本の統治下にあった台湾では、8月15日はとても複雑で捉え方が難しい日となっているようです。
台湾は第二次世界大戦時日本に属していたため「敗戦国」としてその日を迎えましたが、10月25日に当時の中華民国に編入されたため中華民国からは「勝戦国」側とされ、1949年から1987年までは戒厳令によって終戦時期の出来事について語ることは許されませんでした。
そのため、「終戦の日」は台湾では一般的ではなく、9月3日の「軍人節(軍隊記念日)」と10月25日の「光復節(台湾が中国に編入されたことを記念する日)」が戦争に関する日付として浸透しています。
   フィリピン
日本が進軍していたフィリピンでは、日本陸軍の山下軍司令官がバギオ市内で降伏文書に正式に調印した9月3日が終戦の日とされていますが、ルソン島北部の自治体キアンガンでは降伏を表明した9月2日を「勝利と解放の日」として、10年に一度大規模な式典が催されています。
戦後70年の2015年9月2日には「山下降伏70年記念式典」が開催され、元兵士やその家族、学生や市民団体など約1万人が参加し国歌斉唱や国旗の掲揚、献花などが行われました。
海外市場へは異文化の「常識」を踏まえたアプローチを
日本においては「終戦記念日」といえば8月15日だという認識がありますが、戦勝国や敗戦国、また占領下にあった国などそれぞれの立場では、戦争が終わった日や終戦の意味も違っています。
国際社会において、さまざまな価値観や文化・習慣を持つ人たちと接する場合には、自分たちの常識だけで考えるのではなく、相手の常識も理解することが必須となります。
特に、戦時中に日本の占領や進軍によってネガティブなイメージを現在にも持ち続けている国・地域の場合には、戦争と関連する日付に注意が必要です。現地でセールを開催する、あるいは新商品をリリースするという場合には、こうした日付を避けるようにするべきでしょう。
反日感情を高めてしまうことのないよう、インバウンド・観光客・ビジネスかかわらず、ターゲットとする国・地域の目線に立ち、理解を深めることが重要となります。  
 
 

 

●敗戦記念日と終戦記念日 2020/8
8月15日…この日は、「終戦記念日」として毎年政府主催の「全国戦没者追悼式」が行われている。
国民も「8月15日=終戦記念日」と、思っている人がほとんどだろう。
しかし、ほんとうに8月15日は "戦争が終わった日" なのだろうか?
実際には、8月15日以降もロシアとの間で戦争は続いていたし、ロシアが北方4島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)を制圧したのも8月15日以降である。
ちなみに、各国の対日戦勝記念日は下記の通りである。
   アメリカ 9月2日
   ロシア 9月3日
   中国(中華民国と中華人民共和国) 9月3日
   例外は、イギリスで8月15日を "日本に勝った日" としている。
1945年9月2日には、戦艦ミズーリ号上で行われたポツダム宣言の降伏調印式があった。
各国の対日戦勝記念日は、その日にしている。
8月14日に日本がポツダム宣言を受諾しても、各国は正式に調印するまで日本を信用していなかっただろうし、天皇がラジオで国民に話した日を記念日にするのはおかしい。
本来は、9月2日が「敗戦の日」であるし、5月3日は憲法記念日であると共に「不戦を誓った日」として、子供達にその意味を教えていくべきだと思う。
そして、その両日は「国民の祝日に関する法律」という馬鹿げた法律で他の日に振り替えてはいけない。歴史を大切にしない国は、同じ間違いを繰り返すのである。  
 
 

 

●安倍首相も勘違い?「日本が太平洋戦争に負けたのは8月15日ではない」 2020/8
8月15日、今年も巡ってくる終戦記念日。私たちはその「日付や名称」について疑問を持つことはあまりありませんが、どうやら日本と世界各国との間には大きなズレがあるようです。メルマガ『きっこのメルマガ』を発行する人気ブロガーのきっこさんは今回、8月15日を「戦争が終わった日」とするのに無理がある理由と、そもそも「終戦記念日」という呼び方自体が日本独特であるという事実を記しています。
本当の終戦記念日はいつ?
毎年、今の時期になると、必ずどこかの新聞で次の俳句が紹介されます。
   八月や六日九日十五日 詠み人多数
日本人にとって8月は、広島の原爆の日、長崎の原爆の日、終戦記念日が続くため、テレビやラジオや新聞などは原爆や戦争についての特集をしますし、どうしても戦争について考えさせられる時期になります。そこで、この日付を並べただけの句が取り上げられるのです。
原爆の日を詠んだ句や終戦記念日を詠んだ句は数えきれないほどありますが、この日付を並べただけの句のほうが、二度の原爆投下から終戦に至った経緯が見えて来るだけでなく、「多くを言わずに思いを伝える」という俳句の特性が生かされているのです。
しかし、俳句はわずか17音しかない世界最短詩形である上に、季語を必要とするため、作者が自由に使える音数は10音前後しかありません。そのため、どこかの誰かが詠んだ句と類似した句が生まれてしまう確率が極めて高いのです。さらに言えば、一字一句同じ作品も生まれてしまいます。
この句は、最初は作者の名前が明記された形で発表されました。しかし、すぐに別の人が「私のほうが先に同じ句を詠んでいる」とクレームを付けました。すると、また別の人が「私が先だ」と主張しました。こうして、何人もの人が「私が詠んだ句だ」と言い出したのです。
他にも「八月は六日九日十五日」や「八月の六日九日十五日」など、一字だけ違った類似句を「自分のほうが先に発表している」と主張する人たちも現われました。ようするに、この句は、日本人であれば誰もが思いつく月並みな発想であり、「ようかここのか/じゅうごにち」という音数も俳句の定型にピタリと収まるため、同じ句を詠んだ俳人が全国にたくさんいた…という話なのです。そこで、あたしは和歌の「詠み人しらず」になぞらえて「詠み人多数」と記載しました。
…そんなわけで、今週の土曜日、8月15日は「終戦記念日」です。人によっては「終戦」という表現が納得できずに「敗戦の日」や「敗戦日」と言う人もいますが、いずれにしても日本では8月15日を「戦争が終わった日」と定めています。でも、8月15日を「戦争が終わった日」と定めているのは、この戦争に参加した国々の中で、日本だけなのです。戦争は相手がいないとできないものであり、その「終わり」は双方が同時のはず。それなのに、どうして日本だけが8月15日なのか、基本の基本を時系列でおさらいしてみましょう。
1945年7月26日、米英中の3カ国(後にソ連も参加)がポツダム宣言を発し、日本に対して無条件降伏を要求しました。
8月6日、広島に原爆が投下されました。
8月8日、ソ連が日本に宣戦布告しました。
8月9日、長崎に原爆が投下されました。
8月14日、日本政府はポツダム宣言の受諾を決め、連合国各国に通達しました。
8月15日、昭和天皇の玉音放送によって、日本の降伏が国民に公表されました。
9月2日、日本政府がポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書に調印しました。
ポツダム宣言を読んだことがない上に、中学生レベルの近代史の知識もない安倍晋三首相は、かつて「ポツダム宣言というのは、米国が原子爆弾を2発も落として日本に大変な惨状を与えた後、『どうだ』とばかりに叩きつけたものだ」と発言しています。これは雑誌『Voice』の2005年7月号に掲載された対談の中での発言ですが、この時系列を見れば、安倍首相がどれほど無知なのかが良く分かると思います。
ま、それはそれとして、この時系列を見れば分かるように、あたしたち日本人が「終戦日」だと思っている8月15日は、ただ単に「日本は降伏することにしましたよ〜」と国民に発表した日であって、まだ調印は完了していなかったのです。こうした国家間の取り決めは、文書に調印した時点で初めて効力を持ちますから、9月2日を「戦争が終わった日」に定めているアメリカ、イギリス、フランス、カナダ、ロシアのほうが正しいのです。
第一、日本に対して8月8日に宣戦布告したソ連は、8月15日を過ぎても北方領土を侵略し続けていました。現実問題として、8月15日に戦争は終わっていなかったのです。さらに言えば、ソ連は、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリの中で日米による降伏文書への調印が行なわれていた9月2日に、北方領土の歯舞島への侵攻を開始したのです。そして、9月5日までに千島列島全島の占領を完了させました。
そのため、他の国は調印が行なわれた9月2日を「戦争が終わった日」に定めましたが、ソ連は当初、1日ずらして9月3日に定めていたのです。自国が「戦争が終わった日」と定めた日に日本の領土を侵略していたら、ツジツマが合わないからです。実際は9月5日まで侵攻していましたが、侵攻を開始した日さえツジツマを合わせられれば「9月2日の1日で占領を完了させた」と嘘をつくことができます。そのため、ソ連的には9月3日にすればOKなのです。結論ありきのデータ改竄、まるで安倍首相ですね。
そして、ソ連崩壊後の2010年7月、政権を受け継いだロシアの議会は、アメリカやイギリスと歩調を合わせて、9月2日を「第二次世界大戦が終結した日」と制定する法案を可決しました。これで、旧ソ連は単独で日本に宣戦布告したのではなく、アメリカやイギリスなどと一緒に連合国の一員として戦争をしたのだという既成事実づくりが完成したわけです。
旧ソ連が北方領土に侵攻した9月2日を「戦争が終わった日」に定めれば、ロシアは日本が降伏文書に調印した9月2日以降の不法な戦闘や侵略などをすべて「旧ソ連の責任」にできるのです。つまり、北方領土については「ソ連から政権を受け継いだロシアの領土だ」と主張しつつ、調印後の不法な戦闘や侵略については「旧ソ連の責任であってロシアは関係ない」というダブルスタンダードが合法化できるのです。これまた安倍首相のような姑息さですね。
…そんなわけで、2012年12月、政権に返り咲いた安倍首相が露骨な反中と嫌韓の姿勢を示し始めると、中国はさっそく対抗し始めました。まずは2014年、日本が調印した9月2日の翌日の9月3日を「日本の侵略に対する中国人民の抗戦勝利の日」に定め、大々的な軍事パレードなど戦勝記念の行事を行なったのです。でも、こうしたアピールは中国だけではありません。
あたしはずっと「戦争が終わった日」というオブラートに包んだ表現を使って来ましたが、アメリカ、イギリス、フランス、カナダ、ロシアは9月2日を「戦争が終わった日」、つまり「終戦日」とは呼んでいません。これらの国々は9月2日を「Victory over Japan Day」、略して「V-J Day」と呼んでいました。直訳すると「対日戦勝日」、ザックリ言えば「戦争で日本に勝った日」です。
ちなみに、アメリカを始めとした戦勝国にとって、第二次世界大戦の戦勝日は「V-J Day」の他にもう1つあります。ナチス・ドイツが降伏した1945年5月8日の「Victory in Europe Day」、略して「V-E Day」、「ヨーロッパで戦争に勝った日」です。
相手の国々が「対日戦勝日」と言っているのに、日本側が「終戦記念日」だなんて、これほどおかしな話はありません。日本は無条件降伏を要求したポツダム宣言を受諾したのですから、8月15日か9月2日かはともかくとして、やはり「敗戦日」と言わなければおかしいのです。でも、ドイツでも5月8日の「V-E Day」を「Ende des Zweiten Weltkrieges(第二次大戦の終戦の日)」と呼んでいるのです。
…そんなわけで、「終戦」か「敗戦」かについては、人それぞれの感性や思想があると思いますので、ここでは深掘りせず、「季節の言葉」のコーナーで、著名俳人たちの「終戦日の俳句」から読み解いて行きたいと思います。だたし、日付に関しては、やはり8月15日ではなく9月2日を「戦争が終わった日」とすべきだと思います。
しかし、あたしたち日本人にとって、8月15日は特別な日として、すでに記憶にも身体にも染みついています。今さら「今年から9月2日を終戦記念日にしま〜す」などと発表されても「はいそうですか」とは行きません。理屈では「降伏文書に調印した日が終戦日」と分かっていても、おいそれとは意識を変えられません。そこで、あたしは、冒頭で紹介した「詠み人多数」の俳句に下の句をつけて、誰もが納得できる和歌を作りました。
   八月や六日九日十五日 九月二日に降伏調印 きっこ  
 
 

 



2023/8