愛煙党 2400万票の使い方

大人の4人に一人がタバコを吸っています 
 
「 たばこ税の減税 
喫煙できる路上灰皿の設置拡大 
喫煙環境を整えて マナー違反者の罰則強化」 
と でも約束いただけた方へ投票しますか
 


喫煙雑話猪瀬直樹山本夏彦すぎやまこういち北方謙三小谷野敦島地勝彦倉本聰徳岡孝夫柳家喬太郎山折哲雄諏訪澄堤堯大朏博善花岡信昭高橋洋子渡辺慎介さかもと未明伊集院静白川道上坂冬子井尻千男阿刀田高養老孟司1秦郁彦名取春彦金美齢養老孟司2明治天皇と大正天皇西部邁ジェームス三木岩見隆夫森永卓郎吉田茂黒鉄ヒロシ奥村康筒井康隆ウィンストンチャーチル受動喫煙に関する平山論文批判
 

 

 
取りやすいところから税金をとるなら 
喫煙者へのサービスもお忘れなく 
ただただ悪者扱いの規制だけの法律 「禁酒法」と同じです
 
 
 
日本人の道徳観を信じます ( 道徳教育はしばらくお休みでした ) 
規制だけで街はきれいになります ( 看板業者・道路路面標示業者が潤いました ) 
taspoカードで未成年者の喫煙防止 ( 自販機業者が潤いました ) 
価格が高くなれば皆タバコを止めます 
葉タバコ栽培農家の転作奨励 
最後はJTの倒産 税金で救済予定
 
JTは経営難に立ち向かっています [ 2013年 ] 
売上2兆1200億円( タバコ事業80% )( 国内:国外=4:6 ) 来年も 11.7%up 目指しています  
 営業利益5300億 当期利益3400億 
 職員の平均年収 861万円 (43.4 歳) 
独占企業 気が付けば超優良団体でした 
国内販売が「0」になっても存続は可能のようです
 
 
 
 
 
気軽に喫煙できる環境を整える 
灰皿生産のバブル 
灰皿清掃隊 高齢者アルバイト雇用の創出 
ポイ捨て取締り隊 若者の雇用が生まれる 
JT 葉タバコ農家 左団扇
 
 
 
 
 
 
  
  
  
 
最低限の喫煙環境を整えてもマナーの悪い人がいたら 
それこそ違反者の罰則強化を図ってください 
JT タバコ増税を隠れ蓑 ちゃんと儲けていました
 
 
 
 
 
 
 
 
私の知る限り 山手線の内側で比較的きれいなところは大塚駅南口商店街界隈 
( もちろん路上に吸い殻は見かけますが 他から見れば少ない方でしょう ) 
路上に灰皿がいっぱい置かれています 
毎日のこと 地下鉄新大塚からJR大塚駅の間 どこに灰皿があるか覚えてしまいました 
時間がないとき マナー違反ですが歩きながら吸います 灰皿でちゃんと始末します

 
2013/6  
 
  
喫煙雑話

 

 
猪瀬直樹  
公共の場所での喫煙を全面禁止にするという神奈川県の禁煙条例の例に限らず、喫煙者にとっては、まことに肩身が狭い時代になった。そんな“禁煙ファシズム”とも言える現状を、東京都副知事で愛煙家の猪瀬直樹氏(61)が喝破する。  
まず事実として言いたいのは、昨年度(07年)の国のたばこ税が約2兆2000億円。そのうち地方のたばこ税が約1兆1000億円もある。僕は政府税制調査会委員でもあるけど、ばかにならない税収ですよ。たばこの問題を語る時、税収の側面から考えてみることは大切だと思う。意外と喫煙者自身も納税意識が薄いけど、それだけの税金を支払っているんだからさ。もっと、タックスペイヤーとしての認識を持っていいんじゃないかな。  
分煙についても以前とは比べ物にならないほど、喫煙者の意識も変わってきている。新幹線では喫煙スペースが徹底され、分煙化は進んだ。今は飲み屋さんなんかでも、分煙に配慮しているケースが増えているでしょ。つまり、分煙で受動喫煙に関する問題は、かなりのところクリアできていると思うんだよね。喫煙者の健康については、まあ、これは個人のアレだからね。  
それと、受動喫煙ばかりがとやかく言われるけど、こんな現実もある。首都高速が走る墨田区、荒川区あたりの家庭では、これまで外にシーツなどの洗濯物を干しておくと真っ黒になっていた。それが、デイーゼル車規制、例の(石原慎太郎)知事が会見で真っ黒なススが入ったペットボトルを振り回してたやつね。その条例で洗濯物被害がなくなったっていうんだよね。また、ゼンソク問題もだいぶ解消されている。  
それだけ、排気ガスの問題は深刻だったわけでしょ。そんなトラック一台と一箱吸うタバコの煙、どっちが有害なのか考えればすぐにわかるはず。  
マナーの問題についてひとこと言うと、これはかなりよくなっているよ。僕もね、当然、携行灰皿を持ち歩いてるし、そういった意味じゃ「ポイ捨て」を批判した意味はあったと思う。今、ほとんど、町なかでポイ捨てする人はいないでしょ?それだけの効果があったら、それで十分なんじゃないかな。それを、それ以上にヒステリックに言うと、禁煙ファシズムになっちゃう。特にマナーについては、精神的自制であって、本来法律で縛るもんじゃない。  
また、近いとこではこんな出来事もあった。知り合いの歯医者さんに久しぶりに会ったら、顔が真ん丸でメタボになっている。聞いたら禁煙ストレスで食べちゃうみたいで、ああ、やめたらああなっちゃうんだなと(笑)。喫煙、メタボ、五十歩百歩、よしあしかもしれないけど、健康における費用対効果は考えどころだと思うよ。ストレスのない人間なんていないんだからね。 
 
山本夏彦  

 

タバコの害についてこのごろ威丈高に言うものがふえたのは不愉快である。いまタバコの害を言うものは、以前言わなかったものである。いま言う害は全部以前からあったものである。それなら少しはそのころ言うがいい。  
当時何にも言わないで、いま声高に言うのは便乗である。人は便乗して言うときは声を大にする。ことに正義は自分にあって相手にないと思うと威丈高になる。これはタバコの害の如きでさえ一人では言えないものが、いかに多いかを物語るものである。  
私は戦争中の隣組を思いださないわけにはいかない。隣組の正義は耐えがたいものだった。電車で靖国神社の前を通ったら車内からお辞儀しよう、英霊に黙祷をささげようと言えば正義は隣組にあるから抵抗できない。けれどもこの連中はのちに首相が靖国神社に参拝するなんてもってのほかだと言った。風向き次第でこんどは何を言いだすか分らない。  
タバコの害はよく承知している。それでもすいたければすうがいい、自分はすわないが─というのがこれまですわぬ人の態度だった。私は日に80本すったが15年前ふとしたきっかけがあってやめた。やめたというより縁が切れた。あれは縁が切れないかぎりやめられないからやめよと人にはすすめない。  
こんなことを言うのは勢いの赴くところ、「禁煙法」が提案されやしまいかと思われるからである。アメリカではむかし「禁酒法」が提案されたことがある。諸悪のもとは酒にある。酒さえ禁じれば世の中はよくなると、今ではとても信じられないことがまじめなアメリカ人には信じられ、その案は通過して1920年から33年までの14年間実施されたのである。  
そして酒の密輸密造によってアル・カポネ以下のギャングたちが生れ、生れたからは今もその子孫がいるのである。  
ヨーロッパ人や日本人はアメリカ人を笑ったが、まじめ人間というものは恐ろしいもので何をしでかすか分らない。こんどはまじめな日本人が禁煙法を提案して通過させる番かもしれない。  
 
すぎやまこういち 

 

総選挙中はあれだけ「無駄を省けば財源はいくらでもある」と言ってきた民主党が、十月(二〇〇九年)に入って突如「たばこ税増税」を持ち出しました。税制調査会に対して行われた諮問で、次のようなことが言われたそうです。  
〈間接諸税について、環境や健康等への影響を考慮した課税の考え方を踏まえ、エネルギー課税等については温暖化ガスの削減目標達成に資する観点から、環境負荷に応じた課税へ、酒税・たばこ税は健康に対する負荷を踏まえた課税ヘ、そのために必要な事項について検討すること〉  
この言い分には引っ掛かります。要は、「健康に良くないから増税する」というのです。本音は「税収増のため」なのに、「健康問題」という美辞麗句に本音を隠して増税しようとする姑息なやり方です。  
以降、政府、民主党関係者からは「健康のためのたばこ税増税」を容認するような発言が続きました。  
「健康のために欧米並みにしてもいい」(菅副総理・十月二十日)  
「健康面を考えないといけない。ニコチン含有量が多いのは(税率を)重くして、少ないのは軽くするという改革はありえる」(藤井財務相・十月二十七日)  
「(タバコ税は)環境や体の面から見て、増税ありうるべきかなと思う」(鳩山首相・十月三十日)  
たばこには確かに健康に良くない部分がありますが、あくまで合法的な嗜好品。基本的には自己責任の問題で、政府が介入すべき問題ではないと思います。  
そう言うと、「禁煙ファシズム」的な今の世の中では、必ず「受動喫煙で周りにいる人に健康被害が出る」と言い返してくる人がいる。しかし「受動喫煙が健康に悪い」という主張には納得できません。最初から結論ありきの実験ばかりが目立つのです。  
一例を挙げると、ある本には、「マウスを小さな箱に閉じ込めて、たばこの煙で充満させると肺がんが発生する」という実験結果が載っていました。確かに二十七日目に肺がんの細胞ができたという結果は出ていましたが、この実験は恣意的です。  
なぜなら、煙の濃度は距離の三乗に比例して薄まっていきます。距離が離れれば離れるほど、煙に含まれる物質の濃度も極端に低下していくのです。  
ですから、この実験のマウスのように、満足に身動きも取れないような狭い密閉された部屋に閉じ込められて、連日連夜濃度の濃い煙を浴びせられるのと、風に乗って煙のにおいがする程度では話が全く違います。  
また、逆に言えば「狭いところに閉じ込めて、濃度の濃い、煙いっぱいの部屋に二十七日間も閉じ込められなければガンはできなかった」という結論にもなるわけです。  
ですから、この実験結果に「受動喫煙被害はある」と言えるだけの科学的根拠はないと言えます。これは問題となったTV番組「発掘!あるある大辞典U」の、結論ありきの実験とまるで同じといっていいでしょう。  
喫煙者だけ重税は不公平  
しかも、「肺がんと喫煙率は関係ない」ことを示すデータもあります。  
たとえば、戦前と現在を比べると、戦前の喫煙率は八〇%以上で、現在の喫煙率は四〇%を割っています。しかし肺がん発生率は、戦前は極めて少なく十万人もいなかった。ところが現在は五十万人近くの人々が肺がんで亡くなっています。  
また、都道府県別の喫煙率と肺がん死亡率も年によってバラバラで、そこにむりやり因果関係を見出すのは科学的とはいえません。  
肺がんの増加と正比例しているのは喫煙率ではなく自動車の所有台数ですから、肺がんのリスクは排気ガスや、それによる大気汚染と「相関関係がある」と言える。  
データだけ見ても「健康のためのたばこ税増税」は根拠がなく、甚だ問題です。増税なら増税だと納税者である喫煙者にはっきりお願いすべきですし、喫煙者だけが重い税を負わされるのは不公平です。  
現状でも、たとえば「マイルドセブン」の場合、小売価格三百円で、このうちたばこ税は五八・三%の百七十五円。消費税が四・八%の十四円。税額・税負担率は銘柄、小売価格によって異なりますが、すでに価格の半分が税金です。その上さらに「健康に悪い」という一点でペナルティ的な増税を行うことが、果たして許されるのでしょうか。  
増税を課すことで、漸減してきている喫煙者数はさらに減っていくでしょう。結局、税収はそれほど伸びない。事実、過去十年間のうちにたばこ税は三回(九八年、〇三年、〇六年)増税されていますが、税収はほぼ横ばい。増税すれば喫煙者が減り、むしろ税収も減るかもしれません。この不況ならなおさら考えられる事態です。  
この点については十一月五日、峰崎直樹副財務相が「(重税で消費が減って)兆円単位の税収がなくなれば財源はどうするのか。たばこ事業法との関係や大衆増税の批判もある」との発言を行っています。  
ところが、三日後には「一本一円程度上げていく今までのようなやり方ではダメだ。健康によくないという観点から、この問題を正面からとらえていこうと思う」と発言。  
三日の間に何があったのかはわかりませんが、とにかく税収うんぬんよりも「たばこ有害論」、「健康促進」を錦の御旗に増税を行うというのが民主党のスタンスのようです。  
しかし私が深刻な問題だと思うのは、「『健康増進』というスローガンの下、増税によって喫煙≠ニいう行動を国家が制限する」ことは、つまり「国家が国民の自由な行動の制限を行う」ことにつながるということです。  
ナチスも「反たばこ政策」  
非喫煙者にとっては他人事のように思えるでしょうが、これは「国家が国民の自由の制限に慣れさせる」効果があるのではないでしょうか。  
それを象徴するのが、ヒトラーが行った「反たばこ政策」です。「受動喫煙」という言葉を生み出したのもナチスだったといわれており、ヒトラーはバスや市街電車内での禁煙条例、国防軍へのたばこ配給制限、公共の場、レストランや喫茶店での喫煙制限を進め、たばこの広告にも制限を課し、たばこ税を小売価格の八〇〜九〇%に引き上げる条例を出しました。  
日本でも現在の三百円から六百円、はてはいきなり三倍の千円まで上げるべき、という主張をしている方もいますが、「反たばこ」を楯にした大増税はナチスの政策をなぞることになります。今の日本は、まさにナチス時代を髣髴させる「禁煙ファシズム」そのものです。  
「人に迷惑をかけ、殺人ガスをまくような喫煙者は隔離されて当然」  
「世界の禁煙の流れに逆行する反社会的、反道徳的な喫煙者には、高い税金を払わせて当然」  
このような全体主義的思想が多くの人の口から躊躇なく発せられています。さらにその風潮に乗って、マスコミも言論統制をして喫煙者の言い分を取り上げなくなり、喫煙者自身も遠慮がちになってきている。民主党も、「消費税を上げるとは言えないが、喫煙者から税金を取るなら、世論の多くは反発しないだろう」と考えているのです。  
至福の一服を奪うな  
しかし、そんなに喫煙者だけが悪いのでしょうか。たばこにしろ、お酒にしろ、健康は自己責任で、あとは他人に迷惑をかけないように楽しめばいいのです。  
しかし、現在のような異様な「禁煙ファシズム」が激しくなるにつれ、「喫煙=肺がん」のイメージは固定し、異論は受け入れられなくなっていきます。  
「肺ガンはたばこのせいにしておけばいい」「日本人はデータの裏を読んだりしないから簡単に騙せる」などの思惑で真実が隠蔽されても、見破ることはできないでしょう。  
私は作曲家ですが、昔はクリエーターの世界では特に喫煙率が非常に高かった。考えを煮詰めて、たばこを吸ってリラックスする時に、いいアイディアがひらめくのです。  
作家でも、夏目漱石、内田百、太宰治、坂口安吾などをはじめ、愛煙家が多い。  
私はお酒を飲みませんから、お酒の楽しみは分かりません。しかし、お酒を飲んでリラックスしたりストレス解消をするのと同じように、私はたばこの至福の一服≠楽しんでいるのです。国民の小さな楽しみを奪い、まるでヒトラーのような「禁煙ファシズム」を笠に着るたばこ税増税に、私は大反対です。 
 
北方謙三  

 

「煙」──消えて行くものの価値を大切にする  
――先生は葉巻の愛好家として知られていますが、現在はどのような愛煙ライフを送っておられるのでしょうか。  
北方 以前はキャメルフィルターという、けっこう強めの紙巻タバコも吸っていましたけど、二十年くらい前からは葉巻ばかり吸うようになりましたね。葉巻は一日に二本ですね。よく吸うのはベガスロバイナとかです。なかなか良いものでして、やっぱりキューバでも最良なのは、ベガスロバイナとラモンアロネスの二つじゃないかと思いますね。  
ダビドフも昔はよく吸っていました。キューバン・ダビドフと言われる、これはキューバのいちばんいい畑ですよ。まあ、とにかく葉巻は、時と場所に合わせて、いろんなものを吸う感じです。  
それ以外に、仕事中はミニシガーを吸い続けています。今はもっぱらジノというミニシガーなんですが、細くて軽いんで、持っていても負担にならないんですよね。ジノというのは、ダビドフの甥っ子の名前です。  
葉巻はもう相当な数を集めています。湿ったタオルに包んで置いておいて、自宅ではヒュミドールという葉巻を保管する専用の箱に入れているんですよ。ヒュミドールに入りきらないんで、残りはワインセラー。ワインセラーいっぱいに入れてね。年月を書いた紙を入れてラップして、ジップロックに入れて寝かせておく。密閉して空気に触れないようにしておくと、熟成して香りがよくなってくるんですよ。ワインセラーは湿度が七〇%ぐらいで、温度が十四度ぐらいじゃないですかね。ヒュミドールとほぼ同じ状態で、保温保湿性に優れています。その状態だと、シロカビがでないんですよ。シロカビが出たら、もうその瞬間に熟成が止まりますから、ワインセラーは非常にいいんです。  
熟成すると、何とも言えず煙がトロンとしてきてね。そういうことを知らないヤツは、僕に言わせれば、女を知らない男みたいなものですよ。  
──葉巻をワインセラーで熟成ですか。  
北方 吉田茂がGHQに逮捕されていくときに、「押入れの中に気をつけろ」と言ったんですよ。それを、日本語がわかる米兵が耳にして、「押入れの中に何かあるぞ」とばかりに戻って押入れを開けた。押入れの中には葉巻がいっぱい並んでいたそうです。  
つまり吉田茂は、同居している女性に「押入れの中の湿度に気をつけろよ」と言いたかったわけですよ。「それだけはちゃんと手入れしておけ」とね。(笑)  
──面白い話ですね。  
北方 男というのはね、女が価値を認めないようなものを大事にするものなんですよ。煙になって消えて行くようなものの価値なんて、女にはわかりませんよ。男なんて人生そのものが煙みたいなものだから、自分と重ね合わせて、そういう消えて行くものの価値を大切にする。ほとんどの女は絶対、煙になって消えようなんて思ってないですからね。  
──先生は禁煙をされようと思われたりすることはありますか?  
北方 もちろん禁煙するつもりなんて一切ありませんよ。十代でタバコを吸い始めて以来、今日まで、禁煙したことなんて一度もない。  
初めてタバコを吸ったときは、思い切り吸い込んでしまって、ものすごく気持ち悪くなったのを覚えていますけどね。頭がグラグラして、こんなものを大人は吸っているんだと思った。盗み酒を初めてしたのと大体同じ時期なんですけどね。酒も初めてだと、どれぐらい飲んでいいのかよくわからなくて、コップにウィスキーをどどどっと注いで一気に飲んじゃったりして、頭がグラグラくる。それと似たようなものでね。  
それ以来、禁煙したことはないんですが、人生で最大二十三日間吸えなかったということはあります。学生運動で留置場に入れられたときです。出てきたときに、まずはタバコ屋に行ってハイライトを買うんです。最初に火をつけるときはしゃがみ込んで、壁に寄りかかって吸うんですよ。ひっくり返ってもいいようにね。そしてマッチを擦る。  
しばらく吸わずにいて、いきなり吸ったときに、スーッと吸い込んだときのクラーッとくる感覚。忘れられないんですよね、脳に来る衝撃というのが。やっぱりグワーッと脳が回る感じがする。留置場を出た直後に町を歩いていると、なぜかゆっくりとしか歩けないんですよ。スタスタ歩いているつもりでも、ゆっくりで、周りの動きがやたら早く感じるわけ。車なんかもう、ビュンビュン走っているように見える。閉じ込められていたおかげで、感覚が娑婆のペースについていけないんでしょうね。それが、タバコを吸うと直るんですよ。感覚が元に戻る。あれがいいんだな。  
悪しき嫌煙ブームの元凶は、健康病に罹ったアメリカだ  
――ですが昨今はタバコによる健康被害が盛んに言われています。  
北方 タバコが身体に悪いなんて、僕は信じてないですからね。むしろ良いんじゃないかとすら思っている。タバコが吸えないときのストレスのほうが良くないでしょう。病気というのは「気」ですから。だから構わずに吸い続けていますよ。おかげで、歯医者さんで歯をクリーニングしてもらったときに「すごいですね、まるで煙突ですね」なんて言われました(笑)。それくらい吸い続けている。でも歯医者さん、それ以上のことは何も言わないですよ。しっかり歯は揃っていますから。「全部、自分の歯ですね」って。健康なものですよ。  
僕だけでなく、小説家というのは吸う人のほうが圧倒的に多いですよね。ある年齢以上の人は皆さん吸いますよ。チェーンスモーカーなんていくらでもいます。女流作家だって例外じゃない。推理作家協会の理事会などに出席しても、ほぼ全員が吸っていて、吸わない人間が小さくなっている状態です。  
以前、まだ徳間康快さんがご存命中に、新しい文学賞について相談したいというので徳間書店を訪れたときのことです。徳間書店はすでに全館禁煙で灰皿がなかったんですが、構わずにタバコを出して手にしていると、康快さんが秘書室に「何やってんだ!」と怒鳴った。「先生方は皆お吸いになるんだ。灰皿持って来い!」ってね。言ったはいいけど灰皿がないから、あわててどこからか高そうな皿を持ってきて。(笑)  
でも、出版社もある程度は世間の風潮に迎合する部分は必ずあるから、最近は禁煙のところが多いですね。集英社だって新潮社だって吸っちゃいけないんです。でも、用事があって、向こうから頼まれて行ったときは、一応ちゃんと灰皿が用意してあるんですよ。で、「もう吸っていいのかい?」と聞いて堂々と吸う。「吸っちゃいけないって言ったら帰るぞ」という殺気をちらつかせてね。(笑)  
それでいてほとんどの小説家は、肺がんでは死んでいません。がんになるとしても肝臓とか膵臓ですよ。  
──そのようですね。  
北方 うちの親父だってそうです。ピース缶を吸うヘビースモーカーでしたけど、肺がんで死んだのではありません。  
それからチャーチルは、チャーチルサイズと呼ばれる長い葉巻を一日二本ずつ吸い続けて、確か九十歳ぐらいまで生きています。例を挙げれば切りがないですよ。  
僕は葉巻だけで紙巻は吸いませんが、医学的なデータから言えば、悪いのはタールであって、ニコチンそのものは脳に対してもいいらしいんです。タールというのは、紙にあるわけですよ。病院でレントゲン写真を撮ってもらっても、僕の肺はすこぶる綺麗で、「おかしいな」なんて言われるんですけどね(笑)。要するにタールがないんです。  
原稿を書くときは、紙巻を吸うヘビースモーカーの人と同じように、何本吸うかわからないくらいです。息抜きとかいう話ではなくて、ごく自然に、呼吸するがごとく吸っている。煙を吸うのは呼吸と同じ感覚なんですよ。それでも綺麗なものなんだ、僕の肺は。  
だから当然、やめようなんて思うわけはないですよ。呼吸をやめようと思う人はいないでしょう? それと同じなんですから、タバコを吸うこと自体は良いも悪いもないんです。良いか悪いかなんて、誰も決められない。決めるべきではないと僕は思う。個人の勝手ですよ、そんなものは。タバコが大嫌いでどうしても煙を我慢できないという人が一緒にいたら、そのときは僕も吸いません。その人の側ではね。その代わり、その人がタバコを吸ってもいい場所にいるときに「タバコを吸うな」なんて言い出したらケンカになりますよ。  
──そうですよね。しかし、たまにそういう人もいませんか。  
北方 実はあるホテルのシガーバーで、おばさんに「タバコやめてくれませんか」と言われて大喧嘩になったことがあるんですよ。「あんた、何を言ってるんだ。ここはシガーバーだぞ。ふざけるんじゃない」と怒鳴ったら、「身体のことを考えたことがあるんですか」だの「周りの人のことを考えたことあるんですか」だの、しつこく言ってくる。シガーバーですよ。「あなたはここまで歩いてきたのですか? 電車に乗ってきたでしょう。電車だったら電気を使う。電気はCO2をいっぱい出すでしょう。車で来たのなら、車は排気ガスを出す。人間はどこかでいろんなものを何かしら出しているんですよ」と言ってやりましたけど、そのおばさん、毎日のようにそのシガーバーにやってきては「タバコを吸うのは身体に悪いからやめなさい」と言い続けていたらしいですよ。  
──ときどき見かけられるエキセントリックな禁煙主義者ですね。  
北方 大した根拠があるわけでもないはずなのに、健康のことだけを言い立てて「タバコは悪い」と決め付け、他人に押し付ける。厚労大臣のナントカっていうおばさんなんかも、ひどいものですよ。小宮山さんといいましたっけ? 年金の問題だってまだ全然片付いていないだろうに、記者会見でいきなりタバコのことを言い出して。タバコを吸う人間だって、できることなら波風立てたくないと思って吸っているのに、僕はあれ、タバコ派の人間をいたずらに刺激したと思いますね。まったく何という物の言い方するのかと呆れますよ。  
なぜ世の中がそんなふうになってしまったのかと言えば、これはもう間違いなくアメリカが元凶です。最初にアメリカが罹った「健康病」。健康という病に罹って、健康に悪いものはすべて悪、タバコなんて問答無用で悪、ということにしてしまった。あの国には縛り首の文化というものがありますからね。悪いものは全部リンチにかける、というのを始めたわけですよ。禁酒法なんてものをやったのもアメリカだけでしょう。テネシー州にはいまだに禁酒法が生きていますからね。自分の家で飲むのはいいけれど、外では一切飲んではいけないんです。  
リンチバーグという町にジャックダニエルの工場があるんですけど、そこへ行ったら大きなグラスに琥珀色の飲み物が出してあって、さすがに気前がいいな、と思って飲んだらアイスティだった。(笑)  
もともとアメリカ人というのは、意外に葉巻好きの国民だったんですけどね。息子が生まれたら葉巻を配る習慣があったり、サーキット場なんかでも、観客席で売り子が駅弁みたいな箱を持って葉巻を売りに来る。そういう文化があるんですね。食文化の中にも取り込まれていて、食後に「デザートはいかがですか」と言って出されたものの中に葉巻が入っていたりする。フランス料理なんかもそうでしょう。  
──マキシムなどはいまもそのようですね。  
北方 葉巻やタバコの文化というのは、元を辿ればインディアンからじゃないですか。それ以来ずっと、そういう文化が残されてきたわけで、なのに健康のことだけを取り上げてつべこべ言い出すというのは、これはもう病気ですよ。あいつらはね、自由の国だと言いながら、いろんなことを自分たちで不自由にしている。不自由な国なんですよ。  
人権侵害に等しい喫煙者への過剰な敵視  
――日本の愛煙家も最近は不自由な思いばかりしています。  
北方 まったくです。この国でも今、本当に吸う場所が少なくなってきている。駅でもどこでも、喫煙室というのが設けられているじゃないですか。そこに皆がワーッと集まって、ひとかたまりになって吸っている。あの光景って、何だか隔離されているようなイメージですよね。タバコを吸う罪人がガス室に隔離されている感じ。あれなんて本当に、人権侵害に近いと僕は思うね。そんなふうに思いながら、僕もそこで吸ってしまうんですけどね。(笑)  
確か千代田区だったと思うけど、路上で咥えていたことがあったんですよ。葉巻はね、火をつけても吸わないと消えるでしょう。でも、ケースを持ってなかったから消えた葉巻の置くところがない。仕方がないから咥えて歩いていたわけ。すると監視員が「何やってるんですか」と来た。そこで、自分の手のひらに葉巻を押し付けて、「火がついてないものも咥えちゃいけないのか」と聞いたら「いや、煙が出てなければ…」と言うので、「じゃ、確かめてから言えよな。この葉巻、高いんだよ。先のほうがダメになってしまっただろ」と言い返した。そんなことで、ついつい「コノヤローッ」となっちゃうんです。  
それから、以前は飛行機でも吸えましたよね。それがだんだん吸えなくなって。それでも少し前までは吸える場所があったんですよ。キャビンアテンダントの仮眠室みたいなところとかね。特殊なケースでしょうけど、機長が知り合いだったりすると「操縦席で吸え」なんてこともあった。それが今は、客がトイレで吸おうものなら、そのまま飛行機を引き返して「こいつのおかげで飛ばなかった」とか何とかいう話になっちゃう。  
ホテルでも、煙探知機が煙を感知してビーッと鳴るようなところがある。定宿のホテルがそんなことになったら、僕はすぐに引き払うね。  
そうでなくても、葉巻だと匂いが強いためにエレベーターホールまで匂うらしく、いったい元凶はどこのどいつだ、と探したあげくに、僕の部屋に辿り着いちゃうらしい。それくらい匂いが強いらしいんです。  
確かに匂いは強いけど、悪い匂いじゃないですよ。そう感じている人は多いです。僕なんか、銀座のクラブで女の子と吸いながら「お前はな、これから家へ帰るだろう。家へ帰ったときに、そのセットした頭をほどいて、ふわっと振って、シャワーを使おうとするだろう。そのときに髪の毛から、この葉巻の香りがプーンと漂ってきて、胸がキュンとするんだぞ」なんてことを言ったりする。(笑)  
──確かに悪い匂いじゃないですよね。  
北方 外だけではなく、自宅でも同じです。「いいよ、俺は自分の部屋で吸うからいいよ」みたいなことを言う輩もいるけど、うちは僕以外、女ばかりでね。母がいて、家内がいて、娘が二人いて、女性の秘書が二人いて、おまけに犬までメス(笑)。その犬がね、私の部屋に来てしばらく寝たりするわけですよ。そして戻ったら、「犬が臭くなってる」と言われるんです。少し前まではどこでも平然と吸っていたんですが、孫が生まれてから、娘に睨まれたりして、やはり孫にまずいなと思ったら自分の部屋に行って吸うようになりましたよ。それでも「葉巻の匂いがする」と文句を言われる。  
放射能の話と同じでね、お腹の子どもに影響するとか、「お孫さんのことを考えたことはありますか」みたいなことを言われると、確かに何も言い返せないわけです。でも放射能にしたって、僕らはこれまでも散々浴びてきているわけだし、ある程度の線量だったら問題ないとわかっているわけじゃないですか。そこで子孫についての話を持ち出すのは、何か違うんじゃないかという気がしますね。タバコについても、そういう論理を持ち出すのはダメだろうと思いますよ。  
──とくに女性の論理は、これがすべてのようなところがあります。  
北方 匂いなんて、あくまで主観の問題で、好きか嫌いか、というだけの話でしょう。たとえばエレベーターに残っている香水の匂い、トイレに入ったときに残っている香水の匂いね。トイレから出てきた人が凄い美人だったりしたら、「なんていい匂いなんだ」と思うわけですよ。逆に婆さんだったら「香水くさいなぁ」とか思っちゃう。それくらい匂いなんて主観的なものなんですよ。そういう主観はもう、人それぞれなんでね。さっきも言ったように、そういう人の側では吸わなければいいだけの話です。しかし、その「好きか嫌いか」という主観を理由に法律や条例といった客観を押し付けることほど無謀なことはない。  
最近はバーのくせに吸えないところまでありますからね。そもそもバーなんていう場所は、ゆっくりタバコを吸いながら、強い酒をキュッと飲む、ということを楽しむためにある場所だと思うんですがね。条例なんかを作って、そういう男の嗜みまで認めないという事態は、どう考えたって無謀でしょう。そんなことでつべこべ言うなって感じがありますよね。  
車の排気ガスとどっちが悪い!  
──それでもなお、タバコを嫌う人間が増え続けているように思うのですが。  
北方 ですからね、本当は身体に良いか悪いか、という話じゃないんですよ。医学的な根拠については、たとえば医者が繰り返し発表するなり、きちんと言ってくれないと、やはりタバコが嫌いだという人は、「タバコは体に悪いという結論が明確に出ています」と言うわけです。ならば、たとえばステーキの、ドロドロした脂とかね、あれとどっちが身体に悪いんですか、ということですよ。車の排気ガスとどっちが悪いんですか、と。私は船に乗りますんでね、五百馬力のディーゼルエンジン二基ですから凄い排気ガスが出てきて臭いんですよ。どう考えたってそっちのほうが身体に悪い。全開にしていたら、あっという間に二千リッターは使いますからね。それだけの軽油を燃やして排気ガスを出して、CO2の排出量だって相当なものでしょう。ですが、そちらについては文句を言われたことなんて一度もない。  
──おっしゃる通りです。  
北方 要するに、「健康に悪い」から反対している連中のほとんどは、「タバコが嫌い」だから反対しているんですよ。どんなに普遍性のある形で医学的な数値を並べたところで、やっぱり、そういう人たちは「悪いものは悪い」ということになるんだと思う。そんな話をしても、おばちゃんたちには通じない。少なくとも小宮山さんとかいうおばさんには通じないでしょうね。  
自動車で毎年、何千人と死んでいる。それから、自殺する人間が三万人もいる。その自殺する理由が何かを考え、対策を考えるとか、厚労大臣の仕事ってそういうことじゃないですか。嫌いだからというだけの理由で増税まで言い出すんですからね。タバコ嫌いはいいけど、そんな好き嫌いに過ぎないことを公の立場で言っていいんですかね。  
僕は神奈川県に住んでいるんですが、松沢前知事もタバコ反対運動やっていたわけでしょう。知事の仕事なんて他にたくさんあると思うのに、どこに行ってもタバコを吸うのをやめてくれ、という運動を知事自身が率先してやっていた。世間でタバコが嫌いな人が「タバコを吸うのをやめましょう」って運動をしたいなら、すればいいですよ。嫌いな人が反対するのは別に構わない。だけど、吸っている人間を見つけて、犯罪人みたいに扱われるのは我慢できませんよ。受動喫煙防止条例なんてものに根拠なんてないでしょう。その人たちが嫌いだっていうだけの話で。  
タバコが嫌いな人間の主観だけで作られた条例なんぞ、さっきも言ったように無謀以外の何物でもないです。正直、知事をやめてくれてホッとしましたよ。もっとも、現知事もその流れを踏襲しそうな気配なんで、どうかとは思うんですが。  
タバコに反対するなら節度を持って反対せよ  
──そうした嫌煙者たちに望むこと、といったら何かおかしな言い方ですが、何かありますか。  
北方 知事の話はともかく、だから反対する人たちにも、人間として節度を持った態度でやってくれれば、何やったって全然構わないということを言いたいわけですよ。お互いにそれさえ守ってくれれば、僕は何をやってもいいと思う。  
あるとき銀座のクラブに行ったら、女の子がニンニクの匂いをプンプンさせていることがあったんですよ。どうしたのかと聞いたら、ニンニク料理を食べさせる店があって、そこでニンニクを焼いて、ニンニク大好きだから思わず食べちゃったって。食べたのは前日なのに、まだ臭いんですよね。「どうしよう」なんて言っているうちにママが来て、「あんた、ニンニクなんか食べちゃダメよ」と言うわけだ。客商売、相手がいる商売だから、嫌いな人がいるかもわからないから、それくらいの気遣いはしろと。好きならしょうがないけど、休みの前日に食べるとか、何とかすりゃいいんだと。  
それが節度ってものでしょう。好きなら好きで、客商売として最低限の節度を持ってさえいれば、いくら食べても、文句なんか言われる筋合いはないわけです。  
少なくともタバコを吸う人間はそうした節度を持っていますよ。  
──確かに昔と較べますと、最近の喫煙マナーは数段よくなっていますね。  
北方 三十年ぐらい前のことですが、作品中で主人公がポイ捨てするシーンを書いて、評論家に「タバコのマナーが悪い」と書かれたことがあるんです。まだタバコをところ構わずスパスパやっても、あまりうるさく言われなかった時代です。  
それ以来、ポイ捨てタバコは書くのもやめたし、僕自身も携帯の灰皿を使うようになりました。携帯の灰皿を使い始めた走りだと思いますけどね。それに海でも、クルーは普通のタバコを吸っているので、紙は捨ててもいいけどフィルターはゴミ箱に入れるよう、徹底しています。  
そういうマナーだけじゃなくて、本当はもっと言いたいことがあっても、あまり声を大にして言わずにいるんですよ。「タバコを禁止して日本中、大麻が蔓延したらどうするんですか」とかね。タバコが嫌いな人がたくさんいるのを十分わかった上で、そうやって節度ある態度を守ってきたつもりです。  
それに僕だけじゃなくてね、タバコを吸う人間というのは、今までずっと、節度の中で生きてきたんです。禁煙の運動が起き始めてから節度の中で生きてきて、きちんと節度を守りながらやってきた。決して大きな顔をしていたわけじゃないですよ。そうじゃない人間はもう、本当に少ないと思います。〇・何パーセント程度じゃないですか。絶対に吸ってはいけないところで強引に吸うとか、マナーのかけらもない人間というのは、その程度の、ほんのわずかな例外だけです。嫌煙の風潮に迎合しているわけではない。迎合ではなくて、節度を持っているんですよ。  
その一方で、禁止する側が節度を失って、ぐんぐんぐんぐん押してきて、ほとんど絨毯爆撃みたいにして、どこも吸えない状態にしてね。シガーバーにやってきて「タバコをやめろ」なんて言うおばさんみたいな人間まで現れる。タバコを「ダメだ」と一方的に言う人間は、まるで節度を心得ていないと僕は思っています。  
正直に言って、本当にこれ以上は進んでほしくないと切実に思いますよ。これだけ節度を持って煙を出しているわけだから、もうそろそろ、これ以上のことは言って欲しくない。煙を吐く人間が、ある時期からきちんと節度を持った。その節度に対する回答は何かと言ったら、やはり節度でしょう。お互いに節度を持てば、そんなにガタガタすることはないはずです。後はほっとけ、という感じですよね。何度でも繰り返しますが、節度には節度を持って応える、という人間らしい当たり前の振る舞いをしてもらいたいだけです。  
なんてことを言っていると、また小宮山とかいう人の話を思い出して腹が立ってくるんですがね(笑)。節度がなさ過ぎる。人間の、礼節というものをわきまえていない。われわれは、礼節をわきまえて、きちんとルールを守っているのに、それに対して「悪い」とさらに攻撃してくる行為は、抑圧以外の何ものでもないでしょう。  
葉巻あるいはタバコにまつわることで、いろいろありましてね、なぜ罪人扱いされるのかということを、これまでにも何回となく考えさせられてきましたけれどね。やっぱりこれは抑圧ですよ。  
とにかくタバコに反対する連中に言いたいのは、「節度には節度で応えろ」ということ。それが私の意見です。  
 
小谷野敦 

 

「禁煙ファシズムと戦う会代表」と、私の名刺には刷り込まれている。といっても、ミクシィ内のコミュニティの管理人に過ぎず、一度だけ五、六人で、神保町の、今はなき料理屋「人魚の嘆き」でオフ会をやったことがあるだけで、ほかの喫煙者団体とはまるで違う。  
禁煙ファシズムとの戦いも、もうかれこれ八年にはなるだろうが、どうやら私は、「過激派」らしい。過激派といっても、電車内で喫煙するとか、厚生労働省へ押しかけるとかいうわけではない。単に、全面禁煙にした新幹線には乗らない、全面禁煙のレストランなどへは行かない、禁煙のタクシーには乗らない、といったことでしかないのだが、ほかの喫煙家はみな我慢しているらしく、仕事上仕方のない人は気の毒だが、拒否出来る立場でも、特に拒否しない人もいるらしい。  
せいぜい、私が容認できるのは分煙だけで、大学キャンパスの屋外全面禁煙とか、建物内全面禁煙とか、論外なのである。ロビーが禁煙の劇場や映画館も拒否だから、ほとんど最近は家の近所を自転車で走り回るだけである。駅のプラットフォームも禁煙だから面倒だが、これは場合によっては喫う。駅員とやりあうのが面倒になってきたから、隠れて喫うが、嫌がらせのために吸殻は捨てておく。これは禁煙にするほうが悪いのである。  
嫌煙家などは、それくらい我慢できないのか、などと言う人もいようが、我慢できる場合でも、信念に従って拒否するのである。キリシタンが踏絵を踏まないのと同じである。それを、キリシタン弾圧とたかが禁煙と一緒にならないだろう、と言う人がいるが、そうではない。第一に、対話が成り立っていない。新聞は禁煙一色になってしまい、まれに小さく異論が載るくらいで、読んでいると不快になるから、四、五年前にとるのをやめてしまった。テレビのニュースも、ひところ見始めるといくつめかに、禁煙関係のニュースが出てきて不快だから、基本的に見なくなってしまった。  
まあ今は、ニュースなどというのはインターネットでことたりると言えば言えるが、そのネットニュースにも、禁煙関係のものがしばしば混じるから油断がならない。特にミクシィは禁煙派じゃないかと思えるくらい、その手のニュースを嫌がらせのようにエントリーしてくる。  
何しろ私は、四年前、非常勤講師をしていた東大教養学部で、夏休みに図書館へ調べものに行った時、人もまばらなキャンパスで喫煙していて某化学教授に咎められ、議論になったのをブログに書いたらそれが問題になったらしく、雇止めになっている。以後、大学とは無縁な日々を送り、近ごろは生計も怪しくなってきている。大阪市長の橋下徹も、職員が喫煙したとかいうことで解雇するから、いよいよ生活問題になってきているが、私は確信犯である。のちに、人類の愚行の一つとして禁煙ファシズムの歴史が描かれる時が来たら、私は間違いなく英雄的に描かれるだろう。  
これがファシズムであるゆえんは、何と言っても、議論を封殺することである。歩きタバコ禁止と言われても、堂々と喫いながら歩いている愛すべき庶民も、私のような人間がいることは知らない。新聞やテレビが報道しないからである。この四、五年で、マスコミは喫煙擁護派を締め出しにかかっている。ところが嫌煙派の作家の川端裕人など、私に、言いたいことはどんどん言えばいい、などと言って逃げてしまった。単行本やブログでどれほどものを言おうとも、新聞、テレビがとりあげなければ、大衆には伝わらないのだ、ということくらい作家の身で知らないわけがない。  
近ごろ、板倉聖宣という在野の科学者の『禁酒法と民主主義』(仮説社)を読んでいたら、米国で十二年間続いた禁酒法だが、十年近くたっても、なお禁酒法を行きすぎだとする意見は多数派になっておらず、政治家たちは、禁酒法に反対すると落選するのではないかと恐れていたとあり、興味深かった。禁煙ファシズムは先進諸国共通のものだが、それもいつか、突如として崩れ始める時が来るのだろうか。 
 
島地勝彦  

 

わたしは自慢じゃないが、16歳の春休みから煙草を吸っている。もちろん、禁煙しようと思ったことは一度もない。こんなに美味いものを発見してくれたことを感謝しつつ、この原稿も煙をふかしながら、書いている。最近、ミラノのロレンツォの地下1階のパイプ売り場で買ってきたユニークなパイプをとくに気に入っている。これはアルバトロス〈アホウ鳥〉の羽がステムになっていて、そこを通った煙が口のなかに入ってくると、煙が鳥の羽のようになって、軽く感じるのである。  
わたしの親父は教師をしていたが、煙草に関して寛大だった。あるとき、押し入れに隠れて一服やっていたら、親父に見つかってしまった。ぶん殴られるかなと覚悟していたら、こう諭された。  
「おまえ、男だろう。隠れて吸うなんて卑怯なことはするな。堂々と吸え。うちのなかでは許す。ただし、外では絶対止めろ。とくに学校で吸ったら、退学だぞ」  
そのときは、うちの親父はなんて話のわかる男なのだと尊敬の念を持ったものである。しかし後年、わたしが年を取って理解できたことだが、親父はきっとわたしが隠れて押し入れのなかで吸って、ボヤでも出したら一大事だと思い、心配のあまり寛容ぶったのだろう。たぶん、これが真実だ。  
嘆かわしいことに、いまや世界中禁煙運動が盛んである。禁酒法で酒を飲めなくした歴史が浅く幼稚な国、アメリカから始まったのだが、あれよあれよとヨーロッパまで飛び火して、大人の国、イタリアやフランスまでも追従している。とくにバーで酒を飲みながらの一服を禁じられているのは、心が勃起して射精寸前までいっているのに、出すなといわれているみたいなものだ。  
4、5年まえ、スコットランドに遊びに行ったら、そこも自由に煙草を吸えない国に落ちぶれていた。ホテルの部屋で吸うと、150ポンドの罰金が科せられる。しかも部屋には煙を感じるセンサーが付けてあるらしく、「よく、日本人が捕まる」とフロントの怖い顔をした女にわたしは脅かされた。マリファナでもあるまいし、とわたしは思いながら、大人しくホテルの裏玄関にある指定の場所で吸った。  
そこには嫌みにわざと小さな灰皿が置いてあった。煙草吸いは、小さくなって火をつけていた。名門のカーヌスティのゴルフ場もターンベリーCCも、クラブハウスの玄関まえに砂を入れたバケツが灰皿替わりに置いてあった。コース内は全面禁煙だった。  
わたしは67歳で編集者を引退するまで、家でも会社でも、朝から葉巻とパイプをぷかぷか吸っていた。いまは朝から、仕事場でだれに遠慮することなく、心ゆくまで煙草を愉しんでいる。軽い朝食のあとの一服にまず生きている幸せを感じる。わたしは27歳のときから、シガレットは吸っていない。それ以前はラークを日に40本吸っていた。わたしには、どうも煙草の葉を巻いている紙が合わないらしく、年に何度も扁桃腺を腫らして高熱を出していた。27歳のとき、柴田錬三郎先生に葉巻を1本ご馳走になってから、やみつきになってしまったのだ。パイプもシバレン先生からの一子相伝である。葉巻とパイプ煙草を吸うようになってから、扁桃腺を腫らすことが一度もなくなった。週刊誌の編集者をしていて、40度の高熱が出るのはきつい。  
まだ神保町で会社勤めをしていたころ、若い女子社員が煙もうもうのわたしの席に来ると、苦虫をつぶしたような嫌な顔をするので、いつもやさしく説いたものだ。  
「ヨーロッパの格言にあるんだ。『葉巻に燻された女は淑女になる』」  
「淑女になんてなれなくて、結構です」  
と、彼女はすました顔して答えた。  
さては彼女は、わたしがその場で作った嘘の格言を見破ったかな。  
わたしが尊敬するウィンストン・チャーチルは、20代前半にキューバにゲリラ戦を視察に行って、葉巻とシエスタ〈昼寝〉の味を覚えてしまった。90歳と2ヶ月の生涯で、毎週100本吸った。シエスタは戦時内閣の首相のときもやっていた。真のリーダーは強靱でなくては務まらない。一方、負けたアドルフ・ヒトラーは、若いときからガンノロで菜食主義で酒も煙草もやらなかった。歴史的にいえば、禁煙運動の始まりはナチから起こったのである。死してチャーチルは、キューバの葉巻にロメオ・ジュリエッタの“チャーチル”という名品を残した。シャンパンもポール・ロジェに“チャーチル”と冠した名酒がある。  
人類ではじめに葉巻を吸っていたのは、インディオとインディアンだった。コロンブスがアメリカ大陸を発見して、ジャガイモやトマト、梅毒と一緒にヨーロッパにもたらしたのだ。  
はじめ王候貴族が葉巻を愉しんでいたが、自分では吸わずに奴隷を10人ほど侍らせ、食事のあとに葉巻を吸わして、その香りを愉しんでいた。だが、あまりにも奴隷たちが恍惚の表情をしているのを見て、取り上げて自分で吸ってみるのには、時間がそうかからなかったらしい。  
葉巻の美味さは格別である。わたしが毎日スポーツクラブに通って、体を鍛えているのは、美味しく葉巻やパイプを吸うためである。じっさい、かなりの肺活量が必要なのだ。健全なる精神は健全なる肉体に宿るというのは、真っ赤な嘘である、実人生では、不健全な精神を宿すために健全で強靱な肉体が必要なのだ。たしかに、蒲柳の質だったら、不健全の精神を宿すまえに壊れてしまう。そういう人は煙草の味を知らないで死んでいくんだろう。  
シガー愛好家にとって、ハバナは一度は行かなければならない聖地である。今年の2月、ドン小西さんとわたしは「40%オフ! シガーダイレクト」社の招待を受けて、遅ればせながら、生まれて初めてキューバを訪れた。なんといってもホテルで売っている葉巻が興奮するほど安い。日本で1本4000〜5000円する上質なシガーが、1000円前後で買えるのだ。わたしは3泊4日のハバナ滞在中、朝起きてまずコイーバのマデュロ5のマジコスを1本吸い、昼間はロメオ・ジュリエッタのチャーチルとロバイナのトルピードを燻らせ、ディナーのあとにはパルタガスのフィギラドのサロモスとコイーバの新製品ベーイケを愉しんだ。  
同行のドン小西さんは剛の者で、オーバーワークが祟り高熱を出していたが、ケツから座薬をぶちこみわたしに挑戦して吸いまくっていた。これくらいでないと、テレビの人気者にはなれないんだ、とわたしはつくづく感心した。酒はキューバン・ラムしかないが、ヴィンテージものは美味い。同じ太陽を浴び、同じテロワールで育ったラムとシガーは、会ったばかりの恋人同士のように相性がいい。ドン小西さんも高熱と喧嘩しながら、したたかに飲み吸っていた。  
このハバナに22年間も住んで『老人と海』を書いた文豪ヘミングウェイが毎晩通ったレストラン“フロディータ”に行った。ヘミングウェイが考案したパパ・フローズン・ダイキリを飲んだ。砂糖ではなくキューバン・ラムをオレンジジュースで味付けしたものだ。飲みやすいが結構強い。これを文豪は毎晩12杯飲んだそうだ。残念なことだが、ヘミングウェイはハバナ・シガーを吸うことはなかった。もしこの国のシガーの味を知っていたら、もったいなくて自殺なんかしなかったのではないか。  
「わがダイキリはフロディータ、わがモヒートはボデギータ」と文豪は書いている。モヒートを発祥の店、ボデギータで飲んだが、シングルモルトに淫しているわたしの舌には甘すぎた。もしヘミングウェイがシガーの味に目覚めていたら、「わがシガーはコイーバ」と付け加えていたにちがいない。  
わたしが親しくした日本の三文豪、柴田錬三郎先生は、シガレットはラークを吸い、パイプも葉巻も愉しんでいた。今東光大僧正はもっぱらフィリップ・モーリスだった。開高健文豪はシガレットもときどきやっていたが、主にパイプだった。シガーはよくわからんと、もらったシガーはすべてわたしにまわってきた。その代わり、パイプ煙草はわたしが愛用していた同じものを愛吸していた。  
「パイプの楽しさを知る人は、静謐の貴さを知る人だ」と文豪はエッセイに書いている。  
「シマジ君、君が吸うとるその淫らな香りがする葉っぱはなんや」  
と、ある日訊かれた。  
「これは、アメリカのロサンゼルスの煙草屋のものとニューヨークのものとを半々でミックスしたものです。西と東のブレンドです。これぞヘレニズムの香りがします」とわたし。「どれどれ吸わしてみい」とダンヒルのウィークリー・パイプの一本に詰め込んで吸いだした。  
「これはいけます。シマジ君、お金を出すから同じものを譲ってくれんか」  
「お安いご用です。一生、貢がせてくれませんか」  
「そんなこというて、また君はわたしに無理難題させるのとちゃうか」  
「それは煙草を差し上げても、差し上げなくても同じです」  
「じゃ、お言葉に甘えよか」  
そんなわけで、開高文豪の“ヤクの運び屋”となった。だが文豪は、病魔に襲われ、58歳の若さで亡くなった。病名は食道ガンだったが、わたしは決して煙草ではなく、浴びるように飲んだウォッカのせいだと思っている。しかも飲み方が尋常ではなかった。文豪が作った名コピー、「何も足さない。何も引かない」を地でいったのである。  
ちなみに、『長距離走者の孤独』の英国の作家アラン・シリトーは、パイプを深く吸って吐きながらいった  
「インテリは禁煙するが、ジェントルマンは吸い続ける」  
そう、わたしは生涯ジェントルマンでいたいのである。  
 
倉本聰 

 

昔、飛行機の中が初めて禁煙になった時、その法を破って機内で煙草を吸う方法があると、声をひそめて提唱したユニークな愛煙家の知人がいた。  
「機内のトイレで水を流すとき、ゴボゴボッと強力に吸い込むじゃないですか。あの瞬間に排水孔に顔を近づけ、パッと煙草に火をつけてスッと一服しすぐ捨てるんです。気付かれません」  
その知人も間もなく禁煙し、たちまちこうるさい嫌煙家に転じた。こいつとの付き合いを僕は断った。  
よく行ったレストランがどんどん禁煙になり、僕は行くことをしなくなった。年中行っていた外国へもぴったり足を運ばなくなった。地球がどんどん狭くなる。何度講演を頼まれても禁煙条例を布いた神奈川県へは足をふみ入れないことにしているし、路上禁煙を叫ぶ千代田区へはタクシーでもなるべく入らないようにしている。だってそうだろう、煙草の煙がいけなくて車の排気ガスは許すというのはどう考えても理屈に合わない。  
30年程前、北海道の某医大の禁煙論者で有名な大先生と、公開シンポジュウムでやり合ったことがある。体に悪いことは良く判ってます。現に朝など呼吸器が苦しくて参ることがよくある。医学がここまで進歩したなら、昔町を流していたラオ屋のように、気管の中のニコチンをスーッと洗滌するといった方法をどうして開発してくれんのですか。大先生は一瞬絶句し、顔を真赤にして大声で叫んだ。「それはあなたのわがままです」  
ここまで世間が禁煙を叫ばなければ、禁煙差別が拡がらなければ、もしかしたら僕はとうの昔に煙草を吸うことを止めていたかもしれない。だって現実に苦しいと思うことがあるのだから。しかしここまで無体なまでに愛煙家を迫害し差別する世の中になると、止めてたまるか! という意地が湧く。従って僕は、吸いたい間は吸い続けようという意志を変えない。  
齢のせいもあってさすがに体のあちこちのパーツが痛み出し、このところ前出某医大のお世話になっているが、カルテをのぞくと「重喫煙者」と記載されており、担当教授からニヤニヤと、まだ止める気になりませんか、と云われる。しかし先生、と僕は応じる。かつて僕の闘った禁煙主義の大先生、あの方僕より先にとっくに亡くなられたじゃないですか。すると教授は困ったように、「あの先生は糖尿病でしたから」とのたまった。  
20年程前の話になるが、新幹線の喫煙車に乗っていたら突然1人のアメリカ人(だと思うが。あんな無礼なのはアメリカ人にちがいない)が乱入して、いきなり煙草を吸っていた客の口からその煙草をむしりとり、車内で煙草を吸うな! という罵声を凄まじい権幕でまくし立て、消えた。あまりの権幕に乗客一同唖然とし、しばらくしいんと沈黙が流れたが、誰かが、だってここ喫煙車輌だろ、と呟くと、そうだそうだと全員騒ぎ出し、あいつは何なんだ! 何様のつもりだ! ありゃアメリカ人だ! そうだそうだ! と反米意識が充満し、みんな一斉に煙草に火をつけた。その時1人の初老の紳士がボソリと低い声で呟いた。  
「今日も元気だ、煙草がうまい!」  
古き良き時代のなつかしい空気が、新幹線の中に流れた。  
これまた何年か前、あるウイスキー会社が主催した健康シンポジュウムというものに、基調講演を頼まれて出たことがある。僕の前に3人の医師・科学者がスピーチし、異口同音にアルコールのことには全く触れず、煙草の害にばかり攻撃の的を絞って、煙草は百害あって一利なし! と連呼する。幸か不幸か僕は一番最後だったので、少し長くなりますがと断って演説した。  
「さっきからきいていると、煙草は百害あって一利なしと、のべつ僕のことを攻撃されているような気がする。たしかに僕はヘビースモーカーです。だが僕の作家としての思考回路は、50年間煙草と直結して成立しており、左手の中指と人差指の間に煙草があって煙が立ちのぼり、時折それを口へ運んで吸いこむ、という連鎖行動がないと、創意が全く湧いて来ない。いわば煙草というものを媒介に、創作の神様が下りてくる。北の国から≠ニいう21年続いたドラマは、43万本のマイルドラークによって書くことが出来た。それでも百害あって一利なしと云うか!大体みなさんは健康健康と経文のように御云るが、健康に永生きして何をなさりたいのか。只意味なく永生きしようというなら、使う目的がないのに只金儲けがしたい、金を貯めたいというホリエモンなどと同じことではあるまいか。僕は命は別に縮めても良い。生きている以上良いものが書きたい。故に神様に下りて戴く為に体に悪くても、心に良い為にこうして煙草を吸っているのです」  
煙草には流煙の害がある。はた迷惑である、と学者は云う。そうかもしれない。その意味では愛煙家は罪人かもしれない。だから加害者と被害者を分ける分煙システムには大賛成である。だがしかし喫煙という有史以来永年培われてきたこの習慣を未だ良しとする愛煙家を悪ときめつけ、禁煙者を善とする昨今の風潮は、明らかな差別と思うべきである。  
AとBを分けるなら均等平等な分離でなければならない。  
レストランやロビーの、良い席は常に禁煙であり、喫煙者は悪い席に追いやられるという現状は、少なくともサービス業に於いてやってはならぬことである。しかしホテルや飲食店は常にこの罪を犯している。かつてのアメリカの「白人席」「黒人席」のあからさまな差別を、今この国のサービス業は犯し、行政がそれを後押ししているかに見える。見えないファシズムへのかすかな足音を、世の愛煙家は感じてはいまいか。  
十年程前、僕は富良野の森の中に小さなバーを作った。哀れな愛煙家の為のバー、“for miserable smokers”と看板に謳っている。嫌煙家を決して拒むものではない。だから排煙にはうんと気を使った。それでも同席がいやならば入らなければ良い。僕は只愛煙家が、周囲をびくびく気にすることなく落着いて飲める場所が欲しかったのである。  
最近友人が、『東京の喫煙できるレストラン』(日本工業新聞社)というガイド本を出した。全てが全面喫煙とは限らず、分煙のところも載っている。まことにありがたい本である。  
更めて云うが、煙草の嫌いな人に好きになれなどと云う気は毛頭ない。  
只、永年そういう習慣の中に生きた75才の老人として、我々も日本人社会の一員として相応の権利は認めて欲しいと云っているだけである。  
最近の僕の最大のストレスは、煙草のことで一々気を使わなければならないことである。多分このストレスは僕の免疫力を弱め、僕の健康への最大の障害になっている気がする。  
僕が死んだ時、あいつは煙草で命を縮めたとだけは云って欲しくない。逆である。煙草のおかげで僕は活力をもらい創作の神に下りてもらってきた。煙草に僕は恩義を感じている。たとえ命を縮めようとも、忘恩の徒とだけは呼ばれたくない。 
 
徳岡孝夫  

 

第二次世界大戦で英国の戦時宰相ウィンストン・チャーチルは、大英帝国を背負ってヒトラーのドイツと戦い、戦い抜いた。ヨーロッパの大半の国がヒトラーの機動部隊に蹂躙されてしまい、あすにも英国本土の海岸にドイツ軍が上陸するかと思われていたときに、チャーチルは「彼らが来れば海岸線で戦う。海岸で破れれば平原で、そこでも破れて彼らが都市に来れば、一ブロックごとの市街戦で、私は徹底的に戦うであろう」と演説し、少しも動じる色がなかった。  
その何年も前から、チャーチルは葉巻を愛してやまない男だった。食事のときはシャンパン、食後は葉巻。それが彼の生活の鉄則だった。  
少し時代を遡る戦前のことだが、英国にスタンレー・ボールドウィンという政治家がいて、1924年に首相になったが、蔵相が決まらず苦悩していた。  
議会の廊下でチャーチルに出会った彼は「ウィンストン、ちょっと話がある」と言って手近の小部屋にチャーチルを連れ込んで椅子を勧め、いきなり「蔵相をやってくれないか」と切り出した。  
大役である。チャーチルは腕を組んで考えた。しばし黙考したが答が出ない。「失礼して葉巻を吸ってよろしいか」「どうぞ」とボールドウィンが答えたので、チャーチルはポケットから葉巻を出して火をつけた。吸いながら考えた。  
ボールドウィンも常にパイプを持ち歩く愛煙家だった。相手が黙っているので堪らなくなり、「それじゃ私も失礼して」と断ってパイプを取り出した。  
それから数十分、2人は至近距離に対座して、お互いの顔に煙を吹きつけ合った。チャーチルは蔵相を引き受けた。  
話は戦時中に戻る。英国民が食う物に困っている時期にも、チャーチルは葉巻への愛着を捨てなかった。  
当時、飛行機に乗るには、そこまで歩いていってタラップを上らねばならなかった。チャーチルは北アフリカの戦況視察に行くときなど、その間ずっと葉巻をくわえたままだった。スパスパやりながらタラップを上り、搭乗前に振り向いて見送りの部下に葉巻を振ってから悠然と機内に消えた。英国空軍の中に、誰一人として進み出て、「首相閣下、ここは禁煙ですぞ」と注意する勇気を備えた者がいなかった。チャーチルを失えば英国が滅ぶと、誰もが知っていたのである。チャーチルは90歳まで生きた。  
同じ世界大戦を、日本は大東亜戦争と呼んだ。その緒戦、日本陸海軍は勝ちに勝った。  
ハワイの真珠湾では、哨戒飛行もせずに土曜の晩から日曜の朝を酔って騒いでいた米太平洋艦隊を(空母だけは討ち漏らしたが)壊滅させた。  
マレー半島に上陸した陸軍は、シンガポール目指して南下した。英国すなわち白人によるアジア有色人種支配の、シンガポールは大拠点だった。白旗を掲げて日本軍陣地へ降伏条件の交渉に来る英軍司令官の姿は、大航海時代いらい四百年に及ぶ白人優位の世界の終焉を語っていた。  
フィリピンを防衛する米軍も、開戦直後はマレーの英軍と同じ運命を辿った。首都マニラを放棄してコレヒドール島に逃げ込んだ司令官ダグラス・マッカーサー(1880〜1964年)はスピードボートで家族や女中を連れて脱出、オーストラリアまで退いた。日本軍はアリューシャン列島の島からインド洋のアンダマン・ニコバルまで、南太平洋ではソロモン群島に至る広大なアジアを手中に収めた。  
その劣勢から、マッカーサーの反撃が始まった。ガダルカナルの戦闘に勝ち、ミッドウェー海戦で日本に大打撃を与え、サイパンからのB29爆撃機による日本諸都市の無差別爆撃、沖縄の地上戦、広島と長崎への原爆……勝負は逆転し、日本は史上かつてない無条件降伏を受け入れた。  
降伏発表が昭和20年8月15日。日本人のショック第一波がまだ収まらない8月28日、SCAP(連合軍最高司令官)マッカーサーは空軍機で神奈川県・厚木飛行場に着いた。  
もし立場が逆で日本が勝っていれば、司令官はありったけの勲章を胸に付け、先遣部隊が直立不動の姿勢で迎える飛行場に降り立ったであろう。マッカーサーは完全に逆だった。  
彼は略装でネクタイをつけず、第一ボタンを外したまま、口にコーンパイプをくわえて日本国土に降りてきた。この場合もチャーチルのときと同様、駆け寄って「将軍、禁煙です」と叫ぶ米軍将校はいなかった。  
コーンパイプは安物の喫煙具である。どこまで続くか見当もつかない米国中西部のトウモロコシ畑で、あり合わせのコーンの軸をカウボーイが千切り取り、削ればたちまち出来上がる。  
トウモロコシは米国の象徴でもある。コロンブスが新大陸から持ち帰るまで、世界はトウモロコシを知らなかった。今では世界中の子供が、コーンフレークスを朝食にしている。それをくわえたマッカーサーの写真は、米大使館公邸での天皇と並んで立つ写真と共に、マッカーサーが日本に加えた鉄槌二撃だった。写真を見た「昨日の敵」日本人は、へなへなとなった。彼我の力の差を思い知った。マッカーサーの占領に力で反抗する動きは、一つも起きなかった。  
晩年のマッカーサーは不遇だった。彼の副官だったアイゼンハワーが大統領になったので、ワシントンに乗り込み自己の信じる路線へアメリカ陸軍を叩き直そうと志しニューヨークまで行ったが、マッカーサーの火の玉のような性格を恐れるアイクは、昔の上官をついに一度もホワイトハウスに招かなかった。  
湖南省の師範学校に学んだ毛沢東(1893〜1976年)も功罪相半ばする人生を送ったが、とにもかくにも混沌だけがあったシナ大陸を中華人民共和国という国に統一した。国民党を台湾に追い払い、中ソ対立によってソ連型の社会主義を否定し、文化大革命で反対勢力を駆逐、国を共産党の支配する帝国にまとめた。目的のためには「張子のトラ」と罵倒していた米国とも妥協した。  
その毛沢東が生涯を通じて忠誠を捧げたのは煙草だった。彼は紙巻のチェーンスモーカーだった。米空軍が友邦ベトナムを猛烈に「北爆」している同じ日に、毛はニクソン米大統領を北京の書斎に招き、煙草を吸いながら談笑した。そして一種の原理共産主義の実践であった文化大革命は、毛の長逝と共に終った。  
いまの中国は、毛沢東が狙ったのとは正反対のゼニゲバ路線を走っている。13億の民は、毛が何をした人かよく知らない。ただ天安門広場に君臨する「偉大な人」だと思って、彼の大肖像画を見上げている。  
私は診察室で以上の3人の例を挙げて、知り合いの医者に迫ったことがある。  
「チャーチルは葉巻を手離しませんでした。英国を救いました。チャーチルは長生きしました。マッカーサーはパイプを愛しました。戦後日本の復興という大仕事をしました。マッカーサーは長生きしました。毛沢東は中国の統一と独立を果たしました。チェーンスモーカーでした。毛沢東は長生きしました。先生、いったい煙草のどこが悪いんですか」  
医者はしばし黙って考えていたが、ややあって静かに言った。  
「あなたの調査は、サンプル数が少なすぎます」  
そして医者と私は、声をそろえて笑った。  
ファンファーレを鳴らして始めたわけではないから、私はいつ自分が煙草を吸い始めたか、もう忘れてしまった。しかし、ただいま80歳、少なくとも50年前にはパイプを吸っていた。  
留学先での私のルームメイトは、オハイオ出身の真面目な、学校用務員の息子だったが、部屋の向こうの隅からよく「また水煙草を吸ってる」と野次った。ズルズルと音を立ててパイプを吸うのは、みっともいいものではない。  
私は静かなスモーカーで、べつに喫煙の権利を主張しない。ただ黙って、書斎で吸っている。現役の記者時代は仕事場でも吸った。下手な原稿だが、吸わないと書けないのである。  
他人の喫煙に口出しする人々を静かに軽蔑しているが、それを文章に書くのはいまが初めてである。  
私は敗戦国を建て直そうと思わないし、アドルフ・ヒトラーと闘う意志もない。ただ静かに吸う。それ以上でも以下でもない。  
 
柳家喬太郎 

 

だからさ、食いさがるなよ。俺いっぺん、断ったじゃんよ。  
そりゃ確かに俺は煙草喫みますよ。でもさ、愛煙家なんて恰好のいいもんじゃないんだ。単なる喫煙者なんだ。パイプくゆらす訳でもないし、上等なライターも持たないし、洋モクも吸わないし渋い銘柄を好む訳でもない。百円ライターでマイルドセブンワンですよ。『愛煙家通信』に寄稿するなんて、おこがましいでしょうよ。  
だから俺断ったのに、編集さん、なんか食いさがるからさ、まぁそれはそれで有難いことだよな……と思い直して、今こうして原稿書いてるけどさ。やっぱさ、まずいんじゃないかなー……と思うわけですよ。  
だって俺、煙草やめようと思ってんだもん。  
酒も呑むんですけどね、酒抜くのは平気。月に12、3日は抜いてるし、家じゃ呑まない。  
けど煙草はやめられない。やめようとは思ってるんだけど、やめられない。なぜやめられないかというと、喫煙者の常で単純にやめられない。家に何個かあるライターのガスを全部使い切ったらやめようとは思っているのだけど、いま現在、すぐにやめようという努力もしていない。  
ただもう一つ、やめられない理由がある。  
今やめると、屈した気がするからだ。  
現在の嫌煙禁煙運動の過熱ぶりは、いかがなものか、ちょいとばかりヒステリックに過ぎないか。中世ヨーロッパの魔女狩りかと言ったら言い過ぎかもしれないが、煙草喫みからすれば、もはや殆ど迫害である。  確かに、今まで喫煙者が大手を振ってのさばってきて、煙を好まない方々が、ずっと我慢を強いられてきた……ということは、あると思う。喉が弱いとか、肺があまりよくないとか、そうでなくとも例えば何らかの疾患をお持ちの方にとっては尚更のこと。今まで我慢に我慢を重ねてきたが、今やっと嫌煙禁煙を正面から、声高に叫べる時代になって、その運動に拍車がかかるのも、当然と言えば当然だ。  
煙の問題ばかりではない。マナーもそうだ。世間一般が煙草に対して寛容だった頃、我々喫煙者は当り前のように吸殻のポイ捨てをしていた。今更ながら、ありゃ良くない。携帯用の灰皿を考案した人は、エラいと思う。  
ポイ捨て自体良くないが、捨てた煙草を足で踏んで消すこともせず、火が点いたまま放置していくヤツがいる。今でもいる。こないだも半蔵門で見かけた。火事でも起こしたらどうすんだ。  
もっと腹が立つのが、火の点いた煙草を指に挟んで、普通に腕を振りながら歩いているヤツだ。子供の目に入って、失明でもしたらどうすんだ。テメエ責任とれんのか。  
僕も昔、池袋の街で、そういう輩の煙草の火が、手の甲に触れたことがある。思わず「熱ちッ」と言ったら、そいつは「あ」と呟いて、謝りもしないで立ち去りやがった。ふざけんなってんだコノヤロー。  
煙草とは関係ないけど、ついでだから言わせてもらう。長い傘を地面に水平に……つまり自分の体と垂直に握って、平気で前後に振りながら歩く人がちょくちょくいる。老若男女関係ないが、比率としてはオジサンに多い。あれ、やめてもらえませんか。危なくってしょうがない。いくらなんでも無神経なんじゃありませんか、ねぇダンナ。  
いささか話が横道にそれたが、だから今の風潮で、喫煙者のマナーが向上するのなら、それはとても良いことである。  
別にいい子ちゃんぶってるつもりはない。ただ、この御時世で煙草を喫んでる我々が、マナーを守らなかったら、尚一層住みにくくなるじゃありませんか。自分で自分の首を絞めるような真似はやめましょうよ。「煙草吸ってもよろしいですか?」くらいの一言、スッと言えるようになりましょうよ。チャリンコ乗りながらのくわえ煙草も、もうよそうぜ。  
だから、分煙には大賛成だ。  
不快に感じる人に煙を吸わせる事はない。  
だが煙草を吸いたい我々にも、煙草を吸う権利を与えて欲しい。せめて喫煙コーナーを設けて欲しい。ちょこちょこあるにはあるけれど、無いところには徹底して無い。どこもかしこも全面禁煙てのは、いくらなんでも厳し過ぎるんじゃないですか。  
ねぇ、タクシーの組合の偉い人、3割くらいでいいから、喫煙の車を復活させてもらえませんか。JR東日本さんよ、JR東海みたいに、喫煙ルームが付いた新幹線、走らせてもらえませんか。飛行機はいいよ、空の密室なんだから我慢する。けど陸路の長距離、東京─秋田の4時間が全面禁煙てのはさ、ちょっと厳しいんじゃねえのかな。厳しいといやぁ神奈川県だよ。きっとあそこはまだまだ厳しくする気だよ。書店あたりにも手を回して、『愛煙家通信』なんて本は売らせない! ぐらいの勢いなんじゃないスかね。  
それに何が下らないったって、聞くところによるとアレですって?新規に撮られる映画では、喫煙のシーンがだんだん無くなってるんですって?  
なんだそりゃ。そんなに健全にしてどうすんだ。いやむしろ、それは不健全なんじゃないのかな。    
……でも、どんどん進んでいくのかな、こういう風潮。映画ばかりがターゲットじゃない。他の文化、芸能も、煙草は悪だの烙印が、次第次第に押されてゆくのだ。  
歌舞伎でも、『助六由縁江戸桜』は上演禁止の演目になる、「煙管の雨が降るようだ」なんて台詞は、もっての他だ。  
花魁の吸い付け煙草なんぞは、悪の象徴だから、廓が出てくる芝居は、全面禁止。『与話情浮名横櫛』も『髪結新三』も何もかも、煙管を使う演出は廃れてゆく。石川五右衛門も煙管を持つことは許されない。  歌舞伎ばかりではない。つかこうへいの名作『熱海殺人事件』も、主人公の“くわえ煙草伝兵衛”が引っ掛かって、二度と上演されなくなる。チェーホフの『煙草の害について』は、本当に題名通りの内容に書き換えられ、上演を推奨される。  
歌もそうだ。『スモーキン・ブギ』『プカプカ』『うそ』『ベッドで煙草を吸わないで』『タバコショーカ』なんて曲は、放送禁止、演奏禁止だ。他にもだ。まだまだだ。  
落語も『長短』『花見の仇討』『あくび指南』『莨の火』『三枚起請』その他、好ましくない噺は沢山ある。戦時中の禁演落語の復活だ。ネタはどんどん葬られてゆく。  
そんな中、かつての文化を懐かしむ人々は、隠れキリシタンのように地下の一室に集い、あの頃を偲んで秘密の上映会を開くのだ。  映画は『シェーン』。ラストの台詞、  
「シェーン! カムバークッ!」を、  
「紫煙! カムバークッ!」に置き換え、むせび泣くのである。  
そして、『愛煙家通信』は当然の如く発禁となり、発行者、編集者、執筆者は全員逮捕され、読者は罰金を科せられる。バックナンバーは、闇で高値で取り引きされるのだ。    
……そんな風になりそうだからさ、今煙草やめると、何かに屈したようで、嫌なのよ。  でもやめるけどね、そのうち。正確には、やめたいと思ってるんですけどね。  
つか禁煙ぐらい、圧力じゃなくて、自由にやらせてくれよ。 
 
山折哲雄  

 

ブラジルのリオ・デ・ジャネイロをはじめて訪れたのが、1989年の2月のことでした。霧雨のなかを空港に降り立ったとき、すでにカーニバルの熱気とサンバのリズムがこの街のすみずみを覆っていました。そこは北半球の日本とはうって変って、真夏のさかり……。  
ホテルに着くと、その大ホールはたくましい裸身に思い思いの扮装をこらした化物のような男や女が群れていました。褐色の肌が化粧と汗にぬれて照り映えている。表情はとみれば、すでに恍惚の果実を前に舌なめずりしているような気配がただよっていました。  
カーニバルとは、いうまでもなく謝肉祭のことです。古くからカトリックの国でおこなわれてきた祝祭で、飲めや歌えの乱痴気騒ぎをするお祭りであります。灰色で覆いつくされたような禁酒禁飲の街頭風景とは、まさに真反対の乱痴気騒ぎであるといっていいでしょう。  
その最大の演し物が、サンバのリズムにのる踊り手たちの千変万化のふるまいと、豪華な意匠に飾られ、珍奇な趣向をこらした数々の山車の運行にあったことはいうまでもありません。  
カーニバルのこの狂乱に参加するのは、その大半がリオのファベラ(スラム街)に住む人びとといわれています。ただ驚かされたのは、シルクハットにハイカラー、蝶ネクタイといういでたちはご愛嬌としても、あの「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラの豪華な衣裳をまとった姿をそのまま絵に描いたような「女王」たちが、つぎからつぎへと登場してきたことでした。  
価値の顛倒、といえばいえる。白人崇拝の倒錯、ともいうことができるでしょう。チラッとそんなことを考えていると、乞食姿をした約1000人の踊り手を登場させるチームが湧き上がる雲霞のごとくあらわれてきました。  
それにつづいてこんどは、妊娠7ヶ月前後の妊婦15人をサンバ行進の最前列にならべるといった離れ業までやって、大観衆の度肝をぬいたのであります。  
それからしばらくの時間が経ちました。  
2001年の8月下旬になって、私はふたたびブラジルを訪れる機会をえました。リオ・デ・ジャネイロまで足をのばしたのが今いった1989年2月のことでしたから、13年ぶりの再訪でした。  
このときはサンパウロである学会が開かれ、それに招かれた再訪の旅でした。8月の下旬で、地球の反対側ではようやく桜が散りはじめる季節を迎えていた。  
とにかく地球の反対側まで行くのですから、長途の旅になりました。成田空港からロサンゼルスまでが12時間、さらにロスからサンパウロまで同じように12時間、合せて24時間ものあいだ機内にとじこめられる。そのことに、もう怖じ気づいていました。  
こういう空の長旅をするとき、いつでも心を悩ますのがご存知の時差ボケです。70歳をこえた自分のからだがどれだけ耐えられるだろうかと、そればかりが心配の種でした。そこで、こんどばかりはその自分の歳のことも考えて一つのささやかな実験をやってみることにしたのです。機内での飲酒を極力ひかえることにしたのであります。水とジュースを飲むことに徹して、24時間囚人のような機内生活と時差ボケに対抗してみようと考えたわけです。  
それからもう一つ、帰りの飛行機では機内食をベジタリアン・フードに変えてもらうことにしました。これは普通食にくらべて味気がなく、けっしてうまいものではなかったのですが、ともかくそれで自分の体調がどうなるかためしてみようと思ったというわけでした。  
つまり、カーニバルの逆をやってみようとしたことになります。ちなみに私は、30代の後半に大量吐血して病院に運ばれ、4ヶ月の入院生活を送っているうちに、自然に禁煙の習慣が身につくようになりました。以来、今日までほぼ40年間、タバコを口にしていません。  
さて、さきの実験ですが、効果はてきめんでした。水とジュースと野菜食とで、腹のなかはいつも物足りない感じだったのですが、時差ボケの苦しみからはほとんど解放されることができました。睡眠もそれほどとれたとは思わなかったのですが、しかし不思議なことにからだ全体が軽く感じられ、そのころもつづいていた日本の熱帯性の猛暑のなかに降り立ったときでも、比較的さわやかな気分を味わうことができたのでした。  それがそのときの長途の旅でえた貴重な「発見」だったのですが、もう一つ、そのサンパウロで衝撃的なニューモードをみせつけられてびっくり仰天したことがあります。学会のあいまをぬって、現地の知人に食事に誘われたときです。  
かれはほとんどチェーンスモーカーに近いタバコ好きで、周囲に気をつかいながらもそれを片時も手放すことがありませんでした。その喫いっぷりがあまりにみごとだったので、思わず感嘆の声をあげたときでした。「このところショッキングなことがおこりましてね」といって、ポケットからタバコの箱をとりだし、その裏側のラベルをみせてくれたのです。  
何と、そこには、末期の肺ガン患者の憔悴しきったカラー写真の顔が大写しになっていたのであります。鼻孔と口からは管がさしこまれ、表情が苦しげにゆがんでいる。正視するに耐えないリアルな写真でした。タバコを喫いつづけると、こうなりますよ、という警告のメッセージでした。もっともそのタバコの箱の反対側にはきれいにデザインされた会社のブランド名が、これもじつにカラフルなデザインで印刷されている。どちらが箱のウラかオモテか知りませんが、タバコ喫みにとっての天国と地獄のイメージがまさに背中合せになって、そこに顔をのぞかせていたのです。  
知人の苦し気なつぶやきの声が今でも私の耳の奥にひびいています。そしてそれだけではない。そのタバコの箱の暗いデザインには、タバコの種類によってこのほかに未熟児で生まれた弱々しい赤ん坊、腹を大きくふくらませた妊婦などの写真までのっていることを教えられました。ベッドの上に若い夫婦がいて、妻の方が上体をおこして頭を抱えている。夫のインポテンツを嘆いている情景ではありませんか。タバコの害はここまで及びますよ、という脅しのデザインではないかと思ったほどでした。  
リオのカーニバルでは、あるチームが妊娠7ヶ月の妊婦15人をサンバ行進の最前列に並べていたことを、私は思いおこしました。同じ発想が、禁煙運動の最前線でも追求されていると思わないわけにはいかなかったのであります。  
仕事を終えて日本へ帰る途中、私は空港でそれらのタバコをたくさん買い求めて、しばらくのあいだ、ためつすがめつ眺め入りました。このような禁煙運動の趣向はもうアメリカなどではじまっているのだろうか。そしてやがて、この日本列島にも上陸してくるのだろうか。一瞬、不安にとらわれたことを覚えています。  
私は日本にもどり職場に復帰したとき、大量に仕入れてきたカラフルなデザイン入りのタバコを、タバコ好きの同僚や職員たちにお土産としてふるまいました。  
その効果やいかに、とうかがっていたのでありますが、それでタバコをやめたという人間は、その後いつまで経ってもあらわれませんでした。効果はまるでなかったということになるのでしょう。  
やはり、この日本列島における熱狂的なタバコ喫みたちは、いぜんとして天晴れ、というほかはないのかもしれません。  
 
諏訪澄 

 

タバコが気管支や肺にとって「悪い」かどうかは、なお議論の余地があるようだが、敢えて「良い」といい切ってしまうには、愛煙家たちも、いささか二の足を踏むことだろう。それでも、なお彼らは燻らし続ける。肉体や精神の活動が一段落した時、ひといき入れる─その玉響の安息が何物にも代えがたいからである。深々と吸い込み、消えゆく紫煙を眺める─その無為の時間を経て、私たちは次の山頂に挑むこともできる。これが喫煙の醍醐味であり、そして─かっては、それを傍らで見る者にとっても、ある種のダンディズム・洒落っ気を感じさせる情景だった。  
しかし、こんな単純な感想も、今日の居丈高な嫌煙論者にとっては黙過できないものらしい。スモーカーの「傍らにいる者」とは、まぎれもなく「副流煙」の被害者ではないか─との鋭い抗議が出されてくるかもしれない。理屈は、なんとでも付けられる。ただ、嫌煙論者たちは、「副流煙」(ケッタイな日本語だ。医学者と役人の合作なのだろう)を非難するのと同じ熱意で、その何百倍もの規模で呼吸器に影響を与える「排気ガスの害」減少に取り組もうとしたことがあるのだろうか。あまり耳にしたことはない。  
「社会の成熟度は、それの構成員たちが、いかに自らを『笑いもの』にできるかによって測られる」とは、戦前の中国人ジャーナリスト・林伍堂の言葉だが─声高に嫌煙を叫ぶ人たちは、総じて規格品のようにマジメで、あまり「笑い」とは縁がない。むろん、自らの在り方に、それを向けようなどとはしない。彼らは、ひたすら純粋無垢な使命感を振りかざしタバコの廃絶を─タバコ文化の絶滅をも目指す。ここでは、彼らにとっての「異端邪説」を、いくつか披露してみる。  
怒りのチャーチル像  
喫煙のダンディズムを採り上げようとすると、紙巻きタバコよりも、まず葉巻・パイプに眼が向く。前者は日常的で、その選り好みは、しょせん銘柄の違いに落ち着く。対するに、後者は、やや非・日常的と見られ、「小道具」も付いてまわる。シガー・カッターはヘンケルに限る─といった話題も豊富になる。   
その葉巻だが─20世紀の代表的スモーカーとしては、かっての大英帝国・首相チャーチルが挙げられる。ビッグ・サイズの葉巻コロナ・コロナをくわえ、指でVサインを送るポートレイトは切手にされるまで有名になった。ただ、これは第二次大戦の動向が連合国側優位に回った時点からのもので、開戦時、こんなポーズをとる余裕はなかった。  
ナチ・ドイツは破竹の勢いでフランスを降伏させ、ヨーロッパを席巻、ダンケルクに追い詰められたイギリス軍は、命からがら欧州本土から撤退した。続いて、ドイツ空軍は猛烈な空襲を続けた。「バトル・オブ・ブリテン」の開幕。連日、数百機の爆撃機・戦闘機が襲いかかり、イギリス本土に上陸する構えさえ見せた。  
危機のさなか、国民に団結を呼びかける首相の姿を撮影・宣伝することになり、スタジオにカメラマンが呼ばれた。首相は椅子に腰掛け、ポーズをとる。照明が当てられ、クローズ・アップの顔に焦点が定められた。準備が整った時、カメラマンは歩み寄り、くわえていたトレイド・マークの葉巻をその口から抜きとった。チャーチルは、この「無礼な写真屋」を下から睨みつけた。その時、シャッターが押された。 「イギリスは、絶対にドイツ空軍に制圧されない」と鋭い眼光で不屈の意志を示す肖像写真の傑作が生まれ、新聞・雑誌・ポスターを飾ることになった─。  
タバコを持つスターリンの手  
チャーチルは好みの葉巻を周囲に勧めた。大戦中、アメリカ・ルーズベルト大統領、ソヴィエト・スターリン書記長らと、テヘランやカイロで会談をした折り、3人が葉巻を楽しんでいる写真が残されている。  
それらのシーンで、スターリンは常に右手でタバコを持っている。これは、彼の左手が右に比べ短かった事情によると考えられる。S・モンテフィオーリの近著『スターリン/青春と革命の時代』(白水社)に、若年のヨシフ・ジュガシヴィリ(スターリンの本名)の正面からの全身写真が掲載されている。それを見ると、左手が明らかに右手より短い。これが先天的なものか、あるいはグルジアで銀行強盗を働いた時などの事故によるものなのか、現在なお明瞭でない(彼の2人の兄は、いずれも乳幼児で死亡。そしてヨシフの左足の第3・第4指の間には膜があり水掻きの形になっていた)。  
レーニン没後の権力闘争に勝ち抜き、恐怖の大粛清を行ない、彼が絶対権力を握った時から、ヨシフの全身の写真撮影は、神経質に扱われることになった。取り巻きはピリピリし、「片手落ち」などといった胡乱な言葉を使ったヤツは、即刻、「収容所」送りになるかもしれなかった─。  
少し脇道に逸れるが─例の銀行強盗の罪で、彼はシベリアに流刑となった。なんとか逃亡し、ロンドン・ウイーンなどに亡命した。1913年、ヨシフは、ウイーンのシェーンブルン宮殿から南西にある「ペンション・シェーンブルン通り」に滞留、レーニンからの課題論文を書いていた。今日なお残っているペンションの壁に、彼のレリーフが掲げられ観光客の眼を惹いている。  
同じ時期、宮殿北東の下町に、アドルフ・ヒトラーなる貧乏画学生が住み、似顔絵描きなどで細々と暮らしていた。つまり─30年後、不倶戴天の仇敵として死闘を繰り広げる2人は「ご町内」の間柄だった。宮殿近くの並木路の散歩で、すれ違っていたかもしれず、界隈のビア・ホールで隣り合わせに座っていた可能性もある。ただ、ヨシフはレーニンに倣ってパイプを燻らしていた。他方、アドルフは、今日の嫌煙家の次ぐらいにタバコ嫌いだった。2人が接近する機会があったとしても、親愛な関係になったかどうかは疑問である。  
鈴木貫太郎への贈り物  
ここで日本の葉巻愛好家として、終戦の大業をなし遂げた海軍大将・鈴木貫太郎に登場してもらう。1945(昭和20)年5月7日、78才の高齢で、アメリカ軍による連日の空襲下、彼は首相に就任した。その一週後、敵国大統領ルーズベルトの訃報がもたらされた。鈴木は少数のスタッフと図り、「アメリカ国民に対する弔意」のメッセージを同盟通信社を通じて送らせた。同時にNHK海外向け放送でも、同じ追悼文を流し、「特別の音楽」を奏させた。他方、ベルリン陥落寸前だったドイツの首脳部は、「戦争犯罪人の死で転機……」と燥いだ。欧米の新聞は、この対照的態度に関心を示し、トーマス・マンなどの知識人は、衝撃を受けたことを告白している。  
この時に遡る9年前、「二・二六事件」で、当時、侍従長を勤めていた鈴木は「君側の奸」として自宅で反乱軍部隊に襲われ、数発の弾丸を浴びせられた。奇跡的に生き延びたが─この事件は、当然に、彼の死生観を決定付けた。彼は、世の常の人のようには、個人の死を、また生を、重要関心事とはしなかった。彼の視野に大きなものとして映じてきたのは、国家の生死だった─。  
その鈴木が宰相になった、昭和20年の戦況は、日本帝国にとって絶望的な形で進行した。硫黄島が陥り、沖縄も奪われ─それでも「本土決戦・一億特攻」の狂信を制御するのは容易でなかった。そしてポツダム宣言・原爆投下─ここで鈴木は、暴発を抑えて戦争を終結させるべく、天皇に「聖断」を仰いだ。  
内外にわたる終戦の手筈・事務が、すべて完了した8月14日深更、阿南惟幾陸相が首相を訪ねてきた。陸軍・主戦派の主張を代弁し、あえて強硬意見を展開してきた非礼を詫びた。鈴木は「その立場上の意見として承っていた」と応じた。そして阿南は「南方からの到来物」といって、葉巻一包みを差し出した。陸相を送りだした書記官長に、鈴木は「彼は暇乞いにきた」といった。数時間後、阿南は自決した。主戦派への訣別の意志表明としての死だった。  
葉巻をくわえVサインを送るチャーチルの姿は朗然たるものだが、鈴木首相のそれには、この阿南の「形見分け」の情景が付いて回る。そこに悲愁の色が漂ってくるのは是非もない。ただ─鈴木その人についていえば、敗戦国家の首相になる運命ではあったが、間違いなく彼はグッド・ルーサー─「悪びれるところない敗者」たりえた。透徹した認識・判断を持ち、断乎とした行為で貫いた。その過程で、愛好した葉巻は一助となったことだろう。つまり─今日の嫌煙論者たちの父母・祖父母たちも含まれる数十万・数百万が、無駄な死を遂げないですんだことに、葉巻も力あったといえよう。  
戦後、彼は千葉県・野田市・関宿の故郷に帰り、梅の実を摘み、芋を掘り─晴耕雨読の日々を送っていた。その彼を、昭和20年12月初旬、幣原内閣の外相・吉田茂が、娘・麻生和子を連れて訪れている。枢密院議長への就任依頼だった。鈴木は固辞したが、情勢は、それを許さず、結局、承諾させられた。その折り、吉田は葉巻を持参していったと考えられる。この後も吉田は、時折、葉巻を贈っている。晩年の「ご奉公」の合間、2人は紫煙を楽しみ、洗練され、いくらか皮肉な巷談に興じていたかもしれない。鈴木は1948(昭和23)年4月17日、天寿を全うした。 
 
堤 堯  

 

「世界で初めて禁煙運動をやったのは誰か、知ってますか?」  
訊けば、正確に答えた人はこれまでに出会ったことがない。  
「ナチス=ヒトラーですよ」  
と教えれば、みんなビックリ。ナチスは国民の健康を理由に、禁煙運動を展開した。金髪・碧眼のアーリア人種を最良の人種とし、これの保存に躍起となった。あげくはユダヤ人600万人をガス室で抹殺した。  
実は筆者も3年前、『文藝春秋』(07年10月号)に掲載された養老孟司×山崎正和両氏の対談「変な国・日本の禁煙原理主義」で教えられた。2人の碩学にして愛煙家が、ここを先途と蘊蓄を傾けている。両氏が本書に転載を承諾されたとのことだから(感謝!)味読されたい。  
当時、当方はこの対談の重要ポイントに沿って、雑誌『ぺるそーな』に拙文を草した。以下に添削を加えて参考に供したい。  
笑顔のファシズム  
養老 あまり知られていないことですが、実は歴史上、社会的な禁煙運動を初めて行なったのはナチス・ドイツなんです。チャーチルとルーズヴェルトはタバコ飲みでしたが、ヒトラー、ムッソリーニはタバコを吸わなかった。ナチス時代のドイツ医学は、国民の健康維持について、先駆的な業績をいくつも挙げています。癌研究は組織化され、集団検診や患者登録制度の仕組みが確立された。その中で「肺癌の原因はタバコだ」という研究が発表され、禁煙運動が推進された。  
健康崇拝は禁煙に止まらない。精神患者の断種、さらには精神病患者や知的障害者の安楽死、最後はユダヤ人撲滅にまでエスカレートした。禁煙が優生学につながってしまったわけです。だから私は日本に「健康増進法」が出来たとき、真っ先にナチズムを連想しました。  
山崎 まさにそうなんです。日本が意図的にファシズムに向かっているとは思いませんが、繰り出される政策はファシズムと大いに通底している。厚労省が推進する「国民健康づくり運動」は、健康は「国民の責務である」とまで書いてある。酒は1日1合程度、1日1万歩歩いて、ストレスのない生活をしろとある。喫煙の害について知識を普及させ、公共の場や職場で分煙を徹底し、禁煙プログラムを普及させるとある。日本中の公的スペースから喫煙所が撤去され始めたのは、四年前にこの法律が施行されてからです。  
養老 そんな生活したらストレスが溜まるに決まっているじゃないですか(笑)…。  
四年前といえば、小泉純一郎が政権の座にあった。時の厚労相は柳沢伯夫だ。彼は当方と大学が同期で、クラスは違ったが、『柳沢は勉強は出来るけど常識に欠ける男だ』という評判をよく聞いた。だから後年『女は子供を産む機械だ』などとバカなことを言う。  
「予防医学」に名を借り、「健康」を理由に掲げてアレコレの政策をやる政権は、勢い人間の選別・差別に走る。喫煙者を非人間扱いし、弾圧する動きが鳩山政権でも加速している。すでに1箱100円の値上げに踏み切り、さらにこの2月18日、厚労省は飲食店など公共の場所での全面禁煙を打ち出した。首相・鳩山は言う。  
「国民のみなさんの御健康をお守りする意味でも、そうさせていただくのは良いことだと思います」  
例によって敬語過剰の言葉使いには虫酸が走る。ホンネは40兆円を割った税収見込みの穴埋めだが、「健康」を理由にするところがアブナイ。笑顔のファシズムだ。  
何の科学的根拠もない  
タバコの包装には「喫煙の害」が明記されている。これには何の科学的根拠もない、と養老さんは言う。  
養老 たとえば「タバコの害は医学的に証明された」と言いますが、この「医学的に証明された」がクセモノで、実際のところ、証明なんて言うのもおこがましい。私はいつも言うんですが、「肺癌の原因がタバコである」と医学的に証明できたらノーベル賞ものですよ。癌というのは細胞が突然変異を起し、増殖が止まらなくなる病気でしょう。暴走が起きるか起きないかは、遺伝子が関わっている。つまり根本的には遺伝的な病なんです。タバコを吸っても肺癌にならない、逆に吸わなくても肺癌になる人がいる…。  
手許のタバコの包装に次のような注意書きが刷られている。  
「煙は肺癌の原因の一つとなり、心筋梗塞、脳卒中の危険性や肺気腫を悪化させる危険性を高めます」  
これについて養老さんは言う。  
ー─曖昧な文言です。実はあの注意書きを決めた1人が東大の後輩なんですが、医者仲間で集まったときに「根拠は何だ」「因果関係は立証されているのか」と彼を問い詰めたらタジタジでしたよ…。  
タバコを吸わないのに肺癌で死んだ知人は枚挙にいとまない。当方などは20歳のときから喫煙を続け、睡眠と飲食の時を除いて、ほとんど四六時中、パイプを咥えている。タバコが肺癌の原因とすれば、とっくにこの世にサヨナラしていなければならない。  
横山大観も梅原龍三郎も、1日100本の煙草を吸いながら、共に90歳を超える長寿を全うした。映画監督・市川昆は、四六時中両切りのピースを咥えていたが、95歳まで生きた。これらを何と説明するか。  
08年、厚労省健康局は健康増進法に関する有識者検討委員会を設置した。委員の1人に望月友美子なる女性がいる。国立がんセンター研究所の「たばこ政策研究プロジェクトリーダー」だそうな。彼女は言う。  
ー─実効性を担保するためにも、罰則があるに越したことはないが、それは次のステップだ。国民には全面禁煙が一番と分かっていても、まだ分煙でいいじゃないかという意識がある。しかし、今回の通知が国民の意識を加速させると考えており、早ければ1年から3年で完全禁煙が実現することも考えられる…。  
この女は「国民」の名を騙って、自分流の理屈を押しつける。そもそもこの「検討委員会」なるものがクセモノだ。かつて委員になった山崎正和氏が体験談を語っている。会議の冒頭、医療局長がタバコの害悪は自明の理であり、この検討会では21世紀に向けて禁煙を推進する具体策を諮問すると宣言した。これでは何のために愛煙家の山崎氏を呼んだのかわからない。  
山崎 こんな風に結論が予定されている会議は初めてでした。しかも驚いたのは、反喫煙の根拠になっている調査の原資料の開示を要求すると、座長が「この資料は反喫煙論者にしか見せません」と言う。まさに正体見えたりです。あれは元国立癌センター疫学部長の平山雄氏の30年にわたる研究に基づくものとされている。でも原資料は見せないんです。  
養老 平山さんは世界で初めて「受動喫煙の害」を指摘した人ですが、彼の疫学調査にはその後、多くの疑問が寄せられています。中でも彼が主張した、いわゆる「副流煙の危険性」は問題外です。喫煙者本人が吸い込む煙よりも、周囲の人が吸い込む煙のほうが有害だという説ですが、科学的根拠はないのです…。  
「受動喫煙」については、以前からおかしいと思っていたが、これで分かった。酔っ払い運転は人を殺すが、「副流煙」は人を殺さない。アブナイというなら、よほど酒のほうがアブナイ。ちなみにわが家の居間の白い壁紙は、当方が吐き出す煙草のヤニで茶色に変色している。なのに、40年を超えて同居する家人はいまだにピンシャンしている。受動喫煙の害がホントなら、とうの昔にサヨナラしているはずだ。  
この平山某といい、望月某女といい、ともに国立癌センターの所属だ。どうやらここがタバコ有害説の発信元らしい。患者の命を救えなかった罪障感が、ことさら「自説」を増幅させているのではないか。  
紫煙は思索を誘う  
タバコが悪いというなら、紙がいけないのかもしれない。紙に沁み込ませた薬品が害をなす? かつて当方は1日に3箱、60本を吸った。ある日、咳が出て止まらない。咳は3ヶ月続いた。いよいよ肺癌かなと思ったが、紙巻を葉巻とパイプに変えたところ、1週間で咳は止まった。  
以来、喫煙コーナーに行くと、たしかに一瞬イヤな匂いがする。紙が原因ではないか。JT(日本タバコ)はあの匂いを消す工夫をしてくれ。タバコそのものがイヤな匂いを発するわけがない。当方がパイプを咥えていると、「いい匂いですねえ」とよく言われる。いつであったかパーティの席上、石原都知事が近寄って来て、  
「堤さん、いい匂いですねえ。葉っぱは何を使っているの? ボクもウチではパイプなんだ」  
タバコはコロンブスがアメリカから持ち帰った。インディアンが数千年も吸い続けたものが「健康」に悪いわけがない。チャーチルは1週間に100本の葉巻を吸った。愛用したダンヒルのチャーチル・サイズは、およそ15センチの太巻きだ。これを1週間に100本吸って91歳まで生きた。彼の母方はアメリカ先住民の血を引いている。DNAがなせる業だったのかもしれない。  
昭和の元勲・吉田茂はこのチャーチル・サイズを愛用した。レーニンもスターリンもパイプを愛用した。スターリンのパイプはレーニンの遺品だ。毛沢東も小平もヘビー・スモーカーだった。ヘミングウェイは紙巻を嫌って葉巻を好んだ。  
脳ミソの栄養になるのはニコチンと糖分の2つしかないとされている。発明・発見・藝術の多くは紫煙の中から生まれた。たとえばアインシュタインの「相対性理論」も、プッチーニの数あるオペラも、彼らがチェーンスモーカーゆえに生まれた。昨年、イタリアはプッチーニの生家を訪れたおり、ガイドがパイプを咥える当方に向けて、 「プッチーニの死因はタバコの吸いすぎでした」  
と言ってニヤリと笑った。因果関係も証明できないのに何を言うか、あれだけの傑作を遺せば本望じゃないか、恩恵を受けているのは誰だい? と言いたかった。三島由紀夫も1日に「光」を2箱吸った。  
「ハンフリー・ボガートの登場以来、タバコの吸い方、ダンディズムが難しくなったねえ」  
などと当方に語ったセリフが懐かしい。右に名前を挙げた著名な愛煙家たちが昨今の禁煙運動を知れば、「バカも休み休みやれ」と一蹴するだろう。タバコを咥えるとき、人はものを考える。紫煙は思索を誘う。それがイヤだから、タバコを弾圧しようとする?  
養老 最近はタバコそのものだけでなく、吸う人自体が「悪者」扱いされるようになった。禁煙運動家や健康至上主義の人々は、非常に権力的ですね。他人に生き方を押し付け、それに快感を覚えるタイプの人が多い。  
山崎 タバコに嫌悪感を露わにするのは、かつてヘビー・スモーカーだった人に多い。オレは苦労してやめた、努力しない奴は退治してやろうとなる。  
養老 禁煙運動家はタバコを吸いたい欲求に代えて、タバコを取り締まる権力欲に中毒しているといえる(笑)。  
山崎 本来タバコというのは何世紀もかけて作り上げられた祝祭的な社交文化でした。葉巻や長煙管の時代から、人々は紫煙を燻らしながら会話を楽しんだ…。  
ポロポロ出てくる「不都合な真実」  
某出版社の社長はヘビー・スモーカーだったが、何を思ったか突然禁煙に転じ、全社禁煙とした。その社の業績は目に見えて下落した。他にもトップが禁煙に転じて業績を落とした例がある。打ち解けた会話の不足、脳ミソの栄養を断った結果としか思えない。すなわち禁煙運動は「バカの壁」だ。  
両氏の対談のあと、文春の編集部員に会ったおり「近ごろ出色の対談だった」と褒めてあげたところ、なんでも抗議が殺到して、とりわけ「禁煙学会」とやらが両氏と公開の対決を望んでいると聞いた。もとより両氏がバカを相手にするはずもない。ミニ・ヒトラーが増えて来た。  
目下の世界的な禁煙運動の高まりは、かつて禁酒法を制定したアメリカに発祥する。禁酒法の苦い経験が生きていない。歴史の浅い国だからだ。この国はときおりファナティシズムに走る。アル・ゴア(元副大統領)の「不都合な真実」に始まるエコ運動もその一つだ。  
これを経済のグローバリズムと二本立てで輸出した。グローバリズムの正体はすでに見えた。フリーマーケットを強要し、カネのある者だけが得をする世界を目論む。彼らはドルをいくらでも刷れる。ポーカー・ゲームも所詮はカネを多く持つ者が勝つ。  
グローバリズムを辞書で引けば「干渉主義」とある。反対語はユニヴァーサリズム(普遍主義)だ。なのにグローバリズムを「地球的規模の普遍主義」と錯覚させて押しつける。禁煙・エコ運動にも「普遍」の鎧を着せた。ところがここへ来て、その「普遍」がボロボロになり始めている。  
07年、アル・ゴアはIPCC(気候変動に関する政府間パネル)と共にノーベル平和賞を授賞した。共に地球温暖化脅威論を提唱した功績による。ところがいまやこの脅威論には深刻な疑義が出ている。  
昨年11月、大事件があった。IPCCにデータを提供していた著名な学者のパソコンからデータが流出し、なんと数字の捏造が発覚した。エコが学者のエゴに起因する事実を示した。この「クライメートゲート事件」は、温暖化の脅威を喧伝してきた朝日新聞やNHKにとっては具合が悪い。報じたのは、ほぼ一ヶ月経ってからだ。欧米で大問題となるにおよんで触れざるを得なかった。  
さらにIPCCは「ヒマラヤの氷河が2035年までに溶ける」とした予測も間違いなら、「アフリカの農業は20年までに半減する」「アマゾンの熱帯雨林は40%が危機に瀕する」「オランダの国土は温暖化の影響ですでに55%が海抜ゼロ以下になった」…いずれもすべて科学的根拠を欠いた間違いだったと認めた。  
ことほど左様に「不都合な真実」がポロポロ出て来ている。いまや欧米では、地球温暖化説に深刻な疑義が巻き起こっている。それを日本の大手マスコミは知らせない。  
地球温暖化をめぐる「正統」と「異端」  
この2月下旬、注目すべき裁判が東京地裁で始まった。被告は東大総長・浜田純一、原告は名城大元教授・槌田敦。槌田は早くから地球温暖化の犯人が人為的CO2排出にあるとする「定説」に疑義を唱えて来た。    
槌田によれば─気温は太陽黒点の活動や雲の量(水蒸気は熱を貯める)などに左右される、気温が高くなればCO2は増える、CO2が増えるから気温が高くなるわけではない、話は逆だ、いわんやCO2犯人説は間違いだ、とする。  
対して「定説」を採る東大が「地球温暖化懐疑論批判」を関連の機関誌に載せ、槌田ら20人の「異端派」を槍玉に挙げ、「積み上げて来た科学理論を無視し、いたずらに世を惑わすもの」と批判した。反論を拒否された槌田らは「学者の社会的名誉を毀損された」として提訴した。地球温暖化をめぐる「正統」と「異端」の論争が、初めて裁判の俎上に乗った。例によって大手マスコミの報道は小さい。某日、小さな勉強会で「異端派」の学者に会った。  
「私も日本の国賊20人”の中に入っているんですよ」  
いまやエコ運動は一種の新興宗教と化している。信徒”からの電話や手紙で脅迫や泣き落としが続いている。  
「殺してやるぞというのと、頼むからそんなこと(CO2犯人説を否定する)は言わないでくれと懇願するのと2種類ですね。エコには政府から研究費が出る。関連のビジネスも始まっている。それがパーになるのが怖いんですよ」  
そもそも地球は温暖化より寒冷化に向かっている、地球は第二氷河期に入っているとする学者も少なくない。しかしそれをいえば村八分となる。産経新聞ワシントン駐在編集特別委員・古森義久氏のレポートによれば、  
ー─マサチューセッツ工科大学のリンゼン教授は「学界多数派の温暖化論に疑問を呈すると、産業界のイヌだとか頑迷な反動派だと罵られ、研究資金を奪われるような実例があったため、反対の声はすっかり少なくなっていた」と述べた…。  
「90年の罠」にひっかかった日本  
しかしいまや欧米では、地球温暖化論に深刻な疑義が巻き起こっている。なのに鳩山首相は09年9月、国連で世界に向けて公約した。  
「日本は2020年までに90年対比でCO2・25%削減を目指す」  
この数字はトンデモナイ意味を秘めている。早くから地球温暖化に疑義を唱え、エコ運動の虚妄・偽善を批判して来た武田邦彦教授の近著(『CO2・25%削減で日本人の年収は半減する』)によれば、  
ー─90年の日本のCO2排出量は11.4億トン。これを8.6億トンにする公約だ。ところが90年以降、排出量は増え続けている。07年は13億トン。経済成長の当然の結果だ。引き続き成長を望めば、CO2は年に約0.78%の増加率で増える。よって20年の予想排出量は14.4億トン。これを8.6億トンに削減するには約40%の削減が必要となる。25%どころではない…。  
これを強行すれば、国民に塗炭の苦しみを強いることになる。日本はすでに省エネで世界のトップを走る。ダイエットに喩えれば、体重を最も絞っている。さらに40%を絞れというのは、ガリガリに痩せろ、いや、拒食症で死ね、即身仏になれというにひとしい。  
日本の排出量は世界の4%。日本がいかにダイエットに努めようが、大勢に影響ない。なのに自ら求めて「90年の罠」にひっかかった。90年を基準年に取り「チームマイナス6%」などと浮かれた。  
他のデブ大国はどうか。さきのCOP15(ストックホルム)でも、中国は「途上国」を自称し、他の途上国の音頭を取って参加しない。アメリカは調印したが批准しない。この2国で世界の排出量の40%を占める。カナダも不参加。ロシアにいたっては36%の排出権の余裕を得た。イギリスはすでに排出権市場で大儲けしている。  
さきの勉強会でこんな発言があった。  
「京都議定書のおり、イギリスの高官がカーボン・マネーを提示した。ドルやユーロに対抗して、通貨の基礎をカーボン(炭素)に置こうというわけです。いかにもイギリスらしい策略ですなあ」  
前記の「40%」を実現するには、武田教授の試算によれば、20年までに65兆円の費用が見込まれる、ならばロシアから毎年1兆円で排出権を買え、と教授はいう。もとよりこれは皮肉な反語だ。日本は本来、何もする必要はない。「日本並みの省エネをやったら話に乗るよ」と鷹揚に構えていればよろしい。なのに「マイナス6%」を公約したばかりに、毎年2兆円に近いカネを排出権市場に支払っている。不確かな議論に踊らされ、国民の血税を他国に貢いでいる。企業なら、こんな役員は背任罪に問われる。いわんや65兆円とは!  
さきのCOP15でも事件が起こった。地元デンマークの担当大臣(女性)がヨーロッパやアメリカに有利な「合意原案」を事前に作成して、それがバレて辞任した。ことほど左様に世界は腹黒い。国際会議は狐狸の騙し合いだ。アホな「友愛」が「地球を救え」と出て行くから、このような次第となる。  
エコ運動と禁煙運動は通低する  
武田教授は言う。むしろ地球は冷えつつある。だから「将来に備えていまこそCO2を出すべきだ」と。チーム鳩山にすれば「暴論」であろう。しかしこちらの「暴論」のほうが、よほど説得力を持つ。  
エコ運動と禁煙運動には通低するものがある。ともに不確かな議論を振りかざし、反対する者を弾圧する。あげくはカネを毟り取る。現にエコ運動の主導者ゴアの「不都合な真実」の半分はタバコ撲滅論を展開する。    
養老 ゴア家はタバコ農園を経営していたんですが、喫煙者のお姉さんが肺癌で亡くなる。ゴア家はタバコ農業をやめ、そればかりか、タバコ産業そのものを断固潰すべしと立ち上がる。タバコは姉の仇というわけです。  
山崎 ベトナム戦争のあと、アメリカを束ねていた愛国心やピューリタン的な道徳が根本から揺らいだ。同性愛も妊娠中絶も、キリスト教以外の信仰も認めなければならない。何か咽喉に引っかかったような感じになった。そこで誰もが一致して反対できる都合のよい「敵」を探し始める。選択肢は2つ。煙草かエイズか。結局は煙草が選択された。なぜならエイズの原因とされていた同性愛を好むのは、ハリウッドスターとか芸術家とか社会の上流層で、タバコを吸うのは中流以下が多かったからです。アメリカ人が大麻に寛容なのも同じ理由からです。そういえばゴアの息子も大麻で逮捕されていますしね(笑)…。  
ゴアは大統領選に挫折した。「姉の仇」から「地球を救え」にスライドしてノーベル賞を得た。タバコからCO2へ─その効果には本人もビックリだろう。政治学者ラスウェルは、私憤を公憤に置き換えるところに政治的行動の本質を見た。公憤は興奮に通じる。同じような事情が挫折した数学者・鳩山由紀夫の興奮にも見て取れる。  
そのゴアが、このところの「地球温暖化懐疑論」に向けてNYタイムスに論文を寄せ、「小さなミスが環境問題をぼかすのに利用されている」と、自説をあらためて強調した。温暖化論を覆す数字の捏造を「小さなミス」とするところ、政治資金の数字を偽装しながら、「知らなかった。単なる記載ミス」と言い張る誰かに似ている。  
アメリカ人は物事を「正か邪」で決めたがる。「賢か愚か」で決めない。戦争をすれば「正か邪」で、無条件降伏を押しつける。南北戦争以来の「伝統」だ。かつて酒は悪だ、いまやタバコは悪だ、さらにCO2は悪だとしてシャニムニ撲滅を図る。さきの学者と勉強会のあとで、こんな会話があった。  
「地球の寿命はどこまで来てます?」  
「半分です。あと50億年。いずれ新星爆発して消滅します」  
「人類が暮していける状態はいつまで?」  
「CO2がなくなれば一巻の終わりです。何といってもCO2が生命の源ですから」  
「そのCO2を地球を挙げて減らそうとしている。なんだかバカみたいですな」  
「権力中毒」からくる喫煙者弾圧か?  
ところで鳩山民主党は綱領を持たない。世界の政治史にも珍しい政党だ。綱領は結党の精神・目標を言う。会社でいうなら定款だ。定款を持たない会社は公認されない。銀行はカネを貸さない。そんな政党に票を振り込めと、マスコミは「政権交代」を囃し立てた。民主党の某幹部は言った。  
「ウチは選挙集団であって政党じゃありませんから」  
政権獲得だけを掲げて集まった烏合の衆・不定形の集団は、勢い独裁者を生む。ヒトラーが好例だ。そういえばナチ党も綱領を持たなかった。すなわち民主党も同じ道を進んでいる? なぜ綱領を持たないのかと訊かれてヒトラーは答えた。  
「わが党の綱領はワグナーである」  
彼はリヒャルト・ワグナーをことのほか好んだ。ワグナーを聴けばアドレナリンの排出が高まる。フランシス・フォード・コッポラは映画「地獄の黙示録」の戦闘場面で、ワグナーの「ワルキューレの騎行」を高らかに鳴らした。ワグナーは戦争の音楽だ。くらべてモーツアルトは平和の音楽だ。聴いていて心地良い。専門家に言わせれば、彼の音楽が持つ「f分の1」のリズムは、万物を司る宇宙のリズムと共通だそうな。  
民主党の独裁者・小沢一郎は心臓を患ってタバコを止めたと聞く。加速する喫煙者弾圧も、養老さんいうところの「権力中毒」から来ているのかもしれない。彼がワグナーやモーツアルトを聴くかどうかは知らない。酔えば八代亜紀の「舟歌」を歌う。怨歌だ。小沢も弁護士を目指して挫折した。怨念から良きものは何も生まれない。パイプや葉巻を吸いながらモーツアルトを聴く、そのような政治家の登場が切に待たれる。  
全国の喫煙者は2400万人。確たる理由もなしに白眼視され、あげくカネまで毟り取られる。そろそろ立ち上がるときが来たのではないか。  
 
大朏博善 

 

じつのところ、今の私はタバコを手にしないから愛煙家ではない。学生時代から吸い始め、一時はかなりのヘビースモーカーとなったが、三〇代の半ばから喫煙頻度が減って、四〇才になる頃には吸わなくなっていた。  
だから、もうタバコの値段もまったく知らないという状態にある。では、禁煙派なのかといえば、特に喫煙を自ら“禁じて”いるのでも“禁じられて”いるわけでもないから、禁煙家とも禁煙派ともいえない。単に、今は吸っていない、というだけのことである。  
そんな状況だから、バリバリの嫌煙派を自認する人と喫煙問題をテーマに雑談するハメに陥ると、なんとも奇妙なやりとりになる場合が多い。  
「習慣となっていたタバコを止めるのは大変だったでしょう?」。まず、これだ。  
いえ、とくに訳あって止めたわけではないから、一大決心なんかとは縁がなくて、辛くも苦しくもなかったですけどね。  
「ということは、喫煙なんてものは無意味だと気がついて止めたと?」  
それほど大袈裟な分析をしたわけでもなくて、強いていえば嗜好品として強い興味を惹かなくなったということかな。喫煙が習慣として問題だと思うかどうかは、その人によって違うんじゃないですかね。  
「でも、吸わなくなったら体調が良くなったとか食べ物がうまくなったとか、禁煙によっていろいろ変わったでしょう」  
灰皿が不要になったぶん周囲の景色は変わったけど、体調ウンヌンというほどの変化はないですけどね。そういえば、机回りや部屋の掃除は少し楽になったかな。女房もそういいますね。  
「そもそも、タバコは周囲の人に迷惑をかけることが多いじゃないですか。煙いし、臭いしで、ね。それだけでも問題だな」  
そりゃそうかもしれないけど……。草野球好きは人前でバットを振り回さない、犬好きの人は愛犬を無闇に吠えさせないよう気をつける。音楽ファンは、名曲といえども人ごみで音漏れを起こしてはいけない。“自分の好きは他人の迷惑”かもしれないのは、タバコに限った話じゃないでしょう。  
「だいたい、健康に良くないのが明らかな行為を、日常的に平気でやるその神経がわからないんですよ」  
ここまでくると、というか強固な嫌煙派との会話は大体こうなるんだけど、「血液型性格占い」と同じくらいバカバカしい展開なので、その場から退去するようにしている。  
しかしここでは、そうもいかない。科学ライターとして喫煙問題・禁煙ブームに一言となったら、いいたいことはある。  
たしかに「喫煙のリスク」をテーマとする報告書は相当な数が存在する。なかでも、対象がタバコだけに呼吸器系との関係を調べたものが多く、気管支炎や肺ガンへの関与についての調査報告が目立つ。また、動脈硬化といった循環器系疾患との関係を述べているものも見られる。“リスク”をテーマとして報告している以上、タバコの関与の有無についての判定はもちろん「クロ」である。  
こうしたことから一般的な評価は、喫煙は健康被害をもたらす、つまり「タバコは健康に良くないに決まっている」ということになっている。  
だが、ちょっと待ってほしい。“健康に良くない”って、いったい何だ?  
以前、落語を聞いていて、「何が健康に悪いかってえと、生きていることが最も身体に悪い」という落ちに出会って、深く頷いてしまったことがある。考えてみればまったくその通りで、自分では健康生活を送っているつもりでも、いつ何どき、何が原因で健康を損ねる結果になるかわかったものじゃない。  
その良い例が、誰でもできる“健康スポーツ”の代表とされるゴルフ。特別な筋力も必要でなく、爆走するわけでもないから、中高年にもお勧めの健康法とされる。だが、その一方で運動中の突然死(心筋梗塞や脳卒中)が多いスポーツとしても有名。一説によると「ゴルフ場十か所あたり年間一人」の割で突然死が起きているという。グリーン上でのパットなど緊張を強いられるのが原因だ。  
だからといって、ゴルフは健康に悪いからなるべくしないようにしましょう、などとは間違ってもいわれない。せいぜい心臓が悪い人は気をつけましょう、ですむ。要するに、突然死のリスクとスポーツのメリットを秤にかければ、メリットのほうが大きい。そうなって初めて、だからゴルフは健康的に良いスポーツなのだ、といえることになる。  
「だったら、“喫煙のメリット”に関する医学的報告はあるのか?」との質問が飛んでくるだろう。  
そんなものはない。いや、あるかもしれないが、日の目を見ることはないだろう。なぜかといえば、このご時世に「タバコが生理的・心理的にプラス作用を及ぼす要因を探る」なんて研究テーマを立案する奴はいない。研究費はどこからも沸いてこないし、下手したら研究者としての椅子をなくしかねない。  
医師の中でも、特に外科医などには「手術後の一服はストレスを解除してくれる」としてタバコを手放さない人は多い。だが、患者に向かう時は隠れキリシタンよろしく「まあタバコは止めましょう」と“医学的指導”を行ってしまう。禁煙を言い立てたほうが時流にあっているというだけではなく、警告となる調査がある一方で、喫煙メリットに関する調査も研究もないのだから、とりあえず禁止との方向性を出さざるを得ないのだ。  
つまり、喫煙のリスクに関しては国を挙げて研究・広報体制が整えられているが、逆のメリットに関しては調査研究そのものが行われていない。そんな片手落ちの“喫煙調査”において「悪い報告ばかり。だから健康に悪いに決まっている」と強調してみても、なんの説得力もない。  
せめて先のゴルフのように、スポーツをすることのメリットと緊張を強いられることのリスク、この両方を天秤にかけて論じないことには、正当な論評とはいえないだろう。  
ここで少し詳しく述べるならば、先に紹介した喫煙リスクに関する数々の調査報告でさえ、正確には“喫煙と健康との関係”を報告しているものではない。単に“喫煙が生体に及ぼす影響の可能性”について報告しているにすぎない。  
「喫煙と××」と題する調査研究のほとんどは「疫学研究」という、医学的というより数学的手法で進められ結果が求められる。  
まず、気管支炎とか肺ガンとか動脈硬化といった単一のターゲットを決め、タバコを吸う人のグループと吸わない人のグループでは、疾患の発生率がどの程度異なるか?といった確率の比較をもとに、喫煙と特定疾患との関係性を探ろうとするわけだ。  
この手法、かつての水俣病(有機水銀が元凶)のような公害による健康被害に関しては、たとえば有機水銀といった極めて特殊な物質がターゲットだったことから、数学的処理においても明確な結果を示した。ところが、ものがタバコという“誰もが触れるチャンスのある”物質で、しかも調べたい疾病が生活習慣病に分類される“頻発する病気”となると、その因果関係を確率の相違として明瞭に描くには限界がでてくる。  
各種の調査がいうように、喫煙の有無によって発生率が異なる疾病がある、という点については認めよう。しかし、愛煙家は何らかの形で“喫煙のメリット”を享受しているのかもしれない、という視点が最初から抜け落ちているのは異常。健康を医学的に語るには完全な“片手落ち”である。声高に嫌煙を言い立てるならば、まず天秤の向こう側に喫煙家と喫煙メリット調査を載せる。タバコをめぐる議論はそれからだ。 
 
花岡信昭  

 

今度は大増税…たばこのみを狙い撃つ“空気”への大いなる違和感  
マナー違反は厳しく指摘してもらって当然ながら、  
一方的な負担増と投網をかける一律排除の思想はいかがなものか  
「日本に妖怪が排徊している。禁煙主義という妖怪が…」  
マルクス、エンゲルスの共産党宣言を借用するのも気が引けるが、なんとも面妖な「空気」が支配している現状は、まさにそう形容していいのではないか。  
たばこというものは個人の趣味嗜好の分野に属するもので、他人が容喙すべき対象ではない。吸おうが吸うまいが、成人であるならば、個人の自由と責任においてそれぞれが判断すればいい。まことに簡単な話だ。だいたいが、大の大人に向かって「たばこを吸うな」と要求するのは、きわめて失敬な振る舞いである。それが、いまの日本では禁煙、嫌煙を主張する声ばかりが正義派と見られ、これにちょっとでも抵抗しようとすると、すさまじい攻撃を浴びる。  
日本の喫煙率は男性40%、女性13%程度だ。喫煙人口2700万人。女性の社会進出が進んだとはいえ、立法・司法・行政の現場や一般企業、大学そのほかほとんどの組織体では、依然として男性優位社会であることに違いはない。ここは誤解のないように書かなくてはいけないが、これは男社会を単純に肯定しているのではなく、身の回りの現実をそのまま表現しているにすぎない。  
いいたいことは、男の40%が喫煙者なのだから、社会の主要な組織体では、喫煙者のほうが多いのではないかという直感的な現実である。数字でいえば男女平均の喫煙率は26%程度だが、実態からすれば、喫煙者の存在は決して小さなものではない。それが、禁煙・嫌煙論者ばかりが声高に叫び、喫煙者の反論は追いやられてしまう。  
いつから、喫煙は悪であり、喫煙者は世の中の動きから取り残された指弾すべき落伍者である、といった感覚がまかり通るようになってしまったのか。  
たしかに、世間には喫煙者と非喫煙者がいるのだから、煙や臭いがいやだという人はいるだろうし、アレルギー体質の人もいるだろう。だから、人間の知恵として「分煙」という手法が定着してきた。排煙、消臭のテクノロジーは光触媒など最先端技術を用いて高度化しつつある。それはそれでいい。  
昔、焼き肉屋といえば、煙が充満しているのが普通で、衣服に臭いが染み込んだものだったが、いまや、無煙が当たり前になった。排煙技術の格段の進歩による。これと同様のことがたばこの世界で拡充されるのは結構なことだ。  
ではあっても、筆者がささやかに発信しているブログ、メルマガへの読者コメントなどを見ても、禁煙・嫌煙派の言い分は度が過ぎているように思える。「50メートル先で吸われると臭いがただよってくる」「ホームの喫煙コーナーの脇を通っただけで気持ちが悪くなる」といった具合である。  
人間はそこまで「ヤワ」になってしまったのか。  
たばこ以外にも他人の迷惑になるものは無数にある。電車に乗れば、汗臭い人はいるし、女性の香水も人によっては不快な臭いになる。知人の女性経営者は女性専用車ができたというので朝の出勤時に乗ってみたら、すさまじい脂粉の洪水に息が詰まり、次の駅で車両を代えたという。  
深夜、終電近くなると酔客ばかりが増える。酒臭い息を吐きながら大声で上司の悪口を言い合っているサラリーマンを見かけるのも稀なことではない。そういう車内でも、ほとんどの人はじっと耐えている。  
電車の中で娘たちは化粧をしている。人前で化粧するというのは娼婦だけの“特権”なのだが、いまの「母親」たちは、そういう教育を娘にしていない。だから「親学」の必要性が叫ばれる。いくつかの大学で講師をしているが、夏場になると女子大生のヘソ出しルックがやたら増える。六本木あたりを闊歩していたほうがいいようなスタイルで彼女たちは大学に来る。「きょうは何個ヘソを見たよ」と家人に報告するのが、筆者の「おやじ的イヤミ趣味」となった。  
ことほどさように、世の中には「いやなこと」「見るに堪えないこと」が多いのだ。それでも、まあ、人それぞれだからとたいていのことには我慢する。それが、こと、たばことなると、とたんに人々の許容度が極端に小さくなるのはどうしたことか。その先になにやら危険な兆候はないか。そこを、あれやこれや慎重に配慮しながら考えてみたいというのが、本稿の趣旨である。  
喫煙という行為の個人的意味  
論を進める前提として、筆者の立場を明らかにしておかなくてはなるまい。四十年来の喫煙派である。一般の範疇からすれば、ヘビースモーカーに属するだろう。  
だが、一方でまったくの下戸である。アルコール分解酵素がないのだと思う。若いころ、懸命に「修業」し、吐きながら頭痛に耐えて転がりまわる思いも重ねたのだが、ついにだめだった。新聞社の社会部にいたころは、相手が警察当局者だったりするから「オレの酒が飲めないのか」とやられ、無理をして飲んだ。  
政治部に異動して、政治家にはそういうタイプはほとんどいないことを知り(政治家でも飲まない人は結構いる。飲むのなら徹底して飲めなくては政治家は務まらない。新年会でお流れ頂戴を途中で切り上げるわけにはいかないのだ)、以来、飲まなくてもすむようになった。宴席ではシラケさせてはいけないから、ウーロン茶で饒舌になり、歌いまくるという芸当も覚えた。  
この稿はそういう立場で書いている。とはいっても、喫煙派ではなかったとしても、昨今の禁煙主義の異様さには強烈な違和感を覚えたに違いない。現に筆者のもとには、「私は、たばこは吸いませんが、禁煙派の一方的な主張には賛同できないものがあります」といった声も寄せられている。  
子どものころ、学校の先生はたばこ臭いのが当たり前だった。当時はフィルター付きではなく「両切り」が普通だったから、右手の人差し指の先はヤニで黄色くなっていた。職員室はたばこの煙が充満し、これがある種の権威の象徴のように思えた。そういえば、映画館でもたばこを吸うのが当たり前のように容認されていた。列車は向かい合わせの木製座席が普通で、窓の下に灰皿が付いていた。当然ながら禁煙車両などなかった。  
新聞社に入って、社会部の駆け出し時代を思い出す。あのころのデスクは夏場にはステテコにランニングシャツ、首にタオルをかけ、素足にサンダル履きというのが一種のステイタスとしてのスタイルだった。いま、これをやったら、女性記者が圧倒的に増えたから、ただちにセクハラとして非難されるだろう。  
アルマイトの灰皿が大量にあって、ときに部下の動きがもたもたしていたりすると、これが飛ぶ。デスク席の灰皿はすぐいっぱいになる。新聞社は紙を大量に使うから、脇にドラム缶のようなゴミ箱があり、横着なデスクはここへたまった灰皿の中身をごそっと捨てる。ときにくすぶり出してきて、水持って来い、とデスクの大声が飛ぶ。  
いま、新聞社の編集局もたいていのところは、禁煙である。パソコンの画面を見て仕事しているから、筆者の若いころに比べると、編集局がやたら静かになった。他社の幹部に聞いてみると、どこもそういう雰囲気らしい。大きな事件、事故が起こると、デスクの怒声が飛び交い、戦場のようになったものだが、いまは逆に静まり返る。みんなが画面に集中するからだ。出来上がった原稿や写真を走って運ぶ「坊や」(学生アルバイトをそう呼んだ)もいなくなった。画面間の送信で瞬時にしてすんでしまう。  
勤めていた新聞社が新ビルをつくることになり、担当部局から設計図の説明を受けたときのことを思い出す。論説委員室の代表として会議に出ていたのだが、禁煙ビルにするという。「何を考えているのか。新聞社のビルをつくるんだろ。禁煙にして原稿が書けるか」と大喧嘩になった。  
結局、ワンフロアに一ヵ所ずつ小さな喫煙ルームをつくることで折り合った。ビルが完成してから、困ったことが起きた。論説委員室と喫煙ルームはフロアの対角線の反対側に離れてしまった。原稿に詰まると、吸いたくなる。喫煙ルームに行って、想を練りながら一服する。日陰者扱いされている喫煙者たちのたまり場となるから、いきおい禁煙・嫌煙派への批判話で盛り上がり、思わぬ他部署の友人ができたりする。それはいいのだが、その間に原稿の進行具合はすっぽりと抜け落ちる。  
席に戻って途中まで書いた原稿を最初から見直し、どこでつまずいたのかを思い出す。いかにも非効率きわまりない日常となってしまった。たばこでリズムをつくりながら原稿に向かうという長年のスタイルが崩れてしまったのである。  
個人的な喫煙事情ばかりで恐縮だが、本論まで、もうちょっとお付き合い願いたい。たばこを吸うという行為はきわめて個人的なことであって、ここを詳述しておかないと、理解してもらえないと思うからだ。  
職業病といっていいのだろうが、自律神経にやや変調をきたしてしまった。引き金となったのは、いま考えると昭和天皇の崩御に至る過程である。小さなテレビを買ってきて、夜、枕元に置く。音は消して、NHKの画面を付けたまま寝る。一、二時間おきにちらっとテレビを見る。二重橋が映っていたら、なにごとも起きていないということだから、また寝る。これを長期間やったのが原因だろうと思う。  
歩道がゆらゆらと揺れて歩けない。昼食を食べにレストランに入っても、食事が出てくるまでに、めまい、吐き気に襲われ、食べられないまま店を出る。湯船につかってからだを温めてしまうと、湯あたりを激しくしたような症状に見舞われる。体温の変化に即応できないのだ。だから冬でもシャワーだけにした。  
いくつもの病院にかかって、全身を検査したが、なにもおかしなところはない。ようやく、症状がぴたりとおさまるクスリが見つかり、いまでもこれを常用しているので、日常生活になんらの支障はない。その過程でひとりの医師から言われた。  
「たばこによって気分が落ち着くなら、吸ってもいいですよ。私はむやみに禁煙しろとは言いません」。これが筆者にとっての喫煙続行の根拠となっている。  
ことほどさように、喫煙というのは個人的な背景を伴った行為なのだ。たばこを吸う自由。これは、吸わない自由と同様の重みを持つ。禁煙・嫌煙派はたばこの害ばかり強調するが、たばこを吸わなくてもがんになる人はいる。90歳を過ぎても「きょうも元気だ。たばこがうまい」という人もいる。  
たばこの害を強調する側は、吸う本人もさることながら、「受動喫煙」が他人に被害を及ぼすのだと指摘する。本当にそうなのか。これは携帯電話が心臓ペースメーカーに悪影響を及ぼすというのと同様の話ではないのか。  
電車に乗ると、あの車内アナウンスにはほとほと嫌になる。「優先席の付近では電源をお切りください。それ以外ではマナーモードにして通話はお控えください」。車内での大声電話が基本的な社会規範に反した行為であるのはいうまでもないが、仕事上、やむをえないケースもある。  
筆者の新聞社時代の同僚は、工程管理の責任者だったとき、夕刊段階でシステムダウンしたという連絡を通勤途中の電車内で受けた。同僚は周囲の冷たい視線の中、携帯電話で指示しまくったのである。  
車内での携帯電話の使用は常識に委ねるべきである。それが成熟した社会のまっとうなあり方だ。こういうアナウンスを何度も聞かされると、日本はなにやら「管理社会」に向かってまっしぐらに進んでいるのではないかと感じてしまう。有名なジョージ・オーウェルの「1984年」は、人々の生活を完璧な管理下に置いた。これは何をおいても願い下げである。  
だいたいが、携帯電話の電波によってペースメーカーに異常をきたし、重大事故が起きたという報告は世界中にもないのだという。ペースメーカーを装着している人で携帯電話を所持している人を筆者は知っている。優先席付近では電源を切れと指示するのは、どういう根拠に基づいているのか。  
禁煙・嫌煙派の主張はこれに酷似している。あるいは、反捕鯨団体の行動を想起させる。クジラを食用にする文化があるということに思いをはせない想像力の欠如である。そこには基本的な人間としてのたしなみ、異文化への畏敬の念が完全に欠落している。  
「健康ユートピア」が孕む逆説  
このあたりから、本論に入らねばならない。  
禁煙主義の主張の集大成ともいうべき文書がことし(2008年)3月、発表された。日本学術会議の「要望 脱タバコ社会の実現に向けて」という報告書である。異様なのは、冒頭に報告書作成に携わった百人ほどの学者らの名前が列挙されていることだ。こうした報告書の審議メンバー一覧は末尾に置くのが通常のパターンなのだろうが、全国の有名病院の院長、大学の医学部長ら、その道の権威の名がずらっと並んでいる。  
報告書の要旨は容易に想像できる内容だが、喫煙による直接的健康障害に対しては議論の余地はなく、受動喫煙の被害についても論争に終止符が打たれた、と断じている。その上で、(1)たばこの直接的・間接的健康障害についての教育・啓発 (2)喫煙率削減の数値目標設定 (3)職場・公共の場所での喫煙禁止 (4)末成年者喫煙禁止法の遵守(5)自動販売機の設置禁止、たばこ箱の警告文を目立つように (6)たばこ税の大幅引き上げ (7)国民を守る立場からの規制…などを打ち出している。  
日本を代表する斯界の重鎮が勢ぞろいして一大禁煙キャンペーンに乗り出したのである。健康被害に関する報告書であるならば、まだ理解できる。だが、日本学術会議の名で、たばこ増税や喫煙率削減の数値目標設定といった次元のことまで提起するというのはいかがなものか。  
ロバート・N・プロクターというペンシルヴェニア州立大学教授(科学技術、医学専攻)の「健康帝国ナチス」という著書がある(草思社、宮崎尊訳)。それによれば、ナチスはがん研究を国家的に進め、たばこを初めて肺がんの原因として特定していた。医学者を総動員して、一1939年に「義務としての健康」という国家スローガンを採用した。ヒトラーはたばこ嫌いの菜食主義者だったが、個人的嗜好にとどまらず、国をあげての反たばこキャンペーンを展開したのである。  
この本はその過程を克明に描いている。健康キャンペーンはやがて「人体を蝕むがん、社会を蝕むユダヤ人」というレトリックに用いられた。反たばこ運動家が「健康ファシスト」とか、ニコチンとナチを合成して「ニコ・ナチ」と呼ばれるに至ったことが、この著書からはよく分かる。著者は、ナチズムで分かりにくいのは合理性と狂気がないまぜになっていることで、その謎のギャップを埋めるのが健康ユートピア願望なのではないか、としている。  
「ファシストの理念が描いた研究の方向とライフスタイルが、今日ともすれば理想と考えられるものといかに類似しているか」という指摘は実に示唆に富む。ナチスが総力をあげたがん撲滅、反たばこ運動の底にある世界観と、ホロコーストや強制断種を生んだ世界観は共通していた、というのである。  
この稿の冒頭で、禁煙・嫌煙主義を「妖怪」になぞらえた真意はそこにある。個人の趣味嗜好に属する喫煙という世界に公的分野が乗り出すことの「あやうさ」を指摘しないわけにはいかない。その先に「1984年」の世界、さらにナチズムの根本原理が隠されていることの危険性にもっと敏感になるべきである。  
禁煙・嫌煙主義と政治的思惑の結合  
ここへきて禁煙・嫌煙主義が一段と高まった背景には、まず、自動販売機の成人認証カード「タスポ」の導入があげられる。WHO(世界保健機関)が2003年に採択した「たばこ規制に関する枠組条約」に基づく措置だ。日本は2004年、国会で全会一致による可決、承認を経て、世界で19番目の締約国となった。  
この枠組条約では、たばこ規制のための中核機関の設立、たばこ価格・税の引き上げ、職場・公共の場での受動喫煙の防止、たばこの警告表示の強化、たばこ広告の包括的禁止、禁煙治療の普及、末成年者への販売禁止などを盛り込んでいる。「タスポ」はこの未成年者への販売禁止措置の一環として導入されたものだ。  
だが、「タスポ」の普及率は現在、喫煙者の25%程度にとどまっている。運転免許証でも代用できる仕組みにしたのだが、これも装置の製造業者が一社しかないこともあって、徹底していない。  
「タスポ」はその目的とは裏腹に未成年への販売禁止にどれだけ貢献しているのか、きわめて不透明である。事前に試験導入された鹿児島では、親や先輩からカードを借りて購入するといった抜け道の横行が指摘されている。県警本部の売店で、店員がカードを取得して自動販売機の脇に吊り下げておき、これをこともあろうに摘発する側であるはずの県警職員たちが使ってたばこを購入していたという事実も明らかになった。「タスポ」は譲渡、貸与が禁止されているのである。  
「タスポ」の問題点は実はもっと根深い。日本たばこ協会などの業界が自主的に導入しようとしたが、零細な小売店は販売機の改修費用がかかるとして難色を示した。そのため、たばこ業界を監督する財務省に業界が「行政指導のお願い」を求め、財務省理財局がこれを受けて「お上の名」によって導入を「指導」したものだ。  
たかが、たばこを買うという個人的行為の分野に行政権力が乗り出すという不可解さを深刻視しなくてはならない。「タスポ」はICチップを埋め込んだカードで、その権威性を高めるためとして写真添付が義務付けられている。導入全体には1000億円ほどの事業費がかかっているが、NTTが加わっており、自動販売機にアンテナが設置された。「タスポ」を使うと、だれが、いつ、どこで、どういう銘柄のたばこを購入したかという情報が瞬時にして集約される仕組みだ。  
筆者はいまだに「タスポ」を申し込む気にはならない。これまでもコンビニでカートン買いをしてきたし、たばこ購入という私的行為を業界団体に把握されることへの嫌悪感が先に立つ。したがって泊まり込みの講演旅行などのさいは、2、3個をかばんに放り込んで出かけることになる。喫煙者にとっては夜中にたばこが切れたときほど切ないことはなく、見知らぬ土地でホテル周辺のコンビニを探して歩くのも厄介だからだ。  
やや余談になるが、このコンビニの深夜営業自粛の動きも、たばこ規制や携帯電話の使用制限と同根の管理社会的発想であることを指摘しておこう。ライフスタイルが多様化している現代にあって、コンビニの深夜営業禁止という方向は「夜は眠るもの」という一面的発想の押し付けにほかならない。  
「タスポ」に続いて「たばこ1000円構想」が禁煙・嫌煙派を勢いづかせることになる。日本財団の笹川陽平会長が産経新聞の「正論」欄で主張したのが発端だ。笹川氏の主張は、英米並みの価格にすれば9兆円の税収となり、たとえ喫煙人口が3分の1に減っても3兆円見込めるといった趣旨であった。それにより、健康被害の減少、国民医療費の抑制につながるというものだ。  
笹川氏が指摘したように、日本のたばこ価格はたしかに安い。ざっと国際比較をすれば、イギリスでは1300円、フランス780円、ドイツ650円、米ニューヨーク州760円(アメリカでは州によって喫煙の害に対する意識の差があり、反たばこ意識の強いニューヨーク州は高価格となっている)などである。  
これに自民党の中川秀直元幹事長が飛びついた。中川氏自身は一日二箱のヘビースモーカーなのだが、民主党の前原誠司氏らを引き込み、超党派の「たばこと健康を考える議員連盟」を結成して、1000円キャンペーンに火をつけた。政治が乗り出すと、笹川氏の当初の考えとは違う思惑が入り込むことになる。  
中川氏は経済成長によって税収増を果たそうという「上げ潮派」の代表格である。福田政権擁護の意味からも、消費税引き上げは回避したいところだ。  
来年度(2009年度)、基礎年金の国庫負担分を3分の1から2分の1に引き上げるため、2.3兆円の財源が必要とされていた。消費税は1%で2.5兆円見込めるため、消費税の引き上げを避けては通れないという前提に立った話であったはずなのだが、たばこ増税構想によって、消費税論議はどこかへ吹き飛んだ。  
自民党の税制調査会は消費税の本格論争が必至と見て、例年なら秋にスタートさせる論議を前倒しし、7月初旬から議論を開始した。だが、たばこ増税案によって早くも消費税論議は棚上げ状態だ。「足して2で割る」のが政治の常道だから、1000円を打ち上げておいて、500、600円程度で決着させることになるのではないか。基礎年金財源の不足分は特別会計などに隠されている「埋蔵金」によって賄うことになる。  
支持率低迷にあえぐ福田政権に消費税論争を大々的に展開するパワーはないと見ていい。福田首相もいったんは「決断の時期」と大見得を切ったのだが、「2、3年で判断する」とトーンダウンしてしまった。  
禁煙・嫌煙主義の高まりと政治的思惑が結びついて、たばこ価格の大幅引き上げが実施されることになる。筆者自身はたとえ1000円になろうとも「たばこを吸う自由」を守りきるため、あらゆる経済的工夫をしようと覚悟を決めている。要は優先順位の問題だ。たばこを優先させるのであれば、昼飯を抜けばいい。メタボ対策にもなるではないか。  
それにしても、「たばこ=悪」という発想はいかにも一面的で矮小である。日本ほど酔っ払いに寛容な国はないのだから、むしろ、アルコールの害を喧伝し、規制に乗り出してほしいようにも思う。  
「雨、雨、ふれふれ」で有名な八代亜紀のヒット曲「雨の慕情」(阿久悠作詞)は、長い月日の膝枕で膝が別れた恋人の重さを覚えているとし、「たばこプカリとふかしてた」という一節がある。このほんわかとしたシーンに隠された泣きたくなるほどの情念。これが人間の人間らしいところなのだが、禁煙・嫌煙ファッショが世を覆うようになれば、こうした情念もどこかに押しやられ、やがて消え去ってしまうのだろう。  
 
高橋洋子 

 

かつて煙草は格好の小道具だった。  
スクリーンの中で、多くの役者たちが、何と小粋に、またはおしゃれに煙草をくゆらせてきたことか。  
ハンフリー・ボガードの唇には、いつも煙草が斜めにくわえられていた。その半ば閉ざされた口から、鼻にかかったような嗄れた声が吐き出されるのである。  
それに憧れて、くわえ煙草を真似するのが、『勝手にしやがれ』のジャンポール・ベルモンドだ。冒頭のシーン、マルセイユの港町でボガードの映画を観終えたベルモンド。さっそくボガードのポスターの前に立ち、同じようなポーズで煙草をくわえ、ソフトの傾きをちょっと直す。ここから映画はスタートする。  
いわば煙草から始まる名画といっても、過言ではない。  
もちろん女優たちも、華麗に煙草を吸ってくれた。『俺たちに明日はない』のボニーとクライド。ボニーはクライドと知り合わなければ、テキサス州の田舎町で、ありきたりなウェイトレスとして日々を過ごし、平凡な結婚をしていただろう。だがボニーは、クライドの盗みに輝きを見た。失業者があふれ、荒廃がアメリカ全土を覆っていた時代。盗み奪う行為が媚薬に映ったのだった。  
二人で手を組み、銀行強盗をくり返すが、もはや追われる身。焦りと未来のない孤独の中でくゆらす煙草。ボニー役のフェイ・ダナウェイの煙草を持つ長い指と、何度煙を吐き出してもぬぐえない哀しみ。  
あの横顔は忘れられない。  
また、おしゃれでチャーミングな煙草もあった。『ティファニーで朝食を』のオードリー・ヘップバーン。まっ黒いカクテルドレスに身を包み、手には長いキセルを持っている。そして可愛らしく、ちょっと口をすぼめてキセルを吸う。あのヘップバーンの大きな瞳に、美しく紫煙が舞っていたではないか。  
思い起こせば、切りがない。数々のシーンを作り上げてきた煙草。セリフを吐かなくても、煙草の吸い方ひとつで、何かを語ってくれたものだった。  
映画に限らず、実生活においても、煙草は心のありかを、表現してくれる。  
何か言いよどんだ時、ふっと静かに吸う。もうご破算だとばかり、灰皿の中で乱暴に揉み消す。もう彼女は来ないかもしれないと、ホームで待つ男は、靴でつぶした吸殻を数える。その吸殻の数で、おおよそ待った時間が、わかるというもの。  
だが、こうした風景も現在はなくなってしまった。ホームも喫煙禁止。都心部の路上も禁止。室内に至っては、もっとひどい。  
飲食店は吸えなくなった。ホテルも全館禁煙にすると胸を張る。  
煙草って、そんなに悪ですか?  
そもそも煙草は嗜好品だ。嗜好とは、栄養にはならないが、好みで飲んだり食べたりするもののこと。酒、コーヒー、煙草が代表格である。だが、酒やコーヒーは、嫌われない。コーヒーショップは、増え続けているし、酒だって、ちびちび値上がる発泡酒は別として、全体に価格は安くなってきている。  
それに比べて、煙草ばかりが高くなっている。一箱500円に値上げすれば、やめる人が増えるのではないか、とほくそ笑んでいる人たちがいる。  
映画ではないが、勝手にしやがれ、放っといてくれ、である。  
その忌み嫌われる原因は、受動喫煙だろう。吸っている人のそばにいたら、ワタシモ吸ッタト同然。健康ニ害ナノヨ、となる。根元は健康。  
だがその健康に銘打ったものに、何があっただろうか。  
紅茶キノコの濁った液体を飲みましょう、とか、自家製ヨーグルトの白ペンキのようなドロドロを、毎日食べましょう、とか折々流行ったが消えていった。中には、自分の出した尿を毎朝飲みましょう、なんていう不気味なものまであった。  
テレビの中で、コップ一杯程の自分の尿を、うれしそうに飲み干す人たちを見て、あきれ返ったものである。  
健康ブームというのは、あやうさとまやかしの間で成り立っているようだ。  
すると煙草だって体にいいことになる。  
一服すると、気持が和らぐ。あるいは、ちょっとした緊張をもたらし、仕事が捗る。精神の扉をコツコツと叩き、適度の刺激を与えてくれるものなのだ。  
食後の一服は、本当に旨いんですよ  
この自由は奪わないでほしい。それに分煙になってから、喫煙者たちのマナーのいいこと。駅や空港で指定された狭いブースに入り、「あっ、あなたもですか。ぼくもですよ。仕方ありませんね」というように煙草を吸い始める。言葉は交わさなくても、暗黙の了解がある。だが狭いブースから、人々の行きかう広いホームを眺めると、何だか迫害された流浪の民のような気もしてくる。  
ある夜、新宿でタクシーに乗った。終電時間を過ぎていた。帰る方法は、タクシーしかない。ここからだと家まで軽く5、6000円は掛かるな、と思った。  
シートに身を沈めると、目の前に大きく禁煙のマーク。移動する個室を買ったようなものなのに、ここでも煙草は吸えない。私はポツリとつぶやいた。  
「ああ、みんな禁煙になっちゃって」  
「すみません。わたしも心苦しいですよ」  
「前には、煙草が吸いたくて、乗ってくるお客さんもいたでしょう?」  
「いました。新幹線から降りて、ああ三時間も我慢したよ、とうれしそうに吸ってましたね。中にはちょっと走って、吸いたいから、なんてお客さんもいたなぁ」  
「へぇ、吸える空間を買ったというわけね」  
「そうそう。一人でのびのび吸えるからね」  
「でもタクシーは、個室なのに、どうしてダメなの?」  
「吸わないお客さんが、匂いがイヤだって、言うんでね。まっ、まだ厳しくないころは、吸いたいお客さんには、吸わせてましたよ。で、降ろした後に、窓全開にして、バーッと走っちゃうの」  
「冬でも」  
「そう。冬でも。気持ちいいですよ。眠気も飛んじゃうし」  
「運転手さん、煙草は?」  
「吸いますよ。休憩の一服は旨いねぇ。もう40年の友ですよ」  
車は外苑西通りの木立ちの多い地区へ来ていた。木立の彼方に、巨大な六本木ヒルズのビル群が見える。  
「ああ、知ってるわ。この辺りでよくタクシー停めて、休んでるわよね」  
「そうそう。ここはタクシーの休憩所ね。車停めてもうるさくないから。みんなここで、一服やってるよ。昼はいい木陰だしさ」  
「夜だったら、あのビルの明かりがきれいでしょうね」  
「ああ、あんな贅沢なもの建てちゃってさ。タクシー代数百円節約して、あの上で高いもん食ってんだろ」  
「小さなとこから、削っていくのね」  
「でもさ、世の中、余分なものがないと、つまんないよね」  
「タクシー代とか、煙草とか」  
「それそれ。好きなもんは、吸わせろっていうんだ。お客さん、もう煙草吸ってもいいですよ。帰り窓全開で、バーッと走っちゃうから」  
「あっはっはっ」  
私は笑い出した。余分なものがあってこそ、いい社会。取るに足らないものを、珍重している人だっている。余分なものは、余裕ともいえる。私は窓にそびえるヒルズの明かりを、あらためて仰いだ。人々の視線は、あのまま上へ行くのか、下の巷に注がれるのか。  
余裕のある社会とは、ささやかな愉しみを奪う社会ではないはずなのだが。 
 
渡辺慎介  

 

松沢知事、まだやるのですか! 思わずそう叫んでしまった。知事の多選ではない。海水浴場の禁煙である。6月4日(09年)付本紙に大きく報道された記事を読んだ感想だ。受動喫煙防止条例に次ぐ、知事のパフォーマンスだろうか。  
21日付の本紙社説にもこの問題が取り上げられているが、4日の記事の補足と精神論に終始し、新たな展開は認められない。  
受動喫煙の議論では、分煙の効果は期待できないと誰もが主張する。しかし、新技術も開発されている。神奈川科学技術アカデミーの藤嶋昭理事長が発見した酸化チタンの殺菌・消臭効果を利用した喫煙室がそれだ。  
JR東海の最新車両N700系新幹線に設置されている。喫煙室の外の通路ではたばこのにおいはまったくない。扉を開けると中に喫煙者がいたが、それでもにおいは気にならない。こうした先端技術の活用も視野に入れるべきだろう。  
「知事は『利用者のマナーに委ねられる部分が大きく、砂浜での歩きたばこや吸い殻のポイ捨ては多い』と、モラル頼みでは限界があることを指摘する」(本紙記事)。  
ここでは、テーブルマナーのように、習慣的動作に関する約束事と理解されるマナーではなく、社会的行動規範としての倫理の意味にマナーが使われている。喫煙が趣味・嗜好の範疇を超え、倫理の問題に格上げ(?)された。  
海水浴場の禁煙もよいだろう。しかし、もし禁煙化するなら、知事はマナー不足の県民を非難し、罰則を定める前に、まず海水浴場の随所に喫煙所を設置すればよい。  
喫煙が黙認されていた時代と異なり、制限される昨今では、たばこ税は納税者である喫煙者に還元されてしかるべきだろう。  
たばこ税で喫煙所を作る、そうした政策転換の表明なしに、喫煙する県民の意識改革のみを要求するのは、どだい無理がある。このままでは、喫煙者と非喫煙者の対立をいっそう煽るだけである。  
これまでの知事の発言を突き詰めると、喫煙と受動喫煙は人々の健康を損なう公害、ということになるだろう。  
そうであれば、禁煙の呼びかけよりも、たばこの製造・販売禁止が抜本的、かつ万全の公害対策になる。知事は、まずたばこという公害から得られる“不浄な”たばこ税の受領を拒否し、公害撲滅に邁進してはどうだろうか。これこそ、世界に誇る神奈川の先進力として、多くの県民の評価を得ることは請け合いだ。  
そうでなければ、喫煙者の健康は自己責任とした上で、最新技術とたばこ税を使い、喫煙者と非喫煙者の共存を模索すべきだろう。  
 
さかもと未明  

 

最近また禁煙の声が喧しくなって、愛煙家の肩身はますます狭くなっている。私自身は三年前(二〇〇五年)に禁煙したのだが、「歌を歌いたい、素敵なヴォーカリストになりたい」と思ったからで、そうした動機がなければ今も吸っていただろう。健康にいいとは思えないし、匂いや煙を嫌う人がいることは承知しているが、愛煙家だった頃を振り返ると、原稿書きの合間の一服、急いで仕上げなくてはならない原稿に向かうときの集中力を高める一服は、実に至福の瞬間だった。  
タバコを吸わない男性と交際していたとき、「接吻のとき、どうもヤニ臭くて気持ちが萎えるから禁煙を考えてくれまいか」と言われたことがある。考えはしたものの、実行しないうちに別れてしまった。「タバコは健康に悪い」という嫌煙家の主張に抗うようだが、その頃、私の人生にタバコは必要だったのだ。昨今沸き起こっている税収増のためにタバコを一箱千円にするという議論にも、何かとても嫌なものを感じる。  
自分の健康を守りたければ自分で考えるし、本当にタバコには害悪しかないのだとしたら、そもそも国が販売を認めるなと言いたい。健康には悪いけれど、税収増には貢献してほしいというのはいかにも恣意的ではないか。喫煙者だけを“隔離”するような流れの中で議論が進められることは決していいとは思われない。  
健康に悪い、周囲に迷惑をかけるということが問題視されるなら、飲酒も同様ではないのか。たとえばドメスティックバイオレンスや鬱病などに飲酒が深く関わっていることは否定できないだろう。私見にかぎれば、飲酒がもたらす害悪は、喫煙のそれよりも深刻ではないかと思う。タバコもアルコールも成人であることを確認されなければ買うことはできないが、自動販売機の“仕掛け”一つ見ても、タバコだけが別に扱われている。あえて言うのだが、「タバコ=悪」という単純な決め付けは、とりあえず「エコ」と言っておけば好感度が上がると勘違いしているタレントが増えたのと似た感じがする。人の世はもっと複雑多様なのではないか。  
「絶対文句を言われないような清潔で健康的な価値観を口にしておけばとりあえず安全」という社会は、本当に安心できる社会だろうか。たしかに健康や長寿は大事だ。しかし、人生の目的を健康や長寿にではなく、若くして灰になろうとも悔いない充実感に求める人もいるだろう。あるいは、自分の弱さと向き合う、付き合うために、「害がある」と言われても、タバコやアルコールを友とする人もいる。私はそれを「いけないこと」とは断じえない。多少ヤバくても、そうした陰影、按配、加減を許容してやれる社会のほうが、人の世は幸せなのではないか。  
「清潔で健康的な社会」が過度に志向され、現実社会の枠組みから、陰影や按配、加減が抜け落ちていくとき、社会はある種の統制に向かっていくものだと思う。そこに残るのは、蛍光灯で真っ白に照らし出された影のない部屋のような、清潔だが人間味の薄れた社会である。人間は自分の欲望や弱さと折り合いをつけながら生きてゆくものだ。昔の男なら、甲斐性さえあれば「飲む打つ買う」は許された。ではそれが否定される今の世の中のほうが、男も女も幸せの度合いが増したと言えるだろうか。制度や仕組み、法律だけで人間の幸福は計れない。  
男子中学生が刃物を手にバスジャックする事件があった。ふられた女の子の気を惹くために級友から十万円集めようとしたのを父親に咎められ、生まれて初めて殴られたことに腹を立てての犯行だという。近所の人たちのコメントに、「子供を甘やかしすぎたのではないか」というのがあった。しかし、私たちは大概「どんなことがあっても体罰はよくない」とそれを封じる議論に首肯してきたのではないか。  
問題なのは、体罰の効用を無条件に否定する「理想的な教育」への過度の志向だ。「何事も言葉で言えば分かる、通じるというのは奇麗事なのだ」という現実と向き合えば、「体罰が必要な場合もある、そのほうが子供を立ち直らせることができる」という判断のあり得ることに行き当たる。ここにも「喫煙=悪」という構図に似て、「体罰=悪」しかない。体罰の効用を語ることすら許されず、聞こえのいい理想論で真っ白く、不気味に教育の現場は塗り込められていく。陰影や按配、加減といった思考を放棄した大人たちへの復讐のように、時折信じられないような少年犯罪が起きる。  
喫煙、飲酒、体罰、それから友情や恋愛なども、人間にとって毒であり、薬であり、生きていくうえでの妙味である。私たちはその効用と害悪を勘案しつつ、ほどほどの満足と他者への寛容を身につけるべきではないか。人の世に理想は必要だが、理想に囚われすぎると、お互いが窒息するような社会をもたらす。 
 
伊集院静  

 

早いもので、この連載をはじめて四ヵ月が過ぎた。  
まともな文章を何ひとつ書かずに、愚痴ばかりを書き殴っていたら、周囲から声が出た。  
─ー愚痴ったり(それ日本語かね)、怒ったりしてばかりは身体に悪いよ。  
身体にいいから何かするってのも、大人の男がすることには思えないがね。  
たばこの税金が一本あたり何円だか上がるそうである。  
総理がのたもうた。  
「私はたばこを吸わない。環境、人間の体の面から見てどうか。増税という方向はありうべしかなと思う」  
オイオイ、それじゃ何か、喫煙者が煙草をふかしてるのが地球に悪いのかね。  
ー─いや知らなんだ。  
焚火も禁止するかね。どんど焼きも、護摩を焚くのも禁止かね。宗教弾圧だろ。焼イモ屋も逮捕だな……。  
それにしても煙草を吸ってる人が可哀相である。まるで罪人扱いじゃないか。  
よく若い人が煙草を吸ってる年寄りにむかって嫌な顔をするのを見るが、失礼である。  
君たちが、そうやって何もしないで生きてられるのは、その年寄りが頑張ってきたからである。それに、健康に悪い、と言ったって、年寄りは百も承知で吸ってるの。残りの人生をイライラして何年か生き延びるより、ああ美味いな、と一服してる方を選んでるの。  
こうしてたばこ税を上げて行けば、そのうちたばこを吸ってる人が金満家の基準になったりするかね。  
掏摸なんかも、煙草を買ってるところを見つけて、あとを追うようになるのかね。  
たばこ税どんどん上げろ。  
じゃんじゃん働いて、じゃんじゃん吸ってやるから。株の買い支えじゃないが、私が吸い支えてみせるから(何を言ってるんだろうね)。  
「また今週も愚痴ですか」  
「やあY君(この連載の担当者)、君も吸うのかね。偉いね」  
「ちっとも偉かありませんよ。女房にもやめるように言われてるんです。それより、この連載が暴走しないように、本来の大人の男の流儀の話に戻しましょう」  
「そんなのあったっけ?」  
「それで今週から大人のお洒落というか、身だしなみについてお願いします」  
「………」  
「急に黙んないで下さいよ」  
「わかった」  
ー─大人の男の“お洒落”か……。  
私はこれまで大人の男の“服装”についてと、同じく大人の男の“食”についての文章をほとんど書かなかった。“食”に関しては、この連載で何度か書いたように、いかなる名文家が書いても、そこに卑しさがつきまとう。  
“服装”または“お洒落”について書くと、そこにイタリア料理好きの男に似て、軽薄さが漂う。いや漂うんじゃなくて、聞いていて、君は四六時中(へんな言葉だが)自分のお洒落のことばかりを考えてるのか、他にやらねばならないことがあるだろう、と思ってしまう。  
では“お洒落”以前に大切なことを少し書く。 “身嗜み”のことである。  
酒場などで待合わせた友が、礼服にネクタイであらわれたりする時がある。  
友はカウンターにドサリと座り、最初の一杯をやり、大きく吐息をつく。そうしてネクタイを外す。  
友が招かれた立場か、招いた立場かはわからないが、大人の男には身なりをただしておもむかなくてはならない席、場所がある。  
そこに出ることが恩義の、友情の、証しであったりする。  
“身嗜み”でまず必要なのは、体調だ。体調を整えておかなくては、その席で相手に気がかりを与える顔色をしていては失礼だからだ。  
顔色からしてそうなのだから、自分の五体を整えねばならない。  
髪、髯、爪……匂いにいたるまで整えておく必要がある。これが基本だ。  
基本がそうであるなら、服装、髪型、態度は何を基準にするか。  
それは清い容姿である。潔いかたちを主旨としてすべてを整える。それで十分。  
若い人には、若者なりの潔さがあり、三十歳、四十歳にはそれなりの清さ、潔さがあって当然だ。  
ー─流行はどうするのか。  
これは難しい。基本としては不必要だが、時代遅れのものを平然と身につけて立つのは、当人の神経を疑われる。かと言ってさっきのイタメシ野郎(差別用語か、イタリア料理好きの男)のように流行に敏感過ぎるのは軽薄に見える。  
出かける前に鏡を見て(そういうのはナルシストみたいで……いいから見ろ)、大丈夫だと判断したら出かければいい。  
ー─大丈夫じゃないかもと不安なら?  
出かけなきゃいい。家でやんなきゃなんないことが一杯あるでしょう。  
服装に関しては失敗をおそれないことだ。少し難しいと思うデザインのものもトライしてみる方がいい。その人なりのきちんとした身なりを修得するには、初めの内は“十回”着たもの(買ったものでもいいが)の“七回”は失敗だと考えていい。そうして覚えるのが身なりというものだ。  
これは“食”と同じで何度も失敗して得るものなのである。  
しかし流行や髪型よりも上手にあるのは“姿勢”である。  
“姿勢”とは、姿、かたちを含めた精神である。大人の男の精神とは何か?  
それは“胆”である。“胆”については次週に書く。  
「それにしても今夜も二日酔いででれでれですね、伊集院さん」それがどうした?  
今週の流儀  
男の身なりの基本は“清さ”である  
 
白川道  

 

文化をどう伝えるかが肝要なのに  
わたしは愛煙家というより、ほとんどニコチン中毒で、毎日80本ぐらいたばこを吸っている。目覚めてからは、たばこを吸わずに呼吸している時間のほうが短いぐらいだ。今では他のなにを禁じられるよりも、たばこを禁じられるほうが辛い。禁煙する酒場にはお目にかかったことはないが、近ごろの食い物屋では禁煙となっている店も多く、店に入ってまず目を光らせるのは、店内の雰囲気やメニューなどではなく、喫煙が可か否かという点だ。禁煙だったら、たとえどんなに良い店だろうと即座に出てしまう。  
だが喫煙家が肩身の狭くなっている今の風潮に文句を言うつもりはない。たばこ嫌いの人の主張することにも理解はしている。財政が困窮している今、たばこに増税することだって黙認もしている。しかし、そりゃないだろう、という1件を耳にした。2日前の本紙(『夕刊フジ』)にも掲載されていたが、例の「禁煙絵本」の発売中止騒動だ。じつは、だいぶ前、つまりこの騒動が勃発する以前に、この話は聞いていた。ご存知ない方に、ざっと解説すると、某出版社の絵本シリーズのなかのひとつの物語「おじいちゃんのカラクリ江戸ものがたり」と題したなかで、たばこ好きのおじいちゃんが孫に江戸時代の暮らしを説明する場面での描写がたばこを吸いすぎるということで、一部の嫌煙家から抗議を受け、出版を中止したというのである。嫌煙家いわく、子供に悪影響を与える、とのことだ。  
ふざけるな、である。まるでモンスターペアレンツの書籍版である。抗議する嫌煙家の頭も疑うが、その抗議で出版を取り止める出版社もどうかとおもう。おじいちゃんの話す内容が子供に悪影響を与える、というのなら話はわかる。むかしは当たり前のようにいたたばこ好き。おじいちゃんは、たばこ好きで生きてきたのだ。そのおじいちゃんがたばこをくゆらせながら、江戸の昔話を語る姿のどこにどう問題があるというのか。話のなかに、たばこのパッケージにある「ほんとうは体に悪いのだが」とでもいうような台詞でも加えろというのだろうか。じつはこの手の抗議がまかり通る今の風潮がおかしい。書籍は文化であって、その文化をどう子供に伝えていくのかが肝要なのである。  
わたしがこの話にいささか過剰気味に反応するには理由がある。わたしは子供相手の小説は書いていないが、わたしの書く小説の男主人公は皆愛煙家である。健康で、誰からも愛される正義漢でなんの屈託もない─。そんな男性主人公には興味がないから、たばこを吸わせる。たばこを吸わせながら悩ませ、女と寝かせる。たばこを吸わぬ心身共に健全な男が、ひとり部屋にこもり、あるいはひとり海辺に立って憂いに浸らせたところで絵にはならない。だからたばこを吸わせる。  
したがって嫌煙家の人はわたしの小説など読まぬほうがいい。  
もう時効だから話そう。こんなこともあった。日本を代表する某大スター。彼の主演した映画のノベライズの仕事を受けたことがあった。ノベライズというのは、映画を書籍化することがある。わたしは小説のなかで、主人公にたばこを吸わせた。しかし抗議を受けて、たばこの場面を削除した。実生活で某大スターはたばこを吸わないというのである。以来、二度とノベライズの仕事は受けないと固く心に決めた。主義に反する仕事は、禁煙宣言より辛いからだ。 
 
上坂冬子  

 

禁煙の理由を聞いてみると、大抵健康を損なうとか煙が周囲に迷惑がられるだろうとか、ことさら枝葉末節な理由に終始している。  
どの理由も本人が正々堂々と生きるためにとり立てて害があるように思われない。何となく因縁をつけられているような気がする。  
例えば、たばこの税金は直接的な収入になるともいう。ストレートに課税して後腐れがないから、もちろんたばこ税は簡便に違いない。それをまるで本人の健康を思いやっているかのごとく周辺の人々とのイザコザを避けたり、平穏な幸せを優先しているかのごとく言いまくるあたりが、私には気に入らない。ましてや環境保護の一端を担っているかのごときはこじつけといってもいいだろう。  
個人がたばこを遠慮したからといってグローバルな環境が保護されているだなんて。個人の安楽と社会的安穏とを比べれば、私は個人の安楽を優先したい。たばこは2000年も前から人々に愛用され続けてきたと聞いた。そんな話を聞くと、なおさらたばこというのは人々にとってよほど魅力的な嗜好品であるということがわかる。私は酒もたばこもやらないが、それをのむな吸うなというのは無理な話に思われる。ましてや周囲に“気兼ねして”禁煙とは。  
個人の健康は個人が守るべき問題だ。はたから「それ言わんこっちゃない。吸いすぎたから肺がんにつながったのだ」などと余計なお世話だ。確たる根拠があるわけではないし、仮に根拠があったとしても本人の自己責任というべきだ。無分別に吸ったりのんだりして、「それみろ」と言われるのは本人としては覚悟の上だろう。それをことさら避けたりすれば、本人が心掛けるべき人生のポイントを外した以外の何物でもない。  
それにしても何たることだろう。最近の禁煙席の多いこと。用意された所定の喫煙席に男も女も所狭しとひしめき合い、まるで犯罪者のように小さく身をすくめて吸っている。こんな光景を見ると、近ごろ人間のスケールが小さくなったと言われるのはこのあたりに原因があるのかもしれない、などと変な連想がわく。  
どんどん吸えとは言わない。周囲など無視しろとも言わない。しかし、物には限度がある。1箱1000円にしてはという説がまかり通っているのを見ると、まともな議論はこんなところから崩れていくのではないかと、あらぬ心配までしたくなるというものだ。  
2000年も前から人々が愛用している嗜好品なら、魅力的なものに違いないではないか。そんなに良いものなら喜んで取り入れて、死んでいけばいいのだし、愛煙者としてもそれで本望であろう。嗜好品は自由意思である。それが原因で死ぬのがいやなら、本人の決意によってのみ愛用をやめるべきだ。これほど単純明快な話につべこべ理屈をつけるべきではない。  
団地が次々に建設されたばかりのころ、日本の高度成長を支えた企業戦士たちが家に帰り、ベランダで“ホタル族”などと呼ばれて控えめにたばこを吸っていた様子は哀れでもあった。男の地位が下がったのはこれ以来かもしれない。妻たちともめるときにこそ、しっかりもめてけじめをつけておかないと、今後ますます彼女たちにつけ込まれ肩身の狭い思いを繰り返すことになるかもしれない。  
 
井尻千男  

 

人類は発生と同時に火を燃す知恵を身につけ、食材を加熱し、暖をとり生き延びてきた。一日とて欠かすことなく火と煙の恩恵によくしてきた。カマドで薪炭の燃える匂いと、そこからただよい出る煙こそが家族の温もりの源だった。火と煙と灰はしたがって人類生存の証である。そして植樹と伐採の知恵あってこそ人類は生き延びてきたのだった。  
人間はその風土条件の可能な範囲ですべての植物を燃やし、その煙を吸い、麻薬と香木に出会った。宗教はその香りによって信徒を清め、医術はその香りによって病を癒した。人類は今日流布しているタバコ葉に出会うはるか以前からさまざまな植物の葉を燻らせている。精神の高揚のために、弛緩しがちな精神を奮い立たせるために。もちろんその過程で危険きわまりない麻薬に出会ったりもしているのだが、そのなかで燻らせて害のないタバコ葉に出会い、それが大航海時代に世界中にひろまった。  
また人類は火と煙に親しみながら、煙に抗菌作用のあることを発見し、食物を燻製にして保存する知恵を身につけた。肉や魚を保存食として厳寒の地においても生き延びることを可能にした。これは煙そのものの功徳といえるのだが、気がつけば日本家屋は古来、新築されるや、その囲炉裏において松葉を燃やしつづけて家全体を燻蒸した。木食い虫から家全体を守るためである。  
思えば衣類に香を焚きこめるという古来の風習はおしゃれのためだけではなく、虫除けのためである。かくの如くに煙は衣・食・住のすべてにわたって重要なる役割を担っていたのである。  
そのような煙の功徳を想起してみるに、たかだがタバコ程度の煙に眉をひそめ拒絶反応を示すなどというのは、忘恩の徒の振る舞いである。人類の文明文化において火と煙はともに不可欠のものだったという認識を前提にしない禁煙運動などというものは、潔癖症というエゴイスチックな病気にすぎない。つまり世の愛煙家たちは、世のヒステリックな禁煙派にいっとき席を譲っている、というのが現状である。  
私が初めて禁煙派の運動に出会ったのは80年代の前半、ニューヨークに取材旅行をしたときだった。ホテルにチェックインするときに喫煙者であるかないかを問われたと記憶する。理由はホテル業界と火災保険業界の問題だった。つまり保険の掛け金の多寡がそれで決まるというわけだ。そのころすでにアメリカ製自動車の排気ガスが問題になっていたから、素人だってこれは「自動車業界vsたばこ業界」の戦争だと察しがついた。それに生命保険業界が参戦したという構図である。  
私は公の場で二度、愛煙家の弁を語った。一度は大蔵省、その日同席した愛煙家は、『パイプのけむり』(朝日新聞社)で有名だった音楽家の團伊玖磨氏と推理作家の生島治郎氏。その席で私は「自動車の排気ガスを車内に引けば自殺できるが、タバコの煙では自殺もできない。大を見逃して小を取り締まるとは何事であるか」と強調した。  
もう一度は宮澤喜一総理大臣の辞令を受けて厚生省の正式の審議委員になって一年間、毎月一回、禁煙派の医学関係者と論戦をたたかわせた。このときの同志は医事評論家の水野肇氏だった。氏は当時人口に膾炙するようになったアルツハイマー病患者が非喫煙者に多いという統計を挙げ、自分は脳を病んで人さまに迷惑をかけて死ぬより、肺ガンで死ぬことを選ぶと勇ましく宣言した。  
小生はスギ花粉症の急増に触れて、私の観察するところ、スギ花粉症という人はほぼ例外なく非喫煙者であり、愛煙家にしてスギ花粉症に罹ったという例を知らない。そこにいかなる因果関係があるかは知らぬが、私の観察知でいえばスギ花粉症患者はほとんどすべて嫌煙派である。したがってこのまま禁煙運動をつづければ必ずや花粉症患者が急増し、医療保険財政が逼迫すること間違いないし。タバコ税収の激減と医療費の激増、街々の清掃人の雇用機会も奪われるしで、いいことは何もない。  
その種のことを丁寧にるる述べたうえで、陪席している厚生省の役人に、花粉症患者と喫煙習慣の関係を推論できるようなデータを至急提出するように命じた。すると数ヵ月後に某医科大学耳鼻咽喉科の問診データから、花粉症患者の60%が非喫煙者であることが判明した。そこで私は推論した。喫煙本数の多寡との関係が不明のデータだが、もし一日10本以下の喫煙者を非喫煙者の範疇に入れたならば、その数字は90%を超えるのではないか、と。  
その審議会で面白かったことは、初回こそ10人ほどいた禁煙派委員が厳しい口調で愛煙家委員を非難したが、毎回同じ非難をすることの愚を悟ったのか、次第に愛煙家の弁に耳を傾けるようになった。水野委員はもっぱら、痴呆症になって人さまに迷惑をかけながら、そのことすら認識できずに一日でも永生きしようとするのか(タバコの煙の中のなんとかという成分がアルツハイマー病に予防効果のあることを繰り返し)、それとも肺ガンになっても最期まで明瞭な意識をもって生をまっとうしようとするのか。要は死生観の問題であり、徒に永生きすること自体に意味があるわけではない、と毎回熱弁をふるった。  
私はといえば毎回、人と煙と灰をめぐる文明論を展開した。たまたま10回目の審議会の直前に阪神淡路大地震が起こった。私はさっそく次のようなことを陳述した。  
厳寒の払暁に家を跳び出した人々が、その寒さにふるえているときに、さっそく焚火をする人が現われた。諸君はその光景をテレビ画面で見たはずである。着のみ着のままで家を跳び出した薄着の人々が、震えながらその焚火で暖をとっていた。皆さん想像していただきたい。あのとき、ポケットの中にライターを発見し、さっそく焚火をはじめたのは間違いなく愛煙家である。皆さんのような禁煙家ないしは嫌煙派は、ライターを見ただけで嫌悪の情をいだいてきたに相違ありません。  
あるところでは深夜労働をしていた愛煙家がさっそく焚火をはじめたでしょう。またあるところではパジャマ姿のまま逃げ出した愛煙家が、そのパジャマのポケットにライターがあることを発見して、さっそく焚火をはじめたに相違ありません。  
集団が生き残るためには常時火をコントロールできる人が必要不可欠なのです。青少年教育の一環として山や海でキャンプをしますが、そのときキャンプファイヤーを高々と上げるのは、これまた生存のための重要な能力の象徴行為というものでしょう。  
ところで禁煙派の皆さんは、大震災に際会したときに、愛煙家のライターで炎のあがったその焚火で暖をとりますか、それともそれを拒否して凍死しますか、死なないまでも肺炎に罹るぐらいのことは悟覚しますか。国家、民族とは言いませんが、ある集団が危機に際会して生き延びるためには、その中に火と煙に親しんでいる人間が絶対的に必要不可欠なのです。  
その日の審議会は圧倒的に愛煙家の勝利だった。禁煙派の委員は一言の反論もなかったと記憶する。  
私はかくのごとくに毎回3、40分間、火と煙と灰についての文明論を展開して、今日のような禁煙派の差配する文明を、清潔だけを大事にする衰弱せる文明だと批判しつづけた。あるときから禁煙派の医学界の長老とおぼしき委員から、「私がこの会に出席するのは、こんど君が何をどう語るかを楽しみに来るのだよ」といわれた。私は一人でも多くの人に聞いてほしいから審議会の議論を公表してくれと厚生省側に申し入れたが拒否された。委員の身を守る(当然愛煙家の命)ためという理由だった。  
イスラム教が禁酒、その勢力拡大を前にキリスト教が禁煙で応じたという文明の衝突のごとき構図も見えるが、それはまた別の話である。 
 
阿刀田高  

 

有害論を基点に税収増加を見込む矛盾。自由と全体の便宜の折りあいは敏感に  
喫煙は紛れもなく一つの文化である。400年を超えて多くの人々に親しまれて来た。ささやかではあるが、庶民の楽しみであった。文学作品や映画・芝居のたぐいを見ても人々がどれほど近しくタバコと接して来たか、いくつもの例を知ることができる。吸いつけタバコをためらっていては助六のダンディズムは成り立たない。  
それがこのごろいたく風当たりが厳しい。悪と断じられ邪険に扱われている。  
─激し過ぎるな─  
理屈より先に私は実感として釈然としない。少数の人が愛好しているものを多数がバッサリと切り捨ててよいものだろうか。  
タバコへの糾弾は捕鯨の排除と似通っている。もともと鯨を食さない、世界の大多数にとって、鯨を殺すなんてトンデモナイ、捕鯨を廃止したときのメリットだけが頭を満たし、たちまち鯨捕りは悪とされてしまった。  
喫煙の是非については、なおも慎重な判断が必要だろう。とりわけ、喫煙と受動喫煙と、この二つをつねに区別して考えねばなるまい。  
前者については、統計的に特定の疾病の危険要因と言われているが、健康な成人を対象としたときの判断については、なおばらつきがあるようだ。後者については「タバコなんか、まわりにいいこと、ないだろ」という漠然とした嫌悪はともかく、本当に有害かどうか、分煙ですむことではないのか、科学的な判断はなおむつかしい。  
こんなときに財政的な理由から“タバコ千円”の提言が浮上して来た。これによって、税収の安定的増加が見込めるかどうか、取らぬ狸の皮算用だという観測も強いようだが、このテーマは私がつまびらかにできるものではない。  
ただ、この提言がタバコ有害論を基点としていることが気がかりだ。提言者はタバコが有害だと信じながら、それを市場に委ねて売り出し、多大な税をえようというのだろうか。根源的な矛盾をはらんでいる。有害と信ずるなら、それを訴えればよい。悪のレッテルを張り、弱みにつけ込んで「もっと上納しろ」というのは阿漕に過ぎないだろうか。  
タバコはこれまでにもずいぶん多くの税を払って来た。関係者はその条件のもとで事業を成立させて来た。急に多大な税をかけられては、関係者は、小売店まで含めて、たまったものじゃないだろう。  
私事ではあるが、私はタバコを吸わない。だから禁煙にも値上げにも、ほとんどなんの痛痒も感じないけれど、それとはべつに文化の営みは、どこかに毒のようなものを含んでいる。それぞれの主張や好みが、権力や人気取りや多数の力により不当に貶められることはよくある。文学の歴史はつねにこの憂きめにさらされて来た。「こんな小説、なんの役に立つ」なんて……。  
自由を愛するならば、それぞれの自由と全体の便宜と、この折りあいについてつねに敏感でなければなるまい。喫煙という庶民の文化をどう残したらよいか、もっと優しい議論があってよいだろう。  
 
養老孟司 1 

 

養老 昨年(07年)9月、僕と同じ喫煙派の山崎正和さん(劇作家)と対談したことがあるんです。テーマはたばこ。すると不快に感じた「禁煙学会」から質問状が来たんですよ。出版社の判断などもあり、返事は出しませんでした。でも、僕は「禁煙運動はそもそもわれわれ喫煙者がいなければ成り立たない運動。末永くお互いに頑張りましょう」とエールを送りたいと思ったんですよ(笑)。  
なぜそんな話を最初にしたかというと、僕は民間の人が禁煙運動をやるのは結構なことだと思うんです。けれども、問題なのは官僚と政治家です。たとえばヒトラーは国家として禁煙運動を始めた最初の政治家です。「国民の健康」を掲げながら、次に知的障害・精神障害を持つ患者さんの安楽死を進めた。そして、最後にあのホロコーストが起きたんです。  
西川 禁煙して20年になります。いまはまったく吸わないし、マナーの悪い喫煙者は許せない嫌煙派です。だから、禁煙を主張する人たちの気持ちもわかる。でも、「たばこは健康を害する。だから増税すべきだ」と、誰も反対できない国民の健康増進と増税を安易にリンクさせた急激な値上げ論には危うさを覚えます。その反作用についても議論を尽くすべきでしょう。反対意見が言えない風潮にはそら恐ろしさを感じます。  
養老 僕は20歳のころから吸っている。いま西川さん、禁煙の話をしましたけど、僕も3回禁煙したんです。でもね、禁煙するたんびに5キロ太るんです、体質の問題です。今、騒がれている増税問題にはあまり関心ないんですよ。税金は、その筋の人たちが考えればいいと思っていますから……。高かろうが安かろうが、吸う時は吸うし吸わなきゃ吸いません。  
グローバルスタンダードの正体  
─たばこ関係の税収は現状、2兆2000億円。厚生労働省の研究班は、1箱1000円になった場合、喫煙者が26〜51%減少しても3兆2000億〜5兆9000億円の税収増が見込まれると試算しています。  
西川 今までにも役人が机上で考えた予測やモデルが正しければ、敗戦もバブル崩壊もその後の不況も国の莫大な借金も年金問題もなかったはずです。常に世論操作を目的に数字が創作されてきました。  
─厚労省研究班の試算結果とは逆に、京都大の依田高典教授(経済学)は1箱1000円になると、最大1兆9000億円の税収減になると推定しています。  
西川 急激な値上げは急速なたばこ離れを引き起こし税収が減る可能性もあります。アジアのヤミたばこが流通したら税金は取れないし、途上国に対して関税もかけられません。  
養老 僕が行き過ぎだと思っているのは、神奈川県の松沢成文知事が飲食店、娯楽施設などを含めた「公共的施設」を全面禁煙にしようとしていますね。本当にいいのだろうかと思ってしまうんです。なぜなら、そういう場所は本来、アトランダムな行動が許されるところなんです。世界の根本にあるのは、「秩序」を手に入れるためには同量の「無秩序」と交換しなくてはならないという自然法則です。現代社会はそれを忘れている。自然界の一部に「秩序」をかけると必ずその分の「無秩序」がどこかに生じる。たとえば、戦後、イヌを鎖でつなぐようになった。いたずらに人を襲う危険はなくなり、「秩序」を手にしたわけです。その結果何が起こったか。過疎地の畑に、シカ、イノシシ、クマが出るようになった。山が荒れたからではないんです。「秩序」と引き換えにそういう問題が出てくる。社会はある種の自由さを持っていないと、それこそトラックで秋葉原へ突っ込むような人間が増える気がするんです。  
西川 欧米は個人主義だから「秩序」がことさら必要なんです。日本はただでさえ画一化、均一化した社会です。さらに強く「秩序」を押しつけると国民は窒息してしまいます。  
養老 喫煙者と非喫煙者を単純に分けることは難しい。禁煙中の人もいるわけです。ある状態が、好ましいか好ましくないかを一律に決めるのは危険。喫煙は犯罪ではない。ヒトラーの論理とどこが違うのか、そういう問題もある。  
─たばこへの規制が厳しくなったのは、03年の健康増進法が契機でした。同法は「健康増進は国民の責務」としていますが、実はナチスのスローガンが「健康は義務」なんですね。  
養老 「健康」という言葉は見方によって非常に危ない言葉なんですよ。「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という言葉がありますよね。元々は「宿ればいいが」という、皮肉の意味を込めた箴言だったという説もあるほどです。  
西川 健康ほど誰もが納得する言葉はありません。しかし、誰も否定できない大きな概念ほど恐ろしいものはありません。耳触りのいいスローガンが結果的に国民に災禍をもたらした例は数多くあります。  
養老 民間レベルの運動なら問題はないんです。政治家、官僚が率いるのがおかしい、と。  
西川 バブル崩壊以降、政府は、日本をグローバルスタンダードに適応させるべく構造改革を推し進めてきました。しかし、実際はグローバルなスタンダードとは言ってもアメリカンスタンダードでした。日本は、政治、軍事、金融などアメリカ一辺倒で、アメリカのような国を目指し、実際、アメリカのような社会になりました。その結果、広がったのが「格差」です。大企業と中小企業、首都圏と地方、勝ち組と負け組。今もその差は開く一方です。  
アメリカは、日本以上に極端から極端に動く社会です。9・11以降、移民や個人のプライバシーに対する政策も変わりました。過去には禁酒法まで作った国です。その結果、アルコールがヤミで取引されるようになり、マフィアの資金源となりました。  
今やアメリカは唯一の超大国です。そのアメリカから禁煙もたばこの値上げも始まりました。そして、それがグローバルスタンダードとして世界を席巻し、日本も右へならえしているわけです。アメリカ式のたばこの急激な増税は、格差を助長し、社会をより不安定にする恐れがあります。増税の影響をモロに受けるのは低所得者層です。低所得者のストレス発散の手段は限られています。それを奪うリスクは大きい。  
養老 僕は社会全体のコストという面も考えなくてはならないと思う。奇妙なことを決めると、社会全体のコストが高くなる。たとえばたばこを極端な値段に上げる。いろいろな違法行為が出てくるでしょう。官は組織を挙げて取り締まろうとする。大変なコストです。「先進県」と称する神奈川県は、非喫煙者をたばこの煙から守るという。だったら、車が巻き上げる粉塵をなんとかしてくれませんかね、まず。それがいちばん悪いでしょう、はっきり言うと。  
今後、石油が枯渇していきます。だからといって政府が号令かける必要はない。現に、ガソリンの高騰で渋滞個所も少なくなっているといいます。自衛策を講じているわけで、それが自由な社会なんです。政治家、官僚がすべきことは説教することではなく、「先進国は善で正しい」というような、20世紀の思考法から脱却することです。  
「世間」の喪失で揺らぐ「和魂」  
─喫煙率にしても米国が24%に対して日本は40%でまだまだ立ち遅れている、たばこ自体の値段も1箱1000円前後の欧米に比べて安すぎる、という指摘もあります。  
西川 では、なぜアメリカより日本の方が平均寿命が長いんでしょうか。一つの数字だけで進んでいるか遅れているかなど一概に言えるはずもありません。  
養老 僕はもう一つ危機感を抱いていることがある。「世間」の喪失です。和魂洋才という言葉がありましたけど、和魂とは「世間」のことです。「世間に顔向けできない」という時の「世間」。急激な文明開化でも世間のルールは変わらない、という確信を明治の人たちは持っていたと思う。平安のころの「和魂漢才」と同じことです。  
西川 電車の中で化粧する女性も珍しくないですからね。自分に関係がないと思った途端に、どうでもよくなってしまっています。マナーとは、本釆、自分の中に規範を持って自分に課するもののはずです。日本人はマナーなんていう横文字言葉の前に、世間様に対して恥ずかしいという気持ちを取り戻さないといけません。  
養老 バラけてきているんですね、日本の和魂というものがね。  
西川 世間全体の視野から見ないといけませんね。今は禁煙推進論者と増税論者の考えは一致しているかに見えます。しかし、もし机上の計算のように税収が上がらなかったらどうなるんでしょう。政治家や役人が考えるように世の中はなかなか動かないものです。急激な値上げをすると、アングラのヤミたばこが出回り、場合によってはたばこより麻薬の方が安くなる可能性さえあります。健康は大切です。しかし、急激な増税はもっと慎重に議論すべきではないでしょうか。 
 
秦郁彦  

 

疑わしきは罰す?    
今年の2月、『ゼントルマン・クォータリー』というアメリカの雑誌に、興味深いニュース記事が出ていた。ノーベル医学賞の認定事務局でもあるストックホルムのカロリンスカ研究所によると、1997年からスウェーデン国民の健康指標が急激に悪化しつつあるのは、その年から爆発的に普及したケイタイ電話の電磁波のせいらしいというのだ。  
私には思い当るふしがあった。1998年から5年間、国連保健機関(WHO)事務総長の職にあったグロ・ブルントラント女史(小児科医出身の元ノルウェー首相)が辞めぎわに、タバコの征圧にほぼ成功したので、次はアルコールと電磁波の排除に取り組みたいと宣言していたからである。  
世界の医師や環境団体をバックに、「エコの女王」と畏怖された彼女の実力と影響力を見くびってはいけない。広告規制→警告文の印刷→分煙→禁煙→全面禁煙(勧告→法的規制)と着実に実績を積みあげてきたブルントラントは、日本の「立ちおくれ」を是正すべく1999年、WHO国際会議を日本で開催、タバコ規制枠組条約への調印を迫った。  
セットとして健康増進を義務化した法律(健康増進法)も成立するが、その過程で税収確保を主張する財務省は、WHOと組んで反タバコを推進する厚労省に敗れた。主導権を握った厚労省は、税収が減ってもかまわないと公言して、本年秋のタバコ大幅値上げを実現する。  
ここまで押せば、あとは自転してくれると踏んだのか、WHOは次の標的にアルコールを選び、今年5月の総会で販売広告の規制を打ち出す。恐れをなした日本のビール会社は早くもテレビCMの自粛で恭順の姿勢を示している。  
ブルントラントはタバコの煙と電磁波に弱い体質の持ち主だそうだが、彼女の個人的事情から世界史が動いていくのは何とも無気味ではないか。  
標的(スケープゴート)にはこと欠かない。香水、ファーストフード、コカ・コーラ、肉類、肥満(メタボ)、そして最後の難物である自動車などがずらりと控えている。  
しかし主標的が移るからといって、愛煙家は安心しているわけにはいかない。自転段階に入った厚労省の旗振りで、タバコの規制は強まっていく一方だ。10月1日に予定されている大幅な値上げに、何か対抗策はと友人たちに聞いてみたが、「半年分ぐらい買いこんでおくか」とか「本数を減らして根元まで深く吸い込むぐらいしか知恵がないねぇ。健康には悪いのかもしれないが」と情けない反応ばかり。  
そこで私は「タバコは肺ガンの主犯ではない」「受動喫煙(副流煙)の平山理論は怪しい」というかねてからの「仮説」を提示しつつ、ささやかながらの反対攻勢を試みたいと思う。  
まず統計データを押さえておきたいが、厚労省の『人口動態統計』によると、全ガンの年間死亡者は約34万人(死因のトップ)に達する。うち肺ガンは約6万7千人(いずれも2008年)で、1998年以降は部位別のトップを走っている。  
ところが時系列で見ていくと意外な事実が知れる。1950年は首位の胃ガンが3万1千人なのに対し、肺ガンは1千119人、部位別だと子宮、肝臓、大腸……とつづき、白血病につぐ第8位である。2008年と比較すれば胃ガン(2位)は1・6倍なのに、肺ガン死は実に61倍という急増ぶりで、その勢いは今後も止まりそうにない。  
一方、男子の喫煙率は1950年の84・5%から2010年の36・6%まで下りっ放しなのに、なぜ肺ガンがふえるのか、説明してくれる人がいない。どうやら原因はタバコ以外にありそうな気がして、東大医学部図書館へ行ってみた。ここには、明治初年いらいの医学書や医学雑誌のバックナンバーがそろっているからだ。  
意外にも戦前期の医学教科書には、肺ガンの独立項目が見当たらないのである。統計も胃ガンや乳ガンはあるが、肺ガンは「その他部位」のなかに押しこめられて患者数も死者数も不明。  
それでも根気よく探していると、1935年の『診断と治療』誌に金沢医専の大里教授が、稀にしか見られなかった肺ガンが最近ふえてきたのに、前年末に東大の長与教室が集計した53例しか統計データが見当らないので全国集計を試みたところ、約100例になったと報告している記事が見つかった。1950年の10分の1である。  
大里はさらに肺ガン増の原因を、急増しつつある自動車の排気ガスや舗装工事のタールかと推定しているが、呼吸器の弱い者は肺結核で死に、残りが肺ガンで死ぬと説く論者もいた。  
たしかに死因統計を眺めると、1960年前後から肺結核が急減していく反面、肺ガンは急増している。1960年代から80年代にかけては、合計数が2〜3万人の範囲でほぼ一致する現象が見られるから、あながち暴論とも言えまい。  
考えてみれば、コロンブスが新大陸から持ち帰っていらい、タバコの歴史は500年を超える。しかし肺ガンが登場するのは20世紀に入ってからで、100年にもならない。ともあれ、わが国では半世紀前までは毎年の死者が1000人前後というマイナーな病気にすぎなかった。  
それを無視してタバコに極悪のイメージを植えつけたのが、平山理論である。  
受動喫煙論の怪  
提唱者の平山雄(1923-95)は満州医大の出身、厚生省の公衆衛生院からWHOの勤務を経て、国立がんセンター研究所の疫学部長時代に、保健所のネットワークを利用し26万人余を対象とする「人とガン」に関する大規模な追跡調査を実施した。  
彼は調査表(現在も未公開)を眺めて、「喫煙者の夫と非喫煙者の妻」の組み合わせで妻の肺ガン死が少なくないのは、副流煙の吸入による受動喫煙(Passive Smoking)に起因するというユニークな着想を得た。そしてなぜか発表の場を日本の医学界に求めず、イギリスの医学情報誌であるBritish Medical Journal(BMJ)を選ぶ。  
わずか3ページの、学術論文とはいいにくい投稿文だったが反響は大きかった。  
発表された1981年だけで、12本のコメントが掲載されたが、ほとんどは疑問か異議の部類で、平山も三本の反論を送っている。84年には7人の専門家がウィーンに集まり「受動喫煙に関する国際円卓会議」を開催した。  
Preventive Medicineの13号に掲載された討議記録を通読すると、孤軍奮闘する平山を吊しあげる会かと思えなくもない。調査手法の粗雑さも批判されたが、平山のデータと結論が正しいとしても有意性は認められないと判定される。  
座長が「平山理論は科学的証拠に欠ける仮説にとどまる」としめくくるや、しどろもどろだった平山は最後に「タバコを廃絶したら、こんな論争は不要になる……私は政府とWHOへ働きかけるつもりだ」と開き直った。  
おそらく調査開始時に受動喫煙のテーマを想定していたら有効な反論もできたろうが、調査終了後の思いつきだったのがたたったのであろう。  
しかし政治工作と嫌煙運動へ方向を転換した平山の読みは的中した。アメリカの公衆衛生院とWHOが平山理論を歓迎、それが日本へ逆流して、厚労省は喫煙規制の強化を正当化する根拠として利用するようになる。  
その後の平山は『禁煙ジャーナル』誌を主宰する運動家として全国を飛びまわり、「日本専売公社(現JT)はタバコ病専売公社と改名せよ」とか「受動喫煙を緩慢なる他殺≠ニ呼びたい」式の過激な言動をまき散らす。勢い余って「肺ガンばかりではない。ほとんどのガンはタバコが原因」と叫びながら1995年、肝臓ガン(一説には肺ガン)で世を去った。  
皮肉なことに平山流の疫学調査を追試しようにも、分煙が普及して人間では同一条件下のデータを得られなくなってしまう。  
それでも「ビーグル犬の気管を切開して紙巻きタバコを二年半にわたって強制喫煙させる」とか「マウスへの強制喫煙を600日つづけた」たぐいの実験を試みる科学者はいるらしい。  
私は歴史家として、いわゆる陰謀史観には与しないが、CO2増に起因する地球温暖化説の横行(今年の夏は暑かったが)もふくめ、大金が動くだけに理系科学者の世界は各種陰謀の土壌ではあるまいかと思えてくる。  
 
名取春彦  

 

「たばこは有害である」という論理は、いまや一般常識のようになっていますが、私はそもそも、その根拠となっているデータに疑問を感じています。  
日本の禁煙・嫌煙運動の理論的裏づけは、1966年から1982年にかけて行われた、生活習慣と病気との関係を追った大規模疫学調査の結果によるところが大きいのです。この調査は、当時の国立がんセンターの疫学部長・平山雄氏と厚生省が中心となって行ったものですが、「たばこは有害だ」という結論が先にあり、それに結びつくデータしか採用していないという点が問題だと思うのです。  
そのことが顕著に表れている具体例があります。掲出した表は、平山氏の論文中のデータをもとに、男性のがんによる死亡人数を示したものです。表中の「調査対象人数」とは、平山氏が言う“延べ人数”のことで、「調査人数×観察年数」を表しています。「その他」の欄は、私が平山氏のデータから数値を算出し、新たにつけ加えたものです。注目すべきは「その他」の欄の「10万人あたりの死亡人数」。これに当てはまるのは、「毎日喫煙する」のでも、「喫煙しない」でもない人、つまり「ときどき吸う人」です。この「10万人あたりの死亡人数」が264人と、「喫煙しない人」の304.3人よりも低くなっているのです。  
このデータは、平山氏の論文中には記されていません。つまり、“たばこは有害である”という理論に反する結果が、隠蔽されているのです。  
このほか、受動喫煙に関しても、疑問視すべき点があります。  
1「夫婦共に非喫煙の場合」と比較して、2「夫のみが喫煙者の場合」は、妻の肺がん死亡率が約2倍になるというデータが平山氏により1982年に発表されました。  
この結果が多くの論者に引用され、受動喫煙被害が騒がれるきっかけとなったのです。  
ところが、平山氏の論文の記述から、実際の死亡者数を探し出してみると、1の場合の妻の人数は2万1895人で、そのうち肺がんで死亡したのは14年間で32人、2の受動喫煙とされている妻の人数は6万9645人で、そのうち肺がん死亡者数は同じく14年間で142人。  
これらの数値からは、どうやっても統計学的に有意差は出ません。世界中の研究者が平山氏の統計処理の方法に問題があると指摘しています。  
このように、平山氏の研究は都合のよい結果だけを強調することで、たばこの影響力が非常に大きいように錯覚させているのです。「たばこが有害である」と主張するのであれば、他のものと比較すべきです。例えば、たばこと同時にアルコールのデータを同じように並べる。そうすれば、少なくともたばこと酒ではどちらがどの程度健康に害を及ぼすか、ということは証明できるはずです。  
現段階では、たばこが酒や他のものよりも健康に影響を与える、とは断言できないでしょう。 
 
金美齢  

 

私はたばこを吸いません。だからこそ私が言おうと思うんです。愛煙家たちにたばこ賛成と言わせない今の風潮は、どう考えてもおかしいですよ。  
小泉首相が’01年に田中眞紀子を外務大臣に起用したときに、こんなことがありました。世が小泉&眞紀子人気で沸くなか、私は「どう考えてもミスキャストだ。ただの支持率アップのための人事だ」といろんなところで発言したんです。そうしたら、「眞紀子の悪口を言う奴なんか出演させるな」と局に抗議が殺到して、番組のレギュラーを降ろされたんです。今の嫌煙権を巡る議論の横暴さと似ている気がします。  
たばこを吸う人には一切主張や弁解が許されなくて、嫌煙権が錦の御旗というか、水戸黄門の印籠みたいになってしまっている。  
私がたばこ問題に言及したのは、確か数年前に放送された『たかじんのそこまで言って委員会』(読売テレビ)という大阪の番組でした。桂ざこばさんが「最近の禁煙運動はやりすぎだ」とおっしゃったとき、「私もまったく同意見。喫煙者に対するいじめです」と発言しました。共演者の中には、非喫煙者である私が発言したことで、「よく言ってくれた!」と喜んだかたもいました。いつも勝手に散々自分の意見ばかり言ってるメンバーでも、ことこの問題となると喫煙者ってことで肩身が狭かったのかもしれないね。  
最近は、テレビでもたばこの煙の映像が流れなくなった。バラエティ番組はまだしも、ドラマではまず放送されないでしょ。たばこを吸うっていうのは、一部の人間の自然な行動なのに、必然性でなりたっているドラマから、たばこを吸うシーンをすべて消しちゃうなんてのは、不自然を通り越して異常現象ですよ。実際、テレビ局にはいっぱいたばこを吸ってる人がいるのにね。  
喫煙は、健康に悪いといえば、確かに悪いでしょう。客観的に考えたって、吸わないほうがいい。おカネだって倹約できるしね。でもね、何だってたくさん摂りすぎたら身体には悪いのよ。私だって大好きなコーヒーを飲みすぎて、しょっちゅうお医者さんに注意されてますよ。  
もし喫煙で身体を悪くしたら、それは個人の責任の問題、勝手に壊れればいいんです。私の息子(商社勤務)はヘビースモーカーだけど、私は本数を減らしなさいとは言うけれど、決してやめなさいとは言わないわ。ただ、私よりも先に死ぬことは絶対に許さないからとは言ってますけどね。  
結局のところ一番気にくわないのは、日本全体がこっちを向いたから皆そっちを向くっていう雰囲気になっていることです。マスメディアが作ってしまっている世論の流れに対して、NOと言えるチャンスが少なくって、もの言えば即干されてしまうような社会って、やっぱり変だと思います。たとえ功罪いろんなことがあるにせよ、「弱者はかばわなくちゃいけないよ」というバランスを取りながらやってきたのが、これまでの日本の社会でしたよね。今の喫煙者はいじめを受けているとしか思えません。  
喫煙っていうのは、長い歴史と文化を伴った人間の嗜好行動じゃないですか。私がたばこ問題で言いたいのは、喫煙はマナーさえ守れば、完全に個人の嗜好の問題だとまず認識しろ、ということですよ。それがある日突然、受動喫煙がどうだ、健康の増進がどうだって騒ぎ出して、嫌煙派が正義ですって嵩にかかってやってきてるじゃないですか。これはおかしいよ。  
たばこに反対だと発言したり禁煙運動したりすることはかまいません。それこそが自由な世の中なんだから。けれど、反対にたばこは好きです、吸ったっていいでしょと発言させない風潮、社会の空気が許せない。愛煙家の少数意見の発言舞台が用意されていない現状、これはもうファッショです。  
私は長い間台湾の民主化運動にかかわってきました。その体験からいっても、私は一方的にバッシングされる人の味方。今やいじめられる存在である喫煙者の権利をこれからも代弁しますよ。非喫煙者として。  
 
養老孟司 2   

 

山崎 養老さんと対談するのは久しぶりですね。  
養老 たしかに山崎さんとはパーティや会合で顔を合わせていますが、テーマを決めてじっくり話をするのは数年ぶりでしょうか。山崎さんが昭和九年生まれ、私が十二年生まれ。お互い七十代になりましたが、隠退するどころか何かしら忙しくしていますね。  
山崎 私のほうは、養老さんほどではありませんよ(笑)。ところで我々は戦前を知る世代ですが、最近この国はまたおかしなことになってきていると思いませんか。先日も『文藝春秋』七月号(二〇〇七年)で「わたしの『道徳教育』反対論」と題して、教育再生会議が提議していた「道徳の教科への格上げ」や「親学」を批判したところですが、国家が個人にお節介を焼こうとする傾向が年々強まっている。  
真っ先に思い当たるのが、今日のテーマでもある「健康増進法」です。いま流行りのメタポリック・シンドロームも、日本中に急速に普及しつつある禁煙主義も、元をたどれば全部この法律に行き着きます。「健康増進に努めるのは国民の責務である」というほとんどファシズム国家のような法律に、なぜ日本人は違和感を持たないのか。今日は医学者で愛煙家でもある養老さんをお迎えして、この健康至上主義のおかしさを話し合いたいと思っているんですが。  
養老 愛煙家なのは確かですが、医学者とはいっても解剖学ですから、医学界では最も役に立たないと言われていますけど(笑)。しかしね、私は現代医学ってそれほど役に立つのか、と逆に問いたい。たとえば、「たばこの害は医学的に証明された」と言いますね。この「医学的に証明された」がクセモノで、実際のところ、証明なんて言うのもおこがましい状態なんです。  
そもそも私はいつも言うんですが、「肺がんの原因がたばこである」と医学的に証明できたらノーベル賞ものですよ。がんというのは細胞が突然変異を起こし、増殖が止まらなくなる病気でしょう。その暴走が起きるか起きないかは遺伝子が関わっている。つまり、根本的には遺伝的な病なのです。トランプのストレートフラッシュのように、五枚の手札が揃ったら、がんになるとしましょう。遺伝的に四枚揃って生まれてくる人もいれば、一組もカードが揃わず生まれてくる人もいるわけです。つまり、カードが揃っていない人は、たばこを吸っても肺がんにはならない。逆にカードが揃っている人は、禁煙していてもがんになってしまう。  
医学論文なんて恣意的に数字を選んで結論を導きだすものですから、絶対的な信用はおけないと、医者たちはいやというほどわかっているんですよ。  
山崎 とりわけ疫学には問題がありそうですね。  
養老 たばこのパッケージに「健康のために吸いすぎに注意しましょう」と書かれていた警告表示がいま、やたらにデカデカと脅迫的な文言に変わっていますね。二年ほど前にWHOの「たばこ規制枠組み条約」が発効したのを機に、直接喫煙による警告として肺がん、心筋梗塞、脳卒中、肺気腫の四種、それ以外に妊婦の喫煙、受動喫煙、依存、未成年者の喫煙についての警告が表示されるようになった。ところが、その文言をみると「喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の一つとなります」とか「喫煙は、あなたにとって心筋梗塞の危険性を高めます」とか曖昧な文言になっている。じつはあれを決めた一人が東大の後輩なんですが、医者仲間で集まったときに「根拠は何だ」「因果関係は立証されているのか」と彼を問い詰めたらたじたじでしたよ(笑)。  
医療は過大評価されすぎている  
山崎 医学はどこまで実証的かという問題ですね。じつは私、この一年半、体中が痒くなるという厄介な病気に悩まされているんですが、現在の先端医学をもってしても、痒みのメカニズムはまったく判っていないそうですね。  
養老 ええ。痒みはほとんど寿命に関わりませんから、ほとんど研究されていないんですよ。判らないというより、判ろうとしていない。  
山崎 まさにそうで、なぜ勉強しないのかと医者に苦情を言ったら、痒みで死んだ人間はいない、と(笑)。痒みなんてごく初歩的なことなのにと驚きました。  
養老 いや、むしろ今は医療が過大評価されすぎているんですよ。私は、趣味でしょっちゅう東南アジアの奥地に虫捕りに行きますけど、ああいう地域では医療の限界がよくわかります。  
山崎 しかし、ああした地域は現代医学が十分普及していないから、抗生物質なんかをもっていくと、伝染病退治などにいっぺんに効くんじゃないですか。お医者さんにしたら最も達成感を得られる場所だろうと、私は思っていました。  
養老 それは最初だけなんです。しばらくすると、次から次へ新しい患者が出てきて際限ないことがわかってくる。結局は「臭いにおいは根本から」で、衛生条件を変えるしかない。パキスタンやアフガニスタンで井戸掘りをしている医師の中村哲さんは、虫好きが高じてあちらに居ついたんですが、始めは診療所で診察だけおこなっていた。ところがそれでは埒が明かないので、干ばつ難民のために井戸を掘って、川を造り始めたら、いつの間にか井戸掘りがメインになっていたそうです。医者より土建屋の方が人々を救えると気がついたわけです。  
山崎 しかし医学が最も華々しかったのは、抗生物質の普及期ですよね。やはり結核をやっつけたのは大きかったのではないでしょうか。  
養老 ところが、それにも異論があります。というのも、抗生物質ができる前から結核患者が減り始めていたという統計があるんです。結核研究の権威で『健康という幻想』を書いたルネ・デュボスが「日本の結核患者の激減はストレプトマイシンでも予防接種でもない。栄養の改善だ」と語っています。  
山崎 ははあ、結局は栄養状態ですか。  
養老 やはり「大気、安静、栄養」がいちばん大事なのです。こんな話もあります。日本女性の寿命は大正九年を境に延び始めているのですが、長い間その理由は判っていませんでした。それが数年前、建設省元河川局長の竹村公太郎氏が研究して、その時期に水道の塩素消毒が始まっていることを突き止めた。水が清潔になって、乳幼児の死亡率がぐっと下がり、女性の健康に好影響を与えていたのです。  
たばこ対策検討会の怪  
山崎 じつは数年前に、乞われて旧厚生省による「二十一世紀のたばこ対策検討会」の審議委員になったことがありました。体裁上、たばこを吸う人間も入れないと公平性を疑われると思って、厚生省は私に声をかけたのでしょう。少数派になるだろうとは思いましたが、会議は一般公開されるというので、禁煙運動のおかしさを世間に広めるいい機会だと思って引き受けました。  
出てみると、会議は予想以上に異様なものでした。委員の顔ぶれがほとんど反喫煙の医者で固められていたのは仕方がないとしても、会議冒頭に旧厚生省保健医療局長が、たばこの害悪は自明の事実であり、この検討会では二十一世紀に向けて禁煙を推進する具体策を諮問すると宣言した。私は審議会の参加経験は多少ありましたが、こんな風に議論の前提と結論がすでに予定されている会議は初めてでした。  
しかも驚いたのは、反喫の根拠になっているという調査の原資料の開示を請求すると、反喫の医者でもある座長に「この資料は反喫煙論者にしか見せられません」と言われた(笑)。まさに正体見えたり、です。あれは元国立がんセンター疫学部長の平山雄氏の三十年にわたる研究に基づくものとされている。でも原資料は見せないんです。  
養老 平山さんは世界で初めて「受動喫煙の害」を指摘した人ですが、彼の疫学調査にはその後、多くの疑問が寄せられています。なかでも彼が主張した、いわゆる副流煙の危険性は問題外です。喫煙者本人が吸い込む煙よりも、周囲の人が吸い込む煙の方が有害だという説ですが、低温で不完全燃焼するたばこから発生するので有害というのに科学的根拠はないのです。  
山崎 疫学とは、原因と結果の関係の見えにくい事柄について相関性を述べる学問ですよね。  
養老 そうです。毒を飲んだら死んだ、というように因果が明白なら、疫学の出番はありません。  
山崎 では、ある原因とある結果を任意に選択するときに、基準はあるのでしょうか。  
例えば、肺がん患者が増えた原因は素人の私でもいくつも思い当たる。その第一は長生きでしょう。長生きすればがん発症の確率が高くなる。もうひとつ疑わしいのは大気汚染です。しかしなぜ、たばこだけをがんの原因として取り上げて、大気汚染は問題にしないのかと私は言ったんです。  
疫学が多くの伝染病の発見に貢献したことは認めますが、任意の原因と結果を選択するにあたって、科学的根拠を明示できないかぎり、素人考えと何ら変わりがないのではないでしょうか。それなら、人類にとって最も危険なのは畳とベッドの普及であるとも言えますよ(笑)。審議会の席でそう言ったら、皆さんいやな顔をなさっていましたけど。  
養老 そうそう、私もそこが気になるんです。なぜたばこが「悪玉」に選ばれたのか。  
なぜたばこばかり取り締まられるのか  
山崎 そもそも私が健康至上主義の台頭に気がついたのは、十五年近く前になります。当時、アメリカで生まれた「健康信仰」が世界を席捲して、肥りすぎや酒、たばこに対する強烈な嫌悪感と、その裏返しである節食主義、菜食主義、ジョギングをはじめとする様々な運動への強迫観念が、多くの日本人の心を捉えようとしていました。それでその頃『諸君!』に「ソフト・ファシズムの時代」を書いて、警鐘を鳴らしたのです。しかし当時は、後に日本でここまで禁煙運動が成功するとは思ってもみませんでした。お互い愛煙家ですから、生きにくい世の中になりましたよね。  
養老 まったくです。私が気になるのは、禁煙運動というものをいつ、誰が始めたのか、はっきりしていないということです。他の健康信仰と同じくアメリカ発祥なのでしょうが、詳細がはっきりしない。私は、禁煙運動の背後にあるのは「すり替えの論理」ではないかと思っています。  
たとえば反捕鯨運動もそうですね。ベトナム戦争のとき、米軍が空から撒いた枯葉剤によって大変な環境被害がひきおこされた。たちまち環境保護団体から批判が集まり、困ったニクソン米大統領は、批判勢力を反捕鯨運動に誘導しようとしたのです。これと同じ胡散臭さが禁煙運動には感じられる。  
山崎 同感です。たばこよりも人体に悪影響を及ぼすものは沢山ある。それなのに、たばこの取り締まりにばかりなぜこんなに力を入れるのか不可解です。  
養老 たばこ問題は「誰が金を出しているか」と考えるとよくわかる。つまり、「たばこは健康に悪い」という研究結果はひっきりなしに発表されていますが、研究費を出してくれる人がいなければ、誰も研究などしないわけです。とくにアメリカの学会はそういうところですから。私は、社会の裏側でつくられた取り決めで、世の中が動いていくというのがいちばん気に入らないんですよ。  
山崎 しかし不思議なのは、アメリカにはフィリップモリスという世界最大のたばこ会社もあるのに、なぜ禁煙運動の暴走をおしとどめることができなかったのかということです。日本のJTはもっと必死に抵抗しています。  
じつは、これを日米の経営構造の違いから考えると、非常に面白い。つまり、日本の経営者は自分のつくった製品に多大な愛情を持っています。たとえば有名な例では、新日鉄初代社長の稲山嘉寛はつねづね「俺は生まれ変わっても鉄をつくる」と話していました。しかし一方、アメリカの経営者は、経営手腕を発揮して短期に利益を生み出し、株主に配当して名声をあげればいい。好条件でスカウトがあれば、すぐに次の企業に移ります。何を作ったって、それで金もうけできればいいんです。製品に対する愛情なんてあるわけがない。だから、たばこ訴訟が起こるとすぐ和解に応じてしまった。アメリカは弁護士費用の高い国ですから、さっさと和解金を払った方が安くつくわけです。  
しかし、これがとんでもない愚行で、あたかもたばこ会社の経営者が「たばこは悪いもの」と認めたかのような前例ができてしまった。日本に禁煙運動が入ってきた時点では、すでにこれが世界的に認知された「事実」となっていて、反論の余地がありませんでした。  
養老 アメリカ人の禁煙運動の論理、というか非論理性が非常によくわかるのが、ベストセラーとなったアル・ゴアの『不都合な真実』ですよ。前半は地球温暖化問題について書かれていますが、じつは後半で反たばこキャンペーンが展開されるんです。ゴア家はたばこ農園を経営していたのですが、喫煙者のお姉さんが肺がんで亡くなってしまう。お姉さんの死後、「肺がんの原因はたばこ」だと思ったゴア家はたばこ農業をやめ、そればかりか、たばこ産業自体を断固つぶすべしと立ち上がる。たばこは姉のかたきというわけですが、よく読むと、ここにも「すり替えの論理」が働いている。『不都合な真実』にはゴア家がピューリタン的なきわめて真面目な家庭で、お姉さんがいかに優しくていい人だったか、懇々と書いてある。ゴアが初めて選挙に出馬したときには、自分の生活そっちのけで手伝ってくれた、と。でも、それを読んでいくと、「ああ、ゴアのお姉さんはしんどかっただろうな」と見えてくる。生真面目な家庭で、頭のやわらかい優しい彼女にかかるストレスは大変なものだったでしょう。だから、十代からたばこも吸うし、短命にもなる。ゴアも深層心理ではそれがわかっている気がしますけどね。  
山崎 アメリカ人のピューリタン的な発想は、禁煙運動に大きな影響を及ぼしますね。私が「ソフト・ファシズム」の問題を書いたのは十四年前ですが、あの頃、アメリカは大きな分岐点を迎えていました。ベトナム戦争の後、アメリカをまとめていた愛国心やピューリタン的な道徳が根本から揺らぎ、社会秩序も変わった。同性愛も妊娠中絶も、キリスト教以外の信仰も認めなければならない。そのことに対して、皆、喉に何か引っかかったままだった。そこで、誰もが一致して反対できる都合のよい“敵”を探し始めたのです。  
あの当時、選択肢は二つありました。たばこかエイズか。ちょうどエイズが広まった時期でもありました。しかし、結局はたばこが選択された。なぜなら当時エイズの原因とされていた同性愛を好むのは、ハリウッドスターとか芸術家とか社会の上流層だけれども、たばこを吸うのは社会の中流以下が多かったからです。アメリカ人が大麻に寛容なのもまったく同じ理由です。そういえばゴアの息子は大麻で逮捕されていますしね(笑)。  
ナチス・ドイツと健康崇拝  
養老 あまり知られていないことですが、じつは歴史上、社会的な禁煙運動を初めておこなったのはナチス・ドイツなんです。  
チャーチルとルーズヴェルトはたばこ飲みでしたが、ヒットラー、ムッソリーニはたばこを吸わなかった。ナチス時代のドイツ医学は、国民の健康維持について、先駆的な業績をいくつも挙げています。がん研究は組織化され、集団検診や患者登録制度などの仕組みが確立されました。その中で「肺がんの原因はたばこだ」という研究が発表され、禁煙運動が推し進められたのです。  
しかし、健康崇拝は禁煙にとどまらなかった。精神病患者の断種。さらには精神病患者や知的障害者の安楽死。ご存知のように、最後にはユダヤ人撲滅にまでエスカレートした。禁煙が優生学につながってしまったわけです。だから私は、日本に「健康増進法」ができたとき、真っ先にナチズムを連想しました。  
山崎 まさにそうなんです。日本が意図的にファシズムに向かっているとは思いませんが、繰り出される政策はファシズムと大いに通底している。健康増進法、およびそれと連動して厚労省が推進する「21世紀における国民健康づくり運動(健康日本21)」は、予防医学の観点で成立しています。つまり、日本の人口の三分の二近くは糖尿病、脳卒中、高脂血症といった“生活習慣病”で亡くなっているから、生活を改善して健康体になろうというわけです。冒頭でも紹介したように、それが「国民の責務である」とまで書いてあります。しかも「健康日本21」には数値目標が定めてあって、酒は一日一合程度、一日一万歩歩いて、ストレスのない生活をしろとある。たばこについては、喫煙が及ぼす健康影響について知識を普及させ、未成年者の喫煙をなくす。公共の場や職場で分煙を徹底し、禁煙支援プログラムを普及させるとある。日本中の公的スペースから喫煙所が撤去され始めたのは、四年前にこの法律が施行されてからです。  
養老 そんな生活したらストレスがたまるに決まってるじゃないですか(笑)。  
山崎 本来、政府は予算と法律によって政策を実現するものですが、これではまるで説教政治ですよね。教育再生会議の提唱した「親学」もそうですが、民主主義的政府の考えることとは思えない。金正日のやることです。  
養老 政教分離の原則に反している(笑)。しかも、それだけのことを全部こなしていたら、忙しくてとても仕事どころじゃない。  
だいたい「健康増進法」という法律の名を目にしたとき、生まれつき病気の人はどうするんだと思いましたよ。  
山崎 いまの日本では病気は排除すべき存在なのです。だから、「私は好きに暮らして病気になっても構わないから、放っておいてくれ」という生き方は許されないんです。病気に罹らないように気をつけるのも、病気に罹ったら必死に治そうと努力するのも、「国民としての責務」なんです。その第一段階として、わかりやすい悪者として選ばれたのがたばこだった。  
養老 最近は、たばこそのものだけでなく、吸う人自体が「悪者」扱いされるようになってきました。  
もうひとつ、禁煙運動家や健康至上主義者といった人々の特徴は、非常に権力的であることですね。他人に生き方を押し付けることに快感を覚えるタイプの人が多い。  
山崎 じつはたばこに対して嫌悪感を露にするのは、かつてヘビースモーカーだった「転向者」が多いんです。俺はこれだけ苦労してやめたんだから、その成果を認めてほしいとなる。努力しない奴は退治してやろうという心理が働くようです。ちなみにアメリカには、ジョギング離婚というものがあるそうです。汗を流して走ってる女性には、怠けて肥ってる亭主が不潔に見えてくるわけです。  
養老 食欲、性欲、睡眠欲といった生理的な欲望というのは充たされるといっぺんに消えます。しかし、たばこ然り博打然り、習慣性・麻薬性がある欲は終わりがないんです。権力欲や金銭欲もそう。だから、一種の麻薬なんです。禁煙運動家はたばこ欲に代えて、たばこを取り締まる権力欲に中毒しているといえる(笑)。  
山崎 なるほどそれは面白い。文明がつくった楽しみの一つを自ら放棄した人が、いま道を説いているわけだ(笑)。  
養老 しかし、人間の文化から中毒性を取り除くと、何も残らないかもしれませんね。私たちについて言えば、本を読むとか勉強をするというのも完全に中毒性のものです。だって本当は、私が研究しなくても誰も困らないのだから。  
山崎 本来たばこというのは何世紀もかけて作り上げられた祝祭的な社交文化でした。葉巻や長煙管の時代には、たばこを嗜みながら、人々はスモーキングルームで会話を楽しんだ。その文化に敬意を表しているからこそ、私は歩きたばこはしませんし、分煙派です。しかし工業化とともにたばこは日常品となり、いまや文化としての優雅さや粋な気配もなくなってしまいました。  
養老 文化を自動販売機で売ってはいけなかったですね。でも、マナーを作っていくのが文化ですから、はなから「害があるから禁止しろ」ではなく、分煙のマナーを作りだせばいいんです。  
「老い」は治らない  
山崎 先ほど養老さんは「いま医療は過大評価されている」とおっしゃいました。しかし私のような少年時代から感染症に苦しめられた年代の人間からすると、やはり医療に対する期待感があります。私は昭和二十七年に大学に入学しましたが、文学部の学生の半分近くが肺結核の患者でした。ところがストレプトマイシンとパスという抗生物質を処方してもらったら、じつに効いてみんな助かった。まるで魔法のようです。いま振り返ると、あの頃は医者と患者が幸せな関係を築けた時代なんですね。  
だが、医者たちが嬉々として様々な病気を治した結果、みんな長生きするようになって、加齢による病気が増えてしまった。しかし、これは医学によって治せません。反喫煙で固まる医学界の気分として、魔法のような治療ができなくなったことへの閉塞感、患者を助けられない後ろめたさがあるんじゃないかと、私は思うんです。そんなとき、誰かが「生活習慣病」という言葉を発明した。  
養老 私はよく言うんですが、抗生物質は人間には効きません。単に細菌を殺しているだけなんですね。抗生物質が人間の体に効いたらそれは、副作用ですよ(笑)。病気が治るというのは抗生物質が治すのではなく、人体が勝手に回復してくるのです。しかし、勝手に回復するはずの体が壊れてくるのが、いわゆる生活習慣病です。これは治す手立てがありません。  
近代医学は、細菌という単純な対象を殺す方法は開発できた。しかし、それを人体という複雑なシステムに転用できると思ったら大間違いです。ところが、この単純な論理が医学界でも通用しなくなっているようです。  
山崎 生活習慣病は、以前は「成人病」と呼ばれていましたよね。つまり、加齢に起因する病だとされていた。しかし、いつのまにか「生活習慣に起因する病」と名を変えた。こうなると、患者の自己責任になりますから、お医者さんは気分的に救われただろうと思います。そこに乗っかったのが、医療費を抑えたい厚労省でしょう。  
養老 そもそも「老い」は治らないんですよ。健康ブームだから、老人たちは治療したら元の体に戻ると勘違いしている。しかしそんなわけがない(笑)。年をとったら病気の三つや四つ抱えているのがあたり前です。車だって中古というくらいですから、人間も中年になったら具合が悪くなります。  
山崎 結局、日本社会が「老人の価値」を認めなくなっているんですね。昔は中年男性の腹が出てでっぷりしてくると貫禄があるとほめたものですが、いまは「お前はメタボだ、なぜ節制しないのか」と言われてしまう。中年女性たちは若く見られたいばかりに、美容整形に駆け込んだり、高価なしわとりクリームを塗ったりする。若さと健康という価値しか見えていないんです。  
養老 逆の現象もありますよ。子供の価値がなくなっている。「子供らしい」という言葉自体が消えつつあります。これは子供が死ななくなったからだろうと思うんです。三歳なり五歳なりで子供に死なれると、親は本当に悲しい。いつ死ぬかわからないからこそ、子供としての人生を全うさせてやりたいという気持ちが、昔の大人にはありました。子供が幸せそうに遊んでいるだけで大人はニコニコしていられた。だから子供を皆大事にした。しかし、いまは生きていてあたり前だから、子供は大人の予備軍でしかなくなってしまった。  
山崎 いまのお話は非常に面白い文化論につながります。アリエスが『〈子供〉の誕生』で書いていますが、西洋で「子供」という自立的な価値が誕生したのは十八世紀とされています。たとえば子供の洋服が大人もののミニチュアではなく、「子供服」という独自なジャンルとして出てきた。ひょっとすると逆にいまは子供消滅の時代なのかもしれない。  
養老 子供の価値も老人の価値もなくなって、完全に人間が一律になった。だからこそ逆に、瀕死の状態になっている子供を救うべく、少子化問題が勢いを持つとも言えます。  
山崎 さらに言うならば、昔は誰もが一病息災で病気をもっていましたが、それが許されなくなった。私の学校時代は、級友が病を得て一年間休学するということが珍しくありませんでした。彼らはぬくぬくと学校で一年間過ごした私よりも、精神的にずっと成長して復学したものです。しかし、いまの世の中には「病人」という価値もなくなったのでしょう。  
養老 そのとおり。病を得たから、しばらくブラブラするなんて許されない。病人はリハビリや治療にせっせと取り組まなければいけない。  
六十過ぎたら勝手にしてればいい  
山崎 それにしても、なぜ現代人はこれほどまでに健康至上主義に夢中になっているのでしょう。私はこれを日常の中で達成感を味わえる場面が減ってきたせいではないかと考えています。昔は会社で販売成績をあげれば、上司にほめられるだけでなく、社会でも尊敬の目で見られた。奥さんも感心してくれた。ところが、いまの世の中はそうじゃない。いつリストラに遭うかもわからないし、仕事に達成感というものがなくなった。会社も社員を大事にしなくなった。さらに金儲けも、努力して儲けるものではなく、投機によって儲けるものだという思想が生まれた。ホリエモンや村上世彰を見ていたら、誰しも働くのがいやになりますよね。すると、健康の価値が相対的にあがるんです。いまや健康のためなら死んでもいいという価値観が生まれています(笑)。  
養老 まったく、この暑いのに皇居の周りを懸命に走っている人を見ると、何をしているんだろうと思いますよ。体に悪いじゃないか(笑)。  
東京都の資料で、六十歳を過ぎると、喫煙者と非喫煙者の間には平均余命に差がないという統計があるんです。糖尿の有無によっても差がないという。これは、脳を研究している私からすると何も不思議ではない。じつは六十歳を過ぎると、人間の脳には大きな個人差が出てくるのです。急速に衰える人もいれば、そのまま横ばいで維持する人もいる。これは医学ではどうしようもない。進化論からも証明できる。つまり、三十代や四十代で急速に衰えてしまう遺伝子を持った人は、子孫を残す競争で不利になりますが、六十を過ぎるとすでに子孫を残し終えているので、自然淘汰の圧力がかからなくなるから、差が顕著になる。  
これが意味することは明快です。六十歳を過ぎて健康に気をつけても仕方がない。勝手にしてればいいんですよ。  
山崎 過激な冗談を言うと、七十歳過ぎたら阿片を解禁したらどうでしょうか。そうしたら、いまよりも幸せな老人が増えるかもしれません。早く年をとりたいと思う若い人も出てくるでしょう。  
養老 六十五くらいなのに「俺は七十歳だ」とサバよむ奴が出てきますよ。  
山崎 最近、たばこを吸っていると中学時代を思い出すんです。人目を気にして吸っているので、トイレや運動場の隅っこで喫煙した感覚が蘇ってくる(笑)。  
養老 そのうちテレビでモザイクがかかるんじゃないですか。「そのまま放映しますが、当時の習慣でございますから」とお断りが出たりして(笑)。 
 
明治天皇と大正天皇  

 

皇室のたばこ  
2005年6月8日の新聞朝刊に、次のような記事が載っている。  
──宮内庁は天皇、皇后陛下の地方訪問の際に尽力した関係者や皇后の清掃活動を行うボランティアなどに、感謝の品として配布してきた「恩賜のたばこ」を、2006年度末で廃止することとし、以後は菓子などの品に切り替える方針とした──  
「恩賜のたばこ」は、かつては戦地に赴く兵士たちに下賜されるなど、戦争の記憶とも結びついているが、製造が開始されたのは今から1世紀以上も前の明治時代中頃で、1904年(明治37)にたばこが専売品となるまでは、民間のたばこ会社が宮内省から注文を受けて製造した。専売制施行後は、大蔵省専売局が皇室用たばこの製造を担当するようになり、さらに49年(昭和24)からは日本専売公社が、85年(昭和60)からは日本たばこ産業株式会社が、それぞれ製造を引き継いできた。  
また、皇室用たばこもかつては、天皇・皇后・皇太后の三陛下が直接ご愛用になるたばこを“御料たばこ”と称し、三陛下以外の方が使われるたばこおよび宮内省(庁)の各種行事に使用されるたばこは“特性たばこ”と呼んで、御料たばことは区別していた。いわゆる「恩賜のたばこ」は“特製たばこ”である。  
専売制施行以後、特別な部署を設けてまで皇室用たばこが製造されるようになった背景には、外国からの賓客に供するための「応接用」のたばこが必要であったこと、「恩賜のたばこ」に代表される感謝の“賜物”として使用するためといった理由があったのだが、それ以外に明治天皇がたばこ好きだったことも、多少は影響していたのかもしれない。  
両陛下の思い出  
明治天皇の暮らしは質素でつましかったが、たばこについては、執務用の机に掛けられた緋ラシャのテーブル掛けのあちこちに、たばこの吸い殻の焼けこげを作られるほどお好きだった。焼けこげだらけのテーブル掛けを見かねた側近が新調を申し上げても、修理可能な品はできる限り修理して使用するという考えの天皇は、取り替えることをなかなかお許しにならなかったという逸話が伝えられている。  
大正天皇は、明治天皇以上に愛煙家だった。たばこに対しても知識が深く、ご自身が吸われるたばこの香味や辛さについてはいろいろと注文されたという。  
また、皇太子(東宮)時代から喫煙量がたいへん多く、身体への影響を心配した東宮大夫が本数を減らすよう進言すると、「それでは、一本のたばこになるべくたくさんの葉を詰めた紙巻たばこを作ってほしい」と言われ、実際に一本の長さが三寸八分(約11・5センチ)もある特性口付紙巻たばこを作らせている。ちなみに、現在発売されている「マイルドセブン」の長さは、フィルター部分を含めても8.・5センチだから、この特性口付紙巻たばこが異様に長かったことがわかるだろう。  
天皇即位後は、ハバナ葉巻たばこ、トルコ(葉)混成口付紙巻たばこ、ハバナ(葉)口付紙巻たばこなど、数種類のたばこを愛用していたといわれる。佐賀の鍋島家から皇族の梨本宮守正に嫁いだ伊都子妃(1882~1976)の自伝『三代の天皇と私』(1975年・講談社刊)に、そのヘビースモーカーぶりが書かれている。一部を紹介すると、  
──明治天皇と違って大正天皇は大変親しみやすいお気軽なお方でした。沼津や葉山の御用邸に宮様(梨本宮)と共に参内しますと、  
「梨本は煙草を喫むか」  
「煙草はあまり嗜みませんが、たまに葉巻を喫みます」  
「あーそうか」  
机の上に置かれたご自分の煙草入れから、葉巻をわし掴みにして、  
「これをやるから持って行け」  
と気軽におっしゃるのでした。宮様はお帰りになってさっそくその葉巻に火を付けたのですが、渋い顔をなさるのです。  
「困ったな。いただいては来たが、こんなに辛い葉巻では・・・・。どこの品だろう」  
と箱に収めてしますうのです。だがお目にかかるたびにその葉巻を下さるのでした。──  
とあり、大正天皇の傍らには、いつもご愛用のたばこが用意されていたことがわかる。  
しかしながら、明治天皇や大正天皇のたばこ好きのDNA(遺伝子)は、昭和天皇には伝わらなかったようで、昭和天皇とたばこに関する逸話はあまり聞かない。  
 
西部邁  

 

禁煙運動を私が軽蔑しはじめたのは、30年前、2年間の外国滞在を終えて、久しぶりに日本の新聞を目にしたときからである。ある新聞の夕刊に、第一面トップで、「夫の喫煙は妻の妊娠に有害」という大見出しが躍っていた。それは実に酷い内容の記事であった。「夫婦ともに非喫煙」のサンプルが300組くらいで、そのうち出産異常が3%、「夫だけが喫煙」のサンプルが100組くらいで3.5%、というのである。こんな少ない標本数で科学的統計的な検証というのにも驚かされたが、それ以上に、たった0.5%の差をもたらした原因のすべてを夫の喫煙に求めるのは烏滸の沙汰である。もっと嗤えたのは、記事をよく読んでみると、「夫婦ともに喫煙」における出産異常が最も少なく、サンプルは50組くらいの少なさとはいえ、2.5%と最後に記されている。役所も新聞も気が狂ったのか、酷い国に戻ってきたもんだなあ、と滅入る気分であった。  
続いて『Smoking and Society』(『喫煙と社会』)という論文集を読む機会があった。そのなかの一つに、喫煙者と非喫煙者を対面させて、前者の10人ばかりが煙草をスパスパやり、それに検査装置をつけられた後者の10人ばかりがいかなる生理的反応を起こすかを調べたものがあった。結果は、発汗や動悸などの面で異常反応を示したとのことである。しかし、数年後、それに奇異を覚えた科学者たちが「前回とほぼ等量の煙がすでに漂っている」室内に、「検査装置がすでに動いていることを知らされていない」非喫煙者を座らせて、あとでひそかにその装置の動き具合を調べるという実験をやった。結果は無反応ということであった。つまり、非喫煙者の喫煙者にたいする反撥の心理、その現れが前回の実験結果であったろうというのである。  
他者への不満や怒りというのなら、喫煙大好きの私としては、山ほど言い分がある。今でいうと、人前で携帯電話をいじくる男、人前で化粧する女、年寄に席を譲ろうとしない若者、エロ本もどきを広げている年配者など、一歩家を出ると、不愉快な輩がうじゃうじゃとうごめいている。そして、そんな奴らが作り出そうとしている禁煙社会に馴染んではならないと、その本を読みながら私は心に決めたのである。  
もちろん喫煙者のマナーが崩れていることも私の不愉快の一つではある。たとえば、「一服点けてよろしいですか」と同席の者に尋ねるマナーはもう昔日のものとなってしまった。しかし、禁煙を同席者に要求するほうがよほどにマナー外れである、と私はいいたい。  
20年ほど前、私はある大学教授の自宅での忘年会に誘われた。ビールを飲みながら煙草をやろうとしたら、「うちは禁煙ですので、台所のファンの下でお願いします」とその教授夫人が宣う。私は「ああそうですか、ところで私のオーヴァーコートはどこでしたっけ」と返し、そのままその会からエスケープした。禁煙パーティーであることを予告しないのは失礼千万というのが私の言い分である。  
こういう失礼な手合に抵抗するのは、その数があまりにも多いので、無駄である。可能なのは、エスケープすることだけだ。禁煙主義者が喫煙者をどんなに憎んでいるか、善良な喫煙者は知らないでいる。それら主義者の健康病なり清潔病なりがすでに治癒不可能な深みにはまっていることを見抜けないのである。そういう御人好しの喫煙者があまりに多い。たとえば、禁煙主義者に「煙草喫みはアルツハイマーに罹りにくいそうですよ」と教えてやる御人好しもいる。そんなのはまったくの無駄である。  
禁煙主義者には早くボケてもらうのが一番だ、と思う闘争心なり判断力が、喫煙の夢心地のなかで煙のように消えてしまうのであろうか。  
禁煙主義者との付き合いを断つ、なぜならそんな御仁が面白い人物であるはずがないから、とかまえてから久しい、それが私の場合である。禁煙を強いる会合にも出席しないことにしている。禁煙の札が立っている店にも、とくに酒や茶を出す場所である場合、入らないことにしている。散歩の効用もかねて、真っ当な店をゆっくりと探すのである。煙草増税にしても、まさか一箱5000円になるわけでもなかろうから、また煙草購入のために必死で働くのも健康で愉快な生活といえなくもないので、どうぞ御随意に値上げしなさいな、とやり過ごすことにしている。もっというと、安い密輸の煙草を手に入れる才覚が当方にあればそれでよい、と算段している。さらに、たとえ喫煙が犯罪とみなされるようになっても、もう少し若ければの話だが、秘密喫煙クラブを経営して大儲けしたいとも空想している。  
そんな次第で、タクシーで長距離を動くとき、私はまず「運転手さん、有り難う」と挨拶する。「何がですか」と相手は問うてくる。「これ禁煙車でしょう」と私が答えると、「そんなに煙草が嫌いですか」とさらに尋ねてくるので、「いや、大好きですよ」と返事する。運転手は「ええっ、それなのに、どうして有り難うなんです」と首をかしげる。「一時間も禁煙させられると、我が家に戻ってからの一服が旨くてねぇ。僕のために禁煙にしてくれているんだろう」というと、相手はうれしそうにいう。「実は自分も煙草喫みなんで、よくわかります。都心を出たら喫ってかまいません。この携帯用の灰皿を使って下さい」。そして、二人して暫し、煙草がどんなに素晴らしいものであるかについて、話に花を咲かせるのである。  
長時間を要する国際線の飛行機の場合はどうなるか。我が愛するイタリア、つまり「つまらぬ規則は、一応は表示しておくものの、破られて当たり前」との大人の判断が通用していたイタリアの航空機までもが全面禁煙になって以後、私は外国に行かないことにした。いや、一度だけ十数時間かけてウィーンに着き、そこで一服やって、頭がクラクラッときた快感をもう一度味わいたい気もするが、私も齢だ。「苦痛多ければ、それから解放されたときの快楽もまた強し」と面白がる体力の余裕がもうない。44ヶ国を経巡った体験からして、外国なんか行ったって大して面白くもないとわかってもいる。我が家の窓から流れゆく白い雲をみながら紫煙を吐き、そして立ち昇り立ち消えてゆくその煙のゆらめきに我が人生の成り行きを仮託しているほうが、よほどに中期高齢者の心理ばかりか生理にも適っている。  
アドルフ・ヒットラーが最初の禁煙運動家であったことを、喫煙者よ、我が同志よ、忘れてはならない。彼らは、ティラニー・オヴ・ザ・マジョリティ(多数者の専制)をもって、精神の繊細と高尚のゆえにニコチン含有の煙の妙なる味と匂いをこよなく愛する我ら少数者に、襲いかかってくる。そのヴァンダリズム(文化破壊の野蛮行為)は禁煙世論の確立という形ですでに奏功している。そのみずからの愚昧と鈍感の上にどっかと胡坐をかく彼らの下卑た振る舞いは、「莫迦は死んでも治らない」の見本なのであるから、そういう津波のごとき、コモンマン(通常人)ならざるマスマン(大衆人)の運動からは、黙ってエスケープするほかに手はないのである。  
エスケープ先で最もみつけやすいのは自分の家庭である。私の妻は重度の癌患者ではあるが、抗癌剤を拒否するところにもみられるように、西洋医学への信奉というものがまったくない。煙草が肉体の健康に少々は悪いと考えているのであろうが、それ以上に大事なのは精神の健康であるとわきまえてくれてもいる。だから、自分は煙草を喫わないものの、亭主の喫煙に文句をつけるような莫迦女ではない。  
年寄りはもう遅いであろうが、若い男たちには、莫迦女には近づくな、との警告を差し上げたい。男の喫煙に不平を述べる類の女は、男のやることには、どんなことであれ文句をつけるものだ。それが人類史の鉄則なのである。若い女たちにも忠告を申し上げたい。喫煙に目角を立てるような男は、女の一挙手一投足にジクジクと注文をつけてくる、女の腐ったような奴らだ、というのがこれまた人類史の相場である。  
そして、自分の喫煙に自信を持てないでいる弱気な同志たちにも励ましを与えたい。喫煙は、つねに矛盾と危険に満ちた人生の綱渡りにおいて、不断に平衡を持すための、またとないバランシング・バーなのである。その平衡棒は死んでも指先から手放すな、この立派な教えが教科書に認められていないのは、まことに遺憾である。 
 
ジェームス三木  

 

経済的にきつくても、たばこは簡単にやめられない。たばこの増税で一番打撃を受けるのは、低所得者層である。富裕層はあまり困らず、格差社会を推し進める。弱者に対する国家権力の一種の「経済制裁」とさえいえる。悪のイメージがあるところからは、税金を取りやすいということだろう。政権交代直後に増税する意義は大きく、実施するなら、たばこ増税は鳩山政権が行ったと、国民は記憶にとどめるべきだ。責任ある決断だ。  
「健康のため」という議論もあるが、それは違っている。増税になると、強いたばこを吸って本数を減らすようになる。軽いたばこが多く発売されて浸透してきたのに、出費を抑えるために強いたばこを少しずつ吸う。これは逆に健康を害するのではないか。そもそも喫煙者は体に悪いことは承知している。  
私は30歳を超してたばこを吸い始めた。1日に2箱半程度吸う。特にモノを書くときには、どうしても吸いたくなる。私じゃなくてたばこが書いているんじゃないかと思えるくらい、もはや人生の一部である。なのに、急激に喫煙が悪だと言われ始めた。ドラマや芝居では、たばこを吸うシーンがほとんどなくなった。視聴者から苦情が寄せられることが大きな要因だ。脚本家にとってたばこを吸う行為は、ものを考えたり、リラックスしたり、さまざまな心境を表現できる手段である。「間」を取ることもできて、脚本が書きやすい。昔から、たばこは句読点、酒はピリオドという。今の芝居やドラマのテンポが速いのは、「間」が少なくなったからだろう。句読点のない文章、話し方になっているのかもしれない。  
何十年もたばこを吸ってきた身にとっては、居心地の悪い世の中になった。年を取った人間は、何かが変わるとついていけなくて、打撃を受ける。増税については、もっと慎重に考えてもらいたい。最後は政府が決めることだが、本当にたばこしかないのか。たばこにはもう十分税金がかかっている。  
 
岩見隆夫  

 

納得いかないことはいくつもあるが、今週は、たばこ増税について─。  
あいつ(私のこと)、またたばこの話か、と禁煙論者のみなさんが顔をしかめるのが目に見えるが、それを承知で書かなければならない。折り目筋目のことだからである。  
喫煙場所が日々狭まっていくのはもうあきらめている。喫煙者はすでに社会的弱者、いや社会的はみだし者扱いだが、それも仕方ない。先月30日(2009年10月)、仕事で新幹線新神戸駅で降り、タクシーに乗ったところ、〈禁煙〉の表示がないではないか。  
「おっ、たばこ、いいですか」と私は思わず口走っていた。  
「どうぞ、どうぞ。だけど、きょう限りですわ。あすから兵庫も大阪も全面禁煙……」  
「全面かあ、東京と同じになるんだ」  
「すんません。わたしも喫うから不便なんやけど、お客さんには迷惑かけるんでねえ」  
「なぜ全面なの」  
「わかりまへん。方針ですわ」  
「どこの方針?」  
「会社の方針ですわ」  
運転手と議論してもどうなるものでもない。たばこ喫いにとって最後の駆け込み寺だったタクシーも、もう全国的にだめになってゆく。  
たまたまだろうが、翌31日付の新聞朝刊、一面トップに、  
〈首相、たばこ増税に意欲〉  
の見出しが躍っていた。政府税制調査会が各省庁からの来年度税制改正要望を締め切ったが、厚生労働省が〈たばこ税率の引き上げ〉を求め、それを受けて鳩山由紀夫首相が、  
「環境や人間の体の面から見て、増税の方向があり得べしかなとは思う」  
と述べたからである。要望に引き上げ幅は示されていないが、新聞には一箱300円から500円への値上げ案が報じられていた。厚労省関係者がリークしたのだろう。長妻昭厚労相も11月1日(2009年)のテレビ番組で、  
「たばこは健康の問題もある。ヨーロッパ並みにする必要がある」  
と言っている。  
ヨーロッパ並み、というのは、一箱(20本入り)の値段が、イギリス850円、フランス550円、ドイツ466円、米ニューヨーク市704円、カナダ650円、豪州600円、厚労省幹部は、  
「先進国をならすと600円。日本の売り値は半分だ。相当に低い。この20年で80円しか上がっていないのだから」  
などと言い続けてきた。まるで安いことが不当であるかのような口ぶりだ。安いのは誇らしいことではないか。  
ついでにたばこ税のことを言えば、いまの300円で一本の課税が8.7円、税収は国と地方あわせて2兆円強だ。かりに500円にすれば、喫煙者の減少率がはっきりしないから正確には算定できないが、数千億円の増税を見込むことができる。  
しかし、困った時のたばこ頼みは土台おかしい。かつて、旧国鉄の借金をたばこ増税で埋めたこともある。国家は随分ムチャなことをするもんだ、とその時私は思った。喫煙は反社会的な行為だから、ペナルティーで課税を増やすのは当然、というような風潮が読み取れるが、これはいわば国家的いじめに類する。到底許されるものではない。  
増税が緊急の要請なら、協力するのにやぶさかではないが、折り目が大切だ。増税の理由として、鳩山さんが、  
「人間の体の面から……」  
と言い、長妻さんが、  
「健康の問題もある」  
と言っているのは、どういう意味なのか。素直に聞けば、値上げをすれば喫煙者が減るので、国民の健康維持に望ましい、と考えているように理解される。それが主目的なら、目に見えて減るくらい値上げしなければ実効性がない。昨年も、理由のあいまいな1000円論が広がって結局不発に終わったが、本当に〈健康〉が第一というなら1000円くらいにしなければ意味がない。  
だが、鳩山さんらの狙いが税収増であることは明白だ。500円案がでるのは、それくらいなら喫煙者の減少も大したことはなく、結果的に増税できるという読みがあるからだろう。  
にもかかわらず、いかにも体の健康を第一に考えて値上げするかのようなポーズをとるのは、まぎらわしいというより、一種の欺瞞ではないか。  
健康と増税の二兎を追うような言い方は、政治のけじめとして納得できない。政治にはウソがつきものだが、それはウソも方便のケースがありうるということであって、基本は正直でなければならない。鳩山さんは正直に、私たち喫煙者に対して、 「新たな増税をお願いしたい」  
と頭を下げるべきである。並の増税ではないのだ。500円案が通るとすれば、一気に七割の値上げだから、これはまぎれもない重税である。  
ほかの物価にくらべると、ケタ違いの値上げ幅がたばこにだけまかり通るわけで、説明がつくはずがない。欧米との対比はまったく説得力がない。国内たばこ販売シェアが六割以上ある日本たばこ産業(JT)が、  
「ペナルティー的な課税は喫煙者の納得を得られない」  
と値上げに反対しているのに、政府が推進しようとするのは自由な市場経済のルールにももとる。  
〈コンクリートから人へ〉  
が鳩山新政権のメーン・スローガンだ。人間を大切にする政治をぜひ実現してもらいたい。  
だが、その人間とは何か、をもっと厳密に深く考えないと、スローガン倒れになる。喫煙者も人間である。たばこを喫う人間は価値が低いという認識なら、本当の人間尊重とは言えない。増税ニュースのなかには、  
〈たばこ増税は反対論が少ない貴重な税収源として扱われてきた〉  
という記述もみられたが、喫煙者は反対を控え我慢してきただけだ。弱者だと思ってバカにしてはいけない。 
 
森永卓郎  

 

超党派の「たばこと健康を考える議員連盟」がたばこの大幅な増税を目指して精力的に活動を進めている。自民党税制調査会の津島雄二会長も、党税調で検討する考えを表明しており、消費税率の引き上げが先送りされるなかで、たばこへの増税が来年度の税制改正の焦点になる可能性が高まってきた。  
そもそも、たばこ大幅増税の議論のきっかけを作ったのは、日本財団の笹川陽平会長が3月4日(08年)に産経新聞に発表した論文だった。笹川氏は「1箱1000円に値上げした場合の1本当たりの価格は約15円から50円に上がり現在の消費量で単純計算すると、これに伴う税収増は9兆5000億円の巨額に上る。仮に喫煙率、消費量が3分の1に落ち込んだ場合も3兆円を超す税収増が見込める」として、たばこの増税を税収増と国民医療費抑制の一石二鳥の施策であると訴えた。  
また、日本学術会議も、たばこを1箱1000円にした場合、たばこの消費量は現在の2700億本から1440億本に減るが、税収は4兆600億円増えるとの試算を明らかにしている。  
しかし、たばこの増税で本当に税収は増えるのかどうかは、冷静に検討しなければならない。私は、増税で税収は増えないと考えている。  
第一の根拠は、たばこ税の推移だ。最近のたばこの増税は、03年と06年に行われている。01年度のたばこ税収は2兆2493億円だった。値上げをした03年度は2兆2759億円に増えるが、05年度には2兆2400億円と01年度よりも税収は減る。その後、06年度に値上げをして2兆2874億円に増えるが、07年度は2兆2700億円に減り、今年度(08年)の見込みは2兆2000億円と再び値上げ前の税収を下回る。2度も値上げをして、結局のところ税収はまったく増えていない。値上げで消費量が減るからだ。  
第二の根拠は、大幅な値上げで消費が激減するとみられることだ。製薬会社のファイザーが今年(08年)4月、喫煙者9400人に行った調査では、「たばこが1000円になったら禁煙する」と答えた人が79%にも及んだ。JT(日本たばこ産業)の木村宏社長も、たばこが1箱1000円になったら、禁煙する人が80〜90%出てもおかしくないと語っている。  
たばこ1000円で79%の喫煙者が禁煙したと仮定すると、たばこの税収は2兆2565億円となり、昨年度よりも小さくなるのだ。  
それだけではない。2000年の産業連関表によると、たばこ産業の国内生産額は、間接税を除いて1兆997億円となっている。79%が禁煙すれば、これが8688億円減少する。JTはもちろん、原材料の仕入れ先も、売り上げが5分の1に減少するのだ。生産額減少の10%が、法人税や従業員の納める所得税の減少などを通じて税収減となると仮定すると、こちらのルートでも税収は869億円減少する。たばこを増税して、税収が減るというおかしなことが起きるのだ。  
 
吉田茂 

 

世界の舞台で学んだ外交と葉巻  
わが日本で最も葉巻が似合う政治家、それは吉田茂だろう。  
第二次世界大戦敗戦後の日本を荒廃から立ち直らせた政治家である。「臣 茂」として昭和天皇への奉仕に徹した保守本流の人、その反面、海千山千楼主人を号する座談の名手、極上の葉巻で人を煙にまく、傲岸不屈、「ワンマン」の名をほしいままにした男であった。  
土佐自由党領袖、竹内綱の五男として東京神田に生まれた茂は、三歳で父の親友吉田健三(実業家)の養嗣子となり、養母士子(『言志四録』の著者佐藤一斎の孫娘)に躾けられ、昭和天皇の教育係であった杉浦重剛の日本中学に学び、学習院にすすんだ。彼の生涯を貫く皇室への忠誠心の根源はここにある。一九〇六年(明治三十九)東京帝国大学卒業と同時に外交官試験に合格し、中国の天津領事館へ赴任。日露戦後の大陸経略の第一線が初舞台となる。  
一九〇九年(明治四十二)イタリア公使を務めた牧野伸顕伯爵(大久保利通の次男)に認められて、長女雪子を妻とする。その縁で第一次大戦講和条約の日本全権委員となった牧野の随員となり、首席全権西園寺公望やその随員近衛文麿と行をともにする。戦後世界の体制を決するパリ講和会議の末席につらなり、列強代表の駆け引きを実地に見聞した。この体験は外交官としても政治家としても掛け替えのないものであったに相違ない。  
同時に、ここで葉巻の妙味もおぼえたのではなかったか。  
帰国後、外務事務次官のポストを射止めるも、軍部と対立。イタリア大使、イギリス大使を経て退官する。以後、野にあって岳父牧野伸顕や元老西園寺公望らとともに軍部独裁に異をとなえ、及ばずながらも日独伊三国同盟回避に奔走する。日米開戦に批判的立場を堅持、大戦末期には終戦を策する近衛上奏文にかかわって憲兵隊に拘束され、獄舎の憂き目も味わっている。「葉巻を大事に」──このとき家人に伝えた一言が憲兵の耳に入り、箱ごと没収、バラバラにほぐして調べたあげく、火に投じられたという。吉田の無念、いかばかりであったろう。  
一九四五年(昭和二十)八月敗戦。戦後処理に組閣された東久邇宮、幣原喜重郎の両内閣で吉田は外務大臣に登用され、マッカーサー元帥率いる連合国軍総司令部(GHQ)との折衝を一身に担うという重責を負う。元帥との初対面に際し、葉巻をすすめられて、「それはマニラでしょう。私はハバナしか吸いません」と断わったのは有名な話。  
吉田はイギリス大使のころ、ホテルの廊下ですれ違った紳士の葉巻の香りにひかれ、銘柄を尋ねるようにと娘にあとを追わせ、「これはヘンリークレイです。あなたのお父上の良いご趣味に敬意を表します」との答えを聞き出させたほどの通人。ホンモノにこだわる意地をみせたのであろう。占領下にあっても人間としては対等、矜持を失うことはなかったのだ。とはいえ、対日管理方針のもと日本の民主化を性急に求めるGHQとの対応は筆舌に尽くしがたいものであったに違いない。そのストレスをはたしてハバナは癒しえたのだろうか。  
首相吉田茂に届けられた、絶品の葉巻  
吉田に、首相の大任がまわってきたのは一九四六年(昭和二十一)四月。第一党となった日本自由党総裁鳩山一郎が公職追放者に指定され、急遽、党首に迎えられたのだ。いわばピンチヒッターではあったが、吉田にためらいは許されず、占領下の現実を直視し、憲法改正をはじめ日本民主化政策の遂行に立ち向かうべく、組閣にあたる。しかし、終戦後の激しいインフレの時期、労働運動は高揚する一方で、六百万人の労働者が「吉田内閣打倒、社会党政権樹立」を叫ぶ二・一ゼネラルストライキを引き起こす。  
吉田は、四七年(昭和二十二)の総選挙で一旦敗れるが、翌年十月、吉田民主自由党内閣を再発足させ、さらに翌年一月の総選挙で過半数の議席を獲得、安定政権を確立する。  
吉田の最大関心事は、講和条約の締結にあった。一日も早く、占領の軛を脱し、国際社会に復帰することである。それには均衡財政・単一為替レートの設定、さらに税制改革と行政整理といった難題があり、それにともなう摩擦が下山・松川・三鷹といった事件を惹起し、民心を不安に陥れることも続いた。吉田は、政局安定を求めて、保守合同を模索する。  
そんな折、朝鮮戦争が勃発(一九五〇年六月)し、米ソの冷戦が発火点に達する。アメリカは、当然のように再軍備の圧力をかけてきたが、吉田は、「まだ日本経済は脆弱であり、経済力の確立こそ自由陣営に貢献しうるはず」と抵抗を繰り返した。  
一方、国内では時局を反映して、講和の締結をソ運(現ロシア)・中国を含む連合国全体とするか、自由主義国家とのみ結ぶか、全面講和か片面講和か、国論は真っ二つに割れていた。吉田は断然後者を選び、一九五一年九月八日、サンフランシスコにおいて対日講和条約に調印、同日、日米安全保障条約を締結した。  
吉田は、講和に身命を賭した。調印にいたるまでの日々、彼は酒もたばこもいっさい断って、精魂をその成功のために注ぎ込んだ。調印式終了後、宿舎にもどった吉田の机の上に絶品の葉巻が届けられていた。送り主は講和会議の議長を務めたアメリカ合衆国国務長官アチソン。それには「お好みのシガーを何十日も止めておられた由。めでたく調印となった今、存分に召し上がっては如何」との手紙が添えられていたという。  
吉田のシンボルは葉巻と白足袋  
好みの葉巻は、ハバナ産の「コロナ・コロナ」であった。オーデコロンの「ピノー」の香りが混ざり合って良い匂いがしたという。マッチは軸が長くて折れにくい英国ブライアント&メイ社のもの、シガーカッターはドイツのヘンケル社製を愛用した。  
吉田は和服を好み、羽織袴に白足袋がよく似合った。生活水準の旧に復さぬ敗戦直後においてもなお、格式を重んじる姿勢に、マスコミはこぞって「白タビ宰相」と評してやまなかった。和服にくつろぎ、ゆったりと葉巻をふかす姿は敗戦日本の貧しい庶民にとっては高嶺の花。人によっては傲然と映ったかもしれない。しかし外交官として国の威信を背負い、諸国の首脳と対峙してきた吉田にとっては当然の嗜みであったろう。そしてそれは、明治人として真の和魂洋才を身につけた人ならではの装いでもあった。 
 
黒鉄ヒロシ  

 

今回のたばこ増税論議で気になるのは「健康に悪いからやめさせよう」というペナルティー的な発想が透けて見えることです。たばこは合法であり、愛煙家は税金も払っている。本当にたばこが害悪ならば、法律改正の議論から始めなければなりません。  
歩きたばこや不始末による火事は、マナーの問題で、たばこ自体の是非とは別次元の話です。喫煙は強制されるものではないのだから、「健康に悪いので、やめてもらうために増税します」というのは国のおせっかいというものです。  
増税論議のもう一つの出発点は、不景気で大幅減が見込まれる税収の確保。たばこ税は平成になって3回値上げされましたが、直後は税収が増えるものの、その後は減少傾向をたどっています。これまでの経験から言っても、増税されれば、禁煙者が増え、中長期的に税収が落ち込むのは明らかです。2008年度で2兆1000億円に上るたばこの税収が激減したら、国や地方自治体は大打撃です。  
急激な増税は、密輸たばこなど、やみ社会の資金源を増やす恐れもある。現に英国では密輸が増え、取り締まりに多額の出費が生じています。たばこ離れが進めば、葉タバコ生産者へのしわ寄せも懸念されます。  
たばこ増税は昨年(08年)、自民党政権でも浮上しました。たばこは庶民から金持ちまで平等に楽しめる嗜好品です。税収不足になると、たばこや酒の税率アップで補おうというのはあまりに短絡的な発想。もし本当に財政が危機的ならば「国家財政支援宝くじ」でも発行して、国民に助けを求めるほうがよっぽどいい。  
健康被害にしても、たばこの影響がどの程度あるのか、他に要因はないのか、もっと検証すべきです。愛煙家にすれば喫煙がストレスを解消する効用だってある。ヒステリックに反応せず、喫煙の自己責任を認めて共生していくのが成熟した社会だと思います。  
 
奥村康  

 

「不良」必ずしも長寿ならず  
一昨年、『「不良」長寿のすすめ』という本を出しましたが、「不良」が短命な場合もあるという例もあげておきましょう。昨年は六月の終わりから大変な猛暑で、七、八月の二ヵ月間に千葉県内のゴルフ場で三十人くらい亡くなっているんです。救急医学会が調べたところ、その八割方が「前夜に深酒」なんですね。午前二、三時まで飲んで、暑い中ゴルフ場に出れば確実に脱水を起こす。年齢は四十五〜五十歳あたりで、六十歳以上の人はいない。というのは、年寄りは無理をしませんが、若い人はたぶん賭けてやっているから、がんばってしまう。  
だから、お酒はせいぜい十二時までにして、どうしても飲まないといけないときは、とにかく水を飲むこと。そうすれば血が濃くなりすぎず、脳梗塞や心臓病を起こす危険はうんと下がります。トイレに起きるのが嫌だからと、水を控えるのが一番よくない。人の死因の二〇〜三〇%は、脳梗塞などのアクシデンタルな要因なんです。  
たとえば有名な元野球選手が倒れたときは、治療まで三時間以上かかってしまったといわれております。治療にはゴールデンタイムというのがあって、脳梗塞は発病から三時間以内ならかなり積極的な治療もできる。オシムさんは自宅の浦安から順天堂に運び込まれ、三時間以内に治療が開始できたおかげか、見事に回復されましたね。  
ですから、六十歳を越えたら、そばに電話のできる人間を置いておくこと。その人は籍が入っているかどうかは、どうだっていい(笑)。それと、日頃から救急体制の整った病院を調べておけば万全です。そうすれば救急車は迷わず一発で行けますし、無線で患者の症状をやり取りして、運ぶ間に病院は専門医を揃えられる。病院というのは本来、救急体制が充実しているかどうかが一番大事なんですね。  
娘というのは、父親そのもの  
専門外のトピックをもう一つ。動物の世界では、オスがメスの許しなしにセックスすることはありません。ヒトだけはちょっと例外的ですが、基本的にはメスがオスを選ぶ。ではメスは何を基準に選んでいるのか、それがずっとわからなかった。  
性染色体というのは、個体の性を決定する染色体です。お母さんのXに、お父さんのXがくっつけばメス(XX)、Yがくっつけばオス(XY)が生まれる。従来、メスのXXは、母と父のXが半々で発現するとされてきたんですが、最新の遺伝子解析によると、父のXだけが生きていて、母のXは父のXに消されて発現しない。すなわちメスというのは親父そのものなんですね。だから本来、親父が一緒にいて一番居心地がいい女性は娘なんです。  
性染色体がかかわるのは、においや味の好みなどで、いわば動物の本能的な部分で似通っている。それ以外の染色体がかかわる髪の毛、顔の色、鼻の高さなどは、父母を混ぜた形で出てくる。  
オスというのは、社会性をもつ生き物ですから、娘は親父からその社会性も受け継ぎます。だから小学校くらいまでは、知能指数を調べると、女の子のほうが高い。男はナイーブで女の子より低い、女のほうが利口なんです。小児喘息や自閉症なども、ナイーブな男の子に多く、女の子は少ない。  
で、放っておくとメスは親父と近いようなオスを連れてくるんです。どこか親父と共通点があって、なおかつ親父よりちょっと優秀なやつを選ぶ。そして親父よりも少しいい子供を産む。これが進化の原則。親父よりダメなやつとばかりセックスしていると、その種が滅んでしまう。親父の遺伝子というのは進化上、重要な役割を果たしているんですね。  
こうした知見は、DNA解析だけでは説明できない、DNAの次のステップの遺伝学として、エピジェネティクス(epigenetics)と呼ばれています。  
不老のサイエンス、長寿のサイエンス  
「不老長寿」というのは、東アジア独特の言葉でして、中国、朝鮮、日本くらいしか使いません。アメリカでは不老=アンチエイジング、すなわち歳に逆らうこと。不老と長寿が別なんですね。  
今、世界中の学者を呼んできて長生き競争をやるとすると、まずからだに入れるエネルギーを少なくして代謝を減らし、体温を下げ、微量の栄養を与えながら冬眠させてしまう。そうすると計算上は百五十歳まではいくだろうといわれている。それが長寿=ロングライフのサイエンスです。  
一方、アンチエイジングは、三十歳を二十歳に、七十歳を三十歳に返そうというサイエンス。これは時にロングライフと一致せず、若返るけれど寿命は短くなるということも多い。そのアンチエイジングとロングライフのサイエンスをなんとか一致させようというのが、私たち生命科学者の試みでもある。  
歴史的にアンチエイジングの試みは、ホルモン療法です。これは最初、女性の更年期障害の治療だった。高齢の女性に大量の女性ホルモンを与えると、もう一度生理が来たり、シミが減ったり、ぐんと若返る。  
しかし女性ホルモンを使うと、乳ガンになる確率が百倍も上がる。だから日本では一部の治療目的以外は許可していない。アメリカでは「私は命が短くてもいいから彼氏を引き留めたい」というような方がたくさんいらっしゃるようで、無制限に女性ホルモンを出す。ドーピングに近いですね。  
最近注目されているのが成長ホルモンです。こちらは副作用があまりない。脳の真ん中の脳下垂体でできるホルモンで、この出来が悪いと、小人症といって子供が大きくならない。それを防ぐため、早期に異常を見つけて、成長ホルモン薬を与えると背が伸びる。  
実はこのホルモン、大人になっても大事で、年を取るのを止めているということがわかってきた。たとえばガンなどの治療で、四十歳の人の脳下垂体を取ると、白内障になるは、髪はなくなってしまうは、一気に浦島太郎になる。数年前に行われた実験で、七十〜七十五歳の男性を二つのグループに分け、片方にだけ成長ホルモンを与えたところ、肉体的にも精神的にもぐんぐん若返った。それに加えて運動もさせると、筋肉がついて脂肪が減り、非常に若々しいからだになる。  
ホルモンはホルモンを呼び起こすといいまして、成長ホルモンを与えると、βエンドルフィンが出る。これは脳内麻薬ともいわれる、要するにスケベホルモンです。これが七十歳の人にもバンバン出てきて、精神的にも明るくなってギラッと若返るわけです。  
アメリカのシニアプロゴルファーなどはほとんどこれを使っている。アメリカの成長ホルモンの使用量は日本の七千倍。実はこれを一番使っているのは畜産業です。アメリカやオーストラリアから来る牛肉、豚肉はすべて成長ホルモンを使っている。これを使うと早く大きくなり、しかも日本の牛みたいに脂の入った病的な肉ではなく、赤々として、軟らかくておいしい。ところが日本の農水省は、使用を許可しないんですね。成長ホルモンを使った輸入肉は売っているのに、おかしな話です。  
コレステロールの抑制は危険  
さて、「不良長寿」を考えたのは、生命保険会社のあるデータがきっかけでした。一部上場の会社の部長さんが、定年退職して何年生きるかというもので、だいたい七〜八年なんです。ものすごく短い。取締役や社長は長生きだし、部長まで行かなかった人、それから二部上場以下の企業や自営業の人は普通に長生きなんです。考えるに、一部上場会社の部長というのはまじめな日本人の典型なのではないか。そんな話をしたらある企業の人が「部長で辞めるというのは、部長になかなかなれないのを、辞める前に部長にしてやるので、一番真面目で面白くないやつ。それ以外はみんな悪い≠竄ツだ」と。  
もう一つ、十年ほど前にフィンランドの調査が話題になりました。フィンランドは年金制度の充実した国で、会社を辞めても何もしないで食っていけるので、健康管理がよくない。アル中や膵臓疾患も多く、寿命も短い。それで厚労省が大学の先生に依頼して一九七四年から十五年がかりで大規模な実験を行った。  
生活環境の似ている四十〜四十五歳の男性千二百人を半分に分け、片方は年に二回は健康診断をさせ、酒もたばこも制限し、きちんとした生活リズムと健康状態を保つよう指導した。もう片方は、酒もたばこも食事も一切自由。それを五年やって、十年間の観察期間を置き、十五年後に蓋を開けたら、前者の健康管理グループは六百人中十七人が死んでいた。一方のほったらかしグループは一人も死んでない。  
これはまずい、これを知るとますます国民の生活が乱れると、厚労省は情報を隠してしまう。ところが、調査を統括した先生が公開するんです。なぜ健康管理をしたグループのほうだけ何人も死んでいるのか、原因を調べるのが大事だろうと。そしてその指導方法について二つの問題点を指摘した。一つは、コレステロールの数値を徹底的に管理したこと。当時はコレステロールは低いほどいいという観念があった。もう一つは、あまりストイックな生活をさせたために、免疫の働きが弱ったのではないかと。  
この二つは、今となると見事に正しい。日本はコレステロールの正常値を二二〇r/㎗以下という、ものすごく低いところに設定している。欧米で問題視される基準はだいたい三〇〇以上なんですね。  
新聞報道もされましたが(読売新聞二〇一〇年九月八日)、日本脂質栄養学会が行った調査によれば、最も長生きの人たちのコレステロール値は二六〇〜二八〇。しかも通説とは逆に、ここからコレステロール値が低くなればなるほど、病気などによる死亡率が高くなるという結果だった。  
コレステロールは肝臓と脳でつくられます。全体の二〇%は脳の細胞でつくられ、脳で使われている。だからコレステロールが低い人は脳の回転が悪いかもしれません。また、すべてのホルモンはコレステロールからできている。セックスに関するホルモンもそうですから、コレステロールが高い人はスケベです。スケベなやつは頭の回転が速く、仕事もできる。それは確実に比例します。  
コレステロールは強い血管をつくるのにも大事です。かつて秋田や山形は脳出血の人が多くて、脳外科の医者は手術によく行ったものでした。秋田や山形の人は漬け物ばかり食べて、牛乳や卵はよそに売ってしまって自分は食べない。だから血管が弱く、ちょっとトイレに行くくらいですぐ脳出血を起こしていた。今は牛乳も卵もよく食べるようになって、脳出血は減リました。  
医者に行くと、二二〇以上で異常だといってコレステロール降下薬を飲まされる。すると、まずいことに鬱になるんですね。非常に多弁だった人が無口になったりする。そういう人が電車に飛び込むんだという話をしていたら、実際に帝京大学の精神科の先生とJR東日本が協力して、JR中央線で自殺した人を調べたんです。その結果、九割が五十五〜六十歳で、ほとんどが男だった。それが見事に全員、コレステロール降下薬を飲んでいたという。  
コレステロール降下薬の年間売り上げは三千〜四千億円ともいわれている。その七割は女性が飲まされている。女性は閉経後に必ずコレステロールが上がるからです。もしコレステロール降下薬を処方されても、安易に従わず、捨ててしまうようお勤めします。  
たばこ=肺ガン説のウソ  
なぜ、たばこをじゃんじゃん吸っていたグループが一人も死ななかったのか。僕は大学院のときに、病理学の先輩とたばこが肺ガンを引き起こすというので、ある実験をさせられました。ラットをたくさん飼って、当時一番安かった「しんせい」というたばこを使って、煙づけにしてガンをつくろうとしたんですけど、結局一つもできなかった。それで「たばこを吸ってもガンにならない」という報告を書いたんです。  
たばこは、確かに咽頭ガンとは因果関係があって、たばこを吸う人は四十倍、咽頭ガンになりやすい。ただ、咽頭ガンで死ぬ人は年間五千人程度。一方、肺ガンは年間六万五千人以上が死んでいて、その発ガン物質として最も大きいのは自動車の排気ガスです。排気ガスを一〇〇とすれば、たばこは〇・一以下でしょう。その〇・一を狂ったように攻撃していますけれど、本当に肺ガンを減らしたいなら、自動車を止めるしかありません。  
しかも肺ガンには、空気を運ぶ管の部分と、空気が入る風船の部分にできる二種類があって、東洋人は管の肺ガンが圧倒的に多い。そこにできるガンはたばことまったく関係ないんです。  
一方で、たばこはからだにいい点がいろいろある。たとえば、人の脳の細胞は毎日数十万、数百万という単位で減っていく。といっても問題はなくて、脳細胞はお互いびっしりつながってネットワークを形成している。ある部分がスポンと抜けても、それを迂回したネットワークに回すことができる。物忘れをしても、しばらくして思い出すのは、ほかの回路が働くわけですね。脳に刺激を与えると、この回路がどんどん増えて記憶がよくなる。脳が若返るんです。  
そのネットワークづくりを促進するのがニコチンです。だから、たばこを吸うと記憶がよくなるし、たばこを吸う人はボケが少ない。それから、たばこは気管支に悪いというのはウソで、むしろたばこを吸う人は風邪を引きにくい。たばこが適当な刺激になって、免疫が上がっているんです。もっと重要なのは、日本人は年に三万二千人が自殺する。そのうちの二千人くらいを調べたところ、たばこを吸う人が一人もいなかった。たばこは自殺防止にも役立つのではないか。  
ある心理学者に聞いたところ、たばこを吸っているときは、いわば頭が「白く」なるという。ずっと同じ刺激のある状態より、ストレスをときどきぽっぽっと解放してやる。リズムをもって生活している人のほうが脳的には健康だというんですね。  
こういうことを言うと、今は医学界から放り出される。それはファシズムでしょう。病院の中に吸い殼が一つでもあると、厚労省は病院の格付けを落とすんですよ。たばこを吸っていいタクシーを待たせるだけでも減点なんです。そんなにたばこを遠ざけたいなら、たばこ特区をつくったらどうでしょうか。たばこ好きの人ばかり集めて、そこがいかに長寿かということを示してやればいい。嬉しいことに最近喫煙者専用の喫茶店が出来て大人気だそうです。私はたばこの経験があるような方が安心して付き合えて好きです。  
免疫の利口な面、バカな面  
健康を保つには、何より免疫力を保つことが大事。ただし、実は免疫にも利口な面とバカな面があるんです。  
ウイルスのような小さいものに対しては、免疫は利口です。毎年十一月ごろになると渡り鳥がインフルエンザウイルスをもってきて、それが日本中にばらまかれ、日本人全体がウイルスの攻撃にさらされる。でも翌年三月ごろには、そのウイルスは日本にはいられなくなる。免疫の働きでからだに抗体ができるからです。  
人は病気にはならなくても、常にウイルスにさらされては抗体をつくるというのを繰り返している。新型インフルエンザも同様で、一昨年メキシコではたまたま医療設備が悪くて死者が出たけれども、日本のように医療の整った国で人が死ぬような危険性はほとんどない。そうした免疫の仕組みを知らない厚労省の役人や政治家が大騒ぎしてしまった。  
昨春の口蹄疫騒ぎも同様。口蹄疫の病原体はピコルナウイルスというヒトの小児麻痺、ポリオに近いウイルスで、いまやポリオというのはワクチンでほとんど駆逐されつつある。そのくらい免疫が有効なんですね。だから四月に宮崎で口蹄疫が発覚したときも、すぐワクチンを打っておけば問題なかったのに、ぐずぐずして拡大してしまった。やっと六月になってワクチンを打ったら、ぴたっと終息した。  
畜産集会には、抗体陽性の家畜が出たらその国から畜産物輸出ができないという法律がありますが、あんなのナンセンスですよ。口蹄疫のウイルスなんてたいしたことないんですから、抗体陽性の牛を食べたって何ともないし、治った牛は生かしておいても問題ない。それを何十万頭も殺してしまったわけです。  
逆に、相手が大きくなると免疫はバカになって役に立ちません。たとえば結核菌はウイルスの何億倍も大きいので、ワクチンは効かない。  
BCGが結核のワクチンだなんていうのは大ウソでして、ツベルクリン陽性でも、結核の人がコホンコホンやっているそばにいれば簡単に飛沫感染してしまう。日本のBCG接種は戦後、占領軍が持ち込んで実験的に接種したことから始まったんですが、当のアメリカはその結果を見て、意味がないと判断したからBCGは一切やっていない。それをなぜ日本でやり続けているかといえば、そこにはお役人の天下り先とかの利権があるのでしょう。  
もう一つ、免疫のバカな面はアレルギーです。免疫のメカニズムが変なふうに働くとアレルギーになる。スギ花粉症、アトピー性皮膚炎、リューマチなどいろんな疾患がありますが、ただ、アレルギー疾患で死ぬ人はいない。これもたいした病気じゃないんです。たとえばスギ花粉症というのは、非常に精神・神経状態の影響を受けやすいんですよ。  
重罪犯の刑務所の医師に、花粉症はいないだろうと聞いてみたら、「受刑者には少ない。でも看守にはたくさんいます」と。  
政治家にも花粉症は少ない。冗談ですが、きっと悪いやつは花粉症なんかなりません。スギ花粉症の季節に、国会中継で鼻水を出してくしゃみをしている代議士はいません。あれはテレビに映るとアドレナリンが出るんです。そうすると鼻水もくしゃみもぴたっと止まってしまう。重罪犯というのも、アドレナリンが出やすい人たちなんです。子供はちょっと小突くとぎゃっと言うでしょう。子供もアドレナリンが出やすいんですね。  
気合いが入っていたら、あんなものはぶっとばせるんです。ゴルフでも、ドライバーを打つ最中はくしゃみは出ないでしょう。あれはホルモンがわっと出るんですね。セックスをしている最中も同じ。要するに、人間のからだというのはホルモンで自由自在に操られているという話なんです。  
よく笑い、よく遊び、NK活性を上げよう  
私たちのからだで一番の心配事といえば、やはりガンでしょう。それは人間が長生きするとどうしても出てくる問題です。ハエや蚊がガンになるというのは聞いたことがありませんが、もしハエを長生きさせたらガンもできるに違いない。ハエの寿命は一〜二週間しかありませんが、ハエにも老化遺伝子がある。この働きを止めると、今の技術ならハエの寿命を一年くらいに延ばすことができる。人間も理論上では三百歳くらいまで生かせるといわれています。  
人間のからだでは、一日で一兆個の細胞が生まれています。そのうち六千個がガン細胞です。人間みな等しく、毎日六千個のガン細胞をつくっている。とはいえ、一兆のうちの六千ですから、きわめて少ない。その六千個を体中から隈なく見つけ出して、叩いているのがNK(ナチュラルキラー)細胞です。同じリンパ球でも、T細胞はマクロファージから情報を受け取って初めて作動するのに対し、NK細胞は自ずからガン細胞やウイルスなどを攻撃する。いわば交番のお巡りさんみたいなもので、T細胞やB細胞が軍隊だとすると、軍隊が出動しない平和なときも、お巡りさんはしっかり見張りをして不良を叩いてくれる。  
しかし、年を取るとNK細胞は弱くなってくる。お巡りさんが居眠りをする。その隙に不良が徒党を組んで暴力団になる。そこでお巡りさんが目を覚ましても、もう遅い。それがガンなんですね。  
NK細胞の活動は、一日のホルモンのリズムに支配されていて、日内変動が大きい。日中は高く、夜寝るときは低くなっている。だから、生活リズムをでたらめにすると活性がドスンと落ちる。長距離トラックの運転手さんなどは、NK活性が低い人が多い。また、ちょっとした精神的なストレスにも弱い。ちょっと憂鬱になったり、悲しいことがあったりするだけで活性が下がる。  
動物実験で、子育てをしているメスから子供を取り上げると、NK活性がドンと下がります。その隣に元気な動物を置いておくと、その動物のNK活性も下がってしまう。すなわち、暗い人のそばにいると自分も暗くなる。精神病というのは、うつるのかも知れません。だから明るい人のそばにいるほうがいい。ストレスという言葉は誤解があって、問題なのは悲しいストレスです。ゴルフでOBを打ったってストレスにはならない。それはかえって刺激になってNK活性が上がるんです。  
笑うだけでもNK活性は上がるんですよ。テレビ番組で、丹波哲郎さんが笑うとどのくらいNK活性が上がるかという実験をしたことがあります。丹波さんはもうお年でNK活性は低かったんですが、二十分くらいゲラゲラ笑うだけで、ぐんと上がった。  
「不良」がなぜNK活性が高いかというと、ストレスを引きずらないからです。不良には親友がいますから、酒を飲んだり、カラオケをやったりしてストレスを解消できる。「不良」というのはなにも「悪い」という意味ではなくて、やんちゃな人ですね。そういう一見些細なことが、われわれの人生にいかに大事かを伝えたくて、『「不良」長寿のすすめ』を書いたんです。 
 
筒井康隆  

 

「我々は悠然とタバコを喫えばいい」─。タバコにまつわる色々が、フシギに卑小に思える“痛快放談”!  
あらゆる不満のスケープゴート  
─先生は昭和六十二年、『小説新潮』で「最後の喫煙者」という短編を発表されています。これは、健康ファシズムがいきすぎた恐怖社会で、喫煙者が国家的弾圧を受け追いつめられていく様子を描いたストーリーですが、当時から嫌煙運動の兆しを感じておられたんでしょうか?  
筒井 それはよくわかりましたね。やっぱりタバコを喫う人間だから、ちょっとしたイヤミや嫌悪感をひしひしと感じるわけです。  
しかし、「これはタバコとは別のことで怒っているんだな」という感じはありました。「タバコが嫌い」ということではなくて、ほかのことでイラついているんだな、と。それが今やもう証明されてしまいましたね。明らかにタバコが、あらゆる不満の“犠牲”になっている。「禁煙」という一点に人々のはけ口が集約されていますね。  
いずれは『最後の喫煙者』(新潮文庫)と同じような状況になるでしょう(喫煙者差別が魔女狩りのレベルに達し、殺人・私刑・放火・脅迫がおこなわれる)。まだそこまではいっていないけれど、いずれそうなる。  
─当時の禁煙運動の状況は?  
筒井 アメリカで禁煙運動が勃興しているというのは知っていました。  
そして、日本人のほうが徒党を組みやすく、マスコミやおかみの言うことは信じるんだから、アメリカがこうなっているなら、日本ではこれはもう戦争中みたいな騒ぎになるというのは、予測がつきましたね。  
日本人は、偉い人のいうこと、世の中の風潮、体制に対して、右へ倣えが激しいですからね。アメリカは個人主義だから、それほど徒党を組まないんじゃないんですか。  
─もともとタバコは個人の「趣味嗜好」の問題だったのに、いつの間にか「健康問題」になっています。  
筒井 健康とまったく関係ないということが、医学的にこんなにはっきり証明されているのに、「見ざる聞かざる」を決め込んでいる。嫌煙者はやっぱりアホですよね。あっちが「喫煙は健康の害になる」という前提のもとでしか発言しないのであれば、こちらは「喫煙は健康とは無関係」ということを前提にして話すしかない。  
ただのアホなら許せるけれども、嫌煙権論者はヒステリックでしょう。彼らと公開で論争するなんていう、そんなバカなことをするのは実に無駄なことでね。まあ、そういう時はむこうにギャーギャーわめかせておいて、こちらは悠然とタバコを燻らせていればいい(笑)。  
面白いのは、嫌煙権論者にはまともな文章を書く論客が乏しいことです。反嫌煙権の論客がきちんとした文章を書いているのに対して、彼らはデマや誤った統計によるスローガンを金科玉条のように繰り返すだけ。略してキンタマです(笑)。  
それに彼らは、公開討論しようとか、あるいは新聞社にFAXを送りつけて他のFAXが入らないように妨害しようとか、ギャーギャー電話をするとか、すぐにそういう暴力的なことをする。日本のヒステリックな嫌煙者には戦時中の大政翼賛会みたいな、独特なものがありますね。  
タバコは人を穏やかにする  
─いまの禁煙運動は本当にファシズム的です。  
筒井 言論の自由をとってみても、ほんとは新聞なんかがその代表なんだけど、新聞がそもそも愛煙家の言は載せない。載せると大変なことになってしまう。これは戦争中の大本営発表だけを載せるという、それと同じことですよ。まあ私は新聞の読書欄にそれとなく書きましたがね(笑)。  
嫌煙権論者の意見は載るけれども、われわれ喫煙者の意見が載らない。マスコミが嫌煙権運動に同調している以上、喫煙は「悪いこと」に決まっているのだから、どんなに差別的なことをしてもかまわないと思っている。これに対しては何を言っても無駄だし、もう、どうしようもない。  
─タバコの問題は、今や「善悪論」にまでなっています。相撲賭博の問題をみても、政治家叩きをみても、同じ匂いを感じます。  
筒井 別に相撲取りがバクチをしたってかまわないじゃないんですかね(笑)。昔から、バクチくらいはしていますよ。ヤクザの集団には、必ず相撲取りがひとりかふたりついていたもんです。  
現代社会の基本原理は、「排除の原理」です。これが、禁煙ファシズムにも、相撲賭博問題にも、政治家叩きにも出ている。喫煙者や相撲取りをいじめ、政治家を罵倒して痛快さを味わっている。生きた人間をいたぶるのは、嗜虐的な快感があるし、皆がやっているんだから罪悪感を感じなくてすみます。「正義」と「善」を振りかざして、嬉々としている。  
最近出した『現代語裏辞典』(文藝春秋)の項目では、【善悪】について、「どちらか一方は小人物。同居させているのが大人物」としています。  
─嫌煙権論者は今や相当な影響力です。  
筒井 この『愛煙家通信』は、基本的に愛煙家が読むだけだから、喜んで手紙も寄越すでしょうけど、かつて『文藝春秋』に養老孟司氏と山崎正和氏の対談(「変な国・日本の禁煙原理主義」二〇〇七年十月号)が載ったときは、文藝春秋への抗議がひどかったらしい。  
喫煙させている店があると、昔の憲兵みたいに嫌煙権運動をしている人が押しかけていって、「この店禁煙しろ」とギャーギャー言う。そしてシラミを潰すようにひとつずつ「この店禁煙、この道路禁煙、この区内全部禁煙、ホテル内全部禁煙……」と禁煙網を拡げていく。楽しんでますよね(笑)。  
ところがそんな状態になっても、タバコを喫う人はギャーギャー言わない。皆おとなしく言うことを聞いている。それは何故か。彼らが「タバコを喫うから」です。タバコは人間を穏やかにして情緒的にするんですよ。だから、これほどまでに露骨な喫煙者イジメ、喫煙者差別にも耐えていく精神的余裕をもっている。  
それは嫌煙権論者の性格との対比でもはっきりわかるし、これからますますはっきりしてくると思う。嫌煙権者もタバコを喫えばヒステリックでなくなるのにねえ(笑)。  
ただ、この禁煙ファシズムはどうにもならないね。戦争中だって、「この戦争は負ける」と思っていた人は沢山いたのに、誰も何も言わなかった。この戦争が自分達の国を滅ぼすとわかっていても、何も言わないで、しかたがないと思っていた。  
禁煙運動も、一度何か大きな事件でも起きて、どえらい騒ぎになるまでは収まらないでしょうね。  
「犬と喫煙者立入るべからず」  
─「タバコの害」も過大に喧伝されていますね。  
筒井 例えば、東京の多摩川の河川敷で、みなバーベキューをやって、ゴミの山を築いて帰っていきますが、役所がその処理に何百万もかけています。タバコをポイ捨てしても、何百万もかからないでしょう。それに、公共の広場でタバコを喫っても誰も死にませんが、公共の広場でゴルフをしている人間がボールを人に当てたら死にますよ。  
タバコを喫って暴れる奴はいないけど、酒を飲んで暴れる奴はいる。飲酒運転をして事故を起こす奴もいるが、喫煙運転をしての事故はなかった。なのに今は乗客にまで禁煙させる。  
─『最後の喫煙者』では、「犬と喫煙者立入るべからず」という公園の看板に、主人公が怒りにうち震える場面がありました。喫煙による犯罪発生率は低いと言えるのに、なぜこんなに迫害されるのか……。  
筒井 南アフリカのマンデラさんは、白人と黒人の宥和政策をとったでしょう。あれは偉いですよね。自分が白人からひどい差別をされてきたのに、いざ自分が大統領になっても逆に仕返しをすることはなかった。あの人は本当に偉いです。  
アパルトヘイト下で、白人と黒人とを分けたでしょう。混血児も「Colored」といって、黒人の仲間に入れた。しかし、日本人だけは「名誉白人」といって、白人の仲間に入れたんです。だから、結局金持ちはいいんだよね(笑)。  
喫煙者だってそうですよ。新幹線がタバコを喫えなくなった場合でも、僕なら大阪までハイヤーを飛ばして、中でタバコを喫いますよ。タバコの税金があがって、一本千円になろうが、一万円になろうが、タバコを喫ってたら大威張りですよ。「俺がどんだけ税金を払っていると思うんだ」ってね。  
一般の人はそれができないから可哀想だけど。  
僕は嫌煙権論者は、それが例え大臣であろうが、一種の“神経症”だと思いますね。神経症の一種で「肛門愛」というものがある。これは、幼少時にトイレのしつけを厳しくされた結果、几帳面、清潔好き、整理整頓、時間厳守とか、礼儀作法にうるさいとかの性格が形成されることを言うんです。  
だから僕にとっては、「禁煙」「禁煙」という厚労相なんかは、「ウンコのオッサン」なんですよ(笑)。嫌煙権者はみな「ウンコのオッサン」です。「タバコの煙が嫌い」という女性は、みんな「ウンコのネーチャン」だし「ウンコのオバハン」だしね(笑)。  
でもね、いかに清潔清潔と言ったって、昔は家の床の掃除にしても、雑巾で拭いていたわけでしょう。今は掃除機でゴミを吸う。便利になって、本当は逆に不潔になってきているんです。機械まかせのために「清掃」という観念が薄らいできている。  
現代人は子供の時から、汚れた服は洗濯機、汚れた食器は食器洗い機と、だんだん清潔という観念から、本当は遠ざかってきているんだね。  
“個”で喫煙権を主張する  
─今は、しっかりした価値判断をもっている人間しかタバコを喫わなくなってきましたね。  
筒井 嫌煙権論者は群れをなして来るわけですからね。けれど、こっちだって群れをなそうと思えば、できないわけじゃないですよ。喫煙者の我慢が禁煙ファシズムを助長しているとも言える部分はある。  
例えば、映画の悪役っているでしょう? あれだけを集めて、マフィアみたいな格好をさせて、三十人くらいでタバコを喫いながら、千代田区(区内全域を路上禁煙地区に指定している)を歩かせる。恐ろしくて取り締れない(笑)。  
あるいは、イタリアから金を払って本物のマフィアを呼んできて、葉巻くわえて百人歩かせるなんてのも面白い(笑)。条例では逮捕されないからね。(※千代田区の「生活環境条例」違反者には罰則が適用〈過料二千円〉)  
禁煙タクシーには乗らない、禁煙のレストランには入らない、分煙のレストランを避ける、禁煙の建物には入らない……とか、“個人の反逆”として、ちょっとしたことだけど、ヒステリックな嫌煙者を刺激せず、目立たない形で喫煙権を主張することはできます。  
先日、『現代語裏辞典』の出版打ち上げを、フランス料理店でやったんですが、そこが「全店禁煙」だったんです。  
僕の担当者が、その店が禁煙なのか、喫煙できるのか、確かめないで私を招待したんだね。  
というのも、私の担当編集者連中がタバコをやめたからなんですよ。会社が分煙になって喫煙所ができたんだけれど、それがいやでやめてしまった。できた喫煙室は「ガス室」と呼ばれていて、「ガス室行ってくるわ」と言うらしい(笑)。  
禁煙してから彼ら元気がなくなりましたよ、可哀想に(笑)。  
僕は料理を食べている間はタバコを喫わないけれど、一区切りついたデザートの前あたりには喫いたくなるでしょう。  
そこが禁煙というのは知っていたけれど、「無意識に喫った」みたいな顔して喫ったんですね。そしたら従業員が灰皿を持ってきて、「すいません。店内は禁煙です」と言うから、こちらは「殺さば殺せ」とか言ってね(笑)。  
二度目に「すいません」と言いに来たときは、「ま、もう一服だけ」なんて言いながら、二服三服喫って、ほとんど喫っちゃった。そういうふうに“個人の戦い”はできる。  
この間も、孫を連れて静岡の川奈温泉に行ってきたんです。途中、熱海で乗り換えるんですが、熱海駅は新幹線のプラットフォームにも、伊東線のプラットフォームにも喫煙場所がない。  
それで私は、伊東線のプラットフォームで喫ったんです。そしたら清掃係のおじさんがやってきて、「ここ、禁煙ですよ」というから、「どこで喫えるんですか?」と聞いたら、「外かな…」って。「外へ出たら入って来れないじゃないか」ってね(笑)。  
それで、なんやかんや言いつつ一本喫ってしまいました。だから皆がそれをやればいい。「条例違反だ」と言われたら「で、どうするんだ、逮捕するのか」などと押し問答しながら一本喫っちゃうんです。喫えますよ(笑)。  
タバコは十六歳から  
筒井 私は高校で演劇部に入ったんですが、芝居がうまいからとすぐに舞台に出させてもらえたんです。森本薫の『華々しき一族』でした。そこで演じたのが、タバコを喫う役でした。いちばん前の席の校長がいやな顔してたけど(笑)。  
だから、十六歳のときが喫煙のはじまりですよ。そして七十五歳の今でもなんともない。何ともないどころか、むしろ健康です。  
カミさんとも、四十五年来のつきあいですけど、私の横にいて何ともないですしね。むしろ本人も伴侶もタバコを喫わないという人がたくさん肺癌になってる。  
私が八十歳、九十歳になったら、「先生、健康の秘訣は?」なんて聞かれると思うけど、答えは「酒とタバコ」ですよ。ストレスがあるっていうのが、人間には一番の病気の原因ですね。ストレスがあると人間いっぺんに老けますよ。だから私はバカなことばかり考えて、ストレスのない生活を送っております(笑)。  
今は日に二十本くらい、「VOGUE」のレギュラーを喫っています。昔は缶ピースでしたがね。  
─最近、映画でも喫煙シーンがないですよね。昔は、映画の中でいい喫煙シーンが沢山ありました。  
筒井 無声映画時代からありますよ。ピーター・ローレが主演で犯人役をやった「M」という映画もそう。警察の捜査会議の場面があるんですが、警部とか警部補とか署長とかが全員葉巻を喫って、もうもうたる煙の中で話をしている。昔はあんなものだったんでしょう。タバコには神経の苛立ちや感情の昂ぶりをしずめて、頭の回転をよくする効果がある。  
どうやって犯人を捕まえようかという、難問を解決するための長時間の会議には、タバコは必需品なんですよ。昔の新聞社の編集会議だって同じようなものでしょう。最近、新聞の社説やコラムがつまらなくなったのは、新聞社の会議室からタバコが追放されたからだと思います。  
あとは『恐怖の報酬』だね。男がタバコをくわえて運転していたら、くわえていたタバコがぴゅっと飛んでから、前の車が爆発をする。爆発音はあとから聞こえる。あれはよかった。  
『最後の喫煙者』がテレビドラマになって、僕も出演しました。主人公が国会議事堂の天辺に追いつめられる最後の場面は、さすがに撮影許可が出ないので、「最後の喫煙者」である主人公が剥製にされ、タバコを喫うポーズをとって口から煙を吐いているシーンになりました。  
─このまま禁煙運動がすすむとどうなりますか?  
筒井 昨日までタバコを喫っていて禁煙した人が、タバコが喫えずにイライラして、他人の喫っているタバコを取り上げるようなことだって起きるかもしれない。そうしたときに、いくら喫煙者がおとなしいといったって、どんなことが起きるかわかりません。あるいは、ヒステリックな嫌煙者が、タバコを喫っている人間を刺すということも考えられる。そうなったらもう「戦争」ですよね。やっぱり殺人というのが一回か二回あるかもしれない。  
─ニューヨークで全店飲食店が禁煙になったとき、タバコをめぐる口論で門番が撃たれる事件がありましたね。  
私をJTの社長に  
筒井 この禁煙包囲網に対しては、がんばるとかなんとかという問題ではないんだけど、「好きにやりましょう」ということですよ。好きに喫っていればいい。ギャーギャー言われても、腹を立てない。われわれはおとなしいんだから、笑ってタバコを喫っていればいい。  
タバコの喫えない所へは行かなければいい。勤め人はそういうわけにいかないけど、ただそういうときでも、喫おうと思えば喫えますよ。「タバコの喫えるところはないか?」と聞けば、嫌煙権者以外はみんな親切で、同情して教えてくれたり案内してくれたりする。  
─最近は奥様が家庭内で禁煙活動をしている所もあります。  
筒井 夫婦のことだから、それは夫婦内で何とかしてください(笑)。  
─反喫煙運動の黒幕は?  
筒井 敵ははっきりしています。自動車業界とアルコール飲料業界ですよ。  
嫌煙権運動の発祥であるアメリカでは、自動車産業が自分たちに有利な政策を容易に政府に強制することができる。自動車産業に対する批判、例えば、排気ガスによる地球温暖化とか、公害による喘息疾患、交通事故なんかから大衆の眼をそらさせて、嫌煙権運動に誘導している。タバコをスケープゴートにしているんですね。  
自動車によって人類が滅亡することはあっても、タバコの煙で人類が消えていなくなることはないからね。もしそうであれば、とうの昔に人類は絶滅していますよ。  
また、アルコールによる中毒症だとか、依存症、犯罪だってタバコの比ではありません。アルコールを一気飲みした若者が急性アルコール中毒で死ぬことはあっても、タバコの一気喫いをした若者が急性ニコチン中毒で死亡した例はありません。酔っ払いが電車内で婦女子にいたずらをしたり、乗客にケンカをふっかけたり、悪臭漂う反吐を吐いたりしても、タバコのために喫煙者が婦女子にいたずらしたり、社内で反吐を吐いたりすることはない。  
そして本来であれば、その実態を指摘する役目を担っているマスコミが、それを言わない。自動車業界、アルコール飲料業界は、大きな広告主だからね。  
行動分析学というのは、「いかにしてタバコをやめさせるか」なんてことをやっていたんだけど、そのいちばん偉い先生が酔っぱらいのせいでプラットホームから落ちて死んじまった。「いかにして酒をやめさせるか」を研究すべきだったでしょうね(笑)。  
─タバコの警告表示も、だんだん内容がエスカレートしてきています。  
筒井 JTは「喫煙は肺がんの原因の一つとなります」「心筋梗塞の危険性を高めます」と、自分のところの製品の悪口を言っている。自分の企業の製品の悪口を言うなんて、そんな会社がどこの世界にありますか。気がおかしい。  
僕を、JTの社長にしないかな。社長になったら「喫煙は健康の害になります」なんてメッセージ、取っ払いますね。何もWHOの言うことを聞くことはない。  
それで、あのスペースをどうするかというと、「喫煙キャンペーン」「反禁煙キャンペーン」を打つ(笑)。  
「タバコは情緒を豊かにし、精神を安定させる効果を持っています」  
「自動車は人間の健康に害があるばかりでなく、人類滅亡を招く危険物です」  
「お酒の飲みすぎは健康を害し、他人に迷惑を及ぼし、犯罪を招く恐れがあります」  
嫌煙権者がかんかんになって怒って不買運動はじめるかもしれんが、痛くも痒くもないもんね(笑)。  
タバコが原稿を書かせる  
筒井 近所のスモークバーには、ときどき行くんですが、葉巻を喫うと、葉巻用の灰皿を持ってきてくれるんです。そういう天国のようなところがある。世の中こうなってくると、どこかに喫煙者にとっての“天国”のようなスポットができてくるでしょうね。乗客が減ってくると日航や全日空が争って喫煙室を作る、客の奪い合いで飛行機と競争して新幹線は喫煙展望車を作る(笑)。  
─これだけ「禁煙」「禁煙」と騒ぐと、普通の人は思考が停止してしまうのではないでしょうか。  
筒井 思考能力の低下がとくに激しいのは、以前タバコを喫っていて禁煙した人たちですよ。やたらヒステリックになって、人がタバコを喫っているのが我慢できなくて、ギャーギャーわめく。あれは一種の精神異常ですね。自分もこの間まで喫っていたクセに、やめたとたん、禁煙によるストレスを嫌煙権運動で発散させている。  
タバコをやめた連中は、きっと長生きしてゲートボールしたり、行方不明になりたいんでしょう(笑)。でも恐らく短命なんじゃないかな。  
僕は高齢者の行方不明というのは、実はいいことじゃないかと思うんだよね。昔の「姥捨山」は子供が親を捨てたけど、子供には迷惑をかけたくないと、自分からいなくなる。  
僕も万が一、百歳まで生きていたとしたら「年金は一年くらいならもらっておけ」「私のことは探すな」と言い置いて旅に出る。格好いいでしょ(笑)。  
─先生はすぐ見つかりそうです。  
筒井 百歳になればもう忘れられてますよ。  
─「タバコ依存」という言葉にしても、人は何かしらに必ず「依存」しているものです。「依存=悪」という図式はおかしい。  
筒井 人間はまず仕事に依存しないと、食っていけない。その証拠に、仕事をやめたらすぐに死ぬ人が多いでしょう。  
僕のことを言えば、本当にありがたいですよ、ふつうは六十歳で定年なのに、そこから十五年、こうして仕事はいっぱいあるし、こういうインタビューも次々依頼してきてくれますしね。普通なら定年後十五年もしたら、ボケてきますよ。  
古井由吉氏に言わせれば、小説家は書くことがなくなってからが勝負だそうですよ。丸谷才一さんなんかは、作家は八十歳になってからだ、なんて言っています。そうかもしれんね。何も欲望がなくなって、真実が見えてくるというのはありますからね。  
─タバコは創作活動を、高める効果がありますね。  
筒井 タバコを一日百本喫っているという作家がいるでしょう? あれはタバコが原稿を書いているんだと悪口を言う人がいます。じゃあ、あんた一日百本タバコを喫って、この人以上の小説を書けるかといえば、書けないでしょう?  
クスリも同じようなものかもしれませんね。昔は麻薬をやっている作家がたくさんいて、「麻薬が小説を書かせている」なんて言う人もいたけど、麻薬を喫って同じような小説が書けるもんじゃない。大傑作ばかりだもの。  
─これからの喫煙者は、ある意味ユーモアをもって、まわりの強い風当たりに対処していく必要があるんじゃないでしょうか?  
筒井 あのね、どんなにユーモアを交えて話しても、「ウンコのオッサン」「ウンコのオバハン」にはそんなユーモア、通じないんですよ。かえってその方が怒ります。こちらが笑えばかっとするんです。だからといって、こちらまでヒステリックになってはいけない。もっと笑えばいい。  
あのねえ、この年になるともう、怖いものがなくなってくるんです。「殺さば殺せ」じゃないけど、死ぬのが怖くなくなってくる。それはつまり、セックスの欲望がなくなるということです。リビドー(性本能)が低下すると死ぬのが平気になる。皆さんもそのうち死ぬのが平気になって、盛大にタバコを喫えるようになりますよ(笑)。  
 
ウィンストン・チャーチル 

 

キューバ葉巻との出会い  
葉巻といえばチャーチル、チャーチルといえば葉巻。  
ナチスに対して一歩も引かなかった第二次世界大戦時のイギリス首相。ソビエト連邦(現ロシア)のスターリン、アメリカ合衆国のルーズベルトと組んで勝利をかちとったとき、高くかざしたVサインとともに、葉巻を銜えたその姿は、自由世界の人々に畏敬をもって刻みつけられている。  
チャーチルは、一八七四年ランドルフ・チャーチル卿の長男として生を享けた。母ジェニー・ジェロームはアメリカの富豪の娘。生粋のイギリス貴族として育つ。ノーブレス・オブリージの伝統にしたがい、陸軍士官学校にすすむ。一八九五年卒業、第四軽騎兵連隊に入隊。折からビクトリア女王の治下で大英帝国の翼をひろげる時期、チャーチルが戦争の実体験を渇望するのは当然であったであろう。彼は無分別にも休暇をとり、デーリーグラフィック紙の特派員として、スペイン帝国に叛旗をひるがえしたキューバの独立戦争の観戦に出かける。  
しかし、彼の抱いたものは、被支配者(反乱側)への共感と、支配者(帝国側)に対する理解。それは、戦争の無意味さ、統治は暴力を超えてあらねばならないという認識と言い換えてもよいだろう。父の後を継いで政治家になろうという野心の芽生えがそこにはあった。  
同時に覚えたもの、馬鹿にならぬ特派員の原稿料収入の高さと、キューバの葉巻の美味さ──。  
九六年インド派遣軍勤務となる。南インドで大きな庭付きのバンガローに住み、多くの召使にかしずかれる典型的な植民地軍将校の生活を送る。ただ例外は、彼が昼寝の時間を読書にあてたことで、歴史書や『政治年鑑』を渉猟したこのときの学習は貴重な経験となる。  
そして一日の終わりは、葉巻、であった。  
偉大な政治家チャーチルと、彼が好んだ特大葉巻  
一八九七年インド北西の山岳地帯に遊牧民の反乱が発生すると、チャーチルは戦地に赴く。  
その体験を『マラカンド野戦軍』(九八年)にまとめたことをきっかけに、その後も特派員や戦闘員として戦争を体験して、次々と従軍記を著す。文名はあがり、著書の印税と講演旅行から挙がる収入で、経済的自立をなしとげたという。いよいよ政界進出の機運が熟す。  
一九〇〇年、保守党から立候補して下院議員に初当選、政治家の第一歩を踏み出す。その後自由党に転向。植民相次官、商務長官を歴任して、海軍大臣に就任。ようやく本領発揮の舞台が用意されることになる。この間に結婚をしている。  
ところが、第一次世界大戦勃発時に見事な采配をみせるも、戦局の変化に戦略ふるわず、海相辞職に追い込まれる。指揮棒を絵筆に持ち替えて憂さをはらし、失意の時代を過ごす。  
しかし、チャーチルは政治家≠ナある。再び軍需相、蔵相を経て、第二次大戦勃発(三九年)時には海相に、翌四〇年に首相の印綬を帯び、ヒトラーに立ち向かう。戦局利あらずでダンケルクの撤退を余儀なくされ、空爆と上陸の脅威にさらされながらも、絶対不敗の信念を堅持し、比類なき統率力をもって国民を鼓舞激励。その一方、巧みな外交戦略を駆使して枢軸国に対する連合国を結集、ソ連、アメリカ合衆国の参戦を促し、大戦を勝利に導いた。  
つねに葉巻を口から離すことなく、警句とユーモアを連発しつつ、自らを励ましつづけていたチャーチル。四五年七月、ポツダム会談の最中に総選挙に敗れて下野したが、その功績を世界が忘れることはなかった。やがて国際政治舞台に復帰、「鉄のカーテン」演説とともに冷戦の指導者を務め、五五年に引退、六五年没。  
葉巻は大きいサイズを好み、ダブルコロナサイズを選んだというが、半分までしか吸わなかったようである。「ロメオ・イ・フリエタ」ブランドでは、長さ一七八ミリ、直径一八・六五ミリのサイズのものを、別称としてチャーチルサイズと呼んでいるほどで、現在では正式な形状名より馴染んでいるようだ。  
彼は、ロンドンのロバート・ルイスやダンヒルという有名なたばこ店から葉巻を購入していたという。第二次大戦中、ダンヒルの店がドイツ空軍の爆撃で被害にあった時、直ちにマネージャーが首相官邸に「あなたの葉巻は大丈夫です」と電話したというのは有名な話。  
また、マーチン・ギルバート(『ロシア歴史地図』の著者)の伝えるところによると、一九四一年ごろ、チャーチルはキューバから取り寄せた葉巻保管用大型キャビネットを開けて、並みいる大臣に向かって言った。「これから実験をしようと思う。それは嬉しい結果になるかもしれないし、悲しい結果になるかもしれない。この中の葉巻を君たちに贈呈する」と、しばらくポーズを置いてから、「これらには毒がはいっているかもしれない」と付け加えたというのだ。後日、実際に毒味が行なわれたという。 
 
受動喫煙に関する平山論文批判
1.はじめに  
「国立がんセンター」HPのグラフと解説から疑問を感じないだろうか。  
夫の喫煙によってその妻の肺ガンで死ぬ危険度が増すことはあり得るかもしれない。しかし、「夫の喫煙によって妻の脳腫瘍の7割が生じている」などという話は、とうてい信じることはできない。死亡者数がわずか34人であることからすると、これは偶然の偏りであり、統計的には意味のない数字であろう。  
このようなデータを見せられると、他のデータは信用できるのか疑問に思ってしまう。よく、「夫の喫煙によって妻の肺ガンになる危険度が2倍になる」などと言われるが、それは本当なのだろうか。  
この図は、平山雄氏(当時国立がんセンター疫学部長)による大規模コホート研究(1965年調査・登録、1966から最終1982年まで観察)に基づくものである。平山氏はこの研究により、世界で初めて「受動喫煙の害」(=夫の喫煙により妻の肺癌になるリスクが2倍に高まること)を明らかにしたとされ、世界的に高く評価されている。  
一方、喫煙習慣の調査は1965年秋にたった1度行われただけであることや、データの分類・分析方法などに科学的・統計学的な問題があるという批判もある。  
どちらの評価が正しいのか、私なりに確かめたくて1981年の平山雄氏の論文『Non-smoking wives of heavy smokers have a higher risk of lung cancer:a study from Japan』(以後『平山論文』と表記する)を検討してみた。  
2.疫学的研究の手法について   
(中略)   
3.平山論文の検討  
平山雄氏の大規模コホート研究とは24万人を対象に1966年(昭和41年)から1979年(昭和54年)まで行われた厚生省(当時)の委託研究であった。この研究によって「受動喫煙」の害が証明されたとされる。私は平山論文の生のデータを用いて検証してみた。24万人を対象にしたといっても、「喫煙習慣のない妻」91541人のうち、「肺癌でなくなった方」はわずか174人(リスク0.0016)しかいない。(別なデータでは200人となっている。) Relative Riskを平山論文にならい、夫が「非喫煙」「1日20本未満の喫煙者」「1日20本以上の喫煙者」の3グループに分けて単純に計算すると次のようになる。  
(中略)   
私の行った単純値計算ではRelative Riskは、非喫煙者の夫を1としたとき、1〜19本/日の夫では1.3、20本/日以上では1.5となる。ただし、わずか174人のデータなので、信頼区間はそれぞれ(0.9〜2.0)、(0.9〜2.3)となり統計的に有意とは言えない。しかも喫煙習慣については昭和40年(男性喫煙率が82%でほぼピークの年)当時のものであり、それ以前も以後も喫煙率が低いことを考えると相対リスクはもっと小さいものになる可能性がある。本来「非喫煙」に数えられるべき人数が「20本未満」あるいは「20本以上」に加えられている可能性が高い。実際その後世界各国で行われている追試によればRelative Riskはせいぜい1.2〜1.3程度であり、統計的にも有意でないものが多い(後述)。  
ところが平山氏は、このデータから非喫煙者1.00に対して、1〜19本は1.61、20本以上は2.08とし、しかも統計的に有意という結論を導き出した。どうしてそのような結論が得られたのだろう。  
それは夫の年齢を40〜59歳と60歳以上に分け、それを「標準化する」という方法で計算したためである。ただでさえ少ないサンプルを2つに分けると統計的誤差が拡大する。つまり、分母となる「非喫煙者の妻の肺ガン死亡者数32人」を11人と21人に分けたため、1人違っただけで結果は大きく違ってしまう。しかも信頼区間を90%(P値0.1以下)として「統計的に有意」とした。(ふつう信頼区間は95%または99%で計算する。そしてP値が0.05以下または0.01以下のとき統計的に有意と判断される。)  
彼は、「受動喫煙の害」を証明しようとしたが統計的に有意なデータを得られなかったので、年齢で分けたり、職業を「農業」と「その他」に分けたり、信頼区間を90%にして「証明」したのではないかという疑問が生じる。また、時々喫煙する人を非喫煙に、以前喫煙していたがやめた人を1〜19本吸う人のグループに分類していることにも不自然さを感じる。  
(中略)   
何かを基準にグループ分けすると、データが少ないときは統計的ばらつきにより、あるグループだけ異常に高いRelative Riskが出ることはよくある。そしてRelative Riskが1を大きく上回れば95%信頼区域は1を越える。その上で標準化すれば大きなRelative Riskや見かけ上統計的に有意なデータを得ることはできる。上記の場合がそれである。  
この論文が世界的に高く評価されたのは、背景に嫌煙権運動の高まりがあり、「嫌煙権運動」にとって都合のよいデータであるというためだと思う。  
その後、世界中で33の追試結果が発表されているが、平山氏にならって信頼区間90%としても、統計的に有意と出たのは7件しかない。残り26件は統計的には無意味という結論になっている。  
(中略)   
これらのデータを見ると「Relative riskは1.2〜1.3で高い傾向にあるが統計的に有意とは言えない」というのが真実であると思う。20年を経た今でも「平山論文」が引用されるのは、Relative Riskが突出して大きく「嫌煙権運動に有利」という理由でのことと思われる。(90%信頼区域を見てもわかるとおり、データの信頼度は最も低い。)  
4.最初の疑問について  
下表は平山論文からの引用であるが、彼自身の計算および彼の決めた基準でも肺癌以外は統計的に有意ではない。(肺癌もふつうに計算すれば有意とは言えない。)平山氏はこの結果から「肺癌以外は受動喫煙の影響を見いだせなかった。肺気腫およびぜんそくとの関連はあるように見えるが、統計的に有意ではない。」と結論している。ましてや「受動喫煙で脳腫瘍になる」などということは、一言も言っていない。(P値が0.05以下なら統計的に有意。平山氏の基準では0.1以下なら有意)  
(中略)   
それなのに国立がんセンターでは公式HPにこれら統計的に有意でないデータをまことしやかに載せている。どうしたわけだろう。「煙草は健康に悪い。国民の健康増進のためなら、誇張したデータや、統計的に無意味なデータでも使うことは許される。」そう考えてのことではないかと私は推測する。  
これらの善意によって喫煙者は、「殺人者」呼ばわりされたり、「白い目」で見られたり、「馬鹿呼ばわり」されたりと、いわれのない「差別」や「いじめ」を受けている。「差別」や「いじめ」がなくならない理由がよくわかる。「差別」や「いじめ」はこうして「正義」や「善意」に基づいて行われる。  
1980年代以降、平山氏は「みそ汁を飲む人と飲まない人を比べると、とくに男性では、全く飲まない人の死亡率は、毎日飲む人に比べて約50%も高い。心筋梗塞、肝硬変などの場合にも同じような傾向がみられる。」とか「ベータ・カロチンはすべてのがん、心臓病、老化を防ぐ!!骨粗しょう症、ストレス、疲労にも有効」などとして、多くの著作を著した。  
みそ汁について言えば、「みそ汁を全く飲まないような食生活」が健康に影響しているのであって、みそ汁そのものの効果とは言えないのではないかと私は思う。  
煙草についても同様ではないかと考える。昭和40年、8割を超える男性が喫煙をしている時代に煙草を吸わなかった方というのは、大変真面目で、健康にも人一倍気を遣っていた方ではないだろうか。そのような奇特な方々を分母にリスクを計算すれば、他の方々(喫煙者)のリスクが高く出るのは当然だと思う。  
煙草には害がある。酒やコーヒーに害があるように。しかし、そのリスクがどの程度であるかは、男性の喫煙率が5割になった今こそはっきりすると思う。  
5.おわりに  
平山氏は結論部分で右図を示して次のように言う。  
「肺癌の年齢調整死亡率は、日本で男性も女性もともに急激に増加してきた。肺癌になった日本女性で煙草を吸うのはごく少数なのに、なぜ彼女らの肺癌死亡率が、男性と平行しているのかその理由がわからなかった。現在の研究は、この長年の謎の少なくとも一部について説明するように見える。」  
つまり、「肺癌の主たる原因は喫煙のはずだが、喫煙率の低い女性の肺癌死亡率は男性と平行して上昇し続けている。これはおかしい。しかし夫の喫煙による受動喫煙の影響と考えれば説明がつくのではないか。」というのである。  
欧米において「肺癌死亡率」が癌死亡率のトップになったとき、その原因として真っ先に喫煙が疑われた。欧米においては男女の喫煙率及びその変動にほとんど差がないので、そう推測しても矛盾は生じない。  
しかし日本では社会的特殊性から男性の喫煙率は女性よりもずっと高い。その値も80%代から現在の50%へと大きく変動した。一方その間、女性の喫煙率は15%程度でずっと一定であった。それなのに肺癌死亡率のグラフは、男女で驚くほど相似している。その事実を素直に受け止めれば、「肺癌には、喫煙以外に男女共通の何かもっと根本的な原因がある」と考えるのが自然だと私は思う。(肺癌死亡率が男性より女性が低いのは全世界的傾向。)  
現在男性の喫煙率が減少しているにもかかわらず肺癌罹患率は増加し続けている。それは喫煙との相関がほとんどないといわれる肺野部(肺の周辺部)に生じる腺癌が男女とも増加しているためである。肺癌患者のうち男性の4割、女性の7割が肺野部の腺癌である。したがってたとえ喫煙率が0になったとしても、肺癌は今後も増え続けていくことになるだろう。