飛鳥時代

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飛鳥時代の天皇
 

雑学の世界・補考

飛鳥時代 1

壬申の乱(672年)によって倭人政権は崩壊し、大和政権が中央集権体制を構築し始めた。倭人は西南諸島に逃れて亡命政権を樹立し、九州では隼人の反抗が続いた。大和政権は大宰府を前哨基地とし、関東から防人(さきもり)を送り込んだが、九州南部は容易に平定できなかった。
大津で天智の下僚を務めていた者が、大和政権の官僚組織の構築を指導したが、畿内でも反乱や騒乱が収まらず、大和政権は反乱軍の襲来に備えて高安城(たかやすのき)を生駒山中に築城した。
高句麗の滅亡(668年)を機縁に唐の属国になった新羅は、北九州の倭人と連携し、唐に対して反旗を翻した。唐は吐蕃との戦いに忙しく、新羅の反乱は7年間続いたが、681年に唐の支配を受け入れた。  
1、混乱が続く中で、天皇制が生まれた。

 

1−1 壬申の乱後の混乱
続日本紀によれば、8世紀初頭になっても薩摩や奄美は恭順していなかった。倭人の交易路として繁栄した九州南部が、沖縄に逃亡した倭人に背後から支援され、大和政権に抵抗し続けたからだ。「古代山城」と呼ばれ、7世紀後半に作られたと考えられる山城が、西日本に沢山ある。日本書紀には、唐の脅威があったから古代山城を作ったと書いてあるが、それは真っ赤な嘘だ。古代山城は、西日本の反革命勢力が大和朝廷との抗争を展開した痕跡だったから、日本書紀はその歴史を抹殺するために白村江の戦闘を誇大に潤色し、唐の脅威が実際に日本列島に及んだと創作し、一部の城の存在を糊塗したが、全ての城の存在理由は説明出来なかった。この時代に作られた城の分布を、以下に示す。
古代山城には、神籠石(こうごいし)系と朝鮮式の2種類がある。続日本紀に記載されている大和朝廷の城は、皆朝鮮式だから、朝鮮式は大和政権の城だったと想定される。神籠石系の城に関する記述はないから、誰が作ったのか分からないが、北九州と岡山に多いから、倭人の居住域に集中していた事が分かる。倭人の国と東鯷人の国は、綺麗に地域別に別れていたわけではないから、神籠石系の城がある場所は、全て倭人の地だった可能性が高い。殺伐とした華北に商圏を持ち、武人的な気質を持っていた西日本の倭人が、壬申の乱頃に世情の不安を感じ、防御拠点として神籠石系の山城を作る中で吉備の王も、鬼の城と呼ばれる堅固な山城を作ったと想定される。吉備の桃太郎伝説は、倭人(鬼)を追い出した事績を元に作られた説話だった事は、間違いないだろう。説話の背景と伝説が語り継がれた理由を考えると、吉備で起った事を復元できるかもしれない。
吉備は倭人の中で最も早く移民事業を手掛け、急速に移民事業に傾斜した国だった。移民事業の統括が邪馬台国に移転した後も、吉備は創業者利益として多くの利益を確保し続け、その財力を注いで大きな古墳を遺した。その傍らで大陸から移民を多量に導入し、彼らを使役して大規模稲作農場を経営したと想定される。吉備は米の大市場だった大阪や山陰に近く、縄文時代以来の稲作地だったから、自作農も多数いたと想定される。その様な事情だったから、革命に乗じて大農場を戦利品として接収し、水田の分配に与ろうとした神社勢が、生まれ易い土地柄だったと推測される。吉備の経済環境は関東ほど厳しくはなかったから、吉備の神社勢は追い詰められて蜂起したのではなく、欲望が動機だったと推測される。
その前提で桃太郎伝説をトレースすると、倭人(鬼)と神社勢(桃太郎)の間で、激しい戦闘が行われた事が窺われる。鬼の城に籠った倭人は、神社勢に敗れて城を枕に討ち死にしたか、城を捨てて西南諸島に逃げたと想定される。西南諸島にグスクが沢山ある事は、多くの倭人国が亡命した事を示唆するから、吉備王の一族郎党も西南諸島に亡命した可能性があるが、桃太郎伝説の、鬼を降参させて宝物を分捕ったという結末は、吉備王の一族が敗死した事を示唆する。
桃太郎伝説は、戦闘が激しいものだった事を示唆するが、全国各地に起こった筈のその様な事績の中で、吉備の桃太郎伝説が長らく語り継がれた事には、特別な理由がなければならない。革命後に生まれ、語り継がれている説話には、体制批判的な皮肉を籠めたものが多いから、桃太郎伝説の性質上同様に、体制批判的な説話として語り継がれたと推測される。体制批判説話ではハッピーエンドはあり得ないから、一見その様に見える結末に、厳しい皮肉が込められている疑いがある。勝ち残った神社勢に、革命戦争の非人間性を後悔する気持ちがあったから、革命戦争に勝利した事に皮肉が込められ、桃太郎伝説が語り継がれたのであれば、その疑いの答えになるだろう。
桃太郎は鬼から奪った財宝を持ち帰り、お爺さんお婆さんに分け、結局私物化してしまうのだが、それが吉備の革命戦争の動機と一致し、桃太郎伝説は、吉備の革命戦争を揶揄したものだった想定になる。ウィキペディア「桃太郎」は、「本当は鬼が島に押しかけた桃太郎らが、悪者ではないかと思う者もいる。」と指摘しているが、古代人の感性としては、その様に感じる者が多数派だったのであれば、倭人政権を倒してその水田を奪っただけでなく、倭人の宝物まで強奪し、分け前として分配した者達として、吉備の革命に参加した自営農民達の、強欲性が強調されたパロディー説話だった事になる。鬼が倭人を指す事を知っていた当時の人が聞けば、宝物を奪ったというフレーズだけで、桃太郎の強欲性を感じさせる説話だった可能性が高い。その様な事情の裏を取る様な伝承が、吉備にあった。
927年の延喜式神名帳に、名神大社として備前の安仁神社、備中の吉備津彦神社、美作の中山神社が登録されたが、939年の天慶の乱(藤原純友の乱)の際に、安仁神社勢が反乱側に味方したため、朝廷から備前一宮の地位を剥奪され、その地位は天慶の乱の際に朝廷に味方した、備中一宮である吉備津神社に移ったと伝えられている。(byウィキベディア)平安時代になっても神社勢が健在だった事を示すと同時に、朝廷を裏切って反乱に身を投じる程の悔悟の気持ちが、安仁神社勢に残っていたから、桃太郎伝説が語り継がれたのではないかという疑念を提起するのに、十分な事情を示していると言えるだろう。
桃太郎伝説の他にも、大和政権を批判した説話が各地に根強く伝承された事を検証し、桃太郎伝説の位置付けを明確にすれば、更に背景が浮かび上がってくるだろう。
浦島太郎伝説は、古事記の山彦海彦説話に対する強烈なパロディーとして、大和朝廷と平安朝を痛烈に批判する説話だったと考えられる。山彦海彦説話では、釣り針を失って海彦に散々苛められた山彦は、失った釣り針を求めて「わたつみの宮」に行き、豊玉姫を得てその父のわたつみ神から、海彦を懲らしめる術を授けられた。山彦はそれによって海彦を打ちのめし、従属させてから、豊玉姫が天皇家の祖先を産んだ。山彦海彦説話は、倭人政権を倒して農民政権を樹立した事を宣言する、古事記神話の中で重要な説話だった。山彦は高千穂の宮で580年過ごし、その孫の神武が東征して天皇になったと古事記は記しているが、当時の人は、それが作り話であることを知っていただろう。
浦島太郎は、苛められている亀を救って竜宮城に行き、乙姫様に歓待されて時を過ごし、故郷に帰って玉手箱を開けると、老人になって子供を儲ける年齢を失った。苛められている亀は虐げられた山彦を暗示し、浦島太郎も山彦の様に、竜宮城で乙姫様から歓待されたが、海の神から山彦が授かったものとは逆の、忌まわしい玉手箱を貰って帰り、老齢化して子孫を遺す事が出来なくなった。神武天皇が産まれなければ、大和朝廷は存在しなかった事を暗示し、大和政権の存在を暗に呪った説話である事は明らかだ。日本書紀の雄略紀に、この説話の存在が記されているから、平安時代には広く流布していたと想定される。この説話が流布し、長らく伝承されたのは、政権批判の説話として人気があったからだと想定され、奈良朝廷や平安朝に批判的な人々が、在野に満ちていた事を示す。それと同時に、古事記の説話が民衆に浸透していた事を示す。
かぐや姫の説話も、中央集権制の官僚貴族を皮肉った説話だった可能性が高く、原話は魏志倭人伝だったと思われる。魏志倭人伝に、「男性の王では邪馬台国連合の、国々の乱れが収まらなかったが、卑弥呼が女王になると、秩序が戻って平和になった。」と記されている。それをパロディーの材料とし、かぐや姫は卑弥呼の様に、日本に平安をもたらす女性として現世に降臨したが、世間に愛想を尽かして月に帰ってしまったから、権力闘争に塗れて乱れた社会が、後に残ったとし、大和政権を救い様のない政権だと皮肉った様に見える。三国志魏志倭人伝は、倭人社会を正しく記述していると考え、好んで読まれていた可能性が高いから、この見立ては確からしい。日本書記も、卑弥呼に言及せざるを得ず、無理に神功皇后を卑弥呼と同一視させた事は、平安時代に魏志倭人伝に関する知識が、普及していた事を示唆する。
日本人は奈良・平安時代から、パロディー文学で世相を風刺する習俗を持っていた様だ。これは倭人時代に、巫女が散文的な説話使い、人々を説得していた習俗の残影だったと考えられる。漁民的な文化の特殊性が、鉄器時代になっても継続していたから、日本人独特の巫女的な文学性が進化し、平安時代に女流文学を生み出したと想定される。この時代のこれらのパロディー説話の創作者も、女性だった可能性が高い。
以上の様な環境から、桃太郎説話もパロティー説話の一つだったと考える事が出来る。桃太郎説話が吉備に結び付いたのは、倭人の王を惨殺して財宝を得た神社勢の存在は、吉備独特のものだったからだろう。他の地域の倭人時代の王は、厳しい戦闘行為の末に惨殺されるという運命からは、免れていた事を示唆する。奈良時代になって、中央集権制の破綻が次第に明確になって行く中で、革命を達成した事に対する疑念が、各地の民衆の中から生まれ、その中で吉備の神社勢を揶揄する風潮が生まれ、桃太郎伝説が生まれて全国に広まったと想定される。桃太郎伝説の原話について考えると、吉備団子ではなく米の団子の方が、家来を増やした手段としては分かり易いが、それを黍(きび)にしたのは、何らかのパロディーが付加されたからである疑いがある。原話の発祥時から黍だったのであれば、米を食べる事が出来ない貧乏人が革命に参加した事を意味するが、実は米を食べていた豊かな農民だったにも拘らず、強欲な事をしたと皮肉った疑いがある。犬、猿、雉、に例えられた者達は、「貧乏人だった筈だ」と畳み掛ける効果を狙い、吉備に掛けて雑穀に過ぎない黍に変え、パロディーを盛り上げた疑いがあるという事だ。後の時代にそれが誤解され、黍団子と名付けた菓子を生み出したのではなかろうか。吉備団子を美味い物と考えた時点で、パロディーの意味は分からなくなっていた事になる。
話を壬申の乱直後の世相に戻すと、倭人に敵対的ではなかった神社勢も多数あったから、大和政権は、動乱後の統治組織の浸透に手間取った様だ。漁民の神社だった住吉は当然としても、山城の平野神社、大和の大名持神社、近江の日吉神社の様に、正一位に列せられた内陸の大勢力でも、叙勲されなかった神社が多数あるのは、彼らが中立的な姿勢だったからだろう。話し合いで革命軍に降伏させる事に、長い時間が掛かった可能性が高い。
天智が大津で中央集権制を提唱したのに、大津の日吉(ひえ)神社が中立だった事は奇異に感じる。革命後の日吉神社では、元々の神である大山咋神(おおやまくいのかみ)より、勲二等を得た大神神社(おおみわじんじゃ)から勧進した、大物主神を上位と見做す様になった。具体的な騒動の顛末は分からないが、元々大山咋神を中心に集会していた農民集団は、革命に協力的ではなかった疑いがある。その顛末として、日吉大社は日枝(ひえ)の山頂から現在の地に移され、日枝の山は後の比叡山になった。大津のこの様な事情は、天武の指導力の限界を示すと同時に、西日本で反革命が20年以上続いた原因の一端を示す。大津は内陸だから、接収できる倭人の大農場はなかっただろう。大津の農民系の神社勢にとって、革命に積極的に参加しても、その見返りとしての明らかな利得がなかったから、革命に賛同する意欲がなかったと想定される。
近江についてもう少し検証すると、近江の一宮である建部大社を始め、大津近辺の名神大社は皆農民系の神社で、有力な物部勢力を欠いていた事が分かる。そのような事情が、この様な事態を招いた疑いがある。大津の農民を説得するための革命政権の言い分は、今まで多量の米との交換で得られていた必需品は、革命後はより少ない米との交換で得られる様になるから、そこで浮いた米の半分を、租税として納めて欲しいと言う様な事だったと想定される。倭人の時代に租税を納めていなかった農民に対し、在地の物部が十分な説明をしなければ、農民には革命の恩恵を理解する事が出来なかった筈だ。仮に説明されても、実感できなかったかもしれない。革命の恩恵を説明出来る者は、それ以前から身近にいて、革命に賛同していた物部しかいなかったと想定されるが、迫害を受ける程に大津の農民が革命に非協力的だったのは、大津で天智が善政を敷き、農民に必需品を廉価で支給した事が、却って仇になっていた可能性がある。農民達は、意外に冷静だった様だ。
続日本紀699年に、「三野(日向)、稲積(大隅)に城を築かせた」と記されている。壬申の乱後27年を経て、漸く宮崎県と鹿児島県西部に拠点を置く事が出来る様になるほどに、九州征討は順調に進んでいなかった。そのために関東から動員された兵の名前が、「防人(辺境を守る兵)」だったと想定される。西日本では不穏な状況が続き、兵員を九州に派遣する事が出来なかったから、九州鎮圧のために防人を、革命が完了していた関東から送り出さねばならなかった。その軍団を組織したのは、関東の革命軍を指揮した甕星と、その子の総持だった筈だ。大津を根拠にしていた天武は、生駒に高安城を構築しなければならない程に乱れた、畿内の制圧に手一杯だったと想定される。 高安城は大阪と奈良を挟む生駒山中にあり、規模が巨大だから、大軍を擁する目的があったと考えられる。
大和政権が奈良盆地を都にしたのは、飛鳥時代にも富裕だった東鯷人の中心国として、関東の倭人には、豊かさに溢れた地域に見えたからだろう。しかし難波王の逆襲を恐れ、生駒に強力な防衛施設を置かねばならないほどに、奈良盆地も安全な場所ではなかった。698年8月になっても、「高安城を修理」せねばならないほどに、畿内の動乱は収まっていなかった。続日本紀には「壬申の乱」と記されているが、原典としての朝議録には、「壬申に始まった戦乱」と記されていたのではなかろうか。
この様な動乱状態では、革命直後の大和政権の権力は、関東系が握っていただろう。総持の時代には、日立の大甕が「みやこ」の様に扱われ、奈良は前進基地と考えられていたかもしれない。高安城は701年に廃止したが、同年に天皇は紀伊に行幸し、702年に持統太政天皇が東海地方に行幸した。東海以東は革命政権の根拠地だったから、両者は万が一の場合の避難場所を、視察に出掛けた可能性がある。この時代に木曽の道を整備するが、関東への逃亡まで想定していたのかもしれない。この時代の東山道は、中津川から険しい神坂峠(現在の恵那山トンネルの直上)を越え、飯田に抜けるものだった。後世の中山道の様に木曽路を開通させ、援軍の急派路や逃亡路を担保したと解釈される。沖縄の那覇に難波王が健在だったから、難波の勢力が海から襲撃する事を恐れ、安全な陸路を拓くために木曽路を作ったのであれば、壬申の乱の直後に大和朝廷が確保していたのは内陸だけで、海上は反革命勢力に掌握されていた事になる。
九州南部で抵抗を続けていた者達は、奈良時代に隼人と呼ばれたが、彼らが文明の果てに居た人々の様に考えるのは、大和政権のプロパガンダだった疑いがある。古墳時代の寒冷期であっても、九州南部は植生に適した温暖地として、東南アジア原産種の農産物が、多数栽培されていた可能性が高い。柑橘類、お茶、養蚕などの換金商品の栽培も可能だったから、東南アジアに近い事もあり、最もオーストロネシア語族民的な生活をしていただろう。当時の感覚では、最も先進的な文明生活だったかもしれない。倭人でも東鯷人でもなかった隼人が、その様な自覚を持っていれば、そこに大和朝廷が降伏勧告を突きつけた行為を、北の貧しい蛮族が襲って来たと感じたかもしれない。1000年前の華南の稲作民に襲いかかった不幸が、彼らにも襲いかかったと感じ、激しい抵抗戦を敢行した疑いがある。
8世紀になっても鹿児島では武力抗争が続き、屋久島や種子島は降伏したが、沖縄に逃れた倭人の子孫が奄美大島を占拠し続け、亡命政権の勢力圏を守り通した。倭人の子孫は後世グスクを作って防御を固めながら、東シナ海交易を継続したと推測される。そのため遣唐使は西南諸島を経由できず、朝鮮半島沿岸から唐に向かった。グスクは大和政権の攻撃から島を防御するためのもので、彼ら同士の抗争のためではなかったと想定される。
750年頃に新羅との関係が悪化し、朝鮮半島航路も放棄せざるを得なくなり、遣唐使が東シナ海を横断せざるを得なくなったから、難破が増えたと推測される。倭人の技術(造船、操船)が継承出来なかった事も、その原因だったかもしれない。鎖国的な大和政権下では、航海術や造船技術が十分継承されず、劣化していったと想定される。諸王の逃亡先は沖縄主体だったと想定されるが、一部が造船技能者を伴って新羅に亡命した可能性がある。海洋民族ではなかった新羅人が、8世紀以降海洋に進出し、唐や沖縄との交易関係を深めたのは、その様な事情の結果だったと推測される。  
1−2、新羅が反乱を起こしたが、唐に屈して属国に戻った。
北九州の神籠石(こうごいし)系の山城の多さを見ると、吉備で起きたような事情が、北九州ではもっと激しく展開された可能性がある。北九州にも倭人が経営する大農場が、平野の主要部を占有していたと想定されるからだ。しかしそれにしては数が多いから、甕星が率いる革命軍の襲来を予期していたと考える方が、妥当性が高い。桃太郎伝説が吉備特有の伝承である事にも合致する。高句麗が滅亡する以前から、高句麗滅亡に対する危惧を抱いていた先代の甕星と、新羅を援助したかった北九州の倭人勢力は、出雲で毎年開催されていた諸王の会同の席で、対立を深めていたかもしれない。
新羅は百済が滅んだ663年に、唐の直轄地として雞林州都督府にされ、新羅王は雞林州都督になっていた。その新羅が、唐の直轄地になっていた百済や高句麗の故地を蚕食し、唐は674年にそれを反乱と認識した。この時期の唐は吐蕃との戦役を抱え、新羅征討に全力を投じる事が出来なかったから、新羅はその間に唐軍を半島から駆逐し、百済と高句麗の故地を傘下に収めた。唐から見ると、吐蕃との戦役を収束させて新羅と対峙すると、7年間続いた戦線の局面が変わり、681年に王が代替わりした新羅は、王制を維持しながら唐に支配される状態を受け入れた。
唐から見ると以上のような解釈になるが、朝鮮半島と日本の関係を加味すると、状況は違ったものになる。新羅の反乱を唐が認識したのが674年だから、新羅の活動はそれ以前から始まっていた事になり、672年の壬申の乱が、新羅に何らかの影響を与えた事は、間違いないだろう。大率と連携していた新羅が、壬申の乱を知らなかった筈はないからだ。
東鯷人の政権が崩壊した事は、北九州の倭人が新羅と提携する事を、禁じていた政権が消滅した事を意味した。大率には直接半島に干渉する意思は無く、唐との提携の枠内で新羅を支援していたから、北九州の倭人が半島に介入する事は、相変わらず禁止していただろう。その大率が滅んでしまったから、北九州の倭人が朝鮮半島に介入する自由を得たと認識し、新羅と提携する流れが生まれたとしても、不思議ではない状況になった。筑前一宮の筥崎宮(はこざきぐう)や、名神大社の竈門神社(かまどじんじゃ)は、現在も応神天皇を祭っている。応神天皇は、朝鮮半島に出兵した倭国王を連想させるから、北九州の人々の新羅との一体感を、そこから読み取る事が出来るだろう。応神天皇は、古墳時代前期に好太王の軍と激突し、新羅と共に高句麗の南下を阻止した倭国王を、古事記の成立と共に神に転移させた人物だったと想定される。その人物は、北九州を漢民族や高句麗の脅威から解放した倭国王だった。
飛鳥時代末期の北九州の倭人は、唐の脅威が北九州に迫っていると感じて危機感を高め、新羅と提携して半島から唐の勢力を駆逐する事を望んでいただろう。関東の革命軍が、壬申の乱の直後に北九州に進駐していれば、新羅に好感を持っていなかった勢力が、新羅の背後に進出した事になるから、新羅が強気になる状況にはならなかった。壬申の乱で畿内と山陰を制圧した甕星の勢力が、一旦山陰で留まったから、その時点では北九州や瀬戸内の倭人勢力は征討されずに残り、彼らが甕星と対立していた状況で、北九州の倭人と新羅が提携した可能性は否定できない。新羅がこの時期に反乱に踏み切った事情から考えれば、その方が合理的な解釈になる。制海権は反革命軍にあったと想定される時期だから、関東勢が海を越えて北九州を征服できたのは、壬申の乱直後ではなかった疑いが濃厚にある。後世の我々には、北九州の倭人の判断は少し無謀に見えるが、戦国時代の歴史を紐解けば、あり得ない話ではないと感じる。
上記の様な事情が進行していたのであれば、新羅の681年の唐への降伏は、新羅の期待を裏切る事態が発生した事になる。北九州が関東の革命軍の攻撃に耐えられず、神籠石(こうごいし)系の諸城が陥落し、関東の革命勢力が北九州を掌握した事が想定される。神籠石系の諸城が比較的内陸に分布している事は、北九州勢力は隼人勢と連携し、防衛線を隼人の地の北端に置いていた事を示唆する。大和政権が隼人にも早々に降伏勧告を出したから、北九州の倭人と隼人が連携したというシナリオは、上記の仮説の適否に拘わらず可能性が高い。唐書にその様な事情が記される可能性は、極めて低いから、上記が事実だった可能性も高い。
上記から想定される壬申の乱後の顛末は、以下だったと想定される。
甕星は、初戦で東鯷人の根拠地だった畿内と出雲を制圧し、東鯷人政権を打倒する事に成功したが、海から難波を攻略する事に失敗し、瀬戸内と九州には倭人勢力が温存された。それによって平安時代末期に、都落ちした平氏と東国や北陸を制圧していた源氏と、似ている勢力分布が生まれた。その後難波は、生駒を超えた革命勢力に制圧され、海上勢力としても次第に優勢になった革命勢力は、吉備を制圧して瀬戸内海も掌握し、681年以前に北九州に上陸し、西の倭人勢力を制圧した。軍事に疎い東鯷人政権を打倒する事は容易だったが、倭人勢力には軍事力があり、特に北九州の倭人は朝鮮半島での戦闘に精通していたから、征討に手間取った様だ。この様な経緯の中で、吉備が両勢力の前線になった時期に、吉備の神社勢が革命軍の甘言に乗せられ、吉備で反乱を起こしながら革命軍を導き入れ、倭人の本拠地に乱入して財宝を強奪したのであれば、桃太郎伝説が生まれた条件が揃う。一方の北九州では、地域の住民にも新羅との一体感があったから、倭人を裏切る風土はなかったと推測され、桃太郎伝説を際立たせた条件が揃う。  
1−3 天皇制の成立
倭人時代の倭国王は、諸王の中から大王として推戴された。地域の民衆を支配したのは地域の王であり、倭国以外の民衆は、大王とは縁がない存在だった。中央集権制になると、倭国王が任命した国司が地域を統治する事になり、地域の住民には違和感が生まれた。評(こほり)の官僚は地域から選定され、地域の民衆を代表する末端官僚として実務を遂行したと想定されるが、彼らが感知できない中央政権から指示が来る事に、違和感を持っただろう。地域の神社勢が革命勢力として活動し、又は革命政権と妥協して地位を保全され、その様な地域勢力を基盤にした政権として、大和政権が樹立されたから、神社勢から違和感が表出されれば、国司の権限は限定的なものになっただろう。革命を遂行した勢力と、大和政権との関係を基盤に、その協定を順守した制度を法令化する事しか出来ない以上、大和政権はその様な体制を全国に展開する事しか出来なかった筈だ。
大和朝廷が、各地の神社に幣帛を収める制度が生まれたのは、その様な事情があったからだと考えられる。従来の各地の神社勢の神は、巫女を中心とした勢力が持つ倭人的な神だったから、倭人宗教や倭人的な社会制度を否定する大和朝廷は、その様な倭人的な神を、古事記が記す神や無害な自然神に転換させる必要があった。その転換が進行すると、朝廷が神社に幣帛を奉るのは、大和朝廷の成立を肯定した古事記が記す、歴史的な支配体系を確立した神を崇める事になった。それによって、大和朝廷の統治を体系化する事が出来るだけでなく、過去に現実的に革命に貢献した実績を曖昧にし、大和朝廷と地域勢力の、君臣関係だけを抽出する効果も期待出来た。それによって大和勢力が最も望んだのは、神社勢が革命の主体だった事を曖昧にする事だったと想定される。この想定から、神社の神を創作る事に積極的だったのは、むしろ朝廷側だったことになり、地域勢力は祭る神の実態を強制された事になる。その政策の中で神の権威の序列付けが行われ、中には蔑視される神もあった事は、良民化政策と同時に賎民化政策も推進された事を示唆する。
大和朝廷は、主権者だった神社勢の違和感を緩和する為に、倭国王の名前を「すめらみこと」に変えたと想定される。「倭国王」は漢字表現だが、その倭語が何だったのか分からないから、此処では「倭国王」という漢字を使う。倭国王は代表者であって、諸国王を統治する者ではなかったから、「すめらみこと」ではなかった事は確かだ。倭国王の訓読みとして、「おおきみ」は候補ではあるが、7世紀の倭王は「たりしひこ」も使い、5世紀の倭国王は「わかたきろ大王」、弥生時代の倭国王は「おおひこ」を使っていたから、決め手に欠ける。
東鯷人の倭王が、「あめ」氏、「おおきみ」、「たりしひこ」と3種の称号を使った事から、その謎を解く事が出来るだろう。その中の、倭国王の姓だった「あめ」氏を、東鯷人の倭王が名乗る事が許されたという事実に、倭国王の資格付与の実態があったと考えられる。大和朝廷が日本紀を記した際に、隋に遣使して「あめ」氏を名乗った東鯷人の倭王から、「あめ」氏の称号を剥奪する意思を示したのは、それ故だったと想定される。
「きみ」は君だった可能性が高く、「きみ」は倭人的な宗教者だった巫女の、最高位者名を暗示するから、男性王にはふさわしくない名前だった。東鯷人の倭王が、「おおきみ」を名乗った事に違和感があるが、東鯷人的な男性優位社会の主張として、巫女の上位にあると主張した称号に見える。
「たりしひこ」は、「おおひこ」=「諸王の中の大王」から転化したと想定され、交易の統治者としての倭王の称号だったと考えられる。「たりし」=「足りし」と解釈し、「諸王であることを満足する」と意味付けする方が、東鯷人の倭王の称号にふさわしいからだ。その称号では、諸国の王としての権威を意味しないが、古事記が記す様に『倭王=事代主=代理の倭国王』という認識があったのであれば、諸王の一人に過ぎないという称号にも、重要な意味があったと推測される。つまり「たりしひこ」は、東鯷人が倭国同盟に包含された時代に付与された、倭人国と同等の国の王である事を意味する称号だったのだ。それにより東鯷人の国でありながら、飛鳥にあった国が「倭国」と名乗る資格を、獲得出来たのではなかろうか。
「倭国」の訓読みは「やまと」だった可能性が高い。それ故に大和政権は奈良盆地を「やまと」と呼ぶと同時に、日本列島全体も中央集権化の結果として、「やまと」=「大和」=「大倭」と呼ぶ事にしたと考えられる。この名称の拡大は、倭国の制度を拡張して大日本になったと考えた当時の日本人には、重要な認識だった。現在の日本人もその感性を引き継いでいる事は、その重要性の残渣であると考えられ、革命のスローガンが「豊かな倭国の民の暮らしを、日本全土に拡大するため」だった事を示唆する。但し革命直後に奈良盆地を「やまと」呼んだのか疑問があり、難波系の天皇が政権を掌握した後の、呼称体系だった可能性もある。
「倭」は中国人が海洋民族に使った呼称だから、中国で中国人相手に使う名称であって、日本人が訓読みを持つ必要はない言葉だったと考えられる。
中央集権制への転換には、制度改革以前に意識改革が必要だった。倭人時代の「きみ」や「ひこ」は世襲で、世代交代しても地位や名称は不滅だったから、神は不死だと認識されていたが、個人を区別すると、神である天皇にも寿命があることになる。その様な尊貴な地位と神に区分がなかった時代から、統治者を意味する「すめらみこと」に変え、寿命がある者だから世代交代する事にしたのは、大きな意識改革だった。古事記は天孫降臨した天皇の祖先に、寿命が運命づけられた事を、嘘ではあるが理由を付けて宣言した。現代人はその古拙な理屈に失笑するが、古事記の著者が当時の人々に示したかったのは、天皇にも寿命があるという事だった。現代人が古事記を読むと、何の変哲もない説話に溢れていると考え、古拙な神話の羅列だと感じるが、倭人時代の価値観を持つ人が見れば、個々の説話に驚いただろう。古事記神話が古拙な体裁であるのは、古事記の著者が説話の古さを演出する為に、古代的な感性を示しているからだと考えられる。古事記の説話展開に籠められた巧緻な技巧を考察すれば、実際には、相当な文章力を持つ人だっただろう。
制度という見掛け上の組織形態の変化から、そこに至る原因を考察する事も、歴史を解明する一つの手段ではあるが、倭人時代を終焉させた理由が、単なる経済上の不況から必然的に発生した革命に依ったのではなく、社会制度全体を変革する必然性が検知された以上、倭人時代の宗教と社会制度について、掘り下げて検証する必要があるだろう。古事記はその過程で、大きな意識変革を提唱する書籍だったことになるが、古事記の位置付けと役割を検証すると、それだけで膨大な著述になるから、そのれは(15)古事記・日本書紀が書かれた背景に譲り、以下では倭人時代の宗教と社会制度について概観する。
現代人が倭人時代の発想体系を知れば、不合理な思想だと感じるだろう。しかし倭人的な発想の遺風は、現代日本にも根強く生きている。襲名制度だけでなく、結婚した男女に子供が出来ると、途端に夫婦が互いを「お父さん」「お母さん」と言い合うのは、倭人の伝統が現代にも生きているからだと考えられる。船長さん、先生、お巡りさんなど、役割で個人を特定する呼称も、倭人時代の遺風だと考えられる。その発想の根底には、人間の社会的な存在を役割で定義し、何らかの役割を遂行できる者を、一人前の社会参加者と見做す発想がある。その様な発想で個人を自発的に活動させ、社会全体を有機的に活動させる手法は、現代的な感覚でも、優れた社会思想に見える。現代日本人にとって、余りに当たり前である日本人的な発想は、我々の祖先が倭人時代の終了後も倭人的な価値観を継承し続け、現代日本にその遺風を伝えたから、現代日本人は効率的に、日本社会を機能させていると考えられる。その発想の根幹を一言で言えば、「役割意識」だと考えられる。「役割意識」は個人の多様性を推奨し、多彩な職業を生み出したと同時に、職業に依る貴賤意識を弱めただけでなく、職業毎に自発的に倫理体系を決め、「道」と呼ぶ個別の発想を構築することを推奨している。その様な社会を構成する者を「人」と呼び、それに反する者を「ひとでなし」と呼ぶ体系を纏め上げた。この様な発想は、農民社会を標榜していた奈良時代以降には、生まれる機会がなかった。
以上の発想は、倭人社会の終焉と共に文化人を自認した、京の貴族が推奨する思考方法ではなかったから、土俗的な発想に位置付けられていた。各地の人々はその発想を守るために神社に結集したから、特定の宗教教義を持たない様に見える日本的な神社と、経典を持たない神道が生まれたと考えられる。
役割意識は、元々は漁民起原の発想だったと考えられる。一隻の船に複数の漁民が乗り、大型魚を捕獲する場合には、漕ぎ手、方向舵手、銛打ちなどの役割が、乗船した時から決まっていただろう。銛が大型魚に命中した後の操作にも、役割と手順が決まっていた筈だ。この様な厳格な役割分担は、戸毎に同じ農作業を行う農耕社会では、全く必要がないものだった。集団で獲物を狩った狩猟民でも、狭い船上で作業する漁民程には、厳格な役割はなかっただろう。イルカを狭い湾内に、数隻の手漕ぎの船で追い込む場合には、複雑な地形を利用した役割が、更に綿密に決められていただろう。個々の役割を委任された者は、自分のミスで共同作業を台無しにする事は許されないと考え、必死になって役割の遂行に励んだであろう事は、間違いない事実だったと考えられる。
漁民が交易民として大陸に出掛ける様になると、その役割分担は更に発達し、広範な価値観を含む概念に進化したと想定される。倭人は勝手気儘な交易者だったのではなく、極めて組織的に商圏の分割を行い、互いに連携してマーケティング活動を行った事を、縄文時代の転換期以降の項で繰り返し示したが、その様な活動の基底に、完成度の高い組織化があり、その根底的な思想が役割分担だったと考えられる。「役」という漢字に、公共に対する公の義務を込めているのは日本語だけであり、中国語では労働しか意味しない事は、阿満利麿氏が「日本人はなぜ無宗教なのか」で指摘している。また梅棹忠夫氏が「文明の生態史観」で、西欧と日本の共通性が高く、大陸とは異質な社会を形成している事を指摘しているが、それは両者が大陸の辺境にあるからではなく、過去の長い時代に、漁民文化が卓越し続けていた世界だったと考える事が出来るだろう。地中海世界での交易者の文明が東地中海で生まれ、フェニキアやギリシャが交易民として台頭した事も、彼らの背後に長い間漁民文化があった事が想定される筈だ。フェニキアやギリシャが都市国家の形態を採った事も、東南アジアや倭が、都市国家的な小国に別れていた事に対比できるだろう。極論すれば、西欧文明はローマ帝国の文化を継承したのではなく、ギリシャ時代のイングランドの漁民が、アテネやシドンに出入りしていた可能性から、議論されねばならない事になる。その様な環境もなく、野蛮だったゲルマン民族が短期間に文明化し、現代の西欧文明を築いたとは考えにくいからだ。彼らの周囲には、中国人の様な記録魔がいなかったから、歴史が忘れ去られているのではなかろうか。
倭人が創り上げた役割という発想は、「義務」と「権利」が神との契約から生まれたと考える、西欧的な発想とは極めて異質な概念だから、日本人は西欧的な契約概念には馴染めない事も、良く知られた事実だ。
倭人的な役割概念は、宗教の発生以前から存在したと考えられる。阿満利麿氏が、日本語の「役」は、呉音の「やく」だけが公共への貢献を意味し、唐代に導入された漢音の「えき」は、労働のみを意味する事に関し、もう少し検証する必要がある。漢音の「えき」は、苦役、懲役、労役、役務、弘安の役などに使われるが、元々倭人が「やく」という言葉を使っていた時代には、「えき」に関する概念がなかった事になる。それゆえ漢音と共に、その様な概念が導入されたと考えられる。倭人時代に役割意識があれば、それに付随する労働は自発的な行為と見做すから、その様な発想から上記の「えき」を使う述語は、発生しない事を確認する必要があるだろう。当然ながら倭人時代には、大陸民族や異民族の侵攻はなかった。
中国人は孔子の時代から、倭人社会を秩序がある社会として評価していた事は、漢書や魏志倭人伝の項で説明した。思想的な文明時代に入る前から、漁民社会と農民社会では考え方に大きな違いがあり、その結果として、社会に求める秩序観にも、大きな違いが生じていた事を示唆する。農地の耕作権を権力に依存した農民社会では、権力の肥大化に伴う領地の争奪戦争から免れる事ができなくなり、武闘を生業とする階級が生まれ、農民同志が農地を確保する為に、個人レベルでも競合し合う中では、漁民的な秩序を形成する事は出来なかっただろう。それを緩和する為に権力を強化する必要が生まれ、虚飾を駆使して権力が強大である幻想が必要になり、その為の嘘は必要悪になり、権力闘争を混迷させる原因になったと想定される。
漁民権力が農民も支配していた倭では、漁民的な能力主義と統制主義が発達し、中華的な虚飾を必要としない環境の中で、むしろ正直である事を美徳とした役割社会が、日本列島で進化したと考えられる。
漁民の妻達が陸上で、彼女達が主体になって創り上げた倭人宗教は、この役割概念を家族や陸上社会生活にも持込み、社会秩序形成の原則にしたと想定される。男達の原則を採用することによって、男を効率的に律することが出来ると考えた女性が、巫女と呼ばれる役割を担い、社会を先導する者になったのだろう。
男性の原則が巫女に十分理解出来たのは、漁民が極めてシンプルで、理解しやすい原則に立脚していたからだと想定される。漁業行為そのものは複雑だが、作業の原則はシンプルで理解しやすいものだ。男性が農耕民的な権力闘争に埋没すると、分かり易い原則を掲げていては、他人を出し抜くべき権力闘争に負けるから、複雑な思考体系にのめり込んで、分かり難い原則や、負ける事を恐れて感情的な敵対心を持つ人になると考えられる。その様な社会では、相手を攻撃する事を目的とする言語論理が発達し、声闘に至る環境も常在するだろう。その様な社会では、女性優位になる事が不可能であるだけでなく、女性が男性を操縦する事も難しくなり、男尊女卑社会にせざるを得なくなったと考えられる。男尊女卑が強いイスラムや中華思想が、純粋な農民系民族の文化である様に見えるのは、その様な環境の結果だった疑いがある。
漁民や倭人の社会では、交易や漁労のために長期間留守になる男達に代わり、残された女性達に社会を律する役割や権限が付託され、役割化した社会が安定的に形成されたから、男性が主導した経済活動が多少活発になっても、女性優位の時代が例外的に長く続き、女王卑弥呼を生んだと想定される。新羅でも女王が誕生した事は、女性優位になる現象は、漁民が支配した社会の普遍的な事象だったと考えられる。遊牧民だった鮮卑族の唐でも、唯一の女性皇帝である則天武后が誕生したから、純粋な農民社会だった中華だけが、東アジアでは、特異な男性優位社会だったと言えるかもしれない。
倭人はその概念と習俗を発展させ、陸上での女性優位社会を継続させると共に役割意識を進化させ、世代交代しても王の役割を演じている者がその機能を体現し、王という役割を永久不滅の機能と認識する様になったと想定される。それ故に倭国王には個人名は必要なく、歴史時代を区分する場合には宮家の変遷を使い、「何処に宮処(みやこ)があった時代」とか、どこに「寺があった時代」として識別した。「寺」は王の住居がある狭い場所を指し、王になった宮家の変遷によって、「宮処」「寺」の所在地が変わったからだ。その様な表現をしたのは、宮家の交替が比較的頻繁に行われたからだと考えられる。王がその様な永久不滅の役割に変われば、一般民衆の個々の社会的な役割も、倭人社会では永久不滅の生命を持つ事になったと考えられる。
以上の様な概念を持っていた倭人に対し、中華的な発想に従って天皇も寿命がある者とする事は、役割ではなく個人が自分の意思で活動するという、意識革命を必要とする事態だった。古事記の著者は倭人宗教を変革する象徴として、人や天皇には寿命があるとの認識を、イザナミ・イザナギの黄泉の国伝承や、天孫降臨の木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)伝承で、繰り返し説いたと考えられる。
特に倭国王が天皇になるためには、神の世界から人間の世界に移動した事を宣言する必要があり、天孫降臨はその重要な啓示だったと考えられる。古事記は倭人的な神聖世界が終焉し、新しい時代になったことを宣言する書籍だったから、倭人宗教を差配していた巫女が、古事記を著作してそれを否定した事は、体制革命に伴う精神革命が必要だった事を意味する。その宣言は同時に、巫女の役割の終焉宣言でもあった。
個人を密接に指導する巫女宗教は、小国に属す狭い地域を支配する状態で意味を為し、広域の統治には無力だったから、中華的な中央集権制に代われば巫女の役割は終わるという認識が、古事記から読み取れる。中華的な価値観では、巫女の存在は否定されるからだ。その様な古事記を巫女が著作した事は、この時代の社会改革やそれに伴う意識変化が、必要に迫られたものだった事を示している。但しそれは関東の必然であって、西日本でも同様な事情にあったとは、必ずしも言えない事を、西日本の反革命勢力の根強い残存が示している。
天皇を「すめらみこと」と呼んで統治者と定義し、法治国家を形成しようとしたのは、倭人的な秩序観の帰結として必然性を持っていたと考えられ、その様な帰結に達した人々は、熟考の末に体制改革に臨んだ事になる。「天皇」名称の「天」は、倭国王家の姓である「あめ」氏に由来すると考えられ、「皇」は始源時代から王だった事を顕示する漢字として、選定したと推測される。天皇(てんのう)は呉音だから、唐から引用した言葉ではない事は確かだ。大夫を漢音で「たいふ」と読めば五位の下級官僚を指し、呉音で「だいぶ」と読めば高級官僚を指した事も、天皇が唐制の引用ではない事を示唆する。
677年の木簡に「天皇」の記載がある事は、壬申の乱後間もなく「天皇」を使っていた事を示し、天智と大甕王の構想の中に、「天皇」称号が含まれていた事になる。唐の高宗(649年〜683年)が、674年に自らの称号を皇帝から「天皇」に変えたから、日本もそれに習ったとする説があるが、それには疑問がある。倭人は稲作民政権を征服した漢王朝を軽侮し、北方の遊牧民の征服王朝だった隋唐を、更に侮蔑していたから、唐の称号を移入したとは考えにくい。655年に則天武后が王皇后と高宗の妃を幽閉・惨殺し、高宗の皇后=武后になった。その頃から則天武后の意向が、唐の政治に反映する様になったと想定される。唐書や続日本紀は、則天武后が大の日本贔屓だった事を示している。中国史上唯一の女性皇帝が成立したのは、鮮卑族の価値観が反映されたからだと想定されるが、多少の違和感はあっただろう。その様な則天武后にとって、嘗て倭人が女王卑弥呼を即位させ、その女王の下に倭の秩序が回復した事に、強い共感があった筈だ。則天武后が女性皇帝の権威を装飾するために、中華とは異質の文明国である倭人の国も、中華に匹敵する文明国と見做す必要があった筈だ。旧唐書倭国伝に、「衣服の制は頗る新羅に類す。」と記されているから、新羅は倭系の文明国だと認識していた様だ。その新羅で631年に王の娘が女王になり、その女王が647年に亡くなるとその妹が女王になり、654年まで在位した。則天武后はその様な事実を背景に女性皇帝になる事を、690年に決意したのではなかろうか。日本で「天皇」呼称が選定された事を伝え聞いた則天武后が、高宗にもその称号を名乗らせたと考える方が、この時代の流れに合致し、それを知った大和朝廷が、無能な高宗が天皇(てんこう)を名乗った事を揶揄し、上記の大夫音を区別したと考える方が、話としては分かり易い。
新唐書は、650年代初めに大率の使者が財宝を唐に献上し、新羅を支援する事を唐に要請したと記し、以降何度も使者が出向いた。この頃垂簾政治を始めた則天武后は、大率の使者から倭の事情を聴取しただろう。672年に壬申の乱が起こると、新生日本の使者が唐に出向き、甕星が壬申の乱に勝利して日本国を樹立し、天皇を名乗ったと告げた。高宗が君臨していた唐朝は、その使者の言葉を信じなかったが、女性の地位に敏感だった則天武后は、女性優位社会を形成していた倭人の甕星が、男性優位社会だった東鯷人の政権を打倒したから、新生日本に何かを期待した可能性は高い。卑弥呼を生み出した倭人社会として、女性が天皇になる可能性を諮問したかもしれない。実際に初期の大和朝廷で、女性天皇が4人も誕生したのだから、使者は可能性があると答えただろう。
新生日本の使者に関し、新旧唐書は曖昧な記述をしているが、その使者を接見した者が、実は未だ皇帝になっていなかった則天武后であれば、史書に応答形式で記さなかっただろう。以上から考察すると、「天皇」呼称は甕星と天智の合作で、壬申の乱の直後から甕星が天皇を名乗った事になる。唐の高宗が天皇を名乗った際に、その事実を知っていたのかどうかは、高宗と武后の人間関係に帰する事情だから、日本史の関係者が詮索する必要はない。
697年に即位した文武天皇は、即位の詔で日本が法治国家である事を宣言した。天皇専制ではなく、天皇を統治の最高責任者とする、法治国家である事を宣言した。それも天智と甕星の構想の中に含まれ、天智が大津で実施した律法の根本思想だったと考えられる。平安朝の貴族はこの律法が気に入らなかったらしく、散逸して残っていない。中華とは違う倭人的な要素が、濃厚にあったからだろう。
甕星が、壬申の乱の直後に天皇を名乗ったのであれば、彼は720年に成立した日本紀では、天武だった事になる。しかし原古事記を復元すると、甕星の父は倭人を征服したが、神武に擬せられる即位はしなかった事を示している。原古事記の復元に関しては、政変の章で詳しく説明するが、以上の錯綜した状況を整理すると、甕星は即位儀礼を行う事なく戦乱の中で没し、その子の総持が、古事記が朗誦される中で即位儀礼を経て天皇になり、中央集権化に向けた組織を作り、畿内の反乱勢力を一掃し、九州征討軍を派遣するなどの、数々の大きな功績を上げたから、720年当時の大和朝廷の人には、総持を歴から抹殺する事は出来なかったと想定される。その様な大和朝廷の人は、古事記同様に壬申の乱を、事実と捏造の境界に置いた筈だから、日本紀に記された天武は天智の弟ではなく、総持の父の甕星だったと考えられる。
関東系譜の「総持」が実質的な初代天皇になり、革命の功労者だった甕星は、天武陵とされている中尾山八角墳に葬られたと想定される。天智陵とされている御廟野古墳(ごびょうのこふん)は大津に近いから、甕星が天智の遺徳を偲んで関東方式で墳墓を建設した可能性が高い。天智の仁徳に感じていた近隣の自作農が参集すれば、革命戦争直後の動乱期であっても、膨大な労働力が集まったのだろうか。甕星の墓が天智の墓より小さいのは、戦乱の中で労働力を確保する事が困難だったからだろう。
文武が703年に派遣した遣唐使は、唐文化を優雅に操る粟田真人だったにも拘わらず、唐には総持と文武の関係を言及しなかった。唐書からこの時代を復元する事は難しいが、時系列的に纏めると以下になる。  

672年 甕星が率いる軍勢が近畿以東と山陰を掌握し、唐に日本国の成立を報告した。
    使者が「日本は旧(ふる)くは小国だが、倭国の地を併せた。」と担当官僚に言ったので、信用されなかった。
?  甕星が天智陵(御廟野古墳(ごびょうのこふん))を造った。
?  甕星が死去し、天武の諡号が贈られた。総持が天皇になった。
?  筆頭巫女が原古事記を朗誦し、書籍として頒布した。天武を中尾山古墳に葬った。
?  総持の指揮下で中央集権制の政治体制が整備され、反革命勢力に対する軍事攻撃が行われた。
?  総持が唐に遣使した。使者は則天武后に面会したかもしれないが、則天武后は未だ皇帝ではなかった。
695年 政変が起きて総持が粛清され、難波系の持統と藤原不比等が政権を掌握し、持統が天皇になった。
?  持統が唐に遣使した。難波系倭人も甕星系倭人も放逐した後だから、相当な人材難だった事が想定される。
   則天武后の時代になっていたが、使者が「日本は小国にして、倭の併合する所となる。故にその号を冒す。」と担当官僚に言ったので、則天武后は使者を信用しなかった。
697年 持統が文武に譲位し、続日本紀の時代になった。
702年 遣唐使を派遣し、翌703年に唐に仰々しく朝貢したので、則天武后は日本の存在を認めた。
712年 改訂古事記成立
   古事記を参照して風土記を編纂する指示が、国司に発せられた。
720年 日本紀成立(日本書紀は1130年代前半に成立)

総持の実像は体制革命の項で説明したから、日本紀に記した総持の存在を抹消する為に、奈良・平安貴族がどの様に暗躍したのか検証する。
難波系天皇の一系を主張する方針は、712年の古事記の改訂時には決定されていた方針だった。改訂古事記が甕星の痕跡を抹消した上に、序文にも細工を行った。太安万侶は序文に、「天武は吉野山に籠って兵を集め、東国に進出した。天武はにわかに輿を進め、近江の軍勢を破り、飛鳥に凱旋して即位した。(要旨)」と記した事が、それに該当する。680年頃に亡くなった天武は、死後30年経過し、既に甕星を直に知っていた者は、皆鬼籍にあったから、天武を甕星ではなく、文武の祖父だったかの様に書き換える事は辛うじて出来た。総持は未だ亡くなって17年しか経ていなかったから、捏造と分かる事は書けず、古事記の序文は総持や持統については何も記していない。
太安万侶の序文を詳細に検証すると、甕星は即位前に吉野山に滞在した事実があったとか、壬申の乱の際に甕星が率いた本隊は、天智の後継者と合流する為に、美濃から近江を経て大津に入ったという事績が、実際にあった可能性が高いから、事実の断片を恣意的に抽出した疑いがある。太安万侶に出来たのはその様な手段で、天武を難波系だったと誤解させる程度の事だった。古事記の創作を、甕星が命じた事は事実だったから、実際に彼が明らかに詐称したのは、「稗田阿礼が暗記していた帝紀と本辞を、彼が初めて文章化した」という事だけだったと想定される。これは密室での出来事だから、批判者はいなかっただろうし、改訂した古事記が真の古事記で、原古事記は偽作だと主張すれば、これも言い逃れできる事ではあった。
720年成立の日本紀は、7世紀末の天皇を「総持」として唐に提出した。続日本紀(797年成立)以降の日本の史書は、その時期の天皇を「持統」としたから、続日本紀を編纂する過程で総持を抹殺した事が分かる。890年頃成立し、984年に宋に提出した「年代記」は「持総」とした。「年代記」が記した「持総」は、「総持」と「持統」のいずれに対しても誤植と判断できるから、宋にその名前を申告して様子を見たと考えられる。何の様子を見たのかと言えば、唐書が成立してその内容を確認し、唐書と矛盾のない日本史を捏造するためだった。唐書が記す総持関連の記述を見て、飛鳥時代末期の天皇を持統にするか総持にするか決め、日本の捏造史を完成する予定だったと推測される。
以上の想定から、政変で粛清されたのは総持だけでなく、総持の側近の者達も一緒に殺害された可能性が浮上する。唐に送った新生日本の使者の言辞として、事変後の使者の言葉は把握していたが、甕星や総持が送った使者の申告は把握していなかったから、唐書に記述される内容を予測できなかった事が、政変時の事績の捏造を困難にしていたと考えられるからだ。大率が唐に使者を送った時代に関する日本書紀の記述にも、唐書と矛盾する点が多く、その事に眼を奪われがちだが、飛鳥時代末期に関する唐書の記述は日本書紀と全く異なるから、奈良・平安時代の貴族にとって、最も難しい課題だった筈だ。辻褄合わせに関する詳細は、(15)古事記・日本書紀が書かれた背景で説明するが、総持が日立で下僚と一緒に殺害された可能性は否定できない。
次の課題は、総持は何故粛清されなければならなかったのか、という事になるだろう。
武力革命が成功した後に、革命集団が分裂して路線闘争が発生する事は、宿命的な帰結かもしれない。フランス革命や20世紀の共産主義革命が、その実例を示している。最終的に関東の神社勢と関西系譜の天皇家が残った事は、関東と関西の地域勢力的な争いではなく、路線闘争だった事を示している。最終的に難波系と共に残った鹿島勢や香取勢は、農民と内需商工業者を母体とした集団だったが、一方の甕星について考えると、東北の神社勢の大活躍目立つ事が、革命後の支持母体がどの様な勢力だったかを暗示する。奈良時代の大和朝廷は越後に城柵を作り、坂の上の田村麿に蝦夷を征伐させているから、総持の粛清によって、東北の旧倭人勢力が離反したと想定される。甕星は北方の物産を手掛けて交易者を統括する、倭国王家の宮家だったから、その系譜だった総持も、倭人的な交易者を重視する立場を採っていただろう。総持とその旧国の官僚達は、倭人的な交易事業を含む中央集権制を主張し、続日本紀が示す極端な農民重視政策には、反対する立場だったと想定される。重商主義的な中央集権国家構想と、共産主義的な農業政策を推進する国家観が対立し、第2革命が発生したと考える事が妥当だろう。
農民系の神社勢は、倭人の大農場を接収した稲作地の分配に与かり、共産主義的な農業政策を支持したと想定されるのに対し、自由競争的な商工業政策を主張した総持が、香取の物部勢力の支持を失った事は、総持には依然として輸出志向があり、内需商工民を味方にする事が出来なかったからだと推測される。
その様な理由だけでなく、稲作地が乏しかった日立の交易集団出身の官僚は、農民の統治事情が分からない官僚として、難波系の官僚から疎んじられただろう。鹿島勢を代表していた藤原不比等は、関東の農民勢力を代表する立場で、難波系官僚と提携する機会を持っていたと想定され、その様な権力闘争的な色彩もあっただろう。
唐に送られた甕星や総持の使者は、誼を通じるだけの地味な使者だったのに対し、持統に指導された文武は、遣唐使として高官だった粟田真人を送り込み、内実は唐を軽視していたにも拘らず、極めて派手な交際を唐に求めた。その事は政変後の大和政権が、権威を飾りたがる農民的な王朝になった事を感じさせる。利害関係から生まれた政治対立もあっただろうし、路線の違いが生む派閥闘争もあっただろうが、感覚的な反発に起因する要素もあった筈だが、そのすべてを詮索する事は難しい。見掛け上は、総持が商工民を味方にする事が出来なかった事が、失脚の大きな原因と言えるかもしれないが、可能性としては、藤原不比等と中臣氏が同じ常陸の倭文集団に事変を決行させる事によって、香取が差配するべき物部集団の暴走を既定事実とし、香取と交易志向派を離反させた可能性もある。当時の日本人は倭人的な宗教心を失った状態だったから、常識的な倫理観も失っていた可能性が高く、醜い権力闘争を辞さない風潮が人々の心を支配していたかもしれない。
総持を粛清した政変は後世まで語り継がれたから、この事件の記憶を逸らすために、事件は別の時代の別の事だったと捏造する事が必要になり、乙巳の変から始まる大化の改新が捏造されたと考えられる。
2、難波系官僚が中央集権化を進めた

 

2−1、革命直後
続日本紀によれば、阿部御主人(みうし)や大伴御行(みゆき)は、7世紀の最後の4半期に功績を上げ、7世紀末に最高位を得ていた。大伴御行は「難波朝」の右大臣の子であると記されているが、それは倭人時代だから、難波国の高官だった事を意味する。初期の大和政権が官僚としていた者達の出自は、天智の側近として大津の宮で実績を積んだ、難波国の官僚だった事を示唆する。大津での経験を基に、大和政権の統治機構を作ったのだろう。
彼らの注力すべき仕事は、大和政権の官僚統治機構を構築するだけでなく、神社勢の有力者の子弟を官僚として養成し、全国的な官僚組織を整備・強化する事も含まれていた。農民から租税を徴収する制度の全国展開は、既に各国にあった制度を統一する事だったが、国によって制度が異なり、制度が未熟な小国や、農民だけの国も多数あったと想定される。倭人時代に政務を担当していた者の大半は、反革命勢力として追放されていたから、新規に多数の官僚を養成する必要があっただろう。地域政権内であれば口頭で済んでいた事も、中央集権体制では中央が文章で指令を交付し、それを各地域に周知させ、その機構を運営する組織が必要になり、有資格者が不足しただろう。大和政権に帰順した、漢文能力を持つ多数の帰化人が、末端官僚に採用されたと想定される。当時の文章については、この項の最後の章で扱うが、倭人系の知識人は必ずしも漢文能力を有していたわけではないから、文章能力を持った漢族系の帰化人が、この時期の役人として多数採用されたと想定される。但し帰化人が有能な官僚になったわけではない。
以上の業務の他に、追放した倭人の大農場で使役されていた奴婢的な帰化人を、山間の集落に移住させる必要があった。彼らが耕作していた水田を、革命に参加した自作農に班田として給付する仕組みを、急いで作る必要があったからだ。九州を中心として西国に兵員を送り込むためには、革命に積極的参加した農民に恩賞を与え、農民兵を募集する必要があったからだ。班田の効果によって、関東の農民は積極的に征西に参加し、半世紀に亘って防人を供給し続けたと考えられるから、関東の稲作地の半分程が、倭人の大農場の所有だったと想定される。
奴婢的な存在だった帰化人を、農場から離れた山間地に移住させ、雑穀を栽培する畑地を割り当てて自活させる事に、当事者たちの抵抗はなかったと想定される。古墳時代に華北から移住した帰化人は、故郷同様にアワを作って自活しながら、倭人の農場で稲作労働を提供し、彼ら自身は米を食料としなかったと想定されるからだ。彼らは米作りの労働から解放されたから、特段の不満はなかったと推測される。関東平野の周囲の山間地では、奥深い谷まで畑作農家が点在しているが、それはこの時代の名残だった可能性がある。
大阪湾岸の自営農民にも、同様な措置によって班田が給付されたと想定されるが、全国各地にその様な大農場があったわけではないから、倭人の農場がなかった地域では、何らかの手段で班田を捻出する必要があった。神社勢が自発的に開墾した地域もあっただろうが、開墾で水田を形成する事が困難な地域も、多数あったと想定され、その様な地域の農民は、革命に期待する具体的な利益がなかったから、革命には消極的だっただろう。反革命に加担した地域では、その農民の稲作地が没収され、班田になった可能性もある。その様な統治の実績を上げる必要はあったが、班田給付以外は、大津で実績があった制度を拡張しただけだから、農民の統治は順調に実績を上げて行ったと考えられる。
元々難波国の官僚だった大津系の官僚は、中国に出掛けて交易する者達とも交流があったから、中華的な素養を習得していた者も多数いただろう。大和朝廷の方針が、中華に倣った中央集権制の構築だったから、彼らは中華的な素養を重視する官僚となって、自分達の権威を高めたと想定される。一般論として、官僚とはその様なものだ。
大津系官僚が、内需産業の実態を理解していたとは考えにくい。物部は、自分達の要求を叶えてくれない大津系官僚とは、一線を画していたと想定される。革命初期の大和政権は、内需商工民を基盤とした政権になるのか、農民を基盤にする政権になるのか、選択肢を持った政権だった筈だ。革命の戦闘員を多数輩出したのは農民だったが、戦陣で中核的な働きをしたのは物部だったと想定され、革命以前には双方にメリットがある方針を唱えていた筈だ。革命はその様な玉虫色の成果を、人々に期待させるものだ。
土地と年貢の関係が明確な農民統治は、容易である上に大津での実績があったが、商工民への課税は複雑で、収入の把握が難しく、内需商工業者を冷遇していた倭人国には、その統治実績はなかった。大津は農業国ではあっても、産業地帯ではなかった。新生大和政権の統治機構は、自動的に農民統治に傾いていっただろう。積極的に革命に参加した農民には、倭人が所有していた大農場の稲作地を、班田として貸与する特典が付いていたから、革命の成果を享受した農民は、政権に協力する意思を示していただろう。
一方物部は、革命の成功によって、倭人や東鯷人から商工業活動を圧迫される事はなくなったが、その恩恵は革命に積極的に参加しなかった物部にも与えられた。革命に積極的に参加し、血を流した物部集団としては、それに見合った利権が欲しかった筈だが、その様な仕組み作りは意外に難しかった筈だ。唐は商工業を統制し、庶民が交易する場を与えなかったから、先行する仕組みはなかった。
倭では弥生時代から、国営の市が各国にあった。物部が革命を先導した事から考えれば、それらの市が縮小されたとは考え難く、むしろ倭人の抑圧から解放された物部が、勝手に市を開設する雰囲気があっただろう。その結果として、日本全国に数百の市が開設されたと想定される。革命以前から何らかの構想はあった筈だが、続日本紀を見る限り大和朝廷には、商工業を活性化する熱意はなかった。
香取神宮勢を中核とする関東の物部は、革命戦争の功績を背景に、総持を通して自分達の利権を求めたと想定される。交易民と商工民という職業的な信頼関係があったから、革命前には協力して明るい未来を切り開く期待が、双方にあっただろう。しかし海外交易民だった甕星の官僚は、稲作民統治に慣れていなかった事は当然として、内需商工業者を統治する実績にも乏しかった。その上に、小国の統治経験しかない官僚だったから、広域で活動する内需商工民の利権設定には、無力だったと想定される。気比、気多、賀茂、石上系の、戦功があった物部も、香取勢に同調して何らかの利権を獲得したかった筈だが、その進捗が捗々しくなければ、総持の指導力に不満を募らせただろう。
現代人は、内需の活性化には公共事業が必須だと考える。利権を望む者に指名発注すれば、功績があった物部の不満は解消したかもしれないが、革命直後の動乱期には、公共工事を行う財政的な余裕はなかっただろう。武器を発注するにしても、産業基盤がなければ受注出来ないから、軍需物資は東鯷人地域に発注する状態だったと想定される。
大津系官僚が育てた第2世代官僚が成長すると、その中の物部出身者は、全国の物部組織を動員して勢力を形成し、石上(いそのかみ)麻呂を代表として調の制度を整備したと想定される。大和政権は、農民の租税を基盤とする財政を確立しようとしていたから、農民出身の第2世代官僚は、鹿島神社勢の中臣氏を中核にして租税の物流を差配し、全国の米の流通を掌握した上で、藤原不比等を中心に結束し、租税の徴収を掌握して財政を握ったと想定される。
唐の「調」は、農閑期の農民の労働の産物だったが、日本の調は、商品化されていた特産品を多数含んでいた。旧唐書日本伝に、「720年頃、遣唐使が唐の教育機関の助教から儒学を学んだ際に、その謝礼として幅広の麻布を贈った」が、「その布に調布である付箋が付いていたので、唐の人は偽りではないかと疑った。」と記されている。調布にしては品質が高過ぎると、見做したからだろう。日本の調は、職人が織ったものだったからだ。ここに日本の調の特殊性を見る必要がある。その様な付箋は、取り除いてから贈呈すべきものかもしれないが、敢えて付けたまま贈呈したのは、遣唐使の意図があったと考えるべきだろう。日本の方が豊かな産業社会である事を、唐の人に誇示したかったと推測される。唐の官人に謝礼をするのであれば、絹布の方が良かった筈だが、敢えて麻布を贈って日本の庶民の豊かさを見せ付けた事は、日本紀を献上して日本国の歴史の古さを誇った事と併せ、当時の日本人が唐に何を顕示したかったのか、髣髴とさせるものがある。
日本の調は、各地の特産物が指定され、既に商品化されていた特産品を多く含んでいた事が、特定の物部の利権化を、推進する手段だったと考えられる。特産品が「調」に設定される事により、その商品の存在が全国に周知され、その価格が固定されたから、「調」に指定される事によって、その商品のブランド力を高める事が出来た。特定の物部が扱っていた商品が調に指定されれば、その商品の品質が良好である事が公的に認定され、その上に公定価格で販売する事が出来たからだ。功績があった物部として香取神宮勢が得た利権は、望陀の麻布を最高格の調に認定し、高い価格が設定された事だったと考えられる。麻布は元々絹布や上布と比較し、価値が低い布だったが、上布以上の価値を持たせるために、特に細い糸で緻密に織り上げ、それを高い公定価格で販売した。高価な布であれば、財産とする事が出来るし、贈答用品にもなったから、実需以上の売り上げを獲得する事が出来ただろう。それは全くの官制ブランドだった。
香取神宮勢は、麻布以外にも幾つかの商品を、その様に認定して貰った筈だが、延喜式の調庸雜物には、(麻)布の産地は「上總細布、常陸調布、相模、下總」、麻と熟麻の産地は「下總」としか記されていない。房総半島は当時の養蚕が出来る程に温暖ではなく、上布を作る技術力もなかったから、麻布を特産品とせざるを得なかったのだろう。そのために、嘗て倭人の工房の職人だった者を房総半島に連行し、無理に高級な麻布を作らせたと想定される。しかしそれは、後世まで通用する商品企画ではなかったから、やがて産地は消滅した。特産地として勝ち残るためには、商品力の有無で勝負する以外に有効な手立てはないから、如何に香取神宮勢が強く要望しても、常総地域を産業の中心地にする事は出来なかった。唐に持ち込んだ調布が、望陀の麻布だったのかは分からないが、望陀の麻布に刺激され、日本の各地に上等な麻布の産地が生まれたであろう事は、容易に推測される。望陀ではそれに対抗する為に更に高品質の麻布を、倭人的な品質高度化技法を駆使して生産しただろう。上總細布でさえも、現代の技術でも容易に実現できない高度な麻布だったが、望陀布は更に緻密な麻布だった。
世相が安定すると、徴税組織を通して農民系官僚の利権を代表する様になった藤原不比等と、調を通して利権商人化した物部を統制する石上麻呂が、業界代表の様に権勢を集めた。実は真の業界の代表ではなく、業界を差配する官僚の代表だった事は、容易に推測が付く事だろう。いずれにしても、停滞していた統治実績を、回復する方向に向かったと想定される。
両者は天武亡き後に、その孫を抱えて零落していた持統を担ぎ、クーデターによって総持を抹殺し、持統を暫定的な天皇として権力を握った。彼らがその様な行動に走った利害関係については、上記に掲げた事以外にも、種々の要因があったと想定される。革命が成就して新しい社会を建設する段階になると、色々な路線が生まれて路線闘争になるだけでなく、権力闘争も生まれる事を、21世紀の我々は常識的に知っている。そこから色々連想できるだろう。
総持は、軍事に強い甕星の直系だったから、大和朝廷に帰属する軍隊に対しても、絶対的な統帥権を持っていただろう。しかし石上麻呂も藤原不比等も、中華的な絶対権力を持つ天皇ではなく、弱い立場の天皇を創り出して、自分達が実権を握りたいと考えていた疑いがある。実際問題として、武力を背景に統治する中華的な皇帝には、各業界の実態は分からない。産業化していた日本列島を治めるために、権力の分散がなければならないと判断する流れは、必然的な発生だったと考えられる。権力を支える業界団体が、その様に考えを推進し始めた時点で、彼らは倭人的な価値観に戻り始めていたと言える。革命が終わった時点で、民衆は倭人的な価値観の回帰に向い、統治者も倭人的価値観を無視できなかったとも言えるだろう。
武力によって革命が達成されると、武力によって革命を維持しようとする流れが生まれる事を、21世紀の我々は常識的に知っている。対外的な危機を叫びながら、その武力が対外的な方向に向く事も、我々は良く知っている。しかし新生日本の統治者は、その武力を対外的に使用した痕跡はない。続日本紀には、武力的な緊張状態を掲げる雰囲気は皆無だから、フランス革命を含む20世紀の革命の様な、革命後の軍事的な膨張主義は、大和政権にはなかった事が分かる。革命が終了して20余年経た大和政権内で、武力を持った革命指導者を粛清する動きが生まれた事は、平和な統治を優先する意向を持った大和政権だったからだと言えるだろう。その様な状況を生み出した大きな要因として、革命以前の倭が、極端な分国制だった事を指摘出来るだろう。分国制の小国の官僚は、衆人環視の中で清廉潔白である事を当然として、職務を遂行する習慣を持っていた。権力闘争が生まれ難い環境の中で、地域官僚は地域の発展にしか興味がなかったからだ。
国衙や郡衙(大宝令で評が郡に名前を変えた)を整備し、中央集権制が整えば、政権にとって神社勢の集団力は不要な存在になった。その儘放置すれば、中央権力と対立する恐れがあったから、大和政権はそれを弱体化したくなった筈だ。大津系官僚は、順調にその方向に進んでいると感じていただろう。
しかし神社勢は、祭式や神社の建物を整備して、地域の団結力を保持しようとした。大和政権は彼らの力を認めざるを得なくなり、幣帛を携えて神社に参拝する制度を作り、神社を格付けして叙位叙勲し、国家統制に組み込もうとした。改訂された古事記が成立すると、風土記の作成が指示されたのは、全国の神社を網羅的に体系化し、大和政権の統治力を高めるためだったと想定される。奈良時代の経緯は不明だが、延喜式神名帳(927年)の成立に手間取ったのは、それが一筋縄では行かなかった事を示す。倭人時代の、地域分権的な自治を経験していた民衆は、顔が見えない中央権力に直接支配される事に、馴染まなかったからだ。延喜式神名帳が成立した10世紀は、摂関政治による荘園制への移行期であり、中央集権制が実質的に壊れ始めた時代だった。神社を解体して個人を直接統治する事を、国家が諦めると同時に、地域の中に新しい勢力が生まれ、神社勢が変質し始めたから、双方に妥協の機運が生まれた可能性がある。  
2−2 大津系官僚と第2世代官僚
話はまた壬申の乱直後に戻るが、中央集権制のモデルは唐にしかなかったから、初期の大和政権の官僚にとっては、唐制を真似ることが至上命題だった筈だ。大津系官僚は、農民統治の実績を根拠に政界に進出し、中華的な知識が豊かな官僚として中央集権国家を運営するために、第2世代官僚を育成したと想定される。その教育が唐の知育システムに類似し、唐の科挙に及第するための教育に類似する事は、必然的な結果だった。交易者だった倭人は、実用的な知識を求めたが、大津系官僚は農民統治以外の実情に疎く、現場には創造的な知能は不要だったから、漢籍や漢詩の知識を獲得する様な、知育に偏重した教育にならざるを得なかっただろう。
中華文明の本質は、皇帝と貴族のための文明であり、難解な漢文や漢詩を読解できない庶民は、文明人になれなかった。日本列島に来た移民の大半は、その様な庶民漢人だったから、奴婢や下僕になった華北からの移民に接した人々は、中華文明を見下す事はあっても、尊重する意識はなかっただろう。中国の史書だけを見て倭人を解釈すると、教養がある倭人は皆漢籍に精通していたイメージを持つが、倭人から見た当時の文明人は、唐というよりはオーストロネシア語族民に軍配が挙がる状況だったと想定される。東南アジアの方がオリエントに近いだけでなく、豊かな植生が多くの古代産業を支えていたから、少なくとも倭人の半分はオーストロネシア語族民と交易し、アラム系の表音文字を使っていたと想定される。大和政権はその様な国の人々に、日本国の標準文字は漢字だと宣言したから、現在の漢字文化に繋がったと考えられる。大和政権は歴史を捏造して倭人の存在を抹殺したから、その痕跡である表音文字は、当然使用禁止にしたと想定されるが、倭人時代には、漢字を使っていた倭人国でも簡便な表現には、漢文より使い易い表音文字を使っていただろうから、第2世代官僚の多くは漢文の習得に難渋し、漢字での日本語表記の必要性が高まったと推測される。しかしその様な中でも、大津系官僚は漢文の習得に意欲を燃やし、更に唐文化への憧憬を強めていたと考えられる。
しかし末端官僚を輩出した各地の神社勢は、倭人時代の地域分権的な発想が強く、地域性を重視する基本精神を維持していたから、中華的な中央集権制に馴染まなかった。神社勢力が平安時代まで維持されたのは、中央から押し付けられる中華的で中央集権制的な指示や命令に対抗するための、地域の団結手段に変質したからだと想定される。
第2世代官僚が倭人の感性に回帰しながら成長すると、大津系官僚の中華崇拝に違和感を持つ様になり、路線闘争が生まれるのは必然の結果だった。典型的な権力闘争のスタイルとして、大津系官僚が必要以上に中華の知識を披歴し、中華的な発想を善とする方向に走っただろう。目的を失った権威ある組織が、自らの存続と権威の高揚を求めるために、特殊な教養の高さを求める事は、万国共通の現象だと考えられるからだ。対外競争に乏しい官僚社会では、その様な場合には、派閥闘争的な権力闘争的になる。大和政権が成立して国家的な競争者が失われ、競争に由来する正義は消滅していた。その様な状況の必然的な結果として、政策の良し悪しで正義を示す事が困難になり、権力闘争の勝敗で政策が決まる状態になっただろう。
権力闘争の勝利者が、政策を決定する段階に進んだ中央と、地域活動を競争的に実施する、倭人的な習俗を遺していた地域勢力が併存し、対立の芽が生まれ始め、浦島伝説が生まれる環境が醸成された事になる。まだ九州や瀬戸内に反乱勢力のくすぶりがあり、倭人の残党が各所に出没する状況だったから、地域によっては緊張感から生まれる正義が機能していたかもしれないが、政権中枢では、急速に正論が失われて行く時代だった。その様な状況の中で、倭人的な交易者だった甕星の権力は、極めて複雑な事情の上に立脚していた。
第2世代官僚の多くは、末端官僚として地域の実権を握り、倭人時代の伝統的な価値観を維持していた筈だ。彼らは倭人の伝統を継承して地域分権意識が強く、中央政権を掌握するより地方を統治する方が、権力の本質を把握する事になると認識していただろう。物部も、中央勢力と地域勢力に分裂し始めていたかもしれない。地域の実情に精通し、地域産業の振興に興味があった物部は、2世代官僚と協調する事を望んでいたと想定されるが、中央の物部はそれに応えると同時に、中央での権力闘争も行わなければならなかった。倭人的だった甕星は、産業の振興策の立案に関しては、物部より保守的だったと想定される。甕星が総持に代替わりしても、彼らを取り巻いていた側近の意識は、継承されていた筈だ。
中央集権的な農民統治の仕組みが整うと、大津系官僚の大役は終わったが、地域の実情や商工業の実態に疎い大津系官僚の成果は、物部には満足できないものだった。しかし大津系官僚は自分の成果に満足し、その方針で大和朝廷が日本全土を統治すれば、やがて盤石な唐朝の様な日本国が、形成されると考えていた筈だ。その様な意識の下で、彼らの子弟は大和政権のエリート官僚になるべく、中華的な知識に偏重した教育を受けた。唐ではそれがエリート教育だったから、それで大津系官僚には、盤石な体制に見えたかもしれない。しかし第2官僚はその様な教育の価値に、疑念を持っていただろう。漢文典籍を猛勉強しても、倭人的な意識を濃厚に遺していた地方の、住民を慰撫しながら統治する能力、即ち地方官僚の職務遂行能力を、高める事にはならなかったからだ。中華的な教養を猛勉強させられた大津系官僚の子弟も、大和政権を誕生させた武力は、中央政権制から生まれたものではなく、唐の様に、武力の主体が中央の官僚貴族になったのでもなく、奈良時代になっても地域に散在していた、神社勢が提供した武力だった事を理解する様になると、地域統治に無力な自分達の存在に、疑いを持ち始めただろう。彼らは、地域を代表する第2世代の下級官僚の、支持を得る事が出来る者ではなかった。
中央で独断的に決められた政策が、各地域の実情に合致している筈はないから、それを強制する武力がなければ、中央集権制は維持できない。20世紀の共産主義革命は、中央の指令で動く軍隊を温存したいと考える権力者の意図を汲んで、対外的な緊張感を自ら醸成して革命軍を維持している。しかし倭人政権の後継として生まれた大和政権では、革命軍の主体だった人々の、地域主権的な発想は変わらなかったから、地域と対峙する中央軍を創設することは出来なかった。
その辺りをもう少し詳しく検証すると、武力で倭人権力を倒した農民や商工業者が、目的を達成して故郷に帰ると、極めて分権的な価値観を持った人達が、彼らを待っていたという事だ。倭人的な地域分権社会には、職業軍人化される浮遊民はいなかった上に、故郷を守っていたのは、倭人社会で地位が高かった女性達だったと、言い換える事が出来るかもしれない。一旦制度改革が落ち着くと、革命に貢献した地方と、革命の成果を求める中央との対立が始まる事は、必然的な結果だったと言えるだろう。  
2−3 遣唐使
政変後に唐に使者を送ったが、使者は皇帝に面会する事を許されず、唐は日本の成立を危ぶんでいた。文武は統治が安定した日本の威容を示すために、厳選した使節を整えて唐に送った。このHPでは、その様な仰々しい唐への遣使を、遣唐使と呼ぶ。初回の遣唐使の長官は、民部尚書の長官だった粟田真人で、唐風の教育を受けた大津系官僚の子弟だった。遣唐使は702年6月に出航し、中国に着いて初めて国名が周(則天武后)に変わっていた事を知った。則天武后は690年に即位したから、12年間それを知らなかった事になる。690年以降、唐の動向に対する関心が薄れる程に、大和政権内に混乱があった事を示すと同時に、派手な遣唐使を仰々しく送り出した割には、唐に関する関心が極めて乏しかった事を示す。新旧唐書の記述を見ると、甕星と総持は少なくとも2回、壬申の乱後の動乱期でありながら、唐に使者を派遣したと推測される。倭人時代には、中華の王朝に遣使する事は稀だったが、大和政権は唐の制度を参考にする積りだったから、革命直後から唐に頻繁に朝貢したと想定される。但し皇帝に面会できる程には、日本が倭に代わった事を信用されていなかった。それに対し、政変直後に使者となった者は、その日本を再征服したと言ったから、更に信頼度を低下させた。難波系に代わった大和朝廷は、12年間も唐の動静を知らなかった人達だけで構成され、彼らが派遣した使者は、唐が則天武后の周に変わった事に気付かなかった。その様な大和朝廷が突然仰々しい遣唐使を送り、日本の偉大さを誇示した事は、この政権には中華的な素養はあったが、中国との交易経験を持つ者を、全く内包していなかった事になる。必ずしも必要のない権威を、外国である中国に示したという点も、極めて農民政権的な性格を示している。続日本紀の農本主義的な記述と、良く合致していると言えるだろう。
粟田真人は典雅な衣装を身に着け、中華的な素養を優雅に示したので、則天武后に認められて宴席を賜り、実務官僚の称号を与えて特別な好意を示した。則天武后は、卑弥呼を輩出した倭人文化に親近感を持ち、倭を文化大国であると唐朝内で主張していたから、その後継である日本にも強い関心を持っていた。交易者だった倭人は、顧客としての唐の高官を、接客する能力を必要としていたから、唐の人と接する技が技芸として伝承されていただろう。粟田真人は官人としてそれを披歴し、則天武后の好感を得たと想定される。
720年頃の、2回目の遣唐使の副官だった安倍仲麻呂は、唐に留まって日本に帰らず、唐の高級官僚になった。彼が持っていた豊かな中華的教養は、日本では尊重されなくなっていたから、日本に帰りたくなかったのだろう。安倍仲麻呂は中華的な教育を厳しく受けたが、奈良時代の日本ではその使い道がなかったから、才能を持て余して中国に帰化したと推測される。安倍仲麻呂に続く、その様な人材が輩出されなかったのは、その様な教育熱が沈静化したからだろう。大津系官僚の興隆と衰退を、阿倍仲麻呂の唐への帰化から窺う事が出来る。  
2−4 仏教
古事記には仏教的な発想がないから、関東の倭人が仏教に関心を持っていたとは考えにくい。難波系の倭人についても、仏教に関心があった事を示す証拠はない。しかし続日本紀700年の記事に、道照和尚の死を惜しむ記事が長々と書かれている。道照は難波国の倭人の子で、壬申の乱以前に唐に渡って玄奘三蔵の弟子になり、北朝仏教を学んだ人だったと推測される。玄奘三蔵が亡くなった664年は、672年に起った壬申の乱の8年前だから、玄奘から直に教えを受けたとされる道照が渡航したのは、革命の10年以上前だった事になるし、渡航の下準備としての仏典の理解に10年程度はかかっただろうから、道照が仏僧になる事を志したのは、650年以前の事だった事になる。天智が革命前に、倭人宗教の崩壊による倫理観の喪失を見越し、選りすぐった人材として道照を唐に送り込んだのであれば、革命には思想的な背景と周到さがあった事になる。道照和尚は革命の動乱の中で帰国し、仏教を広める事になったのだろう。
道照に関する経歴が、続日本紀に長々と書かれているが、これは明らかに創作物語だ。壬申の乱とその後の動乱が、なかったかの様な話の展開になっている上に、天皇の御前で披露されたとは思えない些細で長ったらしい記述が、延々と続いている。続日本紀は、漢書の様に捏造史と実際の歴史を繋ぐために、実在史の中にさりげなく捏造を混入させ、二つの歴史の矛盾の辻褄合わせをしたと想定される。道照のこの記事は、明らかにその役割を担っている。その物語の冒頭に、道照が帰国後に冷遇されたらしい逸話の片鱗が、前後の話との脈絡なく挿入されている。むしろこちらの方が、実話の断片だった可能性が高く、道照の布教はあまり成功していなかった事を示唆する。
天智は仏教導入の必要性を感じ、道照を唐に派遣したが、甕星や総持は仏教に関心がなく、道照は冷や飯を食わされながら、無為の日々を送らされただけでなく、関東系の官僚から迫害を受けたと解釈できるだろう。政変によって道照の地位が高まったが、既に高齢になっていたから、これから活躍すべきという700年に、72歳で亡くなってしまった様だ。高官の死亡記事にも、年齢を記していない続日本紀が、年齢まで記して高齢の道照の死を惜しんだのは、仏教が普及していない状況で仏僧の人材が乏しく、これから仏僧を教育する状況だったからだろう。
仏教というカテゴリーで括れば、東鯷人の倭王とその取り巻きは仏教に熱心で、飛鳥に法隆寺などの寺院を建造した。それは同じ大乗仏教ではあったが、南朝系や東南アジア系の仏教であって、個人の悟りを重視するものだった。天皇家や第2世代官僚が求めたのは、国家鎮護的な北朝仏教だった。大和朝廷はその様な唐の仏教を導入する必要があり、憎しみと共に滅ぼした東鯷人政権の仏教を、仏僧共々継承する積りはなかっただろう。しかし北朝仏教に関する人材が乏しかったから、東鯷人系の仏僧も使わざるを得なかったかもしれない。
大和政権が仏僧を組織化したのは、唐化の推進という側面もあったが、天智が危惧した様に、倭人的な価値観を否定して革命を成就したから、官僚のモラルが大幅に低下し、理想的な社会を建設する障害になっていると、危機感を持っていた可能性は高い。粗暴だった鮮卑族が文明化し、唐王朝を建設して安定した社会を実現したのは、仏教の力に依るところが大きかったと、倭人は感じていたかもしれない。その見識を実行に移した天智の、政治家としての資質は偉大だった事になるが、所詮付け刃的な倫理観だった。元々仏教に関心がなかった倭人系の人々に、仏教の神髄など分かる筈もなかったからだ。結局地域勢力は地域主権論者に戻り、現実的な倫理観を持たない官僚が、広域的な支配を担務することになった。その様な中央官僚も、故郷に帰れば倭人的な倫理観の人になっただろう。
やがて神社勢が強力になり過ぎているという認識が生まれ、仏教の導入に神社勢を牽制する目的が加わった。その目的で東大寺を建立し、諸国に国分寺と国分尼寺を造営したと考えられる。700年に道照の死を惜しんだ事は、その時既に北朝仏教を、神社勢の牽制に使う意図があった疑いがある。神社勢が強力になり過ぎているという中央の認識は、極めて当然な帰結として発生しただろう。仏教が宗教として日本に定着する事はなかったが、倭人的な発想は現代日本人の中に生き続け、宗教とは感じないない確信として、日本人の個性の一部になっている。以下にその証拠を提示する。
日本書記に記された17条憲法は、誰が何時制定したのか判断する資料はないが、倭人時代の発想を色濃く残している。大和政権でも、この精神が重視されたのだろう。第一条に、「和を大切にし、いさかいをせぬようにせよ」という倭人の倫理観が記され、第2条に「篤く三宝を敬うように」と、仏教的倫理観の尊重を推奨している。仏教思想より倭人精神を上位に置いている事は、重要な着目点になる。第3条以降は高度な組織論だから、倭人国の運営指針だったと考えられる。最後の17条で、「多くの人々と相談し合えば、道理にかなったことを知り得る。」と記し、第一条の補足とも言える条文になっている事は、倭人精神の重要さを強調している事になるだろう。
大和政権の人々が意識していたのか否かに拘わらず、この条文が明確に伝承されている事は、大和朝廷は明らかに倭人精神を引き継ぐ政権だった事を示している。道徳規範の論理を仏教に求めているが、仏教徒になる事は求めていない。この時代の仏教に、行動倫理の規範を求めていた事を示唆している。
17条憲法は、20世紀の極めて日本的な企業が、社員の行動規範として採用しても不思議ではない程に、完成度が高い。現代日本人が産業社会の中で生きる指針として、倭人的な伝統に色濃く染まりながら、日本的な企業を統治しているのは、倭人的な伝統の優位性を無意識理に認め、その記憶を蘇らせて活動力を発揮し、日本的な産業社会を発展させた事になる。
以上を言い換えれば、日本人は倭人的な倫理観を継承しながら、明治維新を迎えた事になるから、現代日本人はこの時代の精神的・宗教的な構図を、自分の心の中から容易に復元できるだろう。大和政権は統治権を握り、中華思想を導入して政治を運営しようとしたから、倫理的に地域勢力と遊離した状態に陥り、それでも統治を進めるために統治機構を弄りながら、政権中枢だけが持つ独自の倫理観を醸成しなければならなくなった。その様な中央官僚から伝達される指令が、多様な日本各地の実情に合う筈もなく、地域の失望や違和感に遭遇しながら、政権の維持に汲々とせざるを得ない宿命を負わされた事になる。地域の人が抱く地域主権主義は、強まりこそすれ弱体化する要素はなかった。その結果が、江戸時代の幕藩体制であり、江戸時代に平和な日本が実現した根拠でもあった。北朝仏教は、大和政権の官僚貴族には必要な経典だったが、地域の人々には無用の長物だった。日本の歴史はその必然に沿って流れ、日本人は仏教徒になる事なく明治維新を迎えたから、廃仏毀釈を行ったと考えられる。
平城京に北朝系の寺を多数建立し(南都七大寺など)、東大寺の大仏を建立し、全国に国分寺や国分尼寺を作る流れは、難波系の大和政権成立直後に始まったと想定される。しかし東鯷人が導入した南朝仏教の歴史が長かったから、裾野の広さでは北朝仏教を圧倒していたと想定される。仏典が呉音で読まれる事も、華南出身の鑑真の人気が高いのも、その流れから生まれたと推測される。
倭人の根拠地ではなかった飛鳥が、大和朝廷の拠点になったのは、難波系の革命勢力の根拠地として、飛鳥が選定されたからだと考えられる。日本を中央集権国家とするためには、日立が中央になる事は難しいから、甕星も畿内に拠点が必要だと考えていた筈だが、彼が日本の中心地の有力候補と考えたのは、伊勢だったと推測される。伊勢神宮は甕星と総持の創建だった可能性が高い事は、既に前項で説明したが、革命に積極的だった畿内の海上集団は伊勢神宮勢だけだった事や、太平洋沿岸の交易上の地の利を考慮すれば、伊勢が最適な拠点だったと想定されるから、交易を志向していた甕星や総持が推奨する場所だったが、八角墳が飛鳥にある事は、両睨みの状態だった事を示唆する。
畿内の根拠地の候補にならなった場所とその理由について考えると、大阪湾岸には、難波勢が何時逆襲して来るか分からない、不穏さがあった。有力な勢力だった住吉は、革命に同調的ではなかった事も、その理由に挙げられるだろう。大津には、革命を積極的に支持する物部系の神社勢力がなかった。天智の膝元だった大津が、革命を積極的に支持しなかった事は奇異に感じるが、天智が壬申の乱以前に落命していたから、その様な事態になったと考えられる。大津の農民神社勢は天智の遺徳を感じていたから、立派な八角墳を造営する事に労を惜しまなかったが、革命勃発時には天智は亡くなっていたから、天智から直に革命への参加を促されなかった事が、この様な事態を招いたと考えられる。倭人の大農場も近江にはなく、班田の配分が期待できる状況でもなかったのだろう。それが当時の農民の意識だったかもしれない。結局革命に対して是々非々になり、大和政権に恥をかかせた勢力として、祭る神が降格される事態にまで発展したと推測される。
飛鳥には旧倭国としての豊かさがあり、法隆寺以外にも瓦葺の華麗な寺院が複数あり、住居や街路も整備され、豊かさがあったのだろう。革命派の重鎮の物部として、石上氏の勢力があった事が、最も重要な要素だったかもしれない。難波系の天皇一族は、発足当初から安定した根拠地を持たない集団だった。  
3、政変(第2革命)の詳細

 

歴史から抹殺された天皇の痕跡として、日本書紀の国譲りに「星の神 香香背男(かがせお)、別名天津甕星(あまつみかぼし)」という名前が記されている。日本書記の記事は信憑性に乏しいが、実際に記事と一致する神社があるから、根拠に基づいた記事だった事になる。天津甕星(あまつみかぼし)は、日立市の大甕倭文(おおみかしず)神社に祭られている。
大国主が葦原中国を天孫に譲った後に、「従わないのは星の神の香香背男(かがせお)だけとなった。そこで建葉槌命を遣わして服させた。」と記し、第2の「一書にいう」として「天に悪い神がいます。名を天津甕星といいます。又の名は天香香背男です。」と記している。天津甕星を服させた建葉槌命は、那珂市にある静神社の神で、「静」は「倭文」(しとり、しず)と同一視されている。大甕倭文神社は、反逆者とそれを排除した人物を共に祭っているが、これは異例の事ではない。建御名方を祭る諏訪神社上社の神官は、物部を称する洩矢氏(守矢氏)であり、その子孫が明治時代まで神官を務めた。物部だった洩矢氏は、革命勢力だった筈だから、壬申の乱で建御名方を打ち取った者だったと想定される。神官だった洩矢氏も子孫が絶えれば、一緒に祭られる神になったかもしれない。洩矢氏は建御名方の子孫を引き取ったらしく、戦国時代の諏訪氏は建御名方の子孫を名乗った。それが当時の「人の道」だったのだろう。
藤原不比等が天武の子孫を天皇にするために、建葉槌を祭る静神社勢を促し、総持を誅殺させたと想定される。それが「乙巳の変(いっしのへん)」の元ネタになった事績で、総持を殺めた倭文は総持を大甕神社に祭って神官になり、大甕神社は神宮格の神社だと主張したと想定される。倭文は機織り職人の集団だから、産業的、政治的には「総持」と直接的な関係はなかったが、同じ常陸の那珂にある静神社勢が鹿島神社勢の指示を受けたから、大甕に居た総持を襲撃して殺害したと想定される。
何故その様な事が起ったのかを検討するため、登場人物の事情を復習する。
革命後に政権を掌握し、天皇になった「総持」とその側近は、反革命が収まらない九州を平定するために、徴兵を継続する必要があった。その為に総持は、権力の強い武闘的な指導を目指しただろう。彼の権力の源泉は、北方の毛皮交易者だった倭人と、革命戦争で活躍した東北の狩猟民で、それに加えて武技に覚えがある倭人崩れの物部と、関東で徴発した農民兵だった。大甕は北方の毛皮や皮革の交易拠点だったと想定され、総持を囲む幕僚達は、北方の物産の交易事業に執着があったと考えられるが、最大の販路だった高句麗を失い、交易者としては失業状態だった。
総持は甕星の後継者だったが、甕星程に革命に熱意があったのかについては、疑問がある。天智や甕星は倭人的な制度の悪弊に辟易し、純粋な気持ちで革命を目指したかもしれないが、世代交代して天武の様に情熱が薄れた可能性もある。倭人的な交易者だった者達に囲まれていたから、農本主義と内需志向に傾斜して行く大和政権の中で、革命が不本意な方向に向かっていると感じ事は、総持の感覚としては十分あり得る事だった。総持が軍事に没頭している間に、大津系官僚が見掛け上は総持の指揮下で、しかし実際には彼ら独自の考えで、中央集権制の仕組みを作っていた時期の出来事だった。
大津系官僚の強味は、稲作農民を支配した経験に基づく官僚組織の形成だったが、その頂点に立つべき天武亡き後、持統は病弱な草壁や幼い文武を抱え、権力の脇に追い遣られていたから、実際には総持の支配下の官僚だった。第2世代官僚を育てると、地域に戻った官僚は地域主権的になり、中央の官僚も直接地域の官僚と気脈を通じる様になり、政権の中枢部にいて唐化政策を推進していた大津系官僚は、実際の権力を失いつつあった。
内需産業に従事していた物部は、革命後に大津系官僚の統制下に置かれたが、その子弟から育った第2世代官僚は、内需産業の活性化を推進しながら、革命の功労集団としての利権の確保を望んでいた。内需商工業者の人口は多かったから、厚い官僚層を形成し、地域政権に浸透していたと想定される。彼らは物部の活性化政策の欠乏に対し、次第に不満を高めたが、大津系官僚はそれに応えられなかった。革命に貢献した特定の物部集団は、彼らに限定した特権を求めた筈だが、その要求には全く応えられなかったと想定される。富本銭を鋳造し始めたが、多量に流通するには至らなかった。その理由は判明していないが、その様に商工民を活性化するだけでも、その施策の立案や実施は難しく、各地域の産業の実態に、沿ったものでなければならない。特定の物部に利権を与える事は、更に難しかっただろう。唐の制度は、民需的な商工業を抑圧するものだったから、到底参考にはならなかった。
しかし唐の律令制を導入すれば、「調」の制度を採用する事は必然的な結果だった。壬申の乱直後の混乱した社会では、調のシステムを使って物流を活性化させ、社会に秩序を与えた事は有意義だったかもしれない。しかし壬申の乱に功績があった物部集団と、調のシステムによって利益を得た物部集団は同じではなかったから、革命の功労者だった一部の物部に利権を与えるために、調の制度運用を操作する必要があった。
物部系の官僚が、その運用の中で制度を活用し、商業利権を生み出したと想定される。産業社会化していなかった中国では、調として集められた布などは、農民の農閑期の労働として徴税されたものだったが、産業社会化が進んでいた日本では、既に特産品となっていた布などを調に指定した。その様な制度では、地域の農民の労働は、調を生産する職人の食料になる事が前提だから、地域内の経済を循環させた後に、調を納税するというシステムが構築された事になる。しかし各地の何処にでも、その様な特産品があった訳ではなく、むしろ特産品の生産を行っていた地域の方が、当初は少なかった筈だから、特産品を持つ西日本や北陸・山陰の物部に有利に働く仕組みだった。特産品がない関東の物部は、無理をしても特産品を仕立て上げる必要に迫られた。望陀の麻布は、その様な状況に置かれた香取の物部が、革命の功労者としての特権を利用し、政策的に作り上げた特産品だったと考えられる。その様な仕組みから、調としての特産品が多数生まれ、特権的な物部が成立したが、それは奈良時代の事で、総持の統治時代には、調の制度の利権化も円滑に進んでいなかっただろう。特産品を調に認定して価格を高く設定する事は、農民の購買力を失わせる事だから、農民政権としての理想からは外れる事になる。農民系の官僚とは、利害が対立する事になっただろう。
調の制度に関しては、唐にも同様な事情があった筈だが、奈良時代の日本の方が、唐と比較して産業化していた事を示す記事として、旧唐書日本伝は、「調の布の品質が高かったので、唐の人はそれが調である事を疑った。」事を記している。新唐書は、「遣唐使が使った紙は繭の様に白く光沢があり、誰も見た事がなかった。」と記した。この様な状況の違いが生まれたのは、唐が統制経済を採用していた事だったが、そもそも純粋な農民社会だった中国では、商品品質を向上させる交易行為が未発達だった事が、相違を生む最大の要因だったと考えられる。革命では、輸出用の高度な工芸品を製作していた工房は破壊されたが、大和政権が内需産業を抑圧した筈はなく、内需商工業を統制下に置く事が出来なかったから、農民政権化した大和政権の、関心が薄れていたというべきだろう。総持の時代は、調の制度が運用され始めた頃に相当し、革命に功労があった物部の利権化は、未だ実施されていなかったと想定される。
関東の米商人だった鹿島神宮勢は、大津系官僚と提携しやすい立場にあった。大和政権は唐に倣い、政府の主要財源を租税としたから、彼らの従来業務に租税の運搬や貯蔵を取り込む事が出来た。その必然の結果として、鹿島の中臣氏が租税の徴収と運送を担当し、大津系官僚と提携して大和政権の財務を握っただろう。藤原不比等は中臣氏の勢力を背景に、中央政界で頭角を現わしたと考えられる。
7世紀末から8世紀初頭に、大津系官僚の後を継いで権力を手にしたのは、奈良盆地の物部だった石上(いそのかみ)麻呂と、大和政権の財務を握った藤原不比等だった。石上麻呂が調の制度を整えて利権化し、調を通した財務を掌握し、藤原不比等が徴税システムを統括して大和政権の租税財務を支配し、両者は実務的な権勢を得たと想定される。最終的に藤原不比等が権力を握ったのは、大和朝廷の主要な財政を掌握したからだ。古代的な中央集権制国家では、農民を統治して租税を集める事が、一番有効な支配者の財政運用手段だったからだ。大和政権の方針が、最終的に重農主義に傾き、商工業の発展に消極的だったのは、革命政権の既定の方針だったと言うよりは、必然的に辿り着かざるを得ない帰結だったと考えられる。商工業を本格的に統括するためには、統治者自身も商工業を行い、実態を把握できる小さな統治単位を作らなければならないが、その運用は、近代国家でさえ上手く出来ているとは言えない程難しく、古代や中世の農本的な領域国家では、商工業は統治とは無関係に、盛衰せざるを得なかったと考えられる。従って記述された古代の歴史から、商工業の実態を把握する事は出来ない。
物部が最終的な権力闘争に負けたのは、普遍的な事実として、商工業者は権力闘争が苦手だからだと考えられる。商工業者は強い権力を望まないが、農民は土地の耕作権を保証してくれる権力の構築には熱心だ。統治する権力に媚び、権力の見せかけの力を高める事に、協力的だと言えるだろう。統治者と共に征服戦争に参加し、忠誠を励んで死をも厭わないのは、極めて農民的な行動だと考えられる。それ故に、統治者の関心も農民に向い易かっただろう。農本主義的なった奈良時代以降、日本列島に戦乱が絶えなくなったのは、土地に執着する農民政権の本質が、露わになったからだとも考えられる。
続日本紀の文武天皇の詔に、藤原不比等の素性について、「父の藤原大臣は、難波宮で天下を統治した天皇に仕えて功績があった。」とする文がある。藤原姓が既に下賜されていたのか、大臣職名が当時あったのかという疑問は、此処で議論する程の重要性を持たない。続日本紀が編纂された平安時代初頭は、天皇も臣下も歴史を捏造する事に合意し、歴史を歪曲して辻褄合わせをした時代だから、続日本紀の編者が事実を曲げない範囲内で加筆訂正し、登場人物が架空の王朝に使えて官位を得ていたと捏造する事は、合意されていたと考えられる。上記の文章で曲げる事が出来なかった事実は、「不比等の父は難波国王に仕えていた」事になる。不比等の父は中臣氏の一族として、関東の米を難波で売り捌くために、難波国王に仕える高官だったのだろう。倭人国は商社でもあったから、関東の米の販売を一手に引き受けていた常陸の米商人が、難波国王に仕える者を輩出していたとしても不自然ではない。
難波国王が死んで王が代替わりし、不比等の父も後進に職務を譲ったが、天智の思想に共感して難波に留まり、鹿島の米商人と天智との、強力な仲介者になったのだろう。不比等は難波で育ち、鹿島神宮勢の第2官僚として、中央政界に出仕した事になる。農民系の神社勢の子弟は、概ね田舎育ちの青年だったが、不比等は幼少期から難波で育ち、洗練された発想を持っていたから、鹿島神宮勢も彼に期待するところが大きかっただろう。不比等は農民の利害を背景に持つ、官僚出身の権力者になったと想定される。商工民の代表だった石上麻呂は、710年以前に実権を藤原不比等に譲った。石上麻呂の役割が、それ以前に完了していた可能性を示唆する。
常陸風土記には、常陸には農業以外に目ぼしい産業がなかった様に書かれているから、「総持」には北方交易を行う倭人的な集団以外に、特段の圧力団体を持たなかったと想定される。それは「総持」の権力基盤の弱さに繋がっただろう。
強い天皇を目指した権力者「総持」と、商工業や農業を活性化させたかった第2世代官僚との間に、共通する利害がなかったから、政策を推進する過程で、総持と官僚の間に種々の軋轢と確執が生まれた想定される。
藤原不比等と石川麻呂は、共に畿内系の勢力との結びつきが強かったから、「総持」と対立して大津系の天皇を擁立する事は、一種の必然だったと考えられる。
大甕倭文(おおみかしず)神社に、甕星と倭文が祭られている。倭文の本拠地だった静(しず)神社は、鹿島神社を除けば実質的に常陸一宮となる大勢力だった。静神社勢は倭文を織るだけでなく、日立の物部の筆頭の位置にあったと考えられる。倭文が総持を殺害して大甕神社に祭り、貴人の殺害者として大甕神社の神官になったとすると、政変は両者の地元である、常陸で起きた事になる。総持が自分の根拠地である大甕に戻っていたところを、静神社(那珂市)の勢力に襲われ、側近共々居合わせた全員が殺害されたという想定が、矛盾なく説明される。総持は、路線対立の激化で大和政権内に居場所がなくなり、大甕に逃避していたのかもしれない。総持を中心とする関東系の官僚にとって、大甕は旧倭国であり、当時の政治の中心だと認識していたから、元々日立を拠点に活動していたのかもしれない。いずれにしても、自分達の思う方向に、革命路線を進めたかった鹿島・香取勢に促され、静神社勢が大甕を襲撃し、時の天皇を暗殺した事になる。
大津系倭国王系譜は、天武の死後には、何の功績もない持統を頂点とし、権力的な劣勢に陥っていたから、第2世代官僚と隠密に結託し、陰謀を駆使して権力を強奪する以外に、政権に復帰する見込みはなかった。藤原不比等と石上麻呂は、その様な持統と結託して総持を粛清し、大津系の天皇を誕生させたと想定される。その政変が、大化の改新の契機となった「乙巳(いっし)の変」の、原型になる事変だったと推測される。日本書紀は、「甕星(みかぼし)を征した者は香取に居る」と記している。倭文(しとり)が総持を殺害した事は、物部が「総持」を殺害した事になり、倭人時代の内需商工民と外需商工民の対立が、この段階でも継続していた可能性を示唆する。
持統が石上氏や藤原氏と組み、「総持」を排斥して皇位を奪取したと考える根拠の一つに、天皇の中国風諡号(贈り名)がある。諡号が何時から制定されたのか分からないが、総持の諡号は、総持が殺害された直後に贈られたと考えられる。本来抹殺された天皇に贈るべき諡号ではないからだ。この時期の諡号は、実際に彼らが果たした歴史上の役割を端的に示しているから、総持という輝かしい諡号は、総持が在位中に決まっていたと考えざるを得ない。
天智は、中央集権国家の青写真を作った思想家を、天武は、騒乱状態の日本列島を武力で平定した天皇を意味する。元々は甕星に贈られた諡号が政変後に、大津系の架空の在位者の諡号とされたと想定される。総持は、初めて日本列島全域を掌握した天皇にふさわしい。持統は、天皇系譜を甕星系から奪取し、大津系の系譜を守った天皇にふさわしい。
以上を総括すると、諡号の制定は革命以前に決められ、革命直後に甕星が天智の諡号を、固く契った同志だったのに、革命を見る事無く亡くなった難波系の宮家の当主に与えた事が、出発点だったと推測される。 
原古事記から考察する天皇家と倭国王家の関係
古事記は実際にあった事績を神代に反映させ、神武即位以降を捏造した。その第一の目的は、巫女が宗教的な言葉で過去を創造して人々の怒りを鎮め、新しい社会を構築する規範とするためだったと推測される。倭人時代の巫女は、諍いを解決する手段として日頃からその様な手段を用い、争う双方の心を鎮静化させていたと想定される。古事記を作成する段階で、中華的な歴史の捏造を行う必要はなかったからだ。天皇は倭国王系譜の宮家を出自としたから、系譜の正統性を主張する必要はなかった。新しい社会を創造する希望の中では、体制の正統性を主張する必要もなかった。中華が歴史を捏造した動機を構成していた要素は、古事記の著者にとって、既に全て充足していたから、古事記の著者が歴史を捏造した理由は、上記のような動機に基づくものだったと考えざるを得ない。
巫女が捏造史を朗誦する事により、巫女の霊力で現実の歴史を置き替える事が出来ると考え、古事記が著作されたと想定される。それによって、忌まわしい倭人の時代は無かった事になり、それを忘れ、中央集権体制を構築する事が出来ると考えたのだろう。厳密に言えば、古事記執筆時直前までは東鯷人の支配時代だったから、彼らが日本を統治する根拠はなく、倭人に政権が戻った事を確認すれば、その目的の一つは実現した。それ故に、実際の歴史時代の先頭に、国譲りを配置してそれを宣言したが、事態はそれほど単純ではなかった。
具体的に言えば、「倭人的な農民社会としての高天原(女性優位社会)」→「東鯷人社会の成立(男性優位社会)」→「東鯷人政権の成立(産業社会化による倭人的な秩序観の喪失)」→「倭人社会へ戻す国譲り(壬申の乱から始まった革命)」→「新生天皇の即位(天孫降臨と神武即位)」が、古事記が示す望ましい歴史だった。この変遷から分かる様に、古事記の著者も、東鯷人から政権が委譲されても、巫女が差配した倭人社会には戻らない事を自覚していた。新しい社会として、天皇を中心とした中央集権体制にしなければならない事が、古事記の著者の前提にあった。それを表現するために、極めて複雑な構成の物語を作成したが、聞き手に一番印象付けたかったのは、東鯷人政権は打倒されるべき政権だった事、中央集権化はあるべき帰結だった事になる。その中央集権的な社会の、あるべき姿を描くために、神武即位以降の事績を創作したが、実は古事記の著者だけでなく、日本人全体が経験した事がない社会を、想像だけで描いた事になる。
現世は法治国家として天皇が統治する方針だったから、現世の統治のあるべき姿には触れず、倭人精神の批判と中華思想の導入に終始し、倭人や東鯷人の宗教や政権を貶める事に注力した。その傍らで多くの神を創り出し、各地の神社にそれらの神を割り振って権威を与え、新しい秩序観を形成した事は、神社勢の存在を認めていたからだろう。原古事記では、その権威の頂点に甕星と総持が、暗示的に描かれていたと想定される。
その様な古事記が、出雲の大国主に重厚な記述を割き、大国主を善人に描いているのは、高天原が倭の古代農民社会を暗示し、大国主が東鯷人の古代農民社会を暗示しているからだと推測される。気比や気多の神社勢も、革命勢力として壬申の乱で活躍したから、彼らの顔を立てる為には、古代の理想的な東鯷人社会も描く必要があったからだ。その創始者としてスサノオが、天照大神の弟である事は重要なモチーフだった。倭人と東鯷人は兄弟関係にあるのだ。
葦原中国を建国した大国主と、国譲りをした大国主を同一人物として描いているが、元々は違う人物がモデルだった可能性が高い。国譲りをした大国主は大率がモデルだったと想定され、本来は憎むべき倭人体制の統括者だったが、建国者と同一視されて善人に描かれたのは、飛鳥時代の倭人の諸王や配下の倭人官僚の専横に対し、諸王の監視と統制を本務とした大率が、諌める役割を果たしていたからではなかろうか。滅亡時の潔さと併せ、内需商工業者や農民が彼を慕ったから、古事記の著者もそれに影響されたと想定される。
天孫降臨は古事記の神髄だったから、古事記の改訂時にも改変される事無く、原古事記が継承されたと考えられる。「朝日の直さす国」だから良い国という評価は、明らかに日立を礼賛する原古事記の発想で、高千穂の峰は、縄文時代に黒曜石を採掘した栃木県の高原山の連想として、日立の聖なる山の移植だったと想定される。倭国王一族の発祥地が、鹿児島の「笠沙の御崎」だった事を皆が知っていたから、倭国王と天皇が同一系譜である事を明確にするために、高千穂の峰と笠沙の御崎がある地に、天孫を降臨させたと想定される。改訂された古事記も、無修正でそれを採用したのは、天智系と甕星系は共に、笠沙の御崎を発祥とする倭国王系譜の、正統な後継者だったからだ。古事記には、倭人の存在を示す直截的な言葉は使えないから、この様な暗示的な記述を用いたと考えられるが、「笠沙の御崎」だけでその用が足りると古事記の著者が判断したのは、革命勢力の中核は、倭人を祖先に持つ者達だったからだと考えられる。彼らがその様な鮮明な記憶を保持していたのは、定期的に倭国王が笠沙の御崎に諸王を集め、先祖供養の様な行事を実施し、倭人の聖地としていたからだと想定される。諸王の誓いを繰り返し、団結を再確認していたのかもしれない。
笠沙の御崎は、憎むべき倭人の聖地だったにも拘わらず、その地名を出して天孫降臨の地としたのは、倭国王系譜の神聖な権威は、他に変えられない権威である事を認め、天皇家は正統な倭国王系譜であると、主張せざるを得なかったからだと推測される。その線引きを明確にするために、海彦山彦説話を天孫降臨の後に挿入し、天孫降臨時には漁民と農民は未分離状態だったと主張し、天孫として笠沙の御崎に降臨した時には、まだ憎い倭人ではなく、降臨後に漁民と農商工民が海彦と山彦に別れ、漁民に対する農商工民の優位を確立したと主張した。海彦と山彦は同じ母から生まれた兄弟だから、倭人と農商工民は、天孫降臨時には未分離の同族だった事になる。その陰で、日本人の本流は高天原から続く農民集団であり、漁民や倭人は派生集団だったと主張した。この様な極めて巧みな構成から、天皇は倭国王系譜だが、憎い倭人が分離する前の倭国王の祖先が、笠沙の御崎に降臨したのであり、それが天皇家の祖先なのだから、天皇は倭国王系譜なのだけれど、憎い倭人とは関係ないから、日本の統治者としてふさわしいと主張している事になる。
古事記は天孫降臨の時期を、明確に特定している。その主張に従えば、原倭国が笠沙に根拠を置いたのは、商王朝が都を鄭州から殷墟に移動した、BC13世紀頃だった事になる。沖縄で宝貝を集荷するための拠点として、また五島列島・済州島を経由して渤海湾から黄河を遡る拠点として、笠沙の御崎は両所の中間点に位置する恰好な場所だったから、笠沙の御崎が倭国王系譜の発祥地だったとする主張には、史書や考古学的な発掘実績との、高い整合性がある。  
古事記の書き換え
総持が粛清されると、関東の倭国王系譜を抹消するために、古事記の書き換えが行われた。改訂された古事記は、原古事記の記述に新たな説話を追加し、難波系の天皇系譜の都合に合せたと考えられる。倭人宗教が否定されたとはいえ、代わりの宗教を持たなかった当時の官僚や女官には、巫女が朗誦した内容を安易に訂正する事に抵抗があったと考えられる。一旦宣言したものを、後になって間違いだったと言う事は、革命政権の宗教的な権威を毀損するが、原文を残したまま追加だけを行えば、その様な危惧からは免れる。この想定から、現在の古事記から原古事記を抽出する事は、それほど困難な作業ではないという期待が生まれる。
追加された説話の痕跡を追うと、先ずイザナギとイザナミの国生み説話に遭遇する。その中の一部として、女神のイザナミが男神のイザナギより先に求愛した事を咎め、それを理由として不肖の子を産む事にした説話が、追加した説話である疑いが濃い。この発想は、中華的な男尊女卑の価値観に支配されているが、女神である天照大神が支配者である高天原説話が、国生み説話に続くのだから、思想的な矛盾がある。天照大神は、武装してスサノオと対峙した神だから、高天原は明らかな女性優位社会を描いており、この矛盾は価値観の分裂を意味するから、原古事記の作者の知性を想定すれば、あり得ない矛盾になる。国生み説話のこの部分は、原古事記にはなかった可能性が高い。
生まれた不肖の子は蛭子と淡路島で、蛭子は恵比寿として西宮の西宮神社と神戸の和田神社に祭られている。古事記の改訂によって、蛭子と淡路島を貶める必要が生まれたから、説話にこの部分を追加した事になるだろう。神戸と西宮は邪馬台国発祥の地だから、難波系の倭国王家ゆかりの地だったと想定され、事変後に難波系の倭国王系譜を貶める話を追加したとは考えにくいから、淡路島と蛭子は関東系の倭国王ゆかりの地で、西宮神社と和田神社はそれを明らかにした神社だった事を示す。倭国王系譜が神戸近辺で東西に分裂し、片方が淡路島と蛭子に因縁を遺しながら、倭人の本拠地だった関東に移住した事を示唆する。
西宮神社も和田神社も、延喜式神名帳に記載がない。壬申の乱の際に革命軍に参加せず、良民(大和朝廷の設立に協力的だった人々)を結束させる核でもなかった事になる。革命に参加しなかった漁民勢力の核だったと想定され、革命後に虐げられた漁民や零落した倭人が集まり、後世に盛大になった神社だと推測される。それ故に蛭子と蔑称された昔の大王を偲び、秘かに共同体の心の支えとしたのだろう。浦島太郎説話やかぐや姫説話などの、大和朝廷を批判するパロディーを創作した人々の様に、蛭子と呼ばれる神を祭りながら、何かを共通の意志として陰に持っていたと推測される。平安時代になると少なくとも地域住民の間では、大和政権に睨まれた事が必ずしも不名誉ではないと、考える時代になっていた可能性がある。
天孫降臨させる神を決める部分が、いかにも不自然だと指摘する人が多い。天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が降臨する筈だったのに、不自然な形で唐突に、その子の邇邇芸命(ににぎのみこと)に変わるからだ。原古事記は総持を神武に擬していたが、改訂した古事記は文武を神武に擬す必要が生じ、それに付随して改竄したからだと考えられる。この部分が改竄の痕跡を示している事を指摘する人は多いが、天孫降臨にまつわる不自然な神の追加は、この邇邇芸命への突然の委譲だけでなく、山彦と神武の間に挿入された鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)についても言える。話の展開上からは、鵜草葺不合命の説話の必要性が認められない上に、天孫降臨説話の締め括りの段落に、鵜草葺不合命に関する言及はなく、山彦が高千穂の宮に580年いたと記し、鵜草葺不合命の子の紹介を締め括りの文として終わるからだ。鵜草葺不合命の子が東征に向かった神武なのだが、父である鵜草葺不合命の寿命ではなく、祖父である山彦の寿命を以て皇祖が高千穂の宮にいた期間、即ち倭国王系譜の祖先が笠沙の御崎に留まっていた期間を示す事に、説話展開上の違和感を払拭できない。説話の展開論理から言えば訂正ミスだが、天皇の系譜を暗示するこの最も重要な説話に、訂正ミスがあったとは考えられないから、原古事記が流布していた状況で、「山彦の寿命が580年だった」というフレーズが、余りに人口に膾炙される状態になっていたから、訂正できなかったと想定される。先にも述べたが、説話を追加する事には言い訳の余地があるが、間違いがあったとして訂正する行為は、古事記そのものの信憑性や神聖性を、甚だしく毀損する恐れがあると考えていたからだろう。
2人を除外して原古事記の説話を復元するためには、倭人の婚姻制度について復習する必要がある。既に指摘した様に、倭国王の婚姻形態は新羅の婚姻規則と同じ規則に従い、それは宮家にも適用されていたと想定される。新羅王は、父母の姉妹、従姉妹、兄弟の娘と婚姻を結んで王族の血統を保持していた。王の妻も、王家の血統者でなければならなかった事に、その根源的な特徴があったと考えられる。倭ではその様な王の妻が巫女の頂点に立ち、世襲身分として「けみ=キミ」と呼ばれていたと想定される。男系の重要性もさる事ながら、女系の重要性がそれに優っていた疑いがある。但し女系に関する規定は男系の継承原理とは異なり、限定された世代を数えた先代に、キミ(君)を持っていなければならないと言う様な、複雑な体系だった様だ。宮家が無制限に増える事を、阻止する制度だったと想定される。この「キミ(君)」を、古事記は天照大神に同定していたと考えられる。
不自然な神の挿入を排除したものが、原古事記の記述だったと考えると、原古事記が示した総持の系譜は、総持の曽祖父の妻が、天照大神の資格を持っていた事になる。その夫だった王は、関東の倭国王家の当主だった可能性が高く、総持の祖父は宗家の由緒ある血統者として、大甕の宮家を相続したと想定される。その様な形態は、見方によっては「降臨」と呼べる家督相続だったと言えるだろう。実際に「降臨」という言葉を使っていた可能性も、否定できない。関東の倭国王家として思い浮かぶのは、毛野王だろう。一応以下では毛野王だった事にして、記述を簡明にする。先代甕星の時代には、稲作に傾斜していた関東の倭人国は、総じて財政難に陥っていたから、毛皮交易を行っていた甕星家が有力な宮家に返り咲き、その様な相続が積極的に推進されたと想定される。毛野王が、自分の息子を大甕に送り込んだ事になるが、「聖なる高原山があり、久慈川が流れ、日照る地」への降臨だった。この「降臨」の儀礼に際し、その様なフレーズが使われた可能性がある。
原古事記では、キミ(君)の子だった先代甕星が常陸に降臨し、総持の父だった甕星が、革命軍を指揮して倭人政権を倒し(山彦が海彦を従属させた)、総持が日本全土を制圧して天皇になった(神武の即位)事になり、簡明で説得力のある構図だった。甕星が意識革命を目指して族外の稗田阿礼を妻にし、彼らの息子が総持だったのであれば話は簡明になり、稗田阿礼は山彦の妻になった海神の娘、豊玉(とよたま)ヒメに擬した事になる。
稗田阿礼によって原古事記が朗誦され、その同定が周知徹底されていたので、政変で総持を排除した難波系が古事記を改訂し、同様な主張を展開するためには2神を追加する必要があった事になる。改訂された系譜と続日本紀との完全な一致を見れば、神を擬した人物が誰だったのか一目瞭然だろう。下図では天照大神に同定されたキミ(君)として、難波王の妻を想定した。
倭人の価値観では、天照大神に比定したキミ(君)の資格が厳格だったから、大津の宮家の遡る系譜が長くなったと考えられる。難波王も、複数の宮家から優秀な者として選ばれたのであれば、王とキミ(君)が夫婦ではない状態に、一時的になったかもしれない。キミ(君)の継承規定を、この表から読み取る事は出来ないが、倭人社会には、基本的には一人のキミ(君)しかいなかった事になり、その資格の継承が極めて重要な系譜要素だった事になる。実際には東西の倭国王家に、各々一人のキミ(君)がいた事になる。
改訂された古事記では、天智は海神として傍系になり、天武の系譜が天皇になった。持統が豊玉ヒメになり、元明がその妹の玉依(たまより)ヒメになり、草壁が叔母である元明と結婚したから、皇統の婚姻関係と現行の古事記は絶妙な一致を見せている。古事記の改訂による系譜の整合は、かなり厳格に倭人の価値観を踏襲したものだった事になり、712年時点の大和朝廷には、倭人的な価値観が濃厚に残っていた事が分かる。大和朝廷は中華的な価値観の導入を目指していたが、民衆に天皇の権威を周知するためには、倭人的な価値観に準拠しなければならなかったという事かもしれない。天智や甕星が実践した倭人的な価値観の破壊は、712年時点では大きく揺れ戻していたとも言えるだろう。元明が正規の天皇と見做された事は、元明の父とされる蘇我氏が難波王の宮家だった可能性を示唆する。
天武以降の婚姻系譜は、新唐書が記す新羅王の婚姻規則と完全に一致する事も分かる。
残存する風土記は、古事記と日本紀に基づいて記されている筈だから、国衙の役人も古事記と日本紀を読んだと想定されるが、風土記が殆ど残っていないのは、古事記も日本紀も偽書だという事を、皆が知っていたからだと推測される。更に言えば浦島太郎伝説が示す様に、神々の系譜を使って大和朝廷が各地の神社を統治することそのものに、反感を持たれていたからだろう。完全に残っている風土記は、常陸風土記と出雲風土記だけという事実が、その様な事情を物語っている。常陸の鹿島神宮勢には、総持を裏切って天智系の天皇に乗り換え、藤原不比等を押し立てて権力を握るという、かなりやましい事情があった。出雲は凄惨な状態で平定され、それを恨んでいた人が多数いたから、その様な国を統治する事情を抱えていた。過去を消したいという願望を、両国の国司が持っていたから、歴史捏造の一翼を担う風土記が必要だったと想定される。 
4、班田収授と調

 

4−1 班田収授
隋や初期の唐が均田制を採用したのは、共産主義的な社会を形成する事が目的ではなく、当時の華北には放棄された耕作地が各地にあったから、そこに農民を定着させる事が目的だった。耕作放棄地がなくなった唐代中頃に均田制は崩壊したが、農地が私有でなければ生産性が上がらない事は、20世紀の共産主義国家で実証されている。農地に余裕がない状況で、生産性を上げるためには、農地は私有にしなければならない。
日本には放棄された稲作地はなく、農民は革命軍の戦力だった。革命は農民のためだという大義名分があり、農民は革命後も神社を中心に団結力を保持していたから、大和政権が彼らから稲作地を接収し、再配分する事は不可能だった筈だ。班田の供給源は、武力的に打倒して接収した、倭人の大農場の広大な水田だったと考えられる。新規の墾田や、革命に抵抗した農民から取り上げた水田もあったかもしれないが、それらの量は限られていただろう。
倭人が経営していた大農場では、帰化人が稲作に従事していたと想定される。その様なメリットもなく、生口と呼んだ華北からの移民を、多数受け入れる動機は倭人にはなかったと考えられる。帰化人は元来雑穀栽培民だったから、帰化した後でも雑穀を主食とし、米は殆ど食べていなかったと想定される。大和政権はそれらの帰化人を山間地に移住させ、耕作者が居なくなった水田を、班田として配布したと想定される。大農場の労働から解放された帰化人は、抵抗せずに稲作に不向きな山間地に移住したと考えられる。大和政権は歴史を捏造して倭人の存在を抹殺したから、班田の由来を記録として書き遺す事は出来なかった。当時の文献から、班田の由来を読み取る事は出来ないだろう。元々倭人の大農場がなかった地域で班田収授を実施するためには、国家事業として水田を開墾しなければならなかった。しかし古墳・飛鳥時代以降、倭人も自営農民も市場経済の中で水田を開発したから、目ぼしい地域は概ね開発され、開発した水田面積はタカが知れていたと想定される。
良民と言われた者達は、神社勢を形成して革命に参加した者達だったと想定され、その中の農民は従来から稲作を行っていた。その様な良民の従前の水田に、接収した水田を追加的に支給した施策が、班田収授だったと想定される。当時の米の生産性は低かったから、良民達の主食は雑穀で、米は商品として生産していたと想定される。
口分田は男2段で、女はその2/3とされた。当時の農法では休耕が必要だったから、実際に単年度に耕作されたのはその半分程度だったと推測される。1段で取れる米が、1人が1年間に食べる米の量(1石)だったから、夫婦が収穫した口分田からの単年度の収穫は、2石未満だった事になる。租は額面収穫の4%だったから、単年度収穫の1割程度が租になった。更に庸や出挙などの課税が重なり、調を収める経費も必要だったから、実際の税額は口分田の収穫の、3割程度になっただろう。米を売って生活必需品を購入する必要もあったから、口分田しか水田を持たない農民には、自家消費分としての米は殆ど残らなかった筈だ。口分田と同等な広さの水田を所有していたとしても、一家全員が米を主食にする事は出来なかったと想定される。不足分は焼畑農耕を行い、アワやヒエなどの雑穀で賄ったと考えられるが、口分田を得た農民は、計算上は豊かな稲作農民になった。
倭人が経営していた大農場では、代々経験を積んだ管理者が帰化人を奴婢の様に酷使し、効率的な経営を行っていたと想定される。その田を切り売りする様に口分田にし、個々の農民に貸与しても、同様の生産性を確保する事は難しかっただろう。共有の灌漑水路の整備に十分な保全策を施す事は難しく、日照りの時に一部の水田を犠牲にし、その他の田の収穫を確保したりする様な、高度なテクニックは使えなかっただろう。灌漑設備が老朽化して給水量が減少し、皆が水を争って全ての収穫を台無しにする様な事が、頻発した可能性もある。良民の村落と、口分田として与えられた水田が離れていれば、口分田の耕作や施肥などの手を抜かざるを得なかっただろう。私有地ではなかったから、水田を美田に替える作業は皆無だったと想定される。水田の生産効率が劣化し、生産量が減少すると、口分田を与えられた農民は租税負担の為に稲作を行う様な状況になり、口分田での農作業に対する熱意を失しなったと考えられる。
但し上記の様な酷い状況になったのは、一部の農民だったと想定される。口分田を上手に利用し、豊かになった農民の方が多かったかもしれない。しかし支給された一代限りの農地には愛着が生まれず、口分田を増やすために新たな開墾を行えば、墾田は益々遠隔地になって手入れが杜撰になり、支給した田から期待した収穫が得られない問題は一般化した筈だ。一部の農民は口分田を得る利益を失い、大多数も期待した程の収穫が手元に残らない状況が、じわじわと進行して行ったと推測される。これをマクロ的に見ると、革命以前に生産されていた米の内、大農場で生産されていた米に関しては、確実に減収が進行した事になる。それによって農民が、租税負担を回避する傾向が生まれる事もさることながら、余剰米として市場に放出する米は確実に減少した筈だ。
不況期の倭人時代には、その生産高で米は余っていたが、一方で米を食べられない者達が多数いた。革命後には、租税や調の代替えとしてその米が吸い上げられ、豊かになった物部や、数を増やした官僚が消費する事により、需給の均衡が図られただろう。一旦その均衡が生まれてから、徐々に租税なったり市場に放出されたりする米が減り続ければ、再び社会不安の種になっただろう。関東や大阪湾岸では、稲作地の半分程度が倭人の大農場だったと想定されるから、大和政権が期待した米の生産量から、大幅に生産が減少する事になっただろう。
続日本紀に記された文武天皇706年の詔の、「高位高官の者達は、自ら耕作しないかわりに然るべき俸禄を受けており、俸禄のある人々は人民の農事を妨げてはならない。」という一節が、壬申の乱後34年経た後の、大和政権の意識を示している。商工業に関する政策意識が欠落している事は、他の詔からも読み取る事が出来、租税を基本とした農業国家の形成を目指していた事が分かるが、上掲の様な理由で米の生産量が期待値を大幅に下回ったから、農業の生産性を上げる事が緊急事項だと、認識し始めた事を示す。
元正天皇の715年の即位の詔では、「国家が栄え治まるためには、人民を富ませる事が大切だ。その根本は、財産を増やす事に専念させる事である。男は農耕に努め、女は機織りを修め、衣食が豊かになって人民に恥を知る心が生じれば、刑罰を必要としない太平の風習を招く事が出来る。」と訓示した。食料だけでなく、衣類も豊かにする必要があるという意識は、706年の詔より進化しているが、その手段として衣料の生産を、農家の副業に頼る方針を打ち出した事は、大和政権の基本政策が、原始共産制社会を理想とする状況に、後退した様に見える。この様な方針では、革命の主体だった物部に不満が残っただろう。経済が活性化しない中で農民に米の増産を求め、同時に節約を説いたことになる。
香取神宮勢や石上神社勢などの物部は、中軸的な革命主体だったが、権力闘争を経て最終的に勝ち残ったのは、自給自足意識が強い農民出身の勢力だった事も意味する。動乱期には、情報収集力と機動力がある商人集団が活躍したが、権力闘争で勝ち残ったのは、農民勢力を背景にした藤原氏だったとも言える。それ故にこの時代の天皇の詔には、商工業に関する知識の貧弱さが目立つ状況になったと考えるべきだろう。市場経済の活性化が実現しなれば、意欲ある農民の増産意欲が低下するから、総体としての農業生産性も低下してしまう。
上記の元正天皇の即位の詔には、「人民の中で、稲のかわりに粟を租税として出す者があったら、これを許せ。」という文が続いている。口分田として水田を与えるのであれば、アワを租税として納める事は不合理だが、そうは言って居られない事情が発生していたのだろう。一般的な農民の姿として、口分田以外の農地でアワを栽培し、口分田で稲作を行っていたと想定されるが、口分田からの収穫だけでは、租税に足りる米が生産できなくなった事を示唆する。口分田の収穫全てを租税にする必要が生じたのではなく、一部は日用品の購入に回す事が出来たとしても、租税を満額納入する事に不満を持つ農民の数が、無視できなくなった事を示している。その様な事情になって、農民が租税の納入を渋り始めると、租税の徴収量の不足が目立つ様になったから、租税外だったアワも供出させる、過酷な税制を指示した事になる。中央からこの様な指示が、一片の指示書で通達されれば、米の減収に悩んでいた地域の住民は、怒りに燃えただろう。
一般論として、中央集権国家の中央に、その様な窮状が届く様になるのは、多数の地域に窮状が蔓延した後の事になる。地域によっては、比較的早期にその様な状態になった筈だ。甕星を襲撃した常陸の倭文集団は、既にその様な事態に直面していた疑いがある。革命の成果を享受できないと感じ、その原因は甕星にあると、鹿島の租税請負人達に教唆され、実行に移した可能性は否定できない。既に革命が終わって20年以上経ていたから、稲作の北限地として安定した稲作が難しかった農民が困窮化し、この地域の倭文の需要に陰りが出ていた可能性は高い。香取の物部が流通を活性化させ、西日本から豊富な物資を関東に持ち込めば、豊かな農民の需要はそちらに向いただろう。それによって常陸の倭文が更に追い詰められ、香取集団から離反した疑いもある。現代の市場経済下でも、不況の最中よりも、好況に反転して世間の需要構造が変化し始めたタイミングで、企業倒産が増加する事は珍しくない。その様な事情が、常陸の倭文集団を苦しめていた可能性も否定できない。
元々農民だった郡衙の末端官僚は、生産量の減少とその理由を中央官僚に上訴し、警鐘を鳴らした筈だ。しかし制度を法制化していた近江系官僚は、革命以前には班田収授の運営経験がなかった上に、中華的な知識や見識を強みとする人々だったから、有効な改革案は出せなかっただろう。この様な状況で地方の現場で逼塞感が生まれ、第2世代官僚が政権を握る動機が高まったと想定される。一般論的に言えば、実務の遂行能力の根源は情報の収集力と分析力であり、それに基づいた対策の立案能力になる。
723年に三世一身の法が発布され、均田法が破綻した事を追認せざるを得なくなった。1世代程しか経ていない743年には、「墾田永年私財法」が発布された。どちらも農地の開墾を奨励する傍ら、班田の私有を認める法律だったと想定される。農地の私有を認めて生産性を上げる必要があると、末端官僚は判断したのではなかろうか。地域差はあっただろうが、一旦放棄されて荒れた班田を再整備しても、墾田と認める地域もあっただろう。生産量を高めるには、口分田を私有田にする流れが必要だった筈だ。その租税額を調整するために、農民と妥協する何らかの知恵が必要だっただろう。地域の裁量が深く関与したと想定され、それが記録として残った可能性は極めて低い。
7世紀初頭に、その様な班田収授の破綻が顕在化し始めたが、7世紀前半の多数の農民は、革命政権を支持し続けた様だ。全国に残る律令時代の古道の痕跡は、大変な労力を投入した立派な道路だった事を示している。嫌がる農民を強制したのであれば、その様な道は出来なかっただろう。道路には轍の痕跡があり、車の付いた運搬具を使った事も確認されている。7世紀前半の民衆には、革命を謳歌する気風が漲っていたのかもしれない。班田収受は土地の再分配だったが、共産主義的な共同農場を目指したのではなく、分配した後に時間を掛けて私有地にした事になる。しかし飛鳥時代の不況に苦しんだ農民が、それだけで満足できた筈はない。根本問題だった不況が克服されたから、農民は革命を謳歌したのだと考えられる。
その理由を考えると、非効率な中央集権制を機能させるために、多数の官僚が必要になった事が、却って経済の活性化に繋がった疑いがある。官僚に米を支給するために、農民は租税を負担したが、口分田の収穫が租税を大幅に上回っている限り、農民には不満がなかっただろう。一部に悲惨な状況があっても、多数の農民はその恩恵に預かったと想定される。一昔前の飛鳥時代には、米が余って価格が暴落していた。革命後に口分田を支給された農民の、口分田での生産意欲は低かったが、前時代より相対的に豊かになり、自家消費を増やす事が出来た。その結果として、農村外に供出される米の量は、大幅に減少したと想定される。その一部は租税になったから、市場に出回る米は激減しただろう。飛鳥時代の農民は、自由経済下の深刻な不況の中で、コメの販路の獲得に苦しんだが、大和政権下の農民は租税負担を負っていても、農村経済が活気を取り戻した事は、肌で感じただろう。内需商工業者も迫害を脱して豊かになり、米の消費量を大幅に増やした筈だ。大和政権下では、米の過剰供給は、完全に解消されたと推測される。それ故に、アワを租税にせよと言う様な、無謀な指示を出したと考えられる。経済的には皮肉な話だが、米の生産が過剰になった場合、租税としてそれを徴収する事により、豊作貧乏が解消して流通が安定した。平安時代に政権が奢侈に走り、商工業者を増やす方向に舵を切ると、更に米の需要は高まっただろう。平安時代は温暖期だったから、米の全国の生産量は、飛鳥時代末期の倍以上になっていた可能性が高い。重税で農村が疲弊しない限り、適度の課税が却って古代の農村経済を活性化した事は、経済の皮肉と言うべきだろうか。その観点から見れば、天智や甕星が主導した革命は、時宜を得た制度改革だったと言えるだろう。内需市場が広域化し、経済が好循環する様になった。革命直後から、中央と地方の対立が生まれたのは、中央集権制の宿命的な課題だった。その課題を解決できる、株式会社という制度を知らなかったから、日本列島では再び分権化を求める流れが生まれ、江戸時代の幕藩体制として、倭人時代に逆戻りする事によって、漸く平和な時代を迎えた。分権制から生まれた倭人の優れた発想を、皆が守ろうとしたからだと考えられる。京の貴族だけが、その流れから遊離していた事になる。 
4−2 「調」
多数の物部や商工民が、大和政権の樹立に参加した。知的参加者としては、彼らは多数派だったと想定される。彼らに革命の果実を与えるためには、二つの手段があった。その筆頭の手段は、倭人や東鯷人の政権が推進していた外需優先策を廃止し、内需を活性化する事だった。当時の代表的な物産は、鉄器、塩、絹布、苧麻布、麻布、染料、船、木工製品、土師器、須恵器、油、皮革、毛皮などだったと考えられる。それらの生産や流通に関する規制を撤廃すれば、商品需要が高まって物流が活性化し、生産量が増加しただろう。それらに従事する者達が米を消費すれば、米の需要が増加して農村も豊かになり、農村の購買力が高まったと想定される。
但しこの時代になっても、食料カロリーに占める海産物の割合は無視できなかったと推測され、本当に食生活が豊かになったのか疑問がある。漁民を配下に持っていた倭人時代に、農業的な飢饉が発生すれば、倭人は配下の漁民を動員して食料危機に対処したと考えられるが、大和政権は農民を漁民の上位に引き上げ、漁民の身分を格下げしたから、農業的な飢饉が発生しても、漁民はそれに対処しなくなったと想定される。それが天候に左右されやすい農業の脆弱性を際立たせ、飢饉の酷さを人々に思い知らせる結果になった可能性が高い。漁民が飢饉を救済する事は、大和政権には面白くなかっただろう。その様な事情が、飢饉に対する日本列島の脆弱性を高め、人々を蓄財に走らせた疑いがある。結果としてそれは貧富の差を拡大させ、経済活動を沈滞化させた疑いがある。
第2の手段は、調の制度の日本的な運用だった。「調」は各地の特産物を、大和政権の官僚のために貢納させる制度だったから、制度の運用次第で、各地の特定の物部が利権を手にする事が出来た。
大和朝廷が消費する米は、畿内とその周辺の生産で賄う事が出来たので、地方からの納税としては、米より軽く付加価値が高い特産物を、調として収めさせた。少ない物流コストで賄える、経済合理性があったからだ。租税代わりである以上、各種の調と米の交換比率を決め、貢納数量を割り振る必要があった。農民が農閑期に造る粗悪品は、適当に数量を決めて官僚に支給しただろうが、商品価値がある特産品については、設定価格次第で、産業政策が立案できる分野だった。それ故に、特産品としての調の価格設定は、極めて政治的な裁量が及びやすかった。商品価値がある調は、専業であるか副業であるかに拘わらず、熟練した職人が地方で生産し、その職人が地方の市場でそれを販売し、経費としてのコメを地方の市場から入手した。地方の役人は租税を徴収する代わりに、その商品を調として農民から納めさせ、中央に調を納税した。それを支給された官僚は都の市で、調として定められた固定価格で販売し、代わりに自分が欲しいものを入手した。地域の流通業者としての物部が、価格が保証された調と同じ商品を、その産地から仕入れる事が出来れば、固定価格で販売できる商品を扱う事になった。
各地の物部は、地域の特産品が調に指定されれば、安定した商売を行う事が出来たから、特産品を発掘しようとしただろう。漫然と探しても、その様なものは見付からないから、地域での候補を探し、商品品質の向上を図りながら、調に指定される運動を行ったと想定される。その商品の品質が高ければ、高価格を設定して貰えるから、商品の高品質化に努力しただろう。特産品の品質向上には広域の商圏が必要だから、広い地域で活動出来る物部が有利だった。その結果として日本の調の制度は、品質を高める市場経済と同様な効果を生み出すと同時に、権力のある物部や既成の組織を持つ物部の、利権も生み出した。
京での販売価格が設定されていた事が、続日本紀の詔に明記されている。例えば麻布を扱う物部は、調布と同じ産地の麻布を直接市に持ち込み、その販売も設定価格で行う事が出来た。政権がその価格を監視し、物部も特権商人として市場価格の形成に努めたから、買い手は安心してその麻布を購入し、自分の資産とする事が出来た。資産価値がある麻布は、実需に加えて退蔵資産としての売り上げも期待出来た。調に指定されれば、商品の品質とブランドを朝廷が保証し、価格も統制してくれるから、高価な調を扱う物部は、特権商人だったと言えるだろう。調の価格設定は極めて政治的な色彩を帯び、政治と利権が陰湿に絡み合った事は間違いないだろう。
千葉県袖ケ浦近辺で生産された望陀布(もうだのぬの)は、香取の物部が企画した、調を用いた産業振興策として、この時期に生み出されたと考えられる。望陀布は非常に細かい目地の麻布で、調布の中で最高の品質とされていたが、元々この地域の特産品だったのではなく、政策的に高価格を設定する目的で生産した、政策商品だったと想定される。それ故に、後世にその伝統を遺す事はなく、何時しか自然消滅した。関東には目ぼしい高級商品がなかったから、香取神宮の物部が調の利権を手にするために、この地位でも生産が可能だった麻布を使い、政策的に推進した事業だったと推測される。大和政権内での発言権の強さを根拠に、越後上布を凌ぐ価格を設定する事が先にあり、それに見合う品質の麻布を作る事を命題にして、この様な緻密な生産技術を無理やり確立したと想定される。政権が価格を保証したから、値崩れするリスクがない高級品は、財産として保有したり、贈答品にしたりしたから、蓄財の対象になる程に高級だと認定されれば、実需以上の膨大な需要を獲得する事が出来た。蓄財には最高級品が適しているから、高品質商品を作る利権には、特に大きな旨味があったと考えられる。絹の布であれば、恒久的な財産価値があったかもしれないが、安物の代名詞の様な麻布の、織り方を工夫して高級品化する発想は、権力者だった香取の物部でなければ、出来ない商品企画だったと想定される。
同様の例は、越前の気比(けひ)神社にもあっただろう。気比神社がある敦賀は、北陸と奈良盆地を結ぶ交通の要衝だから、気比神社勢も、物部を中核とした集団だった可能性が高い。彼らは調として著名な若狭の塩の利権を獲得し、北陸の「調」を奈良盆地に運ぶ利権も獲得していた可能性がある。その塩を使った海産物の塩漬けや干物にも、利権の手を伸ばす事が可能だっただろう。
革命に貢献した実績を背景にして、利権を手にした物部であっても、利権の恒久性を担保するためには、職人に品質向上を促す必要があっただろう。それにより、調の制度は一時期安定的に運用出来たと想定される。しかし自由競争ではないから、やがて既得権に安住して惰性的な生産と販売に陥り、8世紀前半にその崩壊の過程が始まっていた事も、続日本紀に記されている。いずれにしても、その様な高級品が生まれれば、それに追従する他の産地が生まれる事もまた、産業社会の常態だから、追従と付き放しのシーソーゲームの中で、各地から特産品が生まれて品質向上競争が繰り広げられた。延喜式の「調庸雑物」に記された「上總細布」は、香取の企画だったとすれば、伊勢の「紙」や「筆」は伊勢の物部の企画だった可能性がある。
新唐書に、「繭の様に(白く)光沢があって、唐にはない紙」を遣唐使が使ったと記され、奈良時代に刊行されて百万塔に収められた陀羅尼は、世界最古の印刷物とされている。 
5、古事記と日本書紀の役割、倭人文明のその後の展開

 

古事記と日本書紀については、(15)古事記・日本書紀が書かれた背景で詳しく検証するが、倭人政権が消滅した時代を締め括るにあたり、古事記と日本書紀が成立した背景を検証し、その後の日本史を概観する。
歴史を捏造し、先人の歴史や文化を抹殺する事は、日本人が始めた事ではない。春秋戦国時代以前の中国では華南の稲作民が先進的な文明人で、黄河流域の雑穀民は稲作民の文明を模倣していた。戦国時代に温暖化して雑穀民の人口が増え、稲作民と雑穀民を隔てていた森林を鉄器で拓き、両者の領域が接触すると雑穀民が稲作民を武力制服し、稲作民の分国的な文明を破壊した。雑穀民は自らを漢族と名乗り、その中央集権的な政権の正統性を主張する為に、中華文明は黄河流域で発生したとする歴史を捏造し、稲作民の歴史を抹殺した。その作業は始皇帝の焚書が先駆けになり、史記がその作業を大成したが、司馬遷以外にもその作業に携わった者が多数いた。漢王朝はその統治の400年間に、国家事業として徹底的に歴史の捏造を行い、後漢代に漢書が成立すると歴史の捏造が完成した。
華南の稲作民と文化を共有していた倭人は、雑穀民集団だった秦が中華を武力統一する以前から、雑穀民の凶暴性を恐れ、彼らを倭人の島に近寄らせないために、また倭人の島の特産品を中国で高く売るために、東の海上に蓬莱などの神仙世界があるが、妖怪が住む島でもあると宣伝し、雑穀民が日本列島に渡航しない様に画策した。稲作民の政権が雑穀民に征服されると、倭人は中華政権の推移を観察し続け、捏造された歴史の力を知った。倭人は漢文化に疑念を持ち、中華王朝に朝貢せず、民間との交易に徹した。
倭人は広い世界の交易者として、情報戦では中華の皇帝にも劣らない力を持っていた。それ故に、歴史の捏造を行っていた漢民族の史官は、倭に警戒心を抱き、中華の史書で徹底的に倭を無視し、倭と中華は歴史上の接点を持っていなかった様に装った。司馬遷が妖怪・怪異を語らなかったのは、中国人の合理性に起因したのではなく、稲作民や倭人の宗教的な妖怪談を、意識しての事だった可能性がある。妖怪・怪異を排する事には一見合理性があるが、人々を怪談で恐れさせ、正邪の感性を養う道具とする事が出来たから、日本人はその感性を発展させて人倫を説き、物語を発展させて人の心を探る文化を発展させ、社会の安定を実現した。恥という文化も、何かを恐れる心が生んだ文化だった可能性が高い。妖怪・怪異を排した中国の現状を見れば、その差異は明らかであり、複合体としての文化や知性の奥深さを、その差異から見る事も出来るだろう。
その様な倭人文化を、女性が主体的に形成した事も、日本文化の特徴と言えるだろう。
漢帝国が成立しても、漢民族の粗暴性は改善されなかったから、倭人は戦略を変え、倭人の島は遠いから行くことは出来ないという事に絞って、大陸民を騙す事にした。その戦略は、倭人政権が継続していた飛鳥時代末期まで、成功し続けたから、日本列島で起きた革命は、純粋に日本社会の中で発生した社会矛盾に起因していた。
後漢代末期に気候が寒冷化すると、漢民族の王朝は衰退して滅び、遊牧民だった鮮卑族が唐王朝を建てた。倭人は相変わらず、中華の民族を軽侮し続けたが、社会が産業化して内需経済が発展すると、従来の倭人文明では対処できない事態が発生した。その大きな要因として、経済活動への傾斜によって貧富の格差が拡大する中で、女性優位の根拠になっていた原始共産制社会が、崩壊し始めた事が挙げられる。漁民を母体とした倭人社会では、女性が社会倫理を差配し、男性が経済活動を行うという、明確な役割分担があったが、商品経済的な価値観が社会生活に浸透すると貧富の格差が拡大し、それを否定的に見て原始共産制的な社会に戻る事を願う立場と、肯定的に見て経済活動の活性化を推進する立場が生まれた。その中で女性の立場に分裂が起り、女性が社会倫理を差配する状態を困難にし、価値観の鋭い対立が発生した事が、倭人社会を崩壊させた一つの要因だったと想定される。
自由経済の下で一旦深刻な不況に見舞われると、そこから脱出する事は極めて難しい事が、第2の要因として挙げられる。一旦不況が始まると、産業の成熟化が促される中で不況が深刻化し、多数の貧者を生み出す事になった。地域による貧困化の度合いが極まっても、分国制の社会では救済されないから、中央集権化の流れが生まれた。分国制は巫女が支えていた制度でもあったから、中央集権制への移行を望む地域では、巫女は自らの役割を放棄せざるを得なくなった。それ故に、倭人社会の倫理観を否定した古事記が、巫女の手によって著作されたと推測される。
古事記は倭人体制を否定して中央集権制を肯定すると言うよりは、倭人文化を否定して新しい価値観を提示しながら、革命勢力となった倭人的な地域勢力を肯定し、政権を支える組織として社会秩序に組み込むための書籍だった。倭人の宗教を差配していた巫女が、自ら倭人宗教を否定した事は、彼女達が差配する力に対し、彼女達自身が絶望視していた事を示すが、中央集権制を確立する過程で、巫女が中心となっていた地域社会を、神社勢力が差配する地域社会に衣替えする事を目指した点で、極めて建設的な書籍だった。倭人体制の帰結として不況が深刻化し、経済体制の矛盾が噴出して政権が崩壊した面は大きいが、地域の生活規範を維持して社会を安定させていた巫女が、自分の力の限界を強く感じた事も、重要な歴史要素だったと考えるべきだろう。経済活動の帰結だけで民衆の歴史を語り尽くせない事を、飛鳥時代の革命は示唆している。
原古事記は、革命を成功させた達成感と、動乱が継続している切迫感の中で著述されたから、簡潔で創造的な内容だったと想定される。しかし革命政権の矛盾が露呈し、中華化の進展と同時に権力闘争が始まった時期に改訂された古事記は、革命後の政変を正当化する命題を負い、負の目的のための辻褄合わせに終始せざるを得なかった。改訂部分を抽出すると、時代によって中華化の程度に違いがある事が分かり、倭人倫理を失った人々の道徳的な退廃にも直面する。以上が、現存する古事記が成立した経過になる。
日本書記の成立過程を概観するには、先ず720年の日本紀の成立から始める必要がある。革命が成功した高揚感が残っていた時期に、唐に日本の歴史の古さを宣伝して国威を発揚する為に、日本紀を作成した。成立後間もなかった唐に、千年以上に亘る日本の歴史を誇示する事は痛快だったと思うが、その様な権威主義的な発想は、極めて農民的な発想であり、倭人が持っていた交易者の実務的な視点ではなかった。
中華の歴史の捏造は、数百年の時間を費やして行われ、その間に沢山の捏造書籍が公開された。日本でも同様に多数の捏造試案が作成され、日本書紀はそれらの沢山の書籍を参照したから、「一書に曰く」として多数の異説を引用することになった。この様な史書の記述は、日本書紀独特だと言えるだろう。漢代の史書は、文明の起原と皇帝の正統性を捏造したが、日本書記では、天皇の血統的な権威を疑う必要はなかったから、政治体制としての中央集権制の正当性を主張する事が、創作の目的だった。それ故に日本書紀が、諸説を網羅する学術書的な体裁を持っても、日本人向けとしては何の問題もなかった。異説を収録する事が学術的であるという認識は、商工民的な倭人の価値観を継承した平安貴族が持つ、倭人伝来の発想だったと言えるだろう。
古事記が確立した地域勢力は、平安時代になると中央集権制を批判する様になり、武力を持って政権に抵抗する様になった。地域勢力の武装化は、野盗対策として発生したのではなく、体制に順応した保守勢力と、地域分権化を求める勢力の、対立から発生した側面が無視できないと考えられる。それでなければ、天慶の乱(939年〜941年)を解釈する事は難しいだろう。大和政権が中央集権制の参考とした唐が、907年に滅亡している。その情報は、平安貴族の権威の根源を疑わせるものだった筈だ。そこから発した平安朝への不信感が、天慶の乱に発展した側面は否定できないだろう。
941年に摂関政治が始まり、960年に中国で宋が建国され、より高度な中央集権制が採用された宋が繁栄すると、中央集権制への信頼感が戻り、以降藤原道長・頼道の全盛期(1016〜1064年)に、清少納言や紫式部が活躍した。摂関政治によって政策的な打開策が図られ、宋の繁栄を見て、平安政権は安定を回復した様だ。しかし地域勢力はその間にも、力を蓄え続けていた。
北宋が衰退して金の攻撃を受け、1127年に滅亡して開封が陥落すると、多数の皇族が北方に拉致されて悲惨な生活を余儀なくされた。その衝撃を受け、日本書紀の編纂が最終決断されたと想定される。唐以上に官僚制が整備された北宋の滅亡は、中華的な中央集権制の危うさを示し、中央集権制の官僚の存在価値を揺るがせただろう。地域主権的な価値観を維持していた各地は、それに呼応して不穏な動きを見せたと推測される。平安朝はそれを牽制するために、日本書記を捏造したと考えられる。日本書記の目的は、中央集権制は日本古来の政体だから皆が守らなければならないと、日本人に思わせるためだったから、政権が確立した古代以降一貫して、日本は中央集権制の国だったという嘘を、日本列島に拡散する事だった。原古事記は、局面を打開するためには新しい制度と発想が必要だから、古いものは壊して新しい体制に組み直さねばならないという、革新の意欲に燃えた著作だったが、日本書紀は、中央集権制が時代性を失った事が明らかになる中で、中央集権制の貴族官僚が、中央集権制を延命させるために捏造した書籍だった。
新羅が935年に滅ぶと、北方系の高麗が建国され、1143年に三国史記の編纂を始めた。北宋が金の攻撃を受けて1127年に滅亡したから、高麗王朝にも危機感が生まれ、三国史記が編纂されたと推測される。三国史記の著者は、中国の史書に殆ど登場しない新羅の古代史について、その嘘の類似性から考えると、日本書紀を大いに参照した様だ。三国史記は日本書紀同様に、新羅と倭は昔から関係が悪く、倭に繰り返し攻撃されたと、日本書紀同様の捏造を記している。高麗もまた、新羅が朝鮮半島で最も文明的な国だった事を抹殺する必要から、日本書紀は参考になったと推測される。
そこから類推すると、日本書紀の成立は1140年以前だった事になり、宋の滅亡に由来した危機感の高まりが、決断を促したとすれば、日本書紀の成立は1127年以後だった事になる。
平安時代になると歴史捏造の目的が変質し、捏造の主眼が中央集権制の維持に変わった。分国制だった倭人の歴史を抹殺するだけでなく、京は昔から政権の中枢だったという捏造も、新たに必要になった。そのために関東を未開の田舎として貶め、京の貴族の権威を高め様とした。更級日記(1060年頃成立)は、関東の辺境性を誇張している様に見え、写本が12世紀に政策的に配布された疑いがある。平安温暖期になると、関東でも養蚕やお茶の栽培が行われ、商工業的な経済の隆盛が見られていたと推測され、畿内と遜色ない豊かさが見られる様になった可能性があるからだ。
平安時代末期には武装した地域勢力が台頭し、彼らの土地所有権を担保する荘園制が進展していたから、中央集権制は名ばかりの状態になりつつあった。平安貴族の存在価値は、中央集権制によって生まれたのだから、中央集権制が崩壊する危機は、彼らの存在価値を脅かす事でもあった。倭人社会は平和で秩序があったと、中国の史書に記されている。平安貴族にとって倭の制度に戻す事は、むしろ願望になったかもしれない。しかし具体的な政権の仕組みは誰も知らなかったし、それを議論する事は、自分達の権威を否定する行為になったから、公然の場では議論出来なかった。倭人時代に倭国王と大率の2元的な権力が存在していた事は、史書を読めば理解出来ただろう。
京の貴族は、中央集権制による日本列島の統治が行き詰った事を悟り、源頼朝に幕府を開く事を、密かに勧めたと想定される。当然それに関する記録はないだろう。その様な記録を残す事は、裏切り行為になったからだ。
鎌倉幕府の内実は、中央集権制と分権制の折衷案だった。それを妥協案として密議しながら、頼朝や家臣団に幕府創設を勧めたと推測される。征夷大将軍は倭人時代の大率の役割に似ているが、鎌倉幕府の権力は極めて限定的で、中央貴族の荘園が保護され、守護が中央から任命されるなど、極めて中央集権的だった。当時の貴族に密かに期待された政体だったかもしれないが、地方自治の要求に答えたものではなく、幕府権力を認めたがらない京の貴族勢力も、根強くあっただろう。
鎌倉幕府が、諏訪の御射山で武芸競技会を開き、健御名方神に奉納したのは、壬申の乱の真実が伝承されていたからだと考えられる。朝廷の成立に反抗した武将を祭り、朝廷に暗黙の威圧を与えたと推測される。大甕神社を祭る事は、平将門の様に関東の武士団が、天皇位を窺う事を意味したから、危険すぎるとの判断があったのではなかろうか。その結果として諏訪神社の神官職が継承され、健御名方の子孫が諏訪氏として権力を得て、諏訪神社は隆盛したが、大甕神社は放置されて勢力を失い、神官だった倭文の系譜が絶え、神社名が大甕倭文神社になったと想定される。
倭人文化の残渣は京や江戸に薄く、地方に色濃く残った。神社勢が、それを意識的に守っていたからだ。最終的に倭人的な政体に戻ったのは、戦国の乱世によって中央集権制が完全に破壊され、幕藩体制が樹立された江戸時代だった。精神文化は各藩で発揮され、中央より地域の文化が優越した。京の公家文化は、日本文化の一端を担ってはいたが、倭人文化の本質ではない貴族趣味に限定され、日本を倭人的に再生するには無力だった。明治維新後に取り入れられた西欧的な政治体制は、倭人精神を肯定する要素に満ちていたので、日本人は政府が主導する西欧化に熱中し、神社を中心に遺されていた倭人文化が、和魂洋才を唱えながら西欧化を推進したと考えられる。
明治維新も中央集権制だったが、日本人がそれを受け入れたのは、地域分権とは違う小集団活動を推奨する、会社制度を知ったからだと考えられる。倭人はチームワークを駆使し、交易品や交易環境を開発したが、地域集団以外のチームを編成する、概念を知らなかった。会社組織の概念は、地域主権より倭人的な心情に合致したから、瞬く間に江戸日本が産業国家に、変身したと考えられる。株式会社という形態も、西欧の沿海部に漁民文化を基底にする発想があったから、生まれたのではなかろうか。
中華文明より西欧文明の方が、日本文明との類似性が高い事は、梅棹忠夫が「文明の生態史観」で指摘している。彼はその原因を、「両者は大陸の辺境にあるからだ」としたが、漁民文化の影響だったのではなかろうか。古代の農民は、自分が耕す土地の耕作権の保証を得るために、強い政権の出現を望んだ筈だ。その政権の実態が虚構であっても、農民はその補強に積極的に参加したと想定される。やがてその政権は暴走し、権力闘争を行う者達の所有物になり、武力を過剰に行使し合う悲惨な歴史に突入したと考えられる。
古代の漁民が漁場の占有権を主張しても、技能が伴わなければ漁獲は得られない事は、実感として認識していた筈だ。技能を向上させるためには、広く情報を集め、優れた道具を使う事が必要だったから、道具を得る為に船の機動力を駆使する事から始まり、遠隔地と交易を行う事が常態になった。旧石器時代の原日本人の段階で、アサを得る為に沖縄近海まで南下した事が、その生態を示している。交易集団の権威者は有能な指導力を望み、交易者は能力主義的にならざるを得ず、分権的で機能的な小集団を組織する事と、各集団がその機能性を競い合う事は、必然的な結果だった。それが民主主義的な政治制度の、土壌になったと考えられる。
日本列島の農民は、縄文時代から飛鳥時代まで何千年も、漁民政権に支配され続け、漁民の価値観に支配されてきた。大陸の農民文明は、人口の増加に伴って優良な農地を確保する事が困難になると、農地の耕作権を既得権化する必要が生まれ、それに応える政権が誕生した。農民は権力に租税を納入し、見返りに耕作権を認知して貰う関係を、自ら求める必要があった。唯物論者が指摘する古代的な農民収奪は、この関係が固定化した後の、強力になり過ぎた政権の形態だったと考えられる。政権が存在しなければ、農民は耕作権を獲得できないから、政権は必要悪になった事になる。領地を所有する政権が抗争を始めると、政権を強力にするための軍備や装飾がより多く必要になり、租税の増額を求める流れが生まれただろう。抗争の規模は政権の規模に比例し、広域の領土を求める政権である程、租税や兵役の負担を重くする事は、歴史の必然だったと考えられる。広大な帝国を形成した中華の政権は、最も過酷な租税の徴収者だった疑いがある。
広い大陸の平原に、農民が展開していた中国では、彼らは一様に同じ農耕を行い、最大の生産手段である農地に束縛され、自給自足的な経済圏を形成したから、彼らの間には、基本的に交易を行う必要がなかった。交易民が彼らを刺激しない限り、彼らが自発的に交易に参加する事は、政権が強力になるまで必要なかったと考えられる。それ故に中国では鉄器時代になっても、経済行為を「有無を交易する」と表現した。旧石器時代の原日本人が、身近にない素材を遠隔地から獲得し、良好な道具を得て生産性を高め、倭人が交易そのものを目的とし、各種の製品を開発した事と比較すると、「有無」と表現する発想から、農耕民的な姿勢が理解できるだろう。
東アジアの交易文明は、海洋を通してオリエントに繋がり、漢代まで海洋文明の方が卓越していた。海洋文明の優位性が崩れたのは、海洋民族が不況で破綻した唐代だったと考えられる。それは倭人やオーストロネシア語族民の、海洋文明を担っていた政権が滅んだ時期だった。 
6、漢字と仮名

 

日本語に複数の表記文字があるが、それは世界的に見て異例との指摘があるので、その原因について検証する。
漢書地理誌粤の条に、東南アジアの海洋民族と漢民族との交易に関する記述があり、当時の東南アジアの海洋民族は漢民族に劣らない、文明の担い手だった事が示されている。漢民族は彼らと交易する為に、漢民族が交易拠点とした広州から更に南下し、徐聞や合浦に進出しなければならなかった。海洋交易民が漢民族との交易を望んでいたのであれば、彼らが広州に来ることは可能だった筈だが、沿岸航路とはいえ海洋性に乏しい漢民族に徐聞や合浦に出向かせた事は、彼らに交易の熱意が乏しかった事を示唆している。その上に、海洋民族と漢民族との交易は、海洋民族の船の上で行われる事が常だった様で、陸上で漢民族と接する事も避けていた事も示している。海洋民族は、漢民族との交易に極めて慎重だった事になる。しかし彼らは長い航路をものともせず、盛んに海上交易を行って利益を上げていた。漢書を読むと、海洋交易民は漢民族と交易して利益をあげていた錯覚を持つが、冷静に考えれば、漢民族は活発な交易圏に、後から参入した新参者に過ぎなかった事を読み取るべきだろう。
漢民族は海洋民族から絹布を購入し、それを主要な交易品としていた。漢の武帝は、海洋民族と同じ風俗を持っていた海南島の民族を、武力で征服した。海南島は徐聞から20kmも沖合にあるから、海洋性に乏しく台湾の存在すら知らなかった漢民族が、敢えて海南島を征服したのには、深い理由がなければならない。その理由は漢書には書かれていないが、漢書を熟読すれば答えはそこから浮かび上がる。海南島の女性は、習俗として皆が絹布を織っていたからだ。秦・漢の暴力的な征服から海南島に逃れていた族民を征服し、彼らが生産する豊富な絹布を収奪する為だったと想定される。漢書は、海南島の習俗は東南アジアの交易都市の習俗と同じだと記しているから、当時の東南アジは絹布の大産地だったから、その一部が漢にも輸出されていた事になる。桑は熱帯性の植物だから、養蚕や絹布の起原は東南アジアにあったと考えるべきだろう。
海洋民族が漢民族との交易に慎重だった理由は、秦以降に中国南部に侵攻した漢民族が、富を求めて野蛮な征服戦争を仕掛け、その果てに大陸南部を征服したからだと考えられる。史記や漢書は、夏代には会稽に入れ墨の風習があったと記しているが、漢民族や稲作民には入れ墨の風習はなかったから、入れ墨の風習を特記した事になる。海洋民族は漢代には中国から姿を消し、海南島だけに残留していた事は、漢書を読めば分かる。漢書は、海南島の民族を含めて東南アジアの海洋民の、漢字名の民族名を示していない。漢民族と海南島を含めた東南アジアの海洋民族との交流は、極めて浅い歴史しかなかった事が、その事実から示唆される。
漢書地理誌粤地の条に、「その君は禹(う)の後にして、帝少康の庶子と云う。會稽に封ぜられ文身斷髮し、以って蛟龍の害を避く。」と記されている。会稽に入れ墨の風習を持っていた民族がいたから、稲作民(越人)だった帝少康の庶子は、その民族の風習に合せて入れ墨をした。史記になかった「以って蛟龍の害を避く。」という解説を、漢書は挿入している。その目的は、会稽に居た原住民を貶めるための、漢書の捏造だったと考えられる。その理由は、魏志倭人伝の著者は真面目にその挿入を引用したが、「後やや以て飾りとなす。」と、弥生時代末期には用途が違っていると指摘したからだ。倭人と接触していた後漢書の著者はさらに踏み込み、「男子は皆、黥面文身し、その文の左右・大小を以って尊卑の差を別つ。」と記し、入れ墨には「蛟龍の害を避く。」用途がない事を明記した。夏王朝の帝の庶子が会稽で入れ墨したのは、入れ墨を使って身体を装飾する民俗が住んでいたから、彼らの習俗に迎合したという事だったのだ。装飾としての入れ墨をして習俗を受け入れたのは、彼らの文明の方が先進的だったからだと考えられる。漢書は、稲作民文明を抹殺するだけでなく、稲作民より先進的な民族が会稽に居住していた歴史も抹殺し、「蛟龍の害を避く。」と嘘を挿入し、会稽を文化が果てる後進地だったと印象付けた。入れ墨をしない漢民族だけでなく、入れ墨をしない現代人まで騙す名句だったと言えるだろう。その様に騙す人、真面目にそれを解釈する人、入れ墨をしている民族にその真偽を確認する人を輩出した漢民族は、漢帝国支配400年間に、かなり文明化したとも言えるだろう。
入れ墨の風習を持っていたのは海洋民族だから、夏代には会稽にも海洋民族がいた事になる。秦や漢の侵攻に恐れを為した海洋交易民は、フィリッピンやインドネシアの島嶼部に逃れ、海南島は安全だったから留まっていたが、武帝は海南島にも侵攻し、征服したという構図になるだろう。海洋民族が漢民族との交易に慎重だったのは、極めて当然の事だった。倭人が漢民族を恐れていたのと同様に、東南アジアの海洋民も、漢民族の獰猛を恐れていたのだ。漢代の倭人は、中国の河川を遡上して交易を行ったが、東南アジアの海洋民は倭人以上に、漢民族を恐れていた事になる。
史記が揚子江以南の歴史に触れない事は、この海洋民と稲作民の交流から生まれていた文明を、歴史から抹殺する必要があったからだという事も、同時に理解出来るだろう。史記は、黄河流域と揚子江以北の歴史だけで、中華の歴史が完結していると、歴史の捏造を行ったのだ。
史記の捏造を漢書が補完し、辻褄合わせをしている事は、漢書地理誌の粤の条にも見える。粤は越と同音で、同じ民俗を指すかの様に現在でも思われているが、越は春秋時代に会稽にいて、戦国時代には江蘇省や山東省に北上した民族国家だった。漢書地理誌粤の条に記された粤は、広州以南からヴェトナム北部の地域であり、越がそこまで領有していたとすれば、越は巨大な領地を持った国だった事になり、現実的ではないと言えるだろう。史記が書かれた時代には、粤は知られていない民族だったから、漢書はその矛盾を糊塗する為に、越と粤を混同させる役割を担ったと考えられる。
漢書地理誌粤の条に記された海洋民族は、既に漢代には、極めて遠方の文明地域と交易していたと記されている。実際に何処と交易していたのか、地理誌記載の地名では判断が出来ないが、当時その様な広域な海洋交易を行う事が出来たのは、オーストロネシア語族海洋民しかいなかったから、漢書に記された広大な海洋民族のテリトリーは、フィリッピン、インドネシア、マレー半島に現在も居住している、オーストロネシア語族の居住域だった事になる。オーストロネシア語族民はBC1500年にフィージーに定住し、AD300年にマダガスカル島に定住した民族だから、遅くとも春秋戦国時代に、オリエント文化を東アジアに持ち込んでいたと想定される。製鉄技術もオーストロネシア語族民が、オリエントから東南アジアに導入し、更に日本や中国に伝わった可能性が高い。
梁書諸夷伝に、漢代にオーストロネシア語族海洋交易民が、東西の海洋交易を行っていた具体的な内容が、過去の事として記されている。梁書はその時代について明記していないが、登場する国の名前を見れば、それが漢代の交易に関する記述である事が分かる。
「(中天竺国)の西に大秦(ローマ帝国)興る。安息(パルティア)と海中で交市するものは、珊瑚、琥珀、金碧珠、琅(美しい石)、鬱金(うこん)、蘇合など、大秦の珍物が多い。蘇合は諸々の香汁を煎じ合せたもので、自然にはない一物也。」
梁(502年〜557年)は南朝の王朝だが、パルティアは漢代と後漢代にあった国で、ペルシャ湾岸以北のオリエント全域を支配する広域国家として、地中海沿岸を支配するローマ帝国としばしば境界を争い、228年に滅亡した。従って梁書に記載されている上記の話は、梁代にオーストロネシア語族海洋交易民が、過去の栄光として話した事になる。既に指摘したが、6世紀になるとオーストロネシア語族海洋交易民も、オリエントやインドの政治的な混乱の影響を受け、交易の不振による不況に見舞われていた。漢代には、漢民族を恐れて交易を避けていたが、パルティア滅亡後の交易の不振に耐えられず、遂に梁に交易を求めて朝貢した際に、彼らの祖先の偉大な交易実績を、梁の皇帝に強調したと考えられる。以上の状況を概観すれば、オーストロネシア語族海洋交易民は、早い時期からオリエントと活発な交易を行っていたのは事実だから、オリエントの文字を使っていたとしても不思議ではない。
オリエントの表音文字はフェニキア人が使い始め、西に伝播してギリシャ文字になり、東に伝播してアラム文字になったと考えられている。フェニキア人もギリシャ人も、都市国家を形成した海洋交易民族だった。その様な海洋交易民族が、実用的な表音文字を必要としたと考える事が出来るだろう。古代のオーストロネシア語族海洋民も倭人も、同様に海洋交易民であり、都市国家的な政治形態を採用していたから、同様に表音文字を必要としていただろう。有明海に近い2世紀頃の吉野ヶ里遺跡から、貝紫に染めた糸が発掘されている。貝紫の染色は、地中海世界ではフェニキア人しか出来ないとされていた高度な染色技術だから、有明海で自然発生したとは考えにくい。オーストロネシア語族海洋交易民の仲介で、フェニキア人と有明海沿岸の住民の間に、人的な交流があったと考えるべきだろう。有明海で貝紫の染色に使われた貝は、アカニシと呼ばれる貝で、フェニキア人が使った貝と全くの同種ではないが、同じ色素を持つ貝だった。アカニシは東南アジアでは生息しない貝だから、有明海のアカニシに白羽の矢が立った事になる。染色技術の移植だけでなく、アカニシを探し出す事も含め、相当な人の交流があった事が前提になければならないから、日本列島に来たフェニキア人が、有明海沿岸に住んでいた住民に、直接文字を伝えた可能性もあるだろう。
そこまで踏み込まなくても、倭人から見れば、春秋戦国時代に東アジアで最も文明化していたのは、オリエント文明に触発されたオーストロネシア語族民であって、稲作民ではなかった可能性が高い。厳密に言えば、交易を含む商業活動で最も先進的だったのはオーストロネシア語族民で、政治や統治技能に優れていたのは稲作民だった事になる。倭人の名誉の為に言及すれば、倭人は海洋民族としてはオーストロネシア語族海洋民の師匠であり、彼らが行わない北方の遊牧民や狩猟民との交易も行っていた。狩猟民もまた、陸の道で繋がるオリエントとの交易民だったから、現代人が想定する程には、発展途上の民族ではなかった。漢民族が中国大陸を席巻した漢代になっても、倭人から見て最も文明化された民族は、オーストロネシア語族民だった筈だ。
上に掲げた夏王朝に関する伝承は、BC15世紀頃の会稽の沿岸部には、海洋交易を行ってオリエントから先進文明を持ち込んでいたオーストロネシア語族民の、植民都市的な都市国家が幾つかあった事を示す、逸話だったと考えられる。中国の稲作民は、その様な環境で表音文字を使い始め、漢字を発明したと想定される。一単語単一発音の中国語では、アルファベット的な表音文字は使いにくいから、複雑な表現に向く漢字文化が発達したと想定される。農耕民族は文字を交易上の情報伝達に使ったのではなく、農耕民的な権力の構築に使ったから、知識人しか使えない漢字の方が、彼らの好みに合った可能性が高い。
倭人は中国大陸全域に商圏を求め、漢字文化に親しんでいたから、周代以降に大率、大夫などの機能を漢字と共に取り入れ、「投馬国」「邪馬台国」などの漢字の政権名を持っていたが、東鯷人の倭国を記した隋書倭国伝には、漢字で記す国名や役職名がない。魏志倭人伝に「対海」と書かれた対馬は「都斯麻」、宗像は「竹斯」と記している。中国人がいた秦王国の人から魏の使者が聞いた阿蘇には、現代と同じ漢字が使われている。官僚の役職にだけ漢字が使われているのは、倭人の国に合せた可能性が高い。倭王は「足らしひこ」=「倭人王の条件を満足する王」だったのだから。この推測から言える事は、東鯷人は漢字表記の国名を、使っていなかったという事になる。飛鳥にあった倭国だけは、倭王の国として漢字も使う国だった様だ。東鯷人は揚子江流域以南の稲作民と、オーストロネシア語族民と交易していたが、オーストロネシア語族民との交易を重視し、オーストロネシア語族民の使う表音文字を使い、漢字はあまり使わなかったのではないかという想定が生まれる。
梁書新羅伝に、「文字なし、木に刻みを入れて通信に使う。言葉は百済の通訳を待ち、然る後に通じるなり。」と記された。梁書は、唐が新羅と同盟して百済を滅ぼす前に成立した史書で、この文章以外にも、新羅を貶める明らかな虚偽が延々と羅列され、言葉が通じない新羅の使者の前で、百済の使者がこの様に申告したと明記されているから、新羅の百済への憎しみを煽るために、梁書新羅伝が記された事は明らかだ。新羅は唐に親しく朝貢していたから、唐は新羅建国の経緯をある程度知りながら、百済が新羅を嘘で貶めたと分かる様に記した。初唐期に編纂された史書が、唐の政治的な意図が込められている事は、革命前夜の項で説明した。
隋書倭国伝に、「文字(漢字)なし、木に刻みを入れて通信に使う。」「仏法を敬い、百済から仏教の経典を求め初めて文字を有した。」と記されている。唐朝が隋書を編纂する者にも、百済が嘘を隋朝に申告して倭も貶めていた事を、世間に周知させるものだった。隋の朝廷記録にも、百済の使者がこの様な事を言ったとする記載が、存在した事は事実だろう。隋書の著者は、百済という国名文章に挿入して、百済が嘘を言った事が分かる様に隋書倭国伝を編纂した。唐朝はそれが百済の嘘である事を承知した上で、倭と百済を離反させる為に、隋書の著者に記載を指示したと推測される。倭が文明国である事を承知しながら、史書に敢えてその様な嘘を記載した事は、唐の史官が宗教的な権威を失って、政権に従属する存在になったからだ。
梁(502年〜557年)は南朝で、隋(581年 - 618年)は北朝を出自とする帝国だから、時代も都の場所も異なる両者に、百済の使者が同じ表現を使った事には意味があった筈だ。告げ口した百済の使者は、全くの別人だった。百済人には倭も新羅も、同じ手段で通信を行っていた様に見えたのだろう。その通信手段についての認識が、上記の言葉として百済に定着した事になる。
百済とはどんな国だったのかについて、改めて検証する必要がある。百済は倭人が高句麗の南下に備えて雇った、傭兵集団を起原とする国だった。百済の文化的な活動は、4世紀の晋滅亡時に濊族を雇って楽浪を守ろうとした漢民族の、中華的な素養を基礎としたものだった。それ故に百済は濊族国家になっても、中華文明に傾倒し続けていた。倭人は傭兵国家だった百済とは、文化的な交流を行わなかったから、百済は中華文明以外の文明が、世界に存在する事を知らなかった様だ。従って百済人は倭の事情に疎く、朝鮮半島に居る倭人だけが、百済が知っている倭人の全てだったと想定される。百済の王子が、倭に人質として来た事は事実だが、北九州の宗像に留め置かれていたと想定される。弥生時代の倭人は、朝鮮半島や大陸からの使者を、伊都国までしか入れなかったから、百済が知っていた倭も宗像だけだった可能性が高い。百済は新羅に関しても、弁韓人が何処から来た人達なのか知らなかっただけでなく、新羅の建国事情も知らず、魏志東夷伝に記載された程度の知識しかなかった様だ。その浅薄な知識から現在の韓国人の様に、勝手な建国説話を捏造し、新羅は百済の従属国だと世間に吹聴していた事になる。百済が新羅に関する知識を求めず、如何に世間に疎かったかを示していると同時に、民族性の継続を感じさせる。
以上の結論は、百済人は漢字以外の文字が存在する事を知らなかったから、倭人と新羅人が交信する様子を見て、その様に感じたという事になる。百済人は倭人や新羅人と、個人レベルでも、その程度の交流しか持っていなかった事になる。倭人や新羅人は、百済人を単なる傭兵以上の存在とは、考えていなかった事を示している。
オーストロネシア語族民だった新羅には、梁代(古墳時代後期)には中国語を話せる者がいなかった事が、梁書から分かる。古墳時代中頃に倭が朝鮮半島から撤退すると、新羅は孤立感を深め、百済に通訳を頼んで南朝の梁に朝貢した。しかし唐書に依れば新羅人の祖先は、魏志倭人伝に朝鮮半島で最も文明人として描かれた弁韓人だった。彼らは男女共に入れ墨をしていたから、男性しか入れ墨をしない倭人とは違う民族系譜を示していたが、類似点が多いとも記されている。
以上から導かれる結論は、百済人は、倭人と新羅人は「文字(漢字)なし、木に刻みを入れて通信に使う。」と認識していた事になる。百済人が知っていた文字は漢字だけだったから、倭人と新羅人が木片にオリエント系の表音文字を記し、互いに通信していた様子を傍から見て、木に刻みを入れた様に感じていた事になる。以下ではオリエント系の表音文字を、アラム文字と記す事にする。アラム文字はローマ字同様にフェニキア文字から派生し、紀元前からオリエント世界で使われていた。
百済国内では、倭人同士が交信する場合にも、漢字ではなくアラム文字を使っていた事になる。百済を建国させ、朝鮮に出兵して共に高句麗の南下を防いだ倭人は、北九州だけでなく難波や関東の倭人も含んでいた。倭人は比較的中華化した人達だったが、古墳時代まではアラム文字を主に使っていた事になる。アラム文字は漢字に比べて、容易に使う事が出来るから、それが事実だった可能性が高い。朝鮮半島に派遣されたのは、交易者だった倭人ではなく、日本列島の漁民や農民と、彼らを統率していた者達だった筈だから、彼らが漢字を使わずに表音文字を使っていたとしても、不思議な事ではない。中国語とは違い、音を重ねて単語を表現する日本語は、表音文字で表現する事に便利さを感じる言語だから。
隋の使者を迎えた東鯷人の話に戻すと、東鯷人の国だった隋代の倭国では、漢字を使っていなかった疑いがある。法隆寺を建立するほどの文明国に、文字がなかった筈はないから、漢字以外の文字を主に使っていた事になる。古事記の「神代」に使われた地名漢字を見ると、高志(越)、胸形(宗像)、出雲、竺紫の日向、筑紫、豊国、阿岐、吉備、紀国、伊勢、旦波国、山代国があり、倭人地域には国の名前かそれに近い地名が使われているが、東鯷人の地域には、出雲以外は読みを示す当て字が使われている。原古事記が記された時期には、全国の国名は漢字で定められていた筈だが、古事記の著者は、東鯷人は漢字を使わない人だった事を意識し、敢えてその国名を示す漢字を避けた疑いがある。
大和朝廷の知的な母体になったのは、関東と難波系の倭人だった。彼らは交易の為に中国に出掛け、唐の制度を研究したから、彼らが使った文字は漢字だったと考えられるが、オーストロネシア語族民とも交易していたから、交易量に比例した文字の使い手がいただろう。しかし稲作と内需に傾斜し、毛皮や皮革の交易に特化してしまった倭人は、オーストロネシア語族民との交易から疎外され、東鯷人が専ら行っていたと想定される。従って特に関東系の倭人は、漢字文化に傾斜していた可能性が高い。
大和政権が日本全土を統一すると、唐文化の模倣を推奨して漢字表記を大和政権の標準文体とし、大和政権の文献は漢字表記に統一されたと想定される。漢字以外の文字は、倭人文化の残渣であると同時に、憎い東鯷人の使った文字との印象が強かったから、倭人時代を歴史から抹殺した大和朝廷は、それらの文字で書かれた文献を不都合な物として、抹殺する必要があっただろう。続日本紀に、「禁書を持っている者を罰する」という記事があるが、その禁書には、アラム文字が使われた書籍も含んでいた可能性がある。現代日本人も感じる様に、表音文字だけで記す文章では、高度な表現は出来ない。倭人時代にも、高度な文章を漢文で表記する文化は、アラム文字使用と併存していただろう。中華と交易する倭人には、漢文だけでなく会話のための語学も必須だったから、漢文を和語に変換する必要はなかったと考えられる。
古墳時代の剣に象嵌された文は漢文だから、上記の推定に疑念を持つ人が居るだろう。オーストロネシア語族民は戦争を好まなかったから、護身用の剣を持つ事はあったとしても、象嵌した高価な剣を持つ習俗はなかったと想定される。剣に記銘を象嵌する事は、中華文明圏の特徴的だった疑いが濃い。象嵌した剣の需要は中華にしかなく、象嵌職人は漢字を使ったのであれば、古墳に埋納された剣に漢字で象嵌されていたとしても、それが倭人文化の常態を示す証拠とは言えない。象嵌された剣の発掘は数例しかないから、倭人文化として定着していたとは言えないだろう。
古事記が変体漢文で記された背景を考察するためには、複雑な要素を解き明かす必要がある。古事記は中国の文明が朝鮮半島から伝わったとする、捏造史を主張しているから、その古事記がアラム文字で書かれていては、甚だ都合が悪いだろう。それ故に、漢字で書かねばならなかった事は事実だが、革命当初から変体漢文が確立していたのか甚だ疑問だ。関東の倭人ではあっても、日本語を表記していた巫女は、表音文字を使っていた可能性が高いからだ。
飛鳥時代末期から奈良時代にかけての、日本語の文体を検証する。
続日本紀の天皇の詔には、宣命体と呼ばれる文体が使われている。漢字だけで記されるが、実質的に「漢字仮名交じり文」と同じ形式で、万葉仮名を使い、日本語を発音通りに表記するものだった。天皇の詔は神の言葉だったから、忠実に言葉を再現する必要があるという認識から、生み出された文体だった。倭人時代には巫女が神の言葉を伝えたから、その文化の派生として生まれた、文体だったと考えられる。中華にはない発想だった。
神の言葉を民族言語で表記する事はコーランにも例があり、極めて自然な発想だった。聖書やコーランの様に神の言葉を記した書籍は、基本的に異本は許されない事も、此処で考えるべきだろう。神の言葉は最高の法律文章だから、地域によって異なる事も許されない。巫女の神託に矛盾があってはならないから、巫女は過去の神託を知っている必要があり、文章に依って過去の神託が保存されていなければ、地域や時期による食い違いを免れる事は出来なかっただろう。交易と同時に宗教にも高度な文章が必要である事は、世界の常識と言っても良い。中華と同等な文明力を持っていた倭で、卑弥呼の様に1000人もの巫女を集める事を常態化していた宗教集団の、巫女が高度な文章能力を持っていた事は、必然的な事実として前提化して置く必要があるだろう。彼女達が各国に戻って矛盾した事を宣下する事は、許されなかったのだ。
倭人各国の最も知的な男性達は、船で西南諸島を経て中国に出向いていた。彼らは奄美や沖縄で、情報を交換しただろう。大率は年に一度、各国の王を集めて評議を行っていた。その様な男性達を、巫女の宣託を強制する宗教で差配するためには、時代や地域に依る宣託の食い違いは許されないから、卑弥呼の下の1000人や、隋代の倭王の下にいた6〜700人の女性達は、政策のブレーンになると同時に、過去の神の宣託を暗記する様な、教育も受けねばならなかっただろう。その様な機関には文章能力が必要である事は、極めて常識的な判断になる。
宣命体には、宣命小書体と呼ぶ改良型があり、名詞・動詞・形容詞などの語幹を大きな漢字で書き、助詞・助動詞・用言の活用語尾などを、一字一音の万葉仮名で小さく右に寄せて書いた。平安時代に筆写された宣命体の文献は、宣命小書体で記されているが、発掘された7世紀末の木簡では、万葉仮名は語幹と同じ大きさで書かれているから、それは奈良時代の進化だった疑いがある。平安時代には平仮名が使われたから、宣命体は奈良時代の文体だったと考えられる。
飛鳥時代末期の木簡に、万葉仮名だけで書かれた和歌があり、宣命体とは別に、万葉仮名だけの表記もあった事が分かる。表音文字を使っていた集団が、その文字の使用が禁止されたので、苦肉の策として使った疑いがある。古墳時代に発掘された刀剣の象嵌や、古事記・万葉集では、色々な漢字を同一音に宛てながら万葉仮名として使ったが、奈良時代に借字に統合され、平仮名の原型が生まれた。万葉仮名には、吾(あ)井(い)鵜(う)得(え)雄(お)の様に、訓読みから転じた音(借訓)も使われているから、万葉仮名が使われ始めた頃には、既に漢字の訓読みが存在していた事が分かる。万葉集で最も古いとされる雄略天皇の歌には、訓読みや借訓が沢山使われ、「おしなべて 我れこそ居れ」という一節は、「押奈戸手 吾許曽居」と記されている。この歌が5世紀に記録されたのであれば、当時既に万葉仮名と漢字の訓読みを用いた文章が、存在していた事になる。但し表音文字で読みが伝承され、後世漢字を使って文章化されたのであれば、この議論は無効になる。雄略天皇は実在しない天皇だから、深い議論は出来ない。
漢字の訓読について考えると、高麗、百済、新羅を「こま」「くたら」「しらき」と読むのは、和名の地名が先にあり、漢字が後から導入されたからだと考えられ、地名の訓読は5世紀にはあった事になる。遡る時代について考察すると、呉、越を「くれ」「こし」と訓読している事実がある。呉や越は春秋時代(BC8世紀)の地域名だから、その頃既に訓読の風習を持っていた疑いがある。更に遡ると、竹書紀年の周初(BC11世紀)に粛慎が登場するが、日本書紀では「みしはせ」と読ませる。粛慎は春秋時代に中国の歴史から姿を消すから、「みしはせ」と粛慎が結び付いた時代は、春秋時代以前に遡る。
中国で活動していた倭人は、中国語を話す必要があったから、倭語を表記する文体は必要なかったかもしれないが、中国に渡らなかった巫女には、神の言葉を文章化するために、訓読みが必要だっただろう。卑弥呼に千人もの巫女的な女性が仕え、魏との交渉に漢字文章を使ったから、海外事情に通じ、高い漢字リテラシーを持つ巫女がいたと想定される。卑弥呼に使えていた巫女の中に、漢字を使う巫女がいたのであれば、日本語での表現以外はあり得ない神の言葉を、伝達したり記録したりするために、漢字の訓読を使ったかもしれない。
712年に書かれた古事記には、変体漢文が使われた。これは動詞と目的語が逆転している漢文の配置を、その儘使いながら定型として日本的に読み、万葉仮名を混ぜて日本語を表記した。
太安万侶が書いたと記されている古事記の「序」には、「稗田阿礼」が暗記していた旧辞を文章化したと書いてあるが、巫女だった稗田阿礼が変体漢字で原古事記を書き、持統天皇の側近女性が改訂し、太安万侶は序文を書いただけだった可能性がある。稗田阿礼は字を書く事が出来なかった、という事にしたかったのは、倭人文化を継承していた巫女が、高度な文章力を持っていたという事実を隠し、特に稗田阿礼が属した関東の倭人文化を、貶めたかったからだと想定される。巫女が高度な文章力を持っていては、交易などは行わない古代農民社会を描いた筈の、古事記の主題に反するからだ。
但し上掲の推測は、関東の巫女が変体漢文を使う人達だった事を想定し、続日本紀の詔が宣命体で書かれているのは、関東とは別の地域の標準表記として、大津系の巫女が宣命体を使った事を想定した推測に過ぎない。古墳時代の巫女が、日本語の表記にどの様な文字を使っていたのか不明だから、漢字表記に統一した壬申の乱以降に、東西の巫女集団の漢字表記文体に、違いがあった事を推測しているに過ぎない。
急場凌ぎの様なちぐはぐな対応として、その様な複数の文体が同時に誕生したと想定すれば、古墳時代の巫女は神の言葉を漢字以外の文字で表現していた可能性を示唆し、表音文字で記述していた可能性を高める。但し卑弥呼とそのブレーンの中には、漢文も読む事が出来る巫女も居たとか、神の言葉の文章化に際しては、漢字の訓読を含んでいたという想定を含む。漢字の訓読を含む方が便利である事は、現代人は良く知っているから、地名の訓読があった以上、それが神の宣託に含まれていた可能性があり、その習慣があれば、他の漢字の訓読を含む様になる事に、それほど時間は掛からなかった筈だ。雄略天皇の歌の原文が、漢字と表音文字で記されていたのであれば、後生無理に漢字を使って上記の様に記したと考えても、不思議ではない。むしろ他の経路を考える方が、無理な思考になる様に見える。
日本人が漢文で記述する場合には、中国語として漢文を使う場合と、返り点とカタカナを使い、書き下し的に漢文を読む手法があった。カタカナの発生は、特定漢字の一部を抜き出したとする説と、表音文字から派生したとする説があるが、中間段階を示す文献が発見されていないので、どちらとも言えない。
奈良時代の日本には、宣命体、変体漢文、漢文、書き下し漢文の4種の文体があった事になるが、これは極めて異常な事態だった。この様な未熟な表記法が何通りも出現した事は、地域毎に異なった文体を発展させていたか、元々文章能力があった民族が、何らかの理由で従来の文体の使用を禁止され、この様な事態になったと考える事が、常識的な発想になるだろう。
古事記について考えると、古事記は古い説話を繋ぎあわせただけの、古代的な著作だと切って捨てる人には、漸く文章を使う事が出来る様になった日本人の、古拙な日本語表記に見えるだろう。しかし古事記を、倭人社会を否定する目的で執筆されたと考え、その構文の巧みさに驚嘆する立場から考えれば、説話を創造し続けた長い歴史の中で、その技能を身に着けた巫女が、十分な推敲の下に作成した著作だったと認定する事になる。古代の事に関する著作だから、敢えて古風な表現を選んだという想定も、そこに付加される。古事記は単なる説話集ではないから、以下の結論になるだろう。
大和朝廷の唐風化政策によって、公式文章での漢字使用が強制され、表音文字で神の言葉を記録していた巫女の、宗教活動が禁止されたから、その結果としての混乱が各地に起り、一時的に多様な文体が生まれたと想定される。大和政権は倭人宗教や倭人習俗を禁止し、弾圧する為に、巫女が使っていた表音文字の使用を、禁止した可能性が高い。元々の日本語表記の文体としては、倭人を中心とした中国との交易圏では、漢文の中に表音文字が混在し、東鯷人やオーストロネシア語族民との交易者だった倭人は、表音文字の中に漢字が点在する状態だったと想定される。大和政権の誕生によって表音文字の使用が禁止され、漢字だけで公式文章を著述する事が強制される中で、日本語の文書表記が混乱し、複数の日本語表記文体が生まれたと考えられる。
世界の一般法則としては、政権や権力機構が使用する文体が標準化され、それ以外の文章は使用されないが、飛鳥時代末期の日本では、公式文章に漢文と宣命体が並立し、散文に変体漢文が使われ、和歌に万葉仮名と訓読み漢字が使われた。漢文、変体漢文、宣命体の発生は、権力の3重構造があった事を想定させる。漢文を公式の文体にしたのは、大津系官僚の置き土産だったと推測され、実務上中国語を使う必要がなかった第2世代官僚は、漢文の習得は無駄な学習だと考えたから、カタカナの併用は別にして、漢文典籍能力は読む事だけに専念し、宣命体か変体漢文を使用して作文したと想定される。宣命体を改良すれば、日本語を駆使することが出来た筈だが、その発達が遅れたのは、宣命体に対するこだわりがあったからだろう。宣命体は、天皇の詔に用いる特殊な文体だったから、一般人が使用する事は恐れ多いとするこだわりや、巫女が使っていた文体の系譜だから、倭人文化の残渣として避けるこだわりがあったと推測される。しかし土佐日記(935年)は、宣命体から発達した漢字仮名混じり文が、この時期には既に成立していた事を示している。表音漢字が特定され、その略字が発達して平仮名になるのに、200年ほど必要だった事になる。
ハングルは1446年に、李氏朝鮮の王が制定したとされる。突然表音文字が誕生した事は不自然だから、旧新羅人が使っていたアラム系の表音文字を見直し、改めて王がその存在を認定した可能性が高い。この事は、高麗に支配される時代になっても、庶民レベルでは新羅の文化が維持されていた事を示唆する。しかし中華系の文化を重視して権威を高めようとした官僚が、漢文重視を叫んでハングルを圧迫した事は、半島の支配階級は新羅文化の伝統を嫌い、中華への同化を望んでいた事を示す。
現在の朝鮮語が、新羅語を祖語としている事は、新羅の時代には、新羅文化が半島の中で卓越していた事を示す。新羅が唐王朝から独立する事を目指したのは、新羅文化が唐文化より優れている事を、新羅人が自負していたからだろう。その新羅語について考えると、オーストロネシア語は基本的にシナ語系の文法であるにも拘わらず、新羅語が北方系の文法になったのは、弥生時代末期から古墳時代前期までの数百年間、倭が半島南部を、軍事的に支配していたからだと想定される。半島に一時的に移住した倭人の人数は、弁韓人より少なかった上に、弁韓人にはオーストロネシア語族民としての文明的なプライドがあったから、弁韓人は完全な倭人語話者にはならず、自分達の発音や単語を遺したと想定される。 
 
飛鳥時代 2

 

日本の歴史の時代区分の一つ。広義には、飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての102年間を指す。飛鳥時代は古墳時代、大和時代の終末期と重なるが、今日では分けて捉えるのが一般的である。この時代、推古朝では飛鳥文化、天武・持統朝では白鳳文化が華開いた。また国号が「倭」から「日本」へと変えられたのも当時、首都であった難波宮で行われた大化の改新以降であり、この時代と考えられている。
現在の奈良県高市郡明日香村付近に相当する「飛鳥」の地に宮・都が置かれていたとされることに由来する。「飛鳥時代」という時代区分は、元々美術史や建築史で使われ始めた言葉である。1900年前後に、美術学者の関野貞と岡倉天心によって提案され、関野は大化の改新までを、岡倉は平城京遷都までを飛鳥時代とした。日本史では通常、岡倉案のものを採用しているが、現在でも美術史や建築史などでは関野案のものを使用。大化の改新以降を白鳳時代(はくほうじだい)として区別する事がある。
推古朝
538年(宣化天皇3年)に、百済の聖王(聖明王)が、釈迦仏像や経論などを朝廷に贈り、仏教が公伝されると、587年(用明天皇2年)、天皇の仏教帰依について物部守屋と蘇我馬子が対立。後の聖徳太子は蘇我氏側につき、武力抗争の末に物部氏を滅ぼした(丁未の乱)。物部氏を滅ぼして以降、約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握った。588年(崇峻天皇元年)には、蘇我馬子が飛鳥に法興寺(飛鳥寺)の建立を始める。
592年(崇峻天皇5年)、蘇我馬子は東漢駒を遣い、崇峻天皇を暗殺すると、日本初の女帝となる推古天皇を立てた。593年(推古天皇元年)、聖徳太子(厩戸皇子)が皇太子に立てられ、摂政となったという。603年(推古天皇11年)には、冠位十二階を制定。聖徳太子が604年に十七条憲法を作り、仏教の興隆に力を注ぐなど、天皇中心の理想の国家体制作りの礎を築いた。
607年(推古天皇15年)、小野妹子らを隋に遣隋使として遣わして、隋の皇帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。」(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)の上表文(国書)を送る。留学生・留学僧を隋に留学させて、隋の文化を大いに取り入れて、国家の政治・文化の向上に努めた。620年(推古天皇28年)には、聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記した。
国造制が、遅くとも推古朝頃には、全国的に行われていた。国造とは、王権に服属した各地の有力豪族に与えられた一種の称号で、大和政権の地方行政的な性格を持つものである。
621年(推古天皇29年)に摂政であった聖徳太子が、626年(同34年)には蘇我馬子が、さらに628年(同36年)には推古天皇が没した。日本歴史上初めての女帝の時代は36年間の長期に渡った。
舒明・皇極朝
聖徳太子と推古天皇が没した後は、蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿(いるか)の専横ぶりが目立ったと『日本書紀』には記されている。推古天皇没後、皇位継承候補となったのは、舒明天皇(田村皇子)と山背大兄王(聖徳太子の子)であった。蝦夷は推古天皇の遺言を元に舒明天皇を擁立するが、同族境部摩理勢は山背大兄王を推したため、蝦夷に滅ぼされる。舒明天皇の没後は、大后である宝皇女が皇極天皇として即位した。さらに蝦夷・入鹿の専横は激しくなり、蘇我蝦夷が自ら国政を執り、紫の冠を私用したことや、643年(皇極天皇2年)、聖徳太子の子・山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたことなど、蘇我氏が政治を恣にした。
孝徳朝
645年(皇極天皇4年)の乙巳の変で、中大兄皇子・中臣鎌子(藤原鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼした。
新たに即位した孝徳天皇は、日本で最初の元号の大化を制定するなど次々と改革を進めていった(大化の改新)。『日本書紀』の記述によると、645年(大化元年)12月には都を難波長柄豊碕に移している。翌646年(大化2年)正月には、改新の詔を宣して、政治体制の改革を始めた。その後も、今までは蘇我氏の大臣1人だけの中央官制を左大臣・右大臣・内大臣の3人に改めた。東国等の国司に戸籍調査や田畑の調査を命じたとある。649年(大化5年)、この頃、評(こおり)の制を定める。650年(白雉元年)2月15日、穴門国(後の長門国)より献上された白雉により、改元する。
天智朝
孝徳天皇が死没した後は、中大兄皇子が政治の実権を握った。中大兄皇子は何らかの理由により皇位には就かず、母である皇極上皇を、再度即位(重祚)させた(斉明天皇)。斉明天皇没後も数年の間、皇位に就かず、皇太子の地位で政務に当たった(天皇の位に就かずに政務を執ることを称制という)。
663年(天智天皇2年)、百済の国家復興に助力するため朝鮮半島へ出兵したが、白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗した。そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなった。664年(天智天皇3年)、筑紫に大宰府を守る水城を造り、対馬・隠岐・筑紫など朝鮮半島方面の日本海に防人や烽を置いた。666年(天智天皇5年)には、日本国内の百済人2000人余りを東国へ移すなど、防衛施設の整備が進んだ。667年(天智天皇6年)、都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。そのほか、大和に高安城が築城されて、讃岐に屋島城が築城されて、対馬に金田城が築かれている。
668年(天智天皇7年)に、皇太子だった中大兄皇子が即位して、天智天皇となる。
670年(天智天皇9年)、全国的な戸籍(庚午年籍)を作り、人民を把握する国内政策も推進した。また、東国に柵を造った。
天武・持統朝
天智天皇が没すると、天智天皇の弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、息子である大友皇子(明治時代に弘文天皇と諡号され、歴代に加えられる)との間で争いが起こった。672年(弘文天皇元年)の壬申の乱である。この戦いは、地方豪族の力も得て、最終的には大海人皇子が勝利、即位後に天武天皇となった。天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めた。
672年(天武天皇元年)の末に、宮を飛鳥浄御原宮に移した。官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行った。
681年(天武天皇10年)には、律令の編纂を開始した。5年後の686年(朱鳥元年)に、天武天皇は没する。8年後の689年(持統天皇3年)には、諸氏に令1部全22巻で構成される飛鳥浄御原令が制定され、頒布される。律は編纂されず、唐の律令制度である唐律をそのまま用いたのではないかと考えられている。
人民支配のための本格的な戸籍作りも開始される。690年(持統天皇4年)には、庚寅年籍が造られ、「六年一造」の造籍の出発点となった。692年(持統天皇6年)には、畿内に班田大夫を派遣。公地公民制を基礎とした班田収授法を実施した。702年(大宝2年)には、大宝令にもとづいた最初の造籍が行われ、国民1人1人が政府に把握されるようになった。さらに、条里制による耕地の区画整理が進み、班田が与えられた。
694年(持統天皇8年)には日本初の本格的都城となる藤原京に都を遷した。
持統天皇は、子の草壁皇子に位を譲るつもりであったが、早世したため、孫である文武天皇を即位させる。この間、唐の律令制度を基本に、律と令にもとづいた政治を実施するために、700年(文武天皇4年)に王臣に令文を読習させ、律条を撰定する作業に取りかかり、翌年の701年(文武天皇5年)に大宝律令が制定された。これにより、天皇を頂点とした、貴族・官僚による中央集権支配体制が完成した。これをもって、一応の古代国家成立と見る。
中央行政組織は太政官と神祇官による二官八省制が採られ、地方行政組織は、国制度・郡制度・里制度が採られるようになった。租・庸・調の税制が整備され、国家財政が支えられるようになった。また、律令制度の施行に伴って生じた不備などを調整する目的から、慶雲の改革が行われた。
文武天皇の死後、母の元明天皇が即位。710年(和銅3年)に、平城京へ遷都した。
関連する人物
○聖徳太子
○蘇我氏
○物部氏
○中大兄皇子(天智天皇)
○大海人皇子(天武天皇)
○大伴氏
○中臣氏(藤原氏、藤原鎌足、藤原不比等)
○阿倍比羅夫
○大友皇子(弘文天皇)  
飛鳥・白鳳文化

 

飛鳥文化
推古朝を頂点として大和を中心に華開いた仏教文化である。時期としては、一般に仏教渡来から大化の改新までをいう。朝鮮半島の百済や高句麗を通じて伝えられた中国大陸の南北朝の文化の影響を受け、国際性豊かな文化でもある。多くの大寺院が建立され始め、仏教文化の最初の興隆期であった。
仏教の伝来
仏教の百済からの公伝は、538年(宣化天皇3年)または552年(欽明天皇13年)とされている。『日本書紀』は欽明天皇13年(552年)、百済の聖王(聖明王)の使者が金銅釈迦仏像、経典などを天皇に献上したと記す。一方、『上宮聖徳法王帝説』、『元興寺縁起』はこれを欽明天皇7年の戊午年(538年)のこととする。『書紀』と『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』とでは天皇の在位年代が異なっており、上記の戊午年は『書紀』では宣化天皇3年にあたる。現在では仏教公伝を538年とする説が一般的だが、異説もある。
当時仏教受容の先頭を切ったのは蘇我稲目であり、百済の聖王が日本の朝廷の伝えてきた金銅釈迦像・経典若干卷のうちの仏像を小墾田(おはりだ)の家に安置し、さらに向原(むくはら)の家を清めて向原寺(こうげんじ)とした(『日本書紀』)。
仏教の摂取と流布に大いに貢献した蘇我氏とこれに反対する物部氏との対立(崇仏論争)はのちに蘇我馬子と物部守屋との間での戦乱を招く。これに勝利した蘇我氏と蘇我氏系大王のもと、王権の本拠地である飛鳥京を中心に仏教文化が発展する。
飛鳥仏教は百済と高句麗の仏僧によって支えられていた。595年(推古3)に高句麗僧・慧慈、百済僧・慧聰が来朝・帰化し、翌年には飛鳥寺に住まうようになる。
7世紀後半になると、中央政府が、地方の豪族への寺院建築を奨励したために、全国的に寺院の建築が活発化する。
仏教寺院
日本最古の本格的寺院である飛鳥寺や四天王寺は、氏寺として創建されたが、後には官寺(天皇が発願し、国家が維持する寺院)に準ずる扱いを受けた。造寺・造仏の技術者は主として朝鮮からの渡来人やその子孫達であった。また、594年(推古2)に仏教興隆の詔が下されたのを受けて諸臣連達が、天皇と自己の祖先一族のために競って私寺(氏寺)を造り始めた。
○四天王寺 / 難波(大阪)。『日本書紀』によれば聖徳太子の発願により593年(推古天皇元年)に建て始められた。飛鳥寺とともに、日本最古の本格的仏教寺院の1つである。
○飛鳥寺(法興寺) / 崇峻朝の588年(崇峻天皇元年)に着工され、596年(推古天皇4年)に完成した。蘇我馬子が造営の中心になった。寺司(てらのつかさ)は馬子の長子・善徳。日本で最初の本格的な寺院で、氏寺であるが、蘇我系王族の強い支援のもと、官寺としての性格が強い。伽藍は南北の中軸線上に南から南門・中門・塔・金堂・講堂が一直線上に並ぶが、塔の東西にも金堂が置かれる三金堂式である。中門から出ている回廊はその外側を通って、金堂の背後で閉じている。現在の安居院本堂は創建時の飛鳥寺中金堂の位置にあり、鞍作止利作とされる金銅仏・飛鳥大仏が安置されている。593年(推古元)塔の心礎に仏舎利を安置したという(『日本書紀』)。これ以後の皇居(宮)もほぼこの飛鳥寺を中心にした飛鳥に置かれた。飛鳥寺の中軸線と天智朝の末年か天武初年に建てられた川原寺の中軸線との中心線(中道)は、天武朝の藤原京の設定の一基準となり、両中軸の間隔はまた、飛鳥の方格地割りの基準となった。
○百済大寺 / 舒明天皇により639年(舒明天皇11年)に建立され、舒明の没後、妻の皇極天皇、子の天智天皇によって継承された、最初の天皇家発願の仏教寺院である。桜井市吉備の吉備池廃寺が寺跡に比定されている。完成時には、蘇我氏発願の飛鳥寺を遙かに凌ぎ、九重の塔がそびえ建ち、高さは法隆寺の五重塔の二倍もあり、現代の25階ビルに相当し、当時の東アジアでも超一級の寺院であった。この寺は高市大寺、大官大寺と改称・移転を繰り返し、平城京に移転して大安寺となった。
○法隆寺(斑鳩寺) / 用明天皇により発願され、その遺志を継いだ聖徳太子と推古天皇により607年(推古天皇15年)に創建された(金堂薬師如来像光背銘による)。創建伽藍は670年(天智天皇9年)に焼失し(『書紀』)、現存する西院伽藍はその後の再建であるが、日本最古の木造建築である。
○広隆寺(蜂岡寺、秦公寺) 秦氏の氏寺
○善光寺(定額山 善光寺) / 皇極天皇元年(642年)に三国渡来の一光三尊阿弥陀如来が現在の地に遷座、皇極天皇3年(644年)皇極天皇の勅願により本堂を創建。皇極天皇の命により、聖徳太子妃であり、蘇我馬子の娘である刀自古郎女が出家し、尊光上人を名乗り、善光寺の開山上人となる。白雉5年(654年)より本尊が秘仏となる。開山上人から現在に至る約1400年間、皇室・公家から出家した歴代の尼公上人により、その篤い信仰と平和への祈りは綿々と継承されている。
○渋川廃寺 / 物部氏(大連守屋)、大阪府八尾市渋川町。物部氏も仏教を受容していた。崇仏、排仏論争は蘇我氏が語り伝えたもので、馬子と守屋の政治権力闘争であった。
○坂田寺 / 南淵(みなみぶち、明日香村)。奈良時代の建物基壇などが発掘されているが、飛鳥時代の遺構は見つかっていない。
○豊浦寺(とゆらじ) 蘇我蝦夷
彫刻
仏像の材質は木造(ほとんどがクスノキ材)と金銅造(銅製鍍金)がある。代表的遺品として下記がある。
○飛鳥寺釈迦如来像(飛鳥大仏) - 鞍作止利の作(頭部と指の一部が現存)
○法隆寺金堂釈迦三尊像 - 鞍作止利の作
○法隆寺夢殿救世観音像
○法隆寺百済観音像
○広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像
○中宮寺半跏思惟像(弥勒菩薩・寺伝は如意輪観音)
飛鳥寺本尊、法隆寺金堂釈迦三尊像などに代表される様式を止利式といい、杏仁形の眼、仰月形の鋭い唇、アルカイック・スマイル、左右対称の幾何学衣文、正面観照性の強い造形などを特徴とする。かつては、止利式の仏像が北魏様式、法隆寺百済観音像などにみられる様式が南梁様式(南朝様式)とされたこともあった。しかし、南朝の仏像の現存するものが少ないこと、日本へ仏教を伝えた百済と北魏とは相互交流が乏しかったことなどから、止利式を北魏様式、百済観音を南朝様式、と明快に割り切ることは疑問視されている。
その他の遺物
○三経義疏(御物) - 仏教に深く傾倒した聖徳太子の著作・自筆といわれている。
○天寿国繍帳(中宮寺蔵) - 銘文中の「世間虚仮、唯仏是真」(せけんこけ、ゆいぶつぜしん)という言葉は、聖徳太子の晩年の心境をよく窺うことが出来るとされている。
○染織品 - 繍仏、錦などが伝世している。
○飛鳥の石造物 - 飛鳥地方に存在する猿石、酒船石、亀石、橘寺の二面石などと呼ばれる石造物。信仰関連の遺物と考えられている。
その他の文化
○百済の僧・観勒が暦本と天文・地理の書を献じた。
○高句麗の僧・曇徴が来朝した。絵具や紙、墨を作ったとされるが、日本における創製者かどうかは定かでない。
飛鳥の宮室
○豊浦宮 - 蘇我氏の氏寺であった豊浦寺を改修して宮とした。推古天皇
○小墾田宮 - 後の宮殿の原型となる。603年、推古天皇遷る。
○飛鳥板葺宮 - 643年、皇極天皇即位 645年、大化の改新
○後飛鳥岡本宮 - 壬申の乱の直後に天武天皇遷宮、斉明天皇
○飛鳥浄御原宮 - 内郭・外郭を持ち、内郭が北・南区画に分かれ、北区画に宮殿、南区に朝堂と南門を持つ。
白鳳文化
645年(大化元年)の大化の改新から710年(和銅3年)の平城京遷都までの飛鳥時代に華咲いたおおらかな文化であり、法隆寺の建築・仏像などによって代表される飛鳥文化と、東大寺の仏像、唐招提寺の建築などによって代表される天平文化との中間に位置する。なお、白鳳とは日本書紀に現れない元号(逸元号や私年号という)の一つである(しかし続日本紀には白鳳が記されている)。天武天皇の頃に使用されたと考えられており(天智天皇のときに使用されたとする説もある)、白鳳文化もこの時期に最盛期を迎えた。
7世紀の終わり頃完成した、古代の都で最大の規模を誇り、条坊制を布いた本格的な中国風都城の藤原京を中心とした天皇や貴族中心の華やかな文化であった。
飛鳥浄御原令や大宝律令が制定され、本格的な国家が始動しだした頃でもあった。律令国家建設期の若々しい文化で、仏教文化を基調とする。
初唐文化の影響や朝鮮半島、インド、西アジア、中央アジアの文化も影響した。
天武天皇・持統天皇の時代が中心だが、一部その前の天智天皇・弘文天皇時代を含む部分もある。
律令の制定
中国大陸の高度な文明制度を取り入れて、本格的な国家が誕生した。
飛鳥浄御原令
大宝律令は、701年(大宝元年)に完成し、直ちに施行された。
建築
○藤原宮の内裏(だいり)と朝堂院(ちょうどういん) - 現存せず
○大官大寺(だいかんだいじ) - 金堂跡と塔跡の土壇などが残るのみで、建物は現存せず。寺は平城京に移転して大安寺となる。
○本薬師寺(もとやくしじ) - 金堂跡、東西の塔跡などが残るのみで、建物は現存せず。寺は平城京に移転して薬師寺となる。
○山田寺(浄土寺) / 桜井市山田にある。蘇我倉山田石川麻呂が発願して倉山田家の氏寺として建立した寺である。石川麻呂は、蘇我馬子の孫、倉麻呂の子で、大化5年(649年)に異母弟の日向(ひむか)に讒訴され、造営半ばの山田寺で自殺した。悲劇の寺である。発掘調査により東回廊の部材が出土している。法隆寺西院伽藍 - 飛鳥様式で白鳳時代に再建された。
○法隆寺東院伝法堂 - 白鳳時代の住居を寺とした。
○薬師寺東塔 - 白鳳様式で奈良時代初期に再建された。
○相模国分僧寺は、海老名市国分に所在し、南側の中央の中門から回廊を北側の中央の講堂にめぐらし、回廊の内側に東西に金堂と塔が配置された法隆寺式伽藍であり、出土瓦には白鳳様式の瓦が使われている。このことは国分寺造営の詔が出された天平13年(741) より以前に建てられた郡司の氏寺を改修して国分寺としたのではないかと推定されている。
彫刻
○薬師寺金堂銅造薬師三尊像
○薬師寺東院堂銅造聖観音立像
○深大寺銅造釈迦如来倚像
○法隆寺銅造阿弥陀三尊像(伝・橘夫人念持仏)
○法隆寺銅造観音菩薩立像(夢違観音)
○興福寺仏頭(もと山田寺講堂本尊・薬師三尊像の中尊の頭部)
○蟹満寺銅造釈迦如来坐像 
絵画
○法隆寺金堂壁画
○高松塚古墳壁画
○キトラ古墳壁画
工芸
○薬師寺金堂薬師如来台座
古墳
○高松塚古墳
○キトラ古墳
文芸
○漢詩文の隆盛 - 大津皇子
○和歌の整備 - 額田王、柿本人麻呂

○元嘉暦
○儀鳳暦
年表

 

531年(継体天皇25年) - 欽明天皇即位する。
535年(安閑天皇2年) - 屯倉(みやけ)を多く置く。
538年(宣化天皇3年) - 仏教伝来(公式に史書に記載されている時期として)
540年(欽明天皇元年) - 秦人・漢人の戸籍を作る。
552年(欽明天皇13年) - 仏像の礼拝を群臣に問う。
571年(欽明天皇32年) - 欽明天皇没する。
572年(敏達天皇元年) - 敏達天皇即位する。
585年(敏達天皇15年) 敏達天皇崩御
587年(用明天皇2年) - 仏教に帰依せんことを群臣に諮る。物部氏と蘇我氏対立し、蘇我氏勝つ。用明天皇没する。
588年(崇峻天皇元年) - 崇峻天皇即位する。
592年(崇峻天皇5年) - 崇峻天皇暗殺される。推古天皇即位。
593年(推古天皇元年)- 厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ、摂政となる。
600年(推古天皇8年) - 『隋書』によれば、倭国より遣使。
603年(推古天皇11年) 冠位十二階を制定する
604年(推古天皇12年) - 十七条憲法制定。
607年(推古天皇15年) -『日本書紀』によれば、初の遣隋使(大唐国と記載)。『隋書』では2回目と記載。
608年(推古天皇16年) -裴世清が答礼使として来日。
628年(推古天皇36年) - 推古天皇没する。遺詔を巡って群臣争う。
629年(舒明天皇元年) - 田村皇子即位し、舒明天皇となる。
645年(皇極天皇4年) - 中大兄皇子・中臣鎌足ら、蘇我入鹿を宮中で暗殺する。蘇我蝦夷自殺する(乙巳の変)。軽皇子が即位。孝徳天皇となる。
646年(大化2年) - 改新の詔を宣する。(大化の改新)
654年(白雉5年) - 10月、孝徳天皇難波宮で没する。
655年(斉明天皇元年) - 1月、皇極天皇重祚し、斉明天皇となる。
663年(天智天皇2年) - 白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)で大敗する。
670年(天智天皇9年) - 全国的に戸籍を作る(庚午年籍)。
672年(弘文天皇元年・天武天皇元年) - 天智天皇没する。壬申の乱。飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)に遷る。
681年(天武天皇10年) - 飛鳥浄御原令の編纂を開始する。
690年(持統天皇4年) - 戸令により、庚寅年籍を作る。
694年(持統天皇8年) - 藤原京に都を移す。
697年(文武天皇元年) - 持統天皇譲位し、文武天皇即位する。
701年(大宝元年) - 大宝律令の撰定完成する。
707年(慶雲4年) - 文武天皇(25)没し、元明天皇即位する。
708年(和銅元年) - 武蔵国から銅を献上する。改元する。和同開珎を発行する。
710年(和銅3年) - 平城京に遷都する。
 
聖徳太子 1

 

(敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))・厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)は、飛鳥時代の皇族・政治家。「聖徳太子」は、後世の諡号。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど進んでいる中国の文化・制度を学び冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った他、仏教を取り入れ神道とともに厚く信仰し興隆につとめた、とされる。
厩戸前にて出生したので厩戸(うまやど・うまやと)と命名されたとの伝説がある。また母が実母・蘇我小姉君の実家(おじ・蘇我馬子の家)にて出産したので馬子屋敷に因み厩戸と命名されたとする説や、生誕地・近辺の地名・厩戸に因み命名されたなど様々な説がある。
豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)との別名も有り顕真が記した『聖徳太子伝私記』の中で引用されている慶雲3年(706年)頃に作られた「法起寺塔露盤銘」には上宮太子聖徳皇、『古事記』(和銅5年、712年)では上宮之厩戸豊聡耳命、『日本書紀』(養老4年、720年)では厩戸(豐聰耳)皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王、東宮聖徳と記されている。
聖徳太子という名称は死没129年後天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』が初出と言われる。そして、平安時代に成立した史書である『日本三代実録』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載し、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期には「聖徳太子」の名が一般的な名称となっていたことが伺える。
713年-717年頃の成立とされる『播磨国風土記』印南郡大國里条にある生石神社の「石の宝殿」についての記述に、「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 厩戸 弓削大連 守屋 所造之石也」(原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり)とあり、「弓削の大連」は物部守屋、「聖徳の王(聖徳王)」は厩戸皇子と解釈する説もある。また、大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子の諡号を聖徳王としたとある。
日本書紀に見られる記述
敏達天皇3年(574年)、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘・小姉君であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。厩戸皇子の父母はいずれも欽明天皇を父に持つ異母兄妹であり、厩戸皇子は異母のキョウダイ婚によって生まれた子供とされている。
幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。
用明天皇元年(585年)、敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2年(587年)、用明天皇は崩御(死去)した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。
戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。崇峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させた。その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。天皇家史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐した。
同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立した。四天王寺に施薬院、療病院、悲田院、敬田院の四箇院を設置した伝承がある。推古天皇2年(594年)、仏教興隆の詔を発した。推古天皇3年(595年)、高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。
推古天皇5年(597年)、吉士磐金を新羅へ派遣し、翌年に新羅が孔雀を贈ることもあったが、推古天皇8年(600年)新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる。
推古天皇9年(601年)、斑鳩宮を造営した。
推古天皇10年(602年)、再び新羅征討の軍を起こした。同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。また、来目皇子の筑紫派遣後、聖徳太子を中心とする上宮王家及びそれに近い氏族(秦氏や膳氏など)が九州各地に部民を設置して事実上の支配下に置いていったとする説もあり、更に後世の大宰府の元になった筑紫大宰も元々は上宮王家が任じられていたとする見方もある。書生を選び、来日した観勒に暦を学ばせる。
推古天皇11年(603年)12月5日、いわゆる冠位十二階を定めた。氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。
推古天皇12年(604年)4月3日、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)いわゆる十七条憲法を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している。9月には、朝礼を改め、宮門を出入りする際の作法を詔によって定めた。
推古天皇13年(605年)、諸王諸臣に、褶の着用を命じる。斑鳩宮へ移り住む。
推古天皇15年(607年)、屯倉を各国に設置する。高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘る。小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送った。翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた。日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)とある。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す)とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」としている。この返書と裴世清の帰国のため、妹子を、高向玄理、南淵請安、旻ら留学生と共に再び隋へ派遣した。
推古天皇20年(612年)、百済人味摩之が伎楽を伝え、少年たちに伎楽を習わせた。
推古天皇21年(613年)、掖上池、畝傍池、和珥池を作る。難波から飛鳥までの大道を築く。日本最古の官道であり、現在の竹内街道とほぼ重なる。
推古天皇22年(614年)、犬上御田鍬らを隋へ派遣する。最後の遣隋使となる。
厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615年)までに三経義疏を著した。
推古天皇28年(620年)、厩戸皇子は馬子と議して『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂した。
推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなった(日本書紀では、同29年2月5日(621年))。享年49。
そのほかの伝説
以下は、聖徳太子にまつわる伝説的なエピソードのいくつかである。なお、聖徳太子の事績や伝説については、それらが主に掲載されている古事記や日本書紀の編纂が既に死後1世紀近く経っていることや記紀成立の背景を反映して、脚色が加味されていると思われる。 そのため様々な研究・解釈が試みられている。平安時代に著された聖徳太子の伝記『聖徳太子伝暦』は、聖徳太子伝説の集大成として多数の伝説を伝えている。
出生について
「厩の前で生まれた」、「母・間人皇女は西方の救世観音菩薩が皇女の口から胎内に入り、厩戸を身籠もった」(受胎告知)などの太子出生伝説に関して、「記紀編纂当時既に中国に伝来していた景教(キリスト教のネストリウス派)の福音書の内容などが日本に伝わり、その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える研究者(久米邦武が代表例)もいる。
しかし、一般的には、当時の国際色豊かな中国の思想・文化が流入した影響と見なす説が主流である。ちなみに出生の西暦574年の干支は甲午(きのえうま)でいわゆる午年であるし、また古代中国にも観音や神仙により受胎するというモチーフが成立し得たと考えられている(イエスよりさらに昔の釈迦出生の際の逸話にも似ている)。出生地は橘寺、またはその付近とされる。橘寺はタヂマモリが垂仁天皇の御世に常世の国から持ち帰った橘の実の種を植えた場所といわれる。
豊聡耳
ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず一度で理解し、的確な答えを返したという。この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも呼ばれるようになった。
『上宮聖徳法王帝説』、『聖徳太子伝暦』では8人であり、それゆえ厩戸豊聰八耳皇子と呼ばれるとしている。 『日本書紀』と『日本現報善悪霊異記』では10人である。また『聖徳太子伝暦』には11歳の時に子供36人の話を同時に聞き取れたと記されている。一方、「豊かな耳を持つ」=「人の話を聞き分けて理解することに優れている」=「頭がよい」という意味で豊聡耳という名が付けられてから上記の逸話が後付けされたとする説もある。
兼知未然
『日本書紀』には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」とある。この記述は後世に「未来記(日本国未来記、聖徳太子による予言)」の存在が噂される一因となった。『平家物語』巻第八に「聖徳太子の未来記にも、けふのことこそゆかしけれ」とある。また、『太平記』巻六「正成天王寺の未来記披見の事」には楠木正成が未来記を実見し、後醍醐天皇の復帰とその親政を読み取る様が記されている。これらの記述からも未来記の名が当時良く知られていたことがうかがわれる。しかし、過去に未来記が実在した証拠が無く、物語中の架空の書か風聞の域を出ないものと言われている。江戸時代に、人心を惑わす偽書であるとして幕府により禁書とされ、編纂者の潮音らが処罰された『先代旧事本紀大成経』にある『未然本記』も未来記を模したものとみることができる。
南嶽慧思の生まれ変わり
「南嶽慧思後身説(慧思禅師後身説)」と呼ばれる説。聖徳太子は天台宗開祖の天台智の師の南嶽慧思(515年 - 577年)の生まれ変わりであるとする。『四天王寺障子伝(=『七代記』)』、『上宮皇太子菩薩伝』、『聖徳太子伝暦』などに記述があるかもしれない。
中国でも、「南嶽慧思後身説」は知られており鑑真渡日の動機となったとする説もある。
飛翔伝説
『聖徳太子伝暦』や『扶桑略記』によれば、太子は推古天皇6年(598年)4月に諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い甲斐の黒駒を神馬であると見抜き、舎人の調使麿に命じて飼養する。同年9月に太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。
片岡飢人(者)伝説
『日本書紀』によると次のようなものである。
推古天皇21年12月庚午朔(613年)皇太子が片岡(片岡山)に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。姓名を問われても答えない。太子はこれを見て飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人を覆ってやり、「安らかに寝ていなさい」と語りかけた。太子は次の歌を詠んだ。
「斯那提流 箇多烏箇夜摩爾 伊比爾惠弖 許夜勢屡 諸能多比等阿波禮 於夜那斯爾 那禮奈理鷄迷夜 佐須陀氣能 枳彌波夜祗 伊比爾惠弖 許夜勢留 諸能多比等阿波禮」
しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こ)やせる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥せる その旅人あはれ
翌日、太子が使者にその人を見に行かせたところ、使者は戻って来て、「すでに死んでいました」と告げた。太子は大いに悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を固く封じた。数日後、太子は近習の者を召して、「あの人は普通の者ではない。真人にちがいない」と語り、使者に見に行かせた。使者が戻って来て、「墓に行って見ましたが、動かした様子はありませんでした。しかし、棺を開いてみると屍も骨もありませんでした。ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」と告げた。太子は再び使者を行かせて、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。人々は大変不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます太子を畏敬した。
『万葉集』には上宮聖コ皇子作として次の歌がある。
上宮聖コ皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首
(小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者豐御食炊屋姫天皇也諱額田謚推古)
「家有者 妹之手將纏 草枕 客爾臥有 此旅人[立心偏+可]怜」
家にあらば 妹(いも)が手纒(ま)かむ 草枕客(たび)に臥やせる この旅人あはれ
また、『拾遺和歌集』には聖徳太子作として次の歌がある。
しなてるや片岡山に飯に飢ゑて臥せる旅人あはれ親なし
後世、この飢人は達磨大師であるとする信仰が生まれた。飢人の墓の地とされた北葛城郡王寺町に達磨寺が建立されている。
箸の奨励について
隋へ派遣した小野妹子からの報告をきっかけに、宮中での箸の使用を奨励したという。
ゆかりの寺院
日本各地には聖徳太子が仏教を広めるために建てたとされる寺院が数多くあるが、それらの寺院の中には後になって聖徳太子の名を借りた(仮託)だけで、実は聖徳太子は関わっていない寺院も数多くあると考えられており、境野黄洋は聖徳太子が建立した寺院について「法隆寺と四天王寺は確実である」と述べている。
四天王寺
大阪市天王寺区。『日本書紀』によれば、蘇我氏と物部氏の戦いにおいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、四天王を安置する寺院を建てると誓願を立てた。見事勝利したので、摂津国難波に四天王寺を建てた。『書記』によれば593年(推古天皇元年)のことという。四天王寺には、敬田院、施薬院、療病院、悲田院の4つの四箇院を設置したという。なお、聖徳太子の佩刀とされる七星剣と丙子椒林剣が現在、四天王寺に保管されている。本尊は救世観音で、四天王寺では聖徳太子の念持仏の如意輪観音とも同一視される。
法隆寺(斑鳩寺)
奈良県生駒郡斑鳩町。金堂薬師如来像光背銘によれば、法隆寺は用明天皇が自らの病気平癒のため建立を発願したが、志を遂げずに崩御したため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子が推古天皇15年(607年)に寺と薬師像を造ったという。『日本書紀』には天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼したとの記事がある。この記事をめぐり、現存する法隆寺(西院伽藍)は聖徳太子の時代のものか、天智天皇9年(670年)以降の再建かについて長い論争があったが(法隆寺再建・非再建論争)、若草伽藍の発掘調査により、聖徳太子時代の伽藍は一度焼失し、現存の西院伽藍は7世紀末頃の再建であることが定説となっている。「夢殿」を中心とする東院伽藍は太子の営んだ斑鳩宮の旧地に建てられている。
斑鳩寺(播磨)
兵庫県揖保郡太子町。聖徳太子は推古天皇から賜った播磨国揖保郡の地を「鵤荘」と名付け、伽藍を建立し、法隆寺に寄進をした。これが斑鳩寺の始まりと伝えられている。斑鳩寺は創建から永らく法隆寺の別院(支院)であったが、焼失、再建の後に天台宗へ改宗した。現在も「お太子さん」と呼ばれて信仰を集めている。なお、俗に「聖徳太子の地球儀」と呼ばれる「地中石」という寺宝が伝わっている。聖徳太子生誕地の橘寺と、墓所の叡福寺を結んだライン延長上にこの太子町の斑鳩寺が位置している。
太子建立七大寺 
四天王寺、法隆寺、中宮寺(中宮尼寺)、橘寺、蜂岡寺(広隆寺)、池後寺(法起寺)、葛木寺(葛城尼寺)は『上宮聖徳法王帝説』や、『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』によって聖徳太子が創建した七大寺と称されている。
河内三太子
聖徳太子ゆかりの寺院とされる叡福寺、野中寺、大聖勝軍寺はそれぞれ上之太子(かみのたいし)、中之太子(なかのたいし)、下之太子(しものたいし)と呼ばれ、「河内三太子」と総称されている。
ゆかりの神社
敬神の詔を推古15年(607年)に出したことからわかるように、聖徳太子は神道の神をも厚く祀った。四天王寺境内には鳥居があるほか、伊勢遥拝所・熊野権現遥拝所、守屋祠がある。
○四天王寺七宮 - 聖徳太子創建。 小儀神社(四天王寺東門前)、土塔神社(同南門前)、河堀稲生神社(天王寺区大道)、久保神社(同勝山)、大江神社(同夕陽丘町)、堀越神社(同茶臼山町)、上之宮神社(同上之宮町)
○玉造稲荷神社(大阪市中央区玉造) - 聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承がある。
○龍田神社(奈良県生駒郡斑鳩町龍田) - 聖徳太子が法隆寺の建設地を探していたとき、白髪の老人の姿をした龍田大明神が「斑鳩の里が仏法興隆の地である。私はその守護神となる」と託宣したので、その地を選び、鎮守社とした。
○御影の綱敷天満宮(神戸市東灘区御影) - 四天王寺創建の際、六甲山の御影石を切り出し、その際、蒼稲魂神を合せ祠る。その御神体と、聖徳太子の所持していた笏と駒角が現存する。
○竜王宮(滋賀県竜王町鏡山) - 山頂付近に聖徳太子26歳の時、自ら観音像を彫られ創建された雲冠寺(うんかんじ)跡がある。 雨の神・水の神ともいわれる八大竜王が龍王宮として祀られ、寺院の守護をした。
○飽波神社(生駒郡安堵町) - 聖徳太子が牛頭天王を祀ったのが創建と伝えられ、飽波宮のあった場所と比定する説もある。主祭神は素戔嗚尊。
○森之宮神社(鵲森宮〈かささぎもりみや〉、大阪市中央区森之宮) - 用明天皇と間人皇后を祀る。聖徳太子創建。
○福王神社(三重県三重郡菰野町田口) - 聖徳太子の命により毘沙門天が安置され、国の鎮護と伊勢神宮の守りとしたと伝わる。
○御沢神社(おさわじんじゃ、滋賀県東近江市上平木町) - 主祭神は市杵嶋姫命、弁財天女、聖徳太子、八大龍王。聖徳太子が蘇我馬子に命じてこの一帯を開墾されたとき、用水の溜め池として清水(きよみず)池・白水(はくすい)池・泥水(にごり)池をつくり、神社を創建したと伝わる。
○白龍大神天宮塚(宝塚市) - 円錐形の山容をした天宮塚は中山連山の一つで、聖徳太子御修行遺跡。聖徳太子創建の中山寺と関わる。

墓は、宮内庁により大阪府南河内郡太子町の叡福寺境内にある磯長墓(しながのはか)に治定されている。遺跡名は「叡福寺北古墳」で、円墳である。『日本書紀』には「磯長陵」と見える。穴穂部間人皇女と膳部菩岐々美郎女を合葬する三骨一廟である。なお、 明治時代に内部調査した際の記録を基にした横穴式石室の復元模型が大阪府立近つ飛鳥博物館に存在する。
直径約55メートルの円墳。墳丘の周囲は「結界石」と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている。2002年に結界石の保存のため、宮内庁書陵部によって整備され、墳丘すそ部が3カ所発掘された。2002年11月14日、考古学、歴史学の学会代表らに調査状況が初めて公開された。墳丘の直径が55メートルを下回る可能性が指摘されている。
著作
著作をいくつかとりあげる。ただ、聖徳太子の名を借りた(仮託)偽書も多い。
『三経義疏』。このうち『法華義疏』は聖徳太子の真筆と伝えられるものが御物となっており、現存する書跡では最も古く、書道史においても重要な筆跡である。
『四天王寺縁起』は、聖徳太子の真筆と伝えられるものを四天王寺が所蔵しているが、後世(平安時代中期)の仮託と見られている。
『十七条憲法』は、『日本書紀』(推古天皇12年(604年))中に全文引用されているものが初出。『上宮聖徳法王帝説』には、乙丑の年(推古13年(605年)の七月に「十七餘法」を立てたと記されている。
『天皇記』、『国記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』は、『日本書紀』中に書名のみ記載されるが、現存せず内容は不明。
『先代旧事本紀』は、序文で聖徳太子と蘇我馬子が著したものとしているが、実際には平安時代初期の成立と見られる。その中には全85条からなり、神職、僧侶、儒者、政治家、公務員へ向けた5種類の十七条憲法が掲載されている。(十七条五憲法)
『未来記』は、特定の書ではなく、聖徳太子に仮託した「未来記」を称する鎌倉時代に頻出する偽書群。
太子信仰
聖徳太子の聖人化は、『日本書紀』に既にみえており、8世紀には「本朝(日本)の釈迦」と仰がれ、鎌倉時代までに『聖徳太子伝暦』など現存するものだけで二十種以上の伝記と絵伝(中世太子伝)が成立した。こうした伝記と絵伝により「聖徳太子信仰」は形成されていった。
太子自身を信仰対象として、聖徳太子像を祀った太子堂が各地の寺院にある。聖徳太子は観音菩薩の化身として尊ばれた。なお、「聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりである」とする考えもある。
その他、室町時代の終わり頃から、太子の祥月命日とされる2月22日を「太子講」の日と定め、大工や木工職人の間で講が行なわれるようになった。これは、四天王寺や法隆寺などの巨大建築に太子が関わり諸職を定めたという説から、建築、木工の守護神として崇拝されたことが発端である。さらに江戸時代には大工らの他に左官や桶職人、鍛冶職人など、様々な職種の職人集団により太子講は盛んに営まれるようになった。なお、聖徳太子を本尊として行われる法会は「太子会」と称される。
現在は、聖徳太子を開祖とする宗派として聖徳宗(法隆寺が本山)が存在している。
親鸞
親鸞は、太子信仰を有していた。親鸞は数多くの和讃を著したが、聖徳太子に関するものは、『正像末和讃』の中に11首からなる「皇太子聖徳奉讃」のほか、75首からなる『皇太子聖徳奉讃』、114首からなる『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』など多くの「太子和讃」を残している。その太子和讃の中で、「仏智慧不思議の誓願を 聖徳皇のめぐみにて(略)」と阿弥陀如来の誓願を聖徳太子のお恵みによって知らせていただいたと詠われ、「和国の教主聖徳皇」と太子を日本に生まれて正法を興した主である詠われた。親鸞の聖徳太子に纏わる夢告はいくつかあるが、六角堂に参篭した際の救世観音菩薩の夢告などを通して、自分の進むべき道を問い、尋ね、確かめていったと考えられる。
親鸞は救世観音菩薩が聖徳太子として示現されたと敬った。親鸞の妻である恵信尼は、自身の消息の中の一通で、下総の坂井にいた時の夢告にて、師の法然は勢至菩薩、夫の親鸞が観音菩薩と示現され、その後は普通の方とは見なかったと書き記している。このことは太子信仰とは直接の関係はないが、この恵信尼の夢告に鑑みると、親鸞と阿弥陀如来の誓願に導く観音菩薩のはたらきとの関係性がより明確になる。
後世の評価
関晃は次のように解説する。「推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって、女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって、この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり、とくにその中の冠位十二階の制定、十七条憲法の作成、遣隋使の派遣、天皇記 国記 以下の史書の編纂などは、蘇我氏権力を否定し、律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが、これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである」。
田村圓澄は次のように解説する。「推古朝の政治について、聖徳太子と蘇我馬子との二頭政治であるとか、あるいは馬子の主導によって国政は推進されたとする見解があるが、572年(敏達天皇1)に蘇我馬子が大臣となって以来、とくに画期的な政策を断行したことがなく、聖徳太子の在世中に内政・外交の新政策が集中している事実から考えれば、推古朝の政治は太子によって指導されたとみるべきである」。
内藤湖南は『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に記述された俀王多利思北孤による「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の文言で知られる国書は聖徳太子らによる創作と推定している。
紙幣の肖像など
聖徳太子の肖像画は1930年(昭和5年)、紙幣(日本銀行券)の絵柄として百円紙幣に初めて登場して以来、千円紙幣、五千円紙幣、一万円紙幣と登場し、累計7回と最も多く紙幣の肖像として使用された。また、長きに渡って使用されたため、「お札の顔」として日本国民に広く認識されるようになった。特に高度成長期に当たる1958年(昭和33年)から1984年(昭和59年)に発行された「C一万円券」が知られており、高額紙幣の代名詞として「聖徳太子」という言葉が使用された。なお、この肖像は太子を描いた最古のものと伝えられる唐本御影から採られている。1948年(昭和23年)発行の500円収入印紙にも聖徳太子の肖像画、とされるものが採用された。
虚構説
研究史
近代における実証的研究には久米邦武の『上宮太子実録』がある。
また、十七条憲法を太子作ではないとする説は江戸後期の考証学者狩谷鍵斎らに始まり、津田左右吉は十七条憲法を太子作ではないと主張した。戦後、井上光貞、坂本太郎や関晃らは津田説に反論している。一方、森博達は十七条憲法を『日本書紀』編纂時の創作としている。
高野勉の『聖徳太子暗殺論』(1985年)は、聖徳太子と厩戸皇子は別人であり、蘇我馬子の子・善徳が真の聖徳太子であり、後に中大兄皇子に暗殺された事実を隠蔽するために作った架空の人物が蘇我入鹿であると主張している。また石渡信一郎は『聖徳太子はいなかった—古代日本史の謎を解く』(1992年)を出版し、谷沢永一は『聖徳太子はいなかった』(2004年)を著している。近年は歴史学者の大山誠一らが主張している(後述)。
大山誠一による聖徳太子虚構説
1999年、大山誠一『「聖徳太子」の誕生』が発表された。大山は「厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つ以外は全くの虚構」と主張。さらにこれら2つにしても、『隋書』に記載されてはいるが、その『隋書』には推古天皇も厩戸王も登場しないと大山は考えた、そうすると推古天皇の皇太子・厩戸王(聖徳太子)は文献批判上では何も残らなくなり、痕跡は斑鳩宮と斑鳩寺の遺構のみということになる。また、聖徳太子についての史料を『日本書紀』の「十七条憲法」と法隆寺の「法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繍帳、三経義疏」の二系統に分類し、すべて厩戸皇子よりかなり後の時代に作成されたとする。
大山は、飛鳥時代に斑鳩宮に住み斑鳩寺も建てたであろう有力王族、厩戸王の存在の可能性は否定しない。しかし、推古天皇の皇太子として、知られる数々の業績を上げた聖徳太子は、『日本書紀』編纂当時の実力者であった、藤原不比等らの創作であり、架空の存在であるとする。以降、『聖徳太子の真実』(平凡社、2003)や『天孫降臨の夢』(NHK出版、2009年)など多数の研究を発表している。
大山説の概要「有力な王族厩戸王は実在した。信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は架空の人物である。『日本書紀』(養老4年、720年成立)に最初に聖徳太子の人物像が登場する。その人物像の形成に関係したのは藤原不比等、長屋王、僧 道慈らである。十七条憲法は『日本書紀』編纂の際に創作された。藤原不比等の死亡、長屋王の変の後、光明皇后らは『三経義疏』、法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繍帳の銘文等の法隆寺系史料と救世観音を本尊とする夢殿、法隆寺を舞台とする聖徳太子信仰を創出した。」
大山説は雑誌『東アジアの古代文化』102号で特集が組まれ、102号、103号、104号、106号誌上での論争は『聖徳太子の実像と幻像』(大和書房 2001年) にまとめられている。石田尚豊は公開講演『聖徳太子は実在するか』の中で、聖徳太子虚構説とマスコミの関係に言及している。『日本書紀』などの聖徳太子像には何らかの誇張が含まれるという点では、多くの研究者の意見は一致しているが、聖徳太子像に潤色・脚色があるということから「非実在」を主張する大山説には批判的な意見が数多くある。三浦佑之など大山説に賛同を表明する研究者もいる。
また、岡田英弘、宮脇淳子は大山説とは異なる視点から聖徳太子虚構説を論じている。
大山説への反論
仁藤敦史(国立歴史民俗博物館研究部教授)は、『日本書紀』や法隆寺系以外の史料からも初期の太子信仰が確認され、法隆寺系史料のみを完全に否定することは無理があると批判している。また「推古朝の有力な王子たる厩戸王(子)の存在を否定しないにもかかわらず、後世の「聖徳太子」と峻別し、史実と伝説との連続性を否定する点も問題」としている。
遠山美都男は「『日本書紀』の聖徳太子像に多くの粉飾が加えられていることは、大山氏以前に多くの研究者がすでに指摘ずみ」としたうえで、「大山説の問題点は、実在の人物である厩戸皇子が王位継承資格もなく、内政・外交に関与したこともない、たんなる蘇我氏の血を引く王族に過ぎなかった、と見なしていることである。斑鳩宮に住み、壬生部を支配下におく彼が、王位継承資格も政治的発言権もない、マイナーな王族であったとは到底考えがたい。」「『日本書紀』の聖徳太子はたしかに架空の人物だったかもしれないが、大山氏の考えとは大きく異なり、やはり厩戸皇子は実在の、しかも有力な王族だった」と批判している。
ほか、和田萃や、曽根正人らの批判がある。
平林章仁は、日本書紀はそもそも舎人親王が監督した正式な朝廷編纂の国史書であり、個人の意図で大幅に内容が変えられるものでないとして、日本書紀は虚構説の資料にはならないと指摘している。
倉本一宏は、「『聖徳太子』はいた」として、聖徳太子虚構説を「『聖徳太子』というのは、あとからできた敬称ですが、厩戸王という人はいたわけです。有力な王族であったことは確かですし、推古天皇、蘇我馬子とともに政を行っていたことは間違いない。ただし、その業績が伝説化された部分はあると思います」として、法隆寺は南都七大寺で唯一王権とほとんど関係なく、創建者の厩戸一族も滅んでいるという後ろ楯不在の寺であるため、存在意義のために聖徳太子伝説が必要であり、そこで作られたのが法隆寺系縁起であり、これらの史料がたまたま『日本書紀』に採用され、聖徳太子伝説を作ったのは法隆寺である旨指摘している。
聖徳太子虚構説に対する反論としては、直木孝次郎「厩戸王の政治的地位について」、上田正昭「歴史からみた太子像の虚実」(『聖徳太子の実像と幻像』所収)(2001年)、森田悌『推古朝と聖徳太子』(2005年)、などがある。
大山は2009年、これまでに十分な学術的な反論はないなどとしているが、上記の学者らの批判を学術的とみなさず、また大山の史料の恣意的な用い方や美術史の成果を無視する等の問題により、現在の歴史学会では無視されている。
虚構説の論点と歴史的資料
聖徳太子の存在を傍証する資料は、『日本書紀(巻22推古紀)』及び「十七条憲法」、『古事記』、『三経義疏』、『上宮聖徳法王帝説』、天寿国繍帳(天寿国曼荼羅繍帳)、法隆寺薬師如来像および釈迦三尊像の光背銘文、同三尊像台座内墨書、道後湯岡碑銘文、法起寺塔露盤銘、『播磨国風土記』、『上宮記』などの歴史的資料がある。これらのなかには厩戸皇子よりかなり後の時代、もしくは日本書紀成立以降に制作されたと考えられるものもあり、現在、決着してはいない。
日本書紀における聖徳太子像
大山説は藤原不比等と長屋王の意向を受けて、僧道慈(在唐17年の後、718年に帰国した)が創作したとする。しかし、森博達は「推古紀」を含む日本書紀巻22は中国音による表記の巻(渡来唐人の述作)α群ではなく、日本音の表記の巻(日本人新羅留学僧らの述作)β群に属するとする。「推古紀」は漢字、漢文の意味及び用法の誤用が多く、「推古紀」の作者を17年の間唐で学んだ道慈とする大山説には批判がある。森博達は文武天皇朝(697年-707年)に文章博士の山田史御方がβ群の述作を開始したとする。
『勝鬘経義疏』
『勝鬘経』の注釈書である『勝鬘経義疏』について藤枝晃は、敦煌より出土した『勝鬘義疏本義』と七割が同文であり、6世紀後半の中国北朝で作られたもので、大山はこれが筆写されたものとしている。
『法華経義疏』巻頭の題箋(貼り紙)について、大山は僧侶行信が太子親饌であることを誇示するために貼り付けたものとする。
安本美典は題箋の撰号「此是大委国上宮王私集非海彼本」中の文字(是・非など)の筆跡が本文のそれと一致しており、題箋と本文は同一人物によって記されたとして、後から太子親饌とする題箋を付けたとする説を否定している。また、題箋に「大委国」とあることから海外で作られたとする説も否定している。
王勇は『三経義疏』について「集団的成果は支配者の名によって世に出されることが多い」としながらも、幾つかの根拠をもとに聖徳太子の著作とする。ただし、『法華経義疏』の題箋の撰号については書体と筆法が本文と異なるとして後人の補記であるとする。また花山信勝は『法華経義疏』行間の書込み、訂正について、最晩年まで聖徳太子が草稿の推敲を続けていたと推定している。
『上宮聖徳法王帝説』の系譜
『上宮聖徳法王帝説』巻頭に記述されている聖徳太子の系譜について、家永三郎は『おそくとも大宝(701-704年)までは下らぬ時期に成立した』として、記紀成立よりも古い資料によるとしている。
天寿国繍帳
天寿国繍帳について大山は天皇号、和風諡号などから推古朝成立を否定している。また、金沢英之は天寿国繍帳の銘文に現れる干支が日本では持統4年(690年)に採用された儀鳳暦(麟徳暦)のものであるとして、制作時期を690年以降とする。一方、大橋一章は図中の服制など、幾つかの理由から推古朝のものとしている。義江明子は1989年に天寿国繍帳の銘文を推古朝成立とみてよいとする。石田尚豊は技法などから8世紀につくるのは不可能とする。
法隆寺釈迦三尊像光背銘文
法隆寺釈迦三尊像光背銘文について、大山説が援用する福山敏男説では後世の追刻ではないかとする。一方、1979年に志水正司は「信用してよいとするのが今日の大方の形勢」とする。
道後湯岡碑銘文
道後湯岡碑(伊予湯岡碑文)についてはこれまで推古天皇四年に建てたものとされてきた(牧野謙次郎,1938年)。
大山は、道後湯岡碑銘文における法興6年という年号について、法興は日本書紀に現れない年号(逸年号、私年号)であり、法隆寺釈迦三尊像光背銘文にも記されていると指摘している。
また大山は仙覚『万葉集註釈』(文永年間(1264年-1275年)頃)と『釈日本紀』(文永11年-正安3年頃(1274年-1301年頃))の引用(伊予国風土記逸文)が初出であるとして、鎌倉時代に捏造されたものとする。一方、荊木美行は伊予国風土記逸文を風土記(和銅6年(713年)官命で編纂)の一部としている。
法起寺塔露盤銘
慶雲3年(706年)に彫られたとされる法起寺塔露盤銘に「上宮太子聖徳皇」とあることについて、大山説では露盤銘が暦仁一年(1238年)頃に顕真が著した『聖徳太子伝私記』にしか見出せないことなどから偽作とする。
但し、大橋一章の研究では、嘉禄三年(1227年)に四天王寺東僧坊の中明が著した『太子伝古今目録抄(四天王寺本)』には「法起寺塔露盤銘云上宮太子聖徳皇壬午年二月廿二日崩云云」と記されている。
また直木孝次郎は『万葉集』と飛鳥・平城京跡の出土木簡における用例の検討から「露盤銘の全文については筆写上の誤りを含めて疑問点はあるであろうが、『聖徳皇』は鎌倉時代の偽作ではない」と述べている。また「日本書紀が成立する14年前に作られた法起寺の塔露盤銘には聖徳皇という言葉があり、書紀で聖徳太子を創作したとする点は疑問。露銘板を偽作とする大山氏の説は推測に頼る所が多く、論証不十分。」と批判している。
『播磨国風土記』の記述
『播磨国風土記』(713年-717年頃の成立とされる)印南郡大國里条にある生石神社の「石の宝殿」についての記述に、「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 厩戸 弓削大連 守屋 所造之石也」(原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり)とある。「弓削大連」は物部守屋、「聖徳王」は厩戸皇子と考えるなら、『播磨国風土記』は物部守屋が大連であった時代を、「聖徳の王(厩戸皇子)の御世」と表現していることになる。また、大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子の諡号を「聖徳王」としたとある。
教育における記述
一般的な呼称の基準ともなる歴史の教科書においては長く「聖徳太子(厩戸皇子)」とされてきた。しかし上記のように存命中の呼称ではないという理由により、たとえば山川出版社の『詳説日本史』では2002年(平成14年)度検定版から「厩戸王(聖徳太子)」に変更されたが、この方針に対して尊皇派が反発し批判を展開している。2013年(平成25年)3月27日付朝日新聞によれば清水書院の高校日本史教科書では2014年(平成26年)度版から、歴史研究者によって指摘されるようになってきた聖徳太子虚構説(従来聖徳太子として語られてきた人物像はあくまで虚構、つまりフィクションである、とする説)をとりあげた。(その内容については本記事の虚構説の節を参照のこと。→#虚構説)歴史家らから(厩戸皇子の存在はともかくとして)「聖徳太子」という呼称の人物像の虚構性を指摘されることは増え、学問的には疑問視されるようになっているので、中学や高校の教科書では「厩戸皇子(聖徳太子)」についてそもそも一切記述しないものが優勢になっている。(わずかに記述される場合でも、少なくとも「聖徳太子」という呼称はカッコの中でしか記述されない。)
なお「厩戸王」などとした表記について、「表記が変わると教えづらい」という声があることから、2020年度小学校へ、2021年度中学校に導入される予定の学習指導要領案最終版では、文部科学省は「聖徳太子」に修正するよう検討していたことが報道された。  
 
聖徳太子 2

 

聖徳太子といえば、約1500年前の人物ですが、以前1万円札に描かれていたこともあり、日本人なら知らない人はいないくらい有名です。そして、現在の日本が世界最大の仏教国とされる日本の仏教の基礎を築かれる、偉大な業績がありました。一体どんな人物だったのでしょうか?
聖徳太子の小さい頃のエピソード
聖徳太子のお父さんは、天皇で始めて仏教に帰依した用明天皇、お祖父さんは、538年、仏教が日本に伝えられたときの天皇である欽明天皇でした。
574年2月7日、お母さんが馬小屋の前を歩いておられたとき、急に産気づかれて生まれられたため、聖徳太子を「厩戸皇子(うまやとのおうじ)」といわれます。
2歳のとき、お母さんに抱かれた聖徳太子が「南無仏」と2回称えて、合掌し、周り中の多くの人々が、唖然として息を飲みました。お釈迦さまがお亡くなりになった2月15日のことでした。これが、聖徳太子の生涯を暗示しているエピソードです。そして小さい頃から、大変聡明で、立派でした。
5歳のとき、兄弟みんなで楽しく遊んでいると、どんどん盛り上がって大声ではしゃいでいました。そのとき、お父さんから「うるさいぞ!」と注意を受けると、みんな「わーっ」と言って逃げていってしまいました。その中で、聖徳太子だけが板の間に正座していました。 「どうして逃げないのか」と聞かれると、「空を飛ぶことも、土に潜ることもできません。ただお叱りを頂くばかりです」と答えられ、その立派な態度にお父さんは叱ることができなくなり、お母さんは、嬉しさの余り抱き上げてほおずりして喜びました。
7歳のとき、百済から数百巻のお経やその注釈が届き、仏教の勉強をはじめました。そのスピードたるや、1日1巻から2巻を読破していかれたとのことです。
蘇我氏と物部氏の争い
聖徳太子が11歳のとき、3月頃伝染病が流行ってたくさんの人が死にました。仏教を快く思っていなかった豪族の物部氏は、「この伝染病の流行は、蘇我氏が外国の神である仏教を興隆した祟りである」と朝廷に抗議し、天皇は仏法を中止することにしました。
喜んだ物部氏は、寺院へ攻め込んで焼き払い、仏像を海に捨てました。さらに蘇我氏のもとへ攻め込み、尼僧を引き渡すように要求しています。
それを聞かれた聖徳太子は、物部氏を出頭させ、天皇のお言葉をたてに、自分のやりたいことをやるのは、臣下の道に背くことだからただちに改めよ」と注意しています。
お父さんが天皇に
12歳のとき、お父さんが天皇に即位し、用明天皇となりますが、14歳のときには病気で亡くなってしまいます。41歳でした。
当時、次の天皇を誰にするかは、有力な豪族が話し合って決めることになっていたのですが、用明天皇が仏教に帰依したことで豪族間の対立が激しくなっており、仏教に反対していた物部氏が仏教を大切にしていた蘇我氏のところへ軍勢を率いて攻め込んできました。
聖徳太子の初陣
聖徳太子は、14歳のこのとき初陣を飾り、物部氏をことごとく打ち破ります。兵力も武器も劣勢な物部守屋は、自ら木に登り、弓矢で聖徳太子を狙いますが、逆に弓で射貫かれて戦死してしまいます。
大将を失った物部氏は全軍が総崩れになり、ついには滅亡してしまいます。
物部氏が滅亡すると、用明天皇の次は用明天皇の弟、崇峻天皇が即位し、蘇我氏は百済から僧侶や技術者を招き、日本初本格的な寺院飛鳥寺(法興寺)を建立し、仏教興隆を推進します。
数年後、崇峻天皇の次は、用明天皇の妹の推古天皇が即位します。そのとき聖徳太子は20歳で、叔母さんである推古天皇の摂政となりました。
摂政になってからの活躍
推古天皇の2年、聖徳太子21歳のときには「三宝興隆の詔」が出され、豪族たちが、氏寺をつくり始め、多くの僧侶が迎えられて、法事が営まれるようになりました。ただしその目的は、仏教の目的とは異なり、一族繁栄の祈願のためでした。これを「氏族仏教」といいます。
日本初の憲法を制定
聖徳太子が32歳のときには、日本初の憲法である「十七条憲法」を制定します。第一条は「和するをもって貴しとなす」第二条は「篤く三宝を敬え」とあります。
三宝とは、四生の終帰・万国の極宗である仏教のことで、日本人は仏教を学び、教えの通りに実践しなければならないということです。
35歳のときには、法隆寺を建立し仏教の勉強の場となり、別名「法隆学問寺」ともいわれます。60年後に火災に遭い、再建されていますが、世界最古の木造建築としても有名です。
日本初の仏教の研究書
36歳のときには、第3回の遣隋使で、4名の僧侶を中国へ送り、中国の仏教を学ばせました。それまでの日本では、百済や高句麗の朝鮮仏教を学んでいましたが、はじめて中国から直接学び始めたのです。
また聖徳太子自身も、高句麗から招いた僧侶について仏教を深く学び「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」を著したといわれます。
「三経義疏」とは『勝鬘経』『維摩経』『法華経』の注釈書で、
39歳のときの『勝鬘経義疏』1巻
41歳のときの『維摩経義疏』3巻
43歳のときの『法華義疏』4巻です。
これは、日本最初の仏教の研究書となります。
聖徳太子の遺言
こうして、仏教の興隆に多大な貢献をしてこられた聖徳太子が49歳で亡くなるとき、子供の山背大兄王などに、「諸悪莫作 衆善奉行」(もろもろの悪をなすことなかれもろもろの善を行じたてまつれ)と遺言されています。これは「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)」といわれ、仏教の根幹である因果の道理を教えられたものです。
聖徳太子の深い仏教の理解と信仰
聖徳太子は、生前、よく奥さんに対して、「世間虚仮 唯仏是真(せけんこけ ゆいぶつぜしん)」と話をしておられました。
これは、お金や財産、地位、名誉など、この世のすべては続かないもので、一時的な喜びしかなくはなかい幸せしかないということと、仏教だけが、本当の幸せを教えているということです。
蘇我氏をはじめ、豪族たちが、一族の繁栄を祈るために仏を信仰していた氏族仏教の時代、そのような一時的な幸せではなく、変わらない幸せを説かれた仏教の教えの本質を理解し、日本仏教の基礎を築かれたのです。 
 
聖徳太子が歴史から消える日 3

 

「聖徳太子は、推古天皇の摂政として冠位十二階、十七条の憲法を制定し、遣隋使の小野妹子を派遣した」
「日本で一番大きな古墳は、仁徳天皇陵である」
「日本最古の貨幣は、和同開珎である」
「鎌倉幕府の創立は1192年」
みなさん、これらの文章を読んでどう感じましたか。懐かしいなあ。そうそう、昔一生懸命憶えたよ。…そんな感想を持った読者も多いかも知れません。
もしもあなたが、この文章に何の違和感もおぼえないとしたら、あなたが学校で学んだ歴史は、もう時代遅れと言わざるをえません。
ご存知ないかも知れませんが、教科書は4年に一度改定され、そのたびに大きく内容が改訂されます。それは歴史の教科書も例外ではありません。それもよく話題になる大量虐殺や戦争の解釈などと言った近代史だけではなく、太古の史実についてもかつては常識と思われていたことが、変更されることも珍しくないのです。
たとえば聖徳太子の肖像。40代以上の方なら、昔の一万円札を思い浮かべる人も多いでしょう。ところが、あの太子の肖像は、今の高校の日本史教科書からは消えてしまっているんです。なぜでしょうか?
それはあの肖像が、「太子を描いたものではない」という説が強くなっているからです。あの肖像は法隆寺の『唐本御影(聖徳太子三尊像)』(現・宮内庁所蔵)ですが、これが描かれたのは少なくても太子の没後100年以上経った8世紀半と思われ、太子を描いたという明確な証拠はないのです。
さらに驚くべきは「聖徳太子はいなかった」という説も有力になってきました。研究者の大山誠一氏が「推古天皇の時代に厩戸という皇子はいたが、有力な皇子の一人に過ぎず、政治を主導したわけでもないし、聖徳太子の名で呼ばれたこともない。太子の業績は『日本書紀』で創作だ」といった研究成果を発表したのが発端です。この説は学界で定着しはじめ、その結果、いまの教科書では、次のように記されています。
「推古天皇が新たに即位し、国際的緊張のもとで蘇我馬子や推古天皇の甥の厩戸王(聖徳太子)らが協力して国家組織の形成を進めた。603年には冠位十二階、翌604年には憲法十七条が定められた」(2012年検定済『詳説日本史B』山川出版社)
いかがでしょうか。なんと、聖徳太子は、厩戸王と記され、推古天皇の協力者扱いに降格されてしまいました。しかも摂政とも皇太子とも記されておらず、単に天皇の「甥」とあるだけなのです。
教科書の内容が昔とは大きく変わっている例はこれだけではありません。
肖像画でいえば、京都の神護寺所蔵の源頼朝像(国宝)。似絵の大家・藤原隆信が描いたと習いましたよね。ところが十数年前あたりから、教科書掲載の源頼朝像の前に「伝」の語がつくようになりました。「頼朝だと伝えられている」という意味です。そう、本当に頼朝を描いたのかが怪しくなってきたのです。
美術史家・米倉迪夫氏が著書『源頼朝像 沈黙の肖像画』(平凡社)で、この肖像は室町幕府を創設した足利尊氏の実弟・足利直義だと述べたのがきっかけで、その後、この説がさらに有力になり、現在の日本史教科書からは神護寺の頼朝像は消えてしまいました。
あの凛々しい端正な肖像が頼朝でないということにショックを覚える方もいると思いますが、なんと、室町幕府をつくった足利尊氏像(京都国立博物館蔵)も、尊氏の執事の高師直、あるいはその息子の高師詮だとされ、教科書から消えているんです。
このように新説が定着したことは別に、研究の成果によって人物の評価自体が変わるケースもあります。
その典型が江戸幕府の5代将軍徳川綱吉でしょう。綱吉といえば、「生類憐みの令」を出して庶民を苦しめた将軍としてご存知の人も多いでしょう。徳川将軍の中でも印象の悪さではトップクラスと言ってもいいかも知れません。でも、2012年の教科書ではまったく異なる評価をしています。
「綱吉は仏教にも帰依し、1685(貞享2)年から20年余りにわたり生類憐みの令を出して、生類すべての殺生を禁じた。この法によって庶民は迷惑をこうむったが、野犬が横行する殺伐とした状態は消えた」、「戦国時代以来の武力によって相手を殺傷することで上昇をはかる価値観はかぶき者ともども完全に否定された」(『詳説日本史B』)というように、評価が180度変わり、好感度が急上昇しているのです。
B・M・ボダルト・ベイリー氏は『ケンペルと徳川綱吉』(中公新書)のなかで、「この法令は、単に動物を愛護すべきであると規定した法律にとどまるのではない。むしろ、かつてどこにも見られなかった程に、社会的弱者や貧者を保護することを目指した法律なのである」と述べています。
その理由として、綱吉が捨て子や子殺しを禁じ、役人が貧者などに食事や宿泊所を提供する義務を課し、さらに獄舎での囚人の扱いを改善させたこと、旅の途中で病になった病人の保護を宿屋に命じたことをあげ、「この時代に定められた諸々の法律は、近代の社会福祉立法の先駆的なものだったのである」「犬を保護すべきことを定めた法律も、右に述べた関連の中で解釈しなければならない」と語っています。こうした研究成果が、教科書にも反映されているのです。
古墳の表記も変化しています。じつは天皇陵は幕末から明治初期に比定されたのですが、その結果に誤りが多いことから「古墳は天皇名で呼ばず地名で呼ぶべきだ」という学界の意見が強くなり、仁徳天皇陵は「大仙古墳(伝・仁徳天皇陵)」と表記されるようになりました。
また、古代は菅原道真や崇徳上皇など怨霊になったとされる人物が歴史に影響を与えていますが、かつては非科学的としてその事実は教科書に盛り込まれませんでした。ところが近年は、当時の思想を正確に記す傾向が強くなっています。
たとえば、桓武天皇が長岡京をわずか10年で捨てて平安京に遷都した理由について「長岡京の造営責任者藤原種継の暗殺事件に関連して、皇太弟の早良親王が捕らえられて死亡すると、桓武天皇はその怨霊に苦しみ」、「平安京に遷都した」(『日本史B』東京書籍)と明記されています。
さらに衝撃的なのは、歴史的出来事の年号が変わってしまったケースでしょう。鎌倉幕府の創立も1192年を明記する説は影を潜め、源頼朝が朝廷から守護・地頭を任命できる権利を得た1185年を武家政権の成立とする教科書が増えています。
科学の進歩も、近年は歴史を変えはじめています。
加速器質量分析法の採用によって精度が良くなった放射性炭素年代測定法を用いたところ、縄文時代の始原は1万6500年前との結果が出ました。これは通説より3000年以上さかのぼります。また、その遺物や土壌から抽出したDNAや残存脂肪酸、プラント・オパール、成分を科学分析することで、新しい発見につながることも少なくなくなりました。
つい先日も、60年前に飛鳥寺の塔跡から出土したガラス玉(約1800点)は、これまですべて中国産と考えられていました。それを蛍光エックス線で分析したところ、メソポタミアから中央アジアのかけての地域でつくられたガラス、南インド産や東南アジア産のガラスも含まれていたことが判明したのです。
今後も現代科学の成果や多くの歴史学者の研究によって、歴史の解釈や新事実が見つかり、それによって教科書はこれからもどんどんリニューアルされることは間違いありません。
こうした新発見の中には、発表当時はまったく相手にされず「とんでも学説」と見なされたものもあります。
しかし、それぞれの学者は定説や常識だと思われていることについても疑問を持ち、地道な調査と資料の分析の積み重ねによって、自ら立てた仮説を証明していったのです。こうした学者達の努力に敬意を払うのはもちろんですが、同時に彼らの真摯な研究姿勢には学ぶ者が多いのではないでしょうか。
いま、世界史や日本史の教科書をもう一度読みなおすことが流行っています。堅い話はともかく、まずは書店に並ぶ教科書を手にとって眺めてみてください。きっと思わぬ変化が発見できると思いますよ。 
 
聖徳太子は本当に存在したのか? 4

 

聖徳太子とはいったい“誰”なのか
誰もがその名を知る、日本古代史最大級の偉人「聖徳太子」。
かつて旧1万円札の代名詞でもあり、「一度に10人の話を同時に聞き分ける」など、その生涯における超人的エピソードは、1400年の時を経てなお今日に語り継がれています。
もちろん、「憲法十七条」や「冠位十二階」「遣隋使の派遣」など、彼の成し遂げた偉業の数々は誰もが教科書で習った覚えがあるはずです。
ところが近年、「聖徳太子が、じつは存在しなかった」という、にわかに信じられない学説が唱えられ、従来の教科書表記にも影響を及ぼすほどに拡大しています。教科書を見ても、いままでは「聖徳太子」と書かれていたのが、最近の教科書では「厩戸王(聖徳太子)」(山川出版社の『詳説日本史B』)とカッコつきの表記に変わってきています。
いったい「聖徳太子」はいたのか、いなかったのか?よく聞かれる10の質問に答える形で解説しましょう。
Q1. ズバリうかがいます。聖徳太子はいたのですか?
いました。でも、その前にひとつ確認しておきましょう。「聖徳太子」と私たちが呼んでいるこの名前は、彼の本名ではありません。これは彼の功績を称える人々が後世になり彼に贈った名前で、贈られた人物の名は「厩戸王(うまやとおう)」。この「厩戸王」は実在の人物です。よって、「いた」となります。
Q2. 「聖徳太子はいなかった」はウソだったのですね。
ところが、そうとも言えない事情があります。「聖徳太子はいなかった?」は、ここからが本題です。
たしかに「厩戸王」はいましたが、厩戸王が今日に伝わる「聖徳太子」そのものの活躍を実際にしたのかとなると、話は変わってきます。聖徳太子が行ったとされる数々の偉業と彼との関係をあらためて調べていくと、「意外な結果」へとたどりつくのです。
Q3. まず「厩戸王」について簡単にご説明ください。
「厩戸王(うまやとおう、574〜622)」は飛鳥時代の政治家です。本名は「厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)」。用明天皇の皇子として誕生し、母は蘇我稲目(そがのいなめ)の孫にあたる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)です。19歳で推古天皇の摂政となり、「憲法十七条の制定」など数々の偉業を成し遂げます。この功績により、後世「聖徳太子」として人々に称えられ、その名がいまに定着しています。
Q4. 聖徳太子が否定されるきっかけは何だったのですか?
彼の行ったとされる実績は「冠位十二階の制定」「憲法十七条の制定」「国史編纂」「遣隋使の派遣」「仏教興隆(三経義疏、法隆寺・四天王寺の建立)」など、こうして書き連ねるだけで膨大です。
冷静に考えて、「これらをひとりの人物がすべてやったとは考えられない」というわけです。
Q5. 聖徳太子と厩戸王との相違点は何ですか?
聖徳太子は上記の偉業をすべて行った、それゆえの「“聖徳”太子」ですから、人物像も明快です。それに対し、「厩戸王」については、当時の史料をあらためて検証する限り、「憲法十七条」も「冠位十二階」も、彼が主体として確実に関与していたという証拠がないのです。
もちろん、だからといって、彼が政治の中枢にいたことはたしかですから、まったく無関与であったとも言えません。現時点では「グレー」なのです。
Q6. 憲法十七条はあったのですか?
ありました。ただ、『日本書紀』にある604年という成立年に疑問が生じているようです。当時の天皇家の持つ権力(=勢力)は、蘇我氏など大豪族とあまり差がなく拮抗しており、この状態で条文にある「天皇中心の国家」をうたいあげるにはまだ時期が尚早だったとの見方と、条文にある「国司」名が未だ使われていなかったのではという疑問点から、「実際の制定はもっと後の時代だった」という主張もあります。
Q7. 冠位十二階はあったのですか?
ありました。ただ、中国、朝鮮半島でも同じような制度はあったので、それを導入したと考えるのが自然でしょう。また、制定の理由は「新しい人材登用が目的」というより、「当時遣隋使の派遣などで積極的に国際化を目指した日本が、先進国としての対外的イメージをつくるため」という意味合いが強いようです。なお、制定に際し、ここでも「厩戸王」の主体的関与の証拠はありません。
Q8. 遣隋使派遣はあったのですか?
ありました。でも小野妹子で有名な607年が最初ではありません。日本側の記録にはありませんが、中国側にはっきりと600年に遣隋使が訪れたときの詳細な記録が残されています。当時の遣隋使は、後の遣唐使ほどの重要性を持ってなかったとも考えられます。
遣隋使に関しても、厩戸王の主体的関与の証拠は見つかっていません。
Q9. 法隆寺は厩戸王が建てたのですか?
わかりません。現在の法隆寺は再建(670年に一度焼失)で、寺院に伝わる仏像も彼より後の時代のようですから無関係。焼失前のオリジナルは、現法隆寺の敷地に重なる形で残る「若草伽藍(わかくさがらん)」と呼ばれる寺院遺構とされていますが、なにぶん、こちらも遺構ですから関与の証拠を見出すのは難しいでしょう。近年の考古学的成果からは、部材類の年代は「再建説」を補強しています。
Q10. では、なぜ「聖徳太子」が作り上げられたのですか?
厩戸王が死去して50年後、凄惨な皇位継承権争い(壬申の乱)が起きます。天皇の権威は失墜し、勝者となった天武天皇(631?〜686)は「天皇中心の中央集権律令国家づくり」をすすめていきます。
そのとき天武天皇は「厩戸王」というひとりの人物に着目します。彼と同時代に行われた数々の施策を誇大評価し、これらの偉業すべての部分で関与したとする「聖徳太子」をつくり上げたのです。ライバルである有力豪族に対し、神代から続く自らの血筋の優秀性と日本国の統治者であるという正統性を再認識させようとしたのでは、と考えられています。
こうしたことを背景にして戦前につくり上げられた「聖徳太子」像は、いま大きく揺らいでいるのです。  
まとめ
聖徳太子の称号は「憲法十七条」をはじめ、数々の功績によるもの。
ところが、最近の研究から、推古王朝は彼一人でなく天皇、蘇我氏、厩戸王3者の共同体制による運営とされ、
(1)冠位十二階などは「多くの人物」の手による合作
(2)憲法十七条は彼よりも「後の時代」に完成した
(3)遣隋使は小野妹子より「以前から」派遣されていた
など、彼自身の実績とは直接関係ないとする可能性も指摘され、徐々に疑問が生じています。
少なくともこの時代に、彼が天皇の摂政として存在したのは確かですが、「聖徳太子」の称号に値する“すべてをひとりで成し遂げた”人物ではなかった、つまりは「“聖徳太子”はいなかった」とする見方が現実味を帯びてきました。
歴史は絶えず進化する
後に「伝説の学習参考書」と呼ばれた『大学への日本史』の初版は1973年。刊行後の40年の間に、さまざまな歴史的事実が明らかになりました。歴史は絶えず「進化」を続けています。
今回のリニューアル出版にあたっては、まだ上記の議論に結論が出ていないことから、従来の内容に従い、これらは彼の成した功績として記述していますが、人物名は「聖徳太子」とせず、本来の名である「厩戸王(聖徳太子)」としました。
(旧)聖徳太子→(新)厩戸王(聖徳太子)
現在使われている高校の日本史教科書(『詳説日本史B』山川出版社)でも、「厩戸王(聖徳太子)」と表記されていますが、次の教科書検定で改訂されるときには、「聖徳太子」の語は本文からは削除されると思われます(脚注では言及される見込みです)。
今回紹介した歴史の「進化」の一例も、現時点での「最新版」ですが、決して「最終版」ではありません。研究・発見が続く限り、歴史教科書はこれからも内容が書き換えられていくことでしょう。
ありがとうございました。最後に、「一度に10人の話を同時に聞き分ける」は本当ですか?
10人がいっせいに言葉を浴びせかけたわけではなく、「10人の話を1人ずつ順に聞いたうえで、それぞれに対し明快な回答を行った」というのがどうやら実態のようです。いずれにせよ、こうした伝説が後世、彼(聖徳太子)のイメージをより肥大させることとなった一因でしょう。
一方で、この「耳が良い(=賢い)」は、彼の名前にある称号「豊聡耳(とよとみみ)」に由来するもので、こうした表現がある以上、実際の「厩戸王」本人も、非常に優秀な人物だったことはまず間違いありません。
 
聖徳太子 5

 

592年、推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)で即位し、甥(おい)の廐戸皇子(うまやどのみこ−「聖徳太子」)が皇太子となった。廐戸皇子は推古天皇の摂政となり、政治を行った。聖徳太子は大王(天皇)中心の政治をめざし、遣隋使派遣、冠位十二階や十七条憲法を制定した。また、四天王寺・法隆寺などを建立した。
飛鳥時代は渡来人が活躍した時代でもある。その渡来人たちが伝えた仏教は日本に大きな影響を与えた。
大和王権の有力な豪族に蘇我氏と物部氏がいる。蘇我氏は渡来人の東漢氏(やまとのあやうじ)や西文氏(かわちのふみうじ)とつながり、大陸の文化を多くとりいれようとしたり、仏教を崇拝し自宅に仏像をおいたりした。物部氏は石上神宮を氏神とし、中臣氏や忌部氏とともに排仏を主張した。こうして蘇我氏と物部氏の対立が激しくなっていく。この動乱の中で廐戸皇子が登場し、大王を中心とした争いのない国づくりを目指していく。
国内の情勢 
大和の豪族物部尾輿と蘇我稲目
大和王権下において、有力な豪族たちの集団を「氏:うじ」といい、「氏上:うじがみ」(一族の首長的地位)を中心としてまとまっていた。また、氏上は大和王権の構成員であり、それぞれの地位応じて「臣:おみ」「連:むらじ」「宿禰:すくね」「造:みやっこ」というような「姓:かばね」を授けられていた。これを「氏姓制度」という。「姓」の中でも特に、「臣:おみ」「連:むらじ」を賜(たまわ)った豪族は大和王権の中心部にいた。葛城(かずらぎ)、平群(へぐり)、巨勢(こせ)、蘇我(そが)、大伴(おおとも)、物部(もののべ)などは大和王権における有力な豪族だった。そして、最も力のある豪族には「大臣:おおおみ」と「大連:おおむらじ」という位を授けられていた。軍事や裁判を担当していたのが「大連」の物部氏(物部尾輿:おこし)、財政や外交を担当していたのが「大臣」の蘇我氏(蘇我稲目:いなめ)だった。
蘇我稲目は奈良県飛鳥地方を拠点として全国に進出していった。飛鳥地方の檜隈(ひのくま)には東漢氏(やまとのあやし)という渡来人が多く住んでおり、大陸の技術を伝えた。蘇我氏は彼らと結びつくことで勢力を伸ばした。また、二人の娘を欽明天皇の妃(きさき)とし、天皇の外戚(がいせき)として地位を確固たるものにした。
仏教伝来
538年(552年説もある)、百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典、仏具などを献上したことが仏教伝来の始まり。天皇は礼拝すべきかを臣下たちに問うと、大陸の優れた文化である仏教を受け入れるべきと蘇我稲目が答えたのに対して、物部尾輿や中臣鎌子らは外国の神を受け入れれば、日本古来の「神(国つ神)」が怒るという理由から、仏教に反対し、徹底的に排除するべきと言った。そこで天皇は試しに拝んでみるようにとこれらを蘇我稲目に授けた。稲目は小墾田の自宅に安置し、向原(むくはら)の家を浄めて寺とした。この時より向原の家は日本最初の寺となった。
国内で疫病が流行った時、尾輿はその原因が仏教のせいだと批判した。そのため、570年に稲目が死去すると、天皇の許可を得て稲目の寺を焼き払った。家は焼けても仏像は燃えなかったため、仕方なくこれを難波の堀江に投げ込んだ。しかし、疫病はなくならず天災も続いた。
後に推古天皇はここ向原の地を宮とした。小墾田の宮に移った後は豊浦寺(とゆらじ)となった。
物部尾輿が仏像を投げ捨てた池と伝わるのが難波池。当時ここは難波の堀江とよばれていた。
投げ捨てられて池に沈んでいた仏像は信濃の国から都に来て、この池の前をたまたま通りかかった本田善光(ほんだよしみつ)という人物によって発見される。
長野の善光寺縁起によると、仏像は聖徳太子の祈りに一度だけ水面に現れたが再び底に沈んだままとなっていた。しかし、本田善光が池の前に来ると、金色の姿を現し、善光こそ百済の聖明王の生まれ変わりであると告げる。善光はこの仏像を背負い信濃にもどり自宅に祀った。これは善光寺の創建に関わる話である。
聖徳太子の生涯
584年、百済から鹿深臣(かふかのおみ)が弥勒菩薩(みろくぼさつ)を持ってもどってきた。蘇我馬子は仏殿を建ててそれを収めた。敏達(びだつ)天皇が崇仏に同意したこともあって、蘇我氏対物部氏の対立が再び激化する。
父稲目の時代と同じでこの時も疫病が流行り始めた。585年、物部守屋(もりや−物部尾輿の子)は敏達天皇に仏教が原因と訴えると天皇もこれに同意したため、守屋は仏像・仏殿を焼き払ってしまった。しかし、この後も疫病は続き、天皇までも病死してしまう。続く用明天皇も病死し、その後継者をめぐって、蘇我氏と物部氏の対立は宗教対立からやがて武力衝突へと発展する。いよいよ互いの権力争いに決着をつけねばならなくなった。
587年、とうとう蘇我氏は物部氏など廃仏派の豪族たちと戦い、物部守屋をはじめとする有力豪族を滅ぼした。こうして、大和王権における蘇我氏の権力が確立した。この戦いには蘇我氏の血をひく14歳の廐戸皇子(うまやどのおうじ:後の聖徳太子)も蘇我氏とともに戦った。「聖徳太子」は太子の死後に贈られた諡号(しごう)で、生前は廐戸皇子(うまやどのみこ)あるいは上宮太子(じょうぐうたいし)とよばれていた。(このページでは摂政になる以前を「廐戸皇子」「皇子」、以後を「聖徳太子」「太子」と記述した。)
570(欽明31)年 
29代欽明天皇と蘇我稲目の子(堅塩媛−きたしひめ)との間に生まれた橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ−後の用明天皇)は欽明天皇と蘇我稲目の子(小姉君−おあねのきみ)との間に生まれた穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ:「はしうど」と読むこともある)を妃とした。
571(欽明32)年
正月元日、穴穂部間人皇女の夢の中に「救世観音菩薩」と名乗る僧侶が現れ、妃の腹に宿りたいと申し出た。この申し出を承諾すると目が覚めたが、のどの奥に違和感を感じていた。この夢の話を聞いた橘豊日皇子は「きっと聖人を生む」と語った。このとき妃は妊娠していた。
妊娠して8か月が経ったとき、お腹の中から胎児の言葉が聞こえてきて周囲を驚かせた。
574(敏達3)年 (572年に誕生の説もあるがここでは「帝説」に従った)
欽明天皇の離宮のあった橘寺で廐戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ−廐戸皇子・厩戸皇子・聖徳太子)が誕生した。廐戸皇子の父方も母方も祖母は蘇我稲目の娘であり、蘇我氏の血をきわめて濃く受け継いでいた。
正月元日、間人皇女が宮中を散歩していたときのこと、馬小屋の前で急に産気づかれ、出産してしまった。侍女たちがあわてて赤子を寝殿に入れると、西方より赤や黄色の光が明るく照らし、寝殿はよい香りが漂った。12か月もお腹にいて生まれた赤子は元気な男の子だった。この赤子は手に仏舎利を握りしめていた。懐妊や馬小屋で誕生の話はなぜかイエス=キリストの誕生に似ている。
この年の4月にはもう言葉を発していた。最初の言葉は「私は救世観音であり阿弥陀如来でもある」、「未だ仏教の伝わっていない倭国が哀れなので、仏教に反対する者を誅して仏法を興す。」であった。
575(敏達4)年 2歳
2月15日の夜明け前、一人目を覚ました皇子は東方に向かって小さな手を合わせ、「南無仏」と念仏を唱えたという。このとき、それまで握りしめていた仏舎利が地面に落ちた。この仏舎利が法隆寺にあるらしい。夜明け前に念仏を唱えることは7歳になるまで続いたと言われている。
576(敏達5)年 3歳
皇子が父母とともに御園で遊んでいたときのこと、父が「桃の花と松葉とどちらを愛でるか」と問うと、皇子は「松葉」と答えた。「桃は一時だけきれい花を咲かせるがすぐに散ってしまう。松葉は万年葉をつけている。」と言うと父は皇子を抱き上げた。
577(敏達6)年 4歳
小さな王子たちが庭で騒いでいたので、橘豊日皇子は怒って笞(むち)を持って追いかけた。そのとき、皇子一人が衣服を脱いで皇子の前に立った。「どんなに階段を高くしても天までは届かない。どんなに深く穴を掘っても身を隠すことはできない。ならば、自ら進んで笞でうたれましょう。」これを聞いて母は涙して皇子を抱きしめた。
578(敏達7)年 5歳
敏達天皇が豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)を皇后とした祝いの席で、皇子は大臣の蘇我馬子らの群臣より先に皇后に正しい儀礼によって奉拝した。侍女があとで皇子にこのわけを尋ねると、「この方は後に天皇になる」と答えた。皇子は豊御食炊屋姫が後に推古天皇となることを予見していた。
579(敏達8)年 6歳
百済から大別王(おおわけのおおきみ)が経論を持って帰国した。その奏上を奥で聞いていた皇子はそれらを見たいと天皇に申し出た。このとき、皇子は「前世は漢の衡山(こうざん)に住み、何十回も転生を繰り返して仏道を修行した」と語った。あまりに不思議な話であったが、経論を見ることを許可すると、瞬く間にこれらを読んでしまった。
584(敏達13)年 11歳
童ら36人との遊びの中で、彼ら全員が順にしゃべる言葉を一語一句まちがえず復唱した。これを聞いた童らの親が試しにわざと難解な語句を言わせても、皇子はそれらを聞き分けて復唱した。
585(敏達14)年 12歳
用明天皇が即位する。
体から光明を放つと言われる日羅(にちら)が来朝したが、天皇は皇子が日羅に会う許しを出さなかった。そこで、皇子は体を汚し、粗末な服を着て、多くの童らに混じって日羅の家に出かけた。しかし、どのような格好で出かけても、日羅は童たちの中にただ者ではない者がいると見抜いてしまった。そこで、皇子はすぐに帰宅して、失礼の無いよう正装し再訪問した。再訪した皇子の前で日羅が合掌すると、日羅の体が光り、皇子の眉間からは光が放たれた。後に皇子は日羅のことを「前世はわたしの弟子であった」と語った。
廐戸皇子は用明天皇に愛され、少年期から青年期にかけて、天皇の宮(池辺宮:いけのべのみや)の南にあった上宮(かみつみや)で過ごした。桜井市上之宮の発掘調査によって、掘立柱建物跡と排水溝、園池遺構を含む一辺が約100m四方の住居跡が見つかった。ここが皇子が過ごした上宮の跡ではないかと言われている。
587(用明2)年 14歳
用明天皇は病気回復を願って仏教に帰依しようと群臣に相談した。蘇我馬子は賛成したが物部守屋や中臣勝海らは大反対した。これは武力対立へと発展するもとになっていった。
用明天皇が崩御する。
587(用明2)年 14歳
物部守屋は穴穂部皇子(あなほべのみこ)を次期天皇にしようとしていたが、蘇我馬子は額田部皇女(後の推古天皇)を後継とし、穴穂部皇子や皇子とつながっていた宅部皇子(やかべみこ)を殺害した。こうして物部氏と蘇我氏の対立が激化する。
7月、大和の蘇我馬子と大阪河内の物部守屋が武力闘争を始めた。(丁未の変:ていびのへん)
この戦いでは廐戸皇子や泊瀬部皇子(はつせべのみこ−後の崇峻天皇)、竹田皇子らの蘇我氏の血を引く皇族も蘇我馬子の軍に加わった。また、紀氏、巨勢氏、膳部氏、葛城氏、大伴氏、安倍氏、平群氏などの有力豪族も蘇我氏軍について戦った。
蘇我軍は志紀郡(藤井寺市、柏原市あたり)から物部氏の本拠地であった渋河(渋川)の館(八尾市)に至った。守屋は子弟と奴の軍隊を率いて稲を積んだ砦−稲城(いなぎ)を築いて戦った。衣揩(衣摺:きずり)で榎木(えのき)の木股(また)に登り、矢を雨のように射た。この攻撃に対し、蘇我の軍勢は3度も敗退している。(衣揩の戦いともいう)
この後、皇子らは信貴山に逃げ込む。そこで、白膠木(ぬるで:ウルシ科の落葉小高木)で四天王像(仏教での守護神とされる持国天、増長天、広目天、多聞天)を彫り、ひょうたんのような形に結っていた頭髪に入れた(髪にしばりつけたのかもしれない)。そして、皇子はこの戦に勝ったなら四天王のために寺塔を建立すると誓った。また、この時蘇我氏も戦勝後の寺院建立を誓った。
再び体勢を整えた皇子は、河内の渋河で守屋の軍勢に猛攻撃を行った。この時守屋は木の上から矢を放っていたが、蘇我軍の迹見赤檮(とみのいちい)から放たれた矢が命中、守屋は木から落ちた。すかさず秦河勝(はたのかわかつ)が守屋の首を切り落とした。そして、その首を池で洗い本陣に持ち帰った。
こうして、蘇我馬子・廐戸皇子軍は物部守屋を滅ぼした。
物部守屋生存伝説がある / 蘇我氏に破れた物部守屋は東浅井郡浅井町まで漆部小阪を伴って領地の田根之荘に逃げてきた。そして、池奥の山中にある洞穴に隠れ住んだ。ここを「本宮の岩屋」と呼んでいる。食事の世話は村人が行った。守屋は食べるものに困らないよう、凶作に備えてため池を造らせた。そのため池が西池で、今も残っている。守屋はここで萩生翁と自称して暮らした。村人は守屋に対して恩を感じ、神社に祀ったと語り継がれている。
588(崇峻2)年 15歳
戦勝の誓いに従い、蘇我氏は法興寺(飛鳥寺)の建設を始めた。
589年 隋が中国全土を統一した。(都は西安(長安)、初代皇帝は文帝)
丹後半島(京都府竹野郡丹後町)に「間人」と書く地名がある。これを「たいざ」と読む。
蘇我氏と物部氏との争いの間、聖徳太子の生母の穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとのみこ)は乱を逃れて「大浜の里」にいた。争いが終わり間人皇后は斑鳩にもどることになったが、里の人々の厚いもてなしに感謝して自分の名をこの地に残し「間人(はしうど)」と名付けられた。しかし、里人はあまりにおそれおおいことだから、「大浜の里を退座された」ということから間人を「たいざ」と呼ぶようになったと伝わる。丹後町の観光地でもある立岩を見る海岸に間人皇后と聖徳太子の母子像が立っている。(聖徳太子はこの時14歳であり像の姿とは合っていないように思われる。また、ここを訪れたかどうかは不明。)
592(崇峻5)年 19歳
11月−蘇我馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に崇峻天皇を殺害させる。東漢直駒が馬子に殺害される。
12月−推古天皇が豊浦宮(とゆらみや)で即位する。 
593(推古1)年 20歳
4月−聖徳太子が皇太子となり、推古天皇の摂政となる。
聖徳太子には特別な才能があったとされる。そのため、推古天皇の子を皇太子とするのではなく、聖徳太子にその重要な役割を担わせた。摂政とは天皇にかわって政務を行う官職で、推古天皇の命によって聖徳太子が最初の摂政となった。これにより、蘇我氏の独断で行われていた政治を正すこともできた。また、太子は、天皇と豪族との関係も正していった。
聖徳太子、難波の荒陵(あらはか)に四天王寺を建造する。
593年(推古天皇元年)に聖徳太子によって建立された日本最初の官寺。中門、五重塔、金堂、講堂が一直線に並べ回廊が囲む四天王寺式の伽藍配置が特徴。蘇我氏と物部氏との戦いの際、当時16歳の廐戸皇子は四天王尊像を彫って、「戦いに勝てば四天王像を安置する寺院を建立しよう」と戦勝祈願した。誓願がかない、四天王寺を建立したとされる。
594年(推古2)年 21歳 
2月−仏教興隆の詔を発する。 
寺院建立にふさわしい地を求めて近江(滋賀県)に立ち寄った。
595(推古3)年 22歳
5月−高句麗の僧恵慈(えじ)が渡来して聖徳太子の師(仏教を教えた)となった。特に隋のことは詳しく伝え聞いたとされる。(615年帰国)
(もう一人の師として覚(かくか)がおり、儒教を学んだが詳細は不明)
聖徳太子が恵慈らから知り得たこと
  隋は仏教を暑く保護している。
  長安には寺院が多くあり、仏教文化が花開いている。
  中央集権国家が完成しており、官僚の規律として儒教が重んじられている。
このころの倭国
  政治は有力豪族の思いのままになっている。
  豪族が土地、山、海を財産とし、民を私有している。民はみな飢えている。
596(推古4)年 23歳
11月−法興寺(飛鳥寺)が完成する。
600(推古8)年 27歳
中国大陸との外交を結ぶため、初めて遣隋使を派遣した。(第1回遣隋使は隋書に記載されている)
随は598年、朝鮮半島の高句麗が隋に侵入してきたため、逆に高句麗を攻め滅ぼした。これは朝鮮半島の他の国や倭国にとって脅威(きょうい)となった。倭国はこれまで朝鮮半島との国交を大切にし、様々な文化や技術は朝鮮半島経由で入ってきた。太子は隋の進んだ文化や政治制度に目を向け、直接隋からそれらを取り入れることを考え遣隋使の派遣となった。しかし、隋の文帝は倭国の使者の言葉を聞いて、倭国が何もわからない国と知り、国交を結ぼうとはしなかった。太子は外交が失敗したことを知る。
601(推古 9)年 28歳
2月−聖徳太子、斑鳩宮を建造する。
朝鮮半島の南部に任那(みまな:または伽耶かや)という当時の倭国にとっては重要な土地(ここが天皇家の「故郷」とする説もある)があったが、東の新羅(しらぎ・シルラ・シンラ)に奪われてしまった。そこで新羅を攻めて任那を奪回しようと新羅征討を進めた。あくまで新羅征討を主張する蘇我氏に対して、聖徳太子は方向転換して友好関係を結ぶことも大切と考えていたため二人が対立した。そのため、太子は飛鳥を出て斑鳩に宮を造営したとされる。斑鳩の地から難波への道が整備されたため、斑鳩は外交の玄関難波と都の間にあって、二点を結ぶ要所でもあった。
602(推古10)年 29歳
6月−聖徳太子の弟の来目皇子が新羅征討軍の将軍として2万5千の兵を連れて九州に行くが、そこで病死してしまう。(蘇我氏の命によって暗殺されたという説もある)次に当麻皇子を将軍にして九州に送ったが、皇子の妃が急死したため、将軍自ら奈良の都に戻ってしまった。司令官がいなくなって新羅征討は中止せざるをえなくなった。
603(推古11)年 30歳
小墾田宮に遷都する。
12月−冠位十二階を制定する。()
官位は豪族の中から才能や功績によって個人に与えられるとし、下の表のように十二階定めた。役人は位階に相当する色の付いた冠を着けた。これによって、豪族の支配する世の中から公の官僚が政治を行う国にしようとした。これが中央集権国家建設の基礎となる。第1回遣隋使の失敗が倭国が国として成立していないことによるものと考えた聖徳太子は、多くの改革を始めた。
新羅から弥勒菩薩像が献上された。
聖徳太子は秦氏(はたうじ−新羅系渡来人)の長、秦河勝(はたのかわかつ)に授けた。河勝は寺を建てそれを安置した。これが京都市太秦にある広隆寺の半跏思惟(はんかしい)の弥勒菩薩像(みろくぼさつぞう)と言われている。
604(推古12)年 31歳
4月−憲法十七条(けんぽうじゅうしちじょう)を制定する。(下部も参照)
憲法十七条(簡約)
1 和を大切にし、人と争わないように心がけなさい。
2 あつく三宝(さんぽう)を敬え。三宝とは、仏・法・僧であり、仏教を信仰しなさい。
3 天皇の命令には必ず従いなさい。
4 すべての役人は礼を守りなさい。礼は民を治め官人の序列をも維持するもの。
5 私利私欲を捨てて、民の訴えを公正に裁きなさい。
6 善と悪をよくみきわめて対応しなさい。
7 自分の任務をきちんと行い、他の職務に干渉してはいけない。
8 役人は朝早く出勤し、夜遅くまで働きなさい。
9 善悪は義の根本である信(誠実さ)のあるなしに関係している。心がなければ何事も成功しない。
10 人それぞれに意見が違うのはあたりまえなので、違うからといってむやみに怒ってはいけない。
11 部下の仕事のできをきちんと見極めて賞罰の判断をしなさい。
12 地方の役人は民から税をとってはいけない。
13 役人は同僚や上司の仕事の内容も知っていなさい。
14 役人は他人をうらんだりねたんだりしてはいけない。
15 役人は私情を捨てて、正しく職務を遂行しなさい。
16 民を労役に使うときは、時節をよく考えなさい。農業の忙しい時期に招集してはならない。
17 大事なことは一人で決めず、多くの人々とよく議論してから決めなさい。
豪族たちに、国家の官人(役人)としての心構えを示した。天皇の命に従い、仏教をうやまうことを大切にした。日本で初めて「憲法」という言葉が使われた。これによって理想的な国家作りを行った。
605(推古13)年 32歳
天皇が飛鳥大仏を作らせる。
聖徳太子が斑鳩宮に移る。  
606(推古14)年 33歳
聖徳太子が天皇に勝鬘経(しょうまんぎょう)を講義する。
4月−鞍作止利、丈六の金銅仏を法興寺(飛鳥寺)に安置する。
607(推古15)年 34歳
仏法興隆を願って法隆寺(斑鳩寺)が建立される。
当時は斑鳩寺(いかるがでら)と呼ばれていた。現存する世界最古の木造建築物となっている。建築材は桧(ひのき)で樹齢1000年以上の桧が使われた。礎石の上に柱が建てられている。五重塔の高さは31.8m。
世界最古の木造建築用明天皇が病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願され、その遺志を継いで推古天皇と聖徳太子が607年に造られた。
小野妹子(おののいもこ)らの第2回遣隋使が国書を皇帝煬帝(ようだい)に奉呈する。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す 恙無(つつがな)きや」(「隋書倭国伝」による)と記し、煬帝を怒らした。なぜなら隋は中華思想によって、隋だけが国であるという考えを持っていた。だから倭国を含めて周辺の地域を国とは認めていない。天子とは煬帝のことであり、この世に天子は一人しかいない。朝鮮は中国に「朝鮮国王」という称号をもらって、臣下的な扱いをうけていたほどである。そんな中へ隋と対等な外交を目指す倭国からの使者が無礼な文を届けたことになる。煬帝は倭国の無礼な使者には二度と取り次がぬよう命令した。しかし、隋は高句麗との戦争がせまっているときであり、倭国を敵にしては行けないと考えた。また、小野妹子は官位を持った正式な使者であり、倭国が国として成立していることを知ったため、倭国との外交を結ぶことにした。そして、翌年、裴世清(はいせいせい)を使者として送った。隋は倭国を国家として認めた。
608(推古16)年 35歳
4月−小野妹子が隋からの使者、裴世清(はいせいせい)とともに帰国する。小野妹子は再び隋へ遣わされる。
隋の使者裴世清や12人の随行者たちは、難波津(なにわのつ−大阪府)で飾り船30艘で迎えられた。さらに、大和川をさかのぼってきた一行を天皇の命により、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が海石榴市(つばいち)で飾り馬75頭を引き連れて盛大に出迎えた。当時、海石榴市は山辺の道や磐余の道などの主要な道が交差し、大和川の水運を利用するための港もあった。また、各地の産物も集まり、大規模な市もあった。海柘榴市は飛鳥京や藤原京への玄関でもあった。
609(推古17)年 36歳
鞍作止利、飛鳥寺(安居院)の釈迦如来坐像が完成する。
611(推古19)年 38歳
聖徳太子、「勝鬘経義疏」を著す。
菟田野(奈良県宇陀郡)へ薬猟(くすりかり)に出かける。
612(推古20)年 39歳
『日本書紀』に百済から帰化した味摩之(みまし)という人物についての記述がある。この人は、伎楽を伝えた人で、現在の桜井市に住んでいた。味摩之は「呉で学んで伎楽の舞を習得した。」と聖徳太子に申し上げたので、太子は桜井で少年を集めてこの伎楽の舞を習わせた。真野首弟子(まののおびとでし)や新漢済文(いまきのあやひとさいもん)の二人が習って、舞を伝えたと書かれている。伎楽はチベットやインド発祥の仮面劇で、中国に伝わったものである。
桜井市にある土舞台と呼ばれる場所が我が国初の国立演劇研究所と国立の劇場が置かれた所。「芸能発祥の地」となっている。
613(推古21)年 40歳
聖徳太子、「維摩経義疏(ゆいまぎょうぎしょ)」を著す。
615(推古23)年 42歳
聖徳太子、「法華経義疏」を著す。
620(推古28)年 47歳
蘇我馬子と協議して、国記・天皇記などを記録する。
622(推古30)年 49歳
2月22日、聖徳太子が斑鳩宮で没する。
磯長(しなが)陵に葬られる。
聖徳太子が建てたとされる7寺
法隆寺  奈良県斑鳩町
四天王寺 大阪市天王寺区
中宮寺  奈良県斑鳩町
橘寺   奈良県高市郡明日香村
広隆寺  京都市右京区
法起寺  奈良県斑鳩町
和田廃寺 奈良県橿原市和田町
十七条憲法
推古天皇十二年夏四月丙寅朔。戊辰。

一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有党。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。
二曰。篤敬三宝。三宝者仏法僧也。則四生終帰。万国之極宗。何世何人非貴是法。人鮮尤悪。能教従之。其不帰三宝。何以直枉。
三曰。承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆地載。四時順行。方気得通。地欲覆天。則致壊耳。是以君言臣承。上行下靡。故承詔必慎。不謹自敗。
四曰。群卿百寮。以礼為本。其治民之本。要在乎礼。上不礼而下非斉。下無礼以必有罪。是以君臣有礼。位次不乱。百姓有礼。国家自治。
五曰。絶饗棄欲。明弁訴訟。其百姓之訟。一日千事。一日尚爾。況乎累歳。須治訟者。得利為常。見賄聴(ゴンベン+「獻」)。便有財之訟。如石投水。乏者之訟。似水投石。是以貧民。則不知所由。臣道亦於焉闕。
六曰。懲悪勧善。古之良典。是以無惹人善。見悪必匡。其諂詐者。則為覆国家之利器。為絶人民之鋒剣。亦侫媚者。対上則好説下過。逢下則誹謗上失。其如此人。皆无忠於君。無仁於民。是大乱之本也。
七曰。人各有任掌。宜不濫。其賢哲任官。頌音則起。奸者有官。禍乱則繁。世少生知。尅念作聖。事無大少。得人必治。時無急緩。遇賢自寛。因此国家永久。社稷無危。故古聖王。為官以求人。不求官。
八曰。群卿百寮。早朝晏退。公事靡(「鹽」の右上の「鹵」の代りに「古」)。終日難尽。是以遅朝不逮于急。早退必事不尽。
九曰。信是義本。毎事有信。其善悪成敗。要在于信。君臣共信。何事不成。君臣無信。万事悉敗。
十曰。絶忿棄瞋。不怒人違。人皆有心。心各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理。誰能可定。相共賢愚。如鐶无端。是以彼人雖瞋。還恐我失。我独雖得。従衆同挙。
十一曰。明察功過。賞罰必当。日者賞不在功。罰不在罰。執事群卿。宜明賞罰。
十二曰。国司国造。勿歛百姓。国非二君。民無両主。率土兆民。以王為主。所任官司。皆是王臣。何敢与公賦歛百姓。
十三曰。諸任官者。同知職掌。或知職掌。或病或使。有闕於事。然得知之日。和如曾識。其以非与聞。勿防公務。
十四曰。群卿百寮。無有嫉妬。我既嫉人。人亦嫉我。嫉妬之患。不知其極。所以智勝於己則不悦。才優於己則嫉妬。是以五百之。乃令遇賢。千載以難待一聖。其不得聖賢。何以治国。
十五曰。背私向公。是臣之道矣。凡夫人有私必有恨。有憾必非同。非同則以私妨公。憾起則違制害法。故初章云。上下和諧。其亦是情歟。
十六曰。使民以時。古之良典。故冬月有間。以可使民。従春至秋。農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。
十七曰。夫事不可断独。必与衆宜論。少事是軽。不可必衆。唯逮論大事。若疑有失。故与衆相弁。辞則得理。

一に曰はく、和を以て貴(たつと)しと為し、忤(さから)ふこと無きを宗と為す。人皆党(たむら)有りて、亦達者少し。是を以て或は君父に順(したが)はずして、乍(たちま)ち隣里に違(たが)ふ。然れども上和(やはら)ぎ下睦(むつ)びて、事を論(あげつら)ふに諧(ととの)へば、則ち事理自ら通ず、何事か成らざらむ。
二に曰はく、篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬へ。三宝は仏法僧なり。則ち四生(ししやう。胎生、卵生、湿生、化生の称、凡べての生物をいふ也)の終帰(しうき)、万国の極宗(きょくそう)なり。何(いづれ)の世、何(いづれ)の人か是(こ)の法(のり)を貴ばざる。人尤(はなは)だ悪しきもの鮮(すくな)し。能く教ふるをもて従ふ。其れ三宝に帰せずんば、何を以てか枉(まが)れるを直さむ。
三に曰はく。詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹め。君をば天(あめ)とす。臣(やつこら)をば地(つち)とす。天覆(おほ)ひ地載す。四時順(よ)り行き、方気(ほうき)通(かよ)ふを得。地天を覆(くつがへ)さんと欲するときは、則ち壊(やぶれ)を致さむのみ。是を以て君言(のたま)ふときは臣承(うけたまは)る。上行へば下靡(なび)く。故に詔を承けては必ず慎め。謹まざれば自らに敗れむ。
四に曰はく。群卿(まちぎみたち)百寮(つかさづかさ)、礼を以て本と為(せ)よ。其れ民を治むる本は、要は礼に在り。上礼無きときは下斉(ととのほ)らず。下礼無きときは以て必ず罪有り。是を以て君臣礼有るときは、位の次(つぎて)乱れず。百姓礼有るときは、国家(あめのした)自ら治まる。
五に曰く。饗(あぢはひのむさぼり)を絶ち、欲を棄て、明に訴訟(うつたへ)を弁へよ。其れ百姓の訟(うつたへ)は一日に千事あり。一日すら尚爾(しか)り。況んや歳を累(かさ)ぬるをや。須らく訟を治むべき者、利を得て常と為し、賄(まひなひ)を見て(ことわり)を聴(ゆる)さば、便(すなは)ち財(たから)有るものの訟は、石をもて水に投ぐるが如し。乏しき者(ひと)の訟は、水をもて石に投ぐるに似たり。是を以て貧しき民、則ち所由(よるところ)を知らず。臣道亦焉(ここ)に於て闕(か)けむ。
六に曰く。悪を懲(こら)し善を勧むるは、古の良(よ)き典(のり)なり。是を以て人の善を慝(かく)すこと無く、悪を見ては必ず匡(ただ)せ。若し諂(へつら)ひ詐(いつは)る者は、則ち国家を覆すの利器たり。人民を絶つ鋒剣たり。亦侫媚者(かたましくこぶるもの)は、上に対(むか)ひては則ち好みて下の過を説き、下に逢ては則ち上の失(あやまち)を誹謗(そし)る。其れ如此(これら)の人は、皆君に忠(いさをしきこと)无(な)く民に仁(めぐみ)無し。是れ大きなる乱の本なり。
七に曰はく、人各任掌(よさしつかさど)ること有り。宜しく濫(みだ)れざるべし。其れ賢哲官に任(よさ)すときは、頌音(ほむるこゑ)則ち起り、奸者官を有(たも)つときは、禍乱則ち繁し。世に生れながら知ること少けれども、尅(よ)く念(おも)ひて聖を作(な)せ。事大小と無く、人を得て必ず治む。時急緩と無く、賢に遇ひて自(おのづか)ら寛(ゆたか)なり。此に因て国家永久、社稷(しやしよく)危きこと無し。故(か)れ古の聖王、官の為に以て人を求む、人の為に官を求めたまはず。
八に曰はく、群卿百寮、早く朝(まゐ)り晏(おそ)く退(まか)でよ。公事監(いとま)靡(な)く、終日(ひねもす)にも尽し難し。是を以て遅く朝(まゐ)れば急に逮(およ)ばず。早く退(まか)れば必ず事尽(つく)さず。
九に曰はく、信は是れ義の本なり。事毎(ごと)に信有れ。若し善悪成敗、要は信に在り。君臣共に信あるときは何事か成らざらむ。
十に曰はく。忿(いかり)を絶(た)ち瞋(いかり)を棄て、人の違ふことを怒らざれ。人皆心有り。心各執ること有り。彼是(ぜ)なれば吾は非なり、我是なれば則ち彼非なり。我必ずしも聖に非ず。彼必ずしも愚に非ず。共に是れ凡夫(ぼんぶ)のみ。是非の理、誰か能く定む可き。相共に賢愚、鐶(みみがね)の端无(な)きが如し。是を以て彼の人は瞋(いか)ると雖も、還(かへつ)て我が失(あやまち)を恐る。我独り得たりと雖も、衆に従ひて同く挙(おこな)へ。
十一に曰はく、功過を明察(あきらか)にして、賞罰必ず当てよ。日者(このごろ)、賞功に在らず、罰罰(つみ)に在らず。事を執れる群卿、宜しく賞罰を明にすべし。
十二に曰はく、国司(みこともち)国造(くにのみやつこ)、百姓に歛(をさめと)ること勿れ、国に二君(ふたりのきみ)非(な)く、民に両主(ふたりのぬし)無し、率土(そつと)の兆民、王(きみ)を以て主(しゆ)と為す。所任官司(よさせるつかさみこともち)は皆是れ王臣なり。何ぞ敢て公(おほやけ)と与(とも)に百姓に賦斂(をさめと)らむ。
十三に曰はく、諸(もろもろ)の任官者(よさせるつかさびと)、同じく職掌(つかさごと)を知れ。或は病(やまひ)し或は使(つかひ)して、事に闕(おこた)ることあり。然れども知るを得ての日には、和(あまな)ふこと曾(さき)より識(し)るが如くせよ。其れ与(あづか)り聞(き)くに非ざるを以て、公務(まつりごと)を防(さまた)ぐること勿れ。
十四に曰はく、群卿百寮、嫉(そね)み妬(ねた)むこと有る無(なか)れ。我既に人を嫉めば、人亦我を嫉む。嫉妬(しつと)の患、其の極りを知らず。所以(ゆゑ)に智己れに勝(まさ)れば、則ち悦ばず。才己れに優(まさ)れば、則ち嫉妬(ねた)む。是を以て五百(いほとせ)にして乃ち賢(さかしびと)に遇はしむれども、千載(ちとせ)にして以て一聖を待つこと難し。其れ聖賢を得ざれば、何を以てか国を治めむ。
十五に曰はく、私を背いて公に向くは、是れ臣の道なり。凡そ夫人(ひとびと)私有れば必ず恨(うらみ)有り、憾(うらみ)有れば必ず同(ととのほ)らず。同らざれば則ち私を以て公を妨ぐ。憾(うらみ)起れば則ち制(ことわり)に違ひ法(のり)を害(やぶ)る。故に初の章(くだり)に云へり、上下和諧(あまなひととのほ)れと。其れ亦是(こ)の情(こころ)なる歟(かな)。
十六に曰はく、民を使ふに時を以てするは古(いにしへ)の良典(よきのり)なり。故(か)れ冬の月には間(いとま)有り、以て民を使ふ可し。春従(よ)り秋に至つては、農桑(たつくりこがひ)の節(とき)なり、民を使ふ可らず。其れ農(たつく)らずば何を以てか食はむ。桑(こが)ひせずば何をか服(き)む。
十七に曰はく、夫れ事は独り断(さだ)む可らず。必ず衆(もろもろ)と与(とも)に宜しく論(あげつら)ふべし。少事は是れ軽し、必ずしも衆(もろもろ)とす可らず。唯大事を論(あげつら)はんに逮(およ)びては、若し失(あやまち)有らんことを疑ふ。故に衆と与(とも)相弁(わきま)ふるときは、辞(こと)則ち理を得。 
 

 

 
蘇我氏 1

 

「蘇我」を氏の名とする氏族。姓は臣(おみ)。古墳時代から飛鳥時代(6世紀 - 7世紀前半)に勢力を持ち、代々大臣(おおおみ)を出していた有力豪族である。
「蘇我」の表記
蘇我氏略系図 SVGで表示(対応ブラウザのみ)蘇我 - 『日本書紀』
宗賀 - 『古事記』
宗我 - 『先代旧事本紀』天孫本紀、『上宮聖徳法王帝説』、『日本三代実録』
巷奇 - 『元興寺縁起帳』
出自
『古事記』や『日本書紀』では、神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰を祖としている。具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目からで、それ以前に関してはよく分かっていないが、河内の石川(現在の大阪府の石川流域、詳細に南河内郡河南町一須賀あたりと特定される説もある)および葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)を本拠としていた土着豪族であったとされる。 『新撰姓氏録』では蘇我氏を皇別(歴代天皇から分かれた氏族)に分類している。
歴史
渡来系の氏族と深い関係にあったと見られ、王権の職業奴属民としての役割を担っていた渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられている。また、仏教が伝来した際にそれをいち早く取り入れたのも蘇我氏であったとされる。これは、朝廷の祭祀を任されていた連姓の物部氏、中臣氏を牽制する為の目的も有ったと推察される。
6世紀後半には今の奈良県高市郡近辺を勢力下においていたと思われている。蘇我氏が政治の実権を掌握した時代以後、その地域に集中的に天皇の宮がおかれるようになったことからもうかがわれる。
全盛期
稲目の代になると、過去に大臣を出していた葛城氏や平群氏は既に本宗家の滅亡により勢いをなくしており、蘇我氏は大連の大伴氏と物部氏にならぶ三大勢力の一角となり、やがて大伴金村が失脚すると、大連の物部(尾輿)と大臣の蘇我(稲目)の二大勢力となる。また、過去の葛城氏や後の藤原氏同様、娘蘇我堅塩媛、小姉君を欽明天皇に嫁がせることにより天皇家の外戚となっていく(馬子の本居(ウブスナ)が葛城県だったことから、稲目の妻は葛城氏の出で、その血統に連なることにより、天皇へ妃を輩出出来る一族に連なったとする説もある)。
稲目は欽明天皇とほぼ同時期に没し、二大勢力の構図は次代の蘇我馬子まで引き継がれるが、用明天皇崩御後に後継者をめぐる争いがあった。蘇我氏は、小姉君の子ながらも物部氏に擁立されていた穴穂部皇子を暗殺し、戦いで物部守屋を討ち滅ぼすと、その後は蘇我氏以外からは大連に任じられる者も出ず、政権は蘇我氏の一極体制となる。
ここから崇峻天皇の暗殺や、推古天皇への葛城県の割譲の要求、蝦夷による天皇をないがしろにするふるまい、入鹿による上宮王家(山背大兄王)の討滅、叔父で専制政治に反対する境部摩理勢の失脚などの専横ぶりが伝えられており、蘇我氏三代にわたって権力を欲しいがままにしたとされている。
しかし馬子の死後に、蘇我氏に対する皇族や諸豪族の反感が高まって蘇我氏の政治基盤が動揺し、それを克服しようとして入鹿による強権政治に繋がった、という見方も少なからずある。これは『日本書紀』等による蘇我氏に否定的な記述に対する反論である。
大化の改新から壬申の乱まで
蘇我氏は、645年に中大兄皇子、中臣鎌足らによって、入鹿が暗殺されるとともに蝦夷が自殺する(乙巳の変)とその勢力は大幅に低下するが、あくまでも蝦夷を嫡流とする蘇我氏宗本家の滅亡だけにとどまる。乙巳の変には、傍流とされた蘇我倉麻呂(蝦夷の弟)の子である蘇我倉山田石川麻呂も、中大兄皇子の協力者として関わっていた。石川麻呂はこの後右大臣に任じられ、娘の遠智娘と姪娘を中大兄皇子の后にしている。石川麻呂自身は649年に冤罪で自害し、讒言した弟の蘇我日向も大宰府に左遷させられた(口封じとの説もある)。しかし、他の弟である蘇我赤兄と蘇我連子は、天智天皇の時代に大臣(赤兄は左大臣、連子ははっきりは分からないが右大臣と推定されている)に任じられており、蘇我氏は一定の地位を保持している。
連子は天智天皇の正式な即位を見ないまま死去し、赤兄ともう一人の弟である蘇我果安は壬申の乱で大友皇子側について敗れ、それぞれ流罪・自害となった。その甥で連子の子である蘇我安麻呂は、天武天皇の信任が厚かったために蘇我氏の後を継ぎ、石川朝臣の姓氏を賜った。このように乙巳の変後も、倉麻呂の息子達がなお政治の中心的立場にとどまり、相次ぐ政争で衰退しながらもしばらくは連子の系統が続いた。
蘇我系石川朝臣
蘇我系石川氏は、飛鳥時代末期から奈良時代に、その血を引いた天皇(持統天皇と元明天皇)を輩出した(それぞれ石川麻呂の娘、遠智娘と姪娘が母)。
しかしながら、蘇我赤兄の外孫である山辺皇女が、持統天皇に排除された夫の大津皇子に殉死したり、また文武天皇の嬪の石川刀子娘が、天皇崩御後に某男との関係を持った事からその身分を剥奪される事件なども起こしている。角田文衛の説によると、刀子娘には広成・広世の2男があり、母に連座して両皇子の皇族の身分を奪い、異母兄弟の首皇子の競争相手を排除しようとしての藤原不比等・橘三千代夫婦の陰謀とされる。
また万葉集によれば、同じ赤兄の外孫である穂積皇子も但馬皇女との密通が露見して左遷された。穂積皇子は、幸いにも持統天皇崩御後に知太政官事に出世したが、若くして亡くなった。
不比等の正妻は、安麻呂の娘の蘇我娼子(藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合の母)である。その故を以て、その弟の石川石足と子の石川年足は嫡流の武智麻呂を祖とする藤原南家と結びつくようになる。年足は、武智麻呂次男の藤原仲麻呂が設立した紫微中台の大弼としてその補佐に当たり、中流貴族としてなんとかその命脈を保った。
衰退
しかし、その藤原南家が藤原仲麻呂の乱で衰退してしまうと、石川氏も平安京遷都後亡くなった正四位上・参議、石川真守(年足の孫、馬子の7代孫)を最後に公卿は出なくなり、歴史から姿を消した。蘇我氏の血統は、藤原不比等に嫁いで武智麻呂、房前、宇合の三男を儲けた蘇我娼子を通して現代にも伝わっている。なお他に蘇我氏の血を残したのは、蘇我稲目の娘である蘇我堅塩媛のみである。その系統は蘇我堅塩媛 ― 桜井皇子 ― 吉備姫王 ― 皇極天皇 ― 天智天皇 ― (以後歴代天皇)となる。
蘇我氏渡来人説
門脇禎二が1971年に蘇我氏渡来人説を提唱した。当時は多くの学者に受け入れられたが、現在は多く否定されている。門脇が提唱したのは応神天皇の代に渡来した、百済の高官、木満致(もくまち)と蘇我満智(まち)が同一人物とする説で、鈴木靖民や山尾幸久らの支持を得た一方、加藤謙吉や坂本義種らが批判したように、史料上の問題点が多い。根拠が不十分であり、現在では支持する研究者はいない。
問題点は整理すると以下の通りであり、木満致と蘇我満智を同一人物であると実証することは不可能である。
1.「木満致」の名が見える『日本書紀』の応神天皇25年(西暦294年、史料解釈上は414年)と「木満致」の名が見える『三国史記』百済本紀の蓋鹵王21年(西暦475年)とでは時代が異なる
2.百済の名門氏族である木満致が、自らの姓を捨て蘇我氏を名乗ったことの不自然さ
3.渡来系豪族が自らの出自を改変するのは8世紀以降であること
4.木満致が「南行」したとの『三国史記』の記述がそのまま倭国へ渡来したことを意味しないこと
5.百済の名門氏族出身でありながら、孫の名前が高句麗を意味する高麗であること
満智の子は韓子(からこ)で、その子(稲目の父にあたる)は高麗(こま)という異国風の名前であることも渡来人説を生み出す要因となっているが、水谷千秋は「蘇我氏渡来人説」が広く受け入れられた背景を蘇我氏を逆賊とする史観と適合していたからではないかと述べている。また、韓子は『日本書紀』継体天皇24年秋9月の条の注に「大日本人娶蕃女所生為韓子也」(大日本人、蕃女(となりのくにのめ)を娶りて生めるを韓子とす)とされているように、外国人との混血児の通称であり、満智韓子は混血児であることを示す。  
 
蘇我入鹿 2

 

飛鳥時代の豪族。蘇我蝦夷の子。大臣として大和朝廷の有力者であったが、乙巳の変において討たれ、その後蘇我氏が凋落するきっかけとなった。
(以下は主に『日本書紀』などの記述による。日付は旧暦。)
青少年期は僧・旻に学問堂で学んだ秀才だったと言われている。生年は不詳だが、父・蝦夷の生年は用明天皇元年(586年)頃と言われているため、生年は推古天皇8年-18年(600年 - 610年)頃と思われる。
蝦夷が大臣であった皇極天皇元年(642年)、皇極天皇の即位に伴い、父に代わって国政を掌理する。同年7月23日には従者が白色の雀の雛を手に入れた。雀は祖父の蘇我馬子を表された事があるとされている。翌皇極天皇2年(643年)の10月6日には父から独断で大臣を譲られる。
これにより、実質的にも形式的にも蘇我氏の家督を継いだという見方があるが、この頃聖徳太子以来、皇室の周辺に国政を天皇中心に改革せんとする気運が強まったとされ、入鹿はこのような動きを押さえ古人大兄皇子を天皇につけようと図ったが、そのために邪魔になる山背大兄王ら上宮王家の人々を自殺に追い込んだ。大臣を譲られてから1ヶ月も経たない11月上旬の事である。ただし、上宮王家討伐については皇極天皇即位に関して山背大兄王が謀反を起こす恐れがあるため他の皇族とはかって殺害した(つまり犯行は入鹿の独断ではない)と『日本書紀』とは矛盾する記載が「藤氏家伝」にある。
皇極天皇3年(644年)11月には甘樫丘に邸宅を築き、これをそれぞれ「上の宮門(みかど)」「谷の宮門」とし、さらに自分の子女達を皇子と呼ばせた。また、畝傍山に要塞を築き、皇室行事を独断で代行した。
これらの政策により、入鹿は実質最高権力者としての地位を固め、その治世には人々は大いに畏敬し、道に落ちているものも拾わなくなったと言われた。しかし、そのような入鹿の天下は長くは続かなかった。古人大兄皇子の異母弟で、皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らのいわゆる乙巳の変によって、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で殺害された。享年は一説に35とも。従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げていた際、肩を震わせていた事に不審がっていた所を中大兄皇子と佐伯子麻呂に斬り付けられ、天皇に無罪を訴えるも、あえなく止めを刺され、雨が降る外に遺体を打ち捨てられたという。
後日、父・蝦夷も自害し、ここに蘇我本宗家は滅びる。この後も従兄弟の石川麻呂とその弟の赤兄が大臣を務めるが、石川麻呂はのちに謀反の疑いをかけられ自害し、赤兄も壬申の乱で流罪となり、以降は蘇我氏(石川氏)は納言・参議まで出世するのがやっとな状態となった。かつての勢いは戻らないまま、平安時代初期には公卿が出るのも途絶え、歴史の表舞台から完全に姿を消す事になる。
学説
『日本書紀』は入鹿の事績を蘇我氏の越権行為ならびに古人大兄皇子への皇位継承の準備と批判しているが、蘇我氏は元来開明的だった事もあり、唐や百済等当時の国際状況に対応する為だったという意見もある。実際、「上の宮門」「谷の宮門」の跡地とされる場所からは、武器庫の遺構や武器が発掘されている。また、遣唐使も度々派遣されており、唐の日本派兵を蘇我氏が警戒していたことが窺える。
入鹿の暗殺とそれに続く蘇我本宗家の滅亡に関して、近年では、改革の主導権争いを巡る蘇我氏と皇族や反蘇我氏勢力との確執が暗殺のきっかけになったとする見方がある。
蘇我入鹿という名前には、いくつかの議論がある。明治学院大学教授の武光誠は、当時の時代は精霊崇拝の思想に基づき、動物に因んだ名前を付けることが多かったという風潮から、蘇我入鹿も、海の神の力を借りる為に、イルカにあやかってこの名前を名乗ったという自説を表明している。しかしその一方で京都府立大学学長であった門脇禎二らは、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が彼の本当の名前を資料とともに消して、卑しい名前を勝手に名付けたという説を表明している。
関連史跡
飛鳥寺境内と甘樫丘にほど近い場所に、「入鹿の首塚」が存在する。また、2005年(平成17年)11月13日に奈良県明日香村において、蘇我入鹿邸跡とみられる遺構が発掘された。
三重県松阪市飯高町舟戸にも「入鹿の首塚」と称する五輪塔があり、同地の高見山まで入鹿の首が飛来してこの地で力尽きて落ちたのを村人らが手厚く葬ったものとされている。
この高見山に鎌を持ちこむと必ず怪我をするとされており、それは入鹿を殺害した中臣鎌足の「鎌」の字を忌むからであるとされている。  
 
蘇我氏のルーツは渡来人? 3

 

「大化の改新」として覚えている方も多いだろう。古代史最大のクーデター、乙巳(いっし)の変(645年)。蘇我入鹿(そがのいるか)が暗殺され、本家が滅亡した蘇我氏。奈良県明日香村では平成27年、この政変で自害に追い込まれた入鹿の父、蝦夷(えみし)の墓ともいわれる小山田(こやまだ)古墳が発掘され、蘇我氏の存在がクローズアップされた。一族のルーツは奈良を拠点とした「倭人」というのが学界では有力だが、「朝鮮半島からの渡来人だった」との新説が打ち出された。文楽や浄瑠璃(じょうるり)では古代の大悪人として語られる一方、時代の変革者ともいわれる蘇我氏。果たしてその実像は−。
天皇の外戚として栄華
渡来人説を唱えるのは、奈良県文化財保存課の坂靖(ばん・やすし)課長補佐。県立橿原考古学研究所の研究員当時は県内の遺跡発掘を長年手がけ、1年近く韓国国立文化財研究所で研修するなど、日韓の考古学に詳しい。
新著「蘇我氏の古代学」(新泉社)で坂さんは、「蘇我氏の出自を考古学的に検証すると、飛鳥の開発を主導した渡来人にたどりつく」とし、出身地を朝鮮半島南西部の全羅道地域との説を唱える。「飛鳥時代を切り開くうえで歴史的に大きな役割を担った」と話す。
蘇我氏は稲目、馬子、蝦夷、入鹿が有名で「蘇我四代」と呼ばれる。日本書紀で政治の表舞台に最初に登場するのが稲目。第28代、宣化(せんか)天皇の時代に大臣となり、娘の堅塩媛(きたしひめ)を欽明天皇のもとに嫁がせ、のちの用明、推古天皇が生まれたことで外戚として権力基盤を築いた。
稲目の子の馬子は聖徳太子とともに政治の実権を握り、第32代、崇峻(すしゅん)天皇を暗殺するなど独裁色を強め、蝦夷・入鹿父子の頃に絶頂期を迎えた。2人は自らの邸宅を「宮門(みかど)」、子供らを「王子」と呼ぶなど、天皇なみに振る舞ったという。
しかし、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=のちの天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、宮殿の儀式の際に天皇の前で入鹿を殺害、邸宅に逃げ帰った蝦夷も自害し蘇我本家は滅亡した。この乙巳の変を機に大化の改新という政治改革が進められ、天皇を中心とする中央集権国家の道を歩むようになった。
カギは朝鮮半島南西部「全羅道」
日本書紀は蘇我氏の横暴をことさら強調するが、朝鮮半島から仏教や先進技術を取り入れて国際国家にしようと尽力した立役者だったとする見方が、研究者の間で広がっている。
こうしたなか、文献だけでなく出土遺物から蘇我氏の姿に迫ろうとしたのが坂さん。「蘇我氏の古代学」の「はじめに」では、「文献資料については専門外だが、あえてここでは大胆に考古学と文献資料を結びつけた。結びつけないと蘇我氏は解明できない」と記し、多角的なアプローチを試みた。
平成16(2004)年の韓国への1年近い研修では、渡来人の出自を研究テーマとし、現地の遺跡や遺物を丹念に調査。韓国と奈良盆地の土器などを比較・研究した結果、明日香村北部を中心とする飛鳥地域では5世紀半ば以降、朝鮮半島南西部の全羅道とそっくりな土器が多いことに着目した。
飛鳥地域は5世紀頃、ヤマト政権の中心地ではなかったが、全羅道地域から盛んに人々が渡ってきたことが浮かび上がった。坂さんは「5〜6世紀に密接な関係があった百済と倭国をつなぐ役割を果たしたのが、全羅道を拠点にした交易集団。そのなかで、飛鳥に移り住んだのがのちの蘇我氏になった」と推測する。
“未開の地”を開拓
飛鳥地域はもともと湿地帯で住みにくく、5世紀ごろまでは開発も進んでいなかった。しかし、こうした不便な土地を与えられた渡来人たちが、大陸の先進技術を生かして開発。経済だけでなく政治的にも実力をつけ、稲目の時代に権力の中枢に入り込んだという。
「渡来人としての技術と生産力を権力の源泉とし、外交でも実力を発揮。新しい時代を萌芽させたのが蘇我氏だった」と坂さん。明日香村で発掘された国内最大級の方墳、小山田古墳(一辺70メートル)こそが、一族の栄華の礎を築いた蝦夷の墓だと推測する。
ただし、蘇我氏は渡来人ではなく奈良盆地出身の倭人との説は歴史研究者の間では有力だ。第8代・孝元天皇のひ孫の武内宿禰(たけうちのすくね)を祖とするとの伝承があり、明日香村に隣接する奈良県橿原市には曽我町という地名も残り、この一帯が本拠地だったとされる。
ただし、こうした説を裏付ける根拠は乏しい。坂さんは「出土遺物を通じて出自をたどる研究はほとんどなかった。遺物から見ると、全羅道の可能性が高い」と指摘。「正史としての日本書紀だけでは歴史は分からない。蘇我氏の果たした歴史上の役割を客観的にみる必要がある」と話した。  
 
蘇我氏が滅ぼされた理由 4

 

その理由は、なんと『先代旧事本紀 大成教』のなかで、推古天皇自身が書いた『神代皇代大成教序』に、切々と綴られていました。
聖徳太子が発案した日本初の歴史書『先代旧事本紀』、それをまとめあげるために6人の編集委員が選ばれます。その編集会議の席上で、蘇我馬子自身が、この大事業への取り組み姿勢を淡々と述べ始めます。その演説内容は概ね下記のようなものでした。
「崇峻天皇の時代に、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま=渡来人)が天皇を暗殺しました。今思えば、これは私の責任でございます。」と言い出した蘇我馬子が、自分の責任の根拠を「六つの罪」として自己批判しています。
1. 天皇の寵愛に奢り高ぶって、自分の勢いが天皇を上回ってしまったこと。
2. 目上の天皇が、目下の自分の横暴を憎むのは当然の成り行きとはいえ、罪も無い自分が罪人にさせられたことに怒ってしまったこと。
3. 盗人の直駒が、かたわらで天皇を誹謗中傷して、自分を慰めてくれたのを黙認したこと。
4. 大臣の職にありながら、直駒の陰謀に気づかなかったこと。
5. 臣下の分際で、天皇を制止して、みだりに助言したこと。
6. ついには、奢り高ぶって天皇に嫌われてしまったこと。
これら六つの罪により、ついに天皇が暗殺されてしまったことを認め、直駒の責任ではなく、自分の責任であると謝罪しています。
さらに「天皇が自分のことを憎むあまり、ついに顔を向けて笑ってくれなかったことを、(私が愚かでしたので)疑ってしまいました。」と自白したうえで
「今やっと天皇のお気持ちが分かりました。このように歴史編集委員に任命されたことは私にとって至福の至りでございます。」
だから、「私が崇峻天皇を殺したと歴史書に記してみんなに知らせましょう。それにより誤った歴史を正して、後代の人たちを戒めることができるからです。」
と、結んでいます。
これをどう解釈するか?
さてさて、この馬子の演説をみなさんはどう捉えますか?一見、しおらしく反省して自己批判しているように見えますが、そのまま受け取っては、宮中セレブたちの世界では生き残れませんよ!つまり、これは「タテマエ」だということです。
それでは、蘇我馬子のホンネは何だったでしょうか?つまり、「オレの言うことを聞かないと、また死人が出るよ」と、恫喝しているのです。
多分、聖徳太子に対して・・・・
「おまえは本当のことを書いて、オレを窮地に陥れるつもりか?」と、みごとに開き直るその態度には、闇の帝王としての凄みさえ感じられます。
案の定、この編集会議は大混乱となり、ついに完成する前に聖徳太子自身も亡くなってしまいます。多分、暗殺されたのでしょう。
「ヒストリア」が指摘しているように、もしも蘇我入鹿・蝦夷親子の墓がピラミッド型をしていたのなら、蘇我氏とは大陸からやってきた秦の始皇帝たちの子孫だということです。
渡来人だからこそ出来た、渡来人勢力のとりまとめとその活用、それが蘇我氏のパワーの根源でした。
そして、自分たちの擁立した崇峻天皇や、皇室のプリンス・聖徳太子までも平気で暗殺してしまう残忍さに、ついに堪忍袋の尾が切れたのは、じっと耐え続けてきた日本人たちでした。
神功皇后以来、数百年間も続いてきた渡来人による日本国の支配、それが「古墳時代」という暗黒時代であり、それに終止符を打ったのが「大化の改新」ということになります。
 
蘇我氏の出自 5

 

蘇我氏渡来人説を唱えているのが門脇禎二氏である。その概要は以下のようになっている。
五世紀後半頃の百済の官人「木ら満致」と日本書紀に書かれてある「蘇賀満智」と同一人物であるという説である。なぜ門脇氏がこのふたりを同一人物と見るかというと、ひとつには「木ら満致」が五世紀後半ごろ百済を出て「南」へ行ったという記事が百済の歴史書「三国史記」にあるからである。百済の王は高句麗の攻撃を知り、敗色が濃厚な為、子の文周王に命じた。「私は責任をとってこの国と共に死のうと思うが、汝がここで死ぬのは無益である。汝は難を避けて国王の系譜を継承せよ」文周王は木ら満致らを連れて南へ行ったと記された。「南へ行けり」を倭国に行ったと捉えたのである。また書記の中では木満致という名前で応神紀25年に倭国に来た百済の執政官という形で紹介されている。
この説に立てば蘇我氏は「木ら満致」という事になり王に直結した百済の官人という事になる。この門脇説がかなり支持されているらしいが、曖昧な点も多く、水谷氏は以下の点で否定している。
1.応神紀25年と三国史紀で書かれた年号には180年の差がある。応神紀が干支が2連繰り下がるので120年程度の差があるがそれでも60年の差が生じる。
2.木ら満致が本当に倭国(日本)に渡来したすればわざわざ蘇我満智と名乗る必然性がない。この時期の渡来人は秦氏にしても倭漢氏にしても自らの系譜を隠そうとはしていない。(実際に系譜を隠すのは8世紀以降である)
3.南行を直ちに倭国へ行く事と解釈しているが三国史記によれば、文周王はその後、新羅へ援軍を要請に行ったことになり、南行とはそれを指している。木ら満致だけが倭国まで南下する必然性がない。
以上から蘇我氏百済人説は否定できると思われる。現在、学説ではその他の渡来説は出ておらず、蘇我氏の出自は葛城の地に住む土着の倭人であるという説がまだ有力である。また渡来人であったもかもしれないが、渡来後大和で一定期間、定着してから葛城氏の力を得て天皇系に近づいた可能性がある。要するに蘇我氏の出自については未だ決着していない。
高句麗人説も含めて渡来人説が飛び交うのは蘇我氏の政治行動によるものらしい。
蘇我氏の政治行動とその特徴として以下の点が上げられる。
急速な台頭、国際的な開明性がある。
仏教伝来を推進、倭漢氏などの渡来人を支配下に持つ。
倭漢氏だけでなく5世紀から6世紀の物部、葛城の没落後は蘇我氏は渡来人集団のほとんどを組織化し、彼らが手足となって活躍していた。
6世紀初頭には百済の政策を模倣して部民制(人)と屯倉制(土地)を定着させ土地と人を支配した。
支配した渡来人集団を使って経済を一手に担い、権力を強化した。
一方で実質的には渡来人的性格があったと思われることとして、系譜の中に渡来人との婚姻があったことが指摘される。
蘇我稲目以前の蘇我氏の系譜に「蘇我韓子」や「蘇我高麗」などの朝鮮系とみられる名前が散見される。蘇我韓子の父は倭人であるが、母は朝鮮系であることが書記にかかれている。蘇我稲目は高句麗の女性を妻としたという記事もある。
蘇我馬子の母親は葛城氏であるという説を遠山美津男氏等は唱えている。
天皇との関係は継体天皇から発生する。
一般的には蘇我氏の力が及んだ天皇との関係は継体天皇没後の安閑天皇、宣化天皇から推古天皇までと言われているが、物部氏が担ぎ上げたとされる継体天皇の大和定着の際に葛城の没落後、方針転換して継体支持に廻った。継体は蘇我氏によって大和定着を実現できたとも考えられている。
その後蘇我氏は欽明天皇に嫁がせて血縁関係を強化していくが、著者の水谷氏は蘇我氏と天皇家の関係を以下のように書いている。
「蘇我氏の天皇家との血縁関係の緊密化は、単に蘇我氏の勢力の向上のみを意味するのではない。むしろ逆に天皇家にとってこの新興の強大な雄族との連携は王権の基盤を強化する上で有効と考えられ、事実、王権の安定化に大きく貢献している側面があったことは見逃せない」
天皇家はその後、斉明―天智―天武を経て藤原の力を得て蘇我氏の作った律令制度を引き継いで東日本を除く列島の過半を統合する事になる。
こうして見ると天皇家と蘇我氏とは単に百済―新羅という単純化した勢力争いだけではない蘇我氏の天皇家(日本)支配の構図が見て取れる。
しかし蘇我氏滅亡後も天皇家と血縁関係を結んで実権を得ていく、その手法はそのまま藤原不比等がトレースしていく。天皇家が神格化され実質を失い、それがその後の日本の天皇制の雛形となった。

水谷氏は著書を通して蘇我氏の出自を執拗に問う事はしていない。むしろ大陸からの圧力の高まりに時を同じくして国内の秩序の基盤を作った蘇我氏を評価している。
ただ、蘇我氏の出自を考えるに渡来人集団をいち早く統合し、百済の制度や仏教をわずか100年という短期間で浸透させた力は単に傑出した倭人というだけでは説明がつかないように思う。  
 
蘇我氏の墓 6

 

日本書記の記述に従えば、位人臣を極めた一代の雄・馬子は、姪である女帝の治世も終わろうとする推古34年(626)にこの世を去り、飛鳥桃原の地に葬られる。その墓を造るために数年の年月と、蘇我の諸家を結集した力が費やされた。偉大な族長のために王陵にも匹敵するほどの墳墓が営まれたことがわかる。
しかし、強力な続率者を失った蘇我氏の内輪揉めが、この墓造りの最中に表面化してくる。 舒明即位前紀(628)は、その様子を大体このように伝える。「この時、蘇我氏の諸族はすべて集まって、嶋大臣(馬子)のために墓を造営し、その墓所に寝泊りしていた。ここで摩理勢臣は、墓所の小屋を壊して、蘇我の家に帰ってしまい、仕事をしなかった。」ここでいう境部摩理勢臣は、馬子の弟つまり、大臣蘇我蝦夷の叔父にあたるらしい。「蘇我の家」という本来この一族の本拠地に帰ったことからも一族中で高い地位を占めていたことも間違いない。
内紛の直接原因は、跡継ざを決めずに死んだ推古天皇の次期天皇に誰を選ぶかをめぐっての、摩理勢と蝦実との意見の対立だった。摩理勢は聖徳太子の子供である山背皇子を後継者に椎し、蝦夷は敏達天皇直系の孫田村皇子を即位させようとしていた。聖徳太子の母父方の祖母は堅塩媛、母方の祖母は堅塩媛の妹・小姉君となる。さらに馬子の娘を母親に持つその皇子が、蝦夷のお眼鏡に叶わなかったのは何故か一見不思議な気もする。だが、結果的に蝦夷の意思どうり即位した田村皇子、舒明天皇が馬子の娘、蝦夷の姉妹、法堤郎媛(ほほてのいらつめ)を夫人としたこと。そしてその子供が皇后宝皇女の子供を差し置いて大兄、皇位継承者とされていることを考えれば、ある程度事情ははっきりしてくる。蝦夷が、馬子の政略をそのまま繰り返しそうとしていることは明白だろう。天皇はできるだけ王家の本流から立て、夫人には蘇我氏族の長の直系の女を入れる。大切なのは馬子・蝦夷の血統と天皇との有無をいわせない関わりで、蘇我諸分家との親戚関係はむしろ少ないはうが都合がいい。蘇我一族中での本宗家の優位を守るためには、これ以外の方法はあるまい。この本宗家絶対化の政略に蘇我の諸分家、とくに蝦夷の叔父であり血筋の上でも年齢的にも族長となってもおかしくない境部摩理勢が不満を抱いたとしても当然ではないだろうか。
なにはともあれ、この造墓事業ボイコット事件は境部摩理勢とその息子が一族の反乱者として殺され、一応の決着を見る。馬子の墓は完成され、巨大になりすぎた蘇我氏は内部崩壊の危機をかかえながら、蝦夷の時代を迎えることとなる。
疑問を差し挟む人もいるが、この馬子の墓所の最大の候補地としては明日香村島庄にある石舞台古墳があげられる。この古墳は早くに封土を失い、石室の天井部の巨石が田圃の只中にそびえ立つ姿は、石舞台と呼ばれ、江戸時代以来飛鳥を訪れる人々の注目と詮索の種となってきた。1933年(昭和8)、1936年の二度にわたっておこなわれた発掘調査の結果、この石舞台は一辺が50mに達する正方形の墳丘を持つ古墳だということが確かめられ、全長20mにおよぶ横穴式石室の全貌も明らかになった。美しく整備され正方形の墳丘と四周を取り巻く空掘、墳丘の中央に位置する見事な石室は、現在でも飛鳥を訪れる人たちが必ずといっていいほど立ち寄る場所となっている。
実をいえば、発掘調査の結果でもこの古墳の主を蘇我馬子とする積極的な証拠が得られているわけではない。けれど島庄という馬子とかかわりの深い土地がら、その王陵にも匹敵する大きさ、そして他にふさわしい候補の見つからないこと等々状況証拠から、今のところ石舞台を馬子の墓所と考えておくのが一番妥当といえよう。
蘇我氏の寺
蘇我氏に関係する寺々を紹介することは、とりもなおさず仏教伝来期の、異国の神々に対する人々の戸惑いと混乱をかえりみることに他ならない。
舒明天皇13年(552)十月、百済聖明王が釈迦如来像l体と仏殿の飾りである幡蓋・経巻をもたらした。聖明王の「仏教はいろいろな教えの中で最も優れているから、日本に伝える」とのメッセージも添えられていた。
舒明天皇は「西の国の教えで、末だかつて見たことも聞いたこともない。まつるべきか否か」と群臣に問うた。馬子の先代である稲目は「西方の国々はすべて仏教をまつっており、日本だけが否定することがどうしてできようか。」と積極的に受け入れるよう進言した。
これに対し物部尾輿と中臣鎌子は、「日本では、代々国神をまつってきた。今ここで他国の神をまつれば、国神の怒りをかってしまう」と反対を表明した。群臣の意見対立のなか、「試みに、稲目に仏像をまつらせてみよう」という舒明天皇の裁定によって、稲目のもとに仏像がもたらされた。とりあえず小墾田の邸宅に仏像を安置し、近くの向原の邸宅を改築して寺とした。後の豊浦寺である。ところが排仏派が心配したとおり、疫病が大流行し多数の死者が出た。「異国の神をまつるからだ」と、物部尾輿と中臣鎌子らは仏像を難波の堀江に捨てるとともに、向原の寺を焼いてしまった。いまさら再説する必要もないほど有名な仏教伝来にまつわる逸話である。
後日談がある。この時流された仏像は、どういった経緯か、信濃善光寺の本尊としてまつられているという。絶対秘仏と言うことで、誰も見た者はいないが、これを模した善光寺式阿弥陀如来像が、秘仏の前に置かれる前立本尊を始め、各地に伝えられており、その姿をうかがうことができる(左図参照〉。
この説話によると、日本で最初の寺院は、蘇我氏の向原の邸宅を寺としたものである。これ以後、飛鳥寺の建立までの間に、いくつかの私的な寺の存在を認めることができる。次に述べる向原の寺・桜井寺がその代表である。ほかに、敏達六年(577)に、百済から渡来した、律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏王・造寺王6人を置いたとされる難波の大別王の寺も、類似の私寺の一つであろう。  
 
蘇我氏と物部氏 7

 

蘇我氏(そがのうじ)は古墳時代から飛鳥時代に勢力を持っていて、代々大臣(おおおみ)を出していた有力氏族です。古事記、日本書紀で神功皇后の三韓征伐で活躍したとされる、竹内宿禰を祖としている一族ですが、詳しい活動が分かってくるのは、6世紀以降の蘇我稲目からになります。それ以前の活躍は、史料が乏しく、あまり分かっていません。平安時代に嵯峨天皇によって造られた古代氏族名鑑である『新撰姓氏録』では、蘇我氏を歴代皇族から分かれた氏族であるとしています。ここでは、聖徳太子と一緒に、政権に大きく関わった、蘇我馬子について紹介していきましょう。一方、物部氏(もののべうじ)ですが、天皇家よりも以前に天孫降臨したといわれる、ニギハヤヒミコトが祖先と伝えられる氏族です。元は、兵器の製造や管理を管掌していましたが、徐々に有力軍事勢力へと成長しました。物部尾輿と蘇我稲目の間で起こった争いは、子の物部守屋と蘇我馬子へと引き継がれていきます。日本の歴史上、因縁の対決が、守屋と馬子の代で決着がつきます。
蘇我氏の全盛期
蘇我馬子は飛鳥時代の政治家であり、貴族でもありました。邸宅の池に島を浮かべていたことから、嶋大臣とも呼ばれていました。敏達天皇のときに大臣になり、用明、崇峻、推古と、4代に渡って天皇に使え、54年もの長い間権勢をふるい、蘇我氏の前世時代を築きます。子供は蘇我善徳、蘇我倉麻呂、蘇我蝦夷がおり、娘は崇峻天皇妃の河上娘、田村皇子の法提郎女、聖徳太子妃の刀自古郎女などがおり、孫には蘇我入鹿などがおります。どれも日本の歴史で習って、聞き覚えのある名前ばかりです。
蘇我馬子と物部守屋
蘇我稲目の息子として生まれ、敏達天皇が即位すると同時に大臣になります。585年、馬子は病に倒れます。占い師に占わせたところ、父である稲目の頃に、仏像を破棄した祟りであると言われます。馬子は敏達から仏法を祀る許可をもらい、祟りに対して鎮まるように祈願します。ところが、ときを同じくして疫病がはやり、多くの人が命を落としました。仏教に反対する物部守屋と中臣勝海が、蕃神を信奉したせいで疫病が起きたと敏達に奏上したために、馬子は仏法をやめるように詔されてしまいます。寺に向った守屋は、仏殿を壊し、仏像を海に投げ捨ててしまいます。さらに馬子や仏教信者を罵り、馬子が敬っていた3人の尼僧を差し出すように命じます。守屋は尼僧を全裸にして縛り上げ、尻を鞭打ちにしました。けれど疫病は治まらず、敏達天皇も守屋も病気になってしまいます。周囲の人々は、『仏像を焼いた罪だ』『罰が当たった』と噂しました。病気が治らない馬子は、再び仏法を祀る許可を求め、馬子に対してのみ、許可されました。3人の尼僧を返してもらった馬子は、新たに寺を建立して仏像を迎え、供養しました。
物部守屋の最期
ほどなくして敏達天皇が崩御します。棺を埋葬のときまで安置しておく仮の御殿で、馬子と守屋は互いに罵倒しあいます。新しい天皇には、馬子の甥にあたる用明が即位しますが、用明の異母弟の穴穂部皇子は自分が即位したかったので、不満を抱いていました。そこで守屋と手を組んで、敏達の寵臣であった、三輪逆の命を奪わせます。即位から2年、用明は病に倒れ、仏法を信仰したいと群臣に詔りました。もちろん守屋と中臣勝海は大反対しましたが、仏教信者である馬子は、詔を奉ずべきとして、穴穂部皇子に豊国法師を連れてくるように命じました。守屋は怒ってしまいますが、群臣の殆どが馬子の味方だと知り、河内国へと退きます。やがて用明が崩御すると、守屋は思惑通り、穴穂部皇子を皇位につけようと目論見ます。しかし、馬子が先手を打ち、敏達の皇后を奉じ、穴穂部皇子をなきものにしました。馬子は群臣に詔り、守屋を根絶やしにすることを決意します。諸皇子や諸豪族の大群を集め、河内国渋川群の守屋を攻めますが、元々軍事氏族だった物部氏の兵士は飛びぬけて強く、稲城を築いてかたくなに抵抗し、蘇我氏の軍を3度に渡って撃退しました。
聖徳太子と蘇我氏の勝利祈願
強い抵抗を見せる物部氏勢に手を焼いた蘇我氏と聖徳太子(厩戸皇子)。聖徳太子は四天王像を彫って、この戦いに勝利させてくれたら、寺院を建てて祀ること、また、仏法を広めていくと勝利祈願しました。また、馬子も塔を建て、戦いへの勝利祈願をして、仏法の教えを広めることを誓います。こうして蘇我氏の軍は奮い立ち、積極的に物部軍に攻撃を仕掛け、遂には守屋の命を討ち取ることに成功し、物部氏の長い歴史に膜を閉じることになったのです。  
 
推古天皇と蘇我氏 8

 

仏教伝来
大伴金村失脚後、欽明天皇の朝廷で勢力を激しく争ったのが蘇我氏と物部氏でした。
その火種の第1ラウンドが、538年に百済から伝わった仏教の取扱い。この時は百済の聖明王から金色に輝く釈迦像と仏典がサンプル品として届いただけでしたが、この新しい宗教について、渡来人の子孫でもあった蘇我稲目は受容を推進しようとし、一方で物部尾輿(おこし)は反対の姿勢を明確にしました。
*余談ですが、私的では522年に司馬達等が自宅の草庵に仏像を安置して礼拝していた、という記録があります。
なぜ蘇我氏は仏教受容を推進したのか。
すなわち、人には仏教を伝えたくせに、自国ではあまり仏教が盛んでなかった百済が衰亡の一途をたどり、逆に仏教信仰が盛んで多くの寺を建てていた新羅が栄えていたのを見て、「これは仏教の力だ」と蘇我氏は考えたのです。さらに、次々と朝鮮半島から渡来人が流入する中で、人々をまとめ上げる宗教として日本古来からの神祇信仰だけではなく、仏教が必要である、と考えたのです。
こうして蘇我氏と物部氏の争いはエスカレート。
欽明天皇没後、その息子の敏達天皇、用明天皇が相次いで病死し、後継者を誰にするかで大激突しました。尾輿から代替わりした物部守屋(もりや)は欽明天皇の息子である穴穂部皇子を、稲目から代替わりした蘇我馬子はその弟である泊瀬部(はせべ)皇子を推薦し、激突しました。
そして587年、蘇我馬子は穴穂部皇子を暗殺するという強行策に打って、さらに豪族をまとめ上げ、物部守屋を激戦の末に討ち取ることに成功したのです。当初は蘇我氏側が劣勢でしたが、ここで神秘的な力を発揮したのが14歳の厩戸皇子(うまやどのみこ)、いわゆる聖徳太子だったといわれます。用明天皇の息子である彼は、木で仏像を彫り、兵士達の心の拠り所とすることで大幅に士気を高め、一気に戦局を覆した・・・ようです。どこまで本当か解りませんけれども。
こうして蘇我馬子は泊瀬部皇子を即位させ(崇峻天皇)、さらに飛鳥(現在の奈良県明日香村)の地に法興寺(現在の飛鳥寺)を建立し仏教の拠点としました。
また、蘇我馬子は592年、「あいつはオレの言うことをきかねえ」と崇峻天皇を暗殺し、欽明天皇の娘で、敏達天皇の后だった炊屋姫(かしきやひめ)を即位させました。これが、推古天皇です(当時39歳)。そして、19歳の聖徳太子を摂政につけ、さらに娘を嫁がせ義理の息子とし、馬子は朝廷の大実力者として政治を行うのです。
推古朝の政治
さて、推古天皇の下で朝廷の体制がさらに整えられていきます。
まず603年、都を飛鳥の小墾田宮(おはりだのみや)へ移します。なお、小墾田宮の正確な場所は特定されていません。
そして、これまでの姓を使った授位のあり方に変えて、冠位十二階の制が定められます。これは、徳・仁・礼・信・義・智の6つをベースに、それぞれ大小に区分。つまり、合計12の位を設置し、豪族達は冠の色と飾りで自分達の朝廷内での等級が一目瞭然で区別されることになったのです。また、これは才能や功績によって上がることが出来るため、豪族達のやる気を引き出します。
もっとも、蘇我氏のような有力氏族は自分達の地位が脅かされる危険があるため、反発が予想。
そのため、有力な豪族は対象としませんでした。また、長い年月をかけて位は13,19、26,48,そして逆戻りで30階に落ち着いています。
そして604年に聖徳太子の肝いりで憲法17条を発表します。
これは、今の憲法とは異なるもので、朝廷内における人々の心構え、すなわち倫理規定を定めたものです。和をもって貴しとなし・・・とか、仏教を篤く敬えとか・・・全国の人民はすべて大王を主とあおげとか・・・。こうして、豪族達を地方の有力者から朝廷の役人へと次第に性格を変貌させていくことになるのです。考えてみれば、かなりの改革ですね。
ただし、実際に施行されたかまでは記録に残っておらず、不明です。
また、聖徳太子と蘇我馬子は歴史書である「天皇記」「国記」の歴史書の編纂にも乗り出します。
これによって、これまでの歴史が不明にならないように文字で後世に残し、同時に現政権の正統性も強調する狙いがあったのだと思います。ちなみに、蘇我馬子の子孫は後ほど述べる通り天皇に対する反逆者として滅亡に追い込まれたため、必然的に蘇我馬子についての功績も小さく描かれていますが、こうした大きな改革を蘇我氏の力無くして実現できたとは思えず、聖徳太子と蘇我馬子の二人三脚で新たな国家体制を意欲的に整備していったと考えられています。
隋との外交
さて、これまで百済を通じて大陸の文物を取り入れ、互いに積極的に使者を交換していた大和政権でしたが、中国ではこの頃、ようやく小国分立状態が解消され、隋という大陸全土を統一した国家が誕生していました。そこで607年、聖徳太子は小野妹子を中心とした使節(=遣隋使)を送ることにしました(それに先立ち、中国の歴史書「隋書」には600年にも倭国からの使者が来た、と記されています)。
この時、聖徳太子は日本側がへりくだった交渉を嫌い、対等に交渉せよと指示しました。そのため、日本側の国書には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや」と記しました。つまり、我々日が昇る国の天子が、日が没する国の天子にお手紙差し上げます。お元気でしょうか?と記したわけです。
これを見た隋の皇帝である煬帝(ようだい 位604〜618年)は「野蛮人が、無礼な!」と激怒します。何しろ、隋は日が沈む国と書かれた上に、相手は自分達のトップを、隋の皇帝と対等に”天子”という名称で表現しているのです。しかし、隋は朝鮮半島の高句麗と戦っていたこともあり、わざわざ日本を敵に回すこともないと考え、翌年、外国の接待係だった名門出身、斐世清(はいせいせい)を使者として日本に派遣しています。ただし、隋から送られた国書の方も過激な内容だったようで、小野妹子は「途中で奪われました」と言って朝廷には提出しませんでした。
ともあれ、こうして隋との国交が樹立した大和政権は、斐世清を隋に送り返すと同時に、高向玄理(たかむこの げんり/くろまろ)、南淵請安(みなみぶち しょうあん)、および僧である旻(みん)らを留学生として派遣し、長期にわたり学習させました。彼らは後の政治改革で少なからぬ役割を発揮しています。
新羅との戦い
一方、これまで通り朝鮮半島との関係も非常に重要なものでした。
特に新羅との関係が非常に重要。562年に新羅が任那(加羅)を滅ぼして以降、日本と新羅の関係は腹のさぐり合い状態で、時には新羅が日本に仏像などを送っていましたが、591年には「任那を復興しよう!」と、日本は九州の筑紫へ2万人の兵士を派遣し、その時を伺い始めました(結局、3年後に撤兵)。
さらに600年には任那の残存勢力でしょうか、これが新羅と戦ったようで日本は救援へ。新羅を破ることに成功します。
1回目と思われる遣隋使はこの時に派遣されていますから、新羅問題に関する外交を展開したのではないかと思われます。その後の第2回目で小野妹子が派遣されることになりますが、日本と隋を対等に考えた外交を展開したのは、もしかしたら第1回目の遣隋使での出来事が影響しているのかも知れませんね。日本側の記録に残っていないのも何か怪しい(笑)。
さらに602年、聖徳太子の弟である来目皇子(くめみこ)を将軍とし、2万5000人を新羅遠征軍として派遣することが決定。来目皇子は軍事を担当する大伴氏配下の来目氏による軍事教育を受けており、軍事のエキスパートだったとか。・・・ところが、いざ朝鮮半島へ!と、九州の筑紫で準備していたところ病に倒れ、亡くなってしまいました。遠征は中止に。聖徳太子の悲しみは相当なものだったでしょうね。なにしろ、来目皇子は聖徳太子と父も母も同じでしたから。
これ以後は目立って大きな戦争はしなかったのか、新羅が任那と共同でしばしば使者を日本へ送るようになり、仏像などが送られています。また、高句麗も同様で、僧が来日したり、610年には隋に攻められたことから、日本に救援を要請。この時、派遣されてきた曇徴(どんちょう)という僧侶は、儒教の専門家でもあり、さらに彩色、紙、墨の製造法も伝え、飛鳥文化に大きな影響を与えています。また、水力を利用した臼の製造実演も行っています。
それから、高句麗は618年、隋が滅亡したことをいち早く報告。この時、ラクダも送ったそうですが、当時の人達のインパクトはどんなものだったでしょうか。気になるところです。・・・と、書いたところで聖徳太子が亡くなった後、623年には蘇我馬子が新羅に軍を遠征しているではありませんか。勢力を拡大する新羅に対し、これ以後も百済、高句麗、さらには隋の後に中国を統一した唐との間であの手、この手で外交が展開されます。
聖徳太子と仏教
聖徳太子といえば、とにかく仏教を篤く信仰し、保護した人物でした。
物部守屋との戦いで木彫りの仏像を作ったことは先に述べた通りですが、この戦いで勝利したことを感謝し、593年、難波の地に四天王寺を建立しています。
そして607年頃には、聖徳太子が住居を構えた斑鳩(いかるが)に、法隆寺(下写真)を建立。その名の通り、仏法が隆盛になることを願ったものです。
さらに、仏教に対する勉強会も熱心に主宰し、高句麗から来日した僧の恵慈(えじ)ら共に様々な仏法を研究。特に、「法華経義疏(ほけきょうぎしょ)」などを発表しました。これに、維摩経義疏(ゆいま)・勝鬘経義疏(しょうまん)を加えた「三経義疏」(さんぎょうぎしょ)と総称される仏教注釈書が、聖徳太子のグループの成果のようです。
こうして、蘇我馬子と協力、晩年はかなり圧力を受け政治から遠ざかったとも言われる聖徳太子は、馬子よりも早く622年に死去。のちに聖人君主のように描かれるようになる彼ですが、実のところは非常に謎めいた存在で、果たして本当にいたのか?という説も有力に唱えられています。
遣唐使派遣
さて、聖徳太子がちょうど亡くなる少し前の、618年に隋が滅びます。
代わって唐が中国を統一したというので、今度はこの国に遣唐使を送ろう、ということになりました。そこで630年、犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)を中心とした第1回の遣唐使が派遣されます。この時は、新羅に対して有利な立場に立とうというのが狙いでしたが、残念ながら唐は新羅寄りの立場だったようで、さらに日本を服属国とみなしていたため、外国面では互いに目立った成果はなかったようです。
それでもこれ以後、多くの人間が遣唐使船に乗って唐へ派遣され、多くのことを学んで帰国したり、中には唐の政府に使えて一生を終えるものも登場しています。
周りは敵だらけの蘇我蝦夷?
さて、どんな人間にも寿命は来ます。
4代の天皇に仕え、54年も大臣を務めた蘇我馬子は626年に亡くなりした。
そして家督を継いだのが、蘇我蝦夷(そがのえみし)。やはり大臣に就任し、絶大な権力をふるうことになります。
まず628年、次期天皇について明確な意思表示の無いまま推古天皇が没すると、後継者を誰にするかが問題となります。蘇我蝦夷としては、妹の夫だった田村皇子を即位させたい。これに対し、一部からは聖徳太子の息子である山背大兄王(蘇我蝦夷の甥でもある)を推す声もありました。
この山背大兄王を支持する代表格というのが、蘇我蝦夷にとって厄介だった人物でした。
その人物の名を、境部摩理勢(さかいべのまりせ)。一説によると蘇我馬子の弟ともいわれ、蘇我一族の長老的存在だったようです。で、あるから誰を次期天皇にするか、というのは蘇我氏一族の権力闘争的な意味もあったようです。結局、蘇我蝦夷は境部摩理勢の説得が出来なかったため、強硬手段で彼を殺してしまいました。
こうして、田村皇子が即位しました(舒明天皇)。
蘇我蝦夷は、絶大な権力を根拠とした勝手な振る舞いも多く、周囲からかなり警戒されていたようです。特に、舒明天皇の叔父である大派王(おおまたおう)は「きちんと勤務時間を決めて、朝廷で働け!」と、これは何も蝦夷に限ったことではなかったようで、当時の役人全体の勤務態度のルーズさを指摘。ただし、特に蘇我蝦夷は大臣なのだから、率先して決まりを守れ、と忠告しますが無視。
そして舒明天皇が亡くなると、その皇后を即位(皇極天皇)させます。
皇位を狙っていた山背大兄王としては面白いはずがありません。当然、蘇我蝦夷とさらに険悪な仲になります。
蘇我氏本家の滅亡
643年、蘇我蝦夷は大臣の位を、息子の蘇我入鹿(そがのいるか)へ私的に譲渡しました。
権力を手に入れた蘇我入鹿は早速、ライバル的な存在だったに山背大兄王に対して兵を動かし攻撃を仕掛け、彼を自害に追い込んでしまいました。さすがの蘇我蝦夷も「何てことをしてくれたんだ!」と嘆いたそうです。さすがにやりすぎると何されるか解らないぞ、というわけでしょうね。
その嫌な予感は見事に的中。
645年、皇極天皇の息子だった中大兄皇子(なかのおおえのおうじ 当時20歳)と、前回で紹介した南淵請安の弟子である中臣鎌足(なかとみのかまたり 当時32歳)らのグループは、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で蘇我入鹿を暗殺。隠居していた蘇我蝦夷は、「もはやこれまで」と自害し、ここに蘇我氏本家は滅亡しました。これを、乙巳の変(いっしのへん)といいます。
ちなみに、よく「蘇我氏滅亡」なんて表現する本がありますが、蘇我氏といっても蘇我馬子らの本家に快く思っていないグループも多く存在し、この乙巳の変でも蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)が中大兄皇子に協力しています。ただ、やはり蘇我氏それ自体の排除は次第に進められ、僅かに蘇我一族の石川氏などが活躍するに留まっています。
そのために、必然的に蘇我氏が悪者扱い状態ですが・・・。
理想とする国家観の違いや、朝鮮半島を巡る外交政策などの、政治的対立によって発生した権力闘争的な面も強く、そんな「勝手な振る舞い」とか「独裁的な・・・」などの記録は、どこまで鵜呑みにして良いのかな、と個人的には思います。特にこれ以後、平安時代まで続く藤原氏の最初の権力闘争が、この蘇我本家排除であるとも言えるわけでして・・・。
※注:中臣鎌足は、藤原氏の祖。
大化の改新
さて、こうして蘇我氏の強大な権力を排除した中大兄皇子らは、皇極天皇の弟、軽皇子を即位させ(孝徳天皇)、左大臣に阿倍倉梯内麻呂(あべのくらはしのうちのまろ)、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂を、内臣に中臣鎌足を配置する新政府を樹立。中大兄皇子は皇太子になりました。
そして唐のように元号を定め、大化とします。
さらに646(大化2)年には、改新の詔(みことのり)を発表し、
1.公地公民制(=すべての土地と人民は国家のもの)へ移行し、屯倉・田荘などの私地私民制を廃止
2.中央・地方の行政区画を定め、軍事施設を整備、
3.戸籍を作って人民を登録し、全国の土地を班田収授法により分配
4.全国に統一的な税制を作る
としました。そして、難波宮(大阪市)に遷都します。
こうした、一連の改革を大化の改新といい、「本当に実行されたの? 後世の創作じゃないの?」と、信憑性にやや疑問もあるものの、ともあれ天皇中心の国家の整備が進められていきました。その中で、残念なことに蘇我倉山田石川麻呂は、謀反の疑いをかけられて「私は無実だが、潔く死んでやる」と自殺しています。石川麻呂の異母弟、蘇我日向(ひむか)が「兄が、中大兄皇子を暗殺しようとしています」と密告し、中大兄皇子がそれを信じたのが原因。
また、孝徳天皇と中大兄皇子の対立が激化。
結局、中大兄皇子らは飛鳥に事実上遷都し、難波宮には孝徳天皇が置き去りにされることに。
こうして孤独にさせられた孝徳天皇は、失意のうちに没しました。
そして中大兄皇子の母親、皇極上皇が再び即位します(斉明天皇)。
この政変劇の中で、孝徳天皇の息子の有馬皇子は、情勢の推移を見守っていましたが、蘇我赤兄(あかえ)に謀反を勧められて決起を決意しました。ところが、なんと蘇我赤兄に裏切られて逮捕されてしまうのです。そして有馬皇子は、中大兄皇子に処刑されてしまいました。どうやら、仕組まれていたようで・・・。
先ほどの蘇我石川麻呂の死も、おそらく中大兄皇子にとって権力を脅かす存在を排除したものでしょう。
中大兄皇子の権力基盤も磐石ではなく、孝徳天皇・蘇我石川麻呂VS中大兄皇子・中臣鎌足なんて状態だったんじゃないのでしょうか。蘇我本家打倒では目的が一致したとはいえ、その後は孝徳天皇系の勢力を排除することが、中大兄皇子らには必要不可欠だったのでしょう。
東北への勢力拡大?
ところで、長らく大和政権は関東から西が権力基盤でしたが、この頃より積極的に東北へ進出を始めたようです。当時の東北には、朝廷に従わない蝦夷(えみし)と呼ばれる勢力がいて(・・・誰かさんの名前と同じなのは何故?)、彼らを何とかして従わせたい、というのが大和政権の悲願でした。
そこで647年に淳足柵(ぬたりのさく 現・新潟県新潟市沼垂 ぬったり)、翌年に磐舟柵(いわふねのさく 現・新潟県村上市)という砦のようなものを造らせ、さらに阿倍比羅夫に水軍を引き入らせて、齶田(あぎた 現・秋田県)や津軽の方に進出した・・・といわれています。もっとも、この頃は沿岸部程度しか進出できなかった上、現地の蝦夷の首長に対し、「そなたを、この地域の長官に任命する〜」「はあ・・・。よく解らんけど、任命されておくか。」といった感じのものだったようですね。  
 

 

 
物部氏

 

    先代旧事本紀・日本書紀・古事記・物部氏
「物部」を氏の名とする氏族。姓(かばね)は、始め物部連、後に物部朝臣。大和国山辺郡・河内国渋川郡あたりを本拠地とした有力な豪族で、神武天皇よりも前にヤマト入りをした饒速日命が祖先と伝わる神別氏族。穂積氏や采女氏とは同族の関係にある。饒速日命は登美夜須毘売を妻とし物部氏の初代の宇摩志麻遅命(可美真手命)をもうけた。
元々は鉄器と兵器の製造・管理を主に管掌していた氏族であったが、しだいに大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長していった。5世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになった。物部氏は解部を配下とし、刑罰、警察、軍事、呪術、氏姓などの職務を担当し、一説には盟神探湯の執行者ともなったとされる。 また、奈良県天理市街地周縁にある「石上・豊田古墳群」「杣之内古墳群」の被葬者は物部氏一族との関連が指摘されている。
物部氏は528年継体天皇22年に九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられた。これを鎮圧した物部麁鹿火(あらかい)は宣化天皇の元年の7月に死去している。
蘇我氏との対立
宣化天皇の崩御後、欽明天皇の時代になると物部尾輿(生没年不詳)が大連になった。欽明天皇の時代百済から贈られた仏像を巡り、大臣・蘇我稲目を中心とする崇仏派と大連・物部尾興や中臣鎌子(中臣氏は神祇を祭る氏族)を中心とする排仏派が争った。
稲目・尾興の死後は蘇我馬子、物部守屋に代替わりした。大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。天皇は排仏派でありながら、これを許可したが、このころから疫病が流行しだした。大連・物部守屋と中臣勝海は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。
こうした物部氏の排仏の動き以後も疫病は流行し続け、敏達天皇は崩御。崇仏・排仏の議論は次代の用明天皇に持ち越された。用明天皇は蘇我稲目の孫でもあり、敏達天皇とは異なり崇仏派であった。しかし依然として疫病の流行は続き、即位してわずか2年後の587年5月21日(用明天皇2年4月9日)に用明天皇は崩御した(死因は天然痘とされる)。守屋は次期天皇として穴穂部皇子を皇位につけようと図ったが、同年6月馬子は炊屋姫(用明天皇の妹で、敏達天皇の后。後に推古天皇となる)の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺した。同年7月、炊屋姫の命により蘇我氏及び連合軍は物部守屋の館に攻め込んだ。当初、守屋は有利であったが守屋は河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の本拠地で戦死した(丁未の乱)。同年9月9日に蘇我氏の推薦する崇峻天皇が即位し、以降物部氏は没落する。
天武朝
684年、天武天皇による八色の姓の改革の時に、連の姓(かばね)から朝臣姓へ改めるものがあった。
石上氏
686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみうじ)が本宗家の地位を得た。大和国山辺郡石上郷付近を本拠にしていた集団と見られている。 石上はもと物部弓削守屋の弟である物部石上贄子が称していたが、のちに守屋の兄・物部大市御狩の曾孫とされる麻呂が石上の家を継いだとする説がある。
石上麻呂は朝臣の姓が与えられて、708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位の位階を贈られた。息子の石上乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は文人として淡海三船と並び称され、日本初の公開図書館・芸亭を創設した。
石上氏は宅嗣の死後公卿を出すことはなく、9世紀前半以降中央貴族としては衰退した。また、石上神宮祠官家の物部氏を宅嗣の弟・息嗣の子孫とする近世の系図がある。
枝族・末裔
物部氏の特徴のひとつに広範な地方分布が挙げられ、無姓の物部氏も含めるとその例は枚挙にいとまがない。長門守護の厚東氏、物部神社神主家の長田氏・金子氏(石見国造)、廣瀬大社神主家の曾禰氏の他、穂積氏、采女氏をはじめ、同族枝族が非常に多いことが特徴である。江戸幕府の幕臣・荻生徂徠は子孫といわれる。
東国の物部氏
石上氏ら中央の物部氏族とは別に、古代東国に物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録がある。扶桑略記、陸奥話記などには陸奥大目として物部長頼という人物が記載されている。いわゆる「古史古伝」のひとつである物部文書に拠ると出羽物部氏は物部守屋の子孫と称しているが証拠はない。一方で六国史に散見する俘囚への賜姓例の中には、吉弥候氏が物部斯波連を賜ったという記録も見える。
下総物部氏
下総国匝瑳郡に本拠を持つ物部匝瑳連の祖先伝承に、布都久留 の子で木蓮子の弟の物部小事が坂東に進出し征圧したというものがある。また平安中期に作られた和名類聚抄には下総国千葉郡物部郷〈四街道市物井〉の記述があり、これらについては常陸国信太郡との関連を指摘する説があり、香取神宮と物部氏の関連も指摘されている。
尾張物部氏
古代尾張の東部に物部氏の集落があり、現在は物部神社と、武器庫であったと伝えられる高牟神社が残っている。
石見物部氏
石見国の一の宮「物部神社」(島根県大田市)は、部民設置地説以外に出雲勢力に対する鎮めとして創建されたとする説もあり、社家の長田家・金子家は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。金子家は、戦前は社家華族として男爵に列している。
備前物部氏
岡山県には備前一宮として知られる石上布都御魂神社がある。縁起によると、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した「十握劒」(あるいは「韓鋤(からさひ)の剣)を山上の磐座に納めたのが始まりといわれる。江戸期には岡山藩の池田家から尊崇を受け「物部」姓への復姓を許されており、今の宮司も物部氏をついでいる。大和の石上神宮の本社ともいわれているが、神宮側は公認していない。
国造
先代旧事本紀巻十「国造本紀」には、以下の物部氏族国造があったという。上述の石見国造のように、古代史料には見えないが国造を私称するものも存在する。
参河国造 / 遠淡海国造 / 久努国造 / 珠流河国造 / 伊豆国造 / 久自国造 / 三野後国造 / 小市国造 / 風速国造 / 松津国造 / 末羅国造 / 熊野国造 
 

 

 
 

 

 
天智天皇(中大兄皇子) 1

 

(626年(推古天皇34年) - 672年1月7日(天智天皇10年12月3日)) 第38代天皇(在位:668年2月20日(天智天皇7年1月3日) - 672年1月7日(天智天皇10年12月3日))。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる。なお、661年の斉明天皇崩御後に即日中大兄皇子が称制したため暦が分かりにくくなっているが、『日本書紀』では越年称元(越年改元とも言う)年代での記述を採用しているため、斉明天皇崩御の翌年(662年)が天智天皇元年に相当する。
大化の改新と即位
舒明天皇の第2皇子。母は皇極天皇(重祚して斉明天皇)。皇后は異母兄・古人大兄皇子の娘・倭姫王。ただし皇后との間に皇子女はない。
645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。入鹿の父・蘇我蝦夷は翌日自害した。更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(大化の改新)を行なった。また有間皇子など、有力な勢力に対しては種々の手段を用いて一掃した。
百済が660年に唐・新羅に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子・扶余豊璋を送り返し、百済復興を図って白村江の戦いを起こすも敗戦した。百済救援を指揮するために筑紫に滞在したが、661年8月24日(斉明天皇7年7月24日)斉明天皇が崩御した。
その後、長い間皇位に即かず皇太子のまま称制した(天智天皇元年)。663年8月28日(天智天皇2年7月20日)に白村江の戦いで大敗を喫した後、唐に遣唐使を派遣する一方で、667年4月17日(天智天皇6年3月19日)に近江大津宮(現在の大津市)へ遷都し、668年2月20日(天智天皇7年1月3日)、ようやく即位した。668年4月10日(天智天皇年2月23日)には、同母弟の大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟とした。しかし、671年1月2日(天智天皇9年11月16日()に第1皇子・大友皇子(のちの弘文天皇)を史上初の太政大臣としたのち、671年11月23日(天智天皇10年10月17日)に大海人皇子が皇太弟を辞退したので代わりに大友皇子を皇太子とした。
白村江の戦以後は、国土防衛の政策の一環として水城や烽火・防人を設置した。また、冠位もそれまでの十九階から二十六階へ拡大するなど、行政機構の整備も行っている。即位後(670年)には、日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、公地公民制が導入されるための土台を築いていった。
中大兄皇子時代の660年(斉明天皇6年)に漏刻(ろうこく、水時計のこと)を作り、671年(天智天皇10年)には大津宮の新台に置いて鐘鼓を打って時報を開始したとされる。671年での日付(4月25日)に対応するグレゴリオ暦 (ユリウス暦ではないことに注意)の6月10日は時の記念日として知られている。
崩御とその後
669年11月13日(天智天皇8年10月15日)、中臣鎌足が亡くなる前日に内大臣に任じ、藤原の姓を与えた。
671年10月(天智天皇10年9月)、病に倒れる。なかなか快方に向かわず、10月には重態となったため、弟の大海人皇子に後事を託そうとしたが、大海人は拝辞して受けず剃髪して僧侶となり、吉野へ去った。672年1月7日(天智天皇10年12月3日)、天智天皇は近江大津宮で崩御した。宝算47。
天智天皇は、大友皇子に皇位を継がせたかった。しかし、天智天皇の崩御後に起きた壬申の乱において大海人皇子が大友皇子に勝利して即位し天武天皇となる。以降、天武系統の天皇が称徳天皇まで続く。
称徳天皇崩御後に、天智の孫・白壁王(志貴皇子の子)が即位して光仁天皇となり、以降は天智系統が続く。
大海人皇子から額田王を奪ったという話は有名であるが、事実ではないという説もあり、真偽ははっきりしない。
即位に関する諸説
中大兄皇子が長く即位しなかったことは、7世紀中葉の政治史における謎の一つである。これに関する説がいくつか存在する。
1 天武天皇を推す勢力への配慮。すなわち、従来定説とされてきた、天武天皇は天智天皇の弟であるというのは誤りで、皇極天皇が舒明天皇と結婚する前に生んだ漢皇子であり、彼は天智天皇の異父兄であるとする説に基づくものである。確かに、『日本書紀』の天智天皇と一部の歴史書に掲載される天武天皇の享年をもとに生年を逆算すれば、天武が年長となってしまう。しかし、同一史料間には矛盾は見られず、8〜9歳程度の年齢差を設けている史料が多い。これに対しては「『父親が違うとはいえ、兄を差し置いて弟が』ということでは体裁が悪いので、意図的に天智の年齢を引き上げたのだ」との主張があるが、「『日本書紀』に見える、天智の年齢16歳は父・舒明天皇が即位した時の年齢だったのを間違えて崩御した時の年齢にしてしまった。だから、本当の生年は『本朝皇胤紹運録』などが採用している614年だ」との反論、「古代においては珍しくなかった空位(実際、天武の前後に在位していた天智・持統も称制をしき、ただちに即位しなかった)のために誤差が生じたのだ」との反論、また『日本書紀』と指摘されているその他歴史書は編纂された時代も性質も異なるため、同一には扱えないとの意見もある(「天武天皇#年齢」の項も参照)。
2 乙巳の変は軽皇子(孝徳天皇)のクーデターであり、中大兄皇子は母親である皇極天皇と共に地位を追われたという説。近年、中大兄皇子と蘇我入鹿の関係が比較的良好であり、基本政策も似ていることが指摘されている。そうなると、中大兄皇子の変事の年齢は弱冠20と若く、皇極天皇以外に強力な後ろ盾がないことを考慮すると、親子ほど歳の差のある軽皇子と違い、皇位狙いであわてて入鹿を殺害する動機がなくなる。また、『日本書紀』の大化の改新の記述には改竄が認められることから、この説が唱えられるようになった。この説では皇極天皇の退位の理由や、入鹿以外の蘇我氏がクーデター後も追放されていない理由など、その他の疑問点も説明できるため注目を浴びている。
3 天智の女性関係に対しての反発から即位が遅れたとする説。これは、『日本書紀』に記載された孝徳天皇が妻の間人皇女(天智の同母妹)にあてた歌に、彼女と天智との不倫関係を示唆するものがあるとするものである。異母兄弟姉妹間での恋愛・婚姻は許されるが、同母兄弟姉妹間でのそれは許されなかったのが当時の人々の恋愛事情だったとされる。
4 斉明天皇の死後に、間人皇女が先々代の天皇の妃として皇位を継いでいたのであるが、何らかの事情で記録が抹消されたという説。これは『万葉集』において「中皇命」なる人物を間人皇女とする説から来るもので、「中皇命」とは天智即位までの中継ぎの天皇であるという解釈出来るという主張である。もし間人皇女=「中皇命」とすれば、なぜ彼女だけが特別にこうした呼称で呼ばれる必要性があったのかを考えられるが、斉明天皇だとする説もあり、必ずしも確証はない。
5 天智は元々有力な皇位継承者ではなかったために、皇太子を長く務めることでその正当性を内外に認知させようとした説。舒明の后には敏達・推古両天皇の皇女である田眼皇女がいるにもかかわらず、敏達の曾孫に過ぎない皇極が皇后とされている点を問題とするもので、『日本書紀』の皇極を皇后とする記事を後世の顕彰記事と考え、天智は皇族を母とするとしても皇極の出自では有力な継承者になりえず、皇極の在位も短期間でその優位性を確立出来なかったために、乙巳の変後にもただちに即位せず皇族の長老である孝徳を押し立てて、自らは皇太子として内外に皇位継承の正当性を認知させる期間を要したとする説。
6 乙巳の変の意義を、蘇我大臣家のみならず同家に支えられた実母・皇極天皇率いる体制打倒にあったとする観点から、孝徳天皇との対立→崩御の後に自らの皇位継承の正統性を確保するため、皇極天皇の重祚という、乙巳の変の否認とも取られかねない行為を行ったことで群臣たちの信用を失った中大兄が、信頼を回復するまでに相当の期間を必要としたとする説。
政治史という性質・史料の制約などもあり、証明は困難ではあるが、考古学的成果との連携などとも含め、今後の研究の進展が待たれる。
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市山科区御陵上御廟野町にある山科陵(やましなのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は上円下方(八角)。遺跡名は「御廟野古墳」。また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。崩御の天智天皇10年12月3日はグレゴリオ暦672年1月10日に相当するので、1月10日に御陵で正辰祭が行われる。(1月7日はユリウス暦)

万葉集に4首の歌が伝わる万葉歌人でもある。百人一首でも平安王朝の太祖として敬意が払われ、冒頭に以下の歌が載せられている。
秋の田の かりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ / 「屋根を葺いている苫が粗いので、私の袖は夜露にしっとり濡れてしまった」
万葉集からも以下の一首。大和三山を詠んだ歌といわれているが、原文は香具山でなく高山であり、大和の天香久山ではない、畝火や耳梨は山ではないなど多くの異論がある。
香具山は畝火雄々(を愛)しと耳梨と相争ひき神代よりかくなるらし古へもしかなれこそうつせみも嬬(妻)を争ふらしき / 原文「高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉」
遣新羅使
668年(天智天皇7年) 新羅の文武王の代に使節を送った
670年(天智天皇9年) 新羅の文武王の代に使節を送った 
年譜
626年 - 舒明天皇の第2皇子として誕生
645年 - 6月、乙巳の変。蘇我宗家を滅ぼす。叔父・孝徳天皇の皇太子となる。9月、古人大兄皇子を謀反の疑いにて処刑。12月、難波長柄豊碕宮へ遷都
646年 - 「改新の詔」
649年 - 3月、蘇我日向の密告を受け、蘇我倉山田石川麻呂を謀反の疑いにて自害に追い込む
653年 - 孝徳天皇の意に反し、群臣らを率いて板蓋宮へ遷る
654年 - 10月、孝徳天皇崩御
655年 - 1月、母・斉明天皇即位(皇極天皇重祚)。引き続き皇太子
656年 - 岡本宮へ遷る
658年 - 11月、蘇我赤兄の密告を受け、孝徳天皇の遺児・有間皇子を謀反の罪にて処刑
659年 - 阿倍比羅夫に蝦夷国(東北地方・北海道)遠征を命じる
660年 - 百済が唐と新羅に攻め滅ぼされる。百済皇子の扶余豊璋を帰国させる
661年 - 百済再興を救援するために西下するが、7月、斉明天皇が朝倉橘広庭宮にて崩御。皇太子のまま称制
663年 - 7月、白村江の戦いにて唐・新羅連合軍に大敗
664年 - 2月、甲子の宣。
667年 - 3月、近江大津宮へ遷る
668年 - 1月、即位。2月、大海人皇子を皇太弟とする。この年、「近江令」制定?
669年 - 10月、中臣鎌足が亡くなる前日に内大臣に任じ、藤原の姓を与える
670年 - 2月、「庚午年籍」を造る。11月、子・大友皇子を史上初の太政大臣に任ずる
671年 - 10月、大海人皇子が吉野へ去る。12月3日崩御
 
中大兄皇子 2

 

なかちおおえのみこ 生没年 626(推古34)〜671(天智10)
系譜など 田村皇子(舒明天皇)の皇子。母は宝皇女(皇極・斉明天皇)。諱は葛城皇子。他に開別(ひらかすわけ)皇子・天命(あめみこと)開別皇子とも称された。漢風諡号は天智天皇、和風諡号は天命開別天皇。万葉集には近江大津宮御宇天皇・中大兄・近江天皇とある。中大兄は長男・末男以外の皇子に対する敬称であり、万葉巻1に見える通り「皇子」を付さないのが正しい呼び方である。本来固有名詞ではないが、その死後は天智天皇を指す代名詞となった。大海人皇子は同母弟、間人皇女(孝徳天皇皇后)は同母妹。正室は倭姫王(古人大兄の子)であるが子をなさなかった。伊賀采女宅子娘との間に長子大友皇子を、遠智娘(蘇我山田石川麻呂の女)との間に大田皇女・菟野皇女・建皇子を、姪娘(遠智娘の妹)との間に御名部皇女・阿閉皇女(後の元明天皇)を、橘娘(阿倍倉梯麻呂の女)との間に飛鳥皇女・新田部皇女を、常陸娘(蘇我赤兄の女)との間に山辺皇女(大津妃)を、色夫古娘との間に大江皇女・川島皇子・泉皇女を、黒媛娘との間に水主皇女を、越の道君女郎との間に施基皇子をもうけた。
略伝 
640(舒明12)年10月、遣隋使南淵請安らが帰国すると、中大兄は中臣鎌子(のちの鎌足)らと共に外典の講義を受ける。その教えは、のちの大化改新の政策に大きな影響を与えることになる。
641(舒明13)年10月、舒明天皇崩ず(49歳)。東宮開別皇子(中大兄。16歳)、誄をよむ。この時すでに皇太子だったか。642(皇極1)年1.15、母の宝皇女が即位する(皇極天皇)。蘇我蝦夷が引き続き大臣となるが、その子入鹿が国政を壟断する。
645(大化1)年6.8、中大兄・鎌子ら、蘇我入鹿暗殺を計画。蘇我倉山田麻呂もこれに参加。同月12日、倉山田麻呂が大極殿で三韓の上表文を読む際、中大兄は佐伯連子麻呂らと共に入鹿に斬り付け、暗殺に成功(乙巳の変)。6.13、蘇我蝦夷は自邸に火を放ち、天皇記・国記・珍宝を焼くが、国記は危うく中大兄の手に渡る。6.14、皇極天皇は軽皇子に譲位、孝徳天皇即位。同日、中大兄が立太子。以後、中臣鎌足らと共に大化改新に参与、国政の改革に努める。同年9月、吉野に出家していた古人大兄(舒明天皇の第1皇子)の謀反の密告が中大兄のもとに届き、中大兄は兵を差し向け古人を殺させる。
654(白雉5)年10月、孝徳天皇が崩ずると、翌年宝皇女が飛鳥板蓋宮で即位(再祚。斉明天皇)。中大兄は皇太子に留まるが、この時ほぼ独裁的な実権を握ったと考えられている。
658(斉明4)年5月、子の建王(8歳)を失う。10.15、天皇の紀温湯行幸に同行するが、この間孝徳天皇の遺子有間皇子が謀反を企てたとの報を受け、11.11、有間皇子を紀温泉に召し、糾問の後、藤白坂で絞殺の刑に処する。
659(斉明5)年7月、第四次遣唐使を派遣。
660(斉明6)年5月、初めて漏剋(水時計。天智10年に実用化。下記関連サイト参照)を作る。7月、百済が唐・新羅連合軍に大敗して滅亡に瀕し、日本に救援を乞う。
661(斉明7)年1月、斉明天皇は新羅征討の途につくが、この年7月、崩御。中大兄は即位の式をあげぬまま皇位を継承(称制)。8.1、大行天皇の喪をつとめる。この日の宵、朝倉山の上に鬼が現れ大笠を着て喪の儀式を窺ったという。10.7、天皇の遺骸と共に京へ向け発つ。『日本書紀』には、斉明崩後、哀慕する皇太子の歌を載せる。また万葉の「中大兄三山歌」(01/0013〜0015)は「印南国原」の語から播磨国へ旅したときの歌と見る説があり、新羅征討のため筑紫へ向かう途中の歌とも考えられる(ただし後世の付託とする説も有力)。
662(天智1)年3月、唐・新羅連合軍はさらに高句麗を討ち、高句麗は日本に救援を要請。同年、帝の命により鎌足が律令(近江令と通称される)を刊定(『藤氏家伝』)。弘仁格式序にも天智元年22巻(のちの浄御原令と同数)の令を制したとある。
663(天智2)年3月、兵二万七千を新羅に派遣。8.28、日本軍は唐軍に敗退(白村江の戦)。9.7、百済は唐に降服し、滅亡。日本は朝鮮半島の同盟国を失い、大陸からの孤立化の道へ進む歴史的契機となる。またこの時百済王氏など百済から大量の亡命民が日本に渡来した。
664(天智3)年、唐・新羅の侵攻に備え、対馬・壱岐・筑紫に防人・烽を置く。筑紫には水城を築き始める。
665(天智4)年2.25、間人大后が薨ず。8月、長門・筑紫両国に築城を始める。
667(天智6)年2.27、斉明天皇と間人皇后を小市岡上陵に合葬する。3.19、近江大津宮に遷都。10月、高安城(倭)・屋島城(讃岐)・金田城(対馬)を築く。
668(天智7)年1月、即位(天智天皇)。日本書紀は或る本に六年三月即位とする。2.23、倭姫王、立后。5.5、蒲生野に遊猟。大皇弟・諸王・内臣・群臣従駕。10月、高句麗が唐・新羅の攻撃を受けて滅亡する。新羅による半島統一がなる。
669(天智8)年10.15、東宮太皇弟(大海人皇子)を内大臣中臣鎌足宅に派遣し、大織冠と大臣の位を授ける。この日、藤原氏を賜姓。10.16、鎌足は薨じ、中大兄は無二の盟友を失う。
670(天智9)年2月、日本最初の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成する。2月、蒲生郡の日野に行幸、宮の造営地を視察。
671(天智10)年1.5、大臣・御史大夫を任命(近江令に基づく太政官制の施行か)。大友皇子、太政大臣。蘇我赤兄、左大臣。中臣金、右大臣。4.25、漏剋(下記関連サイト参照)を置き、初めて鐘・鼓を以て時刻を知らせる。9月、病臥。10.17、大海人皇子を病床に召し後事を託すが、皇子は病弱を理由に固辞し、大后(倭姫)への譲位と大友皇子の執政を提言して自らは出家を請う。天智はこれを許し、大海人皇子は吉野に隠る。12.3、天智天皇崩ず(46歳)。12.11、新宮で殯。この前後、天智不豫の時及び崩後の歌が万葉にある(02/0149〜0155、作者は倭大后・婦人・石川夫人・額田王)。
天智陵について紀には記載が無いが、万葉集には「山科の鏡の山」に御陵を築いた旨見え(02/0159)、延喜式に山科山陵を墓所とするのと一致する。なお『扶桑略記』には「一云」として、山科に行幸した際山林に入ったまま還御せず、崩所を知らず、とある。
万葉に御作と伝わるのは4首、01/0013・0014・0015、02/0091。 
 
中大兄皇子(天智天皇) 3

 

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ )といえば読み方も含めて日本史を学んだ人なら必ず覚えている名前の一つと言えるほどの有名な人物ですが、その功績といえば中臣鎌足とともに行った大化の改新ぐらいしか思い付かないのではないでしょうか。
しかし、中大兄皇子は天智天皇(てんじてんのう)として即位後、数々の政策を執行していきます。国土防衛の政策として烽火(のろし)の常設・防人の設置、冠位も十九階から二十六階へ拡大し行政機構を整備、日本最古の戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」を作成し、公地公民制の土台を築きました。
類いまれなる政治手腕と暗殺というテロ行為をやりきるだけの度胸と行動力をあわせ持った飛鳥時代のスーパースター・中大兄皇子について、子孫や家系図も含めて追いかけてみたいと思います。
乙巳の変(いつしのへん)と皇太子時代
626年に舒明天皇(じょめいてんのう)の第2皇子として生まれ、母親は皇極天皇(斉明天皇)、異母兄が古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)、弟が大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)です。
大化改新を成し遂げる
弱冠二十歳にして乙巳の変で、中臣鎌足とともに専横を続けた蘇我入鹿を討ち果たし、蘇我蝦夷を自害に追い込み、蘇我氏独裁体制を崩壊させたのちは母の弟軽皇子を即位させて孝徳天皇としました。
その後、中大兄皇子は皇太子となり、改新の詔を出して税制改革、土地、人民の国有化、行政改革などを矢継ぎ早に行います。これがいわゆる「大化改新」です。
孝徳天皇による遷都
652年に難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)が完成すると孝徳天皇はここに遷都して政治を行おうとします。
しかし、翌年653年に孝徳天皇に対して中大兄皇子がもとの飛鳥宮へ戻るように進言、孝徳天皇はこれを拒否し難波宮で政治を続けようとしますが、中大兄皇子は母の皇極前天皇と皇太弟の大海人皇子を連れて飛鳥宮へ帰ってしまいます。
すると難波にいた大臣や役人の多くがこれに従って飛鳥宮へ戻ってしまい、自分の人望のなさを孝徳天皇は嘆いたと言われています。
皇太子から天智天皇へ
中大兄皇子らが難波宮を去ると孝徳天皇はにわかに病に臥せり、翌年あっけなくこの世を去ります。その後、中大兄皇子は母である皇極前天皇を再び斉明天皇として即位させ、自身は皇太子のまま国政の実権を完全に掌握しました。
政敵・有間皇子(ありまのみこ)を絞首刑に
658年には政敵となる孝徳天皇の息子である有間皇子(ありまのみこ)を天皇への謀反の罪で絞首刑に処して政権の安定をはかり、阿倍比羅夫を蝦夷に3度派遣して蝦夷平定を成し遂げました。
660年に百済が新羅と唐の軍勢に滅ぼされると朝鮮半島への出兵を敢行します。
白村江の戦いで大敗
翌661年斉明天皇が崩御というアクシデントが発生しますが、中大兄皇子は即位せず皇太子のまま執務を取り続け、663年、白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)で新羅・唐の連合軍と激突しますが大敗を喫し、日本軍は朝鮮半島からの撤退を余儀なくされます。
天智天皇となる
667年、乙巳の変から12年後近江大津宮(おうみおおつのみや)へ遷都し、ついに即位して天智天皇(てんじてんのう)となり弟の大海人皇子を皇太弟、息子の大友皇子を日本史上初の太政大臣に任命し、磐石の政治体制をとります。
中臣鎌足に続いて崩御
669年、中臣鎌足を内大臣に任じて藤原の姓を与え、その長年の功績に報いるとその翌日に中臣鎌足はこの世を去り、2年後の671年には天智天皇も病に倒れます。
後事を託そうとした弟・大海人皇子は剃髪して吉野に去り、後継者が定まらないままに672年天智天皇は近江大津宮で崩御しました。
中臣鎌足との関係
中臣鎌足は614年生まれで、中大兄皇子よりも日本でいう一回り(12歳上)年長でした。若くして「六韜」(りくとう・中国の代表的な兵法書)を丸暗記、南淵請安(みなぶちのしょうあん)の私塾でも蘇我入鹿とならんで秀才の名を欲しいままにしていました。
祭官の家柄であった中臣家でしたが鎌足は任官を拒み、摂津の三島に退いて打倒蘇我氏に全てを賭けようとします。
この中臣鎌足を反蘇我氏の旗頭として見出だしたのが中大兄皇子でした。
中大兄皇子との固い絆
法興寺で行われた蹴鞠の会で見た才気溢れ、折り目正しく覇気のある中大兄皇子に接近して二人は意気投合、打倒蘇我氏の計画を着々と練り645年にそれを成し遂げます。
鎌足は外務、軍事の二大権力の指揮者として常に中大兄皇子を補佐して大化の改新の政治改革を推し進め、政権を掌握し即位して天智天皇となった中大兄皇子は、病に臥した中臣鎌足を見舞って家格以上の位である内大臣に任じ藤原の姓を与え、その功績に厚く報いました。
策謀渦巻く飛鳥時代の権力闘争のなかで知り合ってから約25年間、裏切ることなく理想に向かって走り続けた中大兄皇子と中臣鎌足は、天皇と臣下の関係の前に固い絆で結ばれた親友だったのでしょう。
天智天皇亡き後の皇統(こうとう・天皇の男系血統)
天智天皇が病に臥した時に後事を託されながらそれを断り、剃髪して吉野へ去った大海人皇子は静かに力を蓄え、672年1月に天智天皇が崩御すると同時に、後継と目された皇太子・大友皇子が即位する前に反乱の火の手をあげます。
伊勢、美濃、伊賀の豪族らを味方にし、大友皇子率いる近江朝廷軍と激突。連戦連勝で追い詰めていき、大友皇子をついに自害させます。
翌673年、大海人皇子は即位して天武天皇となり、天智天皇の改革路線をより強く推し進めていきます。このあと天武天皇の血筋は48代・称徳天皇(しょうとくてんのう)まで脈々と受け継がれていきました。
中大兄皇子(天智天皇)の子孫や家系図
中大兄皇子(天智天皇)に続く子孫として、娘の持統天皇、元明天皇、そして第一皇子・弘文天皇、第七皇子・志貴皇子(しきのみこ)などがいます。
志貴皇子から続く家系図としては、光仁天皇から第50代天皇となる桓武天皇へと続きました。桓武天皇は都を平安京へ遷都した人物として有名ですね。
天智天皇の子孫や家系図は、まさにロイヤリティーの権化とも言うべく、「〇〇天皇」の名前を持つ人物ばかりが登場します。
さいごに
乙巳の変で覇権を握った天智天皇は数多くの改革の道筋をつけ、その後の日本の中央集権国家体制に多大な影響を与えました。
また勉強家であった天智天皇は671年に水時計を製作し、庶民に時を知らせた逸話を残す技術者でもありました。この時を知らせた日付6月10日は時の記念日として現在もその功績が称えられています。
若くしては秀才といわれ、成功率の低い軍事クーデターによる内乱で政権を奪取した中大兄皇子こと天智天皇は、日本の国家体制の基礎を築いた飛鳥時代の名君としてこれからも人々の尊敬を集めることでしょう。 
 
中大兄皇子(天智天皇) 4

 

「大化の改新」を行った人物
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:626〜671年)は飛鳥時代の日本の皇子で、舒明天皇(じょめいてんのう)の皇子であり、母は皇極天皇(こうぎょくてんのう)である。後の第38第天皇である天智天皇(てんじてんのう)の名でも知られる。
蘇我入鹿を「乙巳の変(いっしのへん)」で暗殺した後、「大化の改新」を行った人物で、朝鮮半島の百済再興に協力を行ったり、白村江で大国である唐とも戦った。
乙巳の変と大化の改新
聖徳太子の死後、蘇我氏を抑えられる者がいなくなってしまい、蘇我蝦夷(そがのえみし)と蘇我入鹿(そがのいるか)親子の権勢と専横ぶりは、天皇家すらも凌ぐ程であった。
そこで、中大兄皇子と豪族の中臣鎌足(なかとみのかまたり:後の藤原鎌足)の二人がクーデーターによる政権の中枢奪取を画策した。そして645年に宮中において、皇極天皇の御前で入鹿を誅殺、その後、入鹿の父である蝦夷も自害した為、蘇我氏を滅ぼしたのだ。この出来事を「乙巳の変」という。
変後、皇極天皇の弟である軽皇子が孝徳天皇として即位、中大兄皇子は皇太子となった。さらに孝徳天皇が崩御した後、再び皇極太上天皇が斉明天皇(さいめいてんのう)として即位した。この時も中大兄皇子は皇太子のままであった。
668年に天智天皇となり、近江大津宮に遷都
中大兄皇子が天智天皇として即位したは668年である。その前年の667年に近江大津宮(おうみおおつのみや)に遷都(都を移す)した後に即位したのだ。
※近江には琵琶湖がある。琵琶湖を経由する事で、日本海を渡り、大陸への行き来を早める事が出来るため、近江に遷都したと云われる。
また、中大兄皇子は皇太子時代に沢山の政敵や皇位継承者を誅殺したと云われる。誅殺された人物として政争を避けて出家していた古人大兄王や、蘇我倉山田石川麻呂や有間皇子などの人物が挙げらえる。
唐の制度を参考に国造り
天皇に即位後は律令国家づくりに邁進する事となる。日本最古の戸籍と云われる「庚午年籍(こうこねんじゃく)」を作成し、人民支配の基礎固めを行った。
さらに役人たちの時間管理の為、日本初の水時計である「漏刻(ろうこく)」も作成した。
水が溜まる速さで時間を計り、その時間に合わせ鐘を鳴らす。そうする事で、鐘の音を使い人々に時刻を知らせる事が出来るようになったのである。
こういった制度は中国の唐の制度を手本に造られたと云われる。
しかし、これらの功績を天智天皇が残したのは紛れもない事実ではあるが、自分の進路を妨げるものは容赦なく排除した苛烈な人物でもあったと云われる。
「改新の詔」四カ条
公地公民制 / 土地と人民は全て国家の支配下にある。 ※墾田永年私財法の施行により廃される事となる(公地公民制は現在でいうところの社会主義に似ている。)
中央集権体制 / 地方行政の単位を定め、軍事や交通などを整備する。 ※現在でいうところの県や市などの設置
班田制 / 戸籍と計帳を作成し、班田収授法を定める。貴族や人民に対し田が配られる。田を配られた人が亡くなった場合、田は国家へ返される。
新税制 / 統一的な税制度を定めて、一定基準で税を割り当てる。 
 
天智天皇 5

 

推古三十四〜天智十(626〜671) 諱:葛城皇子 略伝
舒明天皇の皇子。母は斉明天皇。大海人皇子・間人皇女(孝徳天皇皇后)の同母兄。倭姫王(古人大兄の子)を正室とする。大友皇子・大田皇女・菟野皇女(持統天皇)・建皇子・川島皇子・御名部皇女・阿閉皇女(元明天皇)・志貴皇子らの父。
大化元年(645)、藤原鎌足らと共に蘇我入鹿を討殺し、叔父の孝徳天皇が即位すると、皇太子として改新政治に参与する。白雉五年(654)、孝徳天皇は崩じ、母が再祚(斉明天皇)、引き続き皇太子となる。斉明七年(661)、百済救援を目的とする斉明天皇の新羅征討に同行するが、天皇は筑紫で崩じたため、即位の式をあげぬまま皇位を継承した。
天智元年(662)、近江令を制定(『藤氏家伝』)。翌年、兵を新羅に派遣するが、白村江の戦で唐軍に大敗し、百済は滅亡した。同三年、唐・新羅の侵攻に備え、防人を置き、筑紫に水城を築造する。同六年、近江大津宮に遷都。翌年、即位。同九年、日本最初の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成する。同十年、大友皇子を太政大臣に任命する。同年十二月三日、崩御。四十六歳。
その皇統は壬申の乱によってひとたび途絶えたが、奈良朝末期、志貴皇子の子白壁王が即位して(光仁天皇)復活し、その子桓武天皇が平安京を開くに至る。以後も皇位は天智天皇の系譜が引き継がれることとなった。
日本書紀と万葉集に歌を残す。万葉に御作と伝わるのは四首。勅撰集では後撰集に一首、新古今集に一首、玉葉集に一首、新千載集に一首採られている。後撰集の「秋の田の…」の歌は百人一首にも採られた。

冬十月、癸亥みづのとゐの朔ついたちにして己巳つちのとのみのひの日、天皇の喪、帰りて海に就きき。ここに皇太子、一所に泊はてて天皇を哀慕しのび奉り給ひ、すなはち口づから号うたひ給ひしく
君が目の恋こほしきからに泊はてて居て斯くや恋ひむも君が目を欲ほり(日本書紀)
【通釈】あなたの面影が恋しいばかりに、ここに舟を泊めています。あなたをこんなに恋しがるのは、ただもう一度お会いしたいからなのです。
【語釈】◇天皇の喪 同年七月、筑紫で亡くなった斉明天皇の柩。◇君が目 あなたが私の目に映ること。私の目に映ったあなたの姿。「君」は母である斉明天皇を指す。
【補記】斉明七年(661)十月七日、筑紫で亡くなった母斉明天皇の棺が船に乗せられて海に出た日、当時皇太子であった天智天皇が亡き天皇を哀慕して、自ら唱えたという歌。
中大兄なかちおほえの三山歌みつやまのうた
香具山は 畝傍うねびを愛をしと 耳成みみなしと 相争あひあらそひき 神代より かくなるらし 古いにしへも 然しかなれこそ 現人うつせみも 褄つまを 争ふらしき (万1-13)

反歌
香具山と耳成山とあひし時立ちて見に来こし印南いなみ国原(万1-14)
わたつみの豊旗雲に入日さし今夜こよひの月夜つくよさやけかりこそ(万1-15)
【通釈】[長歌]香具山の神様は、畝傍山の神様を愛しいと思って、耳成山の神様と争った。神代からこんなふうに恋の争いがあったらしい。神様の昔もそうであったからこそ、現代の人も、結婚相手をめぐって争うものらしい。
[反歌一]香具山と耳成山が恋争いをした時、出雲の阿菩(あぼ)の大神が様子を見に国を発ち、ここまでやって来たという、印南国原。
[反歌二] 大海原の上にたなびく豊旗雲に今しも沈む日が射している、今宵はさやかに照らす月夜であるぞ。
【語釈】[題詞]◇中大兄 長男・末男以外の皇子に対する敬称。ここでは天智天皇を指す。この例のように、「皇子」を付さないのが正しい用い方である。
[長歌]◇香具山 奈良県橿原市南浦町にある小さな丘。畝傍山・耳成山と共に大和三山と称される。◇畝傍山 橿原市にある死火山。標高199メートル。山麓に橿原神宮がある。◇を愛しと 原文は「雄男志等」。「雄々しと」「を善(え)しと」など訓義は諸説ある。◇耳成山 橿原市木原町にある山。標高140メートル。別名青菅(あおすが)山・梔子(くちなし)山。◇褄 性を問わず、結婚相手を言う。
[反歌]◇あひし時 相争った時。原文は「相之時」。長歌において香具山・耳成山を男、畝傍山を女と解した場合、この「あひ」は「戦う」意に取らざるを得ない。◇立ちて見に来し 『播磨国風土記』によれば、大和三山の争いを諌めようと、出雲の阿菩大神がみこしを上げたが、播磨国揖保郡の上岡までやって来た時、争いがやんだと聞いて、その地に鎮まったという。◇印南国原 播磨国印南郡の平野。今の加古川市から明石市あたり。◇わたつみ 海。本来は海の神を意味した。◇豊旗雲(とよはたぐも) 未詳。「豊」は美称、「旗雲」は旗(吹き流し)のように水平方向にたなびく雲であろう。◇さやけかりこそ 原文は「清明己曾」。「こそ」は誂えの終助詞。他にスミアカクコソ・アキラケクコソ・キヨクテリコソなど様々な訓み方がある。いずれにしても、夜の航海の安全を予祝する心である。
【補記】解釈は様々あるが、神代の恋争いの伝説を想起し、現代にも恋の争いが絶えない感慨を詠んだものであろう。
【古説】源俊頼「俊頼髄脳」
「日の入らむとする時に、西の山際に、あかくさまざまなる雲の見ゆるが、旗のあしの、風に吹かれて、さわぐに似たるなり。はたといふは、常に見ゆる仏の御前にかくる幡にはあらず。まことの儀式に立て、戦ひの庭などに立つる旗なり。その旗に似たる雲の絶え間より、入日のさして入りぬれば、三日ばかりは雨降らずして、空も心よくなるなり。されば、今宵の月は、すみあかからむずらむと詠めるなり」
【他出】俊頼髄脳・和歌童蒙抄・夫木和歌抄・玉葉集・雲玉集など。
玉葉集秋歌下には天智天皇御製、題不知として次の形で載る。
和田つ海のとよはた雲に入日さしこよひの月夜すみあかくこそ
【主な派生歌】
[反歌一]
見渡せば天の香具山畝火山あらそひたてる春霞かな(賀茂真淵)
[反歌二]
入日さすとよはた雲に分きかねつ高間の山の嶺の紅葉ば(崇徳院[新拾遺])
はては又とよはた雲の跡もなしこよひの月の秋の浦風(津守国冬[続千載])
時鳥とよはた雲に過ぎぬなり今宵の月に又や待たれむ(頓阿)
月もげにすめる今宵かわたつ海や豊はた雲の跡の浦風(二条為重)
入日さす塩瀬もとほしわたつ海やとよはた雲の末のしら波(藤原経宣[新千載])
待つ人は今夜もいさや入日さすとよはた雲の夕ぐれの空(大江忠幸[新拾遺])
入日さす豊はた雲の色暮れてうす雲なびく秋の海原(中島広足)

天皇の鏡女王に賜ふ御歌一首
妹があたり継ぎても見むに大和なる大島の嶺に家居をらましを(万2-91異文)
【通釈】おまえの家のあるあたりを、いつもいつも眺められるのになあ。大和の大島の嶺に、俺も家があったらなあ。
【語釈】妹(いも) 親愛な女性に対する呼びかけ。鏡女王を指す。◇大島の嶺(ね) 不詳。一説に、大和生駒郡三郷町の高安山。山麓に鏡女王の家があったのであろう。
【補記】脚注にあげている異文の方がすぐれていると思えるので、そちらを採った。本文は「妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを」。

題しらず
秋の田のかりほの庵いほの苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ(後撰302)
【通釈】秋、稲を刈り取る季節――田のわきの仮小屋に宿っていると、屋根の苫は目が粗いので、私の袖ときたら、しとしとと落ちて来る露に濡れとおしだよ。
【語釈】◇かりほの庵 仮庵の庵。同語を重ねて言ったもの。「刈り穂」と掛詞か。「一説に、刈り穂の庵。一説には、かりいほのいほ。(中略)かりいほのいほ、よろしかるべきにや。いにしへの哥は同事をかさねよむ事みちの義也」(宗祇抄)。仮庵とは田のそばに臨時に建てた小屋。物忌みのために籠ったり、農具を納めたり、夜間宿泊して田が荒らされないよう見張ったりした。◇苫をあらみ 苫の目が粗いので。「苫」は小屋の屋根などを覆うために草を編んだもの。「あらみ」の「み」は形容詞の語幹について原因・理由などをあらわす接続助詞(または接尾語)。「…を…み」の形は万葉集に多く見られる。「とま」に「間」の意が響き、「間を粗み」、すなわち恋人の訪れの間遠である意を帯びて、涙を暗示する「露」と呼応する。◇衣手 衣の手の部分。袖のこと。◇露にぬれつつ 露に濡れながら。《つつ》は動作の反復・継起・継続などの意をあらわす接続助詞。和歌では末尾に置かれることが多く、断定を避けて詠嘆を籠めるはたらきをしたり、余情をかもす効果をもったりする場合もある。
【参考歌】万葉集巻十の歌(下記)の異伝または改作か。
秋田苅る借廬(かりほ)を作り吾が居れば衣手寒し露ぞ置きにける
【補記】後撰集当時の人々は、天智天皇の残した題詠歌として受け取ったものであろう。「秋田」を主題としつつ、恋人の間遠な訪れに涙する女の哀婉な風情が漂い、定家などが幽玄体として高く評価したのも、そうした効果を認めたためと思われる。
【他出】万葉集時代難事、古来風躰抄、定家十体(幽玄様)、五代簡要、定家八代抄、詠歌大概、近代秀歌、秀歌大躰、八代集秀逸、別本八代集秀逸(後鳥羽院・家隆・定家撰)、百人一首、八雲御抄、新時代不同歌合、心敬私語、歌林良材
【主な派生歌】
秋の田の庵に葺ける苫を荒みもりくる露のいやは寝らるる(和泉式部[続後撰])
草の庵なに露けしと思ひけむもらぬ岩屋も袖はぬれけり(*行尊[金葉])
秋の田に庵さすしづの苫をあらみ月と友にや守りあかすらん(藤原顕輔[新古今])
露だにもおけばたまらぬ秋の田のかりほの庵に時雨降るなり(藤原家隆)
唐衣かりいほのとこの露寒み萩のにしきを重ねてぞ着る(藤原定家)
秋の田のかりほの庵に露おきてひまもあらはに月ぞもりくる(後鳥羽院)
苫をあらみ露は袂におきゐつつかりほの庵に月をみしかな(〃)
足引の山田もるいほの苫をあらみ木の下露や袖にもるらむ(〃)
旅寝するあまの苫屋のとまをあらみ寒き嵐に千鳥さへなく(〃)
小山田のかりほのいほのとことはに我が衣手は秋の白露(順徳院)
秋の田のかり庵の露はおきながら月にぞしぼる夜はの衣手(藤原為家)
ことわりに過ぎてぞぬるる秋の田のかりほの庵の露のやどりは(〃)
秋の田のかりほの苫にふく稲のほの上渡る軒の月かげ(正徹)
苫をあらみ小田もる老の心にはなほたへかねて露はらふらん(東常縁)
晴るる間の雨にかりほのとまをあらみ漏りにし程は漏らぬ月影(藤原惺窩)
思へ世は玉しくとても秋の田の仮庵ならぬ宿りやはある(後水尾院)

題しらず
朝倉や木の丸殿に我がをれば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ(新古1689)
【通釈】朝倉の丸木造りの御殿に私がいると、名を告げては通り過ぎて行くのはどこの者だ。
【語釈】◇朝倉 筑前国の朝倉。斉明天皇の行在所があった。◇木の丸殿(まろどの) 粗木で作ったそまつな御殿。◇名のり 北村季吟「八代集抄」は名対面(宿直の官人が自分の姓名を告げること)とした。「名対面」かどうかはともかく、新古今の頃も官人の名告りと解釈されていたと思われる。
【補記】催馬楽「朝倉」が原歌。源俊頼の『俊頼髄脳』、藤原清輔の『奥義抄』などにも天智天皇御製とあり、いずれも天皇が筑前国に世を忍んで住んでいた時の作とする。新古今集巻十七雑歌中、隠岐本除棄歌。
【他出】俊頼髄脳、綺語抄、和歌童蒙抄、奥義抄、万葉集時代難事、定家八代抄、和歌色葉、十訓抄、新時代不同歌合、歌枕名寄、悦目抄
【参考歌】催馬楽「朝倉」
朝倉や 木の丸殿に 我が居れば 我が居れば 名乗をしつつ 行くは誰
【主な派生歌】
ひとりのみ木の丸殿にあらませば名のらで闇に迷はましやは(藤原実方[後拾遺])
名のりせば人知りぬべし名のらずは木の丸殿をいかで過ぎまし(赤染衛門 〃)
橘の木の丸殿にかをる香はとはぬに名乗るものにぞありける(源俊頼)
さ夜ふかみ山時鳥なのりして木のまろ殿を今ぞすぐなる(藤原公行[新勅撰])
かるかやの関路になのる時鳥木の丸殿の昔をや思ふ(冷泉為村) 
 

 

 
天武天皇 1

 

( ? - 686年10月1日(朱鳥元年9月9日)) 7世紀後半の日本の第40代天皇(在位:673年3月20日(天武天皇2年2月27日) - 686年10月1日(朱鳥元年9月9日))。
舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子として生まれた。中大兄皇子にとっては両親を同じくする弟にあたるとされる。皇后の鸕野讃良皇女は後に持統天皇となった。
天智天皇の死後、672年に壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を倒し、その翌年に即位した。その治世は14年間、即位からは13年間にわたる。飛鳥浄御原宮を造営し、その治世は続く持統天皇の時代とあわせて天武・持統朝などの言葉で一括されることが多い。日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代だが、持統天皇の統治は基本的に天武天皇の路線を引き継ぎ、完成させたもので、その発意は多く天武天皇に帰される。文化的には白鳳文化の時代である。
天武天皇は、人事では皇族を要職につけて他氏族を下位におく皇親政治をとったが、自らは皇族にも掣肘されず、専制君主として君臨した。八色の姓で氏姓制度を再編するとともに、律令制の導入に向けて制度改革を進めた。飛鳥浄御原令の制定、新しい都(藤原京)の造営、『日本書紀』と『古事記』の編纂は、天武天皇が始め、死後に完成した事業である。
道教に関心を寄せ、神道を整備し、仏教を保護して国家仏教を推進した。その他日本土着の伝統文化の形成に力があった。「天皇」を称号とし、「日本」を国号とした最初の天皇とも言われる。

名の大海人は、幼少期に養育を受けた凡海氏(海部一族の伴造)にちなむ。『日本書紀』に直接そのように記した箇所はないが、天武天皇の殯に凡海麁鎌が壬生(養育)のことを誄したことからこのように推測されている。
和風(国風)諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。瀛は道教における東方三神山の一つ瀛州(残る2つは蓬莱、方丈)のことである。真人(しんじん)は優れた道士をいい、瀛とともに道教的な言葉である。
漢風諡号である「天武天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。近代に森鴎外は『国語』楚語下にある「天事は武、地事は文、民事は忠信」を出典の候補として挙げた。別に、前漢の武帝になぞらえたものとする説、「天は武王を立てて悪しき王(紂王)を滅ぼした」から名付けられたとする説もある。
生涯
出生
天武天皇の出生年について『日本書紀』には記載がないが、天皇の生年を不明にするのは同書で珍しいことではない。前後の天皇では、推古天皇につき死亡時の年齢を記したこと、天智天皇につき舒明天皇13年(641年)時点での年齢を記したことが、むしろ例外的である。
天皇の年齢を詳しく載せるのは、中世になって成立した年代記・系図類である。鎌倉時代に成立した『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』『皇年代略記』が記す没年65歳から計算すると、生年は推古天皇30年(622年)か31年(623年)となる。これは天智天皇の生年である推古天皇34年(626年)の前である。これについては、65歳は56歳の写し間違いで、舒明天皇3年(631年)生まれだとする説が古く行なわれてきた。
1974年に作家の佐々克明がこの違いを捉え、天武天皇は天智天皇より年上であり、『日本書紀』が兄弟としたのは事実を隠したものであろうとする説を唱えた。ここから主に在野の歴史研究家の間で様々な異説が生まれ、活発な議論が交わされた。佐々は天武天皇の正体を新羅の皇族金多遂としたが、小林惠子は漢皇子とする説を提起し、年齢逆転を唱える作家の間ではこれが有力なものとなっている。漢皇子は皇極天皇が舒明天皇と再婚する前に高向王(用明天皇の孫)との間に設けた子で、天智天皇の異父兄である。
しかし、『一代要記』などは天智天皇の年齢も記しており、そこでは天智天皇は天武天皇より年上である。中世史料内部で比較すれば天智・天武の兄弟関係は揺らがないのであって、年齢逆転は、『日本書紀』の天智生年と、中世史料から天武生年だけを取り出して比較したときに起きる。このような操作を通じて得た矛盾によって、父母を同じくする弟と明記する『日本書紀』を覆すことに、坂本太郎ら歴史学者は総じて否定的である。しかし論争の中では数字をひっくり返してつじつまを合わせる史料操作も批判され、56歳没説も支持されなくなった。結局、天武天皇の生年は不明ということになる。
斉明天皇の崩御まで
中大兄皇子が皇極天皇4年(645年)6月12日に20歳で乙巳の変を起こしたとき、大海人皇子は年少であり、おそらく陰謀には関わらなかった。事件の結果皇極天皇は退位し孝徳天皇が即位した。後、白雉4年(653年)に中大兄皇子が孝徳天皇と袂を分かち難波京から倭(やまと)に移ったとき、行動をともにした。やがて孝徳天皇は病で崩じ、皇極天皇が斉明天皇として再び天皇になった。
大海人皇子は中大兄皇子の娘を次々に4人まで妻とした。百済復興のための朝鮮半島出兵で、斉明天皇と中大兄皇子が筑紫(九州)に宮を移したときには、大海人皇子も妻を連れて従った。旅の途中、斉明天皇7年(661年)1月8日に妻の大田皇女が大伯海で大伯皇女を生み、大津皇子の名も筑紫の娜大津での出生に由来すると言われる。大海人皇子は額田王を妻として十市皇女を儲けたが、後に額田王は中大兄皇子の妃になった。この三角関係が後の兄弟の不和の原因となったとする説があり、賛否ある。
天智天皇の大皇弟
母の斉明天皇が亡くなってから、中大兄皇子は即位せずに称制で統治した。天智天皇3年(664年)2月9日に、大海人皇子は中大兄皇子の命を受け、冠位二十六階制を敷き、氏上を認定し、民部と家部を定めることを群臣に宣べ伝えた。
天智天皇6年(667年)2月27日にようやく斉明天皇の葬儀があり、間人皇女が斉明天皇と合葬になり、大田皇女がその陵の前に葬られた。それぞれ、大海人にとっては母、姉(または妹)、妻にあたる人たちであった。
7年(668年)1月7日に、中大兄皇子が即位した。このとき大海人皇子が東宮になった。このことは『日本書紀』で巻28、天武天皇の即位前紀に記され、巻27の天智天皇紀には触れられていない。天智天皇紀で大海人皇子は大皇弟、東宮太皇弟、東宮などと記される。書紀は壬申の乱の挙兵前から大海人皇子を「天皇」と記し、天武の地位について信頼を置けないところがある。そのため、書紀が書く通り大海人皇子が皇太子であったとする学者もいるが、大皇弟などは壬申の乱での天武天皇の行動を正当化するための文飾で、事実はそのような地位になかったとする説、大皇弟などは単なる尊称であって皇位継承予定者を意味するものではないなど、疑う説も有力である。皇位継承者と認定されていたかはともかく、大海人皇子が非常に重要な地位にあったことは認められている。
『藤氏家伝』は、ある日の宴会で激した大海人皇子が長槍で床板を貫き、怒った天智天皇が皇子を殺そうとしたという話を伝える。藤原鎌足が取りなして事なきを得たという。天智天皇7年(668年)のことと推測される。
天智天皇10年(671年)1月2日、天智天皇は大友皇子を太政大臣に任命し、左大臣、右大臣と御史大夫を付けた。太政大臣は国政を総覧する官職で、その職務は大海人皇子が果たしてきた仕事と重なる。『日本書紀』にはこの直後に東宮太皇弟が冠位・法度のことを施行させたと記すが、「或本に云わく」として大友皇子がしたとも注記する。また、『懐風藻』によれば大友皇子が太政大臣になったのは5年前になる。多くの歴史学者は書紀の或本のほうを採るか、この記事を天智天皇3年(664年)2月9日の冠位26階制の重出と見る。ともかくも、大海人皇子は朝廷から全く疎外されたようである。天智天皇に、大友皇子をして皇位を継がせる意図があったためと言われる。
壬申の乱
天智天皇は、病がいよいよ深くなった10年(671年)10月17日に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。蘇我安麻呂の警告を受けた大海人皇子は、皇后である倭姫王が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下った。
しかし『扶桑略記』では異説として、
「十二月三日、天皇崩、同月五日、大友皇太子即為帝位 生年廿五 一云、駕馬幸山階郷、更無還御、永交山林、不知崩所、〈只以履沓落處為其山陵以往諸皇不知因果恒事殺害〉 山陵山城國宇治郡山科郷北山(※〈〉内は原文小文字)」(意訳)12月3日に天智天皇が崩御し同月5日に大友皇子が即位した、生年25。一説には、山階(山科)の郷へ遠乗りに出掛けた儘、帰って来なかった。山林の中に深く入ってしまい何処で死んだのかも判らない。為様が無いので、その沓の落ちていた處を陵とした。其処は現在の山城國宇治郡山科郷(現・京都府山科区)北山である。
とあり、天智天皇は病気どころか当日までピンピンしており、山科へ馬で遠乗りに出かけたが、そのまま帰って来なかった、という。
吉野では鸕野讃良皇女(持統天皇)と草壁皇子らの家族と、少数の舎人、女孺とともに住んだ。近江大津宮では、天智天皇が死ぬと、大友皇子が(即位したかどうかは不明ながら)朝廷を主宰して後継に立った。
翌年、天武天皇元年(672年)6月22日に、大海人皇子は挙兵を決意して美濃に村国男依ら使者を派遣し、2日後に自らもわずかな供を従えて後を追った。美濃には皇子の湯沐邑があって湯沐令の多品治がまず挙兵した。皇子に仕える舎人には村国氏ら美濃の豪族の出身者があり、その他尾張氏らも従った。大海人皇子は不破道を封鎖して近江朝廷と東国の連絡を遮断し、兵を興す使者を東山(信濃など)と東海尾張国など)に遣わした。
大和盆地では、大伴吹負が挙兵して飛鳥の倭京を急襲、占領した。近江朝廷側では、河内国守来目塩籠が大海人皇子に味方しようとして殺され、近江方面の将山部王もまた殺され、近江の豪族羽田矢国が大海人皇子側に寝返るなど、動揺が広がった。大海人皇子は東国から数万の軍勢を不破に集結せさ、近江と倭の二方面に送り出した。近江方面の軍が琵琶湖東岸を進んでたびたび敵を破り、7月23日に大友皇子を自殺に追い込んだ。
天皇の治世
天武天皇は、大友皇子の死後もしばらく美濃にとどまり、戦後処理を終えてから飛鳥の島宮に、ついで岡本宮(飛鳥岡本宮)に入った。岡本宮に加えて東南に少し離れたところに新たに大極殿を建てた。2つをあわせて飛鳥浄御原宮と名付けたのは晩年のことである。
天武天皇2年(673年)2月27日に即位した天皇は、鸕野讃良皇女を皇后に立て、一人の大臣も置かず、直接に政務をみた。皇后は壬申の乱のときから政治について助言したという。皇族の諸王が要職を分掌し、これを皇親政治という。天皇は伊勢神宮に大来皇女を斎王として仕えさせ、父の舒明天皇が創建した百済大寺を移して高市大寺とするなど、神道と仏教の振興政策を打ち出した。伊勢神宮については、壬申の乱での加護に対する報恩の念があった。その他諸政策については、後述の「#天武朝の政策」で解説する。
皇子らが成長すると、8年(679年)5月5日に天武天皇と皇后は天武の子4人と天智の子2人とともに吉野宮に赴き、6日にそこで誓いを立てた。天皇・皇后は6人を父母を同じくする子のように遇し、子はともに協力するという、いわゆる吉野の盟約である。しかし、6人は平等ではなく、草壁皇子が最初、大津皇子が次、最年長の高市皇子が3番目に誓いを立て、この序列は天武の治世の間維持された。天智天皇の子は皇嗣から外されたものの、天武の子である草壁は天智の娘阿閉皇女(元明天皇)と結婚し、同じく大津は山辺皇女を娶り、天智天皇の子川島皇子は天武の娘泊瀬部皇女と結婚した。天武の皇后も天智の娘であるから、天智・天武の両系は近親婚によって幾重にも結びあわされたことになる。
天皇と皇后は10年(681年)2月25日に律令を定める計画を発し、同時に草壁皇子を皇太子に立てた。しかし12年(683年)2月1日から有能な大津皇子にも朝政をとらせた。
天皇は、15年(686年)5月24日に病気になった。仏教の効験によって快癒を願ったが、効果はなく、7月15日に政治を皇后と皇太子に委ねた。7月20日に元号を定めて朱鳥とした。その後も神仏に祈らせたが、9月11日に病死した。
葬儀
10月2日に大津皇子は謀反の容疑で捕らえられ、3日に死刑になった。殯の期間は長く、皇太子が百官を率いて何度も儀式を繰り返し、持統天皇2年(688年)11月21日に大内陵に葬った。持統天皇3年(689年)3月13日に草壁皇子が死んだため、皇后が即位した。持統天皇である。
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県高市郡明日香村大字野口にある檜隈大内陵(桧隈大内陵:ひのくまのおおうちのみささぎ)に治定されている。持統天皇との合葬陵で、宮内庁上の形式は上円下方(八角)。遺跡名は「野口王墓古墳」。
古代の天皇陵としては珍しく、治定に間違いがないとされる。文暦2年(1235年)に盗掘に遭い、大部分の副葬品を盗まれた。棺も暴かれたが遺骸はそのままの状態で、天皇の頭蓋骨にはまだ白髪が残っていた。持統天皇の遺骨は火葬されたため銀の骨壺に収められていたが、骨壺だけ奪い去られて遺骨は近くに遺棄された。藤原定家が『明月記』に盗掘の顛末を記す。また、盗掘の際に作成された『阿不幾乃山陵記』に石室の様子がある。
上記とは別に、奈良県橿原市五条野町にある宮内庁の畝傍陵墓参考地(うねびりょうぼさんこうち)では、天武天皇と持統天皇が被葬候補者に想定されている。遺跡名は丸山古墳(五条野丸山古墳)。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
天武朝の政策
統治開始の抱負
壬申の乱に勝利した天武天皇は、天智天皇が宮を定めた近江大津宮に足を向けることなく、飛鳥の古い京に帰還した。天武天皇2年(673年)閏6月に来着した耽羅の使者に対して、8月25日に、即位祝賀の使者は受けるが、前天皇への弔喪使は受けないと詔した。天武天皇は壬申の乱によって「新たに天下を平けて、初めて即位」したと告げ、天智天皇の後継者というより、新しい王統の創始者として自らを位置づけようとした。
このことは天皇が赤を重視したことからも間接的に推測されている。壬申の乱で大海人皇子の軍勢は赤い旗を掲げ、赤を衣の上に付けて印とした。晩年には「朱鳥」と改元した。日本では伝統的に白くて珍しい動物を瑞祥としてきたが、天武天皇の時代とそれより二、三代の間は、赤い烏など赤も吉祥として史書に記された。赤を尊んだのは、前漢の高祖(劉邦)にならったもので、秦を倒し、項羽との天下両分の戦いを経て新王朝を開いた劉邦に、自らをなぞらえる気持ちがあったのではないかと推測される。
天皇専制と皇親政治
吉野での逼塞から、わずかな供を連れ逃れるように東行し、たちまち数万の軍を起こして勝利を得た天武天皇は、人々に強い印象を与えた。天武天皇の高い権威を象徴するものとして決まって引かれるのが、『万葉集』におさめられた「おおきみは神にしませば」ではじまる複数の歌である。
天武天皇は、一人の大臣も置かず、法官、兵政官などを直属させて自ら政務をみた。要職に皇族をつけたのが特徴で、これを皇親政治という。皇族は冠位26階制と別に五位までの皇族専用の位を帯びた。
しかし皇族が政権を掌握したわけではなく、権力はあくまで天皇個人に集中した。重臣に政務を委ねることなく、臣下の合議や同意に寄りかかることもなく、天皇自らが君臨しかつ統治した点で、天武天皇は日本史上にまれな権力集中をなしとげた。天武天皇は強いカリスマを持ち、古代における天皇専制の頂点となった。
ただ、専制といっても、中国で時になされたような草莽の士の大抜擢は一切なく、壬申の功臣でも地方出身者は旧来の貴族層の下に置かれたままであった。壬申の乱が本質的に皇位継承争いを出なかったこともあるが、日本では最高度の専制においても貴族制的限界が大きかったのである。
日本ではじめて天皇を称したのは、天武天皇だとする説が有力である。一説に、天皇はもと天武というただ一人の偉大な君主のために用いられた尊称で、彼のカリスマを継承するために、天皇を君主の号とすることが後に定められたという。『日本書紀』の持統紀に、単に「天皇」と書いて持統天皇でなく天武天皇を指している箇所があるのがその根拠である。
また、「日本」という国号を採用したのも天武天皇とする説が有力である。天武朝に成立し、『日本書紀』編纂に利用された『日本世記』の存在などが理由である。日本という字にこめた意義には、「日」を中心にした国という思想を表したもので、神が天から降した「日嗣ぎ」が代々の君主だとする神話に即したものとする説や、単に東方の美称とみるなど諸説ある。『日本書紀』の書名・編纂と密接に関係し、飛鳥浄御原令に書き込まれたのではないかと推測される。
官制改革
天武天皇は、即位後間もない2年(673年)5月1日に、初めて宮廷に仕える者をまず大舎人とし、ついで才能によって役職につける制度を用意した。あわせて婦女で望む者にはみな宮仕えを許した。天武天皇5年(674年)1月25日には畿内・陸奥・長門以外の国司には大山位以下を任命することを定めた。官位相当の端緒である。同じ勅で外国(畿外)の臣・連・伴造・国造)の子と特に才能がある庶人に宮への出仕を認めた。7年(678年)10月26日には毎年官人の勤務評定を行って位階を進めることとし、その事務を法官がとること、法官の官人については大弁官がとることを定めた。官人に定期的・体系的な昇進機会を与える考選法の初めとされる。14年(685年)には新しい冠位を定めた。こうして整えられた官制は、生まれによる差別を否定するものではない。11年(682年)8月22日に、天皇が考選(勤務評定)において族姓を第一の基準とするよう命じたことからもわかるように、生まれの貴賤は官僚制度の中に織り込まれるべきものであった。
天武天皇10年(681年)2月25日に、律令を定め、法式を改める大事業に取りかかった。官人を分担させて進められたようだが、存命中には完成せず、持統天皇3年(689年)6月29日に令のみが発布された。飛鳥浄御原令である。
冠位制度は、天智天皇が定めた大織から小建までの冠位26階制を踏襲した。実際に見える存命中の冠位は美濃王(三野王)と当麻豊浜の小紫が最高である。死後の贈位ではこれより高い位も授けられた。これと平行して天武天皇4年(675年)3月16日を初見として諸王対象に四位、五位など数字に「位」を付ける諸王の位が作られた。存命中の人の位としては三位から五位までが見える。このときも親王には位が授けられなかった。天武天皇14年(685年)1月21日に新しい冠位48階制を定めた。皇族と臣下では異なる位階を用意し、親王にも位が授けられた。実際に授けられた最高位は草壁皇子の浄広壱である。明・浄・正・直といった修飾語は、神道が尊ぶ価値で、天武天皇の道徳・宗教観を反映したものであろう。
冠と密接に関わる服装についても様々な規制を加えた。天武天皇11年(681年)にはそれまでの日本独自の髪型である角髪を改めるように命じた。これ以後、冠を被るのにふさわしい形の髷になった。また、天武12年(682年)には位階を示す色を従来の冠の色から朝服の色に変更した。これらは官人の勤務時の服装規定で、帰宅後の服装や民衆の服装まで及んだものではないと考えられている。
天武天皇が確立したこれらの諸制度には、後の大宝律令・養老律令と細かな点で異なるところが見受けられるが、実質的な意義・内容は同じで、律令官人制の骨格をなすものである。当時の官制は明確に知られていないが、政務を議論する複数の納言からなる太政官、その下に民官・法官・兵政官・大蔵・理官・刑官の六官、さらにその他の官司があったと推定されている。学者により天武朝の重みの評価は異なるが、「天武政権のもとで、日本律令体制の基礎が定まった」など、天武朝の意義を最大とみる人も多い。
氏族・民政
天武天皇は、豪族・寺社の土地と人民に対する私的支配を否定した上で、諸豪族を官人秩序に組み込み、国家の支配を貫徹しようとする政策をとった。まず、天武天皇4年(675年)2月15日に、天智天皇3年(664年)から諸氏に認められていた部曲と、皇族・臣下・寺院に認められていた山沢、島浦、林野、池を取り上げるという詔を下した。続いて、有力者が私的に支配を及ぼすのを否定して、官位官職や功績に応じて個人に封戸(食封)を与える形式に切り替えた。封戸の導入自体は天武天皇の代以前からのもので、内実の転換が段階的に進められた。まず5年(676年)5月14日に西国にある封戸の税を取り上げて東国に替え、長期間同じ場所に封じることで発生する主従的関係を断ち切ろうとした。8年(679年)8月2日に、小錦以上の皇族・臣下に一斉に食封を与え、新制度への転換が完了した。これと前後して8年(679年)4月5日に寺の食封の調査を命じ、9年(680年)4月にその年限を30年に限った。判じかねるのは11年(682年)3月28日の詔で、食封を止めて公に返せと命じたが、実際にはこの後も封戸は続いている。何らかの制度改正、おそらく食封の管理への関与を禁じるような措置ではないかと推測されている。
豪族の私的支配の否定は、天皇を頂点とする国家の支配を貫徹しようとするものではあったが、生まれの貴賤による差別を否定したり、平等な能力主義にもとづく官僚制を志向するものではなかった。天武天皇7年(678年)1月7日には、身分の低い母を拝むことを禁止するという奇妙な詔を下している。
天皇の意図は貴賤の違いを自己の望み通りに秩序づけようとすることであって、まずいくつかの氏族の姓(カバネ)を引き上げて優遇する措置をとり、天武天皇13年(684年)10月1日に八色の姓を定めて全面的に再編成した。皇族の裔を真人、旧来の臣の氏族を朝臣、連を宿禰などとして、壬申の乱での功績も加味するものであった。氏族政策については、壬申の乱の支持勢力にかんする説と関係づけてその意図が様々に唱えられる。一つは中小豪族を統べて大豪族を抑圧したとする説、もう一つは畿内豪族の優遇にあるとする説、特定階層を優遇したとは言えないとする説である
最初の貨幣とされる富本銭が鋳造されたのは、天武天皇の時代である。ただ、富本銭はまじない用で流通貨幣ではなかったという説、富本銭に先行して無文銀銭があったとする説もある。
粛清と威嚇
天武天皇は、皇族臣下の高位者に流罪以下の処分を多く下した。処罰は天武天皇4年(675年)4月8日に朝参(宮に仕事に来ること)を禁じられた当摩広麻呂と久努麻呂に始まり、4月23日に因幡に流された三位の麻続王のような高官に及んだ。11月3日には宮の東の山に登って妖言して自殺した人が出た。「妖言」の内容は伝わらないが、天皇の政治を批判したものであろう。5年(676年)9月12日には、筑紫大宰の屋垣王が土左(土佐)に流され、6年(677年)4月11日には杙田名倉が伊豆島(伊豆大島か)に流された。杙田名倉は天皇を非難したためだが、他の人の処罰理由は伝わらず、麻続王については『万葉集』に同情する人との歌のやりとりが採録された。人々の心が「おおきみは神にしませば」の歌にみるような天皇賛美一色で染まっていたと考えるべきではない。皇親政治を担ったはずの皇族まで含め、不満が存在した。
威嚇的な詔も複数回だされた。4年(675年)2月19日に、群臣、百寮、天下の人民に、諸悪をするなと詔を下した。6年(677年)6月には、東漢氏が政治謀議に加わった過去を数十年前まで遡って責め、大恩を下して赦すが今後は赦さないと詔した。8年(679年)10月2日には、王卿らが怠慢で悪人を見過ごしていると言って戒めた。
こうした処罰は、天皇への権力集中への反発ではないかとも、専制君主の猜疑の現れとも評される。だが、処罰は天武天皇4年(675年)から6年(677年)に集中しており、威嚇的な詔もこれに重なる。この頃、天皇は部曲と山沢などを取り上げる詔を出し、食封の改革を進めていた。これが不利益層の反発を生み、処罰が続いたのかとも言われる。また、壬申の乱の戦後処理をのぞき高官への死刑は宣告していない。恩赦もしばしば下し、8年(679年)12月2日の恩赦によってそれまでに流罪になった者も赦されたはずである。
外交
壬申年の挙兵は、唐の使者郭務悰が5月30日に帰国してから約1か月後の22日に決断された。白村江の戦いでの敗戦はあったが、その後唐と新羅は互いに朝鮮半島の支配をめぐって争い、それぞれ日本との通交を求めており、外交的な環境はやや好転していた。天皇は征服・干渉のための軍を起こさず、即位後は内外に戦争がなかった。
天武朝の朝廷は低姿勢をとる新羅と使者をやりとりし、文化を摂取する一方で、唐には使者を遣わさず、大国としての体面を繕った。この時代には西方海上の済州島にあった耽羅からも使節が来た。11年(682年)7月25日には南西諸島の多禰(種子島)、掖玖(屋久島)、阿麻弥(奄美大島)の人に禄が下された。東北では11年(682年)3月2日に陸奥国の蝦夷に冠位を授け、4月22日には越の蝦夷伊高岐那に評を建てることを認めた。
天智天皇との対比で、天武天皇は親百済的だった前代と異なり親新羅外交をとったと評される。ただ、国内的には新羅系の渡来人を優遇したわけではなく、百済系の人を冷遇したわけでもない。天武天皇2年(673年)閏6月6日の沙宅昭明、3年(674年)1月10日の百済王昌成への贈位、14年(685年)10月4日の百済僧常輝への封戸30戸など、百済人への恩典は多い。朝鮮半島から帰化した人には元年(672年)から10年(681年)まで課税を免除し、10年後の8月10日には入国時に子供だった者にも免除を広げた。
軍事
天武天皇は、官人と畿内の武装強化を特別な政策とした。天武天皇4年(675年)10月20日に諸王以下、初位以上の官人の武装を義務付けた。命じた後には、5年(676年)9月10日に武器を検査した。8年(679年)8月に迹見駅家から王卿の馬を駆けさせ、9年(680年)9月9日には長柄神社で大山位以下の馬を閲して騎射させた。その後、13年(684年)閏4月5日に「政の要は軍事である」と述べて文武の官と諸人に用兵と乗馬を習えと改めて命じ、武装に欠ける者がいれば罰すると詔した。その上で翌14年(685年)8月11日に京と畿内の人夫の武器を検査した。官人武装政策は、天武・持統朝に特徴的で、前後には見られない。
8年(679年)11月には竜田山と大坂山に関を置き、難波には外壁を築かせた。12年(683年)11月4日に、諸国に陣法を習わせよと命じた。14年(685年)11月4日には軍隊指揮用具と大型武器を評の役所に納めさせた。
律令制下で国軍主力の位置にあった軍団は、この時代にはまだ設置されていなかった。官人の武装化は軍団創設以前の事情に対応したもので、指揮用具を評に収めさせたのも同じであろうが、当時の全国的な兵制については学説が分かれている。評造・評督が兵士を率いる評制軍(評造軍)があったとする説、軍団とほぼ同じものが成立していたとする説、国造が伝統的な支配下の人民を領導する国造軍がそのまま続いていたとみる説がある。
宮と造都
天武天皇は壬申の乱の勝利後しばらく美濃にとどまり、9月になって岡本宮(飛鳥岡本宮)に入り、この年に新たに宮室を建ててそこに移り住んだ。飛鳥岡本宮は舒明天皇・斉明天皇の宮殿で、近江に都が移ってからも維持されていたのである。天武天皇の宮は死の2か月前、朱鳥元年(685年)7月20日に飛鳥浄御原宮と名付けられた。考古学者がいう飛鳥宮(伝承飛鳥板葺宮)III-B期にあたる。斉明天皇の飛鳥岡本宮をそのまま使い、考古学者がいうエビノコ郭を追加したものが主要部である。エビノコ郭には一つの大きな殿舎があり、当時これを大極殿と呼んでいた。旧岡本宮部分には大安殿、外安殿、内安殿、向小殿があったが、発掘された建物との対応関係については未だ諸学者の一致をみない。
飛鳥浄御原宮の周辺には京と呼ばれるような都市的な広がりがあったが、南北・東西道が整然と直交する方形の都市計画は敷かれなかった。宮の北北東には飛鳥池遺跡と呼ばれる国家工房があり、富本銭はここで鋳造された。また、現存する日本最古の「天皇」銘や、天武朝と考えられる丁丑年の銘がある木簡が発見されている。
天武天皇はこの宮に満足せず、代変わりごとに宮を移す旧慣をあらため、永続的な都を建設する抱負を持って適地を探した。天武天皇5年(676年)に、新城、すなわち後に藤原京として完成する都の計画を始めた。元あった起伏をならして整地し、道路には側溝を掘った。『万葉集』には、「大君は神にしませば」田や沼を都となした、とする歌が2首あり、このことを指すと考えられる。このときは、方位に規制されていなかった既存の道路と建物をいったん廃絶し、南北線を軸とするように作り替えたが、遷都はできなかった。
天武天皇11年(682年)3月1日に三野王らに命じて地形を視させ、16日には天皇自身も新城に行幸した。翌12年(683年)の7月18日にも京を見てまわり、13年(684年)3月9日に宮室の地を定めた。この頃から修正された都市計画で工事が再開した。天皇の死で中断されたが、天皇の陵は新しい都の中軸線を南に延長した先に築かれた。造都は天武天皇の死後、持統天皇の手で進められ、完成した。日本最初の本格的都城と評価される。
天武天皇は、都を二、三置くべきだと考え(複都制)、12年(683年)12月17日に難波京を置いた。建造物は孝徳天皇によって作られた難波宮をそのまま受け継いだ。東にも副都を置こうとしたのか、13年(684年)2月28日に信濃に視察の使いを派遣したが、そちらは着手に至らず終わった。
文化政策
天武天皇は古来の伝統的な文芸・伝承を掘り起こすことに力を入れた。外来のものが排斥されたわけではないが、以前と以後の諸天皇の事業と比べると、土着文化の掘り起こしと整頓に向けた努力が著しい。天武天皇が壬申の乱に敗れていれば、『古事記』『万葉集』に代表されるような土着的な文化は、『日本書紀』『懐風藻』に代表されるような中国風の文化に侵食され、あるいは伝わらないまま終わっていたかもしれないとさえ言われる。
君主の号を天皇とした始めは、天武天皇であるとの説が有力である。資料的には推古天皇の代の天皇号も複数あるが、それでは中国で天皇号を君主に用いた時期より前になること、個々の資料の性格に疑いがはさまれることにより、天武朝まで下げる。
天武天皇は民間習俗を積極的にとりこみ、それを国家的祭祀とした。五節の舞がその確実な例であり、新嘗祭を国家的祭祀に高め、特に大嘗祭を設けたのも、天武天皇であろうと言われる。現代の歴史学者の多くが、後述する神道の祭祀も含め、後代に伝統として伝えられた主要な宮廷儀式の多くが、天武天皇によって創始されたか大成されたと推測している。
天武天皇4年(675年)2月9日には畿内とその周辺から歌が上手な男女、侏儒、伎人を宮廷に集めるよう命じ、4月23日に彼ら才芸者に禄を与えた。14年(685年)9月15日には優れた歌と笛を子孫に伝えるよう命じ、15年(686年)1月18日には俳優と歌人に褒賞を与えた。
天皇は、10年(681年)3月17日に親王、臣下多数に命じて「帝紀及上古諸事」編纂の詔勅を出した。後に完成した『日本書紀』編纂事業の開始と言われる。また、稗田阿礼に帝皇日継と先代旧辞(帝紀と旧辞)を詠み習わせた。後に筆録されて『古事記』となる。いずれも完成は天皇の没後になったが、これらが日本に現存する最古の史書である。二書を並行させた意図には定説がないが、内容は天皇家の支配を正当化する点で共通する。長大な漢文で、一貫性を犠牲にして多数の説を併記した『日本書紀』が合議・分担で編纂されたのに対し、短く首尾一貫した『古事記』のほうに天武個人の意志がかなり入った可能性が指摘される。
天武天皇は、本人が天文に長じており、天武天皇4年(675年)1月5日に日本初の占星台(天文台)を建てさせた。
動物保護
天武4年4月17日(675年5月19日)に、狩猟・漁獲の方法を制限し、牛・馬・犬・猿・鶏の肉食を禁止した。しかし、これらの動物の肉食は、稲作期間に相当する4月から9月に限って禁じられただけであり、農閑期である10月から翌年3月までは禁止されていない。また、当時の都で牛馬の肉が食べられていたことは、骨に残った痕跡からも確認されている。加えて、当時の狩猟の主な対象であり、また、稲作の害獣と見なされた鹿と猪については、狩猟方法に規制をかけただけであり、肉食は禁じられていない。これは、肉食の全面的な禁止を目的としたものではなく、律令国家を運営していく上での税収の安定的な確保の為に稲作を促進する観点から、ウシやウマなど稲作に役に立つ動物の保護を目的とした法令と見なすべきである。しかし、律令国家体制の下で、貨幣になり得るものとしての米の神聖さが一層強調され、稲作の促進の為の動物の保護と肉食の制限・禁止を目的とした、類似した内容の法令は後の時代にも繰り返された。その結果として、日本人は、しだいに肉食そのものを稲作に害をもたらす穢れと見なし、表向きは遠ざかるようになっていった。 
宗教政策
神道
天武天皇は日本古来の神の祭りを重視し、地方的な祭祀の一部を国家の祭祀に引き上げた。神道の振興は、外来文化の浸透に対抗する日本の民族意識を高揚させるためであったと説かれる。だがその努力は各地の伝統的な祭祀をそのまま保存することではなく、天照大神を祖とする天皇家との関係に各地の神を位置づけ、体系化して取り込むことにあり、究極的には天皇権力の強化に向けられていた。それぞれの地元で祀られていた各地の神社・祭祀は保護と引き換えに国家の管理に服し、古代の国家神道が形成された。
その際、天武天皇は伊勢神宮を特別に重視し、この神社が日本の最高の神社とされる道筋をつけた。壬申の乱のとき、挙兵して伊勢に入った大海人皇子は、迹太川のほとりで天照大神を望拝した。具体的には伊勢神宮の方角を拝んだことを意味すると考えられている。即位後の天皇は、娘の大来皇女を伊勢神宮に送り、斎王として仕えさせた。4年2月13日には娘の十市皇女と天智天皇の娘阿閉皇女(元明天皇)が伊勢神宮に参詣した。伊勢神宮の式年遷宮開始年については天武天皇14年(685年)と持統天皇2年(688年)の二通りの本があるが、いずれにせよ天武天皇の発意であろう。また、伊勢神宮を五十鈴川沿いの現在地に建てたのは天武天皇で、それ以前は宮川上流の滝原宮にあったと推定されている。
そもそも天照大神という神を造り出したのが天武天皇であるという説もある。無から創作したというのではなく、伊勢地方で祀られていた太陽神を、天皇家が祀っていた神と合体させて天照大神としたという説である。これについてはタカミムスヒが旧来の皇祖神で、天武天皇がアマテラスに取り替えたという説もある。斎王は、雄略天皇から推古天皇のときまであったと『日本書紀』『古事記』に記されているが、これについても実は大来皇女が最初なのだとする説がある。
他に、天武天皇3年(674年)8月3日には石上神宮に忍壁皇子を遣わして神宝を磨かせた。天武天皇4年(675年)4月10日には、竜田の風神を祀るために美濃王らを、広瀬の大忌神を祀るために、間人大蓋らを遣わした。後世まで両神を祀るために勅使が遣わされる初めとされる。この年1月23日に諸々の社を祭ったのを、祈年祭の始まりとみる説もある。
仏教
天皇の仏教保護も手厚いものがあった。即位前には出家して吉野に退いた経歴を持つ。即位後、2年(673年)3月に川原寺で一切経書写の事業を起こした。5年(676年)には使者を全国に派遣して『金光明経』と『仁王経』を説かせ、8年(679年)には倭京の24寺と宮中で『金光明経』を説かせた。『金光明経』は、国王が天の子であり、生まれたときから守護され、人民を統治する資格を得ていると記すもので、天照大神の裔による現人神思想と軌を一にするものであった。本人・家族の救済ではなく、護国を目的とした事業である。
天武天皇2年(673年)12月17日に、美濃王と紀訶多麻呂を造高市大寺司に任命し、百済大寺を高市に移して高市大寺とした。9年(680年)11月12日に皇后の病気に際して薬師寺建立を祈願し、自らの病に際しても様々に仏教に頼って快癒を願った。
天武天皇14年(685年)3月27日には、家ごとに仏舎を作って礼拝供養せよという詔を下した。「家」がどの程度の人数の単位なのかは不明で、有力豪族ごとに一つと解する説のほかに、「諸国の家」を国衙と解して国ごとに一つと解したりする説があるが、仏教を広めようとしたのは間違いない。この時期まで畿内を除く地方に寺院は少なかったが、天武・持統朝には全国で氏寺が盛んに造営された。遺跡から出る瓦からは、中央の少数の寺院が地域を分担して建設を指導したことがうかがわれ、政策的な後押しが想定できる。
天武天皇の仏教保護は、反面、僧尼に寺院にこもって天皇や国家のための祈祷に専念することを求め、仏教を国家に従属させようとするものでもあった。国家神道に対応する国家仏教である。天武天皇4年(675年)に諸寺に与えられていた山林・池を取り上げ、8年(679年)には食封を見直して寺院の収入を国家が決定することにした。中央統制機関としては、推古朝に設けられ十師によって廃止された僧正・僧都を復活して僧綱制を整えた。加えて天武朝では僧尼の威儀・服装まで規制し、すべての寺院と僧侶を国家の統制下に置こうとするころまで国家統制が強まった。
天皇の仏教理解、姿勢については、現世利益を求めた皮相的なものと説かれることがある。天皇が命じて読ませたのは護国の経典で、個人の救済が重視されたようには見えない。天皇個人が仏教に求めたのは、皇后と自身の病気治癒で、仏教の自我否定や利他の思想を実践しようとするものではなかった。
道教
天皇の宗教観には道教の要素が色濃く出ている。「天皇は神にしませば」と詠まれるときの神は、神仙思想の神、つまり仙人の上位にいる存在であったとの説がある。八色の姓の最上位は真人であり、天皇自身の和風諡号は天渟中原瀛真人という。瀛州は東海に浮かぶ神山の一つ、真人は仙人の上位階級で、天皇も道教の最高神である。天皇が得意だった天文遁甲は、道教的な技能である。葬られた八角墳は、東西南北に北東・北西・南東・南西を加えた八紘を指すもので、これも道教的な方角観である。
道教への関心は天武天皇だけのものではなく、母の斉明天皇に顕著であり、天武没後も続く。天武天皇の、そして日本の道教は、神道と分かちがたく融合しており、独立には存在していない。影響をどこまで大きく評価するかは見方が分かれる。
人物像
天武天皇は、宗教や超自然的力に関心が強く、神仏への信仰も厚かった。『日本書紀』には天文遁甲をよくするとあり、壬申の乱では自ら式をとって将来を占ったが、これらは道教的な技能である。『古事記』は、天武天皇が夢の中の歌を解き、夜の水に投じて自分が皇位につくことを知ったと記す。『日本書紀』では、壬申の乱のときに式をとって占い天下二分の兆しと解き、また天神地祇に祈って雷雨を止ませたという。占いも神助も現代の学者のとるところではないから、諸学者はこれらを天皇の権謀とみたり、偶然の関与とみたりするが、このような予言者的能力によって天皇は神と仰がれるカリスマ性を身に帯びた。即位後の政治にも宗教・儀式への関心が伺えるが、占いの活用や神仏への祈願で自らの目的を達しようとする姿勢が強い。
天武天皇の和歌は、蒲生野で額田王と交わした恋の歌、藤原夫人と交わしたからかい交じりの歌、吉野の「よし」を繰り返す歌、そして吉野の道の寂しさを歌う暗い歌が伝わる。漢詩を作ったとする史料はない。学者には伝えられていないだけとする人もいるが、ここに彼の趣味嗜好を見る人もいる。天武天皇の趣味は無端事(なぞなぞ)のように庶民的なものがあり、天武天皇14年(674年)9月18日に大安殿で博戯(ばくち)の大会を開くといった遊侠的なものさえあった。「#文化政策」で挙げた各種芸能者への厚遇も、天皇の好みと無関係ではないだろう。こうした側面に、民衆(より具体的には地方豪族層)の心をとらえるものがあったかもしれない。
文暦2年(1235年)の盗掘後の調査『阿不之山陵記』に、天武天皇の骨について記載がある。首は普通より少し大きく、赤黒い色をしていた。脛の骨の長さは1尺6寸(48センチメートル)、肘の長さ1尺4寸(42センチメートル)あった。ここから身長175センチメートルくらい、当時としては背が高いほうであったと推定される。藤原定家の日記『明月記』によれば、白髪も残っていたという。
和歌
むらさきの にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに吾恋ひめやも(『万葉集』巻一、21)
天智天皇7年、天智天皇が蒲生野に遊猟に出かけたときに、額田王が皇太子、すなわち大海人皇子に「野守は見ずや 君が袖振る」と歌ったのに答えた。額田王ははじめ大海人皇子に嫁し、後に天智天皇の妻となった。
み吉野の 耳我(みみが)の嶺に 時なくぞ 雪はふりける  ひまなくぞ 雨はふりける  その雪の 時なきがごと  その雨の ひまなきがごと  くまも落ちず  念ひつつぞ来し  その山道を(『万葉集』巻一、25)
吉野の山道を沈痛憂鬱に詠んだもの。憂鬱の内容は恋とするのが古い解釈であったが、江戸時代以降は契沖以降賀茂真淵、橘守部、山田孝雄、高木市之助ら、天智天皇重病時に剃髪して吉野に入ったときのこととする。
よき人の 良しとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ 良き人よく見つ(『万葉集』巻一、27)
年譜
天智天皇7年(668年) 天智天皇の皇太弟に立てられたとされる(否定する説もある)。
天智天皇10年(671年) 重病の天智天皇に後事を託されるも固辞し、出家して吉野に移る。
弘文天皇元年(672年) 壬申の乱で天智天皇の息子である大友皇子(弘文天皇)を破る。
弘文天皇2年(673年) 飛鳥浄御原宮にて即位する。
天武天皇4年(675年) 部曲を廃止する。占星台を設置する。
天武天皇5年(676年) 陰陽寮を設置する。
天武天皇7年(678年) 官人の勤務評定や官位の昇進に関して考選法を定める。
天武天皇8年(679年) 吉野に行幸する。皇后、草壁皇子らに皇位継承争いを起こさないよう誓わせる(吉野の盟約)。
天武天皇9年(680年) 皇后(後の持統天皇)の病気平癒のため薬師寺の建立を命じる。
天武天皇10年(681年) 飛鳥浄御原宮律令の制定を命じる。草壁皇子を皇太子に立てる。
天武天皇11年(682年) 匍匐礼を廃し、立礼にすることを命じる。
天武天皇12年(683年) 富本銭の発行。
天武天皇13年(684年) 八色の姓を定める。
天武天皇14年(685年) 冠位四十八階を制定する。
朱鳥元年(686年) 崩御。 
 
天武天皇 2

 

天武天皇(てんむてんのう) 40代天皇 即位前の名前 / 大海人皇子(おおあまのおうじ)
生没 / 不明 − 686年9月9日 (享年不明) 出身地 / 大和(奈良県)
経歴
天武天皇(てんむ天皇)は、壬申の乱に勝利して天皇になった、天智天皇(てんじ天皇)の弟です。
   天武天皇(てんむ天皇)=大海人皇子(おおあまのおうじ)
   天智天皇(てんじ天皇)=中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
   弘文天皇(こうぶん天皇)=大友皇子(おおとものおうじ)
てんむ天皇は、中大兄皇子(天智天皇)の弟です。てんむ天皇は、天智天皇を引き継いで、天皇の権力を強化したのです。
中大兄皇子が天智天皇として位につくと、次の天皇は弟の大海人皇子になるだろうと、だれもが思っていました。しかし天智天皇は、次の天皇を、自分の子・大友皇子(弘文天皇)にしました。この事実から、大海人皇子(てんむ天皇)は命の危険を感じます。
大海人皇子(てんむ天皇)は、いったん吉野(現在の奈良県南部)に身をかくし、天智天皇の死を待ちました。兄・天智天皇の死後、朝廷に反抗して、自分が天皇になろうとしたのです。時が来て、朝廷は、大海人皇子派と大友皇子派のふたつにわかれて激突しました。これを、壬申の乱(じんしんのらん)といいますね。
結果は、大海人皇子派(てんむ天皇派)の圧勝でした。戦いに敗れた大友皇子は、次の日に自殺しました。そして大海人皇子は天武天皇(てんむ天皇)として位につきます。その時には、大友皇子派の有力豪族が力を失い、ごっそり朝廷からぬけたため、てんむ天皇は強大な力をもちました。そのため、兄・天智天皇が進めた政治改革は、兄自身がきらったてんむ天皇によって引きつがれるという、皮肉な結果となったのです。
天武天皇は、684年に「八草の姓」を定め、天皇中心の身分制度をつくって、豪族たちを支配することに成功しました。豪族たちを、力によって押さえつけるのではなく、身分を与えて支配したのです。これによって、天皇の力は絶対的なものとなったです。
正体が不明
実は、天武天皇はナゾが多い人物なのですね。正体がよくわかっていないのです。まず生年月日がわかりません。天智天皇の弟とされているのですが、何歳くらい年下なのかすらわかっていません。
そして、その兄の娘を4人も妻にしていることも、ちょっと異常ですよね。このような事から、天武天皇が天智天皇の弟ってウソなんじゃね?説がとても根強いのです。いまでも天武天皇の正体に関して、いろいろな研究がされているようです。
孫の自害
天武天皇の孫は自害、自殺しているのですね。天武天皇の子供達は必ずしも幸福とは言えませんでした。
孫の名前は、長屋王(ながやのおおきみ)といいます。長屋王(ながやのおおきみ)は、血筋がいいだけでなく、政治家として仕事もバリバリできました。けっこう有名な人らしいです。しかし、肖像画などは一切ないようです。孫の自害するまでの流れは、「長屋王の変」として有名です。
持統天皇との関係
天武天皇と持統天皇との関係について。持統天皇は、天武天皇の妻です。持統天皇は、天智天皇の娘です。天武天皇(てんむ天皇)と、天智天皇(てんじ天皇)は兄弟です。
つまり、天武天皇からしてみれば、持統天皇は姪っ子ですね。持統天皇からしてみれば、天武天皇は叔父さんですね。そんなふたりが結婚しているのです。
持統天皇は、非常に聡明で、実権を握りました。元の名前は、野讚良(うののさらら)といいます。
まとめ
圧倒的なカリスマの持ち主とされた天武天皇。不安定な政情と家族間の確執の中で、激しい生き方をした人です。反面、和歌や漢詩に親しむ教養人でもあったのです。ある意味オールマイティなお人だったのです。
・天武天皇の正体がナゾ
・壬申の乱(じんしんのらん)に勝利し、天皇になった
・天皇になって、天皇の権力を強大なものにした
 
天武天皇 3

 

「千申の乱」で皇位を勝ち取った天武天皇
天武天皇(てんむてんのう:631〜686年)は飛鳥時代、第40代天皇。父は舒明天皇(じょめいてんのう)で、母は皇極天皇(斉明天皇)、兄が中大兄皇子(天智天皇)である。天皇に即位するまでは大海人皇子(おおあまのみこ)と呼ばれた。
「千申の乱(じんしんのらん)」で甥にあたる大友皇子(おおとものおうじ、弘文天皇)と戦い、これに勝利をする事で皇位をついで天皇となった人物だ。飛鳥浄御原宮で即位した。
律令国家の完成を志しており、飛鳥浄御原令や八色の姓などを制定した。
天智天皇は息子を天皇に即位させようとする
大海人皇子は第38代天皇の天智天皇の弟である。大海人皇子の前半生は、兄の中大兄皇子ほど言い伝えがなく、詳細は不明である。幼少期は摂津国の凡海氏(おおあまし)に養育を受けたとされ、即位前の名前である「大海人皇子」もこれに由来すると云われている。
兄に比べて、大海人皇子は傍流の皇子だったが、兄が天皇に即位してからは、皇太弟として兄に協力し、共に執政を行った。
しかし兄である天智は息子の大友皇子を自分の後継者とするつもりだった。
その為に太政大臣という役職を新たに設け、大友皇子をこれに付かせる事で皇位への足掛かりとした。
さらに、これまで皇位の継承は、経験や実績を基準に、次期の大王(天皇)を選出されていたが、実績よりも血統を優先とする世襲制とした。
大海人皇子は表だって、これに賛成しなかった。しかし、兄の嘆願もあってか後継者争いを退けて吉野へ隠遁した。
大衆の心を掴み、乱に勝利する
西暦671年、天智天皇が崩御した。
後継者である大友皇子はこれを機に、大海人皇子を攻め滅ぼすため、吉野へ挙兵する計画を立てるが、その計画を察した大海人皇子も挙兵する。
大海人皇子が近江大津宮から隠遁した際にはわずか数十名の共を連れているのみであったが、吉野を出発した後は大海人皇子の兵はたちまち数万にも上ったと云われる。
理由は、兄の天智天皇は税収や厳しい時間管理などの苛烈は政治体制を敷いていた為、これに反発していた地方豪族が沢山いたため、息子の大友皇子よりも、弟の大海人皇子に協力する事を選んだためと云われる。
また、大海人皇子は幼少時代より、宮中(貴族や皇族)よりも人民たちに近い生活を営んでいた為、民衆の心を掴むことに成功した為でもある。
この軍事力を背景に大友皇子の軍を包囲していく事になり、千申の乱に勝利した。
新たな皇統の創始者と位置付ける
千申の乱の後、大海人皇子は即位し天武天皇となった。天武は大臣を置かずに天皇自らが統治する皇親政治(こうしんせいじ)を行った。
「万葉集」では「大君は神にしませば」とまで歌われた。また、天武自身も「新たに天下を平し初めて即位す」とし、自分を天智天皇の後継者ではなく、新たな皇統の創始者と位置付けた。
そして、天武は、正統な天皇の血筋を伝える「日本書紀」と「古事記」という二つの歴史書の編纂を命じた。
「日本書紀」は漢字で変遷された国外向けの歴史書で、「古事記」は日本語で編纂された国内向けの歴史書である。これらの書物が完成したのは8世紀の元明天皇らの時代である。
天皇と日本の名を定める
天武が即位するまでは、まだ「天皇」と「日本」という言葉、称号はまだ無かった。
天武は「大王(おおきみ)」の新たな呼び方を考えだす事で、自分の権威を絶対的なものとしようとした。そこで「天皇」という名を考え出し、即位後は、それまでの「大王」も「天皇」と呼ぶ事となった。「倭国」を「日本」と改めたのも天武である。
※奈良県の飛鳥池工房遺跡では「天皇」と記された木簡が発見されている。 
 
大海人皇子 おおしあまのみこ 4

 

生没年 ?〜686(天武15)
系譜など 
父は田村皇子(舒明天皇)、母は宝皇女(斉明・皇極天皇)。中大兄皇子(天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇皇后)の同母弟。ただし出生を疑う説もある。正妻は初め大田皇女であったらしいが、その死後、菟野皇女(持統天皇)に代わったものと思われる。大田皇女との間には大津皇子と大伯皇女があり、菟野皇女との間には草壁皇子をもうけた。子には他に、高市皇子(母は尼子娘)、十市皇女(母は額田姫王)、長皇子・弓削皇子(母は大江皇女)、舎人皇子(母は新田部皇女)・新田部皇子(母は五百重娘)、穂積皇子・紀皇女・田形皇女(母は蘇我赤兄の娘)、忍壁皇子・礒城皇子・泊瀬部皇女・多紀皇女(母は宍人大麿の娘)、但馬皇女(母は氷上娘)などがいる。漢風諡号は天武天皇、和風諡号は天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇。万葉集には明日香清御原宮(御宇)天皇とある。
なお諱の「大海人」は、凡海(おおしあま)氏の養育を受けたことに拠る命名と思われる。凡海氏は海部(あまべ)を統率した伴造氏族で、『新撰姓氏録』には右京・摂津国居住の凡海連が見えるが、ほかにも周防・長門・尾張など各地に居住したことが史料から窺える。
参考 / 天武天皇と舞鶴を結ぶ須岐田の謎
略伝 
孝徳天皇代653(白雉4)年、皇太子中大兄が難波より倭京に遷ることを奏して許されず、皇祖母尊(前天皇皇極)・間人皇后らと飛鳥河辺行宮に移ったとき、これに同行する。この時の日本書紀の記事には「皇弟」とある。654(白雉5)年10月、天皇の不豫に際し、皇太子と共に難波に赴く。この年か翌年、長男高市が生れる。662(天智1)年、菟野皇女に次男草壁が生れる。664(天智3)年2月、天皇の命により冠位階名の改変などを宣伝する。この時以後、「大皇弟」とある。667(天智6)年、中大兄は近江大津宮に遷都。668(天智7)年1月、中大兄が即位。同月、即位を祝う宴で、大海人は長槍で敷板を刺し貫く。天皇は激高するが、中臣鎌足のとりなしで事なきを得たという(藤氏家伝。大海人の怒りの原因は不明。愛人の額田王を天智に召し上げられたことに怒ったとの見方は俗説にすぎまい)。同年5月5日、蒲生野の狩猟に従駕。額田王の歌01/0020、皇太子(大海人皇子)の答歌0021はこの時か。669(天智8)年10月、内大臣鎌足の病に際し、その邸に派遣されて大織冠・大臣位・藤原姓を授ける。この時「東宮大皇弟」とあり、皇位継承者であったことを明示している。
671(天智10)年1月、天皇は大友皇子を太政大臣に任命。大海人は東宮大皇弟として冠位法度の事を奏宣(書紀注に或本は大友皇子の宣命とする)。同年10月7日、病に臥していた天皇は東宮を臥内に召し入れ、「後事を以て汝に属(つ)く」云々と伝えるが、大海人は病と称して固辞し、「洪業を奉じて大后に付属せむ。大友王をして諸政を奏宣せしめむ。臣は天皇の奉為に出家修道せむことを」請願し、天皇はこれを許した。(天武即位前紀によれば、東宮に派遣された蘇我臣安麻呂が大海人に注意を促し、これにより大海人は天皇に謀略があることを疑ったという。)大海人は直ちに内裏仏殿に向かい、剃髮して沙門となった。同月19日、吉野での修行仏道を天皇に請い、許される。翌日吉野に入る。同年12月、天皇崩御。
翌年5月、舎人の朴井連雄君は近江朝廷が美濃・尾張で兵を集めているとの情報を齋す。同じ頃、近江京と倭京の間に監視が置かれているなどの報も入り、大海人は身の危険を悟る。翌6月22日、村国連男依らを美濃国安八磨郡に派遣し、兵を起して不破の道を塞ぐことを命じる。24日、東国へ逃れる(壬申の乱。実際には大海人の計画的な決起であったとする説も多い)。この時同行したのは菟野皇女・草壁・忍壁以下、二十数名の舎人、十数名の女嬬のみであった。同日菟田の吾城に至り、大伴連馬来田・黄文造大伴らが吉野より追いつく。また「猟者の首」大伴榎本連大国・美濃王らも従駕。夜半、隠(名張)郡に至り、駅家を焼いて人夫を募るが、反応無し。さらに伊賀郡に急行し、中山(三重県上野市付近?)に至って郡司らが数百の兵を率いて来帰。積殖(阿拝郡柘植郷)の山口に至ると、近江から駆けつけた高市皇子に遭遇。伊勢の鈴鹿で山道を遮る。26日、朝明郡迹太川(朝明川)の辺で天照大神を望拝。この時大津皇子の参来を知り、大海人は大いに喜ぶ。朝明郡家に至る直前、村国男依が駆けつけ、不破道を塞ぐことに成功したと報告。大海人は高市皇子を不破に派遣、さらに東海道諸国・東山道諸国に兵を起す。
大海人の東国入りを知った近江朝廷は、東国・倭京・筑紫・吉備などに兵を起そうとするが、筑紫大宰栗隈王は挙兵を拒絶。この頃、大伴吹負は倭京に留まり、吉野側への帰順を決意、僅かに数十人の同志を得る。
27日、高市皇子の要請により大海人は不破に入る。郡家に至った頃、尾張国守小子部連{金偏に且}鉤(さひち)が2万の兵を率いて帰順。大海人は野上で高市皇子に逢い、軍事を一任。また吹負を倭(やまと)の将軍に任命し、奈良に軍を派遣。
7月2日、紀臣阿閉麻呂ら、数万の兵を率いて伊勢大山より倭に向かう。また村国男依らは数万の兵を率いて不破より近江に入る。近江側は不破を撃つため犬上川の辺に軍を敷いたが、内紛などのため進軍できず。近江の将軍羽田公矢国らは吉野に来帰し、越の国に向かう。
7月4日、吹負は近江の将大野君果安と奈良山で合戦するが、敗走。7日、村国男依らは息長の横河で近江軍を破る。同日、東道将軍紀阿閉麻呂、置始連菟率いる千余の兵を倭京に派遣。
男依率いる軍は連戦連勝、22日、瀬田に至り、大友皇子らの率いる近江の大軍と対峙。大分君稚臣らの功により大勝。大友皇子らはあやうく逃れる。男依は粟津岡に軍を置く。23日、大友皇子は山前に隠れ、自縊。左右大臣群臣、みな散亡。
一方、敗走した吹負は再び兵を集め、當麻の衢で壱伎史韓国の軍と衝突。勇士来目らの功により近江軍を大破し、22日、倭京を平定。26日、諸将は不破宮に参向。
8月25日、近江群臣の重罪者を処刑。9月、飛鳥岡本宮に移る。
673(天武2)年2月、飛鳥浄御原に即位(天武天皇)。正妃(菟野皇女)を立てて皇后とする。同年3月、川原寺に一切経の書写を始めさせる(国史に残る最初の写経事業)。4月14日、大来皇女を泊瀬斎宮に置く。閏6月、耽羅・新羅より即位を祝う遣使が来日。8月、高麗使来日、朝貢。12月5日、大嘗祭に奉仕した中臣・忌部氏らに賜物(即位後の大嘗祭に関する確実な記事として最初のもの)。
675(天武4)年1月5日、初めて占星台を建てる。2月9日、諸国に歌の上手・小人・伎人を奉ることを命ずる。4月18日、麻續王を因幡国に配流。
678(天武7)年4月7日、倉梯の斎宮への行幸に出発。この時、十市皇女(天武第一子か。故大友皇子の妃)が宮中で急死し、行幸は中止される。
679(天武8)年5月5日、吉野行幸。この時、天武天皇の吉野宮に幸せる時の御製歌(01/0027)。一説に、天皇の御製歌「み吉野の耳我の…」(01/0025・或本歌0026)もこの時披露されたかという。翌6日、草壁・大津・高市・河嶋・忍壁・芝基を集め、「相扶けて逆ふること無」きことを盟約させる。同年10月、勅で僧尼の民間活動を禁ずる。11月、竜田山・大阪山に関所を設け、難波に羅城(城壁)を築く。
680(天武9)年5月1日、綿布などを京内の24寺に施入。この日、初めて金光明経を宮中・諸寺で説かせる。11月12日、皇后、不豫。治癒を願って薬師寺の建立を始める。11月26日、天皇、不豫。僧百人を得度するとしばらくの後平癒。
681(天武10)年2月25日、律令を改め、法式改定を命ず(飛鳥浄御原令)。同日、草壁皇子、立太子(20歳)。一切の政務に与からせる。3月、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・美努王(栗隈王の子)・中臣連大嶋らに「帝紀及上古諸事」記定を命ず(『日本書紀』編述の出発点か)。7月4日、遣新羅使・遣高麗使。
682(天武11)年9月2日、跪礼・匍匐礼を禁じ、難波朝廷(孝徳)の時の立礼を用いる。12月3日、諸氏の氏上を申告制とする。
683(天武12)年2月1日、大津皇子に初めて朝政を執らせる。3月2日、僧正・僧都・律師を任命。僧尼を国家の統制のもとにおく僧綱制度を整える。
684(天武13)年閏4月5日、政治における軍事の重要性を説き、文武官に武器の用法と乗馬の練習を課す。また衣服の規定を設ける。10月1日、八色の姓制定。
685(天武14)年1月、冠位四十八階を制定。3月27日、「国々で家毎に仏舎を作り仏像と経典を置いて礼拝せよ」との詔を出す。7月26日、朝服の色を定める。9月24日、不豫。11月24日、天皇のため招魂(魂振り。魂が体から遊離しないよう鎮める)を行う。
686(天武15)年5月17日、重態。川原寺で薬師経を説かせ、宮中で安居させる。6月10日、天皇の病を占い、草薙の剣に祟りがあると出る。熱田社に送り安置する。7月15日、政を皇后・皇太子に託す。7月20日、朱鳥に改元。宮を飛鳥浄御原と名付ける。9月9日、崩ず。以後皇后が政務をとる(持統天皇)。檜隈大内陵(奈良県高市郡明日香村)に葬られる。『皇胤紹運録』は享年65とするが、中大兄より年長となり信じ難い。56歳の誤りと見る説もある。万葉集には上記3首(01/0021・0025・0027)のほか、藤原夫人(不比等の異母妹五百重娘。氷上大刀自ともいう)に賜う歌(02/0103)がある。また皇后(持統天皇)作の挽歌がある(02/0159〜0161)。
天武即位前紀によれば、大海人皇子は生まれつき勝れた容姿をもち、長じて雄々しく武徳を備え、天文・遁甲(占術)を能くした。菟野皇女を正妃とし、天智元年(天智が即位した年、すなわち天智称制7年を指すか)に東宮となった、とある。
天皇を中心とした集権国家体制の確立に努め、律令官人制や公地公民制の整備を推進する一方、仏教の振興や国史編纂にも意を注ぐなど、その業績は多方面にわたった。 
 
天武天皇 5

 

父は舒明天皇、母は斉明天皇と伝わる。中大兄皇子(天智天皇)・間人皇女の同母弟。大津皇子・大伯皇女・草壁皇子・高市皇子・長皇子・弓削皇子・舎人皇子・新田部皇子・穂積皇子・紀皇女・忍壁皇子・礒城皇子・泊瀬部皇女・多紀皇女・但馬皇女ほかの父。
天智天皇の皇太弟として改新政治に参与。天智七年(668)五月、蒲生野の狩猟に従駕する。額田王の歌に答えた(万葉集巻一)のはこの時か。天智十年(671)十月、病に臥していた天皇より後事を託されるが固辞し、剃髪して吉野に入った。やがて天智天皇は崩ずるが、翌年、身の危険を悟り、兵を起して東国へ逃れた(壬申の乱)。高市皇子・大伴吹負などの活躍により大友皇子らの率いる近江朝廷軍を破り、倭京を平定。天武二年(673)二月、飛鳥浄御原に即位した。同十年(681)二月、律令を改め、法式改定を命ず(飛鳥浄御原令)。また八色の姓・冠位四十八階を制定するなど、天皇を中心とした集権国家体制の確立に努め、律令官人制や公地公民制の整備を推進した。同十五年九月九日、崩御。以後皇后が政務をとった(持統天皇)。陵墓は檜隈大内陵(奈良県高市郡明日香村)。仏教の振興や国史編纂にも意を注ぐなど、その業績は多方面にわたった。
万葉集に四首の歌を残す(「或本歌」を加えれば五首)。

皇太子の答へたまふ御歌
紫のにほへる妹いもを憎くあらば人妻ゆゑに我あれ恋ひめやも(万1-21)
【通釈】紫草のように美しさをふりまく妹よ、あなたが憎いわけなどあろうか。憎かったならば、人妻と知りながら、これほど恋い焦がれたりするものか。
【補記】天智七年(668)五月五日、天智天皇が大海人皇子以下王侯諸臣を従えて近江の蒲生野に薬狩を催した時、額田王の「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」に答えた歌。万葉集では相聞の部に入れず雑歌としていることからも、恋の贈答ではなく、宴席での戯れ歌であることは明らか。

天皇御製歌
み吉野よしのの 耳我みみがの嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間ま無くぞ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間まなきがごと 隈くまもおちず 思ひつつぞ来こし その山道を (万1-25)
【通釈】吉野の耳我の嶺みねに、絶え間もなく雪は降っていた。休む間もなく雨は降っていた。その雪が絶え間もないように、その雨が休む間もないように、曲がり角ごとに物思いをしながら来たのだ、その山道を。
【語釈】◇耳我の嶺 原文「耳我嶺」。吉野の山という以外不詳。◇時なくぞ 時の区別なく。始終。◇隈もおちず 曲がり角も一つ残さず。◇思ひつつぞ来し 原文「念乍叙来」。「思ひつつぞ来る」と訓む説もある。天智十年(671)、身に危険の迫ったことを悟って吉野へ逃れた時のことを回想しているものと思われる。

天皇、吉野の宮に幸いでます時の御製歌
淑よき人の良しとよく見て好よしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見(万1-27)
紀には「八年己卯つちのとうの五月、庚辰かのえたつの朔つきたちの甲申かのえさるに吉野宮に幸いでます」といふ。
【通釈】昔の立派な人が、素晴らしい所だとよく見て、喜ばしいと言った、この吉野をよく見よ。今の善良な人であるお前たちも、この聖地をよくよく見よ。
【補記】原文は「淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見與 良人四來三」と、「よき」「よし」に注意深く漢字を振り分けている。初句の「淑き人」が古人であるのに対し、結句の「良き人」は同時代の人を指すのであろう。結句の「よく見」の「見」はおそらく命令形。「よ」を付けずに命令の意をあらわす古形であろう。
【主な派生歌】
かたらばや吉野よくみてかへりこむ人にもけふの花の夕を(三条西実隆)
よしの山雪か雲かのけぢめをもよく見てきませよき人よ君(加藤美樹)
よき人のよしといひつる吉野山よく見て行きてよしとかたらむ(本居宣長)
よき人をよしとよく見し夕べより吉野の花の面影にたつ(*香川景樹)
淑き人のよく見と言ひし芳野山よく見て行かな淑き人のため(鹿持雅澄)
淑き人のよしとよく見て住みよしと云ひし吉野に住めるよき人(平賀元義)

天皇、藤原夫人に賜ふ御歌一首
我が里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後(万2-103)
【通釈】我が里に大雪が降り積もっている。お前の住む大原の古ぼけた里に降るのは、ずっと後のことだろうよ。
【補記】「我が里」は天武天皇の宮があった明日香浄御原。「大原」は藤原夫人(五百重娘)の実家のある土地で、今の明日香村小原。夫人の返歌は「我が岡のおかみに言ひて降らしめし雪のくだけしそこに散りけむ」。 
 
狗奴国系王統 最後の光芒 6

 

天武天皇即位前紀
(1) 大海人の出自と妃
最後になるが、『古事記』と『日本書紀』の編纂を発案したとされる、天武天皇について論考しよう。
男大迹王が見いだされる前の事になるが、大臣の大伴金村、物部麁鹿火そして巨勢男人らにより、宮中の記録が検証され、丹波国桑田郡(京都府亀岡市)にいた仲哀天皇の五世の孫である倭彦王もまた皇位継承者として抜擢されていた。倭彦王(やまとひこのおおきみ)は、迎えの大伴金村の武装兵士をみて自分を殺しにきたと恐れをなし、山の中に隠れて行方不明となってしまった。兵士の派遣を雄略天皇の皇族狩りと覚え、それを怖れたからと伝わる。後から、舎人がどれだけ探しても倭彦王を発見できなかった。倭彦王はこつ然と姿を消したのである。
過去にも同じ様に行方不明となった皇子がいた。市辺押磐皇子である。大泊瀬稚武皇子(後の雄略天皇)により近江の蚊屋野へ狩猟に誘い出され、「猪がいる」と偽って射殺されたのだ。しかし遺体は発見できなかった。この事件には後日談がある。御子の億計王と弘計王は播磨国に逃れるが、清寧天皇の御世に見いだされて宮中に迎えられ、顕宗天皇と仁賢天皇に即位する。そして顕宗天皇(弘計王)は置目老嫗(おきめのおみな)の案内により亡父の遺骨の所在を知ることになる。置目老嫗は蚊屋野で、市辺押磐皇子暗殺の一部始終を目撃していたのだ。「大泊瀬稚武皇子は、射殺した市辺押磐皇子と遺骸を抱いて嘆き悲しむ舎人の佐伯部仲子をも殺し、また二人の遺骸を切り刻み、馬の飼葉桶に入れ、地面と同じ高さになるように埋めていた」のだ。それで長らく遺体の所在がわからなかったのである。顕宗天皇は置目老嫗に感謝し、大いに慰労したことは、言うまでもない。
後世、遺体が見つからずに行方不明になった天皇がいた。「天皇は、馬に乗って山科の里まで遠出したまま帰ってこず、後日履いていた沓だけが見つかった」『扶桑略記』(僧皇円 平安時代末)。それが、天智天皇である。天智天皇の死後、壬申の乱(672年)を興して皇位に着いたのが大海人皇子、後の天武天皇である。その天武天皇の命により古事記(「撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉」)と日本書紀(天武十年)の編纂が行われることになるのである。
それでは、所在不明となった倭彦王は、どうなったのか? 実は大臣の大伴金村が丹波国に出向いた時、おびえて山中に逃げた倭彦王を密かに連れ去り、邸宅にかくまっていたのだ。なぜ、金村は、倭彦王を密かに匿ったのか? 大伴氏の始祖は天忍日であり、邇邇藝とともに狗奴国から日向の高千穂に天降っていた。また、磐余彦の東征では、曾孫の道臣が大久米の軍を率いて熊野から大和国まで転戦し、神武天皇の大和王権樹立に大いに貢献した。その後、狗奴国系の大王家(天皇家)と共に歩むことになる。垂仁朝では、武日は物部十千根らと共に、大夫になる。景行朝では、武日が倭建の東征に吉備武彦と共に従い、その功により、靫負部を賜る。大伴連武持は仲哀朝の四大夫で、初めて大伴宿禰姓を賜った。応神天皇から始まる邪馬台国系王統の時代には大伴氏は冷遇されたようであるが、允恭朝になって、大伴連室屋が政権内に登場する。室屋は、雄略天皇即位に伴い、物部連目と共に大連となる。室屋の子の談(かたり)は、新羅掃討に派遣されるが、戦死する。談の子、金村は平群臣真鳥・鮪父子の乱を平定、武烈天皇を即位させ、自らは大連となる。以後、金村は半世紀近くにわたって政治的実権を掌握することになる。大伴連金村は、後嗣のない武烈天皇の後継者を求め、宮中の記録を検証し、丹波国桑田郡にいた仲哀天皇の五世の孫である倭彦王を皇位継承者として抜擢したのである。しかしながら、金村は、倭彦王はとてもではないが大王となる器量ではないと見破ったのだ。だがしかし、大伴氏にとって、仲哀天皇の後裔の倭彦王は歴代の主君(狗奴国系王統)の後裔であった。だから、私邸に連れ帰り、密かにかくまったのである。
欽明一年(540年)、大伴金村は任那政策の失敗を物部尾輿らに責められ、失脚する。
欽明二十三年(562年)、金村の子の狭手彦が大将軍として高句麗を討つ。
用明二年(587年)、同じく金村の子の噛 (くい=咋子) が、蘇我馬子による物部守屋討伐軍に参加する。この時、物部本宗は滅亡する。591年任那復興のため大将軍として出陣。608年隋使「裴世清」を迎える。
崇峻天皇が即位(588年)すると、金村の子糠手 (ぬかて) の女小手子 (おてこ) が妃となる。大伴氏の女が初めて妃となったのである。
推古元年(593年)、厩戸皇子が立太子(聖徳太子)し、大伴屋栖古 (やすこ) が太子側近の侍者となる。
推古二十二年(614年)、中臣御食子の妻大伴夫人(智仙娘、大伴咋子の女)が鎌子(後の藤原鎌足)を生む。
大化五年(649年)、粛清された蘇我倉山田石川麻呂の後任として大伴長徳が右大臣に就任する。
白雉二年(651年)、右大臣大伴長徳が死去する。その後、孝徳朝末期以後、天智朝まで大伴氏の動静は伝わっておらず、また斉明朝末年から天智初年(661〜663年)にかけての百済救援にも大伴氏の活躍は記録されない。この期間大伴氏は中央政界から疎外されていたようにみえる。
そして倭彦王から百余年後、その倭彦王の子孫が、大伴家で生まれるのである(出生年は不明)。磐余彦に似た武勇・叡智に優れた大丈夫であったが、いささか猜疑心が強かった。それが、大海人(後の天武天皇)である。天武紀では舒明天皇と宝皇女(皇極天皇)の皇子とされ、中大兄皇子(後の天智天皇)と同母兄弟とされている。これは、『紀』編纂時の捏造であろうと私は考える。『天武紀』は歴代天皇の中でただ一人、巻第二十八(壬申の乱)と巻第二十九(即位から崩御まで)の二巻を占めているが、大海人が、天智天皇の東宮になるまでの状況がまったく記されていない。実兄とされる天智天皇が皇子時代、決死の覚悟で決行した「乙巳(いっし)の変」(いわゆる「大化の改新」)にも、また、百済復興のために老母の斉明天皇を旗印にして大軍を率いて筑紫朝倉宮に征西した期間でも、大海人の同行は明確でない。これらのことは、中大兄皇子と大海人の兄弟関係を十分に疑わせる。私は、「大海人は、倭彦王と大伴氏の女の子孫であり、狗奴国王統の血脈を引き継いでいる」と考える。
『紀』は出生の詳細を記さないが、天武天皇の殯があった朱鳥元年(686年)九月二十七日、第一番に天武天皇の「壬生のことを誄したてまつった」人物がいる。その人物は大海宿禰蒭蒲(おおあましのすくねあらかま)である。凡海氏=大海氏は阿曇氏の同族とされ(『新撰姓氏録』右京神別下、摂津国神別)、摂津国を本拠にした氏族である。「壬生」は、「養育」のことであり、凡海氏が大海人の養育にあたったと考えられる。その大海人の名は、凡海(おおあま)氏の女性が乳母であったことから付けられた(Web)。そして、阿曇氏の本貫は奴国であり、狗奴国の本貫でもある。当時、不遇をかこっていた大伴氏が、百済救援と新羅西征の重鎮であった凡海氏に、大海人の養育を依頼したのであろう。そこで、畿内にいた帰化新羅人に武術と天文・遁甲 (とんこう、占術・呪術) を学んだとしたい。なぜ新羅人からと言えるのか? 『藤氏家伝』は、ある日の宴会で激した大海人皇子が長槍で床板を貫き、怒った天智天皇が皇子を殺そうとしたという話を伝える。藤原鎌足が取りなして事なきを得たという。天智七年(668年)のこととされている。この説話に見る大海人と天智天皇の関係は、兄弟というよりは主従と見る方が理に合う様に感じる。この時、大海人が使った長槍が重要なのである。長槍は長戟(ながきほこ)で、(おそらく唐から伝わった)新羅人の武器であったのだ。欽明紀に「新羅は長戟・強弩で任那を攻め、大きな牙・曲がった爪で人民を虐げた。云々」とあることは前述した。大海人もまた、長戟つまり長槍の名手であったのだ。また、『紀』は「天武天皇は天文・遁甲を能くした」と記す。推古天皇十年(602年)に百済僧観勒による暦本・天文・遁甲方術書の移入があった。推古天皇紀あたりから、天文の記事が多くなり、誓約(うけい)にかわり、天文・自然現象で吉凶を占う占術記事も多くなる。朝堂院で天文・遁甲方術が行われたことが窺える。大海人も、帰化新羅人(あるいは、宗主国の唐王朝の鮮卑人かもしれない)から長戟、天文・遁甲を学んだとしたい。本稿で私の考える大海人は、大伴夫人(智仙娘、大伴咋子の女)を介して、中臣鎌子(藤原鎌足)(614〜669年)とその子の藤原史(不比等 659〜720年)に繋がっているのだ。大海人は、有能な新羅人(あるいは鮮卑人)を、鎌子から紹介されたと、私は考える。孝徳朝末期以後天智朝まで、中央政界で大伴氏は不遇をかこっていたようであるが、このころ、長じた大海人は中臣鎌子の引き立てで朝堂入りし、遁甲を駆使して活躍し、中大兄皇子の寵を得たとしたい。白雉四年(653年)、中大兄皇子が孝徳天皇と袂を分かち、孝徳天皇が造営した難波京から倭京(飛鳥)に移った。その時、大海人は中大兄皇子らと行動をともにしている。『紀』は皇弟と記す。これが、大海人の初出である。
倭京の宮廷には、中大兄皇子の幼い娘の大田皇女と鵜野讃良皇女がいた。二人の母親は蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘 (おちのいらつめ) である。石川麻呂は、乙巳の変で中大兄皇子や中臣鎌子が蘇我入鹿を討った時の同士であった。後に誣告により蘇我石川麻呂は中大兄皇子に攻められ自害した。遠智娘は父の敵の中大兄皇子に嫁ぎ、大田皇女と鵜野讃良皇女 (うのささらひめみこ)、弟の建皇子を生んだ後、父の死を嘆きつつ、やがて病死する。建皇子は唖であり夭折する。大田皇女と鵜野讃良皇女は、これらの悲劇を十分に知っていながら、祖父を自害に追いやった中大兄皇子の許で暮らしていたのだ。鵜野讃良皇女の生い立ちについて『紀』は詳述しない。その名前から、河内國更荒郡鵜野邑 (ささらぐんうのむら)、すなわち、讃良郡鵜野村 (ささらぐんうのむら、大阪府四条畷市岡山のあたり) が皇女名の由来であり、讃良郡鵜野村に住む宇努連 (うぬのむらじ) 出身の女性が彼女の乳母であったとする説がある (『北河内古代人物史』Web)。宇努連は帰化新羅人の裔孫とされる(欽明二十三年条)。宮廷に入った大海人は、境遇に複雑な感情を抱く大田皇女と鵜野讃良皇女の人生相談(遁甲による占。大海人は壬申の乱の時、式〔筮竹〕で占を行っている)を行ううちに、情を通じ、二人を娶ることになったとしたい。鵜野讃良皇女(後の持統天皇)は、斉明三年(657年)に十三歳で大海人に娶られた。そして、六年後(天智元年662年)、草壁皇子を筑紫の那の大津の宮で生んだ。大海人が大田皇女を娶った時期は不明であるが、斉明七年(661年)、百済救援のため那の大津に向かう途中の中大兄皇子一行の乗った船が、大伯(おおく)の海の上(岡山県瀬戸内市の沿岸)を通過している時に大来皇女(後の伊勢斎王)を出産した。また、天智二年に大津の宮で大津皇子を生んだことから、鵜野讃良皇女と同じ様な時期に大海人に娶られた可能性がある。天智二年九月に白村江で百済救援軍は、唐の船軍に敗北して筑紫の那の大津(博多湾)に戻っている。斉明七年から天智二年まで、大海人は中大兄皇子と那の大津の宮にいたはずであるが、動静は全く伝わっていない。いずれにしても、中大兄皇子にとって扱いの難しい二人の皇女を大海人に娶らせた対価として、大海人に皇弟の尊称を賜ったと考えたい。天智天皇紀で大海人は、天智三年に大皇弟として初出する。八年(669年)五月条でも大皇弟であるが、十月条では東宮太皇弟となっており、この頃に東宮になったと思われる。ただし、東宮(皇太子)とは名ばかりであった。事実、天智十年(671年)、天皇は第一皇子の大友皇子を太政大臣に任命し、大友皇子に皇位を継がせる意図をみせている。
大海人は後に、同じく天智天皇の皇女の大江皇女と新田部皇女を妃にしている。大江皇女は天武二年(673年)に妃となったとされ、長皇子と弓削皇子をもうける(二人は『万葉集』に歌を残している)。新田部皇女は天武の妃となり、天武五年 (676年) に舎人皇子を生んでいる。この二人の皇女は、天智天皇の崩御後に天武天皇の妃になっているようである。そのうち、新田部皇女は橘娘 (たちばなのいらつめ) を母にもち、その父の安倍内麻呂(倉梯麻呂)は田村皇子(後の舒明天皇)の擁立に働き、孝徳朝で左大臣を務めた。系図を遡ると、崇神天皇の皇后御間城姫の父大彦に至る(おとくに『古代豪族』Web)。まさに安倍氏は狗奴国血統を継いでいるのだ。天武天皇にとって新田部皇女は、遥かなる遠祖に繋がる重要人物であったのだ。宮廷に残る記録を見て、天武天皇のほうから新田部皇女を求めて娶ったとしたい。このようにして、『日本書紀』編纂の立役者、狗奴国血統の天武天皇と舎人親王が揃ったのである。
先に、大海人は、胸形君徳善の女、尼子娘を納して高市皇子をもうけていた(白雉五年 654年)。兄弟の中では最年長である。高市皇子は壬申の乱では総大将となり、大海人を勝利に導くことになる。尼子娘は寝所にはべる女官とされる。大海人は、なぜ身分の低い女を最初に納さねばならなかったのか? 皇弟にしては不釣り合いである。この頃、朝堂での大海人の身分は低いものであったとしたい。白雉五年には第三次遣唐使が派遣されている。遣唐使の派遣に胸形氏の海人が動員され、その関係で、大海人は胸形君と好誼を結んだのであろう。なお、天武朝から文武朝で再開される(天宝二年702年)まで、遣唐使は中断する。天武天皇とその政治を引き継いだ持統天皇は、「華夏の王朝へ朝貢せず」とする狗奴国の「正義」を貫いたのであろうか。文武朝での遣唐使の再開は、開明を望む藤原不比等の政策であったのであろう。
斉明朝の宮城に登壇するようになった大海人は、宮城の一角にある堂から不思議な謡が聞こえてくることに気づいた。それは猿女君の「誦」であった。「誦」は、王家の遠大な歴史を物語っていた。大海人は天皇や皇后・妃の殯で誄(しのびごと、死者の生前の功徳をたたえて哀悼の意を述べる言葉)は知っていた。「誦」は誄の大元のように覚えた。遡る皇極四年(645年)に蘇我蝦夷の変で書庫が放火され、多くの史書が焼失していた。再度、猿女君の歴史を物語る「誦」が重要性を増していたのだ。大海人は「誦」に興味を持ち、それを温ねるうちに大王(おおきみ)に仕える大伴氏の遠祖天忍日や道臣の物語から、狗奴国王統を理解し、自身がその王統の血統にあることを自覚したのだ。だが時代は邪馬台国王統の大王の御世であり、仲哀天皇の死後、狗奴国系王権は途絶えていた。大海人は、その仲哀天皇の裔であることを自覚したのだ。
その猿女君に混じり、記憶力抜群の少年がいた。阿礼である。「目に触れたものは即座に言葉にすることができ、耳に触れたものは心に留めて忘れることはない」異能をもっていた。大海人は、即位後に阿礼を舎人として召し、猿女君の全ての「誦」を記憶するように命じたのである。阿礼二十八歳と伝わる。後日、阿礼の誦習を太安萬侶が筆録して『古事記』を編纂し、和銅五年(712年)に、元明天皇に献上された。私は、「勅語阿礼令誦習帝皇日継及先代旧辞」(『古事記』序)を以下の様に考える。書に記録された『帝皇日継』・『先代旧辞』をわざわざ誦して、阿礼に誦習させる必要は無い。書き写せばよいだけである。阿礼が実際に行ったのは、猿女君の全「誦」を誦習することであったのだ。阿礼は、倭語は理解出来たが、漢文は行えなかった。それで太安萬侶が筆録して『帝紀』・『旧辞』が編纂された、と考えるのである。
(2) 壬申の乱と大伴氏
天智天皇は663年、白村江の戦いで三万の倭軍が唐と新羅連合に敗北したことで人臣の信望を損ねる。また、天智六年(667年)に近江大津宮(現在の大津市)へ遷都したことで、さらに人臣に不満を覚えさせる。他方、大海人は朝廷で実力を付けシンパを増やしていく。天智天皇が失踪(あるいは病没)後、大海人は、天智天皇の皇子大友に対して乱を興す。壬申の乱である。朝廷軍との戦いを繰りひろげ、倭京(飛鳥)と近江で朝廷軍を撃破り、乱に勝利する。672年七月であった。そして、673年に天武天皇として飛鳥浄御原宮で即位し、天智天皇の娘の鸕野讚良皇女を皇后とする。
この壬申の乱における大海人の行動を見てみよう。挙兵前、剃髪し沙門になり、仏門に入るとして、鸕野讚良皇女とともに吉野に逃れる。大日寺あるいは聖徳太子縁の比曽寺(現在の世尊寺)に大海人が籠ったという説がある。吉野の豪族(石押分之子=吉野国巣の祖)は、大海人の遠祖の磐余彦の東征の際に臣従していた。吉野町南国栖(くず)の村人は大海人を朝廷軍から護り、また、舞などで慰めたとも伝わる(Web)。それに由来する国栖奏が毎年旧正月十四日、天武天皇を祭神とする浄見原神社(吉野町南国栖)で行われている。その後、大友皇子の近江朝廷が、殺害を策謀しているとの報を受けた大海人は、草壁皇子、忍壁皇子および舎人の朴井連雄君(物部雄君)・大伴連友国ら二十人余り、侍女たち十人余りとともに吉野を脱出する。その際、大分君恵尺(おおきだのきみゑさか)を近江に遣わし、御子の高市皇子と大津皇子に伊勢で会うように伝言させる。天武元年六月二十四日早朝であった。そして、吉野から津振川を経て菟田の安騎で大伴連馬来田らが合流する。この時、大伴氏は、大海人を担ぎ、大海人の王朝を興して、朝堂の重臣になることを策謀したのだ。馬来田(まぐた)は、倭古京(飛鳥の都)の決起を弟の吹負(ふけい)に任せて、自身は大海人を護ろうとした。甘羅村(かむらのむら)を過ぎた時、大伴朴本連大国を首領とする二十人の猟人を召す(大国も大伴の一族であった)。大野(旧室生村)から隠郡(名張市)を夜中行軍し、伊賀郡に到る。この夜中行軍は、大友皇子の母宅子娘(やかこのいらつめ)の出身地(旧三重県阿山郡大山田村?)である伊賀采女の里人の襲来を畏れてのこととする説がある。采女は身分が低く、大友皇子の母といえども、その里を近江朝廷の軍衆が警護していたとは思えない。道を急いだための夜中行軍であったのであろう。伊賀郡中山で、数百の軍勢を率いた伊賀郡司が参軍する。積殖(つむえ、伊賀国拓殖)の山口まで来たとき、大津京を出奔し、鹿深(甲賀市)を越えてきた高市皇子に同行して八人の舎人が合流する。そして大山(鈴鹿山脈)を越えて(加太峠越えか?)伊勢の国の鈴鹿郡(三重県亀山市関町)に入り、伊勢国司の出迎えを受ける。そこで大海人は、彼らに五百人の軍勢を集めさせて、鈴鹿の山道の守りを固めさせた。川曲(鈴鹿市)の坂下に到り、疲れの激しい鵜野讃良皇女のため、しばらく御輿を留めて休憩する。その後に雨中行軍し、三重郡家に到って、民家を一軒燃やして暖をとる。翌朝(二十六日)、伊勢の朝明郡の迹太川(とおかわ、現在の朝明川)のほとりに至り、天照大神を遙拝して、戦勝を祈願する。朝明郡では、同じく大津京を出奔し、鈴鹿の関を越えてきた大津皇子が大分君恵尺・大分君稚臣(わかみ)等とともに合流する。また、美濃に派遣していた村国連男依が、美濃の軍勢三千人を集め、不破の道をふさいだとする報告を受ける(不破道は鈴鹿道とともに交通の要所で、ここを抑えることで大津の都と東国とを遮断することができ戦略的な意義は大きい)。郡家で、高市皇子を不破に派遣して軍の監督をするように命じた。また東海道諸国や甲斐・信濃の軍兵を徴集させる。さらに桑名の郡家に向かい、そこに鵜野讃良皇女ら家族を残留させ、自らは和蹔(わざみ)の不破郡家(岐阜県不破郡垂井町)に入る(二十七日)。その途中、尾張国司小子部連鉗鉤(ちいさこべのむらじさひち)が尾張で徴発した二万の兵を率いて帰属してきた。大海人は不破郡家から野上へ移り、行宮を設けて東国から参集した全軍の指揮をとる。『続日本紀』は、尾張大隅は大海人を養育した大海氏の同族であり、私邸を行宮として提供したと記す。
他方、近江朝廷では、大海人軍が東国入りしたこと聞いた群臣は怯え、逃走する者も現れる。大友皇子は「騎馬軍を組織して撃って出る」との進言には賛同せず、韋那公磐鍬(いなのきみいわすき)・書直薬(ふみのあたいくすり)・忍坂直大麿侶(おしさかのあたいおおまろ)の三名を募兵のために東国に向かわした。しかし、不破に至るまでに大海人の伏兵に襲われ、逃げ帰る。また、穂積臣百足(ももたり)・穂積臣五百枝(いおえ)の兄弟および物部首日向を倭古京に派遣する。五年前にあった近江遷都で廷臣たちは居を大津に移したが、彼らの多くは倭古京に一族や親族を残したままである。募兵に当たるとともに、小墾田(おわりだ、雷丘付近)の武器庫の武器を大津宮に運搬しようとしたのだ。そこに大伴連吹負が数十騎を率いて出撃し、奇襲攻撃で百足を斬り殺し、五百枝と日向は捕らえられる。吹負の奇襲攻撃により大和の豪族たちが続々と大海人軍への参軍を申し入れ、倭古京は大海人軍の手に落ちたのであった(二十九日)。倭古京を反乱軍に占拠されて、近江朝廷は打撃を受けた。大海人軍が東国から近江大津宮へ進軍すれば近江朝廷側は二方面作戦を展開せざるを得なくなったのだ。 吹負の倭古京占拠を機に、大海人は全軍に進撃命令を出した。村国連男依(おより)と書首根麻呂らは数万の兵を率いて不破から琵琶湖東岸をまっすぐ近江に向かった。また、紀臣阿閉麻呂(きおみのあへまろ)らが率いる数万の軍勢は大山越えで、大和に向かった(七月二日)。近江朝廷側は倭古京奪回軍を組織し、将軍大野君果安(はたやす)は乃楽山(ならやま、奈良県北部)で、将軍吹負の軍と戦い吹負軍を敗走させる。しかし、倭古京を守る荒田尾直赤麻呂らの奇計により、果安は京に進軍することなく兵を引く(四日)。
他方、琵琶湖方面に向かった村国連男依の軍は息長の横河で境部連薬が指揮する近江朝廷軍と遭遇し、これを一蹴する。さらに安河(野洲川)で朝廷軍を撃破した。瀬田(滋賀県瀬田町)に進軍して瀬田橋の東側に布陣し、大友皇子が率いる近江朝廷軍と対決する。大分君稚臣が奇計を案じて瀬田橋を渡り、朝廷軍を大破する(七〜二十二日)。その間、敗走した将軍吹負は、墨坂(奈良県榛原町)で大海人軍の置始連兎に遭遇し、散った兵士を集め直し、大坂道から侵攻する猛将壱岐史韓国(いきのふひとからくに)麾下の近江朝廷軍と当麻村で戦い、韓国を遁走させる。倭京に戻ると、紀臣阿閉麻呂を東道将軍とする数万の軍勢が集結していた。将軍吹負は、三軍に分け、大和の上道、中道、下道に配置した。中道に布陣した将軍吹負は、近江朝廷軍の盧井鯨(いほいのくぎら)の急襲をうけて苦戦する。三輪君高市麻呂と置始連兎の軍勢は、上道に進軍した近江朝廷軍を箸墓のほとりでこれを大破し、中道の盧井鯨の背後を突く。敗戦した鯨は遁走する。これ以上、近江朝廷軍の襲撃はなかった(八日)。
七月二十三日、大友皇子とすれば、再起を期して他の土地に逃亡することを考えたであろう。だが、東国へ逃れるいずれの道も大海人軍に押さえられていた。北国に逃れるにも、敵側に寝返った羽田矢国・大人の軍勢が三尾城を落として南下してきていた。南の倭古京方面も大海人軍に占領されていた。西国に逃れるにも、淀川河畔も大海人軍が集結しつつあった。すでに、逃亡の道は完全に遮断されていた。大友皇子は粟津丘に近い山前(やまさき)に身を隠していた。すでに左右大臣や群臣達は皆逃散し、皇子に従ったのは物部連麻呂(もののべのむらじまろ)と一、二の舎人だけであった。もはや逃亡もままならないと悟った皇子は、その場で自害(自縊)して果てた。数え年で二十五歳の若さであった。山前がどの付近の土地だったかはっきりしていない。三井寺前の長等山(ながらやま)ではないかと考えられている。
以上のようにして、大海人の興した乱は、大海人の大勝利にて終わるのである。
壬申の乱の後始末
(1) 近江朝廷の敗因
では、この壬申の乱における出来事を、論考してみよう。
近江朝廷の大友皇子は、天智天皇が伊賀采女の宅子娘に生ませた皇子であり、大田皇女や鵜野讃良皇女とは異母弟になる。大友の幼名は伊賀皇子、後に大友皇子と名乗る。大友の字は大友村主出身の乳母にちなんでいる。鵜野讃良皇女が讃良郡鵜野村出身の乳母に養育されたように、王家の子女は有力豪族との信頼関係を維持するため、こうした養育法を行ったとされる(Web)。大友村主は、大友漢人(近江国滋賀郡大友郷、現在の滋賀県大津市穴太に居住した東漢人系帰化人)の首長であった。東漢人は、応神朝に帯方郡から日本に帰化した阿智使主(あちのおみ)とその郎党が始まりであることは、既に述べた。祖の大友村主高聡は、百済より来朝した僧の観勒から「天文・遁甲の術」を学んだとされる(推古十年)。大友村主は、近江朝廷で、大友皇子の主要な支持勢力を成したのであろう。乱の後(天武六年)、天武天皇は東漢直に「汝等が党族、本より七つの不可を犯せり。小墾田の御世(推古朝)より近江の朝に至までに、常に汝等謀ることを以て事とする・・・云々。今後若し犯すもの有らば、必ず赦さざる・・」と叱責している。大友村主による大友皇子の養育も、「養育の仕方が悪かった」として、一つの罪にあたるのであろうか? また、天智天皇の大津宮遷都も、大友氏の天文・遁甲の示唆に因るのであろうか?これも七つの大罪の一つになるのか?古くは、東漢直駒が、蘇我馬子にだまされ、崇峻天皇暗殺を実行している(崇峻五年)。天皇暗殺は大罪である。その上、崇峻天皇の嬪、河上娘を盗んでいた。これも大罪である。河上娘は馬子の娘であったため、駒は馬子に討たれた。天武天皇は古事をしっかり学んでいたのだ。天武天皇の詔は、「東漢氏は、以後、中央政治に関与するな」との警告であったとしたい。東漢氏は、製鉄、土木建築技術や織物技術だけでなく軍事力にも優れていた。平安時代の征夷大将軍坂上田村麻呂は東漢氏の出である。
では、近江朝廷軍の敗因はなにか? 大海人一同が吉野を脱して東国に向かうという知らせを得た時、大友皇子は「騎馬軍を組織して追撃する」との進言に賛同しなかったことがあげられる。騎馬軍団を組織し、大津京のある琵琶湖の南岸から水口・甲賀を経て拓植へ抜ける鹿深道(かふかのみち)を利用して先回りし、大海人一行の進路を遮り、戦って大海人を斬り殺すなり捕縛するなり出来た。距離的にも、また道の険阻さからいっても、吉野から拓植へ至るより、近江大津から拓植に至る方が速いのだ。現在で言えば大津から東海道線で草津に行き、草津線で柘植に至るようなものである。それに対して、大海人のルートは、吉野から国道166号で宇陀に行き、165号で名張を通って伊賀に至り、25号(西名阪国道)で柘植を通って関に至ることになる。その後、関から1号で朝明、桑名に至り、国道258号で大垣に到着できる。このように、距離だけで見ても大津から柘植に到る方が有利である。大友皇子は決断すべきであったが、残念ながら天下を取る器量ではなかったのだ。『懐風藻』(天平勝宝三年751年)によれば「皇子の風采は立派であり、頭の回転が速く、故事に通じ、文章の才に優れ、議論するものは皇子の博学に感嘆した」という。これは、不幸な死を賜った者への讃辞であろう。不幸な死を賜った人物ほど、美麗に物語られる。これが日本人の心情である。
(2) 狗奴国の裔との好誼
大海人が、乱に勝利した要因に、各地に居る狗奴国の裔の情報を得て、好誼を結び、着々と味方を増やしたことにあるとしたい。その情報は、大海人が温ねた猿女君の「誦」から得たのである。
まず、乱で武勲をあげた大分君恵尺と大分君稚臣について述べよう。大分氏(大分君)は豊後国大分郡の豪族であり、倭国で神武天皇がもうけた神八井耳命(かむやいみみのみこと)を祖とする皇別である(『記』)。ではなぜ、豊後国大分郡の豪族が、倭京で大海人の舎人となっていたのか? 前述したように、『紀』では詳細を記さないが、大海人は天智天皇とともに、百済救済に那の大津の宮に来ていたと思われる。この時、大分氏と好誼を結び、子弟を舎人として京に召したとしたい。
次に、伊賀・伊勢国は神武天皇の重臣の天日鷲(天日別)が平定し(『伊勢國風土記』)、その裔孫が国造になっていた(『先代旧事本紀』)。前々から間諜を介して国司に交誼 (こうぎ) を結んでいたのだ。「人誑(たら)し」(人を操る術)である。国司にとって東宮と交誼を結ぶことは栄誉になる。
また、美濃国安八麿郡湯沐邑(ゆのむら)であるが、湯沐邑は、「東宮の食封」であり、当時は、大海人東宮の経済的・軍事的基盤であった。美濃国造(三野前国造 みののみちのくちのくにのみやつこ)は開化朝に、皇子彦坐王の子の八瓜命 (やつりのみこと) を国造に定められたと『先代旧事本紀』にあり、磐余彦(神武天皇)の裔になる。景行朝では、天皇は美濃の弟媛のかわりに召した姉の八坂入媛に七男六女をもうけさせている(景行記では、大碓が弟媛と兄媛ともに婚あったとなっている)。景行紀では、四十年、蝦夷征伐の命を恐れて逃亡した大碓皇子を美濃国に封じている。このように狗奴国系王家と美濃の繋がりは強いのである。大海人は、狗奴国裔の身気君広(むげのきみひろ)を美濃国に見いだし、舎人として京に召し上げるとともに、安八磨郡の穀倉と産鉄に目をつけて湯沐邑に定めたとしたい。身気君広は大碓皇子の末裔であるのだ。そして、多臣品治(おおおみのほむじ)・田中臣足麿(たりまろ)とも交誼を結び、湯沐令に任命した。また、村国連男依・和珥部臣君手(わにべのおみきみて)も美濃国出身で、舎人として京に召され、湯沐令との連絡係をしていたようである。
このように、大海人は、猿女君の「誦」から各地の狗奴国の裔の情報を得て、好誼を結び、着々と人脈を築いたとしたい。
(3) 大海人の遁甲と隠密
壱岐史韓国麾下の近江朝廷軍は、大和・河内国境の諸道を守備していた倭古京防衛軍を次々と撃破し、大和に進軍してきた。この壱岐史韓国軍が大坂より来ることを予言した男がいた。高市県主許梅(たけちのあがたぬしこめ)である。この男は、三日前から口をきくことができなくなっていたのだが、当日の朝、許梅はまるで神憑りしたように突然しゃべりだし、「吾は高市社にいる事代主神である。また身狭社(むさのやしろ)にいる生霊神である。」、「神日本磐余彦天皇の陵に馬と種々の兵器を奉れ。」、「吾は皇御孫命(大海人皇子)の前後を守って無事不破に送り奉りて還る。今もまた官軍の中に立ちて守護まつる。」、さらに、「西道から軍衆至らむとす。警戒せよ。」と言って醒めたのである。それで、許梅を遣わして神武天皇陵に馬と種々の兵器を奉った。すると、言葉通り、韓国が大坂より来た。また、神官に村屋神が憑依して、「吾が社の中道より軍衆至らむ。社の中道を塞ぐべし。」といった。神託通り、二、三日して盧井造鯨軍が中道より到った。吹負の倭古京守備軍は、これらの近江朝廷軍を撃破るのである。許梅と神官の神憑かりは何を意味するのか? 私は、「神憑かりは芝居である」と説いてきた。彼等は大海人子飼いの間諜(隠密、忍、密偵)であったとしたい。大海人は遁甲を能くした。おそらく遁甲のなかの「天遁・地遁・人遁」を学んだのであろう。人遁には貴遁(身分の高い人を利用)、賎遁(身分の低い人を利用)などがあり、大海人は間諜集団を育てたのである。『紀』で一度だけ名前が挙る舎人達であろう。許梅と神官は、間諜である故に密偵を公然できないので、近くの神社の祭神を利用して神憑かりを演じ、密偵で得た近江朝廷軍の動静を自軍に伝えたのである。許梅が言った、日本磐余彦天皇、つまり神武天皇であるが、本来ならば「日本磐余彦尊」であろう(「天皇」の称号は『紀』編纂時の改変であるとしたい)。日本磐余彦尊は、猿女君の「誦」から大海人が覚え、その話を子飼いの間諜に教えていたのだ。許梅は賢明にも、その名前を使って、誓約(うけい)を行うことで、戦勝できると、自軍の兵士を鼓舞したのだ。それでは、その戦場となった金綱井(橿原市今井町に比定されている)に神武天皇陵があったかどうかは、奉拝した許梅だけが知っている。また、神憑かりした許梅は、「吾は大海人皇子の前後を守って無事不破に送り奉りて還る。」とも言っている。「大海人の吉野脱出から不破までの道行きには神のご加護があった」と言うのだ。確かに大海人の吉野脱出から伊勢の桑名郡に至る行動が、あまりも手際がよすぎる。当時いかに駅鈴制(大化二年、孝徳天皇によって発せられた改新の詔による、駅馬・伝馬の制度)が整備されていたとしても、迅速すぎるのだ。許梅の発言の意味は、「伊勢国の道を理解していた間諜が、全ての道案内をした」ということであろう。勿論、高市皇子と大津皇子の大津京脱出からと伊勢までの案内も間諜が行ったのだ。
(4) 鉗鉤のかん違い
ここで、尾張国司小子部連鉗鉤について論考してみよう。鉗鉤(さひち)は、大海人が乱に勝利して戦犯の処罰や論功行賞を行う直前、山に隠れて自殺していた。鉗鉤は、大海人が不破に到着する途中に、二万の農民兵を率いて参集してきた。大海人は大いに喜んで不破郡家で鉗鉤の労をねぎらい、その兵たちを各部署に配属させている。大海人軍にとっては第一の功労者であるといえる。大海人も自殺の原因が分からなかったようだ。『紀』は、「鉗鉤は功ある者であった。何も罪なくして死ぬことはない。それとも何かの謀を隠していたのだろうか」と大海人の言葉を記している。実は、鉗鉤は、大海人の味方ではなかったのだ。鉗鉤は、大海人の乱に助勢するために部民を率いて不破郡に至ったのではないのだ。大海人の乱決行のまえに、近江朝は、美濃・尾張国司に「天智天皇の山陵を造るために、あらかじめ人夫を指定しておけ」と命じていた。しかも武器を携行させて。この命は大海人の乱を予見してのことであり、東国に通じる不破をおさえ、東国から軍兵を動員するためであった。鉗鉤は近江朝の命に従って部民二万を集め、遅れて、不破に至ったのだ。だがしかし、そこには大海人が既に美濃の兵を参集させていた。大海人は鉗鉤の二万の兵を援軍とみて喜んだ。鉗鉤は事態が十分に理解出来ぬままに、自軍を大海人に参軍させてしまった。結果として鉗鉤は、天智天皇の御子の大友皇子が率いる近江朝廷軍を滅ぼすことに加担してしまったのだ。鉗鉤は乱の後に、己の勘違いに気づいたのだ。誤った判断で、近江朝廷を滅ぼしたことを大いに後悔し、そして大海人の論功行賞の前に自殺の道を選んだのである。話は、雄略天皇の御世(六年)に遡るが、天皇は蜾蠃に「全国の蚕(こ)を集めよ」と命じるが、蜾蠃は勘違いして児(赤児)を集めて献上してしまった。天皇はその間違いを許し、蜾蠃を少子部連に任じて今で言う保育園を作り養わせた。少子部の由来である。天智天皇の時代には少子部連は尾張の地で尾張国司小子部連に出世していたのだ。(ただし、『記』は、少子部連は、大分君と同じく神武天皇の第三子、神八井耳命を祖としており、蜾蠃はその裔であったことになる)。いずれにしても、蜾蠃しかり、また鉗鉤しかり、「うっかり勘違い」をおかしたのだ。血筋であろうか? たとえ誤判断であったとはいえ、鉗鉤の功績により、天武十二年には、伊賀や美濃とともに尾張国の役あるいは調が免除になり、八色の姓で宿禰の姓を賜ることになる。少子部連の職掌は、全国から聡明な少年・少女を募り(拉致ではない)、猿女君として朝廷や有力氏族などに献上していたと、私は考える。猿女君は世襲でないとしたい。
(5) 論功行賞
七月二十六日、大海人軍は大友皇子の首級を捧げて不破の野上行宮に凱旋する。その前の二十三日、逃げ場を失った大友皇子は自縊するが、最後までつき従ったのは、物部連麻呂と一、二の舎人であった。物部連麻呂は、自決した大友皇子の首級を布に巻き、しっかりと腕に抱きながら、将軍達の前に姿を現した。将軍達は首実検をして大友皇子の首級に間違いないことを確認した。他方、逃亡した近江朝廷の左右大臣、その他の罪人たちの探索と逮捕が行われ、左大臣・蘇我臣赤兄父子や右大臣・中臣連金父子、大納言・巨勢臣比等(こせのおみひと)、蘇我臣果安(そがのおみはたやす)の子、その他の重罪人八人が逮捕された。
八月二十五日、高市皇子により。戦犯の処罰が行われた。二十七日には乱の功労者の論功行賞が行われた。その時、近江朝廷側の群臣の中で、一人、罪を免れた者があった。それが、物部連麻呂である。麻呂が大友皇子の舎人となって近従し、最期の自決の瞬間まで行動を共にしたのは、傍流とはいえ、歴代の邪馬台国王統に臣従してきた物部氏族の血脈故であったのであろう。その舎人にすぎなかった麻呂は不思議な運命をたどるのである。何故か大友皇子の最期を見届けた忠節が評価され続け、位人臣を極めるのだ。天武天皇の御代に物部から石上(いそのかみ)に改姓し、八色の姓(やくさのかばね)では第二位の朝臣を賜り、慶雲元年(704)に右大臣、和銅元年(708)年には左大臣となって天皇を補佐し続けるのである。後に石上朝臣麻呂(いそのかみのあそんまろ)と名乗る。後年、和銅三年三月(710年)に都が平城京に遷都すると、左大臣石川麻呂は藤原京に管理者として残留させられることになる。事実上の置いてきぼりである。平安京の朝堂では、右大臣藤原不比等が事実上の最高権力者になる。
九月、大海人は、不破から伊勢の桑名、鈴鹿、伊賀、名張で宿泊を重ね、倭京に還り、飛鳥浄御原宮を建てて宮居する。壬申の乱の功労者に叙勲が行われた。大伴馬来田と大伴吹負は乱で多大の功績があったので、多大な恩賞があってもおかしくはないのであるが、なぜか、『紀』にその記述は無い。ただし死後に叙勲があった。大伴馬来田(望多)は天武十二年(683年)六月三日に死んだ時、天皇は、泊瀬王を遣わして弔問し、壬申の乱での望多の勲と、大伴氏の先祖が代々果たした功を述べさせ、大紫の位を贈り、鼓吹して葬った。また、大伴吹負は、乱での功績により常道頭(常陸国の守)を務めた(『続日本紀』)。八月五日に死んだ時、大錦中の位を授かり、顕彰された。そして、天武十三年(684年)、八色の姓制定で大伴氏は宿禰を賜わる。天武天皇は生前の二人をあまり厚遇した様にみえない。
功臣の大分君恵尺と大分君稚臣について述べる。天武天皇は、恵尺、稚臣二人の大分君の功績に報いた。天武四年(675年)大分君恵尺は病に臥す。日本書紀天武四年六月条は記す、
「汝恵尺、私心を捨てて公に向きて、身命を惜しまず。遂雄しき心を以て、大きな役に労れり。常に慈愛せむと欲へり。故、汝が死すとも、子孫を厚く賞せむ。」として、外小紫位という律令制度三位に相当する高い官位を賜り、顕彰された。恵尺は間もなく病死する。また、大分君稚臣も天武八年死す。天皇は稚臣にも、壬申の乱のにおける瀬田の戦いでの先陣働きの功績に対し外小錦上位の官位を賜る。大分君に勲功が厚いのは、天武天皇のまさに祖につながる皇別故であろう。
飛鳥浄御原宮での天武天皇
(1) 草薙剣窃盗事件
天武二年、飛鳥浄御原宮で天皇に即位する。天武天皇の政治については、『紀』に詳しいので、省略する。ここでは、草薙剣窃盗事件、伊勢神宮の社殿創建と式年遷宮、『古事記』・『日本書紀』編纂について述べる。
天武十五年、五月十七日、天皇が重態になり、川原寺で薬師経を説かせ、宮中で安居させる。六月十日、天皇の病を占い、草薙剣の祟りであると出る。草薙剣を熱田社に送り還して安置する。これに先立つ天智七年(668年)、大唐新羅国沙門道行(どうぎょう)が、熱田社に奉安されていた草薙剣を盗んで、新羅に逃げようとしたが、途中風雨にあって道に迷い、舞い戻ったところを捕らえられる。『紀』が草薙剣盗難事件について記すのはこの二つだけである。天智七年は、新羅と唐の連合軍が百済を滅ぼした直後であり、草薙剣の由緒を知った新羅僧の道行が、草薙剣を盗み出して新羅に持ち込み、呪詛して日本の弱体化を狙ったのであろうか。その後、草薙剣は宮中に保管されていたようである。草薙剣は、天智天皇の大津京遷都(天智六年)とその後の壬申の乱の混乱の中、倭京の宮中に留め置かれ、存在が忘却されたのであろう。ようやく、天武十五年に至り、天武天皇が重病になった際、奉祭されずに放置された草薙剣を案じた舎人により、祟り話が興され、結果として熱田神宮に戻されたとしたい。いずれにしても、天智天皇も天武天皇も、草薙剣を神剣として崇めていたようには窺えない。宮中には、天照大神の形代の他、崇神天皇が作らせた護身の横刀および八尺瓊勾玉が御璽(ぎょじ)として奉安されていたからである。
草薙剣を盗み出したとされる道行を開祖とする薬王山法海寺が知多にある。その『法海寺縁起』と『尾張名所図会』の他、『尾張国熱田太神宮縁起』、『朱鳥官符』、『熱田太神宮秘密百録』、『八剣大神奉斎の御由緒』などなどが諸説を載せている 。
(2) 伊勢神宮の式年遷宮の始まり
伊勢神宮の内宮と外宮の社殿の創建および式年遷宮と斎王の制度化は、壬申の乱での戦勝に対する天武天皇の報恩であろう。具体的には、大伯皇女の伊勢派遣、天武十四年(685年)式年遷宮の制定、持統四年(690年)第一回内宮式年遷宮、持統六年(692年)第一回外宮式年遷宮が行われる。この時に、現在に至る唯一神明造の社殿が創建されたのであろう。伊勢神宮での天照大神の奉祭と斎王派遣は、天武朝が最初とする意見があるが、私は賛同しない。垂仁朝での、天照大神の伊勢神宮鎮座を無視できる理由がないからである。また、倭姫以降、代々の天皇の皇女が斎王を務めている。五百野皇女(景行天皇)、栲幡皇女(雄略天皇)、荳角皇女(継体天皇)など歴代の斎王を無視する理由も無い。既に、天照大神の伊勢鎮座を詳細に論考しているので、ここでは省略する。なお、天平時代末、悲しい斎王の物語がある。それは、後述する。
(3) 『古事記』編纂
『古事記』・『日本書紀』編纂について述べる。『古事記』については、その序によれば、和銅五年(712年)に太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ)が編纂し、元明天皇に献上されたことになっている。編纂の動機付けは、天武天皇が、猿女君の「誦」に己のルーツがあることに気づき、阿禮に命じて「誦習」させたことにあったことは、前述した。
思い出して欲しい。天の岩屋戸に天照大神が籠った時、磐戸の前で天鈿女が謡い、踊った。天鈿女の「謡」は、皆既日食の朝、殺害された卑弥呼に対する誄(しのびごと)であったのだ。台与が立てこもった卑弥呼の宮殿の前で行われた誄であったのだ。『魏志倭人伝』は記す「其死有棺無槨封土作冢始死停喪十餘日當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒」(・・・喪主は慟哭し、他の参列者は歌や舞で死者を悼み、酒を飲む)。邪馬台国での「葬儀の謡」は誄を表しているといえよう。天鈿女の誄は「卑弥呼の一代記」であり、それが「天照大神神話」として脚色され、猿女君が「誦習」して伝えてきたのだ。
天武天皇が阿禮の「誦」を巧みに改竄していたことは、既に述べた。もう一度、磐余彦(神武天皇)のルーツである「日向三代」が、南九州地方にコピーされた理由を考察しよう。コピーを実践したのが、隼人族である事は前述した。では、なぜ隼人族であったのか?実は、仁徳朝に京に住まわされて以来、隼人族と最も親密な天皇が天武であったのだ。天武十一年七月、多くの隼人が宮殿にきて、国の産物を貢った。天武天皇は阿多隼人と大隅隼人を宮庭に召して相撲をとらせ、飛鳥寺の西で饗応している。阿多隼人と大隅隼人の名前の初見がこの時である。朱鳥元年、天武天皇の殯に際し、誄をたてまつっている。その後の持統朝でも、大隅隼人が相撲を見せている。このように、天武天皇は隼人と親密にしていたのだ。隼人族の魁帥が、海幸彦の裔であることを知った天武天皇は、日向国に近い南九州を根拠地とする隼人を利用して、『古事記』にある「日向三代」の事蹟、地名、宮殿、陵を隼人の根拠地に移植させたのだ。そこが、現在の宮崎県南部と薩摩・大隅半島である。薩摩半島にある隼人の根拠地とされる「阿多」の名前も、その時つけられたとしたい。もちろん、霧島連山の高千穂峰も韓国岳もその時名付けられた。クーデターで王権を簒奪した天武天皇は、自身の遠祖の「日向三代」の歴史が、邪馬台国系王統の代になって抹消されることをおそれたのだ。たとえ真の「日向三代」の地が抹消されても、王権に反抗的な隼人族の地でコピーは残されることを、願ったのだ。隼人の反乱は、征隼人将軍大伴旅人によって征討(721年)されるまで、たびたび起こっている。天武天皇のこうした配慮と『記』の改竄が、後世、『古事記』に基づく歴史解析を混乱に陥れる事になるのだ。
阿禮の「誦」を太安萬侶が漢文体で筆録して、『古事記』三巻が出来上がったということになる。「誦」を漢文体で筆録することに苦労したことが、序に記されている「以和銅四年九月十八日 詔臣安萬侶 撰録稗田阿禮所誦之勅語舊辭 以獻上者 謹隨詔旨 子細採摭然 上古之時 言意並朴 敷文構句 於字即難」(・・・上古の時、言意並びに朴〔すなほ〕にして、文を敷き句を構ふること、字におきて即ち難し)。筆録による誤記については既に考察した。
阿禮は、稗田(奈良県大和郡山市稗田町)出身と伝わる。同町の賣太神社(めたじんじゃ)は、阿禮を主祭神とする。また、太安萬侶は、壬申の乱で勲功があった美濃湯沐令の多臣品治(後の朝臣品治)の子ともされる。その墓が奈良県奈良市此瀬町の茶畑に見つかっている。
(4) 『日本書紀』編纂
次に『日本書紀』について考えてみよう。『日本書紀』編纂に関係する記述として、天武十年、「天皇御于大極殿、以詔川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稻敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首、令記定帝紀及上古諸事。大嶋・子首、親執筆以錄焉。」があげられる。この詔が、『古事記』編纂を指示したものか、『日本書紀』編纂を指示したものか、種々説がある。私は、前述した様に、『古事記』は、天武天皇のルーツを温ねる私的な書と考えている。その内容も、継体天皇記までは詳しいが、以後の天皇記は極めて簡略であり、推古天皇記で終わっている。なぜか? 継体天皇記は、物部荒甲と大伴金村が石井氏(磐井)を討つところで終わっている。天武天皇にとって、それで良いのである。自身の祖の倭彦王を丹波の桑田郡に見いだしてくれたのは大伴金村であったからである。倭彦王以後の祖の話は、大伴氏が伝えていたであろう。大伴氏から十分情報をとれたのだ。その時代は、邪馬台国王統の時代であった。狗奴国王統の者は雌伏しているしかなかったのだ。大海人の時、世に出る時代が巡ってきたのである。おそらく、『古事記』の草稿は天武朝には出来上がっていたであろう。和銅元年(708年)、元明天皇により平城京への遷都の詔が出され、和銅三年(710年)三月十日に、内裏と大極殿しか完成していなかったが遷都がなされた。和銅四年、安萬侶は、元明天皇から阿禮の誦習する『帝紀』・『旧辞』を筆録して史書を編纂するよう正式に命じられる。そして、平城京が名実ともに日本の首都となるべく発展的に造営されるなか、和銅五年(712年)に、遷都の祝いとして、整本された『古事記』三巻が、安萬侶から元明天皇に献上されたとしたい。ただし、ここで問題が起こった。元明天皇の出自である。元明天皇は、即位前は阿閇皇女(あへのひめみこ、草壁皇子の妃)であり、天智天皇と蘇我姪娘(蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘の妹)の間に生まれた皇女である。推古朝以降の事蹟を書き進めれば、蘇我氏の悪行のみならず、天智天皇が祖父石川麻呂の遺体に下した辱めを暴く事にもなる。阿禮の誦習する『帝紀』・『旧辞』は用明・天智朝まであったかもしれないが、元明天皇のことを慮って、「言意並朴 敷文構句 於字即難」として記述を避けたとしたい。
そうなると、天武十年の天皇の「令記定帝紀及上古諸事」の詔は、当然『日本書紀』編纂のこととなる。天皇の詔である以上、事実上の国史編纂になる。こうした国家事業になると、日本人は徹底して労を惜しまない。編纂のため、『古事記』のみならず、多くの氏族の私的史書・忘備録・墓碑、各地の地名説話(原風土記、風土記編纂の詔勅は元明天皇)、神社仏閣の由緒、華夏の史書、百済三書および高句麗の史書を網羅したのである。私的史書や原風土記は、猿女君が伝えてきた「誦」を筆録したものと思われる。天武天皇の皇子の舎人親王が総裁となって編纂され、養老四年(720年)に完成し、元正天皇に提出された。神代から持統天皇の御世までを扱っている、事実上の正史である(神代紀も歴史を物語ると、私は考えている)。『紀』の名称、編纂、構成、原資料、書体などについては多くの諸説があるので、素人の私はこれ以上踏み込まない。
しかしながら、藤原史(不比等)は『紀』に関して外す事は出来ないと、私は考える。大伴氏の庇護のもと育った大海人が、大伴夫人(智仙娘、大伴咋子の女)を介して、中臣鎌子(藤原鎌足)とその子の藤原史(不比等 659〜720年)に繋がっていることは、前述した。また、鎌子(藤原鎌足)は車持与志古娘(くるまもちよしこのいらつめ)を娶って藤原史をもうけた(『尊卑分脈』Web)ともされる。車持君は崇神天皇の第一皇子豊城入彦(崇神四十八年条)の後裔とされ、天皇の乗輿を製作、管理することを職掌とし、その職務を果すための費用を貢納する車持部を掌握していた。履中天皇五年条で、車持部が宗像神社ともめ事を起こしたことは既に述べた。車持君の職掌を通じて、与志古は鎌子との接点を持ったのであろうか? 女系で、藤原史は狗奴国人の崇神(=神武)天皇に繋がるのである。大海人は、与志古と鎌子から車持君の出自を聞いたのであろう。壬申の乱(672年)の時、藤原史は近江朝廷側にいたと思われるが、幼年であり、乱の混乱に巻き込まれる事はなかったであろう。持統三年(689年)、三十一歳の時、判事に任ぜられて正史に登場する。この時すでに直広肆 (従五位下) の高位にあった。中臣鎌子により朝堂入り出来たことを恩義に思う天武天皇は、藤原史を庇護し、厚遇したとしたい。その後の不比等の活躍は史書に譲るとして、六十二歳で薨じた養老四年(720年)は、『紀』が完成した年でもある。中臣氏の祖は、磐余彦(神武天皇)の東征に従った天種子であり、神武天皇即位時には天神の寿詞(よごと)を奏上している(『先代旧事本紀』)。不比等は、狗奴国後裔なのだ。天武天皇の皇子である舎人親王が総裁する『紀』の編纂に当然首を突っ込んだと考えるのは不合理ではない。それは、中臣氏のみならず天武天皇にも都合良く『紀』の内容の一部を改竄する事である。
その重要事項の第一は、天降る瓊瓊杵を「天孫に仕立てて、葦原中国を統べる」とすることと、「天壌無窮の神勅」を挿入することであった。これは、多くの先学の説の通り、「天武天皇の皇后持統天皇が孫の軽皇子を皇位に即け、天下を統べらせようとした」ことの反映であり、「天武皇統の継承を正当化」させる事でもあった。しかしながら、実際には瓊瓊杵は日向の吾田へ天降っていた。葦原中国(本州島)ではない。この事実は改竄のやりようがなかったのである。
第二は、大海人の出生に関する履歴を消しさり、天智天皇の実弟に仕立てることであった。第三は、天智天皇暗殺の隠蔽であった(これは、平安時代末、僧皇円により暴露されてしまう『扶桑略記』)。また、先に記した『古事記』の記述を推古朝で終わらせることも、安萬侶に指示したかも知れない。
以上述べた様に、『記紀』は一部改竄を含む。しかしながら、高名な文系の史学者が主張する様な「歴史の捏造」があったとは、私は思わない。日本人は日本の歴史を正当に伝えているといいたい。
持統天皇と狗奴国王統の終焉
天武八年 (679年) 五月五日、天武天皇は即位七年目にして壬申の乱後初めて吉野へ行幸し、その翌日、
天皇、皇后及び草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子に詔して曰ふ、「朕、今日、汝らとともに庭にて盟ひて、千歳の後に事無きことを欲す。いかに」と。皇子ら、共にこたえて曰ふ、「理実(いやちこなり)」と。則ち草壁皇子尊、先づ進みて盟ひて曰ふ、「天神地祇及び天皇、証らめたまへ。吾、兄弟長幼併せて十余り王、各おの異腹より出でたり。然れども、同じきと異れると別かれず、倶に天皇の勅に随ひ、相扶け忤ふること無し。若し今より以後、この盟ひの如くにあらずは、身命滅び子孫絶えむ。忘れじ、失せじ」と。五皇子、次以って相盟ふこと、先の如し。然して後、天皇曰ふ、「朕が男等、各おの異なる腹に生まれたり。然れども今一母同産の如く慈む」と。則ち、襟を披き其の六皇子を抱く。因りて以って盟ひて曰ふ、「若し茲の盟ひに違へば、忽ち朕が身亡はむ」と。皇后の盟ひ、且天皇の如し。
いわゆる、「吉野の盟約」である。天武天皇は、没後に予想される皇子たちによる内紛を回避するため、盟約を壬申の乱発祥の地である吉野で厳粛に執り行ったのである。この時、鵜野讃良皇后にしてみれば、自らが産んだ草壁を、大津皇子・高市皇子などを抑えて、皇太子とする地固めをしたと覚えたのかも知れない。
朱鳥元年(686年)九月に天武天皇が崩御すると、大津皇子は、十月二日に親友の川島皇子の密告により、謀反の意有りとされて捕えられ、翌日に磐余にある訳語田(おさだ)の自邸で自害した。享年二十四歳と伝わる。妃の山辺(天智天皇の皇女)は、髪を振り乱して裸足で駆けつけ、 あとを追って殉死した。それを見た人々はみな涙を流したと伝わる。早速、鵜野讃良皇后は、姉の大田皇女の忘れ形見、大津皇子の粛正を行ったのである。病弱で、器量に劣る草壁皇子を皇位につけたいと目論む皇后の謀略である。天武天皇との盟約を早々に、皇后自らが破ってしまったのだ。皇后の母性の成せる術なのか? 皇后は、讃良郡鵜野村に住む宇努連の乳母に養育されたと伝わる。宇努連は帰化新羅人であるという。「裏切り」は新羅流教育の項目なのであろか? 皇后の期待むなしく、草壁皇太子は、天武天皇の殯開け(持統二年 688年)の翌年の四月十三日に、皇位に就くことなく薨去したのである。
持統四年(690年)一月一日、鵜野讃良皇后は天皇に即位し、高市皇子と政治を行う。そして藤原京造営を始め、持統八年に遷都する。天武天皇と草壁皇太子と暮らし、大津皇子を死に追いやった飛鳥浄御原宮から離れるのである。その後、京師は平城京へと遷る。しかしながら、「吉野の盟約」で草壁皇子が述べた「この盟ひの如くにあらずは、身命滅び子孫絶えむ」とする誓いの言葉とおり、草壁の血統は内紛を重ねた末、天武天皇の狗奴国皇統は九代(673〜770年)をもって、潰えるのである。
この奈良朝における天武天皇の子孫が関連する事件は、文武天皇と石川刀子娘の御子である広成皇子と広世皇子の皇籍剥奪に始まり、高市皇子の御子の長屋王が讒言により自殺(長屋王の変)、塩焼王(天武天皇の孫)の伊豆配流、安積親王(聖武天皇第二皇子)の暗殺、道祖王(天武天皇の孫)廃太子とその後の橘奈良麻呂の変連座による拷問死、恵美押勝の乱連座による淳仁天皇(舎人親王の御子)などの配流、、和気王(舎人親王の孫)絞殺、不破内親王(聖武天皇の皇女)の淡路配流、井上皇后(聖武天皇の皇女)廃后とその後の幽閉死、他戸親王(光仁天皇の皇子)廃太子と幽閉死などがあげられる。天武天皇玄孫で生涯独身であった孝謙天皇(女帝 749~758年、重祚で稱コ天皇 764〜770年)をもって、天武系皇統は消滅する。
このように度重なる政変による粛清によって、天武天皇の嫡流(男系)にあたる皇族がいなくなった。ここで井上内親王の悲劇について語ろう。井上内親王は聖武天皇の皇女であり、十一歳から伊勢神宮の斎王を務めていた(727〜744年)。斎王の任を解かれ、帰京後、天智天皇の第七皇子・施基親王(志貴皇子)の第六子である白壁王の妃となった。白壁王との間に生まれた他戸王は、女系ではあるものの天武天皇系嫡流の血を引く唯一の男性皇族であった。このことから孝謙天皇の遺宣に基づいて他戸王の立太子が行われ、神護景雲四年(770年)十月一日、六十二歳の白壁王が即位する。光仁天皇である。即位後、井上内親王を皇后に、他戸親王を皇太子に立てるが、宝亀三年(772年)三月二日、皇后の井上内親王が呪詛による大逆を図ったという密告のために皇后を廃され、また、皇太子の他戸親王も皇太子を廃された。その後さらに、宝亀四年(773年)十月十九日、去る十四日に薨去した難波内親王(光仁天皇の同母姉)の殺害を呪詛したという嫌疑を掛けられ、他戸親王と共に庶人に落とされて大和国宇智郡(奈良県五條市)の邸に幽閉される。そして、幽閉先で他戸親王と同日に薨去するのである(殺害ともされる)。斎王井上内親王の悲しい物語である。
他方、宝亀四年(773年)、光仁天皇の第一皇子山部親王(白壁王と百済帰化人の子孫である高野新笠の御子)が立太子する。天応元年(781年)に光仁天皇から譲位されて天皇に即位する。桓武天皇である。このようにして、四十九代光仁天皇と五十代桓武天皇で、天智天皇嫡流の皇統が復活するのである。延暦十三年(794年)、桓武天皇は、天武皇統による度重なる政変による粛清、肥大化した仏教寺院の勢力を嫌い、平城京を捨て、平安京に遷都するのである。
その京都市東山区に皇室の菩提寺である泉涌寺(御寺)が建つ。その霊明殿は、天智天皇と光仁天皇から(南北両朝の天皇も含む)昭和天皇に至る歴代天皇・皇后の尊牌(位牌)を安置する。そこには、天武系皇統の八人の天皇、天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁の位牌は除外されており、天智からいきなり光仁、桓武へと続いているのである。邪馬台国系皇統だけが祀られているのである。『紀』を改竄して大海人と中大兄皇子を兄弟に仕立て上げたのが、藤原不比等である。しかし、現実は藤原不比等の改竄を無にしてしまっている。泉涌寺には狗奴国系皇統の位牌はないのだ。飛鳥・奈良朝の朝廷の官吏は、しっかりと歴史(皇統の変遷)を観ていたのだ。記紀編纂を発案した天武天皇は狗奴国血統最後の光芒であったのだ。
紙と墨で歴史を伝える時代が到来したのだ。天鈿女以来、永い日本の歴史を誦と舞で伝承してきた猿女君の職掌が必要とされない時代になっていた。稗田阿禮は、「古記録を見ながら古語で節をつけ、繰り返し朗読」したのではない。猿女君が伝えてきた歴史の記憶を「誦習」したのだ。稗田阿禮を最後の光芒として、猿女君は歴史から静かに姿を消すことになるはずであったが、猿女君は秦氏の援助を受け残った。神楽の舞、謡、雅楽の演奏、能は、神だけでなく庶民を楽しませる演芸として、今に伝わる。天鈿女は芸能の祖として今も尊崇され続けている。
猿女君が誦で伝えた古代日本の王統の交代劇は物語る。邪馬台国王統と狗奴国王統という二つの異なった王統が時間の流れの中で相克し、交代したように見える。邪馬台国王統の卑弥呼は伊都国を、狗奴国王統の卑弥弓呼は奴国をそれぞれ本貫としていた。伊都国も奴国も倭奴国(ゐなこく)が内部分裂してうまれた国である。したがって、邪馬台国王統と狗奴国王統は同根であり、その起源は「漢委奴國王」金印にあらわされた倭奴国に収斂するのである。  
 
大伴氏 1

 

日本の古代氏族。氏の呼称は平安時代初期に淳和天皇の諱を避けて伴氏(ともうじ)に改称。姓はもと連、のち八色の姓の制定により宿禰、平安時代中期以降は朝臣。摂津国住吉郡を本拠地とした天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされる天神系氏族で、佐伯氏とは同族関係とされる(一般には佐伯氏を大伴氏の分家とするが、その逆とする説もある)。
職掌
「大伴」は「大きな伴造」という意味で、名称は朝廷に直属する多数の伴部を率いていたことに因む。また、祖先伝承によると来目部や靫負部等の軍事的部民を率いていたことが想定されることから、物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられている。なお、両氏族には親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏という違いがあり、大伴氏は宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていた。
根拠地
古来の根拠地は摂津国・河内国の沿岸地方であったらしく、大伴金村の「住吉の宅」があったほか、『万葉集』でも「大伴の御津の浜」「大伴の高師の浜」と詠われている。住吉はヤマト王権の重要な港であった住吉津が所在したところであるし、「御津」は難波津、「高師」は現在の大阪府高石市一帯のことである。
一方で、遠祖・道臣命が神武東征での功労により大和国高市郡築坂邑に宅地を与えられたとの『日本書紀』の記述や、大伴氏の別業が同国城上郡跡見荘にあったこと等により、のちに根拠地を大和国の磯城・高市地方に移したものと想定される。
歴史
全盛期
5世紀後半に現れた大伴氏の最初の実在人物とされる大伴室屋が雄略朝で大連となり、それまでヤマト王権に参画して勢力を誇っていた葛城氏に替わって大伴氏が急速に台頭する。
武烈朝で大連となった大伴金村の時代が全盛期で、その後継体・安閑・宣化・欽明まで5代にわたって大連を務める。この間、金村は越前国から継体天皇を皇嗣に迎え入れるなどの功績により、ヤマト王権内に確固たる地位を築いた。しかし、任那の運営を任されていたところ、欽明朝における任那4県の百済への割譲策について、同じ大連の物部氏から失政として咎められて失脚し、摂津国住吉郡(現大阪市住吉区帝塚山)の邸宅に引退した。以後、蘇我氏と物部氏の対立の時代に入る。
飛鳥時代から奈良時代
しかし、大伴氏の力はまだ失われておらず、大伴磐・大伴咋・大伴狭手彦は大将軍や大夫(議政官)に任ぜられ、大化の改新の後の大化5年(649年)には大伴長徳が右大臣になっている。また、弘文天皇元年(672年)に発生した壬申の乱の時は長徳の弟にあたる大伴馬来田・吹負兄弟が兵を率いて功績を立てている。以後も奈良時代までの朝廷において、大納言まで昇った大伴御行・大伴安麻呂・大伴旅人以下、多数の公卿を輩出した。
一方で、大伴安麻呂・大伴旅人・大伴家持・大伴坂上郎女などの万葉歌人も多く世に出している。ほかに、遣唐副使を務めた大伴古麻呂は独断で鑑真を唐から密航させて日本へ導いている。
政争への関与と衰退
大伴氏は奈良時代から平安時代前期にかけての政争に関わって一族から多数の処罰者を出し、徐々に勢力が衰えていく。
神亀6年(729年)に発生した長屋王の変では、長屋王と親しかった大伴旅人が事件前後に一時的に大宰府に左遷される。その後、奈良時代中期の藤原仲麻呂政権下において、天平勝宝9歳(757年)の橘奈良麻呂の乱で、大伴古麻呂が獄死、大伴古慈悲は流罪(称徳天皇崩御後に復帰)に処される。また、大伴家持は別途藤原仲麻呂の暗殺計画に関わっていたとされ、天平宝字8年(764年)薩摩守に左遷されている。
その後、家持は天応2年(782年)に発生した氷上川継の乱に連座して解官の憂き目に遭いつつも、最終的に桓武朝初頭に中納言にまで昇った。延暦3年(784年)桓武天皇は長岡京への遷都を実行する。大伴氏はこの政策に不満を持っていたとされ、遷都の責任者であった中納言・藤原種継を暗殺する事件(藤原種継暗殺事件)を起こす。乱後、大伴古麻呂の子・継人は首謀者として死刑、直前に没していた家持も除名された。
なお平安時代初期には、初代・征夷大将軍となって蝦夷征討で功績を挙げ従三位に昇った大伴弟麻呂や、藤原種継暗殺事件の首謀者・大伴継人の子として若くして流罪となるも、恩赦後に内外の諸官で業績を上げて参議に任ぜられた大伴国道と公卿を輩出している。また、弘仁14年(823年)淳和天皇(大伴親王)が即位するとその諱を避けて一族は伴(とも)と氏を改めた。
承和9年(842年)に発生した承和の変では伴健岑が首謀者として流罪となり、藤原氏による他氏排斥で伴氏も打撃を受けたとされるが、実際に五位以上の氏人で連座した者はいなかった。
その後、国道の子・伴善男が仁明天皇の知遇を受けて頭角を現し、清和朝の貞観6年(864年)には旅人以来130年振りに大納言に昇る。しかし、貞観8年(866年)に発生した応天門の変では善男・中庸父子が首謀者とされてその親族が多数流罪となり、伴氏の公卿の流れは断絶してしまった。
平安時代中期以降
天慶2年(939年)に伴保平が6ヶ国の国司を勤め上げて72歳にして参議に任ぜられ、伴氏として75年振りに公卿となる。保平は高齢を保ち天暦4年(950年)従三位にまで昇り、翌年には朝臣姓に改姓するが、結果的に伴氏としては最後の公卿となった。平安時代前期には、紀氏と並んで武人の故実を伝える家とされたが、武士の台頭とともに伴氏は歴史の表舞台から姿を消していく。
その後は以下の家が伴氏の後裔を称した。
鶴岡社職家・・・伴忠国が鶴岡八幡宮初代神主となって以降、その社職を継承。伴中庸の後裔を称したが、伴保平の弟である保在の後裔とする系図もある。
肝付氏・・・大隅国の豪族。戦国時代には肝付兼続が戦国大名として島津氏と争うが、子孫は島津氏に臣従し薩摩藩士となった。出自は明らかでないが、伴姓を称し、伴中庸に繋げる系図がある。
三河伴氏・・・三河国の豪族。平安時代後期に伴助兼が後三年の役で活躍した。伴善男・大伴駿河麻呂・大伴家持らに繋げる系図がある。
甲賀伴党・・・近江国の豪族。のち滝川氏を称し、戦国時代に滝川一益を出している。三河伴氏の一族。
伊豆伴氏・・・平安時代後期に伊豆掾を歴任。伊豆権守(掾か?)・伴為房の娘は北条時政の母とされる。伴善男が伊豆国への配流後に儲けたとされる伴善魚に繋げる系図がある。
小野家・・・朝廷で主殿寮官人を務めた地下家。江戸時代の極官は従四位上・主殿助。伴保平の後裔を称した。
尾崎家・・・桂宮家の諸大夫を務めた地下家。江戸時代の極官は正四位下・縫殿頭。江戸時代後期に尾崎積興は81歳の長命を保ち従三位に叙せられた。また、尾崎三良は明治維新の勲功により男爵に叙爵されている。伴善男の後裔を称した。
市部氏・・・甲斐伴氏とも呼ばれ、甲斐国にその一族である宮原哲家の系統。支族に金丸氏がある。 
 
大伴氏 2

 

概要
おそらく「大きな伴造」という意味で、多くの氏族を束ねていたと思われる氏族。そのため、物部氏と共に軍事の管理を司っていた。軍事氏族としての大伴氏と物部氏の違いは、あえて言えば、親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏といえる。主に、現在で言う皇宮警察や近衛兵のような役割をしていた。
本貫地
大和盆地東南部(橿原市・桜井市・明日香村付近)  皇室・蘇我氏の本拠と隣接する。紀氏とも本拠を接していた。
氏姓
姓(かばね)は連(むらじ)。八色の姓の時宿禰の姓になる。
大伴氏、物部氏、蘇我氏の三大豪族
飛鳥時代は、4つに分けて覚えると分かりやすいと思います。6世紀が第一期。大伴氏が磐井の乱により失脚、物部氏・蘇我氏が仏教をめぐり敵対し、その結果、崇仏派の蘇我氏が勝利しました。7世紀前期が第二期で、蘇我氏と聖徳太子が代表する時代。7世紀中期が第三期で、大化の改新から壬申の乱が起こるまでのことを指します。そして、壬申の乱が終わり平城遷都以前の皇親政治を第四期といいます。
4期それぞれ天皇が3名ずつだったので、計十二人もこの時代に天皇がいたことになります。全員の名前を一気に記憶するのは骨が折れるので、3名ずつ期ごとに覚えていきましょう。「継体・欽明・崇峻」が第一期の天皇の名ですが、これらについていた豪族が「大伴・物部・蘇我」です。前期と中期と後期の3つに分けることができる6世紀ですが、前期に継体天皇、中期に欽明天皇、そして後期が用明天皇。この3名がメインとなって国を治めていました。
さらにこの頃、大伴、物部、蘇我という豪族が3つ現れてそれぞれ重要な地位に就いていました。いずれも大和地方の強い豪族です。大伴と物部は兵力を武器に朝廷に奉仕した豪族で、大連という地位に就き、大王のお伴をしていました。大伴氏という名を見ても分かるように、「大」は大王、そして「伴」はお伴。物部氏も「もののふ」と呼べるので、軍事に関連する豪族ということが分かると思います。彼らは単なる付き添いというわけではなく、桃太郎で登場する犬、猿、雉のように親分の為に戦う近衛兵だったので、軍事の豪族といわれています。
一方蘇我は大臣という蔵の管理(財務省のような仕事)をする職に就いていました。こちらもとても重要で、斎蔵、内蔵、大蔵の三蔵を運営・管理し、国家の財政を支えていました。宮廷の祭事が斎蔵、大王家の財物が内蔵、政府関係の蔵が大蔵で、この三蔵を管理していたのが蘇我氏だったので、経済の豪族といわれています。
事績
神武期
日臣命(ひのおみのみこと)が、大久米命を率いて山を踏み分け、宇陀までの道を通す。この功により道臣の名を賜わる。道臣命(記では大久米命が同行)は天皇の命をうけ、菟田県の首長兄滑(えうかし)を責め殺す。帰順した弟滑(おとうかし)を饗する宴で、来目歌が奏される。神武即位の翌年、道臣命は築坂邑(橿原市鳥屋町付近)に宅地を賜わる。
景行期
日本武尊の蝦夷征伐に吉備武彦と大伴武日が従う。日高見国での蝦夷征討の後、甲斐国の酒折宮で武日は靫負部を賜わる。
垂仁期
垂仁天皇紀二十五年、阿倍臣の遠祖武渟川別・和迩臣の遠祖彦國葺・中臣連の遠祖大鹿嶋・物部連の遠祖十千根・大伴連の遠祖武日の五大夫に、厚く神祇を祭祀する旨の詔を垂れる。
第14代仲哀期
四大夫は、中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部膽咋連・大伴武以連(武持とも。武日の子)。伴氏系図によれば武以は初めて大伴の姓を賜わり、大臣に任じられる。
第19代允恭期
室屋が登場し大伴氏は政界に重きを置くようになる。大伴氏において実在がはっきりと信じられるのは室屋以降である。
第21代雄略期
471年 天皇即位の時、大伴室屋は物部目と共に大連を賜わる。またこの頃、室屋とその子談(かたり)は靫負三千人を領して左右衛士府に分衛した。
479年(雄略9年) 談は紀小弓と共に新羅に派遣され、戦死。小弓は陣中に病死。
清寧期
清寧即位前紀  室屋は東漢掬直に命じて星川皇子の乱を鎮圧させる。
481年(清寧2年) 室屋は子のいない天皇の名を遺すため、諸国に白髪部を置く。
仁賢期
498年 仁賢天皇の死後、平群真鳥(へぐりのまとり)、鮪(しび)父子を征討し、武烈天皇を即位させて自らは大連(おおむらじ)の地位についた。
武烈期
506年 武烈天皇の死により皇統は途絶えたが、応神天皇の玄孫である彦主人王の子を越前から迎え継体天皇とし、以後安閑・宣化・欽明の各天皇に仕えた。
継体期
512年(継体6年) 金村は任那四県を百済に割譲。代償として翌年、百済は五経博士を日本に送る。
527年(継体21年) 筑紫で磐井が反乱を起こすと、金村は物部麁鹿火(あらかひ)を将軍として派遣し、翌年、鎮圧に成功。
安閑期
金村は各地に屯倉を設置する。
宣化期
宣化二年(537年)、大伴磐、狭手彦、新羅の任那侵攻に際し、任那救援の命を受ける。磐は筑紫の那津官家(大宰府の起源)で執政し、狭手彦は朝鮮に渡り、任那諸国・百済救援に活躍する。
欽明期
539年(欽明元年) 金村は三韓政策の失敗を物部尾輿らに責められ、住吉の自宅に病と称して引き篭る。(黒岩重吾は実際には即位していない安閑・宣化と欽明天皇の王位継承争いに巻き込まれて失脚したと主張) 大伴氏は物部氏・蘇我氏との権力争いに敗れ、政治的指導権を失う。金村のこの事実上の失脚により、大伴氏の黄金時代は幕を閉じる。以後、主として蘇我氏の勢力下に入り、命脈を保つ。一方、天皇家は東国の豪族層を中心とする舎人を直属の兵として、大伴氏の軍事力からの自立を推進する。
欽明二十三年(562年) 狭手彦は大将軍として高句麗を討つ。
用明期
用明二年(587年)、大伴咋子は、蘇我馬子による物部守屋討伐軍に参加。物部氏は滅亡。
崇峻期
588年(崇峻元年) 金村の子糠手の女小手子が妃となる。
591年(崇峻4年) 金村の子咋子が任那再興のため筑紫に派遣されるが、崇峻暗殺により中止。
孝徳期
649年 大伴長徳が右大臣
弘文期
672年 壬申の乱で、咋子の子吹負、馬来田、長徳の子御行、安麻呂が吉野方に参戦、功を挙げる。吹負は将軍に任じられ、大和を平定する。
天武期
天武十三年(684年)の八色の姓制定で大伴氏は宿禰を賜わる。
持統期
696年(持統10年) 大納言大伴御行は資人八十人を賜わる。
文武期 
705年(慶雲二年) 安麻呂は、藤原不比等の勢威に圧倒されつつも、大納言になる。
孝謙期
754年 大伴古麻呂は鑑真を日本に密航させた。
大伴氏の人物
道臣命
初名は日臣命(ひのおみのみこと)。天忍日命(あまのおしひのみこと)の後裔。大伴氏の祖。神武天皇の東征の先鋒を務め、神武天皇即位の際には宮門の警衛を務めた。
神武東征において、八咫烏の先導により久米部を率いて菟田(宇陀)への道を開いた。その功績により神武天皇から名を改めて道臣と名乗るよう言われる。
兄猾(兄宇迦斯、えうかし)が神武天皇に押機(おし)という罠を仕掛けた際、道臣は兄猾に「おまえが作った屋敷には、貴様自身が入れ」と述べ、剣の柄を握り、弓に矢をつがえ追い込み、兄猾は自身の罠に押しつぶされて死んだ。道臣はその死体を切り刻み、その地は宇陀の血原と呼ばれる。
国見岳で八十梟帥が討たれた後、天皇の密命によりその残党を討ち取った。まず忍坂の邑に大室を造り、精鋭を率いて残党と酒宴を開き、宴も酣になったとき道臣の久米歌を合図に兵たちは剣を抜き、残党を殲滅した。
神武天皇即位後はじめて政務を行う日、道臣命は諷歌(そえうた)・倒語(さかさご)をもって妖気を払った。神武天皇即位の翌年、東征の論幸行賞として築坂邑(橿原市鳥屋町付近)に宅地を賜わり、特に目をかけられたと記されている。
大伴室屋(おおとものむろや)
允恭、雄略期の連(むらじ)。父は大伴武以(たけもち)とされるが(『公卿補任』)、世代が合わない。また、大伴談の父(一説に兄)、大伴金村の祖父とされる。『新撰姓氏録』によれば佐伯連・佐伯宿禰の祖。
允恭天皇から顕宗天皇まで5代の天皇に大連(おおむらじ)として仕えた。
允恭天皇期 妃の衣通郎姫(そとおりのいらつめ)のために藤原部を定める。
458年(雄略天皇2年) 百済の池津媛を犯した石川楯を、来目部に命じて処刑させる。
479年(雄略23年) 天皇崩御に際して後事を託され、直後に起こった星川皇子の叛乱を東漢掬と共に鎮圧。
481年(清寧天皇2年) 諸国に天皇の御名代として白髪部舎人・膳夫(かしわで)・靱負(ゆげい)を置いた。
501年(武烈3年) 天皇の詔に従い、役丁を徴発して城の形を水派邑(みまたのむら、奈良県河合町?)に築いた。(ただし、これは金村の事績とすべきとの考えもある)
大伴談(おおとものかたり)
雄略朝の対新羅派遣軍の大将。『新撰姓氏録』左京神別中によれば、談は父(一説には兄)の室屋とともに衛門の左右を分衛したと記述され、また同じく右京神別上によれば佐伯日奉造(さえきのひまつりのみやつこ)は大伴氏(天忍日命の後裔氏族)と同祖で、談の後裔とされる。
466年(雄略9年) 天皇の命を奉じて紀小弓らとともに新羅を討ったが、反撃されて戦死したという。
大伴金村(おおとものかなむら)
生没年不詳。武烈、継体、安閑、宣化、欽明の各天皇に仕えた。
498年 仁賢天皇の死後、平群真鳥(へぐりのまとり)・鮪(しび)父子を征討し、武烈天皇を即位させて自らは大連(おおむらじ)の地位についた。
506年 武烈天皇の死により皇統は途絶えたが、応神天皇の玄孫である彦主人王の子を越前から迎え継体天皇を擁立した。
512年 百済からの任那4県割譲要求があり、金村はこれを承認し、代わりに五経博士を渡来させた。
527年 磐井の乱の際には物部麁鹿火を将軍に任命して鎮圧させた。だが、欽明天皇の代に入ると欽明天皇と血縁関係を結んだ蘇我稲目が台頭して、金村の権勢に翳りが見え始める。
540年 新羅が任那地方を併合するという事件があり、物部尾輿などから外交政策の失敗(先の任那4県割譲など)を糾弾され失脚して隠居する。これ以後、大伴氏は衰退していった。
晩年 大伴氏の館のあった摂津国住吉郡(大阪市住吉区)に住み、そこで死去。住吉区にある帝塚山古墳は、大伴金村あるいはその子の墓とされている。
大伴長徳(おおとものながとこ)
生年不詳 - 白雉2年(651年) 姓は連(むらじ)。別名馬飼・馬養(うまかい)ともいう。
632年(舒明天皇4年) 第1回の遣隋使とそれに伴った唐使高表仁(こう ひょうにん)を難波で出迎えた。
642年(皇極天皇元年) 舒明天皇の殯宮では誄(しのびごと)を蘇我蝦夷に代わって奏上している。
645年(大化元年) 大化の改新では中大兄皇子側であったようである。
649年(大化5年) 大紫位・右大臣に任じられている。
大伴安麻呂(おおとものやすまろ)
姓は連、後に宿禰。大納言大伴長徳の六男。大納言兼大将軍正三位、贈従二位。
685年(天武13年) 大伴連が宿禰の姓を与えられた。
701年(大宝元年)1月 文武朝のはじめまで、大伴氏の氏上は兄の御行であり、安麻呂が政治の中枢に加わることはなかった。しかし大宝元年(701年)1月15日に御行が死ぬと、安麻呂が大伴氏の最高位となり、翌年には朝政に参議するようになった。
同年3月 大宝令にもとづく官位が授けられたとき、直大壱大伴宿禰安麻呂は正従三位に進んだ。
同年6月 従三位大伴宿禰安麻呂は、兵部卿になった。
702年(大宝2年)1月 従三位大伴宿禰安麻呂は式部卿になった。
同年5月 粟田真人、高向麻呂、下毛野古麻呂、小野毛野とともに、朝政に参議することを命じられた。これが参議のはじめで、このときは参議という官職に任命されたのではなく、「参議する」という仕事を命じられたのである。
705年(慶雲2年)4月 従三位大伴宿禰安麿が中納言になった。
705年(慶雲2年)8月 従三位大伴宿禰安麻呂が大納言になった。
714年(和銅7年)5月 大納言兼大将軍正三位大伴宿禰安麻呂が死んだ。従二位を贈られた。
大伴古麻呂(おおとものこまろ)
生年不詳−757年 正四位下・左大弁。
732年 遣唐留学生として入唐。帰朝後、天平10年(738年)兵部大丞。天平勝宝元年(749年)左少弁。
752年 遣唐副使に任じられ、大使藤原清河とともに入唐。
753年 正月、玄宗臨御の諸藩の朝賀に出席。古麻呂は日本の席次が西畔(西側)第二席で、新羅の東畔第一席より下であったことに抗議し、新羅より上席に代えさせている。
754年 帰国の際、遣唐使一行は鑑真を同行させようとしたが、唐の官憲がこれを禁じた。大使藤原清河は鑑真一行の乗船を拒否したが、古麻呂は独断でこれを許して副使船に乗船させた。帰路、大使船は暴風雨に遭い、南方に流されて帰国できなかったが(藤原清河は唐で客死)。副使船は無事帰国して鑑真を来日させることができた。
同年、左大弁に任じられる。
757年
3月、聖武天皇の遺言により皇太子に立てられていた道祖王が孝謙天皇の勘を受けて廃太子される。
4月、孝謙天皇は群臣に新太子を諮ると、右大臣藤原豊成は塩焼王を適当とし、古麻呂は池田王を推したが、天皇の意中は大納言藤原仲麻呂の推す大炊王であり、大炊王が立太子された。
藤原仲麻呂は孝謙天皇の信任厚く、専横が著しかったため、古麻呂はこれに不満を持ち兵部卿橘奈良麻呂と結んで仲麻呂を除こうと画策する。
橘奈良麻呂・古麻呂らが一味して兵を起こして仲麻呂を殺して皇太子を退け、孝謙天皇を廃し、塩焼王・道祖王・安宿王・黄文王の中から天皇を推戴するという計画であった。
6月、古麻呂は陸奥鎮守将軍兼陸奥按察使兼任となり、陸奥国への赴任を命じられ、橘奈良麻呂は左大弁に移され兵権を奪われた。
7月、山背王らの密告により反乱計画は露見。
奈良麻呂、古麻呂、道祖王・黄文王らは捕えられ、藤原永手、百済王敬福、船王らの監督下、杖で何度も打たれる拷問の末、絶命した。(橘奈良麻呂の乱)
大伴旅人
665年 −731年 奈良時代初期の政治家、歌人。大納言・従二位。
714年(和銅7年) 父の安麻呂が亡くなる。
718年(養老2年) 中納言に任じられる。
720年(養老4年) 山背摂官となり、その後征隼人持節大将軍として隼人の反乱を鎮圧した。
724年−729年(神亀年間) 大宰帥として九州の大宰府に赴任し、山上憶良とともに筑紫歌壇を形成した。
730年(天平2年)大納言に任じられ京に戻る。
731年(天平3年) 従二位に昇進するが、まもなく病を得て没した。政治的には長屋王派と言われていた。
大伴氏に関する諸説
磐井の乱と大伴氏
古事記 / 麁鹿火と金村の二人を派遣して磐井を討ったとある。また継体紀には、天皇の征討命令に対する麁鹿火の返答に大伴氏の祖先について言及する矛盾があり、本来は金村が将軍の任に当たったのではないかとも考えられている。
書紀 / 金村が百済から賄賂を受け取ったことを示唆するなど、金村に対し批判的な意見が目立つ。
天智朝と大伴氏
孝徳朝末期以後、天智朝まで大伴氏の動静は伝わらず、また斉明末年から天智初年(661−663年)にかけての百済救援にも大伴氏の活躍は見られない。この期間大伴氏は中央政界から疎外されていたことが窺える。  
 
大久米主、大伴氏 3

 

大伴武日
景行天皇40年7月16日条によれば、日本武尊の東征に際して、吉備武彦とともに従者に任じられている。東征では、甲斐の酒折宮(山梨県甲府市酒折に比定)において日本武尊から靭部(ゆげいのとものお)を賜ったという。
『日本三代実録』貞観3年(861年)11月11日条では、伴善男の奏言のうちで、大伴健日(武日)は景行天皇の時に倭武命(日本武尊)に従って東国を平定し、その功で讃岐国を賜ったと見える。またその奏言では、子の大伴健持(武以/武持)を始めとして子孫の名が記載されるが、その中で允恭天皇朝には倭胡連公が讃岐国造に任じられたとある。
『日本書紀』垂仁天皇25年2月8日条では、武渟川別(阿倍臣祖)・彦国葺(和珥臣祖)・大鹿島(中臣連祖)・十千根(物部連祖)らとともに「大夫(まえつきみ)」の1人に数えられており、天皇から神祇祭祀のことを命じられている
古語拾遺や大伴氏系図では高皇産霊(たかみむすび)尊の子としている。神武東征に従って活躍した道臣命(みちのおみ)は天忍日命の曾孫とする。
天忍日命を御祭神として祀る神社は稀であり、降幡(ふるはた)神社(大坂府南河内郡河南町、明治末年に一須賀神社に合祀された)、油日(あぶらひ)神社(滋賀県甲賀市)、野保佐(やほさ)神社(長崎県壱岐市)など数社に過ぎない。壱岐の野保佐神社には大久米命も祀られている。
陸奥国に金を出だす詔書を寿ぐ歌一首の大久米主
大伴の遠つ神祖の その名をば 大久米主と負い持ちて(呼ばれて) 仕へし官(ツカサ、職柄) 海行かば水漬く屍(水びたしの屍) 山行かば草生す屍(草むした屍) 大君の辺(ヘ・お側)にこそ死なめ 顧みはせじ(後悔はしない) と言立て(誓って)・・・
との歌を挙げ、大伴氏の遠い祖先の名が大久米主と呼ばれている。
久米氏の系図(古代豪族系図収覧・1993)では
高皇産霊神−−○−−○−−天津久米命−−○−−大久米命−−○−−○−−味耳−−
とあり、天津久米命(天槵津大来目命)は大久米命の祖父となっている。
来目(久米・クメ)に関わる伝承
神武東征の伝説に、八咫烏(ヤタガラス)の導きで大和入りする時に活躍し、その功により、『大来目をして畝傍山の西の川辺に居らしめたまふ。今、来目邑(クメムラ)と号(ナヅ)く』との記載がある。
書紀・垂仁27年紀に『是歳、屯倉(ミヤケ)を来目邑に興す』とみえ、久米村の地に王家の米倉がもうけられており、久米氏の祖神として奉斎されたこの神社は、かなり古い時期にまでたどることができる」とある。
天孫降臨の段(古事記)−−そのとき天忍日命(アメノオシヒ)・天津久米命(アマツクメ)の二人は、立派な靫(ユキ・矢を入れて背に負う武具)を負ひ、頭椎(クブツチ)の太刀を腰に着け、櫨弓(ハジユミ、強力な霊力が潜む弓)を手に取り、真鹿児矢(マカコヤ・同じく矢)を手鋏みに持って、天孫の先に立ってお仕え申し上げた。アメノオシヒ命は大伴連等の祖、アマツクメ命は久米直等の祖である。
書紀(一書4)大伴連の遠祖である天忍日命が、来目部の遠祖・天槵津大来目(アメクシツノオオクメ)を率いて、・・・(記と同じ武装の様を列記)・・・天孫の前に立って降って行き・・・
神武東征の段(古事記)−−(宇陀の兄宇迦斯−エウカシ−が屋敷に罠を設けて神武を迎えようとしていると聞いて)大伴連の祖先・道臣命(ミチノオミ)と久米直の祖・大久米命の二人が、エウカシに向かって「おまえが造った御殿の中に、おまえがまず入って、仕えようとする有様をはっきり見せろ」とエウカシを屋敷の中に追い込んだところ、エウカシは自分が仕掛けた押罠(オシワナ)に打たれて死んでしまった(書紀ではミチノオミのみでオオクメの名はない)。
神武即位後(古事記)−−天皇が皇后とする乙女を探し求められたとき、大久米命が「神の御子とされる乙女、オオクニヌシの娘・比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)がおられます」といった(書紀には“ある人が・・・”とある)。
書紀(神武即位前期)−−(熊野で道に迷った神武を八咫烏が先導した時)大伴氏の先祖・日臣命(ヒノオミ=道臣命)は、大来目を率いて、大軍の統率者として、山を越え路を踏み分けて、烏の導きのままに仰ぎながら追いかけ、ついに宇陀の下道(ツモツコホリ)に着いた(古事記にはみえない)。
書紀(神武即位前期)−−(八十哮師の残党の勢いが強かったので、神武は)密かに道臣命を呼んで、「お前は大来目部を率いて、大室を忍坂邑(オサカノムラ、桜井市忍坂付近)に造って、盛んに酒宴を催し、敵をだまして討ち取れ」と命じられた。そこでミチノオミは忍坂に室を造り、敵を招いて盛大な酒宴を催し、敵が酒に酔ったところをみみはからって、道臣命の「忍坂の大室屋に 人多(サワ)に来入り居りとも みつみつし来目の子等が 頭椎(クブツツ)い石椎(イシツツ)い持ち 撃ちてし止まむ」との歌を合図に、料理人に化けていた米目の兵士たちが隠し持った武器をもって立ち敵兵を皆殺しにした(大意、古事記では、合図の歌の中に「勢い盛んな久米の子ら・・・」とある)。
神武即位後書紀(神武元年)−−天皇が国政を始められる日に、大伴氏の先祖・道臣命が大来目部を率いて密命を受け、諷歌(ソエウタ、他のものになぞらえた諷刺歌)・倒語(サカシマゴト、味方だけに通じる隠語)をもって災いを払い除いた(古事記には見えない)。
神武即位後書紀(神武2年2月)−−天皇は論功行賞をおこなわれた。道臣命は宅地を賜り築坂邑(ツキサカムラ、橿原市鳥屋町付近)に居らしめて特に目をかけられた。また大久米を畝傍山以西の川辺の地に居らしめた。今、来目邑と呼ぶのはこの縁である(古事記にはみえない)。
垂仁天皇紀
・5年条−−冬10月1日、天皇は来目にお越しになり、高宮におられた。
・27年条−−この年、屯倉(ミヤケ・朝廷直轄の田畑および収穫物を収納する倉庫)を来目邑に興(タ)てた。
(古事記は久米、書紀は来目と表記が異なるが、以下、久米と記す)
記紀にみる久米氏のほとんどが、戦闘にかかわる場面で登場するように、久米氏は大伴氏とともに古代ヤマト朝廷において軍事に携わった氏族という(親衛隊的氏族)。しかし、その記述内容は、古事記では大伴氏と久米氏は同格として並記されているが、書紀のそれは大伴氏に従うものとして記されており、格において違いがみえる。
古事記注釈(1975、西郷信綱)は
・大伴という名は、多くの伴(伴造−トモノミヤツコ、職能集団)を有しそれを率いているのにもとずく名で、久米氏もそれら伴のひとつであったらしい。
・大伴氏の姓(カバネ)は、古代氏姓制度での最高位である“臣”(オミ)とともに朝政に関与する“連”(ムラジ)であったが(雄略朝で大伴室屋が大連となって朝政を主導した)、久米氏のそれは格下の“直”(アタイ、国造級に与えられる姓)でしかなかった。
として、久米氏は古くから大伴氏に属する格下の氏族ではなかったかとして、その傍証として、万葉集にある大伴家持の
陸奥国に金を出だす詔書を寿ぐ歌一首に
大伴の遠つ神祖の その名をば 大久米主と負い持ちて(呼ばれて) 仕へし官(ツカサ、職柄) 海行かば水漬く屍(水びたしの屍) 山行かば草生す屍(草むした屍) 大君の辺(ヘ・お側)にこそ死なめ 顧みはせじ(後悔はしない) と言立て(誓って)・・・
との歌を挙げ、その中で、大伴氏の遠い祖先の名が大久米主と呼ばれていることから、
「家持ちが自家の祖先の名を取り違えたとは思われず、かかる名が大伴の遠い神祖の名でありえたのは、そもそも最初から久米氏が大伴氏に属していた消息を物語ってはいないだろうか」という(大意)。
大伴氏
道臣命(別名 日臣命:ひのおみのみこと)は、大伴連の祖。天忍日命の後裔である
『古語拾遺』では、高皇産霊神の娘・栲幡千千姫の子で、大伴宿禰の祖。
また、太玉命、瓊瓊杵尊と同母兄弟とある。
神武天皇東征の時、大久米命と共に、兄宇迦斯を討った。『日本書紀』では、大伴氏の遠祖・日臣命が、導きの功によって道臣の姓を賜ったとある。
また『日本書紀』では、道臣命は大来目を率いて、八咫烏の導きで莵田の下県に達する話。 兄猾を討つ話。天皇が顕斎(うつしいわい)をしようとした時、斎主として厳媛の名を授けた話。 大来目部を率いて歌を合図に八十梟師の残党を討つ話。 天皇即位の日に諷歌倒語を以って妖気を祓った話。論功賞で宅地を賜った話などが記されている。
天忍日命−天津彦日中咋命−日臣命−味日命−雅日臣命−大日命−角日命−豊日命−大伴武日
談 − 金村 − 狭手彦 − 糠手
天忍日命(?−?)
父:天石門別命(別説:安国玉主命など色々)母:不明
大伴氏の始祖。
記記記事:天孫降臨の際、天久米命と共に天孫に仕えた。
日臣命(?−?)
父:刺田比古(別説:天津日など色々)母:不明
天忍日の曾孫。別名「道臣命」
神武東征に際し、大久米命を率い熊野から宇陀までの道を通した。この功により「道臣」の名を賜った、とされる。色々活躍し、神武即位の翌年、築坂邑(橿原市鳥屋町付近)に宅地を賜る。
武日命(?−?)
父:豊日 母:不明
道臣の7世孫。
記紀記事:11垂仁朝に阿倍臣遠祖「武渟川別」和邇臣遠祖「彦国葺」中臣連遠祖「大鹿嶋」物部連遠祖「十千根」と共に、厚く神祇を祭祀せよとの詔を賜る。景行朝に、日本武尊の東征に吉備武彦と共に従い、その功により、靫負部を賜る。
大伴連武持(?−?)
父:武日 母:不明
子供:室屋、諸説ある。室屋までに佐彦、山前などが入っている系図もある。
14仲哀朝の四大夫。伴氏系図では「初賜大伴宿禰姓」とある。「大連」となったとの記事もある。
大伴連室屋(???−???5世紀)
父;大伴武持 母;不明
新撰姓氏録では、天忍日の11世孫、道臣の7世孫。となっている。子供:談、御物(異説あり)
19允恭大王時、衣通郎姫のため藤原部を定める。大伴氏の実在がはっきり信じられる のは、室屋以降である。21雄略大王即位に伴い、物部連目と共に”大連”となる。21雄略崩御後、「東漢直掬」に命じ兵を起こし、「星川皇子の乱」を鎮圧。22清寧大王時 、子供のいない22清寧の名を遺すため、諸国に白髪部舎人、膳夫(かしわで)等を置く。25武烈大王まで5代にわたり、大連として政権を掌握した。一説に、大伴氏の本来の職掌は、「部」の設置にあったという(直木孝次郎氏)
大伴連談(カタリ)(???−雄略9年)
父;大伴室屋 母;不明
子供;「金村」 「歌」(佐伯氏祖ーーー9代後 僧「空海」***)
21雄略9年 紀小弓、蘇我韓子らと共に新羅討伐を命じられ遠征。現地で戦死。
久米歌
<古事記 中巻 神武天皇 四より>
忍坂の大室屋に人多に来入り居り 人多に入る居りとも  みつみつし久米の子が 頭椎い石椎いもち 撃ちてしやまむ みつみつし久米の子らが 頭椎い石椎いもち 今撃たば宜し
<現代語訳>
忍坂の大きな土室に、人が数多く集まって入っている。どんなに人が多くても、勢い盛んな久米部の兵士が、頭椎の太刀や石椎の太刀でもって、撃ち取ってしまうぞ。勢い盛んな久米部の兵士が、頭椎の太刀や石椎の太刀でもって、今撃ったらよいぞ。
楯並めて 伊那佐の山のこの間よも い行きまもらひ戦へば 吾はや飢ぬ 島つ鳥鵜養が伴 今助けに来ね
<現代語訳>
楯を並べて伊那佐の山の木の間を通って行きながら、敵の様子を見守って戦ったので、我々は腹がへった。鵜養部の者どもよ、今すぐ助けに来てくれ。
諸説に、大伴氏は来目から出たとも。
『日本書記』星川王の乱条に、星川関係者の河内三野縣主小根は星川反乱の罪を逃れるため、大伴室屋大連に「難波来目邑大井戸田10町」を、草香部吉士漢彦に田地を贈ったとある
『日本古典大系・日本書記』頭注には久米氏は「紀伊国名草郡岡崎村」と本拠とする氏族の可能性が示唆してある。
久米氏は海部としての久米部を管理するよう指示された氏族であろうから、その出身を畿内に求めるのも致し方ないが、久米部そのものの出自は筑紫に久米があり、また南九州奄美に久米島があり、南海の海人族と見てよかろう
大伴氏は雄略・継体まで、西国の靫負集団(ゆげいしゅうだん・弓矢で相手を威嚇する門番)を統率しており、同族には佐伯氏、東国支配の膳氏とも同族で、佐伯氏と紀氏の関係から、紀氏とも婚姻があったと考えられるが、もっとも古い同族が久米氏である。その上下関係は諸説あるが、5世紀までに大伴>久米となったと見てよかろう。
雄略が滅ぼした葛城氏と、その後の王権の関係修復に、久米氏はかなり尽力したといわれ、それを支えていたのが大伴氏だとも言う(高橋富雄氏)。
衰退した吉備を紀氏とともに再建して行ったのも久米氏である。鉄生産を掌握し、これを基盤として大伴連金村は継体大王を擁立できたと見られる。凡直氏が牛耳っていた四国伊予に割り込んだのも久米氏である。継体が多くの海人氏族に推挙された理由も久米や安曇や海部や紀氏や物部氏や尾張氏らの根回しがあったかも知れない。そもそも越前気比から九頭竜川までは継体母方の三尾(みお)氏の本拠地で、奇しくも先日、琵琶湖安曇川(高島市三尾(水尾))の遺跡から新たに古墳後期の円墳が出た。父方息長氏も安曇と関わる海人氏族ゆえ、継体の海のネットワークは全国規模である。 
 
道臣命、大伴氏の祖 4

 

刺田比古神社
延喜式内社、和歌山城の氏神、吉宗公拾い親の神社である。岡(現在の和歌山市広瀬、大新、番丁、吹上、芦原、新南地区)の産土神として岡の宮の名で知られている。
御祭神は神武御東征のさいに御活躍した道臣命(大伴氏の祖先神)、百済救済の御武功で知られる大伴佐弖比古命をお祀りしている。佐弖比古命(狭手彦命)は百済救済のさいに武功をあげ、その武功により岡の里の地を授かったという。
古来より岡の地は人が住み、道臣命は岡の里の出身とされる。『続日本紀』にも片岡の里出身の大伴氏が登場し、昭和7年には境内南西側で古墳時代後期の古墳岡の里古墳が発見されていることからも、その由緒をうかがうことが出来る。一説には聖武天皇岡の東離宮跡とも伝えられている。
佐弖比古命(狭手彦命)より世々岡の里を采邑し、佐比古命二十世の裔大伴武持が岡の里に住むに及び、大伴氏の発祥であるこの地に祖神、祖霊を祭祀した。里人はこの地を開始経営し給うた神として、その神徳を仰ぎ産土神として国主ノ神、大国主神と尊称し崇敬した。大伴武持二十八世の孫岡本信濃守武秀が始めて岡山(現和歌山市)に城を築くと、神田若干を寄付するなど代々城の氏神として厚く崇敬した。
河内の伴林氏神社(藤井寺市)
大阪府藤井寺市林3丁目
祭神−−高御産巣日神、天押日命、道臣命
延喜式神名帳に、『河内国志紀郡 伴林氏神社』とある式内社。社名は“トモバヤシノウジ”(トモハヤシノウジ)と訓む。
由緒
「創建は古く、三代実録によれば、清和天皇の貞観9年(867)2月26日、志紀郡・林氏神は既に官社と記され、同15年(873)12月20日には、祭神・天押日命に従五位が授けられている。しかし延喜式神名帳にも伴林氏神社の名が登場することから、それよりはるか以前から道臣命の子孫がこの土地に住み、大和朝廷時代の名門として祖先を祀ってきたものと思われる」とある。
また大阪府全志(1922)には
「伴林氏神社は北方字宮山にあり、延喜式内の神社にて道臣命・天押日命を祀れり。創建の年月は詳ならず。林氏の祖神なれば同氏の祀りしものならん。三代実録によれば、清和天皇の貞観9年2月26日官社に預り給へり。本地の産土神にて明治5年村社に列せらる」とあり、他の諸資料も略同じことを記している。
当社の祭祀氏族である伴林氏(林氏)について、新撰姓氏禄(815)によれば、河内国に関係して
・河内国神別(天神)  林宿禰  大伴宿禰同祖  室屋大連公男(子)御物宿禰之後也
(大伴宿禰−−左京神別(天神) 高皇産霊尊五世孫天押日命之後也)
・河内国諸蕃(百済)  林連  出自百済国直支王(古記云周王)也
の2氏が見えるが、天押日命(アメノオシヒ・天忍日命とも記す)を祀ることから、古代豪族・大伴氏に連なる氏族である林氏が祖神を祀ったのが当社であろう。ただ、その創建年代は不詳。
大伴氏の本拠地は奈良盆地の東南部(橿原市・桜井市・明日香村付近。神武2年条に、ミチオミが築坂邑-橿原市鳥屋町付近-を賜ったとある)というが、より古くは難波地方を本拠とし、和泉・紀伊方面まで勢力を張っていたともいわれ、そのなかの一支族として、当地の伴林氏が居たのであろう。
創建後の経緯としては、三代実録(901)にいう上記の叙神階記録以外に見えない
祭神
今の祭神、高御産霊日神・天押日命・道臣命(旧名:日臣命-ヒノオミ)は古代の軍事氏族(大王家の親衛隊的な氏族という)
・大伴氏の祖先で、大伴氏系図によれぱ
タカミムスヒ−・−・−・−・−アメノオシヒ−・−ヒノオミ(=ミチオミ)・・・・・武時(大伴宿禰の始め)−室屋−御物・・・(伴林氏)
とある。ただ、通常、大伴氏の遠祖という場合はアメノオシヒを指し、ミチオミはその孫とされる。タカミムスヒ(古事記にいう「造化の三神」の一)を始祖とするのは後世の加上であろう。正史上で実在したと思われるのは、ヒノオミから8代目となる“室屋”からで、室屋は雄略天皇のとき物部氏とともに“大連”になっている。その子が姓氏禄にいう“御物宿禰”(室屋の三男とある)で、ここから佐伯氏が出たとされるが、管見した系図の中に林氏の名はみえない。ただ“御物”を“林御物”と記す系図もあり、ここから林氏に連なるのであろう。
アメノオシヒ−−書紀・天孫降臨の段(一書4)に、タカミムスヒが天孫・ホノニニギを天降らしたとき、
「大伴連の遠祖・アメノオシヒ命が完全武装し、久目部の遠祖らを率いて、天孫を先導して日向の高千穂の峰に降った」(大意)
ヒノオミ(ミチオミ)−−神武天皇即位前紀に、神武が紀州・熊野から大和へ出ようとしたとき、
「大伴氏の先祖・ヒノオミ命が、大久目部ら軍勢を率いて、山を越え路を踏み分けて、宇陀までの道を開いた。この功により、天皇から道臣(ミチノオミ)の名を賜った」(大意)その他、天皇の命により菟田の首長・兄滑(エウカシ)、国見丘の八十梟師(ヤソタケル)を討伐したとある。
大伴宿弥、佐伯宿弥
「高皇産霊尊五世孫天押日命の後裔」として同族とされ、「高志連」も「天押日命十一世の孫大伴室屋大連公の後裔」とされ、この一族とされる。

新撰姓氏録
374 左京 神別 天神 大伴宿祢 宿祢   高皇産霊尊五世孫天押日命之後也 初天孫彦火瓊々杵尊神駕之降也。天押日命。大来目部立於御前。降乎日向高千穂峯。然後以大来目部。
為天靱部。靱負之号起於此也。雄略天皇御世。以入部靱負賜大連公。奏曰。衛門開闔之務。於職已重。若有一身難堪。望与愚児語。相伴奉衛左右。勅依奏。是大伴佐伯二氏。
掌左右開闔之縁也
375 左京 神別 天神 佐伯宿祢 宿祢 大伴宿祢同祖 道臣命七世孫室屋大連公之後也
440 右京 神別 天神 高志連 連   高魂命九世孫日臣命之後也
441 右京 神別 天神 高志壬生連 連   日臣命七世孫室屋大連之後也
542 大和国 神別 天神 高志連 連   天押日命十一世孫大伴室屋大連公之後也
大伴宿禰
高皇産霊尊の五世孫、天押日命の後なり。
はじめ、天孫彦火瓊々杵尊、神駕之降まししときに、天押日命、大来目部、御前に立ちて日向の高千穂峯に降りましき。その後、大来目部を以て、天靫部と為し き。靫負の号これより起れり。
雄略天皇の御世に、入部靫負を以て大連公に賜ひしに、奏曰さく、「門を衛りて開き闔づる務は、職としてすでに重し。もし一身なりせば堪へ難からむ。望むらくは、愚児、語と、相伴に左右を衛り奉らむ」と。勅して奏すがままにせしめたまひき。これ大伴、佐伯の二氏が、左右の開き闔づることを掌る縁なり。
佐伯宿禰
大伴宿禰と同じき祖。道臣命の七世孫、室屋大連公の後なり。
大伴連
道臣命の十世孫、佐弖彦の後なり。
榎本連
上に同じ。
神松造
道臣の八世孫、金村大連公の後なり。 
 
大伴連(オオトモノムラジ) 5

 

大伴氏は記紀・姓氏録・旧事紀でも天忍日命(アメノオシヒノミコト)の子孫となっています。大伴という名前は「伴部」で皇室に仕えるものの意味で大伴連は、この集団の首領・有力者のことを指します。連(ムラジ)は「皇室とは血縁ではないが、有力者に与えられる姓」です。
古い時代から皇室に仕えていて、5世紀に「連」の姓を賜ったと思われます。この時期は大伴の勢力が強かったのですが、大化の改新の頃には一旦勢力が衰えます。その後、壬申の乱で活躍したことで、佐伯連(サエキノムラジ)と共に「宿禰(スクネ)」を賜ります。宿禰は天武天皇が定めた「八色の姓」では3番目。一番目の「真人」が継体天皇から5世の血縁者に限られているので「宿禰」は実質二番目。つまりかなり優遇されました。
その後、平安時代初期には没落。歌詠みの有名人が多く、領地・領民が多いのにも関わらず、残っている系図が少ない。
大伴氏と久米氏の祖神
アメノオシヒ命は大伴連の祖神。
アマツクメ命は久米直の祖神。
道臣命と大久米命
大伴連(オオトモノムラジ)の祖先の道臣命(ミチノオミノ命)と久米直(クメノアタイ)の祖先の大久米命(オオクメノ命)の二人が兄宇迦斯(エウカシ)を呼びつけて罵りました。
「あなたが作った御殿の中に
まずあなたが入って、イワレビコに仕える気持ちを示しなさい」 と言い、
すぐに横刀の柄を握り、矛を向け、矢を向けて、追い立てて御殿に追い込みました。
するとエウカシは自分が作った罠に掛かって死んでしまいました。
第九段一書(四)天忍日命の先導
ある書によると高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は眞床覆衾(マドコオフスマ)を天津彦国光彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコクニテルヒコホノニニギノミコト)に着せて、天磐戸(アマノイワト)を引き開け、天八重雲(アマノヤエグモ)を押し分けて、地上に降ろしました。
その時、大伴連(オオトモノムラジ)の遠い祖先の天忍日命(アマノオシヒノミコト)が、來目部(クメベ)の遠い祖先の天槵津大來目(アマノクシツノオオクメ)を率いて、背中には天磐靫(アマノイワユキ【靫=矢を射れる筒】)を負い、腕には稜威高鞆(イツノタカトモ=防具)を身につけ、手には天梔弓(アマノハジユミ)と天羽羽矢(タマノハハヤ)を持ち、八目鳴鏑(ヤツメノカブラ【鏑は音が出るヤジリ】)も持ち、頭槌劍(カブツチノツルギ)を腰に差し、天孫(スメミマ=ニニギ)の前に立って、先導して地上に降りました。
そして日向の襲(ソ)の高千穂の槵日(クシヒ)の二上峯(フタガミノミネ)の天浮橋(アマノウキハシ)にたどり着き、浮渚在之平地(ウキジマタイラ)に立たせ、膂宍(ソシシ)の空国(ムナクニ)を頓丘(ヒタオ)から眺め見て、通り過ぎ、吾田(アタ)の長屋(ナガヤ)の笠狹之御碕(カササノミサキ)にたどり着きました。
そこに一柱の神が居ました。
事勝国勝長狹(コトカツクニカツナガサ)といいます。
天孫(アメミマ)はその神に尋ねました。「国があるか?」
答えました。「有ります」
続けて言いました。「(天孫の)命ずるままに、御譲りしましょう」
それで天孫はこの土地にとどまって住む事にしました。
事勝国勝神(コトカツクニカツノカミ)は伊奘諾尊(イザナギノミコト)の子です。別名を鹽土老翁(シオツチオジ)といいます。 
 
大伴氏の出自 6

 

「大伴氏族は、天押日命の後裔とされ、神武天皇より早い時期に紀伊に遷住してきた天神の一派で、山祇系の流れである。その系譜は、より具体的には神武創業の功臣、道臣命の後裔である。道臣命は紀州名草郡片岡邑の人であり、その功により大倭国築坂邑(高市郡北部。現橿原市鳥屋町辺り)に宅地を賜ったという。その祖天押日命について、瓊々杵尊の天降り随行という伝承があるものの、この氏族の遠祖には紀州土着の色彩が相当強い。この氏族の紀州在住時代に紀国造氏族(紀伊氏族。天御食持命後裔)を分岐した、というより、むしろこの氏族の方が紀国造氏族の一支族と位置づけられよう。こうした出自の影響か、大伴氏族の榎本連、丸子連、仲丸子連、宇治大伴連等が紀伊国で繁栄した。大伴氏族は、その発生段階から久米部や靫負を率いて宮門の警衛にあたる軍事職掌の氏族であり、倭建命の東征にも武日命とその子弟等が随行したが、何故か国造家は全く創出されていない。この氏族の分布は、中央では畿内及び紀伊などその周辺にあり、地方では東征随行の影響で陸奥にかなり広範にみられる。大伴氏族から神代に分岐したかのような系譜をもつ久米氏族は、実際には崇神前代に分岐した近い氏族だったとみられる。」
朝鮮渡来系氏族出自の万葉歌人たち:大伴旅人(おおとものたびと)・大伴家持(おおとものやかもち)リンクから引用
「大伴旅人と大伴家持父子で合わせて558首の歌が『万葉集』に収録されている。この歌数は読み人の知れる歌2600余首の5分の1に相当し、特に巻17から巻20は家持の歌日記、私歌集の感があるとさえ言われている。その家持の最後の歌は天平宝字3年(759)に作られており、『万葉集』はなぜかその歌をもって幕を閉じている。そのため、家持が『万葉集』の編者に擬せられているが、定かではない。父の旅人は斜陽大伴家にあって大納言まで上ったが、家持は中納言で没している。家持は死後、桓武天皇の寵臣・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺に関与したとして、墓を暴かれるという屈辱を受けている。この古代の名門氏族大伴氏の出自は、実は高句麗系渡来氏族であるとする説がある。大伴氏の氏始祖伝承に神武東征に出てくるヤタガラスの説話がある。鳥類を氏祖とするのは北方系鍛冶神信仰種族の特徴である。また、氏祖伝承に顔を見せる高魂神の後裔とされる氏族は、高句麗系に属すとされている。その中の少なからぬものが、朝鮮半島東岸に沿って南下し、日本海を渡って、弥生時代から次々と渡来し、越から近江路、大和山間部に広がった。こうした高句麗系の山民が、大伴氏が統率する八十伴緒(やそとものお)であるという。大伴氏は、畿内の豪族の中でも最も早く渡来した氏族の一つである。後になって、今来の百済系氏族や新羅系氏族も組み入れたと思われる。大伴室屋や大伴金村など、大伴氏最盛時に、その後裔であるとする家系伝承を作っている氏族が多いためである(例えば、高志連、高志壬生連、佐伯宿禰、林宿禰、大伴連など)。」
以上の内容から整理すると、
1.大伴氏族は、天押日命の後裔とされ、神武天皇より早い時期から日本に来た。
2.大伴氏族は、宮門の警衛にあたる軍事職掌の氏族であった。国造家は全く創出されていない。この氏族の分布は、中央では畿内及び紀伊などその周辺にあり、地方では東征随行の影響で陸奥にかなり広範にみられる。
3.大伴氏族は古くからの畿内の豪族で、百済系氏族や新羅系氏族も組み入れた。百済系氏族や新羅のどちらにも属さない可能性がある。
4.家持は死後、桓武天皇の寵臣・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺に関与したとして、墓を暴かれるという屈辱を受けている。
5.大伴氏の氏始祖伝承に神武東征に出てくるヤタガラスの説話がある。鳥類を氏祖とするのは北方系鍛冶神信仰種族の特徴である。また、氏祖伝承に顔を見せる高魂神の後裔とされる氏族は、高句麗系に属すとされている。
6.弥生時代から次々と渡来し、越から近江路、大和山間部に広がった高句麗系の山民が、大伴氏が統率する八十伴緒(やそとものお)であるという説がある。
以上から、大伴氏の出自は、実は高句麗系渡来氏族であるとする説が有力と思われます。
  
神武天皇軍を先導する八咫烏と大伴氏の先祖 7

 

八咫烏(やたがらす)は高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子孫で、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)であると『新撰姓氏録』は記しています。そして、神武天皇が熊野方面から大和へ入ろうとして道に迷ったとき、烏(からす)に化身して先導したのが八咫烏ですね。その功績によって金鵄八咫烏(きんしやたがらす)の称号と、京都の葛野(かどの)の地を賜った賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)。
一方でその後も、宇陀の八咫烏神社を、鴨氏の祖先の廟(みたまや)として祭っていた人々があったとみられるのです。
八咫烏とともに神武天皇軍を先導する大伴氏の先祖
八咫烏神社の神域からは、芳野(ほうの)川を隔てて、鳥居の正面に伊那佐山(いなさやま、638m)を臨みます。
八咫烏神社は、もとは伊那佐山の遥拝所であったのですが、それは八咫烏神社そのものを、山頂にお祭りしていたからとされます。現在の都賀那伎(つがなぎ)神社です。
伊那佐山(いなさやま)は、神武天皇軍を鼓舞した久米歌にも歌われました。久米歌は、久米氏が伝承した歌謡で、久米氏は『万葉集』を編纂した大伴家持と同族です。大伴氏の先祖の天忍日命(あまのおしひのみこと)は、久米部を引き連れて、天孫降臨した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を堂々と先導したとされます。
そして神武天皇の熊野行軍を、八咫烏とともに先導したといわれるのが、日臣命(ひのおみのみこと)です。大伴氏は、当初から天皇家の近衛兵的役割を果たした氏族です。その功績によって道臣命(みちのおみのみこと=導きの家臣)の名前もいただいたのです。
この後、日本武尊の東征においても、大伴武日(おおとものたけひ)がしっかり脇を固めて従軍することになります。「大伴氏」「物部氏」は、当初の大和朝廷を支える大氏族として有名ですが、その始まりは異なっています。
つまりこうなります。
◦ 饒速日尊(にぎはやひのみこと)に供奉し守備 → 物部氏
◦ 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に供奉し守備 → 大伴氏
どちらも天孫(天照大神の子孫)をお守りする一族でした。
神武天皇の最終決戦地
奈良盆地の東南部から、桜井市方面に進入する経路は大きく3つ、そこには「墨坂」「男坂(忍坂)」「女坂」と呼ばれて、屈強の兵士たちが守備を固めていたのです。
『古事記』『日本書紀』では、その戦況を伊那佐山から見守りつつ、大和盆地へ進む皇軍を鼓舞する歌が歌われました。
「楯(たた)並(な)めて 伊那佐(いなさ)の山の 木(こ)の間(ま)ゆも い行き守らい 戦えば 我(われ)はや 飢(え)ぬ 島つ鳥 鵜飼(うか)いが伴(とも) 今助(す)けに来(こ)ね」
(楯を並べて、伊那佐山の木の間から、相手を見張って戦ったので、すっかり飢えてしまった。すぐにも食料を持って援軍にきておくれ)
宇陀地方では、神武天皇に味方する人たちばかりでなく、「宇陀の血原」といわれるほどの戦いもあったとされます。
神武天皇の意向を組んで、八咫烏はなるべくなら戦わずして味方を増やそうと、呼びかけたものとみられます。その伊那佐山を正面に仰ぐのが八咫烏(やたがらす)神社です。
そうした中で、八咫烏(やたがらす)は、しっかりと状況を把握し、適切な情報を神武天皇側にもたらした人物であったように思われます。フットワークの良さで、大和の諸氏族の間を駆け回り、流血の戦いを避けようと、説得してまわったのではないでしょうか?
 
大伴氏族と久米氏族 8

 

大伴氏族概観
○ 大伴氏族は、天押日命の後裔とされ、神武天皇より早い時期に紀伊に遷住してきた天神の一派で、山祇系の流れである。その系譜は、より具体的には神武創業の功臣、道臣命の後裔である。道臣命は紀州名草郡片岡邑の人であり、その功により大倭国築坂邑(高市郡北部。現橿原市鳥屋町辺り)に宅地を賜ったという。その祖天押日命について、瓊々杵尊の天降り随行という伝承があるものの、この氏族の遠祖には紀州土着の色彩が相当強い。この氏族の紀州在住時代に紀国造氏族(紀伊氏族。天御食持命後裔)を分岐した、というより、むしろこの氏族の方が紀国造氏族の一支族と位置づけられよう。こうした出自の影響か、大伴氏族の榎本連、丸子連、仲丸子連、宇治大伴連等が紀伊国で繁栄した。
○ 大伴氏族は、その発生段階から久米部や靫負を率いて宮門の警衛にあたる軍事職掌の氏族であり、倭建命の東征にも武日命とその子弟等が随行したが、何故か国造家は全く創出されていない。この氏族の分布は、中央では畿内及び紀伊などその周辺にあり、地方では東征随行の影響で陸奥にかなり広範にみられる。大伴氏族から神代に分岐したかのような系譜をもつ久米氏族は、実際には崇神前代に分岐した近い氏族だったとみられる。
○ 中央の大伴氏族では大伴連、佐伯連が代表的な存在であり、大伴連では雄略朝の大連室屋、その孫で武烈・継体など四朝の大連金村の時代が全盛期であったが、任那割譲問題の失政から勢力を失った。その後は、金村大連の子・阿被布古連の流れが大伴本宗家の地位にあり、金村の後の一時の低迷期から脱して、大化改新後の右大臣長徳の存在や壬申の乱の活躍などで、奈良朝には宮廷人として相当栄え参議以上の官職に昇る者もかなり見られた。阿被布古の兄・狭手彦の流れも、大和に根強く残った模様である。平安期に入ると、延暦の藤原種継暗殺事件で、死後間も無い家持ら大伴一族が主謀者とされて大打撃をうけたが、やっと立ち直った形の大納言伴宿祢善男が貞観八年、応天門の変で失脚し、平安中期以降は下級官人化して長く存続した。伴氏最後の参議保平とその兄弟が平安中期に朝臣姓を賜ったが、官人としては狭手彦の流れも平安中期まではみられる。この二流も含め大伴氏族で「大伴」の名を冠する姓氏は皆、弘仁十四年四月淳和天皇の諱を避けるため「伴」に改められた。大伴氏族の支族が改賜姓して単に伴宿祢姓となる類例があり、伴大田連、伴良田連、山前連、林連、伴林宿祢からの改姓が史書に見える。
○ 平安中期以降、中央の大伴氏族が地方に土着化したという伝承がいくつかみえるが(ないしは、そのように称されるが)、これら地方の大伴氏族は、実際にはその殆ど全てが系譜仮冒であろう。その中では三河(駿河麻呂あるいは善男の後裔と称。後に三河から近江の甲賀に分かれたものがあり、両国で繁栄する。なお、この三河の伴氏について景行天皇後裔の大伴部直姓と太田亮博士はみているが、祭祀の継承等も含め、その可能性もあろう)や、甲斐(金村の子・磐の後裔と称)、伊豆(大納言善男が配流されて彼地に遺した胤の後裔と称)、薩摩(肝付等の諸氏で善男の子・中庸の後裔と称するが、おそらく当地の古族の末か)などの地で繁栄しており、このほかでも甲賀の鶴見氏、平松氏や出雲の朝山氏、伊予の大野氏等も大伴姓を称した。逆に、大和の大伴氏族の流れは、大和源氏(清和源氏頼親流)のなかに入り込んだ模様で、源姓を称した中世大和南部の大族越智氏も実際には大伴氏族の流れをなんらかの形でうけたものか。
○ 大伴氏族及びそれから発生した主な苗字をあげると次の通り
(1) 本宗家……大伴連(録・左京、河内未定雑姓)、大伴宿祢(録・左京)、伴宿祢(関係の主要苗字は後掲)、伴朝臣(小野、石塚、豊田、畑−京官人、主殿寮。尾崎−桂宮諸大夫。大伴−相模国鎌倉の鶴岡八幡宮神主家。小林−相模国鎌倉郡小林郷より起る)。
伴宿祢については、支族から改姓してきたものも上掲のようにかなりある。本宗家の伴宿祢から発生したと称する主要苗字には、疑問ありのものも含めて掲げると、
伊豆国人の石井、吾曽、阿美、大川、入江、住友。この系統は大納言善男の後とされるが、豊前守伴朝臣為国の近親から出た可能性もある。
三河系統は、三河国碧海・幡豆郡に起った大伴部直(景行天皇後裔と称したが、実際には鴨氏族で三野前国造族裔か)の後裔という可能性が大きいが、伴朝臣姓を称。三河では東部の八名・設楽郡に移って発展した。また、近江国甲賀郡にも分れて繁衍したといい、甲賀武士として知られる。その一族としては、大屋、幡豆、冨田−三河国幡豆郡人。中条、大林−同加茂郡人で、中条は加茂郡猿投神社祠官にもあり。長沢−同宝飯郡人。八名、宇利−同八名郡人。設楽−設楽郡人で大族、菅原朝臣姓とも称。富永、黒瀬、塩瀬、野田−設楽郡人。三木−同碧海郡人。土井〔土居〕−三河国額田郡針崎土井村より起る、武家華族。夏目−設楽郡に起り幡豆郡に遷、幕府旗本にあり、称清和源氏伊那一族。寺部−同宝飯郡国府八幡神主、また称源姓。高松、沢田、伊与部、八椚、宮永、柴山、栗田、種田−三河人。桑原−遠江人。甲賀の伴氏一族は、平安末期に三河伴氏から分れたといい、系図でも甲賀郡大原村に住んだ資乗を祖とするが、再考を要する。立川氏文書の応和三年四月の甲賀郡司解状に甲賀郷長伴宿祢資守等が見えており、この文書が正しければ早い時期から伴宿祢氏が甲賀地方にあったことが知られる。その場合、資乗が三河出自とはいえず、また甲可公族裔の仮冒の可能性もあろう。伴、大原、小佐治、笹山〔篠山〕、柏木、勝井、広森、向山、繁見、岡、中井、上田、馬杉、滝川、高屋、鷹水、毛牧、上野、大鳥居、山岡、垂井、滝〔多喜〕、沢、小谷、和田、中上、木全、奈良崎、櫟野〔市野〕、内田、関野、市場、増井、亀井、岩野、増田、竹林、木村、小泉、大口、石部−近江国甲賀郡及びその周辺に住。池田−尾張人で滝川一族、武家華族。中村−甲賀郡人で、中村一氏の家か。
薩隅系統の肝付〔肝属〕の一族で、文書等には伴朝臣姓を称。おそらく実際の出自は葦北国造族の伴部姓とみられるので、吉備氏族の葦北国造関係を参照のこと。梅北〔梅木田〕、救仁郷(源姓渋川一族と称するのも同じか。中世、諸県郡飯隈山別当を世襲)、北原、馬関田〔馬瀬田〕、検見崎、萩原、前田、安楽、津曲、永田、岸良、橋口、野崎、河南、鹿屋、三俣、山下、川北、川南、頴娃、加治木、小野田、薬丸、荒川、城ケ崎、内之浦、榎屋、慶田、二方、窪田、小城、柳田など−大隅国肝属郡人の肝付とその一族で、薩隅日に広く分布。出水〔和泉〕など−薩摩国出水郡人。宮里、高城−薩摩国高城郡人。武光〔武満〕、寄田−同州薩摩郡人。白坂−日向人。武雄−肥前国武雄社大宮司。
(2) 大伴支族……大和南部の高市・葛城郡から紀伊国にかけての分布が濃密。
大伴山前連(録・和泉)、山前連、家内連(録・河内)。
大田部連、大伴大田連、大伴大田宿祢(録・右京)、伴大田宿祢、大伴良田連、伴良田連、宇治大伴連、伴連(同上族。和佐−紀伊国名草郡和佐より起る。小倉−紀州那賀郡人、両者とも称大伴姓。那賀郡の大伴姓の三毛、奥氏や伊都郡の竈門明神祠官の竈門も同族か)、神私連(録・左京)、大伴櫟津連、大伴若宮連。
大伴朴本連、榎本連(録・左京。榎本−紀伊国牟婁郡熊野人で新宮党、武蔵下総相模に分る。田井−紀州牟婁郡人)、榎本宿祢(榎本−江戸期に蓮華光院門跡の坊官・侍、称越智姓。なお、山城国乙訓郡の鶏冠井は族裔か、土佐陸奥に分る。なお、室町期の大族上杉氏も族裔か)、榎本朝臣(有馬−牟婁郡有馬に起る、産田神社祠官)、丸子連(石垣−紀伊国熊野新宮の人。宇井〔鵜井〕−熊野人、下総国香取郡に分る。前田−紀伊国人、また伊勢国安濃郡前田村より起るのもあり。三河の鳥居も同姓という)、丸子宿祢(片岡−常陸国人。丸〔麻呂〕−安房国朝夷郡丸郷より起る。安房の丸一族として、珠師ケ谷、原、宮下、石堂、岩糸、前田、神子上〔御子神〕などがあげられる)、仲丸子(録・大和)、仲丸子連(紀州牟婁郡林浦の仲、別当は族裔か)、仲宿祢。ただ、丸子連及び仲丸子連は、その氏の名からも海神族の色彩が強く、系譜仮冒があって、実際には高倉下系か和邇部氏族の出であったのかもしれない。(この辺り、要検討。本HPの「丸子部と丸部」を参照)
佐伯連(米多比−室屋大連末流で佐伯姓というが、筑前居住か)、佐伯宿祢(録・左京。佐武−紀伊国鷺森人。佐伯、笠原−武蔵国埼玉郡人、実際には武蔵国造族後裔かその跡を襲ったか。武笠−武蔵国足立郡女躰社神主、笠原同族か。なお、相模国大住郡の大族で藤原北家流を称した糟屋〔糟谷〕氏も、佐伯氏の出かという説もあるが、これには疑問もないではない。あるいは称小野姓横山党と同族か。糟屋は播磨国加古郡に分れたが、その一族としては、相模に大山、朝岡、四宮、城所、大竹、櫛橋、善波、関本、新開、白根など。相模の波多野・松田・河村の一族については、後掲)。
林連、林宿祢(録・河内。林−紀伊国藤並庄に住)、伴林宿祢、高志連(録・右京、大和。高志−三河人)、高志壬生連(録・右京)、日奉連(録・左京。なお、夫婦木は室屋大連後胤で日奉姓と見えるが、居住地等不明)、佐伯日奉造(録・右京)、佐伯造(録・右京)、佐伯首(録・河内)、佐伯部。
大伴直、伴直(大伴直の改姓というが、別族の甲斐国造族後裔の可能性が大きい。古屋〔降矢〕−甲斐国八代郡浅間明神神主家。
以下は古屋同族で、甲斐国内に繁衍も、南朝の宮将軍等に従い西国に赴いた支族も見られた。伴、寺尾、清野、坂、印沢、岩間、八代、祝、井戸、成田、井上、高部、萩原、轟、大鳥居、百々、皆井、宮原、岩下、市部、丹沢、田部、八田、矢作、藤井、金丸、一宮、平井、大久保−同州八代郡人。岩崎、青島、清田、西保、野田−同州山梨郡人。西内−信濃国小県郡西内村より起る。大谷−周防国玖珂郡大谷に住。坂−安芸国安芸郡に住)。
佐伯氏関係の苗字の殆どが、相模の波多野一族出自のものであるが、これには疑問も残る。波多野をはじめ、以下にあげる一族は秀郷流藤原氏の猶子となった祖先をもつことで藤原姓も称するも、実際には相模の古族の出の可能性もありか。波多野〔秦野〕−相模国大住郡波多野邑より起り、一族多く丹波、因幡、能登、石見、陸奥等に分る。石見から長門に遷住した波多野氏からは広沢伯爵家を出す。松田−相模国足柄上郡松田庄より起り、相模、備前、丹波、出雲等にあり。広沢−武蔵国足立郡広沢郷に起り、備後国三谿郡に遷。その一族は和智〔和知〕を本宗として、湯谷〔柚谷〕、江田、余谷、辻子、玉松、宮地、末永、上村、廻神、得尾、黒川、尾越、有福、新見、安田、上原、太田、国富、田利−同じく三谿郡の広沢一族。横尾−肥後人、波多野男爵家を出す。柳川、葉山、岩原、西嶋、松本−甲斐人。佐藤、大友、薗部、沼田、鮎川、平沢、栢山、曽木、菖蒲、荒川、牧田、金村、大槻、小磯、餘綾、松方、緑野、川尻、中嶋、酒井、石田、白川、渋沢、野尻、四井−相模等に住。安木−出雲国能義郡に住。河村〔川村〕−相模国足柄郡河村郷より起り、陸奥、越後、伯耆等に分る。荒河、垂水−越後国岩船郡の河村一族。関原−同州三島郡人。河島〔川島〕−山城人。茂庭−陸奥名取郡の河村一族。大萱生〔大ヶ生〕、栃内、日戸、玉山、下田、沼宮内、川口、渋民−河村一族で陸奥の紫波・岩手郡等に住。松並−上北面、斎藤道三を出す。中嶋−伊勢人。荒木−摂津国人荒木村重の一族、伊勢の荒木田神主の族人が入る。石尾−摂津荒木一族。木曽−信濃国木曽人、源義仲末裔と称するも、実際には沼田の族かと推される。信濃の木曽一族には、三富野、野路里、上松、清水、高遠、安食野、上野、黒川、馬場、贄川、三尾、古幡、千村、立石、奈良井、小野川、妻籠などの諸氏で、千村は上野国に起る。
大和国高市郡の大族越智氏は、散在党の刀禰で鎌倉後期から現れ、同郡越智の貝吹城を本拠として源姓を称した。その出自については古来、大和源氏説、物部一族越智姓説(河野一族説も含む)、紀ないし橘姓説などがみられるが、その一族分布や祭祀行動(九頭竜神奉斎)などを考察すると、大伴氏族の出自(狭手彦流大伴大田連改姓の伴宿祢姓か)とみるのが比較的妥当なようである。越智一族は高市・葛城郡に多く分布して、米田、堤、弓場、吉岡、下、楢原、鹿野園、南郷、玉手、坊城、鳥屋、加留〔賀留〕、大嶋、添田、出垣内、根成柿、高取。大和源氏と称した麻生、太田〔大田〕、二河、楊梅、竹田、峯田も早く分れた一族か。また、散在党の池尻、五条野、興田〔奥田〕、松山、脇田、曲川、南脇、小嶋〔子嶋〕、江堤、庭田などの諸氏も同族かそれに近い存在であったとみられる。
(3) 奥羽の大伴支族では、牡鹿郡本貫の本姓丸子氏で恵美押勝の乱に大功をたて陸奥大国造となった道嶋宿祢が著名であるが、その後裔は知られない。
この関係の大伴支族(そう称するものも含む)では、大伴部(陸奥名取郡の名取熊野三社社家の大友氏は族裔か)、靱大伴部、靱大伴連、靱伴連(陸奥黒川郡の式内行神社神主家千坂氏は族裔。なお、同郡の大族で、称源姓の黒川氏も族裔か。黒川一族には相川、大衡、八谷)、大伴行方連、大伴苅田臣(苅田〔刈田〕−陸奥刈田郡人。白石−同族で、途中伊達氏からの入嗣もあって、江戸期には伊達を号し登米伊達家という)、大伴柴田臣、大伴白河連、五百木部、大伴亘理連、丸子部、大伴安積連(安積−陸奥国安積郡飯豊和気神社祢宜。鈴木−同上族。陸奥の鈴木氏は熊野の鈴木氏の後と称するものの、実際には殆どがこの同族ではなかろうか)、大伴山田連、大伴宮城連(会津耶麻郡の宮城氏は族裔か)、丸子、牡鹿連、牡鹿宿祢、道嶋宿祢(陸奥桃生郡の照井は族裔か)、大田部、白髪部。
なお、栗原郡の駒形根神社の祠官鈴杵氏は、大伴武日命の子の阿良比を祖と伝えて大伴姓を称したが、姓氏不明も、同族の末裔であろう(遠田郡の丸子部改姓の大伴山田連の族裔か)。出羽の平鹿郡式内の波宇志別神社神主大友氏も、藤原姓を称するも、陸奥の大伴部後裔とみられる。出羽の留守所職で飽海郡大物忌神社社司の丸岡、今井氏は丸子部(道嶋宿祢)の族裔ではないかとみられる。陸奥亘理郡の鞠子氏も同様か。
また、上野国住民で大伴部を賜姓した邑楽郡の小長谷部、甘楽郡の竹田部・糸井部も早くに分岐した大伴支族か。
久米氏族概観
○ 天津久米命後裔が「久米氏族」として一括される。この氏族は大和国高市郡久米邑を本拠とし、大伴氏族と警衛等の職掌上も、系譜・分布のうえでも密接な関係をもつ氏族であり、大久米命(道臣命と同人か)から出たと伝えている。大和朝廷における古氏族の一つであり、本来の姓氏は久米部か。また同国宇陀郡にも分岐して門部・漆部の職掌を、伊予・播磨等に分岐して山部の職掌を伝えた。
○ 久米氏族所伝の系図では明確ではないが、崇神前代ごろに大伴氏族と分岐した可能性が強く、それまでの各世代の先祖の名は大伴氏族の祖先の名と異なるものの、おそらく異名同人であろう。これらは安牟須比命の後裔とも称され、紀伊国造とも同族である。倭建命の遠征に随行した影響か、西国の国造家を多く出しており、久味国造(伊予国久米郡)、大伯国造(備前国邑久郡)、吉備中縣国造(備中国後月郡説があるも疑問。美作国とするのが妥当か)、阿武国造(長門国阿武郡)、淡道国造(淡路国)、天草国造(肥後国天草郡)の六国造があげられるが、いずれも神魂命(神皇産霊命)の後としてのみ「国造本紀」に記される。これら諸国造家では、淡道国造を除くと中世まで子孫を残したことは知られないが、伊予の久味国造の族裔は中世、東方の阿波西部の山間部に展開・遷住して、戦国期の三好長慶一族を出したとみられる。備前の大伯国造あるいは吉備中縣国造の族裔も、吉井川上流部の美作国英多郡さらには久米・苫田郡に定住し、その地を中心に立石・漆間の一族を出したとみられる(その場合、姓氏は漆部直か。大分国造及び物部氏族と称する漆部連も参照のこと)。久米の地名に併せ、美作二宮とされる高野神社(苫東郡。もと高野本郷鎮座か、高野丹生明神を祀るか)や天石門別神社(英多郡)の奉斎等から、このように考えられる。
○ この氏族の姓氏としては、久米直(録・左京、右京。久米−尾張熱田神人。坂田−大和国高市郡人)、久米連(長門国阿武郡の大井八幡宮祠官阿武氏は族裔か)、久米宿祢(松岡−尾張国山田郡松岡より起り、美濃国不破郡・近江・肥後に遷。秋山−尾張人。阪田、日野−近江人。久米、清渕、黒川−肥後人)、山部連(山部−近江国日野大宮人。市川、塩見、吉田−播磨人)、山部宿祢、山宿祢(三木、淡河−播磨国三木郡人)、門部連(録・大和)、門部直、興道宿祢、三使部直(安芸国高宮郡人で中縣国造末流)、浮穴直(録・左京、河内)、春江宿祢(浮穴−伊予人)、村部、田部直。淡道ノ凡直、波多門部造(録・右京。波多〔秦〕−淡路国三原郡波多郷人、大和大国魂社年預。阿間−住同郡阿間郷人、分れて遠江にあり。安間−遠江国引佐・長上郡人。矢部、長田、賀集、穴賀、庄田、広田、白山−波多同族で淡路国三原郡人。河上−同族で津名郡人)。なお、淡路史生で見える榎本直も淡道国造同族か。床石宿祢の後裔とされる漆部連は、「天孫本紀」に物部氏族出自とされるが、実際には大和の門部連支流とみられる。この一族には、漆部連、漆部造、漆部宿祢(和州宇陀郡の豪族で阿紀神社神主の秋山はその末流か)。
美作の立石・漆間の一族には、漆間〔漆島〕、稲岡、市−美作国久米郡人。立石−美作二ノ宮高野神主家。間島〔真島〕、片山、安東−同上族。久米−同州人、後三河に遷。南条、小鴨−伯耆人、称平姓)。
阿波国名方郡の久米氏は平姓(ないしは源姓)を称するが、もと伊予国喜多郡久米庄の居住といい、久味国造久米直の族裔とみられる。その一族には鳥野のほか、名方郡で平姓を名乗り同紋(立二引竜十文字)の宮任、浦、白鳥、高川原、箕局、徳里、行万の諸氏。
また、阿波三好一族で摂津島上郡に居城の芥川氏等の関係系図では、阿波の久米氏と同族で南北朝後期に分離したのが三好氏と伝え、阿波三好氏の成立時期(十四世紀後半の三好義長の曾祖父の代のころ)からも貴重な所伝と考える。そうすると、清和源氏で阿波守護小笠原氏の後とされる三好氏は、実際には久味国造の族裔で、阿波三好郡に遷住して起ったとするのが妥当となる。三好一族には、養嗣で入った氏も含めてあげると、前掲の芥川のほか、淡路の安宅、野口、讃岐の十河(その後に村田)や、板野郡の吉永、齋田、武田、馬詰(その後に亀田)、高志、美馬郡の大久保、岩倉、麻植郡の川田、那賀郡の椿、吉野や笹川など。名東郡の吉田、阿波郡の板東は十河の後と伝える。また、所伝・命名・分布などからみて、土佐嶺北長岡郡の雄族の豊永・小笠原も三好同族ではないかとみられる。三好郡祖谷山の喜多氏も、早くに分れた同族か。
これに関連して、喜多郡久米郷から出た大野氏は、大伴宿禰姓(称家持弟高多麻呂後裔)とも嵯峨天皇末裔ともいうが、内容的に疑問が大きく、おそらく久味国造末流であろう。大野は浮穴郡久万の大除城にも分れた河野氏の重臣で、喜多郡の一族には城戸〔木戸〕、菅田。この一族というものが伊予に多く、喜多、久米、今窪、伊賀崎、相津、一木など。
 
大伴氏と津守氏 9

 

はじめに
大伴氏と津守氏は元は同じ国衆だったと見え、その関係を検討してみる。
大伴氏は古代中央有力豪族だったのでその本貫とも言うべき地が、
1.「日本書紀」神武天皇二年春二月甲辰朔乙巳、天皇定功行賞 賜道臣命宅地 居于築坂邑(橿原市鳥屋町付近か)
2.「日本書紀」雄略天皇九年(465か)三月、(天皇が)大伴卿與紀卿等 同國近隣之人 由來尚矣 於是 大連奉勅 使土師連小鳥 作冢墓於田身輪邑(大阪府泉南郡岬町淡輪か)
3.「日本書紀」欽明天皇元年(540か)九月、大伴大連金村 居住吉宅(大阪市住吉区帝塚山か) 稱疾不朝
4.「大伴の御津の浜」(大阪府大阪市中央区難波か)(「万葉集」1-63・68)や「大伴の高師の浜」(大阪府高石市か)(同1-66)
などが古典に散見し、後世の大和国、摂津国、河内国、和泉国など大阪湾沿岸と大和に拠点があったらしい。
一方、津守氏と言えば、
「日本書紀」神功皇后摂政前紀に、於是 從軍~表筒男 中筒男 底筒男 三~誨皇后曰 我荒魂 令祭於穴門山田邑也 時穴門直之祖踐立 津守連之祖田裳見宿禰 啓于皇后曰 ~欲居之地 必宜奉定 則以踐立 爲祭荒魂之~主 仍祠立於穴門山田邑、とあり、津守連之祖田裳見宿禰は神功皇后の新羅討伐に従軍していたのか。その根拠地としては、
1.「住吉大社神代記」に、大神重宣。吾欲住居地。渟名椋長岡玉出峡(「日本書紀」では大津渟名倉長峡)。時皇后勅。誰人知此地。今令問賜地。手槎足尼(「日本書紀」では田裳見宿禰)居住地也、とあって、渟名椋長岡玉出峡に住まいがあったように書かれているが、この渟名椋長岡玉出峡(大津渟名倉長峡)には二説あって今の「本住吉神社」の地なのか「住吉大社」の地なのかはっきりしない。多数説は、「住吉大社」説のようである。無論、「住吉大社神代記」は住吉大社の人が作成したものであろうから、「住吉大社」説であろうかと思われる。
2.「新撰姓氏録」によると津守氏は火明命を同祖とするが、大きく分けて摂津国の津守宿禰(大御日足尼之後也)と和泉国の津守連(天香山命之後也)がいたようである。大伴氏と同様に摂津国と和泉国に勢力があったか。ただ、少し気になるのは、
摂津国津守宿禰は、
「摂津国 神別 天孫 津守宿祢」
「摂津国 神別 天孫 六人部(むとべ)連」
「摂津国 神別 天孫 石作連」とあり、
和泉国津守連は、
「和泉国 神別 天孫 石作連」
「和泉国 神別 天孫 津守連」とあり、
いずれも津守氏と石作氏がセットで出てきていることである。
石作氏は石工のことであり、津守氏は言われているような「港の管理者」ではなく、「土盛(つちもり)」の「ち」が欠落したものではないか。即ち、津守氏は土工のことを言ったものか。端的に言うと、津守氏と石作氏は古墳築造の現場監督(伴造)とも言うべき人たちで、摂津国津守宿禰は摂津国の古墳(例、西求女塚古墳等)築造に関わり、和泉国津守連は和泉国の古墳(例、百舌鳥古墳群)築造に関わったのではないか。
以上を概括すれば、両氏が同じ国衆だったと言っても、地域をまとめた豪族だった大伴氏は中央大豪族になり、津守氏は在地中小豪族の道を進んだのであろう。津守氏が「記紀」に出てくるようになったのも、「記紀」制作時に遣唐使の神主として活躍していた津守氏が住吉津から新羅国までの寄港地に住吉神社を建て、神威発揚をはかったからではないのか。後世、津守氏一族に外交使節として海外に派遣された人が多いのは遣唐使の神主としての海外渡航経験がものを言ったのではないか。
大伴と津守の地名
1.大伴の地名
淳和天皇の即位後は天皇の諱「大伴」を避けて公式の地名には「大伴」という地名はなくなったようである。「大伴の御津の浜」や「大伴の高師の浜」は「万葉集」に出てきても公式の地名ではない。そこで、住吉神社のある摂津国で大伴や住吉に関係のある地名を見てみると、奈良時代には摂津国八部郡や莵原郡は雄伴国(莵原郡と八部郡をあわせたもの)とか雄伴郡宇治郷(八部郡)と言われていたようである。大伴と雄伴はどのような関係にあるのかと言えば、一説では地名の先頭につく「大」とか「雄」はいわゆる接頭語(単なる美称か)で特別な意味を持たない、と言う。大伴、雄伴は「伴」に字義があり、トモとはトビの転で崖を言うと説く。また、字義を認めるとしても、大と小(を、雄)を意味するが地名で大・小が対で出てくる例は少ないという。この説によると「大伴」も「雄伴」も同じ語と言うことである。現在の神戸市と大阪市に大伴ないし雄伴の地名があったと言うことである。なお、摂津国西成郡雄惟郷と書かれた写本があり、「雄惟」は「雄伴」の誤写とする見解がある。文献的に雄伴郡が出てくるものとしては、
・法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(天平19年(747)2月11日)に「摂津国雄伴郡」
・「摂津国風土記」逸文(釈日本紀)に「雄伴郡、夢野あり」「雄伴郡、波比具利岡」
・「住吉大社神代記」に「兎原郡元名雄伴国」
などがある。
なお、摂津国に大伴や雄伴という地名の痕跡はあるが「新撰姓氏録」には大伴氏は見当たらない。「栄枯盛衰世の習い」とはこのことを言うか。
2.津守の地名
津守の地名は大伴に比べ全国に散在している。「和名抄」によると、
肥後国詫麻郡津守郷
豊後国大分郡津守郷
越前国敦賀郡津守郷
摂津国西成郡津守郷
摂津国兎原郡津守郷
遠江国敷智郡津毛利神社(祭神住吉三神・綿津見三神)
肥後国詫麻郡津守郷は現在では内陸の地であるが、ほかの津守郷は現在でも海に面しているか海に近いところにある。いずれの地にも有力な津守(港の管理者)がいたから津守郷となったものであろうか。地名が摂津国の二ヶ所を除いて関係のないところにあるので、各々の津守郷に「津守」姓の人がたくさんいるならともかく、そうでないのならやはり地形地名と考えた方がいいのではないか。津守は前述したが「土盛(つちもり)」の意で土の盛り上がったところ、段丘、微高地などを意味するのではないか。高く盛り上がった墳墓などもその中に入るのではないかと思う。ここで問題になるのは摂津国の両津守郷だが、一般には伝播地名と解されているようだ。即ち、兎原郡津守郷と西成郡津守郷は無関係ではないと言うことである。津守の地名がどちらからどちらへ伝播したかははっきりしないが、あるいは、多数説は西成郡津守郷が原生地名と解しているもののようである。
3.住吉の地名
住吉の地名も「記紀」神功皇后段で華々しく取り上げられている割には地名としては少ない。以下、例によって「和名抄」から拾ってみると、
摂津国住吉郡
摂津国兎原郡住吉郷
播磨国明石郡住吉郷
播磨国賀古郡住吉郷
播磨国賀茂郡住吉郷
長門国阿武郡住吉郷
とあるが、摂津国住吉郡と摂津国兎原郡住吉郷を除いては住吉大社の社領や神戸のあるところだという。現在では600社あると言われる住吉神社も当時はたいしたことはなかったのだ。そこで、大伴、津守、住吉の三地名から共通のものを拾ってみると、
・大伴
雄伴郡宇治郷(八部郡)
「大伴の御津の浜」や「大伴の高師の浜」
・津守
摂津国兎原郡津守郷
摂津国西成郡津守郷
・住吉
摂津国兎原郡住吉郷
摂津国住吉郡
大伴、津守、住吉の三地名は現在の神戸市と大阪市にそれぞれセットになってある。特に、摂津国兎原郡には住吉郷も津守郷もある。このような観点から見てみると、これらの地名の原生地名は摂津国兎原郡ないし雄伴国にあったのではないか。
まとめ
大伴氏と津守氏は邪馬台国の時代から行動を共にしているらしく、その動きを見てみると、
1.大伴、津守の地名が摂津国から発していることから同国の最古の古墳と見られる「西求女塚古墳」についても両氏があるいはいずれか一方がからんでいるかと思われる。前述したように津守氏と石作氏は古墳の築造者と思われ、「西求女塚古墳」の場合、前方後方墳なので方墳は出雲国の「四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)」に代表される日本海側の古墳型であり、その築造には日本海側の指導者の指揮監督があったのかも知れない。具体的には、総指揮者には難升米、土木工事総監督には都市牛利、石材工事総監督には伊声耆、土木工事現場監督には津守氏、石材工事現場監督には石作氏が当てられ着工したのではないか。難升米、都市牛利、伊声耆の諸氏は因幡国ないし但馬国の指導者ではなかったか。おそらく、これらの現場監督(当時の言葉では伴造)クラスの人が技術を習得し各地の古墳築造の際中央から派遣されたのではないか。これらの人がいかなる思想の下に「前方後円墳」や「前方後方墳」を開発したかは分からないが、日本では縄文時代の貝塚、土壙墓では穴を掘り遺体を埋葬する穴の形はほとんど円形か方形だった。覆土は穴の形と同じになるので外見上の形は円形墓や方形墓がほとんどだったと思う。その延長上で中国の厚葬思想も加わり、円墳と方墳を合体し、土盛りを大がかりにして石材を使って石室などを設け、外には埴輪を立て並べ、内には鏡・装身具・武器・農工具などを副葬した。「西求女塚古墳」はそのハシリのものと言える。ただ、前方後円墳と前方後方墳を現代的に比較してみると前者は女性のための墳墓で後者は男性のための墳墓のような気がする。即ち、はじめは古墳も男性用と女性用に別々に設計されたのかも知れない。
「西求女塚古墳」が築造される前の摂津国兎原郡は邪馬台国・狗奴国戦争の主戦場(勝手な私見)になり荒廃が著しかったのではないか。そんなところにご先祖様の墓を建てる人も建てる人だ、と言うことになるのだろうが、築造後のメインテナンスも気がかりなところだ。神戸市教育委員会の見解によればあたりに大型の集落遺跡はないという。陵戸(りょうこ)などという人々はいなかったと思われる。
2.「西求女塚古墳」の被葬者は誰か
結論から言えば、(1)大伴氏の一族か(2)山陰地方の豪族になろうかと思われる。その場合 (1)の場合は、系図で見ると大伴武日の父の豊日命 (2)の場合は、天日槍命、丹波道主命、難升米、都市牛利、伊声耆などが考えられ、特に、天日槍命は有力だ。
邪馬台国時代の現在で言う阪神間は集落、人口等も少なく、領民は会下山遺跡とか城山遺跡とかの高地性集落に逃げ回っていたようだ。但し、会下山遺跡や城山遺跡は紀元前一世紀から紀元後一世紀の間の遺跡で倭国大乱や邪馬台国とは関係がない、と言うのが正論のようだ。あるいは、一時避難場所としては利用していたのかも知れない。とは言え、大伴氏は戦闘の矢面に立たされ、兵力の確保に心血を注いでいたことは間違いないことと思う。やや大袈裟に言うと「またも負けたか八連隊、それでは勲章九連隊」はその頃から始まっていた。しかし、そこは「捨てる神あれば拾う神あり」で大伴氏には山陰方面(因幡、但馬、丹波)から救援隊が駆けつけたと思われる。「播磨国風土記」の天日槍命と伊和大神のもめ事の実体は大伴氏の援軍にやって来た天日槍命が伊和大神を撃破したと言うところにあるのではないか。
摂津国の古い古墳では墳丘やその周辺から山陰地方特有の土器などがみつかっている、と言うのも、山陰からの来援を示唆しているのではないか。また、古墳築造に山陰の人が大きな役割を果たしたか。住吉というのは元は墨江(すみのえ)と言い、川を意味しているという。大伴氏も弥生時代初めの頃までは川漁師だったのかも知れない。今でもそうだが当時は兵粮は戦争の重要課題で、魚を主体とした日本人の嗜好に合った大伴氏の兵粮政策が効を奏したのではないか。そのお礼に山陰の土器などが贈られたのではないか。神戸市教育委員会の見解によると「ところで西求女塚古墳では葺石や基底石などはこの周辺でとれる花崗岩が使われています。また、石室の天井石に使われている石材のうち緑泥片岩(りょくでいへんがん)は和歌山県や徳島県で、石英斑岩(せきえいはんがん)は猪名川(いながわ)上流の川西市近辺でしかとれないものです」とある。後世の大伴氏の勢力版図からして被葬者は地元の人で大和国とも関わりがあると言うことを考慮すると大伴氏と言うことになるのではないか。ただ、石に固執すれば、石材工事総監督の伊声耆の選もなくはない。
3.雄伴国から住吉郡へ引っ越した理由
真っ先に考えられるのは戦争による地域の荒廃であろう。おそらく戦は一度や二度ではなく一進一退を繰り返しながら長期間行われたものと推測される。戦い終わって日が暮れて明けてみれば残骸の山、と言うのが実情だったと思う。大伴氏も重臣たちと対策会議を開いたが、復興には莫大な費用と人手がかかると言うことで住吉神の遷宮と相成ったのではないか。
次に考えられるのは、領主である大伴氏と重臣の関係である。我々が文献で知るのは大伴氏と津守氏の関係だけであるが、住吉神社が摂津国兎原郡と摂津国住吉郡にあるというのも何か分裂を連想させるものがある。即ち、移転を主張した領主大伴氏と一の重臣津守氏に対して、古色蒼然と旧弊を主張するグループがあったのではないか。移転組は住吉神を遷宮し、住吉郡開発に鋭意努力した。残留組は西求女塚古墳の保守管理にこれ努めたのではないか。本住吉神社が「延喜式」に記載のないのは墓の管理事務所という位置づけだったからではないのか。今でも天皇の御陵には管理人が常駐する管理所みたいなのがある。本住吉神社と西求女塚古墳は離れすぎと言う見解があるかも知れないが、管理人とて日常生活に便利なところに住むだろうから、当時はこのくらい離れていたのだろう。
4.大伴氏と津守氏はなぜ袂を分かったか
大伴氏が住吉郡にいたのはほんの僅かの期間で、すぐに大和国へ引っ越したようである。大伴氏は住吉郡には一族もいなければ管理すべき物件もなかったようである。大伴金村が引退後「住吉宅」に住んだではないかと言う人がいるかも知れないが、一説によると当時の中央政府は住吉の開発に力を注ぎ、多くの貴族が当地に別荘を持っていた、と言う見解もある。従って、住吉の地が特段大伴氏の支配地でもなく、大伴金村が引退後別荘を建てたのかも知れない。帝塚山古墳(4世紀末〜5世紀初頭)は大伴金村父子の墓説があるが、時代的には大伴武以の墓が妥当とする見解があるようだ。大伴氏も武日(移転を敢行した本人か)、武以の頃までは住吉郡に在住していたのか。
一方、津守氏はと言えば百舌鳥古墳群(4世紀末ないし5世紀初頭から6世紀後半頃)の築造が一段落するまでは古墳築造に専念し、その後、大伴氏も完全に大和国に引っ越して、住吉大社の神主業に専念したのではないか。そもそも、津守氏は自前の神社《大海神社(延喜式神名帳に「大海神社 二座 元名津守氏人神」とある)》がありながら、大社とは言えあまり関係がなさそうな「住吉大社」を祀っている意味が分からない。元領主の神社と言ってしまえばそれまでだが、「記紀」では神功皇后に押しつけられ、「私見」では景行天皇に押しつけられて祀ることになったのではないかと思われる。従って、住吉郡に引っ越してきた頃には両氏は進む道を異にし疎遠になったのではないかと思われる。 
 
大伴家持 10

 

養老2年(718)頃ー延暦4年(785)  奈良時代の貴族・歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言家持。『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父・安麻呂、父・旅人と同じく律令制下の高級官吏として歴史に名を残すを生き延び、延暦年間には中納言まで昇った。
父・旅人が大宰帥として大宰府に赴任する際には、母・丹比郎女、弟・書持とともに任地に従っている。後に母を亡くし、西下してきた叔母の大伴坂上郎女に育てられた。天平2年(730年)旅人とともに帰京。
天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)藤原広嗣の乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。天平17年(745年)に従五位下に叙せられ、翌天平18年(746年)3月に宮内少輔、次いで6月に越中守に任ぜられて地方官に転じる。赴任中の天平21年(749年)従五位上に昇叙される一方で、223首の和歌を詠んだ。
天平勝宝3年(751年)少納言に任ぜられて帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔、天平勝宝9年(757年)兵部大輔と孝謙朝後半は兵部省の次官を務める。この間の天平勝宝7年(755年)難波で防人の検校に関わるが、この時の防人との出会いが『万葉集』の防人歌収集につながっている。天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱では、越中国赴任時に深い交流を持った大伴池主を始めとして大伴古麻呂や大伴古慈斐ら一族が処罰を受けたが、家持は謀反に与せず処罰を免れる。しかし、乱の影響を受けたものか、翌天平宝字2年(758年)に因幡守に任ぜられ再び地方官に転出。翌天平宝字3年(759年)正月に因幡国国府で『万葉集』の最後の和歌を詠んだ。
天平宝字6年(762年)信部大輔に任ぜられ京官に復すが、淳仁朝で権勢を振るっていた太師・藤原仲麻呂に対して、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と暗殺計画を立案する。しかし密告により計画は露見し、天平宝字7年(763年)に4人は捕えられてしまう。ここで藤原宿奈麻呂が単独犯行を主張したことから、家持は罪に問われなかったものの、翌天平宝字8年(764年)正月に薩摩守へ左遷される報復人事を受けた。
なお、九州に下向していたためか、同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱での動静は伝わらない。その後、神護景雲元年(767年)大宰少弐に転じ、称徳朝では主に九州地方の地方官を務めている。
神護景雲4年(770年)9月に称徳天皇が崩御すると左中弁兼中務大輔と要職に就き、11月の光仁天皇の即位に伴って、21年ぶりに昇叙されて正五位下となる。光仁朝では式部大輔・左京大夫・衛門督と京師の要職や上総・伊勢と大国の守を歴任する一方で、宝亀2年(772年)従四位下、宝亀8年(777年)従四位上、宝亀9年(778年)正四位下と順調に昇進する。宝亀11年(780年)参議に任ぜられて公卿に列し、翌天応元年(781年)には従三位に叙せられた。
桓武朝に入ると、天応2年(782年)正月には氷上川継の乱への関与を疑われて解官されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。しかし、早くも同年4月には罪を赦され参議に復し、翌延暦2年(783年)には先任の参議であった藤原小黒麻呂・藤原家依を越えて中納言に昇進する。また、皇太子・早良親王の春宮大夫も兼ねた。さらに、延暦3年(784年)には持節征東将軍に任ぜられて、蝦夷征討の責任者となる。翌延暦4年(785年)4月には陸奥国に仮設置していた多賀・階上の両郡について、正規の郡に昇格させて官員を常駐させることを言上し許されている。
同年8月28日薨去。最終官位は中納言従三位兼行春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍。兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために滞在していた陸奥国で没した、あるいは遙任の官として在京していたとの両説がある。したがって死没地にも平城京説と多賀城説とがある。
没した直後に藤原種継暗殺事件が造営中の長岡京で発生、家持も関与していたとされて、追罰として、埋葬を許されず、官籍からも除名された。子の永主も隠岐国への流罪となった。なお、家持は没後20年以上経過した延暦25年(806年)に恩赦を受けて従三位に復している。
歌人として
長歌・短歌など合計473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。『万葉集』卷十七〜二十は、私家集の観もある。『万葉集』の最後は、天平宝字3年(759年)正月の「新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事(よごと)」(卷二十-4516)である。時に、従五位上因幡守大伴家持は42歳。正五位下になるのは、11年後のことである。『百人一首』の歌(かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける)は、『万葉集』には入集していない。
勅撰歌人として、『拾遺和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に60首が採られている。
太平洋戦争中に玉砕を報せる大本営発表の前奏曲として流れた「海ゆかば」(作曲:信時潔)は、家持の「賀陸奥国出金詔書歌」(『万葉集』巻十八)に拠る。
歌人大伴家持
聖武天皇が譲位して上皇となり、孝謙天皇の世に変わると、藤原武智麻呂の子仲麻呂が女帝に接近して権力を握り、政敵の追い落としをするようになる。最大の標的は橘諸兄だった。政治的に諸兄に近かった大伴家持は、世の中の変化に敏感にならざるを得なくなった。
橘諸兄がさる事件をきっかけに失脚し、ついで聖武上皇が死すると、家持にとっては更に耐え難い事件が起こった。一族の大伴古慈斐が淡海三船(弘文天皇の孫)とともに、朝廷を誹謗したという理由でとらえられたのである。
家持は、この事件の背後に仲麻呂の影を感じ取って、恐れおののいた。いつ自分の身に災いが及ばないとも限らないと考えたのである。
そこで、家持は一篇の長歌を作り、一族に訴えた。それは同時に、現政権に対して二心ないことを訴える目的も持っていたと考えられる。ここにも、家持の伴造意識が表れている。
―族(やがら)を喩す歌一首、また短歌
  久かたの 天の門(と)開き 高千穂の 岳(たけ)に天降(あも)りし
  天孫(すめろき)の 神の御代より 梔弓(はじゆみ)を 手握り持たし
  真鹿児矢(まかこや)を 手挟み添へて 大久米の ますら健男(たけを)を
  先に立て 靫(ゆき)取り負ほせ 山川を 岩根さくみて
  踏み通り 国覓(ま)ぎしつつ ちはやぶる 神を言向け
  まつろはぬ 人をも和(やは)し 掃き清め 仕へまつりて
  蜻蛉島(あきづしま) 大和の国の 橿原の 畝傍の宮に
  宮柱 太知り立てて 天の下 知らしめしける
  天皇の 天の日嗣(ひつぎ)と 次第(つぎて)来る 君の御代御代
  隠さはぬ 赤き心を 皇辺(すめらへ)に 極め尽して
  仕へくる 祖(おや)の職業(つかさ)と 事立(ことた)てて 授け賜へる
  子孫(うみのこ)の いや継ぎ継ぎに 見る人の 語り継ぎてて
  聞く人の 鑑にせむを 惜(あたら)しき 清きその名そ
  疎(おほ)ろかに 心思ひて 虚言(むなこと)も 遠祖(おや)の名絶つな
  大伴の 氏と名に負へる 健男(ますらを)の伴(4465)
反歌
  磯城島(しきしま)の大和の国に明らけき名に負ふ伴の男心つとめよ(4466)
  剣大刀いよよ磨ぐべし古ゆさやけく負ひて来にしその名そ(4467)
右、淡海真人三船(あふみのまひとみふね)が讒言(よこ)せしに縁りて、出雲守大伴古慈悲(こじひの)宿禰任(つかさ)解けぬ。是以(かれ)家持此の歌をよめり。
一篇は天孫降臨と神武東征から始まり、大伴氏の遠祖が「君の御代御代 隠さはぬ 赤き心を 皇辺に 極め尽して 仕へ」来たことを強調し、その「遠祖(おや)の名絶つな」と絶叫しているかのような調子である。ここに、家持の強烈な伴造意識と、家が断絶することへの恐怖が伺われる。
家持は俄かに弾圧されることはなかったが、因幡国守に左遷された。その直後、家持は万葉集の棹尾を飾るあの有名な歌を歌う。だがそれを節目にするかのように、家持はついに、歌うことをしなくなったのであった。
時代は移る。一時期権勢の限りを尽くした仲麻呂もやがて謀反の疑いで退くこととなり、その後は重詐した称徳女帝(先の孝謙天皇)が僧道鏡を重んじるようになった。日本の歴史上でも稀な、隠微な時代の到来である。
その時代、家持は何故か政治的に復活した。そして征東将軍の要職にも着くことができた。歌人であることより、武門の名誉を重んじた家持にとっては、この上ない喜びであったに違いない。
家持がこれほど心を砕いた武の名門大伴氏は、家持の死後数奇な運命をたどる。
家持の死の直前、藤原種継暗殺事件というものがおきた。これに大伴氏の一員継人が関与していたというので、累は一族に及んだ。
この事件は藤原氏による政敵追い落としのための陰謀だった可能性が高い。家持は事件の直後に病死し、事件には関与していなかったにもかかわらず、除名処分を受け、財産も没収されてしまった。その時の遺品の中に万葉集も含まれていたのである。
家持の名誉は、死後数年にして回復され、大伴氏も滅亡を免れた。
平安時代に入り、淳和天皇が即位すると、天皇のもとの名が大伴親王であったことをはばかって、大伴氏は伴と改姓した。清和天皇の時代には、伴の大納言として知られる善男が出て、歴史的な活躍をする。大伴氏としては、久々の高官であった。
しかし、善男は886年に発生した応天門の変に連座して失脚した。これも、藤原氏の陰謀であったといわれている。そこから先は、大伴氏が歴史の舞台を飾ることはなくなるのである。
大伴氏 家訓「海ゆかば」
「海行かば水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば草生(む)す屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ 顧みはせじ」
大伴氏(おおともうじ)は、日本の古代氏族。氏の呼称は平安時代初期に淳和天皇の諱を避けて伴氏(ともうじ)に改称。姓はもと連、のち八色の姓の制定により宿禰、平安時代中期以降は朝臣。
天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされる天神系氏族で、佐伯氏とは同族関係とされる(一般には佐伯氏を大伴氏の分家とするが、その逆とする説もある)。
「大伴」は「大きな伴造」という意味で、名称は朝廷に直属する多数の伴部を率いていたことに因む。また、祖先伝承によると来目部や靫負部等の軍事的部民を率いていたことが想定されることから、物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられている。なお、両氏族には親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏という違いがあり、大伴氏は宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていた
「海ゆかば」
万葉歌人大伴家持が越中国守時代に作った長歌の一節であり、大伴氏の言立て(誓い)であることはあまり知られていない。大伴氏の家訓と言われています。
『海行かば』(うみゆかば)とは、日本の軍歌ないし国民歌の一である。詞は、『万葉集』大伴家持作の長歌から採られている。作曲された歌詞の部分は、「陸奥国出金詔書」(『続日本紀』第13詔)の引用部分にほぼ相当する。
「海ゆかば」は昭和十二年軍靴の響き高まる中、国民精神総動員運動に呼応し、国民歌謡として作曲され、戦時体制への精神教化の歌・軍歌ともなりました。原詞は大伴家持の万葉集にあり、信時潔が作曲した荘重な調べの傑作で、太平洋戦争末期には大本営発表等での準国歌また玉砕報道の鎮魂歌(レクイエム)として放送されました。
天平21年(749年)陸奥国小田郡(涌谷町)から日本始出の黄金が、東大寺大仏鍍金のため、聖武天皇に献上されたことは史上に特筆される出来事で、天皇は黄金産出の報告に驚き喜び、産金を告げる宣命を出しました。越中国守として任国高岡にいた家持は、その宣命に大伴氏言立(家訓)が引用され、天皇が大伴氏の忠誠功績を讃えたことに感激し「陸奥国より金を出せる詔書」を賀ぐ長歌と反歌を詠みました。
反歌「須賣呂伎能 御代佐可延牟等 阿頭麻奈流 美知乃久夜麻尓 金花佐久(すめろきの みよさかえんと あづまなる みちのくやまに くがねはなさく)」はよく知られています。
長歌は五百三十二文字の長文で、その一節に「…海行者 美都久屍 山行者 草牟須屍 大皇乃敞尓許曽死米 可敞里見波勢自等許等大弖(うみゆかば くさむすかばね おおきみのへにこそしなめ かへりみはせじとことだて)…」(万葉集巻十八―四〇九四)と詠み天皇への忠誠を誓いました。
大伴氏は新興藤原氏の勢力に押されて凋落の一途の時で、家持は氏の長として一族の団結と奮起を促す気持を込めてこの歌を詠んだとされ、この一節が昭和前期、軍歌として放送され広く一般に歌われたのです。古代涌谷の産金を祝って万葉集編者大伴家持の詠んだ古歌が、昭和期に一世を風靡した国民歌謡「海ゆかば」の本歌であるという歴史を、郷土の文化財産として記憶に留め、語り継いで行きたいものです。
「海ゆかば」誕生秘話
戦時中、陸海軍部隊の玉砕の際などに、鎮魂歌としてラジオで放送され、人々の涙を誘った「海ゆかば」。今や、そのラジオ放送を聴いた人もほとんどが鬼籍に入り、歌える人も少ない。 戦時中、この歌は「君が代」に次ぐ第二国歌、準国歌なみの扱いを受け、国民に親しまれた。戦後、「天皇の側でこそ死のう。わが身を振り向くまい」という意味が災いして、軍国主義を助長したとして長く封印されてきた。
この歌詞が、万葉歌人大伴家持が越中国守時代に作った長歌の一節であり、大伴氏の言立て(誓い)であることはあまり知られていない。大伴氏の家訓と言えるだろう。
「海ゆかば」とは?
長歌は「陸奥の国より金を出せる詔書を賀く歌」(天平感宝元年五月十二日)。大仏造営に必要な金が産出されたことに喜んだ聖武天皇が、詔書の中で大伴氏の家訓を取り上げ、氏の先祖代々の功績をたたえたことに家持が感激し詠んだ。
長歌の中で家持も遠い祖先に思いをはせ、家訓を取り上げ歌う。「大伴氏は勇敢な男の清らかな名を今に伝える一族だ。家訓を守り天皇に仕えるのが役目だ。手に弓を、腰に剣を帯びて朝夕に天皇をお守りするのは大伴氏をおいて他にいない」
飛鳥時代以前、古代豪族は家柄に応じて職務を分担し、天皇家を支えてきた。蘇我氏は財政、物部氏は司法・警察、阿倍氏は外交、中臣氏は祭祀(さいし)などである。大伴氏は天皇家直属の重臣として“近衛兵”を率いて天皇家を守った。武門の家だった。
「大君の辺にこそ死なめ」「みかどの守り、われをおきて人はあらじ」。大伴氏の遠い先祖から受け継いだ、この“血の信念”を家持は終生持ち続ける。
越中国守の任を終え、奈良の都に帰った家持を待ち受けていたのは、家持はじめ大伴氏の庇護(ひご)者だった左大臣橘諸兄と光明皇太后のおい藤原仲麻呂との激しい権力闘争だった。仲麻呂の圧迫を受けた諸兄は引退し、まもなく死去。その子奈良麻呂が仲麻呂打倒を叫びクーデターを企図する。
しかし計画は事前に露見。奈良麻呂はじめ、家持越中時代以来の歌友大伴池主、唐僧鑑真を日本に連れ帰った気骨の武人大伴古麻呂らは拷問の末、獄死する。
この前年、不穏な空気を察知した家持は「族を喩す歌」を作り、一族の軽挙妄動を戒めている。「大伴氏は代々の天皇に誠心誠意仕えてきた。浅はかな考えで祖先の名を絶やしてはいけない」
家持が国守として執務した越中国庁は、富山県高岡市伏木古国府の勝興寺のある場所にあったとされる。平成の大修理が続くその境内に「海ゆかば」の歌碑が立っている。家持が歌を詠んだ国守館は、寺から程近い高岡市伏木気象資料館(旧伏木測候所)にあったと伝えられている。  
 

 

 
藤原氏 1

 

「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。
姓の代表的なものの一つとして源氏・平氏・橘氏とともに「源平藤橘」(四姓)と総称され、その筆頭名門氏族である。
中臣鎌足が大化の改新の功により天智天皇に賜った「藤原」の姓が、子の藤原不比等の代に認められたのに始まる。鎌足が中臣氏の出身であるため、祖は中臣氏と同じく天児屋命と伝える。
奈良時代に南家・北家・式家・京家の四家に分かれ、平安時代には北家が皇室と姻戚関係を結んで摂関政治を行った。藤原氏の一族は、奈良時代から平安時代までは本姓の「藤原」を称したが、鎌倉時代以降は姓の藤原ではなく、「近衛」「鷹司」「九条」「二条」「一条」などの苗字に相当する家名を名のり、公式な文書以外では「藤原」とは名乗らなかった。これらをあわせると特に朝廷における比率は圧倒的であり、地方に散った後裔などもふくめ、日本においては皇室(およびその流れを汲む源平など)に次いで大きな広がりと歴史を持つ家系である。江戸時代の朝廷において大臣就任の資格を持つ上位公卿17家系(摂家、清華家、大臣家)のうち14家系が藤原家、残り3家系が源氏であり、徳川をはじめとした主要武家の多くも源平や藤原流を称していることを併せると、皇統と藤原家の二つだけの血流が支配階級をほぼ独占するという世界でも稀な状態であった。
出自
藤原氏の祖である中臣鎌足(藤原鎌足)は、中大兄皇子(天智天皇)とともに乙巳の変から大化の改新に至る諸改革に携わった。その後死を目前にしたとき、天智天皇からそれまでの功績をたたえられ藤原朝臣姓を与えられたとされる。藤原の名は鎌足の生地・大和国高市郡藤原(のちの藤原京地帯、現 橿原市)にちなむ。通説では、鎌足の子である不比等がその姓を引き継ぎ、以後不比等の流が藤原朝臣と認められたとされる。
他方、この時に与えられた藤原の姓は鎌足一代のものであり、後に改めて鎌足の遺族に藤原朝臣の姓が与えられたとする説もある。この見解は、鎌足の死後中臣氏を率いた右大臣・中臣金が壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)方について敗北し処刑されたため、乱とは無関係の鎌足流も一時衰亡の危機を迎えたことを一因とする。乱平定ののち、天武天皇13年(684年)に八色の姓が定められた際には、朝臣を与えられた52氏の中に「藤原」の姓は登場せず、鎌足の嫡男である不比等を含めた鎌足の一族は「中臣連(後に朝臣)」と名乗っていたとする。そして『日本書紀』に鎌足没後最初に「藤原」が登場する翌天武天皇14年(685年)9月以前に、鎌足の遺族に対してあらためて「藤原朝臣」が与えられその範囲が定められた、とするものである。
いずれにしても、当時不比等がまだ若かったこともあって不比等以外の成員にも藤原朝臣が与えられ、鎌足の一族であった中臣大嶋や中臣意美麻呂(鎌足の娘婿でもある)が、不比等が成長するまでの中継ぎとして暫定的に「氏上」(うじのかみ)に就いていたとみられている。
のちに不比等が成長して頭角を現すと、藤原氏が太政官を、中臣氏が神祇官を領掌する体制とするため、文武天皇2年(698年)8月鎌足の嫡男である不比等の家系以外は元の「中臣」姓に戻された。
藤原氏分離後の中臣氏
中臣意美麻呂は中臣姓に復帰後に不比等の推薦で中納言となり、その七男の清麻呂は右大臣まで昇った。そのため、以後はこの子孫が中臣氏の嫡流とされて特に「大中臣朝臣」と称されるようになった。平安時代以降になると他の中臣氏も大中臣氏を名乗るようになるが、清麻呂の系統が嫡流であることは変わらず、藤波家として堂上公家に列する。
歴史
飛鳥時代
持統天皇末年頃に少壮官僚であった藤原不比等は、文武天皇元年(697年)8月に持統天皇の譲位により即位した軽皇子(文武天皇)に娘の藤原宮子が夫人となっており、中央政界に台頭する。これと同時に藤原朝臣姓の名乗りが不比等とその子孫に限定されており、不比等は鎌足の後継者として認められて「藤原氏 = 不比等家」が成立する。藤原不比等は、下毛野古麻呂らとともに大宝律令を編纂して律令制度の確立に貢献した。さらに宮子が首皇子(後の聖武天皇)を産むと、皇子の後宮にも娘の光明子(後の光明皇后)を入れて、天皇の姻戚としての地位を確立した。文武天皇以降、天皇のほとんどの后・妃が藤原氏の娘となる。
なお、不比等の出生について『興福寺縁起』には「公避くる所の事有り」とあり、これは不比等が天智天皇の御落胤であることを意味するとされる。『大鏡』、『公卿補任』、『尊卑分脈』にはその旨が明記される。
奈良時代
不比等の死後、外孫である首皇子(聖武天皇)が皇位に就くと、不比等の男子である武智麻呂・房前・宇合・麻呂の藤原四兄弟と天武天皇の孫である長屋王ら皇族を中心とする一派の対立が深まっていった。729年(天平元年)、長屋王の変が起こり長屋王は自害する。これは、藤原四兄弟が自分達の異母妹で天皇の妃である藤原光明子を史上初の皇族以外出自の皇后に立てるため、反対する長屋王を讒言により陥れた陰謀事件であったとされる。なお、光明子の立后によって藤原氏の地位が向上することは、藤原氏を母方の実家とする聖武天皇にとっても好都合であることから、天皇の意向を受けた政変であったとも解される。
藤原四兄弟は、それぞれ武智麻呂の南家、房前の北家、宇合の式家、麻呂の京家の4家に分かれ、藤原四家の祖となった。731年(天平3年)、役人達の投票によって四兄弟全員が議政官に昇った。これは藤原氏が単に後宮政策のみならず、不比等以来律令編纂に関わってきた実績をもって官僚組織を掌握していったことの証でもあった。この中で、京家は最も振るわず早々に政治の舞台から姿を消すこととなる。
737年(天平9年)、天然痘の大流行で藤原四兄弟が相次いで病死する。それを受けて橘諸兄、玄ム、吉備真備らが藤原氏の突出を抑えようと努めたが、光明皇后の信任を得た南家・藤原仲麻呂(武智麻呂の子)の台頭により抑えられた。仲麻呂は757年(天平宝字元年)には諸兄の子・橘奈良麻呂も排除した(橘奈良麻呂の乱)。仲麻呂は独裁的な権力を振るうが、孝謙上皇の寵愛を得た道鏡が台頭し、764年(天平宝字8年)の藤原仲麻呂の乱で敗死した。
藤原仲麻呂の失脚で藤原氏は沈みがちであったが、式家の藤原良継・百川や北家・藤原永手の尽力で再興する。以降は南・北・式の3家が競い合うが、やがて政争や一族の反乱で南家・式家は平安時代前期には衰退し、北家が最も栄えることとなった。
平安時代
平安時代中期以後は、藤原北家のみが栄えた。藤原良房は清和天皇の外戚となり、人臣で初めての摂政となった。そして、良房の養子・基経もまた、陽成天皇の外戚として摂政と関白を務めた。皇室と姻戚関係を結んで他氏の排斥と権力増強を行う路線は代々引き継がれ、842年(承和9年)承和の変から969年(安和2年)安和の変に至る一連の事件で藤原北家の他氏排斥が完了する。藤原道長・頼通父子の代になると摂関政治の最盛期を極めた。
平安後期になると、藤原氏と姻戚関係を持たない上皇による院政が始まり、さらに源平両氏の武家政権と移行するにつれ藤原氏の権勢は後退した。但し、その後も江戸時代末期に至るまで摂政・関白は(豊臣氏を除き)藤原北家のこの系統に限られていくようになる。藤原北家以外で関白となったのは豊臣秀次ただ一人(秀吉は藤原秀吉として任官)であり、五摂家以外からの摂政は例がない。
鎌倉時代以降
鎌倉時代に入ると、藤原氏の嫡流は近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家の五摂家に分立した。五摂家が交代で摂政・関白を独占し続けで公家社会では一定の影響力を持ち続けるが、政治の中枢とは隔絶し明治に至る。
五摂家以外にも、三条家・西園寺家・閑院家・花山院家・御子左家・四条家・勧修寺家・日野家・中御門家など数多くの支流・庶流がある。
また公家の他に、北家の藤原道兼の子孫の宇都宮氏流や、同じく北家の藤原長家の子孫の那須氏流、同じく北家の藤原房前の子・藤原魚名の子孫の藤原利仁、藤原秀郷からは多くの武家も輩出した。
藤原鎌足
中臣鎌足(なかとみ の かまたり)、後の藤原鎌足(ふじわら の かまたり)は、飛鳥時代の政治家。日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖。大化の改新の中心人物であり、改新後も中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた。『藤氏家伝』には「偉雅、風姿特秀」と記されている。字は仲郎。
元々は中臣氏の一族で初期の頃には中臣 鎌子(なかとみ の かまこ)と名乗っていた(欽明天皇朝で物部尾輿と共に排仏を行った中臣鎌子とは別人)。その後中臣 鎌足(なかとみ の かまたり)に改名。そして臨終に際して大織冠とともに藤原姓を賜った。つまり、生きていた頃の彼を指す場合は「中臣鎌足」を用い、「藤原氏の祖」として彼を指す場合には「藤原鎌足」を用いる。青木和夫の研究によれば、鎌子から鎌足へと「改名」したというのは後世の解釈であり、本来の名は“鎌”一文字で、“子”や“足”は敬称に用いる語尾であるとしている。
来歴
出生地は『藤氏家伝』によると大和国高市郡藤原(奈良県橿原市) 。また大和国大原(現在の奈良県明日香村)や常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)とする説(『大鏡』)もある。
早くから中国の史書に関心を持ち、『六韜』を暗記した。隋・唐に遣唐使として留学していた南淵請安が塾を開くとそこで儒教を学び、蘇我入鹿とともに秀才とされた。『日本書紀』によると644年(皇極天皇3年)に中臣氏の家業であった祭官に就くことを求められたが、鎌足は固辞して摂津国三島の別邸に退いた。
密かに蘇我氏体制打倒の意志を固め、擁立すべき皇子を探した。初めは軽皇子(孝徳天皇)に近づき、後に中大兄皇子に接近した。また、蘇我一族内部の対立に乗じて、蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れた。
645年、中大兄皇子・石川麻呂らと協力して飛鳥板蓋宮にて、当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺、入鹿の父の蘇我蝦夷を自殺に追いやった(乙巳の変)。この功績から、内臣に任じられ、軍事指揮権を握った。ただし、内臣は寵臣・参謀の意味で正式な官職ではない。また、唐や新羅からの外交使節の対応にもあたっており、外交責任者でもあったとみられている。
その後、大化の改新を推進しようとする中大兄皇子の側近として、保守派の左大臣の阿部倉梯麻呂、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂と対立した。647年(大化3年)の新冠位制度では大錦冠(だいきんかん)を授与された。649年(大化5年)に倉梯麻呂・石川麻呂が薨去・失脚したあと勢力を伸ばし、654年(白雉5年)頃には大紫冠(だいしかん)に昇格した。669年(天智天皇8年)、死の直前に天智天皇が見舞うと「生きては軍国に務無し」と語った。すなわち「私は軍略で貢献できなかった」と嘆いているのである。これは白村江の戦いにおける軍事的・外交的敗北の責任を痛感していたものと考えられている(なお、白村江の戦いが後世の長屋王の変と並んで『藤氏家伝』に記載されていないのは共に藤原氏が関与していた事実を忌避するためであるとする説がある)。天智天皇から大織冠を授けられ、内大臣に任ぜられ、「藤原」の姓を賜った翌日に逝去した。享年56。
和歌
『万葉集』に2首所収。『歌経標式』に1首所収。『万葉集』の1首は正室・鏡王女に送った物で、もう1首が鎌足が采女安見児(やすみこ)を得たことを喜ぶ歌である。
「われはもや安見児得たり皆人の得難にすとふ安見児得たり」
(私は安見児を得た、皆が手に入れられないと言っていたあの安見児を得たのだ)
采女とは、各国の豪族から女官として天皇に献上された美女たちである。数は多しといえども天皇の妻ともなる資格を持つことから、当時、采女への恋は命をもって償うべき禁忌であった。鎌足の場合は、おそらく天智天皇に覚えが良かったことから、特別に采女を賜ったのであろう。
上の歌には万葉らしく、鎌足の二重の喜びが素直に表現されている。すなわち、恋を成就した歓びと、天皇が自分だけに特別な許可を与えたという名誉である。
墓所・祭所
死後、奈良県桜井市多武峯の談山神社に祀られる。また、大阪府四條畷市の忍陵神社の主祭神ともなっている。
『多武峯縁起絵巻』には、鎌足が生まれたときにどこからか鎌をくわえた白い狐が現れ、生まれた子の足元に置いたため、その子を「鎌子」と名づけたと描かれている。この逸話にちなみ、談山神社では鎌をくわえた白狐のお守りが売られている。
墓処は定かではないが、『日本三代実録』天安2年(858年)条には「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」という記述があり、平安時代中頃の成立と見られる『多武峯略記』などに「最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市大織冠神社)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が見える。
なお、昭和9年(1934年)に大阪府茨木市大字安威の阿武山古墳の発掘中に発見された埋葬人骨は藤原鎌足本人であるとする説も存在する。一方、『藤氏家伝』の記述に基づき、鎌足の墓は京都市山科区のどこかに存在するという説もある。その説に従えば、山科には「大塚」という地名があり、そこはかすかに盛り上がった地形であることから、そこであると推測できる。
2013年(平成25年)12月、関西学院大学の調査により、阿武山古墳で発見された棺に入っていた冠帽が、当時の最高級の技術で作られ、さらに金糸を織り込んだものである事が判明。日本書紀によれば、鎌足は死の直前に天智天皇から最上の冠位「大織冠」と大臣の位を贈られたとされており、この冠帽がそれではないかと考えられている。
藤原不比等
飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。藤原鎌足の次男。文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある。『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇の落胤と書かれる。諡号は文忠公、国公は淡海公。
藤原不比等は、天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の子である。文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。不比等の従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖と解することもできる。
天智天皇の皇胤説
前述のように不比等は実は鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤であるとの説がある。『公卿補任』の不比等の項には「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大職冠鎌足の二男一名史、母は車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人」とあり、『大鏡』では天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」と言ったという伝説(実際に男子=不比等が生まれた)を伝える。『帝王編年記』『尊卑分脈』などの記載も同様である。
平安時代まではこの伝説はかなりの信憑性を持っていたと考えられ、『竹取物語』でかぐや姫に求婚する5人の貴公子の1人車持皇子のモデルは不比等とされている。これは、母が車持氏出身の皇子、という意味の名である。
歴史学者の間では皇胤説の支持は少ないが、もし本当に皇胤であったとすれば、後の異例とも言える不比等の出世が、天武天皇・持統天皇代に行われた皇親政治(天智・天武系皇子を朝廷の要職に就け、政治の中枢を担わせた形態)の延長として考えることも可能になるとして、支持する学者もいる。
なお同様の伝承は平清盛にも存在し、『平家物語』にも白河法皇の落胤という説があるとして、巻第六「祇園女御」に祇園女御が生んだ子が男子ならば平忠盛に授け、女子ならば自分が引き取るという、全く同様の逸話が述べられている。
また続けて、先例として天智天皇と鎌足の話が述べられているが、ここでは天皇の子とされているのは不比等ではなく定恵である(『多武峯略記』には、定恵は孝徳天皇の落胤とする説を載せている)。
不比等という名前についても、壬申の乱の後、天智天皇系の皇子ということで田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)の家にしばらくかくまわれていたことと関連する説がある。
もっとも、藤原(中臣)鎌足は大化の改新以来、日本の外交責任者の地位にあり、当時外交使節として活躍していたのが僧侶と史(フミヒト:書記官)及び彼らが持っていた漢文や儒教・仏教の知識であったことから、自分の長男(定恵)を僧侶として、次男(不比等)を史として育てて、将来的に自分の役割を補佐・継承させる意図が存在していたとして、皇胤説に否定的な見方もある。また、後年の『大宝律令』の編纂には不比等だけでなく、田辺史(氏)に属する2名が関わっていたことが知られているが、これが不比等の推挙であると同時に田辺大隅ら田辺史の一族が法律知識を有して不比等の知識を授けた可能性を示している。
略歴
11歳の時、父・鎌足が死去。父の生前の関係から、近江朝に近い立場にいたが、壬申の乱の時は、数えで13歳であったために何の関与もせず、近江朝に対する処罰の対象にも天武朝に対する功績の対象にも入らなかった。だが、中臣金をはじめとする鎌足の同族(中臣氏)の有力者が近江朝の要人として処罰を受けたこともあって、天武朝の初期には中臣(藤原)氏は朝廷の中枢から一掃された形となっており、有力な後ろ盾を持たない不比等は『日本書紀』の天武天皇2年(673年)5月条にある大舎人の登用制度によって出仕して下級官人からの立身を余儀なくされたと考えられている。
天武朝の後期に入ると、不比等は従兄弟の中臣大嶋とともに草壁皇子に仕えたとみられている。東大寺正倉院の宝物として『国家珍宝帳』に記載されている「黒作懸佩刀」は草壁皇子から不比等に授けられた皇子の護り刀で、後に皇子と不比等自身の共通の孫である聖武天皇に譲られたと伝えられている。
『日本書紀』に不比等の名前が出るのは持統天皇3年(689年)2月26日(己酉)に判事に任命されたのが初出で持統天皇所生である草壁皇子に仕えていた縁と法律や文筆の才によって登用されたと考えられている。また、こうした経歴から不比等が飛鳥浄御原令の編纂に参加していたとする説もある。
文武天皇元年(697年)には持統天皇の譲位により即位した草壁皇子の息子・軽皇子(文武天皇)の擁立に功績があり、更に大宝律令編纂において中心的な役割を果たしたことで、政治の表舞台に登場する。また、阿閉皇女(元明天皇)付き女官で持統末年頃に不比等と婚姻関係になったと考えられている橘三千代の力添えにより皇室との関係を深め、文武天皇の即位直後には娘の藤原宮子が天皇の夫人となり、藤原朝臣姓の名乗りが不比等の子孫に限定され、藤原氏=不比等家が成立している。
文武天皇と宮子の間には首皇子(聖武天皇)が生まれ、さらに橘三千代との間の娘である光明子を聖武天皇に嫁がせたが、光明子は不比等の死後、不比等の息子の藤原四兄弟の力によって光明皇后となり初の非皇族の人臣皇后の例となった。
不比等は氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めた。その後、養老律令の編纂作業に取りかかるが養老4年(720年)に施行を前に病死した。享年62。養老律令を実施したのは孫の仲麻呂の時である。
不比等とその息子の藤原四兄弟によって、藤原氏の繁栄の基礎が固められるとともに最初の黄金時代が作り上げられた。

斉明天皇5年(659年) 誕生。(1)
天智天皇8年(669年)10月16日 鎌足死去(11)
持統天皇2年(688年)2月26日 直広肆(従五位下)判事 (31)
年月日不詳 直広弐(従四位下)
文武天皇元年(697年)8月20日 娘・宮子を入内 (39)
年月日不詳 中納言
大宝元年(701年)(43)
   3月21日 正三位大納言に昇進
   12月27日 外孫、首皇子(聖武天皇)誕生
大宝4年(704年)1月14日以前。従二位(47)
和銅元年(708年)(51)
   1月11日 正二位
   3月13日 右大臣
養老4年(720年)(63)
   8月3日 死去。
   10月23日 贈正一位太政大臣 文忠公、淡海公を贈諡  
 
藤原氏 2

 

藤原(中臣)鎌足を祖とする、神別氏族 / 神別、とは皇別・王孫、に並ぶ系統。皇別・王孫は皇族がその身分を離れ、分流になったにこう呼ばれる。中臣鎌足が大化の改新の功績により、天智天皇から藤原姓を賜ったのが始まり。
天津神・国津神の系統であり、神の子孫とされる。 / 各地に分流が存在する
飛鳥時代から【藤原朝臣(あそみ・あそん)】姓を名乗る。 / 朝臣は八草の姓の「真人」に次ぐ地位。真人は皇族なので、臣下では実質最上位。他に朝臣を名乗ったのは、平朝臣、豊臣朝臣、など。
源氏・平氏・橘氏と並び【源平藤橘】(四姓)と総称される。 / 藤原氏は、この四姓の中でも筆頭氏族。超名門。
飛鳥〜奈良時代
藤原鎌足(614ー669)
飛鳥時代の政治家で藤原氏の始祖。大化の改新以降に中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍。子に藤原不比等。
藤原不比等(659−720)
飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。藤原鎌足の次男。文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。大宝律令の編纂に関与。養老律令の編纂作業に取りかかるが720年に病死。天智天皇の子とする説もある。
藤原四兄弟
武智麻呂 680年 - 737年 (南家開祖)
房前    681年 - 737年 (北家開祖)
宇合    694年 - 737年 (式家開祖)
麻呂    695年 - 737年 (京家開祖)
奈良時代前半の天平年間に政権を握った藤原不比等の4人の息子を指す。藤原北家は、孫藤原四家の中で最も繁栄した。737年の天然痘の流行により相次いで病死。長屋王のたたり、とも噂される。
藤原仲麻呂(恵美押勝)(706−764)
藤原南家の祖である左大臣・藤原武智麻呂の次男。藤原四兄弟の死後、橘諸兄が政権を握るが、その橘諸兄と対立。祖父である不比等が残した養老律令を施行。孝謙天皇に寵愛された道鏡の排斥を狙い、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)を起こすが、失敗に終わる
藤原広嗣(生年不明−740)
藤原式家の祖、参議・藤原宇合の長男。朝廷内で反藤原氏勢力が台頭した背景のもと、親族への誹謗を理由に大宰少弐に左遷。吉備真備と僧正・玄ム、時の権力者左大臣・橘諸兄に対して謀反を起こすものの、失敗。処刑される。
藤原種継(737−785)
藤原式家の祖、参議・宇合の孫。桓武天皇の信任が非常に厚かった種継は急速に昇進。長岡京遷都を提言し、遷都を実現。しかし、遷都後間もなく暗殺。事件後、関わったとされる早良親王が配流、憤死。その後長岡京に災厄が多く発生し、早良親王の怨霊と恐れられる。これを原因として、短期間のうちに平安京へ遷都となる。
平安時代前期
藤原緒嗣(774−843)
藤原式家、参議・藤原百川の長男。桓武天皇より現在の政治の問題点について質問を受け、緒嗣は開口一番「方今天下の苦しむ所は、軍事と造作なり。此の両事を停むれば百姓安んぜん(今、天下の人々が苦しんでいるのは、蝦夷平定と平安京の建設です。この二つを止めればみんな安心します)」と述べた。この建議により、蝦夷平定と平安京の建設の中止を宣言した(「徳政論争」)。なお、桓武天皇は翌年に崩御した。
藤原冬嗣(775−826)
初代の蔵人頭。嵯峨天皇の側近として信頼が厚く、大同5年(810年)嵯峨天皇が秘書機関として蔵人所を設置すると、初代の蔵人頭となった。教育機関である勧学院の建立。氏寺の興福寺への南円堂の建立。『弘仁格式』『日本後紀』『内裏式』などの編纂。
藤原良房(804−872)
藤原冬嗣の二男。養子に藤原基経。皇族以外の人臣として初の摂政。藤原北家全盛の礎を築いた存在であり、良房の子孫達は相次いで摂関となった。貞観8年(866年)に起きた応天門の変では、大納言伴善男を失脚させ、事件に連座した大伴氏、紀氏の勢力を宮中から駆逐。法制の整備に力を入れて、「貞観格式」を完成させた。
藤原基経(836−891)
清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握る。陽成天皇を暴虐であるとして廃し、光孝天皇を立て、次の宇多天皇のとき阿衡事件(阿衡の紛議)を起こして、その権勢を世に知らしめた。日本史上初の関白。阿衡事件は天皇にとって屈辱だったようで、基経の死後に菅原道真を重用する
藤原時平(871−909)
藤原基経の子。父の死の時点ではまだ年若く、宇多天皇は親政をはじめ、皇親である源氏や学者の菅原道真を起用していた。道真を大宰府へ左遷させ(昌泰の変)、政権を掌握すると意欲的に改革に着手するが、39歳の若さで死去。その早すぎる死は怨霊となった道真の祟りと噂された。延喜2年(902年)、最初の荘園整理令を出す。また、六国史の最後となった「日本三代実録」や延喜式の編纂を行った。時平の治世は延喜の治と呼ばれている。
藤原忠平(880−949)
藤原基経の四男。兄・時平と対立した菅原道真とは親交を持っていたとされる。平将門は忠平の家人として仕えていた時期もあった。延喜の治と呼ばれる政治改革を行った。朱雀天皇のときに摂政、次いで関白に任じられる。兄、時平の遺業を継いで『延喜格式』を完成させる。
藤原道長(966−1028)
後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。子の頼通と藤原氏全盛時代を築く。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(満月)のように 何も足りないものはない」という意味)を詠んだ。33歳から56歳にかけての日記、『御堂関白記』は国宝。法成寺を建立したことから御堂関白とも呼ばれるが、実際に関白になったことはない。
藤原隆家(979−1044)
日本の領土に上陸した敵軍を撃退した最初の人物。在任中の寛仁3年(1019年)4月 、当地で刀伊の入寇を撃退し武名を挙げた。
藤原頼通(992−1074)
太政大臣藤原道長の長男。父の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇・後冷泉天皇の治世に亘り、関白を50年の長きに亘って務め、父道長と共に藤原氏の全盛時代を築いた。平等院鳳凰堂の建立。
平安時代後期〜鎌倉時代
藤原清衡(1056−1128)
平安時代後期の武将で奥州藤原氏の祖。後三年の役を経て、勝利した清衡は奥州の覇権を握り、摂関家に届け出て実父藤原経清の姓藤原を名乗る。
藤原定家 (1162−1241)
鎌倉時代初期の公家・歌人。諱は「ていか」と音読みされることが多い。 『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』を撰進。18歳から74歳までの56年にわたる克明な日記『明月記』(平成12年(2000年)、国宝に指定)を残した。
藤原(九条)頼経(1218−1256)
鎌倉幕府の第4代征夷大将軍。五摂家の一つ九条家出身で、九条道家の三男。3代将軍・源実朝が暗殺された後、鎌倉幕府は皇族を将軍に迎えようとしたが叶わず、頼朝の曾孫である頼経が迎えられた。頼経と頼嗣の二代にわたる鎌倉将軍を摂家将軍・藤原将軍・公卿将軍と呼ぶ。 
 
藤原氏の正体 3

 

律令制度で日本のすべてを私物化した藤原氏
日本に中国に摸した律令制度を取り入れ、国家という形を確立した藤原鎌足と藤原不比等。それは既存の日本の勢力とドロドロの戦いのうえになりたっています。
古代国家は、仏教を積極的に取り入れることで国づくりを推し進めた。当然、天皇がその仏教導入の先頭にいたわけで、当時の天皇は神道の保護には積極的ではなかっただけでなく、その古来の神道のしきたりを持っていた物部氏を排斥すらした。
様々な信仰をもった地方豪族たちのゆるやかな連合体であった当時の日本を仏教の力と律令制度の名の下に、一元化をはかろうとした中心に藤原氏がいました。
出自のよくわからない藤原鎌足が、どうしてこれほどまでに中枢の権力を握ることができたのか関裕二さんは、鎌足は百済の王:豊璋であったといっています。そんな馬鹿なと思いつつも、その論拠にはとても説得力があります。
扶余豊璋
『日本書紀』での表記は扶余豊璋もしくは徐豊璋であるが『三国史記』では余豊璋もしくは徐豊璋、『旧唐書』では余豊もしくは徐豊である。また、『日本書紀』にも登場する百済の王族翹岐を豊璋と同一人物とする説もある。
倭国滞在中、百済本国が唐・新羅に滅ぼされたため、百済を復興すべく帰国した。しかし、鎌足、不比等にはじまった藤原氏の支配が、歴史の底流をみるといついかなる時代をみてもどの将軍の時代であっても、いかなる天皇の時代であっても、またいかなる政権の時代であっても脈々と続いていることがわかります。
藤原氏は不比等の四人の子の末裔がそれぞれ、南家(藤原武智麻呂)、北家(房前)、式家(宇合)京家(麻呂)にわかれ、互いに牽制し、覇を競いあいました。平安時代は、藤原氏内部の権力闘争から始まったと言っていいであろう。そして北家が勝利を収め、摂関政治がはじまるのである。
天皇を操り続け、時の政権をも常に左右する力を持った藤原氏それは現代につながるトップに責任と権限を与えない官僚制度そのものであるようにも見えます。
一条、二条家や西園寺家、近衛家などに限らず、地方から自力で這い上がる人びとに常に立ちはだかる勢力として根深く日本社会に存在し続けています。
中臣鎌足は朝鮮人:豊璋
百済王子豊璋と当時の日本及び朝鮮半島の状況
鎌足についてはよく知られていても、百済王子豊璋についてはよく知らない人もいるかも知れない。631年に、百済から人質として2人の兄弟王子、豊璋と善光が日本へ送られてきていた。人質といっても、百済と日本は同盟していたので、客分扱いである。その兄王子の豊璋が鎌足だったのである。
660年、唐・新羅連合軍の攻撃によって百済が滅亡した。百済最後の王・義慈王は降伏後、死亡し、皇太子孝は行方不明となった。百済の遺臣は、鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、日本に滞在していた百済王子豊璋を擁立しようと、同盟国・日本に救援を要請した。天智天皇はこれを承諾した。豊璋は百済復興のため、約30年ぶりに呼び戻された。百済国がないのに、ここでいったん豊璋は百済王として推戴された。
663年の白村江の戦いにおける指揮官は、日本軍は阿倍比羅夫、百済遺民軍は豊璋であった。しかし、日本・百済遺民の連合軍は、唐・新羅連合軍に大敗した。大敗する直前、部下を騙して自軍を捨ててこっそりと手勢数名だけで抜け出した豊璋は行方知れずとなったとか、高句麗へ逃げたとか書かれているが、実際には、救援に来た日本の水軍と合流し、密かに日本へ戻ってきていた。豊璋は正体を隠すために、天智天皇から藤原鎌足の名をもらって帰化した。
一方、豊璋の弟善光は、行方不明になったことになっている兄の代わりに百済の王統を継ぎ百済の王統を表す、「百済王氏」という特別な姓氏を受けて日本に帰化した。また、二人の王子の他、国を失った百済王族たちが、一族配下の数千名(あるいは一万名とも)を従えて集団で日本へ亡命してきた。
日本への朝鮮人の乗っ取りは朱鳥631年の天武天皇時代から始まっていた
実に1,387年間もの長きに渡り鮮害を受けてきたのである藤原姓にちなむ下記の苗字の一族は朝鮮人の家系である。
朝鮮人の家系である藤原姓発祥の家系
○武家
二階堂・吉川・伊東・長野・相良・本願寺・有馬・大村・上杉・留守・宇都宮・浦池・小田・一条・伊達・富樫・山内・蒲生・小野寺・波多野・大友・小山・皆川・少弐・結城・白河
○藤・佐のつく名字
藤原・加藤・内藤・佐藤・安藤・斎藤・伊藤・後藤・須藤・武藤・近藤・工藤・遠藤・新藤・進藤・藤堂・江藤・藤巻・藤森・藤田・藤沢・藤木・藤波・藤吉・藤本・藤井・藤・佐野・佐々木・佐伯・佐原・小佐野・佐竹・佐久間・佐倉・佐橋・宇佐美・佐分利・佐賀・佐吉・・・
藤原鎌足より更に狡猾な藤原不比等は数々の悪行を隠す為、古事記や日本書紀などを改ざんし蠱毒(目玉)を日本に持ち込み自在に人を操り殺した。
藤原氏は自分達を守るために専属の兵隊をつくった
それが武士の源氏である。源氏の目的は朝鮮王家:藤原氏の繁栄と存続である。 
 
「藤原氏」の祖 藤原鎌足 4

 

中大兄皇子(天智天皇)とともに乙巳(いっし)の変から大化の改新までの諸改革で活躍した中臣鎌足(藤原鎌足)。その後、鎌足の病が重いことを知った天智天皇は、それまでの功績をたたえ、「藤原」という氏(うじ)と朝臣(あそん)という姓(かばね)を与えたとされます。(ちなみにこの姓は、天皇から有力な氏族に与えられた、朝廷との関係・地位を示す称号で、姓名の姓とは違うものになります)。
その翌日の天智天皇8年(669)10月16日、鎌足は亡くなります。
藤原の名は鎌足の生地・大和国高市郡藤原(のちの藤原京、現在の橿原市)にちなんでいるそうです。
談山神社(奈良県桜井市)
藤原鎌足が御祭神の神社。名前の由来は、中大兄皇子と中臣鎌足が、大化元年(645)5月に大化の改新の談合をこの地で行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことからとされます。
鎌足の長男で僧の定恵が、唐からの帰国後、父の墓をこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥です。天武天皇9年(680)に講堂(現在の拝殿)が創建されました。
当時は妙楽寺という名前のお寺でしたが、明治2年(1869)の神仏分離令により僧徒が還俗し、談山神社と改称されます。今でも仏教建築が見られる貴重な神社となっています。 
 
藤原氏の権力 5

 

藤原氏の台頭
摂関政治を通じて、天皇をも凌ぐ力を手に入れた藤原北家。 彼らは如何にして、それほどの権力を握る事が出来たのか。藤原北家が力を手に入れたのは、平安時代に入ってからだった。それまで、一貴族でしかなかった彼らは、静的を次々と失脚させる事で、その地位を盤石のものにした。
他氏排斥で台頭した藤原北家
奈良時代に権勢を振るった藤原不比等(ふじわらのふひと)には4人の息子がいたが、737年にいずれの子も天然痘によって、早世してしまう。藤原四家は、その四兄弟を祖とする。武智麻呂(むちまろ)→南家、房前(ふささき)→北家、宇合(うまかい)→式家、麻呂(まろ)→京家である。藤原四家は初めの頃、仲麻呂を輩出した南家や、百川らの式家が栄えたが、平安時代に入ってから衰退していく。代わって繁栄したのが藤原氏北家である。
藤原冬嗣
北家繁栄の基礎を築いたのは、藤原冬嗣(ふゆつぐ)である。810年、平城上皇と嵯峨天皇が対立した「薬子の変」で嵯峨天皇の信頼を得て、蔵人頭(くろうどのとう)という天皇の秘書官長ともいえる重要な職に任ぜられた。冬嗣の子の良房(よしふさ)は、嵯峨天皇の皇女を妻とし、妹の順子(じゅんし)を仁明天皇(にんみょう)の女御(にょうご)として権力を握った。順子と仁明天皇との間に道康親王(みちやす)が生まれると、謀略によって皇太子恒貞親王(つねさだ)を廃し、通康親王の擁立に成功する(文徳天皇)。
承和の変
このとき良房は、恒貞親王に仕えていた伴健岑(とものこわむね)と橘逸勢(たちばなのはやなり)に謀反の罪を着せたが、事件に連座して京外追放、左遷、流罪になった人々の中には、名族の伴氏(ともし(大伴氏))、橘氏など、朝廷でのライバルだった公卿が多くいた。この事件を「承和の変」という。
摂政・関白を世襲する事に
良房は次に娘の明子(めいし)を文徳天皇の女御とし、その間に生まれた惟仁親王を9歳で即位させる(清和天皇)。そして866年、応天門の変を通じ、皇族以外で初の摂政となった。摂政とは、天皇が幼少であったり、女帝であったりする場合に「政を摂る」こと、あるいはその役割を指すが、それまでは、聖徳太子や中大兄皇子のように皇族が就任するのが通例だった。摂政は良房の養子の基経(もとつね)に引き継がれ、基経は成人した天皇の下で摂政同様の職務を行う関白に就任する。以後、摂政・関白の職は藤原氏北家の世襲となった。
藤原北家の絶頂期
その後、藤原氏北家は一族から后(きさき)を送り込んだり、他の有力貴族を排斥したりしながら、権力を固めていく。その絶頂期は、3人の娘を天皇の后とした藤原道長の時代であった。
藤原北家の躍進年表
名前   西暦  出来事
鎌足   647年 天智天皇より、大織冠とともに藤原姓を賜る
不比等  701〜718年 大宝律令と養老律令の編纂に携わる
房前   729年 長屋王の変で、長屋王を失脚させる
冬嗣   810年 薬子の変後、蔵人頭に就任する
良房   842年 承和の変で、伴氏と橘氏を失脚させる。嵯峨上皇没後、皇位継承をめぐって伴健岑と橘逸勢が皇太子恒貞親王を立て謀反を企てたとして、健岑は隠岐、逸勢は伊豆に流罪となった。
      866年 応天門の変で、伴氏と紀氏を失脚させる。平安宮応天門が放火炎上した事件で、処理にあたった良房は、政治的に対立していた伴氏、紀氏を排斥した。事件後に清和天皇の正式な摂政となった。
基経   888年 阿衡の紛議で、橘氏を失脚させる。宇多天皇が即位する際に、橘広相(ひろみ)と基経が対立。 広相の娘と宇多天皇の間には2人の皇子がいた。 基経は広相が起草した詔勅の文言(阿衡)に難癖をつけ、自分の娘を入内させる事で決着した。
時平   901年 昌泰の変で、菅原氏を失脚させる。摂政を置かず親政を行った宇多天皇や醍醐天皇の信任が厚く、右大臣にまで昇進した菅原道真は、時平の讒言によって太宰府に左遷され、その地で没した。
実頼   969年 安和の変で、醍醐源氏を失脚させる。源高明の娘婿・為平親王は冷泉天皇の皇太子の有力者であった為、藤原氏は親王の弟を擁立。讒言によって高明を失脚させた。藤原氏の他氏排斥の最後の事件。  
 
藤原道長の子孫 6

 

奈良時代、平安時代と婚姻関係によって天皇家とのつながりを強めて権力を握り、貴族のトップに君臨した藤原氏。平安時代半ばの藤原道長・頼通親子の時代にその栄華は頂点に達します。
ところが、学校の歴史の授業では藤原頼通以降、藤原氏の名前を聞くことがほとんどなくなり、「あれ?そういえば藤原氏ってどうなっちゃったの?」状態ですよね。
じつは藤原氏は現代までずっと続いており、子孫の方もご健在です。道長以降の藤原氏についてご紹介したいと思います。
藤原道長の子孫について。藤原氏ってどうなったの?
道長の代で栄華を極めた藤原氏でしたが、その繁栄は長くは続きませんでした。
平安時代の一族内の政争を経て、摂政・関白は藤原氏の中でも「藤原北家(ほっけ)」と呼ばれる家が代々担うことが定着していきます。道長・頼通も藤原北家の嫡流でした。
藤原道長の外孫に当たる天皇は後一条・後朱雀・後冷泉天皇の3人。息子の頼通は3人が幼いころは摂政として、成人してからは関白として、実に約50年政治の実権を握ります。頼通も「摂関政治」のお約束として、娘を天皇に嫁がせますが、皇子は誕生しませんでした。
ここから少しずつ、藤原氏の「計算」が狂っていきます。後冷泉の後を継いだ後三条天皇の場合、父は後朱雀天皇、母は三条天皇の娘です。父方・母方ともに祖父が藤原氏ではないという天皇は、実に約170年ぶりのことでした。
さて、後三条天皇は摂政・関白にまかせず、みずから政治を行おうと意欲的でした。後を継いだ白河天皇も父と同様に政治を行い、子どもの堀河天皇に譲位したのちも天皇の後見役として政治の実権を担います。御所につくった「院庁(いんのちょう)」という役所で政治を行ったので、こうした体制を「院政」と呼びます。藤原氏が「天皇の母方のおじいさま」の地位を利用したのに対し、院政はズバリ「天皇のお父さま」の地位を利用したわけです。
院政では摂政・関白に頼らず、中・下級貴族を重用しました。白河天皇以降、鳥羽、後白河、後鳥羽の各天皇が院政を行いますが、実はこの間も摂政・関白には道長・頼通の子孫がついています。
そして院政以後、武士の世の中へと移り変わり、藤原氏は道長の時代のような権力は望めなくなりますが、摂政・関白の職は明治維新まで、ある例外を除いては道長・頼通の子孫たちが就きました。その「例外」こそ、豊臣秀吉とその甥(おい)の秀次です。
ただ、秀吉も関白・近衛前久(さきひさ)(近衛家は藤原氏五摂家のひとつ。あとで詳しく述べます)の養子となってから関白に就いています。秀吉は藤原氏とは縁もゆかりもありませんが、そんな彼でも形だけは「摂政・関白は藤原氏から」という先例を守ったと言えます。
藤原氏は現在まで続いてない?五摂家とは?
「藤原氏は現代まで続いている」と最初に述べましたが、「藤原」の名は名乗っていません。
藤原氏は平安時代末から鎌倉時代にかけて、「五摂家」という「摂政・関白を出す家」を決め、それぞれの家の名を名乗るようになるのです。
実は藤原北家の嫡流の内部で摂政・関白をめぐる争いが起こったり、職に就いた者が若くして亡くなるなどゴタゴタがありました。そこで鎌倉幕府も介入し「今後、摂政・関白を出す『家』を固定しよう」ということになったようです。
藤原忠通は、道長から5代あとの摂政・関白です。跡継ぎの男子が長い間生まれず、弟の藤原頼長を養子にしていたのですが、40歳を過ぎてから男子が生まれたため、頼長と養子縁組を解消して息子にあとを継がせたいと思うようになります。
この兄弟の対立に加え、皇室でも兄・崇徳上皇と弟・後白河天皇が政治の主導権を巡って対立し、崇徳と頼長、後白河と忠通がそれぞれ結びつき、1156年に保元の乱が起こります。後白河・忠通が勝利し、頼長は乱のさなかに命を落とします。
忠通のあとは、3人の息子たち長男・基実、二男・基房、三男・兼実とそれぞれの子孫がそのときどきの状況に応じて摂政・関白の職を歴任します。院政から平氏政権、鎌倉幕府と権力の中枢が移りゆくなかで、摂政・関白の政治的な力は低下します。もはや「天皇の母方のおじいさま」かどうかにかかわらず、藤原北家嫡流の世襲制とされるようになりました。
忠通のあと、摂政・関白は兄弟とその子どもたちの間で次のように引き継がれます。
藤原忠通→基実(24歳で逝去)→基房→基通(基実の子)→師家(基房の子)→基通→兼実→基通→良経(兼実の子)
基実が若くして亡くなり、子の基通が幼かったために弟の基房が継いでいます。世襲制になり、継ぐべき子が幼い場合は兄弟でその職をまわしていくのは自然のなりゆきでしょう。
その過程で、
  ・長男の基実の家は「近衛家」
  ・次男の基房の家は「松殿家」
  ・三男の兼実の家は「九条家」
このように呼ばれるようになります。(それぞれ、邸宅を構えた場所にちなんでいます)
長男の家である「近衛家」が藤原北家の嫡流といえるでしょう。
また「松殿家」からはふたりの摂政・関白を出しましたが、その後は摂政・関白を出すことなく衰退し、戦国時代には途絶えてしまいます。
一方、鎌倉時代の末に近衛家からは鷹司家、九条家からは一条家と二条家が分家します。
鎌倉時代を生きた藤原氏の子孫たちは、摂政・関白の職の継承がスムーズにいかないと、分家して摂政・関白になれる家を増やしたようですね。こうして、平安時代末から鎌倉時代を通じて「摂政・関白を出す5つの家」が固定化されていきました。
  ・近衛家
  ・鷹司家
  ・九条家
  ・一条家
  ・二条家
この5つの家は「五摂家」と呼ばれます。
「現代の藤原氏」こと五摂家の子孫はどうなったの?
豊臣秀吉・秀次を除き、明治維新に廃止されるまで、一貫して摂政・関白は五摂家の人間のみ就く事になっていました。明治時代以降は、天皇を補佐する役目として皇族が摂政に就くことが皇室典範で定められています。昭和天皇は皇太子時代、父・大正天皇の摂政でした。
明治維新後、五摂家の当主は、華族の中でも一番上の爵位である「公爵」になっています。
ここからは、現代の五摂家の概要をざっと紹介します。
【近衛家】
日中戦争・太平洋戦争中の総理大臣、近衛文麿が有名ですね。彼は30代目の当主です。熊本藩主細川家の18代当主である細川護煕元首相は、文麿の孫に当たります。近衛家の現当主は近衛忠W氏。細川氏の実弟で、細川家から近衛家に養子に入りました。本来、文麿の息子・文隆が文麿の次の当主となるはずでしたが、陸軍中尉として満州に渡り、戦後シベリアの収容所で亡くなったためです。近衛文隆は劇団四季のミュージカル「異国の丘」の主人公のモデルとしても知られています。
【鷹司家】
現当主の鷹司尚武氏は伊勢神宮の大宮司です。先代当主・鷹司平通には子がなかったため、尚武氏を大給松平家(松平<徳川>家の庶流)から養子に迎えています。鷹司平通の妻が昭和天皇の三女・孝宮和子内親王であることから、年配の方には「鷹司和子」の名で鷹司家の名前を覚えている方も多いと思います。戦後、華族制度が廃止され、旧五摂家の嫡男とはいえ皇族以外の平民で交通博物館勤務のサラリーマンに、皇族が嫁いだということで話題になりました。
【九条家】
九条家の当主は九條道弘氏。平安神宮の宮司です。また、藤原氏の末裔が集まる「藤裔会」の会長も務めています。藤裔会は毎年、秋に藤原氏の氏神である春日大社に集まっていて、代々九条家の当主が会長を務めるそうです。
【一条家】
一条家の当主は弁護士の一條實昭氏。2014年6月に亡くなられた天皇陛下のいとこ・桂宮さまの学習院初等科から高等科までの先輩にあたり、葬儀の際にも司祭長を務めたということです。
【二条家】
二条家の当主は二条基敬氏。現在は神官・実業家とのことです。
戦後、華族制度がなくなり、五摂家の人々は「一般の人」となりました。ただ、大名家や皇族との婚姻関係の影響は現在でもあるようですね。
ところで、五摂家以外にも「藤原氏」は存在します。
西園寺家、花山院家、武者小路家、飛鳥井家・・・道長の子孫とは異なる系譜ですが、みな藤原氏です。
明治・大正期に首相を2度務めた西園寺公望は、五摂家に次ぐ格式を持つ「清華家」の一つ。西園寺家は北家の支流に当たります。
武者小路と聞けば、作家の武者小路実篤。武者小路家もまた北家の支流で、上から4番目の「羽林家」という格式を誇ります。 (明治維新まで、格式によって朝廷で就ける最高の官職が決まっていました)。
ちなみに藤原氏の氏神である春日大社の現宮司さんは、花山院弘匡氏。この姓である花山院家は西園寺家と同様「清華家」の格式を持っていました。
1000年以上連綿と続いてきた藤原氏。歴史のうねりの中で、時には権力の中枢として、時には武家勢力に翻弄されながらも生き続けてきた「生命力」には、感動すら覚えます。

藤原道長の死後の藤原氏は明治維新に至るまで、摂政、関白の地位を受け継いではいるのですが、その政治的な影響力は院政や武士の台頭により、以前ほど強くはありませんでした。
また、藤原氏は鎌倉時代になると「五摂家」に分裂し、これに含まれる家だけが摂政、関白になれるという取り決めがなされました。
この五摂家の子孫の方々が藤原道長の子孫でもあり、いずれの家も現在に至るまでその血筋を受け継がれています。 
 

 

 
阿倍比羅夫 1

 

7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。氏姓は阿倍引田臣。冠位は大錦上。越国守・後将軍・大宰帥を歴任した。斉明天皇4年(658年)から3年間をかけて日本海側を北は北海道までを航海して蝦夷を服属させ、粛慎と交戦した。
阿倍氏は古くから越・北陸道方面の計略で活躍した氏族である。複姓が多く見られ、阿倍引田臣もその一つ。引田臣の性格については、比羅夫の活動にも関連して二説ある。一つは中央豪族である阿倍氏の一支族とするもの、もう一つは越国の地方豪族とするものである。
中央出身説は、当時の国司が中央豪族から派遣されていたことを根拠とする。
比羅夫の父親の名は必ずしもはっきりしないが、各種系図(「阿倍家系」(『備後福山 阿倍家譜』所収)、鈴木真年『百家系図稿』巻5,阿倍)では、阿倍氏の宗族である阿倍目とするものが多い。しかし目は敏達朝の人物であり時代が合わず、さらに前述の系図は比羅夫の子孫に伝わったものと想定され、比羅夫の系統を阿倍氏の宗族に位置づけようとした意図が考えられることから、比羅夫を目の子とするのは疑問とする。また、阿倍氏の庶流にあたる阿倍浄足とする系図もある。
一方、太田亮は越国守であることを根拠に越国造家の一族の可能性を指摘している。
なお、『日本書紀』で比羅夫の活動を記す部分は、当時の阿倍氏宗家(阿倍御主人の布勢氏)が提出した家記によると推定されているが、「阿倍臣(名を欠く)」と人名は記されていない。歴史学者の坂本太郎は、書紀編纂時の阿倍宗家が引田氏を快く思わなかったために、敢えて名を隠して阿倍氏の活躍とだけ記した史料を提出したのではないかと推定している。
蝦夷征討・粛慎討伐
『日本書紀』によれば、斉明天皇4年(658年)に水軍180隻を率いて蝦夷(北海道)を討ち、さらに粛慎を平らげた。粛慎は本来中国の文献上で満州東部に住むツングース系民族(樺太中部以北のはウィルタ)を指すが、阿倍比羅夫に討たれた粛慎と異なるとみられ『日本書紀』がどのような意味でこの語を使用しているのか不明である。蝦夷以外のオホーツク文化人とも推測され、樺太中部以北に住むニヴフを粛慎の末裔とする説もある。翌年には再び蝦夷を討って、後方羊蹄(シリベシ)に至り、郡領を任命して帰った。「後方羊蹄(シリベシ)」が現在のどこを指すのかはわかっていないが、江戸時代末期の探検家・松浦武四郎により、北海道の尻別川(アイヌ語で「シリ・ペッ」=上流が至って高い川、山に沿って下る、山の川)流域と推測され、同地は「後志国(しりべしのくに)」、同地の山(アイヌ語で「マッカリ・ヌプリ」)は「後方羊蹄山(しりべしやま)」と名付けられた。また、幣賄弁島については粛慎の本拠地である樺太とする説や、奥尻島とする説などがある。
斉明天皇4年(658年)4月 - 蝦夷に遠征する。降伏した蝦夷の恩荷を渟代・津軽二郡の郡領に定め、有馬浜で渡島の蝦夷を饗応する。同年、生きているヒグマ2匹とヒグマの皮70枚を献上した。
斉明天皇5年(659年)3月 - 蝦夷国を討つ。阿倍は一つの場所に飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与える。後方羊蹄に郡領を置く。粛慎と戦って帰り、虜49人を献じる。
斉明天皇6年(660年)3月 - 粛慎を討つ。比羅夫は、大河(石狩川、あるいは後志利別川と考えられる)のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる。比羅夫は粛慎を幣賄弁島(へろべのしま。樺太説、奥尻島説がある)まで追って彼らと戦い、能登馬身龍が戦死するもこれを破る。
斉明天皇6年(660年)5月 - 夷50人余りを献じる。また、粛慎の37人を饗応した。
白村江の戦い
662年に中大兄皇子(後の天智天皇)の命により、征新羅将軍として百済救援のために朝鮮半島に向かったが、翌663年新羅と唐の連合軍に大敗した(白村江の戦い)。この敗北により百済再興はならなかった。  
 
白村江の戦いと阿倍比羅夫 2

 

654年、孝徳天皇が亡くなると、まえの皇極天皇が、もういちど位につきました。今度は、斉明天皇といいます。中大兄皇子は、これまで通り皇太子として政治をとりました。
この頃になると、改新政治も、いちおう成功し、その勢いで、国の力を外に伸ばそうという気分が強くなってきました。
阿倍比羅夫が七世紀の中ごろ、日本海えん岸のエゾを征伐したのは、そのあらわれでした。エゾと言うのは、そのころ北陸から東北地方にかけて住んでいた、文化の遅れた人々です。
都の人々は、エゾのことをまるで外国人のように思っていました。阿倍比羅夫ほ、180艘の水軍な率いて、越国 (北陸道)を出発し、海岸づたいに北へすすみました。そして、あぎ田(秋田市)から淳代(能代)・津軽(弘前市付近)-)のエゾを従え、さらに海を渡って北海道にまでいったといいます。これは、そのころとしては、たいへん目覚ましい戦だったことでしょう。
しかし、このエゾ征伐も、一方から言えば、激しい改新政治をここちよく思っていなかった人々の気持ちを、外にそらそうという狙いもあったようです。
また、阿倍比羅夫は、中大兄皇子から嫌われて、都から遠い地方にやられたのだ、という見かたもありまず。
六白村江の戦い
660年、百済は唐と新羅の連合軍にせめられて、日本に助けを求めてきました。
斉明天皇は、つぎの年、自ら九州まで出かけて軍隊の指図をしましたが、まもなく、そこで亡くなってしまいました。
そこで、中大兄皇子が、代わって指図をし、大軍を朝鮮に送りました。663年、日本と百済の連合軍は、唐・新羅の連合軍と白村江(南朝鮮の錦江)で戦い、さんざんに打ち負かされてしまいました。
この結果、長年のあいだ、日本と親しくしてきた百済は滅んでしまい日本と朝鮮との関係は一旦、断ち切られてしまいました。
そればかりか、いつ唐と新羅の軍が日本に押し寄せてくるかもしれません。中大兄皇子は、対馬・壱岐・北九州・瀬戸内海・大和の主なところに、城なつくって備えました。
そして一方では、あらためて国内の政治にカをいれることにしました。 
 
阿倍比羅夫の北征 3

 

能代市は、人口約55,000人を擁し、秋田市、大館市についで、県内第3位の人口を擁し古い歴史を持つ地である。現在の能代の地名を古い文献の中から探し出してみると
「斉明天皇4年(658年)4月、越国守阿倍比羅夫が軍船180隻を引いて蝦夷を伐つ、齶田(飽田)・渟代 二郡の蝦夷望み恐じて降わんと乞う」と日本書紀に始めて記されている。
渟代(ヌシロ)の名称は、地名ではなく郡名であり、現在の米代川下流地帯即ち能代・山本地方を指していると思われる。
渟代(ヌシロ)とはアイヌ語の「台地上の草原地」という「ヌップシル」からの転語で「ぬしろ」となり漢字の渟代をあてた地名だそうです。
元禄7年(1694年)及ぴ宝永元年(1704年)に大震災にあい、それまでの地名「野代」は「野に代る」と読まれ縁起が悪いということで、『よく かわる』の 能代(のしろ) と改められた。
西暦 年号  事項
658 斉明4  4月、阿倍比羅夫が180艘の船団を率いて、蝦夷、粛慎を討つ。
659 斉明5  3月、阿倍比羅夫が津軽、秋田などの蝦夷を討ち、後方羊蹄(しりへし)に政所を置く。
660 斉明6  3月、阿倍比羅夫が粛慎を討つ。
663 天智2  8月、日本・百済軍が白村江で唐・新羅の連合軍と戦って敗れ、百済は滅びる。
668 天智7  高句麗が唐・新羅の軍と戦って敗れ、滅びる。
阿倍比羅夫の祖先は、孝元天皇(8代)の皇子大彦命、十四代目の子孫が阿倍比羅夫と『姓氏家系大辞典』にあり、水軍の将。663年白村江の戦いに出陣し、後九州防衛の大宰府師に任命される。
能代のねぶながし行事「役七夕」は1300年前/阿倍比羅夫が、蝦夷征伐の際川に灯(あかり)を流し、おびき出して平定したという伝説を起源としています。 
7世紀の中葉、朝廷の勢力範囲は日本海岸沿いでは新潟まで達しており大化3年(647年)12月、渟足柵(ぬたりのき)を作り柵戸を置き翌年の大化4年には盤舟柵(いわふねのき)をつくって大和国家に服属しない先住民族の蝦夷を征伐する拠点とした。
それからの北は蝦夷との辺境地帯で蝦夷の討伐と懐柔を強行した。
「斉明天皇4年(658年)4月、越国・国守で阿倍比羅夫が軍船180隻を引いて蝦夷を伐つ」と日本書紀に書かれている。
阿倍氏は河内の生駒山脈のふもとから摂津の阿倍野に居住していた豪族の子孫といわれており邪馬台国が東遷して河内、大和を掌握する以前、畿内に先住していた蝦夷と物部氏に代表される倭種とが婚を通じて形成された氏族とおもわれる。
その姓は恐らくアイヌ語の火を意味するアベまたはアピに由来するものであるらしい。
古代の越の国は越前、越中、越後だけでなく東北地方の日本海側も含む広大な地域の総称であった。
斉明帝4年(658)4月、越(こし)国(いまの北陸地方で越前・越後と別れる前の呼称)の国守阿倍比羅夫は180艘の船団を率いて磐舟柵より日本海岸を北上し蝦夷(えみし)征伐に進発しました。蝦夷は平和を愛する民族であった。
遠征先は狩猟や漁業や農業の行われていた豊かな蝦夷地・雄物川河口の齶田(飽田・あぎた・秋田市)と米代川河口の渟代(ぬしろ・秋田県能代市)地域でした。
阿倍比羅夫の北征の目的はあくまで、蝦夷地を大和朝廷の支配領域に入れようとするものでこの齶田(飽田)・渟代の蝦夷はその大軍を見て怖れを為して蝦夷の首長の恩荷(オガ)は、阿倍比羅夫に降伏し、その際恩荷(オガ)は『齶田浦神』に誓った。
「自分たちは弓矢をもっているが、日常肉食しているので、けものをとるためのものである。
もし官軍に抵抗し弓矢を使用するためもっているのであれば、そのことはすべて齶田浦の神が お見通しになっているであろう。この神にかけて、朝廷に仕えまつる」と帰順した。
この在地の神は蝦夷の信仰対象として秋田城遷置以前から存在した古四王神社であったらしいそうで古四王は、高志王・越王に通じるという。
阿倍比羅夫はこの恩荷に小乙上という官位を与え、ヌシロ(能代)・ツガル(津軽)の2郡の郡領に任命しております。
その3ケ月後斉明帝4年7月、200人あまりの蝦夷が朝廷に出むいて貢物をささげています。
これを賞して、能代と津軽の蝦夷にそれぞれ位階をさずけ、旗、鼓、弓矢、鎧などを与えたと日本書紀は記している。
阿倍比羅夫は更に北上して有間浜(岩木川河口)に津軽や胆振金/且(いぶりさえ)の蝦夷達を集めて饗応をしております。
また有間浜に、渡嶋(わたりしま)の蝦夷等を集めて饗応しております。
有間浜については諸説があるが津軽半島の十三湊に比定する説がもっとも有力である。
「渡嶋」は北海道の南部を指すと思われます。
その後に、阿倍比羅夫の水軍は、肉入籠(ししりこ)に到達。
その時、問莵(トイウ)の蝦夷の胆鹿嶋(イカシマ)と莵穂名(ウホナ)の二人がやってきて後方羊蹄(しりへし)に政庁を置くことをすすめております。
斉明帝5年3月にも阿倍比羅夫は遠征に出発したことになっております。
経過は斉明天皇4年4月の遠征のときとほぼ同じです。
斉明帝6年(660年)3月、阿倍比羅夫は第二次遠征に200艘の舟師を引きいて粛慎国を討伐するため進発しております。
粛慎は中国の北方の沿海州付近(高句麗の北)に住んでいる民族であるといわれております。
「大河の測(ほとり)に到る」。
「渡嶋の蝦夷一千余、海の畔に屯聚(いは)みて、河に向ひて営(いほり)す。」と出ており大河のほとりまでくると、そこには渡島(ワタリシマ)の蝦夷が1000人ほど海辺に集まっておりました。
その中の二人の蝦夷がにわかに叫んで「粛慎(ミシハセ)の軍隊が船にのって大勢やってきて私達を殺そうとしている」ので助けて欲しいと阿倍比羅夫に言った。
阿倍比羅夫は色で染めた絹や兵器や鉄などを海辺に積んで置いた。
羽を木にたかくかかげて旗とした粛慎の軍が舟をつらねてやってきた。
一艘の舟から二人の長老格の老人がやってきて、布をもっていったが、またそれをもどしにきた。
阿倍比羅夫はかれらを招いたが、応じないで、粛慎は弊賂弁の嶋(へろべのしま)に帰って「柵」に立てこもり、そして、阿倍比羅夫軍と粛慎軍は戦争になった。
その時、粛慎の内49名を捕虜としましたが、阿倍軍の能登臣馬身竜(のとのおみまむたつ)が殺されたとある。
粛慎の軍とは交戦しているが、渡島の蝦夷とは一度も戦わず饗応しているだけです。
その遠征の目的は交易ルートの開拓にあったのではないかと思われます。
朝廷は、天智即位前紀七年(662)8月に安曇野比羅夫を前軍とし、阿倍引田臣比羅夫を後軍として水軍を編成し、百済の救援に向かわせた。
日本の存亡にもかかわる戦乱におもむいた、安曇野比羅夫と阿倍引田臣比羅夫の水軍は日本の古代水軍の代表格であった。
半島での戦いで、唐・新羅連合軍の水軍に日本水軍が敗れ、400艘が焼かれております。
残った日本水軍が周留(チル)城の囲みを解こうと攻撃を仕掛け惨敗し日本の水軍は壊滅状態になった。
この白村江の戦いで敗れた、大和朝廷は本格的に国内の経営にかかわり柵戸を作って徐々に北進を開始し阿倍比羅夫のきずいた拠点は奈良朝に入ってもつづき朝廷は蝦夷征討の軍を次から次とくりだしております。
阿倍比羅夫は、斉明帝時の蝦夷征討の将軍として、また奈良朝の坂上田村麻呂将軍と共に能代市では現代までその名を伝承されております。 
 
阿倍比羅夫の東北遠征 4

 

飛鳥に都を移して間もない頃、日本海への阿倍比羅夫の大規模な北方の遠征が挙行され、『書紀』に何篇かに渡って記事から、記述に多少の混乱があるようだ。
斉明四年(658)斉明天皇の命を受けた阿倍比羅夫は北伐に向かった。四月に阿倍比羅夫は軍船百八十艇を率いて、すでに服従していた津軽の蝦夷を水先案内にして齶田(秋田)に来航した。鰐田・渟代(能代)の蝦夷は比羅夫軍の軍勢を見て降伏をした。
その行程は越国守阿倍比羅夫が北陸地方の豪族であったので、地域に詳しく関係の深い氏族であった。日本海は、冬は荒れるが春から夏へは波も穏やかで、能登半島の七尾・伏木辺りで集合し、態勢を整えて渟足・磐舟港を前線基地として準備万端をして進軍、征伐隊は順調に顎(あご)田(た)・渟代を押さえた。
組織と戦力に勝る比羅夫軍に蝦夷は何の戦いも組織の無いまま降伏しこれを比羅夫軍は許した。蝦夷は鰐田の浦の神に懸けて朝廷に従うことを誓った。
比羅夫は蝦夷の首領に位を授け、渟代(めしろ)・津軽の二部を郡領に任命をした。最後に有馬浜(津軽半島)に渡り嶋(北海道)の蝦夷を招き、大いに饗応して帰還した。
翌年の三月に、比羅夫は二回目の遠征に出発した。飽田(あきた)・渟代の津軽の蝦夷を三五〇人余りと、胆振鉏(北海道南部)の蝦夷二十人を一カ所に集め大いに饗応して禄を授けた。この年の遠征は北海道まで及んだと思われる。
さらに翌年の斉明六年(660)の三月の三回目の遠征には、粛(しゅく)慎(しん)(あしはぜ)と言う未知の民族と遭遇する。
比羅夫は陸奥の蝦夷を水先案内人と大河(石狩川)の河口付近に着くと、渡嶋の蝦夷千人余りが対岸に集まって仮住まいをしていた。
二人の蝦夷が大声で、川向うから「粛慎の軍船が多数襲ってきて我々を殺そうとしております、朝廷に仕えます、助けてください」と言って助けを求めてきた。
そこで比羅夫は粛慎人と接触を試みるが失敗に終わり、ついに戦闘となった。比羅夫軍に加わった能登臣馬身龍という能登地方の豪族が戦死する。
結局粛慎は破れて自ら妻子を殺したと言う。五月には粛慎人四十七名が来朝し、飛鳥石の都にある須弥山像の下に服従の儀礼を行なった。凱旋をした比羅夫はヒグマの生け捕り二頭とヒグマの毛皮七〇枚を献上した。以上が阿倍比羅夫の北方の遠征の概略である。

また斉明朝時代には活発に外交が展開されて様で、国内的に比羅夫の北方遠征に新羅・百済に使者や唐まで蝦夷らを連れて行き、倭国の属国があって支配地を広く大きく見せたい虚勢が窺い知れる。
阿倍比羅夫(生没不詳)
七世紀の有力豪族、比羅夫の名は貝の名前。比羅夫の阿倍は氏の中でも大和国は磯上(いそがみ)郡辟(ぐんへき)田(た)郷を本拠とする家系の出身であったことを示す。七世紀後半は引田氏が阿倍氏の主流を占め、阿倍氏の主流は後の布勢氏に移って行った。斉明四年(658)の東北遠征には輝かしい功績を残し、その結果大和朝廷は未知の世界を知ることが出来、一歩東北に勢力を広げた間があるが、その後の東北政策は苦難を極め、平安京に入って坂上田村麻呂の蝦夷征伐まで待たなければならなかった。
蝦夷(えみし)
古代の新潟県の北部から東北地方・北海道にかけ居住した先住民族の総称、中国では古代から漢民族が自らの国家・文化が優れたものとものとして世界の中心の中華思想があって、それに影響されて日本の大和朝廷は国家に組み込まれていない東北、北海道・新潟地方の民を夷狄(いてき)(野蛮な異民族)の一つを蝦夷として設定をした。帝国型国家は地域・人民を天皇支配の内か外かに区別することで化内・化外(けがい)(王家の及ばない所)に分けて夷狄と諸蕃共に化外の属すると考えた。
粛慎
粛慎(しゅくしん)は中国の古典に見る春秋戦国以前の東北の伝説的民族であるが、実体は「ポルッツエ文化」を担ったバレオ・アジアート系の種族と考えられ、分布範囲は中国東北部からロシア沿海途方に及ぶ。その末裔は粛慎として中国や高句麗と通交した。日本の蝦夷と違う民族集団とみられる。この間に659年の遣唐使に北海道の蝦夷の男女を同行し皇帝高宗に謁見をさせている。この事は倭国もこのように服従する国々があると言う、アピールであった。興味を持った高宗は蝦夷に何種類の種族があるかと問うたと言う。
遠いものから「都加留・麁蝦夷・塾蝦夷の三種」と答えた。また五穀はあるか?
「ございません、獣を食べて暮らしております」また蝦夷を見た高宗は蝦夷の顔、体つきに興味深く思ったと述べている記述が『新唐書』『通典』に記録が留められていると言うことは、実際に斉明朝の次期に北海度の奥深くまで達していて、日本の記録は間違いがなかったと言えよう。
( 粛慎人を見てさぞかし飛鳥人は驚き、ヒグマを見て尚驚いたであろう。 )
三年連続で蝦夷や粛慎と称される種族を遭遇し交流などを出来たのは、季節的に条件が良かったのと、海沿いを添って北上したことが成功の要因に思える。
飛鳥時代は東北は未知の世界、大和朝廷の支配の及ばない所、勢力圏を拡大したい思惑で阿倍比羅夫は派遣された。行く先々で出遭った未知の先住民と交渉を重ねながら大きな功績を残した。
しかも遣唐使は大国中国に見栄を張って誇らしげに従属民族を示した。歴史は日本一国だけに留まらず中国も絡んで交渉と国交を結んで行ったものである。 
 
阿倍比羅夫と蝦夷遠征 5

 

1 阿倍比羅夫
阿倍氏は河内の生駒山脈の麓から摂津の阿倍野に居住していた豪族の子孫といわれており、阿倍比羅夫(あべ の ひらふ、生没年不詳)の時代、一族は分立して「布施臣」と「引田臣」(ともに後に朝臣の姓を受ける)と、それぞれ称していた。布施臣を率いる倉梯麻呂の息子・布施御主人(みうし、後の「阿倍御主人」)(635-703)は大宝律令下で最初の右大臣に任命されている。引田臣を率いる阿倍比羅夫は、斉明天皇に仕えて将軍として活躍し、7世紀中期の越国守であった。古代の越の国は越前、越中、越後だけでなく東北地方の日本海側も含む広大な地域の総称であった。ちなみに遣唐使で留学生として派遣された事で有名な阿倍仲麻呂の父である阿倍船守は、比羅夫の息子とも弟ともいわれている。
斉明7年(662)、中大兄皇子(後の天智天皇)の命により百済救援の水軍の将として半島へ遠征したが、663年、新羅と唐の連合軍に白村江の戦いで大敗した。この敗北により半島の足掛かりすべてが潰えた。しかし敗戦の責任を問われることはなく、後に北九州の大宰府の長官に任命される。
越国守の阿倍比羅夫は斉明天皇4年(658)から6年にかけて、越国内の兵士や柵戸(さくこ)・柵養(きこう)蝦夷を率いて、日本海沿いに3回遠征している。
大化のクーデターを成し遂げた改新政府は、中央集権化を促進するため、継体朝以来の「国奴」制度を解体し、新たな地方支配組織・国評制を施行する。それまで土着の有力豪族が任命され、「国奴」として世襲支配してきた「国」を細分化し、「評〔こおり〕」を設置した。「評」の役人として「評造〔こおりのみやつこ;ひょうぞう〕」「評督〔こおりのかみ;ひょうとく〕」「助督〔こおりのすけ;じょとく〕」などが置かれた。当時蝦夷とは、新潟県を含む東北地方から北海道に住む人々を呼んだ。必ずしも民族的区分とまではいえなかった。その北日本のうち、南方文化圏に属する新潟県・福島県・山形県・宮城県は、倭政権の古代国家の領域にあった。在地首長は「国奴」に任じられ地方支配を行っていた。
そこでも改新政府は、評制を施行し、更にオホーツク文化の段階にあった北方文化圏・北海道と接する中間文化圏にある青森県・秋田県・岩手県などの境界地域への支配の拡大を図った。越国に渟足(ぬたり;新潟市付近)柵を作り、柵戸を置く、『日本書紀』大化4年(648)には「磐舟(いわふね;新潟県村上市付近)の柵を治(つく)りて、蝦夷(えみし)に備ふ。遂に越と信濃の民(おおみたから)を選びて、始めて柵戸(きのへ)を置く」とある。以後、都岐沙羅(つきさら)柵や陸奥国に優嗜曇(うきたむ)柵も営なまれた。
柵の防備も兼ねて、柵戸として越と信濃からの多数の移民が送り込まれた(柵戸の移配)。そして柵周辺の蝦夷が服属して、城柵の支配下に入ると「柵養蝦夷」と呼ばれた。
2 阿倍比羅夫の蝦夷遠征
斉明天皇4年4月 阿陪臣(あへのおみ)、船師(ふないくさ)一百八十艘(ふな)を率て、蝦夷(えみし)を伐つ。 齶田(あぎた)・渟代(ぬしろ)、二郡(こほり)の蝦夷、望(おせ)り怖(お)ぢて降(したが)はむと乞ふ。 是に、軍(いくさ)を勒(ととの)へて、船を齶田浦(あぎたのうら)に陳(つら)ぬ。 齶田(あぎた)の蝦夷恩荷(おが)、進みて誓ひて曰(もう)さく、 「官軍(みいくさ)の為の故に弓矢を持たらず。 但し奴(やっこ)等、性肉(ひととなりしし)を食(くら)ふが故に持たり。 若し官軍の為にとして、弓矢を儲(ま)けたらば、齶田浦の神知りなむ。 清き白(あきらか)なる心を将(も)ちて、朝(みかど)に仕官(つかえまつ)らむ。」とまうす。 仍りて恩荷(おが)に授(さず)くるに、小乙上(せうおつじやう)を以てして、 渟代(ぬしろ)・津軽(つかる)、二郡の郡領(こほりのみやっこ)に定む。 遂に有間浜(ありまのはま)に、渡嶋(わたりのしま)の蝦夷等(えみしども)を召し聚(つど)へて、 大きに饗(あへ)たまひて帰(かえしつかは)す。
斉明天皇4年7月 蝦夷(えみし)二百余、闕(みかど)に詣でて朝献(ものたてまつ)る。 饗(あえ)賜ひて、贍(にぎはえ)給ふ。 常より加れること有り。仍(なお)柵養(きかふ)の蝦夷二人に位一階(しな)授く。 渟代(ぬしろ)郡の大領沙尼具那(さにぐな)には小乙下(せうおつげ)、 少領(すけのみやっこ)宇婆左(うばさ)には建武、 勇健者(いさみたけきもの)二人には位一階。 別に沙尼具那等に、鮹旗(たこはた;吹流し風に先が何本かに割かれた古代の旗)二十頭(はたち)・鼓二面・弓矢二具(そなえ)・鎧二領を賜ふ。 津軽郡の大領(こほりのみやっこ)馬武(めむ)に大乙上、 少領(すけのみやっこ)青蒜(あおひる)に小乙下(せうおつげ)、 勇健者(いさみたけきもの)二人には位一階授く。 別に馬武等に、鮹旗(たこはた)二十頭(はたち)・鼓二面・弓矢二具(そなえ)・鎧二領賜ふ。 都岐沙羅(つきさら)の柵造(きのみやっこ)には位二階(しな)授く。 判官(まつりごとひと)には位一階。 渟足(ぬたり)の柵造大伴君稲積には小乙下授く。 又、渟代(ぬしろ)郡の大領(こほりのみやっこ)沙尼具那(さにぐな)に詔して、 蝦夷の戸口(へひと)と、虜(とりこ)の戸口とを検覈(かむがへあなぐ)らしむ。
斉明天皇4年11月 是歳(ことし)、越国守(こしのくにのかみ)阿倍引田臣(あへのひきたのおみ)比羅夫(ひらぶ)、 粛慎(あしはせ)を討ちて、生羆(しくま)二つ・羆皮(しくまのかは)七十枚献(たてまつ)る。
斉明天皇4年4月のこの時の遠征には180艘の船団を組んだ。 越国守であった阿倍比羅夫はその船団を率いて蝦夷征伐に出発した。 遠征先は雄物川河口の齶田(あぎた;後の秋田市)と米代川河口の渟代(ぬしろ;後の秋田県能代市)を中心に居住する蝦夷の地であった。古代から狩猟や漁労が生業で、弥生時代前期のB.C.300年余の一時期には、水田稲作も営まれた豊かな地方であった。秋田市四ツ小屋末戸松本字地蔵田に所在する地蔵田遺跡(じぞうでんいせき)は、旧石器時代・縄文時代・弥生時代と営まれてきた遺跡である。ここの弥生時代の集落が、B.C.3世紀の弥生時代前期に成立し、初期の稲作農耕文化を受容した痕跡を留めている。
弘前市大字三和にある砂沢遺跡から、1枚の面積が70〜80uある6枚の水田遺構が発掘された。この水田遺構は、青森県田舎館(いなかだて)村の垂柳水田よりもさらに250年ほども遡ることになり、現段階では東日本最古の水田といえる。
ここに大船団を組んで遠征する阿倍比羅夫の目的は、その地を大和政府の支配下に入れることにあった。大和政権は聖徳太子以来、天皇中心の国家体制の確立を目指しながら、逆に蘇我氏が崇峻天皇を暗殺するほどに台頭してきた。皇極天皇4年(645)6月、中大兄皇子と中臣鎌足らにより蘇我入鹿を暗殺し、政治の実権を握ると、かつての氏姓制度を改革し、中央集権国家を強力に進める大化の改新策を実施する。その一方列島全域を統治するための軍事も敢行する。
「大化」の年号が意味する「大いなる風化」とは、「徳の教えを以て、すべての人心を善導する」ことである。ここでいう「風化」の「風」とは、上の者が下位の者を教え導くという意味で、また「風俗」とは地方の民族文化ではなく、中央の文化を指した。いわば大和政権の「皇命(おほみこと)」に服従させ、その傘下に入れる事、即ち「王化に服させる事」である。しかしながら実際に戦いが行われたことの記録に乏しく、後世、桓武朝における坂上田村麻呂の武力遠征とは異なり、懐柔策を主体にした王化策とみられる。比羅夫の遠征は蝦夷の風俗を調査し、服属と朝貢を促すことが目的であった。遠征後、都に蝦夷と一緒に 虜(とりこ)も連れて戻っているので、多少の戦闘はあったようだ。
齶田(飽田)・渟代の2カ所の蝦夷は、その大軍を見て怖れを為して、降伏する。 阿倍比羅夫は船団を齶田浦(あぎたのうら;雄物川河口付近)に停泊して降伏の儀式を行い、 ここで齶田(あぎた)の蝦夷恩荷(おが)に小乙上(しょうおつ)の位を授けている。その冠位は冠位十三階を改訂した大化5年(649)施行の冠位十九階のもので、17階に当たる。
1  大織(だいしき)
2  小織(しょうしき)
3  大繍(だいしゅう)
4  小繍(しょうしゅう)
5  大紫(だいし)
6  小紫(しょうし)
7  大花上(だいか)(大徳/大錦に相当)
8  大花下(小徳/大錦に相当)
9  小花上(しょうか)(小錦/大仁に相当)
10  小花下(小錦/小仁に相当)
11  大山上(だいせん)(大青/大礼に相当)
12  大山下(大青/小礼に相当)
13  小山上(しょうせん)(小青/大信に相当)
14  小山下(小青/小信に相当)
15  大乙上(だいおつ)(大黒/大義に相当)
16  大乙下(大黒/小義に相当)
17  小乙上(しょうおつ)(小黒/大智に相当)
18  小乙下(小黒/小智に相当)
19  立身(りゅうしん)(旧建武)
渟代(ぬしろ)と津軽(つかる)に2評(郡)を設置して、降伏してきた首長を評造に任じ、その支配を任せた。ここで出てきた「津軽」は、そのあとに、有間浜(ありまのはま)に、渡嶋(わたりのしま)の蝦夷等(えみしども)を集めて 大いにもてなしたこととの繋がりから、現在の青森県の津軽地方と素直に理解したい。
次に「渡嶋」については、有間浜同様の津軽半島の一地方を指すか、現代のように北海道の南のことなのか定まらない。現在の“渡島”(おしま)という地名は、“北海道”などと同じく明治になっての名称で、古代にいう「渡嶋(わたりのしま)」は、現在のどこに当たるのか。
余り穿ち過ぎる考古学上の諸説は、逆にその後の考古学上の成果により、脆くも敗れている。北海道説と素直に理解したい。その主な論拠は、「渡嶋」という名称の意味が、津軽海峡を渡った北海道の自然地形と合致するという点と、阿倍比羅夫が生きた羆を連れ帰っている、羆の生息地は北海道以北に限定されるという点の2点に集約される。
斉明天皇4年7月に蝦夷(えみし)二百余、が京にのぼっており、 この時に、渟代(ぬしろ)と津軽の評造などにそれぞれ位を授けている。 そして、「蝦夷の戸口(へひと)と、虜(とりこ)の戸口」とも一緒に連れている。 この「虜」とは、この遠征時に戦った蝦夷の捕虜を「虜」といい、帰順した蝦夷の「戸口」と区別したとみる。
斉明天皇5年(659)3月 是の月に、阿倍臣(あへのおみ)を遣して。 船師(ふないくさ)一百八十艘を率て、蝦夷国(えみしのくに)を討つ。 阿倍臣、飽田(あぎた)・渟代(ぬしろ)、二郡の蝦夷二百四十一人、其の虜三十一人、 津軽郡の蝦夷一百十二人、其の虜四人、胆振鉏(いふりさへ)の蝦夷二十人を 一所に簡(えら)び集めて、大きに饗(あへ)たまひ禄賜(ものたま)ふ。 即ち船一隻と、五色の綵帛(しみの帛【はく】=絹)とを以て、彼(そ)の地(ところ)の神を祭る。 肉入籠(ししりこ)に至る。 時に、問菟(とひう)の蝦夷胆鹿嶋(いかしま)・菟穂名(うほな)、二人進みて曰く、 「後方羊蹄(しりへし)を以て、政所(まつりごとどころ)とすべし」といふ。 胆鹿嶋(いかしま)等が語(こと)に随ひて、遂に郡領(こほりのみやっこ)を置きて帰る。 道奥(みちのく)と越(こし)との国司(くにのみこともち)に位各二階(しな)、 郡領(こほりのみやっこ)と主政とに各一階授く。
斉明天皇5年3月文注 或本に云わく、阿倍引田臣比羅夫、粛慎(あしはせ)と戦ひて帰れり。 虜(とりこ)四十九人献(たてまつ)るといふ。
斉明天皇5年3月にも阿倍比羅夫は遠征に出発したことになっている。 経過はほぼ斉明天皇4年4月の遠征のときと同じで、 ここでも「飽田(あぎた)・渟代(ぬしろ)、二郡の蝦夷二百四十一人、其の虜三十一人、 津軽郡の蝦夷一百十二人、其の虜四人、胆振鉏(いふりさへ)の蝦夷二十人」と 蝦夷と虜と2つに分けられている。斉明天皇4年4月の遠征のときと同じように 「虜」とは蝦夷と倭人との間の戦いの捕虜であった。 征討地域としては、胆振鉏は、この順序でいく と津軽郡よりも北であるが、場所は特定できない。 その後、肉入籠(ししりこ)に到達しており、後方羊蹄(しりへし)にも評造を置いる。この肉入籠(ししりこ)もその場所は、やはり不明。後方羊蹄は、北海道の羊蹄山の北、後志(しりべし)地方か。
斉明天皇4年4月の内容と斉明天皇5年3月の内容は「阿陪臣(あへのおみ)、船師(ふないくさ) 一百八十艘(ふな)を率て、蝦夷(えみし)を伐つ。以下略」とほぼ同じ事をいっておりますから、 これは同じ出来事を別々の原典から拾った記述とおもえる。
後方羊蹄(しりへし)  ここで北海道・蝦夷地が初めて歴史上に登場する。比羅夫は軍船を率いて蝦夷遠征を行い、その際に飽田、渟代二郡(現在の秋田県秋田市と能代市)の蝦夷、津軽郡の蝦夷、胆振(北海道胆振地方)の蝦夷を集めて饗応している。さらに肉入龍に進軍している。特定は出来ないが、北海道南部の地域であろう。そこで地理的な情報を聞き出している。現地の蝦夷よりの提言で、後方羊蹄に評造を置くことになった。  
後方羊蹄の「羊蹄」とは羊蹄山を指している。後方というのは内浦湾側から見て、あるいは「渡嶋」から見て羊蹄山の後方の事を言っている。 すると後志(しりべし)地方のこととなる。 後志地方には「比羅夫」という集落があり、JR北海道の函館本線には比羅夫という駅が存在する。同支庁喜茂別町には国道276号線沿いの比羅岡に比羅夫神社がある。「比羅夫」とはもちろん、阿倍比羅夫の比羅夫であろう。ただその地名の由来は、後志の中央部を流れる尻別川のアイヌ語名、シリ・ペッ(【山の】【川の】の意)の音から、松浦武四郎が「後志(しりべし)」と名付けた、かなり後代の知名だ。比羅夫の足跡が後志で確かに証明される考古学的な痕跡は、未だ見つかっていない。事実であれば、当時の大和朝廷は、早くも蝦夷地まで進出していたことになる。評造も設置している。都より執政官を送り込んでの直接統治ではない。現地任せの放置も同然と推測される。
斉明天皇6年(660)3月、阿倍臣を遣して、船師(ふないくさ)二百艘を率て、粛慎(あしはせ)を伐たしむ。 阿倍臣、陸奥(みちのく)の蝦夷を以て、己が船に乗せて、大河の測(ほとり)に到る。 是に、渡嶋の蝦夷一千余、海の畔に屯聚(いは)みて、河に向ひて営(いほり)す。 営の中の二人、進みて急に叫びて曰はく、 「粛慎(あしはせ)の船師(ふないくさ)多(さは)に来りて、 我等(おのれら)を殺さむとするが故に、願(こ)ふ、 河を済(わた)りて仕官(つか)へまつらむと欲(おも)ふ」といふ。 阿倍臣、船を遣(つかは)して、両箇(ふたつ)の蝦夷を喚(め)し至らしめて、 賊(あた)の隠所と其の船数とを問ふ。 両箇(ふたつ)の蝦夷、便(すなは)ち隠所を指して曰はく、「船二十余艘なり」といふ。 即ち使(つかひ)を遣して喚(め)す。 而るを来(まうき)肯(か)へず。 阿倍臣、乃(すなは)ち綵帛〔しみのきぬ)・兵(つわもの)・鉄(ねりかね)等を海の畔(ほとり)に積みて、 貧(ほし)め嗜(つの)ましむ。 粛慎(あしはせ)、乃(すなは)ち船師(ふねいくさ)を陳(つら)ねて、羽を木に繋(か)けて、挙げて旗とせり。 棹を齊(ひとし)めて近つき来て、浅き処に停止りぬ。 一船の裏(うち)より、二の老翁(おきな)を出(いだ)して、廻(めぐ)り行(あり)かしめて、 熟(つらつら)積む所の綵帛〔しみのきぬ)等の物を視しむ。 便(すなは)ち単衫(ひとへきぬ)に換へ着て、各布一端(むら)を提(ひきさ)げて、 船に乗りて還去(かえ)りぬ。 俄(しばらく)ありて老翁(おきな)更(また)来て、換衫(かえきぬ)を脱き置き、 併(あわせ)て提(ひきさ)げたる布を置きて、船に乗りて退(まか)りぬ。 阿倍臣、数(あまたの)船を遣(つかは)して喚(め)さしむ。 来肯(まうきか)へずして、弊賂弁嶋(へろべのしま)に復(かえ)りぬ。 食頃(しばらく)ありて和(あまな)はむと乞(まう)す。 遂に聴し肯(か)へず。 己が柵(き)に拠りて戦ふ。 時に、能登臣馬身竜(のとのおみまむたつ)、敵(あた)の為に殺されぬ。 猶戦ひて未だ倦(う)まざる間に、賊破れて己が妻子(めこ)を殺す。
斉明天皇6年5月 阿倍引田臣、夷(えみし)五十(いそ)余献る。 又、石上池(いそのかみのいけ)の辺(ほとり)に、須弥山(すみのやま)を作る。 高さ廟塔(めふたふ)の如し。以て粛慎(あしはせ)四十七人に饗(あへ)たまふ。
慎粛討伐  斉明6年に阿倍比羅夫は蝦夷地への本格的な進出を目指し、軍船2百艘を率いて、蝦夷地の先住民族の国・慎粛(あしはせ)の討伐を行う。 慎粛を建国した先住民は、元来中国の北方の沿海州付近に住んでいる民族で、アイヌ人の血流の一つといえる。この頃朝鮮半島では新羅・百済・高句麗の三国が覇を競い合っていた。 粛慎の国はこの高句麗の北にあったと考えられている。当時、唐は靺鞨(まっかつ)と呼んでいた。その靺鞨の出先の基地が、北の北海道周辺にあったとする可能性を否定はできない 。或いはこの靺鞨族の支流が流入していたことも予想される。その慎粛討伐を確実なものとするため、2年前の斉明4年(658)に平定した齶田(飽田の別名)と渟代の蝦夷数名を水先案内にして大河の傍に至る。 軍船を停泊させていると、渡島蝦夷1,000人も屯集して、河に向かって宿営を始めた。やがて営の中から2人が川岸に現れて、粛慎の軍船が多数来て殺されそうだ、川を渡って仕えたいという。比羅夫は迎いの舟を差し向け二人を救った。彼らから粛慎軍が潜む位置と軍船の数、20隻余りとの情報を得ている。
比羅夫が渡島蝦夷と対陣した大河とは、江差町に近い上ノ国(かみにくに)町を流れる天の川か、更に北上して尾花岬(おばなみさき)を越した利別川(としべつがわ)か、定かではない。ただその後、弊賂弁嶋(へろべのしま;奥尻島)で慎粛と戦っているので、そのいずれかと考えられる。
比羅夫は、その川を挟んで、水先案内としてつれてきた蝦夷を介し、慎粛の軍に対して懐柔策を講じるが失敗する。比羅夫は慎粛軍の前に、絹や武器、鉄製品などを置いて相手の出方を探る。 粛慎側は長老格の老翁(おきな)か出てきて、それらの物を拾い上げ、一時は和睦が 成立したかとおもわれたが、しばらくしてその物が元の所に返された。 これは互いの言葉が通じない相手に対する一つの交渉方であって、それらを受け取り、 別の何かを返せば、親睦を表したことになる。しかし、今回は逆で 敵意を表明した。 それで、阿倍比羅夫軍と粛慎軍は戦争状態に突入した。
粛慎は弊賂弁嶋(へろべのしま)に戻って「柵」に立て篭もり、臨戦態勢をとる。 この弊賂弁嶋は渡島の近くなので、奥尻島と比定できる。ここ至り、開戦は不可避、比羅夫は弊賂弁嶋の攻略を決意するが、比羅夫は「和(あまな)はむ と乞(まう)す」と降伏勧告をする。 これも決裂して、阿倍比羅夫軍は弊賂弁嶋の柵を攻撃、戦いは苛烈さを極め、能登臣馬身龍(のとのおみまむたつ)という将官が戦死するが、奥尻島の慎粛を降伏に追い込んだ。粛慎は敗れて自分の妻子を殺して、降伏します。このように弱者を犠牲にする敗軍の処置は、北東アジア大陸の風儀なのだろうか?
比羅夫軍は粛慎の前線基地である弊賂弁嶋を攻略したにすぎない。 その一方で人的被害が増大したことや、比羅夫自身がその戦果に満足して兵を退いたので、当初予定していた後方羊蹄(しりへし)を橋頭堡にする本格的な進出という目的は達成されていない。実質的な成果が伴わない点、大和朝廷側の戦略的敗北といえる。しかしその一方、斉明朝の改新政権は北方・中間文化圏の多種・蝦夷集団を服属させ、朝貢させるばかりか、その風俗・習慣についても詳細な記録を後世に残すという画期的成果をあげた。それ以上に当時、粛慎の有り様から感じ取り、北海道が大陸北部に通じていることを理解していた。 
同年に朝鮮半島の百済より援軍要請があり、比羅夫も軍船を率いて朝鮮半島に出兵した。3年後の天智2年(663)、白村江の戦いで、陸戦では唐・新羅の軍に、倭国・百済の軍は破れ、海戦では、白村江に集結した1,000隻余りの倭船の中で400隻余りが炎上するという大敗北に遭う。この戦だけで兵士1万余りが半島で消失している。その損失は大きく、また唐・新羅の軍の侵攻も予想され、慎粛討伐どころではなくなっていた。
阿倍比羅夫の遠征以降も蝦夷の反抗は続き、王化の拡大は東北地方の民にとって、最悪の事態を招いた。派遣された貴族や官人の一方的な搾取と露骨な人種的差別、官人の威を借りる商人達の収奪に等しい交易の横行、地勢・気候風土を弁えない施策と租庸調の過酷な負担。
大和朝廷が陸奥経営に本格的に動き出すのは奈良時代の始めである。この時代は藤原不比等の主導の下、大宝律令の整備など律令国家の体制が確立した時代である。元明天皇の和銅2年(709)に巨勢朝臣麻呂を鎮東将軍に任命される。養老4年(720)に按察使・上毛野広人が陸奥柵(仙台・長町付近)で殺される事件が起る。神亀元年(724)に東北経営の拠点として、按察使兼鎮守将軍・大野東人により多賀柵(城)と出羽柵が造営され、前線基地として天平宝字2年(758)に桃生城と雄勝柵が造営される。神護景雲元年(767)に伊冶(いじ;これはり)城が造営される。
その後も称徳天皇薨去により擁立された光仁天皇の時代、宝亀5年(774) 、陸奥国の蝦夷が蜂起し、朝廷側の行方郡(なめかたぐん)の穀倉が焼かれ、桃生城(ものうじょう;石巻市【旧桃生郡河北町】飯野字)を攻撃、以後38年戦争と呼ばれる全面戦争が勃発する。
伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)は蝦夷の族長で、出羽国の管轄にあった志波村の蝦夷征討に功を上げ、宝亀9年(778)には外従五位下を授けられたが、同11年、陸奥此治(これはり;伊治)郡大領として従軍している時反乱を起し、陸奥按察使・紀広純のいる伊冶城を包囲攻撃し殺害した。これにより、朝廷軍の飛駅(ひえき;早馬)による情報網が破壊されてしまった。
天応元年(781)桓武天皇が即位する。延暦8年(789)3月9日に5万余りの政府軍が北進を開始した。征東大使は紀古佐美(きのこさみ)である。 6月3日朝廷に到着した報告によると、前・中・後の3軍に分けて、北上川の東岸への渡河作戦を決行した。前軍は反乱軍に阻まれて渡れなかったが、中・後軍は河を渡り、遭遇した反乱軍300人と戦った。圧倒的な兵力の政府軍は、勢いに乗じて前進するが、800人の強力な賊軍と遭遇、退却しようとしたところを、別に東山より出現した400の賊軍に退路を断たれ、政府軍は混乱に陥って敗走する。政府軍は胆沢(岩手県奥州市水沢区)の有力首長である阿弖流為(あてるい)率いる蝦夷軍の巧みなゲリラ戦法により大敗した。
しかし延暦13年、桓武天皇が平安京に遷都した年に10万、同20年には4万と執拗に続く征討軍の侵攻は、蝦夷社会にも深刻な打撃となってきた。征夷大将軍・坂上田村麻呂が登場し、802年(延暦21年)に胆沢城を造営したのを機に、阿弖流為らが降伏し、一応の決着を見る。桓武天皇は延暦15年、東国・北陸などから伊治城に9千人を移住させる。以後も、東北地方最大の城柵・志波城(盛岡市)を造営し、胆沢城には東国の浪人4千人を移配した。
3 蝦夷と粛慎
『日本書紀』によれば、658年水軍180隻を率いて蝦夷を討ち、さらに粛慎(あしはせ、しゅくしん、みしはせ)を平らげたとする。それは、粛慎の前衛基地の攻略に成功したに過ぎない。粛慎(しゅくしん)について、「転じて其民族の住したる地方の国名となる。 また『アシハセ』とも訓す。 支那には其の名、古くより聞え、按ずるに,比羅夫の征討せしは、大陸にあらずして、 樺太方面に居住する通古斯民族なりしなるべし。 當時唐の勢力強大にして、遠く北方満州地方に及び、 同地方の通古斯民族が、唐人より得たる貿易品の転じて樺太に入り、 更に蝦夷を経て我が国に傳はりしより、蝦夷の北方に別種の民族あること知られ、 かくして比羅夫の遠征を誘致せしものと見るべし。」
粛慎は本来満州東北部に住むツングース系民族の国名を指すが、オホーツク文化人とも取れ、周代には既に知られていた。 息慎とも稷慎とも記され、石鏃を用い、狩猟と漁労を主な生業としていた。 漢代以後にはその名は見えず、此の地方の民族は?婁(ゆうろう)として知られる。その民族の分流が、沿海州から樺太、蝦夷地に移動してきたと考えられ、大陸北部に由来する文化・習俗をもたらした。中国三国時代、高句麗の北、満州地域に住んでいた民族・勿吉(もつきつ)とは同族で、勿吉は現在の松花江(ソンホワチャン)から烏蘇里江(ウスリー江)、黒龍江流域に居住していた。?婁(ゆうろう)も、中国三国時代に、外満州(Outer Manchuria;北満州ともいう外興安嶺【スタノヴォイ山脈;Stanovoy Mts】以南・黒竜江(アムール川)以北・ウスリー川以東の地域)付近にあった国で、容貌は扶余に似ているが、言葉は異なっていたとあり、元々、粛慎と呼ばれていた氏族の末裔とされ、前漢代以降は扶余に従属していた。しかし、しばしば反抗を繰り返していたと記録されている。また、唐時代の靺鞨(まっかつ)もその末裔とみられ、中国の隋、唐時代に、勿吉(もつきつ)の表記が変化したものと考えられている。粛慎にしても靺鞨にしても、その訓(よ)みは共に「あしはせ」である。女真(女眞、じょしん)は、女直(じょちょく)ともいい、中国東北部の松花江一帯から外興安嶺以南のロシア極東地域および朝鮮半島北部にかけて居住していたツングース系民族で、10世紀ごろから歴史に登場してくる。17世紀に「満洲(マンジュ)」と改称した。民族の聖地を長白山としている。 元々は、女真以前に満洲に居住していた黒水靺鞨の後裔とみられている。主に狩猟採集・牧畜・農耕に従事し、中国との間で朝鮮人参・毛皮を主に貿易していた。度々略奪遠征をし、1019年に船で対馬・壱岐・九州に刀伊の入寇と呼ばれる侵入をし、多大な被害を与え、藤原隆家ら大宰府官人に撃退された集団が、女真族主体のようであった。 やがて中国に1115年「金」帝国・1636年「清」を建国する。
多賀城碑(たがじょうのひ)は、宮城県多賀城市大字市川にある古碑(奈良時代)であり、国の重要文化財に指定されている。書道史の上から、那須国造碑、多胡碑(たごひ;群馬県多野郡吉井町池字御門)と並ぶ日本三大古碑の一つとされる。これまでその碑文の内容が、余りにも重大且つ意外な内容のため、偽作とされてきたが、近年の科学調査により、天平宝字6年(762)に建てられた真作と確定した。
実際の碑文は縦書きである。
「西
多賀城 去京一千五百里 (京を去ること一千五百里)
     去蝦夷国界一百廿里 (蝦夷国の界を去ること一百二十里)
     去常陸国界四百十二里 (常陸国の界を去ること四百十二里)
     去下野国界二百七十四里 (下野国の界を去ること二百七十四里)
     去靺鞨国界三千里 (靺鞨国の界を去ること三千里)
此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守府将 (按察使;陸奥・出羽両国の上級行政監督官)
軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置 (鎮守府将軍;陸奥軍政府の長官)
也天平宝字六年歳次壬寅参議東海東山 (陸奥守であり参議)
節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守 (節度使;東海・東山道の臨時の軍政官)
府将軍藤原恵美朝臣朝獦修造也
天平宝字六年十二月一日」
当時政治の実権を握っていた藤原仲麻呂の子・藤原恵美朝臣朝?(ふじわらのえみのあそんあさかり)が、大陸の渤海国に属していた靺鞨を、ことさら意識しているのはなぜか?比羅夫が接触した粛慎に、他の蝦夷とは違う文化と習俗が見られ、その特異性があった。黒竜江沿岸部の靺鞨・女真文化と深い関わりを予想させる、オホーツク文化の香りがあった。しかし、靺鞨国と渤海国を混同してはいない。神亀4年(727)以降、渤海国は来朝している。しかも多賀城碑が建てられる天平宝字年間(757〜765)に来朝していた使節を「高麗使」と呼んでいた。当時の日本は渤海国を高麗国の後裔と理解していた。養老4年(720)、孝謙天皇は靺鞨国の風俗を観察する国覓使(くにまぎし)として、渡嶋津軽津司(わたりしまつがるのつのつかさ)と諸鞍男(もろのくらお)を北海道に派遣する。彼らは粛慎の民がすむ靺鞨国が北方に実在すると認識した。それで藤原朝?は多賀城から3千里、平城京から4千5百里のかなたの帝国・靺鞨国として碑文に刻んだ。
総じて言えば、靺鞨は、高句麗に服属し、後に高句麗遺民と共に渤海を建国した南の粟末靺鞨と、後に女真族となり金国、清国を建国した北の黒水靺鞨とに二分される。多賀城碑でいう靺鞨は、黒水靺鞨の支流で、樺太経由で氷上を渡るか、直接舟による北海道への渡海と考えられる。
靺鞨にとって松花江は、母なる大地を養う重要な大河で、源は長白山に発し、嫩江(ノンチャン)・牡丹江(タンチャン)を併せて臨江(リンチアン)で黒龍江に合流する。その流域は東北平原の北部をなし、狩猟・農耕に適したため古くからツングース系民族の居住地となっていた。またその川は、唐代には粟末水、遼代には黒水と呼ばれ、女真族が松花江と呼んだ。
668年の高句麗滅亡後、高句麗に与して唐に反抗した靺鞨の一部などとともに営州(遼寧省)に移させられた。
690年に唐で武則天が即位すると、内政が混乱を始める。696年、この動揺を突いて、同じく強制移住させられていた契丹の酋長松漠都督李尽忠が唐に叛旗をひるがえすと、それに乗じて高句麗遺民らは、部衆を率いる粟末靺鞨人指導者乞乞仲象(コルゴルジュンサン;きつきつ ちゅうしょう)の指揮の下に営州を脱出した。その後、乞乞仲象の息子大祚栄(テ・ジョヨン;だい そえい)が指導者となる。則天武后は、将軍李楷固((チョン・ボソク))をして大祚栄討伐軍を派遣するが、大祚栄は高句麗・靺鞨の部衆を合せて迎え撃ち、これを大破する。大祚栄は高句麗の故地に帰還、東牟山(トンモサン;吉林省延辺朝鮮族自治州【ヨンビョン・ジョソンジョク・チャチジュ】敦化市)に都城を築いた。渤海の都が後に上京竜泉府(現・黒竜江省牡丹江市)に移ると、東牟山の地は「旧国」と呼ばれるようになる。大祚栄は唐(武周)の討伐を凌ぎながら勢力を拡大し、満州東部に一大勢力を確立し、698年には自立して震国王と称す。
705年、武則天が中宗に禅譲することで武周は消滅し、唐が復活すると、中宗は懐柔策をとり、同年、侍御史(じぎょし)張行岌(ちょうこうきゅう)を派遣して招撫を図った。祚栄も唐との通交の利を考えて、その子大門芝を唐に遣わして朝貢せしめ、ここに唐との和解が成立する。710年中宗が毒殺され、その後の政争を李隆基(り・りゅうき)が治め、712年玄宗皇帝として即位する。玄宗は翌年、鴻臚卿崔忻(さいきん)を遣わし、祚栄を左驍衛員外大将軍忽汗州郡督に任じ、渤海郡王に封じる。これより、国を渤海と号すようになる。渤海国は、高句麗人と粟末靺鞨人の混成国家であった。
4 阿倍比羅夫が通過した古東山道
『延喜式』にのる官道は、東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の7道で、古を付けて呼ぶのは古東山道だけである。それは延喜式以前から、関東、東北に通じる主要道があり、古代にその道筋を利用して東山道ができ、それから外れた旧道を古東山道と名付けた。東山道は近江の国府(大津市)を出発地とし、不破関(関が原)を通って美濃国に出る。岐阜市、瑞浪市、恵那市、中津川市と通り、神坂越えとなる。
信濃国における経路は、美濃国坂本駅から信濃坂(神坂峠;みさかとうげ)を越え阿智駅(下伊那郡阿智村駒場)に下り、伊那郡を下る天竜川沿いを遡上し、育良(いくら:下伊那郡伊賀良村)・賢錐(かたぎり;上伊那郡中川村.旧片桐村;上伊那郡の最南端に位置)・宮田(みやだ;上伊那郡宮田村;古くは伊那路交通の要所で信濃15宿の一つ。江戸時代は高遠藩領であった。)・深沢(ふかさわ;天竜川の支流深沢川が流れる上伊那郡箕輪町中箕輪)の各駅を経て善知鳥峠(うとうとうげ;松本平と伊那谷の境界をなす峠.表日本と裏日本の分水嶺をなす峠の一つで、標高889m。江戸時代中馬の道・三州街道は、小野からこの峠を越えて中山道と合流した。長野県塩尻市)を越えて筑摩郡に入り、覚志駅(かかしのうまや;松本市芳川村井町。平安時代から信濃国府が置かれた)を経て、錦織駅(にしごり;上水内郡【かみみのちぐん】四賀村【旧保福寺村】錦部)に出る。保福寺峠越えの重要な駅であった。峠の名は宿の東端にある曹洞宗保福寺に由来する。江戸時代保福寺街道保福寺宿に、松本藩の保福寺番所が置かれていた。そこから保福寺峠越えとなる。
明治になって英国の登山家ウェストンが保福寺峠で、北アルプスの連山の展望に感動し日本アルプスと命名した話は有名である。江戸時代は手前の刈谷原宿が、北国西街道(善光寺街道)との分岐点として栄えた。やがて鉄道の開通・車社会の到来で、二筋とも殆ど使われない道となった。
本道は東に方向を転じ、保福寺峠を越えて小県郷浦野駅(うらの)に至る。今の小県郡青木村に隣接する上田市に浦野の地名が残る。駅の場所は特定されていないが、東山道の難所保福寺峠越えの重要な駅であった。亘理駅(わたりのうまや)は千曲川を渡る重要な駅で、千曲川畔に設けられた駅(うまや)で、伝馬10疋をそなえていた。その場所は、現在の上田市常磐城と推定されている。
従来信濃国府は上田市亘理周辺にあったと考えられていた。近年の屋代遺跡群の発掘調査により、その定説をくつがえす木簡が発見された。 森将軍塚古墳に近い屋代遺跡から出土した木簡には、年紀(乙丑【(きのと うし】年=665年)が書かれ、その裏面に「『他田舎人(おさだのとねり)』古麻呂」と氏名と名が記されていた。全国最初の地方「国符木簡」の出土で、信濃国司から更科郡司等に対する命令の木簡であった。また、「信濃団」の文字が記された木簡もあった。亘理駅から屋代にあったと思われる信濃国府に通じる道が当然あったはず、即ちその道が、後の鎌倉街道となったものと考えられるが、現在ではその道筋も、伝承もない幻の街道となっている。
千曲市の東山道も、後の鎌倉街道も、千曲川の洪水によって流失したあと、村上時代に山の裾野に街道が開かれたからで、そこに鼠の宿も設置された。 亘理駅で千曲川を渡り、上水内郡の多古(たこ:長野市三才から田子付近)・沼辺(ぬのへ:上水内郡信濃町野尻または古間)の良駅を経て越後国に至る支路があった。それぞれ駅馬は5匹であった。亘理駅で千曲川を渡り、佐久郡清水駅(小諸市諸)・長倉駅(ながくら;軽井沢町の長倉;中軽井沢の北隣)経て、古くは碓氷坂といわれた入山峠を越え、上野国坂本駅へ至る路となる。さらに下野を経て、陸奥、出羽に到る。小諸市諸にあった清水駅も、信濃にある15の駅の一つで、当然水の確保も課せられていた。水の豊富な諸にはうってつけであった。清水駅は全長約270mあり、中央の道路をはさんで両側に、間口およそ22m、奥行およそ45mの地割をして駅の役人たちの屋敷にした。道路の中央には駒飼(こまがい)の堰を通し、また屋敷北側の後ろには飲用の堰を流し、それに沿って小道が通じていた。
ところで古東山道となると、上伊那郡宮田村にあった宮田を過ぎた所で、右折し天竜川を渡り、そのまま東方向に遡上する三峰(みぶ)川の渓谷を歩み高遠に出る。この上伊那郡高遠町の三峰川沿いに鉾持山(ほこじやま)がある。諏訪明神が戦いを終え、鉾を埋めて納めた山である。矢は守屋山に納めた、その名の由来となっている。ここから藤沢川沿いを遡り、山間の晴ケ嶺に達する。ここから諏訪盆地に向かうが、その後の道は古代より多岐で、諸説ある。鎌倉時代以降重要な道筋は、上伊那郡高遠町から御堂垣外(みどがいと)へ出て、東に折れて松倉川沿いを行き、松倉の集落を過ぎ、千代田湖を右手に見て金沢峠越える。茅野市金沢(後の旧金沢宿)を結ぶ峠で、松倉峠ともいう。標高1315mである。この峠は中世以来、諏訪と上・下伊那を結ぶ最短の重要な交通路で、鎌倉幕府に仕えた伊那の藤沢氏一門は、藤沢谷から金沢峠を越えて鎌倉に馳せ参じたといわれる。正嘉2年(1258)、諏訪氏と同族の下伊那の知久信貞が幕府的始めの射手に選ばれて鎌倉に赴いたのは高遠経由のこの道(鎌倉道)と伝えられている。また元亀3年(1572)、武田信玄が大軍を率いて甲州から伊那路を遠江に向った道も、大池から金沢峠越えであったと語り伝えられている。江戸時代の元禄(1688〜1704)ごろから、この峠を通る道は、飯田藩、高遠藩の参勤交代の公道に指定された。金沢宿より江戸へは48里半の里程となっている。
しかし何故甲州街道が、古代に開設されなかったのか。山梨県道212号の頂上にある笹子隧道の直上が、甲州街道最大の難所と言われた「笹子峠」(標高:1,096m)がある。大和村(甲州市)からの峠越えである。
現在山梨県道・東京都道33号上野原あきる野線の分岐点の左手にある脇道に入り、さらに右に曲がって鶴川を渡り急峻な山間部を通って鳥沢に至る、ほぼ現在の山梨県道30号大月上野原線のルートがある。一部は中央道の工事に際し埋没してしまったが、これらの急峻な地形が仇となって、古代では整備するのが至難となった。
しかし古東山道となると、古代、藤沢村の人々は諏訪にでる場合、金沢峠を越えず、千代田湖の手前で左に折れて、硫黄沢神社の脇を通り、小飼峠の谷川沿いを下り、国道152号線から山の中に数百メートル奥にある静鉱山(しずかこうざん)から安国寺の集落に出る。高遠方面の人々が諏訪に出るときは、小飼峠道といって、通常ここを通った。尚、安国寺村の古名は小飼村である。
諏訪大社前宮は、本宮から同じ山裾の旧鎌倉街道を東へ1,6キロほどの所から一段高い地に祀られている。古代この一帯を神原(ごうはら)と呼び、諏訪大神が始めて出現した場所と伝承され、その発祥の地として神聖視していた。ここには御祭神の末裔で神格を持った生き神、大祝(おおはふり)が住まい、上社にとっては最も由緒深い地で、普通上社と言った場合は、前宮を指した。また高部の磯並(いそなみ)社の後ろ鎮座する周囲20m余におよぶ巨石・小袋(こぶくろ)石は盤座(いわくら)である。したがって、藤沢川沿いを登り、杖突峠から諏訪神社の御神体・守屋山の山裾を下り、高部に出、現在の守矢神長官家の西から諏訪盆地には達することは、古代では神聖な場所を侵すとして、使われていなかったはずだ。
安国寺から上川沿いに東に向かう道筋は、横内の下蟹河原から塚原の横井・阿弥陀堂辺りに出て、そこから北上して本町の古屋敷に至る。その先は現在と同様、縄文時代からの2つのルートが、その地形から想定できる。1つは茅野市北大塩の米沢筋からホーロク坂を越え、音無川沿いに白樺湖へ、2つめが鬼場で上川を渡り、台地上を進み、湖東を通過して、芹ケ沢を入り口として北山へ。
また白樺湖大門峠に向かう時の宿駅は、「泊(とまり)」の地名が残る諏訪地方の「大泊(おおどまり)」で、茅野市北山湯川の飛岡(富岡)辺りとみられている。飛岡は雨境峠と大河原峠越えの分岐点にあたり、その麓の宿駅であった。小県側では「四泊(よとまり)」の記録があり、旧長門町大門が比定されている。
貞観年代に編纂された令の注釈書『令集解』考課令殊功異行の条に、笠朝臣麻呂の木曽路を開通させた功と並べて、「須芳郡の首長が須芳山嶺道を作った功績で正八位を授けられた」と記されている。笠朝臣麻呂は、和銅7年(714)閏2月、木曽路を開通させた功により封戸70戸、功田6町を賜わっている。すると8世紀には、青木村の保福寺峠越の「東山道」の近道、「須芳山嶺道」が諏訪から佐久に通じていたことになる。
その後、阿倍比羅夫は縄文時代に繁栄を極めた湯川以北の北山浦の当時ほぼ無人の地を過ぎ、この時代、沼地だった白樺湖の大門峠を右折して、女神湖を下り、現在の長門牧場の北東にある雨境峠を越えて、望月(現北佐久郡望月町)に出る。更に佐久郡に下り、佐久平を北東に進んで碓氷坂に至ったと推定されている。当時旅人は、峠の台地で、旅を全うするための祈願をし、幣(ぬさ)を奉った。武人の阿倍比羅夫も同様であったと思われる。白樺湖の御座岩、長門牧場の雨境峠で、旅人の幣の痕跡が検出されている。白樺湖の御座岩は盤座で峠神に旅の安全を祈願した。その遺跡からは、土師器、須恵器、滑石製剣形模造品、宋銭などが出土している。雨境峠は北佐久郡立科町雨境の地籍で、白樺湖から北東10kmにあり、標高は1,579m、この付近の勾玉原や与惣塚(よそうづか)からは、大量の祭祀遺物が発掘されている。
勾玉原からは、勾玉・管玉(くだたま)・臼玉(うすだま)・有孔円板・剣形など滑石模造品類が出土した。この模造品は、この峠を通行する旅人が、糸で綴って木につるし、峠の神に旅の安全を祈る幣(ぬさ)として捧げたものであるとおもえる。
尚、幣とは、祈願をし、または、罪・けがれを払うため神前に供える幣帛(へいはく)のことで、多くは紙・麻・木綿(ゆう)などを使う。天皇が官幣神社に給う幣は、特に『みてぐら』といわれる。
与惣塚は北佐久郡立科町芦田八ケ野の地籍で、長門牧場より南1km、白樺湖よりにある。その祭祀遺物は鉄製の薙鎌、青銅製鏡の模造品、興味深いのは、多くの北宋銭、永楽銭、寛永通宝などの古銭類の出土である。宋銭は平安時代中頃に国内で流通した。永楽銭は室町時代、3代将軍足利義満の没後に広く流通した明銭である。寛永通宝は江戸時代、3代将軍家光の代に鋳造され、幕末まで通用した。この事実から、古東山道は古代のみならず、中世、近世と長く重要な道筋として利用されたことがわかる。
茅野市北山湯川の飛岡からのもう一つの古代通路は、芹ケ沢で渋川を渡り仏石付近、鬼石、厩の尻、千遍坂を経て、蓼科の親湯温泉に出、滝の湯川沿いに城の平から、さらに上流を遡り標高2,000mに近い天祥寺原、それから横岳と蓼科山の間の鞍部にあたる大河原峠(2,090m)を越え、春日渓谷から鹿曲川(かくまがわ)を下って佐久南部地方に向かう須芳山嶺道が、西上野への近道であった。天祥寺原は、南八ヶ岳の眺望が見事で、旅人の多くは、その山稜に向かい思わず旅の無事を祈念したため付けられた地名であろう。天候の急激な悪化に備える非難小屋があったといわれている。また天祥寺原から蓼科山の山頂を越える将軍平は、坂上田村麻呂が延暦20年(801)蝦夷征伐の際、そこに祭壇を設け、幣を奉って戦勝を祈願したことから名付けられたという。しかし行軍の道筋からかなり離れているので、その伝承には、もっと謙虚な検証が必要と考える。
筑摩郡を経由する道は大宝2年(702)に開通していた。東山道の最大の難所は、南の信濃坂峠、北の碓氷坂及びその中間にある保福寺峠であったが、東海道には幾つかの大河があり、架橋が整備されてない欠陥があった。それでも平坦という利点があり、大和朝廷が陸奥・出羽への侵出に当たって次第に重要路線となり、奈良時代の中頃になるとその主要道路とされた。 
5 蝦夷が語る信濃
延暦7年(788)年3月、東海・東山・坂東の軍、5万2千8百余人、多賀城に集結の動員令が下り、7月、紀古佐美を征東大使に任じる。しかし大軍を擁しながら、大敗北をする。この時代も信州の民は、為政者の暴戻に苦しんだでしょう。この時代の官符に、 『兵士を一人点ずれば、一戸が滅びる』と記されている。「戸」は、いわゆる「郷戸」をさし、奴婢も含んだ数戸の大家族集団であったので、一戸当たり20人前後となる。
律令の兵制では、「一戸」から一兵士を募るため「戸」が編成されたともいわれている。「50戸」で「一郷」であるから、当時の茅野市のヤマウラ地方にあった山鹿郷の人口は、1,000人強の見当となる。生産性が低い時代に、軍役だ「移配」だとなれば、郷村は疲弊する一方となる。
『日本書紀』によれば、既に大化4(648)年の条に、大和朝廷は「磐舟柵(いわふねのき、いわふねさく)を治めて蝦夷に備え、越と信濃の民を選んではじめて柵戸( きのへ)を置いた」と記す。新潟県村上市岩船の辺りに置かれ、廃絶の時期は不明だが8世紀初めまで存続した。信濃の民は、故郷から遠方に派遣され、柵を築かされると、そのまま移配された。
天平13(714)年、「聖武天皇が詔勅により諸国に国分寺を造らしむ」時代、尾張・上野・信濃・越後の国の民200戸が、出羽柵にはいる。このあと諸国農民が数千戸の規模で蝦夷の土地を奪い入植。これは苛税に耐えられず、集落単位で逃散する農民の姿であった。秋田県へ移設される前の当時の出羽柵は、庄内地方(山形県沿海部)、赤川の河口と羽黒山の中間地域に設置された。
  霊亀2(716)年に信濃・上野・越前・越後から各100戸。
  717年にも信濃・上野・越前・越後から各100戸。
  養老3(719)年には東海道・東山道・北陸道から200戸を出羽柵へ入植。
  これらは、蝦夷を王化し、出羽国の開発・開拓を促進するために行われたものである。
延暦21(802)年、坂上田村麻呂の大和軍の侵攻による長期の戦いにより、蝦夷地が疲弊し、ついに阿弖流為(アテルイ)は降伏し、都に送られて、斬首された。阿弖流為の本拠地に胆沢城を造築後、居住民蝦夷を追放し、その跡地に関東・甲信越から4,000人が胆沢城下におくり込み、柵戸として警備にあてた。その後、150年にわたる陸奥北半の経略拠点となる。
元慶2(878)年3月に勃発した元慶の乱に、数千の軍を擁しながら、蝦夷の賊徒千余人の奇計により壊滅した。5月2日、陸奥国と出羽国の両国・飛駅使(ひえきし) が、京に官軍の壊滅を告げる。 
陸奥軍大敗の報を受けた朝廷は、藤原保則を出羽権守に任命し終息を願う。保則の至言がここにある。「一もて百に当りて、与(とも)に鋒(ほこのさき)を争ひがたし。如今(いま)のことは、坂(従三位坂上大宿禰田村麻呂)将軍の再び生まるといえども、蕩定すること能はじ。もし教ふるに義方(義にかなった正しい方法)をもてし、示すに威信をもてして、 我が徳音(とくいん)を播(ほどこ)し、彼の野心を変ぜば、尺兵(せきへい;短い武器)を用ゐずして、大寇自らに平かならむとまうす。」
律令軍団制の実情は、集められた農民兵を、国司や軍毅が私的に使い、弓馬の訓練を疎かにした結果、藤原保則に「蝦夷兵一人に百人の軍団兵士があったても勝負にならない」と言わしめた。『続日本紀』によれば、宝亀11(780)年3月、律令軍団制が大きく変革され、農民兵を減員する代わりに富豪で弓馬の技術に優れた者を徴発するようになった。そして延暦11(792)年には、軍団制が全廃された。ただ西海道の北半は新羅、唐との国際緊張の中、弘仁4(813)年、大幅な兵士減員が実施されただけであった。
しかし天長3(826)年12月3日、西海道の軍団兵士制も廃止された。当時の西海道は連年にわたる飢饉と天然痘などの疫病で、一般庶民から兵士を集める事が困難となっていた。大宰府では対外的な緊急事態に備えて、衛卒2百人を置いた。
『類聚三代格』巻18に、「名はこれ兵士にして、実に役夫に同じ、身力疲弊して兵となすに足らず」「兵士の賤は 奴僕にことならず」「窮困の體、人をして憂い煩わしむ」と記される。新たに大宰府や国府の警備には、「富饒遊手の児(ふじようゆうしゆのちご;富豪の子弟)」から、弓馬の技術に長けた者を選抜し選士(せんし)とし、給与も支払われるようになった。大宰府では、4百人の選士を8人の統領が率いた。
『三代実録』によれば、貞観11(869)年5月、新羅の海賊船2隻が博多に侵入し、豊前国の年貢の絹綿を略奪し逃走した。この時海辺の百姓56人が懸命に戦ったのに、統領や選士は惰弱で役に立たなかったという。この報せに朝廷は、当然大宰府を譴責するが、その対応策に「今後は、降伏した蝦夷である夷俘(いふ)を動員して火急に備えさせよ」とある。この時代軍団兵士制は廃止されていたが、たった海賊船2隻にすら対応できる組織的軍事力は存在せず、少数精鋭の夷俘の武技にしか頼れなかった。
長岡京と平安京と続く桓武天皇による2度の大掛かりな遷都と、上記の度重なる蝦夷遠征により国家財政は破綻していた。その重税と軍役負担、それに重なる自然災害により、8世紀末期から9世紀に入ると、信濃でも農村が荒廃していった。宝亀6(775)年の全国的飢饉でも、三河・丹波と並んで信濃でも深刻で、その救済のために公費までも支出された。延暦8(789)年には、信濃国司の員である『介』に当たる多始比賀智(たじひのがち)を養民司(ようみんし)に任じ、その救済に当たらせるほどであった。弘仁6(815)年、信濃の大凶作で、餓死者が続出し、国衙は商布を販売し、それによる1万石の穀物を救恤(きゅうじゅつ)に充てたが、農村の疲弊の回復と生産力の復興には、程遠いようであった。弘仁8(817)年には大飢饉となり、租税を払えない農民が続出し、あえて流民となる者が増大した。
6 大化以降の国評制度
大化以降、大宝律令制導入以前までは、地方の「国」は廃止され、代わって「評(こおり)」が設置された。「国造」は行政と関わりのない世襲の祭祀職となり、一国に定員1名ずつ置かれることになる。かつての「国造」の多くは、「評」の地方官役として「評造(こおりのみやつこ;ひょうぞう)」「評督」「助督」などに任じられた。大化の改新後の律令制導入で、改めて地方の行政単位として「国」、「郡」、「里」が設置され、「国造」支配地の多くが統廃合され、新たに広域的な「国」を置き、朝廷から、これを治める中央貴族の「国司」が派遣されることになった。「国司」は四等官制で、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す。
中央集権的な律令制下で、国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。特に律令制を根幹的に支えた班田収授制の実務、戸籍の作成、田地の班給、租庸調の収取等の重要な職務を担った。
大化の改新以降、「評」は「国」の下位組織となり、その下に「里長」が管轄する「里」が設置され、「里」は、50戸をひとまとめとする単位で、これを「国評里制(国評制)」と呼んだ。
大宝律令では、大化以降の「評」が「郡」に改められ、これを管轄する「郡司(ぐんじ)」が置かれることになり、元の「国造」が任じられた「評造」「評督」「助督」等の地方豪族は、多く、この「郡司」に任じられた。「郡司」は終身制であった。「郡司」は郡衙に政庁を置き、その長官が「大領(だいりよう)」、次官が「小領(しようりよう)」、「主政(しゆせい)」、「主帳(しゆちよう)」等の役職があった。『倭名類聚抄』によれば、平安時代中期の信濃には、伊那、諏訪、筑摩、安曇、更科、水内、高井、埴科、小県、佐久の10郡があった。諏訪郡では、当然金刺氏一族が「郡司」となったでしょう。当時諏訪大社春宮が下社の中心であった。郡衙は下ノ原か東山田付近とおもわれる。
「戸」は、「郷」を構成する50戸の「郷戸(ごうこ)」で、正倉院文書として残る大宝2(702)年と養老5(721)年の戸籍によると、戸主の親族だけでなく、その姻族も含み、更には使用人家族、奴隷などもその構成員であった。正倉院文書によれば、1戸の人数は最大が124人で、平均は20余人であった。郷戸は数戸の竪穴住居等の「房戸(ぼうこ)」から構成されていた。
729年〜749年(天平年間)の時期には、政治の簡素化が図られ、これに伴って「里」が切り捨てられ、「郷」だけが残された。防人として北九州に、北方の蝦夷征伐に兵としてかり出され、柵戸として強制的に移配させられた。
北九州の防備にあたる統領や兵士は惰弱で、大和政権は、特に北部九州の勢力には相当不信感を抱いていた。それで防人が、遠方の東国出身者で構成せざるを得なくなり、結果万葉集にうたわれる多くの悲劇が生じた。戸主が徴用されれば、残った家族は重要な働き手を失い、餓死することが多かった。律令制は、その存続の根源となる民にとって余りにも加重でありすぎた。この民を兵士に使いながら、定められた訓練も疎かにし、朝鮮半島へ出兵し、東北の蝦夷と戦わせたわけだから結果は無残なものであった。 
 
阿倍比羅夫北征記事の地名比定 6

 

1章 地名比定について
1 地名比定
地名比定とは、日本列島の地形が過去2000年程度の間、それほど大きく変わっていない事実に基づき、過去に使用されていた地名が現在のどの地域を 指示していたのかを推理する行為であるといえよう。
言葉を換えていえば、過去の地名を現代の地名で説明する行為と言えるかも知れない。
それゆえ、古代の地名と現代の地名の橋渡し役として中世や近世の地名を利用することも可能となる。
そもそも、地名は、一回限りの歴史的事実というよりは、世代を越えて共有される知識と考えた方がよかろう。
従って、史料の中に見える地名も、史実として取り扱うよりは、史料製作者が認識していた地理的な知識として捉えた方がよいと思われる。
このような知識は、史料製作者がそのように認識していたという点では、恒に真であり、この認識と地形が一致しない場合は、史料製作者が不正確な知識 を信じていたという事実を示すこととなる。(『魏志倭人伝』の邪馬台国の場合などは、この典型であろう。)
もちろん、地理的知識と地形が一致すれば、その知識は事実によって裏付けられたことにもなる。
ところで、地名は、古代から現代に至るまで使用され続けることも珍しいことではない。実際に“壱岐”や“対馬”など多くの地名が時代を越えて使用されて おり、他 の地名を推理する際の重要な手懸かりとなっている。
問題は、現在残っていない過去の地名である。
地名比定の主な目的も、この現代に伝わらない地名を現在の地名で説明するところにある。
2 判断の基準
今回の地名比定で判断の基準となるのは、次の各号である。
1.名称同士の一致、若しくは近似による同定。
名称同士の表記や発音または意味が一致(または近似)するというのは、同定の基本である。ただし、よく似た地名が複数あ るとい うことも少なくないので、他の基 準も組み合わせて総合的に判断する必要がある。
2.名称と地形の合致による同定。
名称の意味が地形と合致するというのも、同定の基本である。そして、よく似た地形があることも文字や発音の場合と同様である。
3.対象を変えた名称の残存による同定。
名称が対象を変えて残ることも、よくあることで、例えば山や川の名称が近傍の寺社の名称となっているといったことなどが、しばしば見受けられる。
4.説明のついた地名との位置関係による限定。
すでに位置が特定されている地名からの方向や距離などが分かれば、おおよその位置を推定することが可能となる。
5.交通手段による限定。
例えば、交通手段が船であれば、海岸線などの水辺を含む地域に限定することが可能になる。
(本稿の場合、ほとんどの地名がこの基準に該当することになろ う。)
6.自然環境による限定。
地名に関連して気候の寒暖や動植物などの自然環境が記述されていれば、それも重要な判断材料となる。
これらの基準は、単独で適用するというよりは、複数の基準を組み合わせて絞り込みを行い現在の該当する地名を特定するということになるであろう。
2章 北征記事の地名比定
1 北征記事
『日本書紀』斉明天皇4年(658年)から6年(660年)にかけての阿倍比羅夫北征記 事を抜き出すと次のようになる。
【4年】
夏四月に、阿陪臣、名を闕せり。船師一百八十艘を率て蝦夷を伐つ。齶田・渟代、二郡の望り怖ぢて降はむと乞ふ。是に、軍 を勒へて、船を齶田浦に陳ぬ。齶田の蝦夷恩荷、進みて誓ひて曰さく、「官軍の爲の故に弓矢を持たらず。但し奴等、性肉を食ふが故に持ちたり。若し官軍の爲 にとして弓矢を儲けたらば、顎田浦の~知りなむ。清き白なる心を將ちて、朝に仕官らむ」とまうす。仍りて恩荷に授くるに、小乙上を以てして、渟代・津輕、 二郡の郡領に定む。遂に有間濱に、渡嶋の蝦夷等を召し聚へて、大きに饗たまひて歸す。
【4年】
是歳、越國守阿倍引田臣比羅夫、肅愼を討ちて、生羆二つ・羆皮七十枚獻る。
【5年】
(3月)是の月に、阿倍臣、名を闕せり。を遣して、船師一百八十艘を率て、蝦夷國を討つ。阿倍 臣、飽田・渟代、二郡の蝦夷二百四十一人、其の虜三十一人、津輕郡の蝦夷一百十二人、其の虜四人、膽振鉏の蝦夷二十人を一所に簡び集めて、大きに饗たまひ 祿賜う。膽振鉏、此をば伊浮梨娑陛と云ふ。即ち船一隻と五色の綵帛とを以て、彼の地の~を祭る。肉入籠に至る。時に、問菟 の蝦夷膽鹿嶋・菟穂名、二人進みて曰く、「後方羊蹄を以て、政所とすべし」といふ。肉入籠、此をば之之梨姑と云ふ。問菟、此をば塗毗宇 と云ふ。菟穂名、此をば宇保那と云ふ。後方羊蹄、此をば斯梨蔽之と云ふ。政所は蓋し蝦夷の郡か。膽鹿嶋等が語に隨ひて、遂に郡領を置きて 歸る。道奥と越との國司に位二階、郡領と主政とに各一階授く。或本に云はく、阿倍引田臣比羅夫、肅愼と戦ひて歸れり。虜四十九人獻るとい ふ。
【6年】
三月に、阿倍臣、名を闕せり。を遣して、船師二百艘を率て、肅愼國を伐たしむ。阿倍臣、陸奥の蝦 夷を以て己が船に乘せて、大河の側に到る。是に、渡嶋の蝦夷一千餘、海の畔に屯聚みて、河に向かひて營す。營の中の二人、進みて急に叫びて曰はく、「肅愼 の船師多に來りて、我等を殺さむとするが故に、願ふ、河を濟りて仕官へまつらむと欲ふ」といふ。阿倍臣、船を遣して、両箇の蝦夷を喚し至らしめて、賊の隱 所と船數とを問う。両箇の蝦夷、便ち隱所を指して曰はく、「船二十餘艘なり」といふ。即ち使を遣して喚す。而るを來肯へず。阿倍臣、乃ち綵帛・兵・鐵等を 海の畔に積みて、貪め嗜ましむ。肅愼、乃ち船師を陳ねて、羽を木に繋けて、擧げて旗とせり。棹を齊めて近つき來て、淺き處に停りぬ。一船の裏より、二の老 翁を出して、廻り行かしめて、熟積む所の綵帛等の物を視しむ。便ち單衫に換へ着て、各布一端を提げて、船に乘りて還去りぬ。俄ありて老翁更來て、換衫を脱 き置き、并て提げたる布を置きて、船に乘りて退りぬ。阿倍臣、數船を遣して喚さしむ。來肯へずして、弊賂辨嶋に復りぬ。食頃ありて和はむと乞す。遂に聽し 肯へず。弊賂辨は、渡嶋の別なり。己が柵に據りて戰ふ。時に能登臣馬身龍、敵の爲に殺されぬ。猶戰ひて倦まざる間に、賊破 れて己が妻子を殺す。
(日本古典文学大系『日本書紀』による。なお、以下で取り上げるその他の史料については、諸論文等か らの孫引きである。漢字については、MS−IMEの文字セットの制約があり、同一の字形を表示できなかったものもある。)
2 渡嶋
まず北征記事の中に見える「渡嶋」という地名について考えてみることにしよう。
現在の“渡島”(おしま)という地名が“北海道”などと同じく明治になって付与されたものであることは説明するまでもな いが、そうすると古代の「渡嶋」 (わたりのしま)は、現在のどこに当たるのであろうか。
この点については、研究者の間でも多くの論文が発表され、見解が分かれているところである。
ただ候補地は、おおよそ絞られており、大きく分けると北海道 説と本州説の 二つにまとめることができるであろう。
(誰がどのような説を主張しているのかについては、北構保夫『古代蝦夷の研究』、関口明『蝦夷と古代国家』などが比較的詳しく述べている よ うに思われる。筆者の手元にある論考については、最後にまとめて掲げておいた。これ以外の論考は未読であるので、重要な指摘を見落としている可能性 もあるが、ご宥恕願いたい。)
さて、北海道説と本州説、それぞれの論拠をまとめてみると、下記のようになるであろう。
1.北海道説
北海道説を見ると、その主な論拠は、「渡嶋」という名称の意味が津軽海峡を渡った北海道の自然地形と合致するという点と、阿倍比羅夫が生きた羆を連れ 帰って いる(羆の生息する地域は北海道以北に限定される)という点の2点に集約されるように思われる。もちろん、多くの人が様々 に論じているので、その他、津軽の近隣地域と考えられることなど、いくつかの論拠が挙げられている。
2.本州説
本州説は、北征記事の文章や語句をそのように解釈できるという主張であり、その根底にあるのは、「渡嶋」が北海道では遠すぎるという感覚であろう。渟足 柵・ 磐舟柵(新潟市・村上市)よりも北の地域が「蝦夷国」であった時代に、海路とはいえ、それほど奥地へは進出できまいという 推測が働いているように見える。
両者を比較してみると、北海道説が、名称と地形の合致、および自然環境による限定という二つの基準を組み合わせた順当な推理であるのに対して、本州説 は、そのように解釈できるとい う可能性の提示であり、やや説得力に欠けると思われる。
現状では、どちらかと言えば、北海道説の方が有利であるというべきであろう。ここでは、「渡嶋」は北海道であると考えて置きたい。
3 弊賂辨嶋
次に「弊賂辨嶋」(へろべのしま)という地名について考えてみよう。
北征記事6年条の分注には、「弊賂辨は、渡嶋の別なり」という一文がある。
渡嶋が北海道であるとすると、「弊賂辨嶋」は北海道の“別”(わかれ)ということになる。
そもそも“別”という語義からすると、そこは、北海道の近辺で、しかも北海道から分離した地域であると考えるのが自然である。
従って候補地は、かなり限定されてくるのであるが、この“別”という表現の類似で気になるのが、前陸奥守源頼俊申文(応徳三年、1086 年)の中の「衣 曾別嶋荒 夷并閇伊 七村山徒」という一文である。
平安時代も後半になると、北海道を“えぞが島”、あるいは“えぞが千島”などと呼称するようになるのであるが、上記の「衣曾別嶋」も“えぞのわかれのし ま” と 読ん だ可能性 が充分考えられる。
こうしてみると、渡嶋の“別”である「弊賂辨嶋」と「衣曾別嶋」は、“別”という説明と名称の意味が合致することからして、同一の地域を指示しているよ うに考え られる。
しかも、源頼俊申文の中で「衣曾別嶋」と「閇伊」が並称されていることからすると、この両者は、近接した地域であると推定される。
「閇伊」については、言うまでもなく岩手県の三陸地方を指示する地名であり、現在も“閉伊郡”などの地名が残っている。
以上を総合すると、「弊賂辨嶋」は、北海道から分離して、しかも三陸地方の近傍ということになる。
従って、その候補地は、おのずと下北半島の辺に絞られてくる。
下北半島を“島”というのは、一見奇異に感じられるが、中世から近世にかけて秋田県の男鹿半島が“小鹿島”(おがしま)と 呼ばれていた例などからすると、決して不自 然 なことではない。
やや意外かも知れないが、ここでは、「弊賂辨嶋」を下北半島に比定して置きたい。
(このように想定すると、下北半島内に「弊賂辨嶋」の遺称地がないのかどうか気になるところである。現状では、これといった地名が見当ら ないのであるが、敢えて一つ候補を挙げてみると、東通 村の母衣 部(ほろべ)という地名が気になるところである。ヘロベ→ホロベと いう音韻の変化については、確信が持てないが、近似した名称であることは確かであろう。)
推理の流れとしては、渡嶋=北海道という前提のもとで、「弊賂辨嶋」を後の「衣曾別嶋」と同一地域と考え、名称と地形の合致(わ かれの島)、および説明のついた地名との位置関係による限定(「閇伊」の近辺)という二つの基準を適用し て、下北半島が導出されたのである。
4 推理の補強(1)
上記の推理を、さらに補強するために中世の「宇曽利鸖子別」という地名を取り上げてみたい。
『諏訪大明神絵詞』(延文元年、1356年)には、「蝦夷カ千嶋ト云ヘ ル ハ我国ノ東北ニ当テ大海ノ中 央ニアリ、日ノモト唐子渡党、此三類各三百三十三ノ嶋ニ群 居セリ、今一嶋ハ渡党ニ混ス、 其内ニ宇曽利鸖子別ト萬堂宇満伊ナトイフ小嶋ト モアリ、此種類ハ多ク奥州津軽外ノ浜ニ往 来交易ス」という有名な一文 があ る。
(この『諏訪大明神絵詞』には、「権祝本」や「梵舜本」など何種類かの写本があり、校訂も確定していない。上記の一文も筆者が選んだ、 最も意味の通りやすいと思われる文章である。)
地名について言えば、要するに「蝦夷カ千嶋」という大地名の中に 「宇曽利鸖子別」 や 「萬堂宇満伊」という小地名があるということになるのであろう。
このうち、「萬堂宇満伊」が“松前”(まつまえ)であることは、衆目のほぼ一致するとこ ろであるが、一方の「宇曽利鸖子別」については議論のあるところである。
多くの人は、「宇曽利鸖子別」の鸖を鶏の誤りと考えてウソリケシ=ウスケシ(函館の古名)としているようであるが、鸖を 鶏としなければ、“ケ”とは読め ず、難点のあることは確かである。
そこで「宇曽利・鸖子別」と分けて読み、「宇曽利」を下北半島に当てる人もいる。(清水潤三「文献に現われた蝦夷の分類的称呼につい て」や佐々木利和「中世の「蝦夷」史料」など。)
このように、「宇曽利鸖子別」については、これを一つのまとまった地名と考える説と「宇曽利」と「鸖子別」の二つに分けて考える説が存在しているのであ る。
文章を見る限り、「宇曽利鸖子別ト萬堂宇満伊」と表記され、“宇曽利と鸖子別”とは書かれていないことからして、一つに まとめて読む方が自然な よ う に思 われる。
とはいえ、現実に「宇曽利」という地名が存在した以上、これを無視することも難しいところである。
ただ、ここでの目的は、弊賂辨嶋が下北半島であるという推理を補強するところにあるので、どちらか一方を選ぶのではなく、双方の可能性を考えて、そ れぞれの 場合にどのように考えられるかを導出し、上記補強材料として使用することとしよう。
1.「宇曽利鸖子別」をひとまとまりの地名と考えた場合
この場合、「宇曽利鸖子別」の読みについては一旦保留して、注目すべきは安藤師季願書(応仁二年、1468年)の「奥州 下國弓矢仁達本意、如本津輕外濱宇楚里鶴子遍地悉安堵仕候者、重而寄進可申處實也」という一文である。
この中の「宇楚里鶴子遍地」が『諏訪大明神絵詞』の「宇曽利鸖子別」と 同一 地名であることは間違いあるまい。
この願書は、熊野那智山に「津輕外濱宇楚里鶴子遍地」の所領回復を祈願しており、「宇楚里鶴子遍地」が所領として認識されている。
ところが、もう一つ安藤宗季譲状(正中二年、1325年)を見ると、「ゆつりわたすつかるはなわのこほりけんかしましり ひきのかうかたのへんのかうならひにゑそのさたぬかのふうそりのかうなかはまのみまきみなといけのちとう御たいくわんしきの事」とあり、(漢 字に直すと“譲 り渡す津軽鼻和郡絹家嶋、尻引郷、片野辺郷、並びに蝦夷の沙汰、糠部宇曽利郷、中浜御牧、湊以下地頭御代官職の事”となるようである。)こ の譲り状では、 蝦夷については、“蝦夷の沙汰”という交易権のみが相続の対象とされており、その土地には何 の言及も なされていない。
北海道は、近世の松前氏が無高の大名(一万石格)であったことからも知られるように農耕地としては把握されていなかった よ うで、中世においても、当然 農耕地とは認識されていなかったと想定される。
この点、「宇楚里鶴子遍地」が所領として認識されていたとすると、その理由は、そこが農耕地であったからに違いないと思われる。
このように「宇曽利鸖子別」=「宇楚里鶴子遍地」の比定地は、当時、非農耕地であった北海道よりも本州内の下北半島を含む地域に求めた方が、より自然で あると考えられる。
2.「宇曽利」と「鸖子別」を分けて読む場合
「宇曽利」と「鸖子別」に分けた場合、「宇曽利」の比定は確定済みといってよい。「宇曽利」は下北半島全体、若しくは、その一部を示す古名であり、現在 も有名な“恐山”(お そ れ←うそ り)や“宇曽利山湖”といった遺称地が存在する。
(一方の「鸖子別」については、北構保男『古代蝦夷の研究』の中に「ただし、“鸖子別”・“鶴子遍地”については、陸奥湾岸の“野辺地” に当てる見解もあるがいささか証明不足であり、現在のところ同一地名も近似地名も見当らないという事情にあるので、『安藤師季願書』の地が、津軽半島周辺 の外浜と、下北半島の宇曽利(宇楚里)とともに、陸奥湾付近に位置する可能性のある鸖子別とするか、それとも…」という記述があり、陸奥湾沿岸の野辺地に 比定する 説が存在す るようである。)
以上、二つの場合を考えてみたのであるが、いずれの場合も「宇曽利鸖子別」は下北半島を含めた地名である可能性がある。
『諏訪大明神絵詞』では、「宇曽利鸖子別」が「蝦夷カ千嶋」の中の「小嶋」とされていることからすれば、当時の下北半島 は、本 州内にありながら“蝦夷が千嶋”の一部として捉えられていたことにな る。
これは、弊賂辨嶋=衣曾別嶋が下北半島であるという推理を補強するものであろう。
5 推理の補強(2)
もう一つ推理の補強材料となるのが、「外が浜」という地名である。
(「外が浜」の範囲については、必ずしも明確ではないが、津軽半島の竜飛岬の辺から陸奥湾の夏泊半島の辺にかけての沿岸地域一帯を指すと 考えて置けば間違いはないであろう。)
中世の「外が浜」は、日本の東の境界とされていた地域であり、その言葉から受ける第一印象は、茫洋たる外海が眼前に広がる“地の果て”というところであ ろう。
ところが、現実の「外が浜」は、陸奥湾の対岸に下北半島があり、津軽海峡の向こうに北海道が見渡せるという地域である。
つまり、「外が浜」という地名の由来は、“地の果て”ではなく、“蝦夷が千嶋”という異域との境界にあるという点に求めざるを得ないのである。
特に陸奥湾沿岸部の「外が浜」は、地形としては、湾内の“内が浜”であり、その対岸である下北半島が異域であることを前提にして、はじめて“外”と認識 さ れる地 形で ある。
3章 前章の比定を前提にした推理
1 本章の推理について
2章では、渡嶋を北海道とする説を採用し、弊賂辨嶋を下北半島に比定してみたのであるが、本章では、そうした場合、その他の地名を現実の地形の中でど のように説明でき る かを述べてみることにしたい。
以下の推理は、上記のような比定を前提とした解釈であり、それ自身で確固たる根拠を持った推理とは言い難いものである。
そもそも、弊賂辨嶋=下北半島と いう比定自 体が、渡嶋=北海道説を前提にしていたのであるが、以下の推理は、さらに弊賂辨嶋=下北半島を前提にした推理であり、言わば仮定に仮定を重ねた推理であ る。
なぜこのような推理をするかというと、それは、2章の比定を間接的に補強しようとする意図があるからである。
つまり、2章の比定を前提とした場合、その他の地名を現実の地形の中でうまく説明できないとすれば、その前提に無理があったという評価を受ける 恐れが ある。
逆に、その他の地名をうまく説明することができれば、無理のない前提であるという評価を受けることにもなろう。
少なくとも、2章の比定を前提としても不都合が生じなければ、間接的な補強になるであろう。
2 大河
北征記事6年条では、「大河の側(ほとり)」に「渡嶋の蝦夷一千餘、海の畔に屯聚(いは)み て、河に向かひて營(いほり)す」とあるが、渡嶋の蝦夷が屯集する「大河」の畔は、北海道沿岸の何処かに求めるのが自然で あ ろう。
そして、この地の蝦夷を攻撃していた粛慎が帰った本拠地は、弊賂辨嶋とされている。
弊賂辨嶋が下北半島とすると、その位置関係からいって、「大河」は、おそらく津軽海峡のことではないかと思われてくる。
この海峡を“しょっぱい川”と呼ぶようになったのは何時ごろなのか知らないが、古代にも同様の認識があったとして不思議ではあるまい。
そうすると、阿倍比羅夫は、北海道の津軽海峡沿岸部に上陸した後、下北半島へ向かったことになる。
それは、「大河」の畔にいた蝦夷の救援要請による偶発的な出来 事のように書かれているが、これに先立って、「阿倍臣、陸奥の蝦 夷を以て己が船に乘せて」という記述があり、「陸奥の蝦夷」を水先案内人にしたらしいことからすると、はじめから下北半島方面に向かう予定であったのかも 知れない。 (「陸奥の蝦夷」は、東北地方太平洋側の住人であると考えられる。この当時、東北地方日本海側の地域は、渡嶋を含めて“越”の管轄であった。)
もし、そうだとすると、その目的は、“越の蝦夷”と“陸奥の蝦夷”の境界地帯の地理を確認することにあったのではないかとも想像できるが、これ は、すでに地名比定の範囲を越えた余計な空想というべきであろう。
ところで、「大河」というのは、固有名詞というよりは、普通名詞のように感じられる。
この点は、先に触れた渡嶋にしても、その後の蝦夷が千嶋にしても同様であ る。
その理由は不明と言うほかないが、当時、農耕地ではなかった北海道に対して固有名詞を付けるという気運がなかったのかも知れない。
3 後方羊蹄
江戸時代後半の旅行家、菅江真澄の日記「すみかの山」(『菅江真澄遊覧記、3』などに所収。)を見ると、現在の青森市 内、松 森という集落の近傍に小祠と森があり、そこが 「あらはばきの杜」とも「しりべつの林」とも呼ばれていたという記述がある。
このとおり「後方羊蹄」(しりへし)の遺称地が青森市内にあったとすると、そこが最も魅力的な候補地である。
北征記事5年条には、「問菟 の蝦夷膽鹿嶋」等が「後方羊蹄を以て、政所とすべし」と進言したことが記されている。
この「政所」は、『日本書紀』の編者も訝るように郡ではなく、あえて「政 所」としているところからすると、やや特殊な機能を備えた官衙であった とも考えられ、例 えば、『続日本紀』養老四年(720年)春正月丙子条の「渡嶋津軽津司」の役所に相当するようなものであった可能性が考え られる。
北征記事5年条では、続けて「膽鹿嶋等が語に隨ひて、遂に郡領を置きて 歸る。」と記されているが、その意味するところは、「膽鹿嶋等」の言うとおりに「政所」を設置して、そこに「郡領」を配置したというところであろう。
新たに建郡して郡領を任命したとは書かれていないので、そこに配置されたのは、津軽郡の郡領のうちの一人ではないかとも想像される。
(これに類似した 事例としては、秋田城に出羽介を配置して、それが、や が て秋田城介と呼ばれるようになったことが思い起こされるであろう。)
それはともかく、本州と北海道を結ぶ航路の拠点が青森市の辺に置かれていたとすれば、いかにも魅力的である。
さらにもう一点、北征記事6年条で渡嶋の蝦夷が阿倍比羅夫に救援を依頼したときの言葉に「河を濟(わた)りて仕官(つ か)へ まつらむ」とあるが、「河」=大河を津軽海峡とする立場からすると、青森 市の辺に官衙が存在したというのは、極めて都合が良い。
半ば願望を込めて、「後方羊蹄」は、青森市の辺と考えて置きたい。
4 問菟と肉入籠
先ほどの「政所」設置の記事からすると、「問菟」(とひう) の蝦夷は、後方羊蹄やその周辺の事情によく通じていたと推測され、「問菟」という場所自体も、後方羊蹄から、さほど遠くない場所に求められるのではないか と考 えられる。
遺称地としては、、小泊村の土漂(とひょう)とする説が良いと思われる。(山 田秀三「津軽半島の記録」(同著『アイヌ語地名の研究、3』所収。)に“「問菟」は土漂であるとの説を何かで読んだようなうろ覚えがする。”とあ る。)
また、阿倍比羅夫の船団が「至」った「肉入籠」(ししりこ)についても、「問菟」の近辺の停泊適地ではないかと思われる が、遺称地は 不明である。
いずれにしても、この両者は、津軽郡内の小地名ではないかと推測される。
5 膽振鉏
北征記事5年条に見える「膽振鉏」(いふりさへ)については、飽田・渟代(秋田・能代)の 2郡、および津軽郡と並んで記載されており、広さの面では、これらの郡に相当する広域地 名であったと考えるのが自然である。
しかも、飽田、渟代、津軽、膽振鉏の順に書かれていることからすると、津軽よりも遠方の地域である可能性も考えられる。
もし、そう考えた上で、渡嶋を北海道とし、弊賂辨嶋を下北半島とすると、「膽振鉏」の比定が難しくなってくる。
北征記事6年条の陸奥の蝦夷と関係がある とすれ ば、太平洋側の何処かという可能性もあるが、特に遺称地と思われる地名も見当らず、現在のところ不明と言うほかない。
このように「膽振鉏」については、若干説明が難しくなるが、一方で北海道や下北半島などに説得力のある比定地があるわけでもないので、2章の比定に影 響を 及 ぼすようなことはなさそうである。
(そもそも、広域地名かどうか、地名の記載順が地理的位置と対応しているかどうかは、可能性の問題であって、絶対にそうだというわけでは ない。適当な比定地が見付からない場合は、別の可能性を考えた方が良いのかも知れない。ただ「膽振鉏」の場合は、別の可能 性を考えても、これといった比定地は、見当らないであろう。)
6 有間濱
北征記事4年条に見える「有間濱」(ありまのはま)については、「齶田浦」(あぎたのうら=秋田の浦)の 中の一部とする説や津軽の十三湊(中世以降、江流末郡=えるま郡と呼ばれた地域内にある。)とする説などがある。
いずれの説も決め手に欠けるのであるが、ここでは、わざわ ざ「齶田浦」とは別に地名を掲げてい ること や、そこで渡嶋=北海道の蝦夷を“大饗”していることからして、地理的に近い十三湊と考える説を支持して置きたい。  
 

 

 
弘文天皇 1

 

(648年(大化4年) - 672年8月21日(天武天皇元年7月23日)) 第39代天皇(在位:672年1月9日(天智天皇10年12月5日) - 672年8月21日(天武天皇元年7月23日))。諱は大友(おおとも)または伊賀(いが)。1870年(明治3年)に諡号を贈られ、天皇として認められたが、即位したかどうか定かではなく、大友皇子と表記されることも多い。
天智天皇の第一皇子。母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)。天智後継者として統治したが、壬申の乱において叔父・大海人皇子(後の天武天皇)に敗北し、首を吊って自害する。
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により滋賀県大津市御陵町にある長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「園城寺亀丘古墳」。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の一つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
千葉県君津市の白山神社古墳に埋葬されるという伝説が旧久留里藩士の森勝蔵によって存在するほか、愛知県岡崎市小針町にある小針1号墳が大友皇子の陵とする伝承、愛知県岡崎市西大友町の大友皇子御陵という塚を陵とする伝承なども存在する。
即位説
『日本書紀』には、天智天皇は実弟・大海人皇子を東宮(皇太子)に任じていたが、天智天皇は我が子可愛さの余り、弟との約束を破って大友皇子を皇太子に定めたと記されている。しかし漢詩集『懐風藻』や『万葉集』には「父・天智が大友皇子を立太子(正式な皇太子と定めること)していた」とあり、これを支持する学説もある。また、皇位には天智天皇の皇后・倭姫王を立て、自らは皇太子として称制していたとする説もある。
父・天智天皇(天智7年・668年即位)のもとで天智10年(671年)に太政大臣となり、その政務を補佐した。
『日本書紀』天智10年(671年)11月の条に、「大友皇子は左大臣蘇我赤兄臣・右大臣中臣金連・蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣ら五人の高官と共に宮殿の西殿の織物仏の前で「天皇の詔」を守ることを誓った。大友皇子が香炉を手にして立ち、「六人心を同じくして、天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば必ず天罰を被る」と誓った。続いて5人が順に香炉を取って立ち、臣ら五人、殿下に従って天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば四天王が打つ。天神地祇もまた罰する。三十三天、このことを証し知れ。子孫が絶え、家門必ず滅びることを、などと泣きながら誓った」とある。
丙辰 大友皇子在內裏西殿織佛像前 左大臣 蘇我赤兄臣 右大臣 中臣金連 蘇我果安臣 巨勢人臣 紀大人臣侍焉
大友皇子手執香鑪 先起誓盟曰 六人同心 奉天皇詔 若有違者 必被天罰 云云 於是 左大臣 蘇我赤兄臣等手執香鑪 隨次而起 泣血誓盟曰 臣等五人隨於殿下 奉天皇詔 若有違者 四天王打天神地祇亦復誅罰 三十三天 証知此事 子孫當絶 家門必亡 云云
ここでいう「天皇の詔」(詔勅)の内容は判然としないが、天智天皇の死後に大友皇子に皇位を継承させることを指示していたものと考えられている。
天智天皇10年12月3日(672年1月7日)の先帝・天智天皇崩御から壬申の乱による敗死までその治世は約半年と短く、即位に関連する儀式を行うことは出来なかった。そのため歴代天皇とみなされてはいなかったが、明治3年(1870年)になって弘文天皇と追号された。
異説・俗説
壬申の乱の敗戦後、弘文天皇は妃・子女を伴って密かに東国へ逃れたとする伝説があり、愛知県や神奈川県や千葉県に弘文天皇に関連する史跡が幾つか残っている。  
 
弘文天皇 (別名・大友皇子、伊賀皇子) 2

 

 生・大化4(648)? - 没・弘文1(672) 第39代の天皇 (在位 671〜672) 。名は大友皇子また伊賀皇子。天智天皇の第1皇子。母は伊賀采女宅子娘 (やかこのいらつめ) 。父天智天皇に深く愛され、すでに皇太子大海人 (天武天皇 ) がいたにもかかわらず、天智 10 (671) 年太政大臣に任じられ政治に参与、皇儲に擬せられた。天智天皇の没後、大海人皇子と皇位を争い (→壬申の乱 ) 、大海人皇子の軍に敗れて山前 (滋賀県長等山) で自殺した。天皇の即位については、『日本書紀』に記載がなく、疑義をもたれている。『大日本史』は大友天皇の本紀を立て、明治3 (1870) 年に明治天皇によって弘文天皇と追諡された。漢詩に長じ、『懐風藻』に2編を収めている。妃は大海人皇子の娘十市皇女である。陵墓は滋賀県大津市の長等山前陵。
 第39代天皇。在位、671〜672。天智天皇の第1皇子。名は大友・伊賀。天智天皇没後、壬申(じんしん)の乱で大海人皇子(おおあまのおうじ)(天武天皇)と戦って敗死。即位の確証はないが、明治3年(1870)在位を認められ、弘文天皇と追諡(ついし)。懐風藻に漢詩2首が残る。
 飛鳥(あすか)時代、第39代天皇。大化(たいか)4年生まれ。天智(てんじ)天皇の第1皇子。母は伊賀宅子娘(やかこのいらつめ)。天智天皇の死後、同母弟大海人(おおあまの)皇子(天武天皇)との戦い(壬申(じんしん)の乱)に敗れ、天武天皇元年7月23日自決。25歳。「日本書紀」には立太子や即位の記述はなく、明治3年歴代にくわえられ、弘文天皇と追諡(ついし)された。墓所は長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)(滋賀県大津市)。
 第39代に数えられる天皇(在位671〜672)。大友皇子、伊賀皇子ともいう。天智(てんじ)天皇の嫡皇子。母は伊賀采女宅子娘(うねめやかこのいらつめ)。皇后は天武(てんむ)天皇の皇女十市(といち)皇女で、葛野(かどの)王を生む。夫人に藤原鎌足女(かまたりのむすめ)耳面(みみも)刀自がある。671年(天智天皇10)太政(だいじょう)大臣に任ぜられた。最初の太政大臣である。当時皇太弟として大海人(おおあま)皇子(後の天武)があり、天智は自分の死後、この2人の間に皇位の争いが起こるおそれのあることを懸念していたと察せられる。天智は死のすこし前に大海人に譲位を申し出たが、大海人は固辞し、出家して吉野山に入った。671年12月3日天智は崩御し、大友は大津宮で即位したと推測されるが明証はない。1870年(明治3)弘文天皇と追諡(ついし)された。672年(弘文天皇1)6月壬申(じんしん)の乱が起こり、大友は敗れて7月23日に山前(やまさき)で自殺した。陵は近江(おうみ)長等山(ながらやま)前陵。天皇は体格堂々として性格ははっきりして悟りが早く、古の学問に広く通じ、詩文に巧みで、百済(くだら)系渡来人学者を師として学んだ。『懐風藻』に詩2編が残っている。
 大化四〜弘文元年(六四八‐六七二) 第三九代天皇。天智天皇の第一皇子。伊賀皇子、大友皇子とも。太政大臣を経て六七一年即位。在位八か月。皇居は近江滋賀の大津宮。弘文元年(六七二)壬申(じんしん)の乱で大海人皇子(おおあまのおうじ)(=天武天皇)と争って敗れ、自害した。「懐風藻」にその伝記と漢詩二首が収められる。明治三年(一八七〇)、正式に天皇の列に加えられ、弘文天皇の諡号(しごう)がおくられた。
 弘文天皇は、名を大友皇子、伊賀皇子といい、天智天皇を父とし伊賀采女宅子娘を母として生まれた。父天智天皇崩御後に壬申の乱が起き、大海人皇子(天武天皇)の吉野側が勝利したため、その即位を認められなかった(舎人親王が編纂した「日本書紀」は、弘文天皇の記事を載せず、一代として扱っていない)が、明治3年に至り弘文天皇と追号された。従って諱がない。皇妃には大海人皇子と額田王の間に生まれた十市皇女として天智天皇の崩御後に近江にあって政務をみたとされている。天智天皇の崩御後、大海人皇子は草壁皇子、鵜野讃良皇女、高市皇子、大津皇子らと吉野を脱出して大友皇子(弘文天皇)の近江朝廷側と対立した。この対立は、大海人皇子の吉野側が大友皇子(弘文天皇)の近江側を破り、大友皇子が自害するに及んで吉野側の勝利に終わった(「壬申の乱」という。この乱の評価は諸説ある。)。
 648年 弘文天皇は、天智天皇とその妃の伊賀采女宅子(いがうねめやかこのいらつめ)のあいだに生まれ、大友皇子(おおとものみこ)と呼ばれていました。671年 弘文天皇は、天智天皇から史上初の太政大臣に任命されました。そして、政務全般を取り仕切りました。672年 天智天皇が亡くなると、その2日後に弘文天皇が即位しました。このとき、弘文天皇の最大の脅威は、吉野に住んでいた天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのみこ)でした。大海人皇子には「天皇になりたい」という野心がありました。大海人皇子は吉野を脱出すると、東国へ退き、美濃や東海道などの諸国から兵を募ります。対して弘文天皇は西国から兵を徴収。しかし、弘文天皇のもとには思うように兵が集まらず・・・。本拠地である近江でも密かに大海人皇子を支持する人間がいて、兵の士気もいっこうに上がりませんでした。理由として考えられるのが、弘文天皇が24歳という若さだったこと。それに加えて、弘文天皇自身が文学の人でその側近も文学や政治に秀でた人だったため、武力については頼りなかったのです。お互い軍備を整えると、弘文天皇軍と大海人皇子軍は近江と大和で激突。壬申の乱が起こりました。大和では弘文天皇軍が勝利。一方、近江では大海人皇子軍が圧勝しました。敗戦の気配が濃厚となった弘文天皇は大臣と逃げますが、将軍が次々と打たれ逃げる場所が無くなってしまいました。こうして、弘文天皇は山崎で自害。首は、大海人皇子に届けられたといいます。弘文天皇は、天皇になっていた期間が1年にも満たないという、不運な最後となってしまったのです。
 壬申の乱の敗者 江戸時代まで公式には弘文天皇は存在しなかった。あるいは、削除されていた。明治政府により「弘文天皇」と追号されたのは1870年(明治3年)のことだ。しかし、そのおよそ1200年前、大友皇子が671〜672年のわずか2年弱だが、天智天皇崩御後、近江朝廷にあって実権を握り、事実上皇位にあったとする見解が今日、有力視されている。生没年は648(大化4)〜672年(天智天皇11年)。天智天皇の崩御後、672年、皇位をめぐるわが国古代最大の内乱「壬申の乱」が起こり、大海人皇子率いる吉野側が勝利したため、その即位が疑問視され、在位を認めない見解もある。少なくとも「日本書紀」は弘文天皇紀を記しておらず、同天皇を一代と見做していない。これは同紀の編纂にあたった舎人親王が父、天武天皇による皇位簒奪の印象を拭い去ろうと大友皇子即位を省いたとされている。それでも、事実上大友皇子が皇位を継いでいたとする様々な史料が残っている。「水鏡」や「扶桑略記」などでは、天智天皇崩御後の二日後に皇位を継いだとされている。また、徳川光圀も「大日本史」でほぼ同様の見方をしている。弘文天皇は天智天皇の第一皇子で、名は大友皇子、伊賀皇子。母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)。日本最古の漢詩集「懐風藻」によると、皇子は風貌たくましく、頭脳明晰だったとされている。博識で文武両道を究め、詩文にも優れていたと伝えられている。皇妃は大海人皇子と額田王(ぬかだのおおきみ)との間に生まれた十市(とおち)皇女。皇女には葛野(かどの)皇子、与多王(よたのみこ)の子があった。天智天皇には8人の妃がいたが、皇子が誕生したのは4人。だが、1人は8歳で亡くなり、残る3人のうちの最年長が大友皇子だった。しかし、大友皇子が皇位を継ぐことは、当時の慣習からいえば困難だった。皇位を継承できる資格は、まず第一に皇族出身の皇后・皇妃を母とする皇子であり、第二は大臣の娘で后妃となっているうちに生まれた皇子でなければならなかった。この習慣は蘇我氏がつくりだしたものだ。だが、大友皇子の母は伊賀国山田郡の国造家の娘だ。他の2人の皇子も同じような身分の母から生まれていた。慣例に従えば、大友皇子は皇位継承の資格がなかったのだ。にもかかわらず、天智天皇はこの大友皇子に深い愛情を注ぎ、皇位を託そうと思うようになった。大友皇子が聡明で、ひとかどの人物だったからだ。ところが、天智天皇には皇太子として弟の大海人皇子がいた。いうまでもなく、皇太子は次期皇位継承者のナンバー1だ。たとえわが子とはいえ、即座には後継者にできない。それには周囲の承認がいる。そこで671年、大友皇子は太政大臣に任ぜられた。太政大臣が官職として正式に登場するのはこれが初めてで、大友皇子に権威をつけさせるため、新しいポストを作ってまで大友を政治の中枢に置いたのだ。大友23歳のことだ。そしてこの前後に、障害となる皇太子の大海人皇子の地位を奪い、政界から排除する方向にあったとみられる。このときの大海人皇子の推定年齢は36歳だ。こうして本来ならば最有力の皇位継承者である大海人皇子は働き盛りの年齢で、地位を奪われ、近江王朝の中で孤立し、大友皇子と敵対する立場に追いやられたのだ。大海人皇子は何の失政・失態を犯したわけでもないのに、理由もなく失脚させられたわけだ。天智天皇のこうした強引なやり方に反感を抱き、また非情な権力者、天智天皇を快く思わない連中は、当然ながら大海人皇子を支持したのではないだろうか。それが天智天皇自身の死後、朝廷から離反、多くの親・大海人皇子勢力をつくりだしていくことにつながったのではないか。そして、その決着点が「壬申の乱」での近江朝の敗北だったのだ。 
 
大友皇子即位説 3

 

(おおとものみこそくいせつ) 江戸時代から唱えられた学説で、日本史学で長く続く論争点である。
671年、天智天皇の死後に朝廷を主宰した大友皇子は、翌672年の壬申の乱で、大海人皇子(後の天武天皇)に敗れて亡くなった。この間に大友皇子が即位式を行って即位し天皇になったのか、それとも行わないうちに亡くなったのかが争点である。大友皇子が実際に天皇としての行為を行っていたことに異議を唱える者は少ない。
大友皇子は明治に入った明治3年(1870年)に諡号を贈られて弘文天皇と呼ばれたため、弘文天皇即位説(こうぶんてんのうそくいせつ)とも呼ばれる。
過去から現在まで、壬申の乱の基本史料は『日本書紀』であり、これには大友皇子が皇太子になったとも、即位したとも記していない。やや時代がくだる『懐風藻』は、大友皇子を「皇太子」と記すが、天皇とはしていない。平安時代の複数の史書には、大友皇子の即位を記しているものがある。
『日本書紀』は官撰史書であり、天武天皇の子舎人親王が編纂を統括した天武寄りの史書である。そこで、『書紀』の編纂者は即位の事実を知りながらもあえて記さなかったとするのが、大友皇子即位説である。 一方、『日本書紀』の記述を認めて、即位はなかったが大友皇子が朝廷を率いたとするのが、大友皇子非即位説である。天皇にはならないが天皇代理として統治することを称制と云い、非即位説は大友皇子称制説と言い換えることもできる。
この他に、天智天皇の死後は皇后倭姫王が即位したとする倭姫王即位説、即位しなかったが政務をとったとする倭姫王称制説もある。いずれにせよ、天智天皇崩御後は、後継を巡って騒然としていたということである。
江戸時代から明治時代初めにかけては、大友皇子即位説が有力であった。そこで1870年(明治3年)に、明治政府は大友皇子に「弘文天皇」と追諡した。しかし明治時代の終わり頃から即位説の根拠に疑問が提出され、現在では即位はなかったとみる見方が有力である。
大友皇子即位説 - 『水鏡』、『大鏡』、『扶桑略記』、『大日本史』、伴信友、明治日本の公式説
大友皇子称制説(非即位説)- 『日本書紀』、田中卓、直木孝次郎、遠山美都男
倭姫王即位説 - 喜田貞吉
倭姫王称制説 - 黒板勝美、倉本一宏
大友皇子即位説の論点
以下では、即位説を支える論点をまず記し、それに対して非即位説の立場からどの様な反論があるかを紹介する。どちらかの説が正しいという意味合いはない。
平安時代の即位記述
平安時代の文献には、大友皇子の即位が数多く記されている。
もっとも早いのは10世紀に書かれた『西宮記』で、天智天皇10年の「12月に帝位に即く」とある。
『扶桑略記』は、「天智天皇10年10月に大友太政大臣が皇太子に立った。12月3日に天皇が崩じた。同5日に大友皇太子が帝位についた」と記す。
『年中行事秘抄』には、大友皇子が「皇太子となり帝位に即く」とある。
『立坊次第』(紹運要略)には、天智天皇10年に「同年12月5日帝位に即く」とある。
『水鏡』は、「10月には大友皇子を東宮に立てた」、「天智天皇10年12月3日に失せたため、同5日に大友王子が位を継いだ」とする。
『大鏡』は天智・天武の継承では大友皇子の即位に触れないが、別のところで「大友皇子はやがて帝になり、帝のまま失せた」と記す、また「この皇子は太政大臣の位で、つぎにはやがて同じ年のうちにみかどとなった」とも書く。
このように、平安時代には大友皇子即位が事実として受け入れられていたと言ってよい。しかし、7世紀の壬申の乱からみて時代が下ることは否定できず、また、数の多さは部分的には『扶桑略記』の影響力の産物でもある。『大鏡』は大友皇子が天武天皇になったとする単純な誤りがあり、史料としての信頼性に疑問がある。その点は『水鏡』なども同じで、天智が行方不明になったのでその2日後に大友皇子が即位したとする。急な日程は前後の諸天皇と著しく異なり、不審がある。
『日本書紀』の編纂方針
壬申の乱について、今に伝わるもっとも詳しく時代も古い史料は『日本書紀』である。この史料では、天智天皇の次の天皇は天武天皇となっており、大友皇子の即位は記されていない。大友皇子即位説とは、『日本書紀』の編者が曲筆して大友即位の事実を抹殺したという説でもある。
『日本書紀』の巻27は天智天皇の時代、巻28と29は天武天皇の時代、最終の巻30は持統天皇の時代を扱う。このうち、巻28は天武天皇元年だけにあてられ、巻29が残りの14年間を扱う。『日本書紀』こと『書紀』がいう天武天皇元年は、壬申の乱が起きた年であり、この年の6月から7月に戦いが起こった。一年に一巻をあてた箇所は他にない。編纂において、壬申の乱が特別に重要な事件とみなされていたことは明らかである。
これには、この内戦が大化改新とともに編纂当時の「現代」を作り出した重要な事件であるという認識が働いていたと思われる。その際には、現天皇の系譜を正統化しようという動機もあったであろう。
『書紀』の編者を率いたのは舎人親王で天武の子、完成時の元正天皇は天武の孫で、編纂期間中を通じて皇位は天武系が占めていた。そのため、天武天皇を咎めるような事実を記さなかった可能性が高い。政権が望まない事実を削除したことは後続の『続日本紀』に例があり、まったくの嘘を創作することと比べれば抵抗が少なかったと思われる。
壬申の乱で死んだ皇族は大友皇子と山部王の二人だけであり、他の天智系皇族は大友の子葛野王をも含めて全員が残って朝廷を構成した。その他中・下級の官人まで含め、存命のものは多かった。彼ら皇族・臣下は『日本書紀』の想定読者でもあるので、よく知られた事実を否定するような操作は難しかったのではないかという指摘もある。
『書紀』の内容が信頼できないことからは、真偽不明という結論は導けても、そこから直ちに『書紀』の記述の反対が真実だとか、論者の想像が真実だとかいう結論は導けない。書紀の記述に信をおかず、同時に大友皇子の即位を認めない説も可能である。即位説を積極的に主張するためには、別の判断材料が必要となる。
太歳記事と『日本書紀』改刪説
   西暦/干支/日本書紀/改刪の前
   671 辛未 天智10 天智10
   672 壬申 天武元 大友元
   673 癸酉 天武2 天武元
   674 甲戌 天武3 天武2
   675 乙亥 天武4 天武3
   676 丙子 天武5 天武4
   677 丁丑 天武6 天武5
   678 戊寅 天武7 天武6
   679 己卯 天武8 天武7
   680 庚辰 天武9 天武8
『書紀』は、壬申の乱の年を天武天皇元年とする一方で、天武天皇の即位を天武天皇2年2月27日と記す。一見して矛盾するが、この書き方は天智天皇、持統天皇のときも同じで、それぞれ治世の7年め、4年めに即位したと記している。これは『書紀』の編年方針全体の問題であるから、ここから直ちに大友皇子の即位には結びつかない。
『書紀』がもともと天武天皇元年を壬申年の翌年においたのではないかという説は、この編纂方針をふまえた上で展開される。もし、最初の段階での『日本書紀』が天武元年を壬申年の翌年においていたのなら、それは即位年にあわせたからではなく、壬申年が別の天皇の年だったからだと推定できるのである。
伴信友が唱えた日本書紀改刪説は、和銅7年(714年)に『日本書紀』はいったん完成しており、通常言われる養老4年(720年)はそれを改刪(改定)したものとする。伴が改定の証拠とみたのは、太歳記事が天武天皇2年にあることである。『書紀』の太歳記事は年の干支を記すもので、通常「この年の太歳は○○である」とその天皇の元年の記事の末尾に記す。しかし天武の場合には元年の末尾にはなく、2年の末尾にある。これは、もともと壬申の翌年を天武天皇元年として太歳記事をおいた痕跡であり、後になって天武元年を繰り上げたときに移し忘れたのだとする。
また、天智天皇紀と天武天皇紀の間で大海人皇子を「皇太子」「皇太弟」「東宮」とばらばらの用語で表現しており、大海人皇子が皇位を辞退して出家した場面が巻をへだてて2度出てくる点も、改定時の整理が不十分だったためだと考える。
喜田貞吉は、改定されてもされなくても壬申年が元年に変わりないという点を指摘してこの説を批判した。元年太歳のルールに従えば、壬申年は天武天皇の元年でなくとも弘文天皇の元年なのだから、改定前の『書紀』の壬申年にも太歳記事があったはずである。消し忘れ1つの疎漏はまだしも、何もしなければいいところでわざわざ太歳記事を削ったのは誤りとして理解しがたい。
そのように考えると、元年に太歳記事がないのは見落としのせいではなく、もともとそのように編集されていたのだとするほうが自然である。太歳記事は読者の便宜をはかるためのものであって、干支と即位の間に直接の関係はない。壬申年一年に一巻をあてた異例の編集にともなう変則と考えられる。
『続日本紀』の「内大臣より君十帝」
奈良時代に書かれた『続日本紀』には、天平宝字2年(758年)に淳仁天皇が藤原仲麻呂に恵美押勝の名を与えたときに、藤原氏の功績を称えて「近江大津宮の内大臣より(中略)君十帝をへて年ほとんど一百」と勅で述べたことが記されている。
この「内大臣」は藤原鎌足のことで、近江大津宮は天智天皇が定めた都であるから、天智天皇からたどることにすると、天智天皇、天武天皇、持統天皇、文武天皇、元明天皇、元正天皇、聖武天皇、孝謙天皇、淳仁の9人にしかならない。弘文天皇を代数に入れるとちょうど10人になる。 これに対しては、草壁皇子をあてれば10人になるという反論がある。
薬師寺東塔銘文の「即位八年庚辰」
奈良の薬師寺の東塔には露盤があり、そこに銘文があって、「維清原宮馭宇天皇即位八年庚辰の歳」というくだりがある。清原宮とは飛鳥浄御原宮にあてられるから、この「天皇」は天武天皇である。天武天皇の庚辰年は680年である。『書紀』がいうように壬申年(672年)が天武天皇元年だとすると、庚辰年は9年になる。もし元年が癸酉(673年)なら8年で、計算があう。これは銘をいれた当時、持統天皇の時代に天武天皇元年が癸酉とみなされていた証拠であり、ひいては『日本書紀』が年数の計算を変更した証拠でもある。これは日下部勝皋が初めて指摘した。
しかし『日本書紀』は即位が天武天皇2年の癸酉年にあったと記した上で元年を壬申年においているのだから、「即位八年」という表記は『書紀』の内容と食い違うものではない。
『懐風藻』の「天命果たさず」
奈良時代に書かれた『懐風藻』は、大友皇子の伝を同情的に書き、『書紀』と異なり大友皇子を「皇太子」とするが、天皇とは呼ばず、即位したとも書かない。伝の中では大友のことを「皇太子」だと繰り返して書く。『懐風藻』には大友の子葛野王の伝もあり、そこでも葛野王は「大友太子の長子」とある。
谷森種松は、『懐風藻』が天智天皇のことを「淡海先帝」とことさらに「先」の字を付けて書いたのは、淡海後帝の存在を暗示するもので、大友皇子の即位を知らせようとしたのだと考えた。伴信友がこれに加えて、序文が「淡海から平都」までの詩をとったというのに、淡海朝(近江朝)の詩人が大友皇子1人だけというのは、暗にこの1人が天皇だったことを示すと論じた。また『懐風藻』には大友皇子の最期を記すとき、「天命を果たさなかった」とあり、この「天命」の字を天皇の地位と解釈する説がある。
ただ、この種の暗号説を用いれば、論者の都合でいかような解釈でも振り出すことができることは古代史ではよく知られており、今日学問的な論証として取り上げられることはない。
学説史
大友皇子即位をめぐる学説史を通観した研究論文は、『大日本史』までを扱った1897年(明治30年)に発表された平出鏗二郎の論文「大友天皇考」が初めである。これを踏まえ、現代まで通して詳述したのが星野良作『研究史壬申の乱』で、今日までこれがもっとも充実した著作である。
江戸時代
考証を経た上で即位論を唱えた最初の著作は、江戸時代の寛永4年(1624年)に那波活所が書いた『帝王暦数図』である。本文は伝わらないが、自叙が残る。それによれば『日本書紀』、『懐風藻』、瞽史児女子の書に大友皇子が帝だったという事実が書かれているという。瞽史児女子の書は不明の書である。『書紀』と『懐風藻』に「大友帝」とは書かれていないから、何らかの論証を経た結論と思われるが、本文が失われているので内容不明である。
その後、徳川光圀が編纂させた『大日本史』が、その「三大特質」の一つとして大友天皇紀を立てた。水戸藩には大友即位説に反対する史官もいたが、少数だったらしい。それでも即位は説にすぎないから、伝を立てずにおく編集もありえたが、光圀の強い意向で大友紀が設けられた。
寛政6年(1794年)には、日下部勝皋が『薬師寺檫銘釈』を著して、薬師寺東塔の銘文「即位八年庚辰」の存在を指摘し、天武紀の太歳記事が元年ではなく2年にあることに注意を喚起して、壬申年は空位でないなら大友が皇位にあったのだと主張した。
即位説に反対して、谷川士清は安永3年(1774年)に『続大日本史私記』で水鏡の資料的価値に疑問をはさみ、即位のような大礼が天皇の死後すぐに行われたのは乱世でも考えにくいことで、乱が起きる前の時点ではなおさらだと論じた。また、近藤芳樹は文政12年(1829年)に『正統論』を著し、壬申年は空位の年だったという説をとり、薬師寺銘や太歳記事の解釈も直ちに大友即位を意味しないと論じた。
江戸時代の壬申の乱研究の決定版は、伴信友があらわした『長等の山風』とされる。伴は『比古婆衣』で日本書紀改刪説を唱え、『長等の山風』でこの説を根拠に据えて即位説を論じ、和銅7年の『日本書紀』には弘文天皇の元年が立てられていたと推測した。また、『懐風藻』は即位の事実をあからさまに記すことを憚って字句を作ったのだと説いた。
伴の著作によって即位説を支える論点は出揃い、大友皇子即位説が通説となった。『日本政記』など一般向けの歴史書も大友皇子即位説をとったから、幕末の知識人の間で弘文天皇の即位は常識化しており、明治時代の初めまでその状態が続いた。
明治時代から第二次世界大戦まで
明治時代の初め、1870年(明治3年)7月23日に、政府は大友帝、廃帝、九条廃帝にそれぞれ弘文天皇、淳仁天皇、仲恭天皇と追諡した。三人とも、天皇に対して諡を奉るという形式をとっており、諡をつけることで天皇に列したのではない。淳仁、仲恭が天皇であったことは明白で、単に諡号がなかっただけであったから問題にはならなかったが、「大友帝」の存在は学説に拠るものだった。政府内外から反対意見が提出されたが、政府はその説を少数とみて採らなかった。
1904年(明治37年)に喜田貞吉が論文「女帝の皇位継承に関する先例を論じて大日本史の大友天皇本紀に及ぶ」を出して壬申年に女帝があった可能性を示唆した。喜田はこの論文で『日本書紀』改刪説を批判して、不必要な天武天皇2年の太歳を削り忘れ、必要な太歳壬申を誤って削るという二重の不手際はありえないと論じた。
論争を経て喜田は倭姫王即位説にまで論を進め、学界では倭姫王の即位または称制説が優勢になった。しかし、1911年(明治44年)に喜田が南北朝正閏問題で職を失うと、同種の性格を持つこの論争も冷水を浴びせられた。喜田はその後も自論を発展させて1922年(大正11年)の論文「後淡海宮御宇天皇論」で区切りをつけた。これに対しては1932年(昭和7年)に黒板勝美が、大筋は認めるが即位の証拠はないとして称制を推定した。
即位説と名分論
江戸時代から1945年(昭和20年)まで、即位説は論者の道徳的姿勢にも関わる問題と意識されていた。初めに即位を論じた那波活所は、自説を蜀漢皇帝を正当とした例にならうものとして、宋学の名分論を前面に出した。その後も弘文天皇即位説をとる者の多くは、天武天皇を簒奪者として非難し、そのような非難をしないのは反逆の容認につながると論敵を非難した。逆に非即位説の論者は、臣下の身で勝手に天皇の称号を与える不遜を咎めて応酬した。
こういうわけで、明治初期までイデオロギー的発言は活発だったが、学問上の論争にとどまる限り、それがいずれかの有利不利に働くことはなかった。明治3年に大友皇子即位説が政府公認となったのは、単にそれが当時有力な説だったからである。政府関係者はその検討の際に非即位論が不敬だとは考えなかった。
しかし、ひとたび追諡がなされると、弘文天皇即位に反対するものは追諡した明治天皇の決定に反することになった。当時の日本では、歴史学界内部に限れば冷静な議論が可能であったが、一歩外に出れば学問の自由は存在せず、政府、政治家、神道家、新聞が、学者の不敬を格好の攻撃材料とした。倭姫王即位説を唱えるに際し、喜田は自説が不敬ではないという言い訳を、苦しい理屈を作って弁じなければならなかった。学者たちは萎縮し、結果として、倭姫王即位説への反応は賛否とも鈍いものであった。
第二次世界大戦後
第二次世界大戦後には、皇位問題への禁忌意識は消えた。しかし歴史学者が取り組んだ当面の課題は皇国史観の払拭であったため、皇位継承問題の重要度は低くなった。即位説と非即位説の違いは、要するに即位の礼が行われたかという儀式の日取りに関することである。実際に大友皇子が朝廷を主宰していたこと、壬申の乱が皇位継承をめぐって争われたことが重要なのであって、形式的な即位の有無は小さな問題にすぎないという態度である。
皇位問題への関心を絶やさなかったのは、皇国史観を護った田中卓で、戦前の関心をひきついで継承問題をとりあげた。田中は1951年の論文で倭姫王即位説の論拠だった「中天皇」を倭姫王とする説を突き崩し、問題は白紙に返ることになった。
以後、壬申の乱研究が盛行し、乱のあらゆる側面が活発に論じられるようになると、即位問題もその中で取り上げられた。この時には、喜田による書紀改刪説批判、田中による倭姫王中天皇説批判は共通の認識になっていた。大友皇子即位説を支持する研究者はいなくなった。しかしこの間、『日本書紀』の記述の信頼性が高まったわけでもないので、即位説をめぐる論争は決定打を欠くまま諸学者の推測にゆだねられることになった。戦後の壬申の乱研究を主導した直木孝次郎は大友皇子称制説をとり、これが主流と言ってよい。だが2000年代に入って倉本一宏が倭姫王の即位を予定した段階での乱勃発を説くなど、中継ぎ女帝論を背景にした倭姫王称制説が盛り返し、決着はついていない。
弘文天皇を除くと、以後の天皇の代数は全部一つずれることになり、今上天皇の代数にも影響が及ぶ。戦前に即位・非即位が重大視された理由である。しかし、天皇の代数を定め難い箇所は他にも多々あるので、歴史学の立場からは、代数は政治的決定の産物としか言いようがない。戦後史学では学説によって数が変わることはなく、系図や表では現在も弘文天皇が第39代と記される。  
 
弘文天皇 (大友) 4

 

○礿して、伊賀皇子と稱す。先帝の長子也。母、伊賀采女、宅子娘イエコヒメ。帝、始め皇子 と爲りしき時、百濟の學士、紹明等を以て、師友と爲。文藻ブンソウ(文章)日に進む。太政 大臣に拜せられ、萬機を統攝す。群下肅然たり。
○先帝、大漸ダイゼン(危篤)。太弟、大海人オオウミヒトを召て囑するに後事を以てす。太弟、固く辭し、且つ僧と爲んと請う。髪を剃り吉野に入る。
○是に於て、上、立て皇太子と爲。先帝、崩ずるに及で遂に位に即く。
○紀元1,331年、白鳳22年12月5日、天皇、位に即く。時、年24。
○元年春3月、内小七位(内位始て此に見る。式部式に外位は内位の上に列 を得ず。)阿積稻敷アヅミノイナシキを築紫に遣し、國喪を唐使、郭務悰に告ぐ郭務悰、官屬を 率い素服哀を擧ぐ東向稽首す。
○夏6月、大海人皇子、兵を吉野に起す。帝、群臣を召し會議す。一人策を定め曰。「急に騎を發驍ハツギョウ(素早く)し之を追躡ツイジョウ(追掛ける)せん。緩なれば即ち機を失せん」と。帝、聽かず。韋那イナノ 磐鋤イワスキ(韋那イナノは姓磐鋤イワスキは名)・忍坂大麻呂オシサカノオオマロ(忍坂は姓大麻呂は名)を東國に遣し、穂積ホヅミノ百足モモタル・弟百枝モモエ(穂積は姓百足・百枝は名)・物部日向(物部は姓日向は名)大和に往き、佐伯男(佐伯は姓男は名)築紫に往き、樟磐手クスノイワテ(樟は姓磐手は名)は吉備に往き、急に兵を發せしむ。諸國、命を拒む。磐鋤イワスキ、逃げ歸り、餘は擒斬キンザン(虜にして斬り殺す)せらる。
○壹岐の韓國カラクニ、吉野軍を衛我川西(水、河内郡石川より古市に至る。今は恵川と名付く又石川と曰)に敗る。秋7月、吉野の軍美濃大和より京師に逼セマる。帝、山部王及び蘇我果安ソガノハマヤス・巨勢比等コセノヒト等を遣し、兵數萬を率いて美濃軍を撃たしめ、犬上川 (近江國犬上郡)に次す。山部王、2將殺す所と爲る。而して果安も亦尋て自殺し、軍遂に潰ゆ。
○羽田國(羽田、姓、國、名)擧族、吉野軍に降る。
○大野果安、吉野の將、大伴吹負、乃樂ナラ山に撃ち大に之を敗る。
○田邉小隅、夜、枚バイを御フセイで、吉野の將、中足麻呂の屯する倉歴ラフの營を襲う。士卒 の吉野兵と別ち難きを慮オモンパカり、即ち暗號を定め、人毎に「金」と言はしめ、輙スナワチ之を 斬る。唯々、足麻呂のみ獨、之を察知し僅に身を以て免る。小隅、遂に吉野の將、多品治オオノホンチの屯所、莿荻タフの營を襲う。而して敗積す。
○我軍、連戰シキリニタタカイ、皆敗れ諸將多く死す。(秦友足・境部藥・土師千島等戰死す。) 帝、衆を悉くし、橋西に軍す。前軍の將、知尊、橋板3丈許を撤し、一長板を施し、繩を繋け、機を過る者皆其の陥溺カンデキ(穴に落ち溺れる)する所と爲る。大分稚臣オオイタノワカオミ(大分姓、稚臣名)獨、大刀を揮し、索を斷ち奮撃し疾く進む。衆軍之に繼ぐ。守橋の兵亂れ、知尊之に死す。我軍敗積す。 帝、却き走る。
○ 我軍、粟津を守る。吉野の將、男依、破る所と爲。是に於て諸將戰死し、餘衆悉く散す。帝、物部麻呂及び二舎人と西に走て、山前に隠れ、而して崩ず。時、年25。
○帝、人と爲り、魁偉カイイ(盛んに大きい)、眼に精耀セイヨウ(鮮やかに輝く)有り、博學に古に 通ず。嘗て宴 に待する詩に曰く「皇明、日月、帝コ天地に載す。三才並に泰昌、萬國、臣儀を表す。宰執爲タル。」述懐に曰く「道コ天訓を承け鹽梅宰執に寄す。羞ハジ、監撫の術無き。安イズクンゾ、能く四海に臨ん」と。詩を作は蓋し此に始る。嘗て朱衣の老人を夢む。日を捧げ己に授く。人有り。腋下從出て之を奪い而して去ると。巳に覺サメて中臣鎌足に語ツグ。鎌足、嘆て曰く「聖朝萬歳の後、恐 くは巨猾キョカツ(極めて悪賢い)覬覦キユ(非望を企てる)有ん。然るに臣生ける日此の事有らしめず。臣聞く天道は親無し。唯々善く是を輔くと。殿下、自らコを修め妖祥ヨウショウ(災いの兆し)は憂うる所あらざる也。因て女を以て之に配し、相與トモ親睦す。是に至て天命を果して遂げず。安イズクンゾ、四海に臨んの語亦以て讖シン(未来の禍福・吉兆の前兆又は豫言)を成すると」云う。
○明年、皇太弟位に即く。是を天武テンム天皇と爲す。 
 
「壬申の乱」 5

 

「虎に翼をつけて」
〜古代最大の戦い「壬申の乱」の始まり〜
天智10(671)年10月17日。ときの天智天皇は病床にあった。激しい痛みと苦しみに、わが余命がわずかであることを悟られた のだろうか。弟で皇太子の大海人皇子を呼び寄せ、皇位を授けようとおっしゃったのだった。
しかし、皇子は首をたてに振らなかった。「私はもともと病気がちで、こんな体ではとうてい国家を 保つことができません」。そして、天皇の息子である大友皇子を皇太子とするよう提案するのだっ た。
「私は本日出家し、陛下のために功徳を修めたいと存じます」。大海人皇子はきっぱりといい、天皇はそれを許した。自らの言葉を違えず、皇子は即座に出家し、自分がもっていた兵器をすべて官司に納めた。
実は、天皇の病床に呼び出されたとき、かねてより大海人皇子が目をかけていた蘇賀臣安麻呂が使 いであった。安麻呂はそれまでの恩に報いるかのように、「用心してお話しなさいませ」と皇子に耳打ちをした。 これは、なにか陰謀が渦巻いていることを疑ってのことだったのだろうか。
その耳打ちゆえか、あるいはそれ以前から皇子が考えぬいた行動だったのかは定かではないが、ともかく慎重に慎重を重ねて振舞った大海人皇子は、それから2日後、法衣に身をつつみ、つまり皇位の継承を放棄した者として、近江大津宮から逢坂山を越え、山科を経由し、吉野宮へと向かった。
しかしながら、大海人皇子は生まれながらに人にぬきんでたお姿で、とりわけ成人してからは人間わざとは思えぬ武徳があると讃えられた方である。当時の人もこのままで終わるはずがないと予見していたのだろうか。ある人が、吉野宮へと向かう大海人皇子を見て、つぶやいたという。「虎に翼をつけて放した」と。そして、同じ年の12月。天智天皇は46年の生涯を閉じ、古代最大の内乱といわれる「壬申の乱」へのカウントダウンが静かに、そして、確実に始まったのだった。
「駅鈴を得ず」
〜明らかになった近江軍の策略〜
天智10年12月3日。近江の地で、天智天皇はこの世を去った。
その翌年5月から、大海人皇子の耳に、不穏な情報が続々と届くようになった。例えば、美濃にでかけた、ある家臣は、次のように報告した。
「朝廷は、美濃・尾張の国司に陵(みささぎ)を作るために、あらかじめ人員を指定しておけ、と命じておりますが、それぞれの者に武器を持たせております。これは決して陵を造るのではありません。早く避難しないときっと危ないことがあるでしょう。」また、ほかの者も申し上げる。「近江京(おうみのみやこ)から倭京(やまとのみやこ)に至る道のあちこちに、見張り役が置かれております。また、菟道(うじ)の橋守に命じ、私たちの食糧を運ぶことを阻止しています」。家臣の報告を聞き、ついに大海人皇子はこう語られた。「私が皇位を譲って遁世したのは、病を治し、天寿をまっとうしようとしたからにすぎない。ところがいま、避けられない禍(わざわい)をこうむろうとしている。このまま黙って身を滅ぼすわけにはいかない」。
6月。朝廷の臣たちが自分を亡きものにしようと企んでいることを知った大海人皇子は、まずは不破道(ふわのみち)を防ぎ留めることを命じ、自らは軍勢も持たず、東へと向かおうとした。しかし、そのとき一人の家臣が申し上げた。「近江の群臣はもともと策略を企てています。一人の兵士も従えず、東へ行くのは危険なことです」。そこで、大海人皇子は、ただちに、逢臣志摩(おうのおみしま)らを、倭京を守る高坂王(たかさかのおおきみ)のもとに遣わし、駅鈴を渡すように命じた。駅鈴があれば、公式に人馬を利用でき、東国への道が開ける。一方で駅鈴が手に入らない場合に備えて、近江にいる息子・大津皇子に挙兵を促す手はずを整えていた。高坂王は、頑として、駅鈴を渡すことを拒んだ。近江の群臣たちの策略はもはや明らかとなった。逢臣志摩はすぐに吉野へ戻り、大海人皇子に告げた。
「駅鈴を得ず」。それは、あたかも戦いの火ぶたをきっておとす刃(やいば)のように、鋭い一言であった。
「天神地祇(あまつかみ くにつかみ)、朕(われ)を扶(たす)けたまはば」
〜次第に増える大海人皇子の一団〜
壬申または天武元年6月24日。
大海人皇子は吉野を出発し、東国へとお入りになった。急なことであったので、乗り物はなく、最初は歩いて進まれたが、途中で馬に出会い、お乗りになった。津振川(つふりがわ)でようやく、皇子の乗り物が届いたのだった。このときに従っていた者たちは、草壁皇子、忍壁皇子(おさかべのみこ)や舎人など一族20人余りと女官10人余りに過ぎなかった。
菟田(うだ)の吾城(あき)、甘羅村(かんらのむら)で従者を増やし、荷役の馬であるが50頭を得た。しかし、隠郡(なばりのこおり)では大海人皇子軍に従うものはなかった。しばらく進んで、横河で大きな黒雲が現れたとき、大海人皇子は自ら占いをなさった。「これは天下が二分する前兆である。その結果、私が天下を得ることになるだろう」。そう、勝利を予言されるのであった。
伊賀では数百もの味方を得ることができ、積殖山口(つむえのやまぐち)では、高市皇子(たけちのみこ)の一行と合流した。26日の朝、皇子は朝明郡(あさけのこおり)の迹太川(とおかわ)のあたりで、伊勢の方へ向き、天照大神(あまてらすおおみかみ)を拝まれた。
このとき、多くの仲間を従えた大津皇子(おおつのみこ)と合流した。また、美濃の軍勢三千人を味方につけ、要所である不破道(ふわのみち)を塞ぐことにも成功した。東海道、東山道にも人を遣わし、兵を起こすことに成功した。その後、大海人皇子の軍勢は、美濃国不破(現在の関ヶ原)に布陣した。このころ、大友皇子率いる近江朝廷では、大海人皇子が東国にお入りになったことを知り、群臣は驚き、大きく動揺した。あるものは東国へと逃れようとし、ある者は山や沢に隠れようとした。「いったいどのようにすればよいのだろうか」。大友皇子が臣下に相談すると、ひとりが進みでてこう申し上げた。「早く対処しないと手遅れになります。早急に勇敢な騎兵を集め、追い討つのがよいと存じます」。大友皇子はこれには従われず、家臣をそれぞれ東国、倭京(やまとのみやこ)、筑紫(つくし)、吉備国へと遣わし、すべてに兵を起こさせた。
さて、大海人皇子は、このころ高市皇子にこう語られたという。「近江朝では、左大臣、右大臣をはじめ、知恵も経験もある群臣が協議をし、事を決定している。しかし、いまの私には、ともに相談するものがおらず、ただ、幼い子どもがいるだけだ。いったいどうすればよいのか」。この言葉を聞いた高市皇子は、腕まくりをし、剣をにぎりしめ、こう決意を述べた。「近江の群臣がいかに多勢であろうとも、父上の霊力に逆らえるわけがありません。私が天神地祗(あまつかみ くにつかみ)のお力を得て、父上のご命令を受け、将軍たちを率いて敵を討ちましょう。けっして、わが軍勢を防ぎ止めることなどできないことでしょう」。
大海人皇子は高市皇子をほめ、その手を取り、背をなでながら、こうおっしゃった。「慎重にふるまえよ、決して油断してはならないぞ」。
そうして、鞍をつけた馬を与えられ、軍事の権限をすべてゆだねられた高市皇子は不破の最前線に戻り、大海人皇子は少し東に位置する野上に行宮(かりみや)をつくって、滞在された。この夜、雷が鳴り、激しい雨が降った。大海人皇子はおっしゃった。「天神地祗が、われをお助けくださるならば、この雷雨は止むであろう」。その言葉を言い終わるやいなや、雷雨は、止んだ。
ときは7月に入り、戦いは、さらに大和、近江、伊賀などの要所で続くのだった。
走(に)げて入らむ所なく
〜大友皇子の最期〜
壬申または天武元年七月二十二日。
大海人皇子軍の村国連男依(むらくにのむらじ おより)らが瀬田(現在の滋賀県)に到着した。
このとき、近江朝の大友皇子と群臣たちは、瀬田の橋の西に大軍を構えていた。その軍勢の旗や幟は野を覆い、土煙は天まで立ちのぼり、鉦や鼓の音は数十里の先まで鳴り響くほどであったという。
次々と放たれる矢は雨のように降り注いだが、近江朝の将軍である智尊(ちそん)は、精鋭の部下を率い、防ぎ守った。近江朝の軍勢は、橋の真ん中を三丈ほど切って、一枚の長板を置き、もし板を踏んで攻め込んでくる者があれば、すぐにその板を引いて落とそうと企てた。だが、そのために、自分たちも橋の真ん中から向こうへは攻め入ることができないでいた。
そんなとき、大海人軍の大分君稚臣(おおきだのきみわかおみ)が、勇敢にも、長矛(ほこ)を捨て、甲(よろい)を重ねて身につけ、刀を抜いて、すばやく板を踏んで渡り、板につけられた綱(つな)を断ち切り、射られながらも敵陣に入った。
近江軍は予想外のことに慌てふためき、ちりぢりに逃走した。
「退(さ)がるな、待て。退がるな」。
将軍智尊が、逃げるものを斬り殺し、軍勢の後退を止めようとしたが、むだであった。ほどなく、智尊自身が橋の畔(ほとり)で斬り殺されてしまった。
大友皇子と左大臣 蘇我赤兄(そがのあかえ)、右大臣 中臣金(なかとみのかね)たちは、かろうじて逃げおおせたが、翌日二十三日、男依らは、さらに、近江軍の将軍 犬養連五十君(いぬかいのむらじいきみ)をも切り殺した。
こうして、大友皇子は逃げ込むところを失い、山前(やまさき)に隠れ、ついに自ら首をくくった。
このとき、左大臣と右大臣、残っていた群臣はみなちりぢりに逃げてしまい、大友皇子の最期には、ただ物部連麻呂(もののべのむらじまろ)と一人、二人の舎人(とねり)が従っただけであった。
これを飛鳥浄御原宮という
〜天武天皇の即位〜
大友皇子が自決し近江方面での戦局が決したころ。大海人皇子軍の将軍 大伴連吹負(おおとものむらじ ふけい)は、倭(やまと)の地をすっかり平定し、この方面での戦局も決する。その後吹負は、二上山の北側の大坂を越え、難波(なにわ)の地をおさえる。それ以外の将軍たちは倭(やまと)から各々上つ道(かみつみち)、中つ道(なかつみち)、下つ道(しもつみち)を北へ進んで、山前(やまさき)に行き着き、淀川の南に陣営を張った。
将軍の吹負は、難波の小郡(おごおり)で、これより西の国司らに命じ、租税をおさめる正倉(しょうそう)や兵庫(へいこ)の鍵、駅鈴(えきれい)等を進上させ、西国を掌握した。
七月二十四日、乱後の処分がはじまる。将軍たちは、近江朝の左大臣や右大臣をはじめ、罪人たちを探し出し、捕えた。
二十六日には、大海人皇子がおられる不破宮(ふわのみや)に向かい、すでに自決していた大友皇子の首を献じた。大海人皇子の心情はいかばかりであったろうか。
翌月八月二十五日。
大海人皇子は、高市皇子(たけちのみこ)にお命じになり、近江の群臣たちの罪状を宣告させた。右大臣、左大臣ら重罪の八人を、斬刑(ざんけい)と流刑という極刑に処したが、それ以外はすべて罪をお許しになった。意外にも寛大な裁きであった。
一方、自らの軍の功績のあった人々を顕彰し、褒賞をお下しになった。
九月に入ると、大海人皇子は、伊勢の桑名、鈴鹿、伊賀の阿閉(あへ)、名張をへて、ついに倭京(やまとのみやこ)に帰りつかれ、飛鳥の島宮(しまのみや)へとお入りになった。さらに島宮から岡本宮(おかもとのみや)にお移りになり、この年のうちに、岡本宮の南に宮殿をお造りになり、移り住まわれた。
これが、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)である。
翌年の二月二十七日。大海人皇子はこの宮で、帝の位につかれ、天武天皇の御代が始まるのである。このとき、壬申の乱の間ずっと側につかれていた鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)が、皇后となられた。皇后は後に持統天皇となる方であった。
こうして壬申の乱は幕を閉じる。
兄、天智天皇の死後、先手を打って近江の都を離れ、吉野で力を蓄え、東国を支配下においた大海人皇子の行動が勝利を引き寄せた。多くの悲しみを乗り越え、この後天武天皇は新しい国造りに邁進していく。 
 
房総・弘文天皇伝説 6

 

「壬申の乱に敗れたのち、大友皇子は房総の地に逃げ延びた」という房総・弘文天皇伝説は、房総の伝説のなかでも傑出したものの一つである。このような伝説が成立した背景には、この地域が古代の製鉄民族、多(オオ)氏の支配地域だったことと関連していて、大友皇子のゆかりの人々がオオ氏を頼りに房総に移住したと考えるのが最も理にかなっている。それはまた、「田原」地名の分布にはっきりと刻印されている。田原とはタタラであり、製鉄が行なわれていたことを示しているのである。だが古代の末期から中世にかけて熊野修験道が流入し、その結果、オオ氏の祀っていた田原神は白山神へと姿を変えた。これが、現在の白山神社(君津市俵田)に菊理姫と弘文天皇が祀られている理由である。
第1節 はじめに
千葉県君津市郊外(旧俵田村)に鎮座する白山神社には、菊理姫と弘文天皇が祀られている。菊理姫は白山神社の通常の祭神であるからいいとして、弘文天皇については若干の説明が必要だろう。弘文天皇とは壬申の乱(672年)で大海人皇子に敗れた大友皇子のことであり、大友皇子は戦いに敗れた後、近江から房総に逃げ延び、この地で亡くなったというのである。『日本書紀』では、大友皇子は瀬田で敗れ、山前の地で自害したことになっているので、房総に逃げ延びたというのは伝説上の話であって、ただちに「史実」というわけにはいかない。しかし房総半島のなかでも特に上総を中心とする地域では、この伝説とかかわるいくつかの伝説や史跡が残されていて、白山神社の脇にある通称白山神社古墳にはこの地で自害した弘文天皇が埋葬されている、ともいう。このあたりの事情について、作家・豊田有恒は、次のように書いている。
「木更津市から小櫃川に沿って、大きく迂回する一帯――今日の久留里線の沿線に、『上総壬申の乱』
と呼ばれる伝承が、今に伝えられている。……[中略]…… 大友皇子は、この地へ逃がれてきて、小櫃と俵田のあいだに、いわば最後の王国を築くのだが、天武の討伐軍によって壊滅し、ここで戦死したとされる。現在、小櫃山にある白山神社のあたりが、大友の皇子の陵だと伝えられている。考古学上の出土品も少なくない。海獣葡萄鏡、陶器なども出土している。鏡の方は年代的に合わないが、他に7世紀後半のものと思われる刀も出土している」(『大友の皇子東下り』)。
白山神社古墳は全長88メートル、後円部の高さ10メートルの前方後円墳で、古墳時代前期の築造と考えられており、明治31年(1898年)の発掘の際に、周辺の陪塚からは、海獣葡萄鏡、直刀、鉄鏃などが出土したという。また被葬者については、この地を治めた馬来田国造の関係者だろうとみられている。今日の考古学的観点からみても、弘文天皇云々はやはり史実とはいえないのである。では、なぜこのような伝説が語り伝えられて来たのだろうか。
第2節 房総・弘文天皇伝説のあらまし
そこで、まず、房総・弘文天皇伝説の歴史的経過を簡単に振り返っておくことにしたい。
この伝説が文献のうえで最初に現れたのは、江戸時代に書かれた『久留里記』(『総州久留里軍記』ともいわれる)においてである。これは「久留里付近の伝説や史談を雑多に書き集めたもの」で、著者や書かれた年代ははっきりとしない。ただし元禄15年(1702年)以前のもの、とされている。そのなかで、俵田村の白山大権現は自害した大友皇子の首を祀ったことに由来するものだとされたのである。
弘文天皇伝説はその後、中村国香『房総志料』(1761年)や田丸健良『房総志料続篇』(1832年)などにも収録されているが、ここでは藤澤衛彦編『日本傳説叢書上総の巻』や高崎繁雄「白山神社」によって、その概要をみておくことにしたい。
まず、旧俵田村周辺の伝説には、次のようなものがある。
(1) 修行坂――弘文天皇が官軍に追われ、一念発起したところといわれる。
(2) 王守川(あるいは菰捨川)――追われた天皇が川を渡る際に、喜三太なる者が菰をまとって天皇を背負ったという。
(3) 御腹川――天皇が割腹した川で、深夜になると流れが逆流したり、水の色が血の色に変色したりするという。
(4) 塚畑と畠塚――天皇の君臣7人が自害したところが塚畑で、女官たち12人が自害したあと葬られた場所が畠塚といわれる。12人の女官は下郡の十二社権現に祀られている。
(5) 手桶の禁忌――自害した天皇の首は手桶に盛って葬られたという。そこで、俵田村など12村では手桶を使わず、手のない小桶を使っている(手桶は天皇の木像とともに、白山神社に納められている)。
(6) 蘇我殿の田植え――ある年の5月7日、天皇は蘇我大炊(赤兄)を召して、国中の人民、早乙女の田植えをみたいといった。その最中、田植えが終わらないうちに、天にわかに曇り、稲妻が鳴り響いて大雨が降り出し、田植えの人々は雷に打たれてみな死んでしまった。そののち、その田を「死田」といい、5月7日は「蘇我殿の田植え」といって、田植えをしない日となった。
(7) そのほかに、関連する神社に次のようなものがある。
子守神社(君津市俵田字姥神):弘文天皇の乳母を祀る。
末吉神社(君津市末吉字壬申山):蘇我赤兄を祀る。
拾弐所神社(君津市戸崎字野持):弘文天皇の母・伊賀采女宅子郎女を祀る。
福王神社(袖ケ浦市奈良輪):弘文天皇の皇子・福王を祀り、福王丸陵と称する円墳がある。
白山神社(市原市飯給字森前):大友皇子を祀る。
次に、大多喜町筒森の筒森神社(御筒大明神)に伝わる伝説では、天皇の死後、皇后・十市皇女が当地に逃げ延びたが、流産して亡くなってしまったとされる。十市皇女の産穢は山腹に埋葬された。その場所を「多羅櫃」といい、奉葬した山上を「高塚の陵」という。このような経緯から、土地の人々は御筒大明神を「産婦の守護神」と信じている。
以上が、旧俵田村周辺と大多喜町筒森に残る弘文天皇伝説のあらましであるが、明治時代になってから、千葉県内において弘文天皇伝説の復興をめざす動きが起こった。それは、大友皇子を天皇として正式に認知させることと、『日本書紀』の記載に基づいて墓所を探し出そうとする全国的な動きに呼応するものであった。そうしたなかで、弘文天皇陵確定の中心的な役割を果たした人物の一人が、明治政府の地方行政官だった籠手田安定(こてだやすさだ、1840―1899年)である。彼は滋賀県権令だった当時、39代の天皇として認められた弘文天皇の墓所を長等山園城寺(三井寺)の亀丘に比定し、それに基づいて、1877年に亀丘は正式に弘文天皇陵として承認されたのだった。
このような動きに対して、弘文天皇伝説が語り伝えられてきた千葉県内では、白山神社古墳の実地調査を求める動きが起こった。1871年に、高橋常延(旧久留里藩士)が神祇官に対して「白山神社縁起考」を提出したのをはじめとして、1881年には森勝蔵、鶴見東馬(いずれも旧久留里藩士)ほかが、また翌年には俵田村が古墳の発掘調査を求めている。その後、1897年9月に俵田青年会の依頼に基づいて、八木奘三郎(東京帝国大学人類学教室職員)と中沢澄男(陸軍教授)による古墳周辺の陪塚の発掘調査が行なわれ、先に述べたような埋蔵物が発掘されたのであった。しかし、このような運動はあったものの、白山神社古墳が弘文天皇陵と認められることはなかったし、収集された伝説も史実として認められることはなかったのである。
第3節 房総・弘文天皇伝説のあらまし
房総における弘文天皇にかかわる伝説は、現在鴨川市に編入されている旧田原村大里や九十九里海岸の北部、野栄町から旭市にかけての地域にも残されている。
まず、旧田原村大里の伝説とは大略、次のようなものである。この地に大裏塚と呼ばれる大塚があり、その山上に「いしみや」という古祠があって、聖権現と呼んでいる。付近を往来する者は、馬より降りて一礼するという。また宝暦の頃(1751―1764年)、領主がこの地に穀倉を建てたところ、一夜にして理由もはっきりとわからないまま、崩れたともいう(藤澤衛彦編『日本傳説叢書安房の巻』)。だが、この伝説を採集した藤澤はこの伝説を怪しいという。そして俵田村の大友皇子の伝説とかかわらせて、皇子が自害したのち、従者がこの地に身を伏せていたのだと推測し、それが「大裏塚」あるいは「大裏屋敷」の由来なのだとしている。
ここから明らかなように、旧田原村の弘文天皇伝説は房総・弘文天皇伝説を信じる藤澤衛彦の解釈の結果に基づいて生まれたものであり、あるいは創作といってよいものなのかもしれない。もちろん、田原地名の同系性や「大裏」にまつわる由来は検討しなければならないが、このような経緯があるため、旧田原村大里の伝説についてはここではひとまず除外しておくことにしたい。
次に取り上げる野栄町から旭市にかけての伝説では、弘文天皇妃が従者とともにこの地に逃げ延びてきたという。その文献的な根拠は、旧川口村在住の明内豊明の所蔵図書のなかに含まれていた記述のなかにある(これらの図書は、明治時代初頭に書き写されたものである)。まず、天慶3年(940年)の書とされるもののなかに、「天武天皇の時、官女が兵乱を避けて従者18人を連れて東国に下った。中臣常盤の孫・英勝が供をして、白鳳元年(672年)、下総の海辺に上陸したが、脳病により崩じたので、之れを埋葬した」とある。そしてこれにつづいて、永長元年(1096年)の書には「官女は中臣鎌足の女である」とされた。
これらの文書に基づいて、佐倉出身で八日市場警察署長を務めた広田彬は1882年に旧野手村内裏塚に碑文を建てて、参列者1、000人規模の私祭を行なっている。そしてこれ以降、文献上は単に「官女」と書き継がれたものが「官女とは藤原鎌足の女、耳面刀自のことで、弘文天皇妃である」とされることになったのである。現在、弘文天皇妃耳面刀自と弘文天皇を祀る内裏神社の縁起は大略、次のようにいう。
「中臣英勝8世の孫・美敷の少女に神憑りがあり、清浄の土地を選んで、墳土を遷せという。美敷、貞雅、雅次らは相謀り、椿の海辺に聖地を選び、野田[野栄町]の墳土を遷し、霊廊となした。天慶3年9月のことという。嘉保年中(元年=1094年)、英勝14世の孫・中臣正勝、日月の旗を証拠に、八幡太郎義家を介して、堀川院に官女のことを上奏。封地を賜り、自ら茶磨丘陵(近江国)より霊璽を遷し、内裏の称号を受ける。妃と大友皇子を祀り、ここに内裏神社が成立した。以来、大塚原は内裏塚原と称す。」
この地域にはもともと、野栄町の海岸近くに円墳が2基あり、内陸の大塚原に1基の古墳があった。そして大塚原の古墳は、海岸近くの2基に対する遥拝所とみなされていた。それに対して、この縁起では海岸沿いの古墳を弘文天皇妃の最初の埋葬地とし、大塚原の古墳を改葬地とみなしているのである。
ところで、この大塚原古墳(写真4、5)からは1891年、風雨で崩壊した部分の修復作業中に、人骨、土器、鏡、珠、刀剣などが出土した。そして石棺の蓋には、「連金子英勝」と線刻されていたといわれる(人骨は埋め戻されたが、出土品は管理不十分のため散逸、蓋は土台の石をつけて英勝の墓石としたが、文字部分は消滅してしまった)。その後、1971年に古墳周辺を整備するにあたって、人骨が再度発掘され、その際に新潟大学医学部による調査が行なわれた。出土人骨は保存状態が悪く、一括して深甕に入れられていたため、個体識別が困難であったが、調査によって、頭蓋骨などから少なくとも三遺骨が埋葬されていたことがわかった。いずれも壮年期(ないし熟年期)の男性骨と推定され、そのうち二遺骨については側頭骨の一部に「薄く紅赤色に染まった部分」があった。その染色について、「調査概要」では「紅赤色に人骨が染まっている例は古墳時代のものに特に多くみられる」とされたが、結論的には「伝承によればこの人骨群は改葬や他墳墓からの追葬などがあったことになっているが、確実なところは男性骨が三個体分はあると思われる。しかし、性別を示さぬ破片が細片となって多数あり、正確な個体数や性別は目下の段階ではわからない」というにとどまった(旭市史編さん委員会『旭市史』)。
この人骨と伝承がどこまでかかわるのかについては、疑問も残る。しかし石棺の蓋に刻み込まれていた「連金子英勝」の文字がもつ意味は大きい。これは「連・金の子・英勝」と読み、壬申の乱の後、死罪となった中臣連金の子供の中臣英勝を指す、というのである。この物証によって、明内豊章所蔵図書における「天武天皇の時、官女が兵乱を避けて従者18人を連れて東国に下った。中臣常盤の孫・英勝が供をして、下総の海辺に上陸した」という記載には、一定程度の信頼性が出てくることになるからである。しかし明治時代になってから、官女を弘文天皇妃とみなし、俵田の弘文天皇伝説と結びつけるのは明らかに飛躍がある。結局、最大限伝説を信頼したうえで考えられるのは次のようなことになるだろう。すなわち、「壬申の乱の首謀者として処刑された右大臣中臣連金の子は『古事記、日本書紀』によれば流刑されたという。それが中臣英勝かどうかはわからないが、英勝と考えたとき、どこへ流刑されたのだろうか。都から遠い東国に流刑された可能性は高い。……[中略]…… 英勝は中臣氏である。英勝の流刑に弘文天皇妃が同行したというより、近江朝廷が敗れて行き場を失った官女が同行したのではなかろうか。しかもその官女は中臣氏一族の女性である可能性が大きい」(旭市市民会館・
図書館・文書館『弘文天皇妃伝説』)。わたしは、この記述に賛同したいと思う。
第4節 房総・弘文天皇伝説の背景
旧田原村や九十九里北部の弘文天皇にかかわる伝説の洗い直しを踏まえて、再び、俵田周辺の伝説に戻ってみたい。このような伝説が生まれた背景は、一体どのようなものなのだろうか。既存の研究を検討してみよう。
まず民俗研究家・平野馨は、次のような事柄を指摘している(『伝承を考える―房総の民俗を起点として』)。
(1) 白山神社の別称・田原神社の「田原」という名称は、京都で大海人皇子伝説のよりどころとなっている宇治田原町とかかわっている(その場合、大友と大海人とは混同されていることになる)。
(2) また、大和国十一郡田原の地は多氏の本拠地であり、多氏とのかかわりも考えられる。
(3) 房総は天長3年(826年)以来、親王所在の太守国でもあった[この年、上総、常陸、上野の三国は親王が太守に補任される親王任国となった]。
(4) 隣接する木更津市には、大友皇子のよき理解者、藤原鎌足の伝説もある[木更津市の高蔵寺の縁起によると、木更津市矢那の猪野長者の娘の子が藤原鎌足だという]。
この平野の指摘はいずれも「なるほど」と思えるもので、房総・弘文天皇伝説の背景を抑えておくうえで、一定の意味をもつものといえるだろう。
この平野説につづいて、歴史家・大和岩雄が『人麻呂伝説』のなかで、高崎正秀『物語文学序説』や細矢藤策『古代英雄文学と鍛冶族』などを踏まえつつ、重要な指摘をしている。大和は柿本人麻呂にかかわる伝説を検討していくなかで、人麻呂の上総配流伝説があることに言及し、それが上総の和邇氏の一族とかかわっていると述べている。例えば、東金市の「小野」という地名は[和邇一族のなかの]小野氏ゆかりのもので、同じく東金市田中の山部赤人の墓と伝承される赤人塚は、人麻呂伝説を伝えた小野氏による赤人伝説の創作に基づくものだと指摘してしている(大和、なお、東金市田中は旧田中村で、福俵村などと合併して大和村となり、さらに現在の東金市となった。また、法光寺には赤人像のほか、赤人ゆかりの伝記、宝玉などが伝わっている)。そのうえで、上総における大友皇子(弘文天皇)や人麻呂にかかわる伝説は、この地域における「近江系の人々の存在」と切り離して考えることはできない、というのである(大和)。
この大和の視点は上総と近江とのかかわり、とりわけ俵田の白山神社の成立事情の背景を指摘するものとして重要である。だが時代的な特定は、はっきりとしない。
結局、これらの研究は房総・弘文天皇伝説の成立の背景について、一定の根拠を示してくれてはいるのだが、いつ頃、どのような事情でこの伝説が成立したのかという点にまで踏み込んで考察しているわけではないのである。
第5節 「田原」地名の由来
そこで、「田原」という地名を手がかりにして、房総・弘文天皇伝説の背景について、さらに検討していくことにしよう。文献(『三代実録』元慶8年(884年)7月15日条)のうえでみると、この白山神社のもともとの祭神は田原神であった。田原というのは明らかに、この地の旧名「田原田」(現在は俵田と書く)につうじている。平野は、田原地名が宇治や大和の田原とつうじているのではないかと指摘しているが、その一方で、この田原というのは大和がいうように、近江の田原にもつうじていることに注目しておくべきだろう。
5.1 大和の田原
まず大和の田原についていうと、そこは確かに多氏の本拠地とも呼べるような土地であった。そしてここにはタタラベ(蹈鞴部)という地名があり、古代には鏡などを鋳造する民部がいて、そのなかに、タタラを姓とする者があった(池田末則『日本地名伝承論』)。現在でも、鏡作神社が鎮座する金属にゆかりの地である。
5.2 近江の田原とのかかわり
近江の田原といえば、瀬田橋のうえで大蛇をまたぎ、それを見込まれて三上山の百足を退治した俵藤太のゆかりの地である。この百足退治の話は百足になぞらえられる先住製鉄民を後続の製鉄民が支配、服従させたエピソードを語るもの、ともいう(真弓『古代の鉄と神々』)。その意味で、俵藤太は先進的な製鉄民を象徴する存在である。その一方、俵藤太は藤原秀郷の別称といわれる。つまり藤原の一族である。この藤原氏は次のような理由から、俵田村を含む小櫃村周辺地域とかかわりをもつと考えられる。小櫃村の一帯は古代の畔蒜郡新田(ニフタ)郷に比定される(高崎繁雄)。この畔蒜郡は「アヒル」姓(阿比留、畔蒜などと表記する)の発祥地であり、アヒル姓は藤原氏と結びつく、というのである(丹羽基二『苗字の由来百科』)。ということは、この地域と藤原氏の始祖・鎌足や俵藤太などとも何らかのつながりが考えられるということである。
そしてまた、近江の地は白山信仰の一つの拠点であり、この地で白山信仰は十一面観音信仰と習合したのだった(十一面観音は白山神の本地仏ということになる)。このような事情は、田原神が白山神社に改名される背景といってよいのだろうか。確かに、大和(1991)がいうように、近江の田原にゆかりの藤原氏系の人々が上総のこの地に白山信仰を携えてやって来て、白山神社を建立し、自身にゆかりの田原神を祭神としたのではないのか、と考える余地は残されてはいるのである。だがその一方で、より根底的な事情がある、と考えてみる余地もある。田原神の白山神への変更はその謎を解く鍵である。
5.3 田原地名の由来について
そもそも「田原」とは何か。大和の田原も近江の田原も、ともに製鉄などの金属伝承とかかわっている。白山神社の田原神も俵田地名にその痕跡を刻むとともに、藤澤衛彦によって弘文天皇の従者の子孫が隠れ住んだといわれ、大裏塚という皇子にゆかりの者の墓所があると解釈された鴨川市田原の地名由来も視野に入れる必要があるはずである。またそれとは別に、東金市「福俵」という地名も「田原」にかかわるものと思われる。これらに共通する「田原」とは、一体何を意味しているのだろうか。
それを解くためには、ある種の飛躍が必要である。その飛躍とは、次のようなものである。わたしはこれまでに、製鉄民俗の検討の一環として「畠山重忠と鉄の伝説」(井上)を書き上げ、「重忠は製鉄民と密接な関係がある」という結論を得ていた。それから半年ほどして、谷有二『「モリ」地名と金属伝承』(谷)が刊行され、その本文および巻末に清水寿『鋳師・鍛冶師の統領と思われる畠山重忠について』(清水)という参考文献が挙げられていた。これはわたしの問題関心にぴったりだ、と思い、こうしてわたしは、谷を介して清水の重忠研究に出会うことになったのである。
清水寿は重忠の生誕地・埼玉県川本町出身の医師で、私立医大の理事などを務めたのち、川本町で清水クリニックを主宰している。本業の傍ら、郷土の英雄畠山重忠にゆかりの土地を訪ね、そこで得た鉱物の成分分析をつうじて、重忠が「鋳師・鍛冶師の統領」であることを立証していたのである。そして「田原」の謎を解く鍵は同書の、川本町に隣接する観音山に関する記述のなかにあった。
この観音山は熊谷と秩父を結ぶ国道140号線バイパスのすぐ脇にあり、裏手には新幹線の高架が通っている。標高わずか82mということもあって気づきにくい山だが、その形は富士山を小型にしたような美しい姿をしている。過日、清水の研究に導かれて現地に行ってみたので、そこで感じたことを少しまとめておきたい。
秩父鉄道の明戸という駅から観音山に向かうと、途中に沙間池跡という碑が建った場所に出る。いまは水田になっているが、もともとは観音山を使って鉄穴流しをしていた際の鉱石の沈殿池だったところだという。ここから国道を渡り、まず観音山直下の龍泉寺に出た。本尊は不動明王だが、別に観音堂があって千手観音が祀られている。だがそれとは対照的に、裏手の斜面は赤土や岩石がむき出しになっていて、鉄穴流しの跡をみせている。そしてその斜面を登れば、観音山の山頂にはあっけなくたどり着くことができる。
実は観音山というのは通称で、この山の本来の名称は狭山なのだという。狭山の「狭」とは砂のことで、つまり砂鉄の採れる山という意味だろう。その狭山に観音様を祀ったから観音山になるわけで、その逆ではない。つまり観音を本尊とする寺院を建立したのちに、その寺院の裏山で鉄穴流しをするはずはない、ということである。わたしはここで、観音信仰というのはこの鉄穴流しに由来する、つまり観音は「鉄穴」なのだ、ということをはっきりと理解した。簡単にいえば、観音山も観音堂もかつて行なわれていた鉄穴流しの遺物のようなものなのである。そしてこの点はもしかすると、全国各地の観音山と呼ばれる山の由来を解くための鍵となるかもしれない。
さて、以上は前置きで、ここからが本題である。この観音堂から西に、観音山の山裾の位置に薬師如来を本尊とする田原薬師の御堂がある。この田原とは何か。それはタタラなのだという。タタラが転じてタワラになった、ということである。「足でふいごを踏んで金物や和鉄をつくったところに建てた御堂」がこの田原薬師なのである。考えてみれば単純な話である。しかしそのことになかなか気がつかない。いわれてみれば、はっとする。
例えば俵藤太の「俵」について、これまでどのようなことがいわれていたのか、というと、百足退治の功績として米俵が与えられたから俵藤太なのだ、というのが中世の軍記物語『太平記』の説明。それに対して、物質民俗学の若尾五雄はさすがに藤太と製鉄とのかかわりについて十分把握してはいるものの、俵と鉄とのかかわりについては何も言及してはいない(『黄金と百足』)。
では、田原をタタラの意味に取ると、上総俵田の田原神はどういうことになるのだろうか。田原神はタタラ神だし、それが白山神になるというのは、白山信仰が製鉄にかかわることを示唆するものだろう。その田原神が鎮座する俵田は「タタラ田」であり、俵田と同系地名の東金市福俵は「吹く・タタラ」(すなわち、タタラを吹く)が語源だと考えられる。
ということで、房総の田原神の謎は畠山重忠の研究をつうじて、タタラ、製鉄、観音信仰へと結びつくことになったのである。
第6節 鉄の痕跡
では、房総の田原地名に金属伝承はどのようにかかわっているのだろうか。
まず、上総俵田を取り上げてみよう。第2節で触れた弘文天皇伝説のなかに、敵方の軍勢に追い詰められた弘文天皇が、自害するにあたって腹を洗った川ゆえに御腹川という名称が起こったとされる川がある。その御腹川は「切腹の時、やさしい天皇の死を悲しんだ里人の想いで、川の水が反対に流れたという。後々までも、時々逆流するとか、人の血が流れると伝えられている」(奥平正子「君津の白山神社に伝わる大友皇子の落去伝説」)。この伝説は、製鉄とのかかわりで意味をもっている。後半でいわれる「人の血が流れる」というのは川の水が時に赤茶けるときがある、ということをいっているのだろう。これはおそらくは鉄穴流しの所産であり、鉄分を含んだ川の水が血の流れにたとえられたものだろう。また「川の水が反対に流れた」というのはまさしく「逆川」の伝説といってよい。ここには、鉄穴流しによって川に大量の土砂が流れ込んで水流を堰止め、川の水が逆流したことが何らかのかたちで反映されているのではないだろうか(この「逆流する川」としての逆川の由来については、井上「『逆川』伝説の研究」で検討を試みている)。
このように考えてみると、田原の地の弘文天皇伝説はやはり製鉄がからんでいるとみて差し支えない。製鉄といえば、白山神社古墳の陪塚には太刀や鉄鏃が埋納されていたわけで、この古墳にゆかりの人々からして製鉄の民であったのだった。そして彼らがつくった古墳の形式は「畿内における大型古墳はしばしばその陪塚に遺体を埋葬しない施設を設け、そこに大量の鉄器を埋納していた」(村上恭通『倭人と鉄の考古学」)という指摘と重なり合うように、製鉄にかかわる豪族の古墳だったのである。
時代はくだって中世になると、鎌倉の刀匠・新藤五国光という人物が愛宕権現の神託によって愛宕山(標高192メートル)の山裾に砂鉄層を発見し、この地で7年間にわたって刀を打ったといわれる(土橋『小櫃川流域のかたりべ』)。また時代ははっきりとしないが、良弁作の不動明王像を本尊とする常光院叶谷寺も、修験系の寺院で、製鉄と縁の深い良弁が付随し、しかも叶谷(金屋谷につうじる)に位置することから考えれば、これまた製鉄ゆかりの寺院と考えることができる。
次に、鴨川市の旧田原村である。この地と製鉄とのかかわりを直接結びつけるものははっきりとしない。また地名から類推された弘文天皇ゆかりの伝説についても、その根拠が弱いためにどちらかというと否定的にみるよりほかにない。しかし一応、次のようにいうことはできる。この田原村は内陸部に位置し、その北西には良弁開山伝承をもつ大山がそびえている。そしてこの大山を中心とする周辺地域こそ、製鉄地帯だったのである(柴田弘武「常総の風土と古代製鉄」)。それゆえ、ここでも田原が製鉄と結びつく可能性は大きい。
最後に、九十九里北部の弘文天皇伝説にかかわる地域も有数の砂鉄採取地帯であった。旭市の足川、中谷里、井戸野では近年まで砂鉄の採取が企業的に行なわれてきたし、また内陸の八街市滝台で発掘された古代の製鉄工房の原料は九十九里海岸から運ばれたものである(毎日新聞千葉支局『九十九里』)。
このように田原地名と弘文天皇伝説は、製鉄によって結びついている。では、その担い手は一体どのような人々だったのだろうか。
第7節 弘文天皇伝説の担い手
そこで再び、俵田の白山神社に戻ることにしよう。
まず、これまでにわかっていることを改めて確認しておくと、次のようになる。
(1) 白山神社の脇の前方後円墳は弘文天皇を葬ったものではなく、馬来田国造にかかわっている。
(2) 9世紀後半までの時期に、前方後円墳の脇に田原神が祀られた。
(3) 文献のうえで、古墳や白山神社(大権現)が弘文天皇伝説と結びつけられたのは『久留里記』が初出であるが、この文書は著者、刊行年ともに不明。ただし、いくつかある写本の記載に基づいていえば、遅くとも17世紀後半(寛文から元禄の頃)の時期には成立していたと考えることができる。
房総・弘文天皇伝説を学問的な研究対象として考えようとする立場に限定するならば、今日、この伝説を「史実」としてみなす研究事例は皆無といってよい。大方は、田原神から白山神社へと改称された時期と『久留里記』の成立までの時期とのあいだに、この伝説が成立したようにみなしているようにも思われる。例えば、先に触れた大和は俵田の白山神社と近江における白山信仰との結びつきを一つの論拠にしている。それゆえに、伝説の担い手は房総に移住して来た「近江系の人々」ということになる。また、房総・弘文天皇伝説の成立を『久留里記』の完成をもって認める星野良作『研究史壬申の乱』の見解に依拠すれば、それは江戸時代につくられた話だということになる。
このような状況のなかで、「古代英雄文学」と金属伝説との関連に注目する研究では、次のような「一般化」が行なわれている。
「村落共同体の中に割り込んだ外来者――金属工匠が村人の前に自分達の奉持する神の力、ひいては自分達自身の力を誇示することによって村人を言向け和平すための方便であったと考えられるのである」、「古代の英雄文学は、この故に金属工匠の間に育まれ、携えられて来たものと考えられる。たたらを構えたその地に土着したのが伝説となり、その伝承の集大成され、文字化されたものが英雄文学として花開き、 実を結んだものと考えられる」(細矢)。
この説は弘文天皇伝説の背景を金属生産とのかかわりで捉えていくうえで、一つの有力な視点を提示している。だが、ここでの基本的な論点を房総・弘文天皇伝説に当てはめることはできるのだろうか。
伝説の担い手が金属にかかわるということはいいとして、彼らは村人とは全く無縁の外来者だったのだろうか。わたしには疑問が残るのである。この点に関しては、次のような指摘に注目すべきである。
「『壬申の乱』において、大海人皇子(天武天皇)は甥の大友皇子を攻めて長等の山前において自縊させたと『日本書紀』には書かれてある。が、伝説によると、自縊したのは実は兄の従兄の赤田常世で、皇子の身替わりとなり、その間、皇子は廷臣、重臣を引具して山間樵路を経て、ともかくも瀬田、宇治、淀の水路を利用され難波から乗船して妃・耳面刀自の父君たる藤原鎌足の出生の地と伝えられる上総国望陀郡矢那の地を指向され、到着後、大友皇子に同情する上総の国守の助力を得て今日の白山神社の附近の遣水という所に城を築いた。当時は、この下を流れる川を小川と言ったので、小川の城と称した」(吉田政芳「白山神社と大友皇子の伝説」)。
ここで重要なことは、大友皇子の伝説は鎌足の出生地とかかわっている、という指摘である。実際のところ、大友皇子にゆかりの人々は上総と何らかのかかわりをもっていたのではないか。それはやはり、すでに平野によって指摘されているように、オオ(多)氏の存在である。白山神社古墳の被葬者とされる馬来田国造も、また藤原鎌足もともにオオ氏の一族であった(柴田弘武『東国の古代』、ちなみに、わたしは、「下総地域における龍神信仰」1997年、で述べたように、このオオ氏を秦氏の一部を構成する氏族と考えている)。その上総のオオ氏をめざして、やはりオオ氏のなかの大友皇子にゆかりの人々がこの地に移住し、皇子の伝説を語り伝えたのではないか。そう考えることによって、金属生産とかかわる「英雄」として大友皇子(弘文天皇)が登場する理由がはじめて説明できるのである(従って、田原神はタタラの神であり、なおかつオオ氏の祖神ということになるはずである)。
このように、古代の豪族・オオ氏の一連の動きが房総・弘文天皇伝説をめぐる第一段階である。この時期は金属生産における古典的な時代であり、おそらく房総・弘文天皇伝説の原型が成立した時代である。
ところが、この地に祀られていた田原神はある時期から白山大権現に改称される。その理由は何か。この点についてはこれまでにも弘文天皇伝説と結びつけられて、「大友皇子が敗者であったがゆえに」といった指摘もあった。つまり、歴史の闇に葬り去られた敗者を神として祀るのが白山信仰だというのである。あるいは近江田原の地の白山信仰がもたらされたものだ、ともいわれる。だがわたしは、この地が古代末期に熊野山領となったことの帰結だと考える。俵田に隣接する旧箕輪村の熊野神社の縁起によると、源頼光が天延2年(974年)に紀州の三熊野をこの地に勧請したという。多分に伝説の域を出ない縁起ではあるが、この地が古代末期より熊野山領であったことは歴史的事実である。そして熊野信仰はのちに白山信仰を取り込む。その結果として、この上総の地においても白山信仰がもたらされ、田原神社は白山大権現となった、と考えるのが自然である。この「大権現」という名称は明治初年まで使われた白山神社の正式名称であり、この名称それ自体が熊野信仰の反映である。もちろん、この時期においても金属は重要な位置を占めており、刀剣などの武器としても、農耕具としても、金属生産は地域の根幹を支えていたはずである。
では、九十九里北部の伝説はどのように位置づけられるのだろうか。正確にいうと、この地域の伝説は弘文天皇と直接かかわっているのではなく、近畿にいたオオ氏(大友皇子とかかわりをもつ中臣英勝とその周辺の人々)の東国への移住の話である。この話自体の信憑性にも問題はあるが、「連金子英勝」と刻まれた石板が出土していたことの意味は大きい。この石板の存在を前提とするならば、この地域の伝説は房総・弘文天皇伝説の原型を形づくった歴史的現実を示しているとも考えられる。そのような観点にたっていえば、壬申の乱以後、弘文天皇にゆかりの人々は上総の地にいるオオ氏のもとへと移住を試み、その結果が俵田周辺の弘文天皇伝説に反映し、さらに、そこから九十九里北部へと移って、「連金子英勝」にまつわる伝説を残した、とも考えることができるのである。
最後に、旭市に伝わる明内豊章所蔵図書にある「天慶3年9月」の意味について、若干触れておくことにしたい。そこには、どのような含みがあったのだろうか。一つ考えられることは、平将門の乱とのかかわりである。将門の乱は京都の朝廷に反旗を翻し、東国の独立を企図するものであった。だがその反乱は朝廷軍の討伐より早く、藤原秀郷によって鎮圧されてしまう。天慶3年2月のことである。「天慶3年9月」というのは将門の乱以後の時期に相当する。ここから考えられることは、敢えて弘文天皇に結びつくような伝説を明記することによって、古来からの東国と朝廷とのかかわりを示し、朝廷への帰属を明確にしようという意図があったのではないか、ということである。
第8節 結語
房総・弘文天皇伝説は房総に数多く残されている伝説のなかでも、とりわけ傑出した伝説の一つである。地域的な広がりがあり、残された伝説は詳しすぎるからである。これは明治時代になってから、弘文天皇伝説が熱心に収集されたことの結果ともみなすことができるはずである。これによって、埋もれてしまう可能性のあった伝説が、きちんと紙に書かれた記録として残されることになったわけである。
地域的な広がりについていうと、これはもともとの伝承地を中心にして、徐々に周辺に広がっていった、ということだろう。その背景には、伝説を担っていた同族の拡大と信仰の広がりという二つの要因が考えられるはずである。
その信仰という点についていうと、ここでも熊野信仰が決定的に重要である。これは伝説の詳しさとも関連するのだが、熊野の宗教者たちは伝説の原型にさまざまな脚色をほどこして、信仰と伝説を広めていったのだろう。
だがそれは、単に「貴種流離譚」という枠のなかの伝説の一つとして取り扱って済むものではない。房総には、その貴人が弘文天皇(大友皇子)である必然性があった。それはもちろん、先住者としてのオオ氏の存在である。
ということで、房総・弘文天皇伝説は古代・オオ氏の時代に源を発し、古代末期から中世にかけての熊野信仰の枠組みのなかでさまざまな脚色を加えられていったのだろう。そして古代、中世にかけての伝説の背景にはいずれも鉄などの金属生産がからんでいる。少なくとも、江戸時代に創作された伝説というわけではないのではなかろうか。  
 
 
飛鳥時代・諸話

 

古墳と廃宮
1 古代日本に輝いた古墳 
弥生時代から飛鳥時代に至る3世紀半ばから7世紀にかけて古代日本では古墳時代と呼ばれる時代が永く続いた。古事記や日本書紀に伝えられるところによると神武天皇から始まった皇室系譜では十代の崇神天皇から十一代垂仁天皇、十二代景行天皇、十三代成務天皇、十四代仲哀天皇、十五代応神天皇、十六代仁徳天皇から十七代履中天皇の時代にかけては巨大な陵が次々と造成されていった。周囲を水濠で囲われた前方後円墳の古墳が前期では佐紀と天理から飛鳥まで延びた山の辺の道に沿った奈良盆地に数多く造成され、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇の陵が次々と造成された。
5世紀初めになると大阪の河内平野には日本武尊に仲哀天皇や応神天皇の陵などが造成された。その後は更に西に移り大阪湾に面した堺に至ると巨大さもピークに達して日本最大の仁徳天皇陵が出現した。本来は遺骸を納めた石室に土を盛っただけの陵であったが天皇の陵だけに千数百年に亘り立ち入り禁止とされてきた。その結果として本来の墳陵の姿も見えないほど古木巨木が原生林のように鬱蒼と密集している。仁徳天皇陵をピークにしてその後は規模も急に小さくなってゆき最後の残滓は盛り土がすべて流れ落ち横穴式石室だけが露出している飛鳥の石舞台と言われる。
2014年(平成26年)5月17日(土)、夏の本格的な暑さが来る前に古墳巡りの旅をしてみた。近鉄平城駅からの始まりだ。この辺り一帯の古墳は佐紀盾列古墳群と総称されている。
神功皇后陵
少しばかり北西に歩いて弧を描いた脇道を登って行くと突然目の前に神功皇后陵が現れた。前方には濁った水を満面と溜めた濠を配置してその奥には巨木が鬱蒼と密集した陵が控えている。別名を狭城盾列池上陵と言う。陵と言っても歴史の教科書に掲載されている説明図のような姿とは著しく異なり、池の中で巨木が鬱蒼と生い茂っている小島と言った感である。しばらく古代の息吹に触れていた。
神功皇后は十四代仲哀天皇の后で十五代応神天皇の母親になる。4世紀半ば、神功皇后も仲哀天皇に同行して熊襲征伐のために九州に入り筑紫(福岡)で滞陣していた。その際、朝鮮半島に向かうようにとの神託を受けたが仲哀天皇はこの神託を信ぜず熊襲との戦いを続けた。仲哀天皇は父親の日本武尊の血をよく引き継ぎ自ら先陣を切って闘う勇猛な武将であったが、その性格が災わいして福岡の朝倉、甘木での戦闘で弓矢に当たり香椎宮で崩御した。永い皇室の歴史の中で戦死した唯一の天皇である。仲哀天皇の遺骸は密かに下関の華山西の岳山頂に葬られた。神功皇后はこの災わいは神託を信じなかった神の祟りであると考えた。滞陣していた兵を和白など周囲の港から船を仕立てて神功皇后自ら玄海灘を渡り朝鮮半島に出兵した。この時、神功皇后は妊娠していたがこれを隠しての出兵であった。朝鮮半島では新羅を討ち高句麗と百済よりの朝貢を受けた。三韓征伐と呼ばれる。朝鮮より筑紫に戻り出産のため急いで宝満神社に向かいあと少しの距離の地で出産した。後の応神天皇である。また、この地は宇美と呼ばれる。またおむつを取り替えた地は志免と呼ばれる。渡海に協力した香椎宮、宗像宮、筥崎宮、宇佐神宮はその後の千数百年に亘り朝廷より厚遇を受けて官幣大社として扱われた。
神功皇后は天皇には就かず皇后のままで一生を終えた。皇太子の母親として後見人となり政治軍事の実権を握り続けた。但し、学術上はその実在に疑問が持たれている。亡くなってから佐紀古墳に埋葬されたと伝承されてきたが近くの成務天皇陵と混同されたり日葉酢媛命陵を誤認されてきたが19世紀に至ってようやく現在の陵を神功皇后陵と認定された。
女性ながらも自ら兵を率いて海外出兵し激動の時代を生きた神功皇后も今ではこの陵で静かな時を過ごしている。
日葉酢媛命陵
別名は狭木之寺間陵または陸山古墳。垂仁天皇の皇后の兄が天皇に叛乱を起こしたため夫である天皇よりも実家の兄に味方して鎮圧軍の前で焼け崩れる屋敷に飛び込み家族もろとも焼け死んだ。その際、丹波の国の姉妹を後継者にするようにとの遺言があり女が宮中に呼び出された。これが後に垂仁天皇の2番目の皇后となる日葉酢媛命である。2人の間に生まれた子が十二代景行天皇になる。
本来、皇后であっても歴史に名を残すような事はないが日葉酢媛命には特殊な出来事があった。これまでは皇室の葬儀に際し多くの従者を人身御供にして殉死を強制していた。垂仁天皇はその親族の葬儀で人身御供を目の当たりにしてその凄惨さに悩んでいた。日葉酢媛命の死去に際して殉死を止める案を野見宿禰に下問したところ生きた人間の代わりに土で作った人物や馬などの土偶で埋納するように献策がなされた。これ以降、凄惨な殉死は禁止となり埴輪で代用されるようになった。その第1号が日葉酢媛命の陵でそのためその名を歴史に残すようになった。野見宿禰は出雲の出身で垂仁天皇の天覧相撲で当麻蹴速を負かした事でも有名だ。
成務天皇陵
別名は石塚山古墳または狭城盾列池後陵。成務天皇は父親の景行天皇の跡を継いで十三代天皇を継承した。伝聞によると60年もの永きに亘り在位して崩御の時は95歳とも107歳とも言われている。武内宿禰を大臣に登用して政務をもたせた。この武内宿禰は景行、成務、仲哀、応神、仁徳の5天皇に仕えて300歳まで生存したとも言い伝えられている。成務天皇は国郡や県邑を定め地方行政機構を整備して地方支配の基盤を固めた。そのため人民は安住して天下太平の世であったと言われる。都を志賀高穴穂宮(大津)に設けたとの記述があるが実在性も含めて遷都についても疑問符が持たれている。その後の天智天皇の近江宮を過去に投影させた創作ともみられる。
腹違いの兄が輝かしい軍績を挙げたあの日本武尊である。父親の景行天皇は兄の日本武尊を外して弟を皇太子にした。日本武尊に次ぎ景行天皇も崩御して弟は天皇を継承した。これが成務天皇である。後年、成務天皇崩御に際して皇子がいなかった事もあり日本武尊の子を後任の天皇に指名した。これが仲哀天皇である。
成務天皇陵と日葉酢媛命陵は東西に接するばかり近くにあってこの両陵の間を縫う狭い遊歩道はよく整備されていて絶好の散策コースとなっている。辺りに漂うひっそりとした静寂さは古代の雰囲気を想い浮かばせる。
平城駅から西大寺駅経由で尼ヶ辻駅に着いた。
垂仁天皇陵
別名は菅原伏見東陵または宝来山古墳。99年の永きを在位して崩御時は日本書紀によると140歳、古事記では153歳とも伝承されている。父親の崇神天皇の全国統一を継続して政治の中央集権化に大いに貢献した。農業を振興して国力の富裕化にも尽くした。また、纏向珠城宮(桜井)に都を定めた。
大変に開明的な天皇であったが逸話も多かった。最初の皇后は叛乱に巻き込まれて焼死すると言う悲劇を体験した。後継の皇后の葬儀に際しては殉死を禁じ代わりに埴輪を用いた。また、皇女を伊勢に派遣し天照大神を祀った。これが後に伊勢神宮となり爾来千数百年過つも今だに皇室とは最も関係の深い神宮である。また、不老長寿の秘薬を探し求めさせて田島間守は中国、インドまで巡り10年過って帰還した時には垂仁天皇は既に崩御していた。田島間守は大いに嘆き悲しみ死去した。垂仁天皇陵の水濠に小さな島を造りここに遺骨が埋められている。田島間守が持ち帰ったのは葉付きの枝と果実付きの枝の橘であったと言われる。この橘はその後改良に改良が重ねられ日本で広く栽培されるようになり滋養の元として重宝される果物になった。これが現在の蜜柑である。
古墳の旅は続く。これから行く先は山の辺の道に沿った古代の陵墓が点在している場所だ。古代王朝の崇神天皇と景行天皇の巨大な陵を訪ねた後、最後に辿り着いたのは箸墓古墳だ。邪馬台国の卑弥呼の墓かもしれず古代へのロマンが偲ばれる。
尼ヶ辻駅より近鉄で天理駅に向かいJR桜井線に乗り換えて柳本駅に着いた。ここからは山の辺の道に沿った大和古墳群を訪ねる旅が始まる。田畑が一面に拡がり人家もまばらなだけにバスもなければタクシーも走っていない。ただひたすら歩くしかない。
黒塚古墳
3世紀末から4世紀前半にかけて造られた小ぶりの古墳(天理)。早い時期に竪穴式石室が崩壊したためにこれが幸いして盗掘から免れて内部はそのまま原型を留めていた。また戦国時代には古墳の上に城郭が築かれたため外形はすっかり変わってしまった。最近になっての学術調査で石室から三角縁神獣鏡が33面、画面帯神獣鏡が1面出土して大騒ぎとなった。三角縁神獣鏡は全国で出土しているが1ケ所でこれほど大量に見つかったのは極めて珍しい。三角縁神獣鏡とは縁の断面が三角形で背中側には神仙思想に基づく東王父や西王母などの神像と霊獣の文様を持つ銅鏡。中国の史書・魏志倭人伝には魏の皇帝が邪馬台国の卑弥呼に銅鏡100枚下賜したとの記述がある。邪馬台国の畿内説に強力な根拠ともなっている。古墳前の展示館には三角縁神獣鏡33面のレプリカと埋め戻された竪穴式石室の実物大の模型が展示されている。
崇神天皇陵
別名は山辺道匂岡上陵または行燈山古墳(天理)。古墳の周囲はすべて水濠で囲まれていて周濠の土手には何一つ遮る物がない遊歩道になっていて古墳を眺望しながら一周出来る。全長は242m、幅158mもあり日本で5番目の巨大な古墳だ。4世紀後半に造営されたと思われる。周囲一帯は田畑が拡がりのんびりと憩えるひと時が楽しめる。
崇神天皇は3世紀から4世紀初めにかけて在位したと伝えられている。都は磯城瑞離宮(桜井)。258年または318年に崩御したとの説もある。初代の神武天皇から九代の開化天皇までは神話の世界とみられているが崇神天皇は学術上でも実在の可能性が見込まれる最初の天皇であるとみられている。天皇に即位後、疫病が蔓延して多くの人民が死に絶えていった。崇神天皇は疫病を鎮めるべくそれまで宮中で祀られていた天照大神を各地に遣わして疫病退散を願い、後を継承した垂仁天皇の代になって天照大神を伊勢に鎮座させてさしもの疫病も遂に終息して安寧を取り戻した。また、北陸道、東海道、山陽道、山陰道の4道に将軍を派遣して諸国を平定した。この軍事力を背景に戸口調査をして人民に課役を科し池を拓いて治水事業を図り農業振興にも努めて財政制度の確立を図った。
崇神天皇と邪馬台国との関わりも諸説あって学界でも意見の分かれるところだ。神武天皇が事実としてみてもしばらくは大和の狭い領域の地方政権であったが崇神天皇の代になって全国規模の中央政権に上り詰めていったと推測される。崇神天皇が大和朝廷の礎を築いた存在とすれば邪馬台国と大和朝廷とは同一であると推察される。邪馬台国が九州にあったとすれば邪馬台国と大和朝廷とはまるっきり別個のものでこの邪馬台国を滅ぼしたのは全国制覇を目指す大和朝廷の景行天皇であるとの推測も出来る。邪馬台国の所在地をめぐり畿内説と九州説が未だ対立しているのは古代最大のロマンだと言えよう。
中国の史書・魏志倭人伝によると、邪馬台国の卑弥呼は倭国大乱の後、擁立された。巫女(シャーマン)で鬼道を使い不思議な魔力で民衆を支配していた。鬼道とは占いの事。当時の占い師は神の声を耳に出来る者と思われていて民衆は恐れおののいていた。239年魏に使者を遣わし皇帝より「親魏倭王」に任じられた。魏の後ろ盾を得て立場を強めた。248年ごろ死んだ。死後、男が擁立されたが国中服さず大争乱となったため卑弥呼の宗女で13歳の壹與を立ててようやく国が治まったと言う。
壹與の生存時期と大和朝廷の成立時期がほぼ重なるため邪馬台国畿内説を取れば大和朝廷は卑弥呼の血をなんらかの関わりで引き継いだ一族かもしれないとの見方も出来る。一方、九州説も根強くある。九州にあった地方豪族が勢力を拡げて大和へ移動したと言う東遷説まである。邪馬台国が大和にあって東遷はあったとすれば邪馬台国は進出してきた天皇を担いだ九州勢力に滅ぼされた事になり、東遷そのものはなかったとするならば邪馬台国は九州で衰退していったのかもしれない。邪馬台国の所在が畿内なのか九州なのかの基本的な疑問が解明されないのには、そもそも邪馬台国の存在の証拠品となっている魏志倭人伝の記載にある。「南に水行10日 陸行1月 邪馬台国に至る」を忠実に行けば太平洋の海の中になる。このためさまざまな解釈がなされて両説が未だ決着に至っていない。
景行天皇陵
別名は山辺道上陵または渋谷向山古墳(天理)。日本で4番目に大きく全長310m、幅170mもある巨大な古墳で周囲はすべて水濠で囲まれているのも同じ。4世紀後半の造営と思われる。
父親は垂仁天皇で母親は日葉酢媛命。都は纏向日代宮(桜井)。古事記によると80名もの子を設けたと言う。巡幸中に近江の志賀高穴穂宮で崩御した。106歳とも137歳とも143歳とも言い伝えられている。「天皇」と表記された最初の天皇で子も某尊を皇子に某媛命も皇女と呼び直された。景行天皇は大和地方の部族が全国の統治者になっていく時代であった。内政を省みる事もなく戦争に明け暮れていた天皇であった。全国制覇の過程で各地で抗争が絶えず、景行天皇自ら熊襲征伐では兵を率いて九州まで赴いた。日向(宮崎)まで進撃して熊襲を平定してこの地に6年もの永きに亘って滞在した。大和に帰還してからは自身で遠征する事はなくなった。遠征した九州各地ではさまざまな逸話が残されている。なかでも、熊本の玉名から山鹿に向かう途中で一面に濃霧が立ち込めて進めずにいた時に村人が松明を掲げて一行を案内した。その時の光景が「山鹿燈籠」の祭りとなって現在でも生き続けている。
珠城山古墳
6世紀に造られた小さな豪族の墓で当初は3基が1列に連なっていたが1基は自然破壊で消滅したが1基は内部の横穴式石室が公開されていて花崗岩を積み重ねた当時の技術の高さが窺われる。
ホケノ山古墳
古墳時代前期の初頭に造られた。ただの盛り土でしかない何の見映えもしないが最古の古墳である。この古墳が注目されるのは造成時期が邪馬台国と重なっていて、後述の箸墓古墳の埋葬者が卑弥呼でなく後を継いだ壹與であったとしたならば、このホケノ山古墳こそが卑弥呼の墓かもしれないとの推測もある。
箸墓古墳
3世紀半ば過ぎに造られた長さ278m、幅130m、高さは30mの前方後円墳で当時としては異常に大きい陵墓である。大池の背景に横たわる古墳は大変美しい。陵墓の築造に当たっては「昼は人が造り、夜は神が造った」と言われてきた。纏向遺跡(桜井)と呼ばれる周囲一帯には役所跡の礎石も発見され古代の中心であった事が推測される。日本書紀によると、夜だけ通ってくる男が正体を三輪山の蛇神だと知られ男は恥をかいた仕返しに女にも恥をかかせると言い残して三輪山に戻って行った。そこで自殺したこの女こそ考霊天皇の皇女で崇神天皇の叔母に当たる倭迹迹日百襲姫命の墓だと言う伝説がある。
最近の研究ではこの墓こそが邪馬台国の卑弥呼の墓であるかもしれないとの学説が勢いを得ている。古墳の造成された時期と卑弥呼が死んだ年代がほぼ同時代と思われる事と中国の史書・魏志倭人伝に卑弥呼の墓の大きさを「径百余歩」との記述がある。径とは当時の中国の尺度で現在で言えば150m程となり箸墓古墳の規模とほぼ一致する。宮内庁が陵墓参考地として立ち入りが許されていないが今後の研究が待たれる。
天理から飛鳥に至る山の辺の道沿いに拡がっていた大和古墳群であったが、古墳はその後は西に移っていった。河内平野の古市古墳群には日本武尊に仲哀天皇や応神天皇などの陵が建造された。時代が下っていくと、更に西に古墳は移っていき、大阪湾に面した堺の百舌鳥古墳群では日本最大の仁徳天皇陵でピークを迎えた。後継の履中天皇陵を最後にして巨大な古墳は急速に小さくなってゆき、百舌鳥三陵と呼ばれるその後の反正天皇陵に至っては規模も極端に縮小した。あれほど規模を競い合った古墳文化も衰退してゆき、さしもの古墳時代も終わった。
2014年(平成26年)5月23日(金)、奈良の畝傍から河内平野を通って臨海部の堺まで達する古墳の旅は皇室の始祖とみられている神武天皇陵から始まった。近鉄橿原神宮前駅をスタートしてまず行くのは橿原神宮だ。玉砂利を敷き詰めた本殿の前を通り過ぎて更に杉並木の中を北に進むとすぐに神武天皇陵が現れた。
神武天皇陵
別名は畝傍山東北陵または四条ミサンザイ古墳。よく整備された中規模の陵である。 神話の世界で登場する話だけにその功績はもとより人物そのものの実在も含めて疑問符が持たれている。しかし、地方地方ではさまざまな伝説が話し継がれているだけにあながち全てを否定出来るものではない。初代天皇の神武天皇は古事記によると神倭伊波礼琵古命、日本書紀では神日本磐余彦尊または始駅天下之天皇と称せられていた。神武天皇の呼称はずーと時代が下がって奈良時代後期の淡海三船が歴代天皇の漢風の諡号を一括して選定した時につけられたものである。天皇に即位した年は紀元前660年とされ在位は紀元前585年まで続いたと言い伝えられている。また、月日は明治になってから新暦に換算されて2月11日とされた。これ以降、この日が日本が建国された日とされ明治6年になると紀元節と定められて昭和23年まで続く。昭和42年になって建国の日として復活された。
日向(宮崎)の高千穂に一族は天孫降臨以来居住していた。この高千穂が鹿児島県との県境にある霧島連山の高千穂なのか大分県との県境に近い高千穂なのかは意見の分かれるところだ。日本書紀によると高千穂宮にいた神武天皇は45歳の時、一族を集めて東への大移動を宣言した。東征である。日向を船で発ちまずは宇佐(大分)に向かい瀬戸内海を通って安芸(広島)、吉備(岡山)から浪速(大阪)で上陸して河内へ進んだ。生駒に至って猛烈な抵抗に遭い戦闘で兄は負傷してこの傷がもとで病死した。そこで、紀伊半島沖を回り熊野に行く海路を選んだ。ところが海上では暴風雨に遭い船が進めず弟が人身御供となり入水すると荒海も治まり熊野に上陸出来た。熊野の険しい山道では苦難を虐げられたが八咫鳥の導きで大和に辿り着けた。大和三山のひとつ・畝傍山の東南の麓の橿原に宮を定めた。畝傍山橿原宮と言う。橿原宮の所在地は永らく不明のままであったが明治21年勅許が下り現在の地に本殿と拝殿が造成されて官幣大社として橿原神宮は創建された。
神武天皇陵を南に向かい巨木が鬱蒼と茂り辺り一面暗く森閑としている道路を縦断して近鉄橿原神宮前駅からバスに乗り御所市に向かった。茅原で降りてからは歩き続けて込み入った民家に囲まれた中に日本武尊白鳥陵があった。
日本武尊陵(御所)
正式には日本武尊琴弾原白鳥陵。石碑と柵があるだけであとは樹木が茂っているだけで中の様子は窺えない。白鳥に姿を変えて大和から飛来してきた日本武尊がこの地に降り立ち、更に西の古市へ飛び立ったと言う言い伝えが残っている。
また歩き続けて宮戸橋からバスに乗り近鉄御所駅に着いた。尺土経由で古市駅に到着した。この辺りになると大阪のベッドタウンで住宅が込み入っている。入り組んだ住宅地を抜けると突然目の前に美しい日本武尊白鳥陵が現れた。
日本武尊陵(古市)
日本武尊白鳥陵は周囲を水濠で囲まれているため住宅地にありながらもまったく何の影響も受けずに千数百年そのままの環境が保持されてきた。水濠のすぐ外側は一部で民家などがあり完全に一周を巡る事は出来ない。跳び抜けた巨大さはないため前方後円墳の型が一望出来る。陵には巨木古木が密集しているのは同じだ。実に美しい陵だ。
日本武尊は十二代景行天皇の子で4世紀中葉に活躍したと思われる。武勇の誉れが高く時代の英雄として今日でも日本各地に伝説が伝えられている。九州の熊襲の叛乱では景行天皇自らが鎮圧に行き平定したが、その後に再び起こった2回目の叛乱では天皇の代わりに日本武尊が派遣された。日本武尊は髪を結び女装して短剣を懐に忍ばせて熊襲の本拠地で酒宴の場に潜り込み隙をみせている熊襲兄弟を刺し殺してさすがの叛乱も終息した。また、出雲の叛乱も平定した。大和に帰還すると、今度は東国で蝦夷の叛乱が起こった。征討するに当たり誰を派遣するかで宮中では一揉めがあったようだ。最初に決まった人物が怖気ずいたので日本武尊が代わりに受けたとの話もある。一方では九州から戻ったばかりの日本武尊に今度は東国への派遣となり危険な仕事ばかりを押し付けられて天皇に不平を漏らしていたとの話もある。日本武尊は幼いころより乱暴で天皇に疎まれていたとの話もある。そのためか兄である日本武尊を外して腹違いの弟が皇太子になるなど宮中ではあまり例をみない扱いもあった。
東征に当たり、最初に向かった先は伊勢神宮である。ここで叔母の倭姫命より神剣・天叢雲剣と火打具を授かり東国に赴いた。名古屋の熱田神宮で美しい娘・宮簀姫と出会い征討が終わったら帰途立ち寄って結婚の約束をする。駿河(静岡)に至った時、この地の国造が謀を巡らし日本武尊がいる野原に周りから火を放ち焼き殺そうとした。これに対して日本武尊は天叢雲剣で周囲の草を薙ぎ逆にこちらから火打具を使って向かい火を放って難を逃れた。この地は草薙とも焼津とも言われる。また、浦賀から房総半島に船で渡るに際して暴風雨が激しく吹き上げ渡海もままならず困っている時に同行していた別の妻である弟橘媛が入水した。さしもの荒れ狂っていた海も静かになり船は房総半島に渡れた。陸路を北に向かい蝦夷と戦いながら名取の皇壇が原や多賀城(宮城)まで達したとの記録もある。 東国征討を終えて帰途、相模湾を見下ろせる足柄山頂で犠牲となった弟橘媛を偲んで「わが妻よ」と呼びかけた。以来、この地より東を「吾妻」と呼ばれるようになったと言う。長野県と岐阜県の県境にある神坂峠で呼びかけたとの説もある。尾張まで戻って、約束を交わしていた宮簀姫と結婚してしばらく滞在した。大和への帰国の途中で伊吹山を通りかかった。この伊吹山は滋賀県で一番高く北陸から冷たい風が吹き抜ける山で冬には山頂はいつも白く雪を冠している。この山には悪神がいるとの話を聞き退治に山に登った。突然、雹が激しく降り出し日本武尊を襲った。急激な体温低下となり衰弱した。これがもとで発病した。風邪をこじらせこの地を離れて伊勢に向かったが能褒野(亀山)まで達したが力を使い果たして病死した。享年30歳であったと言われる。死にあたり大和を懐かしみ詠んだ歌がある。
倭は国のまほろば たたなづく青垣 山籠れる倭し美はし
遺骸を納めた陵から日本武尊が白い大きな鳥に姿を変えて天高く飛び立って行ったと言われる。最初は妻のいる名古屋に向かい、次いで懐かしい大和に向かって飛んで行ったと言われる。東海から近畿にかけて、この白鳥が降り立ったと言われる場所ごとに日本武尊白鳥陵が造られていて能褒野王塚(亀山)、加佐登白鳥塚(鈴鹿)、琴弾原白鳥陵(御所)がある。なかでも最後に降り立ったと言われるこの古市の陵が断突で一番大きい。この地から最後に白鳥は羽を曵くがごとく高く高く天に飛び立って行ったと言い伝えられている。この地名の羽曵野はこの伝説に由来している。東奔西走、動乱の時代を駆け抜けた英雄は静かなさざなみが立つ陵で静かに眠っている。
武勇の誉れが高い日本武尊をご祭神として祀ってあるのが建部大社で大津の本宮のほかに日本全国に多数あって歴代の朝廷や武将たちから武運の神として崇敬を集めている。源頼朝が平氏に捕えられ伊豆に流される途中で源氏再興を祈願して見事に願いが叶ったと言う事で武将たちからは熱烈な信頼を得ている。また、天叢雲剣は草薙の剣と言う別称で今でも熱田神宮に奉納されている。
応神天皇陵
別名は誉田御廟山古墳または恵我藻伏崗陵(羽曳野)。仁徳天皇陵に次いで2番目に大きく、古墳の盛り土や体積では仁徳天皇陵を上回り日本一である。全長425m、横幅300m、高さは36mの巨大な古墳である。父親は仲哀天皇、母親は神功皇后。摂政を努めた神功皇后が亡くなって5世紀初頭に天皇に即位した。実在性が確実に認められる最古の天皇である。都は軽島豊明宮(橿原)で難波(大阪)にも大隅宮を設けた。
朝鮮の百済から大勢の帰化人を受け入れ中国や朝鮮の文化を積極的に導入して日本の文化の礎を築いた。中でも大陸から渡来してきた秦一族は高度な技術を持っていて土木工事や農耕具から蚕業にまで多大な貢献を果たした。また、大和朝廷が内外に飛躍的に拡大した時代でもあった。朝鮮北部の高句麗の好太王は中国・吉林省にある好太王陵の近くにある「広開土王碑」に日本の朝鮮侵攻の事実が記載されている。399年新羅は倭に占拠されたため高句麗に救援を求めた。400年新羅を占拠の倭を高句麗は退散させた。404年帯方郡に侵攻してきた倭を高句麗は大敗させた、との記載だ。488年完成した中国の南朝宋と諸国との外交交渉を記録した「宋書倭国伝」によると、421年倭から宋に朝貢使節が来た。宋は「倭の五王」から朝貢を受けた。五王とは讃珍済興武を言い、讃は応神、仁徳、履中のいずれか、珍は仁徳または反正、済は允恭、興は安康、武は雄略天皇であると思われる。 宇佐神社を起源とする八幡神社は悪霊除け、病気治療、家運繁盛から縁結びや子宝まで幅広い庶民の神様であるがその氏神は応神天皇であると言われている。
仲哀天皇陵
別名は恵我長野西陵または岡ミサンザイ古墳(藤井寺)。父親は武勇の誉れが高く時代の英雄であった日本武尊、母親は垂仁天皇の娘の両道入姫命で妻は神功皇后。ただし、日本武尊の死んだ36年後に生まれた事になり生まれる前からその実在性が疑わしく架空話ともとられている。古事記や日本書紀にも熊襲征伐の事ばかりが記述されている。熊襲の叛乱に対して景行天皇の例にならい仲哀天皇も自ら征討軍を率いて西に下った。下関・長府の忌宮神社に穴門豊浦宮を都と定め、福岡の香椎宮にも筑紫橿日宮を置いたと伝承されている。筑紫(福岡)で熊襲と戦った。合流した神功皇后は巫女と思われていて住吉大神に神託を求めた。「西の方に国あり。金銀を本として目の輝く種種の珍しき宝、さわにその国にあり。吾今その国を帰せ賜はむ」との神託があった。しかし、仲哀天皇は「高き地に登りて西の方を見れば、ただ大海のみあり」としてこの神託を信ぜず非難した。すると「凡そこの天の下は汝のしらすべき国に非ず。汝は一道に向かいたまえ」との神託が下った。現代風に言えば「この世界はお前が支配するところではない。お前は黄泉の国へ一直線に行け」。つまり「すぐに死んでしまえ」との内容であった。仲哀天皇は意に介せず熊襲との戦いを続けて朝倉、甘木で敵の弓矢に当たって負傷して退却した香椎宮で崩御した。大勢いる天皇の中で戦死した唯一の天皇である。遺骸は密かに下関の華山西の岳山頂に運ばれ埋葬された。仲哀天皇の葬儀は悪事を洗い流す大祓と言う簡略なもので、そこからさまざまな謀殺説も浮かんでいる。別説によると、神功皇后は九州の出身で熊襲とも通じていて仲哀天皇の熊襲侵攻に心を痛めていた。熊襲への侵攻を他に逸らすために一芝居をうって神託にかこつけて兵を熊襲から朝鮮に向けさせるよう仕組んだとの説だ。ところが仲哀天皇が応じなかったため、深夜暗がりで神託宣下中に仲哀天皇を謀殺したと言う随分無茶な考えだ。真っ暗闇の中、仲哀天皇は宣下の声を誘う琴を奏でていたが、琴の音が突然止まった。神功皇后は訝しがって灯りを点したところ仲哀天皇は既に息絶えていたとの言い伝えもある。仲哀天皇は父親の日本武尊の血を継いで身体頑強な武将であったが暗闇での不意打ちには手の打ちようがなかったのかもしれない。ともあれ、神功皇后は神託を無視した神の祟りだとして、これをきっかけに熊襲との戦いを止めて神託のお告げ通りに朝鮮半島の新羅へと出兵したのは事実である。
ところで、首都が東京に遷都される明治維新以前には歴代の天皇は畿内のみが行動範囲であったが、何故か下関は2人の天皇と関係が深い。1人目は勿論この仲哀天皇であるがもう1人いる。時代は下って源平合戦の最後の決戦地・壇ノ浦で敗北した平家と共に入水し霊を赤間神宮に祀られている幼い安徳天皇だ。
近鉄藤井寺駅からあべの橋駅へ向かい、天王寺駅からは地下鉄でなかもず駅に着いた。堺は人口100万人を超える政令指定都市で臨海工業地帯を抱える日本有数の産業を抱えていて財源の豊かさのためいずれの古墳も周辺はよく整備されている。これらの古墳は百舌鳥古墳群と呼ばれる。かつては100器以上あったものが自然破壊により現在では46器となっている。
ニサンザイ古墳
東百舌鳥陵墓参考地。百舌鳥古墳群の東南端に唖置している。全国で8番目の大きさで水濠に囲まれている。反正天皇の陵墓ともみられるが、反正天皇は別の場所に正式な陵墓がある。
御廟山古墳
百舌鳥陵墓参考地。全長200m。水濠に囲まれている。応神天皇の陵墓ともみられるが応神天皇は古市古墳群に日本で2番目に大きい巨大な陵がある。
いたすけ古墳
規模は小さく実体が不明な陵墓。特筆されるのは、昭和30年頃になって土砂採集と住宅造成のため古墳の破壊が進められたのに対して市民が保護運動に乗り出して保存が出来た。その際、出土した衝角付冑の埴輪は堺市の文化財保護シンボルマークとなっている。
履中天皇陵
別名は百舌鳥耳原南陵または上石津ミサンザイ古墳または石津ヶ丘古墳または百舌鳥陵山古墳。全長365mもあり全国で3番目の巨大な古墳。墳丘は3段で築成されている。周囲は水濠で囲まれているが当初は2重の水濠があったとみられる。履中天皇の別名は去来穂別天皇。父の仁徳天皇の崩御後、天皇を継承したがその直後、皇位継承を巡り異母弟の住吉仲皇子の叛乱で難波宮で焼き討ちに遭い命からがら逃げ出して大和の石上神社(天理)に辿り着き別の異母弟に住吉仲皇子を誅させた。この弟が履中天皇を継承する事になる反正天皇である。都は磐余稚桜宮(桜井)。初めて諸国に国史(書記官)を置き国内情勢を報告させた。また蔵職を設けて国家財政の安定化に努めた。平群、蘇我、物部、葛城の各氏族を重用し官僚機構を整備した。5世紀前半の即位時は倭軍が朝鮮半島の新羅を占拠中で戦時体制の殺伐たる時代であった。崩御したのは64歳とも67歳とも70歳とも言われる。在位期間は6年と言う短さであったと言われる。中国の宋書に記述の「倭の五王」の讃が履中天皇でないかとみられる。
一方で不可解な問題も提議されている。出土の埴輪を考古学的に考えるとこの履中天皇陵は応神天皇陵や仁徳天皇陵よりも古い時代に造成されたものだと言う。となれば、どの陵がどの天皇の陵なのか疑問が生じてくる。
仁徳天皇陵
別名は百舌鳥耳原中陵または大仙古墳。5世紀中頃の造成で全長840m、幅654m、高さは36mもあって周辺路の一周は2850mもある日本最大の古墳。クフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵とならんで世界三大墳墓と呼ばれている。前方後円墳の陵は3重の水濠に囲まれて周囲にある遊歩道から見えるのは3番目の水濠と2番目の水濠との間の堤である。正面の拝所でのみ2重濠の内側の堰堤までの立ち入りが出来る。陵を見るためには飛行機に乗り上空から俯瞰するしかないほどの巨大さである。
仁徳天皇の父親は応神天皇。都は難波高津宮(大阪)で在位86年を数える。治世の間には堀の開拓と堤工事を行い灌漑用水の引き込みで農業振興に努めた。一方で文物と鉄を求めて海外にも進出を図った。中国の宋書に記述の「倭の五王」の讃が仁徳天皇ではないかともみられている。
特筆される事は、人家から炊事の煙が上がっていない事に気づき、民への租税と労役を免除して自らも倹約に努め宮殿の屋根の茅の葺き替えもしなかった。3年間の免除期間を終えると民にもゆとりが出てきた。
高き屋に登りて見れば煙立つ 民の竈は賑わいにけり
免除は更に3年延ばされ余裕の出た民は感謝して宮殿の造成に励み、更に永久にその徳を称えるために史上かつてない巨大な陵墓を造成した。これがこの仁徳天皇陵である。民は聖帝と呼び崇めた。一方では別の顔も持っている。聖帝と呼ばれながらも仁徳天皇は好色と言う人間臭さも合わせ持ち数多くの女と浮き名を流し、そのため皇后は錯乱したとも言われる。 
2 飛鳥の古墳と廃宮  

 

永く続いた古墳時代は桜井中心に都が置かれていたが、592年に33代推古天皇が飛鳥豊浦宮に都を置いて以降、694年に41代持統天皇が藤原京に遷都するまでが飛鳥時代と呼ばれている。飛鳥の里はのどかな田園が広がりおおらかな時代であったと思われがちであるが、実際は皇位継承を巡り熾烈な権力闘争が暗躍されていた。策略が渦を巻き裏切りが繰り返され、栄華を極めてた統治者も一夜で権力を失い抹殺されると言うおぞましい血塗られた時代であった。勝利した者は権勢を貪り敗北した者は歴史の舞台から引き摺り降ろされていった。
皇位継承を巡り血塗られた古代飛鳥を旅する。2014年(平成26年)7月1日、飛鳥の日帰りの旅は近鉄飛鳥駅から始まった。吉備姫王陵と何の目的で造られたのか不明な4体の猿石の先に欽明天皇陵があった。
欽明天皇陵
別名は檜隈坂合陵。飛鳥では唯一の前方後円墳で后との合葬陵。欽明天皇は29代天皇。在位は539年から571年とみられ63歳で崩御した。都を磯城島金刺宮(桜井)に置いた。継承を巡り不思議な事象が多くあり27代安閑天皇と28代宣化天皇との2人天皇制が並立していた可能性がある。安閑、宣化両天皇はいずれも高齢のため在位わずかだったため自然消滅して欽明天皇単独の制度になったと思われる。この期間に朝鮮・百済より仏像と経典がもたらされて仏教が伝来し飛鳥文化に繋がる礎が築かれた。しかし仏教の伝来で国中に混乱が起こり、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏との政権を支える両派の激しい対立が生じた。内政では中央の氏制度と地方の国造や屯倉制度など諸制度を確立して国内に安定をもたらした。対外的には最大の政治課題が発生。伽耶と呼ばれる朝鮮の釜山に設置されていた任那日本府が新羅に侵攻されて滅亡し朝鮮との交易窓口が失われた。欽明天皇はこの事を大いに憂い崩御にあたり新羅を征討して任那の復興を遺言したとの言い伝えがある。
鬼の雪隠 鬼の俎
田畑が一面に広がる飛鳥路を更に歩むとまたまた奇妙な石造物があった。鬼の雪隠と鬼の俎と呼ばれるが最近の研究では鬼の俎は盛り土を失った石室の底石で下にある鬼の雪隠は蓋石であったが上から転げ落ちてきた石室の一部との見方だ。
天武・持統天皇合葬陵
別名は野口王墓古墳または檜隈大内陵。天武天皇とその后である持統天皇夫妻の合葬陵にしてはあまりにも小さ過ぎる。40代天武天皇は673年から686年まで在位した。即位前は大海人皇子と呼ばれ中大兄皇子(後の天智天皇)は実兄。額田王をめぐっての恋の三角男女関係は有名な話である。673年の壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を倒し天武天皇として即位。都を大津から飛鳥に戻して飛鳥浄御原に置いた。後に藤原京となる新宮造成の着手も始めた。前政権を武力で倒したため権力を天皇一人に集中させて専制君主を貫いた。前政権の中枢部を次々に粛清して恐怖政治を敷いた。一方、政治、行政、宗教、文化など多方面に亘り今日の日本の原型が作られた。神道を整備して国家神道を確立しながら仏教も保護し土着信仰をも尊重した。また、肉食を禁じ明治維新まで永く日本の食生活を規範してきた。天武天皇は外来の文物を大事にしつつ日本古来の伝統も尊重していたが大友皇子は中国の文化に傾倒していた。もしも壬申の乱で大友皇子が勝っていたならば中国文化の模倣が強まり現在の日本文化も随分違ったものとなっていたであろう。また、「日本書紀」や「古事記」の編纂も始まった。「天皇」の称号や「日本」を国号にした最初の天皇だと言われている。天智天皇の系統は皇嗣から外されたが両統は近親婚などで複雑に幾重にも結び合っていた。ちなみに皇后の鵜野讃良皇女(後の持統天皇)は天智天皇の皇女であり天武天皇の皇子たちも天智天皇の皇女たちを娶っていて簡単に割り切れるものではなかった。天武天皇と鵜野讃良皇女に6人の皇子(草壁、大津、高市、忍壁、川島、志貴)とは固い結束の「吉野の盟約」を結んだ。皇子たちの中で鵜野讃良皇女の実子である草壁皇子を皇太子に立てた。
話は遡るが、中大兄皇子は妻の遠智娘の父親である蘇我倉山田石川麻呂を自殺に追い込んだ。遠智娘は思い悩んで病死した。幼くして母親を亡くした娘がいた。これが鵜野讃良皇女で叔父の大海人皇子の妻となった。斉明天皇の治世の新羅遠征で鵜野讃良皇女は夫の大海人皇子と共に九州に同行して筑紫(福岡)の那大津(博多)で出産した。これが草壁皇子である。実姉の大田皇女も姉妹揃って大海人皇子の妻になって大津皇子を那大津で出産した。草壁皇子と大津皇子は腹違いの兄弟である。天武天皇の崩御直後、最も優秀であった大津皇子に謀反の容疑がかけられ自殺に追いやられた。果たして本当に謀反があったのかどうかは分からない。鵜野讃良皇女が実子の草壁皇子に継承させるために政敵を未然に葬ったのかもしれない。ところが草壁皇子は天皇即位前に病死した。草壁皇子の子・軽皇子はまだ7歳と言う幼さ故にやむなく繋ぎとして女ながらも鵜野讃良皇女が継承して41代持統天皇に即位した。在位は690年より697年。高市皇子を太政大臣に任命して天武天皇の皇親政治を停止した。内政外交両面に亘り天武天皇の政策を踏襲した。飛鳥浄御原令を制定して律令の徹底と藤原京造営に邁進した。孫の軽皇子の成長を見計らって在任中に天皇職を譲位した。これが42代文武天皇である。文武天皇は祖々父にあたる聖徳太子を大変尊敬していたと言われる。また、存命中に天皇が譲位するのは皇極天皇に次いで2番目となる。譲位後は初の上皇となり実権を保持していた。死亡したのは703年。天皇として初めて火葬にされ夫の天武天皇と同じ陵に合葬された。遺骨は銀製の壺に納められたが盗掘に遭い壺は盗まれて遺骨は付近に遺棄されていた。
天武天皇の系統は48代称徳天皇まで続くがそこで血が途絶え、天智天皇系列から49代光仁天皇が誕生する。次の50代桓武天皇は京都に遷都して京都は明治維新まで延々と一千年の王城の都が続いた。
甘樫丘
亀石の北側一帯には小高い甘樫丘が位置している。標高148で歩いて上るとなって一苦労であった。この丘全体が国立飛鳥歴史公園甘樫丘地区に指定されていて東北部の隅にある展望台からはのどやかな飛鳥一帯が展望出来る。東北方向には標高110mの雷丘が向き合っている。北方向には豊浦宮と小墾田宮があったが痕跡は何もない。目を遠くに遣ると少しばかり霞んだ大和三山の畝傍山と耳成山と天香久山が遠望出来る。その三山に囲まれた場所が飛鳥から移った藤原京(橿原)があった一帯だ。
采女の袖吹きかえす明日香風 都を遠みいたづらに吹く
作詞した志貴親王は天智天皇の皇子で、都が飛鳥から藤原京に移された後、飛鳥を訪ねて古都をしのんだ歌である。
飛鳥豊浦宮跡
飛鳥に初めて都を置いた33代推古天皇が592年に即位したのは豊浦宮であったと言われている。倉梯柴垣宮(桜井)で崇俊天皇暗殺と言う非常事態下で慌ただしく即位しただけに宮と言っても天皇暗殺の黒幕である蘇我馬子の邸宅の一画を借りて始まった。蘇我一族は大事に扱わなければならないが甥の聖徳太子を皇太子に任命して国政を任せた。しかし、この宮はあくまでも一時的な仮宮であった。603年にはすぐ近くに小墾田宮が造営されて移って行った。豊浦宮の跡には豊浦寺が建立されたと言われるが現在は向原寺が建っている。
飛鳥小墾田宮跡
603年に推古天皇は豊浦の仮宮から移って来た。この地で聖徳太子による冠位十二階制や十七条憲法が作られ、また対外的には中国文化の導入のために遣隋船が派遣された。また、後の淳仁、称徳天皇の治世に飛鳥小治田に仮宮が置かれたと言う記録がある。奈良・平城京の改築工事のためほんの一時的な仮宮であったと思われるが、この小治田宮と小墾田宮とは同一の場所かもしれない。
飛鳥寺
蘇我馬子によって建立された日本最初の本格的な寺院で蘇我一族の氏寺でもある。創建時は法興寺または元興寺と名付けられた。平城京への遷都に併せて寺院は解体されて奈良へ運ばれ元興寺と命名された。本堂に置かれていた飛鳥大仏だけが飛鳥に取り残された。現在は安居院となっている。境内の裏手には乙巳の変で討たれた蘇我入鹿の首塚がある。斉明天皇の代、川原宮から移った岡本宮はこの飛鳥寺にあったと言う説もある。
飛鳥板蓋宮跡
642年、35代皇極天皇が板蓋宮で即位。皇極天皇は蘇我蝦夷に新宮の造営を求めて完成したのが板蓋宮である。これまで宮殿は檜皮葺きや茅葺きであったが板で敷かせたのでこの名称が付けられたと言われる。
この新しい宮殿で思いも掛けぬ大事件が勃発した。645年、三韓朝貢の儀式の場で中大兄皇子が専横目に余る蘇我入鹿を暗殺した宮中クーデターである。乙巳の乱と呼ばれる。これにより、4代に亘り政治を壟断してきた蘇我本宗家は滅亡して天皇親政の本来の姿に戻った。継承した36代考徳天皇は都を大阪に移した後、37代斉明天皇が重祚して再び都は板蓋宮に戻ったが655年出火で川原宮へ移った。
川原宮跡
655年、板蓋宮は火事に遭ったため一時的に移された都だと思われる。翌年の岡本宮に移るまでのほんの一時的な仮宮であった。ここにはかつて川原寺があって壮大な伽藍を誇っていた。その名残りは今でもある。この川原寺に仮住まいしていただけかもしれない。敷地には現在は弘福寺が建っている。
飛鳥浄御原宮跡
673年、壬申の乱で勝利した大海人皇子は40代天武天皇として即位して都を大津から飛鳥に戻して浄御原に置いた。大極殿、大安殿などこれまでなかった大規模な宮殿を造営し、八省百官を整備して天皇親政を擁立した。崩御後は41代持統天皇が後を次いで694年に藤原京に遷都されるまで都が置かれた。 ところが、この浄御原宮は敷石などの痕跡が何一つとして見つからない。一体、浄御原宮は何処に置かれていたのだろうか。火事に遭った板蓋宮が最も規模が大きかった宮殿のためこの板蓋宮の跡地に浄御原宮を造営したので痕跡が見つからないとも言える。壬申の乱で大海人皇子は軍勢を二手に分けて本軍は琵琶湖に沿って進み瀬田橋の戦いで勝利したが、支軍は飛鳥に向かい飛鳥寺に集結していた近江朝廷軍を追い払ったとの言い伝えがある。占拠した飛鳥寺に浄御原宮を置いたとも考えられる。また一方では浄御原宮は一帯に広がっている田圃の下に埋もれたままで今でも眠っているとの見方もある。
橘寺
当初は橘宮と呼ばれ欽明天皇の離宮として造られた。橘の木が敷地一蔓に植えられたのが由来だ。11代垂仁天皇の勅命を受けて田道間守が10年の永きに亘り中国、インドまで不老長寿の秘薬を探し求めて持ち帰った枝の実を当地に蒔いたらやがて芽を出したのが橘で、それからこの地を橘と呼ぶようになった。この橘こそが蜜柑の原種である。聖徳太子はこの地で生まれた。聖徳太子は7つの壮大な寺院を建立して、その中でも橘寺は四天王寺(大阪)、中宮寺(斑鳩)と合わせて聖徳太子の三大寺院と呼ばれる。東西870・、南北650・で四天王寺式の伽藍配置で金堂、講堂、五重塔などがあったが火事や雷落と兵火に遭い今ではその名残りを見る事も出来ない。本堂の横には右は善面、左は悪面で心の持ち方を表したと言われる両面石がある。
岡寺
当初は持統天皇の皇子・草壁皇子の岡本宮として建立されたが、その後は寺院となり岡寺と名づけられた。日本最初の厄除けの霊場とされた。この岡本宮と川原宮出火の後の都としての岡本宮との関係は不明である。
石舞台
「狐が女に化けて舞いを見せた」との伝説がある。最近の研究では崇俊天皇を暗殺した蘇我馬子の遺骸が納められた墓陵だったとの結論である。盛り土がすべて流出して石室のみが残っている。しかし、古墳は多数あるがこの墓陵だけが流出したと言うのも不自然である。想像を逞しくすると、天皇を弑逆すると言う大逆を犯したにも拘わらずその権勢の凄まじさに宮中では皆が恐れて口を噤んでいたが、大化の改新の先駆けとなる乙巳の変で孫の入鹿が討たれて蘇我一族が滅亡するに至り、朝廷から馬子への復讐となり墓陵は徹底的に破壊され盛り土すべてを運び去ったため石室だけが残され、石室に納められていた遺骸も取り出されてどこぞに遺棄されたとの想像も出来なくはない。ともあれ内部に入って行くと花崗岩の巨石を組み上げた石室は見事としか言いようがない。飛鳥最大の観光名所と言えよう。
政治行政体制を刷新 大化の改新
5世紀の15代応神天皇の治世、大陸から大勢の帰化人が渡来してきた。帰化人同志で激しい生き残り競争があり、その中で蘇我一族が勝ち残った。本宗家の蘇我稲目から馬子、蝦夷、入鹿の4代に至ると権勢も著しく高まり政権を掌握して天皇をも無視する横暴ぶりであった。592年、馬子が崇俊天皇を暗殺すると言う前代未聞の事件まで起こした。蝦夷、入鹿の代になっても専横は続き、これに対して中臣鎌足は憤りを感じて皇室の権威を取り戻すよう画策を始め中大兄皇子と談山神社の蹴鞠にかこつけて落ち合い謀議した。蘇我一族からも本宗家に批判的な蘇我倉山田石川麻呂も加わった。ちなみに中大兄皇子の妻・遠智娘と姪娘はいずれも蘇我倉山田石川麻呂の娘である。
645年、皇極天皇の飛鳥板蓋宮でクーデターを実行し蘇我入鹿を殺害し蝦夷を自殺に追い込んだ。この政変を乙巳の変と言う。政変後、皇極天皇は退位して皇弟の軽皇子が継承して36代考徳天皇となり中大兄皇子は皇太子になった。初めて「大化元年」と元号定めた。難波長柄豊碕宮(大阪)に遷都した。翌年には4条からなる「改新の詔」が発布された。1、豪族所有の田地や民はすべて天皇のものとする(公地公民制)。2、地方行政を令制国と郡に整備(国郡制度)。3、戸籍と計帳を作成して公地を公民に貸し与える(班田収受の法)。4、公民に税と労役を課す(祖庸調)から成る。しかし、中大兄皇子と考徳天皇は意見の違いから不和となり中大兄皇子は飛鳥に戻ってしまった。群臣たちもこぞって中大兄皇子を追って飛鳥に戻った。考徳天皇は孤立したまま憤死した。そのため一度退位した皇極天皇は重祚して37代斉明天皇となり大化の改新を推し進めた。対外的には、660年に百済が唐と新羅に滅ぼされた。頼ってきた百済の遺臣の要請で斉明天皇と中大兄皇子は朝鮮出兵のため筑紫(福岡)で布陣していたがこの地で斉明天皇は崩御した。663年、白村江の戦いで敗退し朝鮮と中国とは絶交状態となった。667年、中大兄皇子は近江大津宮に遷都し、翌年38代天智天皇に即位した。乙巳の変以降の一連の政治改革を総称して「大化の改新」と呼ぶ。
古代最大の内乱 壬申の乱
天智天皇は近江大津宮の病床に実弟の大海人皇子を呼び寄せて後事を託した。これに対して大海人皇子は、倭姫皇后が継承して大友皇子が執政となるように薦めた。天智天皇は「大化の改新」で蘇我一族を滅ぼしただけではなく政敵であれば親族への殺戮もしてきた。この異変を警告する者もあり大海人皇子は危険を感じて剃髪し出家して少ない供を伴って吉野に下った。
古代最大の内乱「壬申の乱」を惹き起こす事になる要因はいくつか考えられる。従来の皇位継承は兄弟間が基本であった。当然、天智天皇の後は大海人皇子にまわってくるものと皆が思っていた。それを天智天皇は我が子可愛さか息子の大友皇子を太政大臣に任命し、また唐風の嫡子相続制を導入した。従来の常識にないやりかたである。これまでは皇位継承に絡んでは兄弟相続でかつ母親の血筋も重視されていた。しかし大友皇子の母親・伊賀采女宅子娘は皇室とは縁のない地方豪族の出のため大友皇子は何の有力な後ろ楯もない立場であった。大海人皇子こそが後継の天皇として最も相応しいと誰しもが考えていた。もう一つの要因としては国際問題が上げられる。既に663年に朝鮮の白村江の戦いで日本と百済は唐と新羅の連合軍に敗れていて唐軍の襲来を防ぐべく九州や瀬戸内に防衛施設を築かねばならない。過大な負担が豪族に求められていた。これに加えて667年遷都の近江大津宮の造営で更に負担を強いられた。問題続出であったが天智天皇のカリスマ性で不満は抑えられていた。国中が大きな問題を抱えている中の672年、天智天皇は崩御した。翌673年、大友皇子は即位して39代弘文天皇となった。ただし、大友皇子は皇子のままだったのか正式に天皇に即位して弘文天皇となっていたのかは意見の分かれるところだ。
大海人皇子はしばらく吉野で静かに暮らしていたが頃合いとみて吉野を脱出し伊賀、伊勢(三重)経由で美濃(岐阜)で挙兵した。東海地方の豪族が続々と集結して数万人もの規模に膨れ上がった。まずは不和関を占領封鎖して近江朝廷と東国との連絡を遮断し美濃から関が原に本営を進めた。筑紫(福岡)や吉備(岡山)に出兵要請を断られた近江朝廷内部でも内通や裏切りが続出して動揺が広がり内部分裂が生じて兵の編制が出来ぬまま琵琶湖の瀬田橋を挟んで両軍が戦闘を交わし近江朝廷軍は敗れて弘文天皇は自決して近江朝廷は崩壊した。勝利した大海人皇子は40代天武天皇となり都も飛鳥浄御原に遷都したため大津宮跡には近江神宮が建てられ天智天皇を祀って今日に至っている。弘文天皇が正式に天皇に即位していたとするならば、多数いる天皇の中で自殺した唯一の天皇となる。
飛鳥を中心にした都の変遷
飛鳥豊浦宮    592年、推古天皇が飛鳥で初めて都を置く
飛鳥小墾田宮   603年、推古天皇が豊浦宮から移す
飛鳥板蓋宮    642年、皇極天皇が即位。蘇我蝦夷が造営
(難波長柄豊碕宮 645年、考徳天皇は大阪に都を移す)
飛鳥板蓋宮    655年、皇極天皇は重祚して斉明天皇となり都を元の飛鳥板蓋宮に戻す
飛鳥川原宮    655年、板蓋宮は火事に遭い一時的に都を移す
飛鳥岡本宮    656年、斉明天皇が造営して都を川原宮より移す
(福岡・朝倉広庭宮661年、斉明天皇は朝鮮への出兵で朝倉に仮宮を置くが崩御で2カ月で廃宮)
(近江大津宮667年、天智天皇が都を大津に移す)
飛鳥浄御原宮   673年、壬申の乱で勝利した天武天皇が即位、都を飛鳥に戻し浄御原に置く
(藤原京694年、持統天皇は都を浄御原から橿原に移す)
(奈良・平城京710年、元明天皇は都を藤原京から奈良に移す)
飛鳥小治田宮   淳仁、称徳天皇は平城京改築工事で仮宮を置く
(京都・平安京794年、桓武天皇は都を奈良から京都に移す)  
 
古代大和の皇都

 

千数百年の永い年月が過ぎても古墳は同じ姿を保っている。造成当時は丸裸の盛り土であったが天皇陵だけに人が踏み入れなかったおかげで今では大木巨木に覆われて陵の形も見えない程まで鬱蒼としている。一方、同時代に造営された都の宮殿は木造だけに何ら痕跡が残っていない。飛鳥時代までは地面に穴を掘りその穴に柱を立てる掘立柱工法であったが永い年月の間に木材も腐り穴も土砂で埋まり区別も付かなくなっている。発掘調査で整然と並んだ穴跡が見つかれば大きな建物があったと推測されるがそれ以上の研究は難しい。8世紀中葉になると掘立柱から礎石を敷いてその上に柱を載せる工法へと変わった。しかし、その後の土地開発で邪魔な礎石を他に移せばまったく痕跡も残らない。ここに宮殿の跡を探す困難さがある。古い文献に記述のある地名で探してもなかなか発掘出来ない。それぞれの土地で言い伝えられている伝承話にしてもどこまで真実なのかも分からない。苔むした古い「○○宮跡」の石碑が精一杯であろう。これにしても誰がいつ何を根拠に置いたのかすら分からない。痕跡として確認されているのは皇極天皇の飛鳥板蓋宮の宮殿の敷石と持統天皇の藤原京の大極殿が載っていた土壇くらいのもので古代の宮殿を研究する学者泣かせの題材である。
古代日本の都は圧倒的に大和南部に集中している。その中でも纏向、桜井、磐余、泊瀬、飛鳥には特に集中している。尤もこれらは同じ南大和盆地の平坦な地域にあって現在のような行政区画や鉄道線路に舗装道路もなかった古代人にすると同じ場所と考える事も出来る。都は一時は大阪や大津や京都に跳んでいるし例外的には九州の福岡に置かれた事もあった。今回は便宜的に南大和の範囲内でしかも度重なって遷都を繰り返した天皇の場合は最終の都のみを取り扱った。
神武天皇
あくまでも神話の世界ではあるが初代の天皇。日向(宮崎県)高千穂宮から東征して瀬戸内海から紀伊半島を迂回し熊野で上陸して峻厳な熊野山系を八咫烏の導きで橿原に辿り着き畝傍山の麓に橿原宮を造営したと伝承されている。日本書紀によると在位は紀元前660年から紀元前585年と伝えられる。明治になってから橿原宮があったと思われる場所に橿原神宮が建立された。
壹徳天皇
4代壹徳天皇の在位は紀元前510年から紀元前477年。都の軽曲峡宮は岡寺駅付近と伝承されているが特定されていない。地方豪族の葛城氏とは強いコネを持っていた。2代から9代までの天皇は「欠史八代」と言われてその存在に疑問が持たれている。
孝元天皇
8代孝元天皇の在位は紀元前214年から紀元前158年。都は軽境原宮。岡寺駅すぐ近くの踏切側に「孝元天皇軽境原宮趾」の石碑がある。壹徳天皇の軽曲峡宮もこの近くにあったらしい。埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘に孝元天皇の第1皇子の名が嵌れていて実存の可能性がある。皇后は和歌山県海南市の大白神社社家の出身で日本で一番多い鈴木姓のルーツである。
崇神天皇
10代崇神天皇の在位は紀元前148年から紀元前30年。実在が認められる最初の天皇である。都は磯城瑞籬宮。三輪駅近くの志貴御県坐神社の境内に「磯城瑞籬宮趾」の石碑がある。三輪山を背景にして大和平野を見渡す高台にあって、東は泊瀬道で伊勢から東国へ、南は磐余道で飛鳥から紀伊へ、北は山辺道で奈良、京都から北陸へ、西は大和川の水運を利用して難波へと繋がる交通の十字路にあった。
垂仁天皇
11代垂仁天皇の在位は紀元前29年から70年。都は纏向珠城宮。巻向駅から東に行った場所に「垂仁天皇纏向珠城宮跡」の石碑がある。
景行天皇
12代景行天皇の在位は71年から130年。都は纏向日代宮。晩年になって都を大津の志賀高穴穂宮に移したとの説もある。垂仁天皇の纏向珠城宮をもう少し東に行き野見宿禰と当麻蹴速が闘った相撲神社の手前に「景行天皇纏向日代宮跡」の石碑がある。この辺りともなれば本道よりかなり離れているため昔ながらののどやかな田園風景が広がっている。景行天皇の皇子である時代の英雄・日本武尊が死ぬ真際に大和を懐かしんで詠んだ「倭は国のまほろば たたなずく青垣 山籠れる倭し美はし」の光景が偲ばれる。纏向日代宮跡地から少し北には景行陵の山辺道上陵が遠望出来る。
神功皇后
14代仲哀天皇の皇后。仲哀天皇が九州の熊襲の反乱に筑紫(福岡県)で戦って戦死した。永い皇室の歴史の中で戦死した唯一の天皇である。同行していた神功皇后は神託の宣下に従い兵を引き連れ朝鮮半島に向かった。新羅を負かし高句麗、百済を従えて筑紫で皇子を出産した。神功皇后は大和に戻り都を天香久山の東麓の磐余に置いて皇后のままで応神皇太子の摂政として69年もの永い期間を政務を執った。桜井や纏向に飛鳥はよく耳にする地名だが磐余とは聞き馴れない地名である。今は埋まっていて場所も分からないが磐余池と言う人工池の側だったと言われる。その後も磐余は履中天皇の磐余稚桜宮、清寧天皇の磐余甕栗宮、継体天皇の磐余玉穂宮、用明天皇の磐余池辺雙槻宮が置かれていずれもが近接していたと言われる。
応神天皇
15代応神天皇の在位は270年から310年。応神天皇は皇太子時代を磐余で過ごし神功皇后が薨御した後は軽島豊明宮に遷都した。橿原神宮前駅近くの春日神社の境内に「応神天皇軽島豊明宮趾」の石碑がある。後年には難波大隅宮に移ったとの説もある。 履中天皇 17代履中天皇の在位は400年から405年。人工の磐余池に船を浮かべて船遊びを楽しんでいた時に季節外れの桜の花びらが盃に舞い落ちてきた。これを喜び都を磐余稚桜宮と名付けた。磐余池は埋まっていて何も痕跡はないが池之内や東池尻町と言う地名だけが残っている。この地にある稚桜神社が宮の跡だと言われている。
允恭天皇
19代允恭天皇の在位は412年から453年。反正天皇崩御の後に仁徳天皇の皇子は2人いたが1人は母親が地方豪族の出身と言う理由で皇位から外され病弱ながらもう1人の允恭天皇が皇位に就いた。都は遠飛鳥宮と呼ばれ飛鳥に最初に営まれた宮である。岡寺駅の近くだと言われているが特定出来ていない。
雄略天皇
21代雄略天皇の在位は456年から480年。都は泊瀬朝倉宮。大和朝倉駅の東にある脇本遺跡にある春日神社や黒崎の白山神社に出雲にある十二柱神社などが候補とされているが特定されていない。いずれもが山間の辺鄙な場所にある。白山神社には歌碑が建立されている。万葉集の冒頭を飾る雄略天皇御製の「籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな」と言うロマン溢れる歌が記述されている。その反面、皇室の歴史の中で最も残虐な天皇として知られ大勢の政敵を殺害してきた。そのため暗殺や反乱を恐れて防御し易い山間部に都を置いたとも言われている。父親の20代安康天皇は無実の大草香皇子を殺害してその妻を皇后にした。連れ子の眉輪王は父親殺しの安康天皇を刺殺した。天皇暗殺はこの安康天皇と蘇我馬子に弑逆された崇峻天皇の2人だけである。雄略天皇は眉輪王を殺害して皇位を簒奪したがそもそも雄略天皇の策謀であったとも言われている。埼玉県稲荷山古墳や熊本県江田船山古墳からの出土品に雄略天皇の名である「ワカタケル」の記述がある。「獲加多支齒大王」と銘が嵌ち込まれた金象嵌鉄剣まで出土している。稲荷山古墳の被葬者は若い頃には大和で雄略天皇に仕えていたらしい。中国の史書に記載の倭王武とみられる。
清寧天皇
22代清寧天皇の在位は480年から485年。都は磐余甕栗宮。履中天皇の磐余稚桜宮の西の御厨子神社辺りであったと言われる。母親は雄略天皇に滅ぼされた大和の豪族・葛城氏だったが清寧、顕宗、仁賢と3代続いた天皇はいずれも葛城氏の血が流れていて葛城宗家は滅びても未だ葛城氏の勢力は強かったと思われる。清寧天皇は吉備氏の血が流れている兄を破って即位。吉備氏はこれで勢力を失墜した。
顕宗天皇
23代顕宗天皇の在位は485年から487年。都は近飛鳥八釣宮。飛鳥坐神社の東の樹木に覆われた古い祠の弘計皇子神社が跡地だと言われている。履中天皇皇子の市辺押磐皇子を父親に持つが雄略天皇に殺害されて兄弟揃って都から逃れ播磨(兵庫県)で牛馬の飼育人に身をやつして質素に暮らしていた。子がいなかった清寧天皇は皇位継承に思い悩み父親の雄略天皇が殺害した市辺押磐皇子の嫡子2人を皇位継承者として都に迎え入れた。弟の弘計王が先に顕宗天皇となった。辺境で苦しい暮らしを体験していて庶民への仁政に努めたと言われている。
武烈天皇
25代武烈天皇の在位は498年から507年。都は泊瀬列城宮。雄略天皇の泊瀬朝倉宮をもう少し東に行き長谷寺近くの十二柱神社に「武烈天皇泊瀬列城宮趾」の石碑がある。雄略天皇同様にあえて防御し易い辺鄙な場所に都を置いた。父親の24代仁賢天皇は弟で先に天皇になった顕宗天皇を継承した。兄弟揃って苦労を重ねただけに温厚篤実な人柄であったと言われる。しかし、その仁賢天皇の皇子である武烈天皇は妊婦の腹を裂いたり馬と女を交わらせたりと悪逆非道の限りを尽くした。また法律遵守を徹底的に実行して重罪人の処刑見物を楽しんだと言われる。即位前にも平群鮪と物部氏の娘・影姫を奪い合い三角関係がこじれて平群一族を滅ぼす事件も起こしていた。雄略天皇と武烈天皇は永い皇室の中で極めて異常な残虐な暴君であった。
継体天皇
26代継体天皇の在位は507年から631年。都は磐余玉穂宮。雄略天皇が政敵を片っ端から粛清したため血統が嗣げず遠い血統まで遡っての後継者探しとなった。越前、福井県坂井市で暮らしていた応神天皇から5世に当たる遥か遠い血統の継体天皇に皇位継承の依頼が来た。熟慮の末に受諾した。最初は大阪府枚方市の樟葉宮、次いで筒城宮、弟国宮と永い年月を転々と移り大和の磐余玉穂宮に遷都したのは20年後の事であった。越前で妻との間に生まれた第1子は安閑天皇となる。第2子は宣化天皇となり仁賢天皇の皇女で皇后となった手白香皇女との間に生まれた欽明天皇の子は4人が皇位に就いた。別説もある。大和朝廷の弱体化に伴い、越前の継体天皇は大和朝廷と20年に亘る抗争を続けて遂に屈服させた別の勢力であったと言う。そのため大和の豪族の反抗に遭い大和には20年の永きに亘り入れずにいた。権威を上げるために大和朝廷の折り目正しい手白香皇女を皇后として迎え入れたと言う。大和豪族にとっては継体、安閑、宣化の3天皇はよそものと感じていた。継体、安閑の2天皇については朝鮮の百済本記に「日本の天皇および皇太子、皇子は皆死んでしまった」と不可解な記述がある。よそものの安閑、宣化両天皇と手白香皇女が生んだ大和王朝正統派の欽明天皇との間に何らかの政争があったのかもしれない。それどころか安閑、宣化の両天皇と欽明天皇との間で両勢力がそれぞれ二重朝廷で統治していたとの極論すらある。
安閑天皇
27代安閑天皇の在位は531年から535年。都は匂金橋宮。橿原市の西の端にある金橋神社に「安閑天皇匂金橋宮跡」の石碑がある。継体天皇から譲位されて即位したその日に継体天皇は薨御した。百済本記には継体天皇と共に皇太子も死んだと記されている。欽明天皇との武力抗争があり安閑天皇が在位していたかも疑われる。 宣化天皇 28代宣化天皇の在位は535年から539年。都は檜隈廬入野宮。飛鳥駅の東南、高松塚古墳の近くにあった檜隈寺跡にある於美阿志神社境内に「檜隈廬入野宮跡」の石碑がある。宣化天皇の血統は敏達天皇から現在の皇室まで流れている。しかし、皇室の嫡流としては次の欽明天皇に取って代わられた。
欽明天皇
29代欽明天皇の在位は539年から571年。都は磯城島金刺宮。桜井駅の東北、大和川の左岸の水道局排水処理場の構内に「欽明天皇磯城島金刺宮址」の石碑があったが現在は磯城島公園に移転している。父親の継体天皇は皇室との血も薄い地方出身であったが母親の手白香皇后は仁徳天皇の血統を継承した仁賢天皇を父親に持つ大和朝廷の正統派の超エリート家系であった。母親の家柄は重要な要素でもあった。よそものの継体、安閑、宣化と3代続いた天皇に疎ましく感じていた大和の豪族も皇室嫡流の血が流れている欽明天皇には心より畏敬の念を持って天皇として迎え入れたであろう。
敏達天皇
30代敏達天皇の在位は572年から585年。父親は欽明天皇で母親は宣化天皇の皇女。都は最初は百済大井宮に置いたがその所在地は河内長野、富田林、桜井、広陵町と諸説あり特定出来ていない。その後は訳語田幸侠宮に遷都した。この訳語田幸玉宮も2説あって一つは巻向駅近くの他田坐天照御魂神社と言われる。もう一つは桜井駅西の戒重にある春日神社説とがあり特定出来ていない。最初の皇后とは百済大井宮にいたがこの血統は天智天皇や天武天皇に流れる。2番目の皇后とは訳語田幸玉宮にいた。欽明天皇と蘇我稲目の娘・蘇我堅塩媛との間に出来た額田部皇女を兄弟ながらも皇后にした。後の推古天皇である。
用明天皇
31代用明天皇の在位は585年から587年。都は磐余池辺雙槻宮。桜井の吉備池近くの春日神社説や谷の石寸山口神社説や上之宮説があり特定出来ていない。父親は欽明天皇で母親は蘇我堅塩媛。1年半と言う短い在位だったので特にこれと言った事績はないが聖徳太子の父親として知られる。用明天皇の後継者として物部守屋は欽明天皇と蘇我稲目のもう一人の娘・蘇我小姉君との子の穴穂部皇子を推した。ところが穴穂部皇子は未亡人の敏達前皇后へのレイプ未遂事件を犯した。敏達前皇后と蘇我馬子は復讐して穴穂部皇子を殺害した。物部守屋も殺害した。このような騒動がありながらも後継に選ばれたのは穴穂部皇子と同母兄弟の泊瀬部皇子であった。崇峻天皇である。
崇峻天皇
32代崇峻天皇の在位は587年から592年。都は倉橋柴垣宮。桜井駅から上之宮を通り聖林寺を過ぎて談山神社に向かう山間部にあった。父親は欽明天皇で母親は蘇我小姉君。崇峻天皇は兄弟の穴穂部皇子同様に自意識がかなり強かった。即位した後でも政治の実権は蘇我馬子に握られている事に不満を感じていた。猪が献上された時、崇峻天皇は剣を抜いて猪の目に刺し「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものよ」と言った。これを聞いた蘇我馬子は自分の事だと感じ部下の東漢直駒に命じて崇峻天皇を弑逆した。永い皇室の歴史の中で暗殺された天皇は安康天皇と崇峻天皇の2人だけである。
推古天皇
33代推古天皇の在位は593年から628年。父親は欽明天皇で母親は蘇我堅塩媛。敏達、用明、崇峻の3天皇とは兄弟の関係である。兄弟ながらも敏達天皇の皇后になった。弟の崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺された後に皇位に就いた。都を飛鳥に移し飛鳥時代となる。豊浦宮から始まり小墾田宮で聖徳太子を皇太子にして国政を任せた。大陸の進んだ文物や制度を積極的に取り入れ内政、外交両面に亘り重大な政策を実行した。
舒明天皇
34代舒明天皇の在位は629年から641年。敏達天皇の孫に当たる。都は飛鳥の岡本宮、田中宮、厩坂宮、百済宮と転々と移るが場所は特定出来ていない。厩坂宮だけは橿原神宮前駅のすぐ東にある厩坂寺跡にあったと言われる、これと言った功績もない凡庸な天皇であったが天智天皇と天武天皇の父親と言う事だけが功績である。
皇極天皇
35代皇極天皇の在位は642年から645年。都は飛鳥小墾田宮に1年居た後は飛鳥板蓋宮に移転した。34代舒明天皇の皇后となり天智天皇、天武天皇を生んだ。舒明天皇の崩御で後継の天皇となる。蘇我一族の目に余る専横に中大兄皇子(後の天智天皇)が蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変の舞台がこの板蓋宮である。蘇我蝦夷は自害した。舒明天皇の最初の皇后の長子・古人大兄皇子は蘇我氏の支持を受けて皇位を狙っていたが蘇我氏の滅亡により自害。皇極天皇は弟の孝徳天皇に譲位した。孝徳天皇は難波長柄豊碕宮に遷都した。
斉明天皇
37代斉明天皇の在位は655年から661年。孝徳天皇崩御により皇極上皇が斉明天皇として重祚した。都も再び飛鳥板蓋宮に還都したが火事に遭い川原宮、岡本宮に移っていた。朝鮮出兵のため筑紫の朝倉橘広庭宮で布陣していたがこの地で崩御した。
天武天皇
40代天武天皇の在位は673年から686年。父親は舒明天皇で母親は皇極天皇。兄の天智天皇が大津京で崩御した後を継承した弘文天皇との壬申の乱で勝利し飛鳥浄御原宮に遷都した。浄御原宮は火事で焼失した板蓋宮の場所に造営されたため両宮の区別が出来ない。
持統天皇
41代持統天皇の在位は690年から697年。父親は天智天皇。夫の天武天皇は叔父に当たる。天武天皇崩御後の後継者に実子の草壁皇子を望んで大津皇子に謀反の嫌疑を掛けて自殺に追いやった。ところがその草壁皇子は病死した。草壁皇子の子はまだ幼いためやむなく持統天皇が皇位に就いた。高市皇子は太政大臣として持統天皇を補佐したが母親が地方の豪族出身のため候補者とは成り得なかった。持統天皇の最大の業績は藤原京遷都である。愛着のある狭い飛鳥から藤原京への遷都は思いが残されたであろう。中国風の広い条坊制を整えた本格的な宮殿が造営された。この藤原京も43代元明天皇になって奈良の平城京に遷都される。大極殿も解体されて奈良に搬送され藤原京に残っているのは大極殿が建っていた盛り土の土壇だけである。  
 
古代日本 正説と異説

 

現在の皇室まで連綿と続く天皇家の血統であるがすべての時代に於いても万全の血統存続の体制であったわけではない。無理矢理捩じ曲げられたり順序を入れ替えられたり、極端な場合には血統が断絶する危機にも見舞われた。それらの問題を乗り越えて2000年に亘る血統が守られた。
古代大和王朝の継承と領土拡大
実在が認められる最初の天皇である崇神天皇は紀元前148年から前30年在位していたと言われる。三輪山近くの志貴御県坐神社に磯城瑞籬宮を定めた。大和平野を見渡す高台にあって、東は泊瀬道で伊勢から東国へ、南は磐余道で飛鳥から紀伊へ、北は山辺道で奈良、京都から北陸へ、西は大和川の水運を利用して難波から九州へと繋がる交通の十字路にあった。連綿と続く大和王朝の中でも特に崇神天皇から始まる王朝を三輪王朝と呼ぶ。
垂仁天皇を嗣いだ景行天皇の治世になってから大和に限定されていた統治は西日本一帯に及び現地に深く根づいていた地方勢力とたびたび武力衝突を繰り返した。地方勢力から見ると大和の豪族による侵略であるが大和朝廷から見ると地方の反乱となり征討軍による鎮圧となる。その中でも熊襲の乱は規模も大きく景行天皇自ら征討軍を率いて九州まで出向いて鎮圧した。その後も再び熊襲は反乱を起こして大和朝廷は日本武尊を鎮圧に派遣した。日本武尊は大和への帰路、出雲に向かいこの地で永く栄えていた出雲王朝を屈服させ大和朝廷の従属下に置いた。
仲哀天皇の治世になると熊襲はまたもや反乱を起こしたため仲哀天皇も自ら征討軍を率いて九州まで遠征したが筑紫(福岡県)の戦いで戦死した。神功皇后は戦闘相手を代えて兵を朝鮮半島に向かわせ百済と新羅を討ち高句麗とも対峙した。三韓征伐と呼ばれる。筑紫に戻って皇子を生んだ。後の応神天皇である。神功皇后の大和への帰還には仲哀天皇の別腹の皇子である香坂王と忍熊王が軍を率いて入京を阻止して戦いとなった。畿内各地で戦闘が繰り返され宇治川の戦いで神功皇后は勝利して都を磐余に置いて摂政として応神皇太子に替わり政務をみた。応神皇太子は武内宿禰に案内されて敦賀の気比神社に参拝したと言われる。気比神社は父親の仲哀天皇が笥飯宮を置いたと言われている。気比と言えば気比高校は高校野球で甲子園球場に出場した事もあるのでご存知の方もおられるでしょう。
* 神功皇后薨去の後に即位した応神天皇は都を軽島豊明宮に遷都した。応神天皇から始まりこの血統が途絶える武烈天皇までを河内王朝と呼ぶ。この王朝では天皇の崩御後に皇位継承を巡り何度か皇位継承者の間で反乱もあり緊張した治世が続いた。
更には雄略天皇になってからは著しく緊迫した状況に変わった。雄略天皇は皇族と言えども容赦な政敵を片っ端に殺害してしまい血統の保存に大問題をもたらした。雄略天皇崩御後は皇子の清寧天皇が即位したが清寧天皇は后も子もいなかったので崩御した時点で血統は断絶する。清寧天皇は熟慮の末に出したのが父親の雄略天皇に殺害された市辺押磐皇子の子に跡を嗣がせようとした。市辺押磐皇子の子2人は父親が殺害された後に揃って都から逃亡して播磨(兵庫県)で牛馬の飼育人に身をやつして質素に逃亡生活を送っていた。清寧天皇からの呼び掛けに2人は都に戻った。
清寧天皇崩御後に弟の弘計王が先に顕宗天皇となり顕宗天皇崩御後は兄の億計王が仁賢天皇となった。顕宗天皇は父親の市辺押磐皇子を殺害した雄略天皇の陵を暴こうとしたが兄の億計王に諌められて断念したと言われる。両天皇とも若い時に苦労しただけに民情に明るく仁政に努めたと言われる。
仁賢天皇崩御に跡を嗣いだのが武烈天皇である。あの温厚篤実で慈悲深かった仁賢天皇に何故このような悪逆非道な子が出来たのか理解しかねるような天皇であった。悪行は数多く語り継がれて胎児を見るために妊婦の腹を割いたり女を裸にして馬と交わらせたり人の生爪を剥いで山芋を掘らせたり重罪人の処刑見物を楽しんだりして永い皇室の歴史の中で雄略天皇と武烈天皇はまったく異質な存在であった。
中国の史書「十八史略」には古代中国の夏の傑王や殷の紂王も悪行の限りを尽くして遂には家臣も離れていき王朝そのものも崩壊したとの記述がある。新王朝になれば賢帝が出現すると言う変革思想が根付いている。大和朝廷も人心が離れていき衰退していった。武烈天皇には皇子がいなかった事もあり後継問題は早くから危惧されていたが武烈天皇は解決策を見出せぬまま崩御した。王統は再び断絶の危機に直面した。雄略天皇が片っ端に皇族を殺害した事で濃い血統を持った者は誰もおらずそのため何代にも遡っての血統探しとなった。群臣の大伴金村が中心になって人選して丹波(京都府)に住んでいた仲哀天皇5世孫の倭彦王を迎えに行くが武装した物々しい軍列に倭彦王は拿捕に来たと勘違いをして山に逃亡した。次に応神天皇5世孫で近江(滋賀県)で生まれたが幼少時に父親の彦主人王が死亡したため母親の振媛と実家の越前(福井県)で暮らしていた男大迹王に使者を送った。男大迹王は都の状況を確認して皇位継承を了承して樟葉(枚方)に都を置いた。これから3代続く越前王朝の継体天皇の誕生である。
継体天皇の謎 三代で終わった越前王朝
507年、継体天皇は樟葉宮に都を置いた。これまでの河内王朝とは著しく薄い血統のため様々な憶測を呼んでいる。いかに武烈天皇で血が断絶したからと言って遠い応神天皇5世の孫まで皇位継承の話が来るのか。また、樟葉宮で皇位に就いてから511年筒城宮、518年弟国宮と言った大和から随分離れた場所で都を転々と移動して大和に入るのに20年もの歳月を過ごさねばならなかったのか。大和の磐余玉穂宮に落ち着いたのは526年だと言われている。大和の豪族の反発を恐れて大和に入れなかっただけであろうか。それよりも考えられるのは大和朝廷からの皇位継承の話なども捏造されたもので衰退した大和朝廷に対して武力抗争を繰り返して屈服させるのに20年かかったと見るのが自然であろう。
継体天皇は仁賢天皇の皇女で武烈天皇とは兄弟になる手白香皇女を皇后にした。血統が断絶した大和朝廷では最も正統派の血統の皇女であった。手白香皇女も敗戦国からの略奪品と見るのが自然ではなかろうか。継体天皇は越前に居た時に尾張(愛知県)から目子媛を娶り2人の子がいた。匂大兄皇子、後に継体天皇を嗣いだ安閑天皇と檜隈高田皇子、安閑天皇を嗣いだ宣化天皇である。継体天皇に対して疎ましく思っていた大和の豪族も手白香皇女に対しては畏敬の念を感じていたであろう。継体天皇にとっても手白香皇女は大和の豪族を抑えるにはうってつけの材料であった。その事もあり大和統治は順調に進んだ。
継体天皇の治世で最大の事件は九州の磐井の乱である。大和入りして磐余玉穂宮に遷都した翌年の527年、筑紫国造の磐井による反乱で大和朝廷は6万もの大軍を派遣して翌年には鎮圧した。征討の理由もはっきりせず無礼があったからだと言われているが一体6万もの大軍を派遣するほどの無礼が何だったのかは分からない。
継体天皇はほどなく531年82歳で崩御したと言われている。崩御年についても様々な説がありはっきりしない。百済本記に「天皇、太子、皇子がともに死んだ」との不可解な記述がある。これでは継体天皇崩御の直後、安閑天皇、宣化天皇など越前から来た者がことごとく殺害されたとも見られるが日本の文献にはそのような記述はない。確かに安閑天皇と宣化天皇の事蹟はあまりないが疎ましく思っていた大和の豪族によるクーデターで安閑天皇と宣化天皇は暗殺されたとは思い難い。大伴氏と物部氏が推す安閑天皇と宣化天皇の越前派と蘇我氏が推す手白香皇女が生んだ欽明天皇派との間に軋轢があったとは思われている。両派による二重政権があったとの見方もされているがクーデターなどはなかったであろう。これだけの大事件であれば日本の文献にも当然記述があるはずである。ともあれ年数ははっきりしないが一説では安閑天皇は535年に崩御し跡を継承した宣化天皇も539年崩御すると越前王朝は自然消滅した。
ここで皇位に就いたのが欽明天皇である。継体天皇らにはよそものの疎ましさを感じていた大和の豪族も大和朝廷の正統な血筋の手白香皇女を母親に持つ欽明天皇の誕生には歓喜を持って迎え入れたであろう。越前の王朝は3代で終わり再び河内王朝の復活となった。すべてが旧来に戻された。3天皇の越前王朝とは一体何だったのか。ただ大和朝廷の血統を存続するだけの種馬として利用されただけなのか。とすれば手白香皇女は戦利品として継体天皇への貢ぎ物ではなく継体天皇が種馬として大和朝廷に入り婿した養子みたいな存在となり主従が完全に逆転する。様々な思いが込められる中、継体天皇の遺骸は大和より遠く離れた辺鄙な藍野陵に葬られた。太田茶臼山古墳(茨木)と今城塚古墳(高槻)との2説がある。いずれも継体天皇が最初に都を置いた樟葉や筒城や弟国に近い場所にある。
古代に燦然と輝いた九州王朝の滅亡
中国大陸と朝鮮半島へは九州からは近い。中央政権である大和朝廷は日本列島の中央部の内陸にいるため中国や朝鮮とは距離が離れ過ぎていて動乱するそれらの地の諸問題に鈍感であっても朝鮮半島とは300`しか離れていない九州へは情況が迅速に伝えられて真剣にその対応に追われていた。九州北部にあった倭国では大和朝廷と連係する事もなく独自の外交活動を行い場合によっては軍勢をも送り込み朝鮮半島での軍事行動も実行した。
朝鮮半島の北部には玄菟郡、臨屯郡、楽浪郡、真番郡と言う中国の統治機構が置かれていて中国の支配下にあった。南部が朝鮮人の居住域で南西部の沿岸付近は倭人の居住域であった。倭人は既に紀元前2世紀頃には朝鮮半島に生活基盤を持っていた。この頃に朝鮮半島の倭人と九州の倭人がどのようなかかわりを持っていたのかは分からない。この倭人居住域はその後も維持されていた。継体天皇の治世の509年になってこの地域は百済に譲渡されて日本は朝鮮半島に於ける領土を失っている。
日本が最初に朝鮮半島に深く関心を持ったのは鉄を求めたためだ。それまでは武具であれ農耕具であれ青銅で作られていた。朝鮮半島から鉄がもたらされて頑丈で鋭利な鉄を日本の豪族は競って求めた。鉄で農耕具を作れば食料は増産になってより多くの人を養える。武具を作れば戦闘力の高い武器となり戦闘での勝利は間違いない。鉄は国の存亡が掛かっていた。鉄は朝鮮半島から船に積まれて着いた先は倭国である。ここで鉄を積み換えて大和へ輸送されるが二つのルートがあった。現在とは違って当時の日本は日本海が表玄関であった。倭国から鉄は出雲、若狭、越前と言った主要な港で降ろされて大和に陸送された。もう一つのルートは瀬戸内海を通るルートである。波静かな瀬戸内海を衝き当たった地が難波である。ここからは大和川の水運を利用して大和まで搬送出来た。瀬戸内海に勢力を持っていた吉備氏はこのお陰で急速に大和朝廷でも力を振るうようになった。心配もある。日本海の豪族が同盟を組み倭国もこの同盟に加われば大変な事態となる。倭国が関門海峡を封鎖すれば鉄は手にする事が出来なくなる。これは吉備氏にとっても大和朝廷にとっても死活問題になる。それ故、日本海のリーダー的な立場にある出雲は何としても制圧しておかなければならない。日本武尊が熊襲の反乱を鎮圧の帰路に出雲も襲い出雲王朝を滅亡させなけねばならなかった理由である。一方、熊襲の影響がなかった倭国に対しては柔軟な対応となり気を遣っていたと思われる。
磐井の乱敗北により九州王朝倭国の滅亡
古代後期の大和朝廷は高度で迅速な対応が求められる外交交渉では難波宮にほとんどの権限を与えていた。いちいち大和朝廷の裁可を待たずに難波宮は独自に判断して実行に移していた。大和朝廷から500`離れた北部九州にあった九州王朝と呼ばれる倭国でも軍事行動を含めた同様な活動をしていた。
4世紀中葉には馬韓は百済となり辰韓は新羅となり弁韓は分割されて伽耶と呼ばれていた。509年、継体天皇は朝鮮半島西南部にあった任那と呼ばれていた倭人居住域を百済に割譲した。これ以降、任那と言う名称は残るが統治機能はなく現地の情報収集の連絡事務所が安羅に置かれた。これまで何とか保っていた朝鮮半島の均衡が崩れて伽耶の住民は倭国への不信感と百済への反発が高まった。それを見て新羅は南進を始め伽耶の領土へ進攻して南伽耶を占拠した。百済も北伽耶を支配下に治めた。
新羅に奪われた南加耶を回復して任那に合わせるため大和朝廷は近江毛野臣に6万の兵を与えて朝鮮半島に渡ろうとした。新羅は筑紫国造の磐井に賄賂を送り兵の渡海の妨害工作をしたと言われる。しかし既に磐井は百済からの派兵要請に応えて多数の兵を送っていたので戦闘相手の新羅から賄賂を受けるような立場ではなかった。筑紫入りした近江毛野臣に磐井は「今でこそ使者としてやってきたが昔は友人として肩を擦り肘を触れながら同じ釜の飯を食べた仲ではないか。なぜ使いとなったとたん従わせようとするのか。どうしてそのような事ができよう」と苦言を述べた。
近江毛野臣からの通報で継体天皇は物部荒鹿火に「長門(山口県)より東は私が治める。筑紫より先は汝が統治せよ」と磐井討伐を命じた。527年朝廷軍は筑紫に進攻した。百済救援のため既に多数の兵を朝鮮半島に送り込んでいて防備の薄かった磐井は1年間善戦したが遂に御井郡(福岡県三井郡)で敗れ自害して倭国も滅亡した。磐井一族もことごとく自害した。そもそもこの磐井の乱とは何だったのだろうか。無礼があったと言ってもどのような無礼であったのか。6万もの軍勢を送り込むほどの無礼とは何なのか。また新羅から賄賂を受け取り大和朝廷軍の朝鮮半島への渡海を妨害したと言っても倭国と新羅は敵対関係にある。考えるにこの戦争は九州王朝に対する大和朝廷の覇権確立の戦いであった。日本にはもはや大和朝廷に従属しない国はない。独立した観のある九州王朝を滅亡さすための戦争であった。
磐井滅亡後、大伴金村の子・磐は九州の新しい統治機構の作製に掛かった。一方、磐の弟の狭手彦は百済からの要請で新羅討伐のため朝鮮半島に渡る事になった。松浦での準備の間に乙等比売を娶った。まもなく渡海となり狭手彦が乗った船を乙等比売は船が見えなくなるまで袖を振り続けたと言われる。万葉集にある佐用比売伝説である。また安羅に置かれていた任那日本府も新羅の侵略で頼る倭国も滅亡し救援してくれる国もなく滅亡した。
中国では589年、隋の楊堅が中国を統一して大帝国が誕生した。この頃になって滅亡した磐井の末裔がようやく復権して600年になると遣隋船を送れるようになった。604年になって皇帝楊堅は太子・広に殺害された。楊帝である。607年には2度目の遣隋船を送った。一方、大和朝廷は推古天皇の治世となっていて大和朝廷初めての遣隋船を送った。隋の都・長安の皇帝楊帝の面前で大和朝廷の使者と倭国からの使者が鉢合わせとなりお互いに罵りあったと言われる。皇帝楊帝は対応に困って翌年になって裴世清を倭国と大和朝廷の両国に送り日本の実情を調べさせた。その結果、日本の正統な政権は大和朝廷である。倭国は元から正統性はなかったとの事実が判明した。これ以降、中国の皇帝が倭国と交渉を持つ事はなくなった。隋の領土拡大策は続いて楊帝は高句麗に兵を進めるが部下に暗殺されて隋帝国は崩壊して618年になると唐王朝が誕生した。631年、大和朝廷から遣唐船が送られた。
白村江の戦い 倭国再度消滅
660年、唐と新羅の連合軍の侵略で百済は滅亡した。百済の遺臣は大和朝廷に救援を求めてきた。663年、大和朝廷の水軍に復権なった倭国も水軍のすべてを注ぎ込んで参戦したが白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れた。末裔の倭王・磐井薩野馬は捕虜となり虜囚生活を送った。8年後、許されて帰った時には倭国は何一つとして痕跡も残さず一切が消滅していた。既に大和朝廷から官人が太宰府で任に就いて九州を支配していて名実共に九州王朝の倭国は消滅していた。
百済本記に不可解な記述
「辛亥年(531年)日本の天皇、太子、皇子はともに死んだ」。朝鮮の史書「百済本記」に何とも理解出来ない記述がある。しかし日本の文献にはこのような大事件は何ら記録がない。継体天皇は531年崩御しているが跡は安閑天皇が嗣いで更には宣化天皇に継承されている。欽明天皇と何らかのトラブルがあったにせよ皇族を殺害するほどの事件は起こっていない。
しかし範囲を広げて考えてみると一つだけ符号する事件があった。それは527年の九州に於ける磐井の乱だ。筑紫の国造の磐井に対して大和朝廷は征討軍を派遣して1年間に亘る戦闘が激しく行われた。翌528年には磐井は御井郡で敗退して自害した。遺骸は岩戸山古墳(八女)に葬られたと言われる。磐井一族もことごとく自害した。磐井は大和朝廷から筑紫国造に派遣されたが周囲の国を占拠したり同盟を結んだりして最盛期には南九州を除く九州全域と海を渡り山口県と愛媛県までを支配下においていたと言われる。国名を倭国と呼ばせ自らを天皇と呼ばせていたとも言われている。まさに九州王朝である。ちなみに大和朝廷が天皇と言う称号を使ったのはもっと時代が下って天武天皇からだと言われている。当時の中国王朝も百済も大和朝廷と九州の倭国の関係を理解していなかった。百済に至っては新羅の侵略を受けると何かにつけてすぐに兵を派遣して救援してくれる倭国が日本の正統な政権であると思うのは当然であろう。つまり百済本記の記述は磐井の九州王朝の滅亡を記したのである。
倭の五王の謎
紀元前1世紀には既に北部九州にあった倭国から中国の漢に朝貢があった。57年には後漢から「漢委奴国王」の金印が仮綬された。107年には倭国王帥升が後漢に朝貢した。後漢の滅亡後は魏、呉、蜀の三国時代となり抗争に明け暮れた。230年卑弥呼は魏より「親魏倭王」の金印を仮綬された。280年には晋が中国を統一したがその後、420年には宋が誕生した。史書「宋書」によると413年日本の倭王讃が東晋に朝貢した。以降1世紀に亘り倭の五王の朝貢は断続的に続いたとの記述がある。一度は磐井の乱で滅亡したが復権なった倭国は600年と607年には隋へ朝貢した。
413年 倭王 讃 東晋へ朝貢
421年 倭王 讃 宋へ朝貢 安東将軍に任ず
425年 倭王 讃 宋へ朝貢
430年 倭王 珍 宋へ朝貢
438年 倭王 珍 宋へ朝貢 安東将軍に任ず
443年 倭王 済 宋へ朝貢 安東将軍に任ず
451年 倭王 済 宋へ朝貢 安東大将軍に任ず
460年 倭王 興 宋へ朝貢
462年 倭王 興 宋へ朝貢 安東将軍に任ず
478年 倭王 武 宋へ朝貢 安東大将軍に任ず
479年 倭王 武 斉へ朝貢 鎮東大将軍に任ず
502年 倭王 武 梁へ朝貢 征東大将軍に任ず
これだけ度重なる朝貢にもかかわらず日本の文献にはこのような記述は一切ない。天皇が在位した年代で割り出して讃は応神天皇か仁徳天皇か履中天皇、珍は仁徳天皇か履中天皇か反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇との学説もある。北部九州にあった倭国の史料は磐井の乱でまったくないが、倭の五王は倭国の王であったとしたならば北部九州から東シナ海を渡り中国大陸まで朝貢のため派遣していたと考えても不思議ではない。ちなみに記録によると大和朝廷が中国、当時の隋に初めて使者の小野妹子を遣わしたのは607年の推古天皇からである。すなわち倭の五王は大和朝廷ではなく北部九州の倭国である。
仏教伝来の謎
日本に仏教が伝来したのは552年の欽明天皇の治世とされている。百済の聖明王より仏像、仏具、教典が送られたとされている。仏教の取り扱いを巡り欽明天皇は好意を感じながらも判断出来ず群臣に諮った。蘇我稲目は受け入れを強く進言し物部尾興は古来の日本の神々にそぐわぬため排斥を主張したため欽明天皇は蘇我稲目にとりあえず任せたと言われる。一方では538年の宣化天皇の治世との説もある。絶えず新羅の侵略を受けている百済にとっては最も頼りになるのは北部九州の倭国である。様々な情報や文化や物品を百済から送る相手は遠く離れた大和朝廷ではなく海を渡ったすぐに救援に来てくれる倭国である。当然ながら仏教も最初に伝来したのは倭国に違いない。仏教だけは倭国より先に大和朝廷に送らなければならない理由がない。磐井の乱で負けたためこの事を裏付ける史料がまったくないため証明出来ないのが残念である。

冠位十二階

 

日本で603年に制定され、605年から648年まで行なわれた冠位である。日本で初めての冠位・位階であり、この制定により人材登用の道が開かれた。朝廷に仕える臣下を12の等級に分け、地位を表す冠を授けるものである。七色十三階冠の施行により廃止された。
『日本書紀』によれば、推古天皇11年12月5日(604年1月11日)に初めて制定された冠位である。大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の12階の冠位が制定された。冠は絁(絹織物の一種)でできており、頂を合わせて袋のようにして、その囲りに縁を着けた。元日にはさらに髻華(うず)という髪飾りを着けた。翌12年(605年)1月1日に天皇が冠位を初めて諸臣に授けた。聖徳太子の事績を伝える『上宮聖徳法王帝説』にも同様の記述がある。
『隋書』倭国伝は、官に12等があり大徳・小徳・大仁・小仁・大義・小義・大礼・小礼・大智・小智・大信・小信で定員がないと記す。順序が書紀のものと異なり、仁義礼智信という五常の通常の配列に従っている。唐代に書かれた『翰苑』には、『括地志』に曰くとして倭国の十二等の官の第一に麻卑兜吉寐(まひときみ、まひとぎみ、まへつきみ)があり、華言(中国語)で大徳というとある。二は小徳で、三以下は大義、小義と『隋書』と同じ順で続く。『日本書紀』と順序の違いがあるが、冠位十二階が実際に制定・施行されたことを証明するものである。
この時始められた冠位制度は、天皇が臣下のそれぞれに冠(位冠)を授け、冠の色の違いで身分の高下を表すものである。前代の氏姓制度と異なり、氏ではなく個人に対して与えられ、世襲の対象にならない。豪族の身分秩序を再編成し、官僚制度の中に取り込む基礎を作るもので、政治上の意義が大きかった。大化3年(647年)に七色十三階冠が制定され、翌大化4年(648年)4月1日に廃止されたが、その後もいくたびかの改変を経て律令制の位階制度となり、遺制は現代まで及ぶ。
冠と結びつかないが同様に人に等級を付ける制度は高句麗・新羅・百済の官位があり、日本の冠位に先行している。同じ時代の隋・唐の官品には似ないが、より以前の漢代や南北朝時代の思想制度の影響が指摘される。
制定の目的
制定の目的は『日本書紀』等に記されない。よく説かれるのは二つで、一つは家柄にこだわらず貴族ではなくても有能な人間を確保する人材登用のため、もう一つは外交使節の威儀を整えるためである。
氏姓制度の姓(カバネ)と比べたときの冠位の特徴は、姓が氏に対して授けられるのに対し、冠位は個人に授けられる点である。そして姓は世襲されるが、冠位は一身限りで世襲されない。また、それまでの氏はそれぞれ個別的に天皇への奉仕を誓っており、対等な氏に属する人を組み合わせて上司と部下という職務上の上下関係を結ばせるのは簡単ではなかった。冠位を媒介にすることで、官僚的な上下関係を納得させやすくする。場合によっては生れが賤しい者を生れが良い者の上に立たせることも可能になる。冠位は旧来の氏姓の貴賤を否定するものではないが、旧来の豪族を官人に脱皮させる上で大きな役割を果たした。
外交では、高句麗・新羅・百済に類似した官人序列の制度があり、中国にも官品制度があった。こうした諸国との使者の応接に際しては、その使者の地位の高下や、応接する人の地位が気にかかる。この点官位はわかりやすい指標で、日本に同様のものがあればこれら諸国との交際に便があるだけだなく、日本も劣らず制度が整った国であるという対外的威容を備えることができる。これら諸国との冠位の対応表を作る試みもあるが、やりとりされる使者の位の違いから、互いの対応はとれていなかったと説く人もいる。
外交的動機については、第1回遣隋使を推古天皇8年(600年)に派遣した時の教訓から冠位十二階が編み出されたとする有力な説がある。『日本書紀』にはこの遣使に関する記事がないが、隋の側にはあり、「王は天を兄、日を弟として、日がのぼる前に政務をとる」という倭の制度を聞いて、隋の文帝(楊堅)が道理がないと批判したという。書紀に記載がないのはこの遣使の扱いを屈辱とした書紀の編者がわざと載せなかったためではないかと推測する。そしてこの失敗を繰り返さないため、十二階の冠位を定めてから、その位を帯びた使節として小野妹子を派遣し、礼を学びたいと言わせたのではないかという。
冠位の授受と使用
冠位を授ける者
冠位を与える形式的な授与者は天皇である。誰に冠位を授けるかを決める人事権者は、制定時には厩戸皇子と蘇我馬子の二人であったと考えられている。
学説としては、かつて冠位十二階はもっぱら摂政・皇太子の聖徳太子(厩戸皇子)の業績であるとみなされていたが、後には大臣である蘇我馬子の関与が大きく認められるようになった。学者により厩戸皇子の主導権をどの程度認めるかに違いがあるが、両者の共同とする学者が多い。
馬子とその子で大臣を継いだ蝦夷、さらにその子の入鹿の冠位は伝えられない。蘇我蝦夷が、子の入鹿に私的に紫冠を与えて大臣にしたことが、『日本書紀』に記される。古くはこれが最高の冠位である大徳にあたり、蝦夷・入鹿は大徳を勝手に受け渡したのだと解釈されていた。しかし現在では蘇我の大臣は十二階の冠位を授からなかったと考えられている。馬子・蝦夷・入鹿は冠位を与える側であって、与えられる側ではなかった。厩戸皇子等の皇族も同じ意味で冠位の対象ではなかった。
冠位を授かる者
姓(カバネ)は氏の構成員全員が身に帯びるが、冠位は直接何かの役職について朝廷に仕えるような個人だけが授かった。判明している数十例からみる限り、十二階の冠位の授与範囲は、畿内とその周辺に限られていたらしい。具体的には、中央の有力豪族と畿内周辺の地方豪族が冠位を授かり、他地域の地方豪族はもらわなかった。朝廷の支配力の限界である。
知られる限りの例では、最上位の大徳と小徳は臣・連・君といった高い姓(カバネ)を持つ者で占められている。大仁・小仁では高いカバネと低いカバネがまじっている。大礼以下は地方豪族や下級の伴造が主で、高いカバネのものは少数になる。
国博士の高向玄理が小徳、仏師の鞍作止利が大仁など、あまり高くない氏の出身者が特別な能力功績により高い冠位を授けられた例がいくつか伝わる。冠位十二階は門閥を打破し実績による人材登用の道を開くものだという説が根強くあるが、昇進は小野妹子が第5階の大礼から第1階の大徳に登ったのが顕著な例で、着実な昇進と呼ぶべき例はあまりない。後の律令制下の位階のような生まれの良さが昇進速度に反映して差が開くのではなく、生まれの貴賤で位が決まり、ほとんどの人がそのまま変わらないような、固定的身分制度であった。
着用場面
古墳時代の5世紀から日本の支配層は冠を着用しており、朝鮮半島の影響を強く受けた金属製(多くは金銅)の冠が古墳の副葬品として見つかっている。やはり5世紀にあたる『日本書紀』の安康天皇紀と雄略天皇紀に見える押木珠縵もこの型と言われる。
十二階制の施行期にも位冠でない冠が使われていたと考えられる。十二階の上にあった蘇我大臣家には紫冠があり、皇族も自己の冠を着用していた。下のほうでは、やはり冠位を持たない地方豪族が自分の冠を持っていたようで、伊勢の荒木田氏が代々赤冠を着けていたことが知られる。藤原氏の『家伝』には中臣鎌足(藤原鎌足)が青年のときに良家の子に一斉に錦冠が授けられることになったとあり、これもまた十二階の外の冠と説かれる。しかし蘇我氏の紫冠も含めてこれら史料の信頼性を低く見て、後世の造作とみなする学者も多い。
冠位は服装の規定と連動するもので、推古天皇16年8月の唐の使者裴世清の接待や、天皇と臣下の薬猟のときに(推古天皇19年5月5日、20年5月5日)、冠位によって服装と髪飾りを分けたことが『日本書紀』に記されている。
冠位と位冠
名称と順序
冠位の名称のうち、徳を除いた五つは儒教の徳目である五常である。五常は仁義礼智信と並べるのが普通だが、冠位十二階は仁礼信義智という見慣れない順序をとっている。これは五行思想の木火土金水に対応したものである。五行の並べ方には二種類あり、そのうちの五行相生は、木は火を生み、火は土を生み、という関係を木火土金水の順で表す。これを対応する徳に置き換えると、仁礼信義智が得られる。冠位十二階は五行相生にもとづくのであろう。
徳については五行と別の説明が必要になる。『聖徳太子伝暦』は、徳は仁以下の五つを合わせたものだから最上としたと説き、これが通説である。
五行思想は中国の思想的産物ではあるが、仁礼信義智の順序で五常を並べて地位の表示にし、徳をその上に置くという発想については、日本独自のものとする説と、中国の道教の影響とする説が分かれる。伝統的な通説は、冠位十二階を立案した日本人の創案と考えた。ことさら順序を変え、信と礼を上にしたところに十七条憲法の思想、ひいては聖徳太子の思想の反映を見る人もいる。日本創案説の論拠には、中国の文献に徳仁礼信義智の配列が見えないことがあった。
しかし1981年に道教研究者の福永光司が、5世紀成立の道教経典『太霄琅書』に徳仁礼信義智の配列がそのままあると指摘して道教の影響を説き、学説状況は変わってきた。別に、隋の簫吉著『五行大義』に、仁礼信義智をこの順で説明し、それらが合わさって徳を全うするという趣旨の文があることから、遣隋使が隋から摂取したとする説もある。
官位・官職を12に分ける制度は、高句麗の官位や北周の冕(冠の一種)に先例がある。ただ、基準数として12を用いるのは、十二支、十二宮、十二星など中国に例が多く、特定の制度の継承でない可能性もある。

十二階制の位冠は絁(絹の布の一種)という布でできていて、二つの部分からなる。本体は袋状の帽子で、その周りに数センチか十数センチの縁がつく。飾りを付けることもある。冠には位によって異なる色が定められたが、『日本書紀』等の諸史料は何が何色に対応するのかを示さない。五行五色説をもっとも有力なものとして様々な推定説が唱えられているが、どれも確証はない。
徳を除く冠の色は、一般に五行に対応する五色であろうとされており、それに従えば仁が青、礼が赤、信が黄、義が白、智が黒となる。江戸時代の国学者谷川士清は大小を濃淡で分けたが、それは後の制度からの類推である。
五行説の難点は、義の白にある。白は古代日本で尊貴な色とされており、後の大宝令(701年)では天皇だけの衣色と定められた。大宝令以前の天皇の色については不明だが、七色十三階冠から冠位四十八階までの諸制度で白が冠位の色、つまり皇族臣下の色として使われた形跡がない。大義・小義のような下級の色に使われたか疑問が残る。
五行によらず、後代の制度を遡らせたり、隋の制度をあてはめたりして推定する説もある。七色十三階冠は七色の冠を大小に分けるもので、そのうち紫、青、黒の3色が冠位の名に出ている。この3色をとって徳が赤、仁が青、礼信義智が黒とあてはめたり、それに服色の緋(赤)、紺、緑を加えて徳が紫、仁が赤、礼が青、信が紺、義が黒、智が緑と割り当てる説がある。『隋書』礼儀志から服の色の制度をとり、徳仁礼が紫、信が緋、義が緑、縹が智とする説もある。
最高位については五行からあてはめることはできない。皇極天皇2年(642年)10月に蘇我蝦夷が私に紫冠を子の入鹿に授けて大臣に擬したとあるのが手がかりになる。蝦夷・入鹿は最高の大徳であったと推定し、紫が徳の色であろうとする説が江戸時代から長く行なわれていた。しかし大臣が十二階から超然としていたとなると、大徳・小徳を紫冠とする積極的根拠はなくなる。それでも、隋が五品以上の服を紫としたことからの類推で紫を大徳・小徳にあてる説が古くからあり、紫説は上記非五行の諸説にもみるように根強いものがある。紫以外の色では、後の七色十三階冠からの類推で、錦(模様を織りだした高級な絹の布)とする説がある。
諸外国の制度との関係
冠位という用語を使うのは日本だけだが、中国及び高句麗・新羅・百済に先行して類似の制度があった。同時代的には朝鮮の官位に似ており、こちらを主に参考にしたとする説と、主に中国の古典文献を参考に考案したとする説がある。
日本に冠位が設置施行された時期に中国にあった官品制度は、官を序列する仕組みであって、人を序列する冠位・位階制度とは原理的に異なる。冠位は隋・唐の制度を参照して作られたものではない。日本では冠位を爵とも呼んだが、隋・唐の爵は冠位とも官品とも異なり、秦・漢代の二十等爵が冠位に似た人に与える等級である。冠や服の色で官吏の等級を表す思想はもと中国にはなく、後漢末に魏の武帝(曹操)が布でかぶりものを作り、その色を分けて貴賤を表したのをはじめとする。服色では、南北朝時代に北朝の北魏で定められた五等公服が五色の服色で等級を表したもので、これが品(官品)により色を分ける北周の制度にも引き継がれていたと言われる。等級による分割ではないが、北周では役務別に十二種の冕(冠の一種)を定め、それが五行の色で定められていた。
高句麗・百済・新羅の官位は、人に授けて肩書きとする点、授けるときに生まれの貴賤が重視される点で、日本の冠位と似る。『隋書』高麗伝が伝える高句麗の官は十二等あり、冠の違いで等級を示した。この十二等各々の名称は古い官職名が転用されたものだが、日本の冠位十二階とは位の数も冠の違いを伴う点も似ている。新羅の十七等も冠の違いをともなう位であった。『隋書』百済伝が官に十六品があると記す百済の十六等の官位は、日本の冠位と同質で、帯の色を分け、高位の冠に飾りをつけた。百済の十六階のうち十二階の名称は漢語を用いて整然と設計されており、その点で冠位十二と似ている。布製のかぶりものを冠と呼ぶのは百済の風習である。朝鮮三国の官位の成立時期は明らかでないが、日本の冠位より前であることは確かで、使者の往来がある隣国の制度として知られていた。
だが朝鮮重視説をとる場合でも、その朝鮮の制度は古い中国の制度を範として作ったものであるから、冠位十二階は間接的に中国の制度の影響下にある。中国の古典を範にしたとしても、日本人が朝鮮三国の官位の知識を持たずにいたとは考えられない。いずれに重みがかかるにせよ、一つのモデルの単純な模倣ではなく、各種制度を参考に独自の制度を案出したものであろう。そして、異なる制度になったのは偶然や工夫の結果ではなく、違えることに意味があったと考えられる。古代の東アジアで官吏の服装は、それと一体になる儀式とともに支配秩序を目で見えるかたちで表す機能を持っており、ある国の制度をそのままに採用することは、その国の支配体制への服属を意味していた。新羅や百済に対して歴史的な優越を主張し、小中華として振る舞うことを望んだ当時の日本にとって、朝鮮諸国の単純な模倣は絶対に避けねばならず、中国に対しても独自性を持つ制度を求めた。冠位十二階は、中国的な礼秩序を、朝鮮三国とも中国とも異なる方法で示すための制度であったと言える。  
 
十七条憲法

 

推古天皇12年(ユリウス暦(西暦)604年)に聖徳太子(厩戸皇子)が作ったとされる、17条からなる法文。
十七条憲法は、憲法十七条、十七条の憲法(じゅうしちじょうのいつくしきのり)とも言われる。『日本書紀』、『先代旧事本紀』には、推古天皇12年4月3日(ユリウス暦604年5月6日)の条に「十二年…夏四月丙寅朔 戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」と記述されており、『日本書紀』には全17条が記述されている。この「皇太子」は、「厩豐聰爾皇子」すなわち聖徳太子を指している。
憲法の名を冠してはいるが、政府と国民の関係を規律する近代憲法とは異なり、その内容は、官僚や貴族に対する道徳的な規範が示されており、行政法としての性格が強い。また、神道に、儒教・仏教の思想が習合されており、法家・道教の影響も見られる。
成立
『日本書紀』、『先代旧事本紀』の記述によれば、推古天皇12年(ユリウス暦604年)に成立したとされる(『上宮聖徳法王帝説』によれば、少治田天皇御世乙丑年(推古天皇13年(ユリウス暦605年))。『一心戒文』によれば、推古天皇10年(ユリウス暦602年))。養老4年(ユリウス暦720年)に成立した『日本書紀』に全文が引用されているものが初出であり、これを遡る原本、写本は現存しない。成立時期や作者について議論がある。
創作説
後世の創作とする説が古くからあり、真偽については現在でも問題となっている。
創作説は江戸末期の狩谷棭斎に始まるものとされる。狩谷は、「憲法を聖徳太子の筆なりとおもへるはたがへり、是は日本紀(『日本書紀』)作者の潤色なるべし、日本紀の内、文章作家の全文を載たるものなければ、十七条も面目ならぬを知るべし、もし憲法を太子の面目とせば、神武天皇の詔をも、当時の作とせんか」と、『文教温故批考』巻一に於いて『日本書紀』作者の創作と推定した。
また、津田左右吉は、1930年(昭和5年)の『日本上代史研究』において、十七条憲法に登場する「国司国造」という言葉や書かれている内容は、推古朝当時の国制と合わず、後世、すなわち『日本書紀』編纂頃に作成されたものであろうとした。
この津田説に対し、坂本太郎は、1979年(昭和54年)の『聖徳太子』において、「国司」は推古朝当時に存在したと見てもよく、律令制以前であっても官制的なものはある程度存在したから、『日本書紀』の記述を肯定できるとした。
さらに森博達は、1999年(平成11年)の『日本書紀の謎を解く』において、「十七条憲法の漢文の日本的特徴(和習)から7世紀とは考えられず、『日本書紀』編纂とともに創作されたもの」とした。森は、『日本書紀』推古紀の文章に見られる誤字・誤記が十七条憲法中に共通して見られる(例えば「少事是輕」は「小事是輕」が正しい表記だが、小の字を少に誤る癖が推古紀に共通してある)と述べ、『日本書紀』編纂時に少なくとも文章の潤色は為されたものと考え、聖徳太子の書いた原本・十七条憲法は存在したかもしれないが、それは立証できないので、原状では後世の作とするよりないと推定している。
「聖徳太子五憲法」
江戸時代の偽書『先代旧事本紀大成経』巻70「憲法本紀」では、推古天皇12年5月に「通蒙憲法」、6月に「政家憲法」、10月に「儒士憲法」「神職憲法」「釈氏憲法」各17条(計85条)が発布されたとされており、これらを合わせて「五憲法」という。このうちの「通蒙憲法」が、『日本書紀』所載の「憲法十七条」とほぼ同文である。ただし、『日本書紀』では第2条となっている「篤敬三宝。三宝者仏法僧也。」(篤く三宝を敬え、三宝とは仏・法・僧なり)が最後の第17条に移され、内容も「篤敬三法、其三法者、儒、仏、神也」(篤く三法を敬え、その三法とは儒・仏・神なり)となっている。『先代旧事本紀大成経』が偽書として発禁処分になったのち、天明年間(1781年 - 1788年)に『五憲法』のみが独立して板行され流布した。
内容
原文
日本書紀に記載されているもの。
夏四月丙寅朔戊辰、皇太子親肇作憲法十七條。
一曰、以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。
二曰、篤敬三寶。々々者佛法僧也。則四生之終歸、萬國之禁宗。何世何人、非貴是法。人鮮尤惡。能ヘ従之。其不歸三寶、何以直枉。
三曰、承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆臣載。四時順行、萬気得通。地欲天覆、則至懐耳。是以、君言臣承。上行下靡。故承詔必愼。不謹自敗。
四曰、群卿百寮、以禮爲本。其治民之本、要在禮乎、上不禮、而下非齊。下無禮、以必有罪。是以、群臣禮有、位次不亂。百姓有禮、國家自治。
五曰、絶饗棄欲、明辨訴訟。其百姓之訟、一百千事。一日尚爾、況乎累歳。頃治訟者、得利爲常、見賄廳讞。便有財之訟、如右投水。乏者之訴、似水投石。是以貧民、則不知所由。臣道亦於焉闕。
六曰、懲惡勸善、古之良典。是以无匿人善、見-悪必匡。其諂詐者、則爲覆二國家之利器、爲絶人民之鋒劔。亦佞媚者、對上則好説下過、逢下則誹謗上失。其如此人、皆无忠於君、无仁於民。是大亂之本也。
七曰、人各有任。掌宜-不濫。其賢哲任官、頌音則起。姧者有官、禍亂則繁。世少生知。剋念作聖。事無大少、得人必治。時無急緩。遇賢自寛。因此國家永久、社禝勿危。故古聖王、爲官以求人、爲人不求官。
八曰、群卿百寮、早朝晏退。公事靡盬。終日難盡。是以、遲朝不逮于急。早退必事不盡。
九曰、信是義本。毎事有信。其善悪成敗、要在于信。群臣共信、何事不成。群臣无信、萬事悉敗。
十曰、絶忿棄瞋、不怒人違。人皆有心。々各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理、詎能可定。相共賢愚、如鐶无端。是以、彼人雖瞋、還恐我失。、我獨雖得、從衆同擧。
十一曰、明察功過、賞罰必當。日者賞不在功。罰不在罪。執事群卿、宜明賞罰。
十二曰、國司國造、勿収斂百姓。國非二君。民無兩主。率土兆民、以王爲主。所任官司、皆是王臣。何敢與公、賦斂百姓。
十三曰、諸任官者、同知職掌。或病或使、有闕於事。然得知之日、和如曾識。其以非與聞。勿防公務。
十四曰、群臣百寮、無有嫉妬。我既嫉人、々亦嫉我。嫉妬之患、不知其極。所以、智勝於己則不悦。才優於己則嫉妬。是以、五百之乃今遇賢。千載以難待一聖。其不得賢聖。何以治國。
十五曰、背私向公、是臣之道矣。凡人有私必有恨。有憾必非同、非同則以私妨公。憾起則違制害法。故初章云、上下和諧、其亦是情歟。
十六曰、使民以時、古之良典。故冬月有間、以可使民。從春至秋、農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。
十七曰、夫事不可獨斷。必與衆宜論。少事是輕。不可必衆。唯逮論大事、若疑有失。故與衆相辮、辭則得理。
    『日本書紀』第二十二巻 豊御食炊屋姫天皇 推古天皇十二年
書き下し文
夏四月丙寅朔の戊辰の日に、皇太子、親ら肇めて憲法十七條(いつくしきのりとをあまりななをち)を作る。
一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の禁宗なり。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか枉(ま)がるを直さん。
三に曰く、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。天覆い、地載せて、四の時順り行き、万気通ずるを得るなり。地天を覆わんと欲せば、則ち壊るることを致さんのみ。こころもって君言えば臣承(うけたま)わり、上行けば下靡(なび)く。故に詔を承りては必ず慎め。謹まずんばおのずから敗れん。
四に曰く、群臣百寮(まえつきみたちつかさつかさ)、礼を以て本とせよ。其れ民を治むるが本、必ず礼にあり。上礼なきときは、下斉(ととのは)ず。下礼無きときは、必ず罪有り。ここをもって群臣礼あれば位次乱れず、百姓礼あれば、国家自(おのず)から治まる。
五に曰く、饗を絶ち欲することを棄て、明に訴訟を弁(さだ)めよ。(略)
六に曰く、悪しきを懲らし善(ほまれ)を勧むるは、古の良き典(のり)なり。(略)
七に曰く、人各(おのおの)任(よさ)有り。(略)
八に曰く、群卿百寮、早朝晏(おそく)退でよ。(略)
九に曰く、信は是義の本なり。(略)
十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。(略)
十一に曰く、功と過(あやまち)を明らかに察(み)て、賞罰を必ず当てよ。(略)
十二に曰く、国司(くにのみこともち)・国造(くにのみやつこ)、百姓(おおみたから)に収斂することなかれ。国に二君非(な)く、民に両主無し、率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)を以て主と為す。(略)
十三に曰く、諸の官に任せる者は、同じく職掌を知れ。(略)
十四に曰く、群臣百寮、嫉み妬むこと有ること無かれ。(略)
十五に曰く、私を背きて公に向くは、是臣が道なり。(略)
十六に曰く、民を使うに時を以てするは、古の良き典なり。(略)
十七に曰く、夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。(略)  
 
遣隋使 1

 

推古朝の時代、倭国(俀國)が技術や制度を学ぶために隋に派遣した朝貢使のことをいう。600年(推古8年)〜618年(推古26年)の18年間に5回以上派遣されている。なお、日本という名称が使用されたのは遣唐使からである。大阪の住吉大社近くの住吉津から出発し、住吉の細江(現・細江川)から大阪湾に出、難波津を経て瀬戸内海を筑紫(九州)那大津へ向かい、そこから玄界灘に出る。倭の五王による南朝への奉献以来約1世紀を経て再開された遣隋使の目的は、東アジアの中心国・先進国である隋の文化の摂取が主であるが、朝鮮半島での影響力維持の意図もあった。この外交方針は次の遣唐使の派遣にも引き継がれた。
第一回(600年)
この派遣第一回 開皇20年(600年)は、『日本書紀』に記載はない。『隋書』「東夷傳俀國傳」は高祖文帝の問いに遣使が答えた様子を載せている。
「開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」
開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号(な)づく。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴く。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて云う、我が弟に委(ゆだ)ぬと。高祖曰く、此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。
俀王(通説では俀は倭の誤りとする)姓の阿毎はアメ、多利思北孤(通説では北は比の誤りで、多利思比孤とする)はタラシヒコ、つまりアメタラシヒコで、天より垂下した彦(天に出自をもつ尊い男)の意とされる。阿輩雞弥はオホキミで、大王とされる。『新唐書』では、用明天皇が多利思比孤であるとしている。
開皇20年は、推古天皇8年にあたる。この時派遣された使者に対し、高祖は所司を通じて俀國の風俗を尋ねさせた。使者は俀王を「姓阿毎 字多利思北孤」号を「阿輩雞彌」と云うと述べている。ところが、高祖からみると、俀國の政治のあり方が納得できず、道理に反したものに思えたのであろう。そこで改めるよう訓令したというのである。
第二回(607年)
第二回は、『日本書紀』に記載されており、607年(推古15年)に小野妹子が大唐国に国書を持って派遣されたと記されている。
倭王から隋皇帝煬帝に宛てた国書が、『隋書』「東夷傳俀國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書き出されていた。これを見た煬帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたという。
なお、煬帝が立腹したのは俀王が「天子」を名乗ったことに対してであり、「日出處」「日沒處」との記述に対してではない。「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語である。ただし、仏教用語を用いたことで中華的冊封体制からの離脱を表明する表現であったとも考えられている。
小野妹子(中国名:蘇因高)は、その後返書を持たされて返されている。煬帝の家臣である裴世清を連れて帰国した妹子は、返書を百済に盗まれて無くしてしまったと言明している。百済は日本と同じく南朝への朝貢国であったため、その日本が北朝の隋と国交を結ぶ事を妨害する動機は存在する。しかしこれについて、煬帝からの返書は倭国を臣下扱いする物だったのでこれを見せて怒りを買う事を恐れた妹子が、返書を破棄してしまったのではないかとも推測されている。
裴世清が持ってきたとされる書が『日本書紀』にある。
「皇帝、倭皇に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」
「皇帝問倭皇 使人長吏大禮 蘇因高等至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇 思弘コ化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 境內安樂 風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢 丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也 故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別」『日本書紀』
これは倭皇となっており、倭王として臣下扱いする物ではない。『日本書紀』によるこれに対する返書の書き出しも「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」(「東天皇敬白西皇帝」『日本書紀』)とある。これをもって天皇号の始まりとする説もある。また、「倭皇」を日本側の改竄とする見解もある。
なお、裴世清が持参した返書は「国書」であり、小野妹子が持たされた返書は「訓令書」ではないかと考えられる。 小野妹子が「返書を掠取される」という大失態を犯したにもかかわらず、一時は流刑に処されるも直後に恩赦されて大徳(冠位十二階の最上位)に昇進し再度遣隋使に任命された事、また返書を掠取した百済に対して日本が何ら行動を起こしていないという史実に鑑みれば、 聖徳太子、推古天皇など倭国中枢と合意した上で、「掠取されたことにした」という事も推測される。
年表
600年(推古8年)第1回遣隋使派遣。この頃まだ俀國は、外交儀礼に疎く、国書も持たず遣使した。(『隋書』俀國伝)
607年(推古15年) - 608年(推古16年)第2回遣隋使、小野妹子らを遣わす。「日出処の天子……」の国書を持参した。小野妹子、裴世清らとともに住吉津に着き、帰国する。(『日本書紀』、『隋書』俀國伝)
608年(推古16年) - ? (『隋書』煬帝紀)
608年(推古16年) - 609年(推古17年)第3回遣隋使、小野妹子・吉士雄成など隋に遣わされる。この時、学生として倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)・奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)高向漢人玄理(たかむくのあやひとくろまろ)・新漢人大圀(いまきのあやひとだいこく)・学問僧として僧旻・南淵請安ら8人、隋へ留学する。隋使裴世清帰国する。(『日本書紀』、『隋書』俀國伝)
610年(推古18年) - ? 第4回遣隋使を派遣する。(『隋書』煬帝紀)
614年(推古22年) - 615年(推古23年)第5回遣隋使、犬上御田鍬・矢田部造らを隋に遣わす。百済使、犬上御田鍬に従って来る。(『日本書紀』)
618年(推古26年)隋滅ぶ。
遣使の『日本書紀』と『隋書』の主な違い
第一回遣隋使は『日本書紀』に記載がなく『隋書』にあるのみ。
ここでは中国史に合わせて遣隋使として紹介しているが、『日本書紀』では「隋」ではなく「大唐國」に遣使を派遣したとある。
『日本書紀』では裴世清、『隋書』では編纂された時期が唐太宗の時期であったので、太宗の諱・世民を避諱して裴清となっている。
小野妹子の返書紛失事件は『日本書紀』にはあるが『隋書』にはない(『隋書』には小野妹子の名前自体が出てこない)。
『隋書』では竹斯國と秦王國の国名が出てくるが大和の国に当たる国名は記されていない。しかし、「都於邪靡堆」とあることから、都は「邪靡堆」にあったと推察される。  
 
遣隋使と遣唐使 2

 

先進文化を求め、命がけの渡海
遣隋使・遣唐使とは当時の中国へ派遣された遣使団。先進国である隋や唐から先進技術や文化を求めて、西暦600年頃から894年のおよそ300年間、計23回に渡り日本から遣わされた。航海の技術がまだまだ未熟だった時代に、沢山の若者が海を渡っていった。
聖徳太子の遣隋使
聖徳太子が摂政だったころ、朝廷は4回の遣隋使を派遣した。倭の五王が中国に遣使を派遣した5世紀依頼、途絶えていた中国との交渉を再開したのだ。これは、大国であった隋の文化や技術を学ぶ目的もあったが、何よりも、当時の朝廷が国内での影響力を維持するために、隋との国交が必要だった。当時の日本国内において、まだまだ朝廷の権威は弱かった為、大国の後ろ盾を求めていたのだ。
実は一回返された?
一番最初、西暦600年に派遣された第一回遣隋使だが、これは日本側の記録である「日本書紀」にはそれらしい記述が見当たらない。しかし、中国の歴史書「隋書」には、隋の文帝が使者に日本の風俗を訪ねた様子が記されている。この時、日本側は隋に、政治の行い方が分かっていない未開の国と判断されたのか、返されてしまったようだ。朝廷にとっては屈辱的な出来事であった為、日本書紀には記されていないのだろう。
制度を整え、再び派遣
607年の第2回遣隋使では、小野妹子が「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」という有名な書き出しの国書を持って派遣された。この文章に、日本と隋を同格と表現しているとし、隋の煬帝は激怒した。しかし、当時の隋は、隣国の高句麗との戦争を控えていた。よって、日本を敵にすることは出来なかったとも思われ、日本と隋との国交が無事に結ばれる事になった。
隋が滅び、次は遣唐使を派遣
その後、608年と614年にも遣隋使が派遣されたが、618年に隋が、当時の新興勢力だった唐に滅ぼされてしまう。これを受け、日本は外交先を唐へと変更、遣唐使を派遣する事で、朝廷は大陸の進んだ技術や知識などを取り入れていった。630年に犬上御田鋤(いぬかみのみたすき)を大使する第一回から、約260年の間に19回(諸説あり)に渡って任命している。
遣唐使の廃止
遣唐使は唐の文化や制度、そして仏教の日本へので伝播に大いに貢献した。しかし、894年、菅原道真が唐の衰退や渡海の危険性を理由に再考を求め、以後廃止された。
未熟な航海技術と、風任せの船
遣唐使が乗っていた船は、通常4隻編成で航行され、1隻に100人程が乗船していた。浅瀬に適した平底船が使用された為、横波に弱く、航海技術も未熟なため、基本的に風任せという、命がけの渡海であった。4隻編成にしたのは、何も400人連れていきたかったからではない。1隻でも目的地に付ければ良いという、大ばくちだったという。
藤原清河
8世紀の遣唐使のうち、全ての船が往復出来たのは、たった一回だけだった。鑑真一行が日本を目指し乗り合わせた752年の帰路は、帰国便4隻のうち大使・藤原清河(ふじわらのきよかわ)の船が南方マレー半島まで暴風に流され、漂着後に乗船者約200人の大半が殺害されたという。
遣隋使と遣唐使の年表
遣隋使
600年  初の遣隋使が派遣される。しかし、派遣された人物は不明で、文帝との面会は叶わなかった。
607年  第二回遣隋使として、小野妹子が派遣され、日本と隋による国交が樹立。
608年  第三回遣隋使として小野妹子、高向玄理、僧旻、南淵請安ら8人、隋へ留学する。
614年  第四回遣隋使として犬上御田鋤が派遣される。しかし、618年に隋が滅んでしまい、これが最後の遣隋使となった。
遣唐使
630年  第一回遣唐使として、犬上御田鋤が派遣される。
653年  第二回遣唐使が派遣される。
654年  第三回遣唐使として、高向玄理が派遣される。
659年  第四回遣唐使が派遣される。
665年  第五回遣唐使が派遣される。
669年  第六回遣唐使が派遣される。
702年  第七回遣唐使として、粟田真人、山上憶良が派遣される。
717年  第八回遣唐使として、阿倍仲麻呂、吉備真備、玄ム、井真成が派遣される。
733年  第九回遣唐使が派遣される。
746年  第十回遣唐使、派遣中止。
752年  第十一回遣唐使として、藤原清河、吉備真備が派遣される。
759年  第十二回遣唐使が派遣される。
761年  第十三回遣唐使が派遣される。
762年  第十四回遣唐使が派遣される。
777年  第十五回遣唐使、派遣中止。
779年  第十六回遣唐使、派遣中止。
804年  第十七回遣唐使として、最澄、空海、橘逸勢、霊仙が派遣される。
838年  第十八回遣唐使として、円仁が派遣される。
894年  第十九回遣唐使、菅原道真の建議により、派遣中止。 
 
遣隋使 3

 

遣隋使と遣唐使、頭の中でゴチャゴチャになっている人、いませんか? 聖徳太子が中国に派遣したとされる遣隋使のことを詳しく紹介しましょう。どのようなことをしに隋まで渡ったのでしょうか。
遣隋使派遣の意味
遣隋使は18年に渡り、5回以上派遣されていますが、歴史上遣隋使といえば、第2回目に小野妹子が遣隋使として派遣されたときのことをいいます。日本書紀には第1回目の記述がなく、第2回目からの記述になっています。遣隋使はわかりやすく言い換えると国家使節です。
聖徳太子が隋に送った手紙
聖徳太子が小野妹子に持たせた手紙はあまりにも有名です。【日出処天子至書日没処天子無恙云々】(日出処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなきや…)これを読んだ隋の煬帝は激しく怒ります。どうしてそんなに怒ったのでしょうか。まず、日本を「日の出る国」、中国を「日が落ちる国」と表現したことに怒りました。もう一つは中国皇帝にしか使用されていなかった「天子」という言葉を「日出処の天子」と使ったことです。聖徳太子にしてみれば、それまでの日本は新羅や百済と外交があったけれども、これからは隋と対等の関係でいきましょうという意味が込められていたようです。
隋からの返書
ここで一つの謎が浮かび上がります。聖徳太子が持たせて煬帝を怒らせてしまった手紙ですが、これには返事が書かれました。しかし、この返書を日本に戻ってくる間に小野妹子が紛失してしまったとも、百済で奪い取られたとも言われています。結局は日本に返書は持ち帰ることができなかったということです。ここで疑問が一つ沸いてきます。隋から日本に帰る途中で奪われたとされていますが、このときの船には中国から数十人もの人が派遣されていて、彼らを守る役目の人間も相当数いたはずなのです。そんな中で手紙を奪い取られるものなのでしょうか。一説によると、怒った煬帝の手紙はとても持ち帰って見せられる内容ではなく、小野妹子が隠れて処分してしまったとも言われています。このため小野妹子は流刑になったとも言われていますし、推古が、中国から派遣されている人達の前で、妹子を罰することはできないとして、何一つ責任を取らせなかったとも言われています。実際、その翌年に、第3回遣隋使として妹子は隋に派遣されています。
小野妹子
小野妹子の年齢はよくわかっていません。推測で西暦570〜590年頃の生まれではないかとされていますが、20年もの開きがあります。滋賀県の豪族の出だとされています。第2回、第3回の遣隋使として大陸へ渡っており、当時の船旅を考えると、無事に帰国できたのもとても珍しく、強運の持ち主ともいえるでしょう。実際、遣隋使の役目を果たした後、流刑になりながらも異例の大出世を果たしています。小野妹子は、聖徳太子の守り本尊でもある如意輪観音を守るよう命ぜられ、坊を建設して朝と夕、毎日仏前に花を供えました。これが池坊流のはじまりとされ、華道の祖とも言われています。実際、小野妹子が眠る塚を管理しているのは池坊なのです。小野小町も同族の人物です。
日本書紀と隋書での記述の違い
遣隋使についての最初の違いは、日本書紀では第1回目の遣隋使派遣については記述がありません。ところが中国側の隋書には、第1回派遣からの記述が残っています。それまでの日本は朝鮮と外交を行っており、この遣隋使を境にして中国との外交を中心にすることになります。第1回とされているのは事前調査だったのでしょうか。また、遣隋使となっているのは隋書の方であり、日本書紀では「唐」に派遣したとされています。もちろん遣唐使はまだ後の時代になります。2回も遣隋使として派遣された小野妹子ですが、もちろん日本書紀に記載はありますが、隋書の方には名前すら出てきません。この他にも記述の違いは数点あり、当時の日本は女帝だったのにも関わらず、隋書では、倭の国の王は男だとされていたり、記述ばかりではなく、事実の内容も合わないことがあります。 
 
遣隋使 4

 

遣隋使
聖徳太子(しょうとくたいし)が中国の隋(ずい)帝国におくった使者のこと。607年に小野妹子(おののいもこ)を国使(こくし)として隋(ずい)帝国におくった。遣隋使(けんずいし)の目的としては、主に3つあった。 
1 中国(隋 ずい)と同じ立場で外交をすることで、朝鮮半島での日本の優勢を確立する。
2 中国(隋)の皇帝が天皇を認めることで、天皇が蘇我氏(そがし)の上にいることを豪族たちに認めさせる。
3 中国(隋)の進んだ政治制度や文化を吸収し、取り入れる。
朝鮮半島にあった日本の領地 任那(みまな)
このころ、朝鮮半島は、高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)、任那(みまな)の4国があった。任那(みまな)は、大和朝廷の支配下にあったと思われ、日本の植民地であった。この任那(みまな)は大和朝廷にとって、中国の文化を取り入れるための玄関(げんかん)として重要な役割を果たしていた。
562年に新羅(しらぎ)によって、この任那(みまな)がほろぼされると、大和朝廷の大王(おおきみ 天皇のこと)にとっての目標はこの任那(みまな)を取りもどすことになった。
摂政(せっしょう)になった聖徳太子(しょうとくたいし)も、自分の弟の来目皇子(くめのおうじ)を将軍として、任那(みまな)を取りもどすために軍を出兵したが、来目皇子(くめのおうじ)の病死により失敗に終わった。
聖徳太子(しょうとくたいし)は、任那(みまな)を取りもどすのは難しいと考え、中国の隋(ずい)帝国の力をかりて、新羅(しらぎ)を圧倒し、外交で任那(みなま)を取りもどそうとした。このことが、遣隋使(けんずいし)をおくった理由の一つとなっている。
聖徳太子が隋におくった国書
聖徳太子が隋(ずい)の皇帝である煬帝(ようだい)に送った手紙の始めの文章
「日出(い)ずるところの天子、書を日没(ぼっ)するところの天子にいたす」
(太陽ののぼる東の日本の天皇が、太陽がしずむ西の隋の国の皇帝に手紙を送るという意味)
隋(ずい)の皇帝の煬帝(ようだい)はこの無礼な国書をみて、おおいに怒(おこ)り、いったんは大和朝廷の使者との面会(めんかい)を断った。しかし、このころ隋(ずい)は、高句麗(こうくり)との戦争でたいへん苦しんでいたため、大和朝廷と友好を結び、高句麗(こうくり)を南と北からはさみうちができると考え、大和朝廷の小野妹子(おののいもこ)は隋の皇帝の煬帝(ようだい)に殺されることなく、面会することができた。これは、聖徳太子の外交上のかけひきの勝利とも言える。
遣隋使の成果
この外交は成功し、高句麗(こうくり)も百済(くだら)も、大和朝廷と仲良くしようとする態度に変わった。高句麗(こうくり)からは、僧の恵慈(えじ)、百済(くだら)からは僧の恵聡(えそう)、観勒(かんろく)などが大和朝廷にわたってきて、仏教やこよみ、天文、地理、音楽、薬学など、当時の最新の文化が伝えられた。
また、日本からは留学生(りゅうがくせい)の僧旻(そうみん)、南淵請安(みなぶちのしょうあん)、高向玄理(たかむこのくろまろ)が隋(ずい)に留学し、隋(ずい)の政治制度の中央集権(ちゅうおうしゅうけん)制度や律令(りつりょう)制、税制(ぜいせい)などを学んで日本に伝えた。かれら留学生(りゅうがくせい)が、やがて大化の改新(たいかのかいしん)の原動力となった。
遣隋使(けんずいし)は、3回送られた。
1 第1回遣隋使 607年 小野妹子(おののいもこ)
2 第2回遣隋使 608年 小野妹子
3 第3回遣隋使 614年 犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)
それから4年後の618年に隋はほろび、唐がおこることになる。 
 
遣隋使は朝廷とは別の「倭国」によるものだっだ 5

 

中国の正史(「隋書」や「旧唐書(ぐとうしょ)」)と日本書紀には記述に大きな食い違いがあり、矛盾が多い。
例えば教科書では『倭国』と『日本(朝廷)』は一連のものであるかのように描かれている。しかし中国の正史では『倭国』と『日本国」とは別の国として記述されているのだ。『倭国』については、少なくとも漢の時代から記述が登場し、「後漢書」には『倭奴国』が使節を派遣した際に光武帝が金印を授けたとの記録があり、その金印が江戸時代に福岡市東区の志賀島で発見されている。「隋書」には倭国に関する記述の中で阿蘇山についての記述が登場する。また「旧唐書」には『倭国』は昔の『倭奴国』であり、代々中国に使節を送っていた国であることが明記されている。これらから、普通に考えれば、『倭国』は九州にあったと想定できる。それに対して、『日本国』の記述は唐の時代に始めて登場する。「旧唐書」では”日本國者倭國之別種也”とあり、「倭国伝」と「日本国伝」を別項目として記事にしている。また記述によれば『倭国』と『日本』とは唐からの距離も、気候風土も相当に違う。
遣隋使の派遣は「飛鳥朝廷」によるものではない。
遣隋史の記述によれば遣隋使は2回の記述がある。
1回目の記録は、”隋の文帝の開皇二十年(600年、推古天皇8年)、倭王で、姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩雞弥(あほけみ)と号している者が、隋の都大興(陝西省西安市)に使者を派遣してきた。…倭国王の妻は雞弥(けみ)と号している。太子は名を利歌弥多弗利(りかみたふり)という。”である。しかしこの時代の日本国は推古天皇=女帝である。かつ「日本書紀」には一度目の隋への派遣の記録はない。
更に2回目の記録は、”隋の煬帝(ようだい)の大業三年(607年)、倭国の多利思比孤(たりしひこ)が、使者を派遣して朝貢してきたそれを受けて隋は 翌大業四年(608年)に、文林郎裴世清(ぶんりんろうはいせいせい)を使者として倭国に派遣し、倭国王に面会している。”この『隋書倭国伝』に書かれている「倭王」とはいったい誰のことなのか。
通説によれば「天皇」(飛鳥朝廷の大王)という事になるが、その頃在位していた天皇は推古天皇(在位592-628年)であり女帝である。しかし第1回目の使節派遣(600年)の記録では『倭国王』の妻の名前が記されている。従って『隋書』の記述だと、当時の倭国王は男性でなければならない。この2回目の隋への派遣は日本書紀にも記述があり、通説ではアメ・タリシヒコ=聖徳太子であるとされているが、その唯一の論拠は、日本書紀に、「聖徳太子が小野妹子を隋に派遣した」という記録である。日本史の通説では、「日本書紀の記事を否定することはできない」「日本書紀のこの記事以外に、わが国から隋に使者を送った記録はない」という理由で、聖徳太子=アメ・タリヒシコという強引な「推定」が行われているのだ。しかし、聖徳太子が(アメ・タリシヒコ)と名乗ったことは他の記録にはない、そして何よりも、そもそも(仮に実在していたとしても)聖徳太子は皇太子であって王ではなく、中国の正史(一回目の隋派遣)にある(リカミタフリ)の名も他の記録にはない。更に「旧唐書」では 魏の時代から唐の時代まで通交していた『倭国』とは別の国である『日本国』が、唐に使節を派遣してきたことが記されている。
「日本書紀」は記述した当時の権力が、政権を正当化するために記述したという性格を持っている。それに対して中国の正史は、少なくとも対外情勢に対する記述は(例外を除いて)それを歪曲して記述する動機が小さい。従って基本的には中国正史の記述をベースに日本の状況を捉えるべきだろう。以上より、隋に使者を送ってきた『倭国』と『日本国(朝廷)』とは別の国だということになる。
「隋書」の成立は西暦650年頃である。一方、「日本書紀」の成立は、720年である。その間70年、「日本書紀」の作成時点では、当然「隋書」の記事も読まれていたはずである。だとすれば、日本書紀作成の過程において、つじつま合わせが行われていてもおかしくない。推古天皇は女性であり、「アマ・タリシヒコ」は男性であると中国正史に明記されている。仕方がないから、聖徳太子が行ったことにして記事を書いたということではないか。
唐書によれば『日本国』の使者は 『倭国』は、名前がよくないから「日本」改称したのだと主張してみたり、あるいは「日本」は小さな国だったが「倭」を併呑したのだと言ってみたり、その主張が首尾一貫していなかったことから、短い記述の中に”疑”という文字が2度も登場するなど唐から不審の目を向けられていたようだ。それが『日本書紀』編纂の動機のひとつとなったかもしれない。
全国の古墳の分布からみて、4〜5世紀に日本列島に複数の王がいたことは確実と思われる。そして、通説では聖徳太子の時代、6世紀末までには大和朝廷により統一されたとされている。それを裏付ける理由のひとつが、隋に使者を送ったのが聖徳太子ということである。しかし、そもそもこの時代までに日本列島は大和朝廷によって統一されていたのではなく、むしろ対外的には『倭国』が中心だったと思われる。つまり朝廷は太古からの統治者であることを云わんがために、別の国である『倭国』の歴史を簒奪した可能性が高い。
この『倭国』に関しては『唐書夷人伝』では「白村江の戦い」まで記述が続く(その後倭国の記述は登場しない)。そしてこの戦いで大軍を派遣したのは「倭国」であるという記述もある。そしてこの戦いの後、朝廷は対外的に”大王”という名から始めて”天皇”を名乗るようになる。これが統一を意味するものだとすれば、謎の多い「白村江の戦い」は、『倭国』の出兵に乗じて朝廷が『倭国』を滅ぼす過程であったと見ることもできる。
通説は、まず大和朝廷が列島を統一して、それから中国・朝鮮半島との交渉があり、大化の改新から壬申の乱を経て、奈良平城京の完成をもって律令国家が完成したというものであるが、この展開そのものを見直す必要があるのではないか。  
 
遣隋使と礼制・仏教 / 推古朝の王権イデオロギー 6

 

7世紀、推古朝の王権イデオロギーは外来の仏教と礼の二つの思想を基に複合して成り立っていた。遣隋使は、王権がアジア世界のなかで倭国を隋に倣って仏教を興し、礼儀の国、大国として存立することを目標に置いて遣わされた。さらに、倭国は隋を頂点とする国際秩序、国際環境のなかで、仏教思想に基づく社会秩序はもちろんのこと、中国古来の儒教思想に淵源を有する礼制、礼秩序の整備もまた急務で、不可欠とされることを認識した。仏教と礼秩序の受容は倭国王権の東アジアを見据えた国際戦略であった。そのために使者をはじめ、学問僧、学生を多数派遣し、隋の学芸、思想、制度などを摂取、学修すると同時に、書籍や文物を獲得し将来することに務めた。冠位十二階、憲法十七条の制定をはじめとして実施した政治、政策、制度、それと不可分に行われた外交こそが推古朝の政治改革の内実にほかならない。
はじめに―遣隋使と遣唐使―
二〇〇七年は、遣隋使派遣から数えて一四〇〇年目に当たるとされ、それにちなむシンポジウムや式典が日本や中国の各地で催されたり、いくつかの主要新聞が特集記事を連載したりしたが、なお中国では二〇〇八年にも続けられた。
これは『日本書紀』の西暦六〇七年に当たる推古天皇一五年条に、小野妹子らが隋に遣わされたとあることに基づいている。遣隋使に次いで唐に派遣された遣唐使も、二〇〇四年、中国西安において遣唐使の一員と見られる井真成の墓誌が発見されたのを機に、学界内外の大きな関心を惹いている。これらの遣隋使と遣唐使を一連の対外使節と捉え、古代の日中関係史、対外関係史研究のなかに位置付けようとするのが一般的な理解である。この中国への使節派遣は寛平六年(八九四)の停止まで長年月に及んだ。この間、隋唐という王朝の交替だけでなく、日本の国家や社会の推移があるので、その研究には両者の連続性、共通性とともに独自性も考慮されなければならない。
遣唐使とは、日本の古代王権・国家から唐に派遣された公式の使節を指すが、「遣唐使」(入唐使)という用語自体もすでに日本の正史『続日本紀』大宝元年四月乙卯条以下に見られる。使者は天皇の大権を委託されて唐で使命を果たすことを主旨としており、大使または執節使は出立に際してその表徴である節刀を授けられ、そのために一行の生殺与奪の権を認められた。
この遣唐使に先行して、遣隋使が開皇二〇年(六〇〇)から推古二二年(六一四)まで日本(倭)の王権によって隋に遣わされた。例えば犬上御田耜は遣隋使にも遣唐使にも任命され、派遣された。したがって遣唐使は遣隋使を継承したと見なされるが、しかしその両者の国内外の時代背景、目的、性格などの異同はもとより、それぞれの度の派遣の実態を具体的に解明し、また全体の意義をも追求する必要がある。
本論は、推古朝の王権イデオロギーの問題を究明するため、特に遣隋使の派遣目的とかかわる礼的秩序および仏教の思想、制度の摂取、内実に関して述べるものである。
遣隋使の派遣と目的
遣隋使については、派遣回数とその内容、派遣の方針および目的などをめぐって諸説がある。派遣回数は三回から六回までの説があるが、その内容は論者によってまちまちである。従来、どちらかといえば、『日本書紀』の記事のみを認めたり、『隋書』倭国伝の記事や煬帝紀の簡単な記事を裏付けがないとして疑ったりする傾向にあったのは恣意的といわざるを得ない。
『日本書紀』推古紀、『隋書』倭国伝、同本紀(煬帝紀)の関係する記事を補い合って整合的に解釈すると、(1)六〇〇年(『隋書』倭国伝開皇二〇年条)、(2)六〇七年(『書紀』推古一五年七月・一六年四月条、『隋書』流求国伝大業四年条?)、(3)六〇八年(『隋書』煬帝紀大業四年三月条、流求国伝大業四年条?)、(4)六〇八年(『書紀』推古一六年九月条、『隋書』倭国伝大業四年条)、(5)六一〇年(『隋書』煬帝紀大業六年正月条)、(6)六一四年(『書紀』推古二二年六月・二三年九月条)の計六回となる[坂元義種一九七九・一九八〇、増村宏一九八八]。
ただしこのうち『隋書』流求国伝に見られる倭国使がの推古一五年派遣、一六年帰国の使者か、(3)の煬帝紀の大業四年三月百済などと朝貢した倭使に当たるかは判断しがたい。(1)をの大業四年の使者と同じこととし、(2)の小野妹子は百済止まりであり通事の鞍作福利が謁見したのであって、(3)はその使者であると見なす意見もある[鄭孝雲一九九九]。また(6)には『書紀』に派遣、帰国の記事があるのに『隋書』には見えないので、隋末の動乱状態など、長安に赴いて謁見し朝貢できない事情があったと考えるべきとの説がある[篠川賢二〇〇一、氣賀澤保規二〇〇八]。他にも細部にわたる疑問は存する。
各回の遣隋使の存否を個別に検討することは基本的作業に属するが、遣隋使をめぐっては派遣回数に限らず、当時の倭国や隋の歴史的理解の根幹にかかわるいくつもの重要な論点がある。
2 開皇二〇年の遣隋使と礼制・楽制
倭国の隋との国交が開皇二〇年(六〇〇)に開始されたことは、『隋書』倭国伝に、同年倭王が遣使して高祖文帝の闕(皇居)に詣ったと記されることを根拠とするが、『日本書紀』には対応する記事を欠く。『日本書紀』編纂者は『隋書』倭国伝を見ていたかもしれないが、一切触れるところがない。そこで、江戸時代、一八世紀末葉の本居宣長の『馭戎慨言』を先駆として、これを推古朝の天皇(王権)の使者と認めず、聖徳太子(厩戸皇子)あるいは西辺の豪族の私使と解釈する見解がかつてはあった。
六〇〇年の遣隋使の目的に関しては、五九四年、倭国に対抗的な新羅が隋に入朝して新羅王の冊封を受け、以後東アジアの国際情勢に変化を生じ、特に六〇〇年、隋が東アジア拡大路線に転換することへの対処に、直接的動機を求める考えがある[氣賀澤保規二〇〇八]。そうした国際情勢が倭国に及ぼしたインパクトもあったであろう。だが、具体的には、この時点で倭国が百済、高句麗の影響を受けつつも、終極的に南北両朝の制度を複合して継承したと見られる隋の国制、なかでも冠位(衣冠・色服)制に表されるビジュアルな礼制を、隋朝で直接見聞して摂取、移植しようとしたと想定する[武田佐知子一九八四]なら、その四年後の六〇四年の冠位一二階制の制定、憲法一七条の制定(推古一二年条)をより整合性をもって理解できる。すなわち倭国の王権は冠位や憲法の制定、施行を通して中国の礼制や儒教的政治思想を受容し、王権の官司や外交にかかわる個々人の身分、地位をランキングして可視的に区分し、官人集団の秩序化を目指す政策の実現を意図したと考えられる。王権はそれまでの各豪族が配下に部集団を統括して結集するタテ割り的構造を解消し、特に崇峻朝の天皇殺害に著しい王位の失墜、無秩序状態を克服して、倭王の下に一元的に整序された君臣間の諸関係を制度化する必要に迫られていた。冠位制は流動性のある「群卿、大夫」層の組織化、階層化の実現に有効であった[平野邦雄一九八五、加藤謙吉一九九一]。そのために六〇〇年、隋やそれ以前の制、または百済の制を見聞し、その思想的根拠を知る目的を持つ使者を派遣することはタイミング上、全く相応しいのである。六〇〇年の遣隋使が衣冠の類を着装したかどうか、または隋の衣冠を贈られたとするような確証はないが、『論語』『孝経』『礼記』などの経書や仏典の注疏類を舶載した可能性は、憲法一七条の典拠にその形跡を認める限り否定できない。またそれらは徳、仁以下の冠位の徳目に表われる思想、理念にも参照されていることが明らかである。ただし、『扶桑略記』推古元年条および『元興寺縁起』逸文(飛鳥寺系縁起)に、推古元年(五九三)正月、飛鳥寺(法興寺)の仏舎利を刹柱礎中に安置し刹柱を立てる儀式は、蘇我馬子ら百余人が百済服を着用して催されたと伝えられ、推古の参席の有無が不明であるが、この時すでに倭国で最初の公的衣冠の着装が百済の影響下になされた可能性が高い[鈴木靖民二〇〇八a]。
さらに、もし六〇七年(推古一五)の小野妹子らの派遣を第一回とするなら、翌年遣隋使に同行して来た隋使裴世清らを、「今ことさらに道を清め、館を飾り、以て大使を待つ」(『隋書』倭国伝)という如くに、中国の賓礼などの外交儀礼の方式を模して隋使の迎接のために難波の江口に港湾施設を備え、難波に新館を造り(『書紀』推古一六年四月・六月各条)、難波から大和に官道を敷設し(推古二一年一一月条)、海石榴市の衢に広場を確保すること(推古一六年八月条)ができたかは疑わしく、少し溯って六〇三年(推古一一)の小墾田宮の建物群の建設、すなわち「大門」「庭中」「南門」「庁」「大殿」などの配置を整え、特に外交のための接客、儀礼空間を設営して(『書紀』推古一一年一〇月条、同一六年八月条)、隋を意識し、それまでの王宮とは隔絶する規模、構造をもった画期的な造営の竣工[林部均二〇〇八]も間に合わなかったであろう。
六〇〇年の使者の帰国後に準備した結果、隋使を迎えるために中国の賓礼に倣った入京の儀礼として掌客の阿輩台(粟田か)が数百人を従えて、儀仗を設け、鼓吹を鳴らし、また哥多*[田+比](額田部比羅夫)を遣わし、二百余騎を従えて郊労の儀式を催すこと(『隋書』倭国伝、『書紀』推古一六年八月条)などが整って実現可能となったに違いない。こうした外交儀礼の場でこそ、官人層に対する冠位の制に則った衣冠が初めて機能し、その思想、理念の背景には憲法があったのである。状況証拠ではあるが、これらを実践する基層となる前提というべき情報をもたらした六〇〇年の遣隋使は、確かに存在したと見なさなければならない。
ところで最近、渡辺信一郎氏は六〇〇年の遣隋使派遣について、より具体的な内容を推定しており、傾聴に値する[渡辺信一郎二〇〇八]。氏は、『隋書』音楽志下に隋が楽制改革を進めたことを記すなかに、「開皇初」に令を定め、七部楽を置いたとし、国伎、清商伎、高麗伎、天竺伎、安国伎、亀慈伎、文康伎を挙げ、次いで「また雑(楽)」に、疎勒、扶南、康国、百済、突厥、新羅、倭国等の伎があったと述べることに着目した。それと倭国伝の開皇二〇年の遣隋使の記事、さらに倭国伝にその国の王が朝会儀礼には「儀仗を陳設」し、その「国楽を奏す」とある記事、大業四年(六〇八)の隋使が倭国で入京する時の迎接儀礼に「鼓吹」を使い、楽器の「五弦琴」が中国に異なる独自のものであることなどを結び付けて、六〇〇年の遣隋使が倭国伎を貢納し、代わりに文帝から鼓吹楽を下賜されたことを結論とした。倭国は朝貢して楽人、楽器、楽曲、楽舞をもたらし、それが隋朝燕楽に編成されたこと、文帝の鼓吹楽の下賜が隋の楽器や楽人を伴うことであり、すなわちそこに皇帝との間に礼制的身分的秩序が構築されたことを意味すると見なしたのである。
従来、上述した通り、六〇〇年の遣隋使を契機として中国の儀礼の制度が摂取されたことは推測されてきた[若月義小一九九一・一九九八、堀敏一一九九三、鈴木靖民一九九五]。すなわち六〇四年の官人層の身分を大礼以下一二階等にランク付けする冠位制の制定、第一条をはじめとして『礼記』『論語』『孝経』などによる儒教諸思想、法家思想、仏教思想に基づいた官人層への君臣秩序の徹底、官人間の序列を訓戒して示した憲法の制定、六〇八年の隋帝から倭王へ送った国書、倭から隋朝へ送った国書(外交文書)のなかの時候の挨拶、結語に典型的な中国書儀(書札の方式)の引用(推古一六年八月・九月各条)などに中国の影響が明確に窺われる。あるいは遣隋使が儒学の書籍の購入・蒐集を目的にして派遣されたとする推測もある[『善隣国宝記』所引経籍後伝記。大庭脩一九九六]。
なかんずく冠位について、この後、『続日本紀』に大宝三年(七〇三)、遣唐使粟田真人の一行が唐(周)の楚州塩城県界に上陸した時、接待の唐人が大倭国(日本)を「君子国」で「人民豊楽にして、礼儀敦く行わる」とされるが使者の儀容はその通りであると語ったといい(慶雲元年七月朔条)、『旧唐書』日本伝にはその粟田真人を「進徳冠を冠り、その頂に花を為り」、「身は紫袍を服し、帛を以て腰帯と為す、真人好みて経史を読み、文を属するを解し、容止温雅なり」と記すのは、中国王朝風の衣冠束帯を整え、中国の儒学や史学に通暁しているか否か、すなわち中国風の礼を具現する君子国であることが中国の周辺国に対する評価基準であったことを意味し、『新唐書』日本伝に開皇末に中国と通じた時には冠帯がなかったが、煬帝に至ってその民に錦綫(織、繍、縫ヵ)冠を賜って貴賎を明らかにしたとあるのも、遣隋使の姿形を介しての認識が働いている。『隋書』東夷伝の史臣(長孫無忌ら)の曰に「今、遼東諸国、或は衣服に冠冕の容を参え、或は飲食に爼豆の器有り、経術を好尚し、文史を愛楽し、京都に遊学する者」云々と特記するが、事実、朝鮮半島諸国では早期的な高句麗に続いて、六世紀の百済、新羅でもすでに官位制が施行されており[武田幸男一九八〇]、それに伴う衣冠や腰帯の整備、序列化のなされたことが推定される。西方にある高昌や突厥の衣冠制の制定と隋の身分秩序の関係性についても、指摘がある[關尾史朗一九九三・一九九五]。
上記した小墾田宮の造営、その宮殿や門の配置も、そこでの儀式、集会に参集する倭王以下、官人たちの服飾と立ち位置の設定や、倭王(天皇)と臣下の位置関係、倭王と隋使との身分的国際的関係を明示する内外のシチュエーションに必須のものであり、隋使来朝への対応が直接作用していることは間違いない。その制度化、組織化は、隋の周辺国として、文帝の詔に礼の修定によって「父子、君臣の序」を基調として以来の、秩序社会の構築を図る隋の礼制政策(『隋書』文帝紀仁寿二年閏十月己丑条)にもまさに合致するのである。
これに関連して、早く黒田裕一氏は『隋書』倭国伝のなかに倭国を新羅、百済が「大国」にして「珍物」多しと為して敬仰し、恒に交通しているとある一文の検討を手がかりに、「大国」の意味を追求した。その結果、隋代の周辺諸国に対する「大国」概念が礼制と不可分であり、礼の秩序の有無が価値基準として決定的に重要であったとし、第一回遣隋使から第二回遣隋使に至る七年間は、倭国が礼制の摂取に努める、礼的秩序社会、すなわち「大国」の形成期間であったと論じた[黒田裕一一九九八]。とりわけ、礼秩序を現わす衣冠制の必要は隋との外交開始に伴って切実であり、礼に包摂される楽の制も備わっていなければならなかったことにも注意を促した[坂元義種一九九二]。ことに国家間の外交儀礼の席では礼的秩序がそれぞれの地位、序列関係を具現するものであり、往々にして礼の争いの様相を呈していた[川本芳昭二〇〇八]。
このようにして、『隋書』の「大国」とは国家間の軍事力、政治力、財力、国力などの大小や宗属関係を表す語では必ずしもなかった。いわゆる倭国の小中華意識を証明するものでもないのである。
この日本史の側の提起に対して、渡辺氏は中国における古来の礼と音楽の関係、中国を主体とする国際システムや蕃夷思想という視点に立って、第一回の遣隋使の内容を掘り下げ、倭国の礼制を窺わせる音楽が隋との間の貢納に利用され、それに応える隋楽の下賜もあって外交上に機能したという国際秩序の側面を鋭く抉り出した。これを敷衍すれば、国内的に見ても、『隋書』倭国伝に倭国の楽を取り上げ、楽器類について細かく記すことは、ただ風俗や楽器などの音楽文化への注意だけでなく、隋が倭国の礼制、礼的秩序の実態を遣隋使から聴取し、隋使自身も儀礼の場で体験し観察したためであると納得することができる。倭国の冠位を「内官」(官等)と見なして記載する『隋書』倭国伝だけでなく、東夷伝では高麗、百済、新羅のいずれにも官等または冠位の制度を取り上げるほかに、高麗伝では楽について五弦琴以下の楽器を列挙し、百済伝、新羅伝も楽のことを必ず記す。南蛮伝の扶南の別種とされる赤土国の場合、『隋書』はバラモン教や仏教崇敬への関心とともに、隋使の迎接の折の鼓吹の楽や天竺楽の演奏や儀礼に注目し、それらを基準にして「大国」足りえるかを計っていることが看取される。いわば中国を中心とするアジア世界レベルでは、衣冠や官等と並んで多彩な歌曲、舞踊、楽器を備えた音楽の制と、朝廷での官人はもとより賓客を招いた儀式、宴会などの場での、その誇示こそが「大国」のメルクマールに据えられているのは確実である。
渡辺説への疑問点はいくつかあるかもしれない。六〇〇年の時点で、倭は倭国伎(倭国楽)を隋に貢納したと果たして断定できるか。あるいは倭国伝の記事は編纂時に最初の使者の箇条にかけて、倭国の諸事情をまとめて書いた恐れもあるから、倭国楽の移出も六〇七年の隋使の見聞以後のことではないかとの疑念も生じよう。倭国の礼制が整えられつつあるこの六〇〇年から六〇七年までの時期のことと解したほうが相応しいとも思われる。
渡辺氏以前、一九六六年、飯塚勝重氏に『隋書』音楽志所載の隋の七部伎の定置と倭国伎とに着目し、双方の交渉を認める先駆的な説が存在する[飯塚勝重一九六六]。
『隋書』音楽志下には上記の「開皇初」云々の文の後に「大業中に及んで」煬帝が清楽以下九部の楽に大きく編成し直したとあるので、倭国伎の雑楽への繰り入れは大業四年(六〇八)、六年(六一〇)以前、すなわち開皇二〇年(六〇〇)のこととする余地が確かにある。『日本書紀』にも手がかりとなる史料がある。允恭四二年、新羅王が種種の楽人と種種の楽器を貢いだとあるのは史実かどうか分からないが、王権間の音楽の授受を示し、欽明一五年(五五四)二月、百済より倭国の要請で遣わされた五経、易、暦、医などの博士や僧侶のなかには三斤、己麻次、進奴、進陀の四人の「楽人」が含まれる(『日本書紀』)。彼らは百済の「施徳」などの官位をそれぞれ帯びるので王権に属した音楽の教授者と見られ、すでに六世紀に百済の楽を介して倭国の楽を創造した可能性があり、その延長線上に推古朝には朝会や迎接儀礼の際の礼楽が整備されたことが考えられる[黒田裕一一九九八]。『日本書紀』『続日本紀』によると、例えば推古二〇年(六一二)是歳条の百済人味摩之の伎楽記事に見られるように、音楽、 楽の伝授、習得には外来文化を受け容れ易い百済系渡来人たちが関わる場合が多かった。欽明一五年の諸博士たちは同八年に来た人たちと交替したものであり、百済王権での礼楽の思想とその儀礼などでの実践、さらに倭国でのその受容をも推測させる。百済は楽制を南北朝から摂取したのであろう。この百済から倭国への学芸、技能の専門家の派遣制度は、溯って継体七年の五経博士段楊爾が最初の確かな例である(『日本書紀』)。
五経博士は『礼記』など儒学の書籍の教授に当たるから、礼の思想、秩序を倭国が百済との王権間の交流を通して公的に摂取し始めたことを意味し、王権構成者なり集団なりの秩序、序列付けのために用い、ひいては王権の統治システムに資すことが六世紀、継体朝の段階で考えられていたのではないか。また前述の推古元年(五九三)の飛鳥寺の塔立柱儀式の際には種々の楽を設けたというから、この時、衣服だけでなく百済の楽も入っていたのであろう。この点で、推古朝以前から礼の受容と相俟って百済からの音楽の伝播も進められ、倭国楽(倭国伎)成立の基盤が存在したと見通して差し支えないのである。
要するに、六〇〇年の隋との初めての外交の目的には、推古朝の王権内部ないし官人集団の諸制度の整備の必要があると同時に、すでに交流のある百済・新羅・高句麗の朝鮮半島諸国との外交維持はもちろんのこと、さらには隋の周辺諸国との朝貢外交への参入が強く意図されていたであろう。そのためには隋の「大国」観に対処して、倭国の王として「礼を制し楽を作す」(『隋書』音楽志下)ことが喫緊であり、換言すれば礼制を体現する衣冠、音楽を用いた儀礼制度の受容と具体的実践を期し、それを隋朝に見せて主張するためにこそ遣隋使の派遣と隋使の招請が行われたといってよい。このような外交の契機が対外情勢や国際関係に端を発するとしても、また王権内部の要請にも固く結び付いていたと思われるのである。
3 遣隋使と百済
倭国の遣隋使の初期の派遣は百済の外交政策に従い、その勧めや協力があって実現したのであろう。六〇八年(大業四)の遣隋使は『隋書』本紀の百済との同時朝貢記事、『三国史記』百済本紀武王九年三月条の百済経由を伝える記事によって、倭国の使者が百済の主導の下に入隋したさまが知られ、それは『書紀』推古一六年六月丙辰条にある小野妹子の帰途、百済で隋煬帝の返書を紛失したという記事からも傍証される。開皇二〇年(六〇〇)の遣隋使についても、百済はすでに隋が陳を滅ぼした同九年(五八九)、漂着した隋の兵船の帰還に当たって使者を送り、上表、慶賀しており、同一八年(五九八)には朝貢して高句麗征討の先導役を願い出るほどの緊密な関係であったから(『隋書』百済伝)、遣隋使派遣開始には恐らく隋に近い百済の勧めがあり、それに従って使者が百済を経由した確率はかなり高いであろう。
百済では先に触れた通り、倭国に先んじて、五七〇年代までには衣冠を用いる一六等の官位制が成立しており[『周書』百済伝。武田幸男一九八〇、山本孝文二〇〇六・二〇〇八]、鼓角以下の楽器も備えられていた(『隋書』百済伝)。また上記のように、隋との関係では遅く見ても開皇一八年(五九八)に遣隋使を遣わしており、隋朝の楽制のなかに百済伎として編成されていた。やはり百済からの楽の貢納とそれに対する隋朝の楽器の下賜によって、すでに両国の身分的国際的関係ができていたのである。倭国は遣隋使開始という対外的契機に当たって、百済の外交政策に従い、内外の儀式と不可分な衣冠、音楽の導入をも知って真似たのではないか。百済との関係は遣隋使とも深くかかわり、欠かせないものであった。
隋にとって、倭国の使者に応えて隋使裴世清らを派遣した外交には、北方の強敵突厥との駆け引きに加え、五九八年に始まり、六一一(大業七)、六一三(同九)、六一四年(同一一)と続く高句麗征討の遂行のために、高句麗と隋の形勢を窺う百済を抑え(『隋書』百済伝)、その百済と密接な関係にある倭の情報をも得て影響下に置くという東アジア政策の戦略的意図があったと思われる。
なお、遣隋使が六〇八(推古一六)〜六一〇年にほとんど集中している現象は、推古朝の内政との関連があるかもしれない。だが、その内政の施策自体が国際的な動向と一体をなしており無関係でなかった。対外的なアピールを込めた小墾田宮の造営、冠位一二階・憲法一七条の制定は遣隋使派遣と連動するばかりでなく、東アジアの国際秩序ともストレートに結び付く政治改革に他ならなかった。
上にも言及した有名な「日出処天子」が「日没処天子」に国書を送ると双方の対等を称して隋煬帝の不興をかい(『隋書』倭国伝)、その意思に背く不慣れで穏当を欠いた初期の小野妹子らの外交の真意いかんが問われるが、推古朝の王権は以前からの百済・高句麗・新羅との外交や交流を通して国際情報を得るだけでなく、『隋書』本紀および高麗伝、百済伝などによれば、倭の使者は隋との外交に伴って隋の高句麗征討に現われる東アジア戦略を察知し、その上、百済だけでなく、赤土、迦邏舎国などの東南アジアの国々との朝貢や朝賀などの場での外交経験を重ねるなかで、隋の帝国を頂点に戴く国際環境、特に繰り返される戦争に見られる厳しい国際秩序化の現実を目の当たりにしたと考えられる。慌しいとも見られる遣隋使の相次ぐ発遣と礼的制度の摂取、実施は、そうしたインパクトが作用したものであったと想定できるのである。
4 外交と仏教
さらに、倭の隋(唐)との外交と仏教の関連性を重視する説が提起されている。東野治之氏は前述の「日出処」「日没処」云々の国書の文章が「大智度論」の「日出処是れ東方、日没処是れ西方」によって作成されたことを明らかにした[東野治之一九九二、韓昇二〇〇〇]。五八九年、南北両朝を統一した隋の文帝は、自らを「菩薩戒仏弟子皇帝」と称して、もともと廃仏政策を改めて仏教信仰に篤く、舎利を領布するなど(『隋書』文帝紀仁寿元年六月乙卯条)内外社会への仏教普及を実践し[氣賀澤保規二〇〇一]、文帝の後の煬帝も『隋書』倭国伝に「菩薩天子、重ねて仏法を興すと」とある通りの天子として倭国に認識されていた。他方、すでに六世紀中葉には梁と百済など朝鮮半島諸国が仏教を媒介にして外交関係を結んでいたことが論じられ[鬼頭清明一九九四、清武雄二一九九六]、その後も朝鮮半島や日本におけるいくつかの徴証が指摘されてきた[黒田裕一一九九八]。保科富士男氏は日隋間の国書の内容、書式から仏教的世界観と儒教的礼秩序の存在を汲み取った[保科富士男一九九七]。
これらを承けて、最近、河上麻由子氏は隋が南朝の皇帝の菩薩(戒)信仰を継受して国家権力に取り込み、それに周辺諸国が反応して、上表文に経典用語を用い、皇帝を仏教的に称える形式を取り、仏教的文物を献上したり(仏像等)、下賜品として求めたりした(皇帝注釈の経疏等)ことを強調し、これを「仏教的朝貢」と呼んで概念付けた。さらに『隋書』倭国伝にある倭王の「跏趺坐」や文帝への使者の言などに見られる仏教色の濃さ、宋朝や梁朝に対する南海(扶南など)、西域諸国の朝貢を先例とする仏教外交の倭国に与えた影響、隋皇帝への迎合の可能性を具体的に指摘している[河上麻由子二〇〇五、二〇〇六、二〇〇八]。
こうした南北朝から隋朝の代にかけての東アジアにおける仏教思想と外交の不可分性は倭国の場合も埒外ではない。推古朝の倭国についても、その国内的発現を示す記事は少なくない。『隋書』倭国伝には「仏法を敬い、百済に仏経を求得し、始めて文字有り」と、百済伝来の仏教崇拝と文字文化の関連性を述べ、上記のように、六〇七年の倭の使者が「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと、故に遣わして拝朝せしめ、兼ねて沙門数十人来たりて仏法を学ばしむ、と」と言ったとある。「菩薩天子、重ねて仏法を興す」というのは時の煬帝でなく文帝のこととされてきたが、煬帝自身も六世紀初めの梁の武帝の崇仏政策の影響を受け、文帝同様に菩薩戒を受けていたと解され[河上麻由子二〇〇五]、遣隋使派遣の直接の契機、目的が隋朝に倣う王権としての倭王(天皇)や臣下による仏教習得にあったことを明瞭に示している。
実際、『書紀』推古一六年九月辛巳条の遣隋使派遣記事に、学生四人と並んで学問僧日文(旻)など四人の漢人系渡来人の名を列挙することと符合する。倭国伝の「沙門数十人」は実数を表現するものか不明であるが、『書紀』にいう四人を含むと解釈してよい。
『書紀』には推古天皇が三宝興隆の詔を発し、豪族たちが父祖のために仏舎(寺)を造ったり(推古二年条)、憲法第二条に三宝の篤信を定めたりし、事実、内典を興隆させるため、「仏刹(寺)を建てむ」として鞍作鳥らの巧みな技術を用いて法興寺(飛鳥寺)を造らせたという説話的記事(推古一四年条)を載せる。これは鞍作氏の家記に基づく記事であろうが[松木裕美一九七五]、仏教信仰の実現に際して、恐らく逸早く仏教思想に通じ、造寺、造仏の方式や技術を知って身に付けた渡来系の鞍作氏が、王権において王命の下で特定の役割を果たした事実を反映するであろう。法興寺は蘇我氏だけでなく、天皇の意思にも基づいて、百済との交流を契機に王権直結の寺院として創建され、完成をみたのである[鈴木靖民二〇〇八a]。
推古が政治の中枢にあった「皇太子」の聖徳太子(厩戸皇子)を請じて勝曼経を講義させ、また聖徳が岡本宮で法華経を講義した(推古一四年条)などとあるのが知られる。この経典(二経)講説説話がいかなる事実や認識を伝えるかに問題があるが、百済や高句麗からのいく度も繰り返される経論の贈与、僧侶の派遣が背景に存在した(『日本書紀』敏達六年一一月・崇峻元年是歳・推古三年五月・同是歳・一〇年一〇月・同閏一〇月各条)。王または王に准じる「太子」が自ら仏教経典を注釈し、講説するというのも、中国の隋文帝の如き天子自らの信仰の実践と仏教による王族、豪族の教化の関係を投影させるものに間違いないであろう。
仏教的朝貢を示す記事も、法興寺の丈六仏像の造立に当たって、高句麗の大興王(嬰陽王)が黄金三百両を「貢上」してきた(推古一三年条、『元興寺縁起』所引丈六光銘)とあることは東アジア共通の仏教を媒介にした外交形態を明証する。また新羅が朝貢して仏像を「貢上」し(推古二〇年七月条)、その後も仏像、金塔、舎利や灌頂幡、小幡を献上して、そのうち仏像は葛野の秦寺(蜂岡寺、広隆寺)に、舎利、金塔、灌頂幡等は四天王寺に納められたことが知られる(推古三一年条)。高句麗の慧慈、百済の慧聡をはじめとする多くの僧侶たちの「貢上」(推古三年、一〇年、一八年、三三年各条)、加えて高句麗系の仏画などを描くと見られる黄書画師の設定なども(推古一二年条、薬師寺蔵『仏足石記』)、ともに人物による仏教的朝貢の典型であり、それらが倭でも国内的実践に
利用された様相を表している。この仏教を伴う外交は、『日本書紀』によると、有名な欽明一三年(五五二)の百済の仏教公伝記事を措いても、敏達六〜八年の百済、新羅との関係に溯って認められる。最近韓国扶余で検出された丁酉年(五七七)の百済王昌(威徳王)の勅願の王興寺跡と、出土した舎利容器、舎利荘厳具(供養具)の数々は飛鳥寺出土のものと類似してその全貌を髣髴とさせ、また同時に微妙な相違をも窺わせるが、崇峻元年(五八八)の百済の僧侶、寺院造営工人の派遣、舎利の贈与、その後の法興寺起工の実態を考古学的に想定させてくれる重要な資料である[鈴木靖民二〇〇八a]。また戊辰年(推古一六、六〇八)の隋使の来朝に当たって、使主(大使)裴世清、使副(副使)遍光高を法興寺に迎えて前年造られた丈六仏などを見せているのは(『元興寺縁起』所引丈六光背銘)、倭国の仏教受容、弘通のありようを国際的に認知される上で、何よりも効果的で説得力に富んだ肝要な出来事であった。
僧侶たちが仏教思想や修法を身に付けるだけでなく、もとはインドで五明という声明、工巧明、医方明、因明、内明の五つの学問を包摂した如く、様々な思想、技能、技術にも通じているものであるのは、法興寺の百済僧観勒の暦法、天文、遁甲、方術の諸学兼備(推古一〇年一〇月条)や高句麗僧曇徴の五経、彩色・紙墨・碾磑の製法(推古一八年三月条)の例に代表的であり、僧尼の重要な素養であった。『隋書』には東夷伝はもとより、諸伝に諸国の仏塔や僧侶、仏教信仰の様子が描かれており、仏教の存否、様態もまた隋の周辺諸国に対する一定の観念を構成する要素であった。
こうして推古朝の遣隋使は、まず隋を中心とする国際秩序に参加する企図を有したのであり、その場合、東アジア通有の価値観を持つ仏教重視の外交を展開することになったが、その結果として推古朝の王権には仏教色の濃い多彩な文化、思想があらためて受容され、王権の周辺の王族、豪族層にも広がったと考えられる。初期の仏教は王族、豪族の家々に仏像が安置され、僧侶も招致されたが、そのいずれもが王権を構成する豪族たちによって信仰された。推古朝の時代にはまず王権の所在地に法興寺が建設され、高句麗、百済、さらに新羅より渡来した僧侶が配され、仏教をはじめとする教学の拠点となった。大和の法隆寺(斑鳩寺)、山背の蜂岡寺(秦寺)、河内の四天王寺などがそれに続いたのである。
この時代の仏教は『日本書紀』の推古二年二月条に諸臣連たちがおのおの「君親の恩のために」競って仏舎を造るとあるが、大化五年三月条に蘇我倉山田麻呂が山田寺建立の動機を「元より自身の故に造るに非ず。天皇のおおんために誓い作る」と言ったといい、時代が降る『上宮聖徳太子伝補闕記』にも推古天皇の病に際して太子が願を立て、天皇の命を延ばすために諸寺家を立てると、平復したので、諸国の国造、伴造がまたそれぞれはじめて誓って寺を立てたと見える。ここに、史料の信憑性が問われるものの、初期以来の寺院の造営が個々人の祖先崇拝や現世福利のためというだけでなく、むしろ天皇のためという仏教信仰や仏教秩序の政治的性格が付加されていることを知ることができる。これがやがて護国思想に展開するのであろう。
少なくとも『日本書紀』編纂期には、推古朝の仏教は天皇(倭王)を頂点に戴く思想として認識されていた。すなわち、仏教思想は憲法一七条の第二条(三宝の篤信)、第一〇条(心の抑制)、第一四条(嫉妬の戒め)などの条文にも明らかなように、第一条(上下和諧)、第三条(承詔必謹)、第四条(群臣の礼)の規律、思想などと相俟って、王権下の臣下(官人)たちを対象に、君臣秩序を裏付ける支配イデオロギーとしての機能を期待されたのである。これもまた恐らく百済での国王の意向が強く働く仏教のあり方に影響を受け、さらに遣隋使の派遣を機にする隋などに倣った施策であると捉えるのが妥当であろう。隋の「菩薩天子」に準えて、倭国の天皇、それに準ずる「太子」に対しても、仏菩薩とダブってイメージさせる宗教的人格、権威が付与されようとしたのであろう。このような意識、観念の推進者、支持者には王権の構成者のほか、王権の保護下に止住する法興寺(飛鳥寺)の渡来僧たち、三経義疏の述作にかかわったと思われる法隆寺などに属する朝鮮系外国僧を含む集団およびその後継者たち[井上光貞一九七二]の活動が想定される。
これらのことは、同時期の東アジアの仏教界の諸情勢や、日本の前後の思想史、文化史の諸動向の流れとの関連において、さほど違和感なく理解できるであろう。また他方で、仏教の思想は隋、朝鮮半島諸国との外交を通して多元的な国際関係を取り結び、国際秩序を維持する際の必須の共通文法としての大きな役割を帯びたことも明白である。朝鮮仏教への依存のみならず、加えて隋(中国)仏教への強い志向は、単なる文化的意義に止まるものではなかったというべきである。
おわりに
推古朝の遣隋使の派遣は、要するに、王権がアジア世界のなかで倭国を隋に倣って「仏法を興」し「礼儀の国」「大国」(『隋書』倭国伝)とすることを目標に置き、実現することにあった。さらに言えば、隋を頂点とする国際秩序、国際環境のなかにあっては、仏教はもちろんのこと、それ以外に、中国古来の儒教思想に淵源を有する内外の政治や儀礼に表出する礼制、礼秩序の整備もまた急務で、不可欠とされた。倭国王権の東アジアを見据えた国際戦略であった。そのために使者自身はもとより、学問僧・学生を多数派遣して隋の学芸、思想、制度などを直接見聞し、摂取、学修すると同時に、関連する書籍や文物を獲得し将来することに努めた。これには百済との関係も深くかかわっていた。その結果が推古朝以降の政治、制度の端々に反映していることは言うまでもない。初期的な礼制、その具現としての儀礼、儀式の意義については、すでに論及されているところである[滝川政次郎一九六三、大隅清陽一九九二、西本昌弘一九九七]。
このような冠位や憲法の制定をはじめとして実施した政治、政策、制度の数々、それと不可分の外交こそが推古朝の政治改革の内実にほかならない。
推古朝の王権イデオロギーは外来の仏教と礼の二つの思想を基に、複合して成り立っていた。それは君臣関係の規律に見るように、政治上の方針、手段であり、それまでの群臣の無秩序状態から脱して、飽くまでも王権内部の秩序化を第一義とし、特に「群臣、百僚」なる官人たち、いわゆる政治エリート層の創出につながったのである。言い換えれば氏族秩序の編成を準備し、それを基礎にして官司制を構築することになる。したがって、推古朝には倭王(天皇)がリーダーシップをとって礼と仏教を用いる国家的結集を志向した可能性が強いが、しかしまだ王民ないし公民に対する統治法としての律令法を摂取、受容するほどの段階には達していなかったと考えられる[鈴木靖民二〇〇八b]。蝦夷の招致(敏達一〇年条)や掖玖人の渡来はあっても(推古二四・二八年各条)、倭王(天皇)を最高首長に位置づけて日本列島南北の周縁を含む内外の人々にまで法規の範囲を及ぼすような、いわゆる帝国法としても考えられる段階では到底なかったのである。 
 
遣隋使の見た隋の風景 7

 

はじめに
607年の小野妹子による遣隋使は、日本古代史上の一大トピック、さらにいえば日本史上の大きな節目に連なる出来事であった。日本(倭国)は遣隋使においてはじめて自らの判断で大陸隋と接触し、自前の外交を展開したと考えられるからである。
小野妹子が派遣された時、隋は2代目の煬帝の治世であり、隋の盛時を迎えていた。煬帝の大業5年時(609)、「是の時、天下およそ郡一百九十、県一千二百五十五、戸八百九十万有奇あり。東西九千三百里、南北万四千八百一十五里なり。隋氏の盛、此に極まる。」(『資治通鑑』巻181)という記述がそのことを裏づける。こう表現される隋の盛況は、開皇9年(589)に400年にわたる長い南北の分裂に終止符をうった文帝のもとで、内政に力を入れ国力の充実がはかられてきた結果であることは言をまたない。そしてもう一つ、周辺民族との関係が隋の優位という形で次第に落ち着いてきていたことにも:負っている。とりわけ隋の成立以来、北で威勢をふるった突厥が、東西への分裂、東突厥内での対立をへて、文帝の開皇19年(599)頃には隋に支援された啓民可汗で一本化され、北辺の悩みを解放させたことは大きかった。
こうした文帝時代の国内の整備充実と北辺の安定をうけて、煬帝はさらに運河の開鑿による南北の統合を進め、その上で東アジア全域に本格的に影響力を拡大させることに乗り出した。そこでまず西の吐谷渾へ遠征し、西域諸国を隋側に引き入れ、ついで東方に矛先をむけた。当時遼水から以東、朝鮮半島にかけての領域を割拠した高句麗・百済・新羅の3国のうち、百済・新羅の2国は隋の冊封をうけていたが、高句麗だけは隋の意のままに動かず、独自の道を歩もうとしていた。その結果がよく知られた煬帝の3度にわたる高句麗遠征(612・613・614年)となるわけである。
だが同時に忘れてはならないのは、これに先立つ開皇18年(598)に、文帝による高句麗遠征が断行され、隋は最初の敗北を喫していることである。これをあわせ隋代には都合4度の高句麗への出兵があり、結局膨大な兵力を動員しながら最後まで相手を圧倒することができなかった。そしてこのことが引き金となって、煬帝治世の後半、文帝以来の蓄えを使いつくし、全土にまき起こった反乱のなかで、隋は滅亡に追い込まれていく。このように隋が南北の統一を果たし、国力を増大させ、その結果文帝末期から対外的膨張路線へと踏み出し、煬帝になってそれが一層規模を増し体系的に強行される、まさにそうした時期に倭は隋との外交活動を始めるのである。それゆえ遣隋使には一層重い歴史的使命が感じられるのである。
ただ従来の遣隋使研究に目を向けてみると、その多くは使者を出した倭の側の事情や関心から取り上げることに力点が置かれてきた。そのため、当時の隋の力量や文化の水準あるいは隋の実情を意識したところの遣隋使の考察は、必ずしも十分ではなかったように思われる。また遣隋使問題に言及した中国史の側からの研究も、東アジア国際関係から倭の位置づけに迫るものであっても、隋の国情そのものがあまり射程には入ってない。これまで倭の使節たちは圧倒的な国力の差、体制の違いを目の当たりにし、それが聖徳太子の下での国造りに刺激を与えたことは指摘されてきている。しかし彼らは隋で何を見、何を肌で感じ取ったかはほとんど話題にされてきていない。だが本当はそこのところが問題になるのではないか。そのような関心と視角から本報告をまとめることにする。
1 遣隋使関係資料をめぐる理解と課題
遣隋使を知る手がかりは基本的に二つの史料に限られる。一つは『隋書』倭国伝(以下「倭国伝」)であり、もう一つが『日本書紀』(以下『書紀』)の関係年次の記事である。遣隋使の理解を進めるためには、まずそれらを押さえ直してみる必要があるだろう。以下両史料の関係記事を提示し、従来から課題となった主たる点を集約してみることにする(1)。
(1) 『隋書』巻81・倭国伝
1 開皇二十年(600年)、2 倭王姓阿毎、字多利思比孤、号阿輩難弥、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。3 使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聴政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖日、此太無義理。於是訓令改之。4 王妻号難弥、後宮有女六七百人。名太子為利歌弥多弗利。
無城郭。5 内官有十二等、一日大徳、次小徳、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大礼、次小礼、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定数。有軍尼一百二十人、猶中国牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼属一軍尼。
6(中略倭国の風俗・生活様態)
7 有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行疇祭。有如意宝珠、其色青、大如難卵、夜則有光、云魚眼精也。8 新羅・百済皆以倭為大国、多珍物、並敬仰之、恒通使往来。
大業三年(607年)、其王多利思比孤遣使朝貢。9使者日、聞海西菩薩天子重興仏法、故遣朝拝、兼沙門数十人来学仏法。I 其国書日、日出処天子致書日没処天子、無恙云云。帝覧之不悦、謂鴻臚卿日、蛮夷書有無礼者、勿復以聞。明年(608年)、J 上遣文林郎裴清使於倭国。(中略)
倭王遣小徳阿輩台、従数百人、設儀仗、鳴鼓角来迎。後十日、又遣大礼哥多眦、従二百余騎郊労。既至彼都、K 其王与清相見、大悦日、我聞海西有大隋、礼義之国、故遣朝貢。我夷人、僻在海隅、不聞礼義、是以稽留境内、不即相見。今故清道飾館、以待大使、重聞大国惟新之化。清答日、皇帝徳並二儀、沢流四海、以王慕化、故遣行人来此宣諭。既而引清就館。其後清遣人謂其王日、朝命既達、請即戒塗。於是設宴享以遣清、復令使者随清来貢方物。L 此後遂絶。
上の引用史料中に傍線を付したところをめぐって、以下のような問題点の指摘がなされている。
1 「開皇二十年」の遣使。後述するがこの年の遣隋使の記事はこの「倭国伝」にあって『書紀』にはない。したがって『書紀』の記述を重視する立場(本居宣長以来)から、この開皇二十年にかかわる記事は正式な倭国の使節のものではないとみなされてきた。しかし戦後は開皇二十年使節の存在が共通認識になりつつある。この解釈の転換がなぜ生まれることになったのか。開皇二十年の遣使をいうための論証は十分であろうか。
2 倭王の姓が阿毎、字が多利思比孤、号が阿輩難弥とあることの理解。とくに阿輩難弥(アホケミ)は大王、天王、大君、天君などとして天皇に先行する称号と解されるが、ではこの場合「阿毎の多利思比孤」とは誰にあたるのか。
3 倭の使者が隋の高祖(文帝)の質問に答え、倭王が天を兄とし、日を弟としたという論理はどこから来るか。これを聞いた高祖が「此れ太だ義理無し」「訓えて之を改めしむ」とした意味、「之」が直接指すところをどう理解したらよいか。
4 倭王の妻の呼称が「難弥」であったとすると、当時倭王は男性であったと理解された可能性が生まれる。その場合、推古天皇(女帝)との関係はどうなるか。倭の側はそれを伏せて隋に倭王のことを伝えたのか。また太子の名で「利歌弥多弗利」は「和歌弥多弗利(ワカミタヒラ)」と理解されるが、それは厩戸皇子(聖徳太子)とつながるか。
5 「内官に十二等有り」という12等級の官名は、推古11年(603)12.月に実施された冠位十二階と同じとみなせるが、「倭国伝」では開皇二十年(600)のことにかけている。この年号の齟齬をどう捉えるか。603年に実施され、本来後にくるべき記事が倭国伝で前に混入したのか、あるいはそもそも「倭国伝」の600年に見える遣使じたいが信用できないのか、議論が割れるところとなる。
6 「倭」の風俗・生活様態。本稿ではその部分はやや長くなるため史料をあげることは省略したが、内容は男女の風俗、刑罰や娯楽、気候・風紀や冠婚葬祭など、多岐にわたる興味深い記事が盛り込まれ、当時の倭国を知る貴重な材料となる。しかし見方をかえると、そこに一貫した未開的あるいは民度の低い社会実態が印象づけられる。とするとその様態は、倭=大和政権下の様子を描写したものか、改めてその未開性の意味と実態をどう認識するかの検討が求められる。
7 「其の石、故無くして火起り天に接す」ところの「阿蘇山」をどう理解するか。この存在が一つの理由になって、開皇二十年(600)の遣使記事を九州方面の地方豪族のそれとみなす説が生まれるが、阿蘇山とはそのような地方性の象徴ですませるものでよいか。
8 「新羅・百済は皆倭を以て大国と為す」という記事の実態をどう理解するか。この記事が古代における日本(倭)を中心とした朝貢関係をいう論拠となり、小中華説が生まれるが、当時の国際関係や倭の力量からそのことは可能であったか。
9 「海西の菩薩天子〔である隋皇帝〕が重ねて仏法を興す」と倭の使者がいう菩薩天子とは、誰を指しているのか。文帝か煬帝か。それをどちらに特定するかで、「開皇二十年」の遣使記事の意味が変わってくる。また「兼ねて沙門数十人を来りて仏法を学ばしむ」というが、沙門数十人という数の多さは信用できるか。また後述の『書紀』でいう人数・時期との関係をどう理解するか。
10 倭の「国書」でいう「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と帝(煬帝)の「不悦」「無礼」とした反応との関係をどう解釈するか。「悦ばず」「無礼」とした理由を倭が対等の天子と称したことにあるか、倭を日出ずる、隋を日没すると表現したことか、その両方合せて隋側は非難したのか。
11 隋が文林郎裴世清を「倭国に使いせし」めた理由・目的は何か。文林郎は煬帝時、皇帝に直属しその文書の書写記録を担当する秘書省の最下位、従八品のポストであった。従来文林郎というと、文帝の時に整った散官(文散官)の最下位(従九品上)のそれにあてられてきたが、これは修正される必要がある。おそらく裴世清はその立場から煬帝の直々の命をうけて使者となったはずであるが、なぜ「無礼」と怒った対象に使者を出すことになったのか。目的は返礼としてか冊封のためであったのか。
12 裴世清が「其王」たる倭王に拝謁したおり、倭王は「大いに悦び」「大隋は礼儀の国、故に遣りて朝貢せしむ。我は夷人、海隅に僻在す」と述べたという。9 の遣隋使の見た隋の風景351箇所で「日出処天子」から「日没処天子」へと対等さを主張し、ここではみずからを「海隅」の地に生きる「夷人」で、隋に「朝貢」したという。この姿勢の懸隔さをどのように理解したらよいか。記述の作為性を考えないとすると、倭の姿勢は隋使裴世清に会うことで180度に近い転換がなされたと解される。あるいはみずからを夷人と認めて朝貢したということは、その先に冊封関係が意識されていたとならないか。
13 最後の「此の後遂に絶つ」という文句の理解。倭国伝では妹子の大業4年(608)の再訪を遣隋使の最後とみなすが、しかし『隋書』の他の部分や『日本書紀』の記事から、遣使はその後もあった可能性が高いとみなされている。とすると倭国伝ではなぜそのような記述で締めくくることになったのか。隋から見て、本当はその後も正式な使者の受け入れがあったのか。
(2) 『日本書紀』巻22・推古紀
(1)の『隋書』倭国伝の場合と同様に、『日本書紀』からも多くの直接的な疑問点や問題点が引き出せるが、ここでは一番問題になる妹子が裴世清をともなって帰国したところから、従来議論になってきた箇所にふれてみたい。
〔推古天皇・十五年(607)〕秋七月戊申朔庚戌(3日)、1 大礼小野臣妹子遣於大唐。以鞍作福利為通事。
十六年(608)夏四、月、小野臣妹子至自大唐。々国号妹子臣日蘇因高。即大唐使人裴世清・下客十二人、従妹子臣、至於筑紫。遣難波吉士雄成、召大唐客裴世清等。為唐客更造新館於難波高麗館之上。
六月壬寅朔丙辰(15日)、客等泊于難波津。是日、以飾船卅艘、迎客等于江口、安置新館。於是、以中臣宮地連烏摩呂・大河内直糠手・船史王平為掌客。2爰妹子臣奏之日。臣参還之時、唐帝以書授臣。然経過百済国之日、百済人探以掠取。是以不得上。於是、群臣議之日、夫使人雖死之、不失旨。是使矣何怠之、失大国之書哉。則坐流刑。時天皇勅之日、妹子雖有失書之罪。輙不可罪。其大国客等聞之、亦不良。乃赦之不坐也。
3 秋八月辛丑朔癸卯(3日)、唐客入京。是日、遺飾騎七十五匹、而迎唐客於海石榴市術。額田部連比羅夫、以告礼辞焉。
4 壬子(12日)、召唐客於朝庭、令奏使旨。時阿倍鳥臣・物部依網連抱、二人為客之導者也。於是、大唐之国信物置於庭中。時使主裴世清親持書、両度再拝、言上使旨而立之。5 其書日。皇帝問倭皇。使人長吏大礼蘇因高等、至具懐。朕欽承宝命、臨仰区宇。思弘徳化、覃被含霊。愛育之情、無隔遐邇。知皇介居海表、撫寧民庶、境内安楽、風俗融和、深気至誠、遠脩朝貢。丹款之美、朕有嘉焉。稍暄。比如常也。故遣6 鴻臚寺掌客裴世清等。稍宣往意。并送物如別。時阿倍臣出進、以受其書而進行。大伴齧連、迎出承書、置於大門前机上而奏之。事畢而退焉。是時、皇子諸王諸臣、悉以金髻花着頭。亦衣服皆用錦紫繍織及五色綾羅。
丙辰(16日)、饗唐客等於朝。
九月辛未朔乙亥(5日)、饗客等於難波大郡。
辛巳(ll日)、唐客裴世清罷帰。則復以小野妹子臣為大使、吉士雄成為小使、福利為通事、副于唐客而遣之。爰天皇聘唐帝。其辞日。7 東天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世清等至、久憶方解。季秋薄冷、尊何如、想清念。此即如常。今遣大礼蘇因高・大礼乎那利等往。謹白、不具。是時、8 遣於唐国学生倭漢直福因・奈羅訳語恵明・高向漢人玄理・新漢人大圀、学問僧新漢人日文・南淵漢人請安・志賀漢人恵隠・新漢人広済等、井八人也。(中略)
〔十七年(609)〕秋九月、小野臣妹子等、至自大唐。唯通事福利不来。(中略)
9 〔二十二年(614)〕六月丁卩朔己卯(13日)、遣犬上君御田鍬・矢田部造於大唐。(中略)
二十三年(615)秋九月、犬上君御田鍬・矢田部造、至自大唐。百済之使、則従犬上君而来朝。
1 『書紀』ではこれ以後、隋をすべて「唐(大唐)」と表記するが、なぜあえて隋という正式な国名を用いようとしないのか。従来一般的な説明では隋が短命に終わったので、次の唐とあわせて標記することで煩雑を避けたとなるが、はたしてそのような理解は合理的だろうか。
2 小野妹子「隋の国書」紛失事件について。唐(隋)帝から授かった国書を妹子は百済を通過したおりに百済人に略奪されたと報告し、妹子処分問題に発展するが、この略奪紛失事件は確かなことか。妹子は国書の提出を意図的に避iける必要があり、略奪事件をでっちあげたのか。その場合国書の中身はどのようなものであったのか。あるいは最初から国書はないのを、妹子が存在したかのように話を作り上げたのか。
3 隋の使者一行は6月15日(丙辰)に難波津:に到着してから8、月3日(癸卯)まで、ひと月半以上待たされた。この間国書紛失事件で妹子の処分問題に揺れていたとしても、使者には礼儀iを欠く対応とならないか。もっと別途の問題(東アジア戦略など)が朝廷側で論じられていた可能性は考えられないか。
4 裴世清の倭王にたいする儀i式次第・儀礼形式・会見場面をどう具体的に再現できるだろうか。とくに隋使との会見の席に立ち会ったのは誰か。天皇(推古)の関与はどうか。
5 使者の宣する隋帝の「国書」の中身を倭側ではどう受け止めたか。隋帝は倭が遠く「朝貢」してきたことに、「徳化」の立場で応える趣旨のことをいっている。
6 「鴻臚寺掌客裴世清」の鴻臚寺掌客は、正式には鴻臚寺典客署掌客にあたると思われるが、それであれば『隋書』百官志下の文帝時の官品で正九品下となる。外国使節を担当する鴻臚寺の官員が使者となったのは理解できるが、「倭国伝」では文林郎(前掲I)とあり、両肩書きの違いをどのように理解するか。
7 この倭の国書になって「東天皇敬みて西の皇帝に白す」として天皇一皇帝の形で表記する。ただし天皇号はこの時期まだ成立していないとすると、この国書そのものの作為性が浮上する。また「敬白」形式にこめられた隋に対する倭の側の認識、位置関係の認識をどう理解するか。
8 妹子に同行する8名の学生・学問僧の問題。「倭国伝」では「沙門数十名」が妹子の最初の遣使の時(607年)に同行したとなっている(前掲8)。年次の1年のずれ、人数のちがいをどのように説明するか。「倭国伝」と『書紀』とで共通するのは"2回目で学生・学問僧を帯同したという形"をとる点である。とすると開皇二十年の遣使の意味はこの点と関連づけてどう説明できるだろうか。
9 「倭国伝」では608年以後関係が途絶したとあったが(前掲L)、ここでは犬上御田鍬が派遣されたといい、帰国時には「百済之使」を伴ったという。両記事の違い、百済の使者がかかわる理由はどう理解したらよいのか。
(3) 全体にまたがる課題として
前項(1)と(2)では『隋書』倭国伝と『日本書紀』推古紀のそれぞれから直接導き出される主たる課題や問題点を列記してみた。史料をめぐる主要な論点はほぼそのなかで出されているが、さらに両史料にかかわって浮上するより大きな課題を補っておくことにしよう。
1) 開皇二十年(600)の遣使の現実性。
2) 遣隋使の派遣回数の問題をどう理解するか。
3) 当時の東アジア情勢をめぐる理解と倭の東アジアに占める位置。
4) 倭の遣隋使の目指したものは何か倭と朝鮮半島情勢、隋の高句麗遠征と倭の関係、仏教をめぐる倭の立場。
5) 倭の王権の性格および倭国の実態をどう理解するか。
6) 隋の東アジア政策と倭の「小中華主義」の立場の理解問題。
7) 隋はなぜ裴世清を送ったか冊封使か、答礼使か。
8) 両史料に存在する作為性の問題後世の改変・作為をどう取り除くか。
9) 『書紀』に一貫する「大唐」の表記の背後に何があるか。
2 遣使の回数と従来の理解の問題点
遣隋使の問題はすでに述べてきたように、よるべき史料が基本的に『隋書』と『日本書紀』の二つに限られ、しかも記事を詳細に分析していくと多くの課題がのこされ、簡単に一本化できない困難さが終始ついてまわる。そのなかで従来からきまって取り上げられ、なおその都度異論が出されてきているのが、遣隋使の回数をめぐる問題である。
『隋書』において倭をめぐる記事は、「倭国伝」のほかに煬帝本紀に2箇所、流求国伝に1箇所あり、それに『日本書紀』をからめることで、最大合計6回の遣隋使があったという見解が導き出される。そのことを正面から指摘したのが増村宏氏であり(2)、氏の資料考証の徹底ぶり、そして資料が存在することじたいに重みを見出す基本姿勢によって、6回説を支持する意見が根づよくあった。ちなみに関係史料を集約し、隋側と倭側との史料を対応させ、6回説の史料的背景を示したのが、「遣隋使関係資料比較対照表」となる(本稿の最後に掲上)。
今ここで遣隋使の回数問題に全面的に踏み込む余裕はないが、一つだけ従来の見解にたいし別の見方を示しておきたい。すなわち従来ほぼ一致して実行されたと認める推古22年(614)6月、「犬上御田鍬・矢田部造を大唐に遣わ」したとされる最後の遣隋使である。この使節は翌615年にどうしたことか百済の使者を伴って帰国した。これは「倭国伝」の最後に、608年の小野妹子第2次使節で「此後遂絶」と記載されたのち、6年ほど経過してからの動きとなる。このことじたいさらに論議される必要があるが、加えて614年一615年という時期の隋の情勢である。
614年(大業10)という年は、煬帝による第3回高句麗遠征が強行されていた。その2、月煬帝は「百僚に詔して高麗(高句麗)を伐つを議せしむ。数日敢えて言うもの無し」(『隋書』煬帝本紀下)というあり様で、朝廷には厭戦気分が充満していた。すでに前年の楊玄感の乱をきっかけに全土に民衆が決起し、反隋の動きの中心が山東一帯であったことは周知のところである。その年7月、高句麗が形ばかりの降伏を示したのをうけて10Aに洛陽にもどった煬帝は、明けて正月、高句麗戦勝を名目に大宴会を催した。そのさい諸外国の使者を最大限招いて、みずからの威厳を誇示しようとしたことが、『隋書』巻4・煬帝本紀下に記される。
〔大業〕十一年春正月甲午朔、大宴百僚。突厥・新羅・靺鞨・畢大辞・訶咄・伝越・烏那曷・波臘・吐火羅・倶慮建・忽論・靺鞨・訶多・沛汗・亀茲・疎勒・于闡・安国・曹国・何国・穆国・畢・衣密・失范延・伽折・契丹等国並遣使朝貢。戊戌、武賁郎将高建眦破賊帥顔宣政於斉郡、虜男女数千口。乙卯、大会蛮夷、設魚龍曼延之楽、頒賜各有差。
上の史料には26国もの名があがりながら(靺鞨は重複するから実際は25国)、倭国の名は見当たらない。日本側の記録にしたがえば、615年(隋大業11年)正月には犬上御田鍬ら一行は隋の都にいておかしくはない。現地に滞在していれば必ず招待され、名を残したはずである。煬帝は高句麗遠征で敗れた汚名返上のために、一国でも多くの外国使節を集め存在感を誇示したかったからである。山東や河北の方面では反乱がいっそう盛り上がり、安心して旅が出来る状況にはなかったこと、そして都の行事に倭国の名が挙がっていないこと、そのような事情からみて、かりに倭からは遣隋使を目的とする使いが出たとしても、隋からみれば使節は来ていなかったとなる。犬上は百済の使者をともなって帰国したことから推定して、旅程は百済止まりであったのではないか。ちなみに上の国名のなかには百済の名前もみえない。
これまでどちらかというと、日本史側の視座と関心から遣隋使の動きが追求されてきたが、対応する隋の国内情勢も視野に入れるならば、遣隋使の理解になお新たな一面を追加できる余地がありそうである。前節で示したように、まだ解決のつかない問題が多く残されており、それゆえ中国史サイドからの踏み込みはいっそう求められている。
3 「開皇二十年(600年)の遣使」をどう理解するか
前節で指摘したことをふまえ、中国史の側から遣隋使の問題を見直そうとする場合、何よりも最初に直面するのは、『隋書』倭国伝の開皇二十年の記事をどう理解するかということになるだろう。これはまた古くしてかつ新しい問題である。
さて、この開皇二十年をめぐって、戦前までの主流はその使節はなかったという否定説であった。それを方向づけたのが本居宣長であり、彼はその著『馭戎慨言』で、倭の使者を勝手に名乗った筑紫(九州)方面のものの所業か、西国人の伝えた情報などにもとついて記したものにすぎないと断じた。戦後になるとその説は支持を失っていくが、しかし開皇二十年への疑問が氷解したかというとそうではない。最近になっても、たとえば鄭孝雲氏がつぎのような問題点を指摘して、否定説がなお根づよくあることをうかがわせた(3)。
・ 何故『書紀』に開皇二十年の遣使が記されないのか。
・ このとき倭は単独で朝貢が可能であったか(倭の五王以来130年ぶりの登場) 。
・ 開皇二十年記事には隋帝に倭使が謁見した記述はない。
・ これにたいして大業3年(607)の記録は、隋帝への謁見、来意説明などがある。
・ 開皇二十年の記述のなかに、603年に制定された冠位十二階の記述がみえる。
そして鄭氏は、これらの問題を整合的に解決できる方途として、開皇二十年と大業3年の記事は本来一つであった、つまり本来小野妹子に関連する記事であった一部が、まちがって開皇二十年にかけられた、と理解した。
しかしここには一つ問題がのこされる。なぜ記事が付けられたのが開皇二十年という年でなければならなかったのか、それについての説明はできていない。これにたいして、開皇二十年遣使の肯定説では当時の東アジア情勢と倭の国内改革の両面から問題が論じられてきた。それは主につぎの4点にまとめられる。
1 当時倭国と新羅の深刻な対立が存在したこと。直i接的には推古8年(600)2月、新羅が任那に侵攻し、任那に倭が援軍を送るという対立の関係が存在した。
2 隋の文帝による高句麗遠征が開皇18年(598)になされたという衝撃。当時倭と高句麗は密接な関係があり、隋情報は早くに倭に伝えられた。
3 倭国国内の一連の改革が600年直後に集中すること。具体的にいうと、601年2、月の斑鳩宮の建立、603年10.月の小墾田宮の完成、同12.月冠位十二階の制定、604年4月の十七条憲法の発布、同9、月に朝礼の改正、暦日の採用などである。
4 関連して、その時期、仏教のことがにわかに問題となること。例えば、603年11月に秦河勝が聖徳太子から仏像を下賜されたこと、605年4、月に丈六仏の制作を鞍作鳥に命じたこと、606年太子が勝鬘経と法華経を進講したことなど。
朝鮮半島をめぐる問題で、ちょうど隋という強国を意識しなければならない時期に際会していたこと、そして倭の国内改革や仏教活動の動きが601年以後606年までの問に集中したことに注目すると、開皇二十年という年は遣隋使の派遣を考える上でどうしても必要な年になってくるのではないか。
4 開皇二十年の政治情勢と遣隋使
このことに関連して、従来ほとんど話題にならなかった問題を補っておきたい。すなわち、600年に倭から使節団が隋に訪れたとすると、かれらは当時新たに都となった大興城(唐の長安城)に行くことになる。そこに至るルートといえば、海路は朝鮮半島の西岸、百済を横にみて北上して、遼東半島の先から渤海湾口を横切り山東半島の登州あたり(隋には登州はない。莢州=蓬莢郡黄県附近か)で上陸するいわゆる北路を使ったことが、従来からほぼ一致して認められている。そして上陸後は当時の山東の中心をなす青州(北海郡)斉州(斉郡)を経て、洛陽をとおり、潼関の関所から大興城のある関中盆地へと進んでいった、と見てほぼ問題ないと考える。その間の交通手段は徒歩か車馬で、水運を使う機会はなかった。
かりに登州附近で上陸したとすると、都までの距離は唐の『元和郡県図志』巻11・登州の条にしたがうと、長安までが3、000里、洛陽までが2、140里であった。『唐令拾遺』公式令によると、陸路徒歩で公的に移動する基準が1日50里とされるから、長安まで60日がかかった計算になる。その過程で、使節たちは隋の国内の様子、人々の暮らしぶり、高くそびえる塔をもつ寺院や信仰の姿、それらをもの珍しく眺めながら都へと入っていく。都では城壁に囲まれた城門をくぐりぬけると、整然と碁盤目状に区画された広い街路、その間を住民たちが忙しく動き、荷車が物資を満載して行き交う。豪壮な建物の甍が見え、あちこちの建造中の場所からは槌音と掛け声がなり響く。活気に満ちた街の空気の中を進み、使節たちは皇城の大門(唐の朱雀門)の前に立ち、ここから宮中へと招じ入れられる。
開皇二十年段階、隋は長年の内政重視によって国力が充実し、絶頂期に入ろうとしていた。だが同時に政治路線が大きく転換されようとしていた。それを直接的に示すのが、長男で皇太子の楊勇の廃位(10月)、代わって次男の晋王楊広の皇太子任命(11月)であった。この皇太子の交代劇は、それから遡ること2年の開皇18年(598)、隋として最初の高句麗遠征に淵源すると、私は考えている。この高句麗遠征は前年に高句麗が「靺鞨の衆万余騎を率いて遼西を寇」(『隋書』巻81・高麗伝)したことを口実に、漢王楊諒に水陸30万の兵力を付けて起こしたものであるが、結果は隋側の大敗北に終わった。そして後日、敗北の責任を押し付けられたのが、宰相として遠征の実質的な責任者として加わった高潁であった。彼は当初からこの遠征には反対を表明していたのである。
高潁は周隋革命以来、一貫して文帝(楊堅)に仕え、隋の基盤を築いてきた人物であったが、ついに翌年、様々な誹謗や陰謀事件などを理由にあげられて失脚させられることとなった。高潁はまた皇太子勇とは姻戚の関係(息子の嫁が勇の娘)で、つねに皇太子を支えていたが、その失脚により翌開皇二十年の皇太子廃嫡へとつながった。他方、晋王楊広を背後から支えたのが楊素であり、楊広が皇太子につくと、601年(仁寿元年)に彼は高潁失脚後空席であった宰相のポストに任じられた。このように見てくると、開皇二十年(600)という年は、政治の主導権が楊勇・高潁から楊広・楊素へと転換する大きな節目にあたっていたこと、そしてその転換をもたらす契機となったのが、文帝の政治姿勢が内政重視から東アジア拡張路線へと切り替わったことを表明する開皇18年の高句麗遠征に求められること、が明らかになる(4)。
すなわち、開皇二十年は「文帝一楊勇一高潁」路線から「文帝一楊広一楊素」路線への転換が進行し、政界をピリピリとした緊迫感が包む時期にあたっていた。それに加えもう一つ注意しておいてよい問題がある。仏教である。文帝はもともと仏教に帰依する心がつよかったが、ここにきてそれを政治の場に持ち出した。まず皇太子の交代が完了した直後の12月辛巳の日、「仏法深妙、道教虚融、咸降大慈、済度群品、凡在含識、皆蒙覆護。… … 敢有毀壊倫盗仏及天尊像・嶽鎮海濱神形者、以不道論。沙門壊仏像、道士壊天尊者、以悪逆論。」(『隋書』巻2・高祖本紀・12月辛巳の条)という変わった詔が出された。仏法は深妙、道教は虚融、それぞれ大慈を降し、群品(世の人々)を済度する。そのため仏像や天尊像を破壊したり盗んだりするものは不道罪、僧侶で仏像を壊し、道士で天尊像を壊すものは悪逆罪、すなわち最高の十悪にあてて罰する(死刑に処する)、という趣旨の命令である。
これにつづいて翌仁寿元年(601)6、月の還暦を迎えた当日、文帝はつぎのような措置を下した。すなわち天下の支配に臨んで以来、学校を建て人材の育成に努めてきたが、「徒に名録有り、空しく歳時を度り、未だ徳、代(世)の範と為り、才、国用に任えるもの有らず」と指摘し、「国子学は唯学生七十人を留め、太学・四門及び州県の学は並びに廃す」(『隋書』巻2・高祖本紀・仁寿元年6.月乙丑の条)という実質学校廃止であった。そしてその同じ日「舎利を諸州に頒つ」と命じ、以後3度にわたる仁寿舎利事業が開始された。舎利事業とは全土の主要寺院に仏舎利を頒布し、石塔を建てさせ、同一日時にそれを祭らせる、そのことを通じて仏教勢力を取り込み、民心の収攬をはかる意図をもつものである。これこそ、仏教が儒教に代わる国家の柱に押し上げられた歴史上先例のない措置であり、仏教はその時期、政治に決定的影響をおよぼす位置にあったことがわかるだろう(5)。
改めて開皇二十年をはさむ状況を年表風に整理しておくとこうなる。
開皇 17年(597) 高句麗の遼西侵攻
開皇 18年(598) 文帝の高句麗遠征と失敗(漢王諒と高潁による)
開皇 19年(599) 8月高潁の宰相失脚
開皇 20年(600) 10月皇太子楊勇の廃嫡 11月晋王楊広が皇太子就任
         12月文帝による仏教への傾斜の鮮明化
仁寿 元年(601) 正月楊素の宰相任命。6月学校の大幅削減・停止、同日舎利の頒布を命令(仁寿舎利事業の開始)
5 開皇二十年の遣隋使が見た隋の風景
すでに前節で述べたように、開皇二十年は隋代政治史の上で大きな節目であったと認められる。隋の前半期を動かしてきた高顕を中心とする政治勢力が後退し、楊広一楊素というそれまで背後に押しやられていた勢力が前面に躍り出る。そしてそれを進める背景には、文帝が踏み出した対東アジア拡大路線があり、また仏教を政治とつなげる仏教重視策が存在した。
話を遣隋使にもどそう。今問題の開皇二十年の遣使があったとするならば、かれらはまさにそのような場所に居合わせたことになる。そうであればかれらは、異国人としてつぎのようなことを実感し、心に深く刻みつけたはずである。
・ 統一国家隋の整った支配体制
・ 国力の充実と豊かさ、文明の圧倒的な高さ
・ 新都大興城(長安城)の規模の大きさ、まだ建設途上の新都の活況ぶり
・ 隋朝が表出させつつある東アジアの盟主への野心
・ 緊張した政治的雰囲気
・ 仏教のもつ政治的影響力や存在感の大きさ、仏教の隆盛ぶり
・ 仏教の全土への普及と人々の信奉する姿
さて、4節でも言及したように、倭の国内諸改革が600年のすぐ後から本格化し、短期間で実行されていることがわかっている。さらに厩戸皇子(聖徳太子)が仏教への傾斜をっよめ、また十七条憲法に「二に曰く、篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり」と盛り込み、仏教政策としてそれを意識したのも同じ時期であった。これら一連の動きをよく見てみると、上にあげた事象とことごとく符節があう。っまり開皇二十年の遣使があったとして、かれらが帰国して隋の国内情勢を報告し、それをうけて改革が一気に本格化したと。隋から帰国したものたちは、隋の先進性と豊かさ、その一方で垣問見られた東アジアにたいする野心と政治的緊張感、さらに国を仏教によってまとめようとする政治的姿勢などを伝え、自国の遅れと改革の必要性を説いた結果がそのようになったとみなすことで、倭の動向が説明できる。
かくして、開皇二十年の遣隋使が存在したことが隋の国内状況を分析することからも裏づけられた。だがそのさい、もう一つ大きな問題がのこされる。何故『書紀』ではその重大な事柄が記録されなかったか、である。このことについて、私は従来ほとんど問題にされたことのない角度からの見方を示してみたい。
「倭国伝」によると、開皇二十年の遣隋使は隋の担当官の質問に答えて、自国の遅れや未開性を露呈する発言をして、文帝に強く諭されたことになっている。本居宣長はそのことに反発し、しかも『書紀』に記録がないことから、それが日本(倭)の正式な使節でないものによる所業と断じたわけであるが、その見解は『書紀』が正しいとの前提の上に組み立てられている。また日本史の研究者の説でも、宣長のいうところは認めなくとも、この場合の『書紀』の関係記事にはだれも疑問を差し挟まない。だが『書紀』は天皇の正統性を説くために、作為や潤色が加えられていることはつとに知られている。
そうした立場から『隋書』と『日本書紀』の成立時期を比べてみると、『隋書』の編纂が唐の貞観10年(636)に本紀(帝紀)5巻・列伝50巻としてなされ、後の顕慶元年(656)に「五代史志」30巻を足して、今日の『隋書』85巻ができあがった。「倭国伝」は列伝であるから、636年にはできていたことになる。これにたいして『日本書紀』は養老4年(720)、舎人親王らによって撰せられた30巻と系図1巻からなる日本最初の正史であった。両者の間には、84年ないしは64年という差が存在する。その間には遣隋留学生として大陸にわたった南淵請安や高向玄理、僧旻らが帰国しており、かれらによって大陸の最新情報とともに多くの典籍・文物がもたらされた。また遣唐使としても、その間に何度か往来があり、使者たちは熱心に典籍の入手に努めたという。
ちなみに9世紀後半に編纂された『日本国見在書目録』を見ると、正史家条に「隋書八十五巻顔師古撰」としてその名があがり、平安前期までには日本に将来されていたことがわかる。このことは正史『隋書』が決して宮中の秘奥に蔵されたものではないことを裏づけるのであり、唐にとって前朝の記録『隋書』は秘密にされる性格のものでなく、むしろみずからの正統性を裏づけるために積極的に公開されるものであった。そのような過程と事情を考慮すれば、『隋書』は比較的早い段階から日本に来ていた。そして当然のことながら、『日本書紀』の執筆者とされる舎人親王らはこれに目を通していた、と推定できる。
舎人親王らが『隋書』倭国伝を見たとしよう。天皇の正統性と「神国」たる自国の歴史を説く立場からは、その開皇二十年の記事は大変まずいものと映るだろう。そして相手の史書の記載が消せない以上、自国の側でそれを徹底的に無視することが次に取るべき手であり、ここに『日本書紀』に600年の遣隋使が見えない理由が浮かび上がってくる。さらに関連していうと、どうしたことか『書紀』では「隋国(大隋)」という国名は一切使わず、すべて「唐国(大唐)」と改め"もろこし"と訓じてきた。しかし隋と唐が異なる王朝であることは自明のことで、いっしょに扱うことは本来おかしい。にもかかわらず『書紀』はその無理を強引に押し通し、これまでの研究でもそれに特別の違和感も挟んでこなかった。だが開皇二十年の問題を介在させることで、『書紀』が何故隋字を使うことをしなかったのかが見えてくる。そのことから逆に、開皇二十年の遣隋使が存在したことが裏づけられるのである。
おわりに
以上、日本が本格的に国際舞台に踏み出すきっかけとなった遣隋使をめぐって、その主たる史料となる「倭国伝」と『書紀』における課題の整理分析から、開皇二十年の遣隋使の理解問題に進み、中国史の視座から押さえなおすことで開皇二十年遣使の存在した必然性を論じた。ではその折、かれらは隋で何を見、何を感じ取って帰国したか、その問題を隋の社会や政治情勢と関連づけて考察し、厩戸皇子(聖徳太子)による一連の改革や仏教政策にまでつながることに言及した。
なお仏教ということでいうと、かれらが通過したであろう当時の山東青州一帯の寺院址からは、非常に精密に彫られた気品に濫れる石仏が近年続々と見つかっている。例えば青州市龍興寺址からは北朝後期から隋代の数百点の石仏、諸城市(北朝・隋唐期の膠州・密州)附近から同じく北朝・隋代仏教石刻が数百点、臨胸県明道寺遺址からまた北朝・隋代のものが破片を含め1、200点余など、である(6)。遣隋使一行はそれらの一部を目の当たりにして深く感動し、仏像情報も自国に伝えたのではないか。そうしたことが飛鳥仏に影響を与えないはずはないと思うが、本稿ではこれ以上にその問題には踏み込めるだけの準備はない。後日改めて系統的に集約してみたい。
遣隋使の研究は史料的制約のなかでまだ多くの課題をのこしているが、中国史の視座と新たに発見される諸資料を組み入れることで、なお一歩前に進めることが可能であると考えている。小野妹子遣隋使派遣1、400年という機会をとらえ、さらに全体像と歴史的意義の解明をはかる所存である。
最後に本稿では、日本史側の膨大な先行研究のなかの一部を押さえただけで、多くの漏れがあることをお詫びしなければならない。中国史側のそれもまだ網羅できていない。本稿で参照にさせていただいた先行研究は最後の《参考文献》一覧に掲上した。重要な研究が落ちていること、また注などで個別研究に言及できなかったことをご容赦願いたい。これら先行の成果については別の機会で取り上げることを考えている。

(1)本稿で拠った『隋書』では、注釈書として石原道博編訳1985『新訂魏志倭人伝・後漢;書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝一中国正史日本伝(1)一』(岩波文庫)を参考にした。また『日本書紀』では日本古典文学大系本(岩波書店、1965年)を主に用いた。
(2)増村宏1968「日出処天子と日没処天子倭国王の国書について」『史林』51-3、1970「日出ずる処と日没する処について一栗原氏の批判に答える一」『鹿大史学』18。いずれも同氏著1988『遣唐使の研究』同朋舎出版、所載。
(3)鄭孝雲1999「遣隋使の派遣回数の再検討」『立命館文學』559。
(4)この時期の政治動向については、氣賀澤保規著2005『中国の歴史6絢爛たる世界帝国隋362氣賀澤保規唐帝国』講談社、第1章参照。
(5)山崎宏1942「仁寿年間に於ける送舎利建塔事業」同氏著『支那中世仏教の展開』清水書店所載、氣賀澤保規2001「隋仁寿元年(601)の学校削減と舎利供養」『駿台史学』111、参照。
(6)諸城市博物館「山東諸城発現北朝造像」『考古』1990-8、杜在忠・韓崗「山東諸城仏教石造仏」『考古学報』1994.2、臨胸県博物館「山東臨月句明道寺舎利塔地宮仏教造像清理簡報」『文物』2002-9、山東省青州市博物館「青州龍興寺仏教造像窖蔵清理簡報」『文物』1998-2など参照。 
 
隋書倭国伝と日本書紀推古紀の記述 / 遣隋使覚書 8

 

はじめに
本稿は、『隋書』倭国伝と『日本書紀』推古紀に見える遣隋使についての記述の間に存在する矛盾について検討し、遣隋使の際、実際にはいかなることが生じたのか、という点を明らかにしようとするものである。また合わせて、それは倭国王帥升や親魂倭王卑弥呼にさかのぼる中国王朝と倭国との外交交渉史の中でどのように位置づけられるものであったのかという問題についても考えてみたいと思う。
邪馬台国やいわゆる倭の五王の時代などの日本の古代の歴史を考察する際、我々は「魂志倭人伝」や『宋書』倭国伝のような中国側の文献史料を使用する。それは周知のように当該時代の日本にはそれに匹敵する文献史料が存在しないからである。当時はいまだひらがな、カタカナの様な自民族の創成にかかる文字が生まれてはおらず、また、日本人の中国語 (いわゆる漢文) に対する理解度も低いものがあった。それ故、後の時代のように漢文や日本語を用いて日本の歴史竃記述するということも行われなかった。
しかし、『日本書紀』や『古事記』の段階になると日本人は漢字を用いて自国の歴史を記述するようになってく
隋書倭国伝と日本書紀推古紀の記述をめぐつてる。その結果、中国側の歴史書と日本側の歴史書に同一の歴史事象が記述されるというこ七が生じてくるようになり、歴史理解はそれ以前の時代に比較して、より客観的把握が可能となるようになった。
「貌志倭人伝」は邪馬台国や卑弥呼を「よこしま」や「いやしい」ことを意味する「邪」や「卑」の文字をもって殊更に表記しているが、当時の日本人が漢字を駆使して自国の歴史を記述していたならば、こうした用字を行うとは考えられない。すなわちそこには中国側の偏見が反映しているのである。こうした偏向や誤った認識は「貌志倭人伝」や 『宋書』倭国伝の記述の他の箇所にも当然数多く存在しているであろう。しかし、今日我々はそうした偏向や誤りを是正する手段をほとんど持たない。なぜなら邪馬台国や倭の五王の問題などについて考えるとき、これらの中国側の史料は極めて数少ないよりどころであり、比較を可能にする日本側の文献史料を今日、我々はほとんど持っていないからである。
『日本書紀』など日本人自らの手になる歴史書の出現は、そケした偏向克服への道を大きく開くものである。しかし、『日本書紀』などの出現は、従前に比べ歴史の客観的把握を格段に進めたとはいえ、新たな問題も引き起こした。それは『日本書紀』などの記述にも偏向や誤りが存在することである。例えば、『日本書紀』は、日隋外交において隋の爆帝が倭王に送付した国書のなかで、楊帝が 「倭皇」、「皇」という用語で呼びかけたとしている。しかしまた、小野妹子の奉呈した倭王の国書「日出虞天子致書日没虞天子、無寿云々」を見て悦ばず、「蛮夷の書にこのように無礼なものがあれば自分に取りつぐな」と厳命した楊帝が、倭王に呼びかけるのに、国書の中でこのように称するというナ」とはあり得ないことである。このことは遣隋使の段階から『日本書紀』が完成するまでのいずれかの時点で、もともとは倭王、王と記述されていた爆帝の国書が、倭皇、皇と改窺されたことを意味している。
一方、「鋭意倭人伝」に見られるような偏向はその後の中国側の歴史書にも当然存在し続けたであろう。『隋書』倭国伝の記述と 『日本書紀』推古紀の遣隋使をめぐる記述には、数多くの矛盾が見出される。我々は両書間に見られる矛盾打解明にあたって、こうした点を踏まえておく必要がある。本稿は、両書の記述の間に見られる矛盾について検討し、当時の実態を解明することを目的としている。
一 葉世清のもたらした国書をめぐる記述について
本節では、『隋書』の記述と『日本書紀』に見える楊帝の国書をめぐる記述との間に存在する矛盾について考察する。論の展開の都合上、まず両書の該当箇所を掲げる。
『日本書紀』巻二二推古紀の記述に拠れば、推古天皇十五年の秋七月に隋へ遣わされていた小野妹子は、翌年の夏四月、隋の使節襲世滞ら十三人をともなって筑紫に帰着した。六月には難波津に到着し、朝廷は飾船三十肢をもって淀川の河口にこれを迎えている。八月突卯に使節は都に到着したので、朝廷は額田部比羅夫を派し、奈良県桜井市の海石棺市に飾馬七十五匹をしつらえ、これを郊迎させた。『書紀』 にはこれに続けて、
壬子、召唐客於朝庭、令奏使旨。時阿部鳥臣・物部依網連抱、二人為客之導者也。於是、大国之信物置於庭中。時使主薬世情、親持書、両度再拝、言上使旨而立之。其書日「皇帝間倭皇。使人長吏大礼蘇困高、至具懐。朕欽承賓命、臨仰匝宇。思弘徳化、寧被含塞。愛育之情、無隔避適。知皇介居海表、撫寧民庶、境内安楽、風俗融和、深気至誠、遠僑朝貢。丹款之美、朕有嘉焉。楷喧、比如常也。政道鴻臆寺掌客襲世清等、棺宣往意。井送物如別。」時阿部臣出進、以受其書而進行。大伴囁連、迎出承書、置於大門前机上而奏之。事畢而退焉。
とある。すなわち、『日本書紀』の記述に拠れば、襲世清は推古から飛鳥の朝廷に召されて、使いの旨を奏上させられた。そのとき阿部鳥臣・物部依網連抱の二名がその先導となって、襲世清を導き、隋からの信物は庭の中に置かれた。襲世清は自ら隋の腸帝の国書を持ち、二度再拝し使いの旨を言上しょうと、立って国書を読み上げた。その書で爆帝は「皇帝は倭皇に問う。倭国からの使人の長史・大礼の蘇因高(小野妹子の中国名) が隋にやってきてその懐を具に述べた。朕は天の命令(賓命) を飲み受けてこの天下に臨んでいる。皇帝の徳化を広めて、命あるものにその恩恵を及ぼそうと思っている。それらを愛で育む情は (中国から) 遠い近いの隔てがあるものではない。皇は海外に介居しているけれども、民庶を撫寧しているので、国内は安楽で、風俗は融和であることを知った。(倭王の) 心ばえは至誠といえ、遠く朝貢を修めんとやってきた。その真心の美しさを朕はこれを嘉す。日ざしもようやく暖かとなり、こちらも常と変わりはない。故に鴻臆寺の掌客・襲世清等を遣わして、やや使いのおもむきを宣べさせるとともに、別にある通り信物を送る。」と述べている。襲世清が国書を読み終えると、阿部臣は進み出て、その書を受け進行し、それを大伴囁連に渡した。書を承けた大伴囁連はそれを大門の前に置かれた机上に置き、これを奏し、事が畢わって退りぞいた、のである。
以上の記述から、襲世漕が、倭王のいる場所の前に位置する庭に二人の導者によって招き入れられたこと、襲世清はこのとき楊帝からの進物を庭中の別の処に置き、自ら爆帝からの国書を持っセ二度にわたり再拝し (両度再拝)、使いの旨を言上しょうと、立って楊帝からの国書を読み上げたことがわかる。そしてこの国書は「棺宣往意。井送物如別。」 という語句を持って終わっているように、「宣」するという形でおわっている。そののち、この国書は二人の導者の手をへて倭王がいる場所の前にあった大門の側の机上に置かれ、導者のうちの一人・大伴囁連によって上奏され、それが終わって彼らは退廷したのである。
つまり、このときの会見においては、1 襲世清と倭王との間に大門があり、大門の外に展開する「庭」中に襲世清と導者の二人が位置したこと、2 襲世清は導者二人より離れた倭王から最も遠いところにいたこと、3 導者の一人・阿部臣から爆帝の国書を受け取ったのち大伴囁連は大門に至り、国書を机上に置いたこと、4そのあと大伴囁連によって襲世清が「庭」中で「宣」した内容と思われる事柄が、倭王に奏上されたこと (ただし、それは内容にわたらず、「中国の使節が奏上してきております」といった程度であったのかもしれない)などが、明らかになるのである。
では、『隋書』倭国伝はこのときの事柄をどのように伝えているのであろうか。『隋書』巻八一倭国伝に拠れば、襲世清一行は大礼の寄多批が率いる二百余騎の迎えを受け都に入り、その後、
其王輿清相見、大悦日、「我聞海西有大隋、祀義之園、故遣朝貢。我夷人、僻在海隅、不問祀義。是以稽留境内、不即相見。今故清道飾館、以待大使。糞聞大国維新之化。」清答日、「皇帝徳並二儀、浮流四海。以王慕化、故遣行人来此宣諭。」
という会見が倭王と襲世清との間でなされたことが伝えられている。
すなわち、『隋書』倭国伝の『日本書紀』と対応する記載には、襲世情と会った倭王は大いに悦んで「私は海の西に大隋という礼儀の国があると聞いた。故に使いを遣わして朝貢した。私は夷秋(夷人) であり、海中の片隅にいるために礼儀というものを聞くことがなかった。そのた財国内に留まって謁見できなかった。いま故に道を清め館を飾り、大使を待った。糞わくは大国維新の化を聞かん」といった。襲世清はそれに答えて、「皇帝の徳は天地にあまねく、その恵みは四海に及ぶ。王が皇帝の化を慕ったが故に行人を遣わして宣諭するのである。」と述べた、とあるのである。
この『隋書』倭国伝の記載と先述の『日本書紀』 の記載とを比較すると、同じく小野妹子の帰国時の事柄を述べたものであるにも関わらず、両者の記載が大きく相違していることに気づく。序節で述べた 『日本書紀』所載の爆帝の国書中に見える「倭皇」、「皇」と 『隋書』倭国伝に見える王の表現の相違などはその一例であるが、食い違いはそればかりにとどまらない。いまその間題となる諸点を列挙してみよう。
1 『日本書紀』ではまず襲世清が楊帝の国書を読み上げ、その国書が阿部臣と大伴囁連という二人の取り次ぎを介して倭国王に伝達されたとしていること。
2 『日本書紀』 では襲世清が国書を読み上げ、爆帝の国書が伝達されるが、『隋書』倭国伝では、まず倭王の自らが夷狭であると称する言上があり、それを受ける形で隋使襲世清の宣諭が行われていること。
3 『日本書紀』では襲世清は庭の中で「両度再拝」し、大門のうちにある建物にいる倭王に対して使いの旨を言上していること。
4 『日本書紀』 では、襲世情の言上のみが記述され、倭王の発言は記述されていないが、『隋書』倭国伝では、両者の発言が記載されているナn。
このほか『隋書』倭国伝では、襲世清の来朝を倭王が「大いに悦んだ」としているが、『日本書紀』にはそうした記述は見当たらない。また、『障害』倭国伝は襲世清が都に入るとき、二百余騎による出迎えを受けたとしているが、『日本書紀』は飾馬七十五騎により出迎えた等と記すなど小さな相違も見いだされる。しかし、上に挙げた1〜4に見える点はその記述内容が真っ向から対立するということができる。何故ならば 『隋書』倭国伝では、襲世清は朝貢国に対する宣諭使として措かれているにもかかわらず、『日本書紀』 の記述は、一方が殿上に控え、一方が訂庭に立ち、こちらからの言上に取り次ぎ役を介したなど、倭王と隋からの使者・襲世清とをあたかも主従の関係にあるかのように記述されているからである。
このよケに記述に相違が見られるからには、いずれかの記述に誤り、ないしは改窺が含まれていると考えられる。では事実はどうであったのであろうか。
『隋書』巻八四突厭伝、大業三年(六〇七)四月の条に、隋の楊帝が檎林に行幸した際、突蕨の啓民可汗が行宮に来朝したことを伝えているが、そのときの啓明可汗の上表に、
啓民上表日、「己前聖人先帝莫緑可汗存在之日、憐臣、賜臣安義公主……。臣今非嘗日通地突蕨可汗、臣即至尊臣民。……」
とある。すなわち、大業三年四月の時点で、突厭の啓民可汗は上表して「以前、聖人先帝実線可汗(隋の高祖楊堅のこと)が存命中に、臣を憐れんでその宗女である安義公主を賜った。臣はいまはもう昔の辺地にいる突厭可汗ではない。臣は至尊(腸帝のこと)の臣民である。」と述べているのである。小野妹子が遣隋使として出発したのは推古天皇の十五年(六〇七).七月三日のことであり、筑紫に帰着したのが翌年の四月である (『日本書紀』)。つまり、小野妹子が隔にもたらした「日出虞天子致書云々」の国書を楊帝が見たのは、この突厭啓民可汗の上表を彼が見た後の間もないときであったわけである。
当時、隋はほぼ四百年に及ぶ貌晋南北朝時代の混乱を終息せしめ、中国の統一を達成し、また初代皇帝。楊堅の善政も手伝って、その国力は極めて盛んなものがった。突厭は周知のように、貌晋南北朝時代の最末期にそれまでの北アジアの覇者・柔然を滅ぼして勢力を拡大し、ユーラシアにまたがる大帝国を建国、隋唐帝国を苦しめた北方遊牧騎馬民族の国家である。この時点は都藍可汗と啓民可汗との抗争を経た直後であるため、隋に称臣する事態に至っていたとはいえ、その勢力は極めて巨大なものがあった。しかし、また逆に言えば小野妹子の遣使、および襲世情の倭国来朝が生じた時点における隋は、その突厭さえ称臣せしめるほどの実力を保有していたともいえるのであり、現に楊帝自身もそうした国力を自負していたのである。
『旧唐書』巻一九九上、倭国伝、貞観五年(六三こ の条に、
貞観五年、遣使殿方物。太宗給其道遠、勅所司無令歳貢。又遣新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無紋遠之才、輿王子争祀、不宣朝命而還。
とある。右に拠れば、襲世清来朝からおよそ二十年後、倭国に至った唐の使節・高表仁は「礼」の問題で倭国と争い、朝命を宣べることなく帰国したという。『隋書』倭国伝には、襲世情が倭王と会見した後のこととして、
其後遺人謂其王日、剖剣既達、請即戒塗。
とある。すなわち、襲世清は、朝命、則ち爆帝の命令は既に伝えたので帰国したい、と述べたのである。この文章は、先に見た『隋書』倭国伝の「其王輿清相見、大悦日、我聞海西有大隋、祀義之囲、政道朝貢。我夷人、僻在海隅、不聞祀義。是以稽留境内、不即相見。今政情道飾館、以待大使。糞聞大国維新之化。清答日、皇帝徳並二儀、浮流四海。以王慕化、故遣行人来此宣諭。」という記載に続けて現れるものである。ということは襲世清はこの時点で、使者として「朝命」を伝達すること、すなわち倭王に対する「宣諭」の役割は遂行されたという認識を持っていたことを示している。先に挙げた『旧唐書』に見える高表仁の場合は、後には「綜遠の才が無かった」という評価を下されることになるが、「争礼」前の時点でそうした評価が存在したわけではなく、また、高表仁自身はこの「争礼」の時点で未だ「朝命」を伝達していないと考えていたはずである。にも関わらず彼が「争礼」を起こしたということは、高表仁には↓朝命」伝達の前段において、倭国側に何らかの「非礼」にわたる対応があったとする認識があったことがわかる。その際、その「非礼」とは、彼が唐使として倭国に来朝していることを考えれば、単なる使節個人に対する待遇の如何といったようなことであったとは考えがたい。そこには唐の体面に関わる問題が存在していたと考えざるを得ないであろケ。それ故、倭周側と紛糾が生じ、「朝命」を達することなく帰国することとなったが、『旧唐書』はそれをとらえて「綬遠の才が無かった」としているわけである。とすれば、『旧居書』に述べられていることを意を持って汲み取れば、『旧居書』には「高表仁は唐の体面に関わる「礼」にこだわって争いを引き起こし、結果、「朝命」を達せず帰国することになったが、これは高表仁に夷秋を綬撫する才がなかったからであり、夷次に対する綬撫には深慮が必要である。」ということが述べられていることになろう。
先に見た『隋書』倭国伝に見えるように、倭王が隋に対して「朝貢」したという認識を持ち、自らが「夷人」と称し、それに対し襲世漕がそれに答えて、「皇帝徳並二儀、澤流四海。以王慕化、故遣行人来此宣諭。」と述べたのであれば、それは正しく「朝命既達」という状況であったということができるであろう。
襲世清は、小野妹子が隋にもたらした国書に「日出虞天子致書日没虞天子、無芸云々」と有るのを見て爆帝が悦ばず、「攣夷書有無祀者、勿復以聞」と述べたのを受けて、当時の隋と高句麗との緊張関係の存在する東北アジアの状況のもと派遣されている。よってこうした点を踏まえ、先に指摘した『日本書紀』と『隋書』倭国伝に見える記述上の矛盾が何故生じているかをできうる限り追究・確定する必要があるであろう。その際、この遣隋使に関わる『日本書紀』 の記述内容がどの程度信頼できるものであるかというこ七は是非とも検討すべき重要な問題といえよう。なぜなら、『日本書紀』には本来、倭王とあるべきところを倭皇とするような、明らかな改寛が見られるからであり、もしそうした改寛が遣隋使関係の史料の全般に及ぶものであるならば、『日本書紀』の史料を根拠として遣隋使の問題を論じることは厳に慎まなければならないこ七になるからである。次に節を改めてこうした点について考察することにする。
二 『日本書紀』 の遣隋使関係史料の信憑性について
本節では、『日本書紀』の遣隋使関係史料の信憑性について考察することにする。やや結論的に言って、筆者は、『日本書紀』 の遣隋使関係史料には改窺の跡も見受けられるが、かなりの信憑性もまた同時に存在するとするものである。そのように筆者が考える理由は、次のようである。先に見たように 『日本書紀』 には爆帝の国書を伝えて、
其書日「皇帝間倒剖。使人長吏大礼蘇困高、至具懐。朕欽承賓命、臨仰直宇。思弘徳化、軍被含塞。愛育之情、無隔週適。知剖介居海表、撫寧民庶、境内安楽、風俗融和、深気至誠、遠僑朝貢。丹款之美、朕有梢喧、比如常也。故遣鴻臆寺掌客襲世清等、楷宣往意。井送物如別。」
とある。ここに見える傍線を付した「倭皇」や「皇」 に改寛が見られることについては既に述べたところであるが、さらに注目したいことは波線を付した箇所に見える「朝貢」という表現である。「倭王」という表現が不適当であるならば、その影響は当然、この「朝貢」という用語にも及ぶことが想定される。
『日本書紀』は、襲世清が「再拝」し、倭王が取り次ぎを介してその奏上を受けたとする記述などを通じて、その尊貴さを示し、さらにこのときの会見場の有様を伝えて、
是時、皇子諸王諸臣、悉以金髪花着頭。亦衣服皆用錦紫繍及五色綾羅。
とあるような壮麗さを記述することに努めている。しかし、爆帝の国書に見える「朝貢」や「倭王」などの表記に見える立場は、倭王の尊貴さを示さんとする立場とは明らかに矛盾する。「朝貢」、「倭王」の表記は、隋が倭国を朝貢国と見なし、遣隋使を潮貢使とみなしていたことを示している。つまり、『日本書紀』が爆帝からの国書を掲げる箇所の前後の記述において、襲世清が倭王に対して「再拝」したなどと記述する立場と、爆帝の国書に見える「朝貢」や「倭王」などの立場は明らかに矛盾するのである。にも関わらず「朝貢」という用語がそのまま残されているということは、「倭王」を「倭皇」と改荒しているなどの問題はあるが、この日本書紀に載せられている国書自体は場帝からもたらされた国書の原文を相当忠実に保存していることを示しているとされよう。
先に述べたように小野妹子が遣隋使として派遣される推古天皇の十五年(六〇七) 七月と同年同月の大業三年七月に、爆帝は喩林郡に行幸した (『隋書』巻三爆帝紀、大業三年七月甲寅の条)。その折、楊帝は来朝した突厭の啓民可汗及びその部落酋長三千五百人と宴を開いているが、『隋書』巻八四突厭伝に、そのときのこととして、
帝法駕千人大帳、享啓民及其部落酋長三千五百人、賜物二十高段、其下各有差。復下詔日」徳合天地、覆載所以弗遺、功格直宇、馨教所以威泊。至於梯山航海、請受正朔。……突蕨意利珍豆啓民可汗、志懐沈毅、世斯固施均亭育、揮漸要荒者臭。…… 修藩職。往者挺身違難、抜足蹄仁。先朝 嘉此款誠、授以徴競。……啓民深委誠心、…‥言念丹款、良以嘉尚。……
とある。この史料は、いま問題としている『日本書紀』に見える遣隋使の際の爆帝の国書と類似したところがある。すなわち、遣隋使の際の国書には「其書日、皇帝間倭皇。使人長吏大礼蘇因高、至具懐。1 朕欽承賛命、臨・・・[中略]・・・
見える「皇帝の徳は天地にあまねく、その恵みは四海に及ぶ。王が皇帝の化を慕ったが故に行人を遣わして宣諭するのである。」という文言も『日本書紀』所載の国書の内容そのものである。そこに「二儀」と見える「二儀」とは天と地、あるいは陰と陽などをいい、両儀ということもある。『日本書紀』に載せられた国書には「朕欽承賛命、臨仰直宇」とあり、「賛命」すなわち天命と、「直宇」すなわち天下というように天地を連想せしめる表現は存在する。しかし、「二儀」の語は見出せない。これは『隋書』がもともと『日本書紀』のようにあったものを簡略化したということも考えられる。しかし、先に見た爆帝の国書との類似が考えられる突厭啓明可汗への詔書には「徳合天地、覆載所以弗遺、功格匿宇、馨教所以成泊。」とあり、「二儀」としての「天地」 の用語とともに、『中庸』 の「天之所覆、地之所載」から出た「覆載」や天下を意味する「直宇」が使われている。いまのところ『日本書紀』所載の国書は原文にかなり忠実であるが、倭王を倭皇などと改荒しているほかに、原文を削ったところもあった可能性もあるとすべきであろう。
では国書の前段に記述された『日本書紀』 の「王子、召唐客於朝庭、令奏使旨。時阿部鳥臣・物部依網連抱、二人為客之導者也。於是、大国之信物置於庭中。時使主襲世清、親持書、両度再拝、言上使旨而立之。」とする記述は当時の状況を正確に伝えているのであろうか。今までの考察で指摘したように、襲世情は、国力の充実を背景に対高句靂戟をも視野においた隋の使節として倭国に来朝した宣諭使であった。そして彼が倭国との間に争礼を生じることなく、小野妹子と隋に向けて帰国していることは、彼が使命を果たしたこと艮示している。とすれば、先に指摘した『日本書紀』と『隋書』倭国伝の記載の相違点、すなわち、1 『日本書紀』 ではまず襲世清が爆帝の国書を読み上げ、その国書が導者を通じて倭王に伝達されたとしていること、2 『日本書紀』 では襲世清が国書を読み上げ、楊帝の国書が伝達されるが、『隋書』倭国伝では、まず倭王の自らを夷秋と称する言上があり、それを受ける形で隋使襲世清の宣諭が行われていること、3 『日本書紀』 では襲世清は「両度再拝」し、殿上にいる倭王に対して使いの旨を言上していること、4、『日本書紀』 では、襲世清の言上のみが記述され、倭王の発言は記述されていないが、『隋書』倭国伝では、両者の発言が記載されていること、について考えてみたとき、『日本書紀』 の記述は奇妙であるといわぎるをえない。なぜなら皇帝の名代としての宣諭使襲世清が 『日本書紀』 に見えるように、国書を持ち二度再拝して使いの旨を言上せしめられる、といったことがあったとは考えがたいからである。さらに『日本書紀』に拠ればその言上に対して倭王が応答したということもなかったようである。『隋書』倭国伝に見えるように倭王が昇際に「我夷人」などと称したとまでは考えがたいが、襲世清が帝使としての体面を保って帰国したとするならば、少なくとも倭王、ないしは倭国中枢のからの何らかの発言がなされたはずである。つまり、会談の際に発せられた倭王の発言は現在の 『日本書紀』 には収載されていないと考えられる。つまり、『日本書紀』 の当該箇所の記述は相当の偏向を含んでいると考えられるのである。
三 小野妹子の失書
前節では、・・・ 存在した。推古天皇十五年六月、襲世清一行が難波津に至ったとき、彼らをともなって倭国に帰着した小野妹子が上奏してきた。そのときのことを伝えて、『日本書紀』 に、
愛妹子臣奏之日、「臣参還之時、唐帝以書授臣。然経過百済囲之日、百済人探以掠取。是以不得上。」於是、群臣議之日、「天使人錐死之、不失旨。是使臭何怠之、失大国之書哉。」則坐流刑。時天皇勅之日、「妹子維有失書之罪、.鞭不可罪。其大国客等聞之、亦不良。」乃赦之不坐。
とある。すなわち、小野妹子は帰着すると、「臣が帰国の途に着いたとき、隋の皇帝は臣に書を授けた。しかし、百済の国を過ぎるとき、百済の人がこの書を掠め取った。そのためこの書を奉ることができません。」と上奏した。そこで群臣はこのことについて 「そもそも使節というものは命を落とすようなことがあったとしても、使節としての使命を果たさなければならない。この使節はどうして怠って大国の皇帝からの書を失うというような失態を演じたのか」、といい流刑に罪すべきであるとした。このとき天皇は「小野妹子に失書の罪はあるが、たやすく罪すべきではない。(いま来朝している) 大国の客らがこれを聞くこともまた良くないであろう。」と述べた。そこで小野妹子を赦して罪しなかった、とあるのである。
この小野妹子の失書については古来より種々の議論があるところである。すなわち、実際に小野妹子は百済から爆帝の書を奪われたとするもの、あるいはこの小野妹子の失書は聖徳太子などの倭国中枢と小野妹子との連携のもとに行われたとするものなどである。確かに当時の国際情勢から推して、百済がこの書を略取する可能性もある。しかし、その略取が誰によって行われたかが明らかになるほどの稚拙な行動を当時の百済がとるとも思えない。大業三年の時点で、百済は高句麗討伐を隋に請い、爆帝はそれを許して高句麗の動静を窺わせようとさえしていた (『隋書』百済伝)。とすれば皇帝が倭国に与えた書を奪ったというような情報が隋に流れることは百済にとって利益とはならなかったであろう。また、奪われた当事者としての倭国との関係にも支障を及ぼしたはずである。
群臣の議は流罪と決した。その議を覆した天皇の発言は『日本書紀』によれば「小野妹子に失書の罪はあるが、たやすく罪すべきではない。(いま来朝している)大国の客らがこれを聞くこともまた良くないであろう。」 とするものであった。実際、小野妹子が処罪されれば、その導きによっセ倭国に来朝した襲世情は訝しく思うかもしれない。しかし、その処罪が皇帝の書を奪われたことによるものであることを知れば、彼は小野妹子に対する処罪をき然のことと受け入れたであろう。量刑自体が軽いとさえ考えたかもしれない。そのような大罪を「其大囲客等聞之、亦不良」とする発言のもと不問に付すのは奇妙である。また、この襲世滞らに情報が伝わることを恐れた天皇のこの発言は「其大国客等聞之、亦不良」とあって、いわゆる「もまた(亦)」を挿入して語られている。ということは小野妹子処罪の議を覆した根拠としでの「其大国客等聞之、亦不良」は「乃赦之不坐也」とする小野妹子免罪の第一の根拠では敵いことになる。第一の根拠はその前にある記述「妹子維有失書之罪、鞭不可罪。」のところで語られるべきはずである。しかし、ここには何ら小野妹子免罪を正当化する根拠は記載されていない。実際に具体的な何かが語られていたのならば、「其大国客等聞之、亦不良」と同様に記載されているはずである。にもかかわらずここにはそうした記述は見られないのである。
つまり、小野妹子の免罪はその根拠が明確には示されることなく、倭王の大権の行使によって実行されたものであることがわかるのである。群臣が小野妹子失書の罪を議したことを伝えて『日本書紀』は「群臣議之日、『天使人錐死之、不失旨。是使奏何怠之、失大国之善哉。』則坐流刑。」と述べる。この箇所は「群臣議之日、『天使人錐死之、不失旨。是使央何怠之、失大国之書哉。則坐流刑。』」として「則坐流刑」を群臣の議の途中経過を記したものと考えることも可能である。しかし、『日本書紀』の「1 於是、群臣議之日、・・・
妹子失書に関する群臣の議は「流罪」と決していたのである。その議決を倭王は根拠を明示することなく、大権を行使することにまって覆したわけである。
ところで、この事件の当事者である小野妹子は、襲世清の帰国を伝えた『日本書紀』の記載に、
九月……辛巳、唐客襲世清罷蹄。則復以小野妹子臣為大使、吉士雄成為小便、福利為通事、副干唐客而遣之。
とあるように、失態を演じたにもかかわらず、再び遣隋大使に任ぜられ隋に赴いているが、このことをも合わせ考えてみると、この小野妹子失書はいよいよ不可解な事件と言わざるを得ない。よって筆者はこの小野妹子の失書は聖徳太子などの倭国中枢と小野妹子との緊密な連携のもとに行われたものと考えるのである。
では何故このようなことが生じたのであろうか。次にこの点について考えてみることとする。『隋書』倭国伝に、場帝の父・高祖文帝の開皇二十年(六〇〇) のこととして、
開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、競阿輩難禰、遣使詣開。上令所司訪其風俗。使者言、「倭王以天為兄、以日為弟。天未明時出聴政、跡扶坐。日出便停理務、云委我弟。」高祖日、「此太無義理」。於是訓令改之。
とある。増村宏氏はこのときの倭国使の発言に対して、倭国使は文帝から風俗を問われたのでそのまま答えたにすぎないとしている。また、大業三年の際の遣隋使がもたらした国書に見える「日出虞天子致書日没虞天子無芸云々」を念頭に置きながら、開皇二十年の場合は皇帝と倭国使との間の問答であり、大業三年の国書の場合とは区別すべきであるとする。しかし、倭の五王による最後の遣使(四七八年)以来、一二〇年余の沈黙を破って派遺された倭国からの使節の、中国再統一を果たした隋の皇帝たる文帝との間の問答を風俗を問われたことに対する、単なる回答と見なしてよいものであろうか。また、外交の場面における訪問国のリーダーとの間の問答を、単なる問答と見なすことができるのであろうか。
このときの倭国使の回答によれば、倭王は天の弟(当時の大王は推古であるので天妹とすべきか)、日の兄といぅことになる。周知のように「天子」は単に「天の子」のみを意味するのではなく、地上世界を統治せよとの天命を受け、天下に君臨する皇帝そのものを意味し、「日」は例えば『後漢書』巻六三李固伝に、李固の対策を挙げ、そこに、
中常侍在日月之側、馨執振天下。
とあるように、中国では皇帝そのものを暗喩する用語であるパまた、倭王が「天の弟」ということを、中国的家族制度に基づき天子たる中国皇帝の側から見れば、倭王は中国皇帝の叔父、叔母の位置に属する尊属ということになり、倭王が「日の兄」ということを「日」と暗喩される中国皇帝の立場から見れば、倭王は中国皇帝の兄ということになる。つまり、このことが文帝をして「これははなはだ理屈の通らない話だ」 (此太無義理)と言わしめた原因と考えられ、ために『隋書』倭国伝に、「於是訓令改之。」とみえるような対応が文帝によって採られたと考えられるのである。
このことを念頭において、この開皇二十年から七年後の大業三年の際の遣隋使がもたらした国書に見える「日出虞天子致書日没虞天子無芸云々」を見てみると、従来の研究ではこの国書の内容が倭国側の対等外交を求めた姿勢が示されたものとする理解が大勢であるが、一面では大業三年の遣隋使において倭国側は文帝の訓令を受けて一定の譲歩、修正を行ってきていると見ることもできるのである。何故なら大業三年の国書においては、小野妹子のもたらした国書の内容が場帝から見たとき、いかほど不遜なものであろうとも、「日出虞天子」「日没虞天子」という形でいずれもが「天子」であると称しているからである。そこには開皇二十年のときに見られたような叔父・甥や兄弟という家族的秩序を持ち出し、倭王を皇帝より上位に位置づけんとする姿勢はなくなっているからである。外交という問題の性質上、大業三年に遣隋使として中国に至った小野妹子が、その七年前の遣使の際、文帝が倭国に対して何らの「不満」を漏らし、天弟・日兄の主張を改めるよう訓令したことを認識していなかったということはあり得ない。それゆえ、小野妹子がもたらした国書に見える「日出虞天子致書日没虞天子無芸云々」の表現は、文帝の「於是訓令改之」という下命に対する倭国側の回答であったと考えられるのである。
周知のように『隋書』倭国伝によれば、小野妹子のもたらした国書を見た爆帝は、
璧之不悦、謂鴻臆卿日、攣夷書有無祀者、勿復以聞。
と述べたとされるが、この状況は、開皇二十年の遣隋使との問答をへて、それに対してその不合理さを指摘した文帝の場合と似通っている。文帝の場合はその不合理さを改めるよう訓令している。文帝がその訓令を文書の形で倭国使に手交したのか否かは定かではない。前節で述べたように襲世清がもたらした国書は宣諭を目指したものであったことが窺われるが、そこには訓令を示した文言は見あたらない。『隋書』倭国伝に拠れば、文帝は倭国使の回答に対して「此太無義理」と述べている。楊帝は「覚之不悦、謂鴻臆卿日、攣夷書有無祀者、勿復以聞。」とあってあからさまに不快の念を表明している。文帝と爆帝の場合を比較した場合、その不快の表明は爆帝の方が強くなされているといえよう。ではこの爆帝の「不快の念」はどのように倭国へと伝達されたのであろうか。小野妹子のときの場合、ことが倭国から送られた国書であるからにはその伝達が遣隋使に対してのみにとどめられた、あるいは倭国への伝達を要しないものとして処理されたといったことは考え難い。文帝のときの場合は、具体的な事柄は不明であるが訓令という形でそれが行われたことが窺える。ただし、文帝のときの場合、襲世清のような隋からの宮人派遣は行われていない。行われなかったと断言することはできないが、もし行われていたのであれば、必ずや日本あるいは中国のいずれかの史書にそのことが記載されたはずである。大業三年の場合は、隋使襲世清の派遣がなされた。しかしそのもたらした国書に訓令を窺わせる文吉は見出せないのである。
とすれば、小野妹子が帰国の際、爆帝から授けられた書とはその訓令書であったと考えざるを得ない。もしこの小野妹子にもたらされた爆帝の書の中に訓令のことが何ら記してなかったとすれば、そもそも何故爆帝が蓑世清と小野妹子との各々に国書を付託したのかという理由が極めて不可解なものとなるであろう。唯一、国書の紛失を恐れ、同一の文書を本国の使節と交渉国から派遣された使節との両名のものに預けるということが想定されるが、中国の外交においてこのようなことが行われた事例を筆者は寡聞にして知らない。よってこうした想定が実際にあったとは考えがたい。つまり、襲世清と小野妹子のもたらした文書の内容は異なっていたと考えられる。異なっていたとすれば小野妹子の授けられた書は訓令の内容を含んでいたと考えられるのである。
『日本書紀』によればその小野妹子の吾が百済によって奪われたという。このことについては先に述べたように種々の説があるが、いまはその詳細には立ち入らない。百済によって奪われたという説も成り立ちうるであろうし、小野妹子や倭国の中枢がその書を破棄したということも考えられるであろう。ただし、爆帝が小野妹子に授けた書にいかなる内容のことが書かれていたのかということについて、小野妹子が関知していないということはあり得ないであろう。また、小野妹子がその書の内容を知っていたならば、小野妹子は使節の使命として当然そのことを何らかの形で倭国中枢に伝達したはずであるから、倭国中枢もまたそのことを知ることになったであろう。そうでなければ、小野妹子失書についての群臣の決定をへた議を覆し、小野妹子を赦免しその後遺隋大使として再度派遣するという処置が採られるということはまず考え難いこととされよう。聖徳太子や推古天皇などの倭国中枢は小野妹子が失ったとされる爆帝からの書の内容が隋からの訓令にわたるものであったことを必ずや認識していたと考えられるのである。
むすび
本小論で指摘したことの大略を示せば次のようになる。
1 『隋書』倭国伝では襲世清は朝貢国に対する宣諭使として描かれているにもかかわらず、『日本書紀』の記では、倭王と隋からの使者・襲世清とをあたかも主従関係にあるかのように記述されている。
2 楊帝の国書は、若干の攻究や削除を経てはいるが、原文の体裁をかなり忠実に伝えている七考えられる。
3 襲世清が二度再拝した等とする『日本書紀』の記述には偏向が存在すると考えられる。
4 倭王は爆帝に預けられた書を失った小野妹子を、根拠を明示することなく群臣の議を押し切る形で赦罪し、その上で彼を遣隋大使に再任している。
5 小野妹子が紛失した腸帝の書には訓令の内容が記されていたと考えられる。
6 倭国からもたらされた大業三年の国書は、開皇二十年の訓令が踏まえられており、一定の修正、譲歩が加味されたものである。
堀敏一氏は、『日本書紀』 に、襲世清帰国の際のととを記して、
九月……辛巳、唐客襲世清罷蹄。則復以小野妹子寅大使。吉士雄成小便。福利焉通事。副手唐客、両道之。麦聴唐帝。其離日、東天皇敬白西皇帝。使人鴻臆寺掌客襲世清等至、久億万解。季秋薄冷、専如何。想情念。此即如常。今遣大鰻蘇困高、大祀乎那利等。謹白不具。
とある記載に見える国書について種々考察を加えられ、ここに「謹白」の表現が見えることなどからこの国書で倭王は隋の皇帝を先輩か兄に見立てているとされ、さらに「天皇」という用語はまず外交文書で使われはじめ、従来の大王あるいはオオキミと併用されながら国内で通用するようになったのではないか、そして、やがて律令の中で天皇号として定着するようになったとする、見解を述べている。筆者は氏の高見に賛同する者であるが、筆者の本稿における考察とこの高見とを接合させれば、当初、「天弟、日兄」の立場をとった倭国は、文帝の訓令を受け、「日出処天子」という表現を和らげた隋の天子と対等の称号を名乗った。しかしその後再び今度は爆帝から訓令を受け、それを受ける形で「謹白」などの表現を用い、隔の皇帝を先輩か兄に見立てこの間題を処理しよ(1・3 ) うとした、その過程で天皇の用語がもちいられたということになる。
その際、倭国が一定の譲歩を示しっつも、一貫して強い自己主張を貫いていることは注目するに値する。こうした自己主張は倭の五王のときに始まると考えられる治天下大王の用法などにも見ちれ、遣隋使段階の天子や天皇号の採用は、そうした倭の五王以来の倭国王権の展開の行き着いたところに生じたものであるといえる。筆者は先に古代日本におけるこうした中華意識が中国の政治思想の受容とともに形成されたものであること、そしてそうした動き題目本において創始されたわけではなく、中国の貌晋南北朝期の華北における非漢民族国家や朝鮮における高句麗などにも既に生じていたものであることなどを指摘したことがあるが、本稿で考察した倭国と隋との間里父渉の実態を踏まえるとき、倭国は真に邪馬台国や倭の五王の時代などに中国の「朝貢国」となったという意識をもったのであろうかという疑念を懐く。確かに、漢委奴国王印を受けた奴国を持ち出すまでもなく、古代日本における倭国の王は、卑弥呼の親魂倭王の称号と金印、倭の五王が南朝から受けた官職や王号、あるいは倭の五王最後の王・倭王武が南朝宋の最後の皇帝・順帝に対して奉った国書の中で、自ら中国皇帝の「臣」と表記しているなどヾ倭の五王の段階まで中国王朝の冊封国であるとの立場をとっている。しかし、この遣隋使段階における倭国の自己主張の強さをみるとき、それ以前の古代日本の政権中枢にいた人々にとって、中国に「朝貢する」と言うことはそのときそのときの時代状況に対応した方便に過ぎなかったのではないかという感を懐く。こうした考え方は、古代日本は、中国の冊封体制に入ることによって中国の思想や文物を取り入れつつ、貌晋南北朝期における中国の混乱に乗じて政治的独立を推し進め、最終的に天皇制に基づく律令制国家を完嵐したとする従来の研究の立場と矛盾するものではないが、微妙に敵密するところもある。こうしたについての一層の解明は今後の課題としたいと思う。  
 

 

 
乙巳の変 1

 

(いっしのへん、いつしのへん、おっしのへん)  中大兄皇子、中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した。俗に蘇我入鹿が殺された事件のことを指して「大化の改新」と言うこともあるが、厳密にはクーデターである「乙巳の変」の後に行われた一連の政治改革が「大化の改新」である。
乙巳の変の経過
蘇我氏の専横
推古天皇30年2月22日(622年4月8日)(同29年2月5日説もある)、朝廷の政を執っていた厩戸皇子(聖徳太子)が死去した。聖徳太子の死により大豪族蘇我氏を抑える者がいなくなり、蘇我氏の専横は甚だしいものになり、その権勢は天皇家を凌ぐほどになった。天平宝字4年(760年)に成立した『藤氏家伝』大織冠伝には蘇我入鹿の政を「董卓の暴慢既に國に行なはる」と批判する記述があり、董卓に比肩する暴政としている。
推古天皇34年5月20日(626年6月19日)、蘇我馬子が死に、子の蝦夷がかわって大臣となった。推古天皇36年3月7日(628年4月15日)、推古天皇が後嗣を指名することなく崩御した。
有力な皇位継承権者には田村皇子と山背大兄王(聖徳太子の子)がいた。血統的には山背大兄王の方が蘇我氏に近いが(聖徳太子は蘇我氏の血縁であり、山背大兄王の母は蝦夷の妹である)、有能な山背大兄王が皇位につき上宮王家(聖徳太子の家系)が勢力を持つことを嫌った蝦夷は田村皇子を次期皇位に推した。蝦夷は山背大兄王を推す叔父の境部摩理勢を滅ぼして、田村皇子を即位させることを強行する。これが舒明天皇である。
蘇我氏の勢いはますます盛んになり、豪族達は朝廷に出仕せず、専ら蘇我家に出仕する有り様となった。大派皇子(敏達天皇の皇子)は、群卿が朝廷に出仕することを怠っているので、今後は鐘を合図に出仕させることにしようと建議したが、蝦夷はこれを拒んだ。
舒明天皇13年10月9日(641年11月17日)、舒明天皇は崩御し、皇后であった宝皇女が即位した(皇極天皇)。蘇我氏の専横は更に甚だしくなった。
皇極天皇元年(642年)7月、日照りが続いたため、蝦夷は百済大寺に菩薩像と四天王像をまつり衆僧に読経させ焼香して雨を祈ったところ、翌日、僅かに降ったが、その翌日には降らなかった。8月、皇極天皇が南淵の川辺で四方を拝して雨を祈ったところ、たちまち雷雨となり、5日間続いた。人々は「至徳天皇」と呼んだ。これは蘇我氏と天皇家が古代君主の資格である祈祷力比べを行い、天皇家が勝っていたと後に書かれた史書の『日本書紀』が主張していることを意味する。
同年、蝦夷とその子の入鹿は、自分達の陵墓の築造のために天下の民を動員、聖徳太子の一族の領民も動員されたため、太子の娘の大娘姫王はこれを嘆き抗議した。
皇極天皇2年10月6日(643年11月22日)、蝦夷は病気を理由に朝廷の許しも得ず、紫冠を入鹿に授け大臣となし、次男を物部の大臣となした(彼らの祖母が物部守屋の妹であるという理由による)。
上宮王家の滅亡
皇極天皇2年11月1日(643年12月16日)、入鹿は蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を皇極天皇の次期天皇に擁立しようと望んだ。そのためには有力な皇位継承権者である山背大兄王の存在が邪魔であると考えた。入鹿は巨勢徳多、土師娑婆連の軍勢をさしむけ、山背大兄王の住む斑鳩宮を攻めさせた。これに対し山背大兄王は、舎人数十人をもって必死に防戦して土師娑婆連を戦死させるが、持ちこたえられず生駒山へ逃れた。そこで側近の三輪文屋君からは東国へ逃れて再挙することを勧められるが、山背大兄王は民に苦しみを与えることになると採り上げなかった。山背大兄王は斑鳩寺に戻り、王子と共に自殺。このことによって聖徳太子の血を引く上宮王家は滅亡した。入鹿が山背大兄王一族を滅ぼしたことを知った蝦夷は、「自分の身を危うくするぞ」と嘆いている。
蘇我入鹿暗殺
神祇を職とする一族の中臣鎌足は、蘇我氏の専横を憎み蘇我氏打倒の計画を密に進めた。鎌足はまず、軽皇子に接近するが、その器量に飽き足らず、クーデターの中心にたりえる人物を探した。
法興寺の打毬で、中大兄皇子の皮鞋が脱げたのを鎌足が拾って中大兄皇子へ捧げた。これが縁となって2人は親しむようになった。中大兄皇子と鎌足は南淵請安の私塾で周孔の教えを学び、その往復の途上に蘇我氏打倒の密談を行ったとされる。鎌足は更に蘇我一族の長老・蘇我倉山田石川麻呂を同志に引き入れ、その娘を中大兄皇子の妃とした。
皇極天皇4年(645年)、三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日した。三国の調の儀式は朝廷で行われ、大臣の入鹿も必ず出席する。中大兄皇子と鎌足はこれを好機として暗殺の実行を決める。(『大織冠伝』には三韓の使者の来日は入鹿をおびき寄せる偽りであったとされている)
皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、三国の調の儀式が行われ、皇極天皇が大極殿に出御し、古人大兄皇子が側に侍し、入鹿も入朝した。入鹿は猜疑心が強く日夜剣を手放さなかったが、俳優(道化)に言い含めて、剣を外させていた。中大兄皇子は衛門府に命じて宮門を閉じさせた。石川麻呂が上表文を読んだ。中大兄皇子は長槍を持って殿側に隠れ、鎌足は弓矢を取って潜んだ。海犬養勝麻呂に二振りの剣を運ばせ佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田に与えた。
入鹿を斬る役目を任された2人は恐怖のあまりに、飯に水をかけて飲み込むが、たちまち吐き出すありさまだった。鎌足は2人を叱咤したが、石川麻呂が表文を読み進めても子麻呂らは現れない。恐怖のあまり全身汗にまみれ、声が乱れ、手が震えた。不審に思った入鹿が「なぜ震えるのか」と問うと、石川麻呂は「天皇のお近くが畏れ多く、汗が出るのです」と答えた。
中大兄皇子は子麻呂らが入鹿の威を恐れて進み出られないのだと判断し、自らおどり出た。子麻呂らも飛び出して入鹿の頭と肩を斬りつけた。入鹿が驚いて起き上がると、子麻呂が片脚を斬った。入鹿は倒れて天皇の御座へ叩頭し「私に何の罪があるのか。お裁き下さい」と言った。天皇は大いに驚き中大兄皇子に問うと、中大兄皇子は「入鹿は皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとしました」と答えると、皇極天皇は直ちに殿中へ退いた。子麻呂と稚犬養網田は入鹿を斬り殺した。この日は大雨が降り、庭は水で溢れていた。入鹿の死体は庭に投げ出され、障子で覆いをかけられた。
蘇我本宗家の滅亡と大化の改新
古人大兄皇子は私宮へ逃げ帰った(この時皇子は「韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ」(「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)と述べたという)。中大兄皇子は直ちに法興寺へ入り戦備を固め、諸皇子、諸豪族はみなこれに従った。帰化人の漢直の一族は蝦夷に味方しようと蘇我氏の舘に集まったが、中大兄皇子が巨勢徳陀を派遣して説得(飛鳥寺での古人大兄皇子の出家を伝え、旗印を無くした蘇我氏の戦意喪失を図ったとする説もある)して立ち去り、蘇我家の軍衆はみな逃げ散ってしまった。
翌6月13日(7月11日)、蝦夷は舘に火を放ち『天皇記』、『国記』、その他の珍宝を焼いて自殺した。船恵尺がこの内『国記』を火中から拾い出して中大兄皇子へ献上した。こうして長年にわたり強盛を誇った蘇我本宗家は滅びた。
翌6月14日(7月12日)、皇極天皇は軽皇子へ譲位した。孝徳天皇である。中大兄皇子は皇太子に立てられた。中大兄皇子は阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣に任じ、後に「大化の改新」と呼ばれる改革を断行する。
日本書紀の潤色について
20世紀中後期頃までは、『日本書紀』の信憑性が評価され乙巳の変に始まる大化の改新が日本の律令制導入の画期だったと理解されていた。1967年12月、藤原京の北面外濠から「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出され郡評論争に決着が付けられたとともに、『日本書紀』のこの部分は編纂に際し書き替えられていることが明確となったとされている。詔が実践できていない矛盾や事実から、これらを書紀の編纂者らによる潤色とする意見もあるが、乙巳の変を機序とする大化の改新は後世の律令制に至る端緒であったことは間違いなく、また大化年間だけにとどまらず以降の律令完成までの一連の諸改革をいうとする解釈が近年は強い。なお、編年については日本書紀以外の史料による多面的な検討が必要となっている。
諸説
軽皇子首謀者説
遠山美都男は中臣鎌足・中大兄皇子はクーデターグループの一部にすぎず、軽皇子が変の首謀者だと推測している。変後の孝徳政権の中枢をしめた蘇我石川麻呂と阿倍内麻呂が、軽皇子の本拠地であった難波周辺に勢力基盤を持つか何らかの縁があったこと、また変後に難波に遷都(難波長柄豊崎宮)したことなどを理由としている。
半島諸国モデル説
蘇我入鹿が山背大兄王を滅ぼし権力集中を図ったのは、高句麗における淵蓋蘇文のクーデターを意識しており、乙巳の変は新羅における金庾信(『三国史記』によれば、黄帝の子の少昊金天氏の子孫)らによる毗曇の内乱鎮圧後の王族中心体制の元での女王推戴と類似していたが故に諸臣に受け入れられやすかったとする吉田孝の見解がある。更に同時期に百済でも太子の地位を巡る内乱があり、その結果排除された王子・豊璋が倭国への人質とされ、百済の後継者候補が人質名目で放逐されて倭国の宮廷に現れた衝撃が倭国の国内政治にも影響を与えたとする鈴木靖民の見解もある。
反動クーデター説
2005年から始まった発掘の結果、飛鳥甘樫丘で蘇我入鹿の邸宅が、「谷の宮門(はざまのみかど)」の谷の宮門で兵舎と武器庫の存在が確認された。また蘇我蝦夷の邸宅の位置や蘇我氏が建立した飛鳥寺の位置から、蘇我氏は飛鳥板蓋宮を取り囲むように防衛施設を置き外敵から都を守ろうとしたのではないかという説が出されている。
当時618年に成立した唐が朝鮮半島に影響力を及ぼし、倭国も唐の脅威にさらされているという危機感を蘇我氏は持っていた。そのため従来の百済一辺倒の外交を改め各国と協調外交を考えていた。それに対し、従来の「百済重視」の外交路線をとる中臣鎌足や中大兄皇子ら保守派が「開明派」の蘇我氏を倒したと言うものである。蘇我氏打倒後に保守派は百済重視の外交を推し進め、白村江の戦いでそれが破綻する。いわゆる「大化の改新」はその後に行われたと考えられる。
皇極王権否定説
乙巳の変はこれまでの大王(天皇)の終身性を否定し、皇極天皇による譲位を引き起こした。その意義について佐藤長門は乙巳の変は蘇我氏のみならず、蘇我氏にそれだけの権力を与えてきた皇極天皇の王権そのものに対する異議申し立てであり、実質上の「王殺し」に匹敵するものであったとする。ただし、首謀者の中大兄皇子は皇極天皇の実子であり実際には大臣の蘇我氏を討つことで異議申し立てを行い、皇極天皇は殺害される代わりに強制的に退位を選ばざるを得ない状況に追い込まれた。
ところが、次代の孝徳天皇(軽皇子)の皇太子となった中大兄皇子は最終的には天皇と決別してしまった。孝徳天皇の王権を否定したことで後継者としての正統性を喪失した中大兄皇子は、自己の皇位継承者としての正統性を確保する必要に迫られて乙巳の変において否定した筈の皇極天皇の重祚(斉明天皇)に踏み切った。だが、排除した筈の大王(天皇)の復帰には内外から激しい反発を受け、重祚した天皇による失政もあり、重祚を進めた中大兄皇子の威信も傷つけられた。斉明天皇の崩御後に群臣の支持を得られなかった中大兄皇子は百済救援を優先させるとともに群臣の信頼を回復させるための時間が必要であったため、自身の即位を遅らせたというのである。  
 
乙巳の変 2

 

蘇我氏を滅ぼした乙巳の変
乙巳の変とは、蘇我氏の専横が頂点にあった時代に大臣だった蘇我入鹿を皇居内で斬殺し、その騒動ののちに軍勢を繰り出し、入鹿の父である蘇我蝦夷を自害させた政変のことです。
これにより、蘇我氏の権勢は一気に衰退し、蘇我氏宗家は滅亡することになります。変わって朝廷政治の実権を握り、皇太子となった中大兄皇子と内大臣の地位に就いた中臣鎌足は、皇極天皇の弟である軽皇子を即位させて孝徳天皇とし、大化2年(646)1月に改新の詔を発布。ここから、大化の改新という政治改革がスタートしました。
登場人物
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
626年に、舒明天皇の第2皇子として誕生。母親は皇極天皇(後に再び即位して斉明天皇)、弟は大海人皇子(後の天武天皇)です。弱冠20歳にして乙巳の変で蘇我入鹿を討ち果たし、蘇我氏独裁体制を崩壊させた後、約20年間は皇太子として君臨。その後即位し、6年間を天智天皇として政治を司りました。
中臣鎌足(なかとみのかまたり)
614年に、神祇伯(じんぎはく・朝廷の祭祀を行う官庁の長官)、中臣御食子の長男として誕生。幼少期から非凡な才能を開花させ、中大兄皇子とともに蘇我入鹿を討ち果たします。中大兄皇子の政権では、外交と軍事を担当。のちに中大兄皇子から、内大臣の位と藤原の姓を賜りました。
蘇我入鹿(そがのいるか)
生年不詳。645年7月10日、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)内で暗殺されます。若くして父である蘇我蝦夷から、大臣の位と冠位十二階の最高位である紫冠を授けられ、国権の最高実力者となりました。
佐伯子麻呂(さえきのこまろ)
生年不詳。中臣鎌足の推挙により、蘇我入鹿討伐に加わりました。暗殺の実質的実行者で、入鹿に最初に斬りつけたともいわれています。
葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみた)
生年不詳。佐伯子麻呂同様、中臣鎌足の推挙により蘇我入鹿討伐に加盟。佐伯子麻呂とともに、入鹿に止めを刺したといわれています。
蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)
生年不詳。蘇我入鹿の従兄弟に当たりますが、入鹿の専横を許せず、中大兄皇子に加担します。大化の新政権では、右大臣に就任しました。
なぜクーデターは起こったのか
聖徳太子(厩戸皇子・うまやどのおうじ)とともに朝廷の政務を執っていた、蘇我馬子率いる蘇我氏は、聖徳太子の死後、その権力を強め、天皇の人事に介入するまでになりました。蘇我蝦夷から政治権力を委譲された蘇我入鹿は、皇極天皇の次期天皇に舒明天皇の第一皇子、古人大兄皇子を就けようと画策しますが、反蘇我勢力は、聖徳太子の子である山背大兄王を担いで対抗します。入鹿は政敵である山背大兄王を、軍勢をもって襲撃。斑鳩宮(いかるがのみや)で、聖徳太子の一族である上宮王家を滅ぼしました。
蘇我氏の増長に危機感を抱いた反蘇我勢力は、古人大兄皇子の異父弟である中大兄皇子と神祇官長官の息子である中臣鎌足を中心に、蘇我入鹿暗殺を計画。645年7月10日。飛鳥板蓋宮太極殿(あすかいたぶきのみやおおあんどの)でこれを実行に移し、入鹿を討ち取ります。翌日、豪族の多くが中大兄皇子側に参集するのを見た蘇我蝦夷は、自邸に火を放ち自害しました。これによって蘇我宗家は滅び、蘇我氏の独裁は終焉を迎えたのです。
大化の改新は政治改革だった
中大兄皇子や中臣鎌足が、蘇我氏の専横を止めるために乙巳の変を起こしたのは間違いありませんが、それ以外にも蘇我氏を打倒する理由がありました。それは、聖徳太子が端緒を開いた、天皇を中心とした中央集権国家の推進です。
この頃、天皇はまだ完全な世襲ではなく、多くの豪族の長という立場で、皇族の中で能力の高いものが継ぐという考え方でした。聖徳太子はこれを改め、民も土地も、全ては天皇によって統治されるという、中央集権国家の建設を目指しましたが、志半ばでこの世を去りました。唐へ留学した者や高僧、高度な教育を受けた豪族や皇族は、この中央集権国家を実現する必要性を感じます。彼らの熱望が根底にあったため、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を滅ぼしても、大きな争乱になることなく、中大兄皇子を中心とする政権が即時に誕生することが出来たのです。
改新の詔
大化の改新は、大化2年(646年)1月に発布された改新の詔をもとにした一連の政治改革でした。改新の詔では、大きくわけて4つの方針を定めていました。
公地公民の制
天皇や皇族、豪族が個々に支配してきた民や土地を廃止し、天皇家を長とする中央政府がこれを管理、支配する体制の樹立。実際には、豪族による所有は続き、政策は頓挫することになります。
班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)
戸籍に基づき、豪族や民に田を預け、収穫から税を徴収して国の財政に当てる制度。
租庸調制(そようちょうせい)
現代の国税、地方税にあたる制度。租は、田から徴収される税で、主に地方財源として使われました。庸は、正丁(せいてい・21歳〜60歳の男性)および次丁(じてい・61歳以上の男性)に課された労役のことで、実際は布や米などの代用品で納め、衛士(兵士)や采女(宮廷女官)の人件費や公共事業の財源に使われていました。調は、正丁・次丁・中男(17歳〜20歳の男性)に課されるもので、繊維製品や地方特産物、貨幣などで朝廷に直接へ納入され、中央政府の官人(役人)の給与などに使われたそうです。
国郡里制(こくぐんりせい)
日本の行政区を66の国にわけ、それを機内(現在の奈良県,京都府,大阪府)と七道(東海,東山,北陸,山陰,山陽,南海,西海)の地方に制定。地方は国・郡・里に編成されて国と郡に役所がおかれ、人民統制と税の徴収を行いました。
改革によって何が変わったのか
乙巳の変により、朝廷政治の主導権を握った中大兄皇子は、自らは皇太子となり、軽皇子を即位させて孝徳天皇とします。左大臣には孝徳天皇の義父に当たる阿倍内麻呂、右大臣には乙巳の変で早々に中大兄皇子に加担した蘇我倉山田石川麻呂、内臣に中臣鎌足、政権顧問としての国博士に高向玄理(たかむこのくろまろ)と旻(みん)を就任させ、体制を一新しました。この人事と政権運営により、各地方の豪族が民衆を直接支配する土地・人民支配の体制(氏姓制度)を廃止し、聖徳太子が提唱した、天皇を中心とする律令国家建設を目指すことになります。
重要な意味を持つ政治改革
乙巳の変以降、地方に国司(中央政府の行政官)が派遣され、朝廷による地方支配が強化されます。阿倍比羅夫を東北へ派遣し、蝦夷を討伐すると、朝廷の支配権は日本全土に拡大しました。662年には、白村江の戦いに敗れたのを契機に、大陸との境界にあたる筑前や対馬に水城を造ります。防人や烽火(ほうか)の設備を各所に設置し、国土防衛と国内体制の確立に重点がおかれ、668年に中大兄皇子が即位して天智天皇となると、全国統一の戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)を作り、671年には日本初の律令法典である近江令を施行しました。天智天皇亡きあとは、弟である天武天皇が即位します。兄の意思を継ぎ、中央集権国家体制の推進に尽力しました。
このように、乙巳の変からはじまった大化の改新は、日本の国家体制が中央・地方の豪族による連合統治体制から、朝廷による天皇中心の中央集権国家へ大きく変化した重要なターニングポイントだったのです。 
 
乙巳の変 3

 

乙巳の変の読み方や年号
乙巳の変の読み方は「いっしのへん」または「おっしのへん」と言い、乙巳の変が起こった645年は、最近までは学校の歴史の授業で大化の改新の年号とされていました。
ところが最近の歴史の解釈では、大化の改新は改新の詔が出された646年とされ、今まで大化の改新に含まれていた蘇我入鹿暗殺事件が乙巳の変として独立したために、このように変更されました。
乙巳の変が起こった背景
では、この乙巳の変はなぜ起きたのでしょうか?
乙巳の変の伏線は推古天皇時代の622年4月8日、朝廷政治の中心人物だった厩戸皇子(うまやどのおうじ・聖徳太子)が死去したところから始まります。
厩戸皇子は大豪族であった蘇我馬子の協力を得て冠位十二階や十七条憲法などを定めて政治を行っていたため、厩戸皇子亡きあと、朝廷政治は蘇我氏中心に動かされていきました。
蘇我蝦夷の台頭
蘇我馬子が死ぬと、その子である蘇我蝦夷が大臣となり、政治を取り仕切るようになります。
蝦夷が政権を握ったあと推古天皇が後継指名をせずに崩御、次期天皇には田村皇子(後の舒明天皇・じょめいてんのう)と山背大兄王(やましろのおおえのおう・聖徳太子の子)が有力候補でした。
蘇我蝦夷は蘇我氏の血が濃い有能な山背大兄王よりも、蝦夷の意向に従う田村皇子を天皇に就けようと、山背大兄王を推している同じ蘇我一族の境部臣摩理勢(さかいべのまりせ・馬子の弟とされる)を攻め滅ぼし、山背大兄王を孤立させ、田村皇子を即位させることによって舒明天皇を誕生させます。
蘇我一族が権力を握る
天皇に意中の舒明天皇を就けたことで蘇我蝦夷を代表とする蘇我一族の専横は募り、他の豪族たちは朝廷に出仕せずに蘇我蝦夷のご機嫌をとるために蝦夷詣でを始めます。
これに機嫌を良くした蝦夷は舒明天皇の崩御後に即位した皇極天皇(こうぎょくてんのう)の時代には、蘇我氏の墓の造営に天下の民を動員したり、公務である大臣の座を息子の入鹿に世襲させるなど、最早誰にも止めることの出来ない独裁者として君臨します。
蘇我入鹿が大臣に
蘇我蝦夷のあと大臣となった入鹿の野望は、皇極天皇の次の天皇に蘇我一族の血を引く古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を就けることでした。
しかし今回も次期天皇の最有力候補である山背大兄王が邪魔になります。
そのため今回は山背大兄王自身を亡きものにしようと軍勢を斑鳩宮に差し向け、山背大兄王やその王子など上宮王家(聖徳太子の血を引く皇家)一族を自害に追い込みます。
ここまでくると一部の有力豪族の中にも反蘇我氏の機運が生まれます。
中臣鎌足と中大兄皇子による蘇我入鹿の暗殺計画
その最右翼に位置したのが皇族の祭、行事を司る神祇(じんぎ)を仕事とする中臣氏の一人、中臣鎌足(なかとみのかまたり)でした。
中臣鎌足は皇族の中にも味方を求め、これに応じたのが皇極天皇の次男となる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)で、二人は蘇我一族の長老である蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)も味方に引き入れ、蘇我入鹿包囲網を形成しました。
乙巳の変の勃発
645年7月10日、朝鮮からの使節への接見のため、天皇以下有力豪族が挙って大極殿へ出仕し、当然大臣である蘇我入鹿も出仕しており、このチャンスを中臣鎌足と中大兄皇子は逃すことなく蘇我入鹿を討ち取りました。
蘇我氏の反撃に備えた中大兄皇子は法興寺で軍備を整えると多くの豪族が味方に加わり、蘇我氏に付こうとした豪族も説得に応じて蘇我蝦夷は孤立しました。
翌日蘇我入鹿を謀殺され、有力豪族が離反して勝ち目がないことを悟った蘇我蝦夷は自邸に火を放って自害、蘇我氏の後ろ楯を失った古人大兄皇子も出家して吉野へ逃れますが、後に謀反の疑いをかけられ中大兄皇子に攻め殺されます。
こうして蘇我宗家と古人大兄皇子という政敵を一気に葬り去った中大兄皇子と中臣鎌足は政権を奪取して理想とする中央集権国家への政治改革を断行していきます。
乙巳の変が起こった場所
現在の奈良県明日香村。ここが乙巳の変が起こった場所だとされています。
この明日香村にある飛鳥寺の境内を抜けたところに、「蘇我入鹿首塚」という五輪塔が立っており、蘇我入鹿の首がその五輪塔まで飛んできたことに由来しているそうです。
大化の改新
乙巳の変の翌年に孝徳天皇が出した改新の詔をもって始まった政治改革を大化の改新といい、当然その中心となったのは皇太子となった中大兄皇子と内臣となった中臣鎌足でした。
大化の改新では、公地公民制や律令制など、当時としては先進的な制度が作られました。
エピソード
蘇我入鹿を大極殿で暗殺するために中大兄皇子は長槍を持って、中臣鎌足は弓矢を持って蘇我入鹿から見えないところに隠れ、味方に加わった佐伯子麻呂(さえきのこまろ)と葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみた)には海犬養勝麻呂(あまのいぬかいのかつまろ)が持ち込んだ剣がそれぞれ渡されました。
当初の予定では佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田が最初に蘇我入鹿に斬り付ける段取りでしたが、二人はあまりの恐怖と緊張で全身が硬直し、汗も尋常でないほどにかいていたそうです。
式典が終わりに近づいても蘇我入鹿に二人が斬りかからないため、このままでは失敗すると思った中大兄皇子は自ら蘇我入鹿の前に飛び出し、槍で蘇我入鹿を突くと佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田の二人も意を決して斬りかかり、頭と肩に傷を負わせ蘇我入鹿は昏倒しました。
蘇我入鹿が立ち上がって皇極天皇に助けを求めましたが、皇極天皇は奥に退き残った蘇我入鹿は佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田の二人にとどめをさされました。
栄耀栄華を極めた蘇我氏もわずか四人の刺客に襲われた蘇我入鹿が死ぬと一気に瓦解してしまい、見る影もなく歴史の表舞台から消え去りました。
まとめ
645年に起こった乙巳の変は簡単に言えば蘇我入鹿暗殺事件です。
日本史上では数少ないテロによる政変で、権力者をピンポイントで抹殺しその巨大な組織を崩壊させるという見事な戦術でした。
これまでは蘇我入鹿の専横を許せなかった若き二人の英雄が政治を正したという解釈でしたが、実際は大化の改新の政治改革自体が行われた形跡が怪しくなっており、政変ではなくて権力闘争であったという解釈がなされています。
いずれは色々な研究の成果によりその真意が判明する時代がやってくるのでしょうが、それまでは二人の英雄が奸賊を討ち取った勧善懲悪の事件、という今までの解釈で乙巳の変はまとめておきたいと思います。 
 
乙巳の変 4

 

乙巳の変とは
乙巳の変(いっしのへん)とは、皇極天皇の時代、645年に中大兄皇子と中臣鎌足らが、聖徳太子の死後ずっと政治の実権を握っていた蘇我氏に対して起こしたクーデターのことです。
皇極天皇の住む場所「飛鳥板蓋宮」で蘇我入鹿(そがのいるか)を殺害しました。
後を追うように、入鹿の父蝦夷(えみし)も自害し、蘇我氏は滅亡しました。
その後、中大兄皇子らは天皇に権力を集中させ、律令で統治する律令国家の建設を目指します。この政治改革が大化の改新と呼ばれています。
おさらいすると、645年中大兄皇子と中臣鎌足による蘇我入鹿を暗殺したクーデターが乙巳の変。乙巳の変後の政治改革が大化の改新です。
乙巳の変の原因
中大兄皇子と中臣鎌足らが乙巳の変を起こしたのは、天皇中心の律令国家建設を目指すためです。
中大兄皇子たちは、蘇我氏が実権を握る政治のままでは、隣の大国、唐には到底かなうはずもなく、もし、唐に攻められたら日本はひとたまりもないという危機感を持っていました。
そうならないために、一刻も早く、天皇中心の律令によって国を治める律令国家の建設にとりかかりたかったのです。
そんな中大兄皇子たちにとって、律令国家建設に反対する姿勢をとり、政治の実権を握っていた蘇我氏の存在は邪魔だったわけです。
乙巳の変が起こるまで / 背景や内容
蘇我氏の独裁
絶対的なカリスマ聖徳太子が死んだ後、政治の実権を握ったのが蘇我氏。
聖徳太子とともに推古天皇を支えた蘇我馬子の子ども蘇我蝦夷 (えみし)と、孫の入鹿 (いるか)が権力を独占しました。
推古天皇の後継者を誰にしようか?と決める時も、聖徳太子の子ども山背大兄王(やましろのおおえのおう)が候補に挙がると蝦夷と入鹿は猛反対しました。
なぜなら、蘇我氏の権力が弱まり、政治の実権を握れなくなるのをさけたかったからです。そこで、蘇我氏の息のかかった舒明(じょめい)天皇を即位させ、蘇我氏の独裁政権を維持しました。
しかし、641年舒明天皇が死去すると再び後継者問題が浮上。今度こそ次期天皇は山背大兄王と思われましたが、蘇我氏は、舒明天皇の奥さんを次の天皇、皇極天皇としました。
さらに、蝦夷と入鹿親子は、643年、目の上のたんこぶである山背大兄王を妻子ともども自殺に追い込み、皇極天皇の次の天皇として古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を擁立。蘇我氏の独裁体制を維持する基盤固めを行いました。
唐の影響
蘇我氏の独裁体制に危機感をいだいたのが、中大兄皇子と中臣鎌足でした。
このまま蘇我氏がトップにいたら、隣の大国唐が攻め込んで来たら日本がひとたまりもないことがわかっていました。
そんな最悪の状況を避けるため、一刻もはやく、唐に負けないような天皇に権力を集め律令に基づいて統治する天皇中心の律令国家を建設したかったのです。
大兄皇子らのクーデター乙巳の変
志しを同じくする中大兄皇子と中臣鎌足は、権力にこだわり律令国家の建設に反対する入鹿を飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)に呼び出しました。
その中の大極殿(だうごくでん)という大広間、いわば皇居のど真ん中で堂々と入鹿を殺害しました。
この中大兄皇子らのクーデターが乙巳の変です。
入鹿の死後、蝦夷も追い詰められて自害。こうして、馬子、蝦夷、入鹿と3代にわたって権力を独占していた蘇我氏が滅亡しました。
乙巳の変の中心人物である中大兄皇子にとって、蘇我氏は、天皇中心の律令国家の建設の邪魔者であるうえ、自分の命を奪いかねない危険な存在でもありました。
実は中大兄皇子は、舒明天皇と皇極天皇の子ども。つまり次期天皇の有力候補だったわけです。
しかし、舒明天皇には母親が異なる皇子がいて、その皇子こそが蘇我氏が次期天皇に推していた古人大兄皇子でした。
つまり、蘇我氏がいると中大兄皇子は天皇になれないだけでなく、暗殺される可能性もあったのです。
そういった面からも蘇我氏は中大兄皇子にとって消えて欲しい存在だったわけです。
乙巳の変のその後
皇極天皇にかわり弟の軽皇子(かるのみこ)が孝徳天皇として即位しました。
元号を大化に定め、都を飛鳥から難波に移し、難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)を建てました。ちなみに、日本史上に初めて登場した元号が大化です。
乙巳の変の後、中大兄皇子は皇太子・中臣鎌足は天皇の補佐役内臣(うちつおみ)に就任。
さらに、最高官職であった大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)を廃止して、左大臣、右大臣を新設。
初代左大臣には阿倍内麻呂(あべのうちのまろ)、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)が就きました。
また、新政府の最高顧問に国博士(くにのはかせ)という役職が設けられ、僧旻 (そうみん) と高向玄理 (たかむこのくろまろ) を任命しました。
こうして、天皇中心の律令国家実現にむけた体制が整えられました。
乙巳の変の翌年、646年には、新政府の基本方針4か条を示す改新の詔を発表。詔とは天皇の言葉、天皇の命令という意味です。
改新の詔で示された4か条は・・・
   公地公民制(豪族の土地私有を禁じ、土地人民は国のものとした)
   国郡制 (都の周辺を畿内とし、全国を国と郡に分けた)
   戸籍の作成および班田収授法(戸籍をつくり、人々に口分田を貸した)
   租調庸の税制(口分田を与えられた人は税を納めることとした)
この改新の詔で示された国づくりの方針は、およそ50年後の701年大宝律令の制定により実を結ぶことになります。
まとめ
・ 645年中大兄皇子と中臣鎌足らが飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を殺害した事件のこと。
・ 政権を握っていた蘇我氏から実権を奪い、天皇に権力を集中させた律令国家を建設することが目的だった。
・ 乙巳の変によって、蘇我氏が滅んだ。
・ 乙巳の変後、中大兄皇子は皇太子に、中臣鎌足は天皇の補佐役内臣に就任した。
・ 乙巳の変後に孝徳天皇のもと行われた公地公民などの政治改革を大化の改新という。 
 
乙巳の変 5

 

622年4月8日 厩戸王(うまやどおう)(聖徳太子)死去。推古天皇30年2月22日 朝廷の政を執っていた厩戸王(推古天皇の甥)が死去により、大豪族・蘇我氏を抑える者がいなくなり、蘇我氏は天皇家を凌ぐほどの専横となった。 「董卓の暴慢既に國に行なはる」と批判されている(760年 『藤氏家伝』大織冠伝)。
626年6月19日 蘇我馬子(そがのうまこ)死去。推古天皇34年5月20日 蘇我馬子が死に、子の蘇我蝦夷(そがのえみし)がかわって大臣となった。
628年4月15日 推古天皇崩御。推古天皇36年3月7日 推古天皇が後嗣(こうし)を指名することなく崩御した。
皇位継承争い
後継者・山背大兄王(やましろのおおえのおう)(聖徳太子の子)は、父・厩戸王(聖徳太子)が蘇我氏の血縁であり、母は蝦夷の妹であるため、蘇我氏に近かったが、欽明天皇の庶子である用明天皇の直系・山背大兄王が皇位につき上宮王家(聖徳太子の家系)が勢力を持つことを嫌った蘇我蝦夷は、欽明天皇の嫡男である敏達天皇の直系の田村皇子を次期皇位に推し、山背大兄王を推す叔父の境部摩理勢(さかいべのまりせ)を滅ぼして、田村皇子の即位を強行した。
629年2月2日 舒明天皇(じょめいてんのう)即位。蘇我蝦夷に推され田村皇子は第34代天皇に即位した。(舒明天皇)
641年11月17日 舒明天皇崩御。舒明天皇13年10月9日 舒明天皇は崩御し、皇后であった宝皇女が即位した(皇極天皇)。蘇我氏の専横は更に甚だしくなった。
643年 上宮王家の滅亡。蘇我蝦夷は朝廷の許しを得ずに、子の蘇我入鹿(そがのいるか)に紫冠を授け大臣とする。 蘇我入鹿は蘇我氏の血を引く古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を次期天皇に擁立しようと望み、有力な皇位継承権者・山背大兄王の住む斑鳩宮(いかるがのみや)を攻めた。 山背大兄王は王子と共に自決し、聖徳太子の血を引く上宮王家は滅亡した。
645年6月12日 蘇我入鹿暗殺。中臣鎌子は、蘇我氏の専横を憎み蘇我氏打倒の計画を密に進めた。軽皇子に接近する中大兄皇子と出会い、蘇我氏打倒の密談を行う。蘇我一族の長老・蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわまろ)を同志に引き入れ、その娘を中大兄皇子の妃とする。三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日し、朝廷(板蓋宮(いたぶきのみや))で行われる「三国の調の儀」に参加する蘇我入鹿を暗殺した。
蘇我氏(蘇我本宗家)の滅亡。蘇我蝦夷は舘に火を放ち『天皇記』、『国記』、その他の珍宝を焼いて自決したことにより、長年にわたり強盛を誇った蘇我本宗家は滅亡する。 6月14日、皇極天皇は軽皇子へ譲位し(孝徳天皇)、中大兄皇子は皇太子に立てられた。 中大兄皇子は阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣に任じ、後に「大化の改新」と呼ばれる改革を断行する。  
 
乙巳の変 6

 

乙巳の変が起きた原因は「蘇我氏」
蘇我氏っていうのはホントに絶大な権力を持っていたんだ。特に蘇我馬子は、物部氏を滅ぼして邪魔者も消して、聖徳太子とタッグを組んで政治の実権を握った。馬子が蘇我氏の力を確実なものにしたといっても過言じゃない。
さらに聖徳太子が死んでしまうと、もう完全に蘇我氏の独断専行になっていってしまう。馬子の子である蘇我蝦夷(そがのえみし)、さらに蝦夷の子である蘇我入鹿(いるか)も馬子のように横暴な政治をやりまくった。
一説には、当時の蘇我氏は天皇家の持つ権力を超えるレベルの力を持っていた可能性まであるらしい。まさに「強靭!無敵!最強!」状態だったわけだ。
しかし。当然だけど、こんな蘇我氏の横暴をみんなが受け入れて許すはずがない。不満を抱く豪族も多くいたし、中には「蘇我氏をぶっ潰してやりたい・・・!」と考える人もいた。
蘇我入鹿が殺害される
「打倒!蘇我氏」勢の急先鋒を担ったのが、中臣鎌足と中大兄皇子。
最初に手にかけられたのは蘇我入鹿だった。入鹿は、自分たち蘇我一族にとってジャマな存在だった聖徳太子の子(山背大兄王)を追い込んで自殺させていた。
これはあまりに横暴すぎやしないか、ということで豪族たちからヘイトが集まっていたんだ。というわけで入鹿が最初のターゲットになった。
入鹿暗殺ミッションに参加したのは、中臣鎌足・中大兄皇子のほか、蘇我倉山田石川麻呂という蘇我氏側の裏切り者、あとは鎌足の子分2人。
鎌足と中大兄皇子は、「朝鮮から使者来たからセレモニーやります。入鹿さんも来てね!」と言って入鹿をおびき寄せることに成功した。
当初の作戦では、石川麻呂が文書を読みあげている隙に鎌足の子分たちが剣で斬り殺す、という計画だった。鎌足は弓、中大兄皇子は槍を持って後方待機。
入鹿を部屋に入れて、いざ作戦開始。石川麻呂は予定通り文書を読み上げて隙を作ったんだけど・・・。
なんと肝心の子分たちが待てど暮らせど出てこない。どうやら入鹿を殺すことにビビりまくってしまったらしい。
この状況に石川麻呂も(えぇぇ〜・・・!誰も出てこねえじゃんどうすんだよ!入鹿に変な目で見られてんだけど・・・!)と焦り始める。この様子を見た中大兄皇子は(アイツらビビりやがって!もう俺がやってやる!)と考え自分から入鹿を斬りつけに行った。
やっと踏ん切りがついたのか、子分二人も参戦して入鹿をメッタ斬りにした。これにて入鹿暗殺は成功。
蘇我蝦夷は自殺
入鹿を殺したことが父である蝦夷に知れるのは時間の問題。蝦夷が知れば、戦闘になる可能性は大いにある。
そこで、戦闘準備をしながら蝦夷側の軍勢にコッソリ「なあ、お前ら蘇我の側につくのやめないか・・・?」と話を持ち掛ける。でもって、これが成功する。蝦夷側につくはずだった軍勢は集まらず、蝦夷側はまともな戦闘ができない状態に。
それを悟った蝦夷は、自分の家に火を放って運命を共にした。
かくして蘇我氏は滅亡し、新しい時代の幕開けとなるわけだ。
ちなみに年号についてだけど、乙巳の変は645年に起きた事件で、次回以降詳しく見ていく「大化の改新」は翌年の646年から始まるよ。
乙巳の変の黒幕について
ここからがヒジョーに面白いとこなんだけど、乙巳の変は「中臣鎌足と中大兄皇子が首謀者ではないのではないか?」という説があるんだ。
まず、中臣鎌足・中大兄皇子が首謀者じゃないという説の根拠を挙げよう。
• 鎌足も中大兄皇子もかなり若く(どちらも20代〜30代)、その若さでクーデターを実行するための周りへの根回しができたのか疑問。
• 日本書紀の「乙巳の変」の記述が、鎌足や中大兄皇子について脚色している(盛っている)可能性がかなり高い。
• そもそも蘇我氏に対抗できるだけの経済力を持っていたのか?
などなど・・・。
鎌足と中大兄皇子を首謀者と考えるとちょいと違和感が出てきてしまう、というわけだ。で、今有力な説として「黒幕は軽皇子と阿倍内麻呂」説がある。
軽皇子(かるのみこ)は天皇家の血を受け継いでいるものの、天皇に指名される順位がかなり下だったので、何もなければおそらく天皇になることはできなかった人物。
軽皇子のお嫁さんは阿倍内麻呂という豪族の娘だったんだけど、どうもこの阿倍内麻呂はかなりの権力・経済力を持っていたと推測されている。軽皇子自身も、難波(現在の大阪府)では大きな権力を持っていた。
軽皇子&阿倍内麻呂タッグともなれば蘇我氏に対抗できる力がある。そこで蘇我氏を倒し、蘇我氏の操り人形状態の天皇を辞めさせ、軽皇子が天皇になろうとしたから乙巳の変を起こしたのではないか、というわけだ。
鎌足たちはそのクーデターを起こす実行犯に過ぎなかったというんだ。
実際軽皇子は乙巳の変の後「孝徳天皇」として天皇になってるし、安倍内麻呂も孝徳天皇に命じられて後にとても高い地位についている。孝徳天皇は都を難波に移している(=自分の影響力がある地域に移した)こともこの説を裏付けている。 
 
皇極天皇(二十七)乙巳の変 7

 

原文
六月丁酉朔甲辰。中大兄、密謂倉山田麻呂臣曰、三韓進調之日必將使卿讀唱其表。遂陳欲斬入鹿之謀、麻呂臣奉許焉。戊申、天皇御大極殿、古人大兄侍焉。中臣鎌子連、知蘇我入鹿臣、爲人多疑、晝夜持劒。而教俳優、方便令解、入鹿臣、咲而解劒、入侍于座。倉山田麻呂臣、進而讀唱三韓表文。於是、中大兄、戒衞門府一時倶鏁十二通門、勿使往來、召聚衞門府於一所、將給祿。時中大兄、卽自執長槍、隱於殿側。中臣鎌子連等、持弓矢而爲助衞。使海犬養連勝麻呂、授箱中兩劒於佐伯連子麻呂與葛城稚犬養連網田、曰、努力努力、急須應斬。子麻呂等、以水送飯、恐而反吐、中臣鎌子連、嘖而使勵。倉山田麻呂臣、恐唱表文將盡而子麻呂等不來、流汗浹身、亂聲動手。鞍作臣、怪而問曰、何故掉戰。山田麻呂對曰、恐近天皇、不覺流汗。中大兄、見子麻呂等畏入鹿威便旋不進、曰、咄嗟。卽共子麻呂等出其不意、以劒傷割入鹿頭肩。入鹿驚起。子麻呂、運手揮劒、傷其一脚。入鹿、轉就御座、叩頭曰、當居嗣位天之子也、臣不知罪、乞垂審察。天皇大驚、詔中大兄曰、不知所作、有何事耶。中大兄、伏地奏曰、鞍作盡滅天宗將傾日位、豈以天孫代鞍作乎。(蘇我臣入鹿、更名鞍作)。天皇卽起、入於殿中。佐伯連子麻呂・稚犬養連網田、斬入鹿臣。

(即位4年)6月8日。中大兄(ナカノオオエ)は密かに倉山田麻呂臣(クラヤマダノマロノオミ=蘇我倉山田麻呂臣)に語って言いました。
「三韓(ミツノカラヒト)の調(ミツキ=税)を献上する日に、必ず卿(イマシ=お前)にその表(フミ)を読唱させる」
それで入鹿(イルカ=蘇我入鹿)を斬ろうとする策を陳述しました。麻呂臣は許諾しました。
6月12日。天皇は太極殿(オオアンドノ)に居ました。古人大兄も居ました。中臣鎌子連(ナカトミノカマコノムラジ)は蘇我入鹿臣の人となりをとても疑っていて、昼も夜も剣を持っていると知り、俳優(ワザヒト=滑稽な動きで歌謡をする人)に教えて、方便を言って、剣を解かせました。入鹿臣は咲(ワラ)って剣を解きました。中に入って座(シキイ)に居ました。倉山田臣麻呂臣(クラヤマダノマロノオミ)は進んで三韓の表文(フミ)を読唱しました。すると中大兄(ナカノオオエ)は衞門府(ユケイノツカサ=門を守る部署)に戒め、一時的に12の通門を差し固めて、往来できないようにしました。衞門府(ユケイノツカサ)を一箇所に呼び寄せ集めて、禄(=褒美)を与えようとしました。その時、中大兄はすぐに自ら長い槍(ホコ)を取って、宮殿の側に隠れました。中臣鎌子連たちは、弓矢を持って、助け守りました。海犬養連勝麻呂(アマノイヌカイノムラジカツマロ)に、箱の中の二つの剣を佐伯連子麻呂(サエキノムラジコマロ)と葛城稚犬養連網田(カヅラキノワカイヌカイノムアラジアミタ)に授けさせて言いました。
「努力努力(ユメユメ)、あからさまに、あっという間にすぐに斬るのだ!」
子麻呂たちは水で飯をかき込みました。恐ろしくて、吐き出しました。中臣鎌子連は叱咤激励しました。倉山田麻呂臣は表文を読みおえようしていましたが、子麻呂たちが来ないのを恐れて、流れ出る汗が全身を濡らし、声が乱れて手がわななきました。鞍作臣(クラツクリノオミ=蘇我入鹿)は怪しく思って問いました。
「なぜ、震えてわなないているのか」
山田麻呂は答えて言いました。
「天皇に近づける恐れ多いことに、不覚にも汗が流れ出ているのです」
中大兄は、子麻呂たちが入鹿の勢いに恐れて、巡るばかりで進まないのを見て言いました。
「咄嗟(ヤア)!」
すぐに子麻呂たちと共に、不意に剣で入鹿の頭肩を傷つけ、割りました。入鹿は驚いて、立ちました。子麻呂は手で剣を拭いて、一つの足を傷つけました。入鹿は御座(オモト=天皇の元)へと転んでたどり着いて、頭を床に叩きつけて言いました。
「まさに嗣位(ヒツギノクライ=天皇位)に居るべきは天子です。私は罪を知らない。このようなことをするのは、何事があるというのですか!」
中大兄は地に伏して申し上げました。
「鞍作(クラツクリ=蘇我入鹿)は天宗(キミタチ)を全て滅ぼして、日位(ヒツギノクライ=天皇位)を傾けようとしているのです。どうして天孫(テンソン)が鞍作に代わるというのでしょうか」
蘇我臣入鹿は別名が鞍作といいます。
天皇はすぐに立って、宮殿の中に入りました。佐伯連子麻呂・稚犬養連網田は入鹿臣を斬りました。
皇極天皇(日本書紀)
舒明天皇即位2年 のちの皇極天皇は皇后に。
舒明天皇即位13年 舒明天皇が崩御。
皇極天皇即位1年1月 即位。阿曇連比羅夫が帰国。百済は乱れていると報告あり。
即位1年2月 阿曇山背連比良夫・草壁吉士磐金・倭漢書直県を百済に派遣。豊璋の弟の塞上の悪さ。高麗の使者が難波に停泊。高麗も乱れている。大王が殺され、弟王の子が王に。津守連大海を高麗へ、国勝吉士水鶏を百済に、草壁吉士眞跡を新羅に、坂本吉士長兄を任那に使者として送る。
即位1年3月 雲もなく雨が降る。新羅が即位の祝いと葬儀の使者を送る。長雨があった。
即位1年4月 蘇我蝦夷が百済の王子の翹岐を呼び、話し合う。塞上は呼ばなかった。長雨があった。
即位1年5月 翹岐と射猟。百済の使者が難波に。翹岐の従者が死亡。翹岐の子が死亡。子の葬儀に参列しなかった。稲が熟す。翹岐が大井に移住。
即位1年6月 小雨が降る。日照りがある。
即位1年7月 客星が月に入る(不吉)。百済の使者の智積と宴会。翹岐の前で相撲を取る。蘇我入鹿の従者が白い雀を捕らえる。臣たちが話し合う。「神を祀っても天変地異(日照り)が収まらない」。すると蘇我蝦夷は仏教儀式(御経を読む)を行えば治ると言う。儀式を行うが、雨が降らない。
即位1年8月 天皇が南淵で拝むと雨が降る。徳のある天皇と民が喜ぶ。百済の使者が帰る。船を与えた。風が吹いて使者の船は壊れる。百済の人質に官位を与える。
即位1年9月 百済大寺の造営。近江と越から労働者を徴収。船舶も作らせる。天皇は宮を作ろうと材木と労働者を徴収。越の蝦夷数千人が帰属。
即位1年10月 8日地震。9日地震。蝦夷と宴会。蘇我蝦夷が蝦夷を家に迎えて宴会。新羅の弔いと即位祝いの使者が壱岐島に停泊。24日地震。雲もなく雨が降った。
即位1年11月 大雨と雷。西北で雷1回。西北で雷5回。春のように暖かい。北で雷1回。新嘗祭を行う。
即位1年12月 春のような気温。雷が昼に5回、夜に2回鳴る。舒明天皇の葬儀。東北で雷3回。東で雷2回。小墾田宮に遷都。雷が1回。春のように暖かい。
即位1年 この年に蘇我蝦夷は葛城に高宮を立て、八佾之儛を踊り、歌を歌う。また大小二つの墓を作り、大きい方を蘇我蝦夷、小さい方を蘇我入鹿の墓とした。それを聞いて聖徳太子の娘が怒る。
即位2年1月 五色の雲が立つ。大風が吹く。桃の花が咲く。アラレが降流。冬の儀式で国内の神官たちが蘇我蝦夷の先を争って言葉をかけた。
即位2年3月 百済の使者が止まる家が火災。霜で花が痛む。みぞれが降る。
即位2年4月 大風と雨。寒い。西風が吹き、アラレが降る。寒い。太宰府から百済の翹岐が来日したと報告。天皇は飛鳥板蓋新宮に移動。近江で一寸のアラレが降る。
即位2年5月 日蝕。
即位2年6月 太宰府から「高麗の使者が来た」と報告。高麗は長いこと朝貢していないのになぜ? 百済の使者の船が難波に停泊。
即位2年7月 百済の献上品を検査。これまでより少ないし、これまでと違うことが問題になる。この月に茨田池がくさくなり、虫が発生。
即位2年8月 茨田池の水が藍の汁ような色になり、虫が浮かび、水が凝固し、魚が死んだ。
即位2年9月 舒明天皇を忍坂陵に葬る。吉備嶋皇祖命(=皇極天皇の母)が死亡。土師娑婆連猪手に吉備嶋皇祖命の喪を仕切らせる。皇極天皇は吉備嶋皇祖命を看病した。吉備嶋皇祖命を檀弓岡に葬る。大雨とあられが降った。吉備嶋皇祖命の墓の労役をやめる。茨田池の水が白くなる。
即位2年10月 朝堂で宴会。蘇我蝦夷が病気で朝廷に参上しない。蘇我入鹿に紫の冠を授けた。入鹿の弟の物部大臣がいた。大臣の祖母は物部弓削大連の妹でその財力で世に恐れられた。蘇我入鹿が独断で山背大兄王子を捨てて、古人大兄(=舒明天皇)を天皇にしようと画策する。茨田池の水が綺麗になる。
即位2年11月 蘇我入鹿が巨勢徳太臣と土師娑婆連に命じて斑鳩の山背大兄王を襲わせる。山背大兄王は妃と子供を連れて肝駒山に隠れる。蘇我入鹿が自ら山狩をしようとすると古人皇子が止める。山背大兄王は自殺する。蘇我蝦夷は入鹿の行為に怒る。百済の余豊が蜜蜂を持ち込むが蜜蜂は増えなかった。
即位3年1月 中臣鎌子が神祇伯に。最初は拒否していたが、軽皇子(孝徳天皇)に親切にされて結局受ける。中臣鎌子が中大兄皇子と法興寺で蹴鞠をして仲良くなり、一緒に儒教の勉強をする。中大兄皇子は蘇我倉山田麻呂の娘を妃として後見人とする。しかし娘が奪われる。妹が妃となる。
即位3年3月 フクロウが蘇我蝦夷の蔵に子を産む。菟田山のキノコの話。
即位3年6月 連理の枝になっているユリを大伴馬飼連が献上。志紀上郡の報告によると三輪山の猿を捕まえたら歌を歌った。歌の内容が山背大兄王の自殺の兆候だったか? 剣池の蓮に一本の茎に花が咲いていた。蝦夷は蘇我氏が栄える兆しだと考えて、金の墨で書いて、法興寺の仏に献上した。神官が儀式をして蘇我蝦夷に言葉をかける儀式があった。
即位3年7月 東国の大生部多が虫(アゲハチョウ)を祀るように勧める。秦造河勝がその新宗教を弾圧した。
即位3年11月 蘇我蝦夷と入鹿が甘檮岡に家を二つ並べて立て、まるで天皇のように振る舞い、武装した。
即位4年1月 猿が吠えるような声がするが何もいない。伊勢大神の使者だと噂した。
即位4年4月 高麗の僧によると、鞍作得志が虎から術を習い、病気を治癒する針を手に入れるが、虎に盗まれ、高麗に毒殺された。
即位4年6月 中大兄皇子は倉山田麻呂臣と蘇我入鹿の暗殺を計画。乙巳の変により蘇我入鹿死亡。古人大兄は「韓人が蘇我蝦夷を殺した」と発言。蘇我蝦夷は天皇記・国記・珍宝を焼いたが、船史恵尺が国記を取り、中大兄に献上した。皇極天皇が軽皇子(孝徳天皇)に譲位。中大兄皇子が皇太子に。 
 
乙巳の変 8

 

645年乙巳の変(大化改新)これは、中大兄皇子、中臣鎌足等が、蘇我入鹿とその父である蘇我蝦夷を殺害し、政権を奪取した事件だ。当時、蘇我氏は日本で最大最強の豪族であり、日本を朝鮮系皇族支配から脱却させ、仏教を国教とする国造りをしていた。これに対し、2つの大きな反動勢力があった。一つは朝鮮系皇族、特に百済系・高句麗皇族、2つ目は八百万の神を信奉する勢力。前者の代表が中大兄皇子、後者の代表が中臣鎌足だった。最近の研究では、律令制度の根幹である「改新の詔」は、乙巳の変の翌年646年に作られたものではなく、後世に作られたものらしい。新政権の目玉としての要路・津港の改修、戸籍の作成などは行われたようだ。また、百済を経由して多くの実用品が日本に紹介された。天智天皇が35才の時、導入された水時計は、官僚の管理上、重要な道具にはなったが、政治形態まで中国式になってはいない。
乙巳の変から6年後の651年に、日本への新羅使が中国風の服を着用していたのに対して中大兄皇子は不快感を持っていた。唐と新羅は軍事的同盟関係にあった。乙巳の変からは、蘇我氏の仏教国家作り路線から、八百万神派・百済派・高句麗派へと方向転換した。唐と新羅の軍事同盟を成立させた金春秋(後の新羅の太宗武烈王)が647年に金多遂とともに日本を訪れている。日本書紀には「人質として金春秋が日本に来た」とあるが、金春秋は何らかの意図を持って日本に来たはずである。前年、高向玄理が新羅に訪問しているので、唐・新羅・日本の三国軍事同盟の成立を目指して日本政府と交渉したのであろう。舒明天皇は新羅から派遣された天皇であるが、百済系の皇極天皇後の後任は、再度、新羅から出すべきだと金春秋は主張した。金春秋は、日本滞在9ヶ月で帰国するが、金多遂が帰国したという記録はない。後の天武天皇は金多遂だという説もある。
蘇我氏は、蘇我蝦夷の代から日本の王を百済、新羅の王族から選出した。百済、新羅との関係を良好に保つためである。蘇我氏自身は、王族ではないので日本の王とはなれない。推古天皇が崩御して以来、本当の意味での倭国王はいない。欽明王朝の血筋は、聖徳太子の息子である山背大兄皇子が最後だ。蘇我入鹿が山背大兄皇子を殺害した時、日本書紀によれば、蘇我蝦夷は、蘇我入鹿の行為を嘆くとともに山背大兄皇子の死を悼んだ。日本に王族の血が絶えたため、今後の国家経営が難しくなることを嘆いたのであった。そこで、舒明天皇(新羅王族:在位628-641年)、皇極天皇(百済王族:在位641-645年)と、新羅、百済の王族を迎えた。欽明王朝(欽明、敏達、用明、崇峻、推古)が朝鮮の金官国の王族であることを思えば、新羅王族や百済王族の人が蘇我氏の傀儡ではあっても、当時の豪族達が受け入れられない話ではなかった。
乙巳の変は、金春秋が643年に新羅で起こしたクーデターの方法と酷似している。当時、新羅内の勢力は、中国との連合派と非連合派とで対決していたが、皇太子であった金春秋が率いる連合派が王の座前で反対派の頭目を殺害している。2年後に全く同じ方法で、中臣鎌足と中大兄皇子が蘇我入鹿を殺害したのだ。中大兄皇子と鎌足は、「蹴鞠」の席で出会ったとされているが、金春秋も味方の頭目との出会いが、「蹴鞠」の席と言うことで似ている。金春秋のやり方を中臣鎌足が知り、同じ方法で蘇我氏討伐を計画したものと思われる。
蘇我氏討伐後は政府の実権を孝徳天皇と中大兄皇子が握った。孝徳天皇の目的は、出身国である高句麗を唐から救済することであり、また、中大兄皇子の課題は百済を新羅から救済することであった。当時、高句麗や百済は、唐・新羅の連合軍にいつ攻められるか知れない状況にあった。高句麗は644年以降3回も唐と交戦しており、日本国内の軍国化そして高句麗への救援が急務だった。蘇我氏のように仏教国家などという悠長なことは言っていられなかったのである。そのため、公地公民制や道路港湾の整備、駅伝制の設置、兵や軍需物資の調達のための戸籍や里・五保制の設置などが実施されている。645年から壬申の乱が終了する672年までは、日本が急速に軍事国家に変身した時期だ。乙巳の変の目的は、蘇我氏の進めていた全方位外交や理想主義路線を打破し、積極的に高句麗・百済を救援することにあった。一方、孝徳天皇や中大兄皇子を中心とする日本の多くの豪族は、百済・高句麗と共に唐・新羅との交戦路線を進めようとしていた。高句麗は、先の隋帝国のときにも隋の遠征軍を3回追い返したが、唐の時代になっても、乙巳の変の前年である644年に唐の太宗自ら遠征軍を率いて高句麗に押し寄せたが高句麗は追い返している。日本から見ると高句麗は軍事的強国に見えた。当時の高句麗の領土は、今の北朝鮮と中国の吉林省東部の延辺自治州を合わせた領域であった。9世紀に起きる「渤海国」は、高句麗を作った民族と同じだが王朝は違う。高句麗人は高句麗国といわず高麗国(「句」の字は辺境民族差別語)と呼んだ。日本書紀では、乙巳の変の推進者として、中大兄皇子、中臣鎌足、蘇我倉山田石川麻呂などを挙げるが、乙巳の変後、天皇になる中大兄皇子の弟と言われている大海人皇子については記述していない。
乙巳の変により、唐・新羅連合軍に対し、高句麗・百済・日本の連合軍ができた。日本は、孝徳天皇(高句麗出身)、中大兄皇子(百済出身)の二頭政治となったが、月日が経つにつれて、孝徳天皇と中大兄皇子が不仲になる。孝徳天皇の妃は、中大兄皇子の同母の妹の間人皇女であったが、この妹と中大兄皇子は不倫関係にあったとも言われる。この関係は公然の秘密であったが、同母兄・妹の恋愛関係であり、周囲から非難の的になった。654年、中大兄皇子一派は孝徳天皇に見切りをつけ、難波宮を出て飛鳥に戻る。これが中大兄皇子の2度目のクーデターである。乙巳の変と違って無血クーデターだ。中大兄皇子としては、乙巳の変と違い、高句麗を代表する孝徳天皇を殺すことはできなかった。難波宮に取り残された孝徳天皇は翌655年病死する(暗殺か)。
中大兄皇子は、百済の皇族である母を再度天皇にすることで高句麗との関係や百済との関係を維持した。3年後の658年さらに悲劇が起きる。孝徳天皇の子に有馬皇子がいたが、中大兄皇子は有馬皇子に帝位を奪われると考え、有馬皇子を無実の罪(反逆罪)で捕らえ処刑してしまう。日本書紀によれば中大兄皇子の忠臣、蘇我赤兄が有馬皇子に中大兄皇子の悪行を述べ、共に中大兄皇子を打つよう薦めたとある。18才の有馬皇子は、最初は気違いの真似をして蘇我赤兄を警戒したが、ついに蘇我赤兄に同意する。その夜、中大兄皇子の追っ手が掛かり、有馬皇子は捕らえられる。その時、斉明天皇は南紀の牟呂温泉にいて、有馬皇子は牟呂まで連れて行かれ、裁きを受けたが結果は死刑となった。これは中大兄皇子の陰謀であった。後年、蘇我赤兄は左大臣にまで昇進する。高句麗や百済の意向によっては、有馬皇子が天皇になる状況だった。その翌年、659年、ついに唐・新羅の連合軍は百済を攻撃し、百済は翌年の660年、唐の大軍に破れる。これにより百済王は死ぬ。残った百済の将軍達は九州に住んでいた百済王の子・余豊璋を百済の王に迎え、再度新羅との決戦に臨む。日本は、662年、阿倍野比羅夫を将軍として百済に援軍を出す。日本書紀によれば、この時、斉明天皇が余豊璋を百済王に任命していることが記録されている。余豊璋と中大兄皇子が同一人物とするなら、この不可思議な任命式も問題にはならない。百済出身の斉明天皇が、空位となった百済王に我が子を据えただけのことだ。日本書紀では、この時期、余豊璋が百済王になり、中大兄皇子が天皇になったと記している。斉明天皇は九州にあって病気となり明日をも知れない命であった。百済の将軍達や日本側も、このような百済王の任命を何の違和感もなく認めている。斉明天皇と余豊璋の関係が、斉明天皇と中大兄皇子の関係と同じであり、余豊璋と中大兄皇子は同一人物であったと考えられる。
「中大兄皇子」という呼び名は不思議だ。王子の名は、母方の出身地の名か、母方の姓をもらってつけるのが普通だ。中大兄皇子も葛城皇子という大和葛城地方の出身らしき名は持っているが、彼だけが中大兄皇子という「次男坊皇子」という意味の名で呼ばれている。中大兄皇子を、特定の名で呼ぶことができない理由があった。葛城皇子と呼んだら嘘になってしまう。余豊璋が百済に入り、新羅と戦いをするが、戦局はうまくゆかず、日本の豪族に援軍を頼む。日本側は、2万5,000人の軍隊を送るが、この