先代旧事本紀・日本書紀・古事記・物部氏

先代旧事本紀 / 概説1概説2神代陰陽神祇天神地祇天孫皇孫天皇神皇帝皇国造
物部氏 / 物部1物部2物部3物部4物部5物部6物部7九州の物部氏・・・日本統一国家の誕生蘇我氏の時代
日本書紀 / 概説神代[上]神代[下]神武綏靖-開化崇神垂仁景行
諸説 / 天皇誕生伊耶那岐命と伊耶那美命1伊耶那岐命と伊耶那美命2黄泉の国「古事記」「日本書紀」の日本神話范曄 「後漢書」の伝来と「日本書紀」古事記と日本書紀の違い異説「阿波と古事記」
古事記 / 上卷中卷下卷 ・・・
古事記[原文] / 上卷中卷下卷
 

雑学の世界・補考   

先代旧事本紀1 概説

(せんだいくじほんぎ、先代舊事本紀) 日本の史書である。『旧事紀』(くじき)、『旧事本紀』(くじほんぎ)ともいう。全10巻からなり、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている。序文に聖徳太子、蘇我馬子らが著したとあるが、現在では大同年間(806年〜810年)以後、延喜書紀講筵(904年〜906年)以前に成立したとみられている。
本書は度会神道や室町時代の吉田神道でも重視され、記紀と並ぶ「三部の本書」とされた。また江戸時代には『先代旧事本紀大成経』など古史古伝の成立にも影響を与えたが江戸時代の国学者多田義俊や伊勢貞丈らによって偽書とされた。現在の歴史学では、物部氏の氏族伝承など部分的に資料価値があると評価されている。
成立時期
序文には推古天皇の命によって聖徳太子と蘇我馬子が著したもの(『日本書紀』推古28年(620年)に相当する記述がある)とある。このことなどから、平安中期から江戸中期にかけては日本最古の歴史書として『古事記』・『日本書紀』より尊重されることもあった。しかし、江戸時代に入って偽書ではないかという疑いがかけられるようになり、多田義俊や伊勢貞丈らの研究によって偽書であることが明らかにされた。
本書の実際の成立年代については『古語拾遺』(807年成立)からの引用があること、藤原春海による『先代旧事本紀』論が承平(931年〜938年)の日本紀講筵私紀に引用されていることから、『先代旧事本紀』は藤原春海による延喜の『日本書紀』講書の際(904年〜906年)には存在したと推定され、従って、『先代旧事本紀』の成立は大同年間(806年〜810年)以後、延喜書紀講筵(904年〜906年)以前と推定されている。
また、貞観年間(859年〜876年)に編纂された『令集解』に『先代旧事本紀』からの引用があるとして、『先代旧事本紀』の成立時期を807年〜859年〜876年とみる説がある。
また『令集解』に引用される、穴太内人(あのうのうちひと)の著『穴記』(弘仁(810年〜823年)天長(824〜833年)年間に成立か。)に『先代旧事本紀』からの引用があるとして成立時期を807年〜833年とみる説がある。ただし、『穴記』の成立年代は弘仁4年以後ということのみが特定できるにとどまるため、推定の根拠としては有効ではないともいわれる。
編纂者
興原敏久
編纂者の有力な候補としては、平安時代初期の明法博士である興原敏久(おきはらのみにく)が挙げられる。これは江戸時代の国学者・御巫清直(みかんなぎきよなお、文化9年(1812年) - 1894年(明治27年))の説で、興原敏久は物部氏系の人物(元の名は物部興久)であり、彼の活躍の時期は『先代旧事本紀』の成立期と重なっている。編纂者については、興原敏久説の他に、石上神宮の神官説、石上宅嗣説、矢田部公望説などがある。
物部氏
佐伯有清は「著者は未詳であるが、「天孫本紀」には尾張氏および物部氏の系譜を詳細に記し、またほかにも物部氏関係の事績が多くみられるので、本書の著者は物部氏の一族か。」とする。
矢田部公望
御巫清直は序文は矢田部公望が904〜936年に作ったものとする。安本美典は『先代旧事本紀』の本文は興原敏久が『日本書紀』の推古天皇の条に記された史書史料の残存したものに、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』などの文章、物部氏系の史料なども加えて整え、その後、矢田部公望が「序」文と『先代旧事本紀』という題名を与え、矢田部氏関係の情報などを加えて現在の『先代旧事本紀』が成立したと推定している。
資料価値
本文の内容は『古事記』・『日本書紀』・『古語拾遺』の文章を適宜継ぎ接ぎしたものが大部分であるが、それらにはない独自の伝承や神名も見られる。また、物部氏の祖神である饒速日尊(にぎはやひのみこと)に関する独自の記述が特に多く、現存しない物部文献からの引用ではないかと考える意見もある。
巻三の「天神本紀(てんじんほんぎ)」の一部、巻五の「天孫本紀(てんそんほんぎ)」の尾張氏、物部氏の伝承(饒速日尊に関する伝承等)と巻十の「国造本紀(こくぞうほんぎ)」には、他の文献に存在しない独自の所伝がみられる。 「天孫本紀」には現存しない物部文献からの引用があるとする意見もあり、国造関係史料としての「国造本紀」と共に資料的価値があるとする意見もある。
青木和夫は巻五の「天孫本紀」は尾張氏,物部氏の古来の伝承であり、巻十の「国造本紀」も古い資料によっているとする。
新野直吉は「国造本紀」について「畿内大倭から多鳥(たね)までの大化前代の地方官豪族である国造(くにのみやつこ)名を掲げ、その系譜と任命設置時を示している。後世の国造である律令国造の名や国司名も混入しているが、他に例のないまとまった国造関係史料なので、独自の価値を持ち古代史研究の史料となっている。」とする。
佐伯有清は「天孫本紀」「国造本紀」は史料として重要とする。
上田正昭は『先代旧事本紀』には注目すべき内容が多々あると述べている。
安本美典は物部氏の伝承や国造関係の情報は貴重であり、推古朝遺文(推古天皇の時代に書かれたとされる文章)のような古い文字の使い方があり相当古い資料も含まれている可能性があるとする。
蓮沼啓介も資料価値を認めている。
影響
本書は序文に聖徳太子、蘇我馬子らが著したものとあるため、中世の神道家などに尊重された。
鎌倉時代の僧・慈遍は、『先代旧事本紀』を神道の思想の中心と考えて注釈書『舊事本紀玄義』を著し、度会神道に影響を与えた。
室町時代、吉田兼倶が創始した吉田神道でも『先代旧事本紀』を重視し、記紀および『先代旧事本紀』を「三部の本書」としている。
『先代旧事本紀大成経』(延宝版(潮音本、七十二巻本))、およびその異本である『鷦鷯(ささき、さざき)伝本先代旧事本紀大成経(大成経鷦鷯伝)』(三十一巻本、寛文10年(1670年)刊)、『白河本旧事紀』(伯家伝、三十巻本)などはすべて『先代旧事本紀』を基にして江戸時代に創作されたと言われ、後に多数現れる偽書群「古史古伝」の成立にも影響を与えた。
偽書説
序文に書かれた本書成立に関する記述に疑いが持たれることから、江戸時代に多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らに、偽書とされて以来、偽書であるとの評価が一般的である。
多田義俊は『旧事記偽書明証考』(1731年)で偽書説を主張。
伊勢貞丈は『旧事本紀剥偽』(1778年)を著し、「舊事本紀(先代旧事本紀)は往古の偽書なり」と記している。
栗田寛は『国造本紀考』(文久元年、1861年)のなかで徳川光圀が「後人の贋書」とし、信用できないと述べたと記録している。
明治以降、序文に書かれた本書成立に関する記述に関してはともかく、本文内容に関しては偽書ではないとする学者もあったが、近年の研究では、内容そのものの整合性や、他の文献との整合性から、全体的には偽書とする評価が固まりつつある。藤原明(ノンフィクションライター)は『旧事紀』は聖徳太子勅撰として、承平6年(936年)日本紀講(『日本書紀』講)の席で矢田部公望によって突如持ち出された書物であり、その後、本書は『日本書紀』の原典ともいうべき地位を獲得したが、矢田部公望が物部氏の権威付けのために創作した書物である可能性が高く(矢田部公望は物部氏であり、当時の朝廷内では、対立する氏族との権力争いがあったと指摘している)、実際に創作したのは別の人物の可能性もあるが、物部氏か矢田部公望に近い筋の者であろうと推定して、本書は偽書であるとしている。
ただし、本書に記載された部分的な伝承は歴史学者によって資料価値が認められている。  
 
先代旧事本紀2 概説

 

略して『旧事紀くじき』『旧事本紀くじほんぎ』と通称されています。
その序文によると、推古天皇の二十八年(620)に勅によって、聖徳太子が蘇我馬子とともに撰定したものとされます。近世になるまでこれが信じられ、強い影響力をもっていました。
しかし、本文の大部分が『古事記』『日本書紀』『古語拾遺こごしゅうい』からの引用で成っていることや、天皇謚号などのはるか後代でなければ知りえないことに関する記載があること、序文と本文との間に不備があることなどから、現在では聖徳太子らが編纂に携わったことは否定されています。また、『古事記』『続日本紀』『弘仁格式』などと比べて序文の形式が当時のものにかなっていないことも指摘されています。
そのため、『日本書紀』推古二十八年条に、「皇太子・嶋大臣、共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部并て公民等の本記を録す」という記事に付会して成立年代をさかのぼらせた「偽書」であるといわれます。
実際の成立年代は、平安初期と考えられます。
その上限は、本文中に加我国かがのくにが「嵯峨朝の御世、弘仁十年(十四年の誤りか)に越前国を割て、加賀国と為す」とあり、823年以降とみられます。また下限は、藤原春海が『日本書紀』の講書を行ない、その中で『先代旧事本紀』に言及した延喜四年(904)〜延喜六年のころまでとみられます。
『古事記』『古語拾遺』『藤氏家伝』『高橋氏文』『新撰姓氏録』といった、諸氏の家記に関連する書が先んじて編纂され、これに刺激を受ける形で『先代旧事本紀』も作成されたようです。
「偽書」の評価を下されたのは上記の「聖徳太子の撰」を騙ったと見られているためで、内容的には、全体に物部氏に関する独自の伝承が織りこまれています。これには拠るべき古伝があったのではないかとみられ、物部氏伝承自体がすべて偽作されたわけではないと考えられます。
編纂の目的は、「物部氏は由緒正しい家柄で、神武天皇以来、代々石上神宮いそのかみじんぐうの神を祀ってきた」ことを主張することにあるとみられます。この目的と直接関係しない部分には、多く重複・矛盾がみられます。そのため、未完成説もあるようです。
作成者は不明ながらも、物部氏との同族意識を持った人物だったと思われます。
構成は、全十巻から成ります。
第一巻は「神代本紀」および「陰陽本紀」で、天地のはじまりから、天照太神ら三貴子の誕生まで。
第二巻は「神祇本紀」で、天照太神と素戔烏尊の誓約から、素戔烏尊の高天原追放まで。
第三巻は「天神本紀」で、物部氏の祖神である饒速日尊の天降りから、出雲国譲りまで。
第四巻は「地祇本紀」で、素戔烏尊・大己貴命ら出雲神の神話。
第五巻は「天孫本紀」で、饒速日尊の後裔とする尾張氏と物部氏について。
第六巻は「皇孫本紀」で、瓊々杵尊の天降りから、神武東征まで。
第七巻は「天皇本紀」で、神武天皇の即位から、神功皇后まで。
第八巻は「神皇本紀」で、応神天皇から、武烈天皇まで。
第九巻は「帝皇本紀」で、継体天皇から、推古天皇まで。
第十巻は「国造本紀」で、大倭国造から、多ネ嶋国造まで、135の国造の由来について記されています。
物部氏の祖神・饒速日尊にぎはやひのみことについて、『日本書紀』は神武天皇の東征以前に大和に天降り、「天神の子」を称して、神武天皇もそれを認めたとしています。しかし、饒速日尊がいつ天降り、神々の系譜上どこに位置するのかには触れていません。
これに対し、先代旧事本紀は「神代本紀」において、中臣氏や忌部氏、阿智祝部氏らを、皇室に連なる神世七代天神とは別の独化天神の後裔として、皇室と距離を取らせる一方、「天神本紀」などでは、饒速日尊を尾張氏の祖神である天火明命と同一神にして、瓊々杵尊と同じ「天孫」に位置づけ、物部氏の格の高さを主張しています。
また、物部氏の人物が、「食国おすくにの政まつりごとを申す大夫」「大臣」「大連」といった執政官を多く出し、代々天皇に近侍してきたことを強調します。
『先代旧事本紀』の作成者が、もっとも語りたかったのは、物部氏と石上神宮のつながりと思われます。
石上神宮の神のうち、「布都御魂ふつのみたま」は、出雲国譲りと神武東征に登場する、天皇にまつろわぬモノをことむける剣神であり、「布留御魂ふるのみたま」は、タマシヅメ・タマフリの力を持つ、十種の天璽瑞宝の霊威のことで、饒速日尊が天神御祖てんじんのみおやから授けられて天降ったものとされています。
なお、現在の主祭神には「布都斯魂ふつしみたま」もありますが、これは物部首もののべのおびと(ワニ氏族。のちの布留宿禰)が関与するようになった後、フツノミタマから派生した神と思われます。
「布都御魂」「布留御魂」は両者とも、物部氏の職掌に密接に関係する性格を持ちます。
物部氏は、大和王権に従わない人たち=ツチグモを、富を生み出すオホミタカラに変換することを任務にしていたと考えられます。各地の豪族を、ときに武力も用いて屈服させた後、彼らの神を象徴する神宝・瑞宝を没収し、石上神宮に集めて、祟り神と化さないよう魂を鎮める呪術を行ないました。
魂の状態をあやつる力は、逆に、天皇国家の霊を活性化することにも用いられました。
また、これらに必要な武器・祭器を製作する技術者集団としての性格も、物部は持っていたといわれています。
しかし、『先代旧事本紀』が作成された時代には、こういった役割を物部氏は終えており、また石上宅嗣いそのかみのやかつぐの亡き後、中央政界の表舞台にも物部氏の人物が登場することは無くなっていきました。
「天孫本紀」の物部氏系譜は、十七世孫に物部麻呂もののべのまろ(元明朝の左大臣・石上麻呂。宅嗣の祖父)のみを記します。そして、物部守屋すら麻呂の曽祖父である物部大市御狩もののべのおおいちのみかりの弟という傍流に位置づけ、また石上神宮が蘇我氏支配下にあった時期も、物部鎌姫大刀自かまひめおおとじらの手によって、連綿と物部氏による祭祀が続けられたとしています。
旧来の職掌に変化が生じ、本宗家の貴族としての力が衰退していった後、物部氏に残されていたのは、宮廷祭祀のひとつである鎮魂祭に取り入れられた鎮魂呪術と関係する、石上神宮とのつながりを主張することだったのです。
本居宣長からみた『先代旧事本紀』

 

江戸時代の国学者、本居宣長は、『古事記伝』一之巻のなかの「旧事紀といふ書の論」という一節で、先代旧事本紀についての見解を述べています。次のとおりです。
「世に旧事本紀と名づけたる、十巻の書あり。此は後の人の偽り輯めたる物にして、さらにかの聖徳太子命の撰び給し、真の紀には非ず。[序も、書紀の推古の御巻の事に拠て、後の人の作れる物なり。] 然れども、無き事をひたぶるに造りて書るにもあらず。ただ此の記と書紀とを取り合せて、集めなせり。其は巻を披きて一たび見れば、いとよく知らるることなれど、なほ疑はむ人もあらば、神代の事記せる所々を、心とどめて看よ。事毎に此記の文と書紀の文とを、皆本のままながら交へて挙たる故に、文体一つ物ならず。諺に木に竹を接りとか云が如し。又此記なるをも書紀なるをも、ならべ取りて、一つ事の重なれるさへ有て、いといとみだりがはし。すべて此記と書紀とは、なべての文のさまも、物の名の字なども、いたく異なるを、雑へて取れれば、そのけぢめいとよく分れてあらはなり。又往々古語拾遺をしも取れる、是れも其文のままなれば、よく分れたり。[これを以て見れば、大同より後に作れる物なりけり。さればこそ中に、嵯峨の天皇と云ことも見えたれ。] かくて神武天皇より以降の御世御世は、もはら書紀のみを取て、事を略てかける、是れも書紀と文全く同じければ、あらはなり。且歌はみな略けるに、いかなればか、神武の御巻なるのみをば載たる、仮名まで一字も異ならずなむ有るをや。さて又某本紀某本紀とあげたる、巻々の目どもども、みなあたらず。凡て正しからざる書なり。但し三の巻の内、饒速日の命の天より降り坐す時の事と、五の巻尾張の連物部の連の世次と、十の巻国造本紀と云ふ物と、是等は何書にも見えず、新に造れる説とも見えざれば、他に古書ありて、取れる物なるべし。[いづれも中に疑はしき事どもはまじれり。そは事の序あらむ処々に弁ふべし。] さればこれらのかぎりは、今も依り用ひて、助くることおほし。又此記の今の本、誤字多きに、彼の紀には、いまだ誤らざりし本より取れるが、今もたまたまあやまらである所なども稀にはある、是れもいささか助となれり。大かたこれらのほかは、さらに要なき書なり。[旧事大成経といふ物あり。此は殊に近き世に作り出たる書にして、ことごとく偽説なり。又神別本紀といふものも、今あるは、近き世の人の偽造れるなり。そのほか神道者といふ徒の用る書どもの中に、これかれ偽りなるおほし。古学をくはしくして見れば、まこといつはりはいとよく分るる物ぞかし。]」

世に『旧事本紀』とよばれる十巻の書がある。これは後世の人が偽り集めたものであって、決して聖徳太子のお選びになった書ではない。
[序文も、『日本書紀』の推古天皇の巻の記事に拠っていて、後世の人が作った物である。]
しかし、そうはいっても、事実無根の話をひたすらに造作して書いたわけでもない。
『古事記』と『日本書紀』とを取り混ぜて、集めている。そのことは、巻を開いて一たび見れば、とてもよく分かることであるが、なお疑い深いような人は、神代のことを記した部分を、注意深く見るがよい。『古事記』の文と『日本書紀』の文とを、皆もとのままで交ぜて挙げているので、文体が一つに統一されていない。「木に竹を接ぐ」といった感じである。
また、『古事記』の記事も『日本書紀』の記事も、いっしょに取りあげ、なかには重複している部分まであって、本当に粗雑である。『古事記』と『日本書紀』とは、全体の文体も、物の名前の表記なども、ひどく異なっているので、まざって取られていても、区別ははっきりしている。
また、ところどころ『古語拾遺』から取られた部分もある。これも原文のままなので、はっきりしている。[このことを考えると、旧事本紀は大同年間より後に作られたものである。そのため、書中に「嵯峨天皇」のことがみえるのである。]
このようにして神武天皇より以降の時代は、もっぱら『日本書紀』のみを引用し、省略して書いている。これも『日本書紀』とまったく同じ文なので、明らかである。そのうえ、歌はみな省略しているのに、どういうわけか、神武天皇の巻にあるもののみを載せている。仮名まで一字も異ならずに有るのである。
さて、某本紀、某本紀などという、巻々の名前なども、みな内容と合致せず、すべて正しくない書である。
ただし、第三巻のうちの饒速日命の天降りのときの記事と、第五巻の尾張連・物部連の系譜と、第十巻の国造本紀などは、どの書物にもみえず、新たに創作した記事とも思えないので、他に古文献があって、そこから取ったものであろう。[古文献から取ったと思われる中にも、疑わしい記事は混じっている。それは疑わしい記事のある各々の箇所で見分けるべきである。] 
だから、これらの記事だけは、今も参考にして用いて、助けとなることが多い。
また、『古事記』の現在伝わっている写本には誤字が多いのに対し、『旧事本紀』には、昔の誤字のない本から取っているため、今になっても誤字の無いところがまれにあるので、これもいささか助けになる。
しかし、大かたこれらのほかは、まったく必要のない書である。
[『旧事大成経』という物がある。これは特に近い世に作り出された書で、ことごとく偽りである。また、『神別本紀』というものも、いま存在しているのは、近い時代の人が偽造したものである。そのほか、神道者と称する連中が用いている書の中に、あれこれ偽っているものは多い。古学にくわしくなって見れば、真書か偽書かは、とてもよく分かる物である。]  
神代本紀 

 

巻第一は神代本紀と陰陽本紀から成ります。このうち神代本紀は、『記』『紀』における、いわゆる天地開闢と神代七代の部分に相当します。
『古事記』で最初に生まれる神は天之御中主神、『日本書紀』では国常立尊とされていますが、ここでは天譲日天狭霧国禅日国狭霧尊とされます。他の書には見られない、独自の記述です。
とはいえ、天御中主尊と国常立尊も存在を否定されるわけではなく、続いて誕生した神々の中に名前が見えます。
つまり、『記』『紀』それぞれの元初の神よりも、さらに前段階を設けることによって、網羅と一元化が図られているといえます。
天譲日天狭霧国禅日国狭霧尊には、「天祖」であるとの表記がありますが、陰陽本紀で伊弉諾尊と伊弉冉尊に豊葦原の地を修めるよう命じるのも、「天祖」とされています。
ところで、『旧事本紀』の神代に関する記述には、日本紀講筵で議論になったような不審点を解消しようとする方向で、アレンジされている場合が多数見られます。
津田博幸氏が指摘した神代本紀の冒頭部分では、元になった『日本書紀』とは、次のような違いがあるといいます。
・ 「鶏子」が「鶏卵子」に改められている。
→雛の意に誤読するのを回避し、卵であることを明瞭にする。
・ 「清陽者薄靡而為天」が「清気漸登薄靡為天」に改められている。
→「清陽がたなびいて天となる」よりも、「清気がたち登ってからたなびいて天となる」のほうがイメージしやすい。
・ 「洲壤浮漂」が「州壤浮漂」に改められている。
→「洲」の字義は「水中地=中洲」が本来であり、「くに」と訓むことに疑問が持たれたが、「州」とすることで解消できる。
以上の三例は、現存の日本書紀私記(承平私記や釈日本紀所引私記)に議論が記されている論点でもありました。
日本紀講筵を頂点とする平安時代前期の学界と、『旧事本紀』との関係を考える上での好例といえるでしょう。 
天神本紀 

 

巻第三「天神本紀」は、物部氏祖神の饒速日尊の天降り記事の載ることで著名です。『旧事本紀』全体の中でも、最もよく読まれているのではないでしょうか。
ここでの饒速日尊は、天押穂耳尊の子で、瓊々杵尊の兄という位置づけで登場します。
『古事記』は天照大御神が天忍穂耳命に葦原中国の統治を命じるものの、準備する間に忍穂耳命には子の迩迩芸命が生まれ、天降りの主体が迩迩芸命へ変更になったとします。『旧事本紀』では、これがそのまま迩迩芸命から饒速日尊へ置き換えられ、瓊々杵尊は饒速日尊の死後に天降るという筋書きへ改変されます。
饒速日命の系譜的位置は、『記』『紀』では明らかにされていません。
瓊々杵尊の兄という位置づけは、天火明命と同一神とすることで実現されたものです。天火明命は、『記』および、『紀』の第九段一書第六・一書第八に見える瓊々杵尊の兄で、尾張氏の祖とされる神です。
同一神化については、六世紀(継体欽明朝)の物部氏と尾張氏の政治的連携を背景として成立したものとする、吉井巌氏の説があります。
しかしながら、『旧事本紀』は『記』『紀』に見える天押穂耳尊の妃(瓊々杵尊の母)、「万幡豊秋津師比売命」「万幡豊秋津姫命」「万幡姫」「栲幡千千姫」「栲幡千千姫万幡姫命」などを一元化するために、「万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命」という名称を新たに作り出しています。これは、尾張氏の祖「天照国照彦天火明命」と、物部氏の祖「櫛玉饒速日命」とを合体させ「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」としたのと同様の手法であり、同時期に同一人物によって行われた操作と見るのが妥当です。
『旧事本紀』には、『日本書紀』を読むだけでは不詳・不明になる点を、明確化しようとしている箇所が散見します。
饒速日命の明確化もその一例といえますが、物部氏族に出自を持つと推定される編纂者にとって、饒速日命に天照大神の孫という位置を与え、自氏の尊貴性を主張することは、『旧事本紀』の編纂の重要な目的のひとつだったと考えられます。
『記』『紀』で系譜的位置の不明瞭な氏の始祖は、物部氏と饒速日命に限りません。
たとえば、大伴氏の祖・天忍日命でもこれは同様ですが、『新撰姓氏録』では高皇産霊尊の系統として明確化しています。また、磯城県主の祖・弟磯城(黒速)についても『記』『紀』は語りませんが、『姓氏録』の磯城県主は物部氏の同族という位置を得ています。
饒速日命の天火明命との同一神化も、このような動きを受けたものと見られますが、『姓氏録』は両神を、それぞれ神別の天神部と天孫部に分類し、別神であるとしました。
「饒速日=天火明」説は、『旧事本紀』や『姓氏録』が編まれた平安時代前期の当時、公的な承認の得られない、あまり有力ではない言説だったといえます。 
地祇本紀 

 

巻第四「地祇本紀」は、その表題のとおり地祇(国つ神)について扱われた巻です。地祇の代表的・典型的な存在とされる出雲神が主な対象となっています。
その内容は、巻第二「神祇本紀」を受けて宗像三女神の誕生から始まり、素戔嗚尊の出雲降臨、八岐大蛇退治、大己貴神と少彦名神の国造り、大己貴神の天羽車大鷲に乗っての妻覓ぎ、素兎、根国訪問、沼河姫への求婚というように、素戔嗚尊と大己貴神の事績が語られ、その後、両神の後裔を記す系譜が載せられています。
このうち、大己貴神が天羽車大鷲に乗り、茅渟県で大陶祇の娘と婚する話は他書には見えないものです。
『日本書紀』には既に大物主神と大己貴神を同一視する見解が示されており、『旧事本紀』もそれを踏襲しますが、ここに大物主神を介することなく「三輪山の神=大己貴神」がより明確化されることが注目されます。
また、少彦名神が去った後の三輪神顕現の段に、その性格について「幸魂」「奇魂」だけでなく、「術魂」も加えられ、姿についても「素き装束を為し天の蕤槍持ちて」と具体的な記述が書紀の文に付け加えられています。
後半の系譜においても、大己貴神は「倭国城上郡大三輪神社」に鎮座するとありますが、他にも葛木一言主神は「倭国葛上郡」、味鉏高彦根神は「倭国葛木郡高鴨社(捨篠社)」、下照姫命は「倭国葛木郡雲櫛社」、都味歯八重事代主神は「倭国高市郡高市社・甘南備飛鳥社」、高照光姫大神命は「倭国葛木郡御歳神社」とあるように、畿内に鎮座する神々が出雲神の系譜の中に位置づけられます。
これらの神々を祖とする三輪氏・賀茂氏らが、出自の明確化を図って系譜・伝承の整理を行っていたと考えられます。物部氏における饒速日命と天火明命の同一視に通じるものがうかがわれ、平安時代前期の氏族伝承の動向の一端を示すようです。
旧事本紀の編纂者は、畿内の三輪氏族の伝承を入手し、利用していたと見られます。大己貴神の別名を八嶋士奴美神・清之湯山主三名狭漏彦八嶋野とする所伝なども、これに拠ったものでしょうか。 
天孫本紀 

 

巻第五「天孫本紀」は、尾張氏の系譜と物部氏の系譜について記されています。
両系譜は、記述内容の項目や記述形式が、物部氏系譜に石上神宮の奉斎記事のあることを除けば、ほぼ共通し、原資料の同時代性、もしくは編纂者による整理の行われたことを推測させます。
一方で、『旧事本紀』全体にみられる物部氏重視の姿勢は、ここでも貫かれており、両系譜の質に影響を与えています。
たとえば、尾張氏系譜では九世孫までの尊称を「命(みこと)」とし、以降を「連(むらじ)」としますが、物部氏系譜では七世孫までを同様に「命」とするものの、以降は「連公(むらじのきみ)」とします。物部氏への顕彰意識がより強く表れていることがわかります。
また、尾張氏側の伝承で当然重視されていたであろう、『記』『紀』に登場する人物(宮簀媛や目子媛など)が、ここでは脱落しています。『旧事本紀』と同じ平安時代前期に成立した『新撰姓氏録』にみえる尾治宿祢の祖・阿曽祢連も漏れており、目子媛ともども、重要人物を収録するだけの十分な世数が確保できていない点が指摘できます。
この傾向は、時代表記にもみられます。
尾張氏系譜で「某宮御宇天皇(二例)」「某宮御宇・和風諡号・天皇(一例)」「和風諡号・天皇(二例)」「和風諡号・朝(一例)」「漢風諡号・天皇(一例)」とバラつきがあり、数も限られているのに対し、物部氏系譜は三十七例中三十一例が「某宮御宇・和風諡号・天皇」で統一されています。
このように、『旧事本紀』編纂者の原資料からの取捨の仕方、整理する際の力の入れ方には、違いが見られます。
尾張氏系譜は、饒速日命を天火明命と同一視することで物部氏を天孫系に位置づけ、高倉下を天香語山命と同一視することで石上神宮への奉仕の根源の前提を語るために、利用されたと考えることができます。
物部氏系譜の原資料については不明ですが、十七世孫の物部連公麻呂が、天武朝の事績しか記されていない点が成立時期を推測させます。
この人物は、文武朝の慶雲元年(704年)に右大臣、元明朝には左大臣となった石上朝臣麻呂です。天孫本紀物部氏系譜は、大連・大臣・大祢・宿祢・足尼など、官職的地位に特に関心を払っており、麻呂の大臣就任という名誉だけが偶然に漏れたとは考えがたいです。
また、古代の人々に画期的時代と捉えられていた雄略朝の扱いにおいても、石上氏が氏族内部で絶対的な権力を確立する以前の伝承を反映したと見られる部分があります。
『日本書紀』は物部目を雄略朝の大連とし、それは麻呂の薨伝(『続日本紀』養老元年三月三日)も同様で、石上氏の祖とします。しかし『旧事本紀』は物部目を、清寧朝の大連とします。
代わって雄略朝の大連にあてられるのが、依網(依羅)氏の祖である物部布都久留です。依網氏は、推古朝に冠位十二階の第二位である小徳冠を帯びて新羅征副将軍となった物部依網連乙等、隋使の導き役となった物部依網連抱といった高官を輩出し、大連家が滅亡した六世紀末以降、大化改新以前の有力氏でした。
『日本書紀』が編纂され、石上氏においても持統五年八月に墓記の上進を求められた、七世紀末〜八世紀初頭ころに、天孫本紀物部氏系譜の原資料は成立し、その後の追記や改変を経たものと考えられます。 
天皇・神皇・帝皇本紀 

 

巻七、巻八、巻九が、天皇本紀、神皇本紀、帝皇本紀で、神武天皇から推古天皇までの事績が記されています。
大半は、日本書紀からの抄略により成っていますが、神武天皇の即位に関する部分には、古語拾遺が利用されたことが見て取れます。
これらの中に、宇摩志麻治命を起源とする鎮魂祭の由来や、その他物部氏の人物の官職的地位への補任記事が配され、代々の物部氏が重要な位置にあったことが主張されます。
日本書紀からの抄出は、天皇の名・出自・特徴、即位と経緯、立太子・立后・立皇太后、皇妃・皇子女、天皇崩御・御陵、が主なもので、いわゆる帝紀的記事に偏っています。
これ以外のエピソードは大胆に捨てられることが多く、物部氏関連の記事(物部目の朝日郎征伐、磐井の乱と物部麁鹿火、物部守屋の滅亡など)であっても例外ではありません。
一方で、日本書紀ではワニ氏の出自を持つ応神妃・宮主宅媛を、神皇本紀は物部多遅麻大連の娘・香室媛へ改変しています。これは妃所生の矢田皇女の子代部とされる、矢田部の伴造に、物部氏族矢田部造(のちに連)のあることと関係するでしょう。
帝皇本紀推古段にみえる、遣隋使・矢田部造御嬬の記事と合わせて、矢田部氏の伝承に取材したものと見られます。
帝皇本紀は、推古天皇の治世二十九年二月、聖徳太子の死の記事で、その叙述を終えます。日本書紀によれば、推古朝は三十六年まで続いたとあり、旧事本紀が聖徳太子の撰と偽って成立したことを、顕著に示す部分といえます。 
国造本紀 

 

巻第十「国造本紀」は、巻第一から巻第九までがおおむね神代から推古朝までの流れを歴史的に叙述してきたのと異なり、地方官豪族「国造」のリストとでもいうべき記述の列挙で成っています。
本文中に144ヶ国に国造が任じられたとありますが、実際の項目数は135条になります。うち国司の設置や国の分置のみを記す、和泉・摂津・出羽・丹後および美作、項目名のみの多褹嶋を除外すれば、129の国造が載せられています。
その各国造について、設置時期や初代国造の系譜の伝承を記したものです。
国造に関して、これだけ包括的な記事を持つ史料は他に存在せず、高い価値が認められます。
用字に7世紀的特徴のあるものが含まれ、記紀等にも見えない国造が多数記されていることなどから、『旧事本紀』の成立した平安前期ににわかに造作されたのではなく、何らかの原資料を元に作られたと考えられています。
『続日本紀』大宝二年四月庚戌条に、「詔定諸国国造之氏。其名具国造記。」とある、“大宝の国造記”をその原資料と見る説があります。
内容となる伝承の古さについての定説はありませんが、6世紀中葉に大連が失脚する大伴氏や、7世紀後半になって有力化する中臣氏(藤原氏)の同族に連なる国造が皆無である点、おおよその形成時期を示唆するようです。
初代国造の任命時期については、129国造(うち胸刺国造は時期の記述を欠く)中、半数の64例が成務朝で占められ、第二位の応神朝(20例)や第三位の崇神朝(12例)とは大きな差が認められます。
これは、成務紀四年春二月条・同五年秋九月条や、古事記成務段が、国造制の開始を成務朝にあてていることと、同様の意識に拠っていると見られます。
物部氏顕彰を目的のひとつとして編まれた『旧事本紀』においては、物部氏同族の国造が注目されますが、天穂日命系国造が15例、天津彦根命系が10例あるなど、必ずしも饒速日命系の12例だけが特別に目立っているわけではありません。
他氏族と併記することで基準を設け、その中で物部氏系国造の存在を認知させようとするに留まったと見るべきでしょうか。
珠流河(駿河)国造の祖としてみえる片堅石命は大新川命の子とされますが、天孫本紀での物部片堅石連公は十市根大連の子とされ、調整が図られていません。この点は、『旧事本紀』編纂者が各原資料を尊重したと見られます。
ただし一方では、古事記が天穂日命系とする遠江(遠淡海)国造を、物部氏同族として齟齬のある点、編纂者の手が加えられたと疑われることがあります。物部氏系国造に関しては、他氏族系国造と比べて、系譜の世代対応などの乱れが少ないことが指摘されています。ある程度の整理は行われていたようです。 
 
『先代旧事本紀』

 

先代旧事本紀の序
大臣蘇我馬子宿祢らが、勅をうけたまわって撰修したてまつる。
そもそも、『先代旧事本紀』は、聖徳太子がかつて撰ばれたものである。
ときに小治田豊浦宮で天下を治められた推古天皇の治世二十八年春三月五日、摂政の上宮厩戸豊聡耳聖徳太子尊が編纂を命じた。大臣蘇我馬子宿祢らは、よく先代旧事、上古国記、神代本紀、神祇本紀、天孫本紀、天皇本紀、諸王本紀、臣連本紀、伴造・国造・百八十部の公民本紀を記せ、という勅をうけたまわって撰定した。つつしんで勅により、古い文献に従い、太子が導き手となって解釈と説明をしたが、記録し撰修することがいまだ終わらないうちに、太子はお亡くなりになった。編纂は中断し、続けることができなかった。
このような経緯により、かつて撰定された神皇系図一巻、先代国記、神皇本紀、臣・連・伴造・国造本紀の十巻を、名づけて『先代旧事本紀』という。
いわゆる『先代旧事本紀』は、天地開闢より当代までの過去について述べたものである。漏れた諸皇王子、百八十部の公民本紀は、さらに後の勅を待って編纂するべきである。
ときに、推古三十年春二月二十六日のことである。すべて、その題目を修め撰び、記録することは次のとおりである。
神皇系図 一巻
先代旧事本紀 十巻
第一巻 神代本紀 陰陽本紀
第二巻 神祇本紀
第三巻 天神本紀
第四巻 地祇本紀
第五巻 天孫本紀[また皇孫本紀ともいう]
第六巻 皇孫本紀[また天孫本紀ともいう]
第七巻 天皇本紀
第八巻 神皇本紀
第九巻 帝皇本紀
第十巻 国造本紀  
 
巻第一 神代本紀 

 

神代本紀
昔、自然の気は混沌として、天と地とはいまだ分かれていなかった。鶏卵の中身のように固まっていなかった中には、ほのかにぼんやりと何かが芽生えを含んでいた。やがて、そのうちの澄んだ気は、立ち昇ってからたなびいて天となり、浮き濁ったものは、重く沈み滞って大地となった。いわゆる、国土が浮き漂い、開け別れたというのはこのことである。
たとえていえば、泳ぐ魚が水の上のほうに浮いているようなものである。そのため、天がまず出来上がって、大地はその後に出来た。
そしてその後に、高天原に生まれた一柱の神の名を、天譲日天狭霧国禅日国狭霧尊(あまゆずるひあまのさぎりくにゆずるひくにのさぎりのみこと)と申しあげる。それより以降、ひとりでに生じられる神の他に、共に生じられる二代、二柱並んで生じられる五代の、あわせて「神世七代」とは、この神々である。

神代系紀
天祖・天譲日天狭霧国禅日国狭霧尊。
第一代の、ともにお生まれになった天つ神
 天御中主尊(あまのみなかぬしのみこと)[または天常立尊(あまのとこたちのみこと)という]。
 可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと)。
第二代の、ともにお生まれになった天つ神
 国常立尊(くにのとこたちのみこと)[または国狭立尊(くにのさだちのみこと)、または国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、または葉木国尊(はこくにのみこと)という]。
 豊国主尊(とよくにぬしのみこと)[または豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)、または豊香節野尊(とよかふぬのみこと)、または浮経野豊買尊(うきふぬとよかいのみこと)、または豊齧尊(とよくいのみこと)という]。
 天八下尊(あまのやくだりのみこと)[一柱で化生された天つ神の、第一世の神である]。
第三代の並んでお生まれになった天つ神
 角杙尊(つのくいのみこと)[または角龍魂尊(つのたつたまのみこと)という]。
 妹、活杙尊(いくくいのみこと)。
 別、天三降尊(あまのみくだりのみこと)[一柱で化生された天つ神の、第二世の神である]。
第四代の並んでお生まれになった天つ神
 埿土煮尊(ういぢにのみこと)[または埿土根尊(ういぢねのみこと)という]。
 妹、沙土煮尊(すいぢにのみこと)[または泥土根尊(すいぢねのみこと)という]。
 別、天合尊(あまあいのみこと)[または天鏡尊(あまのかがみのみこと)という。一柱で化生された天つ神の、第三世の神である]。
第五代の並んでお生まれになった天つ神
 大苫彦尊(おおとまひこのみこと)[または大戸之道(おおとのぢ)、または大富道(おおとむぢ)、または大戸麻彦(おおとまひこ)という]。
 妹、大苫辺尊(おおとまべのみこと)[または大戸之辺(おおとのべ)、または大富辺(おおとむべ)、または大戸麻姫(おおとまひめ)という]。
 別、天八百日尊(あまのやおひのみこと)[一柱で化生された天つ神の、第四世の神である]。
第六代の並んでお生まれになった天つ神
 青橿城根尊(あおかしきねのみこと)[または沫薙尊(あわなぎのみこと)、または面足尊(おもたるのみこと)という]。
 妹、吾屋惶城根尊(あやかしきねのみこと)[または惶根尊(かしこねのみこと)、蚊雁姫尊(かがりひめのみこと)という]。
 別、天八十万魂尊(あまのやよろずたまのみこと)[一柱で化生された天つ神の、第五世の神である]。
第七代の並んでお生まれになった天つ神
 伊弉諾尊(いざなきのみこと)[天降陽神(あまくだるおかみ)]。
 妹、伊弉冉尊(いざなみのみこと)[天降陰神(あまくだるめかみ)]。
 別、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)[または高魂尊、または高木尊という。一柱で化生された天つ神の、第六世の神である]。

高皇産霊尊の児、天思兼命(あまのおもいかねのみこと)[信濃国に天降られた、阿智祝部(あちのはふりべ)らの祖である]。
次の児、天太玉命(あまのふとたまのみこと)[忌部首(いみべのおびと)らの祖である]。
次の児、天忍日命(あまのおしひのみこと)[大伴連(おおとものむらじ)らの祖である。または神狭日命(かむさひのみこと)という]。
次の児、天神立命(あまのかむたちのみこと)[山代久我直らの祖である]。

高皇産霊尊の次に、神皇産霊尊(かむみむすひのみこと)[または神魂尊という]。
神皇産霊尊の児、天御食持命(あまのみけもちのみこと)[紀伊直らの祖である]。
次の児、天神玉命(あまのかむたまのみこと)[葛野鴨県主(かどののかものあがたぬし)らの祖である]。
次の児、生魂命(いくむすひのみこと)[猪使連らの祖である]。

神皇産霊尊の次に、津速魂尊(つはやむすひのみこと)。
津速魂尊の児、市千魂命(いちぢむすひのみこと)。
市千魂命の児、興登魂命(こごとむすひのみこと)。
興登魂命の児、天児屋命(あまのこやねのみこと)[中臣連(なかとみのむらじ)らの祖である]。
天児屋命の児、武乳遺命(たけちのこりのみこと)[添県主(そふのあがたぬし)らの祖である]。

津速魂尊の次に、振魂尊(ふるむすひのみこと)。
振魂尊の児、前玉命(さきたまのみこと)[掃部連(かもりのむらじ)らの祖である]。
次の児、天忍立命(あまのおしたちのみこと)[纏向神主(まきむくのかんぬし)らの祖である]。

振魂尊の次に、万魂尊(よろずむすひのみこと)。
万魂尊の児、天剛川命(あまのこわかわのみこと)[高宮神主(たかみやのかんぬし)らの祖である]。

上記の第七代の天つ神、伊弉諾尊・伊弉冉尊、および第八代の天つ神はともに、天降った神である。 
 
巻第一 陰陽本紀  

 

陰陽本紀
天の祖神が伊奘諾尊(いざなきのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)に詔して仰せられた。
「豊葦原(とよあしはら)の豊かに稲穂の実る国がある。お前たちが行って治めなさい」
そうして、天瓊矛(あまのぬぼこ)を授けてご委任になった。

伊奘諾尊と伊弉冉尊とが詔を受けて、天浮橋(あまのうきはし)の上に立って、語り合って仰せになった。
「何か脂のようなものが浮かんでいる。そのなかに国があるだろうか」
そうおっしゃって、天瓊矛で下界を探って海原を得られた。そしてその矛を投げ下ろして海をかき回し、引き上げるとき、矛の先からしたたり落ちる潮が固まって島となった。
これを名づけて磤馭盧島(おのころしま)という。

そうして、天瓊矛を磤馭盧島の上にさし立てて、これをもって国の天の御柱とした。
伊奘諾尊・伊弉冉尊はその島に天降り、大きな御殿を造られて、共に住まわれた。

伊奘諾尊が伊弉冉尊に尋ねて仰せられた。
「あなたの体は、どのようにできているのか」
伊弉冉尊は答えて仰せられた。
「私の体はだんだん成りととのって、成り合わないところが一か所あります」

伊奘諾尊は仰せになった。
「私の体はだんだん成りととのって、成り余ったところが一か所ある。だから、私の成り余っているところを、お前の成り合わないところにさしふさいで、国土を生み出そうと思うがどうだろう」
伊弉冉尊は答えて仰せられた。
「それはよろしゅうございます」

そこで伊奘諾尊は仰せになった。
「それでは私とあなたと天の御柱を回って、出会って結婚しよう」
そう約束して仰せられた。
「あなたは左から回って、私は右から回って会おう」
約束どおり天の柱を分かれてめぐって行きあった。
伊弉冉尊が先に唱えて仰せられた。
「まぁ、何とすばらしい男の方に出会えたのでしょう」
伊奘諾尊がつぎに答えて仰せられた。
「おお、何とすばらしいおとめに出会えたのだろう」
伊奘諾尊が伊弉冉尊に告げて仰せられた。
「私は男子だ。順序は男から先にいうべきである。女が先に唱えるはよくないことだ。しかし、共に夫婦となって子を生もう」
こうして陰陽が始めて交合して、夫婦となって子を産んだ。

最初に生まれたのが水蛭子(ひるこ)である。この子は葦船に乗せて流し棄てた。次に淡島(あわしま)を生んだ。この子もまた御子の数には入れなかった。

伊奘諾尊、伊弉冉尊の二神が相談して仰せられた。
「いま、私たちの生んだ子は不吉だった。天に帰り上って、この様子を申しあげよう」
そこで、二人して天に上り、申し上げた。天の祖神は太占で占って詔された。
「女性が先に声をかけたのが良くなかったのだ。また改めて天降りなさい」
そうしていつがよいかを占って再び降った。

伊奘諾尊が仰せになった。
「私とあなたとで、改めて柱を回ろう。私は左から、お前は右から柱を回ってお互いが会ったところで交わろう」
こう約束されて、二神は約束どおり天の御柱を回り、同じところに出会われた。この時に伊奘諾尊が、まず唱えて仰せられた。
「おお、何とすばらしいおとめだろう」
伊弉冉尊は後に答えて仰せられた。
「まぁ、何とすばらしい男の方でしょう」

伊奘諾尊が伊弉冉尊に尋ねて仰せられた。
「あなたの体はどんなになっているか」
そして、仰せになった。
「私の体は、つくりあげられて成り余った、雄の元という所がある」
伊弉冉尊は答えて仰せられた。
「私の体は、つくりあげられて成り合わない、雌の元という所があります」
伊奘諾尊は仰せになった。
「私の体の成り余ったところで、お前の成り合わないところにさしふさいで、国土を産もうと思うが、どうだろう」
伊弉冉尊は答えて仰せられた。
「よろしゅうございます」

ここに、はじめて陰陽の神が交合し、国土を産もうとしたが、その方法を知らなかった。
このとき、鶺鴒(せきれい)が飛んできて、その頭と尻尾を振った。二神はそれを見習われて、交合の方法をお知りになった。

まず、淡路州(あわじのしま)をお産みになったが、不満足な出来だった。そのため淡路州という。「吾恥(あはじ)」の意である。

次に、伊予(いよ)の二名の州をお生みになった。ある書は「州」をみな「洲」と記している。
次に、筑紫(つくし)州をお生みになった。
次に、壱岐(いき)州をお生みになった。
次に、対馬州(つしま)をお生みになった。
次に、隠岐(おき)州をお生みになった。
次に、佐渡(さど)州をお生みになった。
次に、大日本豊秋津州(おおやまととよあきつしま)をお生みになった。
これによって、以上の生んだ島々を大八州(おおやしま)という。

その後、大八州を生んで帰られるときに、吉備(きび)の児島(こじま)をお生みになった。
次に、小豆島(あづきしま)をお生みになった。
次に、大島(おおしま)をお生みになった。
次に、姫島(ひめしま)をお生みになった。
次に、血鹿島(ちかのしま)をお生みになった。
次に、両児島(ふたこしま)をお生みになった。
あわせて六島になる。

合計十四の島をお生みになった。その他の所々にある小島は、すべて元は水の泡の潮が固まってできたものである。

まず、大八州をお生みになった。
兄として淡路の州をお生みになった。淡道の穂の狭別島(あわじのほのさわけのしま)という。
次に、伊予の二名島、この島は身体は一つで顔が四つあるという。それぞれの顔に名前がある。
伊予国を愛比売(えひめ)という。[西南の隅]
讃岐国を飯依比古(いいよりひこ)という。[西北の隅]
阿波国を大宜都比売(おおげつひめ)という。[東北の隅]
土佐国を速依別(はやよりわけ)という。[南東の隅]
次に、隠岐の三つ子の島を天の忍許呂別(あまのおしころわけ)という。
次に、筑紫の島、この島も身体は一つで顔が四つあるという。それぞれの顔に名前がある。
筑紫国を白日別(しらひわけ)という。
豊国を豊日別(とよひわけ)という。
肥国を建日別(たけひわけ)という。
日向国を豊久士比泥別(とよくしひねわけ)という。
次に、熊襲の国を建日別という。[一説には佐渡島を建日別という]
次に、壱岐島を天比登都柱(あまひとつはしら)という。
次に、津島を天の狭手依比売(あまのさてよりひめ)という。
次に、大倭豊秋津島を天御虚空豊秋津根折別(あまのみそらとよあきつねわけ)といいう。

次に、六つの小島をお生みになった。
兄の吉備の児島を建日方別(たけひかたわけ)という。
次に、小豆島を大野手比売(おおのてひめ)という。
次に、大島を大多麻流別(おおたまるわけ)という。
次に、姫島を天一根(あまひとつね)という。
次に、血鹿島を天の忍男(あまのおしお)という。
次に、両児島を天両屋(あまのふたや)という。

大八島すべてをお産みになった。続けて生まれた六つの小島と合わせて十四の島になる。その所々にある小島は、すべて水の泡の潮が固まってできたものである。

伊奘諾・伊弉冉の二神は、国を生み終えられて、さらに十柱の神をお生みになった。
まず大事忍男神(おおことおしおのかみ)をお生みになった。
次に、石土毘古神(いわつちひこのかみ)をお生みになった。
次に、石巣比売神(いわすひめのかみ)をお生みになった。
次に、大戸日別神(おおとひわけのかみ)をお生みになった。
次に、天の吹上男神(あまのふきかみおのかみ)をお生みになった。
次に、大屋比古神(おおやひこのかみ)をお生みになった。
次に、風木津別の忍男神(かざもつわけのおしおのかみ)をお生みになった。
次に、海神、名は大綿津見神(おおわたつみのかみ)[またの名を小童命(わたつみのみこと)]をお生みになった。
次に、水戸神(みなとのかみ)、名は速秋津彦神(はやあきつひこのかみ)[またの名を速秋田命(はやあきたのみこと)]をお生みになった。
次に、妹・速秋津姫神(はやあきつひめのかみ)をお生みになった。

また、この速秋津彦・速秋津姫の二神が、河と海を分担して十柱の神をお生みになった。
まず、沫那芸神(あわなぎのかみ)をお生みになった。
次に、泡那美神(あわなみのかみ)をお生みになった。
次に、頬那芸神(つらなぎのかみ)をお生みになった。
次に、頬那美神(つらなみのかみ)をお生みになった。
次に、天の水分神(あまのみくまりのかみ)をお生みになった。
次に、国の水分神(くにのみくまりのかみ)をお生みになった。
次に、天の久比奢母道神(あまのくひざもちのかみ)をお生みになった。
次に、国の久比奢母道神(くにのくひざもちのかみ)をお生みになった。
次に、山神、名は大山津見神(おおやまつみのかみ)[一説には大山祇神(おおやまつみのかみ)という]をお生みになった。
次に、野神、名は鹿屋姫神(かやのひめのかみ)[またの名を野推神(のつちのかみ)という]をお生みになった。

また、この大山祇神と野稚神(のつちのかみ)が山と野を分担して八柱の神をお生みになった。
まず、天の狭土神(あまのさづちのかみ)をお生みになった。
次に、国の狭土神(くにのさづちのかみ)をお生みになった。
次に、天の狭霧神(あまのさぎりのかみ)をお生みになった。
次に、国の狭霧神(くにのさぎりのかみ)をお生みになった。
次に、天の闇戸神(あまのくらとのかみ)をお生みになった。
次に、国の闇戸神(くにのくらとのかみ)をお生みになった。
次に、大戸或子神(おおとまといこのかみ)をお生みになった。
次に、大戸或女神(おおとまといめのかみ)をお生みになった。
 
また神をお生みになった。名を鳥の石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)という。[または天鳥船神(あまのとりふねのかみ)という]。
また、大宜都比女神(おおげつひめのかみ)をお生みになった。

伊奘諾尊が仰せられた。
「私が生んだ国は、ただ朝霧がかかっているが、よい薫りに満ちている」
そうして霧を吹き払われると、その息が神になった。これを風神という。
風神を名づけて級長津彦命(しなつひこのみこと)という。
次に、級長戸辺神(しなとべのかみ)、
次に、飢えて力のない時にお生みになった御子を、稲倉魂命(うかのみたまのみこと)と名づけた。
次に、草の祖をお生みになって、名づけて草姫(かやのひめ)という[またの名を野槌(のつち)という]。
次に、海峡の神たちをお生みになった。速秋日命(はやあきひのみこと)と名づけた。
次に、木の神たちをお生みになった。名づけて句々廼馳神(くくのちのかみ)という。
次に、土の神をお生みになった。名づけて埴山姫神(はにやまひめのかみ)という[また、埴安姫神(はにやすひめのかみ)ともいう]。
その後、ことごとくの万物をお生みになった。

伊奘諾尊・伊弉冉尊の二神は、共に相談して仰せになった。
「私たちはもう、大八州や山川草木を生んだ。どうして天下の主たる者を生まないでよかろうか」

そこでまず、日の神をお生みになった。
大日孁貴(おおひるめむち)という。または天照太神(あまてらすおおみかみ)といい、大日孁尊という。
この御子は、華やか光りうるわしくて、国中に照りわたった。それで、二柱の神は喜んで仰せられた。
「わが子たちは沢山いるが、いまだこんなにあやしく不思議な子はなかった。長くこの国に留めておくのはよくない。早く天に送り、天上の仕事をしてもらおう」
この時、天と地とはまだそれほど離れていなかった。そのため、天の御柱をたどって、天上に送り上げた。

次に、月の神をお生みになった。
名づけて月読尊(つくよみのみこと)という。または月夜見(つくよみ)、月弓(つくゆみ)という。
その光りうるわしいことは、太陽に次いでいた。それで日に副えて治めさせるのがよいと、天に送り上げた。

次に、素戔烏尊(すさのおのみこと)をお生みになった。
このかたは天下を治められるべきだったが、勇ましく荒々しくて、残忍なことも平気だった。
また、常に泣きわめくことがあった。そこで、国内の人々が若死にさせられた。また、青々とした山を枯れた山に変え、川や海の水をすっかり泣き乾してしまうほどだった。
そのために、禍いをおこす悪神のさわぐ声は、むらがる蠅のように充満し、あらゆる禍いが吹く風のごとく一斉に発生した。

次に、蛭児(ひるこ)をお生みになった。
三歳になっても脚が立たなかった。はじめ伊奘諾尊・伊弉冉尊が柱を回られた時に、女神が先に喜びの声をあげられた。それが陰陽の道理にかなっていなかった。そのため、終わりにこの御子が生まれた。
次に、鳥磐櫲樟船(とりのいわくすふね)をお生みになり、この船に蛭児を乗せて放流し棄てた。

伊弉冉尊が、火産霊迦具突智(ほのむすひかぐつち)[または火焼男命神(ほのやけおのみことのかみ)、または火々焼炭神(ほほやけずみのかみ)という]を生もうとされたとき、この子を生んだために、陰部が焼けて病の床にお伏しになった。

そうしてお亡くなりになろうとされるときに、熱に苦しめられた。そのため嘔吐し、これが神となった。名を金山彦神(かなやまひこのかみ)、次に金山姫神(かなやまひめ)という。
次に小便をされ、それが尿神となった。名を罔象女神(みつはのめのかみ)という。
次に大便をされ、それがまた屎神となった。名を埴安彦(はにやすひこ)と、埴安姫(はにやすひめ)という。
次に、天吉葛(あまのよさつら)をお生みになった。
次に、稚産霊神(わかむすひのかみ)をお生みになった。この稚産霊神の子を、豊宇気比女神(とようけひめのかみ)という。

火の神の軻遇突智(かぐつち)は土の神の埴安姫をめとって、稚皇産霊神(わかむすひのかみ)をお生みになった。この神の頭の上に蚕と桑が生じた。臍の中に五穀が生まれた。

伊弉冉尊は、火の神を生むときに、身体を焼かれてお亡くなりになった。
伊奘諾・伊弉冉の二神が共にお生みになった島は十四。神は四十五柱になる。ただし、磤馭盧島はお生みになったものではない。また、水蛭子(ひるこ)と淡島(あわしま)は子の数には入れない。

伊奘諾尊が深く恨んで仰せられた。
「愛しい私の妻は。ただ一人の子のために、愛しい私の妻を犠牲にしてしまった」
そして頭のあたりや、脚のあたりを這いずって、泣き悲しみ涙を流された。
涙は落ちて神となった。これが香山(かぐやま)の畝尾(うねお)の丘の樹の下にいらっしゃる神で、名を綺沢女神(なきさわのめのかみ)という。

伊奘諾尊はついに、腰に帯びた十握(とつか)の剣を抜いて軻遇突智の頸を斬り、三つに断たれた。また、五つに断たれた。また、八つに断たれた。

三つそれぞれが神になった。
そのひとつは雷神(いかつちのかみ)となった。
ひとつは大山祇(おおやまつみ)となった。
ひとつは高寵(たかおかみ)となった。

五つそれぞれが五つの山の神になった。
第一は首で、大山祇となった。
第二は胴体で、中山祇(なかやまつみ)となった。
第三は手で、麓山祇(はやまつみ)となった。
第四は腰で、正勝山祇(まさかやまつみ)となった。
第五は足で、雜山祇(しぎやまつみ)となった。

八つそれぞれが八つの山の神になった。
第一は首で、大山祇となった。[または正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ)という]
第二は胴体で、中山祇となった。[または胸に生じた神で、瀬勝山津見神(せかつやまつみのかみ)という]
第三は腹で、奥山祇(おくやまつみ)となった。[または奥山上津見神(おくやまかみつみのかみ)という]
第四は腰で、正勝山祇となった。[または陰部に生じた神で、闇山津見神(くらやまつみのかみ)という]
第五は左手で、麓山祇となった。[または志芸山津見神(しぎやまつみのかみ)という]
第六は右手で、羽山祇(はやまつみ)となった。[または羽山津見神(はやまつみのかみ)という]
第七は左足で、原山祇(はらやまつみ)となった。[または原山津見神(はらやまつみのかみ)という]
第八は右足で、戸山祇(へやまつみ)となった。[または戸山津見神(へやまつみのかみ)という]

また、剣のつばからしたたる血がそそいで神となった。湯津石村(神聖な岩の群れ)に飛び散って成り出た神を、天尾羽張神(あまのおはばりのかみ)という。[またの名を稜威雄走神(いつのおはしりのかみ)、または甕速日神(みかはやひのかみ)、または熯速日神、または槌速日神(つちはやひのかみ)という]
今、天安河(あまのやすかわ)の上流にいらっしゃる、天窟之神(あまのいわとのかみ)である。

天尾羽張神の子が建甕槌之男神(たけみかつちのおのかみ)である。[またの名を建布都神(たけふつのかみ)、または豊布都神(とよふつのかみ)]
今、常陸国(ひたちのくに)の鹿島にいらっしゃる大神で、すなわち石上(いそのかみ)の布都大神(ふつのおおかみ)がこれである。

また、剣の先からしたたる血がそそいで神となった。血が湯津石村に飛び散って、成り出た神を、磐裂根裂神(いわさくねさくのかみ)という。

磐裂根裂神の子の、磐筒男(いわつつお)・磐筒女(いわつつめ)の二神が共に生んだ神の子が、経津主神(ふつぬしのかみ)である。
今、下総国(しもつふさのくに)の香取にいらっしゃる大神がこれである。

また、剣の柄頭からしたたる血がそそいで三柱の神となった。
名を、闇寵(くらおかみ)、次に闇山祇(くらやまつみ)、次に闇罔象(くらみつは)という。

このとき斬られた血がそそいで、石や砂や草木が染まった。これが砂や石自体が燃えることのある由来である。

伊奘諾尊(いざなきのみこと)は、妻の伊弉冉尊(いざなみのみこと)に会いたいと思われて、後を追って黄泉の国に行かれ、殯斂(もがり)のところにおいでになった。
伊弉冉尊は御殿の戸を上げ出で向かい、生きていたときのように出迎えられて共に語りあわれた。

伊奘諾尊は仰せられた。
「あなたが愛しくてやってきた。愛しいわが妻のみことよ、私とあなたとで造った国は、まだ造り終えていない。だから私のもとへ帰ってきておくれ」
伊弉冉尊が答えて仰せになった。
「残念なことです、わが夫のみこと。いらっしゃるのが何とも遅すぎました。私はもう、黄泉の国の食べ物を食べてしまいました。そして私はもう眠ろうとするところです。けれども愛しいあなたが、わざわざ訪ねてきてくださったことは恐れいります。ですから帰りたいと思いますので、しばらく黄泉の神と相談してみましょう。私を見ないでください」
こうおっしゃって女神は、その御殿の中に入っていかれたが、その間が大変長く、男神は待ちきれなくなってしまった。

伊奘諾尊は見てはならないという願いを聞かれなかった。そのとき暗かったので、左の御髻(みずら)に挿していた湯津爪櫛(神聖な爪櫛)の、太い歯の一本を折り取って、手灯として一片の火をともしてご覧になった。
今の世の人が、夜ひとつの火をともすことを忌み、また夜、櫛を投げることを忌むのは、これがその由来である。

伊弉冉尊は、死体がふくれ上がって蛆がたかっていた。
その上に八種類の雷があった。
頭には大雷(おおいかずち)、胸には火雷(ほのいかずち)がおり、腹には黒雷(くろいかずち)がおり、陰部には列雷(さくいかずち)がおり、左手には稚雷(わかいかずち)がおり、右手には土雷(つちいかずち)がおり、左足には鳴雷(なきいかずち)がおり、右足には伏雷(ふしいかずち)がいた。

伊奘諾尊はたいへん驚いて仰せられた。
「私は思いがけないひどく汚い国にやってきた」
そうして、急いで逃げ帰られました。
伊弉冉尊は恨んで仰せられた。
「約束を守らず、私を辱しめましたね。あなたは私の本当の姿を見てしまわれた。私もまた、あなたの本当の心を見ました」
伊奘諾尊は恥じられて、出て帰ろうとするとき、ただ黙って帰らないで誓って仰せになった。
「縁を切ろう」
 
伊弉冉尊は泉津醜女(よもつしこめ)を遣わして、追いかけさせて留めようとした。
伊奘諾尊は剣を抜いて後ろを振り払いながら逃げた。そして髪に巻いていた鬘草(かつら)の飾りを投げられると、これは葡萄になった。醜女はこれを見て、採って食べた。食べ終わると、また追いかけてきた。

伊奘諾尊はまた、右の髪に挿していた湯津爪櫛を投げた。これは筍(たけのこ)になった。醜女はそれを抜いて食べた。食べ終わるとまた追いかけてきた。

伊奘諾尊はそこから逃げられたが、その後には、八種の雷神が千五百の黄泉の兵を率いて追跡してきた。そこで帯びている十握の剣を抜いて、後ろ手に振りながら逃げ走られた。

伊奘諾尊は、大樹にむかって放尿された。これが大きな川となった。泉津日狭女(よもつひさめ)がこの川を渡ろうとする間に、伊奘諾尊は逃げて黄泉平坂(よもつひらさか)に着かれた。
そこに生っていた桃の木の陰に隠れて、その実を三つ取って待ちうけ、投げつけたところ、黄泉の雷の兵はことごとく退散した。これが、桃を使って鬼を防ぐ由来である。

伊奘諾尊は、桃の実に詔して仰せられた。
「お前が私を助けたように、葦原の中国に生きるあらゆる現世の人々がつらい目にあって、憂い苦しんでいるときに助けてやるように」
そういわれて、意富迦牟都美命(おおかむつみのみこと)という名前をお与えになった。

最後に、伊弉冉尊自身が、泉都平坂(よもつひらさか)へ追いかけて来たときに、伊奘諾尊はその杖を投げて仰せられた。
「ここからこちらへは、雷の兵は来ることができない」
伊奘諾尊はまた、泉津平坂に千人引きの岩で、その坂道をふさぎ、岩を間に置いて伊弉冉尊と向かい合って、ついに離婚の誓いを立てられた。

その離別の言葉を交わされるとき、伊弉冉尊は誓って仰せられた。
「あなたには負けません」
そして唾をはかれた。そのとき生じた神を、名づけて日速玉之男神(ひはやたまのおのかみ)という。次に、掃きはらって生まれた神を泉津事解之男神(よもつことさかのおのかみ)と名づけた。

伊弉冉尊が仰せられた。
「愛しいわが夫のみこと、あなたがそのように別れの誓いをいわれるのならば、私はあなたが治める国の民を、一日に千人ずつ絞め殺しましょう」
伊奘諾尊は答えて仰せられた。
「愛しいわが妻よ、そのようにいうのならば、私は一日に千五百人ずつ生ませることにしよう」
こういうわけで、一日に千人の人が必ず死ぬ一方、一日に千五百人の人が必ず生まれるのである。

伊奘諾尊がこれによって仰せられた。
「これより入ってはならぬ」
そうして、三柱の神をお生みになった。その杖を投げられた。これを岐神(ふなとのかみ)という。名づけて来名戸神(くなとのかみ)という。
また、その帯を投げられた。これを長道磐神(ながちいわのかみ)という。
また、その履(くつ)を投げられた。これを道敷神(ちしきのかみ)という[または煩神(わずらいのかみ)といい、または開歯神(あきくいのかみ)という]。

伊弉冉尊を、黄泉津大神という。また、伊奘諾尊に追いついてきたので、道敷大神(ちしきのおおかみ)と呼ぶ。
また、その黄泉の坂を塞ぐ岩を、道反大神(ちがえしのおおかみ)と呼ぶ。また、塞いでいる岩を、泉門塞之大神(よみどもさやりますおおかみ)という。また、塞坐黄泉戸大神(さやりますよみどのおおかみ)という。

伊奘諾・伊弉冉の二神が、また、その妻と泉津平坂で相争ったとき、伊奘諾尊が仰せになった。
「はじめあなたのことを悲しみ慕ったのは、私の気が弱かったからだ」
このとき泉守道者(よもつちもりびと)が申しあげていった。
「伊弉冉尊からのご伝言があります。“私はあなたと既に国を生みました。どうして更にこの上生むことを求めましょうか。私は、この国にとどまって、ご一緒には参りません”といわれました」
このとき、菊理媛神(くくりひめのかみ)もまた、申しあげることがあった。
伊奘諾尊は、これをお聞きになり、ほめられた。そうして去られた。
今の人が忌むことに、先に妻が死んだとき、夫が殯(もがり)のところを避けるのは、これが始まりであろうか。

そのいわゆる泉津平坂というのは、また別のところにあるのではない。ただ死に臨んで息絶えそうなときをこういうのであろうか。出雲国の伊賊夜坂(いふやさか)であるともいう。

伊弉冉尊は、出雲国と伯耆国との境にある、比婆之山(ひばのやま)に葬った。
伊弉冉尊は、紀伊国の熊野の有馬村に葬った。土地の人がこの神の御魂を祀るのには、花の時期に花をもってお祀りし、鼓・笛・旗を使って歌舞してお祀りする。

伊奘諾尊(いざなきのみこと)は、みずから黄泉の国をご覧になった。これは不祥であった。帰って悔いて仰せられた。
「私はさきに、ひどく穢れたところへ行ってきた。だから、私の体についた汚れたものを洗い捨て、すすぎ除こう」
出かけられて粟門(あわのと)と速吸名門(はやすいなと)をご覧になった。ところが、この二つの海峡は潮の流れがとても急だった。
そこで、日向の橘の小戸(川の落ち口)の、檍原(あわぎはら)に帰られて祓ぎはらわれた。
身体の汚いところをすすごうとして、言葉に出していわれて男神は黄泉の穢れを祓おうとした。日向の橘の小戸の、檍原に行かれて、身体を祓ぎはらわれた。
このとき、十二柱の神が生まれた。
まず、投げ捨てた杖から成った神の名は、衝立船戸神(つきたてふなとのかみ)。
次に、投げ捨てた帯から成った神の名は、道長乳歯神(ちのながちはのかみ)。
次に、投げ捨てた裳から成った神の名は、時置師神(ときおかしのかみ)。
次に、投げ捨てた衣から成った神の名は、和内良比能宇斯能神(わづらひのうしのかみ)。
次に、投げ捨てた袴から成った神の名は、道股神(ちまたのかみ)。
次に、投げ捨てた御冠から成った神の名は、飽咋の宇斯能神(あきぐいのうしのかみ)。
次に、投げ捨てた左の御手の腕輪から成った神の名は、奥疎神(おきざかるのかみ)。
名づけて奥津那芸佐彦神(おきつなぎさひこのかみ)という。
次に、奥甲斐弁羅神(おきつかひべらのかみ)。
次に、投げ捨てた右の御手の腕輪から成った神の名は、辺疎神(へざかるのかみ)。
名づけて辺津那芸佐彦神(へつなぎさひこのかみ)という。
次に、辺津甲斐弁羅神(へつかひべらのかみ)。

伊奘諾尊が仰せになった。
「上の瀬は流れが速い。下の瀬は流れがおそい」
はじめ、中ほどの瀬で穢れを洗い清められたときに、二柱の神が成り出た。
その神の名は、八十禍津日神(やそまがつひのかみ)。
次に、大禍津日神(おおまがつひのかみ)。
また、その禍を直そうとして三柱の神が成り出た。
その神の名は、神直日神(かむなおびのかみ)。
次に、大直日神(おおなおびのかみ)。
次に、伊豆能売神(いづのめのかみ)。

また、水に入って磐土命(いわつつのみこと)を吹き出された。
次に、水から出て大直日命(おおなおびのみこと)を吹き出された。
また入って、底土命(そこつつのみこと)を吹き出された。
次に出て、大綾津日神(おおあやつひのかみ)を吹き出された。
また入って、赤土命(あかつつのみこと)を吹き出された。
次に出て、大地と海原の諸々の神を吹き出された。

また、海の底にもぐってすすいだときに、それによって二柱の神が生まれた。
名づけて、底津少童命(そこつわたつみのみこと)という。
次に、底筒男命(そこつつおのみこと)という。
また、潮の中にもぐってすすいだことによって二柱の神が生まれた。
名づけて、中津少童命(なかつわたつみのみこと)という。
次に、中筒男命(なかつつおのみこと)という。
また、潮の上に浮かんですすいだことによって二柱の神が生まれた。
名づけて、表津少童命(うわつわたつみのみこと)という。
次に、表筒男命(うわつつおのみこと)という。
あわせて六柱の神がいらっしゃる。

この底津少童命、中津少童命、表津少童命の三神は、阿曇連(あずみのむらじ)らがお祀りする、筑紫の斯香神(しかのかみ)である。
底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神は、津守連(つもりのむらじ)がお祀りする、住吉の三社の神である。

伊奘諾尊が身体をすすがれたときに三柱の神が生まれた。
左の御目を洗われたときに成った神の名は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)。
右の御目を洗われたときに成った神の名は、月読命(つくよみのみこと)。
この二柱の神は、並びに五十鈴川の河上にいらっしゃる。伊勢にお祀りする大神という。
御鼻を洗われたときに成った神の名は、建速素戔烏尊(たけはやすさのおのみこと)。
出雲国の熊野神宮と杵築(きつき)神宮にいらっしゃる。

伊奘諾尊はたいそう喜ばれて仰せになった。
「私が生んだ子を生み終わるときに、三柱の尊い子を得た」
その御首の首飾りの玉の緒を、ゆらゆらと揺り鳴らしてお授けになった。その御首飾りの珠に詔して名を授け、御倉板挙神(みくらたなあげのかみ)という。

伊奘諾尊が天照大御神に詔して、
「あなたは高天原を治めなさい」
とご委任になった。
次に、月読命に詔して、
「あなたは夜の世界を治めなさい」
とご委任になった。
次に、素戔烏尊に詔して、
「あなたは海原を治めなさい」
とご委任になった。

こうして、それぞれご委任になられたお言葉にしたがってお治めになったが、その中で速素戔烏尊だけは、委任された国を治めずに、長い顎髭が胸元にとどくようになるまで、ずっと泣きわめいていた。

伊奘諾尊は仰せになった。
「私は天下を治めるべきすぐれた子を生もうと思う」
そうして三柱の神が成り出た。
左手で白銅鏡をお取りになったときに、生まれた神を大日孁尊という。
右手で白道鏡をお取りになったときに、生まれた神を月弓尊(つくゆみのみこと)という。
首を回して後ろをご覧になったときに、生まれた神を素戔烏尊という。
このうち、大日孁尊と月弓尊は共にひととなりが麗しいのに対して、素戔烏尊は性質が物をそこない壊すのを好むところがあった。そこで、くだして根の国を治めさせた。

伊奘諾尊は三柱の子に任じて仰せられた。
「天照太神は高天原を治めなさい。月読尊は青海原の潮流を治めなさい」
月読尊は後に、日の神に副えて天のことを掌り、夜の世界を治めさせた。
素戔烏尊には、天下および青海原を治めさせた。

素戔烏尊は歳もたけ、また、長い髭が伸びていた。けれども、統治を委任された天下を治めず、いつも泣き恨んでいた。
伊奘諾尊がそのわけを尋ねて仰せられた。
「お前はなぜ、いつもこんなに泣いているのか」
素戔烏尊は答えて申しあげられた。
「私は母のいる根の国に従いたいと思って、ただ泣くのです」
伊奘諾尊は、これを憎んで仰せられた。
「勝手にしろ」
そうして素戔烏尊は親神のもとを退いた。

伊奘諾尊が、素戔烏尊に詔して仰せられた。
「どうゆうわけで、私の委任した国を治めないで、泣きわめいているのか」
素戔烏尊は申しあげた。
「私は亡き母のいる根の堅州国に参りたいと思うので、泣いているのです」
伊奘諾尊は、ひどく怒って仰せになった。
「お前はたいへん無道だ。だから天下に君臨することはできない。この国に住んではならない。必ず遠い根の国に行きなさい」
そしてついに追いやられた。

素戔烏尊が請い申しあげて仰せになった。
「私はいま、ご命令に従って、根の国に参ろうとします。そこで高天原に参って、姉のみことにお目にかかり、その後お別れしようと思います」
伊奘諾尊が「許す」と仰せになったので、天に昇られた。

伊奘諾尊は、お仕事をすでに終えられ、徳も大きかった。神としての仕事を終えられて、天に帰られてご報告され、日の少宮(わかみや)に留まりお住みになられた。
また、あの世に赴こうとされた。そこで、幽宮(かくれのみや)を淡路の地に造って、静かに永く隠れられた。また、淡路の多賀(たが)にいらっしゃるともいう。 
 
巻第二 神祇本紀 

 

素戔烏尊(すさのおのみこと)が申しあげて仰せになった。
「私は今、ご命令にしたがって、根の国に参ろうとします。そこで高天原に参って、姉のみことにお目にかかった後にお別れしたいと思います」
伊奘諾尊(いざなきのみこと)は仰せになった。
「許す」
そこで、天に昇られた。

素戔烏尊が天に昇ろうとする時、一柱の神がいた。名を羽明玉(はあかるたま)という。この神がお迎えして、瑞の八坂瓊(やさかに)の勾玉を献上した。
素戔烏尊がその玉を持って天に昇られる時、大海はとどろき渡り、山岳も鳴りひびいた。これはその性格が猛々しいからである。

天に昇られる時に、天鈿売命(あまのうずめのみこと)がこれを見て、日の神に告げ申しあげた。
天照太神(あまてらすおおみかみ)は、もとからその神の荒くよからぬことをご存知で、やってくる様子をご覧になると、たいへん驚いて仰せられた。
「我が弟がやってくるのは、きっと善い心ではないだろう。きっと我が高天原(たかまがはら)を奪おうとする心があるのだろう。父母はすでにそれぞれの子供たちに命じて、それぞれの境を設けられた。どうして自分の行くべき国を棄ておいて、あえてこんなところに来るのか」
そうして、御髪を解いて御髻(みずら)にまとめ、御髪を結いあげて御鬘(みかつら)とし、裳の裾をからげて袴(はかま)とし、左右の御鬘、左右の御手および腕にもそれぞれ大きな玉をたくさん緒に貫いた御統(みすまる)を巻きつけた。また、背には千箭(ちのり)の靱(ゆき)を負い、腕には立派な高鞆(たかとも)をつけ、弓弭(やはず)を振り立て、剣の柄を握りしめ、堅い地面を股まで踏みぬいて、土を沫雪のように踏み散らし、勇猛な振る舞いと厳しい言葉で詰問して仰せになった。
「どういうわけで上って来たのか」

素戔烏尊は答えて仰せられた。
「私にははじめから汚い心はありません。ただすでに父のみことの厳命があって、永く根の国に去ろうとするのに、もし姉のみことにお目にかかれなければ、私はどうしてよくおいとまできましょう。また、珍しい宝である八坂瓊の勾玉を献上したいと思うだけです。あえて別の心はありません。そのため雲霧を踏み渡って、遠くからやって来たのです。思いがけないことです、姉のみことの厳しいお顔に会おうとは」

すると天照太神がまた尋ねて仰せられた。
「もしそうなら、何をもってお前の清く明るい心を証明するのか。お前のいうことが嘘か本当か、何をもって証拠とするのか」

素戔烏尊が答えて仰せられた。
「どうか私と姉のみこととで、ともに誓約(うけい)しましょう。誓約の中に必ず子を生むことを入れましょう。もし私の生んだ子が女だったら、汚い心があると思ってください。もし男だったら、清い心であるとしてください」

そして天の真名井(まない)の三ヶ所を掘って、天照太神と素戔烏尊は天の安河をへだてて向かい合い、誓約して仰せになった。
「お前にもし悪い心があるのならば、お前の生む子はきっと女だろう。もし男を生んだならば、私の子として、高天原を治めさせよう」

天照太神は、素戔烏尊と誓約して仰せられた。
「私が身につけている玉をお前に授けよう。お前が帯びている剣を私に授けなさい」
このように約束してお互いに取り替えられた。

天照太神が、素戔烏尊の帯びていた三ふりの剣を[また十握剣(とつかのつるぎ)を三つにして、生じた三神]、天の真名井[または去来の真名井という]で振りすすいで、噛み砕いて吹きだされると、息吹の霧の中から三柱の女神が生まれた。

十握剣から生まれた神の名を、瀛津嶋姫命(おきつしまひめのみこと)という。[また田心姫(たごりひめ)、または田霧姫(たぎりひめ)という]
九握剣(ここのつかのつるぎ)から生まれた神の名を、瑞津嶋姫命(たぎつしまひめのみこと)という。
八握剣(やつかのつるぎ)から生まれた神の名を、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)という。

素戔烏尊が、天照太神の御手と髻鬘(みずら)に巻いておられた八咫瓊の五百筒の玉の御統を、天の真名井[または去来の真名井という]にすすぎ浮かべて、噛み砕いて吹きだされると、息吹の霧の中から、六柱の男神が生まれた。

すなわち、左の御鬘(みかつら)の玉を含んで左の手のひらの中に生まれた神の名を、正哉吾勝々速天穂別尊(まさかあかつかちはやあまのほわけのみこと)という。
また、右の御鬘の玉を含んで右の手のひらの中に生まれた神の名を、天穂日命(あまのほひのみこと)という。
また、左の御髻(みもとどり)の玉を含んで左の肘につけて生まれた神の名を、天津彦根命(あまつひこねのみこと)という。
また、右の御髻の玉を含んで右の肘につけて生まれた神の名を、活津彦命(いくつひこのみこと)という。
また、左の御手の玉を含んで左足の中に生まれた神の名を、熯速日命(ひはやひのみこと)という。
また、右の御手の玉を含んで右足の中に生まれた神の名を、熊野豫樟日命(くまのくすひのみこと)という。

天照太神が仰せられた。
「その元を尋ねれば、玉は私の物である。だから、この成り出た六柱の男神は全部私の子である。よって引き取って、子として養い、高天原を治めさせよう。その剣はお前の物である。だから、私が生んだ三柱の女神はお前の子である」
素戔烏尊に三柱の女神たちを授けて、葦原(あしはら)の中国(なかつくに)に降らせられた。まさに筑紫国の宇佐嶋(うさのしま)に降らせられた。北の海路の中においでになり、名を道主貴(みちぬしのむち)という。
そして教えて仰せられた。
「天孫を助け申しあげ、天孫のために祀られなさい」
これがすなわち、宗像君(むなかたのきみ)が祀る神である。一説には、水沼君(みぬまのきみ)らが祀る神がこれである。
瀛津嶋姫命は、遠沖にいらっしゃる田心姫命のことである。
辺津嶋姫命(へつしまひめのみこと)は、海浜にいらっしゃる瑞津嶋姫命のことである。
中津嶋姫命(なかつしまひめのみこと)は、中嶋にいらっしゃる神で、市杵嶋姫命のことである。

伊奘諾(いざなき)・伊弉冉(いざなみ)の二神は、火の神の迦具突智(かぐつち)と、土の神の埴安姫(はにやすひめ)をお生みになった。この火土の二神は、稚皇産霊命(わかみむすひのみこと)をお生みになった。
稚皇産霊命の頭には桑と蚕が生じ、臍の中には五種類の穀物が生じた。この神が、保食神(うけもちのかみ)か。

天照太神(あまてらすおおみかみ)が天上で仰せになった。
「葦原の中国(なかつくに)に保食神がいると聞く。月読尊(つくよみのみこと)よ、お前が行って見てきなさい」
月読尊は、詔を受けて保食神のもとへお降りになった。

保食神が、首を回して陸に向かわれると、口から飯が出てきた。
また海に向かわれると、大小の魚が口から出てきた。
また山に向かわれると、毛皮の動物たちが口から出てきた。
そのいろいろな物をすべて揃えて、沢山の机にのせておもてなしした。

このとき、月読尊は憤然として色をなして仰せられた。
「けがらわしいことだ。いやらしいことだ。口から吐き出した物を、私に食べさせようとするのか」
そして剣を抜いて、保食神を撃ち殺された。
その後に復命して、詳しくそのことを申しあげられた。
天照太神は、非常にお怒りになって仰せられた。
「お前は悪い神だ。もうお前とは会いたくない」
そこで、月読尊とは、昼と夜とに分かれて、離れてお住まいになった。

この後、天照太神はまた、天熊人命(あまのくまひとのみこと)を遣わして様子を見させられた。
保食神の頭には桑と蚕が生じ、目には馬と牛が生じ、胸には黍(きび)と粟が生じ、腹には稲種が生じ、臍・尻には麦と豆が生じ、陰部には小豆が生じていた。
そこで天熊人は、それをすべて取って持ち帰り献上した。

このとき、天照太神は喜んで仰せられた。
「この物は人民が生きていくのに必要な食べ物だ」
そこで粟・稗・麦・豆を畑の種とし、稲を水田の種とした。天の邑君(むらきみ)を定めて、その稲種をはじめて天の狭田(さだ)と長田(ながた)に植えた。
その秋の垂穂は、八握りもあるほどしなって、とても気持ちよく実った。
また、口の中に蚕の繭を含んで糸をひく方法を得た。これによって養蚕が出来るようになり、絹織の業が起こった。

天照太神は、天の垣田(かきた)を御田とされた。
また、御田は三ヶ所あり、名づけて天の安田・天の平田・天の邑并田(むらあわせだ)という。これらはみな良田だった。長雨や旱魃にあっても、損なわれることはなかった。

素戔烏尊にも三ヶ所の田があった。
名づけて天の樴田・天の川依田・天の口鋭田(くとだ)という。これらはみなやせ地だった。雨が降れば流れ、日照りになると旱魃になった。

素戔烏尊の行いは、とてもいいようがないほどで、妬んで姉神の田に害を与えた。
春には種を重ね蒔きしたり、畔を壊したり、串をさしたり、樋を放ったり、用水路を壊したり、溝を埋めたりした。秋には天の斑馬を放って、田の中を荒した。
何度も絡縄(さなわ)を使って串をさして自分の田にしようとしたり、馬で荒した。

また、天照太神が神嘗・大嘗、または新嘗の祭りをされるときに現れて、新宮のお席の下に放尿脱糞された。日の神はそれを知らずに席に着かれた。

これらいろいろの仕業は、一日も止むことはなく、いいようのないほどであった。しかし日の神は、親身な気持ちでとがめられず恨まれず、すべてお赦しになった。

天照太神が神衣を織るために斎服殿(神聖な機殿)へおいでになった。そこへ素戔烏尊は、天の斑馬を生きたまま皮を逆に剥いで、御殿の屋根に穴をあけてその皮を投げ入れた。
このときに天照太神はたいへん驚いて、機織の梭で身体をそこなわれた。
一説には、織女の稚日姫尊(わかひひめのみこと)が驚かれて機から落ち、持っていた梭で身体を傷つけられて亡くなったという。その稚日姫尊は、天照太神の妹である。

天照太神は素戔烏尊に仰せになった。
「お前はやはり悪い心がある。もうお前と会いたいとは思わない」
そうして、天の岩屋に入り、磐戸を閉じ隠れられた。
そのため、高天原はすっかり暗くなり、また葦原の中国も真っ暗になって、昼夜の区別も分からなくなった。
そのため、あらゆる邪神の騒ぐ声は、夏の蠅のように世に満ち、あらゆる禍いがいっせいに起こることは、常世の国に居るようだった。諸神は憂い迷って、手も足もうち広げて、諸々のことを灯りをともしておこなった。
 
八百万(やおよろず)の神々は、天の八湍河(やすかわ)の河原に集まって、どのようなお祈りを奉るべきかを相談した。
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子の思兼神(おもいかねのかみ)は思慮深く智にすぐれていた。深謀遠慮をめぐらせていった。
「常世の長鳴鳥(ながなきどり)を集めて、互いに長鳴きさせましょう」
そして集めて鳴き合わせた。

また、日の神のかたちを作って、招き出す祈りをすることにした。
また、鏡作の祖、石凝姥命(いしこりとめのみこと)を工として、天の八湍河の河上の天の堅石を採らせた。また、真名鹿(まなしか)の皮を丸剥ぎにして、天の羽鞴(はたたら)を作り、天の金山の銅を採って、日の矛を作らせた。
このとき作った鏡は多少不出来だった。紀伊国にいらっしゃる、日前神(ひのくまのかみ)がこれである。

また、鏡作の祖の天糠戸神(あまのぬかとのかみ)[石凝姥命の子である]に、天の香山の銅を採らせて日の形の鏡を作らせた。そうして出来上がった鏡の姿は美麗だったが、岩戸に触れて小さな傷がついた。その傷は今なおある。
この鏡が伊勢にお祀りする大神である。いわゆる八咫鏡(やたのかがみ)、またの名を真経津鏡(まふつのかがみ)がこれである。
また、玉作の祖の櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)に、八坂瓊の五百筒の(大きな玉をたくさん貫いた)御統(みすまる)のための玉を作らせた。
櫛明玉神は、伊奘諾尊の子である。

また、天太玉神(あまのふとたまのかみ)に、諸々の部の神を率いて幣帛を作らせた。
また、麻積の祖の長白羽(ながしらは)の神に麻を植えさせて、これを青和幣(あおにぎて)とした。いま、衣を白羽と言うのはこれがその由来である。
また、津咋見神(つくいみのかみ)に穀木綿を植えさせ、これで白和幣(しろにぎて)を作らせた。
どちらも一晩で生い茂った。

また、阿波の忌部の祖の天日鷲神(あまのひわしのかみ)に、木綿を作らせた。
また、倭文造(しどりのみやつこ)の祖の天羽槌雄神(あまのはづちおのかみ)に、文布を織らせた。
また、天棚機姫神(あまのたなはたひめのかみ)に、神衣を織らせた。いわゆる和衣である[またニギタエという]。
また、紀伊の忌部の遠祖の手置帆負神(たおきほおいのかみ)を、作笠(かさぬい)とした。
[ともに職業とした]
また、彦狭知神(ひこさしりのかみ)に、楯を作らせた。
また、玉作部の遠祖の豊球玉屋神(とよたまのたまやのかみ)に、玉を作らせた。
また、天目一箇神(あまのまひとつのかみ)に、諸々の刀・斧・また鉄鐸を作らせました[鉄鐸はいわゆるサナギという]。
また、野槌(のつち)の神に、たくさんの野薦(のすず)・玉をつけた木を集めさせた。
また、手置帆負と彦狭知の二神に、天の御量(みはかり)で大小の様々な器類を量り、名をつけさせた。
また、大小の谷の材木を伐って、瑞殿を造らせた[古語にミヅノミアラカという]。
また、山雷の神に、天の香山の枝葉のよく茂った賢木を堀りとらせた[掘り取ることを古語にサネコジノネコジという]。
賢木の上の枝には八咫鏡を掛けた[またの名を真経津の鏡という]。中ほどの枝には八坂瓊の五百箇の御統の玉を掛けた。下の枝には青和幣・白和幣を掛けた。
およそ、その様々な諸物を設け備えることは、打ち合わせどおりにいった。

また、中臣の祖の天児屋命(あまのこやねのみこと)と忌部の祖の天太玉命に、天の香山の牝鹿の肩の骨を抜きとり、天の香山の朱桜を取って占わせた。
また、手力雄神(たぢからおのかみ)に、岩戸のわきに隠れ侍らせた。
また、天太玉命にささげ持たせて、天照太神の徳をたたえる詞を申しあげさせた。また、天児屋命と共に祈らせた。
天太玉命が広く厚く徳をたたえる詞を申しあげていった。
「私が持っている宝鏡の明るく麗しいことは、あたかもあなた様のようです。戸をあけてご覧ください」
そこで、天太玉命と天児屋命は、共にその祈祷をした。

このとき、天鈿売命(あまのうずめのみこと)は、天の香山の真坂樹(まさかき)を髪に纏い、天の香山の天の日蘿懸(ひかげ)を襷とした。また、天鈿売命は天の香山の天蘿(かげ)を襷として掛け、天の香山の真坂樹を髪に纏い、天の香山の笹の葉を手草とし、手に鐸をつけた矛を持って、天の岩戸の前に立ち、庭火を焚いて巧みに踊りをした。
火を焚いて、桶を伏せてこれを踏み鳴らし、神がかりになったように喋り、胸乳をかき出だし裳の紐を陰部まで押し下げると、高天原が鳴りとどろくばかりに八百万の神々がいっせいに笑った。

天照太神はふしぎに思われ仰せられた。
「私がここに籠っているから、天下は全て暗闇になり、葦原の中国はきっと長い夜だろう。それなのに、どうして天鈿売命はこんなに喜び笑い、八百万の神々もみな笑っているのだろう」
そしてあやしまれて、岩戸をわずかに開いて、このようにしているわけを問われた。

天鈿売命が答えて申しあげた。
「あなた様よりも、素晴らしく尊い神がおいでになっているので、喜び笑っているのです」
天太玉命と天児屋命がその鏡をそっと差し出して、天照太神にお見せすると、天照太神はいよいよふしぎに思われ、少し細めに岩戸をあけて、これをご覧になった。
そのとき手力雄神に、天照太神の御手をとって引き出させ、その扉を引きあけ、新殿にお移し申しあげた。
そこで、天児屋命と天太玉命は、日の御綱縄(みつな)を、その後ろの境界にめぐらし掛けて、注連縄とした。

また、大宮売神(おおみやのめのかみ)に、天照太神の御前へ侍らせた。天太玉命が奇跡的に生んだ神である。
現代の宮中の女官内侍が優美な言葉や端麗な言葉を用いて、君主と臣との間をやわらげて、天皇の御心を喜ばせ申しあげるようなものである。

また、豊磐間戸命(とよいわまどのみこと)と櫛磐間戸命(くしいわまどのみこと)の二神に、御殿の門を守らせた。この二神はともに天太玉命の子である。

天照太神が天の岩屋から出られたために、高天原と葦原の中国は、自然と日が照り明るくなることができた。
そのときになって、天ははじめて晴れた。
「あはれ」といったその意味は、天が晴れるということである。
「あなおもしろ」は、古語に事態が最高潮に達したことを、すべて「あな」といい、神々の顔が明るく白くなったため「おもしろ」というのである。
「あなたのし」は、手を伸ばして舞うことである。今、楽しいことを指して、「たのし」というのはこの意味である。
「あなさやけ」は、笹の葉の「ささ」と鳴る音がその由来である。
「おけ」は、木の名前か。その葉を揺り動かすときの言葉である。

そうしてすぐさま、天太玉命と天児屋命の二神は申しあげていった。
「もう、天の岩屋にはお戻りになりませんように」

八百万の神々は、一同相談して素戔烏尊の罪を追求し、その罪を負わせるために、千座の置戸にたくさんの捧げ物で賠償させた。そして、髭を抜き、爪を抜いてその罪のあがないをさせた。また、手の先の爪、足の先の爪を出させ、唾を白和帛(しらにぎて)とし、よだれを青和帛(あおにぎて)とした。
そうして天児屋命(あまのこやねのみこと)に、その罪の祓いの祝詞(のりと)をあげさせた。
今の世の人が、自分の切った爪を他人に渡らないようにするのは、これがその由来である。

諸神は、素戔烏尊を責めていった。
「あなたの行いは、たいへん無頼です。だから、天上に留まって住むべきではありません。また、葦原の中国にも居てはいけません。すみやかに根の国へ行ってください」
そうして、皆で追いやった。

追いやられて去るとき、食べ物を御食都姫神(みけつひめのかみ)に乞うた。
大御食都姫神が鼻や口、尻から様々な美味しい食べ物を取り出して、いろいろに調理して差し上げるときに、素戔烏尊はそのしわざを立ち伺って、汚らわしいものを差し出すのだと思った。そのため、大御食都姫神を殺してしまった。

その殺された神の体から生まれ出た物は、頭には蚕が生じ、二つの目には稲種が生じ、二つの耳には粟が生じ、鼻には小豆が生じ、陰部には麦が生じ、尻には大豆が生じた。そこで、神皇産霊尊(かみむすひのみこと)は、これらを取らせて種となさった。

素戔烏尊は、青草を編んで笠蓑として身につけ、神々に宿を借りたいと乞うた。神々はいった。
「あなたは自分の行いが悪くて追われ責められているのです。どうして宿を我々に乞うことが許されましょう」
皆で宿を断った。
それで風雨がはなはだしいものの、留まり休むことができず、苦労して降っていかれた。
これ以後、世に笠蓑を着たままで、他人の家の中に入るのを忌むようになった。また、束ねた草を背負って、他人の家の中に入るのを忌むようになった。もしこれを犯す者があると、必ず罪のつぐないを負わされる。これは大昔からの遺法である。

素戔烏尊が日の神に申しあげて仰せになった。
「私がまたやって来ましたのは、諸神が私の根の国行きを決めたので、今から行こうとするのです。もし姉のみことにお目にかからなかったら、こらえ別れることもできないでしょう。本当に清い心をもってまた参上したのです。もうお目にかかる最後です。神々の意のままに、今から永く根の国に参ります。どうか姉のみことよ、天上を治められて、平安であられますように。また私が清い心で生んだ子供たちを、姉のみことに奉ります」
また帰り降っていかれた。

大日孁貴(おおひるめむち)。またの名を天照太神(あまてらすおおみかみ)、またの名を天照大日孁尊、またの名を大日孁尊という。
高天原(たかまがはら)を治められる。また高天の原を治められる。治められているのは高天原である。

月夜見尊(つくよみのみこと)。またの名を月読尊、またの名を月弓尊(つくゆみのみこと)という。
日の神に副えて天上の世界を治められている。また、青海原の潮の八百重を治められている。また、夜の世界を治められている。

素戔烏尊(すさのおのみこと)。[またの名を神素戔烏尊。または建素戔烏尊という。またの名を建速素戔烏尊]
青海の原を治められている。また青海の原を治められ、天下を治められている。 
 
巻第三 天神本紀    

 

正哉吾勝勝速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)。

天照太神(あまてらすおおみかみ)が仰せになった。
「豊葦原の千秋長五百秋長(ちあきながいほあきなが)の瑞穂(みずほ)の国は、わが御子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊の治めるべき国である」
と仰せになり命じられて、天からお降しになった。
ときに、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子の思兼神(おもいかねのかみ)の妹・万幡豊秋津師姫栲幡千千姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと)を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)をお生みになった。

このとき、正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が、天照太神に奏して申しあげた。
「私がまさに天降ろうと思い、準備をしているあいだに、生まれた子がいます。これを天降すべきです」
そこで、天照太神は、これを許された。

天神の御祖神は、詔して、天孫の璽(しるし)である瑞宝十種を授けた。

瀛都鏡(おきつかがみ)、一つ
辺都鏡(へつかがみ)、一つ
八握(やつか)の剣、一つ
生玉(いくたま)、一つ
死反(まかるかえし)の玉、一つ
足玉(たるたま)、一つ
道反(ちかえし)の玉、一つ
蛇の比礼(ひれ)、一つ
蜂の比礼、一つ
品物(くさぐさのもの)の比礼、一つ

というのがこれである。
天神の御祖神は、次のように教えて仰せられた。
「もし痛むところがあれば、この十種の宝を、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十といってふるわせなさい。ゆらゆらとふるわせよ。このようにするならば、死んだ人は生き返るであろう」
これが“布留(ふる)の言(こと)”の起源である。

高皇産霊尊が仰せになった。
「もし、葦原の中国の敵で、神をふせいで待ち受け、戦うものがいるならば、よく方策をたて、計略をもうけ平定せよ」
そして、三十二人に命じて、みな防御の人として天降しお仕えさせた。

天香語山命(あまのかごやまのみこと)、尾張連(おわりのむらじ)らの祖。
天鈿売命(あまのうずめのみこと)、猿女君(さるめのきみ)らの祖。
天太玉命(あまのふとたまのみこと)、忌部首(いむべのおびと)らの祖。
天児屋命(あまのこやねのみこと)、中臣連(なかとみむらじ)らの祖。
天櫛玉命(あまのくしたまのみこと)、鴨県主(かものあがたぬし)らの祖。
天道根命(あまのみちねのみこと)、川瀬造(かわせのみやつこ)らの祖。
天神玉命(あまのかむたまのみこと)、三嶋県主(みしまのあがたぬし)らの祖。
天椹野命(あまのくぬのみこと)、中跡直(なかとのあたい)らの祖。
天糠戸命(あまのぬかとのみこと)、鏡作連(かがみつくりのむらじ)らの祖。
天明玉命(あまのあかるたまのみこと)、玉作連(たまつくりのむらじ)らの祖。
天牟良雲命(あまのむらくものみこと)、度会神主(わたらいのかんぬし)らの祖。
天背男命(あまのせおのみこと)、山背久我直(やましろのくがのあたい)らの祖。
天御陰命(あまのみかげのみこと)、凡河内直(おおしこうちのあたい)らの祖。
天造日女命(あまのつくりひめのみこと)、阿曇連(あずみのむらじ)らの祖。
天世平命(あまのよむけのみこと)、久我直(くがのあたい)らの祖。
天斗麻弥命(あまのとまねのみこと)、額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)らの祖。
天背斗女命(あまのせとめのみこと)、尾張中嶋海部直(おわりのなかじまのあまべのあたい)らの祖。
天玉櫛彦命(あまのたまくしひこのみこと)、間人連(はしひとのむらじ)らの祖。
天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)、安芸国造(あきのくにのみやつこ)らの祖。
天神魂命(あまのかむたまのみこと)[または三統彦命(みむねひこのみこと)という]、葛野鴨県主(かどののかものあがたぬし)らの祖。
天三降命(あまのみくだりのみこと)、豊田宇佐国造(とよたのうさのくにのみやつこ)らの祖。
天日神命(あまのひのかみのみこと)、対馬県主(つしまのあがたぬし)らの祖。
乳速日命(ちはやひのみこと)、広沸湍神麻続連(ひろせのかむおみのむらじ)らの祖。
八坂彦命(やさかひこのみこと)、伊勢神麻続連(いせのかむおみのむらじ)らの祖。
伊佐布魂命(いさふたまのみこと)、倭文連(しどりのむらじ)らの祖。
伊岐志迩保命(いきしにほのみこと)、山代国造(やましろのくにのみやつこ)らの祖。
活玉命(いくたまのみこと)、新田部直(にいたべのあたい)の祖。
少彦根命(すくなひこねのみこと)、鳥取連(ととりのむらじ)らの祖。
事湯彦命(ことゆつひこのみこと)、取尾連(とりおのむらじ)らの祖。
八意思兼神(やごころのおもいかねのかみ)の子・表春命(うわはるのみこと)、信乃阿智祝部(しなののあちのいわいべ)らの祖。
天下春命(あまのしたはるのみこと)、武蔵秩父国造(むさしのちちぶのくにのみやつこ)らの祖。
月神命(つきのかみのみこと)、壱岐県主(いきのあがたぬし)らの祖。

また、五部(いつとものお)の人が副い従って天降り、お仕えした。

物部造(もののべのみやつこ)らの祖、天津麻良(あまつまら)。 
笠縫部(かさぬいべ)らの祖、天曽蘇(あまのそそ)。 
為奈部(いなべ)らの祖、天津赤占(あまつあかうら)。 
十市部首(とおちべのおびと)らの祖、富々侶(ほほろ)。
筑紫弦田物部(つくしのつるたもののべ)らの祖、天津赤星(あまつあかぼし)。

五部の造が供領(とものみやつこ)となり、天物部(あまのもののべ)を率いて天降りお仕えした。

二田造(ふただのみやつこ)。
大庭造(おおばのみやつこ)。
舎人造(とねりのみやつこ)。
勇蘇造(ゆそのみやつこ)。
坂戸造(さかとのみやつこ)。

天物部ら二十五部の人が、同じく兵杖を帯びて天降り、お仕えした。

二田物部(ふただのもののべ)。当麻物部(たぎまのもののべ)。
芹田物部(せりたのもののべ)。鳥見物部(とみのもののべ)。
横田物部(よこたのもののべ)。嶋戸物部(しまとのもののべ)。
浮田物部(うきたのもののべ)。巷宜物部(そがのもののべ)。
足田物部(あしだのもののべ)。須尺物部(すさかのもののべ)。
田尻物部(たじりのもののべ)。赤間物部(あかまのもののべ)。
久米物部(くめのもののべ)。狭竹物部(さたけのもののべ)。
大豆物部(おおまめのもののべ)。肩野物部(かたののもののべ)。
羽束物部(はつかしのもののべ)。尋津物部(ひろきつのもののべ)。
布都留物部(ふつるのもののべ)。住跡物部(すみとのもののべ)。
讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)。相槻物部(あいつきのもののべ)。
筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)。播麻物部(はりまのもののべ)。
筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)。

船長が同じく、梶をとる人たちを率いて、天降りお仕えした。

船長・跡部首(あとべのおびと)らの祖 天津羽原(あまつはばら)。
梶取・阿刀造(あとのみやつこ)らの祖 天津麻良(あまつまら)。
船子・倭鍛師(やまとのかぬち)らの祖 天津真浦(あまつまうら)。
笠縫らの祖 天津麻占(あまつまうら)。
曽曽笠縫(そそかさぬい)らの祖 天都赤麻良(あまつあかまら)。
為奈部(いなべ)らの祖 天津赤星(あまつあかぼし)。

饒速日尊は、天神の御祖神のご命令で、天の磐船にのり、河内国の河上の哮峯(いかるがみね)に天降られた。さらに、大倭国の鳥見の白庭山にお遷りになった。
天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られた。すなわち、“虚空見つ日本(やまと)の国”といわれるのは、このことである。

饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶って妃とした。御炊屋姫は妊娠した。まだ子が生まれないうちに、饒速日尊は亡くなられた。
その報告がまだ天上に達しない時に、高皇産霊尊は速飄神(はやかぜのかみ)に仰せになった。
「私の神の御子である饒速日尊を、葦原の中国に遣わした。しかし、疑わしく思うところがある。だから、お前は天降って復命するように」
このようにご命命になった。速飄神は勅を受けて天降り、饒速日尊が亡くなっているのを見た。そこで、天に帰りのぼって復命して申しあげた。
「神の御子は、すでに亡くなっています」
高皇産霊尊はあわれと思われて、速飄の神を遣わし、饒速日尊のなきがらを天にのぼらせ、七日七夜葬儀の遊楽をし、悲しまれた。そして天上で葬った。

天照太神は仰せになった。
「豊葦原の千秋長五百秋長の瑞穂の国は、我が御子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が王となるべき国である」
とご命令されて、天からお降しになったときに、天押穂耳尊は、天の浮橋に立たれ、下を見おろして仰せられた。
「豊葦原の千秋長五百秋の瑞穂の国は、まだひどく騒がしくて、その地は平定されていない。常識はずれな連中のいる国だ」
そこで、再び帰りのぼって、天に上って詳しく天降れない訳を述べられた。

高皇産霊尊は八百万の神々を天の八湍河(あまのやすかわ)に集めて、思兼神(おもいかねのかみ)にお尋ねになった。
「天照太神がみことのりして仰せになるには“この葦原の中国は我が御子の支配すべき国である”というご命令の国だ。それなのに、私が思うに多くの暴威を振るう乱暴な国つ神がいる。また、岩や草木もみなよく物をいう。夜は蛍火のように輝いたり、昼は蠅のように騒がしいよくない神がいる今、葦原の中国の悪しき神を平定しようと思うが、それには誰を遣わしたらよいだろう。どの神を遣わして平定すべきだろうか」
思兼神と八百万の神はみな申しあげた。
「天穂日命(あまのほひのみこと)をお遣わしになるべきです。この神は、勇ましい方です」
そこで、みなの言葉のままに、天穂日命を遣わし平定させた。しかし、この神は大己貴神(おおなむちのかみ)におもねって、三年たっても復命しなかった。

高皇産霊尊は、さらに諸神を集めてお尋ねになった。
「どの神を遣わすべきか」
みなは申しあげた。
「天津国玉神(あまつくにたまのかみ)の子の、天稚彦(あまのわかひこ)は立派な若者です。試してみてはいかがでしょう」
高皇産霊尊は、天稚彦に天の鹿児弓(あまのかごゆみ)と天の羽羽矢(あまのははや)を授けられて、遣わされた。
しかし、この神もまた忠実ではなかった。
 
天稚彦は、その国に降り着いて、大国主神の娘の下照姫を妻とし、また、その国を得ようと思って、その国に留っていった。
「私も治めようと思う」
そうして、八年たっても復命申しあげなかった。
天照太神と高皇産霊尊は、諸神たちにお尋ねになった。
「昔、天稚彦を葦原の中国に遣わしたが、いまに至るまで戻らないのは、国つ神のなかに反抗して防いでいる者がいるからだろう。私はまた、どの神を遣わし、天稚彦が留まっている訳を尋ねようか」
思兼神や諸神は答え申しあげた。
「名無しの雉か、または鳩を遣わすべきです」
そこで、名無しの雉と鳩を遣わした。
この雉と鳩は降っていったが、粟の田や豆の田を見て、留まって戻らなかった。これがいわゆる“雉の片道使い”または“豆みて落ち居る鳩”という由来である。

高皇産霊尊が、再びお尋ねになった。
「以前に名無しの雉と鳩を遣わしたが、ついに復命することはなかった。今度はどの神を遣わそうか」
思兼神や諸神は申しあげた。
「雉、名は鳴女を遣わすべきです」
そこでまた、名無しの雌雉(めきぎし)を遣わすことになった。
高皇産霊尊は仰せになった。
「おまえは行って、天稚彦が八年も戻らず復命しない理由を問いなさい」
そこで、鳴女は天から降って葦原の中国に着いて、天稚彦の門の湯津楓(神聖な桂)の木の梢にとまり、鳴いていった。
「天稚彦よ、どうして八年もの間、いまだに復命しないのですか。」
このとき、国つ神の天探女(あまのさぐめ)がいた。この雌雉のいうことを聞いて、天稚彦にいった。
「鳴き声の悪い鳥がこの木の梢にいます。射殺してしまいましょう」
天稚彦は天神から賜った弓矢をとって、その雉を射殺した。その矢は雉の胸をとおりぬけて、逆さまに射上げられて、天の安河の河原においでになる天照太神と高皇産霊尊の御前に到った。高皇産霊尊がその矢をとってご覧になると、矢の羽に血がついていた。それで仰せになった。
「この矢は昔、私が天稚彦に与えた矢だ。いま、どういう訳か血がついて戻ってきた。きっと国つ神と闘ったのだろう」
諸神に見せ、まじないしていわれた。
「もし、悪い心で射ったのなら、天稚彦は必ず災難にあうだろう。もし、良い心で射ったのなら、天稚彦には当たらない」
そうしてその矢をとって、穴から衝き返してお下しになったら、その矢は落ち下って、天稚彦の胸に当たり、稚彦は死んでしまった。世の人がいわゆる“返し矢は恐ろしい”ということの由来である。

ときに、天稚彦の妻の下照姫の泣き悲しむ声は、風に響いて天まで届いた。そこで、天にいた天稚彦の父の天津国玉神、また天稚彦の天にいた妻子たちがその声を聞いて、稚彦が亡くなったことを知り、疾風を送って亡がらを天に上げさせた。
そうして、喪屋を造って、河雁を持傾頭者(きさりもち)とし、鷺を持掃者(ははきもち)とし、翠鳥を御食人(みけびと)とし、雀を碓舂女(つきめ)とし、雉を哭女(なきめ)とし、鷄を尸者(ものまさ)とし、鷦鷯を哭者(なきめ)とし、鵄を造綿者(わたつくり)とし、烏を宍人(ししびと)とした。すべての諸々の鳥をこのように定めて、八日八夜というもの泣き悲しみ歌った。

これより以前、天稚彦が葦原の中国にいたとき、味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)とは親しい間柄だった。それで、味耜高彦根神は、天に上って喪をとむらった。
このとき、天稚彦の父や妻がみな泣いて、
「私の子は死なずにいた」「私の夫は死なずにいらっしゃった」
と、このようにいった。手足に取りすがって泣き悲しんだ。その間違ってしまったのは、高彦根神の姿が天稚彦の生前の姿とよく似ていたためである。そのため天稚彦の親族や妻子はみな「わが君はまだ死なないで居られた」といって、衣の端をつかんで、喜び、また驚いた。しかし、高彦根神は憤然として怒りいった。
「友人の道としてはお弔いすべきだ。私は親友だ。それでけがれるのもいとわず遠くからお悔やみにやってきた。それなのに、死人と私を間違えるとは」
そうして、腰にさしている十握の剣“大葉刈”を抜いて、喪屋を切り倒した。その喪屋が下界に落ちて山になった。
すなわち、今の美濃国の藍見川の河上にある喪山がこれである。

天照太神は仰せられた。
「また、どの神を遣わしたらよいだろうか」
思兼神および諸神がみな申しあげた。
「天の安河の川上の天の岩屋においでになる、稜威尾羽張神(いつのおはばりのかみ)を遣わすべきです。もしこの神でなければその神の子の武甕雷の神(たけみかづちのかみ)を遣わすべきです。
その天尾羽張神は、天の安河の水を逆さまに塞き上げて道を塞いでおります。そのため、他の神は行く事ができません。特別に天迦具神(あまのかぐのかみ)を遣わして、お尋ねするとよいでしょう」

そこで、天迦具神を使わして、尾羽張神に尋ねた。
その時答えて申しあげた。
「お仕えしましょう。しかし、この度は、私の子の武雷神を遣わしましょう」
そうして差し上げた。

高皇産霊尊は、さらに諸神を集めて、葦原の中国に遣わすべき者を選ばれた。
みなが申しあげた。
「磐裂根裂(いわさくねさく)の子で磐筒男・磐筒女が生んだ子の、経津主神(ふつぬしのかみ)。この神を将軍にするとよいでしょう」

その時、天の岩屋に住む神・稜威雄走神(いつのおばしりのかみ)の子の武甕槌神が進んで申しあげた。
「どうして経津主神だけが丈夫で、私は丈夫ではないのだ」
その語気が激しかったので、経津主神にそえて武甕槌神を遣わした。
ある説によると、天鳥船神(あまのとりふねのかみ)を武甕槌神にそえて遣わした。

天照大神と高皇産霊神は、経津主神と武甕槌神を遣わされ、先行して討ち払わせ、葦原の中国を平定させられた。
ときに、二神が申しあげた。
「天に悪い神がいます。名を天津甕星といいます。またの名を天香々背男です。どうか、まずこの神を除いて、その後、葦原の中国に降って平定させていただきたい」
このとき、甕星を征する斎主をする神を、斎の大人といった。この神は、いま東国の楫取(かとり)の地においでになる。

経津主神・武甕槌神の二神は、出雲の国の五十狭(いたさ)の小汀に降って、大己貴神に尋ねていった。
「天つ神・高皇産霊尊は、“天照大神は詔して、葦原の中国は我が御子の治めるべき国である、といわれている”とおっしゃっています。あなたはこの国を天神に奉るかどうか、いかに」
大己貴命は答えていった。
「あなたがいうことは、どうも怪しい。あなたがた二神は、私が元から居るところにやってきたではないか。これは何かの間違いではないのか」

二神はそこで、十握の剣を抜き、地に逆さまに突き立て、その切っ先に坐って大己貴神に問いかけられた。
「皇孫を天降したてまつって、この地の王に戴こうというのだ。そこでまず、我ら二神を遣わし、平定させる。あなたの心はどうだ。去るか、どうか」
大己貴命は答えていった。
「私の子の事代主神にこのことを尋ね、しかる後ご返事しよう」

このとき、その子の事代主神は、出雲国の三穂の岬に遊びにいっていた。魚釣りや鳥を捕るのを楽しみとしていた。そこで、熊野の諸手船を使い、使者の稲背脚を乗せて、天鳥船神を遣わし、八重事代主神を召還して、ご返事する言葉を尋ねた。

ときに、事代主神がその父に仰せられた。
「今回の天つ神の仰せごとには、我が父はすみやかに去るべきです。私もまた、逆らうことはいたしません」
そのため、海の中に八重蒼柴籬をつくって、船のへりを踏んで、逆さまに手を打って、青柴垣を打って隠れた。

そうしてさらに、大己貴神に尋ねて仰せられた。
「今、あなたの子の事代主神は、このように申してきた。まだ申すべき子はいるか」
答えていった。
「必ずお答えする者に、我が子・建御名方神がある。これ以外にはおりません」

このように申している間に、建御名方神は千引の大石を手の上にさし上げ来て、いった。
「誰だ。我が国にやって来て、こそこそいっている奴は。それなら、力くらべをしよう。私がまず、その手を取ろう」
そこで、その手を取らせると、立っている氷のようになり、また剣のようになった。そのため恐れて退いた。
今度は建御名方神の手を取ろうとしてこれを取ると、若い葦をつかむようにつかみひしいで、投げうたれたので、逃げ去っていった。

それを追って科野(しなの)国の洲羽(すわ)の海に追い攻めて、まさに殺そうとしたとき、建御名方神が恐れていった。
「私を殺しなさいますな。この地以外には、他の土地には参りません。また、我が父・大国主神の命に背きません。兄の八重事代主神の言葉にもそむきません。この葦原の中国は、天神の御子の仰せのままに献上いたしましょう」

そこで、更に帰ってきて、大国主神に尋ねていった。
「あなたの子達、事代主神、建御名方神は、天神の御子の仰せに背かないと申した。あなたの心はどうか」
答えていった。
「私の子供の二神が申したとおりに、私も違いません。この葦原の中国は仰せのとおり献上いたします。ただ、私の住む所を、天神の御子の皇位にお登りになる壮大な御殿のように、大磐石に柱を太く立てて、大空に棟木を高くあげておつくりくださるならば、私はずっと隠れておりましょう。また、私の子達の多くの神は、事代主神を導きとしてお仕えいたしましたら、背く神はございますまい」

大己貴神、および、子の事代主神は、みな去ることになった。
「もし、私が抵抗したら、国内の諸神も必ず同じく抵抗するでしょう。私が身を引けば、誰もあえて反抗する者はいないでしょう」 そこで、国を平らげたとき用いた広矛を、二神に授けて仰せられた。
「私はこの矛を使ってことを成し遂げました。天孫がもしこの矛を用いて国を治められたら、必ず平安になるでしょう。今から私は、かの幽界へ去ります」
いい終わるとついに隠れてしまった。
二神は、諸々の従わない鬼神達を誅せられた。
 
そうして出雲国の多芸志(たぎし)の小浜に、天の御舎を造って、水戸(みなと)の神の子孫の櫛八玉神(くしやたまのかみ)を膳夫として、ご馳走を差し上げたときに、櫛八玉神は、祝い言を唱え鵜になって海底に入り、底の埴土をくわえ出て、たくさんの神聖なお皿を作って、また、海藻の茎を刈り取って燧臼(ひきりうす)を作り、ホンダワラの茎を使って燧杵(ひきりきね)を作って、火をつくり出して申しあげた。

「この、私のつくる火は、大空高く神産巣霊(かみむすひ)の御祖尊の、命の富み栄える新しい宮居の煤の長く垂れ下がるように焼き上げ、地の下は底岩に堅く焼き固まらせて、緒の長い綱を延ばして釣りをする海人の釣り上げた大きな鱸(すずき)をさらさらと引き寄せあげて、割り竹でたわむほど打って捕らえた、立派な魚料理を献上します」

そうして、経津主神と武甕槌神は天上に帰り上って、復命した。
高皇産霊尊は、経津主神と武甕槌神の二神を再び遣わして、大己貴神に詔して仰せられた。

「いま、お前がいうことを聞くと、深く理にかなっている。そこで、詳しく条件を申そう。お前の治めている現世の事は、わが子孫が治めよう。お前は幽界の事を受け持つように。
また、お前の住むべき宮居をいま造ろう。そのために、千尋もある栲の縄でゆわえて、しっかりと結び、また、その宮を造るきまりは、柱は高く太く、板は広く厚くしよう。
また、豊かな供田をつくり、祭りのお供えとして実り多きことを祈ろう。
また、お前が行き来して海に遊べるために、高い橋や浮き橋、鳥のように速くはしる船を造り供えよう。
また、天の安河にかけ外しのできる橋を造ろう。
また、いく重にも縫い合わせた白楯を造ろう。
また、お前の祭祀を掌るものは、天穂日命である」

大己貴神が答えて仰せられた。
「天つ神のおっしゃることは、こんなに行き届いている。どうして仰せに従わないことがありましょうか。
私が治めるこの世のことは、皇孫がまさに治められるべきです。私は退いて、幽界の神事を担当しましょう」

そこで、岐神(ふなとのかみ)を経津主神と武甕槌神に勧めていった。
「これが私に代わってお仕えするでしょう。私はこれから退去します」
そうして、体に八坂瓊の大きな玉をつけて、永久に隠れてしまった。

そのため、経津主神は、岐神を先導役として、方々をめぐって平定した。命令に従わない者がいれば、斬り殺した。
帰順した者には褒美を与えた。このときに帰順していた首長は、大物主神と事代主神である。

そこで、八十万の神を、天の高市に集めて、この神々を率いて天に上って、その誠の心を披歴した。

高皇産霊尊が大物主神にみことのりして仰せられた。
「お前がもし、国つ神を妻とするならば、私はお前がなお心を許していないと考える。それで、いま私の娘の三穂津姫命(みほつひめのみこと)をお前に娶わせて妻とさせたい。八十万の神々をひきつれて、永く皇孫を守って欲しい」
そうして還り降らされました。

紀伊の国の忌部の遠祖・手置帆負神(たおきほおいのかみ)を笠作りの役目とした。
彦狭知神(ひこさちのかみ)を盾作りの役目とした。
天目一筒神(あまめひとつのかみ)を鍛冶の役とした。
天日鷲神(あまのひわしのかみ)を布作りの役目とした。
櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)を玉作りの役目とした。
天太玉命(あまのふとたまのみこと)を弱肩に太い襷(たすき)をかけるように、天孫の代わりとして、この神を祀らせるのは、ここから始まった。
また、天児屋命(あまのこやねのみこと)は神事を掌る元締めの役である。そこで太占の卜いを役目として仕えさせた。

高皇産霊尊が仰せになった。
「私は天津神籬(あまつひもろぎ)と天津磐境(あまついわさか)を、葦原(あしはら)の中国(なかつくに)につくりあげて、わが孫のためにつつしみ祭ろう」
そうして、天太玉命(あまのふとたまのみこと)と天児屋命(あまのこやねのみこと)の二神を、天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)につき従わせて降らせられた。

このときに、天照太神は、手に宝鏡を持って、天忍穂耳尊に授け、祝っていわれた。
「わが子がこの宝鏡を見るのに、ちょうど私を見るようにすべきである。共に床を同じくし、部屋をひとつにして、つつしみ祭る鏡とせよ。天つ日嗣の隆盛は、天地が無窮であるのと同様である」
すなわち、八坂瓊(やさかに)の勾玉、八咫の鏡、草薙の剣の、三種類の宝物を授けて、永く天孫のしるしとされた。矛と玉は、鏡と剣に自然と従った物である。

天児屋命と天太玉命に仰せられた。
「お前たち二神は、共に同じ建物の中に侍って、よくお守りの役をせよ」
天鈿売命(あまのうずめのみこと)にも詔して、同じくそえ侍らさせた。
常世(とこよ)の思金神(おもいかねのかみ)、手力雄命(たぢからおのみこと)、天石戸別神(あまのいわとわけのかみ)に仰せられた。
「この鏡は、ひたすらに私の御魂として、私を拝むのと同じように敬ってお祀りしなさい。そして、思金神は私の祭りに関することをとり扱って、政事を行いなさい」

この二神は、五十鈴宮(いすずのみや)に丁重に祀ってある。
次に豊受神(とようけのかみ)は、外宮の渡会(わたらい)にいらっしゃる神である。
次に天石戸別神は、またの名を櫛石窓神(くしいわまどのかみ)、または豊石窓神(とよいわまどのかみ)という。この神は、宮門を守る神である。
次に手力雄神は、佐那(さな)県にいらっしゃる神である。
次に天児屋命は、中臣(なかとみ)氏の遠祖である。
次に天太玉命は、忌部(いんべ)氏の遠祖である。
次に天鈿売命は、猿女(さるめ)氏の遠祖である。
次に石凝姥命(いわこりとめのみこと)は、鏡作氏の遠祖である。
次に玉祖屋命は、玉作氏の遠祖である。
以上の五部の伴を率いた神々をそえ侍らせた。

次に、大伴連(おおとものむらじ)の遠祖の天忍日命(あまのおしひのみこと)は、来目部(くめべ)の遠祖の天櫛津大来目(あまのくしつおおくめ)を率いて、背に天の磐靫(いわゆき)を負い、臂には稜威の高鞆(たかとも)をつけて、手には天の杷弓(はじゆみ)と天の羽々矢をとり、八目の鏑矢を取りそえ、また頭槌(柄頭が槌のような形)の剣を帯びて、天孫の前に立たせて先駆けとした。

高皇産霊尊は仰せになった。
「私は天津神籬と天津磐境をつくりあげて、わが子孫のためにつつしみ祭ろう」
「お前たち、天児屋命と天太玉命の二神は、よろしく天津神籬を持って葦原の中国に降り、また、わが孫のためにつつしみ祭りなさい」
また仰せられた。
「どうぞ、お前たち二神は、共に御殿の中に侍って、よく皇孫を防ぎ守りなさい。わが高天原にある、神聖な田の稲穂を、稲の種とし、わが子孫に食べさせなさい。天太玉命は部下の諸々の神を率いて、その職に仕えて、天上での慣例のとおりにしなさい」
そこで、諸神に命じて、また一緒に降臨に随行させた。

大物主神(おおものぬしのかみ)に仰せになった。
「よろしく八十万の神々を率いて、永く皇孫のために守り申しあげなさい」

正哉吾勝々速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)は、高皇産霊尊の娘の栲幡千々姫万幡姫命(たくはたちぢひめよろずはたひめのみこと)を妃として、天上界にいらして子をお生みになった。
天津彦々火瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)と名づけられた。よって、この皇孫を親に代えて降らせようと思われた。天照太神がみことのりしていわれた任務に、天降らせた。
天児屋命、天太玉命、および諸々の部の神たちを、すべてお伴として授けられた。またそのお召し物は、前例のごとく授けられた。その後、天忍穂耳尊は、また天上にお帰りになった。

太子・正哉吾勝々速日天押穂耳尊は、高皇産霊尊の娘の万幡豊秋津師姫命、またの名を栲幡千々姫命を妃として、二柱の男児をお生みになった。
兄は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)。
弟は、天饒石国饒石天津彦火瓊々杵尊。 
 
巻第四 地祇本紀  

 

素戔烏尊(すさのおのみこと)が、天照太神(あまてらすおおみかみ)と共に誓約(うけい)をして、生じた三柱の神は、瀛津嶋姫命(おきつしまひめのみこと)、湍津嶋姫命(たぎつしまひめのみこと)、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)。

素戔烏尊の行いはいいようがないほどで、八十万の諸神は、千座の置戸の罰を科して追放した。
素戔烏尊は、その子である五十猛神(いたけるのかみ)を率いて、新羅の曽尸茂梨(そしもり)のところに天降られた。そこで不満の言葉をいわれた。
「この地には、私は居たくないのだ」

ついに土で船を造り、それに乗って東へ渡り、出雲国の簸(ひ)川の川上で安芸国の可愛川(えのかわ)の川上にある、鳥上の峰についた。
素戔烏尊が出雲国の簸川の川上の、鳥髪というところにおいでになったとき、その川上から箸が流れ下ってきた。素戔烏尊は、人がその川上に住んでいるとお思いになって、たずね捜して上って行くと、川上から泣き声が聞こえてきた。そこで、声の主を探して行き上ると、一人の翁と媼が真中にひとりの少女をおいて泣いていた。

素戔烏尊が尋ねて仰せられた。
「お前たちは誰だ。どうしてこのように泣いているのか」
翁は答えて申しあげた。
「私は国つ神です。名は脚摩乳(あしなづち)、妻は手摩乳(てなづち)といいます。この童女は私の子で、名を奇稲田姫(くしなだひめ)といいます。泣いているわけは、以前私どもには八人の娘がおりましたが、高志の八岐(やまた)の大蛇(おろち)が毎年襲ってきて、娘を喰ってしまいました。今、残ったこの娘が呑まれようとしています。それで悲しんでいるのです」
素戔烏尊はお尋ねになった。
「その大蛇はどんな形をしているのか」
答えて申しあげた。
「大蛇は、一つの胴体に八つの頭と尾がそれぞれ八つに分かれてあります。眼は赤酸漿(あかほおずき)のようで、その体には、蔦や松、柏、杉、檜が背中に生え、長さは八つの谷と八つの山にわたっておりました。その腹を見ると、一面にいつも血がにじんで爛れています」

素戔烏尊はその老夫に仰せられた。
「そのお前の娘を、私に献じぬか」
答えて申しあげた。
「恐れ入ります。しかしお名前を存じません」
素戔烏尊が仰せになった。
「私は天照太神の弟である。今、天から降ってきたところだ」
そこで答えて申しあげた。
「仰せのままにいたします。どうかまず、あの大蛇を殺して、それから召されたらよいでしょう」

素戔烏尊は、たちまちに奇稲田姫を湯津爪櫛へと変えて、御髻(みずら)にお挿しになった。
そして、脚摩乳と手摩乳によく醸した酒を八つの甕に用意させ、また垣を作り廻らせて、その垣に八つの門を作り、八つの桟敷を作った。それぞれに槽ひとつを置き、酒を盛らせた。

そのように、ご命令のままに準備をして待ち受けているとき、八岐の大蛇が脚摩乳の言うとおり八つの丘、八つの谷の間を這ってやって来た。
素戔烏尊は、大蛇に仰せられた。
「あなたは恐れ多い神です。おもてなし申しあげよう」
そこで八つの甕の酒を、八つの頭ごとに得て、大蛇は酔って眠り伏してしまった。
素戔烏尊は、腰に帯びていた十握(とつか)の剣を抜いて、その蛇をずたずたに斬った。蛇は八つに斬られ、斬られた部分ごとに雷となった。その全ての八つの雷は飛び上がって天に昇った。これは神異のはなはだしいものである。

簸川の水は赤い血となって流れた。
その大蛇の尾を斬ったとき、剣の刃が少し欠けた。そこで、その尾を割いてご覧になると、中に一つの剣があった。名を天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)という。大蛇がいる上には常に雲があったので、そう名づけられた。
素戔烏尊は仰せられた。
「これは不思議な剣だ。私はどうして私物にできようか」
そうして、五世孫の天葺根神(あまのふきねのかみ)を遣わして、天上に献上された。
のちに、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征をされたとき、その剣を名づけて草薙剣(くさなぎのつるぎ)といった。今、尾張国の吾湯市村(あゆちのむら)にある。すなわち、熱田神社でお祀りしている神である。

また、その蛇を斬った剣は今、吉備の神部のところにある。出雲の簸川の川上にやって来て、大蛇を斬った剣はこれである。
または、蛇を斬った剣の名は、蛇の麁正(あらまさ)という。今、石上神宮にある。

素戔烏尊は先に行かれ、結婚によい所をお探しになり、ついに出雲の清(すが)の地に着かれた。また、須賀須賀斯(すがすがし)ともいう。そうして仰せになった。
「私の心はすがすがしい」
そこで宮を建てられた。
このとき、その地から盛んに雲が立ちのぼったので、御歌を作られた。

「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣は」
(盛んに湧きおこる雲が、八重の垣をめぐらす。新妻をこもらせるために、八重の垣をめぐらすことよ、あの八重垣は)

そうして結婚して妃とされた。生まれた子が大己貴神(おおなむちのかみ)である。
大己貴神のまたの名を八嶋士奴美神(やしましぬみのかみ)、またの名を大国主神(おおくにぬしのかみ)、またの名を清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠(すがのゆやまぬしみなさろひこやしましの)、またの名を清之繋名坂軽彦八嶋手命(すがのかけなさかかるひこやしまでのみこと)、またの名を清之湯山主三名狭漏彦八嶋野(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまぬ)という。
素戔烏尊が仰せになった。
「わが子の宮の首長は、脚摩乳と手摩乳である」
そして、名をこの二神に与えた。稲田宮主神(いなだのみやぬしのかみ)という。
出雲国にいらっしゃる神がこれである。

また、大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘の神大市姫(かむおおいちひめ)を娶って、二柱の神をお生みになった。子は大年神(おおとしのかみ)、次に稲倉魂神(うかのみたまのかみ)である。

素戔烏尊は仰せられた。
「韓国の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」
そこで、髭を抜いて放つと松の木になった。
また、胸毛を抜いて放つと檜になった。
また、眉毛を抜いて放つと樟の木になった。
また、尻の毛を抜いて放つと槙の木になった。
また、その用途を決められていわれた。
「杉と樟、この二つの木は舟をつくるのがよい。また、檜は宮殿を造る木にするのがよい。また、槙は現世の人民の寝棺を作るのによい。そのための沢山の木の種子を皆蒔こう」

素戔烏尊は、熊成峯(くまなりのみね)においでになって、ついに根の国にお入りになった。

子の五十猛神は天降られるときに、沢山の樹の種や、子供たちが食べるための種を、韓国には植えないで、すべて持ち帰り、筑紫からはじめて大八州の国中に蒔き増やして、青山にならないところはなかった。
このため五十猛命は有功の神とされる。紀伊国にいらっしゃる大神がこれである。
ある説には、素戔烏尊の子の名は五十猛命という。妹は大屋姫命(おおやひめのみこと)、次に抓津姫命(つまつひめのみこと)である。この三神がよく沢山の種を蒔いた。そして紀伊国に渡られた。この国にお祀りしている神がこれである。

大己貴神は国を平らげ、出雲国の御大(みほ)の御崎に行かれて、食事をされようとした。このとき、海上ににわかに人の声がして、驚いて探したが、まったく見えるものがなかった。
このとき、波頭の上から天の羅摩船(かがみのふね)に乗った、一人の小人がいた。蘿藦(ががいも)、の皮で船をつくり、鷦鷯(みそさざい)の羽を衣にし、また鵞の皮を剥いて衣服として、潮水にゆられて、大己貴命のところへ漂ってきた。
大己貴命が拾って手のひらにのせ、これをもてあそんでいると、跳ねて頬に噛みついた。

そこでそのかたちをあやしんで、名を尋ねたが、答えなかった。また、お伴に従っている神々に尋ねても、みな「知りません」といった。
そのとき、多迩具久(たにぐぐ:ひきがえる)が申しあげていった。
「これは久延彦(くえびこ)がきっと知っているでしょう」
すぐさま久延彦を呼んでお尋ねになると、答えていった。
「これは、神皇産霊神(かみむすひのかみ)の御子の少彦名神です」

そこで、その天神にこのことを申しあげると、神皇産霊尊はこれをお聞きになっていわれた。
「私が生んだ子は合わせて千五百ほどある。そのなかの一人の子で、もっとも悪く教えに従わない子がいた。指の間からもれ落ちたのは、きっと彼だろう。だから、あなた葦原色男(あしはらのしこお)の兄弟として可愛がってくれ」
これが少彦名命である。

その少彦名神であることを顕し申しあげた、いわゆる久延彦は、今では山田の曽富騰(そほど)という神である。この神は、自分で赴くことはないけれども、ことごとく天下のことを知っている神である。

大己貴神と少彦名神とは、力を合わせ、心を一つにして天下を造られた。
また、現世の人民と家畜のためには、病気治療の方法を定めた。また、鳥獣や昆虫の災いを除くために、まじないの法を定めた。
このため人民は、今に至るまでその恵みを受けている。

大己貴神が少彦名神に語って仰せられた。
「われらが造った国は、よく出来たといえるだろうか」
少彦名命は答えていった。
「あるいはよく出来たところもあるけれど、あるいは不出来のところもある」
この会話は、思うに深いわけがあるようである。

その後、少彦名命は熊野の御崎に行かれて、ついに常世の国へ去られた。また、淡嶋に行って粟茎によじのぼり、弾かれて常世の郷に行かれたともいう。

大己貴命は、はじめは少彦名命と二柱で葦原の中国にいらっしゃった。国は水母(くらげ)のように浮き漂っていたが、造り名づけることをついに終わらせた。
少彦名命が常世に行かれて後、国の中でまだ出来あがらないところを、大己貴命は一人でよく巡り造られた。

ついに出雲国の五十狭々の小浜に至って、揚言(ことあげ)して仰せられた。
「そもそも葦原の中国は、もとから荒れて広いところだった。岩石や草木に至るまで、すべて強かった。けれども私が皆くだき伏せて、今は従わない者はいない」
そして、これによって仰せになった。
「今この国を治めるものは、ただ私一人のみである。その私と、共に天下を治めることができる者が他にあるだろうか」
 
そのとき、不思議な光が海を照らし、忽然と波の上におどり出て、白装束に天の蕤槍を持ち、やって来ていった。
「もし私がいなかったら、あなたはどうしてこの国を平らげることができたでしょうか。もし私が無ければ、どうして国を造り堅めることができて、大きな国を造る功績を立てることができたでしょうか」

大己貴命は尋ねて仰せられた。
「あなたは何者ですか。名を何というのですか」
答えていった。
「私はあなたの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)・術魂(じゅつみたま)の神です」
大己貴命は仰せになった。
「わかりました。あなたは私の幸魂・奇魂です。今どこに住みたいと思われますか」
答えていった。
「日本(やまと)国の青垣の三諸山(みもろやま)に住みたいと思います」

大倭国の城上郡に鎮座される神がこれである。そのため、神の願いのままに、青垣の三諸山にお祀りしました。そして宮をそこに造って、行き住まわせた。
これが大三輪(おおみわ)の大神である。
その神の子孫は、甘茂君(かものきみ)、大三輪君らである。

大己貴神は、天の羽車である大鷲に乗って、妻となる人を探し求めた。茅渟県(ちぬのあがた)に降って行き、大陶祇(おおすえつみ)の娘の活玉依姫(いくたまよりひめ)を妻として、かよった。
人に知られずに通っているうちに、娘は身ごもった。このとき娘の父母は疑いあやしんで尋ねた。
「誰が来ているのか」
娘は答えていった。
「不思議な人の姿で来られます。家の上から降りて入っていらっしゃって、床をいっしょにするだけです」

父母は、その神人が何者なのかを明らかにしようと思い、麻をつむいで糸をつくり、針で神人の衣の裾につけた。
そうして翌朝、糸にしたがって求めて行ったところ、鍵穴をこえて、茅渟山を経て吉野山に入り、三諸山に留った。そのため、神人が三輪山の大神であることがわかった。
その糸の残りを見ると、ただ三つの輪だけ残っていた。そこで、三諸山を三輪山と名づけて、大三輪神社という。

大己貴神(おおなむじのかみ)の兄には、事八十神(ことやそがみ)がおられた。その八十神が、この国を大己貴神に譲ったわけは、兄弟二神がそれぞれ稲羽の八上姫(やがみひめ)に求婚しようと思う心があった。共に稲羽に出かけたとき、大己貴神には袋を背負わせて、従者として連れて行った。

ところが気多(けた)の岬にやってきたときに、丸裸になった兎が横たわっていた。
兄の事八十神がその兎にいった。
「お前がその体を直すには、この海の潮水を浴びて、風の吹くのにあたって、高い山の上で寝ていなさい」
兎は八十神の教えのままに、山の上で横になった。すると浴びた海水が乾くにつれて、兎の体の皮膚はすっかり風に吹かれて裂けてしまった。

そのため、兎は痛み苦しんで、泣き伏していると、神の最後にやってきた大穴牟遅神[大己貴神]が、兎を見て仰せられた。
「どういうわけで、お前は泣き伏しているのか」

兎は答えていった。
「私は於岐(おき)の嶋にいて、この地に渡りたいと思いましたが、渡る方法がありませんでした。そこで、海にいる鰐(和迩:わに)をだまして、“私とお前とくらべて、どちらの同族が多いかを数えたいと思う。だからお前はその同族を、ありったけ全部連れてきて、この島から気多の岬まで、みな一列に並んで伏せていてくれ。そうしたら、私がその上を踏んで、走りながら数えて渡って、私の同族とどちらが多いかを知ることにしよう”と、このようにいいました。そして鰐がだまされて並んで伏しているとき、私はその上を踏んで、数えながら渡って来て、今まさに地上におりようとするとき、私が、“お前は私にだまされたんだよ”といい終わるやいなや、一番端に伏していた鰐が私を捕らえて、私の着物をすっかり剥ぎ取りました。そのために泣き悲しんでいたところ、先に行った事八十神がおっしゃるには、“潮水を浴びて、風にあたって寝ていろ”とお教えになりました。それで教えのとおりにしましたら、私の体は全身傷だらけになりました」

大己貴神はその兎に教えて仰せになった。
「今すぐに、この河口に行って、真水でお前の体を洗って、その河口の蒲(がま)の穂を取って敷き散らし、その上に寝ころがれば、お前の体はもとの膚のようにきっと治るだろう」
それで教えのとおりにしたところ、兎の体は元どおりになった。この兎を今、稲羽の素兎(しろうさぎ)という。今の兎神がこれである。

このときその兎は、大己貴神に申しあげていった。
「八十神は、きっと八上姫を娶ることができないでしょう。袋を背負ってはおられますが、あなた様が娶られるでしょう」

求婚を受けた八上姫は八十神に答えていった。
「私はあなた達の言うことは聞きません。大己貴神と結婚します」

これを聞いた事八十神は、大己貴神を殺そうと思い、みなで相談して伯耆国の手向山(たむきやま)のふもとにやって来ていった。
「赤い猪がこの山にいる。我らがいっせいに追いおろしたら、お前は下で待ち受けて捕らえなさい。もし待ち受けて捕らえなかったら、きっとお前を殺すぞ」
こういって、火を使い猪に似た大石を焼いてころがし落した。そこで、追いおろしたのを捕らえようとしたので、大己貴神はその石に焼きつかれて、死んでしまった。

これを知った大己貴神の御親神は、泣き憂いて天に上り、神皇産霊尊(かみむすひのみこと)に救いを請うた。神皇産霊尊は、黒貝姫(くろがいひめ)と蛤貝姫命(うむがいひめのみこと)とを遣わして、蘇生させた。
すなわち、黒貝姫は貝を削って粉にして集めて、蛤貝姫はこれを待ち受けて、母乳の汁を塗ったところ、立派な男子となって出て行かれた。

ところが事八十神はまた、大己貴神をあざむいて山に連れ込み、大木を切り倒し、楔をその木に打って、その割れ目に入らせるやいなや、楔を引き抜いて打ち殺してしまった。
そこでまた、御親神が泣きながら大己貴神を捜したところ、見つけ出すことができて、ただちにその木を折って取り出して復活させた。

御親神は、その子である大己貴神に告げて仰せになった。
「あなたはここにいたら、ついには八十神によって滅ぼされてしまう」
そこで、すぐに紀国の大屋彦神(おおやひこのかみ)のもとにお遣わしになった。
ところが、八十神は捜し求めて追いかけて来て、矢で射て大己貴神を殺そうとしたので、木の股をくぐって逃れた。

御親神は、子神に告げて仰せられた。
「速素戔烏尊(はやすさのおのみこと)のいらっしゃる、根の堅州国(かたすくに)へ行きなさい。きっとその大神がよいように図ってくださるでしょう」

そこで、その仰せに従って、素戔烏尊のもとにやって来ると、その娘の須勢理姫命(すせりひめのみこと)が出て、大己貴神とお互いに目を見かわし結婚なさって、御殿の中に戻って、その父神に、申しあげた。
「とても素敵な神がおいでになりました」
そこで大神は出て、大己貴神を見て仰せられた。
「この者は、葦原色許男(あしはらのしこお)という神だ」
そうして呼び入れて、蛇のいる室に寝させた。

このとき、その妻の須勢理姫命は、蛇の比礼を夫に授けていった。
「蛇が噛みつこうとしたら、この比礼を三度振って、打ちはらってください」
そこで、教えられたとおりにしたところ、蛇は自然と鎮まったので、やすらかに眠ってその室を出ることができた。

また、翌日の夜は、蜈蚣と蜂のいる室にお入れになった。
今度も蜈蚣と蜂の比礼を授けて、前のようにした。そのため、無事に出られた。

また、鏑矢を広い野の中に射込んで、その矢を拾わせた。
そこでその野に入ったとき、ただちに火を放ってその野を周りから焼いた。出る所がわからず困っていると、鼠がやって来て、
「内は広く、外はすぼまってます」
と、このようにいった。
そこで、そこを踏んだところ、下に落ち込んで、穴に隠れ入っている間に、火は上を焼け過ぎていった。
そしてその鼠は、その鏑矢をくわえて出てきて大己貴神に献じた。その矢は鼠の子どもが皆食いちぎっていた。

須勢理姫命は、葬式の道具を持って泣きながら来て、父の大神は大己貴神がすでに死んだと思って、その野に出で立たれた。
ところがこうして、大己貴神は矢を持って大神に奉ったので、家の中に連れて入って、広い大室に呼び入れて、その頭の虱を取らせた。
そこでその頭を見ると、蜈蚣がたくさんいた。このとき妻の須勢理姫命は、椋の実と赤土を取ってその夫に与えた。
そこで、その木の実を食い割って、赤土を口に含んで唾をはき出されると、素戔烏の大神は蜈蚣を噛み砕いて、吐き出しているのだとお思いになって、心の中でかわいい奴だと思って、眠ってしまわれた。

このとき大己貴神は、素戔烏尊の髪をつかんで、室の垂木ごとに結びつけて、五百引の大岩をその室の戸口に据えて塞いでしまった。そしてその妻の須勢理姫命を背負い、ただちに大神の権威の象徴である生大刀(いくたち)と生弓矢、および天の詔琴を持って逃げ出されるとき、その天の詔琴が樹に触れて、大地が鳴り動くような音がした。
そのため、眠っておられた大神が、この音を聞いて驚き目を覚まし、その室を引き倒してしまわれた。けれども、垂木に結びつけた髪を解いておられる間に、大己貴神は遠くへ逃れて行った。

そこで、素戔烏尊は黄泉平坂(よもつひらさか)まで追いかけて来て、はるか遠くに大己貴神と娘の姿を望み見て、大声で呼びかけて仰せられた。
「お前が持っているその生大刀・生弓矢で、お前の腹違いの兄を坂のすそに追い伏せ、また川の瀬に追い払え。お前が大国主(おおくにぬし)の神となり、また顕見国主(うつしくにぬし)の神となって、その私の娘・須勢理姫を正妻として、宇迦の山のふもとに太い宮柱を深く掘り立て、空高く千木をそびやかした宮殿に住め。こやつめ」
そこで、その大刀と弓でもって、八十神を追いやられるとき、坂のすそごとに追い伏せ、川の瀬ごとに追い払って、国つくりを始められた。

八上姫は大己貴神のもとへ連れて来られたけれども、その本妻の須勢理姫を恐れて、生んだ子は木の股にさし挟んで帰られた。
それでその子を名づけて木俣神(きまたのかみ)といい、またの名を御井神(みいのかみ)という。

大己貴命が、高志国の沼河姫(ぬなかわひめ)に求婚しようとして、お出かけになったとき、その沼河姫の家に着いて、云々とそのように歌われた。
杯をかわして、お互いに首の手をかけあって、現在に至るまで鎮座しておられる。これを神語(かむがたり)という。
 
素戔烏尊(すさのおのみこと)
この尊が天照大神(あまてらすおおみかみ)と共に誓約(うけい)して、そのために生まれた三柱の娘は、「あなたの子にしなさい」と天照大神が仰せになった。

名は田心姫命(たごりひめのみこと)。またの名を奥津嶋姫命(おきつしまひめのみこと)、または瀛津嶋姫命(おきつしまひめのみこと)で、宗像(むなかた)の奥津宮に鎮座されている。これが遠い沖の島にいらっしゃる神である。
次に、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)。または佐依姫命(さよりひめのみこと)、または中津嶋姫命(なかつしまひめのみこと)といい、宗像の中津宮に鎮座されている。これが中間の島にいらっしゃる神である。
次に、湍津嶋姫命(たぎつしまひめのみこと)。またの名を多岐都姫命(たぎつひめのみこと)、またの名を辺津嶋姫命(へつしまひめのみこと)といい、宗像の辺都宮(へつみや)に鎮座されている。これが海浜にいらっしゃる神である。

以上の三神は、天照大神がお生みになった三柱の女神で、
「これはあなたの子だ」
とされたため、素戔烏尊に授けて、葦原の中国に天降らせた。
筑紫国の宇佐嶋(うさのしま)に降られて、北の海の道中にあって、その名は道中貴(みちなかむち)という。
それでこの神に教えて仰せられた。
「天孫をお助けして、天孫のために祀られなさい」
すなわち、宗像君がお祀りしているところである。また、水沼君(みぬまのきみ)も同じくこの三神をお祀りするという。
宗像君の斎き祀る三前(みさき)の大神である。

素戔烏尊の子の次は、五十猛神(いたけるのかみ)である。[または大屋彦神(おおやひこのかみ)という]
次に、大屋姫神(おおやひめのかみ)。
次に、抓津姫神(つまつひめのかみ)。
以上の三柱の神は、紀伊国に鎮座されている。すなわち、紀伊国造が斎き祀る神である。

次に、事八十神(ことやそのかみ)。
次に、大己貴神(おおなむちのかみ)。倭国城上郡の大三輪神社に鎮座されている。
次に、須勢理姫神(すせりひめのかみ)[大三輪大神の嫡后である]。
次に、大年神(おおどしのかみ)。
次に、稲倉魂神(いねくらのみたまのかみ)[または宇迦能御玉神(うがのみたまのかみ)という]。
次に、葛木一言主神(かずらきのひとことぬしのかみ)[倭国葛木上郡に鎮座されている]。

素戔烏尊の子、大己貴神。
またの名を、大国主神(おおくにぬしのかみ)、または大物主神(おおものぬしのかみ)という。
または、国造大穴牟遅命(くにつくりしおおなむぢのみこと)という。
または、大国玉神(おおくにたまのかみ)という。または、顕見国玉神(うつしみくにたまのかみ)という。
または、葦原醜雄命(あしはらのしこおのみこと)という。または、八千矛神(やちほこのかみ)という。
これら八つの名がある。

その大己貴神の子は、合わせて百八十一柱の神がいらっしゃる。
まず、宗像の奥都嶋にいらっしゃる神の田心姫命を娶って、一男一女をお生みになった。
子の味鉏高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)は、倭国葛木郡の高鴨社に鎮座されている。捨篠社(すてすすのやしろ)ともいう。
味鉏高彦根神の妹は下照姫命。倭国葛木郡の雲櫛社に鎮座されている。

次に、辺都宮にいらっしゃる高津姫神(たかつひめのかみ)を娶って、一男一女をお生みになった。
子の都味歯八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)は、倭国高市郡の高市社(たけちのやしろ)に鎮座されている。または甘南備飛鳥社(かんなびのあすかのやしろ)という。
都味歯八重事代主神の妹は高照光姫大神命(たかてるひめのおおかみのみこと)。倭国葛木郡の御歳(みとし)神社に鎮座されている。

次に、稲羽の八上姫(やがみひめ)を娶って、一人の子をお生みになった。
子の御井神(みいのかみ)。またの名を木俣神(こまたのかみ)。

次に、高志(こし)の沼河姫(ぬなかわひめ)を娶って、一男をお生みになった。
子の建御名方神(たけみなかたのかみ)は、信濃国諏方郡の諏方(すわ)神社に鎮座されている。

素戔烏尊の孫、都味歯八重事代主神。
大きな熊鰐となって、三嶋溝杭(みしまのみぞくい)の娘・活玉依姫(いくたまよりひめ)のもとへ通い、一男一女をお生みになった。
子の天日方奇日方命(あまひかたくしひかたのみこと)。
この命は、神武朝(橿原朝)の御世に詔を受けて、政事を行う大夫となり、お仕え申しあげた。
天日方奇日方命の妹の姫鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)。
この命は、神武朝に皇后となり、二人の子をお生みになった。すなわち、神渟河耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと:綏靖天皇)と、次に彦八井耳命(ひこやいみみのみこと)がこれである。
次の妹の五十鈴依姫命(いすずよりひめのみこと)。
この命は、綏靖朝に皇后となり、一人の子をお生みになった。すなわち、磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと:安寧天皇)である。

三世孫、天日方奇日方命。またの名は阿田都久志尼命(あたつくしねのみこと)。
この命は、日向の賀牟度美良姫(ひむかのかむとみらひめ)を娶って、一男一女をお生みになった。
子は建飯勝命(たけいいかちのみこと)。
建飯勝命の妹の渟中底姫命(ぬなそこひめのみこと)。
この命は、安寧天皇のときに皇后となり、四人の子をお生みになった。すなわち、大日本根子彦耜友天皇(おおやまとねこひこすきとものすめらみこと:懿徳天皇)。次に常津彦命(とこつひこのみこと)。次に磯城津彦命(しきつひこのみこと)。次に研貴彦友背命(たきしひこともせのみこと)。

四世孫、建飯勝命。
この命は、出雲臣の娘・沙麻奈姫(さまなひめ)を娶り、一男をお生みになった。

五世孫、建甕尻命(たけみかじりのみこと)。またの名は建甕槌命(たけみかつちのみこと)、または建甕之尾命(たけみかのおのみこと)。
この命は、伊勢の幡主の娘・賀貝呂姫(がかいろひめ)を妻として、一男をお生みになった。

六世孫、豊御気主命(とよみけぬしのみこと)。またの名を建甕依命(たけみかよりのみこと)。
この命は、紀伊の名草姫(なくさひめ)を妻として、一男をお生みになった。

七世孫、大御気主命(おおみけぬしのみこと)。
この命は、大倭国の民磯姫(たみいそひめ)を妻として、二男をお生みになった。

八世孫、阿田賀田須命(あたがたすのみこと)。
和迩君(わにのきみ)たちの祖である。
次に、弟の建飯賀田須命(たけいいがたすのみこと)。
この命は、鴨部(かもべ)の美良姫(みらひめ)を妻として、一男をお生みになった。

九世孫、大田々祢古命(おおたたねこのみこと)。またの名は大直祢古命(おおただねこのみこと)。
この命は、出雲の神門臣の娘・美気姫(みけひめ)を妻として、一男をお生みになった。

十世孫、大御気持命(おおみけもちのみこと)。
この命は、出雲の鞍山祇姫(くらやまつみひめ)を妻として、三男をお生みになった。

十一世孫、大鴨積命(おおかもつみのみこと)。
この命は、崇神朝(磯城瑞垣朝)の御世に賀茂君(かものきみ)の姓を賜った。
次に、弟の大友主命(おおともぬしのみこと)。
この命は、同じ崇神朝に大神君(おおみわのきみ)の姓を賜った。
次に、田々彦命(たたひこのみこと)。
この命は、同じ崇神朝に神部直(かむべのあたい)・大神部直の姓を賜った。

素戔烏尊の子の次として、大年神。
この神の御子は、合わせて十六柱の神がいらっしゃる。

まず、須沼比神(すぬまひのかみ)の娘の伊怒姫(いぬひめ)を娶り妻として、五柱の子をお生みになった。
子の大国御魂神(おおくにみたまのかみ)は、大和(おおやまと)の神である。
次に、韓神(からかみ)。
次に、曽富理神(そほりのかみ)。
次に、白日神(しらひのかみ)。
次に、聖神(ひじりのかみ)。

次に賀用姫(がよひめ)と娶り妻として、二児をお生みになった。
子の大香山戸神(おおかやまとのかみ)。
次に、御年神(みとしのかみ)。

次に天知迦流美豆姫(あまのちかるみづひめ)を娶り妻として、九児をお生みになった。
子の奥津彦神(おきつひこのかみ)。次に、奥津姫神(おきつひめのかみ)。この二神は、皆が拝み祀っている竈の神である。
次に、大山咋神(おおやまくいのかみ)。この神は、近淡海の比叡山に鎮座されている。また、葛野郡の松尾にいらっしゃる、鏑矢を持たれる神である。
次に、庭津日神(にわつひのかみ)。
次に、阿須波神(あすはのかみ)。
次に、波比岐神(はひきのかみ)。
次に、香山戸神(かやまとのかみ)。
次に、羽山戸神(はやまとのかみ)。
次に、庭高津日神(にわたかつひのかみ)。
次に、大土神(おおつちのかみ)、またの名を土之御祖神(つちのみおやのかみ)。

次に、大年神の子として羽山戸神。
合わせて八柱の御子がいらっしゃる。

大気都姫神(おおげつひめのかみ)を妻として、八柱をお生みになった。
子の若山咋神(わかやまくいのかみ)。
次に、若年神(わたとしのかみ)。
妹の若沙那売神(わかさなめのかみ)。
次に、弥豆麻岐神(みづまきのかみ)。
次に、夏高津日神(なつたかつひのかみ)、またの名を夏之女神(なつのめかみ)。
次に、秋比女神(あきひめのかみ)。
次に、冬年神(ふゆとしのかみ)。
次に、久久紀若室葛根神(くくきわかむろかづらねのかみ)。  
 
巻第五 天孫本紀   

 

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)。
またの名を天火明命、またの名を天照国照彦天火明尊、または饒速日命という。またの名を胆杵磯丹杵穂命(いきいそにきほのみこと)。

天照孁貴(あまてらすひるめむち)の太子・正哉吾勝々速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)は、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘の万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと)を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊をお生みになった。
天照太神と高皇産霊尊の、両方のご子孫としてお生まれになった。そのため、天孫といい、また皇孫という。

天神の御祖神は、天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)十種を饒速日尊にお授けになった。
そうしてこの尊は、天神の御祖先神のご命令で、天の磐船に乗り、河内国の川上の哮峰(いかるがのみね)に天降った。さらに、大倭(やまと)国の鳥見(とみ)の白庭山へ遷った。
天降ったときの随従の装いについては、天神本紀に明らかにしてある。
いわゆる、天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られ、“虚空(そら)見つ日本(やまと)の国”といわれるのは、このことである。

饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶り妃として、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)をお生みになった。

これより以前、妊娠してまだ子が生まれていないときに、饒速日尊は妻へ仰せられた。
「お前がはらんでいる子が、もし男子であれば味間見命(うましまみのみこと)と名づけなさい。もし女子であれば色麻弥命(しこまみのみこと)と名づけなさい」
産まれたのは男子だったので、味間見命と名づけた。

饒速日尊が亡くなり、まだ遺体が天にのぼっていないとき、高皇産霊尊が速飄神(はやかぜのかみ)にご命令して仰せられた。
「我が御子である饒速日尊を、葦原の中国に遣わした。しかし、疑わしく思うところがある。お前は天降って調べ、報告するように」
速飄命は天降って、饒速日尊が亡くなっているのを見た。そこで天に帰りのぼって復命した。
「神の御子は、すでに亡くなっています」
高皇産霊尊はあわれと思われて、速飄命を遣わし、饒速日尊の遺体を天にのぼらせ、七日七夜葬儀の遊楽をし悲しまれ、天上で葬った。

饒速日尊は、妻の御炊屋姫に夢の中で教えて仰せになった。
「お前の子は、私のように形見のものとしなさい」
そうして、天璽瑞宝を授けた。また、天の羽羽弓・羽羽矢、また神衣・帯・手貫の三つのものを登美の白庭邑に埋葬して、これを墓とした。

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、天道日女命を妃として、天上で天香語山命(あまのかごやまのみこと)をお生みになった。
天降って、御炊屋姫を妃として、宇摩志麻治命をお生みになった。

饒速日尊の子の天香語山命(あまのかごやまのみこと)。[天降って後の名を手栗彦命(たぐりひこのみこと)、または高倉下命(たかくらじのみこと)という]。この命は、父の天孫の尊に随従して天から降り、紀伊国の熊野邑にいらっしゃった。

天孫・天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊の孫の磐余彦尊(いわれひこのみこと)が、西の宮から出発して、みずから船軍を率いて東征されたたとき、ご命令にそむくものが蜂のように起こり、いまだ服従しなかった。中つ国の豪雄・長髓彦(ながすねひこ)は、兵をととのえて磐余彦尊の軍をふせいだ。天孫(磐余彦)の軍はしきりに戦ったけれども、勝つことができなかった。

先に紀伊国の熊野邑に至ったとき、悪神が毒気をはき、人々はみな病んだ。天孫はこれに困惑したが、よい方法がなかった。
高倉下命はこの邑にいて、夜中に夢をみた。

天照大神が武甕槌神(たけみかづちのかみ)へ仰せになった。
「葦原の瑞穂国は、聞くところによるとなお騒がしいという。お前は出かけていって、これを討ちなさい」
武甕槌神は答えて申しあげた。
「私が出向かずとも、私が国を平らげたときの剣を下したならば、自然に平定されるでしょう」
そうして高倉下命に語っていった。
「我が剣の韴霊の剣を、いまお前の家の庫(くら)の内に置いておく。それをとって、天孫に献上するように」

高倉下命は、このように夢をみて、「おお」といって目が覚めた。翌日、庫を開けてみると、はたして剣があって庫の底板に逆さまに立っていた。そこで、それをとって天孫に献じた。
そのとき天孫はよく眠っておられたが、にわかに目覚めていわれた。
「私はどうしてこんなに長く眠っていたのか」
ついで毒気に当たっていた兵士達も、みな目覚めて起きあがった。
皇軍は中つ国に赴いた。天孫は神剣を得て、日に日に威光と軍の勢いが増した。
高倉下に詔して褒め、侍臣とした。

天香語山命(あまのかごやまのみこと)は、異腹の妹の穂屋姫(ほやひめ)を妻として、一男をお生みになった。

饒速日尊の孫・天村雲命(あまのむらくものみこと)[またの名を天五多手(あまのいたて)]。
この命は、阿俾良依姫(あひらよりひめ)を妻として、二男一女をお生みになった。

三世孫・天忍人命(あまのおしひとのみこと)。
この命は異腹の妹の角屋姫(つぬやひめ)、またの名は葛木(かずらき)の出石姫(いずしひめ)を妻として、二男をお生みになった。
次に天忍男命(あまのおしおのみこと)。
この命は葛木の国つ神・剣根命(つるぎねのみこと)の娘・賀奈良知姫(がならちひめ)を妻として、二男一女をお生みになった。
妹に忍日女命(おしひひめのみこと)。

四世孫・瀛津世襲命(おきつよそのみこと)[または葛木彦命(かずらきひこのみこと)という。尾張連らの祖である]。天忍男命の子。
この命は孝昭朝の御世、大連となってお仕えした。
次に建額赤命(たけぬかあかのみこと)。
この命は葛城の尾治置姫(おわりのおきひめ)を妻として、一男を生みました。
妹に世襲足姫命(よそたらしひめのみこと)[またの名を日置日女命(ひおきひめのみこと)]。
この命は、腋上池心宮に天下を治められた孝昭天皇(観松彦香殖稲天皇:みまつひこかえしねのすめらみこと)の皇后となり、二人の皇子をお生みになった。すなわち、天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)と、次に孝安天皇(日本足彦国押人天皇:やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)がこれである。

同じく四世孫・天戸目命(あまのとめのみこと)。天忍人命の子である。
この命は葛木の避姫(さくひめ)を妻として二男をお生みになった。
次に天忍男命(あまのおしおのみこと)。
大蝮壬生連(おおたじひみぶべのむらじ)らの祖である。

五世孫・建箇草命(たけつつくさのみこと)[建額赤命の子。多治比連(たじひのむらじ)、津守連(つもりのむらじ)、若倭部連(わかやまとべのむらじ)、葛木厨直(かずらきのみくりやのむらじ)の祖である]。

同じく五世孫・建斗米命(たけとめのみこと)。天戸目命の子である。
この命は、紀伊国造の智名曽(ちなそ)の妹の中名草姫(なかつなくさひめ)を妻として、六男一女をお生みになった。
次に妙斗米命(たえとめのみこと)。
六人部連(むとりべのむらじ)らの祖である。

六世孫・建田背命(たけたせのみこと)。
神服連(かむはとりのむらじ)、海部直(あまべのあたい)、丹波国造(たにはのくにのみやつこ)、但馬国造(たじまのくにのみやつこ)らの祖である。
次に建宇那比命(たけうなひのみこと)。
この命は、城嶋連(しきしまのむらじ)の祖の節名草姫(ふしなくさひめ)を妻として、二男一女をお生みになった。
次に建多乎利命(たけたおりのみこと)。
笛吹連(ふえふきのむらじ)、若犬甘連(わかいぬかいのむらじ)らの祖である。
次に建弥阿久良命(たけみあぐらのみこと)[高屋大分国造(たかやおおきたのくにのみやつこ)らの祖である]。
次に建麻利尼命(たけまりねのみこと)[石作連(いしつくりのむらじ)、桑内連(くわうちのむらじ)、山辺県主(やまのべのあがたぬし)らの祖である]。
次に建手和迩命(たけたわにのみこと)[身人部連(むとべのむらじ)らの祖である]。
妹に宇那比姫命(うなひひめのみこと)。

七世孫・建諸偶命(たけもろずみのみこと)。
この命は、腋上池心宮で天下を治められた孝昭天皇の御世に、大臣となってお仕えした。葛木直の祖の大諸見足尼(おおもろみのすくね)の娘の諸見己姫(もろみこひめ)を妻として、一男をお生みになった。
妹に大海姫命(おおあまひめのみこと)[またの名は葛木高名姫命(かずらきのたかなひめのみこと)]。
この命は、磯城瑞垣宮で天下を治められた崇神天皇の皇妃となり、一男二女をお生みになった。すなわち、八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)、次に渟中城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)、次に十市瓊入姫命(とおちにいりひめのみこと)がこれである。

八世孫・倭得玉彦命(やまとえたまひこのみこと)[または市大稲日命(いちのおおいなひのみこと)という]。
この命は、淡海国の谷上刀婢(たにかみとべ)を妻として、一男をお生みになった。また、伊我臣の祖・大伊賀彦(おおいがひこ)の娘の大伊賀姫(おおいがひめ)を妻として、四男をお生みになった。

九世孫・弟彦命(おとひこのみこと)。
妹に日女命(ひめのみこと)。
次に玉勝山代根古命(たまかつやましろねこのみこと)[山代水主の雀部連(さざきべのむらじ)、軽部造(かるべのみやつこ)、蘇&博(そがべのおびと)らの祖である]。
次に若都保命(わかつほのみこと)[五百木部連(いおきべのむらじ)の祖である]。
次に置部与曽命(おきべよそのみこと)。
次に彦与曽命(ひこよそのみこと)。

十世孫・淡夜別命(あわやわけのみこと)[大海部直(おおあまべのあたい)らの祖。弟彦命の子である]。

次に大原足尼命(おおはらのすくねのみこと)[筑紫豊国(つくしのとよのくに)の国造らの祖で。置津与曽命の子である]。

次に大八椅命(おおやつきのみこと)[甲斐国造らの祖。彦与曽命の子である]。
次に大縫命(おおぬいのみこと)。
次に小縫命(おぬいのみこと)。

十一世孫・乎止与命(おとよのみこと)。
この命は、尾張大印岐(おわりのおおいみき)の娘の真敷刀俾(ましきとべ)を妻として、一男をお生みになった。
 
十二世孫・建稲種命(たけいなだねのみこと)。
この命は、迩波県君(にわのあがたのきみ)の祖・大荒田(おおあらた)の娘の玉姫(たまひめ)を妻として、二男四女をお生みになった。

十三世孫・尾綱根命(おづなねのみこと)。
この命は、応神天皇の御世に大臣となってお仕えした。
妹に尾綱真若刀婢命(おづなまわかとべのみこと)。
この命は、五百城入彦命(いおきいりひこのみこと)に嫁いで、品陀真若王(ほむだまわかのきみ)をお生みになった。
次の妹に金田屋野姫命(かなだやぬひめのみこと)。
この命は、甥の品陀真若王に嫁いで、三人の王女をお生みになった。すなわち、高城入姫命(たかきいりひめのみこと)、次に仲姫命(なかひめのみこと)、次に弟姫命(おとひめのみこと)である。

この三王女は、応神天皇のもとへ共に后妃になり、合わせて十三人の皇子女をお生みになった。
姉の高城入姫命は皇妃となり、三人の皇子をお生みになった。額田部大中彦皇子(ぬかたべのおおなかひこのみこ)、次に大山守皇子(おおやまもりのみこ)、次に去来真稚皇子(いざまわかのみこ)。
妹の仲姫命は皇后となり、二男一女の御子をお生みになった。荒田皇女(あらたのひめみこ)、次に仁徳天皇(大雀天皇:おおさざきのすめらみこと)、次に根鳥皇子(ねとりのみこ)。
妹の弟姫命は皇妃となり、五人の皇女をお生みになった。阿倍皇女(あべのひめみこ)、次に淡路三原皇女(あわぢのみはらのひめみこ)、次に菟野皇女(うののひめみこ)、次に大原皇女(おおはらのひめみこ)、次に滋原皇女(しげはらのひめみこ)。

応神天皇(品太天皇:ほむだのすめらみこと)の御世に、尾治連(おわりのむらじ)の姓を賜り、大臣大連となった。
天皇は、尾綱根連に詔していわれた。
「お前の一族から生まれた十三人の皇子達は、お前が愛情を持って養い仕えなさい」
このとき尾綱根連は、とても喜んで、自分の子の稚彦連(わかひこのむらじ)と、従兄妹の毛良姫(けらひめ)の二人を壬生部の管理者に定めてお仕えさせることにした。そして、ただちに皇子達のお世話をする人を三人奉った。
連の名は請。もうひとりの連の名は談である。二人の字の辰技中から、今この民部の三人の子孫を考えると、現在は伊与国にいる云々という。

十四世孫・尾治弟彦連(おわりのおとひこのむらじ)。
次に尾治名根連(なねのむらじ)。
次に意乎巳連(おおみのむらじ)。
この連は、仁徳朝の御世に大臣となってお仕えした。

十五世孫・尾治金連(かねのむらじ)。
次に尾治岐閉連(きへのむらじ)[即連(つくのむらじ)らの祖である]。
次に尾治知々古連(ちちこのむらじ)[久努連(くぬのむらじ)の祖である]。
この連は、履中朝(去来穂別朝)の御世に功能の臣としてお仕えした。

十六世孫・尾治坂合連(さかあいのむらじ)。金連の子である。
この連は、允恭天皇の御世に寵臣としてお仕えした。
次に尾治古利連(こりのむらじ)。
次に尾治阿古連(あこのむらじ)[太刀西連(おおとせのむらじ)らの祖である]。
次に尾治中天連(なかぞらのむらじ)。
次に尾治多々村連(たたむらのむらじ)。
次に尾治弟鹿連(おとかのむらじ)[日村(ひむら)の尾治連らの祖である]。
次に尾治多与志連(たよしのむらじ)[大海部直らの祖である]。

十七世孫・尾治佐迷連(さめのむらじ)。坂合連の子である。
妹に尾治兄日女連(えひめのむらじ)。

十八世孫・尾治乙訓与止連(おとくによどのむらじ)。佐迷連の子である。
次に尾治粟原連(あわはらのむらじ)。
次に尾治間古連(まふりのむらじ)。
次に尾治枚夫連(ひらふのむらじ)。
紀伊尾張連らの祖である。

天香語山命の弟、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)。
または味間見命(うましまみのみこと)といい、または可美真手命(うましまでのみこと)という。

天孫天津彦火瓊々杵尊の孫の磐余彦尊は、天下を治めようと思われて、軍をおこして東征されたが、所々にご命令に逆らう者たちが蜂のように起こり、従わなかった。
中つ国の豪族・長髄彦は、饒速日尊の子の宇摩志麻治命を推戴し、主君として仕えていた。天孫の東征に際しては、
「天神の御子が二人もいる訳がない。私は他にいることなど知らない」
といい、ついに兵をととのえてこれを防ぎ、戦った。天孫の軍は連戦したが、勝つ事ができなかった。

このとき、宇摩志麻治命は伯父の謀りごとには従わず、戻ってきたところを誅殺した。そうして衆を率いて帰順した。

天孫は、宇摩志麻治命に仰せになった。
「長髄彦は性質が狂っている。兵の勢いは勇猛であり、敵として戦えども勝つ事は難しかった。しかるに伯父の謀りごとによらず、軍を率いて帰順したので、ついに官軍は勝利する事ができた。私はその忠節を喜ぶ」

そして特にほめたたえ、神剣を与えることで、その大きな勲功にお応えになった。
この神剣は、韴霊(ふつのみたま)剣、またの名は布都主神魂(ふつぬしのかむたま)の刀、または佐士布都(さじふつ)といい、または建布都(たけふつ)といい、または豊布都(とよふつ)の神というのがこれである。

また、宇摩志麻治命は、天神が饒速日尊にお授けになった天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)十種を天孫に献上した。天孫はたいへん喜ばれて、さらに寵愛を増された。
また、宇摩志麻治命は、天物部(あまのもののべ)を率いて荒ぶる逆賊を斬り、また、軍を率いて国内を平定して復命した。

天孫磐余彦尊は、役人に命じてはじめて宮殿を造られた。
辛酉年の一月一日に、磐余彦尊は橿原宮(かしはらのみや)に都を造り、はじめて皇位につかれた。この年を、天皇の治世元年とする。皇妃の姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を立てて皇后とした。皇后は、大三輪の神の娘である。

宇摩志麻治命がまず天の瑞宝をたてまつり、また、神盾を立てて斎き祭った。五十櫛という、または斎木を、布都主剣のまわりに刺し巡らして、大神を宮殿の内に奉斎した。
そうして、天つしるしの瑞宝を納めて、天皇のために鎮め祀った。
このとき、天皇の寵愛は特に大きく、詔していわれた。
「殿内の近くに侍りなさい」 (近く殿の内に宿せよ 〈すくせよ〉)
そのためこれを足尼(すくね)と名づけた。足尼という号は、ここから始まった。

高皇産霊尊の子の天富命(あまのとみのみこと)は、諸々の斎部を率い、天つしるしの鏡と剣を捧げて、正殿に安置した。
天児屋命の子の天種子命(あまのたねこのみこと)は、神代の古事や天神の寿詞を申しあげた。
宇摩志麻治命は内物部を率いて、矛・盾を立てて厳かでいかめしい様子をつくった。
道臣命(みちのおみのみこと)は来目部を率いて、杖を帯びて門の開閉をつかさどり、宮門の護衛を行った。
それから、四方の国々に天皇の位の貴さと、天下の民に従わせることで朝廷の重要なことを伝えられた。

ときに、皇子・大夫たちは、臣・連・伴造・国造を率いて、賀正の朝拝をした。
このように都を建てて即位され、年の初めに儀式をするのは、共にこのときから始まった。

宇摩志麻治命は十一月一日の庚寅の日に、はじめて瑞宝を斎き祀り、天皇と皇后のために奉り、御魂を鎮め祭って御命の幸福たることを祈った。鎮魂(たまふり)の祭祀はこのときに始まった。
天皇は宇摩志麻治命に詔して仰せられた。
「お前の亡父の饒速日尊が天から授けられてきた天璽瑞宝をこの鎮めとし、毎年仲冬の中寅の日を例祭とする儀式を行い、永遠に鎮めの祭りとせよ」
いわゆる“御鎮祭”がこれである。

およそ、その御鎮祭の日に、猿女君らが神楽をつかさどり言挙げして、
「一・二・三・四・五・六・七・八・九・十」
と大きな声でいって、神楽を歌い舞うことが、瑞宝に関係するというのはこのことをいう。

治世二年春二月二日、天皇は論功行賞を行われた。宇摩志麻治命に詔して仰せられた。
「お前の勲功は思えば大いなる功である。公の忠節は思えば至忠である。このため、先に神剣を授けて類いない勲功を崇め、報いた。いま、股肱の職に副えて、永く二つとないよしみを伝えよう。今より後、子々孫々代々にわたって、必ずこの職を継ぎ、永遠に鑑とするように」

この日、物部連らの祖・宇摩志麻治命と、大神君(おおみわのきみ)の祖・天日方奇日方命(あまひかたくしひかたのみこと)は、ともに食国の政事を行う大夫に任じられた。
その天日方奇日方命は、皇后の兄である。食国の政事を行う大夫とは、今でいう大連・大臣にあたる。

そうして宇摩志麻治命は、天つしるしの瑞宝を斎き祀り、天皇の長寿と幸せを祈り、また布都御魂の霊剣をあがめて国家を治め護った。このことを子孫も受け継いで、石上の大神をお祀りした。
詳しくは以下に述べる。

饒速日尊の子・宇摩志麻治命。
この命は、橿原宮(かしはらのみや)で天下を治められた神武天皇の御世の、はじめに足尼(すくね)になり、ついで食国の政事を行う大夫となって、大神をお祀りした。活目邑(いくめむら)の五十呉桃(いくるみ)の娘・師長姫(しながひめ)を妻として、二人の子をお生みになった。

饒速日尊の孫・味饒田命(うましにぎたのみこと)。
阿刀連(あとのむらじ)らの祖である。
弟に、彦湯支命(ひこゆきのみこと)[またの名は木開足尼(きさきのすくね)]。
この命は、葛城高丘宮(かずらきのたかおかのみや)で天下を治められた綏靖天皇の御世の、はじめに足尼になり、ついで寵を得て食国の政事を行う大夫となって、大神をお祀りした。日下部(くさかべ)の馬津(うまつ)・名は久流久美(くるくみ)の娘の阿野姫(あぬひめ)を妻として一男を生み、出雲色多利姫(いずものしこたりひめ)を妾として一男を生み、淡海川枯姫(おうみのかわかれひめ)を妾として一男をお生みになった。

三世孫・大祢命(おおねのみこと)[彦湯支命の子である]。
この命は、片塩浮穴宮(かたしおのうきあなのみや)で天下を治められた安寧天皇の御世に、侍臣となって、大神をお祀りした。
弟に、出雲醜大臣命(いずものしこおおみのみこと)。
この命は、軽の地の曲峡宮(まがりおのみや)で天下を治められた懿徳天皇の御世の、はじめは食国の政事を行う大夫となり、ついで大臣となって、大神をお祀りした。その大臣という号は、このとき初めて起こった。倭(やまと)の志紀彦(しきひこ)の妹・真鳥姫(まとりひめ)を妻として、三人の子をお生みになった。
弟に、出石心大臣命(いずしこころのおおみのみこと)。
この命は、掖上池心宮(わきかみのいけこころのみや)で天下を治められた孝昭天皇の御世に、大臣となって、大神をお祀りした。新河小楯姫(にいかわのおたてひめ)を妻として、二人の子をお生みになった。
 
四世孫・大木食命(おおきけのみこと)[三河国造の祖で、出雲醜大臣の子である]。
弟に、六見宿祢命(むつみのすくねのみこと)[小治田連(おはりだのむらじ)らの祖である]。
弟に、三見宿祢命(みつみのすくねのみこと)[漆部連(ぬりべのむらじ)らの祖である]。この命は、秋津嶋宮(あきつしまのみや)で天下を治められた孝安天皇の御世に、共に天皇のおそば近くに仕えたため、はじめは足尼となり、ついで宿祢(すくね)となって、大神をお祀りした。その宿祢の号は、このとき初めて起こった。

同じく四世の子孫・大水口宿祢命(おおみなくちのすくねのみこと)。
穂積臣(ほずみのおみ)、采女臣(うねめのおみ)らの祖で、出石心命の子である。
弟に、大矢口宿祢命(おおやくちのすくねのみこと)。
この命は、盧戸宮(いおどのみや)で天下を治められた孝霊天皇の御世に、並んで宿祢となって、大神をお祀りした。坂戸由良都姫(さかとのゆらつひめ)を妻として、四人の子をお生みになった。

五世孫・欝色雄命(うつしこおのみこと)。
この命は、軽境原宮(かるのさかいばらのみや)で天下を治められた孝元天皇の御世に、拝命して大臣となり、大神をお祀りした。活馬長砂彦(いこまのながさひこ)の妹の芹田真若姫(せりたのまわかひめ)を妻として、一人の子をお生みになった。
妹に、欝色謎命(うつしこめのみこと)。
この命は、孝元天皇の皇后となり、三人の皇子をお生みになった。すなわち、大彦命(おおひこのみこと)、つぎに春日宮で天下を治められた開化天皇、つぎに倭迹迹姫命(やまととひめのみこと)がこれである。
開化天皇は、皇后を尊んで皇太后とし、磯城瑞籬宮(しきのみずがきみや)で天下を治められた崇神天皇は、皇太后を尊んで太皇大后とされた。
弟に、大綜杵命(おおへそきのみこと)。
この命は、孝元天皇の御世に大祢となり、春日率川宮で天下を治められた開化天皇の御世に大臣となった。そうして皇后と大臣は、大神をお祀りした。大綜杵命は高屋阿波良姫(たかやのあわらひめ)と妻として、二人の子をお生みになった。
弟に、大峯大尼命(おおみねのおおねのみこと)。
この命は、開化天皇の御世に、大尼となって奉仕した。その大尼がお仕えする起源は、このとき初めて起こった。

六世孫・武建大尼命(たけたつおおねのみこと)。欝色雄大臣の子である。
この命は、大峯大尼命と同じく開化天皇の御世に、大尼となってお仕えした。

同じく六世の子孫・伊香色謎命(いかがしこめのみこと)。大綜杵大臣の子である。
この命は、孝元天皇の御世に皇妃となり、彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)をお生みになった。孝元天皇が崩ぜられた後、開化天皇は庶母の伊香色謎命を立てて皇后とし、皇子をお生みになった。すなわち、崇神天皇である。
崇神天皇は、伊香色謎命を尊んで皇太后とされた。纏向に天下を治められた垂仁天皇の御世に追号して、太皇大后を贈られた。

弟に、伊香色雄命(いかがしこおのみこと)。
この命は、開化天皇の御世に、大臣となった。崇神天皇の御世、この大臣に詔して、神に捧げる物を分かたせ、天社(あまつやしろ)・国社(くにつやしろ)を定めて、物部が作った神祭りの供物で八十万の神々を祀った。
このとき、布都大神(ふつのおおかみ)の社を、大倭国山辺郡石上邑に遷して建てた。天の祖神が饒速日尊に授けられた天つしるしの瑞宝も、同じく共に収めて、石上大神と申しあげた。
これをもって、国家のために、また物部氏の氏神として、崇め祀り、鎮めとした。
そこで、伊香色謎皇后と伊香色雄大臣は石上神宮をお祀りした。
伊香色雄命は、山代県主(やましろのあがたぬし)の祖・長溝(ながみぞ)の娘の真木姫(まきひめ)を妻として、二人の子をお生みになった。また、山代県主の祖・長溝の娘の荒姫(あらひめ)と、その妹の玉手姫(たまてひめ)を共に妾として、それぞれ二男をお生みになった。また、倭志紀彦の娘の真鳥姫を妾として、一男をお生みになった。

七世孫・建胆心大祢命(たけいこころのおおねのみこと)。
この命は、崇神天皇の御世に、はじめて大祢となりお仕えした。
弟に、多弁宿祢命(たべのすくねのみこと)[宇治部連(うじべのむらじ)、交野連(かたののむらじ)らの祖である]。この命は、同じ天皇の御世に宿祢となってお仕えした。
弟に、安毛建美命(やすけたけみのみこと)。
六人部連(むとりべのむらじ)らの祖である。この命は、同じ天皇の御世に侍臣となってお仕えした。
弟に、大新河命(おおにいかわのみこと)。
この命は、纏向珠城宮(まきむくのたまきみや)で天下を治められた垂仁天皇の御世、はじめに大臣となり、ついで物部連公(もののべのむらじのきみ)の姓を賜った。そのため、改めて大連となって、神宮をお祀りした。大連の号は、このとき初めて起こった。
紀伊の荒川戸俾(あらかわとべ)の娘の中日女(なかひめ)を妻として、四男をお生みになった。
弟に、十市根命(とおちねのみこと)。
この命は、垂仁天皇の御世に、物部連公の姓を賜った。はじめ五大夫の一人となり、ついで大連となって、神宮をお祀りした。

この物部十市根大連に、天皇は詔して仰せになった。
「たびたび使者を出雲国に遣わして、その国の神宝を検めさせたが、はっきりとした報告をする者がいない。お前がみずから出雲国に行って、調べて来なさい」
そこで十市根大連は、神宝をよく調べてはっきりと報告した。このため、神宝のことを掌らされることになった。
同じ天皇の御世に、五十瓊敷入彦皇子命(いにしきいりひこのみこのみこと)は河内国の幸(さい)の河上宮(かわかみみや)で、剣一千口を作らせられた。これを名づけて、赤花の伴(あかはなのとも)といい、または裸伴(あかはだかのとも)の剣という。現在は納めて石上神宮にある神宝である。
この後、五十瓊敷入彦皇子に詔して、石上神宮の神宝を掌らせられた。
同じ天皇の御世の治世八十七年を経たとき、五十瓊敷入彦皇子が、妹の大中姫命(おおなかひめのみこと)に語って仰せられた。
「私は老いたから、神宝を掌ることができない。これからはお前がやりなさい」
大中姫命は辞退して仰せられた。
「私はかよわい女です。どうしてよく神宝を収める高い神庫に登れましょうか」
五十瓊敷入彦命はいわれた。
「神庫が高いといっても、私が神庫用に梯子を作るから、登るのが難しいことはない」
ことわざにもいう“天の神庫は樹梯(はしだて)のままに”というのは、このことが元である。
その後、ついに大中姫命は物部十市根大連に授けて、石上の神宝を治めさせた。物部氏が石上の神宝を掌るのは、これがその起源である。

十市根命は、物部武諸隅連公(もののべのたけもろずみのむらじのきみ)の娘の時姫を妻として、五男をお生みになった。
弟に、建新川命(たけにいかわのみこと)[倭の志紀県主(しきのあがたぬし)らの祖である]。
弟に、大燈z命(おおめふのみこと)[若湯坐連(わかゆえのむらじ)らの祖である]。
この二人の命は、同じ垂仁天皇の御世、共に侍臣となってお仕えした。

八世孫・物部武諸隅連公(もののべのたけもろずみのむらじきみ)。新河大連(にいかわのおおむらじ)の子である。
崇神天皇の治世六十年、天皇は群臣に詔して仰せられた。
「武日照命(たけひなでりのみこと)が天から持ってきた神宝が、出雲大神の宮に収めてある。これを見たい」
そこで、矢田部造(やたべのみやつこ)の遠祖の武諸隅命を遣わして、はっきりと調査させて復命申しあげさせた。
武諸隅命は大連となって、石上神宮をお祀りした。物部胆咋宿祢(もののべのいくいのすくね)の娘の清姫(きよひめ)を妻として、一男をお生みになった。
弟に、物部大小市連公(もののべのおおおちのむらじきみ)[小市直(おちのあたい)の祖である]。
弟に、物部大小木連公(もののべのおおおきのむらじきみ)[佐夜部直(さやべのあたい)、久奴直(くぬのあたい)らの祖である]。
弟に、物部大母隅連公(もののべのおおもろずみのむらじきみ)[矢集連(やつめのむらじ)らの祖である]。
以上の三人の連公は、志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや)で天下を治められた成務天皇の御世に、並んで侍臣となってお仕えした。

同じく八世孫・物部胆咋宿祢(もののべのいくいのすくね)。十市根大連(とおちねのおおむらじ)の子である。
この宿祢は、成務天皇の御世に、はじめ大臣となり、石上神宮をお祀りした。その宿祢の官号は、このときはじめて起こった。
市師宿祢(いちしのすくね)の祖の穴太足尼(あなほのすくね)の娘・比東テ命(ひめこのみこと)を妻として、三人の子をお生みになった。
また、阿努建部君(あとのたけべのきみ)の祖・太玉(ふとたま)の娘・鴨姫(かもひめ)を妾として、一人の子をお生みになった。
また、三川穂国造(みかわのほのくにのみやつこ)の美己止直(みことのあたい)の妹・伊佐姫(いさひめ)を妾として、一人の子をお生みになった。
また、宇太笠間連(うだのかさまのむらじ)の祖の大幹命(おおとものみこと)の娘・止己呂姫(ところひめ)を妾として、一人の子をお生みになった。
弟に、物部止志奈連公(もののべのとしなのむらじきみ)。
杭田連(くいだのむらじ)らの祖である。
弟に、物部片堅石連公(もののべのかたがたしのむらじきみ)。
駿河国造(するがのくにのみやつこ)らの祖である。
弟に、物部印岐美連公(もののべのいきみのむらじきみ)。
志紀県主(しきのあがたぬし)、遠江国造(とおつうみのくにのみやつこ)、久努直(くぬのあたい)、佐夜直(さやのあたい)らの祖である。
弟に、物部金弓連公(もののべのかなゆみのむらじきみ)。
田井連(たいのむらじ)、佐比連(さひのむらじ)らの祖である。
以上の四人の連公は、同じく成務天皇の御世に、共に侍臣となってお仕えした。

九世孫・物部多遅麻連公(もののべのたじまのむらじきみ)。武諸隅大連の子である。
この連公は、纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)で天下を治められた景行天皇の御世に、拝命して大連となり、石上神宮をお祀りした。物部五十琴彦連公(もののべのいことひこのむらじきみ)の娘の安媛(やすひめ)を妻として、五人の子をお生みになった。

物部五十琴宿祢連公(もののべのいことのすくねのむらじきみ)。胆咋宿祢の子である。
この連公は、磐余稚桜宮(いわれのわかさくらのみや)で天下を治められた神功皇后摂政の御世の、はじめ大連となり、ついで宿祢となって、石上神宮をお祀りした。
物部多遅麻大連の娘の香児媛(かこひめ)を妻として、三人の子をお生みになった。
妹に、物部五十琴姫命(もののべのいことひめのみこと)。
この命は、景行天皇御世に皇妃となり、一人の子をお生みになった。すなわち、五十功彦命(いごとひこのみこと)である。
弟に、物部五十琴彦連公(もののべのいことひこのむらじきみ)。
この連公は、物部竹古連公(もののべのたけこのむらじきみ)の娘の弟媛(おとひめ)を妻として、二人の子をお生みになった。
弟に、物部竺志連公(もののべのつくしのむらじきみ)
奄智蘊連(あんちのかつらのむらじ)らの祖である]。
弟に、物部竹古連公(もののべのたけこのむらじきみ)[藤原恒見君(ふじわらのつねみのきみ)、長田川合君(おさだのかわいのきみ)、三川蘊連(みかわのかつらのむらじ)らの祖である]。
弟に、物部椋垣連公(もののべのくらがきのむらじきみ)[磯城蘊連(しきのかつらのむらじ)、比尼蘊連(ひねのかつらのむらじ)らの祖である]。
以上の三人は、同じく景行天皇の御世に、並んで侍臣となってお仕えした。

十世孫・物部印葉連公(もののべのいにはのむらじきみ)。多遅麻大連の子である。
この連公は、軽嶋豊明宮(かるしまのとよあかりのみや)で天下を治められた応神天皇の御世、拝命して大連となり、石上神宮をお祀りした。
姉に、物部山無媛連公(もののべのやまなしひめのむらじきみ)。
この連公は、応神天皇の皇妃となり、太子・莵道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)、矢田皇女(やたのひめみこ)、雌鳥皇女(めどりのみこ)をお生みになった。その矢田皇女は、難波高津宮(なにわのたかつのみや)で天下を治められた仁徳天皇の皇后となられた。
弟に、物部伊与連公(もののべのいよのむらじきみ)。
弟に、物部小神連公(もののべのおかみのむらじきみ)。
以上の二人は、同じ仁徳天皇の御世、共に侍臣となってお仕えした。
弟に、物部大別連公(もののべのおおわけのむらじきみ)。
この連は、仁徳天皇の御世に、詔をうけて侍臣となり、石上神宮をお祀りした。
応神天皇の太子である莵道稚郎子皇子の同母妹・矢田皇女は、仁徳天皇の皇后になったが、皇子は生まれなかった。このとき、侍臣の大別連公に詔して、御子代を設けさせた。皇后の名をウヂの名とし、大別連公を氏造として、改めて矢田部連公(やたべのむらじきみ)の姓を賜った。
 
同じく十世孫・物部伊莒弗連公(もののべのいこふつのむらじきみ)。五十琴宿祢の子である。
この連公は、稚桜宮(わかさくらのみや)で天下を治められた履中天皇と柴垣宮(しばがきのみや)で天下を治められた反正天皇の御世に大連となって、石上神宮をお祀りした。
倭国造(やまとのくにのみやつこ)の祖・比香賀君(ひかがのきみ)の娘の玉彦媛(たまひこひめ)を妻として、二人の子をお生みになった。また、姪の岡陋媛(おかやひめ)を妾として、二人の子をお生みになった。
弟に、物部麦入宿祢連公(もののべのむぎりのむらじきみ)。
この連公は、遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)で天下を治められた允恭天皇の御世に、はじめ大連となり、ついで宿祢となって、石上神宮をお祀りした。
物部目古連公(もののべのめこのむらじきみ)の娘の全能媛(またのひめ)を妻として、四人の子をお生みになった。
弟に、物部石持連公(もののべのいわもちのむらじきみ)。
佐為連(さいのむらじ)らの祖である。

同じく十世孫・物部目古連公(もののべのめこのむらじきみ)[田井連(たいのむらじ)らの祖で、五十琴彦の子である]。
弟に、物部牧古連公(もののべのまきこのむらじきみ)[佐比佐連(さひさのむらじ)らの祖である]。

十一世孫・物部真椋連公(もののべのまくらのむらじきみ)[巫部連(かんなぎべのむらじ)、文島連(ふみしまのむらじ)、須佐連(すさのむらじ)らの祖で、伊莒弗宿祢の子である]。
弟に、物部布都久留連公(もののべのふつくるのむらじきみ)。
この連公は、雄略朝(大長谷朝:おおはつせのみかど)の御世に大連となり、石上神宮をお祀りした。
依羅連柴垣(よさみのむらじしばがき)の娘の太姫(ふとひめ)を妻として、一人の子をお生みになった。
弟に、物部目大連公(もののべのめのおおむらじきみ)。
この連公は、磐余甕栗宮(いわれのみかぐりのみや)で天下を治められた清寧天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。
弟に、物部鍛治師連公(もののべのかぬちのむらじきみ)。
鏡作(かがみつくり)小軽馬連(おかるまのむらじ)らの祖である。
弟に、物部竺志連公(もののべのつくしのむらじきみ)。
新家連(にいのみのむらじ)らの祖である。

同じく十一世孫・物部大前宿祢連公(もののべのおおまえすくねのむらじのきみ)[氷連(ひのむらじ)らの祖である]。麦入宿祢の子である。
この連公は、石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)で天下を治められた安康天皇の御世に、はじめ大連となり、ついで宿祢となって、石上神宮をお祀りした。
弟に、物部小前宿祢連公(もののべのおまえすくねのむらじきみ)[田部連(たべのむらじ)らの祖である]。
この連公は、近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや)で天下を治められた顕宗天皇の御世に、はじめ大連となり、ついで大宿祢となって、石上神宮をお祀りした。
弟に、物部御辞連公(もののべのみことのむらじきみ)[佐為連(さいのむらじ)らの祖である]。
弟に、物部石持連公(もののべのいわもちのむらじきみ)[刑部垣連(おさかべのかきのむらじ)、刑部造(おさかべのみやつこ)らの祖である]。

十二世孫・物部木蓮子連公(もののべのいたびのむらじきみ)。布都久留大連の子である。
この連公は、石上広高宮(いそのかみのひろたかのみや)で天下を治められた仁賢天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。
御大君(みおおのきみ)の祖の娘・里媛(さとひめ)を妻として、二人の子をお生みになった。
弟に、物部小事連公(もののべのおごとのむらじきみ)[志陀連(しだのむらじ)、柴垣連(しばがきのむらじ)、田井連(たいのむらじ)らの祖である]。
弟に、物部多波連公(もののべのたはのむらじきみ)[依網連(よさみのむらじ)らの祖である]。

同じく十二世孫・物部荒山連公(もののべのあらやまのむらじきみ)[目大連の子である]。
この連公は、桧前盧入宮(ひのくまのいおよりのみや)で天下を治められた宣化天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。
弟に、物部麻作連公(もののべのまさのむらじきみ)[借馬連(かるまのむらじ)、笶原連(やはらのむらじ)らの祖である]。

十三世孫・物部尾輿連公(もののべのおこしのむらじきみ)。荒山大連の子である。
この連公は、磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)で天下を治められた欽明天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。
弓削連(ゆげのむらじ)の祖・倭古連(やまとこのむらじ)の娘の阿佐姫(あさひめ)と加波流姫(かはるひめ)を妻として、それぞれ姉は四人の子を生み、妹は二人の子を生んだ。
弟に、物部奈洗連公(もののべのなせのむらじきみ)。

同じく十三世孫・物部麻佐良連公(もののべのまさらのむらじきみ)。木蓮子大連の子である。
この連公は、泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)で天下を治められた武烈天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。
須羽直(すわのあたい)の娘の妹古(いもこ)を妻として、二人の子をお生みになった。
弟に、物部目連公(もののべのめのむらじきみ)。
この連公は、継体天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。
弟に、物部長目連公(もののべのおさめのむらじきみ)[軽馬連(かるまのむらじ)らの祖である]。
弟に、物部金連公(もののべのかねのむらじきみ)[借馬連(かるまのむらじ)、野馬連(ぬまのむらじ)らの祖である]。
弟に、物部呉足尼連公(もののべのくれのすくねのむらじきみ)[依羅連らの祖である]。
この連公は、欽明天皇の御世に、宿祢となった。
弟に、物部建彦連公(もののべのたけひこのむらじきみ)[高橋連(たかはしのむらじ)、立野連(たちののむらじ)、都刀連(つとのむらじ)、横広連(よこひろのむらじ)、勇井連(ゆいのむらじ)、伊勢荒比田連(いせのあらひたのむらじ)、小田連(おだのむらじ)らの祖である]。

十四世孫・物部大市御狩連公(もののべのおおいちのみかりのむらじきみ)。尾輿大連の子である。
この連公は、譯語田宮(おさだのみや)で天下を治められた敏達天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。
弟の贄古大連(にえこのおおむらじ)の娘の宮古郎女(みやこのいらつめ)を妻として、二人の子をお生みになった。
弟に、物部守屋大連公(もののべのもりやのおおむらじきみ)。または弓削大連(ゆげのおおむらじ)という。
この連公は、池辺双槻宮(いけのべのなみつきのみや)で天下を治められた用明天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。
弟に、物部今木金弓若子連公(もののべのいまきのかなゆみわくごのむらじのきみ)。
今木連(いまきのむらじ)らの祖である。
妹に、物部連公(もののべのむらじきみ)布都姫夫人(ふつひめのおおとじ)。字は御井夫人(みいのおおとじ)、または石上夫人(いそのかみのおおとじ)という。
倉梯宮(くらはしのみや)で天下を治められた崇峻天皇の御世に夫人となった。また、朝政に参与して、神宮をお祀りした。
弟に、物部石上贄古連公(もののべのいそのかみのにえこのむらじきみ)。
この連公は、異母妹の御井夫人を妻として、四人の子をお生みになった。
小治田豊浦宮(おはりだのとゆらのみや)で天下を治められた推古天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。
弟に、物部麻伊古連公(もののべのまいこのむらじきみ)。
屋形連(やかたのむらじ)らの祖である。
弟に、物部多和髪連公(もののべのたわかみのむらじきみ)。

同じく十四世孫・物部麁鹿火連公(もののべのあらかいのむらじきみ)。麻佐良大連の子である。
この連公は、勾金橋宮(まがりのかなはしのみや)で天下を治められた安閑天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。
弟に、物部押甲連公(もののべのおしかいのむらじきみ)。
この連公は、檜前盧入宮で天下を治められた宣化天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りした。
弟に、物部老古連公(もののべのおゆこのむらじきみ)[神野入州連(かみののいりすのむらじ)らの祖である]。

同じく十四世孫に、物部金連公(もののべのかねのむらじきみ)[野間連(のまのむらじ)、借馬連らの祖で、目大連の子である]。
弟に、物部三楯連公(もののべのみたてのむらじきみ)[鳥部連(とりべのむらじ)らの祖である]。
弟に、物部臣竹連公(もののべのおみたけのむらじきみ)[肩野連(かたののむらじ)、宇遅部連(うじべのむらじ)らの祖である]。
弟に、物部倭古連公(もののべのやまとこのむらじきみ)[流羅田部連(ならたべのむらじ)らの祖である]。
弟に、物部塩古連公(もののべのしおこのむらじきみ)[葛野韓国連(かどののからくにのむらじ)らの祖である]。
弟に、物部金古連公(もののべのかねこのむらじきみ)[三島韓国連(みしまのからくにのむらじ)らの祖である]。
弟に、物部阿遅古連公(もののべのあじこのむらじきみ)[水間君(みぬまのきみ)らの祖である]。

十五世孫・物部大人連公(もののべのうしのむらじきみ)[御狩大連の子である]。
この連公は、物部雄君連公(もののべのおきみのむらじきみ)の娘の有利媛(ありひめ)を妻として、一人の子をお生みになった。
弟に、物部目連公[大真連(おおまのむらじ)らの祖である]。この連公は、磯城嶋宮で天下を治められた欽明天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀りしました。

同じく十五世孫に、内大紫冠位・物部雄君連公(もののべのおきみのむらじのきみ)。守屋大連の子である。
この連公は、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で天下を治められた天武天皇の御世に、物部氏の氏上を名のることを許され、内大紫冠の位を賜って、石上神宮をお祀りした。
物部目大連の娘の豊媛(とよひめ)を妻として、二人の子をお生みになった。

同じく十五世孫・物部鎌束連公(もののべのかまつかのむらじきみ)。贄古大連の子である。
弟に、物部長兄若子連公(もののべのながえのわくごのむらじきみ)。
弟に、物部大吉若子連公(もののべのおおよしのわくごのむらじきみ)。
妹に、物部鎌姫大刀自連公(もののべのかまひめのおおとじのむらじきみ)。
この連公は、推古天皇の御世に、参政となって、石上神宮をお祀りした。
宗我嶋大臣(そがのしまのおおみ)の妻となって、豊浦大臣(とゆらのおおみ)をお生みになった。豊浦大臣の名を、入鹿連公(いるかのむらじきみ)という。

同じく十五世孫・物部石弓連公(もののべのいわゆみのむらじきみ)。
今木連らの祖で、麁鹿火大連の子である。
弟に、物部毛等若子連公(もののべのもとのわくごのむらじきみ)。
屋形連(やかたのむらじきみ)らの祖である。

同じく十五世孫・物部奈西連公(もののべのなせのむらじきみ)。
葛野連らの祖で、押甲大連の子である。

同じく十五世孫・物部恵佐古連公(もののべのえさこのむらじきみ)。麻伊古大連の子である。
この連公は、推古天皇の御世に、大連となって、神宮をお祀りした。

十六世孫・物部耳連公(もののべのみみのむらじきみ)。
今木連らの祖で、大人連公の子である。

同じく十六世孫・物部忍勝連公(もののべのおしかつのむらじきみ)。雄君連公の子である。
弟に、物部金弓連公(もののべのかなゆみのむらじきみ)。
今木連らの祖である。

同じく十六世孫・物部馬古連公(もののべのうまこのむらじきみ)。目大連の子である。
この連公は、孝徳朝(難波朝:なにはのみかど)の御世に、大華上の位と氏のしるしの大刀を授かり、食封千烟を賜って、神宮をお祀りした。

同じく十六世孫・物部荒猪連公(もののべのあらいのむらじきみ)。
榎井臣(えのいのおみ)らの祖で、恵佐古大連の子である。
この連公は、同じ孝徳朝の御世に、大華上の位を賜った。
弟に、物部弓梓連公(もののべのあづさのむらじきみ)。
榎井臣らの祖である。
弟に、物部加佐夫連公(もののべのかさふのむらじきみ)。
榎井臣らの祖である。
弟に、物部多都彦連公(もののべのたつひこのむらじきみ)。
榎井臣らの祖である。
この連公は、天智朝(淡海朝:おうみのみかど)の御世に、大連となって、神宮をお祀りした。

十七世孫・物部連公(もののべのむらじきみ)麻呂(まろ)。馬古連公の子である。
この連公は、天武朝の御世に天下のたくさんの姓を八色に改め定めたとき、連公を改めて、物部朝臣(もののべのあそん)の姓を賜った。さらに、同じ御世に改めて、石上朝臣(いそのかみのあそん)の姓を賜った。  
 
巻第六 皇孫本紀  

 

天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊(あまにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)。
または天饒石国饒石尊といい、または天津彦々火瓊々杵尊という。

天の祖神が詔され、天つしるしの鏡と剣を授けられて、諸神を副い従わせられたことは、天神本紀にある。

高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、真床追衾(まとこおうふすま)で皇孫・天津彦火瓊々杵尊を包み、お伴と先払いの神を遣わされた。そして、皇孫が天の磐座(いわくら)を離れ、天の八重雲を押しひらき、勢いよく道をふみ分けて天降ろうとされるとき、先払いの神が戻ってきて申しあげた。
「一柱の神が天の八達之衢(やちまた)にいて、上は高天原(たかまがはら)から下は葦原の中国(なかつくに)までを照らしています。その鼻の高さは十咫(とあた)、背の高さは七咫あまり、まさに七尋(ななひろ)というべきでしょう。また、口の端は明るく光り、目は八咫鏡(やたのかがみ)のようで、照り輝いていることは赤酸漿(あかほおずき)に似ています」

そのため、お伴の神を遣わして詰問させようとしたが、たくさんの神がいるものの、みな眼光が鋭く険悪な雰囲気になってしまって、尋ねることはできなかった。
そこで、手弱女(たおやめ)ではあったが、天鈿売(あまのうずめ)に命じて仰せられた。
「お前は眼力が人に勝れた者である。行って尋ねなさい」
天鈿売命は、その胸をあらわに出し、腰ひもを臍(へそ)の下まで押しさげて、あざ笑って向かい立った。

衢(ちまた)の神は、天鈿売命に尋ねた。
「あなたはなぜ、こんなことをするのか」
天鈿売命は答えていった。
「天照大神の御子がおいでになる道に、このようにいるのは誰なのか、あえて問います」
街の神はこれに答えていった。
「天照大神の御子が、今降っておいでになると聞きました。それで、お迎えしてお待ちしているのです。わが名は猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)です」

そこで天鈿売がまた尋ねていった。
「あなたが私より先に立って行くべきですか、それとも私があなたより先に立って行くべきですか」
猿田彦の神は答えていった。
「私が先に行きましょう」

天鈿売はまた尋ねていった。
「あなたはどこへ行こうとするのですか。皇孫はどこへおいでになることになりますか」
猿田彦の神は答えていった。
「天神の御子は、筑紫の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)の、槵触之峯(くしふるのたけ)に到られるでしょう。私は伊勢の狭長田(さなた)の五十鈴(いすず)の川上に行くでしょう」
そしていった。
「私を顕したのはあなたですから、あなたは私を送って行ってください」

天鈿売命は、天に帰って報告した。皇孫は天鈿売命に命じて仰せられた。
「この先導の役に奉仕した猿田彦大神は、その正体を明らかにして報告した、お前がお送りしなさい。また、その神の御名は、お前が負ってお仕えしなさい」
こうして猿女君(さるめのきみ)らは、その猿田彦神の名を負って、女性を猿女君と呼ぶことになった。

猿田彦神は、阿耶訶(あざか)におられるときに、漁をしていて、比良夫貝にその手をはさまれて、海に沈み溺れてしまった。それで、海の底に沈んでおられるときの名を、底度久御魂(そこどくみたま)といい、その海水が泡粒になって上がるときの名を、都夫立御魂(つぶたつみたま)といい、その沫が裂けるときの名を、沫佐久御魂(あわさくみたま)という。

さて、天鈿売命は、猿田彦神を送って帰ってきて、ただちに大小の魚たちを追い集め、尋ねていった。
「お前たちは、天神の御子にお仕え申しあげるか」
このとき、多くの魚はみな、
「お仕え申します」
といったが、その中で海鼠(なまこ)だけが答えなかった。
そこで、天鈿売命が海鼠に、
「この口が答えない口か」
といって、細小刀でその口を切った。そのため、今でも海鼠の口は裂けているのである。
各天皇の御代ごとに、初物の魚介類を献上するとき、猿女君らに分かち下されるのは、これがその由来である。

天津彦々火瓊々杵尊は天降って、筑紫の日向の襲の槵触二上峯にいらっしゃった。
このとき、天の浮橋から、浮島のある平らな所にお立ちになって、痩せた不毛の地を、丘続きに良地を求めて歩かれ、吾田(あた)の笠狭(かささ)の崎にお着きになった。
長屋の竹嶋に登り、その地を見わたすと、そこには一柱の神がいて、みずから事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)と名のった。この事勝国勝神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子で、またの名を塩土老翁(しおつちのおじ)という。

皇孫は事勝国勝長狭に尋ねて仰せられた。
「ここは誰の国なのか」
これに答えて申しあげた。
「私、長狭がいる国で、住んでいる国です。しかし、まずはごゆっくりなさいませ。国は詔のままに、奉りましょう」
そこで、皇孫はそこに赴かれ、留まることにした。

そうして仰せになった。
「この地は韓国(からくに)に相対していて、まっすぐ道が笠沙の御崎に通じており、朝日のよくさす国であり、夕日の明るく照らす国である。だから、ここはよい土地だといえる」
詔して、地底の磐に太い宮柱を立てて、高天原に向かって千木を高くそびえさせた宮殿にお住まいになった。

天孫はひと休みされた後に、浜辺においでになり、長狭に尋ねて仰せになった。
「あの波頭の立っている波の上に、大きな御殿を立てて、手玉ももゆらに機を織る美少女は誰の娘か」
答えて申しあげた。
「大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘たちです。姉を磐長姫(いわながひめ)といい、妹を木花開姫(このはなさくやひめ)といいます。またの名は豊吾田津姫(とよあたつひめ)、またの名を鹿葦津姫(かあしつひめ)です」

皇孫が美しい乙女に尋ねて仰せられた。
「お前は誰の娘か」
乙女は答えていった。
「私は大山祇の娘で、名は神吾田鹿葦姫、またの名を木花開耶姫といいます」
そして、
「また、私の姉に磐長姫がいます」
といった。

皇孫は仰せられた。
「私はお前を妻にしたいと思うが、どうか」
答えていった。
「私の父・大山祇神がいます。どうか父にお尋ねください」
そのため皇孫は、大山祇神に仰せになった。
「私はお前の娘を見そめた。妻にしたいと思うがどうか」
大山祇神は、大変喜んで、二人の娘に数多くの物を並べた机を持たせて奉った。

ときに、皇孫は姉のほうを醜いと思われ、召さずに返された。妹は美人であるとして、召して結婚された。すると、一夜で妊娠した。

そのため、この姉の磐長姫は、大変恥じ恨んでいった。
「もし天孫が私を退ずにお召しになったら、生まれる御子は命が長く、岩のようにいつまでも死なないでしょう。でも、そうではなく、ただ妹一人を召されました。だから、その生む子はきっと木の花のように、散り落ちてしまうことでしょう」
また、磐長姫は恥じ恨んで、唾を吐き呪って泣きながらいった。
「この世に生きている人民は、木の花のようにしばらくで移ろって、衰えてしまうでしょう」
これが、世の人の命がもろいことの由来である。

父の大山祇神が、申し送っていった。
「私の娘を二人並んで奉りましたわけは、磐長姫をお召しになって、天神の御子の命が、雪や雨が降り風が吹いても、つねに岩のように永遠に変わらず、ゆるぎなくいらっしゃるように、また、木花開姫をお召しになって、木の花が咲き栄えるように、ご繁栄になるように、祈誓して奉りました。しかるに磐長姫を返させて、木花開姫ひとりをお留めになりましたから、天神の御子の寿命は、木の花のようにわずかな時間となるでしょう」
そのため、これをもって、今に至るまで天皇がたのご寿命は長久ではなくなったのである。

神吾田鹿葦津姫が、皇孫を見ながら申しあげた。
「私は、天孫の子を身ごもりました。ひそかに産むわけにはまいりません」
皇孫は仰せられた。
「天神の子であるといっても、どうして一夜で孕ませられるだろうか。思うに、お前が身ごもったのは、私の子ではなく、国つ神の子だろう」

神吾田鹿葦津姫は、一夜にして子を宿した。そして、四人の子を生んだ。[ある書には、三人の子という]
竹の刀をつかい、その子のへその緒を切った。それを棄てた所は、竹の刀が後に竹林になった。そのため、その地を名づけて、竹屋という。
このとき神吾田鹿葦津姫は、卜定田(うらへだ)を狭名田(さなだ)と名づけ、その田で収穫した稲をもって、天の甜酒(たんさけ)を醸して、お供えした。また、渟浪田(ぬなた)の稲を使って、飯をたいて、お供えした。

神吾田鹿葦津姫が子を抱いてやってきて申しあげた。
「天神の子を、どうしてひそかに養うべきでしょうか。だから様子を申しあげて、知っていただきます」
このとき天孫は、その子らを見てあざわらって仰せられた。
「なんとまぁ、私の皇子たち、こんなに生まれたとは本当に嬉しいな」

そこで、吾田鹿葦津姫は怒っていった。
「どうして私をあざけりなさるのですか」
天孫は仰せになった。
「心に疑わしく思う。だから、あざけったのだ。なぜなら、いくら天神の子でも、どうして一夜のうちに、人に孕ませることができるのか。絶対にわが子ではない」

神吾田鹿葦津姫は、ますます恨んで、戸の無い大きな御殿を作ってその中にこもり、誓っていった。
「私の孕んだ子が、もし天神の御子でなかったら、必ず焼け滅べ。もし、天神の御子ならば、炎で損なわれることがないでしょう」
そして火をつけて室を焼いた。

その火が初め明るくなったとき、ふみ出して出てきた子は、自ら名のっていった。
「私は天神の子、名前は火明命(ほあかりのみこと)。私の父はどこにおられるのか」
次に火の盛んなときにふみ出して出てきた子は、また名のっていった。
「私は天神の子、名前は火進命(ほすすみのみこと)。私の父と兄はどこにおられるのか」
次に火の衰えるときにふみ出して出てきた子は、また名のっていった。
「私は天神の子、名前は火折命(ほおりのみこと)。私の父と兄たちはどこにおられるか」
次に火熱がひけるときにふみ出して出てきた子はいった。
「私は天神の子、名前は彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)。私の父と兄たちはどこにおられるのか」
 
その後に、母の吾田鹿葦津姫が、燃え杭の中から出てきて、いった。
「私が生んだ御子と私の身は、みずから火の災いに当たりましたが、少しも損なわれるところがありませんでした。天孫はご覧になられましたか」
天孫は答えて仰せられた。
「私は最初から、これがわが子であると知っていた。ただ一夜で孕んだということを疑う者があると思って、衆人にこれが皆、わが子であると知らせようと思った。あわせて天神はよく一夜で孕ませられることを示そうとしたのだ。また、お前に不思議な勝れた力があり、子らもまた、人に勝れた力があることを明らかにしようと思った。このため、先の日にあざけりの言葉をのべたのだ」

こうして、母の誓いの結果を知ることができた。本当にこの子らが皇孫の御子であると。

豊吾田鹿葦津姫は、皇孫を恨んで言葉を交わさなかった。
皇孫は憂いて歌を詠んでいわれた。

御子、火明命[工造たちの祖]。
次に、火進命[または火闌命(ほすそりのみこと)、または火酢芹命(ほすせりのみこと)という。隼人たちの祖]。
次に、火折命。
次に、彦火々出見尊。

彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)。

天孫・天津彦々火瓊々杵尊の第二子で、母は大山祇の娘の木花開姫である。

兄の火酢芹命(ほすせりのみこと)は、よく海の幸を得ることができたので、海幸彦命(うみさちひこのみこと)と呼ばれた。
弟の火折命(ほおりのみこと)は、または火々出見尊という。山の幸を得ることができたので、山幸彦尊(やまさちひこのみこと)と呼ばれた。

兄は風が吹き雨が降るたびにその幸を失った。弟は風が吹き雨が降っても、その幸は変わらなかった。

ときに、兄が弟に語っていった。
「私はためしに、お前と幸を取り替えてみたいと思う」
弟は、承諾して取り替えられた。

兄は弟の弓矢をもって山に入り獣を狩ったが、ついに獣を捉えることができなかった。
弟は兄の釣り針をもって海に行き魚を釣ったが、魚を得ることはできず、ついにはその釣り針を失ってしまった。
どちらも幸を得られずに、空手で帰ってきた。

兄は弟の弓矢を返して、自分の釣り針を返すように求めた。しかし、弟は釣り針を海の中に紛失して、捜し求めるすべがなかった。
そこで、別に新しい釣り針を作って、兄に与えたが、兄は受け取らず、もとの針を返すように責めた。

弟は悩んで、自分の太刀で新しい針を鍛えて、器いっぱいに盛って、これを贈った。兄が怒っていった。
「私はもとの針でなければ、たくさんあるといっても受け取らない」
と、ますますまた責めた。

それで弟の火折尊は憂い苦しむことが深く、海辺に行ってさまよい、たたずみ嘆かれた。
このとき、川雁がいて、罠にかかって苦しんでいた。それをご覧になり、憐れみの心を起こして解き放ってやった。
しばらくして、塩土老翁がやってきて、老翁は尋ねた。
「何のために、こんなところで悲しんでいるのですか」
答えて事の始終を告げると、老翁は申しあげた。
「心配なされるな。私があなたのために、考えてさしあげましょう」
そして袋の中から櫛をとって、地に投げると、それはたくさんの竹林になった。
その竹をとって、目の粗い籠を作った。これをまたは堅間(かたま)という。現在の籠のことである。
そうして火折尊を竹籠の中に入れて、海に沈めた。

また、塩土老翁は申しあげた。
「私が計りごとをしましょう」
計って申しあげた。
「海神の乗る駿馬は、八尋鰐(やひろわに)です。その鰐が背を立てて橘の小戸におります。私が彼とともに、計りましょう」
そうして、火折尊をつれてともに行き、鰐に会った。

鰐が計っていった。
「私は八日の後に、確かに天孫を海神の宮にお送りできます。しかし、わが王の駿馬は、一尋鰐です。これはきっと一日のうちにお送りするでしょう。ですから今、私が帰って彼を来させましょう。彼に乗って、海にお入りください。海に入られたら、海中によい小浜があるでしょう。その浜に沿って進まれたら、きっとわが王の宮につくでしょう。宮の門の井戸の上に、神聖な桂の木があります。その木の上に乗って居られませ」
こう言い終わって、すぐに海中に入って去っていった。

そこで、天孫は、鰐のいったとおりに留まって、八日間待った。
しばらくして、一尋鰐がやってきた。それに乗って、海中に入った。
すると、おのずとちょうどよい小浜の道があり、すべてさきの鰐の教えの従って、道に沿って進んでいくと、ひとりでに海神の宮についた。

その宮は、城門高く飾り、楼閣壮麗だった。
門の前にひとつの井戸があり、井戸の上には神聖な桂の木があって、枝葉がよく茂っていた。
火折尊は、この木の下に行き、跳ね上がってのぼっておられた。
しばらくして、一人の美人があらわれた。井戸の底に笑顔がうつるその容貌は絶世であった。これが、海神の娘の豊玉姫(とよたまひめ)である。
従者を多く従えて中から出てきた。そして従者が玉の壷で井戸の水を汲もうとすると、井戸の中に人影が映っているのを見て、汲みとることができず、上を仰ぐと天孫の姿が見えた。

そのため驚いて扉を開いて戻り、その父王に申しあげた。
「私はわが王だけが、ひとりすぐれて美しいと思っていました。ですが、貴い客人が門の前の井戸のそばの木の上にいて、その姿は並みではなく、海神よりも勝れています。もし天から降れば天のかげがあり、地下から上れば地のかげがあるでしょう。これは本当に妙なる美しさです。虚空彦(そらつひこ)というのでしょうか」

そこで海神豊玉彦(とよたまひこ)は、人を遣わして、尋ねて申しあげた。
「客人はどなたですか。なぜここにおいでになったのですか」
天孫は答えて仰せられた。
「私は天神の孫です」
そうして、おいでになったわけを話された。

海神はこれを聞いて、
「ためしに会ってみよう」
といって、三つの床を設け、何枚もの畳をしいて、迎え拝んで中に引き入れた。
このとき、天孫は入り口の床では両足を拭かれた。次の床では両手を拭われた。内の床では真床覆衾(まとこおうふすま)の上に、ゆったりと座られた。
海神はこれを見て、この方が天神の孫であることを知り、ますます尊敬して懇ろにお仕えした。
そして、たくさんの物を並べた机を用意し、主人としての礼を尽くした。

海神がおもむろに尋ねて申しあげた。
「天孫は、何故かたじけなくもおいでくださいましたか。このころ、わが子が語りますに、天孫が海辺で悲しんでおられるというのですが、本当かどうかわからない、と申しておりました」
天孫は答えて、ことのわけを詳しく話された。

海神は、憐れみの心を起こして、大小の魚をすべて集めて尋ねたが、皆、
「知りません」
といった。
ただ、口女(くちめ)だけが口に病があった。そこでただちに呼びよせて、その口を探ると、紛失した釣り針がすぐに見つかった。
その口女は、すなわち鯔魚(いな)である。また、赤女ともいわれていて、鯛のことである。

海神は命じていった。
「お前口女は、これから餌を食べてはならぬ。また、天孫にすすめる御膳に加わることはできない」
鯔魚を御膳に進めないのは、これがその由来である。

そうして天孫は、海神の娘の豊玉姫を娶られた。
二人は愛情こまやかに過ごされて、海の宮に過ごすこと三年が経った。安らぎ楽しまれてはいたが、やはり故郷を想われる心があった。それで、またひどく嘆かれた。

豊玉姫はこれを聞き、父神にいった。
「ここにいらっしゃる貴人は、上つ国に帰りたいと思っておられます。ひどく悲しんで度々嘆かれるのは、きっと郷土を想って悲しまれるのでしょう」

海神はそこで、天孫におもむろに語って申しあげた。
「今、天神の孫が、かたじけなくも私のところにおいでくださいました。心の中の喜びは、忘れることができません。天孫がもし国に帰りたいと思われるなら、お送り申しあげます」
海神はそうして、釣り針を授け奉った。

潮溢の玉(しおみつのたま:思いのままに潮を満たせる玉)と、潮涸の玉(しおひのたま:潮をひかせる玉)を、この針に添え献じて申しあげた。
「皇孫よ、遠く隔たっても、どうか時々は思い出して、忘れてしまわないようにしてください」
そして教えて申しあげた。
「この針をあなたの兄に返し与えられるときに、“貧乏のもと。飢えのはじめ。苦しみのもと”とおっしゃりなさい。そしてひそかにこの針を呼んで、“お前が生まれる子の末代まで、貧乏の針、滅びの針、おろかの針、うまくいかない針”とおっしゃって、後ろのほうへ投げ捨てて与えなさい。向かいあって授けてはなりません。それから三度唾を吐いてください。
また、あなたの兄が海を渡ろうとするときには、私は必ず疾風を送り波を立てて、兄を溺れさせ苦しめましょう。もし、兄が怒ってあなたを損なおうとするなら、潮溢の玉を出して溺れさせ、苦しんで助けてくれと乞うたら、潮涸の玉を出して救ってください。このように責め悩ませれば、自然と服従するでしょう。
また、兄が海で釣りをするときに、天孫は海辺におられて風招(かざおぎ)をなさい。風招とは、口をすぼめて息を吹き出すことです。そうすると、私は瀛(おき)つ風・辺(へ)つ風を立てて、速い波で溺れさせましょう」

また教えて申しあげた。
「兄が高いところの田を作ったら、あなたはくぼんだ低い田をお作りなさい。兄がくぼんだ田を作ったら、あなたは高いところの田をお作りなさい」
このように、海神は誠実をつくして、火折尊をお助けした。

海神は、鰐を呼び集め、尋ねていった。
「天孫が今お帰りになる。お前達は、何日間のうちにお送りできるか」
たくさんの鰐がそれぞれに、長く、あるいは短かい日数をのべた。中に一尋鰐がいて、みずからいった。
「一日でお送りすることができます」
そこで、一尋鰐に命じてお送りさせた。
 
天孫は、帰ってきて、海神の教えのとおりに、まずその針を兄に与えられた。兄は怒って受け取らなかった。
そこで、弟は潮溢玉を出すと、潮が大きく満ちてきて、足を浸した。これは足占(あしうら)の意味がある。膝に水が至ったときには、足をあげた。股に至ったときには、走り回った。腰に至ったときには、腰をなで回した。脇に至ったときには、手を胸におき、首に至ったときには手を上げてひらひらさせた。

このため兄は助けを求めて申しあげた。
「私はあなたにお仕えして奴となりましょう。どうかお助けください」
弟の尊が潮涸玉を出すと、潮は自然と引いて、兄はもとに返った。

兄の命が釣りをする日に、弟の尊は浜辺におられて、うそぶきをした。すると、疾風が急に起こり、兄は溺れ苦しんだ。生きられそうもないので遥かに弟の尊に救いを求めていった。
「お前は長い間、海原で暮らしたから、きっと何かよい術を知っているだろう。どうか助けてくれ。もし私を助けてくれたら、私の生む子の末代まで、あなたの住居の垣のあたりを離れず俳優(わざおぎ)の民となろう」

そこで、弟はうそぶくことをやめて、風もまた止んだ。
そのため兄は弟の徳を知り、みずから服従しようとした。しかし、弟の尊は怒って口をきかれなかった。
そこで兄はフンドシをして、土を手のひらに塗って、その弟の尊に申しあげた。
「私はこのとおり身を汚しました。永くあなたのための俳優となりましょう」
そうして足をあげて踏み鳴らし、その溺れ苦しむ様を真似した。

兄の命は、日々にやつれていき、憂いていった。
「私は貧乏になってしまった」
そして弟に降伏した。弟が潮溢玉を出すと、兄の命は手を挙げて溺れ苦しんだ。潮涸玉を出すと、元のようにもどった。

後になると兄の命は、前言をあらためていった。
「私はお前の兄である。どうして人の兄として、弟に仕えることができようか」
弟の尊はそのとき潮溢玉を出した。兄はこれを見て、高い山に逃げ登った。しかし、潮は山を水没させた。兄は高い木に登った。潮はまた、木を水没させた。

兄の命はとても困って、逃げ去るところもなく、罪に伏して申しあげた。
「私は過ちをしました。今後は私の子孫の末まで、あなたの俳人(わざひと)となり、また狗人(いぬひと)となりましょう。どうか哀れんでください」
弟の尊が潮涸玉を出すと、潮は自然と引いた。そこで兄は弟の尊が、神の徳を持っていることを知って、ついにその弟の尊に服従してお仕えした。

このため、兄の命の子孫である諸々の隼人(はやと)たちは、今に至るまで、天皇の宮の垣のそばを離れないで、吠える犬の役をしてお仕えしているのである。
世の人が失った針を催促しないのは、これがその由来である。

これより以前、別れようとするときに、豊玉姫がゆっくりと語って申しあげた。
「私はもう妊娠しています。天孫の御子を遠からず産み奉ります。しかし、どうして海の中に生むことができましょうか。ですから子を生むときには、きっとあなたのもとへ参ります。風波の盛んな日に海辺に出ていきますから、どうか私のために産屋を作って待っていてください」

その後、弟の尊は郷(くに)に帰って、鵜(う)の羽で屋根を葺いて産屋を作った。屋根がまだ葺き終わらないうちに、豊玉姫は大亀に乗り[または龍に乗ったという]、妹の玉依姫をつれ、海を照らしてやって来た。
もう臨月で、子は産まれんばかりだった。そのため葺き終わるのを待たないで、すぐに産屋へ入られた。
静かに天孫に申しあげていった。
「私は今晩、子を生むでしょう。どうかご覧にならないでください」
天孫は、心中そのことばを怪しんで、いわれたことを聞かずに、ひそかに覗き見られた。
すると、姫は八尋の大鰐に変わって、這い回っていた。見られて辱められたのを深く恥じ、恨みを抱いた。

子が生まれてから後に、天孫が行って尋ねられた。
「この子の名前は何とつけたらよいだろう」
豊玉姫は答えて申しあげた。
「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と名づけましょう」
このようにいわれたわけは、その海辺の産屋に、鵜の羽を草の代わりにして屋根を葺くのに、まだ葺き終わらないうちに子が生まれられたので名づけたのである。

天孫は、豊玉姫の言葉に従われず、出産を覗き見られた。
豊玉姫は、そのことを大いに恨んでいった。
「私のいうことを聞かないで、私に恥をかかせられました。ですから今後は、私の召使いがあなたの所に行ったら返しなさいますな。あなたの召使いが私のもとに来てもまた返しませんから」
これが、海と陸との相通わないことの由来である。

ついに、真床覆衾(まとこおうふすま)と草で、生まれた御子をつつみ渚に置いてから、豊玉姫命はみずから抱いて海の郷に去った。
また、妹の玉依姫(たまよりひめ)を留めて、抱かせ養育させて去ったともいう。

しばらくして、
「天孫の御子を、海の中においていてはいけない」
といって、玉依姫命に抱かせて送り出した。
天孫は、婦人を召して、乳母(ちおも)および飯噛(いいかみ)、湯坐(ゆひと)とされ、すべて諸々の役目を備えて養育した。ときには、仮に他の女を使って、乳母として皇子を養うこともあった。
これが世の中で乳母をきめて、子を育てることの始まりである。

この後、豊玉姫命は、その子が美しくかわいらしいのを聞いて、憐れみの心がつのり、また帰って育てたいと思った。しかし、義にかなわないので、妹の玉依姫命を遣わして養わせた。
そこで、召されて一児を生んだ。武位起命(たけくらいおきのみこと)である。

はじめ、豊玉姫は別れるときに、恨み言をしきりにいった。
それで天孫は、また会うことのないのを知られて、歌を一首贈られた。
豊玉姫命は、玉依姫命に託して、返歌を奉った。
この贈答の二首を名づけて挙歌(あげうた)という。

彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)は、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊をお生みになった。
次に、武位起命をお生みになった。大和国造(やまとのくにのみやつこ)らの祖である。

彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊。

天孫・彦火々出見尊の第三子である[また火折尊ともいう]。
母を豊玉姫命という。海神の上の娘である。
豊玉姫命の妹の玉依姫命を立てて皇妃とされた。すなわち、海神の下の娘で、鸕鷀草葺不合尊の叔母にあたる。

四人の御子をお生みになった。
子の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)[賊の矢にあたって亡くなった]。
次に、稲飯命(いなひのみこと)[海に没して鋤持神となった]。
次に、三毛野命(みけいりぬのみこと)[常世の郷に行かれた]。
次に、磐余彦命(いわれひこのみこと)。

磐余彦尊(いわれひこのみこと)。

磐余彦尊は、天孫・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の第四子である。母は玉依姫命(たまよりひめのみこと)といい、海神(わだつみ)の下の娘である。
天孫・磐余彦尊は、生まれながらに賢い人で、気性がしっかりとしておられた。十五歳で太子となられた。
成長されたのち、日向国の吾田邑(あたのむら)の吾平津媛(あびらつひめ)を妃とされた。妃との間に、手研耳命(たぎしみみのみこと)、次に研耳命(きすみみのみこと)がをお生みになった。

四十五歳になられたとき、兄や御子たちに仰せられた。
「昔、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)と大日孁尊(おおひるめのみこと)が、この葦原の瑞穂国を我が祖先の彦火瓊々杵尊(ひこほのににぎのみこと)に授けられた。そこで瓊々杵尊は天の戸を押し開き、雲路を押し分け先払いを走らせて降臨された。このとき、世は未開で、まだ明るさも十分ではなかった。その暗い中にありながら、正しい道を開き、この西のほとりを治められた。皇室の祖先は神であり、また聖であったので、人々によろこびをもたらし、光をなげかけ、多くの年月を経た。天祖が降臨されてから、百七十九万二千四百七十余年になる。しかし、遠いところの国では、まだ帝王の恵みが及ばず、邑々はそれぞれの長があり村々に長があって、土地に境を設けて相争っている。
ところで、また塩土老翁(しおつちのおじ)に聞くと、“東のほうに良い土地があり、青々とした山が取りまいている。その中へ、天の磐船に乗ってとび降ってきた者がある”という。思うにその土地は、広く統治をおこない、天下を治めるのにふさわしいであろう。きっとこの国の中心だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日(にぎはやひ)という者であろうか。そこに行って、都をつくるにかぎる」

諸皇子たちも答えて申しあげた。
「そのとおりです。私たちもそう思うところです。すみやかに実行しましょう」
この年は大歳の甲寅である。

その年の冬十月五日に、天孫は自ら諸皇子・船軍を率いて、東征に向かわれた。

速吸(はやすい)の門においでになると、一人の漁人(あま)がいて、小舟に乗ってやってきた。天孫は、呼び寄せ尋ねて仰せられた。
「お前は誰か」
答えて申しあげた。
「私は国津神で、珍彦(うずひこ)と申します。曲(わだ)の浦で釣りをしており、天神の御子がおいでになると聞いたので、お迎えに参りました」
また、天孫は尋ねて仰せられた。
「私のために、水先案内をするつもりはないか」
珍彦は答えて申しあげた。
「ご案内しましょう」
天孫は命じて、漁人に椎竿(しいさお)の先を差し出し、つかまらせて船の中に引き入れ、水先案内とされた。
そこで、とくに名を賜って椎根津彦(しいねつひこ)とされた。これが倭直部(やまとのあたいら)の始祖である。

進んで、筑紫の莵狭(うさ)に着いた。
すると、莵狭の国造の先祖で、莵狭津彦(うさつひこ)・莵狭津姫という者があった。莵狭の川上に、足一つあがりの宮を造っておもてなしをした。
このときに命じて、莵狭津姫を侍臣の天種子命(あまのたねこのみこと)に娶あわされた。天種子命は、中臣氏(なかとみし)の遠祖である。

十一月九日、天孫は、筑紫国の岡水門(おかのみなと)に着かれた。
十二月二十七日、安芸国に着いて、埃宮(えのみや)においでになった。
乙卯年の春三月六日、吉備国に移られ、行宮(かりみや)を造ってお入りになった。これを、高嶋宮(たかしまのみや)という。三年のうちに船舶をそろえ、兵器や糧食を蓄えて、一挙に天下を平定しようと思われた。
 
戊午年の春二月十一日、皇軍はついに東に向かった。船はたがいに接するほどであった。
まさに難波碕(なにわのみさき)に到ろうとするとき、速い潮流があって、大変早く着いた。よって、浪速国(なみはやのくに)と名づけた。また浪花(なみはな)ともいう。今、難波というのはなまったものである。

三月三十日、川をさかのぼって、河内国草香邑(くさかのむら)の青雲の白肩津(しらかたのつ)に着いた。

夏四月九日、皇軍は兵をととのえ、龍田に向かった。
その道は狭くけわしくて、人が並んで行くことはできなかった。そこで引き返して、さらに東のほうの胆駒山を越えて内つ国に入ろうとした。

そのときに、長髄彦(ながすねひこ)がそれを聞いていった。
「天神の子たちがやってくるわけは、きっと我が国を奪おうとするのだろう」
そうして、全軍を率いて孔舎衛坂(くさえのさか)で戦った。
流れ矢が当たって、天孫の兄の五瀬命(いつせのみこと)の肘脛(ひじはぎ)に当たった。

皇軍は、進み戦うことが出来なかった。天孫はこれを憂いて、計りごとをめぐらして仰せになった。
「いま、自分は日神の子孫であるのに、日に向かって敵を討つのは天道にさからっている。一度退却して弱そうに見せ、天神地祇をお祀りし、背に太陽を負い、日神の威光をかりて敵に襲いかかるのがよいだろう。そうすれば、刃に血ぬらずして、敵はきっとおのずから敗れるだろう」
皆は申しあげた。
「そのとおりです」
そこで、軍中に告げて仰せられた。
「いったん止まり、ここから進むな」
そして、軍兵を率いて帰られた。敵もあえて後を追わなかった。

草香の津に引き返し、盾をたてて雄たけびをして士気を鼓舞された。それでその津を、改めて盾津(たてづ)と名づけた。今、蓼津(たでつ)というのは、なまったものである。

はじめ、孔舎衛の戦いに、ある人が大きな樹に隠れて、難を免れることができた。
それで、その木を指していった。
「恩は母のようだ」
時の人はこれを聞き、その地を名づけて母木邑といった。
今、“おものき”というのは、なまったものである。

五月八日、軍は茅渟(ちぬ)の山城水門(やまきのみなと)に着いた。
そのころ五瀬命の矢傷がひどく痛んだ。そこで命は剣を撫で、雄たけびして仰せられた。
「残念だ。丈夫(ますらお)が賊に傷つけられて、報復しないまま死ぬとは」
時の人は、よってそこを雄水門(おのみなと)と名づけた。
進軍して、紀伊国の竃山(かまやま)に到り、五瀬命は軍中に亡くなった。よって、竃山に葬った。

六月二十三日、軍は名草邑(なくさのむら)に着いた。
そこで名草戸畔(なくさとべ)という者を誅した。
ついに狭野(さぬ)を越えて、熊野の神邑に至り、天の磐盾に登った。

軍を率いて、だんだんと進んでいった。しかし海の中で急に暴風に遭い、船は波に翻弄されて進まなかった。天孫の兄の稲飯命(いなひのみこと)がなげいて仰せになった。
「ああ、わが先祖は天神であり、母は海神であるのに、どうして私を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか」
いい終わって、剣を抜いて海に入り、鋤持神となられた。
もうひとりの兄の三毛入野命(みけいりぬのみこと)もまた恨んで仰せられた。
「わが母と伯母は二人とも海神である。それなのに、どうして波を立てて溺れさすのか」
そして波頭を踏んで、常世の国へおいでになった。

天孫は兄たちを失われてひとり、皇子の手研耳命(たぎしみみのみこと)と、軍を率いて進み、熊野の荒坂の津に着かれた。そこで、丹敷戸畔(にしきとべ)という者を誅された。
そのとき神が毒気を吐いて、軍兵は病みつかれた。このため、皇軍はまた振るわなかった。

するとそこに、熊野の高倉下(たかくらじ)という人がいた。
この人の夜の夢に、天照大神(あまてらすおおみかみ)が武甕雷神(たけみかづちのかみ)に語って仰せになった。
「葦原の中国は、なお乱れ騒がしい。お前がまた行って、討ちなさい」
武甕雷神は答えて申しあげた。
「私が行かなくても、私が国を平らげた剣を降らせたら、国はおのずと平らぎましょう」
天照大神は、
「よろしい」
と仰せられた。

そこで、武甕雷神は、高倉下に語って仰せられた。
「わが剣は、名を韴霊(ふつのみたま)という。今、お前の倉の中に置こう。それを取って天孫に献上しなさい」
高倉下は、
「おお」
といって目が覚めた。

あくる朝、夢の中の教えに従って、倉を開いてみると、果たして落ちてきた剣があり、庫の底板に逆さまにささっていた。それを取って天孫に献じた。

そのときに天孫はよく眠っておられたが、にわかに目覚めて仰せになった。
「自分はどうしてこんなに長く眠ったのだろう」
次いで、毒気に当たっていた兵士たちも、みな目覚めて起き上がった。

皇軍は内つ国に赴こうとした。しかし、山の中は険しくて、行くべき道もなかった。
進みあぐねているとき、夜、夢を見た。
天照大神が天孫に教えて仰せられた。
「私は今、頭八咫烏(やたからす)を遣わすから、これを案内としなさい」
はたして頭八咫烏が大空から飛び降ってきた。天孫は仰せられた。
「この烏のやってくることは、瑞夢にかなっている。偉大なことだ、さかんなことだ。わが先祖の天照大神が、われわれの仕事を助けようとしてくださる」

このときに大伴氏の遠祖の日臣命(ひのおみのみこと)は、大来目を率いて、大軍の将軍として、山を越え路を踏み分けて、烏の導きのままに、仰ぎ見ながら追いかけた。
ついに莵田(うだ)の下県に着いた。よって、その着かれたところを名づけて菟田の穿邑(うがちのむら)という。
そのとき、詔して日臣命をほめて仰せられた。
「お前には忠と勇があり、またよく導いた手柄がある。それでお前の名を改めて、道臣(みちのおみ)としよう」

秋八月二日、兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)をお呼びになった。この二人は、菟田の県の人々のかしらである。
ところが、兄猾はやって来ず、弟猾だけやって来た。
そして軍門を拝んで申しあげた。
「私の兄の兄猾の悪い計画は、天孫がおいでになると聞いて、兵を起こして襲おうとしています。皇軍の軍勢を眺めると敵しがたいことを恐れて、ひそかに兵を隠して、仮に新宮を造り、御殿の中に仕掛けを設けて、おもてなしをするように見せかけて、事を起こそうとしています。どうか、この謀りごとを知って、よく備えてください」

天孫は、道臣命を遣わして、その悪計を調べさせた。道臣命は詳しく調べて、彼に殺害しようという心があったことを知り、大いに怒って叱責していった。
「卑しいやつめ。お前の造った部屋に、自分で入るがいい」
そして、剣を構え、弓をつがえて中へ追いつめた。
兄猾は、天をあざむいたので、言い逃れすることもできなかった。みずから仕掛けに落ちて圧死した。

その屍を引き出して斬ると、流れる血はくるぶしが没するほどに溢れた。それで、その地を名づけて、菟田の血原(ちはら)という。

弟猾は、たくさんの肉と酒を用意して、皇軍をねぎらいもてなした。天孫は酒肉を兵士たちに分け与え、歌を詠んで仰せられた。

宇陀の 高城に鴫(しぎ)罠張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし 鷹等障り 前妻(こなみ)が 肴乞はさば 立稜麦の 実の無けくを 幾しひゑね 後妻(うわなり)が 肴乞はさば 斎賢木 実の多けくを 幾多ひゑね

宇陀の高城に鴫をとる罠を張って、待っていると鴫がかからず鷹がかかった。これは大猟だ。古女房が獲物をくれといったら、ヤセそばの実のないところをうんとやれ。若女房が獲物をくれといったら、斎賢木のような実の多いところをうんとやれ。

これを来目歌(くめうた)という。いま、楽府でこの歌を歌うときは、手の拡げかたの大小や声の太さ細さの別があります。これは、いにしえの遺法である。

この後、天孫は吉野の地を見たいと思われて、菟田の穿邑から軽装の兵をつれて巡幸された。
吉野に着いたとき、人がいて井戸の中から出てきた。その人は、体が光って尻尾があった。
天孫は、これに尋ねて仰せになった。
「お前は何者か」
答えて申しあげた。
「私は国つ神で、名は井光(いひか)といいます」
これは、吉野の首部(おびとら)の始祖である。

さらに少し進むと、また尾のある人が岩をおしわけて出てきた。
天孫は、
「お前は何者か」
と尋ねられた。
「私は磐排別(いわおしわく)の子です」
と答えて申しあげた。
これは、吉野の国栖部(くずら)の始祖である。

川に沿って西においでになると、また梁を設けて漁をする者があった。
天孫がお尋ねになると、答えて、
「私は苞苴担(にえもつ)の子です」
と申しあげた。
これは、阿太の養鵜部(うかいら)の始祖である。

九月五日、天孫は菟田の高倉山の頂きに登って、国の中を眺められた。
そのころ、国見丘の上に、八十梟師(やそたける)がいた。女坂(めさか)には女軍を置き、男坂(おさか)には男軍を置き、墨坂(すみさか)には熾(おこ)し炭をおいていた。女坂・男坂・墨坂の地名は、これから起きた。
また、兄磯城(えしき)の軍がいて、磐余邑(いわれのむら)に満ちていた。
敵の拠点はみな要害の地である。そのため、道は絶えふさがれて通るべきところがなかった。

天孫はこれを憎まれて、この夜、神に祈って寝られた。
夢に天神が現れて、教えて仰せられた。
「天の香山(かぐやま)の社の土を取って、天の平瓦八十枚をつくり、同じく神聖な瓮をつくり、天神地祇をお祀りしなさい。また、厳粛に行う呪詛をしなさい。このようにすれば、敵は自然と降伏するだろう」
天孫は、夢の教えをつつしみ承り、これを行おうとした。
 
そのとき、弟猾がまた申しあげた。
「倭の国の磯城邑に、磯城の八十梟師がいます。また高尾張邑(たかおわりのむら)[ある書には高城邑という]に、赤銅(あかがね)の八十梟師がいます。この者たちは、みな天孫にそむき、戦おうとしています。私はひそかに天孫のために憂いております。今、天の香山の赤土をとって天の平瓦をつくり、天神地祇をお祀りください。それから敵を討たれたら、討ちやすいでしょう」
天孫は、やはり夢のお告げは吉兆であると思われた。弟猾の言葉を聞かれて心中喜ばれた。

そこで、椎根津彦(しいねつひこ)に、着古した衣服と蓑笠をつけさせ、老人のかたちにつくり、また弟猾に蓑を着せて、老婆のかたちにつくり、命じていわれた。
「お前たち二人、天の香山に行って、ひそかに頂きの土を取ってきなさい。大業がなるかならぬかは、お前たちで占おう。しっかりやってこい」

このとき敵兵は道を覆い、通ることも難しかった。椎根津彦は神意を占っていった。
「わが君が、よくこの国を定められるものなら、行く道はおのずとひらけ。もしできないのなら、敵がきっと道を塞ぐだろう」
いいおわって、ただちに出かけた。
そのとき敵兵は二人の様子を見て、大いに笑っていった。
「みっともない爺と婆だ」
そうして道をあけて行かせた。
二人は無事に山に着くことができて、土を取って帰った。

天孫は大いに喜び、この土で多くの平瓦や、手抉(たくじり)、厳瓮(いつへ)をつくり、丹生の川上にのぼって、天神地祇を祀られた。
その菟田川の朝原で、ちょうど水沫のようにかたまり着くところがあった。天孫はまた神意を占って、仰せになった。
「私は今、たくさんの平瓦で、水なしで飴を造ろう。もし飴ができれば、きっと武器を使わないで、居ながらに天下を平らげるだろう」
飴づくりをされると、たやすく飴はできた。

また神意を占って仰せになった。
「私は、いま神聖な瓮を、丹生の川に沈めよう。もし魚が大小となく全部酔って流れるのが、ちょうど槙(まき)の葉の浮き流れるようであれば、自分はきっとこの国を平定するだろう。もしそうでなければ、ことを成し遂げられぬだろう」
そして、瓮を川に沈めた。するとその口が下に向いた。しばらくすると、魚はみな浮き上がって、水のまにまに流れながらあえいだ。
椎根津彦はそのありさまを見て報告した。
天孫は、大いに喜ばれて、丹生の川上のたくさんの榊を根こそぎにして、諸神をお祀りされた。このときから祭儀の神聖な瓮が据え置かれるようになった。

道臣命に命じて仰せられた。
「今、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)を、私自身が顕斎しよう。お前を斎主とし、厳媛(いつひめ)の名を与えよう。そこに置いた土瓮を厳瓮(いつへ)とし、また火の名を厳香来雷(いつのかぐつち)とし、水の名を厳罔象女(いつのみつはのめ)、食物の名を厳稲魂女(いつのうかのめ)、薪の名を厳山雷(いつのやまづち)、草の名を厳野椎(いつののづち)とする」

冬十月一日、天孫は、その厳瓮の供物を召し上がられ、兵を整えて出発された。
まず、八十梟師を国見丘で撃って破り、斬られた。
この戦いに天孫は必ず勝とうと思われていた。そこで、次のように歌われた。

神風の 伊勢の海の 大石にや い這ひ廻る 細螺の 吾子よ 吾子よ 細螺の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ

神風吹く、伊勢の海の大石に這いまわる細螺のように、わが軍勢よ、わが軍勢よ。細螺のように這いまわって、必ず敵を討ち負かしてしまおう。

歌の意は、大きな石をもって国見丘に例えている。

残党はなお多く、その情勢は測ることが難しかった。そこで、ひそかに道臣命に命じて仰せられた。
「お前は大来目部を率いて、大室を忍坂邑(おさかのむら)に造り、盛んに酒宴を催し、敵をさそって討ち取れ」

道臣命はこの密命を受け、室を忍坂に掘り、味方の強者を選んで、敵と同席させた。ひそかにしめし合わせていった。
「酒宴がたけなわになった後、自分は立って歌おう。お前たちはわが声を聞いたら、一斉に敵を斬れ」

みな座について、酒を飲んだ。敵は陰謀のあることも知らず、心のままに酒に酔った。その道臣命は立って歌った。

忍坂の 大室屋に 人多に 入り居りとも 人多に 来入居りとも みつみつし 来目の子等が 頭椎い 石椎い持ち 撃ちてし止まむ

忍坂の大室屋に、人が多勢はいっているが、はいっていても、御稜威を負った来目部の軍勢の頭椎(くぶつち)・石椎(いしつち)で敵を討ち負かそう。

味方の兵は、この歌を聞き、一斉に頭椎の剣を抜いて、敵を皆殺しにした。
皇軍は大いに喜び、天を仰いで笑った。よって歌をよんだ。

今はよ 今はよ ああしやを 今だにも 吾子よ 今だにも 吾子よ

今はもう今はもう、ああしやを、今だけでも今だけでも、わが軍よわが軍よ。

今、来目部が歌って後に大いに笑うのは、これがその由来である。また歌っていった。

夷を 一人 百な人 人は云へども 抵抗ませず

夷を、ひとりで百人にあたる強い兵だと、人はいうけれど、手向かいもせず負けてしまった。

これは皆、密旨をうけて歌ったので、自分勝手にしたことではない。
そのときに天孫が仰せられた。
「戦いに勝って、おごることのないのは良将である。いま、大きな敵はすでに滅んだが、同じように悪い者は、なお十数群いる。その実状はわからない。長く同じところにいて、難に会うまい」
そこを捨てて別のところに移った。

十一月七日、皇軍は大挙して磯城彦(しきひこ)を攻めようとした。
まず、使者を送って兄磯城(えしき)を呼んだ。しかし兄磯城は答えなかった。
さらに頭八咫烏(やたからす)を遣わして呼んだ。そのとき、烏は軍営に行って鳴いていった。
「天神の御子が、お前を呼んでおられる。こずや、こずや」
兄磯城は怒っていった。
「天神が来たと聞いて腹立たしく思っているときに、なんで烏がこんな悪い声で鳴くのか」
そして、弓を構えて射た。烏は逃げ帰った。

次いで、弟磯城(おとしき)の家に行き、鳴いていった。
「天神の御子がお前を呼んでいる。こずや、こずや」
弟磯城はおじてかしこまり、いった。
「私は天神が来られたと聞いて、朝夕畏れかしこまっていました。烏よ、お前がこんなに鳴くのは良いことだ」
そこで、木の葉を編んだ皿八枚に、食べ物を盛ってもてなした。

そして烏に導かれてやってきて、申しあげた。
「わが兄の兄磯城は、天神の御子がおいでになったと聞いて、八十梟師(やそたける)を集めて、武器を整え決戦しようとしています。すみやかに対策すべきです」
天孫は、諸将を集めて仰せられた。
「兄磯城はやはり逆らうつもりらしい。呼びにやっても来ない。どうすべきか」
諸将は申しあげた。
「兄磯城は悪賢い敵です。まず弟磯城を遣わして教えさとし、あわせて兄倉下(えくらじ)・弟倉下(おとくらじ)を遣わして説得させましょう。どうしても従わないならば、それから兵を挙げて臨んでも遅くないでしょう」

そこで、弟磯城を遣わして利害を説かせた。しかし、兄磯城らは、なお愚かな計りごとを守って承服しなかった。
椎根津彦(しいねつひこ)が謀りごとを立てて申しあげた。
「今はまず、女軍(めいくさ)を遣わして、忍坂(おさか)の道から出しましょう。敵はきっと精兵を出してくるでしょう。私は強兵を走らせて、ただちに墨坂(すみさか)を目指し、菟田川(うだがわ)の水をとって、敵兵が起こした炭の火にそそぎ、驚いている間にその不意をつきます。敵は必ず敗れるでしょう」
天孫はその計りごとをほめて、まず女軍を出してごらんになった。敵は大兵が来たと思って、力を尽くして迎え討った。

このあとは、皇軍は攻めれば必ず取り、戦えば必ず勝った。しかし、兵士たちは疲弊しなかったわけではない。そこで、将兵の心を慰めるために歌を作られた。

楯並めて 伊那瑳の山の 木の間ゆも い行き胆らひ 戦へば 我はや飢ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が徒 今助けに来ね

楯をならべ、伊那瑳(いなさ)の山の木の間から、敵をじっと見つめて戦ったので、われらは腹がすいた。
鵜飼をする仲間たちよ。いま、助けに来てくれよ。

はたして男軍が墨坂を越え、後方から挟み討ちにして敵を破り、その梟雄(たける)・兄磯城らを斬った。

十二月四日、皇軍はついに長髄彦(ながすねひこ)を討つことになった。
戦いを重ねたが、なかなか勝つことができなかった。
そのとき、急に空が暗くなってきて、雹(ひょう)が降ってきた。そこへ金色の不思議な鵄(とび)が飛んできて、天孫の弓の先にとまった。その鵄は光り輝いて、そのさまは雷光のようだった。
このため、長髄彦の軍勢は、みな眩惑されて力戦できなかった。
長髄彦の長髄というのは、もと邑の名であり、それをとって人名とした。皇軍が鵄の瑞兆を得たことから、時の人はここを鵄邑と名づけた。今、鳥見(とみ)というのはなまったものである。

昔、孔舎衛(くさえ)の戦いで、五瀬命(いつせのみこと)が矢に当たって亡くなられた。天孫はそれ以来、常に憤りを抱いておられた。
この戦いにおいて、仇をとりたいと思われた。そして、歌って仰せられた。

みつみつし 来目の子らが 粟生には 韮一本 其根が本 其ね芽繋ぎて 撃ちてし止まむ

天孫の御稜威(みいつ)を負った来目部の軍勢が、日頃たがやす粟畑。その中に、くさい韮が一本まじっている。その邪魔な韮の根元から芽までつないで、抜き取るように、敵の軍勢をすっかり討ち破ろう。

また歌って仰せられた。

みつみつし 来目の子らが 垣本に 植ゑし山椒 口びひく 我は忘れず 撃ちてし止まむ

天孫の御稜威を負った来目部の軍勢のその家の垣のもとに植えた山椒(さんしょう)、口に入れるとひりひり辛い。そのような敵の攻撃の手痛さは、今も忘れない。今度こそ必ず討ち破ってやろう。

また兵を放って急迫した。
すべて諸々の御歌を、みな来目歌という。これは、来目部が歌い伝えてきたからである。

ときに、長髄彦は使いを送って、天孫に申しあげた。
「昔、天神の御子がおられて、天の磐船(いわふね)に乗って天降られました。名を櫛玉饒速日尊(くしたまにぎはやひのみこと)と申しあげます。このかたが、わが妹の三炊屋姫(みかしきやひめ)を娶って御子をお生みになりました。御子の名を宇摩志麻治命(うましまちのみこと)と申しあげます。そのため、私は饒速日尊、次いで宇摩志麻治命を君として仕えてきました。
いったい、天神の御子は二人もおられるのですか。どうしてまた、天神の子と名のって、人の土地を奪おうとするのですか。饒速日尊以外に天神の御子がいるなど、聞いたことがありません。私が思うに、あなたは偽者でしょう」
天孫は仰せになった。
「天神の子は多くいる。お前が君とするものが、本当に天神の子ならば、必ずしるしの物があるだろう。それを示しなさい」
長髄彦は、饒速日尊の天の羽羽矢(ははや)一本と、歩靫(かちゆき)を天孫に示した。天孫はご覧になって、
「いつわりではない」
と仰られて、帰って所持の天の羽羽矢一本と、歩靫を長髄彦に示された。

長髄彦は、その天つしるしを見て、ますます恐れを感じた。けれども、兵器の用意はすっかり構えられ、その勢いは途中で止めることはできなかった。
そしてなおも、間違った考えを捨てず、改心の気持ちもなかった。
宇摩志麻治命は、もとより天神が深く恵みを垂れるのは、天孫に対してだけであることを知っていた。また、かの長髄彦は、性質がねじけたところがあり、天神と人とは全く異なるのだということを教えても、分かりそうもないことを見て、伯父である長髄彦を殺害した。
そして、その部下たちを率いて帰順された。

己未年の春の三日、天孫は詔して仰せられた。
「天孫饒速日尊の子の宇摩志麻治命は、伯父の長髄 (※ 以下脱文) 
 
巻第七 天皇本紀 

 

神武天皇
彦波瀲武鸕鷀草不葺合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の第四子である。諱(いみな)は神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)、または彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)という。年少のときは、狭野尊(さぬのみこと)と呼ばれた。
母は玉依姫(たまよりひめ)といい、海神の下の娘である。

天皇は、生まれながらに賢い人で、気性がしっかりしておられた。十五歳で皇太子となられた。
成長されて、日向国吾田邑の吾平津媛(あびらつひめ)を娶り妃とされ、手研耳命(たぎしみみのみこと)をお生みになった。

太歳甲寅年の冬十二月五日、天皇はみずから諸皇子を率いて西の宮を立たれ、船軍で東征された。[くわしくは、天孫本紀に見える]

己未年の春二月五十日に、道臣命(みちのおみのみこと)は、軍兵を率いて逆賊を討ち従えた様子を奏上した。
二十八日、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)は、天の物部を率いて逆賊を斬り平らげ、また、軍兵を率いて天下を平定した様子を奏上した。

三月七日、天皇は、令(のり)をくだして仰せになった。
「私が東征についてから六年になった。天神の勢威のお陰で凶徒は殺された。しかし、周辺の地はいまだ静まらない。残りのわざわいはなお根強いが、内つ国の地は騒ぐものはない。皇都をひらきひろめて御殿を造ろう。
しかし、いま世の中はまだ開けていないが、民の心は素直である。人々は巣に棲んだり穴に住んだりして、未開の習俗が変わらずにある。そもそも聖人が制を立てて、道理は正しく行われる。民の利益となるならば、どんなことでも聖の行うわざとして間違いはない。まさに山林を開き払い、宮室を造って謹んで貴い位につき、民を安んじるべきである。上は天神が国をお授けくださった御徳に答え、下は皇孫の正義を育てられた心を広めよう。その後、国中をひとつにして都をひらき、天の下を覆ってひとつの家とすることは、また良いことではないか。
見れば、かの畝傍山(うねびやま)の東南の橿原(かしはら)の地は、思うに国の真中か」

同月二十日に、役人に命じて都造りに着手された。
そこで、天太玉命(あまのふとたまのみこと)の孫の天富命(あまのとみのみこと)は、手置帆負(たおきほおい)と彦狭知(ひこさしり)の二神の子孫を率いて、神聖な斧と神聖な鋤を使って、はじめて山の原材を伐り、正殿を構え建てた。
これが所謂、畝傍の橿原に、御殿の柱を大地の底の岩にしっかりと立てて、高天原へ千木高くそびえ、はじめて天下を治められた天皇が、天皇による国政を創められた日である。
このため、皇孫のみことのおめでたい御殿を造り、お仕え申しあげているのである。
この手置帆負・彦狭知の末裔の忌部がいるところは、紀伊国の御木(みき)郷と麁香(あらか)郷の二郷である。材木を伐る役目を持った忌部がいるところを御木といい、御殿を造る忌部のいるところを麁香という。これが、その由来である。
古い語では、御殿(みあらか)のことを麁香という。

庚申年の秋八月十六日、天孫は正妃を立てようと思われた。改めて、広く貴族の娘を探された。
ときに、ある人が奏して申しあげた。
「事代主神(ことしろぬしのかみ)が、三島溝杭耳神(みしまのみぞくいみみのかみ)の娘の玉櫛媛(たまくしひめ)と結婚して、生まれた子を名づけて、媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)と申しあげます。このかたは容色すぐれた人です」
これを聞いた天皇は喜ばれた。
九月二十四日、媛蹈鞴五十鈴媛命を召して、正妃とされた。

辛酉を元年とし、春正月一日に、橿原宮に都をつくり、はじめて皇位に即かれた。正妃の媛蹈鞴五十鈴媛命を尊んで、皇后とされた。皇后は大三輪の大神の娘である。

宇摩志麻治命は天の瑞宝をたてまつり、神盾をたてて斎き祀った。また、斎木を立て、五十櫛を布都主剣(ふつぬしのつるぎ)のまわりに刺し巡らせて、大神を宮殿の内に崇め祀った。
そして十種の瑞宝を収めて、天皇に近侍した。そのため、足尼(すくね)といわれた。足尼の号は、このときから始まった。
天富命は、諸々の忌部を率いて天つしるしの鏡と剣を捧げ、正安殿に安置した。
天種子命(あまのたねこのみこと)は、天神の寿詞(よごと)を奏上した。この内容は、神代の古事のようなものである。
宇摩志麻治命は内物部(うちのもののべ)を率いて、矛・盾をたてて厳かでいかめしい様子をつくった。
道臣命は来目部を率いて、宮門の護衛し、その開閉を掌った。
それから、四方の国々に天皇の位の尊貴さを伝え、天下の民を従わせることで朝廷が重要であると示された。

このとき諸皇子と大夫は、郡官・臣・連・伴造・国造らを率いて、年のはじめの朝拝をした。
現在まで続く、即位・賀正・建都・践祚などの儀式は、みなこのときに起こった。

また、このとき高皇産霊尊と天照太神の二柱の祖神の詔に従って、神座として神籬(ひもろぎ)を立てた。
高皇産霊神、神皇産霊(かみむすひ)、魂留産霊(たまるむすひ)、生産霊(いくむすひ)、足産霊(たるむすひ)、大宮売神(おおみやのめのかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)、御膳神(みけつかみ)の神々は、いま御巫がお祀りしている。
櫛磐間戸神(くしいわまどのかみ)、豊磐間戸神(とよいわまどのかみ)の神々は、共にいま御門の御巫がお祀りしている。
生島(いくしま)の神は大八洲(おおやしま)の御魂で、いま生島の御巫がお祀りしている。
坐摩(いかすり)の神は大宮の立つ地の御魂で、いま坐摩の御巫がお祀りしている。

また、天富命は斎部(いんべ)の諸氏を率いて、諸々の神宝の鏡・魂・矛・楯・木綿・麻などを作った。
櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)の子孫は、御祈玉(みほぎたま)を作った。古い語に美保伎玉(みほきたま)という。“みほき”は祈祷のことをいう。
天日鷲命の子孫は、木綿と麻、織布を作った。古い語では荒妙(あらたえ)という。
また、天富命は天日鷲命の子孫を率いて、肥えた土地にそれぞれ遣わし、穀物や麻を栽培させた。また、天富命はさらに肥沃な土地を探して、良い麻や綿を分かち植えた。このように、永く麻を大嘗祭に献じることの由来である。
また、天富命は安房の地に太玉命を祀る神社を立てた。安房社というのがこれである。
手置帆負命の子孫は、矛竿を作った。いま、讃岐から永くたくさんの矛が献じられるのは、これがその由来である。
天児屋命の孫の天種子命は、天つ罪・国つ罪を祓い清めた。
日臣命(ひのおみのみこと)は来目部を率いて、宮門を守り、その開閉を掌った。
饒速日命(にぎはやひのみこと)の子の宇摩志麻治命は、内物部を率いて、矛・楯を作り備えた。
天富命は、諸々の斎部を率いて、天つしるしの鏡・剣を捧げ、正殿に安置した。さらに玉をかけ、幣物を並べて大殿で祭りを行った。次に、宮門で祭りをした。
また天富命は、幣物を並べて祝詞をとなえて皇祖の天神を祀り、国つ神たちを祀って、天神地祇の恵みに応えた。
また、中臣氏と忌部氏の二氏に命じて、ともに祭祀の儀式を掌らせた。
また、猿女君氏に命じて、神楽をもって仕えさせた。

そのほかの諸氏にも、それぞれその職がある。

この時代には、天皇と神との関係は、まだ遠くなかった。同じ御殿に住み、床を共にするのを普通にしていた。そのため、神の物と天皇の物は、いまだはっきり分けられていなかった。
そこで、宮の中に神宝を収める倉を建てて斎蔵と名づけ、斎部氏に命じて永くその管理の職に任じた。

十一月十五日、宇摩志麻治命は、御殿の内に天璽瑞宝を斎き祀り、天皇と皇后のために御魂を鎮めて、御命の幸福たることを祈った。いわゆる鎮魂祭はこの時に始まった。

およそ天の瑞宝とは、宇摩志麻治命の父・饒速日尊が天神から授けられて来た天つしるしの十種の瑞宝のことである。
十種の瑞宝とは、瀛都鏡(おきつかがみ)ひとつ、辺都鏡(へつかがみ)ひとつ、八握剣(やつかのつるぎ)ひとつ、生玉(いくたま)ひとつ、足玉(たるたま)ひとつ、死反玉(まかるがえしのたま)ひとつ、道反玉(ちがえしのたま)ひとつ、蛇比礼(へびのひれ)ひとつ、蜂比礼(はちのひれ)ひとつ、品物比礼(くさぐさのもののひれ)ひとつ、のことである。

天神は饒速日尊に教えて仰せられた。
「もし痛むところがあれば、この十種の神宝を、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十といってふるわせなさい。ゆらゆらとふるわせなさい。このようにするならば、死んだ人でも生き返るであろう」
これが「布留(ふる)の言(こと)」の起源である。
鎮魂祭は、これがその由来である。

その鎮魂祭のときには、猿女君らは、たくさんの歌女を率いてこの布留の言を唱え、神楽を歌い舞う。これがその由来である。

治世二年の春二月二日、天皇は論功行賞をされた。

宇摩志麻治命に詔して仰せられた。
「お前の勲功は思えば大いなる功である。公の忠節は思えば至忠である。このため、さきに神霊の剣を授けて類いない勲功を称え、報いた。いま、股肱の職にそえて、永く二つとないよしみを伝えよう。今より後、子々孫々代々にわたって、必ずこの職を継ぎ、永遠に鑑とするように」
そこで、宇摩志麻治命と天日方奇日方命(あまひかたくしひかたのみこと)は共に拝命して、食国の政事を行う大夫になった。この政事を行う大夫とは、今でいう大連、または大臣のことである。
天日方奇日方命は、皇后の兄で、大神君の祖である。

道臣命に詔して仰せられた。
「お前には忠と勇があり、またよく導いた功績がある。そのため、さきに日臣を改めて、道臣の名を与えた。それだけでなく、大来目を率いて、たくさんの兵士たちの将として密命を受け、よく諷歌(そえうた)、倒語(さかしまごと)をもって、わざわいを払い除いた。これらのような功績でつくした。将軍に任命して、後代の子孫に伝えよう」
その倒語の用いられるのは、ここに始まった。道臣命は、大伴連らの祖である。
また、道臣に宅地を賜り、築坂邑(つきさかのむら)に住ませて、特に寵愛された。
また、大来目を畝傍山の西の川辺の地に住ませた。いま、来目邑と呼ぶのはこれがその由来である。大来目は久米連(くめのむらじ)の先祖といわれる。

椎根津彦(しいねつひこ)に詔して仰せられた。
「お前は天皇の船を迎えて導き、また、功績を天香山の山頂に現した。よって、誉めて倭国造(やまとのくにのみやつこ)とする」
大和の国造は、このときから始まった。これが大倭連らの祖である。

弟磯城(おとしき)黒速(くろはや)に詔して仰せられた。
「お前には、逆賊の長の兄磯城(えしき)のくわだてを告げた勇気があった。よって、子孫を磯城県主(しきのあがたぬし)とする」

頭八咫烏(やたがらす)に詔して仰せられた。
「お前には皇軍を導いた功績がある。よって、賞の内に入る」
頭八咫烏の子孫は、葛野県主(かどののあがたぬし)らである。

四年の春二月二十三日、天皇は正安殿で詔して仰せになった。
「わが皇祖の霊が、天から威光を降してわが身を助けてくださった。いま、多くの敵はすべて平らげて、天下は何ごともない。そこで、天神をお祀りし、大孝を申しあげたい」
そこで、神々の祀りの場を、鳥見山(とみやま)の中に立てて、そこを上小野(かみつおの)の榛原(はりはら)・下小野(しもつおの)の榛原といった。そして、皇祖の天神をお祀りになった。

ときに、天皇の巡幸があった。腋上(わきかみ)の嗛間丘(ほほまのおか)に登られ、国のかたちを望んで見て仰せられた。
「なんと素晴らしい国を得たことか。狭い国ではあるけれども、蜻蛉(あきつ)が交尾(となめ)しているようである」
これによって、はじめて秋津州(あきつしま)の名ができた。

昔、伊奘諾尊(いざなきのみこと)がこの国を名づけて仰せられた。
「日本は、心安らぐ国、よい武器がたくさんある国、優れていて整った国」
また、大己貴(おおなむち)の大神は名づけて仰せられた。
「玉垣の内つ国」

また、饒速日命は、天の磐船に乗って大空を飛びめぐり、この国を見てお降りになったので、名づけて
「虚空(そら)見つ日本(やまと)の国」
と仰せになった。

四十二年の春正月三日、皇子・神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を立てて皇太子とされた。
七十六年の春三月十一日、天皇は、橿原宮で崩御された。このとき、年は百二十七歳だった。翌年の秋九月十二日、畝傍山の東北の陵に葬った。

神武天皇には、四人の皇子がおられた。
手研耳命[子孫は無い]。
次に、神八井耳命(かむやいみみのみこと)。意保臣(おおのおみ)、島田臣(しまだのおみ)、雀部造(さざきべのみやつこ)らの祖である。
次に、神渟名川耳尊。天皇に即位された。
次に、彦八井耳命(ひこやいみみのみこと)[茨田連(まんだのむらじ)らの祖である]。

綏靖(すいぜい)天皇
神武天皇の第三子で、諱は神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)。謚(おくりな)を綏靖天皇と申しあげる。母は媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)といい、事代主神(ことしろぬしのかみ)の上の娘である。
天皇は、風采が整い、立派であった。幼いころから気性が雄々しく、壮年になって容貌すぐれて堂々とされていた。武芸は人にすぐれ、志は高くおごそかだった。

四十八歳になられたとき、神武天皇が崩御された。そのとき神渟名川耳尊は、孝行の気持ちが大変深くて、悲しみ慕う心がやまなかった。特に、その葬儀に心を配られた。
その腹違いの兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)は、年が大きくて長らく朝政の経験があった。そこで、政事を任せられていたが、その王の心ばえは、もともと仁義に背いていた。ついに、服喪の期間に、権力をほしいままにした。よこしまな心を包み隠して、二人の弟を殺そうと図った。

太歳己卯の冬十一月、神渟名川耳尊は、兄の神八井耳命(かむやいみみのみこと)と共に、その謀りごとをひそかに知られて、よく防がれた。
先の天皇の山陵を造ることが終わると、弓部雅彦(ゆげのわかひこ)に弓を作らせ、倭鍛部(やまとのかぬち)の天津真浦(あまつまうら)に鹿を射るための鏃(やじり)を作らせ、矢部(やはぎべ)に箭(や)を作らせた。弓矢の準備がすっかり出来上がって、神渟名川耳尊は、手研耳命を射殺そうと思われた。たまたま手研耳命は、片丘(かたおか)の大室の中でひとり床にふせっていた。
そのとき、渟名川耳尊は神八井耳命に語って仰せられた。
「今こそ好機です。そもそも密事はひそかに行わなければなりません。だから、わが陰謀も誰にも相談していません。今日のことは私とあなただけでやりましょう。私がまず家の戸を開けますから、あなたはすぐそれを射てください」

それで、二人は一緒に進入した。渟名川耳尊がその戸を突き開いた。神八井耳命は、手足が震えおののいて、矢を射ることができない。
このとき神渟名川耳尊は、兄の持っていた弓矢を引きとって、手研耳命を射られた。一発で胸に命中して、二発めを背中にあて、ついに殺した。

そこで神八井耳命は、恥じて自分から弟に従った。渟名川耳尊に譲って申しあげた。
「私はあなたの兄ではあるが、気が弱くてとてもうまくはできない。ところが、あなたは武勇にすぐれ、みずから敵を誅した。あなたが天位に即いて、皇祖の業を受けつぐのが当然である。私はあなたの助けとなって、神々のお祀りを受け持ちましょう」
すなわち、これが多臣(おおのおみ)の始祖である。

治世元年庚辰の春正月八日、神渟名川耳尊は即位された。
葛城に都を造られた。これを高丘宮という。先の皇后を尊んで、皇太后と申しあげた。
二年、五十鈴依姫(いすずよりひめ)を立てて皇后とした。天皇の母方の叔母である。皇后は、磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと:安寧天皇)をお生みになった。
三年春正月、宇摩志麻治命の子の彦湯支命(ひこゆきのみこと)を、食国の政事を行う大夫とされた。

四年夏四月、神八井耳命が亡くなられた。

二十五年、皇子・磯城津彦玉手看尊を立てて、皇太子とした。[皇子はこのとき年二十一歳]
三十三年夏五月、天皇は病気になられ、癸酉の日に崩御された。
倭の桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのうえのみささぎ)に葬った。[十月のことである]
皇太子は磯城津彦玉手看尊。
 
安寧(あんねい)天皇
綏靖天皇の皇太子、磯城津彦玉手看尊は、母を五十鈴依媛命と申しあげる。事代主神の下の娘である。
先の天皇の二十五年、立って皇太子となられた。ときに年は二十一歳である。
三十三年、綏靖天皇は崩御された。

治世元年癸丑に、太子は天皇に即位された。先の皇后を尊んで、皇太后と申しあげた。
二年、都を片塩(かたしお)に遷した。これを浮穴宮(うきあなのみや)という。
三年の春正月、渟名底中媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)を立てて皇后とされた。皇后は、三人の皇子をお生みになった。息石耳命(おきそみみのみこと)、次に日本彦耜友尊(やまとひこすきとものみこと:懿徳天皇)、次に磯城津彦命(しきつひこのみこと)である。
四年の夏四月、出雲色命(いずものしこのみこと)を政事を行う大夫とされた。また、大祢命(おおねのみこと)を侍臣とした。二人はともに宇摩志麻治命の孫である。
十一年の春正月、日本彦耜友皇子を立てて、皇太子とされた。

三十八年の十二月、天皇は崩御された。翌年八月に、畝傍山(うねびやま)の南の御陰井上陵(みほどのいのえのみささぎ)に葬った。

天皇に、皇子は三人おられた。
長兄の息石耳命[またの名を常津彦命(とこつひこのみこと)という。子孫は無い]。
次に、日本彦耜友尊。
次に、磯城津彦命[猪使連(いつかいのむらじ)らの祖、新田部(にいたべ)らの祖]。
次に、手研彦奇友背命(たぎしひこくしともせのみこと)[父努別(ちぬわけ)らの祖]。
 
懿徳(いとく)天皇
安寧天皇の太子、日本彦耜友尊は第二子としてお生まれになった。母を皇后・渟名底中媛と申しあげる。事代主神の孫の鴨王(かものきみ)の娘である。
先の天皇の十一年、立って皇太子となられた。年は十六歳であった。
三十八年の十二月、先の天皇は崩御された。

治世元年・辛亥年の春正月四日、皇太子は天皇に即位された。
九月、先の皇后を尊んで、皇太后と申しあげた。
二年の春正月、都を軽の地に遷した。これを曲峡宮(まがりおのみや)という。
二月、天豊津媛命(あまとよつひめ)を立てて、皇后とされた。皇后は、観松彦香植稲命(みまつひこかえしねのみこと:孝照天皇)をお生みになった。
三月、食国の政事を行う大夫だった出雲色命を大臣とされた。

二十二年の春二月十二日、観松彦香植稲尊を立てて皇太子とされた。[太子の年は十八歳]
三十四年の秋九月、天皇は崩御された。翌年の冬十月、畝傍山の南の繊沙渓上陵(まなごのたにのえのみささぎ)に葬った。

天皇は、皇太子・観松彦香植稲尊をお生みになった。
[次に、武彦奇友背命(たけひこくしともせのみこと)。子孫は無い]
 
孝照(こうしょう)天皇
諱は観松彦香植稲尊。安寧天皇の皇太子である。母は皇后・天豊津媛命といい、息石耳命の娘である。
治世元年の春正月九日、皇太子は天皇に即位された。
夏四月、先の皇后を尊んで、皇太后と申しあげた。
秋七月、都を掖上(わきがみ)に遷した。これを池心宮(いけごころのみや)という。
宇摩志麻治命の後裔の出石心命(いずしこころのみこと)を、大臣とされた。

二十九年の春正月、世襲足姫命(よそたらしひめのみこと)を立てて、皇后とされた。皇后は、二人の皇子をお生みになった。天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)と、日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと:孝安天皇)である。

三十一年の春正月、瀛津世襲命(おきつよそのみこと)を大臣とされた。

六十八年の春正月、日本足彦押人尊を立てて、皇太子とされた。[太子の年は二十歳]
八十三年、天皇は崩御された。翌年八月に、掖上博多山上陵(わきがみのはかたのやまのえのみささぎ)に葬った。

天皇は、二人の皇子をお生みになった。
兄の天足彦国押人命[大春日臣(おおかすがのおみ)らの祖]。
次に、日本足彦国押人尊。
 
孝安天皇
諱は日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)。孝照天皇の第二子である。
母は皇后・世襲足姫命(よそたらしひめのみこと)といい、大臣・瀛津世襲命(おきつよそのみこと)の妹である。[尾張氏]

治世元年・己丑年の春正月、皇太子は天皇に即位された。八月、先の皇后を尊んで、皇太后とされた。
二年の十月、都を室(むろ)の地に遷した。これを秋津嶋宮(あきつしまのみや)という。
三年の八月、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)の子孫の六見命(むつみのみこと)と三見命(みつみのみこと)をともに足尼(すくね)とし、次いで宿祢(すくね)とされた。

二十六年、姪の押媛(おしひめ)を立てて、皇后とされた。皇后は大日本根子彦太瓊命(やまとねこひこふとにのみこと:孝霊天皇)をお生みになった。
七十六年、大日本根子彦太瓊尊を立てて、皇太子とした。[皇太子の年は二十六歳]
百二年の春正月、天皇は崩御された。秋九月に、玉手丘上陵(たまてのおかのえのみささぎ)に葬った。

天皇は、大日本根子彦太瓊尊をお生みになった。
 
孝霊天皇
諱は大日本根子彦太瓊尊。孝安天皇の皇太子である。母は皇后・押媛命と申しあげる。

治世元年・癸未年の春正月、皇太子は天皇に即位された。先の皇后を尊んで、皇太后とされた。
二年二月、細媛命(ほそひめのみこと)を立てて皇后とされた。皇后は、一人の皇子をお生みになった。大日本根子彦国牽皇子命(おおやまとねこひこくにくるのみこのみこと:孝元天皇)である。
妃の倭国香媛(やまとのくにかひめ)、またの名を紐某姉(はえいろね)は、三人の御子をお生みになった。倭迹迹日百襲姫命(わまとととびももそひめのみこと)、次に彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)[またの名を吉備津彦命(きびつひこのみこと)]、次に倭迹稚屋姫命(やまととわかやひめのみこと)である。
次の妃の紐某弟(はえいろど)は、四人の御子をお生みになった。彦狭嶋命(ひこさしまのみこと)、次に稚武彦命(わかたけひこのみこと)、次に弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと)である。
三年の春正月、宇摩志麻治命の子孫の、大水口命(おおみなくちのみこと)と大矢口命(おおやくちのみこと)をともに宿祢とされた。

二十六年の春正月、彦国牽皇子を立てて、皇太子とされた。[太子の年は十九歳]
七十六年の春二月、天皇は崩御された。次の天皇の治世四年に、片岡馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)に葬った。

天皇は、五人の皇子をお生みになった。
大日本根子彦国牽尊。
彦五十狭芹彦命[またの名を吉備津彦命。吉備臣らの祖]。
次に、彦狭嶋命[海直(あまのあたい)らの祖]。
次に、稚武彦命[宇自可臣(うじかのおみ)らの祖]。
次に、弟稚武彦命。
 
孝元天皇
諱は大日本根子彦国牽皇太子尊。孝霊天皇の皇太子である。
母は皇后・細媛命といい、磯城県主の大目(おおめ)の娘である。

治世元年・丁亥年の春正月、皇太子は天皇に即位された。先の皇后を尊んで、皇太后とされた。
四年の春二月、都を軽の地に遷した。これを境原宮(さかいばらのみや)という。
七年の春二月、欝色謎命(うつしこめのみこと)を立てて、皇后とされた。皇后は、二男一女をお生みになった。大彦命(おおひこのみこと)、次に稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこおおひびのみこと:開化天皇)、次に倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)である。
妃の伊香色謎命(いかがしこめのみこと)は、彦太忍信命(ひこふとおしのまことのみこと)をお生みになった。
次の妃の河内の青玉繋(あおたまかけ)の娘・埴安姫(はにやすひめ)は、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)をお生みになった。
八年の春正月、物部連公の祖・宇摩志麻治命の子孫、欝色雄命(うつしこおのみこと)を大臣とされた。また、大綜杵命(おおへそきのみこと)を大祢(おおね)とされた。
二月に、皇后を尊んで皇太后と申しあげた。また、皇太后に追号して大皇太后を贈った。

二十二年正月、稚日本根子彦大日日尊を立てて、皇太子とされた。[皇太子の年は十六歳]
五十七年の秋九月、天皇は崩御された。次の天皇の治世六年に、剣池島上陵(つるぎいけのしまのえのみささぎ)に葬った。

天皇は、四男一女をお生みになった。
大彦命[阿倍臣、高橋臣らの祖]。
次に、稚日本根子彦大日日尊。
次に、彦太忍信命[紀臣(きのおみ)らの祖]。
次に、武埴安彦命[岡屋臣(おかやのおみ)らの祖]。
次に、倭迹迹姫命[伊勢の神を斎き祀られた]。
 
開化天皇
諱は稚日本根子彦大日日尊。孝元天皇の第二子である。
母は、皇后の欝色謎命といい、物部連公の祖の出石心命(いずしこころのみこと)の孫である。

治世元年・癸未年の春二月、皇太子は天皇に即位された。
二年の春正月、先の皇后を尊んで、皇太后と申しあげた。また皇太后を尊んで、追号して大皇太后を贈られた。
冬十月、都を春日(かすが)の地に遷した。これを率川宮(いざかわのみや)という。
七年の春正月、伊香色謎命を立てて、皇后とされた[皇后は、天皇の庶母である]。皇后は、御間城入彦五十瓊殖命(みまきいりひこいにえのみこと:崇神天皇)をお生みになった。
これより先に、天皇は丹波の竹野媛(たけのひめ)を召して妃とされた。竹野姫は、彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)を生んだ。
次の妃、和迩臣(わにのおみ)の遠祖・姥津命(おけつのみこと)の妹の姥津姫は、彦坐王(ひこいますのきみ)を生んだ。

八年の春正月、大祢の大綜杵命を、大臣とされた。また、武建命(たけたつのみこと)と大峯命(おおみねのみこと)をともに大祢とされた。二月、伊香色雄命(いかがしこおのみこと)を大臣とされた。
これらは皆、物部連公の遠祖・宇摩志麻治命の子孫である。

二十八年の春正月、御間城入彦命を立てて、皇太子とされた[皇太子の年は十九歳]。
六十年の夏四月、天皇は崩御された。十月に、春日の率川坂本陵(いざかわのさかもとのみささぎ)に葬った[または坂上陵(さかのえのみささぎ)という]。ときに、年は百十五歳。

天皇は、四人の皇子をお生みになった。
御間城入彦五十瓊殖尊。
次に、彦坐王[当麻坂上君(たぎまのさかのえのきみ)らの祖]。
次に、彦小将簀命(ひここもすのみこと)[品治部君(ほむちべのきみ)らの祖、彦湯産隅命]。
次に、武歯頬命(たけはづらのみこと)[道守臣(ちもりのおみ)らの祖]。  
 
崇神(すじん)天皇
諱は御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりひこいにえのみこと)。開化天皇の第二子である。
母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)といい、物部氏の遠祖の大綜杵命(おおへそきのみこと)の娘である。
天皇は、十九歳で立って皇太子となられた。善悪を判断する力に勝れ、若くから大きい計りごとを好まれた。壮年に至り心広く慎み深く、天神地祇をあがめられた。つねに天皇としての大業を治めようと思われる心をお持ちであった。

先の天皇の六十年夏四月、開化天皇は崩御された。
治世元年・甲申年の春正月十三日、皇太子は天皇に即位された。先の皇后を尊んで皇太后と申しあげ、皇太后を尊んで大皇太后の号を贈られた。

二月十六日、御間城姫(みまきひめ)を立てて皇后とされた。これより後、皇后は、活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと:垂仁天皇)、次に彦五十狭茅命(ひこいさちのみこと)、次に国方姫命(くにかたひめのみこと)、次に千千衝倭姫命(ちちつくやまとひめのみこと)、次に倭彦命(やまとひこのみこと)、五十日鶴彦命(いかつるひこのみこと)をお生みになった。
妃の、紀伊国の荒河戸畔(あらかわとべ)の娘・遠津年魚眼眼妙姫(とおつあゆめまくはしひめ)は、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)、次に豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)を生んだ。
またの妃、尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)は、八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)、次に渟中城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)、次に十市瓊入姫命(とおちにいりひめのみこと)を生んだ。

三年の秋九月、都を磯城(しき)に遷した。これを瑞籬宮(みずがきのみや)という。
四年の春二月四日、建胆心命(たけいこころのみこと)を大祢(おおね)とし、多弁命(たべのみこと)を宿祢とし、安毛建美命(やすけたけみのみこと)を侍臣とされた。これらは物部連の祖である。

四十八年の春正月十日、天皇は豊城命と活目尊に詔して仰せになった。
「お前たち二人の子は、どちらも同じように可愛い。いずれを跡継ぎとするのがよいかわからない。それぞれ夢を見なさい。夢で占うことにしよう」
二人の皇子はご命令をうけたまわって、沐浴して祈り、寝た。そして、それぞれ夢をみた。
夜明けに兄の豊城命は、夢のことを天皇に申しあげた。
「三諸山に登って、東に向かって八度槍を突き出し、八度刀を振りました」
弟の活目尊も、夢のことを申しあげた。
「三諸山の頂きに登って、縄を四方に引き渡し、粟を食べる雀を追い払いました」
そこで、天皇は夢の占いをして、二人の子に仰せられた。
「兄はもっぱら東に向かっていたので、東国を治めるのによいだろう。弟はあまねく四方に心を配っているので、わが位を継ぐのによいだろう」

夏四月十九日、活目尊を立てて皇太子とされた。豊城命には東国を治めさせた。

六十年の春二月、天皇は群臣に詔して仰せられた。
「武日照命(たけひなてりのみこと)が天から持って降臨した神宝は、出雲大神の宮に収めてある。これが見たい」
そこで、矢田部造(やたべのみやつこ)の遠祖の武諸隅命(たけもろずみのみこと)を遣わし、詳細に検め定めて、報告させた。
六十五年の春正月、武諸隅命を大連とした。物部氏の祖である。

六十八年の冬十二月五日、天皇は崩御された。ときに年は百二十歳であった。
翌年の秋八月十一日、山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)に葬った。

天皇は御子として、六男五女をお生みになった。
活目入彦五十狭茅尊。
次に、彦五十狭茅命。
次に、国方姫命。
次に、千千衝倭姫命。
次に、倭彦命。
次に、五十日鶴彦命。
次に、豊城入彦命。
次に、豊鍬入姫命[はじめて天照大神(あまてらすおおみかみ)につけて、斎き祀った]。
次に、八坂入彦命。
次に、渟中城入姫命[はじめて大国魂神(おおくにみたまのかみ)につけて、斎き祀った]。
次に、十市瓊入姫命。
 
垂仁(すいにん)天皇
諱は活目入彦五十狭茅尊。崇神天皇の第三子である。
母は皇后の御間城入姫(みまきいりひめ)という。大彦皇子命(おおひこのみこのみこと)の娘である。
先の天皇の治世二十九年春一月一日、瑞籬宮でお生まれになった。生まれながらにしっかりとしたお姿で、壮年になってからはすぐれて大きな度量であった。人となりが正直で、まがったり飾ったりするところがなかった。父の天皇は可愛がられて、身辺に留めおかれた。
二十四歳のとき、夢のお告げにより、立って皇太子となられた。

六十八年の冬十二月、崇神天皇は崩御された。
元年の春正月二日、皇太子は天皇に即位された。皇后を尊んで皇太后と申しあげ、皇太后を尊んで大皇太后と申しあげた。

二年の春二月九日、狭穂姫命(さほひめのみこと)を立てて皇后とされた。皇后は、誉津別命(ほむつわけのみこと)をお生みになった。天皇は、誉津別命を生まれたときから愛して、常に身辺に置かれた。命は大きくなっても物をいわれなかった。
冬十月、さらに都を纏向(まきむく)に遷した。これを珠城宮(たまきのみや)という。

四年の秋九月二十三日、皇后の同母兄の狭穂彦王(さほひこのきみ)は、謀反を企てて国を傾けようとした。このことは別の書にある。
五年の冬十月一日、狭穂彦は妹の皇后とともに、城中で死んだ。

十五年の春二月十日、丹波の五人の女性を召して、後宮に入れた。長女を日葉酢媛(ひばすひめ)といい、次を渟葉田瓊入媛(ぬはたにいりひめ)といい、次を真砥野媛(まどのひめ)といい、次を薊瓊入媛(あざみにいりひめ)といい、次を竹野媛(たけのひめ)という。ともに開化天皇の皇子・彦坐皇子命(ひこいますのみこのみこと)の子、丹波道主王(たにはのみちのうしのきみ)の子である。

秋八月一日、日葉酢媛命を立てて、皇后とされた。また、渟葉田瓊入媛、真砥野媛、薊瓊入媛をならびに皇妃とされた。
ただし、竹野媛だけは容姿が醜かったので故郷に返した。その返されたことを恥じて、竹野媛は葛野でみずから輿から落ちて死んだ。そこで、その地を名づけて堕国(おちくに)という。今、乙訓(おとくに)というのはなまったものである。

皇后は、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)、大足彦尊(おおたらしひこのみこと:景行天皇)、大中姫命(おおなかつひめのみこと)、倭姫命(やまとひめのみこと)、稚城瓊入彦命(わかきにいりひこのみこと)をお生みになった。
妃の渟葉田瓊入媛は、鐸石別命(ぬでしわけのみこと)、胆香足姫命(いかたらしひめのみこと)を生んだ。
次の妃の真砥野媛は、磐撞別命(いわつくわけのみこと)、稲別命(いなわけのみこと)を生んだ。
次の妃の薊瓊入媛は、池速別命(いけはやわけのみこと)、五十速石別命(いとしわけのみこと)、五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)を生んだ。

二十三年の秋八月四日、大新河命(おおにいかわのみこと)を大臣とされ、十市根命(とおちねのみこと)を五大夫の一人とされた。ともに宇摩志麻治命(うましまちのみこと)の子孫である。
同じ月の二十二日、大臣の大新河命に物部連公の姓を賜った。そうして、大臣を改めて大連と名づけた。

九月二日、天皇は群卿に詔して仰せになった。
「誉津別王は三十歳になり、長い髭が伸びるまでになっても、なお子供のように泣いてばかりいる。そして声を出して物を言うことができないのは何故か。皆で考えよ」

冬十月八日、天皇は大殿の前にお立ちになり、誉津別王子はそのそばにつき従っていた。そのとき、白鳥が大空を飛んでいった。
王子は空を仰ぎ白鳥を見て仰せられた。
「あれは何物か」
天皇は、王子が白鳥を見て、口をきくことができたのを知り喜ばれた。側近の者たちにご命じになった。
「誰か、この鳥を捕らえて献ぜよ」
そこで、鳥取造(ととりのみやつこ)の祖の天湯河板挙(あまのゆかわたな)が申しあげた。
「わたくしが必ず捕らえて参りましょう」
天皇は湯河板挙に仰せになった。
「お前がこの鳥を捕らえたら、必ず十分に褒美をやろう」
湯河板挙は、遠く白鳥が飛んでいった方向を追って、出雲まで行き、ついに捕らえた。ある人は「但馬国で捕らえた」ともいう。
十一月二十四日、湯河板挙は白鳥を献じた。誉津別命はこの白鳥をもてあそび、ついに物がいえるようになった。これによって、あつく湯河板挙に賞を賜り、姓を授けられて、鳥取造と名づけた。また、鳥取部(ととりべ)、鳥養部(とりかいべ)、誉津部(ほむつべ)を定めた。

三十年の春正月六日、天皇は五十敷命と大足彦尊に詔して仰せられた。
「お前たち、それぞれに欲しいものをいってみよ」
兄王は、
「弓矢が欲しいです」
と申しあげた。弟王は、
「天皇の位が欲しいです」
と申しあげられた。
そこで、天皇は詔して仰せられた。
「それぞれ望みのままにしよう」
弓矢を五十敷命に賜り、大足彦尊には詔して、
「お前は必ずわが位を継げ」
と仰せになった。

三十二年の秋七月四十二日、皇后・日葉酢媛命が亡くなられた。
三十七年の春一月一日、大足彦命を立てて、皇太子とされた。

八十一年の春二月一日、五大夫の一人の十市根命に、物部連公の姓を賜った。そして、大連とした。

九十九年の秋七月一日、天皇は纏向宮で崩御された。ときに年百四十歳であった。
冬十二月十日、菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)に葬った。

天皇がお生みになった子は、十男三女であった。
兄を、誉津別命[鳥取造らの祖]。
次に、五十瓊敷入彦命。
次に、日本大足彦忍代別尊。
次に、大中姫命。
次に、倭姫命[天照大神をお祀りし、はじめて斎宮になった]。
次に、稚城瓊入彦命。
次に、鐸石別命。
次に、胆香足姫命。
次に、磐撞別命[三尾君(みおのきみ)らの祖]。
次に、稲別命。
次に、池速別命。
次に、五十速石別命。
次に、五十日足彦命。
 
景行天皇
諱は日本大足彦忍代別尊(やまとおおたらしひこおしろわけのみこと)。垂仁天皇の第三子である。
母は皇后・日葉洲媛命といい、丹波道主王の娘である。

治世元年・辛未年の秋七月、皇太子は天皇に即位された。皇后を尊んで皇太后と申しあげ、皇太后を尊んで大皇太后を追号された。

二年の二月、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)を立てて、皇后とされた。皇后は、三人の皇子をお生みになった。第一子が大碓命(おおうすのみこと)、次が小碓命(おうすのみこと)、次が稚根子命(わかねこのみこと)である。
その大碓命と小碓命は、同じ腹に双子としてお生まれになった。天皇はこれをいぶかって、碓(臼)に向かって叫び声をあげられた。そのため、この二人の皇子を大碓・小碓の尊と申しあげる。
小碓尊は幼いときから雄々しい性格であった。壮年になると、容貌はすぐれて逞しかった。身長は一丈、力は鼎(かなえ)を持ち上げられるほどであった。

四年、天皇は美濃国においでになった。側近の者が奏上した。
「この国に、美人がいます。弟媛(おとひめ)といい、容姿端麗で八坂入彦皇子(やさかいりひこのみこ)の娘です」
天皇は、妃に召そうと思い、弟媛の家に行かれた。弟媛は天皇が来られたと聞いて、竹林に隠れた。
天皇は、弟媛を引き出そうと計られて、泳宮(くくりのみや)におられ、鯉(こい)を池に放って、ご覧になって遊ばれた。あるとき、弟媛はその鯉の遊ぶのを見ようと思って、ひそかにやってきて池を見た。
天皇はそれを引きとめて召された。
弟媛は、夫婦の道は昔も今も通じておこなわれるものであるが、自分にとっては無用であると考えた。
そこで、天皇に請うて申しあげた。
「私の性質は交接のことを望みません。いま、恐れ多い仰せのため、大殿の中に召されましたが、心の中は快くありません。また、私の顔も美しくなく、長く後宮にお仕えすることはできません。ただ、私には姉がいて、名を八坂入媛(やさかいりひめ)といい、美人で志も貞潔です。どうぞ後宮にお召し入れください」

そのため、天皇はこれを許し、八坂入媛を呼んで妃とされた。八坂入媛は七男六女を生んだ。第一子を稚足彦(わかたらしひこ ) 、次が五百城入彦(いおきいりひこ ) 、次が忍之別(おしのわけ ) 、次が稚倭根子(わかやまとねこ ) 、次が大酢別(おおすわけ ) 、次が五十狭城入彦(いさきいりひこ ) 、次が吉備兄彦(きびのえひこ ) 、次が渟熨斗姫(ぬのしひめ ) 、次が渟名城姫(ぬなきひめ ) 、次が五百城入姫(いおきいりひめ )、次が麛依姫(かごよりひめ ) 、次が高城入姫(たかきいりひめ ) 、次が弟媛(おとひめ ) である。

またの妃、三尾氏の磐城別(いわきわけ)の妹の水歯郎媛(みずはのいらつめ)は、五百野皇女(いおのひめみこ)を生んだ。
またの妃、五十河媛(いかわひめ)は、神櫛皇子(かむくしのみこ)と稲背入彦皇子(いなせいりひこのみこ)を生んだ。
またの妃、阿部氏の木事(こごと)の娘の高田媛(たかたひめ)は、武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこ)を生んだ。
またの妃、日向髪長大田根(ひむかのかみながおおたね)は、日向襲津彦皇子(ひむかのそつひこのみこ)を生んだ。
またの妃、襲武媛(そのたけひめ)は、国乳別皇子(くにちわけのみこ)、次に国凝別皇子(くにこりわけのみこ)、次に国背別皇子(くにせわけのみこ)、またの名は宮道別皇子(みやじわけのみこ)、次に豊戸別皇子(とよとわけのみこ)を生んだ。
またの妃、美人を御刀媛(みはかしひめ)という。豊国別皇子(とよくにわけのみこ)を生んだ。

冬十一月、纏向に都を造られた。これを日代宮(ひしろのみや)という。

天皇は、美濃国造で名は神骨(かむほね)という者の娘で、兄遠子(えとうこ)と弟遠子(おととおこ)の二人が、ともに美人であると聞かれ、大碓命を遣わされて、その娘の容姿を見させられた。このとき、大碓命はひそかに娘に通じて復命されなかった。それで天皇は大碓命をお恨みになった。

十二年の秋七月、熊襲(くまそ)がそむいて貢物を奉らなかった。
八月、天皇は筑紫においでになり、諸国の命に従わない者たちを巡り討たれた。
十三年、日向国に美人があり、御刀媛という。これを召して妃とされた。妃は豊国別皇子を生んだ。

二十年の春二月四日、五百野皇女を遣わして、天照太神(あまてらすおおみかみ)を祀らせられた。
冬十月、日本武尊(やまとたけるのみこと)を遣わして、熊襲を討たせられた。このとき、尊の年は十六歳であった。

四十六年の八月、大臣・物部胆咋宿祢(もののべのいくいのすくね)の娘の五十琴姫命(いことひめのみこと)を妃とされた。妃は五十功彦命(いごとひこのみこと)を生んだ。

五十一年の春正月七日、群卿を召して宴を催され、何日も続いた。このとき、皇子の稚足彦尊と、武内宿祢(たけしうちのすくね)は、その宴に出席しなかった。天皇はそのわけを尋ねられた。そこでお答えして申しあげた。
「宴楽の日には、群卿百寮がくつろぎ遊ぶことに心が傾き、国家のことを考えていません。もし狂った者があって、警護のすきを窺ったらと心配です。それで垣の外に控えて非常に備えています」
天皇は、
「立派なものだ」
と仰せられた。そして特に目をかけられた。
秋八月、稚足彦命を立てて皇太子とされた[皇太子の年は二十四歳]。また、武内宿祢に詔して棟梁之臣(むねはりのまえつきみ)とされた。天皇と武内宿祢とは、同じ日に生まれた。それで特に重用された。

日本武尊は東の蝦夷を平らげて、帰ろうとされたが帰ることができず、尾張国で亡くなった。
日本武尊は、はじめ両道入姫皇女(ふたじいりひめのひめみこ)を娶って妃とし、稲依別王(いなよりわけのきみ)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)、布忍入姫命(ぬのおしいりひめのみこと)、稚武王(わかたけひこのきみ)を生んだ。また、吉備武彦(きびのたけひこ)の娘の吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ)を妃として、武卵王(たけかいこのきみ)と十城別王(とおきわけのきみ)を生んだ。また、穂積氏の忍山宿祢(おしやまのすくね)の娘・弟橘媛(おとたちばな)は、稚武彦王(わかたけひこのきみ)を生んだ。

五十二年の夏五月二十八日、皇后・播磨大郎姫命が亡くなられた。
秋七月、八坂入姫命を立てて、皇后とされた。

五十八年の春二月十一日、近江国においでになり、志賀にお住みになること三年。これを高穴穂宮(たかあなほのみや)という。
六十年の冬十一月七日、天皇は高穴穂宮で崩御された。ときに年百六歳であった。
次の天皇の治世二年、山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)に葬った。

天皇がお生みになった皇子女は計八十一人で、このうち男子は五十五人、女子は二十六人であった。
このうち六人の御子、皇子五人と皇女一人を残して、ほかの御子は皆、各地の国・県に封じた。皇子五十人、皇女二十六人、合わせて七十六人がそれぞれ国・県に封じられた。国史には記されていない。

稚倭根子命(わかやまとねこのみこと)。
大酢別命(おおすわけのみこと)。
吉備兄彦命(きびのえひこのみこと)。
武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)[筑紫水間君(つくしのみぬまのきみ)の祖]。
神櫛別命(かむくしわけのみこと)[讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ)の祖]。
稲背入彦命(いなせいりひこのみこと)[播磨別の祖]。
豊国別命(とよくにわけのみこと)[喜備別(きびわけ)の祖]。
国背別命(くにせわけのみこと)[水間君の祖]。
忍足別命(おしたらしわけのみこと)。
日向襲津彦命(ひむかのそつひこのみこと)[奄智君(あむちのきみ)の祖]。
国乳別命(くにちわけのみこと)[伊与宇和別(いよのうわわけ)の祖]。
豊門入彦命(とよといりひこのみこと)[大田別(おおたわけ)の祖]。
五十狭城入彦命(いさきいりひこのみこと)[三河長谷部直(みかわのはせべのあたい)の祖]。
稚屋彦命(わかやひこのみこと)。
彦人大兄命(ひこひとおおえのみこと)。
武国皇別命(たけくにすめわけのみこと)[伊与御城別(いよのみきわけ)、添御杖君(そうのみつえのきみ)の祖]。
真稚彦命(まわかひこのみこと)。
天帯根命(あまたらしねのみこと)[目鯉部君(めこいべのきみ)の祖]。
大曽色別命(おおそしこわけのみこと)。
五十河彦命(いかわひこのみこと)[讃岐直(さぬきのあたい)、五十河別(いかわけ)の祖]。
石社別命(いわさわけのみこと)。
大稲背別命(おおいなせわけのみこと)[御杖君の祖]。
武押別命(たけおしわけのみこと)。
豊門別命(とよとわけのみこと)[三嶋水間君(みしまのみぬまのきみ)、奄智首、壮子首(わかこのおびと)、粟首(あわのおびと)、筑紫火別君(つくしのひわけのきみ)の祖]。
不知来入彦命(いさくいりひこのみこと)。
曽能目別命(そのめわけのみこと)。
十市入彦命(とおちいりひこのみこと)。
襲小橋別命(そのおはしわけのみこと)[菟田小橋別(うだのおはしわけ)の祖]。
色己焦別命(しこしょうわけのみこと)。
息前彦人大兄水城命(おきさきのひこひとおおねみずきのみこと)[奄智白幣造(あむちのしらしでのみやつこ)の祖]。
熊忍津彦命(くまのおしつひこのみこと)[日向穴穂別(ひむかのあなほわけ)の祖]。
櫛見皇命(くしみこのみこと)[讃岐国造の祖]。
武弟別命(たけおとわけのみこと)[立知備別(たてちびわけ)の祖]。
草木命(くさきのみこと)[日向君の祖]。
稚根子皇子命(わかねこみこのみこと)。
兄彦命(えひこのみこと)[大分穴穂御埼別(おおきだのあなほのみさきわけ)、海部直(あまべのあたい)、三野之宇泥須別(みののうねすわけ)らの祖]。
宮道別命(みやじわけのみこと)。
手事別命(たことわけのみこと)。
大我門別命(おおがとわけのみこと)。
三川宿祢命(みかわのすくねのみこと)。
豊手別命(とよたわけのみこと)。
倭宿祢命(やまとのすくねのみこと)[三川大伴部直(みかわのおおともべのあたい)の祖]。
豊津彦命(とよつひこのみこと)。
五百木根命(いおきねのみこと)。
弟別命(おとわけのみこと)[牟宜都君(むげつのきみ)の祖]。
大焦別命(おおしょうわけのみこと)。
五十功彦命(いごとひこのみこと)[伊勢刑部君(いせのおさかべのきみ)、三川三保君(みかわのみほのきみ)の祖]。
櫛角別命(くしつのわけのみこと)[茨田連(まんだのむらじ)の祖]。

各地の領主として派遣されなかった、六人の御子のうちの男子五人、女子一人。
大碓命(おおうすのみこと)[守君(もりのきみ)らの祖]。
次に、小碓命(おうすのみこと)。後に日本武尊(やまとたけるのみこと)と名づけられた。
次に、豊国別命(とよくにわけのみこと)[日向諸県君(ひむかのもろあがたのきみ)の祖]。
次に、稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)。
次に、五百城入彦尊(いおきいりひこのみこと)。
次に、五百野姫皇女命(いおののひめみこのみこと)[伊勢の天照太神を斎き祀った]。

以上、五十人の皇子。このほかの二十五人の皇女については、記載しなかった。
 
成務天皇
諱は稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)。景行天皇の第四子である。
母の皇后は八坂入姫命(やさかいりひめのみこと)で、八坂入彦皇子の娘である。

景行天皇の治世四十六年、立って皇太子となられた。ときに年は二十四歳。
六十年の冬十一月、景行天皇は崩御された。

治世元年・辛未年の春正月甲申朔戊子の日、皇太子は天皇に即位された。さきの皇后を尊んで皇太后と申しあげ、皇太后を尊んで大皇太后を追号された。
物部胆咋宿祢(もののべのいくいのすくね)を大臣として、志賀高穴穂宮に都を置かれた。

二年の冬十一月十日、景行天皇を倭国(やまとのくに)の山辺道上陵に葬った。
三年の春七日、武内宿祢(たけしうちのすくね)を大臣とされた。

四十八年の春三月一日、甥の足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を立てて皇太子とされた。足仲彦尊は、景行天皇の皇子・日本武尊(やまとたけるのみこと)の第二皇子である。

日本武尊は、両道入姫皇女(ふたぢいりひめのひめみこ)を娶って妃とし、三男一女を生んだ。
稲依別王(いなよりわけのきみ)[犬上君、武部君らの祖]、次に足仲彦尊、次に布忍入姫命(ぬのおしいりひめのみこと)、次に稚武王(わかたけのみこ)[近江建部君の祖、宮道君の祖]である。

またの妃、吉備武彦(きびのたけひこ)の娘の吉備穴戸武姫(きびのあなとのたけひめ)は、二男を生んだ。
武卵王(たけかいこのみこ)[讃岐綾君らの祖]、次に十城別王(とおきわけのみこ)[伊予別君らの祖]である。

またの妃、穂積氏の祖・忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘、弟橘媛(おとたちばなひめ)は一男を生んだ。
稚武彦王命(わかたけひこのみこのみこと)[尾津君、揮田君(ふきだのきみ)、武部君らの祖]、
次に稲入別命(いないりわけのみこと)、
次に武養蚕命(たけこがいのみこと)[波多臣らの祖]、
次に葦敢竈見別命(あしかみのかまみわけのみこと)[竈口君(かまのくちのきみ)らの祖]、
次に息長田別命(おきながのたわけのみこと)[讃岐君らの祖]、
次に五十日彦王命(いかひこのきみのみこと)[讃岐君らの祖]、
次に伊賀彦王(いがひこのみこ)、
次に武田王(たけたのみこ)[尾張国の丹羽建部君の祖]、
次に佐伯命(さえきのみこと)[三川の御使連らの祖]、である。

六十年の夏六月十一日、天皇は崩御された。[年は百七歳]
御子十五人のうち、十四人は男王、一人は女王であった。
 
仲哀天皇
景行天皇の第二皇子の日本武尊、幼名は小碓命(おうすのみこと)の第二王子。諱を足仲彦王尊と申しあげる。
母は両道入姫皇女といい、垂仁天皇の皇女である。
天皇は容姿端正で、身の丈は十尺あった。
成務天皇には御子が無かった。そのため、成務天皇の治世四十八年、立って皇太子となられた。ときに年は三十一歳。

治世元年壬申の春正月十一日、皇太子は天皇に即位された。
母の皇后を尊んで皇太后とし、皇太后を尊んで大皇太后を追号された。
気長足姫尊(おきながのたらしひめのみこと)を立てて皇后とされた。開化天皇の子の、彦坐皇子(ひこいますのみこ)の御子の、山代大筒城真若王(やましろのおおつつきのまわかのみこ)の御子の、迦爾米雷王(かにめづちのみこ)の御子の、気長宿祢(おきながのすくね)の娘の、気長足姫命(開化天皇五世孫)がこのかたである。

天皇は、群臣に詔して仰せられた。
「私がまだ成人しないうちに、父王の日本武尊はすでに亡くなっていた。魂は白鳥になって天に上った。慕い思うことは一日も休むことがない。
それで、白鳥を獲て陵のまわりの池に飼い、その鳥を見ながら父を偲ぶ心を慰めたいと思う」
そこで、諸国に命令して白鳥を献上させた。これは天皇が父王を恋しく思われて、飼いならそうとされたものである。
それなのに、天皇の弟の蒲見別王はいった。
「白鳥といっても、焼いたら黒鳥になるだろう」
天皇は弟王が不孝であることを憎まれ、兵を遣わして殺させた。

天皇はこれよりさきに、叔父である彦人大兄(ひこひとおおえ)の娘の大中姫を娶って妃とし、二児をお生みになった。麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)である。
また、天熊田造(あまのくまたのみやつこ)の祖・大酒主(おおさかぬし)の娘の弟媛を妃とし、一児を生んだ。誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)である。

二月、角鹿へおいでになり、行宮を建ててお住まいになった。これを笥飯宮(けひのみや)という。
三月、南の国を巡視し、熊襲の叛乱を討とうとされた。
七月、皇后は豊浦津に泊まられた。その後、皇后は如意珠を海中から得られた。
九月、宮室を穴門にたてて住まわれた。これを、穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)という。

八年の春正月、天皇は筑紫においでになり、熊襲を討つことを諮られた。
このとき、ある神が皇后に託して神託をして仰せられた。
「天皇は、どうして熊襲が従わないことを憂えられるのか。そこは荒れて痩せた地だ。
しかし西には宝の国があり、新羅国という。もし、よく我を祀るならば、きっとその国はおのずから服従するだろう。云々」
ところが天皇は西には国は無いといわれた。神の教えられたことを信じず、なおみずから熊襲を討って、賊の矢で傷を負われた。

九年の春二月五日、武内大臣が天皇のおそばに控え、皇后のために琴を弾くことを乞うた。皇后が神がかりして神に問うも、教えは得られなかった。
そして神がかりして仰せられた。
「皇后がみごもっている皇子は、宝の国を得るだろう。云々」
武内大臣は、天皇につつしんで琴を弾くように懇ろにすすめ申しあげ、その神の名を求め乞うた。
ときに、日が暮れて、明かりを灯そうとしたとき、琴の音が聞こえなくなった。
そこで、火をかかげて見ると、天皇は急に病気になられ、翌日に亡くなられた。ときに年五十二歳。
すなわち、神のお告げを信じられなかったので、賊の矢にあたって早く亡くなられたことがうかがわれる。

皇后と大臣は、天皇の喪を隠して、天下に知らされなかった。そして、皇后は大臣と中臣烏賊津連(なかとみのいかつのむらじ)、大三輪大友主君(おおみわのおおともぬしのきみ)、物部胆咋連、大伴武以連(もののべのたけもつのむらじ)、物部多遅麻連に詔して仰られた。
「いま、天下の人は天皇の亡くなられたことを知らない。もし人民が知ったら、気がゆるむ者がいるかもしれない」
そこで、四人の大夫に命ぜられ、百寮を率いて宮中を守らせた。
ひそかに天皇の遺骸を収めて、武内宿祢に任せ、海路で穴門にお移しした。そして、豊浦宮で、灯火を焚かずに仮葬した。
甲子の日、武内宿祢は穴門から帰って、皇后に報告申しあげた。
この年は新羅国の役があって、天皇の葬儀は行われなかった。

天皇は、后妃との間に四人の皇子をお生みになった。
麛坂皇子、忍熊皇子、誉屋別皇子、誉田別尊(ほむたわけのみこと:応神天皇)である。
 
神功皇后
気長足姫命は、開化天皇の曾孫・気長宿祢王の娘である。母を葛城高額姫(かずらきのたかぬかひめ)と申しあげる。
仲哀天皇の治世二年、立って皇后となられた。幼いときから聡明で、容貌もすぐれて美しく、父の王もいぶかしがられるほどであった。

九年の春二月、仲哀天皇は筑紫橿氷宮(つくしのかしひのみや)で崩御された。
皇后は、天皇が神のお告げに従わないで、早くに亡くなられたことを傷んで思われるのに、祟られる神を知って、群臣百寮に命ぜられ、罪を払い過ちを改めて、さらに斎殿をつくって、そこで神がかりされた。皇后が、さきに神託をくだした神に祈り乞われたことなどは、別の書に詳しくある。

十月三日、神々の荒魂を別の船にお祀りし、また和魂を皇后の乗る船にお祀りして、船軍を率いて和珥津から船出された。新羅国を巡られた様子は、征服された三韓の国の書に詳しくある。
十二月十四日、皇后は新羅から戻られた。
そして、応神天皇を筑紫でお産みになった。そのため、時の人はその出産の地を名づけて、宇弥(うみ)といった。

翌年の春二月、皇后は群臣と百寮を率いて、穴門豊浦宮に遷った。天皇の遺骸をおさめて、海路で京に向かわれた。
そのとき、麛坂王と忍熊王は、天皇が崩御され、皇后は新羅を討ち、皇子が新たに生まれたと聞いて、ひそかに謀っていった。
「いま、皇后には子がいて、群臣はみな従っている。きっと共に議って幼い王を立てるだろう。私たちは兄であるのに、どうして弟に従うことができよう」
そして兵を集めて敵対した。このため、その後、殺された。これらのことは別の書に詳しくある。

神功摂政元年冬十月八日、群臣は皇后を尊んで、皇太后と申しあげた。太歳辛巳年に改めて、摂政元年とした。
物部多遅麻連(もののべのたぢまのむらじ)を大連とされた。

二年の冬十一月八日、仲哀天皇を河内国の長野陵に葬った。
三年の春正月三日、誉田別皇子を立てて、皇太子とされた。
磐余に都を造り、これを稚桜宮(わかさくらのみや)という。
物部五十琴宿祢(もののべのいことのすくね)を大連とされた。

六十九年の夏四月十七日、皇太后は稚桜宮で亡くなられた。
冬十月十五日、狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬った。この日に皇太后を尊んで諱をたてまつり、気長足姫命と申しあげた。 
 
巻第八 神皇本紀  

 

応神天皇
誉田(ほむた)皇太子尊は、仲哀天皇の第四皇子である。
母は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、すなわち開化天皇の五世孫である。
天皇は、母である皇后が新羅を討たれた年、庚辰年の冬十二月に、筑紫の蚊田でお生まれになった。幼くして聡明で、物事を遠くまで見通された。立居振る舞いに聖帝のきざしがあった。
皇太后の摂政三年に、立って皇太子となられた。ときに年三歳。
天皇が皇太后の胎中におられるとき、天神地祇は三韓を授けられた。お生まれになったとき、腕に上に盛り上がった肉があった。その形がちょうど鞆(ほむた)のようであった。これは、皇太后が男装して、鞆をつけられたのに似られた。そのため名を称えて誉田尊と申しあげる。

摂政六十九年夏四月、皇太后が亡くなられた。
治世元年一月一日、皇太子は天皇に即位された。軽嶋の地に都を造り、豊明宮といった。
二年春三月三日に、仲姫命(なかつひめのみこと)を立てて皇后とされた。皇后は三児をお生みになった。荒田皇子(あらたのみこ)、次に大鷦鷯尊(おおさざきのみこ:仁徳天皇)、次に根鳥皇子(ねとりのみこ)である。
これより先に天皇は、皇后の姉の高城入姫(たかきのいりひめ)を妃として、四児をお生みになった。額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)、次に大山守皇子(おおやまもりのみこ)、次に去来真稚皇子(いざのまわかのみこ)、次に大原皇子(おおはらのみこ)である。
またの妃、皇后の妹の弟姫(おとひめ)は、三児を生んだ。阿倍皇女(あべのひめみこ)、次に淡路三原皇女(あわじのみはらのひめみこ)、次に菟野皇女(うののひめみこ)。
次の妃、物部多遅麻大連(もののべのたじまのおおむらじ)の娘・香室媛(かむろひめ)は三人の御子を生んだ。菟道稚郎子皇子尊(うじのわきいらつこのみこのみこと)、次に矢田皇女(やたのひめみこ)、次に雌鳥皇女(めとりのひめみこ)。
次の妃、香室媛の妹・小甂媛(おなべひめ)は、菟道稚郎姫皇女(うじのわきいらつひめのひめみこ)を生んだ。
次の妃、河派仲彦(かわまたのなかつひこ)の娘・弟媛は稚野毛二派皇子(わかのけふたまたのみこ)を生んだ。
次の妃、桜井田部連男鉏(さくらいたべのむらじおさい)の妹・糸媛(いとひめ)は、隼別皇子(はやぶさわけのみこ)を生んだ。
次の妃、日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)は、大葉枝皇子(おおはえのみこ)、次に小葉枝皇子(おはえのみこ)を生んだ。
すべて天皇の皇子女は、合わせて二十人おいでになる。

四十年の春一月八日に、天皇は大山守命と大鷦鷯尊を呼んでお尋ねになられた。
「お前たちは、自分の子が可愛いか」
二人の皇子は答えて申しあげられた。
「とても可愛いです」
天皇はまた尋ねて仰せられた。
「大きくなった子と、小さい子では、どちらが可愛いか」
大山守命が答えて仰せられた。
「大きい子の方が良いです」
それを聞いた天皇は喜ばれない様子であった。大鷦鷯尊は天皇の心を察して申しあげられた。
「大きくなった方は、年を重ねて一人前になっているので、もう不安はありません。年若い方はそれが一人前になれるか、なれないかも分からないので、若い方は可愛そうです」
天皇はとても喜んで仰せになった。
「お前の言葉は、まことに我が心にかなっている」
このとき天皇は、常に菟道稚郎子を立てて、皇太子にしたいと思われる心があった。そこで二人の皇子の心を知りたいと思われていた。そのためにこの問いをされたのであった。
このため大山守命の答えを喜ばれなかった。
そうして、菟道稚郎子を立てて日嗣とされた。大山守命を山川林野を掌る役目とされ、大鷦鷯尊をもって、太子の補佐として国事を見させた。
物部の印葉連公を大臣とした。

四十一年の春二月十五日、天皇は豊明宮で崩御された。[ときに年百十歳]

天皇がお生みになった御子は十七人で、うち皇子は十二人、皇女は五人であった。
荒田皇子、次に大鷦鷯尊、次に根鳥皇子[大田君らの祖]、次に額田大中彦命皇子、次に大山守皇子[土方公らの祖、榛原君の祖]、次に去来真稚皇子[深河別らの祖]、次に大原皇子、次に菟道稚郎子太子尊、次に稚沼笥二股皇子尊[三国君らの祖]、次に隼別皇子、次に大葉枝皇子、次に小葉枝皇子、次に矢田皇女[仁徳天皇の皇后]、次に阿倍皇女、次に淡路御原皇女、次に紀の菟野皇女、次に雌鳥皇女。
 
仁徳天皇
諱は大鷦鷯尊。応神天皇の第四皇子である。母を皇后・仲媛命と申しあげる。五百城入彦皇子命の孫である。
天皇は幼いときから聡明で、英知であられた。容貌が美しく、壮年に至ると心広くめぐみ深くいらっしゃった。

先の天皇の治世四十一年春二月、応神天皇は崩御された。皇太子の菟道稚郎子皇子は、位を大鷦鷯尊に譲ろうとされて、まだ即位されなかった。そうして大鷦鷯尊に仰られた。
「天下に君として万民を治める者は、民を覆うこと天のごとく、受け入れることは地のごとくでなければなりません。上に民を喜ぶ心があって人民を使えば、人民は欣然として天下は安らかです。
私は弟です。またそうした過去の記録も見られず、どうして兄を越えて位を継ぎ、天業を統べることができましょうか。
大王は立派なご容姿です。仁孝の徳もあり、年も上です。天下の君となるのに十分です。先帝が私を太子とされたのは、特に才能があるからというわけではなく、ただ愛されたからです。
宗廟社稷に仕えることは、重大なことです。私は不肖でとても及びません。兄は上に弟は下に、聖者が君となり、愚者が臣下となるのは、古今の定めです。どうか王はこれを疑わず、帝位に即いてください。私は臣下となってお助けするばかりです」
大鷦鷯尊は答えて仰せられた。
「先帝も”皇位は一日たりとも空しくしてはならない”とおっしゃった。それで前もって明徳の人をえらび、王を皇太子として立てられました。天皇の嗣にさいわいあらしめ、万民をこれに授けられました。寵愛のしるしと尊んで、国中にそれが聞こえるようにされました。私は不肖で、どうして先帝の命に背いて、たやすく弟王の願いに従うことができましょうか」
固く辞退して受けられず、お互いに譲り合われた。

このとき、額田大中彦皇子が、倭の屯田と屯倉を支配しようとして、屯田司の出雲臣の祖・淤宇宿祢(おうのすくね)に語っていった。
「この屯田はもとから山守の地だ。だから自分が治めるから、お前は掌ってはならない」
淤宇宿祢は太子にこのことを申しあげた。太子は仰られた。
「大鷦鷯尊に申せ」
そこで、淤宇宿祢は大鷦鷯尊に申しあげた。
「私がお預かりしている田は、大中彦皇子が妨げられて治められません」
大鷦鷯尊は、倭直の祖・麻呂にお尋ねになった。
「倭の屯田は、もとから山守の地というが、これはどうか」
麻呂が答えて申しあげた。
「私には分かりませんが、弟の吾子籠(あごこ)が知っております」
このとき、吾子籠は韓国に遣わされて、いまだ還っていなかった。大鷦鷯尊は淤宇宿祢に仰せられた。
「お前はみずから韓国に行って、吾子籠をつれて来なさい。昼夜を問わず急いで行け」
そして淡路の海人八十人を差し向けて水手とされた。淤宇は韓国に行って、吾子籠をつれて帰った。屯田のことを尋ねられると、答えて申しあげた。
「伝え聞くところでは、垂仁天皇の御世に、太子の大足彦尊に仰せられて、倭の屯田が定められたといいます。このときの勅旨は”倭の屯田は、時の天皇のものである。帝の御子といえども、天皇の位になければ掌ることはできない”といわれました。これを山守の地というのは、間違いです」
大鷦鷯尊は、吾子籠を額田大中彦皇子のもとに遣わして、このことを知らされた。大中彦皇子は、この上いうべき言葉がなかった。その良くないことをお知りになったが、許して罰せられなかった。

大山守皇子は、先帝が太子にしてくださらなかったことを恨み、重ねてこの屯田のことで恨みを持った。陰謀を企てて仰せられた。
「太子を殺して帝位を取ろう」
大鷦鷯尊はその陰謀をお知りになり、ひそかに太子に知らせ、兵を備えて守らせられた。太子は兵を備えて待ち構えた。大山守皇子は、その備えのあることを知らず、数百の兵を率いて夜中に出発した。明け方に菟道(宇治)について河を渡ろうとしました。そのとき太子は粗末な麻の服をつけられて、舵をとって、ひそかに渡し守にまじられ、大山守皇子を船にのせてこぎ出された。河の中ほどに至って、渡し守に船を転覆させられた。大山守皇子は河に落ちてしまった。
浮いて流されたが、伏兵が多くいて、岸につくことができなかった。そのため、ついに沈んで亡くなった。屍を探すと、哮羅済(かわらのわたり)に浮かんでいた。太子は屍をご覧になり、歌にしていわれた。云々。別に和歌の書がある。

太子は宮を菟道にたててお住まいになったが、位を大鷦鷯尊に譲っておられるので長らく即位されなかった。皇位は空いたままで三年が過ぎた。
ある漁師がいて、鮮魚の献上品を菟道宮に献じた。太子は漁師に仰せられた。
「自分は天皇ではない」
そうして、返して難波に奉らさせられた。大鷦鷯尊は、また返して菟道に奉らさせられた。漁師の献上品は両方を往復している間に、古くなって腐ってしまった。それでまた、あらためて鮮魚を奉ったが、譲り合われることは前と同様であった。鮮魚はまた腐ってしまった。漁師は途方にくれて鮮魚を捨てて泣いた。ことわざに、「海人でもないのに、自分の物から泣く」というのは、これが由来である。

太子は、
「私は兄王の心を変えられないことを知った。長く生きて天下を煩わせたくない」
と仰せられて、ついに自殺された。大鷦鷯尊は太子が亡くなられたことを聞いて、驚いて難波の宮から急遽、菟道宮に来られた。太子の死後三日を経ていた。大鷦鷯尊は胸を打ち泣き叫んで、なすすべを知らなかった。髪を解き死体にまたがって、
「我が弟の皇子よ」
と三度お呼びになった。するとにわかに生き返られた。大鷦鷯尊は太子へ仰せになった。
「悲しいことよ。悔しいことよ。どうして自殺などなさいますか。もし死なれたと知れたら、先帝は私を何と思われますか」
すると、太子は大鷦鷯尊に申しあげられた。
「天命です。誰もとめることはできません。もし先帝のみもとに参ることがありましたら、詳しく兄王が聖で、度々辞退されたを申しあげましょう。あなたは私の死を聞いて、遠路駆けつけてくださった。お礼を申しあげねばなりません」
そうして、同母妹の矢田皇女を奉って仰せられた。
「お引きとりいただくのも迷惑でしょうが、なにとぞ後宮の数に入れていただけますように」
そしてまた、棺に伏せって亡くなられた。大鷦鷯尊は麻の服を着て、悲しみ慟哭されることはなはなしかった。遺体は菟道の山の上に葬った。

治世元年の春一月三日、大鷦鷯尊は即位された。先の皇后を尊んで皇太后と申しあげた。都を難波に遷し、高津宮といった。
この天皇がお生まれになった日に、木菟(つく:みみずく)が産殿に飛び込んできた。翌朝、父の応神天皇が大臣の武内宿祢を呼んで仰せられた。
「これは何のしるしだろうか」
宿祢は答えて申しあげた。
「めでたいしるしです。昨日、私の妻が出産するとき、鷦鷯(さざき:みそさざい)が産屋に飛び込んできました。これもまた不思議なことです」
そこで、天皇は仰せられた。
「我が子と宿祢の子は、同じ日に産まれた。そして両方ともしるしがあったが、これは天のお示しである。その鳥の名をとって、お互いに交換し子供に名づけ、後代へのしるしとしよう」
それで鷦鷯の名を取って太子につけ、大鷦鷯皇子といわれた。木菟の名を取って大臣の子につけ、木兎宿祢といった。これが平群臣の祖である。

二年春三月八日、磐媛命を立てて皇后とされた。皇后は四児をお生みになった。大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと:履中天皇)、次に住吉皇子(すみのえのみこ)、次に瑞歯別尊(みずはわけのみこと:反正天皇)、次に雄朝津間稚子宿祢尊(おあさづまわくごのすくねのみこと:允恭天皇)。
妃の日向の髪長媛は、大草香皇子(おおくさかのみこ)、次に幡梭皇女(はたびのひめみこ)を生んだ。
二十二年の春一月、天皇は皇后に「矢田皇女を召し入れて妃にしたい」と仰せになった。しかし、皇后は許されなかった。
三十一年春一月十五日、去来穂別尊を立てて皇太子とされた。
三十五年夏六月、皇后の磐之媛命は筒城宮で亡くなった。
三十七年冬十一月十二日、皇后を乃羅山(ならやま)に葬った。
三十八年春一月六日、矢田皇女を立てて皇后とされた。
八十二年の春二月乙巳朔の日に、侍臣の物部大別連公(もののべのおおわけのむらじのきみ)に詔して仰せられた。
「皇后には、長い間経ても皇子が生まれなかった。お前を子代と定めよう」
皇后の名を氏として、氏造に改め、矢田部連公(やたべのむらじのきみ)の姓を賜った。

八十三年丁卯の八月十五日に、天皇は崩御された。
冬十月七日に、百舌鳥野陵に葬った。

天皇のお生みになった皇子は五男一女。
大兄去来穂別尊、次に住吉仲皇子、次に瑞歯別皇子、次に雄朝嬬稚子宿祢尊、次に大草香皇子、次に幡梭皇女。
 
履中天皇
諱は去来穂別尊。仁徳天皇の第一皇子である。母を皇后の磐之媛と申しあげる。葛城襲津彦の娘である。
先の天皇の治世三十一年春一月、皇太子となられた。ときに年は十五歳。
八十七年春一月、仁徳天皇が崩御された。

治世元年春二月一日、皇太子は即位された。先の皇后を尊んで皇太后と申しあげ、皇太后に尊んで大皇太后と追号された。磐余に都を造り、これを稚桜宮(わかさくらのみや)といった。物部伊莒弗連(もののべのいこふつのむらじ)を大連とした。
秋七月四日、葦田宿祢の娘の黒媛を皇妃とした。妃は二男一女をお生みになった。磐坂市辺押羽皇子(いわさかのいちのべのおしはのみこ)、御馬皇子(みまのみこ)、青海皇女(あおみのひめみこ)である。
次の妃、幡梭皇女(はたびのひめみこ)は、中磯皇女(なかしのひめみこ)をお生みになった。
二年春一月四日、瑞歯別皇子(みずはわけのみこ)を立てて皇太子とした。
五年の秋九月十八日に、皇妃の黒媛は亡くなった。
六年春一月六日、草香幡梭皇女を立てて皇后とされた。
三月十五日、天皇は病になられ、体の不調から臭みが増してきた。稚桜宮で崩御された。ときに年は七十歳[また、壬申年の一月三日に亡くなられたともいう。年七十歳]。
冬十月四日に、百舌鳥耳原陵に葬った。

天皇のお生みになった御子は二男二女。兄に磐坂市辺押羽皇子尊、次に御馬皇子、次に青海皇女尊、次に中磯皇女。
 
反正天皇
諱は瑞歯別尊。履中天皇の同母弟である。
先の天皇の治世二年に、立って皇太子となった。ときに年は五十一歳。
天皇は淡路宮でお生まれになった。生まれながらに歯が一つの骨のようで、うるわしい容姿であった。瑞井という井戸があって、その水を汲んで太子を洗われた。そのとき多遅(たじ)の花が井戸の中に落ちた。よって太子の名とした。多遅の花とは今の虎杖(いたどり)の花のことである。それでたたえて多遅比と申し上げたのである。

先の天皇の治世六年春三月、履中天皇が崩御された。
治世元年の夏四月二日に、皇太子は即位された。
秋八月六日に、大宅臣の祖の木事(こごと)の娘・津野媛(つのひめ)を立てて皇夫人とした。香火姫皇女(かひひめのひめみこ)、次に円皇女(つぶらのひめみこ)を生んだ。
また、夫人の妹の弟媛を入れて、財皇女、次に高部皇子を生んだ。
冬十月、河内の丹比に都を造った。これを柴垣宮(しばがきのみや)という。
五年の春一月二十三日に、天皇は崩御された。年は六十歳。毛須野陵に葬った。

天皇がお生みになった御子は二男二女。兄に高部皇子、次に円皇女、次に財皇女、次に香火姫皇女。
 
允恭天皇
諱は雄朝嬬稚子宿祢尊。反正天皇の同母弟である。
天皇は幼いころから、成長された後も、恵み深くへりくだっておられた。壮年になって重い病をされ、動作もはきはきとすることができなかった。

先の天皇の治世五年春一月、反正天皇が崩御された。
群卿たちが相談していった。
「今、仁徳天皇の御子は、雄朝嬬稚子宿祢皇子と大草香皇子がいらっしゃるが、雄朝嬬稚子宿祢皇子は年上で情け深い心でいらっしゃる」
そこで吉日を選んで、ひざまずいて天皇の御しるしを奉った。
雄朝嬬稚子宿祢皇子は仰せられた。
「私の不幸は、長い間重い病にかかって、よく歩くこともできないことだ。また私は病を除こうとして、奏し申しあげることなくひそかに荒療治もしてみたが、なお少しもよくならない。それで先帝も私を責めて、“お前は病気なのに、勝手に体をいためるようなことをした。親に従わぬ不幸はこれ以上はなはだしいことはない。もし長生きしたとしても、天つ日嗣をしらすことはできないだろう”とおっしゃった。また私の兄の二人の天皇も、私を愚かであると軽んじられた。群卿も知っていることである。天下というものは大器であり、帝位は大業である。また、人民の父母となるのは、賢聖の人の職である。どうして愚かな者に堪えられようか。もっと賢い王を選んで立てるべきである。自分は適当ではない」
群臣は再拝して申しあげた。
「帝位は長く空しくしてあってはなりません。天命はこばむことはできません。大王が時にさからい、位につくことをされなければ、臣らは人民の望みが絶えることを恐れます。願わくはたとえいとわしいと思し召すとも、帝位におつきください」
雄朝嬬稚子宿祢皇子は、
「国家を任されるのは重大なことである。自分は重い病で、とても耐えることはできない」
と承知されなかった。
そこで群臣は固くお願いして申しあげた。
「私たちが伏して考えますのに、大王が皇祖の宗廟を奉じられることが、最も適当です。天下の万民も、皆そのように思っています。どうかお聞きとどけください」

治世元年壬子の冬十二月、妃の忍坂大中姫命が、群臣の憂いなげくのをいたまれて、みずから洗手水をとり捧げて、皇子の前にお進みになった。そして申しあげて仰せられた。
「大王は辞退なさって即位をされません。空位のままで年月を経ています。群臣百寮は憂えて、なすべきを知りません。願わくば、人々の願いに従って、強いて帝位におつきくださいませ」
しかし、皇子は聞き入れられず、背を向けて物もいわれなかった。
大中姫命は畏まり、退こうとされないでお侍りになること四、五刻以上を経た。時は師走のころで、風も烈しく寒いころであった。大中姫の捧げた鋺の水が、溢れて腕に凍るほどで、寒さに耐えられずほとんど死なんばかりであった。
皇子は驚き顧みられて、これを助け起こし仰せになった。
「日嗣の位は重いことである。たやすく就くことはできないので、今まで同意しなかった。しかし、いま群臣たちの請うこともあきらかな道理である。どこまでも断りつづけることはできない」
大中姫命は仰ぎ喜び、群卿たちに告げて仰せられた。
「皇子は、群臣の請いをお聞き入れくださることになりました。いますぐ天皇の御璽を奉りましょう」
ここに及んで皇子は仰せになった。
「群臣は、天下のために自分を請うてくれた。自分もどこまでも辞退してばかりいられない」
そうして、ついに帝位におつきになった。

二年春二月十四日、忍坂大中姫を立てて皇后とされた。皇后は、木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)、名形大娘皇女(ながたのおおいらつめのひめみこ)、境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)、穴穂天皇(あなほのすめらみこと:安康天皇)、軽大娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)、八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)、大泊瀬幼武天皇(おおはつせのわかたけのすめらみこと:雄略天皇)、但馬橘大姫皇女(たじまのたちばなのおおいらつめのひめみこ)、酒見皇女(さかみのひめみこ)をお生みになった。

五年冬十一月十一日、反正天皇を耳原陵に葬った。
二十三年春三月七日、木梨軽皇子を立てて太子とされた。物部麦入宿祢(もののべのむぎりのすくね)と物部大前宿祢(もののべのおおまえのすくね)を、ともに大連とした。
四十二年春一月十四日、天皇は崩御された。年は七十八歳。
冬十月十日、天皇を河内の長野原陵に葬った。

天皇のお生みになった御子は、五男四女。
木梨軽太子尊、次に名形大娘皇女、次に境黒彦皇子、次に穴穂皇子尊、次に軽大娘皇女、次に八釣白彦皇子、次に大泊瀬稚武皇子尊、次に但馬橘大娘皇女、次に酒見皇女。
 
安康天皇
諱は穴穂尊。允恭天皇の第二子である。
母は、皇后・忍坂大中姫といい、稚渟毛二岐皇子の娘である。

先の天皇の治世四十二年の春一月、允恭天皇が崩御された。
冬十月に葬礼が終わった。このときに、太子の木梨軽皇子は、乱暴で婦女に淫らな行いをしていたので、国人はこのことをそしった。群臣も心服せず、みな穴穂皇子についた。

そこで太子は、穴穂皇子を襲おうとして、ひそかに兵士を集めさせた。
穴穂皇子もまた兵を興して、戦おうとされた。そこで、穴穂矢・軽矢はこのとき始めて作られた。
ときに太子は、群臣が自分に従わず、人民もまた離れていくことを知った。そのため宮を出て、物部大前宿祢の家に隠れられた。

穴穂皇子はそれを聞いて、大前宿祢の家をお囲みになった。
大前宿祢は、門を出てきて、穴穂皇子をお迎えした。
穴穂皇子が歌を詠んでおっしゃったこと云々が、別の書に記されている。

そうして大前宿祢が皇子に申しあげていった。
「どうか太子を殺さないでください。私がお図りいたしましょう」
こうして太子は、大前宿祢の家で自殺された。一説には、伊予国に流したともいう。

治世元年十二月十四日に、穴穂皇子は即位された。
先の皇后を尊んで皇太后と申しあげ、皇太后に追号して太皇太后を贈られた。
物部木蓮子連公(もののべのいたびのむらじきみ)を大連とした。
都を石上に遷した。これを穴穂宮という。

二年春一月十七日、中蒂姫命を立てて皇后とされ、よく寵愛された。
はじめ中蒂姫命は、眉輪王(まゆわのきみ)を大草香皇子との間にお生みになっていた。そこで眉輪王は、母の縁で、父の罪を免れることになり、常に宮中で育てられた。詳しくは別の書にみえる。眉輪王は七歳であった。

三年秋八月九日、天皇は眉輪王のために殺された。ときに天皇は年五十六歳。眉輪王は七歳。
三年後、菅原伏見陵に葬った。

天皇に御子はいらっしゃらない。
 
雄略天皇
諱は大泊瀬幼武尊。允恭天皇の第五子である。
天皇がお生まれになったとき、神々しい光が御殿に満ちた。成長されてから、そのたくましさは人に抜きん出ていた。

先の天皇の治世三年八月、安康天皇は、湯浴みをしようと思われ、山の宮においでになった。
そして、楼(たかどの)に登られて眺めわたされた。酒を持ってこさせ、宴をされた。そして、心くつろがれて楽しさが極まり、いろいろな話を語り出されて、ひそかに皇后に仰せられた。
「妻よ、あなたとは仲むつまじくしているが、私は眉輪王を恐れている」

眉輪王は幼くて、楼の下でたわむれ遊んでいて、すべてその話を聞いてしまった。
そのうち、安康天皇は、皇后の膝を枕にして昼寝をしてしまわれた。
そこで、眉輪王は、その熟睡しているところを伺って、刺し殺してしまった。

この日、大舎人が走って、天皇(雄略)に申しあげた。
「安康天皇は、眉輪王に殺されました」

天皇は大いに驚いて、自分の兄達を疑われて、甲(よろい)をつけ、太刀を佩き、兵を率いて、みずから将軍となって、八釣白彦皇子を責め問いつめられた。皇子は危害を加えられそうなのを感じて、ただ座って声も出せなかった。
天皇は即座に刀を抜いて、斬ってしまわれた。

また、坂合黒彦皇子を問い責められた。皇子もまた、害されそうなのに気づいて、すわったまま物をいわれなかった。

天皇はますます怒り狂われた。
そして、眉輪王もあわせて殺してしまおうと思われたので、事の訳を調べ尋ねられた。眉輪王は申しあげた。
「私は皇位を望んだのではありません。ただ、父の仇を報いたかっただけです」

坂合黒彦皇子は深く疑われることを恐れて、ひそかに眉輪王と語り、ついに共に隙をみて、円大臣(つぶらのおおみ)の家に逃げこんだ。
天皇は使いを遣わせて、引き渡しを求められた。大臣は使いを返して申しあげた。
「人臣が、事あるときに逃げて王宮に入るということは聞きますが、いまだ君主が臣下の家に隠れるということを知りません。まさに今、坂合黒彦皇子と眉輪王は、深く私の心をたのみとして、私の家に来られました。どうして強いて差し出すことができましょうか」

これによって、天皇はまた、ますます兵を増やして、大臣の家を囲んだ。
大臣は庭に出て立たれて、脚結を求めた。
大臣の妻は脚結を持ってきて、悲しみに心もやぶれ、歌っていうには[云々と別の書にある]。

大臣は装束をつけ、軍門に進み出て拝礼し、申しあげた。
「私は誅されようとも、あえて命を受けたまわることはないでしょう。古の人もいっています。“賤しい男の志も奪うことは難しい”とは、まさに私にあたっています。伏して願がわくは、私の娘・韓媛(からひめ)と、葛城の領地七ヶ所を献上し、罪をあがなうことをお聞きいれください」

天皇は許されないで、火をつけて家をお焼きになった。
ここに、大臣と黒彦皇子、眉輪王はともに焼き殺された。
ときに、坂合部連贄子宿祢(さかいべのむらじにえこすくね)は、黒彦皇子の亡き骸を抱いて、ともに焼き殺された。
その舎人たちは、焼けた遺体を取り収めたが、骨を選び分けるのが難しかった。ひとつの棺に入れて、新漢(いまきのあや)の擬本(つきもと)の南丘に合葬した。

冬十月一日、天皇は安康天皇が、かつて、従兄弟の市辺押磐皇子に皇位を伝え、後事をゆだねようと思われたのを恨んだ。人を市辺の押磐皇子のもとへ遣わし、偽って狩りをしようと約束して、野遊びを勧めて仰せられた。
「近江の佐々城山君・韓袋がいうには、“今、近江の来田綿の蚊屋野に、猪や鹿がたくさんいます。その頂く角は枯れ木の枝に似ています。その集まった脚は、灌木のようで、吐く息は朝霧に似ています”と申している。できれば皇子と初冬の風があまり冷たくないときに、野に遊んでいささか心を楽しんで、巻狩りをしたい」
市辺押磐皇子は、そこで勧めに従って、狩りに出かけた。

このとき大泊瀬天皇は、弓を構えて馬を走らせだまし呼んで、「猪がいる」と仰って、市辺押磐皇子を射殺してしまわれた。
皇子の舎人・佐伯部売輪(さえきべのうるわ)は、皇子の亡き骸を抱き、驚きなすすべを知らなかった。叫び声をあげて、皇子の頭と脚の間を行き来した。
天皇はこれを皆殺した。

治世元年十一月十三日、天皇は司に命じられて、即位のための壇を泊瀬の朝倉に設け、皇位に即かれた。宮を定めて、朝倉宮といった。

二年丁酉の春三月三日、草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)を立てて皇后とされた。
妃の葛城円大臣の娘を、韓媛という。白髪武広国押稚日本根子皇子尊(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのみこのみこと:清寧天皇)と、稚足姫皇女(わかたらしひめのひめみこ)とをお生みになった。
つぎの妃、吉備上道臣の娘の稚姫(わかひめ)は、二男を生んだ。兄を磐城皇子(いわきのみこ)といい、弟を星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)という。
つぎの妃を、春日和珥臣深目(かすがのわにのおみふかめ)の娘の童女君(おみなぎみ)という。春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)を生んだ。

平群真鳥臣(へぐりのまとりのおみ)を大臣とし、大伴連室屋(おおとものむらじむろや)と物部連目(もののべのむらじめ)を大連とした。
二十二年春一月一日、白髪皇子を立てて皇太子とし、物部布都久留連公(もののべのふつくるのむらじきみ)を大連とした。

二十三年己巳の秋八月七日、天皇は病いよいよ重く、百官と別れのことばを述べられ、手を握って嘆かれた。
大殿において崩御された[ときに年百二十四歳]。
御陵は河内の多治比高鷲原にある。

天皇がお生みになった御子は、三男二女。
白髪武広国押稚日本根子皇子尊、次に稚足皇女[伊勢大神に侍り祀った]。次に磐城皇子。次に星川皇子。次に春日大娘皇女。

清寧天皇
諱は白髪武広国押稚日本根子皇子尊。雄略天皇の第三子である。
母を葛城韓媛といい、葛城円大臣の娘である。
天皇は、生まれながらにして白髪であった。成長されてからは、人民をいつくしまれた。雄略天皇の多くの子の中で、特にふしぎな、変わったところがあった。

先の天皇の治世二十二年、白髪武広国押稚日本根子皇子を立てて、皇太子とされた。
二十三年八月に、雄略天野が崩御された。

雄略天皇の妃の吉備稚媛は、ひそかに幼い星川皇子に語っていった。
「皇位に登ろうと思うのなら、まず大蔵の役所を取りなさい」
長子の磐代皇子は、母夫人がその幼い皇子に教える言葉を聞いて仰せられた。
「皇太子は我が弟であるけれども、どうして欺くことができようか。してはならないことだ」

星川皇子はこれを聞かないで、たやすく母夫人の意に従い、ついに大蔵の役所を取った。
外門を閉ざし固めて、攻撃に備えた。権勢をほしいままにし、官物を勝手に使った。

大伴室屋大連は、東漢掬直(やまとのあやのつかのあたい)にいった。
「雄略天皇の遺詔のことが、今やって来ようとしている。遺詔にしたがって皇太子を奉じなければならない」
そうして兵士を動かして大蔵を取り囲んだ。

外から防ぎ固めて、火をつけて焼き殺した。
このとき、吉備稚媛と磐城皇子の異父兄の兄君と、城丘前来目(きのおかさきのくめ)も星川皇子と共に焼き殺された。

この月、吉備上道臣らは、朝廷に乱ありと聞いて、吉備の姫に所生の星川皇子を救おうと思い、船軍四十艘を率いて海上にやって来たが、すでに皇子が焼き殺されたと聞いて、海路を帰った。
天皇は使いを遣わして、上道臣らを咎め、その管理していた山部を召し上げられた。

冬十月四日、大伴室屋大連は、臣・連たちを率いて、皇位のしるしを太子に奉った。

治世元年春一月十五日、司に命じて、壇を磐余の甕栗(みかくり)に設け、即位された。宮を定め、甕栗宮といった。
葛城韓媛を尊んで、皇太夫人とした。葛城円大臣の娘である。
大伴室屋大連と平群真鳥大連(へぐりのまとりのおおむらじ)を大連に任じることは元の通りであった。臣、連、伴造らも、それぞれもとの位のままお仕えした。
冬十月九日、雄略天皇を丹比高鷲原陵に葬った。

二年冬十一月、大嘗祭の供物を調えるため、播磨国に遣わした使者、山部連の祖・伊予来目部小楯(いよのくめべのおたて)が、赤石郡において縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)である忍海部造細目(おしぬみべのみやつこほそめ)の家の新築の宴で、市辺押磐皇子の子の億計、雄計を見出した。この方たちを、君としてあがめ奉ろうと思い、大いに謹んで養い、私財を供して柴宮を立てて、仮にお住みいただいた。早馬を走らせ、天皇にお知らせした。
天皇は驚き、歎息してしばらく悼まれてから仰せられた。
「めでたいことだ、悦ばしいことだ。天は大きな恵みを垂れて、二人の子を賜った」
このことは、顕宗天皇の記にある。

三年春一月一日、小楯は億計・雄計を奉じて摂津国にきた。臣・連にしるしを持たせて、王の青蓋車にお乗せして、宮中に迎え入れられた。
夏四月二十七日に、億計王を皇太子とし、雄計王を皇子とした。

秋七月、飯豊皇女が角刺宮で、はじめて男と交合をされた。人に語って仰せられた。
「人並みに女の道を知ったが、別に変わったこともない。今後は男と交わりたいとは思わない」

五年春一月十六日に、天皇は宮で崩御された。
冬十一月九日に、河内の坂戸原陵に葬った。

天皇に御子はいらっしゃらない。
 
顕宗天皇
諱は雄計皇子尊。履中天皇の孫で、市辺押磐皇子の子である。またの名を来目稚子(くめのわくご)という。
雄計王の母は荑媛(はえひめ)といい、蟻臣の娘である。その蟻臣は葦田宿祢の子である。
『譜第』に、市辺押磐皇子は荑媛を娶って、三男二女を生んだという。第一を居夏媛(いなつひめ)という。第二を億計(おけ)王、またの名を嶋稚子、またの名を大石尊という。第三を雄計王、またの名を来目稚子という。第四を飯豊(いいどよ)女王、またの名を忍海郎女王(おしぬみのいらつめのきみ)という[ある書では、億計王の上に入れている]。第五を橘王という。
天皇は長く辺境の地にいらっしゃって、人民の憂い苦しみをよく知っておられた。常に虐げられるものを見ては、自分の身体を溝に投げ入れられるように感じられた。徳を敷き、恵みをほどこして、政令をよく行われた。貧しい者に恵み、寡婦を養い、天下の人々は天皇に親しみなついた。

安康天皇の治世三年十月、天皇の父の市辺押磐皇子と、舎人の佐伯部仲子は、近江国の蚊屋野で、雄略天皇のために殺された。そのため、二人は同じ穴に埋められた。
そこで天皇(顕宗)と億計王は、父が射殺されたと聞いて、恐れてともに逃げ、身を隠された。舎人の日下部連使主と、その子の吾田彦は、ひそかに天皇と億計王を連れて難を丹波国の余社郡に避けた。
使主は名前を改めて田疾来(たとく)とした。なお殺されることを恐れて、ここから播磨の縮見山の石屋に逃れ、みずから首をくくって死んだ。
天皇は使主の行き先を知られなかった。兄の億計王を促して、播磨国の赤石郡に行き、ともに名前を変えて丹波の小子といった。縮見屯倉首に仕えた。吾田彦はここに至るまで、離れず長く従い仕えた。

清寧天皇の治世二年冬十一月、播磨国司で山部連の先祖の伊予来目部小楯が、赤石郡でみずから新嘗の供物を調えた。たまたま縮見屯倉首が新築祝いにきて、夜通しの遊宴に会った。
そのとき天皇は兄の億計王に語って仰せになった。
「わざわいをここに避けて何年にもなりました。名を明かして尊い身分であることを知らせるのには、今宵はちょうどいい」
億計王は、嘆きながら仰せられた。
「そうやって自分から暴露して殺されるのと、身分を隠して災いを免れるのと、どちらがよいだろう」
天皇は仰せられた。
「私は履中天皇の孫です。それなのに苦しんで人に仕えて、牛馬の世話をしている。名前を明らかにして、殺されるのなら殺されたほうがましだ」
億計王と抱き合って泣き、自分を抑えることができなかった。億計王は仰せられた。
「弟以外に、誰も大事を明かして人に示すことのできる者はいない」
天皇は否定して仰せになった。
「私は才がなく、大業を明らかにすることはできようか」
億計王が仰せられた。
「弟は賢く徳があり、これに優る人はない」
このように譲り合われること、二度三度に及んだ。ついに天皇がみずから述べられることを許され、共に部屋の外に行き、座の末席にお着きになった。
屯倉首は竈のそばに座らせて、左右に火を灯させた。夜がふけて、宴もたけなわになり、つぎつぎに舞いも終わった。
屯倉首は小楯にいった。
「私がこの火を灯す係りの者を見るに、人を尊んで己を賤しくし、人に先を譲って己を後にしています。謹み敬って節に従い、退き譲って礼節を明らかにしています。君子というべきでしょう」
小楯は琴をひき、火灯しをしていた二人に命じて、「立って舞え」といった。兄弟は譲り合ってなかなか立たなかった。
小楯は責めていった。
「何をしている。遅すぎるではないか。早く立って舞え」
億計王は立って、舞い終わった。天皇は次に立って、衣装を整え、家褒めの歌をうたわれた。

築き立つる稚室葛根、築立つる柱は、この家長の御心の鎮まりなり。
採りあぐる棟梁は、この家長の御心の林なり。
採りおける椽橑は、この家長の御心の斉なり。
採りおける蘆雚は、この家長の御心の平なるなり。
採りはべる結縄は、この家長の御寿の堅なり。
採り葺ける草葉は、この家長の御富の余りなり。
出雲は新饗。新饗の十握稲の穂。浅甕に醸める酒、美に飲喫ふるかわ。吾が子たち。脚日木のこの傍山に、牡鹿の角ささげて吾が舞いすれば、旨酒、餌香の市に、直もて買はぬ。手掌もやららに拍上げ賜つ、吾が常世たち。

築き立てる新しい室の綱、柱は、この家の長の御心を鎮めるものだ。
しっかり上げる棟や梁は、この家の長の御心をはやすものだ。
しっかり置く垂木は、この家の長の御心を整えるものだ。
しっかり置くえつりは、この家の長の御心を平らかにするものだ。
しっかり結んだ縄は、この家の長の寿命を堅くするものだ。
しっかり葺いた茅は、この家の長の富の豊かさを表すものだ。
出雲の新饗の十握の稲穂や、浅い甕に醸んだ酒を、おいしく飲食することよ、我が友達。この山の傍で、牡鹿の角のように捧げて私が舞えば、この旨い酒は、餌香市でも値段がつけられない。手を打つ音もさわやかにいただいた、我が永遠の友達よ。

家褒めが終わって、曲の節に合わせて歌っていわれた云々と別の書にある。

小楯がいった。
「これは面白い。また聞きたいものだ」
天皇はついに殊舞(たつづのまい)をされました。そして叫び声をあげて歌われた。

倭は、そそ茅原、浅茅原、弟日、僕らま。
倭はそよそよとした茅の原。その浅茅原の弟王だ、私は。

小楯はこれによって深く怪しみ、さらに歌わせた。天皇はまた叫び歌われた。

石上振るの神杉。本伐り末おしはらい、市辺宮に、天下治しし、天万国万押磐尊の御裔、僕らま是なり。
石上の布留の神杉を本を伐り末を押し払うように威を現した、市辺宮で天下をお治めになった押磐尊の御子であるぞ、私は。

小楯は大いに驚いて席を離れ、いたみいりながら再拝申しあげた。一族を率いて謹みお仕えし、ことごとく郡民を集めて宮造りに従った。日ならずして出来た宮に、仮にお入りいただき、都に申しあげて、二人の王をお迎えいただくように求めた。

清寧天皇はこれを聞いてお喜びになり、感激して仰せになった。
「自分には子がない。これを後継ぎとしよう」
そうして大臣・大連と策を禁中に定め、播磨国司の来目部小楯にしるしを持たせて、左右の舎人をつれて明石に行き、お迎えさせた。

清寧天皇三年春一月、天皇は兄の億計王に従って、摂津国においでになった。臣・連がしるしを捧げ、青蓋車にお乗りになって、宮中にお入りになった。
夏四月、億計王を立てて皇太子とし、天皇を皇子とした。

五年一月、清寧天皇は崩御された。
ときに、皇太子億計王と天皇とが皇位を譲りあわれて、長らく位につかれなかった。このため天皇の姉の飯豊青皇女が、忍海角刺宮で仮に朝政をご覧になった。みずから忍海飯豊青尊と称された。
冬十一月、飯豊青尊は崩御された。葛城埴口丘陵に葬った。

十二月、百官が集った。億計皇太子は、天皇のしるしを天皇の前に置かれた。再拝して臣下の座について仰せられた。
「この天子の位は、功のあった人が居るべきです。尊い身分であることを明らかにして、迎え入れられたのはみな弟の考えによるものです」
そして天下を天皇に譲られた。天皇は弟であるからと、あえて位につかれなかった。
また、清寧天皇がまず兄に伝えようと思われて、皇太子に立てられたことをおっしゃって、何度も固く辞退して仰せになった。
「太陽や月が昇って、灯りをつけておくと、その光はかえって災いとなるでしょう。恵みの雨が降って、その後もなお水をそそぐと、無意味につかれることになります。人の弟として尊いところは、兄によく仕えて、兄が難をのがれられるように謀り、兄の徳を照らし、紛争を解決して、自分は表に立たないことにあります。もし表面に立つことがあれば、弟として恭敬の大義にそむくことになります。私はそんな立場にいるが忍びない。兄が弟を愛し、弟が兄を敬うのは、常に変わらない定めです。私は古老からこのように聞いています。どうしてひとりでみずから定めを軽んじられましょう」

億計皇太子が仰せられた。
「清寧天皇は、私が兄だからと天下の事をまず私にさせなさったが、自分はそれを恥ずかしく思います。思えば大王がはじめに、たくみに逃れる道をたてられたとき、それを聞くものはみな歎息しました。帝の子孫であることを明らかにしたときには、見る者は恐懼のあまり涙を流しました。心配に耐えなかった百官たちは、天をともに頂く喜びを感じました。哀しんでいた人民は、喜んで大地をふんで生きる恩を感じました。これによって、よく四方の隅までも固めて、長く万代に国を栄えさせるでしょう。その功績は天地の万物を創造した神に近く、清明なお考えは、世を照らしています。その偉大さは何とも表現しがたいことです。ですから、兄だからといって、先に位につくことができましょうか。功あらずして位にあるときは、咎めや悔いが必ずやってくるでしょう。天皇の位は長く空けてはならないと聞いています。天命は避け防ぐことはできません。大王は国家を経営し、人民のことをその心としてください」
言葉を述べるうちに、激して涙を流されるに至られた。

天皇はそこに居るまいと思われたが、兄の心に逆らえないと思われ、ついにお聞き入れになった。けれどもまだ御位にはつかれなかった。
世の人は、心からよくお譲りになったことを美しいこととして、「結構なことだ、兄弟が喜びやわらいで、天下は徳によっている。親族が仲睦まじいと、人民にも仁の心が盛んになるだろう」といった。

治世元年春一月一日、大臣・大連らが申しあげた。
「億計皇太子は聖明の徳が盛んで、天下をお譲りになりました。陛下は正統でいらっしゃいます。日嗣の位を受けて、天下の主となり、皇祖の無窮の業を受け継いで、上は天の心に沿い、下は人民の心を満足させてください。ですから、践祚をご承知いただけませんと、金銀を産する隣りの諸国の群僚など、遠近すべてのものが望みを失います。皇太子の推し譲られることによって、聖徳はいよいよ盛んとなり、幸いは大変明らかであります。幼いときからへりくだり敬い、いつくしみ順う御心でおられました。兄のご命令をお受けになって、大業を受け継いでください」
ついに詔をして、「ゆるす」と仰せられた。
そこで公卿百官を、近飛鳥八釣宮に召されて、天皇に即位された。お仕えする百官はみな喜んだ。甕栗宮に都を造った。
難波小野女王を皇后に立てられた。允恭天皇の曾孫・磐城王の孫、丘稚子王の娘である。
物部小前宿根を大連とされた。

三年四月二十五日、天皇は八釣宮で崩御された。

天皇に御子はいらっしゃらない。
 
仁賢天皇
億計天皇は、諱は大脚。またの名は大為(おおす)。字は嶋郎(しまのいらつこ)。顕宗天皇の同母兄である。
天皇は幼い時から聡明で、才に敏く多識であった。壮年になられてめぐみ深く、へりくだった穏やかな方であった。
安康天皇の崩御で、難を避けて丹波国の余社郡においでになった。

清寧天皇の元年冬十一月に、播磨の国司の山部連小楯(やまべのむらじおたて)が京に行き、お迎え申しあげることを求めた。清寧天皇は小楯を引き続き遣わし、しるしを持たせて左右の舎人をつけ、赤石に至り迎え奉った。
二年夏四月、仁賢天皇を立てて皇太子とされた。顕宗天皇の紀に詳らかである。
五年に清寧天皇が崩御されたことにより、天下は顕宗天皇に譲られた。皇太子であることは元のままであった。
三年夏四月に、顕宗天皇は崩御された。

元年戊辰の春一月五日に、皇太子尊は即位された。石上広高宮に都を造られた。
二月二日、以前からの妃の春日大娘皇女を立てて皇后とされた。春日大娘皇女は、雄略天皇が和珥臣の深目の娘・童女君を娶ってお生みになった方である。
皇后は、一男六女をお生みになった。第一を高橋大娘皇女(たかはしのおおいらつめのひめみこ)といい、第二を朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)といい、第三を手白香皇女(たしらかのひめみこ)[継体天皇の皇后である]といい、第四を奇日皇女(くしひのひめみこ)といい、第五を橘皇女(たちばなのひめみこ)といい、第六を小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)といい、第七を真稚皇女(まわかのひめみこ)という。
次に、和珥臣日爪の娘の糖君娘(あらきみのいらつめ)は、春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)を生んだ。

冬十月三日、顕宗天皇を傍丘磐坏陵に葬った。
七年の春正月二十三日、小泊瀬稚鷦鷯尊を立てて皇太子とされた。

十一年秋八月八日に、天皇は大殿で崩御された。
冬十月五日に、埴生坂本陵に葬った。

天皇がお生みになった御子は、一男七女。小泊瀬稚鷦鷯尊。
 
武烈天皇
諱は小泊瀬稚鷦鷯尊。仁賢天皇の皇太子である。母を春日大娘という。
仁賢天皇の治世七年に、立って皇太子になられた。

天皇は長じて裁きごとや処罰を好まれ、法令に詳しかった。日の暮れるまで政務に励まれ、知らないでいる無実の罪などは、必ず見抜いて明らかにされた。訴えを処断されることが上手であった。
また、しきりにいろいろな悪事をなされた。一つも良いことを修められず、およそさまざまの極刑を親しくご覧にならないことはなかった。国中の人民はみな震え恐れた。

十一年八月に、仁賢天皇が崩御された。
治世元年冬十一月十一日、皇太子は司に命じて壇を泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)に設けて、即位された。そしてここを定めて都とし、列城宮といった。
二年己卯の春三月二日、春日娘女を立てて皇后とされた。物部麻佐良連公(もののべのまさらのむらじのきみ)を大連とした。

八年の冬十二月八日に、天皇は列城宮で崩御された。

天皇に御子はいらっしゃらない。 
 
巻第九 帝皇本紀 

 

継体天皇
諱は男大迹天皇(おほどのすめらみこと)。またの名を彦太尊は、応神天皇の五世孫で、彦主人王(ひこうしのきみ)の子である。
母を振媛(ふるひめ)という。振媛は垂仁天皇の七世孫である。天皇の父は、振媛が容貌端正ではなはだ美人であることを聞いて、近江国高島郡の三尾の別邸から、使いを遣わして越前国三国の坂中井に迎え、召しいれて妃とされた。そして天皇をお生みになった。
天皇が幼年のうちに、父王は亡くなった。振媛は嘆いていった。
「私はいま、遠く故郷を離れてしまいました。どうやってよく天皇を養いたてまつることができましょうか」
成人された天皇は、人を愛し賢人を敬い、心が広く豊かでいらっしゃった。

武烈天皇は八年冬十二月八日に崩御されたが、もとより男子も女子もなく、跡継が絶えてしまうところであった。
大伴金村大連が皆にはかっていった。
「いま絶えて継嗣がない。天下の人々はどこに心をよせたらよいであろう。古くから今に至るまで、禍はこういうことから起きている。仲哀天皇の五世孫の、倭彦王が丹波国桑田郡にいらっしゃる。試みに兵士を遣わし、御輿をお守りしお迎えして、大王として奉ろう」
大臣・大連らは皆これに従い、計画のごとくお迎えすることになった。
ところが倭彦王は、遥かに迎えに来た兵士を望んで恐れ、顔色を失った。そして山中に逃れて行方がわからなくなってしまった。

元年丁亥の春一月四日、大伴金村大連はまたはかっていった。
「男大迹王は、ひととなりが情け深く親孝行で、皇位を継がれるのに相応しいかたである。ねんごろにお勧め申しあげて、皇統を栄えさせようではないか」
物部麁鹿火大連(もののべのあらかいのおおむらじ)、許勢男人大臣(こせのおひとのおおみ)らは皆いった。
「皇孫を調べ、選んでみると、賢者は確かに男大迹王だけらしい」

六日に臣・連たちを遣わし、しるしを持って御輿を備え、三国にお迎えに行った。
兵士が囲み守り、容儀いかめしく整え、先ばらいして到着すると、男大迹天皇はいつもどおり落ち着いて床几にかけておられた。侍臣を整列させて、すでに天子の風格を具えておられた。しるしをもった使いたちは、これを見てかしこまり、心を傾け、命を捧げて忠誠を尽くすことを願った。
しかし、天皇はこの願いに裏のあることを、なお疑われて、すぐには承知されなかった。
天皇は、たまたま河内馬飼首の荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)をご存知であった。荒籠は密かに使いを差し上げて、詳しく大臣・大連らがお迎えしようとしている本意をお伝えした。
使いは二日三晩留まっていて、ついに天皇は立たれることになった。そして歎息して仰せられた。
「よかった、馬飼首よ。もしお前が使いを送って知らせてくれることがなかったら、私は天下の笑いものになるところだった。世に“貴賎を論ずることなく、ただその心だけを重んずるべし”というのは、思うに荒籠のようなものをいうのであろう」
皇位につかれてから、厚く荒籠を寵愛された。
十二日に天皇は樟葉宮においでになられた。

二月四日、大伴金村大連はひざまずいて、天子の御しるしである鏡と剣を奉って拝礼した。男大迹天皇は辞退して仰せられた。
「民をわが子として国を治めることは重大な仕事である。自分は才能がなく、天子を称するには力不足である。どうかよく考えて、真の賢者を選んでほしい。自分では到底できないから」
大伴大連は地に伏して固くお願いした。男大迹天皇は西に向かって三度、南に向かって二度、辞譲の礼を繰り返された。大伴大連らは皆願い申しあげた。
「臣らが伏して計るに、大王は民をわが子同様に思って国を治められる、最も適任のかたです。私達は国家のため、思い図ることを決しておろそかに致しません。どうか多数の者の願いをお聞き入れください」
男大迹天皇は仰せになった。
「大臣・大連・将相・諸臣すべてが私を推すのであれば、私も背くわけにはいかない」
そして天子の御しるしを受けられて天皇に即位された。また、皇妃を尊んで皇大夫人媛とされた。

十日、大伴大連が奏請して申しあげた。
「臣が聞くところでは、古来の王が世を治められるのに、確かな皇太子がおられないと、天下をよく治めることができず、睦まじい皇妃がないと、よい子孫を得る事ができない、といいます。その通り清寧天皇は、跡継がなかったので、私の祖父の大伴大連室屋を遣わせて、国ごとに三種の白髪部を置かせ、ご自分の名を後世に残そうとされました。何といたましいことではありませんか。どうか手白香皇女を召して皇后とし、神祇伯らを遣わして、天神地祇をお祭りし、天皇の御子が得られるようにお祈りして、人民の望みに答えてください」
天皇は「よろしい」と仰せられた。

三月一日、詔して仰せられた。
「天神地祇を祀るには神主がなくてはならず、天下を治めるには君主がなくてはならない。天は人民を生み、元首を立てて人民を助け養わせ、その生を全うさせる。大連は朕に子の無いことを心配し、国家のために世々忠誠を尽している。単に朕の世だけのことではない。礼儀を整えて手白香皇女をお迎えせよ」
甲子の日、手白香皇女を立てて皇后とし、後宮に関することを修められた。
そして皇后との間に、一人の男子をお生みになった。天国排開広庭尊(あまくにおしはららきひろにわのみこと:欽明天皇)である。この方が嫡子であるが、まだ幼かったので、二人の兄が国政を執られた後に、天下を治められた。二人の兄とは、兄が広国排武金日尊(ひろくにおしたけかなひのみこと:安閑天皇)、次が武小広国押盾尊(たけおひろくにおしたてのみこと:宣化天皇)である。

十四日、八人の妃を後宮に召し入れられた。それぞれの妃に前後があるが、この日に入れられるのは、即位をされ良い日を占い選んで、はじめて後宮に定められたので、文をつくったのである。他も皆これにならっている。

初めの妃、尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘を目子媛(めのこひめ)という。二人の子を生んだ。兄を勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)で、広国排武金日尊と申しあげる。次を檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)で、武小広国押盾尊と申しあげる。
次の妃、三尾角折君(みおのつのおりのきみ)の妹を稚子媛(わかこひめ)といい、一男一女を生んだ。大郎皇子(おおいらつこのみこ)と出雲皇女(いずものひめみこ)である。
次の妃に、坂田大跨王(さかたのおおまたのきみ)の娘の広媛(ひろひめ)は、三女を生んだ。神前皇女(かむさきのひめみこ)、茨田皇女(まむたのひめみこ)、馬来田皇女(うまくたのひめみこ)である。
次の妃、息長真手王(おきながのまてのきみ)の娘の麻積娘子(おみのいたつめ)は、一女を生んだ。荳角皇女(ささげのひめみこ)である。皇女は伊勢大神を斎き祀った。
次の妃、茨田連小望(まむたのむらじこもち)の娘を関媛(せきひめ)といい、三女を生んだ。茨田大娘皇女(まむたのおおいらつめのひめみこ)、白坂活日姫皇女(しらさかのいくひひめのひめみこ)、小野稚娘皇女(おののわかいらつめのひめみこ)である。
次の妃、三尾君堅拭(みおのきみかたひ)の娘を倭媛(やまとひめ)といい、二男二女を生んだ。大娘子皇女(おおいらつめのひめみこ)、椀子皇子(まろこのみこ)、耳皇子(みみのみこ)、赤姫皇女(あかひめのひめみこ)である。
次の妃、和珥臣河内(わにのおみかわち)の娘を荑媛(はえひめ)といい、一男二女を生んだ。稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ)、円皇女(つぶらのひめみこ)、厚皇子(あつのみこ)である。
次の妃、根王の娘の広媛は、二男を生んだ。兄が菟皇子(うさぎのみこ)、次が中皇子(なかつみこ)である。

二年の冬十月三日に、武烈天皇を傍丘磐坏丘陵に葬った。
五年の冬十月、都を山背に遷し、筒城宮といった。
八年の春一月、勾大兄皇子に命じていわれた。
「春宮にいて、朕を助けて仁愛を施し、政事を補え」
二十八年春二月、天皇の病は重く、磐余玉穂宮で崩御された。年八十二歳。
冬十二月五日に、藍野陵に葬った。

天皇がお生みになった御子は八男十二女。
皇子女の名は上の文に明らかなので、さらにまた記すことはしない。
兄に勾大兄広国排武金日尊。次に檜隈高田武小広国押盾尊。次に荳角皇女。皇女は伊勢大神を斎き祀った。
 
安閑天皇
諱は広国押武金日尊。継体天皇の長子である。
母を目子媛といい、尾張連草香の娘である。
天皇の人となりは幼少のころから器量すぐれ、はかることができないほどであった。いつまでも奢らず寛大で、人君としてふさわしい人柄であった。
先の天皇の治世二十五年の春二月七日に、継体天皇は大兄を立てて天皇とされた。その日に継体天皇は崩御された。

治世元年甲寅の春正月に、都を倭の勾に遷した。金橋宮という。
三月六日、役人に命じて、即位された。
春日山田皇女をむかえて皇后とされた。皇后のまたの御名は山田赤見皇女。仁賢天皇の皇女である。
別に三人の妃を立てた。許勢男人大臣の娘の紗手媛(さてひめ)。紗手媛の妹の香香有媛(かかりひめ)。物部木蓮子大連の娘の宅媛(やかひめ)である。

二年の冬十二月十七日に、天皇は、勾金橋宮で崩御された[年七十歳]。
この月、天皇を河内の古市高屋丘陵(ふるいちのたかやのおかのみささぎ)に葬った。皇后春日山田皇女と、天皇の妹の神前皇女も、この陵に合葬した。

天皇に御子はいらっしゃらない。
 
宣化天皇
諱は武小広国押盾尊。継体天皇の第二子で、安閑天皇の同母弟である。
二年十二月、安閑天皇は崩御されたが、跡継がなかった。
群臣達が奏上して、神器の鏡剣を武小広国押盾尊に奉った。
治世元年丁巳に即位され、天皇の元年とされた。
天皇のひととなりは、清らかで心がすっきりとしていらっしゃった。才智で人に対して驕り王者ぶる顔をされることがなく、君子らしい方であった。

二年の春正月に、都を檜隈(ひのくま)に遷し、廬入宮(いおりのみや)といった。
三月一日、役人たちは皇后を立てていただきたいと申しあげた。
それに答え詔して仰せられた。
「以前からの正妃の、仁賢天皇の娘・仲皇女を立てて皇后としたい」
皇后は一男三女をお生みになった。長女を石姫皇女(いしひめのひめみこ)。次を小石姫皇女(こいしひめのひめみこ)。次を稚綾姫皇女(わかやのひめみこ)。次を上殖葉皇子(かみつうえはのみこ)といい、またの名を椀子(まろこ)といった。
前からの庶妃の大河内稚子姫(おおしこうちのわくこひめ)は、火焔皇子(ほのおのみこ)を生んだ。

三年の春二月十日、天皇は廬入宮で崩御された[年七十三歳]。
冬十一月十七日、天皇を大倭国の身狭の桃花鳥坂上陵(つきさかのうえのみささぎ)に葬った。皇后の橘仲皇女と、その孺子をこの陵に合葬した。孺子は成人せずに亡くなったものか。

天皇がお生みになったのは二男三女。
長女を石姫皇女。次に小石姫皇女。次に稚綾姫皇女。次に上殖葉皇子、またの名を椀子[丹比・椎田君の祖]。次に火焔皇子[偉那君(いなのきみ)の祖]。
 
欽明天皇
諱は天国排開広庭尊。継体天皇の嫡子である。
母を手白香皇后といい、清寧天皇の皇女である。
父の天皇は、この皇子を可愛がって常にそばに置かれた。

まだ幼少のとき、夢に人が現れて申しあげた。
「天皇(欽明)が秦大津父(はたのおおつち)という者を寵愛されれば、壮年になって必ず天下を治められるでしょう」
夢がさめて、驚いて使いを遣わし、広く探されたら山背国紀伊郡の深草里にその人を見つけた。名前は果たして見られた夢のとおりであった。珍しい夢であると喜ばれ、大津父に告げて仰せられた。
「お前に何か思い当たることはあるか」
答えて申しあげた。
「特に変わったこともございません。ただ、私が伊勢に商いに行き、帰るとき、山の中で二頭の狼が咬み合って、血まみれになっているのに出会いました。そこで馬をおりて、手を洗い口をすすいで祈請し、“あなた方は恐れ多い神であるのに、荒々しい行いを好まれます。もし猟師に出会えば、たちまち捕らえられてしまうでしょう”といいました。そして咬み合うのをおしとどめて、血にぬれた毛を拭き、洗って逃がし、命を助けてやりました」
天皇は仰せられた。
「きっとこの報いだろう」
そうして大津父を近くに侍らせて、手厚く遇された。大津父は大いに富を重ねることになったので、皇位につかれてからは、大蔵卿に任じられた。

宣化天皇の治世四年冬十月、先の天皇は崩御された。
天国排開広庭皇子尊は、群臣に命じて仰せられた。
「自分は年若く知識も浅くて、政事に通じない。山田皇后は政務に明るく慣れておられるから、皇后に政務の決裁をお願いしなさい」
山田皇后は恐れかしこまって辞退され申しあげられた。
「私は山や海も及ばぬほどの恩寵をこうむっております。様々な政事の難しいことは、婦女の預かれるところではありません。今、皇子は老人を敬い、幼少の者を慈しみ、賢者を尊んで、日の高く昇るまで食事もとらず、士(ひと)をお待ちになります。また幼いときから抜きんでてすぐれ、声望をほしいままにし、人となりは寛容で、あわれみ深くいらっしゃいます。諸臣よ、早く天下に光を輝かせていただくようにお願いしなさい」

治世元年己未の冬十二月五日に、皇太子は即位された。
先の皇后を尊んで皇太后と申しあげ、皇太后を尊んで太皇太后の号を贈られた。
物部尾輿連公(もののべのおこしのむらじきみ)を大連にし、物部目連公(もののべのめのむらじきみ)を大臣とされた。

二年春一月十五日、役人たちは皇后を立てるようにとお願いした。天皇は詔して仰せられた。
「前からの正妃である宣化天皇の娘の石姫を立てて皇后としよう」
皇后は二男一女をお生みになった。長子を箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつのおおえのみこ)といい、次を訳語田渟中倉太珠敷尊(おさたのぬなくらのふとたましきのみこと)といった。一番下を笠縫皇女(かさぬいのひめみこ)といい、またの名を狭田毛皇女(さたけのひめみこ)という。

秋七月十四日、都を磯城に遷し、金刺宮(かなさしのみや)といった。

三年の春二月、五人の妃を召し入れられた。
前からの妃で皇后の妹を、稚綾姫皇女(わかあやひめのひめみこ)といい、一男を生んだ。石上皇子(いそのかみのみこ)である。
次の妃で皇后の妹を、日影皇女(ひかげのひめみこ)という。倉皇子(くらのみこ)を生んだ。
次の妃、堅塩姫(きたしひめ)は七男六女を生んだ。蘇我大臣稲目宿祢の娘である。第一を大兄皇子といい、橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)という。第二を磐隈皇女(いわくまのひめみこ)といい、またの名は夢皇女(ゆめのひめみこ)である[はじめは天照大神を祀り仕え、後に茨木皇子と通じて任を解かれた]。第三を臘嘴鳥皇子(あとりのみこ)という。第四を豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)という。第五を椀子皇子(まろこのみこ)という。第六を大宅皇女(おおやけのひめみこ)という。第七を石上部皇子(いそのかみべのみこ)という。第八を山背皇子(やましろのみこ)という。第九を大伴皇女(おおとものひめみこ)という。第十を桜井皇子(さくらいのみこ)という。第十一を肩野皇女(かたののひめみこ)という。第十二を橘本稚皇子(たちばなのもとのわかのみこ)という。第十三を舎人皇女(とねりのひめみこ)という。
次の妃で堅塩姫の同母妹である小姉君(おあねのきみ)は、四男一女を生んだ。第一を茨木皇子(うまらきのみこ)という。第二を葛城皇子(かずらきのみこ)という。第三を泥部穴穂部皇子(はしひとのあなほべのみこ)という。第四を泥部穴穂皇女(はしひとのあなほのひめみこ)という。第五を泊瀬部皇子(はつせべのみこ)という。

十五年の春一月七日、渟名倉太珠敷尊を立てて皇太子とされた。
三十二年の夏四月十五日に、天皇は病に臥せられた。皇太子は他に赴いて不在だったので、駅馬を走らせて呼び寄せた。大殿に引き入れて、その手を取り、詔して仰せられた。
「自分は重病である。後のことをお前にゆだねる。お前は新羅を討って、任那を封じ建てよ。またかつてのように両者が夫婦のような間柄になるなら、死んでも思い残すことはない」
天皇はついに大殿で崩御された。時に年は若干。
五月、河内の古市に殯した。九月、檜隈坂合陵(ひのくまのさかいのみささぎ)に葬った。

天皇のお生みになった皇子女は二十三人で、うち男子が十五人、女子が八人である。
 
敏達天皇
諱は渟中倉太珠敷尊。欽明天皇の第二子である。母を石姫皇后といい、宣化天皇の皇女である。
天皇は仏法を信じられず、文学や史学を好まれた。欽明天皇の治世二十九年、立って皇太子となられた。三十二年四月に、欽明天皇は崩御された。

治世元年夏四月三日、皇太子は即位された。先の皇后を尊んで皇太后といい、皇太后には太皇太后の号を贈られた。物部大市御狩連公(もののべのおおいちのみかりのむらじきみ)を大連とされた。

四年春一月九日、広姫(ひろひめ)を立てて皇后とされた。皇后は一男二女をお生みになった。第一が押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとおおえのみこ)、またの名を麻呂子皇子(まろこのみこ)。第二を逆登皇女(さかのぼりのみこ)といい、第三を莵道磯津貝皇女(うじのしつかいのひめみこ)という。
次に、春日臣仲君(かすがのおみなかつきみ)の娘の老女子(おみなこ)を立てて夫人とされた。三男一女を生んだ。第一を難波皇子(なにわのみこ)といい、第二を春日皇子(かすがのみこ)といい、第三を桑田皇女(くわたのひめみこ)といい、第四を大派皇子(おおまたのみこ)という。
次に采女で、伊勢大鹿首小熊(いせのおおかのおびとおぐま)の娘を莵名子(うなこ)夫人という。二女を生んだ。姉を大娘皇女(おおいらつめのひめみこ)、またの名を桜井皇女(さくらいのひめみこ)といい、妹を糠手姫皇女(ぬかてひめのひめみこ)、またの名を田村皇女(たむらのひめみこ)という。
この年、卜部に命じて、海部王(あまべのきみ)の家地と糸井王(いといのきみ)の家地を占わせたら結果は吉と出た。そこで、宮を沢語田(おさだ)に造り、幸玉宮(さきたまのみや)といった。

五年春三月十日、役人が皇后を立てるように申しあげた。そこで詔して、豊御食炊屋姫尊を立てて皇后とされた。皇后は二男五女をお生みになった。第一を莵道貝鮹皇女(うじのかいたこのひめみこ)といい、東宮・聖徳太子尊の妃となった。第二は竹田皇子(たけだのみこ)。第三を小墾田皇女(おはりだのひめみこ)といい、彦人大兄王に嫁いだ。第四は鸕鷀守皇女(うもりのひめみこ)、またの名を軽守皇女(かるもりのひめみこ)。第五を尾張皇子(おわりのみこ)という。

十四年秋八月十五日、天皇は大殿で崩御された。よって葬殯(もがり)をした。

天皇がお生みになった皇子女は十五人で、男子が八人、女子が七人である。
 
用明天皇
諱は橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)。欽明天皇の第四子である。母は皇后の堅塩媛という。
天皇は仏法を信じられ、神道を尊ばれた。先の天皇の治世十四年秋八月、敏達天皇が崩御された。九月五日に、天皇は即位された。磐余の地に都を造り、池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)といった。物部弓削守屋連公(もののべのゆげのもりやのむらじきみ)を大連とされ、また大臣とされた。

治世元年丙午の春一月一日、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を立てて皇后とされた。皇后は四人の男子をお生みになった。
第一を厩戸皇子(うまやとのみこ)、またの名を豊聡耳聖徳皇子(とよとみみのしょうとくのみこ)、あるいは豊聡耳法大王(とよとみみののりのおおきみ)という。あるいは法主王(のりのうしのきみ)。この皇子ははじめ、上宮にお住みになった。のち斑鳩(いかるが)に移られた。
推古天皇の御世に皇太子となられ、すべての政務を統括されて天皇の政事を行われたことは、推古天皇の記に見える。
第二を来目皇子(くめのみこ)という。三番目を殖栗皇子(えぐりのみこ)という。第四を茨田皇子(まんだのみこ)という。
蘇我大臣稲目宿祢(そがのいなめすくね)の娘の石寸名(いしきな)を嬪とされた。嬪は一男を生んだ。田目皇子(ためのみこ)、またの名を豊浦皇子(とゆらのみこ)である。
葛城直磐村(かずらきのあたいいわむら)の娘の広子(ひろこ)は、一男一女を生んだ。男子を麻呂子皇子(まろこのみこ)という。当麻公の祖である。女子は酢香手皇女(すかてのひめみこ)という。

二年夏四月二日、磐余の河上で、新嘗の祭りが行われた。この日、天皇は病にかかられて宮中に帰られた。群臣がおそばに侍った。天皇は群臣に詔して仰せられた。
「私は仏法僧の三宝に帰依したいと思う。卿らにこのことを考えてほしい」
群臣は参内して相談した。物部守屋大連と中臣勝海連(なかとみのかつみのむらじ)は勅命の会議で反対していった。
「どうして国の神に背いて、他の神を敬うのか。もとより、このようなことは聞いたことがない」
蘇我馬子宿祢大臣はいった。
「詔に従って、お助けすべきである。誰がそれ以外の相談をすることがあろうか」

九日、天皇は大殿で崩御された。
秋七月二十一日、磐余池上陵(いわれのいけのえのみささぎ)に葬った。

天皇のお生みになった皇子女は七人。男子が六人で女子が一人である。
 
崇峻天皇
諱は泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)。欽明天皇の第十二子である。母を小姉君(おあねのきみ)といい、稲目宿祢の娘である。
先の天皇の治世二年夏四月九日、用明天皇は崩御された。この時、穴穂部皇子らが謀反をおこした。
秋八月癸卯朔甲辰の日、炊屋姫尊と群臣が天皇に勧めて、即位の礼を行った。
この月に倉梯(くらはし)に宮殿を造った。

治世元年春三月、大伴糠手連(おおとものあらてのむらじ)の娘・小手子(こてこ)を立てて妃とされた。妃は一男一女を生んだ。蜂子皇子(はちこのみこ)と錦代皇女(にしきでのひめみこ)である。
四年夏四月十三日、敏達天皇を磯長陵に葬った。これは、その母の皇后の葬られていた陵である。

五年冬十月四日、猪が献上されることがあった。天皇は猪を指して仰せになった。
「いつの日にか、この猪の首を斬るように、自分が嫌いに思う人を斬りたいものだ」
多くの武器を集めることが、いつもと違っていることがあった。大伴嬪・小手子は天皇の寵愛の衰えたことを恨み、人を蘇我馬子宿祢に使いを出して告げた。
「この頃、猪が献じられることありました。天皇は猪を指差して、“猪の首を斬るように、いつの日にか、自分の思っているあの人を斬りたい”といわれました。また、内裏に多くの武器を集めておられます」
馬子宿祢は、それを聞いて驚いたという。
十日に、蘇我馬子宿祢は、天皇が仰せになったという言葉を聞いて、自分を嫌っておられることを恐れ、一族の者を招集して、天皇を弑することを謀った。
十一月三日、馬子宿祢は群臣をあざむいていった。
「今日、東国から調が献上されてくる」
そして東漢直駒を使って、天皇を弑したてまつった。
この日、天皇を倉梯岳陵に葬った。
 
推古天皇
諱は豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)は、欽明天皇の娘で、用明天皇の同母妹である。幼少のときは額田部皇女と申しあげた。容姿端麗で立ち居ふるまいにもあやまちがなかった。

十八歳のとき、敏達天皇の皇后となられた。三十四歳のとき、敏達天皇が崩御された。三十九歳の崇峻天皇五年十一月、天皇は大臣馬子宿祢(うまこのすくね)のために弑され、皇位が空いた。
群臣は敏達天皇の皇后である額田部皇女に、皇位を嗣がれるように請うたが、皇后は辞退された。百官が上奏文をたてまつって、なおもおすすめしたので、三度目になって、ついに従われた。そこで皇位の印である神器をたてまつって、冬十二月八日に、皇后は豊浦宮(とゆらのみや)で即位された。

治世元年の夏四月十日、厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)を立てて皇太子とされ、摂政として国政をすべて任せられた。
太子は用明天皇の第二子で、母の皇后を穴穂部間人皇女と申しあげる。母の皇后はご出産予定日に、禁中を巡察して諸官司をご覧になっていたが、馬司のところにおいでになったとき、厩の戸にあたられた拍子に、難なく出産された。太子は生まれながらにものをいわれ、聖人のような知恵をお持ちであった。成人してからは、一度に十人の訴えをお聞きになっても、誤られることなく、先の事までよく見通された。また、仏法を高麗の僧・慧慈(えじ)に習い、儒教の経典を覚(かくか)博士に学ばれた。そしてことごとくそれをお極めになった。
父の天皇が可愛がられて、宮殿の南の上宮(かみつみや)に住まわせられた。そこでその名をたたえて、上宮厩戸豊聡耳太子と申しあげる。

秋九月、用明天皇を河内磯長陵(かわちのしながのみささぎ)に改葬した。

二年の春三月一日、皇太子と大臣に詔して、仏教の興隆を図られた。このとき、多くの臣・連たちは主君や親の恩に報いるため、きそって仏舎を造った。これを寺という。

九年春二月、皇太子ははじめて宮を斑鳩(いかるが)に建てられた。

十一年十二月五日、はじめて冠位十二階を制定した。それぞれ適当な位が定められた。
十二年の春一月一日に、はじめて冠位を諸臣に賜り、それぞれ位づけされた。
夏四月三日、皇太子はみずから十七条憲法を作られた。

十三年冬十月に皇太子は斑鳩宮に移られた。

十五年秋七月三日、大礼小野臣妹子(おののおみいもこ)を大唐に遣わした。鞍作福利(くらつくりのふくり)を通訳とした。これが、唐の国に遣使する始めである。
十六年夏四月、小野妹子は大唐の国から帰国した。唐では妹子臣を名づけて、蘇因高(そいんこう)と呼んだ。
大唐の使者・裴世清(はいせいせい)と下客十二人が妹子臣に従って筑紫についたと別の書にある。

秋九月十一日、唐からの客人・裴世清は帰ることになった。そこでまた大仁小野妹子臣を大使とし、小仁吉志雄成(きしのおなり)を小使とし、小礼福利を通訳として随行させた。
物部鎌姫大刀自連公(もののべのかまひめのおおとじのむらじきみ)を参政とした。
十七年秋九月、小野妹子らは大唐から戻った。

二十年春二月二十日、皇太夫人堅塩媛(きたしひめ)を檜隈大陵(ひのくまのおおみささぎ)に改葬した。
この日、軽の街中で誄(しのびごと)をたてまつった。第一に阿部内臣鳥(あべのうちのおみとり)が天皇のお言葉を読みたてまつり霊に物をお供えした。お供えした物は祭器、喪服の類いが一万五千種もあった。第二に諸皇子が序列に従ってそれぞれ誄され、第三に中臣宮地連烏摩侶(なかとみのみやところのむらじおまろ)が大臣の言葉を誄した。第四に馬子大臣が多数の支族らを率いて、境部臣摩利勢(さかいべのおみまりせ)に氏姓のもとについて誄を述べさせた。
時の人は、「摩利勢、鳥摩侶の二人はよく誄を述べたが、鳥臣だけはよく誄をすることができなかった」といった。

二十二年夏六月十三日、大仁矢田部御嬬連公(やたべのみつまのむらじきみ)に詔して、姓を改め造とした。そうして大唐への使いに遣わした。また、大礼犬上君御田鍬(いぬがみのきみみたすき)を小使として遣わした。
物部恵佐古連公(もののべのえさこのむらじきみ)を大連とした。
二十三年秋九月、矢田部造御嬬、犬上御田鍬らが大唐から戻った。

二十七年冬三日、太子が定めて仰せられた。
「君に仕えることに忠を尽くす臣を探せば、まさに両親を愛しむ子と同じである。なぜなら、父は天であり、天に従うことを孝という。また、君は日であり、君に従うことを忠という。その后は月であり、また母である。ゆえにこれに従うのは臣といい、また親に従うことをいう。孝経に“忠臣を求めるならば、必ず孝行息子のいる家にいる”という。これは孝の道から至る。
幸福は流れ落ちる泉のようであり、この理は春雨が万物を成長させるようなものである。もし、この道に逆らえば大禍をうけ、福を減じることは塩を水の中に捨てるようなものである。
すべてこのようなことを道という。
別にこれを名づけて八義という。いわゆる八義とは、孝・悌・忠・仁・礼・義・智・信を指す。また、天地・日・月・星辰・聖・賢・神・祇は、人倫が重んじるものである。それこそが寿称・官爵・福徳・栄楽である。
貧しい人生にとって貴いものは、孝道をいくことである。栄祥を格し、礼儀を勤めて身を立てる者である。これゆえ、八義になぞらえて、爵位を定める。
孝は天であり、紫冠を第一とする。
忠は日であり、錦冠を第二とする。
仁は月であり、繍冠を第三とする。
悌は星であり、纏冠を第四とする。
義は辰であり、緋冠を第五とする。
礼は聖であり、深緑を第六とする。
智は賢であり、浅緑を第七とする。
信は神であり、深縹を第八とする。
祇は祇であり、浅縹を第九とする。
地は母であり、よって立身と名づけて、黄冠を第十とする。
今より後、永く常の法とせよ」

二十八年春二月十一日、上宮厩戸豊聡耳皇太子命と大臣蘇我馬子宿祢は、詔を受けたまわって、代々の古事である、天皇紀および国記、臣・連・伴造・国造および多くの部民公民らの本紀を撰録した。

春三月一日、定めて仰せられた。
「君后に対して不忠をする者、また父母に対して不孝をする者について、もし声を上げずこれを隠す者は、同じくその罪を担い重く刑法を科す」

二十九年春二月五日、夜半に、皇太子上宮厩戸豊聡耳尊は斑鳩宮で薨去された。
このとき、諸王・諸臣および天下の人民は皆、老いた者は愛児を失ったように悲しみ、塩や酢の味さえも分からないほどであった。若い者は慈父を失ったように、泣き悲しむ声がちまたに溢れた。農夫は耕すことも止め、稲つき女は杵音もさせなかった。皆がいった。
「日も月も光も失い、天地も崩れたようなものだ。これから誰を頼みにしたらいいのだろう」

この月、皇太子を磯長陵に葬った。ときに高麗の僧・慧慈は、上宮の皇太子が亡くなったことを聞き、大いに悲しみ、太子のために僧を集めて斎会を催した。そしてみずから経を説く日に誓願していった。
「日本の国に聖人がおられました。上宮豊聡耳皇子と申しあげます。天からすぐれた資質を授かり、大きな聖の徳をもって日本の国にお生まれになりました。中国の三代の聖王をも越えるほどの、大きな仕事をされ、三宝をつつしみ敬って、人民の苦しみを救われました。真の大聖です。その太子が亡くなられました。自分は国を異にするとはいえ、太子との心の絆を断つことは出来ません。自分一人生き残っても何の益もありません。
来年の二月五日には、自分もきっと死ぬでしょう。上宮太子に浄土でお会いして、共に衆生に仏の教えを広めたいと思います」
そして、慧慈は定めた日に丁度死んだ。これを見て、時の人は誰もが「ひとり上宮太子だけが聖人でなく、慧慈もまた聖人である」といった。 
 
巻第十 国造本紀 

 

天孫・天饒石国饒石天津彦火瓊々杵尊(あまにぎしくににぎしあまつひこほのににぎのみこと)の孫の磐余彦尊(いわれひこのみこと)が、日向から出発され倭国(やまとのくに)に向かわれて、東征されたとき、大倭国で漁夫(あま)を見つけられた。側近の人たちに尋ねて仰せになった。
「海のなかに浮かんでいる者は何者だろうか」
そこで、粟の忌部首(いみべのおびと)の祖の天日鷲命(あまのひわしのみこと)を遣わして、これを調べさせた。天日鷲命が戻ってきて報告した。
「これは、椎根津彦(しいねつひこ)という者です」
椎根津彦を呼んで連れてきて、天孫はお尋ねになった。
「お前は誰か」
椎根津彦は答えて申しあげた。
「私は、皇祖・彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)の孫で、椎根津彦です」
天孫は詔して仰せられた。
「私に従って、水先案内をするつもりはないか」
答えて申しあげた。
「私はよく海陸の道を知っていますので、道案内としてお仕えいたします」

天孫は、詔して椎根津彦を案内とし、ついに天下を平定された。
はじめて橿原に都を造り、天皇に即位された。
詔して、東征に功績のあった者を褒めて、国造に定められた。また、逆らう者は誅し、県主を定められた。
これが、国造・県主の由来である。

椎根津彦命を大倭国造(やまとのくにのみやつこ)とした。すなわち、大和直(やまとのあたい)の祖である。
剣根命(つるぎねのみこと)を葛城国造(かずらきのくにのみやつこ)とした。すなわち、葛城直(かずらきのあたい)の祖である。
彦己蘇根命(ひここそねのみこと)を凡河内国造(おおしこうちのくにのみやつこ)とした。すなわち、凡河内忌寸(おおしこうちのいみき)の祖である。
天一目命(あまのまひとつのみこと)を山代国造(やましろのくにのみやつこ)とした。すなわち、山代直(やましろのあたい)の祖である。
天日鷲命を伊勢国造とした。すなわち、伊賀・伊勢国造の祖である。
天道根命(あまのみちねのみこと)を紀伊国造とした。すなわち、紀河瀬直(きのかわせのあたい)の祖である。
宇陀県主の兄猾(えうかし)を誅した弟猾(おとうかし)を、建桁県主(たけたのあがたぬし)とした。
志貴県主(しきのあがたぬし)の兄磯城(えしき)を誅した弟磯城(おとしき)を、志貴県主とした。

およそ三人の臣を選び遣わして、治めるに良いか悪いかを巡察して調べさせた。そのうえで、功績のある者を、その能力のままに国造にお定めになった。
逆らう者を誅殺し、その功績を計って、県主を定められた。

あわせて、百四十四の国に国造を任命した。

大倭国造
神武朝の御世に、椎根津彦命をはじめて大倭国造とした。

葛城国造
神武朝の御世に、剣根命をはじめて葛城国造とした。

凡河内国造
神武朝の御世に、彦己曽保理命(ひここそほりのみこと)を凡河内国造とした。

和泉国司(いずみのこくし)
もとは河内国に含まれていた。霊亀二年、割いて茅野監(ちぬのつかさ)を設置し、改めて国とした。もとは珍努宮(ちぬのみや)で治めたものである。

摂津国司(せっつのこくし)
法令を見ると、摂津職(せっつしき)とある。はじめは京師であった。桓武天皇の御代に、職を改めて国とした。

山城国造(やましろのくにのみやつこ)
神武朝の御世に、阿多振命(あたふりのみこと)を山代国造とした。

山背国造(やましろのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、曽能振命(そのふりのみこと)を国造に定められた。

伊賀国造
成務朝の御世に、皇子・意知別命(おちわけのみこと)の三世孫の武伊賀都別命(たけいがつわけのみこと)を国造に定められた。
孝徳朝の御世に伊勢国に合併され、その後、天武朝の御代にもとのように割いて設置された。

伊勢国造
神武朝に、天降る神・天牟久努命(あまのむくぬのみこと)の孫の天日鷲命を、詔して国造に定められた。

嶋津国造(しまつのくにのみやつこ)
成務朝に、出雲臣の祖・佐比祢足尼(さひねのすくね)の孫の出雲笠夜命(いずもかさやのみこと)を国造に定められた。

尾張国造(おわりのくにのみやつこ)
成務朝に、天別・天火明命(あまのほあかりのみこと)の十三世孫の小止与命(おとよのみこと)を国造に定められた。

参河国造(みかわのくにのみやつこ)
成務朝に、物部連の祖・出雲色大臣(いずものしこおおみ)の五世孫の知波夜命(ちはやのみこと)を国造に定められた。

穂国造(ほのくにのみやつこ)
雄略朝に、生江臣(いくえのおみ)の祖・葛城襲津彦命(かずらきのそつひこのみこと)の四世孫の菟上宿祢(うなかみのすくね)を国造に定められた。

遠淡海国造(とおつおうみのくにのみやつこ)
成務朝に、物部連の祖・伊香色雄命(いかがしこおのみこと)の子の印岐美命(いにきみのみこと)を国造に定められた。

久努国造(くぬのくにのみやつこ)
仲哀朝の御代に、物部連の祖・伊香色男命(いかがしこおのみこと)の孫の印幡足尼(いなばのすくね)を国造に定められた。

素賀国造(そがのくにのみやつこ)
神武朝の御世、はじめて天下が定められたときに、天皇のお供として侍ってきた人で、名は美志印命(うましいにのみこと)を国造に定められた。

珠流河国造(するがのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、物部連の祖・大新川命(おおにいかわのみこと)の子の片堅石命(かたがたしのみこと)を国造に定められた。

盧原国造(いおはらのくにのみやつこ)
成務朝の御代に、池田坂井君(いけだのさかいのきみ)の祖・吉備武彦命(きびのたけひこのみこと)の子の思加部彦命(おかべひこのみこと)を国造に定められた。

伊豆国造
神功皇后の御代に、物部連の祖・天蕤桙命(あまのぬぼこのみこと)の八世孫の若建命(わかたけのみこと)を国造に定められた。
孝徳朝の御世に駿河国に合併され、天武朝の御世にもとのように分けて設置された。

甲斐国造
景行朝の御世に、狭穂彦王(さほひこのきみ)の三世孫の臣知津彦公(おみしりつひこのきみ)と、その子の塩海足尼(しおみのすくね)を国造に定められた。

相武国造(さがむのくにのみやつこ)
成務朝に、武刺国造(むさしのくにのみやつこ)の祖・伊勢都彦命(いせつひこのみこと)の三世孫の弟武彦命(おとたけひこのみこと)を国造に定められた。

師長国造(しながのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、茨城国造の祖・建許呂命(たけころのみこと)の子の意富鷲意弥命(おおわしおみのみこと)を国造に定められた。

无邪志国造(むさしのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、出雲臣の祖・二井之宇迦諸忍之神狭命(ふたいのうがもろおしのかむさのみこと)の十世孫の兄多毛比命(えたもひのみこと)を国造に定められた。

胸刺国造(むさしのくにのみやつこ)
岐閉国造(きへのくにのみやつこ)の祖・兄多毛比命の子の伊狭知直(いさちのあたい)を国造に定められた。

知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)
崇神朝の御世に、八意思金命(やごころおもいかねのみこと)の十世孫の知々夫命(ちちぶのみこと)を国造に定められ、大神をお祀りした。

須恵国造(すえのくにのみやつこ)
成務朝に、茨城国造の祖・建許侶命(たけころのみこと)の子の大布日意弥命(おおふひおみのみこと)を国造に定められた。

馬来田国造(うまくだのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、茨城国造の祖・建許侶命の子の深河意弥命(ふかがわおみのみこと)を国造に定められた。

上海上国造(かみつうなかみのくにのみやつこ)
成務朝に、天穂日命(あまのほひのみこと)の八世孫の忍立化多比命(おしたてけたひのみこと)を国造に定められた。

伊甚国造(いじみのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、安房国造の祖・伊許保止命(いこほとのみこと)の孫の伊己侶止直(いころとのあたい)を国造に定められた。

武社国造(むさのくにのみやつこ)
成務朝に、和邇臣(わにのおみ)の祖・彦意祁都命(ひこおけつのみこと)の孫の彦忍人命(ひこおしひとのみこと)を国造に定められた。

菊麻国造(きくまのくにのみやつこ)
成務朝の御代に、无邪志国造(むさしのくにのみやつこ)の祖・兄多毛比命の子の大鹿国直(おおかくにのあたい)を国造に定められた。

阿波国造(あわのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、天穂日命の八世孫・弥都侶岐命(みつろぎのみこと)の孫の大伴直大瀧(おおとものあたいおおたき)を国造に定められた。

印波国造(いにばのくにのみやつこ)
応神朝の御代に、神八井耳命(かむやいみみのみこと)の八世孫の伊都許利命(いつこりのみこと)を国造に定められた。
 
下海上国造(しもつうなかみのくにのみやつこ)
応神朝の御世に、上海上国造の祖の孫の久都伎直(くつぎのあたい)を国造に定められた。

新治国造(にいばりのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、美都呂岐命(みつろぎのみこと)の子の比奈羅布命(ひならふのみこと)を国造に定められた。

筑波国造(つくばのくにのみやつこ)
成務朝に、忍凝見命(おしこりみのみこと)の孫の阿閉色命(あへしこのみこと)を国造に定められた。

茨城国造(うばらきのくにのみやつこ)
応神朝の御世に、天津彦根命(あまつひこねのみこと)の孫の筑紫刀祢(つくしとね)を国造に定められた。

仲国造(なかのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、伊予国造と同祖の建借馬命(たけかしまのみこと)を国造に定められた。

久自国造(くじのくにのみやつこ)
成務朝の御代に、物部連の祖・伊香色雄命の三世孫の船瀬足尼(ふなせのすくね)を国造に定められた。

高国造(たかのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、弥都侶岐命の孫の弥佐比命(みさひのみこと)を国造に定められた。

淡海国造(おうみのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、彦坐王(ひこいますのきみ)の三世孫の大陀牟夜別(おおたむやわけ)を国造に定められた。

額田国造(ぬかたのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、和邇臣の祖・彦訓服命(ひこくにぶくのみこと)の孫の大直侶宇命(おおただろうのみこと)を国造に定められた。

三野前国造(みののみちのくちのくにのみやつこ)
開化朝に、皇子・彦坐王の子の八瓜命(やつりのみこと)を国造に定められた。

三野後国造(みののみちのしりのくにのみやつこ)
成務朝の御代に、物部連の祖・出雲大臣命(いずもおおみのみこと)の孫の臣賀夫良命(おみかぶらのみこと)を国造に定められた。

斐陀国造(ひだのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、尾張連の祖・瀛津世襲命(おきつよそのみこと)の子の大八椅命(おおやはしのみこと)を国造に定められた。

上毛野国造(かみつけののくにのみやつこ)
崇神朝の皇子・豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の孫の彦狭嶋命(ひこさしまのみこと)が、はじめて東方の十二国を治め平らげて、国造に封ぜられた。

下毛野国造(しもつけののくにのみやつこ)
仁徳朝の御世に、もとはひとつだった毛野国を分けて、上毛野・下毛野とした。豊城命の四世孫の奈良別(ならわけ)をはじめて国造に定められた。

道奥菊多国造(みちのくのきくたのくにのみやつこ)
応神朝の御代に、建許侶命の子の屋主乃祢(やぬしのね)を国造に定められた。

道奥岐閉国造(みちのくのきへのくにのみやつこ)
応神朝の御世に、建許侶命の子の宇佐比乃祢(うさひのね)を国造に定められた。

阿尺国造(あさかのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、阿岐国造と同祖・天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)の十世孫の比止祢命(ひとねのみこと)を国造に定められた。

思国造
成務朝の御世に、阿岐国造(あきのくにのみやつこ)と同祖の十世孫の志久麻彦(しくまひこ)を国造に定められた。

伊久国造(いくのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、阿岐国造と同祖の十世孫の豊嶋命(としまのみこと)を国造に定められた。

染羽国造(しめはのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、阿岐国造と同祖の十世孫の足彦命(たるひこのみこと)を国造に定められた。

浮田国造(うきたのくにのみやつこ)
成務朝に、崇神天皇の五世孫の賀我別王(かがわけのきみ)を、国造に定められた。

信夫国造(しのぶのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、阿岐国造と同祖・久志伊麻命(くしいまのみこと)の孫の久麻直(くまのあたい)を国造に定められた。

白河国造(しらかわのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、天から降った天由都彦命(あまのゆつひこのみこと)の十一世孫の塩伊乃己自直(しおいのこじのあたい)を国造に定められた。

石背国造(いわせのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、建許侶命の子の建弥依米命(たけみよりめのみこと)を国造に定められた。

石城国造(いわきのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、建許呂命を国造に定められた。

那須国造(なすのくにのみやつこ)
景行朝の御代に、建沼河命(たけぬなかわのみこと)の孫の大臣命(おおみのみこと)を国造に定められた。

科野国造(しなののくにのみやつこ)
崇神朝の御世に、神八井耳命の孫の建五百建命(たけいほたつのみこと)を国造に定められた。

出羽国造(でわのくにのみやつこ)
元明朝の御世の和銅五年、陸奥・越後の二国から割いて、はじめてこの国を設置した。

若狭国造(わかさのくにのみやつこ)
允恭朝の御代に、膳臣(かしわでのおみ)の祖・佐白米命(さしろよねのみこと)の子の荒砺命(あらとのみこと)を国造に定められた。

高志国造(こしのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、阿閉臣(あべのおみ)の祖・屋主田心命(やぬしたごころのみこと)の三世孫の市入命(いちいりのみこと)を国造に定められた。

三国国造(みくにのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、宗我臣(そがのおみ)の祖・彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)の四世孫の若長足尼(わかなのすくね)を国造に定められた。

角鹿国造(つぬがのくにのみやつこ)
成務朝の御代に、吉備臣の祖・若武彦命(わかたけひこのみこと)の孫の建功狭日命(たけいさひのみこと)を国造に定められた。

加我国造(かがのくにのみやつこ)
雄略朝の御代に、三尾君(みおのきみ)の祖・石撞別命(いわつくわけのみこと)の四世孫の大兄彦君(おおえひこのきみ)を国造に定められた。
孝徳朝の御代には、越前国に合併した。嵯峨朝の御世の弘仁十年に、越前国を割いて加賀国とした。

加宜国造(かがのくにのみやつこ)
仁徳朝の御世に、能登国造(のとのくにのみやつこ)と同祖の素都乃奈美留命(そつのなみるのみこと)を国造に定められた。

江沼国造(えぬまのくにのみやつこ)
反正朝の御世に、蘇我臣(そがのおみ)と同祖・武内宿祢(たけしうちのすくね)の四世孫の志波勝足尼(しはかつのすくね)を国造に定められた。

能等国造(のとのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、垂仁天皇の皇子・大入来命(おおいりきのみこと)の孫の彦狭嶋命(ひこさしまのみこと)を国造に定められた。

羽咋国造(はくいのくにのみやつこ)
雄略朝の御世に、三尾君の祖・石撞別命の子の石城別王(いわきわけのきみ)を国造に定められた。

伊弥頭国造(いみづのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、宗我(そが)と同祖・建内足尼(たけしうちのすくね)の孫の大河音足尼(おおかわとのすくね)を国造に定められた。

久比岐国造(くびきのくのにみやつこ)
崇神朝の御世に、大和直と同祖の御戈命(みほこのみこと)を国造に定められた。

高志深江国造(こしのふかえのくにのみやつこ)
崇神朝の御世に、道君(みちのきみ)と同祖の素都乃奈美留命(そつのなみるのみこと)を国造に定められた。

佐渡国造
成務朝に、阿岐国造と同祖・久志伊麻命(くしいまのみこと)の四世孫の大荒木直(おおあらきのあたい)を国造に定められました。

丹波国造(たにはのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、尾張国造と同祖・建稲種命(たけいなだねのみこと)の四世孫の大倉岐命を国造に定められた。

丹後国司
元明朝の御世の和銅六年に、丹波国を割いて丹後国を設置した。

但遅馬国造(たじまのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、竹野君(たけののきみ)と同祖・彦坐王の五世孫の船穂足尼(ふなほのすくね)を国造に定められた。

二方国造(ふたかたのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、出雲国造と同祖・遷狛一奴命(うつしこまひとぬのみこと)の孫の美尼布命(みねふのみこと)を国造に定められた。

稲葉国造(いなばのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、彦坐王の子の彦多都彦命(ひこたつひこのみこと)を国造に定められた。
 
波伯国造(ははきのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、牟邪志国造と同祖・兄多毛比命の子の大八木足尼(おおやきのすくね)を国造に定められた。

出雲国造(いずものくにのみやつこ)
崇神朝の御世に、天穂日命の十一世孫の宇迦都久努(うがつくぬ)を国造に定められた。

石見国造(いわみのくにのみやつこ)
崇神朝の御世に、紀伊国造と同祖・蔭佐奈朝命(かげさなあさのみこと)の子の大屋古命(おおやこのみこと)を国造に定められた。

意岐国造(おきのくにのみやつこ)
応神朝の御代に、観松彦伊呂止命(みまつひこいろとのみこと)の五世孫の十埃彦命(とおあいひこのみこと)を国造に定められた。

針間国造(はりまのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、稲背入彦命(いなせいりひこのみこと)の孫の伊許自別命(いこじわけのみこと)を国造に定められた。

針間鴨国造(はりまのかものくにのみやつこ)
成務朝の御世に、上毛野君と同祖・御穂別命(みほのわけのみこと)の子の市入別命(いちりわけのみこと)を国造に定められた。

明石国造
応神朝の御世に、大倭直と同祖・八代足尼(やしろのすくね)の子の都弥自足尼(つみじのすくね)を国造に定められた。

美作国造(みまさかのくにのみやつこ)
元明朝の御世の和銅六年に、備前国を割いて美作国を設置した。

大伯国造(おおくのくにのみやつこ)
応神朝の御世に、神魂命(かむむすひのみこと)の七世孫の佐紀足尼(さきのすくね)を国造に定められた。

上道国造(かみつみちのくにのみやつこ)
応神朝の御世に、元からの領主・中彦命(なかひこのみこと)の子の多佐臣(たさのおみ)を、はじめて国造に定められた。

三野国造(みののくにのみやつこ)
応神朝の御世に、元からの領主・弟彦命(おとひこのみこと)を、次いで国造に定められた。

下道国造(しもつみちのくにのみやつこ)
応神朝の御世に、元からの領主・兄彦命(えひこのみこと)、またの名を稲速別(いなはやわけ)を国造に定められた。

加夜国造(かやのくにのみやつこ)
応神朝の御世に、上道国造と同祖で元からの領主の中彦命を、あらためて国造に定められた。

笠臣国造(かさのおみのくにのみやつこ)
応神朝の御世に、元からの領主・鴨別命(かもわけのみこと)の八世孫の笠三枝臣(かさのさいぐさのおみ)を国造に定められた。

吉備中県国造(きびのなかつあがたのくにのみやつこ)
崇神朝の御世に、神魂命の十世孫の明石彦(あかしひこ)を国造に定められた。

吉備穴国造(きびのあなのくにのみやつこ)
景行朝の御世に、和邇臣と同祖・彦訓服命(ひこくにぶくのみこと)の孫の八千足尼(やちのすくね)を国造に定められた。

吉備風治国造(きびのほむじのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、多遅麻君(たじまのきみ)と同祖・若角城命(わかつのきのみこと)の三世孫の大船足尼(おおふなのすくね)を国造に定められました。

阿岐国造(あきのくにのみやつこ)
成務朝に、天湯津彦命の五世孫の飽速玉命(あきはやたまのみこと)を国造に定められた。

大嶋国造
成務朝に、无邪志国造と同祖・兄多毛比命の子の穴委古命(あなわこのみこと)を国造に定められた。

波久岐国造(はくきのくにのみやつこ)
崇神朝に、阿岐国造と同祖・金波佐彦命(かなはさひこのみこと)の孫の豊玉根命(とよたまねのみこと)を国造に定められた。

周防国造(すおうのくにのみやつこ)
応神朝の御世に、茨城国造と同祖・加米乃意美(かめのおみ)を国造に定められた。

都努国造(つぬのくにのみやつこ)
仁徳朝に、紀臣と同祖・都努足尼(つぬのすくね)の子の男嶋足尼(おしまのすくね)を国造に定められた。

穴門国造(あなとのくにのみやつこ)
景行朝の御世に、桜井田部連(さくらいのたべのむらじ)と同祖・迩伎都美命(にぎつみのみこと)の四世孫の速都鳥命(はやつどりのみこと)を国造に定められた。

阿武国造(あむのくにのみやつこ)
景行朝の御世に、神魂命の十世孫の味波波命(うましははのみこと)を国造に定められた。

紀伊国造(きいのくにのみやつこ)
神武朝の御世に、神皇産霊命(かむむすひのみこと)の五世孫の天道根命(あまのみちねのみこと)を国造に定められた。

熊野国造(くまののくにのみやつこ)
成務朝の御世に、饒速日命の五世孫の大阿斗足尼(おおあとのすくね)を国造に定められた。

淡道国造(あわじのくにのみやつこ)
仁徳朝の御世に、神皇産霊尊の九世孫の矢口足尼(やぐちのすくね)を国造に定められた。

粟国造(あわのくにのみやつこ)
応神朝の御世に、高皇産霊尊の九世孫の千波足尼(ちはのすくね)を国造に定められた。

長国造(ながのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、観松彦色止命(みまつひこいろとのみこと)の九世孫の韓背足尼(からせのすくね)を国造に定められた。

讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ)
応神朝の御世に、景行天皇の子・神櫛王(かみくしのきみ)の三世孫の須売保礼命(すめほれのみこと)を国造に定められた。

伊余国造(いよのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、印幡国造と同祖・敷桁波命(しきたなはのみこと)の子の速後上命(はやのちのえのみこと)を国造に定められた。

久味国造(くみのくにのみやつこ)
応神朝に、神魂尊の十三世孫の伊与主命(いよぬしのみこと)を国造に定められた。

小市国造(おちのくにのみやつこ)
応神朝の御世に、物部連と同祖・大新川命の孫の子致命(おちのみこと)を国造に定められた。

怒麻国造(ぬまのくにのみやつこ)
神功皇后の御代に、阿波国造と同祖・飽速玉命の三世孫の若弥尾命(わかみおのみこと)を国造に定められた。

風速国造(かざはやのくにのみやつこ)
応神朝に、物部連の祖・伊香色男命の四世孫の阿佐利(あさり)を国造に定められた。

都佐国造(とさのくにのみやつこ)
成務朝の御代に、長阿比古(ながのあびこ)と同祖・三嶋溝杭命(みしまのみぞくいのみこと)の九世孫の小立足尼(おたちのすくね)を国造に定められた。

波多国造(はたのくにのみやつこ)
崇神朝の御世に、天韓襲命(あまのからそのみこと)を神の教えによって国造に定められた。

筑志国造(つくしのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、阿倍臣と同祖・大彦命(おおひこのみこと)の五世孫の日道命(ひのみちのみこと)を国造に定められた。

筑志米多国造(つくしのめたのくにのみやつこ)
成務朝に、息長公(おきながのきみ)と同祖・稚沼毛二俣命(わかぬけふたまたのみこと)の孫の都紀女加命(つきめかのみこと)を国造に定められた。

豊国造(とよのくにのみやつこ)
成務朝の御代に、伊甚国造と同祖・宇那足尼(うなのすくね)を国造に定められた。

宇佐国造(うさのくにのみやつこ)
神武朝の御代に、高魂尊(たかみむすひのみこと)の孫の宇佐都彦命(うさつひこのみこと)を国造に定められた。

国前国造(くにさきのくにのみやつこ)
成務朝に、吉備臣と同祖・吉備都命の六世孫の午佐自命(うまさじのみこと)を国造に定められた。

比多国造(ひたのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、葛城国造と同祖・止波足尼(とはのすくね)を国造に定められた。

火国造(ひのくにのみやつこ)
崇神朝に、大分国造(おおきたのくにのみやつこ)と同祖・志貴多奈彦命(しきたなひこのみこと)の子の遅男江命(ちおえのみこと)を国造に定められた。

松津国造(まつつのくにのみやつこ)
仁徳朝の御世に、物部連の祖・伊香色雄命の孫の金連(かねのむらじ)を国造に定められた。

末羅国造(まつらのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、穂積臣と同祖・大水口足尼(おおみなくちのすくね)の孫の矢田稲吉命(やたのいなきちのみこと)を国造に定められた。

阿蘇国造(あそのくにのみやつこ)
崇神朝の御世に、火国造と同祖・神八井耳命(かむやいみみのみこと)の孫の速瓶玉命(はやみかたまのみこと)を国造に定められた。

葦分国造(あしきたのくにのみやつこ)
景行朝の御代に、吉備津彦命の子の三井根子命(みいねこのみこと)を国造に定められた。

天草国造(あまくさのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、神魂命の十三世孫の建嶋松命(たけしままつのみこと)を国造に定められた。

日向国造(ひむかのくにのみやつこ)
応神朝の御世に、豊国別皇子(とよくにわけのみこ)の三世孫の老男(おいお)を国造に定められた。

大隈国造(おおすみのくにのみやつこ)
景行朝の御世に隼人と同祖の初小(そお)を平定し、仁徳天皇の御代に伏布(ふしぬの)を長(おさ)として国造に定められた。

薩摩国造(さつまのくにのみやつこ)
景行朝に、薩摩の隼人らを討ち鎮めた。仁徳天皇の御代に、長をあらためて直とした。

伊吉嶋造(いきのしまのみやつこ)
継体朝に、磐井(いわい)に従った新羅の海辺の人を征伐し、天津水凝(あまつみずこり)の後裔の上毛布直(かみつけぬのあたい)を造とした。

津嶋県直(つしまのあがたのあたい)
神武朝に、高魂尊の五世孫の建弥己己命(たけみここのみこと)を、改めて直にした。

葛津立国造(ふじつのたちのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、紀直と同祖・大名茅彦命(おおなかやひこのみこと)の子の若彦命(わかひこのみこと)を国造に定められた。

多褹嶋(たねのしま) ・・・
 
物部氏 1

 

本拠地には、河内国渋川郡・若江郡の一帯をあてるのが有力です。
五世紀代の大阪平野中央部の開発において技術集団の掌握に関与し、その地位を上昇させることに成功。五世紀後半に入ると大和国山辺郡の石上にも強固な拠点を持つに至り、雄略朝には最高執政官のひとつ「大連」を出すようになりました。皇位継承争いにおける、軍事的な活躍がその背景ともいわれます。
物部の伴造として軍事・刑罰を掌り、ヤマト王権の勢力伸張に寄与したことは、諸豪族連合体から中央集権型国家へ向かう古代史の流れのなかで、物部氏が小さからぬ歴史的役割を果たしたものと見られます。
六世紀中葉の大伴大連失脚により全盛期をむかえましたが、六世紀末に蘇我氏と対立して敗れ、以後勢力は衰えました。
七世紀末に台頭する石上氏は、天武朝に物部氏の一流が改めたもので、大臣を輩出し氏族復興を成し遂げています。
その祖神をめぐっては、降臨・国見の伝承を持つことで知られ、王権内における位置づけはやや特異といえます。新撰姓氏録に載る石上氏同祖系氏族は113氏を数え、全体の9.6%を占めるなど、同族が多く存在します。また、広範な地域分布でも知られます。
まさに、古代最大の氏族と呼ばれるのにふさわしいのが、物部氏です。
 
物部氏 2

 

(もののべうじ) 「物部」を氏の名とする氏族。河内国の哮峰(現 大阪府交野市か)に神武天皇よりも前に天磐船により大和入りをした饒速日命を祖先と伝えられる氏族である。饒速日命は登美夜須毘売を妻とし物部氏の初代の宇摩志麻遅命(可美真手命)をもうけた。穂積氏が本宗家とされ、熊野国造とは先祖を同じくする同族とされる。
特徴と歴史
元々は兵器の製造・管理を主に管掌していたが、しだいに大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長していった。5世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになった。物部氏は解部を配下とし、刑罰、警察、軍事、呪術、氏姓などの職務を担当し、盟神探湯の執行者ともなった。物部氏は528年継体天皇22年に九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられた。これを鎮圧した物部麁鹿火(あらかい)は宣化天皇の元年の7月に死去している。
蘇我氏との対立
宣化天皇の崩御後、欽明天皇の時代になると物部尾輿(生没年不詳)が大連になった。欽明天皇の時代百済から仏像が贈られた仏像を巡り、大臣・蘇我稲目を中心とする崇仏派と大連・物部尾興や中臣鎌子(中臣氏は神祇を祭る氏族)を中心とする排仏派が争った。
稲目・尾興の死後は蘇我馬子、物部守屋に代替わりした。大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。天皇は排仏派でありこれを許可したが、このころから疫病が流行しだした。大連・物部守屋と中臣勝海は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。
こうした物部氏の排仏の動き以後も疫病は流行し続け、敏達天皇は崩御。崇仏・排仏の議論は次代の用明天皇に持ち越された。用明天皇は蘇我稲目の孫でもあり、敏達天皇とは異なり崇仏派であった。しかし依然として疫病の流行は続き、即位してわずか2年後の587年5月21日(用明天皇2年4月9日)に用明天皇は崩御した(死因は天然痘とされる)。守屋は次期天皇として穴穂部皇子を皇位につけようと図ったが、同年6月馬子は炊屋姫(用明天皇の妹で、敏達天皇の后。後に推古天皇となる)の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺した。同年7月、炊屋姫の命により蘇我氏及び連合軍は物部守屋に攻め込んだ。当初、守屋は有利であったが守屋は河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の本拠地で戦死した(丁未の乱)。同年9月9日に蘇我氏の推薦する崇峻天皇が即位し、以降物部氏は没落する。
天武朝
連の姓(かばね)、684年天武天皇による八色の姓の改革の時に朝臣姓を賜る。
石上氏
686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみうじ)が本宗家の地位を得た。石上の姓はもと物部守屋の弟である贄子が称していたが、のちに守屋の兄・大市御狩の曾孫とされる麻呂が石上の家を継いだとする説がある。
石上麻呂は朝臣の姓が与えられて、708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位の位階を贈られた。息子の石上乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は文人として淡海三船と並び称され、日本初の公開図書館・芸亭を創設した。
石上氏は宅嗣の死後公卿を出すことはなく、9世紀前半以降中央貴族としては衰退した。また、石上神宮祠官家の物部氏を宅嗣の弟・息嗣の子孫とする近世の系図がある。
枝族・末裔
物部氏の特徴のひとつに広範な地方分布が挙げられ、無姓の物部氏も含めるとその例は枚挙にいとまがない。長門守護の厚東氏、物部神社神主家の長田氏・金子氏(石見国造)、廣瀬大社神主家の曾禰氏の他、穂積氏、采女氏をはじめ、同族枝族が非常に多いことが特徴である。江戸幕府の幕臣・荻生徂徠は子孫といわれる。
東国の物部氏
石上氏等中央の物部氏族とは別に、古代東国に物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録がある。扶桑略記、陸奥話記などには陸奥大目として物部長頼という人物が記載されている。いわゆる「古史古伝」のひとつである物部文書に拠ると出羽物部氏は物部守屋の子孫と称しているが証拠はない。一方で六国史に散見する俘囚への賜姓例の中には、吉弥候氏が物部斯波連を賜ったという記録も見える。
下総物部氏
下総国匝瑳郡に本拠を持つ物部匝瑳連の祖先伝承に、布都久留 の子で木蓮子の弟の物部小事が坂東に進出し征圧したというものがある。また平安中期に作られた和名類聚抄には下総国千葉郡物部郷〈四街道市物井〉の記述があり、これらについては常陸国信太郡との関連を指摘する説があり、香取神宮と物部氏の関連も指摘されている。
尾張物部氏
古代尾張の東部に物部氏の集落があり、現在は物部神社と、武器庫であったと伝えられる高牟神社が残っている。
石見物部氏
石見国の一の宮「物部神社」(島根県大田市)は、部民設置地説以外に出雲勢力に対する鎮めとして創建されたとする説もあり、社家の長田家・金子家は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。金子家は、戦前は社家華族として男爵に列している。
備前物部氏
岡山県には備前一宮として知られる石上布都御魂神社がある。縁起によると、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した「十握劒」(あるいは「韓鋤(からさひ)の剣)を山上の磐座に納めたのが始まりといわれる。江戸期には岡山藩の池田家から尊崇を受け「物部」姓を名乗ることを許されたといい、今の宮司も物部氏をついでいる。大和の石上神宮の本社ともいわれているが、神宮側は公認していない。 
 
物部氏 3

 

中国伝来の鬼
鬼は古代中国の神秘思想から誕生し、時代や人によって解釈が異なる複雑な存在だが、神秘思想は蜃気楼が頻繁に発生する山東半島を起源とすることから、太古の人々にとって不可思議な現象や異常事象を「鬼」と呼んだものと思われる。
ただし、仏教思想が導入されると鬼は邪鬼に変貌する。
『墨子・明鬼篇』 / 昔の聖王は必ず鬼神が存在すると信じ、鬼神に仕えることは厚かった。鬼神は、人の悪行を罰する存在で、天下の混乱は人々が鬼神の実在と、鬼神の持つ超自然的能力を信じない結果、生じるのである。
『論語』孔子 / 子路が鬼神に仕える方法を問うと、いまだ人に仕えることもできないのに、どうして鬼神に仕える事ができようかと老師は申された。(先進篇)
鬼神は尊敬すべきだが、遠ざけておく存在である。(雍也篇)
このように、春秋戦国時代(紀元前770〜前403)の思想家である墨子や孔子は、鬼を神(鬼神)と位置づけている。
『三国志魏書』東夷伝倭人条 / 其國本亦以男子為王、住七八十年。倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王。名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫婿、有男弟佐治國。
その国、本来は男性を王としたが、住(とどまる)こと七〜八十年。倭国は擾乱、互いの攻伐が何年も続くに及んで、一人の女性を王として共立した。名を卑彌呼といい、鬼道(きどう)に仕え、(呪術で)巧みに人々を幻惑(誘導)した。年齢は既に高齢で夫はなく、弟がおり、国の統治を補佐している。
上記は通称『魏志倭人伝』と呼ばれている史書の1節だが、文中の鬼道は、現代中国語の鬼道「利口・賢明」とは違い、道教の源流となる後漢末期の方士(ほうし)の宗教結社『五斗米道(ごとべいどう)』の別名である。
方士とは、仙人となることを希求し、神仙方術を修道する巫術者(シャーマン)をいい、日本神道は朝鮮半島を経由した方士の神秘思想や呪法、儀式を基盤としているが、これは巫術のもつ神秘な力を『鬼』とする古来の思想の伝承である。
従って、邪馬台国の時代の『鬼』は怨霊などではなく、鬼神だと考えられる。
だが、後漢時代(1世紀〜2世紀末)の王充は、人間の行為の都合の悪い部分を隠蔽するため、単なる自然現象に対し、特別な意味を附持させるための存在であるとして、鬼を否定している。
中国語での鬼(gui)の用法も、鬼話「うそ」、鬼混「不真面目」、鬼胎「陰謀」、鬼怪「邪悪な勢力」、鬼主意「悪知恵」など、あまり良い意味では使われていない。
また、程度の酷さを形容する場合に用いられ、「色鬼」は日本語の好色(スケベエ)に該当し、戦争中の日本人を中国では「鬼子」や「東洋鬼」と蔑称していた。このことから、神秘的なエネルギーの『鬼』は、時代とともに不気味な魔力、邪悪な力に評価が変貌したことがわかる。
『風俗通義』伝奇書 / 「桃の木の下で、兄弟がトラを使い、鬼を退治した」
『神農本草経』中国最古の薬学事典 / 「桃の種子(核仁)は汚血や膿(うみ)を取り去り、百鬼を殺す」
上記は、ともに後漢時代の書籍であることから、やはり後漢時代には中国の鬼は退治したり殺したりすべき存在になっている。そして、鬼は桃の木を恐れるという伝承が一般に広がっていたたようだ。
『古事記』黄泉(ヨミ)国 / 伊邪那岐命(イザナギ)は、黄泉国(あの世)と現世の境界である黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)のまで逃げて来て、そこに熟っていた桃の実を投げつけると、黄泉醜女(ヨモツシコメ)は恐れて逃げ帰った。そこで、桃に意富加牟豆美命(オオカムズミノミコト)の名を与えた。
『記紀』(古事記と日本書紀)の編纂に当たった奈良時代の初期(8世紀初頭)には、すでに桃と鬼の関係が倭国にも伝わっていたことが上記の一節から読み取れる。
そして、神秘的な現象としての鬼神、怨念によって生者にたたる邪霊としての鬼、この二種の異質な概念が、倭国にも伝来していたと思われる。
ただし、日本の神話時代には「桃」は存在しない。柑橘類、桃、梅、銀杏などは中国伝来の果樹類だが、「梅」は遣唐使によって薬用の烏梅(ウバイ)として伝来したとされることから、「桃」も同時期に伝来したと推定される。
ただ、「桃」は弥生時代から日本列島にもあったが、鑑賞用の桃で、食用の桃はアーモンドと同種(種がそっくり)の中国原産のバラ科の桃である。
『古事記』は黄泉醜女。『日本書紀』は冥界の鬼女、あるいは泉津日狭女(ヨモツヒサメ)と記しているが、「醜女」「鬼女」は同じ意味である。 
もののけ(物の怪)

 

鬼という漢字の伝来は6世紀頃とされるが、それまでは魔物や怨霊を物(もの)や
醜(しこ)、鬼は「もの」と呼ばれ、そこから「もののけ」になったとする説もあるが、幽霊や妖怪を意味する『鬼物』という漢字が伝来したことで、鬼と物とが一体化し、そこから物の怪(もののけ)が誕生したと思われる。
また、平安時代に成立しれた日本最古の辞書『和名抄』には、「不可視の存在を隠(おん)と言うが、それが転音してオニになった」とあるので、おそらく奈良時代には「おん」や「おに」と呼ばれていたものと想像する。
『出雲風土記』阿用郷 / 昔或る人、此処に山田を佃りて守りき。その時、目一つの鬼来たりて、佃る男を食らう。その時男の父母、竹原に隠れて居りき、時に竹の葉動(アヨ)けり。その時食らわれる男、動(アヨ)く、動(アヨ)くといいき。故れ阿欲と云う。神亀三年字を阿用とあらたむ。
出雲国の郷に「一目の鬼」が来て、農夫を食べたというのだが、鍛冶神とされる天目一箇神のことだとする説もあるが、天目一箇神の御神体は蛇体で、八岐大蛇の物語がある出雲では、天目一箇神を大国主神(オオクニヌシ=伊和大神)と戦った天之日矛(アメノヒボコ)と同一神としていたのかもしれない。
ただ、どちらか片方を女性に置き換えれば、男女交合の場面にも転用できる妙な描写になっており、怨霊としての鬼ではない。
なぜか日本では鬼を「一つ目」で象意する伝承が多い。
これは、製鉄炉で鉄原料の鉱石を溶かすとき、炉の火処穴(ほどあな)を覗いて、火色の加減で鉱石の溶解度を確認する作業が必要とされるが、その作業を長年続けていると、火勢に侵されて視力を損なう。いわば鍛冶職人の職業病である。
そんな彼らが、自分たちの鉱山資源を強奪に来た朝廷軍に対し、各地で攻防戦を繰り広げた。従って、服従しない鬼には、片目が多かったのだろう。
『もののけ姫』に登場するアシタカは、エミシ一族の末裔とされるが、エミシは古代土蜘蛛(つちぐも)の一族で、天皇軍に侵略され、辺境へ追いやられた東北地方の先住勢力とされる。室町時代のアシタカの村では、占い師の老婆ヒイ様の「あらぶる神」を信奉しており、土蜘蛛の末裔として『もののけ姫』に共感できる下地をアシタカはもちあわせていたのだ。古代は鬼を「もの」と読んでいたという。土蜘蛛を率いて京都の住人を悩ませたとされる大江山の酒呑童子も、同じような境遇だったのだろう。『もののけ姫』フォーラムより
『日本書紀』斉明天皇 / 宮殿建築用に神社の木を切って神の怒りに触れ、不審な火事や病で、近習の者が大勢死んだ。さらに斉明が死ぬと、その葬儀を、雨具を着た鬼が覗きにきた。
『扶桑略記』には、斉明天皇の時代、朝廷の臣下が多数死亡したことを記述するが、それは「豊浦大臣(トヨノウラノオオオミ)」の霊魂の仕業だと説明している。
豊浦大臣とは「乙巳(いつし)の変」で殺された蘇我蝦夷(ソガノエミシ)のことである。そもそも蘇我蝦夷とは『日本書紀』が創作したもので、曽我毛人・喇加大臣・蘇我大臣・豊浦大臣が本来の呼び名である。
怨霊は怨みがあるから祟る(タタル)のだが、それは互に怨み怨まれるだけの原因があることを自覚していなければ、怨霊の存在はありえない。従って、斉明天皇には彼に怨念を抱かせる行為をした覚があるのだろう。
また、雨具を着た鬼は「なまはげ=粛慎」、蝦夷とは「えみし=鬼」を連想して創作したのだろう。これは、現実に東北の蝦夷は鬼と呼ばれ、怨霊「もののけ」と化しても当然な、冷酷な仕打ちを受けることになる前兆に思える。
宮崎駿氏の『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』の根底に流れる主テーマは、弱者の美学とも感じられるが、弱者としての鬼は朝廷の命に服従せぬ先住民として『まつろわぬ民(不服従者)』と蔑まれ、理不尽にも故地から駆逐される。
彼らこそ、時の権力者を邪悪な魔物と感じたことだろう。
ちなみに平安時代中期、有名な陰陽寮の「安倍清明」が登場するが、彼は東北の鬼と恐れられた安倍氏の同族、安倍比羅夫を祖とするが、その彼が怨霊退治をするのだから、世の中は皮肉なものである。ただ、清明の子孫によって、安倍氏は明治維新まで土御門(つちみかど)家として公卿の座を継承することになる。
土蜘蛛(つちぐも) 

 

『日本書紀』には各地の土蜘蛛が登場するが、蜘蛛のことではない。先住の縄文人とする説もあるが、鉱山の坑道で働く人々を「土蜘蛛」や「穴居民」と蔑称したもので、国栖(くす)・国樔(くず)・佐伯(さへき)・八束脛(やつかはぎ)・隼人(はやと)、いずれも土蜘蛛であり穴居民を意味しており、土蜘蛛の分布地と丹生(ニュウ)・砂金・砂鉄など鉱山資源の産地が合致する。というより、合致するからこそ冷酷に駆逐されたのである。
『古事記』神武紀 / 伊波禮毘古は言葉に従い八咫烏(やたがらす)の後についていいと、 阿陀(あだ)で朝廷に魚などを献上する国津神と出会い、国栖 (くす)で穴居民の迎えを受けた。
『日本書紀』神武紀 / 高尾張邑(タカオワリムラ)に土蜘蛛(つちくも)がいた。その人態は、身丈が低く、手足が長かった。磐余彦尊(いわれひこ=後の神武天皇)の軍は葛(桂)の網を作り、罠をはって捕らえ、これを殺した。そこで邑の名を変えて葛城とした。
『日本書紀』応神紀 / 吉野宮に行幸。国樔人(くずひと)が醴酒(こざけ)を天皇に奉り、歌を詠んだ。国樔の人は、人となりが純朴であり、常は山の木の実を取って食べている。また、カエルを煮て上等の食物としていて、名付けて毛瀰(もみ)という。
上記から、大和地方にも多くの土蜘蛛がいたのだろうが、竪穴式住居の大王家の人々も「アリ」のようなもの。なにやら「目クソ、鼻クソを笑う」の感じがするが、劣悪な連中だとしなければならない理由があるのだ。それは後述する。
『日本書紀』景行紀に、筑紫の土蜘蛛討伐と熊襲討伐の話があり、景行天皇が大和に帰還すると、東国から戻ってきた武内宿禰が、次のように言上したという。
「東国のいなかの中に、日高見(ひたかみ)国があり、その国の人は蝦夷(えみし)と呼ばれ、男も女も髪を椎(つち)のような形に結って、体には刺青(いれずみ)をした勇敢な者達です。また土地は肥えていて広大です。是非攻略すべきです」
肥沃で広大な土地があるから略奪すべきだと言われ、すぐに景行天皇は日本武尊(ヤマトタケル)に東国の蝦夷征伐を命じている。これでは、蝦夷は西部劇に登場する北米インディアンのようなもの。ただし、この段階では蝦夷と呼んでいるが、蝦夷とは「辺境の野蛮な異国人」を意味しており、まだ、『鬼』とはされていない。
『日本書紀』は日本武尊(古事記では倭建)の蝦夷征伐を記しているが、『古事記』には、蝦夷征伐は一行も記されていない。だが、『常陸国風土記』には日本武尊が登場するので、それをみてみよう。
『常陸国風土記』 /
行方郡(なめかたのこおり)・当麻(たぎま)郷 / 倭武(ヤマトタケル)天皇が巡行して、この郷を通られたとき、佐伯(さへき)の鳥日子という者があった。天皇の命令に逆らったため、すぐに殺された。
行方郡・芸都(きつ)里 / 昔、芸都里に国栖(くず)の寸津毘古(きつひこ)、寸津毘賣(きつひめ)という二人がいた。その寸津毘古は天皇の命令に背き、教化に従わず、無礼であった。そこで、御剣を抜いて、すぐに斬り殺された。寸津毘賣は恐れおのき、白旗を掲げてお迎えして拝んだ。天皇は哀れに思って恵みを垂れ、住むことをお許しになった。
小城郡(おきのこおり) / 昔、この村に土蜘蛛(つちぐも)がいて、小城(城壁)を造って隠れ、天皇の命令に従わなかった。日本武尊が巡行なさった時、ことごとく誅罰した。
この『常陸国風土記』に対して、茨城県潮来市には次のような伝承がある。
『潮来伝説』 / 崇神天皇の頃、霞ヶ浦の一帯で先住民に対する大掛かりな攻撃が行われた。
東海地方を古代は「ウミノミチ」と呼び、船でなければ辿り着けない土地だった。
霞ヶ浦の国栖(くず)に対する攻撃は海からの上陸作戦がとられた。朝廷の船団は伊豆から房総半島を回り、当時まだ小さな半島だった『鹿島』を望みながら、浮島に上陸した。国栖の抵抗はもろかった。大和朝廷は出雲の勢力を借りて鹿島を征定し、砂鉄の産地を手中に治めたのである。
『常陸国風土記』の編纂は、養老年間(717−723年)に常陸国守の藤原宇合(うまかい)によってされたが、大和朝廷で権勢を誇る藤原氏四家の一人である藤原宇合が国守として派遣されるほど、常陸国は重要視されていたことがわかる。
辰砂常陸国の辰砂(左の写真)・砂金・砂鉄の確保、これは大和朝廷にとっては死活問題だったのである。常陸の国造(クニノミヤツコ)には、筑波国造の壬生連・那珂国造の壬生直・上野国造の壬生公と、壬生(にゅう)氏が三名もいるが、壬生とは丹生(にゅう=辰砂・水銀)のことである。 これが潮来の伝承を裏付けているのではないだろうか。
ちなみに、壬生氏は壬生古志の一族で、『新選姓氏録』には「吉志、難波忌寸と同祖、大彦命之後也」となっている。要するに安倍貞任と同族の安倍氏である。 
丹生(にゅう)

 

日本には丹(に・たん)のつく地名が各地にあるが、いずれも丹砂(タンシャ=硫化水銀)の産地であることを示している。中国の辰州が一大産地だったことで辰砂(シンシャ)とも呼ばれる水銀と硫黄の化合物で、朱砂や丹朱とも呼ばれる。
『史記』封禅書や『十八史略』に、次のような一説が記載されている。
「灶(かまど=竈)の神を祀れば、丹沙(タンシャ=丹砂)を黄金に変えられ、その黄金でつくった容器から物を食せば寿命がのばせる。それで長寿をえたなら伝説の蓬莱島(ホウライトウ)へ航海し、不死の神仙に会い、天地を祀って自ら不死になれる」
これは、方士の李少君が前漢の武帝に上奏した煉丹(レンタン)術の効用である。
これが日本伝来すると、竈の神は台所の神として「荒神さん」と呼ばれ、それが今日に至っているが、古代の東北地方では製鉄の神様として祀った。こちらが正解である。竈の神とは「炉の神」のことで、丹砂を高温で溶解させ、蒸気から水銀を抽出することを意味している。
『魏志倭人伝』 /
倭の地は温暖、皆が裸足で歩いている。朱丹を身体に塗り、中国の白粉のように用いている。山には丹が有る。
倭王は、奴隷・倭錦・綿衣・帛布・丹・木弣(弓柄)・短い弓矢を献上した。
銅鏡を百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を賜う。
朱丹(シュタン)を身体に塗りとあるが、朱丹とは丹砂から採った赤色顔料のことで、考古学では色を構成する物質によって、鉄分系と水銀系に大別される。
鉄分系の赤色顔料は、焚き火の跡の土が赤くなったことをヒントに、鉄分の多い土を焼いて赤色をつくる知識を得たものと思われ、縄文時代にも使われている。
水銀系の赤色顔料は、偶然の産物ではありえず、弥生時代の遺跡からは検出されるが、縄文時代の遺跡での検出例がないことから、水銀朱の製法は中国大陸から伝来したと考えられている。
山には丹(に)があり、それを献上しているが、丹とは赤い土(鉄分系の赤色顔料)を意味している。
鉛丹(エンタン)を賜うとあるが、鉛丹(左の写真)とは酸化鉛のことで、現在も錆止(さびどめ)剤に使われているが、これは煉丹術で服用する不老不死の仙薬の原材料である。
忠衛王朝の皇帝は、唐代まで仙薬を珍重したため、多くが水銀中毒で怪死している。卑弥呼の死因は不明だが、水銀中毒でなければよいが。
丹生と真言宗「空海」
『丹生都比売神社』(和歌山県伊都郡かつらぎ町)
丹は朱砂を意味し、その鉱脈のあるところに丹生の名前がある。朱砂を精錬すると、水銀となる。金鉱石は丹生によって精錬されてはじめて純金となる。
丹生都比売大神とは、この地に本拠を置く全国の朱砂を採掘する古代部族の祀る女神とされる。全国に丹生神社は88社、丹生都比売を祀る神社は108社、摂末社を入れると180社余を数え、その総本社である。
この丹生都比売と、空海(弘法大師)には密接な関係がある。
唐から帰国した空海が、密教の根本道場を建てる場所を探すため、高野山の山中深く分け入ったところ、白と黒の紀州犬を連れた狩人姿の狩場明神の導きで、天野の地で丹生明神に出会い、高野にたどり着いたといいう伝承がある。
高野山は真言宗の総本山で、その中核は根本大塔を中心とする壇上伽藍である。この壇上伽藍の西端に御社(ミヤシロ)と呼ばれる「丹生明神と高野明神」を祀る神社と十二王子百二十伴神も同じく祀られている。
空海は壇上伽藍建築に際し、この御社を最初に建てたとされる。ただし、空海は御社のことについては一切記録を残していない。地主神を祀ることに不思議はないが、寺院の中核となる壇上伽藍の一角に主要な堂宇に比肩する規模の神社を建てるのは不可解である。
『日本書紀』景行天皇51年条 / 日本武尊が熱田神宮に献上した蝦夷らは昼夜を問わずうるさく騒ぎ(サエギ)立て、礼儀も悪かったので、倭媛(ヤマトヒメ)命は、蝦夷らを神宮に近づけないように命じ、朝廷に奏上した。そこで三輪山の辺りに置かれることになったが、幾日も立たないうちに三輪山の木を伐ったり、大声を上げて村人を脅かしたりした。これを聞いた天皇は、その蝦夷たちを遠方に置くことにした。これが播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波の五つの国の佐伯部(サエキベ)の先祖となった。
空海は宝亀五年(774年)、讃岐国屏風浦(香川県善通寺市)の佐伯氏に生まれている。つまり上記の蝦夷の末裔で、土蜘蛛の系統である。そして、丹生明神は丹砂を採取する土蜘蛛の一族が祀る神。両者に同族意識があっても不思議はない。
30歳まで空海は高野山周辺で山岳修行をしており、その一帯が水銀の産地であることは承知していたはず。丹砂の利権を有する彼らに資金援助をさせたのではないかと思われる。そもそも空海が唐に渡ったのは私費留学であり、莫大な渡航費用を弱小豪族の佐伯氏が負担できたとは思えない。すでに、その段階からスポンサーになっていた可能性もある。
丹生と天台宗「円仁」
東北には芭蕉の「しずけさや 岩にしみいる 蝉の声」で有名な山形市「立石寺」、岩手県平泉町「中尊寺」「毛越寺」、秋田県象潟町「蚶満寺」、青森県恐山「円通寺」等々、天台宗座主『慈覚大師円仁』が開祖とされる寺が数多くあり、特に山形県には、柏山寺・千歳山万松寺、薬師寺など10を越える寺を開いている。これは、慈覚大師が天長六年(829年)から天長九年(832年)まで東国巡礼の旅に出た折に、天台宗の教学を広く伝播させたことによるが、鳥海山も慈覚大師円仁が開祖とされる。
空海が唐から密教経典を持ち帰り真言密教を立てるが、仏教界の君臨する天台宗開祖の最澄は、空海の密教経典に執着するあまり、空海と確執を生じた。どうしても密教経典を入手したい最澄は、弟子の円仁を唐に派遣した。
そして、円仁が唐から密教経典を将来したことで天台密教が成立し、後に円仁は天台宗三代座主『慈覚大師』となるのだが、円仁は安倍氏族の下野国壬生(ミブ)氏の出身。壬生(ミブ)は丹生(ニフ)の転音。従って、円仁も土蜘蛛の系統である。
承和十四年(847年)、故郷下野国(栃木県)の二荒山(日光山)に修験場を開き、そこから西の阿武山中の金砂山に「東西の金砂神社」を開基する。その名の通り、近くには金鉱山があり、丹生沢の地もある。
さらに、東大寺大仏の建立に銅を献上した摂津国(大阪府北部)の多田鉱山に東光寺を建立するが、そこは朝廷に帰順した蝦夷(俘囚と呼ばれる)が労働者として送られた鉱山で、この多田鉱山が後の清和源氏となる多田源氏の金蔵となる。後に酒呑童子を退治したのは、ここ多田源氏の頼光である。
その一方で、円仁は魔多羅(マタラ)神を日本に伝来している。
円仁は唐代の五台山に念仏三昧の法を学び,帰朝後,叡山東塔虚空蔵尾に初めて常行三昧堂を建てたことで、各地の天台寺院に三昧堂の建立が広がり、それと同時に、摩多羅神を後戸に祀ることも伝承された。
平泉の毛越寺にも阿弥陀如来の背後には、もうひとつ後戸(ウシロド)と呼ばれる壇(ダン)が存在し、そこに摩多羅神の神像が安置されており、阿弥陀如来を拝めば、同時に背後に秘められた摩多羅神を拝むことになる。
このような仕掛けをした理由について円仁は、なにも語っていないが、真言宗の空海、天台宗の円仁、ともに土蜘蛛の一族で、蝦夷に密接につながっていることに不思議な縁を感じるが、二人の蝦夷に対する態度が極端に違う。
それは、独力で真言宗という宗教組織を作り上げた空海と、国家の庇護を受けて成立した天台宗のエリート僧である円仁との立場の違いから生じたもので、空海も自分に流れている蝦夷の血を嫌悪していたとは思えない。朝廷の意思に反する言動を取る訳にはいかなかったのだと推察する。 
鬼の神「荒脛巾(アラハバキ)」

 

丹生は、塗料、顔料、防磨剤、研磨材、水銀精製原料と用途は広く、水銀は薬用、金銀精製、メツキ用に不可欠の素材として珍重され、王権を強固にした大和王朝が大規模な建造物を続々と建て、遷都を繰り返したことや化粧用の「おしろい」としても需要が急増した。
古代の権力者には、必要な物は差し出せる、拒絶すれば土地ごと奪い取るという実に簡便な発想しかなかったようだが、土蜘蛛は朝廷の庇護下にある訳でも、奴隷でもない。恩も義理もない相手から献上を迫られ、「はい、喜んで」と応じるはずがない。結局、本来なら富を得るべき土蜘蛛が極悪非道な悪鬼とされ、故地を追い払われることになった。
そんななかでも、蝦夷と組んだ東北地方の土蜘蛛は「アラハバキ神」という神を信奉していたとする説がある。極めて史料の少ない古代信仰を考察するのは困難だが、概要を追ってみよう。
『荒脛巾神社』宮城県大崎市岩出山町
荒脛巾神社は「みずいぼ」の治癒にも霊験あらたか、といわれて、願掛けをする人が遠くからもお参りにきます。治癒した場合は、穴のあいた自然石やタコの脚2本を奉納しお礼参りをします。なんじゃ、こりゃ(*_*;
由来は、古代先住民(アラハバキ族)の祖神、守護神として祀ったもので、ある文献によると、東北、関東の地に600余社数え、平安期のアラハバキ系中心王侯は南部衣川『安倍氏』が後裔と言われる。
前九年の役後、改神或いは合祀の憂き目にあい、現在県内にのこるアラハバキ社は当社ほか数社の御鎮座が見られます。祭祀年は定かではないが、アラハバキ族の王城の地を西暦前に米山町朝来に、また西暦後、多賀城へ、そして古川市宮沢(302年)に移したとある。これを証とすれば、このいずれかの時代、この地に一族集団が安住の地をもとめ守護神として祀ったものと推定される。
由来では奥州安倍氏がアラハバキ系の大王だったようだが、神殿もなくあぜ道の片隅で寂しくたたずんでいる姿は無常を感じさせるが、他の荒脛巾神社も同様で、たいていは摂社、末社として小さな祠に祭られている状況にある。
アラハバキには様々な漢字をあてるが、彼らが信奉したとされるアラハバキの神には、いまだに定説がない。もともと土地の精霊であり、地主神であったものが、侵入者が待ちこんだ後来の神に地位を奪われ、主客を転倒されて『客人(マロウド)神』としての扱いを受けているとも思える。
『アラハバキ神社』(推定を含む)63社
青森県5社、岩手県2社、秋田県4社、宮城県2社、福島県2社。
栃木県1社、茨城県3社、埼玉県20社、東京都10社、千葉県1社、神奈川県1社。新潟県2社、山梨県1社、静岡県2社、愛知県7社。
『客人(マロウド)神社』92社
三重県1社、兵庫県1社、大阪府1社、和歌山県1社。
鳥取県1社、島根県40社、広島県7社、山口県8社。
愛媛県26社、高知県2社。長崎県2社。
三重県を境に以東はアラハバキ神社、以西はほとんどが客神社(客人神社)である。
大和王朝の本拠地の奈良県や京都府には存在せず、従って、近畿地方も少ない。
ただし、上記分布からアラハバキ神の信仰は全国的な広がりをみせており、単に東北地方ということではなく、特に出雲と物部に密接に関連しているようだ。
出雲系=島根県40社、埼玉県20社、東京都10社。
无邪志(ムサシ)国造は、出雲臣の子孫・兄多毛比(エタモヒ)命。
胸刺(ムサシ)国造は、兄多毛比命の子の伊狭知直(イサチノアタイ)。
物部系=茨城県3社、静岡県2社、愛知県7社、愛媛県26社、長崎県2社。
小市国造(愛媛県)は、物部連の祖の大新川命の孫の小致命。
松津国造(長崎県)は、物部連の祖の伊香色雄命の孫の金連。など
出雲系が70社。物部系が40社。全体155社のうち、110社を占めている。
ここから考えれば、物部氏と出雲族との間に、なんらかの関係があるはずだと推察される。その鍵が『東日流外三郡誌』にいう外物部かもしれない。
『東日流外三郡誌』 / 耶馬台族(邪馬台国の残党か)が逃れて奥州に住み着き、現地人と一緒になって、アラハバキ族と称して新しい国造りを始め、初代の国王には安日彦が就任した。
まさに鬼首の鬼たちをアラハバキ族だと言っているが、アラハバキに脚光をあてさせた東日流外三郡誌(ツガルソトサングンシ)には様々な論争があったが、現在では偽書だとする説に傾いている。だが、アラハバキ神を祀る神社(客人神を含め)150カ所にのぼることから、アラハバキ神がいたのは確実である。
そして、アラハバキ神が物部氏や出雲族と関係することも確かだと思われるが、これは別の章で述べる。 
魔多羅(マタラ)神

 

天台宗三代座主『慈覚大師』円仁が将来した魔多羅神について、梅原猛氏は次のように述べている。
私は摩多羅神にディオニソスの神の面影を見る。ディオニソスの特徴は性的放縦であり、その祭に人々は酒に酔って性器をかたどった張りぼてをもって、しきりに猥褻(ワイセツ)なことを言って町を練り歩く。私はこの広隆寺の牛祭にディオニソスの神の祭を見る思いであった。摩多羅神は、はるばると日本にやって来たディオニソスではないだろうか。(梅原猛著『京都発見二路地遊行』より)
ディオニソスはギリシャ神話における酒と享楽の神で、ローマ神話ではバッカスと呼ばれ、芸能神でもあり、他に「雄牛・秘技受けし者・二度生まれた・騒々しい」など、多くの名前がつけられているが、ゼウスの庶子とされる。
ディオニソスの狂宴は、ディオニソスを祝うと同時に、広場に陽石(まら石)を立てて豊饒を祝い、飲み歌い踊ったが、しはしば多数の男女が淫行に及ぶことからローマ元老院に禁止されたという。江戸末期、真言密教立川流が同様の宗教儀式を催し、幕府に弾圧されている。
うおおおおおお! 古来、日本でも祭りの神輿に鎮座する御神体が陰陽石である場合が多いが、これは子種を植え付ける陽石、子宝を生み出す陰石は豊穣の象徴とされたのである。
左は「金山神社」神奈川県川崎市の金魔羅(かなまら)祭だが、今は豊穣祈願より安産や妊娠祈願が主となっている。
このディオニソスに近似する魔多羅神を日本に普及させた天台宗が、魔多羅神は荒神だと指摘している。丹生で既述したように、台所の神様として親しまれている『荒神(コウジン)さん』は、本来は土蜘蛛の「炉の神」だが、天台宗は荒振(アラブル)神だというのだ。なにやらアラハバキに音が似ている。
荒神の起源は、ヒンズー教の摩訶迦羅(マハーカーラ)で、シヴァ神の夜の姿(性的性質)だという。これもディオニソスである。
しかし、なぜ円仁は魔多羅神を荒神だとしたのだろう。
奥州安倍氏の滅亡は1062年のこと。従って、円仁の時代(794年〜864年)には、安倍氏族の全盛期は過ぎていたが、大和から難波に本拠地(阿倍野の一帯)を移して勢力を保っており、安倍氏族のための配慮だとは思えない。やはり土蜘蛛に対する供養だと思われるのだが、東北蝦夷の反乱で滅ぼされた大竹丸が安倍氏であれば、大竹丸の供養ではないだろうか。これも後述する。
魔多羅神は客人神と同様に、本来は外来の邪霊を撃退するために置かれた「サエの神(道祖神)」とも考えられている。
道祖神(どうそしん)
魔多羅神はディオニソス同様、多様性を秘めた神で、その性質のひとつが道祖神だが、日本の道祖神の原型は『記紀』の黄泉国の話にある。
黄泉国までイザナミを探しに行ったイザナギは、イザナミの腐乱した遺体に恐れをなして逃げ出した。侮辱されたイザナミは冥界の鬼女に追わせたが、黄泉の境の平坂を、イザナギが障害物で塞いだ。用いた磐石を道返大神(さえのかみ)、杖を岐神(ふなとのかみ)という。
そして、黄泉の汚れを洗っていたイザナギの左目から天照大御神(アマテラス)、右目から月読尊(ツクヨミノミコト)。鼻から素戔鳴尊(スサノオ)が産まれるのだが、これは古代苗(ミャオ)族の『盤古神話』を起源としている。
道祖神は塞(さい)の神とも言い、村の外れに置き、外部から悪霊が村に侵入するのを防いでいたが、子を産んだイザナギに由来して、道祖神も男女両性とされ、神社に陰陽石が祀られるようになり、供物も男女の性器の形状のものとされ、豊穣祈願や子宝祈願の神となる。
大黒天
魔多羅神は「戦い、闇の世界、祟り、性的」という多面性もつ荒振神とされるが、それが大黒天となると一転して守護神となり、財産や仏法を護る神様となる。
帝釈天・毘沙門天(多聞天)などと同様に、仏教の天部に所属する神で、忿怒神・戦闘神・夜叉神とされるが、マハー(大いなる)カーラ(黒)の漢訳が『大黒天』または大黒神という。それが仏教に採りいれられ、悪鬼と戦う勇猛な護法の軍神に変身した。阿修羅の逆パターンである。
高天原の神々に従わず、高天原に帰順しない邪悪な神々で、人々に災いをもたらし、苦しめるとされる荒振神としての面が、朝廷からみた蝦夷『鬼』の姿と重なるように感じられる。
摩訶迦羅が道教と習合すると、商売繁盛の福の神に変身して、日本では『大黒様』と呼ばれるようになるが、平安時代の大黒天の像(左の写真)には、鎌倉時代からの大黒様とは異なり、優しい表情はしていない。
円仁が魔多羅神を伝来したのは、国家権力に付着して鎮護国家に専心し、衆生救済を無視した日本仏教に対する無言の批難で、権力の非道に泣く人々を護る神を、後戸に隠して秘仏としたのではないだろうか。
今の仏教は発祥の国インドでも衰退し、東南アジアと日本に残るだけだが、大寺院は観光、他の寺院は葬式と法要、ただこれだけに専念しているようでは、円仁が泣いていることだろう。
能・狂言への発展
金春禅竹の『明宿集』には,摩多羅神は猿楽者の芸能神(宿神)だとしている。これもディオニソスに類似しているが、道祖神は領域の境を護る神で、いわば外敵に対する霊威だが、宿神も本来は同一の役割を果たす神とされている。
かつては歌舞伎役者が「河原乞食」と侮蔑されたが、猿楽師も良民以下の下賎な身分とされ、地理的境界である坂(さか)や宿(すく)に居住を強いられた。そんな彼らの神である。境とは差別の境界でもあり、土蜘蛛の鬼も当然、この仲間である。
大和朝廷は散楽師の養成機関「散樂戸」を設けて、保護をしていたが、延暦元年(782年)、桓武天皇によって散楽戸は廃止される。
散楽とは古代ローマやギリシャの芸能がシルクロードを経由して中国に伝わり、大陸文化とともに日本に伝来した雑芸師の総称で、散楽が猿楽の前身である。
散楽のうちの物真似芸を起源とする猿楽は、後に観阿弥、世阿弥らによって能へと発展し、曲芸的な部分は後の歌舞伎に引き継がれ、滑稽芸は狂言や漫才芸になり、奇術は今日のマジック(手品)となった。人形を使った諸芸は傀儡(くぐつ)となり、人形浄瑠璃(文楽)へと引き継がれていった。
このように、散楽が後世の芸能に及ぼした影響には計り知れないものがあるが、朝廷の保護をなくした散楽師は寺社や街角で芸を披露するようになり、他の芸能とも融合して独自の発展を遂げていったが、なかには社寺の庇護を得て、その祭礼の際などに自分たちの芸を披露する者たちもいた。
最初は余興的なものとして扱われていたが、やがて社寺の祭礼には猿楽が不可欠とされるようになり、社寺の由来や神仏と人々の関わり方を解説するために猿楽の座が寸劇を演じるようにもなる。これがやがて「猿樂の能」となり、公家や武家の庇護をも得て、「能」や「狂言」に発展していった。
「御能狂言図巻」より
後に節分会と呼ばれる宮中行事の追儺(ついな)には、「鬼」を払う役割の法呪師が欠かせない。それを担ったのが「猿楽呪師」である。
天台宗系の常行三昧堂の後戸に摩多羅神が祀られていたが、天台寺院に庇護された後戸猿楽(猿楽呪師の後身)は、この後戸で六十六番の滑稽芸をもって奉祭していたが、それを縮めて三番にしたのが「翁猿楽」で、翁猿楽には猿楽本来の滑稽性がなく、除魔や祝祷性のある呪師の面影が強く出ているとされる。
福は内、鬼は内
中国仏教は道教と習合し、七福神や閻魔(えんま)大王を誕生させた。
閻魔大王が次に死者となるべき人物の姓名を記した戸籍台帳を『鬼籍』といい、死者は鬼籍に編入されることから、死ぬことを「鬼籍に入る」というが、奈良時代に、この閻魔大王の話が広がり、死と鬼が一体化し、いつしか鬼は不吉な物として忌み嫌われる風習が生じたのだろう。
さらに、人は生前の業の善悪によって「天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄」の六道いずれかの世界に入るとされる六道輪廻(ロクドウリンネ)の思想が浸透し、地獄の牢役人「獄卒」、罪人を苛烈に罰する牛頭(ごず=牛頭人身の鬼)、馬頭(めず=馬頭人身の鬼)が、『鬼』の典型とされるようになる。
このように、仏教の普及によって鬼のイメージは下落したが、大和王朝が中央集権国家を目指すまでは、鬼と土蜘蛛が同一視されることはなかった。
それが、奈良時代に入ると大和王朝に服従しない「服(まつろ)わぬ民」即、『鬼』だとされるようになる。だが、記紀(古事記と日本書紀)に記された日本武尊の事績、土蜘蛛・熊襲・出雲の討伐、また『常陸国風土記』を読んでも、日本武尊の戦法は、強者に対しては卑怯・陰険、弱者に対しては非道・無慈悲としかいえない。
それでも服従しろとは不条理な要求である。当然、理不尽な侵略に対して、相手側の首長は必死の徹底抗戦を試みる。それが「邪鬼」にされるのだから、「勝てば官軍、負ければ賊軍」は世の常とはいえ、あまりにも無情だといえる。
節分に「福は内、鬼は外」と豆をまいて鬼を追い払う風習は、慶雲二年(705年)頃に始まった厄払いの儀式『追儺(ついな)』が起源だとされるが、神秘の力を象徴するはずの『鬼』が、奈良時代には退治される魔物に凋落している。
写真だが、全国には頑として「鬼は神様」とする節分もある。元興寺(奈良市中院町)、天河神社蔵王堂(奈良県吉野市)、千蔵寺(川崎市)、鬼鎮神社(埼玉県武蔵嵐山市)などでは、「福は内、鬼は内」と唱え、大原神社(京都府三和町) の節分にいたっては「福は外、鬼は内」と唱えている(左は大原神社の節分『京都新聞』)。
そんな民衆のささやかな反発が「福は内、鬼は内」にこめられているのではないだろうか。ただ、鬼とされた蝦夷の国、東北地方には「福は内、鬼は内」を唱える節分会がないのは、なんとも残念ではある。
なぜ大和王朝が不条理な施策を生み出したのかといえば、白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗し、国家存亡の危機に陥ったことが要因と考えられる。次の項目では、それについて解説をする。 
鬼と粛慎(みしはせ)

 

仏教の伝来によって鬼が神(鬼神)から妖怪(邪鬼)に貶められ、奈良時代になると、厳密に言えば日本国(天武朝廷)の時代になると、朝廷に服従しない民は「非道で、悪辣な鬼」だとされた。
しかも朝廷に反抗する地域の神々は、『日本書紀』によって時代を遥かに遡って、正統な天神から邪神だとされたとする神話や歴史物語を意図的に付加され、それが正史として代々伝承していくよう万全の対策を施された。
そして、1300年後の今日、『記紀』に記載されたこと歴史的事実であり、これに記された神々であれば、太古から信奉されてきたのだろうという、一種のブランド証明ともなっている。 天武さんは、エライ(^_^;)
日本国(天武朝廷)によって『鬼』とされるのは、天武朝廷の支配下に組み込まれなかった「まつろわぬ民」で、彼らに共通するのは「土蜘蛛」と呼ばれたことだが、そもそも土蜘蛛とは何人なのだろう。
土蜘蛛は倭鍛冶か
土蜘蛛を縄文人、倭人を弥生人だとする説がある。
縄文文化に対し、弥生文化には渡来文化の影響が強く、北部九州には縄文遺跡が極端に少ないことから、この一帯に弥生文化をもつ多数の渡来人がいたことは確実だが、考古学的には、「両文化には連続性がみられ」、人類学的には、「人骨の形質変化から、少なからぬ渡来人の存在が想定される」。
つもり、弥生人が縄文人を駆逐した訳ではなく、少数派の縄文人と多数派の弥生人が穏やかな交流を進め、混血児が誕生。やがて圧倒的多数の弥生系の文化と遺伝子が北部九州に広がり、そこから日本列島を東進していったと思われることから、土蜘蛛を縄文人だとは断定できない。では、穴居民とはなんだろう。
土蜘蛛を土着の穴居民だと記すが、奈良時代の民衆は竪穴式住居で暮しており、現代人には全員が穴居民に思えるが、『記紀』の穴居民とは、丹生や鉄鉱石などを掘る鉱夫のことだと思われる。
作金者(カナダクミ)が製鉄技術を伝来したが、鉄器製造は朝鮮半島からの鍛冶職人に頼っていた。彼らは韓鍛冶(カラカヌチ)と呼ばれた。それ以前は銅鐸や銅剣などの銅器を倭鍛冶(ヤマトカヌチ)が製造しており、なかでも鉱石の識別をする鐸石別(ヌテシワケ)は、先進技術者とされ、崇神天皇の孫に鐸石別命の名があるように人々に崇敬されたが、鍛冶は部民(べみん)とされた。
部民とは、領主に隷属する様々な技術者集団をいい、奴婢ではないが、賎民と良民の中間的身分で、居住地での生活の自由は認められた。だが、時代を経ると彼らも奴隷階級に落とされ、結婚も禁じられ、売買されるようになる。
奴隷は人間の屑(くず)として扱われたが、屑とは国栖(くず)、すなわち土蜘蛛である。当然、そんな悲惨な生活を強いる権力者に対し、反抗する者も現われる。
従って、鬼や土蜘蛛が登場する土地は、鉄や丹生の産地と一致する。
良質の鉄を産出した常陸国も本来は蝦夷の領域だったが、鹿島神宮を拠点とした大和朝廷によって常陸から駆逐され、東北に逃れるが、なかには徹底抗戦した蝦夷部族もいる。それが都から遠く離れた常陸に土蜘蛛や鬼の物語が多い原因である。このことから、鬼とは、倭鍛冶の部民(土蜘蛛)の長だとも考えられる。
『日本書紀』天地開闢神話には、国常立尊(クニトコタチ)、国狭槌尊(クニサツチ)、豊斟渟尊(トヨクムヌ)が登場するが、豊斟渟尊の実際の発音は「ボシントイ」であり、パイカル湖一帯のブリヤート族伝承の「鉄鍛冶神」の名だとされる。つまり、北廻りに東北へ渡来して陸奥に独自の製鉄王国を立てたオホーツク文化圏の人々の神と同一神格だというのである。
オホーツク文化
倭国は青銅器文化と鉄器文化がほぼ同時に始まるという異質な文化をもち、同時期に両文化が伝来したことを物語っているが、青銅器製造は紀元前2世紀頃と推定されるが、紀元前一千年にアムール川流域に発展した匈奴鉄器文明の影響を受けたオルドス文化が密接に関与していると思われる。
『韓国考古学概論』金元龍 / オルドス文化とは、タガール文化(前700年−前200年)がオルドス地方(内蒙古自治区)で中国青銅器文化と混合した結果、出現した独特の遼寧青銅器文化だが、中国東北部から朝鮮半島の無文土器人が使用していた青銅器がオルドス文化様式とされる。朝鮮半島の遺跡から出土した無文土器は、年代測定で紀元前559年から前280年とされる。
『オホーツク文化概説』市立函館博物館 /  およそ6世紀から13世紀にかけて、樺太・北海道オホーツク海沿岸・千島列島を中心に、陸獣・海獣狩猟、漁撈、採集活動を生業とする民族集団が居住しており、彼らの形成した北方の文化形態こそ、謎を秘めた「オホーツク文化」です。
一般にオホーツク文化は、鉄器や青銅器を有する沿海州靺鞨文化(4〜10世紀)、女真文化(10〜12世紀)の系統をひいており、本州の土師器文化(7〜11世紀)の影響を受けて発生した擦文文化(8〜13世紀)と融合、吸収されていったと考えられています。
上記の説明では、紀元前の銅器や鉄器は朝鮮半島から、4世紀頃の古墳時代にはロシア沿岸州からも入ってきたことが窺われる。
オルドス文化もオホーツク文化も、ともにアムール川流域に端を発していることから、ツングース系の粛慎や扶余が、両文化の伝来に関与していると推察する。
九州から西日本には朝鮮半島経由の扶余系、北日本にはアムール川流域やロシア沿岸州から豊斟渟尊(ボシントイ)を信奉する粛慎系、それぞれの渡来人が銅器と鉄器の両文化を一緒に持ってきたのではないだろうか。そのなかに『東北の鬼』の先祖がいたのかもしれない。
見慣れぬ異国人
『日本書紀』斉明紀には、頻繁に粛慎「みしはせ」の記事が登場するが、その記述からでは、彼らの実像が見えない。少し追究してみよう。
『日本書紀』 /
欽明天皇五年(544年)12月条 / 越(こし=北陸)の国からの報告によれば、佐渡島の北の御名部(みなべ)の海岸に粛慎(みしはせ)の人がおり、一艘の船に乗ってきて留まっている。春夏の間は魚を捕って食料にしている。かの島の人は人間ではないと言う。また鬼魅(おに)であるとも言って、敢えてこれに近づかない。
持統天皇十年(696年)3月条 / 越の度嶋(わたりしま)の、蝦夷の伊奈理武志(いなりむし)と、粛慎の志良守叡草(シラスエソウ)に、錦でできた袍(上着)と袴・赤い太絹・斧などを下賜した。
上記では粛慎の概要もつかめないが、中国の史籍は、次のように記している。
『晋書』粛慎伝 / 粛慎(シュクシン)氏、一名に挹婁(ユウロウ)。不咸山(ふかんざん=長白山・朝鮮の白頭山)の北にあり、扶余(ふよ)から六十日の行程。東は大海(日本海)に沿い、西は寇漫汗国と接し、北は弱水(アムール川)に極まる。(中略)
気が向いたときに船に乗り、巧みに略奪を働くので、隣国は畏れて患うが、兵を派遣しても(兵士が彼らの毒矢を恐れるので)服させることはできない。東夷の扶余は飲食には皆、俎豆(お膳)を用いるが、挹婁だけは使用しない。その法俗は、最も綱紀が無い者(最悪の無法者)たちである。
『三国志魏書』挹婁伝 / 挹婁は扶余の東北千余里、大海に沿い、南に北沃沮と接し、いまだにその北の極まる所を知らない。多くの険山がある。その姿形は扶余に似ているが、言葉は扶余や句麗(高句麗)と同じではない。五穀、牛、馬、麻布がある。人の多くは勇猛で力がある。大君長はいない。各々の部落に大人がいる
『日本書紀』にいう粛慎は、ツングース語系諸族の粛慎のことだと思われるが、粛慎はツングース族の部族集団名で、「みしはせ」が、どの部族を指すのかは不明だが、オホーツク文化に靺鞨文化、女真文化とあるが、靺鞨も女真も粛慎の末裔である。彼らが日本海を渡ってきたのだろう。そして、彼らの武装した風貌が、鬼のイメージ「大柄、赤い目、紅毛、角がある」に似ていたのだろう。
阿倍比羅夫
次に、『日本書紀』斉明紀での「阿倍比羅夫」の記事をみてみよう。
ちなみに、阿倍比羅夫は『鬼切城』の主、俘囚の長『安倍頼良』の遠祖である。
[ 阿倍比羅夫─安麿─小島─家麿─富麿─宅良─安倍頼良─貞任 ]
655年、北の蝦夷99人、東の蝦夷95人、百済(クダラ)の調使150人に饗応。
658年、4月、阿倍比羅夫が軍船180艘を率いて蝦夷に遠征。降伏した蝦夷の恩荷を渟代(能代)、津軽二郡の郡領に定め、有馬浜で渡島の蝦夷を饗応した。
  7月、蝦夷二百余が朝献した。常よりも厚く饗応し、位階を授け、物を与えた。
  11月、この年、越の国守の阿倍引田臣(アヘノヒキタノオミ)比羅夫が粛慎を討ち、生羆二つ・羆皮七十枚を献上した。
659年、3月、阿倍比羅夫に蝦夷国を討たせた。阿倍比羅夫は一つの場所に飽田(秋田)・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏の蝦夷20人を集めて饗応し、禄を与えた。
後方羊蹄に郡領を置いた。粛慎と戦って帰り、虜49人を献じた。
660年、3月、阿倍比羅夫に粛慎を討たせた。比羅夫は大河のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められ、粛慎を幣賄弁島まで追って、戦い破った。
  5月、阿倍引田臣が夷50人余りを献じた。石上池で粛慎47人を饗応した。
粛慎は挹婁・勿吉(モツキツ)と国号を改め、7世紀初期には靺鞨(マツカツ)と名を変え、高句麗や突厥に服属し、後に渤海を建国した南の粟末靺鞨と、後の女真となる北の黒水靺鞨に二分されている。
724年頃に建立された奥州多賀城の石碑に「西に靺鞨国」との文字がみえるが、『日本書紀』編纂時には粛慎の改号を知らなかったようだ。
612年、隋の煬帝は高句麗に遠征し、高句麗に服従していた靺鞨粟末部の大部分を帰順させ、現在の朝陽市に移住させた。隋に帰順しなかった靺鞨粟末部の残余は、高句麗側で抵抗を続け、668年に唐が高句麗を滅ぼした後、朝陽市に強制移住させられている。
従って、日本書紀に登場する粛慎とは、高句麗と共闘していた粟末靺鞨ではなく、アムール川中流域の黒水靺鞨のことになるが、中国の史籍には、黒水靺鞨は「東夷最強」とあり、当時の倭国水軍が敵うような相手ではない。
『日本書紀』では阿倍比羅夫が何度も「饗応」しているが、敵を饗応するのは和議が成立した場合で、実際は討伐ではなく、蝦夷や中国大陸の部族と交易をした記録を歪曲したとも考えられるが、この時期の倭国は風雲急を告げる国際情勢にあり、東北に水軍を派遣するような余裕があったとは思えない。
642年、百済が高句麗と結んで新羅を攻めると、新羅は唐に救援を求めた。
645年、647年、648年、唐の太宗は3回の高句麗遠征を行ったが失敗した。
645年、倭国で皇室クーデター「乙巳の変」が起こる。
653年、百済義慈王が倭国と国交を結んだ。
655年、唐の高宗が高句麗遠征を再開、以後、高句麗が滅亡するまで継続する。
この年、阿倍比羅夫は北の蝦夷99人、東の蝦夷95人、百済(クダラ)の調使150人を饗応しているが、これは阿倍比羅夫が支配する越国の港が、百済使節が渡来するときの玄関口だったことを表しているのではないだろうか。
別の章で後述するが、この当時、安部氏族は大和国を本拠地としているが、その氏族の支配地は筑紫国(北九州)、若狭国(福井県)から越国(新潟県)、常盤国という広大な領域を有する中央政権でも屈指の大豪族である。
655年から660年は、百済・高句麗と新羅・唐の熾烈な戦いが起きていた時期であり、この状況下に阿倍比羅夫が水軍を動かしたとすれば、新羅侵攻の上陸作戦を想定してのものだと想像する。
それほど事前から軍事訓練を重ねていたが、中大兄皇子は軍師としての資質には欠けていたのだろう。白村江で簡単に撃沈されてしまった。
660年、唐は高句麗と結んだ百済に矛先を転じ、新羅と連合して百済を滅ぼす。
  7月、鬼室福信が百済復興の兵をあげ、倭国に救援と王子の豊璋の帰還を要請。
中大兄皇子(後の天智天皇)はこれを承諾。遠征の軍備をはじめた。
このような情勢下で、阿倍比羅夫がのんびりと粛慎を討ったり、饗応したりする余裕はなかったと思われる。『日本書紀』は精一杯の虚飾を施したのだろう。
661年、前線基地の大宰府に親征した女帝『斉明天皇』が急死(暗殺説あり)。
  5月、安曇(あづみ)比羅夫を指揮官とする170余隻を、百済王子の扶余豊璋を護送する先遣隊として送った。
662年、3月、阿倍比羅夫らが二万七千人の兵を率いて朝鮮半島に進軍する。
ここに安曇比羅夫と阿倍比羅夫の二人の将軍が登場するが、安曇氏も安倍氏も、ともに海人系の氏族である。ここでは安倍氏が水軍力を有していたことを記憶していただきたい。 
倭国の滅亡(新生日本国)

 

阿倍比羅夫の朝鮮出兵によって、結果的に旧来の倭国は滅び、日本国が登場する契機となる。そして、それは「東北の鬼」の誕生につながっていく。
663年、倭国は百済復興のため大軍を派遣したが、白村江の海戦で新羅と唐の連合軍に壊滅的な惨敗をきした。
664年5月、唐軍の総責任者である百済鎮将の劉仁願が使者を派遣してきた。
  12月、劉仁願の使者が戻っていった。
665年9月、唐国が朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高らを派遣してきた。
  12月、唐の使節が大和王朝の送使らを伴って戻っていった。
667年、中大兄皇子は九州北部から瀬戸内海にかけて国防施設を配置したが、ついに飛鳥を離れ、近江大津(滋賀県大津市)の近江宮へ遷都した。琵琶湖の東岸から鈴鹿に出れば伊勢湾、湖東から敦賀に出れば日本海、当時の大津は陸海路の要衝の地で、連合軍が迫った場合に備えた遷都である。
  11月 9日、唐軍の劉仁願が熊津都督府の熊山県令の法聰等を派遣してきた。
  11月13日、戻っていった。
668年、中大兄皇子が天智天皇となり、同母弟の大海人皇子を皇太弟に任じた。
この年の9月、高句麗が唐によって滅ぼされた。
669年、遣唐使として小錦中河内直鯨らが大唐に派遣された。
671年、天智天皇は、大友皇子を太政大臣にして後継者とする意思を示した。
天智天皇は亡命百済人らに免税などの優遇をして、東国の開拓を委ねた。陸奥国から朝廷に黄金を献上する「百済王敬福」は、このとき陸奥国に入植した百済王族の一員である。
  11月、大唐の郭務悰が軍線47隻、2,000名を率いて大宰府に寄港した。
  12月、天智天皇が死去、大友皇子(弘文天皇)が跡を受け継いだ。
672年3月、阿曇連稲敷を筑紫に遣して、天皇崩御を郭務悰に告げた。郭務悰らは、みな喪服を着て、三度哀の礼を奉じ、東に向って首を垂れた。
  5月、郭務悰らが戻っていった。
  6月、粛清の危機を感じた大海人皇子は、吉野から伊賀、鈴鹿関(三重県亀山市)を経由して美濃に逃れ、不破関(岐阜県不破郡関ヶ原町)で叛旗を掲げ、東国の豪族に挙兵を求めた。壬申の乱の勃発である。
瀬田橋(滋賀県大津市唐橋町) の戦いで朝廷軍が大敗、弘文天皇が自決した。
673年、大海人皇子は『天武天皇』として即位する。
676年、新羅が朝鮮半島を統一。倭国の半島への介入の道が閉ざされる。
690年、白村江で捕虜となった倭人たちが唐から帰還。
天武王朝は、彼らの情報に刺激を受け、律令制を布いた中央集権国家の構築を目指し、亡命百済高官らの知識を活用して律令制の成立に着手した。
701年、大宝律令が制定。国号を日本と定める。天皇制もこの時期と思われる。
この激動の40年が、井の中の蛙になっていた倭国を、新たな日本国を誕生させるための「生みの苦しみ」の期間だったともいえるが、白村江での敗戦以降の大唐の動きはなんだろう。
天智天皇の死去の直前に多勢で寄港し、まるで「壬申の乱」の勃発を未然に察知していたかのような帰還。
『唐会要』倭国・日本国伝 / 日本国の国号は、則天武后(624〜705年)の時代に改号したという。日本は倭国の別種である。その国は日辺に在る故に、日本国を以て名と為した。あるいは倭国は自らの国名が優雅ではないことを憎み、日本に改名した、あるいは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併呑したという。そこの人が入朝したが多くは自惚れが強く、不実な対応だったので、中国は(倭国とは無関係ではと)疑う。
このように唐王朝も従来の倭国と日本国の関係に疑問を感じており、『倭の五王』の時代の倭国と、新生日本国は関連性がなかったことをうかがわせる。
なにはともあれ、唐の先進的な統治制度に習った律令国家とするためにも、王朝の歴史を記録した『正史』の編纂が必須とされた。
ただし、天武天皇は正統な天皇であり、天武朝廷につながる代々のヤマト王朝が信奉した神の系譜につながる神々だけが日本国の正統な神であること。これを明記することが『天皇家の正史』の絶対的要件だった。
その根拠は、天武天皇が皇位簒奪者ではないことを説明するのに『日本書紀』は最大のページ数を費やしており、大海人皇子は皇太弟(こうたいてい)に任じられたとするのも『日本書紀』の創作だとされる。
ちなみに、皇位継承者とされた子女は「皇太子」、弟の場合は「皇太弟」という。大友皇子を正規の天皇「弘文天皇」であると認めたのは明治以降のことである。
『日本書紀』 /
天武天皇の十年(682年)条 / 天皇は大極殿にお出ましになり、川嶋皇子ら12人に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し校定させられた。大島・子首が自ら筆をとって記した。
持統天皇の五年(691年)条 / 大三輪、上毛野、膳部、紀、大伴、石上、雀部、藤原、石川、巨勢、春日、平群、羽田、阿部、佐伯、采女、穂積、安曇の18氏に命じて、先祖からの事績を記した『墓記』を奉らせた。 
このように『記紀』の編纂に先立って、「帝紀」や墓記(氏族史)に類する歴史書を作成させているが、ほとんどが現存しない。
後世、多くの氏族が秘匿していた残存記録を元に系譜を復元したようだが、上古の系譜が不鮮明な家系が多いのは、提出された纂記を焼却したことが原因だと推察される。『続日本紀』には次のような一文がある。
『続日本紀』元明天皇 /
慶雲四年(707年)7月条 / 山沢に亡命して、軍器を挟蔵して、百日首せずんば、罪に復すること初の如くす。
和銅元年(708年)正月条 / 山沢に亡命して、禁書を挟蔵して、百日首せずんば、罪に復すること初の如くす。
軍器とは軍隊に要する器物のことだが、慶雲四年の軍器は禁書の誤写とされる。
禁書を秘匿し、天皇家の命令を拒否して王朝の支配地域外に逃亡した者は、百日以内に自首しなければ、本来の罰を科すぞと言っている。半年後にも同文の勅詔が出されていることから、百日以内に自首する者がいなかったのだろう。
禁書とは、天皇家に禁じられた本のことで、天皇家の大義名分に相反する書籍、すなわち「諸家の帝紀や本紀」や上記の『日本書紀』に記された『墓記』である。
このことから、天武と持統の夫婦が命じて提出させた歴史書の内容は、彼らには不都合な記述があったものと推察できる。
そこで登場するのが『古事記』である。
『古事記』
天武朝廷は代々朝廷に仕える語部(かたりべ)である稗田阿礼が暗誦していた帝紀(天皇の系譜)・旧辞(古い伝承)を、太安万侶(オホノヤスマロ)に書き写させ、それを献上させた。それが、和銅五年(712年)頃に成立した『古事記』である。
前述の天武紀に「帝紀及び上古の諸事を記し」とあり、これこそが『古事記』の原本ではないかとする説があるが、それを参考に天武朝廷に都合のよいストーリーを創作したものが『古事記』だと推察される。
ちなみに、天武朝廷という呼称はないが、天智天皇までの従前の大和王朝に対し、天武天皇による新しい王朝だということを強調するため使用したものです。
『古事記』序文 / 聞くところによると諸家に伝わっている帝紀及び本辞の類がすでに正実に違い、多くの虚偽を加えたものになっている。これを改めないと史実が滅びる。帝紀を正確に書物にまとめあげ、旧辞を良く調べ上げ正しいものに偽削実定して後の世に伝えたいと思う。
このように、天武天皇の詔が記してあり、『古事記』は勅撰(チョクセン)ではないとはいえ、朝廷公認の最古の歴史書になるはずだが、正史にもなれず、『日本書紀』をはじめ、六国史では『古事記』の存在は完全に無視している。
このことから『古事記』は偽書だとする説もあるが、上記の『偽削実定して後の世に伝えたいと思う」との意図が、思い通りにはならなかったのだろう。そこで、藤原不比等が無価値としただけのことで、偽書は言いすぎだろう。
『風土記』
『古事記』が献上された翌年の和銅六年(713年)、元明天皇は諸国に官撰の地誌『風土記(ふどき)』の編纂を命じ、各国国庁から提出させた。
なぜ『古事記』完成の翌年に『風土記』の編纂を命じたのか。その理由を示した史籍はないが、全国各地の旧辞の内容を検証するのが目的だった。そして、案の定、日本国(天武朝廷)にとって不都合な伝承が大量に記されていた。
従って、『風土記』は禁書の扱いにさせたものと推察される。
現在、諸国の『風土記』は、出雲国風土記がほぼ完本、播磨国風土記、肥前国風土記、常陸国風土記、豊後国風土記が大部分を残しているだけで、その他の風土記は逸文(後世の書物に引用されている)が残っているだけというのが現状である。
これでは、諸国からの『風土記』を、長年の間に宮中で散逸したというよりは、故意に廃棄したと考えるほうが妥当だろう。
実は『古事記』と『風土記』の記述に相異があり、さらに編纂中の『日本書紀』の記述とは完全にかけ離れた内容だったので、日本国(天武朝廷)は諸国に『風土記』を廃棄するよう命じたものと推察される。いわゆる禁書処分である。
現存する『風土記』が国津神系の国々だけで保管されていたことからも、『記紀』(古事記と日本書紀)の記述に怒りを覚えた国々の人が、秘匿していたものが現在に残ったと考えられる。
『日本書紀』(神の評価基準)
日本国(天武朝廷)は中国語の天神地祇(テンシンチギ)を、天神は天津神(アマツカミ)、地祇は国津神(クニツカミ)と訳し、律令制で祭祀を司る神祇官を設置し、『日本書紀』神話に記載する神々を意図的に、高天原に鎮座あるいは天降った神々を『天津神』、地上で出現した神々を『国津神』に大別させた。
端的には、皇族や有力氏族が信奉する神々を『天津神』、大和王朝に平定された地域で信奉されていた神々を『国津神』に位置づけ、『国津神』は記紀神話に取り入れる際に『天津神』に従う神として、その神の本来の姿を変容させている。
養老四年(720年)、『日本書紀』が完成すると、日本国(天武朝廷)は『日本書紀』に記載された神だけが国家公認の神だと黙示的に位置づけた。
明文化しなくとも、天津神が天皇家、国津神が帰服者の神々であることは明白である。「日本書紀の神は内、その他の鬼神は外」、節分の豆のようなものだ。
そして、『日本書紀』に記載のない神を祀ることは、日本国(天武朝廷)に対する不服の表明だと疑われる危険があり、それらの神々は諸国で隠蔽、もしくは排除され、『日本書紀』の神々だけが全国で奉祀されるようになっていったと思われる。
これが正史である『日本書紀』に秘められた裏の一面である。
『延喜式・神名帳』(神々の番付表)
延喜五年(905年)に醍醐天皇の命により編纂に着手、延長5年(927年)に完成、康保四年(967年)から施行された神社の一覧表を『神名帳』という。
それも単なる一覧表ではなく、神祇祭祀をどのように行うかを、朝廷が規定した延喜式に付随したもので、朝廷の庇護を条件に、神に官位制度や社格を導入した、いわば祭神の階級表で、一般に『延喜式・神名帳』と称される。
これを裏面からみれば、社格の決定調査を口実に、全国各地の祭神の実地検分をしたともいえる。豪族のなかには一族が代々信奉してきた氏神を秘かに祀っていた可能性もあるが、これを機に『日本書紀』の神々に転換されたと想像できる。
『延喜式・神名帳』に記載された神社を「式内社」といい、式内社は祈年祭奉幣を受けるべき神社で、平安時代の神社約三万社のうち、式内社は2,861社。記載はないが『六国史』に社名のある神社を国史現在社といい、石清水八幡宮(京都府)など全国に391社。これ以外は、すべて『式外社』とされた。
当初は、神祇官が全国の式内社を巡回して奉幣(供物を神祇に献上する)を受けたが、国司が代理するようになり、神祇官より奉幣を受ける「官幣社」、国司より奉幣を受ける「国幣社」の別ができ、社格の順は、官幣大社・国幣大社・官幣小社・国幣小社とされました。また、国司が任地に赴任したときは「神拝」といって、任地内の神社を巡拜することが定められ、最初に神拝すべきとされる神社が『一の宮』と呼ばれるようになる。
このように、全国各地に約八万社を超える神社に祀られている神々は、いずれも『日本書紀』によって天津神と国津神に大別され、『延喜式・神名帳』によって個々に格付けがなされた、いわば朝廷の定めた階級制で識別された神々だといえる。 
内物部と外物部(そともののべ)

 

物部氏は磐余彦尊(イワレビコ=神武天皇)より前に、河内国の哮峰(大阪府交野市)に天孫降臨したとされる饒速日(ニギハヤヒ)命を祖先とする大豪族だが、用明天皇二年(587年) 物部守屋は蘇我馬子らに攻められて戦死し、一族は離散し、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなったともいわれる。
ただし、物部氏族はこの後も物部氏を名乗って活躍しており、物部宗家も守屋の弟が石上氏を賜ったとされ、後には左大臣も出している。
また、このときに中臣氏(宗家)も物部守屋に連座して衰退するが、なぜかこの後、忽然と中臣鎌足が歴史上に現れ、彼の次男とされる藤原不比等によって、藤原氏は強固な基盤をつくることになる。
既述したが、この藤原不比等が中央政権で権勢を握り、天皇家の『正史』として『日本書紀』を編纂させたが、実体は藤原家のための歴史書だとする説が有力で、『記紀』での藤原氏の関する記述部分は、それを留意して読む必要がある。
『先代旧事本紀』は、序文に推古天皇の命によって聖徳太子と蘇我馬子が著したと記し、古事記・日本書紀・古語拾遺の引用部分が多いが、物部氏の祖神である饒速日尊に関する独自の記述が特に多く、物部氏の書いた書ではないかと考えられ、通説では、平安時代初期の成立とされ、序文以外は偽作ではないと考えられている。
鎌倉時代には慈遍が神道の思想の中心と考えて注釈書『舊事本紀玄義』を著し、「度会神道」に影響を与え。室町時代には、吉田兼倶の吉田神道でも、『記紀』と『先代旧事本紀』を「三部の本書」として重視している。
『日本書紀』神武紀 /
長髄彦(ナガスネヒコ)は、昔、天神の御子が天磐船に乗って天降られた。名を櫛玉饒速日(クシタマニギハヤヒ)命といい、我が妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を娶り、生んだ子が可美真手命(ウマシマデ)であるといった。
磐余彦尊(イワレビコ=神武天皇)は、饒速日(ニギハヤヒ)命が天から降りてきた事が事実だと知り、いま忠誠を示した(長髄彦を殺して帰順した)ので、これをほめて、臣下に加えて寵愛した。この饒速日命が物部氏の先祖である。
『古事記』神武紀
邇芸速日(ニギハヤヒ)命が参上して、天神の御子(磐余彦尊)に「天神の御子が天降りされたと聞きおよび、後を追って降って参りました」と申し上げ、天の神宝を献上してお仕えした。邇芸速日命が登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ=登美毘古トミヒコ)の妹の登美夜毘売(トミヤヒメ)を娶って、生んだ子は宇麻志麻遅(ウマシマヂ) 命。これは物部連、穂積臣、采女臣らの祖先である。
『先代旧辞本紀』天孫本紀 /
饒速日 (ニギハヤヒ) 尊は天神の御祖の命令を受け天磐船(アメノイワフネ)にのって、河内の国の河上の哮峰(イカルガノミネ)に天下った。大倭の国の鳥見(トミ)の白庭山(シラニワノヤマ)に移った。饒速日尊は長髄彦(ナガスネヒコ)の娘の御炊屋姫(ミカシキヤヒメ)を娶り、懐妊させた。だが、生まれる前に饒速日尊はお亡くなりになった。
天孫の天津火瓊瓊杵 (アマツホノニニギ) 尊の孫「磐余彦尊」が天下を治めようと、軍を興して東征されたが、往々に命令に従わない者が鉢のごとく起り、中州(ナカツクニ)の豪雄の長髄彦は、饒速日尊の御子の宇摩志麻治 (ウマシマチ) 命を推戴して、君として仕えていた。
『記紀』と『先代旧事本紀』では、ニギハヤヒの扱いがまったく違う。
先住の天孫族のニギハヤヒを討伐したとなると、大和王朝が侵略者だったことが明白になる。ニギハヤヒの存在を無視して、一切記載しないのが最善の方法だが、現にニギハヤヒを祖とする氏族がおり、それではあまりにもバレバレである。
そこで、ニギハヤヒを神武天皇の臣下に仕立て上げた。もし、これに異議を唱えれば天皇に対する反逆として誅罰するぐらいの腹積もりだったのだろう。
ただし、物部氏が大和王朝に出仕していたのは歴史的事実であることから、先住のニギハヤヒ系とは別の針路を選んだことは間違いない。だとすれば、ニギハヤヒ系にとって、物部氏は「裏切者」だったことになる。
一説には、大和地方の王「ニギハヤヒ」は、後に九州から侵攻してきたニニギに大和地方から駆逐され、東へ東へと逃れ、さらに東北へと追われたが、そのとき、侵攻勢力に迎合した「内物部」と、大和地方の土蜘蛛や蝦夷とともに東国に奔った「外物部」に分かれたとする説がある。
祭神は饒速日 (ニギハヤヒ) 命。
岩船の地名の由来は「昔、饒速日命という神様が、磐樟(イワクス)舟に乗って、この浜に上陸された」という伝説にある。 饒速日命は古代大和王朝の大豪族「物部氏」の祖先神で、天津国より天磐船(アマノイワフネ)に乗って、河内の国に天降ったとされる神で、明神山の上に鎮座する石船神社は『石船(いわふね)神社』新潟県村上市岩船三日市 饒速日命を祀った神社ある。大同2年(807年)北陸道観察使、秋篠朝臣安人が下向のおり、京都貴船町より貴船明神を勧請して石船神社に合祀し、社殿を建立した。
村上市教育委員会は「伝説から考え、饒速日命の大和朝廷に恭順したさい、一部はよしとせずに安住の地を求めて来た人達か、蘇我氏との崇仏排仏の争いに敗れた物部氏の一統がたどり着いて遠祖饒速日命を祀り、天の石樟舟の伝説を残したのではないか」としている。いわゆる「外物部」である。 
物部氏系の国造

 

大和王朝はその土地の支配者を国造(クニノミヤツコ)に任じていることから、物部氏の国造を『先代旧事本紀』国造本紀でみてみよう。ただし、当時の大和王朝の支配権は福島県までとされるので、国造本紀から「秋田物部氏」の存在を確認することはできないが、物部氏の全容を知るには参考になるので列記する。
第13代 成務天皇の時代
遠淡海 (トオツアウミ) 国造(静岡県浜松市周辺)
物部連の先祖の伊香色雄 (イカシコオ) 命の子の印岐美(イキミ)命
珠流河(スルガ)国造(静岡県富士川下流、富士市・沼津市・裾野市)
物部連の先祖の大新川(オオニイカワ)命の子の片堅石(カカシ)命
久自(クジ)国造(茨城県久慈郡)
物部連の先祖の伊香色雄 (イカシコオ) 命の三世孫の船瀬足尼(フナセノスクネ)
三野後(ミノノシリ)国造(岐阜県美濃)
物部連の先祖の出雲大臣(イズモオオオミ)命の孫の臣賀夫良(オミカフラ)命
尾張(オワリ)国造(愛知県西部)
天別の天火明(アメノホノアカリ)命十世の孫の小止與(オトヨ)命
参河(ミカワ)国造(愛知県三河地方)
物部連の先祖の出雲色大臣(イズモシコオノオオオミ)命の五世の孫の知波夜(チハヤ)命
熊野(クマノ)国造(和歌山県熊野地方)
饒速日命の五世孫の大阿斗足尼
末羅(マツラ)国造(長崎県松浦)
物部氏の同族・穂積臣の同祖の大水口足尼の孫の矢田稲吉命
第14代 仲哀天皇の時代
久努(クヌ)国造(静岡県袋井市磐田市の中間)
物部連の先祖の伊香色雄 (イカシコオ) 命の孫の印播足尼(イナバノスクネ)
(15代)神功皇后の時代
伊豆(イズ)国造(静岡県伊豆半島)
物部連の先祖の天御桙(アメノミホコ)命の八世の孫の若建命(ワカタケ)命
第15代 応神天皇の時代
小市 (オイチ)国造(愛媛県越智)
物部連と同祖の大新川(オオニイカワ)命の孫の子致(コチ)命
風速(カゼハヤ)国造(愛媛県)
物部連の先祖の伊香色雄 (イカシコオ) 命の四世孫の阿佐利(アサリ)
第16代 仁徳天皇の時代
松津(マツツ)国造(長崎県)
物部連の先祖の伊香色雄 (イカシコオ) 命の孫の金弓連(カネユミノムラジ)
物部氏ゆかりの神社
物部氏系の国造は、南から長崎県、愛媛県、和歌山県、岐阜県、愛知県、静岡県、茨城県に分布し、その半数が東海地方に集中している。ただし、史書や古文書類が常に正しい記録を記載しているとは限らない。
全国各地の物部氏に関わる神々を祭神とする神社を列記すると次のようになる。
『東北地方』 37社
福島県18社、山形県6社、秋田県5社、宮城県4社、岩手県2社、青森県2社。
『関東地方』 60社
『久自国造』茨城県13社、千葉県22社、
栃木県3社、群馬県5社、埼玉県10社、東京都3社、神奈川県2社、山梨県2社。
『中部地方』 85社
『尾張国造、参河国造、三野後国造』 愛知県50社、岐阜県18社、
『遠淡海国造、珠流河国造、久努国造、伊豆国造』 静岡県6社。長野県11社。
『北陸地方』 73社
新潟県60社、富山県5社、石川県5社、福井県3社。
『関西地方』 295社
三重県45社、大阪府70社、奈良県60社、京都府30社、兵庫県40社、滋賀県25社。
『熊野国造』和歌山県25社。
『中国地方』 41社
鳥取県7社、島根県20社、岡山県8社、広島県4社、山口県2社。
『四国地方』 55社
『小市国造、風速国造』愛媛県30社、徳島県8社、香川県10社、高知県7社。
『九州地方』 65社
『末羅国造、松津国造』長崎県10社
福岡県40社、佐賀県4社、熊本県2社、宮崎県7社、鹿児島2社。
全国の合計711社に対して、物部氏系の国造の支配地の合計は174社である。
本拠地とした畿内はともかく、国造がいないのに「新潟県60社、福岡県40社」という数字(数字は約数である)は異常である。
北陸地方には、高志国造、高志深江国造、加宜国造、能登国造、若狭国造がおり、福岡県には筑志国造、兵庫県には針間国造、針間鴨国造がいるが、これらは全員が安倍氏の国造である。この安倍氏の国造の支配地での神社数は次のようになる。
福島県18社、栃木県3社、群馬県5社、新潟県60社、富山県5社、石川県5社、
福井県3社、兵庫県40社、福岡県40社。合計179社になる。
物部氏系の国造の支配地に174社、安倍氏系国造の支配地に179社。この合計で全体の半数を占めている。物部氏は出雲族だけではなく、安倍氏族とも密接な関係があるとしか思えない。
まずは出雲族との関係を調べてみよう。
秋田物部氏
現存する物部氏の系譜からは「外物部」の検証は難しいが、『唐松神社』(秋田県仙北郡協和町)に保管されていたという『物部文献』には、通説とはまったく異なる伝承が記録されている。
天日宮PHOTO『唐松神社』由来 / 秋田物部氏の遠い祖先は饒速日命(ニギハヤヒノミコト)で、天の鳥船に乗って千樹五百樹が繁茂する鳥見山(鳥海山)の山上湖に天降り、逆合(協和町)の日殿山に「日の宮」を造り天地の神々を祀ったと言われています。(左は唐松神社の『天日宮』)
ニギハヤヒの降臨地は、奈良の鳥見山ではなく、出羽の鳥海山だとするが、鬼首で「前九年の乱」を戦った安倍宗任は『鳥海弥三郎』とも称しており、この鳥海が鳥海山の山名になったと思われるが、奈良の鳥見山に由来するのかもしれない。
当時の荒雄岳と鳥海山は、物部氏と蝦夷にとっての聖地だったのだろう。ただ、『日本書紀』には天磐船に乗って大和に飛来した。『先代旧辞本紀』には河内国哮峰(大阪府交野市私市)に天降ったとあり、いずれも関西だとしている。
『物部文献』 / ニギハヤヒは東国を平定した後、大和まで進み、畿内に留まったが、神武天皇の東征が始まるや、神武に帰順し、畿内だけでなく自ら平定した東国をも神武に献上した。神武はその恭順の意を容れ、ニギハヤヒの子・真積命(ウマシマヂ)を神祭と武の長に任じた。物部氏はここに始まる。(中略) こうして物部氏は祭祀と軍事の両面から大和朝廷を補佐し、その威勢を振るってきたが、蘇我氏との戦争(587年)に敗れ、物部氏はその勢力を一気に失った。物部守屋は敗死、守屋の一子「那加世」が鳥取男速という臣下に守られ、蝦夷の地へと落ちのびた。東北に逃れた那加世は、物部氏発祥の地である仙北郡に隠れ、日の宮の神官に納まった。現在の唐松神社宮司家は、この那加世の子孫である。
宮城県には『賀茂小鋭(おと)神社』『雄鋭(おどの)神社』、岩手県にも天照御祖神社摂社鎮魂殿神社(釜石市)、止止井神社(胆沢郡前沢町) など、ニギハヤヒに由来する神社があるが、これだけでは東北を降臨地とする確証にはならない。
『稲村神社』茨城県常陸太田市 / 創立年代は不詳。一説には高倉天皇の御宇の鎮座。あるいは、景行天皇の御宇、日本武尊によるとも。当社近くに佐竹寺が存在し、佐竹郷の中心地であった。佐竹の名は、饒速日尊に随った狭竹物部に由来すると考えられ、また、久自国造は物部系氏族であったということから、明治以降、現在の主祭神は饒速日尊とされた。
『天速玉姫(アメノハヤタマヒメ)命神社』茨城県日立市 / 泉神社由来 崇神天皇の四十九年、久自国造の船瀬宿禰の奉請で、大臣伊香色雄命を、勅命を奉じて此に鎮祭りしたという。古くは天速玉姫命神社という。享禄三年九月、佐竹義篤が社殿を造営、社号を泉大明神という。
佐竹氏系図では河内源氏の流れとするが、実際は物部氏だったのだろう。だが、佐竹氏は徳川家康によって秋田県に移封されただけで、唐松神社がいうところの「秋田物部氏」ではない。
そもそも物部氏系の神々を祀る神社は、近畿地方に集中しており、その他では、愛知県、新潟県に多くみられるが、東北地方には数えるほどしかない。だから東北地方には物部氏はいなかったと断言はできないが、氏神を祀れるほどの勢力はいなかったと推察できる。ただ、東北蝦夷のアテルイ、後には奥六郡の安倍氏が反逆者とされたことから、祭神が変更された可能性も考えられる。
ただし、荒脛巾(アラハバキ)神を祀る神社の分布が、出雲族や物部氏に関連しているようにおもえることから、出雲・物部氏・安倍氏には、複雑な相関関係があるのだろう。ただ、出羽(秋田県)で物部氏を名乗った氏族の史料がないので、詳細はわからない。 
出雲族と物部氏

 

物部氏の東国の拠点が常陸であったことは、鹿島神宮や香取神宮の存在が明白に証明しているが、この常陸には出雲神話や出雲の神々を祭神とする神社が多いことでも知られている。物部氏と同様に、出雲や熊野もニギハヤヒを祖神とする氏族の勢力範囲であったことから当然ではあるが、なぜ常陸に集中しているのだろう。
天津瓱星(あまつみかぼし)
『日本書紀』神代 / 一書に、天神は経津主神(フツヌシノカミ)と武瓱槌神(タケミカツチノカミ)を派遣して、蘆原中国(アシハラナカツクニ)を平定されたが、二神が言うには「まだ天に悪神がおり、名は天津瓱星(アマツミカボシ)、またの名を天香香背男(アメノカカセオ)といいます。先に楫取(カトリ)の地にいるこの神を誅して、その後に天降りなさいますように」と請うた。
『鹿島神宮誌』 / その昔、星神香々背男(ホシガミノカカセオ)一族は、駿河国の富士山麓の海岸にあって、暴力で人民を悩まし、天尊系の大和民族の発展とともに北へ北へと駆遂させられ、常陸国の海岸の一隅である三日星の浜辺に専住することになった。鹿島神宮の祭神「武瓱槌神」は、出雲の国譲りの後、各地を平定されて国の統一をはかり、未開の東国に入って星神香々背男を討ち、国中を平定された。星神香々背男は常陸国の先住民の頭領だったのです。天津瓱星の荒魂を封じ込めた宿魂石の上に建葉槌(タケハツチ)神を祀る奥宮が鎮座しているのが当社です。常陸国に悪神がおり、名を『大瓱倭文(オオミカ シトリ)神社』(茨城県日立市久慈町)天津瓱星またの名を天香々背男といい、大瓱上に陣取り東国地方の陸地はおろか海上にまで一大勢力をもっておりました。さすがの鹿島・香取の神も、この勇猛なる大勢力の前に為す術がありませんでした。その時、この武神である二神に代って瓱星香々背男討伐の大任を負わされたのが、当社の御祭神武葉槌命でありました以後、建羽雷神は星山に永住し、織物製紙の業を興したので諸神の崇敬を集め当社に祭られました。
上記から、富士山周辺には星神という先住部族の首領がいたが、大王家の勢力に故地を追われ、ついには常陸国まで移動し、星神香々背男の時代には久慈郡大瓱山を拠点とする王国を立て、霞ヶ浦を海上交通の基地として北日本の制海権を握ったということのようたが、駿河国から常陸国にかけての関東地方で、星神香々背男を祀る神社があるのは当然としても、なぜか全国各地で祭神として祭られている。
『天香香背男を祀る神社』
『東北地方』 秋田県1社
『関東地方』 栃木県7社、群馬県3社、茨城県7社、千葉県5社、神奈川1社
『中部地方』 静岡県3社、愛知県5社、岐阜県7社、
『北陸地方』 石川県2社、
『関西地方』 三重県4社、京都府1社、和歌山3社、
『中国地方』 島根県9社、岡山県5社、広島県3社、
『四国地方』 徳島県4社、香川県2社、愛媛県4社、高知県10社、
『九州地方』 福岡県1社、熊本県1社、大分県1社、宮崎県1社、鹿児島2社。
平田篤胤は、天津瓱星の神名の瓱「ミカ」を厳「いか」の意であるとし、天津瓱星は「金星」のことであるとする。また、香香背男の「カガ」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したものだとする意見もあるが、「カカ・ハハ・ヌカ」は蛇を意味しており、香香背「カカセ」は、山カガシ(左の写真)というように「カカシ(蛇)」であり、出雲神を象徴しているものと考える。
天瓱津姫(あめのみかつひめ)
上記の他に天香香背男(天津瓱星)の妻と思われる天瓱津姫を祀る神社がある。
『出雲国風土記』から天瓱津姫を調べてみよう。
「秋鹿郡伊農郷」 / 出雲の郡伊農の郷に鎮座される赤衾伊農意保須美比古佐和気能 (アカフスマ イヌノ オオスミヒコ サワケ) 命の后である天瓱津比女命(アメノミケツヒメ)命が国内をご巡行になった時、ここにお着きになって「わが夫よ、伊農(イヌ)よ」と申されたのが伊農郷の由来である。
なんとも長い名前だが、『出雲国風土記』には、次のような記述がある。「出雲郡の条」に、赤衾伊努意保須美比古佐倭気能 (アカフスマ イヌノ オオスミヒコ サワケ) 命は、意美豆努 (オミツヌ) 命の御子とある。八束水臣津野 (ヤツカミズオミツヌ) の別名である。『古事記』では、淤美豆怒(オミツヌ)神と記され、須佐之男(スサノオ)命の五世孫であり、大国主(オホクニヌシ)神の祖父だとしている。
「国引き神話」意宇郷の由来 / 八束水臣津野命は、「八雲立つ出雲の国は小さい国だ。余った国を引き寄せて、大きくしよう」と言われ、志羅の辺りの四島を引き寄せられ、島根半島を造られたが、最後に「おう(意宇)、やれやれ」と安堵の声をだされ、持っていた杖を道ばたに突き休まれた。その杖から根が出て、意宇(オウ)杜になった。
上記から、スサノオの時代の出雲は小国にすぎず、八束水臣津野命(意美豆努命)が志羅(新羅)から四部族を率いて出雲に上陸し、出雲国を大国に成長させたものと考えられる。
『新撰姓氏録』皇別に記載された新良貴(シラキ)は、瀲武鵜葺草葺不合尊の男稲飯命の子孫とし、稲飯命を新羅国王の祖と伝えている。『記紀』によれば、鵜茅葺不合尊(ウガヤフキアエズ)は神武天皇の父であり、稲飯命は神武天皇の兄に当る。このように神武天皇も新羅国と関係があり、当時は三韓との関係は密だったと思われる。
この「国引き神話」は、出雲の真の建国者は八束水臣津野命だと言っているが、なぜ「出雲大社」では赤衾伊努意保須美比古佐倭気能を祭神にしないのだろう。また、『出雲国風土記』伊農郷の条は、天瓱津比女(アメノミケツヒメ)は意美豆努 (八束水臣津野)の妻だとするが、楯縫郡の条に天御梶日女(アメノミカジヒメ)命は、阿遅須枳高日子(アヂスキタカヒコ)命の后(キサキ)だと記している。名前の類似が気になる。
「嶋根郡の条」 / 御穂須須美(オホススミ)命は、奴奈宜波比賣(ヌナガハヒメ)命と所造天下大神(アメノシタツクラシシオオカミ)の御子である。
所造天下大神とは大国主神のこと。奴奈宜波比賣は沼河比売とも記され、高志(越)の国の姫神で、大己貴命(大国主神)の妻。『先代旧辞本紀』は諏訪大社の祭神の建御名方神(タケミナカタノカミ)の母とする。新潟県糸魚川市「奴奈川神社」の祭神。従って、御穂須須美命とは諏訪大社の建御名方神のことだが、阿遅須枳高日子も大国主神の子であり、天瓱津比女は彼らの曽祖父の妻にあたる。
今度は『尾張国風土記』に目を移してみよう。
『尾張国風土記』吾縵(アヅラ)郷 / 垂仁天皇に品津別(ホムツワケ)と云う御子がいたが、七歳になっても言葉が出ないので、天皇が心配していると、皇后の夢に、多具の国の神で阿麻乃弥加都比売(アメノミケツヒメ=天瓱津姫)という女神が現れ「今後、祠を立て私を神として祭るなら、御子はすぐに口が利けるようになり、天寿を全うするだろう」と告げた。そこで、建岡の君に祭神の事を御委せになった。
垂仁天皇は、安倍氏の始祖「大彦命」の娘の御間城姫(ミマキヒメ)命と崇神天皇の子。
品津別(ホムツワケ=誉津別)の母は、兄の沙本毘古(サホヒコ)王に命じられて夫の垂仁を小刀で刺そうとするが、垂仁がヘビの夢を見て発覚。兄と共に稲城に篭り、天皇軍に皇子だけを手渡して、兄と共に火をかけて没する。
一説には、品津別は大人になっても口が利けず、泣いてばかりいたが、ある日、白鳥が飛んでいくのを見て初めて言葉を発した。そこで天皇はその鳥を捕えるように命じるが、鳥は出雲で捕まえられたとある。
ちなみに、品津別は元気になると、とたんに美女のもとに夜這いに行くのだが、相手の姫の正体は大蛇だったので必死に逃げたとされるが、大神神社も出雲大社も御神体は「蛇=大物主神(オオモノヌシ)=大国主神」である。
『日本書紀』崇神天皇 / 天照大神、倭大国魂神(ヤマトオオクニタマノカミ)の二神を天皇の御殿の中に祀っていたが、その神の威光に畏れ、共に住むことに不安を持ち、豊鍬入姫 (トヨスキイリヒメ) 命に命じ、天照大神を大和の笠縫邑(カサヌイノムラ)に祀り、さらにその地に堅固な石の神籬(ヒモロギ)を造った。また倭大国魂は、渟名城入姫(ヌナキノイリヒメ) 命に預けて祀った。ところが渟名城入姫命は髪が抜け落ち、体は痩せ衰えてお祀りすることが出来なかった。
その名が示す通り崇神天皇は、神に祟られる天皇のようで、それも出雲の神とは犬猿の仲だったのだろう。祭祀が気に入らなかった倭大国魂とは大国主神のこと。そして、渟名城入姫命は尾張大海媛の娘である。天瓱津比女命の話が「出雲・尾張・美濃」に登場するのは、物部氏が「尾張国造、参河国造、三野後国造」だったことに関連していると推察する。
『尾張大國霊神社』(愛知県稲沢市国府宮) / 社伝によれば、神職には古くから尾張族の遠祖・天背男命の子孫が代々奉仕して来たが、後に久田氏を名乗った。
また、『前田家系図』(金沢市立図書館加越能文庫所蔵)は、加賀藩主前田氏の虚飾された系図を整理して、神代(遠祖を天照大神とせず、意美豆努 (オミツヌ) 命とする)から説き起こし、出雲国造の野見宿禰から出たと記している。
『日本書紀』では、天津瓱星(天香香背男)は天神の一人なのに、天孫族から悪神にされている。おそらく天津瓱星の存在を記載したくなかったのだが、無視するには存在が大きすぎたのではないか。だとすれば、『記紀』『出雲国風土記』がともに、出雲建国の主あるいは中興の祖であるはずの意美豆努命の事績には触れず名前を記しただけであることに結びつくと想像する。
「出雲大社」で奉祭されていないのは、スサノオの出雲国を侵略したからで、大和王朝に不都合なのは、意美豆努命の御子とされる赤衾伊努意保須美比古佐倭気能命こそが悪神に貶めた天津瓱星(天香香背男)、彼の妻が天瓱津比女(阿麻乃弥加都比売)だったからではないだろうか。
大和王朝に攻められた天津瓱星は、物部氏や土蜘蛛と組んで出雲を離れ、駿河に富士王国をつくり、常陸に勢力を延ばして筑波王国を立てたが、東進して来た大和王朝との戦いに敗れて東北に逃げ、東北の蝦夷と合体した。それが「外物部」と呼ばれた原初の「東北の鬼」の集団ではないだろうか。出雲から常陸までの経路は、物部氏の国造の勢力範囲と妙に合致しているのは、それが原因だと推理する。 
物部氏は扶余人

 

『秀真伝(ほつまつたえ)』 / 筑波王朝に睨みを利かせるために、大国主神の息子である建御名方(タケミナカタ)神を諏訪に駆逐することで武功のあった建御雷之男神(武瓱槌神・建御雷神・建羽雷神)を鹿島大社の祭神とした。そして、物部氏はこの建御雷神を氏神とした。
『鹿島神宮』由緒 / 祭神の武瓱槌神は香取神宮の経津主神と同体と見なされており、これから見ても藤原氏の隆盛には、往古からの物部氏の蓄積を活用した様子がわかる。鹿島神宮の神々と河内の枚岡神社の神々とは、物部氏の拠点に鎮座していたが、藤原氏の氏神として春日大社に迎えられていることが、それを物語っている。
栄華を誇った藤原氏の礎を築いたのは藤原不比等だが、その足がかりを作った父の中臣鎌足は、神職者の家系というだけで、出自不明とされる人物だが、物部氏に連座して中央政権から追われた中臣の宗家に代わって中央に登場した鎌足は、蘇我氏に取り入り、鹿島神宮の祭祀権を手中にしている。
蘇我氏との政権争いに敗れ、滅亡した物部氏の莫大な資産は、半分が四天王寺の建立費用、残り半分が蘇我氏に分配されたが、その財産を築いた源泉は常陸国から得たと考えられることから、常陸は物部氏の「打出の小槌」だったのだろう。
『鹿島神宮』では、「鹿」を神の使いとして現在も境内で飼っており、鹿島神宮の神々を分奉した奈良の春日大社も大々的に鹿を飼っている。(左の写真は、春日大社の鹿)
物部氏が奉祀した鹿島神宮が、鹿を「神鹿」として扱うことから、物部氏は鹿をトーテムとする氏族だと思われる。
だとすれば、ニギハヤヒは扶余族の王族である可能性が高い。
ちなみにトーテムとは、社会の構成単位となっている親族集団が神話的な過去において神秘的・象徴的な関係で結び付けられている自然界の事物で、集団の祖先と同定されることが多いと『広辞苑』は記しているが、端的には特定の部族内で共通の象徴として崇拝する、始祖神話に関与した動植物や岩などである。
扶余国は、燕国(前燕)の慕容(ボヨウ)氏から二度の壊滅的被害を受けている。
285年には武宣帝・慕容廆(カイ)、346年には文明帝・慕容皝(コウ)によって、国を破られ、その後は高句麗の従属国として命運をつないだが、410年に高句麗に併呑され、歴史から姿を消している。
従って、285年前後か遅くとも346年までに、その遺民が倭国に渡来したものと思われるので、その足跡を探してみよう。
扶余系部族連合
秦の始皇帝の大帝国が出現した紀元前3世紀、中国遼寧省から朝鮮半島の北部に扶余(フヨ)・高句麗・獩貊(ワイハク)・沃沮(ヨクソ)が登場するが、それらは扶余族を宗族とする同族系国家連合、いわば扶余系部族連合である。
扶余系部族連合は、粛慎国に帰属する穢(ワイ)族系部族の連合体で、獩族(ワイ)・貊族(ハク)・狛族(コマ)などが包含されていたものと想像するが、その連合体の王を出す主要部族が扶余族であり、扶余とはツングース語の鹿を意味する「プヨ」を漢字にあてたものと思われる。
古代中国大陸では、トーテムによって各自の帰属する部族を明示したが、扶余族は「鹿トーテム」部族だが、扶余系部族でも狛族(高句麗)のトーテムは「鳥」で、始祖神話に「南方系の卵生型」と「北方系の日光感精型」が混合していることから、北方の扶余系部族と南方の部族とが混血融合した部族だと思われる。
蛙御手水 高句麗の始祖神話には、扶余王「金蛙」が登場するが、日本でも「淡嶋神社」では少彦名命の使い神、伊勢「二見興玉神社」では猿田彦命の使い神として、参道に蛙が鎮座しており、松本市には「蛙明神社」がある。
中国の神話では「弓の名手が女神の西王母(セイオウボ)から得た不老不死の仙薬を、密かに盗んで月に逃げた妻がヒキガエルにされ、月に住み続けることになった」とされ、この話から中国では「兎は雄がいなくても、月を見るだけで子ができる」と言われ、兎は子孫をつくり永遠に生き続けることができ、ヒキガエルは前述の不老不死の仙薬を飲んだので永遠の命を持つとの伝承がある。
熊野速玉大社は熊野三山のひとつとして「熊野新宮」とも称されるが、山上にはゴトビキ岩と呼ばれる巨岩が鎮座している。このゴトビキ岩が神々の御神体とされるが、ゴトビキとは「ヒキガエル」のことである。
また、『摂津國風土記逸文』には垂仁天皇の御代の末頃、榎津は不細工で強欲、かつ悪逆非道な「イボガエル」に支配されていたと記されている。
古代の神話では、ヘビやカエルなど様々な動物が登場するが、坑道で鉱石の採掘を担っていた人々が朝廷から「土蜘蛛」と呼ばれたように、そこになにかの象徴が秘められていることもある。
悪逆非道なイボガエルは高句麗で、蛙の天敵はヘビだが、三輪山の御神体は蛇。大和の大王家が摂津に侵攻してきた高句麗系の部族を撃退したという物語なのかもしれない。あるいは少彦名や猿田彦が高句麗系渡来人だったとも考えられる。
扶余王・依羅(イリ)
『渤海国・国書』 / 渤海の前身である高句麗の旧領土を回復し、扶余の伝統を継承した。わが渤海国と日本国は昔から本枝(兄弟)の関係である。
神亀四年(727年)、平城京に渤海国の使節が訪れ、大武芸王の国書を聖武天皇に奉呈した。そこには、日本と渤海国はともに扶余を同祖とする兄弟国だと述べ、高句麗と靺鞨で共立した渤海国では、日本の王統を、扶余の王族の末裔とみていたことが示されている。国書に記すだけの確たる根拠があったと思われる。285年、前燕の慕容廆に侵攻された扶余は、国王の依慮が海に投身自殺したほどの潰滅的な打撃を受け、王族は沃沮に避難するが、翌年、再び慕容廆の侵略を受け、王子の依羅(イリ)が晋王朝(西晋)の援助で扶余国を再建するのだが、高句麗系の史書『朝鮮史』には驚くべき記事が載っている。
『朝鮮史』 / 依慮王、鮮卑(センピ)の為に敗れ、逃れて海に入りて還らず。子弟走りて、北沃沮を保つ。明年、子の依羅立つ。自後、慕容廆、また復(フタタ)び国人を掃掠す。依羅、衆数千を率い、海を越え、遂に倭人を定めて王と為る。
この記述の信憑性はともかく、名前の「イリ」から、いり(渡来)系王朝とも呼ばれる御間城入彦 (ミマキイリヒコ)五十瓊殖尊。第10代の崇神天皇だろうと推察される。崇神天皇を『日本書紀』では御肇国(ハツクニシラス)天皇。『古事記』では初国知らしし御真き(ミマキ)天皇とし、ともに初めて国家を立ち上げた大王だとしている。『記紀』神話でも、大倭(やまと)王朝の初の天皇はニニギ(神武天皇)のはずなのに、なぜか「初めて国を統治した」として、神武ではなく、嵩神天皇の方を「初の天皇」として扱っている。
扶余王の依羅が倭国に渡来したのが285年前後とすれば、『魏志倭人伝』の記事からして、邪馬台国の二代目女王『壹與』が50歳前後の頃で、おそらく神武東征の前後の時期かもしれない。アマテラス(天照大神)を女王「壹與」だと仮定すれば、彼女から十種の神宝を授かったニギハヤヒとは『扶余王の依羅』の可能性がある。
なお、依羅との関係は不明だが、依羅連(ヨサミノムラジ)という氏族がいる。
依羅連(ヨサミノムラジ)
『旧天孫本紀』 / 物部木蓮子大連 (イタビノオオムラジ)。ニギハヤヒ(饒速日命)十二世の孫。父は布都久留、母は依羅連柴垣の娘の全姫。仁賢天皇の代に大連となり、石上神宮を奉斎し、御大君の祖の娘の里媛を妻にして、二児を生んだ。
『姓氏録』では、依羅連は百済人の素彌志夜麻美(ソミシヤマミ)の君の後裔とあり、大阪府松原市天美は依羅連が居住した依羅郷で、現在も依羅宿禰を祭神とする田坐神社、酒屋神社、阿麻美許曽神社がある。『新撰姓氏録』では、日下部宿彌と同祖、彦坐命の後、百済人の素彌志夜麻美乃君より出ずる、また饒速日命十二世の孫の懐大連の後とある。万葉歌人の柿本人麻呂の妻は依羅娘子(ヨサミノオトメ)といい、『万葉集』に短歌3首を載せているが、依羅娘子もやはり百済系渡来氏族の出である。
『大依羅神社』由緒 / 依羅氏は、丹比郡依羅郷に繁栄した百済系渡来氏族で、後に住吉区庭井に移住したことから大依羅郷と称された。依羅吾彦が祖先の建豊波豆羅別命(系譜では崇神天皇の兄弟)を祀るため、大依羅神社を建てたが、別名は『毘沙門の宮』、崇神天皇62年、ここに農業灌漑用の依羅(依網)池を造った。
ここでは崇神天皇の兄弟を依羅連の祖先だとしているが、物部氏の系譜では一族諸氏に「物部依羅連」の名があり、物部氏の系譜につながっている。物部氏が扶余系であるなら、なぜ依羅連は百済系だとなっているだろう。
中華王朝の史書には、「百済とは扶余の別種で、仇台(キュウダイ)という者がおり、帯方郡において国を始めた。その尉仇台を始祖とする」とある。
『三国史記』百済本紀は「温祚(おんそ=高句麗の始祖の庶子)が百済を建国した」とするが、それでは百済の王姓が「扶余」であることの説明がつかない。
百済では、支配階級は扶余語を使い、庶民は馬韓語を使うというように、言語や風習が二重構造の社会だと記録されており、王族の姓は、後に漢風に一字姓の余に改姓するが、代々が扶余を名乗っていることからも、扶余族が馬韓を統一したことものと思われる。扶余王の依羅は、倭国では百済王族だと名乗ったのだろう。
『晋書』馬韓伝 / 太康元年(280年)と二年(281年)、その君主は頻繁に遣使を入朝させ、方物を貢献した。同七年(286年)、八年(287年)、十年(289年)、また頻繁に到った。太熙元年(290年)、東夷校尉の何龕に詣でて献上した。
これが中国史籍での馬韓に関する最後の記述で、この後は百済が登場する。そして、東夷校尉の何龕に献上したとの記述があるが、扶余王の依羅が扶余国の再興を嘆願した相手が、この東夷校尉の何龕であることから、おそらくこの段階ですでに馬韓は扶余の分国になっていたものと考えられる。
『通典』百済条 / 晋の時代(265年−316年)、高句麗は遼東地方を占領し、百済もまた遼西、晋平の二郡を占拠した。今の柳城(龍城)と北平の間である。晋より以後、諸国を併呑し、馬韓の故地を占領した。
上記は、朝鮮古代史の研究者を悩ませる記述だが、扶余が一時的に滅亡するのが285年、その前後の期間に渤海を渡って遼寧省の西部を占領支配していたとすれば、百済が二国あったことになる。
『日本書紀』は、朝鮮半島の百済を「百済」、遼西の百済を「呉」と区別している。
この「呉」を中国江南の三国時代の「呉」と錯覚している人も多いが、倭の五王の時代に、現在の上海まで簡単に渡航できる船も航海技術もない。従って、呉服は中国伝来ではなく、遼西百済からの伝来である。
ちなみに、『梁書』百済伝には「百済では全土が王族に分封され、その領地を檐魯(タンロ)という」とある。これは国内に止まらず、異国にも檐魯を有している。
中国の広西壯族自治区に百済郷があり、ここの住民は大百済(テバクジェ)と韓国語で呼んでおり、済州島の古名も耽羅(タンロ)国で、常に百済の支配下にあった。
また、大阪府の南端には百済の大門王が統治したという淡輪(タンノワ)があり、田村(たむら)や外村(とむら)などの姓は「檐魯」の住民だったことの名残とされる。
このことから、坂上「田村」麻呂も、百済系だったことになる。
物部は扶余の神官
万葉仮名では、物は鬼「もの」、部は「伴(とも)のう」である。物部氏は兵馬を担当する氏族とされるが、扶余国では神官、すなわち王族だったのではないだろうか。
『石上神宮』縁起 / 神武天皇東征のおり、国土平定に偉功をたてた霊剣(平国之剣=フツノミタマ)とその霊力を布都御魂大神と称し、また饒速日命降臨に際し、天神から授けられた鎮魂の主体である天璽瑞宝十種と、その起死回生の霊力を布留御霊大神と称し、この二神を物部連の遠祖の宇摩志麻治命をして宮中に奉斎せしめた。
布都(フツ)=スサノオの父、布都斯(フツス)=スサノオ、布留(フル)=ニギハヤヒ。このスサノオ家三代を祀った宗廟が石上坐布留御魂神社(石上神宮)である。
ニギハヤヒが長脛彦(ナガスネヒコ)の妹を娶って、生まれたのが宇摩志麻治命(ウマシマジノミコト)。この物部氏の遠祖とされる宇摩志麻治命(事代主神)は十種の瑞宝を献上してニニギに帰順した。これらの品々は十種神宝(トクササンタカラ)と言われ、布留魂大神(フルノミタマノオオカミ=ニギハヤヒ)の御霊である。
スサノオが紀伊国熊野に上陸したときに持っていた神宝剣を、佐士布都神(サジフツノカミ)、瓱布都神(ミカフツノカミ)、布都御魂(フツノミタマ)とも言う。
当時の神剣は王権の象徴であり、それを石上(イソノカミ)神宮が祀ることは、物部氏が王統だと表している。古代には王権が祭祀権に統括されており、物部氏が祭祀に関わる一族であることを意味している。
現に石上神宮では、魂振りの呪術、鎮魂(フルミタマ)や布留倍祝詞(フルベノノリト)が継承されているが、これを『物部の呪術』と呼んでいる。鎮魂とは身体から遊離した霊魂を戻すことで、これは古代の『鬼』の神霊力とされたもの。
また、高句麗の始祖神話では、東扶余国王の夫婁(フル)の庶子「朱蒙」は、卒本扶余の沸流(フル)国で高句麗を建国し、沸流(フル)という息子を得ている。まさにニギハヤヒの布留(フル)に合致している。
『常陸風土記』香島郡の条 / 大坂山(場所不明)の頂上に、白細(しろたえ)の大御服を着て、白鉾を杖とした香島の神が現れ、自分を祀るなら、国々を統治させるであろうと託宣した。崇神天皇は恐縮して、いろいろな御供物を香島(鹿島)神宮に奉納した
土着民の首長が崇神に国譲りした伝承にも思えるが、白い服を着るのは、扶余の風俗であり、鹿島神宮の権威付けのための話かも知れない。
『日本書紀』は次のような、崇神天皇の奇妙な行動を記述している。
崇神天皇は即位してまもなく疫病が流行り、これを鎮めるため、宮中に祭られていた天照大神と倭大国魂神を皇居の外に移し、更に大物主命を祭った。
天照大神は、現在の檜原神社に移し、その後60年をかけて各地を移動し、次の垂仁天皇の時代に、現在の伊勢神宮内宮に鎮座した。
倭大国魂神も、何度も場所を移動し、最終的に現在の大和神社に鎮座した。
大物主命は占いにより祟りをなしている事が判明したため、大物主の子孫である太田田根子に託して祀らせた。現在の大神神社で、三輪山を御神体としている。
皇居の外に移したとは宮中から排除したことで、しかも、物部の八十平瓮(ヤソヒラカ)をもって大物主大神を祀るとも記している。
八十平瓮は重要な神事、祭祀で用いられる多数の平皿だが、その材料となる土に重要な意味がある。その土を用いて平瓮を作り、呪詛をかけるのだが、これは出雲の流儀であり、大物主は出雲大社の祭神の大国主の別名とされる。
さらに、天照大神からニニギに授けられ、歴代の天皇に継承されてきた神器も、このときに鏡と剣を大和の笠縫邑の檜原神社に移し、後に鏡は伊勢神宮の御神体、剣は熱田神宮の御神体になる。そして宮中には模造の鏡と剣を置いたという。
これでは前政権の全面否定である。やはり扶余王だとしか思えない。
日本海に現れた粛慎「みしはせ」と呼ばれた異国の鬼は、物部氏が扶余の出身であれば、物部氏とは同祖関係にあたり、秘められた同盟関係を感じさせる『物部・安倍・出雲」には友好関係を結ぶのに苦労はなかったと思われる。
だとすれば、阿倍比羅夫は粛慎を退治したのではなく、彼らと交易をしたものと推定できる。そして、蝦夷・粛慎・物部・安倍・出雲・東北の土蜘蛛が東北地方で密かな団結をしていたと想像する。
日高見国の鬼『大竹丸』 

 

大竹丸の記述をする前に、先に申し上げておくが、筆者は膨大に史料に目を通した結果、大竹丸は安倍氏だと確信している。詳細は別称で述べるが、蝦夷で有名なのは「アテルイ」唯一人と言ってもいいほど、他には名前が知られていない。「前九年の役」の安倍頼良も蝦夷だとされるが、実際はそうではない。
下の絵図を見ていただきたい。
日本の正史には、日本書紀・続日本紀・日本後紀・続日本後紀・日本文徳天皇実録・日本三代実録があり、一般に「六国史」と呼ばれています。
『日本書紀』    (? 〜697年) 720年完成。撰者は舎人親王など。
『続日本紀』    (697〜791年) 797年完成。撰者は藤原継縄など。
『日本後紀』    (792〜833年) 840年完成。撰者は藤原冬嗣など。
『続日本後紀』   (833〜850年) 869年完成。撰者は藤原良房など。
『日本文徳天皇実録』(850〜858年) 879年完成。撰者は藤原基経など。
『日本三代実録』  (858〜887年) 901年完成。撰者は藤原時平など。
『日本書紀』は藤原不比等が権勢を誇っていた時代であることを考慮すれば、『六国史』の編纂すべてに藤原氏が関与していることになり、さらには『日本書紀』の撰者の舎人(とねり)親王は、安倍氏の中興の祖である『安倍倉梯麻呂』の孫にあたります。
中臣氏(藤原氏)も安倍氏も神事に関わる氏族で、倉梯麻呂は中臣鎌足とともに中大兄皇子の下で『大化改新』に参画しており、両氏は友好関係にあったと思われ、安倍氏の娘が藤原武智麻呂や藤原良継夫に嫁いでいます。
このような事情から、『古事記』も含め、藤原氏が関与する『六国史』では、安倍氏を蝦夷や鬼と結びつける記述はありません。また、『六国史』の完成までの間が、安倍氏族の全盛期とも重なっており、それが、坂上田村麻呂と蝦夷との戦いにアテルイらの記述はあっても「大竹丸」が登場しない理由ではないかと筆者は推理しています。
安倍氏族の始祖「大彦命・建沼河別命」親子の足跡が、奇妙に鬼の伝承地とも重複しており、この親子の戦の伝承は意外と少なく、先住の土蜘蛛を同化吸収して平穏に定着していったと考えられます。その安倍氏族の族長の一人が「大竹丸」だと直感するのですが、それを本章のなかで追究していきます。  
鬼切部
日本全国の鬼に関連する地名を網羅した『おもしろ鬼学』(北斗書房)が出版されているが、全国津々浦々まで鬼の物語や鬼に関連した神社仏閣が多い。
『岩手県の由来』 / 盛岡市三ツ割の東顕寺に注連縄が張られた三つの大石がある。岩手山が噴火した時に飛んできた石で、「三ツ石様」と呼ばれて人々の信仰を集めていた。当時、羅刹鬼(らせつき)という鬼が、里人や旅人に悪さをするので、困りはてた里人は三ツ石様に「どうか悪い鬼をこらしめてください」とお願いしたところ、たちまち三ツ石の神様が羅刹鬼を大石に縛りつけてしまった。羅刹鬼は「もう二度と悪さはしませんから、どうぞお許しください」というので、三ツ石の神様は「二度と悪さをしないというシルシをたてるなら」といわれ、羅刹鬼は三ツ石にペタンペタンと手形を押して南昌山の彼方に逃げ去った。この地を、岩に手形を遺したことから『岩手』と呼ぶようになった。このように隣接の岩手県も『鬼』に由来するが、当然、鬼首の地名には古代史にその名が遺されている。
『(財)東北電気保安協会のHP』 / 栗駒国定公園の標高300mの高原にあり、全国随一の湯量と自然の豊かさを誇る鬼首温泉は、応神天皇六年(270年)頃に、すでに発見されていたと伝えられていますが、歴史に初めて登場するのは、平安時代の寿永・文治年間(1182−1189年)、奥州平泉の藤原氏によって開かれたのが起源とされます。鬼首の名の由来は、延暦二十年(801年)、坂上田村麻呂が蝦夷平定に東征した際に、『鬼』と呼ばれ、恐れられていた大竹丸を追い詰め、この地で首をはねたことから、ここの地名を鬼切辺と呼び、それが後に鬼首に変わったと伝えられています。
宝亀五年(774年)、朝廷に帰順した蝦夷として俘囚(フシュウ)と呼ばれた蝦夷部族の宇漢迷公宇屈波宇(ウカメノキミウクハウ)が蜂起し、780年には伊治公痣麻呂(イジノキミアザマロ)の反乱を起こった。ここから30年にわたる朝廷軍との攻防戦が始まる。
日高見国の英雄として、アテルイは史籍にも記されている。『続日本紀』には紀古佐美の詳細な報告があり、『日本紀略』にはアテルイの降伏に関する記述がある。ただし、蝦夷の軍事指導者だったこと以外、彼の詳細は記されていない。
天応元年(781年)の征東大使の藤原小黒麻呂の奏状では「一をもって千にあたる賊中の首として、「伊佐西古、諸絞、八十島、乙代」らを挙げているが、アテルイの名はない。まだ、その時期には頭角を現していなかったのかもしれない。
『日本紀略』はアテルイ降伏時の記事に、彼を大墓公と記している。大墓の意味も、読みも不明だが、公を付していることから尊称であることは確実だろう。
アテルイでさえこの程度での状況では、歴史的には無名に近い「大竹丸」の実像を追究するのは難しいが各種史料から追ってみよう。
『陸奥話記』 / 六箇郡の司に安倍頼良という者あり。安倍忠良が子なり。父祖忠頼は東夷の酋長、威風大いに奮って、村落は皆服す。六郡に横行し、人民を劫略し、子孫を滋蔓し、漸く衣川の外に出る。(納税すべき産品を献上してこず、労働奉仕に勤めることをしない。代々驕奢にして、誰も敢えてこれを制することができない。永承の頃、太守藤原朝臣登任、数千の兵を発して、これを攻めた。出羽の秋田城の介平朝臣重成を前鋒として、太守夫士を率いて後続を為す。頼良、諸部の俘囚を以て、これを拒み、大いに鬼切部に戦う。太守の軍は何度も敗れ、死者は甚大。
元慶二年(878年)、北海道の夷狄(いてき=東方の野蛮人)が秋田城を襲撃するという出羽元慶の乱が勃発したが、国府が折れて、秋田河(雄物川)以北は蝦夷が支配し、国府側は北上平野に六郡(岩手、稗貫、斯波、和賀、江刺、胆沢)を置くことで決着した。ここから六郡は『奥六郡』と呼ばれる。
永承六年(1051年)、俘囚の長『安倍頼良』の時代には、奥六郡の南限であった衣川を越え、国府領の岩井郡の支配に着手し、国府多賀城との摩擦が生じた。
陸奥守の藤原登任は、秋田の平重成の軍を動員して安倍頼良を攻撃するが、安倍頼良は玉造郡鬼切部(鳴子町)で迎え撃ち、大勝する。
この「鬼切部の戦い」を契機に、ここから「前九年の役」が始まる。
鬼首周辺には鏑矢が飛び交い、軍勢が攻防戦を繰り広げたことに由来する鏑(カブラ)、軍(イクサ)など、古戦場らしい地名が残っており、禿岳(小鏑山)の山麓が、鬼切部城があったのかもしれない。(写真はホテル・オニコウベからの展望)
ただ、鬼切部の地名に関し、奥州の相原友直という人物が平泉三部作(平泉実記・平泉旧蹟志・平泉雑記)と呼ばれる平泉の歴史書を著しているが、そのなかの安永二年(1773年)に完成した「平泉雑記」には、鬼功部(こうべ)と書くべきところを、鬼切部(きりべ)と誤記したものだと記している。
その後、鬼功部(こうべ)が、鬼首(こうべ)に漢字表記が変わったのだろう。
『平泉雑記』巻之二・鬼首村 / 前太平記ニ、鬼切部ト云所アリ、鬼首村ノ事ナルベシ。愚按ズル(愚考する)ニ、功ノ字ヲ誤テ切ノ字書ルナルベシ。  
錯綜する大竹丸
坂上田村麻呂が鬼と呼ばれた大竹丸を鬼首に追い詰め、その首をはねたというが、大竹丸(大丈丸・大岳丸・大武丸・大猛丸・大滝丸・大高丸)様々な漢字表記があるが別人ではない。平安時代の万葉仮名(一種のルビ)は、大和言葉に応じた読みの漢字を、どれでも適当に書けばよいとされていた。
大竹丸の大は尊称、丸は男子を表し、名前の部分は「たけ」だけ。従って、普段は「たか・たけ・たき・たく・たこ」のいずれかで呼ばれていたのだろう。ただ、後の安倍頼良の一族に「高星丸」という人物がいることから、高と丸の間に漢字が一文字入っていたかもしれない。
『宮城の伝説』 / 征夷大将軍坂上田村麻呂の東征のとき、牧山で賊将大岳丸を退治し、死体を首・胴・手足に分け、牧山・富山・箆岳の三ヶ所に埋葬し、そこに観音堂を建立した。そして、牧山には魔鬼(まき)山寺を建立した。また、田村麻呂が退治したのは、石巻地方にいた魔鬼一族の酋長の妻、魔鬼女(まきめ)であるともいう。
宮城県の牧山(魔鬼山)・富山・箆岳(ののだけ)の三山には、観音堂が建立(跡地だけのもある)されており、「奥州三観音」と呼ばれている。(左上から牧山観音像・富山観音堂・箟岳観音堂)
田村麻呂が退治した鬼の体を分け、それぞれに埋葬しているとのことだが、富山(松島町)の鬼は『大竹丸』、箟岳(湧谷町)の鬼は『高丸』、牧山(石巻市)の鬼は『魔鬼女』と、鬼の名前が錯綜している。
宮城県遠田郡涌谷町箟岳の無夷山「箟峯寺」の伝承では、蝦夷征伐の時、田村麻呂は敵味方双方の戦死者を葬った上に観音堂を建てたのが寺院の始まりだと案内書に記している。
ただし、この地で黄金が採集されたことに留意を要する。
『東日流外三郡誌中の宮城県遺跡』 / 坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征伐で苦戦に陥った時、田道の神霊が現れ大勝に導いたので、此の地に祠を造って祀った。それを桓武天皇の奏上し、勅許により、大同二年(807年)奥州猿賀深砂(しんしゃ=神蛇)大権現として勧請した。石巻の地名は、湊の背後にある牧山と呼ばれる石山によると考えられます。
『岩手の伝説を歩く』 / 平安時代初期、坂上田村麿は胆沢城造営前、蝦夷の首領だった『高丸』を征伐し、現在の水沢市佐倉河の地に葬った。そのとき田村麿は自分のマゲの中に入れていた毘沙門天像を本尊に、堂を建立したという。  
ネブタ祭と大丈丸
ネブタ(侫武多・倭武多)祭りでは、大丈丸が登場するが、同一人物である。
各地に「ネブタ祭」があり、ネブタの語源は一般に「眠た」が語源とされるが、ネブタ祭りには「ネブタ流れろ」「まめの葉残れ」という囃子(ハヤシ)がある。ネブタとは「賊・土着人」で、まめの葉とは「忠義な味方」だとする説が有力である。
『侫武多(ネブタ)の由来』 / 昔、陸奥きっての悪者の頭であった大丈丸は、遠くは駿河の国から伊勢の国までやってきて、都に上る人々に悪事を働いていた。そこで武勇の名高い坂上田村麻呂を征夷大将軍として、大丈丸を討伐することになった。田村麻呂に撃破された大丈丸は陸奥に逃げ込み、平内山(浅虫温泉)の砦に隠れた。この砦は海中に突き出て、三方は海だったので田村麻呂も容易に攻撃できなかった。そこで、部下の一人が「里の人々に太鼓や鉦を打ち鳴らさせれば、悪者の大丈丸とて賑やかな祭りだと思い、物珍しさに気を許すはずです」と言上した。早速、紙を張って魚や鳥などの形をつくり、たくさんの山車(だし)の上に載せ、その内部に大勢の兵を隠した。張子のなかに火を灯し、太鼓や笛の音を響かせて、砦へ近づいていくと、案の定、大丈丸は砦から出て、華やかな祭り行列にみとれていた。突如、兵士らが紙を破って躍り出ると、不意をつかれた大丈丸には応戦する暇もなく戦いに敗れた。こうして田村麻呂は大丈丸を征伐して都へ帰っていった。 
『ネブタはトロイの木馬』 / 大丈丸をイリアス軍、田村麻呂をギリシャ軍に置き換えれば、ネブタはギリシャ神話の「トロイエ戦争」に登場する『トロイの木馬』の日本版だといえる。従って、『田村麻呂の張子祭り』と呼ぶほうがリアルだと思われる。
大竹丸(ネブタ)討伐を祝う祭りであれば、征服された人々が侵略者の勝利を祝うという悲惨な祭りだといえるが、江戸時代の藩主が景気づけに考案した祭りだとのことなので、深い意味はなさそうだ。
大丈丸には『大嶽丸伝説』があり、こちらでは青森県の霧山(場所不明)に城を築いたとしており、ネブタと青森県の関係が分かりやすい。
できれば、近い将来、鬼首地区で大竹丸の鎮魂祭としての『ネブタ祭り』をしてもらいたいものである。  
祇園祭と大嶽丸
『大嶽丸伝説』 / 伊勢の国の鈴鹿山に住む大嶽丸という鬼が、旅人や商人から略奪をするため、鈴鹿山付近の往来が途絶えたと聞いた天皇は、藤原俊宗に大嶽丸討伐の命を下した。彼は三万の軍勢を率いて鈴鹿山に攻め込んだが、大嶽丸を討つことができなかった。そこで、藤原俊宗が天に祈願すると、美しい天女(鈴鹿御前)が鈴鹿に降臨し、その色香で大嶽丸を惑わせ、藤原俊宗は色情に溺れた大嶽丸の隙を突き、彼の首を刎ねた。しかし、大嶽丸の叔父が持つ宝剣によって、魂を呼び戻された大嶽丸は、肉体を再生させると、陸奥の霧山(青森県)に城を築き、再び世を乱した。再び、藤原俊宗と鈴鹿御前は大嶽丸討伐のため陸奥に向かい、大嶽丸が蝦夷ヶ嶋の鬼のもとに行った留守に館に忍び込み、帰還した大嶽丸を殺した。大嶽丸の首は、酒天童子の首、玉藻前の遺骸と同じく「三大妖怪」として、宇治の平等院に封印された。
上記の藤原俊宗とは将軍藤原利仁のことだが、坂上田村麻呂をモデルとしたもので、大嶽丸(大竹丸)と坂上田村麻呂の史実に由来する物語となっている。
ネブタ祭りの由来と同様に、伊勢にまで略奪に行ったとするのは、実は大竹丸は近畿地方まで領域としていたのを、徐々に大和王朝に駆逐された名残ではないかとも考えられる。
祇園祭の山鉾(やまぼこ)巡行に『鈴鹿山』が参加している。伊勢国の鈴鹿山で道ゆく人々を苦しめた悪鬼『大嶽丸』を退治した鈴鹿権現「瀬織津姫尊」の話を趣向した山である。御神体の瀬織津姫尊は、金の烏帽子をかぶり能面を付け、腰に錺太刀、左手に長刀、右手に中啓を持ち、山洞には悪鬼の首の象徴として、赤熊の頭が置かれている。
大竹丸(大嶽丸)の首は『宇治平等院』に封印されたとあるが、何ヶ所にも墓所があることから、大竹丸には九頭竜のように首が何本も生えていたのだろうかとの疑問を少しは感じるが、あくまでも物語は物語として楽しむべきなのだろう。
ただ、ここに登場した鈴鹿御前「瀬織律姫」は、荒雄川神社の御祭神である。
なぜ大竹丸の終焉の地である鬼首地区に、この瀬織律姫が祀られているのかは、瀬織律姫の章で記述する。  
諏訪大明神と高丸
『諏訪大明神の秋山祭の事』 / 桓武天皇の御代、奥州に悪事の高丸(悪路王あるいは安部高丸)がおり、人民を苦しめていた。そこで坂上田村丸が討伐に出かける。田村丸は清水寺に詣で、願をかけると、「山道を行け」という啓示を受ける。その通り山道を進み、信濃を通りかかると、梶の葉の紋様(諏訪明神の社紋)をつけた武者と、藍染の紋様(住吉大明神の社紋)をつけた武者と遭遇する。高丸の居城に到着し、戦闘を行うが、田村丸は苦戦する。そこへ信濃で出会った二人の武者が現れ、助勢する。見事、高丸を討ち取り、都へ凱旋する途上、信濃に到着した所、梶の葉の武者は、「我は諏訪の明神である。清水観音の指示によりお供した。我は、狩猟を好むので、狩の祭を希望する」と言った。それに対し、田村丸は「どうして菩薩でありながら、殺生を好むのでしょう」と問うと、次のように答える。「我は殺生を生業とするものに利益を施す。また、有情の畜生は、神前の贄として成仏がかなうのだ」このようにして、諏訪の秋山の祭が行われた。この日は必ず大雨大風が起る。なぜなら十悪の高丸が滅んだことにより、国内が騒動し、畜生の成仏により、神仏が感動するためである。ちなみに、もう一人、藍染紋様の武者は「王城鎮護の住吉の大明神」であった。
さて、高丸の娘は、その時、諏訪大明神によって捕らえられていたが身篭っており、一人の王子を産んだ、明神は憐憫をもって、「自分には姿がないから自分の代わりに、神姓をあたえ祝(はふり)とする」これが大祝(おおほうり)の始めである。『神道集』より
『諏訪市博物館』 / 大祝とは、諏訪明神の依り代(よりしろ=現人神)として諏訪社の頂点に位置していた役職で、「上社大祝」は、古代から江戸時代末に至るまで代々世襲され、「諏方」または「神」姓を名乗った。中世までは諏訪の領主として、基本的には同家で政治権力も握っていた。江戸時代に入り藩主諏訪家と、大祝諏方家ができ、完全な政教分離がなされた。明治時代を迎え、神官の世襲制度が廃止されるにより大祝職も廃止された。全国でも生き神様が存在し続けた神社は珍しいといわれる。                            
神政時代の祝(ハフリ)は領主の血族が就く司祭職で、後世には禰宜の制度ができるが、常識的には罪人とされた高丸の遺児が就ける身分ではない。諏訪大明神とは、諏訪地方の祭祀権をもつ領主で、表向きは捕虜としたが、安倍高丸の娘と愛し合い、妻として、生まれた男児に地位を譲ったのだろう。
諏訪大明神は出雲の神を祭っており、物部氏ゆかりの神社ともいえる。安倍氏・安曇氏・物部氏・諏訪氏・出雲氏の連携による救済ではないかと思われる。  
鈴鹿御前と諏訪大明神
鈴鹿御前とは「鈴鹿権現」であり、瀬織津姫尊ともいう。鬼首の荒雄山上には瀬織津姫を祀った荒雄川神社奥宮があり、かつて荒雄川流域には36社もの荒雄川神社が祀られていたとされる。神奈川県の海老名市に「有鹿(あるか)神社」があり、隣の座間市には「鈴鹿明神社」があるが、「鈴鹿明神社」の説話伝説に次のような記述がある。
『鈴鹿明神社』 / 由緒には「伝説によると、伊勢の鈴鹿郷の神社例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風に襲われ、漂流して相模国入海の東峯に漂着した。里人が社を創立してこれを鎮守とし、鈴鹿大明神と崇め奉ったと伝えられている」 説話伝説として「欽明天皇の御代(539〜571年)、伊勢国鈴鹿から座間に移られた鈴鹿神は多くの財宝を持ち、豊かな暮らしを送っていた。当時、相模国勝坂にいた有鹿神(あかる)は、それを横取りしようとしてやってきた。これがもとで争いとなり、急を聞いて駆け付けた諏訪明神と弁財天の応援で鈴鹿神が勝ち、有鹿神を海老名の上郷へ追い払った」 伊勢国から移住した鈴鹿神を、諏訪明神と弁財天が助けに来る。なぜだろう。
日本書紀と伊勢国風土記に、これに関連する記述がある。『日本書紀』国譲り「出雲の大国主神の息子、建御名方神(タケミナカタ)は建御雷神(タケイカヅチ)との争いに敗れ、信濃の国の諏訪湖に逃れた」
『伊勢国風土記』には、神武天皇に故地を奪われた地主神『伊勢津彦』は、東国に行くと言って、海に嵐を起こして姿を消した。彼が逃げ落ちた先は信濃の国だったと伝えられる」
朝敵は信濃を目指す傾向があるようだが、漂着した鈴鹿郷の神輿とは伊勢津彦だとすれば、信濃の諏訪明神が救援に来る理由になる。また、弁財天とはインダス川の水神で、瀬織律姫の血族である市寸島比売 (イチキシマヒメ) のことである。
有鹿神社の由緒には、天平勝宝八年 (756年)、郷司の藤原廣政の寄進により5百町歩の懇田が神領となったとある。中臣鎌足が藤原氏に改姓するが、藤原廣政も藤原氏の一員だと思われるので、有鹿神社は鹿島神宮系の神社だと思うが、祭神には有鹿神は記されていない
話の筋からすれば、有鹿神は藤原氏(朝廷側)の神、鈴鹿神は敗者(出雲)の神だと思えるが、鈴鹿明神社は「イザナギ・イザナミ」を祭神とすることから、逆に鈴鹿神が資金力で有鹿神を駆逐したのかもしれない。
神奈川の県名は神奈備(かんなび=霊地)に由来し、古代は相模国と称したが、相模(さがみ)とは「さの神=宿(すく)の神」の意味で、蝦夷の守護神である。坂東武者を都の人々は「東(あずま)夷(えびす)」と呼ぶが、往時は蝦夷の勢力範囲である。  
阿曇(あづみ)の鬼
信濃の国には、さらに阿倍氏と同系の阿曇氏に由来する長野県安曇野郡の穂高町に在る大王農場に「魏石鬼八面大王」を祀る神社があるが、そこに『鬼』に関わる社伝が記されている。
『魏石鬼八面大王』 / 全国統一を目指す大和朝廷が、東北に侵略するにあたり、信濃の国を足がかりに 沢山の貢物や無理難題を押し付け、住民を苦しめていました。そんな住民を見るに見かねて、安曇野の里に住んでいた魏石鬼八面大王は立ち上がり、坂上田村麻呂の率いる軍と一歩もひけをとることなく戦いました。最後は山鳥の尾羽で作った矢にあたり倒れてしまいました。しかし、あまりにも強かったので、再び生き返ることのないように、大王の遺体は方々に分けて埋められました。その胴体が埋められたとされる塚が農場の中にあったことから、大王農場と名づけられました。そして、塚は大王神社に祀られています。ここに佇む八面大王は、大王農場の守護神でもあり、安曇野を守った勇士でもあります。
穂高町の公式サイトにも、この魏石鬼八面大王の伝説が掲載されているが、物語の内容は完全に逆転しており、八面大王は住民を苦しめる悪鬼だと書かれている。そして、八面大王の本拠地は「宮城」と呼ばれていたが、思い上がって付けた名だともある。どちらの話が真実になのかは分からない。
物事は片面だけではなく、両面からみるべきだとの訓示の標本ように感じるが、これと同様の現象は他にもみられる。
悪鬼「塵輪」には翼があり、空を自在に駆けめぐることができ、神通力、軍術に長けた悪鬼が我が国に攻めてきたとき、仲哀天皇が安倍高(竹)丸、安倍助丸を従え、十禅万乗の徳に神変不測の弓矢をもって、これを退治するという物語である。
『諏訪大明神絵詞』 / 安倍高丸が謀叛したとき、坂上田村麿が伊那郡と諏訪郡との境の、大田切という所で梶葉の藍摺りの水干を着て、鷹羽の矢を負い、葦毛の馬に乗った諏訪大明神に行き遭ったことが記されてある。安倍高丸が官軍と賊軍に登場するが、大竹丸と安倍貞任を混同しているようにも思えるが、実は大竹丸とは「安倍高丸」の通称ではないだろうか。安倍氏は中央政権における大族『阿倍氏』の氏族で阿倍比羅夫の直系、安倍頼良は六世孫とされるが、300年間で六代のはずがなく、系譜が欠落していると思われるが、そこに安倍高丸、おそらく安倍高麿(麻呂)がいるのではないだろうか。   
大竹丸と高丸
『寿々賀(すずか)』奈良絵本 / 藤原俊重将軍の子の俊祐が益田ヶ池の大蛇の化身である美女と契り、日竜丸が誕生する。日竜丸は近江国の大蛇を退治して、後に俊仁将軍を名乗る。十七歳で照日の前と結婚し、二人の姫が誕生するが、照日の前を陸奥高山の悪路王に奪われた為、奥州に赴いてこれを退治し、照日の前を救出する。奥州行の途中では、初瀬の郡、田村の賤女と契り、ふせり殿(俊宗)が誕生し、長じて父子の対面を果たす。俊仁は唐土に遠征して戦死し、その跡を継いだ俊宗は奈良坂山の霊山坊を退治。宣旨を受けて鈴鹿山の大嶽丸を退治し、鈴鹿御前と結ばれて一子をもうけるが、再び近江国の悪事高丸征討の宣旨を受け、これを退治する。
上記は古書販売目録でみつけた『寿々賀絵巻』(価格は三巻で1,200万円)の一巻だが、奥浄瑠璃『田村三代記』の絵巻だと推察する。この物語では、陸奥高山の『悪路王』、鈴鹿山の『大嶽丸』、近江国の『高丸』とされており、三人は別人だとしている。もっとも物語の話である。
謡曲『田村』 / 田村麻呂は伊勢国の鈴鹿山にいた妖術を使う鬼の美女「悪玉(あくたま)」と結婚し、その助けを得て悪路王(あくじおう)や大武王(おおたけおう)のような鬼の頭目を、陸奥の辺りまで追って討つ。
ここでは、鈴鹿御前『瀬織律姫』は鬼にされ、しかも田村麻呂が夫だとする。
瀬織律姫が「ひど〜い!」と怒りそうだが、『田村草紙』などで語られる田村麻呂伝説も大筋は似ている。あくまでも創作であり、歴史的事実とは無縁のものです。
ただし、謡曲は当時から観世流が独占しており、その創始者の世阿弥は大竹丸とアテルイの違いは承知している(理由は後述)。従って、瀬織律姫を鬼とする根拠があるのかもしれないが、いまのところ未詳である。  
世界遺産になった鬼ヶ城
平成16年7月に、熊野古道や鬼ヶ城を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されたが、この鬼ヶ城の鬼も、実は『大竹丸』である。
『鬼ケ城伝説』 / その昔、桓武天皇(737〜806)のころ、この地に隠れて熊野の海を荒らし廻り、鬼と恐れられた海賊多娥丸(たがまる)を、天皇の命を受けた坂上田村麻呂が征伐したという伝説が残っており、その伝説に基づいて鬼の岩屋と呼ばれていましたが、後に鬼ケ城といわれるようになりました。
多娥丸(たがまる)となっているが、伊勢と熊野は伊勢路でつながっており、坂上田村麻呂に成敗されたとすることから、伊勢国で暴れたとされる「日本三大妖怪」の一人『大嶽丸』に間違いない。
ここでは海賊とあるが、秋田県の鬼「なまはげ」と長崎県五島列島の久賀島の鬼は同一だと考えられる。そして、佐渡島の人々に鬼と恐れられた粛慎(みしはせ)の容貌は「なまはげ」そのものである。
ツングース族の粛慎は紀元1世紀に挹婁(ゆうろう)と名を変えるが、中国の史籍に次のような記事がある。
『三国志魏書』挹婁伝 / 漢代(前漢)以来、扶余(ふよ)に臣従していたが、扶余の賦課が重いので、黄初年間(220年-226年)には、これに叛いた。扶余はこれを何度も討伐するが、人口は少ないけれど、場所が険しい山中で、隣国の人々も、その矢(毒矢)を畏れるほどで、兵(軍事力)では帰服させることができず、隣国はこれを患いとしている。
『後漢書』挹婁伝 / 彼らは気の向くままに船に乗って、巧みに略奪を働くので、隣國ではこれを畏れ、患うが、兵をもってしても服させることはできない。
上記から、粛慎(みしはせ=挹婁)は、東アジア最古の海賊だったと思われる。扶余については別紙に記述したが、高句麗や百済の宗族でもあり、朝鮮半島の
平壌からアムール川までという広大な領地を有した大族である。その扶余ですら手に負えない彼らに、当時の倭人も略奪を受けたのだろう。
鬼首の鬼達は、後に「安東水軍、伊予水軍、松浦水軍」となることから、海運にも優れていた事実が推察できる。また、大竹丸が陸奥の山中で隠遁していた訳ではなく、安倍水軍をもって都に近い伊勢国や紀伊国まで攻め上っていたとも思える。
また、後世のアイヌは粛慎の楛矢(コシ)の名残だと思われる「毒矢」を交易品としている。  
大多鬼丸と白鳥伝説
『鬼五郎と幡五郎伝説』 / その昔、早稲川の里には、里の長である鬼五郎と、弟の幡五郎の兄弟が住んでいました。二人は力を合わせ、先祖から受け継がれてきた故里の田畑を守り、さらに豊かにしようと、里の人々の先頭に立って働いていました。政府の蝦夷討伐が始まったのはちょうどこの頃、陸奥の平定を大義に掲げる政府軍を率いた坂上田村麻呂が、この地にも攻め入ってきました。これに猛然と立ち上がったのが阿武隈山系一帯に勢力をふるっていた大多鬼丸。もちろん彼の部下であった鬼五郎も秀でた武術を発揮し、政府軍を迎え撃ちました。しかし、ねばる政府軍を前に戦いは長期戦へともつれこみました。激しく長い戦いの中で奮闘を重ねた大多鬼丸軍にしだいに敗色が濃くなり、仙台平まで追い込まれてしまいました。「お前は生きのびて立派に守ってくれ。わしは死んでも鬼となってこの地を見守るぞ」と鬼五郎は弟に言い残し、壮絶な最期を遂げました。愛する故郷のため、勇敢に戦い抜いた鬼五郎と、兄の遺志を継ぎ豊かな早稲川の里づくりに励んだ弟の幡五郎。故郷を愛した兄弟の想いは、今も人々の胸に脈々と生き続けています。
『坂上田村麻呂と白鳥伝説』 / 昔々、大越町(福島県田村市)の辺りは千島大多鬼丸という人が治めていたのだが、ある時、蝦夷を平定すると言って都からやってきた坂上田村麻呂が、その大多鬼丸と戦をはじめた。田村麻呂は大軍を連れてやってきたが、その頃、この辺りは深い山の中で、木々や草々がうっそうとして、昼間も暗かった。田村麻呂の軍が進むことができなくて困っていると、一羽の白鳥が飛んできた。見ると、鳥は「こっちさこ」というように羽をバサバサさせて飛んでいた。田村麻呂は、その白鳥についていった。すると、広い野原に出た。軍隊は思わず「ワァーッ」と大声を上げて駆けだした。すると、また鳥は「こっちさこ」というように山の方に飛んでいく。またついていくと、大多鬼丸のところにたどり着いた。田村麻呂たちはそこへ攻めていって、大多鬼丸を滅ぼしてしまった。田村麻呂は「あの白鳥は日本武尊命様の化身に違いない」と考え、この地に神社を造り祀った。それが白鳥神社なのだ。白鳥が飛んできたところを鳥生平(とりんだいら)、軍隊が駆け入った場所を欠入(かけいり)といい、大声をあげて軍隊がやってきたので「大声」と呼んだ。それが今の「大越」となった。
ともに旧大越町(福島県田村市)に伝わる大多鬼丸(大竹丸)の伝説である。田村市の名称は、田村麻呂に由来すると思われるが、地元では敗者である大多鬼丸のほうに人気があるようだ。 
悪路王(あくろおう) 

 

『鳴子町史』に、延暦八年(797年)に紀古佐美を征東大使に任じ、兵五万余をもって征伐に向かわせ、衣川まで進んだが、食料不足と寒気に悩まされ、結果的に阿弖流為(アテルイ)に破られ、数千人の戦死者をだして惨敗したことを示す『日本後記』が掲載されているが、そこには、当時の道がいかに悪路だったかが明記されており、アテルイが悪路王と呼ばれた理由が想像できる。
明治時代、遠野民俗学の先駆者である伊能嘉矩(かのり)氏が「悪路・赤頭・高丸・大竹丸・岩武」などの伝承を収集、更に関連する地名伝説にも触れ、悪路王を検証した「悪路王とは何ものぞ」(「遠野の民俗と歴史」・三一書房)など、資料や史料が多いが、代表的なものを列記する。
『中尊寺西光院の毘沙門堂縁起』 / およそ1200年の昔、悪路王・赤頭・高丸らの蝦夷がこの窟に塞を構え、良民を苦しめ、女子供を掠める等の乱暴な振舞い多く、国府もこれを抑える事が出来ない。そこで、人皇五十代桓武天皇は坂上田村麻呂公を征夷大将軍に命じ、蝦夷征伐の勅を下された。対する悪路王等は達谷窟より3千余の賊徒を率い駿河国清見関まで進んだが、大将軍が京を発する報を聞くと、武威を恐れ窟に引き返し守りを固めた。延暦20年(801)、大将軍は窟(達谷窟)に篭る蝦夷を激戦の末に打ち破り、悪路王・赤頭・高丸の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。大将軍は、戦勝を毘沙門天の御加護と感じ、その御礼に京の清水の舞台を摸ねて、九間四面の精舎を建て、108躰の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所として達窟毘沙門堂(別名をいわや窟堂)と名付けた。 
大竹丸の名がなく、高丸となっているが、両者を同一人物としているのだろう。
『吾妻鏡』 / 源頼朝が平泉を攻め、藤原泰衡らを討伐した後、鎌倉への帰路にある青山に目をとめ、その名を案内役の奥州人の豊前介実俊に尋ねると、「それは、田(達)谷窟で、田村麻呂、利仁らの将軍が、綸旨を受け賜って夷を征する時、賊主である悪路王や赤頭らが、城塞を構えていた岩屋」だと実俊が教えた。そして、田村麻呂は、この田谷窟の前に九間四面の精舎を建て、鞍馬寺をまねて多聞天の像を安置し、西光寺と名づけたということを語る、という場面がある。
『平泉舊蹟志』 / 達谷窟は岩井郡達谷村に有り、東鑑(吾妻鏡)には田谷窟と記す。中尊寺より未申の方奥道十二里、東鑑に「田谷窟は、田村麻呂・利仁の将軍綸命を奉り、征夷の時、賊王悪路王ならびに赤頭らが塞を構えた岩室なり……(中略)……坂上将軍、この窟の前において、九間四面の精舎を建立し、鞍馬寺を模し多門天の像を安置し、西光寺と号して水田を寄附す」と述べている。
毘沙門堂縁起だけに高丸の名があるが、悪路・赤頭・高丸は別人であろう。
悪路王が坂上田村麻呂の戦った蝦夷の酋長とすれば、史実に照合すれば、悪路王は阿弖流為(アテルイ)、赤頭は母礼(モレ)のことになる。事実、毘沙門堂境内の碑は「アテルイの碑」と呼ばれている。
鹿島神宮に高丸(悪路王)の面とされる木像(左の写真)があるが、『桂村教育委員会』は、文化財の由来として、次のように解説している。
当鹿島神社の社宝として伝わるものである。延歴(ママ)年間(782〜805)坂上田村麻呂が北征の折、下野(ママ)達谷窟で賊将高丸(悪路王)を誅し、凱旋の途中この地を過ぎ、携えてきた首級を納めた。最初はミイラであつたが、これを模型化したものといわれる。高さ五〇cmほどで形相物凄く優れた彫刻である
達谷窟において悪路王を誅した田村麻呂が、凱旋の途中、東茨城郡桂村の鹿島神社に立ち寄り、その首級をこの社に納めた、その木乃伊(ミイラ)があったというが、現在はない。また、この首の切り口のところには「悪路王頭形 源光圀印」とあり、徳川光圀が、この像を修理させたものだという。
上記の写真と、前掲の水沢市の写真が酷似していると感じられた人は鋭い眼力の持ち主である。「鹿島神宮」の社宝とされた高丸(悪路王)の首像は鹿島神宮から「水沢市埋蔵文化財調査センター」に寄贈されたのである。
『水沢市埋蔵文化財調査センター』 / 蝦夷と胆沢城跡の展示・研究施設展示室は2000年前から栄えていた文化を見せる「蝦夷の登場」、城造営関係や官人の生活などを見せる「胆沢城跡」、発掘情報の紹介を行う「発掘の現場」、「歴史・考古学クイズQ&A」、胆沢城の「機能」「食」「信仰」、「古代東北からのメッセージ」、100インチの大画面で見せる「古代東北蝦夷の世界」の9つのコーナーからなる。  
悪路王はツングース族
ロシア連邦ハバロフスク地方のアムール川流域、沿海州、サハリン州などに、エベンキ族、ナーナイ族、ウリチ族、ニブフ族、エベン族、ウデゲ族、ネギダール族、オロチ族、サハリン・アイヌ族などツングース語系諸族が現住している。
日本史に登場するツングース族は、粛慎・靺鞨(マツカツ)・女真(ジョシン)・高句麗・百済・扶余・渤海国などである。
弘仁六年(815)正月、小野朝臣岑守が陸奥守に任じられた時、空海(弘法大師)が彼に贈った歌があるが、そこには当時の人々の蝦夷に関する印象が明記されている。
『遍照発揮性霊集』(野陸州に送る歌) / 時々、人の里に来住して千万の人と牛とを殺食す。髻(モトドリ)の中に毒箭(ドクヤ)を挿し、手を上げる毎に刀と矛を執り、田(デン)せず、衣(イ)せず。鹿やと麋(トナカイ)を逐う。馬を走らせ、刀を弄すること電撃の如く、弓を彎(ヒ)き、箭(ユミヤ)を飛ばす。誰か敢えて囚(トラ)えん。
この歌から、当時の蝦夷の生活は狩猟民族そのものだと思える。空海は唐に留学していた経験があり、蝦夷と粛慎(当時は靺鞨)が同じツングース族であると知っていたのではないかと推察する。さらにいえば、空海は天台宗が嫌いだから、天台座主の円仁も嫌い、円仁が庇護する蝦夷も嫌いである。文面にも蝦夷を嫌悪する感覚が現れている。
鹿島神宮の宝物館に「悪路王の首」について、次のような説明がある。
鹿島神宮『宝物館』 / 平安時代、坂上田村麻呂将軍が奥州において征伐した悪路王(アテルイ)の首を、寛文年間に口伝に基づいて木製で復元奉納したもので、悪路王は大陸系の漂着民族とみられる。オロチョン族の首領で、悪路(オロ)の主(チョン)とみる人もいる
オロチョン族は、内蒙古自治区の黒竜江(アムール川)領域に暮らす中国少数民族で、紀元前15世紀頃には中国の東北部にツングース系の粛慎がいたが、その集団の一員と思われる。
オロチョン族の固有言語は、「アルタイ語系、満州・ツングース語派、ツングース語」に属する。
オロチョン族はシャーマニズムを信奉し、自然界の事物を崇拝し、万物には霊魂があると信じ、祖先崇拝が盛んに行われている(左はオロチョン族の民族衣装)。
『ツングース(通古斯)』 / ツングースの名は、中国の北方を領域とした鬼方(キホウ)が紀元前12世紀に消滅し、そこに東胡(トウコ)が登場するのだが、ロシア人には中国語の発音の東胡が「ツングース」と聞こえたことに由来する。それ以前の呼称は不明。ツングース語は、アルタイ諸語に分類され、モンゴル語系、チュルク(トルコ)語系、ツングース語系に大別される。
日本語が、どの言語系に属するかの定説はないが、比較言語学的にはアルタイ諸言語に類似しており、韓国語と同様に扶余語の系統に属すとする説や、ウラル語族(ハンガリー語、フィンランド語)を併せたウラル・アルタイ語系だとする説もある。
いずれにせよ、古代の倭族や韓族の言語はツングース語に大きな影響を受けてきたことに異論はない。
出雲神話に登場する「やまたのおろち」(日本書紀は八岐大蛇・古事記は八俣遠呂智)の「おろち」とは、ツングース族のオロチ族のことだとする考えがある。
『古事記』神代の巻 / 天照大神の弟の素戔鳴命(スサノウ)は高天原から追放され、出雲の国に降った。出雲の簸の川を歩いていると、川上から箸が流れてきたので、上流には人が住んでいると思って歩いて行くと、美しい少女と老夫婦が泣いていた。その理由を尋ねると、老人は「私は大山津見神の子の足名椎(あしなづち)で、妻は手名椎、娘の名は櫛名田比売(くしなだひめ)といいます。私たちには八人の娘がいましたが、この地には恐ろしい高志(こし)の八俣遠呂智(やまたのおろち)と云う大蛇が毎年出てきて、娘を一人ずつ食べてしまうのです。
スサノオ(素戔鳴)を祭神とする八坂神社『祇園祭』の神輿行列には、スサノオが転生した『牛頭大王』、稲田比売命(いなだひめのみこ)が転生した『婆利女』が登場する。稲田比売とは櫛名田比売のことである。
ちなみに、常陸国新治郡に八岐大蛇伝説があり、笠間市稲田に奇稲田姫を奉った「稲田姫神社」があり、稲田姫の父母「手名椎(てなつち)足名椎」の住居跡が「関戸神社」で、笠間市内にはスサノオを奉った八坂神社がある。
祇園祭ではスサノオがヒンズー教の『牛頭天王』に模した『牛頭大王』とされているが、八坂神社も秦氏に由来する神社とされるので『牛』の登場も当然だが、上記の物語で重要なのは「高志」である。
斉明紀に「越国守(こしのくにのかみ)阿倍引田臣比羅夫」とあるが、高志とは越のことである。越国(越前・越中・越後)は古志や高志と表記されたが、大化の改新(645年)の後、越で統一される。
『晋書』粛慎伝 / 周の武王の時代(紀元前11世紀)、楛矢(こし)と石砮を献じた。周公が成王の補佐していた時代に再び遣使が朝賀に来た。その後千余年、秦漢の隆盛時といえども来貢しなかった。三国魏の文帝が丞相となるに及び、景元5年(264年)、楛矢、石砮、弓甲、貂皮の類をもって来貢した。
楛は中国原産の植物の名、幹が矢幹(やがら)に適しており、それで作った矢を楛矢という。この楛矢の漢音はhushi(フシ)、楛をhu(フ)と発音するが、日本語はko(コ)と読む。一矢(イッシ)を報いるというように、矢「ヤ」は「シ」とも読む。従って、日本語では楛矢は「コシ(koshi)」となる。
この楛矢を持って日本海沿岸に渡来した粛慎を、当時の人々は「古志、高志」と呼んだのではないだろうか。そうであれば「おろち」とはツングース族の部族名の『オロチ』だとしても頷ける。
ちなみに、粛慎は1世紀には悒婁。4世紀には勿吉。6世紀末には靺鞨。9世紀には渤海国と黒水靺鞨。10世紀には女真。10世紀末に金王朝。13世紀後半に金が滅亡。14世紀後半には女真を再統一。17世紀には清王朝を立て、満州族に改名。このように何度も国号や族名を変えるが、日本とは密接な関係がある。
既述のオルドス文化・オホーツク文化も、アムール川流域に端を発しており
オロチョン族もオロチ族も、この粛慎の支族だったと考えられる。
上毛野君の先祖の竹葉瀬を遣わして、貢ぎ物を奉らないことを問うた。その途中で白鹿を獲ったので、帰って天皇に奉った。さらにまた日を改めて行った。しばらくして竹葉瀬の弟田道を遣わした。治世55年蝦夷が叛いたので田道を遣わして討たせた。しかし、蝦夷のために破られて伊峙(イジ)の港(石巻)で死んだ。従者が田道の手に巻いていた玉を持ち帰ってその妻に渡した。妻はそれを抱いて縊死(いし)した。時の人はこれを聞いて悲しんだ。この後また蝦夷が襲ってきて人民を掠めた。そして田道の墓を掘った。すると大蛇がいて、目を怒らして墓から出て喰いついた。蝦夷は蛇の毒気にやられて沢山死に、一人、二人が免れただけであった。時の人は「田道は死んでも仇を討った。死者でもよく知っているものだ」と噂した。
『三国遺事』竹葉軍 / 第十四代儒理王の時代(283年)、伊西国人が金城に攻め寄せた。我が国は大挙して防いだが、長く抗戦すること不可能だったが、突如、異兵が出来して助けてくれた。皆が竹葉を耳輪にしていた。我軍と合力して賊を撃破した。軍が退去した後、どこに帰ったかは不明。ただ末鄒陵の前に竹葉が積まれていた。そこで先王が陰隲(インシツ=天が人の功罪を判定し禍福を下す)して功ありと判断されたことを知った。因って竹現陵と呼ぶ。  
阿弖流為(アテルイ)
宮沢賢治の詩『原体剣舞連』に「むかし達谷の悪路王」とあり、悪路王の首像と棺桶(鹿島神宮所収)のことを詠っているが、悪路王が大竹丸ではなく、アテルイであることはほぼ確実だろう。
少しアテルイを取り巻く時代環境を年表にして列記する。
天平勝宝元年(749年)
国家事業である東大寺大仏建立の鋳造は完成したが、日本には仏像に塗る大量の金(約59kg)がなかった。そんなとき陸奥守であった百済王敬福が陸奥国の小田郡(遠田郡涌谷町)で、我が国で初めて産出された黄金九百両(約12 kg)を献上した。朝廷は年号を天平から天平感宝と改めたほど狂喜乱舞し、万葉歌人の大伴家持は「天皇の御代栄えんと、東なる陸奥の山に黄金の花咲く」と詠んで寿いだが、これが蝦夷に災難を招く大きな要因となった。
陸奥国小田郡は、大竹丸の遺体を埋葬したとする奥州三観音の箆岳観音(湧谷町)が在ることから大竹丸の支配地である。いずれ朝廷は砂金の占有を狙って、彼らを小田郡から追い出すことは目に見えていた。だが、幸いにもこの後、大和王朝では朝廷内の権力闘争による内乱が続出した。
宝亀元年(770年)
道鏡事件を最後に平穏を取り戻した朝廷は、坂上苅田麻呂(坂上田村麻呂の父)を奥鎮守将軍に任命し、多賀城政庁に派遣した。
『続日本記』には、この当時、現地での戦死報告がしばしばあり, その原因は常に蝦夷の側が「野心馴れ難く」悪の軍団として、攻めて来たと記録されている。
宝亀五年(774年)
蝦夷が反乱を起した。紀広純に鎮守副将軍兼任の命が発令され, 蝦夷地の征服が具体化した。だが、紀広純は伊治公砦麻呂( いじのきみあざまろ) の反乱で、780年に非業の死を遂げることになる。
延暦八年(789年)
桓武天皇の蝦夷征討の決意は固く、過去の失敗を教訓として、征夷大勝軍の紀古佐美に東海、東山、坂東の五万余の精鋭を与え、官軍を三軍に分割し、果敢に攻撃させたが、アテルイは胆沢(いさわ)平野での巣伏の戦いで、見事に官軍を撃退した。
延暦十六年(797年)
首塚部分拡大征夷大勝軍に任命された坂上田村麻呂は十万の大軍を率いて北上、彼は武力衝突を避け、胆沢に城を築き、国府を多賀城から胆沢に移すという周到な策をとって、人心の懐柔や仏教文化の伝播に努めた。
延暦二十一年(802年)
アテルイは母礼と部下500人を引き連れて降伏。
同年8月、田村麻呂に従って上京した二名は、河内国杜山(大阪府枚方市)で処刑されたという。(左の写真は、二人の首塚)  
人首丸(ひとかべまる)
大墓公(たものきみ)阿弖利為(アテリイ)と 盤具公(いわぐのきみ)母礼(もれ)が河内国で処刑されたが、そこに鬼首の大竹丸はいなかったのだろうか。
『宮沢賢治と種山ヶ原』
江刺市の種山ヶ原には約1200年前、蝦夷の将軍『悪路王』とその弟『大岳丸』が政府軍の将軍坂上田村麻呂によって討たれた。
大岳丸の子には人首丸という美少年がいたが、人首川に沿って遡り、種山近くの大森山に逃れ、要塞を築いてたてこもったが、政府軍の田村阿波守兼光によって首を切られてしまった。兼光は大森山に堂を建て、観音像を安置した。堂はその後、山火事で何度も焼け、仏像はついに人首川に流され、玉里の大森部落で拾われ大森観音として祀られた。
『大森観音』 / 坂上田村麻呂が人首丸を米里の大森山で討ち、その地に観世音を祭ったのが大森観音ですが、大森山が再三山火事に遭い、御堂を度々消失したことや、里から遠く離れており、訪れる人が少なかったなどの理由で、現在の場所に移されたと言い伝えられています。
『麓山神社本殿』 / 延暦14年(795年)、坂上田村麻呂の東夷征討の折、国家安全、東夷鎮護のため奉祀したのに始まり、さらに大同元年(806年)に人首丸を討ち、聖観音を祭ったといわれ、地名の麓山を冠して、麓山大権現と称し、明治になってから麓山神社と改称したとされています。
『人首丸の墓』 / 阿弖流為(アテルイ)の弟・大岳丸と、その子の人首丸は、延歴20(801)年、米里大森山に逃れ、頑強に抵抗したが、大同元(806)年に討ちとられました。大森山山頂に石碑を建て、その傍らに観音堂を建立し供養したといわれる。
今度、大竹丸(大岳丸)の息子まで登場してきたが、その真偽はともかくとして、免罪符として坂上田村麻呂の名前を掲げ、里人たちが墳墓を守ってきたとすれば、人々にとって大竹丸は地元のヒーローだったと思わざるを得ない。
『人首村風土記』 (麓山神社由来) /
大嶽丸は鬼死骸村で討たれ、一迫鬼首村に葬る。
大嶽丸の弟の大武丸は、栗原郡大武村にて討たれる。
その息子の人首は、大森山・麓山神社付近で討たれる。
『人首村風土記』(笠森稲荷由来) /
悪露王は、鬼死骸村で討たれた。
悪露王の弟の大武丸は、栗原郡大武村にて討たれる。
その息子人首は、大森山の山中で討たれる。
この『人首村風土記』によれば、アテルイが「大嶽丸・悪露王」、その弟が大竹丸「大武丸」、諏訪明神の大祝の叔父が「人首丸」に位置づけられる。
だが、そうすると「伊勢・熊野・近江」などにも出没したとされる「大竹丸」は別人だとなる。
既述したように安倍高丸(竹丸)の名前が島根県にまで残っているが、アテルイは有名ではあるが、陸奥以外での足跡が遺されていない。
阿倍比羅夫の系統で東北地方に勢力を張った安倍氏の存在を考えれば、この当時、すでに定住しているはずで、蝦夷の大酋長はアテルイだと思うが、彼の率いる部族集団とは別に、安倍氏の勢力が存在していたのではないだろうか。
国威を賭けた白村江の海戦に、阿倍比羅夫と安曇比羅夫という阿倍氏族の二人が水軍の指揮官に任命されており、阿倍氏独自の水軍力を有している。
この水軍力がなければ、大竹丸が陸奥の外を駆け巡ることは不可能である。
筆者の推論では、大竹丸とは安倍氏だと推定する。
ちなみに、源頼朝の幼名は『鬼武丸、鬼武者』というが、安倍氏の勇猛さからの命名ではないかと想像する。
いずれにせよ、鬼の大竹丸は、古代史のベールに隠されていたほうが、ロマンがあっていいのかもしれない。そんな気がするので、探求を終わりにします。
安倍氏については別章で記述するが、本章の最後に阿部宗任を祀る神社の紹介をして閉めにする。
『宗任神社』茨城県結城郡千代川村本宗道 / (祭神は、阿部宗任公・阿部貞任公) 当社は、平安時代後期に陸奥国でおこった前九年の役(1051〜61年)で、源頼義の軍勢に敗れた阿部宗任公を祀った神社です。縁起記によれば、天仁2年、阿部氏の臣松本七郎秀則・息八郎秀元が亡君宗任公の神託により旧臣二十余名と共に公着用の青龍の甲胄・遺物を奉じて奥羽の鳥海山の麓から当地に来往して鎮齊した。鎮座するにあたって宗任公の霊は、「天の道、人の道を行くを宗とする意味で宗道と地名を改めれば、人はすこやかに、地は栄えるようになるであろう」と告げる。以来この地は宗道となった。 
 
物部氏 4

 

そら見つ日本(やまと)の国。この名はニギハヤヒによって作られた。そのニギハヤヒを祖とする物部氏。かれらは、古代日本に何をもたらしたのか。蘇我氏と崇仏の是非を争っただけではなかった。それ以前から、ヤマトの建国にかかわっていた。いや、天皇家よりも前にヤマトを治めていたのかもしれない。いや、大和以前に出雲や吉備にいたのかもしれない。
物部の謎は、日本の謎である。
数ある古代日本の謎のなかでも物部(もののべ)の謎ほど、深くて怪しいものはない。
研究者たちも、こと物部をめぐっては百花繚乱というよりも、むしろお手上げの状態だ。ぼくもかつて直木孝次郎や鳥越憲三郎のものや、70年代後半に出版された黛弘道の『物部・蘇我氏と古代王権』とか、畑井弘の『物部氏の伝承』などを読んでこのかた、物部氏をめぐる謎をずうっと気にしてきたのだが、どうにも埒があいてはいなかった。
いろいろ理由があるのだが、なかでも、和銅3年(710)の平城京遷都のおりに、石上(物部)朝臣麻呂が藤原京の留守役にのこされてからというもの、物部一族は日本の表舞台からすっかり消されてしまったということが大きい。この処置を断行したのは藤原不比等だった。このため、物部をめぐる記録は正史のなかでは改竄されてしまった。物部の足跡そのものを正確に読みとれるテキストがない。
だから物部の歴史を多少とも知るには、『古事記』はむろんのこと、不比等の主唱によって編纂された『日本書紀』すらかなり読み替える必要がある。のちに『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)という物部氏寄りの伝承をまとめたものが出るのだが、これも偽書説が強く、史実として鵜呑みにすることは、ほとんどできない。
なぜ物部はわかりにくいのか。なぜ物部一族は消されたのか。たんに藤原氏と対立しただけなのか。その物部氏はなぜ『先代旧事本紀』を書かざるをえなかったのか。こういうことはまだあきらかにはされていないのだ。
いったい物部は歴史を震撼とさせるような何かを仕出かしたのだろうか。それとも、物部の足跡を辿られては困るようなことが、日本史の展開のなかや、記紀の編纂者たちの事情にあったのだろうか。こういうこともその全貌はわかってはいない。
けれども、記紀、古代歌謡、『先代旧事本紀』、各地の社伝などを徹底的に組み直していけば、何かは見えてくる。その何かは、ひょっとしたらとんでもないことなのである。とくに神武東征以前における物部の祖にあたるニギハヤヒ(饒速日命)の一族の活躍は、古代日本の本質的な謎を暗示する。
一方、畑井弘の研究がすでに示唆していたことであるが、実は物部一族とよべるような氏族はいなかったという説もある。
物部とは、「物具」(もののぐ=兵器)を中心とする金属生産にかかわった者たち、「フツノミタマ」を祀っていた者たち、「もののふ」として軍事に従った者たちなどの、幾多の「物部八十伴雄」(もののふのやそとものお)と、その後に「物部連」(もののべのむらじ)としてヤマト王権の軍事・警察・祭祀をつかさどった職掌にあった者たちとの、すべての総称であったのではないかというのだ。
まあ、そういう説があるのはいいだろう。しかし、仮にそうだとしても、やはりそこにはフツノミタマを奉じる一族がいたであろうし、石上神宮の呪術を司る一族がいたはずなのだ。そして、その祖をニギハヤヒと認めることを打擲するわけにはいかないはずなのだ。ぼくは、やはり物部一族が“いた”と思いたい。
では、物部とはどんな一族だったのか。出自はどこなのか。物部が仕出かしたこととは何なのか。ヤマト朝廷と物部の物語はどんな重なりをもっていたのか。
一般には、物部氏の名は、蘇我氏の「崇仏」に反旗をひるがえした物部守屋の一族だというふうに知られてきた。神祇派が物部氏で、崇仏派が蘇我氏だと教えられてきた。
しかし、こんなことは古代日本史が見せたごくごく一部の幕間劇の出来事にすぎず、そのずっとずっと前に、物部の祖先たちがヤマトの建国にあずかっていたはずなのである。このことについてはあとで詳しくのべるけれど、いまそれを端的にいえば、神武やヤマトタケルの東征に先立って、すでに「物部の祖」たるニギハヤヒのヤマト君臨があったのだろうということになる。
本書は、この謎にかかわって、類書にない仮説を展開してみせた。著者の関裕二には、これ以前に『蘇我氏の正体』『藤原氏の正体』があって、その総決算としてごく最近に本書が綴られた。1998年にも、本書の前身にあたる『消された王権・物部氏の謎』を書いた。
著者は歴史作家という肩書になっているが、1991年に『聖徳太子は蘇我入鹿である』を発表して以来、つねに古代日本の語られざる謎の組み上げをめざして知的踏査を試みてきた。最近は『かごめ歌の暗号』で、例の「籠の中の鳥」の正体を追いかけた。その姿勢と鋭い推理力は、そんじょそこいらのアカデミシャンの顔色をなさしむるところがある。お偉いさんたちの学説にも惑わされていない。むろん、お偉いさんの成果もそれなりに咀嚼している。
とはいえ、これから紹介する著者の仮説が全面的に当たっているかどうかは、わからない。いろいろ齟齬もあるし、まだ論証が薄いところも少なくない。なにしろ物部氏の謎は、古代史の謎のなかの謎なのだ。けれども、ぼくが類書を読んできたかぎりでは、いまのところはこの仮説が一番おもしろい。まあ、覗いてみてほしい。
仮説のクライマックスに入る前に、古代日本の最も重大な前史にあたるところを、予備知識として理解しておいたほうがいいだろう。記紀神話に属するものだ。
したがって、これから書くことには史実とはいえないところが多いのだが、あるいはまだ確証されていないことも多いのだが、それならそれらのすべてデタラメかというと、必ずしもそうとは言い切れない。そこを忖度して、まずは読まれたい。大事なのは、アブダクションの効いた想像力をはたらかせることだ。
時代は天皇初代の神武のころの話に一気にさかのぼる。『日本書紀』には、こう書いてある。
出雲に国譲りを強制したアマテラスの一族は、使節や息子たちを「地上」に降臨させることを思いつく。何度かの失敗のあと、ホノニニギノミコトが全権を担った。ホノニニギは猿田彦らに導かれて真床覆衾(まどこおうふすま)にくるまり、日向の高千穂に降りた。
ホノニニギはその後、長屋の笠狭碕(野間岬)に赴き、さらに南九州の各地で子孫を落とすと、そのなかからヒコホホデミ(山幸彦)が衣鉢を継承し、その子にウガヤフキアエズが生まれた。さらにその子にイワレヒコが育った。これが『書紀』によって初代天皇とされたカムヤマトイワレヒコこと、神武天皇である。
神武は45歳のときに、こんなことを側近たちに洩らした。「わが天祖(あまつおや)が西のほとりに降臨して179万2470余年が過ぎた。しかし遠く遥かな地では、われらの徳も及ばず、村々の長(おさ)も境を分かって互いに争っている。ついては、シオツチノオジ(塩土老翁)に聞いたところ、東のほうに四方を山に囲まれた美しい土地があって、そこに天磐船(あまのいわふね)に乗って飛び降りた者がいるらしい。
思うに、そここそわれらの大業を広めるにふさわしいのではないか。その飛び降りた者はニギハヤヒノミコト(饒速日命)という名だとも聞いた。私はその地に赴いてみようかと思う」。
神武は、この年の10月5日、もろもろの皇子や軍団を率いて東をめざした。神武東征のスタートである。
北九州の遠賀川付近から瀬戸内に入り、ついに難波碕に辿り着いた。そこから淀川をさかのぼって河内の草香邑(くさかのむら)に寄り、ついで竜田(奈良県葛城郡王子)へ向かおうとしたところ、あまりに道が狭く、生駒山に方向転換をした。
このとき、この神武の動向を聞きつけた者がいた。長髄彦(ナガスネヒコ)である。どうやらそのあたり(河内・大和一帯)を押さえている土着の首長らしい。
長髄彦は「天神(あまつかみ)がやってくるというのは、わが領域を奪おうとしているにちがいない」と判断し、兵をあげて神武一行と対峙した。両軍は孔舎衛坂(くさえのさか=東大阪日下町)で激突し、神武の兄のイツセノミコト(五瀬命)が負傷した(その後、イツセは紀の国で亡くなった)。
苦戦を強いられた神武一行は、「私は日神(ひのかみ)の子孫なのに、まっすぐ東に向かったのはまちがいだった」と言い(太陽の運行に逆らったと言い)、タギシミミノミコト(手研耳命)を先頭に、迂回して熊野からヤマトに入ることにした。
熊野にはタカクラジ(高倉下)という者がいて、あるとき夢を見た。アマテラスがタケミカヅチ(武甕雷神・建御雷神)に語って、「葦原中ツ国はまだ乱れている。お前が行って和ませなさい」と言われたというのである。タケミカヅチは自分が行かなくとも、私のもっている立派な剣があれば平定は可能だろうから、これを天孫(神武)に提供しようと判断した。
この剣は「フツノミタマ」というものだった。タカクラジが夢からさめると、はたして「フツノミタマ」が蔵にある。さっそく神武に差し上げた。
かくて神武は進軍を始めるのだが、道が険しくて難渋する。そのとき八咫烏(ヤタノカラス)が飛んできて、神武の一行を導いた。そこにヒノオミノミコト(日臣命)が加わった(ヒノオミは大伴氏の祖。道臣命ともいわれる)。
それでも一行はやはり苦戦を強いられたのだが、なんとかヤマトに近づき、莵田(うだ)の高倉山(奈良県大宇陀)にのぼって周囲を見渡すことができた。国見丘にヤソタケル(八十梟師)が軍団を従えて陣取っているのが見えた(『古事記』ではヤソタケルは土蜘蛛とされる)。これではヤマト入りは難しい。どうするか。
するとその晩、神武は夢を見た。天神(あまつかみ)があらわれ、こう告げた。「天香具山の社のなかの土をとって、天平瓦(あまのひらか)を80枚つくり、あわせて厳甕(いつへ)をつくり、天神地祇を敬って祇り、厳呪詛をおこないなさい。そうすれば敵は平伏するだろう」。
神武はさっそく、シイネツヒコ(椎根津彦)に蓑笠をかぶらせて老父の恰好をさせ、弟には老婆の恰好をさせ、天香具山の土をとりにいかせた。案の定、敵兵が道を埋めていたが、二人の姿を見ると「みっともないやつらだ」と笑い、口々に罵声を浴びせた。その隙をついて二人は山に入り、土をとって帰ってきた。神武は丹生の川上(吉野あたり)で八十平瓦(やそひらか)と厳甕をつくって、天神地祇に祈って敵の調伏をした。
事態は突破できそうだった。神武たちはいよいよ長髄彦を攻めた。すると長髄彦が使いをよこして、こんなことを言ってきた。
「すでにこの地には天神(あまつかみ)のクシタマニギハヤヒノミコト(櫛玉饒速日命)が降りてこられ、わが妹のミカシギヤヒメ(三炊屋媛)を娶り、ウマシマジノミコト(宇摩志麻治命=可美真手命)をお生みになり、この地をヤマトと名付けられました。そこで私はニギハヤヒを主君として仕えているのです。いったい天神はお二人いるのでしょうか。ひょっとしたらあなたは天神の名を騙り、この地を乗っ取ろうとしているのではないですか」。
神武が答える。「天神の子はたくさんいるのです。もし、あなたが主君と仰ぐニギハヤヒが天神の子であるというなら、必ずその証拠の品があるはずでしょう。それを示してほしい」。
さっそく長髄彦は天羽羽矢(あまのははや)と歩靫(かちゆき)を差し出した。神武は納得する。ところが、長髄彦は戦さをやめる気はなかった。これを察知したニギハヤヒは事態がねじれていくのをおそれて、長髄彦を殺してしまった。
神武はニギハヤヒのこの処置を見て、ニギハヤヒが自分に忠誠を誓っていると判断し、和睦し、寵愛することにした。かくしてニギハヤヒは物部氏の祖となった。神武は、初代天皇ハツクニシラススメラミコトとして即位した。
これが、『日本書紀』が伝えている物部氏の物語の発端のあらましである。それは、神武のヤマト入りと即位の物語を決定づけるストーリーとプロットをもっていた(ちなみに『古事記』にもニギハヤヒの一族が神武に恭順を示した話は載っているが、長髄彦の誅殺にはまったくふれていない)。
この、すこぶる曰く付きの物語で見逃せないのは、ヤマトにはすでに神武以前にニギハヤヒが降りていた(入っていた)だろうということ、そして、その地を「そら見つ日本(ヤマト)」と名付けていたということ、かつ、ニギハヤヒは神武同様のなんらかの神宝を持っていたということだ。
この記述にしたがうと、『日本書紀』はなんと物部氏と天皇家を同等にみなしていたということになる。つまりニギハヤヒは天津神の一族の祖か、さもなくばアナザー天孫族の一族のリーダーなのだ。それだけではなく、ニギハヤヒのほうが神武のヤマト入りより先なのだ。
これは天皇家に先行する「もうひとつの天皇家」を想定させるものとして、驚くべきことではあるが、ただし、これだけでは合点がいかないことも多々ある。
ヤマトを守るために戦おうとしていた長髄彦の勢力からすると、神武一行を蹴散らすのは容易だったはずなのに、それをしなかったのはなぜなのか。のみならず、ニギハヤヒは長髄彦を殺してまで、神武に対する恭順を示したのはなぜなのか。長髄彦がニギハヤヒを守って神武に対決した理由も、これだけでは意味がよくわからない。
いや、そもそも二人の天神(天津神)がいることの理由がわかりにくくなっている。天皇家の祖先にあたるホノニニギ以下の天孫族が九州を基盤に東に上ってきたのに対して、なぜにまたニギハヤヒは単独で直接にヤマトに入っていたのか、その事情も見えない。『日本書紀』はニギハヤヒがヤマト(大和=日本)の命名者だと書いているのだから、ヤマト朝廷のルーツもニギハヤヒにありそうなのであるが、その関係が見えにくい。
このような謎を解くには、さまざまな物部伝承を調べなければならない。本書もさまざまな伝承から仮説の鍵を持ち出している。
たとえばそのひとつ、島根県の大田(おおだ)に物部神社がある。ウマシマジを祀っている。
ここの社伝では、ウマシマジは神武東征にあたって神武を助け、その功績が認められてフツノミタマの剣を賜ったとある。ウマシマジはその後、天香山命(ウマシマジの腹違いの兄)とともに兵を率いて尾張・美濃・越を平定し、さらに西に進んで播磨・丹波をへて石見に入り、そこの鶴降山(つるぶせん)で国見をして、八百山が天香具山に似ていたので、そこに居を構えたというふうにある。
神武に恭順したのはニギハヤヒの子のウマシマジのほうで、そのウマシマジこそが各地の平定を引き受けたというのだ。この社伝通りだとすると、物部氏はずいぶん動きまわっていたことになる。しかし、この話でいささか解せないのは、それほどに統一ヤマトの成就に功績のあるウマシマジが、いったいなぜ大和から遠い石見あたりに逼塞するかのように収まってしまったのかということだ。
また、ひとつ。さっきも示しておいたように、物部系の事跡については『先代旧事本紀』という一書がある。平安期の延喜年間に書かれた。誰が書いたかはわかっていない。それはともかくとして、ここにはウマシマジは神武がヤマトに入ったのちに、天物部(あまのもののべ)を率いて各地を平定したことになっている。これは何なのか。
古代日本でアマという言葉をもつのは、「天なるもの」か「海なるもの」を示している。天ならば天孫系(天皇家ないしは渡来系)で、海ならば海洋部族の系譜だ。しかし、記述にはそのどちらとも言明されてはいない。こういうことはよくある。日本の事跡記述はデュアルなのである。
いずれにしても、天物部による各地の平定があらかた終わったあと、神武は即位し、ヤマト建国がなされた。『先代旧事本紀』はそのあとの出来事についても、気がかりなことを書いていた。
ウマシマジは天瑞宝(あまみつのたから)を奉献して、天皇のための鎮祭(しずめまつり)をとりおこなったというのだ。この天瑞宝が、物部氏の神宝として有名な「十種神宝」(とくさのかんだから)となったともある。このとき、ヤマト朝廷の「践祚」などに関する儀礼や行事が整ったというふうにも書いてある。
物部が天皇家に「十種神宝」を贈って、それが即位儀礼の中核になったとは、にわかに肯定しがたいけれど、では、ほかに初代天皇の即位に関する記述がどこかにあるかといえば、まったくお手上げなのだ。
天物部やウマシマジの地方での活躍は、『日本書紀』にも『古事記』にも載っていないことだった。しかし、こうした記述をそのまま認めるとすると、これは物部氏の儀式を天皇家が踏襲したというふうになろう。
これは聞きずてならない。いや、胸躍ることである。なぜなら、『日本書記』神武紀は、ニギハヤヒの貢献をあえて重視したわけだ。物部氏の祖が初代天皇即位にあずかっていることは、認めたのである。聞きずてならないにもかかわらず、無視はできなかったのだ。
いいかえれば、古代日本の中央に君臨する記紀テキストと、傍系にすぎない物部氏の記述とは、互いに不備でありながら、互いに補完しあっていると言わざるをえないのだ。ただし、そこには奇妙な「ねじれ」がおこっている。その「ねじれ」の理由こそ、おそらくは「天皇家の謎」にも「物部氏の正体」にもかかわっている。そう見ていくと、いろいろの事跡や記録が気になってくる。
こういうこともある。天皇即位後の最初の新嘗祭では、造酒童女(さかつこ)が神事をしたあと、物部氏が参加する。こういう例は数ある他の豪族には見られない。物部氏だけが関与しているトップシークレットなのだ。
また、ひとつ。こういうこともある。『先代旧事本紀』には、ニギハヤヒがヤマトに入ったときに、そこに猿女君(サルメノキミ)が同行していて、その猿女がその後の天皇の即位や鎮魂にあたって祝詞をあげたというふうにも書いているのだ。
猿女とは天の岩屋の前で踊ったアメノウズメの一族をいう。アマテラスによっては高天原パンテオンの収拾がつかなくなったとき(スサノオとの対立で)、これを救ったのが猿女たちだった。実はホノニニギの天孫降臨のときも猿女がかかわっている。その猿女がニギハヤヒの降臨にかかわっていた。
まあ、こういった話がいくらでも出てくるのだ。しかしながら、このような断片をたんに寄せ集めても、なぜ物部氏の儀式を天皇家が踏襲するのか、その真意はあいかわらずはかりがたい。「ねじれ」も浮上してこない。
まだまだ物部に関する記述は各方面にいろいろあるけれど、とりあえずはこのくらいにして、ごく基本的な材料は提供したということにしておく。
それでもすでに予想がつくように、これらの材料からはどうみても、物部氏が天皇家の君臨以前の王朝づくりにかかわっているのは確実なのである。ただ、「ねじれ」の原因が見えてこないのだ。
ぼくが本書をとりあげたのは、この「ねじれ」を暗示する出来事に関裕二が着目していたからだった。その着目点は一首の「歌」と「弓」にかかわっていた。
元明天皇が和銅元年(708)に詠んだ歌がある。『万葉集』に載っている。こういう歌だ。「ますらをの鞆(とも)の音(ね)すなり もののふの大臣(おほまへつきみ)楯立つらしも」。
元明天皇が誰かが弓の弦を鳴らしているのに脅えているらしい。岩波の『万葉集』の注解では、これから東北の争乱などを制圧するために、武人たちが軍事訓練をしているのを元明天皇は気になさっている。そういう解釈になっている。
しかし、東北の争乱を平定するための武人たちの訓練を天皇が脅えるというのは、おかしい。むしろ頼もしく思ってもいいくらいであろう。だからこの解釈は当たっていない。そこで、上山春平は「もののふ」は武人たちのことではなく、特定の物部氏のことだと見た。それなら「もののふの大臣」とは、石上朝臣麻呂のことなのである。当時の大臣だった。
石上は物部の主流の家系にあたる。石上神宮は物部氏を祀っている。数々の不思議な儀式もあって、しばしば「物部の呪術」ともいわれている。
たとえば「一二三四五六七八九十」(ひふみよいむなやこと)と唱えて、そのあとに「布瑠部由良由良止布瑠部」(ふるべゆらゆらとふるべ)と呪詞を加える。これは宮中で旧暦11月におこなわれてきた鎮魂祭(たましずめのまつり)とまったく同じ呪詞で、天皇家のオリジナルとは思えない。物部の呪詞がまじっていった。
そういう物部一族の頂点にいる石上朝臣麻呂が、兵士が弓の弦を鳴らすのとあわせて、楯を立てているというのだ。デモンストレーションである。おそらく天皇はそのデモンストレーションの真意に脅えているにちがいない。関はそのように推理した。
なぜそんな推理がありうるのか。実は、元明天皇は藤原不比等によって擁立された天皇だった。その元明天皇のあと、平城京の遷都がおこる。これによって不比等の一族の繁栄が確立する(857夜)。一方逆に、石上麻呂は、この歌の2年後に平城京が遷都されたときは、藤原京に置き去りにされた。そういう宿命をもつ。つまり中央から切られたのだ。不比等の仕業であったろう。
こういう事情を勘案していくと、元明天皇が恐れたのは、石上麻呂に代表される物部一族やその残党がおこしそうな「何か」を恐れていたということになる。その「何か」がデモンストレーションとしての「ますらをの鞆の音」に象徴されていたのであろう。それがつまり、弓の弦を鳴らす音だった。
古代日本では、弓の弦を鳴らすことはきわめて重要な呪術であった。その呪術を石川麻呂が宮中で見せたのだ。天皇はギョッとした。いや、もっとギョッとしたのは藤原不比等だったろう。
なぜなら、この呪術はもともとは三輪山の神を呼び出す呪術だったからである。タマフリの一種と見ればいい。しかし天皇と藤原氏には、こんなところで三輪の神が威力を見せてもらっては困るのだ。
三輪の神とは何かというと、言わずと知れた化け物じみたオオモノヌシ(大物主神)である。そのオオモノヌシを石川麻呂が宮中で持ち出した。オオモノヌシの呪術は、すでに藤原体制が整いつつあった現行天皇家にとっては、持ち出されては困る「何か」であった。
かくて話はいよいよクライマックスにさしかかる。ニギハヤヒは三輪の神の謎にかかわっていたのだ。
オオモノヌシについては、日をあらためて大いに議論しなければならないほど重大な神格をもっている。
いまはそこを省いて物部伝承の核心に向かっていくことにするが、それでも次のことを知っておく必要がある。オオモノヌシは古代日本形成期の時と所をこえて(時空をこえて)、二重三重に重要場面の中心人物になっているということだ。少なくとも二通りの重大なオオモノヌシがいる。出雲神であって、三輪神であるというデュアル・キャラクターとしてのオオモノヌシだ。A面とB面としておく。
A面のほうのオオモノヌシは出雲パンテオンで大活躍する。スサノオの6世孫にあたる。ただし名前がいくつもある。『古事記』ではオオクニヌシ(大国主命)、あるいはアシハラシコヲ(蘆原醜男)、ヤチホコ(八千矛)などとして、『日本書紀』では主としてオオナムチ(大己貴神・大穴牟遅神)として出てくる。
これらはまったく一緒だとはいわないが、まずは同格神ないしは近似神と見ていいだろう。しかも、これらには別名としてオオモノヌシの名も当てられている。いまはとりあえず「大国主」の名に統一しておいて話をすすめるが、それでも出雲神話における大国主は5つものストーリー&プロットに出てくる主人公のため、複雑をきわめる。
(1)因幡の素兎伝説、(2)根の国の物語、(3)八千矛の物語、(4)国作り神話、(5)国譲り神話、だ。出雲パンテオンは大国主だらけなのだ。
このうち、今夜の話にかかわってくるのは(4)と(5)である。(4)の「国作り」においては、大国主はスクナヒコナ(少名彦神)と協力して「蘆原中ツ国」を作ったということになる。「蘆原中ツ国」はヤマト朝廷ないしは原日本国のモデルだと思えばいい。もうちょっとわかりやすくいえば、いわば「出雲王朝」とでもいうべき国を確立させた。高天原の天孫一族(つまりは天皇の一族)に先行して、出雲近辺のどこかに国のモデルを作ったということだ。
ただし、この先行モデルがはたして本当に出雲地方の国のことだったのかどうかははっきりしない。別の地方の話かもしれないし、別のモデルが混じっているかもしれない。
(5)の「国譲り」においては、大国主はその国を、アマテラスあるいは神武、あるいはその後に続く天皇一族のヤマト朝廷作りのために、ついに譲ってしまったというふうになる。
話はこうだ。アマテラスは出雲をほしがった。そのためアメノオシホミミ(天忍穂耳命)を遣わしたが、戻ってきた。次に使者にたったアメノホヒノは大国主の威力に感化されて帰ってこない。そこでアメノワカヒコ(天稚彦)を使者とするのだが、殺されてしまった。その弔問のため、今度はアジシキタカヒコネが訪れたのだが、埒はあかない。
ついにタケミカヅチ(前出=のちの春日・鹿島の神)とフツヌシ(経津主命)が出向くことになった。タケミカヅチは大国主に出会うと、十拳剣(とつかのつるぎ)を抜いて、これを逆さまに波がしらに突き立てて脅し、「お前の領有する蘆原中ツ国は、アマテラスの支配すべき土地だ。どう思うか」と問いつめた。大国主は、その返事はわが子のコトシロヌシ(事代主神)が答えると言う。コトシロヌシは中ツ国をアマテラスに献上してもいいと言う。
やむなく大国主は、ついでタケミナカタ(建御名方神=のちの諏訪の神)を交渉にあたらせた。が、タケミナカタはタケミカヅチに押し切られた。こうして出雲は「国譲り」されることになった。
かくてアメノオシシホホミにあらためて降臨の命令がくだるのだが、オシホホミは自分のかわりに息子のホノニニギを行かせることにした。これが真床追衾による天孫降臨になる。
こういう展開になっているのだが、ここでイミシンなのは、国譲りをしたA面の大国主が、国を提供するかわりに出雲神をちゃんと祀りなさいと約束させていることである(これが出雲大社のおこりだとされている)。このことは、実は大国主が実はオオモノヌシであって、三輪の神でもあるということにつながっていく。
そこでB面のオオモノヌシのことになる。これは三輪にまつわっている。ずばり三輪の大神としてのオオモノヌシだ。
この三輪の神話もいくつかにまたがる。蛇体にもなるし、オオナムチの和魂(にぎみたま)にもなる。神武記では、オオモノヌシは丹塗りの矢と化して、セヤダラタラヒメ(勢夜蛇多良比売)に通じたし、『古事記』崇神記では、イクタマヨリヒメのもとに通う素性の知れない男としてあらわれ、実はその正体が三輪山のオオモノヌシだったという話になる。いろいろなのだ。
なかで注目すべきなのは『日本書紀』の崇神紀にのべられている話で、ここに古代日本の天皇崇拝から伊勢信仰にいたる、まことに重要な秘密の数々が暗示されている。そこから物部の秘密も派生する。大略、こういう話だ。
ミマキイリヒコこと崇神天皇は、神武から数えれば第10代にあたる。都を大和の磯城(しき)の瑞籬宮(みずがきのみや)に移した。ところが疫病が多く、治世の困難が続く。
いろいろ考えてみると、アマテラスとヤマトノオオクニタマの二神を一緒くたにして、しかも天皇の御殿内部に祀っていたのが問題なのだろうという気になってきた。
そこでトヨスキイリヒメ(豊鋤入姫)に託して、アマテラスを大和の笠縫に祀った。またヌナキイリヒメ(淳名城入姫)にオオクニタマを託した。けれどもヌナキイリヒメは病気になった。どうもいけない。このとき、崇神の大叔母のヤマトトビモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)が激しく神懸かった。トランス状態になった。
驚いた崇神はさっそく神占いをした。ヤマトトビモモソヒメの口を借りた神託は、「三輪の大神オオモノヌシを敬って祀りなさい」という意外なものだった。崇神はまだ納得がいかない。するとオオモノヌシは「わが子の太田田根子を祭主として祀れ」と言ってきた。
いったい大物主とか太田田根子とは何者なのか。けれども崇神は従った。太田田根子を捜しだしもした。こうして事態がしだいにおさまってきた。
やがてモモソヒメはオオモノヌシのもとに嫁いだ。けれどもオオモノヌシは昼のあいだは姿を見せず、夜に忍んでくるだけである。モモソヒメは堪えられずに、姿が見たいとせがむと、オオモノヌシは「翌朝の櫛匣を見よ」と言う。モモソヒメはそこに、おぞましい蛇の姿があるのを見た。オオモノヌシは蛇体だったのである。やがてモモソヒメは陰部を突かれ、死ぬ。巨大な箸墓(はしはか)に祀られた。いま、纏向(まきむく)遺跡のなかにある。
オオモノヌシによって大和が安泰になったので、崇神は次には、各地に四道将軍を派遣した。各地を平定しようというのだ。
北陸を大彦命に、武淳川別(たけぬなかわわけ)を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命(たにわのちぬし)を丹波に託した。なかでも吉備津彦は山陰山陽をよく支配した。のちの吉備の国である。かくて万事が治まってきた。こうして崇神はハツクニシラススメラミコト(御肇国天皇)となった。
ざっとこういう話なのだが、ここで周知の大事なことをあきらかにしておかなくてはいけないのは、記紀神話においてはハツクニシラススメラミコトは二人になっていて、それが神武と崇神であるということだ。
もっともこれにはすでに決着がついていて、実際の初代天皇ハツクニシラススメラミコトは崇神だったということになっている。ということは、神武の話や東征の話はあとから付会したものだということになる。神武天皇とはフィクションなのである。架空の人物なのだ。
つまり、これまでのべてきた神武がヤマト入りするにあたって、ニギハヤヒの力を譲ってもらったり、長髄彦を殺害したという話は、あとから辻褄をあわせた出来事だったのだ。さっきいろいろ書いておいた神武の話は、そのままか、ないしはそのうちのかなりの部分を、崇神やそれ以降の天皇家の出来事にあてはめなくてはいけない。
ということを断っておいて、さて、ここまでの話で、何が見えてくるかというと、こういうことになる。
まずは物部=石上の一族は「弓の弦を鳴らす呪術」を通じて、三輪に結びついていたということだ。物部氏は三輪と深い縁をもっていた。
これは、物部が三輪を支配していたことを物語る。いいかえればニギハヤヒは三輪の地の支配者だったということになる。先行ヤマトの支配者だ。そのニギハヤヒは三輪の大神オオモノヌシを奉じていた。
ところが、三輪の神のオオモノヌシは、もともと出雲(あるいはその近辺)と結びついていた。大国主とはオオモノヌシのデュアル・キャラクターだった。そして、その大国主が「蘆原中ツ国」という国のモデルをつくっていた。このモデルをアマテラスに象徴される天孫一族がほしがった。
すったもんだのすえ、大国主は国譲りを承認した。そのかわり、出雲と三輪にまたがる威力を称えつづけること、祀りつづけることを約束させた。天孫一族はこれを受容した。つまりヤマトは、こうして出雲を通してオオモノヌシを最重要視することになったのだ。
これらの事情が、のちに神武のヤマト入りにニギハヤヒがかかわった話に組みこまれた。おそらく、このような複雑な事情をもつ文脈を整えざるをえなくなったのが、崇神天皇なのである。だから、崇神まではヤマト朝廷はあきらかにオオモノヌシを大神と仰いだのだ。
いま、大神といえばアマテラスにしか使えない称号になっている。しかし、少なくとも崇神の時代前後は大神はオオモノヌシのことだった。しかしその後、アマテラスを大神(おおみかみ)と称することになると、オオモノヌシは「おおみわ」と称ばれる大神に格下げされた。これがいま、三輪山の麓にある大神(おおみわ)神社である。今夜はそのあたりの説明は省くけれど、これは天皇(大王=おおきみ)の称号が「イリ彦」から「別(わけ)」に変わっていくあたりの変質で、もっと言うなら継体王朝以降に改変されたことだったろう。
さらにはっきりいえば、藤原氏が王権を牛耳ることになって、失われた歴史書『帝起』と『旧辞』(蘇我氏が焼亡させたということになっているが、これも真相ははっきりしない)を、新たに正史『日本書記』にまとめる段になって、アマテラスを一挙にオオモノヌシの優位においたのであったろう。そして、このとき、いっさいの「ねじれ」が生じることになったのだ。
だいたいは、こういうことだったのではないかと思われる。さあ、ここからは、さまざまな話を重ねて考えることができてこよう。
そもそもは、やっと崇神の時代にヤマト朝廷の基礎が築かれたのだろうということだ。それも、三輪を治めていた“オオモノ氏”の協力によるものだったろう。
その“オオモノ氏”の一族は、それでは最初から大和にいたのかというと、どうもそうではなく、出雲か山陰か山陽から来て大和の三輪山周辺に落ち着いたのであろう。そのことを暗示するひとつの例が、崇神による四道将軍・吉備津彦の派遣になっていく。吉備津彦がわざわざ山陰山陽の平定に派遣されたということは、そこにはすでに先行の国のモデルがあったということになる。
本書も、ここからは「三輪のオオモノヌシ」が実のところは「出雲のオオモノヌシ」(大国主)からの転身であること、しかし実際の国作りのモデルは大和ではなく、それに先行して出雲や吉備にもあったのではないかというふうになっていく。
さて、そうだとすると、出雲の国作りや国譲りの物語も考えなおすべきところがあるということになる。
そうなのである。本書は物部氏の本貫を吉備ないしは出雲にもっていく仮説だったのだ。なるほどそうであるのなら、太田の物部神社の伝承や、ウマシマジが丹波をへて石見に入ったという話もいささか合点がいく話になってくる。ニギハヤヒの一族は石見に逼塞したのではなくて、もとからその地方の勢力に深く関係していたわけだ。
そして、神武以前にニギハヤヒが長髄彦を伴ってヤマトを治めていたという、あのストーリー&プロットは、実は出雲を含む山陰山陽の出来事の投影だったということなのだ。
なお、大国主をめぐっては881夜で紹介したように、オオクニヌシ系とアメノヒボコ集団の対立と抗争という見方もあるのだが、ここではその視点は外してある。
それでは、いったい以上のような「物部氏の先行モデル」はいつごろヤマトに入ってきたのであろうか。いいかえれば「物部の東遷」とは、どういうものだったのか。天物部のような物部集団が移動したのだろうか。
それともモデルだけが動いたのか。そのモデル自体(システム?)のことをニギハヤヒとかフツノミタマというのだろうか。それこそは「神武の東遷」という物語そのもののモデルだったのか。今度は、こういう問題が浮上してこよう。
すでにのべておいたように、物部氏の祖のニギハヤヒは天磐船に乗ってヤマトに降臨したという。そして「そら見つ日本(ヤマト)の国」と、そこを呼んだ。
このいきさつが何を物語っているかといえば、ニギハヤヒは神武のように西からやってきたか(天のアマ)、そうでなければ朝鮮半島や南方からやってきた(海のアマ)という想定になる。いったい物部はどこからヤマトに入ってきたというのだろうか。
そのひとつの候補が、出雲や吉備に先行していた物語だったのではないかというのが、本書の推論だ。これは十分に想定できることだ。
もっとも、このことについては、すでに原田常治の『古代日本正史』という本がセンセーショナルに予告していた。「ニギハヤヒは出雲から大和にやってきたオオモノヌシだ」という仮説だった。
しかしここで、もっと深くアブダクションしていくと、その出雲や吉備よりもさらに先行する出来事があるとも予想されてくる。神武がそうであったように、すべての物語は実は九州あるいは北九州から始まっていた(そうでなければ朝鮮半島であるが、この視点はここでは省略する)。
そうなのである。ここにはもっと大きな謎がからんでくるのかもしれない。古代史の最大の論争の標的になっている「邪馬台国はどこにあったのか」という論争が浮上してくるのだ。その邪馬台国のモデルが、いつ、どのように、誰によってヤマトに持ち込まれたのかという話が、根底でからんでくることになる。
これについては、もはや今夜に予定した話題をこえるので差し控えるが、すでに谷川健一の『白鳥伝説』や太田亮の『高良山史』などにも、いくつかのヒントが出ていた。
その仮説の大略は、邪馬台国を北九州の久留米付近の御井郡や山門郡あたりに想定し、そこにある高良山と物部氏のルーツを筑後流域に重ねようというものである。
手短かにいえば、1011夜の『日本史の誕生』でも書いたように、中国の後漢が朝鮮半島をいよいよ制御できなくなったとき、日本に「倭国の大乱」がおこった。このとき卑弥呼が擁立されて邪馬台国ができたのであろうが、この擁立期ないしは、そのあとの邪馬台国と狗奴国との争闘後のトヨ(台与)の擁立のころに、物部氏とともに邪馬台国のモデルが東遷していったのではないかというのである。その時期こそ崇神天皇の時代にあたるのではないかというのだ。
これはヤマトトビモモソヒメの箸墓が、最近になって、とみに卑弥呼の墓ではないかという仮説ともつながって、はなはだ興味深い(ぼくはこの説に70パーセントは賛成だ)。しかし、どこまでが確実な推理なのかは、決めがたい。まあ、こんな仮説もあって、邪馬台国問題が大きく浮上してくるわけだった。
長くなってきましたね。このあたりで閉じましょう。
だいぶんはしょって話を進めてきたが、本書は物部と吉備の関係については、さらに詳しい推理を展開している。それは本書を読んでのたのしみにされたい。
ぼくとしては、これで、長年気になっていながらなかなか埒があかなかった「物部氏の謎」についての、とりあえずの封印を切ったということにする。
が、実のところは、これではまさに封印の結びをちょっと切っただけのことで、ここからはもっと驚くべき謎や仮説が結びの下の匣の中から飛び出てくるはずなのだ。物部の謎はパンドラの匣なのである。
そこには、まずはオオモノヌシをめぐる大問題がある。オオモノヌシの「祟り」は、古代日本の最初にして最大の祟りだが、それは崇神紀だけではなくて、たとえば出雲振根(いずものふるね)の悲劇などにもあらわれている。
ヤマト朝廷の確立は、ヤマト作りに貢献した者たちに必ずしも報いてはこなかった。そこには「ねじれ」があった。応神天皇に従っていた武内宿彌(たけのうちのすくね)がヤマト朝廷確立ののちに裏切られたという謎もある。これも「ねじれ」のひとつであった。
ねじれたというなら、出雲の物語の大半がヤマト朝廷をどのように優位におくかという編纂によって、すべてがねじれてしまったといっていいだろう。そこには「出雲オオモノヌシのヤマト的三輪神化」というテキスト変換による巧妙な説明はあるにせよ、そしてそこには「ニギハヤヒとは結局はオオモノヌシではないか」という、本書にすら示されなかった大仮説も潜むことになるのだが、それ以外にもいくらでも仮説は出てくるはずなのである。
いや、そうということだけではないほどに、「ねじれ」は古代日本の出発にかかわる巨大な謎になっている。そしてそこに、そもそもは物部氏の一族が藤原氏によって徹して裏切られたという、今日につづく天皇家の謎があったのである。
おそらく正史『日本書紀』が大問題なのだ。もとより『日本書記』は不備だらけなのであるが、この不備は、もともとは意図的だったかもしれないのだ。その意図を誰が完遂しようとしたかといえば、これはいうまでもなく、藤原氏だった。だとすれば、藤原氏は何によって改竄のコンセプトを注入したのかという、こちらの大問題がこのあと、どどっと控えているということになる。
 
物部氏 5 「物部文献」が語るニギハヤヒの東北降臨

 

ニギハヤヒの出羽降臨
『日本書紀』神武天皇の条は、神武東征に先立ち、天磐船に乗って大和に飛来した者があ り、その名をニギハヤヒ(饒速日)というと伝える。ニギハヤヒは大和の土豪・ナガスネ ヒコ(長髄彦)の妹を娶り、当初はナガスネヒコと共に神武の侵攻に抗した。だが、神武 とニギハヤヒはそれぞれの天羽羽矢を見せあうことで、互いに天神の子であることを認め 、結局、ニギハヤヒはナガスネヒコを殺して神武に降伏した。ニギハヤヒは物部氏の遠祖 となったという。そのニギハヤヒは『古事記』では、磯城攻略後、疲れと飢えで動けなく なった神武への救援者として登場する。記紀を見る限り、ニギハヤヒが飛来した所は畿内 にあると考えるしかない。『先代旧辞本紀』は、ニギハヤヒを天孫ニニギの兄とし、高千 穂への天孫降臨以上の威容をもって河内国哮峰(現在の大阪府交野市私市の哮ケ峰)に天 降ったとする。同地にはニギハヤヒを祀る磐舟神社もある。
ところがこのニギハヤヒ降臨地が畿内ではなく、東北地方にあったと伝える文献がある 。それが本論稿で問題とする『物部文献』なのである。
秋田県仙北郡協和町の唐松神社(天日宮)に古代史に関する文献があるという噂はすで に戦前からあり、同社に伝わる神代文字の祝詞が公表されたこともあった(小保内樺之介 『天津祝詞の太祝詞の解説』)。しかし、その歴史関係の文書はなかなか公開されること がなく、ついに一九八四年、物部長照名誉宮司の英断で、その内容の一部が示されること になったのである(新藤孝一『秋田「物部文書」伝承』)。
それによると、ニギハヤヒは豊葦原中ツ国、千樹五百樹が生い茂る実り豊かな美しき国 を目指して鳥見山の山上、潮の処に降臨したという。この鳥見山とは出羽国の鳥海山であ った。ニギハヤヒはその国を巡ると、逆合川の日殿山に「日の宮」を造営した。これが唐 松神社のそもそもの由来である。ニギハヤヒは御倉棚の地に十種の神宝を奉じ、一時、居 住したが、その跡は現在の協和町船岡字合貝の三倉神社として残されている。
物部氏の興亡
ニギハヤヒは東国を平定した後、大和まで進み、ニギハヤヒと和睦して畿内に留まった 。だが、神武東征が始まるやナガスネヒコを裏切り、神武に帰順するというのは『日本書 紀』とほぼ同様の筋書きである。『物部文献』によると、ニギハヤヒは畿内だけではなく 自ら平定した東国をも神武に献上してしまった。神武はその恭順の意を容れ、ニギハヤヒ の子・真積命(ウマシマヂ)を神祭と武の長に任じた。物部氏はここに始まる。
神功皇后のいわゆる三韓征伐の時、物部瞻咋連はこれを助け、懐妊した皇后のために腹 帯を献じた。その後、神功皇后は朝鮮半島から日本海を渡って蝦夷の地に至り、日の宮に 詣でた上、これと対になる月の宮の社殿を造営した。神威によって韓国を服ろわせたこと を記念しての社殿造営から、以来、その社を韓服宮(唐松宮)という。この神功皇后の蝦 夷巡行は、記紀にはなく、『物部文献』独自の伝承として注目される。
こうして物部氏は祭祀と軍事の両面から大和朝廷を補佐し、その威勢を振るってきた。 だが、崇峻天皇の御代、『日本書紀』にも語られる崇仏排仏戦争に敗れ、物部氏はその勢 力を一気に失った。『物部文献』は物部守屋の戦死後、守屋の一子、那加世が鳥取男速と いう臣下に守られ、蝦夷の地へと落ちのびたことを伝える。『日本書紀』は守屋の近侍で 崇仏排仏戦争の勝敗が決した後も果敢なゲリラ戦を続けた鳥取部万の勇猛を記している。 鳥取男速はこの鳥取部万の一族か、もしくは鳥取部万をモデルに造作された人物だろう。 それはさておき、東北に逃れた那加世は、物部氏発祥の地、仙北郡に隠れ、日の宮の神官 としておさまることになる。現在の唐松神社宮司家はこの那加世の子孫である。
天日宮の不思議
唐松神社の構造は一見して不思議な印象を与える。社殿を支える土台として、玉石で固 めた丘が築かれ、さらにその周囲には堀が廻らされているのである。
その形はいわば前方後円墳のミニチュアであり、造営当初、玉石が輝いていた頃には、 まさに「天日宮」と呼ばれるにふさわしい偉容だったろうと思わせる。もっとも社殿その ものは近代に入ってから、古伝に基づき建てられたものだという。
ニギハヤヒは天より降りる際、十種の神宝を持ってきたという。『先代旧辞本紀』は、 十種の神宝について、死者をも蘇生させる霊力があると伝える。現在、唐松神社にはその 内の五種、奥津鏡・辺津鏡・十握剣・生玉・足玉が残されているという。
進藤孝一はそれを実見した印象として、次のように述べる。
「十握の剣は鎌倉時代になって作られた物のようである。鏡は黒曜石製、玉は玄武岩のよ うな固い、黒い色をした石でできている」(『秋田「物部文書」伝承』)
唐松神社には、さまざまな祈祷禁厭の作法や、呪言を記すための文字なども伝わってい る。この文字はいわゆる神代文字のアヒル文字草書体で、他にも豊国文字らしきものなど 数種あるという。これらの神宝や祈祷禁厭は、この神社の祭祀が古代以来のシャーマニズ ムの伝統を引き継いだものであることを示している。
神霊としてのニギハヤヒ
私たちは『物部文献』のニギハヤヒ東北降臨伝承をどのように考えればよいのだろうか 。それは孤立した伝承であり、記紀などから裏付けることはできない。
降臨地が鳥海山だというのも、「鳥海」をトミと読み、『古事記』でナガスネヒコの別 名とする登美毘古の名や、『先代旧辞本紀』でニギハヤヒが住んだとする大和の鳥見白庭 山の地名と関連付けただけとも思われる。しかし、そのように断じてはこの伝承独自の価 値が見失われてしまう。
物部氏の「物」はもともと、霊を意味していたらしい。そのなごりは大物主命(三輪山 の神)などの神名や、モノノケなどの語彙に見ることができる。「物」に関わる部民の長 たる物部氏が、シャーマニズムを奉じるのは当然のことだった。
鳥海山に降臨したニギハヤヒとは、東北に寓居する物部氏の祖霊召喚に応じた、神霊と してのニギハヤヒだったのではないか。そう考えれば、畿内に降臨したはずのニギハヤヒ が東北の地にも降臨したとしておかしくはない。
物部那加世の蝦夷亡命は、他の史料で裏付けることができず、この地方への物部氏移住 が本当のところ、いつのことだったかは判然としない。しかし、物部氏はそのシャーマニ ズムを媒介として、地元の古い祭祀をも引き継いでいったのだろう。唐松神社の神宝の内 、鏡と玉が石製であることは、その祭祀の起源が弥生時代以降の金属器文化とは異質の文 化に属するものであることを暗示している。
また、東北地方の日本海側では古くから大陸との交流の伝統があった。鳥海山の南麓に あたる山形県遊佐町の三崎山A遺跡からは縄文後期末の土器とともに中国製の青銅刀子が 出土している。川崎利夫の発表によると、その刀は商(殷)王朝中期の作品だという。大 陸からの船が東北地方に向かう時、鳥海山は恰好の目標となっていた。ニギハヤヒ降臨や 神功皇后来訪の伝承には、大陸からの船を迎えた記憶が反映しているとも考えられる。
物部家では、代々の当主が文献を一子相伝で継承し、余人に見せることを禁じてきたと いう。現在でも『物部文献』はその一部が公表されたとはいえ、その大部分は依然、未公 開のままになっている。古代以来の祭祀を伝える貴重な史料として、いつの日にか、その 全貌が明らかになるよう望む次第である。 
 
物部氏 6 隠された物部王国「日本(ひのもと)」

 

中国の西晋(二六五〜三一六年)の時代に書かれた、通常『魏志倭人伝』と呼ばれている、『魏志』「東夷伝」の「倭人の条」に、いわゆる「倭」が初めて登場します。
当時の「日本」の呼称は「倭=わ」ですね。「倭」はのちに「ヤマト」と読むようになりますが、私は「倭」から「日本」へと呼称が変遷するその間には、大変重要な問題が存在していると思うのです。
中国から「倭」と呼ばれていた弥生時代でも、すでに「ヒノモト」という、日本国号の基礎になる呼称があったと考えております。
では、当時「倭国」とは、日本列島のどのあたりを指していたのかが大切なポイントになります。・・・・・
「ヒノモト」と「日本」の国号の関係を調べるには、いくつかに問題点を絞ってみる必要があります。それに関連して言いますと、
(1)「日本」という国号が使用されはしめた時期はいつ頃からか?
(2)わが国で「日本」と号するのは自称か他称か?
(3)「日本」という文字は何に由来するのか?
を問わねばなりません。
(1)に関していえばわが国の存在が対外的に知られるようになるのは、有名な「邪馬台国」が三世紀後半に中国の歴史書に初めて登場して以来のことです。先ほど申しました『魏志倭人伝』に「倭国」と紹介されています。「倭人」というのは「倭国」に住んでいると書かれております。「邪馬台国」はその傘下の九州の小国から盛んに使者を派遣していたようです。
中国では、その後、いろいろな時代の「東夷伝」で東のほうの蛮族である「倭」について書かれております。たとえば、宋の時代の『宋書倭国伝』、隋の時代の『隋書倭国伝』というふうに、いずれも「倭国」という言葉を使っているのです。
統一国家として正式に中国に参るのが、「遣隋使」「遣唐使」でおなじみの「隋」や「唐」の時代です。推古時代に聖徳太子が隋に始めて使節を派遣したのが六〇〇(推古八)年です。『隋書』(隋の歴史書)の記述のみで、このことは『日本書紀』には記載されていません・・・・・
先の(I)(2)に関して説明を加えますと、隋が滅んだあと、七〇二(大宝―)年に派遣された「遣唐押使」の粟田朝臣真人が初めて「日本」という呼称を用いた結果、『唐書』の「東夷伝」では「倭国日本伝」となったといいます。「倭国」の下に「日本」がくっついている。つまり、「倭国」と「日本」が併記された、これまでになかった特徴をもっています。・・・・・
じつは、国内で初めて「日本」が登場するのはずっとあとの『続日本紀』(七九七年編纂)ですが、七世紀後半から八世紀前半にかけてすでに日本の支配者層には使われていたとみて間違いないでしょうね。
「唐書」の「東夷伝」というのは二つあります。古いほうを『旧唐書』、新しいほうを『新唐書』といっております。その『旧唐書』というのは、九世紀の後半から十世紀の前半に作られたといわれていて、『新唐書』はそれから数十年たってできたものです。
この『旧唐書』では先ほど述べたように「倭国日本伝」ですが、次の「新唐書」から先はずっと「日本伝」になるわけです。
ですから、『魏志倭人伝』から始まり、隋までは「倭人伝」、あるいは「倭国伝」ですが、「旧唐書』になって初めて「倭国日本伝」という名前で登場します。その数十年後の『新唐書』では今度は「日本伝」になりまして、「倭人」とか「倭国」という名前が消えていきます。
『日本書紀』には「日本」という文字を書いて「ヤマト」と読ませることがありますが、これは『日本書紀』を撰するときに、「日本」と書き改めたものであって、もとの文字ではない。『古事記』には、「日本」を「ヤマト」と読ませる事例はありません。・・・・・
先ほど述べたように、正式には七〇二年に呼称変更を宣言するわけですが、「大化の改新」(六四五年)の翌年、詔が発せられます。その前後の皇極―天智―天武天皇の間に“日本という国号”が決まったのではないかと推測されます。七世紀の終わりから八世紀の始まりにかけてですね。・・・・・
・・・漢字の「倭」は「曲がった」とか「顔が醜い」、「普通じゃない」、「まっすぐじゃない」といった散々な意味をもっている・・・。別の解釈では「倭」を分解すると、「人偏に禾(のぎ)、つまり稲と女性」、女がかがんで稲を刈り取る姿をさし「曲がる」。これは決していい意味ではない。
そういう経緯でわが国では「倭」という名を非常に嫌っていた。中国や朝鮮南部にも同じ倭名地名があったようです。他国を蔑視する中華思想の表れですね。
そこで、わが国では「倭」を訓読みした「ヤマト」が一般化していたようです。
この後で紹介する『日本書紀』のニギハヤヒの条に出てきます。広く使われるようになるのは、大化の改新以降からだと考えられています。・・・・・
『魏志倭人伝』のあとに『末書倭国伝』というのが出てきます。その中に「倭」の王の「武」、これは雄略天皇と比定されていますが、その「武」が「東は毛人を征すること五十五国」という報告を中国に出しています。
「毛人を征すること五十五国」、ここに出てまいります毛人が『旧唐書』の「毛人の国」と一致します。私は、この「毛人の国」が「蝦夷(えみし)」であろうと考えるわけです。
そこで、日本列島には、九州を中心とした「倭国」、近畿を中心とした「日本」と、それからまた東北を中心とした「毛人の国」と、少なく見積もっても三つの国があったと考えられます。それはおそらく日本列島がまだ十分に統一されていなかった時代の話に違いありません。『魏志倭人伝』は、弥生時代後期(三世紀後半)の頃です。『末書倭国伝』の時代は雄略帝、五世紀後半の古墳時代の頃です。
ニギハヤヒが天降ったときに乗っていた天磐船の乗務員が、『旧事本紀』に記されています。・・・・・
天磐船(あまのいわふね)は空から降ってきたとなっているのに、そこに船長や梶取の名がみえるのは、奇異に思われるかもしれません。しかし、天磐船という言葉からして明らかなように、天磐船というのは誇張であって「天磐樟船(あめのいわくすぶね)」を省略したものです。「磐」はかたいという意味で、波浪に耐える堅牢な樟船が、磐樟船にほかなりません。ニギハヤヒー行は水路を使い大阪湾から大和川を上って草香江へ向かったのです。
銅鐸は物部氏を代表する祭祀道具で畿内の弥生社会を象徴するものであり、物部氏は銅鐸祭祀をとおしてゆるやかな連合体を結成していたのではないかと推測されます。
ところが、そこへ外来勢力の侵入、すなわち「邪馬台国=倭国」の軍隊が攻め込んできた。物部氏と同盟を結んだ蝦夷の兵士は勇敢で敵を散々なやましたが、物部氏の主力は屈服した。これは「ヒノモト」王国の終焉を意味するものでした。『新唐書』に「倭国」が「日本」を併合したとあるのは、このときの戦闘による「日本=ヒノモト」の敗北を述べていると思われます。
整理すると、神武東征説話の第一の特徴は、ことごとく物部氏に関係していることです。そして第二の特徴は、金属の精錬にかかわる記事がすこぶる多いことです。・・・・・
「ヒノモト」の国の村々では、祭器である銅鐸を破砕するか人知れぬ丘かげに埋納するかして敵の目から隠した。銅鐸は物部王国のシンボルであって、王国が崩壊した以上、それらを祭祀のために使用することは許されるはずもなかったのでしょう。
神武東征は弥生文化の終焉を告げるとともに、これ以降、古墳文化の時代が始まるのです。
・・・『日本書紀』で「草香」という字を書いたのを、『古事記』ではその字を使わないで「日下」と書いて「くさか」と読ませたことに、これまで何人もの学者が思いをめぐらせてまいりました。
・・・たとえば「飛ぶ鳥」と書きまして、「飛鳥」を「あすか」と読ませることはご存知だと思います。それからまた「春の日」と書いて「かすが」と読ませる。これは、「飛ぶ鳥の」というのは「あすか」の枕詞であったことから、「飛ぶ鳥」と書いて「あすか」と読ませるようになった。これらと同様に、「くさか」の枕詞が「日の下」であったと推測できるのではないかと思われます。
読み方は、「日の下の草香」は「ひのもとのくさか」が正しい読み方です。・・・・・
・・・「日の下(ヒノモト)」という言葉は非常に古くからあり、「日の下の草香」という地名が存在した。そして「草香」を「日下」と書いて「くさか」と読ませるようになった。
「日の下(ヒノモ上)という言葉は、物部氏の主力が畿内へ移動した二世紀頃からそろそろ始まったのではないかと思うわけです。
直越の道(ただごえのみち)
・・・「難波の海」の難波には枕詞が二つございまして、一つは「葦が散る難波」というものです。もう一つは「押し照る難波」というのです。「押し照る」という言葉はどう考えましても、太陽が照るということ以外に考えられません。そういたしますと、難波も何か太陽を意味する言葉でなくてはならない。それでは、この「押し照る」という枕詞をつけた難波の「なにわ」というのは何に由来する言葉であろうかということになるのです。
「なにわ」の由来を考える上では、まず古代の渡来人の存在を考えなくてはなりません。二世紀から四世紀にわたる中国王朝の分裂とその余波によって、朝鮮半島の政治の混乱を避けて半島からたくさんの渡来人がやってまいります。
日本の地名の中にも、彼らの古代朝解語でつけられた地名がままあります。「難波」の「難」は古代朝鮮語の「奈勿=nar」という言葉で、「太陽」をあらわします。一日、二日という「日」もあらわすといわれています。・・・
この「nar」というのが朝鮮語で「太陽」をあらわすというなら、上に「押し照る」という言葉がついていてもいっこうにおかしくありません。「ニワ」という言葉は朝鮮語で「口、門、窓、出口」の意ですから、ナルニハは「日の出」「日の門」、あるいは「日の庭」のことであり、「日の出る聖なる場所」だと解釈する韓国学者もおります。それがつづまって「なにわ」となったと考えられます。つまり、「ナニワ」の地名を太陽の降り注ぐ生成の土地だと解釈できると思われます。
大阪市に西成区、東成区という地区があります。これらの地名は非常に古い地名でして、すでに奈良時代にその地名がつけられ、郡を設けた。そうしますと、この「成」もまた太陽に関係するのではないか。そこで、「押し照る」が「難波」の枕詞であるという理由も正しく理解されると思われます。
不思議なことに、この「ナル」は沖縄の言葉にも入っておりまして、伊是名(いぜな)島と伊平屋(いへや)島に「ナルコ」「テルコ」という神様がいます。・・・
古代東アジアでは、西から東へと大きな民族移動が行われました。その中に、朝鮮半島から北九州に渡来して、さらに瀬戸内海、あるいは出雲の山陰道を通って、いまの近畿地方にやってきた渡来人たちもたくさんいただろうと思うのです。その人たちはこの「難波」を太陽の出るところだと考えたに違いありません。・・・
瀬戸内海を通って東へむかった渡来人たちは、「難波」を日本列島の水路の東の果てだと考え、「太陽が出る庭」と呼び、生駒山脈の西のふもとにあるもっとも東に位置するところを「日下」、太陽の出るところであると考えたのではないかと思うのです。
中国や朝鮮からみますと、日本列島は東に位置しておりますが、日下はさらにその東の果てになります。そういうことから「日の下(ヒノモト)の「くさか」、すなわち「日の下」という枕詞をつけた「くさか」という地名が誕生いたしました。それがやがて「日下」と書いて「くさか」と詠ませるようになったのではないでしょうか。「ヒノモト」は河内の日下の付近、また「ヤマト」は大和国原というように局限された土地を指したものが次第にその呼称の範囲を拡大し、ついには「日本国」を指すものになったと思われます。はじめは小地域につけられた地名が、大地域の呼称となっていくのはごくふつうのことといっていいと思われます。
ニギハヤヒという神様ですが、大和地方の「登美(とみ)」におりました豪族、ナガスネヒコの妹を妻としたということも『日本書紀』に書かれています。そういうことから考えますと、ニギハヤヒとナガスネヒコとは何らかの関係を結んでいたように思われます。
ナガスネヒコというのは「スネの長い」異族の形容詞であったと思われます。「なかすね」、「中洲根」とも表現されており、日本列島の真ん中の美しい地味の肥えた大和を支配していた。
そして、ニギハヤヒの神を先祖とする氏族は物部氏です。物部氏がニギハヤヒを奉斎しながら九州から東へ移った。そして大和に住みついたという歴史的な事実が、『日本書紀』の中のニギハヤヒの「天磐船」による降臨という説話に反映しているのではないでしょうか。
・・・四世紀の初頭、「邪馬台国」の東遷によって、それまで河内、大和にわだかまっていた物部氏族の一派が、近江を経て東海地方に東進を余儀なくさせられたのではないかということです。物部氏の一部は、おそらくナガスネヒコに代表される蝦夷と共に東を目指したと考えられるのです。
・・・阿倍氏とはいかなる出自なのでしょうか。
ずばり、「邪馬台国」が東征して河内、大和を掌握する以前、畿内に先住していた蝦夷と、物部氏に代表される倭種とが婚姻を通じて形成された氏族、それが阿倍氏であったと私は推定しております。
阿倍氏が蝦夷と倭種との混血氏族であるとすれば、両者の間に並々ならぬ関係がつづいたとするのは無理からぬ想定であります。
ここにまことに興味深い資料があります。現在、奥州安倍氏とその一統に関する「秋田系図」と「藤崎系図」の二つが残されています。双方とも安倍氏の始祖は「安日(あび)」と称してはばかることがない。このうち、「秋田系図」には奇妙な始祖伝来が記されている。その経緯について喜田貞吉(1871-1939/歴史学者)はつぎのように説明を行っております。
「安藤氏はみずから安倍貞任の後と称し、その遠祖を長髄彦の兄安日なるものに擬している。これは万治年間(一六五八〜六一)、秋田実季編纂の『秋田系図』の有力に主張するところであるが、その説の由来はすこぶる古い。永禄十年の津軽館越北畠家の日記にその説を録している。さらに松前下国氏の系図によれば、その遠祖を安日長髄(あびのながすね)なるものに帰し、いわゆる安日をもって長髄彦の姓と見倣しているのである。けだし『永禄日記』以下のものに安日をもって長髄彦の兄となすゆえんのものは、長髄彦は神武天皇に抗して大和で誄戮せられ、したがってその子孫の奥州にありとすることが実らしからぬがために、その姓名を分かって兄弟の二人となし、もって合理的説明を下すに至ったものであろう。しからばその説の由来はさらにいっそう古きものとなる。後世奥州の一大名たる豪族秋田氏が、他の諸大名のそれぞれ立派な系図を有して、源氏と称し、藤原と号し、古代名家の因縁を語るものとは大いにその趣を異にして、みずから先住民の後裔をもって任ずる点は注目に値する」と喜田はいっております。
ご周知のように、世の系図なるものは近世以降作られたものがほとんどで、また書き改められた例がおびただしい。その場合には、自分の家の先祖の出自を中央の貴姓むすびつけるのが常套であります。日本人に特有な貴種への憧憬がそうさせるのであって、先祖伝来の系図は信用できるかどうかを疑ってかかる必要があります。
しかし、喜田の紹介した「秋田系図」では、秋田家の先祖は奥州安倍氏につながり、長髄彦の兄の「安日」を始祖とすると称している。そのことは永禄十(一五六七)年、すなわち信長入京前年の奥州北畠家の日記にたしかめることができる。さらにさかのぽって、松前下国家の列伝の系図には、「安日長髄」と記されており、「安日」は長髄の姓となっております。
喜田は長髄彦が神武との戦いで死んだということから、その子孫が奥州にあるのはおかしいということになって、安日長髄の「安日」という姓を長髄彦の兄として作り上げたのだろうという。とすれば、奥州安倍氏の血脈をひくと称する安藤氏や秋田氏は、最初には長髄彦の末裔という意識をもっていたにちがいない。長髄彦は伝説中の人物とはいえ、神武の軍に敵対して殺された。いわばその朝敵を先祖と仰いで恥じないというのは、いったいどうしたことだろうか。ややもすれば中央の貴姓に自己の先祖の出自を結びつけたがる風潮のなかで、これは異例に属するといわねばならないでしょう。
・・・「安日」なる人物を創作した根拠はおそらく一つしか考えられない。
それは奥州の安倍氏が権勢を誇っていた時代、神武帝の軍隊と勇敢に戦ったナガスネヒコの武勇にたいして、同じ蝦夷族としての共感と誇りをおぼえた。ナガスネヒコが蝦夷であったという伝承が古くから存在し、それをプライドとして待ち続けてきたからだと思われます。
しかしそればかりでなく、ナガスネヒコの兄を創り出した心理の底には、物部氏とナガスネヒコが連合していたというかつての史実への親近感がひそんでいたのではないか。東国における物部氏と蝦夷の関係は親密なものであったと考えられますから、それが強調されたのではないだろうかと思われます。
問題はそれだけにとどまりません。ナガスネヒコの兄なる人物を創作した際に、それを「安日」と命名したのはなぜか。たやすく考えられることは、「安日」=「安倍」という風につなげていくためであったということです。
しかしここにも奇妙な事実があって、宣教師でアイヌ学者でもあるバチェラーの『アイヌ・英・日辞典』(第四版)を引くと、アイヌ語で「火」をあらわす単語は、「abe(アベ)」または「abi(アビ)」である。とすれば、「安日」も「安倍」もおなじく、アイヌ語の「火」をあらわしているようです。
ナガスネヒコが蝦夷であったとすれば、その兄として創作された「安日」もまた蝦夷とみなすのはとうぜんでしょう。そうすればその「安日」という名がアイヌ語の「火」に由来するのも、まことに合点がいくのであります。
また「秋田系図」によると、「安日」は胆駒岳に住んでいたのでそのあたりを安日野と呼んだ。神武帝が日向の国から中洲(大和)に入ろうとしたとき、「安日」とナガスネヒコは、中洲はわがウマシマジ(物部氏の祖)の国と主張して、胆駒岳のあたりで十数年戦った、とある。つまり、今日でも大阪市にその名の残っている「阿倍野」はそこに「安日」なる人物が住んでいて、一帯を支配していたからつけられた地名であるということになります(阿倍野を「安日野」と記した伝承記録もある)。
安部氏が蝦夷の首長とみなされたのはたしかです。それはまぎれもない事実で安部氏としても否定しようがなかった。夷の源流をたどれば、中央の歴史においては異族の元祖ともいうべきナガスネヒコに辿りつきます。正史の『日本書紀』にもナガスネヒコの妹は、物部氏の祖神のニギハヤヒと婚を通じたと記されています。ここに「安日」なる人物を創作して、ナガスネヒコの兄とすれば、物部氏の祖神と奥州安部氏の始祖は外戚の関係で結ばれることになります。奥州安部氏はそうした細工を施すことで、自分の地歩を有利にしようと計った。この安日なる人物は奥六郡の物部氏との接触なしに生まれ得なかったと思われます。
ところが、その名前の「アビ」までは創作ではなかった。すなわち、四世紀前半にみられた物部氏と異族のナガスネヒコとの連合関係はきわめて古い伝承として、みちのくの蝦夷の中にもながく生き残ったのです。そうしたことが、安日なる人物を誕生させたのです。
だが、神武東征の際にナガスネヒコは殺され、その兄の安日は津軽の安東浦に流されたという伝承の部分は、奥州の安部氏が前九年の役に敗退して、奥六郡から一掃され、その残党が津軽に落ち延びていったあとに作られた話に相違ないでしょう。
『唐書』の最後の一節が、非常に大切なことをいっている・・・・・。東の方に「日本」があって、西の九州の方に「倭国」があった。東の「日本」は小さな国であったが、この「倭国」を併呑してしまった、というのです。これは、『旧唐書』の記述ですが、数十年後の『新唐書』では、逆に「倭」の方が「日本」を併呑した、となっています。
この記述については、二世紀の大乱のときに東遷した物部王国は「日本」を称し、その後、四世紀初頭に東遷した邪馬台国は「倭国」を名乗っていた、そして、その邪馬台国が物部王国を併呑した、と理解していいのではないかと思います。
和辻をはじめとする論者が認める四世紀の「邪馬台国東遷」説は当時の社会変動、もしくは文化変動を説明するのにもっとも合理的な解釈であると思われます。
しかし、私か不満に思うのは、これらの論者は、ただ一点重要なことを見逃しているのです。神武東征の際に河内の生駒山麓で頑強に抵抗した先住民とは一体何者であったのか、ということです。この点を不問にしているため、さまざまな重要な問題が不明のままに歴史の闇に葬りさられてしまっている。
私か主張するように、さきに物部氏の東遷が行われ、ついで「邪馬台国」の東遷があったとするならば、神武東征説話から具体的な歴史の把握がいっそう可能になると考えております。
七世紀半ば頃が、一つの変わり目といえます。たとえば、「日本」という国号が中国に対して初めて用いられたのも、遣随使・遣唐使を送っていた頃だと思います。しかしまだ、東北地方や西南日本は、日本の版図に入っていません。とくに勇猛なのは蝦夷と隼人で、この両者は「異人雑類(いじんぞうるい)」と、『令義解(りょうのぎげ)』(養老令の公定注釈書/833年成立)に書かれています。「雑類」とは、日本の中央に強制的に移住させられた蝦夷や隼人をいいます。彼らはなかなか朝廷のいうことを聞かない。・・・・・水田耕作についてはなかなか実行できない。蝦夷も隼人も縄文時代以来、狩猟をもっぱら生業としていますから、水田耕作はもちろん、蚕を飼ってマユをつむいで糸をとり、それではたを織る、ということは非常に苦手なのです。そのため、律令体制下の租庸調をかけようとしても、律令制度に従わない。 
 
物部氏 7 八咫烏と物部氏

 

『記・紀』神話の「神武東征」説話では、神武軍が「熊野」から「ヤマト」へ出ようと山道を進みあぐねていたとき「高倉下(たかくらじ)」と「八咫烏」が現れたとあります。彼らは葛城地方の土豪であった可能性が高いと思われます。
『山城国風土記』や『新撰姓氏録』『古語拾遺』などによれば、「八咫烏」は賀茂氏の祖加茂建角身(かもたけつのみ)の化身であったといいます。つまり八咫烏は加茂氏の祖先であり、さらに明確に言うならばいくつかの系統がある賀茂氏のうち、山城国葛野(かどの)の鴨氏が八咫烏の子孫であると考えられます。
ではつぎに高倉下について見てみましょう。まず記・紀の叙述を詳しく見てみましょう。神武東征の折りに現在の熊野の辺りで、突然大きな熊が出てきて、すぐさま消え失せてしまいました。その姿を見た神武天皇とその軍隊は、熊の毒気に当たって昏睡状態に陥ってしまいます。その時、熊野の土豪の高倉下が一振り剣を天皇に奉ると天皇は失神から目覚め、剣を受け取り熊野の山に住む荒ぶる神を切り倒しました。そこで天皇は高倉下に剣の由来を尋ねると、「夢に天照大神と高御産巣日神が建御雷神を召し出し、『葦原中津国は騒々しいため、神武天皇の群も芳しくない。汝降りて平定せよ』と命じたが、『私が行かなくとも、私が平定した剣があるので、それを降ろしましょう』といいました。」と高倉下は答えたのです。この剣は甕布都神とも布都御魂ともいい、現在、石上神宮の祭神となっています。
高倉下とは、神を祀る高い庫の主という意味と思われます。『先代旧事本紀』によると、高倉下は物部氏の祖神、饒速日命の子となっています。熊野の神話は石上神社の神剣をもって神武天皇の御魂鎮(みたましずめ)(鎮魂儀礼)をはかったことを表現していると推察します。なぜならば物部氏は古来、鎮魂儀礼を伝承している氏族であり、天皇家の祭祀に深く関ってきたからです。「高倉下」は葛城のオワリ氏の祖でもあります。これを信じるならば、尾張氏と物部氏は同族ということになります。
さらに同じ熊野の地において、同じ様に天皇を高倉下と八咫烏がお助けしていることから高倉下と八咫烏の間にはなにか深いつながりがあったのではないかと考察します。もっと言うならば賀茂氏と物部氏は古代においてなにか深いつながりがあったのではないかということです。
私は以前に次のような仮説を立てました。失われたイスラエルの十支族と秦氏は一緒に弓月国(クルジア)から朝鮮半島にやってきて、いっしょに日本に渡来した。そのいっしょに渡来した部族はスサノオに象徴される物部氏と八咫烏に率いられた秦氏の先発隊である葛城氏であると。(今までの話の中で葛城氏は登場していませんが葛城氏についての説明は紙幅を要するため次章以降にゆずることにします。)次に興味深い事実をいくつか挙げましょう。
物部氏はまず北九州に漂着したと思われます。根拠は旧事記で32神と25部族の物部氏が北九州に渡来したことが記載されており、しかも彼らの個々の名前がしるされていて、現代の筑紫地方に彼らの名前が地名として残っていることです。(さらに付け加えると後に秦氏も北九州を日本侵入の足がかりにしています。)
もっとも原始的な銅鐸が北九州で発見され、その後大和でもっと発展した銅鐸が見つかっています。銅鐸は明らかに大陸文化と縄文文化の融合でもたらされたものです。 私はこの銅鐸の進化を調べることにより、物部氏が日本においてどのように勢力を拡大したのか分かるのではないかと考えます。
そしてもっとも衝撃的なのが熊野神社は昔スサノオを祭ってたという事実です。熊野神社は八咫烏の根拠地であり、熊野神社がスサノオを祭っていた。物部氏の祖神はニギハヤヒであり、ニギハヤヒはスサノオの息子であるという伝承があります。このことから私は八咫烏と物部氏は同盟関係にあったという仮説を立てました。
やはり、八咫烏と物部氏はともに日本に渡来したのではないでしょうか。記紀の編者がは天津神と国津神をごちゃ混ぜにして史実を抹殺し、古代の日本歴史を曖昧な神話にしてしまいました。なぜそんなことをする必要があったのか。天津神とはイエスとその12使徒の子孫を意味し、国津神はイスラエルの支族や土着の豪族を表しているのではないか。そして国津神のなかでもイスラエルの支族は天津神に近く位置づけられているのではないでしょうか。 
 
九州の物部氏 雑話

 

筑紫君 磐井より以前の九州の物部氏を探る。
太田亮博士などのいうように、物部氏の淵源をなす地が筑後川中下流域の御井郡を中心とする地域(邪馬台国や高天原の主領域と重なる地域)であった。当地域における物部の分布は、例えば『日本の神々』の奥野正男氏の記述(二〇八〜二一一頁)に見えるように、物部関係神社の分布が稠密であり、配下の諸物部に縁由の地名も多くある。この地から、北九州筑前の遠賀川の中下流域へまず移遷し、そこから近畿の河内、さらには大和へと氏族(部族)が移遷した。筑前から河内への移遷が直接かある経由地を経てのものであったかは、決めがたいという。

物部、蘇我、大伴氏は、越前の王(26継体天皇)を日本の支配者に選んだ。 
外物部である物部麁鹿火、巨勢男人らの活躍により、狗奴国後裔「磐井君」を滅ぼした。この時物部氏は、自らの発祥の地である九州の統治権を得た。ここに一度は九州勢に屈服した日子坐王を祖とする王権が復活した。

物部胆咋連 (もののべのいくいのむらじ)
物部連胆咋、物部胆咋宿禰。
仲哀九年二月、天皇が神意による死をとげた時、神功皇后と武内宿禰は天皇の喪を秘密にして、中臣烏賊津、大三輪大友主、物部胆咋、大伴武以の四大夫と善後策を協議している。この結果、皇后は四大夫に橿日宮(香椎宮)を守らせ、武内宿禰をして密かに天皇の遺骸を穴門の豊浦宮へ運ばせたという。(『紀』)
『旧』天孫本紀では、宇摩志麻治命の八世孫。十市根大連の子。
成務天皇の時代に大臣になり、ついで宿禰になり、神宮(石上)を奉斎した。
市師宿禰の祖穴太足尼の娘・比東テ命を妻として三児を生み、また阿努建部君の祖太王の娘・鴨姫を妻として一児を生み、三川の穂国造美己止直の妹・伊佐姫を妻として一児を生み、さらに宇太笠間連の祖大幹命の娘・止己呂姫を妻として一児を生んだとある。天皇本紀にも成務元年正月に大臣に任じられたことがみえる。
妻妾の氏については、宇太笠間(大和国宇多郡笠間郷)→市師(伊勢国壱志郡)→阿努建部(伊勢国安濃郡建部郷)→三川穂(参河国宝飯郡)と大和から東海地方へ展開しており、この地域と物部氏との繋がりを物語るだろう。
景行四十六年八月に物部胆咋宿禰の娘・五十琴姫命が天皇妃となり、五十功彦命を生したとする

「肥前国風土記」
昔景行天皇(12代)が九州巡行のとき、筑紫国御井郡の高羅山(高良山)に行宮(仮官)を建て、国見をされたという。そのとき基肆(きい)の山が霧におおわれていたので、天皇は「この国ば霧の国と呼ぷがよい」といわれた。後世、改めて基肆国と名づけた。
同じく天皇が、高羅の行宮から還幸の途中、酒殿の泉で食事中に天皇の鎧が光った。お供の占師、ト部殖坂が判じて、「土地の神が鎧を欲しがっています」と申し上げた。天皇は、「鎧を奉納するから、永き世の財宝にせよ」といわれた。それで永世社と名づけ、後の人は改めて長岡社(いまの鳥栖市永世神社、酒殿の泉は同市飯田町重田池だという)とした。また御井郡の川(筑後川)の渡り場の瀬が非常に広かったため、人々が難渋していたので、天皇は筑後国生葉山を船山(造船用の木材)、高羅山を梶山(舵用の木材)としたので、人々は救われた。この地を後の人は日理(わたり;亘理)の郷といった、という。この三つの説話は、景行天皇の行跡伝承で、その後この地方を支配した水沼県主、水沼君(水間君)らが、景行天皇の神霊を「山の神」、「川・泉の神」、合せて筑後国の開拓神、鎮守の神と仰ぎ、高羅山を神霊の依りどころにして、その行宮址、また水沼君の本貫地(筑後国三瀦郡)にそれぞれ祭祀したものである、とする説である。
高良の神名については、前述のとおり「記紀」「続紀」には記事がない。元寇の役以前までは、不詳の神ということができるが、さて景行天皇の名を大足彦(おおたらしひこ)といい、現在の神名が玉垂神(たまたれのかみ)という。「足」も「垂」も、神功皇后の大帯姫(おおたらしひめ)の「帯」と同義語であることから、「日足らし育てる」の意に通じ、景行天皇と、高良山の神は相共通するという説がある。
景行天皇を筑後国の開拓神として、高良山に祭祀したという県主の水沼君は、また自らを景行天皇の孫裔だと称している。

八武者大権現 / 長崎市茂木町
応神天皇、仲哀天皇、神巧皇后、武内宿弥大臣(たけのうちのすくねのおおかみ)、大伴武持大連(おおともたけもちのおおむらじ)、物部膽咋連(もののべのいくいのむらじ)、中臣烏賊津連(なかとみのいかつむらじ)、大三輪大友主君(おおみわおおともぬしのきみ)の八神を祀る。社伝によると明治維新前は八武者大権現といった。一八六八年(明治元)四月裳着神社と改称。
昔、神巧皇后三韓征伐の帰途、この裳着の浦に上陸され、御衣の裳を着けられたことで裳着の地名が起こったという。いつのころからか「茂木」と書くようになった。キリシタン宗徒に焼かれてほとんど廃絶に帰した。肥前国高来群の領主・松倉豊後守(ぶんごのかみ)重政は神仏の再興を計り、一六二六年(寛永三)当社を再建し茂木の鎮守とした。特殊神事に湯立(ゆだて)神事がある。

一書に、宗像の三女神は筑紫の水沼君が祀る神であると記されている。一方、『旧事本紀』の「天孫本紀」に、物部阿遅古連は水間君等の祖なり、とある。水間君と水沼君は同じである。
「天孫本紀」にはまた物部阿遅古連の姉妹として、物部連公布都姫夫人、字は御井夫人、また石上夫人と註記されている人物の名が記されている。布都とか石上とかの名が物部氏に関連することは明らかである。字を御井夫人というからには、筑後の御井とゆかりのある名前であろう。そこからとうぜん高良山との関係が推定される。
物部阿遅古と同一の人物ではないかと想像されている珂是古という名前が、『肥前国風土記』の基肄(きい)郡姫社(ひめこそ)の郷の条に見える。
それによると姫社の郷の中に山道(やまじ)川が流れて、筑後川と合体しているが、昔はこの川の西に荒ぶる神がいて、通行する旅人を殺害していた。そこで神託をあおぐと筑前の宗像郡の人の珂是古に自分の神社を祀らせよと託宣が出た。珂是吉は幡をささげて神に析り、この幡が風に吹かれてとんでいき、落ちたところが自分を求める神の所在地であるときめた。するとその幡は御原(みはら)郡の姫社の森に落ちた。そこで珂是吉はそこに神が住んでいることを知った。その夜の夢に、糸くり道具が出てきて舞い、珂是古をおどろかしたので、その神が女神であることが分かった。やがて社殿をたて女神を祀った。それ以来、通行人も殺されなくなった。珂是古が社殿をたてて女神をまつったのは鳥栖市(佐賀県)の姫方(ひめかた)にある姫古曾神社であるとされているが、幡が風にふかれて落ちたところはそこから東方2キロのところにある福岡県の小郡市大崎という。この大崎にはいまでは通称「たなばたさま」と呼ばれている媛社(ひめこそ)神社がある。祭神は媛社神と織女神である。
ところでこの神社の嘉永七年(1854)に奉納された石鳥居の額には、磐船神社と棚機(たなばた)神社の名が併記されている。

「雄略紀」には、身狭村主青(むさのすぐりあお)が呉(くれ)からもってきた鵞鳥が水間君の犬にくわれたことを伝えているが、一説には筑紫の嶺県主泥麻呂(みねあがたぬしなまろ)の犬にくわれたとなっている。ここから、筑後川をはさんでむきあう水間県と嶺県とはもともと同一の県であって、後世二つに分かれたのであろうと太田亮は推定している。

嶺県はのちの肥前国三根郡である。物部氏が筑後の三井郡や肥前の三根郡だけでなく、その南につらなる山門郡や三瀦郡にも勢力を扶植していたことは、天慶七年(944)すなわち、平将門の乱の直後につくられた『筑後国神名帳』によってもうかがわれる。

『日本書紀』に継体帝の二十二年、物部鹿鹿火が磐井と筑紫の御井郡(三井郡) にたたかうとあるところから、大功をたてた物部氏がそこにとどまったのかも知れないとの見方がある。

現在に伝わる香取氏の系図(『続群書類従』等に所収)では、「経津主尊−苗益命−若経津主命−武経津主命−忌経津主命−伊豆豊益命−斎事主命−神武勝命……」と続けます。

『姓氏録』では唯一、未定雑姓河内に掲げる矢作連が祖を「布都奴志乃命」とする。
「布都奴志乃命」は一般に経津主神に比定され、河内国若江郡の矢作氏でも経津主命十四世孫伊波別命の後と伝えます(『姓氏家系大辞典』ヤハギ条)。この河内の矢作氏の具体的な系譜は知られないのですが、矢作部の分布が東国の両総・伊豆・甲斐・相模などに多く見えます。この辺の事情を考えると、「布都奴志乃命」は安房・阿波等の忌部の祖の由布津主命(天日鷲翔矢命の孫で、神武朝の人)に比定するほうが妥当ではないかと思われます。同族の阿波忌部が阿波国阿波郡に式内社の建布都神社を奉斎したことにも通じます。

高良玉垂宮神秘書・同紙背(高良大社刊)によれば、祭神玉垂宮は「太政大臣物部ノ保連(やすつら)」と号し、神宮皇后が三韓征討に向ったおり、「藤大臣」と名乗って助けたという。5人の子どもも物部であったが、物部を秘するために別の姓を定めた、と記する 
 
日本統一国家の誕生

 

1.伊勢神宮の謎
日本古代史の謎に挑んでみたい。きっかけは伊勢神宮だ。皇祖神であるアマテラスを祀る日本国家の総本山とも言うべき伊勢神宮が、なぜ長く大和朝廷の本拠であった大和になく、伊勢にあるのだろうかということがずっと謎だった。謎は他にもいくつもある。
(1) アマテラスを祀る内宮は非常に不便なところにあり、もともと丹後宮津の神だった豊受大神を祀る外宮が便利なところにあり、「外宮先祭」という伝統もあり、実は外宮こそ伊勢神宮のメインなのではないかと言われている。(丹後宮津の籠神社は元伊勢と言われている。)
(2) 伊勢の人々は1年中注連縄を飾り、そこには「蘇民将来の子孫」と書いてある。この蘇民将来とは『備後風土記』に登場する人物で、スサノオ(出雲の神)との良好な関係が語られる人物である。
(3) 天皇が伊勢神宮に参拝したという記録は明治天皇が初めてで、それ以前にはない(ということは参拝していない)と言われている。その代わり、未婚の皇女あるいは女王を長らく斎宮として送り続けている。
こうした事実を総合的に考えると、伊勢神宮は本来大和朝廷の神を祀っていた神社ではなく、大和朝廷が滅ぼした(あるいは取り込んだ)前支配勢力である出雲系の神の祟りを怖れて祀った神社ではないかと推測されるのである。斎宮が未婚の皇女あるいは女王でなければならなかったのは、クシナダヒメがヤマタノオロチの生け贄になっていたというのと同じ構図で、荒ぶる神への生け贄としての意味を持っていたからであろう。天皇が参拝しなかったのも祟りを怖れてのことと考えれば納得がいく。
斎宮制度や式年遷宮を定め、伊勢神宮を格の高い神社にしたのは天武・持統天皇の時だが、これは彼らが天智天皇後の継承争いに身の危険を感じ、吉野に隠遁した後、東国に抜け尾張氏(出雲系氏族)の武力を借りて大友皇子との壬申の乱で勝利し、政権を勝ち取ったため、その感謝の意を表するためにも、尾張にほど近く関係も深い伊勢神宮を重視したのではないかと考えられる。
『日本書紀』によれば、崇神天皇以前は、神と天皇が同床であったが、崇神以降、神を別のところに奉斎することとし、まず崇神天皇の娘である豊鍬入姫に巡行させる。豊鍬入姫は丹波(籠神社)、紀伊、吉備などを経て、大和の大神(おおみわ)神社に落ち着く。次に、垂仁天皇の娘である倭姫が後を継ぎ、伊賀、近江、美濃、尾張を経て、伊勢の内宮に落ち着く。この逸話を分析的に見るなら、新勢力として大和に入った崇神は、旧来の勢力が奉っていた神を大和から排除したいと思い、未婚の皇女を生け贄に祀る先を探させたと解釈できよう。豊鍬入姫は結局大和に戻ってくるが、大神神社に祀られている主神は出雲系の神・オオモノヌシ(大物主)であり、アマテラスではない。(大神神社を造営したのは、祟りを怖れてのことである。)次いで、倭姫にアマテラスの奉斎先を求めさせるが、これも自分たちの祖神であれば、大和から出す必要はなく、やはり伊勢に祀られている本当の主神もアマテラスではないと考えた方が自然である。また、この2人の姫が立ち寄った先というのは、すべて崇神天皇以前に大和を支配していたと考えられる出雲勢力の影響下にあった地域ばかりである。つまり、旧勢力の神を旧勢力の影響下にあるところに戻そうとしたのかもしれない。
また、太陽は「陽」であるので、陰陽説では太陽神は男神と考えるのが普通であるのに、アマテラスを女神としたのは、『記紀』を編纂した時代が、持統天皇という女帝から始まる王朝とも位置づけられるためで、持統天皇を暗喩するためにアマテラスを女神にしたという説もある。三輪山にオオモノヌシを祀る大神神社と伊勢神宮の奉斎場所先探しの話の連続性、そして三輪山自体が奈良盆地の東にあり、太陽の昇る山であることを考えると、実はオオモノヌシこそが太陽神(=天照アマテラス)であったと考えるのは無理のない推測ではないだろうか。つまり、伊勢神宮に祀られているアマテラスという神は、本来は出雲系の太陽神・オオモノヌシである。  
2.スサノオが日本の最初の大王
神話上はアマテラスの弟とされ、あまりの乱暴さ故に高天原を追放され、出雲に来たとされるスサノオだが、全国にある彼を祀る神社の多さなどを考えると、彼こそ古代日本に最初に大きな勢力を築きあげた大王であったと考えるのが妥当である。スサノオという名前も長姉のアマテラス(天照)や次姉のツクヨミ(月読)が、太陽神と月神のわかりやすい表示名であるのに対し、まったく違う名のつけ方であり、まったく別種の神と考えざるをえない。普通に考えれば、「荒(すさ)の王」と字を当てたくなる。
出雲は朝鮮半島から船出して、海流に乗ってたどり着きやすい地域であるので、スサノオは朝鮮半島から渡ってきた勢力のリーダーあるいはその子孫と考えられる。その後の任那(伽耶国)への大和朝廷の固執ぶりを考えると、伽耶から渡ってきた勢力である可能性が高い。出雲を出発点として、越前、伯耆、因幡、但馬、丹波(丹後を含む)、若狭、近江、山城、瀬戸内の吉備、播磨、摂津、河内、大和、紀伊、尾張、美濃などにまで勢力を拡大したと考えられる。
スサノオの逸話でもっとも有名なヤマタノオロチは、「越」(越前?朝鮮半島からたどりつきやすい地域のひとつ)から毎年やってきて娘たちを奪っていったという話であるから、これは当時出雲が越前に対して劣位の立場にあったのを、スサノオの力で逆転したと読むことができる。
紀伊の熊野大社も源流は出雲の熊野大社と言われているし、京都の八坂神社を筆頭に各地に存在する祇園神社はすべてスサノオを祀っている神社である。(備後のえのくまで蘇民将来と出会った逸話があり、スサノオに礼を尽くした蘇民将来一家を助けるために、茅の輪を贈り疫病から逃れさせたことから、全国各地の祇園神社では夏に「茅の輪くぐり」という行事を行うようになっている。)
出雲勢力との関係が深いと考えられる物部の地名が北部九州周辺に多くあることから、出雲勢力が北部九州に進出した後、畿内に移動し、一大勢力になったという見方を取る論者もいるが、元伊勢神社の位置などから考えると、出雲勢力は出雲、伯耆、因幡、但馬、丹後、丹波、摂津、河内、大和というルートと、出雲、吉備、播磨、摂津、河内、大和というルート(ともに陸上ルート)のいずれかあるいは両方を辿って、畿内に入ったのではないだろうか。(この出雲勢力は大和には入らず、河内に拠点を据えていた可能性もある。)
筑紫は朝鮮半島に近く高度な文化の取り入れ口になっていたため、進出あるいは協力関係構築の必要性があっただろうが、出雲神話の逸話には、海上ルートを利用するようなエピソードはなく、スサノオを中心とする出雲勢力は、西は出雲・備後から、東は尾張・美濃・越前あたりまでを影響力下に置いていたのではないかと推測する。  
3.崇神朝以前の大和の王・ニギハヤヒ
先にも述べた大神神社は、日本一古いと言われているが、ここに祀られているのが出雲系の神である大物主大神である。箸墓古墳や崇神天皇陵などがある三輪地域にあり、初期大和朝廷発祥の地でもあるが、そこに出雲系の神が最初の神として祀られているのは興味深い。
大和の地は、瀬戸内海を東に東にと進んでくるとたどりつく地であるため、九州からは幾度も東遷してきた勢力があったと考えられる。『古事記』では、イワレビコ(神武?崇神?)が日向から東遷してきたことになっているわけだが、そこにはすでにニギハヤヒという王がおり、その王に仕えるナガスネヒコが激しく抵抗したため東からは入れずに、南の熊野から北へ上がる形で入っていく。しかし、ナガスネヒコは戦いで打ち破られたのではなく、ニギハヤヒとイワレビコが同じ神から遣わされたものだと知り、困惑しているうちに、ニギハヤヒによって殺害され、ニギハヤヒはイワレビコに国を譲るという形で戦いは終息を迎える。同じ神から遣わされたものとわざわざ記されているのは、出雲勢力も日向勢力ももともとは朝鮮半島南部にあった伽耶国(任那)から渡ってきた同族であることが暗に語られているのではないかと考えられる。(ちなみに、4世紀後半にやってきて応神朝を作り上げる勢力は、百済系勢力であり出自をやや異にすると推測している。)
ニギハヤヒを祖神とする物部氏の由来を示した『先代旧事本紀』によれば、ニギハヤヒは娘をイワレビコに嫁がせている。『古事記』では、神武東征の前にオオクニヌシ(スサノオの子孫で出雲勢力のシンボル的存在)の国譲りの話があり、これとの類似性が気になるところである。ニギハヤヒをオオクニヌシ(大国主)という名で登場させ、日向勢力が大和に定着する以前の国の主だったことを示しているという解釈は十分可能な気がする。
神武と崇神は和名が同じで同一人物ではないかという説も根強いし、そうでなくとも大和入りの経緯はどちらかのものであろう。いずれにしろ、九州から入ってきた勢力がすでに大和に勢力を持っていたニギハヤヒとナガスネヒコの勢力と戦わざるをえなかったことは確かである。私はかつて闕史8代(2代〜9代)を架空の存在と見る立場に賛同していたが、崇神が神武の事跡(神武東征)をなした王であると考えるなら、それ以前に強大な勢力が大和にあったことは確かなので、その勢力の存在を神武以下の9代として描いていると考えることもできるだろう。そして、この勢力が出雲系である可能性は大きいのである。
ニギハヤヒの正体は明確ではないのだが、『日本書紀』や古代神社の伝承などを総合的に考えると、出雲系の王であったことはほぼ間違いないだろう。このニギハヤヒの子孫が物部氏であるということは、実は物部氏自身が最初に畿内強力な勢力を確立した王であったと考えることもできるのである。  
4.大和は邪馬台国から
ここまで大和という地名で呼んできたが、「大和(ヤマト)」という名は「邪馬台(ヤマタイ)」(重箱読みであり、もともと「ヤマト」と呼ぶのが正しいという主張がある)から来ており、もともと九州にあった邪馬台国が東遷して以降(神武=崇神東征)の呼び名だと考えている。では、その邪馬台国の東遷はいつかということだが、『魏志倭人伝』によれば、2世紀後半に倭国に大乱起こるという記録があるので、それが大和の旧勢力(出雲系)と新勢力(日向系)の争いとみるならば、この時期が邪馬台国の東遷時期ではないかと考えられる。つまり、3世紀前半の『魏志倭人伝』に登場する卑弥呼は、邪馬台国東遷後の人物と見た方が自然であろう。
ではなぜ邪馬台国は九州を出る必要があったのだろうか。人は一般的には生まれた土地を出て行きたくないものである。にもかかわらず出て行かなければならないとしたら、それだけの理由があるはずだ。一番単純な理由は、なんらかの状況変化によって住み心地が悪くなり、よりよい土地を求めるということである。九州の場合、独立勢力として現在の地名で言えば、鹿児島と熊本南部を中心に熊襲(クマソ)がおり、北部九州には対馬、壱岐を経て、朝鮮半島から新しい勢力が次々に入ってきていたため、先に渡来していた勢力はより安全な地を求めて移動をしたと考えられる。そもそも、日向という九州の中で東部に位置する場所から旅立たなくてはならなくなったのも、上記の勢力に押し出されたことによると考えることもできる。(ヤマトという名は「山門」から来ているという見方に立てば、もともとの邪馬台国は、筑後か肥後北部あたりにあったと考えられる。)
次に、逃避や移動ではなく領土拡大戦略ということも考えられなくはない。九州王朝説を唱える人などはこの立場を取るだろう。すなわち、九州に本拠を残しつつ、瀬戸内海沿岸から河内、大和まで支配下に置いたという考え方である。確かに、邪馬台国の東遷後も大和と北部九州の関係は密であったことは間違いない。しかし、邪馬台国の本拠はやはり大和に移動したと考えるべきである。ただし、出雲系にしても日向系(崇神朝)にしても、その後の応神朝、継体朝も、みなルーツは朝鮮半島にあると知っていただろうから、北部九州という窓口を通して朝鮮半島情勢には我が事として関心を持っていたと考えられる。
ところで、大乱状態だった倭を治めた歴史上の実在人物と認定される卑弥呼がなぜ『記紀』に登場しないのだろうか。いや登場していないはずはない。女性で、政治能力のある弟がおり、「卑弥呼」を「日の巫女」と読むなら、太陽信仰とも関連のある人物である。考え得る人物は2人である。1人は、崇神の姉あるいは伯母と位置づけられる倭迹迹日百襲姫である。彼女は神懸かりとなってお告げをしたと言われており、その墓は巨大な箸墓古墳であると言われていることから、時代から言っても卑弥呼に比定するのは適切であろう。実在の怪しい神武朝の第8代孝霊あるいは第9代の孝元の娘という位置も、大和に新勢力としてやってきた崇神朝の開祖的な立場にあり、卑弥呼に比定しやすい。もう1人の有力候補は、アマテラスとして描かれた神である。スサノオという弟を持ち、「天照」という太陽神そのもののイメージを与えられている人物だからである。ただし、アマテラスは大和に入っていないので、卑弥呼が大乱後の国を治めているということなら、やはり倭迹迹日百襲姫の方が有力であろう。神宮皇后に比する説もあるが、その事跡からすると、卑弥呼とは類似点が少なすぎるので、神宮皇后はありえないだろう。  
5.「出雲と日向」は古代史の核
改めていろいろ調べていると、出雲勢力が強大な勢力であり、日向勢力が近畿圏に進出してくるまで、日本のかなりの領域を支配していた勢力だったのだという考えは確信的なものになっていく。イザナギ・イザナミの夫婦神話でも、火の神を産んで死んでしまったイザナミが葬られた場所は出雲と伯耆の境だったと述べられているが、ここが黄泉の国の入口と考えれば、黄泉の国を出雲と想像するのは容易である。そして、イザナギはその黄泉の国(出雲)に妻恋しさで訪ねていくものの、醜く変貌した妻を見て恐れをなし妻と戦いながら逃げていき、筑紫の日向で、黄泉の国の穢れを禊ぎ、その際に、アマテラスやスサノオを生みだすのである。この話は実際に戦ったかどうかは別として、日向勢力に対抗する強力な勢力が出雲にあったことを示唆していることは間違いない。
出雲の力の源は鉄であったと想定される。奥出雲は良質の鉄の産地であり、固く鋭い刃を作れる鉄の武器は圧倒的な力を持っていたと考えられる。弥生時代には日本では製鉄技術がなかったという説もあるが、鉄は農耕にとっても不可欠な素材なので、朝鮮半島から渡ってきた勢力の中に技術をもった人は必ずおり、鉄器を生産したに違いないと考えている。ちなみに、スサノオが南に下って備後にやってきて蘇民将来と出会ったという話も砂鉄や鉄鉱石の産地を求めての出雲勢力の行動だったと考えられるのではないだろうか。奥出雲の南に位置する備後地方も鉄の産地である。
他方、日向勢力の力の源は何だろうか。朝鮮半島から入ってくる先進技術・文化は持っていただろうが、その力だけに頼るなら、北部九州にいた勢力の方が有利だったはずだ。ここで私が提示したい仮説は、日向まで来ていた勢力は、一部の海洋民族勢力を味方につけるのに成功したという説である。そうした歴史的事実を示すために、『古事記』では出雲神話の後に続く天孫降臨の話がすぐに神武東征につながらず、間に海幸彦・山幸彦の逸話を入れていると考えられる。
海洋民族が島づたいに日本に入ってきた先住民族であることは間違いないが、九州最南部の鹿児島に着いた後、鹿児島西部とさらに西上して有明海沿いの熊本南部に定着した勢力(クマソ)と鹿児島東部から東上して宮崎(日向)に定着した勢力(隼人)に分かれたと考えられる。このうち、西南に居住したクマソは邪馬台国の支配下には入らなかったが、隼人の方は日向勢力の東遷以前にその支配下に入り、むしろ船による東遷の水先案内人的な役割を果たしたのではないだろうか。瀬戸内海は多島海であり、操船技術や海洋に関する知識なしではなかなか越えにくい海である。海洋民族であり、かつ勇猛な隼人族の協力を得て、日向勢力の畿内進出は可能になったと考える。
日向勢力で最初に畿内の支配権を握ったと考えられる崇神の事跡を読むと、出雲が影響力を持っていた地域をひとつずつ味方にしていかなければならなかったことがよくわかる。先に述べた皇女によるオオモノヌシとアマテラスを奉斎する地を求めさせた巡行の旅もその一例であるが、それ以外にも四将軍を越の国(越前?)、東国(尾張、美濃、信濃?)、丹波、吉備につかわしている。また、味方になった証の意味がある女性(后として)の提供を、紀伊、尾張、丹波(崇神の子・垂仁の后)、吉備(垂仁の子・景行の后)がしている。時期のずれは、まさに日向勢力がそれぞれの地域を支配下に置くのにかかった時間の長さを示していると見ることができるだろう。
この崇神の事跡には、出雲派兵が出てこない。また、出雲には荒神谷遺跡のような弥生時代の遺跡はあるが、古墳時代の遺跡にはこれといったものがない。ここから推測できるひとつの有力な仮説は、出雲で生まれて力をつけた勢力は、雪が多く暮らしにくい出雲は比較的早い時期に出て、ほぼ真南にあたる気候の温暖な瀬戸内側の吉備に入り、ここで力をさらにつけたのではないかという説である。日向勢力が大和に進出してきた頃までに出雲勢力はすでに出雲地域を捨て、吉備を本拠とした勢力となっていた。つまり、出雲勢力=吉備勢力という仮説である。出雲大社が造られたのは日向勢力に畿内の支配権を譲った後であり、中心地である畿内を譲る代わりに、出雲=吉備勢力の原点である出雲を、出雲勢力自体も再度見直したという見方も可能ではないだろうか。  
6.騎馬民族の応神新王朝
『魏志倭人伝』によって歴史が知れる3世紀の日本に対して、4世紀の日本は記録がほとんど残されておらず「謎の世紀」と呼ばれる。好太王の碑によって、4世紀終わりから5世紀のはじめに日本が朝鮮半島へ攻め入ったことが史実として確認される以外は記録がない。しかし、5世紀にはいると、倭の五王として『宋書』に登場してくる。年代を考えれば、4世紀の後半には応神が畿内河内に入り、強力な勢力となっていたことは間違いないだろう。
応神は、神話上の人物としか考えられないヤマトタケルの孫で、同じく神話的人物である神宮皇后の息子ということになっているので、前王朝である崇神王朝とは直接の血縁関係はない新たな王朝を建てた人物と考えるのが妥当である。この勢力がどこから来たかと言うと、朝鮮半島、特に百済(ツングース系扶余族が南下して建てた国)から渡ってきたという見方がもっとも説得力がある。この応神王朝以後、馬が使用されるようになり、高い技術を必要とする鉄製の武具もふんだんに使われ、文化レベルの高い帰化人も多数渡来し、漢字文化なども、この応神朝から始まる。このような見方に立てば、応神朝が朝鮮半島からの渡来勢力であり、それゆえに朝鮮への出兵も自らのルーツである母国を守る戦いとして当然の選択であったと考えられる。
応神朝の陵は、応神、仁徳、履中、反正、允恭までが河内にあり、それ以降は大和にある。これは、新王朝である応神朝が大和の旧勢力の抵抗を受け、なかなか大和に入れなかったか、朝鮮半島に近い北部九州との連絡の容易さを考えて、河内に留まったかのどちらかであろう。仁徳陵や応神陵の巨大さを見ると、応神王朝はかなり早い時期から畿内では圧倒的な力を誇っていたと見るべきなので、後者の解釈の方が妥当だと思われる。自らのルーツである百済をはじめとする朝鮮半島に対するアンテナの感度をよくするために、最初の数代は大和に引っ込まなかったのだろう。この時期、大和は応神朝の協力者であった葛城氏が支配下に置いていたのかもしれない。葛城の地盤は河内との境目の葛城山麓なので、河内と大和の媒介にはちょうどよい位置であった。河内(および以西)は応神から始まる一族が、大和は葛城氏が見るという形で、うまく分権体制ができていたのだろう。
応神朝も時が経ち、王自身の能力もあまり高くない者がその地位に就くようになると、朝鮮半島情勢よりも足元の畿内を固めることの方が重要になり、旧勢力の中心地であった大和に政権の中心を移動させることを望んだのであろう。しかし、大和に移動して以降、最大の協力者であった葛城氏との関係も悪くなり、それがこの王朝の衰退につながった。この間隙をつき、平群氏が力をつけ、大王の地位すら伺うようになったという『日本書紀』には書いてある。応神一族、葛城、平群などの権力闘争が激化し、混乱に陥っていたというのが応神朝の最終局面であった。  
7.政権奪取に成功した地方豪族の継体新王朝
継体は、応神朝の最後の大王・武烈(あまりにも残虐すぎるエピソードばかり残された大王であり、それゆえに存在も疑われている)から10親等も離れた応神の5代の孫であり、一般的には大王の継承資格がない。越前にいた継体は、混乱した大和朝廷の後継者になるように、大伴氏に促されて畿内をめざすが、抵抗を受け大王即位から20年も大和に入れなかった(その間、樟葉に5年、筒城に7年、弟国(乙訓)に8年いた)と『日本書紀』は記す。これは、血のつながりのない地方豪族が大和征服に20年かかったと見るのが、常識的な解釈であろう。
20年かかってようやく大和に入った(北摂高槻に陵墓があることを考えると、本当に継体は大和に入れたのかどうか疑問も残る)継体に待ち受けていたのは、筑紫の磐井の反乱だった。これも、新政権の正統性を認めない北九州勢力による政権奪取の戦いだったと解釈されよう。崇神朝も、応神朝も九州から畿内に行き、政権を取っているので、九州勢力には、自分たちの方に正統性があると考える十分な理由はあった。この戦いにおいて、物部氏が継体から派遣されて活躍しているので、継体が大和に入った時点では古くからの有力豪族(もしかしたら崇神朝以前の支配勢力?)である物部氏が味方についていたことは明らかである。
継体のあと、天皇家の系図上では安閑、宣化、欽明の順で王位が継承されたことになっているが、むしろ尾張氏を母に持つ越前時代の継体の子である安閑と宣化の兄弟が、応神朝(大和旧勢力)の血をひく母を持つ欽明によって倒されたと考える方が無理がない。この争いの中で、継体の即位に力を貸し、朝鮮半島の任那経営に失敗した大伴金村は、政権中枢から追われ、欽明を推した蘇我稲目が台頭してきたと考えられる。それゆえ、この王朝は旧勢力の血を引く欽明から本格的に始まると見た方がいいかもしれない。継体の年齢(欽明が生まれた時、継体は58歳以上)から言うと、欽明は継体の子ではない可能性も高い気もするが、それは私の推測にすぎない。しかしいずれにしろ、欽明は大和の旧勢力に推された新王朝の大王という位置づけであったことは間違いないだろう。大和の旧勢力からすれば、地方豪族であった継体やその子孫から、再び権力を奪い返したという思いだったのではないだろうか。
蘇我氏は葛城氏から分かれたとも言われるが、新しい信仰である仏教への肩入れ具合や稲目の父の名が高麗であることなどから、彼ら自身もそう遠くない昔に日本にやってきた渡来氏族である可能性も高いように思われる。であるならば、大和の旧勢力と言っても、蘇我氏という新たな勢力が中心ということになる。物部氏は継体の協力者になり勢力を伸ばしたが、安閑・宣化と欽明の対立の中では、朝鮮経営に失敗した大伴氏と心中する道は選ばず、欽明側についた。結果として、この後しばらく、蘇我氏と物部氏が2大勢力として拮抗する時期が続く。  
8.大和朝廷とは豪族による連合政権
ここまで見てきてわかる通り、大和朝廷とはこの時期(6世紀)に来ても、豪族たちの権力をめぐる闘争と連合の歴史と言える。この後、7世紀の終わりから8世紀にかけての(天武・)持統朝で唐をまねて律令体制を整え、大王を天皇と呼ぶようになるまで、大王というのは大和連合政権のトップに与えられた称号(今で言えば大統領のようなもの)に過ぎなかったのではないかという仮説も十分立てられる。天皇家の系図というものが存在する今から見ると、系図のつながりの不自然さが明らかなところから3〜4の王朝交代があったと語るのがせいぜいだが、本当はもっともっとトップは代わっていたのかもしれない。物部氏も三輪氏も葛城氏も平群氏も蘇我氏も、本当はある時期は大王であったのかもしれない。俗に「大化の改新」(厳密には「乙巳の変」)と呼ばれる、中大兄皇子と中臣鎌足による蘇我入鹿の暗殺事件も、当時の政権トップだった蘇我氏を引きずり降ろして、自分たちが取って代わろうという個別氏族の私的利益をめざした行動だったと解釈した方が納得がいく。
こうした大和朝廷の歴史を書き変え、神から続く天皇家という特別な一族の存在を創作し、それを操ることによって実利を得ようとしたのが、藤原氏(特に藤原不比等)の戦略だったという仮説は傾聴に値する。各地の豪族の反乱や、恵美押勝や弓削道鏡のような皇位を狙う人物の登場も、藤原氏によって書き換えられた歴史の中では、「反乱」であり「怪僧」ということになってしまうが、もしも大和朝廷がもともと力のあるものをトップに立てる連合政権であったのなら、彼らの試みは決して特異な事件ではなく、たまたま政権奪取に失敗しただけのケースとも見ることができる。  
9.桓武の新王朝意識はなぜ生まれたか?
奈良から京都に都を移した桓武天皇には父の光仁天皇(天智の孫)から始まる新王朝を建てたという意識が強かったようだが、これについて、しばしば天武系から天智系に戻ったといった説明がなされている。しかし、私はそうした単純な天智系、天武系の争いでは説明がつかないと考えている。むしろ、桓武天皇の新王朝意識は、持統から始まる怨念の女帝政権からの決別と解釈すべきと考える。持統から始まる女帝政権は8代のうち6代が女帝(持統→(文武)→元明→元正→(聖武)=光明子→孝謙→(淳仁)→称徳)という日本の歴史でも稀な異常な時代である。聖武の皇后は藤原不比等の娘で政治的力のあった光明子であったこと、また淳仁の時代は、実質的権力は太上天皇と称していた孝謙が握っていたことを考え合わせると、見方によってはこの8代(奈良時代と重なる)はずっと女帝の時代であったと言えるのかもしれない。
怨念の歴史と呼ぶのは、まず持統が夫であった天武に多くの優秀な息子がいたにも関わらず、自らの血を引いた子・孫を天皇の地位につけるために、多くの天武の息子たち(大津皇子、高市皇子)を排除してきたことに始まる。この持統の戦略がみずからの立場を確立する上で好都合だった不比等とその子孫(藤原氏と光明皇后、孝謙・称徳天皇)はこれに協力し、持統なき後も、天武系の男系子孫を次々と排除してきた(長屋王、塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王)。
桓武の父で光仁天皇となる白壁王も、天皇就任への誘いを非常に警戒したという話が伝わるが、この流れを知っていれば当然だろう。平城京はこうした歴史から怨念と祟りの渦巻く場となっていたからこそ、桓武は遷都が必要だと考えたのだろう。(それは、女帝時代から短期的に独立をはかった聖武も必要と考えたことであり、聖武自身も紫香楽、恭仁と遷都を繰り返した。)桓武の意識の中では、天智系に戻したというより、持統から始まる怨念の渦巻く血統を断ち切り、父・白壁王(光仁天皇)と母である百済系渡来人高野新笠から始まる新王朝を建てるという認識だったのだろう。持統朝最後の天皇である称徳と光仁では8親等も離れており、一般的には親族扱いもされないほどの血の薄さである。現天皇が、桓武天皇の母が百済系渡来人だったことに言及して韓国に対する親近感を語ったことがあるが、これも光仁・桓武から始まる新王朝だという意識が、現天皇家の人々も含めて、面々と伝わってきている表れと言えよう。
桓武天皇となり、平安京に都をおいて、天皇を特別な存在とし、藤原氏がそれを支えるという体制が確立し、ようやく日本統一国家は安定したと言えよう。この後は、10世紀前半に平将門が「新皇」を称する例外的な事件が起こるが、基本的には天皇の特別な地位は万人の認めるところとなり、権力をめざすものはすべからく、天皇に取って代わるのではなく、天皇をシンボルとして利用して実質を取るという「藤原氏方式」を踏襲していくことで、日本の政治は動いていくのである。 
 
蘇我氏の時代

 

歴史の表舞台に
蘇我氏が歴史の舞台に登場してくるのはずいぶん時代がくだってからの話で、同じ飛鳥の大貴族といっても、物部氏や大伴氏などのように神話・伝説の時代からさまざまな場面にエピソードを残し、連綿とした系譜を誇る諸豪族とどこか違っている。
これについて一つの考え方は、それまで目立たなかった日本在来の一族が次第に力を蓄え、飛鳥時代の直前になって政治の表舞台に躍り出たのだという意見だろう。
相対するもう一つの見方は、朝鮮半島から日本にやってきた渡来人が、新しい知識と技術を武器として経済的な基盤を固め、権力の中枢に座を占めるようになったととらえる。
武内宿弥という伝説上の人物を祖先とする、あるいは河内の石川流城を本拠とした在地の豪族の流れというにしても蘇我氏のはじまりを「日本人」とするのか、それとも百済から渡来人した一族とするのか、どちらにも決定的な証拠があるわけではない。 どっちでも構わないと言ってしまえぱそれまでのことなのかも知れないが、蘇我氏在来種説と渡来人説の間には、大和朝廷の性格や当時の社会の仕組みについての認識の違いが、横たわっていそうな気配も感じられる。
起源の問題はどうあれ、蘇我氏の力が渡来系の人々に支えられたものだったこと、権力への道が外来の技術と知識によって開かれたものだったことは確かといえる。
5世紀の末ごろ、蘇我氏の先祖は、現在の橿原市曽我町のあたりに本拠を置く。現在の近鉄真管駅のそばには、延喜神名式にいう宗我坐宗我都比吉神社がある。また、近くの今井町には入鹿神社があり、この地域に後々まで蘇我氏の伝承が残っていたことを示している。6世紀にはいると曽我川に沿って南に勢力を広げ、畝傍山の南をまわりこんで桧隈・身狭(見瀬)・飛鳥といった地域を支配するようになる。そして、この地域には古くから多くの渡来入が住み着いていた。
渡来系の一族坂上氏の伝承や、日本書紀の記述によれぱ、倭漢氏の祖先となる阿知使主は、応神天皇の時代に多くの人民を連れで渡来し桧隈に住んだという。雄略紀にも新しく渡来した技術者、陶工、馬具職人、画工、錦綾の職工、を桃原・真神原に移住させたという記事や、身狭村主青と桧隈民使博徳が呉から連れ返った技術者たちを呉原に住まわせたとする記事がある。
5世紀中頃から6世紀後半にかけてつくられた、橿原市川西町付近の新沢千塚も、この地に定者した渡来人たちの様子を物語っている。他の地域にさきがけて400基に近い群集墳を造りはじめた人々が、相当の人口を擁し高い経済力を誇っていたであろうことはいうまでもない。発掘調査によって装身具・鏡・武器・馬具・農具・工具など多くの副葬品がみつかってている。長方形の墳丘をもつ126号墳は首長の墓と考えられるが、ここからはこの上ない貴重品だったガラスの椀・皿、冠を飾る金具・耳飾り・帯飾りなどの黄金製品、衣服のしわを伸ばすアイロンなどが出土した。墓の主は、当時日本では作れなかったざまざまな宝物を手にいれているわけで、この土地の住人が朝鮮半島と密接な交渉を保っていたことが知られる。新沢千塚古墳の一部は、蘇我氏の先祖によって営まれたと考える学者も多い。
飛鳥地城に進出した蘇我氏は、当然、そこに根をおろしていた渡来人の集団を自分の勢力下におさめていく。いったい、この一族のどういった性格、あるいはどんな政略が渡来人の支持を集めるもととなったのか定かではないが、蘇我氏は東西漢氏とよばれる大和・河内に住み着いていた渡来系氏族全部の統領とでもいった地位を占めるようになる。舒明14年(553)馬子の父親稲目は、百済からの渡来人王辰爾に船にかんする税務を司らせている。王辰爾は敏達元年(573)の有名な逸話、東西漢氏のだれにも読み解けなかった高句麗からの国書を読んだという記事が示すように、新しい知識をもって日本に渡ってきた新来の渡来人だった。旧来の渡来系氏族だけでなく、新たにやってきた渡来人も蘇我氏の配下に組み入れられる体制ができ上がっていた。
日木書紀、宣化元年(536〉条に、「又蘇我稲目宿爾を以て大臣とす」という。新旧の渡来人の知識と経済力を土台として、政治の表舞台に蘇我氏が登場してくるのだ。
宣化天皇は、桧隈慮入野を宮殿とした。渡来人の拠点、桧隈という土地柄を考えれば天皇の擁立、宮地の選定に蘇我氏が深くかかわっていたことは想像にかたくない。この稲目の時代に、蘇我氏は天皇家と関係を強め、その諸分家もそれぞれの勢力を確立していく。馬子・蝦夷・入鹿と続く蘇我氏の権力と繁栄との基礎は、このときに用意されることになる。  
天皇家との絆
蘇我氏は、有力な各豪族、とりわけ天皇家との政略結婚をつうじて権力の基盤を固めようとした。この親戚筋を作って絆を固めようというやり方は、蘇我氏の専売特許でもなんでもなく、古来行われ、いまだに政治家から庶民にいたるまでが好んでとろうとする常套手段なのだろう。
馬子は、推古32年(624)「葛城県は自分の本居なので領地として賜わりたい」と申し出ている。また聖徳太子伝暦には葛木寺を蘇我葛木臣に賜うと記す。馬子の母親は葛城氏の出だったのだろう。また崇峻即位前紀(587)には、「蘇我大臣の妻は、是物部守屋大連の妹なり。云々」の記事があって、馬子が物部氏とも姻戚関係を結んでいたことが知られる。
蘇我氏と天皇家とのかかわりを、大ざっばに整理してみれば以下のようになる。欽明朝に初めて、馬子の姉妹、堅塩媛と小姉君の二人が天皇の夫人となっている。欽明のつぎの敏達天皇は、堅塩媛の子供・額田部皇女〈後の推古)を后とした。
つぎの天皇は堅塩媛の子供・用明天皇で、小姉君の子供・穴穂部間人皇女を后とし、稲目の娘・石寸名を夫人とした。用明と穴穂部間人皇女の間の子供に聖徳太子がいる。
用明の次代、崇峻天皇は小姉君の子供に当たる。馬子の娘・河上娘を妃とした。
推古天皇は、舒明と堅塩媛の子供、馬子の姪となる。推古の後継者の地位にあった聖徳太子は馬子の娘・刀自古郎女を夫人としている。推古のつぎが舒明天皇、この天皇は馬子の娘・法提郎媛を夫人とした。もうこれだけで十分にややこしいが、敏達を例外として、蘇我本宗家の当主が、娘を天皇の嫁にするという方針を貫いていることは読み取れるだろう。  
物部氏の滅亡
このように、蘇我本宗家は天皇の義理の親という地位を確保するが、それだけで安定した権力の座が保証されるわけではなかった。后・妃・夫人と何人も配偶者がいるのが普通だから、天皇の義理の親だって一人ではない。天皇の代がかわるごとに衝突がおきる可能性がある。天皇の兄弟そして母親を異にする何人かの皇子と、後継の資格をもった者は多い。諸豪族の勢力と、後継を望む皇子の思惑は複雑に絡み合っている。すべての次期天皇候補者と姻戚関孫を結んでおくことも、出未ない相談だ。
伝続的な大豪族・物部氏は、新輿の実力者に立場を脅かざれるという危機感から、当然のように蘇我氏と対立していた。権力の座をめぐる争いは、外国から渡ってきた新しい神をどう受け入れるのかという間題をとおして表面化する。仏教を国の正式な宗教としようという蘇我氏と、物部氏を旗頭とするこれに反対の立場の旧勢力とは、ことあるごとに小競り合いを繰り返してきた。
そして585年、敏達天皇の死で事態は波乱に向かって動きはじめる。一応は、大臣馬子の狙い通り堅塩媛と舒明の子供・大兄皇子が即位して用明天皇となった。しかし、これに不満をもった用明の異母兄弟・穴穂部皇子は王位を窺い、これを後押しする大連物部守屋は蘇我氏との軍事的対決色を強めていく。暴行未遂事件、暗殺事件、呪誼事件が相続き、両豪族の緊迫した呪み合いが続く中、即位4年目の用明がこの世を去り、第一の破局が訪れる。
物部氏が戦の準備を整えている間に、馬子は先手を打って、まず争いの主役とも言える大穂部皇子を殺してしまう。守屋の戴くべき大義名分を取り除いた馬子は、故敏達天皇の妃・炊屋姫(後の椎古天皇)と諮って、蘇我系の皇族・蘇我系の豪族の勢力を結集する。守勢にまわらざるをえなくなった守屋は渋川の邸宅で必死の抵抗をこころみるが、結局は馬子の攻撃をささえきれず戦死、物部氏は滅亡する。守屋の屋敷のあった渋川は河内国渋川郡、現在の大阪府八尾市にあたるという。
最大の政敵・物部氏を倒した蘇我氏は、穴穂部と同じ母をもつ弟・小姉君と欽明の子供・泊瀬部皇子を崇峻天皇とした。事態は落ち着いたかに見え、蘇我氏の長はまさにキング・ノーカーと呼ぶにふさわしい地位を占めて外交・内政の主導権を握る。ところが、崇峻天皇は大臣の存在を煙たがり、その力を取り除こうとする動きをみせる。
馬子は592年、朝廷内の最大にして唯一の対立者となった天皇を殺してしまう。天皇暗殺を、有無をいわせない既成事実として王族・諸臣につきつけられるほど、この時点ですでに馬子の支配体制が揺るぎないものとなっていたとも言える。
こうして第一の披局は、蘇我氏が結束して対立勢力を一掃するかたちで決着を見、推古天皇の36年に亙る安定した時代がはじまる。推古は飛鳥豊浦に最初の宮殿を置いた。この地はもともとは稲目の屋敷があった場所で、後には馬子の子供・蝦夷が豊浦大臣と呼ばれている。天皇と蘇我氏との強い絆を読み取ることができる。
馬子は、引き続き大臣として朝廷の中枢に腰を据え、境部臣、田中臣、石川臣といった稲目の息子たちも、それぞれが政権に参画する大貴族となっていく。天皇の後継者にも蘇我氏とつながりの深い聖徳太子がすえられた。蘇我氏を中軸とした政権は、中国までを視野にいれた積極的な外交、屯倉の整備と治水事業などの農業振興策を通じての朝廷の経済力の強化、そして仏教を中心とする先進諸国の例にならった文化政策をおしすすめる。まさに蘇我氏の黄金時代が実現したと言うことができるのではないだろうか。
しかし、何事にも終りはある。馬子は推古34年(626)に死に、二年後には推古もあの世へと旅だつ。推古の後を継ぐはずだった聖徳大子もすでに早世しており、ぷたたぴ大騒動がもちあがる。
付け加えておけば、馬子は76才で死んだといわれる。推古は治世の36年に75才で亡っている。叔父と姪といっても二人の歳の差は三つほどしかなかった。物部守屋を討って蘇我氏の時代の幕が開いたとき、推古は35才ぐらい、馬子は40才すこし前、聖徳大子は15・6才だったことになる。  
内紛のはじまり
馬子の後を継いで大臣の地位についていた蝦夷は、推古の死で蘇我氏にとっての第二の破局に直面する。天皇の後継者をめぐる争いが再燃したのだ。推古の遺志は、敏達天皇と広姫の孫・田村皇子を跡継ぎにということだったらしい。けれど、遺言はそれほど明確なものではなかった。馬子の弟つまり蝦夷の叔父・境部摩理勢は聖徳太子の子供・山背皇子を天皇に推して、田村皇子を戴こうとする蝦夷と鋭く対立する。
これは、蘇我のどの家系とも血のつながりの強い山背皇子を天皇にたてて蘇我氏全体の立場を守ろうという摩埋勢の方針と、本宗家と天皇の関係を常に卓越したものとしておこうという蝦夷の思惑との衝突だったと考えるのが一番自然だろう。
さらに言えぱ、馬子亡きあと蘇我氏の長老の位置にあった境部摩理勢と、本家の甥・蝦夷との相譲れないプライドの問題もあったかもしれない。双方の言い分はどちらにももっともな理屈があり、双方の勢力も拮抗していたのだろう。群臣の意見も二つに分かれて纏まりがつかない。この時ちょうど、蘇我の諸家は共同して馬子の墓を造っていた。摩理勢は墓所の仕事場から引き上げて、本宗家の方針を批判。さらに聖徳太子の一族・上宮王家との連携を強める姿勢をしめす。
族長の蝦夷は、40年前の馬子のひそみに倣って強行手段にうったえ、言うことをきかない境部摩埋勢とその息子たちを殺してしまう。結局、蝦夷が武力にものをいわせて反対派を黙らせた後、田村皇子が即位して舒明天皇となった。舒明の皇后は宝皇女、二人の間の子供に葛城皇子(中大兄)と大海人皇子がいる。馬子の娘・法提郎媛が夫人となり古人皇子(大兄)を生む。
蝦夷は大臣として馬子の地位を継ぎ、本宗家はその方針をつらぬいて権力の座を確保したかのようにみえる。しかし、第一の破局の時と情勢は大きく違っていた。馬子の場合は物部氏を倒すことによって唯一といってもいい対抗勢力を取り除き、蘇我一族の結束を固めることができた。馬子には、口うるさい金持ちの叔父さんたちもおらず、弟たちは兄の力が強くなれぱ自分たちの地位もあがることをよく心得ていた。
蝦夷の場合、境部臣を片付けても対抗者を一掃したことにはならなかった。馬子の兄弟は、既にそれぞれが有力な貴族として一家をなしているのだ。その一つを仇敵のように攻め滅ぼすという強引なやりかたは、一族内に大きな不満と危機感とを残したに違いない。境部を倒した蝦夷の一撃は、蘇我氏のまとまりに深刻なひぴ割れをつくって、馬子の下で一枚岩の結束を誇っていた強大な蘇我の力に分裂のきざしが見えはじめる。
舒明天皇は仮宮とはいえ、一時、田中臣の本拠、田中に宮殿をうつしている。また、舒明の大療に際して、誅をしたのは法提郎媛の子・古人大兄ではなく葛城皇子だったいう。
どうやら、舒明朝を通じて何もかもが蘇我本宗家の思い通りに動いていたわけではないようだ。蘇我氏の内紛と、これを睨んだ王家、他豪族の水面下の動きが渦巻く中で、舒明天皇13年の在位は終わりを告げる。  
第三の破局
629年舒明が死に、后の宝皇女が即位して大波乱をふくんだ皇極朝4年の幕が開く。この頃には病気がちの大臣・蝦夷はすでにひきこもりぎみで、政治の実権は入鹿に移ろうとしていた。皇極2年の「蘇我入鹿臣・・・古人大兄をたてて天皇とせむとす」という記事を見るまでもなく、本宗家がここで身内の古人皇子を天皇にして、立場を固めたいと望んでいたことは明白たろう。しかし、どういう事情からかその願いは実現しなかった。一族内の亀裂がさらに広がることを恐れた蝦夷が、古人擁立を見送った可能性も十分考えられる。間題の決着を棚上げする形で皇極が登位したものの、後継者をめぐる部族間の争いは、時が経つにつれますます複雑になっていく。
本人の意思はさておきこの時点では、山背大兄、古人大兄、中大兄と三人の有力な次期天皇候補がいる。皇極の弟・軽皇子も加えると四人ということになるが、単純に図式化してしまえば、蘇我の諸分家は山背を後援、蝦夷・入鹿は古人を推し、いままで脇役の地位の甘んじていた旧勢力代表の中臣氏は中大兄に将来を賭けようというところだ。
本宗家側は、思うに任せないことの成り行きに焦っていたのだろう。さしあたって、蝦夷・入鹿は権力を誇示する行動にでる。日本書紀皇極元年の条はこういっている。「大臣の子供の入鹿が国の政務を執って、その威令は父親を凌いでいた。そのため、盗賊は怖れをなし、道に落ちているものを拾おうともしなかった」と。また同じ年、蝦夷は葛城に祖先を祭る廟をつくり、中国の天子の特権とされる八併舞を奉納。さらに全国から大勢の人夫を徴集し、大々的に蝦夷・入鹿親子の寿陵の建設にかかる。こういった大デモンストレーションともいえそうな動きは、あまり評判が良くなかったらしい。
やがて、天皇後継問題に決着をつけようと、入鹿は乾坤一槨、蘇我本宗家の伝統ともいえる武力行使に踏み切る。とうとう事態は第三の破局を迎え、急速に大団円・木宗家の終末へと動きはじめることになる。皇極3年(644)11月、入鹿は配下に命じて、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃ざせた。山背はいったんは家族を連れて宮殿を脱出し、生駒山中に難をのがれる。これに従った三輪君は、東国の領土に入って兵を集め入鹿を討とうと勧めるが、山背は戦闘を望まなかった。蘇我の諸分家がどういう対応をとるのか、情勢はひどく緊追していたのだろう。自ら出陣して山背大兄を殺そうとした入鹿は、古人のやたらに出歩くと危ないという忠告をきいて家に止まり、将軍たちを遣わして山背の行方を追わせる。山背大兄は結局斑鳩寺に戻り、入鹿の軍勢に包囲されると一族もろともに自殺する途を選ぷ。
おそらく、入鹿は時宣を待とうという蝦夷の方針に反して山背を攻撃している。蝦夷は山背大兄を殺しても間題は解決しないことを察知していたようで、ことの顛末を知って入鹿を愚かものと罵ったという。
かねてから情勢の分析を続けていた中大兄と中臣鎌子(鎌足)にして見れぱ、二つのことに気付かざるをえなかっただろう。一つは、蘇我諸分家と本宗家とは表立って鉾を交えこそしなかったものの、たいへん険悪なにらみ合いの状態にあるということ。
そしてもう一つは、中大兄がきわめて徴妙な立場に置かれたということだ。本人が天皇の地位を望もうと望むまいと、本宗家をこころよくく思わない勢力が中大兄を担ぎ出そうとするのは目に見えている。もし中大兄が本当に邪魔になるようなら、入鹿はどう動くだろうかこれまでの経緯をみれぱ、入鹿はいつでも最後の手段に訴える用意を整えていると考えておかねばなるまい。手をこまねいていれぱ殺される恐れがある。
馬子、蝦夷、入鹿の物語は、こうした状況に押し流されるように最後の幕を迎える。
軍勢同士の衝突では入鹿をうち倒すことは難しいかもしれない。しかし、強大な権威を握っていても、入鹿は朝廷内では孤立している。中大兄、中臣鎌子はひそかに入鹿の従兄弟・蘇我倉山田麻呂を味方にひきいれ、宮殿の中で無防備な入鹿を暗殺する計画を進めた。本宗家と敵対している蘇我の諸分家は入鹿の死を喜ぴこそすれ、複讐などの騒ぎをおこす気遣いはない。
皇極4年(645)6月、中大兄たちは、外国からの重要な便者が来たと偽って入鹿を飛鳥板蓋宮に呼ぴ出し、切り殺してしまう。蘇我氏全体の利権を代表する立場を、とうにほうりだしていた本宗家は、入鹿という跡継ぎを失ったとたんに、その優勢な武力を結集して守るべき何ものもない状態に直面したのだろう。蝦夷は抵抗をあきらめて自殺、本宗家はあっけなく滅亡してしまう。こうして飛鳥の臭雄・蘇我三代の時代はおわった。
入鹿の後ろ楯をなくした古人大兄は譲位の申し出を固辞、皇極の異母弟・軽皇子が即位して考徳天皇となり、皇太子の地位に座った中大兄が政治の主導権を握る。もちろん、考徳朝の右大臣の蘇我倉山田石川麻呂の例、天智朝の左大臣になった馬子の孫にあたる蘇我赤兄の例をみても明らかなように、蘇我氏の諸家はまだ政府の要職を占め続ける。
しかし、天皇を凌ぐような力をふるって外交・内政そして文化の全ての動きを左右するという意味での「蘇我氏の時代」は入鹿の死で幕を閉じる。  
まとめ
古墳時代の終りから飛鳥時代にかけての時期に、日本は一つの国家としての体裁を整えていく。わが国の社会の骨組みが、いわゆる日本風文化と呼ばれるようになる上着をまといはじめるのも、この時期のことと考えていいだろう。
日本の歴史が大きな転換期にさしかかり、新しい形をとろうとしていたこの時代に、国家の舵取り役として大活躍したのが蘇我氏だった。後代の日本文化に計り知れない影響を与えた仏教の導入に、蘇我氏が密接にかかわっていたことは言うまでもないだろう。6世紀の初め仏教はすでに渡来人を中心に信仰され、社会に根付こうとしていた。馬子はこれを国教とし、その最大の庇護者となる。建築・美術そして儀式など、仏教文化を集大成したお手本ともいえる大寺院も、蘇我氏の手で作られる。この島国に最初に建てられた本格的な寺院は、伽藍配置、規模、設計の精度などさまざまな面で、朝鮮半島各地の第一級の寺院に決して劣らないほどの完成度を持っていた。寺司には馬子の子供・善徳が任ぜられており、蘇我氏がこの寺院造営をいかに重要視していたかを窺い知ることができる。外国の最新技術・知識を総動員して作り上げられた飛鳥寺は、蘇我氏と朝鮮半島との強い繋がりとを示すと同時に、当時の日本が広い国際的視野を持ち合わせていたことを物語ってもいる。
石舞台と島庄(西国三十三所名所図絵)蘇我氏が、かって大伴氏の掌握していた外交の分野でも異彩を放ったのは当然のことともいえる。百済、新羅、高句麗の複雑な関係、巨大な統一国家を完成してゆく中国、激動する国際情報を一早くつかむと言う点で、蘇我氏に匹敵する者はありえなかったろう。
推古朝には隋との交渉がはじまり、中国の文物が直接日本に入ってくるようになった。こうした積極的な外国への働きかけも、蘇我氏の関与なしに実現したものとは思われない。
推古8年(600)と同31年(623)には境部臣が、対新羅派遣軍の大将軍に任命されている。馬子は外交交渉や政策の決定に関わるだけではなく、実際の軍事行動の面にも蘇我一族を責任者として参加させている。
皇極元年(642)の「蘇我大臣、畝傍の家にして、百斉の翹岐等を喚ふ。云々」つまり、大臣が個入的に外国使節をもてなす、といった日本書紀の記事が示すように、蘇我氏は最後まで外交上の待別な権限を主張していたのだろう。もっとも、入鹿は三韓の使者が来たという嘘で宮殿におぴき出され、殺されたというから、最後には本宗家の絶対的な外交権も、実質を失い空洞化していたのかも知れない。
内政についても、蘇我氏は渡来人の能力の助けを借りて国家の実務制度の整備・改卒を進めていった。日木書紀の記事をざっと並べてみよう。
舒明16年(555)「蘇我大臣稲目宿禰・・・等を遣わして古備の五郡に屯倉をおかせた」「備前の児島郡に屯倉をおかせた」「倭国の高市郡に遣わして大身狭屯倉、小身狭屯倉をおかせた」「紀国に海部屯倉を置く」。舒明30年(569)「(渡来人・王辰爾の甥の)膽津を遣わして白猪屯倉の人民の戸籍を作り直した」。
敏達3年〈574)「蘇我馬子大臣を古備国に遣わして白猪屯倉を拡張させた。戸籍を膽津に管理させた。」
推古15年(607)「倭国に、高市池・藤原池・肩岡池・菅原池を作る。山背国の栗隈(宇治付近)に、大きな水路を掘る。河内国に、戸刈池・依網池を作る。亦、国毎に屯倉を置く。」
といったように、蘇我氏の主導のもとに、朝廷の経済的基盤となる屯倉が全国に置かれ、農業用水の建設などの国家事業がおこなわれている。また、この時代に国家税収の基本になる、戸籍の制度が整えられていったこともわかる。
さらに、推古12年の冠位十二階や、その翌年の聖徳太子の十七条の憲法に象徴的に現われてくるように、法律制度の体系も次第に整備される。その細部は、蘇我氏を中核とした渡来系の官僚グループの手によって定められていったにちがいない。
こうした国の土台となる機構ができ上がっていく中で、国の歴史を纏め記述しようという試みがはじまる。これこそ、徐々に形作られてきた日本という国家の国としての意識が、成熟期を迎えたまぎれもない証拠だろう。日本書紀、推古28年(620)の条は「聖徳太子と鳴大臣(馬子)が相談して天皇・国記・・・公民等の本記をしるす」と言う。その後、入鹿の死を知った蝦夷は、この歴史の草稿に人を放って自殺を図る。草稿は危うく炎の中から助け出されるのだが、どうしたわけか宮廷ではなく、甘橿丘の本宗家の邸宅に置かれていたのだ。そうなると、このはじめての日本の歴史は、見方によっては蘇我氏のものだったと言うこともできるのではないだろうか。 
 
日本書紀 概説

 

『日本書紀』とは、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体をとる。全三十巻。系図一巻が付属したが失われた。 
■成立過程 
日本書紀成立の経緯
『古事記』と異なり、『日本書紀』にはその成立の経緯の記載がない。しかし、後に成立した『続日本紀』の記述により成立の経緯を知ることができる。『続日本紀』の養老4年5月癸酉条には、
「先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」とある。その意味は
「以前から、一品舍人親王、天皇の命を受けて日本紀の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」ということである(ここに、『日本書紀』ではなく『日本紀』とあることについては書名を参照)。
また、そもそもの編集開始の出発点は、天武天皇が川島皇子以下12人に対して、「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたことにあるとされる。
記紀編纂の要因
乙巳の変で中大兄皇子(天智天皇)は蘇我入鹿を暗殺する。 これに憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。 この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上する。 『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ「国記」は難を逃れ中大兄皇子(天智天皇)に献上されたとあるが、共に現存しない。 天智天皇は白村江の戦いの敗北で唐と新羅連合に敗北し記紀編纂の余裕はなかった。そのために『天皇記』や焼けて欠けてしまった「国記」に変わる古事記や日本書紀の編纂が天智天皇の弟である天武天皇の命により行われる。まずは稗田阿礼の記憶を元に古事記が編纂された。その後に焼けて欠けた歴史書や朝廷の書庫以外に存在した歴史書や伝聞を元に更に日本書紀が編纂された。
記述の信頼性
日本書紀は史料批判上の見地から信憑性に疑問符がつく記述をいくつか含んでいる、以下はその例を示す。
『隋書』、『晋書』との対応
中国の史書『晋書』安帝には、266年に倭国の関係記事があり、その後は5世紀の初めの413年(東晋・義熙9年)に倭国が貢ぎ物を献じたと記載がある。この間は中国の史書に記述がなく、考古学的文字記録はないことから、「謎の4世紀」と呼ばれている(4世紀後半以前の皇室の成立過程についてはヤマト王権の項を参照)。倭王武の上表文や隅田八幡神社鏡銘、千葉県稲荷台1号古墳出土の鉄剣銘文、埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘文などから、5世紀代には文字が日本で使用されていると考えられている。しかし、当時、朝廷内で常時文字による記録がとられていたかどうかは不明である。また『隋書』卷八十一・列傳第四十六 東夷には次のようにある。
「無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字」文字なく、ただ木を刻み縄を結ぶのみ。仏法を敬わば、百済に於いて仏経を求得し、初めて文字あり。
稲荷山古墳鉄剣銘文との対応
稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の発見により、5世紀中頃の雄略天皇の実在を認めた上で、その前後、特に仁徳天皇以降の国内伝承に一定の真実性を認めようとする意見も存在する。
金錯銘鉄剣からは、5世紀中頃の地方豪族が8世代にもわたる系図を作成していたことがわかる。その銘文には「意富比垝(オホヒコ)」から「乎獲居臣(ヲワケの臣)」にいたる8人の系図が記されており、「意富比垝(オホヒコ)」を記紀の第八代孝元天皇の第一皇子「大彦命」(四道将軍の一人)と比定する説がある。 また、川口勝康は「乎獲居(ヲワケ)」について、「意富比垝(オホヒコ)」の孫「弖已加利獲居(テヨカリワケ)」とし、豐韓別命は武渟川別の子と比定しているが、鉄剣銘文においては弖已加利獲居(テヨカリワケ)は多加利足尼の子であるとする。
『上宮記』『帝紀』『旧辞』『国記』『天皇記』との関連
聖徳太子による国史の成立以前にも各種系図は存在した。これらを基礎にして、継体天皇の系図を記した『上宮記』や、『古事記』、『日本書紀』が作られたとする説もある。仮に、推古朝の600年頃に『上宮記』が成立したとするなら、継体天皇(オホド王)が崩御した継体天皇25年(531年)は当時から70年前である。なお、記紀編纂の基本史料となった『帝紀』、『旧辞』は7世紀ごろの成立と考えられている。
『日本書紀』には、推古天皇28年(620年)に、「是歲 皇太子、島大臣共議之 錄天皇記及國記 臣 連 伴造 國造 百八十部并公民等本記」(皇太子は厩戸皇子(聖徳太子)、島大臣は蘇我馬子)という記録がある。当時のヤマト王権に史書編纂に資する正確かつ十分な文字記録があったと推定しうる根拠は乏しく、その編纂が事実あったとしても、口承伝承に多く頼らざるを得なかったと推定されている。なお、『日本書紀』によれば、このとき、聖徳太子らが作った歴史書『国記』・『天皇記』は、蘇我蝦夷・入鹿が滅ぼされたときに大部分焼失したが、焼け残ったものは天智天皇に献上されたという。
百済三書との対応
現代では、継体天皇以前の記述、特に、編年は正確さを保証できないと考えられている。それは、例えば、継体天皇の没年が記紀で三説があげられるなどの記述の複層性、また、『書紀』編者が、『百済本記』(百済三書の一つ)に基づき、531年説を本文に採用したことからも推察できる。
百済三書とは、『百済本記』・『百済記』・『百済新撰』の三書をいい、『日本書紀』に書名が確認されるが、現在には伝わっていない逸書である(『三国史記』の『百済本紀』とは異なる)。百済三書は、6世紀後半の威徳王の時代に、属国としての対倭国政策の必要から倭王に提出するために百済で編纂されたとみられ、日本書紀の編者が参照したとみられてきた。それゆえ、百済三書と日本書紀の記事の対照により、古代日朝関係の実像が客観的に復元できると信じられていた。三書の中で最も記録性に富むのは『百済本記』で、それに基づいた『継体紀』、『欽明紀』の記述には、「日本の天皇が朝鮮半島に広大な領土を有っていた」としなければ意味不通になる文章が非常に多く、また、任那日本府に関する記述(「百済本記に云はく、安羅を以て父とし、日本府を以て本とす」)もその中に表れている。
また、『神功紀』・『応神紀』の注釈に引用された『百済記』には、「新羅、貴国に奉らず。貴国、沙至比跪(さちひこ)を遣して討たしむ」など日本(倭国)を「貴国」と呼称する記述がある。山尾幸久は、これまでの日本史学ではこの「貴国」を二人称的称呼(あなたのおくに)と解釈してきたが、日本書紀本文では第三者相互の会話でも日本のことを「貴国」と呼んでいるため、貴国とは、「可畏(かしこき)天皇」「聖(ひじり)の王」が君臨する「貴(とうとき)国」「神(かみの)国」という意味で、「現神」が統治する「神国」という意識は、百済三書の原文にもある「日本」「天皇」号の出現と同期しており、それは天武の時代で、この神国意識は、6世紀後半はもちろん、「推古朝」にも存在しなかったとしている。
現在では、百済三書の記事の原形は百済王朝の史籍にさかのぼると推定され、7世紀末-8世紀初めに、滅亡後に移住した百済の王族貴族が、持ってきた本国の史書から再編纂して天皇の官府に進めたと考えられている。山尾幸久は、日本書紀の編纂者はこれを大幅に改変したとして、律令国家体制成立過程での編纂という時代の性質、編纂主体が置かれていた天皇の臣下という立場の性質(政治的な地位の保全への期待など)などの文脈を無視して百済三書との対応を考えることはできないとしている。このように日本書紀と百済記との対応については諸説ある。
書名
もとの名称が『日本紀』だったとする説と、初めから『日本書紀』だったとする説がある。
『日本紀』とする説は、『続日本紀』の上記養老四年五月癸酉条記事に、「書」の文字がなく日本紀と記載があることを重視する。中国では紀伝体の史書を「書」(『漢書』『後漢書』など)と呼び、帝王の治世を編年体にしたものを「紀」(『漢紀』『後漢紀』)と呼んでいた。この用法にならったとすれば、『日本書紀』は「紀」にあたるので、『日本紀』と名づけられたと推測できる。『日本書紀』に続いて編纂された『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』がいずれも書名に「書」の文字を持たないこともこの説を支持しているといわれる。この場合、「書」の字は後世に挿入されたことになる。
『日本書紀』とする説は、古写本と奈良時代・平安時代初期のように成立時期に近い時代の史料がみな『日本書紀』と記していることを重視する。例えば、『弘仁私記』序、『釈日本紀』引用の「延喜講記」などには『日本書紀』との記述がみられる。初出例は『令集解』所引の「古記」とされる。「古記」は天平10年(738年)の成立とされる。『書紀』が参考にした中国史書は、『漢書』・『後漢書』のように、全体を「書」としその一部に「紀」を持つ体裁をとる。そこで、この説の論者は、現存する『書紀』は中国の史書にあてはめると『日本書』の「紀」にあたるとして、『日本書紀』と名づけられたと推測する。
また、読みについても、「にほんしょき」なのか「にっぽんしょき」なのか、正確な答えは出されていない。当時、「やまと」と訓読されることもあった「日本」という語を、どのように音読していたかは不明であり、また、奈良・平安時代の文献に「日ほん」という記述があっても、濁音も半濁音もなかった当時の仮名遣いからは推測ができないからである。主な例として、岩崎小弥太は著書『日本の国号』(吉川弘文館、ISBN 4642077413)のなかで「にっぽんしょき」の説を主張している。この議論は未だに決着していないが、現在では一般的に「にほんしょき」が通用している。
なお、一部には『日本紀』と『日本書紀』を別の書と考える研究者もいる。『万葉集』には双方の書名が併用されている。
原資料
『日本書紀』の資料は、記事内容の典拠となった史料と、修辞の典拠となった漢籍類(『三国志』、『漢書』、『後漢書』、『淮南子』など)にわけられ、さらに、史料には以下のようなものが含まれると考えられている。
帝紀 / 旧辞 / 古事記 / 諸氏に伝えられた先祖の記録(墓記) / 地方に伝えられた物語(風土記) / 政府の記録 / 個人の手記(『伊吉連博徳書』、『難波吉士男人書』、『高麗沙門道顯日本世記』、(釈日本紀に挙げられている『安斗宿禰智徳日記』、『調連淡海日記』)) / 寺院の縁起 / 日本国外(特に、百済の記録(『百済記』、『百済新撰』、『百済本記』)) / その他
なお『日本書紀』によれば、推古天皇28年(620年)に聖徳太子や蘇我馬子に編纂されたとされる『天皇記』・『国記』の方がより古い史書であるが、皇極天皇4年(645年)の乙巳(いつし)の変とともに焼失した。『日本書紀』は本文に添えられた注の形で多くの異伝、異説を書き留めている。「一書に曰く」の記述は、異伝、異説を記した現存しない書が『日本書紀』の編纂に利用されたことを示すといわれている。また『日本書紀』では既存の書物から記事を引用する場合、「一書曰」、「一書云」、「一本云」、「別本云」、「旧本云」、「或本云」などと書名を明らかにしないことが多い。ただし、一部には、次に掲げるように、書名を明らかにしているものがあるが、いずれの書も現存しない。
『日本旧記』(雄略天皇21年〈477年〉3月) / 『高麗沙門道顯日本世記』(斉明天皇6年〈660年〉5月、斉明天皇7年〈661年〉4月、11月、天智天皇9年(669年)10月) / 『伊吉連博徳書』(斉明天皇5年〈659年〉7月、斉明天皇7年〈661年〉5月) / 『難波吉士男人書』(斉明天皇5年〈659年〉7月) / 『百済記』(神功皇后摂政47年〈247年〉4月、神功皇后摂政62年〈250年〉2月、応神天皇8年〈277年〉3月、応神天皇25年〈294年〉、雄略天皇20年〈476年〉) / 『百済新撰』(雄略天皇2年〈458年〉7月、雄略天皇5年〈461年〉7月、武烈天皇4年〈502年〉) / 『百済本記』(継体天皇3年〈509年〉2月、継体天皇7年〈513年〉6月、継体天皇9年〈515年〉2月、継体天皇25年〈531年〉12月、欽明天皇5年〈544年〉3月) / 『譜第』(顕宗天皇即位前紀) / 『晋起居注』(神功皇后摂政66年〈267年〉) 
■編纂方針 
『日本書紀』の編纂は国家の大事業であり、皇室や各氏族の歴史上での位置づけを行うという極めて政治的な色彩の濃厚なものである。編集方針の決定や原史料の選択は政治的に有力者が主導したものと推測されている。
文体・用語
『日本書紀』の文体・用語など文章上のさまざまな特徴を分類した研究・調査の結果によると、全三十巻のうち、巻第一・巻第二の神代紀と巻第二十八・二十九・三十の天武・持統紀の実録的な部分を除いた後の25巻は、大別してふたつにわけられるとされる。その一は、巻第三の神武紀から巻第十三の允恭・安康紀までであり、その二は、巻第十四の雄略紀から巻第二十一の用明・崇峻紀まである。残る巻第二十二・二十三の推古・舒明紀はその一に、巻第二十四の皇極紀から巻第二十七の天智紀まではその二に付加されるとされている。巻第十三と巻第十四の間、つまり、雄略紀の前後に古代史の画期があったと推測されている。
倭習による分類
『日本書紀』は純漢文体であると思われてきたが、森博達の研究では、語彙や語法に倭習(和習・和臭)が多くみられ、加えて使用されている万葉仮名の音韻の違いなどの研究からα群(巻第十四〜二十一、巻第二十四〜二十七)とβ群(巻第一〜十三、巻第二十二〜二十三、巻第二十八〜二十九)にわかれるとし、倭習のみられない正格漢文のα群を中国人(渡来唐人であり大学の音博士であった続守言と薩弘恪)が、倭習のみられる和化漢文であるβ群を日本人(新羅に留学した学僧山田史御方)が書いたものと推定している。またα群にも一部に倭習がみられるがこれは原資料から直接文章を引用した、もしくは日本人が後から追加・修正を行ったと推定されている。特に巻第二十四、巻第二十五はα群に分類されるにもかかわらず、乙巳の変・大化の改新に関する部分には倭習が頻出しており、蘇我氏を逆臣として誅滅を図ったクーデターに関しては、元明天皇(天智天皇の子)、藤原不比等(藤原鎌足の子)の意向で大幅に「加筆」された可能性を指摘する学者もいる。
『日本書紀』は欽明13年10月(552年)に百済の聖明王、釈迦仏像と経論を献ずるとしている。しかし、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』は欽明天皇の戊午年10月12日(同年が欽明天皇治世下にないため538年(宣化3年)と推定されている)に仏教公伝されることを伝えており、こちらが通説になっている。このように、『日本書紀』には改変したと推測される箇所があることがいまや研究者の間では常識となっている。
紀年・暦年の構成
那珂通世の紀年論
古い時代の天皇の寿命が異常に長いことから、『日本書紀』の年次は古くから疑問視されてきた。明治時代に那珂通世が、神武天皇の即位を紀元前660年に当たる辛酉(かのととり、しんゆう)の年を起点として紀年を立てているのは、中国の讖緯(陰陽五行説にもとづく予言・占い)に基づくという説を提唱した。三善清行による「革命勘文」で引用された『易緯』での鄭玄の注「天道不遠 三五而反 六甲爲一元 四六二六交相乗 七元有三變 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」から一元60年、二十一元1260年を一蔀とし、そのはじめの辛酉の年に王朝交代という革命が起こるとするいわゆる緯書での辛酉革命の思想によるという。この思想で考えると斑鳩の地に都を置いた推古天皇9年(601年)の辛酉の年より二十一元遡った辛酉の年を第一蔀のはじめの年とし、日本の紀元を第一の革命と想定して、神武の即位をこの年に当てたとされる。この那珂による紀年論は、定説となっている。
日本書紀の紀年がどのように構成されているか明らかにしようとする試みが紀年論で、様々な説がある。
元嘉暦と儀鳳暦
小川清彦の暦学研究によれば、『日本書紀』は完全な編年体史書で、神代紀を除いたすべての記事は、干支による紀年で記載されている。記事のある月は、その月の一日の干支を書き、それに基づいて、その記事が月の何日に当たるかを計算できる。
また、小川清彦は中国の元嘉暦と儀鳳暦の2つが用いられていることを明らかにした。神武即位前紀の甲寅年十一月丙戌朔から仁徳八十七年十月癸未(きび)朔までが儀鳳暦、安康紀三年八月甲申(こうしん)朔から天智紀六年閏十一月丁亥(ていがい)朔までが元嘉暦と一致するという。元嘉暦が古く、儀鳳暦が新しいにもかかわらず、『日本書紀』は、新しい儀鳳暦を古い時代に、古い元嘉暦を新しい時代に採用している。これは、二組で撰述したためと推測されている。
応神紀には『三国史記』と対応する記述があり、干支2順、120年繰り下げると『三国史記』と年次が一致する。したがって、このあたりで年次は120年古くに設定されているとされる。しかし、これも『三国史記』の原型となった朝鮮史書を参考にした記事だけに該当するもので、前後の日本伝承による記事には必ずしも適用されないし、その前の神功紀で引用される『魏志』の年次との整合性もない。
古事記の崩御年干支
一方、『古事記』は年次を持たないが文注の形で一部の天皇について崩御年干支が記される。『日本書紀』の天皇崩御年干支と、古い時代は一致しないが、
第27代 - 安閑天皇(乙卯、安閑天皇4年〈535年〉) / 第31代 - 用明天皇(丁未、用明天皇2年〈587年〉) / 第32代 - 崇峻天皇(壬子、崇俊天皇5年〈592年〉) / 第33代 - 推古天皇(戊子、推古天皇36年〈628年〉)は一致する。
本文と一書(あるふみ)
本文の後に注の形で「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めている。中国では清の時代まで本文中に異説を併記した歴史書はなく、当時としては世界にも類をみない画期的な歴史書だったといえる。あるいは、それゆえに、現存するものは作成年代が古事記などよりもずっと新しいものであるという論拠ともなっている。
なお、日本書紀欽明天皇2年3月条には、分注において、皇妃・皇子について本文と異なる異伝を記した後、『帝王本紀』について「古字が多くてわかりにくいためにさまざまな異伝が存在するのでどれが正しいのか判別しがたい場合には一つを選んで記し、それ以外の異伝についても記せ」と命じられた事を記している。この記述がどの程度事実を反映しているのかは不明であるが、正しいと判断した伝承を一つだけ選ぶのではなく本文と異なる異伝も併記するという編纂方針が、現在みられる『日本書紀』全般の状況とよく合っていることはしばしば注目されている。
系図一巻
続日本紀にある日本書紀の完成記事には「紀卅卷系圖一卷」とあり、成立時の日本書紀には現在伝えられている三十巻の他に系図一巻が存在したと考えられている。日本書紀の「紀卅卷」が現在までほぼ完全に伝わっているのに対して系図は全く伝わっていない。弘仁私記にはこの系図について、「図書寮にも民間にも見えない」としてすでに失われたかのような記述があるが、鎌倉時代に存在する書物を集めた記録では「舎人親王撰 帝王系図一巻」とあり、このころまでは存在したとも考えられる。
「新撰姓氏録」には「日本紀合」という記述が散見されるが、現存の「日本書紀」に該当する記述が存在しない。これは失われた系図部分と照合したものであると考えられている。この「系図一巻」の内容については様々に推測されている。例えば日本書紀では初出の人物の系譜を記すのが通例なのに、系譜の記されない人物が若干存在するが、これらについては系図に記載があるために省略されたと考えられている。また、記紀ともに現存の本文には見えない応神天皇から継体天皇に至る系譜についてもこの失われた「系図1巻」は書かれていた可能性を指摘する説がある。
太歳(大歳)記事
『日本書紀』には各天皇の即位の年の末尾に「この年太歳(大歳)」としてその年の干支を記した記事があり、「太歳(大歳)記事」と呼ばれている。日本書紀が参考にした中国の史書にも「続日本紀」などのこれ以後の日本の史書にもこのような記事は無く、この記事の意義は不明である。ほとんどの天皇については即位元年の末尾にこの大歳記事があるが、以下のようにいくつか例外が存在する。このような例外が存在する理由については諸説があり、中には皇統譜が書き換えられた痕跡ではないかとする見解もあるが、広い賛同は得ていない。
神武天皇については東征を始めた年にあり、即位元年にはない。綏靖天皇については即位前紀の神武天皇崩御の年と自身の即位元年にある。神功皇后については摂政元年、摂政三九年、摂政六九年にある。継体天皇については元年と二五年にある。天武天皇については元年にはなく二年にある。 
諱と諡
天皇の名には、天皇在世中の名である諱(いみな)と、没後に奉られる諡(おくりな)とがある。現在普通に使用されるのは『続日本紀』に記述される奈良時代、天平宝字6年(762)〜同8年(764)、淡海三船による神武天皇から持統天皇までの41代、及び元明天皇・元正天皇へ一括撰進された漢風諡号であるが、『日本書紀』の本来の原文には当然漢風諡号はなく、天皇の名は諱または和風諡号であらわされている。
15代応神天皇から26代継体天皇までの名は、おおむね諱、つまり在世中の名であると考えられている。その特徴は、ホムタ・ハツセなどの地名、ササギなどの動物名、シラカ・ミツハなどの人体に関する語、ワカ・タケなどの素朴な称、ワケ・スクネなどの古い尊称などを要素として単純な組み合わせから成っている。 
■『日本書紀』目次 
巻第一、神代上(慶長勅版)卷第一 神代上(かみのよのかみのまき)
第一段、天地開闢と神々 天地のはじめ及び神々の化成した話
第二段、世界起源神話の続き
第三段、男女の神が八柱、神世七世(かみのよななよ)
第四段、国産みの話
第五段、黄泉の国、国産みに次いで山川草木・月日などを産む話(神産み)
第六段、アマテラスとスサノオの誓約 イザナギが崩御し、スサノオは根の国に行く前にアマテラスに会いに行く。アマテラスはスサノオと誓約し、互いに相手の持ち物から子を産む。
第七段、天の岩戸スサノオは乱暴をはたらき、アマテラスは天の岩戸に隠れてしまう。神々がいろいろな工夫の末アマテラスを引き出す。スサノオは罪を償った上で放たれる。(岩戸隠れ)
第八段、八岐大蛇 スサノオが出雲に降り、アシナヅチ・テナヅチに会う。スサノオがクシイナダヒメを救うためヤマタノオロチを殺し、出てきた草薙剣(くさなぎのつるぎ)をアマテラスに献上する。姫と結婚し、オオナムチを産み、スサノオは根の国に行った。大己貴神(おおあなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)
卷第二 神代下(かみのよのしものまき)
第九段、葦原中国の平定、オオナムチ父子の国譲り、ニニギの降臨、サルタヒコの導き、ヒコホホデミらの誕生。(葦原中国平定・天孫降臨)
第十段、山幸彦と海幸彦の話
第十一段、神日本盤余彦尊(かむやまといはれびこのみこと)誕生
[ 卷第三より以降の漢風諡号は、『日本書紀』成立時にはなく、その後の人が付け加えたものと推定されている。]
卷第三
神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)神武天皇
東征出発 / 五瀬命の死 / 八咫烏 / 兄猾(えうかし)、弟猾(おとうかし)  / 兄磯城(えしき)、弟磯城(おとしき) / 長髄彦と金し / 宮殿造営 / 橿原即位
卷第四
綏靖天皇〜開化天皇
神渟名川耳天皇(かむぬなかはみみのすめらみこと)綏靖天皇
磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)安寧天皇
大日本彦耜友天皇(おほやまとひこすきとものすめらみこと)懿徳天皇
観松彦香殖稲天皇(みまつひこすきとものすめらみこと)孝昭天皇
日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)孝安天皇
大日本根子彦太瓊天皇(おほやまとねこひこふとにのすめらみこと)孝霊天皇
大日本根子彦国牽天皇(おほやまとねこひこくにくるのすめらみこと)孝元天皇
稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおほひひのすめらみこと)開化天皇
卷第五
御間城入彦五十塑殖天皇(みまきいりびこいにゑのすめらみこと)崇神天皇
天皇即位 / 大物主大神を祀る / 四道将軍 / 御肇国天皇の称号 / 神宝
卷第六
活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)垂仁天皇
即位 / 任那、新羅抗争の始まり / 狭穂彦王の謀反 / 角力の元祖 / 鳥取の姓 / 伊勢の祭祀 / 野見宿祢と埴輪 / 石上神宮 / 天日槍と神宝 / 田道間守
卷第七
大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)景行天皇
天皇即位 / 諸賊、土蜘蛛 / 熊襲征伐 / 日本武尊出動 / 日本武尊の再生征 / 弟橘媛 / 日本武尊病没
稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと)成務天皇
天皇即位と国、県の制
卷第八
足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)仲哀天皇
天皇即位 / 熊襲征伐に神功皇后同行 / 神の啓示
卷第九
気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)神功皇后
神功皇后の熊襲征伐 / 新羅出兵 / 麛坂皇子、忍熊王の策謀 / 誉田別皇子(ほむたわけのみこ)の立太子 / 百済、新羅の朝貢 / 新羅再征
卷第十
誉田天皇(ほむだのすめらみこと)応神天皇
天皇の誕生と即位 / 武内宿祢に弟の提言 / 髪長媛(かみながひめ)と大さざきの命 / 弓月君、阿直岐、王仁 / 兄媛の歎き / 武庫の船火災
卷第十一
大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)仁徳天皇
菟道稚郎子の謙譲とその死 / 仁徳天皇の即位 / 民の竈の煙 / 池堤の構築 / 天皇と皇后の不仲 / 八田皇女の立后 / 鷹甘部(たかかいべ)の定め / 新羅、蝦夷などとの抗争
卷第十二
去来穂別天皇(いざほわけのすめらみこと)履中天皇
仲皇子(なかつみこ)黒媛を犯す / 磐余(いわれ)の稚桜宮(わかさくらのみや)
瑞歯別天皇(みつはわけのすめらみこと)反正天皇
卷第十三
雄朝津間稚子宿禰天皇(をあさづまわくごのすくねのすめらみこと)允恭天皇
即位の躊躇 / 闘鶏(つげ)の国造り / 氏、姓を糾す / もがりの玉田宿祢(たまたのすくね)と最古の地震記録 / 衣通郎姫(そとおしのいらつめ) / 阿波の大真珠 / 木梨軽皇子と妹
穴穂天皇(あなほのすめらみこと)安康天皇
木梨軽皇子の死 / 大草香皇子の災厄
卷第十四
大泊瀬幼武天皇(おほはつせのわかたけるのすめらみこと)雄略天皇
眉輪王の父の仇 / 市辺押磐皇子を謀殺 / 即位と諸妃 / 吉野の猟と宍人部の貢上 / 葛城の一事主 / 嶋王(武寧王)誕生 / 少子部(ちいさこべ)スガル / 吉備臣(きびのおみ)たち / 今来(いまき)の才伎(てひと) / 高麗軍の撃破 / 新羅討伐 / 月夜の埴輪馬 / 鳥養部(とりかいべ)、韋那部(いなべ) / 根使王(ねのおみ)の科(とが) / 秦のうずまさ / 朝日郎 / 高麗、百済を降ろす / 天皇の遺言
第十五
白髪武広国押稚日本根子(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)清寧天皇
星川皇子の叛 / 天皇の即位と億計(おけ)、弘計(をけ)の発見 / 飯豊皇女
弘計天皇(をけのすめらみこと)顕宗天皇
弘計、億計兄弟の苦難 / 二皇子身分を明かす / 皇位の譲り合い / 弘計王の即位 / 老婆置目の功績 / 復讐の思い / 任那、高麗との通交
億計天皇(おけのすめらみこと)仁賢天皇
億計天皇の即位 / 日鷹吉士高麗に使す
卷第十六
小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせのわかさざきのすめらみこと)武烈天皇
影媛(かげひめ)としび / 武烈天皇の暴逆
卷第十七
男大述天皇(おほどのすめらみこと)継体天皇
継体天皇の擁立 / 那四県の割譲 / こもん帯沙(たさ)をめぐる争い / 磐井の反乱 / 近江野毛の派遣 / 近江野毛の死 / 継体天皇の崩御
卷第十八
広国押武金日天皇(ひろくにおしたけかなひのすめらみこと)安閑天皇
天皇即位と屯倉の設置 / 大河内味張の後悔 / 武蔵国造の争い及び屯倉
武小広国押盾天皇(たけをひろくにおしたてのすめらみこと)宣化天皇
那津(筑紫)宮家の整備
卷第十九
天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにはのすめらみこと)欽明天皇
秦大津父(はたのおおつち) / 大伴金村の失脚 / 聖明王(せいめいおう)、任那(みまな)復興の協議 / 任那日本府の官人忌避 / 任那復興の計画 / 日本への救援要請 / 仏教公伝 / 聖明王の戦死 / 任那の滅亡 / 伊企なの妻大葉子 / 難船の高麗使人
卷第二十
渟中倉太珠敷天皇(ぬなかくらのふとたましきのすめらのみこと)敏達天皇
烏羽(からすば)の表 / 吉備海部直難波の処罰 / 日羅の進言 / 蘇我馬子の崇仏 / 物部守屋の排仏
卷第二十一
橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)用明天皇
用明即位 / 三輪逆の死 / 天皇病む
泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)崇峻天皇
穴穂部皇子の死 / 物部守屋敗北と捕鳥部万 / 法興寺の創建 / 天皇暗殺
卷第二十二
豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)推古天皇
額田部皇子(ぬかたべのひめみこ) / 聖徳太子の摂政 / 新羅征伐 / 地震で舎屋倒壊、地震の神の祭 / 冠位十二階の制定と憲法十七条 / 名工鞍作鳥 / 遣隋使 / 菟田野(うだの)の薬猟(くすりがり) / 太子と飢人 / 聖徳太子の死 / 新羅征伐の再開 / 寺院僧尼の統制 / 蘇我馬子の葛城県(あずらのあがた)の要請とその死 / 天皇崩御
卷第二十三
長足日広額天皇(おきながたらしひひぬかのすめらみこと)舒明天皇
皇嗣問題難航 / 山背大兄王の抗議 / 境部麻理勢(さかいべのまりせ)の最期 / 天皇の即位 / 遣唐使 / 災異多発
卷第二十四
天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらのみこと)皇極天皇
皇后即位 / 百済と高句麗の政変 / 異変頻発 / 上宮大娘(かみつみやのいらつめ)の怒り / 蘇我入鹿、斑鳩急襲 / 中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と中臣鎌子(なかとみのかまこ) / 謡歌流行 / 秦河勝と常世の神 / 蘇我蝦夷、入鹿の滅亡
卷第二十五
天万豊日天皇(あめよろづとよひのすめらみこと)孝徳天皇
皇位の互譲 / 新政権の発足 / 東国国司の派遣 / 鐘櫃及び男女の法 / 古人大兄の死 / 大化の改新の詔 / 鐘櫃の反応 / 朝集使 / 厚葬と旧俗の廃止 / 品部(しなじなのとものお)の廃止 / 新冠位制 / 蘇我倉山田麻呂(そがのくらのやまだのまろ) / 白雉の出現 / 皇太子、飛鳥に移る
卷第二十六
天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)斉明天皇
斎明天皇重祚 / 岡本宮造営 / 阿倍比羅夫の遠征 / 有馬皇子の変 / 伊吉博徳の書 / 安倍臣と粛慎(みしはせ) / 百済滅亡と遺臣 / 西征と天皇崩御
卷第二十七
天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)天智天皇
救援軍渡海 / 白村江の戦い / 冠位の増設 / 西海防備 / 近江遷都と天智天皇の即位 / 藤原鎌足の死 / 大友皇子(おおとものみこ)太政大臣に / 天智天皇崩御
卷第二十八
天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみことのかみのまき)天武天皇[上]
大海人皇子(おおあまのみこ)吉野入り / 挙兵決意 / 東国への出発 / 近江朝廷の対応 / 大伴吹負の奇計 / 大津京陥落 / 大和の戦場 / 大海人皇子の大和回復
卷第二十九
天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみことのしものまき)天武天皇[下]
天武天皇即位 / 広瀬、竜田の神祭り / 論功行賞と和漢氏 / 筑紫大地震 / 吉野の会盟 / 律令編纂と帝紀の記録 / 銀の停止と銅銭使用の令 / 服装その他の改定 / 八色の姓と新冠位制 / 諸国大地震と伊予温泉停止、土佐の田畑海没 / 天皇の発病と崩御
卷第三十
高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)持統天皇
皇后称制 / 大津皇子の変 / もがりの宮、国忌 / 天武天皇の葬送 / 草壁皇子の死 / 浄御原令の施行 / 持統天皇の即位 / 朝服礼儀の制 / 捕虜博麻(はかま)の帰還 / 食封(へひと)の加増 / 藤原宮造営 / 大三輪高市麻呂の諫言と伊勢行幸 / 班田大夫(たたまえのまえつきみ)の派遣 / 益須(やす)のこさけの泉 / 金光明経 / 藤原宮に遷る / 天皇譲位 
書紀講筵と書紀古訓
『日本書紀』は歌謡部分を除き、原則として純粋漢文で記されているため、そのままでは日本人にとっては至極読みづらいものであった。そこで、完成の翌年である養老5年(721年)には早くも『日本書紀』を自然な日本語で読むべく、宮中にて時の博士が貴族たちの前で講義するという機会が公的に設けられた。これを書紀講筵(こうえん)という。開講から終講までに数年を要する長期講座であり、承平年間に行なわれた講筵などは、天慶の動乱のために一時中断したとは言え、終講までに実に七年を要している。代々の講筵の記録は聴講者の手によって開催された年次を冠する私記(年次私記)の形でまとめられるとともに、『日本書紀』の古写本の訓点(書紀古訓)として取り入れられた。
以下に過去の書紀講筵(年次は開講の時期)の概要を示す。
養老五年(721年)博士は太安万侶。私記は現存しないが、現存『弘仁私記』および一部の書紀古写本に「養老説」として引用の形で見える。弘仁四年(813年)博士は多人長。唯一、成書の形で私記が現存する(いわゆる私記甲本)が、書紀古写本(乾元本神代紀)に「弘仁説」として引用されている『弘仁私記』(和訓が万葉仮名で表記され上代特殊仮名遣も正確)と比べると、現在の伝本(和訓の大半が片仮名表記)は書写の過程ではなはだしく劣化したものであり、原型をとどめていないと見られる。承和六年(839年)博士は菅野高平(滋野貞主とも)。私記は現存しない。元慶二年(878年)博士は善淵愛成。私記は現存しないが、卜部兼方の『釈日本紀』に「私記」として引用されているのはこれではないかと言われている。私記作者は矢田部名実か。延喜四年(904年)博士は藤原春海。私記作者は矢田部公望。私記は現存しないが、『和名類聚抄』に「日本紀私記」として、また卜部兼方の『釈日本紀』に「公望私記」として、それぞれ引用されている。承平六年(936年)博士は矢田部公望。現在断片として伝わっている私記丁本がその私記であると推測されている。康保二年(965年)博士は橘仲遠。私記は現存しない。
なお、書紀古写本には単に「私記説」という形で引用されているものも多い。これらは上記年次私記のいずれかに由来すると思われるが、特定はできない。その他にも、書紀古写本に見られる声点付きの傍訓は何らかの由緒ある説に基づくと見られるから、上記私記の末裔である可能性がある。
ちなみに、現在成書の形で存在する『日本紀私記』には、上述した甲本・丁本の他に、僚巻と見られる乙本(神代紀に相当)と丙本(人代紀に相当)の二種類が存するが、こちらはある未知の書紀古写本から傍訓のみを抜き出し、適宜片仮名を万葉仮名に書き換えてそれらしく装ったもの(時期は院政〜鎌倉期か)と推定されており、いわゆる年次私記の直接の末裔ではない。 
竟宴和歌
元慶の講筵から、終講の際に竟宴が行なわれ、「日本書紀」に因む和歌が詠まれた。歌題は、神、王、英雄、貴族などであった。元慶、延喜、承平の講筵の竟宴和歌が「日本紀竟宴和歌(にほんぎきょうえんわか)」(943年(天慶6年)成立)に編纂された。 
 
日本書紀

 

神代 [上] 
第一段 世界のはじまり
古天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子、溟A而含牙。及其C陽者、薄靡而爲天、重濁者、淹滯而爲地、精妙之合搏易、重濁之凝竭難。故天先成而地後定。然後、神聖生其中焉。故曰、開闢之初、洲壞浮漂、譬猶游魚之浮水上也。于時、天地之中生一物。狀如葦牙。便化爲神。號國常立尊。至貴曰尊。自餘曰命。並訓美舉等也。下皆效此。次國狹槌尊。次豐斟渟尊。凡三神矣。乾道獨化。所以、成此純男。
昔、まだ天と地が分かれておらず陰と陽が分かれておらず混沌としていて鶏の卵のようでした。そこにほんのちょっと兆しがありました。その澄んで明るいものは薄く広がって天となりました。重く濁ったものは地となりました。
天となるものは動きやすく地となるものは固まりにくかったのです。なので天が先に生まれ、次に地が固まりました。その後、その中に神が生まれました。
世界が生まれたとき国は漂っていました。それは魚が水に浮かんでいるようでした。
天地の中に一つのものが生まれました。アシの芽に似ていました。
國常立尊(クニノトコタチノミコト)です。(とても尊いものを「尊(ミコト)」と書きます。そのほかは「命(ミコト)」と書きます)
次に國狹槌尊(クニノサツチノミコト)、次に豐斟渟尊(トヨクムヌノミコト=トヨクモノミコト)が生まれました。
これらの三柱は対となる配偶者の居ない男神でした。
古事記の対応箇所 / 天地開闢と造化三神の登場 / 特別な五柱の天津神
陰と陽
中国の陰陽思想が混じっています。陽は「清らかで澄んでいるもの」、陰は「重く濁った暗黒の気」。というと陰陽は善悪という分け方、のような気がしますが、陰と陽は互いを補完する関係で、対となるものが無ければ存在も出来ない関係です。一元の善とは違うってのが味噌です。
道教
陰陽は道教の考え方の一つ。道教が日本に入ってきたのは3-4世紀頃(三角縁神獣鏡から推測)。つまり神功皇后が朝鮮征伐を行い、百済から中国の文化が流入してきた頃。もしくは卑弥呼の時代。ところが道教の思想はあまり日本には馴染まなかった。結局断片的なものが入ってきたものの、強い影響を残すことはなかった…というのがとりあえずの一般的な考え。
三角縁神獣鏡は中国では似たものも出土されていない。日本オリジナル。
卑弥呼は中国に朝貢していたのでつながりがあった。そこから思想が入った可能性。魏志倭人伝に卑弥呼は「鬼道」を使う、とある。鬼道は「呪術」とする場合もあるが、「道教」とする説も。 
第一段 天地が分かれて、その虚空に
一書曰、天地初判、一物在於虛中。狀貌難言。其中自有化生之~。號國常立尊。亦曰國底立尊。次國狹槌尊。亦曰國狹立尊。次豐國主尊。亦曰豐組野尊。亦曰豐香節野尊。亦曰浮經野豐買尊。亦曰豐國野尊。亦曰豐囓野尊。亦曰葉木國野尊。亦曰見野尊。 
ある書によると……天地が分かれて、その虚空に何かがありました。その形を表現することは難しいようなものでした。その中に神が現れました。
国常立尊(クニノトコタチ)です。別名を国底立尊(クニノソコタチ)と言います。
次に国狭槌尊(クニノサツチ)。別名を国狭立尊(クニノサタチ)です。
次に豊国主尊(トヨクニヌシ)です。別名を豊組野尊(トヨクムノ)です。またの別名を豊香節野尊(トヨカフシノ)です。またの別名を浮経野豐買尊(ウカフノノトヨカヒ)です。またの別名を豐国野尊(トヨクニノ)です。またの別名を葉木国野尊(ハコクニノ)です。またの別名を見野尊(ミノ)です。
古事記の対応箇所 / 天地開闢と造化三神の登場 / 特別な五柱の天津神 / 神世七代
登場神様のまとめ
国常立尊クニノトコタチ / 国底立尊クニノソコタチ / 国狭槌尊クニノサツチ / 国狭立尊クニノサタチ / 豊国主尊トヨクニヌシ / 豊組野尊トヨクムノ / 豊香節野尊トヨカフシノ / 浮経野豐買尊ウカフノノトヨカヒ / 豐国野尊トヨクニノ / 葉木国野尊ハコクニノ / 国見野尊クニミノ 
ややこしいようですが、実質神様は三柱しか出ていません。ほとんどが「別名」です。これだけの多くの名前があるということは、それだけ豊かな神話があったということ、かもしれませんし、単に編纂時の権力者の都合かもしれません。
日本書紀の編纂時はまだ天皇の権力は曖昧だったとされていて、中央集権国家をなすには至っていませんでした。 
第一段 葦の芽が生えるように
一書曰、古國稚地稚之時、譬猶浮膏而漂蕩。于時、國中生物。狀如葦牙之抽出也。因此有化生之~。號可美葦牙彦舅尊。次國常立尊。次國狹槌尊。葉木國、此云播舉矩爾。可美、此云于麻時。 
ある書によると……昔、国も地も出来上がっていないときは、例えるならば水に浮かぶ油のように漂っていました。
その時、その国の中から、葦の芽が生えるように、一つの物が生まれました。そうして生まれた神を可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコヂ)と言いました。
次に生まれたのがクニノトコタチ尊。次がクニノサツチ尊。
葉木国(ハコクニ)を「播舉矩爾(ハコクニ)」といい、可美(ウマシ)を「于麻時(ウマジ)」という。
古事記の対応箇所 / 天地開闢と造化三神の登場 / 特別な五柱の天津神 
水に浮かぶ油のよう、という表現は秀逸な感じがします。古事記では「クラゲが漂うよう(特別な五柱の天津神)」という表現がありました。古事記の編纂者と日本書紀のこの段の編纂者が同じ人物でないならば、「日本人にとっての世界のはじまり」に共通のイメージがあったことになります。日本人にとって世界は海に浮かぶもの。陸地などは海に囲まれているもの。日本人の世界観が大陸由来ではないことが分かります。 
第一段 初めに「神人」が居ました
一書曰、天地混成之時、始有~人焉。號可美葦牙彦舅尊。次國底立尊。彦舅、此云比古尼。 
ある書によると……天地が混沌としていたとき、初めに「神人」が居ました。名前は可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコヂ)です。次に国底立尊(クニノソコタチ)です。彦舅(ヒコヂ)を比古尼(ヒコジ)と言います。
古事記の対応箇所 / 天地開闢と造化三神の登場 / 特別な五柱の天津神 
この書では、これまで三柱だった神が二柱にリストラ。ウマシアシカビとクニノソコタチのみです。ウマシアシカビは「第一段一書(二)葦の芽が生えるように」から登場。クニノソコタチはクニノトコタチと同一と考えるならば「第一段本文世界のはじまり」から。ウマシアシカビが「葦の生える豊かさ」、クニノソコタチが国土そのものと考えると、「天」というニュアンスが薄い。また「神人」が天地が分かれたときに生まれていて、その神がウマシアシカビだというならば、ウマシアシカビが世界の中心になります。「葦」がいかに日本人にとって「特別」な植物だったか分かります。 
第一段 高天原に生まれた神
一書曰、天地初判、始有倶生之~。號國常立尊。次國狹槌尊。又曰、高天原所生~名、曰天御中主尊。次高皇産靈尊。次~皇産靈尊。皇産靈、此云美武須毗。 
ある書によると……天地が初めに別れて、神が生まれた。それがクニノトコタチ尊次にクニノサツチ尊。また、高天原に生まれた神が天御中主尊(アメノミナカヌシ)です。次に高皇産靈尊(タカミムスビ)。次に神皇産靈尊(カミムスビ)です。
皇産靈(ミムスビ)は美武須毗(ミムスビ)といいます
古事記の対応箇所 / 天地開闢と造化三神の登場 / 特別な五柱の天津神 / 神世七代 
天地が分かれて生まれた神と、高天原に生まれた神は別の口伝なのか?それとも天地に別れたうちの天に生まれたという意味か。それはともかくとして、古事記に登場した最初の神であるアメノミナカヌシ・タカミムスビ・カミムスビが本文ではなく一書の4でやっと登場というのは、どういう意味を持つのか。 
第一段 海の上で根づくところが無いでいる浮雲
一書曰、天地未生之時、譬猶海上浮雲無所根係。其中生一物。如葦牙之初生埿中也。便化爲人。號國常立尊。 
ある書によると…天と地がまだ区別がつかないときのこと。それは例えるならば、海の上で根づくところが無いでいる浮雲のようだった。そこにひとつの物が生まれた。葦の芽が初めて泥の中から生えて来たようだった。やがて人の形となった。それがクニノトコタチ尊です。
古事記の対応箇所 / 天地開闢と造化三神の登場 / 特別な五柱の天津神 / 神世七代 
泥から生える葦がいかに日本人にとって魅力的な…というか魔力に満ちた存在か?と分かる。ところで、これまでの中でも「ひとつの物が生まれた」という表現があって、現代の私たちから見ると「神」を「物」と表現するのが何処か、味気ないというか、失礼な感じすらします。でも「物」とは「モノノケ」の物です。そもそも「物」には「霊」が宿るものという感覚が日本人にはあります。刀鍛冶の執着心が刀に宿ったものが「妖刀」となる、なんて設定の話をよく聞きます。長く使ったモノには愛着がわくものです。「物には魂が宿る」……それは日本人にとっては当たり前のことです。
擬人化
日本文化のおかしさ、妙なものの例として外国の人は「擬人化」を挙げます。最近ではウィンドウズなどのOSを擬人化します。またゆるキャラの多くは特産品の擬人化です。モノが魂を持つことを日本人はなんら不思議に思いません。かといっても、日本書紀での「物」が「神」というニュアンスを持っているわけではありません。物と神は繋がっていて、分けられないのです。岩や木に神がいると感じる日本人には「物」という表現は冷たい表現ではないってことです。 
第一段 空中に葦の芽と脂
一書曰、天地初判、有物。若葦牙、生於空中。因此化~、號天常立尊。次可美葦牙彦舅尊。又有物。若浮膏、生於空中。因此化~、號國常立尊。 
ある書によると……天地が分かれて何か物がありました。葦の芽が空中に生え、これが神となりました。これがアメノトコタチ尊です。次にウマシアシカビヒコヂ尊が生まれました。また物がありました。脂が空中に生まれ、それが神となりました。それがクニノトコタチ尊です。
古事記の対応箇所 / 天地開闢と造化三神の登場 / 特別な五柱の天津神 / 神世七代 
ここでは「空中」という要素が登場します。天と地があり、その中で生まれたものが「空中」に発生します。第一段一書(六)に限らず、第一段では「天」と「地」となっていて、上下の構造となっています。日本古来の世界観は「里→山(異界)」や「里→海→海の向こうの常世の国(異界)」という水平の世界観と思われるので、この天地の世界観は大陸から伝わったとよく言われます。
「第一段一書(二)葦の芽が生えるように」では天地という分け方は無く、国と地という別の価値観が提示されています。
「国」という言葉が「天」に対応しているのならば、単に「国」が「天」にすげ変わったのが「天地」で、「天」という思想は上下を表しているとは限らないかもしれません。
つまり天とは特定の集団や、特定の地域を挿しているか、連想させるものだったのではないでしょうか。それはつまり「高天原」でしょう。 
第二段と第三段 神代七代
第二段本文
次有~。埿土煑尊(埿土、此云于毗尼)。沙土煑尊(沙土、此云須毗尼)。亦曰埿土根尊・沙土根尊。次有~。大戸之道尊。一云、大戸之邊。大苫邊尊。亦曰大戸摩彦尊・大戸摩姬尊。亦曰大富道尊・大富邊尊。次有~。面足尊・惶根尊。亦曰吾屋惶根尊。亦曰忌橿城尊。亦曰青橿城根尊。亦曰吾屋橿城尊。次有~。伊弉諾尊・伊弉冉尊。
第三段本文
凡八~矣。乾坤之道、相參而化。所以、成此男女。自國常立尊、迄伊弉諾尊・伊弉冉尊、是謂~世七代者矣。 
次に現れた神は泥土煮尊(ウヒジニ)です。別名を埿土根尊(ウヒジネ)と言います。
次に現れた神は沙土煑尊(スヒジニ)です。別名を沙土根尊(スヒジネ)と言います。
次に現れた神は大戸之道尊(オオトノジ)です。一説によると大戸之邊(オオトノベ)とも言われます。
次に現れた神は大苫邊尊(オオトマベ)です。この二柱の神は別名を大戸摩彦尊(オオトマヒコ)と大戸摩姬尊(オオトマヒメ)と言います。また別名を大富道尊(オオトミヂ)と大富邊尊(オオトミベ)と言います。
次に現れた神は面足尊(オモタル)・惶根尊(カシコネ)といいます。別名を吾屋惶根尊(アヤカシコネ)、忌橿城尊(イミカシキ)、青橿城根尊(アオカシキネ)、吾屋橿城尊(アヤカシキネ)と言います。
次に現れたのが伊弉諾尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ)です。
これらの八柱の神は天の道と地の道が交わって生まれました。それで男女となっています。クニノトコタチ尊からイザナギ・イザナミまでを神代七代と呼びます。
古事記の対応箇所 / 神世七代 
古事記の「神世七代」に対応しています。
ここでは二段と三段をまとめています。三段に「天の道と地の道が交わって生まれたから男女の神となっている」とあるように、天と地があることが男女が生まれた理由づけとなっています。
中国の影響とは限らない
天と地が交わって生まれるという考えを「中国の陰陽思想の影響」と見ることが多いですが、天地の思想はそもそも神話ではよくある形なので、「中国から」というのは必ずしも正しいとは限らないです。
天と地は神話のステレオタイプ
同様の神話はエジプトや他の地域でもあります。珍しいものではありません。天から雨が降り、地に植物が生える。これを雨を精子と考えると、大地が妊娠して植物が生える、という図式になります。そして大地は地母神として崇められます。
エジプトの場合は地の神ゲブと天の女神ヌト。この場合天が女神となっている。
中国では伏羲と女媧。
ギリシャ神話ではガイア(地母神)が自らウラノス(天)を生み、この母子の間に生まれたのがティターン(タイタン=巨人)。ティターンの一人であるクロノスの子供がゼウス。
一神教では神が天も地も想像している。
日本では上記の男女の神の対が「イザナギとイザナミ」にあたるのかというと、ちょっと違う。天地は自然と別れ、その過程で神が生まれています。それとは別にイザナギとイザナミは日本を作り、八百万の神を生んでいるわけです。つまり天地が分かれることと、日本という島々を作った神が別々になるわけです。それは、複数の神話が重なっているためです。日本人は海洋民族で、地形上神々が最後に流れ着くところです。神話が重なることはむしろ自然です。
7日掛けて世界を作ったという聖書の創世記が有名ですが、それは第一章で、第二章にはアダムとイブが関わる別の創世記が語られます。神話はいくつもの神話が重なり出来上がるもので、多少の矛盾は消えていった(消されたというべきか)神話の残りがのようなものです。 
第二段と第三段の一書
第二段
一書曰、此二~、青橿城根尊之子也。
一書曰、國常立尊生天鏡尊。天鏡尊生天萬尊。天萬尊生沫蕩尊。沫蕩尊生伊弉諾尊。沫蕩、此云阿和那伎。
第三段
一書曰、男女耦生之~、先有埿土煑尊・沙土煑尊。次有角樴尊・活樴尊。次有面足尊・惶根尊。次有伊弉諾尊・伊弉冉尊。樴橛也。 
ある書によると、この二柱の神(イザナギとイザナミ)は青橿城根尊(アオカシキネ)の子供です。
ある書によると、クニノトコタチ尊は天鏡尊(アメカガミ)を生みました。天鏡尊が天万尊(アメノヨロズ)を生みました。天万尊が沫蕩尊(アワナギ)を生み、沫蕩尊がイザナギを生みました。沫蕩は阿和那伎(アワナギ)と言います
ある書によると……男女は並んで耕すように生まれた。先に埿土煑尊(ウヒジニ)・沙土煑尊(スヒジニ)があって、角樴尊(ツノクイ)・活樴尊(イククイ)が生まれました。次に面足尊(オモタル)・惶根尊(カシコネ)が生まれました。次にイザナギとイザナミが生まれました。樴は「杭(クイ)」です
古事記の対応箇所 / 神世七代 
古事記では神代七代の神々はかなり漠然とした存在で、名前だけしか出ていませんでしたが、イザナギとイザナミがアオカシキネ尊の子供だったり、イザナギがクニノトコタチの子孫にあたるという「人間っぽい」存在になっています。まぁ、日本の神話は十分人間臭いのですが。
クニノトコタチ(国)から、アメノカガミ(鏡)→アメノヨロズ(万)→アワナギ(泡)→イザナギと、天・鏡・国・海と後の神話の要素を強く含んだ系譜は面白い。ただしどういう意味かは分からないけど。 
第四段 大八洲の誕生
伊弉諾尊・伊弉冉尊、立於天浮橋之上、共計曰、底下豈無國歟、廼以天之瓊(瓊、玉也。此云努。)矛、指下而探之。是獲滄溟。其矛鋒滴瀝之潮、凝成一嶋。名之曰磤馭慮嶋。二神、於是、降居彼嶋、因欲共爲夫婦、産生洲國。便以磤馭慮嶋、爲國中之柱(柱、此云美簸旨邏。)而陽神左旋、陰神右旋。分巡國柱、同會一面。時陰神先唱曰、憙哉、遇可美少男焉。(少男、此云烏等孤。)陽神不ス曰、吾是男子。理當先唱。如何婦人反先言乎。事既不祥。宜以改旋。於是、二神却更相遇。是行也、陽神先唱曰、憙哉、遇可美少女焉(少女、此云烏等)。因問陰神曰、汝身有何成耶。對曰、吾身有一雌元之處。陽神曰、吾身亦有雄元之處。思欲以吾身元處、合汝身之元處。於是、陰陽始遘合爲夫婦。
及至産時、先以淡路洲爲胞。意所不快。故名之曰淡路洲。廼生大日本(日本、此云耶麻騰)。下皆效此。豐秋津洲。次生伊豫二名洲。次生筑紫洲。次雙生億岐洲與佐度洲。世人或有雙生者、象此也。次生越洲。次生大洲。次生吉備子洲。由是、始起大八洲國之號焉。卽對馬嶋、壹岐嶋、及處處小嶋、皆是潮沫凝成者矣。亦曰水沫凝而成也。 
イザナギとイザナミは天浮橋の上に立ち、話し合いました。「この下に国があるはずなのに、無い!」宝石(=玉)の飾りのついた天之瓊矛(アメノヌボコ)を挿しこんで、下の方を探ってみると、海が生まれました。その矛から滴り落ちた塩が、固まって島となりました。
その島を磤馭慮嶋(オノコロ島)と言います。
イザナギとイザナミはこの島に降りて、夫婦となって国を生もうとしました。そこでオノコロ島を國中之柱(クニナカノミハシラ)とし、その島をイザナギが左に、イザナミが右に回りました。国の柱を回って出会って顔を見合わせたときに、イザナミが先に「あなにえやうましおとこにあいつ」(あぁ、なんという素敵な男性に会ったのでしょう!)と言いました。
イザナギは面白くない顔をして言いました。「私は男子であり、先に私から言うべきことだ。女子が先に言うべきではない。これは良くないことだ。もう一度やり直そう」それでイザナギとイザナミは引き返して出会いなおしました。イザナギは今度は先に「あな、にえやうましおとめにあいつ」(あぁ、美しい乙女に出会えた!)と言いました。
それでイザナミに「お前の体はどうなっている?」と聞くと「私の体には『女の元(はじめ)の処』があります」と答えました。
イザナギは「私には『男の元(はじめ)の処』がある。私の体の元の処と、お前の体の元の処を合わせよう」と言いました。
この陰陽を初めて合わせて夫婦となりました。
まず淡路島がエナ(胎盤)として生まれたが、エナは不愉快なものなので、吾恥(=アワジ)と名付けました。
すぐに大日本豊秋津洲(オオヤマトトヨアキツシマ)が生まれました。
次に生まれたのが伊予二名洲(イヨノフタナシマ)が生まれました。
次に筑紫洲(ツクシシマ)が生まれました。
次に隠岐洲(オキノシマ)と佐渡洲(サドノシマ)の双子を生みました。人間が双子を生むことがあるのはこのためです。
次に越洲(コシノシマ)が生まれました。
次に大洲(オオシマ)が生まれました。
次に吉備子洲(キビコジマ)が生まれました。
以上、八つの島が生まれたのが大八洲国(オオヤシマグニ)の名の由来です。対馬島(ツシマ)、壱岐島や他のもろもろの島は潮の泡が固まったり、水の泡が固まって出来たものです。
古事記の対応箇所 / オノゴロ島誕生 / イザナギのプロポーズ / イザナギとイザナミ、初めての… / 失敗した原因究明 / 国産み / 細かい島を産む 
陽神と陰神
訳文ではイザナギとイザナミと書いていますが、本文には「イザナギ」「イザナミ」ではなく「陽神」「陰神」と書かれています。これは陰陽思想の影響と考えられます。
海も作っている!
古事記では日本を生んだというイザナギイザナミの夫婦ですが、冒頭でアメノヌボコを突っ込んで「海」を生みだしています。天と地から生まれた二柱は海を作った、ということになります。前段までの天地創造とイザナギ・イザナミの海を作り、日本を作る作業はおそらくは別の神話をつなぎ合わせたものと推察されます。
オノコロ島は柱
日本では神を数えるときに「柱」を使います。柱は大事な概念です。このオノコロ島が日本の柱ということはとても大事な存在のはず、なのですが、その具体的な場所は今もハッキリとは分かりません。
淡路島とエナ
赤ん坊は母親の胎盤に包まれて生まれます。この胎盤のことを「エナ」と言います。母と子を結ぶモノではありますが、ルックスから言っても気持ちのいいものではありません。日本では「血」はケガレとみられ、神聖な山や島が女人禁制になっているのは月経の血がケガレているからとも。そこで胎盤として排出された島を「吾恥(あわじ=私は恥ずかしい)島」としました。でも、島の名前に植物の「粟(アワ)」を冠したと考えた方がスッキリするので、この伝承の意味がどういう意味なのかはよく分かりません。
吉備も同様に植物から名前が
そのせいで淡路島は大八洲の「八つ」には入れてもらえませんでした。 
第四段 天つ神とイザナギとイザナミ
一書曰、天神謂伊弉諾尊・伊弉冉尊曰、有豐葦原千五百秋瑞穗之地。宜汝往脩之、廼賜天瓊戈。於是、二神立於天上浮橋、投戈求地。因畫滄海、而引舉之、卽戈鋒垂落之潮、結而爲嶋。名曰磤馭慮嶋。二神降居彼嶋、化作八尋之殿。又化竪天柱。陽神問陰神曰、汝身有何成耶。對曰、吾身具成而、有稱陰元者一處。陽神曰、吾身亦具成而、有稱陽元者一處。思欲以吾身陽元、合汝身之陰元、云爾。卽將巡天柱、約束曰、妹自左巡。吾當右巡。既而分巡相遇。陰神乃先唱曰、姸哉、可愛少男歟。陽神後和之曰、姸哉、可愛少女歟。遂爲夫婦、先生蛭兒。便載葦船而流之。次生淡洲。此亦不以充兒數。故還復上詣於天、具奏其狀。時天神、以太占而卜合之。乃教曰、婦人之辭、其已先揚乎。宜更還去。乃卜定時日而降之。故二神、改復巡柱。陽神自左、陰神自右、既遇之時、陽神先唱曰、姸哉、可愛少女歟。陰神後和之曰、姸哉、可愛少男歟。然後、同宮共住而生兒。號大日本豐秋津洲。次淡路洲。次伊豫二名洲。次筑紫洲。次億岐三子洲。次佐度洲。次越洲。次吉備子洲。由此謂之大八洲國矣。瑞、此云彌圖。姸哉、此云阿那而惠夜。可愛、此云哀。太占、此云布刀磨爾。 
ある書によると、天津神がイザナギとイザナミにいいました。「豊葦原(トヨアシハラ)の千五百秋に瑞穂の地がある。おまえたちはそこに行って治めなさい」そこでイザナギとイザナミは天の浮橋から矛を降ろして地を求めた。
海をかき回して引き上げると、矛の先から滴り落ちた潮が固まって島になりました。これを「オノコロ島」と言います。
イザナギとイザナミはそのオノコロ島に降り立って、大きな神殿を作り、柱を立てました。
イザナギは言いました。「お前の体はどうなっているか?」イザナギは答えました。「私の体には出来上がっていて、陰元(ホト)と呼ばれる場所があります」イザナギは言いました。「私の体も出来上がっていた、陽元と呼ばれる場所がある。その陽元と陰元を合わせたいと思う」それで柱を回る約束をしました。
「妹(=イザナミ)は左に回れ。私は右を回る」二柱は別れてすぐに出会いました。
イザナミが「あな、にえやえおとこを」(あぁ、なんと美しい少年なんでしょう!!)と言いました。イザナギが「あなにえやおとめを」(あぁ、なんと美しい少女か!)と言いました。
二柱は夫婦となり、生まれた子どもは蛭子(ヒルコ)でした。その子は葦の船にのせて流してしまいました。次に生まれたのは淡洲(アワシマ)でした。これも生まれた子の数には入れませんでした。
イザナギとイザナミは神生みに失敗したことを、天に帰って伝えました。天つ神は太占(フトマニ=占い)をして、吉凶を調べて言いました。「女性が先に声をかけたのがいけない。イザナミが言ったことをお前が先に言いなさい。もう一度戻ってやり直しなさい」そうして、また天つ神は太占(フトマニ)をして、地上に降りる期日を調べてました。その日にイザナギとイザナミは地上に降り立ち、改めて、オノコロ島の柱の周りを回りました。
イザナギは左にから、イザナミは右から回り、イザナギが言いました。「あなにえやえおとめを」(あぁ、なんて美しい少女か!)イザナギが言いました。「あなえにやえおとこを!」(あぁ、なんて美しい少年なんでしょう!)
その後、宮殿に住み、子どもが生まれました。大日本豐秋津洲(オオヤマトトヨアキツシマ)です。次が淡路洲(アワジシマ)、次が伊予二名洲(イヨノフタナノシマ)、筑紫洲(ツクシノシマ)、億岐三子洲(隠岐の三つ子島)、佐度洲(サドノシマ)、越洲(コシノシマ)、吉備子洲(キビノコシマ)、以上の八つの島を生んだので、これを大八洲国といいます。
瑞を彌圖(ミズ)といいます。姸哉を阿那而惠夜(アナシエヤ)といいます。可愛を哀(アイ)といいます。太占を布刀磨爾(フトマニ)といいます。
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古事記に近い物語となっています。「第四段本文大八洲の誕生」では海すら無かった状態から海を引き出したイザナギ・イザナミですが、ここでは海はあった模様。海からアメノヌボコでオノコロ島を作り、そこに降り立ち、「神殿」を作ります。本文では島を「国の柱」と見立てて、周囲を回りましたが、ここではオノコロ島に神殿と柱を立てて、その周囲を回っています。歩く距離が短くなって、より「人っぽい」です。
蛭子
ヒルコは当てられた字があまりに異常なので、忌むべき存在のようですが、もともとは「日る子」ではないか?とも言われます。天照大神の妹とも原型ともされる「ワカヒルメ」の「男版」という感じでしょうか。
三年たっても足腰の立たない不完全な神とされました。
ともかく最初の神生みは、本文でもここでも失敗です。ちなみに最初の神生みが失敗するというのも神話のパターンです。
イザナギとイザナミより偉い天つ神
一書では神生みに失敗したイザナギとイザナミが天の神に相談して再挑戦します。つまりイザナギとイザナミには上司がいるのです。ともかく「最高神」ではないということです。 
第四段 オノコロ島
一書曰、伊弉諾尊・伊弉冉尊、二神、立于天霧之中曰、吾欲得國、乃以天瓊矛、指垂而探之、得磤馭慮嶋。則拔矛而喜之曰、善乎、國之在矣。
一書曰、伊弉諾・伊弉冉、二神、坐于高天原曰、當有國耶、乃以天瓊矛、畫成磤馭慮嶋。
一書曰、伊弉諾・伊弉冉、二神、相謂曰、有物若浮膏。其中蓋有國乎、乃以天瓊矛、探成一嶋。名曰磤馭慮嶋。 
ある書によると…イザナギとイザナミの二柱は天界の霧の中で「わたしは国が欲しい」と言いました。そこでアメノヌボコを天から垂らして探ると、オノコロ島を見つけ出しました。二柱の神は「よかった!国があった!」と言いました。
ある書によると…イザナギとイザナミの二神は高天原に座って、「国がある!」と言いました。そしてアメノヌボコでかき回すとオノコロ島が出来ました。
ある書によると…イザナギとイザナミの二神は互いに言いました。「油のようなものが浮いている」その中をかき回したら国があるかもしれないと、アメノヌボコでかき回すと、島が出来ました。それがオノコロ島です。
古事記の対応箇所 / オノゴロ島誕生 
大して差が無いのですが、ちょっとづつ確かに違う。オノコロ島の発生説話です。オノコロ島が生まれる経緯には「アメノヌボコ」が大事な要素となっています。古代において矛は武器ではなく呪具です。魔法のアイテムです。島が出来たり引き当てるくらいだから、魔法のアイテムなのは間違いないです。矛を海に突っ込んで、島が生まれるというのが、男性と女性のセックスを表している……というのが、よくあるフロイト的見解です。でも、それだけで説明するのは無理があるかなとも思います。
アメノヌボコの「ぬ」は「宝石とか玉」を表しています。矛に玉がついている。確かに男性のそれ、そのものです。
神話は性的なニュアンスが多く含まれるのが普通です。
(二)の吾欲得国・(三)の当有国耶
この二つと本文の「底下豈無國歟」は「クニアラム」という大和言葉あって、それを漢文に直したのではないか?と思われます。この文言は古事記にはありません。ポリネシアの神話に「島よあれ」と発言する事で島や国や鳥が生まれたという神話があるので関係があるかもしれない。 
第四段 海鳥に学ぶ
一書曰、陰~先唱曰、美哉、善少男。時以陰~先言故、爲不祥、更復改巡。則陽~先唱曰、美哉、善少女。遂將合交。而不知其術。時有鶺鴒、飛來搖其首尾。二~見而學之、卽得交道。 
ある書によると…イザナミが先に言いました。「あなえにえやえおとこを」イザナミが先に言ったことが良くないので、やり直すことにしました。今度はイザナギが先に言いました。「あなえにえやえおとめを」
そうして夫婦の交わりをしようとしたが、方法が分からなかった。そのとき、二羽の鶺鴒(セキレイ=海鳥)が飛んできました。そして体を揺すりました。それを見て、イザナギとイザナミは交わる方法を知ることが出来ました。
古事記の対応箇所 / イザナギのプロポーズ / イザナギとイザナミ、初めての… 
あんまり書くとアレなので、細かいことは割愛しますが、アレの方法が分からなかったイザナギとイザナミが途方に暮れていると、海鳥が飛んできて、アレを始めちゃったので、それを見て、アレの仕方を知った、というもの。神様なのに何にも知らないというのが、かわいい。 
第四段 島の成り立ち
一書曰、二~合爲夫婦、先以淡路洲・淡洲爲胞、生大日本豐秋津洲。次伊豫洲。次筑紫洲。次雙生億岐洲與佐度洲。次越洲。次大洲。次子洲。
一書曰、先生淡路洲。次大日本豐秋津洲。次伊豫二名洲。次億岐洲。次佐度洲。次筑紫洲。次壹岐洲。次對馬洲。
一書曰、以磤馭慮嶋爲胞、生淡路洲。次大日本豐秋津洲。次伊豫二名洲。次筑紫洲。次吉備子洲。次雙生億岐洲與佐度洲。次越洲。
一書曰、以淡路洲爲胞、生大日本豐秋津洲。次淡洲。次伊豫二名洲。次億岐三子洲。次佐度洲。次筑紫洲。次吉備子洲。次大洲。 
ある書によると…イザナギとイザナミは夫婦となり、まず淡路洲・淡洲がエナ(=胎盤)として生まれました。次に大日本豐秋津洲。次に伊予洲。次に筑紫洲。次に億岐洲と佐度洲。次に越洲。次に大洲。次に子洲が生まれました。
ある書によると…先に淡路洲。次に大日本豐秋津洲。次に伊予二名洲。次に億岐洲次に佐度洲。次に筑紫洲。次に壱岐洲。次に対馬洲。
ある書によると…オノコロ島をエナ(胎盤)として生まれ、淡路洲が生まれました。次に大日本豐秋津洲。次に伊予二名洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に億岐洲と佐度洲。次に越洲。
淡路洲がエナ(胎盤)として生まれ、大日本豐秋津洲が生まれました。次に淡洲。次に伊予二名洲。次に億岐三子洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に大洲。
古事記の対応箇所 / 国産み / 細かい島を産む 
どうやら淡路島のことを相当に嫌っている様子。しかし名前が最初に出るということは神話の中で非常に重要な位置にあったということであり、古代に何かしら重要な役割を担っていたのではないか?と思われます。
イザナギ・イザナミ夫婦はそもそも淡路島近海の海洋民族の神だったと推察されます。古代において瀬戸内海はかなり重要な土地だったハズです。淡路島も同様です。 
第四段 女性が告白して男が受け入れる
一書曰、陰神先唱曰、姸哉、可愛少男乎。便握陽神之手、遂爲夫婦、生淡路洲。次蛭兒。 
ある書によると…イザナミが先に言いました。「あな、にえやえおとこを」するとイザナギは手を握り、夫婦となりました。そして淡路島が生まれ、次に蛭子(ヒルコ)が生まれました。
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積極的なイザナミ
「第四段一書(五)海鳥に学ぶ」では海鳥に夫婦となる方法を学んだイザナギとイザナミでしたが、ここでは、手をつないだだけで夫婦となり、淡路島と蛭子が生まれます。それだけでなく、「女性が先に話しかけるなんて!」という女性蔑視とも取れる物語もなく、イザナミが誘ってそのままゴールインです。女性が積極的というよりは、女性がリードするのが、本来の日本の性意識でしょう。この物語が日本の古代の原初の匂いを残している、ような気がします。日本では豪族のトップが女性というのも珍しくありませんでした。しかし律令国家を目指す過程で、(システム上で必要なので)中国の男尊女卑という考えに移行していったと思われます。
卑弥呼が女性であることを中国の使者はとても驚いています。卑弥呼の時代は3世紀。日本が律令国家を目指すのが7−8世紀で、記紀の成立が8世紀初頭。
イザナギとイザナミが柱の周囲を回って夫婦となるというのは中国の少数民族ミャオ族に見られるもので、いつかは分からないが日本に伝わったと思われます。
神話で第一子が失敗である理由は胎盤を第一子と見るため 
第五段 神々を生む
次生海。次生川。次生山。次生木祖句句廼馳。次生草祖草野姬。亦名野槌。既而伊弉諾尊・伊弉冉尊、共議曰、吾已生大八洲國及山川草木。何不生天下之主者歟。於是、共生日~。號大日孁貴。(大日孁貴、此云於保比屢灯\武智。孁音力丁反)。一書云、天照大~。一書云、天照大日孁尊。此子光華明彩、照徹於六合之內。故二~喜曰、吾息雖多、未有若此靈異之兒。不宜久留此國。自當早送于天、而授以天上之事。是時、天地相去未遠。故以天柱、舉於天上也。次生月~。一書云、月弓尊、月夜見尊、月讀尊。其光彩亞日。可以配日而治。故亦送之于天。次生蛭兒。雖已三歲、脚猶不立。故載之於天磐櫲樟船、而順風放棄。次生素戔鳴尊。一書云、~素戔鳴尊、速素戔鳴尊。此~、有勇悍以安忍。且常以哭泣爲行。故令國內人民、多以夭折。復使青山變枯。故其父母二~、勅素戔鳴尊、汝甚無道。不可以君臨宇宙。固當遠適之於根國矣、遂逐之。 
イザナギとイザナミは次に海を生みました。次に山を生みました。次に木の祖先となる句句廼馳(ククノチ)を生みました。次に草の祖先となる草野姬(カヤノヒメ)を生みました。別名を野槌といいます。
イザナギとイザナミは話し合いました。「私たちは大八洲国と山や川や草木を生んだ。どうして天下を治めるものを生まれないのか?」そこでイザナギとイザナミは太陽の神を生みました。名前を大日孁貴(オオヒルメノムチ)といいます。
ある書には天照大神(アマテラスオオミカミ)と言います。ある書には天照大日孁尊(アマテラスオオヒルメ)と言います。
この子(=オオヒルメ)の体が光輝いて、天地を照らしました。それを見てイザナギとイザナミは喜んで「子を沢山作ったけども、これほど霊力の強い子はいなかった。この国に長く置いておくわけにはいかない」
イザナギとイザナミはオオヒルメを天に挙げて、天上のことを教え込むことにしました。
このときはまだ、天と地が遠くは離れていなくて、近かった。オノコロ島に立てた柱から手でオオヒルメを天に上げました。
次に月の神が生まれました。ある書によると月弓尊(ツクユミ)、月夜見尊(ツキヨミ)、月読尊(ツキヨミ)と言います
月の神の光は日の神の次に明るく、日に添えて天を治めることが出来ると考えて、同じように天に送りました。
次に蛭子(ヒルコ)が生まれました。
三歳になっても足が立ちませんでした。そこで天磐櫲樟船(アメノイワクスフネ)に乗せて風のままに流して捨ててしまった。
次に素戔鳴尊(スサノオ)が生まれました。ある書によると神素戔鳴尊(カムスサノオ)、速素戔鳴尊(ハヤスサノオ)といいます
スサノオは勇敢でしたが、我慢がきかず、いつも泣き喚いていました。そのため国の人間は死んでしまい、青い山々は枯れ果てました。
そこでイザナギとイザナミはスサノオに
「お前は道に外れている。宇宙に君臨することは出来ない。遠い根の国へ行ってしまえ」と言い、追放しました。
古事記の対応箇所 / 神を生み始める / 河口に関する神が産まれる / 風と山の神が産まれる / オオヤマヅミの子供たち / 三貴神の誕生 / 三貴神の分割統治 / 荒ぶる速須佐之男命は母恋しく 
古事記とはいろいろと違う
ヒルコが三貴神(アマテラス・ツキヨミ・スサノオ)と同じタイミングで生まれた兄弟となっています。古事記では三貴神が生まれたタイミングはイザナミの死後に黄泉の国に行って、そのケガレを落とした時でした。
ヒルメという言葉
大日孁貴(オオヒルメノムチ)の「貴(ムチ)」は「霊威がある」という意味。「大(オオ)」も「とても」という意味です。日孁(ヒルメ)は「日」「ル」「女」という意味で太陽の女神といったところ。問題はこの「孁」で漢字としては別に似たようなもので下の女が「巫」の「靈」という字もあります。ヒルメという表記をするのはどちらでもよかったはずです。これを「孁」としたのはオオヒルメノムチが「女性」であったことと、同時に「巫女」とは違う。特別な存在だった、という意味かもしれません。
スサノオの霊威
スサノオは優秀なオオヒルメ(=天照大神)と地味ながらも問題の無いツキヨミ。そして不完全な存在のヒルコの弟として生まれました。霊力は周囲の人が死に、山が枯れるほど。なのに、そのコントロールが効かないという、理性の無い赤ん坊のような神です。しかし、これが日本のスタンダードな「英雄像」とも言えます。奇妙な出生、手がつけられない子供時代、親に捨てられて、最後は英雄となる。 
第五段 三貴神の誕生
一書曰、伊弉諾尊曰、吾欲生御宇之珍子、乃以左手持白銅鏡、則有化出之神。是謂大日孁尊。右手持白銅鏡、則有化出之神。是謂月弓尊。又廻首顧眄之間、則有化神。是謂素戔鳴尊。卽大日孁尊及月弓尊、並是質性明麗。故使照臨天地。素戔鳴尊、是性好殘害。故令下治根國。珍、此云于圖。顧眄之間、此云美屢摩沙可梨爾。 
ある書によると……イザナギは言いました。「わたしは天下を治めるべき子を産みたい」それで左手に白銅の鏡を持つと、それが変化して神が生まれました。それが大日孁尊(オオヒルメ)です。
次に右手に白銅の鏡を持つと、変化して神が生まれました。これが月弓尊(ツキヨミ)です。
また首を回して、よそ見をしている間に生まれたのが素戔鳴尊(スサノオ)です。
オオヒルメとツキヨミはどちらも明るく美しいものでした。両者は天地を照らしました。しかしスサノオは残虐なので、根の国(=死者の国)を収めました。
珍は于圖(ウズ)といいます。顧眄之間は美屢摩沙可梨爾(ミルマサカリニといいます)
古事記の対応箇所 / 三貴神の誕生 / 三貴神の分割統治 / 荒ぶる速須佐之男命は母恋しく 
後に天照大神が「鏡を私だと思って祭りなさい」とニニギに託すとされる「鏡」から天照大神ことオオヒルメが生まれています。鏡は太陽の象徴ということになります。しかし鏡の語源は「カガメ」で「蛇の目」とする説もあります。鏡餅が白い蛇がとぐろを巻いていることを模していること、また、蛇が古代においてネズミ避けの力を持ち、豊穣の象徴だったからです。
鏡と蛇が繋がったとしてもおかしくはありません。つまり、穀物を育む太陽(=鏡)と、収穫した穀物を守る蛇は、セットということです。
スサノオの残虐さと出生
イザナギとイザナミのハッキリとした意志から生まれたオオヒルメとツキヨミに対して、よそ見している間に生まれたスサノオ。衝動的な欲望を表しているんでしょう。 
第五段 三貴神からワクムスビまで
一書曰、日月既生。次生蛭兒。此兒年滿三歲、脚尚不立。初伊弉諾、伊弉冉尊、巡柱之時、陰~先發喜言。既違陰陽之理。所以、今生蛭兒。次生素戔鳴尊。此~性惡、常好哭恚。國民多死。青山爲枯。故其父母勅曰、假使汝治此國、必多所殘傷。故汝可以馭極遠之根國。次生鳥磐櫲樟橡船。輙以此船載蛭兒、順流放棄。次生火~軻遇突智。時伊弉冉尊、爲軻遇突智、所焦而終矣。其且終之間、臥生土~埴山姬及水~罔象女。卽軻遇突智娶埴山姬、生稚産靈。此~頭上、生蠶與桑。臍中生五穀。罔象、此云美都波。 
ある書によると……オオヒルメとツキヨミが生まれた後に、ヒルコが生まれました。ヒルコは3歳になっても足で立つことができませんでした。
これはイザナギとイザナミが柱を回ったときにイザナミから話しかけたためです。世界の道理に反したことをしたからです。だからヒルコが生まれたのです。
次に生まれたのはスサノオです。スサノオは鳴きわめき、怒り狂うばかりでした。そのため国民が沢山死んでしまい、山は枯れ果てました。
イザナギとイザナミはスサノオに「もしもお前がこの国をおさめたら、必ず多くのものが傷つけられる。だからおまえは遠い根の国へ行け」と言いました。
次に鳥磐櫲樟橡船(トリノイワクスフネ)が生まれました。この船に蛭子を乗せて流してしまいました。
次に火の神の軻遇突智(カグツチ)が生まれました。このときにイザナミは焼け焦げて死んでしまいました。
イザナミが焼け死んでしまうまでに、土の神の埴山姫(ハニヤマヒメ)と水の神の罔象女(ミズハノメ)が生まれました。
カグツチがハニヤマヒメを娶って稚産霊(ワクムスヒ・ワクムスビ)が生まれました。
ワクムスビの頭から蚕と桑が生まれました。へそから五穀が生まれました。
罔象を美都波(みつは)といいます
古事記の対応箇所 / イザナギとイザナミ、初めての… / 失敗した原因究明 / 三貴神の誕生 / 荒ぶる速須佐之男命は母恋しく / 次に生める神の名は / イザナミの苦しみ / 五穀が生まれる 
ここの一書はなかなか濃厚
ヒルコは3歳まで足腰が立たず捨てられる
蛭子を乗せた船もイザナギとイザナミが生んだ。
カグツチでイザナミが火傷を負う。
イザナミはハニヤマヒメとミズハノメを生んで死亡。
カグツチはハニヤマヒメと結ばれてワクムスビが生まれる(古事記ではイザナギに剣で切られて殺される)。
ワクムスビから蚕と桑と五穀が生まれる。
という具合に短いながらも要素がてんこ盛りで、かなりはしょっていると思われます。
防火の神としてまつられるカグツチ。古事記では殺されているのに、現代の神社に祭られるってなんか変。つじつまが合わない、と思っていましたが、こうやって一書を見ていると、「死なない話もたくさんあったんだろうな」と考えが変わりました。
鳥磐櫲樟橡船
トリノイワクスフネは古事記でタケミカヅチが葦原中国に降りるときにも乗っていた「天鳥船」と同一とされます(名前は違う)。他にも事代主神に意見を聞くためにタケミカヅチが稲背脛命(イナセハギ命)を熊野諸手船(別名を天鳩船)に乗せて派遣しています。
空を飛ぶ船…と書かれているわけではないのですが、名前からどうしてもそれを連想してしまうので、そういう書かれ方をすることが多い。オカルトではUFOや宇宙人と重ねることもある。
クスノキで出来ているとされます。クスノキは腐りにくく、固く、丈夫で、船の材料として古代に日本に持ち込まれた。日本に昔から自生する植物ではありません。クスノキの大半は九州に自生しています。
ワクムスビとハイヌウェレ神話
神から五穀が生まれるという物語はハイヌウェレ神話といいます。このハイヌウェレ神話は焼き畑農業を神話化したもので、火の神カグツチ+土の神ハニヤマヒメ→ワクムスビのハイヌウェレ神話は出来すぎだと思うほどです。 
第五段 火産靈
一書曰、伊弉冉尊、生火産靈時、爲子所焦、而~退矣。亦云、~避。其且~退之時、則生水~罔象女及土~埴山姬、又生天吉葛。天吉葛、此云阿摩能與佐圖羅。一云、與曾豆羅。
一書曰、伊弉冉尊、且生火~軻遇突智之時、悶熱懊悩。因爲吐。此化爲~。名曰金山彦。次小便。化爲~。名曰罔象女。次大便。化爲~。名曰埴山媛。
一書曰、伊弉冉尊、生火~時、被灼而~退去矣。故葬於紀伊國熊野之有馬村焉。土俗祭此~之魂者、花時亦以花祭。又用鼓吹幡旗、歌舞而祭矣。 
ある書によると…イザナミはホムスヒ(火産靈・ホムスビ)を生んだときに、その子のために焼け死んでしまい、神ではなくなってしまいました。イザナミの死後、水の神の罔象女(ミズハノメ)と土の神の埴山姬(ハニヤマヒメ)が生まれました。また天吉葛(アマノヨサヅラ)が生まれました。
ある書によると…イザナミは火の神カグツチを生んだときに、熱に悶え苦しみました。その痛みのあまりに吐いたものが神となりました。名前を金山彦(カナヤマヒコ)と言います。小便が神となったものが罔象女(ミズハノメ)といいます。大便が神となったものが埴山姬(ハニヤマヒメ)といいます。
ある書によると…イザナミは火の神を生んだときに、その火に焼かれて死んでしまいました。紀伊国熊野の有馬村に葬られました。この土地では神の魂を、花が咲くときに花をささげて祀り、太鼓を馴らし、笛を吹き、旗を振って、歌い踊ります。
天吉葛は「阿摩能與佐圖羅(アマノヨサヅラ)」といいます。もしくは與曾豆羅(ヨソヅラ)といいます。
古事記の対応箇所 / 刀(剣)から生まれた神 
吐しゃ物が神に?
吐しゃ物がカナヤマヒコという「鉱山・鉱物」の神と変化したのは、金属を溶かしたものが吐しゃ物に似ているから、というのがもっともらしい説明となっています。でも、どうもピンと来ませんね。
農業にとって「金属器」は耕作を簡単にする「農業革命」でした。カナヤマヒコという金属系の神がミズハノメ・ハニヤマヒメと共に語られるのは、農具としてなのかも
ミズハノメとハニヤマヒメ
ミズハノメは名前からして水でありつつ、尚且つ「おしっこ」の神。ハニヤマヒメは「山」かと思えば「うんこ」の神。どちらの解釈としても「農業」に関わる神です。
カグツチの価値
カグツチは火の神ですが、火の神がミズハノメ・ハニヤマヒメという農業の神と関わって語られるのは「焼き畑農業」の名残ではないか?と考えるのは突飛でしょうか。
火の神なのに名前に「土(ツチ)」が入っているのも偶然とは思えないんですよね。 
第五段 冥土めぐり
一書曰、伊弉諾尊與伊弉冉尊、共生大八洲國。然後、伊弉諾尊曰、我所生之國、唯有朝霧而、薫滿之哉、乃吹撥之氣、化爲~。號曰級長戸邊命。亦曰級長津彦命。是風~也。又飢時生兒、號倉稻魂命。又生海~等、號少童命。山~等號山祇。水門~等號速秋津日命。木~等號句句廼馳。土~號埴安~。然後、悉生萬物焉。至於火~軻遇突智之生也、其母伊弉冉尊、見焦而化去。于時、伊弉諾尊恨之曰、唯以一兒、替我愛之妹者乎、則匍匐頭邊、匍匐脚邊、而哭泣流涕焉。其淚墮而爲~。是卽畝丘樹下所居之~。號啼澤女命矣。遂拔所帶十握劒、斬軻遇突智爲三段。此各化成~也。復劒刃垂血。是爲天安河邊所在五百箇磐石也。卽此經津主~之祖矣。復劒鐔垂血、激越爲~。號曰甕速日~。次熯速日~。其甕速日~、是武甕槌~之祖也。亦曰甕速日命。次熯速日命。次武甕槌~。復劒鋒垂血、激越爲~。號曰磐裂~。次根裂~。次磐筒男命。一云、磐筒男命及磐筒女命。復劒頭垂血、激越爲~。號曰闇龗。次闇山祇。次闇罔象。 
ある書によると…イザナギとイザナミは共に大八洲国を生みました。するとイザナギは「生まれた国は、まだ朝霧に包まれて、朝霧の香りが立ち込めている」と言いました。そして朝霧を吹き飛ばそうとして吐いた息が神となりました。その神の名は級長戸辺命(シナトベ)といいます。別名を級長津彦命(シナツヒコ)といいます。風の神です。
するとイザナギはお腹が空いてしまいました。
そうして生まれたのが倉稲魂命(ウカノミタマ)です。
その後は様々なものが生まれました。
海の神の名前は少童命(ワタツミ)です。
山の神の名前は山祇(ヤマツミ)です。
水門(ミナト=港)の神の名前は速秋津日命(ハヤアキツヒ)です。
木の神の名前は句句廼馳(ククノチ)です。
土の神の名前は埴安神(ハニヤス)です。
そして火の神の軻遇突智(カグツチ)が生まれました。
イザナミはカグツチの火で焼け死んでしまいました。イザナギはその死を悲しみ、恨みました。「たった一児のを愛する妹(=妻)と引き換えにしたのか!!」と言いました。そしてイザナミの頭の周囲で腹ばいになり泣き、足の周囲でまた腹ばいになって鳴きました。
その涙が神となりました。畝丘の木の下に居る神で、名前を啼澤女命(ナキサワメ)といいます。
イザナギは十握剣(トツカノツルギ)でカグツチを三段に切りました。それらの部位がそれぞれ神となりました。
剣の刃からカグツチの血が垂れて、天安河の500個の磐石となりました。これが経津主神(フツヌシ)の祖先となりました。
剣の鍔(ツバ)からも血が垂れて神となりました。その神の名前を甕速日神(ミカハヤヒ)といいます。次に生まれたのが熯速日神(ヒノハヤヒ)といいます。ミカハヤヒノカミは武甕槌神(タケミカヅチ)の祖先です。
もしくは甕速日命(ミカハヤヒ)が生まれ、次に熯速日~(ヒノハヤヒ)、次に武甕槌神(タケミカヅチ)が生まれとも言われています。
剣先からしたたる血が神になりました。名前を磐裂神(イワサク)といいます。次に根裂神(ネサク)、次に磐筒男命(イワツツノヲ)です。
一説には、磐筒男命(イワツツノヲ)と磐筒女命(イワツツノメ)が生まれました
次に剣の柄から血がしたたり、神となりました。名前を闇龗(クラオカミ)といいます。次に闇山祇(クラヤマズミ)が生まれました。次に闇罔象(クラミズハ)が生まれました。
古事記の対応箇所 / 神を生み始める / 河口に関する神が産まれる / 風と山の神が産まれる / オオヤマヅミの子供たち / 次に生める神の名は / イザナミの苦しみ / イザナギ、妻を失い、涙を流す / 刀(剣)から生まれた神 / 火の神の死体から産まれた神 
細かい部分はさておいても、古事記の本編に近い内容になっています。カグツチが生まれて、イザナミが死に、イザナギがカグツチを殺し、その後イザナミを迎えに行く、というもの。 
第五段 黄泉の国
然後、伊弉諾尊、追伊弉冉尊、入於黃泉、而及之共語時。伊弉冉尊曰、吾夫君尊、何來之晩也。吾已湌泉之竈矣。雖然、吾當寢息。請勿視之。伊弉諾尊不聽、陰取湯津爪櫛、牽折其雄柱、以爲秉炬、而見之者、則膿沸蟲流。今世人夜忌一片之火、又夜忌擲櫛、此其緣也。
時伊弉諾尊、大驚之曰、吾不意到於不須也凶目汚穢之國矣、乃急走廻歸。于時、伊弉冉尊恨曰、何不用要言、令吾恥辱、乃遣泉津醜女八人、一云、泉津日狹女、追留之。故伊弉諾尊、拔劒背揮以逃矣。因投K鬘。此卽化成蒲陶。醜女見而採噉之。噉了則更追。伊弉諾尊、又投湯津爪櫛。此卽化成筍。醜女亦以拔噉之。噉了則更追。後則伊弉冉尊、亦自來追。是時、伊弉諾尊、已到泉津平坂。
一云、伊弉諾尊、乃向大樹放尿。此卽化成巨川。泉津日狹女、將渡其水之間、伊弉諾尊、已至泉津平坂。
故便以千人所引磐石、塞其坂路。與伊弉冉尊相向而立、遂建絶妻之誓。 
その後、イザナギはイザナミの跡を追って黄泉の国に入り、話し合いました。
イザナミは「わたしの夫イザナギよ。どうしてもっと早く来なかったのですか?わたしはもう、この黄泉の国の竈(カマド)で炊いた食べ物を口にしてしまったのです。私は今から寝るところです。どうか、見ないでください」と頼みました。
しかしイザナギは聞き入れずに、髪に挿していた神聖な櫛「湯津爪櫛(ユツツマクシ)」を手に取り、櫛の端の太い歯(=男柱)を折って、火をつけて松明の代わりにして、イザナミの寝姿を見ました。
イザナミの体にはウジ虫が這いまわり、膿が噴出していました。現在の人が、夜に一本の明かりを灯す「ひとつ火」を嫌い、夜に櫛を投げるのを嫌うのは、このためです。
イザナギは驚きました。「私は何も知らないうちに、とんでもなく嫌な、汚らわしいところに来てしまっていた!!」と言うと大急ぎで走り去りました。それを聞いたイザナミはイザナギを恨みました。「どうして、あなたはわたしに恥をかかせるのですか!!!」と言うと、イザナミは泉津醜女(ヨモツシコメ)を8人さし向けました。一説によると泉津日狹女(ヨモツヒサメ)がヨモツシコメが追うのを止めた、とも。
イザナギは追ってくるヨモツシコメに気づいて、剣を抜き、振って逃げました。イザナギが黒いカツラ(髪留めのこと)を投げると、それが野葡萄の実になりました。ヨモツシコメたちはそれを摘んで食べました。食べ終わると更に追いかけました。イザナギが湯津爪櫛(ユツツメクシ)を投げると、これがタケノコになりました。ヨモツシコメはタケノコを引き抜いて食べました。食べ終わると更に追いかけました。イザナミも追いかけ始めました。このとき、イザナギはあの世とこの世の境にあるという泉津平坂(ヨモツヒラサカ)にたどり着きました。
一説によると、イザナギが大きな木におしっこをしました。これが大きな川になり、それをヨモツシコメが渡っている間にイザナギは泉津平坂にたどり着いた、とも言われています。
イザナギは、千人が引っ張ってやっと動くような大きな石で坂道を塞いでしまいました。そこで岩を挟んでイザナミと向かい合い、絶縁の申し出をしたのです。
古事記の対応箇所 / 黄泉の国へ / イザナミは既に… / 逃げろ! / 日本最初の離婚・死の呪い 
オルフェウスの冥土巡り
明治時代に日本を訪れた学者が驚いたのが、日本の神話がギリシャ神話に似ていることでした。その中で特異なのが「イザナギとイザナミ」のこの物語と「オルフェウスの冥土巡り」でした。
ヨモツヒサメについて
ヨモツヒサメのくだり(一云、泉津日狹女、追留之。)は本によって書き方が違います。ヨモツヒサメがヨモツシコメの別名という書き方をしている人もいます。漢文の知識はないのでこの訳が正しいかは分かりません。
日本書紀の神代の漢文は文法が無茶苦茶という指摘がある。漢文として成立していないらしいです。よって私の訳が正しいのかもしんない。
野葡萄とタケノコ
野葡萄は食用としてだけでなく、ツルで編んで道具を作ることが出来ます。タケノコも同様に食べられて、道具の材料として便利です。どちらも「人間を助ける」ということから、特別視されていたのではないか?と思われます。 
第五段 千人殺し、千五百人生ませる
時伊弉冉尊曰、愛也吾夫君、言如此者、吾當縊殺汝所治國民日將千頭。伊弉諾尊、乃報之曰、愛也吾妹、言如此者、吾則當産日將千五百頭。
因曰、自此莫過、卽投其杖。是謂岐神也。又投其帶。是謂長道磐神。又投其衣。是謂煩神。又投其褌。是謂開囓神。又投其履。是謂道敷神。
其於泉津平坂、或所謂泉津平坂者、不復別有處所、但臨死氣絶之際、是之謂歟。
所塞磐石、是謂泉門塞之大神也。亦名道返大神矣。 
イザナミは言いました。「愛おしい私の夫(イザナギ)が『別れる!』と言うのであれば、私はこれから毎日、あなたの治める国の千人の人間の首を絞め殺してやりましょう!」
するとイザナギは「愛おしい私の妻よ。おまえがそう言うならば、私は一日に千五百人を生ませよう」と答えました。
それで「ここから先に来てはいけない」と言い、杖を投げました。この杖が岐神(フナド)となりました。
帯も投げました。この帯が長道磐神(ナガチハ)となりました。
衣を投げました。この衣が煩神(ワズライ)となりました。
褌(フンドシ)を投げました。この褌が開囓神(アキクイ)となりました。
靴を投げました。その靴が道敷神(ミチシキ)となりました。
泉津平坂というものは、引き返すことのできない場所というが、死ぬ間際のことをそう呼んだのだろうか?
泉津平坂を岩で塞いだ処を泉門塞之大神(ヨミドノサエノオオカミ)といいます。別名を道返大神(チガエシノオオカミ)といいます。
古事記の対応箇所 / 日本最初の離婚・死の呪い 
人間の生と死
これ以降、人間には死が訪れるようになった、のかどうかは、分からないけど、「死」の起源がこれ。
まぁそれ以前に、イザナミが死んで黄泉の国へ行っているわけで、神に「死」はあったのですね。それはつまり、「死」は神の特権だったのかもしれない。それは考え過ぎか。
離婚するのも一苦労
イザナギとイザナミはこれに晴れて離婚。その離婚の中で、岐神(フナド)、長道磐神(ナガチハ)、煩神(ワズライ)、開囓神(アキクイ)、道敷神(ミチシキ)、道返大神(チガエシノオオカミ)が生まれます。
これらの神様はどうも「道」に関わる神で、煩神(ワズライ)は服を脱ぐ=「煩わしさから解放される」ということで、一見関係ないような、いや、旅を終えて一息つくというイメージなら「道」に繋がるかと。
オトタチバナ
小戸で「小さい港」の意味なので、「オトタチバナ」という地名かというと、よくわからない。 
第五段 海の神々
伊弉諾尊既還、乃追悔之曰、吾前到於不須也凶目汚穢之處。故當滌去吾身之濁穢、則往至筑紫日向小戸橘之檍原、而秡除焉。遂將盪滌身之所汚、乃興言曰、上瀬是太疾、下瀬是太弱、便濯之於中瀬也。因以生神、號曰八十枉津日神。次將矯其枉而生神、號曰神直日神。次大直日神。又沈濯於海底。因以生神、號曰底津少童命。次底筒男命。又潛濯於潮中。因以生神、號曰表中津少童命。次中筒男命。又浮濯於潮上。因以生神、號曰表津少童命。次表筒男命。凡有九神矣。其底筒男命・中筒男命・表筒男命、是卽住吉大神矣。底津少童命・中津少童命・表津少童命、是阿曇連等所祭神矣。 
イザナギは黄泉の国から帰ってくるとイザナミを追ったことを後悔して言いました。
「私は、なんという酷く汚く穢れた所に行ってしまっていたのか!!わたしの身についた穢れを洗い落とそう」
すぐに筑紫の日が当たる小戸橘(オトタチバナ)の檍原(アハギハラ)で禊(ミソギ)をしました。
汚れを祓おうと、声をあげました。
「上の瀬は流れが速いが、下の瀬は流れがゆるやかだなぁ中の瀬で洗おう!」
そこで生まれた神は八十枉津日神(ヤソマガツヒ=災厄の神)です。
次にその災厄を直そうとして生まれたのが神直日神(カムナオシヒ)です。
次に大直日神(オオナオシヒ)です。
海の底で潜って身を洗って生まれたのが底津少童命(ソコツワタツミ)です。次に底筒男命(ソコツツノオ)です。
潮の中で潜って身を洗って生まれたのが表中津少童命(ウワナカツワタツミ)です。次に中筒男命(ナカツツオ)です。
潮の上に浮かんで身を洗って生まれたのが表津少童命(ウワツワタツミ)です。次に表筒男命(ウワツツオ)です。
合わせて九柱の神が生まれました。
底筒男命(ソコツツノオ)、中筒男命(ナカツツオ)、表筒男命(ウワツツオ)は住吉大神(スミノエノオオカミ)です。
底津少童命(ソコツワタツミ)、表中津少童命(ウワナカツワタツミ)、表津少童命(ウワツワタツミ)は阿曇連(アズミノムラジ)達の祀る神です。
古事記の対応箇所 / 現世に帰還・ケガレを祓う 
お話としては古事記とほぼ同じとなっています。
三人組の理由
住吉大神や宗像三女神が3人組となっているのは、古代に於いて船の移動の際、位置や方角を知るために「星」が利用されたためと言われています。その方角を知るための星が「オリオン座」のアルニタク・アルニラム・ミンタカの腰のベルトの三連星です。
世界各国で三つ星は特別視されていた。
エジプトのギザの三大ピラミッドはこの三つ星を表しているとも。
毛利家の家紋の一文字三つ星はオリオン座の腰の三つ星を表しているとも。
マンガ「あぁ女神さま」の「ウルド・スクルド・ベルダンディ」は北欧神話の海の女神で三姉妹。これも宗像三女神と同様の理由と思われる。
三貴神も、もしかすると
これまで三貴神(アマテラス・ツキヨミ・スサノオ)は「太陽+月」と「スサノオ(←意味不明ナニコレ?)」と考えがちでしたが、上記の住吉大神が「三つ星」をルールにしているならば、三貴神も同様に「海」に関わる神だったのかもしれません。
海というよりは「海運業」でしょう。
太陽と月は昼と夜の航海にとっては、自分の位置を知るために重要だったでしょう。スサノオは…風でしょうね。では古代では風を帆で受けて進んでいたか??それは分かりません。単に風で海が荒れるのを恐れたのかもしれません。
もしかすると、帆で風を受けて前に進むという「良い力」と、海が荒れるという「恐ろしい力」の二律背反(アンビバレンツ)な力を表したのが、高天原での乱暴狼藉とその後の出雲での英雄像になったのかもしれません。 
第五段 三貴神の誕生と統治
然後、洗左眼。因以生神、號曰天照大神。復洗右眼。因以生神、號曰月讀尊。復洗鼻。因以生神、號曰素戔鳴尊。凡三神矣。已而伊弉諾尊、勅任三子曰、天照大神者、可以治高天原也。月讀尊者、可以治滄海原潮之八百重也。素戔鳴尊者、可以治天下也。是時素戔鳴尊、年已長矣。復生八握鬚髯。雖然不治天下、常以啼泣恚恨。故伊弉諾尊問之曰、汝何故恆啼如此耶。對曰、吾欲從母於根國、只爲泣耳。伊弉諾尊惡之曰、可以任情行矣、乃逐之。 
イザナギが左目を洗うと神が生まれました。名前を天照大神(アマテラス)といいます。右目を洗うと神が生まれました。名前を月読尊(ツキヨミ)といいます。鼻を洗うと神が生まれました。名前を素戔鳴尊(スサノオ)といいます。合わせて三柱の神です。
イザナギは三柱の神に仕事を与えました。
「天照大神は高天原を治めなさい。月読尊は蒼海原を治めなさい。スサノオは天下を治めなさい」
この時、スサノオはすでに大人になっていて、長いヒゲも生えていました。ところが、天下を治めず、泣き喚いて駄々をこねました。
そこでイザナギが聞きました。「どうして、いつも泣いているのか?」
スサノオは答えました。「わたしは根の国の母(=イザナミ)を慕っているのです。それで泣いているのです」
イザナギは不愉快になり、「好きにしろ!!」とスサノオを追放してしまいました。
古事記の対応箇所 / 三貴神の誕生 
三貴神の関係
太陽と月と風。太陽は昼、月は夜。それだけでなく、海に居る時に自分の位置と方角を示す存在です。スサノオが表す「風」は、帆船があったかどうかはともかく、推進力であり、同時に海が荒れて転覆する原因ともなる恐ろしい存在です。
日本人はタタリを恐れる
日本人の宗教は基本的に「タタリを鎮める」ものです。怖いから、「まぁまぁ、そうおっしゃらずに、お怒りを鎮めてくださいよー」とお供え物をして機嫌を取るのが日本の宗教です。つまり、恐ろしい存在がより強い霊威を持つことになります。
縄文人も弥生人も海を伝って日本にやってきました。遺伝子の分布を考えると縄文人は確実に台湾沖縄を経由しています。弥生人も中国から直接来た可能性もありますが、縄文人と同じルートをたどったのではないか、と思われます。
その当時の日本人にとって海と船が生活の基盤でした。その生活では、何より恐ろしいのは「風」でした。風が波を起こし、嵐を起こし、船をひっくり返すのです。恐ろしい霊威を感じたでしょう。確かに太陽と月は方角を示す頼れる存在でしたが、それよりも風の恐怖は凄まじいものだったハズです。
スサノオが根の国(死者の国)の母を思い泣き喚くのはスサノオに風が嵐を呼び船をひっくり返し、人々を殺すという「死」の匂いがあったからだと考えています。
イザナミ・イザナギも海の民族の神と言われています。
海運から稲作へ
海の民の縄文人弥生人が日本で農業を始め、ついに水田稲作を行うようになると、重要な存在は風から太陽に移ります。相変わらず月は影が薄いです。 
第五段 三段切り
一書曰、伊弉諾尊、拔劒斬軻遇突智、爲三段。其一段是爲雷~。一段是爲大山祇~。一段是爲高龗。
又曰、斬軻遇突智時、其血激越、染於天八十河中所在五百箇磐石。而因化成~、號曰磐裂~。次根裂~、兒磐筒男~。次磐筒女~、兒經津主~。
倉稻魂、此云宇介能美拕磨。少童、此云和多都美。頭邊、此云摩苦羅陛。脚邊、此云阿度陛。熯火也。音而善反。龗、此云於箇美。音力丁反。吾夫君、此云阿我儺勢。湌泉之竈、此云譽母都俳遇比。秉炬、此云多妣。不須也凶目汚穢、此云伊儺之居梅枳枳多儺枳。醜女、此云志許賣。背揮、此云志理幣提爾布倶。泉津平坂、此云餘母都比羅佐可。尿、此云愈磨理。音乃弔反。絶妻之誓、此云許等度。岐~、此云布那斗能加微。檍、此云阿波岐。 
ある書によると……イザナギは剣を抜き、カグツチを三段に斬りました。
一段は雷神となりました。一段は大山祇神(オオヤマヅミ)となりました。一段は高龗(タカオカミ)となりました。
別の書によると……カグツチを斬ったときに、血が激しく飛び散って、天八十河(アマノヤソガワ)の500個の磐石を染めて、神となりました。
その神の名は磐裂神(イワサク)です。次に生まれたのが根裂神(ネサク)です。その子が磐筒男神(イワツツオ)です。次に生まれたのが磐筒女神(イワツツメ)です。その子が経津主神(フツヌシ)です。
倉稻魂は宇介能美拕磨(ウカノミタマ)と読みます。少童は和多都美(ワタツミ)と読みます。頭邊は摩苦羅陛(マクラヘ)と読みます。脚邊は阿度陛(アトヘ)と読みます。熯は火(ヒ)です。音は而善の反切り法です。龗は於箇美(オカミ)と読みます。音は力丁の反切り法です。吾夫君は阿我儺勢(アガナセ)と読みます。湌泉之竈は譽母都俳遇比(ヨモツヘグヒ)と読みます。秉炬は多妣(タヒ)と読みます。不須也凶目汚穢は伊儺之居梅枳枳多儺枳(イナシコメキキタナキ)と読みます。醜女は志許賣(シコメ)と読みます。背揮は志理幣提爾布倶(シリヘデブフク)と読みます。泉津平坂は餘母都比羅佐可(ヨモツヒラサカ)と読みます。尿は愈磨理(ユマリ)と読みます。音は乃弔の反切法です。絶妻之誓は許等度(コトド)と読みます。岐~は布那斗能加微(フナトノカミ)と読みます。檍は阿波岐(アハキ)と読みます。
対応する古事記 / 風と山の神が産まれる / オオヤマヅミの子供たち / 刀(剣)から生まれた神 / 火の神の死体から産まれた神 
前半
前半は雷神とオオヤマヅミとタカオカミが生まれています。雷神は黄泉の国ではイザナミの死体に絡みついていたタタリ神でしたが、本来は穀物神です。
雷の後は雨が降ることで水神であり、雷は別名が稲妻(イナヅマ)というように夏の終わりに稲を妊娠させて米を生むという有難い神です。
オオヤマヅミは山の神です。山に雨が降り、その雨が山から川となって流れ出ます。また穀物の生育は山から神が里に下りてきて畑に宿ることで実るという信仰もあります。
タカオカミは山から流れる川、そのものを神格化したものです。
後半
イワサク・ネサク・イワツツ・イワツツメ・フツヌシと並んでいます。最後のフツヌシが剣の神となっていて、パっと見、岩・根とは関係ないような気がします。が、フツヌシは剣ではなく、そもそもは「鉄」、というよりは「鉄の農機具」を表しているんでしょう。 
第五段 山の神が生まれ火が生まれる
一書曰、伊弉諾尊、斬軻遇突智命、爲五段。此各化成五山祇。一則首、化爲大山祇。二則身中、化爲中山祇。三則手、化爲麓山祇。四則腰、化爲正勝山祇。五則足、化爲䨄山祇。是時、斬血激灑、染於石礫・樹草。此草木沙石自含火之緣也。麓、山足曰麓、此云簸耶磨。正勝、此云麻沙柯、一云麻左柯豆。䨄、此云之伎、音鳥含反。 
ある書によると……イザナギはカグツチを五段に斬りました。この五つがそれぞれ五柱の山祇(山の神)になりました。
まず首は大山祇(オオヤマズミ)となりました。次に体は中山祇(ナカヤマズミ)となりました。次に手が麓山祇(ハヤマヤマズミ?)となりました。次に腰が正勝山祇(マサカヤマズミ)となりました。次に足が䨄山祇(シギヤマズミ)となりました。
斬った時に血が激しく飛び散って、石礫樹草を染めました。草木砂石が燃えるのはこのためです。
麓は山の下の方のことで簸耶磨(ハヤマ)といいます。正勝は麻沙柯(マサカ)と読みます。もしくは麻左柯豆(マサカツ)と読みます。䨄は之伎(シギ)と読みます。音は鳥・含の反切法です。
対応する古事記 / 火の神の死体から産まれた神 
山を擬人化
日本人のお家芸「擬人化」です。山の頂点から首がオオヤマズミ、体がナカヤマズミ、手がハヤマヤマズミ、腰がマサカヤマズミ、足がシギヤマズミ。古代の日本人は山を大きな「人」に見立てていたってことです。大きな神様だと。
第五段一書(七)三段切りでは雷神・オオヤマズミ・タカオカミ(=水神・龍神)でした。
火の神、カグツチが斬られて「山」になったのは間違いなく「火山の噴火」を表していいます。「第五段一書(七)三段切り」でカグツチの死から農業関係の神を生まれているのとは捉え方がかなり違います。
是時、斬血激灑、染於石礫・樹草。此草木沙石自含火之緣也について
カグツチの血が岩・石・砂・木・草などに散ったために、自然物は燃えるようになった。という「火の起源」とわたしは捉えました。つまり日本書紀では「創世神話」が続いているということ。まだ世界は出来上がってはいない、ということです。 
第五段 殯斂の宮へ
一書曰、伊弉諾尊、欲見其妹、乃到殯斂之處。是時、伊弉冉尊、猶如生平、出迎共語。已而謂伊弉諾尊曰「吾夫君尊、請勿視吾矣。」言訖忽然不見、于時闇也。伊弉諾尊、乃舉一片之火而視之、時伊弉冉尊、脹滿太高。上有八色雷公、伊弉諾尊、驚而走還、是時、雷等皆起追來、時道邊有大桃樹、故伊弉諾尊、隱其樹下、因採其實、以擲雷者、雷等皆退走矣、此用桃避鬼之緣也。時伊弉諾尊、乃投其杖曰「自此以還、雷不敢來。」是謂岐神、此本號曰來名戸之祖神焉。所謂八雷者、在首曰大雷、在胸曰火雷、在腹曰土雷、在背曰稚雷、在尻曰K雷、在手曰山雷、在足上曰野雷、在陰上曰裂雷。 
ある書によると……イザナギは死んだ妻であるイザナミに会いたいと、遺体を安置する「殯斂(アラキ)の宮」に行きました。
イザナミは生きていた時と同じように訪ねてきたイザナギを出迎え、話し合いました。
「愛する夫、イザナギ。どうか私の姿を見ないでください」と言い終わると、忽然と見えなくなり、辺りは闇に包まれました。
イザナギは一つ火(ヒトツビ)をつけて照らして見ました。
するとイザナミの体が腐って膨れ、その体の上には八種の雷神が憑いていました。
驚いたイザナギは走り帰りました。雷神たちは気がついて追いかけてきました。
逃げる途中に桃の木があったのでイザナギは樹に隠れて、桃の実を取って雷神たちに投げつけました。すると雷神たちは逃げてしまいました。
「桃を用いて鬼を避ける」というのはこの為です。イザナギは杖を投げて「ここからこっちには雷神は来られない!」と言いました。
これを岐神(フナトノカミ)と言います。本来の名前は来名戸之祖神(クナトノオヤカミ)です。
俗に言う「八種の雷神」というのは首にあるのを大雷(オオイカヅチ)、胸にあるのを火雷(ホノイカヅチ)、腹にあるのを土雷(ツチイカヅチ)、背にあるのを稚雷(ワクイカヅチ)、お尻にあるのを黒雷(クロイカヅチ)、手にあるのを山雷(ヤマイカヅチ)、足にあるのを野雷(ノノイカヅチ)、女性器にあるのを裂雷(サクイカヅチ)といいます。
古事記の対応箇所 / 黄泉の国へ / イザナミは既に… / 逃げろ! 
古代の豪族は古墳をつくりました。古墳は一般的には「墓」ですが、同時に宗教施設でもあります。遺体は殯斂(アラキ)の宮に安置され、白骨化するまで放置します。これが「殯(モガリ)」です。白骨化すると古墳に埋葬されます。モガリの時期は随書によると3年とされますが、事情によって期間は変わるようです。
憤死した場合(例えば暗殺された、自殺に追い込まれた)は、モガリの期間が短くなります。これは憎しみのあまり、黄泉から復活し祟ることを恐れ、さっさと土の下に埋めたいという欲求からだと思われます。
イザナミが恥をかかされたこと(見るなと言ったのに見た)で、夫イザナギを憎み、タタリ神の雷神を指し向けるパターンはこの「黄泉の国編」では決まりごとになっています。
これはイザナギという神ですら「死」の世界は恐ろしいものという意味もあります。また、イザナミ同様に出産によって死んだ女性は古代では珍しくなかったでしょう。集落を豊かにする「出産」。それに失敗し死に、その死体が腐り疫病を呼ぶ恐怖。
その穢れを退けるものとして「桃」があり、「杖」による結界があります。桃はどうやら中国の思想の影響ではないか?というのが一般的です。
杖について
杖が結界を作るという考えは鳥居などのように二本の柱とそこを結ぶ線が境目となる考えの元かもしれません。または「第五段一書(六)−3千人殺し、千五百人生ませる」で杖・帯・衣服・靴が投げられて神となったように、外部からやってきて病気を持ち込む可能性のある「旅人」の象徴だったのかもしれません。
どちらにしても「杖」は「穢れ」に関わる「モノ」として特別視されたと思います。 
第五段 負けない!
一書曰、伊弉諾尊、追至伊弉冉尊所在處、便語之曰「悲汝故來。」答曰「族也、勿看吾矣。」伊裝諾尊、不從猶看之、故伊弉冉尊恥恨之曰「汝已見我情。我復見汝情。」時、伊弉諾尊亦慙焉、因將出返、于時、不直默歸而盟之曰「族離。」又曰「不負於族。」乃所唾之~、號曰速玉之男。次掃之~、號泉津事解之男。凡二~矣。及其與妹相鬪於泉平坂也、伊弉諾尊曰「始爲族悲、及思哀者、是吾之怯矣。」時、泉守道者白云「有言矣、曰、『吾、與汝已生國矣、奈何更求生乎。吾則當留此國、不可共去。』」是時、菊理媛~亦有白事、伊弉諾尊聞而善之。
乃散去矣、但親見泉國、此既不祥。故、欲濯除其穢惡、乃往見粟門及速吸名門、然此二門、潮既太急。故、還向於橘之小門而拂濯也。于時、入水吹生磐土命、出水吹生大直日~、又入吹生底土命、出吹生大綾津日~、又入吹生赤土命、出吹生大地海原之諸~矣。不負於族、此云宇我邏磨穊茸。 
ある書によると……イザナギはイザナミを追いかけて辿りついて、言いました。
「わたしは、お前を失って悲しいから来たのだ」
するとイザナミは答えました。
「つながる者よ(=夫)。わたしを見ないでおくれ」
イザナギは従わずに、イザナミを見てしまいました。
イザナミはそれを恨み、恥じて「あなたはわたしの心を見た。わたしもあなたの心を見てしまった」と言いました。
それでイザナギは申し訳なく思い、引き返そうとしました。そのときイザナミは黙って帰らせず
「別れましょう」と言いました。
イザナギは「負けない!」と言いました。
その時吐いた唾が神となったのが速玉之男(ハヤタマノオ)といいます。次に穢れを払うと泉津事解之男(ヨモツコトサカノオ)といいます。二つの神が生まれました。
イザナミと黄泉平坂で言い争ったときにイザナギは「はじめは妻を失った悲しみから、恋しいと思っていたが、それは自分の心が弱いだけだった!」と言いました。
黄泉の道の番をしている泉守道者(ヨモツモリビト)がイザナミに向かって言葉を促すと
「わたしは、あなた(=イザナギ)とともに国を生みました。どうしてこれ以上、子を産むことを求めるのですか……わたしはこの国にとどまります。一緒に行くことは出来ません」
このとき菊理媛神(ククリヒメカミ)が言葉を漏らしました。
イザナギはそれを聞いて褒め称え、黄泉の国を去りました。
イザナギは黄泉の国に悪い印象を持たなかったが、その理由はハッキリしません。
黄泉の国に言ったことで穢れを洗い流さないといけません。
そこで粟門(アワト=現在の鳴門海峡)や速吸名門(ハヤスイノミナト=現在の豊後水道)に行って禊をするに良いか様子を見ました。ところがこの二か所は流れが速すぎてやめて、橘之小門(タチバナノオト)で体をお洗って穢れを落としました。
そこで水に入って息を吐くと磐土命(イワツチノミコト)が生まれました。水から出て息を吐くと大直日神(オオナオヒノカミ)が生まれました。また水に入り息を吐くと底土命(ソコツチノミコト)が生まれました。水から出て息を吐くと大綾津日神(オオアヤツヒノカミ)が生まれました。また水に入り息を吐くと赤土命(アカツチノミコト)が生まれました。また水から出て息を吐いて大地海原の神を生みました。
不負於族は宇我邏磨穊茸(ウガラマケジ)と読みます
古事記の対応箇所 / 黄泉の国へ / イザナミは既に… / 逃げろ! / 日本最初の離婚・死の呪い / 現世に帰還・ケガレを祓う / 穢れから産まれた神 / 住吉三神が産まれる 
ここではイザナミは腐乱死体ではない
イザナミが見ないでというのを無視してイザナギは妻を見てしまいます。今までの記紀では「イザナミは腐っていた」→「逃げる」のですが、ここでは別れ話を切り出されてトボトボと帰ることになります。
帰る途中にまた言い争いになるのですが、なぜ言い争いになるのかは省略されています。この話の流れは曖昧です。坂まで二人でとぼとぼと別れ話をしながら帰ったのかもしれないし、他の話のように追いかけっこがあったのを省略しているだけかもしれない。
別れを切り出したのは男か女か
漢文に詳しくありませんが、物語の流れ上では、イザナミが別れを切り出したと考えた方が、すんなりと頭に入るので、ハッキリと「イザナミが」と書きました。訳本によっては曖昧にしています。
古事記・日本書紀の記述のほとんどがイザナミがイザナギを引き留めるのですが、この書ではイザナギがイザナミを引き留めるようになっているのは面白いです。
死を受け入れるための儀式
人が死ぬのは悲しい。家族ならば猶更。イザナミを失ったイザナギは、黄泉の国で「死の現実」を突き付けられ、「悲しいという気持ちは恋しさから来たのではない。わたしの心が弱いからだ!」と悟ります。
夫を拒むイザナミ
もう子供は産めないと現世の帰還を拒むイザナミ。黄泉の国の食べ物を食べたから現世に帰れないというほかの物語とは違い、ハッキリとした意志をもって黄泉の国にとどまることを誓います。
出産は女性を疲弊させる。という考えが古代人にかなりしっかりとあり、それに対する罪悪感があったのではないか?とも思いますね
ククリヒメカミとヨモツモリビト
この二柱の神が口にした言葉は結局、ひとつも残っていません。ククリヒメカミは白山神社の祭神で「イタコ」の元祖とされます。 
第五段 ウツシキアオヒトクサ
一書曰、伊弉諾尊、勅任三子曰「天照大神者、可以御高天之原也。月夜見尊者、可以配日而知天事也。素戔鳴尊者、可以御滄海之原也。」既而、天照大神在於天上曰「聞、葦原中國有保食神。宜爾月夜見尊就候之。」月夜見尊、受勅而降。已到于保食神許、保食神、乃廻首嚮國則自口出飯、又嚮海則鰭廣鰭狹亦自口出、又嚮山則毛麁毛柔亦自口出。夫品物悉備、貯之百机而饗之。是時、月夜見尊、忿然作色曰「穢哉、鄙矣。寧可以口吐之物敢養我乎。」廼拔劒擊殺。然後復命、具言其事、時天照大神、怒甚之曰「汝是惡神。不須相見。」乃與月夜見尊、一日一夜、隔離而住。是後、天照大神、復遣天熊人往看之、是時、保食神實已死矣、唯有其神之頂化爲牛馬、顱上生粟、眉上生蠒、眼中生稗、腹中生稻、陰生麥及大小豆。天熊人、悉取持去而奉進之、于時、天照大神喜之曰「是物者、則顯見蒼生可食而活之也。」乃以粟稗麥豆爲陸田種子、以稻爲水田種子。又因定天邑君、卽以其稻種、始殖于天狹田及長田。其秋、垂穎、八握莫莫然甚快也。又口裏含蠒、便得抽絲、自此始有養蠶之道焉。保食神、此云宇氣母知能加微。顯見蒼生、此云宇都志枳阿鳥比等久佐。 
ある書によると……イザナギは三貴神(=アマテラス・ツキヨミ・スサノオ)に言いました。
「アマテラスは高天原を治めなさい。ツキヨミは『日』と共に天を治めなさい。スサノオは海を治めなさい」
アマテラスは天上で言いました。
「葦原中国には保食神(ウケモチ)がいると聞きました。ツキヨミよ、行って様子を伺って来てください」
ツキヨミは勅命を受けて地上に降り、ウケモチ神のもとへと出向きました。
ウケモチ神は首を回しました。国に向くと口からご飯を出ました。海に向くと鰭(ヒレ)の大きな魚、鰭(ヒレ)の小さな魚が口から出てきました。山に向くと毛の固い獣から毛の柔らかい獣が口から出てきました。ウケモチ神は口から出した品物を机に並べました。
それを見たツキヨミは顔色を変えて怒り、「なんと汚い!卑しい!!口から吐き出したものを食べさせようとするとは!!!」と言いました。
ツキヨミはすぐに剣を抜き、切り殺しました。
ツキヨミは高天原に帰り、事情を報告しました。
するとアマテラスは怒り、「あなたは悪い神だ!顔も見たくない!!」と言い、それ以降、昼と夜は別々になりました。
アマテラスは天界の料理人の天熊人(アメノクマヒト)を地上に下ろして様子を見に行かせました。
ウケモチ神はすでに死んでいました。
ウケモチの髪が牛馬に成っていました。頭からは粟が生えました。眉からは蚕が産まれました。眼には稗(ヒエ)が生えました。腹には稲が生えました。女性器には麦と大豆と小豆が生えていました。天熊人(アメノクマヒト)はそれらを全て持ち帰りました。
アマテラスはとても喜び、「これらのものは、地上に生まれた人民を生かすための食料となる」と言いました。
それで粟・稗・麦・豆は畑の種子とし、稲を水田の種子としました。
天邑君(アメノムラキミ=村長)を定めました。
稲の種子を天狭田(アマノサナダ)に初めて植えると、その秋になると沢山に実った穂が垂れ下がるほどになって、とても見事だった。
また口に蚕を含んで糸を引くことができました。養蚕の道が開けました。
保食神は宇氣母知能加微(ウケモチノカミ)と読みます。顯見蒼生は宇都志枳阿鳥比等久佐(ウツクシキアオヒトクサ)と読みます。
古事記の対応箇所 / 三貴神の分割統治 / オオゲツヒメのおもてなし 
ウケモチは女なんですね
ウケモチの「ホト(=女性器)」から麦・大豆・小豆が生まれたということは、ウケモチ神は「女」なのですね。食物起源の物語のハイヌウェレ神話と同じです。
高天原と天は違うもの?
アマテラスが高天原担当で、ツキヨミは『日と共に天を治める』とされているので、高天原と天は別の場所を表しているか、どちらかがどちらかを含んでいるんでしょう。 
第六段 幽宮を淡路島に作って
於是、素戔鳴尊請曰「吾今奉教、將就根國。故欲暫向高天原、與姉相見而、後永退矣。」勅許之。乃昇詣之於天也。是後、伊弉諾尊、~功既畢、靈運當遷、是以、構幽宮於淡路之洲、寂然長隱者矣。
亦曰、伊弉諾尊、功既至矣、コ文大矣、於是、登天報命、仍留宅於日之少宮矣。少宮、此云倭柯美野。 
子供のように「母に会いたい」と駄々をこねるスサノオを、イザナギは「勝手にしろ」と追放してしまう……
スサノオは言いました。
「わたしは今から(父イザナギの言うとおりに)、根の国に行きます。その前に、高天原に向かい、姉であるアマテラスと会います。それから永遠に根の国に退きます」
イザナギはこの申し出を許しました。
すぐにスサノオは天に向かいました。
その後イザナギは神として成すべきことを終えていて、熱病に掛かって死んでしまいそうになったので、幽宮(カクレノミヤ)を淡路島に作って、そこに静かに眠りました。
別の言い伝えでは…イザナギは神として成すべきことを終え、徳が優れていたので、天に昇って報告をして、日之少宮(ヒノワカミヤ)にとどまりました。
少宮は倭柯美野(ワカミヤ)と読みます。
古事記の対応箇所 / 荒ぶる速須佐之男命は母恋しく / 須佐之男を迎え撃つアマテラス 
イザナギは死んだか?
イザナギは熱病で死んでしまう前に幽宮を作って、そこで永遠の眠りにつきます。本文の中の別の言い伝えでは、死なずに「日之少宮(ヒノワカミヤ)」にとどまります。
日之少宮(ヒノワカミヤ)のくだりではイザナギは「死んだ」というニュアンスの書き方が無いので死んで無いですが、もしかすると省略しただけかも。でも、「留宅」と書いてあるので死んで無いのでしょう。 
第六段 海は荒れ、山が泣く
始、素戔鳴尊昇天之時、溟渤以之鼓盪、山岳爲之鳴呴、此則神性雄健使之然也。天照大神、素知其神暴惡、至聞來詣之狀、乃勃然而驚曰「吾弟之來、豈以善意乎。謂當有奪國之志歟。夫父母既任諸子各有其境、如何棄置當就之國而敢窺窬此處乎」乃結髮爲髻、縛裳爲袴、便以八坂瓊之五百箇御統(御統、此云美須磨屢)纒其髻鬘及腕、又背負千箭之靫(千箭、此云知能梨)與五百箭之靫、臂著稜威之高鞆(稜威、此云伊都)振起弓彇、急握劒柄、蹈堅庭而陷股、若沫雪以蹴散(蹴散、此云倶穢簸邏邏箇須)、奮稜威之雄誥(雄誥、此云鳥多稽眉)、發稜威之嘖讓(嘖讓、此云舉廬毗)、而俓詰問焉。 
スサノオが天に昇ろうとした時です。海は轟いて揺れ、山は鳴り響きました。これはスサノオという神の素質があまりに粗暴だったからです。
アマテラスは弟スサノオが粗暴であると知っていたので、天に昇ってくる様子を聞いて、驚きました。
「わたしの弟(=スサノオ)が来る!!善良な心によって天に上がってくるはずがない!きっと私の国(=高天原)を奪おうとしているに違いない!!父母(=イザナギとイザナミ)が子供たち(=アマテラス・ツキヨミ・スサノオ)それぞれに治める場所を分けたというのに、どうして治めるべき自分の国を捨ててまで、高天原を奪おうとするのか!!」
アマテラスは髪を解いて、男のように角髪(髻=ミズラ)に結い、腰にまとっていた裳を、やはり男のように袴(ハカマ)にしました。また、大きな勾玉を500個も紐で連ねてまとめた御統(ミスマル)を頭(ミズラとカツラ)や腕に巻きつけ、背中には1000本の矢が入る靭(=矢立て、矢を入れる筒)と500本の矢が入る靭を背負い、肩から肘・手首までを守る稜威之高鞆(イズノタカトモ)を身につけ、弓の上弭(ウワハズ)を振り起こし、太刀の柄を握り締め、固い地面を腿まで沈むほど踏みしめ、その土を蹴りあげて泡雪のように撒き散らし、雄たけびを上げ、スサノオを責め、問い詰めました。
古事記の対応箇所 / 須佐之男を迎え撃つアマテラス 
稜威は神聖な?
稜威は神聖なとか勢いがあるという意味です。日本人には「神聖」なものとは「人外ではない強い力」というニュアンスで、「正義」か「悪」か?というものさしとはちょっと違う。
ウワハズ
ウワハズは弓の上部のこと。 
第六段 赤心を証明するための誓約
素戔鳴尊對曰「吾元無K心。但父母已有嚴勅、將永就乎根國。如不與姉相見、吾何能敢去。是以、跋渉雲霧、遠自來參。不意、阿姉翻起嚴顏。」
于時、天照大神復問曰「若然者、將何以明爾之赤心也。」對曰「請與姉共誓。夫誓約之中(誓約之中、此云宇氣譬能美儺箇)必當生子。如吾所生是女者則可以爲有濁心、若是男者則可以爲有C心。」
於是、天照大神、乃索取素戔鳴尊十握劒、打折爲三段、濯於天眞名井、噛然咀嚼(噛然咀嚼、此云佐我彌爾加武)而吹棄氣噴之狹霧(吹棄氣噴之狹霧、此云浮枳于都屢伊浮岐能佐擬理)所生神、號曰田心姬。次湍津姬、次市杵嶋姬、凡三女矣。 
スサノオは言いました。
「わたしには元から悪い心はありません。ただ父と母(イザナギとイザナミ?)から厳しい命令を受けて、これから永久に根の国に行こうと思っております。姉(=アマテラス)と会わずにこの国から去れるでしょうか??そこで雲や霧をかき分けて、遠いこの高天原までやってきたのです。姉がこのように厳しい顔をしているとは思いもよりませんでした」
それに対してアマテラスは問い返しました。
「もしそうであるならば、清らかな心を持っていると、どうやって証明するのか??」
それに対してスサノオは答えました。
「それでは姉さんと共に誓約(ウケイ)をしましょう。誓約の中で子を生みましょう。わたしが生んだ子が女ならば邪心があると考えてください。もし私が生んだ子が男ならば、清らかな心だと考えてください」
それでアマテラスはスサノオが持っていた十拳釼(トツカノツルギ)を受け取り、これを三段に折って、天眞名井(アメノマナイ)の井戸水で濯(すす)いで清めて、カリカリと噛んで砕いてフっと噴出しました。すると生まれたのが田心姬(タコリヒメ)湍津姬(タギツヒメ)市杵嶋姬(イチキシマヒメ)の三姉妹です。
古事記の対応箇所 / 身の潔白の証明、誓約 / 宗像三女神の誕生 
父と母
イザナミは死んだはずなのに、ここでは「父と母の命令(父母已有嚴勅)」と書いてあります。死んで無いのでしょうか?
赤心と書いて清らかな心
日本では赤は「魔を払う聖なる色」です。神社の鳥居が赤いのもそのせいです。では何故「赤」が「聖なる色」なのか?というと、これも南方系文化が関わってきます。
魏志倭人伝には日本人は肌に朱や丹を塗っていたとされます。これは紫外線および皮膚病を防ぐものです。アフリカの人が泥を体に塗っているのと同じことです。紫外線を防ぎ皮膚病を防ぎます。古代において病気は「魔物」が起こすものとされていましたので、魔を防ぐ「朱・丹」は「聖なるもの」とされたのが理由です。
誓約が成立する理由
日本は言霊の国です。言葉を発すると言うことはその言葉が「現実」になる可能性があります。つまり言葉が現実になるものほど神威が強いということになります。ということは神同志での争いには「言いあい」があります。宣言して実現した方が「強い」のです。
「第五段負けない!」ではイザナミが「別れましょう」と言うとイザナギは「負けない!」と答えます。別れましょうというのは意志の表明ではなく、現実化する可能性のある呪いのようなものだからです。だからこそ、その返答は「嫌だ」ではなく「負けない!」なのです。 
第六段 誓約の結果は?
既而、素戔鳴尊、乞取天照大~髻鬘及腕所纒八坂瓊之五百箇御統、濯於天眞名井、??然咀嚼、而吹棄氣噴之狹霧所生~、號曰正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊。次天穗日命是出雲臣・土師連等祖也、次天津彦根命是凡川内直・山代直等祖也、次活津彦根命、次熊野?樟日命、凡五男矣。是時、天照大~勅曰「原其物根、則八坂瓊之五百箇御統者是吾物也。故、彼五男~、悉是吾兒。」乃取而子養焉。又勅曰「其十握劒者、是素戔鳴尊物也。故、此三女~、悉是爾兒。」便授之素戔鳴尊、此則筑紫胸肩君等所祭~是也。 
アマテラスが頭や腕に身に着けていた八坂瓊(ヤサカニ)の500個の御統(ミスマル=玉飾り)を受け取って、天眞名井(アマノマナイ)の水で進んで、カリカリと噛んで噴出した息が霧となって生まれた神が正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)です。
次に生まれたのが天穗日命(アメノホヒ)です。
この神は出雲臣(イズモノオミ)や土師連(ハニシノムラジ)の祖先です。
次に生まれのが天津彥根命(アマツヒコネ)です。
この神は凡川內直(オオシカワチノアタエ)や山代直(ヤマシロノアタエ)の祖先です。
次に生まれのが活津彥根命(イクツヒコネ)です。次に生まれのが熊野櫲樟日命(クマノクスビ)です。以上の五柱の神が生まれました。
このときアマテラスは言いました。
「生まれた神の元となったのは、八坂瓊(ヤサカニ)の五百箇の御統(ミスマル)であり、それは私の持ち物だった。だからこの五柱の男神は私の子供だ」
アマテラスはこれらの男神を育てました。
またアマテラスは言いました。
「その十拳釼(トツカノツルギ)はスサノオのものだ。よってこの三女神はお前(=スサノオ)のものだ」と、スサノオに女神を授けました。
筑紫の胸肩君(ムナカタノキミ)が祀る神です。
古事記の対応箇所 / 男神五柱の誕生 / 子供たちを分ける 
古事記の男神五柱の誕生で語られる物語とほぼ同じ内容になっています。 
第六段 天孫によって祀られなさい
一書曰、日神、本知素戔鳴尊有武健凌物之意、及其上至、便謂「弟所以來者、非是善意。必當奪我天原。」乃設大夫武備、躬帶十握劒・九握劒・八握劒、又背上負靫、又臂著稜威高鞆、手捉弓箭、親迎防禦。
是時、素戔鳴尊告曰「吾元無惡心。唯欲與姉相見、只爲暫來耳。」於是、日神共素戔鳴尊、相對而立誓曰「若汝心明淨、不有凌奪之意者、汝所生兒、必當男矣。」言訖、先食所帶十握劒生兒、號瀛津嶋姬。又食九握劒生兒、號湍津姬。又食八握劒生兒、號田心姬。凡三女神矣。
已而素戔鳴尊、以其頸所嬰五百箇御統之瓊、濯于天渟名井(亦名去來之眞名井)而食之、乃生兒、號正哉吾勝勝速日天忍骨尊。次天津彥根命、次活津彥根命、次天穗日命、次熊野忍蹈命、凡五男神矣。
故素戔鳴尊、既得勝驗。於是、日神、方知素戔鳴尊固無惡意、乃以日神所生三女神、令降於筑紫洲、因教之曰「汝三神、宜降居道中、奉助天孫而爲天孫所祭也。」 
ある書によると……日神(=アマテラス)は、スサノオが武勇に優れており、誰にも負けない心を持っていると知っていました。なのでスサノオが高天原に昇ってくるのを見て、すぐに言いました。
「弟(=スサノオ)が昇ってくる理由は、良い心持からのことではないだろう。私の高天原を奪おうと考えてのことに違いない!」
すぐに男のように身支度をして、十拳剣(トツカノツルギ)、九拳剣(ココノツカノツルギ)、八拳剣(ヤツカノツルギ)を身につけ、背には靭(ユギ=矢を入れる筒)を負い、腕には稜威之鞆(イズノタカトモ=神聖な腕の防具)を身につけ、手に弓矢を握り、スサノオの侵略を防ごうとしました。
このときスサノオがアマテラスに言いました。
「私(=スサノオ)は元々から悪い心を持っておりません。ただ、姉(=アマテラス)とお会いしたいと思って来たのです」
これに対してアマテラスはスサノオと対峙して言いました。
「もしも、お前(=スサノオ)の心が綺麗であり、高天原を奪う気持ちが無いのであれば、お前が生んだ子は『男神』になるだろう」
そう言ってまず、腰の十拳剣を噛んで生んだ子供が瀛津嶋姬(オキツシマヒメ)です。九拳剣を噛んで生まれた子供は湍津姬(タギツヒメ)です。八拳剣を噛んで生まれた子供は田心姬(タゴリヒメ)です。以上三柱の女神です。
今度はスサノオが首に掛けた五百箇御統之瓊(イホツミスマルノタマ)を取り、天渟名井(アメノヌナマイ・別名去來之眞名井【イザノマナイ】)の綺麗な水で濯いで噛んで生んだ子供が正哉吾勝勝速日天忍骨尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホネノミコト)です。次に生まれたのが天津彥根命(アマツヒコネ)です。次が活津彥根命(イクツヒコネ)です。次が天穗日命(アメノホヒ)です。次が熊野忍蹈命(クマノオシホム)です。以上の五柱の男神です。
スサノオは既に誓約の勝利の証拠を得ました。
これで日神(=アマテラス)はスサノオが悪い心を持っていないと知りました。すぐに日神が生んだ三柱の女神を筑紫に降臨させ、言いました。
「お前たち三柱の神は天より降臨して天孫を助けなさい。そして天孫によって祀られなさい」
古事記の対応箇所 / 須佐之男を迎え撃つアマテラス / 身の潔白の証明、誓約 / 宗像三女神の誕生 / 男神五柱の誕生 / 子供たちを分ける / 誓約の神々の系譜 
剣を噛んだと訳しましたが、本文には「食」という字が当てられています。六段本文では「食」ではありません。
宗像の神が違う
今回の三柱の女神はオキツシマヒメ・タギツヒメ・タゴリヒメで、その後宗像三女神のセンターになるイチキシマヒメが居ません。
また三女神が生まれた「物」も違います。六段本文では十拳剣(トツカノツルギ)を三段に折りましたが、今回は十、九、八拳剣をそれぞれ噛み砕いて生んでいます。
どちらにしても「武器」から女神を生んだことは何か意味があったのではないかと思います。
女神は天孫を助ける側ではありますが、天孫に祀られる側でもあります。この辺りは主従がハッキリしていません。日本において神と人(=天孫、つまり天皇)の関係が「どちらが上とは明確ではない」という意味でしょう。これは天皇、というか大王(オオキミ)が、大和朝廷という「組織のリーダー」というよりは神を祭る役割だったためではないかと思われます。
また古事記の系譜などではスサノオ系とされるのですが「天孫を助け、祀られなさい」とアマテラスに言われているのを見ると、天つ神属性もある様子。
一方スサノオが生んだ神は?
正哉吾勝勝速日天忍骨尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホネノミコト)天津彥根命(アマツヒコネ)活津彥根命(イクツヒコネ)天穗日命(アメノホヒ)熊野忍蹈命(クマノオシホム)です。
ほぼ六段本文と同じです。ちなみに生まれた物は五百箇御統之瓊(イホツミスマルノタマ)ですが、この持ち主が「スサノオ」なのかは疑問。六段本文ではアマテラスが身につけている物品だからです(参考:第六段本文−2海は荒れ、山が泣く)。 
第六段 羽明玉と瑞八坂瓊之曲玉
一書曰、素戔鳴尊、將昇天時、有一神、號羽明玉、此神奉迎而進以瑞八坂瓊之曲玉。故、素戔鳴尊、持其瓊玉而到之於天上也。是時、天照大神、疑弟有惡心、起兵詰問。素戔鳴尊對曰「吾所以來者、實欲與姉相見。亦欲獻珍寶瑞八坂瓊之曲玉耳、不敢別有意也。」時天照大神、復問曰「汝言虛實、將何以爲驗。」對曰「請吾與姉共立誓約。誓約之間、生女爲K心、生男爲赤心。」乃掘天眞名井三處、相與對立。是時、天照大神、謂素戔鳴尊曰「以吾所帶之劒、今當奉汝。汝、以汝所持八坂瓊之曲玉、可以授予矣。」如此約束、共相換取。已而、天照大神、則以八坂瓊之曲玉、浮寄於天眞名井、囓斷瓊端、而吹出氣噴之中化生神、號市杵嶋姬命、是居于遠瀛者也。又囓斷瓊中、而吹出氣噴之中化生神、號田心姬命、是居于中瀛者也。又囓斷瓊尾、而吹出氣噴之中化生神、號湍津姬命、是居于海濱者也。凡三女神。於是、素戔鳴尊、以所持劒、浮寄於天眞名井、囓斷劒末、而吹出氣噴之中化生神、號天穗日命。次正哉吾勝勝速日天忍骨尊、次天津彥根命、次活津彥根命、次熊野櫲樟日命、凡五男神、云爾。 
ある書によると……スサノオが天に昇ろうとしていたとき、一柱の神が現れました。名前を羽明玉(ハアカルタマ)といいます。
この神がスサノオを出迎えて、瑞八坂瓊之曲玉(ミズノヤサカニノマガタマ)をスサノオに渡しました。
スサノオはその勾玉を持って天に昇りました。
そのときアマテラスは弟(=スサノオ)が悪い心を抱いていると疑って、兵隊を集めて問い詰めました。
スサノオは答えました。
「わたしが天に来た理由は、姉(=アマテラス)さんと会いたいと思ったからです。また珍しい瑞八坂瓊之曲玉(ミズノヤサカニノマガタマ)を挿し上げようと思ったからです。悪意はありません」
アマテラスはまた問いました。
「あなたの言葉が嘘か本当が、どうやって証明するのですか?」
スサノオは答えました。
「わたしと姉さんで、誓約をしましょう。誓約で女神が生まれたならば悪意があるとしてください。男神が生まれたならば清らかな心があるとしてください」
すぐに天眞名井(アメノマナイ)を三カ所掘って、アマテラスとスサノオは向かい合って立ちました。
この時、アマテラスはスサノオに言いました。
「私が腰に帯びた剣を、あなたに渡します。あなたはあなたが持つ八坂瓊之曲玉(ヤサカニノマガタマ)をわたしに渡しなさい」
そう約束して、持ち物を交換しました。
アマテラスは八坂瓊之曲玉(ヤサカニノマガタマ)を天眞名井(アメノマナイ)に浮かべて洗い、勾玉の端を噛み切って噴き出すと、その中に神が生まれました。
神の名前は市杵嶋姫命(イチシキシマヒメ)です。この神は遠瀛(オキツミヤ=沖つ宮)に居る神です。
次に勾玉の中央を噛み切って噴き出すと、神が生まれました。神の名前は田心姫命(タコリヒメ)です。この神は中瀛(中つ宮)に居る神です。
次に勾玉の尾を噛み切って噴き出すと、神が生まれました。神の名前は湍津姫命(タギツヒメ)です。この神は海濱(ヘツミヤ=辺つ宮)に居る神です。
以上三柱の女神です。
続いてスサノオが剣を天眞名井(アメノマナイ)に浮かべて洗い、剣の先を噛み切って噴き出して生まれた神が天穗日命(アメノホヒ)です。
次に正哉吾勝勝速日天忍骨尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホネ)です。
次に天津彦根命(アマツヒコネ)です。
次に活津彦根命(イクツヒコネ)です。
次に熊野櫲樟日命(クマノクスヒ)です。
以上五柱の男神です。
古事記の対応箇所 / 須佐之男を迎え撃つアマテラス / 身の潔白の証明、誓約 / 宗像三女神の誕生 / 男神五柱の誕生 / 子供たちを分ける / 誓約の神々の系譜 
羽明玉(ハアカルタマ)
初登場。天に向かおうとするスサノオを出迎えて、瑞八坂瓊之曲玉(ミズノヤサカニノマガタマ)を渡した神。そういう意味では宗像の女神たちの出生に関わったことになるのか。
勾玉と息
勾玉は霊体を表わしているんでしょう。しかし、なぜあのような形をしているのかは、「イメージ」としては理解できますが、元は何なのか?は分かりません。
その勾玉をアマテラスが噛み砕き、吐き出すと女神たちが生まれました。古事記でも日本書紀でも「息」が神に変異するケースが多いです。これは、日本人が「息」を特別視したからです。
例えば、神社で人型に切った紙に自分の穢れを移して払ってもらう「大祓形代」があります。この人型の神に穢れを移すためにする所作の一つが「息を吹きかける」というもの。つまり息には魂がこもっていると日本人は考えているってことです。他にも、お母さんが子供にゲンコツと食らわせる時に拳に「はぁ〜!」と息を吹きかけるのも多分同じ意味です。
つまり息そのものにも魂があるということであり、息は本体の分身の意味もあります。勾玉+息で女神が生まれるのは、実は必然なんです。
剣+息で男神が生まれるのもなんとなく分かりますね。 
第六段 六柱の男神
一書曰、日神與素戔鳴尊、隔天安河、而相對乃立誓約曰「汝若不有奸賊之心者、汝所生子必男矣。如生男者、予以爲子而令治天原也。」於是、日神、先食其十握劒化生兒、瀛津嶋姬命、亦名市杵嶋姬命。又食九握劒化生兒、湍津姬命。又食八握劒化生兒、田霧姬命。巳而素戔鳴尊、含其左髻所纒五百箇御統之瓊而著於左手掌中、便化生男矣、則稱之曰「正哉吾勝。」故因名之曰勝速日天忍穗耳尊。復、含右髻之瓊、著於右手掌中、化生天穗日命。復、含嬰頸之瓊、著於左臂中、化生天津彥根命。又、自右臂中、化生活津彥根命。又、自左足中、化生熯之速日命。又、自右足中、化生熊野忍蹈命、亦名熊野忍隅命。其素戔鳴尊所生之兒皆已男矣、故日神方知素戔鳴尊元有赤心、便取其六男以爲日神之子、使治天原。卽以日神所生三女神者、使隆居于葦原中國之宇佐嶋矣、今在海北道中、號曰道主貴、此筑紫水沼君等祭神是也。熯、干也、此云備。 
ある書によると……日の神(=アマテラス)がスサノオと天安河(アメノヤスカワ)を挟んで相対して誓約をして言いました。
「あなたがもし賤(イヤ)しい心が無いのならば、あなたが生む子は必ず男となるでしょう。もし男神が生まれたならば、わたしの子供として天原(アマハラ)を治めさせましょう」
そこで日神はまず十拳釼(トツカノツルギ)を食べて生まれた子は瀛津嶋姫命(オキツシマヒメ)、別名を市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)といいます。また九拳釼(ココノツカノツルギ)を食べて生まれた子は湍津姫命(タギツヒメ)です。八握劒(ヤツカノツルギ)を食べて生まれた子が田霧姫命(タキリヒメ)です。
スサノオは左の髪留めの五百箇統之瓊(イホツミスマルノタマ)を口に含んで、左の掌に置いて男神を生みました。
そこで「まさに私が勝った!」と言いました。それで、その男神を勝速日天忍穗耳尊(カチハヤヒアメノオシホミミ)といいます。
また、右の髪留めの玉を口に含んで右の掌に置くと天穗日命(アメノホヒ)が生まれました。
また首に下げた玉を口に含んで左腕に置くと天津彦根命(アマツヒコネ)が生まれました。また右腕に置くと活津彦根命(イクツヒコネ)が生まれました。左足からは熯之速日命(ヒノハヤヒ)が生まれました。右足からは熊野忍蹈命(クマノオシホミ)、別名、熊野忍隅命(クマノオシクマ)が生まれました。
スサノオが生んだ子は全て男神でした。
そこで日神はスサノオが清らかな心であると知り、すぐに六柱の男神を引き取り、日の神の子として天原(アマハラ)を治めさせました。
そして日の神が生んだ三柱の女神は葦原中國(アシハラナカツクニ)の宇佐嶋(ウサノシマ)に降ろしました。現在は北海路の途中にあります。道主貴(ミチヌシノムチ)と言います。これは筑紫の水沼君(ミヌマノキミ)などが祀る神です。
熯は「干」です。「ひ」と読みます。
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六柱の男神
まずスサノオが生む男神が六柱に増えてます。アメノオシホミミ、アメノホヒ、アマツヒコネ、イクツヒコネ、ヒノハヤヒ、クマノオシホミです。
今まで五柱だったところに一つ増えたのか?というとおそらく元々六柱だったところを、「奇数がいい」という中国の考えを入れて五柱に加工したと考えた方がいいでしょう。ちなみにハブられたのはヒノハヤヒです。 
第七段 常闇の世界。昼と夜の区別が無くなる。
是後、素戔鳴尊之爲行也、甚無狀。何則、天照大~以天狹田・長田爲御田、時素戔鳴尊、春則重播種子(重播種子、此云璽枳磨枳)且毀其畔(毀、此云波那豆)、秋則放天斑駒使伏田中、復見天照大~當新嘗時、則陰放屎於新宮、又見天照大~・方織~衣・居齋服殿、則剥天斑駒、穿殿甍而投納。是時、天照大~、驚動、以梭傷身、由此發慍、乃入于天石窟、閉磐戸而幽居焉。故六合之內常闇而不知晝夜之相代。 
誓約の後のスサノオの行動は酷いものでした。
例えば……アマテラスは天の大小様々な水田を自分の田としていました。春にはその田にスサノオは重播種子(シキマキ=種子を蒔いた上から、重ねて種子を蒔くこと)したり、畦を壊したりしました。
秋には天斑駒(アメノブチゴマ=マダラ模様の馬)を田に放して邪魔をしたり、アマテラスの新嘗(ニイナエ=収穫祭)を見て、神殿でウンコをしたり、衣服を織る齋服殿(イミハタドノ)にアマテラスが居るを見ると天斑駒(馬)の皮を剥いで、建物の屋根に穴を空けて投げ入れました。するとアマテラス驚いて、機織りの機械の部品の「梭(ヒ)」で傷を負ってしまいました。
ついにアマテラスは怒り、天石窟(アメノイワヤ=天岩屋)に入って、岩戸を閉じて隠れてしまいました。それで国は常闇(トコヤミ=常に夜)となり昼も夜も分からない状態となりました。
古事記の対応箇所 / 調子に乗る弟神 / アマテラスはポジティブシンキング / 素行不良が過ぎる / 天岩戸に籠る 
スサノオの罪
重播種子(シキマキ)……既に蒔いた種子の上に種子を更に蒔いてしまうことで、生育を妨害する意味、もしくはその土地を自分のものと主張するための行為とも言われます。
あとは畦を壊すとか、馬を放つとか、神殿でウンコをするとか、皮を剥いだ馬を放り込むとか、実に子供っぽい。あきれるほど。
ワカヒルメの代わりにアマテラスが被害に
古事記では皮を剥いだ馬を放り込まれて、機織り機械の部品の「ヒ」で傷ついてしまうのは「ワカヒルメ」です。
これからヒルメは「日る女」であり、ヒルメはアマテラスの原型ではないか?とされます。 
第七段 八十万とも言われる多数の神々は
于時、八十萬神、會於天安河邊、計其可禱之方。故、思兼神、深謀遠慮、遂聚常世之長鳴鳥使互長鳴。亦、以手力雄神、立磐戸之側、而中臣連遠祖天兒屋命・忌部遠祖太玉命、掘天香山之五百箇眞坂樹、而上枝懸八坂瓊之五百箇御統、中枝懸八咫鏡(一云、眞經津鏡)、下枝懸和幣(和幣、此云尼枳底)・白和幣、相與致其祈禱焉。又、猨女君遠祖天鈿女命、則手持茅纒之矟、立於天石窟戸之前、巧作俳優。亦、以天香山之眞坂樹爲鬘、以蘿(蘿、此云此舸礙)爲手繦(手繦、此云多須枳)而火處燒、覆槽置(覆槽、此云于該)、顯神明之憑談(顯神明之憑談、此云歌牟鵝可梨)。 
八十万とも言われる多数の神々は天にある川辺(天安河邊=アメノヤスノカワラベ)に集まって、対応策を話し合いました。
その神の一人である思兼神(オモイカネ)はよくよく考えてよくよく計画を練りました。
まず常世の国の長鳴き鳥を集めて鳴かせました。
次に手力雄神(タヂカラオ)に岩戸の前に立たせました。
中臣連(ナカトミノムラジ)の遠い祖先の天兒屋命(アメノコヤネ)と忌部(イムベ)の遠い祖先の太玉命(フトダマ)が、天香山(アメノカグヤマ)の五百箇の眞坂樹(イホツノマサカキ=よく茂った榊【サカキ・樹木名】)を掘り出し、上の枝には八坂瓊の五百箇御統(ヤサカニノイホツミスマル=大きな勾玉をたくさん紐で連ねたもの)を掛け、中ほどの枝には八咫鏡(ヤタノカガミ)を掛け、別名を眞經津鏡(マフツノカガミ)と言う
下の枝には青和幣(アオニキテ=蒼い麻の布)と白和幣(シロニキテ=白い木綿の布)を掛けて、皆でアマテラスが岩戸から出てくるように祈りました。
また猨女君(サルメノキミ)の遠い祖先である天鈿女命(アメノウズメ)は手に茅纏の矛(チマキノホコ=ススキ【カヤ】を巻いた矛)を持って、天石窟戸(アメノイワヤト)の前に立って、見事に踊って見せました。
また天香山(アメノカグヤマ)の眞坂樹(マサカキ)を頭に巻いて鬘(カズラ=頭の飾り)としました。蘿(ヒカゲ【植物名】)を手繦(タスキ)に掛けて、焚火をして、桶を伏せて置いて、神が乗り移ったトランス状態となりました。
蘿は此舸礙(ヒカゲ)と読みます。手繦は多須枳(タスキ)と読みます。覆槽は于該(ウケ)と読みます。
古事記の対応箇所 / 思金神の策 / なにごとかと覗く 
日本らしいことに、スサノオの暴走の結果、アマテラスがご機嫌を損ねてしまった対応策を、神々が天の川辺で話し合います。
話し合いですよ。
神様だからといって絶対的な力を持っているのはなく、それぞれの性質をうまく使って、困難を打開していくというのは実に日本的。それを集まって話し合いで決めるのです。現代の会社の会議みたい。
長鳴き鳥
鶏のこととされます。朝にコケコッコーと鳴く鶏は、アマテラスが岩戸に引きこもって永遠の夜となった現状にはピッタリ。
アメノウズメは神ではないのでしょう
アメノウズメはカヤを巻いた矛を持って、日陰カズラというシダのようなコケのような植物をタスキに掛けて、サカキの木を髪飾りにし、火を焚いて、桶を台にして踊り狂い、神がかります。
神様なのにカミガカルって変です。
アメノウズメは元々は巫女だったんでしょう。当時の巫女さんって、乳房をあらわにしてアソコも晒して踊り狂う、大変なお仕事だったのですねぇ(古事記にはそう書いてあります)。
桶について
オケではなく「ウケ」と書いてあります。オケというと水を貯めるものですが、この場合の「ウケ」はおそらく、儀式に使う太鼓のようなものではなかったかと。 
第七段 中臣神と忌部神はお願いしました。
是時、天照大神、聞之而曰「吾比閉居石窟、謂當豐葦原中國必爲長夜。云何天鈿女命㖸樂如此者乎。」乃以御手、細開磐戸窺之。時、手力雄神、則奉承天照大神之手、引而奉出。於是、中臣神・忌部神、則界以端出之繩(繩、亦云、左繩端出。此云斯梨倶梅儺波)、乃請曰「勿復還幸。」然後、諸神、歸罪過於素戔鳴尊而科之以千座置戸、遂促徵矣、至使拔髮以贖其罪。亦曰「拔其手足之爪贖之。」已而竟逐降焉。 
このときアマテラスは、外の騒がしいのを聞いて言いました。
「わたしは最近、岩屋に籠っている。豊葦原中国(トヨアシハラナカクニ=地上)は長い夜となっていると思うのだけど……どうして天鈿女命(アメノウズメ)はこんなに楽しそうにしているのでしょう?」
アマテラスは手で岩戸をちょっとだけ開いて覗き見ました。
その時、手力雄神(タヂカラオ)がアマテラスの手を取り、岩屋の外に引っ張り出しました。
そこで中臣神(ナカトミノカミ=天兒屋命【アメノコヤネ】)、忌部神(イムベノカミ=太玉命【フトダマ】)がすぐに端出之繩(シリクメナワ)を張りました。
縄を張ると、中臣神と忌部神はアマテラスにお願いしました。「もう、岩屋に帰らないでください」
その後、神々はスサノオの罪を責め、罰を与えました。沢山の台に罪に見合うだけの宝を乗せて差し出させました。また髪を抜き、その罪をあがなわせました。もしくは手足の爪を剥いで罪をあがなわせたとも言います。そして最後には神々はスサノオを高天原を追い出してしまいました。
縄は別名を左繩端出。斯梨倶梅儺波(シリクメナワ)と読みます。
古事記の対応箇所 / なにごとかと覗く / 日の光が戻る / 罰を与える八百万の神々 
一連の儀式は太陽を呼ぶ
長鳴き鳥に鳴かせ、サカキの木に勾玉、鏡、布をぶら下げて、アメノウズメを躍らせ、宴会をする。それに焚火を炊いているということは、夜から夜明けに掛けての儀式です。
儀式っていうか宴会ですよね。
神々が集まって、アマテラス…つまり、太陽が出てくるまで宴会する。岩屋が少し開いたら、太陽を引っ張り出し、ここで宴会終了。
あとは太陽が籠る原因となったスサノオに罰を与えて、高天原を追放です。 
第七段 稚日女尊の死と日矛と鏡
一書曰、是後、稚日女尊、坐于齋服殿而織~之御服也。素戔鳴尊見之、則逆剥斑駒、投入之於殿內。稚日女尊、乃驚而墮機、以所持梭傷體而~退矣。故、天照大~謂素戔鳴尊曰「汝猶有K心。不欲與汝相見。」乃入于天石窟而閉著磐戸焉。於是、天下恆闇、無復晝夜之殊。故、會八十萬~於天高市而問之、時有高皇産靈之息思兼~云者、有思慮之智、乃思而白曰「宜圖造彼~之象、而奉招禱也。」故卽、以石凝姥爲冶工、採天香山之金、以作日矛。又、全剥眞名鹿之皮、以作天羽韛。用此奉造之~、是卽紀伊國所坐日前~也。
石凝姥、此云伊之居梨度刀B全剥、此云宇都播伎。 
ある書によると…誓約の後のことです。
稚日女尊(ワカヒルメ)が齋服殿(イミハタドノ)で神の服を織っていました。スサノオはこれを見て、斑駒(マダラコマ=マダラ模様の馬)の皮を逆に剥いで、建物に投げ込みました。
ワカヒルメは驚いて、機織り機から転げ落ちて、持っていた機織りの道具の「梭(ヒ、もしくはカビ)」で体を突いて死んでしまいました。
それでアマテラスはスサノオに言いました。
「お前には、まだ汚らわしい心がある。お前とは会いたくない!」
すぐに天石窟(アメノイワヤ)に入って岩戸を閉じてしまいました。世界はずっと夜になってしまい、昼と夜の境が無くなってしまいました。そこで八十萬~(ヤオヨロズノカミ)が天高市(アメノタケチ)に集まって話し合いました。
そのときに高皇産靈(タカミムスビ)の息子の思兼~(オモイカネ)が居ました。思慮深く、知恵がある神です。
そのオモイカネがよく考えて言うには
「アマテラスの神の形を描いて作って、祀り、招きましょう」とのこと。
そこで石凝姥(イシコリドメ)が鍛冶士となって、天香山から金を採って来て、日矛(ヒボコ)を作りました。
また立派な鹿の皮を剥いで、天羽鞴(アメノハブキ)という火を起こすフイゴを作りました。このフイゴで作った鏡が紀伊の国の日前~(ヒノクマ)です。
石凝姥は伊之居梨度(イシコリドメ)といいます。全剥は宇都播伎(ウツハギ)といいます。
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ワカヒルメ
スサノオが誓約に勝利した後にこの話が続くのならば、スサノオがやった種子を蒔いた後にまた種子を蒔いて農業を邪魔する(もしくは耕作地の所有を主張するためとも)や、畦を壊す、神殿でウンコをするといった狼藉は無かったことになるのか、それとも、機織り小屋に馬を放り込んだ所だけが上書きされるのか??
どちらにしてもこの「書」のひとつのポイントは「ワカヒルメ」です。ワカヒルメがスサノオの狼藉によって死んでしまったことが、大事な要素です。
アマテラスの形を描く
アマテラスが岩屋に消え、夜の世界となったので、オモイカネが『「彼の~の象」を作ろう』と提案します。その結果、作られたのが「日矛」と「鏡」です。
ただし、この書では「鏡」という表現が無く、「日前~」とだけあります。古語拾遺には「イシコリドメが作った鏡の失敗作が日前神」と書いてあり、日前神宮の神体が「鏡」となので、鏡と訳されます。
これはつまり、古代の日本人にとって「神は人型ではない」ということです。私たちは漠然とスサノオとかアマテラスというと「人」としてイメージしますが、初期の信仰では間違いなく「モノ」でした。そこに人型のキャラ付けが後に追加されたわけです。
歴史背景
『古語拾遺』「石凝姥神をして日の像の鏡を鋳らしむ。初度に鋳たるは少に意に合はず。是、紀伊国の日前神なり。次度に鋳たるは、其の状美麗し。是、伊勢大神なり」 
第七段 日神が臭くなる
一書曰、日神尊、以天垣田爲御田。時、素戔鳴尊、春則塡渠毀畔、又秋穀已成、則冒以絡繩、且日神居織殿時、則生剥斑駒、納其殿內。凡此諸事、盡是無狀。雖然、日神、恩親之意、不慍不恨、皆以平心容焉。及至日神當新嘗之時、素戔鳴尊、則於新宮御席之下陰自送糞。日神、不知、俓坐席上、由是、日神、舉體不平、故以恚恨、廼居于天石窟、閉其磐戸。于時、諸神憂之、乃使鏡作部遠祖天糠戸者造鏡、忌部遠祖太玉者造幣、玉作部遠祖豐玉者造玉、又使山雷者、採五百箇眞坂樹八十玉籤、野槌者、採五百箇野薦八十玉籤。凡此諸物、皆來聚集。 
ある書によると……日神尊(ヒノカミノミコト)は天垣田(アマノカキタ)を自分の田としていました。
スサノオは春になると溝を埋め畦を壊しました。また秋には穀物が実った田に縄を張って自分のものとしてしまいました。
また日神(ヒノカミ)が織物の神殿に居る時に、斑模様の馬を生きたままに皮を剥いで、その神殿に投げ込んでしまいました。
スサノオはこうした手のつけられないことを散々しましたのですが、日神は優しくて、心が広かったので、怒らず恨まずに安らかな心で許していました。
日神の新嘗(ニイナエ=収穫祭)のときのことです。スサノオは神殿の座席に、ウンコをしてしまいました。日神は何も知らないで、席に座ってしまったので、日神の体はウンコ臭くなってしまいました。
それでついに日神は怒り恨み、天石窟(アメノイワヤ)に籠って、その岩戸を閉じてしまいました。
それで神々は心配して、すぐに鏡作部(カガミツクリベ)の遠い祖先である天糠戸(アメノヌカト)に鏡を作らせ、忌部(イムベ)の遠い祖先である太玉(フトダマ)に幣(ニキテ)という麻や木綿で出来た布を作らせ、玉作部(タマツクリベ)の遠い祖先の豐玉(トヨタマ)に玉を作らせました。
また、山雷(ヤマツチ)という神によく茂ったサカキで八十玉籤(ヤソタマクシ)を用意させ、野槌(ノヅチ)という神によく茂ったススキで八十玉籤(ヤソタマクシ)を用意させました。
これらのモノと神々を集めました。
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スサノオの泥棒
スサノオの悪行にもう一つ、「穀物が実った田に縄を張って自分のものとする」というのが加わります。泥棒ですね。
「第七段本文−1常闇の世界。昼と夜の区別が無くなる。」で登場する「重播種子(シキマキ)」はすでに蒔いた種子の上から種子を更に蒔く事です。このシキマキも、土地を奪うという意味があったのではないか??と言われています。
ウンコまみれか?病気か?
スサノオは神殿に忍び込んでウンコをします。そのウンコに気が付かずにアマテラスはウンコまみれになってしまいます――と書いたのですが、大抵の訳本では「ウンコまみれ」では無く、「体調を崩した。病気になった」と書かれています。
日本書紀の原文には「舉體不平」とあり、「不平」で「健康ではない」というニュアンスに取るのでしょう。でも、前後の文から推察すると素直に「臭くなった」という意味で良いと思っています。
日本人はケガレを嫌います。穢れの本質は病気への恐怖。では穢れを具体的に言うと何かというと、「腐食」です。ここでの「臭い」と「病気」は近いニュアンスを持っていると思われます。
山雷と野槌
山の雷神(ヤマツチ)がサカキの玉櫛。玉櫛は神社で見かける枝にギザギザの白い紙をつけたアレ。サカキというのは神棚に飾るあの常緑樹のことです。
そんで、野の雷神(野槌)がススキの玉櫛。ススキ、つまりカヤはかなり生活に密着した植物でした。カヤを刈って家畜のえさにしたり、屋根をふくのにも使いました。なによりススキは連作障害を起こさない。放置していても毎年生えて、使い勝手のいい便利な植物でした。 
第七段 吉棄物・凶棄物・白和幣・青和幣
時、中臣遠祖天兒屋命、則以~祝祝之。於是、日~、方開磐戸而出焉。是時、以鏡入其石窟者、觸戸小瑕、其瑕於秡今猶存、此卽伊勢崇祕之大~也。已而、科罪於素戔鳴尊而責其秡具、是以、有手端吉棄物、足端凶棄物。亦以唾爲白和幣、以洟爲和幣、用此解除竟、遂以~逐之理逐之。送糞、此云倶蘇摩屢。玉籤、此云多摩倶之。秡具、此云波羅閉都母能。手端吉棄、此云多那須衞能餘之岐羅毗。~祝祝之、此云加武保佐枳保佐枳枳。遂之、此云波羅賦。 
中臣氏の遠い祖先の天兒屋命(アメノコヤネ)はこれらの準備したもので、神を祀り祝いました。
これで日の神は岩戸を開いて出てきました。そのときに鏡を岩屋に入れたのですが、戸に当たって傷が付いてしまいました。その傷は今でも在ります。この鏡が現在の伊勢神社の大神です。
神々はスサノオの罪を問い、その罪をあがなうにふさわしいものを出させました。手の爪を吉棄物(ヨシキライモノ)、足の爪を凶棄物(アシキライモノ)、唾を白和幣(シラニキテ=木綿の布)、鼻水を青和幣(アオニキテ)として出させ、それで罪を祓ったとし、そして高天原から追放するべきとして、追放してしまいました。
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アマテラスと鏡
鏡はアマテラスの代替なのか?それとも鏡そのものが神宝であり、神なのか?これは両方です。まずアマテラスの信仰は古事記が成立する数十年前に始まったもので古いものではありません。それ以前に伊勢に祀られていたのはアマテラスではない太陽神です。
それよりもっと前では、太陽そのものを信仰し、鏡は太陽の象徴であり、神でした。それがアマテラス信仰と重なり、鏡はアマテラスの象徴とか代替となってしまいました。
スサノオの爪とツバと鼻水
吉棄物(ヨシキライモノ)は罪を清めるためのもので福を招くものとか。凶棄物(アシキライモノ)は罪を祓うためのもの。これといった分かりやすい説明ってのが本やサイトには無く、ハッキリとは分からないみたいです。
私はもっとストレートに、イザナギが目を洗ってアマテラスとツキヨミが生まれたように、スサノオの霊威が強いがために、爪やツバ・鼻水には特別な力があり、それが吉棄物・凶棄物・白和幣・青和幣になった、という解釈です。
しかしそれではおかしいところがあります。爪はともかく、ツバと鼻水が白和幣・青和幣となるのはおかしい。なにせサカキを玉櫛にする件で和幣が登場しているからです。
スサノオのツバや鼻水が和幣になったのならば、つじつまが合わない…気がします。「第七段 日~が臭くなる」では白和幣・青和幣とは書かれていませんが、「幣」と本文には書かれています。もちろん幣と白和幣・青和幣が全く別のものという可能性はあります。 
第七段 云々
一書曰、是後、日~之田有三處焉、號曰天安田・天平田・天邑幷田、此皆良田、雖經霖旱無所損傷。其素戔鳴尊之田、亦有三處、號曰天樴田・天川依田・天口鋭田、此皆磽地、雨則流之、旱則焦之。故、素戔鳴尊、妬害姉田、春則廢渠槽及埋溝・毀畔・又重播種子、秋則捶籤・伏馬。凡此惡事、曾無息時、雖然、日~不慍、恆以平恕相容焉、云々。 
ある書によると…日の神の田んぼは三カ所ありました。
天安田(アメノヤスダ)・天平田(アメノヒラタ)・天邑并田(アメノムラアワセダ)と言います。
これらは全てとても良い田です。
長雨があっても、日照りがあっても、損害はありません。
一方、スサノオの田んぼも三カ所ありました。天樴田(アメノクイタ)天川依田(アメノカワヨリタ)天口鋭田(アメノクチトタ)と言います。
これらは全てとても痩せた土地でした。雨が降ると、田は流れ、日照りがあるとカラカラになりました。
それでスサノオは妬んで姉の田に乱暴なことをしました。
春になると水路の板を剥がし、溝を埋めて、畦を壊し、重播種子(シキマキ)をしました。
秋になると、杭を立てて自分の収穫物だと主張したり、馬を放って無茶苦茶にしました。
こうした悪い事をスサノオは一向に止めませんでしたが、日神は怒らずに平常心で許してしまいました。
古事記の対応箇所 / 調子に乗る弟神 
田の名前について
天安田(アメノヤスダ)不作が無い田のこと。
天平田(アメノヒラタ)平らな田のこと。
天邑并田(アメノムラアワセダ)多くの村を合わせた大きな田のこと。
天樴田(アメノクイタ)切り株が多い田のこと。
天川依田(アメノカワヨリタ)川沿いで雨が降ると氾濫に巻き込まれる田のこと。
天口鋭田(アメノクチトタ)流れ込む水いの勢いが急な田のこと。
アマテラスとスサノオ
アマテラスが「日神」と呼ばれるのに対してスサノオは「スサノオ」と名前で呼ばれています。アマテラスが日の神と呼ばれるのは、云わば「通称」であり、本名を呼ぶのは恐れ多い、ということかもしれません。それか、アマテラスの役割はアマテラスではない太陽神が行っていた名残なのかもしれません。
スサノオが通称で呼ばれずただスサノオと呼ばれるのは、罪深く穢れているのが原因ではないかとも思いますが、まぁ、それはハッキリしません。
云々?
このページの続きである、第七段の間には省略されたものがあります。それはアマテラスがスサノオにブチ切れた事件です。
それまでの乱暴狼藉を許してきたアマテラスでしたが結局、怒って岩戸に籠るのですが、第七段では描かれていません。
なぜか??
なんて大した話ではないですよ。第七段日~が臭くなるでの、アマテラスがウンコがあると知らずに座ってブチ切れる話を省略しただけでしょう。 
第七段 これほど素晴らしい歌は聞いたことが無い
至於日神閉居于天石窟也、諸神遣中臣連遠祖興台産靈兒天兒屋命而使祈焉。於是、天兒屋命、掘天香山之眞坂木、而上枝縣以鏡作遠祖天拔戸兒石凝戸邊所作八咫鏡、中枝懸以玉作遠祖伊弉諾尊兒天明玉所作八坂瓊之曲玉、下枝懸以粟國忌部遠祖天日鷲所作木綿、乃使忌部首遠祖太玉命執取、而廣厚稱辭祈啓矣。于時、日神聞之曰「頃者人雖多請、未有若此言之麗美者也。」乃細開磐戸而窺之。 
日の神は天の岩屋に籠ってしまいました。神々の中は、中臣連(ナカトミノムラジ)の遠い祖先である興台産靈(コゴトムスビ)の子供の天兒屋命(アメノコヤネ)に祈らせました。
そのとき、アメノコヤネは天香具山(アメノカグヤマ)の眞坂木(マサカキ=植物名)を掘り出して、上の枝には鏡作(カガミツクリ)の遠い祖先の天拔戸(アマノヌカト)の子供の石凝戸邊(イシコリトベ)が作ったが作った八咫鏡(ヤタノカガミ)を掛け、
中ほどの枝には玉作(タマツクリ)の遠い祖先である伊奘諾尊(イザナギ)の子供の天明玉(アメノアカルタマ)の作った八坂瓊之曲玉(ヤサカニノマガタマ)を掛け、
下の枝には粟國(アワノクニ)の忌部の遠い祖先である天日鷲(アメノヒワシ)が作った木綿を掛け
忌部首(イミベノオビト)の遠い祖先である太玉命(フトダマ)が取り仕切って、厚く祝詞(ノリト)を歌い、奉りました。
そのとき、日の神がこの祝詞を聞いて
「この頃、沢山の人が歌うのだけど、これほど素晴らしい歌は聞いたことが無い」と言い、岩戸をほんのちょっと開いて、岩戸の外の様子を伺いました。
古事記の対応箇所 / 天岩戸に籠る / 思金神の策 / なにごとかと覗く 
歌が天変地異を鎮め、世界を救う
サカキに括りつけた玉とか布とか鏡の作者に関してはまだ細かいチェックをしていないので、割愛。きっといろいろと推測が出来るのでしょうけど。
問題は、祝詞を聞いた日の神ことアマテラスが、「すげぇ!感動した!」と岩戸の外を覗くというのが、このページの特殊さです。
古事記では「なにごとかと覗く」で、アメノウズメの「アマテラスよりも優れた神がやってきたから」というハッタリに騙されて引っ張り出されます。
日本書紀の「第七段本文−3中臣神と忌部神はお願いしました。」では、アマテラスが岩屋を少し開ける動機は「岩屋の外で宴会をしているから、なんだろう?と思って」です。
日本書紀の「第七段一書(二)−1日神が臭くなる」「第七段一書(二)−2吉棄物・凶棄物・白和幣・青和幣」ではアマテラスが岩屋の外に出る動機はハッキリしません。儀式をしたから、日の神が帰ってきた、と言う程度です。
歌謡が神を動かす
万葉集や古今和歌集といった「歌」や源氏物語・竹取物語といった「文学」が、世界の隅っこであり、決して文明国ではないはずの古代日本で発達した理由がここにあります。
歌や文学は魔力を持ち、天変地異を鎮める力があると考えているからです。その根っこを一言で言うと「言霊(コトダマ)」ということになります。 
第七段 旅人・雨・笠・蓑
是時、天手力雄~、侍磐戸側、則引開之者、日~之光、滿於六合。故、諸~大喜、卽科素戔鳴尊千座置戸之解除、以手爪爲吉爪棄物、以足爪爲凶爪棄物。乃使天兒屋命、掌其解除之太諄辭而宣之焉。世人愼收己爪者、此其緣也。既而、諸~、嘖素戔鳴尊曰「汝所行甚無頼。故不可住於天上、亦不可居於葦原中國。宜急適於底根之國。」乃共逐降去。于時、霖也。素戔鳴尊、結束草、以爲笠蓑、而乞宿於衆~。衆~曰「汝、是躬行濁惡而見逐謫者。如何乞宿於我。」遂同距之。是以、風雨雖甚、不得留休、而辛苦降矣。自爾以來、世諱著笠蓑以入他人屋內、又諱負束草以入他人家內。有犯此者必債解除、此太古之遺法也。 
このとき天手力雄~(アメノタヂカラオ)は岩戸の傍に居て、すぐに岩戸を引いて開きました。すると日の神の光は国に満ちました。
それで神々は喜び、すぐにスサノオをに千の台座に乗せた罪をあがなう宝物を差し出させ、手の爪を吉爪棄物(ヨシキライモノ)、足の爪を凶爪棄物(アシキライモノ)として抜きました。
また神々は天兒屋命(アメノコヤネ)に祓いの太諄辭(フトノリト=太祝詞)を歌わせました。
世の中の人が爪を大事にするのはそのせいです。
神々はスサノオを責めて言いました。
「お前がやったことは、とてもじゃないが許せるようなことではない。だから、天上(アメノウエ)に住むことは許されない。また葦原中国にも住んではいけない。すぐに底根之國(ソノツネノクニ)へ行ってしまえ!」と神々は皆でスサノオを追放してしまいました。
追放されたのは長雨の時だったので、スサノオは青草を束ねて、それを笠・蓑にして、道中に住んでいた神に一休みする宿を求めました。
しかし神々が言うには「お前がやったことが酷く悪くて穢れているから、追い出されたんじゃないか。どうして私に宿を求めるのか?」神々は皆、拒みました。
スサノオは風や雨が強かったのですが、一休みすることもできず、苦しみながら、天から降りて行きました。
これ以来、笠や蓑を身に付けて、他人の家の中に入るのを嫌うようになりました。また草を束ねた物を背負って家の中に入るのを嫌います。これを破ると必ず祓いをしなくてはいけません。これは古くから残る掟です。
古事記の対応箇所 / 日の光が戻る / 罰を与える八百万の神々 
六合
東西南北と天地を合わせて六合で「クニ」と読みます。
爪を大事にする
爪が無いのは罪を犯したから。という感覚が古代にはあったのでしょう。実際に「罰」として爪を抜いていたのかもしれません。
旅人・雨・笠・蓑
長雨の時季というと梅雨。どこからともなくやってきた旅人が笠と蓑をつけたままで屋内に入ると「罪」として、罰があったようです。
日本の梅雨は蒸し暑く、物が腐る時期。集落の外からやってくる旅人は「病気」を持っている可能性があります。彼らの身につけている笠や蓑を室内に入れることは感染に繋がります。
当時は当然、科学の感覚は無く、病気は魔が起こすと考えていました。日本では天変地異は「罪」が起こすと考えていたようなので、罪を犯さないようにするのが、災厄を避ける大事な掟です。
それが旅人の笠・蓑を屋内に入れることは「罪」へとつながったのでではないか?と考えています。 
第七段 悪行・岩戸・追放・誓約
是後、素戔鳴尊曰「諸~逐我、我今當永去。如何不與我姉相見而擅自俓去歟。」廼復扇天扇國、上詣于天。時、天鈿女見之而告言於日~也、日~曰「吾弟所以上來、非復好意。必欲奪之我國者歟。吾雖婦女、何當避乎。」乃躬裝武備、云々。
於是、素戔鳴尊誓之曰「吾、若懷不善而復上來者、吾今囓玉生兒、必當爲女矣、如此則可以降女於葦原中國。如有C心者、必當生男矣、如此則可以使男御天上。且姉之所生、亦同此誓。」於是、日~先囓十握劒、云々。 
スサノオは言いました。「神々は私を追放した。私は今まさに永遠に天を去る。ならばどうして最後に我が姉に会わないで勝手に行ってしまえるだろうか!」
それでまた、天を震わせ、地を震わせ、天に昇っていきました。その昇ってくる様子を見て天鈿女(アメノウズメ)は日の神にスサノオがやってくることを報告しました。
すると日の神は「わたしの弟が天に昇ってくる理由は、善い心からではないだろう。わたしの国(=高天原)を奪おうと考えているのでしょう。わたしは女ですが、どうして逃げられるか!」
すぐに武具を身につけました。(略)
スサノオは誓約をして言いました。「わたしがもし、善からぬ気持ちを持って天に昇って来たのならば、勾玉を噛んで生まれる子供は女神になるでしょう。そうなれば、女神を中原中国に降ろしてください。もし清らかな心ならば、男神が生まれるでしょう。それならば男神に天界を治めさせてください。姉(=アマテラス)が生む子供も同じルールにしましょう」
それで日の神はまず十拳釼(トツカノツルギ)を噛みました。
古事記の対応箇所 / 須佐之男を迎え撃つアマテラス / 身の潔白の証明、誓約 
順番が違う!
この書では、まずスサノオの悪行があり、その結果として天の岩戸事件が起き、その解決の結果としてスサノオは罪を問われ、天上界を追放されます。その追放後、根の国へと向かう前にアマテラスにあいさつに行き、そこで「天界を侵略に来たのか!」と疑われて誓約となり、宗像三女神やオシホミミなどの男神が生まれることになります。
つまり普通は
誓約→悪行→岩戸→追放なのに
ここでは悪行→岩戸→追放→誓約となっています。
おそらくこの順番が物語としては正しいのでしょう。この順番がシックリ来ますから。誓約の後に調子こいて悪行って、物語としておかしいです。
順番を変えたのは、犯罪者の子孫にしないため
誓約のときに女神やオシホミミといった神が生まれます。これらの神々は、後の有力者の祖先ですし、古事記成立のときであっても、非常に有力な神でした。
その神が、悪行を犯し、罪を背負わされた状態で誓約をしたときに生まれたのと、まだ罪を犯していない状態で生まれたのとでは意味が違う。
つまり、罪の穢れを宗像の女神やオシホミミに付けないために、「誓約→悪行→岩戸→追放」の順番に改編したのだと思われます。
そう考えると「ケガレ信仰」は古事記の時点では全国的な信仰では無かったのかもしれませんね。 
第七段 姉君は、天の国を照らしてください。
素戔鳴尊、乃轠轤然、解其左髻所纒五百箇御統之瓊綸、而瓊響瑲瑲、濯浮於天渟名井。囓其瓊端、置之左掌而生兒、正哉吾勝勝速日天忍穗根尊。復囓右瓊、置之右掌而生兒、天穗日命、此出雲臣・武藏國造・土師連等遠祖也。次天津彥根命、此茨城國造・額田部連等遠祖也。次活目津彥根命、次熯速日命、次熊野大角命、凡六男矣。於是、素戔鳴尊、白日~曰「吾所以更昇來者、衆~處我以根國、今當就去、若不與姉相見、終不能忍離。故、實以C心、復上來耳。今、則奉覲已訖、當隨衆~之意、自此永歸根國矣。請、姉照臨天國、自可平安。且吾以C心所生兒等、亦奉於姉。」已而、復還降焉。廢渠槽、此云祕波鵝都。捶籤、此云久斯社志。興台産靈、此云許語等武須毗。太諄辭、此云布斗能理斗。轠轤然、此云乎謀苦留留爾。瑲瑲乎、此云奴儺等母母由羅爾。 
スサノオは左のまとめた髪に巻いていた五百箇統之瓊(イホツノミスマルノタマ)の紐をほどきました。そして、勾玉がぶつかって音がするほどに、紐をユラユラとするくらいに、ジャブジャブと天渟名井(アメノヌナイ=井戸の名前)で洗いました。
その玉の端を噛んで、左手に置いて生まれた子供は
正哉吾勝勝速日天忍穗根尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホネノミコト)です。
また右の髪飾りの勾玉を噛んで右手に置いて生まれた子供は天穗日命(アメノホヒ)です。この髪は出雲臣(イズモノオミ)・武蔵国造(ムサシノクニノミヤツコ)・土師連(ハジノムラジ)などの遠い祖先です。
次に天津彦根命(アマツヒコネ)が生まれました。この神は茨城国造(イバラキノクニノミヤツコ)・額田部連(ヌカタベノムラジ)などの遠い祖先です。
次に活目津彦根命(イクメツヒコネノミコト)が生まれました。
次に熯速日命(ヒノハヤヒ)が生まれました。
次に熊野大角命(クマノオオクマノミコト)が生まれました。
以上で六柱の男神です。
スサノオは日の神に言いました。
「わたしがもう一度、天に昇って来たのは、神々が根の国にわたしを行かせるからです。もう根の国へと去ろうと思ったのですが、姉(=アマテラス)に会わないで行ってしまうのは、耐えられませんでした。わたしは本当に清らかな心で天に昇って来たのです。もう、十分です。神々の望み通りに、永遠に根の国へと行きましょう。姉君は、天の国を照らしてください。そして健康でいてください。また私が清らかな心で生んだ子供たちは、姉君にささげましょう」
そうしてまたスサノオは天を降りて行きました。
廃渠槽を秘波鵝都(ひはがつ)と読みます。捶籤を久斯社志(くしざし)と読みます。興台産靈を許語等武須毘(こごとむすひ)と読みます。太諄辞を布斗能理斗(ふとのりと)と読みます。讄轤然を乎謀苦留留爾(をもくるるに)と読みます。瑲瑲乎を奴儺等母母由羅爾(ぬなとももゆらに)と云う
古事記の対応箇所 / 男神五柱の誕生 
宗像の女神は生まれず
この第七段では宗像三女神は生まれませんでした。宗像の神は後進の氏族(宗像君)の神であり、古来から大和朝廷に関わった神ではないということでしょう。
讄轤然
オモクルルニと読むと注釈があるこの部分。どういう意味なのかよく分かりませんでした。 
第八段 あなたたちの娘をわたしに差し出しなさい
是時、素戔鳴尊、自天而降到於出雲國簸之川上。時、聞川上有啼哭之聲、故尋聲覓往者、有一老公與老婆、中間置一少女、撫而哭之。素戔鳴尊問曰「汝等誰也。何爲哭之如此耶。」對曰「吾是國~、號脚摩乳、我妻號手摩乳、此童女是吾兒也、號奇稻田姬。所以哭者、往時吾兒有八箇少女、毎年爲八岐大蛇所呑、今此少童且臨被呑、無由脱免。故以哀傷。」素戔鳴尊勅曰「若然者、汝、當以女奉吾耶。」對曰「隨勅奉矣。」 
スサノオは自ら天から下って、出雲の簸之川(ヒノカワ=肥の川)の川上に降り立ちました。
そのとき、川上から呻き泣く声が聞こえました。
その声の聞こえる方へと行くと、老人と老女がいて、その間に一人の少女を置いて、その少女を撫でさすり泣いていました。
スサノオは聞きました。
「あなたたちは、誰だ?なぜそのように泣いている?」
老人は答えました。
「わたしはここの国津神の脚摩乳(アシナヅチ)といいます。わたしの妻は手摩乳(テナヅチ)といいます。この少女はわたしたちの子供で、奇稻田姫(クシイナダヒメ)といいます。泣いている理由というのが――元々私たちには八人の娘がいました。その娘たちを毎年、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)に呑まれていました。今、この少女(=クシイナダヒメ)が呑まれるところです。免れる方法がありません。それで悲しんでいるのです」
スサノオは言いました。「それならば、あなたたちの娘をわたしに差し出しなさい」
アシナヅチは答えました。「仰せのままに、差し上げましょう」
古事記の対応箇所 / 出雲に降りたった / テナヅチ・アシナヅチ / 大蛇への生贄 
スサノオ、勅して曰く
スサノオがアシナヅチに「娘をくれ」という発言(命令)を「勅(ミコトノリ)」という言葉で表現しています。この勅は天皇やアマテラス・イザナギといった命令を指しています。
スサノオは罪を犯し、その罪のために葦原中国へと落とされたために出雲にやってきたのですから、この「勅」という字は不適切な感じがします。
スサノオはその経緯はどうあれ、そもそも三貴神としてアマテラスに並ぶ神ですから、「勅」が当てられるのはおかしくないと言えば、おかしくありません。 
第八段 酒造り・オロチ・草薙の剣
故、素戔鳴尊、立化奇稻田姬、爲湯津爪櫛、而插於御髻。乃使脚摩乳・手摩乳釀八醞酒、幷作假庪(假庪、此云佐受枳)八間、各置一口槽而盛酒以待之也。至期果有大蛇、頭尾各有八岐、眼如赤酸醤(赤酸醤、此云阿箇箇鵝知)、松柏生於背上而蔓延於八丘八谷之間。及至得酒、頭各一槽飲、醉而睡。時、素戔鳴尊、乃拔所帶十握劒、寸斬其蛇。至尾劒刃少缺、故割裂其尾視之、中有一劒、此所謂草薙劒也。
草薙劒、此云倶娑那伎能都留伎。一書曰「本名天叢雲劒。蓋大蛇所居之上、常有雲氣、故以名歟。至日本武皇子、改名曰草薙劒。」素戔鳴尊曰「是~劒也、吾何敢私以安乎。」乃上獻於天~也。 
スサノオは奇稻田姬(クシイナダヒメ)を湯津爪櫛(ユツツマグシ)という櫛に変えて、自分の髪に挿しました。
それから脚摩乳(アシナヅチ)と手摩乳(テナヅチ)に何度も醸造したアルコールの濃い酒を作らせ、
八つの一段高い舞台を作らせ(=桟敷)、
そのそれぞれの桟敷にお酒の桶を置いて、酒を注いで待っていました。
時間になると大蛇(オロチ)がやって来ました。
頭と尾は八本に別れています。目は赤く熟れたホウズキのようです。松やヒノキが背中に生え、胴体は八つの丘と八つの谷くらいありました。
オロチが酒を置いた桟敷のところにやってくると、頭はそれぞれの酒桶を飲み、酔っ払って眠ってしまいました。
そのとき、スサノオは腰に挿している十拳釼(トツカノツルギ)を抜いて、八本の尾をズタズタに斬り裂きました。
ある尾を切っていると剣の歯が少し欠けてしまいました。それでその尾を割って裂いてみると、中に一本の剣がありました。
これが草薙剣(クサナギノツルギ)です。
草薙剣…これを倶娑那伎能都留伎(クサナギノツルギ)といます。
ある書によると、本当の名前は天叢雲劒(アメノムラクモノツルギ)といいます。思うに、大蛇の居るところの上には常に雲があります。そのために名付けられたのではないでしょうか。
日本武皇子の時代に名前を草薙剣と呼ばれるようになりました。
スサノオは言いました。「これは神の剣だ。自分のものにするわけにはいかない」そうして天津神に剣を献上しました。
古事記の対応箇所 / ヤマタノオロチについて / ヤマタノオロチの姿形について / 老夫婦に名乗る / 大蛇退治の妙案 / 酒を飲んで寝る大蛇 / 刀が欠けてしまう / クサナギの剣があらわれる 
櫛を髪に
スサノオはクシイナダヒメを櫛に変え、自分の髪に挿します。当時の男性はオシャレだったとよく言われます。
酒には神聖な力がある
酒を何度も醸造して、より強いお酒を作り、それをオロチにささげます。これはまず、「酒」がオロチという天変地異を鎮めるほどの力のある「飲料」ですよ、という意味があり、また酒を作ることは天変地異を鎮めるために必要な「神聖な仕事」ですよ、という意味を持ちます。
実際、酒造りは神社の仕事でした。
もうひとつ、生贄として捧げていたクシイナダヒメの代わりに酒を捧げたということは、かつては「人間」を儀式の中で捧げていたものを、「酒」で代用したという意味もあるのでしょう。
人間、特に女性は子供を生むことのできる「特殊な力」を持った存在です。生贄にするには適していたと考えたのでしょうが、生贄にするより、生きて子供を生んだ方がずっと合理的かつ、結果の出ることだ!と誰かが気づいた。
そこで酒と女性の入れ替えがあったのではないでしょうか。
オロチと天叢雲剣
オロチは川の氾濫の象徴であり、オロチ退治は治水事業を表していると言われています。首と尾が8つにわかれていることも「川」を想像させますし。オロチの上にはいつも雲があるという注釈も「大雨・氾濫・洪水」を連想させます。それに大体、デカイ。胴体が8つの丘と8つの谷ほどあるというのだから、オロチという言葉では物足りないです。自然災害とか天変地異というカテゴリです。
そのオロチの尾が「剣」が出てくるのは、タタラ製鉄で山の木を大量に切った結果、山の保水力が落ちて洪水がおきやすくなったから…という説があります。
この説が正しいとなると、古代人は木の根によって山が保水していると「知っていた」ことになります。「知っていた」が極端なら「うすうす感づいていた」ことになります。神と魔が現実に存在すると考えていた古代人にここまでを期待するのは酷ではないか?と。もちろん分かりっこないというわけではなく、経験的に知っていた可能性もありますが。
わたしは「剣」というものが、そもそも単に「鉄器」を象徴しているだけ、だろうと思っています。つまり、鍬(クワ)や鋤(スキ)や鎌(カマ)といった金属製の農機具を漠然と「剣」という名で呼んでいたのではないかってことです。 だって草薙の剣って言葉、おかしいと思いませんか?だからオロチの尾から剣が出て来たことは、出雲で鉄器を生産していたことと関わりはあるでしょう。でも、「武器」としての鉄器ではなく、「農機具」としての川と農業との関わりからではないかと考えています。 
第八段 出雲の清地で清々しい
然後、行覓將婚之處、遂到出雲之C地焉。(C地、此云素鵝。)乃言曰「吾心CC之。」此今呼此地曰C。於彼處建宮。或云「時、武素戔鳴尊歌之曰、夜句茂多兔、伊弩毛夜覇餓岐、兔磨語昧爾、夜覇餓枳都倶盧、贈廼夜覇餓岐廻。」乃相與遘合而生兒大己貴~。因勅之曰「吾兒宮首者、卽脚摩乳・手摩乳也。」故、賜號於二~曰稻田宮主~。已而素戔鳴尊、遂就於根國矣。 
その後、スサノオはクシイナダヒメと結婚生活を送る場所を探していました。遂に出雲の清地(スガ)にたどり着きました。スサノオは言いました。「私の心は清々しい」それでこの土地を「清(スガ)」といいます、この場所に宮殿を立てました。
別書によると……スサノオは歌いました。
八雲たつ出雲八重垣妻ごみに 八重垣作るその八重垣へ
スサノオとクシイナダヒメは結ばれて生まれた子供が大己貴~(オオナムチノカミ)です。
スサノオは命令を下しました。「私の子(=オオナムチ)の宮殿の首長は脚摩乳(アシナヅチ)・手摩乳(テナヅチ)だ」
それで二柱の神(=アシナヅチ・テナヅチ)を稻田宮主~(イナダミヤヌシノカミ)と名付けました。
その後、スサノオはついに根の国へと行ってしまいました。
C地は素鵝(スガ)と読みます。
古事記の対応箇所 / すがすがしいなぁ / 日本最初の歌 
スサノオは死んだ
高天原で罪を犯し、その罪のために根の国へと追放されたスサノオ。まぁ、本文では「母の国へ行きたい」から、根の国へ行くことになっているんですが。
この罪のために根の国へ行く、というストーリー展開ならば、スサノオのオロチ退治は、出掛けの駄賃ということになります。根の国行く途中に、チャチャっと解決した、という程度のことです。スサノオの霊威から考えると、それもおかしくない話です。
そもそも三貴神なんです。アマテラスと同等のエネルギーを持っていて誓約に勝利すらしています。駄々をこねると山が泣き、地が轟いて、魔がはびこるくらいの、強い神様なんです。オロチが8つの丘と8つの谷にまたがるくらいの大きさの怪物だったとしても、大したこと無いんです。
しかし、単に高天原を追い出されて、葦原中国の出雲に落ちて来た、となると、スサノオは出雲で生活するために人助けをして居場所を作ったということになります。そして子孫を残した。まぁ、ストーリー展開上、そういうニュアンスになるって意味です。 
第八段 三名狹漏彦八嶋篠
一書曰、素戔鳴尊、自天而降到於出雲簸之川上。則見稻田宮主簀狹之八箇耳女子號稻田媛、乃於奇御戸爲起而生兒、號C之湯山主三名狹漏彥八嶋篠。一云、C之繋名坂輕彥八嶋手命、又云、C之湯山主三名狹漏彥八嶋野。此~五世孫、卽大國主~。篠、小竹也。此云斯奴。 
ある書によると……スサノオは天から降りてきて、出雲の肥の川の川上に辿り着きました。
そこで稻田宮主(イナダノミヤヌシ)の簀狹之八箇耳(スサノヤツミミ)の娘の稻田媛(イナダヒメ)を娶って、生んだ子を清(スガ)の湯山主(ユヤマヌシ)の三名狹漏彦八嶋篠(ミナサルヒコヤシマシノ)といいます。
別書によると…清(スガ)の繋名坂輕彦八嶋手命(ユイナサカカルヒコヤシマデノミコト)と言います。
また別書によると…清(スガ)の湯山主(ユヤマヌシ)の三名狹漏彦八嶋野(ミナサルヒコヤシマノ)といいます。
この神の五世孫は大國主~(オオクニヌシ)です。
篠は小さい竹のことです。斯奴(シノ)と呼びます。
古事記の対応箇所 / 出雲に降りたった 
話の流れからいうと、稻田宮主(イナダノミヤヌシ)の簀狹之八箇耳(スサノヤツミミ)がアシナヅチ・テナヅチにあたるのでしょうね。 
第八段 安芸国の可愛川での大蛇との戦い
一書曰、是時、素戔鳴尊、下到於安藝國可愛之川上也。彼處有~、名曰脚摩手摩、其妻名曰稻田宮主簀狹之八箇耳、此~正在姙身。夫妻共愁、乃告素戔鳴尊曰「我生兒雖多、毎生輙有八岐大蛇來呑、不得一存。今吾且産、恐亦見呑、是以哀傷。」素戔鳴尊乃教之曰「汝、可以衆菓釀酒八甕、吾當爲汝殺蛇。」二~隨教設酒。至産時、必彼大蛇、當戸將呑兒焉。
素戔鳴尊勅蛇曰「汝、是可畏之~、敢不饗乎。」乃以八甕酒、毎口沃入。其蛇飲酒而睡。素戔鳴尊、拔劒斬之、至斬尾時、劒刃少缺、割而視之、則劒在尾中、是號草薙劒、此今在尾張國吾湯市村、卽熱田祝部所掌之~是也。其斷蛇劒、號曰蛇之麁正、此今在石上也。是後、以稻田宮主簀狹之八箇耳生兒眞髮觸奇稻田媛、遷置於出雲國簸川上、而長養焉。然後、素戔鳴尊、以爲妃而所生兒之六世孫、是曰大己貴命。大己貴、此云於褒婀娜武智。 
ある書によると……スサノオは安芸の国の可愛の川(エノカワ)の川上に天から降りてきました。
そこに神が居ました。神の名前は脚摩手摩(アシナヅテナヅ)といいます。その妻の名前は稻田宮主簀狹之八箇耳(イナダノミヤヌシスサノヤツミミ)といいます。この神は妊娠していました。
夫婦が心配そうにして、スサノオに言いました。
「わたしが生んだ子供は多かったのですが、生むたびにすぐに八岐大蛇(ヤマタノオロチ)が来て、飲み込んでしまいます。それで一人も残っていません。今からわたしは出産しますが、おそらくはまた呑まれてしまいます。それで悲しんでいるのです」
スサノオは教えました。
「お前たちはたくさんの木の実を集めて、八個の甕(カメ)だけ酒を醸造しろ。そうしたら、私がお前たちのために大蛇を殺してやろう」
夫婦はスサノオに言われるように酒を用意しました。
それで出産のときになると、やはり大蛇がやってきて子供を飲もうとした。スサノオは大蛇に向かって言いました。
「お前は恐るべき力を持った神だ!そこで御馳走をしよう!!」
八個の甕(カメ)の酒をヤマタノオロチの8個の口にそれぞれ注いで飲ませました。それでオロチは酒を飲んで酔っ払って眠ってしまいました。
スサノオは眠った大蛇を剣を抜いて切ってしまいました。尾を切るときに剣の刃が少し欠けてしまいました。
尾を割って見ると、中には剣がありました。
これを草薙剣(クサナギノツルギ)と言います。
草薙の剣は現在尾張の国の吾湯市村(アユチノムラ)にあります。熱田神宮の祝部(ハフリベ)が祀っている神はこれです。
その大蛇を切った剣は蛇之麁正(オロチノアラマサ)といいます。これは今は石上神社(イソノカミ)にあります。
稻田宮主簀狹之八箇耳(イナダノミヤヌシスサノヤツミミ)が生んだ子の眞髪觸奇稻田媛(マカミフルクシイナダヒメ)は、出雲の簸の川(ヒノカワ)の川上に引っ越して、長い間養育しました。
のちにこの姫はスサノオの妃(キサキ=后)となって生んだ六世孫が大己貴命(オオナムチ)といいます。
古事記の対応箇所 / 出雲に降りたった / テナヅチ・アシナヅチ / 大蛇への生贄 / ヤマタノオロチについて / ヤマタノオロチの姿形について / 老夫婦に名乗る / 大蛇退治の妙案 / 酒を飲んで寝る大蛇 / 刀が欠けてしまう / クサナギの剣があらわれる 
可愛の川(エノカワ)
広島県北東部を流れる江の川(ゴウノカワ)のこと。可愛川という広島で現在でも呼ばれているとネットに書いてあるが、広島在住の私は知らない。関係する神社が清神社(スガジンジャ)です。
特異点
この話では本文のテナヅチにあたる稻田宮主簀狹之八箇耳(イナダノミヤヌシスサノヤツミミ)が妊娠中でクシイナダヒメはまだお腹の中です。
また、大蛇ではありますが、スサノオが瓶を口に注げる程度の大きさであり、スサノオがオロチの口に注ぐという、ちょっと宴会っぽいというか、大蛇には強大な力がありますが、割と頑張れば勝てそうな感じがします。
神社や関連する土地
清神社(スガジンジャ)清神社にはこの八段(二)に関係する神々が祀られています。 
第八段 大蛇の頭には石や松があり、両脇には山があり
一書曰、素戔鳴尊、欲幸奇稻田媛而乞之、脚摩乳・手摩乳對曰「請先殺彼蛇、然後幸者宜也。彼大蛇、毎頭各有石松、兩脇有山、甚可畏矣。將何以殺之。」素戔鳴尊、乃計釀毒酒以飲之、蛇醉而睡。素戔鳴尊、乃以蛇韓鋤之劒、斬頭斬腹、其斬尾之時、劒刃少缺。故裂尾而看、卽別有一劒焉、名爲草薙劒、此劒昔在素戔鳴尊許、今在於尾張國也。其素戔鳴尊斷蛇之劒、今在吉備~部許也、出雲簸之川上山是也。 
ある書によると…スサノオは奇稻田媛(クシイナダヒメ)を妻にしようと思って頼み込みました。
すると脚摩乳(アシナヅチ)・手摩乳(テナヅチ)は答えました。
「お願いですから、まず、あの大蛇を殺してください。それから嫁にしてください。大蛇の頭には石や松があり、両脇には山があり、とても恐ろしい力があります。どうやって殺すのですか?」
スサノオは策略を練りました。毒の酒を醸造して、これを大蛇に呑ませました。大蛇は酔って眠ってしまいました。
スサノオは蛇韓鋤之劒(オロチノカラサビノツルギ)で、大蛇の頭を斬り、腹を斬りました。そしてその尾を切るときに、剣が少し欠けてしまいました。尾を裂いてみると、そこに一本の剣がありました。名前を草薙剣(クサナギノツルギ)といいます。この剣は、以前はスサノオの元にありましたが、今は尾張国(=愛知県)にあります。そのスサノオがオロチを斬った剣は、現在は吉備の~部(カンベ)の元にあります。出雲の簸川(ヒノカワ)の川上にあるのがその山です。
古事記の対応箇所 / テナヅチ・アシナヅチ / 大蛇への生贄 / ヤマタノオロチについて / ヤマタノオロチの姿形について / 老夫婦に名乗る / 大蛇退治の妙案 / 酒を飲んで寝る大蛇 / 刀が欠けてしまう / クサナギの剣があらわれる 
吉備の~部
吉備の神部は岡山の石上布都魂神社とされますが、それではヒノカワの川上というのと合致しません。これは「古代の認識はそうだった」のか、それとも「吉備の神部」が別の神社を指しているのか、それは分かりません。正直、後者のような気が。
特異点
他の一書・本文と違う点は…アシナヅチ・テナヅチが若干上から目線、ちょっとだけスサノオに上から目線です。大蛇を殺したら、嫁にやってもいいぞ、という条件付きです。
大蛇のディテールが若干ごつい
本文に近い表現です。「頭には岩や松が生えていて、両脇には山がある」。まぁ凄いのか、よく分かりませんが、ここでのオロチは「川」というよりは「自然」とか「山々」というイメージのような。
毒の酒
オロチに毒の酒を飲ませます。腹まで裂く、今までは尾と首でしたが、今回はお腹まで裂いています。
神社や関連する土地
石上布都魂神社。 
第八段 新羅国・曾尸茂梨(ソシモリ)に
一書曰、素戔鳴尊所行無狀、故諸~、科以千座置戸而遂逐之。是時、素戔鳴尊、帥其子五十猛~、降到於新羅國、居曾尸茂梨之處。乃興言曰「此地、吾不欲居。」遂以埴土作舟、乘之東渡、到出雲國簸川上所在、鳥上之峯。時、彼處有呑人大蛇。素戔鳴尊、乃以天蠅斫之劒、斬彼大蛇。時斬蛇尾而刃缺、卽擘而視之、尾中有一~劒。素戔鳴尊曰「此不可以吾私用也。」乃遺五世孫天之葺根~、上奉於天。此今所謂草薙劒矣。初、五十猛~、天降之時、多將樹種而下、然不殖韓地、盡以持歸。遂始自筑紫凡大八洲國之內、莫不播殖而成山焉。所以、稱五十猛命、爲有功之~。卽紀伊國所坐大~是也。 
ある書によると……スサノオの行いは酷いものでした。よって神々は千の台座に乗るほどの宝を提出させて、最後には追放してしまいました。
このときにスサノオは息子の五十猛~(イタケルノカミ)を連れて、新羅国に降り、曾尸茂梨(ソシモリ)に辿り着きました。
そこでスサノオが言いました。「この土地に、わたしは居たくない」それで土で船を作って、それに乗って東に渡り、出雲の簸の川(ヒノカワ)の川上にある鳥上之峯(トリカミノミネ)に辿り着きました。
そのときその土地に人を飲む大蛇が居ました。
スサノオは天蠅斫之劒(アメノハハキリノツルギ)を使い、この大蛇を斬りました。大蛇の尾を斬ったとき刃が欠けてしまいました。
それで尾を裂いて見ると、尾の中に一本の神剣がありました。
スサノオは言いました。
「これは私のものにしてはいけない」
スサノオの五世孫の天之葺根~(アメノフキネノカミ)によってこの神剣は天に捧げられました。
これは現在でいうところの草薙剣(クサナギノツルギ)です。
元に五十猛~(イタケルカミ)が天界を下った時に、多くの木の種を持っていました。これを韓(朝鮮半島)には植えずに、すべてを持ち帰りました。それで筑紫(九州の北部)から初めて、大八洲國(オオヤシマクニ)に蒔いたので、日本に青々としていない山は無いのです。
紀伊国に居る大神はこの五十猛~(イタケルカミ)です。
古事記の対応箇所 / 罰を与える八百万の神々 / 出雲に降りたった / ヤマタノオロチについて / ヤマタノオロチの姿形について / 刀が欠けてしまう / クサナギの剣があらわれる 
五十猛~
スサノオは誓約だけでなく子供をもうけていたようですね。しかもどの子(オオヤツヒメ・ツマツヒメ)も「林業」に関わる。またスサノオも第八段一書(五)では体毛を木に変えるという林業の神になっています。五十猛~という名前の「五十」は「勢いが強い」という意味か、それとも「神聖な」という意味の「忌(イ)」を表わしているのか。漢字を見ると武神という印象ですが、ストーリーと合わせて考えると、「猛」という文字は樹木の生育する様・勢いを表していると考えた方が良いかも。
曾尸茂梨(ソシモリ)
ソシモリは朝鮮のどこか?は分かりません。ソシモリは都市の名前かもしれませんし、地形を表しているのかもしれません。日本の神は「海の向こうから来るもの」という共通認識があります。深い意味はありません。神武天皇・神宮皇后(朝鮮征伐後・応神天皇と)・エビス・ヒルコ・コトシロヌシ・スクナヒコナという代表的なものから、タマヨリヒメ・トヨタマヒメといったものを含めるとかなりの量になります。これは日本の地形が「様々な文化が最後にやってくる場所」という事情もあります。ここにスサノオもこの段で海来神の仲間入りということです。なのでこの話を持って「スサノオは朝鮮出身」というのは飛躍しています。
五十猛~(イタケルカミ)が朝鮮半島に種を蒔かない理由
日本は自然が豊かな土地です。日本にある植物の種類は欧州の植物の種類と同じくらいです。面積にこれだけ差があるのに、です。それだけ多様性に富み、豊かな土地です。雨も多いですしね。朝鮮半島は日本に比べると土地も痩せていますし、寒い。よって樹木は決して豊かではないし、剥げ山が多いです。というと朝鮮半島がダメ、みたいな感じですが、日本が異常に自然が豊かなんです。この話はその差を表しているだけでしょう。
朝鮮半島は古代からハゲ山だったのか?
現在朝鮮半島の山がハゲ山なのは「オンドル」という床下暖房に木を使っていたから、とされます。このオンドルを三国時代(百済・高句麗・新羅の時代)から使っていたというので、この物語はそのころに思いついた話かもしれません。しかし、現在のオンドルでは木を燃やしていませんから、今の朝鮮半島に緑が少ないのは単に植生の問題であって、オンドルとは関係ありません。元々木が少ないのに暖房に使ったからハゲが進んだんでしょう。この八段(四)では、スサノオが新羅に行ったとしていますが、本当に新羅だったのか、新羅以前の朝鮮半島の事情(というか単に植生)を表しているだけかもしれない。つまりオンドルを使用する以前から、日本と朝鮮との植生に大きな差があった、その話が八段(四)という可能性も十分あります。
新羅の成立は紀元前とされますが、実際にはもっと遅かった可能性は高いです。4世紀かも。
朝鮮半島は緑が少ない、日本は青々としている、その理由づけにスサノオやその子供たちの神の活躍があったり、「このくらい神の力は凄いですよ」と、神の力を示したかったのかもしれません。
ただし、日本は白村江の戦いで新羅・唐連合軍に敗れて、その後、日本は新羅を目の敵にしている時期があります。新羅をおとしめる記述はその影響と言う意見もあります。まぁ、それでも朝鮮半島と日本で植生が違うのは当たり前なので、この記述をフィクションと言うのは無理があるでしょう。 
第八段 浮宝が無ければ困るだろう
一書曰、素戔鳴尊曰「韓ク之嶋、是有金銀。若使吾兒所御之國、不有浮寶者、未是佳也。」乃拔鬚髯散之、卽成杉。又拔散胸毛、是成檜。尻毛是成艨A眉毛是成櫲樟。已而定其當用、乃稱之曰「杉及櫲樟、此兩樹者、可以爲浮寶。檜可以爲瑞宮之材。芍ツ以爲顯見蒼生奧津棄戸將臥之具。夫須噉八十木種、皆能播生。」于時、素戔鳴尊之子、號曰五十猛命。妹大屋津姬命、次枛津姬命、凡此三~、亦能分布木種、卽奉渡於紀伊國也。然後、素戔鳴尊、居熊成峯而遂入於根國者矣。
棄戸、此云須多杯。艨A此云磨紀。 
ある書によると…スサノオは言いました。「韓国の島には金銀がある。もしもわたしの子孫が納める国に、浮宝(ウキタカラ=船)が無ければ、困るだろう」
それでヒゲを抜くと杉の木に成りました。胸毛を抜くとヒノキになりました。お尻の毛を抜くとマキとなりました。眉毛はクスノキになりました。スサノオはこれらの木々の用途を決めました。
「杉とクスノキは船に使え。ヒノキは宮殿を作るのに使え。マキは人民の奧津棄戸(オキツスタエ=棺桶)に使え。その他の食べる八十木種(ヤソコダネ=沢山の種子)はよく蒔いて、育てなさい」
スサノオの子は、五十猛命(イタケルノミコト)と妹の大屋津姫命(オオヤツヒメ)、もう一人の妹の枛津姫命(ツマツヒメ)といいます。
この三柱の神は、よく木の種を蒔きました。この三柱の神は、紀伊国に祀ってあります。
スサノオはその後、熊成峯(クマナリノミネ)に居て、やがて根の国に行きました。
棄戸は須多杯(スタヘ)といいます。艪ヘ磨紀(マキ)といいます。 
ウキタカラ
「浮・宝」で船のことです。古代の日本人は船をそういう風に見ていたんですね。豊かなもの、便利なもの、素晴らしい何かは、海の向こうからやってくるという感覚があったということです。今でも日本人は外来のものを有難がります。そこから吸収し、最後は自分の文化に取り込んでしまうのです。
韓国の金銀
金銀というのは「鉄鉱石」のことです。韓国、つまり朝鮮半島には現在でも鉄鉱石が取れます。古代の日本人は朝鮮半島に鉄鉱石を取りに行っていました。これは魏志倭人伝にも乗っています。
しかし日本では昔からタタラ製鉄があり、鉄鉱石を必ずしも必要としていませんでした。またタタラによる錬成した鉄器は非常に丈夫で、当時の朝鮮半島の型に流し込む鉄器なんておもちゃみたいなものです。
タタラ製鉄の成立は不明。日本のタタラ製鉄はどうやら鉄鉱石による製鉄よりもかなり古いと見られています。その技術が何処から来たのか????当然朝鮮半島は経由していないと思われます。大きな謎です。
鉄鉱石からの製鉄は効率が良い。タタラは手間が掛かり、量が作れない。日本でも徐々に鉄鉱石による製鉄が主流になったと思われます。その中で力を持ったのが吉備。吉備から鉄鉱石が取れたからです。しかしそれも掘りつくすと衰退しました。
平安・鎌倉時代には鉄鉱石の輸入は行っていません(あったとしても少量)。ということは、国内の鉄器はタタラ製鉄だけでも十分な量が取れたということではないでしょうか? 
第八段 百姓は現在までその恩恵を受けています
一書曰、大國主~、亦名大物主~、亦號國作大己貴命、亦曰葦原醜男、亦曰八千戈~、亦曰大國玉~、亦曰顯國玉~。其子凡有一百八十一~。夫大己貴命與少彥名命、戮力一心、經營天下。復、爲顯見蒼生及畜産、則定其療病之方。又、爲攘鳥獸昆蟲之災異、則定其禁厭之法。是以、百姓至今、咸蒙恩頼。 
ある書によると…大國主~(オオクニヌシ)、別の名を大物主~(オオモノヌシ)、もしくは國作大己貴命(クニツクリシオオナムチノミコト)、もしくは葦原醜男(アシハラシコオ)、もしくは八千戈~(ヤチホコノカミ)、もしくは大國玉~(オオクニタマノカミ)もしくは顯國玉~(ウツシクニタマノカミ)といいます。オオクニヌシの子供は一百八十一~(モモハシラアマリヤソハシラアマリヒトハシラノカミ=181柱の神々)いました。
そのオオナムチと少彦名命(スクナヒコナノミコト)は力を合わせ、心を一つにして、天下を治めました。
また顯見蒼生(ウツシキアオヒトクサ=人間)と畜産(ケモノ)のために、その病気を治療する方法を定めました。
また鳥・獣・虫の災害を防ぐ方法を定めました。
以上のことで百姓(オオミタカラ)は現在までその恩恵を受けています。
古事記の対応箇所 / ガマの花粉でウサギの傷を癒す(医療) / クエビコについて(害虫避け) 
經營天下
「經營天下」で天下を経(おさめ)営(いとなむ)としています。当時の世界観には権力者は世界を支配するものではなく、権力者には義務があるという感覚があったよう。
治療には獣も
人間だけでなく畜産(ケモノ)の治療をなぜするのか??????当時の日本では動物を農業の動力として利用していたためと思われます。
もちろん食用かもしれません。7世紀に天武天皇が肉食を禁じています。だからそれ以前は食べていた、と言う可能性もあります。しかし、ケガレを嫌う日本人が積極的に食べていたかは正直、疑問。
馬の伝来は古事記によると「国主照古王牡馬壱疋牝馬壱疋」の応神天皇の時代(推測では4世紀)となっています。では、牛は???
鳥獸昆蟲之災異
鳥・獣・虫の災害というのはおそらくは「農業への被害」という意味かと思われます。 
第八段 粟の茎に昇ったら、はじかれて常世の国へ
嘗大己貴命謂少彥名命曰「吾等所造之國、豈謂善成之乎。」少彥名命對曰「或有所成、或有不成。」是談也、蓋有幽深之致焉。其後、少彥名命、行至熊野之御碕、遂適於常世ク矣。亦曰、至淡嶋而緣粟莖者、則彈渡而至常世ク矣。自後、國中所未成者、大己貴~、獨能巡造、遂到出雲國、乃興言曰「夫葦原中國、本自荒芒、至及磐石草木咸能强暴。然、吾已摧伏、莫不和順。」遂因言「今理此國、唯吾一身而巳。其可與吾共理天下者、蓋有之乎。」 
かつて、大己貴命(オオナムチ)は少彦名命(スクナヒコナ)に言いました。「わたしたちが作った国は、良くなったと言えるだろうか??」スクナヒコナは答えました。「あるところは良く成りました。あるところは良く成ってないところがあります」
この会話には、非常に深い意味があるのでしょう。
その後、スクナヒコナは熊野の御崎に行って、そこから常世郷(トコヨノクニ)に行ってしまいました。
別伝によると淡嶋(アワノシマ)へ行って、粟の茎に昇ったら、はじかれて常世の国へ行ってしまったとも言わています。
スクナヒコナが居なくなってしまいましたが、まだ国は未完成のところがあります。オオナムチは一人でよく国を回り、出雲の国に辿り着き、云いました。
「葦原中国(アシハラナカクニ=日本)は元々は荒れ果てていた。岩から草木まで何もかも、酷いものだった。しかし、わたしが砕いて、従わないものは無くなった。」
さらに言葉をつづけました。「今、この国を治めるのは、ただ私だけ。わたしと共に国を天下を治めるものがどこにいるか??!」
古事記の対応箇所 / スクナヒコナは常世の国へ / 国つくりのパートナーが欲しい 
スクナヒコナと淡島
粟島神社とか淡島神社と呼ばれる神社が祀っているのはスクナヒコナ。ただし、これは明治の国家神道の中で神仏が分離したときに無理くり「スクナヒコナ」にされたという面もあり、元々は「淡島神」という民間信仰の神だったと思われる。ただし淡島神がなんのかはハッキリしない。
熊野之御碕
島根県松江市八雲町熊野の熊野大社と言われています。
淡嶋
鳥取県米子市彦名町の粟嶋神社と言われています。
この会話には深い意味が
なぜこの会話に深い意味があるとされたのかは、よく分かりません。記紀の編者の感想とも言われますが、当時としては分かって当然というのような何かの意味があったのかもしれないです。 
第八段 三諸山に住もう
于時、~光照海、忽然有浮來者、曰「如吾不在者、汝何能平此國乎。由吾在故、汝得建其大造之績矣。」是時、大己貴~問曰「然則汝是誰耶。」對曰「吾是汝之幸魂奇魂也。」大己貴~曰「唯然。廼知汝是吾之幸魂奇魂。今欲何處住耶。」對曰「吾欲住於日本國之三諸山。」故、卽營宮彼處、使就而居、此大三輪之~也。此~之子、卽甘茂君等・大三輪君等・又姬蹈鞴五十鈴姬命。又曰、事代主~、化爲八尋熊鰐、通三嶋溝樴姬・或云玉櫛姬而生兒、姬蹈鞴五十鈴姬命。是爲~日本磐余彥火火出見天皇之后也。 
すると、神々しい光が浮かび、海を照らして、たちまちやって来ました。その光が言いました。
「もしも、わたしが居なければ、お前はこの国を平定出来なかっただろう。わたしが居てこそ、この大きな結果を出すことが出来たのだ」
このときオオナムチは言いました。「では、お前は誰だ??」
光は答えました。「わたしはお前の幸魂(サキミタマ)奇魂(クシミタマ)だ」
オオナムチは言いました。「なるほど。そうか。お前は、わたしの幸魂奇魂だ。これから何処に住みたいと思うか??」
すると答えました。「わたしは日本国(ヤマトノクニ)の三諸山(ミモロヤマ)に住もうと思う」それで宮殿を作り、祀りました。それが大三輪(オオミワ)の神です。この神の子は甘茂君(カモノキミ)、大三輪君(オオミワノキミ)、また姫蹈鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメノミコト)です。
別伝によると、事代主神(コトシロヌシ)は八尋熊鰐(ヤヒロノクマワニ)となって、三嶋の溝樴姬(ミゾクイヒメ)、別名を玉櫛姫(タマクシヒメ)という姫のところに通って出来た子供が姫蹈鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメノミコト)です。この姫は~日本磐余彦火火出見天皇(カムヤマトイワレヒコホホデミノスメラミコト)の后となりました。
古事記の対応箇所 / 海の向こうから光の神が 
幸魂(サキミタマ)奇魂(クシミタマ)
神の性質は和魂(にきみたま)と荒魂(あらみたま)に分けられます。和魂が人々に富をもたらしたり幸福にする性質で、荒魂が逆に災害や病気や争いをもたらす性質です。心理学の「グッドマザー・バッドマザー」でしょうね。
この和魂を更に分類したのが幸魂・奇魂です。幸魂は幸福をもたらすもの。奇魂は神秘的な力です。
お前の幸魂奇魂だ!
この部分は、どういう意味を持っているのか?というとちょっと分かりません。素直に「古代の日本人は和魂(幸魂+奇魂)と荒魂が別々の人格を持っていて、しかも本体(和魂+荒魂)とは別の人格を持っていた」と考えていたのか。
それともオオモノヌシとオオナムチが似た性質を持っていて、同一視したという経緯を表しているだけなのか?
大物主神の「物」は「物の怪」の物です。漠然とした「神」という意味を持っています。オオナムチも同様に「霊威が強い」という意味です。
大物主神とは?
祟神天皇のときに「タタリ神」として登場することで有名ですが、本来はタタリ神ではなく、機嫌がいいと富をもたらし、粗末に扱うと祟るという、日本では極々一般的な神様だったのでしょう。
事代主神の政略
コトシロヌシはオオナムチ(オオクニヌシ)の子供とされる神です。おそらくは託宣の神だったのでしょう。この神の子供の姫蹈鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメノミコト)が~日本磐余彦火火出見天皇(カムヤマトイワレヒコホホデミノスメラミコト)…つまり後の神武天皇の妃となるということは、ちょっと凄いことです。
御存じの通り、オオクニヌシの国は高天原の勢力に国譲りをするのですが、その中でオオクニヌシの子孫の姫が神武天皇の妻になっているのです。
コトシロヌシが初期大和朝廷の有力者の葛城氏が祀る「一言主(ヒトコトヌシ)」と同一視されています。それはつまり、出雲の衰退と大和の成立は必ずしも、大和が出雲を征服したということではない…という可能性はあります。
八尋熊鰐
ヤヒロは「大きい」という意味です。「熊」は「神」と同義。ワニは魚の「サメ」のことか、もしくはあの爬虫類の「ワニ」です。ワニが「サメ」か「ワニ」という謎は古代日本の話題ではよくあるものです。
どちらにしても事代主神が「海神(ワダツミ)」の要素を持っているという意味でしょう。国譲りの後に海に消えてますし。 
第八段 出雲の五十狹々小汀
初、大己貴~之平國也、行到出雲國五十狹々小汀、而且當飲食。是時、海上忽有人聲。乃驚而求之、都無所見、頃時、有一箇小男、以白蘞皮爲舟、以鷦鷯羽爲衣、隨潮水以浮到。大己貴~、卽取置掌中而翫之、則跳囓其頰。乃怪其物色、遣使白於天~、于時、高皇産靈尊聞之而曰「吾所産兒、凡有一千五百座。其中一兒最惡、不順教養。自指間漏墮者、必彼矣。宜愛而養之。」此卽少彥名命是也。顯、此云于都斯。蹈鞴、此云多多羅。幸魂、此云佐枳彌多摩。奇魂、此云倶斯美拕磨。鷦鷯、此云娑娑岐。 
(今までのお話の前……)オオナムチが国を平定した頃の話です。出雲の五十狹々小汀(イササノオハマ)に辿り着き、食事をしようとしました。
その時、海の上から人の声が聞こえてきました。オオナムチは驚いてその声の主を探したのですが、どこにも船も人も見えませんでした。
しばらくして、一人の小さな男が、ガガイモ(植物名)の実の皮で出来た船に乗り、ミソサザイ(鳥の名前)の羽で出来た服を着て、波のまにまに浮かんでやって来ました。
オオナムチはすぐにその神を掌に乗せて玩具にしました。
すると小さな男は怒って、オオナムチの頬にかみつきました。
その形に驚いて、使者を天神に報告すると、これを聞いた高皇産霊尊(タカミムスビ)が言いました。
「わたしが生んだ子は1500座ある。その中の一人の子は最悪で、教育しても従わなかった。そのうちに指の間からこぼれ落ちてしまった。それが彼だろう。大事にして、育ててなさい」
これが少彦名命(スクナヒコナノミコト)です。
顯を于都斯(ウツシ)といいます。蹈鞴は多多羅(タタラ)といいます。幸魂は佐枳彌多摩(サキミタマ)といいます。奇魂は倶斯美拕磨(クシミタマ)といいます。鷦鷯は娑娑岐(ササキ)といいます。
古事記の対応箇所 / ガガイモの船に乗り、蛾の服を着た名も無き神 / アシハラシコオと兄弟となって 
スクナヒコナ
スクナヒコナは古事記ではカミムスビの子とされ、日本書紀ではタカミムスビの子とされます。ホワイ?もしかするとカミムスビとタカミムスビには大きな違いが無かったのかもしれません。
スクナヒコナは最悪の悪戯っ子であるが故に、タカミムスビの元から逃れ、葦原中国でオオナムチ(オオクニヌシ)と共に国づくりをすることになります。これってスサノオの経緯(高天原の狼藉→追放→大蛇退治)に似ている、と思いませんか??
おそらく、何かしらの罪を犯してしまうような「鬼」が後に成果を出す、という物語が日本の英雄の原型なんでしょう。
1500座
なぜ?神を数える単には「柱」なのに、ここでは「座」なのでしょうか? 
 
神代 [下] 

 

第九段 葦原中国の邪神を追い払って平定したい
天照大神之子正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、娶高皇産靈尊之女栲幡千千姬、生天津彥彥火瓊瓊杵尊。故、皇祖高皇産靈尊、特鍾憐愛、以崇養焉、遂欲立皇孫天津彥彥火瓊瓊杵尊、以爲葦原中國之主。然、彼地多有螢火光神及蠅聲邪神、復有草木咸能言語。故、高皇産靈尊、召集八十諸神而問之曰「吾、欲令撥平葦原中國之邪鬼。當遣誰者宜也。惟爾諸神、勿隱所知。」僉曰「天穗日命、是神之傑也。可不試歟。」於是、俯順衆言、卽以天穗日命往平之、然此神侫媚於大己貴神、比及三年、尚不報聞。故、仍遣其子大背飯三熊之大人大人、此云于志、亦名武三熊之大人。此亦還順其父、遂不報聞。 
天照大神(アマテラスオオミカミ)の子の正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)は、高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)の娘の栲幡千千姬(タクハタチヂヒメ)を娶って天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)を生みました。
高皇産靈尊(タカミムスビ)は特にこの孫を可愛がり、大切に育てました。ついには、天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)を葦原中国(アシハラナカツクニ)の君主にしようと考えました。
しかし、その葦原中国にはホタル日のように輝く神々や、蠅のようにうるさい邪神が多く居ました。
また草や木のすべてがよく、言葉を話していました。
そこで高皇産靈尊は八十諸神(ヤソモロカミタチ=沢山の神々)を集めて言いました。
「わたしは、葦原中国の邪神を追い払って、平定したいと思っている。誰を派遣させればいいだろうか??ここに居る神々よ、知ってることは隠さず言ってくれ」
神々が答えるには「天穗日命(アメノホヒノミコト)が優れています。試してみるべきですよ」
そこでタカミムスビは神々の意見に従って、アメノホヒを葦原中国に送って、平定しようとしました。
しかし、このアメノホヒは大己貴神(オオナムチ=オオクニヌシ)にご機嫌を取るばかりで3年たっても、報告しませんでした。
そこでアメノホヒの子の大背飯三熊之大人(オオソビノミクマノウシ)を派遣しましたが、父親に従って報告しませんでした。
大人は于志(ウシ)と読みます。別名を武三熊之大人(タケミクマノウシ)
古事記の対応箇所 / 豊葦原之千秋長五百秋之水穂国 / 地上がひどく騒がしい / 乱暴な国津神を静かにさせる神は? / 復命しないアメノホヒ 
皇祖の高皇産靈尊
タカミムスビの前に「皇祖」とあるので、タカミムスビは天皇家の祖先という意味になります。アマテラスの子供とあれるオシホミミとタカミムスビの娘のタクハタチヂヒメが結ばれて出来た子供が「天孫ニニギ」ですから、血統上は「タカミムスビ=皇祖」は間違い無い。
高皇産靈尊(タカムムスビノミコト)に「皇」という字が当てられているのもそこに理由があるのかもしれない。
草木が話す!!
国津神の世界では草木がものを話していたよう。想像すると楽しいですが、言霊の世界では「言葉」が「現実化」する可能性があるので、草木までが話が出来るの「世が乱れる」原因となるので困ります。
話し合いが正義!
タカミムスビというと造化三神のひとりで、かなり原初から存在する神です。また今後もこの記紀の中で大きな役割を果たす神です。ところが、そんなタカミムスビであっても、絶対的な権力を持っているわけでは無く、問題が発生したときは「話し合い」です。話し合いで決まったことに従うのです。この性質は現代でもあります。 
第九段 反矢(カエシヤ)、畏(オソ)るべし
故、高皇産靈尊、更會諸~、問當遣者、僉曰「天國玉之子天稚彥、是壯士也。宜試之。」於是、高皇産靈尊、賜天稚彥天鹿兒弓及天羽羽矢以遣之。此~亦不忠誠也、來到卽娶顯國玉之女子下照姬(亦名高姬、亦名稚國玉)、因留住之曰「吾亦欲馭葦原中國。」遂不復命。是時、高皇産靈尊、怪其久不來報、乃遣無名雉伺之。其雉飛降、止於天稚彥門前所植(植、此云多底婁)湯津杜木之杪。(杜木、此云可豆邏也)。時、天探女天探女、此云阿麻能左愚謎見而謂天稚彥曰「奇鳥來、居杜杪。」天稚彥、乃取高皇産靈尊所賜天鹿兒弓・天羽羽矢、射雉斃之。其矢、洞達雉胸而至高皇産靈尊之座前也、時高皇産靈尊見其矢曰「是矢、則昔我賜天稚彥之矢也。血染其矢、蓋與國~相戰而然歟。」於是、取矢還投下之、其矢落下則中天稚彥之胸上。于時、天稚彥、新嘗休臥之時也、中矢立死。此世人所謂反矢可畏之緣也。 
高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は更に神々を集めて、派遣すべき神を話し合いました。すると神々は「天國玉(アマツクニタマ)の子供の天稚彦(アメノワカヒコ)は立派な神だ。試してみましょう」と言いました。
それで高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は天稚彦(アメノワカヒコ)に天鹿兒弓(アメノカゴユミ=鹿の骨で作った弓)と天羽羽矢(アメノハハヤ)を授けて、派遣しました。
ところがこの天稚彦(アメノワカヒコ)も、使命をほったらかして、下界に降りると顯國玉(ウツシクニタマ=オオクニヌシ=オオナムチ)の娘の下照姫(シタテルヒメ)を娶りました。別名を高姫(タカヒメ)、もしくは稚國玉(ワカクニタマ)といいます。
そしてそこに住み、居付いてしまい「葦原中国(アシハラナカツクニ)を治めてみたいなぁ」と言いました。
ついには天稚彦(アメノワカヒコ)は高天原に報告しなくなりました。
このとき高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は長く報告が来ないことを怪しんで、無名雉(ナナシキギシ=名も無いキジという意味)という鳥を、天稚彦(アメノワカヒコ)にどういうことか尋ねに行かせました。
その雉(キジ)が飛んで地上に降りて、天稚彦(アメノワカヒコ)の門の前に立てる湯津杜木(ユツカツラ…葉の茂った桂の木)の梢に止まりました。
すると天探女(アメノサグメ)が、そのキジを見て、天稚彦(アメノワカヒコ)に言いました。「奇妙な鳥が来て、カツラの木の梢に停まっております」すると天稚彦(アメノワカヒコ)は高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)から授かった天鹿兒弓(アメノカゴユミ)と天羽羽矢(アメノハハヤ)を手に取り、そのキジを射殺してしまいました。
その矢はキジの胸を貫通して、そのまま飛んで行って高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)が居る場所まで飛んで行きました。高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)はその矢を見て言いました。「この矢は昔、私が天稚彦(アメノワカヒコ)に授けた矢だ。矢は血に染まっている。国津神と戦ってついた血だろうか??」そこで矢を取り、地上へと投げ返しました。するとその矢は天稚彦(アメノワカヒコ)の胸に当たり、死んでしまいました。打ち抜かれたとき、天稚彦(アメノワカヒコ)は新嘗祭をして休んで寝ているときでした。
これが、世の人が言う「反矢(カエシヤ)、畏(オソ)るべし」という所以です。
植は多底婁(タテル)と読みます。杜木は可豆邏(カツラ)と読みます。
古事記の対応箇所 / 乱暴な国津神を静かにさせる神は? / 復命しないアメノホヒ / アメノワカヒコに弓と矢を持たせて地上へ / キジを派遣しよう / ナキメを射殺すアメノワカヒコ / キジを射抜いた矢が天安河の河原に / アメノワカヒコの死 
湯津杜木
この杜という字は「桂」の移し間違えではないかと言われています。日本書紀や古事記は原本は残っておらず、全部写本だからです。
反矢(カエシヤ)、畏(オソ)るべし
ようは不正や不忠を働くと、手痛いしっぺ返しが来るよ、という「諺(ことわざ)」でしょう。
第九段 鳥の葬儀
天稚彥之妻下照姬、哭泣悲哀、聲達于天。是時、天國玉、聞其哭聲則知夫天稚彥已死、乃遣疾風、舉尸致天、便造喪屋而殯之。卽以川鴈、爲持傾頭者及持帚者(一云、以鶏爲持傾頭者、以川鴈爲持帚者)、又以雀爲舂女。(一云「乃以川鴈爲持傾頭者、亦爲持帚者、以鴗爲尸者、以雀爲春者、以鷦鷯爲哭者、以鵄爲造綿者、以烏爲宍人者。凡以衆鳥任事。」)而八日八夜、啼哭悲歌。 
天稚彥(アメノワカヒコ)の妻の下照姬(シタテルヒメ)が泣き悲しむ声が天に届きました。このとき天國玉(アマツクニタマ=アメノワカヒコの親)がその泣く声を聞いて、天稚彥(アメノワカヒコ)が死んだことを知りました。
すぐに疾風(ハヤテ)を派遣して、遺体を引き揚げて天に運ばせました。そして喪屋(モヤ=仮の遺体安置所)を作り、殯(モガリ=埋葬するまでに行う葬式)を行いました。
川雁(=鳥の種類)を、持傾頭者(キサリモチ=?)とし、また持帚者(ハハキモチ=ホウキで穢れを祓う役)としました。
一説には「鶏」を持傾頭者(キサリモチ)とし、川雁を持帚者(ハハキモチ)としたとされます。
また、雀を舂女(ツキメ)としました。
一説には川鴈(カワガリ)を持傾頭者(キサリモチ)として、持帚者(ハハキモチ)とし、鴗(ソビ)を尸者(モノマサ=使者に代わってあいさつをする)としました。雀を舂者(ツキメ)としました。鷦鷯(サザキ)を哭者(ナキメ)としました。鵄(トビ)を造綿者(ワタツクリ=死者の服を作る)としました。烏(カラス)を宍人者(シシヒト)としました。全ての鳥に仕事を分担させました。
八日八夜の間、嘆き悲しみ歌いました。
古事記の対応箇所 / アメノワカヒコの葬式 
持傾頭者
キサリモチは本居宣長によって「死者に提供する食べ物を運ぶ役」とされますが、どうしてこんな解釈になったのかは、ハッキリしません。また「死者に食べ物を運ぶ役」は宍人者と重なるので、別の役ではないかと思われます。
持帚者
ハハキモチは「ホウキ」を持つ神です。ホウキは塵取りとセットのあれです。ゴミを履いて捨てることが「ケガレ」を祓うことに繋がったみたいです。
舂女
ツキメは、まだハッキリとはしませんが、「舂」が臼とか臼で穀物をつくことを指すので、葬儀のときの食料をつく役割のことでしょう。それが死者へのものか、参加者のものかは分かりませんが、まぁ常識的に言って死者でしょう。
尸者
神が石や木に宿るときは、その石や木のことを依代(ヨリシロ)といいますが、神ではなく死者が人間に乗り移るときは尸者(モノマサ)と言います。
モノマサに死者を乗り移らせて、モノマサがあいさつをする?みたいです。なんかシュール。
哭者
ナキメは葬儀の際に大声で泣いて、葬儀をある意味で盛り上げる役割のこと。アジアには現在でも泣き女(ナキオンナ)の風習が残っている地域が多いです。
造綿者
ワタツクリは死者の衣服を造るか、綿で死者の体を拭く仕事とされます。両方かもしれません。
宍人者
シシヒトは死者の食べ物を運ぶ役とされます。シシヒトにはカラスを任じたので、道案内をさせるのかと思ったんですが違うのか……。神武天皇を道案内した八咫烏の熊野の信仰とは違う神話の系統なんでしょうね。 
第九段 天稚彥の弔い
先是、天稚彥、在於葦原中國也、與味耜高彥根~友善。(味耜、此云婀膩須岐)。故、味耜高彥根~、昇天弔喪。時此~容貌、正類天稚彥平生之儀。故、天稚彥親屬妻子皆謂「吾君猶在。」則攀牽衣帶、且喜且慟。時、味耜高彥根~、忿然作色曰「朋友之道、理宜相弔。故、不憚汚穢、遠自赴哀。何爲誤我於亡者。」則拔其帶劒大葉刈(刈、此云我里、亦名~戸劒)以斫仆喪屋、此卽落而爲山、今在美濃國藍見川之上喪山是也。世人、惡以生誤死、此其緣也。 
天稚彥(アメノワカヒコ)が返し矢で死んでしまう前……天稚彥(アメノワカヒコ)は葦原中國(アシハラナカツクニ)の居た時に味耜高彦根~(アジスキタカヒコネ)と友情を育んでいました。
そこで味耜高彦根~(アジスキタカヒコネ)は天に昇って、天稚彥(アメノワカヒコ)を弔(とむら)いました。
この味耜高彦根~(アジスキタカヒコネ)の姿形が天稚彥(アメノワカヒコ)が生きていたときに、そっくりでした。
それで天稚彥(アメノワカヒコ)の親族・妻子が皆、「生きていた!!!」と言いました。そして服にすがりついて喜び、驚きました。
味耜高彦根~(アジスキタカヒコネ)は怒って言いました。
「友達だから、弔うべきだと思ったから死の汚穢(ケガレ)を受けるのも覚悟して、遠くから来て悲しんでいるのだ。どうして私を死者と間違うのか!!!」
そして持っていた剣の大葉刈(オオハガリ)を抜いて喪屋(モヤ=葬式のために立てた小屋)を斬り伏せてしまいました。これが(下界に)落ちて山と成りました。その山が美濃國(ミノノクニ)の藍見川(アイミノカワ)の上流にある喪山(モヤマ)です。
世間の人が生きた人間と死んだ人を間違えるのを嫌うのは、これが理由です。
味耜は婀膩須岐(アジスキ)と読みます。刈は我里(ガリ)と読みます。別名は~戸劒(カムトノツルギ)です。
古事記の対応箇所 / アメノワカヒコの葬式 / アメノワカヒコが生き返った?! / タカヒコネが喪屋を破壊 / 飛びさるタカヒコネ 
神は入れ替わる
日本は神が異界からやってきて、田畑に宿り、穀物を生育させて、収穫を終えるとまた異界へと帰っていくと考えていました。異界とは「山」や「海の向こう」です。おもに山です。では、異界へと帰って行った神はどうなるのでしょうか???次の年にやってくる神は同じ神でしょうか??
昨年の神と今年の神は違う神
昨年の神と今年の神は違う神です。同じように見えても違います。毎年、門松を立てて「歳神(=オトシガミ・オオトシガミ)」を門松に降ろします。その神は前の年の神とは違う神です。同じ「オトシガミ」という名前だとしても、別人です(もしくは別神です)。同じ神なら、門松は飾りっぱなしでいいのです。それで、最初の異界へと帰って行った神はどうなるのか?です。それがこの話に集約されています。おそらく「異界に帰った神」は死にます。そういうイメージを古代の日本人は持っていたのでしょう。
農業関係の名前
味耜高彦根~(アジスキタカヒコネ)には「鋤(スキ=農具)」があります。喪屋を切り倒した剣が大葉刈(オオハガリ)です。この話は農業に関する挿話だと考えるべきだと思います。 
第九段 丈夫(マスラオ)ではないのですか!
是後、高皇産靈尊、更會諸~、選當遣於葦原中國者、曰「磐裂(磐裂、此云以簸娑窶)根裂~之子磐筒男・磐筒女所生之子經津(經津、此云賦都)主~、是將佳也。」時、有天石窟所住~稜威雄走~之子甕速日~、甕速日~之子熯速日~、熯速日~之子武甕槌~。此~進曰「豈唯經津主~獨爲丈夫而吾非丈夫者哉。」其辭氣慷慨。故以卽配經津主~、令平葦原中國。 
高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は神々を集めて葦原中国(アシハラナカツクニ)に誰を派遣するか選びました。
皆が言うには……「磐裂根裂~(イワサクネサクノカミ)の子供の磐筒男(イワツツノオ)と磐筒女(イワツツノメ)が生んだ子供の經津主~(フツヌシノカミ)が良いでしょう」…とのことでした。
天石窟(アメノイワヤ)に住んでいる神の稜威雄走~(イツオハシリノカミ)の子の甕速日~(ミカハヤヒ)、甕速日~(ミカハヤヒ)の子の熯速日~(ヒノハヤヒカミ)、熯速日~(ヒノハヤヒカミ)の子の武甕槌~(タケミカヅチノカミ)が居ました。
この武甕槌~(タケミカヅチノカミ)が、進み出て言いました。「どうして、經津主~(フツヌシノカミ)だけが丈夫(マスラオ)なのですか???わたしは丈夫(マスラオ)ではないのですか!」その言葉がとても勇ましいかったので、經津主~(フツヌシノカミ)に武甕槌~(タケミカヅチノカミ)を添えて、葦原中国に派遣することになりました。
磐裂は以簸娑窶(イワサク)と読みます。經津は賦都(フツ)と読みます。
古事記の対応箇所 / 第三の案について / オハバリ神とタケミカヅチ神 / タケミカズチの方が適任 
フツヌシの系譜
磐裂根裂~(イワサクネサクノカミ) > 磐筒男(イワツツノオ)・磐筒女(イワツツノメ) > 經津主~(フツヌシノカミ)
タケミカヅチの系譜
稜威雄走~(イツオハシリノカミ) > 甕速日~(ミカハヤヒ) > 熯速日~(ヒノハヤヒカミ) > 武甕槌~(タケミカヅチノカミ) 
第九段 出雲の三穗之碕にて
二~、於是、降到出雲國五十田狹之小汀、則拔十握劒、倒植於地、踞其鋒端而問大己貴~曰「高皇産靈尊、欲降皇孫、君臨此地。故、先遣我二~驅除平定。汝意何如、當須避不。」時大己貴~對曰「當問我子、然後將報。」是時、其子事代主~、遊行、在於出雲國三穗(三穗、此云美保)之碕、以釣魚爲樂、或曰、遊鳥爲樂。故、以熊野諸手船亦名天鴿船載使者稻背脛、遣之、而致高皇産靈尊勅於事代主~、且問將報之辭。時、事代主~、謂使者曰「今天~有此借問之勅、我父宜當奉避。吾亦不可違。」因於海中造八重蒼柴柴、此云府璽籬、蹈船(船竅A此云浮那能倍)而避之。使者既還報命。 
この二柱の神(フツヌシとタケミカヅチ)は天から出雲の五十田狹之小汀(イサタノオハマ)に降りました。そこで十握劒(トツカノツルギ)を抜いて、地に逆さまに突き刺し、立てて、その剣先に胡坐(アグラ)をかいて座り、大己貴~(オオアナムチノカミ=オオクニヌシ)に問いました。
「高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は皇孫(スメミマ)を天から下して、この土地(=葦原中国=出雲)に君臨しようと思っている。だから、まず私たち二柱の神(=フツヌシとタケミカヅチ)が、従わない神を追い払い、平定するために派遣された。おまえはどう考えている??(国を譲り)ここを去るか??」
すると大己貴~(オオアナムチノカミ)は答えました。「我が子に相談してみましょう。それで答えます」
このとき、事代主~(コトシロヌシノカミ)は出雲の三穗之碕(ミホノサキ)に遊びに出掛けていました。そこで事代主~(コトシロヌシノカミ)は魚釣りを楽しんでいました。一説には鳥を狩っていました
二柱の神(フツヌシとタケミカヅチ)は事代主~(コトシロヌシノカミ)の元へと熊野諸手船(クマノノモロタノフネ=櫂のたくさんついた船?)に使者の稻背脛(イナセノハギ)を乗せて派遣しました。別名を天鴿船(アマノハトフネ=鳩のように速く飛ぶ船?)といいます。
そして高皇産靈(タカミムスビノカミ)の「国譲り」の命令を事代主神(コトシロヌシノカミ)に伝え、返事を求めました。
事代主神(コトシロヌシノカミ)は使者に言いました。「今、天津神の命令がありました。私の父(=オオナムチ・オオクニヌシ)は国を譲り、去るでしょう。わたしもそれに従います」事代主神(コトシロヌシノカミ)は海の中に八重蒼柴籬(ヤエアオフシカキ=青葉の垣の神座)を作り、船(フナノヘ=船の端)を踏んで、姿を消しました。
使者は帰って報告しました。
三穗は美保(ミホ)と読みます。 
皇孫を天から下して……
アマテラスが皇祖なのですが、ニニギから見るとタカミムスビもやはり祖父なのだから皇祖になるかもしれません。でも、タカミムスビがまるで主導者であるかのような行動です。
おそらくこの物語が成立した時点ではタカミムスビが「皇祖」だったのではないか?と思います。アマテラスの信仰が成立したのは古事記の成立の数十年前程度とされるからです。
事代主神は死んだ?
日本書紀では事代主神の娘の姫踏鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)が神武天皇の皇后になります。
古事記では大物主神がヒメタタライスズヒメの父親。
また二代目天皇の綏靖天皇の皇后の五十鈴依媛命(イスズヨリヒメノミコト)も事代主神の娘で、姫踏鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)の妹にあたる。ただし、古事記では五十鈴依媛命(イスズヨリヒメノミコト)は登場しない。
上記の今後を踏まえると、事代主神(コトシロヌシ)は死んだとは考えにくい。姿を消しただけで、今後の方がより強い影響力(権力)を持つことになります。
事代主神が葛城の神の一言主(ヒトコトヌシ)と同一、もしくは一言主(ヒトコトヌシ)が事代主神になった、と考えられるのはそのためです。 
第九段 百不足之八十隈に隠居
故、大己貴~、則以其子之辭、白於二~曰「我怙之子、既避去矣。故吾亦當避。如吾防禦者、國內諸~、必當同禦。今我奉避、誰復敢有不順者。」乃以平國時所杖之廣矛、授二~曰「吾、以此矛卒有治功。天孫若用此矛治國者、必當平安。今我當於百不足之八十隅、將隱去矣。」(隅、此云矩磨泥)。言訖遂隱。於是、二~、誅諸不順鬼~等、一云「二~、遂誅邪~及草木石類、皆已平了。其所不服者、唯星~香香背男耳。故加遣倭文~建葉槌命者則服。故二~登天也。倭文~、此云斯圖梨俄未。」果以復命。 
大己貴~(オオナムチノカミ=オオクニヌシ)は息子(=コトシロヌシ)の言葉を受けて、二柱の神(=フツヌシとタケミカヅチ)に言いました。「私が頼りにしている子供(=コトシロヌシ)は、去りました。わたしも、その子供と同様に去りましょう。もしも私が抵抗するならば、国内の神々も同じように抵抗するでしょう。今、私が去れば、誰も歯向かう者は無いでしょう」
そして(オオナムチが)国を平定したときに突いた廣矛(ヒロホコ=幅の広い矛?)を二柱の神(=フツヌシとタケミカヅチ)に授けて言いました。「わたしはこの矛で、事を成しました。天孫(アメミマ)がこの矛を使って国を納めれば、必ず平定出来るでしょう。今からわたしは百不足之八十隈(モモタラズヤソクマデ)に隠居しましょう」
と言い終えて、(オオナムチは)姿を消しました。これで二柱の神は沢山の従わない鬼の神々を処罰し終えると、高天原に帰って報告しました。
一説によると…二柱の神は邪神と草木・石などを処罰して、全てを平定しました。そのとき従わなかったのは星~香香背男(ホシノカガセオ)だけでした。
そこで倭文~(シトリガミ)の建葉槌命(タケハヅチノミコト)を派遣すると、従いました。それで二柱の神は天に昇りました。
隅は矩磨泥(クマデ)と読みます。倭文~は斯圖梨俄未(シトリガミ)と読みます。 
百不足之八十隈
「百にはいかない八十くらいの曲がりくねった道を行った先の……」という言葉で、一般に「幽界」「黄泉の国」というニュアンスがあると考えられています。つまりオオクニヌシは死んだ。ということです。
オオクニヌシの物語がすべてではないにしろ、幾らか実在の人物をモデルにしているのならば、確かに死んだ、ということになりますが、それでもオオクニヌシは神です。事代主神も神です。日本人にとって神はもともと見えないもの。
神ならば、単に「ここから居なくなった」程度のことです。そもそも日本の神は一カ所に定住するものではなく、山から里に降りてきて、里から山に帰っていくものです。
それに居なくなったといっても、実際には出雲大社という、(記紀編纂時には)伊勢神宮よりも大きく、高い神殿に鎮座していたのです。
「死んだ」や「黄泉の国に行った」という意訳はあまりに掛け離れています。 
第九段 吾田の長屋の笠狭の岬へ
于時、高皇産靈尊、以眞床追衾、覆於皇孫天津彥彥火瓊瓊杵尊使降之。皇孫乃離天磐座、(天磐座、此云阿麻能以簸矩羅)。且排分天八重雲、稜威之道別道別而、天降於日向襲之高千穗峯矣。既而皇孫遊行之狀也者、則自槵日二上天浮橋立於浮渚在平處、(立於浮渚在平處、此云羽企爾磨梨陀毗邏而陀陀志)。而膂宍之空國、自頓丘覓國行去、(頓丘、此云毗陀烏。覓國、此云矩貳磨儀。行去、此云騰褒屢)。到於吾田長屋笠狹之碕矣。 
高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は眞床追衾(マトコオフスマ=古代の掛け布団)を皇孫(スメミマ)の天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)に着せて、天から地上に降しました。
天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)は天盤座(アマノイワクラ)を後にすると、天八重雲(アメノヤエクモ=幾重にも折り重なった雲)を押し分け、いくつもの別れ道を抜けて、日向の襲高千穗峯(ソノタカチホノタケ)に降り立ちました。
そこから天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)は槵日二上(クシヒノフタガミ)の天浮橋(アメノウキハシ)から立於浮渚在平處(ウキジマリタヒラニタタシ)に降り立ち、膂宍空國(ソシシノムナクニ)を頓丘(ヒタオ)から良い国を探して通り抜けて、ついに吾田(アダ)の長屋の笠狭(カササ)の岬に着きました。
天盤座は阿麻能以簸矩羅(アマノイワクラ)と読みます。立於浮渚在平處は羽企爾磨梨陀毗邏而陀陀志(ウキジマリタヒラニタタシ)と読みます。頓丘は毗陀烏(ヒタオ)と読みます。覓國は矩貳磨儀(クニマギ)と読みます。行去は騰褒屢(トホル)と読みます。 
眞床追衾(マトコオフスマ)
なんで掛け布団を着せたのか?というと、ニニギがまだ子供だからです。
日向の襲高千穗峯
日向という名前は「日が当たる場所」という意味で、特定の土地を表わしているとは限りません。また高千穂嶺という名前も、「高い」「実りの多い」「山」という程度の意味で、固有名詞とは言いきれません。
槵日二上(クシヒノフタガミ)の天浮橋(アメノウキハシ)
槵日二上(クシヒノフタガミ)は頂点が二つあるという訳仕方をされますが、いまいち、よく分かりません。天浮橋(アメノウキハシ)は天の橋立のような中海に出来た中州ともされますが、ハッキリしません。
立於浮渚在平處(ウキジマリタヒラニタタシ)
海の浮島の平らな所のこと、とされます。
膂宍空國(ソシシノムナクニ)
膂宍(ソシシ)は背中の肉。背中の肉は食べるところが少ないので、痩せたという意味です。空國(ムナクニ)は同様に空っぽの国という意味です。ムナクニと読まずに「カラクニ」と読む場合もあります。現在の朝鮮半島を指しているとも言われています。
頓丘(ヒタオ)
中国の濮陽の近くに頓丘という都市がありました(現在は分からない)。これが頓丘(ヒタオ)なのかもしれませんが、漢字の成り立ち(頓丘でなだらかな丘とか凄い丘とか)から考えても中国の都市と考えるのは無理がある。
覓國(クニマギ)
クニマギは「良い土地を探して歩くこと」を指しています。ニニギが天から降り立ちながら、あちこちを探してあるいているということです。出雲はどうなったのやら。
吾田(アダ)の長屋の笠狭(カササ)の岬
鹿児島の西部に笠狭(カササ)の岬があり、ここだろうということになっています。
ということは最終的に鹿児島に降り立ったということになります。まぁ、本当に鹿児島の西部かはともかく、この後、九州南部出身の隼人族のコノハナサクヤヒメことカムアタツヒメが登場することを考えれば、ここがニニギが到着した土地で無かったとしても、九州南部にやってきたことは間違いないのです。
ということは出雲はどうなった?と考えるのが筋。物語の時系列としてはニニギが降り立つより出雲の国譲りは後の物語なんじゃないか?とも思います。 
第九段 事勝國勝長狹の国
其地有一人、自號事勝國勝長狹。皇孫問曰「國在耶以不。」對曰「此焉有國、請任意遊之。」故皇孫就而留住。時彼國有美人、名曰鹿葦津姬。亦名神吾田津姬。亦名木花之開耶姬。皇孫問此美人曰「汝誰之女子耶。」對曰「妾是、天神娶大山祇神、所生兒也。」皇孫因而幸之、卽一夜而有娠。皇孫未信之曰「雖復天神、何能一夜之間、令人有娠乎。汝所懷者、必非我子歟。」故、鹿葦津姬忿恨、乃作無戸室、入居其內而誓之曰「妾所娠、非天孫之胤、必當
●(隹を三つに火)滅。如實天孫之胤、火不能害。」卽放火燒室。始起烟末生出之兒、號火闌降命。是隼人等始祖也。火闌降、此云褒能須素里。次避熱而居、生出之兒、號彥火火出見尊。次生出之兒、號火明命。是尾張連等始祖也。凡三子矣。久之、天津彥彥火瓊瓊杵尊崩、因葬筑紫日向可愛此云埃之山陵。 
その地(=吾田長屋笠狹之碕【アタノナガヤノカササノサキ】)に一人の人間が居ました。
彼は事勝國勝長狹(コトカツクニカツナガサ)と名乗りました。
皇孫(スメミマ=ニニギ)は事勝國勝長狹(コトカツクニカツナガサ)に問いました。「ここに国は在るか?無いか?」
事勝國勝長狹(コトカツクニカツナガサ)が答えるには、「ここに国があります。お好きなようにしてください」
皇孫(スメミマ)はそこに留まり、住みました。
さて、この国に美しい少女が居ました。名前を鹿葦津姫(カシツヒメ)と言います。別名を神吾田津姫(カムアタツヒメ)、もしくは木花之開耶姫(コノハナサクヤヒメ)と言います。
皇孫(スメミマ)はこの美しい少女に聞きました。「お前は誰の子か?」
少女は答えました。「私は天神(アマツカミ)が大山祇神(オオヤマツミノカミ)を娶って生んだ子です」
皇孫(スメミマ)はこの少女(=コノハナサクヤヒメ)と結ばれたところ、一晩で妊娠してしまいました。
皇孫(スメミマ)は妊娠が信じられず「いくら私が天神だからといって、どうして一晩で身重に出来るわけがない。お前が妊娠した子は、絶対に私の子ではない」
それで鹿葦津姫(カシツヒメ=コノハナサクヤヒメ)は怒り恨んで、出入り口の無い小屋を作って、その中に入り、誓約をしました。「わたしが身ごもったのが天孫(アメミマ=ニニギ)の子で無ければ、必ず焼け死ぬ!もしも本当に天孫(アメミマ)の子供であれば、どんな火も傷つけることが出来ない!!」そうして小屋に火を放ちました。
最初の煙が立ち上る頃に生まれた子が火闌降命(ホノスソリノミコト)です。火闌降命(ホノスソリノミコト)は隼人の始祖です。
次に火の熱を避けて小屋の端に居た時に生まれた子が彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)です。次に生まれた子は火明命(ホノアカリノミコト)です。火明命(ホノアカリノミコト)は尾張連の始祖です。
以上三柱の子です。長い月日経ち、天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)は亡くなりました。筑紫(ツクシ)の日向(ヒムカ)の可愛之山(エノヤマ))のお墓に埋葬されました。
火闌降は褒能須素里(ホノスソリ)と読みます。可愛は埃(エ)と読みます。
古事記の対応箇所 / カムアタツヒメとの出会い / サクヤヒメとニニギの契り / 俺の子供じゃないでしょ / 出産の誓約 / 火の三兄弟 
え?オオヤマヅミって女なの?
勝手にオオヤマズミって「男」だと思い込んでいました。でも訳文を見る限り、「天神がオオヤマズミを娶って」とあります。他の訳本を見てもこうなってます。
よく考えると自分の奥さんのことを「山の神」と言うように、山の神は本来「女」です。女神というよりは山姥(ヤマンバ)なんですが、とにかく女です。
記紀では天皇の妻・妾に沢山の氏族の娘が当てられています。この妻・妾の出生についていくらか記述がありますが、その中に女親の名前しかないものがあります。つまり、女性が首長の氏族が当たり前にあったということです。
女性は子供が生めます。古代ではその不可思議に強烈な印象があったはずです。女性は特別に霊力が強い、と考えていました。日本は単位面積あたりの収穫量が多い水耕稲作です。子供は生まれるほどに家・集落は豊かになるもの。女性は集落の発展のカギを握るものでした。
だからオオヤマヅミが女神だったとしてもおかしくないってわけです。
狩猟民族は男の腕力が大事ですが、農耕民族では男と女は大差ありません。腕力より手数が有利。農耕民族では女性が神聖視されます。しかし、人口が増え、耕作地が不足してくると、戦争がはじまります。こうなると男性の腕力がものを言うようになります。 
第九段 天鹿兒弓と天眞鹿兒矢
一書曰、天照大~、勅天稚彥曰「豐葦原中國、是吾兒可王之地也。然慮、有殘賊强暴横惡之~者。故汝先往平之。」乃賜天鹿兒弓及天眞鹿兒矢遣之。天稚彥、受勅來降、則多娶國~女子、經八年無以報命。故、天照大~、乃召思兼~、問其不來之狀。時思兼~、思而告曰「宜且遣雉問之。」於是、從彼~謀、乃使雉往候之。其雉飛下、居于天稚彥門前湯津杜樹之杪而鳴之曰「天稚彥、何故八年之間未有復命。」時有國~、號天探女、見其雉曰「鳴聲惡鳥、在此樹上。可射之。」天稚彥、乃取天~所賜天鹿兒弓・天眞鹿兒矢、便射之。則矢達雉胸、遂至天~所處。時天~見其矢曰「此昔我賜天稚彥之矢也。今何故來。」乃取矢而呪之曰「若以惡心射者、則天稚彥必當遭害。若以平心射者、則當無恙。」因還投之、卽其矢落下、中于天稚彥之高胸、因以立死。此世人所謂返矢可畏緣也。 
ある書によると…天照大~(アマテラスオオミカミ)は天稚彦(アメノワカヒコ)に命令しました。「豐葦原中國(トヨアシハラナカツクニ=地上)はわが子(=オシホミミ)が納めるべき土地です。お前がまず行って、平定しなさい」
天鹿兒弓(アマノカゴユミ)と天眞鹿兒矢(アマノマカゴヤ)を与えて地上に派遣しました。
天稚彦(アメノワカヒコ)は命令を受けて、地上に降りました。
すると天稚彦(アメノワカヒコ)は地上の国津神の娘たちを妻に貰い、八年経っても高天原に報告をしませんでした。
天照大~(アマテラスオオミカミ)は思兼~(オモイカネノカミ)を呼んで、「どうして天稚彦(アメノワカヒコ)が帰ってこないのか?」を考えさせてみました。
思兼~(オモイカネノカミ)が言うには…「雉(キギシ=鳥のキジ)を派遣して、天稚彦(アメノワカヒコ)に聞かせましょう」
思兼~(オモイカネノカミ)の計画に従ってキジを天稚彦(アメノワカヒコ)の元へ行かせてみました。
キジは地上へと飛び降り、天稚彦(アメノワカヒコ)の屋敷の門の前の湯津杜樹(ユツカツラ=よく茂った桂の木)の枝に停まり、鳴きました。
「天稚彦(アメノワカヒコ)はどうして、八年もの間、報告が無いのか??」
その時、国津神が居ました。天探女(アマノサグメ)といいます。そのキジを見て言いました。
「鳴き声の悪い鳥が、この木の上にいます。これを射殺しましょう」
天稚彦(アメノワカヒコ)は天津神から貰った天鹿兒弓(アマノカゴユミ)と天眞鹿兒矢(アマノマカゴヤ)を手に取ってキジを射ち殺しました。
矢はキジの胸を貫通して、天津神のところに行きました。天津神はその矢を見て言いました。
「これは私が天稚彦(アメノワカヒコ)に与えた矢だ。今、どうして飛んできたのだろうか」
天津神は矢を手にとって呪いを掛けました。
「もし汚い心をもって矢を射ったのならば、天稚彦(アメノワカヒコ)は必ず酷い目にあうだろう。もし安らかな心で射ったのならば、何も悪いことは起きないだろう」
天津神は返し投げました。するとその矢は地上に落ちて天稚彦(アメノワカヒコ)の胸に当たりました。そして即死しました。これが世間の言うところの「返矢(カエシヤ)畏(オソ)るべし」の元です。
古事記の対応箇所 / 乱暴な国津神を静かにさせる神は? / 復命しないアメノホヒ / アメノワカヒコに弓と矢を持たせて地上へ / キジを派遣しよう / ナキメを射殺すアメノワカヒコ / キジを射抜いた矢が天安河の河原に / アメノワカヒコの死 
ほとんど日本書紀「第九段本文―2反矢(カエシヤ)、畏(オソ)るべし」と一緒。
本文との相違点
本文ではタカミムスビが勅命を下したのが、ここではアマテラスになっている。
弓と矢を与えたところは同じだが、本文では天羽羽矢(アメノハハヤ)のところが、天眞鹿兒矢(アマノマカゴヤになっている。
天稚彦(アメノワカヒコ)が貰った妻は本文ではシタテルヒメだけだが、ここでは国津神の複数の娘となっている。
本文では天稚彦(アメノワカヒコ)が地上を治める欲望を吐露しているが、ここでは無い。
本文では登場しないオモイカネが登場している。本文ではタカミムスビが解決策を出す。
本文では返し矢をするのはタカミムスビだが、ここでは「天津神」という表現になっている。物語から言うとアマテラスだが、高天原の神々で行ったこと、なのかもしれない。
本文では天稚彦(アメノワカヒコ)が矢に射抜かれて死んだのは新嘗祭の休んでいるとき。 
第九段 妻子「生きてらっしゃった!!」
時、天稚彥之妻子、從天降來、將柩上去而於天作喪屋、殯哭之。先是、天稚彥與味耜高彥根~友善。故味耜高彥根~、登天弔喪大臨焉。時此~形貎、自與天稚彥恰然相似、故天稚彥妻子等見而喜之曰「吾君猶在。」則攀持衣帶、不可排離、時味耜高彥根~忿曰「朋友喪亡、故吾卽來弔。如何誤死人於我耶。」乃拔十握劒、斫倒喪屋。其屋墮而成山、此則美濃國喪山是也。世人惡以死者誤己、此其緣也。 
天稚彦(アメノワカヒコ)の妻と子は天から降りて来て、柩(ヒツギ)を持って、また天上に帰り、天に喪屋(モヤ=葬儀の小屋)を立てて、声をあげて泣きました。
天稚彦(アメノワカヒコ)と味耜高彦根~(アジスキタカヒコネノカミ)はとても仲良くしていました。なので味耜高彦根~(アジスキタカヒコネノカミ)は天に昇って、葬儀に参加して、激しく泣きました。
この味耜高彦根~(アジスキタカヒコネノカミ)の姿形が天稚彦(アメノワカヒコ)ととてもよく似ていました。
すると天稚彦(アメノワカヒコ)の妻子たちは、味耜高彦根~(アジスキタカヒコネノカミ)を見て喜んで言いました。「生きてらっしゃった!!」そして妻子は味耜高彦根~(アジスキタカヒコネノカミ)の衣服にすがりついて離れませんでした。
すると味耜高彦根~(アジスキタカヒコネノカミ)は怒って言いました。「友達が亡くなったから、ここに来て弔ったというのに、どうして私を死人と間違えるのか!」
すぐに十握劒(トツカノツルギ)を抜いて喪屋(モヤ=葬儀の小屋)を斬り倒しました。その喪屋が天から落ちて山と成りました。それが美濃国(ミノノクニ)の喪山(モヤマ)です。
世間で死者を自分と間違えるのを嫌うのはこのためです。 
シタテルヒメは出ず
日本書紀の9段本文ではオオクニヌシの娘の下照姫(シタテルヒメ)を妻に貰い、葦原中国に居付いてしまいます。それで殺されて、葬儀をしたのは下照姫(シタテルヒメ)と天稚彦(アメノワカヒコ)の父親の天國玉(アマツクニタマ)でした。ところがここでは、下照姫(シタテルヒメ)は出ず、天稚彦(アメノワカヒコ)の柩を天へと持っていくのは「天上界の妻子」です。下照姫(シタテルヒメ)や国津神の娘ではありません。 
第九段 石川片淵
時、味耜高彥根、~光儀華艶、映于二丘二谷之間、故喪會者歌之曰、或云、味耜高彥根~之妹下照媛、欲令衆人知映丘谷者是味耜高彥根~、故歌之曰、
阿妹奈屢夜乙登多奈婆多廼汚奈餓勢屢多磨廼彌素磨屢廼阿奈陀磨波夜彌多爾輔柁和柁邏須阿泥素企多伽避顧禰
又歌之曰、
阿磨佐箇屢避奈菟謎廼以和多邏素西渡以嗣箇播箇柁輔智箇多輔智爾阿彌播利和柁嗣妹慮豫嗣爾豫嗣豫利據禰以嗣箇播箇柁輔智
此兩首歌辭、今號夷曲。 
(喪屋を斬った)味耜高彦根~(アジスキタカヒコネノカミ)はとても輝いていて麗しいほどで、二つの丘と二つの谷に渡って輝いていました。なので、葬式に参加したものが歌いました。
もしくは味耜高彦根~(アジスキタカヒコネノカミ)の妹の下照媛(シタテルヒメ)は集まった人達に「丘谷(オタニ)で輝くモノは味耜高彦根~(アジスキタカヒコネノカミ)ですよ」と教えようと思って、歌ったとも
あまなるや(天なるや) おとたなばたの(弟織女の) うながせる(頸がせる) たまのみすまるの(玉の御統の) あなたまはや(穴玉はや) みたに(み谷) ふたわたらす(二渡らす) あぢすきたかひこね(味耜高彦根)
訳 / 天の布を織る少女の首に掛けた勾玉の首飾りの玉が輝くように、谷を二つ越えるのは味耜高彦根です!また、歌いました。
あまさかる(天離る) ひなつひめの(鄙つ女の) いわたらすせと(い渡らす瀬戸) いしかわかたふち(石川片淵) かたふちに(片淵に) あみはりわたくし(網張り渡し) めろよしに(目ろ寄しに) よしよりこね(寄し寄り来ね) いしかわかたふち(石川片淵)
訳 / とても空気の澄んだ、天が高い片田舎の少女が川に行く。その川の淵(川の深いところ)。川の淵に網を張って、さかなを取る。網を引き寄せるよ。どんどん引くよ。川の淵で。
この二つの歌は夷曲(ヒナウタ)といいます。 
なんだろう
最初の歌は分かる。アジスキタカヒコネが飛んでいく様子を歌っている。元々は別の意味を持った歌謡曲なんだろうけども、一応は物語としても辻褄が合う。
でも二つ目の石川片淵の歌は物語上は関係なさそう。どういう意図があってねじ込んだのでしょう??
辻褄が合わないのに、入れたということは、それだけこの歌の意味が大きかったということなんでしょう。この第九段一書(一)を伝承した氏族にとって意味のある歌なんでしょう。 
第九段 天津日嗣は天地の在る限り永遠です
既而天照大~、以思兼~妹萬幡豐秋津媛命、配正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊爲妃、令降之於葦原中國。是時、勝速日天忍穗耳尊、立于天浮橋而臨睨之曰「彼地未平矣、不須也頗傾凶目杵之國歟。」乃更還登、具陳不降之狀。故、天照大~、復遣武甕槌~及經津主~、先行駈除。時二~、降到出雲、便問大己貴~曰「汝、將此國、奉天~耶以不。」對曰「吾兒事代主、射鳥遨遊在三津之碕。今當問以報之。」乃遣使人訪焉、對曰「天~所求、何不奉歟。」故、大己貴~、以其子之辭、報乎二~。二~乃昇天、復命而告之曰「葦原中國、皆已平竟。」時天照大~勅曰「若然者、方當降吾兒矣。」且將降間、皇孫已生、號曰天津彥彥火瓊瓊杵尊。時有奏曰「欲以此皇孫代降。」故天照大~、乃賜天津彥彥火瓊瓊杵尊、八坂瓊曲玉及八咫鏡・草薙劒、三種寶物。又以中臣上祖天兒屋命・忌部上祖太玉命・猨女上祖天鈿女命・鏡作上祖石凝姥命・玉作上祖玉屋命凡五部~、使配侍焉。因勅皇孫曰「葦原千五百秋之瑞穗國、是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。行矣、寶祚之隆、當與天壤無窮者矣。」 
天照大~(アマテラスオオミカミ)は思兼~(オモイカネノカミ)の妹の萬幡豐秋津媛命(ヨロズハタトヨアキツヒメノミコト)と正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)と会わせて妻として、葦原中国(アシハラナカツクニ)に降ろしました。
そのとき勝速日天忍穗耳尊(カチハヤヒアメノオシホミミノミコト)は天浮橋(アマノウキハシ)に立って地上を見て言いました。「この土地はまだ、騒がしく乱れている。不須也頗傾凶目杵之國(イナカブシシシコメキクニ=気に入らない醜い国)だ」
それですぐに、天上に昇って帰って来て、地上に降りない理由を説明しました。
そこで天照大~(アマテラスオオミカミ)は武甕槌~(タケミカヅチノカミ)と經津主~(フツヌシノカミ)をまず地上に行かせて、従わない神々を蹴散らそうと派遣しました。
その二柱の神は出雲に降りました。大己貴~(オオナムチノカミ)に尋ねました。「お前はこの国を天神(アマツカミ)に譲るか?」大己貴~(オオナムチノカミ)は答えました。「わたしの子の事代主(コトシロヌシ)は鳥を狩りをしに三津之碕(ミツノサキ)に行っています。相談して返事をします」それで使者を派遣して訪ねさせました。
事代主神(コトシロヌシ)は答えました。「天神(アマツカミ)の求める土地をどうして譲らないことがありましょうか?」大己貴~(オオナムチノカミ)はその子供(=事代主神)の言葉で二柱の神(=タケミカヅチとフツヌシ)に返事をしました。
二柱の神はすぐに天に昇って報告しました。「葦原中国の神々は皆、従いました」
天照大~(アマテラスオオミカミ)は命じました。「それならば、さっそく私の子(=オシホミミ)を地上に降ろそう」それで地上に降りようというときに皇孫(スメミマ=アマテラスの孫)が生まれました。名前を天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)といいます。
それで天忍穗耳尊(アメノオシホミミノミコト)が言いました。「この皇孫(スメミマ=ニニギ)を私の代わりに地上に降ろそうと思います」
天照大~(アマテラスオオミカミ)は天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)に八坂瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)と八咫鏡(ヤタノカガミ)と草薙劒(クサナギノツルギ)の三種の寶物(タカラ)を与えました。
また、中臣氏の先祖の天兒屋命(アメノコヤネノミコト)、忌部(イムベ)の先祖の太玉命(フトダマノミコト)、猿女の先祖の天鈿女命(アメノウズメノミコト)、鏡作(カガミツクリ)の先祖の石凝姥命(イシコリドメノミコト)、玉作(タマツクリ)の先祖の玉屋命(タマノヤノミコト)、以上の五部(イツトモノオ)の神をニニギに同伴にさせました。
天照大~(アマテラスオオミカミ)は皇孫(スメミマ)に命じました。
「葦原千五百秋之瑞穗國(アシハラノチイホアキノミズホノクニ=葦の生える豊かな水耕稲作の国)は私の子孫が王となるべき土地です。あなたは皇孫(スメミマ)なのだから行って地上を治めなさい。寶祚(アマツヒツギ=天津日嗣=皇位が引き継がれること)は天地の在る限りは永遠です」
古事記の対応箇所 / タケミカヅチの恫喝 / コトシロヌシ神は魚釣りへ / 国譲りを再度問う / オシホミミ神、地上に降りなさい / 息子ニニギを地上に / オシホミミの提案どおりにニニギが降る / 五柱と共に降臨 / 三種の神器と神々をさらに追加 / 五伴緒の子孫 
長いのですが、古事記の対応箇所と「第九段本文―6出雲の三穗之碕にて」あたりとほとんど同じで、同じ話をもう一回、書いているような錯覚になります。 
第九段 男も女も猨女君と呼ぶ理由
已而且降之間、先驅者還白「有一~、居天八達之衢。其鼻長七咫、背長七尺餘、當言七尋。且口尻明耀、眼如八咫鏡而赩然似赤酸醤也。」卽遣從~往問。時有八十萬~、皆不得目勝相問。故特勅天鈿女曰「汝是目勝於人者、宜往問之。」天鈿女、乃露其胸乳、抑裳帶於臍下、而咲㖸向立。是時、衢~問曰「天鈿女、汝爲之何故耶。」對曰「天照大~之子所幸道路、有如此居之者誰也、敢問之。」衢~對曰「聞天照大~之子今當降行、故奉迎相待。吾名是猨田彥大~。」時天鈿女復問曰「汝將先我行乎、抑我先汝行乎。」對曰「吾先啓行。」天鈿女復問曰「汝何處到耶。皇孫何處到耶。」對曰「天~之子、則當到筑紫日向高千穗槵觸之峯。吾則應到伊勢之狹長田五十鈴川上。」因曰「發顯我者汝也。故汝可以送我而致之矣。」天鈿女、還詣報狀。皇孫、於是、脱離天磐座、排分天八重雲、稜威道別道別、而天降之也。果如先期、皇孫則到筑紫日向高千穗槵觸之峯。其猨田彥~者、則到伊勢之狹長田五十鈴川上。卽天鈿女命、隨猨田彥~所乞、遂以侍送焉。時皇孫勅天鈿女命「汝、宜以所顯~名爲姓氏焉。」因賜猨女君之號。故、猨女君等男女、皆呼爲君、此其緣也。(高胸、此云多歌武娜娑歌。頗傾也、此云歌矛志。) 
(ニニギが地上に)降りる前に、先に様子を見に行ったものが帰って来て、報告しました。
「一柱の神が居ました。天八達之衢(アマノヤチマタ=幾つもの別れ道の辻)のところに居ます。鼻の長さが七咫(ナナアタ=指七本分)。背の高さは七尺(ナナサカ=210センチ)以上。まさに七尋(ナナヒロ=大きいという意味)です。また口の端は明るく光っている。目は八咫鏡(ヤタノカガミ)のように光り輝いている。まるで赤酸醤(アカカガチ=ホオズキ)に似ていました。」
それで同伴した神を派遣してその神に尋ねようとしました。八十萬~(ヤオヨロズノカミ=沢山の神)がいたのですが、誰も目を合わすのが怖くて尋ねられませんでした。
そこで天鈿女(アメノウズメ)に命じました。「お前は物怖じしない。だから行って訪ねて来なさい」天鈿女(アメノウズメ)はその乳房をあらわにして、上着の紐をヘソまで押し下げて、嘲笑(アザワラ)いながら、向かって行きました。
衢~(チマタノカミ=別れ道に立つ神のこと)は天鈿女(アメノウズメ)に問いました。「天鈿女(アメノウズメ)よ。どうしてそんなことをするのですか?」
天鈿女(アメノウズメ)は答えました。「天照大~(アマテラスオオミカミ)の子(ミコ=ニニギ…実際は孫)が通る道路(ミチ)に居るものがあるというが、お前は誰だ?」
衢~(チマタノカミ)は答えました。「天照大~(アマテラスオオミカミ)の子(ミコ)が地上に降りると聞きました。そこで迎えに来て、お会いしようと待っておりました。わたしの名は猨田彥大~(サルタヒコノオオカミ)です」
天鈿女(アメノウズメ)はまた問いました。「お前が私より先を行くか?それとも私がお前より先を行くか?」
猨田彥大~(サルタヒコノオオカミ)は答えました。「わたしが先に行き、道案内をしましょう」
天鈿女(アメノウズメ)はまた問いました。「お前はどこに行こうとしている?皇孫(スメミマ)はどこに行くのだ?」
猨田彥大~(サルタヒコノオオカミ)は答えました。「天神(アマツカミ)の子は筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯(クジフルノタケ)に行くべきでしょう。わたしは伊勢の狹長田(サナダ)の五十鈴(イスズ)の川上に行きます」
さらに「わたしを發顯(アラワ)したのはあなたです。あなたは私を(伊勢まで)送ってください」
天鈿女(アメノウズメ)は帰って状況を報告しました。
皇孫(スメミマ)は天磐座(アメノイワクラ=天にある石の台座)から離れて、天八重雲(アメノヤエグモ=幾重にも重なる雲)を押し分けて、幾つもの別れ道を通り、天から降りました。
天孫は猨田彥大~(サルタヒコノオオカミ)が約束した通り、筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯(クジフルノタケ)に着きました。
その猨田彥大~(サルタヒコノオオカミ)は伊勢の狹長田(サナダ)の五十鈴(イスズ)の川上に着きました。
天鈿女命(アメノウズメノミコト)は猨田彥~(サルタヒコノカミ)が願うままに送って行ったのです。
その時、皇孫(スメミマ)は天鈿女命(アメノウズメノミコト)に命じました。「お前は顯(アラワ)した神の名を姓氏(ウジ)としなさい」
それで猨女君(サルメノキミ)という名を授けました。猨女君(サルメノキミ)は(本来は女の氏族名だが)、男も女も皆、猨女君(サルメノキミ)と呼ぶのはこういった理由からです。
高胸は多歌武娜娑歌(タカムナサカ)と読みます。頗傾也は歌矛志(カブシ)と読みます。 
發顯…あらわすとは?
日本人にとって神は「見えないもの」です。神を偶像と言う形で表現するようになったのは仏教が伝来してからえす。それまで日本人には神に明確な「人格」も無かったとされます。
しかし、神の意志を伺わないといけません。なにか天変地異が起きたり、疫病が流行して死者が増えたら、これを鎮めるために神の理由を聞き、対処法を教えてもらわないといけません。そのときに神の声を聞くのが「巫女」です。
巫女に神が宿った状態なら、神を見ることが出来ます。神の言葉を聞く事が出来ます。「カミガカリ」の状態がおそらく「發顯(アラワ)す」ということです。
つまり、猨田彥大~(サルタヒコノオオカミ)と天鈿女命(アメノウズメノミコト)は最初からセットでした。天鈿女命(アメノウズメノミコト)は元々が猨田彥大~(サルタヒコノオオカミ)の巫女だったのでしょう。それが、天鈿女命(アメノウズメノミコト)の地位が上がり、重要な役割をするようになったのだと思われます。 
第九段 天津甕星(アマツミカホシ)征伐とオオアナムチの説得
一書曰、天~、遣經津主~・武甕槌~、使平定葦原中國。時二~曰「天有惡~、名曰天津甕星、亦名天香香背男。請先誅此~、然後下撥葦原中國。」是時、齋主~、號齋之大人、此~今在于東國檝取之地也。既而二~、降到出雲五十田狹之小汀而問大己貴~曰「汝、將以此國、奉天~耶以不。」對曰「疑、汝二~、非是吾處來者。故不須許也。」於是、經津主~、則還昇報告、時高皇産靈尊、乃還遣二~、勅大己貴~曰「今者聞汝所言深有其理、故更條而勅之。夫汝所治顯露之事、宜是吾孫治之。汝則可以治~事。又汝應住天日隅宮者、今當供造、卽以千尋
●(木偏に孝の子が丁、「栲」の誤字と思われる)繩結爲百八十紐、其造宮之制者、柱則高大、板則廣厚。又將田供佃。又爲汝往來遊海之具、高橋・浮橋及天鳥船、亦將供造。又於天安河、亦造打橋。又供造百八十縫之白楯。又當主汝祭祀者、天穗日命是也。」 
ある書によると…天神(アマツカミ)は經津主~(フツヌシノカミ)と武甕槌~(タケミカヅチノカミ)を派遣して葦原中国(アシハラナカツクニ)を平定させようとしました。
この時、二柱の神(=フツヌシとタケミカヅチ)は言いました。「天に悪い神が居る。その名前を天津甕星(アマツミカホシ)。またの名を天香香背男(アマノカカセオ=金星)という。まずこの神を倒してから、天から降りて葦原中国(アシハラナカツクニ)の神を一掃しよう」
この戦いのときの門出を祝う齋主(イワイ)の神を齋之大人(イワイノウシ)といいました。
注:戦争の前に神に祈り、戦勝を祈願します。その役割が「イワイノウシ」です。ここではフツヌシのことを指しています。
この神(=フツヌシ)は現在、東國(アズマノクニ)の檝取(カトリ)の地に在ります。
二柱の神は地上に降りて、出雲の五十田狹(イサダ)の小汀(オハマ)に辿り着いて、大己貴~(オオアナムチ=オオクニヌシ)に問いました。「お前は、この国を天~(アマツカミ)に譲るか?どうか???」
大己貴~(オオアナムチ)は答えました。「どうゆうことだ??お前たち、二柱の神が、私の所に来たのではないか??(国を譲るなど)許さない」
これを聞いて經津主~(フツヌシノカミ)はすぐに天に昇って帰って報告しました。
報告を聞いた高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は二柱の神をまた地上に派遣して大己貴~(オオアナムチ)に伝えるよう命じました。
「今、あなた(=オオナムチ=オオクニヌシ)が言ったことは、なるほど道理が通っている。そこで、一つ一つ細かく説明いたしましょう。あなたが納めているこの現世のモノはすべて私(=タカミムスビ)の孫(=ニニギ)が治めるべきです。あなたは~事(カムコト)を治めてください。あなたが住むべき天日隅宮(アマノミスミノミヤ)は今から造りましょう。千尋(チヒロ=尋は長さの単位。「千尋」でとても長い)もある栲縄(タクナワ)を180箇所も結んで組み立て、宮を作るにあたり、柱は高く大きく、板は広く厚くしましょう。また、田も作りましょう。あなたが海に遊びに行くために、高い橋(=長い階段のこととも)や浮橋(ウキハシ)や天鳥船(アマノトリフネ)もまた造りましょう。天安河(アマノヤスカワ)に打橋(ウチハシ)を作りましょう。また、百八十縫(モモアマリヤソヌイ)の白盾(シラタテ)も作ろう。またあなたが祭祀を司るのは天穗日命(アメノホヒノミコト)です」 
惑星は悪い星
「星」はその場所を動く事がありません。地球の自転によって動くのですが、そのほかの星との位置関係自体は変わりません。
ところが惑星は違います。見るたびに違う位置に星が動いています。古代では星の位置から方角や位置を推測していましたから(参考:宗像三女神)、惑星が混じると方角や自分の位置が分からない。方角や位置が分からなくなるのは船にとって致命的です。
だから惑星は天の悪い神だった、のでしょう。
オオアナムチ、強し!
タカミムスビが必死になって説得。この書を見る限り、オオアナムチ(オオクニヌシ)は非常に強い神だったよう。多くの人に信仰されたのでしょう。
でも、だからといって、オオアナムチ>タカミムスビとは限らない。
日本人は「争い」を「ケガレ」と考えていて、出来るだけ話し合いで決定しようとしています。天安河で様々な対策を考える時も「合議制」でした。そんな神話ありますか?
だからタカミムスビが弱い、オオアナムチが強いということではなく、単に古代の日本人の価値観が武力よりも話し合いだった、のかもしれません。
戦いを避けること
タカミムスビやアマテラスは国譲りを「力づく」で行ったと思われがちですが、「力づく」を行ったのは「フツヌシとタケミカヅチ」であって、カミムスビやアマテラスでは無いです。言い方を変えると、汚い仕事はフツヌシとタケミカヅチに押し付けたということです。 
第九段 現世から退いて幽界の世界を
於是、大己貴神報曰「天神勅教、慇懃如此。敢不從命乎。吾所治顯露事者、皇孫當治。吾將退治幽事。」乃薦岐神於二神曰「是當代我而奉從也。吾將自此避去。」卽躬披瑞之八坂瓊、而長隱者矣。故經津主神、以岐神爲ク導、周流削平。有逆命者、卽加斬戮。歸順者、仍加褒美。是時、歸順之首渠者、大物主神及事代主神。乃合八十萬神於天高市、帥以昇天、陳其誠款之至。 
大己貴神(オオアナモチ)は答えました。「天神(アマツカミ)の申し出はあまりに懇切丁寧です。命令に従わない訳にはいかないでしょう。私が治める現世のことは、皇孫(スメミマ)が治めるべきでしょう。わたしは現世から退いて、幽界(カクレコト)の世界を治めましょう」
そして岐神(フナトノカミ=道の神)を二柱の神(=フツヌシとタケミカヅチ)に推薦して言いました。「この神は、私の代わりにお仕えするでしょう。わたしはここから去ります」
すぐに瑞之八坂瓊(ミヅノヤサカニ)を依り代として、永久に身を隠してしまいました。
經津主神(フツヌシノカミ)は岐神(フナトノカミ)を道の先導役として、葦原中国の各国を廻って平定しました。
逆らうものがいれば、斬り殺し、歸順(マツロ=従う)うものには褒美を与えました。このときに従った首渠(ヒトゴノカミ=集団の首長)は大物主神(オオモノヌシノカミ)と事代主神(コトシロヌシ)です。
八十萬神(ヤオヨロズノカミ)を天高市(アマノタケチ)に集めて、それらを率いて天に昇り、正道を説きました。 
はっきりしない上下関係
天津神たちは地上に降り立ち、そこで国津神たちを従わせました。言う事を聞かないやつは殺し、従ったやつには褒美を与えました。
しかし、負けたはずの大国主(オオクニヌシ)は手厚く祀られ、また大物主(オオモノヌシ)も「まつろう神」で、敗者であるはずなのに、この後、タカミムスビによって手厚く祀られます。
これではどちらが勝者なのか分かりません。
祟りを恐れた?
日本の神は祟ります。負けたから、それで御終いではありません。敗者こそが祟ります。そういった神々を蔑(ナイガシ)ろにすると、後々に杞憂を残すことになります。
そこで日本の政治の勝者は敗者を丁寧に祀る。それがこの物語の本質ではないか??と思われます。
実際、大物主はこの後、崇神天皇の時代になって祟り神となり、疫病と飢餓で日本を襲う事になります。 
第九段 大物主神を祀った始まり
時高皇産靈尊、勅大物主神「汝若以國神爲妻、吾猶謂汝有疏心。故今以吾女三穗津姬、配汝爲妻。宜領八十萬神、永爲皇孫奉護。」乃使還降之。卽以紀國忌部遠祖手置帆負神定爲作笠者、彥狹知神爲作盾者、天目一箇神爲作金者、天日鷲神爲作木綿者、櫛明玉神爲作玉者。乃使太玉命、以弱肩被太手繦而代御手、以祭此神者、始起於此矣。且天兒屋命、主神事之宗源者也、故俾以太占之卜事而奉仕焉。高皇産靈尊因勅曰「吾、則起樹天津神籬及天津磐境、當爲吾孫奉齋矣。汝、天兒屋命・太玉命、宜持天津神籬、降於葦原中國、亦爲吾孫奉齋焉。」乃使二神、陪從天忍穗耳尊以降之。 
高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は大物主神(オオモノヌシノカミ)に命令しました。「お前がもしも、國神(クニツカミ=国津神)を妻とするならば、私はお前に反抗する心があると思うだろう。だから、私の娘の三穗津姫(ミホツヒメ)をお前と会わせて妻としよう。八十萬神(ヤオヨロズノカミ)を率いて永遠に皇孫(スメミマ)をお守りしなさい」そして地上に(オオモノヌシを)降ろしました。
紀國(キノクニ)の忌部(イムベ)が遠い祖先の手置帆負神(タオキホオイノカミ)を、笠を作る「作笠者(カサヌイ)」としました。
彦狹知神(ヒコサチノカミ)を盾を作る「作盾者(タテヌイ)」としました。
天目一箇神(アマノマヒトツノカミ)を「作金者(カナダクミ)」としました。
天日鷲神(アマノヒワシノカミ)を作木綿者(ユウツクリ)としました。
櫛明玉神(クシアカルタマノカミ)を作玉者(タマツクリ)としました。
太玉命(フトタマノミコト)の弱々しい肩に太手繦(フトダスキ)を掛けて「御手代(ミテシロ)」としました。
そうして大物主神(オオモノヌシ)を祀ったのは、これが始まりです。
天兒屋命(アマノコヤネノミコト)は神事を司る宗源者(モト=取り仕切る人?)です。だから、天兒屋命(アマノコヤネノミコト)は太占(フトマニ=占いの名前)の卜事(ウラゴト=占い)をして神事に参加しました。
高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は命じました。「わたしは神が宿る『樹』の天津神籬(アマツヒモロキ)と神が宿る『岩』の天津磐境(アマツイワサカ)を立てて、私の子孫(オシホミミ?)を祝い祀ろう。お前たち、天兒屋命(アマツコヤネノミコト)・太玉命(フトダマノミコト)は天津神籬(アマツヒモロギ)を大切にし、葦原中國(アシハラナカツクニ=地上)に降りて、私の孫を祝い祀りなさい」
それで二柱の神(アマツコヤネとフトダマ)を天忍穗耳尊(アメノオシホミミ)に従わせて、地上に降ろしました。 
御手代(ミテシロ)
榊の木に白いギザギザの紙を掛けた「玉串」というのを神社で見たことがあると思います。あれを持つものを「御手代」と言います。御手代はつまり、その手に「神」を宿す「依り代」です。
高皇産靈尊とオシホミミの関係は?
オシホミミはアマテラスの子であり、スサノオの子でもありますが、高皇産靈尊は関係ありません。ではなぜ、ここで「吾が孫」と書いているのでしょうか??
高皇産靈尊はオシホミミに娘を嫁がせていますので、義理の親子ですが、「吾が孫」ではありません。ニニギは高皇産靈尊から見て「孫」ですが、オシホミミは違います。
なぜこういう記述になったのかは分かりません。 
第九段 齋庭の穂を、我が子オシホミミに
是時、天照大神、手持寶鏡、授天忍穗耳尊而祝之曰「吾兒、視此寶鏡、當猶視吾。可與同床共殿、以爲齋鏡。」復勅天兒屋命・太玉命「惟爾二神、亦同侍殿內、善爲防護。」又勅曰「以吾高天原所御齋庭之穗、亦當御於吾兒。」則以高皇産靈尊之女號萬幡姬、配天忍穗耳尊爲妃、降之。故時居於虛天而生兒、號天津彥火瓊瓊杵尊、因欲以此皇孫代親而降。故、以天兒屋命・太玉命及諸部神等、悉皆相授。且服御之物、一依前授。然後、天忍穗耳尊、復還於天。故、天津彥火瓊瓊杵尊、降到於日向槵日高千穗之峯、而膂宍胸副國、自頓丘覓國行去、立於浮渚在平地、乃召國主事勝國勝長狹而訪之。對曰「是有國也、取捨隨勅。」 
天照大神(アマテラスオオミカミ)は持っていた寶鏡(タカラカガミ)を天忍穗耳尊(アメノオシホミミノミコト)に授けて、祝って言いました。「我が子よ。この寶鏡(タカラカガミ)を見るときには、私(=アマテラス)を見ていると思いなさい。住まいを同じにして、宮殿を同じにして、この鏡を神として祀りなさい」
また、天兒屋命(アマノコヤネノミコト)・太玉命(フトダマノミコト)に命じました。「お前たち二柱の神(=アマノコヤネとフトダマ)は、宮殿に(アメノオシホミミと)共に居て、守っておくれ」
また命じて言いました。「私が高天原(タカマガハラ)で食べている齋庭の穂(ユニワノイナホ)を、我が子(=オシホミミ)に授けましょう」
そして高皇産靈尊(タカミムスビ)の娘の萬幡姫(ヨロズハタヒメ)を天忍穗耳尊(アメノオシホミミ)に嫁がせて、妃として、地上に降ろしました。
しかし、まだ天に居るときに子供が生まれました。名前を天津彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコホノニニギノミコト)といいました。
それでこの皇孫(=ニニギ)を親(=オシホミミ)の代わりに地上に降ろそうと思いました。それで天兒屋命(アマノコヤネノミコト)・太玉命(フトダマノミコト)や諸部神(モロトモノオノカミ=その他大勢の神々)を同様に授けました。また服御之物(ミソツモノ=身の回りの品々)を一つも前と変わらず、授けました。
そうして天忍穗耳尊(アメノオシホミミ)はまた天に帰りました。
天津彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコホノニニギノミコト)は地上に降りて、日向の槵日(クシヒ)の高千穂の峰にたどり着き、膂宍(ソシシ)の胸副國(ムナソウクニ)を丘から眺め見て、通り過ぎ、浮渚在平地(ウキジマリタヒラ=海上の浮き島の平らなところ?)に立って、国主(クニヌシ)の事勝國勝長狹(コトカツクニカツナガサ)を呼び寄せて、訪ねました。事勝國勝長狹(コトカツクニカツナガサ)が答えるには
「ここに国があります。得るも、捨てるも、あなたの思い通りに」 
第九段吾田の長屋の笠狭の岬へとほぼ同じ内容。細かい事を言えば、ニニギが降臨する直前に生まれた事。
ちなみに、日本人は農耕民族で、種子が秋には何倍にも増えることを知っていて、成熟した大人よりも、子供の方が「将来性がある」と考えていました。それはつまり、「魔力が強い」ということです。
だから生まれたばかりのニニギの方が、親のオシホミミよりも、「適任者」ということです。これは伊勢神宮を20年に一回立て替えることにも繋がる感覚です。幼いもの・新しいものは「強い」ということです。
よく持統天皇が孫の文武天皇に譲る「理由付け」のためにオシホミミが入れられたと言われますが、これは後付け、もしくは無関係と思います。
峰に降りる意味
ニニギは名前から言っても「穀物神」です。日本人は、春に山から神霊が畑にやってきて、そこに宿って霊威を注いで穀物を育ててくれると考えていました。そして、秋になり実ると山に帰っていきます。
つまり穀物神は山に住んでいるものです。日本人としては当たり前の「神の設定」です。だから「日向(=日のあたる)」「槵日(クシは強い、よって強い日の)」「高い」「千(たくさんの)」「穂」の「峰」は、特定の土地の名前ではなく、ニニギという穀物神が降りるにふさわしい場所という意味と考えた方がいいでしょう。 
第九段 磐長姫の呪い
時皇孫因立宮殿、是焉遊息。後遊幸海濱、見一美人。皇孫問曰「汝是誰之子耶。」對曰「妾是大山祇神之子、名神吾田鹿葦津姬、亦名木花開耶姬。」因白「亦吾姉磐長姬在。」皇孫曰「吾欲以汝爲妻、如之何。」對曰「妾父大山祇神在。請、以垂問。」皇孫因謂大山祇神曰「吾見汝之女子、欲以爲妻。」於是、大山祇神、乃使二女、持百机飲食奉進。時皇孫、謂姉爲醜不御而罷、妹有國色引而幸之、則一夜有身。故磐長姬、大慙而詛之曰「假使天孫、不斥妾而御者、生兒永壽、有如磐石之常存。今既不然、唯弟獨見御、故其生兒、必如木花之移落。」一云、磐長姬恥恨而唾泣之曰「顯見蒼生者、如木花之、俄遷轉當衰去矣。」此世人短折之緑也。 
皇孫(スメミマ=ニニギ)は宮殿を建てて、ここで休みました。その後、海辺に遊びに行くと、一人の美人(オトメ)を見ました。皇孫(スメミマ)はその少女に尋ねました。「お前は、誰の子だ?」
少女は答えました。「わたしは大山祇神(オオヤマズミ)の子で、名前を神吾田鹿葦津姫(カムアタカシツヒメ)、別名を木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)と言います」
更に「また私には姉が居ます。磐長姫(イワナガヒメ)といいます」
皇孫は言いました。「私は、お前を妻にしたいと思うが、どうか?」
木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)は答えました。「わたしの父の大山祇神(オオヤマズミ)が居ます。父に相談してください」
皇孫(スメミマ)は大山祇神(オオヤマズミ)に言いました。「わたしは、お前の娘を見た。妻にしたいと思う」
大山祇神(オオヤマズミ)は二人の娘(=コノハナサクヤヒメとイワナガヒメ)に百机飮食(モモトリノツクエモノ=たくさんの御馳走)を皇孫の元へと送りました。
皇孫(スメミマ)は、姉(=イワナガヒメ)は醜いと思って、拒否して避けました。妹(=コノハナサクヤヒメ)は有國色(カオヨシ=美人)として近くに置いて可愛がりました。
それで一晩で妊娠しました。
磐長姫(イワナガヒメ)は恥ずかしく思い、呪いの言葉を吐きました。
「もしも、天孫(スメミマ)が私を斥(シリゾ)けず、かわいがれば、生まれる子供は命が長く、磐石(イワ)のようになったでしょうが、今、そうは成りませんでした。妹だけを可愛がったことで、生まれた子の命は必ず木の花のように、(美しい花が時間とともに変わるように)変わり、(木から花が落ちるように)落ちてしまうでしょう。」
ある書によると、磐長姫(イワナガヒメ)は恥ずかしく思い、恨んで唾を吐いて泣いて、「顯見蒼生(ウツシキアオヒトクサ=地上の人間)は木の花のように移ろいやすく、衰えてしまうでしょう」と言いました。
これが世の中の人の命が短い所以(ユエン)です。 
オオヤマヅミは男か女か
「第九段事勝國勝長狹の国」ではコノハナサクヤヒメは「天神(アマツカミ)が大山祇神(オオヤマツミノカミ)を娶って生んだ子」とされているので、オオヤマヅミは女です。
でも、ここではハッキリと「父」と書かれています。男なのやら、女なのやら。
ただ、山の神は本来女神です。
イワナガヒメの呪い
美人の妹を選んだ事で「寿命」が生まれました。古事記では呪いではなく、オオヤマヅミが「姉妹を送ったのは、花のように長く、花のように栄えるようにと願ったからなのに。妹だけを娶ったから、長生きは出来ないなぁ」と語っただけで、呪いではなく、オオヤマヅミから与えられる予定だった「岩のように長い命」が「与えられなかった」という物語になっています。
しかし、この書ではハッキリとイワナガヒメによる呪いと書かれています。まぁ、呪われてもしょうがない気もするのですが。
顯見蒼生(ウツシキアオヒトクサ)について
ウツシキは、霊力が高まることで見えなかったものが現れるという意味です。「青人草」は「人民」という意味の言葉です。
日本人は「人間」も霊力が高まった「モノ」と考えていたようです。つまり、人間も「神」の一種ということです。 
第九段 一晩だけで妊娠させられるのか??
是後、神吾田鹿葦津姬、見皇孫曰「妾孕天孫之子。不可私以生也。」皇孫曰「雖復天神之子、如何一夜使人娠乎。抑非吾之兒歟。」木花開耶姬、甚以慙恨、乃作無戸室而誓之曰「吾所娠、是若他神之子者、必不幸矣。是實天孫之子者、必當全生。」則入其室中、以火焚室。于時、燄初起時共生兒、號火酢芹命。次火盛時生兒、號火明命。次生兒、號彥火火出見尊、亦號火折尊。齋主、此云伊播毗。顯露、此云阿羅播貳。齋庭、此云踰貳波。 
神吾田鹿葦津姫(カムアタカシツヒメ)は皇孫(スメミマ=ニニギ)を見て言いました。「わたしは天孫(アメミマ=ニニギ)の子を妊娠しました。個人的に生んではいけない(ので報告・相談に来ました)」
皇孫(スメミマ)は言いました。「天神(アマツカミ)の子といっても、どうやったら、一晩だけで妊娠させられるのか??その子はわたしの子ではないだろう」
木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)はとても情けなく恥ずかしく思い、腹を立てました。そこで、すぐに窓も戸も無い小屋を造って誓約をしました。
「わたしが妊娠したこの子が、もしも天津神以外の子供ならば、必ず不幸になる。この子が本当に天孫の子ならば、必ず何の問題も無く生まれるだろう!!」
そしてその小屋の中に入って、火をかけて小屋を焼きました。そのとき、燄(ホノオ)の起こり始めで生まれた子供を火酢芹命(ホノスセリノミコト)といいます。次に火が盛んになったときに生まれた子供を火明命(ホノアカリノミコト)といいます。次に生まれた子供を彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)といいます。別名を火折尊(ホノオリノミコト)といいます。
齋主は伊播毗(イワヒ)といいます。顯露は阿羅播貳(アラワニ)といいます。齋庭は踰貳波(ユニワ)といいます。 
処女か否か
古事記と記述がほとんど同じなので書く事が無いなぁ。そこでちょっと古代の人の恋愛について。
コノハナサクヤヒメがニニギに「その子は俺の子じゃないんじゃね?」と言われてブチ切れて誓約をして、最後はコノハナサクヤヒメが勝利を収めてしまいます。ニニギって天孫って言われてるけど、嫁に完敗。
個人的に問題にしたいのは、コノハナサクヤヒメの処女性が問題になっていないところです。つまり、コノハナサクヤヒメも前に男が居たこと自体は明確に否定していないのです。
字数制限もあるだろうから、そこまで書かなかっただけ、ということもありますが。
古代では男と女の結婚は通い婚でした。別のいい方では「夜ばい」です。
現代では嫁が夫の家に入るものですが、古代では主体は嫁の家でした。嫁の家に夫が通い、嫁の家で子供が生まれて、子供は嫁と嫁の両親によって育てられます。
それはひっくり返すと、夫は嫌になったら簡単に疎遠になってしまうということです。となると嫁は不利、な気がしますが、その代わり、古代の方が女性の再婚には寛容でした。
そういう古代の結婚観がでている場面なのでしょうね。多分。 
第九段 天甜酒と渟浪田の稲を新嘗祭に
一書曰、初火燄明時生兒、火明命、次火炎盛時生兒、火進命、又曰火酢芹命。次避火炎時生兒、火折彥火火出見尊。凡此三子、火不能害、及母亦無所少損。時以竹刀、截其兒臍、其所棄竹刀、終成竹林、故號彼地曰竹屋。時神吾田鹿葦津姬、以卜定田、號曰狹名田。以其田稻、釀天甜酒嘗之。又用淳浪田稻、爲飯嘗之。 
ある書によると……最初に火燄(ホノオ)が明るくなったときに生まれた子供が火明命(ホアカリノミコト)です。
次に火炎(ホムラ)が盛んになったときに生まれたのが火進命(ホノススミノミコト)です。別名を火酢芹命(ホノスセリノミコト)といいます。
次に火炎を避けたとくに生まれた子供が火折彦火火出見尊(ホノオリヒコホホデミノミコト)です。
以上で三柱です。この子供たちを火が焼き殺すことは出来ませんでした。また母体も少しも傷つけることはありませんでした。
そのときに竹の刀でその子たちの臍(ヘソノオ)を切りました。その竹の刀を捨てたところは、後に竹林と成りました。それで、その土地を「竹屋(タカヤ)」と言います。
神吾田鹿葦津姫(カムアタカシツヒメ)は占いで定めた神に供えるための「卜定田(ウラヘタ)」を狹名田(サナダ)と名付けました。その稲で天甜酒(アメノタムサケ)を醸造して収穫の新嘗祭で奉納しました。また、渟浪田(ヌナタ)の稲を炊いて新嘗祭で奉納しました。 
地上で初めて作られた稲?
今では出雲で稲作の跡(遺跡)が見られるわけですから、この書で稲作をしていることに、大した意味は無いのかもしれませんが……
アマテラスがオシホミミ、オシホミミからニニギへと伝えられた「稲」が、天孫降臨によって地上にもたらされ、そしておそらくは初めての「稲の収穫」となります。
これまでも稲作は登場していますが、それは高天原での稲作であって地上ではこれが初めてです。
ニニギが「笠狭(カササ)の岬」に辿り着いたこと。コノハナサクヤヒメがここで地上初めての稲作を行い、酒を造り、新嘗祭で奉納したことを考えると、日本の稲作の到達点は九州南部だったのだと思います。
海幸・山幸の物語も九州南部に伝わった物語と思われます。
これらの九州南部の神話が日本神話の重要な部分に入っているのは、九州南部が大和朝廷に参加するのが遅かったから?という説がよく言われますが、ちょっと辻褄が合わない。
九州南部は沖縄・台湾・中国南部、そして東南アジアからインド、果ては中東やギリシャ・ヨーロッパまでを繋ぐ非常に大きな海運交易の入り口であり、文化・技術が流入する窓口だったのではないでしょうか? 
第九段 天忍日命の先導
一書曰、高皇産靈尊、以眞床覆衾、裹天津彥國光彥火瓊瓊杵尊、則引開天磐戸、排分天八重雲、以奉降之。于時、大伴連遠祖天忍日命、帥來目部遠祖天槵津大來目、背負天磐靫、臂著稜威高鞆、手捉天梔弓・天羽羽矢、及副持八目鳴鏑、又帶頭槌劒、而立天孫之前、遊行降來、到於日向襲之高千穗槵日二上峯天浮橋、而立於浮渚在之平地、膂宍空國、自頓丘覓國行去、到於吾田長屋笠狹之御碕。時彼處有一神、名曰事勝國勝長狹、故天孫問其神曰「國在耶。」對曰「在也。」因曰「隨勅奉矣。」故天孫留住於彼處。其事勝國勝神者、是伊弉諾尊之子也、亦名鹽土老翁。 
ある書によると高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は眞床覆衾(マドコオフスマ)を天津彦國光彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコクニテルヒコホノニニギノミコト)に着せて、天磐戸(アマノイワト)を引き開け、天八重雲(アマノヤエグモ)を押し分けて、地上に降ろしました。
その時、大伴連(オオトモノムラジ)の遠い祖先の天忍日命(アマノオシヒノミコト)が、來目部(クメベ)の遠い祖先の天槵津大來目(アマノクシツノオオクメ)を率いて、背中には天磐靫(アマノイワユキ【靫=矢を射れる筒】)を負い、腕には稜威高鞆(イツノタカトモ=防具)を身につけ、手には天梔弓(アマノハジユミ)と天羽羽矢(タマノハハヤ)を持ち、八目鳴鏑(ヤツメノカブラ【鏑は音が出るヤジリ】)も持ち、頭槌劍(カブツチノツルギ)を腰に差し、天孫(スメミマ=ニニギ)の前に立って、先導して地上に降りました。
そして日向の襲(ソ)の高千穂の槵日(クシヒ)の二上峯(フタガミノミネ)の天浮橋(アマノウキハシ)にたどり着き、浮渚在之平地(ウキジマタイラ)に立たせ、膂宍(ソシシ)の空國(ムナクニ)を頓丘(ヒタオ)から眺め見て、通り過ぎ、吾田(アタ)の長屋(ナガヤ)の笠狹之御碕(カササノミサキ)にたどり着きました。
そこに一柱の神が居ました。事勝國勝長狹(コトカツクニカツナガサ)といいます。天孫(アメミマ)はその神に尋ねました。「國があるか?」答えました。「有ります」続けて言いました。「(天孫の)命ずるままに、御譲りしましょう」
それで天孫はこの土地にとどまって住む事にしました。
事勝國勝神(コトカツクニカツノカミ)は伊奘諾尊(イザナギノミコト)の子です。別名を鹽土老翁(シオツチオジ)といいます。 
ニニギは天岩戸の向こう
ニニギが天岩戸と天八重雲を分けて、降臨します。つまりニニギは岩戸の向こうに居た訳です。わたしは天岩戸は「雨雲」を指していると思います。アマテラスを隠していたのはおそらくは梅雨の雨雲。日食や冬至をしているならば、この表現は成立しないでしょう。
天忍日命がすごい
大伴氏の祖先とされる天忍日命が、完全武装かつ、来目部(久米氏)を従え、ニニギを先導しています。古事記では久米氏とは同列関係。
しかし、大伴氏の名前と、大伴氏の別の祖神として「道臣命」という名前があるあたり、大伴氏というものがそもそも「先導役」という「役職」だったのではないか?とも思います。
また久米氏には「米」という字が当てられているので、この久米氏の原型は穀物神だったのかもしれない。
日本人は山から穀物神が降りてくると思っていました。その神は猿田彦といった道案内の神が連れて来た。つまり「先導」と「穀物神」はセットだった。それが大伴氏と久米氏なのではないか? 
第九段 天孫の苦しい言い訳
一書曰、天孫、幸大山祇神之女子吾田鹿葦津姬、則一夜有身、遂生四子。故吾田鹿葦津姬、抱子而來進曰「天神之子、寧可以私養乎。故告狀知聞。」是時、天孫見其子等嘲之曰「姸哉、吾皇子者。聞喜而生之歟。」故吾田鹿葦津姬、乃慍之曰「何爲嘲妾乎。」天孫曰「心疑之矣、故嘲之。何則、雖復天神之子、豈能一夜之間、使人有身者哉。固非我子矣。」是以、吾田鹿葦津姬益恨、作無戸室、入居其內誓之曰「妾所娠、若非天神之胤者必亡、是若天神之胤者無所害。」則放火焚室、其火初明時、躡誥出兒自言「吾是天神之子、名火明命。吾父何處坐耶。」次火盛時、躡誥出兒亦言「吾是天神之子、名火進命。吾父及兄何處在耶。」次火炎衰時、躡誥出兒亦言「吾是天神之子、名火折尊。吾父及兄等何處在耶。」次避火熱時、躡誥出兒亦言「吾是天神之子、名彥火火出見尊。吾父及兄等何處在耶。」然後、母吾田鹿葦津姬、自火燼中出來、就而稱之曰「妾所生兒及妾身、自當火難、無所少損。天孫豈見之乎。」報曰「我知本是吾兒。但一夜而有身、慮有疑者。欲使衆人皆知是吾兒、幷亦天神能令一夜有娠。亦欲明汝有靈異之威・子等復有超倫之氣。故、有前日之嘲辭也。」梔、此云波茸、音之移反。頭槌、此云箇步豆智。老翁、此云烏膩。 
ある書によると…天孫(=ニニギ)は大山祇神(オオヤマヅミ)の娘の吾田鹿葦津姫(アタカシツヒメ)に出会って、すぐに一晩で妊娠しました。そして四人の子を生みました。
吾田鹿葦津姫(アタカシツヒメ)は子供たちを抱いて、(天孫の元へと)来て言いました。「天神(アマツカミ)の子をどうして、私の一存で育てられましょうか??だから出産の報告をお知らせに来ました」
このとき、天孫(アメミマ=ニニギ)はその子供たちを見て、笑って言いました。「怪しげなことだ。わたしの皇子は沢山生まれたものだなぁ」
吾田鹿葦津姫(アタカシツヒメ)は怒りました。「どうして私を笑うのですか?」
天孫(アメミマ)は言いました。「心に疑念があるからだ。だから笑うのだ。わたしがいくら天神(アマツカミ)の子と言っても、どうして一晩で妊娠させられるだろうか??その子供は私の子供ではないだろう」
それを聞いて、吾田鹿葦津姫(アタカシツヒメ)はますます恨んで、窓や戸の無い小屋を造り、その中に入って誓約をして言いました。「わたしが妊娠したのが、もしも天神(アマツカミ)の子でなければ、必ず死んでしまう。この子がもし、天神(アマツカミ)の子であれば、傷一つ負わない」そして火をつけて小屋を焼きました。
その火のつき始めに声を上げて飛び出した子が居ました。その子が言うには「わたしは天神(アマツカミ)の子!名前は火明命(ホノアカリノミコト)!!わたしの父は何処にいるのですか!!」
次に火が盛んになったときに、声を上げて飛び出した子がまた言いました。「わたしは天神(アマツカミ)の子!!名前は火進命(ホノススミノミコト)!わたしの父と兄はどこにいるのですか!!」
次に火が衰えて来たときに声を上げて飛び出した子がまた言いました。「わたしは天神(アマツカミ)の子!!名前は火折尊(ホノオリノミコト)!わたしの父と兄たちはどこですか!!」
次に火の熱が冷めて来たときに声を上げて飛び出した子がまた言いました。「わたしは天神(アマツカミ)の子!!名前は彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)!わたしの父と兄たちはどこですか!!」
その後に母の吾田鹿葦津姫(アタカシツヒメ)は燃え残りの中から出て来て、天孫の前に出て言いました。「わたしは生んだ子も私の体も、自分から火の中に入っても、全く傷つく事がありませんでした。あなたはそれを見ていましたよね」
天孫(アメミマ=ニニギ)は答えました。「私は我が子と知っていた。ただの一晩で妊娠したということを疑うものが、この中に居ると思い、衆人に、子供たちが私の子であるということと、天神(アマツカミ)は一晩で妊娠させられることを知らせたいと思ったのだ。あなた(=吾田鹿葦津姫)はとても強い霊力を持っていて、子供たちも同じように、優れた霊力を持っていると、この衆人にハッキリさせたいと思ったから、先ほどのように嘲笑した言葉を言ったのだ」
梔は波茸(ハジ)と言います。音は「之移」の返しです。頭槌は箇歩豆智(カブツチ)と読みます。老翁は烏膩(オヂ)と読みます。 
かっこわるいなぁ
子供を抱えて出て来た吾田鹿葦津姫に対して、「え、それ、俺の子じゃないでしょ?だって一回しかしてないじゃん!」と言ったがために、怒らせ、火の誓約をすることになります。そして誓約に成功して火の中から子供たちと吾田鹿葦津姫が帰還すると、
「あぁ、ま、実は知っていたんだよね。部下が疑ってるだろうから、あぁ言ったんだけど、俺は最初から信じてたよ。だって天孫なんだもん!知らないわけないよね!!」 
第九段 天火明と天津彦根火瓊瓊杵根尊
一書曰、天忍穗根尊、娶高皇産靈尊女子
●(木編と考えるの上部分と下に丁【誤字と思われる】)幡千千姬萬幡姬命・亦云高皇産靈尊兒火之戸幡姬兒千千姬命、而生兒天火明命、次生天津彥根火瓊瓊杵根尊。其天火明命兒天香山、是尾張連等遠祖也。及至奉降皇孫火瓊瓊杵尊於葦原中國也、高皇産靈尊、勅八十諸神曰「葦原中國者、磐根・木株・草葉、猶能言語。夜者若熛火而喧響之、晝者如五月蠅而沸騰之」云々。 
ある書によると…天忍穗根尊(アメノオシホネノミコト)は高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)の娘の栲幡千千姬萬幡姬命(タクハタチジヒメヨロズハタヒメノミコト)…別名を高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)の子の火之戸幡姫(ホノトハタヒメ)の子の千千姬命(チヂヒメノミコト)を娶って生んだ子が、天火明命(アマノホノアカリノミコト)、次に天津彦根火瓊瓊杵根尊(アマツヒコネホノニニギノミコト)を生みました。
その天火明命(ホノアカリノミコト)の子の天香山(アマノカグヤマ)は尾張連(オワリノムラジ)の遠い祖先です。
皇孫(スメミマ)の火瓊瓊杵尊(ホノニニギノミコト)を葦原中国(アシハラナカツクニ)に降ろされたときに、高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は八十諸神(ヤソモロカミ=たくさんの神)に命じました。「葦原中國は大きな岩、木の株、草葉もよく言葉を話す。夜は火の粉のように騒がしく、昼は五月の蠅のようにうるさい」
云々(シカシカ)。 
火明命がニニギの兄として
日本書紀の他のページでは、ニニギの子として登場する火明命がここではニニギの兄弟。ということは立場上は火明命も「天孫」となります。 
第九段 雉頓使(キギシノヒタヅカイ)
時高皇産靈尊勅曰「昔遣天稚彥於葦原中國、至今所以久不來者、蓋是國神有强禦之者。」乃遣無名雄雉、往候之。此雉降來、因見粟田・豆田、則留而不返。此世所謂、雉頓使之緣也。故、復遣無名雌雉、此鳥下來、爲天稚彥所射、中其矢而上報、云々。是時、高皇産靈尊、乃用眞床覆衾、裹皇孫天津彥根火瓊瓊杵根尊、而排披天八重雲、以奉降之。故稱此神、曰天國饒石彥火瓊瓊杵尊。于時、降到之處者、呼曰日向襲之高千穗添山峯矣。及其遊行之時也、云々。 
高皇産靈尊は言いました。「昔、天稚彦(アメノワカヒコ)を葦原中國(アシハラナカツクニ)に派遣した。長い時間が経った今でも、報告に来ないのは、國神(クニツカミ)にひどく強禦之者(イムカウモノ)があるのだろうか」
それで無名雄雉(ナナシメノキギシ=名も無いキジ)を地上に派遣して、様子を見に行かせました。このキジが地上に降りて、粟や豆を育てる畑を見ると、ここに(粟や豆を食べるために)留まってしまいました。これが俗に言う「雉頓使(キギシノヒタヅカイ)」です。
それでまた、無名雌雉(ナナシメノキギシ)を派遣しました。この鳥が地上に下り、天稚彦(アメノワカヒコ)が弓と矢で射る事に成ります。その矢にキジが当たり、天に戻って報告しました。云々… 
雉頓使
派遣したキジが本来の役割を果たさずに、そのまま居なくなってしまう。馬鹿は当てに出来ない。という意味なのか、どうなのか。日本人は山から穀物の神が里にやってきて、田畑に宿り、その田畑に神の力を注ぎ入れることで、実ると考えていました。
その穀物神がどうやって山から地上へと来るのか?その手法の一つが「鳥」です。鳥に乗ってやってきたり、鳥の形になって山からビューンと里にやってきます。高皇産靈尊が鳥を派遣したことには、そういう側面があります。 
第九段 玉飾りを揺らして機織りをする少女
到于吾田笠狹之御碕、遂登長屋之竹嶋。乃巡覽其地者、彼有人焉、名曰事勝國勝長狹。天孫因問之曰「此誰國歟。」對曰「是長狹所住之國也。然今乃奉上天孫矣。」天孫又問曰「其於秀起浪穗之上、起八尋殿、而手玉玲瓏、織經之少女者、是誰之子女耶。」答曰「大山祇神之女等、大號磐長姬、少號木花開耶姬、亦號豐吾田津姬。」云々。皇孫因幸豐吾田津姬、則一夜而有身。皇孫疑之、云々。 
(ニニギの一行は)吾田(アタ)の笠狹之御碕(カササノミサキ)にたどり着きました。それで長屋の竹嶋(タカシマ)に上りました。
その周囲の土地を見てみると、人がいました。名前を事勝國勝長狹(コトカツクニカツナガサ)といいます。天孫(アメミマ=ニニギ)は近寄って訪ねました。「ここは誰の国か?」
事勝國勝長狹(コトカツクニカツナガサ)は答えました。「ここは長狹(ナガサ)が住んでいる国です。しかし、今、天孫(アメミマ)に御譲りしましょう」
天孫(アメミマ)はまた問いました。「その波の上に大きな宮殿を建てて、手に巻いた玉飾りを揺らして、機織りをする少女は、誰の娘か?」
事勝國勝長狹(コトカツクニカツナガサ)は答えました。「大山祇神(オオヤマヅミノカミ)の娘たちです。姉を磐長姫(イワナガヒメ)といいます。妹を木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)といいます。もしくは豐吾田津姫(トヨアタツヒメ)といいます」云々。 
長狹(ナガサ)とは?
文意から考えると長狹とは「民族」や「氏族」の名前と思われます。さて、長狹と言われるものに「長狹国」があります。この長狹が何処にあるかというと、現在の千葉です。千葉の鴨川市にあたります。九州の話かと思っていたら、千葉??まぁ、あまり突っ込むまい。でも、安房国長狹、つまり房総半島は、九州南部の大隅半島に形状が似ているし、笠狹之御碕の意外とこの千葉なのかもしれない。
ちなみに安房国長狹の長狹国造の祖先は神武天皇の子で綏靖天皇の兄の神八井耳命。「神武天皇とイスケヨリヒメの子孫」を読めば分かりますが、神八井耳命の子孫と言っても色んな臣・造・連・直がいるので、長狹国造が特別じゃないです。 
第九段 皇孫は悲しくて歌を歌う
遂生火酢芹命、次生火折尊、亦號彥火火出見尊。母誓已驗、方知、實是皇孫之胤。然、豐吾田津姬、恨皇孫不與共言。皇孫憂之、乃爲歌之曰、
憶企都茂播陛爾播譽戻耐母佐禰耐據茂阿黨播怒介茂譽播磨都智耐理譽
熛火、此云裒倍。喧響、此云淤等娜比。五月蠅、此云左魔倍。添山、此云曾褒里能耶麻。秀起、此云左岐陀豆屢。 
火酢芹命(ホノスセリノミコト)を生みました。次に火折尊(ホノオリノミコト)を生みました。別名を彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)といいます
母(=吾田鹿葦津姫)の誓約が証明され、その子供たちが皇孫(スメミマ=ニニギ)の子だと分かりました。しかし、豐吾田津姬(トヨアタツヒメ)は皇孫(スメミマ)を恨んで口を聞かなくなりました。皇孫(スメミマ)はこれを悲しく思って、歌を歌いました。
沖つ藻は 辺には寄れども さ寝床も あたはぬかもよ 浜つ千鳥よ
訳海の藻は浜に寄ってくるのに、嫁は寝床にも全然寄ってこないなぁ。千鳥だって番(ツガイ)でいるのになぁ。
熛火は裒倍(ホホ)と読みます。喧響は淤等娜比(オトナヒ)と読みます。五月蠅は左魔倍(サバヘ)と読みます。添山は曾褒里能耶麻(ソホリノヤマ)と読みます。秀起は左岐陀豆屢(サキタツル)と読みます。 
ここでは二人兄弟
火の兄弟は大体が三人兄弟なのに、ここでは二人。
ニニギくん、弱い
妻の不貞を疑って、その疑惑を妻自らの誓約で晴らすのですが、それが原因で不仲になり、ニニギは妻に口を利いてもらえなくなります。なんというか妻の方が強い。イザナギとイザナミの黄泉の国でのやり取りといい、女性が強い。 
第九段 日向神話の系譜異伝
一書曰、高皇産靈尊之女天萬栲幡千幡姬。
一云、高皇産靈尊兒萬幡姬兒玉依姬命、此神爲天忍骨命妃、生兒天之杵火火置瀬尊。
一云、勝速日命兒天大耳尊、此神娶丹舄姬、生兒火瓊瓊杵尊。
一云、神高皇産靈尊之女栲幡千幡姬、生兒火瓊瓊杵尊。一云、天杵瀬命、娶吾田津姬、生兒火明命、次火夜織命、次彥火火出見尊。 
ある書によると…高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)の娘は天萬栲幡媛命(アマヨロヅタクハタチハタヒメ)です。
別伝によると…高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)の娘の萬幡姫(ヨロズハタヒメ)の娘が玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)です。この女神は天忍骨命(アメノオシホネノミコト)の妃となって、天之杵火火置P尊(アメノギホホオキセノミコト)を生みました。
別伝によると…勝速日命(カチハヤヒノミコト)の子が天大耳尊(アマノオオミミノミコト)です。この神は丹舄姬(ニツクリヒメ)を娶って、火瓊瓊杵尊(ホノニニギノミコト)を生みました。
別伝によると…天杵P命(アマノキセノミコト)は吾田津姫(アタツヒメ)を娶って、火明命(ホノアカリノミコト)を生みました。次に火夜織命(ホノヨリノミコト)を生みました。次に彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)を生みました。 
神話の変遷?
系譜が書かれています。これを見る限りニニギやオシホミミやヒコホホデミといった皇統となる神の出生がかなり曖昧で、口伝が多かったよう。つまり、本文や古事記もこれらの中から選ばれた「一書」と思われます。 
第九段 天照國照彦火明命
一書曰、正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、娶高皇産靈尊之女天萬栲幡千幡姬、爲妃而生兒、號天照國照彥火明命、是尾張連等遠祖也。次天饒石國饒石天津彥火瓊瓊杵尊、此神娶大山祇神女子木花開耶姬命、爲妃而生兒、號火酢芹命、次彥火火出見尊。 
ある書によると…正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)は高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)の娘の天萬栲幡千幡姬(アマヨロズタクハタチハタヒメ)を娶って妃として生んだ子が天照國照彦火明命(アマテルクニテルヒコホノアカリノイコト)といいます。
この神が尾張連(オワリノムラジ)の娘の木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)を妃として生んだ子は、火酢芹命(ホノスセリノミコト)と言います。次に生んだ子が彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)です。 
火明命は太陽神
オシホミミがタクハタチハタヒメを娶って生んだ子が「天照國照彦火明命(アマテルクニテルヒコヒアカリノミコト)」。どうやらこの火明命は太陽神だったよう。つまり「火」は「日」を意味しているのでしょう。まぁ、大和言葉には「漢字」は無く、漢字の意味に合わせて当てたのが「訓読み」ですから、古代の日本人に「火」と「日」の区別は無かったのでしょう。「ヒ」という音は「火」と「日」の両方を指していた。指しているのは当たり前だった。 
第十段 海の幸と山の幸
兄火闌降命、自有海幸(幸、此云左知)、弟彥火火出見尊、自有山幸。始兄弟二人相謂曰「試欲易幸。」遂相易之、各不得其利、兄悔之、乃還弟弓箭而乞己釣鉤、弟時既失兄鉤、無由訪覓、故別作新鉤與兄。兄不肯受而責其故鉤、弟患之、卽以其横刀、鍛作新鉤、盛一箕而與之。兄忿之曰「非我故鉤、雖多不取。」益復急責。故彥火火出見尊、憂苦甚深、行吟海畔。時逢鹽土老翁、老翁問曰「何故在此愁乎。」對以事之本末、老翁曰「勿復憂。吾當爲汝計之。」乃作無目籠、內彥火火出見尊於籠中、沈之于海。卽自然有可怜小汀。(可怜、此云于麻師。汀、此云波麻。) 
兄の火闌降命(ホノスソリノミコト)には海で魚を採る…「海の幸」がありました。
弟の彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)には山で鳥や獣を採る…「山の幸」がありました。
兄弟二人はお互いに言いました。「試しにお互いの『幸』を取り替えてみよう」それでお互いに『幸』を取り替えました。
ところが『幸』をうまく扱えませんでした。そこで兄(ホノスソリ)は取り替えたことを後悔し、弟(ヒコホホデミ)の弓矢を返して、釣り針を返してくれと申し出ました。弟(ヒコホホデミ)はこの時、既に兄(ホノスソリ)の釣り針を失くして、探しようにもどうしようもありませんでした。
そこで弟(ヒコホホデミ)は新しい釣り針を造って兄(ホノスソリ)に渡しました。しかし兄(ホノスソリ)はそれを受け取らず、『失くした釣り針』を返せと求めて来ました。
弟(ヒコホホデミ)は困って、刀を壊して新しい釣り針を造って、ザル一杯に盛って渡そうとしたのですが、兄(ホノスソリ)は怒って言いました。「もとの釣り針でなければ、多くても受け取らない!」ますます、弟(ヒコホホデミ)を責めました。
彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は困り果てて、海辺でさまよっているときに鹽土老翁(シオツチノオジ)と出会いました。
老翁(オジ)は彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)に聞きました。「どうして、こんなところで悩んでいるのですか?」彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は事情を説明しました。老翁(オジ)は言いました。「心配することはありませんよ。わたしが良い案を授けましょう」それで無目籠(マナシカタマ=継ぎ目が無いくらいに細かいカゴ)を作って、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)をカゴの中に入れて海に沈めました。すると可怜小汀(ウマシオハマ)に出ました。
幸は左知(サチ)と読みます。可怜は于麻師(ウマシ)と読みます。汀は波麻(ハマ)と読みます。 
東南アジアに類似の物語が
日向神話に限らず日本神話は東南アジアの神話によく似ています。。この海幸山幸も東南アジアに非常に似た物語が残っています。おそらくそこから伝わったのでしょう。
カゴの能力
カゴなんて大したモノではないと思いがちですが、カゴは鉄器同様に生活に革命を起こしたものとされます。一度に大量のモノを運ぶことが出来るからです。ただカゴは植物で作られる為に、金属のように後世に残らない為に「どういうものだったか?」が分かりません。なのでイマイチ話題にならない。 
第十弾 高垣姫垣が整い、高楼小殿が照り輝く
於是、棄籠遊行、忽至海神之宮。其宮也、雉堞整頓、臺宇玲瓏。門前有一井、井上有一湯津杜樹、枝葉扶疏。時彥火火出見尊、就其樹下、徒倚彷徨。良久有一美人、排闥而出、遂以玉鋺、來當汲水、因舉目視之、乃驚而還入、白其父母曰「有一希客者、在門前樹下。」海神、於是、鋪設八重席薦、以延內之。坐定、因問其來意、時彥火火出見尊、對以情之委曲。海神乃集大小之魚逼問之、僉曰「不識。唯赤女赤女、鯛魚名也比有口疾而不來。」固召之探其口者、果得失鉤。 
山幸彦(=ヒコホホデミ)はカゴを捨てて、行くと海神(ワダツミ)の宮殿に到着しました。その宮殿は雉堞(タカガキヒメガキ=高垣姫垣)が整い、高楼小殿が照り輝いていました。
訳高垣姫垣の「垣」は宮殿を取り囲む敷居、姫は「小さい」を表す言葉。よって「大小さまざまな垣に覆われた、という意味。臺宇(タカドノ)は、高い建物のこと。高楼小殿と訳したのは、「高垣姫垣」を受けての意訳。
その門の前にひとつの泉がありました。泉のほとりに一つの湯津杜(ユツカツラ)の樹がありました。その枝・葉はとても茂っていました。彦火火出見尊(ヒコホホデミ)はその樹の下に行って、ウロウロとしていました。しばらくすると、一人の少女が扉を押し開いて出て来ました。宝石で出来たお椀を持っていて、それで泉の水を汲もうとしました。それで見上げると、彦火火出見尊(ヒコホホデミ)を見つけました。驚いて、宮殿に帰り、両親に言いました。「一人の珍しい客人がいます。門の前の樹の下にいます」海神(ワダツミ)はここに八重に敷物を敷いて、宮殿内に彦火火出見尊(ヒコホホデミ)を招き入れました。彦火火出見尊(ヒコホホデミ)が席について落ち着くと、ココに来た理由を尋ねました。彦火火出見尊(ヒコホホデミ)は事情の全てを答えました。海神(ワダツミ)は、すぐに大小の魚を集めて、問いました。魚たちは答えました。「知りません」ただ、赤女(アカメ)は最近の口の病気があって、その場に来てませんでした。
赤女は鯛魚(タイ)の名前です。
そこで赤女を呼び寄せて、口を探すと、失くした釣り針がありました。 
湯津杜(ユツカツラ)
はカツラの樹のことです。中国では「桂の樹」は月の中にある理想を表しているとか。ただし中国では「桂」という字は「木犀(モクセイ)」という別の樹のことを指します。ここでのカツラが「桂」か「木犀」かは不明。ちなみに木犀は室町時代に日本に伝来し、奈良時代には日本には無いので、その理屈から言うとこの桂は日本に自生している方の「桂の木」となる。ただし、海幸山幸神話は東南アジアが源流の神話で、そこから海の交易路を伝って日本に来た神話と思われますら、その伝来の過程の中で「中国原産の木犀」が神話に混入した可能性もあります。
玉鋺
玉で出来た「椀」と訳しました。玉は宝石、椀の篇が「鉄」なので、金属の器と考えるべきでしょう。それで、玉とは具体的には何を表すのか?
海神の宮殿は海の底か海の向こうか
竜宮城のように海の底にあると解釈する事が多いですが、文意から考えると、海の向こうではないか?と。海人族の神格化と考えた方がスッキリします。 
第十段 貧鉤と呼んでから
已而彥火火出見尊、因娶海神女豐玉姬。仍留住海宮、已經三年。彼處雖復安樂、猶有憶ク之情。故時復太息、豐玉姬聞之、謂其父曰「天孫悽然數歎、蓋懷土之憂乎。」海神乃延彥火火出見尊、從容語曰「天孫若欲還ク者、吾當奉送。」便授所得釣鉤、因誨之曰「以此鉤與汝兄時、則陰呼此鉤曰貧鉤、然後與之。」復授潮滿瓊及潮涸瓊而誨之曰「漬潮滿瓊者則潮忽滿、以此沒溺汝兄。若兄悔而祈者、還漬潮涸瓊則潮自涸、以此救之。如此逼惱、則汝兄自伏。」及將歸去、豐玉姬謂天孫曰「妾已娠矣、當産不久。妾必以風濤急峻之日、出到海濱。請爲我作産室相待矣。」 
彥火火出見尊(ヒコホホデミ)は海神(ワダツミ)の娘の豊玉姫(トヨタマヒメ)を娶って、海宮(ワタツミノミヤ)に住んでいました。
三年経ちました。
彥火火出見尊(ヒコホホデミ)は安らかで楽しいとは思っていたのですが、故郷を思う気持ちがありました。それで時折、大きなため息を漏らしていました。それを豊玉姫(トヨタマヒメ)が聞いて、父に言いました。「天孫(アメミマ=ヒコホホデミ)は困り顔で、しばしばため息をついています。土(クニ)を懐かしんでいるのでしょう」海神(ワダツミ)はすぐに彥火火出見尊(ヒコホホデミ)を招いて、おもむろに言いました。
「天孫(アメミマ)。もしも故郷(=地上)に帰りたいと思っているのならば、送りましょう」それで鯛の赤女の口から得た釣り針を彥火火出見尊(ヒコホホデミ)に授けて、教えました。
「この釣り針を、あなたが兄に返すときは、コッソリとこの釣り針を『貧鉤(マヂチ=貧しい釣り針)』と呼んでから、兄に与えなさい」
また潮滿瓊(シオミツタマ・シオミツニ)と潮涸瓊(シオヒノタマ・シオヒルニ)を渡して教えました。「潮滿瓊(シオミツタマ・シオミツニ)を海の水に漬ければ、潮がたちまち満ちる。これであなたの兄を溺れさせなさい。もし兄が悔い改めて哀れみを乞うたら、潮涸瓊(シオヒノタマ・シオヒルニ)を海の水に漬ければ、潮は自然と引く。これで救いなさい。そうして、攻め悩ませれば、兄はきっと従うでしょう」
それで地上に帰ろうとするときになって、豊玉姫は天孫(アメミマ)に言いました。「わたしはすでに妊娠しています。もうすぐ生まれるでしょう。わたしは必ず風や波の荒い日に海辺に出ます。お願いです。わたしのために産屋を立てて待っていてください」 
『貧鉤』と呼んで力が無くなるのは言霊の力
マヂチとは「貧しい」「チ」。この「チ」はこの場では「釣り針」を挿しますが、「海の幸」の「サチ」の「チ」と同様に「霊威」を表しています。道具にも霊威があり、その霊威が無くなると、道具の役割を果たせなくなる。その霊威を削ぐ為に「貧しい釣り針」と呼びます。
「貧しい」と呼んだだけで、その霊威が無くなるというのは、言霊信仰があってのこと。
浦島太郎に似てる
このページの前半部分、地上が恋しくなって地上に帰るあたりは浦島太郎に似ています。浦島太郎って実は日本書紀の中で「浦島太郎には一冊、特別に書くよー」と宣言されています。実際にはその本は見つかっていないのですが、浦島太郎が大和にとって特別な神話だったのは間違いなさそうです。なので、この海神神話が似ているのも、そこいらへんが関係している可能性は高いです。
玉の力
今まで高天原や出雲の神話で見て来た「玉」と、ちょっと性質が違います。言葉は同じでも、今までは装飾品というイメージ、こちらはマジックアイテムです。水に漬けることで効果を発するのですから、海に関わるモノでしょう。
日向神話が出雲や高天原とは性質を異にするのが分かります。 
第十段 俳優の民となるから命だけは助けて
彥火火出見尊已還宮、一遵海神之教。時兄火闌降命、既被厄困、乃自伏罪曰「從今以後、吾將爲汝俳優之民。請施恩活。」於是、隨其所乞遂赦之。其火闌降命、卽吾田君小橋等之本祖也。 
彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は地上の自分の宮殿に帰って一から海神(ワダツミ)に教えられた通りにしました。すると兄の火闌降命(ホノスソリノミコト)はすっかりと酷い目にあって懲らしめられて、自分から罪を白状して言いました。「これ以降、わたしはあなたの俳優(ワザオギ)の民となります。だから命だけは助けてください」
それで、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は言うがままに兄を許しました。その兄の火闌降命(ホノスソリノミコト)は吾田君(アタノキミ)の小橋などの祖先です。 
兄ホノスソリはそんなに悪いか?
海幸・山幸の話ってあまりにヒコホホデミに都合が良いというか、あまりに兄が理不尽な感じが。確かに、釣り針を失くしただけで、無茶苦茶な理屈をこねたから、善人とは言いがたいのだけども、それでも、その結果がこれでは。 
第十段 海と陸との間を永遠に行き来出来る道
後豐玉姬、果如前期、將其女弟玉依姬、直冒風波、來到海邊。逮臨産時、請曰「妾産時、幸勿以看之。」天孫猶不能忍、竊往覘之、豐玉姬方産化爲龍。而甚慙之曰「如有不辱我者、則使海陸相通・永無隔絶。今既辱之、將何以結親昵之情乎。」乃以草裹兒、棄之海邊、閉海途而俓去矣。故因以名兒、曰彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊。後久之、彥火火出見尊崩、葬日向高屋山上陵。 
豊玉姫(トヨタマヒメ)は以前約束した通りに、妹の玉依姫(タマヨリヒメ)を釣れて、波風の荒い日に海辺に訪れました。子供を産もうとしたときに言いました。「わたしが子を生むところを、あなた(=ヒコホホデミ)は見ないでください」
天孫(アメミマ=ヒコホホデミ)は我慢出来ずにこっそりと産屋に行って覗いてしまいました。豊玉姫(トヨタマヒメ)は子を産むために龍になっていました。
豊玉姫(トヨタマヒメ)はとても恥に思い言いました。「もし私を辱(ハズカシ)めなければ、海と陸との間に永遠に行き来出来る道を作ったのに。こうして辱めてしまいました。どうして仲睦まじくできるでしょうか」そしてすぐに茅(カヤ)で子供を包み、海辺に捨ててしまい、海の道を閉ざして豊玉姫(トヨタマヒメ)は去ってしまいました。
その子の名前を彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)といいます。その後、長い時間が経って彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト=山幸彦)は亡くなりました。日向の高屋山の上の陵(ミササギ=墓)に葬りました。 
ウガヤフキアエズの名に由来は?
ウガヤフキアエズという名前は鳥の鵜の羽で作った屋根の産屋を造っていた途中に産気づいて、出産してしまったから、「鵜の羽の屋根をふき終えてない」で「ウガヤフキエアズ」だったのに、ここでは「鵜」も「作る途中」も出てこないのに、「ウガヤフキアエズ」という名前だけはしっかりと残ってます。

古事記では八尋和爾(ヤヒロワニ)でした。ヤヒロワニは大きなワニという意味か、大きなサメという意味です。和爾がそのまま「ワニ」なのか、古代の言い方が「ワニ」なだけで、サメを指しているのか?は分かりません。で、このページでは「龍」に成っています。龍は皇帝を表すモチーフで、朝鮮では龍をモチーフにすることは許されませんでした。
龍をモチーフにするということは「皇帝」が存在することになり、同時に反逆を意味します。
朝鮮で許されたのは鳳凰まで。
1897年に皇帝の居ない李氏朝鮮が大韓帝国となり皇帝が出来ると最初にやったことは龍をモチーフにした絵やオブジェを作る事だった、とか。
日本では天皇が居るので龍をモチーフに出来ます。それは天皇が皇帝であり、日本が独立国家であることの証明でもあります。
龍を政治的に見ればそうなりますが、龍自体は珍しいモチーフではないです。
龍が現在のように長いものになったのは12世紀。ソレ以前は胴体の短い「ワニ」に似たものだった。
龍はヨウスコウワニ(体長4m)ではないか?という説は結構信憑性がある。
よって、古事記で和爾がここで龍になっているのは、あながち「書き換え」や「政治的意図」があってとは限らない。「龍」=「ワニ」ということも十分ある。 
第十段 わたしは幸鉤が欲しいのだ
一書曰、兄火酢芹命能得海幸、弟彥火火出見尊能得山幸。時兄弟欲互易其幸、故兄持弟之幸弓、入山覓獸、終不見獸之乾迹。弟持兄之幸鉤、入海釣魚、殊無所獲、遂失其鉤。是時、兄還弟弓矢而責己鉤、弟患之、乃以所帶横刀作鉤、盛一箕與兄、兄不受曰「猶欲得吾之幸鉤。」於是、彥火火出見尊、不知所求、但有憂吟、乃行至海邊、彷徨嗟嘆。 
ある書によると…兄の火酢芹命(ホノスセリノミコト)は海の幸を上手に採る事が出来ました。弟の彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は山の幸を採る事が出来ました。
あるとき兄弟は、お互いの「幸」を交換しようと思いました。それで兄は弟の幸弓(サチユミ)を持って山に入って獣(シシ)を探しました。ところが、探しまわっても獣(シシ)が通った痕跡も見つけられませんでした。
弟は兄の幸鉤(サチチ=幸のある釣り針)を持って、海で魚を釣りました。何も釣れませんでして、その上、その幸鉤(サチチ)を失くしてしまいました。
その後、兄は弟に弓矢を返して、自分の釣り針を求めました。弟は困りました。そこで腰に差していた横刀で釣り針を作り、箕(=ミ=ザルのようなもの)に山盛りにして兄に渡しました。しかし兄は受け取らず言いました。
「わたしは幸鉤(サチチ)が欲しいのだ」
彦火火出見尊(ヒコホホデミ)はどこを探せばいいのかも分かりません。ただただ困り果てて歩き回り、ついには海辺にたどり着き、嘆いていました。
古事記の対応箇所 / ホデリ命とホオデリ命 / 海と山の道具交換 / 釣り針を無くす / 釣り針を無くした / 元の釣り針を返して欲しい 
火闌降命・火酢芹命
本文が火闌降命(ホノスソリ)で、ここでは火酢芹命(ホノスセリ)です。
幸の扱いの違い
本文では「自有海幸」とあります。読み下しにすると、「自ずと海の幸が有り」となります。現代語にすると、「海の幸を生まれながらに持っていた」という意味になります。
それがこの第十段では「能得海幸」です。読み下しにすると「海の幸を能く得る」で、現代語にすると「海の幸を得る事が出来る」となります。
つまり本文では「幸」とは神の性質です。しかし第十段では現代の私たちが言う所の「海の幸」と同じ意味になっています。
幸とは??
海や山で採れるものは神の気まぐれによって質も量は変化します。客観的には違いますが、古代の人はそう考えていました。だから神に霊威を感じ、敬い崇めました。
また便利な道具(弓矢や釣り針など)にも霊威を感じていましたし、道具を扱うにも熟練が必要で、その熟練技術そのものにも霊威を感じていました。神の気まぐれも、道具も、その熟練も、「サチ」という言葉に集約する事が出来ます。そして、それらの霊威で得た獲物も「サチ」と呼んでいたのでしょう。 
第十段 玄櫛が五百箇竹林に
時有一長老、忽然而至、自稱鹽土老翁、乃問之曰「君是誰者。何故患於此處乎。」彥火火出見尊、具言其事。老翁卽取嚢中玄櫛投地、則化成五百箇竹林。因取其竹、作大目麁籠、內火火出見尊於籠中、投之于海。一云、以無目堅間爲浮木、以細繩繋著火火出見尊、而沈之。所謂堅間、是今之竹籠也。 
そのとき、長老(オキナ)がいて、いつのまにか現れました。その長老は自分から鹽土老翁(シオツチノオジ)と名乗りました。それで彦火火出見尊(ヒコホホデミ)に尋ねました。「あなたは誰ですか??どうしてここで悲しんでいるのですか??」
彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)はこれまでの経緯を詳細に話しました。老翁(オジ=シオツチオジ)は袋の中の玄櫛(クロクシ)を取り出し、地面に投げました。すると五百箇竹林(イツホタカハラ=鬱蒼とした竹林)に成りました。それでのその竹を採り、大目麁籠(オオマアラコ=目の粗い竹籠)を作って、火火出見尊(ホホデミノミコト)をカゴの中に入れて海に投げ入れました。
別の伝によると…無目堅間(マナシカタマ)を造り、浮木(ウケキ=船)として、細縄(ホソナワ)で火火出見尊(ホホデミノミコト)を結びつけて、沈めました。堅間(カタマ)とは現在の竹籠のことです。 
竹の籠
竹はアジアにしか無い、草でも木でもない「竹」という特殊な植物です。実は竹が草なのか木なのかは現在でも分かっていません。時期によっては一晩で2mも生育し、堅く、なおかつ、曲がり、加工も出来る。タケノコは食べられる。繁殖力旺盛。とにかく奇妙な植物です。
この竹の皮で様々なものを作る事が出来ました。しかし竹が少々頑丈とて、時間が経てば朽ちてしまいます。なので遺物としては残らないのです。だから、「竹の道具」は物語の中でしか語られません。それでも竹で作った道具は古代では非常に便利なものだったハズなのです。
鉄器と並んで竹細工は生活を良くする道具だったはずです。その最たるものが「籠」です。籠を編むと必然編み目は「亀の甲羅」の形になります。これが「浦島太郎」の「亀」に繋がると考えられています。 
第十段 天垢と地垢
于時、海底自有可怜小汀、乃尋汀而進、忽到海神豐玉彥之宮。其宮也城闕崇華、樓臺壯麗。門外有井、井傍有杜樹、乃就樹下立之。良久有一美人、容貌絶世、侍者群從、自內而出。將以玉壼汲玉水、仰見火火出見尊、便以驚還而白其父神曰「門前井邊樹下、有一貴客、骨法非常。若從天降者當有天垢、從地來者當有地垢、實是妙美之、虛空彥者歟。」
一云、豐玉姬之侍者、以玉瓶汲水、終不能滿、俯視井中、則倒映人咲之顏。因以仰觀、有一麗神、倚於杜樹、故還入白其王。 
海の底を進むと、いつのまにか可怜小汀(ウマシオハマ)に出ました。
浜辺に沿って進んで行くと、たちまち海神豊玉彦(ワダツミトヨタマヒコ)の宮殿に到着しました。その宮殿は周囲の垣(城壁)は高く華やかに飾ってあり、高楼は壮大ですばらしいものでした。その門の外に泉がありました。その泉のそばに杜樹(カツラノキ)がありました。火火出見尊(ホホデミノミコト)はその樹の下に立っていました。そしてしばらくして一人の少女がやってきました。少女はこの世の者とは思えないほどに美しかった。その後に御付きの者が付き従って、宮殿内から出て来ました。少女は玉壷(タマノツボ)で水を汲みました。それで顔を起こして火火出見尊(ホホデミノミコト)を見つけました。少女は驚いて宮殿内に帰り、父の神に言いました。
「門の前の泉のそばの樹の下に一人の、高貴なお客様がいらっしゃいます。普段、見かけるような御方ではありません。もしも天から降臨したのであれば、天垢(アマノカワ=天界の匂い)があるでしょう。地から来られたならば地垢(チノカワ=地の匂い)があるでしょう。とてもすてきな方です。虛空彥(ソラツヒコ)という神でしょう」
別の伝によると…豊玉姫(トヨタマヒメ)の侍者は玉瓶(タマノツルベ)で水を汲みました。なぜか、この器を一杯にすることは出来ませんでした。泉を覗いて見ると、逆さまに人が笑う顔が映っていました。それで見上げてみると、一柱の美しい神がいました。杜樹(カツラノキ)に寄りかかって立っていました。それで帰って王に報告したといいます。 
海神の宮殿は海の底か、海の向こうか
竹で編んだ籠に押し込まれたヒコホホデミは沈んだあと、海の底を進んで、浜辺にたどり着きます。そこには大きな海神の宮殿があったのです。
それで海神の宮殿は海の中か?それとも海の向こうの浜か??って、どう考えても「海の向こうの浜」ですよね。泉があるくらだから、海の底ってことは無いでしょう。まぁ、神話ですから、多少の矛盾は問題にしないという考えもありますが、いや、さすがに古代の人でも、海の底に「井(=泉)」があるという設定はしないでしょう。
海神とは海に関わる神ではあるが、あくまで地上に住んでいる「海人」の人種です。そう考える方が自然です。 
第十段 貧窮の本、飢饉の始め、困苦の根
於是、豐玉彥遣人問曰「客是誰者、何以至此。」火火出見尊對曰「吾是天神之孫也。」乃遂言來意、時海神迎拜延入、慇懃奉慰、因以女豐玉姬妻之。故留住海宮、已經三載。是後火火出見尊、數有歎息、豐玉姬問曰「天孫、豈欲還故ク歟。」對曰「然。」豐玉姬卽白父神曰「在此貴客、意望欲還上國。」海神、於是、總集海魚、覓問其鉤、有一魚、對曰「赤女久有口疾。或云、赤鯛。疑是之呑乎。」故卽召赤女、見其口者、鉤猶在口。便得之、乃以授彥火火出見尊。因教之曰「以鉤與汝兄時、則可詛言『貧窮之本、飢饉之始、困苦之根。』而後與之。又汝兄渉海時、吾必起迅風洪濤、令其沒溺辛苦矣。」於是、乘火火出見尊於大鰐、以送致本ク。 
豐玉彥(トヨタマヒコ=海神)は人を遣わせて尋ねさせました。「客人。あなたは誰ですが?どうしてここにいるのですか??」
火火出見尊(ホホデミノミコト)は答えました。「わたしは天神(アマツカミ)の子孫です」火火出見尊(ホホデミノミコト)はここに来た経緯を説明しました。海神(ワダツミ)は迎え出て、拝礼して宮殿に招き、丁寧にもてなしました。娘の豊玉姫を妻に召し上げました。それから海宮(ワダツミノミヤ)に住み、三年が経ちました。
火火出見尊(ホホデミノミコト)はしばしば溜め息を漏らす事がありました。豊玉姫(トヨタマヒメ)が尋ねました。「天孫(アメミマ)はもしかして故郷(モトノクニ)に帰りたいと思っているのですか??」火火出見尊(ホホデミノミコト)は答えました。「そうです」豊玉姫(トヨタマヒメ)はすぐに父の神に報告しました。「ここに居る高貴な客人は上國(ウハツクニ=地上の国)に帰りたいと思っています」海神は海の魚の全てを集めて、火火出見尊(ホホデミノミコト)が失くしたという釣り針を探しました。すると一つの魚が居ました。その魚が答えました。「赤女(アカメ)は長い事、口の病に罹っています。もしかすると赤女(アカメ)が飲んだのかもしれません」
別伝によると赤鯛
すぐに赤女(アカメ)を呼び寄せて口の中を見ると、釣り針はまだ口の中にありました。これを取り出しました。火火出見尊(ホホデミノミコト)に渡し、教えました。
「釣り針を兄に返すときは、呪いを掛けなさい。『貧窮之本、飢饉之始、困苦之根。』貧窮(マジ)の本(モト)、飢饉(ウエ)の始め、困苦(クルシミ)の根(モト)と言ってから、兄に返しなさい。また兄が海を渡るときにあなたは迅風(ハヤチ)洪濤(オオナミ)を起こして、溺れ苦しませなさい」
それで火火出見尊(ヒコホホデミ)を大きな鰐(ワニ)に似せて、本郷(モトツクニ)に帰しました。 
玉は無い
第十段貧鉤と呼んでからに登場する潮滿瓊(シオミツタマ・シオミツニ)と潮涸瓊(シオヒノタマ・シオヒルニ)や塩満珠と塩乾珠に出て来る塩満珠(シオミツダマ)と塩乾珠(シオヒダマ)といった、マジックアイテムは無く、ただ「兄が海を行くときは波風を起こして苦しめなさい」と助言します。これはヒコホホデミは海神のサポートを得た、という意味です。ヒコホホデミには海の神の威光が備わったことで、天津神(天神)と国津神(地祇)に海神の血統が交わった事になり、皇統はこの世界の支配者として相応しいものになります。 
第十段 櫛に火をつけて出産の様子を
先是且別時、豐玉姬從容語曰「妾已有身矣。當以風濤壯日、出到海邊。請爲我造産屋以待之。」是後、豐玉姬果如其言來至、謂火火出見尊曰「妾、今夜當産。請勿臨之。」火火出見尊不聽、猶以櫛燃火視之、時豐玉姬、化爲八尋大熊鰐、匍匐逶虵。遂以見辱爲恨、則俓歸海ク、留其女弟玉依姬、持養兒焉。所以兒名稱彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊者、以彼海濱産屋、全用鸕鷀羽爲草葺之而甍未合時、兒卽生焉、故因以名焉。上國、此云羽播豆矩儞。 
(彦火火出見尊が本国に帰る前の事)別れるときに豊玉姫(トヨタマヒメ)はおもむろに語りました。「わたしはすでに妊娠しています。風と波が早い日にこの海の国から出て浜辺に伺います。お願いです。私の為に産屋(出産の為の小屋)を作って待っていてください」その後、豊玉姫(トヨタマヒメ)が言った通りに(浜辺に)来ました。火火出見尊(ホホデミノミコト)に言いました。「わたしは今夜出産します。お願いですから、見ないでください」ところが火火出見尊(ホホデミノミコト)は願いを聞かず、櫛に火をつけて(出産の様子)を見てしまいました。
豊玉姫(トヨタマヒメ)は八尋(ヤヒロ)の大きな熊鰐(ワニ)となって、腹這いになってのたうち回っていました。豊玉姫(トヨタマヒメ)はその様子を見られて恥をかかされたと恨んで、海郷(ワダツミノクニ)へと帰りました。
豊玉姫(トヨタマヒメ)はその妹の玉依姫(タマヨリヒメ)を残してその赤ん坊を育てさせました。その子の名前は彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)といいます。名前の由来は、この海辺の産屋の屋根の全てを鸕鷀(ウ)の羽で葺いたのですが、甍(イラカ=屋根の一番てっぺんの部分)を作り終えないうちに生んでからです。
上國は羽播豆矩儞(ウワツクニ)と読みます。
古事記の対応箇所 / 天津神の皇子は海で産むべきではありません / 鵜萱の産屋を建てていると陣痛が / 本来の姿で出産する / 奥さまはワニ! / 逃げる夫と子供を置き去りにする妻 / 天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命 / 妹を養育係に送る 
第十段 天皇は口女(=ボラ)を召し上がらない
一書曰、門前有一好井、井上有百枝杜樹、故彥火火出見尊、跳昇其樹而立之。于時、海神之女豐玉姬、手持玉鋺、來將汲水、正見人影在於井中、乃仰視之、驚而墜鋺、鋺既破碎、不顧而還入、謂父母曰「妾見一人於井邊樹上、顏色甚美、容貌且閑。殆非常之人者也。」時父神聞而奇之、乃設八重席迎入、坐定、因問來意。對以情之委曲、時海神便起憐心、盡召鰭廣鰭狹而問之、皆曰「不知。但赤女有口疾不來。亦云、口女有口疾。」卽急召至、探其口者、所失之針鉤立得。於是、海神制曰「儞口女、從今以往、不得呑餌。又不得預天孫之饌。」卽以口女魚所以不進御者、此其緣也。 
ある書によると……門の前に良い泉(井)がありました。その泉のそばに沢山の枝の桂の木がありました。彥火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)はその木に飛んで昇って、立っていました。そこに海神(ワダツミ)の娘の豊玉姫(トヨタマヒメ)が手に玉鋺(タマノマリ=宝石で出来た椀)を持って、これに水を汲もうとしました。すると泉に人の影が映っているのが見えたので、見上げると驚いて、鋺(マリ=椀)を落としてしまいました。鋺(マリ)が砕けてしまいましたが、それに気を止める事も無く宮殿に帰り、両親に言いました。
「わたしは一人の人間が、泉のそばの木の上に居るのを見ました。顔がとても美しい人です。姿は高貴でした。全く普通の人ではありませんでした」
父の神がその話を聞いて興味を持ち、すぐに敷物を沢山敷いて、迎え入れました。座ると、父の神は来た理由を彥火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)に尋ねました。彥火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は事情を説明しました。海神(ワダツミ)は可哀相に思い、鰭廣(ハタノヒロモノ=ヒレの大きな魚)鰭狹(ハタノサモノ=ヒレの小さな魚)を集めて尋ねました。魚たちは皆、「知らない」と答えました。ただ、赤女(アカメ)だけが口の病気があって来ていませんでした。
別伝では口女(クチメ=ボラ)は口の病気があったと…すぐに口女(クチメ)を呼び寄せて、その口を探すと失くした釣り針がありました。海神は言いました。「口女(クチメ)はこれよりずっと、餌を飲んではならない。また天孫(アメミマ)の食事にはしない」口女(クチメ)が天皇の食事に上がらないのはこのためです。 
赤女(アカメ)は鯛・口女(クチメ)はボラ
天皇はボラを食べないようです。鯛は食べてますもんね。どちらも「女」なんですね。魚=女という感覚があったのでしょうか。
口女が食卓に出ないということは
ボラが天皇に食べられない、という文章があるということは「天皇に食べられることは幸福」という感覚があったということのようです。これは母親が子供によく言う「おいしく全部食べると、食べ物が喜ぶ」という理屈と一緒です。 
第十段 貧鉤・滅鉤・落薄鉤
及至彥火火出見尊、將歸之時、海神白言「今者、天神之孫、辱臨吾處。中心欣慶、何日忘之。」乃以思則潮溢之瓊・思則潮涸之瓊、副其鉤而奉進之曰「皇孫、雖隔八重之隈、冀時復相憶而勿棄置也。」因教之曰「以此鉤與汝兄時則稱『貧鉤、滅鉤、落薄鉤。』言訖、以後手投棄與之、勿以向授。若兄起忿怒、有賊害之心者、則出潮溢瓊以漂溺之。若已至危苦求愍者、則出潮涸瓊以救之。如此逼惱、自當臣伏。」 
彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)が帰ろうとするときになって、海神(ワダツミ)は言いました。「今、天神(アマツカミ)の孫が、このわたしの宮殿に訪れた事は、心からの喜びです。いつまでも忘れないでしょう」そして、思則潮溢之瓊(オモエバシオミチノタマ)・思則潮涸之瓊(オモエバシオヒノタマ)をその釣り針に添えて渡し、言いました。「皇孫(スメミマ)は何重もの隈(クマ)が間にあっても(遠くはなれても、という意味)、どうか時には思い出して、忘れないで欲しい」そして教えました。「この釣り針をあなたの兄に渡すときに、『貧鉤(マヂチ)・滅鉤(ホロビノチ)・落薄鉤(オトロエノチ)』と唱えて、言い終わえたら後ろ手に投げ捨てて渡してください。面と向かって渡してはいけません。
それで、もし兄の怒りを買ってしまって、危害を加えようとするなら、潮溢瓊(シオミチノタマ)を出して、溺れさせ、もし困って許しを乞うならば、潮涸之瓊(シオヒノタマ)を出して救いなさい。そうやって攻め悩ませれば、自らあなたに従うでしょう」 
八重の隈
クマってなんだと。隈は熊でもあり「神」の語源でもあります。見えないとか隠れるという意味です。では「八重もの隈」とは何か??「谷」じゃないかと思うのです。
後ろ手に投げ捨てて渡す
面と向かわずに、後ろに投げるわけですから、そりゃ兄は怒りますよね。当然ですよ。想像するに、日本人は道具を「霊威のあるもの」と考えていました。道具が便利なのは霊威があるからです。面と向かわずに道具を渡すということが「霊威を渡さない」ことになるのではないか?と思います。 
第十段 子孫八十連屬まで俳人(狗人)に
時彥火火出見尊、受彼瓊鉤、歸來本宮。一依海神之教、先以其鉤與兄、兄怒不受。故弟出潮溢瓊、則潮大溢、而兄自沒溺。因請之曰「吾當事汝爲奴僕。願垂救活。」弟出潮涸瓊、則潮自涸而兄還平復。已而兄改前言曰「吾是汝兄。如何爲人兄而事弟耶。」弟時出潮溢瓊、兄見之走登高山、則潮亦沒山。兄緣高樹、則潮亦沒樹。兄既窮途、無所逃去、乃伏罪曰「吾已過矣。從今以往、吾子孫八十連屬、恆當爲汝俳人。一云、狗人。請哀之。」弟還出涸瓊、則潮自息。於是、兄知弟有神コ、遂以伏事其弟。是以、火酢芹命苗裔、諸隼人等、至今不離天皇宮墻之傍、代吠狗而奉事者矣。世人不債失針、此其緣也。 
彥火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)はこの瓊(タマ=玉)と鉤(チ=釣り針)を持って、本宮(モトツミヤ=自分の宮殿)に帰って来ました。そしてまず、海神(ワダツミ)に教えられた通りに、その釣り針を兄に渡そうとしました。兄は怒って受け取りませんでした。そこで弟は潮溢瓊(シオミチノタマ)を出すと、潮が溢れて、兄は溺れました。兄は救いを求めて言いました。「わたしはあなたに仕えて奴僕(ヤッコ)となります。お願いだから助けてください」弟が潮涸瓊(シオヒノタマ)を出すと、潮は自然と引いて兄は助かりました。
しかし兄はさっきの言葉を撤回して言いました。「わたしはお前の兄だ。どうして兄が弟に仕えるのか??」弟はまた潮溢瓊(シオミチノタマ)を出しました。兄はそれを見て、高い山に走って逃げました。潮が山を沈めてしまいました。兄は高い木に昇りました。潮は木を沈めてしまいました。兄は逃げ道を失い、逃げるところが無くなりました。兄は罪を認めて言いました。「わたしが間違っていました。これからずっと、わたしの子孫八十連屬(ウミノコノヤソツヅキ=子々孫々)まで、常にあなたの俳人(ワザヒト)となります。ある書によると『狗人(イヌヒト)』です。どうか哀れんでください」弟は潮涸瓊(シオヒノタマ)を出しました。すると潮は自然と引きました。
これで兄は弟に神の加護があると知り、ついにはその弟に従って仕えることになりました。これ以降、火酢芹命(ホノスセリノミコト)の末裔である隼人などは、現在に至るまで天皇(スメラミコト)の宮墻(ミヤカキ)のそばから離れず、代々、吠える犬のように仕えています。世の中の人が針を失っても責めないのはこの話が所以です。 
兄と弟
日本の古来では家督を継ぐのは「末子」と言われています。細かいことを言うと、末子相続は説であって、まだハッキリとはしていないのですが、確実なのは現在のように「長子相続」が決まっていないということです。
これは冷静に考えるとおかしなことです。現在のように兄弟の年齢が数歳程度で収まるなら良いのですが、古代では兄弟間で親子ほど年齢が違っていることだって、ままあるのです。ましてや権力者の子息だとその傾向は強い。それでも「末子相続かもしれない」と思わせる記述があるだけでも「変」な訳です。まぁ、ともかく日本の古代は末子相続の傾向があるよ、ってことがまず一つ。
その末子相続が発生しやすいのが「海洋民族(=海人族)」です。海洋民族は年齢が一定に達すると、海へと飛び出して行きますから、長子は一番最初に家から出て行き、最後に家を継ぐのが結果的に末子になるからです。これは実際、現在の日本でも漁業が生計になっている地域では慣習として残っています。
この神話
あと、この「海幸山幸」の神話は明らかに東南アジアに残る神話とほぼ同じ内容です。つまり、東南アジアと九州南部は文化的につながりがあった。台湾・沖縄と、それより西のインド、中東までを結ぶ海運航路あったのではないか?と思われます。 
第十段 天候が悪いと幸を得られないから
一書曰、兄火酢芹命、能得海幸、故號海幸彥。弟彥火火出見尊、能得山幸、故號山幸彥。兄則毎有風雨、輙失其利。弟則雖逢風雨、其幸不忒。時兄謂弟曰「吾試欲與汝換幸。」弟許諾因易之。時兄取弟弓失、入山獵獸。弟取兄釣鉤、入海釣魚。倶不得利、空手來歸。兄卽還弟弓矢而責己釣鉤、時弟已失鉤於海中、無因訪獲、故別作新鉤數千與之。兄怒不受。急責故鉤、云々。 
ある書によると……兄の火酢芹命(ホノスセリノミコト)は巧く海の幸を得る事が出来ました。よって海幸彦といいました。弟の彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は巧く山の幸を得る事が出来ました。よって山幸彦といいました。兄は、海に風が吹いたり雨が降ったりして天候が悪くなると海の幸を得られなくなります。弟は風が吹こうが雨が降ろうが山の幸を得るのに問題がありません。そこで兄は弟に言いました。「私は試しに、お前と幸を交換したいと思う」
弟はこれを承諾し、交換しました。
兄は弟の弓矢を持って、山に入って獣(シシ)を狩りました。弟は釣鉤(チ=釣り針)を持って、海に入って魚を釣りました。どちらも、獲物を得ることができず、空手(ムナデ=何も持たずに)帰りました。兄は弟に弓矢を還して、「釣鉤(チ=釣り針)を還せ」と求めました。弟は鉤(チ=釣り針)を海中(ウミナカ)に失くしてしまい、探す事も出来ないでいました。そこで新しい鉤(チ=釣り針)を沢山作って兄に渡しました。ところが兄は怒ってこれを受け取らず、元の鉤(チ=釣り針)を還せと責めました。云々 
古事記では弟が提案
古事記では弟ホオリが兄ホデリに「道具を交換してみませんか?」と提案し、弟が針を失くして兄はキレるという物語になっています。日本書紀の第十段海の幸と山の幸と第十段わたしは幸鉤が欲しいのだでは「お互いに交換しよう」となっています。そしてこの第十段では兄が提案しています。
幸とチ
「サチ」とは「海山から得られる食べ物」なのか、「道具」のことなのか?はたまた「海山から食べ物を得る事の出来る霊威(もしくは能力)」なのか??第十段わたしは幸鉤が欲しいのだに「幸鉤(サチチ)」という言葉があります。「サチ」と道具の表す「チ」ですから、「サチ」は道具ではないという見方も出来ます。 
第十段 罠に掛かっていた川雁を助ける
是時、弟往海濱、低徊愁吟。時有川鴈、嬰羂困厄。卽起憐心、解而放去。須臾有鹽土老翁來、乃作無目堅間小船、載火火出見尊、推放於海中。則自然沈去、忽有可怜御路、故尋路而往、自至海神之宮。是時、海神自迎延入、乃鋪設海驢皮八重、使坐其上、兼設饌百机、以盡主人之禮、因從容問曰「天神之孫、何以辱臨乎。」一云「頃吾兒來語曰『天孫憂居海濱、未審虛實。』蓋有之乎。」彥火火出見尊、具申事之本末、因留息焉。海神則以其子豐玉姬妻之。遂纒綿篤愛、已經三年。 
弟は海辺に行ってうな垂れ、あちこち歩いて、鬱々と彷徨っていました。そのとき、川雁(カワカリ=鳥の名前)が居て、罠に掛かって困っていました。弟は可哀相に思って、それを解放してから去りました。
しばらくして鹽土老翁(シオツチオジ)が来て、無目堅間(マナシカタマ=竹で編んだ目のキツイもの)で船を造り、火火出見尊(ホホデミノミコト)を乗せて、海の中に押し放ちました。船は自然と沈んでいきました。
たちまち可怜御路(ウマシミチ=良い道)がありました。そこでこの道の行くままに進んで行きました。すると海神(ワダツミ)の宮殿に到着しました。このときに海神(ワダツミ)自身が迎え、招き入れ、海驢(ミチ=アシカ)の皮をたくさん敷いてその上に座りました。また御馳走をたくさんの机に乗せて、主人(=海神)は禮(イヤ=礼)を尽くしました。そしておもむろに尋ねました。
「天神(アマツカミ)の孫(ミマ)はどうして、こちらにおいでになったのですか??」
ある伝によると、「最近、わたしの娘から聞いたのです。『天孫(アメミマ)が海辺で憂えんでいる』…と。本当ですか?」と尋ねた。
彥火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は詳細に事情を説明しました。それでこの海神の宮殿に留まって住む事になりました。彥火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は海神の子供の豊玉姫(トヨタマヒメ)を妻にしました。二人は仲睦まじく愛し合い、三年が過ぎました。 
ウマシミチとウマシオハマ
このページでは竹で編んだ小舟に入れられたヒコホホデミがたどり着く場所が「ウマシミチ」で、ウマシミチを通っていると「海神の宮殿」にたどり着きます。
ウマシオハマと書かれているのは第十段本文−1海の幸と山の幸と第十段一書(一)−3天垢と地垢です。これらのページでもやはり、「ウマシオハマ」を通り、宮殿へとついています。「ウマシ」は異界のもののよう。美味しいじゃないみたいです。ただし訳本には大抵「良い道」「良い浜」と書いてあります。まぁ、「良い」=「異界」という感覚もあったのではないかとも思います。
雁を助ける意味
雁はこの後、なんの関係もありません。なぜ「雁を助ける」くだりが出て来たのか?「浦島伝説」を連想させます。助けた亀に連れられて、竜宮城に…… 
第十段 大鉤、踉䠙鉤、貧鉤、癡騃鉤
及至將歸、海神乃召鯛女、探其口者、卽得鉤焉。於是、進此鉤于彥火火出見尊、因奉教之曰「以此與汝兄時、乃可稱曰『大鉤、踉䠙鉤、貧鉤、癡騃鉤。』言訖、則可以後手投賜。」已而召集鰐魚問之曰「天神之孫、今當還去。儞等幾日之內、將作以奉致。」時諸鰐魚、各隨其長短、定其日數、中有一尋鰐、自言「一日之內、則當致焉。」故卽遣一尋鰐魚、以奉送焉。復進潮滿瓊・潮涸瓊二種寶物、仍教用瓊之法、又教曰「兄作高田者、汝可作洿田。兄作洿田者、汝可作高田。」海神盡誠奉助、如此矣。時彥火火出見尊、已歸來、一遵神教依而行之、其後火酢芹命、日以襤褸而憂之曰「吾已貧矣。」乃歸伏於弟。弟時出潮滿瓊、卽兄舉手溺困。還出潮涸瓊、則休而平復。 
(ホホデミが)本国に帰ろうというときになって、海神(ワダツミ)は鯛女(タイ)を呼び寄せて、口を探すと、釣り針がありました。それでこの釣り針を彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコオト)に献上しました。そして海神は(ホホデミに)教えました。
「この釣り針をあなたの兄に渡すときに『大鉤(オオチ)、踉䠙鉤(ススノミヂ)、貧鉤(マヂチ)、癡騃鉤(ウルケヂ)』と言いなさい。言い終わって、手を嘘路にして投げてください」
(海神は)鰐魚(ワニ)を呼び寄せて、問いました。「天神(アマツカミ)の孫(ミマ)が今から本国に帰る。お前たちは何日で送る事が出来るか?」
もろもろの鰐魚(ワニ)はそれぞれの長短に合わせて日数を申告しました。その中に一尋鰐(ヒトヒロワニ…一尋は長さの単位で1.8m)がいて、自ら言うには「一日のうちに、到着します」それですぐに一尋鰐魚(ヒトヒロワニ)を派遣して、(ホホデミを)送りました。
また、潮滿瓊(シオミチノタマ)・潮涸瓊(シオヒノタマ)の二種の宝物を(ホホデミに)渡し、玉の使い方を教えました。また、こうも教えました。「兄が高いところに田を作ったら、あなたは低い土地に田を作りなさい。兄が低い土地に田を作ったら、あなたは高い土地に田を作りなさい」海神(ワダツミ)は誠意を尽くして(ホホデミを)助けることを約束しました。
それで彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は本国に帰り、海神の言うように一から従って行動しました。すると兄の火酢芹命(ホノスセリノミコト)は日に日にやつれて悩み苦しむようになり、言いました。「わたしは貧しくなってしまった」それで弟の彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)に従いました。
弟が潮滿瓊(シオミチノタマ)を出すと、兄は手を挙げて溺れ苦しみました。潮涸瓊(シオヒノタマ)を出せば、すぐに水は引いて元通りになりました。 
冷静に考えたら、海神がヒコホホデミを援助する理由は、婿ってことだけだよね、婿って偉いのだろうか。 
第十段 八尋のおおきな鰐
先是、豐玉姬謂天孫曰「妾已有娠也。天孫之胤豈可産於海中乎、故當産時必就君處。如爲我造屋於海邊以相待者、是所望也。」故彥火火出見尊、已還ク、卽以鸕鷀之羽、葺爲産屋。屋蓋未及合、豐玉姬自馭大龜、將女弟玉依姬、光海來到。時孕月已滿、産期方急、由此、不待葺合、俓入居焉、已而從容謂天孫曰「妾方産、請勿臨之。」天孫心怪其言竊覘之、則化爲八尋大鰐。而知天孫視其私屏、深懷慙恨。既兒生之後、天孫就而問曰「兒名何稱者當可乎。」對曰「宜號彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊。」言訖乃渉海俓去。 
これ(弟が兄を従えた件)より先のことです。豊玉姫(トヨタマヒメ)は天孫(アメミマ)に言いました。「わたしはすでに妊娠しています。天孫(アメミマ)の子をどうして海中(ウミナカ)で産めますでしょうか???だから産む時は、必ずあなたの所へと行きます。もしも私のために海辺に小屋を作って待ってくれるなら、望ましい事です」
そこで彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は故郷に帰って、すぐに鸕鷀(ウ)の羽で屋根を葺(フ)いた産屋を立てました。その蓋(イラカ=甍=屋根の天辺部分)が出来上がる前に、豊玉姫は大きな亀に乗って、妹の玉依姫(タマヨリヒメ)を連れ、海を照らして来ました。
臨月は既に過ぎ、産まれるときが迫って来た。そこで屋根を葺き終えるのを待たずに、産屋に入りました。そしておもむろに天孫(アメミマ)に言いました。「お産のときに、お願いですから見ないでください」天孫(アメミマ)は内心、その言葉を怪しんでこっそり、お産の様子を覗いてしまいました。すると豊玉姫は八尋(ヤヒロ=18m)の大きな鰐(ワニ)に化けていました。しかも天孫(アメミマ)が覗いているのを知って、とても恥ずかしく思い、恨みを抱きました。
すでに子は産まれた後に、天孫(テンソン)は問いました。「子の名前は何にするとよいか?」豊玉姫は答えました。「彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)と名付けるべきです」豊玉姫はいい終えると海を渡り、去って行きました。 
親子二代の嫁との確執
父親のニニギは妻のコノハナサクヤヒメが妊娠した際に「え?一回しかシテないじゃん!絶対、俺の子じゃないよね??どこかの国津神の子だよね!!!」と発言し、サクヤヒメにブチ切れられ、「産屋に火をつけて出産の誓約」という現代人にはよく分からない荒行を見せられます。その後は、ほとんど口も聞いてくれなくなり、悲しいを歌を残しています。
そしてニニギの子のヒコホホデミは嫁の「見るなよ、見るなよ」を見てしまい、愛想を尽かされます。まぁ、こっちの方はダチョウ倶楽部的な「見ろ」の逆説なのかもしれないし、「見るなよ」と言われると見ちゃう気持ちは分かるので、可哀相な気も。嫁が鰐になってたらびっくりするだろうし。
この「見るなよ」→「見る」というパターンはツルの恩返しでも見られますし、イザナミの死後にイザナギが黄泉の国へ行ったときにも同様のことが起きていますので、「神話の決まり事」ではあります。
竜と鰐
(第十段海と陸との間を永遠に行き来出来る道)では豊玉姫は龍になっていました。ここでは鰐です。この竜と鰐に関しては、「同一のもの」を指している可能性はあります。中国南部に生息していた「鰐」が「竜」のモチーフになったという説はありますし、かなり有力です。
日本神話にこの「竜と鰐」の神話が異伝として残っていることは、史料として貴重なのではないかと思います。
ちなみに第十段櫛に火をつけて出産の様子をでは「熊鰐」と書かれています。 
第十段 沖つ鳥鴨着く島に我が率寝し妹は忘らじ世のことごとも
于時、彥火火出見尊、乃歌之曰、
飫企都ケ利軻茂豆勾志磨爾和我謂禰志伊茂播和素邏珥譽能據ケ馭㔁母
亦云、彥火火出見尊、取婦人爲乳母・湯母・及飯嚼・湯坐、凡諸部備行、以奉養焉。于時、權用他婦、以乳養皇子焉。此世取乳母、養兒之緣也。是後、豐玉姬、聞其兒端正、心甚憐重、欲復歸養。於義不可、故遣女弟玉依姬、以來養者也。于時、豐玉姬命、寄玉依姬而奉報歌曰、
阿軻娜磨廼比訶利播阿利登比ケ播伊珮耐企弭我譽贈比志多輔妬勾阿利計利
凡此贈答二首、號曰舉歌。海驢、此云美知。踉䠙鉤、此云須須能美膩。癡騃鉤、此云于樓該膩。 
その時(豊玉姫が海へと去って行って)、彥火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は歌いました。
沖つ鳥(オキツシマ) 鴨着く島に(カモツクシマニ) 我が率寝し(ワガイネシ) 妹は忘らじ(イモハワスラジ) 世のことごとも(ヨノコトゴトモ)
訳 / 沖の島の鴨が着く島で、私が添い寝した少女のことが忘れられない。わたしが生きている限り。
別伝によると……彥火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は赤ん坊に乳をあげる乳母、湯を飲ます湯母、ご飯を噛んで柔らかくする飯嚼(イイガミ)、湯で体を洗う湯坐(ユエビト)を女性から選びました。すべての役目を万事整えて、養育しました。
このように他家の女性を雇って、乳をやるなどして皇子を養育しました。これが世の人が乳母に頼んで子を育てるようになった所以です。
この後のことです。豊玉姫(トヨタマヒメ)は自分の子がかわいらしいと聞いて、恋しいと思う気持ちが強くなり、子の元へと行って育てたいと思うようになりました。しかし、義理からそれは出来ません。そこで妹の玉依姫(タマヨリヒメ)を送り、養育させました。その時に豊玉姫(トヨタマヒメ)は玉依姫(タマヨリヒメ)に返し歌を言付けました。
赤玉の 光はありと 人は言えど 君が装いし 貴くありけり
訳 / あなたには赤い玉のような光があると、人は言います。あなたのお姿はとても高貴で、今でも忘れられません。
以上のこの贈り・答えた二首(フタウタ)を挙歌(アゲウタ)といいます。
海驢を美知(ミチ)といいます。踉䠙鉤を須須能美膩(ススノミヂ)といいます。癡騃鉤を于樓該膩(ウルケヂ)といいます。 
海神の宮殿は島にある!
「沖の島の鴨が着く島で、添い寝した少女」と歌うのであれば、海神があったのは海中ではなく、「島」ということになります。ただこれらの「歌」は物語とは無関係に氏族に伝わった物が採用されていることが多く、案外関係していないということも。それでも、海神の宮殿が海の中にあるとしたら、この歌は採用されないだろうと。 
第十段 八尋鰐は鰭背を立てて橘之小戸に
一書曰、兄火酢芹命、得山幸利。弟火折尊、得海幸利、云々。弟愁吟在海濱、時遇鹽筒老翁、老翁問曰「何故愁若此乎。」火折尊對曰、云々。老翁曰「勿復憂、吾將計之。」計曰「海神所乘駿馬者、八尋鰐也。是竪其鰭背而在橘之小戸、吾當與彼者共策。」乃將火折尊、共往而見之。 
ある書によると……兄の火酢芹命(ホノスセリノミコト)は山の幸利(サチ)を得ました。弟の火折尊(ホオリノミコト)は海の幸利(サチ)を得ました。云々。
弟は悩み彷徨って、海辺に居ました。そのときに鹽筒老翁(シオツツノオジ)に会いました。老翁(オジ)が尋ねました。「どうして、あなたはこれほどに困っているのですか?」火折尊(ホオリノミコト)は答えました。云々。
老翁(オジ)は言いました。「もう心配することはありません。わたしがどうにかしましょう」そして言いました。「海神(ワダツミ)が乗る駿馬(=優れた馬)は、八尋鰐(ワヒロワニ=大きな鰐)です。八尋鰐は鰭背(ハタ=背びれ)を立てて橘之小戸(タチバナノオド)にいます。その鰐に相談してみましょう」火折尊を連れて、鰐に会いに行きました。 
古事記と同じホオリに
この第十段一書(四)ではヒコホホデミのポジションが古事記と同じホオリになりました。兄はホノスセリです。古事記の兄はホデリ(ホオデリ)でした。
鰐に背びれが
実際の「は虫類の鰐」には背びれは無いので、ここで言っている鰐は「サメ」をイメージしていると考えた方がいいでしょう。
橘之小戸
小戸橘(オドタチバナ)という記述でこれ以前にも登場。「橘の小戸」は「地名」ではなく「地形」と考えた方が適切かもしれない。 
第十段 湯津杜樹に昇って居てください
是時、鰐魚策之曰「吾者八日以後、方致天孫於海宮。唯我王駿馬、一尋鰐魚、是當一日之內、必奉致焉。故今我歸而使彼出來、宜乘彼入海。入海之時、海中自有可怜小汀、隨其汀而進者、必至我王之宮。宮門井上、當有湯津杜樹。宜就其樹上而居之。」言訖卽入海去矣。故、天孫隨鰐所言留居、相待已八日矣、久之方有一尋鰐來、因乘而入海、毎遵前鰐之教。 
鰐魚(ワニ)は考えてから言いました。
「わたしは八日で天孫(アメミマ)を海宮(ワダツミノミヤ)に送り届けることができます。ただ私の王の駿馬は一尋鰐魚(ヒトヒロワニ)です。これならば一日で必ず送り届けられます。なので、私が帰って彼(=ヒトヒロワニ)を寄越します。それで彼に乗って海に入ると良いでしょう。海に入るときに、海の中には可怜小汀(ウマシオハマ)があります。その浜に沿って進むと必ず我が王の宮に到着します。宮殿の門の井(=泉)のほとりに湯津杜樹(ユツカツラノキ)があります。その木の上に昇って居てください」
言い終わると(八尋鰐は)海に入って去っていきました。
天孫(アメミマ)は鰐の言葉のとおりにその場に留まり、待つ事、八日。一尋鰐魚(ヒトヒロワニ)がやって来ました。それに乗って海に入りました。その後も八尋鰐の言う通りにしました。 
八尋鰐より一尋鰐
8倍大きいはずの八尋鰐よりも、小さな一尋鰐の方が、早い。その八尋鰐の謙虚な姿勢を讃えるべきなのかもしれない。
天孫が木に昇る動機付けをした八尋鰐
記紀ではヒコホホデミ(ホオデリ)が海神の宮殿の前の泉のそばのカツラの木に昇って居ました。なんだか突拍子もないのですが、これは八尋鰐の入れ知恵と判明。 
第十段 三床を設けて
時、有豐玉姬侍者、持玉鋺當汲井水、見人影在水底、酌取之不得、因以仰見天孫、卽入告其王曰「吾謂我王獨能絶麗、今有一客、彌復遠勝。」海神聞之曰「試以察之。」乃設三床請入。於是、天孫於邊床則拭其兩足、於中床則據其兩手、於內床則寛坐於眞床覆衾之上。海神見之、乃知是天神之孫、益加崇敬、云々。 
豊玉姫(トヨタマヒメ)の侍者(マカタチ=従者)が居ました。侍者は玉鋺(タマノマリ=宝石のお碗)を持って、泉(井戸)の水を汲もうとすると人の影が水底に映っているのが見えて、驚いて水を汲み取る事が出来ませんでした。それで天孫(アメミマ)を見上げました。それすぐに宮殿に帰って、王に報告しました。「わたしは我が王、一人だけが優れて美しいと思っていたのですが、今、一人の客人を見ました。その方は、比べ物にならないほどに美しいのです」
海神(ワダツミ)はそれを聞いて言いました。「それでは、その人物を見てみよう」
それで、三床(ミツノユカ=三つの床)を設けて、招き入れました。天孫は外側の床で両足を拭い、次の中の床では両手をついて、最後の内の床に眞床覆衾(マドコオフスマ)の上にアグラをかいて座りました。海神はこの様子を見て、この人物が天神(アマツカミ)の孫と知りました。それで、ますます崇敬(アガメウヤマウ)ようになりました。云々。 
美しいはすばらしい
海神の従者が「うちの王様は美しいけど、その王様より美しい人がいるんです!」と報告します。では美しいってどんな意味があるのかと思いませんでしたか??
日本では天岩戸での神事のように、「歌がうまい」「踊りがうまい」「にぎやかに太鼓を打ち鳴らす」といった心を動かすものが、天変地異すら沈めるという考えがあります。これは日本人に限った話ではないです。だから美しいってことにも「霊威」がある、のかもしれません。
見た目は大事
上に挙げた理由もありますが、それとは別にあります。
古代では権力者の顔はハッキリとはしていません。ネットも無いし新聞も雑誌も無いので、部外者や下々のものにとっては、誰がどのくらいの権力を持っているのかを「知る」のは非常に難しいことです。しかし、他国の使者や下々の者たちが「え?誰がえらいの?」とオタオタすると、失礼ですし軋轢もあるでしょう。そこで、誰の目にもハッキリと分かるようにしておくのが、何かと便利。業務遂行がスムーズになります。そこで、「見た目」=「地位」を表すことになります。「立派な服、立派なアクセサリー」=「地位」であり「権力」なわけです。
だから見た目、つまり「美しい」「麗しい」ってのは、権力者にとっては大事なわけです。
三床ってなんだ??
海神が用意した床のうち眞床覆衾(マドコオフスマ)に座ります。この眞床覆衾(マドコオフスマ)が「王の証明」です。ここに無意識に座っちゃうんだから「すごい」ってことです。 
第十段 隼人の溺れる所作
海神召赤女・口女問之、時口女、自口出鉤以奉焉。赤女卽赤鯛也、口女卽鯔魚也。
時、海神授鉤彥火火出見尊、因教之曰「還兄鉤時、天孫則當言『汝生子八十連屬之裔、貧鉤・狹々貧鉤。』言訖、三下唾與之。又兄入海釣時、天孫宜在海濱、以作風招。風招卽嘯也、如此則吾起瀛風邊風、以奔波溺惱。」火折尊歸來、具遵神教。至及兄釣之日、弟居濱而嘯之、時迅風忽起。兄則溺苦、無由可生、便遙請弟曰「汝久居海原、必有善術、願以救之。若活我者、吾生兒八十連屬、不離汝之垣邊、當爲俳優之民也。」於是、弟嘯已停而風亦還息。故、兄知弟コ、欲自伏辜、而弟有慍色、不與共言。於是、兄著犢鼻、以赭塗掌塗面、告其弟曰「吾汚身如此、永爲汝俳優者。」乃舉足踏行、學其溺苦之狀、初潮漬足時則爲足占、至膝時則舉足、至股時則走廻、至腰時則捫腰、至腋時則置手於胸、至頸時則舉手飄掌。自爾及今、曾無廢絶。 
海神(ワダツミ)は赤女(アカメ=鯛)と口女(クチメ=ボラ)を呼び寄せて問いました。その時、口女(クチメ)の口から釣り針を出して、献上しました。赤女(アカメ)は赤鯛です。口女(クチメ)は鯔魚(ナヨシ=ボラ)です。
海神(ワダツミ)は鉤(チ=釣り針)を彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)に授け、そして教えました。「兄にこの釣り針を返す時に天孫(アメミマ)はこう言いなさい。『お前の生子(ウミノコ)八十連屬(ヤソツヅキ)の末裔まで貧鉤(マヂチ=貧乏針)狹狹貧鉤(ササマヂチ=もっともっと貧乏針)』と言い、いい終えたら、三回唾を吐いて、これ(=釣り針)を与えなさい。また、兄が海に入ってつりをするときに、天孫は浜辺に行き、風招(カザオキ)をしなさい。風招(カザオキ)は嘯(ウソブク=口をすぼめて息を吐く、吠える)ことです。そうすれば私(=海神)が瀛風(オキツカゼ)・邊風(ヘツカゼ)を吹いて速い波を起こし溺れさせて困らせましょう」
火折尊(ホオリノミコト)は故郷に帰って来て、海神に教えられた通りにしました。兄は釣りをする日になり、弟は浜に居て嘯きました。すると速い風がたちまち起こり、兄は溺れ苦しみ、今にも死にそうになりました。それで遠い浜辺の弟に哀願しました。
「お前は永く海原に居たのだろう。必ずや良い方法があるだろう。頼むから助けて欲しい。もしも、私を助けれくれれば、わたしの生兒(ウミノコ)八十連屬(ヤソツヅキ)にお前の宮殿の外壁のそばを離れず、俳優(ワザオサ)の民となろう」
それ弟は嘯(ウソブ)くことを止めました。すると風もまた止まりました。兄は弟に徳(=不思議な力)があると知って、自分から従いたいと思いました。ところが弟はそれでもまだ怒っていて、口を聞いてくれませんでした。そこで兄は著犢鼻(タフサギ=上半身裸のふんどし一丁)になって、赭(ソホニ=赤土)を手や顔に塗って、弟に言いました。
「私はこのように体を汚しました。永遠にあなたの俳優者(ワザオサヒト)になります」
それで足を挙げてバタバタとさせ、その溺れ苦しむ様子を演じました。初め塩水が足に浸かったときに足占(アシウラ)をするようにします。塩水が膝まできたときは足を挙げ、股に至る時は走り回り、腰に至ったときは腰を撫で、脇に至ったときは手を胸に置き、首に至ったときは手を挙げて飄掌(タヒロカス=ヒラヒラ)させました。それから今日まで、この舞は絶えず続いています。 
魏志倭人伝の記述と
魏志倭人伝には「倭人は身に朱丹を塗っている」とあります。この朱丹というのは赤い土のことで、体に赤土を塗るのは皮膚病予防のためです。皮膚病予防の為に赤土を塗るのは南方の文化で、倭人が南方の文化を強く受けている証拠です。
ここでは隼人の先祖であるホノスセリが俳優者となった証として全身を汚しました。その様子として「上半身に赤土を塗った」とあります。
これから考えると隼人は南方系文化に影響を受けた集団で、この神話も皇統とは無関係に存在したものを皇統に取り込んだだけと考えた方がいいでしょう。
散りばめられる儀式
貧鉤(マヂチ)の呪い
風招(カザオキ)・嘯(ウソブ)く
俳優の民
溺れる所作 
第十段 眞床覆衾と草でその赤ん坊を包んで波瀲に
先是、豐玉姬、出來當産時、請皇孫曰、云々。
皇孫不從、豐玉姬大恨之曰「不用吾言、令我屈辱。故自今以往、妾奴婢至君處者、勿復放還。君奴婢至妾處者、亦勿復還。」遂以眞床覆衾及草、裹其兒置之波瀲、卽入海去矣。此海陸不相通之緣也。一云、置兒於波瀲者非也、豐玉姬命、自抱而去。久之曰「天孫之胤、不宜置此海中。」乃使玉依姬持之送出焉。初、豐玉姬別去時、恨言既切、故火折尊知其不可復會、乃有贈歌、已見上。八十連屬、此云野素豆豆企。飄掌、此云陀毗盧箇須。 
(兄が弟に従う前の話)豊玉姫(トヨタマヒメ)が海から来て、子を産むときに皇孫(スメミマ)に御願いして言いました。云々…
皇孫(スメミマ)はその言葉に従わず豊玉姫の出産の様子を覗きみてしまいました。豊玉姫はとても恨み「わたしの言葉を無視してわたしに恥を掻かせましたね。これより、わたしが奴婢(ツカイヒト)をあなたのところに送れば、無事に帰さないでも結構。あなたが奴婢(ツカイヒト)を私の元に送ってもまた、帰さないでも結構です」そして眞床覆衾(マドコオフスマ)と草(カヤ)でその赤ん坊を包んで波瀲(ナギサ)に置いて、海に入って行きました。これが海と陸が交わらない理由です。
別伝によると……赤ん坊を波瀲(ナギサ)に置かなかった。豊玉姫は自分で抱いて、赤ん坊とともに去って行きました。
しばらくたって、豊玉姫が言いました。「天孫(アメミマ)の子供をこの海の中で育てるのは、おかしい」それで玉依姫(タマヨリヒメ)に赤ん坊を送らせました。
豊玉姫が天孫と別れるときに、恨み言があまりにキツいものでした。それで火折尊(ホオリノミコト)は「二度と遭えないのだな」と知り、歌を送りました。その歌はすでにあげてあります。
八十連屬は野素豆豆企(ヤソツヅキ)と読みます。飄掌は陀毗盧箇須(タヒロカス)と読みます。 
訳に関して
訳本を読むと、「別れるときに豊玉姫は悲しんだ」「その様子を見てホオリは二度と遭えないと知った」とあるのですが、物語としても、文章上もおかしいので、「別れるときの豊玉姫の恨み言があまりにキツかったから」「ホオリは二度と遭えないと知った」と変更しました。
眞床覆衾(マドコオフスマ)
マドコオフスマは敷き布団です。ニニギの天孫降臨の際にも登場しました。ようは産まれたばかりの嬰児をつつむものです。よってニニギも嬰児だったということになります。
ちなみに「草(カヤ)」は強い植物で日本人は茅に霊力があると考えていました。穢れを祓う「夏越の祓い」で利用するのもカヤです。
また、農耕民族で「種子」が何倍にも増える性質を持っていることを特別視していた日本人にとって「嬰児」とは「種子」であり、将来大きく育つ魔力を持った特別な存在です。茅と嬰児をセットにするのは農耕民族だからでしょう。
神話の意味
海と陸が交流を持たなくなった…という書き方をしましたが、「天」「地」が別れるのと同様に、元々は「海」「陸」が別れたという神話なのかもしれません。
ホオリが歌った恋の歌
第十段沖つ鳥鴨着く島に我が率寝し妹は忘らじ世のことごともにあります。 
第十一段 彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊の系譜
彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊、以其姨玉依姬爲妃、生彥五瀬命、次稻飯命、次三毛入野命、次神日本磐余彥尊、凡生四男。久之彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊、崩於西洲之宮、因葬日向吾平山上陵。 
彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)はその叔母(母の豊玉姫の妹)の玉依姫(タマヨリヒメ)を妃として、彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)を産みました。
次に稻飯命(イナイイノミコト=稲飯命)を産みました。次に三毛入野命(ミケイリノノミコト)を産みました。次に神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)を産みました。すべて男の子でした。
しばらくして彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)は西洲之宮(ニシノシマノミヤ)で亡くなりました。そこで日向の吾平山(アヒラノヤマ)の山野の上にある稜(=墓)に葬りました。 
第十一段 系譜の異伝
一書曰、先生彥五瀬命、次稻飯命、次三毛入野命、次狹野尊、亦號神日本磐余彥尊。所稱狹野者、是年少時之號也、後撥平天下奄有八洲、故復加號曰神日本磐余彥尊。
一書曰、先生五瀬命、次三毛野命、次稻飯命、次磐余彥尊、亦號神日本磐余彥火火出見尊。
一書曰、先生彥五瀬命、次稻飯命、次神日本磐余彥火火出見尊、次稚三毛野命。
一書曰、先生彥五瀬命、次磐余彥火火出見尊、次彥稻飯命、次三毛入野命。 
ある書によると……まず彥五瀬命(ヒコイツセノミコト)が生まれ、次に稻飯命(イナイイノミコト)が生まれ、次に狹野尊(サノノミコト)…別名・神日本磐余彥尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)が産まれました。狹野(サノ)というのは少年の頃の名です。後に天下を平定し八洲(ヤシマ=日本)を納めました。それで名を神日本磐余彥尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)と変えました。
ある書によると……まず五瀬命(イツセノミコト)が産まれました。次に三毛野命(ミケイリノミコト)が産まれました。次に稻飯命(イナイイノミコト)が産まれました。次に磐余彥尊(イワレヒコノミコト)…別名神日本磐余彥尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)が産まれました。
ある書によると……まず彥五瀬命(ヒコイツセノミコト)が産まれました。次に稻飯命(イナイイノミコト)が産まれました。次に神日本磐余彥尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)が産まれました。次に稚三毛野命(ワカミケノノミコト)が産まれました。
ある書によると……まず彥五瀬命(ヒコイツセノミコト)が産まれました。次に磐余彥火火出見尊(イワレヒコホホデミノミコト)が産まれました。次に
彥稻飯命(ヒコイナイイノミコト)が産まれました。次に三毛入野命(ミケイリノノミコト)が産まれました。 
曖昧な出生
イワレヒコつまり神武天皇は神の血統を引き継ぎつつ、明らかな「人間」なのですが、この出生を見ると「創造された人物」という印象を受けます。
ちなみに、神武天皇の実在に就いては諸説入り乱れていて、実在・創造とどちらもありますが、現在の所は「実在した可能性もあるが、物証は無い」といったところです。まぁ、物証なんてなかなか出てくるものではないので、永遠の謎と成る可能性が高いです。 
 
神武天皇 

 

十五歳で太子(=日嗣の皇子)となり
神日本磐余彥天皇神武天皇
神日本磐余彥天皇、諱彥火火出見、彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊第四子也。母曰玉依姬、海童之少女也。天皇生而明達、意礭如也、年十五立爲太子。長而娶日向國吾田邑吾平津媛、爲妃、生手硏耳命。 
神日本磐余彥天皇(カムヤマトイワレヒコノスメラミコト)…諱(イミナ)は彥火火出見(ヒコホホデミ)は、彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)の第四子です。母は玉依姫(タマヨリヒメ)という海童(ワダツミ)の少女(ムスメ)です。天皇(スメラミコト)は生まれながらにして頭が良く、心が強い人物でした。15歳で太子(=日嗣の皇子)となりました。その後、日向の国の吾田邑(アタノムラ)の吾平津媛(アヒラツヒメ)を娶って妃として手硏耳命(タギシノミミノミコト)が産まれました。 
諱(イミナ)について
言霊信仰の日本人にとって「名前」とはその人物の本質にあたります。よって、一般的な名前…通称(字【アザナ】)とは別に「本当の名前」であるイミナを持っていました。当然この名前は親や目上といった限られた人物しか口にしてはいけないものです。失礼にあたるとされたからです。
またこのイミナは「死後」の名前でもあります。現代でいうと「戒名」という側面もあるってことです。
昔は漢字文化圏、つまり中国の風習とされていましたが、現在では世界各地に点在する文化で、日本にも古来からあったと思われます。 
一百七十九萬二千四百七十餘歲
及年卌五歲、謂諸兄及子等曰「昔我天神、高皇産靈尊・大日孁尊、舉此豐葦原瑞穗國而授我天祖彥火瓊々杵尊。於是火瓊々杵尊、闢天關披雲路、驅仙蹕以戻止。是時、運屬鴻荒、時鍾草昧、故蒙以養正、治此西偏。皇祖皇考、乃神乃聖、積慶重暉、多歷年所。自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歲。而遼邈之地、猶未霑於王澤、遂使邑有君・村有長・各自分疆用相凌躒。抑又聞於鹽土老翁、曰『東有美地、山四周、其中亦有乘天磐船而飛降者。』余謂、彼地必當足以恢弘大業・光宅天下、蓋六合之中心乎。厥飛降者、謂是饒速日歟。何不就而都之乎。」諸皇子對曰「理實灼然、我亦恆以爲念。宜早行之。」是年也、太歲甲寅。 
年齢が卌五歲(ヨソアマリイツツ=45歳)になったときに、イワレビコは兄たちと子供に言いました。
「昔、天津神と高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)と大日孁尊(オオヒルメムチノミコト)はこの豐葦原瑞穗國(トヨアシハラミズホノクニ)を、天祖(アマツオヤ)の彥火瓊々杵尊(ヒコホノニニギノミコト)に授けた。火瓊々杵尊(ホノニニギノミコト)は天關(アマノイワクラ)を開き、雲路(クモヂ)をかき分け、仙蹕(ミサキハライ=先駆けの神)を走らせて、地上に降りました。そのときはまだ世界は開けていなかった。草昧(ソウマイ)の世だった。その暗い世の中で、正しい道を養い、この西の偏(ホトリ)の土地を治めた。皇祖皇考(ミオヤ=父・祖父・先祖)は乃神乃聖(カミヒジリ=神であり聖人)であり、慶(ヨロコビ=結婚や出産などの祝い事)を積み、暉(ヒカリ=尊敬されるような事)を重ね、多くの年月を経た。天祖(アマツミオヤ)が降臨してから、今、一百七十九萬二千四百七十餘歲(モモヨロズトセアマリ・ナナソヨロズトセアマリ・ココノヨロズトセアマリ・フタチトセアマリ・ヨホトセアマリ・ナナソトセアマリ)だ。遥か遠くの地はまだ(天津神の)恩恵を得られていない。その地の邑(=大きい集落)には君(キミ)がいて、村(=小さい集落)には長(オサ)がいて、境界をつくって分かれて、互いに侵し合っている。ところで鹽土老翁(シオツチノオジ)から聞いたのだが、『東に美(ウマ)し国がある。青い山を四方に囲まれて、その中に天磐船(アマノイワフネ)に乗って飛んで降りた者が居る』とのこと。思うに、その土地は必ずこの大きな事業を広め、天下に威光を輝かせるに相応しい場所だろう。六合(クニ=国)の中心となるだろう。その飛び降りた者とは饒速日(ニギハヤヒ)だろう。その土地へと行って、都にしようではないか」
皇子たちは答えました。
「理實(コトワリ)灼然(イヤチコ)です(=もっともなことです)。わたしたちもそう思っていました。早く行きましょう」 
急に言い訳がましいな
イワレビコが自分の正当性を急に主張。つまり、神の子だから、機内へと向かう。なぜ機内に向かうか?それはシオツチオジが「東に良い国がある」と言うし、アメノイワフネに乗って誰かが山の上に降り立った、しかもそれはニギハヤヒという遠い親戚だから。
つまり親戚を頼って、遠いヤマトの地を目指すわけですね。かなり穿(ウガ)った見方ではありますが。意外と本当かもしれません。
そして、後にはニギハヤヒの裏切りによって土地の名士であるナガスネヒコを倒します。ニギハヤヒはナガスネヒコの妹トミヤスビネ(登美夜須毘売)を娶っていたのに、裏切ったのです。ニギハヤヒ様々ですよ。 
椎の木の竿の先を渡して
其年冬十月丁巳朔辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征。至速吸之門、時有一漁人乘艇而至、天皇招之、因問曰「汝誰也。」對曰「臣是國神、名曰珍彥、釣魚於曲浦。聞天神子來、故卽奉迎。」又問之曰「汝能爲我導耶。」對曰「導之矣。」天皇、勅授漁人椎㰏末、令執而牽納於皇舟、以爲海導者。乃特賜名、爲椎根津彥(椎、此云辭毗)、此卽倭直部始祖也。 
その年(太歳甲寅)の冬10月の5日。天皇は自ら、皇子たちと船の先導を連れて、東へと向かいました。まず、速吸之門(ハヤスイノト)にたどり着きました。そのとき一人の漁人(アマ=漁師)がいて、小舟に乗っていました。天皇(スメラミコト)はこの漁人を呼び寄せて、尋ねました。「お前は誰だ?」答えて言いました。「わたしは、国津神(地祇)です。名は珍彦(ウズヒコ)といいます。曲浦(ワニノウラ)で魚を釣っています。天神子(アマツカミノミコ)が来ると聞いて、迎えに来ました」また天皇(スメラミコト)は尋ねました。「お前は、私を案内できるか?」答えて言いました。「案内しましょう」
天皇(スメラミコト)は命じて、椎の木の竿(=船のオールのことか?)の先を渡して、皇船(ミフネ)に招き入れました。そして海の導者(ミチビキヒト=先導)となりました。このことにちなんでこの海人を椎根津彥(シヒネツヒコ)といいます。
椎は「辭毗(シヒ)」と読みます。この人物は倭直部(ヤマトアタイラ)の始祖(ハジメノオヤ)です。 
椎根津彥は神武天皇にこの後も付いて行き、「九月甲子朔戊辰(二)椎根津彥と弟猾に変装させて」で登場します。倭直(ヤマトアタイ)の先祖とされるのも、このままついていって大和に居着いたから、じゃないでしょうか。
太歳甲寅冬十月
太歳は木星のことで、木星の位置から暦を表現するという方法は、中国の史書でもなく、日本書紀独特の手法となっています。朝鮮の歴史書の三国史記の百済本紀にも同様の暦表記があるので、朝鮮の影響と言うこともありえます。
ただし、三国史記の成立は12世紀で、日本書紀の成立は8世紀と、三国史記が日本書紀の記述を参考にした可能性もありますし、仮に三国史記のネタ本として百済本紀が非常に古い史書であったとしても、このあたりはハッキリしない。
また、朝鮮史観特有の「朝鮮は発展していた」「朝鮮は正しい」が前提とした歴史観が非常に強いので、このあたりのことは、本当に眉唾です。 
菟狹津媛と天種子命
行至筑紫國菟狹。菟狹者地名也、此云宇佐。時有菟狹國造祖、號曰菟狹津彥・菟狹津媛、乃於菟狹川上、造一柱騰宮而奉饗焉。一柱騰宮、此云阿斯毗苔徒鞅餓離能宮。是時、勅以菟狹津媛、賜妻之於侍臣天種子命。天種子命、是中臣氏之遠祖也。 
筑紫國(ツクシノクニ)の菟狹(ウサ)にたどり着きました。そのとき菟狹國造(ウサノクニノミヤツコ)の祖先の菟狹津彥・菟狹津媛(ウサツヒコ・ウサツヒメ)が居ました。菟狹の川上に一柱騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)を作って、(神武天皇を)奉り、宴会をしました。
そのとき菟狹津媛(ウサツヒメ)を(神武天皇の)家臣である天種子命(アメノタネコノミコト)に娶らせました。天種子命(アメノタネコノミコト)は中臣氏の遠い祖先です。
菟狹(ウサ)は地名です。宇佐(ウサ)と読みます。一柱騰宮は阿斯毗苔徒鞅餓離能宮(アシヒトツアガリノミヤ)といいます。 
ウサツヒコとウサツヒメの関係
「ウサ」は地名、「津」は港か、もしくは「の」…英語でいうところの「of」のようなもの。彦と姫は元々は「日」「子」と「日」「女」で、その土地の統治者という意味合いを持ちます。
ところで、ウサツヒコとウサツヒメというのは、夫婦なんじゃないのか?と何となく思うのですが、ちょっと違う。例えば、邪馬台国の卑弥呼の場合、卑弥呼が女王で、その弟が補佐でした。補佐といっても、おそらくは政治権力を持っていたのは弟だったのでしょう。つまり宗教権力者が卑弥呼で、政治権力者が弟です。こういった政治構造が古代では一般的だったのかもしれません。この形式だと、古代日本の女系家族というのがなんとなく理解出来ます。表舞台(=宗教的な場面)に女性が立ち、裏方の政治は男がする。女性が表舞台に立つのは、古代では子供を産む女性の方が霊力が強いという感覚があったのでしょう。
その一方で神話では、征服した土地の「姫神」を妻に迎えるというのが一般的です。これは日本だけでなく、多神教で有名なギリシャ神話もそうです。ゼウスがやたらと浮気をするのは、ゼウスを祀る都市が他の都市を侵略していったという経緯の反映だからです。
ウサツヒメとウサツヒコが神武天皇一行を迎え、ウサツヒメが神武天皇の家臣の一人である天種子命(アメノタネコノミコト)と結ばれたというのは、史実なのかもしれませんし、侵略したという経緯が神話になったのかもしれません。神武天皇という神と人の境目の人物では、このお話がどういう意味を持っているのかは微妙というのが正直なところでしょう。 
太歳甲寅11月〜戊午年春3月
十有一月丙戌朔甲午、天皇至筑紫國岡水門。
十有二月丙辰朔壬午、至安藝國、居于埃宮。
乙卯年春三月甲寅朔己未、徙入吉備國、起行館宮以居之、是曰高嶋宮。積三年間、脩舟檝、蓄兵食、將欲以一舉而平天下也。
戊午年春二月丁酉朔丁未、皇師遂東、舳艫相接。方到難波之碕、會有奔潮太急。因以名爲浪速國、亦曰浪花、今謂難波訛也。訛、此云與許奈磨盧。
三月丁卯朔丙子、遡流而上、徑至河內國草香邑雲白肩之津。 
太歳甲寅11月
11月の9日に神武天皇は筑紫國(ツクシノクニ)の岡水門(オカノミナト=福岡県遠賀郡の遠賀川河口)に到着しました。
太歳甲寅12月
12月の27日に安芸國の埃宮(エノミヤ=広島県府中町)に滞在しました。
乙卯年春3月
乙卯年(キノトウノトシ)の春三月の6日に吉備國(キビノクニ)に入り、行館(カリミヤ=仮宮)を作って滞在しました。これを高嶋宮(タカシマノミヤ)といいます。三年滞在している間に、船を揃え、兵食(カテ)を備え、ひとたび兵を挙げて天下(アメノシタ)を平定しようと神武天皇は思っていました。
戊午年春2月
戊午年(ツチノエウマノトシ)の春2月の11日。皇師(ミイクサ)はついに東へと向かいました。舳艫(ジクロ=船首と船尾)がぶつかり合うほどに沢山の船団でした。難波之碕(ナニワノサキ)に到着すると、潮が速いところがあった。それでこの場所を浪速國(ナミハヤノクニ)といいます。また浪花(ナミハナ)といいます。今、難波と呼ばれるのはこれらが訛ったものです。
戊午年春3月
三月の10日。流れを遡(サカノボ)って、河内國(カワチノクニ)草香邑(クサカムラ)雲(アオクモ)白肩之津(シラカタノツ)に到着しました。
訛は與許奈磨盧(ヨコナマル)と読みます。 
難波はこの頃からナニワだったのですねぇ
浪(ナミ)が速(ハヤイ)で、ナミハヤ。それが徐々に訛ってナニワとなり、そこに難波という字が当てられたわけです。ところで、「ナミ」という音は日本語です。大和言葉というやつです。「ハヤ」もそうです。中国語ではありません。そこに漢字が入って来て、同じ意味を持つ「浪」=「ナミ」となったわけですが、だとすると、漢字は表意文字として入って来た事に成ります。イラストに近い感覚です。
もしかすると、古事記で送り仮名もすべて漢字の「表音文字」で表現したのは当時としては画期的なことだったのかもしれません。
朝鮮半島では漢字をまるまる受け入れたのに対して、日本は漢字を道具として利用しています。その後、日本は漢字から純粋な表音文字である「ヒラガナ」「カタカナ」を生み出します。 
戊午年夏四月退却の判断
夏四月丙申朔甲辰、皇師勒兵、步趣龍田。而其路狹嶮、人不得並行、乃還更欲東踰膽駒山而入中洲。時、長髄彥聞之曰「夫天神子等所以來者、必將奪我國。」則盡起屬兵、徼之於孔舍衞坂、與之會戰。有流矢、中五瀬命肱脛。皇師不能進戰、天皇憂之、乃運神策於沖衿曰「今我是日神子孫而向日征虜、此逆天道也。不若、退還示弱、禮祭神祇、背負日神之威、隨影壓躡。如此、則曾不血刃、虜必自敗矣。」僉曰「然。」於是、令軍中曰「且停、勿須復進。」乃引軍還。虜亦不敢逼、却至草香之津、植盾而爲雄誥焉。(雄誥、此云烏多鶏縻。)因改號其津曰盾津、今云蓼津訛也。初、孔舍衞之戰、有人隱於大樹而得兔難、仍指其樹曰「恩如母。」時人、因號其地曰母木邑、今云飫悶廼奇訛也。 
戊午年夏四月
夏四月の九日。皇師(ミイクサ)は兵を整えて、歩いて龍田(タツタ)に向かいました。その道は狭く険しく、人が並んで行けないほどでした。そこで引き返して、東の膽駒山(イコマヤマ)を越えて、中洲(ウチツクニ=大和)に入ろうとしました。
そのとき長髄彥(ナガスネヒコ)が(神武天皇が大和へ来るという話を)聞いて言いました。「それは天神子等(アマツカミノミコタチ)が来るのは、我が国を奪おうとしているに違いない」それで(長髄彦は)侵略に対する兵を集めて、孔舍衞坂(クサエノサカ)で迎え撃ち、戦いになりました。その戦いで流れ矢が神武天皇の兄の五瀬命(イツセノミコト)の肱脛(ヒジハギ=ヒジのこと)に当たりました。皇師(ミイクサ)はこれ以上、進軍し戦うことは出来ませんでした。そこて天皇(スメラミコト)は残念に思い、神策(アヤシキハカリゴト=名案)を沖衿(ミココロノウチ=心の中)で廻らし、言いました。「今、わたしは日の神の子孫(ウミノコ)なのに、日に向いて敵に向かったのは、天道(アメノミチ)に逆らうことだ。ここは一旦、退却し弱いと思わせ、神祇をよくよく祀り、背に日の神の勢いを背負い、日陰が挿すように敵を襲い倒そう。そうすれば剣を血で汚さずとも、敵は必ず自然と破れるだろう」
皆(=部下)は、言いました。「その通りです」そこで軍中(イクサ)に令(ミコトノリ)して言いました。「しばらく止まれ、もう進軍するな!」すぐに軍(イクサ)を率いて退却しました。敵もまた攻めて来なかった。(神武天皇の軍は)退却して草香之津(クサカノツ)に到着して、盾を揃え、並べ、雄誥(オタケビ)をあげました。
それでその津(=港)を盾津(タテツ)と名付けて言うようになりました。今は蓼津(タデツ)というのは訛ったからです。初めの孔舍衞(クサエ)の戦いで、ある人物が大きな木に隠れて難を逃れました。それでその木を指して「母のように恩がある」といいました。
それで世の人はその場所を「母木邑(オモノキノムラ)」といいます。今、飫悶廼奇(オモノキ)というのは、それが訛ったものです。
雄誥は烏多鶏縻(オタケビ)といいます。 
難波から上陸した神武天皇は大和を目指します。ちなみに「ヤマト」という言葉は「山門」で、周囲が山に囲まれている地形の事で、本来は特定の土地を指した言葉ではありませんでした。
そんな大和を目指すのですが、すでに大和を支配していた長髄彦(ナガスネヒコ)が反抗します。当然です。侵略に対して兵を立てて守るのは極々当たり前のことです。それで神武天皇は破れてしまいます。
もともと海を通って来た「海のプロ」なので、陸での戦いに不慣れだったのかもしれません。この記述で初めて「歩いて移動」しているくらいです。
そこで五瀬命(イツセノミコト)が負傷し、太陽を背にすれば勝てるに違いないという言い訳をして、一旦退却します。まぁ、戦争では太陽を背にして戦うというのはセオリーですから、間違ってはいません。しかし「東征」なのだから、ここに至るまでずっと太陽を背にしていたんですよね。まぁ、戦闘はここが初めてなので、その突っ込みには意味が無いのですが。
オタケビとは
隼人のところでも、「犬のように吠える」とは「魔を祓う」という意味があったわけで、単に鼓舞する意味よりも、敗戦という「穢れ」を祓う儀式だったのではないか?とも。 
五月丙寅朔癸酉五瀬命の雄叫びと死
五月丙寅朔癸酉、軍至茅淳山城水門。(亦名山井水門。茅淳、此云智怒。)時五瀬命矢瘡痛甚、乃撫劒而雄誥之曰(撫劒、此云都盧耆能多伽彌屠利辭魔屢)「慨哉、大丈夫慨哉、此云宇黎多棄伽夜被傷於虜手、將不報而死耶。」時人因號其處、曰雄水門。進到于紀伊國竈山、而五瀬命薨于軍、因葬竈山。 
五月の八日。イワレビコの軍隊は茅淳(チヌ)の山城(ヤマキ)の水門(ミナト)…別名を山井水門(ヤマノイノミナト)に到着しました。その時、五瀬命(イツセノミコト)の矢の傷がとても痛みました。撫劒(ツルギノタカミトリシバリ=剣の柄を握って)して雄叫びしました。
「なんてことだ!!!!男が、敵に傷を負わされて、やり返さずに死んでしまうのか!」世の人たちは、それからこの(イツセ命が雄叫びした)場所を「雄水門(オノミナト)」と呼ぶようになりました。軍を進めて紀伊國の竃山(カマヤマ)に到着したとき、五瀬命(イツセノミコト)は亡くなってしまいました。なので竈山で葬りました。
茅淳は智怒(チヌ)と読みます。撫劒は都盧耆能多伽彌屠利辭魔屢(ツルギノタカミトリシバル)と読みます。
古事記の対応箇所 / 紀伊国の男乃水門で死亡 
稻飯命と三毛入野命の死
六月乙未朔丁巳、軍至名草邑、則誅名草戸畔者。戸畔、此云妬鼙。遂越狹野而到熊野神邑、且登天磐盾、仍引軍漸進。海中卒遇暴風、皇舟漂蕩、時稻飯命乃歎曰「嗟乎、吾祖則天神、母則海神。如何厄我於陸、復厄我於海乎。」言訖、乃拔劒入海、化爲鋤持神。三毛入野命、亦恨之曰「我母及姨並是海神。何爲起波瀾、以灌溺乎。」則蹈浪秀而往乎常世ク矣。 
6月23日。神武天皇の軍隊は名草邑(ナクサノムラ=和歌山市名草山)に到着しました。それで名草戸畔(ナクサノトベ)という人物を殺しました。
狹野(サノ=和歌山県新宮市佐野)を越えて熊野の神邑(ミワノムラ=新宮市三輪崎)に到着しました。また天磐盾(アメノイワタテ=新宮市熊野速玉神社の神倉山か?)に登り、軍を率いて進みました。その後、海で暴風雨に遭い、皇舟(ミフネ=天皇の乗った舟)は波間に漂いました。そのとき稻飯命(イナイノミコト)は嘆き悲しんで言いました。
「あぁ!わたしの祖先は天神(アマツカミ)で、母は海神(ワダツミ)です。どうしてわたしは陸で酷い目に逢い、海でも酷い目に逢うのか!!!」そう言い終わると、剣を抜いて海に入って鋤持神(サイモチノカミ)となりました。
三毛入野命(ミケイリノノミコト)は恨んで言いました。「わたしの母と叔母は海神(ワダツミ)です。どうして波を起こして溺れさせようとするのか!!」そういって波を踏んで常世の国へと渡りました。
戸畔は妬鼙(トベ)と読みます。
古事記の対応箇所 / ウガヤフキアエズの子供達 / 熊野で意識を失う 
まだまだ続く艱難辛苦
長男のイツセ命が死んでも、まだ不幸は続きます。名草村という場所でそこの権力者を倒したのですが、その土地では物足りなかったのか、もしくはその土地の住人に受け入れてもらえなかったのか?、ともかく旅は続きます。
物語は「大和」へと行き着くと我々は知っているので、ここは「途中」だと思っていますが、神武天皇一行は九州を出たときには「どこか良い所を」と思っていたはずです。神武天皇は隼人出身の海洋民族ですから、この名草邑(ナクサムラ)や神邑(ミワムラ)といった「海に近い」場所が、適しているハズです。ところが、拒否されたか、すでに近隣に強い氏族が居たのか…ともかく諦めざるを得なかった。それで旅は続きます。
稻飯命と三毛入野命の死
古事記ではハッキリと描かれなかった二人の死が書かれています。二人の名前は「稲」と「ミケ=食料」から付けられた名前で、稻飯命が海に身を投げて変化した神は鋤持神(サイモチ)…鋤(スキ)という文字が入っているようにやはり農業関係の神です。 
高倉下の夢
天皇獨與皇子手硏耳命、帥軍而進、至熊野荒坂津亦名丹敷浦、因誅丹敷戸畔者。時、神吐毒氣、人物咸瘁、由是、皇軍不能復振。時彼處有人、號曰熊野高倉下、忽夜夢、天照大神謂武甕雷神曰「夫葦原中國猶聞喧擾之響焉。(聞喧擾之響焉、此云左揶霓利奈離。)宜汝更往而征之。」武甕雷神對曰「雖予不行、而下予平國之劒、則國將自平矣。」天照大神曰「諾。(諾、此云宇毎那利。)」時武甕雷神、登謂高倉下曰「予劒號曰韴靈。(韴靈、此云赴屠能瀰哆磨。)今當置汝庫裏。宜取而獻之天孫。」高倉下曰「唯々」而寤之。明旦、依夢中教、開庫視之、果有落劒倒立於庫底板、卽取以進之。 
神武天皇は一人息子の手硏耳命(タギシノミミノミコト)と軍を率いて進み、熊野荒坂津(クマノアラサカツ)に到着しました。別名を丹敷浦(ニシキノウラ)と言います
そこで丹敷戸畔(ニシキトベ)という者を殺しました。その時、神が毒を吐いて、兵士もモノも全部、病んでしまいました。これで、天皇の軍隊は元気がなくなりました。この土地にある人が居ました。その人の名前は熊野高倉下(クマノノタカクラジ)といいます。熊野高倉下(クマノノタカクラジ)は夢を見ました。夢の中で天照大神(アマテラスオオカミ)が武甕雷神(タケミカヅチ)に言っていました。「その葦原中国(アシハラナカツクニ)はまだひどく騒がしく、乱れている。あなた(=タケミカヅチ)がまた行って静かにさせなさい」
武甕雷神(タケミカヅチ)は答えました。「わたしが行かなくとも、わたしが国を平定した『剣』を降ろせば、すぐに国は静かになりますでしょう」天照大神は言いました。「そうするが良い」
武甕雷神(タケミカヅチ)は高倉に言いました。「わたしのこの剣は名付けて韴靈(フツノミタマ)と言う。今、この剣をお前の蔵の中に置いておく。これを受け取って天孫に献上しなさい」
高倉下(タカクラジ)は言いました。「はい。分かりました」答えると、目が覚めました。翌日に夢の教えのとおりに、蔵を開けてみると、おそらく天から落ちて来たとおぼしき「剣」が、蔵の床の板に突き刺さっていました。
すぐに剣を取って、神武天皇に献上しました。
聞喧擾之響焉は左揶霓利奈離(サヤゲリナリ)と読みます。諾は宇毎那利(ウベナリ)と読みます。韴靈は赴屠能瀰哆磨(フツノミタマ)といいます。 
ヤタノカラスと日臣と道臣
于時、天皇適寐。忽然而寤之曰「予何長眠若此乎。」尋而中毒士卒、悉復醒起。既而皇師、欲趣中洲、而山中嶮絶、無復可行之路、乃棲遑不知其所跋渉。時夜夢、天照大神訓于天皇曰「朕今遣頭八咫烏、宜以爲ク導者。」果有頭八咫烏、自空翔降。天皇曰「此烏之來、自叶祥夢。大哉、赫矣、我皇祖天照大神、欲以助成基業乎。」是時、大伴氏之遠祖日臣命、帥大來目、督將元戎、蹈山啓行、乃尋烏所向、仰視而追之。遂達于菟田下縣、因號其所至之處、曰菟田穿邑。穿邑、此云于介知能務羅。于時、勅譽日臣命曰「汝忠而且勇、加能有導之功。是以、改汝名爲道臣。」 
神武天皇はよく眠っていました。すぐに目を覚まして言いました。「わたしはどうして、こんなに長く眠っていたのか?」そう言うと、毒に当たっていた兵士達もすぐに目を覚まして起きました。それで皇軍は中洲(ウチツクニ=大和のこと)へと向かおうとしました。しかし山が険しくて通る道がありません。それで行ったり来たりしていたのですが、それでも山を越えることが出来ません。その夜に夢を見ました。天照大神は天皇に教えました。「わたしが今から頭八咫烏(ヤタノカラス=ヤタガラス)を送ろう。それを郷導者(クニノミチビキヒト)としなさい」頭八咫烏(ヤタノカラス)が空より駆け下りて来ました。
天皇は言いました。「この鳥がやって来ると、夢にお告げがあった。天照大神は偉大であり、すばらしい神だ。わたしの祖先の天照大神は天下を治めるこの仕事を助けようと思ってらっしゃる」
この時、大伴氏(オオトモノウジ)の祖先の日臣命(ヒオミノミコト)は大來目(オオクメ)を率いて、元戎(オオツワモノ)督將(イクサノキミ=将軍の意味)として、山を踏み開いて進み、鳥(=ヤタノカラス)の向かう所を探し、見上げて追いかけました。
ついに菟田下縣(ウダノシモツコオリ)に達しました。道を穿(ウガ=かき分けて進むこと)ってたどり着いたので菟田穿邑(ウダノウガチノムラ)といいます。
神武天皇は日臣命(ヒノオミノミコト)を褒めて言いました。「お前は、忠心があり、勇敢。それに先導をつとめた。これより、お前の名前を改めて道臣(ミチノオミ)としよう」
穿邑は于介知能務羅(ウガチノムラ)といいます。 
ヤタガラスは三本足ではない
日本のサッカーのマークに三本足のカラスが描かれていますが、古事記・日本書紀には「三本足」という記述は一切ありません。三本足というカラスは、『中国の太陽神話』の『楚辞』天問篇に見られます。中国の神話と日本のヤタガラスが関係しているかは、ハッキリしない。 
兄猾と弟猾
秋八月甲午朔乙未、天皇使徵兄猾及弟猾者。(猾、此云宇介志。)是兩人、菟田縣之魁帥者也。(魁帥、此云比ケ誤廼伽瀰。)時、兄猾不來、弟猾卽詣至、因拜軍門而告之曰「臣兄々猾之爲逆狀也、聞天孫且到、卽起兵將襲。望見皇師之威、懼不敢敵、乃潛伏其兵、權作新宮而殿內施機、欲因請饗以作難。願知此詐、善爲之備。」天皇卽遣道臣命、察其逆狀。時道臣命、審知有賊害之心而大怒誥嘖之曰「虜、爾所造屋、爾自居之。」(爾、此云飫例。)因案劒彎弓、逼令催入。兄猾、獲罪於天、事無所辭、乃自蹈機而壓死、時陳其屍而斬之、流血沒踝、故號其地、曰菟田血原。已而弟猾大設牛酒、以勞饗皇師焉。天皇以其酒宍、班賜軍卒、乃爲御謠之曰、謠、此云宇哆預瀰。 
秋八月の二日。天皇は兄猾(エウカシ)と弟猾(オトウカシ)を呼び寄せました。
この二人は菟田縣(ウダノアガタ=地名)の魁帥(ヒトゴノカミ=長)です。
ところが兄猾(エウカシ)は現れませんでした。弟猾(オトウカシ)だけがすぐにやって来ました。そして軍門(=軍の入り口)で拝んで言いました。「わたくしめの兄の兄猾(エウカシ)は逆(サカシマナルワザ=反逆の心)を持っています。天孫がこの土地に来ると聞いて、すぐに兵を集めて襲おうとしていますた。しかし、遠くから皇軍の勢いを見ていると、真正面から当たっても勝てないと思って、密かに兵を隠して、仮の宮殿を建てて、宮殿の中に(天皇を殺す)罠を起き、宴会を開いて、だまし討ちをしようとしています。お願いですから、このような企みがあると知った上で、よく準備してください」
天皇はすぐに道臣命(ミチノオミノミコト)を派遣して、その逆(サカシマゴト=反逆)の状況を調べました。それで道臣命(ミチノオミノミコト)は兄猾(エウカシ)に敵対すると心があることを確信して、とても怒り、兄猾(エウカシ)に叫びました。
「野郎!!お前が作った小屋に、お前自らが入ってみろ!」
道臣命(ミチノオミノミコト)は剣の柄を握り、弓を引いて、兄猾(エウカシ)を追い立て小屋に無理矢理に脅して入れた。兄猾(エウカシ)は天に罪を見抜かれて、良い訳も出来ませんでした。兄猾(エウカシ)は自分から小屋で罠を踏んで、死んでしまいました。そのときに死体を引っ張り出して斬ったところ、血が流れ出、踝(ツブナギ=くるぶしのこと)まで浸かるほどだった。それで、この土地を菟田血原(ウダノチハラ)と言います。
弟猾(オトウカシ)は沢山の牛の肉と酒を献上して、皇軍をねぎらう宴会を開きました。天皇はこれらの酒と肉で兵に分けました。
それとき歌を歌いました。
猾を「宇介志(ウカシ)」と読みます。魁帥は比ケ誤廼伽瀰(ヒトゴノカミ)と言います。爾は飫例(オレ)と読みます。
古事記の対応箇所 / 兄宇迦斯・弟宇迦斯 / 訶夫羅前 / エウカシの罠と謀略と密告 / 道臣命と大久米命 / 宇陀の血原 
來目歌
于儾能多伽機珥辭藝和奈陂蘆和餓末菟夜辭藝破佐夜羅孺伊殊區波辭區旎羅佐夜離固奈瀰餓那居波佐麼多智曾麼能未廼那鶏句塢居氣辭被惠禰宇破奈利餓那居波佐麼伊智佐介幾未廼於朋鶏句塢居氣儾被惠禰 
菟田の高城(タカキ)に 鴫(シギ)罠張る 我が待つや 鴫は障(サヤ)らず いすくはし 鷹等(クヂラ)障(サヤ)り 前妻(コナミ)が 肴(ナ)乞(コ)はさば 立ち稜麦(ソバ)の 実の無けくを 幾多聶(コキダヒ)ゑね 後妻(ウワナリ)が 肴乞はさば 斎賢木(イチサカキ) 実の多けくを 幾多聶ゑね
意訳 / 宇陀の高城にシギ(鳥の種類)を取る罠を仕掛けたら、シギじゃなくて、鷹が掛かった。
鷹をクヂと言うので鷹等で「クジラ」、あの海のクジラと引っ掛けている駄洒落
古い女房がおかずをねだったら、蕎麦の実みたいに栄養の無い所を削り取って食べさせよう。若い女房がおかずをねだったら、イチサカキの実のように栄養のあるところを削り取って食べさせよう。
古事記の対応箇所 / えーシヤシコヤ
古事記には合いの手のような「エーシコヤ、エーシコヤ」という記述があります。これがあるので古事記は「民謡」っぽい。 
シギとクジラ
シギの罠を仕掛けたら、クジラが掛かった。という古代期最高のジョーク。というのはともかく、日本人が山の獲物と海の獲物の両方を日常的に得ていたからこそのジョークです。
ちなみに「イスクハシ」はクジラに掛かる枕詞と思われます。語源は不明。このクジラに関しては「クジラ」ではなく「鷹等(クチラ)」で「鷹」という説も。
蕎麦とイチサカキ
蕎麦は土地が痩せていても実がなるのですが、実が小さく粉のように小さく、『蕎麦のように実がない』という書き方はまさに、という感じ。イチサカキは現在ではヒサカキのこととされますが、サカキは常緑樹を指していて、この古代でのイチサカキは別の植物を指しているのではないかとも。
この二つの植物を対比させ、古い女房には栄養が少ないところを、新しくて若い女房には栄養価の多い部分を食べさせます。これはジョークもあるでしょうが、子供を産む確率の高い「若い女房」を優先させたという意味でしょう。それだけ日本が古代から「子供優先主義」だったためではないかと。 
吉野の先住民
是謂來目歌。今樂府奏此歌者、猶有手量大小、及音聲巨細、此古之遺式也。是後、天皇欲省吉野之地、乃從菟田穿邑、親率輕兵巡幸焉。至吉野時、有人出自井中、光而有尾。天皇問之曰「汝何人。」對曰「臣是國神、名爲井光。」此則吉野首部始祖也。更少進、亦有尾而披磐石而出者。天皇問之曰「汝何人。」對曰「臣是磐排別之子。」(排別、此云飫時和句。)此則吉野國樔部始祖也。及緣水西行、亦有作梁取魚者。(梁、此云揶奈。)天皇問之、對曰「臣是苞苴擔之子。」(苞苴擔、此云珥倍毛菟。)此則阿太養鸕部始祖也。 
これを來目歌(クメウタ)といいます。
現在、樂府(オオウタドコロ)でこの歌を演奏するときには、手を大きく打ったり、小さく打ったりして拍子を取って、太い声や細い声で歌います。これは古(イニシエ)から残っているやり方です。
この後に神武天皇は、吉野の地を見たいと思い、菟田穿邑(ウダノウガチノムラ)の地から僅かな兵を率いて出発しました。吉野に到着するときに、泉の中から人が出て来ました。その人は光っていて尾がありました。
天皇は聞きました。「お前は誰だ?」答えました。「わたしは国神(クニツカミ)です。名前を井光(イヒカ)といいます」この人物が吉野首(ヨシノノオビト)などの始祖です。更に進むと、また尾があって磐岩(イワ)を押し分けて現れました。そこで天皇が聞きました。「お前は誰だ?」答えました。「わたしは磐排別(イワオシワケ)の子です」
この人物は後の吉野國樔(ヨシノノクズ)などの祖先です。吉野川に沿って西に進んで行きました。すると梁(ヤナ=魚を捕る罠)を作って魚を捕る人が居ました。
天皇は聞きました。その人は答えました。「わたしは苞苴擔(ニエモツ)の子です」
排別は飫時和句(オシワク)と読みます。梁は揶奈(ヤナ)と読みます。苞苴擔は珥倍毛菟(ニエモツ)と読みます。この人物は阿太養鸕(アダノウカイ)などの始祖です。
古事記の対応箇所 / 吉野川の鵜飼 / 国津神のヰヒカ / その人は岩を押し分けて / 吉野国巣の祖先 
天平瓮と嚴瓮と酒と嚴呪詛
九月甲子朔戊辰、天皇陟彼菟田高倉山之巓、瞻望域中。時、國見丘上則有八十梟帥(梟帥、此云多稽屢)、又於女坂置女軍、男坂置男軍、墨坂置焃炭。其女坂・男坂・墨坂之號、由此而起也。復有兄磯城軍、布滿於磐余邑。(磯、此云志。)賊虜所據、皆是要害之地、故道路絶塞、無處可通。天皇惡之、是夜自祈而寢、夢有天神訓之曰「宜取天香山社中土(香山、此云介遇夜摩)以造天平瓮八十枚(平瓮、此云毗邏介)幷造嚴瓮而敬祭天神地祇(嚴瓮、此云怡途背)、亦爲嚴呪詛。如此、則虜自平伏。」(嚴呪詛、此云怡途能伽辭離。) 
9月5日。神武天皇は菟田(ウダ)の高倉山(タカクラヤマ)の嶺に登って、国中を眺めました。そのときに国見丘(クニミノオカ)の上に敵の八十梟帥(ヤソタケル)が居ました。
また、八十梟帥(ヤソタケル)は女坂(メサカ)に女軍(メイクサ=女子の軍隊)を置きました。男坂(オサカ)に男軍(オイクサ=男の軍隊)を置きました。墨坂(スミサカ)に焃炭(オコシズミ=炭火)を置きました。この女坂・男坂・墨坂の地名はこういう由来です。また敵対する兄磯城軍(エシキノイクサ)が磐余邑(イワレノムラ)に大勢、滞在していました。
賊虜(アタ=敵軍)が陣を張った所は、要衝でしたから、道路は塞がって通ることが出来ません。神武天皇は困りました。この晩、天皇は誓約(ウケイ)をして眠りました。夢に天神(アマツカミ)が現れ、言いました。「天香山(アマノカグヤマ)の神社の土(ハニ)を取って、天平瓮(アマノヒラカ=酒杯)を八十枚作り、嚴瓮(イツヘ=酒瓶)を造り、天津神と国津神を祀り、嚴呪詛(イツカノカシリ=強い呪い)をかけなさい。それで敵軍は自然と従うだろう」
梟帥は多稽屢(タケル)と読みます。磯は志(シ)と読みます。香山は介遇夜摩(カグヤマ)と読みます。平瓮は毗邏介(ヒラカ)と読みます。嚴呪詛は怡途能伽辭離(イツノカシリ)と読みます。 
ヤソタケルのヤソは「沢山」という意味で、タケルは「強い」で「沢山の強い男」という意味とされます。ですが、次のページに「磯城のヤソタケル」「赤銅のヤソタケル」と出て来ることを考えるとヤソタケルは「とても強い男」という意味で、名前ではなく「武人」といった意味合いかと思われます。
誓約と天皇
例えば、戦争の前に「わたしが戦争に勝つなら、狩りがうまく行く」と宣言してから、狩りをします。その狩りの獲物の次第で戦争の吉凶を占うといったものが「誓約」です。
誓約は言葉が現実化する「言霊信仰」を根本にしています。霊威が強いほどに言葉は現実化しやすいので、誓約によって自分の霊威を計るわけです。
ちなみに誓約に負けたらどうなるか?
神功皇后が朝鮮征伐から帰って来ると本妻の息子たちが皇后と応神天皇を殺そうと仕掛けて来ます。その仕掛けるまえに誓約をして狩りで吉凶を占っています。結果はなんと「逆にイノシシに食い殺される」というもの。 
椎根津彥と弟猾に変装させて
天皇、祇承夢訓、依以將行、時弟猾又奏曰「倭國磯城邑、有磯城八十梟帥。又高尾張邑(或本云、葛城邑也)、有赤銅八十梟帥。此類皆欲與天皇距戰、臣竊爲天皇憂之。宜今當取天香山埴、以造天平瓮而祭天社國社之神、然後擊虜則易除也。」天皇、既以夢辭爲吉兆、及聞弟猾之言、益喜於懷。乃使椎根津彥、著弊衣服及蓑笠、爲老父貌、又使弟猾被箕、爲老嫗貌、而勅之曰「宜汝二人到天香山潛取其巓土而可來旋矣。基業成否、當以汝爲占。努力愼歟。」 
神武天皇はまさに夢の教えを聞いて、その通りにしようとしました。すると弟猾(オトウカシ)が天皇に言いました。
「倭国(ヤマトノクニ)の磯城邑(シキノムラ)には磯城八十梟帥(シキノヤソタケル)がいます。また、高尾張邑(タカオハリノムラ)には赤銅八十梟帥(アカガネノヤソタケル)がいます。これらの者たちは皆、天皇に抵抗して戦おうと思っています。密かに天皇がこれに困っているのを知り、わたしも心配していました。そこで天香山(アマノカグヤマ)の土を取って、それで天平瓮(アマノヒラカ)を作って、天社(アマツヤシロ)や国社(クニツヤシロ)の神を祀り、その後に敵を討てば、簡単に撃破出来るでしょう」
天皇は弟猾(オトウカシ)がそう進言する前に、既に夢で神の言葉を受けて良い兆しと考えていましたから、その弟猾(オトウカシ)の言葉でますます喜びました。
すぐに椎根津彥(シイネツヒコ)を呼んで卑しい服を着せ、箕笠を身につけさせ、老人に変装させました。また弟猾(オトウカシ)には蓑を着せ、老女に変装させました。
そして命令しました。「お前たち二人は、天香山(アマノカグヤマ)に行き、密かにその嶺の土を取って来てくれ。私の基業(モトイノワザ…国づくりのこと)が旨く行くかどうかの正否を占うことにする。油断するなよ」 
椎根津彥
椎根津彥は神武天皇が九州を出発して速吸之門で出会った漁をしていた人「珍彦(ウズヒコ)」が改名した名前です。倭直部(ヤマトアタイ)の先祖とされます。 
誓約による飴作りと漁
是時、虜兵滿路、難以往還。時、椎根津彥、乃祈之曰「我皇當能定此國者行路自通、如不能者賊必防禦。」言訖徑去。時、群虜見二人、大咲之曰「大醜乎大醜、(此云鞅奈瀰爾句老父老嫗)。」則相與闢道使行、二人得至其山、取土來歸。於是、天皇甚ス、乃以此埴、造作八十平瓮・天手抉八十枚(手抉、此云多衢餌離嚴瓮)、而陟于丹生川上、用祭天神地祇。則於彼菟田川之朝原、譬如水沫而有所呪著也。天皇又因祈之曰「吾今當以八十平瓮、無水造飴。飴成、則吾必不假鋒刃之威、坐平天下。」乃造飴、飴卽自成。又祈之曰「吾今當以嚴瓮、沈于丹生之川。如魚無大小悉醉而流、譬猶范t之浮流者艨A此云磨紀、吾必能定此國。如其不爾、終無所成。」乃沈瓮於川、其口向下、頃之魚皆浮出、隨水噞喁。 
このとき敵の兵が沢山居て、老夫婦に変装していても天香山(アマノカグヤマ)の土を取りに行くのは難しかった。それで椎根津彥(シイネツヒコ)は誓約をしました。「わたしの皇(オオキミ)がこの国を治めるべきならば、道を当然のように通れるだろう!!もし治められないならば、敵は私たちを邪魔するだろう!」言い終わって、ただ進みました。
すると群れた敵が二人(=椎根津彥と弟猾)を見て大笑いして言いました。「なんてみっともない爺さんと婆さんなんだ!!」それで道を開けて、二人を通しました。二人はその山に到着して土を取って帰りました。
天皇はとても喜び、すぐにこの土で八十平瓮(ヤソヒラカ)、天手抉(アマノタクジリ)を80枚、嚴瓮(イツヘ)を作って丹生(ニウ)の河の上流に登って、天津神や国津神を奉って、菟田川(ウダガワ)の朝の河原に水の泡のように(敵軍が儚いものになる)呪いを掛けて、浸けました。
天皇はまたここで誓約をしました。「わたしは今、八十平瓮(ヤソノヒラカ)で水無しに飴(タガネ=アメ)を作ろう。飴が出来たならば、私は必ず武力を使わずに天下を平定できるだろう」
それで飴を作りました。飴が自然と出来ました。
また誓約をしました。「わたしは今、嚴瓮(イツヘ)を丹生之川(ニウノカワ)に沈めよう。もし魚の大小にかかわらず、マキ(=植物名)の葉っぱが流れるように酔っぱらって浮かび上がって流れたら、私は必ずこの国を治めるだろう。もし、そうならなかったら全ては失敗する」
すぐに瓮(ヘ)を川に沈めました。その瓶の口が下に向きました。
しばらくして、魚が皆浮かび上がり、水面のまにまに噞喁(アギト=魚が水面に口を出してパクパクすること)しました。 

どうやら米から作るもので、現在の飴とは違うものですが、それでも「甘いもの」を求める感覚があったのかなとも。それにしてもどうして、天皇が「飴」を作るのか?杯と酒瓶をつくり、今度は飴。
日本では神のご機嫌を取るということが政治の大きな仕事でした。「政」と書いて「まつりごと」と読むのはそのためです。ではご機嫌を取る為に何をするか?というと、踊ったり、歌を歌ったり、神楽だったり、相撲だったり、そういう楽しい事をすれば、機嫌が良くなって、天変地異が無くなり、稲が沢山実ると考えていた訳です。
その機嫌を取る方法の一つが「料理」でした。
料理がおいしいと人間も感動しますが神様も感動します。だから調理は、世界を安定させる大事な技能でした。コックは世界を変える力がったのです。その大事な仕事を天皇も関わっていた。というか、天皇という仕事は神を祀る事、その中に料理も当然ながら入っているということでしょう。
このページでの飴と魚はこの料理を重視する古代の感覚のためではないかと。 
嚴媛と名付ける
時、椎根津彥、見而奏之。天皇大喜、乃拔取丹生川上之五百箇眞坂樹、以祭諸神。自此始有嚴瓮之置也。時勅道臣命「今、以高皇産靈尊、朕親作顯齋。(顯齋、此云于圖詩怡破毗。)用汝爲齋主、授以嚴媛之號。而名其所置埴瓮爲嚴瓮、又火名爲嚴香來雷、水名爲嚴罔象女罔象女、此云瀰菟破廼迷、糧名爲嚴稻魂女稻魂女、此云于伽能迷、薪名爲嚴山雷、草名爲嚴野椎。」 
椎根津彥(シイネツヒコ)はこれ(=魚が浮かび上がった事)を見て報告しました。
天皇はとても喜び、すぐに丹生川の川上の五百箇眞坂樹(イホツノマサカキ=よく茂ったマサカキ)を抜き取り、神々に祀りました。これ以降、神に嚴瓮(イツヘ)を神に供えるようになりました。
天皇は道臣命(ミチノオミノミコト)に命令しました。
「今、高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)を私自らが、祀ろう。お前(=道臣命)を齋主(イワイノヌシ=祀るもの…神主のこと)として、嚴媛(イツヒメ)と名付けよう。この土の瓶(カメ)を嚴瓮(イツヘ)としよう。この火の名前を嚴香來雷(イツノカグツチ)としよう。水の名を嚴罔象女(イツノミツハノメ)としよう。食べ物の名前を嚴稻魂女(イツノウカノメ)としよう。薪の名前を嚴山雷(イツノヤマツチ)としよう。草の名前を嚴野椎(イツノヅチ)としよう」 
あ、女だったんだ、道臣命、つまり元「日臣命」は女だったんですね。ちなみに道臣命は「大伴連」の祖先とされます。 
神風の伊勢の海の大石にやい這い廻る細螺
冬十月癸巳朔、天皇嘗其嚴瓮之粮、勒兵而出。先擊八十梟帥於國見丘、破斬之。是役也、天皇志存必克、乃爲御謠之曰、
伽牟伽筮能伊齊能于瀰能於費異之珥夜異波臂茂等倍屢之多儾瀰能之多儾瀰能阿誤豫阿誤豫之多太瀰能異波比茂等倍離于智弖之夜莽務于智弖之夜莽務 
冬10月の1日に天皇はその嚴瓮(イツヘ=土器の皿)の粮(オモノ=食べ物)を食べ、兵を整えて出発しました。まず八十梟帥(ヤソタケル)を國見丘(クニミノオカ)で撃破して、斬り殺しました。この役(エダチ=戦い)で神武天皇には必ず勝利する意気込みがありました。そこで歌を歌いました。
神風の伊勢の海の 大石にやい這い廻る細螺(シタダミ)の細螺の 吾子(アゴ)よ吾子よ 細螺のい這い廻り撃ちして止まむ撃ちして止まむ
意訳 / 神風の吹く伊勢の海の、大きな石に這い廻る、小さな扁螺(キサゴ=巻貝の一種)よ。扁螺よ。お前たち!お前たち!!扁螺みたいに這い廻り、敵を撃ち取ってやろう!撃ち取ってやろう! 
神風の吹く伊勢
神風の…というのは伊勢の枕詞です。伊勢には風が吹き込むというのが古代の日本人の常識だったのでしょう。伊勢は貿易港という性質もあったんじゃないか?と。サルタヒコもこの辺りの神さまですし。なぜ小さな貝を戦争に例えるの?もっと強いもので例えればいいのに。小さいし、弱そうだし、早くもないし、なぜ?
実際、料理担当の久米氏が同時に軍事担当ですし、天皇はこの前の段で河原で飴を作っています。これから戦争ってのに呑気な話です。またおいしい食材が取れる地域が神社の格でも優遇されている傾向もあります。それで「貝」で例えたのではないかと。貝っていい出汁が取れますからね。 
道臣命の密命と歌
謠意、以大石喩其國見丘也。既而餘黨猶繁、其情難測、乃顧勅道臣命「汝、宜帥大來目部、作大室於忍坂邑、盛設宴饗、誘虜而取之。」道臣命、於是奉密旨、掘窨於忍坂而選我猛卒、與虜雜居、陰期之曰「酒酣之後、吾則起歌。汝等聞吾歌聲、則一時刺虜。」已而坐定酒行、虜不知我之有陰謀、任情徑醉。時道臣命、乃起而歌之曰、
於佐箇廼於朋務露夜珥比苔瑳破而異離烏利苔毛比苔瑳破而枳伊離烏利苔毛瀰都瀰都志倶梅能固邏餓勾騖都都伊異志都々伊毛智于智弖之夜莽務 
歌の心は大きな石を国見丘に例えています。(既に敵は撃破したのですが)残りの敵がまだ多くて、その数が解りませんでした。そこで密かに道臣命(ミチノオミノミコト)に命じました。
「お前は大來目部(オオクメラ)を引き連れて、大室(オオムロ)を忍坂邑(オシサカノムラ)に作り、そこで宴饗(トヨノアカリ=宴会のこと)を盛大に催して、敵を誘い寄せて討ち取れ」
道臣命(ミチノオミノミコト)は密命を受けて、忍坂(オシサカ)を掘って室(ムロ)を立てて、勇猛な兵士を選んで、敵兵を混ざって座りました。そして陰で命じました。
「酒酣(サケタケナワ…今で言う所の『宴もたけなわ』)の後、わたし(=道臣命)は立ち上がり、歌を歌う。お前たちは、私の声を聞いたらすぐにいっせいに敵を刺せ」
座る場所に座って酒盛りしました。敵は密命を知らず、心のままに、ほしいままに酔いました。そして道臣命(ミチノオミノミコト)は立ち、歌を歌いました。
忍坂の大室屋に人多に 入り居りとも人多に 来入り居りともみつみつし 来目の子等が頭椎(クブツツ)い石椎(イスツツ)い持ち 撃ちてし止まむ
訳 / 忍坂の大室に沢山の人が入っている。沢山の人が来ているが、強い強い来目の兵士が頭椎(太刀の種類)や石椎(太刀の種類)で討ち倒すぞ。 
來目部の勝利の歌
時、我卒聞歌、倶拔其頭椎劒、一時殺虜、虜無復噍類者。皇軍大ス、仰天而咲、因歌之曰、
伊莽波豫伊莽波豫阿阿時夜塢伊莽儾而毛阿誤豫伊莽儾而毛阿誤豫
今、來目部歌而後大哂、是其緣也。又歌之曰、
愛瀰詩烏毗儾利毛々那比苔比苔破易陪廼毛多牟伽毗毛勢儒
此皆承密旨而歌之、非敢自專者也。時天皇曰「戰勝而無驕者、良將之行也。今魁賊已滅、而同惡者、匈々十數群、其情不可知。如何久居一處、無以制變。」乃徙營於別處。 
私たちの兵士は歌(冬十月癸巳朔(二)道臣命の密命と歌の歌)を聴くと、いっせいにその頭椎劒(クブツチノツルギ)を抜いて、敵を斬り殺してしまいました。敵は噍類者(ノコルモノ=生き残り)は居ませんでした。皇軍(ミイクサ)はとても悦び、天を仰いで咲(ワラ)いました。そして歌を歌いました。
今はよ今はよああしやを 今だにも吾子よ今だにも吾子よ
訳 / 今のところは、勝利したぞ、今だけでも我が兵よ、今だけでも我が兵よ!
今でも來目部(クメラ)が歌ったあとに大きく笑うのは、このためです。また歌を歌いました。
蝦夷を一人百(モモ)な人 人は言えども抵抗(タムカヒ)もせず
訳 / 夷が一人で百人分の強さと言うが、抵抗もできやしないじゃないか!!!
これらの歌は天皇の命令によって歌ったものです。勝手に自分たちが歌ったのではありません。そのとき天皇は言いました。
「戦いに勝って、驕(オゴ)らないのが良い将軍というものだ。今、敵の親玉は滅んだが、同様に刃向かうものが皇軍を恐れているとはいえ十数群ほどある。実情(このまま従うか刃向かうかどうか?)は分からない。このままずっと同じ場所に居て、待っていてはいけない」
そうして、軍を移動させました。 
蝦夷
蝦夷は後には東北地方の民族ということになりますが、漠然とした「異民族」という意味でしょう。今で言うところの「外国人」みたいな。白人も黒人もインド人も中国人も全部「外国人」という言葉でひっくるめるのと一緒かと。 
兄磯城と弟磯城
十有一月癸亥朔己巳、皇師大舉、將攻磯城彥。先遣使者徵兄磯城、兄磯城不承命。更遺頭八咫烏召之、時烏到其營而鳴之曰「天神子召汝。怡奘過、怡奘過。(過、音倭。)」兄磯城忿之曰「聞天壓神至而吾爲慨憤時、奈何烏鳥若此惡鳴耶。(壓、此云飫蒭。)」乃彎弓射之、烏卽避去、次到弟磯城宅而鳴之曰「天神子召汝。怡奘過、怡奘過。」時弟磯城惵然改容曰「臣聞天壓神至、旦夕畏懼。善乎烏、汝鳴之若此者歟。」卽作葉盤八枚、盛食饗之。葉盤、此云毗羅耐。因以隨烏、詣到而告之曰「吾兄々磯城、聞天神子來、則聚八十梟帥、具兵甲、將與決戰。可早圖之。」 
十一月の七日。皇師(ミイクサ=天皇の軍)は大挙して磯城彥(シキヒコ=磯城の首長)を攻めようとしました。まず、使者を派遣して兄磯城(エシキ)を呼び寄せました。しかし、兄磯城(エシキ)は命に背いて、出て来ません。そこで頭八咫烏(ヤタノカラス)を派遣してまた呼び寄せました。その時、カラスが(兄磯城の)陣営で鳴いて言いました。
「天津神(アマツカミ)の子がお前を呼んでいる。さぁ!!!さぁ!!!」
兄磯城(エシキ)は怒って言いました。「天壓神(アメオスノカミ=天から強い力で圧迫する神)が居ると聞いて、わたしは妬んでいるというのに、どうして烏鳥(カラス)はこんな嫌な声で鳴くのか!」
すぐに弓を引いて射った。するとカラスは立ち去りました。次に弟磯城(オトシキ)の家に行き、鳴いて言いました。「天津神(アマツカミ)の子がお前を呼び寄せている。さぁ!さぁ!!!」弟磯城(オトシキ)は怖がって言いました。「わたしは天圧神(アメオスノカミ)が(この土地に)到着したと聞いて、朝から晩まで恐れ畏まっていました。鳥がわたしのところでこのように鳴くのは良い事ですよ」
すぐに葉盤八枚(ヒラデヤツ=木の葉で編んだ平たい皿を八枚)を作って、食べ物を盛って(カラスに)食べさせました。
カラスが導くままに天皇の元にやってきた言いました。「私の兄の兄磯城(エシキ)には、天津神が来たと聞いて、八十梟帥を集め、兵甲(ツワモノ=武防具)を準備して、戦おうとしています。すぐに対策を取ってください」
過は倭(ワ)と読みます。壓は飫蒭(オシ)と読みます。葉盤は毗羅耐(ヒラデ)と読みます。 
兄猾と弟猾 と細かいところは違いますが、兄弟のうち、弟は従い、兄は反抗して、兄が殺されるというパターンが同じです。また「鳥」が伝令をして、矢で射たれるというのは出雲の天稚彦(アメノワカヒコ)の件と似ています。
古事記の場合はキジを派遣しようナキメを射殺すアメノワカヒコキジを射抜いた矢が天安河の河原に(日本書紀の場合は第九段天鹿兒弓と天眞鹿兒矢)、また「兄」「弟」がセットになっているのはヤマトタケルのクマソタケル(兄弟)退治や、出雲風土記にある「兄の出雲振根と弟の飯入根の剣を取り替えての殺害」、ヤマトタケル自身も双子で兄のオオウスを殺害しているなど、兄弟というのが物語の中で特別扱いになっていて、弟が「善側」になっている。
出雲振根と飯入根の場合は朝廷に宝を差し出した弟が兄に殺されるが、その後、朝廷に兄が殺される。よって弟は朝廷から見て「善い人」。
日本の神話のステレオタイプが見えて来る。ただ、エシキ・オトシキにしろクマソタケルにしろ、神話だから史実ではないということではなく、史実が神話となったものが残ったのだと思われ、「創作」とは限らないし、まるきりの創作というのは無理がある。 
椎根津彥の進言
天皇乃會諸將、問之曰「今、兄磯城、果有逆賊之意、召亦不來。爲之奈何。」諸將曰「兄磯城、黠賊也。宜先遣弟磯城曉喩之幷說兄倉下・弟倉下。如遂不歸順、然後舉兵臨之、亦未晩也。(倉下、此云衢羅餌。)」乃使弟磯城、開示利害。而兄磯城等猶守愚謀、不肯承伏。時、椎根津彥、計之曰「今者宜先遣我女軍、出自忍坂道。虜見之必盡鋭而赴。吾則駈馳勁卒、直指墨坂、取菟田川水、以灌其炭火、儵忽之間出其不意、則破之必也。」天皇善其策、乃出女軍以臨之。虜謂大兵已至、畢力相待。先是、皇軍攻必取、戰必勝、而介胃之士、不無疲弊。 
天皇はすぐに沢山の将軍を集めて、問いました。「今、兄磯城(エシキ)はどうやら逆らう心がある。呼び寄せても来ない。どうしたらよいだろうか?」将軍たちは言いました。「兄磯城(エシキ)は賢い賊(アタ=敵)です。まず弟磯城(オトシキ)を派遣して教え諭し、同時に兄倉下・弟倉下(エクラジ・オトクラジ)に説得させましょう。もし、ついに帰順(まつろ=従う)わないならば、後に兵をあげて攻めても、遅くはないでしょう」
弟磯城(オトシキ)に利害(ヨキモアシキモ)を示させたのですが、兄磯城(エシキ)はそれでも愚かな謀(ハカリゴト=反逆の行動)を続け、従いませんでした。
椎根津彥(シイネツヒコ)が計略を言いました。「今はまず、我らの女軍(メイクサ)を派遣して、忍坂(オシサカ)の道から出陣させます。すると敵はそれを見て、必ず鋭(トキツハモノ=先鋭部隊のこと?)を攻めて来るでしょう。わたしは強い兵を率いて、すぐに墨坂を目指し、宇陀川の水を取り、その炭の火に注いで(火を消して)、儵忽(ニハカ=わずかな)な間に、敵の意表をつけば打ち破るのは間違いありません」
天皇はその策を褒め、すぐに女軍(メイクサ)を出兵させました。敵は皇軍の主力がそちらへと移動したと考えて、全兵力で迎え撃とうとしました。それで皇軍は攻めれば討ち取り、戦えば必ず勝った。(簡単に勝ったとはいえ)介胃之士(イクサノヒトドモ=甲冑の兵士)が疲れない訳ではなかった。
倉下は衢羅餌(クラジ)と読みます。 
天皇は意見を求める
天岩戸事件、国譲りの際でも、神々は話し合ってどうするのかを決めます。トップが全権を掌握するのではなく、意見を出し合って決めて、その決まり事を実行に移すのが、「天皇」だったり「アマテラス」や「高皇産靈尊(タカミムスビ)」のよう。これが「和」なんでしょうね。
宇陀川の水で火を消す?
九月甲子朔戊辰(一)天平瓮と嚴瓮と酒と嚴呪詛に「八十梟帥(ヤソタケル)は女坂(メサカ)に女軍(メイクサ=女子の軍隊)を置きました。男坂(オサカ)に男軍(オイクサ=男の軍隊)を置きました。墨坂(スミサカ)に焃炭(オコシズミ=炭火)を置きました。」とあります。
この炭火を消したということです。
ということは、道を遮るように大量の「炭火」があって、それが燃えてて通れなかった、ということでしょう。しかし、このヤソタケルが炭火を置いたのが9月5日。椎根津彥(シイネツヒコ)が消したのは11月7日。二ヶ月も燃えっぱなしだったのかと。
うーん、違う解釈があるのかもしれない。
女軍(メイクサ)
女は巫女。古代では神の意志によって戦争の勝敗が決められるので巫女は戦争においては大事だったと思われる。つまり女軍は戦争の「主力」。これが移動するということは軍全体が移動するというのが古代の「常識」だったのでしょう。 
楯並めて伊那佐の山の
故、聊爲御謠、以慰將卒之心焉、謠曰、
哆々奈梅弖伊那瑳能椰摩能虛能莽由毛易喩耆摩毛羅毗多多介陪麼和例破椰隈怒之摩途等利宇介譬餓等茂伊莽輸開珥虛禰
果以男軍越墨坂、從後夾擊破之、斬其梟帥兄磯城等。 
(兵士が疲れているので)天皇は歌を読んで謡(ウタ)を作って將卒(イクサノヒトドモ=将兵たち)の心を慰めようとしました。それで歌を歌いました。
楯(タテ)並(ナ)めて 伊那佐(イナサ)の山の 木の間ゆもい行き目守(マモ)らひ 戦へば我はや飢む 島つ鳥鵜養(ウカイ)が伴今助けに来ね
訳 / 楯を敵軍に対して並べて、伊那佐(イナサ)の山の木々の間を行き来し、見張りをしたり、戦ったりしていたから私もお腹がすいてしまった。島の鳥、鵜飼たち。助けに来てくれよ。
それで男軍(オイクサ)は墨坂を越えて、後ろから敵軍を挟み撃ちにして撃破しました。その梟帥(タケル)である兄磯城等(エシキラ)を斬りました。 
山で戦っていたら、お腹がすいたよね。だから鵜飼のひとたちは来てくれよ、というのが内容です。どうも「食」というものが大和朝廷にとってとても大事だったのだと思われます。 
長髄彦との再戦へ
十有二月癸巳朔丙申、皇師遂擊長髄彥、連戰不能取勝。時忽然天陰而雨氷、乃有金色靈鵄、飛來止于皇弓之弭、其鵄光曄U、狀如流電。由是、長髄彥軍卒皆迷眩、不復力戰。長髄、是邑之本號焉、因亦以爲人名。及皇軍之得鵄瑞也、時人仍號鵄邑、今云鳥見是訛也。昔孔舍衞之戰、五瀬命中矢而薨、天皇銜之、常懷憤懟、至此役也、意欲窮誅、乃爲御謠之曰、 
12月4日。皇師(ミイクサ=天皇の軍)は長髄彦(ナガスネヒコ)を攻撃しました。何度も戦ったが、勝つ事は出来ませんでした。そのとき不意に、天陰(ヒシケ=空が暗くなる)て、氷雨(ヒサメ=冷たい雨もしくはヒョウやアラレ)が降りました。また金色の不思議な鳶(トビ)が現れて、飛んで来て、皇弓(ミユミ=天皇の弓)の弭(ハズ=弓の先端)に止まりました。その鳶は光り輝き、まるで流電(イナビカリ)のようでした。それで長髄彦(ナガスネヒコ)と軍卒(イクサノヒトドモ)は迷い惑って、戦意を失くしてしまいました。
長髄(ナガスネ)は元々は邑(ムラ)の名前です。それでそこの首長の名前になったのです。
皇軍(ミイクサ)が鳶の吉兆を得てからは、この土地を「鳶の邑(トビノムラ)」と名付けるようになりました。今、「鳥見(トミ)」というのはこれ(=トビノムラ)が訛ったものです。
以前、孔舍衞(クサエ)での戦いで、五瀬命(イツセノミコト)は矢に当たって薨(カムサ=神となって去った…つまり死んだ)りました。神武天皇はそのことをずっと忘れずにいて、常に憤懟(イクミウラムルコト=腹を立て恨んでいる)を抱いていました。この役(エダチ=戦闘)では怒りのままに窮誅(コロ=殺)そうと思っていました。それで歌を歌いました。 
よく神武天皇が立ち、弓のトビが止まっている絵がありますが、その場面です。古事記にはトビが止まるシーンはありませんね。かっこいいのに。 
みつみつし
瀰都瀰都志倶梅能故邏餓介耆茂等珥阿波赴珥破介瀰羅毗苔茂苔曾廼餓毛苔曾禰梅屠那藝弖于笞弖之夜莽務
又謠之曰、
瀰都々々志倶梅能故邏餓介耆茂等珥宇惠志破餌介瀰句致弭比倶和例破涴輸例儒于智弖之夜莽務
因復縱兵忽攻之、凡諸御謠、皆謂來目歌、此的取歌者而名之也。 
みつみつし来目の子らが 垣本に粟生(アハフ)には 臭韮(カミラ)一本 其のが本其根芽つなぎて撃ちて止まむ
訳 / 天皇の威勢を負う強い久米の兵が、家の垣根に植えた粟の畑に、臭いの強い韮(ニラ)が一本生えている、それを根元から根も芽も根こそぎ引っこ抜くように、敵を打ち破ろう!
また歌いました。
みつみつし来目の子らが 垣本に植えし椒(ハジカミ) 口ひびく我は忘れず撃ちてし止まむ
訳 / 天皇の威勢を負う強い久米の兵が、家の垣根の畑に植えた山椒を、食べると口がいつまでもヒリヒリするように、私は(敵にやられたことを)忘れない、敵を撃ち倒そう!!!
それでまた兵士を送って急いで攻めました。これら全ての歌は皆、「来目歌(クメウタ)」といいます。これは歌った人(=来目部のこと)を指して名付けたものです。
古事記の対応箇所 / そね芽繋ぎて撃ちてし止まむ / 植ゑし椒口ひひく 
古事記の対応箇所と同じ内容です。古事記では冬十月癸巳朔(一)神風の伊勢の海の大石にやい這い廻る細螺と十有一月癸亥朔己巳(三)楯並めて伊那佐の山のの歌がほぼ並列されています。古事記より日本書紀の方が神武東征が細かく描かれています。 
櫛玉饒速日命を君主に
時、長髄彥乃遣行人、言於天皇曰「嘗有天神之子、乘天磐船、自天降止、號曰櫛玉饒速日命。(饒速日、此云儞藝波揶卑。)是娶吾妹三炊屋媛(亦名長髄媛、亦名鳥見屋媛)遂有兒息、名曰可美眞手命。(可美眞手、此云于魔詩莽耐。)故、吾以饒速日命、爲君而奉焉。夫天神之子、豈有兩種乎、奈何更稱天神子、以奪人地乎。吾心推之、未必爲信。」天皇曰「天神子亦多耳。汝所爲君、是實天神之子者、必有表物。可相示之。」 
そのとき、長髄彦(ナガスネヒコ)はすぐに使者を派遣して、天皇に告げました。
「昔、天津神(アマツカミ)の子(ミコ)がいました。天磐船(アマノイワフネ)に乗って天より降りて来ました。その名を櫛玉饒速日命(クシタマニギヤハヒノミコト)といいます。この人物は私(=長髄彦)の妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を娶って子供をもうけました。ミカシキヤヒメの別名は長髄媛(ナガスネヒメ)、またの別名を鳥見屋媛(トミヤヒメ)といいます。その子供の名前を可美眞手命(ウマシマデノミコト)といいます。わたしは饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を君主として仕えています。天神の子がどうして両種(フタハシラ=神が二人)あるものでしょうか??どうして更に天神(アマツカミ)の子と名乗って、ひとの国を奪おうとするのか?私が考えるに、未必爲信(イツワリ=偽り=偽物)では無いでしょうか?」
天皇は言いました。「天神の子は多く居るものだ。お前のところの君主が本物の天神の子ならば、必ず『表(=シルシ)』があるはずだ。それを見せなさい」
饒速日は「儞藝波揶卑(ニギハヤヒ)」と読みます。可美眞手は于魔詩莽耐(ウマシマデ)と読みます。 
ニギハヤヒとは?
ニギハヤヒは神武天皇と同じように天神の子とされます。長髄彦は「天神の子は一人」と思っていたようですが、天皇にしてみれば天神の子は複数居て良いみたい。長髄彦の言う方がごもっともな気もしますが、天皇自身が「複数居る」と言うんだからしょうがない。
長髄彦としては天神の子であるニギハヤヒと妹を結婚させて、子供までもうけた。それに天皇とはすでに戦い、天皇の兄の五瀬命(イツセノミコト)に怪我を負わせ、殺している。今更、天皇が「俺も天神の子なんだぜ!」と言って来ても困りますよね。許してくれそうにも無いし。
それでも兄猾(エウカシ)や兄磯城(エシキ)のようにだまし討ちもしないし、この会話の中に長髄彦にも同情の余地を残すあたりは理由があるのかもしれない。 
饒速日命は物部氏の祖先
長髄彥、卽取饒速日命之天羽々矢一隻及步靫、以奉示天皇。天皇覽之曰「事不虛也。」還以所御天羽々矢一隻及步靫、賜示於長髄彥。長髄彥、見其天表、益懷踧踖、然而凶器已構、其勢不得中休、而猶守迷圖、無復改意。饒速日命、本知天神慇懃唯天孫是與、且見夫長髄彥禀性愎佷、不可教以天人之際、乃殺之、帥其衆而歸順焉。天皇、素聞鐃速日命是自天降者而今果立忠效、則褒而寵之。此物部氏之遠祖也。 
長髄彦(ナガスネヒコ)はすぐに饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の天羽々矢(アメノハハヤ)を一隻(ヒトハ=矢を一本)と步靫(カチユキ=矢を射れる筒がユキ、これを歩行用にしたものがカチユキ)を天皇(スメラミコト)に見せました。
天皇はそれを見て「本物だ」と、言いました。
それでお返しにと、天羽々矢(アメノハハヤ)と步靫(カチユキ)を見せました。
長髄彦はその表(シルシ)を見て、ますます天皇を恐れ畏まりました。しかし凶器(ツワモノ=武器)を準備して、今更、途中で止めてしまうわけにはいかない。それで血迷った計画を変えず、改心しませんでした。
饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は天神が最も大事だと思っているのは天孫(=アマテラスの子孫)であると知っていました。それに長髄彦はその禀性(ヒトトナリ=人と成り)がとても気難しいので、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が天人(キミヒト=君主と人の上下関係のこと)の関係を教えても、理解出来そうにないので、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は長髄彦を殺してしまいました。そして人々と共に天皇に従いました。
天皇はもともと饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が天から降りたと知っていました。今、忠效(タダシキマコト=忠義の意思)を示したので、褒めてもてなしました。この饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が物部氏の祖先です。 
言い訳がましく裏切る神
長髄彦の妹を嫁にもらいながら、なんやかんやと理由をつけて裏切っちゃうニギハヤヒ。それでも天皇から見れば、兄の敵を討ってくれた「英雄」なのでしょう。
ところがニギハヤヒは物部氏の祖先とされます。物部の「モノ」は「物の怪」のモノと取って、祭祀関係の氏族とされたり、武器を管理する氏族とも言われます。日本では「モノ」は「霊」と「物体」の両方を意味するので、祭祀と武器のどちらか一方ではなく両方と考えた方がいいでしょう。
大活躍の物部氏ですが、ご存知の通り、蘇我氏との政争に破れて氏族は滅亡しています。また蘇我氏は藤原氏の始祖の中臣鎌足に殺されています。両氏族とも親戚筋は残っていたのでしょうが、滅亡したのに先祖の活躍を描く必要があったのか?と思うのですよね。よく古事記成立の有力者の藤原氏を立ててタケミカヅチやアメノコヤネを優遇しているとか言いますが、それならニギハヤヒではなく、古事記成立時の有力者の先祖を当てればいいじゃないですか。
わたしは古事記や日本書紀は別のロジックで書かれていると思っています。それは鎮魂です。嘘を書くと死者の魂が祟ると考えていたから、本当を書いて鎮めたのだろうということです。それなら蘇我氏や物部氏といった滅亡した氏族のことこそ、書かなくちゃいけないことになるのです。 
土蜘蛛の誅殺
己未年春二月壬辰朔辛亥、命諸將、練士卒。是時、層富縣波哆丘岬、有新城戸畔者。(丘岬、此云塢介佐棄。)又和珥坂下、有居勢祝者。(坂下、此云瑳伽梅苔。)臍見長柄丘岬、有猪祝者。此三處土蜘蛛、並恃其勇力、不肯來庭。天皇乃分遺偏師、皆誅之。又高尾張邑、有土蜘蛛、其爲人也、身短而手足長、與侏儒相類、皇軍結葛網而掩襲殺之、因改號其邑曰葛城。夫磐余之地、舊名片居(片居、此云伽哆韋)、亦曰片立(片立、此云伽哆哆知)、逮我皇師之破虜也、大軍集而滿於其地、因改號爲磐余 
二月二十日。天皇の命によって、もろもろの将兵から精鋭を選びました。
このとき層富縣(ソホノアガタ=生駒市)の波哆丘岬(ハタノオカサキ=奈良市赤膚町)には新城戸畔者(ニイキノトベ)という人物がいました。
また和珥坂下(ワニノサカモト)には居勢祝(コセノハフリ)という人物がいました。
臍見(ホソミ=天理市?)の長柄丘岬(ナガラオカサキ=奈良県御所市長柄神社?)に猪祝(イノハフリ)という人物がいました。この三カ所の土蜘蛛は武力に頼んで、天皇に従いませんでした。天皇は兵の一部を派遣して、全員を誅殺しました。
また、高尾張邑(タカオハリノムラ)にも土蜘蛛が居ました。その人と成りはこうでした。身長は低く、手足は長い。侏儒(サキヒト=小人=バカ)と似ていました。皇軍は葛(カズラ=ツタ植物)を編んで、それを使って襲って殺しました。それでその村を葛城(カズラキ)と名付けました。磐余(イワレ)の土地の古い名前は片居(カタイ)といいます。
皇軍はそうして敵を破り、大軍が集まって満たされました。それで磐余(イワレ)と改名しました。
注「満ちる」が古代日本語では「満(イ)はる」だったから
丘岬は塢介佐棄(オカサキ)と読みます。坂下は瑳伽梅苔(サカモト)と読みます。片居は伽哆韋(カタイ)と読みます。または片立(カタタチ)といいます。片立は伽哆哆知(カタタチ)と読みます。 
土蜘蛛とは?
大和の人たちは高床式の家に住んでいました。これは全員がそうだったというわけでは無いのでしょうが、それでも穀物を溜める倉庫はネズミ避けもあって、高床式で、権力者もやはり高床式だったのでしょう。それに対して、竪穴式住居しか無かった民族を、見下す意味で土蜘蛛と呼んだよう。 
磐余邑の別説、と猛田・城田・頰枕田・埴安の地名説話
或曰「天皇、往嘗嚴瓮粮、出軍而征、是時、磯城八十梟帥、於彼處屯聚居之。(屯聚居、此云怡波瀰萎)。果與天皇大戰、遂爲皇師所滅。故名之曰磐余邑。」又皇師立誥之處、是謂猛田。作城處、號曰城田。又賊衆戰死而僵屍、枕臂處、呼爲頰枕田。天皇、以前年秋九月、潛取天香山之埴土、以造八十平瓮、躬自齋戒祭諸神、遂得安定區宇、故號取土之處、曰埴安。 
ある人は言いました。「天皇は昔、嚴瓮(イツヘ=皿)に粮(オモノ=食べ物)を乗せて、神に捧げ物をして、軍を出して西の敵を征伐しました。このときに磯城八十梟帥(シキノヤソタケル)がこの土地に屯聚(イワ=集まって、満ちて)み居ました。天皇と大きな戦いをしました。ついに皇軍に敗れて滅んでしまいました。それで磐余邑(イワレノムラ)と言うようになった」
天皇は前の年の秋九月をもって、天香山(アマノカグヤマ)の埴土(ハニツチ=粘土質の土)を取って、八十平瓮(ヤソノヒラカ)を作り、自ら齋戒(モノイミ=血や死の穢れや女性に触れずに清らかな生活をすること)をして、諸々の神を祀りました。それで区宇(アメノシタ)を静めました(=安定させました)。そこで土を取った場所を埴安(ハニヤス)といいます。
屯聚居は怡波瀰萎(イワミイ)と読みます。また皇師(ミイクサ)が立誥(タチタケビ=大声を出すこと)した場所を「猛田(タケダ)」といいます。城を造った所を「城田」といいます。また敵たちが戦い死んで伏せた屍(カバネ=屍体)が臂(タダムキ=「ひじ」のこと)を枕にしていた所を頰枕田(ツラマキダ)といいます。 
前段との違い
己未年春二月壬辰朔辛亥(一)土蜘蛛の誅殺には、「土地に皇軍が集まっていたから磐余になったよ」と書いてあるのに対してこのページでは「土地に敵の磯城八十梟帥(シキノヤソタケル)が集まっていたから磐余になったよ」と書いてあります。同じように見えてちょっと違う。皇軍が…というと地名が天皇に関わってついたことになりますが、磯城八十梟帥(シキノヤソタケル)が…というと天皇とは関係ありません。
でも天皇がその後は勝利したのだから、そんな別伝を残す必要は無いんじゃないか?と思うのですよ。勝利者が歴史を書き換えるのが世の常ってものですからね。ということは、磐余は単に「人が集まった賑やかな場所」という程度の意味で戦争とは関係なく、もともとそう言う名前があったじゃないか?と。
それで、どうして別伝を残したのかと言うと、嘘を書くと恨まれるから、ではないかと思うのです。日本人は死者を鎮魂しないと怨霊と成って呪うと考えていました。だから死人に口無しとばかりに嘘を書いて自分の手柄にしにくかったんじゃないか?と。この感覚が記紀の成立に大きく関わっていると思います。 
三月辛酉朔丁卯六合を一つにして八紘までを家にする
三月辛酉朔丁卯、下令曰「自我東征、於茲六年矣。頼以皇天之威、凶徒就戮。雖邊土未C餘妖尚梗、而中洲之地無復風塵。誠宜恢廓皇都、規摹大壯。而今運屬屯蒙、民心朴素、巣棲穴住、習俗惟常。夫大人立制、義必隨時、苟有利民、何妨聖造。且當披拂山林、經營宮室、而恭臨寶位、以鎭元元。上則答乾靈授國之コ、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而爲宇、不亦可乎。觀夫畝傍山(畝傍山、此云宇禰縻夜摩)東南橿原地者、蓋國之墺區乎、可治之。」
是月、卽命有司、經始帝宅。 
三月七日。天皇は言いました。
「わたしが東征に出発して、6年になります。天津神の霊威によって凶徒(アタ=敵)は殺されました。周辺の国はまだ静まっていませんし、敵の残党はまだ勢いのあるものがあるが、中洲之地(ナカスノクニ=大和の国)は騒がしくない。皇都(ミヤコ)を広く広く取り、大きな宮殿を造ることにしよう。国はまだ出来たばかりで若く、民は素直で、穴の中に住んで、古い習俗が変わらず残っている。聖人のやり方でしっかりと行えば、結果はおのずと付いてくる。民の利益になることならば、聖人のやることを阻むものは無いだろう。そこで山林を開き、宮殿を造って、天皇の地位について、民を静めよう。乾靈(アマツカミ=天津神)の国を授けられた徳に答え、皇孫の正しい道を広めよう。その後に六合(クニノウチ=東西南北と天と地を合わせて六合)を一つにして都を開き、八紘(アメノシタ=北・北東・東……と合わせて八方向のこと)の隅々まで「宇(イヘ…家)」にすることは、良いことだ。見ると畝傍山の東南の橿原(カシハラ)は国の墺(モナカ…真ん中)だろうから、ここを治めよう」
この月に有司(ツカサ=役人)に命じて帝宅(ミヤコ=天皇の家=都)を作り始めました。 
天皇が東征を振り返り、この土地に国を作ることを宣言するシーン。6年しか経ってないのか。 
庚申年秋八月媛蹈韛五十鈴媛命を皇后に
庚申年秋八月癸丑朔戊辰、天皇當立正妃、改廣求華胄、時有人奏之曰「事代主神、共三嶋溝橛耳神之女玉櫛媛、所生兒、號曰媛蹈韛五十鈴媛命。是國色之秀者。」天皇ス之。九月壬午朔乙巳、納媛蹈韛五十鈴媛命、以爲正妃。 
秋八月の16日に天皇は皇后を迎えようと思いました。それで広く皇后に相応しい華胄(ヨキヤカラ=貴族の子孫=人材)を求めました。そのときある人物が言いました。
「事代主神(コトシロヌシノカミ)が三嶋溝橛耳神(ミシマノミゾクヒミミノカミ)の娘の玉櫛媛(タマクシヒメ)を娶って生んだ子が媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)といいます。この姫は國色(カオ)が優れています」
天皇は喜びました。九月24日に媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)を皇后に迎え入れました。 
皇后選び
8月16日に探し始めて9月24日に見つけるのだから早い。大事な伴侶をそんな風に決めていいのか??とも思いますが、まぁそこは置いておいて。
私はこの日付が問題だと考えています。8月16日はお盆。9月に24日は収穫の時期。もちろんこれは旧暦の太陰暦ですから、現在の8月と9月ではないのですが、無関係と言うのも無理があるんじゃないか?と。
お盆に盆踊りをします。
日本人はお盆を仏教のものだと思っていますが、仏教には霊体はありません。49日で別の何かに生まれ変わる「輪廻」が基本だからです。よってお盆に先祖の霊が帰って来るというのは仏教でありません。霊そのものが存在しないのですから。というわけでお盆と言うのは旧来の風習です。
それで盆踊りは実際には、顔見せです。男と女の出会いの場です。この祭りのときに男女は出会い、恋に落ちる。そして子供が生まれます。日本人にとって、子供は宝です。集落が発展するか否かは子供の数に掛かっています。だからこのお盆から収穫祭までの期間は日本人にとって「恋」の季節。 
辛酉年春正月庚辰朔神武天皇が帝位に
辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮、是歲爲天皇元年。尊正妃爲皇后、生皇子神八井命・神渟名川耳尊。故古語稱之曰「於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、號曰神日本磐余彥火々出見天皇焉。」初、天皇草創天基之日也、大伴氏之遠祖道臣命、帥大來目部、奉承密策、能以諷歌倒語、掃蕩妖氣。倒語之用、始起乎茲。 
春1月の1日の元旦に、神武天皇は橿原宮(カシハラノミヤ)で帝位につきました。この年を天皇の元年としました。正妃(=ヒメタタライスズヒメノミコト)を皇后としました。皇子の神八井命(カムヤイノミコト)と神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)が生まれました。
それで褒めて言いました。
「畝傍(ウネビ)の橿原(カシハラ)に宮柱(ミヤハシラ=宮殿の柱)を底磐(シタツイワ=柱を支える岩)の根元にしっかりと立てて、高天原(タカマガハラ)に峻峙(チギ=宮殿の屋根で木材が交差する部分)が届くくらいに高くしよう。始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト=初めて国を治めた天皇)である私は、神日本磐余彥火々出見天皇(カムヤマトイワレビコホホデミノスメラミコト)と名乗ることにしよう」
初めて天皇は天基(アマツヒツギ=天津日嗣=皇統)をはじめた日に大伴氏の遠祖の道臣命(ミチノオミノミコト)が、大來目部(オオクメラ)を率いて、密かに命じられて、諷歌倒語(ソヘウタ・サカシマゴト)を行って、妖気(ワザワイ)を祓いました。倒語(サカシマゴト)を使ったのはこれが初めてでした。 
建国年日
日本では2月11日が建国記念日です。これは神武天皇が即位した旧暦の一月一日を太陽暦の現在の暦に換算すると「2月11日」だからです。
諷歌倒語(ソヘウタ・サカシマゴト)
ソヘ歌は、そのものズバリを言わずに、別のものに例えば言い換えること。倒語は味方だけに分かるようにした暗号のようなもの、らしいです。ちょっと詳細はわたしもピンと来てないです。ともかく、言葉に「災い」を祓う力があるという言霊信仰のなせる技です。 
二年春二月甲辰朔乙巳定功行賞
二年春二月甲辰朔乙巳、天皇定功行賞。賜道臣命宅地、居于築坂邑、以寵異之。亦使大來目居于畝傍山以西川邊之地、今號來目邑、此其緣也。以珍彥爲倭國造。(珍彥、此云于砮毗故。)又給弟猾猛田邑、因爲猛田縣主、是菟田主水部遠祖也。弟磯城、名K速、爲磯城縣主。復以劒根者、爲葛城國造。又、頭八咫烏亦入賞例、其苗裔卽葛野主殿縣主部是也。 
神武天皇が即位して二年の春二月の二日。天皇は論功行賞(イサヲシキヲサダメタマヒモノヲオコナイタマフ=東征に貢献したものに報償を与えること)を行いました。道臣命(ミチノオミノミコト)に宅地(イエドコロ)を与えました。それは築坂邑(ツキサカノムラ=橿原市鳥屋町)で、特に道臣命の功績を評価しました。大來目(オオクメ)には畝傍山(ウネビヤマ)の西の川原の土地に住まわせました。それで今、そこ土地を來目邑(クメノムラ)と呼ぶのはそのためです。珍彥(ウズヒコ)は倭國造(ヤマトノクニノミヤツコ)に任じました。
また、弟猾(オトウカシ)に猛田邑(タケダノムラ)を与え、猛田縣主(タケダノアガタヌシ)としました。菟田主水部(ウダノモヒトリラ)の遠祖です。弟磯城(オトシキ)は名前を黒速(クロハヤ)といいます。弟磯城(オトシキ)を磯城縣主(シキノアガタヌシ=桜井市)に任じました。劒根(ツルギネ)という人物を葛城國造(カヅラキノクニノミヤツコ)としました。頭八咫烏(ヤタノカラス)にも報償がありました。頭八咫烏の子孫は葛野主殿縣主部(カズノノトノモリノアガタヌシラ)です。
珍彥は于砮毗故(ウズヒコ)と読みます。 
珍彦は誰?
神武天皇が九州から出て直後、海で迷っていると出会ったのが「珍彦」で、海の道案内をしてくれたことから、それ以降は「椎根津彥」という名前で活躍。ここで倭國造になります。出世しましたねー。ようは会社創立から関わる古参の役員が社長から株を譲り受けるみたいな、イメージでしょうか。 
四年春二月壬戌朔甲申天神を祀り大孝をのべる
四年春二月壬戌朔甲申、詔曰「我皇祖之靈也、自天降鑒、光助朕躬。今諸虜已平、海內無事。可以郊祀天神、用申大孝者也。」乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原。用祭皇祖天神焉。 
神武天皇が即位して四年の春2月23日。天皇は言いました。
「わたしの皇祖(ミオヤ=祖先)の霊(ミタマ)が天より降りて来て、私の体を照らして助けてくれました。今、もろもろの敵たちを静かにさせて、海内(アメノシタ)は平穏になりました。天神(アマツカミ)を、祀って、それで大孝(オヤニシタガウコト)を果たしましょう」
靈畤(マツリノニワ)として鳥見山(トミノヤマ)の中に立ちました。そこでその場所を上小野榛原(カミツオノハリハラ)・下小野榛原(シモツオノハリハラ)といいます。それで皇祖(ミオヤ)の天神(アマツカミ)を祀りました。 
海内で
海内と書いて「アメノシタ」となっているように、ここでは「天下」ではありません。なぜか?よく分かりませんが、この部分は古い伝承を元にして書いているからではないかと推測。
儒教の影響について
儒教は後では「政治学」のようになってしまいますが、元々は中国の一般的な「先祖崇拝」といった「常識」を体系化したものです。その中で「親を敬うこと」…「孝」はとても大事だとされました。また先祖を祀ることは子孫の義務でもありました。このページでは儒教の影響が見られます。 
卅有一年夏四月乙酉朔日本の美称
卅有一年夏四月乙酉朔、皇輿巡幸。因登腋上嗛間丘而廻望國狀曰「姸哉乎、國之獲矣。(姸哉、此云鞅奈珥夜。)雖內木錦之眞迮國、猶如蜻蛉之臀呫焉。」由是、始有秋津洲之號也。昔、伊弉諾尊目此國曰「日本者浦安國、細戈千足國、磯輪上秀眞國。(秀眞國、此云袍圖莽句爾。)」復、大己貴大神目之曰「玉牆內國。」及至饒速日命乘天磐船而翔行太虛也、睨是ク而降之、故因目之曰「虛空見日本國矣。」 
神武天皇が即位して31年。夏4月1日。天皇は国内を見て回りました。
腋上(ワキガミ)の嗛間丘(ホホマノオカ)に登りました。そして国を状況を見回して言いました。「あぁ!!!良い国を得たものだ!内木錦之眞迮國(ウツユウノマサキクニ)ではあるが、蜻蛉(アキツ=トンボのこと)が繋がっているようでもあるなぁ」
これが秋津洲(アキヅシマ=日本列島のこと)という名前の由来です。
昔、伊弉諾尊(イザナギノミコト)が名付けて言いました。「日本(ヤマト)は心安らかな『浦安の国』だ。細い矛が沢山ある…『細矛(クワシホコ)の千足(チダ)る国』だ。磯輪上秀眞國(シワカミホツマクニ)だ。」
また大己貴大神(オオアナムチノオオカミ)が名付けて「玉牆內國(タマガキノウチツクニ)」と言いました。
饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は天磐船(アマノイワフネ)に乗って太虛(オオゾラ)を廻って、この国を見て降臨しました。饒速日命(ニギハヤヒノミコト)はこの国を「虚空(ソラ)見つ日本(ヤマト)の国」と言いました。
姸哉は鞅奈珥夜(アナニヤ)と読みます。秀眞國は袍圖莽句爾(ホツマクニ)と読みます。 
日本の世界観
日本人は山から穀物の神が里に下りて来て、田畑に宿って、穀物神が実らせると考えていました。これは何も「信仰」というだけでありません。大和朝廷は米を税金のように徴収する事で国家を運営していました。米は「通貨」の性質も持っていたわけです。この稲作が大和朝廷の根幹です。この米を作るには…水耕稲作には大量の水が必要です。その水を供給するのは「山」です。山に降った雨が安定して里に水を供給するからこそ水耕稲作は成立します。よって山に囲まれていること、山があることが、良い「国」の条件です。「ヤマト=山門=山に囲まれている」という名前もこの世界観から考えると当然のことです。

そういった世界観を踏まえると
『細矛(クワシホコ)の千足(チダ)る国』の矛は「山脈」を表しています。よく矛は「武力」と言われますが、「矛」を武器として使った形跡がありません。矛はおそらく宗教的な意味しか持っていませんでした。よって、矛は比喩であって「武力」は意味していないと思われます。だからここは「細い矛のような山が沢山有る国」。それはつまり豊かな国という意味になります。
内木錦之眞迮國
木綿は木の皮を剥いでを編んだものです。つまり細い。眞迮國(マサキクニ)も、「すごく細く裂いたような国だなぁ」という意味でしょう。
蜻蛉之臀呫
はトンボがお尻を舐めているような…という意味です。トンボは秋が深まると雄と雌が合体して飛んでます。交尾です。そんなものに国を例えるなんて!と思うかもしれませんが、トンボは稲作にとっては「益虫」です。幼虫のヤゴのときは水中で害虫を食べ、トンボになってもやはり害虫を食べます。また日本のトンボは人間を恐れません。人間とトンボの共生関係が確立しているからではないでしょうか?また精霊トンボ・盆トンボという名前をつけているものいるようにトンボに死者の霊を日本人は感じていたようです。
トンボは日本人にとって良いものだからこそ、日本を比喩するときに使ったのでしょう。
磯輪上秀眞國
不明。
玉牆內國
玉垣は「宝石のように美しい垣」ですが、これは綺麗な立派な「山に囲まれている」という意味です。
虚空(ソラ)見つ日本(ヤマト)の国
ニギハヤヒは天神ですから、空も飛べるみたいです。これを読むとニギハヤヒはやはり土着の天神だったと考えるべきかと。もしくはニギハヤヒの天神という性質を後に皇統が取り入れた結果が、皇統=天神なのかもしれません。なにせ九州を出発したとき神武天皇はバリバリの海洋民族ですから。 
卌有二年春正月壬子朔甲寅神武天皇の崩御
卌有二年春正月壬子朔甲寅、立皇子神渟名川耳尊、爲皇太子。
七十有六年春三月甲午朔甲辰、天皇崩于橿原宮、時年一百廿七歲。明年秋九月乙卯朔丙寅、葬畝傍山東北陵。 
神武天皇が即位して42年の春1月3日。皇子の神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)が皇太子(ヒツギノミコ)としました。
神武天皇が即位して76年の春3月11日。天皇は橿原宮(カシハラノミヤ)で崩(カムアガリ=神になって天に上がる=死ぬ)しました。そのときの年齢は127歳でした。翌年の秋9月の12日に畝傍山の北東の稜(ミサギ=墓)に埋葬しました。
 
綏靖天皇〜開化天皇 

 

父の死後、手硏耳命の反逆の計画
神渟名川耳天皇、神日本磐余彥天皇第三子也。母曰媛蹈韛五十鈴媛命、事代主神之大女也。天皇風姿岐嶷、少有雄拔之氣、及壯容貎魁偉、武藝過人、而志尚沈毅。至卌八歲、神日本磐余彥天皇崩。時、神渟名川耳尊、孝性純深、悲慕無已、特留心於喪葬之事焉。其庶兄手硏耳命、行年已長、久歷朝機。故、亦委事而親之。然其王、立操厝懷、本乖仁義、遂以諒闇之際、威福自由、苞藏禍心、圖害二弟。于時也、太歲己卯。 
神渟名川耳天皇(=綏靖天皇)は神日本磐余彥天皇(=神武天皇)の第三子です。母は媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメカミ)といいます。事代主神(コトシロヌシカミ)の大女(エムスメ=長女)です。天皇は姿がかわいらしく、幼少の頃から雄々しい性格でした。壮(オトコザカリ)になり容貌(カタチ)が魁(スグ=柄杓の大きいところ=大きくて立派)れて偉(タタハ=充実してはちきれそうに)しくなりました。武芸も優れて、志は高い天皇でした。
48歳になり、神日本磐余彥天皇(カムヤマトイワレヒコスメラミコト)は崩(カムアガリ=神になり天に上がる=死ぬ)しました。そこで神渟名川耳天皇(カムヌナカワミミノミコト)は孝性(オヤニシタガウヒトトナリ)は素直で深く、(親の死を)悲しみ偲(シノ)び、喪葬(ミハブリ)の儀式に取り組みました。
兄の手硏耳命(タギシノミミノミコト)は大人になってから長く朝機(ミカドマツリゴト)に携わっていました。その王はシッカリものでしたが仁義(ウツクシビコトワリ)に背いていました。ついに諒闇(ミモノオモイ=天子が喪に服す期間のこと)のときに調子に乗り、禍心(マガノココロ)を隠して、二人の弟を殺そうと計画しました。
その時、太歳庚辰です。 
渟名川耳尊と神八井耳命の暗殺
冬十一月、神渟名川耳尊、與兄神八井耳命、陰知其志而善防之。至於山陵事畢、乃使弓部稚彥造弓、倭鍛部天津眞浦造眞麛鏃、矢部作箭。及弓矢既成、神渟名川耳尊、欲以射殺手硏耳命。會有手硏耳命於片丘大窨中獨臥于大牀、時渟名川耳尊、謂神八井耳命曰「今適其時也。夫言貴密、事宜愼、故我之陰謀、本無預者。今日之事、唯吾與爾自行之耳。吾當先開窨戸、爾其射之。」 
冬11月。神渟名川耳尊(カミヌナカワミミノミコト)は兄の神八井耳命(カムヤイミミノミコト)と密かに、その殺害計画を知り、どうにか防ぐことにしました。山陵(ミササギ)の儀式(=神武天皇の葬儀)のときになり、弓部稚彥(ユゲノワカヒコ)に弓を作らせました。倭鍛部天津眞浦(ヤマトノカヌチアマツマラ)に眞麛鏃(マカゴノヤサキ=鹿の矢じり)を作らせました。矢部(ヤハギベ)に矢を作らせました。弓矢が出来て神渟名川耳尊(カミヌナカワミミノミコト)は手硏耳命(タギシミミノミコト)を射殺そうと思いました。たまたま手硏耳命(タギシミミノミコト)が片丘(カタオカ=奈良県北葛城郡王寺町・志都美村・上牧村の辺り)の小屋の中で一人で大きな寝床にいました。
その時、渟名川耳尊(ヌナカワミミノミコト)は神八井耳命(カムヤイミミノミコト)に語りました。
「今がチャンスだ。言葉は控えて。行動は静かに。わたしの陰謀(シノビハカリゴト)には誰も助けてくれる人はいません。今日の事はただ、私とあなたが自発的に行動するだけです。わたしが小屋の扉を開けるので、あなたが射って殺してください」 
神八井耳命は皇位を弟に譲る
因相隨進入、神渟名川耳尊、突開其戸。神八井耳命、則手脚戰慄、不能放矢。時神渟名川耳尊、掣取其兄所持弓矢而射手硏耳命、一發中胸、再發中背、遂殺之。於是、神八井耳命、懣然自服、讓於神渟名川耳尊曰「吾是乃兄、而懦弱不能致果。今汝特挺神武、自誅元惡。宜哉乎、汝之光臨天位、以承皇祖之業。吾當爲汝輔之、奉典神祇者。」是卽多臣之始祖也。 
二人は協力して小屋に入りました。神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)は扉を突いて開きました。神八井耳命(カムヤイミミノミコト)は手足が戦慄(フルイオノノキ)して矢を射ることが出来ませんでした。神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)はその兄の持っていた弓矢を引き抜いて取り、手硏耳命(タギシノミミノミコト)を射ました。一発で胸に当たりました。もう一発、射つと背中に当たり、ついに殺しました。
これで神八井耳命(カムヤイミミノミコト)は自分の非(=射ち殺せなかった事)を恥ずかしく想い、神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)に皇位を譲って言いました。
「私は兄ではあるが、未熟で弱く、不能致果(イシキナ=良い結果は出ない)いだろう。今、あなた(=ヌナカワミミ)は優れて神武(アヤシクタケシ)がある。私は悪い所がある。あなたが天位(タカミクラ=皇位)について、皇祖(ミオヤ)の業(ツギテ=継ぐこと=天皇の仕事)を受けるのはもっともなことだ。わたしはあなたの助けとなって、神祇(アマツヤシロクニヤツシロ)を司り祀りましょう」
神八井耳命(カムヤイミミノミコト)は多臣(オオオミ=大和国十市飫富郷…現在の奈良県磯城郡城田原本町多の氏族)の始祖です。 
弟が継ぐ
よく天皇家は末子相続だ、という話があって、末子相続は漁師や海洋民族の風習なので、天皇家は元々は海洋民族だ。という話があるのですが、その反対に「全員が末子ではないよ」という突っ込みがあるのです。でも記紀を読むと、どう考えても「弟」が優遇されているのですよね。いつか表にしたい。 
婚姻と系譜
元年春正月壬申朔己卯、神渟名川耳尊、卽天皇位。都葛城、是謂高丘宮。尊皇后曰皇太后。是年也、太歲庚辰。
二年春正月、立五十鈴依媛爲皇后。一書云、磯城縣主女川派媛。一書云、春日縣主大日諸女絲織媛也。卽天皇之姨也、后生磯城津彥玉手看天皇。
四年夏四月、神八井耳命薨。卽葬于畝傍山北。
廿五年春正月壬午朔戊子、立皇子磯城津彥玉手看尊、爲皇太子。
卅三年夏五月、天皇不豫。癸酉、崩。時年八十四。 
綏靖天皇が即位した元年の春1月8日。神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)は皇位を継ぎました。葛城に都を作りました。それが高丘宮(タカオカノミヤ)といいます。皇后(=神武天皇の皇后の媛蹈韛五十鈴媛命のこと)を尊び、皇太后(オオキサキ)と呼ぶようになりました。この年は太歲庚辰です。
即位2年の春1月に五十鈴依媛(イスズヨリヒメ)を皇后としました。
ある書によると磯城縣主(シキノアガタヌシ)の娘の川派媛(カワマタヒメ)とも言われます。またある書によると春日縣主大日諸(カスガノアガタヌシノオオヒモロ)の娘の絲織媛(イトリヒメ)とも言われます。
五十鈴依媛(イスズヨリヒメ)は綏靖天皇から見ると姨(ミオバ=叔母)になります。后(キサキ)は磯城津彥玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)を生みました。
即位四年の夏四月に神八井耳命(カムヤイミミノミコト…綏靖天皇の兄)が崩(カムアガリ=神になって天に昇る…死ぬこと)となりました。畝傍山(ウネビヤマ)の北に葬りました。
即位25年の春1月の7日。皇子の磯城津彥玉手看尊(シキツヒコタマテミノミコト)を皇太子(ヒツギノミコ=次の天皇候補)にしました。
即位33年の夏5月に天皇は不豫(コトヤマヒ…病気)になりました。崩御されました。そのとき84歳でした。 
ウガヤフキアエズと同じ婚姻パターン
山幸彦が豊玉姫(トヨタマヒメ)と結婚し、その子供の「ウガヤフキアエズ」が、豊玉姫(トヨタマヒメ)の妹の「玉依姫(タマヨリヒメ)」と結婚するのとほぼ同じパターン。
豊玉姫と玉依姫が「海神」の娘であるのに対して、媛蹈韛五十鈴媛命と五十鈴依媛は事代主の娘です。事代主は出雲のオオクニヌシの子供で、オオクニヌシが冥界へと消えた今となっては、出雲を率いるリーダーです。また事代主は名前から推察するに、神の言葉を受ける神職の神格化です。
わたしは、この婚姻は大和朝廷が高天原の「天」、海神の「海」、そして出雲の「宗教・祭祀」を受け継いだ証の神話ではないか?と思っています。また媛蹈韛五十鈴媛命と五十鈴依媛の名前から「鉄器」がイメージ出来ます。鉄器は出雲が本場でしたから、「宗教・祭祀」に「鉄器」も入るかもしれません。 
安寧天皇が皇太子となり皇位につくまで
磯城津彥玉手看天皇、神渟名川耳天皇太子也。母曰五十鈴依媛命、事代主神之少女也。天皇、以神渟名川耳天皇廿五年、立爲皇太子、年廿一。
卅三年夏五月、神渟名川耳天皇崩。其年七月癸亥朔乙丑、太子卽天皇位。 
磯城津彥玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト=安寧天皇)は神渟名川耳天皇(カムヌナカワミミノスメラミコト=綏靖天皇)の嫡男です。
母は五十鈴依媛命(イスズヨリヒメノミコト)で、事代主神(コトシロヌシカミ)の娘です。安寧天皇は神渟名川耳天皇(カムヌナカワミミスメラミコト=綏靖天皇)が即位して25年のときに皇太子(ヒツギノミコ=次の天皇候補)となりました。年齢は21歳でした。
綏靖天皇が即位して33年の夏5月に神渟名川耳天皇(カムヌナカワミミスメラミコト=綏靖天皇)が崩(カムアガリ=神になって天にあがる…死ぬ事)しました。その年の7月の三日に太子(ヒツギノミコ)は皇位につきました。 
太子は嫡男?
訳本などを見ると太子は嫡男とあります。嫡男は正室の子供のうちの年長者となっています。ただ、記紀を読む限りまだこの時代は末子相続か、もしくは末子相続と長子相続かハッキリしない時期なので、太子が「長男」なのかどうかは、疑問。ただ記紀には綏靖天皇には他に子供がいないので、大した問題じゃない。
記述が少ない
歴史では普通、古いものほど記述が少なくなるものなのに、神武→綏靖→安寧と記述が激減。よって綏靖天皇から開化天皇までは創作ではないか?とも。これが決史八代と言われる所以ですわ。 
即位後
元年冬十月丙戌朔丙申、葬神渟名川耳天皇於倭桃花鳥田丘上陵。尊皇后曰皇太后。是年也、太歲癸丑。
二年遷都於片鹽、是謂浮孔宮。
三年春正月戊寅朔壬午、立渟名底仲媛命(亦曰渟名襲媛)爲皇后。一書云、磯城縣主葉江女川津媛。一書云、大間宿禰女糸井媛。先是、后生二皇子、第一曰息石耳命、第二曰大日本彥耜友天皇。一云、生三皇子、第一曰常津彥某兄、第二曰大日本彥耜友天皇、第三曰磯城津彥命。
十一年春正月壬戌朔、立大日本彥耜友尊、爲皇太子也。弟磯城津彥命、是猪使連之始祖也。
卅八年冬十二月庚戌朔乙卯、天皇崩。時年五十七。 
安寧天皇即位の元年冬10月11日。神渟名川耳天皇(カムヌナカワミミノスメラミコト=綏靖天皇)を倭(ヤマト)の桃花鳥田丘(ツキダノオカ=奈良県橿原市四条宇田井ノ坪?)の上の稜(ミササギ=墓)に葬りました。皇后(キサキ=五十鈴依媛)を尊び、皇太后(オオキサキ)としました。この年は太歲癸丑でした。
即位2年に都を片塩(カタシオ=奈良県大和高田市三倉堂?)に移しました。これを浮孔宮(ウキアナノミヤ)といいます。
即位3年の春1月の5日に渟名底仲媛命(ヌナソコナカツヒメノミコト)を立てて皇后(キサキ)としました。別名を渟名襲媛(ヌナソヒメ)といいます。
ある書によると磯城縣主葉江(シキノアガタヌシハエ)の娘の川津媛(カワツヒメ)といいます。またある書によると大間宿禰(オオマノスクネ)の娘の糸井媛(イトイヒメ)といいます。
皇后になる以前に二人の皇子が生まれていました。一人は息石耳命(オキソミミノミコト)です。もう一人は大日本彥耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)です。
ある書によると、三人の皇子が生まれました。一人は常津彥某兄(ツネツヒコイロネ)。二人目は大日本彥耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)。三人目は磯城津彥命(シキツヒコノミコト)です。
即位して11年の春1月に大日本彥耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)を立てて、皇太子にしました。弟の磯城津彥命(シキツヒコノミコト)は猪使連(イノツカイノムラジ)の始祖です。
即位して38年の冬12月の6日。安寧天皇は崩(カムアガリ=神となって天にあがる…死ぬこと)しました。その時、57歳でした。 
本文では「懿徳天皇(安寧天皇の次の天皇)と息石耳命」だったものが、別伝では「懿徳天皇と常津彥と磯城津彥命」になっています。それは別段、問題にないのですが、「別伝」でしか登場しないはずの磯城津彥命の子孫が居るのは、変。
つまりこの物語は伝承、もしくは伝承の割合が多いということです。かといって安寧天皇が実在しないとか、懿徳天皇が実在しないとか、そういうこととはあまり関係ないかと思います。 
懿徳天皇
大日本彥耜友天皇、磯城津彥玉手看天皇第二子也。母曰渟名底仲媛命、事代主神孫、鴨王女也。磯城津彥玉手看天皇十一年正春正月壬戌、立爲皇太子。年十六。
卅八年冬十二月、磯城津彥玉手看天皇崩。
元年春二月己酉朔壬子、皇太子卽天皇位。秋八月丙午朔、葬磯城津彥玉手看天皇於畝傍山南御陰井上陵。九月丙子朔乙丑、尊皇后曰皇太后。是年也、太歲辛卯。
二年春正月甲戌朔戊寅、遷都於輕地、是謂曲峽宮。二月癸卯朔癸丑、立天豐津媛命爲皇后。一云、磯城縣主葉江男弟猪手女泉媛。一云、磯城縣主太眞稚彥女飯日媛也。后、生觀松彥香殖稻天皇。一云、天皇母弟武石彥奇友背命。
廿二年春二月丁未朔戊午、立觀松彥香殖稻尊、爲皇太子、年十八。
卅四年秋九月甲子朔辛未、天皇崩。 
大日本彥耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト=懿徳天皇)は磯城津彥玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト=安寧天皇)の第二子(フタハシラニアタリタマフミコ)です。母(イロハ)は渟名底仲媛命(ヌナソコナカツヒメノミコト)といいます。事代主(コトシロヌシ)の孫の鴨王(カモノキミ)の娘です。
磯城津彥玉手看天皇(=安寧天皇)の11年春1月1日に大日本彥耜友天皇(=懿徳天皇)は皇太子になりました。年齢は16歳でした。
安寧天皇38年のとくに、磯城津彥玉手看天皇(=安寧天皇)が崩(カムアガリ=神になって天に上がる…死ぬこと)しました。懿徳天皇元年の春2月4日に皇位につきました。秋8月に磯城津彥玉手看天皇(=安寧天皇)を於畝傍山南御陰井上陵(ウネビヤマノミナミノミホトノイノヘノミサギ)に葬りました。9月に皇后(先代安寧天皇の皇后の渟名底仲媛命のこと)を尊び皇太后としました。この年は太歲辛卯でした。
2年の春1月5日。都を軽(カル=奈良県橿原市大軽町)に移しました。これを曲峽宮(マガリオノミヤ)といいます。2月の11日。天豐津媛命爲皇后(アマトヨツヒメノミコト)を立てて皇后(キサキ)としました。
ある書によると磯城縣主葉江(シキノアガタヌシノハエ)の弟の猪手(イテ)の娘の泉媛(イズミヒメ)といいます。また、ある書によると磯城縣主太眞稚彥(シキノアガタヌシフトマワカヒコ)の娘の飯日媛(イイヒヒメ)といいます。
后は觀松彥香殖稻天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト=孝昭天皇)を生みました。
ある書によると懿徳天皇の弟の武石彥奇友背命(タケシヒコアヤシトモセノミコト)です。
22年の春2月12日に觀松彥香殖稻天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト=孝昭天皇)を立てて皇太子にしました。年は18歳でした。
34年の秋9月8日に懿徳天皇は崩(カムアガリ=神になって天に上がる…死ぬ事)しました。 
あいかわらず「別伝」が出て来ます。
懿徳天皇の妻として三人の名前が出て来ます。その中で皇后であるはずの天豐津媛命爲皇后(アマトヨツヒメノミコト)の出自が無く、別伝に出て来る二者には出自があります。
これは古い伝承で曖昧なのかもしれませんし、まだ大きな国ではなかった大和としては仕方の無いことだったのかもしれません。もしくは出自のハッキリした妻には子が出来ず、出自の曖昧な妻に子が出来た、のかもしれません。
ちなみに磯城縣主葉江は「日本書紀 即位後」にも出て来ています。やはり別伝で安寧天皇の妻の川津媛の親として登場しています。「古事記 安寧天皇」では懿徳天皇の妻の河俣毘売(カワマタビメ)の兄が「波延(ハエ)」です。 
孝昭天皇
觀松彥香殖稻天皇、大日本彥耜友天皇太子也。母皇后天豐津媛命、息石耳命之女也。天皇、以大日本彥耜友天皇廿二年春二月丁未朔戊午、立爲皇太子。卅四年秋九月、大日本彥耜友天皇崩。明年冬十月戊午庚午、葬大日本彥耜友天皇於畝傍山南纎沙谿上陵。
元年春正月丙戌朔甲午、皇太子卽天皇位。夏四月乙卯朔己未、尊皇后曰皇太后。秋七月、遷都於掖上、是謂池心宮。是年也、太歲丙寅。
廿九年春正月甲辰朔丙午、立世襲足媛爲皇后。一云、磯城縣主葉江女渟名城津媛。一云、倭國豐秋狹太媛女大井媛也。后生天足彥國押人命・日本足彥國押人天皇。
六十八年春正月丁亥朔庚子、立日本足彥國押人尊、皇太子、年廿。天足彥國押人命、此和珥臣等始祖也。
八十三年秋八月丁巳朔辛酉、天皇崩。 
觀松彥香殖稻天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト=孝昭天皇)は大日本彥耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト=懿徳天皇)の嫡男です。母は皇后の天豐津媛命(アマトヨツヒメノミコト)は息石耳命(オキソミミノミコト=安寧天皇の子で懿徳天皇の兄)の娘です。孝昭天皇は大日本彥耜友天皇(=懿徳天皇)即位の22年春2月12日に皇太子となりました。
懿徳天皇34年秋9月に大日本彥耜友天皇(=懿徳天皇)が崩御しました。翌年の冬10月13日に大日本彥耜友天皇(=懿徳天皇)を畝傍山南纎沙谿上陵(ウネビヤマミナミノマナゴノタニノカミノミササギ)に葬りました。
孝昭天皇即位元年1月9日。孝昭天皇は皇位につきました。
夏4月5日皇后(懿徳天皇の皇后の天豐津媛命のこと)を尊び、皇太后としました。
秋7月に都を掖上(ワキノカミ=奈良県御所市池之内)に移しました。これを池心宮(イケゴコロノミヤ)といいます。この年が太歲丙寅です。
孝昭天皇即位29年の春1月3日に世襲足媛(ヨソタラシヒメ)を立てて皇后としました。
ある書によると、磯城縣主葉江(シキノアガタヌシハエ)の娘の渟名城津媛(ヌナキツヒメ)です。ある書によると、倭國(ヤマトノクニ)の豐秋狹太媛(トヨアキサダヒメ)の娘の大井媛(オオイヒメ)です。
后は天足彥國押人命(アメタラシヒコクニオシヒトノミコト)と日本足彥國押人天皇(ヤマトタラシヒクコニオシヒトノスメラミコト=孝安天皇)を生みました。
即位68年の春1月14日に日本足彥國押人天皇(=孝安天皇)を皇太子としました。天足彥國押人命は和珥臣(ワニノオミ)たちの始祖です。
即位83年の秋8月5日に孝昭天皇は崩御しました。 
また登場した磯城縣主葉江(シキノアガタヌシハエ)。懿徳天皇(日本書紀)、安寧天皇(二)即位後にも登場しています。 
孝安天皇
日本足彥國押人天皇、觀松彥香殖稻天皇第二子也。母曰世襲足媛、尾張連遠祖瀛津世襲之妹也。天皇、以觀松彥香殖稻天皇六十八年春正月、立爲皇太子。八十三年秋八月、觀松彥香殖稻天皇崩。
元年春正月乙酉朔辛卯、皇太子卽天皇位。秋八月辛巳朔、尊皇后曰皇太后。是年也、太歲己丑。
二年冬十月、遷都於室地、是謂秋津嶋宮。
廿六年春二月己丑朔壬寅、立姪押媛爲皇后。一云、磯城縣主葉江女長媛。一云、十市縣主五十坂彥女五十坂媛也。后生大日本根子彥太瓊天皇。
卅八年秋八月丙子朔己丑、葬觀松彥香殖稻天皇于掖上博多山上陵。
七十六年春正月己巳朔癸酉、立大日本根子彥太瓊尊、爲皇太子、年廿六。
百二年春正月戊戌朔丙午、天皇崩。 
日本足彥國押人天皇(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト=孝安天皇)は觀松彥香殖稻天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト=孝昭天皇)の第二子です。母は曰世襲足媛(ヨソタラシヒメ)です。尾張連(オワリノムラジ)の遠祖の瀛津世襲(オキツヨソ)の妹です。天皇は觀松彥香殖稻天皇(=孝昭天皇)が即位して68年の春1月に皇太子となりました。
孝昭天皇即位83年の秋8月。觀松彥香殖稻天皇(=孝昭天皇)が崩御しました。
孝安天皇元年の春1月27日に皇太子(=孝安天皇)は皇位につきました。
秋8月に皇后(孝昭天皇の皇后の世襲足媛)を尊び、皇太后としました。この年は太歲己丑です。
即位2年冬10月。都を室(ムロ=奈良県御所市室)に移しました。これを秋津嶋宮(アキヅシマノミヤ)といいます。
即位26年の春2月14日。姪押媛(ミメオシヒメ)を皇后にしました。
ある書によると磯城縣主葉江(シキノアガタヌシハエ)の娘の長媛(ナガヒメ)です。またある書によると、十市縣主五十坂彥(トオチノアガタヌシイサカヒコの娘の五十坂媛(イサカヒメ)です。
后は大日本根子彥太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト=孝霊天皇)を生みました。
38年の秋8月14日。觀松彥香殖稻天皇(=孝昭天皇)を掖上博多山上陵(ワキガミハカタノヤマノカミノミササギ)に葬りました。
76年の春1月5日。大日本根子彥太瓊天皇(=孝霊天皇)を立てて皇太子としました。このとき年齢は26歳。
102年の春1月9日に孝安天皇は崩御しました。 
孝霊天皇
大日本根子彥太瓊天皇、日本足彥國押人天皇太子也。母曰押媛、蓋天足彥國押人命之女乎。天皇、以日本足彥國押人天皇七十六年春正月、立爲皇太子。百二年春正月、日本足彥國押人天皇崩。秋九月甲午朔丙午、葬日本足彥國押人天皇于玉手丘上陵。冬十二月癸亥朔丙寅、皇太子遷都於K田、是謂廬戸宮。
元年春正月壬辰朔癸卯、太子卽天皇位。尊皇后曰皇太后。是年也、太歲辛未。
二年春二月丙辰朔丙寅、立細媛命、爲皇后。一云、春日千乳早山香媛。一云、十市縣主等祖女眞舌媛也。后生大日本根子彥國牽天皇。妃倭國香媛亦名絚某姉、生倭迹々日百襲姬命・彥五十狹芹彥命亦名吉備津彥命・倭迹々稚屋姬命。亦妃絚某弟、生彥狹嶋命・稚武彥命。弟稚武彥命、是吉備臣之始祖也。
卅六年春正月己亥朔、立彥國牽尊、爲皇太子。
七十六年春二月丙午朔癸丑、天皇崩。 
大日本根子彥太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト=孝霊天皇)は日本足彥國押人天皇(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト=孝安天皇)の太子(ヒツギノミコ=嫡男)です。母は押媛(オシヒメ)といいます。思うに天足彥國押人命(アメタラシヒコクニオシヒトノミコト=孝昭天皇の子で孝安天皇の兄)の娘だろうか。孝霊天皇は日本足彥國押人天皇(=孝安天皇)即位76年の春1月に皇太子となりました。
孝安天皇即位102年春1月に日本足彥國押人天皇(=孝安天皇)が崩御しました。
秋9月13日に日本足彥國押人天皇(=孝安天皇)を玉手丘上陵(タマテノオカウエノミササギ)に葬りました。
冬12月4日に皇太子は都を黒田(=奈良県磯城郡田原本町黒田)に移しました。これを廬戸宮(イホトノミヤ)といいます。
孝霊天皇即位元年。春1月12日。太子は天皇に即位しました。皇后(=孝安天皇の妃の押媛のこと)を尊び、皇太后としました。この年は太歲辛未でした。
即位2年。春2月の11日。細媛命(ホソヒメノミコト)を皇后としました。
ある書によると春日千乳早山香媛(カスガノチチハヤヤマカヒメ)といいます。
ある書によると十市縣主(トイチノアガタヌシ)たちの祖先の娘の眞舌媛(マシタヒメ)といいます。
后は大日本根子彥國牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト=孝元天皇)と倭國香媛(ヤマトノクニカヒメ…別名を絚某姉【ハヘイロネ】)と、倭迹々日百襲姬命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)と彥五十狹芹彥命(ヒコイサセリビコノミコト…別名を吉備津彥命【キビツヒコノミコト】)と倭迹々稚屋姬命(ヤマトトトワカヤヒメノミコト)を生みました。
また別の妃が(上記の皇子と妃の)弟として、生彥狹嶋命(ヒコサシマノミコト)と稚武彥命(ワカタケヒコノミコト)を生みました。稚武彥命(ワカタケヒコノミコト)は吉備臣(キビノオミ)の始祖(ハジメノオヤ)です。
即位36年の春1月に彥國牽尊(ヒコクニクルノミコト)を皇太子にしました。
即位76年の春2月8日に孝霊天皇は崩御しました。 
次の孝元天皇は長子
これまでほぼ末子だった、皇太子がここでなぜか「長子」に。ただし、皇后の子は孝元天皇以外では「桃太郎」の元ネタとも言われる通称「吉備津彦」こと彥五十狹芹彥命(ヒコイサセリビコノミコト)です。吉備津彦は現代語で言うと「吉備の男」です。大和の天皇の子息にそんな名前がつくのはおかしい。これは「吉備を後に支配した」という意味なのか、「吉備出身」なのかは、なんとも言えない。もちろん記紀をまっとうに読めば、「吉備を支配した」という意味になります。日本は支配した地域の名前を貰うのが普通で、変則的ではありますが、オウスがクマソタケルから「ヤマトタケル」という名前を貰うのが有名です。 
孝元天皇
大日本根子彥國牽天皇、大日本根子彥太瓊天皇太子也。母曰細媛命、磯城縣主大目之女也。天皇、以大日本根子彥太瓊天皇卅六年春正月、立爲皇太子、年十九。七十六年春二月、大日本根子彥太瓊天皇崩。
元年春正月辛未朔甲申、太子卽天皇位。尊皇后曰皇太后。是年也、太歲丁亥。
四年春三月甲申朔甲午、遷都於輕地、是謂境原宮。
六年秋九月戊戌朔癸卯、葬大日本根子彥太瓊天皇于片丘馬坂陵。
七年春二月丙寅朔丁卯、立欝色謎命爲皇后。后生二男一女、第一曰大彥命、第二曰稚日本根子彥大日々天皇、第三曰倭迹々姬命。一云、天皇母弟少彥男心命也。妃伊香色謎命、生彥太忍信命。次妃河內玉繋女埴安媛、生武埴安彥命。兄大彥命、是阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狹々城山君・筑紫國造・越國造・伊賀臣、凡七族之始祖也。彥太忍信命、是武內宿禰之祖父也。
廿二年春正月己巳朔壬午、立稚日本根子彥大日々尊、爲皇太子、年十六。
五十七年秋九月壬申朔癸酉、大日本根子彥牽天皇崩。 
大日本根子彥國牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト=孝元天皇)は大日本根子彥太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト=孝霊天皇)の太子(ミコ)です。母は細媛命(ホソヒメノミコト)といいます。磯城縣主大目(シキノアガタヌシオオメ)の娘です。孝元天皇は大日本根子彥太瓊天皇(=孝霊天皇)が即位36年の春1月に皇太子となります。年は19歳でした。
孝霊天皇即位76年の春2月に大日本根子彥太瓊天皇(=孝霊天皇)が崩御しました。
孝元天皇即位元年の春1月14日。太子(ヒツギノミコ)が天皇に即位しました。皇后(キサキ=孝霊天皇の皇后の細媛命)を尊び、皇太子としました。この年、太歲丁亥です。
即位4年春3月11日。都を軽(カル)の土地に移しました。境原宮(サカイハラノミヤ)といいます。
即位6年秋9月6日。大日本根子彥太瓊天皇(=孝霊天皇)を片丘馬坂陵(カタオカノウマサカノミササギ)に葬りました。
即位7年の春2月2日。欝色謎命(ウツシコメノミコト)を皇后としました。后は二柱の男(ヒコミコ)と一柱の女(ヒメミコ)を生みました。第一子は大彥命(オオヒコノミコト)です。第二子は稚日本根子彥大日々天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト=開化天皇)です。第三子は倭迹々姬命(ヤマトトトヒメノミコト)です。
ある書によると、天皇の弟に少彥男心命(スクナヒコオココロノミコト)とも
妃の伊香色謎命(イカガシコメノミコト)が彥太忍信命(ヒコフツオシノマコトノミコト)を生みました。
次の妃の河內玉繋(カフチノアオタマカケ)の娘の埴安媛(ハニヤスヒメ)が、武埴安彥命(タケハニヤスヒコノミコト)を生みました。大彥命(オオヒコノミコト)は阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狹々城山君・筑紫國造・越國造・伊賀臣などの七族の始祖です。彥太忍信命(ヒコフツオシノマコトノミコト)は武內宿禰(タケシウチノスクネ)の祖父です。
即位22年春1月14日。稚日本根子彥大日々天皇(=開化天皇)を立てて皇太子としました。年齢は16歳です。
即位57年秋9月2日。大日本根子彥太瓊天皇(=孝霊天皇)が崩御しました。 
開化天皇
稚日本根子彥大日々天皇、大日本根子彥國牽天皇第二子也。母曰欝色謎命、穗積臣達祖欝色雄命之妹也。天皇、以大日本根子彥國牽天皇廿二年春正月、立爲皇太子、年十六。五十七年秋九月、大日本根子彥國牽天皇崩。冬十一月辛未朔壬午、太子卽天皇位。
元年春正月庚午朔癸酉、尊皇后曰皇太后。冬十月丙申朔戊申、遷都于春日之地(春日、此云箇酒鵝)、是謂率川宮。(率川、此云伊社箇波)。是年也、太歲甲申。
五年春二月丁未朔壬子、葬大日本根子彥國牽天皇于劒池嶋上陵。
六年春正月辛丑朔甲寅、立伊香色謎命爲皇后。是庶母也。后生御間城入彥五十瓊殖天皇。先是、天皇、納丹波竹野媛爲妃、生彥湯産隅命。亦名彥蔣簀命。次妃和珥臣遠祖姥津命之妹姥津媛、生彥坐王。
廿八年春正月癸巳朔丁酉、立御間城入彥尊、爲皇太子、年十九。
六十年夏四月丙辰朔甲子、天皇崩。冬十月癸丑朔乙卯、葬于春日率川坂本陵。一云、坂上陵。時年百十五。 
稚日本根子彥大日々天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト=開化天皇)は大日本根子彥國牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト=孝元天皇)の第二子です。母は欝色謎命(ウツシコメノミコト)といいます。穗積臣(ホヅミノオミ)の遠祖の欝色雄命(ウツシコオノミコト)の妹です。開化天皇は大日本根子彥國牽天皇(=孝元天皇)即位22年の春1月に皇太子となりました。年齢は16歳でした。孝元天皇即位57年の秋9月に大日本根子彥國牽天皇(=孝元天皇)が崩御しました。冬11月12日。太子は天皇に即位しました。
開化天皇即位元年の春1月4日。皇后(=孝元天皇の皇后の欝色謎命のこと)を尊び、皇太后としました。冬10月13日。都を春日(奈良県奈良市のあたり)の土地に移しました。
率川宮(イザカワノミヤ)です。この年は太歲甲申です。
即位5年春2月6日。大日本根子彥國牽天皇(=孝元天皇)を劒池嶋上陵(ツルギノイケノシマノウエノミササギ)に葬りました。
即位6年春1月14日。伊香色謎命(イカガシコメノミコト)を皇后としました。庶母(ママモ…継母のこと)です。御間城入彥五十瓊殖天皇(ミマキイリヒコイニエノスメラミコト=崇神天皇)が生まれました。これ以前に開化天皇は丹波竹野媛(タニハノタカノヒメ)を妃としていました。妃は彥湯産隅命(ヒコユムスミノミコト…別名を彥蔣簀命【ヒコモスノミコト】)を生んでいました。次の妃である、和珥臣(ワニノオミ)の遠祖の姥津命(ハハツノミコト)の妹の姥津媛(ハハツヒメ)は彥坐王(ヒコイマスノミコ)を生みました。
即位28年の春1月5日。御間城入彥天皇(=崇神天皇)を皇太子にしました。年は19歳でした。
即位60年の夏4月9日、開化天皇は崩御しました。冬10月3日。春日率川坂本陵(カスガノイザカワノサカモトノミササギ)に葬りました。
ある書によると坂上陵(サカノウエノミササギ)とも。年は115歳でした。
春日は箇酒鵝(カスガ)と読みます。率川は伊社箇波(イザカワ)と読みます。 
継母と結婚する?
開化天皇は父親である孝元天皇の妃の伊香色謎命を皇后にしています。関係からいうと継母にあたります。もちろん実母ではありません。
まぁ父の若い愛人と…だと
天皇には皇后がいて、それとは別に妃がいるわけです。日本書紀には妃の名前はあっても、年齢は書いてありませんから、分かりません。孝元天皇は死去の年齢がありませんが、暦から考えると105歳くらい。この時代はどうやら二倍歴なので、死去の年齢は57歳です。となると若いときに皇后を貰って、年を経てから妃を貰うと、皇后の子供と妃の年齢が近い、ということでしょう。 
 
崇神天皇 

 

崇神天皇の出自と性格
御間城入彥五十瓊殖天皇、稚日本根子彥大日々天皇第二子也。母曰伊香色謎命、物部氏遠祖大綜麻杵之女也。天皇年十九歲、立爲皇太子、識性聰敏、幼好雄略。既壯寛博謹愼、崇重神祇、恆有經綸天業之心焉。六十年夏四月、稚日本根子彥大日々天皇崩。 
御間城入彥五十瓊殖天皇(ミマキイリヒコイニエノスメラミコト=崇神天皇)は稚日本根子彥大日々天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト=開化天皇)の第二子です。母は伊香色謎命(イカガシコメ=孝元天皇の妃で開化天皇の皇后)といいます。物部氏の遠祖の大綜麻杵(オオヘソキ)の娘です。
崇神天皇は19歳で皇太子となりました。識性(ミタマシヒ=善悪を識別する能力)が優れていました。幼くして雄略(オシキコト)を好みました。壮(オトコザカリ)となると、心を広く持ち、慎み深くなり、神祇(アマツカミクニツカミ)を崇めました。それで常に天業(アマツヒツギ=天皇の仕事=皇位)を治めようと思うようになりました。
開化天皇即位60年の4月に稚日本根子彥大日々天皇(=開化天皇)は崩御しました。 
崇神天皇の皇后と妃とその子供たち
元年春正月壬午朔甲午、皇太子卽天皇位。尊皇后曰皇太后。二月辛亥朔丙寅、立御間城姬爲皇后。先是、后生活目入彥五十狹茅天皇・彥五十狹茅命・國方姬命・千々衝倭姬命・倭彥命・五十日鶴彥命。又妃、紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛一云、大海宿禰女八坂振天某邊、生豐城入彥命・豐鍬入姬命。次妃尾張大海媛、生八坂入彥命・淳名城入姬命・十市瓊入姬命。是年也、太歲甲申。 
崇神天皇即位元年1月13日。皇太子は天皇に即位しました。皇后(=開化天皇の皇后の伊香色謎命)を尊び、皇太后としました。2月16日。御間城姬(ミマキヒメ)を皇后としました。これより先に…(皇后になる以前に)、后は活目入彥五十狹茅天皇(イクメイリヒコイサチノスメラミコト=垂仁天皇)・彥五十狹茅命(ヒコイサチノミコト)・國方姬命(クニカタヒメノミコト)・千々衝倭姬命(チチツクヤマトヒメノミコト)・倭彥命(ヤマトヒコノミコト)・五十日鶴彥命(イカツルヒコノミコト)を生みました。
また妃の紀伊國の荒河戸畔(アラカワトベ)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(トオツアユメマクハシヒメ)
ある書によると大海宿禰(オオアマノスクネ)の娘の八坂振天某邊(ヤサカフルアマイロベ)とも
が、豐城入彥命(トヨキイリビコノミコト)・豐鍬入姬命(トヨスキイリヒメノミコト)を生みました。
次の妃の尾張大海媛(オワリノオオアマヒメ)は八坂入彥命(ヤサカノヒリヒコノミコト)・淳名城入姬命(ヌナキノイリヒメノミコト)・十市瓊入姬命(トオチニイリヒメノミコト)を生みました。この年は太歲甲申でした。 
崇神天皇の詔
三年秋九月、遷都於磯城、是謂瑞籬宮。
四年冬十月庚申朔壬午、詔曰「惟我皇祖・諸天皇等、光臨宸極者、豈爲一身乎。蓋所以司牧・人神、經綸天下。故能世闡玄功、時流至コ。今朕奉承大運、愛育黎元、何當聿遵皇祖之跡、永保無窮之祚。其群卿百僚、竭爾忠貞、共安天下、不亦可乎。」 
崇神天皇即位3年秋9月。磯城(シキ)へと都を遷しました。瑞籬宮(ミズカキノミヤ=奈良県桜井市金屋あたり)といいます。
即位4年冬10月23日。天皇は言いました。
「わたしの皇祖(ミオヤ)や諸天皇(モロモロノスメラミコト)たちが宸極(アマツヒツギ=皇位のこと)についたのは、自身のためであろうわけがない。人神(ヒト)が増えるように整え、天下を治めるためです。奥の深い仕事をして、徳を広めよう。今、私は大運(アマツヒツギ=天から正統な支配権=皇位のこと)を受け、黎元(オオミタカラ)を愛で育もう。こうしてついに皇祖(ミオヤ)の跡(ミアト)に従って、長く終わりの無い祚(アマツヒツギ=天から正統な支配権)を保とう。群卿百僚(マヘツキミタチモモノツカサ=多くの氏族と多くの役人)、彼らの忠貞(タダシキコト=道徳)をつくし、共に天下を安らかにしていこう」 
ここは作文とも
崇神天皇が都を遷した記述の後、天皇が詔をのべます。
まぁ、ようは「アマテラスから続く皇統が天皇になっているのは、私利私欲じゃないよ。これからも天皇を続けて行くよ。みんなで頑張って行こうね」ってことです。
この文章の肝は「天」から授けられた「支配権」、ということと、国を治めるのに「徳」や「正しさ」が必要だということ、また「みんなで頑張って行こう」という「和」です。
天から授けられた支配権と、徳が国を治めるというのは「儒教」の考え方です。もちろん、儒教とは関係無しにそういった思想を持ったという可能性は無い訳ではありませんが、この後に疫病によって国民が死んで、その解決の為に大物主の子孫が大物主を祀ることで解決するという、儒教の「祖霊信仰」の影響を考えると、この時期に「儒教が伝わった」、もしくは「政治的に儒教を取り込んだ」のがこの時期、だと思います。
神武天皇には儒教の影響が見られない
神武天皇の時代には儒教の影響は見られず、もっぱら「誓約」や「神」です。つまり、神武天皇の記述は内容が史実でないとしても、記述自体はその時代の物語ということです。 
疫病で国民の半数が死亡
五年、國內多疾疫、民有死亡者、且大半矣。
六年、百姓流離、或有背叛、其勢難以コ治之。是以、晨興夕タ、請罪神祇。先是、天照大神・倭大國魂二神、並祭於天皇大殿之內。然畏其神勢、共住不安。故、以天照大神、託豐鍬入姬命、祭於倭笠縫邑、仍立磯堅城神籬。神籬、此云比莽呂岐。亦以日本大國魂神、託渟名城入姬命令祭、然渟名城入姬、髮落體痩而不能祭。 
崇神天皇即位5年。国内に疫病が多く発生して、民(オオミタカラ)の大半(ナカバスギ=半分以上)が死亡しました。
即位6年。百姓は流浪し、なかには背くものもありました。(国が荒れる)勢いはすさまじく、徳(ウツクシビ)を持って治めることは難しいほどでした。
そこで眠らず朝まで神祇(アマツカミクニツカミ=天津神・国津神)に(疫病がやむように)お願いをしたのです。
これより先に、天照大神(アマテラスオオミカミ)・倭大國魂(ヤマトノオオクニタマ)の二柱の神を天皇が住む宮殿の中に並べて祀っていました。するとこの二柱の神の勢いが強くて畏れおおくて、共に住むのは落ち着かなくなりました。
そこで天照大神(アマテラスオオミカミ)を豐鍬入姬命(トヨスキイリヒメノミコト=崇神天皇の娘)を付けて、倭の笠縫邑(カサヌイムラ)に祀りました。そして磯堅城(シカタキ=地名か施設名かは不明)に神籬(ヒモロキ=神が降りる場所。後には神社を表す)を立てました。神籬は比莽呂岐(ヒモロキ)といいます。
日本大國魂神(ヤマトオオクニタマノカミ)は渟名城入姬(ヌナキノイリヒメ=崇神天皇の娘)を付けて祀りました。しかし渟名城入姬は髪が抜け落ちて祀ることが出来ませんでした。 
託けて
天皇の娘には神を祭る「役割」があります。日本書紀には「託」という字をあてて、「天照大神を豐鍬入姬命を託(ツ)けて」としています。 
弱音と儀式と大物主
七年春二月丁丑朔辛卯、詔曰「昔我皇祖、大啓鴻基。其後、聖業逾高、王風轉盛。不意今當朕世數有災害、恐朝無善政、取咎於神祇耶、蓋命神龜以極致災之所由也。」於是、天皇乃幸于神淺茅原、而會八十萬神、以卜問之。是時、神明憑倭迹々日百襲姬命曰「天皇、何憂國之不治也。若能敬祭我者、必當自平矣。」天皇問曰「教如此者誰神也。」答曰「我是倭國域內所居神、名爲大物主神。」 
崇神天皇即位7年春2月15日。崇神天皇は言いました。
「昔、私の皇祖(スメミオヤ)は鴻基(アマツヒツギ=天から与えられた支配権=皇位)を開いた。その後は聖業逾高(ヒジリノワザイヨイヨタカク=聖人としての仕事はとても立派)で、王風轉盛(キミノノリウタタサカリ=王者の風格もまた立派なもの)だった。思うに、私の世代になって、よく災害がある。おそらく朝(ミカド)に良い政治が行われていないから、神祇(アマツカミクニツカミ=天津神・国津神)が咎(トガ)を与えているのではないか。どうにか命神龜(ウラ=占いのこと)をして、災いを起こす理由を見極めよう」
天皇は神淺茅原(カムアサジハラ=桜井市茅原?桜井市笠の浅茅原?とも)に行って、八十萬神に占いで問いました。このときに神明憑倭迹々日百襲姬命(カミヤマトトトヒモモソヒメ=孝霊天皇の娘)が憑(カカリ=神が憑くこと)して言いました。「天皇よ。どうして国が治まらないことを憂うのか?もしも私をよく敬い、祀れば、必ず国を平穏にしよう」
崇神天皇は問いました。「そのようなことを教えてくれるのは、どこの神ですか?」
神は答えました。「私は倭國(ヤマトノクニ)の域內(サカイノウチ)にいる神、大物主神(オオモノヌシノカミ)という」 
おや?大物主は祟り神ではないんじゃない?
物語としては、アマテラスとヤマトノクニタマが仲が悪いというか相性が悪いので、別々に祀った。しかも天皇の娘を担当にした。ところが、娘の髪の毛が抜けて、祀ることが出来ないほどに、霊威が強い。そんで疫病が発生した。
因果関係ははっきりしない。それで、天皇が神に伺いを立てると、大物主が「ちゃんと祀ったら、どうにかしてやるぞ」と言ってきた。
これって大物主が祟ってるとは言えないんじゃ??
ただし次のページ「崇神天皇(六)大物主の夢のお告げ(日本書紀)」で大物主が「国が治まらないのは私の意思」と言っている。
儒教の影響
崇神天皇は「わたしに徳が無いから疫病が…」と弱音を吐きます。天皇が天皇たる所以は「皇統」というか「血統」なんですよね。先祖が「天皇」だから、崇神天皇は天皇なんです。ところが、崇神天皇は「徳」の有無について悩んでいる。支配者の血統なら、徳があろうがなかろうと、関係ないんです。
それは儒教の影響です。儒教は徳治主義といって「徳」がある人が国を治めるべきであり、徳がある人が国を治めると、発展しますよ、という考えです。ひっくり返すと、国がうまく治まらないってことは徳が無いということになり、徳の無い支配者は、徳のある権力者と入れ替わって良い、というのが孟子の「易姓革命」です。革命を思想が「正当化」しているんですね。
だから疫病で国民がバタバタと死ぬ、ということは皇統断絶の危機でもあるわけです。ただ、この時代に孟子の思想が伝わっていたのかは不明というか、分かりません。そこまででは無かったんじゃないか?とも。ちなみに崇神天皇は諸説ありますが、3世紀後半の人物で、卑弥呼の少し後くらいと思われます。そこでこのページに出ている神明憑倭迹々日百襲姬命(カミヤマトトトヒモモソヒメ)は卑弥呼だったのかも、と言われるわけです。時代としても、性質もピッタリですからね。 
大物主の夢のお告げ
時、得神語隨教祭祀、然猶於事無驗。天皇、乃沐浴齋戒、潔淨殿內而祈之曰「朕、禮神尚未盡耶、何不享之甚也。冀亦夢裏教之、以畢神恩。」是夜夢、有一貴人、對立殿戸、自稱大物主神曰「天皇、勿復爲愁。國之不治、是吾意也。若以吾兒大田々根子令祭吾者、則立平矣。亦有海外之國、自當歸伏。」 
神の語(ミコト=言葉)を得て、教えの通りに奉りました。しかし、それでも効果がありませんでした。天皇は沐浴齋戒(ユカハアミモノイミ=水を浴びて汚れを落とし、肉食をせず穢れないようにする)して、宮殿を清め、祈りました。
「わたしは、神を敬い奉るのですが、いまだに尽(コトゴト)く効果がありません。どうして、これほどに私の祈りを聞き入れてくれないのですか?効果が無さ過ぎます。お願いですから、また夢の中で教えてください。神の恩(ミウツクシビ=神の愛)を!」
この晩の夢に、一人の高貴な人物が現れました。宮殿の入り口に向かって立って、大物主神(オオモノヌシカミ)と名乗りました。
「天皇(スメラミコト)!!また憂いているな。国が治まらないのは、わたしの意思だ!!もし、我が子、大田々根子(オオタタネコ)に私を祀らせれば、たちどころに国は平穏になる。また海外(ワタノホカ)の国があり、自然と従うだろう」 
大物主の意図
大物主は「崇神天皇(五)弱音と儀式と大物主(日本書紀)」で、「私を祀れば、平穏になるよー」と言っておいて、今度は「私の子供に祀らせれば、平穏になるよー」と要求がより露骨になっています。
これは儒教の「祖霊信仰」の影響かと思います。
儒教では親が大事、とします。親が居なければ子は存在できないからです。親はまたその親を重んじます。よって先祖というのは順繰りに、子孫の存在の根拠となるので、とても偉い、ということになります。それで子孫には先祖を祀る義務が発生します。
また儒教では先祖と子孫が、「同一体」となります。つまり子々孫々が続く限り、永遠の命となります。なので、子孫を残すということは重大な義務です。子孫が途絶えるということは、「命」が途絶えるということになるからです。
それで大物主の話に戻ります。
大物主は子孫に自分を祀らせることで、災害を起こさないと言いました。しかし、先祖を祀らなかったからとって国民を疫病で苦しめるというのは、無茶苦茶です。そんな考えは儒教にはありません。儒教は先祖の祟りは、子孫に降り注ぐことはあっても無関係な誰かに影響しないのです。
よって大物主のこの物語は、古代からある日本人の「祟る」感覚に儒教の思想が混じったものだといっていいでしょう。
日本人にとって神は祟る可能性のあるものです。神とは祟るものなんです。神を鎮めるというのが日本人の関心事でした。大和朝廷や天皇が神を鎮めるためにあったといっても過言ではないのです。そんな神の祟りを鎮める方法の一つとして「儒教」が輸入された・・・というのがリアルなところでしょう。 
大田々根子命を探し出す
秋八月癸卯朔己酉、倭迹速神淺茅原目妙姬・穗積臣遠祖大水口宿禰・伊勢麻績君、三人共同夢而奏言「昨夜夢之、有一貴人誨曰『以大田々根子命爲祭大物主大神之主、亦以市磯長尾市爲祭倭大國魂神主、必天下太平矣。』」天皇、得夢辭、益歡於心、布告天下、求大田々根子、卽於茅渟縣陶邑得大田々根子而貢之。天皇、卽親臨于神淺茅原、會諸王卿及八十諸部、而問大田々根子曰「汝其誰子。」對曰「父曰大物主大神、母曰活玉依媛。陶津耳之女。」亦云「奇日方天日方武茅渟祇之女也。」天皇曰「朕當榮樂。」乃卜使物部連祖伊香色雄爲神班物者、吉之。又卜便祭他神、不吉。 
秋8月7日。倭迹速神淺茅原目妙姬(ヤマトトハヤカミアサヂハラマクハシヒメ)と穗積臣(ホヅミノオミ)の遠祖の大水口宿禰(オオミクチスクネ)と伊勢麻績君(イセノオミノキミ)の三人が同じ夢を見て、天皇に報告しました。
「昨夜、夢を見ました。一人の高貴な人がいまして、教えてくれました。『大田々根子命(オオタタネコノミコト)に大物主を祀る主(カムヌシ)として市磯長尾市(イチシノナガオチ)を倭大國魂神(ヤマトノオオクニタマノカミ)を祀る主(カムヌシ)すれば、必ず天下太平となる』と(夢の中の高貴な人は)言いました」
天皇は夢の辞(コトバ)を得て、ますます喜びました。
布(アマネ)く天下(アメノシタ)に命じて、大田々根子(オオタタネコ)を探すと、すぐに茅渟縣(チヌノアガタ)の陶邑(スエムラ=和泉国大鳥郡陶器荘…大阪府堺市陶器山の西)に大田々根子(オオタタネコ)を見つけました。天皇はすぐに自ら神淺茅原(カムアサジハラ)に出向いて、諸王卿(オオキミタチマツヘツキミタチ=王さま達)と八十諸部(ヤソモロトモノオ=沢山の「伴」の主張)が集まって、大田々根子(オオタタネコ)に尋ねました。
「お前は、誰の子か?」
大田々根子(オオタタネコ)は答えました。「父は大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)といいます。母は活玉依媛(イクタマヨリヒメ)といいます。陶津耳(スエツミミ)の娘です」また言いました。「奇日方天日方武茅渟祇(クシヒカタアマツヒカタタケチヌツミ)の娘です」
天皇はいいました。「わたしは、栄えるだろう」
すぐに物部連(モノノベノムラジ)の祖先の伊香色雄(イカガシコオ)を神班物者(カミノモノアカツヒト=神に捧げるものを分ける人)にしようと占うと「吉」と出ました。ついでに他の神を祀ろうかと占うと「吉」と出ませんでした。
古事記の対応箇所 / 疫病と大物主神 / 大物主神の祟りは収まる / オオタタネコの出自 / イクタマヨリビメとその両親の会話 / 三輪山説話・美和の由来 
オオタタネコの系譜は古事記と違う?
古事記の系譜は
「私はオオモノヌシ神が陶津耳命(スエツミミ)の娘である活玉依毘売(イクタマヨリビメ)を娶って産んだ櫛御方命(クシミカタノミコト)の子の飯肩巣見命(イヒカタスミノミコト)の子の建甕槌命(タケミカヅチノミコト)の子のオオタタネコです」
古事記では大物主がスエツミミの娘のイクタマヨリヒメを娶って…となっているのに対して日本書紀では大物主がイクタマヨリヒメを娶ってスエツミミが生まれて、その娘がオオタタネコ…となっています。
いやいや、これ違ってないんじゃない?
「父は大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)といいます。母は活玉依媛(イクタマヨリヒメ)といいます。陶津耳(スエツミミ)の娘です」また言いました。「奇日方天日方武茅渟祇(クシヒカタアマツヒカタタケチヌツミ)の娘です」の「陶津耳(スエツミミ)の娘です」はイクタマヨリヒメの説明じゃないか??つまり大物主とイクタマヨリヒメの間の子が奇日方天日方武茅渟祇で、その娘がオオタタネコとなるのでは??
奇日方天日方武茅渟祇
それで奇日方天日方武茅渟祇も古事記の「櫛御方命(クシミカタノミコト)・飯肩巣見命(イヒカタスミノミコト)・建甕槌命(タケミカヅチノミコト)」を合わせた名前じゃないでしょうか??
これってちょっとしたことですが、結構大きい。記紀で記述が違うんじゃなくて、記述方法が違うだけなんじゃないか?と思うんですよね。 
天社・國社・神地・神戸を定める
十一月丁卯朔己卯、命伊香色雄而以物部八十平瓮作祭神之物。卽以大田々根子爲祭大物主大神之主、又以長尾市爲祭倭大國魂神之主。然後、卜祭他神、吉焉。便別祭八十萬群神。仍定天社・國社及神地・神戸。於是、疫病始息、國內漸謐、五穀既成、百姓饒之。 
11月13日。伊香色雄(イカガシコオ)に命じて、物部(モノノフ=物部氏の武人)は八十平瓮(ヤソヒラカ=平たい皿)で神に奉るものを作りました。それで大田々根子を大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)を祀る主(カムヌシ)としました。また、長尾市(ナガオチ)を倭大国魂神(ヤマトノオオクニタマノカミ)を祀る主(カムヌシ)としました。その後に他の神を祀ろうと占うと「吉」と出ました。すぐに別に八十萬群神(ヤソヨロズノモロカミ)を祀りました。天社(アマツヤシロ)・國社(クニツヤシロ)・神地(カムドコロ)・神戸(カンベ)を定めました。
すると疫病が止みはじめました。国内がようやく鎮まりました。五穀(イツツノタナツモノ)が稔って、百姓は賑やかになりました。 
他の神を祀る
日本人は祟り神を恐れます。まずは祟り神を鎮めないと、他の神を祀れない。日本は八百万の神が居ます。一神教じゃないですから、1柱の神を丁寧に祀ればそれで済む、というわけにはいかない。物わかりのいい神様ばかりじゃない。
大物主が祟っているからといって、蔑ろにしていると、他の神さまだって、いつ祟るかもしれない。早くお祀りしないといけません。そういう感覚があるのですね。 
味酒三輪の殿の朝門にも出でて行かな三輪の殿門を
八年夏四月庚子朔乙卯、以高橋邑人活日、爲大神之掌酒。掌酒、此云佐介弭苔。冬十二月丙申朔乙卯、天皇、以大田々根子令祭大神。是日、活日、自舉神酒、獻天皇。仍歌之曰、
許能瀰枳破和餓瀰枳那羅孺椰磨等那殊於朋望能農之能介瀰之瀰枳伊句臂佐伊久臂佐
如此歌之、宴于神宮。卽宴竟之、諸大夫等歌之曰、
宇磨佐開瀰和能等能々阿佐妬珥毛伊弟氐由介那瀰和能等能渡塢
於茲、天皇歌之曰、
宇磨佐階瀰和能等能々阿佐妬珥毛於辭寐羅箇禰瀰和能等能渡烏
卽開神宮門而幸行之。所謂大田々根子、今三輪君等之始祖也。 
8年夏4月16日。高橋邑(タカハシノムラ=大和国添上郡高橋神社=奈良県天理市櫟本町?)の活日(イクヒ)を大神(オオミワ=大神神社…大物主の神社)の掌酒(サカビト=神に酒を捧げる役)としました。
冬12月20日。天皇は大田々根子(オオタタネコ)に大神(オオミワノカミ)を祀らせました。この日、活日(イクヒ)が自ら神酒(ミワ)を捧げて、天皇に献上しました。それで歌を歌いました。
この神酒(ミキ)は我が神酒ならず 倭(ヤマト)成す大物主の醸みし神酒 幾久幾久
訳 / このお酒はわたしの酒ではありません。倭を作った大物主が醸(カモ)した神酒です。いつまでも、いつまでも、栄えますよう
このように歌い、神宮(カミノミヤ)で宴(トヨノアカリ)をしました。すぐ宴(トヨノアカリ)は終わって、諸大夫(マヘツキミタチ=役人)が歌を歌いました。
味酒(ウマサケ)三輪の殿(トノ)の 朝門(アサト)にも出でて行かな 三輪の殿門(トノト)を
訳 / 美味しい酒のある三輪神社の社で、朝が来るまで酒を飲んで、朝が来たら帰ろう。三輪の社の門から。
それで天皇も歌を歌いました。
味酒(ウマサケ)三輪の殿(トノ)の 朝門(アサト)にも押し開かね 三輪の殿門(トノト)を
訳 / 美味しい酒のある三輪神社の社で、朝が来るまで酒を飲んで帰りなさいな。三輪の社の門を押し開いて。
神宮(カミノミヤ)の門を開いて、天皇は帰りました。この大田々根子(オオタタネコ)は今の三輪君(ミワノキミ)などの始祖です。
掌酒は佐介弭苔(サカビト)と読みます。 
墨坂神と大坂神
九年春三月甲子朔戊寅、天皇、夢有神人誨之曰「以赤盾八枚・赤矛八竿、祠墨坂神。亦以K盾八枚・K矛八竿、祠大坂神。」四月甲午朔己酉、依夢之教、祭墨坂神・大坂神。 
崇神天皇即位9年春3月15日。崇神天皇の夢に神人(カミ)が現れて教えてくれました。
「赤盾(アカタテ)8枚。赤矛(アカホコ)8竿で墨坂神(スミサカノカミ=大和国宇陀郡宇太水分神社=奈良県宇陀郡蓁原町下井足?)に祀れ。また、黒盾(クロタテ)8枚、黒矛(クロホコ)8竿を大坂神(オオサカノカミ=大坂山口神社=奈良県北葛城郡香芝町穴虫)に祀れ」といいました。
4月16日。夢での教えの通りに、墨坂神と大坂神を祀りました。 
墨坂神と大阪神は大和の国の東西の要所。交通で大事なポイント。この後に四道将軍を送り、領地を拡大して、天皇というか大和は発展することになるので、その前段階として要所を抑えた、という意味かと思われます。戦略という意味もありますが、当時は戦争でもなんでも『神』に伺いを立てるのが普通ですから、大事の前に神頼み、という意味も大きいかと思います。 
民を導く根本は
十年秋七月丙戌朔己酉、詔群卿曰「導民之本、在於教化也。今既禮神祇、災害皆耗。然遠荒人等、猶不受正朔、是未習王化耳。其選群卿、遣于四方、令知朕憲。」 
崇神天皇即位10年の秋7月24日。群臣を集めて天皇は言いました。
「民を導く根本は(民に世界の理を)教えて(考えを)変えることにある。今、すでに神祇(アマツカミクニツカミ=天津神・国津神)を敬い、災害(ワザワイ)は全て消えてしまった。しかし、遠くの国の人民はまだ(世界の理を)知らない。未だに王化(キミノオモブケ=天皇の考えに従う)していない。群臣から選び、四方に派遣して、わたしの憲(ノリ)を知らしめよう」と言いました。 
この部分は後世の創作か、それとも作者の創作かとも。崇神天皇の詔 では詔の中に「儒教」の徳治主義が見られます。しかし、ここでは微妙。あるような、ないような。神を祭ることで災害が無くなるというのは日本古来の感覚です。
ではこの詔の根っこの「導民之本、在於教化也」…民を導くことは教化することだ!というのは日本古来の考え方なのか?というと、うーん。分からない。まだ勉強が足りないです。 
四道将軍の派遣
九月丙戌朔甲午、以大彥命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彥遣西道、丹波道主命遣丹波。因以詔之曰「若有不受教者、乃舉兵伐之。」既而共授印綬爲將軍。壬子、大彥命、到於和珥坂上、時有少女、歌之曰、一云、大彥命到山背平坂、時道側有童女歌之曰、
瀰磨紀異利寐胡播揶飫迺餓鳥塢志齊務苔農殊末句志羅珥比賣那素寐殊望
一云「於朋耆妬庸利于介伽卑氐許呂佐務苔須羅句塢志羅珥比賣那素寐須望」 
9月9日。大彦命(オオビコノミコト=孝元天皇の子で開化天皇の兄)を北陸(クヌガノミチ)に派遣しました。武渟川別(タケヌナカワワケ=古事記によると大彦命の子)を東海(ウミツミチ)に派遣しました。吉備津彦(キビツヒコ=彥五十狹芹彥命=孝霊天皇の子で孝元天皇の弟)を西道(ニシノミチ)に派遣しました。丹波道主命(タニワノチヌシノミコト=開化天皇の子の彥坐王の子で、垂仁天皇の后のヒバスヒメの父)を丹波(タニワ)に派遣しました。
それで崇神天皇は言いました。「もし、教(ノリ)を受けないものがあれば、すぐに兵を挙げてうて」4人は印綬(シルシ=官職を受ける印のことで、天皇からの任命の印)を受けて将軍となりました。
9月27日。大彦命(オオビコノミコト)は和珥坂上(ワニサカノウエ=大和国添上郡=奈良県天理市和珥)に到着しました。そのとき少女がいて、歌を歌いました。
ある書では大彦命が山背の平坂(=奈良の北の般若寺坂から木津の間?)に至ったときに、道のほとりに童女(ワラワメ)が居て、歌を詠んだ
御間城入彥(ミマキイリビコ)はや己が命を 死せむと窃(ヌス)まく知らぬに 姫遊(ヒメナソ)びすも
訳 / ミマキイリビコ(崇神天皇)は自分の命を奪い、殺そうと、つけ狙っているとも知らないで、姫と遊んでばかりだ。
ある書によると、
大き戸より窺(ウカガ)いて 殺さむとすらくを知らに 姫遊すも
訳 / 大きな戸から殺そうと窺い見ているのも知らないで、姫と遊んでばかりだ。 
初期の大和朝廷が家族経営だと分かる
大彦命は崇神天皇から見ると叔父さん。武渟川別はいとこ。吉備津彦は祖父の弟。丹波道主命はいとこの子。かなりの濃密な家族運営。もちろん事実ならば、の話ではありますが。 
謀反の徴
於是、大彥命異之、問童女曰「汝言何辭。」對曰「勿言也、唯歌耳。」乃重詠先歌、忽不見矣。大彥乃還而具以狀奏。於是、天皇姑倭迹々日百襲姬命、聰明叡智、能識未然、乃知其歌怪、言于天皇「是武埴安彥將謀反之表者也。吾聞、武埴安彥之妻吾田媛、密來之、取倭香山土、裹領巾頭而祈曰『是倭國之物實』乃反之。物實、此云望能志呂。是以、知有事焉。非早圖、必後之。」 
大彦命(オオビコノミコト)は怪しいと思い、童女(ワラワメ)に問いました。「お前が言ったことはどういうことだ?」童女は答えました。「言ってません。ただ歌っただけです」それでまたさっきの歌を歌い、たちまち見えなくなりました。
大彦命はすぐに帰り、詳細に見た事を報告しました。天皇の大叔母の倭迹々日百襲姬命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)は聡明で物知りで、未来の事も分かる人です。その歌の怪(シルシ)を知って、天皇に言いました。
「これは武埴安彥(タケハニヤスヒコ)が謀反(ミカドカタブケ)を起こす表(シルシ)でしょう。私が聞いた所によると、武埴安彥(タケハニヤスヒコ)の妻の吾田媛(アタヒメ)は密かに倭の香山(カグヤマ)に来て、土を取り、領巾(ヒレ=女性が襟から肩にかけた布)の頭(ハシ)に包んで呪いを掛けて『これは倭国(ヤマトノクニ)の物実(モノシロ…モノは霊、シロは代表)』と言って、帰って行ったのです。何か事件があると知りました。速やかに対処しなくては、必ず手遅れとなるでしょう」
物實は望能志呂(モノシロ)と読みます。 
ヤマトトトヒモモソヒメは崇神天皇から見ると祖父の姉か妹にあたります。なんとなく「巫女」イメージが強いので、ピチピチしていそうですが、老婆です。
女性には霊力が!
ここでは童女が現れて歌を歌い、その歌を解釈するのがヤマトトヒモモソヒメです。どうも古代の日本人は「女性」と特別視していたのが分かります。「霊力」があるのは女性というのが定番だったと。そう考えると埴安彦の妻、吾田媛(アタヒメ)も土で呪いを掛けたのだから、霊力があったのでしょう。
ここを読む限り、古代では女性もしっかりと歴史を動かしています。

ここでの「土」は具体的には粘土のこと。日本人は「土」を特別視していたのでしょう。畑の土が無いと植物が育たず、土の「質」が収量に大きく関わるからです。また「土器」が生活を支えていたのですから、生活を依存していた…というイメージを持っていたも不思議ではないです。
それに日本人は山から「穀物神」がやってくると考えていました。この穀物神が里の田畑に宿って生育させるのだと信じていました。だから山は特別です。山の土には神の力があると考えたハズです。それが「土で呪い」という行動に出たのでしょう。 
武埴安彦と吾田媛を迎え撃つ
於是、更留諸將軍而議之。未幾時、武埴安彥與妻吾田媛、謀反逆、興師忽至、各分道、而夫從山背、婦從大坂、共入欲襲帝京。時天皇、遣五十狹芹彥命、擊吾田媛之師、卽遮於大坂、皆大破之、殺吾田媛、悉斬其軍卒。復遣大彥與和珥臣遠祖彥國葺、向山背、擊埴安彥。爰以忌瓮、鎭坐於和珥武鐰坂上。則率精兵、進登那羅山而軍之。時官軍屯聚而蹢跙草木、因以號其山曰那羅山。(蹢跙、此云布瀰那羅須。)更避那羅山而進到輪韓河、與埴安彥、挾河屯之、各相挑焉、故時人改號其河曰挑河、今謂泉河訛也。 
そこで更に諸々の将軍(イクサノキミ)を集めて話し合いをしました。まだ幾時(イクバク)も無いうちに、武埴安彥(タケハニヤスヒコ)と妻の吾田媛(アタヒメ)は謀反逆(ミカドカタブケム=皇位を傾ける)しようとして、兵を起こしてたちまちやって来ました。
夫婦はそれぞれの行く道を分けました。夫は山背(ヤマシロ)から、妻は大坂(オオサカ)から、入って帝京(ミヤコ)を襲おうとしました。その時、天皇は五十狹芹彥命(イサセリヒコノミコト=吉備津彦)を派遣して、吾田媛(アタヒメ)の軍を討たせました。大坂で吾田媛の軍を遮り、勝利しました。吾田媛を殺して、兵士を皆殺しにしました。
また大彦(オオヒコ)と和珥臣の祖先の彥國葺(ヒコクニフク)を派遣して、山背(ヤマシロ)に向かわせ、埴安彦を討たせました。
忌瓮(イワイベ=儀式に使う瓶)を和珥(ワニ)の武鐰坂上(タケスキサカノウエ)に(戦勝祈願に)鎮座させました。
精兵(トキイクサ=精鋭部隊のこと)を率いて進み、那羅山(ナラヤマ=奈良県奈良市奈良坂付近)に登って戦闘を始めました。官軍(ミイクサ)は進軍し、草木を踏みならしました。それでその山を那羅山(ナラヤマ)といいます。
また那羅山(ナラヤマ)を去り、進むと輪韓河(ワカラカワ)に到着しました。埴安彦(ハニヤスヒコ)と河を挟んで対峙して、それぞれが挑みました。それで世の人はその河を挑河(イドミカワ)と名付けました。現在は泉河(イズミガワ)と訛っています。
蹢跙は布瀰那羅須(フミナラス)と読みます。 
神と日本人
忌瓮を和珥の武鐰坂上に鎮座させました。というのは、「忌瓮」という瓶に酒を入れて、それを山に埋めることで、神に「勝利」を願う儀式を指しています。
現在私たちが見ている神社は7世紀の終わりに「こういう感じに神社を整備しましょうね」と決めてからで、それ以前はこんな感じが多かったのでしょう。銅鐸も土に埋まっているところから、同様の意味だったのではないか?とも言われます。 
埴安彥と彥國葺の戦争
埴安彥、望之、問彥國葺曰「何由矣、汝興師來耶。」對曰「汝逆天無道、欲傾王室。故舉義兵、欲討汝逆、是天皇之命也。」於是、各爭先射。武埴安彥、先射彥國葺、不得中。後彥國葺、射埴安彥、中胸而殺焉。其軍衆脅退、則追破於河北、而斬首過半、屍骨多溢、故號其處、曰羽振苑。亦其卒怖走、屎漏于褌、乃脱甲而逃之、知不得免、叩頭曰「我君。」故時人、號其脱甲處曰伽和羅、褌屎處曰屎褌、今謂樟葉訛也、又號叩頭之處曰我君。叩頭、此云迺務。 
埴安彥(ハニヤスヒコ)が彥國葺(ヒコクニフク)の軍隊を見て言いました。「どうして、お前は兵を起こして来るのか?」彥國葺(ヒコクニフク)は答えました。「お前は天に逆らい、道に背いている。王室(ミカド)を傾けようとしている。よって義兵(コトワリノイクサ=義勇兵)を挙げ、逆らうお前を討つ。天皇の命だ」それから各軍は先手を取ろうと弓を射ました。武埴安彦(タケハニヤスヒコ)がまず、彥國葺(ヒコクニフク)を射ましたが、当たりませんでした。次に彥國葺(ヒコクニフク)が埴安彦を射ると、胸に当たって殺してしまいました。
その軍の兵士は怯えて、逃げました。すぐに追いかけ、河の北で撃破しました。それで半分以上、首を切りました。屍骨は多く溢(ハフ)れました。
それでその場所を羽振苑(ハフリソノ=京都府相楽郡精華町祝園)と名付けました。またその兵士が怖じ気づいて逃げて、屎(クソ)が褌(ハカマ)から漏れました。甲(ヨロイ)を脱いで逃げました。許してもらえないと思って、頭を地面につけて謝って言いました。「我吾(アギ)」と言いました。
世の人はその甲(ヨロイ)を脱いだところを伽和羅(カワラ)と名付けました。褌(ハカマ)より屎(クソ)が落ちたところを屎褌(クソバカマ)と言いました。今は樟葉(クスハ)と訛っています。
また頭を地面に叩き付けた場所を我吾(アギ)と名付けました。
叩頭は迺務(ノム)と読みます。 
倭迹々姬命の婚姻と死・箸墓
是後、倭迹々日百襲姬命、爲大物主神之妻。然其神常晝不見而夜來矣、倭迹々姬命語夫曰「君常晝不見者、分明不得視其尊顏。願暫留之、明旦仰欲覲美麗之威儀。」大神對曰「言理灼然。吾明旦入汝櫛笥而居。願無驚吾形。」爰倭迹々姬命、心裏密異之。待明以見櫛笥、遂有美麗小蛇、其長大如衣紐、則驚之叫啼。時大神有恥、忽化人形、謂其妻曰「汝不忍、令羞吾。吾還令羞汝。」仍踐大虛、登于御諸山。爰倭迹々姬命、仰見而悔之急居(急居、此云菟岐于)、則箸撞陰而薨。乃葬於大市。故時人號其墓謂箸墓也、是墓者、日也人作、夜也神作、故運大坂山石而造、則自山至于墓、人民相踵、以手遞傳而運焉。時人歌之曰、
飫朋佐介珥菟藝廼煩例屢伊辭務邏塢多誤辭珥固佐縻固辭介氐務介茂 
倭迹々日百襲姬命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)は大物主神(オオモノヌシノカミ)の妻となりました。しかし、その神は常に昼は見えず、夜しか現れませんでした。倭迹々姬命(ヤマトトトヒメノミコト)は夫(セナ)に語って言いました。
「あなたさまは、常に昼は見えないので、ハッキリとその尊顔(ミカオ)を見る事ができません。お願いしますから、もう少しゆっくりしてください。明日の朝に美麗(ウルワ)しい威儀(ミスガタ)を見たいと思います」
大神は答えて言いました。
「言理(コトワリ=言ってる事は)灼然(イヤチコ=よく分かる)だ。私は明日の朝にあなたの櫛笥(クシゲ=櫛を入れる箱)に入っている。頼むから私の形(=本性)に驚くなよ」
倭迹々姬命(ヤマトトトヒメノミコト)は心の裏(ウチ)で密かに怪しんでいました。夜が明けるのを待って、櫛笥(クシゲ)を見ると、とても美麗(ウルワシ)い小蛇(コオロチ)がいました。
その長さと太さは下衣の紐のようでした。それで驚いて叫びました。それで大神は恥ずかしく重い、すぐに人の形になりました。
「お前、我慢出来ずにわたしに恥をかかせた。わたしも山に還って、お前に恥をかかせよう」
それで大空を踏んで、御諸山(ミモロヤマ)に登りました。倭迹々姬命(ヤマトトトヒメノミコト)は仰ぎ見て後悔して、ドスンと座りました。
それで箸で陰(ホト=女性器)をついて亡くなりました。それで大市(オオチ=大和国城上郡大市=奈良県桜井市北部)に葬りました。世の人はその墓を箸墓(ハシノハカ)と名付けました。この墓は、昼は人が作り、夜は神が作りました。大坂山(奈良県北葛城郡二上山の北側の山)の意思を運んで作りました。山から墓に至る人民が並んで列を作って手から手へと手渡しに運びました。世の人は歌を歌いました。
大坂に継ぎ登れる石群(イシムラ)を 手遞傳(テゴシ)に越さば 越しかてむかも
訳 / 大坂山の石を麓から頂上まで、どんどんと持って行った。大量の石。手渡しにどんどん持っていったから、いつかは山をすっかり持って行けるだろう。
急居は菟岐于(ツキウ)と読みます。 
この話は流れから考えると、崇神天皇 疫病で国民の半数が死亡〜天社・國社・神地・神戸を定める、の大物主による疫病と、それを大田々根子(オオタタネコ)によって祀らせることで解決したお話の後に来るべきです。 
海外へ四道将軍を派遣
冬十月乙卯朔、詔群臣曰「今反者悉伏誅、畿內無事。唯海外荒俗、騷動未止。其四道將軍等、今急發之。」丙子、將軍等共發路。 
冬10月。天皇は群臣に言いました。
「今、背いた者にことごとく、罰を下した。畿內(ウチツクニ)は無事だったが、海外(ワタノホカ)には荒ぶる俗人が、まだまだ騒いでいて、まだ止んでいない。その四道将軍(ヨツノミチノイクサノキミ)は今、たちまち出発しろ」
22日に将軍はみな出発しました。 
ここでいう海外は朝鮮でも中国でも無いでしょう。おそらくは今の四国か九州かです。 
異俗が多く帰する
十一年夏四月壬子朔己卯、四道將軍、以平戎夷之狀奏焉。是歲、異俗多歸。國內安寧。 
崇神天皇11年夏4月28日。四道将軍は戎夷(ヒナ=周辺の異民族の蔑称)を平定した状況を天皇に報告しました。この年、異民族が沢山と従うようになり、国内は安寧でした。 
四道将軍を派遣して埴安彦の反逆があったのが、崇神天皇10年でした。 
ハツクニシラス天皇
十二年春三月丁丑朔丁亥、詔「朕初承天位、獲保宗廟、明有所蔽、コ不能綏。是以、陰陽謬錯、寒暑矢序、疫病多起、百姓蒙災。然今解罪改過、敦禮神祇、亦垂教而緩荒俗、舉兵以討不服。是以、官無廢事、下無逸民、教化流行、衆庶樂業、異俗重譯來、海外既歸化。宜當此時、更校人民、令知長幼之次第、及課役之先後焉。」秋九月甲辰朔己丑、始校人民、更科調役、此謂男之弭調・女之手末調也。是以、天神地祇共和享而風雨順時、百穀用成、家給人足、天下大平矣。故稱謂御肇國天皇也 
崇神天皇即位12年春3月11日。崇神天皇は詔(ミコトノリ)をしました。
「わたしは初めて天位(アマツヒツギ=天から継いだ位=皇位のこと)を受けて、宗廟(クニイエ=先祖を祀る場所、政治を行う場所)を運営しているが、光が当たらない場所もあるし、徳(イキオイ)も上手くは広がらない。そこで陰陽(フユナツ)は間違って錯乱して、暑さや寒さが亡くなってしまった。疫病が沢山発生して、百姓が災いを負った。しかし、今、罪を祓い、過失を改めて、厚く神祇(アマツカミクニツカミ)を敬った。また教(ノリ)を広めて、荒ぶる俗人を従わせ、兵を挙げて不服(マトロワヌ)を討った。これによって官(オオヤケ=公=政府=朝廷)は廃れることなく、下々に隠れるものは居ない(=国の隅々まで把握している)。教化(オモブクルコト=教え変えること=大和に感化すること)は広がり、衆庶(オオミタカラ=大衆・庶民)は生活を謳歌している。異俗(アタシクニノヒト=異民族)は何度も訳をしてまで、訪れ、海外(ワタノホカ=海外の人)からも帰化(=大和国民になること)する。このとき、ついでに人民(オオミタカラ)の小口調査をして、長幼(コノカミオトト=大人と子供=年齢)を調べて、課役(オオセツカフコト=税金や雑徭)を知らせよう」と言いました。
秋9月16日?初めて人民の小口調査をして、人民に調役(税金と雑徭)を科しました。男の弭調(ユハズノミツキ=動物の肉や皮などの狩猟生産物)を、女の手末調(タナスエノミツキ=絹・布などの手工業生産品)です。これで天神地祇(アマツカミクニツカミ)に納めて、風雨を神の心にまかせたので、百穀(モモタナツモノ)がなりました。家には物が溢れて、人が増え、天下は太平になりました。そこで崇神天皇は御肇國天皇(ハツクニシラススメラミコト=初めて治めた天皇)と呼ばれました。 
ハツクニシラススメラミコト
崇神天皇はこのページを読む限り、国民の人口把握をして税金を掛けた「初めての天皇」です。実は神武天皇も「ハツクニシラス天皇」とされます(参考:辛酉年春正月庚辰朔神武天皇が帝位に…日本書紀)。
そのため、どちらが「本当の最初の天皇か?」という議論はずっとありました。どちらが本当の「ハツクニシラス」なのか?いや、これは「どちらも」ということでしょう。
神武は建国の父です。九州からやってきて大和に建国した人。その後、四道将軍を派遣して影響する地域を広げ、また人民を把握して税金を徴収した……つまり政治制度を整えたのが「崇神」です。どちらの「ハツクニシラス」が居なくても、後の天皇は存在出来なかった。だからどちらも「ハツクニシラス」なんでしょう。
以上の事を踏まえると、やはり崇神は中国の政治(儒教と政治システム)を吸収して国を発展させた優秀な政治家だったと考えた方がしっくり来ます。 
船舶を作らせる
十七年秋七月丙午朔、詔曰「船者天下之要用也。今海邊之民、由無船、以甚苦步運。其令諸國、俾造船舶。」冬十月、始造船舶。 
崇神天皇即位17年。秋7月。崇神天皇は詔(ミコトノリ)をしました。
「舟は天下の大事な物です。今、海辺の民は舟が無くて、甚(ニヘサ=朝廷への献上品)を歩いて運び、苦しんでいる。諸国は船舶(フネ)を作らせよ」 
船舶?
神武天皇は九州から舟に乗ってやってきました。よって海洋民族です。ところがここに来て「舟」が無い?確かに神武天皇は海洋民族なんですが、神武天皇が目指した畿内の倭という国は山に囲まれた場所で海がありません。あれから十代の天皇が代替わりしたのです。造船技術が無くなったのかも??
インフラ整備じゃないか?
いやこれは単に、公共による「海の流通路」を作ったという意味なのではないでしょうか?日本は海洋民族ですから、舟が無かった、ということはただの一時も無かったハズです。ですが、舟はそう簡単に個人で所有出来る物ではありません。徴税するに当たって遠くの民に「運搬する方法」を提供する必要にかられた、のではないかと思います。 
相夢で皇太子を判断する
卌八年春正月己卯朔戊子、天皇勅豐城命・活目尊曰「汝等二子慈愛共齊、不知曷爲嗣。各宜夢、朕以夢占之。」二皇子、於是、被命、淨沐而祈寐、各得夢也。會明、兄豐城命、以夢辭奏于天皇曰「自登御諸山、向東而八廻弄槍・八 
崇神天皇即位48年春1月10日。天皇は豐城命(トヨキノミコト)・活目尊(イクメノミコト=垂仁天皇)に詔(ミコトノリ)して言いました。
「お前たち二人の皇子はどちらも同じくらいに愛している。しかし、どちらかを嗣(ヒツギ=後継者=皇太子)にしなくてはいけない。それぞれが夢を見なさい。わたしは夢で占おう」
二人の皇子は天皇の命を受けて、淨沐(ユカハアミユスルアミ=河で体を洗い、髪を洗う)をして祈祷して眠りました。それぞれが夢を見ました。
夜が明けて、兄の豐城命(トヨキノミコト)は天皇に報告しました。
「わたしは御諸山(ミモロヤマ=奈良県桜井市三輪山)に登って東に向き、8回弄槍(ホコユケ=槍を突き出す)して8回擊刀(タチカキ=刀を振る)しました」
弟の活目尊(イクメノミコト=垂仁天皇)は夢の言葉を報告しました。
「わたしは御諸山の嶺(タケ)に登って、縄を四方に張って、粟(アワ)を食べる雀を追い払いました」
天皇は相夢(ユメノミアワセ)をして、二人の皇子に言いました。
「兄はただ東に向いていた。東の国だけを治めようとしている。弟は四方を見ていた。皇位に付け」
4月19日。活目尊(イクメノミコト=垂仁天皇)を皇太子にしました。豐城命(トヨキノミコト)は東の国を治めました。豐城命(トヨキノミコト)は上毛野君(カミツケノノキミ)・下毛野君(シモツケノノキミ)の始祖となりました。 
古事記には無い物語
見た夢で判断するなんて、無茶な。しかし、夢には個人の無意識が出て来るので、もしかしたら意外と客観的なのかもしれない。
この物語をどう捉えるのかは微妙。
東に向いて武力を提示する兄と、粟を食べる雀を払う弟。武と農業は古代に置いてどちらも欠けるわけにはいかない大事なものです。私たちは後世において「天皇」が権力を持つと知っているので、弟が「得」したな、と感想を持ちますが、はたして当時、そういった感覚があったかというと疑問。実際、兄は非常に多くの氏族の始祖なのですから、かなり優遇もされたのです。
それに大和朝廷が国内を統一するのはかなり先。ヤマトタケルの時代でも統一にはほど遠い。大和朝廷にとって「東国征伐」はずっとテーマだったはずなんです。兄の役割はむしろ大きかったのでしょう。 
イズモノフルネ
六十年秋七月丙申朔己酉、詔群臣曰「武日照命(一云武夷鳥、又云天夷鳥)從天將來神寶、藏于出雲大神宮。是欲見焉。」則遣矢田部造遠祖武諸隅(一書云、一名大母隅也)而使獻。當是時、出雲臣之遠祖出雲振根、主于神寶、是往筑紫國而不遇矣。其弟飯入根、則被皇命、以神寶付弟甘美韓日狹與子鸕濡渟而貢上。既而出雲振根、從筑紫還來之、聞神寶獻于朝廷、責其弟飯入根曰「數日當待。何恐之乎、輙許神寶。」是以、既經年月、猶懷恨忿、有殺弟之志、仍欺弟曰「頃者、於止屋淵多生菨。願共行欲見。」則隨兄而往之。先是、兄竊作木刀、形似眞刀。當時自佩之、弟佩眞刀、共到淵頭、兄謂弟曰「淵水C冷、願欲共游沐。」弟從兄言、各解佩刀、置淵邊、沐於水中。乃兄先上陸、取弟眞刀自佩、後弟驚而取兄木刀、共相擊矣、弟不得拔木刀、兄擊弟飯入根而殺之。故時人歌之曰、
椰句毛多菟伊頭毛多鶏流餓波鶏流多知菟頭邏佐波磨枳佐微那辭珥阿波禮 
崇神天皇即位60年秋7月14日。崇神天皇は群臣に詔(ミコトノリ)を発しました。
「武日照命(タケヒナテルノミコト)が天より持って来た神宝(カムタカラ)が出雲大神(イズモノオオカミ)の宮に治められている。是非、これを見たいものだ。ある書によると、武夷鳥(タケヒナトリ)、または天夷鳥(アメヒナトリ)といいます。すぐに矢田部造(ヤタベノミヤツコ)の遠祖の武諸隅(タケモノロズミ)を派遣して献上させようとしました。
ある書によると、別名を大母隅(オオモロズミ)といいます。
そのとき、出雲臣(イズモノオミ)の遠祖の出雲振根(イズモノフルネ)は神宝(カムタカラ)の担当でした。そこで筑紫国(ツクシノクニ)に行っていて、(命を受けた武諸隅には)会いませんでした。その弟の飯入根(イイイリネ)は天皇の命を受けて、神宝を弟の甘美韓日狹(ウマシカラヒサ)と子の鸕濡渟(ウカヅクネ)に託して、献上しました。それから出雲振根(イズモノフルネ)が筑紫から帰って来て、神宝を朝廷に献上したと聞いて、その弟の飯入根(イイイリネ)を責めて言いました。「数日(シバシ)待つべきだった!何を恐れたか!!たやすく神宝を手放しおって!!」
それから年月を経たのですが、それでも恨みは大きくなるばかりで、弟を殺そうと考えるようになりました。
それで弟を欺こうとして「このごろ、止屋(ヤムヤ=島根県出雲市今市町・大津町・塩谷町付近)の淵に菨(モ=水草のアサザのこと)が沢山生えている。頼むから一緒に見に行って欲しい」
それで兄に従って行きました。コレ以前に、兄は密かに木刀を造っていました。形状は真剣にそっくりでした。その木刀を自分が帯刀しました。弟は真剣を帯刀しました。
二人が淵のそばに到着したので、兄は弟に言いました。「淵の水は清冷(イサギヨシ=清らか)だ。一緒に游沐(カアミ=水浴び)をしようじゃないか」
弟は兄の言葉に従って、それぞれが帯刀してきた刀を抜いて、淵のそばに置いて、水の中で沐(カハアム=水浴び=体を清める)しました。兄は先に陸に上がり、弟の真剣を取って、帯刀しました。その後に弟は驚いて兄の木刀を手に取りました。共に刀を撃ち込もうとしました。しかし弟は木刀なので抜く事も出来ず、兄は弟の飯入根(イイイリネ)を撃ち殺しました。それで世の人は歌詠みしました。
や雲立つ出雲梟帥(イズモタケル)が 佩(ハ)ける太刀(タチ) 黒葛(ツヅラ)多(サホ)巻き さ身無しにあはれ
訳 / イズモタケルが身につけた太刀は、黒いツタを巻いているだけで、刀身が無いよかわいそう。 
ほぼ同じ話がヤマトタケルにある
古事記の景行天皇のところにヤマトタケルの出雲征伐に刀を取り替える話があります。
ヤマトタケルとイズモタケル / 刀を取り替える策略
おそらくはこの「刀取り替え」は出雲に神話としてあったのでしょう。それを取り込んだ。だからイズモフルネとイイイリネが実在しないとかヤマトタケルが実在しないということではなく、出雲征伐や神宝献上が史実として存在して、そこに神話がくっついたと考えるべき。
登場人物たち
イズモノフルネはこのページにしか登場しません。記紀以外の書物でも登場しません。しかしイイイリネは姓氏録には「土師宿禰・菅原朝臣の祖の天穂日(アメノホヒ)の12代孫の飯入根」とあり、イイイリネの弟の甘美韓日狹(ウマシカラヒサ)は同じく姓氏録の「凡河内忌寸の祖で天穂日の13代孫可美乾飯入根」と同一人物ではないか?と思われます。
よってイズモノフルネも名前こそは残っていませんが、実在した可能性は高いです。 
氷香戸邊の子の神託
於是、甘美韓日狹・鸕濡渟、參向朝廷、曲奏其狀。則遣吉備津彥與武渟河別、以誅出雲振根。故出雲臣等、畏是事、不祭大神而有間。時、丹波氷上人名氷香戸邊、啓于皇太子活目尊曰「己子有小兒、而自然言之『玉菨鎭石。出雲人祭、眞種之甘美鏡。押羽振、甘美御神、底寶御寶主。山河之水泳御魂。靜挂甘美御神、底寶御寶主也。(菨、此云毛。)』是非似小兒之言。若有託言乎。」於是、皇太子奏于天皇。則勅之使祭。 
甘美韓日狹(ウマシカラヒサ)・鸕濡渟(ウカヅクネ)は朝廷に参上して、詳細に状況を説明しました。すぐに吉備津彦(キビツヒコ=崇神天皇からみて祖父の弟)と武渟河別(タケヌナカワワケ=崇神天皇のいとこ)を派遣して、出雲振根(イズモノフルネ)を殺しました。
出雲臣(イズモノオミ)たちは(討伐を)恐れるあまり、大神(=出雲の神=オオクニヌシのこと)を祀るのを怠りました。丹波(タニワ)の氷上(ヒカミ=兵庫県氷上郡氷上町)に氷香戸邊(ヒカトベ)という人がいました。氷香戸邊(ヒカトベ)は皇太子の活目尊(イクメノミコト=垂仁天皇)に会って言いました。
「わたしには小さな子があります。自然と(何も教えないのに)こう言いました。『玉菨鎭石(タマモノズシシ)出雲人の祭る真種(マタネ)の甘美鏡(ウマシカガミ)。押し羽振(ハフ)る、甘美御神(ウマシカミ)、底宝御宝主(ソコタカラミタカラヌシ)。山河(ヤマカワ)の水泳(ミククル)御
魂(オンタマ)。静かかる甘美御神(ウマシミカミ)、底宝御宝主(ソコタカラミタカラヌシ)』
歌の意味 / 玉藻の中に静かに眠っています。出雲の人が祭る、立派な大事な鏡がすばらしい神が、水の底に眠っています。神霊が山河の水に沈んでいます。静かに掛けて祭らなくてはいけない立派な鏡が水の底に沈んでいます。
これは小児(ワクゴ)の言葉ではありません。もしくは(神が)託(ツ)いて言っているのでしょう」
そこで皇太子は天皇に報告しました。天皇は詔を発して、祭らせました。
菨は毛(モ)と読みます。 
何を意味するか?
イズモノフルネを討伐したのですが、朝廷の討伐を恐れるあまりに、祭祀が疎かになってしまいました。すると丹波のヒカトベという人物が、子供が変な事を言い出したと報告があり、どうやら、水の底に鏡が沈んでいるということで、それを祭った、というお話。変です。大国主と関係ないし、イズモノフルネとも関係ない。 
依網池・苅坂池・反折池を造る
六十二年秋七月乙卯朔丙辰、詔曰「農、天下之大本也、民所恃以生也。今河內狹山埴田水少、是以、其國百姓怠於農於農事。其多開池溝、以寛民業。」冬十月、造依網池。十一月、作苅坂池・反折池。(一云、天皇居桑間宮、造是三池也。)
六十五年秋七月、任那國、遣蘇那曷叱知、令朝貢也。任那者、去筑紫國二千餘里、北阻海以在鶏林之西南。
天皇、踐祚六十八年冬十二月戊申朔壬子、崩、時年百廿歲。明年秋八月甲辰朔甲寅、葬于山邊道上陵。 
崇神天皇即位62年秋7月2日に詔を発しました。
「農業は天下の大きな本(モト)です。民の力を頼りにしているものだ。今の河内の狭山(サヤマ=大阪府南河内郡狭山町)の埴田(ハニタ=粘土質の田)には水が少ない。その国の百姓は農業が出来ない。そこで沢山の池溝(ウナネ=ウナデ=農業用水路)を掘って、民の業(ナリワイ)を広めよう」
冬10月に依網池(ヨサミノイケ=大阪市東住吉区の地域?)を造りました。
11月には苅坂池(カリサカノイケ)・反折池(サカオリノイケ)を造りました。
ある書によると、天皇は桑間宮(クワマノミヤ=不明)にこの三つの池を造ったとも。
即位65年秋7月。任那国(ミマナノクニ)が蘇那曷叱知(ソナカシチ)を派遣して朝貢してきました。任那は筑紫から二千里あまり。北へ海を隔てて、鶏林(シラキ)の西南にあります。
崇神天皇は皇位を継いで68年の冬12月5日に崩御しました。年は120歳。翌年秋8月11日に山邊道上陵(ヤマノヘノミチノヘノミササギ)に葬りました。 
任那
崇神天皇に限らず、「○○天皇」という表記は死後につけられた名前で、生きているときは「個人名」で呼ばれていました。崇神天皇の場合は「御間城入彥五十瓊殖天皇(ミマキイリヒコイニエノスメラミコト)」です。長い名前なので、他の部分では「ミマキイリヒコ」と略されています。この「ミマキイリヒコ」と「ミマナ」は関連があるのか?というのが、よくある議論です。
大和朝廷が飛躍的に発展したのが崇神天皇の時期です。神武天皇が建国の父なら、崇神天皇は「国」という形を作った天皇です。分かりやすく例えると、神武天皇が中小企業を起業した田舎の社長で、崇神天皇は世界企業に押し上げた敏腕社長です。
その崇神天皇だから任那(ミマナ)から朝貢が来ました。
これがどういう意味を持っているのか?はまだハッキリとはしていません。よくある説は、記紀が成立した8世紀には日本が朝鮮半島の影響力を失っているので、その反発というもの。ようは「恨み」ですね。しかし記紀を読むと、決して天皇を持ち上げるばかりでは無いですし、天皇のかっこわるいところもしっかりと書いてあります。だいたい、「一書によると…」なんて書き方は「ねつ造する」という観点から言うと不利ですし、記紀には客観的に正確に書こうという意図が見えます。むしろどうしてこれほど正確に書こうとしたのかと思うほどです。
任那の誤解
この記事を読むと、朝鮮人が日本人に朝貢した…つまりへりくだったという印象を受けるかもしれません。でもそれは違うのです。魏志倭人伝によると「倭人」は朝鮮半島の南部に住んでいたとあります。つまり任那の地域は「倭人」の地域だったんです。任那=倭人とは限りませんが、魏志倭人伝を読むと、倭国と韓人の国では人口も国力も雲泥の差がありました。当然「倭国が上」です。倭を駆逐して韓人が朝鮮半島を完全に占拠するのは白村江の戦いまで無いと考えていいでしょう。つまり任那は倭人の国だった。史書を読む限りそう考えるのが妥当です。「倭」と「大和朝廷」はイコールではありませんが、文化として「倭」と「大和」はかなり近かったのでしょう。大和朝廷から見れば「任那」は同じ文化の異国だったのです。そこから朝貢があった。そういう史実でしょう。
ミマキイリヒコとミマナは、そういう「同じ文化を持つ」という残り香のようなものではないでしょうか?ミマキイリヒコがミマナを造ったり、ミマナから来たからミマキイリヒコということではないのでしょう。
例えば藤原氏の子孫は「藤」という名前がついています。藤田も藤岡もです。でも全国の藤田さんと藤岡さんはほぼ無関係です。そりゃ多少は親戚筋も居るでしょうが、藤田さんと藤岡さんは同じ「藤」がついているから、「藤田さんと藤岡さんは親戚に間違いない」と私が言ったら、「アホ」と言われます。でも、「藤田さんと藤岡さん」は同じ日本語…つまり同じ言語圏の名前なのは間違いないでしょう。「ミマキイリヒコ」と「ミマナ」の関係はそういうことだろうと思っています。 
 
垂仁天皇 

 

出自と人間性
活目入彥五十狹茅天皇、御間城入彥五十瓊殖天皇第三子也。母皇后曰御間城姬、大彥命之女也。天皇、以御間城天皇廿九年歲次壬子春正月己亥朔生於瑞籬宮、生而有岐㠜之姿、及壯倜儻大度、率性任眞、無所矯飾。天皇愛之、引置左右。廿四歲、因夢祥、以立爲皇太子。六十八年冬十二月、御間城入彥五十瓊殖天皇崩。 
活目入彥五十狹茅天皇(イクメイリビコイサチノスメラミコト)は御間城入彥五十瓊殖天皇(ミマキイリヒコイニエノスメラミコト=崇神天皇)の第三子です。母である皇后は御間城姬(ミマキヒメ)といいます。大彥命(オオビコノミコト=孝元天皇の皇子で開化天皇の兄)の娘です。
垂仁天皇は御間城天皇(崇神天皇)が即位29年の壬子の歳の春正月の一日に瑞籬宮(ミカツキノミヤ=崇神天皇の宮)で生まれました。生まれた時から姿は岐㠜(イコヨカ=秀でている)でした。壮(オトコザカリ)になると倜儻(スグ)れて大度(オオイナルミココロ)でした。率性(ヒトトナリ)は真理にかなっていて、その人間性を矯正したり、飾ることはありませんでした。
崇神天皇は皇子を愛し、左右(モトコ=すぐ近く)に置いていました。24歳になって夢の占いで皇太子になりました(崇神天皇(二十一)相夢で皇太子を判断する(日本書紀))。
崇神天皇即位68年冬12月。御間城入彥五十瓊殖天皇(ミマキイリヒコイニエノスメラミコト=崇神天皇)は崩御しました。 
とにかく立派と書いてあります
漢文の読み下し文から調べ調べ書いているので、文章がむちゃくちゃですが、ようは生まれた時から立派で大人になると尚のこと立派で、お父さんである崇神天皇に愛されたと書いてあります。
活目入彥五十狹茅天皇
イクメイリヒコの「イクメ」は地名かと思われます。先代旧事本紀・天孫本紀などに「活目邑(イクメムラ)」という記述があります。崇神天皇(御間城入彥・ミマキイリヒコ)の「ミマキ」も地名なんでしょう。多分。よく「任那」の城が「ミマキ」で崇神天皇は任那から来た帰化人で朝鮮人だ!という説が見られますが、「ミマ」が「高貴な」という意味で「ミマキ」を「朝鮮半島の任那(ミマナ)」と同一と捉えるのは難しいかと。
垂仁天皇24歳の矛盾
24歳の時に夢の占いで「皇太子」になったとありますが、崇神天皇の段を見ると即位48年春1月10日(皇太子になったのは4月)で、垂仁天皇の出生が崇神天皇即位29年春1月1日ですから、20歳にしかならない。 
皇后と皇子、任那の新羅への恨み
元年春正月丁丑朔戊寅、皇太子卽天皇位。冬十月癸卯朔癸丑、葬御間城天皇於山邊道上陵。十一月壬申朔癸酉、尊皇后曰皇太后。是年也、太歲壬辰。
二年春二月辛未朔己卯、立狹穗姬爲皇后。后生譽津別命、生而天皇愛之、常在左右、及壯而不言。冬十月、更都於纏向、是謂珠城宮也。是歲、任那人蘇那曷叱智請之、欲歸于國。蓋先皇之世來朝未還歟。故敦賞蘇那曷叱智、仍齎赤絹一百匹、賜任那王。然、新羅人遮之於道而奪焉。其二國之怨、始起於是時也。 
垂仁天皇の即位元年春正月2日。皇太子は即位しました。冬10月の11日。御間城天皇(ミマキスメラミコト=崇神天皇)を山邊道上陵(ヤマノヘノミチノヘノミササギ)に葬りました。
11月の2日。皇后を尊び皇太后としました。その年は太歲壬辰です。
即位2年の春2月9日。狹穗姬(サホヒメ)を皇后としました。皇后は譽津別命(ホムツワケノミコト)を生みました。天皇はその皇子を愛し、常に左右(モトコ=側に)に置いていました。大きくなりましたが、言葉を発しませんでした。
冬10月纒向(マキムク)に都を作りました。これを珠城宮(タマキノミヤ)といいます。
この年、任那人の蘇那曷叱智(ソナカシチ)が「国に帰りたい」と言いました。先代の崇神天皇のときに朝廷に来てからまだ帰っていなかったのだろうか。そこで蘇那曷叱智(ソナカシチ)にたくさんの賞与を与えました。赤絹(アカキヌ)を一百匹(ヒトモモマキ)を持たせて任那(ミマナ)の王(コキシ)に遣わせました。ところが新羅人が道中に奪ってしまいました。この二つの国の恨みはこのとき初めて起こりました。 
ホムツワケ
古事記にも「ホムチワケ御子は言葉を発さなかった」という話があります。
任那と新羅
日本は任那日本府を設けて朝鮮半島を支配していたよう。ところが、その後、任那を新羅に奪われ、仲良くしていた百済も滅亡。百済の再興を掛けた「白村江の戦い」で「新羅・唐」の連合軍(実際はほとんど唐ですけど)に敗北し、その後は日本に引きこもります。
古事記・日本書紀は引きこもってから書かれたものですから、「新羅憎し」というのがあって新羅を悪く書いている、というのが一般的な説です。
ところでソナカシチは「崇神天皇(二十四)依網池・苅坂池・反折池を造る(日本書紀)」で任那から派遣されて以来居着いていたわけです。その時は新羅のことを「鶏林」と書いていました。鶏林は三国史記によれば「金氏」の途中で新羅になった、とあるので、垂仁天皇の時代に変化があったのかもしれない。
ちなみに新羅の4代王昔脱解(ソクタレ)は倭人で海を渡ってきたとされ、重臣の「瓢公」も倭人とされます。三国史記によると、昔脱解に命じられて林から拾ってきた金王朝の始祖の「金閼智」は神話の上では「拾い子」ですが、当然ながら昔脱解の子と考えるべきでしょう。というわけで、新羅は倭人と非常に関係が深いわけです。 
任那の由来
一云、御間城天皇之世、額有角人、乘一船、泊于越國笥飯浦、故號其處曰角鹿也。問之曰「何國人也。」對曰「意富加羅國王之子、名都怒我阿羅斯等、亦名曰于斯岐阿利叱智于岐。傳聞日本國有聖皇、以歸化之。到于穴門時、其國有人、名伊都々比古、謂臣曰『吾則是國王也、除吾復無二王、故勿往他處。』然、臣究見其爲人、必知非王也、卽更還之。不知道路、留連嶋浦、自北海 
ある書によると…御間城天皇(ミマキスメラミコト=崇神天皇)の時代に、額に角のある人が、一艘の舟に乗ってやってきて、越国の笥飯浦(ケヒノウラ)に停泊しました。その土地を「角鹿(ツヌガ)」と名付けました。
問い尋ねました。「あなたはどこの国の人ですか?」
答えて言いました。「意富加羅國(オオカラノクニ)の王(コキシ)の子で、名は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)です。別名を于斯岐阿利叱智于岐(ウシキアリシチカンキ)と言います。人づてに日本国に聖皇(ヒジリノキミ)がいると聞いて、帰化(マウオモブク)しようと思いました。(日本に来る途中で…)穴門(アナト=後の山口県・長門国)に到着したときに人がいました。名を伊都々比古(イツツヒコ)と言いました。その伊都々比古が私の臣(ヤツカレ=部下)に言いました。『私はこの国の王だ。私をおいて、ふたつの王はいない。だから他に行くな』しかし、臣がその人の為人(ヒトトナリ)を見るに、絶対に王ではないと分かりました。すぐに引き返しました。しかし道が分からずに嶋浦(シマジマウラウラ)をあちこちへ行って、北の海を回って、出雲国を経て、ここに来ました」と言いました。
このとき、天皇が崩御してしまいました。そこで日本にとどまって、活目天皇(イクメノスメラミコト=垂仁天皇)に仕えて三年になりました。
垂仁天皇は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラヒト)に問いました。「お前の国に帰りたいと思うか?」すると答えました。「お願いします」
天皇は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラヒト)に命じました。
「お前が道に迷わずに早く日本に来ていたら、先代の天皇に会って仕えていただろう。だから、お前の本国の名前を改めて、御間城天皇(ミマキスメラミコト=崇神天皇)の名前を取って、お前の国の名前としろ」と言いました。
それで赤織(アカオリ)の絹を阿羅斯等(アラシト)に与えて、本土に返しました。それでその国を名付けて「彌摩那國(ミマナノクニ)」というのは、こういった由縁からです。
阿羅斯等(アラシト)は貰った赤絹(アカキヌ)を自分の国の郡府(クラ)に納めました。新羅人がそれを知って、兵を起こして、その赤絹を全て奪ってしまいました。これがこのふたつの国が恨む始まりの事件です。 
ツヌガアラシト
角があるから、ツヌガアラシトなのか、「ツヌガアラシト」が「角がある人」に聞こえたから、そういう設定になったのか?もしかすると、日本では常識にないような「帽子」をかぶっていたからかもしれません。もしくは、単に「ツヌガ」に「いる人」で、「ツヌガ」は昔からの地名。大体、どの本を読んでも地名説話は「地名が先で、話は後から作られている」と書いてあるのに、この「ツヌガアラヒト」がいたから「ツヌガ」になったよ!というのだけが素直に地名説話を飲むなんておかしいです。皇国史観の反動でしょう。第二次大戦の「罪悪感」からであって「客観的なものの見方」からではないのでしょう。それにツヌガアラシトは別名として「于斯岐阿利叱智于岐(ウシキアリシチカンキ)」というおおよそ日本語とは懸け離れた名前を持っています。ツヌガアラシトは日本での呼び名とか通称・通名で、本名が「于斯岐阿利叱智于岐(ウシキアリシチカンキ)」というのが妥当に思います。
人質でしょうね
おそらく加羅国の王子のツヌガアラシトは、日本に従属する意思を表すための「人質」だったのでしょう。この記述から「朝鮮半島から文化を伝えた」と判断するのは難しい。 
黄牛が白い石に
一云、初都怒我阿羅斯等、有國之時、黃牛負田器、將往田舍。黃牛忽失、則尋迹覓之、跡留一郡家中、時有一老夫曰「汝所求牛者、於此郡家中。然郡公等曰『由牛所負物而推之、必設殺食。若其主覓至、則以物償耳』卽殺食也。若問牛直欲得何物、莫望財物。便欲得郡內祭神云爾。」俄而郡公等到之曰「牛直欲得何物。」對如老父之教。其所祭神、是白石也、乃以白石授牛直。因以將來置于寢中、其神石化美麗童女。於是、阿羅斯等大歡之欲合、然阿羅斯等去他處之間、童女忽失也。阿羅斯等大驚之、問己婦曰「童女何處去矣。」對曰「向東方。」則尋追求、遂遠浮海以入日本國。所求童女者、詣于難波、爲比賣語曾社神、且至豐國々前郡、復爲比賣語曾社神。並二處見祭焉。 
ある書によると…最初に都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が国(任那のこと)に居たときに、黄牛(アメウジ=アメ色の牛)に農具を負わせて、田舎を行っていました。すると黄牛がいなくなりました。すぐに足跡を追って探しました。足跡はある郡家(ムチ=役所)の中に続いていました。そのとき、一人の老人が居て言いました。
「お前が求める牛はこの郡家の中に入った。郡公(ムラツカサ=役人)たちが言っていた。『牛が背負っている農具から推測するに、殺して食べてしまってもいいだろう。もしも、牛の持ち主が返せといってきたら、物で弁償すればいい』と。それで牛を殺して食べてしまった。もし役人に『牛の代わりに何が欲しいか?』と聞かれたら、財宝を望まず、『代わりに郡内(ムラ)で祀る神を得たいと思う』と言いなさい」
しばらくして郡公(=役人)が来て言いました。「牛の代わりに何が欲しいか?」
老人が言う通りに答えました。その村の祀る神は「白い石」でした。白い石で牛の代わりに当てました。それで白い石を寝室に置いておきました。するとその白い石は美麗な童女(オトメ)になりました。阿羅斯等(アラシト)はとても喜んで、交わおうとしました。阿羅斯等が近寄ると童女は消えてしまいました。阿羅斯等は驚き、童女に問いました。「童女(オトメ)、どこにいった?」答えて言いました。「東の方に行きました」
すぐに阿羅斯等は追いかけて、ついには海を越えて、日本国に入りました。求めた童女は難波(ナニワ)に居て、比賣語曾社(ヒメゴソノヤシロ)の神となりました。または豐國々前郡(トヨクニノミチノクチノクニ)で比賣語曾社(ヒメゴソノヤシロ)の神となりました。二箇所で祀られたといいいます。 
黄牛
黄色い牛ってのは何かと言うと、中国では「黄色」は土の色。黄泉の「黄色」と同じ意味です。つまり「土属性の牛」で、「生贄」という意味があったのかもしれない。
古事記のアメノヒボコと日本書紀のツヌガアラシトは同一とされます。アメノヒボコの物語にも「牛」が登場し、食べる食べないというやりとりがあります。古代の日本人には『朝鮮人は獣を食べる』というイメージが強かったのかもしれません。
白い石から女性が生まれる
その結果得られる「白い石」が女性となり、その女性を追いかけて日本にやってくる。神話くさいですね。史実ではなく、日本人が考える「海の向こうから神が来る」という「海洋来訪神」に「朝鮮」を絡めているだけ、なんじゃないかと思われます。
海洋来訪神
例えば、出雲神話では海の向こうから「大物主」がやって来たり、「スクナヒコナ」がやって来ました。ヤマトの場合だと海の向こう、つまり「日向」から神武天皇がやって来ました。神功皇后が朝鮮を征伐して帰ってきたときも似たニュアンスがありました。
このツヌガアラシトが朝鮮から来た、というのは、崇神天皇が四道将軍を派遣して領土を広げた結果、「ツヌガ」が領地となり、その「ツヌガ」にとって「海の向こう」は「朝鮮」ということになった…という可能性もあります。
神功皇后のこととなると「創作」と言われることが多いのに、ツヌガアラシトや天日槍(アメノヒボコ)となると、急に「史実の反映じゃないか?」となるのは、結局、皇国史観の反動です。第二次大戦での罪悪感から客観的に見る目を失っているんです。
この物語を客観的に見ると、まず「ツヌガアラシト」が「王子じゃない」です。王子が牛に農具を乗せて田舎をいって、あげく牛を取られて食べられるなんてこと、仮にあっても書き残さないでしょう。この物語自体は、ツヌガアラシトとは無関係に朝鮮の神話だったのでしょう。
出産に石が関わる話は「朝鮮的」とも言われます。神功皇后の応神天皇出産、アメノヒボコのアカルヒメの出生など。ただ、石を神聖視するのは『日本人的』です。よって『石』が関わっているから『朝鮮』というのも実際は疑問。朝鮮の史書の三国史記などによると朝鮮の神話は『石』ではなく『卵』から神や人が生まれる『卵生神話』です。 
羽太玉・足高玉・鵜鹿々赤石玉・出石小刀・出石桙・日鏡・熊神籬
三年春三月、新羅王子、天日槍來歸焉、將來物、羽太玉一箇・足高玉一箇・鵜鹿々赤石玉一箇・出石小刀一口・出石桙一枝・日鏡一面・熊神籬一具、幷七物、則藏于但馬國、常爲神物也。 
垂仁天皇が即位して3年の春3月。
新羅の王子(コキシノコ)の天日槍(アメノヒボコ)が来ました。持ってきた物は羽太玉(ハフトノタマ)ひとつ・足高玉(アシタカノタマ)ひとつ・鵜鹿々赤石玉(ウカカノアカシノタマ)ひとつ・出石小刀(イヅシノコカタナ)ひとつ・出石桙(イヅシノホコ)一枝・日鏡(ヒカガミ)一面・熊神籬(クマノヒモロギ)一具、以上で7種です。
これらを但馬国に献上して、それ以降、神宝としました。 
古事記では「アメノヒボコ」は応神天皇の時代にみられます。これはアメノヒボコが応神天皇の母親の神功皇后の先祖にあたるからです。
アメノヒボコとツヌガアラシトは別人じゃないか?
ツヌガアラシトは日本書紀で「垂仁天皇(二)皇后と皇子、任那の新羅への恨み」「垂仁天皇(三)任那の由来」で任那に帰っていますし、そもそも新羅人ではありません。新羅に恨みを持っていると書かれています。
羽太の玉
端が太い玉、という意味ではないかと。
足高の玉
玉に足がついていたか、足が長い台座にのっていたか、「アシタカ」という地名か?わかりません。備中国窪屋郡足高神社が岡山倉敷市にあります。
鵜鹿々赤石玉
ウは「ム」であり「身」という意味で「カカ」は「輝く」の「カガ」…室町時代までは「カカヤク」と読んでいました。それで、赤く輝く石という意味ではないかと言われています。
出石
出石は地名。播磨の国にあった。兵庫県には明石郡と出石郡があった。現在は消滅しています。
以上を考えると7種の宝は
本当に朝鮮由来だったのか?という疑問があります。アシタカも地名で、出石も地名、その他のものも朝鮮が特産というわけではない。これらの宝はもともと、この地域の宝で、由来をアメノヒボコに結びつけただけなんじゃないでしょうか?なぜ結びつけたか?日本人が「海洋来訪神」を特別視するからです。思えば、恵比寿で有名な西宮神社も兵庫県。 
天日槍は諸国を巡り
一云、初天日槍、乘艇、泊于播磨國、在於宍粟邑。時天皇、遣三輪君祖大友主與倭直祖長尾市於播磨而問天日槍曰「汝也誰人、且何國人也。」天日槍對曰「僕、新羅國主之子也。然、聞日本國有聖皇、則以己國授弟知古而化歸之。」仍貢獻物、葉細珠・足高珠・鵜鹿々赤石珠・出石刀子・出石槍・日鏡・熊神籬・膽狹淺大刀、幷八物。仍詔天日槍曰「播磨國宍粟邑、淡路島出淺邑、是二邑、汝任意居之。」時、天日槍啓之曰「臣將住處、若垂天恩聽臣情、願地者、臣親歷視諸國則合于臣心欲被給。」乃聽之。於是、天日槍、自菟道河泝之、北入近江國吾名邑而暫住。復更、自近江經若狹國、西到但馬國則定住處也。是以、近江國鏡村谷陶人、則天日槍之從人也。故天日槍、娶但馬國出嶋人太耳女麻多烏、生但馬諸助也。諸助、生但馬日楢杵。日楢杵、生C彥。C彥、生田道間守也。 
ある書によると…最初、天日槍(アメノヒボコ)は艇(ハシブネ)に乗って、播磨國(ハリマノクニ)に停泊しました。宍粟邑(シサハメムラ)がありました。そのとき天皇は三輪君(ミワノキミ)の先祖の大友主(オオトモヌシ)と倭直(ヤマトノアタイ)の先祖の長尾市(ナガオチ)を播磨に派遣して、天日槍に問いました。
「お前は誰だ?また、どこの国の人だ?」
天日槍は答えました。「僕(ヤッコ)は新羅国の主(コキシ)の子です。しかし日本国に聖皇(ヒジリノキミ)がいると聞いて、すぐに自分の国を弟の知古(チコ)に譲って来ました」
そう言って献上したものは、葉細珠(ハホソノタマ)・足高珠(アシタカノタマ)・鵜鹿々赤石珠(ウカカノアカシタマ)・出石刀子(イヅシノカタナ)・出石槍(イズシノヤリ)・日鏡(ヒノカガミ)・熊神籬(クマノヒモロギ)・膽狹淺大刀(イササノタチ)の合わせて8種です。
それで天日槍に天皇は言いました。
「播磨國の宍粟邑(シサハノムラ)と淡路島の出浅邑(イデサノムラ)のこの二つの邑の好きな方に居てもいいぞ」
天日槍が言いました。
「臣(ヤツガレ=天皇から見て部下、つまり自分のこと)が住むところは、もし天恩(テンノメグミ)をいただいて、臣の願う土地を許してもらえるならば、臣が自ら諸国を巡り見て、心かなう場所に住もうと思います」
天皇はその申し出を聞き入れました。
それで天日槍は菟道河(ウジガワ)から遡って、近江国の北の吾名邑(アナムラ)に到着してしばらく住んでいました。その後は近江から若狭国を通り、但馬国の西に到着して住居を決めました。それで近江国の鏡村(カガミノムラ)の他にの陶人(スエヒト)は天日槍の従者です。
天日槍は出嶋(イヅシ)の人の太耳(フトミミ)の娘の麻多烏(マタオ)を娶って、但馬諸助(タジマノモロスケ)が生まれました。諸助から但馬日楢杵(タジマノヒナラギ)を生まれ、日楢杵からC彥(キヨヒコ)が生まれ、C彥から田道間守(タジマモリ)が生まれました。 
天皇の申し出を断り
垂仁天皇が「宍粟邑か出浅邑になら住んでいいよ」と言ったら、天日槍は「自分の住むところは自分で決める!」と勝手に探し始めてしまいました。言い方はへり下っていますが、我を通していることに違いはありません。天皇には絶対的な「力」があったわけではないのでしょう。
古事記・日本書紀は天皇の皇統を示して、強い天皇を示すために作られたものなのに、どうしてこんな物語を残すのか?「本」に書くということは物語を曲げる「権力」を持っているのです。もっと絶対的な天皇像を作ってもいいでしょう?記紀を書いた理由には「皇統」「中央集権」といった政治的理由とは別の動機があったのではないでしょうか?
8つの宝
「垂仁天皇(五)羽太玉・足高玉・鵜鹿々赤石玉・出石小刀・出石桙・日鏡・熊神籬」であげられた7つの宝に膽狹淺大刀(イササノタチ)を合わせて「8つ」です。
なぜ7つだったり、8つだったりするのか?
アメノヒボコとツヌガラシトはかなりの部分が「神話」なんじゃないでしょうか?実在しないのではないのです。何かしらの史実を元にしていますが、その後の尾ひれが沢山ついてしまって、神話の部分が大きくなったのではないか?ということです。 
兄と妹の謀反
四年秋九月丙戌朔戊申、皇后母兄狹穗彥王、謀反、欲危社稷、因伺皇后之燕居而語之曰「汝孰愛兄與夫焉。」於是、皇后不知所問之意趣、輙對曰「愛兄也。」則誂皇后曰「夫、以色事人、色衰寵緩。今天下多佳人、各遞進求寵、豈永得恃色乎。是以冀、吾登鴻祚、必與汝照臨天下、則高枕而永終百年、亦不快乎。願爲我弑天皇。」仍取匕首、授皇后曰「是匕首佩于裀中、當天皇之寢、廼刺頸而弑焉。」皇后於是、心裏兢戰、不知所如、然視兄王之志、便不可得諫。故受其匕首、獨無所藏、以著衣中。遂有諫兄之情歟。 
即位4年秋9月23日。垂仁天皇の皇后(=サホビメのこと)の同母兄の狹穗彥王(サホビコノミコ)が謀反(ミカドカタブケムトハカリ)し、社稷(クニ)を危ぶめようとしました。
皇后が家でくつろいでいるところに狹穗彥王が来て、言いました。「お前は、兄と夫(=垂仁天皇)と、どちらが愛しいか?」皇后は本当の心を隠して「兄を愛しています」と答えました。
狹穗彥王は皇后を焚きつけました。
「色(カオ)で仕えるということは、色(カオ)が衰えると寵(メグミ=天皇からの寵愛)は無くなってしまう。今、天下には佳人(カオヨキヒト=美人)は沢山いる。それぞれが寵(メグマレムコト=天皇からの寵愛)を求めている。どうして永遠に色(カオ)に頼れるか。私に皇位を得させてくれれば、必ずお前と天下を治めよう。それで枕を高くして永遠に100年を過ごすのも悪くないだろう。頼むから、私のために天皇を殺してくれ」
それで匕首(ヒモカタナ=あいくち=小刀)を取り出し、皇后に授けて言いました。
「この匕首を衣の中に隠して、天皇が寝ているときに、首を刺して殺してくれ」
皇后は心の中で恐れ震えて戦慄いて、どうすればいいか分かりませんでした。しかし、兄の志を見ると、簡単に諌めることはできそうにありません。それでその匕首を受け取り、独りで隠し切れそうにもなく、衣の中にしまいました。ついに兄を諌めることはできませんでした。
古事記対応箇所 / 日本最古の兄妹愛物語 
皇后狹穗姬の告白
五年冬十月己卯朔、天皇、幸來目居於高宮、時天皇枕皇后膝而晝寢。於是、皇后、既无成事而空思之「兄王所謀、適是時也。」卽眼淚流之落帝面、天皇則寤之、語皇后曰「朕今日夢矣、錦色小蛇、繞于朕頸、復大雨從狹穗發而來之濡面。是何祥也。」皇后、則知不得匿謀而悚恐伏地、曲上兄王之反狀、因以奏曰「妾、不能違兄王之志、亦不得背天皇之恩。告言則亡兄王、不言則傾社稷。是以、一則以懼、一則以悲、俯仰喉咽、進退而血泣、日夜懷悒、無所訴言。唯今日也、天皇枕妾膝而寢之、於是、妾一思矣、若有狂婦、成兄志者、適遇是時、不勞以成功乎。茲意未竟、眼涕自流、則舉袖拭涕、從袖溢之沾帝面。故今日夢也、必是事應焉、錦色小蛇則授妾匕首也、大雨忽發則妾眼淚也。」 
即位5年冬10月1日。垂仁天皇は來目(クメ=地名・大和国高市郡)に行って高宮(タカミヤ=地名か高い宮か不明)にいました。そのときに、天皇は皇后の膝枕をして昼寝をしていました。皇后は事(=兄に頼まれた天皇暗殺)を遂げられずにいました。
虚しく思い、「兄王(コノカミノオオキミ)が謀反を起こすのは今」と思うと、涙が流れて帝(ミカド=天皇)の顔に落ちました。天皇は驚いて、皇后に言いました。
「わたしは今日、夢を見た。錦の小蛇(スコシキオロチ)がわたしの首に絡まった。また、雨が狭穂(サホ)から飛んできて顔を濡らすという夢を見た。これはどういう意味だろうか」
皇后は謀反の計画を隠せないと知り、怖気付いて地面に伏して、曲(ツマビラカ=詳細)に兄王の反状(ソムクコト)を話しました。
「わたしは兄王の志(ココロ=謀反の考え)を間違っていると言えませんでした。また天皇の恩(ミウツクシビ)に背くことも出来ませんでした。言わなければ兄王が死んでしまいます。言わなければ社稷(クニ)を傾けてしまいます。これまで、あるいは恐れ、あるいは悲しみました。伏せたり、天を仰いでむせび泣き、行くことも退くこともできず泣いていました。昼も夜も言葉にできないほどに鬱々としていました。そして今日、天皇がわたしの膝枕で寝ていました。それでわたしは思ったのです。もしもわたしが狂った女で、兄の志(ココロ=謀反の意思)を成すならば、ただいまこの時に簡単に成し遂げるしかない、と。そんな決心がまだつかないうちに、涙が自然と流れておちました。すぐに袖を挙げて涙を拭いたのですが、袖から漏れて、天皇の顔を濡らしました。(天皇が)今の夢を見たのは、この事でしょう。錦の小蛇はわたしに授けられた匕首(ヒモカタナ=あいくち=小刀)です。大雨(ヒサメ)がたちまち降ったのは、わたしの涙です」
古事記の対応箇所 / 垂仁天皇の夢 / サホビメの告白 
夢について
科学とは程遠い時代なのに、「涙」が天皇の顔に当たったことが、夢の中で「雨」に変換されるということを、古代の人は知っていたのですね。
雨が狭穂から飛んできて顔を濡らすという夢
ここでの「サホ」は暗にサホビメとサホビコの兄妹を指しているのですが、それは「暗に」であって、文意としては、「粒が細い稲の穂」という意味かと思われます。粒が細いというのが、品種なのか、成長途中でまだ粒が細いのか?は分かりませんが、日本は「幼い」ことが「霊威」を持つという考えがあるので、おそらくは「成長途中」という意味ではないかと。 
倭日向武日向彥八綱田
天皇謂皇后曰「是非汝罪也。」卽發近縣卒、命上毛野君遠祖八綱田、令擊狹穗彥。時狹穗彥、興師距之、忽積稻作城、其堅不可破、此謂稻城也、踰月不降。於是、皇后悲之曰「吾雖皇后、既亡兄王、何以面目、莅天下耶」則抱王子譽津別命、而入之於兄王稻城。天皇更益軍衆、悉圍其城、卽勅城中曰「急出皇后與皇子。」然不出矣。則將軍八綱田、放火焚其城、於焉、皇后令懷抱皇子、踰城上而出之。因以奏請曰「妾始所以逃入兄城、若有因妾子免兄罪乎。今不得免、乃知、妾有罪。何得面縛、自經而死耳。唯妾雖死之、敢勿忘天皇之恩。願妾所掌后宮之事、宜授好仇。其丹波國有五婦人、志並貞潔、是丹波道主王之女也。(道主王者、稚日本根子太日々天皇之孫、彥坐王子也。一云、彥湯産隅王之子也。)當納掖庭、以盈后宮之數。」天皇聽矣。時火興城崩、軍衆悉走、狹穗彥與妹共死于城中。天皇、於是、美將軍八綱田之功、號其名謂倭日向武日向彥八綱田也。 
天皇は皇后に言いました。「これは、お前の罪ではない」すぐに近くの縣(コオリ)の卒(ツワモノ=兵士)を派遣して、上毛野君(カミツケノキミ)の遠祖の八綱田(ヤツナダ)に命じて狹穗彥(サホビコ)を討たせました。狹穗彥は師(イクサ=軍)を起こして、迎え撃ちました。たちまち稲を積み上げて城を作りました。それが固くて破れません。これを稲城(イナキ)といいます。
翌月になっても従いません。
皇后は悲しんで言いました。「わたしは皇后といっても、兄王を失っては面目(オモテ)がありません。世間に顔向けできません」そして王子の譽津別命(ホムツワケノミコト)を抱いて、兄王の稲城に入りました。天皇はさらに軍衆(イクサビトドモ)を増やして、完全にその城を囲んでしまいました。そして城の中に向かって言いました。
「すみやかに皇后と皇子を出せ」しかし出てきません。
将軍(イクサノカミ)の八綱田(ヤツナダ)は火をつけてその城を焼きました。皇后は皇子を抱いて、城の塀を越えて出て来ました。そして言いました。
「わたしが始めに兄の城に逃げ入った理由は、もしわたしと皇子がいることで兄の罪を許されることがあるかもしれないと思ったからです。今、許されないと、知り、わたしにも罪があると分かりました。本当に申し訳なく思っています。あとは自殺するだけです。それでもわたしが死んでも、天皇の恩は忘れません。おねがいですから、わたしの担当した後宮(キサキノミヤ)のことは良い仇(オミナドモ)に授けてください。丹国の五(イツトリ)の婦人(オミナ)がいます。心も体も清らかです。この人たちは丹波道主王(タニハノチヌシノオオキミ)の娘です。道主王は、稚日本根子太日々天皇(ワカヤマトネコフトヒヒノスメラミコト=開化天皇)の孫の彥坐王子(ヒコイマスノミコ)。ある伝によると彥湯産隅王(ヒコユムスミノミコ)の子です。掖庭(ウチツミヤ=後宮に使える女性が居る場所)に召し入れて、後宮の人員に仕えさせてください」
天皇は聞き入れました。そのとき火の勢いが増し、城が崩れました。軍衆(イクサヒトドモ)はことごとく走って逃げました。狹穗彥(サホビコ)と妹はともに城の中で死んでしまいました。天皇は将軍の八綱田(ヤツナダ)の功を褒め、その名を倭日向武日向彥八綱田(ヤマトノヒムカタケヒムカヒコヤツナダ)としました。
古事記の対応箇所 / サホビメの覚悟 / サホビメを取り逃がす垂仁天皇は玉作りを恨む / 本牟智和気御子の養育方法 / サホビメの死 
古事記と違うところ
古事記ではサホビメが城から出てくるのですが、服や装飾品を腐らせて、捕まえようとしても掴めないようにして、結局城の中に取り逃がすという「物語」があり、その後、火をつけられた城の中で譽津別命(ホムツワケノミコト)を出産します。この「火の中の出産」は「出産時に火を焚くという風習」が元になっていると思われます。日本書紀では「火の中の出産」はありません。 
初めての相撲
七年秋七月己巳朔乙亥、左右奏言「當麻邑、有勇悍士、曰當摩蹶速。其爲人也、强力以能毀角申鉤、恆語衆中曰『於四方求之、豈有比我力者乎。何遇强力者而不期死生、頓得爭力焉。』」天皇聞之、詔群卿曰「朕聞、當摩蹶速者天下之力士也。若有比此人耶。」一臣進言「臣聞、出雲國有勇士、曰野見宿禰。試召是人、欲當于蹶速。」卽日、遣倭直祖長尾市、喚野見宿禰。於是、野見宿禰、自出雲至。則當摩蹶速與野見宿禰令捔力。二人相對立、各舉足相蹶、則蹶折當摩蹶速之脇骨、亦蹈折其腰而殺之。故、奪當摩蹶速之地、悉賜野見宿禰。是以、其邑有腰折田之緣也。野見宿禰乃留仕焉。 
即位7年秋7月7日。左右(モトコ=天皇の側にいるもの)が言いました。
「當麻邑(タギマノムラ)に勇敢で恐ろしい人がいる。當摩蹶速(タギマノクエハヤ)という。その為人(ヒトトナリ)は力が強くて、動物の角を研いで鉤(カギ=湾曲した刃物)を持っている。日頃から周囲の人に『四方(ヨモ=周辺)を探しても、わたしの力に並ぶものがいるだろうか?どうにか強力者(チカラコワキモノ)に会って、死生(シニイクコト)を言わず、全力で争力(チカラクラベ)をしたいものだ』と言っているとか」
天皇はそれを聞いて、群卿(マヘツキミタチ)に命じました。
「わたしも聞いた。當摩蹶速(タギマノクエハヤ)は天下の力士(チカラビト)だと。これに並ぶ人はいないものか」
一人の臣(マヘツキミ)が出て言いました。
「臣(ヤツカレ)が聞いたところ、出雲国に勇士(イサミビト)がいます。野見宿禰(ノミノスクネ)といいます。試しにこの人物を呼び寄せて、蹶速(クエハヤ)と戦わせてみたいものです」
即日、倭直(ヤマトノアタイ)の先祖の長尾市(ナガオチ)を派遣して、野見宿禰(ノミノスクネ)を呼び寄せました。野見宿禰(ノミノスクネ)は出雲より到着しました。すぐに當摩蹶速(タギマノクエハヤ)と野見宿禰(ノミノスクネ)に捔力(スマヒ)を取らせました。二人は相対して立ち、それぞれが足を上げて踏みました。當摩蹶速(タギマノクエハヤ)の肋骨を踏み折りました。またその腰を踏んで折り、殺しました。當摩蹶速の土地を取り上げて、すべて野見宿禰(ノミノスクネ)に与えました。その邑に『腰折田(コシオレダ)』がある由縁です。野見宿禰(ノミノスクネ)はその土地に留まり、朝廷に仕えました。 
當摩蹶速の当て馬感
當摩蹶速というヤマト近くのタギマという土地に住んでいる力自慢が登場。朝廷に話題になっていました。「殺し合いがしたい」という彼の意見を面白がって、出雲から、やはり勇猛で有名な野見宿禰を呼んで戦わせる。
當摩蹶速は最初から死亡フラグたちまくりの当て馬感満載でしたね。當摩蹶速が腰を折られて死に、その土地が野見宿禰に譲渡され、その田んぼの名前が「腰折田」。酷い。
腰折田
この腰折田は、山あいの田で、山なりに作っているのでひん曲がった田んぼ、という意味ではないかとも言われます。でも、もしかしたら「あまりに広くて、作業をすると腰が曲がる」という意味だったのかもしれない。だって殺し合いで手に入れたものが、そんなひん曲がった田んぼなんて酷いと思うのですよ。
日本初の相撲か?
しかし足を振り上げて、あばらを折り、蹴り殺すのですから、相撲というよりは、テコンドーやカポエラです。相撲と言っていいのか?・・・うーん。
ところで、蹴鞠にしても、古代の日本人は「足技」が得意だったのでしょうか。そういえば、スサノオが高天原に登ってきて、アマテラスが臨戦態勢をとるときも、「両足がめり込むほどに踏みしめる」という表現がありました。 
五(イツトリ)の女
十五年春二月乙卯朔甲子、喚丹波五女、納於掖庭。第一曰日葉酢媛、第二曰渟葉田瓊入媛、第三曰眞砥野媛、第四曰薊瓊入媛、第五曰竹野媛。秋八月壬午朔、立日葉酢媛命爲皇后、以皇后弟之三女爲妃。唯竹野媛者、因形姿醜、返於本土。則羞其見返葛野自墮輿而死之、故號其地謂墮國、今謂弟國訛也。皇后日葉酢媛命、生三男二女、第一曰五十瓊敷入彥命、第二曰大足彥尊、第三曰大中姬命、第四曰倭姬命、第五曰稚城瓊入彥命。妃渟葉田瓊入媛、生鐸石別命與膽香足姬命。次妃薊瓊入媛、生池速別命・稚淺津姬命。 
即位15年春2月10日。丹波の五(イツトリ)の娘を呼び寄せて、掖庭(ウチツミヤ=皇后や皇子の世話をする宮女のいる場所)に入らせました。長女を日葉酢媛(ヒバスヒメ)、次女を渟葉田瓊入媛(ヌハタニイリビメ)、三女を眞砥野媛(マトノヒメ)、四女を薊瓊入媛(アザミニイリビメ)、五女を竹野媛(タケノヒメ)と言います。
秋8月1日。日葉酢媛(ヒバスヒメ)を皇后としました。皇后の妹の三人を妃としました。ただし、竹野媛(タケノヒメ)だけは、醜かったので、故郷に返しました。すぐに故郷に返されたことを恥ずかしいと思って、葛野(カヅノ)で輿(コシ…人力で持ち上げて運ぶ乗り物)から自分で落ちて死んでしまいました。それでその土地を堕国(オチクニ)といいます。今は弟国(オトクニ)と訛っています。
皇后の日葉酢姫(ヒバスヒメ)は三人の男の子と二人の女の子を生みました。第一子は五十瓊敷入彥命(イニシキイリビコノミコト)といいます。第二子は大足彥尊(オオタラシヒコノミコト)といいます。第三子は大中姬命(オオナカツヒメノミコト)といいます。第四子は倭姬命(ヤマトヒメノミコト)といいます。第五子は稚城瓊入彥命(ワカキニイリビコノミコト)といいます。妃の渟葉田瓊入媛(ヌハタニイリビメ)は鐸石別命(ヌテシワケノミコト)と膽香足姬命(イカタラシヒメノミコト)を生みました。次の妃の薊瓊入媛(アザミニイリビメ)は池速別命(イケハヤワケノミコト)と稚淺津姬命(ワカアサツヒメノミコト)を生みました。
古事記の対応箇所 / ヒバスヒメとオトヒメとウタゴリヒメとマトノヒメ / マトノヒメの死 
垂仁天皇(九)倭日向武日向彥八綱田で皇后サホビメが提案した通りに丹波道主の5人娘を娶り、そのうち一人(タケノヒメ)を「不細工だから」という理由で追い返し、残りの4人のうち、長女を(サホビメが死んだので)皇后に、三人を妃として、子供を産ませた、というのが大雑把なお話です。
古事記とはかなり違う
人物名が違うだけで、大雑把な話は同じなのですが…古事記ではサホビメの提案で丹波道主の「兄比売(エヒメ)」と「弟比売(オトヒメ)」が提案され、比婆須比売命(ヒバスヒメ)・弟比売命(オトヒメ)・歌凝比売命(ウタゴリヒメ)・円野比売命(マトノヒメ)がやってきて、この4名のうち、歌凝比売命(ウタゴリヒメ)・円野比売命(マトノヒメ)が「不細工だから」送り返し、マトノヒメが自殺します。人物名が違うだけで、大雑把な話は同じなのですが。 
鵠(クグイ)の追跡
廿三年秋九月丙寅朔丁卯、詔群卿曰「譽津別王、是生年既卅、髯鬚八掬、猶泣如兒、常不言、何由矣。」因有司而議之。冬十月乙丑朔壬申、天皇立於大殿前、譽津別皇子侍之。時有鳴鵠、度大虛、皇子仰觀鵠曰「是何物耶。」天皇則知皇子見鵠得言而喜之、詔左右曰「誰能捕是鳥獻之。」於是、鳥取造祖天湯河板舉奏言「臣必捕而獻。」卽天皇勅湯河板舉(板舉、此云拕儺)曰「汝獻是鳥、必敦賞矣。」時湯河板舉、遠望鵠飛之方、追尋詣出雲而捕獲。或曰、得于但馬國。 
即位23年の秋9月2日。群卿(マヘツノキミタチ=群臣)に天皇は言いました。「譽津別王(ホムツワケノミコト)は現在、30歳となり、胸までヒゲが伸びたのだが、なお泣く様子は子供のよう。言葉は話さない。どうしてか?」それで色々と話し合いをしました。
冬10月8日。天皇は宮殿の前に立っていました。譽津別皇子(ホムツワケノミコ)もいました。そのとき鳴鵠(クグイ=白鳥)がいて、大虚(オオゾラ)を飛んでいました。皇子は鵠(クグイ)を見て言いました。「これは何??」天皇は皇子が鵠を見て言葉を発したと喜びました。左右(モトコヒト=側の人)に天皇は言いました。「誰か、この鳥を捕らえて来てほしい」そこで鳥取造(トトリノミヤツコ)の祖の天湯河板舉(アメノユカワタナ)は言いました。「臣(ヤッコ)が必ず捕らえて献上いたします」天皇は湯河板舉(ユカワタナ)に言いました。
「お前がこの鳥を献上したら、必ず篤く褒賞を与えよう」その時、湯河板舉(ユカワタナ)は遠くに鵠が飛んでいる方角を見て、追いかけて、追いかけて、出雲に至って捕獲しました。
ある人によると但馬国で得たとも
板舉は拕儺(タナ)と読みます。
古事記の対応箇所 / ホムチワケ御子は言葉を発さなかった / ヤマノベノオオタカの白鳥追跡 
古事記ではいろんな国を渡って最後は越国に行きますが、日本書紀では出雲もしくは但馬国です。また白鳥を追いかける人物名も違います(古事記では山辺之大タカ)。ただ人物名の違いはよくあることですし、「別名」だけど「同一人物」ということもあります。
天湯河板舉は功績から鳥取造に任命されます。古事記では山辺之大タカとなっているのを見るに、「鳥」に関わる氏族だったと思われます。
山辺之大タカと天湯河板舉(アメノユカワタナ)は順当に考えて同一人物(同一神)と考えていいでしょう。 
湯河板舉は鳥取造に
十一月甲午朔乙未、湯河板舉、獻鵠也。譽津別命、弄是鵠、遂得言語。由是、以敦賞湯河板舉、則賜姓而曰鳥取造、因亦定鳥取部・鳥養部・譽津部。 
11月2日。譽津別命は鵠(クグイ=白鳥)を垂仁天皇に献上しました。譽津別命(ホムツワケノミコト)はこの鵠で遊んで、ついに話せるようになりました。
それで湯河板舉に篤く、褒賞することにしました。
姓を与えて鳥取造としました。また鳥取部(トトリベ)、鳥養部(トリカイベ)、譽津部(ホムツベ)を定めました。
古事記の対応箇所 / ヤマノベノオオタカの白鳥追跡 
日本書紀では話せるようになったが…
古事記では白鳥を捉えただけでは言葉を話せるようにはならず。「言葉が話せないのは出雲の祟り」となり、物語は続きます。ただ日本書紀では「白鳥を捕まえた土地」として出雲が登場しているので、略しただけ、なのかもしれません。ちなみに譽津部(ホムツベ)は「譽津別命(ホムツワケノミコト)を世話する部署」のことです。 
先代の功績
廿五年春二月丁巳朔甲子、詔阿倍臣遠祖武渟川別・和珥臣遠祖彥國葺・中臣連遠祖大鹿嶋・物部連遠祖十千根・大伴連遠祖武日、五大夫曰「我先皇御間城入彥五十瓊殖天皇、惟叡作聖、欽明聰達、深執謙損、志懷沖退、綢繆機衡、禮祭神祇、剋己勤躬、日愼一日。是以、人民富足、天下太平也。今當朕世、祭祀神祇、豈得有怠乎。」 
即位25年。春2月8日。阿部臣(アベノオミ)の遠祖の武渟川別(タケヌナカワワケ)・和珥臣(ワニノオミ)の遠祖の彥國葺(ヒコクニブク)・中臣連(ナカトミノムラジ)の遠祖の大鹿嶋(オオカシマ)・物部連(モノノベノムラジ)の遠祖の十千根(トオチネ)・大伴連(オオトモノムラジ)の遠祖の武日(タケヒ)と、5人の大夫(マヘツキミタチ)に天皇はいいました。
「わたしの前の天皇の城入彥五十瓊殖天皇(イマキイリヒコイニエノスメラミコト=崇神天皇)はとても清らかで聖人だった。欽(ツツシ)み明らかで、聡(サト)く達(トオ)っていた。深く謙損(ユヅリスツルコト=謙遜?)し、志壊(ココロザシ)沖(オナ)しく退きました。機衡(ヨロヅノマツリコト)を綢繆(スベオサ)めました。神祇(アマツカミクニツカミ)を令祭(ウヤマイ)しました。己を責め、身を勤めて、日々を慎みました。それで人民(オオミタカラ)は富み、満足し、天下太平となりました。今、わたしの代にになって、神祇を祭祀(イワイマツル)ことを、怠ることなどあろうか」 
天皇の発言
カッコでくくられた部分のほとんどが、先代崇神天皇の功績を讃えるもので、その文章のほとんどが中国の史書を参考にしたのではないか?と思われる文章となっています。文章というか漢文ですね。日本語にすると変なので、ほとんど読み下し文と同じ内容になっています。ごめんなさい。 
大神は鎮座する国を探して彷徨う
三月丁亥朔丙申、離天照大神於豐耜入姬命、託于倭姬命。爰倭姬命、求鎭坐大神之處而詣菟田筱幡(筱、此云佐佐)、更還之入近江國、東廻美濃、到伊勢國。時、天照大神誨倭姬命曰「是神風伊勢國、則常世之浪重浪歸國也、傍國可怜國也。欲居是國。」故、隨大神教、其祠立於伊勢國。因興齋宮于五十鈴川上、是謂磯宮、則天照大神始自天降之處也。 
3月10日。天照大神(アマテラスオオミカミ)を豐耜入姬命(トヨスキイリビメノミコト)から離し、倭姬命(ヤマトヒメノミコト)をつけました。倭姬命は大神を鎮座する場所を求めて、菟田(ウダ)の筱幡(ササハタ)に至りました。
引き返して近江国へと入り、東の美濃を巡って、伊勢国に至りました。そのとき天照大神は倭姬命に教えました。
「この神風(カムカゼ=伊勢の枕詞)の伊勢国は、常世の国からやってくる浪(ナミ)が、重浪(シキナミ=繰り返し繰り返し浪がくること)して帰(ヨ)せる国です。傍國(カタクニ=側の国…大和のそばの国)で、可怜國(ウマシクニ)です。この国にいたいと思う」と言いました。
そこで大神の教えた通りに祠(ヤシロ)を伊勢国に立てました。それで斎宮(イワイノミヤ)を五十鈴川の川上に立てました。磯宮(イソノミヤ)といいます。天照大神が初めて天より降りた場所です。
筱は佐佐(ササ)と読みます。 
豐耜入姬命(トヨスキイリビメノミコト)は崇神天皇の娘の一人。日本書紀では大物主が祟りで国民の半数を疫病で殺したときに天照大神に仕えています。
倭姬命(ヤマトヒメノミコト)は垂仁天皇がヒバスヒメと再婚してから作った子です。しかし結婚したのが即位15年の8月。その上、倭姫は第四子で、この記事の年が即位25年。再婚してから10年しか経っていません。だから単純に考えて、倭姫は6歳前後かと思われます。また、日本が仮に二倍歴を採用していたら、この「10年」は本来は「5年」。5年で第四子が生まれるのは、ギリギリです。つまり倭姫は生まれたばかりの嬰児ということになります。ニニギと状況がよく似ています。
日本人は「幼い」ほどに霊威が強いと考えていました。先代の崇神天皇の娘である豐耜入姬命(トヨスキイリビメノミコト)では天照大神を抑えきれない、祀るには役不足ということで、世代交代があった、のかもしれません。
ちなみに、倭姫は次の景行天皇の時代ではヤマトタケルにサポートを行う巫女として大活躍します。 
もう一つの天照大神の祭祀物語
一云、天皇、以倭姬命爲御杖、貢奉於天照大神。是以、倭姬命、以天照大神鎭坐於磯城嚴橿之本而祠之。然後、隨神誨、取丁巳年冬十月甲子、遷于伊勢國渡遇宮。是時倭大神、著穗積臣遠祖大水口宿禰而誨之曰「太初之時期曰『天照大神、悉治天原。皇御孫尊、專治葦原中國之八十魂神。我、親治大地官者。』言已訖焉。然先皇御間城天皇、雖祭祀神祇、微細未探其源根、以粗留於枝葉。故其天皇短命也。是以、今汝御孫尊、悔先皇之不及而愼祭、則汝尊壽命延長、復天下太平矣。」時天皇、聞是言、則仰中臣連祖探湯主而卜之、誰人以令祭大倭大神。卽渟名城稚姬命、食卜焉。因以、命渟名城稚姬命、定神地於穴磯邑、祠於大市長岡岬。然、是渟名城稚姬命、既身體悉痩弱、以不能祭。是以、命大倭直祖長尾市宿禰、令祭矣。 
ある書によると…天皇は倭姫命(ヤマトヒメノミコト)を御杖(ミツエ=依り代と同じ意味)として、天照大神に奉りました。それで倭姫命は天照大神を磯城(シキ=地名)の嚴橿(イツカシ=神の依代となる木)の根元に鎮座して祀りました。その能登に神の教えの通りに即位26年冬10月に伊勢国の渡遇宮(ワタライノミヤ)に移りました。
このときに倭大神は穂積臣(ホズミノオミ)の遠祖の大水口宿禰(オオミクチノスクネ)に降りて教えました。
「太初(モトハジメ=イザナギが天照に天界統治を命じたこと)のときに約束した。『天照大神は天原(アマハラ=天界)を収める。その天照の子孫の皇御孫尊(スメマミコト)は葦原中国(アシハラナカツクニ)の八十魂神(ヤソタマノカミ=おそらくは国津神全般のこと)を治める。私(=倭大神)は大地官(オオチツカサ=地主の神)を治めよう』と。言葉はそれでお終い。しかし、先代の御間城天皇(ミマキスメラミコト=崇神天皇)は神祇を祭祀(イワイマツリ)したのだが、微細(クワシク)はその源根(モト)を探らずに、粗(オロソカ)に枝葉(ノチノヨ)に留めた。天皇の命は短い。それで今の天皇は前の天皇が出来なかったことを悔いて慎み、祀れば、天皇の命は長く、また天下は太平になる」
天皇はその言葉を聞いて、すぐに中臣連(ナカトミノムラジ)の祖の探湯主(クカヌシ)に言って、誰に大倭大神(ヤマトオオカミ)を祀らせるべきか?を占わせました。渟名城稚姬命(ヌナキワカヒメノミコト)が占いに出ました。そこでこの姫に神地(カムドコロ)を穴磯邑(アナシノムラ=大和国城下郡・現在の奈良県桜井市穴師)に定めて、大市(オオチ=大和国城上郡大市郷・現在の奈良県桜井市芝)の長岡岬(ナガオカノサキ=巻向山の尾崎か?)を祀りました。しかしこの渟名城稚姬命(ヌナキワカヒメノミコト)は身体が病み弱り、神を祀ることはできない状態となりました。そこで、大倭直(ヤマトノアタイ)の祖の長尾市宿禰(ナガオチノスクネ)に命じて祀らせました。 
前提として、天照と大倭大神は同居していた
「崇神天皇(四)疫病で国民の半数が死亡(日本書紀)」にあるように天照大神と大倭大神(倭国魂神)は「以前から、並べて祀ってあった」と書いてあります。つまり天照大神は「大和土着の神」であり、大倭大神(倭国魂神)とセットの神だったということです。もしかするとイザナギ・イナザミのような夫婦設定だったのかもしれません。また名前から想像するに「天」と「地」の神という組み合わせであり、「農業」の神だったのでしょう。
それが崇神天皇のときに、「国が乱れているのはどうも、この二柱の神が仲が悪いから、っぽいなぁ」と、二柱の神を分離して祀るようになります。離婚になるのかなぁ。
それで一人になった大倭大神(倭国魂神)を渟名城入姬(ヌナキノイリヒメ=崇神天皇の娘)で祀るのですが髪が抜けて弱り、それどころじゃない。その後、姫の代わりに市磯長尾市(イチシノナガオチ)が祀ることで、疫病は止み、とりあえずは問題は解決しました。これが即位6年頃の話。
それで天照大神がこの即位25年になって鎮座する場所が決まるわけです。つまり、天照大神は「後回し」にされた上に「たらい回し」にあった、という言い方も出来ます。今更急に祀ることになったのは、祟りが怖かったからじゃないかと思われます。ま、それはともかく。
その結果、天照を祀ることになった人物がこの記事(仁徳天皇26年)で「長尾市宿禰(ナガオチノスクネ)」、崇神天皇6年のときは「市磯長尾市(イチシノナガオチ)」で、おそらくは同一人物。
また、天照大神を祀って弱った皇女がこの記事(仁徳天皇26年)では渟名城稚姬命(ヌナキワカヒメノミコト)。崇神天皇6年のときは渟名城入姬(ヌナキノイリヒメ)で、こちらも名前がソックリ。
これはこのページが「一伝」…つまり「一説によると」と描き方をしていることから、「建前は崇神天皇のときにとりあえずはちゃんと祀った」のだけど、「本当は垂仁天皇のときまで後回しにしたんだよね、テヘペロ」ということ…という可能性はあります。 
出雲の神宝と神社へ兵器を祭る始まり
廿六年秋八月戊寅朔庚辰、天皇勅物部十千根大連曰「屢遣使者於出雲國、雖檢校其國之神寶、無分明申言者。汝親行于出雲、宜檢校定。」則十千根大連、校定神寶而分明奏言之。仍令掌神寶也。
廿七年秋八月癸酉朔己卯、令祠官卜兵器爲神幣、吉之。故、弓矢及横刀納諸神之社。仍更定神地・神戸、以時祠之。蓋兵器祭神祇、始興於是時也。是歲、興屯倉于來目邑。屯倉、此云彌夜氣。 
即位26年秋8月3日。天皇は物部十千根大連(モノノベノトオチネノオオムラジ)に言いました。「使者(ツカイ)を出雲国へ派遣して、その国の神宝(カムタカラ)を檢校(カムガヘシム=見る・調べる)したいと言ったのだが、(神宝がどういう品物かを)ハッキリと答えるものが居ない。そこでお前が自ら出雲に行って、檢校しろ」
すぐに十千根大連(トオチノネノオオムラジ)の神宝を調べて、ハッキリさせて天皇に申し上げました。それで神宝を手に入れました。
即位27年。秋8月7日。祠官(カムヅカサ=官位の名前)に命じて、兵器(ツワモノ)を神の幣(マヒ=捧げ物)にしようと占うと『吉』と出ました。そこで弓矢と横刀(タチ)を諸々の神社に納めました。それで更に、神地(カムドコロ)・神戸(カムベ)を定めて祀りました。兵器を神祇に祭るのはこのときが始まりです。
この年、屯倉(ミヤケ=宮家=天皇の直轄地)が來目邑(クメノムラ)に出来ました。
屯倉は彌夜氣(ミヤケ) 
出雲の神宝
出雲の宝を手にいれるという話は日本書紀崇神天皇60年の「崇神天皇(二十二)イズモノフルネ(日本書紀)」にもあります。
日本人は「物」は「物の怪」の「モノ」で、単なる物質というものは存在しません。あらゆる「モノ」には「霊」がこもっています。よって、神宝というのは、単なる「高価そうなもの」ではなく、「神」そのものと言っていいものです。それを崇神天皇・垂仁天皇の時代に奪われた、となると出雲の勢力が落ちたか、出雲のグループがヤマトに移住したか、そういう一つの区切りのようなものがこの時代にあったのではないかと思われます。
兵器と神社
即位27年に初めて「兵器」を神社に納めるようになったという話です。つまり神社が「戦争」の要素を強く持つようになったということです。
これ以前、神武天皇の時代でも、戦争前に神社で誓約をする…といったように「神社と戦争」は既に結びついていたのですが、それは「命運」を神に預けるという程度の意味でした。
神武天皇の誓約というのは天香山の「土」で皿とツボを作って、皿で飴を作り、ツボで漁をするというものです。つまり、戦争のための誓約の儀式といっても「農業(飴は米から作る)」と「漁業」という日常生活に根ざしたものです。それが、この垂仁天皇即位27年から神社に「兵器」という戦争のためのモノを納めるようになるわけです。どうして兵器を納めるのか?というと神様が武装するためです。
それまでの神社と戦争のつながりよりも、かなり強く具体的な繋がりになっています。 
殉葬の禁止
廿八年冬十月丙寅朔庚午、天皇母弟倭彥命薨。十一月丙申朔丁酉、葬倭彥命于身狹桃花鳥坂。於是、集近習者、悉生而埋立於陵域、數日不死、晝夜泣吟、遂死而爛臰之、犬烏聚噉焉。天皇聞此泣吟之聲、心有悲傷、詔群卿曰「夫以生所愛令殉亡者、是甚傷矣。其雖古風之、非良何從。自今以後、議之止殉。」 
即位28年冬10月5日。天皇の同母弟の倭彥命(ヤマトヒコノミコト)が亡くなりました。
11月2日。倭彦命を身狹(ムサ=大和国高市郡=現在の奈良県橿原市見瀬町)の桃花鳥坂(ツキサカ)に葬りました。それで近習者(チカクツカエシマツリヒト=側に仕えていた人)を集めて、全員を生きながら、墓の域(メグリ=周囲)に埋めて立たせました。何日か経っても死なないでいて、昼も夜も泣きうめいていました。ついに死んで朽ちて腐りました。犬・カラスが集まって、それらを食べました。天皇はこの泣きうめく声を聞いて、とても悲しく思いました。それで天皇は群卿(マヘツキミタチ=部下たち)に言いました。
「生きているときに仕えていたからといって、死んで殉死させるのは、とても痛々しいではないか。それが古い風(ノリ=法=風習)といっても、良くないものに従うことはないだろう。これからは、よくよく話し合って殉死するのは止めなさい」 
殉葬について
どうやら日本には殉葬の風習があったらしいのです。魏志倭人伝にも卑弥呼が死んだ後に殉葬をしていると書いてあります。ちなみに卑弥呼の死は248年。垂仁天皇の時代は3世紀後半かと思われます。殉葬の風習があったというのは十分ありうる話です。ところが、殉葬してある「古墳」がないのです。つまり「本」には書いてあるが、物証が無い。
殉葬の方法
ところで上記の記述からの推測ですが、殉葬といっても、生き埋めではなく、首から上は地上に出ていたんじゃないでしょうか?そうでないと「昼も夜も泣きうめく」ことが出来ません。手足を縛って、首から上か、上半身だけか、出して埋めて、死ぬのを待つ。そんで死んだら犬やカラスが食べる。土の中に埋めてしまったら犬やカラスはほじくり返せませんから。
埴輪は殉葬の代わりに作られたものです。この埴輪は普通は古墳の周囲に「置き」ます。埴輪を殉葬の代わりに「置いた」ならば、当然、殉葬の人間も古墳の周囲に「置いた」はずです。つまり「生き埋め」ではなく、首から上か上半身を出して「埋めた」のではないかと思います。
ちなみに、最近は古墳の土中に「埴輪の破片」が見つかっています。これも「古墳の中に人柱」を埋めた風習の名残で、人柱の代わりに埴輪で代用したのではないかと思います。
話し合いなさい
天皇も神も、強権を持っているように思えますが、それはのちの話で、日本人の行動方針は「和」です。みんなで仲良く、決め事は「全会一致」が基本。よって天皇は命令するのではなく、促すだけ。鶴の一声ではないわけです。だから「殉葬の禁止について話し合いなさい」という発言になります。 
「お前たち、それぞれ欲しいものを言え」
卅年春正月己未朔甲子、天皇詔五十瓊敷命・大足彥尊曰「汝等、各言情願之物也。」兄王諮「欲得弓矢。」弟王諮「欲得皇位。」於是、天皇詔之曰「各宜隨情。」則弓矢賜五十瓊敷命、仍詔大足彥尊曰「汝必繼朕位。」 
即位30年の春1月6日。天皇は五十瓊敷命(イニシキノミコト)・大足彥尊(オオタラシヒコノミコト)に言いました。「お前たち、それぞれ欲しいものを言え」兄王(=イニシキ命のこと)は言いました。「弓矢を得たいと思います」弟王(=オオタラシヒコ尊のこと=景行天皇)は「皇位を得たいと思います」といいました。
それで垂仁天皇は言いました。「それぞれの心のままにすべし」すぐに弓矢を五十瓊敷命(イニシキノミコト)に与えました。そして大足彥尊(オオタラシヒコノミコト)に言いました。「お前は、必ず我が位(=皇位=天皇の地位)を継げ」 
皇太子はどうして選ばれるか?
垂仁天皇は夢占いで選ばれた弟。景行天皇も問答で選ばれた弟。遡って綏靖天皇は自分を暗殺しようとした兄の手硏耳命を、もう一人の兄の神八井耳命と一緒に討って、譲り合って結局、天皇になります。
いつも弟が「善」側です。実際に弟が継いだのもあるでしょう。
もしかすると末子相続は「漁師」「海洋民族」の風習であり、当時完全な農耕民族だった日本人にとっては、すでに「一般的」ではなかったのかもしれません。だから言い訳のような物語を残したのではないかと。
または儒教が伝来し、儒教を政治に取り入れる上で、「末子相続」という風習と、儒教の思想の「長子相続」のつじつま合わせの言い訳に作られた話なんじゃないかとも。つまり、風習としては末子相続なんだけど、儒教という最新式の思想によると、長男が相続するのが「正義」なんですね。そこで「どうして末子が相続したのか?それにはこんな正当な理由があるんですよ。それはね・・・」という物語が、上記の皇位相続の経緯にあったのではないか?と考えています。 
土部を出雲から呼び、埴輪を作らせる
卅二年秋七月甲戌朔己卯、皇后日葉酢媛命(一云、日葉酢根命)也薨。臨葬有日焉、天皇詔群卿曰「從死之道、前知不可。今此行之葬、奈之爲何。」於是、野見宿禰進曰「夫君王陵墓、埋立生人、是不良也、豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。」則遣使者、喚上出雲國之土部壹佰人、自領土部等、取埴以造作人・馬及種種物形、獻于天皇曰「自今以後、以是土物更易生人樹於陵墓、爲後葉之法則。」天皇、於是大喜之、詔野見宿禰曰「汝之便議、寔洽朕心。」則其土物、始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪、亦名立物也。仍下令曰「自今以後、陵墓必樹是土物、無傷人焉。」天皇、厚賞野見宿禰之功、亦賜鍛地、卽任土部職、因改本姓謂土部臣。是土部連等、主天皇喪葬之緣也、所謂野見宿禰、是土部連等之始祖也。 
即位32年秋7月6日。皇后の葉酢媛命(ヒバスヒメノミコト)が亡くなりました。
ある伝によると、葉酢根命(ヒバスネノミコト)といいます。
葬るまでに日がありました。天皇は群卿(マヘツキミタチ)にいいました。
「死人に生前使えていた人が従うこと(=殉葬のこと)が良くないことは分かった。今回の葬(モガリ)はどうするべきか?」
野見宿禰(ノミノスクネ)は進み出て言いました。
「君王(キミ)の陵墓(ミササギ)に生きている人を埋めて立たせるのは良くないことです。どうして後葉(ノチノヨ=後世)にも(殉葬は良くないと)伝えたいだろうか(伝えたいわけがない)。願わくは、今代わりになることで話し合いましょう」
すぐに使者を派遣して出雲国の土部(ハジベ)100人を呼び寄せて、(野見宿禰が)自ら土部を使って、埴(ハニツチ)を取り、人や馬や種々のものの形を作って、天皇に献上して言いました。
「これより以降、この土物(ハニモノ)を生人(イキタルヒト)に替えて、陵墓に立てて、後葉(ノチノヨ)の法則(ノリ)とましょう」
天皇はとても喜び、野見宿禰に言いました。
「お前の便議(タヨリナルハカリコト=代替案)はとても私の望みにかなったものだった」
それでその土物を初めて日葉酢姫命(ヒバスヒメノミコト)の墓に立てました。それでこの土物を名付けて『埴輪(ハニワ)』と言います。または立物(タテモノ)といいます。
それで令(ノリゴト)をしていいました。
「これより以降は陵墓(ミササギ)に必ず、この土物を樹(タ)てて、人を傷つけないよう」
天皇は野見宿禰を厚く功賞して鍛地(カタシトコロ)を与えました。土部の職に就かせました。それで本の姓を改めて土部臣(ハジノオミ)といいます。土師連(ハジノムラジ)などが天皇の喪葬(ミハブリ)を司る所以です。いわゆる野見宿禰はこの土部連などの始祖です。
古事記の対応箇所 / 垂仁天皇の墓 
野見宿禰
野見宿禰は「垂仁天皇(十)初めての相撲」で當摩蹶速(タギマノクエハヤ)と戦って、殺した武人。それが出雲から土器を作る土師を呼んで、埴輪を作る風習の始まりとなりました。
人を樹てる
このページでは「人を樹てる(ひとをたてる)」という表現が二箇所あります。人間を樹と見立てている節があります。「垂仁天皇(十八)殉葬の禁止」でも書きましたが、殉葬にされる「人間」は墓の周りに、土中に生き埋めではなく、上半身だけ出している状態だったのではないでしょうか??それならば「垂仁天皇(十八)殉葬の禁止」で描かれるように、「泣きうめき声」が聞こえるのは当然です。 
山背の綺戸邊
卅四年春三月乙丑朔丙寅、天皇幸山背。時左右奏言之、此國有佳人曰綺戸邊、姿形美麗、山背大國不遲之女也。天皇、於茲、執矛祈之曰「必遇其佳人、道路見瑞。」比至于行宮、大龜出河中、天皇舉矛剌龜、忽化爲白石。謂左右曰「因此物而推之、必有驗乎。」仍喚綺戸邊納于後宮、生磐衝別命、是三尾君之始祖也。先是、娶山背苅幡戸邊、生三男、第一曰祖別命、第二曰五十日足彥命、第三曰膽武別命。五十日足彥命、是子石田君之始祖也。 
即位34年春3月2日。天皇は山背(ヤマシロ)に行きました。そのとき、左右(モトコ=側の人)が言いました。「この国に佳人(=カオヨキヒト=美人)がいます。綺戸邊(カニハタトベ)といいます。姿形(カオカタチ)は美麗。山背大国不遲(ヤマシロオオクニノフチ)の娘です」
天皇は矛(ホコ)を取って誓約をしました。「必ず!その佳人(カオヨキヒト)と結ばれるなら!!道にその兆候が見える!」
行宮(カリノミヤ=移動先の仮の宮殿)に到着するところで大きな亀が川の中から出てきました。天皇は矛を上げて、亀を刺しました。すぐに亀は白い石になりました。
左右(モトコ=側の人)は言いました。「この物から推し測るに、験(シルシ)なのでしょう」
そこで綺戸邊(カニハタトベ)を呼び寄せて、後宮(ウシロノミヤ)に入らせました。
磐衝別命(イワツクワケノミコト)を生みました。三尾君(ミオノキミ)の始祖です。
これより先に山背苅幡戸邊(ヤマシロノカリハタトベ)を娶りました。三人の男の子を生みました。第一子は祖別命(オオジワケノミコト)といいます。第二子を五十日足彥命(イカタラシヒコノミコト)といいます。第三子を膽武別命(イタケルワケノミコト)といいます。五十日足彥命(イカタラシヒコノミコト)は子石田君(?)の始祖です。 
誓約について
誓約は言霊信仰を基にした「占い」のようなものです。言霊信仰では言葉が現実のものとなるという考えです。それは言葉を発した人物の霊威が強いほどに(もしくは正しいほど)現実化しやすいという性質があります。そこで言挙げ(コトアゲ)という宣言をして、天皇は自分を占ったわけです。そして見事、新しい嫁をゲットしたと。
白い石
石というと朝鮮系の神話に登場することで有名です。しかし、日本はそもそも「磐座」として「石」を神格化していたのですから「石」=「朝鮮系」ってのは、妥当な考えかどうかということに疑問ですね。
朝鮮半島にも「倭人」が住み、領地としていたのは魏志倭人伝にも明らかですから、「石」という共通の文化があったとしても何ら不思議ではないわけです。 
高石池・茅渟池・狹城池・迹見池を作る
卅五年秋九月、遣五十瓊敷命于河內國、作高石池・茅渟池。冬十月、作倭狹城池及迹見池。是歲、令諸國多開池溝、數八百之、以農爲事、因是、百姓富寛天下大平也。
卅七年春正月戊寅朔、立大足彥尊、爲皇太子。 
即位35年秋9月。五十瓊敷命(イニシキノミコト)を河内国に派遣して高石池(タカシノイケ)と茅渟池(チヌノイケ)を作らせました。冬10月に倭(ヤマト)の狹城池(サキノイケ)と迹見池(トミノイケ)を作りました。その年、諸国に命じてたくさんの池溝(ウナデ=水路)を掘らせました。数800余り。農(ナリワイ)を事業としました。これで百姓に富みが広がり、天下泰平となりました。
即位37年1月1日。大足彥尊(オオタラシヒコノミコト=景行天皇)を皇太子としました。 
大和朝廷は崇神天皇のときに「戸籍」のようなものを作って人民の数を把握しました。税を課すためです。税を徴収する一方で、崇神天皇は船舶を作ってインフラを整備したり、池溝(ウナデ=灌漑用水路)や池も作っています。垂仁天皇もほぼ同様の政策を取っています。
垂仁天皇は崇神天皇から引き継いだ政策を粛々と行い、地盤を固めていっている・・・そんな印象があります。 
十箇の品部と石上神宮、物部首の始祖
卅九年冬十月、五十瓊敷命、居於茅渟菟砥川上宮、作劒一千口。因名其劒、謂川上部、亦名曰裸伴(裸伴、此云阿箇播娜我等母)、藏于石上神宮也。是後、命五十瓊敷命、俾主石上神宮之神寶。
一云、五十瓊敷皇子、居于茅渟菟砥河上、而喚鍛名河上、作大刀一千口。是時、楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部、幷十箇品部、賜五十瓊敷皇子。其一千口大刀者、藏于忍坂邑。然後、從忍坂移之、藏于石上神宮。是時、神乞之言「春日臣族名市河、令治。」因以命市河令治、是今物部首之始祖也。 
即位39年冬10月。五十瓊敷命(イニシキノミコト)は茅渟(チヌ)の菟砥川上宮(ウトノカワカミノミヤ)いて、剣一千口を作りました。それでその剣を名付けて、川上部といいます。またの名は裸伴(アカハダガトモ)といいます。
石上神宮(イソノカミカムミヤ)に蔵(オサ)めました。
こののちに垂仁天皇は五十瓊敷命(イニシキノミコト)に命じて石上神宮の神宝を管理させました。
ある伝によると・・・五十瓊敷命(イニシキノミコト)は茅渟(チヌ)の菟砥河上(ウトノカワカミ)に居ました。鍛名(カヌチナ)は川上を呼び寄せて、太刀一千口を作らせました。この時に、楯部(タテヌイベ)、倭文部(シトリベ)、神弓削部(カムユゲベ)、神矢作部(カムヤハギベ)、大穴磯部(オオアナシベ)、泊橿部(ハッカシベ)、玉作部(タマツクリベ)、神刑部(カムオサカベ)、日置部(ヒオキベ)、太刀佩部(タチハカベ)…併せて、十の品部(トモノミヤツコ)を五十瓊敷命(イニシキノミコト)に与えました。
その一千口の太刀を忍坂邑(オシサカノヘキ)に蔵(オサ)めました。それで後に忍坂から移して石上神宮に蔵(オサ)めました。この時に神は尋ねると神は言いました。「春日臣(カスガノオミ)の族(ヤカラ)の市河(イチカワ)に治めさせなさい」それで市河に命じて治めさせました。これが今の物部首(モノノベノオビト)の始祖です。
裸伴は阿箇播娜我等母(アカハダガトモ)と読みます。 
部の意味
楯部は楯を作る部署。倭文部は倭文という「布」を作る部署。神弓削部、神矢作部は弓矢を作る部署のこと。
大穴磯部は詳細不明
泊橿部は、よくわかっていないが、757年成立の養老律令の職員令土工司条に泥部という記述があり、そこに「泥部は古い言い方で波都加此乃友造(ハツカシノトモツクリ)」と書いてあるので土関係の仕事(…瓦作りなど)と思われます。玉作部は玉を作る部署のこと。神刑部は裁判・警察関係かと。
日置部はハッキリしないが、日置部の氏族の日置氏が後に宮殿の灯篭の仕事をしているところを見ると、火に関わる仕事なのは間違いなさそう。それが「刀を作るための火」なのか「灯りとしての火」なのかはわからない。もしくは両方か。
太刀佩部は太刀を身につける部署で警備か武士といったものだったのではないかと思われます。 
天神庫も樹梯のまにまに
八十七年春二月丁亥朔辛卯、五十瓊敷命、謂妹大中姬曰「我老也、不能掌神寶。自今以後、必汝主焉。」大中姬命辭曰「吾手弱女人也、何能登天神庫耶。」(神庫、此云保玖羅。)五十瓊敷命曰「神庫雖高、我能爲神庫造梯。豈煩登庫乎。」故、諺曰、天之神庫隨樹梯之、此其緣也。然遂大中姬命、授物部十千根大連而令治。故、物部連等、至于今治石上神寶、是其緣也。昔丹波國桑田村有人、名曰甕襲。則甕襲家有犬、名曰足往。是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有八尺瓊勾玉。因以獻之。是玉今有石上神宮也。 
即位87年春2月5日。五十瓊敷命(イニシキノミコト)は妹の大中姫(オオナカツヒメ)に言いました。「わたしは年老いた。神宝を管理することはできない。これより以降はお前が管理しなさい」
大中姫命(オオナカツヒメノミコト)は断りを言いました。
「わたしは手弱女人(タオヤメ=か弱い)です。どうして天神庫(アメノホクラ)に登れましょうか」
「神庫(ホクラ)は高くても、私が神庫のためにハシゴを作ろう。だから、どうして庫に登るのが煩わしいだろうか(いや煩わしいわけがない)」
それで諺(コトワザ)で「天神庫(アメノホクラ)も樹梯(ハシダテ)の隨(マニマニ)」というのはこれが所以です。それでついに大中姫命と物部十千根大連(モノノベノトオチネノオオムラジ)に(神宝を)授けて、治めさせました。物部連たちは今に至るまでに石上の神宝を納めているのはこれが所以です。昔、丹波国の田村(タノムラ)に人がいました。名を甕襲(ミカソ)といいます。甕襲の家に犬がいました。名を足往(アユキ)といいます。この犬は、牟士那(ムジナ)という名前の山の獣(シシ)を食い殺しました。それで獣(シシ)の腹に八尺瓊(ヤサカニ)の勾玉がありました。それで献上しました。この玉は、現在、石上神宮にあります。
神庫は保玖羅(ホクラ)と読みます。五十瓊敷命(イニシキノミコト)は言いました。 
あれから48年
前回の垂仁天皇(二十三)十箇の品部と石上神宮、物部首の始祖の記述が垂仁天皇即位39年で、今回は即位87年。つまり48年後です。そりゃ、年をとるわけです。
イニシキノミコトについて
五十瓊敷命(イニシキノミコト)は大足彥尊(オオタラシヒコノミコト)…つまり景行天皇の兄にあたります。景行天皇は父の垂仁天皇の死後に天皇につき、活躍することにはなるのですが、垂仁天皇が存命の時期に兄である五十瓊敷命(イニシキノミコト)が大活躍するというのは「?」です。
つまり景行天皇は決して「政争」で勝利して天皇になったのではなく、末子相続だから天皇になった、と考えるべきではないかと。だから兄がどれだけ活躍しても問題なかった。
いや、もしかすると天皇になるにはある条件があったんじゃないかと思うのです。天皇(スメラミコト)のスメラとは「清らか」という意味です。清らかとは具体的には「死穢」にまみれていないこと、つまり「死」に関わっていない、「戦争」に関わっていないこと、です。
垂仁天皇が皇太子になったのは夢の占いです。兄は「武力」を誇示する夢を見て、弟は「農業」を示唆する夢を見ました。それで弟の垂仁天皇が皇太子になりました。また五十瓊敷命(イニシキノミコト)も同様に「武力」を求め、弟の大足彥尊(オオタラシヒコノミコト)は武力を求めず皇位を求めました。それで大足彥尊(オオタラシヒコノミコト)が天皇になるわけです。
兄は武を弟は天皇を。そういう役割分担が風習としてあったのではないか?とも、思うのです。 
清彦と出石子刀
八十八年秋七月己酉朔戊午、詔群卿曰「朕聞、新羅王子天日槍、初來之時、將來寶物、今有但馬。元爲國人見貴、則爲神寶也。朕欲見其寶物。」卽日、遣使者、詔天日槍之曾孫C彥而令獻。於是、C彥被勅、乃自捧神寶而獻之、羽太玉一箇・足高玉一箇・鵜鹿鹿赤石玉一箇・日鏡一面・熊神籬一具。唯有小刀一、名曰出石、則C彥忽以爲非獻刀子、仍匿袍中而自佩之。天皇、未知匿小刀之情、欲寵C彥而召之賜酒於御所。時、刀子從袍中出而顯之、天皇見之、親問C彥曰「爾袍中刀子者、何刀子也。」爰C彥、知不得匿刀子而呈言「所獻神寶之類也。」則天皇謂C彥曰「其神寶之、豈得離類乎。」乃出而獻焉。皆藏於神府。 
即位88年秋7月10日。群卿(マヘツキミタチ)に垂仁天皇は言いました。
「わたしが聞くに新羅の王子(セシ)の天日槍(アメノヒボコ)は初めて(日本に)来たときに持って来た宝物は、今、但馬(タヂマ)に有ります。始め、国人(クニビト=土地の人)に尊ばれて、神宝(カムダカラ)となった。わたしはその宝物(タカラ)を見たい」
その日のうちに使者を派遣して、天日槍のひ孫の清彦(キヨヒコ)に命じて、献上させました。清彦は天皇の名を受けて、自らすぐに神宝を捧げ、献上しました。
羽太玉(ハフトノタマ)を一つ。足高玉(アシタカノタマ)を一つ。鵜鹿鹿赤石玉(ウカカノアカシノタマ)を一つ。日鏡(ヒノカガミ)を一面。熊神籬(クマノヒモロギ)を一具。あと、小刀が一つあります。名を出石(イヅシ)をいいます。
清彦(キヨホコ)はたちまち刀子(カタナ)は献上しないとものと思って、袍(コロモ)の中に隠して、帯刀していました。天皇は小刀を隠している状況を知らないでいて、清彦と寵(メグ…本来は可愛がるという意味だけど、多分、酌み交わそう的な意味かと)もうと思って、呼び寄せて酒を天皇のもとへと持って来させました。その時、刀子(カタナ)が袍(コロモ)が中に見えました。天皇はそれを見て、自ら清彦に問いました。「今、袍(コロモ)の中に見えた刀子(カタナ)は何をする刀子だ?」
ここで清彦は刀子を隠すことはできないと知って、言いました。「献上した神宝の類(タグイ)です」
天皇は清彦に言いました。「その神宝はどうして類(タグイ)から分けたのか?(=なぜ、その小刀は一緒に献上しなかった?)」
そこですぐに(清彦はその刀子を)出して献上しました。そして(その刀子を含めて神宝を)全部、神府(ミクラ)に蔵(クラ)めました。 
「垂仁天皇(五)羽太玉・足高玉・鵜鹿々赤石玉・出石小刀・出石桙・日鏡・熊神籬」で天日槍によって朝鮮から但馬国へとやってきた宝。天日槍のひ孫の清彦が、この垂仁天皇の時代に、但馬国に祀っていたその宝を「垂仁天皇」に献上する、というお話。
清彦は、献上するときに「出石小刀」を懐に隠しておきますが、それがバレてしまいます。で、問題はどうして、「隠したのか?」です。
理由は分かりません。天皇を暗殺しようと思ったのか。
それとも、単に「出石小刀だけは渡したくない!」という感情からでしょうか。結局この小刀は献上はするものの天皇の蔵から逃げ出してしまいます。それは次のページで。 
出石子刀は淡路島へ。天日槍は但馬に泊まる。
然後、開寶府而視之、小刀自失。則使問C彥曰「爾所獻刀子忽失矣。若至汝所乎。」C彥答曰「昨夕、刀子自然至於臣家。乃明旦失焉。」天皇則惶之、且更勿覓。是後、出石刀子、自然至于淡路嶋。其嶋人、謂神而爲刀子立祠、是於今所祠也。昔有一人乘艇而泊于但馬國、因問曰「汝何國人也。」對曰「新羅王子、名曰天日槍。」則留于但馬、娶其國前津耳(一云前津見、一云太耳)女、麻拕能烏、生但馬諸助。是C彥之祖父也。 
その後、宝府(ミクラ)を開いて見ると、小刀(カタナ)が忽然と無くなっていました。そこで清彦に問いました。「いま、献上した場所の刀子(カタナ)がたちまち無くなった。もしかしてお前のところにあるのか?」清彦は答えて言いました。「昨日の夕べ。刀子(カタナ)は自ずと臣(ヤッコ=部下)の家に着きました。だから今朝、消えたのです」天皇は子刀に霊威を感じて、再度、求めませんでした。
この後に、出石の刀子は自ずから淡路島に行きました。その嶋人(シマヒト)は神だと思って、刀子のための祠(ホコラ)を立てました。これが現在でも祀られています。
昔、ある人がいました。艇(オブネ)に乗って但馬国に泊まりました。それで(但馬国の人がその船に乗っている人に)問いました。「お前はどこの国の人だ?」答えていいました。「新羅の王(コキシ)の子で、名を天日槍(アメノヒボコ)といいます」但馬に留まって、その国の前津耳(マエツミミ)の娘の麻拕能烏(マタノオ)を娶って但馬諸助(タジマノモロスク)を生みました。これが清彦の祖父です。
ある伝によると前津見(マエツミ)、ある伝によると太耳(フトミミ)。 
前半と後半で全然話が違う
前半は清彦が献上した出石子刀が結局、蔵から逃げ出して淡路島へと行き、そこで神宝として崇められたという話で、後半は清彦の曽祖父の天日槍(アメノヒボコ)が但馬にやってきたお話。つまり時系列でいうと後半の方が古い話です。 
田道間守と非時香菓。天皇の崩御。
九十年春二月庚子朔、天皇命田道間守、遣常世國、令求非時香菓。(香菓、此云箇倶能未。)今謂橘是也。
九十九年秋七月戊午朔、天皇崩於纏向宮、時年百卌歲。冬十二月癸卯朔壬子、葬於菅原伏見陵。 
即位90年春2月1日。天皇は田道間守(タジマノモリ)を常世国(トコヨノクニ)へ派遣しました。非時香菓(トキジクノカクノミ)を探させました。
即位99年秋7月1日。天皇は纒向宮(マキムクノミヤ)で亡くなりました。そのとき140歳でした。冬12月10日に菅原伏見陵(スガワラノフシミノミササギ)に葬りました。
香菓は箇倶能未(カクノミ)と読みます。現在の橘(タチバナ=柑橘系の木)というのはコレです。
古事記の対応箇所 / ときじくのかくの木の実 / 多遅摩毛理は悲しみのあまり 
武蔵国には橘樹部がある。何か関係があるのかも。
ちなみに但馬は兵庫県の北部で、武蔵国は現在の東京・埼玉・神奈川にあたります。つまり、場所がぜんぜん違う。ただし、武蔵国には「三宅」「橘樹」という地名があり、三宅連と橘守は天日槍の子孫という記述が姓氏録にある。
カクノミ
カクノミは「嗅ぐ」「実」だと思われます。香りを楽しむ「実」を指していたのでしょう。ちなみにこの「カクノミ」が実際に現在の柑橘系の植物なのかはイマイチ分からない、とされます。
カクノミは田道間守が垂仁天皇に頼まれて常世の国から持ってきたとされます。常世の国ってのは「海の向こうの国」です。一番の近場は「朝鮮半島」ですが、どう考えてもここに「柑橘系」は無い。済州島に柑橘系植物のコウライタチバナはありますが、現在、そのコウライタチバナは日本では山口の萩市にしか存在せず、伝承から考えるとおかしい。また、日本に自生する「ヤマトタチバナ」は日本以外には無い。そういう理由から「タチバナって書いてるけど、現在の柑橘とは違うんじゃない?」という見解が生まれるわけです。
そもそも「但馬から見て海の向こうは朝鮮」というのも極端な話です。但馬から見れば、九州だって「海の向こう」ですし、沖縄、台湾だってそうでしょう。この「常世の国は朝鮮じゃないの?」という考えが皇国史観の反動なんじゃないかと思います。
また、その田道間守が天日槍、つまり、朝鮮新羅の王子の子孫ですから、ここでの「常世国」は朝鮮を指している!ということになりがちです。しかし、垂仁天皇の時代までには「任那」「新羅」と朝鮮の国がしっかりと登場しているわけで、今更、朝鮮を「常世の国」という神の領域に設定する意味が分からない。
ちなみに、タチバナという名前自体が「田道間」の「花」から来ているという説もあります。といっても古事記・日本書紀だったら、そのくらいの由来は書きそうなもので、「タジマの花」で「タチバナ」という説は推測の域を出そうにない。つまり結論は「よく分かんない」ってことです。
田道間守は三宅連の始祖
明年春三月辛未朔壬午、田道間守至自常世國、則齎物也、非時香菓八竿八縵焉。田道間守、於是、泣悲歎之曰「受命天朝、遠往絶域、萬里蹈浪、遙度弱水。是常世國、則神仙祕區、俗非所臻。是以、往來之間、自經十年、豈期、獨凌峻瀾、更向本土乎。然、頼聖帝之神靈、僅得還來。今天皇既崩、不得復命、臣雖生之、亦何益矣。」乃向天皇之陵、叫哭而自死之、群臣聞皆流淚也。田道間守、是三宅連之始祖也。 
垂仁天皇が亡くなって翌年の春3月12日。田道間守(タジマノモリ)は常世國(トコヨノクニ)に到着しました。求めていた非時香菓(トキジクノカクノミ)は八竿八縵(ヤホコヤカゲ…串団子のように連なり、干し柿を吊るしているように実がなっている)を持ち帰りました。
田道間守(タジマノモリ)が帰国すると垂仁天皇が亡くなっていました。ので泣き、悲歎(ナゲ)き言いました。
「命令を天朝(ミカド)から受け、遠くの絶域(ハルカナルクニ)に行きました。万里の波を越え、遥かに遠くの川を渡りました。この常世国は神仙(ヒジリ)の秘区(カクレタルクニ)です。俗(タダヒト)のいる所ではありませんでした。ここ(=日本)と常世の国を行き来する間に自然と10年経ちました。どうして一人で高い波を凌いで、また本土に帰ってこれると思っていましょうか(帰れると思っていなかった)。聖帝(ヒジリノミカド)の神霊(ミタマノフユ)のおかで、どうにか帰ってくることが出来ました。ところが今、天皇はすでに亡くなっていました。復命(=報告する)が出来ませんでした。臣(ヤッコ=部下=田道間守のこと)は生きているといっても、何の益があるでしょうか」
すぐに天皇の陵(ミササギ=墓)に向かい、叫び泣いて自殺しました。群卿(マヘツキミ)はそれを聞いて涙を流しました。田道間守(タジマノモリ)は三宅連の始祖です。
古事記の対応箇所 / 多遅摩毛理は悲しみのあまり 
以上で日本書紀の垂仁天皇は終了。
田道間守はどこへ
田道間守が行って帰った場所は朝鮮半島か?という話を前の訳ページで書きましたが、往復で10年かかるとなると「朝鮮」はさすがに無い。まぁ、朝鮮だったら、朝鮮て書きますよ。もう新羅も任那も登場しているんだしね。 
 
景行天皇 

 

皇太子即位と出自など
大足彥忍代別天皇、活目入彥五十狹茅天皇第三子也。母皇后曰日葉洲媛命、丹波道主王之女也。活目入彥五十狹茅天皇卅七年、立爲皇太子。時年廿一。九十九年春二月、活目入彥五十狹茅天皇崩。
元年秋七月己巳朔己卯、太子卽天皇位、因以改元。是年也、太歲辛未。 
大足彥忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト=景行天皇)は活目入彥五十狹茅天皇(イクメイリビコイサチノスメラミコト=垂仁天皇)の第三子です。母親は皇后の日葉洲媛命(ヒバスヒメ)といいます。丹波道主王(タンバノミチヌシノオオキミ)の娘です。活目入彥五十狹茅天皇(=垂仁天皇)の即位37年に皇太子として立ちました。そのとき21歳でした。即位99年春2月に活目入彥五十狹茅天皇は亡くなりました。
景行天皇即位元年秋7月11日。太子(ヒツギノミコ=皇太子)は天皇位を継ぎました。それで元を改めました。この年は太歲辛未です。 
垂仁天皇(十九)「お前たち、それぞれ欲しいものを言え」で「天皇位が欲しいです」と正直に言ったオオタラシヒコこと、のちの景行天皇が即位します。
垂仁天皇は最初の皇后のサホビメを兄サホビコの謀反で失い、その遺言から、丹波道主王から5人の妃を呼び寄せ、そのうちの一人を皇后としました。それがヒバスヒメでありその子の一人がオオタラシヒコです。ちなみに文中で「垂仁天皇の第三子」とあるうち、第一子はサホビメとの子の「譽津別命(ホムツワケノミコト)」。第二子は日葉酢姫との子の「五十瓊敷入彥命(イニシキイリビコノミコト)」で、第三子が同じく日葉酢姫の子の「オオタラシヒコ」です。
元を改める
これは「元号」を定めた、という意味だと思われます。即位の年を「元年」とすることから。ただ他の天皇にはこういう記述が見られない。 
大碓と小碓の出産
二年春三月丙寅朔戊辰、立播磨稻日大郎姬一云、稻日稚郎姬。(郎姬、此云異羅菟)爲皇后。后生二男、第一曰大碓皇子、第二曰小碓尊。一書云、皇后生三男。其第三曰稚倭根子皇子。其大碓皇子・小碓尊、一日同胞而雙生、天皇異之則誥於碓、故因號其二王曰大碓・小碓也。是小碓尊、亦名日本童男(童男、此云烏具奈)、亦曰日本武尊、幼有雄略之氣、及壯容貌魁偉、身長一丈、力能扛鼎焉。 
景行天皇即位2年春3月3日。播磨稻日大郎姬(ハリマノイナビノオオイラツメ)は皇后になりました。ある伝によると稻日稚郎姬(イナビノワキイラツメ)といいます。皇后は二人の男の子を産みました。第一子は大碓皇子(オオウスノミコ)といいます。第二子は小碓尊(オウスノミコト)といいます。
ある書によると、皇后は三人の男の子を産みました。その第三子は稚倭根子皇子(ワカヤマトネコノミコ)といいます。
その大碓皇子と小碓尊は同じ日に同じ胞(エ=胎盤)に包まれて生まれた双子です。天皇は喜んで、臼に叫びました。注:出産と臼には大きな関係があったと考えられています。
それでその二人の男の子に大碓(オオウス)と小碓(オウス)と名付けました。この小碓尊は又の名を日本童男(ヤマトオグナ)といいます。童男は烏具奈(オグナ)といいます。
または日本武尊(ヤマトタケルノミコト)といいます。幼いころから雄々しき性格でした。壮(オトコザカリ)になると容貌も魅力的になりました。
身長は一丈(ヒトツエ)で、力が強くて鼎(カナエ=重い器)を持ち上げることができました。
郎姬は異羅菟(イラツメ)と読みます。 
出産と臼
⚫︎栃木県足利には難産の時に妊婦の夫が臼を背負って家の周りを回る風習があった。
⚫︎伊豆三宅島では妊婦が臼にしがみついて出産する風習があった。
⚫︎アイヌには難産のときには臼をお腹に押し当てるという風習があった。
⚫︎愛知県南設楽郡千郷村では子供が生まれたら、その子供を臼に入れるという風習があった。
ここで景行天皇が「臼を背負って家の周りを回った」と考えるにはあまりに記述が少ないので、断定するのはちょっと。でも記紀関連の面白い話をまとめた本には、割と載ってる話なんでうすよね。
ハッキリ言えるのは「出産と臼」が関わっているということです。そう考えると、コノハナサクヤヒメの出産やサホビメの出産では「出産と火」が大きく関わっていました。これも古代の出産時の習俗を物語にした可能性があります。
つまり日本の神話って「出産習俗」をまとめてる色合いが強いんですよね。
1丈
1丈は3m。 
屋主忍男武雄心命と武内宿禰の出生
三年春二月庚寅朔、卜幸于紀伊國將祭祀群神祇、而不吉、乃車駕止之。遣屋主忍男武雄心命一云武猪心、令祭。爰屋主忍男武雄心命、詣之居于阿備柏原而祭祀神祇、仍住九年、則娶紀直遠祖菟道彥之女影媛、生武內宿禰。 
即位3年春2月1日。紀伊国に景行天皇は行きました。諸々の神祇(アマツヤシロクニツヤシロ)を祀ろうと占うと良くないとでました。すぐに車駕(ミユキ=行幸のこと=天皇が各地を巡ること)を止めました。
屋主忍男武雄心命(ヤヌシオシオタケオゴコロノミコト)を派遣して祀らせました。ある伝によると武猪心(タケイココロ)といいます。
屋主忍男武雄心命(ヤヌシオシオタケオゴコロノミコト)は詣でて阿備柏原(アビノカシハラ=地名)に住んで、神祇を祀りました。それでそこに9年ほど住みました。そのうち屋主忍男武雄心命は、紀直(キノアタイ)の遠い祖先の菟道彥(ウジヒコ)の娘の影媛(カゲヒメ)を娶って、武内宿禰(タケノウチノスクネ)が生まれました。 
天皇の行幸
どうも天皇はあちこちの土地に出向きます。これを「行幸」と言って、このとき天皇が移動することを「幸(イデマス)」という文字で表現します。
国見(クニミ)というのもセットになっています。山などに登って国を見下ろすことです。こういうことを考えても、天皇は代々「穀物神」であり、天皇が訪れた土地は「豊かに実る」という「実利(=幸せ)」があった(と考えていた)のではないかと思います。
ただ、そういう考えがあったのがいつからなのか?というと微妙なんですよね。というのも天皇はどうも「祀る」側なんです。祀られる側じゃない。明らかに祀られる側になったのはかなり後です。だから景行天皇の記述が、どこまで当時の感覚で書かれているのかはよく考える必要があるんじゃないか?という意見です。 
■弟媛は鯉の遊戯に誘われて
四年春二月甲寅朔甲子、天皇幸美濃。左右奏言之「茲國有佳人曰弟媛、容姿端正、八坂入彥皇子之女也。」天皇、欲得爲妃、幸弟媛之家。弟媛、聞乘輿車駕、則隱竹林。於是天皇、權令弟媛至而居于泳宮之(泳宮、此云區玖利能彌揶)、鯉魚浮池、朝夕臨視而戲遊。時弟媛、欲見其鯉魚遊而密來臨池、天皇則留而通之。爰弟媛以爲、夫婦之道古今達則也、然於吾而不便、則請天皇曰「妾、性不欲交接之道、今不勝皇命之威、暫納帷幕之中、然意所不快、亦形姿穢陋、久之不堪陪於掖庭。唯有妾姉、名曰八坂入媛、容姿麗美、志亦貞潔。宜納後宮。」 
即位4年春2月11日。天皇は美濃に行きました。左右(モトコ=側近)が言いました。「この国に佳人(カオヨキオミナ=美人)が居ます。弟媛(オトヒメ)といいます。容姿(カオ)は端正(キラギラ)しいです。八坂入彥皇子(ヤサカノイリビコノミコ=崇神天皇の息子)の娘です」天皇は(弟媛を)得て妃にしたいと思って、弟媛の家へと行きました。
弟媛は乘輿車駕(スメラミコトミユキ=天皇の移動のこと)したと聞いて、すぐに竹林に隠れました。天皇は弟媛が出てくるようにと、泳宮(ククリノミヤ)に滞在することにしました。
鯉魚(コイ)を池に浮(ハナ)って、朝夕に臨視(ミソナオ=見る)して遊びました。そのときに弟媛は鯉の遊びを見たいと思って、密かに来て、池を見ました。天皇はすぐに弟媛を引き止めて交わりました。
弟媛は思いました。…夫婦の道は古も今も交わるもの。しかし、わたしにはそれ(=交わり)が出来ない…そこで弟媛は天皇に言いました。
「わたしは性交接(ヒトトナリトツギ)の道を望んでいません。しかし天皇の意向に勝てず、しばらく帷幕の中(オオトノノウチ=天皇の寝床)に入りましたが、しかし心の快(ヨロコ)びのないことでした。わたしは形姿穢陋(カオカタナシ=不細工)です。長く掖庭(ウチツミヤ=天皇の後宮があるところ)に仕えるのは耐えられません。ただ、わたしには姉がいます。名を八坂入媛(ヤサカイリビメ)といいます。容姿麗美(カオヨシ=美人)です。志(ココロザシ=性格)は貞潔(イサギヨシ=やさしい)です。後宮に入れてください」
泳宮は區玖利能彌揶(ククリノミヤ)と読みます。 
弟媛は崇神天皇の子の八坂入彥皇子の娘。景行天皇は崇神天皇の孫ということは、どちらも崇神天皇の孫です。孫同士が結ばれるというわけです。
鯉で遊んでおびき出して、結ばれるのですが弟媛に「いやちょっと生理的に無理!」と拒絶され、姉を勧められます。それで姉を娶って子供をドッサリと生むのは次のページです。 
妃達とその皇子と皇女
天皇聽之、仍喚八坂入媛爲妃。生七男六女、第一曰稚足彥天皇、第二曰五百城入彥皇子、第三曰忍之別皇子、第四曰稚倭根子皇子、第五曰大酢別皇子、第六曰渟熨斗皇女、第七曰渟名城皇女、第八曰五百城入姬皇女、第九曰麛依姬皇女、第十曰五十狹城入彥皇子、第十一曰吉備兄彥皇子、第十二曰高城入姬皇女、第十三曰弟姬皇女。又妃三尾氏磐城別之妹水齒郎媛、生五百野皇女。次妃五十河媛、生神櫛皇子・稻背入彥皇子、其兄神櫛皇子、是讚岐國造之始祖也、弟稻背入彥皇子、是播磨別之始祖也。次妃阿倍氏木事之女高田媛、生武國凝別皇子、是伊豫國御村別之始祖也。次妃日向髮長大田根、生日向襲津彥皇子、是阿牟君之始祖也。次妃襲武媛、生國乳別皇子與國背別皇子一云宮道別皇子・豐戸別皇子、其兄國乳別皇子、是水沼別之始祖也、弟豐戸別皇子、是火國別之始祖也。 
天皇はこれを聞いて、八坂入媛(ヤサカイリビメ)を呼び寄せて妃にしました。八坂入媛は7人の男の子と6人の女の子を生みました。
第一子は稚足彥天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト=成務天皇) / 第二子は五百城入彥皇子(イホキイリビコノミコ) / 第三子は忍之別皇子(オシノワケノミコ) / 第四子は稚倭根子皇子(ワカヤマトネコノミコ) / 第五子は大酢別皇子(オオスワケノミコ) / 第六子は渟熨斗皇女(ヌノシノヒメミコ) / 第七子は渟名城皇女(ヌナキノヒメミコ) / 第八子は五百城入姬皇女(イホキイリビメノミコ) / 第九子は麛依姬皇女(カゴヨリヒメノヒメミコ) / 第十子は五十狹城入彥皇子(イサキイリビコノミコ) / 第十一子は吉備兄彥皇子(キビノエヒコノミコ) / 第十二子は高城入姬皇女(タカキイリビメノヒメミコ) / 第十三子は弟姬皇女(オトヒメノヒメミコ)
別の妃の三尾氏磐城別(ミオノウジノイワキワケ)の妹の水齒郎媛(ミズハノイラツメ)は五百野皇女(イホノヒメミコ)を生みました。
次の妃の五十河媛(イカワヒメ)は神櫛皇子(カムクシノミコ)・稻背入彥皇子(イナセノイリビコノミコ)を生みました。
兄の神櫛皇子(カムクシノミコ)は讚岐國造(サヌキノクニノミヤツコ)の始祖です。弟の稻背入彥皇子(イナセノイリビコノミコ)は播磨別(ハリマノワケ)の始祖です。
次の妃の阿倍氏木事(アベノウジノコゴト)の娘の高田媛(タカタヒメ)は武國凝別皇子(タケクニコリワケノミコ)を生みました。伊豫國(イヨノクニ)の御村別(ミムラノワケ)の始祖です。
次の妃の日向髮長大田根(ヒムカノカミナガオオタネ)は日向襲津彥皇子(ヒムカノソツビコノミコ)を生みました。阿牟君(アムノキミ)の始祖です。
次の妃の襲武媛(ソノタケヒメ)は國乳別皇子(クニチワケノミコ)と國背別皇子(クニソワケノミコ)[ある伝では宮道別皇子(ミヤジワケノミコ)といいます]と豐戸別皇子(トヨトワケノミコ)を生みました。兄の國乳別皇子(クニチワケノミコ)は水沼別(ミズマノワケ)の始祖です。弟の豐戸別皇子(トヨトワケノミコ)は火國別(ヒノクニノワケ)の始祖です。 
80人の子供、兄遠子と弟遠子と大碓命
夫天皇之男女、前後幷八十子。然除日本武尊・稚足彥天皇・五百城入彥皇子外、七十餘子、皆封國郡、各如其國。故、當今時謂諸國之別者、卽其別王之苗裔焉。是月、天皇、聞美濃國造名神骨之女、兄名兄遠子・弟名弟遠子、並有國色、則遣大碓命、使察其婦女之容姿。時大碓命、便密通而不復命。由是、恨大碓命。冬十一月庚辰朔、乘輿自美濃還。則更都於纏向、是謂日代宮。 
これら天皇の子供達は全てあわせて80人になります。しかし日本武尊(ヤマトタケルノミコト)・稚足彥天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)・五百城入彥皇子(イホキイリビコノミコ)以外の70あまりの子供達は皆、国群の国造・和気・稲置・県主などに任じて、それぞれの国へと行かせました。それで現在の世で国々の「別(ワケ)」という名はつまり「別王(ワケノミコ)」の末裔です。
この月のこと(景行天皇即位4年の2月)。美濃国造の神骨(カムボネ)という名の人物に姉の名は兄遠子(エトオコ)、妹の名は弟遠子(オトトオコ)という姉妹がいました。二人ともが有国色(カオヨシ)と景行天皇は聞いて、その婦女の容姿を見たいを思いました。それで大碓命(オオウスノミコト)に景行天皇の代わりに密かに婦女のもとへと送ったのですが、報告もしませんでした。景行天皇はこれで大碓命を恨みました。
冬11月1日。乘輿(スメラミコト=天皇が乗る乗り物の尊称)は美濃へと帰りました。また纒向(マキムク)に都を作りました。これを日代宮(ヒシロノミヤ)といいます。 
すごい子供の数
子供の数は80人。ビッグダディもびっくり。景行天皇の時代にこれだけの子供を作ったことが大和朝廷の礎になったんじゃないか?と思うほど。
「ワケ」というのは、ここでは「子供に土地を分ける」的なニュアンスで書かれている(そうとも取れなくもない)のですが、それが本当かどうかは微妙。
ワケは後世の言葉という説もあって、上記の挿話は後付けとも言われますが、「ワケ」はアメノイワトワケ神・カモワケイカヅチ神・オオトヒワケ神・タケヨリワケ神などなど挙げればきりがないほどに「神の名前」につけられているので、意味はともかく、漠然とした「尊称」と考えるべきかと思われます。
オオウスが!
大碓(オオウス)が美女姉妹を父親である景行天皇から横取りしていしまいます。古事記の方が分かりやすく書いてあります。 
熊襲が朝貢をしない
十二年秋七月、熊襲反之不朝貢。八月乙未朔己酉、幸筑紫。九月甲子朔戊辰、到周芳娑麼。時天皇南望之、詔群卿曰「於南方烟氣多起、必賊將在。」則留之、先遣多臣祖武諸木・國前臣祖菟名手・物部君祖夏花、令察其狀。 
即位12年秋7月。熊襲(クマソ)が反抗して、朝貢をしませんでした。
8月15日。景行天皇は筑紫に出発しました。
9月5日。周芳(スワノクニ)の娑麼(サバ=周防国佐波郡=山口県防府市佐波)に到着しました。そのとき天皇は南を見て、群卿(マヘツノキミタチ)に言いました。
「南の方に烟氣(ケブリ=煙)がたくさん立っている。必ず賊(アタ)がいる」
そこにとどまり、まず多臣(オオノオミ)の祖の武諸木(タケモノロキ)・國前臣(クニサキノオミ)の祖の菟名手(ウナテ)・物部君(モノノベノキミ)の祖の夏花(ナツハナ)を派遣して、その状況を偵察させました。 
朝貢
大和朝廷は崇神天皇の時代に四道将軍を派遣して「領地」というか「勢力範囲」を広げました。だから出雲から野見宿禰(ノミノスクネ)といった人材を集めることが出来たんでしょう。景行天皇が「周防」に「行幸」しているということは、大和朝廷はこのとき山口の端までは「自国」という意識があったんじゃないか?と思います。
それに対して、熊襲が反して朝貢を断ったということは、熊襲は「大和朝廷」に属していない別国だったということです。
これから戦争が始まり、もちろん大和が勝利します。これは当然です。大和は崇神天皇の時代にすでに「戸籍」のようなものを設け、国民から「税」を徴収する体制を整えているのです。熊襲にそのような体制があったとは思えない。当時としては先進国と途上国が戦うようなものだったんじゃないかと思います。 
神夏磯媛と鼻垂・耳垂・麻剥・土折猪折
爰有女人、曰神夏磯媛、其徒衆甚多、一國之魁帥也。聆天皇之使者至、則拔磯津山之賢木、以上枝挂八握劒、中枝挂八咫鏡、下枝挂八尺瓊、亦素幡樹于船舳、參向而啓之曰「願無下兵。我之屬類、必不有違者、今將歸コ矣。唯有殘賊者、一曰鼻垂、妄假名號、山谷響聚、屯結於菟狹川上。二曰耳垂、殘賊貧婪、屢略人民、是居於御木(木、此云開)川上。三曰麻剥、潛聚徒黨、居於高羽川上。四曰土折猪折、隱住於緑野川上、獨恃山川之險、以多掠人民。是四人也、其所據並要害之地、故各領眷屬、爲一處之長也。皆曰『不從皇命。』願急擊之。勿失。」於是、武諸木等、先誘麻剥之徒。仍賜赤衣・褌及種々奇物、兼令ヒ不服之三人。乃率己衆而參來、悉捕誅之。天皇遂幸筑紫、到豐前國長峽縣、興行宮而居、故號其處曰京也。 
そこには女がいました。名前を神夏磯媛(カムナツソヒメ)といいます。その徒衆(ヤカラ=部下)が多くいました。一国の魁帥(ヒトゴノカミ=首領)です。天皇の使者が来たと聞いて、すぐに磯津山(シツノヤマ)の賢木(サカキ)を取って、上の枝には八握劒(ヤツカノツルギ)を掛け、中段の枝には八咫鏡を掛け、下の枝には八尺瓊(ヤサカニ)を掛け、また素幡(シロハタ=白旗)を船の舳(ヘ)に立てて、(使者に)参り出て言いました。
「お願いですから、兵を下げてください。わたしと属類(トモガラ=同種=仲間)は背きたいと思っているものはおりません。すぐに従いたい。ただ悪い賊者(ヤッコ)がいます。一人は鼻垂(ハナタリ)といいます。みだりに名号(ナ)を詐称して、山谷に騒がしく集まって、菟狹(ウサ)の川上にいます。二人目は耳垂(ミミタリ)といいます。倉庫の蓄えを奪い、貪り食い、しばしば人民をさらいます。これは御木(ミケ=豊前国上毛郡・下毛郡)の川上にいます。三人目は麻剥(アサハギ)といいます。密かに徒党を集めて、高羽(タカハ=豊前国田河郡)の川上にいます。四人目は土折猪折(ツチオチイオリ)といいます。緑野(ミドリノ)の川上に隠れて、一人で山川の険しいところで人民をさらいます。この四人はその拠点が要所になっています。それぞれに眷属(ヤカラ=同族)によってその土地の長となっています。全員が『天皇の命には従わない』といっています。お願いですから、速やかに討伐してください」
そこで武諸木(タケモロキ)たちは、まず麻剥(アサハギ)の徒(トモガラ)を誘い出しました。そして赤い服や袴や種々の珍しいものを与えて、従わない3人を呼び寄せました。すると自ら仲間を率いてやってきました。それを全員とらえて誅殺しました。天皇はそれでついに筑紫に行き、豊前国(トヨノクニノミチノクチノクニ)の長狹県(ナガサノアガタ)に到着し、行宮(カリミヤ=旅先の仮の宮)を立ててそこに滞在しました。それで、その土地を「京(ミヤコ=福岡県京都郡)」といいます。
木は開(ケ)と読みます。 
熊襲の女ボス!神夏磯媛
神夏磯媛(カムナツソヒメ)は女ながら、熊襲たちのリーダーです。女がリーダー!というのは、邪馬台国の卑弥呼など色々と連想しますが、どうやら日本は女系集団がたくさんあったようです。女系というのは集団の首領の権限を母から娘へと移動していく集団です。
記紀には皇室に嫁いだ娘には、その出自(両親の名前)が描かれます。その中には明らかに「女性名」しか書かれていない人物がいます。これは「女ボス」の集団がいたという証拠です。
ハナタリ・ミミタリ
鼻が鷲鼻になっているのか?それとも鼻水を垂らしているのか?そういうのはよく分かりません。
ツチオリイオリ
ツチオリイオリで「土」オリ「居」オリという意味ではないか?と思われる。土の上に座るという意味で、土の上に座るということは卑しいという意味ではないか??
あいかわらずやり方がエグい
やっかいな乱暴者の一人の「アサハギ」に、珍しいものを与えて、他の三人を呼び寄せ、四人を一網打尽。賢いといえば賢い。赤い服や袴を渡すのは「赤」が聖なる色だったからです。
地名説話
「ミヤコ」という名前は景行天皇が宮を作ったから。というお話です。解説本には「ミヤコ」という地名がまずあって、後からのこじつけ、ということがよく書いてありますが、どうでしょうかね。
当然、熊襲も「京」を作っていたのでしょうから、「ミヤコ」が以前から地名として存在したというのはあり得るんですよね。だとすると、熊襲の言語と大和の言語は「ほぼ同じ」ということになります。まぁ、これは同じか。
ただ神武天皇はそもそも日向出身の(自然に考えるならば)隼人です。この九州に「ミヤコ」を移動させようと考えたとしてもおかしくない。日本は九州から文化が入ってくるのですから、大和はどう考えても「ど田舎」です。そのど田舎の大和が儒教と最新国家体制を整えて、九州に凱旋。錦を飾るというべき、ものかもしれないです。 
鼠の石窟
冬十月、到碩田國。其地形廣大亦麗、因名碩田也。(碩田、此云於保岐陀。)到速見邑、有女人、曰速津媛、爲一處之長。其聞天皇車駕而自奉迎之諮言「茲山有大石窟、曰鼠石窟、有二土蜘蛛、住其石窟。一曰、二曰白。又於直入縣禰疑野、有三土蜘蛛、一曰打猨、二曰八田、三曰國摩侶。是五人、並其爲人强力、亦衆類多之、皆曰『不從皇命。』若强喚者、興兵距焉。」天皇惡之、不得進行、卽留于來田見邑、權興宮室而居之。 
冬10月。碩田國(オオキタノクニ=現在の大分県)に到着しました。その国は地形が広くて大きくて、また美しいものでした。それで碩田(オオキタ=大きい田)と名付けました。
速見邑(ハヤミムラ=豊後国速見郡=大分県速見郡・別府市・杵築市)に到着しました。すると女がいました。名前を速津媛(ハヤツヒメ)といいます。長(ヒトゴノカミ=首領)です。彼女は天皇が来ていると聞いて、自ら迎えに来て言いました。
「この山に大きな石窟(イワヤ)があります。鼠(ネズミ)の石窟(イワヤ)といいます。二つの土蜘蛛がいて、そこに住んでいます。土蜘蛛の一つは青といいます。もうひとつは白といいます。また、直入県(ナオイリノアガタ)の禰疑野(ネギノ=地名=大分県竹田市菅生?)に三つの土蜘蛛がいます。一つ目は打猨(ウチサル)といいます。二つ目は八田(ヤタ)といいます。三つ目は國摩侶(クニマロ)といいます。この5人は普通の人よりも力が強くて、また衆類(トモガラ=仲間)が多い。全員が『天皇の命には従わない』と言っています。もしも、無理に呼び寄せるならば、兵を起こして反抗するでしょう」
天皇は「ヤダなぁ」だと思い、進めなくなりました。來田見邑(クタミノムラ=大分県直入郡久住町・直入町など)に留まり、宮室(ミヤ)を立てて、そこに滞在しました。
碩田は於保岐陀(オオキタ)と読みます。 
海石榴の椎
仍與群臣議之曰「今多動兵衆、以討土蜘蛛。若其畏我兵勢、將隱山野、必爲後愁。」則採海石榴樹、作椎爲兵。因簡猛卒、授兵椎、以穿山排草、襲石室土蜘蛛而破于稻葉川上、悉殺其黨、血流至踝。故、時人其作海石榴椎之處曰海石榴市、亦血流之處曰血田也。復將討打猨、侄度禰疑山。時賊虜之矢、横自山射之、流於官軍前如雨。天皇、更返城原而卜於水上、便勒兵、先擊八田於禰疑野而破。爰打猨謂不可勝而請服、然不聽矣、皆自投澗谷而死之。 
天皇は群臣(マヘツノキミタチ)と話し合い、言いました。
「今、大勢の兵を動かして、土蜘蛛を討とうと思う。もし土蜘蛛が我らの兵(ツワモノ)の勢いを恐れて山野に隠れたら、必ず後に憂いとなるだろう」
すぐに海石榴樹(ツバキノキ)を採って、それを椎(ツチ=槌=工具)を作って兵(ツワモノ=武器)を作りました。それで勇猛な卒(イクサ=兵士)を選んで、兵(ツワモノ)の椎(ツチ)を授けて、山を穿(ウガ=掘る)ち、草をはらって、石室(イワムロ)の土蜘蛛を襲って、稲葉(イナバ=大分県・熊本県の大野川の上流の飛田川のこと)の川上で破り、すべての党(トモガラ)を殺しました。その血が流れて、踝(ツブナキ=足のくるぶしのこと)にまで達しました。その時の人は、その海石榴(ツバキ)の椎(ツチ)をつくった所を海石榴市(ツバキチ)と言いました。また血の流れたところを血田(チタ)といいました。
打猿(ウチサル)を討とうとして禰疑山(ネギノヤマ)を通りました。そのときに賊虜(アタ=敵族)の矢が横から山へと飛んできました。官軍(ミイクサ)の前に矢が流れてくる様子はまるで雨のようです。天皇は一旦、城原(キハラ)に返って、水上(カワノホトリ)で占いをしました。それですぐに兵を整えて、まず八田(ヤタ)を禰疑野(ネギノ)で討ち破りました。すると打猿(ウチサル)は勝てないと思い、「服(マツロ=服従)います」と言いました、しかし、天皇は聞き入れませんでした。それで(打猿の仲間たちは)皆、潤谷(タニ)に落ちて死にました。 
景行天皇といっても、群臣に命ずるのではなく、話し合って決めるあたり、やっぱり日本的。和・・・つまり、「みんなで決める」という大前提がここでも生きています。
しかし崇神天皇からは「儒教」の影響があるはず。儒教は「徳」がある人間が国を統治し、人の上に立つものです。つまり、上の人間は下に命令するものだし、下の意見を聞く必要はありません。なにせ上の人間は「徳があるから、上に立っている」のだからです。
そう考えると、日本は儒教の影響を受けながらも、日本的な世界観とその他の世界観をつぎはぎに構成しているということではないか?と思いますね。
ところでここ景行天皇の九州征伐で出てくるネギノヤマ・ネギノ・キハラといった地名はどこのあたりかはっきりしていません。 
蹈石と誓約
天皇、初將討賊、次于柏峽大野、其野有石、長六尺・廣三尺・厚一尺五寸。天皇祈之曰「朕得滅土蜘蛛者、將蹶茲石、如柏葉而舉焉。」因蹶之、則如柏上於大虛。故、號其石曰蹈石也。是時禱神、則志我神・直入物部神・直入中臣神三神矣。 
天皇は初めは、賊(アタ)を討とうとして、柏峡(カシワヲ=大分県直入郡萩町柏原?)の大野に留まりました。その野に石がありました。長さは6尺、広さは3尺、暑さは1尺5寸。天皇は誓約をしました。
「わたしが土蜘蛛を滅ぼすことができるのならば、まさにこの石を蹴っ飛ばしたら、柏の葉のように飛べ」
それで石を蹴っ飛ばしました。すると石は柏の葉のように大虚(オオゾラ)にあがりました。それでその石を「蹈石(ホミシ=踏み石)」といいます。この時に祈った髪は志我神(シガノカミ)、直入物部神(ナオリノモノノベノカミ)、直入中臣神(ナオリノナカトミノカミ)の三神です。 
熊襲八十梟帥の娘の市乾鹿文と市鹿文
十一月、到日向國、起行宮以居之、是謂高屋宮。十二月癸巳朔丁酉、議討熊襲。於是、天皇詔群卿曰「朕聞之、襲國有厚鹿文・迮鹿文者、是兩人熊襲之渠帥者也、衆類甚多。是謂熊襲八十梟帥、其鋒不可當焉、少興師則不堪滅賊、多動兵是百姓之害。何不假鋒刃之威、坐平其國。」時有一臣進曰「熊襲梟帥有二女、兄曰市乾鹿文(乾、此云賦)、弟曰市鹿文、容既端正、心且雄武。宜示重幣以ヒ納麾下。因以伺其消息、犯不意之處、則會不血刃、賊必自敗。」天皇詔「可也。」 
11月日向国(ヒムカノクニ)に到着して行宮(カリミヤ=旅先の仮の宮)を建てて留まりました。これを高屋宮(タカヤノミヤ)といいます。
12月5日。熊襲(クマソ)を討つことを話し合いました、そこで天皇は群卿(マヘツキミタチ=部下)に言いました。
「わたしは襲国(ソノクニ)に厚鹿文(アツカヤ)・迮鹿文(サカヤ)という者がいると聞いた。この二人は熊襲の渠帥者(イサオ=勇ましい人)だ。衆類(トモガラ=仲間・部下)は多い。これを熊襲八十梟帥(クマソノヤソタケル)と言う。その鉾(ツワモノ)には敵うものがいない。師(イクサ)を起こさないようにすれば賊(アタ)を滅ぼすことは難しい。たくさんの兵(ツワモノ)を動かせば、百姓(オオミタカラ)が害を受けることになる。どうしたら、鉾刃(ツワモノ)の威(イキオイ)を借りずに……(つまり戦わずに)この国を平定したいものだ」
すると一人の臣(マヘツキミ)が進み出ていいました。
「熊襲梟帥(クマソタケル)には二人の娘がいます。姉を市乾鹿文(イチフカヤ)といいます。妹は市鹿文(イチカヤ)といいます。容姿は美しく、心は雄々しいです。たくさんの幣(マヒナヒ=贈り物)を示して、麾下(オモト=幕下=幕は幕府と同じで出陣中の状態を表す言葉。よって戦争しているときの妃が入る場所のこと)に召し入れるべきです。それで、その消息(アルカタチ=熊襲梟師の居所)を聞いて、不意にそこを襲えば、刃を血濡らさずに賊(アタ)は自然と必ず破れるでしょう」
天皇は「良い案だ」と言いました。
乾は賦(フ)と読みます。 
汚いなぁ
わかりやすく言うと・・・熊襲の勇猛果敢なクマソタケルがあんまりに強いんで、まともにやったら勝てそうもない。どうしたらいいかと、群臣と話し合ったら、「クマソタケルの娘に貢物を見せて、妃にしましょう。それで隠れ場所を聞いて、奇襲をかけたら簡単に勝てますよ」と提案があって、天皇は「いいねぇ!」と言った。というところまで。
天皇の策略はなぜか?
わたしはこのサイトで現代語に訳している中で「日本神話はエグい策略が多い」と思っていましたが、どうもこれは誤解なんじゃないかと最近は思うようになりました。天皇は「スメラミコト」と読みます。このスメラというのは「清らか」という意味があります。よって天皇の天皇たる根拠の一つに「清らか」というのは大事なポイントであるはずです。そんな清らかな天皇が「人を殺す」ことはタブーだったのではないか?と思うのです。
普通の英雄は何かの「武勇伝」があるはずです。首をはねたとか一刀両断したとか、そういう血湧き肉躍る物語があるものです。ヤマトタケルにはそれがあります。ヤマトタケルは兄を引きちぎり、クマソタケルを殺し、イズモタケルを殺し、とその手は血にまみれています。しかしヤマトタケルはその武勇で大和朝廷に貢献したにもかかわらず、結局天皇にはなれませんでした。もう一つは中大兄皇子です。中大兄皇子は「自分の手で」蘇我入鹿を宮中で暗殺します(645年)。その後には天智天皇になるのですが、蘇我入鹿暗殺の23年後(668年)のことです。これだけの空白に対して、いろいろな説があるのですが、わたしはもしかすると「死の穢れ」が原因だったのではないか?と考えています。 
不孝をひどく憎み誅殺
於是、示幣欺其二女而納幕下。天皇則通市乾鹿文而陽寵、時市乾鹿文奏于天皇曰「無愁熊襲之不服。妾有良謀、卽令從一二兵於己。」而返家、以多設醇酒令飲己父、乃醉而寐之。市乾鹿文、密斷父弦、爰從兵一人進殺熊襲梟帥。天皇、則惡其不孝之甚而誅市乾鹿文、仍以弟市鹿文賜於火國造。 
それで幣(マヒナヒ=宝物)をその二人の娘に示してその二人の娘を欺いて幕下(オモト=戦争地での妃がいる場所・後宮)に迎え入れました。天皇はすぐに姉の市乾鹿文(イチフカヤ)を呼び寄せて偽って寵愛しました。その時に市乾鹿文(イチフカヤ)は天皇に言いました。
「熊襲が従わないことを愁(ウレ)わないでください。わたしめに良い策略があります。すぐに1、2人の兵(ツワモノ)をわたしに従わせてください」
それで市乾鹿文は家に帰って、非常に醇(カラ=辛い=アルコールが強い)い酒を用意して、自ら父に飲ませました。すぐに酔っ払って寝てしまいました。市乾鹿文は密かに父の弓の弦を切ってしまいました。ここに従えてきた兵の一人が進んできて熊襲梟師(クマソタケル)を殺してしまいました。
天皇はその不孝(オヤニシタガワヌコト)の酷い様子を憎み、市乾鹿文を誅殺してしまいました。それで妹の市鹿文(イチカヤ)は火国造(ヒノクニノミヤツコ)に与えました。 
価値観は儒教
二人の娘を騙して、味方に迎え入れ、そして父親を殺させました。すると、「父親殺し」という「不孝」を憎み、姉を殺してしまいます。妹は火国造に与えました。
どうも嘘をついて騙している天皇が、父親殺しの「不孝」を批判するのはどうも腑に落ちない人が多いのではないかと思います。問題は「不孝」です。
孝というのは儒教の考えです。儒教では「あなたがこの世に存在するのはなぜか?それは父親がいるからだ」という考えを持っています。父親が存在理由になるから父親を敬う必要があります。だから「父親殺し」は「不孝」です。絶対やっちゃダメなことなんです。自分の存在理由を自らが殺すことは非常に不道徳なわけです。
どうも崇神天皇から「儒教」の影響が垣間見えます。それ以前の神武天皇ではほとんど見られません。だから神武天皇の記述は「史実」かどうかはともかく、記述自体は実際に古いものではないかと思っています。
それはともかく。ほんとは母親じゃないか?
景行天皇が九州に来てからというもの、どうも「首領」は女というケースが多い。全部の土蜘蛛が「女首領」とは限りませんが、この市乾鹿文・市鹿文の姉妹の「父親」というのは史実ではなく、実際は母親だったんじゃないかと思います。だから妹の市鹿文は火国造を任じられたのでしょう。
御刀媛を妃に迎える
十三年夏五月、悉平襲國。因以居於高屋宮已六年也、於是其國有佳人、曰御刀媛(御刀、此云彌波迦志)、則召爲妃。生豐國別皇子、是日向國造之始祖也。 
即位13年夏5月。完全に襲國を平定しました。高屋宮(タカヤノミヤ)に居るようになってすでに6年です。その国に佳人(カオヨキオミナ)がいました。御刀媛(ミハカシヒメ)といいます。
すぐに呼び寄せて妃としました。豐國別皇子(トヨクニワケノミコ)を生みました。この皇子は日向国造(ヒムカノクニノミヤツコ)の始祖です。
御刀は彌波迦志(ミハカシ)といいます。 
精力旺盛が過ぎるぞ
景行天皇(二)大碓と小碓の出産・景行天皇(四)弟媛は鯉の遊戯に誘われて・景行天皇(五)妃達とその皇子と皇女・景行天皇(六)80人の子供、兄遠子と弟遠子と大碓命で見られるように景行天皇は実に子沢山。普通、双子が生まれた時点でいろいろと「大変だなぁ」と躊躇しそうなもんだけど。
それはともかく、今度は遠征先で美人を見つけて子供をもうけ、その子供はそのままその土地の名士となりました。すごいな。
御刀媛ってのは一体なんなんでしょうか。ちなみに古事記には「景行天皇の皇后と皇子」に、日向の美波迦斯毘売(ミハカシビメ)を娶って生んだ子供が豊国別王(トヨクニワケノミコ)です。という記述があります。
刀は「佩く(ハク)」ものです。佩くというのは現代語でいうと「帯刀する」みたいな。腰に差している状態をイメージすればいいかと。その「佩く」の名詞形が「ハカシ」です。御刀媛という漢字から考えて、「女剣士」というイメージしか私には湧きませんね。
景行天皇は熊襲で征伐をするうちに現地の美人女剣士と恋に落ちた……といったところでしょうか。景行天皇の九州征伐編になってから、女性が「女首領」というケースが多いことを考えると、女剣士というのはあながち間違ったことではなんじゃないかと思います。 
日向の地名説話と思邦歌
十七年春三月戊戌朔己酉、幸子湯縣、遊于丹裳小野、時東望之謂左右曰「是國也直向於日出方。」故號其國曰日向也。是日、陟野中大石、憶京都而歌之曰、
波辭枳豫辭和藝幣能伽多由區毛位多知區暮
夜摩苔波區珥能摩倍邏摩多々儺豆久阿烏伽枳夜摩許莽例屢夜摩苔之于屢破試
異能知能摩曾祁務比苔破多々瀰許莽幣愚利能夜摩能志邏伽之餓延塢于受珥左勢許能固
是謂思邦歌也。 
即位17年の春3月12日。子湯県(コユノアガタ=現在の宮崎県児湯郡・西都市)に行き、丹裳小野(ニモノオノ=地名だが未詳)で遊びました。そのときに東を望んで、左右(モトコノヒト=側にお付きの人)に言いました。「この国は真っ直ぐに日の出る方に向いている」それでその国を日向(ヒムカ)といいます。この日に野中(ノナカ=野っ原の)の大石(オオカシワ)に登って京都(ミヤコ=大和の首都のことで現在の京都ではない)を偲んで、歌を歌いました。
愛しきよし我家の方ゆ雲居立来も 倭は国のまほらま畳づく青垣 山籠れる倭し麗し 命の全けむ人は畳薦(タタミコモ)平群の山の 白樫が枝を髻華(ウズ)に挿せこの子
訳 / 愛しい我が家の方から、雲が立ちのぼってくるよ。倭は国の素晴らしく住みやすい所だ。連なり重なる山が青垣のように囲まれて、山に篭ってるみたいな大和は美しいよなぁ。命が完全なものよ…たたみこむ(連なり籠る…前の歌と掛かってる)平群の山の白樫の枝をかんざしとして頭にさせよ、この子よ。
この歌を思邦歌(クニシノビウタ)といいます。 
日向地名説話
太陽に向いているから、日向。という話は、一見すると納得できるようで、全然納得できないのではないかと思うのです。というのも、「いや、太陽に向いている向いてないは、見る人のさじ加減じゃない?」ってことだからです。お前が東を向けば、太陽に向くってだけでしょ?と言われると、まぁそうなんですが、ちょっと違います。
当時の「国」というのは山があって、川があって、その川から水を引いて水耕稲作をやっていたわけですから、「山→川→田→海」というのが国の方向になります。ハッキリとそう書いてあるわけじゃないですが、自然とそうなります。
歌に見える世界観
日本人は「山」が大事だと考えていました。まず山に雨が降って、その水が山の豊かな水流となります。これは日本の山が異常なほどに緑が多いためです。山に植物が多いからたくさんの水が蓄えられ、それが年間を通して一定した「川」となって流れます。だから水を大量に必要な「水耕稲作」が成立するわけです。
だから山に囲まれていることは豊かな国として必須でした。景行天皇が「山に篭ってるみたいに囲まれてる」と言うのは、いわば自慢です。「俺っちの国ってば山に囲まれてるんだぜ、エヘン」てなもんです。
山も大事ですが、日本人は「種子」を大事に思っていました。種子は一粒で秋には何十倍にも増えます。種子にはすごいエネルギーがこもっていると日本人は考えていました。その種子の象徴が「子供」です。子供は未発達な存在でも不確実な未来の可能性でもなく、大人が失ってしまった無限のエネルギーを持った特別な存在でした。
景行天皇の歌の「完全な命を持つもの」というのはおそらく、というか、間違いなく「子供」のことを指します。子供の髪に白樫の枝のかんざしを挿して讃えているのです。それだけ日本人にとって「子供」は特別に愛すべき存在なんです。だから、最後に「この子」と付くんです。
古事記では歌はヤマトタケルが
古事記ではヤマトタケルが死にそうになったときに、故郷を思って歌った歌が「思邦歌(クニシノビウタ)」です。なぜ父、景行天皇の歌とその子のヤマトタケルの歌がゴチャゴチャになっているんでしょうかね。 
諸縣君泉媛
十八年春三月、天皇將向京、以巡狩筑紫國。始到夷守、是時、於石瀬河邊人衆聚集、於是天皇遙望之、詔左右曰「其集者何人也、若賊乎。」乃遣兄夷守・弟夷守二人令覩。乃弟夷守、還來而諮之曰「諸縣君泉媛、依獻大御食而其族會之。」 
即位18年春3月に天皇は京(ミヤコ)に向かおうとして、筑紫国(ツクシノクニ)の巡狩(マグリミソナオ=天皇が諸国を巡って政治の実情を視察すること)しました。最初に夷守(ヒナモリ=地名・日向国夷守駅=現在の宮崎県小林市)に到着しました。この時に、石瀬河(イワセノカワ=小林市の岩瀬川)のほとりに人が集まっていました。そこで天皇はその様子を遠くから見て、左右(モトコヒト=側の人)に言いました。
「あの集まってる人はなんだ?もしかして賊(アタ)か?」
そこで兄夷守(エヒナモリ)と弟夷守(オトヒナモリ)の二人を派遣して視察させました。すぐに弟夷守(オトヒナモリ)が帰ってきて言いました。
「諸縣君(モロカタノキミ=諸県は地名)の泉媛(イズミヒメ)が大御食(オオミアエ)を奉ろうとしていて、その一族が集まっているようです」 
日本人は神様に「食事」を奉ります。食事といっても、「収穫物」ではありません。ちゃんとした料理です。おいしい料理を神に捧げるということは、おいしい料理を食べた神様が、「おいしいなぁ」と感動して、機嫌が良くなって、天変地異を起こさず、いい感じに季節が巡って収穫が増えるということです。だから単に料理ができるかどうかではなく、「おいしい」が大事です。それが現在の日本の「味のこだわり」の理由でもあるのだと思います。
これは推測ですが、料理が上手いことが「良い巫女」の条件だったのではないかと思うのです。当時は氏族が神を祀っていましたから、その娘である姫は「料理が上手いかどうか」がこの地域の発展を握っているのです。
そりゃ一族が集まって、ああでもない、こうでもないと騒いでいてもしょうがないでしょう。
諸県の君
諸県は日向の西部の地名で延喜式にも「諸県」という名前が観られます。また応神天皇のところにも「諸県」の名前があり、諸県の姫が妃に嫁いでいるところを見ると、大和朝廷にそれなりに影響力のあった部族だったと考えられます。雅楽に「諸県舞」とうのがあり、どうやらこの「諸県」の舞踊だったよう。ということは、登場回数は少なくとも文化的にも影響力があったよう。 
兄熊と弟熊、水嶋の崖の泉
夏四月壬戌朔甲子、到熊縣。其處有熊津彥者、兄弟二人。天皇、先使徵兄熊、則從使詣之。因徵弟熊、而不來、故遣兵誅之。壬申、自海路泊於葦北小嶋而進食、時召山部阿弭古之祖小左、令進冷水。適是時、嶋中無水、不知所爲、則仰之祈于天神地祗、忽寒泉從崖傍涌出、乃酌以獻焉。故號其嶋曰水嶋也、其泉猶今在水嶋崖也。 
夏4月3日に熊県(クマノアガタ=現在の熊本県球磨郡・人吉市)に到着しました。そこに熊津彦(クマツヒコ)という兄弟が二人いました。天皇はまずは兄熊(エクマ)を呼び寄せました。すぐに使者に従って、(天皇に)詣でました。次に弟熊(オトクマ)を呼び寄せました。しかし来ませんでした。そこで兵を派遣して誅殺しました。
11日。海路(ウミツジ)から葦北(アシキタ=肥後国葦北郡=現在の熊本県葦北郡・水俣市あたり)の小嶋に泊まって、食事をしました。
そのとき、山部阿弭古(ヤマベノアビコ)の祖先の小左(オヒダリ)を呼び寄せて、冷たい水を奉らせました。このとき、嶋の中に水がありませんでした。どうしようもなく、天神地祇を仰いで祈りました。すると寒泉(シミズ)が崖の傍から水が湧き出しました。すぐに汲んで献上しました。それでその島を「水嶋」といいます。その泉は今も、水嶋の崖に残っています。 
これまでのパターンと違う兄熊と弟熊
日本で熊というのは「神」と同源の言葉で、兄熊と弟熊は野蛮な原住民という意味とは限らないです。それはともかくとして。これまでの日本神話はともかく「兄は悪い」「弟は正しい」というロジックでした。それはおそらく日本人の古来からの風習が絡んでいます。一つは「末子相続」。もう一つは「幼さに霊威がある」というもの。それがここでは「兄が正しい」と逆のロジックになっています。
地名説話
山部阿弭古(ヤマベノアビコ)は山部というのは山を管轄する部署のことで、「アビコ」は「我孫」「吾孫」「吾彦」とも書く原始的な姓。姓は氏族の位。
この山部阿弭古の祖先の小左(オヒダリ)さんが、天皇に冷たい水を差し出そうするけども、島の泉が枯れていて、神に祈ったら湧いて出てくるというお話。それで水が湧いたから「水嶋」なんだよね、という地名説話です。 
八代県の豊村の不知火
五月壬辰朔、從葦北發船到火國。於是日沒也、夜冥不知著岸。遙視火光、天皇詔挾杪者曰「直指火處。」因指火往之、卽得著岸。天皇問其火光之處曰「何謂邑也。」國人對曰「是八代縣豐村。」亦尋其火「是誰人之火也。」然不得主、茲知非人火。故名其國曰火國也。 
5月1日。葦北(アシキタ)から発船(フナダチ=船で出発すること)して、火国(ヒノクニ)に到着しました。そこで日が暮れました。夜になり冥(クラク)なって岸に着きたいのですが、岸がどこにあるのかも分かりません。すると、遠くに火の光が見えました。天皇は挾杪者(カジトリ=舵取り)にいいました。
「まっすぐに火のところを目指せ」
それで火を目指していきました。すぐに岸にたどり着きました。天皇はその火の光る場所を問いました。「なんという邑(ムラ)だ?」
その国の人が答えました。「ここは八代県(ヤシロノアガタ)の豊村(トヨノムラ)です」
またその火のことを天皇は問いました。「これは誰の火だ?」しかし、火の主はいませんでした。それで、その火が人が起こした火ではないと知りました。そこでその国を火國(ヒノクニ)と名付けました。 
前回の「兄熊と弟熊、水嶋の崖の泉」で、11日。海路(ウミツジ)から葦北(アシキタ=肥後国葦北郡=現在の熊本県葦北郡・水俣市あたり)の小嶋に泊まって、食事をしました。
とあるので、その完全な続きです。今回もまた地名説話です。
熊本あたりのことを「火国」と呼ぶようになったのは、夜に船で移動していて全然見えないから困っていたら、明かりが見えて、そちらに向かっていくと岸にたどり着いた。その火は「人が起こした火」ではなく、霊的なものだった。だから「ヒノクニ」と名付けたよ、ってことです。
その一方で、ヒノクニは「肥国」とも書き、これは「土地が肥えている」からだ、という説や、火国でも、阿蘇山などの火山があるから火国なんだという説もあります。
もう一つの説話
肥後風土記逸文には崇神天皇のときに肥君などの肥国建国に関わったものたちが肥後国益城郡の土蜘蛛を討ち、八代郡白髪山で不知火を見て、それを天皇に伝えたところ、その国を「火の国」と命名されたというお話が残っています。
というと「火」が関わっていることは間違いない。ではなぜ「火」が「肥」になったのか? 
玉杵名邑の土蜘蛛津頰と阿蘇の地名説話
六月辛酉朔癸亥、自高來縣、渡玉杵名邑、時殺其處之土蜘蛛津頰焉。丙子、到阿蘇國、其國也郊原曠遠、不見人居、天皇曰「是國有人乎。」時有二神、曰阿蘇都彥・阿蘇都媛、忽化人以遊詣之曰「吾二人在、何無人耶。」故號其國曰阿蘇。 
6月3日。高来県(タカクノアガタ=現在の長崎県北高来郡・南高来郡・諫早市・島原市)から玉杵名邑(タマキナノムラ=現在の熊本県玉名郡・荒尾市・玉名市)に渡りました。その土地の土蜘蛛津頰(ツチグモツツラ)というのを殺しました。
6月16日。阿蘇国に到着しました。その国は郊原(ノ=野)は曠(ヒロ)く、遠くて、人の居(イエ)は見られませんでした。天皇は言いました。「この国に人はいないのだろうか?」そのときに二柱の神が現れました。阿蘇津彦と阿蘇都姫といいます。たちまち人になって(天皇の前に)詣でて言いました。「我々が二人います。どうして人がいないなどと」
それでその国を阿蘇国といいます。 
ツチグモツツラ
どうも土蜘蛛は体の各部に特徴があるというネーミングみたいで、この「ツツラ」の「ツラ」は顔の「面」のこととされ、顔が「とんがっている」か「長い」か何かかと思われます。
阿蘇の神と文化
阿蘇というと阿蘇山。阿蘇山にある神社の神がこの阿蘇津彦と阿蘇都媛とされます。アソはそもそも「火山」という意味があったとされ、浅間山の「アサマ」も同様。日本人は「強いもの」「恐ろしいもの」を奉ることで、沈静化しようとする性質があります。この二神は阿蘇山を鎮めるために神格化し祀ったものでしょう。
あと、日本の神は大抵「一対」つまり「2柱でセット」になっています。阿蘇の神も同様です。
それはつまり九州の阿蘇の文化とは大和の文化と近いものだったということです。まぁ、自然に考えれば九州の文化を持った「大和朝廷」が機内に国を立てて、10代以上かけて発展し、景行天皇時代についに凱旋したということでしょう。
「何無人耶」を「何ぞ人無けむ」の「何ぞ」は「アソ」と読んだとして、「阿蘇」の語源とする説もあるが、日本語としてはおかしい(らしい)。
詣でる
阿蘇の神が天皇の前に現れることを「詣」という字で表現しています。常識で考えると「人」が「神」に詣でるものなのですが、天皇がアマテラスからの皇統を継ぐ「神」であるという設定から、天皇が詣でられる側に描かれているためでしょう。 
御木国の地名説話
秋七月辛卯朔甲午、到筑紫後國御木、居於高田行宮。時有僵樹、長九百七十丈焉、百寮蹈其樹而往來。時人歌曰、
阿佐志毛能瀰概能佐烏麼志魔幣菟耆瀰伊和哆羅秀暮瀰開能佐烏麼志
爰天皇問之曰「是何樹也。」有一老夫曰「是樹者歷木也。嘗未僵之先、當朝日暉則隱杵嶋山、當夕日暉亦覆阿蘇山也。」天皇曰「是樹者神木、故是國宜號御木國。」 
秋7月4日。筑紫後国(ツクシノミチノシリノクニ)の御木(ミケ=福岡県三池郡・大牟田市)に到着し、高田行宮(タカタノカリミヤ)にいました。その時に倒れた木がありました。長さは970杖(ココノホツエアマリナナソツエ=1750m?)あります。百寮(ツカサツカサ=多くの役人)はその木を踏んで通っていました。その時の人は歌を詠んで言いました。
朝霜の御木のさ小橋 群臣い渡らすも御木のさ小橋
訳 / 朝霜が降りる中、聖なる木の橋がある。群臣が、渡っているよ。その聖なる木の橋をさ。
それで天皇は言いました。「これはなんの木だ?」一人の老夫(オキナ)がいて言いました。「この木はクヌギです。昔まだ、倒れていないときに、朝日の光が当たって、杵嶋山(キシマノヤマ=現在の佐賀県杵島郡・武雄市の標高342mの山)を隠しました。夕日の光に当たって、阿蘇山(アソノヤマ=熊本県の山・標高1592m)を隠しました」
天皇は言いました。「この木は神(アヤ)しき(=神聖な)木だ。この国を御木国(ミケノクニ)と呼べ」 

歌はどうやら宮廷の歌謡で、「毎日役人が橋を渡って仕えてる様子」を表しています。実際にこの神木を歌ったのかは分からない、というか無関係と思われます。
筑紫後国
ツクシノミチノシリと読みます。よく備前とか備中とか備後とか、豊前・豊後という「前・中・後」という地名を目にします。この前後というのは、「道」の前後という区分けです。では道ってのは何?ということになります。
崇神天皇の時代に四道将軍があちこちに領地拡大にと出向いているように、古代では「道」が土地と土地をつなぐ大事なものでした。そのうち、道でつながっている地域を「道」という区分で分けるようになりました。東海道・南海道・山陽道・山陰道などです。現在だと電車や交通道路の「道の名前」だと思いがちですが、あれはこれらの「道区分」に引っ掛けた名前です。つまり「道」ってのは、アメリカでいうところの「州」みたいなものです。県のさらに上のグループです。この唯一の名残が「北海道」です。
「道」というグループは「道」で繋がっているから「道」というグループでくくってあるんですね。焼き鳥を「1串・2串」と数えるのと一緒です。それで、その道(焼き鳥なら串)の機内側を「前(ミチノクチ)」といい、機内と反対側を「後(ミチノシリ)」と言いました。それがここでの「筑紫後国(ツクシノミチノシリノクニ)という長ったらしい名前の意味です。
御木国
ミケの「ミ」はオオヤマズミやアマテラスオオミカミの「御」と同じで本来は「神」という意味です。よって「神木国」と書いても同じ意味になるはずです。
史実かどうか?は問題ではない
実際に1700mの木が立っていたということはあり得ない。ここで本当か嘘かについて考えるのは意味がない。大事なのは「高い木を神格化する文化」が九州にあったということ。というのもこの地名説話は本来は天皇とは関係なかったはず。記紀編纂の時か、長い大和朝廷の時代の中で取り込まれたか、ともかく、そうして融和していった。
ただ、九州に「高い木を神格化する文化=大樹信仰」があったのだろうと。でないとこのような地名はつかない。
高い木を神格化したものというと「高木神(=タカミムスビ)」がある。高木神はどう考えても高天ヶ原の総元締めのような存在であることを考えると、ヤマトの文化の根幹は九州にあったと考えたほうがいいのではないかと。 
八女国の地名説話
丁酉、到八女縣。則越藤山、以南望粟岬、詔之曰「其山峯岫重疊、且美麗之甚。若神有其山乎。」時水沼縣主猨大海奏言「有女神、名曰八女津媛、常居山中。」故八女國之名、由此而起也。八月、到的邑而進食。是日、膳夫等遺盞、故時人號其忘盞處曰浮羽、今謂的者訛也。昔筑紫俗號盞日浮羽。 
7月7日。八女県(アメノアガタ=現在の福岡県八女郡・筑後市・八女市)に到着しました。南(ミナミノカタ)の粟岬(アワノミサキ=地名・未詳)を見ました。そして天皇は言いました。「その山は峯岫(ミネクキ)が重なっていて、麗しいことこの上ない。もしかしてその山に神がいるのか??」
すると水沼県主猿大海(ミヌマノアガタヌシサルオオミ)は言いました。「女神(ヒメカミ)がいます。名を八女津媛(ヤメツヒメ)といいます。常に山の中にいます」
八女国の名前はこれ(女神の名前)によります。 
女神と山
日本人は穀物神が山に住み、そこから春になると里にやってきて田畑に宿り、食物に神の霊威が注がれて生育し、収穫が終わると神は山に帰っていくというサイクルを繰り返すと考えていました。それで山の神は大抵「女神」です。
これは日本が農耕社会であり、子供を産む「女」が豊穣の象徴だったことが根底です。また女神はブサイクで、山に人間の女が入ることを嫌います。ブサイクだから女に嫉妬するからです。それで山には男しか入れないことになっています。
こういった世界観がやはり九州にもあったのでしょう。九州がむしろ本場だった。九州には農耕社会があり、世界観の根本があった。ところが景行天皇の時代に大和朝廷に干渉を受けるようになった。なぜか?崇神天皇以降、中国の政治制度と儒教を採用することでヤマトが発展したからです。 
的邑の地名説話
八月、到的邑而進食。是日、膳夫等遺盞、故時人號其忘盞處曰浮羽、今謂的者訛也。昔筑紫俗號盞日浮羽。 
8月に的邑(イクハノムラ=現在の福岡県浮羽郡)に到着して食事をしました。膳夫(カシワデ=食事を給仕する人)は盞(ウキ=酒杯)を忘れていってしまいました。それで、その時の人はその盞(ウキ)を忘れた場所を名づけて「浮羽(ウキハ)」といいます。現在、的(イクハ)というのは訛ったからです。昔の筑紫の俗人は盞(ウキ)を浮羽と名づけて呼んでいました。 
膳夫(カシワデ)が杯を置き忘れてしまって、それで杯の古代の名前である「盞(ウキ)」にちなんで、土地の名前が「浮羽(ウキハ)」になったというもの。杯のことを筑紫の人は「浮羽」とそもそも呼んでいたとも書いてあります。その浮羽が鈍って「イクハ」となった。という地名説話です。
しかし、景行天皇が関わる以前からこの土地はおそらく「ウキハ(もしくはイクハ)」という名前だったはずです。かといって、どうしてウキハなのかは分かりません。
もしも、景行天皇は無関係としても、この物語自体(酒杯が名前の由来という話)は本当で「杯」の「ウキ」が語源となっているのならば、この土地に陶工が居て、酒杯が有名だったと考えたほうが自然な感じが。地理上、朝鮮でも中国でも陶工がやって来てもなんらおかしくないです。
福岡県のうきは市は「一の瀬焼き」という陶芸が有名です。この一の瀬焼きは豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に連れてきた朝鮮人陶工によって始まったとされ、日本書紀の記述とは関係がありません。ですが、当然ながらこの土地(うきは市)は「陶芸をするに適した環境」だったということです。それは古代でも変わらなかったハズです。
そもそも古代からこの土地に陶芸があり、それが地名になったという可能性もあるんじゃないかと思うのです。 
斎宮・五百野皇女と武内宿禰の東国視察
十九年秋九月甲申朔癸卯、天皇至自日向。
廿年春二月辛巳朔甲申、遣五百野皇女、令祭天照大神。
廿五年秋七月庚辰朔壬午、遣武內宿禰、令察北陸及東方諸國之地形、且百姓之消息也。
廿七年春二月辛丑朔壬子、武內宿禰、自東國還之奏言「東夷之中、有日高見國、其國人男女、並椎結文身、爲人勇悍、是總曰蝦夷。亦土地沃壤而曠之、擊可取也。」秋八月、熊襲亦反之、侵邊境不止。 
即位19年の秋9月20日。天皇は日向(ヒムカ)から(大和へ)帰りました。
即位20年の春2月4日。五百野皇女(イホノノヒメミコ)を派遣して天照大神(アマテラスオオミカミ)を祀らせました。
即位25年の秋7月3日。武内宿禰(タケノウチノスクネ)を派遣して、北陸(クヌガノミチ)及び東方(アズマ)の諸国の地形(クニカタ)、また百姓(オオミタカラ)の消息(アルカタチ)を視察しました。
即位27年の春2月12日。武内宿禰は東国から帰ってきて報告しました。「東の夷(ヒナ)の中に日高見国(ヒタカミノクニ)があります。その国の人は男も女も髪を槌のような形に結い、体には文様(=刺青)があります。性格は勇ましく、怖いです。これらを蝦夷(エミシ)といいます。また、土地は肥えていて広いです。打ち倒して取るべきです」 
五百野皇女
イホノノヒメミコにアマテラスを祀らせています。母親は水歯郎媛(ミズハノイラツメ)です(参考:景行天皇(五)妃達とその皇子と皇女)。
「ミズハ」は「ミズハノメ」という神がいるように水の神を表しているのでしょう。稲穂の皇統である景行天皇と、水の神の水歯郎媛の間に生まれた子が五百野皇女(イホノノヒメミコ)。その彼女に太陽の神を祀らせる、というのは理にかなったものです。というか理にかないすぎで、創作っぽい。
蝦夷
髪を槌の形に結って、体には刺青……髪を槌の形に、というのは大和朝廷の人がやっていたという「美豆良(ミズラ)」と何が違うのか?多少でも違うのか?また体に刺青というのも、これは魏志倭人伝にあった「倭人」の特徴です。魏志倭人伝に描かれた倭人の「刺青」は魚に襲われないようにするための呪文ですが、それが蝦夷でも成人儀礼としてか、また呪術としてか残っていてもなんら不思議ではありません。
蝦夷はよく「縄文人」と言われます。実際そうだったんでしょう。その縄文人はどこから来たか?当然、九州です。わたしは蝦夷と九州にあった熊襲の文化はかなり似ていたんじゃないかと思います。もしくは同根の文化だったんでしょう。
大和朝廷は文字を手に入れ、古事記や日本書記という書物を残すことに成功した。そして蝦夷や熊襲の文化は、これらの書物の中でしか見られないものになってしまった。だから「蝦夷」=「熊襲」=野蛮、という蔑んだイメージだけが先行してしまう。だけど、実際は違っていたんじゃないか?というか違っていて当然。むしろ熊襲や蝦夷は、文化的に進んでいた。いや、もっと言うなら、熊襲や蝦夷の文化は大和と非常に似ていたんじゃないか?・・・または大和朝廷は熊襲や蝦夷の文化を吸収することで発展した。両者のよい文化を吸収して発展したのではないかと。立地から考えても決して無茶な話では無いと思うのです。 
美濃国の弟彦公
秋八月、熊襲亦反之、侵邊境不止。
冬十月丁酉朔己酉、遣日本武尊令擊熊襲、時年十六。於是日本武尊曰「吾、得善射者欲與行。其何處有善射者焉。」或者啓之曰「美濃國有善射者、曰弟彥公。」於是日本武尊、遣葛城人宮戸彥、喚弟彥公。故、弟彥公、便率石占横立及尾張田子之稻置・乳近之稻置而來、則從日本武尊而行之。 
秋8月。熊襲が反抗して辺境(メグリホトリ)に侵入するのが止まらなくなりました。
冬10月13日。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を派遣して熊襲を撃たせました。そのとき16歳。そこで日本武尊は言いました。「わたしは弓を射つのがうまい人を得て、一緒に行きたいと思っている。どこかに弓を射つのがうまい人はいないものか」
ある人が言いました。「美濃国(ミノノクニ)に弓を射るのがうまい人が居ます。弟彦公(オトヒコキミ)といいます」
そこで日本武尊は葛城(カヅラキ)の人の宮戸彦(ミヤトヒコ)を派遣して、弟彦公を呼び寄せました。弟彦公はついでに石占横立(イシウラノヨコタチ)と尾張の田子稻置(タゴノイナキ)・乳近稻置(チチカノイナキ)を連れてきました。すぐに日本武尊に従ってついて行きました。 
古事記には無い
ヤマトタケルは古事記にも登場しますが、部下を引き連れる記述はありませんでした。その代わり、ヤマトタケル(オウスノミコト)の双子の兄である「大碓命(オオウスノミコト)」との関係が描かれています。
美濃国の兄比売・弟比売が美人だと知った景行天皇は大碓命に命じて兄比売・弟比売を呼び寄せるのですが、この姉妹を大碓命も気に入って、別の姫を父である景行天皇に差し出して、姉妹は自分のものにしてしまいます。それで、関係が気まずくなったのですが、ある日、小碓命(=ヤマトタケル)は兄の大碓命をトイレから出たところで、捕まえて手足を引きちぎって殺してしまいます。
上記の話はおそらくハイヌウェレ神話を組み込んだものではないかと、思います。まぁ、それはともかく、ここでも「美濃国」というキーワードが登場しています。
美濃国がこの時代において強い影響力があったのではないか?とおもわれますが、ハッキリしません。
石占・田子・乳近
石占は三重県桑名市。田子は現在の名古屋市瑞穂区。乳近は未詳だけどのも、弟彦公は美濃で木曽川の上流にあたる。木曽川は桑名市を流れます。名古屋には熱田神宮があり、熱田神宮というと草薙剣がある。と、考えると、美濃・尾張などのこの地域には鉄から武器を作り、また兵士を供給する土台があったんじゃないかと思われます。
川上梟師の宴会と暗殺
十二月、到於熊襲國。因以、伺其消息及地形之嶮易。時、熊襲有魁帥者、名取石鹿文、亦曰川上梟帥、悉集親族而欲宴。於是日本武尊、解髮作童女姿、以密伺川上梟帥之宴時、仍佩劒裀裏、入於川上梟帥之宴室、居女人之中。川上梟帥、感其童女之容姿、則携手同席、舉坏令飲而戲弄。于時也更深、人闌、川上梟帥且被酒。於是日本武尊、抽裀中之劒、刺川上梟帥之胸。 
12月に熊襲国(クマソノクニ)に到着しました。それでその国の消息(アルカタチ=百姓や人民の様子・人口)や地形の様子を視察しました。そのときに熊襲梟師(クマソタケル=熊襲の強者)というべき人物がいました。名前を取石鹿文(トロシカヤ)といいます。または川上梟師(カワカミタケル)といいます。
(川上梟師は)すべての親族(ウガラヤカラ)を集めて宴会をしようとしていました。そこで日本武尊は髪を解いて、童女の姿と成って密かに川上梟師の宴会に参加しました。そして剣を裀(ミソ=敷物)の裏に隠しておきました。川上梟師が宴会の部屋に入って、女たちの中に混じりました。川上梟師はその童女の容姿を愛でて、すぐに手を取って同席して、杯を挙げて酒を飲みつつ、戯れて弄(マサグ)りました。それで夜は更けて、参加者もまばらになりました。川上梟師はまだ酒に酔っていました。それで日本武尊は敷物の裏に隠した剣を抜き出し、川上梟師の胸を刺しました。 
同様の物語が古事記にもあるが
相違点がいくつかあります。古事記ではヤマトタケルは叔母の倭姫からもらった女性の衣装を着て「女装」するのですが、日本書紀では叔母の倭姫のサポートはありません。
また古事記では「懐より剣を出し」とあるのに対して、日本書紀では「裀(=敷物)」に隠していて、それを抜き出したとあります。
あとは、古事記のクマソタケルが二人兄弟であるのに対して、日本書紀の川上梟師には「二人」という記述がないので、「一人」ということです。
日本の聖数字
日本の聖なる数字は「2」です。日本の神様は基本的に二人で一組になっています。この性質が様々な物語でも反映されています。
倭姫のサポート
だから古事記で描かれた倭姫の女装サポートは後付けでしょう。伊勢の斎宮の霊威を主張する意味もあったのでしょう。ただ、ヤマトタケルの九州征伐に際して実際に伊勢神宮の後押しがあったという意味かもしれません。まぁ、そういう意味だと考えたほうが自然ですね。
敷物について
古事記ではなぜ「敷物」について描かなかったか?山幸彦が海神の宮殿に行ったときに、良い敷物に自然と山幸彦が座ったのを見て、海神が「こいつは高貴なやつだ」と判断したクダリがあるんですね。古代には「敷物=高貴」という決まりがあったんじゃないかと。それで川上梟師の宴会に「敷物」があったことをあまり描きたくなかったのではないかと。
ではどうして日本書紀では「敷物」について描いたか?私はどうも日本書紀は「鎮魂」という大きな目的があったのではないか?と思っています。鎮魂のためにはできるだけ「嘘」は書かないようにした。その結果ではないか?と。神話部分に「一書」という形で異伝を残したのはそういう意図があったのではないかと思うっています。 
日本童男から日本武皇子へ
未及之死、川上梟帥叩頭曰「且待之、吾有所言。」時日本武尊、留劒待之、川上梟帥啓之曰「汝尊誰人也。」對曰「吾是大足彥天皇之子也、名曰本童男也。」川上梟帥亦啓之曰「吾是國中之强力者也、是以、當時諸人、不勝我之威力而無不從者。吾、多遇武力矣、未有若皇子者。是以、賤賊陋口以奉尊號、若聽乎。」曰「聽之。」卽啓曰「自今以後、號皇子應稱日本武皇子。」言訖乃通胸而殺之。故至于今、稱曰日本武尊、是其緣也。然後、遣弟彥等、悉斬其黨類、無餘噍。既而、從海路還倭、到吉備、以渡穴海。其處有惡神、則殺之。亦比至難波、殺柏濟之惡神。濟、此云和多利。 
(ヤマトタケルは川上梟師の胸を刺したが)それでも死なないでいた。川上梟師は頭を床に叩きつけて(=土下座して)言いました。「しばし、待ってください。わたしには言いたいことがあります」
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は剣を押しとどめて待ちました。
川上梟師はいいました。「あなたは誰ですか?」
日本武尊は答えて言いました。「わたしはあの大足彥天皇(オオタラシヒコノスメラミコト)の子、名を日本童男(ヤマトオグナ)という」
川上梟師はまた言いました。「わたしは、この国の中の強力者(チカラヒト)です。そのために諸々の人々はわたしの威力(チカラ)に勝てず、従わないものはいない。わたしは沢山の武力(チカラヒト=武人)に会ってきたが、いまだの皇子のような人には会ったことが無かった。だから、賤(イヤ)しい賊(ヤッコ)の陋(イヤ)しい口で尊号(ミナ=名前)を奉ろうではないか。もしも、それが許されるのであればっ!」
「許そう」
すぐに川上梟師は言いました。「これより以後、皇子を名付けよう!日本武皇子(ヤマトタケルノミコ)と名乗ってください!」
言葉が終わると、すぐに胸を貫通させて殺しました。それで現在でも日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と褒め讃えるのです。このお話はその由縁です。
このあとに弟彦(オトヒコ)達を派遣して、すべてのその党類(トモガラ=仲間=一族)を切らせました。残る者はありませんでした。
終わると海路から大和に帰りました。吉備に到着し穴海(広島県福山市の海)を渡りました。その場所に荒ぶる神がありましら。それを殺しました。また、難波に到着しました。難波に到着して、柏済(カシワノワタリ)の荒ぶる神を殺しました。
濟は和多利(ワタリ)と読みます。
古事記の対応箇所 / オウス命は名乗る / ヤマトタケルのクマソ征伐 
古事記には本来は出雲征伐の物語が
古事記にはイズモタケルを策略でやっつける物語が残っているのですが、このネタは崇神天皇の「崇神天皇(二十二)イズモノフルネ(日本書紀)」のところで使っているので、日本書紀ではヤマトタケルの物語としては登場しません。 
西国遠征の報告
廿八年春二月乙丑朔、日本武尊奏平熊襲之狀曰「臣頼天皇之神靈、以兵一舉、頓誅熊襲之魁帥者、悉平其國。是以、西洲既謐、百姓無事。唯、吉備穴濟神及難波柏濟神、皆有害心、以放毒氣、令苦路人、並爲禍害之藪。故、悉殺其惡神、並開水陸之徑。」天皇於是、美日本武之功而異愛。 
即位28年春2月1日。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は熊襲を平定した様子を天皇に報告して言いました。
「臣(ヤツカレ)であるわたしが天皇の神霊(ミタマノフユ)に加護によって、兵を挙げて熊襲の魁帥者(ヒトゴノカミ=首領のこと)を誅殺し、その国のすべてを平定しました。それで西洲(ニシノクニ=大和より西の国)はすでに静まりました。百姓は問題ありません。ただ、吉備の穴済(アナワタリ=広島県福山市の海)の神、および難波の柏済(カシワワタリ=大阪市淀川河口付近の船着場)の神が、害をなす心があり、悪い息を放って、道行く人を苦しめていました。また禍害(マガ)の藪(モト…山賊や強盗の隠れる場所)になっていました。それですべて悪しき神を殺し、ついで水陸(ミズクガ)道を開きました」
天皇は日本武(ヤマトタケル)の功績を褒めて、特に寵愛しました。 
ヤマトタケルの功績とは交通路の確保ではないか
景行天皇とその息子のヤマトタケルの西国遠征によって、九州に「領地が増えた」ような気がしますが、この文章を読むと、大和朝廷が広げたのは領地というよりは、大和と九州の「交通路」だったと思われます。
日本は古来から貿易が盛んでした。
盛ん、というか、貿易ってのは儲かるわけです。あるところでたくさん生産できる「モノ」があったとします。古代では北陸では「ヒスイ」が取れたわけです。でも、北陸だけで流通するなら、ヒスイの価値は低いんですよね。なにせ北陸ではヒスイが沢山取れるから珍しくないので。そこでヒスイを他の地域に売るようになった。すると、北陸に物々交換で「モノ」が集まるようになります。それで、豊かになる。特に珍しいものを産出する地域は潤ったはずです。
朝鮮半島なら鉄。日本は魏志倭人伝によると、いろんな物産があって、日本の生産物は珍重されたと書かれています。貿易は儲かる。そのためには「交通路」が大事だった。日本には穏やかな「瀬戸内海」があり、それを抜けると九州があった。この交通路を開くことが貿易には大事だった。それが、景行天皇とヤマトタケルの西国遠征による功績だったんでしょう。
そして、これからヤマトタケルは東国へと遠征をします。わたしは、大和という国は西国と東国を結ぶ「貿易立国」だったのではないかと思うのです。今で言うところのマレーシアのような。それはひっくり返すと、東国には西国に劣らない「文化」があった…可能性が高いということです。もしも、東国に「そこそこの大国」がなければ、ヤマトは貿易路の端っこなのです。どんなに頑張っても日本の中心には成れない、と思うのです。 
大碓皇子を美濃国に封じる
卌年夏六月、東夷多叛、邊境騷動。秋七月癸未朔戊戌、天皇詔群卿曰「今東國不安、暴神多起、亦蝦夷悉叛、屢略人民。遣誰人以平其亂。」群臣皆不知誰遣也。日本武尊奏言「臣則先勞西征、是役必大碓皇子之事矣。」時大碓皇子愕然之、逃隱草中。則遣使者召來、爰天皇責曰「汝不欲矣、豈强遣耶。何未對賊、以豫懼甚焉。」因此、遂封美濃、仍如封地、是身毛津君・守君、凡二族之始祖也。 
即位40年の夏6月。東の夷(ヒナ=異民族)がたくさん叛(ソム)いて、辺境(ホトリ)が騒がしく動きました。
秋7月16日。天皇は群卿(マヘツノキミタチ)に言いました。「今、東国安(アズマノクニ=関東地方)が平安ではなく、荒ぶる神がたくさんと居る。蝦夷は皆、叛いて、しばしば人民を奪う。誰を遣わして、その乱れを平定しようか」群臣は誰を派遣すればよいかとも解りませんでした。
すると日本武尊(ヤマトタケル)は言いました。「臣(ヤツカレ=自分)は西の国を征伐して、疲れております。この役(エダチ=役割とか仕事とか)は必ず大碓皇子(オオウスノミコ=日本武尊の兄)の仕事にしてください」
すると大碓皇子は怖気付いて、草の中に逃げ隠れました。すぐに使者を遣わせて、呼び寄せました。
天皇は大碓皇子を責めて言いました。「お前が望まないのに、どうして無理に派遣するだろうか。それにしてもどうして、まだ賊(アタ=敵)に対峙していないのに、敵の武力にひどく恐れるのかっ!」
それで遂に大碓皇子を美濃に封じました。大碓皇子はその土地(=美濃)へと行きました。大碓皇子は身毛津君(ムゲツキミ)・守君(モリノキミ)の二つの族の始祖です。
古事記の対応箇所 / オオウス命の系譜 
大碓皇子は古事記との相違
古事記では景行天皇から奪った「三野国(=美濃国)」の兄比売・弟比売との間に生まれた子孫が書かれています。
このページでは弟の小碓(オウス)…つまり日本武尊(ヤマトタケル)の活躍に追いやられて景行天皇の意思によって「美濃」に「封じられた」という描かれ方なんですが、美濃といえば「景行天皇(二十四)美濃国の弟彦公」で、日本武尊が九州へと熊襲征伐に行く前に「弓がうまい人材」を求めた土地です。
どー考えても、美濃は「大事な土地」なのです。この文章では大碓は美濃に「左遷」でもさせられたかのような印象を受けますが、そんなことはあり得ない。大碓は大和朝廷にとって大事な土地を任せられる人物だった、はずです。
この物語の中で異常なのは「日本武尊」です。「崇神天皇(二十一)相夢で皇太子を判断する(日本書紀)」「垂仁天皇(十九)「お前たち、それぞれ欲しいものを言え」」では兄弟のうち兄が戦争(武力)、弟が天皇(宗教)という住み分けを行っていたのに対して、兄の大碓が美濃という…おそらくは東国進出の要衝を任される「戦争(武力)」担当でありながら、弟の日本武尊も戦争(武力)担当という妙な関係にあります。そして日本武尊は道半ばで死亡、天皇にはなれない。ところが日本武尊の子が次の次の仲哀天皇になるのです。
もしかして大碓と小碓は「同一人物」だったんじゃないでしょうか?もしくは景行天皇と日本武尊は同一人物だったんじゃないでしょうか?ここいらへんの話はまた別のページに書こうと思っています。 
蝦夷の性質、日本武尊は神人
於是日本武尊、雄誥之曰「熊襲既平、未經幾年、今更東夷叛之。何日逮于大平矣。臣雖勞之、頓平其亂。」則天皇持斧鉞、以授日本武尊曰「朕聞、其東夷也、識性暴强、凌犯爲宗、村之無長、邑之勿首、各貪封堺、並相盜略。亦山有邪神、郊有姦鬼、遮衢塞俓、多令苦人。其東夷之中、蝦夷是尤强焉、男女交居、父子無別、冬則宿穴、夏則住樔、衣毛飲血、昆弟相疑、登山如飛禽、行草如走獸。承恩則忘、見怨必報、是以、箭藏頭髻、刀佩衣中。或聚黨類、而犯邊堺、或伺農桑、以略人民。擊則隱草、追則入山、故往古以來、未染王化。今朕察汝人也、身體長大、容姿端正、力能扛鼎、猛如雷電、所向無前、所攻必勝。卽知之、形則我子、實則神人。寔是、天愍朕不叡・且國不平、令經綸天業、不絶宗廟乎。亦是天下則汝天下也、是位則汝位也。願深謀遠慮、探姦伺變、示之以威、懷之以コ、不煩兵甲、自令臣隸。卽巧言而調暴神、振武以攘姦鬼。」 
それで日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は雄叫びして言いました。
「熊襲はすでに平定し、まだ幾ばくかの年も経っていないというのに、今また東の夷(ヒナ=異民族)が叛ました。いつの日にか平定いたしましょう。臣(ヤツカレ=部下である自分のこと)は(異民族を平定するのは)苦労といっても、ひたすらにその乱れを平定しましょう」
それで天皇はすぐに斧(オノ)・鉞(マサカリ)を持ち、日本武尊に授けて言いました。
「わたしが聞くところによると、その東の夷(ヒナ)は識性(タマシイ=心の性質)が荒々しく強い。殺人レイプは日常のこと。それぞれの封堺(サカイ=境界)を貪り合い、略奪しあう。村(フレ)には長がいない、邑(ムラ)には首(オビト)がいない。また、山に悪い神がいる。郊(ノラ=野)には姦しい鬼がいて、交叉路で遮って道を塞ぐ。たくさんの人が苦しんでいる。その東の夷(ヒナ)の中に蝦夷はとくに強い。男女は一緒に住み、父と子に別が無い。冬は穴に寝て、夏は巣に住む。毛皮を着て、血を飲み、兄弟で疑いあう。山に登ると飛ぶ鳥のよう。草原を行くと走る獣のよう。恩恵を受けても忘れてしまう。恨みは必ず復讐する。矢を頭髻(タキフサ=髪を束ねたもの)の中に隠し、刀を衣の中に帯刀する。あるときは党類(トモガラ)を集めて、辺境を犯す。あるときは農作業中をうかがって人民から略奪する。弓を射つと草に隠れる。追いかけると山に入る。古(いニシエ)から現在まで、王化(オモブケ)に従ったことがない(王や氏族の配下になったことが無い)。
今、わたしがお前を見ると、その人となりは、身長は高く大きく、容姿は端正。力が強くて鼎(カナエ=鉄の鍋の一種で重いものの代表)を持ち上げることもできる。勇猛さは雷電(イナツルビ)のよう。向かうところに敵無し。攻めれば必ず勝つ。だから分かった。形は我が子ではあるが、その実は神人なのだ。まことに天が、わたしが未熟で、国が乱れているのを悲しんで、天業(アマツヒツギ=天子の仕事、天皇の業務)を正しく成し、宗廟(クニイエ=天皇の家系)が絶えないようにとのことだろう。
この天下はお前の天下だ。この位(=天皇)はお前の位だ。願わくは深謀遠慮し、悪い心を探り、叛く意思をうかがって、時には武力を示して、懐(ナツ)くものには徳をもって対処し、兵甲(ツワモノ=武力=武器)を使わずとも自然と従わせるようにしろ。言葉を巧みに扱い、荒々しい神を鎮め、武を振るって悪い鬼を追い払え」 
興味深い話がたくさん
まず異民族とその中でも蝦夷のことが描かれています。蝦夷は古くは「毛人」と描かれているところから、「毛が多い」イメージがあったのでしょう。
それが蝦夷となったのは、蝦(エビ=海老)のように腰が曲がっているとか、なんとか言われますが、実際のところはよく分かっていません。しかし、蝦夷の性質を読むと、「エビ」という海の生物の名を当てるのはちょっと不自然ですよね。
父子の別なし
日本は当時すでに儒教の影響を受けていたので、「儒教の考えに反している性質」は否定的に描かれます。それが「父子に区別がない」というもの。儒教では父親は偉く、子は父を敬うのが礼儀ですから、これは儒教ではNG。そういう意味かと思われます。
斧と鉞
斧の大きいやつが「マサカリ」です。なぜこの二つを天皇が授けたのか?は、分かりません。「実際に渡した」のか、何かの「象徴」なのか・・・・・・斧と鉞はおそらくは「開墾」を意味しているのだろうと思います。なぜか?
東征以前に行われたヤマトタケルと景行天皇の九州遠征はおそらくは貿易航路の開拓と航路の安全を確保するものだったのでしょう。とすると東国も同様の意味があったのだろうと思います。しかし、東国遠征には別の理由もあった。それが「米作りの普及」です(九州では米作りがすでにあった)。
大和朝廷にとって米は大事なものでした。税金代わりに集めていた、というのもあるのでしょうが、最大は「通貨代わり」だったからです。実際に「米」でやり取りしたという意味ではなく、貿易をするときに「この商品は米でいったらこのくらいだね」という具合に、共通価値というものがあったほうが貿易がしやすかったから、ではないかと思うのです。
その米の作り方を普及する上で役割を担ったのが「神」だった。神は別に大和朝廷が押し付けたわけではなく、米作りさえ基盤にしていれば、地域の神でも良かった。その時に、地域の神を祀りつつ、地域と融合していったのが「中臣氏」だった。中臣氏は関東で鹿島神宮を担当し、タケミカヅチを祀りました。タケミカヅチが単なる地方の神で、中臣氏が古来から祀っていた神ではないのは、そういう理由からではないか?と思います。 
斧鉞を承り再拝し…
於是、日本武尊乃受斧鉞、以再拜奏之曰「嘗西征之年、頼皇靈之威、提三尺劒、擊熊襲國、未經浹辰、賊首伏罪。今亦頼神祗之靈借天皇之威、往臨其境示以コ教、猶有不服卽舉兵擊。」仍重再拜之。天皇、則命吉備武彥與大伴武日連、令從日本武尊。亦以七掬脛爲膳夫。 
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は斧・鉞(マサカリ)を受け取って、再拝(オガミ)して言いました。
「昔、西の方を征伐した年に、皇霊(ミタマ=天皇の霊)の威(フユ=威力)を借りて、三尺剣(ミジカキツルギ=短刀)をひっさげて、熊襲国(クマソノクニ)を撃ちました。未だ浹辰(イクバクノトキ)も経っていないうちに、賊首(ヒトゴノカミ=賊の首領)は罪に従いました(=罰を受けた)。今、また神祇の霊(ミタマノフユ)の力を借りて、天皇の威(イキオイ)を借りて、(東へ)行ってその境を見て、徳教(ウツクシビ=人徳)を示して接しても、いまだに従わないならば、すぐに兵を挙げて撃ちましょう」
重ねて再拝しました。天皇は吉備武彥(キビノタケヒコ)と大伴武日連(オオトモノタケヒノムラジ)に命じて、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)に従わせました。また七掬脛(ナナツカハギ)を膳夫(カシワデ)にしました。 
儒教の影響
ヤマトタケルが「徳」を示すことで従わなければ兵をあげると発言したのは、儒教の「徳治主義」の影響です。
吉備武彥
ヤマトタケルの九州遠征では美濃や尾張の氏族が関わったのに対して、今度は吉備です。東国との貿易によって利益を得る氏族の名前があるというのは、やはり東征には「交易路の開拓」が大きな目的だったのではないか?と。
大伴武日連
伴氏の祖先は道臣。日本書紀によると槇原に宅地を貰っています。かといってこの大伴武日連が槇原に住み続けているのかは分かりません。古事記には従軍の記述がありません。
大伴武日連は垂仁天皇のところでも名前だけ登場しています。つまり武日は先代の垂仁天皇の時代からの重鎮です。
七掬脛(ナナツカハギ)
ナナツカのツカは「長さ」で「ハギ」は防具のこと。よってナナツカハギで、長い防具のとなる。でも、ここでのナナツハギは当然、防具ではなく「人名」。そういう武人がいて、その人物を膳夫…つまり料理人として連れて行ったよ、ということです。
膳夫というのは料理人なんですが、戦争とも関わりがあります。神武天皇の東征で戦争勝利を願って飴を作ったように、美味しい料理を作るということは神が喜んで戦争に勝たせてくれるという考えがあったのでしょう。だから、武人と料理と戦争は繋がっているんです。 
東征の前に日本武尊は伊勢神宮へ
冬十月壬子朔癸丑、日本武尊發路之。戊午、抂道拜伊勢神宮、仍辭于倭姬命曰「今被天皇之命而東征將誅諸叛者、故辭之。」於是、倭姬命取草薙劒、授日本武尊曰「愼之。莫怠也。」 
冬10月2日。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は発路(ミチダチ)しました。10月7日。寄り道して伊勢神宮(イセノカミノミヤ)を参拝しました。それで倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に会って言いました。「今の天皇から命を受けて、東に行って諸々の叛くものを討つことになっています。だから之を辞したい」
それで倭姫命は草薙剣(クサナギノツルギ)を取って、日本武尊に授けて言いました。「慎みなさい。怠ってはいけません(油断してはいけません)」 
伊勢の力を借りる
古事記では「伊勢の倭姫」から衣装を借りて、女装して宴会に忍び込み、クマソタケルを殺害。日本書紀では倭姫から衣装を借りる描写はありませんでした。
転じて東征では古事記でも日本書紀でも伊勢神宮の倭姫のサポートがあります。これは大和朝廷と伊勢神宮が密接な関係にあったという意味でしょう。
伊勢は「神風の」という枕詞がつくように「海路」として発達したようです。おそらく伊勢は西国(=吉備と九州)と東国をつなぐ貿易都市だったのではないでしょうか。伊勢は主に東国向けの貿易都市だった。そして西向けの貿易都市が大阪(河内・泉)だった。その中間にあった大和が発展したのは当然でしょう。
故辭之
「だから之を辞める」とヤマトタケルは発言しています。文章から言えば、東征を辞めたいという意味に思えます。当時は東国はかなりヤバイ土地だったのではないでしょうか。 
焼津の地名説話と叢雲と草薙の剣
是歲、日本武尊初至駿河、其處賊陽從之欺曰「是野也、糜鹿甚多、氣如朝霧、足如茂林。臨而應狩。」日本武尊信其言、入野中而覓獸。賊有殺王之情王謂日本武尊也、放火燒其野。王、知被欺則以燧出火之、向燒而得免。一云、王所佩劒藂雲、自抽之、薙攘王之傍草。因是得免、故號其劒曰草薙也。藂雲、此云茂羅玖毛。王曰「殆被欺。」則悉焚其賊衆而滅之、故號其處曰燒津。 
その年、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は初めて駿河(現在の静岡県中部)に到着しました。その土地の賊(アタ=敵)は偽って従ったふりをして、欺いて言いました。
「この野原に大きな鹿が甚だ多いです。吐く息は朝霧のよう。足は茂った林のよう。(野に)行って狩りをしてはどうですか」
日本武尊はその言葉を信じて、野の中に入って覓獸(カリ=狩り…といっても漢字から考えるにウォッチングという意味かもしれない)をしました。賊(アタ)は王(ミコ=皇子)を殺そうという情(ココロ)があってその野に放火し焼きました。
王は騙されたと知って、すぐに火打ち石で火を起こして、迎え火で焼いて難を免れました。
ある書によると、王(ミコ)の佩(ハ)いた剣の叢雲(ムラクモ)が自然と抜けて、王の側の草を薙ぎ払った。それで難を免れた。よってその剣を「草薙」というようになった。
王は「完全に騙された」と言いました。すぐにすべてのその土地の賊衆(アタドモ)を焼いて滅しました。それでその土地を焼津(ヤキツ)ちいいます。
王(ミコ)とは日本武尊をいいます。
叢雲は茂羅玖毛(ムラクモ)と読みます。
古事記の対応箇所 / 焼津の火攻め 
火事の対応方法
江戸時代に「め組」とか火消しの人がたくさんいました。江戸は木造家屋がびっしりと立っていたから火事が多かったわけです。それで火消しの人が集まって、何をするのかというと、水をかけて火を消すこともしますが、それだけじゃ全然間に合わない。木と紙でできた家が密接に立っていてそこいらじゅうが燃えるものばっかりですから。そこで火消しの人は、何をするかというと、出荷した家の近くの家を引き倒すんです。それで、火事が燃え移らないようにする。それで「ここに火があるから、そっちの家を引き倒してくれよ」と目立つところで合図を送るために、派手な「纏(マトイ)」というお祭りの山車みたいなものを振り回すわけです。
江戸時代はそれが「防災システム」として機能し、しかも出火がよくあったことから「江戸の華」とまで言われるようになったわけです。
火をつけられたヤマトタケルでしたが、迎え火と草を刈ることで難を免れることができました……というのは史実か否かというよりは、古代の成人儀礼か、古代の消防活動を物語にしたものだと考えた方がいいでしょう。 
馳水の地名説話
亦進相摸、欲往上總、望海高言曰「是小海耳、可立跳渡。」乃至于海中、暴風忽起、王船漂蕩而不可渡。時、有從王之妾曰弟橘媛、穗積氏忍山宿禰之女也、啓王曰「今風起浪泌、王船欲沒、是必海神心也。願賤妾之身、贖王之命而入海。」言訖乃披瀾入之。暴風卽止、船得著岸。故時人號其海、曰馳水也。 
また、相模(サガム=神奈川県中西部)に進んで、上総(カミフサ=千葉県房総半島)に行こうとしていました。そのとき、海を見て、高挙げ(コトアゲ=言挙げ)して言いました。
「これは小さな海だ。立跳(タチオドリ=飛び上がること)で渡れるだろう」
すぐに海中(ワタナカ=海の沖の方)へと到着すると、暴風(アラキカゼ)がたちまち起き、王船(ミフネ)は漂い渡れませんでした。そのときに王に従う妾(オミナ)がいました。弟橘媛(オトタチバナヒメ)といいます。穂積氏忍山宿禰(ホヅミノウジノオシヤマノスクネ)の女(ムスメ)です。(弟橘媛が)王(=ヤマトタケル)に言いました。
「今、風邪が起き波が速くて、王船(ミフネ)が沈みそうになっています。これは必ず、海神(ワダツミ)の心(シワザ)です。願わくは賤(イヤ)しい妾(ヤッコ=私)の身を王の命に代えて海に入りましょう」
言葉が終わり、すぐに波を押し分けて入りました。暴風はすぐに泊まりました。船は岸に着きました。それでその時代の人はその海を馳水(ハシルミズ=現在の東京湾の浦賀水道)と呼んでいました。
古事記の対応箇所 / 弟橘比売命の入水 / 弟橘比売命の歌 
古事記との違い
海に入りたまはむとする時に、菅畳(スガタタミ)八重(ヤヘ)・皮畳(カハタタミ)八重(ヤヘ)・絁畳(キヌタタミ)八重(ヤヘ)を波の上に敷きて、その上に下りましき。
古事記ではかなり細かく「どうやって入水したか」が描かれています。海に身を捧げて、海神の怒りを鎮めるという行為が「儀式」としてあったのでしょう。
関係あるかどうかははっきりしませんが、魏志倭人伝には「航海の前に、一人の人間を小屋に閉じ込めておいて、無事に航海が終えれば褒美をやり、航海が失敗すれば殺される、という風習が倭にはある」と書かれていました。魏志倭人伝の記述は3世紀で、景行天皇の時代はおそらくは4世紀ですから、関係があってもおかしくありません。
パッと読んだ感じでは、手法は違っていても感覚はかなり近いと思います。 
竹水門への入港
爰日本武尊、則從上總轉、入陸奧國。時、大鏡懸於王船、從海路廻於葦浦、横渡玉浦、至蝦夷境。蝦夷賊首嶋津神・國津神等、屯於竹水門而欲距、然遙視王船、豫怖其威勢而心裏知之不可勝、悉捨弓矢、望拜之曰「仰視君容、秀於人倫、若神之乎。欲知姓名。」王對之曰「吾是現人神之子也。」於是、蝦夷等悉慄、則褰裳披浪、自扶王船而着岸。仍面縛服罪、故免其罪、因以、俘其首帥而令從身也。 
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)はすぐに上総(カミツフサ)から移動して、陸奥国(ミチノクノクニ=東北地方の東)に入りました。そのときに大きな鏡を王船に掛けて、海路(ウミツヂ)から葦浦(アシノウラ=千葉県?)を回りました。
玉浦(タマノウラ)の横を通って、蝦夷(エミシ)との境に到着しました。蝦夷の賊首(アタゴノカミ=首領)、嶋津神(シマツカミ)、国津神(クニツカミ)たちは竹水門(タケノミナト)に居て、(入港を)防ごうとしました。しかし遥かに王船を見て、(戦闘の前に)その威勢(イキオイ)に恐れをなして、心の中で勝てないであろうことを知り、皆、弓矢を捨てて、(天皇を見て)拝んで言いました。
「仰いで、君の容(ミカホ=姿)を煮ると、人倫(ヒト)に優れているとわかりました。まるで神のよう。姓名(ミナ)を教えて下さい」
王は答えました。「わたしは、現人神(アラヒトガミ)の子(ミコ)だ」
蝦夷たちは皆、かしこまりました。そしてすぐに裳(キモノ)を脱いで、波をかき分けて、王船を助けて着岸させました。面縛(ミズカラユワイ=両手を後ろにして顔を前に向けること=謝罪の動作)をして、服罪(シタガ)いました。
(ヤマトタケルは)その罪を許しました。その首師(ヒトゴノカミ)を俘(トリコ=俘囚)にして従身(=従者)としました。 
古事記との差
古事記が焼津の後には足柄山へ行って、その後甲斐(山梨県)の酒折神社、茨城県の新治・筑波と通っていることを考えると、この新治と筑波がこのページの「蝦夷の境」なのかもしれません。
⚫︎ヤマトタケルの時代(4世紀)には現在より海抜が高く、筑波は霞ヶ浦の近くにあり港だった。新治は内陸。
⚫︎ちなみに香取と鹿島は半島の向かい合わせにあった。つまりこの二つの神社が船の入港を管理できる立地だった。神社の狛犬のように見張っていたという言い方もできる。 
新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる
蝦夷既平、自日高見國還之、西南歷常陸、至甲斐國、居于酒折宮。時舉燭而進食、是夜、以歌之問侍者曰、
珥比麼利菟玖波塢須擬氐異玖用伽禰菟流
諸侍者不能答言。時有秉燭者、續王歌之末而歌曰、
伽餓奈倍氐用珥波虛々能用比珥波苔塢伽塢
卽美秉燭人之聰而敦賞。則居是宮、以靫部賜大伴連之遠祖武日也。 
蝦夷をすでに平定し、日高見国(ヒタカミノクニ=未詳)より帰って西南(ヒツジサツノカタ)の常陸(ヒタチ=茨城県)を経て、甲斐国(カイノクニ=現在の山梨県)に到着し、酒折宮(サカオリノミヤ)に滞在しました。
その時に舉燭(ヒトモシ)て、食事をしていました。この夜、歌で侍者(サブラヒヒト=従者)に問いました。
新治(ニイバリ)筑波を過ぎて幾夜か寝つる
新治と筑波を過ぎて、どのくらいの夜を過ごしただろうか?
諸々の侍者(サブラヒヒト)は答えられませんでした。その時に秉燭者(ヒトモセルモノ)がいました。王の歌の末に続けて、歌を歌いました。
日々(カガ)並(ナ)べて夜(ヨ)には九夜(ココノヨ)日には十日(トオカ)を
数えてみると、夜は九夜、昼は十日です。
(ヤマトタケルは)すぐに秉燭者(ヒトモシ)の聡明さを褒めて、厚く褒美を与えました。この宮に滞在して、靫部(ユケイノトモノオ=矢を入れる筒)を大伴連(オオトモノムラジ)の遠祖の武日に与えました。
古事記の対応箇所 / 酒折宮での老人と歌 
日高見国
日高見国は明確な土地名ではなく、「日=太陽」を見る国という意味で、自分の位置から東の国をことを漠然と指すのではないかと、思われます。
物語の意味
食事をしていて、歌を歌い、うまい歌を歌ったものに褒美をやる。おそらくはそういう神事があったのではないか?と思います。古事記では、「うまいこと歌った老人」が「東国造」に任命されています。
日本では上手に歌が歌えるということは、神を感動させられるということであり、神を感動させることができれば、ご機嫌となり、農業は豊作、戦争は勝つ、という具合に重宝します。まぁ、歌だけでなく料理もそうなんですが。
それでうまいこと言った老人に「東国造」を任命するわけです。ヤマトタケルにとっては、歌がうまい人を後方支援させれば、何かと都合がいいのです。 
東国の地名説話
於是日本武尊曰「蝦夷凶首、咸伏其辜。唯信濃國・越國、頗未從化。」則自甲斐北、轉歷武藏・上野、西逮于碓日坂。時日本武尊、毎有顧弟橘媛之情、故登碓日嶺而東南望之三歎曰「吾嬬者耶(嬬、此云菟摩。)」故因號山東諸國、曰吾嬬國也。於是、分道、遣吉備武彥於越國、令監察其地形嶮易及人民順不。 
日本武尊(ヤマトタケル)は言いました。
「蝦夷の凶(ア)しき首(ヒトドモ)はことごとく、その罪に従った。ただし、信濃国(シナノノクニ=北陸)・越国(コシノクニ=長野県)のみが、少し未だに化(オモブケ=王化=大和朝廷の影響下になること)に従わない」
すぐに甲斐から北の武蔵(ムサシ=現在の東京・埼玉・神奈川県の一部)・上野(カミツケ=上野毛=現在の群馬)を巡って西碓日坂(ニシノカタウスヒノサカ=現在の群馬県碓氷群・安中市の碓氷峠)に至りました。その時、日本武尊は毎日、弟橘媛(オトタチバナヒメ)を偲ぶ心がありました。それで碓日嶺(ウスヒノミネ)に登って、東南(タツミノカタ)を見て、三回嘆いて言いました。
「吾嬬はや(アズマハヤ)」
それで山の東の諸国を「吾嬬国(アズマノクニ)」といいます。ここから道を分けて、吉備武彦(キビノタケヒコ)を越国(コシノクニ)へと派遣し、その地形のあり方や人民の順不(マツロイマツロワヌ)を監察させました。
嬬は菟摩(ツマ)と読みます。
古事記の対応箇所 / 足柄山の白い鹿 
化とは米作ではないか?
わたしはヤマトタケルの九州遠征は「貿易航路の開拓と確保」が目的であり、東征は「貿易航路の開拓と確保と米作普及」が目的ではないかと考えています。それは大和朝廷が東国と西国を結ぶ中間貿易で発展したのではないかと考えているからです。
その中で米を共通価値として普及させることで更に取引を活発にしたからこそ、さらなる日本の発展があったのでしょう。それでおそらく関東まで米を普及させることができました。当時は現在よりも気温が高く、関東での米作は何の問題もなく行われた筈です。しかし、東北や長野といって高冷地では米作は難しい。それが信濃国と越国が従わなかった理由だと推測しています(従わないというよりは気候の問題ですが)。 
信濃の白い鹿を蒜で殺す
則日本武尊、進入信濃。是國也、山高谷幽、翠嶺萬重、人倚杖難升、巖嶮磴紆、長峯數千、馬頓轡而不進。然日本武尊、披烟凌霧、遙俓大山。既逮于峯而飢之、食於山中。山神、令苦王、以化白鹿、立於王前。王異之、以一箇蒜彈白鹿、則中眼而殺之。爰王忽失道、不知所出。時白狗自來、有導王之狀、隨狗而行之、得出美濃。吉備武彥、自越出而遇之。先是、度信濃坂者、多得神氣、以瘼臥。但從殺白鹿之後、踰是山者、嚼蒜塗人及牛馬、自不中神氣也。 
日本武尊(ヤマトタケル)は信濃(シナノ)へと進入しました。この国は山高く谷幽(タニフカシ)。翠(アオ)い嶺(タケ)が「万」も重なっています。人が杖を使っても登ることができません。巌(イワ)が険しいので、石の坂道を巡らしていて、長い峰は数千(チジアマリ)あり、馬は頓轡(ナズミ=立ち止まって)して進まない。日本武尊は烟(ケブリ=煙)を分け、霧を凌いで、はるかに大山(ミタケ)を渡りました。そうして峯に至って、疲れました。山の中で食事をしました。すると山の神が王(=ヤマトタケル)を苦しめようとして、白いしかになって王の前に立ちました。王は怪しいと思って、一つの蒜(ヒル=野蒜か臭いのある植物、ニンニクと言われる。臭いに厄除けの能力)を白い鹿に弾き飛ばしました。すると目に当たって(山の神が化けた白い鹿を)殺してしまいました。
すると王はたちまち道に迷って、出る場所がわからなくなりました。すると白い狗(イヌ)が自ずからやって来て、王を導こうとする様子がありました。それ犬に随(シタガ)って行くと、美濃に出ることができました。
吉備武彦(キビノタケヒコ)は越から出て(日本武尊と)出会いました。これ以前は、信濃坂(シナノノサカ=現在の長野県下伊那郡那智村と木曽郡山口村の境の富士見台)を渡る人の多くが神の息を浴びて、体調を崩して伏せっていましたが、白い鹿を殺してからは、この山を越える者は蒜(ヒル)を噛んで、人と牛馬に塗るようになりました。すると自然と神の息に当たらなくなります。
古事記の対応箇所 / 足柄山の白い鹿 
古事記では足柄山の物語に
これが信濃(長野県)との境での物語なのか、古事記に書かれているように富士山にほど近い静岡と神奈川の境の足柄山のことなのか?それはなんとも。近いっちゃ近いような気がしないでもないような。
ともかくヤマトタケルによって、人を困らせる山の神は倒され、ニンニク(蒜)を体に塗ることで、山越えが可能になりました。これはヤマトタケルか、別の人物か、それはともかく、「道の整備」を神話にしたのではないか?と思います。
道を整備したから、山越えができるようになった。それがヤマトタケルや大和朝廷の功績かはわかりませんが、そういう史実が神話になったのではないかと。
蒜(ニンニク)は滋養強壮に効果があり、肉食禁止の「寺」でもニンニクだけは滋養が効きすぎるので食べるのを禁止しているほどです。また臭いが厄除けになるという考えもありますから、この両方の効果で山越えの確率がアップし、流通が発達、その結果、国が発展した。こんな手柄を書き残さないわけにはいかない、ということです。 
イブキヤマの主神の大蛇
日本武尊、更還於尾張、卽娶尾張氏之女宮簀媛、而淹留踰月。於是、聞近江五十葺山有荒神、卽解劒置於宮簀媛家、而徒行之。至膽吹山、山神、化大蛇當道。爰日本武尊、不知主神化蛇之謂「是大蛇必荒神之使也。既得殺主神、其使者豈足求乎。」因跨蛇猶行。時山神之興雲零氷、峯霧谷曀、無復可行之路、乃捷遑不知其所跋渉。然凌霧强行、方僅得出、猶失意如醉。因居山下之泉側、乃飲其水而醒之、故號其泉、曰居醒泉也。日本武尊於是、始有痛身、然稍起之、還於尾張。爰不入宮簀媛之家、便移伊勢而到尾津。 
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)はまた尾張(オワリ)に帰ってきて、すぐに尾張氏(オワリノウジ)の娘の宮簀媛(ミヤスヒメ)を娶って、しばらくの間、留まって何ヶ月か経ちました。近江(オウミ)の五十葺山(イブキヤマ)に荒ぶる神がいると聞いて、剣を抜いて宮簀媛(ミヤスヒメ)の家に置いて、徒手(剣を持たないで)で出かけました。膽吹山(イブキヤマ)に到着すると山の神が大蛇(オロチ)に化けて道を塞ぎました。日本武尊は主神(カムサネ=神の正体)が蛇(オロチ)と化けているのを知らないで
「この大蛇は間違いなく荒ぶる神の使者だ。主神(カムザネ)を殺せれば、その使者をどうして(殺そうと)求めるに足るだろうか?(殺す必要はない)」
それで蛇を跨いで、なお進みました。
その時、山の神は雲を起こして氷を降らせました。峰には霧がかかり、谷は暗くなり、どこに向かえばいいか道も分からなくなった。彷徨ってあちこち行きましたが、どこを通ったかも分かりません。それでも霧を凌いで、強引に進みました。するとようやっと抜けることが出来ました。ですが、心は惑い、酔っているようでした。そこで山の下の泉のそばで、その水を飲むと(酔いが)覚めました。それでその泉を居醒泉(イサメガル)といいます。
日本武尊はこの辺りから、痛身(ナヤミマスコト)がありました。しかし、ようやく立ち、尾張へ帰りました。しかし、宮簀媛の家には入らず、代わりに伊勢に行って、尾津(オツ=現在の三重県桑名郡多度町戸津?)に到着しました。
古事記の対応箇所 / 月経の血がスソに / 息吹山の神を素手で殺す / 玉倉部の清水 / 尾津前の一松 
山の神はイノシシか大蛇か
古事記では白くてデカイ猪が伊吹山の主として登場します。猪も山の神としてはベタなんでしょう。しかしそれが大蛇に変わっている。大蛇は「川」のうねりを表し、水神です。つまり農業神です。猪から大蛇に変わったというのは、「狩猟」→「農業」という変遷が影響しているのではないかな、とも。
山の戒め
ヤマトタケルは蛇や猪を見て、「あぁ、これは使者であって神ではない」と考えて、それが元で死んでしまいます。これはおそらくは「山の動物は神の使者」という価値観が元々はあったのですが、何か悪いことがあったときに、「実はあの動物は山の神、そのものだったんじゃないか?」と考えるようになり、「山の動物」=「山の神」そのものになったのでしょう。つまり、このヤマトタケルの伊吹山の神話は「山の動物をなめるなよ(だって神かもしれないから)」という戒めを神話にしたものを取り込んだと思います。これが日本人が肉食をしなくなった根っこだと推測します。 
尾張に直に向へる一つ松あはれ一つ松人にありせば衣着せましを太刀佩けましを
昔日本武尊向東之歲、停尾津濱而進食。是時、解一劒置於松下、遂忘而去。今至於此、是劒猶存、故歌曰、
烏波利珥多陀珥霧伽幣流比苔菟麻菟阿波例比等菟麻菟比苔珥阿利勢麼岐農岐勢摩之塢多知波開摩之塢
逮于能褒野、而痛甚之。則以所俘蝦夷等、獻於神宮。因遣吉備武彥、奏之於天皇曰「臣受命天朝、遠征東夷、則被神恩・頼皇威而叛者伏罪・荒神自調。是以、卷甲戢戈、ト悌還之。冀曷日曷時、復命天朝。然、天命忽至、隙駟難停、是以、獨臥曠野、無誰語之。豈惜身亡、唯愁不面。」既而崩于能褒野、時年卅。 
昔、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は東に向かった年尾津浜(オツノハマ)に留まって食事をしました。このとき、一本の剣を抜いて、松の木の下に置きました。それを忘れて去りました。
そして今、ここ(尾津)に到着してみると、あの剣がまだありました。そこで歌を歌いました。
尾張に直(タダ)に向(ムカ)へる 一つ松あはれ 一つ松人にありせば 衣(キヌ)着せましを 太刀(タチ)佩(ハ)けましを
訳 / 尾張に向かって真っ直ぐに生えている一本松よ、一本松が人間だったら、服を着せ、太刀を佩かせてやるものを。
能褒野(ノボノ)に到着しても、まだ痛みはひどいままでした。俘(トリコ=連れてきた)蝦夷を神宮(カミノミヤ=伊勢神宮のこと)に献上しました。吉備武彦(キビノタケヒコ)を派遣して、天皇に報告しました。
「臣(ヤツカレ=部下=自分のこと)は命令を天朝(ミカド)から承って、遠く東の夷(ヒナ=異民族)を征伐しました。神の恩恵を受け、皇(キミ=天皇)の威(イキオイ)によって、叛く者は罪に従い、荒ぶる神は自然と従いました。これを持って、甲(ヨロイ)を巻き、矛(ホコ)を納めて、ト悌(イクサトケ=戦争が終わって安心する)て、帰りました。願わくはいずれの日か、いずれの時にか、天朝(ミカド)に復命(カエリコトモウス=命令の報告)したいと思っています。しかし天命がたちまち至って、隙駟(ヒノアシ)止まり難しです。一人荒野に伏し、誰に話しかけることもできません。どうして我が身の滅びることを惜しむのか(惜しむこともないくらいに十分に生きた)。ただ残念なのは(天皇に)お仕えすることができないということだけです」
すでに(日本武尊は)能褒野で崩御していました。年齢は30歳でした。
ヒノアシは4頭の馬が引く馬車のことで、簡単には止まれないという意味。つまり死期が近く、どうしようもないという意味。今風にいうと「車は急に止まれない」。
古事記の対応箇所 / 尾津前の一松 
歌の意味
この歌は尾張に向かって立つ松を「男」と見立てています。実はこの歌は「女性が歌う歌」でした。日本書紀にはありませんが、古事記にはこの歌に「アセヲ」という言葉が入っています。これは「吾兄を」という意味であり、もっと分かりやすく言うと「吾夫を」という意味です。妻のことを「妹」と表現するのと逆です。
女性の歌があり、それを日本神話の中に取り込んだわけです。
崩御
「崩」と書いて、カムサル、カムアガルと読みます。これは死んで「神」になるという考えからです。死んだことでこの字が当てられるのは「天皇」だけです。また「陵」という字も天皇の墓に当てられるものですが、ヤマトタケルの墓も「陵」という字が当てられています。
どうやらヤマトタケルは天皇だったか、天皇に匹敵するような存在だったようです。
伊勢国の能褒野陵に葬りました
天皇聞之、寢不安席、食不甘味、晝夜喉咽、泣悲摽擗。因以、大歎之曰「我子小碓王、昔熊襲叛之日、未及總角、久煩征伐、既而恆在左右、補朕不及。然、東夷騷動勿使討者、忍愛以入賊境。一日之無不顧、是以、朝夕進退、佇待還日。何禍兮、何罪兮、不意之間、倐亡我子。自今以後、與誰人之、經綸鴻業耶。」卽詔群卿命百寮、仍葬於伊勢國能褒野陵。 
天応は(ヤマトタケルの死を)聞いて、寝込んでしまって、何も手につかなくなりました。食事をしても味が甘くないほどです。昼夜ずっと喉咽(ムセビ)して、泣き悲しみ、胸を打ちました。とても嘆いて言いました。
「我が子、小碓王(オウスノミコ)は昔、熊襲が叛いた日は、未だに総角(アゲマキ=古代の成人がやっていた髪型=髪を真ん中で分けて、耳の後ろでまとめるあの髪型)をしていない(くらいに子供)のに、長く征伐(タタカイ)に関わり、常に(天皇の)左右(カタワラ=傍)にいて、私が不及(カケタルコト)を補った。しかし、東の夷(ヒナ)が騒ぎ動くと、討つものがいなかった。愛情を忍んで(我が子を可愛いと思う気持ちを我慢して)、賊(アタ)の境に入らせた。一日とて(我が子を)顧みないことは無かった。朝夕に彷徨い、帰る日を佇(ツマダチ=たたずんで)んで待っていた。どんな禍(ワザワイ)か、何の罪があるのか、不意之間(ユクリモナク=思いがけず)、我が子が亡くなってしまった。これ以後、誰とともに鴻業(アマツヒツギ)を治めるのか」
すぐに群卿(マヘツノキミタチ)に詔して、百寮(ツカサツカサ=官僚)に命じて、伊勢国(イセノクニ)の能褒野陵(ミボノノミササギ)に葬りました。 
古事記とは違う
そもそも古事記では小碓(=ヤマトタケル)が兄の手足を千切って惨殺して、川に放り投げるという悪童ぶりを発揮したために、厄介払いで熊襲遠征に放り込まれたというのに、日本書紀では、兄殺しのエピソードは無く、父景行天皇に疎まれるという設定もありません。これも「ヤマトタケル架空の人物説」の根拠となっています。 
白鳥陵に衣冠を葬る
時、日本武尊化白鳥、從陵出之、指倭國而飛之。群臣等、因以、開其棺櫬而視之、明衣空留而屍骨無之。於是、遺使者追尋白鳥、則停於倭琴彈原、仍於其處造陵焉。白鳥更飛至河內、留舊市邑、亦其處作陵。故、時人號是三陵、曰白鳥陵。然遂高翔上天、徒葬衣冠、因欲錄功名卽定武部也。是歲也、天皇踐祚卌三年焉。 
その時(ヤマトタケルが能褒野陵に葬られたとき)に白鳥(シラトリ)になって、陵(ミサザキ=墓)から出て、倭国(ヤマトノクニ)を目指して飛びました。群臣等(マヘツキミタチ)はその棺櫬(ヒツギ)を開いて見ると、明衣(ミソ=神官の衣服・死装束)だけが空しく残っていて、屍骨(ミカバネ)は無かった。それで使者を派遣して白鳥を追い求めました。
すると倭(ヤマト)の琴弾原(コトヒキノハラ=地名未詳)に留まりました。それでそのところに陵(ミササギ)を造りました。白鳥はさらに飛んで河内(カウチ)に到着して、旧市邑(フルイチノムラ)に留まりました。その土地にまた陵を造りました。それで、その時代の人は、この三つの陵を名付けて白鳥陵(シラトリノミサザキ)といいます。しかし、ついに(白鳥)は高く飛んで天に昇っていきました。そこで衣冠(ミソカガフリ)を(遺体の代わりに)葬りました。その功名(ミナ)を録(ツタ=伝)えようと、武部(タケルベ)を定めました。
この歳、天皇が踐祚(アマツヒツギシロシメシテ=皇位について)43年です。
古事記の対応箇所 / なづきの田の稲幹に / 八尋白智鳥 / 浅小篠原腰なづむ / 天皇の大御葬に歌ふ / 河内国の志幾の白鳥御陵 
武部
武部は、この文章から言えば「日本武尊」の功績を残すための集団ということになります。それが口伝なのか、筆記なのかはちょっとわからないけども、そういう意味になります。
でも、学会の一般的な見解は「武部は武人であって、それが日本武尊の功績を残す集団という設定になったのは後付け」というのが定説になっています。
わたしとしては何とも言えないのですが、久米氏が料理人であり、同時に軍事部門担当だったように、必ずしも別々の役割とは限らないと思うのです。現在の感覚では「武人」と「功績を残す集団」というのは別物と考えるのが当然ですが、古代では「神」という特殊な存在があるものですから、この二役を一つの集団である「武部」が請け負っていてもおかしくないのではないかと。「武部」とは武人であり「神の功績を伝える集団」でもあった、むしろこれはセットだった。
おそらく元々この時代の前から「ヤマトタケル」という神がいた。この景行天皇の時代にあった功績を「ヤマトタケル」という神に集約した。それで、その神の功績を残す役割を担った集団を「武部」とした。彼らはそもそも武人だった。なぜなら、戦争の勝敗は時の運がかなりを占める。だから、神に頼らざるを得ない。そこで機嫌よくなってもらって戦争に勝つために、神の功績を伝えることが「武人」の仕事の一つになった。それが「日本武尊」の功績を伝える「武部」という集団だった、のではないかと思っています。
もう一つ、日本人には「物語を捧げる」という感覚があったんじゃないかと思うのです。九州遠征・東征の中での手柄をヤマトタケルという神に捧げたんです。それでヤマトタケルという英雄は大きく育っていった。
これに近いものが「スサノオ」にもあります。高天原を追い出された「犯罪者」であるはずのスサノオが出雲では大蛇を退治する英雄になるのは、物語をスサノオに捧げたという経緯があったのではないかと。 
宴会に参加しない稚足彥尊と武內宿禰
五十一年春正月壬午朔戊子、招群卿而宴數日矣。時皇子稚足彥尊・武內宿禰、不參赴于宴庭。天皇召之問其故、因以奏之曰「其宴樂之日、群卿百寮、必情在戲遊、不存國家。若有狂生而伺墻閤之隙乎。故侍門下備非常。」時天皇謂之曰「灼然。(灼然、此云以椰知舉。)」則異寵焉。 
即位51年春1月7日。群卿(マヘツノキミタチ)を呼び寄せて宴会を開いて数日が経ちました。そのとき、皇子の稚足彥尊(ワカタラシヒコノミコト=成務天皇)・武內宿禰(タケノウチノスクネ)が宴会の庭に参加しませんでした。
天皇は(二人を)呼び寄せて、その理由を問いました。「その宴会の日には群卿(マヘツノキミタチ=部下)と百寮(ツカサツカサ=官僚)は必ずその心は戯遊(アソビ)のことばかりで、国家のことを考えません。もし狂生(クルエルヒト)がいて、墻閤(ミカキ=宮の壁や垣根)の隙をうかがおうとすることがあったら。そこで門下(ミカキノモト=門)に侍(サブラ)いて非常(オモイノホカ)に備えたのです」
天皇は言いました。「灼然(イヤチコ=よく分かる)。」特別に皇子を寵愛するようになりました。
灼然は以椰知舉(イヤチコ)と読みます。 
ワカタラシヒコノミコト
次の天皇の成務天皇となる皇子です。母親は八坂入媛(ヤサカイリビメ)で父は当然ながら景行天皇。そして長男です。これまで末子相続で来た皇統がここで長男に受け継がれるというのは、景行天皇の時代に何かがあった、と考えるべきか、「儒教」の影響が見られる崇神天皇から3代が経ち、「長子相続」が浸透してきたと考えるべきか。
儒教の影響
この「宴会に参加しなかったのは、関係者全員が宴会に参加すると隙ができて、襲われたらひとたまりもないから」という、あまりに出来すぎた皇子の話は、儒教の影響ではないか?と思います。
儒教は「徳」がある人物が上に立つというもので、「いかに徳があるか?」を示すことがとても大事になります。中国の歴史書が権力者の徳に着目した説教くさいものになっているのはそのためです。 
棟梁之臣
秋八月己酉朔壬子、立稚足彥尊、爲皇太子。是日、命武內宿禰、爲棟梁之臣。 
秋8月4日。稚足彥尊(ワカタラシヒコノミコト)を立てて皇太子としました。この日に武內宿禰(タケノウチノスクネ)に命じて棟梁之臣(ムネハリノマヘツキミ)としました。 
成務天皇の段での記述は景行天皇即位46年で24歳のときとなっているのに対してここでは即位51年と食い違います。
棟梁之臣
棟梁之臣はよく「棟木と梁のように国を支える臣下」という意味で、そのくらい国にとって大事な人ですよというニュアンスであって、「建築大臣」という意味じゃない、とされています。 
無礼な蝦夷は伊勢から三輪山へ
初日本武尊所佩草薙横刀、是今在尾張國年魚市郡熱田社也。於是、所獻神宮蝦夷等、晝夜喧譁、出入無禮。時倭姬命曰「是蝦夷等、不可近於神宮。」則進上於朝庭、仍令安置御諸山傍。未經幾時、悉伐神山樹、叫呼隣里而脅人民。天皇聞之、詔群卿曰「其置神山傍之蝦夷、是本有獸心、難住中國。故、隨其情願、令班邦畿之外。」是今播磨・讚岐・伊豫・安藝・阿波、凡五國佐伯部之祖也。 
これより以前のことです。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が佩(ハ=帯刀するという意味)いた草薙横刀(クサナガチノツルギ)は現在、尾張国(オワリノクニ)の年魚市郡(アユチノコオリ=愛知のこと)の熱田社(アツタノヤシロ)にあります。ここに神宮に献上した蝦夷たちは昼夜に鳴り騒いで、出入礼(イデイリイヤ)無し(=非常に無礼)でした。
そこで倭姫命(ヤマトヒメノミコト)はいいました。「この蝦夷たちは、神宮の近くにいるべきではない」
すぐに朝廷(ミカド)に意見を報告しました。それで御諸山(ミモロヤマ=現在の奈良県桜井市三輪山)のほとりに安置(サブラ=侍う=侍らす)しました。それから幾ばくかの時間も経たないうちに、神山(=三輪山)の木を全部切ってしまって、里に叫び、人民を脅かしました。天皇はその話を聞いて、群卿(マヘツノキミタチ)に言いました。
「あの神山(カミノヤマ)のほとりに置いた蝦夷は、元から獣(アヤ)しい心(=獣のような心)があり、中国(ウチツクニ=畿内のこと)に住むのは難しいだろう。そこでその心の願いの隨(マニマニ)に、邦畿之外(トツクニ)に置きなさい」
それで現在、播磨(ハリマ=兵庫県)・讃岐(サヌキ=香川県)・伊予(イヨ=愛媛県)・安芸(アキ=広島県)・阿波(アワ=徳島県)の全ての五国の佐伯部の祖先となりました。 
蝦夷はうるさい
ヤマトタケルによって伊勢神宮に献上されたのですが、そこで大騒ぎし、非常に無礼ということで、伊勢神宮から離され三輪山へと移動。そこでも問題を起こしてしまったので、今度は瀬戸内海沿岸の、兵庫・広島・徳島・愛媛・香川へと左遷されました。そこで「佐伯」という名前となりました。
ちなみに佐伯は「騒がしい」から派生したとも言われます。
奴隷では無いな
ヤマトタケルが東から連れてきた蝦夷のことを、平安時代に異民族として徹底的に戦った経緯から、現代のわたしたちは「野蛮な異民族」というイメージがありますが、そのような格下の異民族を伊勢神宮や大神神社という「古社中の古社」である歴史も名前もある場所に置くということは、決して蝦夷に対して「悪い」イメージを当時の日本人が持っていなかった、と考えたほうが自然に思います。
その上、地方に左遷という形式ではありますが、佐伯(=蝦夷)は「見下される奴隷」ではなく、それどころか佐伯氏は安芸国では「安芸国造」という現在でいうところに「知事様」という家柄です。どー考えても奴隷では有り得ない。
神宮の近くや三輪山に置かれたところを見ると「土木技術」「建築技術」の集団だったのではないか?と思います。彼らは東の国で培った技術を畿内や西日本で活用した「移民」です。だから佐伯部として定着した。ただし、彼らは「異民族」です。やっぱり揉め事もあったことでしょう。その史実がこのページの物語に反映されていると思います。 
日本武尊の妃と子女
初日本武尊、娶兩道入姬皇女爲妃、生稻依別王、次足仲彥天皇、次布忍入姬命、次稚武王、其兄稻依別王、是犬上君・武部君、凡二族之始祖也。又妃吉備武彥之女吉備穴戸武媛、生武卵王與十城別王、其兄武卵王是讚岐綾君之始祖也、弟十城別王是伊豫別君之始祖也。次妃穗積氏忍山宿禰之女弟橘媛、生稚武彥王。 
これより先のことです。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は兩道入姬皇女(フタジノイリビメノヒメミコ=垂仁天皇の皇女)を娶って妃として、稻依別王(イナヨリワケノミコ)を生みました。次に足仲彥天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト=仲哀天皇)、布忍入姬命(ヌノシイリビメノミコト)、稚武王(ワカタケノミコ)です。
兄の稻依別王(イナヨリワケノミコ)は犬上君(イヌカミノキミ)・武部君(タケルベノキミ)の以上二つの族の始祖です。
又、吉備武彦(キビノタケヒコ)の娘の吉備穴戸武媛(キビノアナトノタケヒメ)を妃として、武卵王(タケカヒゴノミコ)と十城別王(トオキワケノミコ)を生みました。
兄の武卵王(タケカヒゴノミコ)は讃岐綾君(サヌキノアヤノキミ)の始祖です。弟の十城別王(トオキワケノミコ)は伊予別君(イヨノワケノキミ)の始祖です。次の妃の穗積氏忍山宿禰(ホヅミノウジノオシヤマノスクネ)の娘の弟橘媛(オトタチバナヒメ)は稚武彥王(ワカタケヒコノミコ)を生みました。 
皇后の死と新たな皇后
五十二年夏五月甲辰朔丁未、皇后播磨太郎姬薨。秋七月癸卯朔己酉、立八坂入媛命爲皇后。
五十三年秋八月丁卯朔、天皇詔群卿曰「朕顧愛子、何日止乎。冀欲巡狩小碓王所平之國。」是月、乘輿幸伊勢、轉入東海。冬十月、至上總國、從海路渡淡水門。是時、聞覺賀鳥之聲、欲見其鳥形、尋而出海中、仍得白蛤。於是、膳臣遠祖名磐鹿六鴈、以蒲爲手繦、白蛤爲膾而進之。故、美六鴈臣之功而賜膳大伴部。十二月、從東國還之、居伊勢也、是謂綺宮。 
即位52年夏5月4日。皇后の播磨太郎姫(ハリマノオオイラツメ)が亡くなりました。秋7月7日。八坂入媛命(ヤサカノイリビメノミコト)を立てて皇后としました。
即位53年秋8月1日。天皇は群卿(マヘツノキミタチ)に詔して言いました。「わたしは愛した子を偲ぶ気持ちがいつの日か無くなってしまった。願わくば、小碓王(オウスノミコ=日本武尊のこと)が平定した国を巡狩(メグリミ=巡り見)たいと思う」 
播磨太郎姫(ハリマノオオイラツメ)
播磨太郎姫(ハリマノオオイタツメ)は小碓王、つまり日本武尊の生母です。
皇后だった播磨太郎姫が死んだことで、次の八坂入媛(ヤサカイリビメ)が皇后となります。「景行天皇(五)妃達とその皇子と皇女」によると男女13人を生み、次の成務天皇の生母です。 
磐鹿六鴈が白蛤を膾に
是月、乘輿幸伊勢、轉入東海。冬十月、至上總國、從海路渡淡水門。是時、聞覺賀鳥之聲、欲見其鳥形、尋而出海中、仍得白蛤。於是、膳臣遠祖名磐鹿六鴈、以蒲爲手繦、白蛤爲膾而進之。故、美六鴈臣之功而賜膳大伴部。 
この月(即位53年秋八月)に乗興(スメラミコト=天皇の乗り物)は伊勢に幸(イデマ=天皇が移動すること)しました。そして回って東海(ウミツミチ)に入りました。
冬10月に上総国(カミフサノクニ)に到着しました。海路(ウミツジ)から淡水門(アワノミナト=東京湾浦賀水道か房総半島の館山湾)このときに覺賀鳥(カクカノトリ=鳥の名前)の声を聞きました。その鳥の形を見たいと思って、(鳥の姿を)求めて海の中(沖の方)へと出ました。そこで白蛤(ウムキ=ハマグリ)を得ました。膳臣(カシワデノオミ)の遠祖の磐鹿六鴈(イワカムツカリ)という名前の者が蒲(カマ=ガマの葉か穂)を手繦(タスキ=料理人が着用するもの)にして、白蛤(ウムキ)を膾(ナマス)にして奉りました。それで六鴈臣(ムツカリノオミ)の功績を褒めて、膳大伴部を与えました。 
カクカノトリ
ミサゴという鳥のこととされます。猛禽類で空中から急降下して水中の魚を取ります。渡り鳥の性質もありますが日本では留まっている個体が多いです。「カクカ」というのが鳴き声を表しているとも言われますが、ミサゴの鳴き声が「カクカク」に聞こえるかというと「?」です。
磐鹿六鴈(イワカムツカリ)
六鴈は膳臣…つまり料理担当の氏族で、料理を献上することが大事なお仕事でした。料理は天皇に、ということではなくそもそもは神への供物であり、おいしい料理を捧げることは神のご機嫌を取り、農業なら豊作、戦争は勝利するためには必要だったんですね。
この挿話が史実とは思えませんが、六鴈の子孫が物語を残したことは間違いが無いです。それはつまり氏族ごとに「物語」を残していたということです。 
東山道の十五国の都督
十二月、從東國還之、居伊勢也、是謂綺宮。
五十四年秋九月辛卯朔己酉、自伊勢還、於倭居纏向宮。
五十五年春二月戊子朔壬辰、以彥狹嶋王、拜東山道十五國都督、是豐城命之孫也。然、到春日穴咋邑、臥病而薨之。是時、東國百姓、悲其王不至、竊盜王尸、葬於上野國。 
(即位53年)12月に東国(アズマ)より帰ってきて伊勢にいました。これを綺宮(カニハタノミヤ)といいます。
即位54年の秋9月19日。伊勢から倭(ヤマト)に帰って纒向宮(マキムクノミヤ)にいました。
即位55年の春2月5日。彥狹嶋王(ヒサシマノミコ)に東山道(ヤマノミチ)の十五国の都督(カミ)が参拝しました。(彥狹嶋王は)豐城命(トヨキノミコト=崇神天皇の子で垂仁天皇の兄。参考:崇神天皇(二十一)相夢で皇太子を判断する(日本書紀))の孫です。春日の穴咋村(アナクイノムラ=奈良市古市)に到着して、病に伏し亡くなってしまいました。この時、東国の百姓はその王が到着しないことを悲しんで、密かに王の尸(カバネ=遺体)を盗んで上野国(カミツケノノクニ)に葬りました。 
東山道
現在の、滋賀県・岐阜県・長野県・群馬県・栃木県・埼玉県・福島県・宮城県・青森県・岩手県・秋田県・青森県にあたります。琵琶湖から内陸部を通って東北の地域を指しています。
豐城命と彥狹嶋王
崇神天皇のとき、二人の子供に「夢」を報告させました。兄である豐城命は「武力」を示す夢を見て、弟の活目尊(イクメノミコト=垂仁天皇)は「農業」を示す夢を見ました。弟は天皇となり、兄は「東国」を管轄としました。
「武力」を持った兄である豐城命は東国に行き、上毛野君・下毛野君の始祖となっています。東国はかなり「ヤバイ」場所だったのでしょう。また、「毛野」という字があてられているのは「蝦夷」に「毛人」という字が当てられていることを考えても、倭とは違う文化圏だったと考えた方が良さそうです。
毛はおそらく「毛皮」です。蝦夷は「毛が多い」という意味ではなく、倭が「ケガレ」の文化圏であり、獣の屍体から剥ぎ取る毛皮を身につけることができなかったからではないかと。
屍体を盗む?
ヤマトタケルが東国を平定したことで、豐城命の孫にあたる彥狹嶋王が東国の15国を統治することになった。その道程で病死した。その病死した肢体を(百姓が)盗んで上野国へと持って行って葬った。
これはどういう意味なのやら。
もしかすると、春日の穴咋村で死んだのではなく、死んだのは東国で、しかも殺された、ということもあり得ますが、それなら春日の穴咋村という地名は残らないでしょう。 
御諸別王の東国運営
五十六年秋八月、詔御諸別王曰「汝父彥狹嶋王、不得向任所而早薨。故、汝專領東國。」是以、御諸別王、承天皇命且欲成父業、則行治之、早得善政。時、蝦夷騷動。卽舉兵而擊焉、時蝦夷首帥足振邊・大羽振邊・遠津闇男邊等、叩頭而來之、頓首受罪、盡獻其地。因以、免降者而誅不服、是以東久之無事焉。由是、其子孫、於今有東國。 
即位56年秋8月。御諸別王(ミモロワケノミコ)に詔しました。
「お前の父の彥狹嶋王(ヒコサシマノミコ)は任地に到着することもできずに早くに亡くなった。そこで、お前が専(タウメ)東国(アズマノクニ)を領(オサ)めろ」
それで御諸別王(ミモロワケノミコ)は天皇の命を受けて、父の業(ツイデ)を成そうとしました。すぐに(東国に)行って治めて、速やかに良い政(マツリゴト)を行いました。あるとき、蝦夷が騒ぎました。すぐに兵を挙げて撃ちました。そのときに蝦夷の首帥(ヒトゴノカミ=首領)の足振邊(アシフリベ)・大羽振邊(オオハフリベ)・遠津闇男邊(トオツクラオベ)などが、やって来て、頭を(地に)叩きつけました。頭を下げて、罪を受け入れ、すべての土地を献上しました。それで(御諸別王は)従う人を許し、服従しないものを誅殺しました。これ以降、東の方は久しく事(コト=事件=反逆など)は無くなりました。それでこの(御諸別王の)子孫は東国にいます。 
田部屯倉を諸国に興す
五十七年秋九月、造坂手池、卽竹蒔其堤上。冬十月、令諸國興田部屯倉。
五十八年春二月辛丑朔辛亥、幸近江國、居志賀三歲、是謂高穴穗宮。
六十年冬十一月乙酉朔辛卯、天皇崩於高穴穗宮、時年一百六歲。 
即位57年。秋9月。坂手池(サカテノイケ)を作りました。竹をその堤(ツツミ)の上に植えました。冬10月に諸国に令(ノリゴト)して、田部屯倉(タベノミヤケ)を興しました。
即位58年の春2月11日。近江国(オウミノクニ)に幸(イデマ)して、志賀(シガ=滋賀県滋賀郡)に三年滞在しました。(滞在した宮を)高穴穂宮(タカアナホノミヤ)といいます。
即位60年冬11月7日。天皇は高穴穂宮で崩御しました。その時、106歳でした。 
田部屯倉
田部は朝廷の田。屯倉は朝廷の直轄領。ここでは「タベノミヤケ」と読むことにしていますが、おそらくは「田部」と「屯倉」を作ったというのが実際かと。
ちなみに「屯倉」という言葉は日本書紀では垂仁天皇の「垂仁天皇(十七)出雲の神宝と神社へ兵器を祭る始まり」でちょっと登場しています。ここでは來目邑(クメノムラ)に屯倉ができたと書いてあるだけで、このページのように「諸国に作った」とは違います。垂仁天皇から景行天皇になるたった一代で大和朝廷がかなり発展し、影響力を持ったためでしょう。
志賀に高穴穂宮を
景行天皇が崩御するまでの三年を滋賀で過ごしています。この前のページで東山道が登場していて、東山道の蝦夷を従えたという話があります(景行天皇(四十八)東山道の十五国の都督)。滋賀は東山道の入り口です。おそらく東山道が安定し、そこで貿易ができるようになり、滋賀が重要拠点となったのではないか?と思います。 
 
 

 

 
 

 

 

 
天皇誕生

 

小泉首相の靖国参拝問題に加えて、天皇の皇位継承問題が急浮上している。女帝の即位を認めるかどうかという議論をきっかけに、天皇制そのものをどのように将来の日本に定着させるかという日本人自身への問いになっている。
こうした皇位継承問題の背景には、いまなおひとつの"神話"が生きている。日本の天皇あるいは天皇家は万世一系であろうという"神話"だ。このことを規定したのは明治憲法以前にはない。大日本帝国憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と記したことをもって、最初の規定とする。明治憲法には第三条で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とも規定された。
天皇は神の子孫であって、その神聖性がこの国を統治する資格を有するのだから、それゆえ何代にもわたって同一の一族から天皇が選出されるのだという意味である。このような世界に類を見ない皇位継承制度を実現できたのは、まさに第一条と第三条の規定条文によっていた。なにしろ明治憲法それ自体が欽定憲法なのである。規定の詳細は最初のうちは『皇室制規』によって、ついで井上毅らが参画して『皇室典範』によって決められた。
天皇と元号が一致するようになったのもこのときからである。主に岩倉具視の主唱によるもので、岩倉は水戸の藤田幽谷が『建元論』で提唱した一代一号論を採用して一世一元を制度化した。
そんな「天皇の歴史」はなかった。明治がつくったのである。  
明治憲法による万世一系論はあきらかに当時の立憲君主制の政治思想にもとづいているが、典拠はもっぱら『日本書紀』にもとづいた。もし『帝紀』『旧辞』が残っていたらそれを参照したろうが、蘇我馬子の死とともに焼亡した。明治憲法の解説を担当した伊藤博文の『憲法義解』も随所に『日本書紀』を引用している。
では、どのように『日本書紀』は天皇の系譜を書いているのか。明治憲法の根拠は『日本書紀』にあるのだから、その記述を知っておかないかぎりは、どんな天皇議論もない。それが『古事記』ではないのは、当時も今日も日本の正史は『日本書紀』だとみなされているからである。
そこで『日本書紀』を読んでみると、天皇の皇位は父子継承と兄弟継承が入り交じってはいるものの、基本的には同じ一族から選出され推戴されているように読める。『日本書紀』の記述を前提にするかぎりは万世一系という見方は成立するかのようなのだ。
しかし、そう読めるのは記述の内容を信用したからであって、そこに虚偽や歪曲や捏造があるとすると、たちまち崩れてしまう。たとえば記載された天皇が実在したのかどうかということを問うと、かなりあやしいものになってくる。
かつて歴史学者の井上光貞は、一番さかのぼって実在がはっきりしている天皇は誰なのかという質問に対して、「天皇なら応神、氏族では葛城襲津彦だろう」と答えたものだった。応神以前はすべて実在があやしいというのだ。  
しかしいったい、何をもって実在の証拠とできるのかといえば、古代天皇についてはルーツをさかのぼればのぼるほど、何らの史実にもお目にかかれない。そんなことは当たり前なのだ。それでは逆に、証拠がなければ実在のいっさいを疑うべきかといえば、それもおかしなことになる。われわれの家系だって、曾祖父の記述などないほうが当たり前で、仮にあったとしてもその僅かな記述から事績を再生すれば、どういうことになるのか。
もちろん、ことは一国の君主の歴史である。われわれの家と比較できるわけはない。そこでせめて個々の天皇はさておき、王朝としての流れを想定してそこに日本の源流を浮上させる歴史学をつくってみようということになった。
近代以前、『神皇正統記』をはじめ「天皇の歴史」を綴ったものは数多くあるが、それらはいずれも記紀の記述を一歩も出るものではなかったのである。とくに王朝史の試みはまったくなされてこなかった。こうした見方が出てくるには、まずは江上波夫が『騎馬民族国家』で仮説した騎馬民族による古代王朝征服論が、ついでは水野祐の『日本古代王朝史論』の影響が大きかった。騎馬民族説はやがて否定されたのではあるけれど、崇神天皇が騎馬民族の王であり、これをうけて応神天皇が九州から東上して畿内を制圧したという仮説はおおいに流行した。  
一方、水野の本は昭和27年に小宮山書店から刊行されたものでありながら、その威力はいまなお衰えない。水野が仮説したのは、6世紀までの天皇では崇神・成務・仲哀・敏達・用明・崇峻・推古らの十五天皇、そこに木梨軽太子・飯豊青皇女・欽明天皇を加えた十八代が実在の天皇であろうということ、『日本書記』は天皇の歴史に万世一系を見せるために実在天皇に架空の天皇を交ぜたのであろうということ、それとは裏腹に実際にはいくつかの王朝が交替していて、それらは古王朝(先王朝・崇神王朝)、中王朝(仁徳王朝・後仁徳王朝)、新王朝(継体以降の王朝)といった区分をもつのではないかということなどだった。水野はこれらのことを、それぞれ雄弁に説いた。大反響になった。
水野説によると、どうなるか。実在の天皇すらすべて血縁関係で結ばれていたのではなく、互いに血統を異にする三つの王朝に依拠していたということになる。
たとえば、古王朝では崇神によって本州西半部が統一したのだが、仲哀の九州制圧の失敗で崩れた。仁徳がおこした中王朝は邪馬台国などがあった九州制圧から始まって難波に入って大和朝廷の基礎を築いた。その中王朝は内部崩壊し、その後に司祭的な王族に属する大伴金村が擁立した継体天皇によって新王朝の開幕になった。こういうふうになる。
その後、水野説はさらにシェイプアップされたり補填拡張されたりして、神武から開化までを葛城地域にあやかって「葛城王朝」、崇神に始まる時代を「三輪王朝」(イリ王朝ともいう)、応神から仁徳までを「河内王朝」、継体期を「近江王朝」とよんで、その後の大和朝廷が確立された時代と峻別するようにもなった。これが6世紀以前の日本の王朝の実態だというのだ。
いま、このような仮説はまるごとは承認されていない。ところが本書を含めて、多くの「天皇の歴史」をめぐる議論がこの仮説の視点をいくつも引き継いでいるのである。そこには歴史学者たちの万世一系に対する不断の挑戦のようなものすら感じられる。けれども、「天皇の歴史」の端緒の真実はいまなお大半が曖昧なままなのだ。どの仮説が真実に近いかどうかは、どうしても判定しきれない。それはそもそもが『日本書紀』に原因があるからなのである。  
本書は初期の天皇の実在をいちいち問うたものではない。水野説を発展させたものでもない。逆に、6世紀以前の皇位継承は万世一系でもなく、また水野説のいうようなドラマティックな三王朝交替があったわけでもないという説をとる。そして、『日本書紀』の編集方針が神武から応神までの王朝と、仁徳から武烈までの王朝とが大きく二つの流れとして認識されていて、それが中国的な交替史観によって記述されていることを指摘した。
つまり『日本書紀』はもともと万世一系を描くために記述されたのではなく、この国の歴史が東アジアの華夷秩序を仕切っていた中国にも認められるであろうことを念頭において、交替史観を前提の通史にして、このフォーマットやスタイルに『帝紀』『旧辞』を素材に皇位継承の物語をあてはめたというのである。ようするに天皇家の史実を書いているわけではないというのだ。
著者の言いっぷりのままにいえば、「日本という国家は、天の思想という丈夫なカバンを中国から輸入しておきながら、本来そこに収めるべきものを入れずに、自分好みのものをあれこれ詰め込んだ」ということだ。また、「どのようにカバンの中身が違っていても、カバンそのものは中国のそれと同じであるから、中身(万世一系)とおよそ正反対の外見(王朝交替)であっても、時に応じて容易にそれに馴染み、それを部分的に受け容れてしまう」ということだったのである。  
この指摘を意外なもので遺憾な見解とみるか、日本はそんな曖昧な歴史を根拠に積み重なってきたのかと慨嘆してみるか、神話にもとづいた歴史書は日本のみならずそうしたものであるとみるかは、歴史の解義の立場で異なってこよう。
またむろん『古事記』との比較や、考古学的な史料との関連や中国の史書との重ね合わせを加えなければ、解義も解釈もすすまないということもある。
しかしもし、われわれが直面させられている天皇の万世一系問題や皇位継承問題を歴史の起点に戻って考えたいというのなら、ひとまずは『日本書紀』の記述から出発しなければならないはずなのだ。水野説によるにせよ、遠山説によるにせよ、だ。
そこで今夜は本書の見方に沿って、古代歴代天皇の流れとその問題点をざっと追っておくことにした。本書のサブタイトルも「日本書紀が描いた王朝交替」というふうになっている。したがって以下はすべて『日本書紀』の記述にもとづいた。多少は歴史学の推理を加えたけれど、とくに『日本書紀』の記述の誤謬を指摘するようにはしなかった。記述のいちいちの点検より、その構造的な史観の設定に問題があることが重要であるからだ(以下、天皇名・神名はカタカナ表記にしてミコトなどを略し、それとともに神武・雄略などの漢風諡号を適当に併記することにする、あしからず)。  
天皇のルーツはやはり神武天皇に始まっている。もともとはイワレヒコと言った。
イワレヒコはアマテラスの孫で天孫降臨をはたしたホノニニギノミコトの子孫ウガヤフキアエズの子にあたっていて、日向で身を起こして全国制覇をめざして東上した(いわゆる神武東征)。この段階ではむろん天皇の称号はなくて、『隋書』倭国伝などと照らしてみると、「アメタラシ」とか「アメノシタヲシロシメスオオキミ」(天下を治する大王)とかというふうによばれていた。
その後、大王イワレヒコは難波から畿内に侵入して、豪族のナガスネヒコ(長臑彦)らと死闘を交わしたあと、八咫烏に導かれて大和に入り、橿原で神武天皇として初代天皇を即位したと書いてある。そのときイワレヒコはカムヤマトイワレヒコとも名のった。『日本書紀』はそうした功績を称えて「ハツクニシラススメラミコト」(始馭天下之天皇)という名をつけた。
また、神武の後は、綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化という八代が父から子へ、そして孫へというふうに父子直結に相承されていったというふうに書いてある。いや、一応はそう読める。しかし神話学者や歴史学者の多くは綏靖から開化までの八代を「欠史八代」とよんで、まったく歴史的記述性のない天皇たちだとみなしてきた。もっとも記述にはまったくないのだが、今日の歴史学ではこの八代は、各地の県主(あがたぬし)との通婚を重ねて支配領域を拡張している時期にあたっていると補足した。  
開化のあとはどうなったかというと、開化の子の崇神(ミマキイリヒコ)が立った。第10代にあたる。のちに問題点を説明するが、江上説・水野説同様に、本書が注目している天皇の一人がこの崇神である。
崇神はそれまで宮中で一緒に祀っていたアマテラスとオオクニタマの二神を分けて、別に社をつくらせることにした。この話ははなはだ象徴的なもので、それまでアマテラスを重視する記述など、まったくなかったのである。それを急に祀った。おかげで、アマテラスは笠縫邑に祀って安泰になったようなのだが、ヌナキイリヒメ(渟名城入姫)に託したオオクニタマのほうは荒ぶっておさまらない。やむなく崇神が神意を問うたところ、オオクニタマにはオオモノヌシ(三輪の神威)が憑依しているらしい。オオモノヌシは「わが子のオオタタネコ(大田田根子)を探しだしてから自分を祀りなさい」という。崇神は陶邑でオオタタネコを発見、オオモノヌシの祭主になってもらって万事をおさめた。
この崇神についての記述は、当時の朝廷が新たな神祇官や神祇システムによって各地で多様だった祭祀をいよいよ統轄しようとしたことを物語る。天皇家の祖先神アマテラスと、天皇家が支配した大和の土地神のオオクニタマとの両方の神をなんとかおさめようとした話が記述されているのは、そのためである。崇神はまた各地に吉備津彦らの四道将軍を派遣して、周辺を平定させた。のちに昔話となった桃太郎の鬼が島退治はこの吉備津彦の伝承がかたちを変えたのであったろう。
こんなこともあって崇神は「ハツクニシラススメラミコト」(御肇国天皇)と尊称された。おかしなことに、ここに「ハツクニシラススメラミコト」の称号をもつ天皇が、神武につづいて二人目になったのである。  
崇神の死後に、その子の垂仁(イクメイリヒコ)が、さらにその子の景行(オオタラシヒコオシロワケ)となった。
垂仁紀には、新羅からアメノヒボコの集団がやってきたこと、ヤマトヒメに近江・美濃・伊勢を探索させてアマテラスを五十鈴川のほとりに祀ったこと(伊勢神宮の起源)、タジマモリ(田道間守)を常世の国に派遣して非時香菓(ときじくのかぐのみ)を採取してこさせようとしたことなどが書いてある。そのどこまでが神話の範疇で、どこからが史実に近いかは判別しがたい。
次の第12代の景行は九州に遠征して熊襲のヤソタケルを討った。よく知られた話だ。その皇子のヤマトタケルことオウス(小碓)の獅子奮迅の知略と勇猛によって比較的広範囲の軍事的統一がはたされると、ヤマトタケルの弟にあたる成務(ワカタラシ)が皇位を襲い、諸国に国造や稲置をおいた。そう、書いてある。歴史学で補えば、これは行政単位の「評」(こおり)を「郡」にしたことにあたる。古代郡県制の萌芽だ。
ついでヤマトタケルの遺児だった仲哀(タラシナカツヒコ)が即位した。タラシナカのナカは次男という意味だろう。仲哀は景行の孫で、成務の甥にあたる。皇位継承としてはやや異例であるが、血はつながっている。
その仲哀の子が応神(ホムタノあるいはホムタ)である。ただし応神は幼童だったので、しばらくは仲哀の皇后だった神功皇后(オキナガタラシヒメ)が摂政となった。皇后は神託によって朝鮮半島に攻め入って、新羅を降伏させたということになっている(三韓征伐と伝承されているが、書紀は新羅に焦点をあてている)。
ちなみに神功の名のオキナガタラシヒメのオキナガは近江国坂田の地名であって、また「息長」であるところから海女などの系譜をもつ一族のシャーマン的な女性だったと推測される。いまも海に縁が深い住吉神社に祀られている。この近江国坂田という地域、また息長一族の伝承は、のちに継体天皇の出自とからんで「天皇の歴史」をさらに複雑なものにする。  
第15代の応神天皇は神功皇后が産む前から皇位が決まっていたというので、"胎中天皇"の異称をもった。いわば「生まれながらの天皇」だった。この記述もめずらしい。玉体を宿すという表意があるとしたら、ここに初めて登場した。
その応神時代はほぼ古代律令制の基礎が仕上がった時期にあたる。胎動する律令制のトップに天皇が就いただろうと推測できる時期である。重臣の葛城襲津彦が右腕だった。また、渡来部族がラッシュした時期でもあった。弓月君は秦氏のルーツで、ユ(斎)・ツキ(布)すなわち聖なる布を担い、王仁をルーツとする西文氏(かわちのふみ)は文書を担当し、阿知使主(あちのおみ)は東漢氏(やまとのあや)として中国文化と日本とをつなぐ役割をもった。
こうした渡来部族は「諸蕃」とされた。これは、天皇・皇族の系譜に属する氏族を「皇別」、諸国の神々(豪族)の後裔氏族を「神別」とすることに対応する。
以上のことをさまざまに交差させてみると、応神天皇はおそらくかなり高い確度で実在していた天皇だったということができる。が、そこにも奇妙な謎がのこるのだ。  
さて、本書ではこの応神紀までを『日本書紀』前半部のひとつの流れとみなしている。ここでいったん筋書きが完結しているとみなしたのだ。
その理由はいろいろあるのだが、一番目立つのは応神の皇位を継ぐにあたって三人の皇子が並立し、皇位継承とはべつにこの三子に地位と権力とを分割させたと『日本書紀』が書いていることにある。三子とは、オオヤマモリ(大山守)、オオササギ(大鷦鷯)、ウジノワキイラツコ(莵道稚郎子)である。  
応神は、長兄のオオヤマモリに山川林野の管理と支配(山海の政)を、次兄のオオササギに経済食糧問題の国政を総覧する権限(食国の政)を、ウジノワキイラツコに「天津日継」の権利すなわち皇位を継ぐ皇太子の地位を分担させた。ふつうなら、これは権力集中を避けたけっこうな善政である。本書の著者もそうだからこそ、ここで神武に始まった書紀の物語がいったんフィナーレを迎えたとみた。
ところが『日本書紀』は、この三子のあいだで奇怪な出来事が次々におこったと記述した。オオササギとウジノワキイラツコが譲り合いを始め、オオヤマモリがそれに乗じてウジノワキを襲うのだが、返り討ちにあう。さらにウジノワキが将来を案じて自殺する。やむなく万感の覚悟をもってオオササギが皇位を継承して仁徳天皇になったというのだ。
著者はこれはとってつけた筋書きだと断じている。実際には、ここから仁徳王朝が始まるのにあたって、応神までの流れとの整合性がつかないので、こうした兄弟紛争を挿入したのだろうと見るのである。ぼくはこの辻褄あわせについての著者の解釈には、いまひとつ納得できないものがあるのだが、それはおくとして、ともかくもここで大きな流れは分断されたのである。そして、ここからオオササギが仁徳を名った新たな王朝が始まったのだった。
なぜ著者はそのようにみなすのか。仁徳の政治があまりに中国的であり、あまりに儒教的であるからだ。そのような特色はここまでの天皇史にはまったく見られなかった。かくして『日本書紀』は、このあとを中国的王朝の修飾にもとづく記述に徹していく。  
第16代仁徳天皇の物語は、有名な高殿から庶民の竈の煙が少ないのを見て愕然とするというエピソード、宮殿が破損したり垣根が壊れても新装しなかったエピソード、仁徳が自身の衣服や靴が破れても新調しなかったエピソード、そして課役を3年にわたって免除したエピソードなどでびっしり埋まっている。
まさに善政に徹する帝王の姿を書いている。これらが必ずしも粉飾や誇張でないかもしれないことは、とくに課役の免除は「復」とよばれて、これ以降の日本史には「復三年」として頻繁に登場してくることからも、ある程度の見当がつく。著者はこうしたことを検討して、仁徳からきわめて中国的な王朝が開始したと推理する。とくに仁徳紀に「天命に応じて着位した」というニュアンスが濃いことに注目している。応神と仁徳は記述上では親子ではあるのだが、そこにはまったく新たなスプリットが芽生えていたのだ。
では、中国的な仁徳王朝はいつまで続いたのか。これについては仁徳と似た記述がされている第25代の武烈まで続いたと著者は見る。まず名前が似ている。オオササギの仁徳に対して武烈はオハツセノワカササギという。ササギはミソサザイのこと、また「オオ」(大)に対して「オ」(小)が対応した。側近の忠臣も仁徳が平群木莵であるのに対照して、武烈には平群真鳥がついたことになっている。これはおそらく作為がはたらいているのではないか。そうだとすれば仁徳王朝は武烈までが半径に入るのではないかというのだ。  
仁徳の妻は葛城襲津彦の娘のイワノヒメ(磐之媛)だった。イワノヒメの3人の息子はそれぞれ皇位についた。イザホワケは履中に、ミツハワケは反正に、オアサツマは允恭天皇になった。この3人は中国皇帝から称号を与えられたいわゆる「倭の五王」にかぶさってくる。履中が「讃」、反正は「珍」、允恭は「済」に同定される(本書では允恭=済は成立しないかもしれないという)。
まさに中国的帝王の連打であった。允恭紀に盟神探湯(くがたち)という神判がなされ、氏姓の混乱の匡正が実行されたことも、この時期の天皇中心の氏姓システムの強化がおこったことを暗示する。「氏」は天皇に直属して政治的な地位を父系で相続するもので、蘇我・平群・物部・大伴などがこれに属した。「姓」はそうした政治組織のシステムで活躍する豪族のランクを示すもので、臣(おみ)・連(むらじ)・直(あたい)・造(みやつこ)・首(おびと)などになる。
ただし、この時期はまだ天皇の呼称はなかったので(天武時代まで「天皇」とはよばれていない)、歴史学的には仁徳王朝の「倭の五王」時代は大王(おおきみ)の権力確立期とみなされる。
ついでアナホ(穴穂皇子)とキナシノカルノ(木梨軽皇子)が対立して兵力をもって激突し、アナホが第20代の安康天皇となった。中国名は「興」をもらった。ただし安康はわずか在位3年で眉輪王に首を切られて惨殺された。眉輪王は復讐をおそれて円大臣(つぶらのおおおみ)の屋敷に隠れるのだが、これを允恭の第5子のオオハツセが焼き払った。かくして「倭の五王」の最後に登場してくるのがオオハツセともワカタケルとも称した第21代雄略天皇である。
倭王「武」にあたる。歴史学ではここまで「日本」ではなく「倭」あるいは「倭国」なのである。  
本書は『日本書紀』雄略紀の記述には『隋書』の影響が濃厚に反映していると観察する。具体的には隋の文帝が雄略に、楊勇・楊秀が反乱をおこした星川皇子に、隋の煬帝がその星川皇子の反乱を制圧した清寧天皇(シラカ)に比定されるという。
なぜそうなったのか、これについては理由がはっきりしている。雄略紀から清寧紀をふくむ書紀編纂を担当したのが続守言という中国人だったということがわかってきたからだ。森博達の『日本書紀の謎を解く』がその証拠をあげている。このことからも仁徳王朝の記述が中国的なフォーマットやスタイルを意図していたと憶測できる。
そのほかに本書が独自の推理をしているのは、雄略の後継者は本来は武烈であったのが、ある理由で清寧になったのではないかということだ。わかりやすくいえば、雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈の5人の天皇の事績は、続守言が日本側の反応を見ながらかなりフィクショナルに綴ったもので、とくに雄略にさまざまな事績を集中させたふしがあるということなのである。
というわけで第25代の武烈(ワカササギ)の記述は、さきほどもふれたように仁徳の事績と作為的に照応させて綴ったとみられ、仁徳王朝の流れはやはり中国的な歴史観にあわせて編纂されたとみなすことができるということになる。のみならず、『日本書紀』が総じて実在の天皇の史実にのっとってはいなかったことが浮上してしまうのだ。  
本書はオオド(オホド)が第26代の継体天皇に着任するところまでを扱っている。継体は大伴金村に擁立された天皇で、書紀では応神の5世孫とされているものの、実際には不明点が多い。
父母の出身は『古事記』によると近江らしく、そうだとすると応神同様の息長一族の血縁だったとも想定できるし、『日本書紀』では継体が誕生したのは越前の三国であったと記述されているのを重視すると、北方部族や朝鮮半島との関係も推測できる。また、継体在位中に九州筑紫で磐井の乱が勃発し、継体が大伴金村・物部麁鹿火・蘇我稲目らの強者たちを統率していったことをおもうと、かなり新しいリーダーシップを発揮したニューウェーブな天皇だったとも窺える。さらに皇位を継承してから大和に入るまでに20年をかけている異様な事情からは、この時期、皇位の認識やその発動に大きな時代変化があったとも考えたくなってくる。かつては継体を非血縁者だとか皇位纂奪者だとかとする見方もあった。
そんなことから多くの研究者たちは、また本書の著者は、継体天皇からはまったく新たな王朝時代が始まったというふうに見る。ぼくとしてはこの継体からこそ本格的な「天皇の歴史」を説き起こしたいのであるが、今夜はここまでで幕を引くことにする。  
本書が何をあきらかにしようとしたかは、あらためて言う必要はないだろう。日本の天皇史の初期は中国を意識していたということなのだ。『日本書紀』は日本初期を再現しなかったのだ。
そういうことがありえないこととは言えない。戦後の日本ですら、アメリカを向いて書かれた歴史や中国・ソ連を向いて書いていた歴史が多かった。『天皇家はなぜ続いたか』のなかで網野善彦は講座派と労農派の天皇歴史観の歪みを指摘したものだ。
いったい「天皇の歴史」とは何なのだろうか。われわれに内属する歴史なのか、外挿された歴史なのか、それともどこにでもありそうな一族の英雄譚なのか。では、次のような現実は何を物語っているのだろうか。  
今日なお皇室では皇室祭祀がおこなわれている。皇居内の宮中三殿で挙行されているもので、天照大神を奉祀して神鏡を神体とする賢所(かしこどころ)、神武以来の歴代天皇と追尊天皇・歴代皇后・皇妃・皇親を祀る皇霊殿、天神地祇八百万神を祭神とする神殿でおこなわれる。これらは今日の憲法解釈ではすべて宗教施設であって、皇室の用に供する国有財産たる皇居の中にある天皇家の私有財産にあたる。『憲法と天皇制』の横田耕一によると、宮中三殿を国有とみるのは政教分離原則から照らして無理があるという。
しかし、この宮中三殿への奉仕は内廷費によって雇用されている掌典職によっているのだし、国家公務員である宮内庁職員の式部職たちが祭儀を補助したり祝詞を書いたりしているのである。また侍従という国家公務員が毎日、宮中三殿に「毎朝御代拝」をおこなってもいて、これらが天皇家の私的な行事だとみるのも無理がある。
天皇のシンボルになっている三種の神器についても一言加えておくと、歴史的には鏡(八咫鏡)は伊勢神宮、剣(天叢雲剣=草薙剣)は熱田神宮、玉(八坂瓊曲玉)は宮中に守られているのだが、それを現在は皇室の神器とは言わないで、皇室経済法に書かれた「皇位とともに伝わるべき由緒あるもの」という規定のもとに管理していることになっている。とくに八咫鏡は賢所にも模造品が天照大神の御霊代(みたましろ)として安置されているのだが、これは伊勢神宮の神鏡の形代(かたしろ)だという解釈になっている。形代だとすれば、これは永代である。この解釈は1960年に池田勇人首相名で文書化された。いったいこのような消息は何を物語っているのだろうか。  
では、結論だ。天皇の起源の謎から象徴天皇制の未決の事項まで、語るべきことや糺すべきことはいくらでもあろう。法や内規によって決めればすむこともいくらもある。しかしまた、語りえないことや語らないことも、また立証できないこと、糺さざることも、歴史や現在には息づくばあいもありうるのである。法や内規の条文になったからといって、それで「歴史」は語れない。『日本書紀』ばかりを犯人とするのも、実は無理があったのだ。 
 
伊耶那岐命と伊耶那美命 1

 

伊耶那岐命(イザナギノミコト)と伊耶那美命(イザナミノミコト・イザナギノミコトの妻)
第1章 神々の出現
昔むかし、この世界で最初に天に現れましたのは、アメノミナカヌシノカミ(天之御中主神)という神様でした。次に、タカミムスビノカミ(高御産巣日神)とカミムスビノカミ(神産巣日神)という神様が出現なさいました。この三柱(みはしら。※神様の数は、「柱」で数えます。)の神様は、そのお姿を地上には、直接現しませんでした。
その次に、日本の国がまだ海に浮かぶ脂のごとく、くらげのようにただよっていた時に葦(あし)の芽が萌え上がるように現れたのは、ウマシアシカビヒコジノカミ(宇摩志阿斯訶備比古遅神)とアメノトコタチ(天之常立神)という神様でした。これらの五柱の神様は、コトアマツカミ(別天つ神)といって、それぞれ独身(ひとりみ)で現れた天の神様たちです。
その後、クニノトコタチノカミ(国之常立神)とトヨクモノカミ(豊雲野神)の二柱の神様が独身で現れました。その次からは、ご夫婦の神として五組の神々が現れました。そのうちの最後に現れましたのは、イザナギの神と(伊耶那岐命=イザナギノミコト)とイザナミの女神(イザナミノミコト=伊耶那美命)のご夫婦の神様です。(以上、クニノトコタチの神からイザナミの女神までを「神代七代(かみよななよ)」といいます。※ご夫婦の神は、二柱で一代です。) 
第2章 日本列島の誕生(1) 国生み
ある時、天の神様たちは、イザナギノミコトとイザナミノミコトに「この海の中にふわふわと漂っている国をしっかりと固めて完成させてほしい。」とおっしゃって、天にあるりっぱな矛(ほこ)をお授けになられました。
そこで、イザナギノミコトとイザナミノミコトは、天からつながっている浮桟橋(うきさんばし)までやって来て、矛を降ろして、下界の海水をゴロゴロと掻き回してから、引き上げてみました。その時に、矛の先からしたたる海水が重なってできたのがオノゴロ島(大阪湾内の島?)です。
イザナギノミコトとイザナミノミコトは、その島に天から降り立って、天の神聖な大きな柱をお立てになり、その柱を中心として大きな御殿を作られました。そして、イザナギノミコトは、妻のイザナミノミコトにお尋ねになりました。
「あなたの身体はどのようになっていますか?」
「私の身体は、すっかり美しく出来上がっていますが、一カ所だけ出来きれていないところがあります。」
とイザナミノミコトがお答えになられると、
「ほう、私の身体もよく出来上がっているが、一カ所だけ出来き過ぎたところがあります。では、私のからだの出来すぎたところをあなたの身体の出来きれないところに刺して、塞いで、この国を生みたいと思うのだが、どうだろうか?」
「それがよろしいでしょう。」
とイザナミノミコトもおっしゃいましたので、イザナギノミコトは、
「では、私とあなたはこの天の御柱(あめのみはしら)を回って出会い、男女の交わりをいたしましょう。私は、右から回るので、あなたは、左から回ってみてください。」
と約束されてから、お回りになったときに、妻が先に
「まあ、本当にすてきな男性ですね。」
とおしゃって、その次に夫が、
「やあ、本当に美しい女性ですね。」
とおっしゃいました。それぞれが言い終わった後に、イザナギノミコトは、
「どうも女が先に言うのはしっくりとこない。」
とおっしゃいましたが、ともかく暗い場所で子をお生みになりました。しかし、この子はとても醜くい子であったので、葦の船に乗せて流してしまわれました。次に淡島(あわしま。四国の阿波地方=現在の徳島県を指す)をお生みになりましたが、これも子どもとはみなされませんでした。  
第3章 日本列島の誕生(2)(大八島国)
「今、私たちが生んだ子どもたちは、どうもよくない。もう一度、天つ神様たちの所へ行って、尋ねてみよう。」
と二柱の神は相談され、ご一緒に天つ神のところに参上し、お伺いを立てました。
天つ神のご命令で、鹿の骨を焼いて占ったところ、「女が先に声をかける事はよくない。また戻って改めて言いなおせ。」とのお告げがありました。
そこで二柱の神は、島に降り戻って、もう一度、天の御柱を前のようにお回りになられました。今度は、イザナギノミコトが先に
「やあ、本当に美しい女性ですね。」
とおっしゃると、その後でイザナミノミコトが、
「まあ、本当にすてきな男性ですね。」
とおっしゃいました。このように言い終わった後に男女の交わりをしてお生みなった子が、淡路島(あわじしま。瀬戸内海最大の島。現在は兵庫県の一部)です。こうして、イザナギノミコトとイザナミノミコトが次々にお生みになったのは、以下の島々です。
四国(※古事記には、次のように書かれている。「この島は、身体が一つで顔が四つある。伊予の国をエヒメ(愛比売)といい、讃岐の国をイイヨリヒコといい、阿波の国をオオゲツヒメといい、土佐の国をタケヨリワケという。」)
隠岐島(おきのしま。島根県の隠岐諸島
九州(※古事記には、次のように書かれている。「この島も身体が一つで四つの顔を持つ。筑紫の国をシラヒワケといい、豊国をトヨヒワケといい、肥の国をタケヒムカヒトヨクジヒネワケといい、熊曾の国をタケヒワケという。」)
壱岐(いき。長崎県壱岐郡。飛石状をなす島)
対馬(つしま。長崎県対馬。九州と朝鮮半島の間に位置する)
佐渡(さど。新潟県の日本海最大の島)
本州(大倭豊秋津島=オオヤマトトヨアキツシマ)
このように、八つの島をお生みになったので、この国を「大八島国=おおやしまのくに」というのです。
この後も二柱の神は、次の六つの島もお生みになりました。
吉備の児島(岡山県児島半島)
小豆島(あずきしま。香川県小豆郡の瀬戸内海の島=しょうどしま)
大島(山口県の屋代島)
女島(ひめじま。大分県姫島?)
知訶島(ちかのしま。長崎県五島)
両児島(ふたごのしま。特定不可) 
第4章 イザナミと火の神
イザナギノミコトとイザナミノミコトは、国をお生みになった後、次の十柱の神々をお生みになられました。
オオコトオシオノカミ、イワツチビコノカミ、イワスヒメノカミ、オオトヒワケノカミ、アメノフキオノカミ、オオヤビコノカミ、カザモツワケノオシオノカミ、海の神であるオオワタツミノカミ、港の神であるハヤアキツヒコノカミとハヤアキツヒメノカミ
このうちのハヤアキツヒコとハヤアキツヒメのご夫婦の神が河と海でそれぞれ分けて次の八柱の神々をお生みになられました。
アワナギ、アワナミ、ツラナギ、ツラナミ、アメノミクマリ、クニノミクマリ、アメノクヒザモチ、クニノクヒザモチ
さらに、四柱の神々をお生みになりました。
風の神のシナツヒコ、木の神のククノチ、山の神のオオヤマツミ、野の神のカヤノヒメ(別名ノヅチノカミ)
このうちのオオヤマツミとカヤノヒメが山と野で分けて、次の八柱の神々をお生みになられました。
アメノサヅチ、クニノサヅチ、アメノサギリ、クニノサギリ、アメノクラト、クニノクラト、オオトマドイコ、オオトマドイメ
イザナミノミコトは、さらに次の八柱の(男女の神は一柱とする)神々をお生みになられました。
イワクスブネ、オオゲツヒメ、火の神であるホノカグツチ(火迦具土神。別名をホノヤギハヤオ、ホノカガビコ)、カナヤマビコ、カナヤマビメ、ハニヤスビコ、ハニヤスヒメ、水の神のミツハノメ、ワクムスビ、ワクムスビの神の子であるトヨウケビメ)
しかし、イザナミノミコトは、火の神のホノカグツチの神をお生みになった時に、陰部を火傷(やけど)され、ご病気になられ、しばらくしてお亡くなりになられたのです。
イザナギノミコトは、「あの火の子を産んでしまったがために、最愛の妻を亡くしたのはとても残念だ。」と悲しまれて、イザナミノミコトの枕元や足元でおなげきになられました。(※注1)
そして、イザナミノミコトを出雲(いずも=現在の島根県東部)と伯耆(ほうき=現在の鳥取県西部)の国境にある比婆山(ひば=広島県比婆郡)にお葬りいたしました。その後でイザナギノミコトは、ホノカグツチを恨まれて、その首を長い剣で斬り落とされてしまわれました。(※注2)この剣の名をアメノオハバリ(天尾羽張)といいます。
(注1) この時、イザナギノミコトの涙から香具山の麓の池の神のナキサワメノカミ(泣沢女)がお生まれになりました。
(注2) この時、剣についた血がしたたり落ちたところから八柱の神々がお生まれになられました。また、殺されたホノカグツチの神の頭、胸、腹、陰部、両手、両足から八柱の神々が生まれました。  
第5章 黄泉の国(よみのくに)
イザナギノミコトは、イザミノミコトにもう一度お逢いになりたいと思われ、その後を追って黄泉の国(地下にあると信じられた死者の世界)に行かれました。黄泉の国の御殿の戸からイザナミノミコトがお出迎えになられると、イザナギノミコトは、
「わが愛しの女神よ。わたしとあなたで作った国は、まだ作り終えてはいない。もう一度戻ってきておくれ。」
とおっしゃいましたが、イザナミノミコトは、
「わたしは、とても悔しいのです。あなたは、すぐにわたしを助けに来てくださいませんでしたので、黄泉の国の食べ物を食べてしまいました。(黄泉の国の住人になっていまいました。)しかし、愛しいあなたが、せっかくおいでくださったので、わたしも帰りたいと思います。これから黄泉の国の神に相談いたしますので、その間は、決してわたしの姿を見ないでください。」
とおっしゃって御殿の中へ戻ってしまわれました。
しかし、女神はなかなか出てこられないので、イザナギノミコトは、しびれを切らしてしまい、左がわの髪に付けていた櫛(くし)の太い歯をひとつ折って、それに火をともして御殿へ入って中をのぞかれました。そこには、世にも恐ろしい光景がありました。女神のからだから、たくさんの蛆虫(うじむし)が湧き出ていて、ゴロゴロという音がしています。頭からは、大きな雷(かみなり)が、胸には火の雷が、腹には黒い雷が、陰部には裂けるような雷が、左手には若い雷が、右手には土の雷が、左足には鳴る雷が、右足にははねる雷の八種類の雷が発生してゴロゴロと鳴りひびいています。イザナギノミコトは、たいへん驚かれて一目散に逃げ出しました。
イザナミノミコトは、
「あなたは、わたしに恥をかかせましたね。」
とおっしゃると、黄泉の国の醜い化け女を使わせて、後を追わせました。イザナギノミコトは、頭に付けていた黒い木のつるで作った輪を、化け女に投げつけると、山ぶどうの木が生えました。化け女が山ぶどうを食べているすきに逃げましたが、そのうちに再びこの気味の悪い女は追いかけてきます。そこで、右がわの髪に付けていた櫛の歯を折り、投げつけてやると、今度はタケノコが生えました。化け女がタケノコを食べているすきに逃げました。
するとイザナミノミコトは、先ほどの八種類の雷神に加えて、黄泉の国の千五百もの化け物たちの軍隊を動員して後を追わせました。イザナギノミコトは、長い剣を後ろの方へ振り回しながら逃げましたが、化け物たちはなおも追ってきます。とうとう地上から黄泉の国の入り口へと降りる坂(黄泉比良坂=よみのひらさか)の坂下まで着いたときに、そこにあった桃の木から桃の実を三つ取って投げつけてやると、化け物たちはみな逃げて行きました。
そこでイザナギノミコトは、その桃の実に
「お前が、わたしを助けてくれたように、この葦原の中つ国(あしはらのなかつくに=葦原とは日本のこと。中つ国とは、天上の高天原と地下の黄泉の国との間にある地上の世界という意味)の人間たちが、つらいことや苦しいめにあった時に助けてやってほしい。」
とおっしゃって、オホカムヅミという名前を与えました。
しかし、ついにイザナミノミコトが自ら追って、坂の下までやってきました。驚いたイザナギノミコトは、大きな岩で坂を通れないようにふさいでしまいました。その岩をはさんで、イザナギノミコトとは、イザナミノミコトに「離婚をしよう。」とおっしゃいました。すると、イザナミノミコトが、
「愛しいあなたが、このようなことをされるのならば、わたしは一日にあなたの国の人間たちを千人殺してあげましょう。」
というと、オザナギノミコトは、
「愛しい女神よ。あなたがそうするなら、わたしは、一日に千五百の産屋(うぶや=出産のために建てる家)を建てましょう。」
とおっしゃいました。こういうことから、人間は一日に千人が死に、千五百人が生まれてくるのです。
イザナミノミコトのことをヨモツオオカミ(黄泉津大神)又は、チシキノオオカミ(道敷大神=道を追いかけてきたことによる。)といいます。また、坂をふさいだ大きな岩は、ヨミドノオオカミ(黄泉戸大神=黄泉の入り口にある大神)と申します。そして、いわゆる「黄泉比良坂」は、今の出雲の国の伊賦夜坂(いふやざか=島根県八束群東出雲町揖屋)という坂です。  
第6章 黄泉返りと禊ぎ(よみがえりとみそぎ)
こうしてイザナギノミコトは、やっと黄泉の国から地上へ戻られました。(このことから、日本語の「よみがえる=蘇る・蘇る」は、「黄泉の国から返る」という意味が元になっているのす。)
イザナギノミコトは、「わたしは、とても汚く穢(けが)れた醜(みにく)い国へ行ってしまったので、みそぎ(禊ぎ)をしなければならない。」がおっしゃって、九州の日向(ひゅうが=現在の宮崎県北部)の「橘の小門の阿波岐原(たちばなのおどのあはきはら)」にお出ましになり、みそぎをなさいました。その時に、身につけていたもの(杖・帯・袋・衣服・袴・冠・腕輪)を投げ捨てする時に十二柱の神々※が出現しました。
※衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)、道之長乳歯神(みちのながちはのかみ)、時量師神(ときはかしのかみ)、和豆良比能宇斯神(わずらいのうしのかみ)、道俣神(ちまたのかみ)、飽咋之宇斯神(あきぐいのうしのかみ)、奥疎神(おきさかるのかみ)、奥津那芸佐?古神(おきつなぎさびこのかみ)、奥津甲斐弁羅神(おきつかいべらのかみ)、辺疎神(へさかるのかみ)、辺津那芸佐?古神(へつなぎさびこのかみ)、辺津甲斐弁羅神(へつかいべらのかみ)
そして、イザナギノミコトは、「上流の方は水の流れが速く、下流はおそい。」とおっしゃられて、海の真ん中で身体(からだ)をお洗いになった時に、十柱の神々がお生まれになりました。
最初の二柱の神は、黄泉の国にいたときの汚れたものから生まれた神(禍の神)で、ヤソマガツヒノカミ(八十禍津日神)とオオマガツヒノカミ(大禍津日神)です。
次に生まれた三柱の神は、黄泉の国で取り憑いた禍(わざわい)を取り除くときに生まれた神で、カミナオビノカミ(神直?神)、オオナオビノカミ(大直?神)、イズノメ(伊豆能売)です。
次に生まれた六柱の神は、いずれも海の神です。
海の底で身体を洗われた時に生まれたソコツワタツミノカミ(底津綿津見神)とソコツツオノミコト(底筒男命)
海中で身体を洗われた時に生まれたナカツワタツミノカミ(中津綿津見神)とナカツツオノミコト(中筒男命)
海面で身体を洗われた時に生まれたウエツワタツミノカミ(上津綿津見神)とウエツツノオノミコト(上筒男命)
以上のうち三柱のワタツミノカミ(綿津見神)は、安曇氏(あずみうじ)たちの祖先の神です。
また、ソコツツ、ナカツツ、ウエツツの三柱の神は、住吉神社に祭られている神です。
最後にうまれた三柱の神々は、左の目をお洗いになった時に出現したアマテラスオオミカミ(天照大御神)、右の目をお洗いになった時に出現したツクヨミノミコト(月読命)、鼻をお洗いになった時に出現したスサノオノミコト(須佐之男命)です。
第7章 スサノオ
イザナギノミコトは、「わたしは、これまで多くの子を生んだが、一番最後に貴い三人の子どもたちを得た。」とお喜びになられました。そして、ご自分の首にかけていた玉の首かざりをゆらゆらと鳴らせながらアマテラスオオミカミに授け、「あなたは、天を支配しなさい。」とおしゃっいました。次にツクヨミノミコトに「あなたは、夜の国を治めなさい。」といい、スサノオノミコトには、「あなたは、海原を治めなさい。」とおっしゃいました。
こうして、それぞれの神は、イザナギノミコトから命じられた国を治められましたが、スナオノミコトだけは、海原の国を治めずに、ヒゲが胸元までのびたおとなになっても、泣きさわいでおりました。その泣く有様は、ものすごくて、緑の山々が枯山になり、海や川の水が乾ききってしまうほどでした。この悪い神が起こした乱暴な物音は、ハエのように世界に満ち満ちてしまったので、あらゆる災い(わざわい)ごとが次々と起こりました。
そこでイザナギノミコトが、
「なぜ、お前は、命じた国を治めないで、泣きさわいでいるのか。」
とお聞きになると、スサノオは、
「わたしは、お母さんのいる黄泉の国へ行きたくて、泣いております。」
と答えたので、イザナギノミコトは、たいへんお怒りになり、
「そ れならば、お前はこの国にいてはならない。」
とおっしゃって、スサノオノミコトを海原の国から追いはらわれてしまいました。
※イザナギノミコトは、淡路島の多賀の社(やしろ)にお鎮(しず)まりになっておられます。 
 
伊耶那岐命と伊耶那美命 2

 

神生みの始まり
さて、イザナギとイザナミの国生みによって、この世界には、立派な大陸が出来ました。そして、今度は、本格的な神々を生み落とす、「神生み」に突入します。その数は、実に、膨大で、とにかく、登場する神の名前はたくさん登場します。ですので、非常に分かりにくい部分もあるかと思いますが、皆さんの生活においても、とても重要な神々が登場するシーンでもありますので、少しずつでも良いので、確認してみて下さい。
先ず、最初に、大事忍男神(オホコトオシヲ)が生まれます。唯、名前から想像されるように、これは、「大事を耐え忍び達成した」といういわゆる大仕事を終えた結びを表すという指摘が多く、本来は、もっと後に登場すべきところを誤ってここに入れてしまったと解釈する方が多いようです。そのため、その性質をみても非常に分かりにくいのですが、一部には、こちらオホコトオシヲと次に現れる家宅六神を以て、国生みで生まれた島々を固める神々とみている向きもあるようです。
そして、家宅六神は、石土毘古神(イハツチビコ)を筆頭に、石巣比売神(イハスヒメ)、大戸日別神(オホトヒワケ)、天之吹男神(アメノフキヲ)、大屋毘古神(オホヤビコ)、風木津別之忍男神(カザモツワケノオシヲ)と続きます。イハツチビコとイハスヒメは、一対の神とされ、家屋の材料となる石や土、土砂など表します。続く、オホトヒワケは、家屋の出入り口を意味し、広義には、門を意味すると言われます。そして、アメノフキヲは、天が吹くから転じて、屋根を葺く動作を表し、続く、オホヤビコが屋根そのものを表すことから、ある意味、一組の関係にあるとも言えます。
そして、最後に登場するのが、カザモツワケノオシヲで、防風から家を守護する神であり、自然災害から家を守る役目を担う神となります。こうした家屋にまつわる神々を家宅六神と呼び、土地が出来て家が立つという建築の流れを見ているようで面白いですね。
続く7柱の神々は、より本格的な神々になります。それが大いなる自然の神々です。こちらは、海神、大綿津見神(オホワダツミ)を筆頭に、7柱の神々が誕生します。オホワダツミは、海を司るとされますが、底津綿津見神(ソコワタツミ)、中津綿津見神(ナカワタツミ)、上津綿津見神(カミワタツミ)の総称も綿津見神(ワダツミ)としておりますので、相関値が高そうなのですが、詳しいことは分かりません。続く、速秋津日子神(ハヤアキツヒコ)と速秋津比売神(ハヤアキツヒメ)は、一対の神とされ、その後、四対八神の神々を産み落とすのですが、こちらは、一対を総称して、水戸神(ミナト)とも呼ばれます。こちらは、港の神とされ、港が河口に面していることからも、河口の神ともされます。中には、川にケガレを流すという意味からケガレを除ける神とされ、瀬織津比売(セオリツヒメ)、気吹戸主(イブキドヌシ)、速佐須良比売(ハヤサスラヒメ)とともに、祓戸四柱大神、略して、祓戸大神(ハラエドノオオカミ)として、ケガレを取り除く神さまの代表格としても有名です。
続く、志那都比古神(シナツヒコ)は、風の神、久久能智神(ククノチ)は、木の神となり、大山津見神(オオヤマツミ)は、この後、度々、ストーリーに登場し続ける重要度の高い神さまで、山の神の総元締とされています。ただ、オオヤマツミには、別称として、和多志大神(ワタシ)の名を持ち、「わた」が海を表すことから、海神としての性質も持ち合わせているのではないかとも言われています。また、一部には、オオヤマツミを金運の神として祀るケースもありますが、これは、山の幸、海の幸といった自然から採取できる恵み(贅沢品)を統括している点で金運と結びつけられていると考えることもできます。続く、草の神である鹿屋野比売神(カヤノヒメ)とは、その後、四対八神の神々を生んでいます。
以上の7柱の神々をもって、自然を司る神々は一旦終了します。そして、最後に、人類の英知へとつながる神々に突入します。最初に登場するのは、鳥之石楠船神(トリノイハクスブネ)という、神が乗る舟の名を司る神です。別名、天鳥船(アメノトリフネ)とされ、建御雷之男神(タケミカヅチ)が出雲の地に国譲りのために降臨する際にも登場しています。そして、大宜都比売神(オオゲツヒメ)は、穀物の神として、私たちの生活に農業をもたすことになる重要な神さまのひとつになります。最後に、火の神である火之迦具土神(ヒノカグツチ)が生まれるのですが、これが、イザナギとイザナミにとって、大いなる悲劇への始まりとなります。 
カグツチの悲劇
イザナミは、火の神、カグツチを生むと、陰部に大やけどを負い、病床で苦しみます。その時の嘔吐物、糞尿からも6柱の神々が生まれました。これら神々は、私たち人間が生きて行く上で、最も重要な産業を司る神々となりました。金山毘古神(カナヤマビコ)と金山毘売神(カナヤマビメ)は鉱山の神で、鉱業や金属加工の神とされ、イザナミの嘔吐物から生まれます。続く、波邇夜須毘古神(ハニヤスビコ)と波邇夜須毘売神(ハニヤスビメ)は、イザナミの大便から生まれ、土の神とされています。
そして、これまでの2組は、両神とも同じ性質の神々が男女に分かれて誕生してきました。しかし、最後の一対の神々は、他と少々異なり、男女一対としながらも、その性質は、それぞれ異なります。彌都波能売神(ミツハノメ)は、水を司る代表的な神となります。それに対し、和久産巣日神(ワクムビ)は、穀物や養蚕を司るとされており、成長を促進する、形作る、生成の神となります。そして、この両神から生まれる神は、豊宇気毘売神(トヨウケビメ)と言い、伊勢の下宮こと、豊受大神宮に祀られる食物神になります。これらは、後のエピソードでも強く語られますが、こうした糞尿や汚物が、自然の恵みとして、新たな生命を司ることを伝える非常に重要な場面のひとつとなります。しかし、こうして、悶え苦しんだイザナミは残念なことに、ここで亡くなってしまうのです。
ひとまず、イザナギは、亡き妻の遺体を比婆山に埋葬します。しかし、イザナミを失ったイザナギの悲しみは深く、その怒りの矛先は、イザナミが亡くなる直接的要因となったカグツチに向けられてしまいます。そして、カグツチは、あろうことか、実の父であるイザナギに斬り殺されてしまいました。この時、使った十拳剣(とかのつるぎ)から飛び散るカグツチの血、そして、カグツチの遺体の各部それぞれから16柱の神々が誕生しました。
特に、その飛散した血液から生まれた神々は、ストーリー上重要な神様も含まれます。最初に、石折神(イハサク)と根折神(ネサク)が、一対の神として生まれ、「岩根さえも裂く剣の威力」を司ります。続く、石筒之男神(イワツツノヲ)は、剣を鍛える槌を司り、甕速日神(ミカハヤヒ)は、そのまま火の神を継承しました。そして、闇淤加美神(クラオカミ)と闇御津羽神(クラミツハ)は、一対の神となり、闇は、谷を示すことから、谷合いの水、または、井戸を司るとされました。そして、淤加美(オカミ)は龗とも書き、一部、これは、龍を意味する古語とも言われ、谷の水を司る竜蛇神であるという説もあります。そして、これが日本書紀でいう、高龗神(タカオカミ)と同一とされ、ミズハノメと同じく、水の神を司る神さまとして、非常に有名な神様となります。因に、高龗神は、貴船神社で祀られています。
そして、最後に、この中で最も有名な神様となる建御雷之男神(タケミカヅチ)が誕生します。タケミカヅチは武神として非常に有名で、刀剣の神を司るとされます。ただ、これらの神々は、本来、カグツチの肉体から生じたため、その親神はカグツチと言いたいところですが、別の見方をすれば、これらの神々は、カグツチを斬った十拳剣から生まれたとも言え、十拳剣の精霊神となる天尾羽張(アメノヲハバリ)は、後に、タケミカヅチの父神として登場するなど、その相関図は少し分かりにくくなっております。
こうしてカグツチの体からは様々な神々が誕生するのですが、カグツチの血から生まれた神々は、どちらかと言うと、戦ごとにまつわる神が多く、残るカグツチの体から生まれた神々は、いずれも山に関わる神が多いような気がします。一説には、剣の鋳造自体が、山中で行われていたためとも言われ、そう考えるとカグツチの悲劇は、人類が火と出会ったことによる進化の歴史(産業発展の希望の光)と軍事力を持つことになった、力の闇の部分という矛盾を表しているような気もしないでもありません。しかし、結局のところ、カグツチを斬ったところで、イザナミが帰って来るはずもなく、悲嘆に暮れるイザナギは、イザナミに会いに、死者の国である、黄泉の国に向かうことを決意するのでした。  
日本神話の見るなのタブー
「見るなのタブー」とは、「見てはいけませんよ」という警告を無視して、それを見てしまったがために、悲劇に見舞われるタイプの話で、これは、世界各地に多くの類似ストーリーがあります。「鶴の恩返し」や「浦島太郎」なんかは正にその典型で、「分かっちゃいるけどやめられない」といった、「人」本来が持つ性格的矛盾を表しているとも言えます。そんな類型の話を総称して、「見るなのタブー」と呼ぶのですが、こちら古事記にもそんなタブーの話が何度か登場します。そして、その最初に登場するのが、これから始まるイザナギとイザナミの黄泉の国エピソードとなります。
妻、イザナミを失い、悲嘆に暮れるイザナギは、その想いを諦め切れず、黄泉の国にいるというイザナミに会うことを決意します。黄泉の国は、日本神話における死者の世界で、いわゆる「あの世」の世界です。そして、イザナギは、黄泉の国へと通ずる黄泉比良坂(よもつひらさか)を訪れ、そのまま黄泉の国との境にある根の堅州国(ねのかたすくに)へと向かいました(一説には、黄泉の国と根の堅州国は同じとする考えもあります)。しかし、時既に遅し、イザナミは、既に黄泉の国の物を食べてしまったため、元の国には帰ることができない体となってなっておりました。しかし、それを知らないイザナギは、イザナミの近くまで訪れ、その扉の向こうにいるであろうイザナミに対し、その熱い想いを伝えるのでした。
そして、イザナギは、扉の向こうにいるイザナミに、「なぜこんなに早く死んでしまったのだ。もう一度、力を合わせて国造りに励もうではないか。」と共に帰ることを提案します。しかし、既に、黄泉の国の住人となってしまったイザナミにとって、これは大変難しいことではありました。しかし、イザナギの熱意に負け、イザナミは、黄泉の神々に掛け合うことにしました。ただし、それは時間が必要とのことで、少し待っているようにと言い残し、イザナミはその場を離れました。
しかし、なかなか返事がこないイザナミに、しびれを切らせたイザナギは、その約束の時を待たず、扉を開き、イザナミに会いに行ってしまいました。すると、イザナギの目に飛び込んで来たのは、8柱の雷神をまといながらも、体が腐敗し、ウジ虫の湧くイザナミの変わり果てた姿でした。驚いたイザナギは、その場を逃げ去ろうとしますが、約束を破り、姿を見られたイザナミは、怒りに震え、逃げるイザナギを追いかけます。そして、ここから、イザナミによるイザナギ追走劇が始まります。
逃げるイザナギ、追うイザナミ。先ずは、イザナギの元に、黄泉醜女(ヨモツシコメ)が遣わされます。ヨモツシコメは、黄泉の国住む鬼女で、ひとっ飛びで、千里(約4千キロ)を走る俊足の鬼女でした。迫り来るヨモツシコメに対し、イザナギは、先ず、つる草で出来たクロミカヅラ(髪飾り)を投げつけつけます。すると、そこから、山葡萄の実が実り、ヨモツシコメの注意をそらすことに成功しました。しかし、ヨモツシコメは、山葡萄を全て喰らい尽くすと、すぐさま、イザナギの元を追いかけ直します。すると、続いて、イザナギは、角髪(みすら:太古の人たちの髪型の一種)から湯津津間櫛(ゆつつまくし:クシの一種)を取り出し、そのクシの歯を折って投げ付けました。すると、今度は、ニョキニョキとタケノコが生えてきて、再び、ヨモツシコメの注意をそらし、何とかヨモツシコメの手から逃げ切ることができました。そして、、生と死の境である黄泉比良坂付近まで逃げ延びることに成功します。しかし、今度は、雷神が黄泉の醜女(軍勢)を率いて、イザナギの元に迫りました。イザナギは、その場に生えていた桃の木から実を3つほどもぎ取り、迫り来る黄泉の醜女に投げつけました。すると、黄泉の醜女たちは、何故かその場から逃げさってしまいました。
こうして、イザナギは、桃の力に助けられ、無事、黄泉の国から逃げ帰るこができました。そして、その入り口を千引岩(ちびきいわ)で塞ぎました。すると、岩の扉の向こうから、イザナミは「私は死の国の神となって、地上の国の人たちを毎日1000人殺します。」と叫びました。すると、イザナギは、「それでは、私は毎日1500人の子どもを誕生させよう。」と答え、こうして、仲睦まじかったイザナギとイザナミは別々の道を歩んで行くことになりました。因に、この時の問答が元で、この黄泉への道を塞いだ岩を千引岩と名付けたと言われています。
そして、この問答の意味は、一説には、人は多く死んでいくが、人口は何故か増え続けていくという人口増大について語った場面と言われ、人の寿命について触れた最初の記述とも言われます。そして、この時、桃の木に助けられたことから、その感謝の証として、この桃に意富加牟豆美命(おおかむずみ)という名が付けられました。残ったイザナミは、黄泉の国に残り、黄泉の国を統括する女神として、黄泉津大神(ヨモツオオカミ)と呼ばれるようになりました。 
三貴神の誕生
なんとか、地上の世界に逃げ帰ったイザナギは、その黄泉の国で穢れた体を清めるため、一路、日向(ひむか)の阿波岐原(あわきがはら)に向かいます。そして、その場で禊ぎを行いました。これが、禊ぎが登場した最初の話となります。そして、この禊ぎのエピソードから何と27柱もの神々が誕生することになりました。
こうして、イザナギの禊ぎは多くの神々を生みました。その性質を細かく見て行くと、先ず、イザナギが身にまとっていた衣類/装飾品の数々から神々が生まれます。杖から生まれた衝立船戸神(ツキタツフナト)は、岐の神(チマタ)または辻の神(ツジ)と呼ばれるもので、一般に、疫病や災害をもたらす悪神の侵入を防ぐ神として崇拝されています。これは、褌(ふんどし)から生まれた道俣神(チマタ)も同じです。これらは、特に、村への侵入妨害の目的で、道の分岐点や交差点に祀られることが多く、方位学と深く関係することもあり、境界を守る神とも言われております。
続いて、帯から生まれた道之長乳歯神(ミチノナガチハ)は、「長い道」を表し、衣服から生まれた和豆良比能宇斯能神(ワヅラヒノウシ)は、煩わしいことから解放される、つまり、苦しみや病からの回復を意味すると言われます。冠から生まれた飽咋之宇斯能神(アキグヒノウシ)は、口を開けて穢れを喰らう姿とされ、これも厄除神のひとつになります。
首飾りから生まれた御倉板挙之神(ミクラタナノ)は、本居宣長いわく、御倉の棚の上に安置する意味としておりますが、詳しい意味はよく分かりません。袋からは生まれた時量師神(トキハカシ)は、時置師神(トキオカシ)ともされ、解き放つの「解き」からきているされ、「袋の口を開ける」行為を神格化したものと言われます。
最後、左右の腕輪(手袋)からは、それぞれ3柱の神々が生まれます。先ず、左手の腕輪(手袋)からは、奥疎神(オキザカル)、奥津那芸佐毘古神(オクツナギサビコ)、奥津甲斐弁羅神(オキツカヒベラ)の3柱の神々、右手の腕輪(手袋)からは、辺疎神(ヘザカル)、辺津那芸佐毘古神(ヘツナギサビコ)、辺津甲斐弁羅神(ヘツカヒべラ)の3柱の神々がそれぞれ生まれます。これはそれぞれ上から、「沖から遠ざかる」「沖の渚」「沖と渚の間を掌る」意味を司るとされ、沖合までの海水の動きを表しているとも言われます。
これらの神々は、動作や様相にその神威を持たせた感じで、厳密にはどのような意味を持つかはよく分かっておりません。ただ、禊ぎという行為や行動に深く関わる神々には間違いなさそうです。
そして、禊ぎを行った身体からも神々が生まれます。先ずは、その体の垢からは、八十禍津日神(やそまがつひ)と大禍津日神(おほまがつひ)が生まれます。これら両神は、禍津日神(まがつい)と言われ、いわゆる災厄の神となります。そして、この時生まれた禍(まが)を流す神として、神直毘神(カムナオビ)、大直毘神(オホナオビ)、伊豆能売(イヅノメ)の3柱の神々が生まれます。これらは、穢れを払い、この禍(まが)を直す神とされます。
続いて、多くの神社でも有名な神々も登場します。それが、禊ぎをする水中よりその位置の異なる3点から、各2柱計6柱の神々が生まれます。水底から、底津綿津見神(ソコワタツミ)、底筒之男神(ソコツツノヲ)、水中から、中津綿津見神(ナカワタツミ)、中筒之男神(ナカツツノヲ)、水の表面から上津綿津見神(ウハツワタツミ)、上筒之男神(ウハツツノヲ)となります。そして、この2系統を代表して、それぞれを綿津見三神(ワタツミサンシン)とか住吉三神(スミヨシサンシン)と言います。
これら全ては、海の神となり、航海安全や水難守護など海上関係に関わる神さまとして、よく見られます。綿津見三神は、別名、大綿津見神(オオワタツミ)であるとされ、こちらは、神生みの時に登場した神様との類似性が指摘されています。住吉三神は住吉神社で祀られている非常に有名な神さまとなります。
そして、いよいよ最後に、この後のストーリーの主役となる神々が現れます。それが、いわゆる三貴神と呼ばれる神々で、イザナギの左目から皇祖神である天照大神(アマテラス)、右目から月読命(ツクヨミ)、そして、最後、鼻から建速須佐之男命(タケハヤスサノヲ)、こと、素戔男尊(スサノヲ)の3柱の神々が誕生しました。そして、ここから、物語は、アマテラスを中心に進んで行くことになります。 
アマテラスと素戔嗚尊の誓約(うけい)
イザナギは、この三貴神の誕生を大変喜び、アマテラスには天の世界(高天原)を、ツクヨミには夜の世界を、スサノヲには海の世界(葦原中国)を統治するように命じました。しかし、海の統治を命じられたスサノヲは、全く仕事をせず、ひたすら泣いてばかり。その泣き声は、山を枯れさせ、海を干上がらせ、地上の世界は、その禍いによって、すっかり荒れ果ててしまいました。すると、気になったイザナギは、スサノヲに、その理由を尋ねると、スサノヲは、こう答えました。「母であるイザナミに会いたくて、その母のいる世界に繋がる根の堅州国に行きたい」と。これを聞いたイザナギは、大層お怒りになり、スサノヲを葦原中国から追い出してしまうのでした。
因に、それぞれの神の性質ですが、アマテラスは、ご存知の通り、太陽を司ります。太陽は、万物全てに光を与える存在であることから、その全てを包み、あらゆるお願いを聞き届けるという意味で、所願成就のご利益があるとされています。ご利益を求め、どの神社に行けばいいのか分からなかったら、アマテラスの祀られている神社に行けば、先ずは間違いないなどと言われることもあります。代表的な神社に、伊勢の皇大神宮を始め、神明社や天祖神社などがあります。
続く、弟であるスサノヲは、乱暴者という前半の半生の意味も含め、暴風雨を司るとされ、その力強さが転じて、厄をもなぎ払うという意味で、厄除の神の意味を持ちます。主な神社としては、氷川神社、須佐神社、須賀神社、八坂神社、八雲神社など実に多くの神社で、その主祭神として祀られる人気の神さまとなります。
最後、ツクヨミは、三貴神の中では、一番マイナーな存在ではありますが、かつては、太陰暦(月の満ち欠けで暦を決める)が用いられてきたこともあり、暦の神としての性質を持ち、また、人の運命、ツキ(運)を与える神さまとも称されております。神社としては、月読神社を始め、月山神社、羽黒神社、鳥海山大物忌神社などで見ることができます。
さて、葦原中国を追放されたスサノヲは、根の堅州国に向かうことを決意するのですが、その前に、姉神であるアマテラスに挨拶をして行こうと、高天原に訪れます。ところが、乱暴者のスサノヲが地上からやって来ると聞いたアマテラスは、これをスサノヲが攻め込んで来たのだと勘違いを起こし、弓矢を携え武装をしてスサノヲを出迎えます。これをみたスサノヲは、自分がそんな狙いがあって、姉元のところに来た訳ではないことを証明するために、「誓約(うけい)」をすることを提案します。
「誓約」とは一般には、誓いの儀式を表しますが、この場合の「誓約」とは、古代日本で行われた占いを表し、吉凶、正邪、成否のルールを予め設定し、その結果をみて判断するもので、一種の賭け事的占いのようなものでした。そして、ここでは、アマテラスとスサノヲが所有するものを交換し、そこから生まれ出た御子神の性別によって、自らに邪な気持ちがないことを証明すると提案しました。
先ずは、スサノヲは、自らが所有する十拳剣(とつかのつるぎ)をアマテラスに手渡します(この十拳剣は、イザナギがカグツチを斬った時に登場しましたね。覚えてます?)。受け取ったアマテラスは、それを噛み砕き、息を吹き出すと、その中から3柱の女神が生まれました。それが、宗像三女(ムナカタサンジョ)です。続いて、アマテラスはスサノヲに、自身の身につけていた「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を、手渡します。受け取ったスサノヲも、これを噛み砕き、息を吹き出すと、その中から5柱の男神が生まれました。こうして、スサノヲは、自分の所有物である剣から心優しい女神が生まれたのは、自分に邪なことがなかったからであるとし、その身の潔白を伝え、アマテラスはそれを了承する形で、ひとまず、スサノヲは高天原に迎え入れられることになりました。
こうして生まれた8柱の神々ですが、この8柱の神々が全て祀られている神社というものもあります。それが八王子神社です。この八王子(正確には王女も含まれるはずですが)とは、正に、この誓約で生まれた神々を表します。ただ、八王子神社は、元々、牛頭天王(ごずてんのう)が生んだ八将神という仏教の守護神を意味しており、明治の神仏分離令を通じて、この8柱の神々に置き換えられたに過ぎません。そのため、直接、この古事記に由緒を発することはありませんが、牛頭天王をスサノヲとみる傾向も強いので、その点、親子という関係での整合性は取れていると言うこともできます。ただし、この場合、8柱全てが、スサノヲの御子神として祀られているので、若干、本筋とは異なる祀られ方をしております。
そして、スサノヲの十拳剣から生まれた宗像三女は、宗像大社を代表として、厳島神社などにも祀られ、海の女神として、非常に人気のある女性神となります。ある意味、住吉三神の女性版といった感じで、航海安全や豊漁祈願といった水産業に関わるご神徳が求められています。そして、一説には、この後、この宗像三女神は、アマテラスの勅命によって、後の皇孫を守るべく、いち早く筑紫(福岡県)の地に使わされたと言われます。
逆に、アマテラスの所有物から生まれた5柱の神々は、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(アサカツアカツカチハヤアメノオシホミミ)、通称、天之忍穂耳命(アメノオシホミミ)、天之菩卑能命(アメノホヒ)、天津日子根命(アマツヒコネ)、活津日子根命(イクツヒコネ)、熊野久須毘命(クマノクスビ)となり、何れもその性質はあまり定かではありません。ただ、太陽の御子ということもあって、農業を代表とする農畜産業の神さまの色合いが強いと思われます。また、中でも、アメノオシホミミは、後に天孫降臨へと繋がる瓊瓊杵尊(ニニギ)を生んだことから、皇祖として、直系の神となるので、その点では、最も重要な神さまのひとつとなります。  
 
黄泉の国

 

黄泉国の話は、伊耶那美命いざなみのみことの死、伊耶那岐命いざなきのみことの黄泉国訪問、黄泉国からの脱出と訣別、禊祓の話から成る。
伊耶那岐命と伊耶那美命とは、国を生み、神を生んだ。最後に、火之夜芸速男神ひのやぎはやおのかみ、別名を火之R毘古神ひのかかびこのかみ、火之迦具土神ひのかぐつちのかみを生み、陰部を焼かれて病み伏し、嘔吐し、脱糞し、失禁し、それぞれは神になったが、結局、伊耶那美命は亡くなってしまった。伊耶那岐命は、「愛しい妻よ、子ども一人に代わろうというのか」と嘆いて、枕元で腹這いになり、足元で腹這いになって泣き、涙に泣沢女神なきさわめのかみが成った。そして、伊耶那美命は、出雲国と伯耆国の境の比婆之山ひばのやまに葬った。
伊耶那岐命は、腰に帯びていた十拳の剣を抜いて、迦具土神の頸を斬った。その剣の各部についた血からそれぞれ神が生まれた。都合八柱の神は、御刀に因って生んだ神である。また、殺された迦具土神の身体の各部からも、八柱の神が成った。それらは山の神である。
さて、伊耶那美命に会おうと思って、黄泉国へ追って行った時、御殿の戸を閉じて出迎えた。伊耶那岐命は、「愛しいわが妻よ、国作りは途中だから帰っておいでよ」。伊耶那美命は、「来るのが遅いから黄泉の国の竈で煮たものを食べてしまった。とはいえ、愛しいあなたが来てくださったとは恐れ多いこと、帰ろうと思う。黄泉神と相談するから私を見ないでほしい」と言って、御殿の内へ入った。いつまでたっても出てこないので、伊耶那岐命は待ちくたびれてしまった。そこで、左のみずらに挿していた神聖な爪櫛の端の太い歯を欠きとって、火を燈して入って見た。すると、伊耶那美命の身には、蛆がたかってころころと音を立て、身体の各部には八種の雷神が成っていた。
伊耶那岐命は見て畏れ、逃げ帰る時、伊耶那美命は「私に恥をかかせたな」と言って、黄泉国の醜女を遣わして追わせた。伊耶那岐命は、黒い鬘を取って投げ捨てると、すぐに葡萄になった。拾って食べている間に逃げて行ったがまた追って来た。右のみずらに挿していた神聖な爪櫛を引っ張り欠いて投げ捨てると、すぐに筍が生えた。抜いて食べている間に逃げて行った。さらに伊耶那美命は、八種やくさの雷神いかずちのかみに加えて千五百ちいおの黄泉軍よもついくさを副えて追わせた。腰に帯びた十拳剣とつかのつるぎを抜いて後ろ手に払いながら逃げて来た。なお追って来て、黄泉比良坂よもつひらさか(泉津平坂)のふもとに着いた時、そこに生えていた桃の実を三個とって投げつけたところ、みな帰っていった。そこで、桃の実に、「私を助けたように葦原中国のすべての人々が苦しい目にあった時、助けるように」と言い、意富加牟豆美命おおかむづみのみことと名づけた。
最後に、伊耶那美命が自ら追って来た。そこで、千人がかりでやっと動く岩を黄泉比良坂よもつひらさかに引っ張ってきて塞ぎ、その岩を間にして各自向い立って、最後通牒を言い渡した。伊耶那美命は、「愛しいわが夫よ、こうなったからには、あなたの国の人を一日に千人絞殺しよう 」。伊耶那岐命は、「愛しいわが妻よ、こうなったからには、一日に千五百の産屋を建てよう」。こういうわけで、一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まれるのである。伊耶那美命を名づけて、黄泉津大神よもつおおかみという。また、その追って来たことから、道敷大神ちしきのおおかみと名づけた。黄泉坂よもつさかを塞いだ岩は、道反之大神ちがえしのおおかみ、また、塞いでいる黄泉戸大神よもつとのおおかみという。黄泉比良坂は、現在の出雲国の伊賦夜坂いふやさかという。
伊耶那岐命は、「なんとも醜くて穢い国に行っていたものだ。身体の穢れを祓うべく禊をしよう」と仰って、筑紫の日向の橘の小門おどの阿波岐原あわきはらに到着して禊祓みそぎはらえをした。その時、身に着けていた物を投げ捨てることで十二柱の神が生まれた。ついで、「上の瀬は流れが速く、下の瀬は弱い」と言って、初めて中ほどの瀬に飛び込んで身をすすいだ。その時に成った神の名は、八十禍津日神やそまがつひのかみ、次に大禍津日神おおまがつひのかみ、この二柱は穢れの激しい国に行って汚れたのでできた神である。次に、まがごとを直そうとして成った神の名は、神直毘神かむなおびのかみ、次に大直毘神おおなおびのかみ、伊豆能売いずのめの三柱である。水底にすすいだ時に成った神の名は、底津綿津見神そこつわたつみのかみ、次に底筒之男命そこつつのおのみこと、中にすすいだ時に成った神の名は、中津綿津見神なかつわたつみのかみ、次に中筒之男命なかつつのおのみこと、水上にすすいだ時に成った神の名は、上津綿津見神うわつわたつみのかみ、次に上筒之男命うわつつのおのみことである。三柱の綿津見神は、阿曇連あずみのむらじ等が祖神としてお祭する神である。底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱の神は、墨江すみのえの三前みまえの大神である。
そして、左の眼を洗った時に成った神の名は、天照大御神あまてらすおおみかみ、次に、右の眼を洗った時に成った神の名は、月読命つくよみのみこと、次に、鼻を洗った時に成った神の名は、建速須佐之男命たけはやすさのおのみことである。以降、三貴子の分治の話につながっていく。以上が話のあらすじである。
記紀の神話にある伊耶那岐命、伊耶那美命を黄泉の国に訪ねる話は、五世紀に始まった横穴式石室をもった古墳の真っ暗な内部で、亡骸が腐敗していく有り様を象徴的に表している*1ものとも、また、洞窟を含めて地下から人類が出現して、死ぬと再び戻っていくという観念と関係する*2ともいう。他にも諸説あるものの、冥界のような他界の観念を、一義的に表そうとしたものとの考え方が一般的である *3。当初、伊耶那美命は、火の神である迦具土神に焼かれて死に、黄泉国へ来たことになっている。国生みの話のなかで、伊耶那岐命と伊耶那美命は、火鑽杵と火鑽臼とを表していた。すると、黄泉国ということばで表す場所は、火と関係するところでなければ了解できないことになろう。
「竺紫つくしの日向ひむかの橘たちばなの小門をどの阿波岐原あはきはら」に到って「禊祓みそぎはらへ」(紀第五段一書第六に「祓除みそぎはらへ」)をしようとしている。原っぱで禊をするとはどういうことか。あはき原は、紀に、「檍原あはきはら」とある。檍とは、和名抄に、橿の木の一名ではないかという。ならば、なぜ「橿原」としなかったかも疑問である。アハキに似たことばにツハキがあり、唾液をもともとツといって、それを吐くからツハキになったとされている*4。アハキのアは、熱(暑)い、暖(温)かいなど、熱気を表すアを口から噴き出している様子を示そうとしているのであろう。つまり、アハキは、後に訛ってアキハというのと同じことに違いない。秋葉原は、火伏せの神として崇められる秋葉神社の秋葉の原っぱ、すなわち、火除け地である。
秋葉信仰は、特に関東や中部地方によく見られ、静岡県西部の秋葉山を火伏せの神としてまつる信仰である。修験道の山として知られる秋葉山は、もとは神仏習合であったが、現在では秋葉神社、秋葉寺しょうようじがあり、ともに十二月十五、十六日に火祭りが行われる。秋葉神社の祭神は火之迦具土神で、弓・剣・火の舞が奉納される。秋葉寺では護摩がたかれて火渡りが行われる。また、秋葉山やその奥院とされる竜頭山が修験道場の中心で、修験者の三尺坊権現が一千日参籠して火生三昧の法を修して、神通不思議の験力を得て飛行昇天したとされる。合祀されて秋葉三尺坊といわれ、その存在は天狗と見なされて、秋葉信仰の火伏せの神としての性格と結びついている。山の頂に清水が湧いていることも、あらたかな霊験を表すものと考えられたであろう。
天狗は、仏教で夜叉、羅刹といった悪魔とされたものが、南北朝期の中国で、神仙世界の考えと融合して半鳥半人化して受容されたという。山海経せんがいきょう・西山経に、「[陰山に]獣けだもの有り、其の状は狸の如くにして白首。名けて天狗てんこうと曰ふ。其の音は榴榴の如し。以て凶を禦ふせぐ可し」とある。さらにわが国に入って、修験道と結びついて想像されたとされる。鬼子母神や毘沙門天といった産育神の周囲に配されることの多い鬼神とも関係するという。それは、山の神、ないし、山の妖怪の一種の性格も付与され、大きく分けて二つのイメージがある。一つは山伏姿をベースにしたもので、高下駄を履き、顔が赤くて鼻が高く、手足の爪が長く、金剛杖や太刀を持ち、羽団扇を使って自由自在に空中を飛翔する姿で描かれる。もう一つは、鵄に近い鳥の姿で背に翼を備え、嘴を持っているもので、烏天狗と呼ばれることもあるが、両者折衷の姿もしばしば見られる。秋葉三尺坊権現は、白狐に跨った烏天狗の姿である。烏相有翼の姿は、もともとはヒンズーの神であり、龍の天敵とされたガルーダの影響があるとされる。仏教に入って、雷神の性格を持った迦楼羅かるら天となり、修験者がそれを奉じたために天狗と称されたのではないかという*5。
火の気のあるところの前面に、物を置かずに延焼しないようにしていたとすると、それは竈である。縄文・弥生時代のコンロは炉である。竪穴住居に床面をくぼめ、四方がすべて前面である。古墳時代になると、朝鮮半島南部から新しいコンロ、すなわち、壁際に造り付けた造付竈がもたらされた。従来の炉は、一部地域を除いてほぼ一掃されてしまう。竈の場合、焚き口のほうだけ火が見えるから、その方だけ気をつければいい。その土間の空きスペースを、火除け地に見立てて秋葉原ならぬ阿波岐原(檍原)と記している。ただし、竪穴住居跡から出てくる竈の遺構をみると、古いものほど地面を少し掘りくぼめた形式のものが多く、炉の影響を残しているものかという *6。
アハキに似た音のことばに、「暴あは(発)く」がある。古く清音であったらしい。下二段の自動詞のときは剥げ落ちる、剥落する意、四段の他動詞のときは土中に埋もれて隠されている物を取り出すことである。竈の前の地面を掘り下げていることは、暴かれているということになろう。一方、暴かれて掘り下げられていれば、窪んでいるから原ではない。アハキハラということばには自己撞着がある。橿原と称さなかった理由の一端が窺える。黄泉比良坂(泉津平坂)とあって、坂が平らなはずがないのと同じである。今日の秋葉原という地名は、秋葉神社に由来しつつも、秋葉神社が山の頂にあることの矛盾を忘却することで成り立っている。
後に、天孫が降臨したのは、「竺紫の日向の高千穂たかちほの久士布流多気くじふるたけ」である。筑紫の日向とは、日光が当たるところを意味するらしい。暗い黄泉国から「竺紫の日向の橘の小門」に到り、明るいところへ出たとなると、竈の焚き口のところへ来たということであろう。家屋敷の大門ではないから小門である。また、筑紫の日向のつながりは、焼畑の延焼防止を願う防火の神札として秋葉札が使われていたこととも関連するのであろう。三河、信濃、遠江国境山地の焼畑農民の民俗文化は、同じく焼畑の盛んな日向山地において、東臼杵郡北郷村宇納間うなまの全長村地蔵堂の地蔵尊のお札を使うのと似通っているという。紀一書第二に、「軻遇突智かぐつち、埴山姫はにやまびめを娶まきて、稚産霊わくむすひを生む」とあって火と土の結合が語られるのも、焼畑農耕の起源を示していると説かれている*7。
「禊祓」を原っぱで行っていたが、禊は、河原や海辺で行うものとされている。身についた罪や穢れを水によって清める儀式を伴うからである。水の浄化力によって身を清め、神に近づくことができるようになるらしい。一般に、身濯ぎの意と解釈されているが、仮名書きの例がなく、ミ・ソの甲乙を定めがたい。阿波岐原が竈の前の火除けスペースであるなら、水のないところで禊をしている。すなわち、身削ぎの意で、木が燃えかかって炭化した部分を擦って削いでいること、祓とは、被った火の粉や灰を掃うことを指しているのではなかろうか。無論、洒落を言っているのであろう。
橘は、コウジミカンなど柑橘類の総称とも、ニホンタチバナ(ヤマトタチバナ)の別称ともされる。ニホンタチバナは、常緑の小高木で、高さが三〜五m、枝は緑色、葉は互生し、光沢がある。五〜六月に白い五弁の花をつけ、芳香を放つ。冬に黄色い果実を結び、果皮は薄く剥がれやすい。酸味が強いため、生食には向かない。万葉集では、橘の実を玉に貫いたり、鬘や髻華うずにして髪を飾ったりしたこと、市の立つ衢に橘の木を植えたことも歌われている。それぞれの枝先に実を結ぶため、天智紀にはそれをモチーフにした童謡わざうたが記載されている。亡命百済人に叙位した記事に続いている。
橘は 己おのが枝々 生なれれども 玉に貫ぬく時 同じ緒に貫く(紀一二五)
また、橘の木は病害に強く、暖地の庭園樹として植えられている。平安時代に、紫宸殿から庭に降りる階の左側に桜、右側に橘が植えられ、それぞれ左近の桜、右近の橘といわれ、古来からあるタチバナであろうという。さらに、開花期の陰暦五月は、橘月ともいわれる。万葉歌では、霍公鳥と橘をともに詠むことも多い。花に鳥が近づく様子から、屋前やどに植えて恋する人が見に訪れてくれることを願う比喩として用いられている。伊耶那岐命、伊耶那美命のカップルの話を連想させるものがある。
上代には、多遅摩毛理たぢまもり(田道間守)の逸話として知られる「登岐士玖能迦玖能木実ときじくのかくのこのみ(非時香菓)」があり、橘か、古名をアヘタチバナとする橙かであるという。垂仁天皇は、多遅摩毛理という人を常世国とこよのくにに遣わし、ときじくのかくの木実を求めさせた。彼は、その木の実を採って、葉がついたままの枝と葉を取り去った実だけの枝をそれぞれ八枝持ち帰った。ところが、帰国してみると、すでに天皇は崩御した後で、半分の四枝ずつを皇太后に献上し、残りの四枝ずつを天皇の御陵の戸に捧げ置き、泣き叫んで殉死してしまったという。
この話は、記紀のほか、万葉集にも伝承を詠みこんだ歌が載っている。
……橘の 生れるその実は 直ひた照りに ……(万四一一一)
橘は 花にも実にも 見つれども いや時じくに なほし見が欲し(万四一一二 )
橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝えに霜降れど いや常葉とこはの樹(万一〇〇九)
常世物 この橘の いや照りに わご大君は 今も見る如ごと(万四〇六三)
大君は 常磐ときはに在まさむ 橘の 殿の橘 直照りにして(万四〇六四)
常世国は常住不変の国の意である。紀第八段一書第五に、「常世郷」とあり、他界思想に通じ、また、中国の神仙思想と結びついて、不死の国のことと考えられていた。雄略紀二十二年七月条の浦島子伝説に「蓬莱山とこよのくに」、丹後風土記逸文に「蓬山とこよのくに」とあって、海の向こうのことと想定するのは、晋の郭璞の注した山海経・海内北経に、「蓬莱山は海中に在り」とあるによる。体系的ではないにせよ、道教思想の流入を確かに物語っている。
強い香りが特徴的なのは、仏堂である。斎宮忌詞では、仏堂のことを香燃こりたきという。お香を年中焚いているからである。特にいい香りのするものは、伽羅きゃらであろう。伽羅から(伽耶かやは朝鮮半島南部の国名であったから、韓の国からやってきた仏教と関連すると感じられたであろう。香こり(コの甲乙は不明、ことば自体を漢語からの転とする説には従えないものの、字音を当てたとするなら拗音なので乙類かと推測される)は、皇極紀元年七月条に、「蘇我大臣そがのおほおみ、手に香鑪かうろを執とりて、香を焼たきて願ちかひを発おこす」とある。伊耶那岐命が橘という、香りの良いはずの地名のところへ帰ってきて禊をしたというのも、同音の垢離*8(コの甲乙は上代の用例が見られず不明)、すなわち、水垢離のことを連想しての話なのであろう。また、樵り(コは乙類)とも同音である。木樵りをするのは、木材を得るためである。建築用や器材用などいろいろあるが、燃料用に薪を採ることも大きな役割であった。特に薪は消耗品のために大量に伐る必要があり、使い勝手のいい斧が求められたであろう。炉は周囲が開放されているから燃焼しやすいが、竈の場合は薪を割ることも必要である。鉄製利器を作るには、たたら製鉄の技術が必要であり、竈との間にも深いつながりがあるようである。
樹木のタチバナという名の由来は一概に定めがたいが、その音から得られる印象としては、花を立てること、すなわち、仏前に花を供えることが感じられよう。後代には、立花たてばなと呼んでいる。寺の大門のところではなく、仏像が安置された仏堂の観音開きの扉の側近くの左右に、花瓶を据えて供えられている。それを小門と表している。他方、神前に花を飾る習俗としては、小正月に飾られる削り掛けという工芸も生まれている*9。ふだんは神前には榊を供え、それに対して、仏前には樒しきみ(櫁)(キ・ミは甲類)を供える。梻しきみという国字も作られている。シキミはモクレン科の常緑灌木で、春、葉のつけ根に黄白色の花を開く。全体に香気があり、葉と樹皮を乾かして粉にして抹香を作る。香燃にふさわしい木といえる。
紀一書第五には、「土俗くにひと、此[伊奘冉尊]の神の魂みたまを祭るには、花の時には亦花を以て祭る。又鼓つづみ吹ふえ幡旗はたを用もて、歌ひ舞ひて祭る」とある。体裁は、有馬村の風俗のルポルタージュ記事であるが、花がないときは削り掛けを以て祭ることを示唆するのであろう。鼓吹幡旗からは飛天の図が思い起こされる。仏教音楽や灌頂幡などを表しているのであろう。
シキミには、閾しきみ(梱)(キ・ミは甲類)もある。門の内外を区切るために下に敷いてある横木のことで、現在では敷居*10という。障子の場合、溝がついてレールになっている。敷居が高いといった慣用表現や、敷居を踏んではならぬと教えられる。新撰字鏡にトジキとあり、トシキミ、トシミ、トシキ、シキなどとも呼ばれた。すると、「橘の小門」という表現は、紀一書第六にあるように、「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」と転倒しても構わないことがわかる。竈の焚き口の境界に閾になる横木があり、燃えさしの薪や灰が出てこないようになっている。閾に身をこすりつけて削ぐ禊をしたのであり、竈の前を掘り下げた痕跡もなかったのである。ただ、竈の閾の材に橘の「枝」が使われたかどうかは不明である。また、記の多遅摩毛理の話に、「縵かげ四縵よかげ・矛ほこ四矛よほこを以て、天皇の御陵みはかの戸に献り置きて」とあるのも、それを八重の閾と捉えるべきなのかわからない。
晋の葛洪の抱朴子には、竈神が晦日の夜、家族の功罪を天帝に報告するとある。そのため、今日でも中国本土や台湾の道教では、旧暦の十二月二十三日か二十四日に、竈神を祭って天に行ったら好いことだけを言い、悪いことは少なく報告してくださいと拝むという *11。六世紀から八世紀当時の中国において、冥府についての考え方は、すでに俗説や伝統的な信仰、道教、仏教などが綯い交ぜになって混合していた。それをそのままわが国は受け入れ、さらに古来の信仰とも交わって複雑な様相を示した。八世紀前半の遺跡から、朱塗り土器の底部外面に「竈神」と墨書された坏が見つかっている。その発掘の状態から、竈を廃棄する際に、竈神を封じ込めるために坏を伏せたのであろうという。死や冥界から逃れようとする延命のための祭祀として、竈神の祭祀は行われた *12。
竈は、和名抄に、「和名、加万かま、炊爨処也」とあり、万葉集には、山上憶良の貧窮問答歌に、「可麻度かまど」(万八九二)とあって、上代にはカマ、カマドが混用されていたのではないかという。竈の意味には、また、ヘツヒ、クドということばもある。和名抄に、クドは「竈後穿也」、釜は、「和名賀奈閉かなへ、一云、末路賀奈倍まろかなへ」とあり、容器一般をヘと呼んで、瓮へ、戸への意味を表した。伊耶那美命が還れない理由として、すでに「黄泉戸喫よもつへぐひしつ」からであると答えている。ヘ(乙類)は、鍋のヘで、食物(ナ)を入れる瓮のこと、それが戸籍を表す戸へと広がっている。列島において独自に炉から発達した類カマドは、弥生時代にはヘツヒやクドと呼ばれていたのではないかとされる。それに対して、古墳時代に朝鮮半島からの渡来人が伝えたカマド*13については、新しい技術に新しいことばを当てたとするのが自然である。その際、朝鮮語のkamaを外来語として入れる際、釜のある処だからカマドと呼んで釜と竈とを区別しようと考えたのであろう *14。
秋葉山の信仰の対象とされる秋葉三尺坊は、天狗と見なされていた。天狗は火伏せの神である。竈の焚き口から火があふれ出てこないように願うなら、火除け地の秋葉原の「小門」の部分に、橘ならぬ立鼻の天狗が仁王のごとく居座って、見張っていてくれるとありがたい。物質としての竈と観念としての天狗*15とが同時期に外来したとする仮説に基づいている。静岡県の秋葉山の頂に泉があるように、竈の内部にも泉があってそれを「黄泉」と記すと想定するなら、なぞなぞとして腑に落ちるイメージ展開となる。
今日いうところの天狗のことは、上代にマと呼んだのではないか。確かなところとしては、江戸時代に魔は、多く天狗を指していう。日葡辞書にも、「Ma テング 悪魔」とある。魔は、梵語のmāraの音訳、魔羅の略という。万葉仮名に「鬼」をマと訓ませる歌(万三二五〇)があり、魔(鬼)の語は通用していたらしい。聖徳太子の撰とされる勝鬘経義疏に、悪神の意味で、「夫れ魔に四種有り。一に天魔、二に煩悩魔、三に陰魔、四に死魔」、法華経義疏に、「少王は四魔に譬ゆ」とある。和名抄には、「魔鬼 内典云邪魔外道 魔音磨此間音麻」、名義抄に、「魔 俗云 マ、オニ、ココメ、タマシヒ」とある。平城宮東院庭園から出土の鬼面文の鬼瓦は、周りに波(水、雲、火の判別はつかない)の文様があり、顔つきとしては鼻が大きいのが特徴的である。
竈の小さな門のところ、門かどの間まに魔まがいるからカマドと洒落てみた。竈の焚き口を見ていると、穴のなかは火が燃え盛っている。一般的に穴というものは、この世とあの世の境界に位置していて、異界への連絡口と信じられていた。真っ赤に燃えているところが黄泉、あの世であり、仏教の影響があれば、奥に見えるのが閻羅王、閻魔さまで、焚き口のところへ出てくるのは使いの鬼(魔)ということになる。霊異記の中巻には、「閻羅王えんらわうの使の鬼、召さるる人の賂まひなひを得て免ゆるしし縁えに」(第二十四)、「閻羅王の使の鬼、召さるる人の饗あへを受けて、恩を報いし縁」(第二十五)といった説話が載っている。命を召し上げようとする閻羅庁の使いの鬼に対し、食べ物を施すことで許しを請おうとしている。供膳具としての坏形の土器にご馳走を盛ったことを指すのであろう。
カマドには、作り付けの竈のほかに、移動式の竈がある。正倉院文書には、「辛竈」、「韓竈」とある。渡来人の奥津城とされる横穴式石室の入口付近には、ミニチュア竈のセット、すなわち、竈、羽釜、甑が副葬されている。また、延喜式には、鎮魂祭などの宮廷祭式や各地の神社祭において、韓竈は、神饌の炊餐、神酒の醸造に用いられている。冠婚葬祭や特別な儀式の供物を作るために韓竈は用いられ、神聖視されていたのではないかとされる。形状としては、焚き口の上部に帽子の鍔のような庇がつけられているのが特徴である。陶質土器の整形において、庇の部分は、陶土を折り曲げる方法と、板状の粘土を貼り付ける方法が確認されている。朝鮮半島の熊川貝塚から出土した竈形土器にも、日本の古墳時代のものとよく似た鍔状の横帯があって、渡来人が持ち込んだ文化であることがわかる。同時に、性能面だけとはいえないデザインへのこだわりが読み取れる。彼らが何を思ってそうしていたかは不明である。しかし、それを見た倭の人たちが、魔、すなわち、天狗の翼と見て取ったのではないか。焚き口は天狗の赤い顔に当たり、ときどき伸びてきてしまう火炎は、天狗の鼻に当たるのであろう。
本ストーリーの初めに、火の神の迦具土神を生んだがために、伊耶那美命が葬られる場面が描かれている。記に、伊耶那美命は「出雲国と伯伎国ははきのくにの堺の比婆ひばの山」に、紀一書第五の宗教祭祀を思わせる記事には、「[伊奘冉尊ヲ]紀伊国の熊野の有馬村ありまのむら」に葬ったとある。埋葬する意の「葬はぶる」は、水などが外にあふれ出たり雲や風波がわき起こることをいう「溢はふる」、ばらばらに解きほぐし、切り離すことをいう「散はふ(放、屠)る」と同根の語である。出雲は、それを導く枕詞に、「八雲立つ」とあるように、雲(煙)がもくもくと立ち込めること、伯伎は、箒のように細い柴を指しているのであろう。その間に、比婆(ヒは甲類)の山があるとすると、檜(ヒは甲類)の葉が山と積まれている状態、すなわち、焚きつけの模様が表現されていることになる。檜の葉を乾燥させたものは着火材として用いられ、語源は火(ヒは乙類)の木であると勘違いされていたほどである。また、紀伊国は、木の国の意である。熊野は、道が隈状になるように入り組んでいる状態をいう。有馬村は、魔がいて群れていることを指すのであろう。いずれも竈への火の焚きつけの場面が表現されており、火鑽臼が火のついた炭になってしまったから、火種としてふたつにばらしてくべている様子である。伊耶那美命が死んで伊耶那岐命が嘆いたことばには、「愛うつくしき我あがなに妹もの命みことや、子の一つ木に易かはらむと謂ふや」とある。親は火鑽の器具であり、子は薪の木であるという整理であろう。
伊耶那美命に決して見るなと言われたが、なかなか姿を現さないので左のみずらに挿していた「湯津々間櫛ゆつつまくし(湯津爪櫛)」を取り、その端の太い「男柱をばしら(雄柱ほとりは)」に火を点して見てみたところ、「蛆うじたかりころろき」た醜い姿を目にしてしまった。爪櫛と爪にこだわっているのは、天狗のイメージにある長い爪とも関係があろう。蛆がたかってころころいっていたとは、火鑽臼に火がまわり、内部の水分が音を立てて噴出している様子を表している。紀には、「膿うみ沸わき虫うじ流たかる」とあり、擬音化はない。記の伝本には、「宇士多加礼許呂呂岐弖」の許を斗とするものもある。コロロクは破裂していく音を、トロロクは融解していく熱を表現しようとしたものであろう。
火鑽杵や火鑽臼は、その形に似たトンボやカゲロウをイメージしていた。蛆はハエの幼虫である。蠅の字は竈の字に似ている。黽は縦横に捩れて伸びていることを示す。トンボの雄がハエの雌に興味を抱くのは、異種婚につながって危い考えである。仲哀記には、国の大祓をしなければならない罪として、人による獣姦が挙げられている。したがって、黄泉国から還ったとき、死の穢れに触れたからというだけでなく、国つ罪にも触れたので、「禊祓」をしたがったのであろう。
記や紀第五段一書第六、第九、第十に、いわゆる見るなのタブーの話が載っている。「莫視我」や「請勿視之」、「請勿視吾矣」、「勿看吾矣」の禁止の表現である。死体を見るのがタブーであった、あるいは、見るべきでないものを見たために夫婦の別離や死が起こったとする説がある。ただし、後に、豊玉毘売の出産の件でも、豊玉毘売が「願勿見妾」と言ったにもかかわらず、火遠理命が産屋を覗いたことになっている。ワニの姿を見られた豊玉毘売は、恥ずかしいと思ってお里へ帰ってしまった。黄泉国の話でも、伊耶那美命は「吾に辱はぢを見しめつ」と言っており、見られた側には恥の意識が浮かんでいるとわかる。男性ではなく女性が見られて恥ずかしいと思う特殊条件といえば、ふだんからは想像のつかないお産の際の姿である。
黄泉国から逃げる伊耶那岐命を、伊耶那美命は予母都志許売よもつしこめ(泉津醜女)、八種の雷神、千五百の黄泉軍を派遣して追わせている。また、黄泉比良坂で言い合いをする場面では、伊耶那美命が「一日ひとひに千頭ちかしら絞くびり殺さむ」と言うのに対して、伊耶那岐命は「一日に千五百ちいほの産屋うぶやを立てむ」と返している。紀一書第六には、伊奘冉尊が「日ひとひに千頭ちかうべ縊り殺さむ」と言うのに対して、伊奘諾尊は「日に千五百頭ちかうべあまりいほかうべ産ましめむ」と返している。千五百は、限りなく多い年月を表す千五百秋ちいほあきのように使われ、千五百の黄泉軍も無限にたくさんの軍勢の意味であろう。千人殺すのに対して千五百とあると、差が五百であるという意味になる。イホは廬、つまり、仮小屋のことを示唆したいための活用であろう。死と誕生の仮小屋とは、喪屋であり、産屋である。
出産は産屋で行われ、一度産屋に入ったら、お産が終るまで出て来られない決まりであった。産屋には、母屋の土間や納戸が当てられる場合もあるが、母屋とは別に産小屋を作り、産婦が別居する風習も広く行われていた。産小屋は、必要ごとに建てて、用が済めばすぐに壊されたであろうと考えられている。臨月、出産の時期は、母子ともに死亡率が極めて高く、死の穢れに近かった。ゆえに、禁忌が強くて男性は見てはならず、妊婦はその隔離された空間で出産に及んだ。なかでも、山仕事や漁業に従事する人たちは、厳しい禁忌を守らなければならなかったという *16。
産屋では、母屋とは別火を熾して食事の煮炊きをしたり、産湯を作ったりした。火を分けないと、穢れがもともとの家全体へ行き渡ってしまうと考えられた。別の火が熾されて別の竈へつひが形成されているという認識、すなわち、戸へを別にしたのである。民の家や戸籍を表すに到った戸の意味の真骨頂はそこにある。それぞれの家(ヘは甲類)にそれぞれの戸がある状態は、橘の木の枝それぞれに実がついていることと通底している。我が国で最初の戸籍の記事は、欽明紀元年条に、「秦人はだひと・漢人あやひと等、諸蕃くにぐにの投化おのづからまうける者ひとを召し集へて、国郡くにこほりに安置はべらしめ、戸籍へのふみたを編貫つく」とある。渡来人という存在そのものにも、「戸」的なものを感じとっている様子が窺われる *17。
記に「黄泉戸喫」、紀に「飡泉之竈よもつへぐひ」とあった。産小屋は、期間限定の仮設住宅である。その戸の竈には、韓竈がもってこいとされたであろう。実際、初期の掘立柱住居には竈の痕跡が見られないという。移動式の韓竈が日常的に使われていた証左であろうとされている。その顕著な例が、産小屋ではなかったか。そして、産小屋というものは、死に近づいているという点で、黄泉国に限りなく近い空間*18と認識されたであろう。
伊耶那岐命を追って来たのは「予母都志許売」(泉津醜女)である。醜女は、ふつうの語感からすれば醜い女で、出産時の姿ほどふさわしいであろう。紀には、泉津醜女のことを、「泉津日狭女よもつひさめ」(ヒは甲類)とも云うとある。母屋から外れた細長い一間を庇ひさし(廂)(ヒは甲類)といい、韓竈の焚き口部分の外縁の庇状のデザインをも連想させ、産屋の女の意であることを示したいのであろう。和名抄に醜女は、「或る説に黄泉の鬼なり」とある。産屋を巣と呼んでいた地方もあり、その象徴たる韓竈の焚き口のなかは、人の力を超えた鬼の巣窟なのであった。
伊耶那岐命は逃げ帰る時、黒い鬘を取って投げ捨てると葡萄になり、右のみずらに挿していた爪櫛を投げると筍が生えたとある。古墳時代や飛鳥時代の櫛は縦櫛が主流で、遺跡の出土品に見られる。櫛は串と同根で、梳くものというよりも簪のように挿すものと考えられたであろう。筍の伸びていく先のほうは、形状が縦櫛に近い。鬘はウィッグで、髪飾りである。葡萄とは巻きひげの様子が特に似ている。これらは火のなかにあって燃えてしまうことを指しているのであろう。真っ直ぐの毛は熱によってちりぢりに巻き、葡萄の実が青緑色から紫褐色へと変化していく様子も、燃える過程に譬えられる。また、成長の早い竹では、器具になるものがもともとは火にかければ食べられるものであった不思議さを示し、仏教思想の輪廻転生をも反映させる内容になっている。当初、左のみずらにあった爪櫛の男柱に火を点して見ていた。着火の手立てについて触れられないまま火が点いているのは、簡単に火が点くからで、竈の燠のなかに竹串を差し込んだからであろう。
最後に、桃の実が投げられている。記には、「黄泉比良坂の坂本さかもとに到りし時に、其の坂本に在る桃子もものみ三箇みつを取りて待ち撃ちしかば、悉ことごとく坂を返りき」とある。醜女に食べられることがなかったのは、核があることもあって、燃え尽きることがなかったことを表すのであろう。竈が作られる以前、炉のなかに支脚となる石を三個置いて三徳とし、その上に甕を載せて煮炊きをした。土製支脚や烏帽子形石という。沖縄では、三個の石でつくる原始的なカマドは、神殿や拝所のほか、祭りや年中行事で臨時のカマドを築くときに見られる。本土でも丹念に調べると、三個の石が荒神や竈神の依り代である痕跡は残るという*19。すなわち、伊耶那岐命は、竈に向って、炉の霊を投げ込んだ。革新された技術に、魂が込められたということになる。
記には、「伊耶那岐命、其の桃子に告のりたまはく、『汝いまし、吾あを助けしが如く、葦原中国あしはらのなかつくににあらゆる現うつしき青人草あをひとくさの、苦しき瀬に落ちて患うれひ惚なやむ時、助くべし』と告りて、名を賜ひて意富加牟豆美命おほかむづみのみことと号いひき」とある。意富加牟豆美は、大+神+ツ(連体助詞)+霊みの意であろう。神の実体は霊である。紀一書第九には、伊奘諾尊が殯斂もがりの場所から逃げ帰るとき、雷に追われて桃の樹の下に隠れ、実を採って投げて助かったとある。そして、「桃を用もて鬼を避ふせく縁ことのもとなり」とまとめられている。桃が悪鬼を払う呪力を持つという観念は中国、ならびにわが国の追儺の儀式にも見られるとされている。しかし、どうやら、支脚石があれば甕は埋もれることなく火にかけられることをいっているらしい。すなわち、竈の焚き口のなかで釜を焚いている入れ籠構造の図である。鬼が追って来ないのは、獄卒鬼が地獄の釜を焚くことができて不満がなくなるからであろう。
黄泉比良坂が今の伊賦夜坂であるとするのは、竈の焚き口はバチバチと薪が爆ぜる囂かまの口という洒落で、言うや言わずやの境であるとするのであろう。それがちょうど死に際にことばや声が出なくなることや、生まれ際におぎゃーとうるさいことに対応しているという見立てである。
伊耶那岐命の禊祓は、最初、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原、ついで川の中瀬、さらに、いつの間にか海の底、中、表で行い、それぞれに神が成っている。海に入ったとされるのは、綿津見神が登場しているためである。同時に成った、「底筒之男命そこつつのをのみこと・中筒之男命なかつつのをのみこと・表筒之男命うはつつのをのみこと三柱みはしらの神は、墨江の三前みまへの大神なり」、つまり、住吉大社の祭神である。筒が何を表すかについては、住吉大社が海沿いに立地しており、航海の安全を祈願する神と想定されている。「夕星ゆふづつ」などとあるように星の意、底筒を底つ津と解して〜の津の意で船の停泊する津の神であるとする説、紀一書に、「底土命」などとあるから〜の霊ちの意とする説などがある。いずれも確証がなく、定説を得ていない。住吉大社の最も重要な祭礼は、住吉祭である。今日、七月二十日から八月一日まで続くもので、神輿洗みこしあらい神事、例祭、夏越祓なごしのはらい神事、渡御祭とぎょさいまでを含む一大イベントである。いずれも禊祓に関しての祭礼で、別名を、おはらい祭という。記の記事においての眼目は、禊祓が海へと展開していることに違いない。
この三柱の大神は、仲哀天皇が崩御した後、国の大祓えをしたとき、神のお告げとして知らされている。建内宿禰たけうちのすくねが神憑りした神功皇后に問うたところ、後継者はお腹にいる男子、後の応神天皇であって、そう告げているのは、「天照大神の御心ぞ。亦底筒男・中筒男・上筒男三柱の大神ぞ」と答えており、「此の時に其の三柱の大神の御名は顕はれき」と注されている。住吉大社の祭神の名は、新羅親征に先立つ大祓のときに名づけられており 、それ以前と目される伊耶那岐命の禊祓において登場しているのは、一連の禊祓の話のなかで総括されているためであろう。それは、本来は別の仕儀とされる禊と祓とを一括して扱っているところにも表れている。
身の穢れを拭って身を清めるには、コリ、すなわち、香こり、ないし、垢離こりが必要であった。仏堂のなかで香を焚くのは、焼香供養とともに、自ら身を清浄にすることでもある。そのため、舶来の香木が珍重されることになる。推古紀三年四月条に、「沈水ぢむ、淡路島あはぢのしまに漂着よれり。其の大きさ一囲ひといだき。嶋人、沈水といふことを知らずして、薪たきぎに交かてて竈に焼たく。其の烟気けぶり、遠く薫かをる。則ち異けなりとして献る」とある。同様の記述は、聖徳太子伝暦にもある。「[推古天皇]三年、乙卯春、三月、土佐の南海に、夜よるよる、大なる光有り。亦声有りて雷の如し。三十箇月を経て、夏四月、淡路嶋の南の岸に着く。嶋の人、沈水と知らずして、薪に交へて竈に焼く。太子、使いを遣はして献ら令む。其の大おほきさ一囲ひとたき、長さ八尺なり。其の香か、異ことに薫かをれり*20」とあって、流れ着いた香木は四国沖の太平洋から来たものであるらしいと伝えている。当然、鼻で嗅ぐから立ち鼻になる。記事には竈も登場している。黄泉国のなぞなぞを考えるきっかけを示してくれているらしい。
沈水香(沈香)は、比重が重く、水に沈む。ジンチョウゲ科ジンコウジュ属の木の切り株や倒木の幹に、樹脂分が沈着してできる。インドのアッサム地方、ミャンマー北部ほか、東南アジア各地から産出される。もともとの材質は軟らかくて軽く、白色から灰色で、香気はない。ところが、木を樵り(コは乙類)取っておいたところ、樹脂分が木質内にしみ込んで凝集、すなわち、凝り(コは乙類)固まり、黒色に変化して、その部分だけを焚くと非常にいい匂いを発する。とても腐朽しにくいが、周囲の材はもとの軽軟なままだから朽ちやすい。樹脂分の沈着凝集の度合いは部分によって異なり、比重が比較的に軽くて水に浮かぶものでも、いい匂いのするものがあって桟香と呼ばれる。正倉院に残る沈水香には、黄熟香と全桟香がある。いずれも朽ちて空ろになった巨材のいたるところに、樹脂分の凝集している部分が多数見つかる。前者の、雅名、蘭奢待らんじゃたいは、足利義政、織田信長、明治天皇が截り取り、その部分に付箋が付けられていることで名高い。
沈水香は、巨材の状態では水に浮かぶから、浮き沈みしながら淡路島へ達したということになる。むろん、ベトナムなどからそのまま流れてきたわけではなく、貴重な品として船で運ばれてきたのであろう。それが土佐の南で雷雨をともなった暴風雨にあって難破し、船荷の沈水香が海に放り出されたということに違いない。高価な沈水香を荷造りしたとすると、木箱ではカビが心配であり、「行李(かうり」にしまっていたと思われる。
行李は、(1)漢語で使者、また、その役のことで、行理とも書く。欽明紀二十一年九月条では、「行李」にツカヒと訓が付けられている。(2)漢語で、旅、旅立ち、また、旅支度のこと。(3)旅に携える荷物のこと。(4)竹・柳・藤蔓などで編んで作った物入れのこと。同じ形のものを二つ作って被せ、蓋とする。大は衣装ケースから、小は弁当箱までいろいろあり、破損を防ぐために角に革をあてがってあることも多い。コリ(コの甲乙は不明ながら、母音交替では乙類と推測される)ともいい、本邦では梱というシキミとも訓む字を当てた。部屋に戸を鎖すことで閉ざされるとは、荷物が行李に梱包されることと相似である。要するに、香を梱に入れて運んだ。紀一書第十に登場する「菊理媛神くくりひめのかみ」は、括ること、つまり、荷造りの神であろうか。
梱とは葛籠つづらの一種である。葛籠は、もともとツヅラフジなどの蔓で編んで作った櫃のような形の籠のことで、角の傷みやすいところは革で補強した。やがて、竹や檜から取った薄板を網代に編み、上に紙を張って渋や漆を塗り、隅の部分は木枠によって補強されたものへと発展した。住吉神社の祭神の筒之男が複数あるのは、筒つつ等らという意味の駄洒落であろう。禊祓において、海の底から中、上へと浮沈する様は、沈水香が流れてくる様子にだぶらせているものと考えられる。紀一書第三に登場する「天吉葛あまのよさつら」は、葛籠の材料のことを指しているのであろう。また、経筒には香木で作られたものがあり、法隆寺や正倉院に伝わっている。香木と筒とは縁が深い。
沈水香は材の香の部分だけ黒くなっており、墨で染まったように黒ずんでいる。黒ずむのスムは、浸・染・滲などと書くシム・ソムと関係がある語であろうし、凍りつくように硬化する意の凍しむ、すなわち、凝ることをも連想させる。伝染病のことは疫え(ヤ行のエ)といい、江と、また、枝、柄、兄、姉、胞とも同音である。木の伝染病のような状態が、末子相続の時代、フロンティアスピリットで開拓する兄的な存在と通じるものがあると感じられたのであろう。そして、害毒を与えかねない疫に対しては、祓が必要とされる。淡路島を臨むところに墨江(住吉)は位置する。万葉集の歌に、「住吉の 岸に向へる 淡路島 あはれと君を 言はぬ日は無し」(三一九七)とある *21。地名の語源は水の色の澄んだ江のことかもしれないが、記紀の用字は「墨江」とある。奇抜であると思われたとしたら、その意にまつわる連想が働いても不思議ではない。黒ずんだ枝の部分が沈水香である。
底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命を、墨江の三前の大神と呼んでいる。「三前みまへ」(ミは甲類)については、三座の意であるとされる。大物主神おおものぬしのかみを「我あが前を治をさめ」とあって、神の御座を憚って直接指さない言い回しという。前という言い方は、二座以上を祭る神社で、主だった神以外を指すときにも使われる。延喜式神名式上には、天神・地祇、社、前の順に記されている。底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の筒が、香木の入った葛籠や経筒になった香木をイメージするのなら 、倭の自然や伝統に由来する神ではない。外来のものとなると、主だった神であると主張するのは口幅ったいものがある。そこで、御前みまへ(ミは甲類)の意でもそう言ったのであろう。
黄泉の国の話は、生活を一変させた竈の登場をテーマにし、仏教、常世、天狗、香木などの外来の文物や観念、また、渡来人という人たちのことをどう捉えたら良いかを語ったものであった。目新しい技術と思想を肌感覚で自らのものにしようして、包括的、体系的に物語としてまとめ上げていったのであった。無文字社会の人にとっての「理解」とは、文字社会で記号操作に慣れ親しんだ人にとっての「理解」と位相が異なる。すべてをなぞなぞのなかに入れ込め、塗り込めていった工夫、苦労を知ると、確かに現代とは別筋の豊かな文明が築かれていたことが知れ、大いなる畏敬の念を抱かずにはいられない。 
(注)
* 1 たとえば 、白石太一郎「墓と他界観」上原真人・白石太一郎・吉川真司・吉村武彦編『列島の古代史 ひと・もの・こと7;信仰と世界観』岩波書店、二〇〇六年。松村武雄『日本神話の研究 第二巻 個分的研究篇 上』(培風館、昭和三十年)に、他界の観念や信仰は、いずれの民族においても墳墓の出現に先行するとの指摘がある。
* 2 たとえば、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀 上』岩波書店、一九六七年。
* 3 神野志隆光『古事記の世界観』(吉川弘文館、昭和六十一年)は、黄泉国は地下にある世界ではなく 、黄泉比良坂の向こうに水平的につながる世界であるという。古事記の神話的要素を、古の人の世界観の表明と捉えて疑わない姿勢に基づいている。
* 4 白川静『字訓』平凡社、一九八七年。
* 5 武井正弘「秋葉山の信仰」鈴木昭英編『富士・御嶽と中部霊山』(五来重監修『山岳宗教史研究叢書9』)、名著出版、昭和五十三年。また、若尾五雄『鬼伝説の研究;金工史の視点から』(大和書房、一九八一年)によると、修験者は護摩をたき、火防の行事を行い、花祭同様、釜も焚いた。それは、彼らが古代鉱業の先駆者で、火の取り扱いに熟達していたからであるという。秋葉山付近でも、古くから沢峰銅山が稼動していたという。紀一書第四には、「伊奘冉尊、火神ひのかみ軻遇突智かぐつちを生まむとする時に、悶熱あつかひ懊悩なやみ、因りて吐たぐりす。此神に化為なる。名けて金山彦かなやまびこと曰す。次に小便ゆまりす。神に化為る。名けて罔象女みつはのめと曰す。次に大便くそまる。神に化為る。名けて埴山媛はにやまびめと曰す」とあることも証左かもしれない。金山彦とは鉱山神である。
* 6 狩野敏次『かまど;ものと人間の文化史117』法政大学出版局、二〇〇四年。
* 7 野本寛一「火と水の信仰」田村貞雄監修『秋葉信仰』雄山閣、平成十年。紀の記事には、先んじて、「時に伊奘冉尊いざなみのみこと、軻遇突智が為に焦やかれて終かむさります。其の終りまさむとする間あひだに、臥しながら土神つちのかみ埴山姫はにやまびめと水神みづのかみ罔象女みつはのめとを生む」とあり、続いて、「此の神の頭かしらの上に蚕かひこと桑くはと生り、臍ほその中に五穀いつくさのたなつもの生れり」とある。
* 8 白川静『字通』(平凡社、一九九六年)では、垢離にクリとルビを付けている。垢は呉音ク、漢音コウで、「離垢りく」の語は無量寿経等にあるから、もとは呉音のはずとされたのであろう。本居宣長説に、川降りの転の当て字とするが、いかがなものであろうか。仏教で香を焚きこめることは、古代のインド人が香油を塗って穢れを去っていたのと同様、身を清浄にする方法であった。わが国において、禊をして身を清めることに似ている。言霊信仰によっていれば、意味が同じなら同じことば、同じ音であることになる。香の意味のほうは、呉音のカウと訓のカヲリからコリ(コは乙類)ということばを導き出し、垢離の意味の呉音のクリと漢音のコウリとを交ぜてコリ(コは乙類)ということばに合わせたのであろう。垢の音符とされる后は、呉音グ、漢音コウ、慣用音ゴ・ゴウとなっているから、あながち不可能な転でもなさそうである。
* 9 丹後半島の浦嶋神社(宇良神社)では、三月十七日の延年祭に、削掛神事が行われる。コブシの皮を剥いだ白い小枝で、俵や繭玉のような形に削り掛けを作る。これを「立花たちばな」と呼んでいる。
*10 上代語のシキヰは、茣蓙や莚のように、座るために敷く物のことをいう。武烈紀八年三月条、斉明紀五年是歳条に「席しきゐ」、敏達紀十二年是歳条に「座しきゐ」、天智紀三年十二月是月条に「床席しきゐ」、欽明紀六年十一月条に「班しきゐ」とある。シキミのほうは、仁徳記に「閾」、正倉院文書に「敷見」、「敷弥」などとあり、単位は枝、枚である。両者の区別ははっきりしていた。だからこその駄洒落は魅力を持つ。あるいは、神仏のいますところが「座」で、その手下が門番をするところが閾であろうか。
*11 窪徳忠『道教の神々』講談社(講談社学術文庫)、一九九六年。抱朴子・内篇・微旨篇には、「又言ふ、身中に三尸さんし有り。三尸の物為たる、形無しと雖も、実は魂霊鬼神の属なり。人をして早く死せしめんと欲す。此の尸は当に鬼と作なることを得。自づからに放縦遊行して、人の祭酹まつりを享うくべし。是を以て庚申の日に到る毎に、輒すなはち天に上りて司命に白し、人の為す所の過失を道いふ。又、月晦つごもりの夜には、竈神も亦天に上りて人の罪状を白す。大なれば紀を奪ふ、紀とは三百日なり。小なれば算を奪ふ、算とは三日なり。吾未だ能く此の事の有無を審らかにせず。然れども天道は邈遠はるかにして、鬼神は明らかにし難し」とある。
*12 平川南『墨書土器の研究』吉川弘文館、二〇〇〇年。
*13 宮本長二郎「炉からカマドへ」(『季刊考古学』三二号、雄山閣出版、一九九〇年)によると、古墳時代中期から後期にかけて、全国のカマドの保有率は一気に上がっているという。
*14 狩野敏次、前掲書に負うところが大きい。ただし、山上憶良は、その沈痾自哀の文に抱朴子を引用している。また、推古紀二十一年十二月条には、聖徳太子が片岡に遊行した折の路傍の飢者とのやりとりが記されている。太子は食べ物と自分の衣裳とを与え、次の日に使者を遣わして様子を見に行かせたところ亡くなっていたので埋葬させた。数日後、太子は、先日の飢者は「凡人ただひとに非ず。必ず真人ひじりならむ」と言って再度確認させたところ、遺骨はなくなり衣裳だけが棺の上に畳まれていた。そこで、その衣裳をまた身に着けた。人々は、「聖ひじりの聖を知ること、それ実まことなるかな」と言ってますます畏れかしこまったとある。神仙となって肉体が消え去る尸解仙しかいせんは、抱朴子・内篇・論仙篇に、「仙経に云く、上士は形を挙げて虚に昇る、之を天仙と謂ひ、中士は名山に遊ぶ、之を地仙と謂ひ、下士は先づ死して後に蛻もぬく、之を尸解仙と謂ふ」とあるによる。中国で早くから尸解仙になるためには儒教的な徳行が求められ、仏教でも僧侶の徳仙を列挙する例があり、儒仏道の習合があって推古紀に見られる伝承が生じたとされる (増尾伸一郎「道教・神仙思想と仏教」古橋信孝編『万葉集を読む』吉川弘文館、二〇〇八年)。カマドという語が外来語のカマを転訛させた造語とするなら、憶良はその思想的背景を読み取って積極的に使っていたということになるのかもしれない。
*15 石川三佐男『楚辞新研究』(汲古書院、二〇〇二年)によれば、楚辞九章に、橘と天狗の観念との間にはつながりがあるという。橘頌篇で橘の美しさを称えた結果、非回風篇の最後に主人公は崑崙山と岷山に達して飛翔能力を獲得したのであり、橘は異次元世界の世界樹に相当するという。楚辞の詩的世界について、上代の倭でどのように受け止められていたか、浅学にしてわからない。「天狗」の語の初出は、舒明紀九年二月条である。「大きなる星、東ひむがしより西に流る。便ち音有りて雷いかづちに似たり。時の人曰はく、『流星ながれぼしの音なり』といふ。亦は曰はく、『地雷つちのいかづちなり』といふ。是に、僧旻僧そうみんほふしが曰はく、『流星に非ず。是天狗あまつきつねなり。其の吠ゆる声雷に似たらくのみ』といふ」。ここでいう天狗は、天空を飛び、天と山とをつなぎ、大声を発し、異変をもたらす妖怪的な動物とされている。中国で史記・天官書に、「天狗は、状かたち、大奔星だいほんせいの如くにして、声有り。其の下くだりて地に止とどまるときは、狗に類にたり」と、流星として記されているものに由来する。隕石の落下現象を指すのであろう。一見、僧旻が舶来思想を披瀝した記事のようであるが、紀の編纂者が、なぞなぞを解く鍵として残したものかもしれない。
*16 大藤ゆき『児やらい』岩崎美術社、一九六八年。狩猟者(山仕事)、漁業従事者は、産の忌が厳しかった。狩、漁のほか、村の行事、神事への参加も禁じられた。タタラ師の場合は、それ以上にやかましくいったといい、金山彦との関連も窺われる。
*17 継体紀三年条に、「任那の日本やまとの県邑あがたのむらに在はべる百済の百姓たみの、浮逃にげて貫へ絶え三四世みつぎよつぎなる者を括ぬき出して、並に百済に遷して、貫に附かしむ」とある。竈へ、かまどの盛んなる朝鮮半島情勢である。貫の字が使われているのは、世代を貫いて住む故郷の地の意味からである。列島の渡来人の場合には、戸の字を使いたくなるであろう。
*18 飯島吉晴『竈神と厠神;異界と此の世の境』講談社(講談社学術文庫、二〇〇七年)に 、「魔除けの魔というのは、いわばマ(間)であって、この[産屋で産婦が籠って出産に臨む]空虚な時空という人間の認識にとってこの上もなく恐ろしい不安な状態を無事に通過し、日常的な社会秩序の中に一定の状態を確保するために火が焚かれるのである」との指摘がある。しかし、産小屋の竈の火は、母屋の火とは別にする火である。記紀の文脈からいっても、その火は魔、ないし、間そのものの象徴で、あの世にもこの世にも通じる両義的で、非日常的で、おそろしいものと認識されていたであろう。
*19 狩野敏次、前掲書。
*20 つづいて、「太子観たまひて太おほいに悦び、奏して曰く、『是を沈水香と為る者なり。此の木は栴檀せんだんと名づく。香木なり。南天竺国の南海の岸に生いたり。夏の月は諸蛇此の木を相繞まとへり。冷すずしきが故になり。人、矢を以て射る。冬の月に蛇蟄かくれて、即ち斫りて之を採る。其の実は鶏舌、其の花は丁子、其の脂やには薫陸。水に沈みて久しきをば沈水香とし、久しからざるをば浅香とす。而るに今陛下、釈教を興隆し、肇めて仏像を造りたまふ。故に釈梵徳に感じて、此の木を漂ただよはし送れり。』即ち勅有りて、百済の工に命じて、檀像を刻め造りて、観音菩薩を作なす。高さ数尺なり。吉野の比蘇寺に安ず。時々よりより光を放ちたまふ。」とある。伝暦の成立年代については十世紀とされるものの、以前からの聖徳太子の伝承を含んでいることには違いあるまい。沈水香のどんぶらこ状態については、推古紀にある五九五年の出来事であったと推察する。記事の雷の件は、舒明紀の六三七年、僧旻のいうところの天狗の話を髣髴とさせる。舶来思想が僧旻ひとりの知識でなく、それ以前の太子等にも知られていた事柄ならば、それはつまり、沈水香は天狗、魔の変化したもので、竈と縁が深いものと考えられていたということになる。水垢離が天狗、修験者の一所作で、金属溶鉱炉と関係があることと対をなしている。なお、神楽歌に、竈殿遊歌かまどのあそびのうたとして、「豊竈とよへつひ 御遊みあそびすらしも ひさかたの 天あまの河原かはらに 比左ひさの声する 比左の声する」とある。比左(ヒは甲類)は瓠ひさご(ヒ・ゴの甲乙は不明)のことで、神楽で拍子を打つカスタネットではないかという。泉津日狭女(ヒは甲類)とは、天狗あまつきつねが天空で大きな音を出すのが瓠の音のようであるところから付けられた別称なのかもしれない。
*21 万葉集の一七四〇・一七四一番に、「水江みづのえの浦嶋の子を詠める一首并せて短謌」という長歌と短歌がある。「墨吉」という地名について、浦島伝説の丹後地方に求める説もある。しかし、「常世辺とこよへ」という語も出てくるから、多遅摩毛理の伝説や黄泉国の話が断片的に一体化したものを歌ったもので、住吉大社のことが念頭にあるものとするのが適切であろう。  
 
『古事記』『日本書紀』の日本神話

 

ここでは、『古事記』『日本書紀』の記述を基にした日本神話の粗筋(あらすじ)とエッセンスを紹介していきますが、日本神話は古代日本の主権者・祭祀者であった“天皇家の皇統”との深いつながりを持っています。『古事記』と『日本書紀』の特徴は、神々が活躍した時代である“神代(かみよ)”と神武天皇が紀元前660年に初代天皇に即位してからの“人代(ひとよ)”との境界線が曖昧であることであり、『天皇の血統』は神々の世界の後胤であるという伝承になっています。
明治期以降の近代日本(戦中まで)で天皇陛下が『現人神(あらひとがみ)』とされた根拠もこの日本神話にあるわけですが、当然ながら現代の歴史学・科学では(人間ではない)神の子孫としての天皇が認められているわけではありません。しかし、初代神武天皇が即位したとされる紀元前660年2月11日にちなみ、現代でも2月11日は『建国記念日』となっています。初代・神武天皇から第44代・元正天皇(女帝)までの漢風諡号は、奈良時代後期の文人・淡海三船(おうみのみふね)が命名したとされており、それ以前は神武帝であれば神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)といった和風諱号で呼ばれていました。
『古事記』は日本最古の歴史書であり、元明天皇の勅命を受けて和銅5年(712年)に太安万侶(おおのやすまろ)によって献上されたもので、神代の天地の時代から推古天皇(592年即位)の時代までが書かれています。“上・中・下”の全3巻で構成されており、驚異的な記憶力を持つ稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦していた『帝紀』(天皇の系譜)と『旧辞』(昔の伝承)を太安万侶と舎人親王が書写したと推測されています。仏教が538年(552年)に日本に伝来してからは、日本の神代の神々は仏が仮の姿を取って化身したものだったとする『本地垂迹説』が日本各地に広がっていき、神道と仏教の世界観が混合する神仏習合(シンクレティズム)が起こりました。
『日本書紀』は舎人親王らの編集で養老4年(720年)に完成した日本最古の正史であり、神代から持統天皇(697年即位)の時代までを漢文・編年体によって記述しています。全30巻・系図1巻の長編であり、その続編として『続日本紀(しょくにほんぎ)』が菅野真道(すがのまさみち)らによって延暦16年(797年)に完成しています。『続日本紀』は文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の奈良・平安時代の歴史を扱っており、これも全40巻の大著となっています。
神武天皇はニニギノミコトの曾孫(山幸彦の孫・ウガヤフキアエズノミコトの子)とされますが、ニニギノミコトは天照大御神(アマテラスオオミカミ)の孫なので、神武天皇は神々の血統を引くものとして位置づけられています。日本神話は天地と神々の始まりを物語的に語り、天つ神の命令でイザナギとイザナミが日本の国生みをする神秘的な場面を描き、死んだイザナミが送られた黄泉国(死後の世界)までもおどろおどろしく表現しています。太古的な生命力と創造力を躍動させつつ、日本の皇統の歴史へと接続しているとされる『日本神話の世界』には、興味深い伝説やテーマが多く含まれています!  
混沌からの神々と国土の誕生
日本神話の始まりはギリシア神話に類似した『混沌(カオス)』から始まりますが、天上世界である高天原(たかまのはら)に最初に出現するのは、天之御中主神(アメノミナカヌシ)という天上の摂理を司る独神です。独神とは配偶者のいない単独で屹立する型の神であり、日本の最初期の5柱の神々のことを『別天つ神五柱(ことあまつかみ・いつはしら)』と呼びます。アメノミナカヌシに続いて現れた神が、高御産巣日神(タカミムスビ)と神産巣日神(カミムスビ)という独神であり、その3柱に宇摩志阿斯詞備比古遲神(ウマシアシカビヒコヂ)と天之常立神(アメノトコタチ)を加えて始原の『別天つ神五柱』となります。
宇宙の始まりに生成した5柱の神々は、現世にその姿を現すことのない観念的・抽象的な神としての性格を強く持っており、アメノミナカヌシは特に天上の至高神としての位置づけですが、タカミムスビとカミムスビは農作物を豊かに実らせ男女を結合させて生命を生み出す産霊(むすび)の神とされており、大和・出雲・壱岐・対馬など地域の多くの豪族から信仰を受けていたようです。天皇は神道の最高権威であり五穀豊穣を祈る祭祀を執り行う神官でもありますが、天皇即位後に行われる豊穣に感謝する収穫祭である『大嘗祭(だいじょうさい)』でも、タカミムスビが斎田の傍らに祀られていました。カミムスビは母性原理を担当する女神とされており、その後に多くの神々を新たに産み出しています。
アメノミナカヌシ・タカミムスビ・カミムスビの3柱は天地開闢(天地創造)を行ったという意味で『造化の三神』とも呼ばれますが、神々の起源を3柱の神に置いているのは『三尊三清(さんぞんさんせい)』という道教思想の影響だと考えられています。タカミムスビとカミムスビの後には、神世七代の神々が生み出されたとされますが、その最後に生まれたのが『国生み・国土形成の二神』として知られる伊邪那岐神(イザナギ)と伊邪那美神(イザナミ)の夫婦神です。世界が始まったばかりの時期には、原始の広大な海にどろどろした固まらない国土がバラバラに浮かんで漂っていたとされますが、アメノミナカヌシを筆頭とする天津神がイザナギとイザナミに『この国土を造り固めよ』という命令を出して、天の沼矛(あめのぬぼこ)を授けました。
イザナギとイザナミは天の浮橋に立って、下界に下ろした天の沼矛でコオロコオロと海をかき混ぜて引き上げると、矛の先から滴り落ちる塩が凝り固まっていき、自然に『オノゴロ島』という島が出来上がりました。『オノゴロ島』の意味は、自ずから凝り固まって出来上がった島という意味であり、神話上の見立てでは淡路島近郊の島がオノゴロ島と仮定されています。海から島を作り上げるという創世記に似た神話は、南国のポリネシア、ミクロネシア、メラネシアなどにも伝わっており、これらの国々では釣り針で島を釣り上げるという『島釣り神話』になっています。『出雲国風土記』には巨大な鋤で海に浮かぶ国土を引き寄せて島根半島の岬にしたという『国引き神話』がありますが、国土を海に浮かぶ魚のように見立てるアイデアは『漁撈民の集合無意識』に発しているとも推測されます。
イザナギ・イザナミはオノゴロ島の上に降り立って婚約を結び、天の御柱(あめのみはしら)を立てて広大な宮殿・八尋殿(やひろどの)を建設します。そして、柱の周囲をお互いに逆周りに回って、出会ったところで『あなにやし えをとこを(あぁ、何と言う素敵な男か)』とイザナミが言い、『あなにやし、えをみなを(あぁ、何と言う素敵な女か)』とイザナギが言って性的結合を行い、日本国土の大八洲(おおやしま)となる子ども達を生みます。しかし、初めに生んだ子どもは淡島と手足の不自由な蛭子(ヒルコ)だったので、ヒルコは流して捨ててしまいました。太占(ふとまに)という占いをして天津神に伺いを立てると、最初に女であるイザナミが声を掛けたのが良くないという事で、今度は男であるイザナギが初めに『あぁ、何という良い女か』と声を掛けてから性的な交わりを行い、新たな国土となる子ども達をイザナミが生み出しました。 
イザナギとイザナミの『国生み・黄泉戸喫』の物語
イザナギとイザナミの夫婦神の神話には、『天父神・地母神の結合‐分離』と『兄妹神的な近親相姦の問題(原罪)』というモチーフが関与しているともされますが、近親相姦的な神々の交わりによって初めは不具(奇形・動物)の子どもが生まれるというテーマは、中国や台湾、東南アジアの『原始洪水型の神話』としても広く見られるものです。イザナミが生んだ蛭子(ヒルコ)は『日本書紀』では、3歳になるまで脚が立たなかった身体障害児として記されていますが、これは古代における『捨て子の慣習(流産児・未熟児・障害児の遺棄)』を反映しているとも考えられています。その一方で、蛭子は本来は『日子(ヒルコ)』と表記されるほうが適切という仮説もあり、この場合には太陽神としての日子が捨てられて後に大きな事績を残したという『貴種漂流譚』の一種として解釈することができます。
イザナギとイザナミは二度目の性の交わりによって、淡路島・四国・九州・隠岐・壱岐・対馬・佐渡・本州という『大八洲・大八島(おおやしま)』を産むことに成功して、ここに日本列島が誕生する『国生み』が行われたことになります。イザナミはその後も森羅万象を担当する自然神などを生みますが、火の神である軻遇突智(迦具土神・カグツチ)を産んだ時に陰部に火傷を負ってしまいそれが原因で亡くなります。臨終時にも、尿・糞・吐瀉物から神々を産み出すというほどの地母神ぶりを発揮しながらの死でした。イザナギは愛するイザナミを焼死させたカグツチに激怒して斬り殺してしまいます。イザナミは死後の国である『黄泉国(よみのくに)』に送られますが、イザナミのことを諦めきれないイザナギは黄泉国までイザナミを追いかけていき何とか再会を果たします。
黄泉国では、黄泉国の竈(かまど)で炊いた食物を食べる『黄泉戸喫(よもつへぐい)』をしてしまうと現世には戻れないという厳しいルールがあるのですが、イザナミは既に黄泉戸喫をしてしまっていました。イザナミは何とか現世に戻して貰えないか黄泉の神々に相談してみると言い残して別室に入っていくのですが、いくら待っても戻ってこないイザナミを待ちきれなくなったイザナギは櫛の歯を折ってそれに火を灯し、部屋の中を覗きこんでしまいます。すると美しく可憐だったイザナミの姿はそこに無く、腐敗して蛆が湧き悪臭を放っている死体の変わり果てたイザナミがそこにはいました。『よくもこんな姿を覗き見て、私に恥を掻かせてくれましたね』とイザナギに激怒したイザナミが追いかけてきます。イザナミは黄泉醜女(ヨミノシコメ)という鬼女を差し向けてイザナギを追跡しますが、イザナギは櫛や髪飾りをタケノコ・ブドウに変えて投げつけ、黄泉醜女らがそれを食べ漁っている間に逃げます。霊力を持つとされる桃の実を投げつけて、黄泉醜女の撃退に成功します。
イザナギは現世と黄泉国の境界にある『黄泉比良坂(よみのひらさか)』でイザナミに追いつかれますが、そこを巨大な岩で塞ぎこんでからイザナミとの離婚を宣言しました。離婚を一方的に宣言するイザナギの態度に激昂したイザナミは『黄泉国の神となってあなたの国の人間を一日に千人殺しますよ』と脅しを掛けますが、それに対してイザナギは『ならば、私は一日に千五百人の子どもを産んで更に産屋を立てよう』と返しました。黄泉国の竈で炊いた食物を食べる『黄泉戸喫(よもつへぐい)』をすると現世に帰れなくなるというルールは、『同じ釜の飯を食べた人間は仲間・同族血族である』という共同飲食の信仰に根ざしたものであり、ギリシア神話でも冥王プルートに攫われたペルセフォネー(豊穣神デメテルの娘)が冥界のザクロを食べて地上に戻れなくなった説話などがあります。『死者の食物』を題材にした宗教信仰や神話伝承、呪術・呪医(シャーマニズム)などは、日本だけではなくアジアやヨーロッパ、アメリカ、オセアニア、未開民族などあらゆる地域に見られます。 
アマテラスオオミカミやスサノオの誕生
前回の記事では、火の神カグツチを産んだ際の火傷が元でイザナミ(女神)が死に、黄泉国にまでイザナミ(男神)を追いかけていったイザナギが腐乱したイザナミを見て恐怖し離婚に至るというエピソードを紹介しました。激怒したイザナミに追いかけられたイザナギは命からがら現世へと逃げ延びますが、土着的なケガレ思想に基づく『死の穢れ(死穢,しえ)』を払い清めるために、九州・日向国(宮崎県)小戸にある橘の阿波岐原(たちばなのあわきはら)という海岸で全身を洗って、禊・祓(みそぎ・はらえ)を行いました。
死穢を払い清める禊・祓の仕上げとして、左目を洗うと女神の天照大神(アマテラスオオミカミ)が生まれ、右目を洗うと月読命(つきよみのみこと)、鼻を洗うと男神の建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)が生まれました。スサノオノミコトは『素戔嗚尊』とも記述されます。アマテラスオオミカミ、ツキヨミ、スサノオのイザナギ直系の三神を『三貴子(みはしらのうずのみこ)』といいますが、イザナギはアマテラスオオミカミに高天原(たかまのはら)、ツキヨミに夜の食国(おすくに)、スサノオに海原を統治させました。
母親であるイザナミへの思いが強かったスサノオは、海原の統治に精力的にならずに、母親がいる黄泉国(根の国)を思って泣いてばかりいましたが、その女々しい様子を見て怒ったイザナギがスサノオを根の国に追放しようとします。スサノオは姉のアマテラスオオミカミに海原の支配をやめるという挨拶に行きますが、アマテラスはスサノオが高天原を侵略しに来たと勘違いして、弓矢で武装して男の姿に変わり厳しくスサノオを詰問しました。スサノオはウケヒ(神聖な占い)を天の河原で行って自分に悪意(侵略の意図)がないことを明らかにしますが、調子に乗って乱暴物の本性を現し始めたスサノオはアマテラスの治める高天原を散々に荒らしまわります。
高天原の神聖な宮殿に排泄物を撒き散らしたり、貴重な食物を育む田畑を荒らしたり、生きた馬の死骸を投げ込んでぶつけ機織をしていた女神を殺したりという乱暴狼藉を続けたため、スサノオの暴力的な性格・行動に恐怖を感じたアマテラスオオミカミは、『天石屋(あめのいわや)・天岩戸(あめのいわと)』という高天原の奥深い洞窟に身を隠して入り口を塞いでしまいました。これをアマテラスオオミカミの『岩戸隠れ』といいます。  
アマテラスオオミカミの岩戸隠れの解決と農耕の始まり
アマテラスオオミカミ(天照大神)は日の神=太陽神なので『岩戸隠れ』によってその姿を隠してしまうと、世界に太陽の光が届かなくなり闇に閉ざされてしまい、様々な災厄や病気、苦悩が溢れ出して闇を好む悪神たちの勢力が強まってしまいます。天の安河に集まった『八百万の神々』は何とかしてアマテラスオオミカミを天岩戸から引っ張り出さなければならないと考えて一計を案じます。常世(とこよ)の思兼神が、賑やかな祭りを岩戸の周りで執り行えば、その楽しそうな喧騒に釣られてアマテラス様が姿を現すのではないだろうかと意見を出し、八百万の神々で協力して盛大なお祭りを開催することが決まりました。
天児屋命(あめのこやねのみこと)は神聖な祝詞(のりと)を唱えて祭りに厳粛さを与え、太玉命(ふとだまのみこと)は巨大な榊の木を立ててそこに鏡・玉・幣(しで)をぶらさげて飾りつけをしました。女神の天宇受売命(あめのうずめのみこと)はセクシーで扇情的な踊りを踊って祭りを盛り上げます。それは受舟(うけふね)という桶の上で乳房・女性器をあらわにして神懸りになって踊るという大胆なものであり、その狂気的な盛り上がりを楽しんで神々が大声で笑い声を上げています。外の喧騒と笑い声を聞いて、『いったい何が起こっているのだろうか』と好奇心をそそられたアマテラスが、岩戸から少し身を乗り出して外を見ようとした時に、岩戸の横で待ち構えていた力自慢の天手力男(あめのたちからお)がアマテラスを引っ張り出して、世界に日の光と平和な秩序が戻ってきました。
スサノオはこの騒動を引き起こした乱暴狼藉の責任を問われて、高天原から地上の世界へと追放されますが、スサノオが自身の無実を証明するためにウケヒを行った時に、アマテラスも物を用いたウケヒを行っており、その時に以下の5柱の神々が生み出されています。読み方では、『命(みこと)』を省略しています。
天忍穂耳命(あめのおしほのみみ)
天穂日命(あめのほひ)
天津彦根命(あまつひこね)
活津彦根命(いくつひこね)
熊野樟日命(くまのくすび)
アマテラスオオミカミは地上の葦原中国(あしわらのなかつくに)に食物の神・保食(うけもち)がいると聞いて、ツキヨミに視察に赴かせるのですが、保食が自分の口からご飯や魚、鳥獣を出してもてなそうとした為、ツキヨミが『そんな不潔不浄なものを食べさせる気か』と激怒して斬り殺してしまいます。ツキヨミの暴挙を聞いたアマテラスは不快になり怒って、『お前のような悪しき神の顔など見たくない』と絶縁を宣言したので、アマテラスは『昼の神』、ツキヨミは『夜の神』となり互いが顔を合わせることも無くなったといいます。
ツキヨミに殺された保食(ウケモチ)の様子を天熊人(アメノクマヒト)に見に行かせると、保食の死体からは『人々の食糧』となる様々なものが化成してきており、頭から牛馬が、額から粟が、眉から蚕が、眼から稗が、腹から稲が、女性器から麦・大豆・小豆が産出されていました。アマテラスオオミカミは保食(ウケモチ)の死体からそれら食糧の起源を取り出して、地上の人々がもう飢えに苦しまなくて良くなるように(継続的・計画的に食糧を確保できるようになるために)『農耕』を教えたのでした。 
ニニギの天孫降臨と日向の高千穂
前回の記事では、アマテラスオオミカミの誕生と岩戸隠れのエピソードを解説しましたが、アマテラスオオミカミ(天照大神)と高木神(タカミムスビ)は、アマテラスの子である忍穂耳命(オシホノミミノミコト)に命じて、地上の葦原中国(あしわらのなかつくに)の支配者にしようとします。しかし、忍穂耳命は地上はまだ安定しておらず危険が多いとして途中で高天原に引き返し、栲幡千千姫命(ヨロヅハタトヨアキツシヒメ, 高木神)との間に、アメノホアカリ(天火明命)とニニギノミコト(瓊瓊杵命)という子を設けます。ニニギノミコトは、ニニギ、ホノニニギノミコトなどと呼ばれたりもしますが、漢字では『瓊瓊杵』や『邇邇芸』と表記されます。
忍穂耳命が子のニニギノミコトが葦原中国を統治したほうが良いとアマテラスに献言したため、ニニギノミコトはアメノコヤネ(天児屋命)やアメノウズメ(天宇受売命)、イシコリドメ(伊斯許理度売命)、フトダマ(布刀玉命)、タマノヤ(玉祖命)の『五部神(いつとものおのかみ)』と群神を率いて、天上の高天原から地上の葦原中国へと天下ろうとします。地上に降りると途中の天の八衢(アメノヤチマタ)という交差点で、行く手を阻んで天地を照らしている奇妙な神がいたが、女神のアメノウズメが何ものかと詰問すると、サルダビコノカミ(猿田彦神)と名乗りニニギの道案内をしたいと申し出てきました。
このサルダビコはアメノウズメ(天宇受売命)に連れられて伊勢へと行くのですが、伊勢のアザカ海岸でサルダビコが釣りをしていると、比良夫貝(ひらぶがい)に手を挟まれて海に引きずりこまれて溺れてしまいます。その時に、サルダビコの前に、『底どく御魂(みたま)・粒立つ御魂・泡さく御魂』という三柱の神霊が出現したとされています。アメノウズメは海で沢山の魚を集めて、天津神(天上の神々)に従って奉仕するかと尋ねますが、ナマコ(海鼠)だけが返事をせずに黙っていた為、どうして返事をせぬのかと激怒して刀で口を切り裂いたと伝えられています。ニニギを主神とする群神はサルダビコノカミに案内されながら、八重に光り輝いて棚引く雲を掻き分けて威風堂々と進み、『三種の神器(鏡・玉・剣)』を携えて遂に筑紫(九州地方)の日向にある高千穂という山に降臨しました。
ニニギノミコトが日向の高千穂・クシフル嶽に降臨したこの神話上の事績を『天孫降臨(てんそんこうりん)』といい、武装した天忍日命(アメノオシヒノミコト)と天津久米命(アマツクメノミコト)とがリーダーであるニニギを先導しました。現在では官僚が民間企業に転籍することを『天下り』といって官民癒着の悪いイメージがついていますが、天下りの原義は天上(高天原)の神々が地上に統治者として下ってきたことを指しています。『古事記』ではニニギノミコトが高千穂に宮殿を建設して、『この地は韓国(からくに)に面して、笠沙の岬にも通じており、朝日と夕日が照らす素晴らしい土地である』という感想を述べたと伝えられています。
日本の天孫降臨神話と類似したエピソードは、古代朝鮮の『三国遺事』の檀君神話や首露王の建国神話にも見られます。朝鮮半島の檀君神話では、天帝がその子・桓雄(かんゆう)に三種の神器のような『三符印(さんぷいん)』を持たせて、三人の風雨の神と三千の部下をつけて、太白山の頂上の『檀』という樹の傍らに朝鮮国の支配者として降臨させたと伝えられています。東アジアの日本神話と朝鮮神話には一定の類似性が見られ、高千穂のクシフル山という『クシフル』が朝鮮語の亀旨(クイムル)と関係するという説もありますが、古代史研究者の岡正雄(おか・まさお)はタカミムスビのほうを皇室本来の祖神とし、アマテラスオオミカミを後から融合した南方の農耕稲作と関係した太陽女神としています。  
日向神話・ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの結婚
岡正雄の仮説は江上波夫(えがみ・なみお)らの『北方騎馬民族征服説(北方ツングース系騎馬民族が日本を征服して皇室の支配階級となった説)』を前提としたもので、現在では史実性は無いと考えられてますが、タカミムスビを北方アジアの天神の男神とし、アマテラスオオミカミを南方アジアの農耕・太陽神の女神としている発想は面白いと思います。生産・農耕を司るタカミムスビは、古くから神祇官の八神殿の主神として祀られていたので、皇室の氏神・祖神であったと岡正雄は推測しています。更に、『古事記・日本書紀』ではアマテラスオオミカミはオシホミミと深く結びついており、タカミムスビのほうはニニギと深く結びついていることから、元々は二系統の別の神話だったものが歴史的過程で融合したのではないかと推測されたりもしています。
天孫降臨を行った『ニニギノミコト』という神の名前の言葉は、稲の穂が赤らんで豊かに実る様子を示したものとされ、『高千穂』という地名も、天皇の斎田の稲穂が千々に豊かに実っている様子を示しているとされます。いずれにしても、記紀の日本神話に登場する皇室の祖先の神は、『農耕・農業・稲穂(米作)・生産の神』としての特徴を色濃く持っているのです。
日向の高千穂に降臨したニニギノミコトは、笠沙の崎で大山津見神(おおやまつみのかみ)の美しい娘である神阿多都比売(かむあたつひめ)に出会って好きになり求婚をします。神阿多都比売は一般的には『木花咲耶姫・木花之佐久夜毘売・木花開耶姫(コノハナノサクヤビメ)』という名前で知られている女神ですが、コノハナノサクヤビメには石長比売(イワナガヒメ)という気立ては良いが容姿が醜い姉がいました。ニニギの求婚を許諾した父親の大山津見神は、姉の石長比売(イワナガヒメ)と妹の木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)の二人を一緒にニニギの元に嫁がせようとしましたが、容姿の醜い石長比売を嫌ったニニギは石長比売だけを送り返します。
容姿の美醜だけで判断してイワナガヒメだけを嫌って送り返したニニギに憤った大山津見神は、『姉妹二人を送ったことには、天津神(ニニギ)の子の寿命が岩のように長く続くようにという意味と花のように華やかに栄えますようにという意味があったのですが、あなたはイワナガヒメだけを送り返してきたので、ニニギの子孫の寿命は花のように有限で儚いものとなるでしょう』と語りました。神話的にはニニギが長寿の超能力を持つイワナガヒメを娶らなかったために、天皇の寿命も一般の人間と同じく有限で短いものになってしまったのだという事になります。
コノハナノサクヤビメがニニギとの一夜の交わりだけで妊娠すると、ニニギはコノハナノサクヤビメが他の地上の神々と不倫して妊娠したのではないかと疑いを抱くのですが、そのことを恨んで情けなく思った姫は、『国津神(別の地上の神)の子なら無事に生まれず、天津神(ニニギ)の子なら無事に生まれる』というウケヒ(神に誓うまじない)を立てて、産屋に火をつけてから出産しました。その時にコノハナノサクヤビメから生まれた子どもが、火照命(ホデリノミコト)、火須勢理命(ホスセリノミコト)、火遠理命(ホオリノミコト・ヒコホホデミ)の三柱の神々でした。兄の火照命は海での漁が得意な『海幸彦(うみさちひこ)』、弟の火遠理命は山での猟が得意な『山幸彦(やまさちひこ)』という通称で知られています。  
海幸彦(火照命)と山幸彦(火遠理命)の釣り針を巡る神話
前回の記事では、ニニギノミコトの天孫降臨神話と日向地方(現在の宮崎県)の高千穂に関するエピソードを解説しましたが、ニニギとコノハナサクヤビメ(木花咲耶姫)との間には、火照命(ホデリノミコト)、火須勢理命(ホスセリノミコト)、火遠理命(ホオリノミコト)という三人の子どもが産まれました。兄の火照命は『海幸彦(うみさちひこ)』と呼ばれ、弟の火遠理命は『山幸彦(やまさちひこ)』と呼ばれますが、この海と山を司る二人の兄弟には、兄弟確執の因縁めいた不思議なエピソードが伝わっています。
兄の海幸彦はその名前の通り『海での漁』に精通しており、弟の山幸彦のほうは『山での猟』が得意でしたが、ある日、山幸彦が海幸彦に『お互いの仕事の道具(猟具)を交換して獲物を取りに行こう』と提案しました。山幸彦は兄の海幸彦の道具である“釣り針”を借りて魚釣りに出かけ、海幸彦のほうも猟具を借りて山に猟に出かけますが、山幸彦は魚を一匹も釣り上げることができず、おまけに大切な釣り針まで魚に奪われてしまいます。兄・海幸彦に釣り針を無くしてしまったと報告すると、兄は大切な釣り針を失ったことに激昂して、弟・山幸彦に何が何でも釣り針を取り戻して来いと命令します。
どうして良いか分からない山幸彦が海辺で途方に暮れていると、塩椎神(しおつちのかみ)という海の神が現れて、『釣り針を取り戻したければ、海神ワタツミ(綿津見神)の国に行きなさい』と教えてくれました。塩椎神は籠の船を作ってくれて、山幸彦はこの船に乗って海神・綿津見神(ワタツミ)が統治する海の国へと行き、そこでワタツミの娘のトヨタマヒメ(豊玉毘売・豊玉姫)と知り合うことになります。トヨタマヒメが山幸彦に一目惚れして父のワタツミにその事を報告すると、ワタツミは『山幸彦は尊貴な天津神の御子である』と言って二人の結婚を認め、山幸彦はトヨタマヒメを妻にすることになります。
3年間をワタツミの海の国で過ごした山幸彦でしたが、兄の釣り針を失くして探している事をワタツミに話すと、全ての魚貝族を集めて釣り針を探してくれました。すると、鯛が釣り針を呑み込んで喉を痛めていることが分かり、鯛の喉を探ると探していた兄の釣り針を見つけることができました。海神ワタツミは山幸彦に針を渡して、兄に返却する時の呪文を教え、更に『シオヒルタマ(潮干玉)・シオミツタマ(潮満玉)』という海の潮の干満を自由に制御できる宝を与えました。  
山幸彦の海幸彦に対する報復と隼人との関係・トヨタマヒメの出産
『釣り針・シオヒルタマ・シオミツタマ』を携えて地上の故郷に戻った山幸彦は、兄の海幸彦に会いシオミツタマを用いたり呪文を唱えたりして、兄を溺れさせて苦しめて降参させました。それまで優位であった兄が弟に敗れて帰服するというのは、キリスト教の旧約聖書にある『カイン・コンプレックス』を彷彿させるエピソードですが、兄の海幸彦の子孫とされる九州地方の隼人(はやと)には、この故事に由来した『水に溺れる演技をするという宮中で見せた技芸の伝統』が残っていたと言われます。
『日本書紀』には、シオミツタマ(潮満玉)で溺れさせられた海幸彦が、弟の山幸彦に対して『子々孫々に至るまであなたの家の護衛人となり、帰服の演技をする俳優の民となろう』という内容の言葉を言ったと記されていますが、この俳優の民というのは『顔・掌を赤く塗って溺れた時の所作の演技をする』という、大王(天皇)への忠誠・帰順の意志を反映した宮中内での技芸・歌舞のことを意味しているようです。
トヨタマヒメ(豊玉姫)は、山幸彦(火遠理命)との間にできた子を産むために、海浜に鵜の羽で屋根を葺いた産屋を立てました。そして、山幸彦に決して中を覗いてはいけないと言って約束したのですが、山幸彦がその禁止を破って覗いてみると、トヨタマヒメはワニ(八尋和邇)の姿になって這いずりながら子どもを産んでいました。トヨタマヒメは自分の正体(真の姿)を見られたことを恥ずかしく思い憤って、海の国へと帰っていってしまいました。
このトヨタマヒメの本性がワニ(あるいは龍)であったというエピソードは、『鶴の恩返し』の民話などと類似形態の『異種婚姻譚(人間ではない種の動物との婚姻・出産の物語)』になっています。異種婚姻譚は、古代世界のアニミズム(精霊信仰)やトーテミズムの動物崇拝(動物の神聖性・霊威の承認)が反映された伝承だと考えられています。中華王朝などでも皇帝の祖先が、特殊な霊力・超能力をもった龍や鳳凰といった霊獣であるという信仰が持たれており、蛇・龍といった水棲動物を信仰する『龍蛇崇拝』は東アジアでは珍しいものではなかったのです。
ワニの姿になったトヨタマヒメは、ウガヤフキアエズノミコト(鵜茅不合葺命)という子を産みますが、正体を見られた恥辱・怒りでトヨタマヒメが海の国に帰ってしまったので、ウガヤフキアエズノミコトの養育はトヨタマヒメの妹のタマヨリヒメ(玉依毘売)が行いました。ウガヤフキアエズノミコトが成長すると叔母のタマヨリヒメと結婚することになり、五瀬命(イツセノミコト)、稲飯命(イナヒノミコト)、御毛沼命(ミケヌノミコト)、若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)といった子を産みました。最後に生まれたワカミケヌノミコトは、別名を神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコノミコト)といい、後に『神武東征』で知られる神武天皇となります。  
『出雲神話』とヤマト王権・三貴子の一人であるスサノオ
前回の記事では、海幸彦と山幸彦の兄弟に関するエピソードを解説しましたが、『古事記』の神代の時代の部分の3分の1程度を占めるのは、スサノオや大国主命(オオナムチ)が登場する出雲神話です。『出雲国風土記』に文化風俗や民情、特産物が記されている出雲国(現在の島根県)は地方の一国に過ぎませんが、日本神話に書かれている大国主神(オオクニヌシ)・大己貴命(オオナムチ)が支配する出雲国は、地上の『葦原中国(あしわらのなかつくに=日本全体)』に相当する大きな国であり、大国主神はスサノオの息子とされています。
記紀の日本神話の世界では、アマテラスオオミカミやタカミムスビを中心とする高天原の天津神のグループと、出雲国の大国主神(オオナムチ)を中心とする国津神のグループとの対立図式がありますが、大国主神の『国譲り』の決断によって出雲国が天津神のグループ(後のヤマト王権・大和朝廷)に帰属するようになったと伝えられています。出雲国には近畿(大和)のヤマト王権(天皇権威)の成立以前から、強力な政治権力(独立国)や文化的集団があって、それをヤマト王権が軍事力によって侵略・制圧したのではないかとも推測されていますが、日本神話の出雲の記述にどれくらいの史実性が含まれているのかは大きな謎になっています。『大和・出雲の政治権力(国)の対立と統合』が古代のどこかの時点で行われたのかもしれませんが、あるいは想像力に基づいた創作として出雲から大和への『国譲り』のエピソードが作られたのかもしれません。
スサノオノミコト(素戔男尊・素戔嗚尊・建速須佐之男命)は、イザナミから逃げて黄泉の国から帰還したイザナギが、日向橘小門阿波岐原(ひむかのたちばなのをどのあはきはら)で禊を行い、鼻を濯いだ時に産まれたとされています。スサノオはイザナギとイザナミの間で生まれた三貴子(さんきし)の一柱ですが、三貴子とは『天照大神(アマテラスオオミカミ)・月読命(ツキヨミノミコト)・素戔男尊(スサノオノミコト)』の神々のことを指しており、天照大神は高天原を、月読命は夜・滄海原を、素戔男尊は夜の食国(よるのおすくに)を支配するとされています。高天原で荒ぶる神となって乱暴狼藉を働き、アマテラスオオミカミを『天の岩戸』に隠れさせたスサノオは、その後に高天原を追放されて地上の葦原中国に天下ることになります。
出雲国の肥河(ひのかわ)の上流にある鳥上(鳥髪山)に下ったスサノオは、乙女を囲んだ足名椎(あしなつち)と手名椎(てなつち)の老夫婦が泣いている場面に遭遇して事情を聞きます。この土地の村を荒らして人々を恐れさせている八岐大蛇(ヤマタノオロチ)という巨大な蛇の怪物がいて、毎年、若い娘を生け贄として要求してくるという事であり、最後に残ったのがこの櫛名田比売(奇稲田姫・くしなだひめ)という少女だといいます。ヤマタノオロチは頭が八つ、尾が八つという強力な化け物でしたが、スサノオは天津神としての出自を明らかにして、自分が櫛名田比売を妻としてヤマタノオロチを退治してやるという約束をします。
スサノオという神は元々、出雲や紀伊の地方神だったと推測されており、その言葉の意味も本居宣長が主張した『荒び男(すさびお)の語源』に由来するものではなく、出雲国飯石郡須佐郷という須佐の地名に由来するのではないかと言われています。スサノオが紀伊国の地方神だったのではないかと言われているのは、樹木の生産地である『木の国(紀の国)』であった紀伊国の伝承として、スサノオが引き抜いた髭や胸毛、尻毛などが山々を満たす樹木になったという言い伝えが残されているからです。髭は杉に、胸毛は檜に、尻毛は板(まき)に、眉毛は楠になりましたが、スサノオは『杉・楠は浮宝にし、檜は宮殿の材料にし、板は人々の棺桶の材料にしよう』と語りました。スサノオは高天原を追い出された時に息子のイタケルを伴っていましたが、出雲国に下る前に韓国の新羅国に下ったも言われます。 
スサノオノミコトの八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治
八頭八尾の恐ろしい怪物であるヤマタノオロチを退治するために、スサノオノミコトが立てた謀略的な作戦は、大量の酒を満たした8つの木の桶(酒槽・さかぶね)を準備して待ち構え、その酒を飲んでヤマタノオロチが酔いつぶれたところを襲うというものでした。スサノオは好きになった櫛名田比売を歯の多い『櫛』に変えて髪に挿していきましたが、酒をぐびぐびと飲んで酔いつぶれたヤマタノオロチを十拳剣・十束剣(とつかのつるぎ)で切り殺すことに成功しました。肥の川はヤマタノオロチの血で赤く染まり、切り裂いた尾からは『草薙剣(くさなぎのつるぎ)』という三種の神器となる霊剣が出てきて、スサノオはその草薙剣をアマテラスオオミカミに献上しました。
スサノオによるこのヤマタノオロチ退治の伝承は、記紀には記されているが『出雲国風土記』では紹介されておらず、古代日本には世界の一部の地域で見られた『人身御供(人間を犠牲として捧げる)』という宗教的風習が無かったことから、ヤマタノオロチ退治のエピソードは出雲人に伝わっていた民話・伝承ではないのではないかという仮説もあります。しかし、ヤマタノオロチ退治の説話は、稲田の女神と水の神(龍蛇)が結びつく神婚譚にアレンジが加えられたものと考えることもでき、元々は『巨蛇の怪物と姫の人身御供』というエピソードではなく、稲田の豊作を願う龍蛇崇拝が変形したものではないかとも考えられています。
出雲地方の斐伊川・飯梨川の上流では砂鉄が取れて、古代出雲ではタタラ(踏鞴)という手法で製鉄業が行われていましたが、その地方には鉄器・鉄具を制作する『鍛冶部(かぬちべ)』と呼ばれる製鉄職人集団の集落があったといいます。砂鉄から鉄器を作るタタラ製鉄の過程では、川の水の流れを利用して砂鉄分だけを濾過する『かんな流し』という作業があり、この作業を行うと鉄分を含んで赤く濁った水が大量に排水されるので、この様子がヤマタノオロチの血で肥の川が赤く染まったというエピソードの源流になっているのではないかとも言われます。ヤマタノオロチを退治したスサノオはクシナダヒメと結婚して、出雲国須賀の里に拠点を定めましたが、その6世の孫に当たる人物が、葦原中国の支配者となる大国主命(オオクニヌシノミコト)・大己貴命(オオナムチ)なのです。 
オオナムチと因幡の白兎のエピソード
前回の記事では、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治する神話物語を紹介しましたが、そのスサノオとクシナダヒメの6世の孫で葦原中国(日本国)の統治者となるのが大国主命(オオクニヌシノミコト)・大穴牟遲神・大己貴命(オオナムチノミコト)です。大国主命には『八十神』と呼ばれる大勢の兄弟神がいました。その中で末弟だった大国主は兄たちに袋を担がせられて、稲羽(因幡)のヤガミヒメ(八神上売)に求婚する旅へ付き添っていきました。記紀ではその地名は稲羽と記されており、それが後世の因幡(現在の鳥取県)に当たるのかどうかは定かではありませんが、鳥取県にはこの神話にちなんだ白兎海岸(はくとかいがん)という海岸があります。
ヤガミヒメに求婚に行く途中の気多崎(けたのさき)で、皮を剥がれた赤膚の兎(ウサギ)に出会い、兎はその痛みと苦しさのために伏せっていたのですが、兄達の八十神は兎を騙して『海の塩水を浴びて風に当たり、高い山の尾根の上で横になっていれば良くなる』と嘘をつきました。八十神の言葉を信じて、海水に身を浸して風に吹かれていたウサギは余りの激痛に泣き叫んで伏せっていましたが、そこに最後から荷物を担いでやってきていたオオナムチ(後の大国主命)が通りかかります。ウサギは『淤岐嶋(おきのしま)からこの稲羽の地に渡ろうと思い、ワニたちにワニの同族の数を数えてウサギの数と比べて上げるといって騙し、ワニの背の上を飛んで渡ってきたのですが、最後の一匹の前で「海を渡りたくてお前たちを騙したんだよ」と言うと、怒ったワニに捕まえられて皮を剥がれてしまったのです』と、皮を剥がれてしまった事情を説明しました。更に、八十神に騙されて塩水を浴びて苦しんでいることを語り、オオナムチに助けてほしいとお願いしました。
ウサギの苦しみと痛みを癒してあげようと思ったオオナムチは、『今すぐに水門に行って水で身体を洗い、蝦蟇(ガマ)の油の上を転げまわれば、炎症を起こした皮膚は回復して元通りになるだろう』と正しい治療法を教えて上げました。オオナムチの言った通りにすると、ウサギの赤くなっていた皮膚は元通りになり剥がれた皮と毛も回復して、『稲羽の白兎(いなばのしろうさぎ)』と呼ばれるように白い毛を持ったウサギの姿になりました。すっかり良くなった因幡(稲羽)の白兎は、『兄の八十神はヤガミヒメを決して得ることができない。袋を背負って後から行ったとしても、オオナムチ様がヤガミヒメと結婚することになるでしょう』という予言の言葉を述べました。
果たしてその白兎の予言の通りに、オオナムチがヤガミヒメと結婚することになったのですが、それに激怒した兄の八十神たちは弟・オオナムチに復讐を企てて、イノシシと偽った焼けた大石を転がしてオオナムチを焼き殺してしまいました。オオナムチの母親(一説にはクシナダヒメ)の願いで、カミムスビが蘇生の特殊能力を持つ赤貝・蛤(はまぐり)の女神を遣わして、オオナムチを生き返らせますが、八十神の兄は再び大木の割れ目の中にオオナムチを押し込んで圧殺します。母のクシナダヒメはもう一度オオナムチを生き返らせて、紀伊のイタケルの元に逃げさせますが、八十神の兄の追撃が激しいので、夫のスサノオが住んでいる『根の国(黄泉の国)』へと逃がしました。 
大国主命と少名毘古那神の『国づくり』
オオナムチ(大国主命)は根の国へと行ったのですが、スサノオはオオナムチを助けてはくれず、逆に『蛇の室(むろや)・ムカデの室・蜂の室』など恐ろしい爬虫類や毒虫のいる部屋にオオナムチを閉じ込めました。オオナムチは婚約者であるスサノオの娘のスセリビメ(須勢理毘売)から不思議な防御力を持つ『比礼(布)』を貰っていたので、何とか危険な部屋から自分を守ることができました。スサノオは野原に矢を射て、その矢をオオナムチに探して来いと命じて、野原に放火し焼き殺そうとしますが、ネズミの助言で地下の穴倉に隠れて一命を取り留めます。
スサノオは更に自分の頭の中にいる虱(しらみ)をオオナムチに取らせるのですが、スサノオの髪にいたのは虱ではなくムカデであり、オオナムチはスセリビメがくれた椋の実と赤土を口に含んで吐き出し、あたかもムカデを噛み潰して処理しているように見せかけました。健気なオオナムチの作業に満足したスサノオが居眠りをしだすと、オオナムチはスサノオの髪を垂木(たるき)に結びつけて、妻のスセリビメを連れて『生大刀(いくたち)・生弓矢(いくゆみや)・天の詔琴(あめののりごと)』といった宝物を持って逃げ出しました。生大刀・生弓矢というのは蘇生の特殊能力を持つ神々の武具であり、天の詔琴というのは詔勅(権威ある命令)を出すときに奏でる神器でした。スサノオは結び付けられた髪をほどして追いかけてきましたが、根の国との国境に来た時に二人の結婚を遂に認めます。
宝物の武具を持って葦原中国(日本国)に帰った大国主命(オオナムチ)は、兄の八十神を打ち倒してこの国の統治者(主人)となり、ウツシクニダマノカミとなって宇迦(うか)の山麓に拠点を構え、国づくりの作業を始めました。大国主命が出雲の美保岬にいた時、海の沖合いから天の羅摩船(あめのかがみのふね)に乗って、鵝(蛾)の皮を来た小さな神がやってきたが、誰もこの神の名前を知らず、この神に名前を尋ねても答えがありませんでした。ヒキガエルの多邇具久(タニグク)に神の名前を質問すると、『博識なカカシの久延毘古(クエビコ)ならきっと知っているでしょう』と言ったので、クエビコに尋ねると『その小さな神は神産巣日神(カミムスビ)の子の少名毘古那神(スクナビコナ)である』と答えました。
カミムスビが、大国主命にスクナビコナと義兄弟になって国づくりをするように言ったので、大国主はスクナビコナと協力して葦原中国の国づくりを進めていきました。しかし、その後にスクナビコナは粟の茎に弾き飛ばされてしまい、常世国へと去っていってしまったのです。一人でどのようにして国づくりを完成させれば良いのかと大国主命が孤独に悩んでいると、再び海原を照らしながら近づいてくる神があり、幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)というその神が『私を丁重に大和の地に祀れば、国づくりが順調に進む』というので、大和の御諸山(三輪山)に祀りました。この三輪山に祭祀された幸魂奇魂という不思議な神が、大物主神(おおものぬしのかみ)となりました。  
高天原から葦原中国への神々の派遣と大国主命の対応
前回の記事では、根の国(黄泉の国)から神器を携えて帰還した大国主命が、『八十神』と呼ばれる大勢の兄神を打倒して、葦原中国(地上の国)の支配者になったエピソードを紹介しました。しかし、高天原(天上の国)の神々は、葦原中国を統治する新たな天津神を派遣することを決め、天照大神(アマテラスオオミカミ)の子の忍穂耳(オシホミミ)を遣わそうとします。しかし、忍穂耳は葦原中国は乱れていて自分では統治できないと言って引き返してきたので、高天原では神々の話し合いが行われ、思金神(オモイカネノカミ)が天菩比神(アメノホヒノカミ)を推挙します。
天菩比神(アメノホヒノカミ)が派遣されたのですが、アメノホヒノカミは大国主神と懇意になって臣従するようになってしまい、遂に3年間が経過しても帰ってきませんでした。高天原の神々は改めて、天津国玉(アマツクニダマ)の子の天若日子(アメワカヒコ)を遣わすのですが、弓矢で大国主神を成敗する意気込みで乗り込んだアメワカヒコも、大国主神の娘の下照比売(シタテルヒメ)を妻にしてしまい、大国主神に付き従うようになってしまったのでした。8年間も帰って来ないアメワカヒコの様子がおかしいと思った天津神たちは、鳴女(ナキメ)という名前の雉を遣いに出して、アメワカヒコを糾問しようとしたのですが、アメワカヒコの侍女の天佐具売(アメノサグメ)が『嫌な鳴き方をする雉なので、弓で射ち殺したほうが良い』と唆し、アメワカヒコは鳴女を射抜いてしまいました。
鳴女を射抜いた強弓の矢は、高天原にいる天照大神と高木神(タカムスビノカミ)の元にまで届きましたが、高木神は血のついたその矢を手で握り締めると、『アメワカヒコが正しい事をしているならばこの矢は当たらないが、邪心があって地上に留まっているのであれば当たる』と唱えて、地上に投げ返しました。すると、その弓矢は朝方で寝入っていたアメワカヒコの胸を貫き、アメワカヒコは絶命してしまいました。天若日子の突然の死を嘆く妻の下照比賣の泣き声が高天原まで届くと、アメワカヒコの父・天津國玉神や母が降りてきて、死者を弔うための喪屋を作りました。その喪屋を、アメワカヒコと見間違えられた阿遅志貴高日子根神(アジシキタカヒコネ)が怒って蹴り飛ばしてしまったので、美濃国の喪山(もざん)が出来たと伝えられています。
天津神はアメノホヒノカミとアメワカヒコが変心して裏切ったことを残念に思いましたが、次に建御雷神(タケミカツチノカミ)と天鳥舟神(アメノトリフネノカミ)の二柱の神を遣わして、葦原中国を支配させようとします。『日本書紀』のほうでは、天鳥舟神ではなくてフツヌシという神が遣わされたという話になっています。  
大国主命の『国譲り』と事代主神・建御名方神の服従
建御雷神(タケミカツチノカミ)と天鳥舟神(アメノトリフネノカミ)は、大国主命(オオナムチ)に葦原中国の支配権を放棄させるために談判を行います。出雲国・伊那佐(いなさ)の小浜に降りてきた二神は、十挙剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さまにして波頭の上に立て、その剣先の上に胡坐(あぐら)をかいて座ることで、特別に強力で神秘的な神威を見せ付けました。大国主神に対して『この葦原中国は天照大御神の子が治めることになった。お前はそれを認めるのか?』と問いかけると、大国主神は『自分では答えを出せないので、息子の事代主神(コトシロヌシノカミ)に聞いて欲しい』と答えました。
天鳥舟(アメノトリフネ)がその事代主神(コトシロヌシノカミ)に美保崎(みほのさき)で会って天照大神の命令を伝えると、事代主神は『分かりました。葦原中国の国土は天神の御子に献上することにします』と返答しました。コトシロヌシは乗っていた舟を傾けて、天の逆手をパンと打ち、海中に青柴垣を作って隠れてしまいました。建御雷神(タケミカツチノカミ)のほうは、大国主神に更に『他に反対意見を持っている国津神はいないか。国土を天津神に献上することにみんなで賛成しているのか』と詰問しました。その詰問の途中で、大国主のもう一人の子である建御名方神(タケミナカタノカミ)がやって来て、『わが国土を奪おうとしてひそひそと話しているお前は誰だ。そんなにこの国が欲しいのであれば、俺と力競べをしようではないか』と持ちかけてきました。
建御名方神(タケミナカタ)は大岩を指先で軽々と持ち上げて、建御雷神(タケミカツチ)を挑発しながら腕を掴んだのですが、タケミカツチの腕は氷柱に変わって更に鋭い剣の刃になってしまいました。驚いたタケミナカタは掴んでいたを手を離したのですが、タケミカツチはその手を握り返して葦の草のように簡単に握りつぶしてしまい、引っこ抜いて投げ捨ててしまいました。タケミカツチの圧倒的な怪力と霊威に恐れをなしたタケミナカタはそのまま逃げますが、信濃国の諏訪湖にまで追い詰められて、その地で信濃から出ないことを誓って、『国土の天神の御子への献上』にも賛成しました。
タケミナカタを実力で屈服させたタケミカツチは出雲国へと取って返して、再び大国主神に国土を天神に献上するのかと問い質しますが、大国主神は一つだけ交換条件を出して、その条件を満たしてくれるなら国土を譲ることにしますと答えました。大国主神が出した交換条件というのは『私の住む宮殿として、天神の御子が住むのと同じくらいに広大な宮殿を建設して欲しい』ということであり、その望みを聞いてもらえれば『自分の子と眷属神を含む百八十神は天津神に帰順して逆らうことはないでしょう』と答えました。この大国主神の返答によって、国津神から天津神への葦原中国(日本国)の『国譲り』が行われることとなり、出雲国(現在の島根県)の多藝志(たぎし)に高層で壮大な出雲大社(いずもたいしゃ)が建設されることになったのでした。葦原中国の平定を無事にやり遂げた建御雷神は、高天原へと帰って天照大神に復命し、天照大神の孫となるニニギノミコトの天孫降臨のエピソードにつながっていくのです。  
カムヤマトイワレビコ(神武天皇)による神武東征
前回の記事では、出雲国の大国主命による『国譲り』について書きましたが、ここでは、ニニギの天孫降臨以降の血統の流れと天神の東征による神武天皇の誕生について説明します。火遠理命(山幸彦)とワニの本性を持つ豊玉姫の子として、ウガヤフキアエズノミコト(鵜草葺不合命)が誕生しますが、 ウガヤフキアエズは母・豊玉姫の妹の玉依姫(タマヨリヒメ)に養育されました。成長するとその叔母の玉依姫と結婚して、五瀬命(イツセ)・稲飯命(イナヒ)・御毛沼命(ミケヌ)・若御毛沼命(ワカミケヌ)という4人の子どもを生みます。
御毛沼命(ミケヌ)は常世へ渡り、稲飯命(イナヒ)は母親のいる海原へ行きましたが、4人の子は成長すると更に豊かで美しい国を求めて、大勢の配下の軍隊(舟軍)を引き連れて東の方角へと『東征(東方遠征)』を開始します。天孫降臨の地である九州の日向国・高千穂を出た四人は、筑紫や豊後(現在の大分県)の宇佐、安芸(広島県)、吉備(岡山県)などを通って土地土地の豪族を倒して攻略しながら、16年の長い歳月をかけて難波(大阪府)へと到着しました。豊後(豊国)の宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人は仮宮を作ってくれて食事も献上してくれました。岡田宮で1年ばかりの時を過ごし、四国・阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)では7年を過ごし、吉備国の高島宮で8年を過ごしたために、難波(浪速)に着くまでに16年の期間がかかったのでした。
4人の命(みこと)は、難波の土地も攻略して支配しようとしましたが、そこには長髄彦(ナガスネヒコ)という強力な豪族がいて、軍隊を組織して抵抗してきました。大軍による攻撃を受けた戦況は不利な状況になり、長男のイツセはナガスネヒコの軍勢が放った矢に当たってしまいます。深手の負傷をしたイツセは、『我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うと十分な力を発揮できない。敵軍の背後に廻り込み日を背にしながら西を向いて戦おう』という作戦を語りました。この作戦を実行するために一行は南紀の熊野に向かいますが、イツセは紀国の男之水門に着いた辺りで、弓矢の傷が元で命を落としました。
更に南紀の熊野に向かう海路で嵐に巻き込まれてしまい、イナヒとミケヌの二人の兄も、海の果ての常世と海神の国とに流されて遭難してしまいました(実質的に葦原中国に戻れないという意味で死んでしまいました)。最後に一人残された末弟のカムヤマトイワレビコ(ワカミケヌ)は、何とか軍勢を伴って熊野に上陸したのですが、そこで大熊と出会ってその霊力(毒気)によってイワレビコと全軍は失神してしまいました。熊野の豪族の高倉下(タカクラジ)が、一振りの太刀を持ってきて献上すると、カムヤマトイワレビコはすぐに失神から目を覚ましました。神日本磐余彦(カムヤマトイワレビコ)がその霊威のある太刀を受け取って振ると、熊野の荒ぶる神・邪神は自然に滅ぼされていき、失神していた兵士も気絶から回復しました。
タカクラジによると、この不思議な霊剣は、夢の中で天照大神と高木神がイワレビコの危機を救うために建御雷神(タケミカツチ)を遣わそうとし、タケミカツチが自分の代わりに地上に投げ落とした剣だといいます。タカクラジは、夢に現れたタケミカツチが『倉の屋根に穴を空けてそこから太刀を落とし入れるので天神の御子の元に持って行って欲しい』というのを聞いて、目ざめると倉の中にその霊剣があったのでここまで持ってきたのだといいます。この霊剣はフツノミタマと呼ばれており、その後に、大和地方の石上神宮(いそのかみじんぐう)に祀られる事になりました。
フツノミタマの霊力の助けを借りながらイワレビコは進軍を続けていきます。高木神(タカミムスビ)が案内役として使わした八咫烏の導きもあって、吉野川周辺にまで出て、そこにいた尾(しっぽ)のある国津神の集団を服属させました。大和の宇陀では兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)の兄弟がいて、兄のエウカシは宮殿に天上が落ちてくる罠を仕掛けて、イワレビコを倒そうと画策します。しかし、弟のオトウカシが裏切ってイワレビコらに罠の存在を密告したため、エウカシは『天神の御子を招く宮殿であるなら、まずはお前が入って安全を確認しろ』と言われ、自分が仕掛けた罠に押し潰されて落命しました。エウカシに弓矢を向けて宮殿に入るように要求したのは、大伴連の祖の道臣命(ミチノオミ)と久米直の祖の大久米命(オオクメ)という天津神でしたが、大伴と久米の子孫は後のヤマト王権において有力な豪族となりました。
忍坂の地では、蛮族とされる土雲の八十建(ヤソタケル)がいましたが、八十建というのは『多くの勇敢な首長』という意味であり、地方の首長・豪族の連合軍であったとも考えられています。カムヤマトイワレビコは、八十建との戦いにおいて計画的な謀略を用いて勝利しました。その謀略というのは、御馳走を振る舞うという名目で八十建に対して、それぞれ80人の暗殺者としての調理人をつけて、合図と同時に一斉に八十建を倒してしまうというものでした。土雲の八十建を征服した後には、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)の兄弟の豪族を倒して、更に兄のイツセの仇敵であるナガスネヒコをもイワレビコは滅ぼすことに成功したのでした。カムヤマトイワレビコの軍勢は敵と戦闘をする際に、『みつみつし 久米の子らが…』という久米部の豪族の歌を歌っていたとされており、これは古代の軍歌・戦歌の『久米歌』として知られています。
ナガスネヒコは邇芸速日命(ニギハヤヒノミコト)という神の加護を受けていたため、強大な武力を発揮することが出来ていたのだが、ニギハヤヒはイワレビコに服属することを決めて、ナガスネヒコにも降伏するようにも勧めるのですが、ナガスネヒコはその説諭を聞き入れません。説得することは不可能と判断したニギハヤヒはナガスネヒコを殺害して、そのままイワレビコに降伏して帰順しました。ニギハヤヒはイワレビコに天津神の御子としての証明である『印璽』を奉納して帰順し、荒ぶる神と邪神、賊軍を服属させたイワレビコは大和を平定することが出来ました。
大和を平定したカムヤマトイワレビコは西暦紀元前660年2月11日に、畝火・畝傍(うねび)の橿原の宮(かしわらのみや)で初代・神武天皇(紀元前660年2月18日?-紀元前585年4月9日?)として即位したとされます。神武天皇はその在位期間が縄文時代であり、生物学的限界を超えた長寿であることを考えても、実在の天皇ではないとされますが、記紀の日本神話においてはこの初代の神武天皇から皇統の系譜が始まる事になります。神武天皇は大物主神の娘・比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)を皇后として、日子八井命(ヒコヤイ)、神八井耳命(カムヤイミミ)、神沼河耳命(カムヌナカワミミ,後の綏靖天皇)の三柱の御子を設けています。  
ヤマトタケルの英雄神話
初代の神武天皇の後は、2代・綏靖天皇、3代・安寧天皇と続いていきますが、12代の景行天皇(けいこうてんのう,在位71年8月24日 - 130年12月24日)には、大碓命(おおうすのみこと)と小碓命(おうすのみこと)という兄弟の子がいました。景行天皇は兄比売(えひめ)・弟比売(おとひめ)という二人の美女を妻にしようとして、大碓命にその二人を宮殿に連れてくるように命じますが、大碓命はその美貌に誘惑されてしまい自分の妻にしてしまいます。天皇に別の女性を連れて行って騙した大碓命は、天皇に悪いという思いがして余り御前に顔を見せなくなりますが、大碓命が体調でも崩しているのではないかと心配した天皇は、弟の小碓命に様子を見てくるように命じます。
兄の大碓命の様子を見に行った小碓命は、兄が天皇に奉献すべき兄比売(えひめ)・弟比売(おとひめ)を自分の妻にしているのを見て激怒し、兄を殺してその手足をひきちぎって投げ捨ててしまいました。景行天皇は小碓命が余りに乱暴で攻撃的である事を恐れて、南九州に拠点を構える獰猛な熊曽建(クマソタケル)という賊の兄弟を征伐してこいという命令を出して遠ざけました。熊曽建の征伐に向かう小碓命は、叔母の倭比売(ヤマトヒメ)から女性用の衣裳を貰い、それを身に付けて女装してから熊曽建兄弟の新築の館に駆けつけました。新築を祝う宴に紛れ込んだ女装の小碓命は、熊曽建に女性として機嫌を取りながら接近し、宴も酣(たけなわ)になった頃に、剣を抜いて熊曽建の兄を殺害し、逃げる弟を尻から貫いたといいます。
成敗された熊曽建はその死ぬ直前に、小碓命に向かって『あなたほど勇敢で強い人物は知りません。私の名を献上しますからどうか今後は倭建(やまとたける)と名乗ってください』と語って絶命しました。倭建(日本武尊)と名乗るようになった小碓命は、出雲国で出雲建(イズモタケル)と決闘をして打ち倒しましたが、ここでも相手の真剣を自分の持ってきた木刀(木太刀)と摩り替えるという謀略を用いたとされます。何とか九州と出雲の賊を討伐したヤマトタケルですが、大和の王宮に帰ると景行天皇は更にヤマトタケルに対して、東国十二道の征服・反乱の鎮圧を命令しました。
ヤマトタケルは伊勢神宮の斎王をしていた叔母の倭比売を訪ねて、『父(天皇)は私を嫌っているようで私の命が遠方の地で無くなれば良いとでも思っているようです。九州征伐からやっとの思いで帰国した私に、休む期間や新たな軍勢も与えずに、再びすぐに東国征伐に向かえと命令するんですよ』と泣いて訴えました。ヤマトタケルのことを心配した倭比売は、大いにその不安・怒りを慰めて、ヤマトタケルに草薙剣と火打袋という神器を与えました。東国征伐では相武国で、賊軍の豪族(国造)から騙されて野原で火計を仕掛けられて焼き殺されかけるのですが、ヤマトタケルは草薙剣で草を刈り分けて火打石で対抗する火を起こしながら、反対に賊軍を焼き尽くしました。ヤマトタケルが火計で勝利したこの土地は『焼津(やいず)』と呼ばれています。
浦賀水道を渡る時には、波を逆立てる海神の妨害に遭いますが、ここではヤマトタケルの后の弟橘比売(オトタチバナヒメ)が自分の身を海に投げ入れて、海神の怒りを鎮撫したとされます。東国十二道を必死の戦いと妻の犠牲で平定したヤマトタケルは、大和への帰途に着くことになりますが、足柄山の坂下では坂の神である白い鹿を打ち倒して、甲斐国・信濃国を通過して尾張国にまで戻ってきました。尾張国の国造の娘であるミヤズヒメと婚約するのですが、ヤマトタケルは何を思ったか、大事な神器である草薙剣をミヤズヒメに預けたまま、伊吹山の山の神を征伐する旅に出ました。大言壮語して自信満々で山の神を退治しに行ったのですが、白い猪の姿をした山の神に気づくことができず、山の神から大氷雨による攻撃を受けたヤマトタケルは瀕死の重傷を負ってしまいました。
重傷を負いながらも何とか山を下りたヤマトタケルは、凍傷で傷つき腫れあがった足を引きずりながら、居寝(いさめ)の清泉、当芸野(たぎの)、尾津、三重へと移動して、伊勢の能煩野(のぼの)までやって来たところで力が尽きて亡くなってしまいました。ヤマトタケルノミコトは死ぬ直前に、懐かしい大和の故郷の風景を思い浮かべながら、『倭は国のまほろば たたなつく 青垣 山こもれる 倭しうるはし』という国を偲ぶ歌を詠んでから絶命したと伝えられています。ヤマトタケルの死去を伝えられた大和にいる后・御子たちは嘆き悲しんで伊勢に御陵(墓)を建設しましたが、御陵から白鳥が飛び立って河内国・志幾に留まったのでその地にも御陵を作りました。しかし、河内の御陵からも飛び去った白鳥は、遂に天津神の一族の故郷である天上の世界を目指してその姿を消したといいます。 
 
范曄『後漢書』の伝来と『日本書紀』

 

池田昌広
一 問題の所在
范曄(三九八―四四五)の撰した『後漢書』(以下、范書と略称)は、後漢一代の史事を叙した断代史である。今日、司馬遷『史記』と班固『漢書』とともに三史と称される。本稿は范書の本邦初伝の時期を推定しようとするものである。ただ、意図するところはこの一事につきるのではない。
『日本書紀』(以下、『書紀』と略称)のすくなからざる部分が漢籍からの流用文であることは、よく知られる。この出典に范書をかぞえる説がある。該説にしたがえば、おそくとも『書紀』撰上の養老四年(七二〇)には范書が舶載されていたことになる。目下、范書舶載をみちびく最もふるい徴証という。しかし、『書紀』中の范書引用の認定は、すでに破綻のあきらかな『藝文類聚』利用説を前提にしている。前提がほぼくずれたことにより、該説の是非はあらためて検討されなければならない。本稿はこれを果たしたく、紙幅の大半を『書紀』における范書利用説の検証についやすはずである。范書の初伝時期を推定する作業は、実のところ、舶載の最古の徴証という『書紀』における范書引用の是非をさだめることである。
范書引用の如何は、すくなくとも、『書紀』に関する二つの問題に波及すること大である。それは、第一に『書紀』の潤色に利用された類書の問題、第二に『書紀』の名義問題である。実は本稿の主要な目的も両問題の解明への寄与にある。まずはこのあたりから述べ、本稿の問題意識のありかを整理しておこう。
第一、類書問題との関わりから。小島憲之は『書紀』の潤色作業での『藝文類聚』の頻用をみとめ、『藝文類聚』に見当たらず間接引用に解せない漢籍典拠の文を漢籍原典からの直接引用に解した。范書の引用も小島によって、その出典論の一環としてとなえられた。小島は、范書と明らかな対応をしめす『書紀』の文章を多数見出し、これらが『藝文類聚』に条録されていないことから范書の引用を間接ではなく直接と解釈した。少数の例外をのぞいて目下これといった批判をきかない。
拙稿Wで述べたように、たとえば『書紀』冒頭部分の出典が『藝文類聚』でありえないことが明白であるのを一証として、小島の『藝文類聚』説はすでに成り立ちがたく、その時点で范書の直接引用説は再検討をせまられる。ただ『藝文類聚』説を克服したはずの『修文殿御覧』利用説さえも、小島の挙示した諸例のすくなからざる文を、なお范書の直接利用に解さねば矛盾を生じてしまう。范書の利用という点のみいえば、『修文殿御覧』説は『藝文類聚』説とつまるところ同案といわざるをえない。范書引用の有無は『修文殿御覧』説の是非を判定するうえでも有用である。
第二、書名問題との関わりから。周知のとおり『書紀』の名義については長い論争の歴史がある。わたしもその概略をば拙稿Tで整理した。そこでb説にわけた、「日本書」を原題にみとめる論者たちが特に援用する「師説」がある。『釈日本紀』巻一「開題」所引「日本書紀私記」にのこる「師説」だ。
「師説」は、范曄が范書を撰したとき「帝王事」(おそらく本紀にあたる)を「書紀」と称したむねを述べ、「日本書紀」が范書の用法にならった名義だという。現存する范書諸本中に「後漢書紀」と題するテキストは見当たらないが、過去、内題を「後漢書紀」に作った異本が伝わっていたようだ。「師説」を援用するb説論者は、これをもって「師説」は空論でなく明白な論拠を有するとして「日本書」原題説を主張するのである。
b説の不備は拙稿Tで指摘したが、「師説」の有効性を判断するうえで范書引用の有無は有効だ。かりに『書紀』撰上当時に范書が未舶載とすれば、「師説」のいう范書に倣った命名という推測は、『書紀』完成ののち范書舶載後には当てはめうるけれど、原題の如何とは接点をうしなう。
以上、范書初伝の如何が『書紀』に関する二つの問題に波及することを見た。これで本稿の意図は理解されたと思う。それでは史料の分析にはいるとしよう。 
二 『書紀』の出典と避諱
范書が本邦の記録にあらわれるのは、確実な例では左記の『続日本紀』神護景雲三年(七六九)十月甲辰条が最もはやい。
大宰府言、此府人物殷繁、天下之一都会也、子弟之徒、学者稍衆、而府庫但蓄五経、未有三史正本、沙獵之人、其道不広、伏乞、列代諸史、各給一本、伝習管内、以興学業。詔賜史記・漢書・後漢書・三国志・晋書各一部。
「後漢書」を名のる書は後述のとおり複数あるけれど、これは三史のうちの一書であり、『日本国見在書目録』に著録する「後漢書」は范書のみだから、みぎの「後漢書」は范書にちがいない。七六九年当時、范書がすでに本邦につたわっていたと知られる。もう一つ注目すべきは、三史のうちに『東観漢記』でなく范書をかぞえる点である。三史といったばあい、ふるくは『史記』『漢書』『東観漢記』の三書を指した。しかし、みぎの記事は『東観漢記』に代って范書をくわえるあたらしい学説によっている。
さて、范書舶載をしめす徴証はいつまでさかのぼるのか。ここで『書紀』の出典が問題になる。『書紀』述作における范書の直接利用を主張するのは小島憲之である。小島のあげる『書紀』と范書との類似した文章は多数にのぼるが、これを検した東野治之はそのなかから現行范書が「人」に作るところを『書紀』が「民」に作っている二例を見出した。まず該当文をひだりにかかげる。
A 是時天下安平、民無徭役、歳比登稔、百姓殷富、稲斛銀銭一文、牛馬被野。 (顕宗紀、二年十月)
A’ 是歳天下安平、人無徭役、歳比登稔、百姓殷富、粟斛三十、牛羊被野。 (范書巻二、明帝紀、永平十二年)
B 車駕還宮、毎所到行、輒会郡県吏民、務労賜作楽。 (持統紀、六年三月乙酉)
B’ 毎所到幸、輒会郡県吏人、労賜作楽。……十二月丁亥、車駕還宮。 (范書巻三、章帝紀、建初七年十月癸丑)
文章の類似は瞭然で、ABとA’B’とにはなにがしかの関係のあることが明らかである。ただ『書紀』が、「人」を「民」に改易する必要のない箇所で「民」に作っている事実をどう解釈するか。東野は、『書紀』述作者の参照した漢籍鈔本が唐太宗の諱「世民」の「民」を避諱していないテキストであったと論じた。出典たる漢籍鈔本が当該部分をそもそも「民」に作っており、『書紀』はその用字を写したに過ぎないというわけだ。
東野の解釈は、結論からいえば妥当に思われる。唐鈔本を底本に宋刊本が上木されたばあい、「世」「民」といった唐諱を元字になおし宋の避諱字をあらたに避けるのが普通だ。ただ、元字の復元はかならずしも厳格ではなかったようで、A’B’も唐諱の代字を見のがし元字の復元が果たされなかった例と思われる。
唐代における「世」「民」両字の避諱の法的規定およびその実情については拙稿Uで述べた。詳細はそちらの記述にゆずり、本稿の行論に必要な情報のみ簡略に記しておくとしよう。
唐初にあっては、「世」「民」両字がつらなり「世民」となるばあいのみ避け、「世」あるいは「民」単字の表記は避諱の対象にならなかった。「世」「民」単字を避諱するようになるのは高宗朝にはじまる。中村裕一によれば、「世」「民」単字が避諱されるのは顕慶二年(六五七)十二月以降である。中村は、『旧唐書』巻四、高宗紀、顕慶二年十二月庚午条「改昬葉宮」を王鳴盛にしたがって「改昬葉字」のあやまりに解し、該詔が「改民世字」の内容をふくむと解釈する。墓誌銘等の調査からも、唐初より顕慶二年まで頻用された「世」字が顕慶三年以降にみられなくなり、内部に「民」字をふくむ「昬」字も顕慶三年以降はこれに代わって「昏」字がつかわれるようになることを確認する。
ABをしるすにあたって『書紀』の述作者の手にした漢籍鈔本が「民」を避諱しない本であれば、該本は顕慶二年十二月以前の鈔写であったと考えられる。実はこのことが、ABの出典が范書であったとする説に疑団をいだかせるのである。
『書紀』の潤色に「民」を避諱しない范書が直接参照されたとすれば、その范書は有名な李賢の施注以前の本であったことになる。陳垣が「章懐注後漢書、避太宗諱、民字皆改為人」というように、李賢が范書に注をほどこしたのは顕慶二年の約二十年のちであり、太宗の諱をさけ「民」字の代わりに「人」字をもって筆録していたはずだからである。しかし、李注以前の范書の舶載は、はなはだ疑問といわねばならない。
今日、三史のメンバーは、『史記』『漢書』に范書の三書である。ただ、これは比較的あたらしい説で、ふるくは范書の代わりに『東観漢記』をかぞえるのが通例であった。たとえば、顕慶元年(六五六)に成った『隋書』経籍志の「正史」小序で『史記』『漢書』についで解説される後漢書は、范書ではなく『東観漢記』である。范書が『東観漢記』に代わって三史の一角を占めるに最も効力のあったのは、ほかでもない李賢らのくわえた注釈の存在と思われる。このあたりの事情を『四庫全書総目』は、
晋時以此書与史記・漢書為三史、人多習之。故六朝及初唐人隷事釈書、類多徴引。自唐章懐太子集諸儒註范書、盛行於代、此書遂微。 (巻五十、史部、別史類『東観漢記』条)
と述べる。ほぼ正鵠をえた解説に思われる。李賢の加注が范書流行の最大の要因であったこと、ほぼ定見であろう。反対に、李注以前の范書通行の限定が推測される。范書の通行が低調と思しい時期、該書の本邦舶載は蓋然性がひくいといわねばならない。ただし、いうまでもなく顕慶二年十二月以前にも漢土との交渉はあったわけで、理屈のうえでは「民」を避諱しない時期の范書鈔本が将来された可能性は消滅しない。また、ややこしいことに、李賢の施注よりふるい時期の『東観漢記』の不評、それを承けてだろう范書の好評をつたえる記事がすくなくない。
後漢から六朝時代、多数の後漢書が撰述された。そのうち最もはやい成書であり、初唐まで第一に権威のある後漢書にみとめられて来たのが『東観漢記』だ。光武帝から霊帝の時代までを叙した紀伝体の史籍である。范書流行の認定を困難にしているのは、三史の一でありながら種々の難を指摘されるこの書の不評ぶりである。『東観漢記』への不満の表明は、すでに同時代たる後漢の世にあらわれていた。それの成ったのちに幾度も後漢書の撰述がこころみられたのは、該書の缺点を是正し全き後漢書を編むためであった。
『東観漢記』の不評は范書の流行に有利に作用したであろう。『隋書』経籍志を閲するに、劉宋に成った范書には六朝期の注釈が各種あるのに、後漢末に成った『東観漢記』には一家の注釈もない。また、劉知幾は范書の論賛にからい採点をしたが、『文選』はその史論部などに都合五篇を引いていて六朝時代に范書の論賛、おそらくその文章が高い評価をえていたと知られる。貞観五年(六三一)に成った『群書治要』は六種の史籍からの抄文を録する。ここで後漢史事の抄出は、もっぱら范書によっている。李賢加注の四十年餘りまえに、勅命によって編まれた書が『東観漢記』でなく范書をえらんで引用しているのである。編纂を命じた太宗の好みもあったかもしれないが、これは李注以前に范書が一定の評価をえていたことの証に思われる。李賢の施注もこのような范書の好評を承けなされたと考えるのが自然だ。
しかし、これをもって李注以前に范書が『東観漢記』以上の権威をえていたと断ずるのは危険である。今日の三史の構成から両書の地位が、おそらく唐代に逆転しただろうと推測できるけれど、その時期の認定には慎重であるべきだ。むろん、上掲『四庫全書総目』のしめした大勢はうごかない。ただ、注意すべきは李賢そのひとの失脚である。李賢は調露二年(六八〇)庶人におとされ、父高宗が崩じた翌年文明元年(六八四)母たる則天武后の命により自殺させられた。李賢の名誉が恢復されたのは武后が歿したのち、睿宗の即位した唐隆元年(七一〇)のことである。名誉恢復以前、李注のあることは范書の流行にとって足かせになったであろう。では、三史の第三のメンバーが『東観漢記』から范書に交替した時期はいつか。それを示唆すると思しき記述が『唐六典』にある。
『唐六典』の吏部尚書(巻二)と礼部尚書(巻四)と、両条ひとしく弘文館・崇文館の教科として『史記』『漢書』『三国志』とともに『東観漢記』をあげる。しかるに同書の門下省弘文館学士の条(巻八)には、この四書のうちただ『東観漢記』のみがはづされ替わって范書がくわえられている。不一致の生じたわけを神田喜一郎は、『唐六典』の成った開元年間に『東観漢記』に代って范書がようやく重んぜられるようになり科目の変更がなされたためと説明した。妥当な解釈というべきである。左記の『唐六典』各条に「三史」の文字はないが、范書の三史への昇格はまずは玄宗朝にはじまると解されよう。玄宗の時代は李賢の名誉恢復直後にあたり、その意味でもみぎの想定は無理がない。玄宗朝以降、三史に格づけられたと思われる范書が、有唐を通じて「民」を避諱した本であったろうことはいうまでもない。
ひるがえって、目を本邦での范書に移せば、平安時代におこなわれた范書も「世」「民」を避けたテキストであった。大江以言(九五五〜一〇一〇)は、一条朝期の代表的詩人の一人として知られる。『本朝文粋』巻九におさめられた以言の「冬日於飛香舎聴第一皇子初読御注孝経応教」詩序に「漢代祖之有鼎嗣、慙嚢史於十歳之塵」とある。「鼎嗣」とは後漢の明帝であり「代祖」とはその父・光武帝であるから、以言のころ「世祖」を「代祖」と記していたと分かる。問題は以言が直接范書によったか類書等の第二次編纂物によったかである。これについて、以言よりややのちの大江匡房(一〇四一〜一一一一)が興味ぶかい発言をしている。匡房の談話を記録した『江談抄』巻六、「和帝景帝元武紀等有読消処事」に、
又後漢書光武紀、代祖光武皇帝代字、可読世音之云々。予案之尤有理、而俗人無読此音之者。雖普通事不知之歟。
とある。匡房は光武紀「代祖」の「代」をセイに発音することをいっている。これは要するに、匡房在世当時におこなわれていた范書のテキストが太宗の諱を避け「世祖」を「代祖」に改字したにすぎないから、このばあい「代」をセイによむことを「尤有理」と評しているのである。匡房は「普通事」というからには避諱のさだめを知悉しての言だろう。「代祖」に作る該本が遣唐使によって将来された唐鈔本を祖本にもつこと、まずまちがいない。匡房は藤原師通に范書を講授し、范書に典拠する故事にも通暁していたようで、みぎに引いた『江談抄』の記事は匡房ならではといえる。これをふまえれば以言が、「世」を避諱した范書に直接よったと考えるのはみやすい道理である。
具平親王『弘決外典鈔』(正暦二年・九九一自序)には范書からの引用が諸処にみられる。注目すべきは「年代略記」の「後漢光武名秀」に附された双行注である。そこには「高祖九代之孫也」とある。これに応じる表現が范書の光武紀にあって、現行范書は「高祖九世之孫也」に作る。これは具平の手にした漢籍が「世」を避諱したテキストであったからだ。具平の抄出は類書等を介してか否か。『弘決外典鈔』出典の悉皆調査を果たしていないので、にわかに断をくだしがたいけれど、当時の范書が講書の対象になっていた事実や以言の詩序を考慮すれば、范書からの直接引用の可能性がたかい。
みぎの諸例は「世」を避諱した范書であるけれど、反対に唐諱を避けない范書の伝来利用をいう上代文献の存在を聞かない。例外になりうるとすれば、上引の『書紀』文ABだけである。
われわれはこの文献的状況を矛盾なく説明しなければならない。漢土にあっては、范書の盛行が李賢施注以後、より限定すれば李賢の名誉恢復の成ったのち玄宗朝以降であったろうこと、それらがおよそ「世」「民」を避諱しただろうこと、本邦にあっては、平安時代通行の范書が「世」「民」を避諱した本であったこと、これら諸条件を承ければさきのABの出典はどう考えるのが妥当か。
ここでわれわれが想起すべきは、范書の直接利用説が、すでに破綻のあきらかな『藝文類聚』説を前提にしていることだ。『藝文類聚』説が成り立たない今、范書の直接利用説は実証が果たされていない仮説にすぎず、われわれはABを積極的に范書によったと見なす必要はまったくない。
さきの諸条件を無理なく解釈するには、ABの出典を范書の文章に相似した第三の書にもとめるのが穏当だ。范書盛行以前に該書の舶載を認定するには明白な証拠が要る。はじめてもたらされた范書のテキストには、その地位が安定してのちの鈔本、つまり開元年間以降に鈔写された本を想定するのが穏当である。それは平安時代におこなわれた范書の祖本であったろう。
さて、ことはABという局処に止まらないはずである。ABの出典が范書でないとすれば、『書紀』全書にわたって范書の利用と思われていた部分についても考え直さなければならなくなるからだ。ABという部分と『書紀』の全体との潤色状況がつねに整合性を保つ解法こそ正解なのであって、ABが特例ということにはならない。 
三 范書と『東観漢記』
前章の検討から、『書紀』の范書直接利用説へ疑義を呈する緒をえた。しかし、小島のあげた『書紀』と范書との多数の相似例は当然無視できない。范書から直に引かないとすれば、『書紀』の出典の候補として、范書によく似た文章をもつ他書または范書の文を抄録した類書が想定できる。
後漢史をつづった史籍として、范書と晋・袁宏『後漢紀』との二書が現存するのみだが、それ以外にも多数の後漢書が著されていた。いわゆる「九家後漢書」といわれる紀伝体の後漢書と編年体の晋・張璠『後漢紀』とがそれである。これらのうち范書はもっとも後発の史籍であり、その成書は後漢の滅亡から二百年以上を経過してのちのことであった。そのため范曄が後漢書を編むにあたっては、あらたに追加すべき史実の発見はほとんど望めなかっただろうし、文章それ自体さえも先行する各後漢書から強い制約をうけたであろう。事実、范書の撰述は官撰の『東観漢記』を主材料にしたことが知られ、両書のあいだには類似する表現がおおい。
范書と『東観漢記』との文章を比較した研究には、呉樹平のものがある。呉は、今日最も備わった『東観漢記』の輯本たる『東観漢記校注』上下(中州古籍出版社、一九八七年)を編んだ学者で、当該問題を論ずるには適任である。以下、呉にみちびかれ両書の文章を比較検討するとしよう。
類書等にのこされた佚文から判断するに、『東観漢記』の記述は范書および諸家の後漢書にくらべ情報量がおおい。それは『東観漢記』編纂時に利用しえた原史料の量的豊富および記述の詳密などの反映と考えられる。ただそのことが『東観漢記』の缺点たる記述の煩雑を生んだ。『東観漢記』に後続する各後漢書を撰した諸学家は、この記述の煩瑣を是正することに主意をおいたのであり、そのため范書をふくむ諸家の後漢書の表現は、『東観漢記』にくらべ総じて簡潔の傾向にある。
『東観漢記』佚文のうち比較的長いのは光武紀のそれである。これを范書の光武紀と比較すれば、『東観漢記』の文字量は范書の実に三倍に推定されるらしい。范曄の「刪煩」ぶり推して知るべし。ただし、范書の表現が『東観漢記』に依拠していることには変わりなく、共通する修辞が多数見られることもまた事実である。
諸家後漢書が『東観漢記』より主な材をとっていたこと、おおくの証言がある。『史通』曲筆篇は「中興之史、出自東観」といい、『文心雕龍』史伝篇には「後漢紀伝、発源東観」とある。范書も例外ではない。范書の撰述について、『史通』古今正史篇に「至宋宣城太守范曄、乃広集学徒、窮覧旧籍、刪煩補略、作後漢書」とあり、『宋書』巻六十九、范曄伝も「乃刪衆家後漢書、為一家之作」とほぼおなじことをいう。ただ「衆家後漢書」を平等にあつかい「刪煩補略」したわけでなく、主に原史料をおおく保つ『東観漢記』によっていたことは、呉の研究によってもあきらかだ。また、范書列伝四十、孝明八王伝の冒頭「餘七王、本書不載母氏」に附された李賢注が「本書謂東観記也」といっているのは、范書の主材料が『東観漢記』であったことの証左である。
范書が『東観漢記』と上述の関係にあることは、『書紀』の出典をさだめるうえで看過できない。一見して范書からの引用に思われた文章が、実は『東観漢記』に典拠するかもしれないからだ。『東観漢記』が『書紀』の出典たる可能性は小島も考慮していて、両書の比較をし類似の文章数条をひろっている。ただし、その解釈には問題がおおい。たとえば、応神紀の即位前紀にある左記の文
幼而聡達、玄監深遠、動容進止、聖表有異焉。
について、相似する『東観漢記』章帝紀のつぎの文章を引く。
幼而聡達才敏、多識世事、動容進止、聖表有異。
両文の類似は指摘しうるが、章帝紀の「動容進止」以下が『北堂書鈔』巻八、帝王部八、威儀に引載されていることを理由に、『書紀』が直には『東観漢記』によらなかったと解した。わたしも後述するように『東観漢記』の直接利用には懐疑的でその点は小島に賛同するが、その論拠が適切でない。『北堂書鈔』参照の可能性は、『書紀』全書の潤色との整合性から、小島自身によってすでに否定されているからである。
また、神功皇后紀の摂政前紀「幼而聡明叡智、貌容壮麗」と仁徳紀の即位前紀「幼而聡明叡智、貌容美麗」とについて。両者はほぼ同文であり、相似の表現が『東観漢記』明帝紀にある。小島はこれを引例したうえで、直接の出典を『藝文類聚』所引『東観漢記』にもとめている(巻十二、帝王部二、漢明帝)。しかし『藝文類聚』説はすでに破綻があきらかで、小島の理解には修正が必要である。
前掲Aの出典についても、小島は范書とは別に『東観漢記』から相似の表現をぬいている。『東観漢記』明帝紀のつぎの文章である。
A”是時天下安平、人無徭役、歳比登稔、百姓殷富、粟斛三十、牛羊被野。
A’とA”とを比較して、A”のほうがややAにちかいことを小島はみとめる。A”はさきに引いた「幼而聡明叡智、貌容壮麗」のしばらくあとにあらわれる文章である。『藝文類聚』では省略されており同書からの孫引きに解せない。そこで小島は、『東観漢記』のほうがより類似しているが、その類似は范書出典の可能性をしりぞけるほどではなく、つまるところ范書を出典にみとめるようである。しかし、『太平御覧』巻九十一、皇王部十六、顕宗孝明皇帝に引かれた『東観漢記』明帝紀佚文にはA”をふくむ文章があって、これのゆえに明帝紀A”の復元がかなったのである。A”が『藝文類聚』になく『太平御覧』にみえることは、『書紀』の述作者が『太平御覧』の藍本系類書を参照した証左である。
小島の解釈を通覧するに、『東観漢記』と『書紀』との比較は一貫性を缺くといわねばならない。ときに『北堂書鈔』からの孫引きを示唆し、ときに『藝文類聚』からの孫引きを示唆し、ときに范書からの引用に解する一貫性のない判断は、悔やまれる軽挙であった。
現行『東観漢記』の輯本という特性についても、小島の配慮は不充分といわねばならない。いうまでもなく『東観漢記』は佚書であり、われわれの見ることができるのは類書などに保たれた佚文である。注意すべきは、これら佚文じたいが節略文である可能性をつねにもっていることだ。『書紀』・范書・『東観漢記』三書の文章を比較するうえで、この点は十分配慮されなければならない。それがよくわかる例をあげよう。『書紀』允恭紀につぎのごとくある。
群臣再拝言、夫帝位不可以久曠、天命不可以謙距。今大王留時逆衆、不正号位、臣等恐、百姓絶望也。(允恭紀、即位前紀)
顕宗紀にもこれと同文をふくんだ左記の記事がある。
吾聞、天皇不可以久曠、天命不可以謙距、大王以社稷為計、百姓為心。 (顕宗紀、即位前紀)
雄朝津間稚子宿禰尊(允恭)と弘計王(顕宗)とは、ともに即位を懇願されながらなかなか承諾しなかった人物として『書紀』にはえがかれている。二人の人格者たることを強調した『書紀』の演出であろう。みぎに引いた二条は、天皇位に就くことを辞退するおのおのに対し即位をうながす臣下また兄王の発言中にあらわれる。小島によれば、両条は范書の光武紀に出典をもつ文章である。それをつぎに引いておく。『東観漢記』との比較のため、すこし長いけれど「至中山」から「改鄗為高邑」までを一部省略して引く。
至中山、ゥ将復上奏曰、漢遭王莽、宗廟廃絶、豪傑憤怒、兆人塗炭。王与伯升首挙義兵、更始因其資以拠帝位、而不能奉承大統、敗乱綱紀、盗賊日多、群生危蹙。大王初征昆陽、後抜邯鄲、北州弭定、参分天下而有其二、跨州拠土、帯甲百万。言武力則莫之敢抗、論文徳則無所与辞。臣聞、帝王不可以久曠、天命不可以謙距、惟大王以社稷為計、万姓為心。光武又不聴。行到南平棘、諸将復固請之。光武曰、寇賊未平、四面受敵、何遽欲正号位乎、諸将且出。耿純進曰、天下士大夫捐親戚、弃土壌、従大王於矢石之間者、其計固望其攀竜鱗、附鳳翼、以成其所志耳。今功業即定、天人亦応、而大王留時逆衆、不正号位、純恐、士大夫望絶計窮、則有去帰之思、無為久自苦也。大衆一散、難可復合。時不可留、衆不可逆。純言甚誠切、光武深感曰、吾将思之。行至鄗、光武先在長安時同舎彊華自関中奉赤伏符曰、劉秀発兵捕不道、四夷雲集竜鬭野、四七之際火為主。群臣因復奏曰、受命之符、人応為大、万里合信、不議同情、周之白魚、曷足比焉。今上無天子、海内淆乱、符瑞之応、昭然著聞、宜荅天神、以塞群望。光武於是命有司設壇場於鄗南千秋亭五成陌。六月己未、即皇帝位。燔燎告天、禋于六宗、望於群神。其祝文曰、……於是建元為建武、大赦天下、改鄗為高邑。(光武紀、上)
允恭紀・顕宗紀と范書光武紀とのあいだには無視しえない修辞の一致がある。光武紀引用条は、帝位につくを肯んじない劉秀にむけた臣下の即位嘆願のことばである。修辞の一致以外にも、允恭紀・顕宗紀とは類似の文脈に配された文といえる。范書該文をのぞいて、現存する漢籍中に『書紀』両条の出典として適当な文章を見出せない。『華林遍略』の条文をすくなからず保存しているはずの『太平御覧』『藝文類聚』にも出典にふさわしい文はない。
『太平御覧』巻九十、皇王部十五、後漢世祖光武皇帝には、『東観漢記』を主として范書以前の種々の後漢書から、光武帝に関聯する記事をぬきだし条録している。そのうちに『東観漢記』光武紀の佚文と推される長文があり、さきに引いた「至中山」から「改鄗為高邑」までの范書の記事に対応すると思しい部分をふくんでいる。そこにはつぎのごとくある。
東観漢記曰、……至中山、諸将復請上尊号、 1 、初王莽時、上与伯升及姉壻ケ晨・穰人蔡少公燕語、少公道讖言劉秀当為天子、或曰是国師劉子駿也。上戯言曰、何知非僕耶、坐者皆大笑。時伝聞不見赤伏符文軍中所、上未信、到鄗、上所与在長安同舎諸生疆華自長安奉赤伏符詣鄗、与上会。群臣復固請、 2 、乃命有司設壇于鄗南千秋亭 3 、六月己未、即皇帝位、 4 、改元為建武、 5 。
范書の記述にくらべ非常にみじかい。范書が『東観漢記』を「刪煩」して成ったのが嘘のようである。『太平御覧』の藍本たる『修文殿御覧』が『華林遍略』所引『東観漢記』を条録する際いかに大量の節略をなしたか、みぎの比較からも推知される。
さて、前引范書にそなわる允恭・顕宗両紀引用条の出典にふさわしい修辞は、みぎの『太平御覧』の引く『東観漢記』の文章には見出せない。『藝文類聚』巻十二、帝王部二、後漢光武帝も右引した『東観漢記』にほぼ同文をおさめるが、『太平御覧』の文章と大差なくやはり出典にふさわしい修辞は見あたらない。
この状況だけを見れば、允恭・顕宗両紀引用条の出典を范書の光武紀に断定しがちだけれど、『太平御覧』の引用文にはたくさんの節略文が隠されていることを忘れてはならない。上引『東観漢記』光武紀佚文にくわえた 1 から 5 は、『東観漢記校注』が他書にのこる同書同紀の佚文を博捜し復元文を挿入した箇所である。しかし復元には限界があって、挿入後も范書にくらべ非常に短文であることに変わりはない。『東観漢記』のオリジナルは佚文に数倍する長さであったろうと推定される。
允恭・顕宗両紀引用条に対応する『東観漢記』の文章は、 1 にあったと思われる。『東観漢記校注』は、左記『文選』巻三十七、劉琨「勧進表」への李善注所引『東観漢記』(二条)、
a 東観漢記、群臣上奏世祖曰、大王社稷為計、万姓為心。
b東観漢記、諸将上奏世祖曰、帝王不可以久曠。
および、同書巻四十九、干宝「晋紀総論」に李善が注するなかに、
c 東観漢記、耿純説上曰、天時人事、已可知矣。
とあるのを合成して 1 に挿入している。復元した文をその前後をふくめひだりにかかげる。
至中山、諸将復請上尊号、曰、帝王不可以久曠、大王社稷為計、万姓為心。耿純説上曰、天時人事、已可知矣。初王莽時……
abc の挿入箇所の判断は范書を参照したのだろう。注目すべきは、允恭・顕宗両紀に類似する文があらわれたことだ。それでも范書ほどの一致を見ないのは、『東観漢記』のオリジナルに起因するというより、缺落部分がなおあっていまだ全き復元に至らないからと考えるべきだ。たとえば「天命不可以謙距」の文が范書にあるように『東観漢記』にもあったはずで、そうでなければ『東観漢記』に主なる材をとった范書が「天命不可以謙距」と記述できるはずはないのである。類書等にのこる『東観漢記』佚文と范書とを単純に比較するのみでは結論をあやまる。
『東観漢記』の復元にはどうしても限界があって、それにともない該書と『書紀』および范書との三書の比較も十全にはおこなえない。ただ、范書にみられる文章の過半はまず『東観漢記』の文章にもとづくはずで、『書紀』と范書との相似は同時に『東観漢記』との類似もしめしている可能性がおおきい。これと前章で述べたABの出典が唐諱を避けていないこととを勘案すれば、状況的に『書紀』の出典として『東観漢記』は范書以上にふさわしいといえる。
これまで范書からの引用と見られてきた文章が『東観漢記』の文と相似の関係にあれば、『書紀』述作者は『東観漢記』から直接引用をなしたとも考えられる。しかしその可能性はひくい。目下知られる『書紀』范書および『東観漢記』の類似文を検討するに、『東観漢記』の引用にみえた文は類書、それも『修文殿御覧』ではなく『華林遍略』からの孫引きに解するのが穏当に思われる。天武紀の文章を例にそのことを述べよう。
・旗蔽野、埃塵連天、鉦皷之声聞数十里。列弩乱発、矢下如雨。 (天武紀元年七月辛亥条)
・旗幟蔽野、埃塵連天、鉦鼓之声聞数百里。或為地道、衝橦城、積弩乱発、矢下如雨、城中負戸而汲。 (范書光武紀)
・旗幟蔽野、塵連雲、金鼓之声数十里。或為地突、或為衝車撞城、積弩射城中、矢下如雨、城中負戸而汲。(『東観漢記』光武紀)
みぎに引いたのは、『書紀』の天武紀元年条、その出典に擬される范書と『東観漢記』との各光武紀である。范書の記述が『東観漢記』に似るのは当然だが、『書紀』により類似するのはいづれか。『書紀』の出典としては范書の方がすぐれている。『東観漢記』がおとるのは、類書による節略という次元ではなく、このばあい局部の修辞の差異によるわけで、やはり范書の優勢はうごかない。しかし、『書紀』述作者は范書を参照していないと考えるべきなので、この范書の文章は類書から孫引きされたと解釈するほかない。『東観漢記』を直接参照していたとすれば、該書にほとんど同文があるのに、わざわざ類書所引范書から引用をなすのは不自然である。この状況を合理的に説明するには、『東観漢記』光武紀も范書光武紀もともに引載している類書からすべての引用がなされたと解するほかない。ここに『東観漢記』直接引用説はしりぞけられ、『東観漢記』の引用は間接的であったと判断される。
ただ范書該条は『藝文類聚』に引かれず、『太平御覧』巻二百八十三、兵部十四、機略二と同書巻三百三十六、兵部六十七、攻具上とに引かれるだけである。前者は引用書名の記載に混乱があるようだが范書のものと思われ、後者は「衝撞城」までを録して范書とは限らないが「後漢書曰」と典拠を明記する。注目すべきは范書該条が『太平御覧』巻九十、皇王部にみえないことだ。
『太平御覧』巻九十では「旗幟蔽野」云々の話柄は『東観漢記』の引用文にのみあって、右引の『東観漢記』光武紀はまさにその部分である。「旗幟蔽野」云々の范書の記事が『太平御覧』の兵部に引載され皇王部にない状況は、その藍本たる『修文殿御覧』の引載状況を反映しているはずだ。『修文殿御覧』皇王部には范書該条の引用はなかったと考えられる。『書紀』述作者の参照した類書を仮に『修文殿御覧』とするならば、「旗幟蔽野」云々の記事を兵部にて探し当てたことになる。当時の書籍はおよそ巻子本で閲覧に不便であって、記事の検索も篇目名が唯一の手がかりであった。兵部の篇目から該文の存在を豫想するのは困難であろう。『書紀』の述作者はやはり皇王部に引載された范書該条をみたと推するのが理にあう。『修文殿御覧』は『華林遍略』を半分に縮約した書だから、『華林遍略』皇王部にはより豊富な光武帝に関わる記事が収載されていたと推定される。范書該条(あるいは、ほかの後漢書の光武紀であってもよいが)も、『華林遍略』皇王部には引用されていたのではなかろうか。天武紀に「旗蔽野」以下の文章を記するには、『華林遍略』皇王部を利用したと想定するのが最も無理がない。
引載文が長い傾向にあったらしい『華林遍略』においては、『東観漢記』ほかを引用するにあたってもほとんど節略せず原典にひとしい文章を引いていたと思われる。さきに述べた允恭・顕宗両紀の出典についても、『華林遍略』所引『東観漢記』光武紀は、「天命不可以謙距」を備えたオリジナルにちかい文を保っていたはずだ。
前章と本章とで、従来范書からの引用に解された文は、類書所引『東観漢記』ほかからの引用によみかえが可能であることを説いた。類書は複数の書籍からの抄文を列挙した編纂物であるから、出典原典が『東観漢記』か范書かといった区別は不要である。このよみかえが正鵠をえているか否かの判断にはさらなる調査が必要であるけれど、范書の直接引用説にくらべ蓋然性ははるかに高いと思われる。またその類書に『華林遍略』を擬したけれど、拙稿VおよびWの考証とあわせ考えれば首肯される結論と考える。 
四 范書の初伝時期
以上わたしは、『書紀』述作者が范書を直接参照せず、范書からの引用に見える文は『華林遍略』からの孫引きであったと主張した。『書紀』が范書をじかに引いていないことは、そのまま『書紀』撰上時までの范書未舶載を意味しないとしても、舶載の徴証は皆無になった。では、范書の初伝はいつに推定しうるか。
『日本国見在書目録』正史家は「東観漢記百四十三巻」を著録し、これに左記の双行注を附する。
右隋書経籍志所載数也。而件漢記、吉備大臣所将来也。其目録注云「此書凡二本。一本百廿七巻、与集賢院見在書合。一本百四十一巻、与見書不合。又得零落四巻、又与両本目録不合。真備在唐国多処営求、竟不得其具本。故且随写得如件。」今本朝見在百卌二巻。
該文は吉備真備の漢籍舶載に論究する際、しばしば引かれる記事である。「 」のうちが真備の将来目録の注文であろう。真備は二組の『東観漢記』およびその零巻をもちかえったようだ。かれは二度唐にわたっているが、「在唐国多処営求」の表現から、該書の蒐集は長期にわたった初回の在唐時のことと思われる。文意のとりがたいところがあるけれど、真備が唐にあって『東観漢記』の足本をうることに非常の熱意をかたむけていることは注目される。范書の三史昇格が開元期のできごととすれば、真備が唐に向けて発った養老元年(=唐・開元五年)当時、その情報は本邦にはもたらされていなかったろう。この直前の遣唐使すなわち大宝度の遣唐使が帰朝したのは李賢の名誉恢復以前である。真備が『東観漢記』の獲得につとめたのは、当時の奈良の学界で認知された三史が『東観漢記』をくわえた組合せだったためと考えられる。
『東観漢記』は伝を断って久しいけれど、その散佚は唐代にはじまるようだ。高宗の顕慶元年(六五六)に成った『隋書』経籍志に著録される『東観漢記』の「一百四十三巻」は具本の巻数のごとくだが、『旧唐書』経籍志では「一百二十七巻」とあって十六篇すくない。旧志は開元年間に成った毌『古今書録』を流用したものなので、開元当時、秘閣の蔵書はすでに不全本であったのだ。『新唐書』藝文志ではさらに一巻減って「一百二十六巻」とある。『東観漢記』の散佚は、范書の盛行すなわちその三史昇格と表裏していたと思われる。さきの「在唐国多処営求、竟不得其具本」もそのあらわれだろう。
真備が十八年間就学していた開元の世は、李賢の名誉恢復が果たされ、まさに范書が三史にみとめられはじめた時期である。後述のごとく史学にあかるかった真備がこれを知らないとは考えがたい。在唐時のかれの認識した三史はまず范書をかぞえたメンバーであったと推測するのが穏当だ。ただ、ややのちの史料になるけれど、『二中歴』巻十一、経史歴の「三史」の項は『史記』『漢書』范書をあげながら、その注で「一云、史記・漢書・東観漢記(見史記発題、吉備大臣三史櫃入此三史)」という。真備の将来した「三史」が旧説のメンバーであったとつげる『二中歴』の記載は、よるところがあったであろう。これは真備のおびた使命のうちに三史の将来があったからではないか。上記のとおり范書の地位上昇を知らなかったろう時期の日本では、三史の第三は『東観漢記』であり、真備自身も入唐以前は同様の知識であったと推される。
桃裕行によれば、大学寮における史学の重視、その教科への三史の採用は真備の伝学の結果という。文献中にみえる上代学制で学習された三史はひとしく『史記』『漢書』范書であった。紀伝科ともいうべき学科のはじまりに、盛唐の史学を熟知していた真備の伝学があったという桃の推断は蓋然性が高い。このことは、范書の初伝を考えるうえで重要である。真備によるこの伝学こそ、本邦の学界が范書の重要性を認識する契機であったと考えられるからだ。該書の重要性の認知をつげる徴証は真備の帰朝以前には見あたらない。
以上を勘案すれば、范書のみならず「三史」の新説の初伝者には天平七年帰朝の真備を擬するのが、最も穏当な比定というべきである。『書紀』撰上当時、范書は未舶載であったと考えるべきだ。この推定は『書紀』の名義問題の解決にも有用な示唆をあたえる。
第一に、論頭でふれた「師説」は『書紀』原題の如何とおそらく無関係であろうとわかる。『書紀』述作者が未舶載の范書あるいは范曄の故事を重んじていたとは考えにくい。「師説」を援用した「日本書」原題説は主要な論拠をうしなった。
第二に、真備による「正史」概念将来の蓋然性が高まった。わたしは拙稿Uで、「正史」概念の将来による現行書名「日本書紀」の成立を説いた。真備による范書の初伝が盛唐史学の将来のもとになされた意味はおおきい。本邦における范書の重視が真備にはじまるだろうことは、かれの習得した史学がまぎれもない盛唐のそれであることをあかしている。盛唐の史学はむろん「正史」を重んずる。
『書紀』の書名と、該書の潤色に利用された類書とに関する私見は、范書の初伝時期の推定によって精確の度合いをくわえたといえる。 

(1)わたしはさきに『書紀』の両問題について、おのおの私見を述べた。書名問題に関する拙稿は、「『日本書紀』書名論序説」(佛教大学大学院紀要三五、二〇〇七年、拙稿T)、「『日本書紀』は「正史」か」(鷹陵史学三三、二〇〇七年、拙稿U)、類書問題に関する拙稿は、「『日本書紀』と六朝の類書」(日本中国学会報五九、二〇〇七年、拙稿V)、「『日本書紀』の潤色に利用された類書について」(日本歴史に掲載予定、号数未定、拙稿W)の各論文である。本稿では、拙稿TからWの略称をもっておのおの指示する。
(2)小島憲之『上代日本文学と中国文学』上、塙書房、一九六二年、三三六―三四七頁。
(3)山田英雄「日本書紀即位前紀について」(日本歴史三六八、一九七九年)は小島説を批判し、范書からの引用とされた『書紀』文の実の出典をば『太平御覧』の藍本たる某類書に引載された『東観漢記』ほかと論じた(九─一〇頁)。山田の論考は表現にやや曖昧な点をのこすけれど、范書直接引用説を批判した数すくない研究である。私は山田の見通しに同意するものであり、本稿は山田の見解に実証性をあたえる試みでもある。小島の意見を承認した研究として、たとえば斎藤静隆「『日本書紀』における『後漢書』の利用について」(東京理科大学紀要(教養編)二六、一九九四年)がある。
(4)拙稿VとWとは、『修文殿御覧』説の不備を指摘し『華林遍略』説を説いている。范書の引用がないとすれば、それは『修文殿御覧』説への反証たりえ、ひるがえって『華林遍略』説の一傍証となる。『華林遍略』から『太平御覧』に終着する類書の系譜および概略については拙稿Wでふれたけれど、詳細は勝村哲也「修文殿御覧天部の復元」山田慶兒編『中国の科学と科学者』京都大学人文科学研究所、一九七八年、同「藝文類聚の条文構成と六朝目録との関連性について」東方学報〈京都〉六二、一九九〇年などを参照されたい。ここでは各類書の継承関係だけ、おおざっぱに図示しておこう。( )内の長文・短文とは類書が箇条する引用文の長さの傾向をいう。みぎのうち現存するのは『藝文類聚』と『太平御覧』のみだが、『修文殿御覧』は条文をそのままに『太平御覧』中にほぼ保存されていることが明らかである。また『藝文類聚』の主藍本には『華林遍略』を推す説が有力である。
(5)該文は、八世紀後半の大宰府においてさえも「三史正本」の収蔵がなかったほど、三史流通の低調をつげる。坂上康俊は、大宰府で三史すらそなえられなかった日本の状況は特別でなく、唐でさえもその流通が限られていたと指摘する。坂上「書禁・禁書と法典の将来」九州史学一二九、二〇〇一年、九頁。当時の三史の稀少性は、その舶載のいかに難事であったかを傍証しているだろう。
(6)「三史」の初出はさらに十二年さかのぼる。『続日本紀』天平宝字元年(七五七)十一月癸未条所載の勅が、学生のよむべき典籍を列挙したなかに「伝生者三史」の文字がある。桃裕行によれば、「伝生」は「紀伝生」の略称らしい。桃『上代学制の研究 修訂版』桃裕行著作集一、思文閣出版、一九九四年、一四三頁。のちに「紀伝道」の公称をえた紀伝科の流行が、吉備真備の三史将来にはじまること、ほぼ通解である。盛唐の学風を身につけた真備にとって三史の第三の書は、まず范書であったはずだ。この「三史」は紀伝科の教科書だから、そのメンバーは真備将来の新知識と同断であったろう。
(7)東野治之「『続日本紀』所載の漢文作品──漢籍の利用を中心に」『日本古代木簡の研究』塙書房、一九八三年、初出一九七九年。東野論文はさらに、雄略紀二十三年八月丙子条の「民」字と『隋書』巻二、高祖紀下、仁寿四年七月丁未条の「人」字とに同様の関係があることを指摘している。雄略紀=『隋書』の例は、拙稿Uでとりあげ分析をくわえた。
(8)これらの部分について、中華書局本の校勘記はなにもいわない。百衲本(紹興本)・慶元本を検しても、やはり「人」に作る。
(9)榎本福寿「日本書紀出典考──対表現をめぐって」(佛教大学研究紀要六五、一九八一年)は、「「民」への書紀における統一的な改変」(四三頁)と解するけれど、『書紀』述作者による改変と断ずる根拠をしめしておらず、したがえない。
(10)中村裕一「唐代史料にみえる「世民」両字の避諱」『唐代官文書研究』中文出版社、一九九一年、初出一九八五年。
(11)陳垣『史諱挙例』「第六十 以為避諱回改而致誤例」。
(12)李賢の本伝(『旧唐書』巻八十六、『新唐書』巻八十一)は、かれが学者をあつめ范書に注をほどこし賞賜のあったこと、これが秘閣に収蔵されたことをいうが、高宗への献上時期をいわない。ただ、『唐会要』巻三十六、修撰に「儀鳳元年十二月二日、皇太子賢上所注後漢書。初、太子右庶子張太安……同注范曄後漢書。詔付秘書省」とあり、これにしたがえば、李賢注本は儀鳳元年(六七六)末に、すくなくとも一応は成って献じられたことになる。李賢らが范書への施注をはじめた時期の明白な記載はないけれど、常識的に李賢の立太子(上元二年・六七五)後間もなくのころであったろうと考えられ、加注作業はわづか一年半の勘定になる。中華書局本范書の「校点説明」が加注作業の期間を「前後只有六年」というのは、加注の開始を李賢立太子の上元二年にみとめ、それが李賢の庶人におとされた調露二年まで継続したと考えるからと思われる。
(13)漢土における「三史」の各説は、戸川芳郎「四部分類と史籍」東方学八四、一九九二年、注(3)に輯成されている。さて、敦煌文献中の『雑鈔』一巻(P二七二一号)のうち、「何名三史」の問いに『史記』『漢書』『東観漢記』を答える記事がある。王重民『敦煌古籍叙録』(中華書局、一九七九年、二一五頁)によれば、該本は晩唐の鈔本のごとくで、唐末の辺境にあっては三史の構成はなお旧説であったようだ。『雑鈔』については、那波利貞「唐鈔本雑抄攷──唐代庶民教育史研究の一資料」『唐代社会文化史研究』創文社、一九七四年、初出一九四二年を参照。
(14)李賢施注以後にして「民」を避諱しない范書の鈔写が可能な時期がある。それは則天武后の周代で、中村裕一によれば武周時代には「民」は避諱されていない。武后の撰述とされる『楽書要録』巻六、審飛候に『続漢志』巻一、律暦上の文章が引用されている。『楽書要録』に引かれるのが、『東観漢記』の律暦志ではなく司馬彪『続漢書』の律暦志であることは范書流行のあらわれかもしれない。武周時代に范書の流行がみとめられれば、大宝度の遣唐使が「民」を避けない范書鈔本をもちかえりうる。しかし、李賢は武后によって死においやられたわけで、その名誉恢復は武后の死後である。この事実を勘案すれば、武周朝下の范書流行は一応限定的に考えておくのが穏当に思われる。さらにすすめて、大宝度の遣唐使による范書舶載をいうには明白な論拠が要る。『楽書要録』の概要および閲覧は羽塚啓明「楽書要録解説」「校異楽書要録」東洋音楽研究二─二〜四、一九四〇〜四二年によった。
(15)六朝から唐の劉知幾にいたるまで、『東観漢記』への批判的言辞を整理すれば、以下の三点に集約しうる。
第一に、一貫性の缺如。『東観漢記』は複数の執筆者が長期間にわたって書きついだ書であるため、記述と体例とに一貫性を缺く憾みがあった。劉知幾の批判をきこう。『史通』忤時篇で、過去の歴史書がすべて一人の手に成ったことを述べたあと、「唯後漢東観、大集羣儒、著述無主、条章靡立。由是伯度譏其不実、公理以為可焚、張蔡二子糾之於当代、傅范両家嗤之於後葉。」と記する。李法(字伯度)、仲長統(字公理)、張衡と蔡邕par と、みな後漢のひとである。『東観漢記』とほぼ同時代にすでに不満の表白があった。これら後漢の四家と傅玄・范曄との貶辞を紹介し、劉氏は『東観漢記』の体系の缺如を突いている。『東観漢記』不評の主因は、まずここにあったと思われる。『東観漢記』の成書の過程は、呉樹平「《東観漢記》的撰修経過及作者事略」(『秦漢文献研究』斉魯書社、一九八八年)にくわしい。
第二に、叙述の煩雑。『東観漢記』の叙述は、修辞の洗練にやや難があるといわねばならない。そのことは夙に指摘があって、たとえば、『三国志』呉書二十、韋曜伝に「昔班固作漢書、文辞典雅、後劉珍・劉毅等作漢記、遠不及固、叙伝尤劣」とあるのははやい例である。『晋書』巻四十四、華嶠伝には「初、嶠以漢紀煩穢、慨然有改作之意」とあって、果たして華嶠は光武帝から献帝にいたる史書『後漢書』九十七巻を撰した。『東観漢記』の文章の煩瑣が著作の動機とわかる例である。劉知幾は、西晋の史家たる傅玄のことば「其文曾不足観」を引いて『東観漢記』の蕪雑ぶりを批判している(『史通』覈才篇)。呉樹平は、当時『東観漢記』にあたえられた一般的評価が「其文曾不足観」の一言に反映しているという(前掲、呉『秦漢文献研究』二七九頁)。『東観漢記』は、原史料をおおく引用し、またその修辞を踏襲したまでであろうけれど、そのことが「煩穢」の貶辞をまねいたのである。後段に呉による『東観漢記』と范書との叙述の比較研究を紹介し煩瑣のさまをみるけれど、『書紀』の出典を決定するうえで、『東観漢記』の記述が煩雑であること、范書にくらべてそうであることは重要である。
第三に、記述範囲。『東観漢記』の記述する範囲が後漢一代の史事をおおっていない点があげられる。『東観漢記』の本紀は光武帝から霊帝までしかなく献帝紀を缺く。これにともない、後漢末に活躍し本来たてられるべき人物の伝がない。『東観漢記』の録する後漢の史事は献帝時代を缺き、後漢史の全きすがたを語らなかった。また、その十志も最終的に霊帝朝の蔡邕によってすべてが定稿をみたのではない模様である。呉樹平「蔡邕撰修的《東観漢記》十志」(前掲、呉『秦漢文献研究』)、また同書の二八〇頁を参照。
(16)『群書治要』の范書引用については、石濱純太郎「群書治要の史類」『支那学論攷』全国書房、一九四三年を参照。『群書治要』の概要は、尾崎康「群書治要とその現存本」斯道文庫論集二五、一九九一年が参考になる。
(17)神田喜一郎「正史の話」東光二、一九四七年、三九頁。なお、神田の全集中に該論をばにわかに見出せなかった。未収載であろうか。
(18)大曽根章介「川口久雄・奈良正一両氏の『江談證注』を読む」『大曽根章介 日本漢文学論集』三、汲古書院、一九九九年、三六一─三六二頁、初出一九八五年。大江以言の事蹟については、後藤昭雄「大江以言考」『平安朝漢文学論考』補訂版、勉誠出版、二〇〇五年を参照。
(19)川口久雄・奈良正一『江談證注』(勉誠社、一九八四年)が、「恐らく「代」は「世」と同じ意味であるから、「代祖」とあってもセイソと読むべきだというのであろう」(一三三〇頁)というのは説明として充分でない。
(20)匡房をふくめ平安人と范書とのかかわりは、後藤昭雄「平安朝人は『後漢書』をいかに読んだか──吉川忠夫訓注『後漢書』第一冊を読んで」文学三─一、二〇〇二年に詳述されている。大学寮の講書における范書のとりあつかいについては、古藤真平「三史・『文選』の「准大経」化」国書逸文研究二五、一九九二年を参照。
(21)范書以降には、梁・蕭子顕『後漢書』があるがすでに佚している。
(22)范書の撰述には『東観漢記』以外に、晋・華嶠『後漢書』が参照されたというのが通解である。たとえば呉樹平「范曄《後漢書》与華嶠《後漢書》」(前掲、呉『秦漢文献研究』)および同書の四八二頁など参照。ただ、勝村哲也「目録学」(『アジア歴史研究入門』三、同朋舎出版、一九八三年)は、『太平御覧』に引かれる華嶠の書を范書そのものにうたがい通解への疑問を述べた(一〇頁)。もっともその是非は本稿の論旨に関わらない。
(23)前掲、呉『秦漢文献研究』に収められた二つの論文「《東観漢記》的缺陥和諸家後漢書」(主に二八四─二八五頁)、「范曄《後漢書》与《東観漢記》」。
(24)前掲、呉『秦漢文献研究』一三四頁。
(25)前掲、呉『秦漢文献研究』二八五─二八六· 四六六─四七三頁。
(26)前掲、呉『秦漢文献研究』四六九─四七一頁。
(27)范書と『東観漢記』との類似文は枚挙に暇がない。本文中に引用したA’A”はその一例である。それらは、前掲、呉「范曄《後漢書》与《東観漢記》」に多数蒐集されている。
(28)前掲、呉『秦漢文献研究』四六四─四六五頁。さて、范書の安帝紀永初元年(一〇七)冬十月条と同書倭伝とにみえる「倭国」の文字について、范書の古本には「倭面土国」とあったはずとして、現行范書の文字づらを疑問視する理解がながらく行われてきた。西嶋定生は、その通解が根拠のない誤解であることを論証し、あわせて范書の「倭国」云々の記載が范書撰述の主材料であった『東観漢記』の記事を踏襲したものと推定した。西嶋「「倭面土国」出典攷──「倭国」の成立と関連して」『倭国の出現──東アジア世界のなかの日本』東京大学出版会、一九九九年。初出一九九〇年。西嶋の考証は、范書の表現がおおく『東観漢記』にもとづくということの傍証たりうる。
(29)前掲、小島『上代日本文学と中国文学』上、三四六─三四七頁。小島は『東観漢記』を引くにあたって、清代に成った二十四巻の輯本(殿本)を使用している。本稿では『東観漢記校注』を参照しながら佚文の採録源によった。呉本と二十四巻本とのあいだには、『太平御覧』など採録源の版本に起因すると思しき小異の存するばあいがあるけれど、本稿の論旨に影響しないので特にことわらなかった。
(30)前掲、小島『上代日本文学と中国文学』上、三九〇─三九五頁。唐・虞世南『北堂書鈔』は宋代に刊刻されず、はじめて上木されたのは明の万暦二十八年(一六〇〇)のことである。該書は隋代の成書と考えられるので、約千年のあいだ鈔本によって伝えられたということになる。当然転写をへるごとに原本の面目はそこなわれたはずで、『北堂書鈔』引載文と『書紀』文との比較は慎重でなければならない。ただし、『北堂書鈔』は『日本国見在書目録』(九世紀末成)に著録されておらず、上代に『北堂書鈔』将来の徴証は皆無であることから、『書紀』撰上当時未舶載であったと思われる。『北堂書鈔』刊行の歴史については鈴木啓造の一連の研究、たとえば「北堂書鈔の刊本および写本について」学術研究(地理学・歴史学・社会科学編)二九、一九八〇年などを参照。
(31)「是時」と「是歳」との異同。小島のよった殿本は「粟斛三十」を「粟斛銭三十」に作っている。『東観漢記』明帝紀の佚文を最もまとまってのこしているのは、『太平御覧』巻九十一である。呉の輯本も、明帝紀の復元には『太平御覧』の当該文を基礎にしている。そのなかに「銭」字はない。二十四巻本はなにによって「銭」字をくわえたのか明白でない。ただ、「銭」字のあったほうが『書紀』の文章にはちかくなる。
(32)B’は、『太平御覧』『藝文類聚』ともに引かれず、わづかに『太平御覧』巻九十一、皇王部十六、顕宗孝明皇帝所引『東観漢記』に「会郡県吏、労賜作楽」とあるのが一致するのみ。しかし、B’も述作者の参照した『太平御覧』の藍本系類書には箇条されていたはずだ。『修文殿御覧』条文をほぼそのまま保存する『太平御覧』にB’が見当たらないことは、『華林遍略』説にとって有利である。
(33)前掲、小島『上代日本文学と中国文学』上、三三六─三三七頁。
(34)現行范書は「数百里」に作るが、『太平御覧』巻二百八十三に引かれる范書のものと思しき同文は「数十里」に作る。『太平御覧』巻三百三十六に「後漢書曰」に引かれる同文では「数百里」に作るけれど、范書に先行する『東観漢記』も『後漢紀』も「数十里」に作り天武紀も然りだから「数十里」の方がすぐれていると思う。
(35)「塵熛連雲」を、潘岳「藉田賦」(『文選』巻七)への李善注所引『東観漢記』は「埃塵連天」に作り、その本文を採用すれば『書紀』の文章により近づくが、范書ほどの類似をしめせないことにかわりはない。やはり『東観漢記』を出典に擬することはできない。
(36)『日本国見在書目録』正史家に箇条される後漢書は、『東観漢記』と范書のみで、ほかの後漢書は未舶載だったと思われる。したがって、范書該文と同文を有していたかもしれない他の後漢書からの引用はありえない。
(37)『東観漢記校注』が 1 の復元に参照した李善注所引『東観漢記』も原典ではなく類書からの転引の可能性がある。岡村繁『文選の研究』岩波書店、一九九九年、三〇三─三〇四・三〇六頁参照。
(38)これは唐の「集賢院」であろうか。本邦上代に「集賢院」の存したか否かを、わたしは知らない。唐朝のそれについては、池田温「盛唐之集賢院」北海道大学文学部紀要一九─二、一九七一年を参照。
(39)呉樹平「《東観漢記》的流伝」(前掲、呉『秦漢文献研究』)が、『東観漢記』の散佚する経過を詳述している。さて、宋以後、『東観漢記』の伝世はまれになるけれど、宋・邵傅『邵氏聞見後録』巻九に「神宗悪後漢書范曄姓名、欲更修之。求東観漢記、久之不得。後高麗以其本附医官某人来上、神宗已厭代矣」とある。神宗が欲してとうとう得られなかった『東観漢記』を高麗がつたえていた事実を知る。高麗の伝存本は、ふるく朝鮮半島にわたった本にもとづくのだろう。真備以前の奈良の学界が『東観漢記』を重視したのは、直接には朝鮮半島なかんづく百済の学藝の影響ではなかろうか。六朝時代、学藝の中心は南朝であったが、百済が中国南朝と密接な交渉を有していたことには多くの証拠がある。たとえば、門田誠一「百済と魏晋南北朝時代の中国との交渉──中国製・中国系考古資料の吟味」『古代東アジア地域相の考古学的研究』学生社、二〇〇六年、初出二〇〇三年を参照。百済と日本(倭)とのふかい関わりはいうまでもない。詳述する餘裕をもたないが、真備以前の本邦学藝は中国からの直接的影響は比較的うすく、中国南朝を模した百済文化の影響が濃いのではないかという見通しをわたしは持っている。
(40)『二中歴』「書史巻数」の項にも「又除(後?)漢書、加東観漢記、為三史類歟」の注文がある。『拾芥抄』巻上、経史部の「已上謂之三史」の割注「或説、史記・漢書・東観漢記謂三史、見史記発題也、吉備大臣三史櫃入此三史云々」の記事は、『二中歴』と同じい。『明文抄』文事部の「三史」の項にも「史記・漢書・東観漢記。……又吉備大臣三史櫃如此云々」と注記される。
(41)前掲、桃『上代学制の研究 修訂版』一四一─一四三頁。
(42)久木幸男『日本古代学校の研究』(玉川大学出版部、一九九〇年、一〇二─一〇四頁)と古藤真平「文章科と紀伝道」(古代学研究所研究紀要三、一九九三年、二─三頁)とは、真備の導入した「三史」をば、范書ではなく『東観漢記』をメンバーにするものとして、桃の推定を否定する。その論拠は二つ、一つはさきに引いた『日本国見在書目録』双行注ほかが明かす真備の『東観漢記』舶載、もう一つは『二中歴』ほかの「吉備大臣三史櫃」中の一書が『東観漢記』であるという注記、特に後者である。真備が『東観漢記』をもちかえったことは明証があるわけで疑問の餘地はない。しかし真備の認識した「三史」の一が、范書ではなくただ『東観漢記』のみであったと断ずるのは早計というべきである。「吉備大臣三史櫃」が『東観漢記』を収めたことは無視できないが、真備のみとめる三史から范書を排除する論拠にならない。真備は入唐にあたり『東観漢記』をくわえた「三史」将来を命せられた可能性があり、「吉備大臣三史櫃」云々はそれがただ反映されただけかもしれない。そもそも盛唐の史学をまなんで三史の一に范書を認識しないのは不自然だ。私見では真備は三史の両説またそれについての経緯を熟知していたと思われる。留学中の真備の修学なかんづく真備が初回在唐時、目録学にくわしい趙玄黙についたことは注目される。これについては、拙稿Uの三八頁を参照。また古藤「文章科と紀伝道」は、文章科設置以前すでに史書、それも范書をふくんだ三史が学ばれていたと推定している(二─三頁)。神亀五年(七二八)、大学寮に文章博士一人がおかれ、天平二年(七三〇)「文章生二十人」とその定員がさだまった(「文章生」の初例)。ここに文章科というべき独立した学科がはじまるのだが、古藤の推論は小島憲之の出典研究を無批判に受け容れ援用したものでしたがえない。本稿の考証によって、天平七年の真備帰朝以前の范書舶載の徴証は一切消滅したというべきである。
追記 
みぎ小論を入稿したのち、小林岳「章懐太子李賢と二つの墓誌」(東方三二三、二〇〇八年一月)が出た。小林は、七〇六年と七一一年とに作成された李賢の二つの墓誌にみえる異同をとりあげる。前者のつくられた当時、反唐室勢力(武韋派)はいまだおとろえておらず、誌文にも李賢の復権を歓迎しないかれらの存在がうかがえるという。武韋派の一掃されたのちに成った後者にその風がないのは、李賢の復権が果たされたことのあらわれと推定する。范書の三史昇格を玄宗朝の創始にみる私見と、小林の推断とは矛盾なく聯絡する。 
 
古事記と日本書紀の違い

 

両者は神話の世界観が全く異なり、編集目的も全く異なっている。本来、両者は全く別のものである。
古事記は、語り部によって伝えられた「日嗣ぎ」の伝承を、忠実にほぼそのまま記述したもので、要は、大王家が歴代統治してゆくことの正当性を述べようとしたものである。
日本書紀は、白村江の大敗、2千人の唐軍の進駐と云う状況下、失われた我が国のアイデンティティを再構築するために、中国風の史書を作ることを目的としたものであり、原資料として多くのものを用いているが、王権にとって都合の悪いことを隠蔽すべく、意図的な取捨・改竄が随所に行われている。
神話の世界観が全く異なる
古事記
天にある高天原に神々の世界があり、その指令(意志)によって地上の国(葦原中国)は作られ、かつ、統括支配される。すなわち、高天原の意志で総てが動く。その高天原の主宰者は天照大神である。 葦原中国は先験的に天照大神の子孫が治らす国であると定められている。
日本書紀
総ては陰陽の理によって自動的に進行する。天の世界があり、そのスポークスマンとしてタカミムスビがいるけれど、その指令で世界が動いているのではない。天と地(葦原中国)とは基本的に対等である。葦原中国の主も、予め予定的に定められているのではなく、武力的に奪うのである。
原文による記紀神話の比較
神々の化生
(古)天地の初発(はじめ)の時、高天原に成れる神の名は(一書4も)
(書)天先ず成りて地後に定まる、しかして後、神、その中(天地の中)に生れます。天地の中に一物生れり------すなわち神となる。(第1段)
国産み
(古)天つ神諸々のみこともちて、天の沼矛を賜いて、(一書1も)
(書)共に計らいて、瓊矛をもって、(第4段)
天孫降臨
(古)天照大神の命(みこと)もちて「葦原中国は我が御子が知らす国ぞと」と言よさし、。
(書)(タカミムスビ、ニニギを立てて)「葦原中国の主にせんと欲す」(第9段)
国譲りの談判
(古)我が御子が知らす国ぞと言(こと)よさしたまいき。故(かれ)、汝が心いかに。
(書)皇孫をこの地の君としたまわんとす。汝が心いかに。避(さ)りまつらむや否や。(第9段)
記紀神話に共通していること
天皇神話
どちらも、あくまでも天皇神話である。人間(人民)については始まりを述べることもない。
世界認識
世界は(天上の国)と(地上の国)で構成されてる。天上の国は古事記では高天原と呼ばれるが、書紀には名はない。地上の国はいずれにおいても葦原中国と呼ばれる。この外に、古事記には黄泉国と呼ばれる死者の国がある。
また、いずれにおいても、根の国なるものが出てくる(古事記では1箇所のみ)。これが何なのかは明らかにされていない。地下の国か、地上の国としても隔絶した遠方の果ての国であり、すべてスサノオが逐われた国として出てくるのみである。
記紀の相違例
垂仁天皇の時の狭穂彦反乱事件と唖の皇子物語
媛は、記では稲城の中で出産するが、紀では出産後に稲城に入る。
紀には、白鳥を追って十か国を遍歴する話と、皇子が出雲へ行く話が欠落している。
紀は皇子の出雲行きを削る代わりに、鳥を出雲で捕らえたとしている。
考察
前段は、自らを焼く(野焼き)ことによって春を招く春の女神佐保姫の物語が狭穂彦と云う歴史的人物と結びつき、それに火中出産して神聖な御子が生まれる(コノハナサクヤヒメなど)と云う思想が加わって、古事記の中に取り入れられ、それが童話的要素を除いて、書紀のなかにも収録されたものであろう。
後段は、斉明天皇の愛孫で、唖で8才で亡くなった建皇子(たけるのみこ)について、かくあれかしの願望に、鳥取部や鳥飼部などの祖先伝承が加わった物語が、史実のように考えられて古事記の中に入り、更に書紀にも入ったものか。物語は恐らく斉明天皇の後宮で生まれたに違いない。
日本武尊物語
(粗筋において、ほとんど一致している。細部で若干差異があるのみ)
大碓命は記では小碓命に惨殺されるが、紀では美濃に封ずるとする。
紀には出雲建誅殺の話はない。他方、陸奥国まで赴いている。
紀では宮簀媛への求婚の話はない。
紀では、吉備武彦が途中で別軍として越へ向かっている。
考察
大碓命については、古事記は兄を殺す凶暴な弟という類型を描こうとしたものである。しかし、書紀は、壬申の乱の功臣で美濃国武儀郡出身の身毛君(むげつぎみ)広の祖として大碓命を取り扱わねばならなかったし、更に、彼らは祖先が日本武尊に従軍したと云う氏族伝承を持っているので、修正したものである。
記の出雲建の話は、垂仁紀に出てくる飯入根を殺す出雲振根の話を主人公を変えて、ここに入れたものである。
熊曽建の話は、童女に変装して強敵を殺害したと云う物語が別にあって、それを日本武尊の事績にしたもののように思われる。
このようにして、日本武尊の話は結局は東海道・東山道の経略を述べたものである。景行紀が日本武尊の話に続いて上毛野氏(彦狭島、御諸別)の話を書くのも、この故であろう。
日本武尊もまた、唖で8才で死んだ愛孫建皇子に対して斉明女帝が抱いた願望が作り出したと云う面もなしとはしない。
仁徳天皇の皇后磐之媛の筒木遷幸
紀には黒日売の話がなく、代わりに玖賀媛の話が入っている。(紀では、天皇の吉備訪問の話を応神のこととしている)
記紀のいずれも、媛の筒木遷幸をの動機を嫉妬とするが、記は話の途中から、次第にずれていって、養蚕の技術導入になってゆく、紀の方は最後まで徹底的に嫉妬話にしている。
紀では媛は和解しないまま筒木で亡くなっているが、記ではその後難波へ帰っている。
考察
玖賀媛の話は嫉妬話にはなっていない。磐之媛が嫉妬するから玖賀媛を誰かにやると云うのは変な話である。仁徳の侍女は玖賀媛一人ではないから。この話は速待に侍女の一人を与えだが、女の方が嫌って自殺したと云う「よくある話」で、嫉妬とは何の関係もない。また、黒比売の吉備帰還も、嫉妬によるとは必ずしも云えない。
従って、磐之媛を嫉妬の女とするのは作為のように思われる。特に、記において、媛の筒木遷幸が嫉妬話から次第にずれて養蚕の話に変わるのは、媛の筒木遷幸が本当は嫉妬のためでなく、何か隠された別の目的のためであることを暗示している。紀が徹底的に嫉妬話で通したのは、この点を疑われるのを恐れたためと考えられる。
隠された目的とは、和迩氏への威圧であり、それを必要とした遠因の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)暗殺を隠蔽したかったものと私は考えている。
允恭天皇の木梨軽皇子と軽大娘皇女の兄妹相姦事件
軽兄妹の相姦の露見を記は允恭崩御直後としているが、紀はそれ以前のこととする。
軽大娘は、記では兄の失脚後に兄を追って伊予で心中するが、紀では兄の失脚以前に伊予に流されている。
大草香皇子の妻は記では長田大娘であるが、紀は中磯皇女にすり替えている。しかし、中磯皇女の亦の名は長田大娘皇女と註記している。
考察
大草香の妻を紀が中磯皇女にすり替えているのは、長田大娘では穴穂と同母兄妹になり、軽皇子の兄妹相姦を非難する穴穂自身が兄妹相姦することになるからである。
穴穂自身が同母兄妹結婚をしているので、兄妹相姦のために軽皇子が人心を失ったとするのは、穴穂のクーデターを正当化するための、記紀の作為的表現である。
軽兄妹の相姦露見を紀が允恭在位中のこととするのは、兄妹相姦だけが穴穂のクーデターの名分ではないことを示そうとしたものであろう。
相姦事件で、男を許し女を罪にするのはおかしいと指摘されている。この点においても、紀に作為があると云える。
飯豊皇女と二王子発見
二王子の発見を、記は清寧没後飯豊執政中とするが、紀は清寧在位中とする。
飯豊の執政を、記は在位しているように記しているが、紀は臨時的とする。
考察
雄略没後、ほとんど空位状態となったのであろう。清寧は不具で幼少で、何の意味もない存在で、しかも、すぐに死んだ。巫女飯豊がいたが、政治力は全くなかった。あえて云えば、飯豊天皇の治世ということができたが、女帝と云う習わしが当時はなかった。そこへ播磨から二人が出てきて、それなりに王権を握った。記紀の違いは、この状態についてのの認識の違いである。
紀は何故か飯豊の在位を否定したかった。二王子発見を清寧在位中としたのは少しでも清寧を飾るためである。さりとて、飯豊の執政を全く消し去ることも出来ず、二王子が皇位を譲り合ったと云う美談を作って、その間の臨時措置と云う形で残したようである。(扶桑略記、皇胤紹運録は飯豊天皇と記している)
飯豊は誰と交わったのか。それは雄計(顕宗)と私は思っている。 
 
異説「阿波と古事記」

 

1 古事記に書かれている阿波
日本最古の歴史書といわれる、太安万侶によって712年に書かれたという古事記を読んでいると不思議なことを感じる。
古事記に書かれる国生みには、「イザナギとイザナミが、淡路島・四国・九州・壱岐・対馬へと国を創っていった。」と書かれ、国生みが、阿波の周辺から始まったと書かれているにもかかわらず、古事記の物語は、九州(宮崎県)や出雲(島根県)の話であるかのごとく教え込まれ、そう思い込んでいる。阿波に住む人でさえも、阿波に存在する事実を日々見て暮らしていても、古事記と阿波は何の関係ないと思い込んでいるか、または古事記に書かれることは架空の話か作り話であると思わされている。しかし、仮に古事記の話に事実が書かれてないとしても、古事記には、阿波の周辺から国生みが始まったと書かれている以上、そこに着目して古事記を読み、書き進めていこうと思う。
古事記の物語は、出雲と高天原を舞台として繰り広げられている。しかし、出雲というとすぐ島根県に当てはめるが、出雲については、現在の識者の間でも古事記に書かれる出雲と「出雲風土記」に書かれる出雲とは、その書かれていることが違う事から、古事記に書かれる出雲と島根県の出雲は別物の出雲であると考えられている。しかし、その古事記に書かれる出雲がどこにあたるか分からないので、古事記に書かれる出雲は大和政権がつくった架空の出雲の物語であるとしている。
事実、先に書いたとおり、古事記には国生みの際に出雲(山陰地方)をつくったことが書かれていない。書かれていない以上、出雲を島根県に当てはめることはできない。また、古事記に書かれる近畿から東は、当時まだ一つにまとまっておらず、別の文化圏であるので、現在の日本全体に当てはめて読むと矛盾する点が生じる。
以上の事から国生みした範囲の中に高天原と出雲があり、出雲と高天原が古事記に書かれる何れの地にあるかということが、古事記を読み解くキーポイントになるのである。 
2 阿波はイ(飯)の国(1)
「徳島県が、古くは阿波といっていた」ということは知っているが、阿波といい始める以前に、イの国と呼ばれる時代があったことは、教えられていないし、思ってもいないのではないだろうか。しかし、古事記や日本書紀等の古い文献を読むと、阿波という前は、「イの国と呼ばれていた」と理解することができるのである。
古事記や日本書紀などの古い文献をみると、四国は「伊予の二名島」あるいは「伊予の二名洲」等と書かれている。この「伊予の二名島」には、どういう意味があるのだろうか?
テレビの天気予報で、愛媛県を「東予…、中予…、南予…」と言っている。JRも予讃線・予土線と「予」を使い、また、古くから「予」を使っていることは、愛媛県史等の文献からも確認することができる。つまり、四国西部が、予の国と呼ばれていたことがわかってくる。四国西部が「予の国」ならば、四国東部は「イの国では…」と、想像してしまう。
祖谷を知らない人は「ソタニ」と読むだろうが、祖谷と書いて「イヤ」と読む。何の疑問もなく「イヤ」と読んでいるが、「イの谷」である。つまり、イの国の谷を示している。そういえば、徳島県には、イのつく地名が多いことに気づくであろう。
この伊予の二名島を正しく理解せずに古事記等を短絡的に理解し教育したため、日本の歴史地図が大きく狂い、その結果、古事記等が伝えていることから大きく外れ、出雲・日向の物語を示してもいない島根県や宮崎県にあてはめて読んでしまったのである。 
3 阿波はイ(飯)の国(2)
古事記に書かれる伊予の二名島とは、四国東部をイの国、西部を予の国といっていた時代の呼び名であるが、四国西部が予の国ということは、現代でも愛媛県で予州が使われているから異論のないところであろう。しかし、阿波がイの国であったことは、現在、阿波に住む人々でさえ、ごく一部の人を除き意識していない。そこで、阿波がイの国であったことを詳しく検証してみたい。
阿波がイの国であったということは、徳島県庁が現在発行している徳島県の観光地図を見るだけでもおおよそは知ることができるので、徳島県発行の観光地図があれば、それを見ながら確認していただきたい。
四国のヘソといわれる池田町から香川県に抜ける峠が猪ノ鼻峠である。そこから香川県に入った綾歌郡綾上町にも猪ノ鼻地名があり、また、淡路島の洲本市の南西に猪鼻の地名があり、徳島県の南の端、宍喰町にも猪ノ鼻がある。「鼻」は、端を意味しており、地図上の岬に鼻の付いた地名を探していただければ、すぐに一つや二つは見つかるであろう。
次に、猪の頭という地名が、県の中央部、名西郡神山町に1ヶ所、美馬郡木屋平村に二ヶ所ある。「頭」は、「上・先・はじめ」の意味である。県の端に猪ノ鼻、中央部に猪の頭は、イの国を表している。
徳島県には、その他にも「イ」のつく地名が、井ノ谷・井ノ元・井内・井ノ尻・井ノ口・井ノ浦・井川・井ノ原・井沢・石井・伊島・猪ノ谷・猪尻・飯尾・飯谷など他にも数多くの地名がある。これら見ても阿波と言い始める以前は、イの国であったことがわかる。 
4 阿波はイ(飯)の国(3)
四国では、「讃岐男に阿波女」とよく云われているが、それは古事記の書かれる以前から、そう云われていたことだったかも知れない。
古事記には、イザナギとイザナミが国を作り始め、
1.淡道の穂の狭別島(あわじのほのさわけじま)(淡路島)から
2.伊予の二名島(いよのふたなじま)(四国)
ア.粟 国は、大宜都比賣(おおげつひめ)
イ.讃岐国は、飯依比古(いひよりひこ)
ウ.伊予国は、愛比賣(えひめ)
エ.土佐国は、建依別(たけよりわけ)
を作ったと書かれている。
阿波の大宜都比賣(おおげつひめ)は、五穀の神であり食糧の神である。大宜都比賣(おおげつひめ)が食糧の神であるということは、ここで説明する必要はないと思うが、知らない方は他の文献で確認していただきたい。
その食糧、飯に依るのが、讃岐国の飯依比古(いひよりひこ)、つまり、阿波の女性に依存する男性というのである。
現在でも、阿波から讃岐に吉野川の水を分けている事から見ても、その関係は今も昔も変わらない。
これらのことから見ても、古事記に示されているのは、阿波がイの国(飯の国)であり、四国東半部がイの国と呼ばれていたことがわかる。
現在、大宜都比賣(おおげつひめ)が祀られているのは、徳島県名西郡神山町にある上一宮大粟神社と、徳島県鳴門市堂の浦の阿波井神社である。
飯依比古(いひよりひこ)を祀るのは、香川県綾歌郡飯山町にある飯野山の飯(いい)神社である。飯野山は、別名讃岐富士と呼ばれ親しまれている。
飯依比古(いひよりひこ)は讃岐の国の代名詞であり、飯野山山頂には、神が舞い降りたという岩、磐座(いわくら)があり、その飯神社には、磐境(いわさか)という信仰の跡が残されている。 
5 オノコロ島(淤能碁呂島)
淤能碁呂島(おのごろしま)は、イザナギとイザナミが、漂える国を修(おさ)め作り固めようと矛でかきまわして、最初にできた島だと古事記に書かれている。
通常オノコロ島を淡路島や沼島にあてはめるが、そこにあてはめると物語のつじつまが合わなくなる。オノコロ島は、スサノヲが母を慕って移り住んだ地、母の国、根の堅州國でもある。
古事記研究者の正木学氏が、「古事記眼」(水谷清氏 著)に書かれる「桶へ砂を混じた水を容れ、旋回すれば中心に砂の累積するを見ても明瞭なことでせう」をヒントに実験装置を製作し実験した。
容器の中に入れた水と砂をかき回すと渦のあと容器の中心に砂が集まり島が形成された。
その結果、鳴門海峡に渦はできても渦の後に島ができるような場所はないので、周りが囲まれた地形で渦が巻くような条件にあてはまる場所を探すと徳島県美馬郡穴吹町の舞中島では?となった。
舞中島は、大河吉野川の上流約40kmの阿波町岩津の上流にある。岩津は、北から阿讃山脈の扇状地が張り出し、南は剣山系の高越山・種穂山が迫り、川幅が150mと極端に狭くなっている。増水時には、その上流にある穴吹川・貞光川・半田川、北から曽江谷川・大谷川等から大量の土砂が流れ込み、岩津で堰き止められた水が渦と舞って舞中島が形成されたのであろう。舞中島という地名そのものが、オノコロ島を連想する地名であり、また、全国にある式内社3、132社の中で伊射那美神社は、阿波国の舞中島にある一社のみである。
これらの条件から見ても、また、この後に続く古事記の物語の流れからみても、オノコロ島は舞中島と考えられる。 
6 水蛭子と淡島
オノコロ島に降りたイザナギとイザナミは、最初に水蛭子(ひるこ)と淡島を生んだと古事記に書かれている。
水蛭子は、不詳の子として通常考えられているが、後に続く淡島や淡路島、伊予二名島、筑紫島など島が続く文脈から考え、水蛭子だけを人と考えることは不自然である。
広辞苑などの辞書を見ても、「ひる」は「干る」とあり、乾く意味もある。徳島県三好郡三好町に昼間という地名があり「この地名は干沼から転じたもの」と角川日本地名大事典に書かれている。
水蛭子は、土地を表しており、島と書かれていないのであるから、吉野川河岸の低湿地のことである。
「子」は、辞書に「ものを表すのに添える語」と書かれ、振り子、呼び子などの例が書かれている。
「子」に意味をもたせるとすれば、「処・拠」の意であろう。
舞中島(オノコロ島)より吉野川下流約10kmに善入寺島がある。この島は、日本最大の中州である。古くは淡島と呼ばれ、現在も島内やその周辺に粟島地名が残っている。
阿波には、オノコロ島・水蛭子・淡島と古事記に当てはまるように並んでいる。徳島県埋蔵文化財センターのパンフレットを見ても、二万年前ころから吉野川、上・中流域を中心に人々の暮らしが始まり、一万二千年前ころから吉野川下流域にも人々の暮らしが広がったと書かれていることは、これらの事を示すものである。 
7 国生みと淡路島
古事記によると、オノコロ島から水蛭子(ひるこ)と淡島を生んだ後、イザナギとイザナミは、
淡道(あわじ)の穂(ほ)の狭別島(さわけしま)(淡路島)
伊予二名島(四国)粟国、讃岐国、伊予国、土佐国
隠伎の三子島
筑紫島(九州)筑紫国、豊国、肥国、熊曾国
伊伎島(壱岐島)
津島(対馬島)
佐渡島
大倭豊秋津島(畿内)
以上の国を先につくったと書かれているように、阿波の周辺から国生みが始まったと書かれている。この記述を読んだだけで、阿波から国生みが始まったことを古事記は伝えていることがわかる。一般には、淡路島が最初につくられた島といわれている。確かに淡路島は、最初につくられた島である。
古事記に「水蛭子(ひるこ)や淡島は子の数に入れず」と書かれているのは、できが悪かったから子の数に入れなかったという意味ではなく、水蛭子(ひるこ)や淡島は、子を生む親であるから子にあたらないとわざわざ書いているのである。
古事記に「淡道(あわじ)の穂(ほ)の狭別島(さわけしま)」と書かれるように、穂(阿波)の先の別れた島であり、淡路島は、江戸時代まで阿波に含まれる一地域であった。淡道とは、阿波が先にあったから阿波への道、阿波路となったのである。もし、淡路島が先にできたなら阿波への道を意味する島名にはならなかったであろう。
このように阿波から淡路島、四国、九州、畿内へと広がっていったのだから、現在の日本の東北や北海道の神社に天照大御神(あまてらすおおみかみ)が祀られているのは、阿波の文化が広がったことを示しているのである。古代から東北や北海道に天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀っていたという記録はない。古事記をすなおに正確に読めば、現在の日本の文化は、阿波から始まり発展してきたことがわかる。
阿波は、阿の波(あの波)。阿吽の阿。つまり始まりの波を表しているのである。 
8 国生みで造られなかった出雲
古事記には、イザナギとイザナミがオノコロ島から水蛭子(ひるこ)と淡島を生んだ後、
1.淡道(あわじ)の穂(ほ)の狭別島(さわけしま)(淡路島)
2.伊予二名島(四国)粟国、讃岐国、伊予国、土佐国
3.隠伎の三子島
4.筑紫島(九州)筑紫国、豊国、肥国、熊曾国
5.伊伎島(壱岐島)
6.津島(対馬島)
7.佐渡島
8.大倭豊秋津島(畿内)
先に大八島(おおやしま)を作ったと書かれ、古代の日本(やまと)の勢力範囲を示している。しかし、國造りの後に古事記の舞台となる出雲は作ったと書かれていないのである。にもかかわらず、その出雲を書かれてもいない島根県にあてはめ、その読み間違えたままの古事記解釈が現在も伝え続けられ、出雲は島根県のことと思い込んでいる。しかし、地図を見ればわかるように、古代の日本(やまと)の勢力範囲の中に中国地方は含まれていない。故に、國造りの後に書かれる出雲は、現在の島根県でないことは明らかである。
古事記に書かれる出雲は、國造りで作られた範囲の中に出雲をあてはめて読まなければ、古事記を正確に読んでいるとはいえない。
では、古事記に書かれる出雲は、どこになるのであろうか?
阿波の呼び名は、阿波としか伝わっていないが、阿波の古い呼び名をイの国と呼んでいたことが、古事記や日本書紀などの新しい研究からわかってきた。この事から古事記に書かれる出雲は、阿波の海岸部、つまり、イの国(阿波)の面(も)をイツモと呼んでいたようである。これらのことから古事記の舞台である出雲と高天原は、阿波の海岸部分と山間部(神山町・木屋平村周辺)を指して書かれていると考えられるのである。 
9 筑紫と大和について
古事記の最初に、国が作られ、それぞれの国には、またの名が付いている事が書かれている。
淡道(あわじ)の穂(ほ)の狭別島(さわけしま)(淡路島)
伊予(いよ)の二名島(ふたなしま)(四国)
粟国(あわのくに)は、大宜都比賣(おおげつひめ)
讃岐国(さぬきのくに)は、飯依比古(いひよりひこ)
伊予国(いよのくに)は、愛比賣(えひめ)
土佐国(とさのくに)は、建依別(たけよりわけ)
隠伎(おき)の三子島(みつごのしま)天之忍許呂別(あめのおしころわけ)
筑紫島(つくしのしま)(九州)
筑紫国(つくしのくに)は、白日別(しらひわけ)
豊国(とよのくに)は、豊日別(とよひわけ)
肥国(ひのくに)は、建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)
熊曾国(くまそのくに)は、建日別(たけひわけ)
伊伎島(いきのしま)(壱岐島)天比登都柱(あめひとつばしら)
津島(つしま)(対馬島)天之狭手依比賣(あめのさでよりひめ)
佐渡島(さどのしま)
大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)(畿内)天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)
それぞれの国のまたの名を見ると、四国の比売(ひめ)や比古(ひこ)の付く個性的なまたの名に対して、九州は、すべて日別(ひわけ)や別(わけ)の付く別(わけ)の国である。次に畿内である大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)のまたの名は、根別(ねわけ)と書かれている。根別(ねわけ)とは、根から別れた国という意味の根別国(ねわけのくに)である。根別国(ねわけのくに)が、別(わけ)の国から別れてできることはないので、別れる前の本(ほん)の国はどこかとなると、古事記を読む範囲では、阿波ということになる。
古事記の国生みは、阿波を中心に書かれていることは、讃岐国(さぬきのくに)の飯依比古(いひよりひこ)が、阿波(イの国)によりつく等の例からもわかることで、国生みの後、粟国(あわのくに)の大宜都比賣(おおげつひめ)だけが古事記に登場することからも、古事記の主人公は、天照大御神ではなく大宜都比賣(おおげつひめ)であり、古事記の舞台は、筑紫や大和ではなく阿波である。 
10 隠岐島と佐渡島
古事記の国生みで気にかかる所は、隠岐島と佐渡島である。国生みは、下記の順番で造られたと書かれている。
1.淡道(あわじ)の穂(ほ)の狭別島(さわけしま) (淡路島)
2.伊予二名島 (四国)
3.隠伎の三子島 天之忍許呂別(あめのおしころわけ)
4.筑紫島 (九州)
5.伊伎島 天比登都柱(あめのひとつばしら) (壱岐島)
6.津 島 天之狭手依比賣(あめのさでよりひめ) (対馬島)
7.佐渡島
8.大倭豊秋津島 天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ) (畿内)
江戸時代の本居宣長は、その著「古事記伝」に、1.淡路島から、2.四国と来て、3.隠伎の三子島を日本海にある隠岐島にあてはめると、その順序もおかしく(その後は、時計回りに進んでいる)又、隠伎の三子島と書かれているにもかかわらず、日本海にある隠岐島は、島前・島後の四島からなる島であるから数が合わないと書きながら、島前の三島を古事記の隠伎の三子島にあてている。
ということで、やはり、隠伎の三子島は、四国周辺を探さなければならない。
そこで、四国の東にある三島からなる伊島がそれであろうと推測され、古事記の記述にも適合する。
次に、佐渡島であるが、古事記には佐渡島のみ又の名が付いていないことや、その当時の勢力範囲から見ても離れすぎているので、佐渡島は古事記が書かれた時点で書き加えられたものと推測する。 
 
11 伊勢神宮に祀られる阿波の大宜都比賣
古事記の国生みに書かれた国々の中で、古事記に何度も現れるのは、阿波国の大宜都比賣(おおげつひめ)だけである。よって古事記の主人公は、阿波国の大宜都比賣(おおげつひめ)であると考えられる。
大宜都比賣(おおげつひめ)の「ケ」は、古語で食のことを「ケ」といい、後に、生きていく上で不可欠な「衣・食・住」のすべてを「ケ」で表現し、今日、「気」という言葉が、元気・勇気・やる気・気にする・気がない・気が早い等々、日常にも使われ、物質的なものにとどまらず本源的エネルギーも含め「気」が使われている。
伊勢神宮、外宮(げぐう)に祀られる豊受大神(とようけのおおかみ)の「ケ」も食の意味である。
第21代雄略天皇の夢枕に天照大御神が立ち、「自分は独り身で淋しいから、朝夕に奉る御饌の神として、丹波国比治の真名井より、等由気(とようけの)大神を迎えよ。」と告げたので、五世紀に丹波の国(今の京都府北部)より伊勢にお迎えし、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の食事を司る神として伊勢神宮の外宮に祀られるようになった。
豊受大神(とようけのおおかみ)は、『延喜式神名帳』に書かれる阿波国の和奈作意富曾(わなさおふそ)神社の豊宇賀能売神(とようかのめのかみ)を奉ずる和奈佐(わなさ)神人集団が広く宣布したもので、この神が漂泊したのち奈具の社に止まることが、『丹後国風土記』に書かれる。それには、老夫婦の名が和奈佐(わなさ)と書かれ、豊宇賀能売神(とようかのめのかみ)を宣布した神人集団の名が見え、この神人集団が廻国宣教していたことを物語っている。
また、『出雲国風土記』に書かれる阿波枳閉和奈佐比古(あはきへわなさひこ)神社は、アワキへは阿波から来たという意味を示すので、この神人集団の本拠地が阿波国にあったことを示している。
以上のことから伊勢神宮の外宮に祀られる阿波の大宜都比賣(おおげつひめ)は、豊受大神(とようけのおおかみ)や稲荷大神等と神名を変えて祀られているのである。 
12 延喜式内社(えんぎしきないしゃ)・意富斗能地神(おほとのぢのかみ)
徳島市上八万町上中筋558番地にある宅宮神社(えのみやじんじゃ)は、もと延喜式内社(えんぎしきないしゃ)・意富門麻比売神社(おふとまひめじんじゃ)といわれ、社の御祭神は大苫邊尊(おおとまべのみこと)である。
古事記によるとこの御祭神は、イザナギ・イザナミの神が生まれる前に意富斗能地神(おほとのぢのかみ)と妹大斗乃神(いもおほとのべのかみ)が生まれたと書かれる神で、日本書紀にも両神が生まれる前に大苫邊尊(おおとまべのみこと)が生まれたと書かれている神である。
延喜式内社(えんぎしきないしゃ)とは、平安時代に編纂された延喜式神名帳(927年完成)に記録された、その当時の由緒ある2、861社(3、132座)の神社のことである。
阿波国には47社(50座)が記録されているが、不思議なことに延喜式内社の記録には、意富門麻比売神社(おふとまひめじんじゃ)や美馬郡の伊射奈美神社(いざなみじんじゃ)など、全国で一社しか存在しない式内社(しきないしゃ)が、なぜか阿波には多い。その式内社をみるだけでも、古事記の舞台は阿波であることがわかる。
三代実録によると意富門麻比売神社(おふとまひめじんじゃ)の神位は、清和天皇貞観16年(874年)に従五位に叙せられている。もとの旧社地跡は、現社地の南方約200m山腹にあったが、天正年間(戦国時代)に土佐の長曽我部元親(ちょうそがべもとちか)による阿波国進攻の際に兵火により社殿が焼失した。後、新しく現在の地に社殿が建立された。
当神社には、神代文字の阿波文字の古い版木が所蔵されている。この阿波文字は、徳島県名東郡佐那河内村の大宮神社に伝えられる古代の文字である。阿波文字で書かれた蔵書は、大磯食神社(長野県駒ヶ根市)『神代文字社伝記』・『神代文字中臣拔・射和文庫』などが残っている。
また、神踊り(徳島市重要文化財習俗技芸)が、昔のままに毎年旧暦7月16日(現在は、8月15日)に絶えることなく踊られている。 
13 延喜式内社・伊邪那美神社
延喜式内社の伊邪那岐神社は、淡路や近江を始めとして八社記録されているにもかかわらず、伊邪那美神社は一社しか存在しない。しかもそれは、阿波の美馬郡にあったと書かれ「三代実録」にも「貞観十一年(869)阿波国正六位上伊射奈美神従五位」と神階を記されているのであるから、これらの事実からも古事記の舞台が阿波であったことを感じさせるものである。
しかし伊邪那美神社に比定される神社は、高越山山頂にある高越神社や、穴吹町の舞中島に鎮座する伊邪那美神社等に比定されているが、古事記には、「出雲国と伯伎国(ははぎのくに)との堺との比婆の山に葬りき」と書かれている。
最初にオノゴロ島に降りて生活していたので、舞中島に伊邪那美神社があることは、舞中島がオノゴロ島であることを強める。社殿は、吉野川の中にある舞中島の最も高い位置にあるため、たび重なる洪水にも被害を受けなかったと言われている。
境内の岩盤の上に鎮座する社殿を見ると、いかにもここはオノゴロ島であることをなお感じさせ、伊邪那岐神と伊邪那美神が生活をされた所であることを思い起こすものである。
また、舞中島から見上げる高越山山頂に伊邪那美神社があることは、「比婆の山に葬りき」と書かれるように伊邪那美神を高越山に葬ったことを、なお感じさせるのである。 
14 出雲国と伯伎国
古事記に「伊邪奈美神は、出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬(ほうむ)りき」と書かれる箇所が、出雲国の初見である。
現在の人は出雲を島根県とあてはめて考えるだろうが、古事記には山陰地方が初期の日本国の中に書かれていないので、島根県は当時の日本文化圏外の地域であったと考えられる。
それでは古事記に書かれる出雲とは、どこにあたるのだろうか?
徳島県が阿波国と呼ばれるようになる、それ以前の阿波の国名は「イの国」と呼ばれていたことが、古事記や日本書紀等の記述から確認することができる。古事記や日本書紀等が、正しく読めなかった原因は、この阿波が「イの国」であったことを確認できなかったために、古事記の舞台、出雲を島根県にあてはめてしまった。出雲は、イの国の海岸部(イの国の面)。つまり、阿波の海岸部をイツモ(伊津面)と呼んでいたのを出雲と書いたのである。
伯伎国は、式内社の伊邪奈美神社がある舞中島を中心とする地域である。
阿波では、古くから阿波町岩津付近を境に、上流を上郡、下流を下郡と分けて呼ばれてきたことは、古事記に書かれる、出雲国と伯伎国の境に符合している。その岩津から見上げる高越山は、その見事な山容から別名「阿波冨士」と呼ばれる。この山こそ比婆山に該当する山である。 
15 伊邪那美命(いざなみのみこと)が葬(ほうむ)られた比婆山(ひばやま)
「伊邪那美命(いざなみのみこと)は、出雲国(いずものくに)と伯伎国(ははぎのくに)の堺(さかい)の比婆山(ひばやま)に葬(ほうむ)った」と古事記に書かれている。
黄泉の国というと地底と連想するが、葬(ほうむ)った所は山である。比婆山(ひばやま)の「比」の文字の意味は、比べるの意味が現在では強くなっているが、甲骨文字の比は、・等、二人相並ぶ形から起こり、比べるというよりも「親しむ」・「近寄る」という意味より始まっている。
「婆」は、舞うて楽しむ意から老婦の意となった。
これらの意味から比婆山(ひばやま)とは、尊い女性を祀る山を意味していることがわかる。
古代阿波研究所長の堀川豐平氏は、古代阿波通信NO.33号で、比婆山(ひばやま)とは、ヒハイ山であるとして、
「ヒハイ山とは被拝山のことです。周囲から拝まれる山という意味です。高越山の西麓に「拝村」あり、北方には吉野川のむこうに「拝師」(林)「拝原」(榛原)がある。この3か所とも古来高越山を遙拝したので地名になったと言われている。」と書かれている。
また、江戸時代の阿波の歴史書「阿府志」の中に式内社伊射奈美神社は、「美馬郡拝村山之絶頂アリ俗ニ高越大権現」祭神一座 伊射奈美尊と記され、高越山の絶頂にあると記録されている。
そこに暮らした人々が、大河、吉野川中流域に秀麗に聳えたつ高越山に崇高の念を持ったことは自然の成り行きであり、式内社の伊射奈美神社が阿波の麻植郡に全国で一社しかない事からも、伊邪那美命(いざなみのみこと)を葬(ほうむ)った比婆山(ひばやま)とは高越山のことであると考えられる。 
16 大山津見神と鹿屋野比売神
イザナギの命とイザナミの命が、国生みの後、「山の神、名は大山津見神(おおやまつみのかみ)を生み、次に野の神、名は鹿屋野比売神(かのやのひめのかみ)を生みき。またの名は野椎神(のづちのかみ)という」と古事記に書かれている。
鹿屋野比売神(かのやのひめのかみ)とは山の神の大山津見神(おおやまつみのかみ)に対して野の神とし、山と野の夫婦神である。また、日本書紀では草祖草野媛命(くさのおやかやのひめのみこと)と書かれ、阿波では、鹿江比売(かえひめ)神のことである。
平安時代に編纂された「延喜式神明帳」に、阿波国には、板野郡(4座)・阿波郡(2座)・美馬郡(12座)・麻植郡(5座)・名方郡(9座)・勝浦郡(11座)・那賀郡(7座)計50座の格式ある神社として記録され、板野郡に式内社の鹿江比売神社(かえひめじんじゃ)があったと書かれている。
この鹿江比売神社(かえひめじんじゃ)は、以前に書いた意富門麻比売神社(おふとまひめじんじゃ)・伊邪那美神社(いざなみじんじゃ)と共に式内社の中では、阿波に一社だけ存在するのである。
鹿江比売神社(かえひめじんじゃ)は、徳島県板野郡上板町神宅にあり、神社の北に大山がそびえている。(写真、神社の後の山)この大山の八合目に、力餅運びで有名な大山寺があり、この山が大山津見神(おおやまつみのかみ)のいます山としてあがめられてきた。
この神社は現在、葦稲葉神社(あしいなばじんじゃ)と合祀して祭られている。この葦稲葉神社(あしいなばじんじゃ)は、『続日本紀』に承和9年(842)に従五位下を授けられ、また、『三代実録』に貞観九年(867)に従五位上を授くる、等と記録される古社である。
他県のように、大きな神社が一座だけ祭られ、古事記の記述とはつじつまが合わないのとは大きな違いである。他県に無いように、阿波には、古事記に記述される夫婦神として存在する。なおその上、古事記全般にわたって古代にさかのぼれば、ますます古事記の舞台が阿波であることは明白な事実となる。 
17 大宜都比売神(おおげつひめのかみ)と豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)
古事記には、大山津見神(おおやまつみのかみ)と鹿屋野比売神(かのやのひめのかみ)の生まれた後に大宜都比売神(おおげつひめのかみ)が生まれ、伊邪那美命(いざなみのみこと)が亡くなった後に豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)が生まれたと書かれる。大宜都比売神(おおげつひめのかみ)は、古事記には2度目の登場で、その後、古事記に2度、計4度も書かれ、何度も現れない他の神々とは違い、古事記は、大宜都比売神(おおげつひめのかみ)を中心に書いているとしか読めない。古事記は、阿波を舞台にして書かれているのである。
この大宜都比売神(おおげつひめのかみ)は、阿波国の祖神であり、穀霊でもある。現在は、伊勢神宮の外宮に、豊受大神(とようけのおおかみ)として祀られている神である。この神名の宜(け)は御膳(みけ)の「け」で、「け」は「うけ」ともいい、食物の総称であるから豊受大神(とようけのおおかみ)も豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)も大宜都比売神(おおげつひめのかみ)と同神である。
大宜都比売神(おおげつひめのかみ)は、徳島県名西郡神山町の神山温泉西側の大粟山にある上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)や鳴門市の阿波井神社などに祀られている。
上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)は、式外社として『三代実録』に「貞観三年(861)従五位下、元慶七年(883)従五位上を授く」と古くからの記録が残る神社であり、また、神山町には、平形銅剣が4口出土している事などからも、もっと古い時代から人々の営みがあったことがわかる。
神山町を訪れた人は、山村であるにも関わらず、大きな鳥居や荘厳な社殿に驚くが、これらは古くから大宜都比売神(おおげつひめのかみ)を尊崇してきたことを物語っている。 
18 彌都波能売神(みつはのめのかみ)
美馬郡は、貞観二年(860年)に美馬郡の西部が三好郡として分離するまで、吉野川上流域の南・北岸にまたがる広大な区域であり、延喜式神明帳(えんぎしきしんめいちょう)(平安時代907年完成)によると、美馬郡には十二座の延喜式内社(えんぎしきないしゃ)があったと記録されている。
美馬郡の中には先に紹介した、伊射奈美神社を始め弥都波能売神社(みつはのめじんじゃ)・波爾移麻比禰神社(はにやまひめじんじゃ)等がある。これらは全国の式内社の中で阿波だけにしか存在しないが、現在は、この弥都波能売神社(みつはのめじんじゃ)・波爾移麻比禰神社(はにやまひめじんじゃ)が美馬郡のどこにあるかはっきりしないが、延喜式神明帳(えんぎしきしんめいちょう)に記録されているので、阿波国の美馬郡にあったことだけははっきりしている。
候補社とされる神社は数社あるが、美馬郡脇町拝原にある、八大龍王神社が有力な候補社である。この社は、南に高越山を望み神社の近くに清涼かつ豊富な湧き水が出ている。
志賀剛博士は、「ミツハノ女神は水際の女神であるからかかるところに祭るに相応しいのである。」(式内社の研究)と書いている。
また、折口信夫氏も『水の女』に次のように書いている。「阿波の国美馬郡の「弥都波能売神社」は、注意すべき神である。大和のみつはのめと、みつは・みぬまの一つものなる事を示している。美馬の郡名は、みぬま或は、みつま・みるめと音価の動揺していたらしい地名である。地名も神の名から出たに違ひない。」
みつはの神の名が地名から出ているならば、古事記に書かれるイザナミの生んだ弥都波能売神は、阿波の美馬郡生まれであるから、古事記の舞台が阿波である一つの事実でもある。 
19 波邇夜須毘売神(はにやすびめのかみ)
古事記には、イザナミの神が亡くなる時に、波邇夜須毘古神(はにやすびこのかみ)と波邇夜須毘売神(はにやすびめのかみ)が生まれたと書かれている。一方、延喜式神明帳(えんぎしきしんめいちょう)には、波爾移麻比禰神社(はにやまひめじんじゃ)が美馬郡の阿波にあった。この延喜式内社(えんぎしきないしゃ)は先に紹介した意富門麻比売神社(おふとまひめじんじゃ)伊射奈美神社(いざなみじんじゃ)・鹿江比売神社(かえひめじんじゃ)・弥都波能売神社(みつはのめじんじゃ)等と共に全国の延喜式内社(えんぎしきないしゃ)(3132座)の中で唯一、阿波のみにある神社である。なぜ、古事記に書かれる神が阿波のみに祀られているのであろうか。しかし、この波爾移麻比禰神社(はにやまひめじんじゃ)は、美馬郡の阿波にあったという記録はあるが、現在どこに祀られているかは不明である。いろいろと諸説はあるが、一応ここでは、志賀 剛著の「式内社の研究」を参考にして紹介しておこう。
志賀氏によれば、波爾移麻比禰神社(はにやまひめじんじゃ)は美馬郡半田町にある建権現神社(たけごんげんじんじゃ)であろうという。「私はこの社を古代人はハニヤマヒメ(埴山姫)神社と呼んだであろうと思う。村名や社地の半田山は、ハニタ(埴田)の訛音(かおん)であるからこのハニヤマヒメを官社にする時に標記の如き万葉仮名に改めたのであろう。」と書かれている。
このようにイザナミの生んだ神が、他県にはほとんど無く、吉野川周辺に点在するということは、イザナミとイザナギの神が吉野川周辺で生活していたことを物語るものと考えられる。この後も、阿波にのみある延喜式内社(えんぎしきないしゃ)を紹介していくが、これらの記録からも阿波が古事記の舞台であったことを物語っているのである。 
20 建布都神(たけふつのかみ)
イザナミノ神が亡くなった後、イザナギノ命の十拳剣(とつかつるぎ)から飛び散った血から建御雷之神(たけみかづちのかみ)、またの名は建布都神(たけふつのかみ)が生まれた。この神は、後に天照大御神の命をうけて葦原中国(あしはらなかつくに)平定の遣(つか)わされる神である。
また、神功皇后が三韓征伐の前途を占った時に、先ず現れたのは伊勢皇太神であり、次に現れたのは阿波郡の建布都神と事代主命であった。と日本書紀に書かれている。これら建布都神社と事代主神社(ことしろぬしじんじゃ)は、ともに延喜式内社として、阿波郡のみにあると記載されているのである。
平安時代中期(927年)に完成した延喜式神名帳に、全国で3132座(2861カ所)の神社が記載されている。この建布都神(たけふつのかみ)を祀る神社を延喜式内社の中から探すと、この建布都神(たけふつのかみ)を祀る神社は、阿波国の阿波郡に一社しかないのである。
古事記の神が、なぜ阿波にのみ祀られるのだろうか? 古事記の舞台が阿波であった事を示す資料である。
建布都神(たけふつのかみ)神社の比定社は数社あるが、今回は徳島県板野郡土成町郡字建布都にある建布都神社をあげておく。阿讃山脈から流れ出る九頭宇谷川(くづだにがわ)が作った扇状地の扇端部に位置する。土成町一帯は、県下有数の旧石器散布地として知られ、また、多くの古墳も存在し、県下最大級の円墳、丸山古墳などがあることからも古い時代から開けていたことがわかる。 
 
21 黄泉の国【1】 伊邪奈美命を葬る祠
古事記に伊邪奈美命(いざなみのみこと)は「出雲国と伯伎国(ははぎのくに)との堺との比婆山に葬りき」と書かれているから、伊邪奈美命(いざなみのみこと)は、亡くなると山に葬られた。そして夫の伊邪奈岐命(いざなぎのみこと)は、葬られた伊邪奈美命(いざなみのみこと)に会うために比婆山へ行った。その比婆山にあたるのは徳島県山川町にある高越山であると読み進めてきた。
では、高越山のどこに祀られているのだろうか。
江戸時代に書かれた阿波国最初の史書に、「伊射奈美神社小社美馬郡拝村山之絶頂にあり、俗に高越大権現、祭神一座伊弉冉尊(いさなみのみこと)」と書かれている。
高越山は、古くから修験道のメッカであり、修験道の祖・役行者小角(えんのぎょうおづぬ)が七世紀に建立したと伝えられ、また、弘法大師も801年28才の時にこの山で修業されたとも伝えられている。
このように高越山は、古くから聖なる地として拝まれてきた。高越寺から山頂に登り、少し下って奥の峰に、奥の院がある。この小高い峰の山頂に祠が祀られている。この小高い峰の下に、伊邪奈美命(いざなみのみこと)は葬られていると想像し感じる事ができるのは、その地を訪れた人ならば、そう難しい事ではない。
ここで、伊邪奈美命(いざなみのみこと)の死体を見た夫の伊邪奈岐命(いざなぎのみこと)は、黄泉の軍団に追われ、山中を逃走する。 
22 緊急報告 伯耆の国(ほうきのくに)
先日、徳島県埋蔵文化財センターの催した拝原東遺跡の現地説明会に参加した。
弥生時代終末期〜古墳時代初頭(約1750年前)と、平安時代末〜戦国時代の集落住居跡からは、鉄鏃、刀子などの鉄製品のほか、未製品、切片、鍛造薄片、加工道具である石器が出土し、鍛冶による鉄製品の生産が行われていたことが判明した。
帰り際会場近くの神社を通りかかった際に、説明会で知り合った方が、
「ここに、ホウキの神さんが祀ってある」と言う。最初、箒の神さんでも祀ってあるのかと思っていたが、何度もいうので見てみると「伯耆神社」と書いてあるではないか!目を疑った。
先に「出雲国と伯伎国」について書いたが、『古事記』に「伊邪奈美神は、出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬(ほうむ)りき」と書かれている。
岩津を境に、上を伯耆国と書いていたことに合致する一つの神社出現である。徳島県西部には、他にもあるかも知れないので調べてみなければならない。 
23 黄泉の国 千引の岩 看板設営
古事記に書かれる「千引の岩」看板が、2005年4月3日に那賀町(旧相生町)内山に設置される。
(以下、文面)
日本最古の歴史書『古事記』によると、国造りの途中で亡くなった妻、伊邪那美命(いざなみのみこと)を追って黄泉(よみ)の国の比婆山(ひばやま)へ会いに行った伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は、「見てはいけない」と言われた妻の醜(みにく)い亡骸(なきがら)を見たため妖怪(ようかい)達に追われるはめとなった。
逃げる途中に投げつけた、髪(かみ)を束(たば)ねた葛(かずら)や櫛(くし)が、山葡萄(やまぶどう)や竹の子に変わる。それを追っ手が食べる間に逃げたが、なおも追ってくるので坂本にあった桃の実を投げつけると追っ手は逃げ帰ってしまった。最後に伊邪那美命が追いかけてきたので、伊邪那岐命は、千人で引くような大岩で道を塞いだ。
黄泉(よみ)の国から逃げ帰った伊邪那岐命が、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)の阿波岐原(あわきはら)で禊(みそ)ぎ祓(はら)いすると、天照大御神(あまてらすおおみかみ)と月読命(つきよみのみこと)と須佐之男命(すさのおのみこと)が生まれた。
『古事記』の物語は、徳島県内の地名に当てはまる所が多く、上記の物語は、徳島県の山川町から阿南市見能林町までの地域を舞台として繰り広げられた物語と考えられる。
平安時代に書かれた『延喜式(えんぎしき)神名帳』(九二七年)には、全国に一社のみ、伊射奈美(いざなみ)神社が記録され、徳島県美馬市以外にはない。
黄泉(よみ)の物語は、この式内社 伊射奈美(いざなみ)神社がある穴吹町舞中島から始まり、高越山(こうつざん)を経て「カズラを投げたら実が生った」と書かれる上勝町には、雄中面(おなかづら)・生実(いくみ)の地名があり、相生町竹ケ谷の旧八面(きゅうやつら)神社には、「櫛(くし)から竹の子が生えた」と書かれる竹を型取った燈籠(とうろう)がある。「桃を投げた」と書かれる丹生谷(にゅうだに)地域には、百合(もあい)・桃の木坂・桃付等の地名があり、神社には桃を型取った木彫りや瓦がある。また、相生町には、昔からヨミ坂と呼ばれる坂もある。
黄泉(よみ)の坂を逃げ帰った伊邪那岐命が、四国最東端の阿南市見能林町(打樋(うてび)川)で禊(みそ)ぎ祓(はら)いをすると、天照大御神と月読命と須佐之男命が生まれた。
以上のことから、この大岩群は『古事記』等に書かれる「千引(ちびき)の岩(いわ)」にあてはまる。 
24 黄泉の国【2】 カズラとヤマブドウ
「『見てはいけない』と云われた妻のイザナミの死体を見た夫のイザナギは、黄泉の軍団に追われ、逃げる途中、頭の髪を束ねていたカズラをほどいて投げた。するとそのカズラに山葡萄の実が生り、追っ手がそれを食べている間に、イザナギは逃げた。」と古事記に書かれている。
前回、高越山に葬られているイザナミについて書いたが、徳島県勝浦郡上勝町には雄中面(おなかづら)・生実(いくみ)・喰田(しょくた)という地名がある。
イザナギが「頭の髪を束ねていたカズラをほどいて投げる」に該当する、雄中面(おなかづら)。
「そのカズラに山葡萄の実が生り」に該当する、生実(いくみ)。
「追っ手がそれを食べている」に該当する、喰田(しょくた)。喰田は、「くった」と読める。
こじつけと思うかも知れないが、和銅6年(713年、飛鳥時代)に「風土記」を作るように命令が出る。その地名のいわれの一例を「常陸国(ひたちのくに)風土記〔多可(たか)郡〕」から紹介する。
「道前(みちくち)の里に飽田(あきた)の村がある。古老は伝えてこう言っている。 ― 倭武(やまとたける)の天皇が、東国の地を巡幸した時、その地には、野に鹿、海にあわび等が豊富にいることを聞き、それを獲って飽きるほど食べた。後の人々は、そこを飽田(あきた)の村と名付けている ― と。」
各地の風土記には、これと同じように地名を付けたことがたくさん書かれている。
この後も古事記の物語に沿って阿波の地名が続くことは、つじつまの合わない他の地方に比べても不思議である。
これらの事から古事記の物語は、阿波で繰り広げられた事だったと思わざるをえない。 
25 黄泉の国【3】 竹・桃
「ヤマブドウを喰い終えた追手達は、なおもイザナギを追い迫って来た。そこでイザナギは、右の頭に指していた櫛を投げすてるとタケノコが生えてきた。それを追っ手達が抜いて食べている間に逃げたが、今度は、その上に黄泉軍団までが加わって黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本まで追ってきた。イザナギは、坂本に生っていた桃に実を3個取り投げつけると黄泉軍団はことごとく逃げ失せた。」と古事記に書かれている。
徳島県上勝町を南に山を越えると那賀町の竹ケ谷がある。淡水荘(マスの養殖場)近くの(旧)八面神社には、竹を型取った灯籠がある。そこから、平野・谷内・鷲敷町・阿南市加茂町に下る間には、百合(もあい)や百付(ももつき)の桃のつく地名や、神社には桃を型取った木彫りや瓦が点在する。
写真の桃の瓦は、那賀町教育委員会に保管されている。桃の瓦があったのは、那賀町平野の蔭宮八幡神社である。神社の屋根を銅板に葺き変えたため無くなってしまった。
桃の木彫りがある神社は、
阿南市加茂町 八幡神社
那賀町鷲敷 仁宇 丹生八幡神社
那賀町鷲敷 仁宇 百合(もあい)八幡神社
などである。
このように、古事記の黄泉の国脱出の物語に書かれる舞台として那賀郡那賀町一帯に広がっているのは、不思議なことである。 
26 黄泉の国【4】 桃と辰砂
イザナギがイザナギに追われた黄泉比良坂(よもつひらさか)は、次回で書くこととして、前回の桃に引き続き、もう少し詳しく書いてみようと思う。
上勝町を南に越えると、そこは丹生谷と呼ばれる地域である。丹生とは、水銀鉱石の辰砂で赤色をしている。「丹」は赤土の意味で、日本では古くは水銀鉱を丹や朱と呼んだ。阿南市にある二十一番札所太龍寺の若杉山は、弥生時代の辰砂採掘遺跡として知られ、辰砂の産するところは丹生谷と呼ばれてきた。
辰砂は、原始古代社会において炎や血と同色の赤色は呪術・霊力があるものと信じられ、古くから土器に塗られ、古墳の中にまかれ使われてきた。
一方、道教では、豆や桃も除鬼の呪力があったとされる。
那賀町鷲敷には、桃の木谷や百合(もあい)の地名もあり、若杉山の山麓には、百付(ももつき)の地名もある。また、丹生谷地域にある神社、
丹生八幡神社 那賀郡那賀町仁宇
百合八幡神社 那賀郡那賀町百合
加茂八幡神社 阿南市加茂町
これらの神社には桃を型取る木彫りがある。以上のように、桃と辰砂が同じように使用され、同じ地区に、木彫りや桃の瓦や辰砂採掘遺跡や地名が点在している事から、桃は辰砂のことであると考えられる。 
27 黄泉の国【5】 黄泉比良坂
イザナギが黄泉の国から逃げてくる道を、古事記は「黄泉比良坂(よもつひらさか)」と書き、それは、「今の出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)という」と書かれている。
古事記に導かれ、徳島県那賀町の山深く曲がりくねった細い道を登り、たどり着いた淡水荘で「今登ってきた坂は、昔からヨミ坂といようでよ…」と若社長に教えられた時は、驚いた。
地図上にある地名をたどるだけと思い調査にきたが、地元に奥深く入れば入るほど、これまで書いてきたように次々と出てくる古事記に符合する事実に出逢うと驚きは隠せなかった。ヨミ坂まであるとは…。
何げなく走ってきた山道の道路標識に「四方見坂」と書かれ、通り抜けたトンネルのある坂道がヨミ坂であったことは後になって気付いた。
「地元では、ヨミ坂と行っているのに『四方見坂』と書いてある。建設省に直してもらうよう言わないかん」と若社長はつぶやいていた。
道路標識のあるヨミ坂近くには「ユヤノ坂」という地名もあり、湯谷神社がある。この神社の手水鉢には、「桃木尊」と彫ってあるから、また驚いた。「古事記」に書かれる「今の出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)という」は、「ユヤノ坂」のことであろう。
「黄泉比良坂(よもつひらさか)」は、伯伎国(ははぎのくに)から出雲につながる道である。この「黄泉比良坂(よもつひらさか)」は、徳島県美馬市穴吹町から山を越えて阿南市までつながる道であり、大穴牟遅神(オオナムヂノカミ、大国主の別名)が、須佐之男命(スサノヲノミコト)の娘、須勢理毘売(スセリビメ)を背負って逃げる道として再び書かれるので、注目する道だ。
古事記に書かれていることを阿波に照らし合わせると、符合するところが多いことに驚く。 
28 黄泉の国【6】 千引きの岩(ちびきのいわ)
桃の実を投げつけて黄泉の軍勢を追っ払ったが、最後にイザナミの命自身が追いかけてきた。
「そこで、イザナギの命は、黄泉比良坂(よもつひらさか)に、千人で引くような巨大な岩で道をふさいだ。」と古事記に書かれている。
徳島県勝浦郡上勝町にある月ケ谷温泉から美杉峠を越え南へ下ると、徳島県那賀郡那賀町内山の谷間に巨大な岩が道をふさぐかのごとく出現する。
「日本書紀」には、「千人所引の磐石(ちびきのいわ)」と書かれ、千人で引くような大岩である。古事記に「黄泉比良坂の坂本に到りし時」と書かれるように、この巨岩の上に「字 坂本」の地名もある。
以前、島根県八束郡東出雲町揖屋にある千引の岩を見に行った事があるが、高さ2m幅2mほどの岩の前に「千引き岩」と看板が書かれていた。想像するだけでもわかるだろうが、とても「千引の岩」といえるものではない。
これまで黄泉の国の物語について書いてきたが、イザナミを葬った所、つまり、母の国(伯耆の国)から黄泉比良坂(よもつひらさか)に沿って、カズラ、ヤマブドウ、タケノコ、桃などがあり、イザナギの禊ぎした地につながっていく。古事記に書かれるように順序よく並び、その後に展開する古事記の物語ともつじつまが合う。「古事記」の物語を以上のように説明ができるところを阿波以外には知らない。 
29 竺紫の日向の橘(つくしのひむかのたちばな)(1)
黄泉の国から逃げ帰ったイザナギは、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)でミソギをしたと、古事記に書かれている。
古事記に、「竺紫の日向」と書かれているので、通常は、九州の日向(ひゅうが)と読み、単純に宮崎県のことと考えてしまうだろう。
しかし、古事記をよく読むと、竺紫は「国生み」の箇所では、九州を筑紫国と書いている。竺紫(つくし)と筑紫、あきらかに書き換えている。「竺紫の日向」と続く時は、「竺」の文字を使っている。「竺紫の日向」とは、九州の事ではない。それでは、「竺紫の日向」とは、どこにあたるのだろうか。
古事記は、最初「国生み」から始まる。「国生み」は、阿波から始まり、淡路島・四国・九州へと広がっていくのだが、神武天皇が畿内に入るまでは、四国が一番東の地域であった。西につきた島を九州と呼んでいるのだから、「ツクシ」とは、つきるという意味である。
日向(ひむか)とは、ヒムカ・ヒムカシ・ヒンガシ・ヒガシと変化してきた言葉で、東という意味である。すると「竺紫の日向」とは、「東につきた所」という意味になる。
神武天皇が畿内に入り、国の領域が広がる前の国の一番東につきた地域は、四国の最東端に位置する徳島県阿南市である。その阿南市にある橘湾周辺は、イザナギのミソギをした「竺紫の日向の橘」と考えられる有力な所である。 
30 竺紫の日向の橘(2) 橘の小門(をど)
イザナギノ大神が「竺紫(つくし)の日向(ヒムカ)の橘の小門(をど)」つまり、橘湾に面する徳島県阿南市見能林町でミソギをすると、天照大御神・月読命・建速須佐之男命が生まれたと「古事記」に書かれている。
現在、見能林地域は陸となっているが、国道55号バイパスの走る附近は、雨が降るとすぐ冠水する低い土地である。近くには打樋川(うてびがわ)が流れている。その東側(写真、右側)は、小高い山が連なり大潟町の山の上、諏訪神社の飛地境内社に矢剣神社があり、剣の出土した古墳もある。
「小門(をど)」の「と」は、鳴門、瀬戸など「と」は、狭い地域を指す言葉である。つまり、古い時代は、55号バイパスの走る附近は、狭い海峡となっていた。
農地の圃場整備の際に、田んぼを掘るとカキ殻のついた岩がたくさん出て来たと聞く。この水の流れのゆるい所で、イザナギノ大神がミソギをして、天照大御神が生まれたのである。
すると、天照大御神・月読命・建速須佐之男命が生まれたのは、出雲で生まれたということになる。日本書紀に「天照大御神は、天に送る」と書かれ「古事記」に「天照大御神は高天原を治め」と書かれていることは、天照大御神は、高天原で生まれたのではないという事である。 
 
31 竺紫の日向の橘(3)
延喜式内社 賀志波比賣神社
延喜式内社の賀志波比賣神社は、現在津乃峰山頂に祀られているが、元あった場所は、徳島県阿南市見能林町柏野22である。つまり、イザナギノ大神が禊ぎをした場所である。そこに記紀に書かれていない神の賀志波比賣神が祀られている。
従来は、賀志波比賣神は夏之売神に当てられているが、夏は夏至であるから「ゲシ」を「賀志」と言い換えて賀志波比賣神としているという説明は、こじつけであり受け入れがたい。ただ夏之売神が大宜都比売の娘である事に関しては、いささか興味のあるところである。
賀志波比賣神については、天照大御神の幼名と考えられる。イザナギノ大神が「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)」で禊ぎをしたときに天照大御神が誕生したのだから、天照大御神の幼名となるわけである。
柏の葉は、国府にある天石門別八倉神社の御神紋が柏の葉であったり、伊勢神宮の本宮が柏本宮と書かれていること、また、皇室の大嘗祭などの神事に「ひらで」という柏の葉で作られた皿が使われること、そのほかにも神を拝む時、手のひらを打ちあわせて鳴らすことを「柏手を打つ」ということなどから、賀志波比賣神が、天照大御神の幼名と考えることは、おおよそ無理のないことと考えている。 
32 天照大御神と月読命
イザナギノ大神が「竺紫の日向の橘の小門」で禊ぎをしたときに、天照大御神と月読命と須佐之男命が誕生したと「古事記」に書かれている。
つまり、天照大御神と月読命と須佐之男命は出雲で生まれたのである。そして天照大御神と月読命は、高天原に送られ、須佐之男命は、海原を治めよとイザナギノ大神に命じられる。
では、天照大御神と月読命は、高天原(神山町)のどこに祀られているのだろうか?
神山町にある上一宮大粟神社の御祭神、大宜都比売は、またの名を天石門別八倉比売であるという。
一方、徳島市国府町の天石門別八倉比売神社に祀られる天石門別八倉比売は、大日(おおひるめ)つまり天照大御神である。
上一宮大粟神社では、天石門別八倉比売を大宜都比売といい、国府の天石門別八倉比売神社では、天照大御神という。これは、何を物語っているのであろうか?
古代阿波研究所の堀川豐平所長は、これを「現人(うつせみ)と穀霊の関係である。つまり、この世に現れたのが天照大御神であり、穀霊として祀ったのが、大宜都比売である。この関係は、伊勢神宮の外宮、豊受大神と内宮、天照大御神を祀る原形として阿波に存在している。」と説く。
このようにして、天照大御神と月読命は、「古事記」に「高天原を治めよ」、「日本書紀」に「天に送る」と書かれるように、高天原、つまり神山町に送られ、祀られるようになったのである。
高天原は、天照大御神が誕生する以前から存在していたのだから、天照大御神は、高天原に修養のために登ってきたのである。そして、穀霊と一体となり、祀られるようになったと考えられる。 
33 縄文時代、弥生時代はなかった
古代歴史を語る上で考古学では、縄文時代・弥生時代と区別して考えているが、古代の日本に縄文時代、弥生時代と語られるような時代は無かった。
日本列島は古代からあっただろうが、古代の日本は、日本列島全てを同じ文化圏としてひとまとめにするような文化圏は無かった。
古事記・日本書紀等を読めば、それは一目瞭然である。一地域から始まった文化が広がって現在の文化圏ができたのであり、古代から沖縄から北海道に到るまで、縄文時代、弥生時代という同じ文化圏であったわけではない。
現在の文化は、古事記などに書かれる、天照大御神や大国主などの神様が日本中に祀られている。これらの神様は、神武天皇が奈良に入り、ヤマトタケルが、南九州・出雲・関東へと文化圏を広げたことが、古事記や日本書紀に記録されている。それに書かれた文化の広がりが現在の日本の文化圏を形成しているのであるから、現在の日本文化の発生は、阿波の文化が日本列島の文化を形作っていったといわざるを得ない。
考古学では、北海道や東北に縄文時代、弥生時代があったが、そこにあった文化が現在まで続いているわけではない。一地域の文化が広がり、それぞれの集落の文化と融合して、現在の日本文化が形成されてきたのである。古事記等に書かれる文化が日本文化の骨格をなしている。このようにして、世界に誇る日本の文化が一地域から広がり作られてきたことを、古事記を始めとする文献は伝えているのである。 
34 (特別篇)男系天皇について
これまで「古事記」を読んでいても、男尊女卑の思想が中国から入ってきた頃に「古事記」が書かれたくらいにしか考えていなかったが、そうではなかった。「皇室典範」改正問題で、天皇の女系問題が取りざたされている事により「古事記」解釈が、一層深まったことは、幸いであった。
「女性が先に声をかけたのは良くない」と高天原の天つ神が占いによって答えた。最初から「古事記」は全編、男系を貫き表している。
後に、天照大御神と須佐之男命が高天原の天の安の河で対峙する場面でも、須佐之男命の刀からタギリビメ・イチキシマヒメ・タキツヒメの三女子が生まれたのに対し、天照大御神の曲玉からオシホミミ命・ホヒノ命・ヒコネノ命・イクツヒコネノ命・クマノクスヒノ命の五男児が生まれた。
そこで須佐之男命は、天照大御神に言った。
「我が心清く明(あか)し・・・自(おのづ)ら我勝ちぬ」。
なぜ女性を生んだ方が勝ったのか? この意味が判らなかった。
天照大御神は、高天原を奪いに須佐之男命が登ってきたと思っていた。須佐之男命は言った。
「僕(あ)は邪(きたな)き心無し」
じゃあ、それを証明しろと言って、先に書いた下りになるわけである。須佐之男命は女子を生んだのだから、国を奪う意志など無いことを証明したのである。
このように、日本は古来からその伝統を守り皇室の男系天皇を支えてきたのである。
今後、なぜ男系天皇かを折に触れて書く事になると思うが、男尊女卑というような考えから男系天皇を貫いているのではないことを、改めてご理解いただきたい。 
35 高天原【1】二つの高天原
最初、高天原を徳島県名西郡神山町周辺に想定していた。神山町は、1955年(昭和30)阿野・鬼籠野・神領・下分上山・上分上山が合併して神山町になった。合併して神山の名がついたとはいえ、神山町には天岩戸立岩神社や上一宮大粟神社等の史跡などがあるので、高天原は神山周辺と考えていた。しかし、忌部直系の子孫、三木家が、神山町から西に山を隔てた木屋平にあることから説明がつかなかったが、高天原の領域を木屋平まで拡げていたと考えられる。
最近になって男系天皇が取りざたされ、それがヒントになり、木屋平の存在が大きく浮かび上がってきた。
木屋平、三木家周辺は、前期の高天原(旧地)だった。阿南市見能林で生まれた天照大御神が高天原に送られ、生活するようになり、神山町周辺に高天原が広がっていったと考えられる。
国生みの際にイザナギ・イザナミが、うまく国生みが進まないので、お伺いに登った高天原は、木屋平周辺であった。舞中島から南へ山を入ると木屋平がある。
そして、国生みの途中に亡くなった妻のイザナミは高越山に祀られ、夫のイザナギは、淡路島に祀られている。そのことから推察すれば、イザナミは天津神であり、イザナギは国津神だったと考えられる。
国津神のイザナギは、妻を追い高天原に登るが、高天原(黄泉国)で受入れてもらえず、阿南市見能林の橘の小門(をど)まで逃げ、禊ぎの後生まれた天照大御神を高天原に送るのである。 
36 高天原を象徴する阿波の青石【1】
徳島の青石が奈良や大阪など数多くの古墳で発見されているという。この事実は何を物語っているのだろうか。
西求女塚古墳(兵庫県神戸市)、五色塚古墳(兵庫県神戸市)、将軍塚古墳(大阪府茨木市)、弁天山古墳(大阪府高槻市)、紫金山古墳(大阪府茨木市)、松岳山古墳(大阪府相原市)、茶臼塚古墳(大阪府柏原市)、貝吹山古墳(大阪府岸和田市)、櫛山古墳(奈良県天理市)、燈籠山古墳(奈良県天理市)等に阿波の青石が使われている。
徳島県に住む人は、そう気にも止めない青石だが、青石は古代と深い関わりがあるようである。
通常古墳は、土を盛った上に石を敷いていると思うだろうが、徳島県にある古い時代の古墳は、岩だけを積み上げた古墳で、八人塚古墳などは青石だけを積み上げた全長60メートルの前方後円墳である。先の近畿にある古墳に阿波の青石が運ばれていると書いたが、それは、ただ阿波の青石を珍重しただけではないようである。なぜならば、青石が帯状に分布しているのは、九州佐賀関半島から四国、紀伊半島を横断して、東海地方を経て諏訪湖の南から関東山地にいたるまで千キロメートルに及ぶといわれ「三波川変成帯」と呼ばれ、徳島県に産する青石は、吉野川南岸に分布しているからである。吉野川北岸には青石が無いにも関わらず大量の青石が運ばれ、鳴門市周辺の古墳に使われている。
今年、鳴門市の萩原2号墓で、総重量400〜500トンの石を積み上げて造った弥生終末期(3世紀前半)の墳丘墓を確認した。築造形態などが国内最古の古墳とされる奈良県のホケノ山古墳と共通していると発表があった。
阿波の青石は、高天原を象徴する石であると考えられる。 
37 高天原を象徴する阿波の青石【2】
前回、青石の無い地域で青石が古墳に使用されていることを紹介したが、何の目的で青石を使用したかが、わからない。
「三波川変成帯」と呼ばれる青石の産する地層が、高天原のあたる木屋平や神山町青石の地質の上にある。青石を産する地が、高天原かと言えばそうではない。関東山地(群馬県の三波川)から九州東部佐賀関半島にかけて長さ約800キロメートルにおよぶ結晶片岩の産する地帯で、四国周辺には、和歌山県や愛媛県に青石の地層はあるが、吉野川北岸から近畿地方の古墳に使用されている青石は、徳島県産といわれている。その上、古事記の物語に当てはまる高天原は、木屋平や神山周辺であるから、青石は高天原を象徴する岩であると想像することができる。
もちろん運ばれた青石は、木屋平や神山などの山奥からではなく、吉野川南岸から運ばれたものだろうが、高天原にイザナギ・イザナミが、お伺いに行ったり、天照大御神が降臨する話から見ても、高天原は聖なる地である。その聖なる地にある青石を高天原の石として象徴的に扱い使用したものと想像できる。
また、縄文時代後期に石棒といって青石製の石製呪術具がある。これも近畿地方まで運ばれている。石棒は、天御柱として使用した物かも知れないが、なお調査研究を進めたい。 
38 ソラ(高天原)について
「阿波の風土記」に、次のように書かれている。
阿波国の風土記のごとくは、そらより降り下りたる山のおおきなるは、阿波国に降り下りたるをあまのもと山と云い、その山のくだけて、大和国に降り着きたるを天香山というとなん申(まをす)。
徳島県では、昔から吉野川の西の方を「ソラ(空)」と呼んでいた。吉野川流域に住む人から見れば四国山地は、空の上に住む人というイメージを持ったのであろう。
古事記も「出雲」と「高天原」を舞台にした物語であり、同じように海の民と山の民、つまり海と空の物語である。
前回、旧地の「高天原」を美馬市木屋平と書いたが、木屋平にある国指定重要文化財三木家住宅がある周辺の地は、現在の字「貢(みつぎ)」であるが、その前は旧名「空地(そらのち)」であった。三木家周辺が、前期の高天原であり、天照大御神が高天原に登り治めるようになって、東方の神山町へと広がっていったのだろう。
神山町の鬼籠野元山の天岩戸立岩神社には、御神体として天岩戸があり、阿波風土記に、「阿波の元山が欠けて奈良の香具山になった」と書かれるように、奈良県の天香具山の南麗にある天岩戸神社には、同形小型の磐くらがお祀りされている。
阿波風土記に書かれる「そら」が木屋平を指すことではなかろうかと考えたが、木屋平から神山に降りたのでは、神山町が阿波国になりつじつまが合わないので、阿波風土記に書かれる「そら」は、やはり天空を指すことであろう。 
39 天照大御神は 高天原へ
延喜式内社 賀志波比賣神社の御神紋は三方で、三方とは神に捧げ物をするときにのせる台である。
竺紫の日向の橘の小門(をど)の阿波岐原でイザナギノ命が禊ぎをすると、天照大御神・月読命・須佐之男命が生まれたと、古事記や日本書紀に書かれている。その後、
「アマテラスよ、あなたは高天原(たかまのはら)をおさめよ。そして、ツクヨミは夜の国を、スサノオは海原をおさめるのだ。」と三人の神に命じたと古事記には書かれ、日本書紀には、
「わが子神たちはたくさんいるけれども、まだこんなに霊異な能力を備えた子はいなかった。この子はいつまでもこの国に留めてはならない。この子は天照大神(あまてらすおおかみ)と名付け、天に送って、天界をこれを治めさせよう。」と書かれている。
つまり天照大御神は、橘の小門(をど)の阿波岐原で生まれ高天原に送られたのである。
現在、阿南市津乃峰山頂にある賀志波比賣神社に御神紋の由来をお尋ねしたが、由来はハッキリわからないという。幼名 賀志波比賣(後の天照大御神)を高天原に捧げ、それが、御神紋の〔三方〕で表すようになって伝わったと考えられる。
また柏の葉は、かしわ、葉盤(ひらで)といわれ、数枚の柏の葉を細い竹串で差し止め盤のようにした器で、神饌の祭祀に使われ、後世では土器(かわかけ)を用いるようになったが、皇室では、現在でも柏の葉で作った(ひらで)が使われている。
このように、柏は神事において重要な意味あいを持つので、賀志波比賣は重要な神名である。 
40 須佐之男命(スサノオノミコト)
イザナギノ命が竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(をど)の阿波岐原で禊ぎをすると、天照大御神・月読命・須佐之男命が生まれたと、古事記や日本書紀に書かれている。
そして天照大御神と月読命は、高天原(木屋平・神山町)に送られたが、須佐之男命は、「海原を治めよ」と命じられた。どこに送られたのだろうか。
旧宍喰町史に「八坂神社は、鎌倉時代の頃から日本三祇園の一つと称された。」と書かれている。日本三祇園とは、京都の祇園八坂神社・広島県福山市の沼名前(ぬなくま)神社・徳島県海陽町宍喰の八坂神社を指している。各八坂神社の祭神は、素戔鳴尊(すさのをのみこと)であるが、なぜ、日本三祇園と称されているのだろうか。
『備後国風土記』逸文に、次のように書かれている。
「北海に居た武塔神が、南海へやって来て巨旦将来(こたんしょうらい)に一晩泊めてくれるように頼みました。弟の巨旦は裕福でしたが断りました。兄の蘇民(そみん)は貧しいけれど親切に泊めてあげました。後に、再び訪れた武塔神は、茅輪(ちのわ)(茅や藁(わら)を束ねて作った大きな輪)を腰に着けた蘇民と娘を除いた、巨旦以下、村民を皆殺しにしてしまいました。「私は須佐之男神だが、『蘇民将来子孫』と言って茅の輪を腰に付ければ疫病を免れることができる」と言って、武塔神は立ち去りました。」
南海に位置する宍喰祇園社がそれにあたり、今年の夏も宍喰では盛大な祇園祭が執り行わている。
以上のことから、徳島県阿南市で生まれた須佐之男命は、イザナギノ命に「海原を治めよ」と命じられ、徳島県の南の太平洋に面し古くから水運の発達した地である海部郡宍喰町に送られたと推測される。 
 
41 母国 根の堅州国
須佐之男命は、父のイザナギの大神に命じられた国を治めず泣き叫んだ。イザナギの大神に「何故、国を治めずに泣くのか?」とたずねられると「母の国 根の堅州国に行きたいから泣く」と須佐之男命は答える。
母の国とは、須佐之男命の母 イザナミが暮らし葬られた地である。つまりオノコロ島である舞中島周辺であり、埋葬地の高越山である。
では、根の堅州国とはどこだろうか? 川の中に砂や砂利でできた島を中洲という。そのことから考えると堅州は、岩盤でできた島のことである。徳島県阿波市岩津より上流は、写真のように川の中に岩盤でできた島が点在する。まぎれもない「母国 根の堅州国」であり、岩津上流である。
古事記は、読めば読むほどにつじつまが合う物語として書かれている。「根の堅州国」は、大国主命が兄達に追われて「須佐之男命のいる根堅州国に向かう」場面にも書かれる。 
42 式内社 伊佐奈伎神社 (淡路島)
古事記に「伊邪那岐大神は、淡海(あふみ)の多賀に坐(いま)すなり。」と書かれ、イザナギの神は淡路島の多賀に祀られたと書かれている。解説本の多くは「淡海(あふみ)の多賀」を「近江の多賀」と読み、滋賀県の多賀大社にあてているが、平安時代(927年)に完成した延喜式神名帳には、全国の3、132座(2、861カ所)の神社のうちイザナギの名の付く神社は、下記の8社である。
伊佐那伎神社(島根県)
伊佐奈伎神社(淡路島)
伊射奈岐神社(奈良県)
伊射奈岐神社(奈良県)
伊射奈岐神社(奈良県)
伊射奈岐神社(福井県)
伊射奈岐神社(大阪府)
伊射奈岐宮 (伊勢)
見ていただくとわかるように「近江(滋賀県)の多賀」にはイザナギの名前の付いた神社はない。多賀大社は、式内社だが、多荷神社が多賀神社になったのである。古事記に書かれる「淡海(あふみ)の多賀」を多賀大社にあてるのは無理がある。その上、まだ神武天皇が奈良に入ってない時のことであるから、近江まで話を広げるには、なお無理がある。
古事記 上巻の話は、阿波周辺の話である。式内社伊射奈美神社(日本一社)が徳島県の美馬郡にあることからも、阿波の別れの淡路島からイザナギ命がイザナミ命に会いに来て国生みが始まったのである。 
43 倭について その(1) 倭(イの国)から阿波へ
阿波という国名は、713年(和銅6年)に「粟国」から「阿波国」に変わったといわれているが、今回は、なぜ阿波と国名が変わったかについて考えたい。
「粟」から「阿波」に変わったというより、これまでに書いたように「倭(い)」から「阿波」に変わったのである。
古事記・日本書紀等には、四国は「伊予二名島」と表記され、四国東部が「伊の国」であり、その中心部が阿波であったことがわかる。
なぜ、その「イ」を変えたのかについては、中国の史書「旧唐書」に中国へ渡った遣唐使(西暦702年)が、「倭という名称がよくないから日本と改めた」と記録されて、「倭(い)」は、中国から軽蔑の意味を込めて、柔順で背の低い東海の島々の人を指した言葉であることに、日本人が気づいたからである。このため、自分たちを「イ」と呼ばず「日本」といい「イ」を使わなくなったと考えられる。
だから「倭国」は、“わこく”と読まず、最初は「倭国」を“いこく”と読んでいたのだが、「イ」を嫌い使用しなくなり「ワ」と呼び始め“わこく”と読み始めた。
それと同じように、阿波も「倭(イの国)」といわず「阿波」に変えたと思われる。
その後に、鎌倉幕府を開いた源頼朝が、征夷大将軍の位を得て、「イ」は、夷(い・えびす)であり、逆に「イ」を使うようになったことからも、「イ」が使われなくなったことがわかる。
神武天皇のまたの名は、神倭伊波礼田比古命(かんやまといわれひこのみこと)と呼ばれている。また、日本各地の「風土記」には、「伊波神」がやってきたという記述が、たくさん書かれ伝わっている。「伊波神」が「阿波神」にも変わっていったのである。
このように見てくると「イの国」から「阿波」に変わった事が、考えられる。 
44 須佐之男命(すさのおのみこと)、高天原(たかまがはら)に登る
スサノオが父のイザナギに、海原の国(出雲)から追放され、母に会いに行く途中、姉の天照大御神に挨拶するため高天原に登っていく。その登ってくる様の仰々しさから、天照大御神は、スサノオが高天原を奪いに来るのかと思い武具を身につけ戦闘態勢に入る。しかし、スサノオはそんな気持ちはさらさらない事を告げるが、そのことを証明するために、神に祈って吉凶を伺う〔うけい〕をする。
スサノオの剣からは、タギリビメ・イチキシマヒメ・タキツヒメの三人の女児が生まれ、天照大御神の首を飾る玉からは、オシホミミ命・ホヒノ命・ヒコネノ命・イクツヒコネノ命・クマノクスヒノ命の五人の男児が生まれた。するとスサノオは、
「私にやましいことのないが証明されたから、私は勝った。」と言って数々の狼藉を始める。
解説本には、なぜスサノオが勝ったと言ったのか判らないと書かれているが、先にも書いたが、「男系」を継承している皇室を、このことからもその流れを知ることができる。
「男系」からみると、イザナギ大神もスサノオ神も国津神であり天津神では無いことがわかる。
イザナギ大神が、葬られた淡路の多賀。
スサノオ神は、どこに葬られたか? 「古事記」には書かれていないが、高志(たかし)の八俣大蛇(やまたのおろち)を退治した後に、母の国に帰り着き、そこで暮らしたことは書かれているから、阿波市岩津より上流、美馬市周辺に葬られていることであろう。今後なお研究が進むと、スサノオの葬られたところが発見されるかも知れない。 
45 高天原は山間部
古事記に書かれる「高天原」や「天」を空の上と考えるか、地上と考えるか、色々の考え方があるが、古事記にスサノオは地響きを立てながら高天原に登って来ると書かれているのだから、山に登ると読むのが、すなおな読み方だと考えられる。
高天原で、天照大御神と[うけい]をして勝ったスサノオは、数々の狼藉をするが、その内の一つに「畦はなち」という天津罪がある。畔を壊すことが、なぜ天津罪という大罪にあたるのだろうか。平地の畑で畦を壊しても、また埋め戻して畦を作ればよいことである。
しかし、山間部にある棚田では、そんなに簡単に直すことはできない。棚田で耕作している方の話では、畦が壊れると一枚の田んぼだけで終わらず、上の田から下の田へ次々と壊れていくそうである。だから畦を非常に大事にすると聞いた。
高天原が山の上だったことをうかがわせる記述は、この後にも天孫降臨の箇所などで書かれている。空の上からというよりも山間部で暮らしていた人が、平野部に降りてきたと考える方が合理的である。
徳島県の木屋平・神山周辺を高天原と見て、徳島県の海岸部(平野部)を出雲と当てはめて古事記を読めば、すなおに古事記の物語を読むことができる。 
46 神御衣(かむみそ)を織る 天照大御神
天照大御神が、神御衣(かむみそ)を織っているとき、スサノオノミコトが、屋根に穴を開け天斑駒(あめのふちこま)(カモシカか?)を生きたまま逆さに皮をはいで落とし入れたことは誰もがよく知っている話である。
天照大御神、忌服屋(いみはたや)に座(ま)して、神御衣(かむみそ)織(お)らしめたまいし時、
と古事記に書かれていて、天照大御神ご自身が高天原で神御衣(かむみそ)を織る仕事もされていたと書かれている。いったい最高神である天照大御神が神御衣(かむみそ)を織られるとはどういうことなのだろうか。
神御衣(かむみそ)とは、神が着られる衣服、または神に捧げる衣服のことで、荒妙(あらたえ)(麻織物)・和妙(にぎたえ)(絹織物)のことでもある。つまり、この事からもわかるように天照大御神は、祭主となって神に捧げる神御衣(かむみそ)を織り、それを捧げ祀る神があったのである。その神は天御中主神を初めとする八百万神である。
天皇が即位の礼の後、初めて行う大嘗祭という儀式がある。実質的に践祚の儀式(皇位を受け継ぐこと)である。その際には、阿波から麁妙(あらたえ)が貢進される。麁妙(あらたえ)は、先に書いた荒妙(あらたえ)(麻織物)のことである。この神御衣(かむみそ)、荒妙(あらたえ)(麻織物)・和妙(にぎたえ)(絹織物)が、伊勢神宮で織られているにも関わらず、大嘗祭の際に使われる麁妙(あらたえ)は、古代から阿波の木屋平村三木家(阿波忌部の子孫)から運ばれている。阿波はそれくらい古いのである。
この事実から見ても古事記の舞台が阿波であったことが、一段と鮮明になるであろう。 
47 天岩戸は、神山にあり その(1) 阿波風土記
スサノオノ命の狼藉により、天岩戸に籠もった天照大御神を呼びだすため、神々は思いをめぐらし祀り事の準備をする。そして、思金神は、天香山から鹿・ははか(朱桜)・榊を集めて来る。天宇受売命は、天香山のヒカゲカズラ・マサキカズラ・笹を持ち、桶をふせてその上で踊るということが、「古事記」に書かれている。
天岩戸の近くには、天香山があるわけである。天香山といえば、奈良の香具山を思い浮かべるが、各地の風土記には次のように書かれ伝えられている。
「阿波国風土記」
そらより降り下りたる山のおおきなるは、阿波国に降り下りたるを、天のもと山と云い、その山のくだけて、大和国に降り着きたるを天香具山というとなん申(まをす)。
「伊予国風土記」
天山(あめやま)と名づくる由(ゆえ)は、倭(やまと)に天加具山(あめのかぐやま)あり。天(あめ)より天降(あも)りし時、二つに分かれて、片端(かたはし)は倭(やまと)の国(くに)に天降(あも)り、片端(かたはし)はこの土(くに)に天降(あも)りき。因(よ)りて天山(あまやま)と謂(いい)ふ、本(もと)なり。
この記述からも、天(あめ)とか倭(やまと)は、阿波であることが判る。しかも奈良の香具山の南側に天岩戸神社があり、その御神体の磐座(いわくら)と同形の磐座が、徳島県名西郡神山町鬼籠野元山の天岩戸立岩神社にもある。しかも「風土記」に書かれている通り、阿波の磐座は大きいのである。この事からも「神山町に天香具山があり、天岩戸がある」ということが判る。 
48 天岩戸は、神山にあり その(2) 岩戸とは
「古事記」では天岩戸の表記を「天の岩屋戸」と書き、「日本書紀」には「天石窟」と書いている。すると、どうしても岩戸(いわと)は、洞窟というイメージにつながるが、「いわと」の表記には「天石門別神(あめのいわとわけのかみ)」というように「石門(いわと)」という表記もある。延喜式内社の天石門別(あまのいわとわけ)神社の表記は、全て「石門(いわと)」で書かれ、石門(いわと)をわけていったことが判る。また、神山町にある天岩戸立岩神社の御神体の磐座(いわくら)は、大岩が真ん中から割れている。また、奈良の天香具山にある天岩戸神社の御神体の磐座(いわくら)も同じく真ん中から割れている。天照大御神が籠(こ)もったというので、洞窟と考えるが、岩戸は、石門(いわと)なのである。
戸や門と表記される「と」は、瀬戸・水戸・水門(みと)などのように、入口や狭い所を指す言葉であるから、イザナギ命が禊ぎした狭い水路を指す「橘の小門(をど)」や「やまと」の「と」も山の谷間の狭い地域、あるいは、山に入る入口(谷間)を指す言葉と考えられる。つまり、皇室の御祖先が住まわれた狭い谷間を「やまと」と呼んでいたのが、倭(やまと)・大倭(やまと)、大養徳(やまと)、大和(やまと)などの表記に変わり、後に日本の国名に変わってきたのである。
これらのことから見ても、天岩戸は、洞窟ではなく、狭い所を表す石門(いわと)で、その狭い所から新しい命が現れてくることの象徴なのである。 
49 天岩戸は、神山にあり その(3) 長鳴鳥
「天照大御神、見畏(かしこ)みて天石屋戸(いわやど)を開きてさしこもりましき。ここに高天原皆暗く、葦原中国ことごとに闇し。これによりて常夜往きき。ここに万(よろず)神の声(おとなび)はさ蝿なす満ち、万の妖(あやかし)悉に発(おこ)りき。ここを以ちて八百(やおよろず)の神、天の安の河原に神集ひ集ひて、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)の子思金神(おもひかねのかみ)に思はしめて、常世(とこよ)の長鳴鳥を集めて鳴かしめて」と『古事記』にある。
アマテラスはスサノオの行動に怒り、天岩戸に引き篭ってしまった。高天原も葦原中国も闇となり、様々な禍(まが)が発生した。そこで、八百万の神が天の安河の川原に集まり、どうすれば良いか相談をした。思金神の案により様々な儀式を行い、朝を告げ、太陽神である天照大御神を再びこの世に呼び戻す役割を果たす鶏を集め、鳴き声が引いて長く鳴く「長鳴鳥」を鳴かせた。
この「長鳴鳥」で有名なのは、高知県原産といわれる長く鳴き続けることができる鶏「東天紅」である。
日本三大長鳴鶏の一つに数えられ、その鳴き声は、世界で最も長く鳴き、30秒鳴き続けた記録もある。東天紅の名前も、夜明けの東の空が紅に染まる頃、天性の美声で鳴き続けることから命名されたといわれ、昭和11年9月3日には、国の天然記念物に指定された。
「長鳴鳥」が四国の原産というだけでも、「古事記」の物語を構成する資料がそろい、天岩戸神話が現実のものとして見えてくる。 
50 天岩戸は、神山にあり その(4) 布刀玉命
布刀玉(ふとだま)命は、忌部の祖神で「古事記」に「天児屋(あめのこやね)命・布刀玉命を召(よ)びて・・・」と天岩戸の神事を執り行う祭司として書かれている。一方、忌部といえば粟国の忌部の遠祖天日鷲(あめのひわし)で、日本書紀に依れば、やはり天岩戸の神事を執り行う祭司として書かれている。
粟国の天日鷲(あめのひわし)は、天岩戸の神事に参列していたのである。多くの国から集められたとするなら他の国の参列者も書かれているはずだが、粟国以外は書かれていないのだから、このことから推察しても、天岩戸の神事は阿波国内で執り行われたと考えられる。
そこで、粟国と阿波国の関係であるが、阿波国は徳島県全体のことで、粟国は現在の阿波市周辺と考えられる。延喜式神明帳での記録でも、板野郡・阿波郡・美馬郡・麻植郡と書かれていて、阿波の地名は古くからあった。
また「古語拾遺」には「天富命(あめとみのみこと)をして日鷲命が孫(うまご)を率(ひき)て、肥饒(よ)き地を求(ま)ぎて阿波国に遣はして」と書かれているように、ここに書かれる阿波国は、吉野川の肥沃な土地をさしているので、阿波国とは、徳島県全体を指すのではなく、阿波市周辺を指している。そしてその一部を「麻植(おえ)」と名付けている。 
 
51 天岩戸は、神山にあり その(5) 阿波忌部の祖 天日鷲神
粟国の忌部の遠祖は、天日鷲(あめのひわし)である。忌部といえば、徳島県全体を指すように考えがちである。前回でも書いたが、「古語拾遺」には「天富命(あめとみのみこと)をして日鷲命が孫(うまご)を率(ひき)て、肥饒(よ)き地を求(ま)ぎて阿波国に遣はして」と書かれているように、麻植(吉野川市)に降りてきたのが、粟国の忌部の遠祖、天日鷲(あめのひわし)である。だから、吉野川市に式内社の忌部神社がある。
つまり高天原から降りていったのが、天日鷲神であるから、式内社の忌部神社があることが、忌部が高天原の住民でないことを物語っている。
高天原に住んでいるのは天津神であるから、天津神は忌部ではない。忌部は、天津神が執り行う儀式の準備をする役目を担っていたのである。だから、忌部の天日鷲神は、高天原で執り行われる天岩戸の神事に呼ばれて天岩戸の神事に参列したのである。
高天原にある木屋平の三木家は天津神の末裔にあたる。もちろん天日鷲神も天津神の別れであるが、天日鷲神の子孫が三木家とすると、なぜ皇室に平成・昭和・大正天皇の即位の際、三木家から麁服(アラタエ)という神御布(かむみそ)が貢進されるのか、つじつまが合わなくなる。なぜ、三木家にこだわり、それが慣わしとなる程こだわってきたのだろうか?
天日鷲神の末裔が、吉野川市(麻植)に住み、忌部の末裔が、全国に広がっていったのである。 
52 天岩戸は、神山にあり その(6) 鍛人 天津麻羅
今にも落ちてきそうな、幅4m高さ7mの巨岩が、小山の斜面にそそり立っている。写真の磐座(いわくら)は、徳島市多家良町の立岩神社の御神体である。
天照大御神が天岩戸に隠れた時、八咫鏡(やたのかがみ)を造るため鍛人(かぬち)の天津麻羅を呼び寄せた。
八咫鏡(やたのかがみ)とは、天皇の皇位継承の徴として受け継がれる三種の神器の一つである。天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、そして八咫鏡(やたのかがみ)である。
立岩神社の西は徳島市八多町に接している。八多は、八咫鏡のヤタで、多家良町はタタラ(金属の製錬)から変化した地名である。多家良町周辺には、明治の頃までタタラ集団がいて、タタラ音頭が村の祭りで踊られている。
立岩神社の御神体を見ればわかるように、「マラ」とは、男性のシンボルで、古代から鍛冶集団は、天津麻羅や天目一箇神(あめのまひとつのかみ)を神として祀ってきた。
マラ石は、タタラの鞴(ふいご)の先端を「火吹竹」(吹いて火をおこすのに用いる竹筒)から連想して、祀るようになったのではないだろうか。
「古事記」の天岩戸の物語に関連する史跡の中でも、見学者は、この立岩神社に来ると、一様に驚嘆の声をあげる。 
53 天魚(あめご)
木々の間の見え隠れする渓流にひそむ「清流の女王」天魚(あめご)には、その美しい青紫の縦縞模様と朱色の斑点があざやかに輝いている。
天魚(あめご)は、ヤマメと同じサケマス科の川魚である。南北に弓なりに長い日本列島の河川には、図のように、天魚(あめご)は東海地方から四国周辺に、ヤマメと棲み分けて棲息している。
しかし、天魚(あめご)は、それぞれの地方によって、その呼び名が違っている。
アマグ・クロゾフ・・・福井
アマゴ・・・関西一円
ヒラメ・ヒラベ・ヘラベ・・・中国地方
アメゴ・アマゴ・・・四国
エノハ・マダラ・マンダラ・・・九州
以上のように、日本全国で“あめご”と呼ばれているのではない。
天魚(あめご)を「天魚」と書くように、「天」いう言葉を使う習慣があるのは、四国・関西周辺であることがわかる。しかも、天魚(あめご)は山間部に棲息するのだから、なおのこと「天」は山間部である高天原を指していることになる。
この事からも、古事記の初元の世界は四国の阿波にあったことがわかる。畿内でアマゴと呼ぶのは、四国から神武天皇が畿内に行ったので、関西でも“あめご”をアマゴと呼ぶようになったと考えられるのである。 
54 天岩戸は、神山にあり その(7) 太布(たふ)
徳島県の山奥、木頭には「太布(たふ)」という梶(かじ)や楮(こうぞ)の繊維から織られた布がある。この「太布」の伝統技法を後世に繋げようと「阿波太布製造技法保存伝承会」の人達が、守り育てている。現在全国でその技法が伝承されているのは那賀町(木頭)のみである。
太布は、古代神を招き、神に奉げられる神聖な布であった。木頭村では、この古代の布が生活衣料として使用されながら、伝承されてきたのである。
また、楮の皮の繊維を蒸して水にさらし、細かく割いて作った糸を木綿(ゆう)ともいう。
「古事記」には、天岩戸の神事の際に
「天の香山の榊(さかき)の上の枝に、玉を取り著(つ)けて、中の枝には、八尺鏡を取り懸け、下の枝には、白丹寸手(しらにきて)、青丹寸手(あおにきて)を取り垂でて、…」
と書かれている。
天岩戸の神事には、下の枝に木綿(ゆう)と麻(あさ)を取り付けたと書かれている。
本居宣長は、随筆集「玉勝間」の中で
「木綿(ゆう)は、穀(かじ)の木の皮であり、これで織った布が太布である。阿波では現在でも、この太布が織られているが色白く、丈夫ですばらしい布である」とほめ上げている。また、阿波の国学者、野口年長(1780〜1858)は、「粟の落穂」の中で「昔の大嘗祭の荒妙(あらたえ)は太布のことである。」と書いている。
また、高越山は、別名木綿麻山(ゆうまやま)ともいい、皇室に貢進する麁服(あらたえ)とも深くかかわっている。
このように、阿波に残る伝承と古事記の記述が一致しているということからも、古事記の舞台が、阿波であったことがうかがえるのである。 
55 ソラ(高天原)について その(2)
古事記は、出雲と高天原を舞台にした物語、つまり地上と天空を往き来する話が書かれているように思われている。しかし、この出雲と高天原は、地上と天空ではなく、山と平野部を舞台として書かれているのである。
「そら」というと「空・天」を思い浮かべるであろうが、ソラ(高天原)について先にも書いたが、徳島県では、昔から吉野川の西の方を「ソラ(空)」と呼び、吉野川下流域に住む人から見れば四国山地、あるいは上流に住む人を「空に住む人」というイメージを持ったのであろう。
そこで、全国各地に残る「そら」の方言を調べてみた。
全国方言辞典(東京堂出版 東條繰編)には、「そら」はこう書かれている。
〈1〉 上「机のソラにある」 / 石川・岐阜・三重・滋賀・京都・兵庫・出雲・大分
   「木のそら(樹の上。樹上)」 / 鹿児島
〈2〉 頂上 / 和歌山
〈3〉 高地の田 / 島根(徳島でもいう)
〈4〉 岡 / 山口
〈5〉 上流 / 徳島
〈6〉 物置用の二階
〈7〉 長男 / 奈良
また、「そら」の関係語、あるいは原形として「そら」は、「あま」であるとしている。「あま」とは、「天」を差しているのである。
一方、美馬市木屋平字貢にある三木家(皇室に神御衣(かむみそ)麁服(アラタエ)を貢進する御衣御殿人(みぞみあらかんど))は、古くは空地(そらのち)という地名だった。
これらのことから、「古事記」に書かれる高天原の話は、天空の話ではなく現実にあった話であることがわかる。 
56 倭(やまと)について その(2) 倭大国玉神社
「四国のまほろば美馬市」をキャッチフレーズに掲げる美馬市は、名実ともに「まほろば」の地である。「まほろば」は、古事記に倭建命が歌う国ほめの歌。
倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山こもれる 倭しうるはし
倭(やまと)は、山に囲まれた所であると歌っているのである。倭(やまと)というと大和(奈良県)を思い浮かべるだろうが、古事記は、倭と大倭を書きわけて大倭秋津島と書かれている。奈良は、阿波の倭が発展した地の大倭である。
それを示すのが、延喜式内社に記録される美馬郡にある倭大国玉神社である。一方、大和坐大国魂神社が奈良県にある。
大國玉神社は、日本各地に8社あるが、倭の付く神社は、阿波の美馬だけで、淡路に大和大國玉神社、奈良に大和坐大国魂神社があるだけである。これまで、なぜ、美馬市に式内社の倭大国玉神社があるか説明がつかなかったが、今回ハッキリした。高天原(木屋平)から降りてきたところを倭と呼んだのである。
大国主命が、「出雲より倭に上(のぼ)りまさむ」と書かれているのは、上郡のソラと呼ばれる美馬市だったのである。
美馬市には、大国魂古墳・郡里廃寺跡・荒川遺跡・三島古墳群・太鼓塚古墳・棚塚古墳・段の塚穴古墳群・拝原東遺跡など数多くの遺跡がある。
現在は、阿波を北と南に文化圏を分けて考えるが、吉野川の中流、岩津から西に別の文化圏があったと考えられる。 
57 天宇受売命(あめのうずめのみこと)
「古事記」には、次のように書かれている。天の岩戸の前で天宇受売命が神がかりして踊り、これを見た八百萬の神が皆笑いだした。天照大御神は、
「私が隠ったことで世の中は暗くなったと思うのに、なぜ天宇受売命は楽しく踊り、八百萬の神が皆笑い踊るのか」
と言いながら天の岩戸を少し開けた。すると天宇受売命は、
「あなたにまして貴(とうと)き神がいます。ですから、よろこび、笑い、踊っているのです。」
と天宇受売命は、天照大御神よりも貴(とうと)き神様がいるというのである。なぜ、天宇受売命がそんなことを言ったかを説明する書物を読んだことはない。天照大御神よりも貴(とうと)き神様は、どの神様といっているのだろうか。
「古事記」の最初に、天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神が現れる。「古事記」は一貫して高御産巣日神の子孫が現れてくる。
現在皇居には、宮中八神として高御産日神・神産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神・大宮売神・御食津神・事代主神がお祀りされている。これを見てもわかるように高御産巣日神が中心をなしている。
そして忌部の祖神は高御産巣日神であるから、高天原は阿波にあったと云わざるを得なくなるのである。
なお、昨年結成した阿波おどり「天の渦女連」は、阿波おどりの起源は「天の岩戸からはじまる」として踊り始めたグループである。 
58 阿波にいた スサノオ
「古事記」は、天岩戸の物語の後、
「また食物(をしもの)を大氣津比賣(おほげつひめの)神に乞(こ)ひき。ここに大氣津比賣、鼻口(はなくち)また尻(しり)より、種種(くさぐさ)の味物(ためつもの)を取り出(いだ)して、種種(くさぐさ)作り具(そな)へて進(たてまつ)る時に、速須佐之男命(はやすすさのおのみこと)、その態(しわざ)を立ち伺(うかが)ひて、穢汚(けが)して奉進(たてまつ)るおもひて、すなはちその大宜津比賣神を殺しき。」と続く。
大氣津比賣(おほげつひめの)神は、食糧の神、阿波の穀霊であるから、ここを読むだけで須佐之男命(すさのおのみこと)は阿波にいたこととなることがわかる。
この大氣津比賣(おほげつひめ)は、須佐之男命(すさのおのみこと)に殺されても殺されても食べ物として生まれ変わって来ることが書かれている。これは、命の永遠を意味して書かれていると考えられる。大氣津比賣(おほげつひめ)の命が生まれ変わり永遠に続いていくのである。
須佐之男命(すさのおのみこと)は天岩戸物語の後、高天原(神山町)から追放され吉野川河口に降りてくる。そして物語は、ヤマタノオロチの物語へと続く。
一方大氣津比賣(おほげつひめ)は、御食津神(みけつかみ)として保食神(うけもちのかみ)・稲荷神(いなりかみ)・稲倉魂神(うかのみたまのかみ)・豊受大神(とようけのおおかみ)と名を変え伊勢神宮の外宮に祀られ日本全国の人々に祀られるようになっている。また、稲荷神(いなりかみ)は日本全国で一番多く祀られる神様である。 
59 種穂神社(たなぼじんじゃ) 吉野川市山川町
「古事記」は、天岩戸の物語の後に、
「また食物(をしもの)を大氣津比賣(おほげつひめの)神に乞(こ)ひき。ここに大氣津比賣、鼻口(はなくち)また尻(しり)より、種種(くさぐさ)の味物(ためつもの)を取り出(いだ)して、種種(くさぐさ)作り具(そな)へて進(たてまつ)る時に、速須佐之男命(はやすさのおのみこと)、その態(しわざ)を立ち伺(うかが)ひて、穢汚(けが)して奉進(たてまつ)るおもひて、すなはちその大宜津比賣神を殺しき。故(かれ)、殺さえし神の身に生(な)れる物は、頭(かしら)に蠶(かひこ)生(な)り、二つの目に稻種(いなだね)生(な)り、二つの耳に粟(あは)生(な)り、鼻に小豆(あずき)生(な)り、陰(ほと)に麥(むぎ)生(な)り、尻(しり)に大豆(まめ)生(な)りき。故(かれ)ここに神産巣日(かみむすひ)の御祖命(みおやのみこと)、これを取らしめて、種(たね)と成(な)しき。」
と書かれ、阿波の穀霊大氣津比賣(おほげつひめの)神が速須佐之男命(はやすさのおのみこと)に殺され、その身体から稲、粟、小豆、麦、大豆が生え五穀の種になったと書かれている。まさに吉野川下流域の肥沃な母なる大地は、豊かな食糧をもたらす穀倉地帯で大氣津比賣(おほげつひめの)神そのものである。その豊かな大地を見下ろす、吉野川市山川町の種穂山に種穂神社がある。種野山は、麻植の山分の一帯で、阿波忌部の阿波地域開拓の本拠地であった。「古語拾遺」に、
「肥沃な地を求めて阿波(吉野川下流域)に降りてきた忌部が、その一部の地域を麻殖(おえ)と名付けた。」と書かれている。
阿波・麻植地域一帯を見下ろす種穂神社は、社名からも想像されるように、種籾を下賦した神社であったと思われる。 
60 式内社 和奈佐意富曾神社(わなさおほそじんじゃ)
須佐之男命(すさのおのみこと)が「海原を治めよ」と父のイザナギノ大神に命じられた海原の国は、阿波の県南部である。
それを物語るのが、延喜式内社の和奈佐意富曾神社(わなさおほそじんじゃ)である。この神社は、現在、徳島県海部郡海陽町の大里海岸にあるが、以前は、那佐湾に面した鞆奥の大宮山にあった。
この阿波国の和奈佐意富曾(わなさおほそ)を祀る神人集団が、豊宇賀能売神(とようかのめのかみ)を奉じ広く宣布したことを先に書いたが、 『出雲国風土記』に書かれる阿波枳閉和奈佐比古(あはきへわなさひこ)神社は、アワキへは阿波から来た意味であることは、この神人集団の本拠地が阿波国にあったことを示している。谷川健一氏も折口信夫氏の説をひきながら、阿波・徳島県海部郡にある和奈佐意富曾・ワナサオフソ神社を信仰する海人が、水の信仰を背負って丹後にやってきた『丹後国風土記』を紹介している。
また、島根県(出雲)には、和名佐や忌部町の地名もあり、阿波から広がって行った忌部集団の痕跡を示すものである。
このように、阿波の海洋民が海原を越え全国に広がっていったことを示すものが、和奈佐意富曾神社であり、「古事記」に書かれる須佐之男(すさのお)が父イザナギノ大神に命じられた海原の国である。 
 
61 ヤマタノオロチ(1)
故(かれ)、避追はえて、出雲國の肥(ひ)の河上(かはかみ)、名は鳥髪(とりかみ)といふ地(ところ)に降(くだ)りたまひき。この時箸(はし)その河より流れ下(くだ)りき。(略)
この高志(こし)の八俣(やまた)の大蛇(をろち)、年毎(としごと)に來て喫(くら)へり。今そが來(く)べき時なり。故(かれ)、泣く。
高天原(神山町)から出雲国(吉野川下流)に追放されたスサノオは、川上から箸が流れてきたので上流に人がいると訪ね求めると、老夫婦が一人の娘を中にして泣いている。わけをたずねると
「八俣(やまた)の大蛇(をろち)、年毎(としごと)に來て喫(くら)へり。今そが來(く)べき時なり。」と泣きながら答えた。
と、「古事記」には「高志(こし)の八俣(やまた)の大蛇(をろち)」と書かれている。
徳島県板野郡上板町高瀬周辺は、古くは「高志」という地名で、高志小学校・高志郵便局等が現在も使われている。
また、徳島市国府町の観音寺遺跡から7世紀後半と見られる「高志」と書かれた木簡(木簡とは、墨で文字が書かれた木の板のこと。)が出土している。
「波ホ五十戸税三百□ 高志五十戸税三十四束」
7世紀中ごろのもので、「税」を示す木簡としては日本最古のものである。
阿波には、このように「高志」の地名があり、「古事記」に「年毎(としごと)に來て喫(くら)へり」と書かれていることから、ヤマタノオロチは、吉野川の事であると考えられる。毎年のように洪水があり「頭が八つ、尾が八つ」とは、吉野川の河口と上流の支流を表現している事である。一方古事記に「出雲國の肥(ひ)の河上(かはかみ)」と書かれる出雲を流れる肥川は、古代の四大文明が大河のほとりの肥沃な地に発展したように、吉野川下流域の出雲(伊津面)に流れる吉野川と考えて何の違和感も感じさせない。 
62 ヤマタノオロチ(2) 足名椎(あしなづち)
ヤマタノオロチは吉野川の事であると考えられる事を、前回に書いた。オロチは、
「その目は赤(あか)かがちの如くして、身一つに八頭八尾(やがしらやを)あり。またその身に蘿(こけ)と檜榲(ひすぎ)と生(お)ひ、その長(たけ)は谿八谷峽八尾(たにやたにをやを)に度(わた)りて、その腹を見れば、悉に常に血爛(ちただ)れつ。」
“身体は一つで八つの頭と尾が八つあり、苔や桧・杉が生え、長さは八谷にまたがり、腹は常に赤黒い。”
と書かれている。それは山野にまたがる河川の事を表現していると考えられる。
日本三大暴れ川は、四国三郎(吉野川)、利根川(坂東太郎)、筑後川(筑紫次郎)である。「古事記」の国生みの地域内にある川は、阿波の吉野川である。オロチがやって来ると話すのは
「僕(あれ)は國つ神、大山津見(おほやまつみの)神の子ぞ。僕(あ)が名は足名椎(あしなづち)と謂ひ、妻の名は手名椎(てなづち)と謂ひ、女(むすめ)の名は櫛名田比賣(くしなだひめ)と謂ふ。」足名椎(あしなづち)である。
足名椎(あしなづち)は、大山津見の神の子と答えているが、大山と言えば、徳島県板野郡上板町神宅にある大山である。大山から一望すると上板町高瀬、旧高志村がある。また娘の名は、櫛名田比賣(くしなだひめ)と書かれているが、徳島県板野郡藍住町徳命字名田に名田橋がある。
このように徳島県板野郡周辺には、高志のオロチに関連するものがたくさんある。 
63 ヤマタノオロチ(3) 第十堰
須佐之男命(すさのおのみこと)の問いに「我(わ)が女(むすめ)は、本(もと)より八稚女(やをとめ)ありしを、この高志(こし)の八俣(やまた)の大蛇(をろち)、年毎(としごと)に來て喫(くら)へり。今そが來(く)べき時なり。故(かれ)、泣く。」
「私の娘は、年ごとにやって来たヤマタノオロチに喰われてしまった」と足名椎(あしなづち)は、泣きながら訴えた。と「古事記」に書かれている。
年毎にやって来るのは、大洪水を指していると考えられる。須佐之男命(すさのおのみこと)は、それに対して
「汝等(なれども)は八鹽折(やしほをり)の酒を醸(か)み、また垣を作り廻(もとほ)し、その垣に八門(やかど)を作り、門毎に八棧敷(やさずき)を結(ゆ)ひ、その棧敷(さずき)毎に酒船(さかぶね)を置きて、船毎にその八鹽折(やしほをり)の酒を盛(も)りて待ちてよ」と足名椎(あしなづち)に「垣を作り、その垣に門を作れ」と命令する。
須佐之男命(すさのおのみこと)が、退治した八俣(やまた)の大蛇(をろち)は、吉野川の治水工事のことであると考えられる。
徳島県板野郡上板町第十新田にある第十堰のような大規模な治水工事は出来なかっただろうが、第十堰は、板野郡上板町高瀬にも近く、その周辺では盛んに治水工事が行われたと考えてもつじつまの合わない話ではない。
平成19年度に南蔵本遺跡で、自然流路に杭を打ち込み、堰板をはめ込み巧みに利用した弥生時代前期前半の灌漑施設(堰)が見つかった。このような前期の灌漑施設は、全国で十数例しか確認されておらず、非常に貴重な遺構で、庄・蔵本遺跡についで県内2例目である。
阿波では、このように古代から盛んに灌漑施設を作り、豊かな水を利用して水と共に暮らしてきたのである。 
64 ヤマタノオロチ(4) 草薙の剣(くさなぎのつるぎ)
「故(かれ)、その中の尾を切りたまひし時、御刀(みはかし)の刃毀(はか)けき。ここに怪しと思ほして、御刀の前(さき)もちて刺し割(さ)きて見たまへば、都牟刈(つむがり)の大刀(たち)ありき。故(かれ)、この大刀を取りて、異(あや)しき物と思ほして、天照大御神に白し上げたまひき。こは草薙(くさなぎ)の大刀(たち)なり。」と、「古事記」に書かれている。
スサノオ(須佐之男命)が倒したヤマタノオロチ(八岐大蛇)の尾から出てきた太刀が、草薙の剣(クサナギノツルギ)、別名、天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)といい、ヤマタノオロチの頭上に常に叢雲が掛かっていたためこの名がついたという。
草薙の剣(クサナギノツルギ)は須佐之男命から天照大神に奉納され、後に天皇の象徴、三種の神器〔草薙の剣(クサナギノツルギ)・八咫鏡(ヤタノカガミ)・八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)〕の一つとなった。
吉野川の上、高越山の麓、徳島県吉野川市山川町村雲(ムラクモ)に式内社の天村雲(ムラクモ)神社がある。御祭神は、天村雲命 伊自波夜比賣命である。
式内社の天村雲(ムラクモ)神社は、伊射奈美神社や事代主神社などと共に式内社の中で阿波にのみ有る神社である。
これらのことを見てもヤマタノオロチ(八岐大蛇)の物語は、阿波を舞台に繰り広げられたものと考えられる。 
65 ヤマタノオロチ(5) 須賀の宮
須佐之男命(すさのおのみこと)は、(ヤマタノオロチを退治した後)
「宮造作(みやつく)るべき地(ところ)を出雲国に求(ま)ぎたまひき。ここに須賀(すが)の地に到りまして詔(の)りたまひしく
『吾(あれ)此地(ここ)に來て、我が御心すがすがし。』」
と言ってその地に須賀の宮を造営すると「古事記」に書かれている。また、
「故(かれ)、其地(そこ)をば今に須賀(すが)と云ふ。この大、初めて須賀の宮を作りたまひし時、其地より雲立ち騰(のぼ)りき。ここに御歌を作(よ)みたまひき。」と書かれている。
さて須賀の地に「須賀の宮」を作ったと書かれているが、徳島県吉野川市には、前須賀、先須賀、東須賀、中須賀、北須賀、西須賀の多くの須賀地名がある。しかも吉野川市鴨島町牛島字先須賀は、牛島(うしのしま)という地名がある。
「うし」は、「大人(うし)」のことで「主(ぬし)」が住んでいた所であるから、牛島周辺もしくは、牛島の南にある向麻山(こうのやま)に須賀の宮があったと考えられる。
現在、鴨島町周辺は、住宅が建て込んでいるが、大河、吉野川に広がる須賀の地に雨上がりの後立ち上がる雲を見て
八雲(やくも)立つ 出雲(いづも)八重垣(やへがき) 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を
と、須佐之男命(すさのおのみこと)が、日本最初の和歌といわれる歌を詠んだ地であることは、その風景から容易に想像できることである。 
66 式内社 八桙神社
式内社 八桙神社(やほこじんじゃ)は、徳島県阿南市長生町宮内にあり、大己貴命(おおなむちのみこと)を御祭神として祀っている。
「日本書紀」に大己貴命と書かれているが、大国主命のことである。
「古事記」には、
「大國主(おほくにぬしの)。亦の名は大穴牟遲(おほなむぢの)と謂ひ、亦の名は葦原色許男(あしはらしこをの)と謂ひ、亦の名は八千矛(やちほこの)と謂ひ、亦の名は宇都志國玉(うつしくにだまの)と謂ひ、あはせて五つの名あり。」
と書かれ、八桙神は、八千矛(やちほこの)と考えられる。
一方、阿南市長生町は、かって那賀郡であり、「長国」と呼ばれていた。
大己貴命(おおなむちのみこと)は、「おおいなる長国の主」たる意味を持っている。また、「長生」は長(おさ)が生まれた地を意味している。
阿波国国史研究会 笹田孝至氏は、「阿波に秘められた古代史の謎」(財)京屋社会福祉事業団発行「大嘗祭」の中で、
「邑名の「長生」は、長(おさ・大国主神)が生まれた地を示す名とも考えられる。」
と書かれている。
大国主命の治める出雲は、葦原中国(あしはらのなかつくに)であり、「長国」であり葦の生い茂った那賀川流域を指してこれらのことも符合しているのである。
また、後に書く大国主命の子供、事代主命(えびす)、建御名方神とも関係してくるので、それらのことを総合的に見ると、「古事記」の世界は、ますます阿波で広がっていることになるのである。 
67 式内社 八桙神社と八千矛神
「大國主(おほくにぬしの)。亦の名は大穴牟遲(おほなむぢの)と謂ひ、亦の名は葦原色許男(あしはらしこをの)と謂ひ、亦の名は八千矛(やちほこの)と謂ひ、亦の名は宇都志國玉(うつしくにだまの)と謂ひ、あはせて五つの名あり。」と「古事記」に書かれている。
大国主神のまたの名に八千矛神とあるが、これをすなおに読めば、「多くの鉾を持つ神」と読むことができるが、「銅矛文化圏」は、考古学から見れば、北九州から四国西部の地域に広がり、四国東部は、「銅鐸文化圏」であるから銅矛は出土していない。にもかかわらず、式内社 八桙神社が、なぜ徳島県阿南市にあるのであろうか?
「古事記」に高千穂峰とあるように、「ほ」は、山の頂き(ピーク)を意味していると考えられる。徳島県上勝町に高鉾山があるように八桙神社の周辺の山は、多くの山の頂が連なるところから八千矛神と呼ぶようになったと考えられる。 
68 大国主命は、出雲(島根県)にいなかった
古事記は、奈良時代の初め和銅5年(712年)に編纂された日本最古の歴史書である。一方、和銅6年(713年)に、元明天皇は諸国に「風土記」の編纂を命じた。「風土記」に記録された内容は、郡郷の名(好字を用いて)、産物、土地の肥沃の状態、地名の起源、伝えられている旧聞異事等が記されている。
完全に現存する「風土記」は残っていないが、出雲である島根県の「出雲国風土記」は、天平5年(733年)に完成し、ほぼ完本で残っているといわれている。しかし、「出雲国風土記」には、大国主命の物語が書かれていない。「出雲風土記」の中に大国主命は一度も出てこないのである。しかも出雲国を造ったのは大国主命ではなく、八束水臣津野命(ヤツカミズオミツノミコト)と書かれている。
当時の出雲国(島根県)の人々は、「こちらには、こちらの神様がいる」と国の神話をかなり率直に語り、独自性を強調している。
これらの事を見ても、「古事記」に書かれる出雲を島根県に当てはめるという極めて不自然な解釈が横行していると言わざるをえない。しかも、後世に出雲を島根県に当てはめ、ますます、その状況を作りあげてきたことに他ならないのである。
「古事記」に書かれる出雲は、島根県の事ではなく、阿波の徳島県の海岸部だったのである。その状況は、阿波と島根の式内社の分布状況をみても明らかである。
「古事記」に書かれる出雲の神々が島根県に祀られておらず、阿波にそろって祀られていることを知れば、それはわかることである。 
69 稻羽(いなば)の素(しろ)うさぎ
「各(おのおの)稻(いなば)の八上比賣(やがみひめ)を婚(よば)はむ心ありて、共に稻に行きし時、大穴牟遲(おほなむぢの)に袋を負(おほ)せ、從者(ともびと)として率(ゐ)て往きき。」と「古事記」に書かれている。
大国主命は、袋を背負わされ兄のお供をして「稻」に向かう。
通常の解釈では、「稻」を「因幡」として鳥取県にあてて考えているが、先ず、前回書いたように、出雲である島根県に大国主命がいない。それでもなお、島根県から鳥取県に来たというのが通常の強引な解釈だが、「古事記」には、「各(おのおの)稻(いなば)の八上比賣(やがみひめ)を婚(よば)はむ心ありて、共に稻に行きし時、大穴牟遲(おほなむぢの)に袋を負(おほ)せ、從者(ともびと)として率(ゐ)て往きき。」と書かれていて、「稻」に行こうとする時の話であるから、「稻」に行く前の事だと考えられる。
大国主命が兎に出会ったのは、「稻」ではないのである。
では「稻」が、どこになるのかといえば、「大山津見神(おおやまつみのかみ)と鹿屋野比売神(かのやのひめのかみ)」で書いたが、徳島県板野郡上板町神宅には、式内社の鹿江比売神社(かえひめじんじゃ)があり、この神社と合祀され祭られているのが、式外社の葦稲葉神社(あしいなばじんじゃ)である。
【式外社】「延喜式神名帳」に記載される神社を式内社といい、「延喜式神名帳」に記載されていない神社を式外社(しきげしゃ)という。
この葦稲葉神社(あしいなばじんじゃ)があり、八上比賣(やがみひめ)の存在を感じさせる「矢上」という地名が藍住町にあることなどから、吉野川北岸が「稻」と呼ばれていたのではないかと考えられる。 
70 蒲生田岬と氣多(けた)の前(さき)
「大穴牟遲(おほなむぢの)に袋を負(おほ)せ、從者(ともびと)として率(ゐ)て往きき。ここに氣多(けた)の前(さき)に到りし時、裸(あかはだ)の兎(うさぎ)伏(ふ)せりき。」と「古事記」に書かれるように、大国主命(大穴牟遲)は、「氣多の前」で兎に会う。
「氣多の前」とは、橋げたのような岬と思われる。
徳島県阿南市蒲生田岬から沖の伊島の間には、橋杭の瀬と呼ばれる岩礁群が連なっている。
蒲生田には、「岬の橋杭」伝説が残っている。これは、「燈下録」という江戸時代(文化九年・1812)の書物に書かれ、阿波の民話集「お亀千軒」飯原一夫著にも収録されている。
そのお話は、
伊島と蒲生田間に連なる、橋杭の瀬と呼ばれる岩礁は、昔、神様が伊島まで橋を架けようと思い、山から大岩を運んできて、海の中に橋の杭を立て始めた。そこに通りかかった天邪鬼(あまのじゃく)に「倒れんように番をしとれ」と言って、また、山に大岩を運びに行った。天邪鬼は、神様がいない間に大岩でできた橋の杭を海の中に倒してしまった。帰ってきた神様は、今度は倒れないようにと頑丈に作ったが、天邪鬼は、神様がいない間に端から倒していった。とうとう神様は、根負けして橋を架けるのをやめ、何処かに行ってしまった。それで残った伊島と蒲生田間に連なる岩礁群を橋杭の瀬と呼ぶようになった。
このように蒲生田岬の伝説は、蒲生田岬が橋げたのように細長く突きだしている所からも、橋げたのような岬に連想されたとしてもなんら不思議なことではないと思われる。 
 
71 ワニと兎と橋杭ノ瀬
四国最東端の蒲生田岬に立つと目の前に伊島が見える。
伊島から蒲生田岬に連なる岩礁は、「橋杭の瀬」と呼ばれる海の難所である。
江戸時代に書かれた「燈下録」という書物に「橋杭の瀬」の昔話が残っている。
「昔、神様が蒲生田岬から伊島に橋を架けようと岩を運んできて橋の杭を作り始めた。そこに現れた天の邪鬼が、邪魔をするので、神様は根負けして何処かに行ってしまった。それで残った岩を橋杭の瀬と呼ぶようになった。」と伝わっている。それは大国主命が素兎とあった気多岬(橋げたのような岬)を連想する。
岬に立って海を眺めていると、連なる岩礁に次々と白波が打ち立てて行く。それを眺めていると、以前、ヨットに乗る人が、「船乗りは、白波が立つと『兎が跳ぶ』という。」と言っていた事を思い出した。まさしく兎が跳ねている。
蒲生田という地名、蒲が生い茂る池は、古事記の舞台そのままである。
素兎は、沖の島からワニの背を数えながら飛び越えてきたというが、ワニは、海神の乗る船の事であろう。後の山幸彦・海幸彦の物語で、海神の乗る船「ヤヒロワニ」が橘にいると「日本書紀」に書かれている。橘に居るワニとは、阿南市の橘湾周辺に暮らしていた海人のことであろう。
後世、戦国期の細川・三好氏の活躍や蜂須賀家を陰から支えた阿波水軍は、全国諸藩からその勢力や技術力がうらやましがられたという。森水軍の本拠地が椿泊にある。 
72 波の上を跳ぶ兎の彫刻
前回で、蒲生田岬から沖の伊島に連なる橋杭の瀬に立つ波の写真を掲載したが、椿町周辺の神社には、下記の写真のような「波の上を跳ぶ兎の彫刻」が彫られている。
一つは、阿南市椿泊町にある佐田神社の拝殿の柱の礎石に彫られた二羽の兎。前の兎が、後の兎を導いているように彫られている。
次は、阿南市福井町土佐谷の金刀比羅神社の境内の後世山遙拝所の拝殿に彫られた「波の上を跳ぶ兎」。可愛く後ろ足を跳ねて波の上を跳んでいる。
一番みごとに豪快に彫られているのは、蒲生田岬突端の浜にある賀立神社(椿町蒲生田)の兎である。まるで波の音が、ゴーォーと聞こえて来そうである。兎の下に彫られた波もみごとであるが、兎の後ろ側に彫られた大波は一段のみごとに彫られている。
他にも兎の彫刻を彫った神社は時々見ることがあるが、この地区のように波の上を跳ぶ兎をみごとに彫っている彫刻を他の神社では見たことがない。蒲生田岬周辺は、稲羽の素兎の話を彷彿とさせる所である。 
73 長の国の祖
徳島県阿南市長生町宮内にある、延喜式内社の八桙神社(やほこじんじゃ)の境内の看板に、「長(なが)の国の祖神は、大己貴命(おおなむちのみこと)」と書かれている。そのように書いているにも関わらず地元の人は、「長の国」は出雲ではないと思っている。大己貴命が「長の国の祖神」というならば、そこは、「古事記」に書かれる古代の出雲と呼ばれた所ということである。
阿波の南方は、古代から「長の国」と呼び、阿波の北方を「粟の国」と呼んできた。大己貴命の子供に、事代主命(ことしろぬしのみこと)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいるが、阿波には、大己貴命も事代主命も建御名方神も、すべて延喜式内社として存在していて、他県には無いといっていいほど見当たらない。
建御名方神も名方神(なかたのかみ)という以上、「長の国」の神、あるいは、長の国の方の神という意味を表していることからも、やはり「古事記」に書かれる「出雲」は、古代の「長の国」と言わざるをえない。
「出雲国風土記」(島根県)には、「古事記」に書かれる出雲の物語は語られず、島根独自の物語が伝わり、出雲(島根県)は、八束水臣津野命(やつかみづおみつのみこと)が造ったと書かれ、須佐乎命(すさのおのみこと)の御子(みこ)や大穴持命(おおなもちのみこと)の御子等が活躍する事が書かれている。
以上のことからも、古代「出雲」は島根県の事ではなく、阿波の県南部に広がる平野部「長の国」を中心とする地域が、「古事記」に書かれる古代の出雲であったと考えられる。 
74 天津神・国津神 その1
712年に書かれた「古事記」、720年に国史として書かれた「日本書紀」等が、示している事の本旨は、「日本国を治めているのは天津神である。」ということである。それは、日本全国に暮らしていた人々が祀っていた神々の中に、天津神を中心に信奉する人々が広がっていった事を示している。
しかしながら「古事記」は、天之御中主神から続く「天津神」の子孫が、途中で「天津神」、「国津神」と別れる矛盾を示している。今日まで一系統で続けてきたのであるから、これは伝えが誤ってしまったと考えるべきである。
私は、天之御中主神を祀る高御産巣日神の下に、神産巣日神信心集団として集まった中に伊邪那岐神が加わっていたと考えている。「国津神」である伊邪那岐神の子孫であるスサノオや大国主神が「国津神」にあたるのは、当然のことである。
これは、「古事記」が正しく伝わり、正確に書かれていない部分で、「古事記」、「日本書紀」等を基に日本の国が出来上がり、今日まで続いていることであるから「古事記」等を全体から見れば、何ら矛盾はない。
【古事記に書かれる神々の系譜】
      天之御中主神
      高御産巣日神(たかみむすびのかみ)
      神産巣日神
      宇麻志阿斯訶備比古遅神
      天之常立神
伊邪那岐神(いざなきのかみ)  =  伊邪那美神(いざなみのかみ)
天照大御神  ・  月読命   ・   スサノオ
邇邇藝命(ににぎのみこと)       大国主神
神武天皇
     〔天津神〕             〔国津神〕 
75 伊邪那岐大神は、国津神
前回に引き続き天津神・国津神について考える。伊邪那岐命は、通説では、高天原にいた天津神と考えられている。しかし、前回でも書いたように、伊邪那岐命の子孫である大国主命が、国津神となっている。天津神の子孫が男系で続いていて、途中で国津神に変わる事はない。伊邪那岐命は、もともと国津神であったと考えられる。
「古事記」の「黄泉国の段」には、次のように書かれている。
千引(ちびき)の石(いは)をその黄泉比良坂(よもつひらさか)に引き塞(さ)へて、その石を中に置きて、伊邪那美命言ひしく、「愛(うつく)しき我(あ)が汝夫(なせ)の命(みこと)、かく爲(せ)ば、汝(いまし)の國の人草(ひとくさ)、一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺さむ。」といひき。
千引き岩をはさんで伊邪那岐命と伊邪那美命は、相争う。伊邪那美命が、「そんなことをするなら、あなたの国の人々を一日に千人殺す」と云う。伊邪那岐命は、伊邪那美命達に追われ、黄泉国から葦原中国に逃げてくる。葦原中国にいるのは、国津神である。その国津神を一日千人殺すという。しかも、「汝の國」と云っているから、伊邪那岐命は、葦原中国の出身であることを示している。よって伊邪那岐大神は、出雲の出身者であり国津神である。
伊邪那岐命は、祭祀、祭礼を修得する修験者として高天原にやって来た。そして国津神の娘、伊邪那美命と出会い、葦原中国の開拓を命じられるのである。 
76 式内社 事代主神社
大国主神の子供に事代主命がいる。阿波では、阿南市に大国主神がいて、隣町の勝浦町に事代主命がいる。
平安時代に記録された式内社の中に事代主神社があるのは、阿波国の勝浦郡の事代主神社と阿波市の事代主神社だけである。それ以外に、事代主命が祀られるのは、宮中と奈良の鴨都波八重事代主命神社だけである。
勝浦町の「勝浦町前史」第二章 生夷荘に
生夷(いくいな)の地名については、阿淡郡庄志に「昔時、当村(沼江村)に蛭子誕生阿(あ)りしと也、故に生るゝ夷と書、いくいなと唱(うた)ふ」と書かれている。
つまり、蛭子は、エビス(事代主命)のことであるから、勝浦町はエビスが生まれた地という意味である。また、勝浦町には、「生比奈」という地名がある。
岐阜県岐阜市に式内社の比奈守神社(ひなもりじんじゃ)があるように「比奈(ひな)」は、夷曇り(ひなぐもり)・夷振り(ひなぶり)夷守(ひなもり)とあるように、これもまた「えびす」のことである。
事代主神を祀る奈良で一番古い神社といわれる奈良市駅近くにある式内社の率川阿波神社は、宝紀二年(771年)阿波国から勧請したと伝わっている。
このような資料を集めていくと、「古事記」に書かれる出雲は、阿波にあったことがわかる。
島根県には、大国主神や事代主神、あるいは、名方神がいたという事実が残っていないのである。 
77 天照大御神は国津神
黄泉の国から逃げ帰ったイザナギが、「竺紫の日向の橘の小門」で禊ぎをすると天照大御神と月読命と須佐之男命が生まれた。と「古事記」に書かれている。
一般では、天照大御神を天津神と考えているが、天照大御神は、国津神であるイザナギの子供で、イザナギが出雲の阿波岐原で禊ぎをした時に生まれたのである。高天原で生まれたわけではない。
イザナギは、最初に高天原でいたので、天津神と考えるのだろうが、先に書いたように、イザナギは国津神である。
最初から天津神は、天津神の系統。国津神は、国津神の系統にわけているのだから、イザナギから生まれた天照大御神が天津神で、片方の須佐之男命が出雲の代表者、国津神の大国主命の父であるというなら、つじつまが合わない。
イザナギの子として生まれた天照大御神は国津神だが、高天原に送られ高御産巣日神系統の神と結婚して、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命と5人の男子を生んだので、天皇の御祖先として伊勢神宮に祀られ天津神として考えられているのである。
天津神は高御産巣日神から始まり、神産巣日神は国津神の祖先と考えると、つじつまが合って、「古事記」を読むことができる。 
78 高志の沼河比売
八千矛神(大国主)が高志国に住む沼河比売を妻にしようと思い、高志国に出かけて沼河比売の家の外から求婚の歌を詠んだ事が「古事記」に書かれている。
高志といえば、通説では「この高志(こし)の八俣(やまた)の大蛇(をろち)、年毎(としごと)に來て喫(くら)へり。」と八俣の大蛇を出雲(島根県)の話としてあてている。そして沼河比売の住む高志は、北陸にあてる。これでは話のストーリーが噛み合わなくなる。同じ高志の話であるのに、人が移動せず、島根県の話がいつの間にか北陸の話に変わってしまう。なぜ高志を北陸にあてるかというと、新潟県糸魚川市に沼河比売を祀る式内社の奴奈川神社があるからであるが、いくら奴奈川神社が北陸にあるからとしても、高志を「コシ」と読み「越」にあてはめるという解釈は、論外の話である。
また、『先代旧事本紀』に、建御名方神は沼河比売(高志沼河姫)の子となっている。建御名方神は大国主命の子供であるから、高志は出雲でなければ話がますます合わなくなる。
徳島県板野郡上板町高瀬周辺は、旧地名を高志と呼んでいた。高志の南は、名西郡石井で関の八幡神社(写真下)に沼河比売が合祀され祀られているという。近くに式内社の多祁御奈刀弥神社があり、建御名方神が祀られている。関の八幡神社の周辺は、吉野川の川縁で、まさに沼や川のある風景が広がり、沼河比売が住んでいた情景が浮かんでくる。 
79 建御名方(たけみなかた)神社
高志に住む沼河比売と大主国命の子供が、建御名方神(たけみなかたのかみ)である。
建御雷之男神と天鳥船神が、葦原中国を譲るように高天原から出雲に降りてくる。力競(ちからくら)べに負け、建御名方神は州羽(すわ)の海に逃げていったと「古事記」に書かれている。
平安時代に編纂された延喜式神名帳に、阿波国の名方郡に多祁御奈刀弥神社があったと記録されている。多祁御奈刀弥神社は、現在、石井町浦庄諏訪にある。
社伝によると、信濃諏訪郡の南方刀美神社(現在の諏訪大社)は、この阿波の多祁御奈刀弥神社から、宝亀10年(779年)に移遷されたと伝わっている。『名西郡史』にも、「社伝記ニ光仁帝ノ御宇宝亀10年信濃國諏訪郡南方刀美神社名神大、阿波国名方郡諏訪大明神ヲ移遷シ奉ル」と書かれている。
「建御名方神」というと、諏訪大社(長野県諏訪市)に祀られている神と一般には教えられているが、諏訪大社は式内社の南方刀美神社であり、長野県には健御名方富命彦神別神社などがあり、「別」と書かれているように、別けた神社であることを示している。
発祥地は忘れ去られ、後に発展した大きな社殿を持つ神社に目を奪われ、それを本家と見てしまう場合が一般には多いものだが、一般に言われている事と事実とは異なる事を知っていたいものである。 
80 豊葦原水穂国と葦原中国
天照大御神は、「豊葦原水穂国は我が子、天之忍穂耳命(アメノオシホミミ)の治める国である。」と、第二子の天菩比命(アメノホヒ)を葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わした。しかし、天菩比命は大国主神の家来になってしまい、葦原中国に住み着いて三年間高天原に戻らなかった。次に天若日子命(アメノワカヒコ)を遣わしたが、天若日子命は、大国主の娘 下照比売(シタテルヒメ)と結婚し、八年たっても高天原に戻らなかった。そこで、天照大御神は、建御雷神(タケミカヅチ)と天鳥船神(アメノトリフネ)を遣わし葦原中国を平定した。最後に天照大御神の孫 日子番能邇邇芸命(ヒコホノニニギ)が高天原から豊葦原水穂国に降りて来た。
豊葦原水穂国は、豊かな葦原であった吉野川平野を指し、葦原中国は、阿波の海岸部全体を指しているが、長国である那賀川一帯を指して「古事記」は書かれている。
天照大御神の孫 日子番能邇邇芸命は、出雲である豊葦原水穂国に降りてくるのだから、九州の宮崎に降りて来たのでは、つじつまが合わない話となってしまう。
阿波には、そのほかにも天孫降臨の足跡を示す数多くの史跡が点在している。順を追ってたどっていく。 
 
81 阿波の新酒 高志のを呂智(おろち)
徳島県名西郡石井町の鳴門金時蒸留所から、「古事記」の 八俣やまたの 大蛇おろちに因んだ焼酎、「 高志たかしの を呂智おろち」が発売される。
八俣やまたの 大蛇おろちといえば、出雲の事と想像するかも知れないが、「古事記」には、高志の 八俣やまたの 大蛇おろちと書かれ、 高志たかしと書かれている。
「高志」は、現在、高志小学校、高志農協、高志郵便局があるように、徳島県板野郡上板町にあった古地名である。この地名は、国府の観音寺木簡の出土によって古くからあった事を知ることが出来る。吉野川を挟んだその南は、鳴門金時蒸留所のある徳島県名西郡石井町高原である。
八俣やまたの 大蛇おろちは、 八塩折やしほをりの 酒さけを飲んで酔っ払ってしまう。 八塩折やしほをりの 酒さけとは、まさに焼酎のようなアルコール度数の強い酒である。
鳴門金時蒸留所は、これまでにも鳴門金時芋で醸造した焼酎を製造してきたが、新発売の「 高志たかしの を呂智おろち」は、鳴門金時芋を遠赤外線の出る焼き芋機で、一回に400〜500kgの焼き芋にした後、発酵させ醸造するそうだ。
「 高志たかしの を呂智おろち」を阿波の誇る酒にしたいものである。 
82 御大之御前(みほのみさき)その1
大国主神が、出雲の 御大之御前みほのみさきにいた時、波の穂より、 天之羅摩船あめのかがみのふねに乗り漂着した神は、少名毘古那神。」と「古事記」に書かれている。
出雲の御大之御前というと、現在の島根県の美保岬に当てているが、「古事記」の神代に書かれている出雲は、島根県の事ではなく阿波の海岸部である事は、何度も詳しく書いて来た事である。
そこで、その出雲の「御大之御前」は阿波のどこに当たるかというと、それは、徳島市にある眉山と考えられる。現在、眉山周辺は陸地になっているが、徳島市内に残る地名、沖洲・新浜等を見ると徳島市は古代海で、八万町に中津浦、内浜、沖須賀等がある。上空から見ても眉山は、海に突き出た岬である。
また、眉山東端、忌部神社のある勢見山の麓まで海が迫り波打っていたという伝承も重ね合わせると、横長に連なる眉山は「御大之御前」にふさわしい山なみであると考えられる。
「御大の前」は、葦原中国に降りて来た建御雷神が、大国主神に出雲を譲るように迫った時、「我が子の事代主神に聞いてもらいたいが、魚を採りに行って御大の前からまだ帰って来ない」と答える。古代の島根には、大国主も事代主もいたという話は無いのだから、「古事記」は阿波の話である。 
83 事代主神と鮎占い
御大之御前みほのみさきといえば、えびすさん(事代主神)が鯛を釣っているというイメージが浮かびあがる。しかし事代主命の生まれた地は、式内社事代主神社のある勝浦町である。勝浦には海が無いので、川で鯛を釣る事はできない。にもかかわらず、なぜえびすさんが海で鯛を釣るようになったのだろうか?
式内社事代主神社のある勝浦町には勝浦川が流れ、鮎釣りが盛んに行われている。
鮎は、魚偏に占うと書く、つまり占いに使われた魚である。
「古事記」や「日本書紀」には、神武天皇が大和に侵攻するとき、高倉山で敵に包囲されてしまい、そのときに「酒を入れた瓶子を丹生川に沈めて、もし魚が浮いてきたなら大和を平定できる」という霊夢に従ったところ、本当に酔った鮎が浮んできて無事に大和を治めることができた。という話や、神功皇后が朝鮮に渡る前に肥前松浦で、「もし私の希望が叶うなら川の魚は鈎にかかるべし」と神に祈念して、米粒をエサに糸を垂れたところ、鮎が釣れたので皇后は無事に渡海できた。とも書かれている。
大国主大神を祀る式内社勝占神社は、勝浦川の河口、徳島市勝占町中山に鎮座することからも、鮎占いが行われていたと考えられる。釣り好きが高じてミホノ岬(眉山)に釣りに行ったことだろう。
山で生まれた事代主神が釣り好きになったのは、鮎占いからと考えられる。
なお、川魚といえば、天魚(あめご)である。天魚は、高天原を泳ぐ魚であり、天と呼ぶのは、四国中心とした地域である。 
84 天照大御神と高御産巣日神
天照大御神あまてらすおおみかみが 天岩戸あまのいわとに 籠こもった後、再び現れ「『 豊葦原とよあしはらの 千秋長五百秋ちあきのながいほあきの 水穂國みづほのくには、 我わが 御子みこ、 正勝吾勝勝速日天忍穂耳命まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみことの知らす國ぞ。』と言よさしたまひて」と「古事記」に書かれている。天照大御神の単独で詔を発するのは二カ所で、その他の七カ所では、天照大御神の 詔みことのり( 命令めいれい)を 高御産巣日神たかみむすひのかみが述べているのだから、天照大御神は天岩戸にお隠れになり、代わって高御産巣日神が、「この 葦原中國あしはらのなかつくには、我が御子の知らす國と 言依ことよさしたまへりし國なり。 故かれ、この 國くにに 道速振ちはやぶる 荒振あらぶる 國くにつ 神等かみどもの 多さはなりと 以爲おもほす。これいづれの神を 使つかはしてか 言趣ことむけむ。」と天照大御神の詔を述べたと考えられる。
これは、「(特別篇)男系天皇」でも書いたように、皇位継承は男系で貫いてきた事を示している。国津神の娘、出雲生まれの天照大御神は、高天原に上り高御産巣日神の 妃きさきとなったのであろう。 天照大御神は、 須佐之男命すさのおのみことが高天原に登ってくるのを嫌う。須佐之男命は、子供が娘ばかりである事で高天原を奪いに来た事でないことを証明する。
そして高天原から大国主神や事代主神(えびす)、建御名方神が治める平野部の出雲、豊葦原の千秋長五百秋の水穂國へ天降ってこようという計画が立てられる。
こうして「古事記」の物語は、阿波の山間部から平野部へと天孫降臨してくるのである。 
85 高千穂峰(気延山)その1
日子番能邇邇藝命ひこほのににぎのみことに 詔科みことおほせて、「この 豊葦原水穂國とよあしはらみずほのくには、 汝いまし知らさむ國ぞと 言依ことよさしたまふ。故、 命みことの 隨まにまに 天降あまくだるべし。」と命令され、高天原から出雲にある「 竺紫つくしの 日向ひむかの 高千穂峰たかちほのみね」に降りて来たことが、「古事記」に書かれている。
古事記に書かれたことをすなおに読めば、降りて来た高千穂峰は、徳島市の西に聳える 気延山きのべやまにあたる。
【高千穂峰の該当する条件】
1、大国主命が治める出雲であること。
2、豊葦原水穂國とよあしはらみずほのくにであること。
3、竺紫つくしの 日向ひむかの 高千穂峰たかちほのみねであること。
4、韓國からくにに向っていること。
5、笠沙かささの 御前みさきに 眞來まき通っていること。
6、朝日の 直刺たださす國、夕日の日照る 甚吉いとよき 地ところ。
7、天津久米命あまつくめのみことの住む所。
これらの条件が揃った場所が、高千穂峰に該当する。
徳島県徳島市国府町と名西郡石井町にある標高212.3mの 気延山きのべやま周辺には、古墳が200基あると言われている。その数を知るだけで、いかに尊い山であるかが想像される。この山には、天岩戸を別けた、阿波一宮で式内社である 天石門別八倉比売あまのいわとわけやくらひめ神社がある。 
86 天津神・国津神 その2 国津神 イザナギ
先にイザナギ神は国津神である事を書いたが、通説では、天津神は高天原にいる、または高天原から天降った神の総称、それに対して国津神は地に現れた神々の総称とされているので、イザナギ神は天津神であると考えられている。
天津神 / 造化の三神(天之御中主神、タカミムスビ、カミムスビ)・神世七代(国之常立神など)イザナギ・イザナミ・アマテラス・ツクヨミ・アメノタヂカラオ・アメノウズメ・オモイカネ・タケミカヅチ・経津主神・ニニギなど
国津神 / スサノオ・大国主神・事代主神・建御名方神・サルタヒコ・アヂスキタカヒコネなど
しかし、高天原と出雲に住み分けていた神々を区別しているのであれば、天津神から国津神がわかれた事になる。つまり、天津神のイザナギから国津神が生まれた事になる。それでは同族が、なぜ国津神になったのか説明がつかない。
もともと高御産巣日神の系統が、天津神の系統であり、神産巣日神が、国津神の系統である。国津神が頼りにしているのは、常に神産巣日神である。
以上のように考えると、「古事記」に書かれる物語に整合性がでてくる。 
87 天津神・国津神 その3 天照大御神
先に「天照大御神は国津神」を書いた。天照大御神は、通常では天津神と考えられているが、天照大御神は、国津神、イザナギの子供である。
前述でも書いたように、国津神スサノオ・オオクニヌシの親であるからイザナギは国津神である。天照大御神の弟がスサノオであるから、天照大御神も国津神ということになる。
国津神イザナギの子として生まれた天照大御神は国津神だが、高天原に送られ高御産巣日神系統の神と結婚したので天津神となったのである。
そして正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命と5人の男子を生み、天皇の御祖先として伊勢神宮に祀られ天津神として祀られている。
天津神は高御産巣日神から始まり、神産巣日神は国津神の祖先と考えると「古事記」に書かれたことのつじつまが合ってくる。
「天津神・国津神」の事が理解できていなければ、「古事記」の読み方や日本の文化を正確に見る事が出来ないと考える。また、これは現実の世の中をみる時の非常に重要な物の見方の基準となる。すなおに「古事記」を読めば、阿波が浮かんでくる。従来の妄想に惑わされないようにしたいものである。 
88 天津神・国津神 その4 高御産巣日神
『古事記』に天地開闢の時、最初に 天御中主神あめのみなかぬしのかみが現れ、次に 高御産巣日神たかみむすひのかみ、 神産巣日神かみすひのかみと共に高天原に現れたと書かれている。
高御産巣日神たかみむすひのかみは、葦原中津国平定・天孫降臨の際は 高木神たかぎのかみという名で登場する。
天照大御神の御子・ 天忍穂耳命あめのおしほみみのみことが 高御産巣日神たかみむすひのかみの娘、 萬幡豊秋津師比賣命よろづはたとよあきつしひめのみことと結婚して生まれたのが天孫 邇邇藝命ににぎのみことであるので、 高御産巣日神たかみむすひのかみは天孫 邇邇藝命ににぎのみことの外祖父に相当するとされ、天照大御神が皇室の祖とされている。しかし、男系によって続く天皇であるなら天照大御神から始まるというのでは、不自然ではないだろうか。
しかも、天孫降臨する際に 天兒屋命あめのこやねのみこと、 布刀玉命ふとたまのみこと、 天宇受賣命あめのうずめのみこと、 伊斯許理度賣命いしこりどめのみこと、 玉祖命たまのやのみことが 邇邇藝命ににぎのみことに同行するが、高木神は思金神に「前のこと取り持ちて政(マツリゴト)せよ」と命じて送り出し、天照大御神より優位に立って天孫降臨を司令している。また、神武天皇の熊野から大和に入る時、天照大御神と高木神が、夢の中に現れ、やはり、高木神が、「今、天より八咫烏を遣はさむ。」と言い、八咫烏に導かれ神武天皇は大和に入ることができる。その後、「古事記」の中に高木神は、登場することはないが、これらのことから高木神は、本来の皇祖神であると考えられる。 
89 天津神・国津神 その5 高木神
祭りは、常緑樹のひもろぎ(神籬)を立て、それを神座(神の 依より 代しろ)として始まる。
イザナギとイザナミが、天津神の命令を受けオノコロ島に降り天の御柱を廻ったように、天津神が始めた神事の原型はそこにみる事ができる。その事からもわかるように、天津神の神事は、御柱である。そして高御産巣日神、高木神は、その名の如く御柱のことである。
天孫降臨する際に、天照大御神が、
「これの 鏡かがみは、 專もはら我が 御魂みたまとして、我が 前まへを 拜いつくが 如拜ごといつき 奉まつれ。 次つぎに 思金神おもひかねのかみは、前の事を取り持ちて、 政まつりごとせよ。」と鏡を天照大御神と思って祀るようにと命令する。そして崇神天皇6年疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大御神を皇居の外に移した。その後各地を移動し、垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮に御鎮座した。
伊勢神宮の内宮には、天照大御神がお祀りされているのだから、鏡を一番に祀っているのかと思えば、NHKの取材で真の御神体は「 心しんの 御柱みはしら」であるという番組を放送していた。
伊勢神宮は、20年ごとに建て直す(式年遷宮)が、深夜に古い宮から新しい宮に「心の御柱」を遷す。「心の御柱」は布に包まれているが、番組では石ではないかとほのめかしていたが、神主の「口に出すのも懼れ多い」という発言も映していた。
心の御柱とは、高木神のことであろうか? 
90 高千穂峰(気延山)その2 天孫降臨は、出雲の地へ
事代主神は「この國は、 天あまつ神の 御子みこに 立たて奉まつらむ。」と父親の大国主神に葦原中国を譲るように勧める。
ついに、出雲を治める大国主神は、「 僕あが子等、二はしらの神の白す 隨まにまに、 僕あは違はじ。」と出雲を天津神に譲ることを同意する。
こうして高天原から天照大御神の孫、 邇邇藝命ににぎのみことが豊葦原水穂の国に降りて来るのだが、「古事記」には、大国主神が治める出雲は、葦原中国と豊葦原水穂の国と二種類表記されている。
葦原中国は、出雲の全体を指すのか一部分の地域を指しているのだろうか? 阿波の海岸部の葦が生えている部分の全体をさして葦原中国と言っているのだろうか? むしろ県南の那賀郡(旧国名、長国)大国主の本拠地を指しているのであろう。
豊葦原水穂の国は、文字の示すように豊かに葦の生える場所でなければ、豊葦原とは言わない。その点、大河吉野川流域は、豊葦原水穂の国のイメージに適した所である。しかも国府町にある気延山周辺には、古い古墳が200基もあるという。それを持ってみてもいかに尊い山であるかがうかがえる。
天孫降臨は、出雲を譲ると言ったので、出雲に降りて来なければならないから、当然、高千穂峰も出雲にあると考えなければならない。
「 竺紫つくしの 日向ひむかの 高千穂たかちほのくじふる 嶺たけに天降りまさしめき。」と「古事記」に書かれる高千穂峰は、徳島市の西にそびえる気延山である。 
 
91 高千穂峰(気延山)その3 豊葦原水穂國
天孫降臨の地は、大国主命の治める出雲に降りて来たのであるから、当然、高千穂峰も出雲にあると考えなければならない。
「古事記」に書かれる出雲は、阿波の海岸部である事は、先に書いた、大国主命を祀る式内社の八桙神社や大国主命の子供である事代主神や建御名方神を祀る、式内社の事代主神社、多祁御奈刀弥神社が、阿波だけにあることからもそれを物語っている。なぜ、出雲といわれている島根に無くて阿波にあるのだろうか?
通説では、天孫降臨の地は、宮崎県の日向といわれているが、地図を見ただけで判るように九州南部には、大河も無く豊葦原水穂国といえるような地形も無い。ただ、高千穂という地名が存在しているだけに過ぎない。
出雲には、葦原中国や豊葦原水穂国がある。天孫降臨の地に該当する条件は、
1、出雲であること
2、豊葦原水穂国・葦原中国であること
3、韓國に向っていること
4、竺紫の日向の高千穂峰であること
5、笠沙岬に眞来(まき)通っていること
6、朝日が直ちに射し・夕日の照る地であること
等の諸条件が整ったところでなければ、天孫降臨の地として該当しないのである。これらの条件を満たす、阿波の気延山周辺は、大河吉野川の河口に位置する肥よく地こそ天孫降臨した地である。 
92 高千穂峰(気延山)その4 韓國に向う竺紫の日向の高千穂峰
「 此地ここは 韓國からくにに 向むかひ、 笠沙かささの 御前みさきに 眞來まき通とほりて、 朝日あさひの 直ただ刺さす 國くに、 夕日ゆうひの日照る國なり。故、 此地ここは 甚いと吉よき 地ところ。」と天孫降臨してきた地で、ニニギ命が国誉めをした。
※『国誉め(くにほめ)』日本では古来、国(地方)の統治者がその地を誉めるのがしきたりだった。
「この降臨した地は、韓国に向い」と書かれているが、文脈を考えずあてると朝鮮半島の韓国となる。それでは、北九州に天孫降臨しないと考えなければならない。しかも通説にいう高千穂峰(宮崎)から笠沙の岬といわれる鹿児島県川辺郡笠沙町では、南方の台湾を向いていることになる。
韓国とは、朝鮮半島を指す事ではなく、畿内を指して韓国と云ったことである。
「 大倭豊秋津島おほやまととよあきづしまを 生うみき。 亦またの 名なは 天あまつ御虚空みそら豊とよ秋津あきつ根別ねわけと 謂いふ。」と「国生み」に書かれるように、畿内は、「虚空」であり、「空き津島」である。
高千穂峰である気延山(写真、右)の前に、笠沙岬が指差すように畿内(韓国)に向って伸びる山容を望む事ができる。 
93 高千穂峰(気延山)その5 笠沙岬真来通る
「 此地ここは 韓國からくにに 向むかひ、 笠沙かささの 御前みさきに 眞來まき通とほりて、 朝日あさひの 直ただ刺さす 國くに、 夕日ゆうひの日照る國なり。故、 此地ここは 甚いと吉よき 地ところ。」と天孫降臨してきた地で、ニニギ命が国誉めをした。
高千穂峰(気延山)から望む韓国(畿内)に向かう「 笠沙かささの 御前みさき」は、どこにあたるのだろうか?「 眞來まき通とほる」とは、どういう事だろうか?
徳島市国府町にある気延山に登れば、一目瞭然に、それはわかる。目の前に雄大な吉野川平野(豊葦原瑞穂国)が広がり、北岸には、阿讃山脈が連なっているのである。
その山なみ(写真)をよく見てみよう。南岸の平らな山なみは眉山とは違い、笠を並べたように、大山・大麻山・天ケ津山・袴腰山・金光山等の山なみが淡路島から畿内に向かって連なっているのである。
「 笠沙かささの 御前みさきに 眞來まき通とほり」とは、「眞北」という言葉があるように、畿内に向い岬が真っ直ぐ延びているという事である。
現在吉野川河口は、平野になっているが、当時は海が入り、大きな湾であった。眉山も海に突き出した岬だった。
その後、ニニギ命は、 笠沙かささの 御前みさきで大山津見神の娘、 木花佐久夜毘賣このはなさくやびめと出合うのだから、大山のある阿讃山脈の東部が 笠沙かささの 御前みさきにあたる。
このように、阿波と古事記の整合性はいたる所に残っている。 
94 高千穂峰(気延山)その6 朝・夕日の照る天孫降臨の地
「 此地ここは 韓國からくにに 向むかひ、 笠沙かささの 御前みさきに 眞來まき通とほりて、 朝日あさひの 直ただ刺さす 國くに、 夕日ゆうひの 日ひ照る 國くになり。故、 此地ここは 甚いと吉よき 地ところ。」と天孫降臨した地で、ニニギ命は国誉めをした。
「 朝日あさひの 直ただ刺さす 國くに、 夕日ゆうひの 日ひ照る 國くに」とは、何を表しているのだろうか?
「 朝日あさひの 直ただ刺さす」とは、朝日が直ちに射して来るという意味であるから、空が明るくなるとすぐ太陽が顔を出す、つまり海から朝日が出ることである。
高天原で暮らしていた山の民は、空が明るくなっても、太陽はなかなか顔を出さない中で暮らしていた。その上、山間は、昼を過ぎしばらくすると、太陽は山間に入り陰始め、すぐ薄暗くなってしまう。日当たりのよい土地に降りて来た山の民は、一日が倍の時間に感じ、魅力的ないい土地に降りて来たと思ったに違いない。
「 夕日ゆうひの 日ひ照る 國くに」とは、何を表しているのだろうか?
阿波を貫く大河、吉野川は、一直線に西から東へと流れている。河口から見ると、まるで夕日が沈まないかのごとく谷間にいつまでも照り輝いている。
「古事記」に書かれる天孫降臨の地に、阿波以外に諸条件が当てはまる地が何処にあるのだろうか? 豊葦原水穂国は、阿波の吉野川河口である。 
95 高千穂峰(気延山)その7 天孫降臨の地に住む天津久米命
「 竺紫つくしの 日向ひむかの 高千穂たかちほのくじふる 嶺たけに 天降あまくだりまさしめき。 故ゆえここに 天忍日あめのおしひの命、 天津久米あまつくめの命の二人、天の 石靫いはゆぎを 取とり 負おひ、 頭椎くぶつちの 大刀たちを 取とり 佩はき、 天てんの 波士弓はじゆみを 取とり 持もち、 天てんの 真鹿児まかこ矢を 手挾たばさみ、 御み前さきに立ちて仕へ奉りき。」と「古事記」に書かれています。
ニニギ命が天孫降臨する際に、 天忍日(あめのおしひの)命、 天津久米(あまつくめの)命の二人が先頭に立ち高天原から出雲に天下ってきたのです。天孫降臨の地、豊葦原水穂国は、これまでに何度も書いて来たように吉野川河口にある気延山周辺です。
徳島県名西郡石井町の故久米勝夫氏は、全国の久米姓の分布調査をされました。その結果、久米姓の多い所は下記の通りです。
1、愛知県(765戸)
2、徳島県(540戸)
3、大阪府(480戸)
4、東京都(456戸)
四国(986戸) 東海(1146戸) 九州(617戸)関東(1209戸) 中国(134戸)北陸(21戸) 近畿(903戸)信越(37戸) 【昭和55年度 全国電話帳より故久米勝夫氏調査】
徳島県内の久米姓の分布は、徳島市に208戸(国府37戸)、石井町に189戸です。これまで書いて来たように、気延山周辺には久米姓の42%が集中して住んでいますから、気延山は正に天孫降臨してきた高千穂峰です。九州の宮崎県は、49戸。鹿児島県は46戸。大分県10戸。熊本県41戸です。
神武東遷の際に大久米命が、神武天皇を護衛して畿内に向かったのです。 
96 下照比売(シタテルヒメ)
「古事記」によれば、「葦原中国平定のために高天原から遣わされた 天若日子あめのわかひこは、大国主神の娘 下照比売したてるひめと結婚した。天若日子が高天原からの返し矢に当たって死んだとき、下照比売の泣く声が高天原まで届き、その声を聞いた天若日子の父の天津国玉神は葦原中国に降りて天若日子の喪屋を建て 殯かりもがりを行った。そこに 阿遲志貴高日子根神あぢすきたかひこねのかみが訪れた。」と書かれている。
葦原中国平定に降りて来たのは出雲であるから、出雲には大国主神がいて、娘の下照比売がいる。この下照比売を祭る式内社が、阿南市にある古烏神社(写真)である。「阿南市史」に、「『阿波志』には、「建比売神社祭下照姫下荒井ニ在俗小烏明神ト号ス、(略)」とあって、当社を古烏神社と比定する」と書かれている。
下照比売が阿南市宝田町下荒井に祭られ、約3km西の長生町に父の大国主神が八桙神社に祭られ、まさに阿南市は、出雲の本拠地に該当する。
あまり書く必要は無いことであるが、島根県には、これらの神々が祭られていた形跡は、古くから無いにも関わらず、「古事記」に書かれる出雲は島根県であるかの如く語られている。
阿遲志貴高日子根神あぢすきたかひこねのかみは「今、 迦毛大御神かものおほみかみと謂ふぞ」と「古事記」に書かれている。辰砂採掘遺跡のある阿南市加茂町が気にかかる所である。 
97 阿遲鋤高日子根神(アジスキタカヒコネノカミ)
「 大國主神おおくにぬしのかみ、 胸形むなかたの 奥津宮おきつみやに 坐ます 神かみ、 多紀理毘賣命たきりびめのみことを 娶めとして 生うめる子は、 阿遲鋤高日子根神あじすきたかひこねのかみ。 次つぎに 妹いも高比賣命たかひめのみこと。 亦またの 名なは 下光比賣命したてるひめのみこと。この 阿遲鋤高日子根あじすきたかひこねは、今、 迦毛大御神かものおほみかみと 謂いふぞ。」と、「古事記」に書かれている。
大国主神の子供は、事代主命(えびす)、建御名方神の他に、 阿遲鋤高日子根神あじすきたかひこねのかみ、妹の下照比売がいる。「 阿遲鋤高日子根神あじすきたかひこねのかみは、 迦毛大御神かものおほみかみというぞ」と書かれ、徳島県阿南市に加茂町があるが、 阿遲鋤高日子根神あじすきたかひこねのかみは加茂町に祀られていない。徳島県内では、阿南市津乃峰町長浜の 塩竃しおがま神社だけに祀られている。この塩竃神社は、元亀・天正年間(1570〜1592年)に、創建された神社という。
高天原から葦原中国へ遣わした 天菩比神あめのほひのかみが3年経っても戻らないので、次に天若日子が遣わされた。天若日子は大国主の娘下照比売と結婚し、8年たっても高天原に戻らなかった。その上、高天原から遣わされた雉の 鳴女なきめを、高天原から与えられた弓矢で射抜いてしまった。矢は、高天原に届いたが、再び帰ってきた矢にあたり天若日子は死んでしまった。
天若日子の死を嘆く下照比売の泣き声が天まで届くと、天若日子の父の 天津國玉神あまつくにたまのかみが降りてきて、葬儀のため喪屋を建て 殯かりもがりをした。下照比売の兄の 阿遲志貴高日子根神あぢしきたかひこねのかみも弔いに訪れたが、天若日子とよく似ていたため、天若日子の父と妻が「天若日子は生きていた」と言って抱きついた。すると 阿遲志貴高日子根神あぢしきたかひこねのかみは、「 穢けがらわしい死人と見間違えるな」と怒り、剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばした。
この「蹴り飛ばす」 殯かりもがりの「七日ガリヤ」の風習が、阿波の山間部に残っている事は、「神山町史」や「池田町史」に記録されている。これらの事は「古事記」の記述に一致していて、興味深い。 
98 天菩比神(アメノホヒノカミ)
天孫降臨は、天津神が高天原から出雲に降る物語で、徳島県の山間部(高天原)、木屋平や神山町から吉野川や那賀川流域の平野部(いずも)に降りてくる話であることを書いてきた。
最初【図1】、高天原から出雲に天照大御神の第二子である 天菩比神あめのほひのかみが遣わされた。しかし三年経っても帰って来なかったので、二度目【図2】に 天若日子あめのわかひこを遣わした。これも 大國主神おほくにぬしのかみの娘、 下照比賣したてるひめと結婚して8年経っても戻らない。
三度目に 建御雷神たけみかづちのかみと 天鳥船神あめのとりふねのかみが降りて来て、天津神が出雲を治める準備が整い、天照大御神の孫、 邇邇藝命ににぎのみことが、豊葦原水穂国にある高千穂峰に降臨してきた。
天菩比神あめのほひのかみが祀られている神社は、徳島県小松島市中郷町豊の本4の豊国神社に合祀されている式内社の御縣神社である。
これまで、天孫降臨に関係する事項を書き連ねて来たが、阿波には、島根県(出雲)や宮崎県以上に、天孫降臨を説明する項目がそろい過ぎるというほど残っている。にもかかわらず、みんなが言わないからという理由だけで、多くの人は語ろうとしない。しかし、多くが言うよりも、事実が真実を語っている。 
99 建御雷神と事代主神
「 高御産巣日神たかみむすひのかみと 天照大御神あまてらすおおみかみが、「葦原中国(出雲)は、我子の治める国。」と国譲りを迫り、三度目の折衝に 建御雷神たけみかづちのかみ(別名 建布都神たけふつのかみ)が高天原から降りてきて、出雲を治める大国主神に迫るが、「息子の 事代主神ことしろぬしのかみに聞いてくれ」と答える。すると事代主神は、すぐ国譲りを承諾して、船を踏み締めて傾けさせて、天の逆手を打って、 青柴垣あをふしかきに打ち成して、 隱かくりき。」と「古事記」に書かれている。
この隠れた所が、徳島県阿波市市場町付近と考える。市場町伊月字宮の本には、式内社の事代主神社がある。一方、徳島県阿波市土成町郡字建布都には、式内社の建布都神社がある。延喜式神名帳に記録される阿波郡の式内社は、この2社のみである。
奈良市の近鉄駅近くに 大神神社おおみわじんじゃ(三輪神社)の摂社:率川阿波神社がある。この神社は、奈良で一番古い事代主神(阿波のえびすさん)を祀る神社であり、立札には、「七七一年に阿波国から勧請」と書かれている。
社伝「大神神社史」に、「事代主神が阿波にいます時には、布都主神共々まつられていたが、奈良に春日大社が創建され、布都主神はそこに歓請される事になった。その折り、えびすさんも一緒に鳴門の海を渡り、この地まで同行してこられたが、布都主神が春日におさまり、事代主神は、率川阿波神社に祀られた」と記録されている。事代主神は、県南から県北、さらに奈良(大和)に移って行った事がわかる。 
100 竺紫の日向の禊ぎ(1) 奥津甲斐辨羅神
「 竺紫つくしの 日向ひむかの 橘たちばなの 小門をどの 阿波岐原あはきはらに到りまして、 禊みそぎ 祓はらひたまひき。 故かれ、投げ 棄うつる 御杖みつえに成れる神の名は、 衝立船戸つきたつふなとの神。次に投げ棄つる 御帯みおびに成れる神の名は、 道之長乳歯みちのながちはの神。……」と「古事記」に書かれている。イザナギの大神が、阿南市の橘湾に面した見能林で禊ぎ祓いする時に、身に着けていた杖から 衝立船戸つきたつふなとの神。帯から 道之長乳歯みちのながちはの神。 嚢ふくろから 時量師ときはかしの神。 衣けしから 和豆良比能宇斯能わづらひのうしの神。 褌はかまから 道俣ちまたの神。 冠かがふりから 飽咋之宇斯能あきぐひのうしの神。左の手につけた飾りから 奥疎おきざかるの神・ 奥津那藝佐毘古おきつなぎさびこの神・ 奥津甲斐辨羅おきつかひべらの神。右の手につけた飾りから 邊疎へざかるの神・ 邊津那藝佐毘古へつなぎさびこの神・ 邊津甲斐辨羅へつかひべらの神の 十二神とをまりふたはしらが 生なれた神と書かれているのである。
阿南市の沖に伊島が浮かんでいる。この伊島から太平洋を見渡す石島随一の絶景が、カベヘラという場所である。
この「カベヘラ」に着目したのが、阿南古事記研究会会長立石量彦氏で、「カベヘラは、 奥津甲斐辨羅おきつかひべらの神ではないか?」と調査を進めると、なんと伊島の當所神社に 奥疎おきざかるの神・ 奥津那藝佐毘古おきつなぎさびこの神・ 奥津甲斐辨羅おきつかひべらの神の三柱の神が、御祭神としてお祀りされていたことがわかった。さらに日本全国約8万社の神社を包括する神社本庁の記録から調べを進めてみると、 奥疎おきざかるの神・ 奥津那藝佐毘古おきつなぎさびこの神・ 奥津甲斐辨羅おきつかひべらの神を祀る神社は、伊島の當所神社しかお祀りされていない事がわかった。
イザナギの大神が、阿南市の見能林で禊ぎをしたと話していたら、禊ぎ祓いをする時に沖に投げた手飾りから現れた神様が、伊島に祀られていた。偶然にしては、不思議な事だが、これに触発された阿南古事記研究会の会員、請田和彦氏が、さらに研究を進めると 衣ころもから現れた 和豆良比能宇斯能わづらひのうしの神や 冠かがふりから現れた 飽咋之宇斯能あきぐひのうしの神も阿南市に関連があるようだという事がわかってきた。 
 
101 竺紫の日向の禊ぎ(2) 飽咋之宇斯能神
阿南古事記研究会の会員、請田和彦氏が阿南市にある 袙あこめ海岸について調べていた。袙とは、装束の中着のこととあり、さらに調べていると「のうし(直衣)」という言葉にいきあたった。
「古事記」を毎日読んでいる請田氏は、ピンと来た。イザナギの神が、「 竺紫つくしの 日向ひむかの 橘たちばなの 小門をどの 阿波岐原あはきはら」で禊ぎ祓いした時に、杖から 衝立船戸つきたつふなとの神。帯から 道之長乳歯みちのながちはの神。 嚢ふくろから 時量師ときはかしの神。 衣けしから 和豆良比能宇斯能わづらひのうしの神。 褌はかまから 道俣ちまたの神。 冠かがふりから 飽咋之宇斯能あきぐひのうしの神。左手の飾りから 奥疎おきざかるの神・ 奥津那藝佐毘古おきつなぎさびこの神・ 奥津甲斐辨羅おきつかひべらの神。右手の飾りから 邊疎へざかるの神・ 邊津那藝佐毘古へつなぎさびこの神・ 邊津甲斐辨羅へつかひべらの神。以上の十二神が生れた。
「のうし(直衣)」とは、 和豆良比能宇斯能わづらひのうしの神のことではないか?と思ったという。「古事記」の解説書では、「わづらいの主神」と書かれているが、衣から現れた神が、 和豆良比能宇斯能わづらひのうしの神であるので、けがれた衣の神と考える方がつじつまが合う。 奥疎おきざかるの神・ 奥津那藝佐毘古おきつなぎさびこの神・ 奥津甲斐辨羅おきつかひべらの神は、沖の伊島の當所神社に祀られ、 和豆良比能宇斯能わづらひのうしの神も 袙あこめに関係するとなると、イザナギの神が禊ぎした地は、阿南市の見能林である事がより鮮明に浮かび上がってくる。
あこめ【衵・袙】(アイコメ(間籠)の義という)宮廷奉仕の男女の装束の下着。上の衣(きぬ)と下の単(ひとえ)の衣との間につける衵の衣の略称。季節に応じ、華麗を競って数枚重ねたのを重ね衵という。形状は単と同様で裏付きとし、女子は身丈(みたけ)より長く、男子は袴に着籠めるので腰下までで脇明(わきあけ)とする。
のうし(ナホシ)【直衣】(ただの衣、平常服の意)「直衣の袍(ほう)」の略。平安時代以来、天子・摂家以下公卿の平常服。大臣家の公達(きんだち)と三位以上は勅許を得れば直衣のままで参内できた。形状は衣冠の袍と全く同様であるが、衣冠とちがって位色の規定がなく、好みで種々の色を用いたので、雑袍(ざつほう)の名がある。平安時代の女房の物の具の略装も女房の直衣という。のうしのころも。すそづけのころも。 
102 御大之御前(みほのみさき)その2
2011年9月21日台風15号は、阿波にも大雨を降らし過ぎ去った。徳島市のシンボル眉山は、まるで海に突き出した大きな岬のようである。これが古事記に書かれる御大之御前(みほのみさき)であることは書いたが、徳島古事記研究会元会長の佐藤文昭氏から「阿波志」に
八幡祠
富田山麓に在り 三保射枳みほさき神を以て合食す 采地二十石、舊隱谷の下に在り慶長七年 瑞厳寺を置く因て之を移す 祝河野氏、甚左衛門に至り 移て掃除街に居る故あつて 亡す麻植郡早雲氏之に代る
と書かれている事を教えられた。
徳島市の瑞巌寺は、眉山の最東端に位置している。富田浜、中津浦、内浜、沖浜、新浜、沖の洲と町名が残るように、眉山周辺の古代は、海だったことがわかる。その眉山の際突端に、三保射枳神(みほさきかみ)が祀られていたのである。
阿波に残る事実が発見される度につじつまが合い、ますます真実味を帯びて見えて来る。事代主神が釣りをした御大之御前(みほのみさき)が眉山の山なみである事は、間違いないようである。
【阿波志】徳島藩に「阿波志」編纂を命じられた佐野山陰は、一七九二年(寛政四)、全一二冊 郡ごとに、土地関係の情報、寺社、史跡、人物など多岐にわたる内容が記載されている。 
103 大嘗祭と高天原
「古事記・日本書紀」は、「高天原の文化が広がり、日本の文化になった。」ということが本旨であり、「天皇は、その根源から繋がり続いている。」という事を伝えている。そして日本国の天皇は、現在においても連綿と続いている。つまり、天皇は、高天原から繋がっていると言う事になるのである。
前天皇から新天皇への“引継ぎ儀式”が大嘗祭で、皇祖神の「天皇霊」を新天皇が受け継いで心身一体化することにあり、それは当然、高天原から「天皇霊」が降ることにある。「大嘗祭」をひとくちでいえば、「天孫降臨」の故事を儀式的に再現したものであり、歴代天皇が何代にも渡って、天皇の一世一度の重大な祭儀として伝承されてきた儀式であることから見ても、阿波に高天原があるという事になるのである。
なぜなら、阿波の木屋平という山間部の三木家に残る古文書に大嘗祭に使われる「麁服(あらたえ)」が、天皇が即位後、初めて行う践祚大嘗祭の神座に神衣(かむそ)として祀る「麁服」(麻の織物)を指名された忌部の氏人が御殿人(みあらかんど)となり、上古より阿波忌部氏の役割として、麁服神服(あらたえかむみそ)を調製し貢進してきた事が古文書に書かれているからである。大嘗祭を辿れば、
三木家に残る一番古い大嘗祭に関する古文書が、鎌倉時代の文応元年(1260年)
権中納言 藤原長兼が書いた「山長記」(1211年)
内大臣 藤原忠親が書いた「山槐記」 (1184年)
右大臣 藤原実資が書いた「小右記」 (1012年)
大嘗(おおみにえ)の年に阿波から麁布(あらたえ)が運ばれたことを書いた「古語拾遺」(807年)
さらに、21代雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)(在位456年〜479年)古墳時代にまで遡ることが出来る。 
104 倭には、倭大國魂神社がある。
徳島県美馬市美馬町重清字東宮上3に、式内社の倭大國魂神社がある。周辺には「八幡古墳群」「大国魂古墳群」があり、古代から発展した地域である。
「倭(やまと)」といえば、一般には奈良と思うだろうが、なぜか阿波の美馬郡に「倭」の文字の付く神社があるのだろうか?しかも肝心の「倭」と思われている奈良の式内社二百八十六座の中に「倭」の付く神社は、倭恩智神社 奈良県天理市海知町32しか存在せず、大和坐大國魂神社 奈良県天理市新泉町星山306があるにはあるが、「倭」が「大和」と新しく発展した表記になっている事からも古代の「倭(やまと)」は、美馬市一帯のことである事は間違いない。
また、式内社3、123座の中に大國玉神社は、
大國魂神社 / 福島県いわき市平菅波字宮前54
大國玉神社 / 茨城県真壁郡大和村大字大国玉1
大國玉神社 / 三重県松阪市六根町879
大和國魂神社 / 兵庫県南あわじ市三原町榎列上幡多857
水主坐山背大國魂命神(水主神社) / 京都府城陽市水主宮馬場30
大國玉神社 / 長崎県壱岐郡郷ノ浦町大原触1125
等あるが、「倭」の付く神社は、阿波以外に見当たらない。しかし、「倭」であるにもかかわらず、天津神が祀らず、いずれの神社にも、大國主神や千戈大神、大己貴神など国津神である大国主神が御祭神として祀られているのは、国譲りの後、天津神が国津神の長(おさ)を倭國の長(おさ)として祀ったと考える。 
105 天岩戸の秘文 「阿波礼」
斎部宿禰廣成は、「古語拾遺」の中で、天岩戸が開いた時の状況を伝えている。日本人は、古来から精神文化の高みに至っていたということを改めて知ることができる。
阿波禮【言天晴也】 阿那於茂志呂【古語 事之甚切 皆稱阿那 言衆面明白也】 阿那多能志【言伸手而舞 今指樂事謂之多能志 此意也】 阿那佐夜憩【竹葉之聲也】 飫憩【木名也 振其葉之調也】
(あわれ あなおもしろ あなたのし あなさやけ おけ)
阿波禮(あわれ)とは、「折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や哀愁」。つまり、現れてきたものを気づき感じることである。
阿那於茂志呂(あなおもしろ)は、ああ面白い。阿那多能志(あなたのし)は、ああ楽しい。阿那佐夜憩(あなさやけ)は、ああさわやかな。
飫憩(おけ)は、はやしことばと言われているが、おけは最後に付くので終わりの意味と考える。
そこで、私は下記のように訳してみた。
阿波は、ことにおいて いつも面白く いつもたのしく いつもさわかに 心をそこにとどめる
人間が生きる究極のことを謡ったものである。人は浮世に流され、喜怒哀楽に浮き沈みし一生を送っている。しかし、誰もが阿波礼を感じて生きていたいと願っている事である。
 

 

 
 

 

 
 
古事記

 

古事記 上の卷
序文 
過去の時代(序文の第一段)
――古事記の成立の前提として、本文に記されている過去のことについて、まずわれわれが、傳えごとによつて過去のことを知ることを述べ、續いて歴代の天皇がこれによつて徳教を正したことを述べる。太の安萬侶によつて代表される古人が、古事記の内容をどのように考えていたかがあきらかにされる。古事記成立の思想的根據である。――
わたくし安萬侶やすまろが申しあげます。
宇宙のはじめに當つては、すべてのはじめの物がまずできましたが、その氣性はまだ十分でございませんでしたので、名まえもなく動きもなく、誰もその形を知るものはございません。それからして天と地とがはじめて別になつて、アメノミナカヌシの神、タカミムスビの神、カムムスビの神が、すべてを作り出す最初の神となり、そこで男女の兩性がはつきりして、イザナギの神、イザナミの神が、萬物を生み出す親となりました。そこでイザナギの命は、地下の世界を訪れ、またこの國に歸つて、禊みそぎをして日の神と月の神とが目を洗う時に現われ、海水に浮き沈みして身を洗う時に、さまざまの神が出ました。それ故に最古の時代は、くらくはるかのあちらですけれども、前々からの教によつて國土を生み成した時のことを知り、先の世の物しり人によつて神を生み人間を成り立たせた世のことがわかります。
ほんとにそうです。神々が賢木さかきの枝に玉をかけ、スサノヲの命が玉を噛んで吐いたことがあつてから、代々の天皇が續き、天照らす大神が劒をお噛みになり、スサノヲの命が大蛇を斬つたことがあつてから、多くの神々が繁殖しました。神々が天のヤスの川の川原で會議をなされて、天下を平定し、タケミカヅチノヲの命が、出雲の國のイザサの小濱で大國主の神に領土を讓るようにと談判されてから國内をしずかにされました。これによつてニニギの命が、はじめてタカチホの峯にお下りになり、神武天皇がヤマトの國におでましになりました。この天皇のおでましに當つては、ばけものの熊が川から飛び出し、天からはタカクラジによつて劒をお授けになり、尾のある人が路をさえぎつたり、大きなカラスが吉野へ御案内したりしました。人々が共に舞い、合圖の歌を聞いて敵を討ちました。そこで崇神天皇は、夢で御承知になつて神樣を御崇敬になつたので、賢明な天皇と申しあげますし、仁徳天皇は、民の家の煙の少いのを見て人民を愛撫されましたので、今でも道に達した天皇と申しあげます。成務天皇は近江の高穴穗の宮で、國や郡の境を定め、地方を開發され、允恭天皇は、大和の飛鳥の宮で、氏々の系統をお正しになりました。それぞれ保守的であると進歩的であるとの相違があり、華やかなのと質素なのとの違いはありますけれども、いつの時代にあつても、古いことをしらべて、現代を指導し、これによつて衰えた道徳を正し、絶えようとする徳教を補強しないということはありませんでした。
古事記の企畫(序文の第二段)
――前半は天武天皇の御事蹟と徳行について述べる。後半、古來の傳えごとに關心をもたれ、これをもつて國家經營の基本であるとなし、これを正して稗田の阿禮をして誦み習わしめられたが、まだ書物とするに至らなかつたことを記す。――
飛鳥あすかの清原きよみはらの大宮において天下をお治めになつた天武天皇の御世に至つては、まず皇太子として帝位に昇るべき徳をお示しになりました。しかしながら時がまだ熟しませんでしたので吉野山に入つて衣服を變えてお隱れになり、人と事と共に得て伊勢の國において堂々たる行動をなさいました。お乘物が急におでましになつて山や川をおし渡り、軍隊は雷のように威を振い部隊は電光のように進みました。武器が威勢を現わして強い將士がたくさん立ちあがり、赤い旗のもとに武器を光らせて敵兵は瓦のように破れました。まだ十二日にならないうちに、惡氣が自然にしずまりました。そこで軍に使つた牛馬を休ませ、なごやかな心になつて大和の國に歸り、旗を卷き武器を納めて、歌い舞つて都におとどまりになりました。そうして酉の年の二月に、清原の大宮において、天皇の位におつきになりました。その道徳は黄帝以上であり、周の文王よりもまさつていました。神器を手にして天下を統一し、正しい系統を得て四方八方を併合されました。陰と陽との二つの氣性の正しいのに乘じ、木火土金水の五つの性質の順序を整理し、貴い道理を用意して世間の人々を指導し、すぐれた道徳を施して國家を大きくされました。そればかりではなく、知識の海はひろびろとして古代の事を深くお探りになり、心の鏡はぴかぴかとして前の時代の事をあきらかに御覽になりました。
ここにおいて天武天皇の仰せられましたことは「わたしが聞いていることは、諸家で持ち傳えている帝紀と本辭とが、既に眞實と違い多くの僞りを加えているということだ。今の時代においてその間違いを正さなかつたら、幾年もたたないうちに、その本旨が無くなるだろう。これは國家組織の要素であり、天皇の指導の基本である。そこで帝紀を記し定め、本辭をしらべて後世に傳えようと思う」と仰せられました。その時に稗田の阿禮という奉仕の人がありました。年は二十八でしたが、人がらが賢く、目で見たものは口で讀み傳え、耳で聞いたものはよく記憶しました。そこで阿禮に仰せ下されて、帝紀と本辭とを讀み習わしめられました。しかしながら時勢が移り世が變わつて、まだ記し定めることをなさいませんでした。
古事記の成立(序文の第三段)
――はじめに元明天皇の徳をたたえ、その命令によつて稗田の阿禮の誦み習つたものを記したことを述べる。特に文章を書くにあたつての苦心が述べられている。そうして記事の範圍、およびこれを三卷に分けたことを述べて終る。――
謹んで思いまするに、今上天皇陛下(元明天皇)は、帝位におつきになつて堂々とましまし、天地人の萬物に通じて人民を正しくお育てになります。皇居にいまして道徳をみちびくことは、陸地水上のはてにも及んでいます。太陽は中天に昇つて光を増し、雲は散つて晴れわたります。二つの枝が一つになり、一本の莖から二本の穗が出るようなめでたいしるしは、書記が書く手を休めません。國境を越えて知らない國から奉ります物は、お倉にからになる月がありません。お名まえは夏の禹王うおうよりも高く聞え御徳は殷いんの湯王とうおうよりもまさつているというべきであります。そこで本辭の違つているのを惜しみ、帝紀の誤つているのを正そうとして、和銅四年九月十八日を以つて、わたくし安萬侶に仰せられまして、稗田の阿禮が讀むところの天武天皇の仰せの本辭を記し定めて獻上せよと仰せられましたので、謹んで仰せの主旨に從つて、こまかに採録いたしました。
しかしながら古代にありましては、言葉も内容も共に素朴でありまして、文章に作り、句を組織しようと致しましても、文字に書き現わすことが困難であります。文字を訓で讀むように書けば、その言葉が思いつきませんでしようし、そうかと言つて字音で讀むように書けばたいへん長くなります。そこで今、一句の中に音讀訓讀の文字を交えて使い、時によつては一つの事を記すのに全く訓讀の文字ばかりで書きもしました。言葉やわけのわかりにくいのは註を加えてはつきりさせ、意味のとり易いのは別に註を加えません。またクサカという姓に日下と書き、タラシという名まえに帶の字を使うなど、こういう類は、もとのままにして改めません。大體書きました事は、天地のはじめから推古天皇の御代まででございます。そこでアメノミナカヌシの神からヒコナギサウガヤフキアヘズの命までを上卷とし、神武天皇から應神天皇までを中卷とし、仁徳天皇から推古天皇までを下卷としまして、合わせて三卷を記して、謹んで獻上いたします。わたくし安萬侶、謹みかしこまつて申しあげます。
和銅五年正月二十八日
正五位の上勳五等 太の朝臣安萬侶 
 
一、イザナギの命とイザナミの命 
天地のはじめ
――世界のはじめにまず神々の出現したことを説く。これらの神名には、それぞれ意味があつて、その順次に出現することによつて世界ができてゆくことを述べる。特に最初の三神は、抽象的概念の表現として重視される。日本の神話のうちもつとも思想的な部分である。――
昔、この世界の一番始めの時に、天で御出現になつた神樣は、お名をアメノミナカヌシの神といいました。次の神樣はタカミムスビの神、次の神樣はカムムスビの神、この御お三方かたは皆お獨で御出現になつて、やがて形をお隱しなさいました。次に國ができたてで水に浮いた脂のようであり、水母くらげのようにふわふわ漂つている時に、泥の中から葦あしが芽めを出して來るような勢いの物によつて御出現になつた神樣は、ウマシアシカビヒコヂの神といい、次にアメノトコタチの神といいました。この方々かたがたも皆お獨で御出現になつて形をお隱しになりました。
以上の五神は、特別の天の神樣です。
それから次々に現われ出た神樣は、クニノトコタチの神、トヨクモノの神、ウヒヂニの神、スヒヂニの女神、ツノグヒの神、イクグヒの女神、オホトノヂの神、オホトノベの女神、オモダルの神、アヤカシコネの女神、それからイザナギの神とイザナミの女神とでした。このクニノトコタチの神からイザナミの神までを神代七代と申します。そのうち始めの御二方おふたかたはお獨立ひとりだちであり、ウヒヂニの神から以下は御二方で一代でありました。
島々の生成
――神が生み出す形で國土の起原を語る。――
そこで天の神樣方の仰せで、イザナギの命みこと・イザナミの命みこと御二方おふたかたに、「この漂つている國を整えてしつかりと作り固めよ」とて、りつぱな矛ほこをお授けになつて仰せつけられました。それでこの御二方おふたかたの神樣は天からの階段にお立ちになつて、その矛ほこをさしおろして下の世界をかき※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)され、海水を音を立ててかき※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)して引きあげられた時に、矛の先から滴したゝる海水が、積つて島となりました。これがオノゴロ島です。その島にお降くだりになつて、大きな柱を立て、大きな御殿ごてんをお建たてになりました。
そこでイザナギの命が、イザナミの女神に「あなたのからだは、どんなふうにできていますか」と、お尋ねになりましたので、「わたくしのからだは、できあがつて、でききらない所が一か所あります」とお答えになりました。そこでイザナギの命の仰せられるには「わたしのからだは、できあがつて、でき過ぎた所が一か所ある。だからわたしのでき過ぎた所をあなたのでききらない所にさして國を生み出そうと思うがどうだろう」と仰せられたので、イザナミの命が「それがいいでしよう」とお答えになりました。そこでイザナギの命が「そんならわたしとあなたが、この太い柱を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りあつて、結婚をしよう」と仰せられてこのように約束して仰せられるには「あなたは右からお※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りなさい。わたしは左から※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてあいましよう」と約束してお※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りになる時に、イザナミの命が先に「ほんとうにりつぱな青年ですね」といわれ、その後あとでイザナギの命が「ほんとうに美うつくしいお孃じようさんですね」といわれました。それぞれ言い終つてから、その女神に「女が先に言つたのはよくない」とおつしやいましたが、しかし結婚をして、これによつて御子みこ水蛭子ひるこをお生うみになりました。この子はアシの船に乘せて流してしまいました。次に淡島あわしまをお生みになりました。これも御子みこの數にははいりません。
かくて御二方で御相談になつて、「今わたしたちの生うんだ子こがよくない。これは天の神樣のところへ行つて申しあげよう」と仰せられて、御一緒ごいつしよに天に上のぼつて天の神樣の仰せをお受けになりました。そこで天の神樣の御命令で鹿の肩の骨をやく占うらない方かたで占いをして仰せられるには、「それは女の方ほうが先さきに物を言つたので良くなかつたのです。歸り降くだつて改めて言い直したがよい」と仰せられました。そういうわけで、また降つておいでになつて、またあの柱を前のようにお※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りになりました。今度はイザナギの命みことがまず「ほんとうに美うつくしいお孃さんですね」とおつしやつて、後にイザナミの命が「ほんとうにりつぱな青年ですね」と仰せられました。かように言い終つて結婚をなさつて御子の淡路あわじのホノサワケの島をお生みになりました。次に伊豫いよの二名ふたなの島(四國)をお生うみになりました。この島は身み一つに顏かおが四つあります。その顏ごとに名があります。伊豫いよの國をエ姫ひめといい、讚岐さぬきの國をイヒヨリ彦ひこといい、阿波あわの國をオホケツ姫といい、土佐とさの國をタケヨリワケといいます。次に隱岐おきの三子みつごの島をお生みなさいました。この島はまたの名をアメノオシコロワケといいます。次に筑紫つくしの島(九州)をお生うみになりました。やはり身み一つに顏が四つあります。顏ごとに名がついております。それで筑紫つくしの國をシラヒワケといい、豐とよの國をトヨヒワケといい、肥ひの國をタケヒムカヒトヨクジヒネワケといい、熊曾くまその國をタケヒワケといいます。次に壹岐いきの島をお生みになりました。この島はまたの名を天一あめひとつ柱はしらといいます。次に對馬つしまをお生みになりました。またの名をアメノサデヨリ姫といいます。次に佐渡さどの島をお生みになりました。次に大倭豐秋津島おおやまととよあきつしま(本州)をお生みになりました。またの名をアマツミソラトヨアキツネワケといいます。この八つの島がまず生まれたので大八島國おおやしまぐにというのです。それからお還かえりになつた時に吉備きびの兒島こじまをお生みになりました。またの名なをタケヒガタワケといいます。次に小豆島あずきじまをお生みになりました。またの名をオホノデ姫ひめといいます。次に大島をお生うみになりました。またの名をオホタマルワケといいます。次に女島ひめじまをお生みになりました。またの名を天あめ一つ根といいます。次にチカの島をお生みになりました。またの名をアメノオシヲといいます。次に兩兒ふたごの島をお生みになりました。またの名をアメフタヤといいます。吉備の兒島からフタヤの島まで合わせて六島です。
神々の生成
――前と同じ形で萬物の起原を語る。火の神を生んでから水の神などの出現する部分は鎭火祭の思想による。――
このように國々を生み終つて、更さらに神々をお生みになりました。そのお生み遊ばされた神樣の御おん名はまずオホコトオシヲの神、次にイハツチ彦の神、次にイハス姫の神、次にオホトヒワケの神、次にアメノフキヲの神、次にオホヤ彦の神、次にカザモツワケノオシヲの神をお生みになりました。次に海の神のオホワタツミの神をお生みになり、次に水戸の神のハヤアキツ彦の神とハヤアキツ姫の神とをお生みになりました。オホコトオシヲの神からアキツ姫の神まで合わせて十神です。このハヤアキツ彦とハヤアキツ姫の御二方が河と海とでそれぞれに分けてお生みになつた神の名は、アワナギの神・アワナミの神・ツラナギの神・ツラナミの神・アメノミクマリの神・クニノミクマリの神・アメノクヒザモチの神・クニノクヒザモチの神であります。アワナギの神からクニノクヒザモチの神まで合わせて八神です。次に風の神のシナツ彦の神、木の神のククノチの神、山の神のオホヤマツミの神、野の神のカヤノ姫の神、またの名をノヅチの神という神をお生みになりました。シナツ彦の神からノヅチまで合わせて四神です。このオホヤマツミの神とノヅチの神とが山と野とに分けてお生みになつた神の名は、アメノサヅチの神・クニノサヅチの神・アメノサギリの神・クニノサギリの神・アメノクラドの神・クニノクラドの神・オホトマドヒコの神・オホトマドヒメの神であります。アメノサヅチの神からオホトマドヒメの神まで合わせて八神です。
次にお生みになつた神の名はトリノイハクスブネの神、この神はまたの名を天あめの鳥船とりふねといいます。次にオホゲツ姫の神をお生みになり、次にホノヤギハヤヲの神、またの名をホノカガ彦の神、またの名をホノカグツチの神といいます。この子こをお生みになつたためにイザナミの命は御陰みほとが燒かれて御病氣になりました。その嘔吐へどでできた神の名はカナヤマ彦の神とカナヤマ姫の神、屎くそでできた神の名はハニヤス彦の神とハニヤス姫の神、小便でできた神の名はミツハノメの神とワクムスビの神です。この神の子はトヨウケ姫の神といいます。かような次第でイザナミの命は火の神をお生みになつたために遂ついにお隱かくれになりました。天の鳥船からトヨウケ姫の神まで合わせて八神です。
すべてイザナギ・イザナミのお二方の神が、共にお生みになつた島の數は十四、神は三十五神であります。これはイザナミの神がまだお隱れになりませんでした前にお生みになりました。ただオノゴロ島はお生みになつたのではありません。また水蛭子ひること淡島とは子の中に入れません。
黄泉よみの國
――地下にくらい世界があつて、魔物がいると考えられている。これは異郷説話の一つである。火の神を斬る部分は鎭火祭の思想により、黄泉の國から逃げてくる部分は、道饗祭の思想による。黄泉の部分は、主として出雲系統の傳來である。――
そこでイザナギの命の仰せられるには、「わたしの最愛の妻を一人の子に代えたのは殘念だ」と仰せられて、イザナミの命の枕の方や足の方に這はい臥ふしてお泣なきになつた時に、涙で出現した神は香具山の麓の小高い處の木の下においでになる泣澤女なきさわめの神です。このお隱れになつたイザナミの命は出雲いずもの國と伯耆ほうきの國との境にある比婆ひばの山にお葬り申し上げました。
ここにイザナギの命は、お佩はきになつていた長い劒を拔いて御子みこのカグツチの神の頸くびをお斬りになりました。その劒の先についた血が清らかな巖いわおに走りついて出現した神の名は、イハサクの神、次にネサクの神、次にイハヅツノヲの神であります。次にその劒のもとの方についた血も、巖に走りついて出現した神の名は、ミカハヤビの神、次にヒハヤビの神、次にタケミカヅチノヲの神、またの名をタケフツの神、またの名をトヨフツの神という神です。次に劒の柄に集まる血が手のまたからこぼれ出して出現した神の名はクラオカミの神、次にクラミツハの神であります。以上イハサクの神からクラミツハの神まで合わせて八神は、御劒によつて出現した神です。
殺されなさいましたカグツチの神の、頭に出現した神の名はマサカヤマツミの神、胸に出現した神の名はオトヤマツミの神、腹に出現した神の名はオクヤマツミの神、御陰みほとに出現した神の名はクラヤマツミの神、左の手に出現した神の名はシギヤマツミの神、右の手に出現した神の名はハヤマツミの神、左の足に出現した神の名はハラヤマツミの神、右の足に出現した神の名はトヤマツミの神であります。マサカヤマツミの神からトヤマツミの神まで合わせて八神です。そこでお斬りになつた劒の名はアメノヲハバリといい、またの名はイツノヲハバリともいいます。
イザナギの命はお隱れになつた女神めがみにもう一度會いたいと思われて、後あとを追つて黄泉よみの國に行かれました。そこで女神が御殿の組んである戸から出てお出迎えになつた時に、イザナギの命みことは、「最愛のわたしの妻よ、あなたと共に作つた國はまだ作り終らないから還つていらつしやい」と仰せられました。しかるにイザナミの命みことがお答えになるには、「それは殘念なことを致しました。早くいらつしやらないのでわたくしは黄泉よみの國の食物を食たべてしまいました。しかしあなた樣さまがわざわざおいで下さつたのですから、何なんとかして還りたいと思います。黄泉よみの國の神樣に相談をして參りましよう。その間わたくしを御覽になつてはいけません」とお答えになつて、御殿ごてんのうちにお入りになりましたが、なかなか出ておいでになりません。あまり待ち遠だつたので左の耳のあたりにつかねた髮に插さしていた清らかな櫛の太い齒を一本闕かいて一本ぽん火びを燭とぼして入つて御覽になると蛆うじが湧わいてごろごろと鳴つており、頭には大きな雷が居、胸には火の雷が居、腹には黒い雷が居、陰にはさかんな雷が居、左の手には若い雷が居、右の手には土の雷が居、左の足には鳴る雷が居、右の足にはねている雷が居て、合わせて十種の雷が出現していました。そこでイザナギの命が驚いて逃げてお還りになる時にイザナミの命は「わたしに辱はじをお見せになつた」と言つて黄泉よみの國の魔女を遣やつて追おわせました。よつてイザナギの命が御髮につけていた黒い木の蔓つるの輪を取つてお投げになつたので野葡萄のぶどうが生はえてなりました。それを取つてたべている間に逃げておいでになるのをまた追いかけましたから、今度は右の耳の邊につかねた髮に插しておいでになつた清らかな櫛の齒はを闕かいてお投げになると筍たけのこが生はえました。それを拔いてたべている間にお逃げになりました。後のちにはあの女神の身體中からだじゆうに生じた雷の神たちに澤山の黄泉よみの國の魔軍を副えて追おわしめました。そこでさげておいでになる長い劒を拔いて後の方に振りながら逃げておいでになるのを、なお追つて、黄泉比良坂よもつひらさかの坂本さかもとまで來た時に、その坂本にあつた桃の實みを三つとつてお撃ちになつたから皆逃げて行きました。そこでイザナギの命はその桃の實に、「お前がわたしを助けたように、この葦原あしはらの中の國に生活している多くの人間たちが苦しい目にあつて苦しむ時に助けてくれ」と仰せになつてオホカムヅミの命という名を下さいました。最後には女神めがみイザナミの命が御自身で追つておいでになつたので、大きな巖石をその黄泉比良坂よもつひらさかに塞ふさいでその石を中に置いて兩方で對むかい合つて離別りべつの言葉を交かわした時に、イザナミの命が仰せられるには、「あなたがこんなことをなされるなら、わたしはあなたの國の人間を一日に千人も殺してしまいます」といわれました。そこでイザナギの命は「あんたがそうなされるなら、わたしは一日に千五百も産屋うぶやを立てて見せる」と仰せられました。こういう次第で一日にかならず千人死に、一日にかならず千五百人生まれるのです。かくしてそのイザナミの命を黄泉津大神よもつおおかみと申します。またその追いかけたので、道及ちしきの大神とも申すということです。その黄泉の坂に塞ふさがつている巖石は塞いでおいでになる黄泉よみの入口の大神と申します。その黄泉比良坂よもつひらさかというのは、今の出雲いずもの國のイブヤ坂ざかという坂です。
身禊みそぎ
――みそぎの意義を語る。人生の災禍がこれによつて拂われるとする。――
イザナギの命は黄泉よみの國からお還りになつて、「わたしは隨分厭いやな穢きたない國に行つたことだつた。わたしは禊みそぎをしようと思う」と仰せられて、筑紫つくしの日向ひむかの橘たちばなの小門おどのアハギ原はらにおいでになつて禊みそぎをなさいました。その投げ棄てる杖によつてあらわれた神は衝つき立たつフナドの神、投げ棄てる帶であらわれた神は道のナガチハの神、投げ棄てる袋であらわれた神はトキハカシの神、投げ棄てる衣ころもであらわれた神は煩累わずらいの大人うしの神、投げ棄てる褌はかまであらわれた神はチマタの神、投げ棄てる冠であらわれた神はアキグヒの大人の神、投げ棄てる左の手につけた腕卷であらわれた神はオキザカルの神とオキツナギサビコの神とオキツカヒベラの神、投げ棄てる右の手につけた腕卷であらわれた神はヘザカルの神とヘツナギサビコの神とヘツカヒベラの神とであります。以上フナドの神からヘツカヒベラの神まで十二神は、おからだにつけてあつた物を投げ棄てられたのであらわれた神です。そこで、「上流の方は瀬が速い、下流かりゆうの方は瀬が弱い」と仰せられて、眞中の瀬に下りて水中に身をお洗いになつた時にあらわれた神は、ヤソマガツヒの神とオホマガツヒの神とでした。この二神は、あの穢い國においでになつた時の汚垢けがれによつてあらわれた神です。次にその禍わざわいを直なおそうとしてあらわれた神は、カムナホビの神とオホナホビの神とイヅノメです。次に水底でお洗いになつた時にあらわれた神はソコツワタツミの神とソコヅツノヲの命、海中でお洗いになつた時にあらわれた神はナカツワタツミの神とナカヅツノヲの命、水面でお洗いになつた時にあらわれた神はウハツワタツミの神とウハヅツノヲの命です。このうち御三方おさんかたのワタツミの神は安曇氏あずみうじの祖先神そせんじんです。よつて安曇の連むらじたちは、そのワタツミの神の子、ウツシヒガナサクの命の子孫です。また、ソコヅツノヲの命・ナカヅツノヲの命・ウハヅツノヲの命御三方おさんかたは住吉神社すみよしじんじやの三座の神樣であります。かくてイザナギの命が左の目をお洗いになつた時に御出現ごしゆつげんになつた神は天照あまてらす大神おおみかみ、右の目をお洗いになつた時に御出現になつた神は月讀つくよみの命、鼻をお洗いになつた時に御出現になつた神はタケハヤスサノヲの命でありました。
以上ヤソマガツヒの神からハヤスサノヲの命まで十神は、おからだをお洗いになつたのであらわれた神樣です。
イザナギの命はたいへんにお喜びになつて、「わたしは隨分ずいぶん澤山たくさんの子こを生うんだが、一番ばんしまいに三人の貴い御子みこを得た」と仰せられて、頸くびに掛けておいでになつた玉の緒おをゆらゆらと搖ゆらがして天照あまてらす大神にお授けになつて、「あなたは天をお治めなさい」と仰せられました。この御頸おくびに掛かけた珠たまの名をミクラタナの神と申します。次に月讀つくよみの命に、「あなたは夜の世界をお治めなさい」と仰せになり、スサノヲの命には、「海上をお治めなさい」と仰せになりました。それでそれぞれ命ぜられたままに治められる中に、スサノヲの命だけは命ぜられた國をお治めなさらないで、長い鬚ひげが胸に垂れさがる年頃になつてもただ泣きわめいておりました。その泣く有樣は青山が枯山になるまで泣き枯らし、海や河は泣く勢いで泣きほしてしまいました。そういう次第ですから亂暴な神の物音は夏の蠅が騷ぐようにいつぱいになり、あらゆる物の妖わざわいが悉く起りました。そこでイザナギの命がスサノヲの命に仰せられるには、「どういうわけであなたは命ぜられた國を治めないで泣きわめいているのか」といわれたので、スサノヲの命は、「わたくしは母上のおいでになる黄泉よみの國に行きたいと思うので泣いております」と申されました。そこでイザナギの命が大變お怒りになつて、「それならあなたはこの國には住んではならない」と仰せられて追いはらつてしまいました。このイザナギの命は、淡路の多賀たがの社やしろにお鎭しずまりになつておいでになります。 
 
二、天照らす大神とスサノヲの命 
誓約うけい
――暴風の神であり出雲系の英雄でもあるスサノヲの命が、高天の原に進出し、その主神である天照らす大神との間に、誓約の行われることを語る。誓約の方法は、神祕に書かれているが、これは心を清めるための行事である。結末においてさまざまの異系統の祖先神が出現するのは、それらの諸民族が同系統であることを語るものである。――
そこでスサノヲの命が仰せになるには、「それなら天照らす大神おおみかみに申しあげて黄泉よみの國に行きましよう」と仰せられて天にお上りになる時に、山や川が悉く鳴り騷ぎ國土が皆振動しました。それですから天照らす大神が驚かれて、「わたしの弟おとうとが天に上つて來られるわけは立派な心で來るのではありますまい。わたしの國を奪おうと思つておられるのかも知れない」と仰せられて、髮をお解きになり、左右に分けて耳のところに輪にお纏まきになり、その左右の髮の輪にも、頭に戴かれる鬘かずらにも、左右の御手にも、皆大きな勾玉まがたまの澤山ついている玉の緒を纏まき持たれて、背せには矢が千本も入る靱ゆぎを負われ、胸にも五百本入りの靱をつけ、また威勢のよい音を立てる鞆ともをお帶びになり、弓を振り立てて力強く大庭をお踏みつけになり、泡雪あわゆきのように大地を蹴散らかして勢いよく叫びの聲をお擧げになつて待ち問われるのには、「どういうわけで上のぼつて來こられたか」とお尋ねになりました。そこでスサノヲの命の申されるには、「わたくしは穢きたない心はございません。ただ父上の仰せでわたくしが哭きわめいていることをお尋ねになりましたから、わたくしは母上の國に行きたいと思つて泣いておりますと申しましたところ、父上はそれではこの國に住んではならないと仰せられて追い拂いましたのでお暇乞いに參りました。變つた心は持つておりません」と申されました。そこで天照らす大神は、「それならあなたの心の正しいことはどうしたらわかるでしよう」と仰せになつたので、スサノヲの命は、「誓約ちかいを立てて子を生みましよう」と申されました。よつて天のヤスの河を中に置いて誓約ちかいを立てる時に、天照らす大神はまずスサノヲの命の佩はいている長い劒をお取りになつて三段に打うち折つて、音もさらさらと天の眞名井まないの水で滌そそいで囓かみに囓かんで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神の名はタギリヒメの命またの名はオキツシマ姫の命でした。次にイチキシマヒメの命またの名はサヨリビメの命、次にタギツヒメの命のお三方でした。次にスサノヲの命が天照らす大神の左の御髮に纏まいておいでになつた大きな勾玉まがたまの澤山ついている玉の緒おをお請うけになつて、音もさらさらと天の眞名井の水に滌そそいで囓かみに囓かんで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はマサカアカツカチハヤビアメノオシホミミの命、次に右の御髮の輪に纏まかれていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はアメノホヒの命、次に鬘かずらに纏いておいでになつていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はアマツヒコネの命、次に左の御手にお纏きになつていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はイクツヒコネの命、次に右の御手に纏いておいでになつていた珠をお請けになつて囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神はクマノクスビの命、合わせて五方いつかたの男神が御出現になりました。ここに天照らす大神はスサノヲの命に仰せになつて、「この後あとから生まれた五人の男神はわたしの身につけた珠によつてあらわれた神ですから自然わたしの子です。先に生まれた三人の姫御子ひめみこはあなたの身につけたものによつてあらわれたのですから、やはりあなたの子です」と仰せられました。その先にお生まれになつた神のうちタギリヒメの命は、九州の※形むなかた[#「匈/(胃−田)」、U+80F7、213-14]の沖つ宮においでになります。次にイチキシマヒメの命は※[#「匈/(胃−田)」、U+80F7、213-15]形の中つ宮においでになります。次にタギツヒメの命は※[#「匈/(胃−田)」、U+80F7、213-16]形の邊へつ宮においでになります。この三人の神は、※[#「匈/(胃−田)」、U+80F7、213-16]形の君たちが大切にお祭りする神樣であります。そこでこの後でお生まれになつた五人の子の中に、アメノホヒの命の子のタケヒラドリの命、これは出雲の國の造みやつこ・ムザシの國の造・カミツウナカミの國の造・シモツウナカミの國の造・イジムの國の造・津島の縣あがたの直あたえ・遠江とおとおみの國の造たちの祖先です。次にアマツヒコネの命は、凡川内おおしこうちの國の造・額田ぬかた部の湯坐ゆえの連・木の國の造・倭やまとの田中の直あたえ・山代やましろの國の造・ウマクタの國の造・道ノシリキベの國の造・スハの國の造・倭のアムチの造・高市たけちの縣主・蒲生かもうの稻寸いなき・三枝部さきくさべの造たちの祖先です。
天の岩戸
――祓はらえによつて暴風の神を放逐することを語る。はじめのスサノヲの命の暴行は、暴風の災害である。――
そこでスサノヲの命は、天照らす大神に申されるには「わたくしの心が清らかだつたので、わたくしの生うんだ子が女だつたのです。これに依よつて言えば當然わたくしが勝つたのです」といつて、勝つた勢いに任せて亂暴を働きました。天照らす大神が田を作つておられたその田の畔あぜを毀こわしたり溝みぞを埋うめたりし、また食事をなさる御殿に屎くそをし散らしました。このようなことをなさいましたけれども天照らす大神はお咎とがめにならないで、仰せになるには、「屎くそのようなのは酒に醉つて吐はき散ちらすとてこんなになつたのでしよう。それから田の畔を毀し溝を埋めたのは地面を惜しまれてこのようになされたのです」と善いようにと仰せられましたけれども、その亂暴なしわざは止やみませんでした。天照らす大神が清らかな機織場はたおりばにおいでになつて神樣の御衣服おめしものを織らせておいでになる時に、その機織場の屋根に穴をあけて斑駒まだらごまの皮をむいて墮おとし入れたので、機織女はたおりめが驚いて機織りに使う板で陰ほとをついて死んでしまいました。そこで天照らす大神もこれを嫌つて、天あめの岩屋戸いわやとをあけて中にお隱れになりました。それですから天がまつくらになり、下の世界もことごとく闇くらくなりました。永久に夜が續いて行つたのです。そこで多くの神々の騷ぐ聲は夏の蠅のようにいつぱいになり、あらゆる妖わざわいがすべて起りました。
こういう次第で多くの神樣たちが天の世界の天あめのヤスの河の河原にお集まりになつてタカミムスビの神の子のオモヒガネの神という神に考えさせてまず海外の國から渡つて來た長鳴鳥ながなきどりを集めて鳴かせました。次に天のヤスの河の河上にある堅い巖いわおを取つて來、また天の金山かなやまの鐵を取つて鍛冶屋かじやのアマツマラという人を尋ね求め、イシコリドメの命に命じて鏡を作らしめ、タマノオヤの命に命じて大きな勾玉まがたまが澤山ついている玉の緒の珠を作らしめ、アメノコヤネの命とフトダマの命とを呼んで天のカグ山の男鹿おじかの肩骨をそつくり拔いて來て、天のカグ山のハハカの木を取つてその鹿しかの肩骨を燒やいて占うらなわしめました。次に天のカグ山の茂しげつた賢木さかきを根掘ねこぎにこいで、上うえの枝に大きな勾玉まがたまの澤山の玉の緒を懸け、中の枝には大きな鏡を懸け、下の枝には麻だの楮こうぞの皮の晒さらしたのなどをさげて、フトダマの命がこれをささげ持ち、アメノコヤネの命が莊重そうちような祝詞のりとを唱となえ、アメノタヂカラヲの神が岩戸いわとの陰かげに隱れて立つており、アメノウズメの命が天のカグ山の日影蔓ひかげかずらを手襁たすきに懸かけ、眞拆まさきの蔓かずらを鬘かずらとして、天のカグ山の小竹ささの葉を束たばねて手に持ち、天照らす大神のお隱れになつた岩戸の前に桶おけを覆ふせて踏み鳴らし神懸かみがかりして裳の紐を陰ほとに垂らしましたので、天の世界が鳴りひびいて、たくさんの神が、いつしよに笑いました。そこで天照らす大神は怪しいとお思いになつて、天の岩戸を細目にあけて内から仰せになるには、「わたしが隱れているので天の世界は自然に闇く、下の世界も皆みな闇くらいでしようと思うのに、どうしてアメノウズメは舞い遊び、また多くの神は笑つているのですか」と仰せられました。そこでアメノウズメの命が、「あなた樣に勝まさつて尊い神樣がおいでになりますので樂しく遊んでおります」と申しました。かように申す間にアメノコヤネの命とフトダマの命とが、かの鏡をさし出して天照らす大神にお見せ申し上げる時に天照らす大神はいよいよ不思議にお思いになつて、少し戸からお出かけになる所を、隱れて立つておられたタヂカラヲの神がその御手を取つて引き出し申し上げました。そこでフトダマの命がそのうしろに標繩しめなわを引き渡して、「これから内にはお還り入り遊ばしますな」と申しました。かくて天照らす大神がお出ましになつた時に、天も下の世界も自然と照り明るくなりました。ここで神樣たちが相談をしてスサノヲの命に澤山の品物を出して罪を償つぐなわしめ、また鬚ひげと手足てあしの爪とを切つて逐いはらいました。 
 
三、スサノヲの命 
穀物の種
――穀物などの起原を説く插入説話である。日本書紀では、月の神が保食うけもちの神を殺す形になつている。――
スサノヲの命は、かようにして天の世界から逐おわれて、下界げかいへ下くだつておいでになり、まず食物をオホゲツ姫の神にお求めになりました。そこでオホゲツ姫が鼻や口また尻しりから色々の御馳走を出して色々お料理をしてさし上げました。この時にスサノヲの命はそのしわざをのぞいて見て穢きたないことをして食べさせるとお思いになつて、そのオホゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身體に色々の物ができました。頭あたまに蠶かいこができ、二つの目に稻種いねだねができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、股またの間あいだにムギができ、尻にマメが出來ました。カムムスビの命が、これをお取りになつて種となさいました。
八俣やまたの大蛇おろち
――スサノヲの命は、高天の原系統では暴風の神であり、亂暴な神とされているが、出雲系統では、反對に、功績のある神とされ、農業開發の神とされている。これは次の大國主の神の説話と共に、出雲系統の神話である。――
かくてスサノヲの命は逐い拂われて出雲の國の肥ひの河上、トリカミという所にお下りになりました。この時に箸はしがその河から流れて來ました。それで河上に人が住んでいるとお思いになつて尋ねて上のぼつておいでになりますと、老翁と老女と二人があつて少女を中において泣いております。そこで「あなたは誰だれですか」とお尋ねになつたので、その老翁が、「わたくしはこの國の神のオホヤマツミの神の子でアシナヅチといい、妻の名はテナヅチ、娘の名はクシナダ姫といいます」と申しました。また「あなたの泣くわけはどういう次第ですか」とお尋ねになつたので「わたくしの女むすめはもとは八人ありました。それをコシの八俣やまたの大蛇が毎年來て食たべてしまいます。今またそれの來る時期ですから泣いています」と申しました。「その八俣の大蛇というのはどういう形をしているのですか」とお尋ねになつたところ、「その目めは丹波酸漿たんばほおずきのように眞赤まつかで、身體一つに頭が八つ、尾が八つあります。またその身體からだには蘿こけだの檜ひのき・杉の類が生え、その長さは谷たに八やつ峰みね八やつをわたつて、その腹を見ればいつも血ちが垂れて爛ただれております」と申しました。そこでスサノヲの命がその老翁に「これがあなたの女むすめさんならばわたしにくれませんか」と仰せになつたところ、「恐れ多いことですけれども、あなたはどなた樣ですか」と申しましたから、「わたしは天照らす大神の弟です。今天から下つて來た所です」とお答えになりました。それでアシナヅチ・テナヅチの神が「そうでしたら恐れ多いことです。女むすめをさし上げましよう」と申しました。依つてスサノヲの命はその孃子おとめを櫛くしの形かたちに變えて御髮おぐしにお刺さしになり、そのアシナヅチ・テナヅチの神に仰せられるには、「あなたたち、ごく濃い酒を釀かもし、また垣を作り※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)して八つの入口を作り、入口毎に八つの物を置く臺を作り、その臺毎に酒の槽おけをおいて、その濃い酒をいつぱい入れて待つていらつしやい」と仰せになりました。そこで仰せられたままにかように設けて待つている時に、かの八俣の大蛇がほんとうに言つた通りに來ました。そこで酒槽さかおけ毎にそれぞれ首を乘り入れて酒を飮みました。そうして醉つぱらつてとどまり臥して寢てしまいました。そこでスサノヲの命がお佩きになつていた長い劒を拔いてその大蛇をお斬り散らしになつたので、肥の河が血になつて流れました。その大蛇の中の尾をお割きになる時に劒の刃がすこし毀かけました。これは怪しいとお思いになつて劒の先で割いて御覽になりましたら、鋭い大刀がありました。この大刀をお取りになつて不思議のものだとお思いになつて天照らす大神に獻上なさいました。これが草薙の劒でございます。
かくしてスサノヲの命は、宮を造るべき處を出雲の國でお求めになりました。そうしてスガの處ところにおいでになつて仰せられるには、「わたしは此處ここに來て心もちが清々すがすがしい」と仰せになつて、其處そこに宮殿をお造りになりました。それで其處をば今でもスガというのです。この神が、はじめスガの宮をお造りになつた時に、其處から雲が立ちのぼりました。依つて歌をお詠みになりましたが、その歌は、
雲の叢むらがり起たつ出雲いずもの國の宮殿。
妻と住むために宮殿をつくるのだ。
その宮殿よ。
というのです。そこでかのアシナヅチ・テナヅチの神をお呼よびになつて、「あなたはわたしの宮の長となれ」と仰せになり、名をイナダの宮主みやぬしスガノヤツミミの神とおつけになりました。
系譜
――スサノヲの命の系譜を説き、大國主の神に結びつけている。このうち、オホトシの神とウカノミタマとは穀物の神で、二三〇頁[#「二三〇頁」は「大國主の神」]に出る系譜に連絡する。――
そこでそのクシナダ姫と婚姻してお生みになつた神樣は、ヤシマジヌミの神です。またオホヤマツミの神の女のカムオホチ姫と結婚をして生んだ子は、オホトシの神、次にウカノミタマです。兄のヤシマジヌミの神はオホヤマツミの神の女の木この花散はなちる姫と結婚して生んだ子は、フハノモヂクヌスヌの神です。この神がオカミの神の女のヒカハ姫と結婚して生んだ子がフカブチノミヅヤレハナの神です。この神がアメノツドヘチネの神と結婚して生んだ子がオミヅヌの神です。この神がフノヅノの神の女のフテミミの神と結婚して生んだ子がアメノフユギヌの神です。この神がサシクニオホの神の女のサシクニワカ姫と結婚して生んだ子が大國主おおくにぬしの神です。この大國主の神はまたの名をオホアナムチの神ともアシハラシコヲの神ともヤチホコの神ともウツシクニダマの神とも申します。合わせてお名前が五つありました。 
 
四、大國主の命 
兎と鰐
――これから出雲系の英雄大國主の神の神話になる。さまざまの神話を、一神の名のもとに寄せたものの如くである。――
この大國主の命の兄弟は、澤山おいでになりました。しかし國は皆大國主の命にお讓り申しました。お讓り申し上げたわけは、その大勢の神が皆みな因幡いなばのヤガミ姫ひめと結婚しようという心があつて、一緒に因幡いなばに行きました。時に大國主の命に袋を負わせ從者として連れて行きました。そしてケタの埼に行きました時に裸になつた兎が伏しておりました。大勢の神がその兎に言いましたには、「お前はこの海水を浴びて風の吹くのに當つて高山の尾上おのえに寢ているとよい」と言いました。それでこの兎が大勢の神の教えた通りにして寢ておりました。ところがその海水の乾かわくままに身の皮が悉く風に吹き拆さかれたから痛んで泣き伏しておりますと、最後に來た大國主の命がその兎を見て、「何なんだつて泣き伏しているのですか」とお尋ねになつたので、兎が申しますよう、「わたくしは隱岐おきの島にいてこの國に渡りたいと思つていましたけれども渡るすべがございませんでしたから、海の鰐わにを欺あざむいて言いましたのは、わたしはあなたとどちらが一族ぞくが多いか競くらべて見ましよう。あなたは一族を悉く連れて來てこの島からケタの埼さきまで皆竝んで伏していらつしやい。わたしはその上を蹈んで走りながら勘定をして、わたしの一族とどちらが多いかということを知りましようと言いましたから、欺かれて竝んで伏している時に、わたくしはその上を蹈んで渡つて來て、今土におりようとする時に、お前はわたしに欺だまされたと言うか言わない時に、一番端はしに伏していた鰐わにがわたくしを捕つかまえてすつかり着物きものを剥はいでしまいました。それで困こまつて泣いて悲しんでおりましたところ、先においでになつた大勢の神樣が、海水を浴びて風に當つて寢ておれとお教えになりましたからその教えの通りにしましたところすつかり身體からだをこわしました」と申しました。そこで大國主の命は、その兎にお教え遊ばされるには、「いそいであの水門に往つて、水で身體を洗つてその水門の蒲がまの花粉を取つて、敷き散らしてその上に輾ころがり※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)まわつたなら、お前の身はもとの膚はだのようにきつと治るだろう」とお教えになりました。依つて教えた通りにしましたから、その身はもとの通りになりました。これが因幡いなばの白兎というものです。今では兎神といつております。そこで兎が喜んで大國主の命に申しましたことには、「あの大勢の神はきつとヤガミ姫を得られないでしよう。袋を背負つておられても、きつとあなたが得るでしよう」と申しました。
赤貝姫と蛤貝姫
――前の兎と鰐の話と共に、古代醫療の方法について語つている説話である。――
兎の言つた通り、ヤガミ姫は大勢の神に答えて「わたくしはあなたたちの言う事は聞きません。大國主の命と結婚しようと思います」と言いました。そこで大勢の神が怒つて、大國主の命を殺そうと相談して伯耆ほうきの國のテマの山本に行つて言いますには、「この山には赤い猪いのししがいる。わたしたちが追い下くだすからお前が待ちうけて捕えろ。もしそうしないと、きつとお前を殺してしまう」と言つて、猪いのししに似ている大きな石を火で燒いて轉ころがし落しました。そこで追い下して取ろうとする時に、その石に燒きつかれて死んでしまいました。そこで母の神が泣き悲しんで、天に上つて行つてカムムスビの神のもとに參りましたので、赤貝姫あかがいひめと蛤貝姫はまぐりひめとを遣やつて生き還らしめなさいました。それで赤貝姫が汁しるを搾しぼり集あつめ、蛤貝姫がこれを受けて母の乳汁として塗りましたから、りつぱな男になつて出歩であるくようになりました。
根ねの堅州國かたすくに
――これも異郷説話の一つで、王子の求婚説話の形を採つている。姫の父親から難題を課せられるが、姫の助力を得て解決する。――
これをまた大勢の神が見て欺あざむいて山に連れて行つて、大きな樹を切り伏せて楔子くさびを打つておいて、その中に大國主の命をはいらせて、楔子くさびを打つて放つて打ち殺してしまいました。そこでまた母の神が泣きながら搜したので、見つけ出してその木を拆さいて取り出して生いかして、その子に仰せられるには、「お前がここにいるとしまいには大勢の神に殺ころされるだろう」と仰せられて、紀伊の國のオホヤ彦の神のもとに逃がしてやりました。そこで大勢の神が求めて追つて來て、矢をつがえて乞う時に、木の俣またからぬけて逃げて行きました。
そこで母の神が「これは、スサノヲの命のおいでになる黄泉の國に行つたなら、きつとよい謀はかりごとをして下さるでしよう」と仰せられました。そこでお言葉のままに、スサノヲの命の御所おんもとに參りましたから、その御女おんむすめのスセリ姫ひめが出て見ておあいになつて、それから還つて父君に申しますには、「大變りつぱな神樣がおいでになりました」と申されました。そこでその大神が出て見て、「これはアシハラシコヲの命だ」とおつしやつて、呼よび入れて蛇のいる室むろに寢させました。そこでスセリ姫の命が蛇の領巾ひれをその夫に與えて言われたことは、「その蛇が食おうとしたなら、この領巾ひれを三度振つて打ち撥はらいなさい」と言いました。それで大國主の命は、教えられた通りにしましたから、蛇が自然に靜まつたので安らかに寢てお出になりました。また次の日の夜は呉公むかでと蜂はちとの室むろにお入れになりましたのを、また呉公と蜂の領巾を與えて前のようにお教えになりましたから安らかに寢てお出になりました。次には鏑矢かぶらやを大野原の中に射て入れて、その矢を採とらしめ、その野におはいりになつた時に火をもつてその野を燒き圍みました。そこで出る所を知らないで困つている時に、鼠が來て言いますには、「内うちはほらほら、外そとはすぶすぶ」と言いました。こう言いましたからそこを踏んで落ちて隱れておりました間に、火は燒けて過ぎました。そこでその鼠がその鏑矢を食わえ出して來て奉りました。その矢の羽はねは鼠の子どもが皆食べてしまいました。
かくてお妃きさきのスセリ姫ひめは葬式の道具を持つて泣きながらおいでになり、その父の大神はもう死んだとお思いになつてその野においでになると、大國主の命はその矢を持つて奉りましたので、家に連れて行つて大きな室に呼び入れて、頭の虱しらみを取らせました。そこでその頭を見ると呉公むかでがいつぱいおります。この時にお妃が椋むくの木の實と赤土とを夫君に與えましたから、その木の實を咋くい破やぶり赤土を口に含んで吐き出されると、その大神は呉公を咋くい破つて吐き出すとお思いになつて、御心に感心にお思いになつて寢ておしまいになりました。そこでその大神の髮を握とつてその室の屋根のたる木ごとに結いつけて、大きな巖をその室の戸口に塞いで、お妃のスセリ姫を背負せおつて、その大神の寶物の大刀たち弓矢ゆみや、また美しい琴を持つて逃げておいでになる時に、その琴が樹にさわつて音を立てました。そこで寢ておいでになつた大神が聞いてお驚きになつてその室を引き仆してしまいました。しかしたる木に結びつけてある髮を解いておいでになる間に遠く逃げてしまいました。そこで黄泉比良坂よもつひらさかまで追つておいでになつて、遠くに見て大國主の命を呼んで仰せになつたには、「そのお前の持つている大刀や弓矢を以つて、大勢の神をば坂の上に追い伏せ河の瀬せに追い撥はらつて、自分で大國主の命となつてそのわたしの女むすめのスセリ姫を正妻として、ウカの山の山本に大磐石だいばんじやくの上に宮柱を太く立て、大空に高く棟木むなぎを上げて住めよ、この奴やつめ」と仰せられました。そこでその大刀弓を持つてかの大勢の神を追い撥はらう時に、坂の上毎に追い伏せ河の瀬毎に追い撥はらつて國を作り始めなさいました。
かのヤガミ姫ひめは前の約束通りに婚姻なさいました。そのヤガミ姫を連つれておいでになりましたけれども、お妃きさきのスセリ姫を恐れて生んだ子を木の俣またにさし挾んでお歸りになりました。ですからその子の名を木の俣の神と申します。またの名は御井みいの神とも申します。
ヤチホコの神の歌物語
――長い歌の贈答を中心とした物語で、もと歌曲として歌い傳えられたもの。――
このヤチホコの神(大國主の命)が、越の國のヌナカハ姫と結婚しようとしておいでになりました時に、そのヌナカハ姫の家に行いつてお詠みになりました歌は、
ヤチホコの神樣は、
方々の國で妻を求めかねて、
遠い遠い越こしの國に
賢かしこい女がいると聞き
美しい女がいると聞いて
結婚にお出でましになり
結婚にお通かよいになり、
大刀たちの緒おもまだ解かず
羽織はおりをもまだ脱ぬがずに、
娘さんの眠つておられる板戸を
押しゆすぶり立つていると
引き試みて立つていると、
青い山ではヌエが鳴いている。
野の鳥の雉きじは叫んでいる。
庭先でニワトリも鳴いている。
腹が立つさまに鳴く鳥だな
こんな鳥はやつつけてしまえ。
下におります走り使をする者の
事ことの語かたり傳つたえはかようでございます。
そこで、そのヌナカハ姫が、まだ戸を開あけないで、家の内で歌いました歌は、
ヤチホコの神樣、
萎しおれた草のような女のことですから
わたくしの心は漂う水鳥、
今いまこそわたくし鳥どりでも
後のちにはあなたの鳥になりましよう。
命いのち長ながくお生いき遊あそばしませ。
下におります走り使をする者の
事ことの語かたり傳つたえはかようでございます。
青い山やまに日ひが隱かくれたら
眞暗まつくらな夜よになりましよう。
朝のお日樣ひさまのようににこやかに來て
コウゾの綱のような白い腕、
泡雪のような若々しい胸を
そつと叩いて手をとりかわし
玉のような手をまわして
足を伸のばしてお休みなさいましようもの。
そんなにわびしい思おもいをなさいますな。
ヤチホコの神樣かみさま。
事ことの語かたり傳つたえは、かようでございます。
それで、その夜はお會あいにならないで、翌晩お會あいなさいました。
またその神のお妃きさきスセリ姫の命は、大變たいへん嫉妬深しつとぶかい方かたでございました。それを夫おつとの君は心憂うく思つて、出雲から大和の國にお上りになろうとして、お支度遊ばされました時に、片手は馬の鞍に懸け、片足はその鐙あぶみに蹈み入れて、お歌うたい遊ばされた歌は、
カラスオウギ色いろの黒い御衣服おめしものを
十分に身につけて、
水鳥のように胸を見る時、
羽敲はたたきも似合わしくない、
波うち寄せるそこに脱ぎ棄て、
翡翠色ひすいいろの青い御衣服おめしものを
十分に身につけて
水鳥のように胸を見る時、
羽敲はたたきもこれも似合わしくない、
波うち寄せるそこに脱ぎ棄て、
山畑やまはたに蒔まいた茜草あかねぐさを舂ついて
染料の木の汁で染めた衣服を
十分に身につけて、
水鳥のように胸を見る時、
羽敲はたたきもこれはよろしい。
睦むつましのわが妻よ、
鳥の群むれのようにわたしが群れて行つたら、
引いて行ゆく鳥のようにわたしが引いて行つたら、
泣かないとあなたは云つても、
山地やまぢに立つ一本薄いつぽんすすきのように、
うなだれてあなたはお泣きになつて、
朝の雨の霧に立つようだろう。
若草のようなわが妻よ。
事ことの語かたり傳つたえは、かようでございます。
そこで、そのお妃きさきが、酒盃さかずきをお取りになり、立ち寄り捧げて、お歌いになつた歌、
ヤチホコの神樣かみさま、
わたくしの大國主樣おおくにぬしさま。
あなたこそ男ですから
※(「廴+囘」)つている岬々みさきみさきに
※(「廴+囘」)つている埼さきごとに
若草のような方をお持ちになりましよう。
わたくしは女おんなのことですから
あなた以外に男は無く
あなた以外に夫おつとはございません。
ふわりと垂たれた織物おりものの下で、
暖あたたかい衾ふすまの柔やわらかい下したで、
白しろい衾ふすまのさやさやと鳴なる下したで、
泡雪あわゆきのような若々しい胸を
コウゾの綱のような白い腕で、
そつと叩いて手をさしかわし
玉のような手を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)して
足をのばしてお休み遊ばせ。
おいしいお酒さけをお上あがり遊あそばせ。
そこで盃さかずきを取とり交かわして、手てを懸かけ合あつて、今日までも鎭しずまつておいでになります。これらの歌は神語かむがたりと申す歌曲かきよくです。
系譜
――出雲系の、ある豪族の家系を語るもののようである。――
この大國主の神が、※形むなかた[#「匈/(胃−田)」、U+80F7、230-14]の沖つ宮においでになるタギリ姫の命と結婚して生んだ子はアヂスキタカヒコネの神、次にタカ姫の命、またの名はシタテル姫の命であります。このアヂスキタカヒコネの神は、今カモの大御神と申す神樣であります。
大國主の神が、またカムヤタテ姫の命と結婚して生んだ子は、コトシロヌシの神です。またヤシマムチの神の女むすめのトリトリの神と結婚して生んだ子は、トリナルミの神です。この神がヒナテリヌカダビチヲイコチニの神と結婚して生んだ子は、クニオシトミの神です。この神がアシナダカの神、またの名はヤガハエ姫と結婚して生んだ子は、ツラミカノタケサハヤヂヌミの神です。この神がアメノミカヌシの神の女のサキタマ姫と結婚して生んだ子は、ミカヌシ彦の神です。この神がオカミの神の女のヒナラシ姫と結婚して生んだ子は、タヒリキシマミの神です。この神がヒヒラギのソノハナマヅミの神の女のイクタマサキタマ姫の神と結婚して生んだ子は、ミロナミの神です。この神がシキヤマヌシの神の女のアヲヌマヌオシ姫と結婚して生んだ子は、ヌノオシトミトリナルミの神です。この神がワカヒルメの神と結婚して生んだ子は、アメノヒバラオホシナドミの神です。この神がアメノサギリの神の女のトホツマチネの神と結婚して生んだ子は、トホツヤマザキタラシの神です。
以上ヤシマジヌミの神からトホツヤマザキタラシの神までを十七代の神と申します。
スクナビコナの神
――オホアナムチの命としばしば竝んで語られるスクナビコナの神は、農民の間に語り傳えられた神で、ここでは蔓芋の種の擬人化として語られている。――
そこで大國主の命が出雲いずもの御大みほの御埼みさきにおいでになつた時に、波なみの上うえを蔓芋つるいものさやを割わつて船にして蛾がの皮をそつくり剥はいで著物きものにして寄よつて來る神樣があります。その名を聞きましたけれども答えません。また御從者おともの神たちにお尋ねになつたけれども皆知りませんでした。ところがひきがえるが言いうことには、「これはクエ彦がきつと知つているでしよう」と申しましたから、そのクエ彦を呼んでお尋ねになると、「これはカムムスビの神の御子みこでスクナビコナの神です」と申しました。依つてカムムスビの神に申し上げたところ、「ほんとにわたしの子だ。子どもの中でもわたしの手の股またからこぼれて落ちた子どもです。あなたアシハラシコヲの命と兄弟となつてこの國を作り堅めなさい」と仰せられました。それでそれから大國主とスクナビコナとお二人が竝んでこの國を作り堅めたのです。後にはそのスクナビコナの神は、海のあちらへ渡つて行つてしまいました。このスクナビコナの神のことを申し上げたクエ彦というのは、今いう山田の案山子かかしのことです。この神は足は歩あるきませんが、天下のことをすつかり知つている神樣です。
御諸山の神
――大和の三輪山にある大神おおみわ神社の鎭坐の縁起である。――
そこで大國主の命が心憂く思つて仰せられたことは、「わたしはひとりではどのようにしてこの國を作り得ましよう。どの神樣と一緒にわたしはこの國を作りましようか」と仰せられました。この時に海上を照らして寄つて來る神樣があります。その神の仰せられることには、「わたしに對してよくお祭をしたら、わたしが一緒になつて國を作りましよう。そうしなければ國はできにくいでしよう」と仰せられました。そこで大國主の命が申されたことには、「それならどのようにしてお祭を致しましよう」と申されましたら、「わたしを大和の國の青々と取り圍んでいる東の山の上にお祭りなさい」と仰せられました。これは御諸みもろの山においでになる神樣です。
大年の神の系譜
――前に出たスサノヲの命の系譜の中の大年の神の系譜で、一年中の耕作の經過を系譜化したものである。耕作に關する祭の詞から拔け出したものと見られる。――
オホトシの神が、カムイクスビの神の女のイノ姫と結婚して生んだ子は、オホクニミタマの神、次にカラの神、次にソホリの神、次にシラヒの神、次にヒジリの神の五神です。またカグヨ姫と結婚して生んだ子は、オホカグヤマトミの神、次にミトシの神の二神です。またアメシルカルミヅ姫と結婚して生んだ子はオキツ彦の神、次にオキツ姫の命、またの名はオホヘ姫の神です。これは皆樣の祭つている竈かまどの神であります。次にオホヤマクヒの神、またの名はスヱノオホヌシの神です。これは近江の國の比叡山ひえいざんにおいでになり、またカヅノの松の尾においでになる鏑矢かぶらやをお持ちになつている神樣であります。次にニハツヒの神、次にアスハの神、次にハヒキの神、次にカグヤマトミの神、次にハヤマトの神、次にニハノタカツヒの神、次にオホツチの神、またの名はツチノミオヤの神の九神です。
以上オホトシの神の子のオホクニミタマの神からオホツチの神まで合わせて十六神です。
さてハヤマトの神が、オホゲツ姫の神と結婚して生んだ子は、ワカヤマクヒの神、次にワカトシの神、次に女神のワカサナメの神、次にミヅマキの神、次にナツノタカツヒの神、またの名はナツノメの神、次にアキ姫の神、次にククトシの神、次にククキワカムロツナネの神です。
以上ハヤマトの神の子のワカヤマクヒの神からワカムロツナネの神まで合わせて八神です。 
 
五、天照らす大神と大國主の命 
天若日子
――天若日子に關する部分は、語部などによつて語られた物語の插入。――
天照らす大神のお言葉で、「葦原あしはらの水穗みずほの國くには我わが御子みこのマサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミの命のお治め遊あそばすべき國である」と仰せられて、天からお降くだしになりました。そこでオシホミミの命が天からの階段にお立ちになつて御覽ごらんになり、「葦原の水穗の國はひどくさわいでいる」と仰せられて、またお還りになつて天照らす大神に申されました。そこでタカミムスビの神、天照らす大神の御命令で天のヤスの河の河原に多くの神をお集めになつて、オモヒガネの神に思わしめて仰せになつたことには、「この葦原の中心の國はわたしの御子みこの治むべき國と定めた國である。それだのにこの國に暴威を振う亂暴な土著どちやくの神が多くあると思われるが、どの神を遣つかわしてこれを平定すべきであろうか」と仰せになりました。そこでオモヒガネの神及び多くの神たちが相談して、「ホヒの神を遣やつたらよろしいでございましよう」と申しました。そこでホヒの神を遣つかわしたところ、この神は大國主の命に諂へつらい著ついて三年たつても御返事申し上げませんでした。このような次第でタカミムスビの神天照らす大神がまた多くの神たちにお尋ねになつて、「葦原の中心の國に遣つかわしたホヒの神が久しく返事をしないが、またどの神を遣つたらよいだろうか」と仰せられました。そこでオモヒガネの神が申されるには、「アマツクニダマの神の子の天若日子あめわかひこを遣やりましよう」と申しました。そこでりつぱな弓矢ゆみやを天若日子あめわかひこに賜わつて遣つかわしました。しかるに天若日子はその國に降りついて大國主の命の女むすめの下照したてる姫ひめを妻とし、またその國を獲ようと思つて、八年たつても御返事申し上げませんでした。
そこで天照らす大神、タカミムスビの神が大勢の神にお尋ねになつたのには、「天若日子が久しく返事をしないが、どの神を遣して天若日子の留まつている仔細を尋ねさせようか」とお尋ねになりました。そこで大勢の神たちまたオモヒガネの神が申しますには、「キジの名鳴女ななきめを遣やりましよう」と申しました。そこでそのキジに、「お前が行いつて天若日子に尋ねるには、あなたを葦原の中心の國に遣したわけはその國の亂暴な神たちを平定せよというためです。何故に八年たつても御返事申し上げないのかと問え」と仰せられました。そこでキジの鳴女なきめが天から降つて來て、天若日子の門にある貴い桂かつらの木の上にいて詳しく天の神の仰せの通りに言いました。ここに天の探女さぐめという女がいて、このキジの言うことを聞いて天若日子に「この鳥は鳴く聲がよくありませんから射殺しておしまいなさい」と勸めましたから、天若日子は天の神の下さつたりつぱな弓矢をもつてそのキジを射殺しました。ところがその矢がキジの胸から通りぬけて逆樣に射上げられて天のヤスの河の河原においでになる天照らす大神高木たかぎの神の御許おんもとに到りました。この高木の神というのはタカミムスビの神の別の名です。その高木の神が弓矢を取つて御覽になると矢の羽に血がついております。そこで高木の神が「この矢は天若日子に與えた矢である」と仰せになつて、多くの神たちに見せて仰せられるには、「もし天若日子が命令通りに亂暴な神を射た矢が來たのなら、天若日子に當ることなかれ。そうでなくてもし不屆ふとどきな心があるなら天若日子はこの矢で死んでしまえ」と仰せられて、その矢をお取りになつて、その矢の飛んで來た穴から衝き返してお下しになりましたら、天若日子が朝床あさどこに寢ている胸の上に當つて死にました。かくしてキジは還つて參りませんから、今でも諺ことわざに「行いつたきりのキジのお使」というのです。それで天若日子の妻、下照したてる姫のお泣きになる聲が風のまにまに響いて天に聞えました。そこで天にいた天若日子の父のアマツクニダマの神、また天若日子のもとの妻子たちが聞いて、下りて來て泣き悲しんで、そこに葬式の家を作つて、ガンを死人の食物を持つ役とし、サギを箒ほうきを持つ役とし、カワセミを御料理人とし、スズメを碓うすを舂つく女とし、キジを泣く役の女として、かように定めて八日八夜というもの遊んでさわぎました。
この時アヂシキタカヒコネの神がおいでになつて、天若日子の亡なくなつたのを弔問される時に、天から降つて來た天若日子の父や妻が皆泣いて、「わたしの子は死ななかつた」「わたしの夫おつとは死ななかつたのだ」と言つて手足に取りすがつて泣き悲しみました。かように間違えた次第はこの御二方の神のお姿が非常によく似ていたからです。それで間違えたのでした。ここにアヂシキタカヒコネの神が非常に怒つて言われるには、「わたしは親友だから弔問に來たのだ。何だつてわたしを穢きたない死人に比くらべるのか」と言つて、お佩はきになつている長い劒を拔いてその葬式の家を切り伏せ、足で蹴飛とばしてしまいました。それは美濃の國のアヰミ河の河上の喪山もやまという山になりました。その持つて切きつた大刀たちの名はオホバカリといい、またカンドの劒ともいいます。そこでアヂシキタカヒコネの神が怒つて飛び去つた時に、その妹の下照る姫が兄君のお名前を顯そうと思つて歌つた歌は、
天の世界の若わかい織姫おりひめの
首くびに懸けている珠たまの飾かざり、
その珠の飾りの大きい珠のような方、
谷たに二ふたつ一度にお渡りになる
アヂシキタカヒコネの神でございます。
と歌いました。この歌は夷振ひなぶりです。
國讓り
――出雲の神が、託宣によつて國を讓つたことを語る。出雲大社の鎭坐縁起を、政治的に解釋したものと考えられる。――
かように天若日子もだめだつたので、天照らす大神の仰せになるには、「またどの神を遣したらよかろう」と仰せになりました。そこでオモヒガネの神また多くの神たちの申されるには、「天のヤス河の河上の天の石屋いわやにおいでになるアメノヲハバリの神がよろしいでしよう。もしこの神でなくば、その神の子のタケミカヅチの神を遣すべきでしよう。ヲハバリの神はヤスの河の水を逆樣さかさまに塞せきあげて道を塞いでおりますから、他の神では行かれますまい。特にアメノカクの神を遣してヲハバリの神に尋ねさせなければなりますまい」と申しました。依つてカクの神を遣して尋ねた時に、「謹しんでお仕え申しましよう。しかしわたくしの子のタケミカヅチの神を遣しましよう」と申して奉りました。そこでアメノトリフネの神をタケミカヅチの神に副えて遣されました。
そこでこのお二方の神が出雲の國のイザサの小濱おはまに降りついて、長い劒を拔いて波の上に逆樣に刺さし立てて、その劒のきつさきに安座あぐらをかいて大國主の命にお尋ねになるには、「天照らす大神、高木の神の仰せ言で問の使に來ました。あなたの領している葦原の中心の國は我が御子の治むべき國であると御命令がありました。あなたの心はどうですか」とお尋ねになりましたから、答えて申しますには「わたくしは何とも申しません。わたくしの子のコトシロヌシの神が御返事申し上ぐべきですが、鳥や魚の獵をしにミホの埼さきに行いつておつてまだ還つて參りません」と申しました。依つてアメノトリフネの神を遣してコトシロヌシの神を呼んで來てお尋ねになつた時に、その父の神樣に「この國は謹しんで天の神の御子に獻上なさいませ」と言つて、その船を踏み傾けて、逆樣さかさまに手をうつて青々とした神籬ひもろぎを作り成してその中に隱れてお鎭まりになりました。
そこで大國主の命にお尋ねになつたのは、「今あなたの子のコトシロヌシの神はかように申しました。また申すべき子がありますか」と問われました。そこで大國主の命は「またわたくしの子にタケミナカタの神があります。これ以外にはございません」と申される時に、タケミナカタの神が大きな石を手の上にさし上げて來て、「誰だ、わしの國に來て内緒話をしているのは。さあ、力くらべをしよう。わしが先にその手を掴つかむぞ」と言いました。そこでその手を取らせますと、立つている氷のようであり、劒の刃のようでありました。そこで恐れて退いております。今度はタケミナカタの神の手を取ろうと言つてこれを取ると、若いアシを掴むように掴みひしいで、投げうたれたので逃げて行きました。それを追つて信濃の國の諏訪すわの湖みずうみに追い攻めて、殺そうとなさつた時に、タケミナカタの神の申されますには、「恐れ多いことです。わたくしをお殺しなさいますな。この地以外には他の土地には參りますまい。またわたくしの父大國主の命の言葉に背きますまい。この葦原の中心の國は天の神の御子みこの仰せにまかせて獻上致しましよう」と申しました。
そこで更に還つて來てその大國主の命に問われたことには、「あなたの子どもコトシロヌシの神・タケミナカタの神お二方は、天の神の御子の仰せに背そむきませんと申しました。あなたの心はどうですか」と問いました。そこでお答え申しますには、「わたくしの子ども二人の申した通りにわたくしも違いません。この葦原の中心の國は仰せの通り獻上致しましよう。ただわたくしの住所を天の御子みこの帝位にお登りになる壯大な御殿の通りに、大磐石に柱を太く立て大空に棟木むなぎを高くあげてお作り下さるならば、わたくしは所々の隅に隱れておりましよう。またわたくしの子どもの多くの神はコトシロヌシの神を導みちびきとしてお仕え申しましたなら、背そむく神はございますまい」と、かように申して出雲の國のタギシの小濱おはまにりつぱな宮殿を造つて、水戸みなとの神の子孫のクシヤタマの神を料理役として御馳走をさし上げた時に、咒言を唱えてクシヤタマの神が鵜うになつて海底に入つて、底の埴土はにつちを咋くわえ出て澤山の神聖なお皿を作つて、また海草の幹みきを刈り取つて來て燧臼ひうちうすと燧杵ひうちきねを作つて、これを擦すつて火をつくり出して唱言となえごとを申したことは、「今わたくしの作る火は大空高くカムムスビの命の富み榮える新しい宮居の煤すすの長く垂たれ下さがるように燒たき上あげ、地の下は底の巖に堅く燒き固まらして、コウゾの長い綱を延ばして釣をする海人あまの釣り上げた大きな鱸すずきをさらさらと引き寄せあげて、机つくえもたわむまでにりつぱなお料理を獻上致しましよう」と申しました。かくしてタケミカヅチの神が天に還つて上つて葦原の中心の國を平定した有樣を申し上げました。 
 
六、ニニギの命 
天降
――本來は、祭の庭に神の降下することを説くものと解せられるが、政治的に解釋されており、諸氏の傳來の複合した形になつている。――
そこで天照らす大神、高木の神のお言葉で、太子オシホミミの命に仰せになるには、「今葦原の中心の國は平定し終つたと申すことである。それ故、申しつけた通りに降つて行つてお治めなされるがよい」と仰おおせになりました。そこで太子オシホミミの命が仰せになるには、「わたくしは降おりようとして支度したくをしております間あいだに子が生まれました。名はアメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギの命と申します。この子を降したいと思います」と申しました。この御子みこはオシホミミの命が高木の神の女むすめヨロヅハタトヨアキツシ姫の命と結婚されてお生うみになつた子がアメノホアカリの命・ヒコホノニニギの命のお二方なのでした。かようなわけで申されたままにヒコホノニニギの命に仰せ言があつて、「この葦原の水穗の國はあなたの治むべき國であると命令するのである。依よつて命令の通りにお降りなさい」と仰せられました。
ここにヒコホノニニギの命が天からお降くだりになろうとする時に、道の眞中まんなかにいて上は天を照てらし、下したは葦原の中心の國を照らす神がおります。そこで天照らす大神・高木の神の御命令で、アメノウズメの神に仰せられるには、「あなたは女ではあるが出會つた神に向き合つて勝つ神である。だからあなたが往つて尋ねることは、我が御子みこのお降くだりなろうとする道をかようにしているのは誰であるかと問え」と仰せになりました。そこで問われる時に答え申されるには、「わたくしは國の神でサルタ彦の神という者です。天の神の御子みこがお降りになると聞きましたので、御前みまえにお仕え申そうとして出迎えております」と申しました。
かくてアメノコヤネの命・フトダマの命・アメノウズメの命・イシコリドメの命・タマノオヤの命、合わせて五部族の神を副えて天から降らせ申しました。この時に先さきに天あめの石戸いわとの前で天照らす大神をお迎えした大きな勾玉まがたま、鏡また草薙くさなぎの劒、及びオモヒガネの神・タヂカラヲの神・アメノイハトワケの神をお副そえになつて仰せになるには、「この鏡こそはもつぱらわたしの魂たましいとして、わたしの前を祭るようにお祭り申し上げよ。次つぎにオモヒガネの神はわたしの御子みこの治められる種々いろいろのことを取り扱つてお仕え申せ」と仰せられました。この二神は伊勢神宮にお祭り申し上げております。なお伊勢神宮の外宮げくうにはトヨウケの神を祭つてあります。次にアメノイハトワケの神はまたの名はクシイハマドの神、またトヨイハマドの神といい、この神は御門の神です。タヂカラヲの神はサナの地においでになります。このアメノコヤネの命は中臣なかとみの連等むらじらの祖先、フトダマの命は忌部いみべの首等おびとらの祖先、ウズメの命は猿女さるめの君等きみらの祖先、イシコリドメの命は鏡作かがみつくりの連等の祖先、タマノオヤの命は玉祖たまのおやの連等の祖先であります。
猿女の君
――前にあつたウズメの命がサルタ彦の神を見顯す神話に接續するものである。猿女の君の系統の傳來で、もと遊離していたものを取り入れたのであろう。――
そこでアマツヒコホノニニギの命に仰せになつて、天上の御座を離れ、八重やえ立つ雲を押し分けて勢いよく道を押し分け、天からの階段によつて、下の世界に浮洲うきすがあり、それにお立たちになつて、遂ついに筑紫つくしの東方とうほうなる高千穗たかちほの尊い峰にお降くだり申さしめました。ここにアメノオシヒの命とアマツクメの命と二人が石の靫ゆきを負い、頭あたまが瘤こぶになつている大刀たちを佩はいて、強い弓を持ち立派な矢を挾んで、御前みまえに立つてお仕え申しました。このアメノオシヒの命は大伴おおともの連等むらじらの祖先、アマツクメの命は久米くめの直等あたえらの祖先であります。
ここに仰せになるには「この處は海外に向つて、カササの御埼みさきに行ゆき通つて、朝日の照り輝かがやく國、夕日の輝かがやく國である。此處こそはたいへん吉い處ところである」と仰せられて、地の下したの石根いわねに宮柱を壯大そうだいに立て、天上に千木ちぎを高く上げて宮殿を御造營遊ばされました。
ここにアメノウズメの命に仰せられるには、「この御前に立つてお仕え申し上げたサルタ彦の大神を、顯し申し上げたあなたがお送り申せ。またその神のお名前はあなたが受けてお仕え申せ」と仰せられました。この故に猿女さるめの君等はそのサルタ彦の男神の名を繼いで女を猿女の君というのです。そのサルタ彦の神はアザカにおいでになつた時に、漁すなどりをしてヒラブ貝に手を咋くい合わされて海水に溺れました。その海底に沈んでおられる時の名を底につく御魂みたまと申し、海水につぶつぶと泡が立つ時の名を粒立つぶたつ御魂と申し、水面に出て泡が開く時の名を泡咲あわさく御魂と申します。
ウズメの命はサルタ彦の神を送つてから還つて來て、悉く大小樣々の魚どもを集めて、「お前たちは天の神の御子にお仕え申し上げるか、どうですか」と問う時に、魚どもは皆「お仕え申しましよう」と申しました中に、海鼠なまこだけが申しませんでした。そこでウズメの命が海鼠に言うには、「この口は返事をしない口か」と言つて小刀かたなでその口を裂さきました。それで今でも海鼠の口は裂けております。かようの次第で、御世みよごとに志摩しまの國から魚類の貢物みつぎものを獻たてまつる時に猿女の君等に下くだされるのです。
木の花の咲くや姫
――人名に對する信仰が語られ、また古代の婚姻の風習から生じ易い疑惑の解決法が語られる。――
さてヒコホノニニギの命は、カササの御埼みさきで美しい孃子おとめにお遇いになつて、「どなたの女子むすめごですか」とお尋ねになりました。そこで「わたくしはオホヤマツミの神の女むすめの木この花の咲さくや姫です」と申しました。また「兄弟がありますか」とお尋ねになつたところ、「姉に石長姫いわながひめがあります」と申し上げました。依つて仰せられるには、「あなたと結婚けつこんをしたいと思うが、どうですか」と仰せられますと、「わたくしは何とも申し上げられません。父のオホヤマツミの神が申し上げるでしよう」と申しました。依つてその父オホヤマツミの神にお求めになると、非常に喜んで姉の石長姫いわながひめを副えて、澤山の獻上物を持たせて奉たてまつりました。ところがその姉は大變醜かつたので恐れて返し送つて、妹の木の花の咲くや姫だけを留とめて一夜お寢やすみになりました。しかるにオホヤマツミの神は石長姫をお返し遊ばされたのによつて、非常に恥じて申し送られたことは、「わたくしが二人を竝べて奉つたわけは、石長姫をお使いになると、天の神の御子みこの御壽命は雪が降り風が吹いても永久に石のように堅實においでになるであろう。また木の花の咲くや姫をお使いになれば、木の花の榮えるように榮えるであろうと誓言をたてて奉りました。しかるに今石長姫を返して木の花の咲くや姫を一人お留めなすつたから、天の神の御子の御壽命は、木の花のようにもろくおいでなさることでしよう」と申しました。こういう次第で、今日に至るまで天皇の御壽命が長くないのです。
かくして後に木の花の咲くや姫が參り出て申すには、「わたくしは姙娠にんしんしまして、今子を産む時になりました。これは天の神の御子ですから、勝手にお生み申し上あぐべきではございません。そこでこの事を申し上げます」と申されました。そこで命が仰せになつて言うには、「咲くや姫よ、一夜で姙はらんだと言うが、國の神の子ではないか」と仰せになつたから、「わたくしの姙んでいる子が國の神の子ならば、生む時に無事でないでしよう。もし天の神の御子でありましたら、無事でありましよう」と申して、戸口の無い大きな家を作つてその家の中におはいりになり、粘土ねばつちですつかり塗りふさいで、お生みになる時に當つてその家に火をつけてお生みになりました。その火が眞盛まつさかりに燃える時にお生まれになつた御子はホデリの命で、これは隼人等はやとらの祖先です。次にお生まれになつた御子はホスセリの命、次にお生まれになつた御子はホヲリの命、またの名はアマツヒコヒコホホデミの命でございます。 
 
七、ヒコホホデミの命 
海幸うみさちと山幸
――西方の海岸地帶に傳わつた海神の宮訪問の神話で、異郷説話の一つである。政治的な意味として隼人の服從が語られている。――
ニニギの命の御子のうち、ホデリの命は海幸彦うみさちびことして、海のさまざまの魚をお取りになり、ホヲリの命は山幸彦として山に住む鳥獸の類をお取りになりました。ところでホヲリの命が兄君ホデリの命に、「お互に道具えものを取り易かえて使つて見よう」と言つて、三度乞われたけれども承知しませんでした。しかし最後にようやく取り易えることを承諾しました。そこでホヲリの命が釣道具を持つて魚をお釣りになるのに、遂に一つも得られません。その鉤はりまでも海に失つてしまいました。ここにその兄のホデリの命がその鉤を乞うて、「山幸やまさちも自分の幸さちだ。海幸うみさちも自分の幸さちだ。やはりお互に幸さちを返そう」と言う時に、弟のホヲリの命が仰せられるには、「あなたの鉤は魚を釣りましたが、一つも得られないで遂に海でなくしてしまいました」と仰せられますけれども、なおしいて乞い徴はたりました。そこで弟がお佩びになつている長い劒を破つて、五百の鉤を作つて償つぐなわれるけれども取りません。また千の鉤を作つて償われるけれども受けないで、「やはりもとの鉤をよこせ」と言いました。
そこでその弟が海邊に出て泣き患うれえておられた時に、シホツチの神が來て尋ねるには、「貴い御子樣みこさまの御心配なすつていらつしやるのはどういうわけですか」と問いますと、答えられるには、「わたしは兄と鉤を易えて鉤をなくしました。しかるに鉤を求めますから多くの鉤を償つぐないましたけれども受けないで、もとの鉤をよこせと言います。それで泣き悲しむのです」と仰せられました。そこでシホツチの神が「わたくしが今あなたのために謀はかりごとを※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)めぐらしましよう」と言つて、隙間すきまの無い籠の小船を造つて、その船にお乘せ申し上げて教えて言うには、「わたしがその船を押し流しますから、すこしいらつしやい。道みちがありますから、その道の通りにおいでになると、魚の鱗うろこのように造つてある宮があります。それが海神の宮です。その御門ごもんの處においでになると、傍そばの井の上にりつぱな桂の木がありましよう。その木の上においでになると、海神の女が見て何とか致しましよう」と、お教え申し上げました。
依よつて教えた通り、すこしおいでになりましたところ、すべて言つた通りでしたから、その桂の木に登つておいでになりました。ここに海神の女むすめのトヨタマ姫の侍女が玉の器を持つて、水を汲くもうとする時に、井に光がさしました。仰いで見るとりつぱな男がおります。不思議に思つていますと、ホヲリの命が、その侍女に、「水を下さい」と言われました。侍女がそこで水を汲くんで器に入れてあげました。しかるに水をお飮みにならないで、頸くびにお繋けになつていた珠をお解きになつて口に含んでその器にお吐き入れなさいました。しかるにその珠が器について、女が珠を離すことが出來ませんでしたので、ついたままにトヨタマ姫にさし上げました。そこでトヨタマ姫が珠を見て、女に「門の外に人がいますか」と尋ねられましたから、「井の上の桂の上に人がおいでになります。それは大變りつぱな男でいらつしやいます。王樣にも勝まさつて尊いお方です。その人が水を求めましたので、さし上げましたところ、水をお飮みにならないで、この珠を吐き入れましたが、離せませんので入れたままに持つて來てさし上げたのです」と申しました。そこでトヨタマ姫が不思議にお思いになつて、出て見て感心して、そこで顏を見合つて、父に「門の前にりつぱな方がおります」と申しました。そこで海神が自分で出て見て、「これは貴い御子樣だ」と言つて、内にお連れ申し上げて、海驢あじかの皮八枚を敷き、その上に絹きぬの敷物を八枚敷いて、御案内申し上げ、澤山の獻上物を具えて御馳走して、やがてその女トヨタマ姫を差し上げました。そこで三年になるまで、その國に留まりました。
ここにホヲリの命は初めの事をお思いになつて大きな溜息をなさいました。そこでトヨタマ姫がこれをお聞きになつてその父に申しますには、「あの方は三年お住みになつていますが、いつもお歎きになることもありませんですのに、今夜大きな溜息を一つなさいましたのは何か仔細がありましようか」と申しましたから、その父の神樣が聟の君に問われるには、「今朝わたくしの女の語るのを聞けば、三年おいでになるけれどもいつもお歎きになることも無かつたのに、今夜大きな溜息を一つなさいましたと申しました。何かわけがありますか。また此處においでになつた仔細はどういう事ですか」とお尋ね申しました。依つてその大神に詳しく、兄が無くなつた鉤はりを請求する有樣を語りました。そこで海の神が海中の魚を大小となく悉く集めて、「もしこの鉤を取つた魚があるか」と問いました。ところがその多くの魚どもが申しますには、「この頃鯛たいが喉のどに骨をたてて物が食えないと言つております。きつとこれが取つたのでしよう」と申しました。そこで鯛の喉を探りましたところ、鉤があります。そこで取り出して洗つてホヲリの命に獻りました時に、海神がお教え申し上げて言うのに、「この鉤を兄樣にあげる時には、この鉤は貧乏鉤びんぼうばりの悲しみ鉤ばりだと言つて、うしろ向きにおあげなさい。そして兄樣が高い所に田を作つたら、あなたは低い所に田をお作りなさい。兄樣が低い所に田を作つたら、あなたは高い所に田をお作りなさい。そうなすつたらわたくしが水を掌つかさどつておりますから、三年の間にきつと兄樣が貧しくなるでしよう。もしこのようなことを恨んで攻め戰つたら、潮しおの滿みちる珠を出して溺らせ、もし大變にあやまつて來たら、潮しおの乾ひる珠を出して生かし、こうしてお苦しめなさい」と申して、潮の滿ちる珠潮の乾る珠、合わせて二つをお授け申し上げて、悉く鰐わにどもを呼び集め尋ねて言うには、「今天の神の御子の日ひの御子樣みこさまが上の國においでになろうとするのだが、お前たちは幾日にお送り申し上げて御返事するか」と尋ねました。そこでそれぞれに自分の身の長さのままに日數を限つて申す中に、一丈の鰐わにが「わたくしが一日にお送り申し上げて還つて參りましよう」と申しました。依つてその一丈の鰐に「それならばお前がお送り申し上げよ。海中を渡る時にこわがらせ申すな」と言つて、その鰐の頸にお乘せ申し上げて送り出しました。はたして約束通り一日にお送り申し上げました。その鰐が還ろうとした時に、紐の附いている小刀をお解きになつて、その鰐の頸につけてお返しになりました。そこでその一丈の鰐をば、今でもサヒモチの神と言つております。
かくして悉く海神の教えた通りにして鉤を返されました。そこでこれよりいよいよ貧しくなつて更に荒い心を起して攻めて來ます。攻めようとする時は潮の盈ちる珠を出して溺らせ、あやまつてくる時は潮の乾る珠を出して救い、苦しめました時に、おじぎをして言うには、「わたくしは今から後、あなた樣の晝夜の護衞兵となつてお仕え申し上げましよう」と申しました。そこで今に至るまで隼人はやとはその溺れた時のしわざを演じてお仕え申し上げるのです。
トヨタマ姫
――前の説話の續きで、男が禁止を破ることによつて、別離になることを語る。この種の説話の常型である。――
ここに海神の女、トヨタマ姫の命が御自身で出ておいでになつて申しますには、「わたくしは以前から姙娠にんしんしておりますが、今御子を産むべき時になりました。これを思うに天の神の御子を海中でお生うみ申し上ぐべきではございませんから出て參りました」と申し上げました。そこでその海邊の波際なぎさに鵜うの羽を屋根にして産室を造りましたが、その産室がまだ葺き終らないのに、御子が生まれそうになりましたから、産室におはいりになりました。その時夫の君に申されて言うには「すべて他國の者は子を産む時になれば、その本國の形になつて産むのです。それでわたくしももとの身になつて産もうと思いますが、わたくしを御覽遊ばしますな」と申されました。ところがその言葉を不思議に思われて、今盛んに子をお産みになる最中さいちゆうに覗のぞいて御覽になると、八丈もある長い鰐になつて匐はいのたくつておりました。そこで畏れ驚いて遁げ退きなさいました。しかるにトヨタマ姫の命は窺見のぞきみなさつた事をお知りになつて、恥かしい事にお思いになつて御子を産み置いて「わたくしは常に海の道を通つて通かよおうと思つておりましたが、わたくしの形を覗のぞいて御覽になつたのは恥かしいことです」と申して、海の道をふさいで歸つておしまいになりました。そこでお産うまれになつた御子の名をアマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズの命と申し上げます。しかしながら後には窺見のぞきみなさつた御心を恨みながらも戀しさにお堪えなさらないで、その御子を御養育申し上げるために、その妹のタマヨリ姫を差しあげ、それに附けて歌を差しあげました。その歌は、
赤い玉は緒おまでも光りますが、
白玉のような君のお姿は
貴たつといことです。
そこでその夫の君がお答えなさいました歌は、
水鳥みずとりの鴨かもが降おり著つく島で
契ちぎりを結んだ私の妻は忘れられない。
世の終りまでも。
このヒコホホデミの命は高千穗の宮に五百八十年おいでなさいました。御陵ごりようはその高千穗の山の西にあります。
アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズの命は、叔母のタマヨリ姫と結婚してお生みになつた御子の名は、イツセの命・イナヒの命・ミケヌの命・ワカミケヌの命、またの名はトヨミケヌの命、またの名はカムヤマトイハレ彦の命の四人です。ミケヌの命は波の高みを蹈んで海外の國へとお渡りになり、イナヒの命は母の國として海原におはいりになりました。 
 
古事記 中の卷

 

一、神武天皇 
東征
――日向から發して大和にはいろうとして失敗することを語る。速吸の門の物語の位置が地理の實際と合わないのは、諸氏の傳來の合併だからである。――
カムヤマトイハレ彦の命(神武天皇)、兄君のイツセの命とお二方、筑紫の高千穗の宮においでになつて御相談なさいますには、「何處の地におつたならば天下を泰平にすることができるであろうか。やはりもつと東に行こうと思う」と仰せられて、日向の國からお出になつて九州の北方においでになりました。そこで豐後ぶんごのウサにおいでになりました時に、その國の人のウサツ彦・ウサツ姫という二人が足一つ騰あがりの宮を作つて、御馳走を致しました。其處からお遷りになつて、筑前の岡田の宮に一年おいでになり、また其處からお上りになつて安藝のタケリの宮に七年おいでになりました。またその國からお遷りになつて、備後びんごの高島の宮に八年おいでになりました。
速吸はやすいの門と
その國から上のぼつておいでになる時に、龜の甲こうに乘つて釣をしながら勢いよく身體からだを振ふつて來る人に速吸はやすいの海峽かいきようで遇いました。そこで呼び寄せて、「お前は誰か」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神です」と申しました。また「お前は海の道を知つているか」とお尋ねになりますと「よく知つております」と申しました。また「供をして來るか」と問いましたところ、「お仕え致しましよう」と申しました。そこで棹さおをさし渡して御船に引き入れて、サヲネツ彦という名を下さいました。
イツセの命みこと
その國から上つておいでになる時に、難波なにわの灣わんを經て河内の白肩の津に船をお泊とめになりました。この時に、大和の國のトミに住んでいるナガスネ彦が軍を起して待ち向つて戰いましたから、御船に入れてある楯を取つて下り立たれました。そこでその土地を名づけて楯津と言います。今でも日下くさかの蓼津たでつと言いつております。かくてナガスネ彦と戰われた時に、イツセの命が御手にナガスネ彦の矢の傷をお負いになりました。そこで仰せられるのには「自分は日の神の御子として、日に向つて戰うのはよろしくない。そこで賤しい奴の傷を負つたのだ。今から※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて行つて日を背中にして撃とう」と仰せられて、南の方から※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つておいでになる時に、和泉いずみの國のチヌの海に至つてその御手の血をお洗いになりました。そこでチヌの海とは言うのです。其處から※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つておいでになつて、紀伊きいの國のヲの水門みなとにおいでになつて仰せられるには、「賤しい奴のために手傷を負つて死ぬのは殘念である」と叫ばれてお隱れになりました。それで其處をヲの水門みなとと言います。御陵は紀伊の國の竈山かまやまにあります。
熊野から大和へ
――神話の要素の多い部分で、神話の成立過程も窺われる。――
カムヤマトイハレ彦の命は、その土地から※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つておいでになつて、熊野においでになつた時に、大きな熊がぼうつと現れて、消えてしまいました。ここにカムヤマトイハレ彦の命は俄に氣を失われ、兵士どもも皆氣を失つて仆れてしまいました。この時熊野のタカクラジという者が一つの大刀をもつて天の神の御子の臥しておいでになる處に來て奉る時に、お寤さめになつて、「隨分寢たことだつた」と仰せられました。その大刀をお受け取りなさいました時に、熊野の山の惡い神たちが自然に皆切り仆されて、かの正氣を失つた軍隊が悉く寤さめました。そこで天の神の御子がその大刀を獲た仔細をお尋ねになりましたから、タカクラジがお答え申し上げるには、「わたくしの夢に、天照らす大神と高木の神のお二方の御命令で、タケミカヅチの神を召して、葦原の中心の國はひどく騷いでいる。わたしの御子みこたちは困つていらつしやるらしい。あの葦原の中心の國はもつぱらあなたが平定した國である。だからお前タケミカヅチの神、降つて行けと仰せになりました。そこでタケミカヅチの神がお答え申し上げるには、わたくしが降りませんでも、その時に國を平定した大刀がありますから、これを降しましよう。この大刀を降す方法は、タカクラジの倉の屋根に穴をあけて其處から墮し入れましようと申しました。そこでわたくしに、お前は朝目が寤さめたら、この大刀を取つて天の神の御子に奉れとお教えなさいました。そこで夢の教えのままに、朝早く倉を見ますとほんとうに大刀がありました。依つてこの大刀を奉るのです」と申しました。この大刀の名はサジフツの神、またの名はミカフツの神、またの名はフツノミタマと言います。今石上いそのかみ神宮にあります。
ここにまた高木の神の御命令でお教えになるには、「天の神の御子よ、これより奧にはおはいりなさいますな。惡い神が澤山おります。今天から八咫烏やたがらすをよこしましよう。その八咫烏が導きするでしようから、その後よりおいでなさい」とお教え申しました。はたして、その御教えの通り八咫烏の後からおいでになりますと、吉野河の下流に到りました。時に河に筌うえを入いれて魚を取る人があります。そこで天の神の御子が「お前は誰ですか」とお尋ねになると、「わたくしはこの土地にいる神で、ニヘモツノコであります」と申しました。これは阿陀の鵜飼の祖先です。それからおいでになると、尾のある人が井から出て來ました。その井は光つております。「お前は誰ですか」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神、名はヰヒカと申します」と申しました。これは吉野の首等おびとらの祖先です。そこでその山におはいりになりますと、また尾のある人に遇いました。この人は巖を押し分けて出てきます。「お前は誰ですか」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神で、イハオシワクであります。今天の神の御子がおいでになりますと聞きましたから、參り出て來ました」と申しました。これは吉野の國栖くずの祖先です。それから山坂を蹈み穿うがつて越えてウダにおいでになりました。依つて宇陀うだのウガチと言います。
久米歌
――幾首かの久米歌に結びついている物語である。――
この時に宇陀うだにエウカシ・オトウカシという二人ふたりがあります。依つてまず八咫烏やたがらすを遣つて、「今天の神の御子がおいでになりました。お前方はお仕え申し上げるか」と問わしめました。しかるにエウカシは鏑矢かぶらやを以つてその使を射返しました。その鏑矢の落ちた處をカブラ埼さきと言います。「待つて撃とう」と言つて軍を集めましたが、集め得ませんでしたから、「お仕え申しましよう」と僞つて、大殿を作つてその殿の内に仕掛を作つて待ちました時に、オトウカシがまず出て來て、拜して、「わたくしの兄のエウカシは、天の神の御子のお使を射返し、待ち攻めようとして兵士を集めましたが集め得ませんので、御殿を作りその内に仕掛を作つて待ち取ろうとしております。それで出て參りましてこのことを申し上げます」と申しました。そこで大伴おおともの連等むらじらの祖先そせんのミチノオミの命、久米くめの直等あたえらの祖先のオホクメの命二人がエウカシを呼んで罵ののしつて言うには、「貴樣が作つてお仕え申し上げる御殿の内には、自分が先に入つてお仕え申そうとする樣をあきらかにせよ」と言つて、刀の柄つかを掴つかみ矛ほこをさしあて矢をつがえて追い入れる時に、自分の張つて置いた仕掛に打たれて死にました。そこで引き出して、斬り散らしました。その土地を宇陀うだの血原ちはらと言います。そうしてそのオトウカシが獻上した御馳走を悉く軍隊に賜わりました。その時に歌をお詠みになりました。それは、
宇陀の高臺たかだいでシギの網あみを張る。
わたしが待まつているシギは懸からないで
思いも寄らないタカが懸かつた。
古妻ふるづまが食物を乞うたら
ソバノキの實のように少しばかりを削つてやれ。
新しい妻が食物を乞うたら
イチサカキの實のように澤山に削つてやれ。
ええやつつけるぞ。ああよい氣味きみだ。
そのオトウカシは宇陀の水取もひとり等の祖先です。
次に、忍坂おさかの大室おおむろにおいでになつた時に、尾のある穴居の人八十人の武士がその室にあつて威張いばつております。そこで天の神の御子の御命令でお料理を賜わり、八十人の武士に當てて八十人の料理人を用意して、その人毎に大刀を佩はかして、その料理人どもに「歌を聞いたならば一緒に立つて武士を斬れ」とお教えなさいました。その穴居の人を撃とうとすることを示した歌は、
忍坂おさかの大きな土室つちむろに
大勢の人が入り込んだ。
よしや大勢の人がはいつていても
威勢のよい久米くめの人々が
瘤大刀こぶたちの石大刀いしたちでもつて
やつつけてしまうぞ。
威勢のよい久米の人々が
瘤大刀の石大刀でもつて
そら今撃つがよいぞ。
かように歌つて、刀を拔いて一時に打ち殺してしまいました。
その後、ナガスネ彦をお撃ちになろうとした時に、お歌いになつた歌は、
威勢のよい久米の人々の
アワの畑はたけには臭いニラが一本ぽん生はえている。
その根ねのもとに、その芽めをくつつけて
やつつけてしまうぞ。
また、
威勢のよい久米の人々の
垣本かきもとに植えたサンシヨウ、
口がひりひりして恨みを忘れかねる。
やつつけてしまうぞ。
また、
神風かみかぜの吹く伊勢の海の
大きな石に這い※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)まわつている
細螺しただみのように這い※(「廴+囘」)つて
やつつけてしまうぞ。
また、エシキ、オトシキをお撃ちになりました時に、御軍の兵士たちが、少し疲れました。そこでお歌い遊ばされたお歌、
楯たてを竝ならべて射いる、そのイナサの山の
樹この間まから行き見守つて
戰爭いくさをすると腹が減へつた。
島しまにいる鵜うを養かう人々よ
すぐ助けに來てください。
最後にトミのナガスネ彦をお撃うちになりました。時にニギハヤビの命が天の神の御子のもとに參つて申し上げるには、「天の神の御子が天からお降りになつたと聞きましたから、後を追つて降つて參りました」と申し上げて、天から持つて來た寶物を捧げてお仕え申しました。このニギハヤビの命がナガスネ彦の妹トミヤ姫と結婚して生んだ子がウマシマヂの命で、これが物部もののべの連・穗積の臣・采女うねめの臣等の祖先です。そこでかようにして亂暴な神たちを平定し、服從しない人どもを追い撥はらつて、畝傍うねびの橿原かしはらの宮において天下をお治めになりました。
神の御子
――英雄や佳人などを、神が通つて生ませた子だとすることは、崇神天皇の卷にもあり、廣く信じられていたところである。――
はじめ日向ひうがの國においでになつた時に、阿多あたの小椅おばしの君の妹のアヒラ姫という方と結婚して、タギシミミの命・キスミミの命とお二方の御子がありました。しかし更に皇后となさるべき孃子おとめをお求めになつた時に、オホクメの命の申しますには、「神の御子と傳える孃子があります。そのわけは三嶋みしまのミゾクヒの娘むすめのセヤダタラ姫という方が非常に美しかつたので、三輪みわのオホモノヌシの神がこれを見て、その孃子が厠かわやにいる時に、赤く塗つた矢になつてその河を流れて來ました。その孃子が驚いてその矢を持つて來て床の邊ほとりに置きましたところ、たちまちに美しい男になつて、その孃子と結婚して生んだ子がホトタタライススキ姫であります。後にこの方は名をヒメタタライスケヨリ姫と改めました。これはそのホトという事を嫌つて、後に改めたのです。そういう次第で、神の御子と申すのです」と申し上げました。
ある時七人の孃子が大和のタカサジ野で遊んでいる時に、このイスケヨリ姫も混まじつていました。そこでオホクメの命が、そのイスケヨリ姫を見て、歌で天皇に申し上げるには、
大和の國のタカサジ野のを
七人行く孃子おとめたち、
その中の誰をお召しになります。
このイスケヨリ姫は、その時に孃子たちの前さきに立つておりました。天皇はその孃子たちを御覽になつて、御心にイスケヨリ姫が一番前さきに立つていることを知られて、お歌でお答えになりますには、
まあまあ一番先に立つている娘こを妻にしましようよ。
ここにオホクメの命が、天皇の仰せをそのイスケヨリ姫に傳えました時に、姫はオホクメの命の眼の裂目さけめに黥いれずみをしているのを見て不思議に思つて、
天地間てんちかんの千人にん勝まさりの勇士ゆうしだというに、どうして目めに黥いれずみをしているのです。
と歌いましたから、オホクメの命が答えて歌うには、
お孃さんにすぐに逢おうと思つて目に黥いれずみをしております。
と歌いました。かくてその孃子は「お仕え申しあげましよう」と申しました。
そのイスケヨリ姫のお家はサヰ河のほとりにありました。この姫のもとにおいでになつて一夜お寢やすみになりました。その河をサヰ河というわけは、河のほとりに山百合やまゆり草が澤山ありましたから、その名を取つて名づけたのです。山百合草のもとの名はサヰと言つたのです。後にその姫が宮中に參上した時に、天皇のお詠みになつた歌は、
アシ原のアシの繁つた小屋に
スゲの蓆むしろを清らかに敷いて、
二人ふたりで寢たことだつたね。
かくしてお生まれになつた御子は、ヒコヤヰの命・カムヤヰミミの命・カムヌナカハミミの命のお三方です。
タギシミミの命の變
――自分の家の祖先は、天皇の兄に當るのだが、なぜ臣下となつたかということを語る説話。前にも隼人の話はそれであり、後にも例が多い。カムヤヰミミの命の子孫というオホの臣が、古事記の撰者の太の安萬侶の家であることに注意。――
天皇がお隱れになつてから、その庶兄ままあにのタギシミミの命が、皇后のイスケヨリ姫と結婚した時に、三人の弟たちを殺ころそうとして謀はかつたので、母君ははぎみのイスケヨリ姫が御心配になつて、歌でこの事を御子たちにお知らせになりました。その歌は、
サヰ河の方から雲が立ち起つて、
畝傍うねび山の樹の葉が騷いでいる。
風が吹き出しますよ。
畝傍山は晝は雲が動き、
夕暮になれば風が吹き出そうとして
樹の葉が騷いでいる。
そこで御子たちがお聞きになつて、驚いてタギシミミを殺そうとなさいました時に、カムヌナカハミミの命が、兄君のカムヤヰミミの命に、「あなたは武器を持つてはいつてタギシミミをお殺しなさいませ」と申しました。そこで武器を持つて殺そうとされた時に、手足が震えて殺すことができませんでした。そこで弟のカムヌナカハミミの命が兄君の持つておられる武器を乞い取つて、はいつてタギシミミを殺しました。そこでまた御名みなを讚たたえてタケヌナカハミミの命と申し上げます。
かくてカムヤヰミミの命が弟のタケヌナカハミミの命に國を讓つて申されるには、「わたしは仇を殺すことができません。それをあなたが殺しておしまいになりました。ですからわたしは兄であつても、上にいることはできません。あなたが天皇になつて天下をお治め遊ばせ。わたしはあなたを助けて祭をする人としてお仕え申しましよう」と申しました。そこでそのヒコヤヰの命は、茨田うまらたの連むらじ・手島の連の祖先です。カムヤヰミミの命は、意富おおの臣おみ・小子部ちいさこべの連・坂合部の連・火の君・大分おおきたの君・阿蘇あその君・筑紫の三家みやけの連・雀部さざきべの臣・雀部の造みやつこ・小長谷おはつせの造・都祁つげの直あたえ・伊余いよの國の造・科野しなのの國の造・道の奧の石城いわきの國の造・常道ひたちの仲の國の造・長狹ながさの國の造・伊勢の船木ふなきの直・尾張の丹羽にわの臣・島田の臣等の祖先です。カムヌナカハミミの命は、天下をお治めになりました。すべてこのカムヤマトイハレ彦の天皇は、御歳おとし百三十七歳、御陵は畝傍山の北の方の白檮かしの尾おの上えにあります。 
 
二、綏靖すいせい天皇以後八代 
綏靖天皇
――以下八代は、帝紀の部分だけで、本辭を含んでいない。この項など、帝紀の典型的な例と見られる。――
カムヌナカハミミの命(綏靖天皇すいせいてんのう)、大和の國の葛城かずらきの高岡の宮においでになつて天下をお治め遊ばされました。この天皇、シキの縣主あがたぬしの祖先のカハマタ姫と結婚してお生みになつた御子はシキツ彦タマデミの命お一方です。天皇は御年四十五歳、御陵は衝田つきだの岡にあります。
安寧あんねい天皇
シキツ彦タマデミの命(安寧天皇)、大和の片鹽かたしおの浮穴うきあなの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇はカハマタ姫の兄の縣主あがたぬしハエの女のアクト姫と結婚してお生みになつた御子は、トコネツ彦イロネの命・オホヤマト彦スキトモの命・シキツ彦の命のお三方です。この天皇の御子たち合わせてお三方の中、オホヤマト彦スキトモの命は、天下をお治めになりました。次にシキツ彦の命の御子がお二方あつて、お一方の子孫は、伊賀の須知の稻置いなき・那婆理なはりの稻置・三野の稻置の祖先です。お一方の御子ワチツミの命は淡路の御井みいの宮においでになり、姫宮がお二方おありになりました。その姉君あねぎみはハヘイロネ、またの名はオホヤマトクニアレ姫の命、妹君はハヘイロドです。この天皇の御年四十九歳、御陵は畝傍山のミホトにあります。
懿徳いとく天皇
オホヤマト彦スキトモの命(懿徳天皇)、大和の輕かるの境岡さかいおかの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇はシキの縣主あがたぬしの祖先フトマワカ姫の命、またの名はイヒヒ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、ミマツ彦カヱシネの命とタギシ彦の命とお二方です。このミマツ彦カヱシネの命は天下をお治めなさいました。次にタギシ彦の命は、血沼ちぬの別わけ・多遲麻たじまの竹の別・葦井あしいの稻置いなきの祖先です。天皇は御年四十五歳、御陵は畝傍山のマナゴ谷の上にあります。
孝昭天皇
ミマツ彦カヱシネの命(孝昭天皇)、大和の葛城の掖上わきがみの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は尾張おわりの連の祖先のオキツヨソの妹ヨソタホ姫の命と結婚してお生みになつた御子はアメオシタラシ彦の命とオホヤマトタラシ彦クニオシビトの命とお二方です。このオホヤマトタラシ彦クニオシビトの命は天下をお治めなさいました。兄のアメオシタラシ彦の命は・[#「・」はママ]春日の臣・大宅おおやけの臣・粟田の臣・小野の臣・柿本の臣・壹比韋いちひいの臣・大坂の臣・阿那の臣・多紀たきの臣・羽栗の臣・知多の臣・牟耶むざの臣・都怒つの山の臣・伊勢の飯高の君・壹師の君・近つ淡海の國の造の祖先です。天皇は御年九十三歳、御陵は掖上の博多はかた山の上にあります。
孝安天皇
オホヤマトタラシ彦クニオシビトの命(孝安天皇)、大和の葛城の室の秋津島の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は姪めいのオシカ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、オホキビノモロススの命とオホヤマトネコ彦フトニの命とお二方です。このオホヤマトネコ彦フトニの命は天下をお治めなさいました。天皇は御年百二十三歳、御陵は玉手の岡の上にあります。
孝靈天皇
オホヤマトネコ彦フトニの命(孝靈天皇)、大和の黒田の廬戸いおとの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、トヲチの縣主の祖先のオホメの女のクハシ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、オホヤマトネコ彦クニクルの命お一方です。また春日かすがのチチハヤマワカ姫と結婚してお生みになつた御子は、チチハヤ姫の命お一方です。オホヤマトクニアレ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、ヤマトトモモソ姫の命・ヒコサシカタワケの命・ヒコイサセリ彦の命、またの名はオホキビツ彦の命・ヤマトトビハヤワカヤ姫のお四方です。またそのアレ姫の命の妹ハヘイロドと結婚してお生みになつた御子は、ヒコサメマの命とワカヒコタケキビツ彦の命とお二方です。この天皇の御子みこは合わせて八人にんおいでになりました。男王五人、女王三人です。
そこでオホヤマトネコ彦クニクルの命は天下をお治めなさいました。オホキビツ彦の命とワカタケキビツ彦の命とは、お二方で播磨はりまの氷ひの河かわの埼さきに忌瓮いわいべを据すえて神かみを祭まつり、播磨からはいつて吉備きびの國を平定されました。このオホキビツ彦の命は、吉備の上の道の臣の祖先です。次にワカヒコタケキビツ彦の命は、吉備の下の道の臣・笠の臣の祖先です。次にヒコサメマの命は、播磨の牛鹿うしかの臣の祖先です。次にヒコサシカタワケの命は、高志こしの利波となみの臣・豐國の國前さきの臣・五百原の君・角鹿の濟わたりの直の祖先です。天皇は御年百六歳、御陵は片岡の馬坂うまさかの上にあります。
孝元天皇
――タケシウチの宿禰の諸子をあげているのは豪族の祖先だからである。――
オホヤマトネコ彦クニクルの命(孝元天皇)、大和の輕の堺原さかいはらの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は穗積ほずみの臣等の祖先のウツシコヲの命の妹のウツシコメの命と結婚してお生みになつた御子は大彦おおびこの命・スクナヒコタケヰココロの命・ワカヤマトネコ彦オホビビの命のお三方です。またウツシコヲの命の女のイカガシコメの命と結婚してお生みになつた御子はヒコフツオシノマコトの命お一方です。また河内のアヲタマの女のハニヤス姫と結婚してお生みになつた御子はタケハニヤス彦の命お一方です。この天皇の御子たち合わせてお五方いつかたおいでになります。このうちワカヤマトネコ彦オホビビの命は天下をお治めなさいました。その兄、大彦の命の子タケヌナカハワケの命は阿部の臣等の祖先です。次にヒコイナコジワケの命は膳かしわでの臣の祖先です。ヒコフツオシノマコトの命が、尾張おわりの連の祖先のオホナビの妹の葛城かずらきのタカチナ姫と結婚して生んだ子はウマシウチの宿禰すくね、これは山代やましろの内の臣の祖先です。また木の國くにの造みやつこの祖先のウヅ彦の妹のヤマシタカゲ姫と結婚して生んだ子はタケシウチの宿禰です。このタケシウチの宿禰の子は合わせて九人にんあります。男七人女二人です。そのハタノヤシロの宿禰は波多の臣・林の臣・波美の臣・星川の臣・淡海の臣・長谷部の君の祖先です。コセノヲカラの宿禰は許勢の臣・雀部の臣・輕部の臣の祖先です。ソガノイシカハの宿禰は蘇我の臣・川邊の臣・田中の臣・高向たかむくの臣・小治田おはりだの臣・櫻井の臣・岸田の臣等の祖先です。ヘグリノツクの宿禰すくねは、平群の臣・佐和良の臣・馬の御※(「識」の「言」に代えて「木」、第4水準2-15-49)みくいの連等の祖先です。キノツノの宿禰すくねは、木の臣・都奴の臣・坂本の臣の祖先です。次にクメノマイト姫・ノノイロ姫です。葛城かずらきの長江ながえのソツ彦は、玉手の臣・的いくはの臣・生江の臣・阿藝那あきなの臣等の祖先です。次に若子わくごの宿禰すくねは、江野の財の臣の祖先です。この天皇は御年五十七歳、御陵ごりようは劒の池の中の岡の上にあります。
開化天皇
ワカヤマトネコ彦オホビビの命(開化天皇)、大和の春日のイザ河の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は、丹波たんばの大縣主おおあがたぬしユゴリの女のタカノ姫と結婚してお生みになつた御子はヒコユムスミの命お一方です。またイカガシコメの命と結婚してお生みになつた御子はミマキイリ彦イニヱの命とミマツ姫の命とのお二方です。また丸邇わにの臣の祖先のヒコクニオケツの命の妹のオケツ姫の命と結婚してお生みになつた御子はヒコイマスの王みこお一方です。また葛城かずらきのタルミの宿禰の女のワシ姫と結婚してお生みになつた御子はタケトヨハツラワケの王お一方です。合わせて五人おいでになりました。このうちミマキイリ彦イニヱの命は天下をお治めなさいました。その兄ヒコユムスミの王の御子は、オホツツキタリネの王とサヌキタリネの王とお二方で、この二王の女は五人ありました。次にヒコイマスの王が山代やましろのエナツ姫、またの名はカリハタトベと結婚して生んだ子はオホマタの王とヲマタの王とシブミの宿禰の王とお三方です。またこの王が春日のタケクニカツトメの女のサホのオホクラミトメと結婚して生んだ子がサホ彦の王・ヲザホの王・サホ姫の命・ムロビコの王のお四方です。サホ姫の命はまたの名はサハヂ姫で、この方はイクメ天皇の皇后樣におなりになりました。また近江の國の御上みかみ山の神職がお祭するアメノミカゲの神の女オキナガノミヅヨリ姫と結婚して生んだ子は丹波ノヒコタタスミチノウシの王・ミヅホノマワカの王・カムオホネの王、またの名はヤツリのイリビコの王・ミヅホノイホヨリ姫・ミヰツ姫の五人です。また母の妹オケツ姫と結婚して生んだ子は山代のオホツツキのマワカの王・ヒコオスの王・イリネの王の三人です。すべてヒコイマスの王の御子は合わせて十五人ありました。兄のオホマタの王の子はアケタツの王・ウナガミの王の二人です。このアケタツの王は、伊勢の品遲部ほんじべ・伊勢の佐那の造の祖先です。ウナガミの王は、比賣陀の君の祖先です。次にヲマタの王は當麻たぎまの勾まがりの君の祖先です。次にシブミの宿禰の王は佐佐の君の祖先です。次にサホ彦の王は日下部くさかべの連・甲斐の國の造の祖先です。次にヲザホの王は葛野かずのの別・近つ淡海の蚊野かやの別の祖先です。次にムロビコの王は若狹の耳の別の祖先です。そのミチノウシの王が丹波の河上のマスの郎女いらつめと結婚して生んだ子はヒバス姫の命・マトノ姫の命・オト姫の命・ミカドワケの王の四人です。このミカドワケの王は、三川の穗の別の祖先です。このミチノウシの王の弟ミヅホノマワカの王は近つ淡海の安の直の祖先です。次にカムオホネの王は三野の國の造・本巣もとすの國の造・長幡部ながはたべの連の祖先です。その山代やましろのオホツツキマワカの王は弟君イリネの王の女の丹波たんばのアヂサハ姫と結婚して生んだ御子は、カニメイカヅチの王です。この王が丹波たんばの遠津の臣の女のタカキ姫と結婚して生んだ御子はオキナガの宿禰の王です。この王が葛城のタカヌカ姫と結婚して生んだ御子がオキナガタラシ姫の命・ソラツ姫の命・オキナガ彦の王の三人です。このオキナガ彦の王は、吉備の品遲ほむじの君・播磨の阿宗の君の祖先です。またオキナガの宿禰の王が、カハマタノイナヨリ姫と結婚して生んだ子がオホタムサカの王で、この方は但馬たじまの國の造の祖先です。上に出たタケトヨハヅラワケの王は、道守の臣・忍海部の造・御名部の造・稻羽の忍海部・丹波の竹野の別・依網よさみの阿毘古等の祖先です。この天皇は御年六十三歳、御陵はイザ河の坂の上にあります。 
 
三、崇神天皇 
后妃と皇子女
――帝紀の前半と見られる部分である。――
イマキイリ彦イニヱの命(崇神天皇)、大和の師木しきの水垣の宮においでになつて天下をお治めなさいました。
この天皇は、木の國の造のアラカハトベの女のトホツアユメマクハシ姫と結婚してお生みになつた御子はトヨキイリ彦の命とトヨスキイリ姫の命お二方です。また尾張の連の祖先のオホアマ姫と結婚してお生みになつた御子は、オホイリキの命・ヤサカノイリ彦の命・ヌナキノイリ姫の命・トホチノイリ姫の命のお四方です。また大彦おおびこの命の女のミマツ姫の命と結婚してお生みになつた御子はイクメイリ彦イサチの命・イザノマワカの命・クニカタ姫の命・チヂツクヤマト姫の命・イガ姫の命・ヤマト彦の命のお六方です。この天皇の御子たちは合わせて十二王おいでになりました。男王七人女王五人です。そのうちイクメイリ彦イサチの命は天下をお治めなさいました。次にトヨキイリ彦の命は、上毛野かみつけの・下毛野の君等の祖先です。妹のトヨスキ姫の命は伊勢の大神宮をお祭りになりました。次にオホイリキの命は能登の臣の祖先です。次にヤマト彦の命は、この王の時に始めて陵墓に人の垣を立てました。
美和の大物主
――三輪山説話として神婚説話の典型的な一つで神みわ氏、鴨氏等の祖先の物語。――
この天皇の御世に、流行病が盛んに起つて、人民がほとんど盡きようとしました。ここに天皇は、御憂慮遊ばされて、神を祭つてお寢やすみになつた晩に、オホモノヌシの大神が御夢に顯れて仰せになるには、「かように病氣がはやるのはわたしの心である。これはオホタタネコをもつてわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起らずに國も平和になるだろう」と仰せられました。そこで急使を四方に出してオホタタネコという人を求めた時に、河内の國のミノの村でその人を探し出して奉りました。そこで天皇は「お前は誰の子であるか」とお尋ねになりましたから、答えて言いますには「オホモノヌシの神がスヱツミミの命の女のイクタマヨリ姫と結婚して生んだ子はクシミカタの命です。その子がイヒカタスミの命、その子がタケミカヅチの命、その子がわたくしオホタタネコでございます」と申しました。そこで天皇が非常にお歡よろこびになつて仰せられるには、「天下が平ぎ人民が榮えるであろう」と仰せられて、このオホタタネコを神主かんぬしとしてミモロ山でオホモノヌシの神をお祭り申し上げました。イカガシコヲの命に命じて祭に使う皿を澤山作り、天地の神々の社をお定め申しました。また宇陀うだの墨坂すみさかの神に赤い色の楯たて矛ほこを獻り、大坂の神に墨の色の楯矛を獻り、また坂の上の神や河の瀬の神に至るまでに悉く殘るところなく幣帛へいはくを獻りました。これによつて疫病えきびようが止んで國家が平安になりました。
このオホタタネコを神の子と知つた次第は、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。ところが形姿かたち威儀いぎ竝ならびなき一人の男が夜中にたちまち來ました。そこで互に愛めでて結婚して住んでいるうちに、何程もないのにその孃子おとめが姙はらみました。そこで父母が姙娠にんしんしたことを怪しんで、その女に、「お前は自然しぜんに姙娠にんしんした。夫が無いのにどうして姙娠したのか」と尋ねましたから、答えて言うには「名も知らないりつぱな男が夜毎に來て住むほどに、自然しぜんに姙はらみました」と言いました。そこでその父母が、その人を知りたいと思つて、その女に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻絲を針に貫いてその着物きものの裾に刺せ」と教えました。依つて教えた通りにして、朝になつて見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴かぎあなから貫け通つて、殘つた麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知つて絲をたよりに尋ねて行きましたら、三輪山に行つて神の社に留まりました。そこで神の御子であるとは知つたのです。その麻の三輪殘つたのによつて其處を三輪と言うのです。このオホタタネコの命は、神みわの君・鴨の君の祖先です。
將軍の派遣
――いわゆる四道將軍の派遣の物語。但しヒコイマスの王を、日本書紀では、その子丹波のミチヌシの命とし、またキビツ彦を西の道に遣したとある。――
またこの御世に大彦の命をば越こしの道に遣し、その子のタケヌナカハワケの命を東方の諸國に遣して從わない人々を平定せしめ、またヒコイマスの王を丹波の國に遣してクガミミのミカサという人を討たしめました。その大彦の命が越の國においでになる時に、裳もを穿はいた女が山城やましろのヘラ坂に立つて歌つて言うには、
御眞木入日子さまは、
御自分の命を人知れず殺そうと、
背後うしろの入口から行き違ちがい
前の入口から行き違い
窺のぞいているのも知らないで、
御眞木入日子さまは。
と歌いました。そこで大彦の命が怪しいことを言うと思つて、馬を返してその孃子に、「あなたの言うことはどういうことですか」と尋ねましたら、「わたくしは何も申しません。ただ歌を歌つただけです」と答えて、行く方も見せずに消えてしまいました。依つて大彦の命は更に還つて天皇に申し上げた時に、仰せられるには、「これは思うに、山城の國に赴任したタケハニヤスの王が惡い心を起したしるしでありましよう。伯父上、軍を興して行つていらつしやい」と仰せになつて、丸邇わにの臣の祖先のヒコクニブクの命を副えてお遣しになりました、その時に丸邇坂わにさかに清淨な瓶を据えてお祭をして行きました。
さて山城のワカラ河に行きました時に、果してタケハニヤスの王が軍を興して待つており、互に河を挾んで對むかい立つて挑いどみ合いました。それで其處の名をイドミというのです。今ではイヅミと言つております。ここにヒコクニブクの命が「まず、そちらから清め矢を放て」と言いますと、タケハニヤスの王が射ましたけれども、中あてることができませんでした。しかるにヒコクニブクの命の放つた矢はタケハニヤスの王に射中いあてて死にましたので、その軍が悉く破れて逃げ散りました。依つて逃げる軍を追い攻めて、クスバの渡しに行きました時に、皆攻め苦しめられたので屎くそが出て褌はかまにかかりました。そこで其處の名をクソバカマというのですが、今はクスバと言つております。またその逃げる軍を待ち受けて斬りましたから、鵜うのように河に浮きました。依つてその河を鵜河うがわといいます。またその兵士を斬り屠ほおりましたから、其處の名をハフリゾノといいます。かように平定し終つて、朝廷に參つて御返事申し上げました。
かくて大彦の命は前の命令通りに越の國にまいりました。ここに東の方から遣わされたタケヌナカハワケの命は、その父の大彦の命と會津あいずで行き遇いましたから、其處を會津あいずというのです。ここにおいて、それぞれに遣わされた國の政を終えて御返事申し上げました。かくして天下が平かになり、人民は富み榮えました。ここにはじめて男の弓矢で得た獲物や女の手藝の品々を貢たてまつらしめました。そこでその御世を讚たたえて初めての國をお治めになつたミマキの天皇と申し上げます。またこの御世に依網よさみの池を作り、また輕かるの酒折さかおりの池を作りました。天皇は御年百六十八歳、戊寅つちのえとらの年の十二月にお隱れになりました。御陵は山の邊の道の勾まがりの岡の上にあります。 
 
四、垂仁天皇 
后妃と皇子女
イクメイリ彦イサチの命(垂仁天皇)、大和の師木しきの玉垣の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、サホ彦の命の妹のサハヂ姫の命と結婚してお生うみになつた御子みこはホムツワケの命お一方です。また丹波たんばのヒコタタスミチノウシの王の女のヒバス姫の命と結婚してお生みになつた御子はイニシキノイリ彦の命・オホタラシ彦オシロワケの命・オホナカツ彦の命・ヤマト姫の命・ワカキノイリ彦の命のお五方です。またそのヒバス姫の命の妹、ヌバタノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子はヌタラシワケの命・イガタラシ彦の命のお二方です。またそのヌバタノイリ姫の命の妹のアザミノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子はイコバヤワケの命・アザミツ姫の命のお二方です。またオホツツキタリネの王の女のカグヤ姫の命と結婚してお生みになつた御子はヲナベの王お一方です。また山代やましろの大國おおくにのフチの女のカリバタトベと結婚してお生みになつた御子はオチワケの王・イカタラシ彦の王・イトシワケの王のお三方です。またその大國のフチの女のオトカリバタトベと結婚して、お生みになつた御子は、イハツクワケの王・イハツク姫の命またの名はフタヂノイリ姫の命のお二方です。すべてこの天皇の皇子たちは十六王おいでになりました。男王十三人、女王三人です。
その中でオホタラシ彦オシロワケの命は、天下をお治めなさいました。御身おみの長さ一丈二寸、御脛おんはぎの長さ四尺一寸ございました。次にイニシキノイリ彦の命は、血沼ちぬの池・狹山さやまの池を作り、また日下くさかの高津たかつの池をお作りになりました。また鳥取ととりの河上かわかみの宮においでになつて大刀一千振ふりをお作りになつて、これを石上いそのかみの神宮じんぐうにお納おさめなさいました。そこでその宮においでになつて河上部をお定めになりました。次にオホナカツ彦の命は、山邊の別・三枝さきくさの別・稻木の別・阿太の別・尾張の國の三野の別・吉備の石无いわなしの別・許呂母ころもの別・高巣鹿たかすかの別・飛鳥の君・牟禮の別等の祖先です。次にヤマト姫の命は伊勢の大神宮をお祭りなさいました。次にイコバヤワケの王は、沙本の穴本部あなほべの別の祖先です。次にアザミツ姫の命は、イナセ彦の王に嫁ぎました。次にオチワケの王は、小目おめの山の君・三川の衣の君の祖先です。次にイカタラシ彦の王は、春日の山の君・高志こしの池の君・春日部の君の祖先です。次にイトシワケの王は、子がありませんでしたので、子の代りとして伊登志部を定めました。次にイハツクワケの王は羽咋はくいの君・三尾の君の祖先です。次にフタヂノイリ姫の命はヤマトタケルの命の妃きさきになりました。
サホ彦の叛亂
――サホ彦は天皇を弑殺しようとした叛逆者であるが、その子孫は、日下部の連、甲斐の國の造等として榮えている。要するに一の物語であつて、それが天皇の記に結びついたものと見るべきである。後に出る大山守の命の物語も同樣である。――
この天皇、サホ姫を皇后になさいました時に、サホ姫の命の兄のサホ彦の王が妹に向つて「夫と兄とはどちらが大事であるか」と問いましたから、「兄が大事です」とお答えになりました。そこでサホ彦の王が謀をたくらんで、「あなたがほんとうにわたしを大事にお思いになるなら、あなたとわたしとで天下を治めよう」と言つて、色濃く染めた紐のついている小刀を作つて、その妹に授けて、「この刀で天皇の眠つておいでになるところをお刺し申せ」と言いました。しかるに天皇はその謀をお知り遊ばされず、皇后の膝を枕としてお寢やすみになりました。そこでその皇后は紐のついた小刀をもつて天皇のお頸くびをお刺ししようとして、三度振りましたけれども、哀かなしい情に堪えないでお頸をお刺し申さないで、お泣きになる涙が天皇のお顏の上に落ち流れました。そこで天皇が驚いてお起ちになつて、皇后にお尋ねになるには、「わたしは不思議な夢を見た。サホの方から俄雨が降つて來て、急に顏を沾ぬらした。また錦色にしきいろの小蛇がわたしの頸くびに纏まといついた。こういう夢は何のあらわれだろうか」とお尋ねになりました。そこでその皇后が隱しきれないと思つて天皇に申し上げるには、「わたくしの兄のサホ彦の王がわたくしに、夫と兄とはどちらが大事かと尋ねました。目の前で尋ねましたので、仕方しかたがなくて、兄が大事ですと答えましたところ、わたくしに註文して、自分とお前とで天下を治めるから、天皇をお殺し申せと言つて、色濃く染めた紐をつけた小刀を作つてわたくしに渡しました。そこでお頸をお刺し申そうとして三度振りましたけれども、哀かなしみの情がたちまちに起つてお刺し申すことができないで、泣きました涙がお顏を沾ぬらしました。きつとこのあらわれでございましよう」と申しました。
そこで天皇は「わたしはあぶなく欺あざむかれるところだつた」と仰せになつて、軍を起してサホ彦の王をお撃ちになる時、その王が稻の城を作つて待つて戰いました。この時、サホ姫の命は堪え得ないで、後の門から逃げてその城におはいりになりました。
この時にその皇后は姙娠にんしんしておいでになり、またお愛し遊ばされていることがもう三年も經つていたので、軍を返して、俄にお攻めになりませんでした。かように延びている間に御子がお生まれになりました。そこでその御子を出して城の外において、天皇に申し上げますには、「もしこの御子をば天皇の御子と思しめすならばお育て遊ばせ」と申さしめました。ここで天皇は「兄には恨みがあるが、皇后に對する愛は變らない」と仰せられて、皇后を得られようとする御心がありました。そこで軍隊の中から敏捷な人を選り集めて仰せになるには、「その御子を取る時にその母君をも奪い取れ。御髮でも御手でも掴まえ次第に掴んで引き出し申せ」と仰せられました。しかるに皇后はあらかじめ天皇の御心の程をお知りになつて、悉く髮をお剃りになり、その髮でお頭を覆おおい、また玉の緒を腐らせて御手に三重お纏きになり、また酒でお召物を腐らせて、完全なお召物のようにして著ておいでになりました。かように準備をして御子をお抱きになつて城の外にお出になりました。そこで力士たちがその御子をお取り申し上げて、その母君をもお取り申そうとして、御髮を取れば御髮がぬけ落ち、御手を握れば玉の緒が絶え、お召物を握ればお召物が破れました。こういう次第で御子を取ることはできましたが、母君を取ることができませんでした。その兵士たちが還つて來て申しましたには、「御髮が自然に落ち、お召物は破れ易く、御手に纏いておいでになる玉の緒も切れましたので、母君をばお取り申しません。御子は取つて參りました」と申しました。そこで天皇は非常に殘念がつて、玉を作つた人たちをお憎しみになつて、その領地を皆お奪とりになりました。それで諺ことわざに、「處ところを得ない玉作たまつくりだ」というのです。
また天皇がその皇后に仰せられるには、「すべて子この名は母が附けるものであるが、この御子の名前を何としたらよかろうか」と仰せられました。そこでお答え申し上げるには、「今稻の城を燒く時に炎の中でお生まれになりましたから、その御子のお名前はホムチワケの御子とお附け申しましよう」と申しました。また「どのようにしてお育て申そうか」と仰せられましたところ、「乳母を定め御養育掛りをきめて御養育申し上げましよう」と申しました。依つてその皇后の申されたようにお育て申しました。またその皇后に「あなたの結び堅めた衣の紐は誰が解くべきであるか」とお尋ねになりましたから、「丹波のヒコタタスミチノウシの王の女の兄姫えひめ・弟姫おとひめという二人の女王は、淨らかな民でありますからお使い遊ばしませ」と申しました。かくて遂にそのサホ彦の王を討たれた時に、皇后も共にお隱れになりました。
ホムチワケの御子
――種々の要素の結合している物語であるが、出雲の神のたたりが中心となつている。ヒナガ姫の部分は、特に結びつけたものの感が深い。――
かくてその御子をお連れ申し上げて遊ぶ有樣は、尾張の相津にあつた二俣ふたまたの杉をもつて二俣の小舟を作つて、持ち上つて來て、大和の市師いちしの池、輕かるの池に浮べて遊びました。この御子は、長い鬢が胸の前に至るまでも物をしかと仰せられません。ただ大空を鶴が鳴き渡つたのをお聞きになつて始めて「あぎ」と言われました。そこで山邊やまべのオホタカという人を遣つて、その鳥を取らせました。ここにその人が鳥を追い尋ねて紀の國から播磨の國に至り、追つて因幡いなばの國に越えて行き、丹波の國・但馬の國に行き、東の方に追い※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて近江の國に至り、美濃の國に越え、尾張の國から傳わつて信濃の國に追い、遂に越こしの國に行つて、ワナミの水門みなとで罠わなを張つてその鳥を取つて持つて來て獻りました。そこでその水門みなとをワナミの水門とはいうのです。さてその鳥を御覽になつて、物を言おうとお思いになるが、思い通りに言われることはありませんでした。
そこで天皇が御心配遊ばされてお寢やすみになつている時に、御夢に神のおさとしをお得になりました。それは「わたしの御殿を天皇の宮殿のように造つたなら、御子がきつと物を言うだろう」と、かように夢に御覽になつて、そこで太卜ふとまにの法で占いをして、これはどの神の御心であろうかと求めたところ、その祟たたりは出雲の大神の御心でした。依つてその御子をしてその大神の宮を拜ましめにお遣りになろうとする時に、誰を副えたらよかろうかと占いましたら、アケタツの王が占いに合いました。依つてアケタツの王に仰せて誓言を申さしめなさいました。「この大神を拜むことによつて誠にその驗があるならば、この鷺の巣の池の樹に住んでいる鷺が我が誓によつて落ちよ」かように仰せられた時にその鷺が池に落ちて死にました。また「活きよ」と誓をお立てになりましたら活きました。またアマカシの埼さきの廣葉のりつぱなカシの木を誓を立てて枯らしたり活かしたりしました。それでアケタツの王に、「大和は師木しき、登美とみの豐朝倉とよあさくらのアケタツの王」という名前を下さいました。かようにしてアケタツの王とウナガミの王とお二方をその御子に副えてお遣しになる時に、奈良の道から行つたならば、跛ちんばだの盲めくらだのに遇うだろう。二上ふたかみ山の大阪の道から行つても跛や盲に遇うだろう。ただ紀伊きいの道こそは幸先さいさきのよい道であると占うらなつて出ておいでになつた時に、到る處毎に品遲部ほむじべの人民をお定めになりました。
かくて出雲の國においでになつて、出雲の大神を拜み終つて還り上つておいでになる時に、肥ひの河の中に黒木の橋を作り、假の御殿を造つてお迎えしました。ここに出雲の臣の祖先のキヒサツミという者が、青葉の作り物を飾り立ててその河下にも立てて御食物を獻ろうとした時に、その御子が仰せられるには、「この河の下に青葉が山の姿をしているのは、山かと見れば山ではないようだ。これは出雲の石※いわくま[#「石+炯のつくり」、U+2544E、282-5]の曾その宮にお鎭まりになつているアシハラシコヲの大神をお祭り申し上げる神主の祭壇であるか」と仰せられました。そこでお伴に遣された王たちが聞いて歡び、見て喜んで、御子を檳榔あじまさの長穗ながほの宮に御案内して、急使を奉つて天皇に奏上致しました。
そこでその御子が一夜ヒナガ姫と結婚なさいました。その時に孃子を伺のぞいて御覽になると大蛇でした。そこで見て畏れて遁げました。ここにそのヒナガ姫は心憂く思つて、海上を光らして船に乘つて追つて來るのでいよいよ畏れられて、山の峠とうげから御船を引き越させて逃げて上つておいでになりました。そこで御返事申し上げることには、「出雲の大神を拜みましたによつて、大御子が物を仰せになりますから上京して參りました」と申し上げました。そこで天皇がお歡びになつて、ウナガミの王を返して神宮を造らしめました。そこで天皇は、その御子のために鳥取部・鳥甘とりかい・品遲部ほむじべ・大湯坐おおゆえ・若湯坐をお定めになりました。
丹波の四女王
――丹波地方に傳わつた説話が取りあげられたものであろう。――
天皇はまたその皇后サホ姫の申し上げたままに、ミチノウシの王の娘たちのヒバス姫の命・弟おと姫の命・ウタコリ姫の命・マトノ姫の命の四人をお召しになりました。しかるにヒバス姫の命・弟姫の命のお二方ふたかたはお留めになりましたが、妹のお二方は醜かつたので、故郷に返し送られました。そこでマトノ姫が耻はじて、「同じ姉妹の中で顏が醜いによつて返されることは、近所に聞えても耻はずかしい」と言つて、山城の國の相樂さがらかに行きました時に木の枝に懸かつて死のうとなさいました。そこで其處の名を懸木さがりきと言いましたのを今は相樂さがらかと言うのです。また弟國おとくにに行きました時に遂に峻けわしい淵に墮ちて死にました。そこでその地の名を墮國おちくにと言いましたが、今では弟國おとくにと言うのです。
時じくの香かぐの木の實
――タヂマモリの子孫の家に傳えられた説話。――
また天皇、三宅の連等の祖先のタヂマモリを常世とこよの國に遣して、時じくの香かぐの木の實を求めさせなさいました。依つてタヂマモリが遂にその國に到つてその木を採つて、蔓つるの形になつているもの八本、矛ほこの形になつているもの八本を持つて參りましたところ、天皇はすでにお隱れになつておりました。そこでタヂマモリは蔓つる四本矛ほこ四本を分けて皇后樣に獻り、蔓四本矛四本を天皇の御陵のほとりに獻つて、それを捧げて叫び泣いて、「常世の國の時じくの香かぐの木の實を持つて參上致しました」と申して、遂に叫び死にました。その時じくの香の木の實というのは、今のタチバナのことです。この天皇は御年百五十三歳、御陵は菅原の御立野みたちのの中にあります。
またその皇后ヒバス姫の命の時に、石棺作りをお定めになり、また土師部はにしべをお定めになりました。この皇后は狹木さきの寺間てらまの陵にお葬り申しあげました。 
 
五、景行天皇・成務天皇 
景行天皇の后妃と皇子女
オホタラシ彦オシロワケの天皇(景行天皇)、大和の纏向まきむくの日代ひしろの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、吉備きびの臣等の祖先のワカタケキビツ彦の女の播磨はりまのイナビの大郎女おおいらつめと結婚してお生みになつた御子は、クシツノワケの王・オホウスの命・ヲウスの命またの名はヤマトヲグナの命・ヤマトネコの命・カムクシの王の五王です。ヤサカノイリ彦の命の女むすめヤサカノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、ワカタラシ彦の命・イホキノイリ彦の命・オシワケの命・イホキノイリ姫の命です。またの妾の御子は、トヨトワケの王・ヌナシロの郎女、またの妾の御子は、ヌナキの郎女・カグヨリ姫の命・ワカキノイリ彦の王・キビノエ彦の王・タカギ姫の命・オト姫の命です。また日向のミハカシ姫と結婚してお生みになつた御子は、トヨクニワケの王です。またイナビの大郎女の妹、イナビの若郎女と結婚してお生みになつた御子は、マワカの王・ヒコヒトノオホエの王です。またヤマトタケルの命の曾孫のスメイロオホナカツ彦の王の女のカグロ姫と結婚してお生みになつた御子は、オホエの王です。すべて天皇の御子たちは、記したのは二十一王、記さないのは五十九王、合わせて八十の御子みこがおいでになりました中に、ワカタラシ彦の命とヤマトタケルの命とイホキノイリ彦の命と、このお三方は、皇太子と申す御名を負われ、他の七十七王は悉く諸國の國の造みやつこ・別わけ・稻置いなき・縣主あがたぬし等としてお分け遊ばされました。そこでワカタラシ彦の命は天下をお治めなさいました。ヲウスの命は東西の亂暴な神、また服從しない人たちを平定遊ばされました。次にクシツノワケの王は、茨田の下の連等の祖先です。次にオホウスの命は、守の君・太田の君・島田の君の祖先です。次にカムクシの王は木の國の酒部の阿比古・宇陀の酒部の祖先です。次にトヨクニワケの王は、日向の國の造の祖先です。
ここに天皇は、三野の國の造の祖先のオホネの王の女の兄姫えひめ弟姫おとひめの二人の孃子が美しいということをお聞きになつて、その御子のオホウスの命を遣わして、お召しになりました。しかるにその遣わされたオホウスの命が召しあげないで、自分がその二人の孃子と結婚して、更に別の女を求めて、その孃子だと僞つて獻りました。そこで天皇は、それが別の女であることをお知りになつて、いつも見守らせるだけで、結婚をしないで苦しめられました。それでそのオホウスの命が兄姫と結婚して生んだ子がオシクロのエ彦の王で、これは三野の宇泥須うねすの別の祖先です。また弟姫と結婚して生んだ子は、オシクロのオト彦の王で、これは牟宜都むげつの君等の祖先です。この御世に田部をお定めになり、また東國の安房の水門みなとをお定めになり、また膳かしわでの大伴部をお定めになり、また大和の役所をお定めになり、また坂手の池を作つてその堤に竹を植えさせなさいました。
ヤマトタケルの命の西征
――英雄ヤマトタケルの命の物語ははじまる。劇的な構成に注意。――
天皇がヲウスの命に仰せられるには「お前の兄はどうして朝夕の御食事に出て來ないのだ。お前が引き受けて教え申せ」と仰せられました。かように仰せられて五日たつてもやはり出て來ませんでした。そこで、天皇がヲウスの命にお尋ねになるには「どうしてお前の兄が永い間出て來ないのだ。もしやまだ教えないのか」とお尋ねになつたので、お答えしていうには「もう教えました」と申しました。また「どのように教えたのか」と仰せられましたので、お答えして「朝早く厠かわやにおはいりになつた時に、待つていてつかまえてつかみひしいで、手足を折つて薦こもにつつんで投げすてました」と申しました。
そこで天皇は、その御子の亂暴な心を恐れて仰せられるには「西の方にクマソタケル二人がある。これが服從しない無禮の人たちだ。だからその人たちを殺せ」と仰せられました。この時に、その御髮を額で結つておいでになりました。そこでヲウスの命は、叔母樣のヤマト姫の命のお衣裳をいただき、劒を懷にいれておいでになりました。そこでクマソタケルの家に行つて御覽になりますと、その家のあたりに、軍隊が三重に圍んで守り、室むろを作つて居ました。そこで新築の祝をしようと言い騷いで、食物を準備しました。依つてその近所を歩いて宴會をする日を待つておいでになりました。いよいよ宴會の日になつて、結つておいでになる髮を孃子の髮のように梳けずり下げ、叔母樣のお衣裳をお著つけになつて孃子の姿になつて女どもの中にまじり立つて、その室の中におはいりになりました。ここにクマソタケルの兄弟二人が、その孃子を見て感心して、自分たちの中にいさせて盛んに遊んでおりました。その宴の盛んになつた時に、命は懷から劒を出し、クマソタケルの衣の襟を取つて劒をもつてその胸からお刺し通し遊ばされる時に、その弟のタケルが見て畏れて逃げ出しました。そこでその室の階段のもとに追つて行つて、背の皮をつかんでうしろから劒で刺し通しました。ここにそのクマソタケルが申しますには、「そのお刀をお動かし遊ばしますな。申し上げることがございます」と言いました。そこでしばらく押し伏せておいでになりました。「あなた樣さまはどなたでいらつしやいますか」と申しましたから、「わたしは纏向まきむくの日代ひしろの宮においで遊ばされて天下をお治めなされるオホタラシ彦オシロワケの天皇の御子のヤマトヲグナの王という者だ。お前たちクマソタケル二人が服從しないで無禮だとお聞きなされて、征伐せよと仰せになつて、お遣わしになつたのだ」と仰せられました。そこでそのクマソタケルが、「ほんとうにそうでございましよう。西の方に我々二人を除いては武勇の人間はありません。しかるに大和の國には我々にまさつた強い方がおいでになつたのです。それではお名前を獻上致しましよう。今からはヤマトタケルの御子と申されるがよい」と申しました。かように申し終つて、熟した瓜を裂くように裂き殺しておしまいになりました。その時からお名前をヤマトタケルの命と申し上げるのです。そうして還つておいでになつた時に、山の神・河の神、また海峽の神を皆平定して都にお上りになりました。
イヅモタケル
――日本書紀では、全然ヤマトタケルの命と關係のない物語になつている。種々の物語がこの英雄の事として結びついてゆく。――
そこで出雲の國におはいりになつて、そのイヅモタケルを撃うとうとお思いになつて、おいでになつて、交りをお結びになりました。まずひそかに赤檮いちいのきで刀の形を作つてこれをお佩びになり、イヅモタケルとともに肥ひの河に水浴をなさいました。そこでヤマトタケルの命が河からまずお上りになつて、イヅモタケルが解いておいた大刀をお佩きになつて、「大刀を換かえよう」と仰せられました。そこで後からイヅモタケルが河から上つて、ヤマトタケルの命の大刀を佩きました。ここでヤマトタケルの命が、「さあ大刀を合わせよう」と挑いどまれましたので、おのおの大刀を拔く時に、イヅモタケルは大刀を拔き得ず、ヤマトタケルの命は大刀を拔いてイヅモタケルを打ち殺されました。そこでお詠みになつた歌、
雲くもの叢むらがり立つ出雲いづものタケルが腰にした大刀は、
蔓つるを澤山卷いて刀の身が無くて、きのどくだ。
かように平定して、朝廷に還つて御返事申し上げました。
ヤマトタケルの命の東征
――諸氏の物語が結合したと見えるが、よくまとまつて、美しい物語になつている。――
ここに天皇は、また續いてヤマトタケルの命に、「東の方の諸國の惡い神や從わない人たちを平定せよ」と仰せになつて、吉備きびの臣等の祖先のミスキトモミミタケ彦という人を副えてお遣わしになつた時に、柊ひいらぎの長い矛ほこを賜わりました。依つて御命令を受けておいでになつた時に、伊勢の神宮に參拜して、其處に奉仕しておいでになつた叔母樣のヤマト姫の命に申されるには、「父上はわたくしを死ねと思つていらつしやるのでしようか、どうして西の方の從わない人たちを征伐にお遣わしになつて、還つてまいりましてまだ間も無いのに、軍卒も下さらないで、更に東方諸國の惡い人たちを征伐するためにお遣わしになるのでしよう。こういうことによつて思えば、やはりわたくしを早く死ねと思つておいでになるのです」と申して、心憂く思つて泣いてお出ましになる時に、ヤマト姫の命が、草薙の劒をお授けになり、また嚢ふくろをお授けになつて、「もし急の事があつたなら、この嚢の口をおあけなさい」と仰せられました。
かくて尾張の國においでになつて、尾張の國の造みやつこの祖先のミヤズ姫の家へおはいりになりました。そこで結婚なされようとお思いになりましたけれども、また還つて來た時にしようとお思いになつて、約束をなさつて東の國においでになつて、山や河の亂暴な神たちまたは從わない人たちを悉く平定遊ばされました。ここに相摸の國においで遊ばされた時に、その國の造が詐いつわつて言いますには、「この野の中に大きな沼があります。その沼の中に住んでいる神はひどく亂暴な神です」と申しました。依つてその神を御覽になりに、その野においでになりましたら、國の造が野に火をつけました。そこで欺かれたとお知りになつて、叔母樣のヤマト姫の命のお授けになつた嚢の口を解いてあけて御覽になりましたところ、その中に火打ひうちがありました。そこでまず御刀をもつて草を苅り撥はらい、その火打をもつて火を打ち出して、こちらからも火をつけて燒き退けて還つておいでになる時に、その國の造どもを皆切り滅し、火をつけてお燒きなさいました。そこで今でも燒津やいずといつております。
其處からおいでになつて、走水はしりみずの海をお渡りになつた時にその渡わたりの神が波を立てて御船がただよつて進むことができませんでした。その時にお妃のオトタチバナ姫の命が申されますには、「わたくしが御子に代つて海にはいりましよう。御子は命ぜられた任務をはたして御返事を申し上げ遊ばせ」と申して海におはいりになろうとする時に、スゲの疊八枚、皮の疊八枚、絹の疊八枚を波の上に敷いて、その上におおり遊ばされました。そこでその荒い波が自然に凪ないで、御船が進むことができました。そこでその妃のお歌いになつた歌は、
高い山の立つ相摸さがみの國の野原で、
燃え立つ火の、その火の中に立つて
わたくしをお尋ねになつたわが君。
かくして七日過ぎての後に、そのお妃のお櫛が海濱に寄りました。その櫛を取つて、御墓を作つて收めておきました。
それからはいつておいでになつて、悉く惡い蝦夷えぞどもを平らげ、また山河の惡い神たちを平定して、還つてお上りになる時に、足柄あしがらの坂本に到つて食物をおあがりになる時に、その坂の神が白い鹿になつて參りました。そこで召し上り殘りのヒルの片端かたはしをもつてお打ちになりましたところ、その目にあたつて打ち殺されました。かくてその坂にお登りになつて非常にお歎きになつて、「わたしの妻はなあ」と仰せられました。それからこの國を吾妻あずまとはいうのです。
その國から越えて甲斐に出て、酒折さかおりの宮においでになつた時に、お歌いなされるには、
常陸の新治にいはり・筑波つくばを過すぎて幾夜いくよ寢ねたか。
ここにその火ひを燒たいている老人が續いて、
日數ひかず重かさねて、夜よは九夜ここのよで日ひは十日とおかでございます。
と歌いました。そこでその老人を譽めて、吾妻あずまの國の造になさいました。
かくてその國から信濃の國にお越えになつて、そこで信濃の坂の神を平らげ、尾張の國に還つておいでになつて、先に約束しておかれたミヤズ姫のもとにおはいりになりました。ここで御馳走を獻る時に、ミヤズ姫がお酒盃を捧げて獻りました。しかるにミヤズ姫の打掛うちかけの裾に月の物がついておりました。それを御覽になつてお詠み遊ばされた歌は、
仰あおぎ見る天あめの香具山かぐやま
鋭するどい鎌のように横ぎる白鳥はくちよう。
そのようなたおやかな弱腕よわうでを
抱だこうとはわたしはするが、
寢ねようとはわたしは思うが、
あなたの著きている打掛うちかけの裾に
月つきが出ているよ。
そこでミヤズ姫が、お歌にお答えしてお歌いなさいました。
照り輝く日のような御子みこ樣
御威光すぐれたわたしの大君樣。
新しい年が來て過ぎて行けば、
新しい月は來て過ぎて行きます。
ほんとうにまああなた樣をお待ちいたしかねて
わたくしのきております打掛の裾に
月も出るでございましようよ。
そこで御結婚遊ばされて、その佩びておいでになつた草薙の劒をミヤズ姫のもとに置いて、イブキの山の神を撃ちにおいでになりました。
望郷の歌
――クニシノヒ歌の歌曲を中心として、英雄の悲壯な最後を語る。――
そこで「この山の神は空手からてで取つて見せる」と仰せになつて、その山にお登りになつた時に、山のほとりで白い猪に逢あいました。その大きさは牛ほどもありました。そこで大言して、「この白い猪になつたものは神の從者だろう。今殺さないでも還る時に殺して還ろう」と仰せられて、お登りになりました。そこで山の神が大氷雨だいひよううを降らしてヤマトタケルの命を打ち惑わしました。この白い猪に化けたものは、この神の從者ではなくして、正體であつたのですが、命が大言されたので惑わされたのです。かくて還つておいでになつて、玉倉部たまくらべの清水に到つてお休みになつた時に、御心がややすこしお寤さめになりました。そこでその清水を居寤いさめの清水と言うのです。
其處からお立ちになつて當藝たぎの野の上においでになつた時に仰せられますには、「わたしの心はいつも空を飛んで行くと思つていたが、今は歩くことができなくなつて、足がぎくぎくする」と仰せられました。依つて其處を當藝たぎといいます。其處からなお少しおいでになりますのに、非常にお疲れなさいましたので、杖をおつきになつてゆるゆるとお歩きになりました。そこでその地を杖衝つえつき坂といいます。尾津おつの埼の一本松のもとにおいでになりましたところ、先に食事をなさつた時に其處にお忘れになつた大刀が無くならないでありました。そこでお詠み遊ばされたお歌、
尾張の國に眞直まつすぐに向かつている
尾津の埼の
一本松よ。お前。
一本松が人だつたら
大刀を佩はかせようもの、着物を著せようもの、
一本松よ。お前。
其處からおいでになつて、三重みえの村においでになつた時に、また「わたしの足は、三重に曲つた餅のようになつて非常に疲れた」と仰せられました。そこでその地を三重といいます。
其處からおいでになつて、能煩野のぼのに行かれました時に、故郷をお思いになつてお歌いになりましたお歌、
大和は國の中の國だ。
重かさなり合つている青い垣、
山に圍まれている大和は美しいなあ。
命が無事だつた人は、
大和の國の平群へぐりの山の
りつぱなカシの木の葉を
頭插かんざしにお插しなさい。お前たち。
とお歌いになりました。この歌は思國歌くにしのびうたという名の歌です。またお歌い遊ばされました。
なつかしのわが家やの方ほうから雲が立ち昇つて來るわい。
これは片歌かたうたでございます。この時に、御病氣が非常に重くなりました。そこで、御歌みうたを、
孃子おとめの床とこのほとりに
わたしの置いて來た良よく切れる大刀たち、
あの大刀たちはなあ。
と歌い終つて、お隱れになりました。そこで急使を上せて朝廷に申し上げました。
白鳥の陵
――大葬に歌われる歌曲を中心としている。白鳥には、神靈を感じている。――
ここに大和においでになるお妃たちまた御子たちが皆下つておいでになつて、御墓を作つてそのほとりの田に這い※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてお泣きになつてお歌いになりました。
周まわりの田の稻の莖くきに、
稻の莖に、
這い繞めぐつているツルイモの蔓つるです。
しかるに其處から大きな白鳥になつて天に飛んで、濱に向いて飛んでおいでになりましたから、そのお妃たちや御子たちは、其處の篠竹しのだけの苅株かりくいに御足が切り破れるけれども、痛いのも忘れて泣く泣く追つておいでになりました。その時の御歌は、
小篠こざさが原を行き惱なやむ、
空中からは行かずに、歩あるいて行くのです。
また、海水にはいつて、海水の中を骨を折つておいでになつた時の御歌、
海うみの方ほうから行ゆけば行き惱なやむ。
大河原おおかはらの草のように、
海や河かわをさまよい行く。
また飛んで、其處の磯においで遊ばされた時の御歌、
濱の千鳥、濱からは行かずに磯傳いをする。
この四首の歌は皆そのお葬式に歌いました。それで今でもその歌は天皇の御葬式に歌うのです。そこでその國から飛び翔たつておいでになつて、河内の志幾しきにお留まりなさいました。そこで其處に御墓を作つて、お鎭まり遊ばされました。しかしながら、また其處から更に空を飛んでおいでになりました。すべてこのヤマトタケルの命が諸國を平定するために※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つておいでになつた時に、久米の直あたえの祖先のナナツカハギという者がいつもお料理人としてお仕え申しました。
ヤマトタケルの命の系譜
此倭潼命、娶二伊玖米天皇之女布多遲能伊理豐賣命、【自レ布下八字、以レ音。】生御子、帶中津日子命。【一柱】又、娶二其入レ恭弟橘比賣命。生御子、若潼王。【一柱】又、娶二羝淡恭之安國芟之督意富多牟和氣之女布多遲比賣、生御子、稻依別王。【一柱】又、娶二吉備臣建日子之妹大吉備潼比賣、生御子、潼貝兒王。【一柱】又、娶二山代之玖玖揺毛理比賣、生御子、足鏡別王。【一柱】又、一妻之子、息長田別王。凡是倭潼命之御子等、忸六柱。故、帶中津日子命隅、治二天下一也。筱稻依別王隅、【犬上君、潼部君等之督。】筱建貝兒王隅、【讚岐綾君、伊勢之別、登袁之別、揺佐首、宮首之別等之督。】足鏡別王隅、【鎌倉之別、小津、石代之別、漁田之別督也。】次息長田別王之子。杙俣長日子王。此王之子、礦野眞僂比賣命。筱息長眞若中比賣。次弟比賣。【三柱】故、上云若潼王、娶二礦野眞僂比賣、生子、須賣伊呂大中日子王。【自レ須至レ呂以レ音。】此王、娶二淡恭之柴野入杵之女柴野比賣、生子、聟具漏比賣命。故、大帶日子天皇、娶二此聟具漏比賣命、生子、大江王。【一柱】此王、娶二庶妹銀王、生子、大名方王。筱大中比賣命。【二柱】故、此之大中比賣命隅、香坂王・竄熊王之御督也。
――實際あり得ない關係も記されている。――
このヤマトタケルの命が、垂仁天皇の女、フタヂノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、タラシナカツ彦の命お一方です。またかの海におはいりになつたオトタチバナ姫の命と結婚してお生みになつた御子はワカタケルの王お一方です。また近江のヤスの國の造の祖先のオホタムワケの女のフタヂ姫と結婚してお生みになつた御子はイナヨリワケの王お一方です。また吉備の臣タケ彦の妹の大吉備のタケ姫と結婚してお生みになつた御子は、タケカヒコの王お一方です。また山代やましろのククマモリ姫と結婚してお生みになつた御子はアシカガミワケの王お一方です。またある妻の子は、オキナガタワケの王です。すべてこのヤマトタケルの命の御子たちは合わせて六人ありました。
それでタラシナカツ彦の命は天下をお治めなさいました。次にイナヨリワケの王は、犬上の君・建部の君等の祖先です。次にタケカヒコの王は、讚岐の綾の君・伊勢の別・登袁とおの別・麻佐の首おびと・宮の首の別等の祖先です。アシカガミワケの王は、鎌倉の別・小津の石代いわしろの別・漁田すなきだの別の祖先です。次にオキナガタワケの王の子、クヒマタナガ彦の王、この王の子、イヒノノマクロ姫の命・オキナガマワカナカツ姫・弟姫のお三方です。そこで上に出たワカタケルの王が、イヒノノマクロ姫と結婚して生んだ子はスメイロオホナカツ彦の王、この王が、近江のシバノイリキの女のシバノ姫と結婚して生んだ子はカグロ姫の命です。オホタラシ彦の天皇がこのカグロ姫の命と結婚してお生みになつた御子はオホエの王のお一方です。この王が庶妹シロガネの王と結婚して生んだ子はオホナガタの王とオホナカツ姫のお二方です。そこでこのオホナカツ姫の命は、カゴサカの王・オシクマの王の母君です。
このオホタラシ彦の天皇の御年百三十七歳、御陵は山の邊の道の上にあります。
成務天皇
――國縣の堺を定め、國の造、縣主を定め、地方行政の基礎が定められた。――
ワカタラシ彦の天皇(成務天皇)、近江の國の志賀しがの高穴穗の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は穗積ほづみの臣の祖先、タケオシヤマタリネの女のオトタカラの郎女いらつめと結婚してお生みになつた御子はワカヌケの王お一方です。そこでタケシウチの宿禰を大臣となされ、大小國々の國の造をお定めになり、また國々の堺、また大小の縣の縣主あがたぬしをお定めになりました。天皇は御年九十五歳、乙卯の年の三月十五日にお隱れになりました。御陵は沙紀さきの多他那美たたなみにあります。 
 
六、仲哀天皇 
后妃と皇子女
タラシナカツ彦の天皇(仲哀天皇)、穴門あなとの豐浦とよらの宮また筑紫つくしの香椎かしいの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、オホエの王の女のオホナカツ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、カゴサカの王とオシクマの王お二方です。またオキナガタラシ姫の命と結婚なさいました。この皇后のお生みになつた御子はホムヤワケの命・オホトモワケの命、またの名はホムダワケの命とお二方です。この皇太子の御名をオホトモワケの命と申しあげるわけは、初めお生まれになつた時に腕に鞆ともの形をした肉がありましたから、この御名前をおつけ申しました。そこで腹の中においでになつて天下をお治めなさいました。この御世に淡路の役所を定めました。
神功皇后
――御母はシラギ人天の日矛の系統で、シラギのことを知つておられたのだろうという。――
皇后のオキナガタラシ姫の命(神功皇后)は神懸かみがかりをなさつた方でありました。天皇が筑紫の香椎の宮においでになつて熊曾の國を撃とうとなさいます時に、天皇が琴をお彈ひきになり、タケシウチの宿禰が祭の庭にいて神の仰せを伺いました。ここに皇后に神懸りして神樣がお教えなさいましたことは、「西の方に國があります。金銀をはじめ目の輝く澤山の寶物がその國に多くあるが、わたしが今その國をお授け申そう」と仰せられました。しかるに天皇がお答え申されるには、「高い處に登つて西の方を見ても、國が見えないで、ただ大海のみだ」と言われて、詐いつわりをする神だとお思いになつて、お琴を押し退けてお彈きにならず默つておいでになりました。そこで神樣がたいへんお怒りになつて「すべてこの國はあなたの治むべき國ではないのだ。あなたは一本道にお進みなさい」と仰せられました。そこでタケシウチの宿禰が申しますには、「おそれ多いことです。陛下、やはりそのお琴をお彈き遊ばせ」と申しました。そこで少しその琴をお寄せになつて生々なまなまにお彈きになつておいでになつたところ、間も無く琴の音が聞えなくなりました。そこで火を點ともして見ますと、既にお隱かくれになつていました。
そこで驚き恐懼きようくして御大葬の宮殿にお遷し申し上げて、更にその國内から幣帛へいはくを取つて、生剥いけはぎ・逆剥さかはぎ・畦離あはなち・溝埋みぞうめ・屎戸くそへ・不倫の結婚の罪の類を求めて大祓おおばらえしてこれを清め、またタケシウチの宿禰が祭の庭にいて神の仰せを願いました。そこで神のお教えになることは悉く前の通りで、「すべてこの國は皇后樣のお腹においでになる御子の治むべき國である」とお教えになりました。
そこでタケシウチの宿禰が、「神樣、おそれ多いことですが、その皇后樣のお腹はらにおいでになる御子は何の御子でございますか と[#「ございますか と」はママ]申しましたところ、「男の御子だ」と仰せられました。そこで更にお願い申し上げたことは、「今かようにお教えになる神樣は何という神樣ですか」と申しましたところ、お答え遊ばされるには「これは天照らす大神の御心だ。またソコツツノヲ・ナカツツノヲ・ウハツツノヲの三神だ。今まことにあの國を求めようと思われるなら、天地の神たち、また山の神、海河の神たちに悉く幣帛へいはくを奉り、わたしの御魂みたまを御船みふねの上にお祭り申し上げ、木の灰を瓠ひさごに入れ、また箸はしと皿とを澤山に作つて、悉く大海に散ちらし浮うかべてお渡わたりなさるがよい」と仰せなさいました。
そこで悉く神の教えた通りにして軍隊を整え、多くの船を竝べて海をお渡りになりました時に、海中の魚どもは大小となくすべて出て、御船を背負つて渡りました。順風が盛んに吹いて御船は波のまにまに行きました。その御船の波が新羅しらぎの國に押し上つて國の半にまで到りました。依つてその國王が畏おじ恐れて、「今から後は天皇の御命令のままに馬飼うまかいとして、毎年多くの船の腹を乾かわかさず、柁※(「楫+戈」、第3水準1-86-21)かじさおを乾かわかさずに、天地のあらんかぎり、止まずにお仕え申し上げましよう」と申しました。かような次第で新羅の國をば馬飼うまかいとお定め遊ばされ、百濟くだらの國をば船渡ふなわたりの役所とお定めになりました。そこで御杖を新羅の國主の門におつき立て遊ばされ、住吉の大神の荒い御魂を、國をお守りになる神として祭つてお還り遊ばされました。
鎭懷石と釣魚
かような事がまだ終りませんうちに、お腹の中の御子がお生まれになろうとしました。そこでお腹をお鎭めなされるために石をお取りになつて裳の腰におつけになり、筑紫の國にお渡りになつてからその御子はお生まれになりました。そこでその御子をお生み遊ばされました處をウミと名づけました。またその裳につけておいでになつた石は筑紫の國のイトの村にあります。
また筑紫の松浦縣まつらがたの玉島の里においでになつて、その河の邊ほとりで食物をおあがりになつた時に、四月の上旬の頃でしたから、その河中の磯においでになり、裳の絲を拔き取つて飯粒めしつぶを餌えさにしてその河のアユをお釣りになりました。その河の名は小河おがわといい、その磯の名はカツト姫といいます。今でも四月の上旬になると、女たちが裳の絲を拔いて飯粒を餌にしてアユを釣ることが絶えません。
カゴサカの王とオシクマの王
――ある戰亂の武勇譚が、歌を插入して誇張されてゆく。――
オキナガタラシ姫の命は、大和に還りお上りになる時に、人の心が疑わしいので喪もの船を一つ作つて、御子をその喪の船にお乘せ申し上げて、まず御子は既にお隱れになりましたと言い觸らさしめました。かようにして上つておいでになる時に、カゴサカの王、オシクマの王が聞いて待ち取ろうと思つて、トガ野に進み出て誓を立てて狩をなさいました。その時にカゴサカの王はクヌギに登つて御覽になると、大きな怒り猪じしが出てそのクヌギを掘つてカゴサカの王を咋くいました。しかるにその弟のオシクマの王は、誓の狩にかような惡い事があらわれたのを畏れつつしまないで、軍を起して皇后の軍を待ち迎えられます時に、喪の船に向かつてからの船をお攻めになろうとしました。そこでその喪の船から軍隊を下して戰いました。
この時にオシクマの王は、難波なにわの吉師部きしべの祖先のイサヒの宿禰すくねを將軍とし、太子の方では丸邇わにの臣の祖先の難波なにわネコタケフルクマの命を將軍となさいました。かくて追い退けて山城に到りました時に、還り立つて雙方退かないで戰いました。そこでタケフルクマの命は謀つて、皇后樣は既にお隱れになりましたからもはや戰うべきことはないと言わしめて、弓の弦を絶つて詐いつわつて降服しました。そこで敵の將軍はその詐りを信じて弓をはずし兵器を藏しまいました。その時に頭髮の中から豫備の弓弦を取り出して、更に張つて追い撃ちました。かくて逢坂おおさかに逃げ退いて、向かい立つてまた戰いましたが、遂に追い迫せまり敗つて近江のササナミに出て悉くその軍を斬りました。そこでそのオシクマの王がイサヒの宿禰と共に追い迫せめられて、湖上に浮んで歌いました歌、
さあ君きみよ、
フルクマのために負傷ふしようするよりは、
カイツブリのいる琵琶の湖水に
潛り入ろうものを。
と歌つて海にはいつて死にました。
氣比けひの大神
――敦賀市の氣比神宮の神の名の由來。――
かくてタケシウチの宿禰がその太子をおつれ申し上げて禊みそぎをしようとして近江また若狹わかさの國を經た時に、越前の敦賀つるがに假宮を造つてお住ませ申し上げました。その時にその土地においでになるイザサワケの大神が夜の夢にあらわれて、「わたしの名を御子の名と取りかえたいと思う」と仰せられました。そこで「それは恐れ多いことですから、仰せの通りおかえ致しましよう」と申しました。またその神が仰せられるには「明日の朝、濱においでになるがよい。名をかえた贈物を獻上致しましよう」と仰せられました。依つて翌朝濱においでになつた時に、鼻の毀やぶれたイルカが或る浦に寄つておりました。そこで御子が神に申されますには、「わたくしに御食膳の魚を下さいました」と申さしめました。それでこの神の御名を稱えて御食みけつ大神と申し上げます。その神は今でも氣比の大神と申し上げます。またそのイルカの鼻の血が臭うございました。それでその浦を血浦ちうらと言いましたが、今では敦賀つるがと言います。
酒の座の歌曲
――酒宴の席に演奏される歌曲の説明。――
其處から還つてお上りになる時に、母君のオキナガタラシ姫の命がお待ち申し上げて酒を造つて獻上しました。その時にその母君のお詠み遊ばされた歌は、
このお酒はわたくしのお酒ではございません。
お神酒みきの長官、常世とこよの國においでになる
岩になつて立つていらつしやるスクナビコナ樣が
祝つて祝つて祝い狂くるわせ
祝つて祝つて祝い※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)まわつて
獻上して來たお酒なのですよ。
盃をかわかさずに召しあがれ。
かようにお歌いになつてお酒を獻りました。その時にタケシウチの宿禰が御子のためにお答え申し上げた歌は、
このお酒を釀造した人は、
その太鼓を臼うすに使つて、
歌いながら作つた故か、
舞いながら作つた故か、
このお酒の
不思議に樂しいことでございます。
これは酒樂さかくらの歌でございます。
すべてタラシナカツ彦の天皇の御年は五十二歳、壬戌みずのえいぬの年の六月十一日にお隱れになりました。御陵は河内の惠賀えがの長江にあります。皇后樣は御年百歳でお隱かくれになりました。狹城さきの楯列たたなみの御陵にお葬り申し上げました。 
 
七、應神天皇 
后妃と皇子女
ホムダワケの命(應神天皇)、大和の輕島かるしまの明あきらの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇はホムダノマワカの王の女王お三方と結婚されました。お一方は、タカギノイリ姫の命、次は中姫の命、次は弟姫の命であります。この女王たちの御父、ホムダノマワカの王はイホキノイリ彦の命が、尾張の直の祖先のタケイナダの宿禰の女のシリツキトメと結婚して生んだ子であります。そこでタカギノイリ姫の生んだ御子みこは、ヌカダノオホナカツヒコの命・オホヤマモリの命・イザノマワカの命・オホハラの郎女いらつめ・タカモクの郎女いらつめの御おん五方かたです。中姫の命の生んだ御子みこは、キノアラタの郎女いらつめ・オホサザキの命・ネトリの命のお三方です。弟姫の命の御子は、阿部あべの郎女・アハヂノミハラの郎女・キノウノの郎女・ミノの郎女のお五方です。また天皇、ワニノヒフレのオホミの女のミヤヌシヤガハエ姫と結婚してお生うみになつた御子みこは、ウヂの若郎子わきいらつこ・ヤタの若郎女わきいらつめ・メトリの王のお三方です。またそのヤガハエ姫の妹ヲナベの郎女と結婚してお生みになつた御子は、ウヂの若郎女お一方です。またクヒマタナガ彦の王の女のオキナガマワカナカツ姫と結婚してお生みになつた御子はワカヌケフタマタの王お一方です。また櫻井の田部たべの連の祖先そせんのシマタリネの女のイトヰ姫と結婚してお生みになつた御子はハヤブサワケの命お一方です。また日向のイヅミノナガ姫と結婚してお生みになつた御子はオホハエの王・ヲハエの王・ハタビの若郎女のお三方です。またカグロ姫と結婚してお生みになつた御子はカハラダの郎女・タマの郎女・オシサカノオホナカツ姫・トホシの郎女・カタヂの王の御五方です。またカヅラキノノノイロメと結婚してお生みになつた御子は、イザノマワカの王お一方です。すべてこの天皇の御子たちは合わせて二十六王おいで遊あそばされました。男王十一人女王十五人です。この中でオホサザキの命は天下をお治めになりました。
オホヤマモリの命とオホサザキの命
――天皇が、兄弟の御子に對してテストをされる。その結果弟が帝位を繼承することになる。これもきまつた型で、兄の系統ではあるが、臣下となつたという説明の物語である。これはあとに後續の説話がある。――
ここに天皇がオホヤマモリの命とオホサザキの命とに「あなたたちは兄である子と弟である子とは、どちらがかわいいか」とお尋ねなさいました。天皇がかようにお尋ねになつたわけは、ウヂの若郎子に天下をお授けになろうとする御心がおありになつたからであります。しかるにオホヤマモリの命は、「上の子の方がかわゆく思われます」と申しました。次にオホサザキの命は天皇のお尋ね遊ばされる御心をお知りになつて申されますには、「大きい方の子は既に人となつておりますから案ずることもございませんが、小さい子はまだ若いのですから愛らしく思われます」と申しました。そこで天皇の仰せになりますには、「オホサザキよ、あなたの言うのはわたしの思う通りです」と仰せになつて、そこでそれぞれに詔みことのりを下されて、「オホヤマモリの命は海や山のことを管理なさい。オホサザキの命は天下の政治を執つて天皇に奏上なさい。ウヂの若郎子は帝位におつきなさい」とお分わけになりました。依つてオホサザキの命は父君の御命令に背きませんでした。
葛野かずのの歌
――國ほめの歌曲の一つ。――
或る時、天皇が近江の國へ越えてお出ましになりました時に、宇治野の上にお立ちになつて葛野かずのを御覽になつてお詠みになりました御歌、
葉の茂しげつた葛野かずのを見れば、
幾千も富み榮えた家居が見える、
國の中での良い處が見える。
蟹の歌
――蟹と鹿とは、古代の主要な食料であつた。その蟹を材料とした歌曲の物語である。ここではワニ氏の女が關係するが、ワニ氏は後に春日氏ともいい、しばしば皇室に女を奉り、歌物語を多く傳えた家である。――
かくて木幡こばたの村においでになつた時に、その道で美しい孃子にお遇いになりました。そこで天皇がその孃子に、「あなたは誰の子か」とお尋ねになりましたから、お答え申し上げるには、「ワニノヒフレのオホミの女のミヤヌシヤガハエ姫でございます」と申しました。天皇がその孃子に「わたしが明日還る時にあなたの家にはいりましよう」と仰せられました。そこでヤガハエ姫がその父に詳しくお話しました。依つて父の言いますには、「これは天皇陛下でおいでになります。恐れ多いことですから、わが子よ、お仕え申し上げなさい」と言つて、その家をりつぱに飾り立て、待つておりましたところ、あくる日においでになりました。そこで御馳走を奉る時に、そのヤガハエ姫にお酒盞さかずきを取らせて獻りました。そこで天皇がその酒盞をお取りになりながらお詠み遊ばされた歌、
この蟹かにはどこの蟹だ。
遠くの方の敦賀つるがの蟹です。
横歩よこあるきをして何處へ行くのだ。
イチヂ島・ミ島について、
カイツブリのように水に潛くぐつて息いきをついて、
高低のあるササナミへの道を
まつすぐにわたしが行ゆきますと、
木幡こばたの道で出逢つた孃子おとめ、
後姿うしろすがたは楯のようだ。
齒竝びは椎しいの子みや菱ひしの實のようだ。
櫟井いちいの丸邇坂わにさかの土つちを
上うえの土つちはお色いろが赤い、
底の土は眞黒まつくろゆえ
眞中まんなかのその中の土を
かぶりつく直火じかびには當てずに
畫眉かきまゆを濃く畫いて
お逢あいになつた御婦人、
このようにもとわたしの見たお孃さん、
あのようにもとわたしの見たお孃さんに、
思いのほかにも向かつていることです。
添つていることです。
かくて御結婚なすつてお生うみになつた子がウヂの若郎子わきいらつこでございました。
髮長姫
――酒宴で孃子を贈り、また孃子を得た喜びの歌曲。古く諸縣舞むらがたまいという舞があつたが、關係があるかもしれない。――
また天皇が、日向の國の諸縣むらがたの君の女むすめの髮長姫かみながひめが美しいとお聞きになつて、お使い遊ばそうとして、お召めし上げなさいます時に、太子のオホサザキの命がその孃子の難波津に船つきしているのを御覽になつて、その容姿のりつぱなのに感心なさいまして、タケシウチの宿禰すくねにお頼みになるには「この日向からお召し上げになつた髮長姫を、陛下の御もとにお願いしてわたしに賜わるようにしてくれ」と仰せられました。依つてタケシウチの宿禰の大臣が天皇の仰せを願いましたから、天皇が髮長姫をその御子にお授けになりました。お授けになる樣は、天皇が御酒宴を遊ばされた日に、髮長姫にお酒を注ぐ柏葉かしわを取らしめて、その太子に賜わりました。そこで天皇のお詠み遊ばされた歌は、
さあお前まえたち、野蒜のびる摘つみに
蒜ひる摘つみにわたしの行く道の
香こうばしい花橘はなたちばなの樹、
上の枝は鳥がいて枯らし
下の枝は人が取つて枯らし、
三栗みつぐりのような眞中まんなかの枝の
目立つて見える紅顏のお孃さんを
さあ手に入れたら宜いでしよう。
また、
水のたまつている依網よさみの池の
堰杙せきくいを打うつてあつたのを知しらずに
ジュンサイを手繰たぐつて手の延びていたのを知しらずに
氣のつかない事をして殘念だつた。
かようにお歌いになつて賜わりました。その孃子を賜わつてから後に太子のお詠みになつた歌、
遠い國の古波陀こはだのお孃さんを、
雷鳴かみなりのように音高く聞いていたが、
わたしの妻つまとしたことだつた。
また、
遠い國の古波陀こはだのお孃さんが、
爭わずにわたしの妻となつたのは、
かわいい事さね。
國主歌くずうた
――吉野山中の土民の歌曲。――
また、吉野のクズどもがオホサザキの命の佩おびておいでになるお刀を見て歌いました歌は、
天子樣の日の御子である
オホサザキ樣、
オホサザキ樣のお佩はきになつている大刀は、
本は鋭く、切先きつさきは魂あり、
冬木のすがれの下の木のように
さやさやと鳴り渡る。
また吉野のカシの木のほとりに臼を作つて、その臼でお酒を造つて、その酒を獻つた時に、口鼓を撃ち演技をして歌つた歌、
カシの木の原に横の廣い臼を作り
その臼に釀かもしたお酒、
おいしそうに召し上がりませ、
わたしの父とうさん。
この歌は、クズどもが土地の産物を獻る時に、常に今でも歌う歌であります。
文化の渡來
――大陸の文化の渡來した記憶がまとめて語られる。多くは朝鮮を通して、また直接にも。――
この御世に、海部あまべ・山部・山守部・伊勢部をお定めになりました。劒の池を作りました。また新羅人しらぎびとが渡つて來ましたので、タケシウチの宿禰がこれを率ひきいて堤の池に渡つて百濟くだらの池を作りました。
また百濟くだらの國王照古王しようこおうが牡馬おうま一疋・牝馬めうま一疋をアチキシに付けて貢たてまつりました。このアチキシは阿直あちの史等ふみひとの祖先です。また大刀と大鏡とを貢りました。また百濟の國に、もし賢人があれば貢れと仰せられましたから、命を受けて貢つた人はワニキシといい、論語十卷・千字文じもん一卷、合わせて十一卷をこの人に付けて貢りました。また工人の鍛冶屋かじや卓素たくそという者、また機はたを織る西素さいその二人をも貢りました。秦はたの造みやつこ、漢あやの直あたえの祖先、それから酒を造ることを知しつているニホ、またの名なをススコリという者等も渡つて參りました。このススコリはお酒を造つて獻りました。天皇がこの獻つたお酒に浮かれてお詠みになつた歌は、
ススコリの釀かもしたお酒にわたしは醉いましたよ。
平和へいわなお酒、樂しいお酒にわたしは醉いましたよ。
かようにお歌いになつておいでになつた時に、御杖で大坂の道の中にある大石をお打ちになつたから、その石が逃げ走りました。それで諺ことわざに「堅い石でも醉人よつぱらいに遇うと逃げる」というのです。
オホヤマモリの命とウヂの若郎子
――オホヤマモリの命を始祖と稱する山部の人々の傳えた物語。――
かくして天皇がお崩かくれになつてから、オホサザキの命は天皇の仰せのままに天下をウヂの若郎子に讓りました。しかるにオホヤマモリの命は天皇の命に背いてやはり天下を獲えようとして、その弟の御子を殺そうとする心があつて、竊に兵士を備えて攻めようとしました。そこでオホサザキの命はその兄が軍をお備えになることをお聞きになつて、使を遣つてウヂの若郎子に告げさせました。依つてお驚きになつて、兵士を河のほとりに隱し、またその山の上にテントを張り、幕を立てて、詐つて召使を王樣として椅子にいさせ、百官が敬禮し往來する樣はあたかも王のおいでになるような有樣にして、また兄の王の河をお渡りになる時の用意に、船※(「楫+戈」、第3水準1-86-21)ふねかじを具え飾り、さな葛かずらという蔓草の根を臼でついて、その汁の滑なめを取り、その船の中の竹簀すのこに塗つて、蹈めば滑すべつて仆れるように作り、御子はみずから布の衣裝を著て、賤しい者の形になつて棹を取つて立ちました。ここにその兄の王が兵士を隱し、鎧よろいを衣の中に著せて、河のほとりに到つて船にお乘りになろうとする時に、そのいかめしく飾つた處を見遣つて、弟の王がその椅子においでになるとお思いになつて、棹を取つて船に立つておいでになることを知らないで、その棹を取つている者にお尋ねになるには、「この山には怒つた大猪があると傳え聞いている。わしがその猪を取ろうと思うが取れるだろうか」とお尋ねになりましたから、棹を取つた者は「それは取れますまい」と申しました。また「どうしてか」とお尋ねになつたので、「たびたび取ろうとする者があつたが取れませんでした。それだからお取りになれますまいと申すのです」と申しました。さて、渡つて河中に到りました時に、その船を傾けさせて水の中に落し入れました。そこで浮き出て水のまにまに流れ下りました。流れながら歌いました歌は、
流れの早い宇治川の渡場に
棹を取るに早い人はわたしのなかまに來てくれ。
そこで河の邊に隱れた兵士が、あちこちから一時に起つて矢をつがえて攻めて川を流れさせました。そこでカワラの埼さきに到つて沈みました。それで鉤かぎをもつて沈んだ處を探りましたら、衣の中の鎧にかかつてカワラと鳴りました。依つて其處の名をカワラの埼というのです。その屍體を掛け出した時に歌つた弟の王の御歌、
流れの早い宇治川の渡場に
渡場に立つている梓弓とマユミの木、
切ろうと心には思うが
取ろうと心には思うが、
本の方では君を思い出し
末の方では妻を思い出し
いらだたしく其處で思い出し
かわいそうに其處で思い出し、
切らないで來た梓弓とマユミの木。
そのオホヤマモリの命の屍體をば奈良山に葬りました。このオホヤマモリの命は、土形ひじかたの君・幣岐へきの君・榛原はりはらの君等の祖先です。
かくてオホサザキの命とウヂの若郎子とお二方、おのおの天下をお讓りになる時に、海人あまが貢物を獻りました。依つて兄の王はこれを拒んで弟の王に獻らしめ、弟の王はまた兄の王に獻らしめて、互にお讓りになる間にあまたの日を經ました。かようにお讓り遊ばされることは一度二度でありませんでしたから、海人は往來に疲れて泣きました。それで諺に、「海人だから自分の物ゆえに泣くのだ」というのです。しかるにウヂの若郎子は早くお隱れになりましたから、オホサザキの命が天下をお治めなさいました。
天の日矛
――異類婚姻説話の一つ、朝鮮系統のものである。終りに出石神社の由來がある。但馬の國の語部が傳えたのだろう。――
また新羅しらぎの國王の子の天あめの日矛ひほこという者がありました。この人が渡つて參りました。その渡つて來た故は、新羅の國に一つの沼がありまして、アグ沼といいます。この沼の邊で或る賤の女が晝寢をしました。其處に日の光が虹のようにその女にさしましたのを、或る賤の男がその有樣を怪しいと思つて、その女の状を伺いました。しかるにその女はその晝寢をした時から姙んで、赤い玉を生みました。
その伺つていた賤の男がその玉を乞い取つて、常に包つつんで腰につけておりました。この人は山谷の間で田を作つておりましたから、耕作する人たちの飮食物を牛に負わせて山谷の中にはいりましたところ、國王の子の天の日矛が遇いました。そこでその男に言うには、「お前はなぜ飮食物を牛に背負わせて山谷にはいるのか。きつとこの牛を殺して食うのだろう」と言つて、その男を捕えて牢に入れようとしましたから、その男が答えて言うには、「わたくしは牛を殺そうとは致しません。ただ農夫の食物を送るのです」と言いました。それでも赦しませんでしたから、腰につけていた玉を解いてその國王の子に贈りました。依つてその男を赦して、玉を持つて來て床の邊に置きましたら、美しい孃子になり、遂に婚姻して本妻としました。その孃子は、常に種々の珍味を作つて、いつもその夫に進めました。しかるにその國王の子が心奢おごりして妻を詈ののしりましたから、その女が「大體わたくしはあなたの妻になるべき女ではございません。母上のいる國に行きましよう」と言つて、竊に小船に乘つて逃げ渡つて來て難波に留まりました。これは難波のヒメゴソの社においでになるアカル姫という神です。
そこで天の日矛がその妻の逃げたことを聞いて、追い渡つて來て難波にはいろうとする時に、その海上の神が、塞いで入れませんでした。依つて更に還つて、但馬たじまの國に船泊はてをし、その國に留まつて、但馬のマタヲの女のマヘツミと結婚して生うんだ子はタヂマモロスクです。その子がタヂマヒネ、その子がタヂマヒナラキ、その子は、タヂマモリ・タヂマヒタカ・キヨ彦の三人です。このキヨ彦がタギマノメヒと結婚して生うんだ子がスガノモロヲとスガカマユラドミです。上に擧げたタヂマヒタカがその姪めいのユラドミと結婚して生んだ子が葛城のタカヌカ姫の命で、これがオキナガタラシ姫の命(神功皇后)の母君です。
この天の日矛の持つて渡つて來た寶物は、玉つ寶という玉の緒に貫いたもの二本、また浪振る領巾ひれ・浪切る領巾・風振る領巾・風切る領巾・奧つ鏡・邊つ鏡、合わせて八種です。これらはイヅシの社やしろに祭まつつてある八神です。
秋山の下氷壯夫と春山の霞壯夫
――同じく異類婚姻説話であるが、前の物語に比してずつと日本ふうになつている。海幸山幸物語との類似點に注意。――
ここに神の女むすめ、イヅシ孃子という神がありました。多くの神がこのイヅシ孃子を得ようとしましたが得られませんでした。ここに秋山の下氷壯夫したひおとこ・春山の霞壯夫かすみおとこという兄弟の神があります。その兄が弟に言いますには、「わたしはイヅシ孃子を得ようと思いますけれども得られません。お前はこの孃子を得られるか」と言いましたから、「たやすいことです」と言いました。そこでその兄の言いますには、「もしお前がこの孃子を得たなら、上下の衣服をゆずり、身の丈たけほどに甕かめに酒を造り、また山河の産物を悉く備えて御馳走をしよう」と言いました。そこでその弟が兄の言つた通りに詳しく母親に申しましたから、その母親が藤の蔓を取つて、一夜のほどに衣ころも・褌はかま・襪くつした・沓くつまで織り縫い、また弓矢を作つて、衣裝を著せその弓矢を持たせて、その孃子の家に遣りましたら、その衣裝も弓矢も悉く藤の花になりました。そこでその春山の霞壯夫が弓矢ゆみやを孃子の厠に懸けましたのを、イヅシ孃子がその花を不思議に思つて、持つて來る時に、その孃子のうしろに立つて、その部屋にはいつて結婚をして、一人の子を生みました。
そこでその兄に「わたしはイヅシ孃子を得ました」と言う。しかるに兄は弟の結婚したことを憤つて、その賭けた物を償いませんでした。依つてその母に訴えました。母親が言うには、「わたしたちの世の事は、すべて神の仕業に習うものです。それだのにこの世の人の仕業に習つてか、その物を償わない」と言つて、その兄の子を恨んで、イヅシ河の河島の節のある竹を取つて、大きな目の荒い籠を作り、その河の石を取つて、鹽にまぜて竹の葉に包んで、詛言のろいごとを言つて、「この竹の葉の青いように、この竹の葉の萎しおれるように、青くなつて萎れよ。またこの鹽の盈みちたり乾ひたりするように盈ち乾よ。またこの石の沈むように沈み伏せ」と、このように詛のろつて、竈かまどの上に置かしめました。それでその兄が八年もの間、乾かわき萎しおれ病やみ伏ふしました。そこでその兄が、泣なき悲しんで願いましたから、その詛のろいの物をもとに返しました。そこでその身がもとの通りに安らかになりました。
系譜
――允恭天皇の皇后の出る系譜であり、後に繼體天皇が、この系統から出る。――
このホムダの天皇の御子のワカノケフタマタの王が、その母の妹のモモシキイロベ、またの名はオトヒメマワカ姫の命と結婚して生んだ子は、大郎子、またの名はオホホドの王・オサカノオホナカツ姫の命・タヰノナカツ姫・タミヤノナカツ姫・フヂハラノコトフシの郎女・トリメの王・サネの王の七人です。そこでオホホドの王は、三國の君・波多の君・息長おきながの君・筑紫の米多の君・長坂の君・酒人の君・山道の君・布勢の君の祖先です。またネトリの王が庶妹ミハラの郎女と結婚して生んだ子は、ナカツ彦の王、イワシマの王のお二方です。またカタシハの王の子はクヌの王です。すべてこのホムダの天皇は御年百三十歳、甲午の九月九日にお隱れになりました。御陵は河内の惠賀えがの裳伏もふしの岡にあります。 
 
古事記 下の卷

 

一、仁徳天皇 
后妃と皇子女
オホサザキの命(仁徳天皇)、難波なにわの高津たかつの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、葛城のソツ彦の女の石いわの姫ひめの命(皇后)と結婚してお生みになつた御子は、オホエノイザホワケの命・スミノエノナカツの王・タヂヒノミヅハワケの命・ヲアサヅマワクゴノスクネの命のお四方です。また上にあげたヒムカノムラガタの君ウシモロの女の髮長姫と結婚してお生みになつた御子みこはハタビの大郎子、またの名はオホクサカの王・ハタビの若郎女、またの名はナガメ姫の命、またの名はワカクサカベの命のお二方です。また庶妹ヤタの若郎女と結婚し、また庶妹ウヂの若郎女と結婚しました。このお二方は御子がありません。すべてこの天皇の御子たち合わせて六王ありました。男王五人女王一人です。この中、イザホワケの命は天下をお治めなさいました。次にタヂヒノミヅハワケの命も天下をお治めなさいました。次にヲアサヅマワクゴノスクネの命も天下をお治めなさいました。この天皇の御世に皇后石いわの姫ひめの命の御名の記念として葛城部をお定めになり、皇太子イザホワケの命の御名の記念として壬生部をお定めになり、またミヅハワケの命の御名の記念として蝮部たじひべをお定めになり、またオホクサカの王の御名の記念として大日下部おおくさかべをお定めになり、ワカクサカベの王の御名の記念として若日下部をお定めになりました。
聖の御世
――撫民厚生の御事蹟を取りあつめている。聖の御世というのは、外來思想で、文字による文化が行われていたことを語る。――
この御世に大陸から來た秦人はたびとを使つて、茨田うまらだの堤、茨田の御倉をお作りになり、また丸邇わにの池、依網よさみの池をお作りになり、また難波の堀江を掘つて海に通わし、また小椅おばしの江を掘り、墨江すみのえの舟つきをお定めになりました。
或る時、天皇、高山にお登りになつて、四方を御覽になつて仰せられますには、「國内に烟が立つていない。これは國がすべて貧しいからである。それで今から三年の間人民の租税勞役をすべて免せ」と仰せられました。この故に宮殿が破壞して雨が漏りますけれども修繕なさいません。樋ひを掛けて漏る雨を受けて、漏らない處にお遷り遊ばされました。後に國中を御覽になりますと、國に烟が滿ちております。そこで人民が富んだとお思いになつて、始めて租税勞役を命ぜられました。それですから人民が榮えて、勞役に出るのに苦くるしみませんでした。それでこの御世を稱えて聖ひじりの御世と申します。
吉備の黒日賣
――吉備氏の榮えるに至つた由來の物語。――
皇后石の姫の命は非常に嫉妬なさいました。それで天皇のお使いになつた女たちは宮の中にも入りません。事が起ると足擦あしずりしてお妬みなさいました。しかるに天皇、吉備きびの海部あまべの直あたえの女、黒姫くろひめという者が美しいとお聞き遊ばされて、喚めし上げてお使いなさいました。しかしながら皇后樣のお妬みになるのを畏れて本國に逃げ下りました。天皇は高殿においで遊ばされて、黒姫の船出するのを御覽になつて、お歌い遊ばされた御歌、
沖おきの方ほうには小舟おぶねが續いている。
あれは愛いとしのあの子こが
國へ歸るのだ。
皇后樣はこの歌をお聞きになつて非常にお怒りになつて、船出の場所に人を遣つて、船から黒姫を追い下して歩かせて追いはらいました。
ここに天皇は黒姫をお慕い遊ばされて、皇后樣に欺いつわつて、淡路島を御覽になると言われて、淡路島においでになつて遙にお眺めになつてお歌いになつた御歌、
海の照り輝く難波の埼から
立ち出でて國々を見やれば、
アハ島やオノゴロ島
アヂマサの島も見える。
サケツ島も見える。
そこでその島から傳つて吉備の國においでになりました。そこで黒姫がその國の山の御園に御案内申し上げて、御食物を獻りました。そこで羮あつものを獻ろうとして青菜を採つんでいる時に、天皇がその孃子の青菜を採む處においでになつて、お歌いになりました歌は、
山の畑に蒔いた青菜も
吉備の人と一緒に摘むと
樂しいことだな。
天皇が京に上つておいでになります時に、黒姫の獻つた歌は、
大和の方へ西風が吹き上げて
雲が離れるように離れていても
忘れは致しません。
また、
大和の方へ行くのは誰方樣どなたさまでしよう。
地の下の水のように、心の底で物思いをして
行くのは誰方樣どなたさまでしよう。
皇后石の姫の命
――靜歌の歌い返しと稱する歌曲にまつわる物語。それに鳥山の歌が插入されている。――
これより後に皇后樣が御宴をお開きになろうとして、柏かしわの葉を採りに紀伊の國においでになつた時に、天皇がヤタの若郎女と結婚なさいました。ここに皇后樣が柏の葉を御船にいつぱいに積んでお還りになる時に、水取の役所に使われる吉備の國の兒島郡の仕丁しちようが自分の國に歸ろうとして、難波の大渡おおわたりで遲れた雜仕女ぞうしおんなの船に遇いました。そこで語りますには「天皇はこのごろヤタの若郎女と結婚なすつて、夜晝戲れておいでになります。皇后樣はこの事をお聞き遊ばさないので、しずかに遊んでおいでになるのでしよう」と語りました。そこでその女がこの語つた言葉を聞いて、御船に追いついて、その仕丁の言いました通りに有樣を申しました。
そこで皇后樣が非常に恨み、お怒りになつて、御船に載せた柏かしわの葉を悉く海に投げ棄てられました。それで其處を御津みつの埼と言うのです。そうして皇居におはいりにならないで、船を曲げて堀江に溯らせて、河のままに山城に上つておいでになりました。この時にお歌いになつた歌は、
山また山の山城川を
上流へとわたしが溯れば、
河のほとりに生い立つているサシブの木、
そのサシブの木の
その下に生い立つている
葉の廣い椿の大樹、
その椿の花のように輝いており
その椿の葉のように廣らかにおいでになる
わが陛下です。
それから山城から※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて、奈良の山口においでになつてお歌いになつた歌、
山また山の山城川を
御殿の方へとわたしが溯れば、
うるわしの奈良山を過ぎ
青山の圍んでいる大和を過ぎ
わたしの見たいと思う處は、
葛城かずらきの高臺の御殿、
故郷の家のあたりです。
かように歌つてお還りになつて、しばらく筒木つつきの韓人のヌリノミの家におはいりになりました。天皇は皇后樣が山城を通つて上つておいでになつたとお聞き遊ばされて、トリヤマという舍人とねりをお遣りになつて歌をお送りなさいました。その御歌は、
山城やましろに追おい附つけ、トリヤマよ。
追い附け、追い附け。最愛の我が妻に追い附いて逢えるだろう。
續つづいて丸邇わにの臣おみクチコを遣して、御歌をお送りになりました。
ミモロ山の高臺たかだいにある
オホヰコの原。
その名のような大豚おおぶたの腹にある
向き合つている臟腑きも、せめて心だけなりと
思わないで居られようか。
またお歌い遊ばされました御歌、
山やままた山やまの山城の女が
木の柄のついた鍬くわで掘つた大根、
その眞白まつしろな白い腕を
交かわさずに來たなら、知らないとも云えようが。
このクチコの臣がこの御歌を申すおりしも雨が非常に降つておりました。しかるにその雨をも避けず、御殿の前の方に參り伏せば入れ違つて後うしろの方においでになり、御殿の後の方に參り伏せば入れ違つて前の方においでになりました。それで匐はつて庭の中に跪ひざまずいている時に、雨水がたまつて腰につきました。その臣は紅い紐をつけた藍染あいぞめの衣を著ておりましたから、水潦みずたまりが赤い紐に觸れて青が皆赤くなりました。そのクチコの臣の妹のクチ姫は皇后樣にお仕えしておりましたので、このクチ姫が歌いました歌、
山城やましろの筒木つつきの宮みやで
申し上げている兄上を見ると、
涙ぐまれて參ります。
そこで皇后樣がそのわけをお尋ねになる時に、「あれはわたくしの兄のクチコの臣でございます」と申し上げました。
そこでクチコの臣、その妹のクチ姫、またヌリノミが三人して相談して天皇に申し上げましたことは、「皇后樣のおいで遊ばされたわけは、ヌリノミの飼つている蟲が、一度は這はう蟲になり、一度は殼からになり、一度は飛ぶ鳥になつて、三色に變るめずらしい蟲があります。この蟲を御覽になるためにおはいりなされたのでございます。別に變つたお心はございません」とかように申しました時に、天皇は「それではわたしも不思議に思うから見に行こう」と仰せられて、大宮から上つておいでになつて、ヌリノミの家におはいりになつた時に、ヌリノミが自分の飼つている三色に變る蟲を皇后樣に獻りました。そこで天皇がその皇后樣のおいでになる御殿の戸にお立ちになつて、お歌い遊ばされた御歌、
山また山の山城の女が
木の柄のついた鍬で掘つた大根、
そのようにざわざわとあなたが云うので、
見渡される樹の茂みのように
賑にぎやかにやつて來たのです。
この天皇と皇后樣とお歌いになつた六首の歌は、靜歌の歌い返しでございます。
ヤタの若郎女
――八田部の人々の傳承であろう。――
天皇、ヤタの若郎女をお慕いになつて歌をお遣しになりました。その御歌は、
ヤタの一本菅は、
子を持たずに荒れてしまうだろうが、
惜しい菅原だ。
言葉でこそ菅原というが、
惜しい清らかな女だ。
ヤタの若郎女のお返しの御歌は、
八田やたの一本菅いつぽんすげはひとりで居りましても、
陛下が良いと仰せになるなら、ひとりでおりましても。
ハヤブサワケの王とメトリの王
――もと鳥のハヤブサとサザキとが女鳥を爭う形で、劇的に構成されている。――
また天皇は、弟のハヤブサワケの王を媒人なこうどとしてメトリの王をお求めになりました。しかるにメトリの王がハヤブサワケの王に言われますには、「皇后樣を憚かつて、ヤタの若郎女をもお召しになりませんのですから、わたくしもお仕え申しますまい。わたくしはあなた樣の妻になろうと思います」と言つて結婚なさいました。それですからハヤブサワケの王は御返事申しませんでした。ここに天皇は直接にメトリの王のおいでになる處に行かれて、その戸口の閾しきいの上においでになりました。その時メトリの王は機はたにいて織物を織つておいでになりました。天皇のお歌いになりました御歌は、
メトリの女王の織つていらつしやる機はたは、
誰の料でしようかね。
メトリの王の御返事の歌、
大空おおぞら高たかく飛とぶハヤブサワケの王のお羽織の料です。
それで天皇はその心を御承知になつて、宮にお還りになりました。この後にハヤブサワケの王が來ました時に、メトリの王のお歌いになつた歌は、
雲雀は天に飛び翔ります。
大空高く飛ぶハヤブサワケの王樣、
サザキをお取り遊ばせ。
天皇はこの歌をお聞きになつて、兵士を遣わしてお殺しになろうとしました。そこでハヤブサワケの王とメトリの王と、共に逃げ去つて、クラハシ山に登りました。そこでハヤブサワケの王が歌いました歌、
梯子はしごを立てたような、クラハシ山が嶮けわしいので、
岩に取り附きかねて、わたしの手をお取りになる。
また、
梯子はしごを立てたようなクラハシ山は嶮しいけれど、
わが妻と登れば嶮しいとも思いません。
それから逃げて、宇陀うだのソニという處に行き到りました時に、兵士が追つて來て殺してしまいました。
その時に將軍山部の大楯おおだてが、メトリの王の御手に纏まいておいでになつた玉の腕飾を取つて、自分の妻に與えました。その後に御宴が開かれようとした時に、氏々の女どもが皆朝廷に參りました。その時大楯の妻はかのメトリの王の玉の腕飾を自分の手に纏いて參りました。そこで皇后石いわの姫の命が、お手ずから御酒みきの柏かしわの葉をお取りになつて、氏々の女どもに與えられました。皇后樣はその腕飾を見知つておいでになつて、大楯の妻には御酒の柏の葉をお授けにならないでお引きになつて、夫の大楯を召し出して仰せられましたことは、「あのメトリの王たちは無禮でしたから、お退けになつたので、別の事ではありません。しかるにその奴やつは自分の君の御手に纏いておいでになつた玉の腕飾を、膚はだも温あたたかいうちに剥ぎ取つて持つて來て、自分の妻に與えたのです」と仰せられて、死刑に行われました。
雁の卵
――御世の榮えを祝う歌曲。――
また或る時、天皇が御宴をお開きになろうとして、姫島ひめじまにおいでになつた時に、その島に雁が卵を生みました。依つてタケシウチの宿禰を召して、歌をもつて雁の卵を生んだ樣をお尋ねになりました。その御歌は、
わが大臣よ、
あなたは世にも長壽の人だ。
この日本の國に
雁が子を生んだのを聞いたことがあるか。
ここにタケシウチの宿禰は歌をもつて語りました。
高く光り輝く日の御子樣、
よくこそお尋ねくださいました。
まことにもお尋ねくださいました。
わたくしこそはこの世の長壽の人間ですが、
この日本の國に
雁が子を生んだとはまだ聞いておりません。
かように申して、お琴を戴いて續けて歌いました。
陛下へいかが初はじめてお聞き遊ばしますために
雁は子を生むのでございましよう。
これは壽歌ほぎうたの片歌かたうたです。
枯野からのという船
――琴の歌。――
この御世にウキ河の西の方に高い樹がありました。その樹の影は、朝日に當れば淡路島に到り、夕日に當れば河内の高安山を越えました。そこでこの樹を切つて船に作りましたところ、非常に早はやく行く船でした。その船の名はカラノといいました。それでこの船で、朝夕に淡路島の清水を汲んで御料の水と致しました。この船が壞こわれましてから、鹽を燒き、その燒け殘つた木を取つて琴に作りましたところ、その音が七郷に聞えました。それで歌に、
船ふねのカラノで鹽を燒いて、
その餘りを琴に作つて、
彈きなせば、鳴るユラの海峽の
海中の岩に觸れて立つている
海の木のようにさやさやと鳴なり響く。
と歌いました。これは靜歌しずうたの歌うたい返かえしです。
この天皇は御年八十三歳、丁卯ひのとうの年の八月十五日にお隱れなさいました。御陵は毛受もずの耳原にあります。 
 
二、履中天皇・反正天皇 
履中天皇とスミノエノナカツ王
――大和の漢あや氏、多治比部などの傳承の物語。――
御子のイザホワケの王(履中天皇)、大和のイハレの若櫻わかざくらの宮においでになつて、天下をお治めなさいました。この天皇、葛城かずらきのソツ彦の子このアシダの宿禰の女の黒姫くろひめの命と結婚してお生うみになつた御子みこは、市いちの邊べのオシハの王・ミマの王・アヲミの郎女いらつめ、又の名はイヒトヨの郎女のお三方かたです。
はじめ難波の宮においでになつた時に、大嘗の祭を遊ばされて、御酒みきにお浮かれになつて、お寢やすみなさいました。ここにスミノエノナカツ王が惡い心を起して、大殿に火をつけました。この時に大和の漢あやの直あたえの祖先のアチの直あたえが、天皇をひそかに盜み出して、お馬にお乘せ申し上げて大和にお連れ申し上げました。そこで河内のタヂヒ野においでになつて、目がお寤さめになつて「此處は何處だ」と仰せられましたから、アチの直が申しますには、「スミノエノナカツ王が大殿に火をつけましたのでお連れ申して大和に逃げて行くのです」と申しました。そこで天皇がお歌いになつた御歌、
タヂヒ野で寢ようと知つたなら
屏風をも持つて來たものを。
寢ようと知つたなら。
ハニフ坂においでになつて、難波の宮を遠望なさいましたところ、火がまだ燃えておりました。そこでお歌いになつた御歌、
ハニフ坂にわたしが立つて見れば、
盛んに燃える家々は
妻が家のあたりだ。
かくて二上山ふたかみやまの大坂の山口においでになりました時に、一人の女が來ました。その女の申しますには、「武器を持つた人たちが大勢この山を塞いでおります。當麻路たぎまじから※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて、越えておいでなさいませ」と申し上げました。依つて天皇の歌われました御歌は、
大坂で逢あつた孃子おとめ。
道を問えば眞直まつすぐにとはいわないで
當麻路たぎまじを教えた。
それから上つておいでになつて、石いその上かみの神宮においで遊ばされました。
ここに皇弟ミヅハワケの命が天皇の御許おんもとにおいでになりました。天皇が臣下に言わしめられますには、「わたしはあなたがスミノエノナカツ王と同じ心であろうかと思うので、物を言うまい」と仰せられたから、「わたくしは穢きたない心はございません。スミノエノナカツ王と同じ心でもございません」とお答え申し上げました。また言わしめられますには、「それなら今還つて行つて、スミノエノナカツ王を殺して上つておいでなさい。その時にはきつとお話をしよう」と仰せられました。依つて難波に還つておいでになりました。スミノエノナカツ王に近く仕えているソバカリという隼人はやとを欺あざむいて、「もしお前がわたしの言うことをきいたら、わたしが天皇となり、お前を大臣にして、天下を治めようと思うが、どうだ」と仰せられました。ソバカリは「仰せのとおりに致しましよう」と申しました。依つてその隼人に澤山物をやつて、「それならお前の王をお殺し申せ」と仰せられました。ここにソバカリは、自分の王が厠にはいつておられるのを伺つて、矛ほこで刺し殺しました。それでソバカリを連れて大和に上つておいでになる時に、大坂の山口においでになつてお考えになるには、ソバカリは自分のためには大きな功績があるが、自分の君を殺したのは不義である。しかしその功績に報じないでは信を失うであろう。しかも約束のとおりに行つたら、かえつてその心が恐しい。依つてその功績には報じてもその本人を殺してしまおうとお思いになりました。かくてソバカリに仰せられますには、「今日は此處に留まつて、まずお前に大臣の位を賜わつて、明日大和に上ることにしよう」と仰せられて、その山口に留まつて假宮を造つて急に酒宴をして、その隼人に大臣の位を賜わつて百官をしてこれを拜ましめたので、隼人が喜んで志成つたと思つていました。そこでその隼人に「今日は大臣と共に一つ酒盞の酒を飮もう」と仰せられて、共にお飮みになる時に、顏を隱す大きな椀にその進める酒を盛りました。そこで王子がまずお飮みになつて、隼人が後に飮みます。その隼人の飮む時に大きな椀が顏を覆いました。そこで座の下にお置きになつた大刀を取り出して、その隼人の首をお斬りなさいました。かようにして明くる日に上つておいでになりました。依つて其處を近つ飛鳥あすかと名づけます。大和に上つておいでになつて仰せられますには、「今日は此處に留まつて禊祓はらいをして、明日出て神宮に參拜しましよう」と仰せられました。それで其處を遠つ飛鳥と名づけました。かくて石いその上かみの神宮に參つて、天皇に「すべて平定し終つて參りました」と奏上致しました。依つて召し入れて語られました。
ここにおいて、天皇がアチの直あたえを大藏の役人になされ、また領地をも賜わりました。またこの御世に若櫻部の臣等に若櫻部という名を賜わり、比賣陀ひめだの君等に比賣陀の君という稱號を賜わりました。また伊波禮部をお定めなさいました。天皇は御年六十四歳、壬申みずのえさるの年の正月三日にお隱れになりました。御陵はモズにあります。  
反正天皇
弟のミヅハワケの命(反正天皇)、河内の多治比たじひの柴垣しばがきの宮においでになつて天下をお治めなさいました。天皇は御身のたけが九尺二寸半、御齒の長さが一寸、廣さ二分、上下同じように齊そろつて珠をつらぬいたようでございました。
天皇はワニのコゴトの臣の女のツノの郎女と結婚してお生みになつた御子は、カヒの郎女・ツブラの郎女のお二方です。また同じ臣の女の弟姫と結婚してお生みになつた御子はタカラの王・タカベの郎女で合わせて四王おいでになります。天皇は御年六十歳、丁丑ひのとうしの年の七月にお隱れになりました。御陵はモズ野にあるということです。
 
三、允恭天皇 
后妃と皇子女
弟のヲアサヅマワクゴノスクネの王(允恭天皇)、大和の遠つ飛鳥の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、オホホドの王の妹のオサカノオホナカツ姫の命と結婚してお生みになつた御子みこは、キナシノカルの王・ヲサダの大郎女・サカヒノクロヒコの王・アナホの命・カルの大郎女・ヤツリノシロヒコの王・オホハツセの命・タチバナの大郎女・サカミの郎女の九王です。男王五人女王四人です。このうちアナホの命は天下をお治めなさいました。次にオホハツセの命も天下をお治めなさいました。カルの大郎女はまたの名を衣通そとおしの郎女と申しますのは、その御身の光が衣を通して出ましたからでございます。
八十伴の緒の氏姓
――氏はその家の稱號であり、姓はその家の階級、種別であつてそれが社會組織の基本となつていた。長い間にはこれを僞るものもできたので、これをまとめて整理したのである。朝廷の勢力が強大でなくてはできない。――
初はじめ天皇てんのう、帝位にお即つきになろうとしました時に御辭退遊ばされて「わたしは長い病氣があるから帝位に即つくことができない」と仰せられました。しかし皇后樣をはじめ臣下たちも堅くお願い申しましたので、天下をお治めなさいました。この時に新羅の國主が御調物みつぎものの船八十一艘を獻りました。その御調の大使は名なを金波鎭漢紀武こみぱちにかにきむと言いました。この人が藥の處方をよく知つておりましたので、天皇の御病氣をお癒し申し上げました。
ここに天皇が天下の氏々の人々の、氏姓うじかばねの誤あやまつているのをお歎きになつて、大和のウマカシの言八十禍津日ことやそまがつひの埼さきにクカ瓮べを据えて、天下の臣民たちの氏姓をお定めになりました。またキナシノカルの太子の御名の記念として輕部をお定めになり、皇后樣の御名の記念として刑部おさかべをお定めになり、皇后樣の妹のタヰノナカツ姫の御名の記念として河部をお定めになりました。天皇御年七十八歳、甲午きのえうまの年の正月十五日にお隱れになりました。御陵は河内の惠賀えがの長枝にあります。
木梨の輕の太子
――幾章かの歌曲によつて構成されている物語。輕部などの傳承であろう。――
天皇がお隱かくれになつてから後のちに、キナシノカルの太子が帝位におつきになるに定まつておりましたが、まだ位におつきにならないうちに妹のカルの大郎女に戲れてお歌いになつた歌、
山田を作つて、
山が高いので地の下に樋ひを通わせ、
そのように心の中でわたしの問い寄る妻、
心の中でわたしの泣いている妻を、
昨夜こそは我が手に入れたのだ。
これは志良宜歌しらげうたです。また、
笹ささの葉はに霰あられが音おとを立たてる。
そのようにしつかりと共に寢た上は、
よしや君きみは別わかれても。
いとしの妻と寢たならば、
刈り取つた薦草こもくさのように亂れるなら亂れてもよい。
寢てからはどうともなれ。
これは夷振ひなぶりの上歌あげうたです。
そこで官吏を始めとして天下の人たち、カルの太子に背いてアナホの御子に心を寄せました。依つてカルの太子が畏れて大前小前おおまえおまえの宿禰の大臣の家へ逃げ入つて、兵器を作り備えました。その時に作つた矢はその矢の筒を銅にしました。その矢をカル箭やといいます。アナホの御子も兵器をお作りになりました。その王のお作りになつた矢は今の矢です。これをアナホ箭やといいます。ここにアナホの御子が軍を起して大前小前の宿禰の家を圍みました。そしてその門に到りました時に大雨が降りました。そこで歌われました歌、
大前小前宿禰の家の門のかげに
お立ち寄りなさい。
雨をやませて行きましよう。
ここにその大前小前の宿禰が、手を擧げ膝を打つて舞い奏かなで、歌つて參ります。その歌は、
宮人の足に附けた小鈴が
落ちてしまつたと騷いでおります。
里人さとびともそんなに騷がないでください。
この歌は宮人曲みやびとぶりです。かように歌いながらやつて來て申しますには、「わたしの御子樣、そのようにお攻めなされますな。もしお攻めになると人が笑うでしよう。わたくしが捕えて獻りましよう」と申しました。そこで軍を罷やめて去りました。かくて大前小前の宿禰がカルの太子を捕えて出て參りました。その太子が捕われて歌われた歌は、
空そら飛とぶ雁かり、そのカルのお孃さん。
あんまり泣くと人が氣づくでしよう。
それでハサの山の鳩のように
忍び泣きに泣いています。
また歌われた歌は、
空飛ぶ雁かり、そのカルのお孃さん、
しつかりと寄つて寢ていらつしやい
カルのお孃さん。
かくてそのカルの太子を伊豫いよの國の温泉に流しました。その流されようとする時に歌われた歌は、
空を飛ぶ鳥も使です。
鶴の聲が聞えるおりは、
わたしの事をお尋ねなさい。
この三首の歌は天田振あまだぶりです。また歌われた歌は、
わたしを島に放逐ほうちくしたら
船の片隅に乘つて歸つて來よう。
わたしの座席はしつかりと護つていてくれ。
言葉でこそ座席とはいうのだが、
わたしの妻を護つていてくれというのだ。
この歌は夷振ひなぶりの片下かたおろしです。その時に衣通しの王が歌を獻りました。その歌は、
夏の草は萎なえます。そのあいねの濱の
蠣かきの貝殼に足をお蹈みなさいますな。
夜が明けてからいらつしやい。
後に戀しさに堪えかねて追つておいでになつてお歌いになりました歌、
おいで遊ばしてから日數が多くなりました。
ニワトコの木のように、お迎えに參りましよう。
お待ちしてはおりますまい。
かくて追つておいでになりました時に、太子がお待ちになつて歌われた歌、
隱れ國の泊瀬の山の
大きい高みには旗をおし立て
小さい高みには旗をおし立て、
おおよそにあなたの思い定めている
心盡しの妻こそは、ああ。
あの槻つき弓のように伏すにしても
梓あずさの弓のように立つにしても
後も出會う心盡しの妻は、ああ。
またお歌い遊ばされた歌は、
隱れ國の泊瀬の川の
上流の瀬には清らかな柱を立て
下流の瀬にはりつぱな柱を立て、
清らかな柱には鏡を懸け
りつぱな柱には玉を懸け、
玉のようにわたしの思つている女、
鏡のようにわたしの思つている妻、
その人がいると言うのなら
家にも行きましよう、故郷をも慕いましよう。
かように歌つて、ともにお隱れになりました。それでこの二つの歌は讀歌よみうたでございます。
 
四、安康天皇 
マヨワの王の變
御子のアナホの御子(安康天皇)、石いその上かみの穴穗の宮においでになつて天下をお治めなさいました。天皇は、弟のオホハツセの王子のために、坂本の臣たちの祖先のネの臣を、オホクサカの王のもとに遣わして、仰せられましたことは「あなたの妹のワカクサカの王を、オホハツセの王と結婚させようと思うからさしあげるように」と仰せられました。そこでオホクサカの王は、四度拜禮して「おそらくはこのような御命令もあろうかと思いまして、それで外にも出さないでおきました。まことに恐れ多いことです。御命令の通りさしあげましよう」と申しました。しかし言葉で申すのは無禮だと思つて、その妹の贈物として、大きな木の玉の飾りを持たせて獻りました。ネの臣はその贈物の玉の飾りを盜み取つて、オホクサカの王を讒言していうには、「オホクサカの王は御命令を受けないで、自分の妹は同じほどの一族の敷物になろうかと言つて、大刀の柄つかをにぎつて怒りました」と申しました。それで天皇は非常にお怒りになつて、オホクサカの王を殺して、その王の正妻のナガタの大郎女を取つて皇后になさいました。
それから後に、天皇が神を祭つて晝お寢やすみになりました。ここにその皇后に物語をして「あなたは思うことがありますか」と仰せられましたので、「陛下のあついお惠みをいただきまして何の思うことがございましよう」とお答えなさいました。ここにその皇后樣の先の御子のマヨワの王が今年七歳でしたが、この王が、その時にその御殿の下で遊んでおりました。そこで天皇は、その子が御殿の下で遊んでいることを御承知なさらないで、皇后樣に仰せられるには「わたしはいつも思うことがある。それは何かというと、あなたの子のマヨワの王が成長した時に、わたしがその父の王を殺したことを知つたら、わるい心を起すだろう」と仰せられました。そこでその御殿の下で遊んでいたマヨワの王が、このお言葉を聞き取つて、ひそかに天皇のお寢やすみになつているのを伺つて、そばにあつた大刀を取つて、天皇のお頸くびをお斬り申してツブラオホミの家に逃げてはいりました。天皇は御年五十六歳、御陵は菅原の伏見の岡にあります。
ここにオホハツセの王は、その時少年でおいでになりましたが、この事をお聞きになつて、腹を立ててお怒りになつて、その兄のクロヒコの王のもとに行つて、「人が天皇を殺しました。どうしましよう」と言いました。しかしそのクロヒコの王は驚かないで、なおざりに思つていました。そこでオホハツセの王が、その兄を罵つて「一方では天皇でおいでになり、一方では兄弟でおいでになるのに、どうしてたのもしい心もなくその兄の殺されたことを聞きながら驚きもしないでぼんやりしていらつしやる」と言つて、着物の襟をつかんで引き出して刀を拔いて殺してしまいました。またその兄のシロヒコの王のところに行つて、樣子をお話なさいましたが、前のようになおざりにお思いになつておりましたから、クロヒコの王のように、その着物の襟をつかんで、引きつれて小治田おはりだに來て穴を掘つて立つたままに埋めましたから、腰を埋める時になつて、兩眼が飛び出して死んでしまいました。
また軍を起してツブラオホミの家をお圍みになりました。そこで軍を起して待ち戰つて、射出した矢が葦のように飛んで來ました。ここにオホハツセの王は、矛ほこを杖として、その内をのぞいて仰せられますには「わたしが話をした孃子は、もしやこの家にいるか」と仰せられました。そこでツブラオホミが、この仰せを聞いて、自分で出て來て、帶びていた武器を解いて、八度も禮拜して申しましたことは「先にお尋ねにあずかりました女むすめのカラ姫はさしあげましよう。また五か處のお倉をつけて獻りましよう。しかしわたくし自身の參りませんわけは、昔から今まで、臣下が王の御殿に隱れたことは聞きますけれども、王子が臣下の家にお隱れになつたことは、まだ聞いたことがありません。そこで思いますに、わたくしオホミは、力を盡して戰つても、決してお勝ち申すことはできますまい。しかしわたくしを頼んで、いやしい家におはいりになつた王子は、死んでもお棄て申しません」と、このように申して、またその武器を取つて、還りはいつて戰いました。そうして力窮まり矢も盡きましたので、その王子に申しますには「わたくしは負傷いたしました。矢も無くなりました。もう戰うことができません。どうしましよう」と申しましたから、その王子が、お答えになつて、「それならもう致し方がない。わたしを殺してください」と仰せられました。そこで刀で王子をさし殺して、自分の頸を切つて死にました。
イチノベノオシハの王
――播磨の國のシジムの家に隱れていた二少年が見出されて、遂に帝位につく物語の前提である。物語は三六六ページ[#「三六六ページ」は「清寧天皇・顯宗天皇・仁賢天皇」の「シジムの新築祝い」]に續く。――
それから後に、近江の佐々紀ささきの山の君の祖先のカラフクロが申しますには、「近江のクタワタのカヤ野に鹿が澤山おります。その立つている足は薄原すすきはらのようであり、頂いている角は枯松かれまつのようでございます」と申しました。この時にイチノベノオシハの王を伴なつて近江においでになり、その野においでになつたので、それぞれ別に假宮を作つて、お宿りになりました。翌朝まだ日も出ない時に、オシハの王が何心なくお馬にお乘りになつて、オホハツセの王の假宮の傍にお立ちになつて、オホハツセの王のお伴の人に仰せられますには、「まだお目寤ざめになりませんか。早く申し上げるがよい。夜はもう明けました。獵場においでなさいませ」と仰せられて、馬を進めておいでになりました。そこでそのオホハツセの王のお側の人たちが、「變つた事をいう御子ですから、お氣をつけ遊ばせ。御身おんみをもお堅めになるがよいでしよう」と申しました。それでお召物の中に甲よろいをおつけになり、弓矢をお佩おびになつて、馬に乘つておいでになつて、たちまちの間に馬上でお竝びになつて、矢を拔いてそのオシハの王を射殺して、またその身を切つて、馬の桶に入れて土と共に埋めました。それでそのオシハの王の子のオケの王・ヲケの王のお二人は、この騷ぎをお聞きになつて逃げておいでになりました。かくて山城のカリハヰにおいでになつて、乾飯ほしいをおあがりになる時に、顏に黥いれずみをした老人が來てその乾飯を奪い取りました。その時にお二人の王子が、「乾飯は惜しくもないが、お前は誰だ」と仰せになると、「わたしは山城の豚飼ぶたかいです」と申しました。かくてクスバの河を逃げ渡つて、播磨はりまの國においでになり、その國の人民のシジムという者の家におはいりになつて、身を隱して馬飼うまかい牛飼うしかいとして使われておいでになりました。 
 
五、雄略天皇 
后妃と皇子女
オホハツセノワカタケの命(雄略天皇)、大和の長谷はつせの朝倉の宮においでになつて天下をお治めなさいました。天皇はオホクサカの王の妹のワカクサカベの王と結婚しました。御子はございません。またツブラオホミの女のカラ姫と結婚してお生みになつた御子は、シラガの命・ワカタラシの命お二方です。そこでシラガの太子の御名の記念として白髮部しらがべをお定めになり、また長谷部はつせべの舍人、河瀬の舍人をお定めになりました。この御世に大陸から呉人くれびとが渡つて參りました。その呉人を置きましたので呉原くれはらというのです。
ワカクサカベの王
――以下、多くは歌を中心とした短篇の物語が、この天皇の御事蹟として語り傳えられている。長谷はつせの天皇として、傳説上の英雄となつておいでになつたのである。――
初め皇后樣が河内の日下くさかにおいでになつた時に、天皇が日下の直越ただごえの道を通つて河内においでになりました。依つて山の上にお登りになつて國内を御覽になりますと、屋根の上に高く飾り木をあげて作つた家があります。天皇が、お尋ねになりますには「あの高く木をあげて作つた家は誰の家か」と仰せられましたから、お伴の人が「シキの村長の家でございます」と申しました。そこで天皇が仰せになるには、「あの奴やつは自分の家を天皇の宮殿に似せて造つている」と仰せられて、人を遣わしてその家をお燒かせになります時に、村長が畏れ入つて拜禮して申しますには、「奴のことでありますので、分を知らずに過つて作りました。畏れ入りました」と申しました。そこで獻上物を致しました。白い犬に布を※か[#「執/糸」、U+7E36、353-17]けて鈴をつけて、一族のコシハキという人に犬の繩を取らせて獻上しました。依つてその火をつけることをおやめなさいました。そこでそのワカクサカベの王の御許おんもとにおいでになつて、その犬をお贈りになつて仰せられますには、「この物は今日道で得ためずらしい物だ。贈物としてあげましよう」と言つて、くださいました。この時にワカクサカベの王が申し上げますには、「日を背中にしておいでになることは畏れ多いことでございます。依つてわたくしが參上してお仕え申しましよう」と申しました。かくして皇居にお還りになる時に、その山の坂の上にお立ちになつて、お歌いになりました御歌、
この日下部くさかべの山と
向うの平群へぐりの山との
あちこちの山のあいだに
繁つている廣葉のりつぱなカシの樹、
その樹の根もとには繁つた竹が生え、
末の方にはしつかりした竹が生え、
その繁つた竹のように繁くも寢ず
しつかりした竹のようにしかとも寢ず
後にも寢ようと思う心づくしの妻は、ああ。
この歌をその姫の許に持たせてお遣りになりました。
引田部の赤猪子
――三輪山のほとりで語り傳えられた物語。――
また或る時、三輪河にお遊びにおいでになりました時に、河のほとりに衣を洗う孃子がおりました。美しい人でしたので、天皇がその孃子に「あなたは誰ですか」とお尋ねになりましたから、「わたくしは引田部ひけたべの赤猪子あかいこと申します」と申しました。そこで仰せられますには、「あなたは嫁に行かないでおれ。お召しになるぞ」と仰せられて、宮にお還りになりました。そこでその赤猪子が天皇の仰せをお待ちして八十年經ました。ここに赤猪子が思いますには、「仰せ言を仰ぎ待つていた間に多くの年月を經て容貌もやせ衰えたから、もはや恃むところがありません。しかし待つておりました心を顯しませんでは心憂くていられない」と思つて、澤山の獻上物を持たせて參り出て獻りました。しかるに天皇は先に仰せになつたことをとくにお忘れになつて、その赤猪子に仰せられますには、「お前は何處のお婆さんか。どういうわけで出て參つたか」とお尋ねになりましたから、赤猪子が申しますには「昔、何年何月に天皇の仰せを被つて、今日まで御命令をお待ちして、八十年を經ました。今、もう衰えて更に恃むところがございません。しかしわたくしの志を顯し申し上げようとして參り出たのでございます」と申しました。そこで天皇が非常にお驚きになつて、「わたしはとくに先の事を忘れてしまつた。それだのにお前が志を變えずに命令を待つて、むだに盛んな年を過したことは氣の毒だ」と仰せられて、お召しになりたくはお思いになりましたけれども、非常に年寄つているのをおくやみになつて、お召しになり得ずに歌をくださいました。その御歌は、
御諸みもろ山の御神木のカシの樹のもと、
そのカシのもとのように憚られるなあ、
カシ原はらのお孃さん。
またお歌いになりました御歌は、
引田ひけたの若い栗の木の原のように
若いうちに結婚したらよかつた。
年を取つてしまつたなあ。
かくて赤猪子の泣く涙に、著ておりました赤く染めた袖がすつかり濡れました。そうして天皇の御歌にお答え申し上げた歌、
御諸山に玉垣を築いて、
築き殘して誰に頼みましよう。
お社の神主さん。
また歌いました歌、
日下江くさかえの入江に蓮はすが生えています。
その蓮の花のような若盛りの方は
うらやましいことでございます。
そこでその老女に物を澤山に賜わつて、お歸しになりました。この四首の歌は靜歌しずうたです。
吉野の宮
――吉野での物語二篇。――
天皇が吉野の宮においでになりました時に、吉野川のほとりに美しい孃子がおりました。そこでこの孃子を召して宮にお還りになりました。後に更に吉野においでになりました時に、その孃子に遇いました處にお留まりになつて、其處にお椅子を立てて、そのお椅子においでになつて琴をお彈きになり、その孃子に舞まわしめられました。その孃子は好く舞いましたので、歌をお詠みになりました。その御歌は、
椅子にいる神樣が御手みてずから
彈かれる琴に舞を舞う女は
永久にいてほしいことだな。
それから吉野のアキヅ野においでになつて獵をなさいます時に、天皇がお椅子においでになると、虻あぶが御腕を咋くいましたのを、蜻蛉とんぼが來てその虻を咋つて飛んで行きました。そこで歌をお詠みになりました。その御歌は、
吉野のヲムロが嶽たけに
猪ししがいると
陛下に申し上げたのは誰か。
天下を知ろしめす天皇は
猪を待つと椅子に御座ぎよざ遊ばされ
白い織物のお袖で裝うておられる
御手の肉に虻が取りつき
その虻を蜻蛉とんぼがはやく食い、
かようにして名を持とうと、
この大和の國を
蜻蛉島あきづしまというのだ。
その時からして、その野をアキヅ野というのです。
葛城山
――葛城山に關する物語二篇。――
また或る時、天皇が葛城山の上にお登りになりました。ところが大きい猪が出ました。天皇が鏑矢かぶらやをもつてその猪をお射になります時に、猪が怒つて大きな口をあけて寄つて來ます。天皇は、そのくいつきそうなのを畏れて、ハンの木の上にお登りになりました。そこでお歌いになりました御歌、
天下を知ろしめす天皇の
お射になりました猪の
手負い猪のくいつくのを恐れて
わたしの逃げ登つた
岡の上のハンの木の枝よ。
また或る時、天皇が葛城山に登つておいでになる時に、百官の人々は悉く紅い紐をつけた青摺あおずりの衣を給わつて著ておりました。その時に向うの山の尾根づたいに登る人があります。ちようど天皇の御行列のようであり、その裝束の樣もまた人たちもよく似てわけられません。そこで天皇が御覽遊ばされてお尋ねになるには、「この日本の國に、わたしを除いては君主はないのであるが、かような形で行くのは誰であるか」と問わしめられましたから、答え申す状もまた天皇の仰せの通りでありました。そこで天皇が非常にお怒りになつて弓に矢を番つがえ、百官の人々も悉く矢を番えましたから、向うの人たちも皆矢を番えました。そこで天皇がまたお尋ねになるには、「それなら名を名のれ。おのおの名を名のつて矢を放とう」と仰せられました。そこでお答え申しますには、「わたしは先に問われたから先に名のりをしよう。わたしは惡い事も一言、よい事も一言、言い分ける神である葛城の一言主ひとことぬしの大神だ」と仰せられました。そこで天皇が畏かしこまつて仰せられますには、「畏れ多い事です。わが大神よ。かように現實の形をお持ちになろうとは思いませんでした」と申されて、御大刀また弓矢を始めて、百官の人どもの著ております衣服を脱がしめて、拜んで獻りました。そこでその一言主の大神も手を打つてその贈物を受けられました。かくて天皇のお還りになる時に、その大神は山の末に集まつて、長谷はつせの山口までお送り申し上げました。この一言主の大神はその時に御出現になつたのです。
春日のヲド姫と三重の采女
――三重の采女の物語を中に插んで前後に春日のヲド姫の物語がある。春日氏については、中卷の蟹の歌の條參照。三重の采女の歌は、別の歌曲である。――
また天皇、丸邇わにのサツキの臣の女のヲド姫と結婚をしに春日においでになりました時に、その孃子が道で逢つて、おでましを見て岡邊に逃げ隱れました。そこで歌をお詠みになりました。その御歌は、
お孃さんの隱れる岡を
じようぶな※(「金+且」、第3水準1-93-12)すきが澤山あつたらよいなあ、
鋤すき撥はらつてしまうものを。
そこでその岡を金※(「金+且」、第3水準1-93-12)かなすきの岡と名づけました。
また天皇が長谷の槻の大樹の下においでになつて御酒宴を遊ばされました時に、伊勢の國の三重から出た采女うねめが酒盃さかずきを捧げて獻りました。然るにその槻の大樹の葉が落ちて酒盃に浮びました。采女は落葉が酒盃に浮んだのを知らないで大御酒おおみきを獻りましたところ、天皇はその酒盃に浮んでいる葉を御覽になつて、その采女を打ち伏せ御刀をその頸に刺し當ててお斬り遊ばそうとする時に、その采女が天皇に申し上げますには「わたくしをお殺しなさいますな。申すべき事がございます」と言つて、歌いました歌、
纏向まきむくの日代ひしろの宮は
朝日の照り渡る宮、
夕日の光のさす宮、
竹の根のみちている宮、
木の根の廣がつている宮です。
多くの土を築き堅めた宮で、
りつぱな材木の檜ひのきの御殿です。
その新酒をおあがりになる御殿に生い立つている
一杯に繁つた槻の樹の枝は、
上の枝は天を背おつています。
中の枝は東國を背おつています。
下の枝は田舍いなかを背おつています。
その上の枝の枝先の葉は
中の枝に落ちて觸れ合い、
中の枝の枝先の葉は
下の枝に落ちて觸れ合い、
下の枝の枝先の葉は、
衣服を三重に著る、その三重から來た子の
捧げているりつぱな酒盃さかずきに
浮いた脂あぶらのように落ち漬つかつて、
水音もころころと、
これは誠に恐れ多いことでございます。
尊い日の御子樣。
事の語り傳えはかようでございます。
この歌を獻りましたから、その罪をお赦しになりました。そこで皇后樣のお歌いになりました御歌は、
大和の國のこの高町で
小高くある市の高臺の、
新酒をおあがりになる御殿に生い立つている
廣葉の清らかな椿の樹、
その葉のように廣らかにおいで遊ばされ
その花のように輝いておいで遊ばされる
尊い日の御子樣に
御酒をさしあげなさい。
事の語り傳えはかようでございます。
天皇のお歌いになりました御歌は、
宮廷に仕える人々は、
鶉うずらのように頭巾ひれを懸けて、
鶺鴒せきれいのように尾を振り合つて
雀のように前に進んでいて
今日もまた酒宴をしているもようだ。
りつぱな宮廷の人々。
事の語り傳えはかようでございます。
この三首の歌は天語歌あまがたりうたです。その御酒宴に三重の采女を譽めて、物を澤山にくださいました。
この御酒宴の日に、また春日のヲド姫が御酒を獻りました時に、天皇のお歌いになりました歌は、
水みずのしたたるようなそのお孃さんが、
銚子ちようしを持つていらつしやる。
銚子を持つならしつかり持つていらつしやい。
力ちからを入れてしつかりと持つていらつしやい。
銚子を持つていらつしやるお孃さん。
これは宇岐歌うきうたです。ここにヲド姫の獻りました歌は、
天下を知ろしめす天皇の
朝戸にはお倚より立ち遊ばされ
夕戸ゆうどにはお倚り立ち遊ばされる
脇息きようそくの下の
板にでもなりたいものです。あなた。
これは志都歌しずうたです。
天皇は御年百二十四歳、己巳つちのとみの年の八月九日にお隱れになりました。御陵は河内の多治比たじひの高※(「顫のへん+鳥」、第3水準1-94-72)たかわしにあります。 
 
六、清寧天皇・顯宗天皇・仁賢天皇 
清寧天皇
御子のシラガノオホヤマトネコの命(清寧天皇)、大和の磐余いわれの甕栗みかくりの宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は皇后がおありでなく、御子もございませんでした。それで御名の記念として白髮部をお定めになりました。そこで天皇がお隱かくれになりました後に、天下をお治めなさるべき御子がありませんので、帝位につくべき御子を尋ねて、イチノベノオシハワケの王の妹のオシヌミの郎女、またの名はイヒトヨの王が、葛城かずらきのオシヌミの高木たかぎのツノサシの宮においでになりました。
シジムの新築祝い
――前に出たイチノベノオシハの王の物語の續きで山部氏によつて傳承したと考えられる。この條は、特殊の文字使用法を有しており、古事記の編纂の當時、既に書かれた資料があつたようである。――
ここに山部やまべの連小楯おだてが播磨の國の長官に任命されました時に、この國の人民のシジムの家の新築祝いに參りました。そこで盛んに遊んで、酒酣たけなわな時に順次に皆舞いました。その時に火焚ひたきの少年が二人竈かまどの傍におりました。依つてその少年たちに舞わしめますに、一人の少年が「兄上、まずお舞まいなさい」というと、兄も「お前がまず舞まいなさい」と言いました。かように讓り合つているので、その集まつている人たちが讓り合う有樣を笑いました。遂に兄がまず舞い、次に弟が舞おうとする時に詠じました言葉は、
武士であるわが君のお佩きになつている大刀の柄つかに、赤い模樣を畫き、その大刀の緒には赤い織物を裁たつて附け、立つて見やれば、向うに隱れる山の尾の上の竹を刈り取つて、その竹の末を押し靡なびかせるように、八絃の琴を調べたように、天下をお治めなされたイザホワケの天皇の皇子のイチノベノオシハの王の御子みこです。わたくしは。
と述べましたから、小楯が聞いて驚いて座席から落ちころんで、その家にいる人たちを追い出して、そのお二人の御子を左右の膝の上にお据え申し上げ、泣き悲しんで民どもを集めて假宮を作つて、その假宮にお住ませ申し上げて急使を奉りました。そこでその伯母樣のイヒトヨの王がお喜びになつて、宮に上らしめなさいました。
歌垣
――日本書紀では、武烈天皇の太子時代のこととし、歌も多く相違している。ある王子とシビという貴公子の物語として傳承されたのが原形であろう。――
そこで天下をお治めなされようとしたほどに、平群へぐりの臣の祖先のシビの臣が、歌垣の場で、そのヲケの命の結婚なされようとする孃子の手を取りました。その孃子は菟田うだの長の女のオホヲという者です。そこでヲケの命も歌垣にお立ちになりました。ここにシビが歌いますには、
御殿のちいさい方の出張りは、隅が曲つている。
かく歌つて、その歌の末句を乞う時に、ヲケの命のお歌いになりますには、
大工が下手へただつたので隅が曲つているのだ。
シビがまた歌いますには、
王子樣の御心がのんびりしていて、
臣下の幾重にも圍つた柴垣に
入り立たずにおられます。
ここに王子がまた歌いますには、
潮の寄る瀬の浪の碎けるところを見れば
遊んでいるシビ魚の傍に
妻が立つているのが見える。
シビがいよいよ怒いかつて歌いますには、
王子樣の作つた柴垣は、
節だらけに結び※(「廴+囘」)してあつて、
切れる柴垣の燒ける柴垣です。
ここに王子がまた歌いますには、
大おおきい魚の鮪しびを突く海人よ、
その魚が荒れたら心戀しいだろう。
鮪しびを突く鮪しびの臣おみよ。
かように歌つて歌を掛け合い、夜をあかして別れました。翌朝、オケの命・ヲケの命お二方が御相談なさいますには、「すべて朝廷の人たちは、朝は朝廷に參り、晝はシビの家に集まります。そこで今はシビがきつと寢ねているでしよう。その門には人もいないでしよう。今でなくては謀り難いでしよう」と相談されて、軍を興してシビの家を圍んでお撃ちになりました。
ここでお二方ふたかたの御子たちが互に天下をお讓りになつて、オケの命が、その弟ヲケの命にお讓り遊ばされましたには、「播磨の國のシジムの家に住んでおつた時に、あなたが名を顯わさなかつたなら天下を治める君主とはならなかつたでしよう。これはあなた樣のお手柄であります。ですから、わたくしは兄ではありますが、あなたがまず天下をお治めなさい」と言つて、堅くお讓りなさいました。それでやむことを得ないで、ヲケの命がまず天下をお治めなさいました。
顯宗天皇
イザホワケの天皇の御子、イチノベノオシハの王の御子のヲケノイハスワケの命(顯宗天皇)、河内かわちの國の飛鳥あすかの宮においで遊ばされて、八年天下をお治めなさいました。この天皇は、イハキの王の女のナニハの王と結婚しましたが、御子みこはありませんでした。この天皇、父君イチノベの王の御骨をお求めになりました時に、近江の國の賤いやしい老婆が參つて申しますには、「王子の御骨を埋めました所は、わたくしがよく知つております。またそのお齒でも知られましよう」と申しました。オシハの王子のお齒は三つの枝の出た大きい齒でございました。そこで人民を催して、土を掘つて、その御骨を求めて、これを得てカヤ野の東の山に御陵を作つてお葬り申し上げて、かのカラフクロの子どもにこれを守らしめました。後にはその御骨を持ち上のぼりなさいました。かくて還り上られて、その老婆を召して、場所を忘れずに見ておいたことを譽めて、置目おきめの老媼ばばという名をくださいました。かくて宮の内に召し入れて敦あつくお惠みなさいました。その老婆の住む家を宮の邊近くに作つて、毎日きまつてお召しになりました。そこで宮殿の戸に鈴を掛けて、その老婆を召そうとする時はきつとその鈴をお引き鳴らしなさいました。そこでお歌をお詠みなさいました。その御歌は、
茅草ちぐさの低い原や小谷を過ぎて
鈴のゆれて鳴る音がする。
置目がやつて來るのだな。
ここに置目が「わたくしは大變年をとりましたから本國に歸りたいと思います」と申しました。依つて申す通りにお遣わしになる時に、天皇がお見送りになつて、お歌いなさいました歌は、
置目よ、あの近江の置目よ、
明日からは山に隱れてしまつて
見えなくなるだろうかね。
初め天皇が災難に逢つて逃げておいでになつた時に、その乾飯ほしいを奪つた豚飼ぶたかいの老人をお求めになりました。そこで求め得ましたのを喚び出して飛鳥河の河原で斬つて、またその一族どもの膝の筋をお切りになりました。それで今に至るまでその子孫が大和に上る日にはきつとびつこになるのです。その老人の所在をよく御覽になりましたから、其處をシメスといいます。
天皇、その父君をお殺しになつたオホハツセの天皇を深くお怨み申し上げて、天皇の御靈に仇を報いようとお思いになりました。依つてそのオホハツセの天皇の御陵を毀やぶろうとお思いになつて人を遣わしました時に、兄君のオケの命の申されますには、「この御陵を破壞するには他の人を遣つてはいけません。わたくしが自分で行つて陛下の御心の通りに毀して參りましよう」と申し上げました。そこで天皇は、「それならば、お言葉通りに行つていらつしやい」と仰せられました。そこでオケの命が御自身で下つておいでになつて、御陵の傍を少し掘つて還つてお上りになつて、「すつかり掘り壞やぶりました」と申されました。そこで天皇がその早く還つてお上りになつたことを怪しんで、「どのようにお壞りなさいましたか」と仰せられましたから、「御陵の傍の土を少し掘りました」と申しました。天皇の仰せられますには、「父上の仇を報ずるようにと思いますので、かならずあの御陵を悉くこわすべきであるのを、どうして少しお掘りになつたのですか」と仰せられましたから、申されますには「かようにしましたわけは、父上の仇をその御靈に報いようとお思いになるのは誠に道理であります。しかしオホハツセの天皇は、父上の仇ではありますけれども、一面は叔父でもあり、また天下をお治めなさつた天皇でありますのを、今もつぱら父の仇という事ばかりを取つて、天下をお治めなさいました天皇の御陵を悉く壞しましたなら、後の世の人がきつとお誹り申し上げるでしよう。しかし父上の仇は報いないではいられません。それであの御陵の邊を少し掘りましたから、これで後の世に示すにも足りましよう」とかように申しましたから、天皇は「それも道理です。お言葉の通りでよろしい」と仰せられました。かくて天皇がお隱かくれになつてから、オケの命が、帝位にお即つきになりました。御年三十八歳、八年間天下をお治めなさいました。御陵は片岡の石坏いわつきの岡の上にあります。
仁賢天皇
――以下十代は、物語の部分が無く、もつぱら帝紀によつている。――
ヲケの王の兄のオホケの王(仁賢天皇)、大和の石いその上かみの廣高の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。天皇はオホハツセノワカタケの天皇の御子、春日の大郎女と結婚してお生みになつた御子は、タカギの郎女・タカラの郎女・クスビの郎女・タシラガの郎女・ヲハツセノワカサザキの命・マワカの王です。またワニノヒノツマの臣の女、ヌカノワクゴの郎女と結婚してお生みになつた御子は、カスガノヲダの郎女です。天皇の御子たち七人おいでになる中に、ヲハツセノワカサザキの命は天下をお治めなさいました。 
 
七、武烈天皇以後九代 
武烈天皇
ヲハツセノワカサザキの命(武烈天皇)、大和の長谷はつせの列木なみきの宮においでになつて、八年天下をお治めなさいました。この天皇は御子がおいでになりません。そこで御子の代りとして小長谷部おはつせべをお定めになりました。御陵は片岡の石坏いわつきの岡にあります。天皇がお隱れになつて、天下を治むべき王子がありませんので、ホムダの天皇の五世の孫、ヲホドの命を近江の國から上らしめて、タシラガの命と結婚をおさせ申して、天下をお授け申しました。
繼體天皇
ホムダの王の五世の孫のヲホドの命(繼體天皇)、大和の磐余いわれの玉穗の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。この天皇、三尾みおの君等の祖先のワカ姫と結婚してお生みになつた御子は、大郎子・イヅモの郎女のお二方ふたかたです。また尾張の連等の祖先のオホシの連の妹のメコの郎女と結婚してお生みになつた御子はヒロクニオシタケカナヒの命・タケヲヒロクニオシタテの命のお二方です。またオホケの天皇の御子のタシラガの命を皇后としてお生みになつた御子はアメクニオシハルキヒロニハの命お一方です。またオキナガノマテの王の女のヲクミの郎女と結婚してお生みになつた御子は、ササゲの郎女お一方です。またサカタノオホマタの女のクロ姫と結婚してお生みになつた御子は、カムザキの郎女・ウマラタの郎女・シラサカノイクメコの郎女、ヲノの郎女またの名はナガメ姫のお四方です。また三尾の君カタブの妹のヤマト姫と結婚してお生みになつた御子は大郎女・マロタカの王・ミミの王・アカ姫の郎女のお四方です。また阿部のハエ姫と結婚してお生みになつた御子は、ワカヤの郎女・ツブラの郎女・アヅの王のお三方です。この天皇の御子たちは合わせて十九王おいでになりました。男王七人女王十二人です。この中にアメクニオシハルキヒロニハの命は天下をお治めなさいました。次にヒロクニオシタケカナヒの命も天下をお治めなさいました。次にタケヲヒロクニオシタテの命も天下をお治めなさいました。次にササゲの王は伊勢の神宮をお祭りなさいました。この御世に筑紫の君石井が皇命に從したがわないで、無禮な事が多くありました。そこで物部もののべの荒甲あらかいの大連、大伴おおともの金村かなむらの連の兩名を遣わして、石井を殺させました。天皇は御年四十三歳、丁未ひのとひつじの年の四月九日にお隱れになりました。御陵は三島の藍あいの陵みささぎです。
安閑天皇
御子のヒロクニオシタケカナヒの王(安閑天皇)、大和の勾まがりの金箸かなはしの宮においでになつて、天下をお治めなさいました。この天皇は御子がございませんでした。乙卯きのとうの年の三月十三日にお隱れになりました。御陵は河内の古市の高屋の村にあります。
宣化天皇
弟のタケヲヒロクニオシタテの命(宣化天皇)、大和の檜隈ひのくまの廬入野いおりのの宮においでになつて、天下をお治めなさいました。天皇はオケの天皇の御子のタチバナのナカツヒメの命と結婚してお生みになつた御子は、石姫いしひめの命・小石こいし姫の命・クラノワカエの王です。また川内かわちのワクゴ姫と結婚してお生みになつた御子はホノホの王・ヱハの王で、この天皇の御子たちは合わせて五王、男王三人、女王二人です。そのホノホの王は志比陀の君の祖先、ヱハの王は韋那いなの君・多治比の君の祖先です。
欽明天皇
弟のアメクニオシハルキヒロニハの天皇(欽明天皇)、大和の師木島しきしまの大宮においでになつて、天下をお治めなさいました。この天皇、ヒノクマの天皇の御子、石姫いしひめの命と結婚してお生みになつた御子は、ヤタの王・ヌナクラフトタマシキの命・カサヌヒの王のお三方です。またその妹の小石こいし姫の命と結婚してお生みになつた御子は、カミの王お一方、また春日のヒノツマの女のヌカコの郎女と結婚してお生みになつた御子は、春日の山田の郎女・マロコの王・ソガノクラの王のお三方です。またソガのイナメの宿禰の大臣の女のキタシ姫と結婚してお生みになつた御子はタチバナノトヨヒの命・イハクマの王・アトリの王・トヨミケカシギヤ姫の命・またマロコの王・オホヤケの王・イミガコの王・ヤマシロの王・オホトモの王・サクラヰノユミハリの王・マノの王・タチバナノモトノワクゴの王・ネドの王の十三方でした。またキタシ姫の命の叔母のヲエ姫と結婚してお生みになつた御子は、ウマキの王・カヅラキの王・ハシヒトノアナホベの王・サキクサベノアナホベの王、またの名はスメイロト・ハツセベノワカサザキの命のお五方です。すべてこの天皇の御子たち合わせて二十五王おいでになりました。この中でヌナクラフトタマシキの命は天下をお治めなさいました。次にタチバナノトヨヒの命・トヨミケカシギヤ姫の命・ハツセベノワカサザキの命も、みな天下をお治めなさいました。すべて四王、天下をお治めなさいました。
敏達天皇
――岡本の宮で天下をお治めになつたというのが、古事記中最新の事實である。――
御子のヌナクラフトタマシキの命(敏達天皇)、大和の他田おさだの宮においでになつて、十四年天下をお治めなさいました。この天皇は庶妹トヨミケカシギヤ姫の命と結婚してお生みになつた御子はシヅカヒの王、またの名はカヒダコの王・タケダの王、またの名はヲカヒの王・ヲハリダの王・カヅラキの王・ウモリの王・ヲハリの王・タメの王・サクラヰノユミハリの王のお八方です。また伊勢のオホカの首おびとの女のヲクマコの郎女と結婚してお生みになつた御子はフト姫の命・タカラの王、またの名はヌカデ姫の王のお二方です。またオキナガノマテの王の女のヒロ姫の命と結婚してお生みになつた御子はオサカノヒコヒトの太子、またの名はマロコの王・サカノボリの王・ウヂの王のお三方です。また春日のナカツワクゴの王の女のオミナコの郎女と結婚してお生みになつた御子はナニハの王・クハタの王・カスガの王・オホマタの王のお四方です。
この天皇の御子たち合わせて十七王おいでになつた中に、ヒコヒトの太子は庶妹タムラの王、またの名はヌカデ姫の命と結婚してお生みになつた御子が、岡本の宮においでになつて天下をお治めなさいました天皇(舒明天皇)・ナカツ王・タラの王のお三方です。またアヤの王の妹のオホマタの王と結婚してお生みになつた御子は、チヌの王、クハタの女王お二方です。また庶妹ユミハリの王と結婚してお生みになつた御子はヤマシロの王・カサヌヒの王のお二方です。合わせて七王です。天皇は甲辰きのえたつの年の四月六日にお隱れになりました。御陵は河内かわちの科長しながにあります。
用明天皇
弟のタチバナノトヨヒの命(用明天皇)、大和の池の邊の宮においでになつて、三年天下をお治めなさいました。この天皇は蘇我そがの稻目いなめの大臣の女のオホギタシ姫と結婚してお生みになつた御子はタメの王お一方です。庶妹ハシヒトノアナホベの王と結婚してお生みになつた御子は上の宮のウマヤドノトヨトミミの命・クメの王・ヱクリの王・ウマラタの王お四方です。また當麻たぎまの倉の首ヒロの女のイヒの子と結婚してお生みになつた御子はタギマの王、スガシロコの郎女のお二方です。この天皇は丁未ひのとひつじの年の四月十五日にお隱れなさいました。御陵は初めは磐余いわれの掖上わきがみにありましたが後に科長しながの中の陵にお遷うつし申し上げました。
崇峻天皇
弟のハツセベノワカサザキの天皇(崇峻天皇)、大和の倉椅くらはしの柴垣の宮においでになつて、四年天下をお治めなさいました。壬子みずのえねの年の十一月十三日にお隱れなさいました。御陵は倉椅の岡の上にあります。
推古天皇
――古事記がここで終つているのは、その材料とした帝紀がここで終つていたによるであろう。――
妹のトヨミケカシギヤ姫の命(推古天皇)、大和の小治田の宮においでになつて、三十七年天下をお治めなさいました。戊子つちのえねの年の三月十五日癸丑みずのとうしの日にお隱れなさいました。御陵は初めは大野の岡の上にありましたが、後に科長の大陵にお遷し申し上げました。 
 

 

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古事記 [原文]

 

古事記 上巻 
【 古事記上巻忸序 】
臣安萬侶言、夫、混元蝉凝、氣庖未レ效、無レ名無レ爲。誰知二其形。然、乾坤初分、參突作二芟化之首、陰陽斯開、二靈爲二群品之督。館以、出二│入幽顯一日月彰二於洗一レ目、浮二│沈恭水一突陶呈二於滌一レ身。
臣安万侶言さく、夫、混元既に凝りて、気象未だ效はれず、名も無く為も無し。誰か其の形を知らむ。然れども、乾坤の初めて分かれしとき、参はしらの神、造化の首と作り、陰陽斯に開けしとき、二はしらの霊、群品の祖と為りたまへり。所以に、幽顕に出で入りて、日月目を洗ふに彰はれ、海水に浮き沈みて、神陶身を滌ぐに呈はれたまへり。
〔臣安萬侶〕やつこやすまろ。「やつこ」は「家之子」の義。天皇または朝廷に仕える人。やつこらま。「君」の対。安康紀元年二月に「我父子三人、生事之、死不レ殉、是不レ臣矣。」とある。寛本・延本等は「マクラ」と訓じているが本書は従わぬ。「安万侶」は古事記の撰者。また、日本書紀の撰者の一人。姓は「太」。多品知の子か。神武天皇の皇子神八井耳命の後裔という。続紀によれば、養老七年(七二三)七月没。日本書紀の撰者の一人であることについては、弘仁私記の序に、「日本書紀者、一品舎人親王、従四位下勲五等太朝臣安麻呂等、奉レ勅所レ撰也。」とある。
なお、くわしくは、この序文の最後参照。〔混元歿凝〕「混元」は、世界万物の大本。「凝る」は、上代語で「まろがる」と言い、凝り固まる意。世界万物が混沌としているさまを言う。〔気庖未レ效〕「效」は「見」「現」に同じ。真本・信友校本等「敦」に誤る。この文は、前文と対句を成す。天地万物の気も象もまだ現われない意。紀が三五歴記に拠って書いた冒頭の文、「古、天地未レ剖、陰陽不レ分、渾沌如二鶏子。」と同趣である。〔無レ名無レ爲、誰知二其形一〕天地万物に何の名称もなく、何の運行もない。
したがって、誰も、それがどんな形状であるかを知ることは、できないであろうとの意。〔乾坤初分〕「乾」は天、「坤」は地。混沌としていた万物が、軽い物は昇って天と成り、重い物はとどまって地と成るというように、初めて天と地が分かれた時の意。シナ思想の天地剖判説に基づく。〔參突〕記の本文の冒頭に出ている天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神の三神。〔芟化之首〕「造化」は、天地万物を創造し化育する神、すなわち造物者。その造物者の始祖。〔陰陽斯開〕シナ易学思想で、天地万物を造り出す二つの気、すなわち陰と陽とが、ここに生じたとの意。〔二靈〕「霊」は「神」に同じ。伊邪那岐神・伊邪那美神。すなわち、陽神と陰神。〔群品之督〕神・国土・山川・草木などの、もろもろの先祖。〔所以〕このゆゑに。「故」「爾に」「ここをもて」「即ち」などとひとしい意の接続詞。前句を受けて、下句に言いつづける語。
〔出二│入幽顯〕「幽」は暗い意、暝界。「顕」は明かるい意、現世界。イザナギノミコトが、イザナミノミコトの後を追って夜見の国に行かれ、さらに、そこから現世界に帰られたことを言う。〔日月彰二於洗一レ目〕イザナギノミコトが、日向の檍原の近くの海水で禊をされた時、左の目を洗うと日の神(天照大神)が、右の目を洗うと月の神(月読命)が現われたことを言う。〔浮二沈恭水一、突陶呈二於滌一レ身〕底本は「陶」を「祗」に誤る。やはり、イザナギノミコトが日向の檍原の近くの海水で禊をされた時、もろもろの神たちが生まれたことを言う。 
故、太素杳冥、因二本辻而、識二孕レ土籥レ嶋之時。元始綿襞、勠二先梗一而、察二生レ突立レ人之世。寔知、懸レ鏡吐レ珠而、百王相續、喫レ劔切レ蛇以、萬突蕃息歟。議二安河一而、平二天下、論二小濱一而、厳二國土。
故、太素は杳冥なれども、本教に因りて、土を孕み、島を産みし時を識り、元始は綿襞たれども、先聖に頼りて、神を生み人を立てたまひし世を察らかにせり。寔に知る、鏡を懸け珠を吐きて、百王相続ぎ、剣を喫ひ蛇を切りて、万神蕃息せしことを。安の河に議りて、天の下を平らげ、小浜に論ひて、国土を清めき。
〔太素〕万物の素。列子、天瑞に「太素者、質之始也。」とある。〔杳冥〕「杳」は奥深いこと。「冥」は暗いこと。奥深くてよくわからない意。張衡の西京賦に「雲霧杳冥」とある。「杳」を中津本は「香」に誤り、前田本等は「杏」に誤る。「冥」を真本等は「厰」に誤り、延本・底本その他「q」に誤る。寛本の「們」は可。〔本教〕諸説があるが、「元からの教え」「昔からの伝え」、すなわち「古い伝承」の意と解しておく。〔孕レ土籥レ嶋〕イザナギ・イザナミ二神が、国土を生み給うたことを言う。 
是以、番仁岐命、初降二于高千嶺、突倭天皇、經二│歴于秋津嶋、化態出レ山、天劔獲二於高倉、生尾蛹レ徑、大烏導二於吉野、列レ蒐攘レ賊、聞レ歌伏レ仇。
ここをもて、番仁岐命、初めて高千の嶺に降りたまひ、神倭天皇、秋津島に経歴りたまひ、化熊山より出で、天剣を高倉に獲、生尾径を遮り、大烏吉野に導けり。舞を列ねて賊を攘ひ、歌を聞きて仇を伏はしめたまひき。
〔是以〕ここをもて。上述の「所以」参照。〔番仁岐命〕ほのににぎのみこと。この序文は、すべて漢文流に四字をもって一句とするため、「仁」を「にに」と訓じさせるような無理をしている。天孫「番能邇邇芸命」のこと。〔高千嶺〕たかちのみね。日向の高千穂の峰のこと。〔突倭天皇〕かむやまとのすめらみこと。神倭伊波札豐古命、すなわち神武天皇。これまた、四字一句とするために「神倭天皇」と書いたもの。〔秋津嶋〕あきつしま。「あきづしま」の訓は、津田左右吉氏も言うごとく滑蔵である。はじめは「大和国」を称し、のち、「日本国」の意となる。神武紀三十一年四月の記事参照。 
來、覺レ夢而敬二突陶。館以稱二賢后。望レ烟而撫二黎元。於レ今傳二梗帝。定レ境開レ邦、制二于羝淡恭、正レ姓撰レ氏、勒二于蘚飛鳥。雖二歩驟各異、澪質不一レ同、莫レ不下稽レ古以、繩二風憫於蝉頽、照レ今以、補中典辻於欲上レ縟。
即ち、夢に覚りて神陶を敬ひたまふ。このゆゑに賢き后と称ふ。烟が望みて黎元を撫でたまふ。今に聖の帝と伝ふ。境を定め邦を開き、近淡海に制め、姓を正し氏を撰びて、遠飛鳥に勒めたまふ。歩驟各異に、文質同じからずと雖も、古を稽へて風憫を既に頽れたるに縄し、今に照らして典教を絶えむとするに補はずといふこと莫し。
〔覺レ夢而敬二突陶。館以稱二賢后〕底本は「覺」を「r*?」に、「陶」を「祗」に誤る。崇神天皇の御世、疫病が全国に起り、人民の多く死ぬのを嘆かれて、天皇がお眠りになった夜、大物主大神が天皇の御夢に現われて、意富多多泥古をして自分を祭らしめれば、悪疫の流行はやみ、国は太平になると教えられたので、天皇が大物主大神の教えのとおりにすると、たちまち悪疾はやみ、国家が平安になったということを言う。記伝も言うごとく、神功皇后の事のようにも聞えるが、夢のことがちがうし、やはり崇神天皇のこととする方が妥当である。したがって、「賢后」は「賢き后」である。「后」は「君」であり「天子」である。書経、仲禹之誥に「瞑二我后、后来其蘇。」とある。〔望レ烟而撫二黎元。於レ今傳二梗帝〕仁徳天皇の御事。何人もよく知っていることであるから、あえて説明の要もないであろう。 
曁下飛鳥厳原大宮、御二大八洲一天皇御世上、潛龍體レ元、癌雷應レ期、聞二夢歌一而想レ纂レ業、投二夜水一而知レ承レ基。然、天時未レ臻、諍二│蛻於南山、人事共給、虎二歩於東國。皇輿忽駕、凌二│渡山川、六師雷震、三軍電芍。杖矛擧レ威、猛士烟起、絳旗耀レ兵、凶徒瓦解。未レ移二浹辰、氣殻自厳。乃放レ牛息レ馬、覬悌歸二於華夏、巻レ旌革レ戈、蒐詠停二於都邑。歳筱二大梁、月踵二夾鐘。厳原大宮、昇來二天位。蕈軼二軒后、碼跨二周王。握二乾符一而償二六合、得二天統一而包二八荒、乘二二氣之正、齊二五行之序、設二突理一以奬レ俗、敷二英風一以弘レ國。重加、智恭浩瀚、消探二上古、心鏡蠶煌、明覩二先代。
飛鳥の清原の大宮に、大八洲を御しめしし天 皇の御世に曁びて、潜竜元を体し、癌雷朝に応ぜり。夢の歌を聞きて業を纂がむことを想ひ、夜の水に投りて基を承けむことを知らしめぬ。然れども、天の時未だ臻らず、南山に諍のごと蛻けたまひ、人事共に給りて、東国に虎のごと歩みたまひき。皇輿忽ちに駕して、山川を凌ぎ渡り、六師雷のごと震ひ、三軍電のごと逝く。杖矛威を挙げ、猛士烟のごと起り、絳旗兵を耀かして、兇徒瓦のごと解けぬ。未だ浹辰を移さずして、気殻自らに清まりぬ。乃ち牛を放ち、馬を息へ、覬悌して華夏に帰り、旌を巻き、戈を革め、蒐詠して都邑に停りたまひき。歳は大梁に次り、月は夾鐘に踵りて、清原の大宮にして、昇りて天つ位に即きたまひけり。道は軒后に軼ぎ、徳は周王に跨えたまふ。乾符を握りて六合を償べ、天統を得て八荒を包ね、二気の正しきに乗じて、五行の序を齊へ、神理を設ねて俗を奨め、英風を敷きて国を弘めたまひぬ。重加、智海は浩瀚として、消く上古を探り、心鏡は蠶煌として、明らかに先代を覩たまへり。
☆ここからは、帝紀および上古諸事を記定せしめられた天武天皇の御事だけをしるす。 〔飛鳥厳原大宮〕紀は「飛鳥浄御原宮」に、万葉は「明日香清御原宮」に作る。天武・持統両天皇の皇居。その址は、奈良県高市郡高市村字上居にある。〔御二大八洲一天皇御世〕前項参照。天武天皇の御代。「大八洲」は「おほやしま」と読む。「やしまくに」という歌詞もあるが、ここは「おほやしまくに」と読まない方が可。「あきつしまくに」と言わない類。なお、「洲」を「州」に作る本が多いが、紀伝に「洲の字、州と作けるはわろし。今は一本によれり。」とあるが正しく、本書も底本に従う。元来、「洲」は「州」の俗字なのであるが、後世、「州」を「くに」の意に用い、「洲」を「す」または「しま」の意に用いるようになったものである。広雅に「州、国也。」とあり、正字通に「水中可レ居曰レ州。後人加レ水以別二州県。」とあり、王注に「今関耕作レ洲。乃俗別字也。」とある。今日の古事記研究書に、「州」を用いているものがあるが、首肯されぬ。なお、真本は「太八州」 に誤る。〔潛龍體レ元、癌雷應レ期〕「潜竜」も「癌雷」も、易にある語で、皇太子のこと。天武天皇が天智天皇の皇太子であられたことを言う。「潜竜」は、天子を竜にたとえるのに対し、潜んでいる竜の意から皇太子の意となる。「癌雷」も易に「癌雷震」とあり、また、「震為二長子一」とある語から出て、皇太子の意となる。なお、「癌」を真本は「淤」に誤り、また、「游」に誤る本もある。「元を体す」の「元」は、「盛徳」の義。天武天皇が皇太子の時から、君主たる徳をそなえていられたことを言う。「期に応ぜり」は、時機に即応して行動せられたことを言う。 
於レ是、天皇詔之、咏聞跳家館レ齎帝紀及本辭、蝉蕋二正實、多加二癪僞。當二今之時、不レ改二其失、未レ經二幾年、其旨欲レ滅。斯乃邦家之經緯、王化之鴻基焉。故惟、厨二│札帝紀、討二│覈舊辭、削レ僞、定レ實、欲レ流二後葉。時有二舎人、姓稗田、名阿禮、年是廿八。爲レ人聰明、度レ目誦レ口、拂レ耳勒レ心。來勅二│語阿禮一令レ誦二│帰帝皇日繼及先代舊辭。然、蓿移世異、未レ行二其事一矣。
ここにおいて、天皇詔りたまひけらく、「朕聞かくは、諸家の齎る帝紀と本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふと。今の時に当たりて、其の失を改めざれば、未だ幾の年を経ずして、其の旨滅びなむとす。斯乃ち邦家の経緯にして、王化の鴻基なり。故惟、帝紀を厨録し、旧辨を討覈して、偽を削り実を定めて、後の葉に流へむとす。」と、のりたまひき。時に舎人あり。姓は稗田、名は阿礼、年は二十八。人となり聰明にして、目に度れば口に誦み、耳に払るれば心に勒す。即ち阿礼に勅語して、帝皇の日継と先代の旧辞とを誦み習はしめたまふ。然れども、運移り世異りて、未だ其の事行なはれざりき。
〔詔之〕延本は「詔云」に作る。いま、諸本および底本に従う。〔館レ齎〕諸本・底本等「齎」を俗字「匱」に作る。いま、延本の用いた正字に従う。また、延本は「所レ齎」を「ツタハル」と訓じ、底本は「モタルトコルノ」と訓じているが、本書は「もたる」と訓ずることとする。「もたり」(ラ変)は「持ちあり」の約で、持っている意。「もたる」は、その連体形である。もっとも、「所」の文字を活かして「もたれる」と訓ずるも可。〔帝紀及本辭〕「及」は「と」と訓ずる。記の本文でも「および」と訓じないのが例である。 
伏惟、皇帝陛下、得レ一光宅、艷レ三亭育。御二紫宸一而碼被二馬蹄之館一レ極、坐二玄旗一而化照二船頭之館一レ莚。日浮重レ暉、雲散非レ烟。苣レ柯忸レ穗之瑞、史不レ絶レ書、列レ烽重レ譯之貢、府無二捏月。可レ謂下名高二澪命、碼冠中天乙上矣。
伏して惟ふに、皇帝陛下、一を得て光宅し、三に通じて亭育したまふ。紫宸に御して徳は馬の蹄の極まる所に被び、玄旗に坐して化は船の頭の逮ぶ所を照らしたまふ。日浮かびて暉を重ね、雲散りて烟にあらず。柯を連ね穂を忸する瑞、史に書すことを絶たず。烽を列ね訳を重ぬる貢、府に空しき月無し。名は文命よりも高く、徳は天乙にも冠れりと謂ふべし。
☆ここから、当代の天皇、すなわち元明天皇の御徳をたたえて、古事記厨録の事業を述べようとするのである。 〔伏惟〕平伏して思いますのに。謹んで考えますと。古来、シナで上表の冒頭に用いられた句。〔皇帝陛下〕「皇帝」は「天子」の意。秦の始皇帝によって初めて用いられた語。史記、始皇紀に「区二上古帝位号、号曰二皇帝。」とある。
「陛下」は、当代の天皇・皇后・太皇太后・皇太后の尊称。もと、シナで、宮殿の陛の下にいる侍臣の取次を経て、上聞に達する意から出た語。これまた、始皇帝によって初めて用いられた語で、史記、始皇紀に「頼二陛下神霊。」とある。真本は「階下」に誤る。ここでは、女帝元明天皇を申し上げる。天智天皇の皇女。草壁皇子の妃。元正天皇の御母。慶雲四年御即位。和銅三年(七一〇)都を奈良に定められた。
〔得レ一光宅、艷レ三亭育〕「一」は一貫した誠の徳。「一を得る」とは、一貫した至誠の聖徳を有すること。老子に「天得レ一以清、地得レ一以寧、王侯得レ一以為二天下貞。」とある。「光宅」の「光」は「充」。満たしおおう意。「宅」は「家」。天下をすべて家とすること。堯典の序に「光二│宅天下。」とある。「三」は「三才」の略。「才」は、はたらき。すなわち、天の道・地の道・人の道を言い、天・地・人を言う。「三に通ず」とは、天・地・人の三才に通ずることを言う。「亭育」の「亭」は、かたちづくる。「育」は「毒」に同じ。「毒」は「篤」。その質を篤く成しとげる意で、「亭育」は、民をすこやかに、りっぱに育て養うこと。老子に「亭レ之毒レ之。」とあり、注に「毒今作レ育。」とある。「亭育」の語も、唐書、代宗紀に「中孚及レ物、亭育為レ心。」とある。「亭」を寛本は「亨」に誤る。以上は、進五経正義表の「伏惟、皇帝陛下、得レ一継レ明、通レ三撫レ運。」に基づく文である。〔御二紫宸一而碼被二馬蹄之館一レ極〕「紫宸」は「紫宸殿」の略。天子が政治をお聴きになる御殿の称。「宸」は屋根の意で、もと、シナでは天子の宮殿の屋根を紫色の瓦で葺いたので、「帝屋」の義となる。唐会要に「竜朔四年、始御二紫宸殿一聴レ政。」とある。寛本は「宸」を「震」に誤る。「徳被二馬蹄之所一レ極」とは、徳が極遠の地にまで及ぶことをいう。祝詞、祈年祭に「馬の爪の至り留まる限り」などとあると同趣。〔坐二玄旗一而化照二船頭之館一レ莚〕前項と同趣。対句を成す。「玄旗」は「紫宸」とひとしく、天子の宮殿の義。略史後紀に「玄旗者石室也。臨二洛水。」とあり、シナの黄帝が洛水のほとりの岩窟に住居されていた時、鳳凰が図をくわえて来て授けたという故事から、天子の宮殿の意となる。すなわち、宮殿におわしまして、その徳化が極遠の地までを照らす意。「船云々」も、祝詞、祈年祭に「舟の艫の至り留まる極み」などとあると同趣。
寛本は「船」を「u」に誤る。〔日浮重レ暉、雲散非レ烟〕日輪は天空に出現して、いよいよ光輝を増し、雲は散じて煙ではない。すなわち妖雲散じて慶雲となる意。元明天皇の聖徳を仰ぐ意の賛辞。 
於レ焉、惜二舊辭之誤忤、正二先紀之土錯、以二和銅四年九月十八日、詔二臣安萬侶、厨二│札稗田阿禮館レ誦之勅語舊辭一以獻上隅。当隨二詔旨、子細採昭。然、上古之時、言意並朴、敷レ文構レ句、於レ字來盟。已因レ訓肓隅、詞不レ莚レ心、全以レ音苣隅、事趣更長。是以、今或一句之中、交二│用音訓、或一事之内、全以レ訓札。來辭理壓レ見以レ注明、意況易レ解更非レ注。亦於二姓日下一謂二玖沙訶、於二名帶字一謂二多羅斯、如レ此之類、隨レ本不レ改。
焉に、旧辞の誤り忤へる惜しみ、先紀の土り錯れるを正さむとして、和銅四年九月十八日を以て、臣安万侶に詔して、「稗田阿礼の誦める勅語の旧辞を厨録びて献上れ。」と、のりたまひき。当みて詔の旨の随に、子細に採り昭ひぬ。然れども、上古の時、言も意も並びに朴にして、文を敷き句を構ふること、字に於きては即ち難し。已に訓に因りて述べたるものは、詞心に逮ばず、全音を以て連ねたるものは、事の趣更に長し。ここをもて、今或は一つの句の中に、音と訓とを交へ用ひ、或は一つの事の内に、全訓を以て録せり。即ち、辞の理の見え壓きは、注を以て明らかにし、意況の解り易きは更に注せず。亦姓の日下を玖沙訶と謂ひ、名の帯の字を多羅斯を謂ふ、此の如き類は本に随ひて改めず。
☆ここは阿礼の誦習した帝紀・旧辞の類の資料をもととして、古事記を撰録した苦心を述べたものである。 〔旧辭・先紀〕ここの「先紀」は「帝紀」の意か、または「旧辞」を別に言いかえただけか、未詳。もし、「帝紀」の意ならば、「先紀……旧辞」の順に置かるべきであろう。〔和銅四年〕七一一年である。すなわち奈良奠都の翌年。和銅の年号は、武蔵国(埼玉県)秩父郡から銅を献じたことにより、慶雲五年(七〇八)正月十一日に改元、和銅八年(七一五)九月二日に霊亀と改元するまで続く。〔稗田阿禮館レ誦之勅語舊辭〕「所レ誦」は、帝紀・旧辞の類の古記録を読み習ったことであって、暗誦したことではない。上にも述べてある。
「勅語」とは、天武天皇が阿礼に読み習わしめられたご命令のおことばを言う。「旧辞」は、上に「旧辞・先紀」とあるごとく、この「旧辞」の中に、いわゆる「帝紀・本辞」などを含めて言った語で、「旧辞」は「古記録」の意に解すべきである。〔子細採昭〕帝紀・旧辞の類の古記録の文章を、こまかに検討しつつ取捨する。「ひりふ」は「ひろふ」の古語。「拾う」とあるから、「捨てた」ものもあったことを意味する。〔言意並朴〕上古のことばも意味も、すべて素朴で、安万侶の当時とは異なるとの意。「朴」は「すなほ」と訓じ、素朴または淳朴で、かざりけのないこと。〔敷レ文構レ句〕阿礼の読み習った古記録をもととして、新たに文を構成する意。阿礼の暗誦を、そのまま文に書き写すことではない。この点、筆者は記伝と見を異にする。すでに記録の存する世に、何で暗誦の必要があろうか。ただ、帝紀・旧辞の類の古記録には、当時と異なることばもあり、そのことばを表記した文字にも、当時と違うものが多かったために、その読みを聰明な阿礼に習わせたのである。誦習を暗誦などと解するから、阿礼を語り部だなどと、何の根拠もない臆説を立てる者さえ生じたのである。〔於レ字來難〕ことに文字表記が、はなはだむずかしい。すなわち、前項で述べたごとく、古記録の文字づかいが、当時のものと異なる場合が多かったことをいう。〔已因レ訓肓隅、詞不レ莚レ心〕すでに、訓によって述べてある漢文式の古記録は、簡に過ぎて、表現者の意図するところがよく表現されていないことを言う。底本は「已」を「己」に誤り、真本もほぼ「己」に見えるような文字を用いている。また真本は「因」を「田」に誤っている。 
大抵館レ記隅、自二天地開闢一始以、訖二于小治田御世。故、天御中主突以下、日子波限建鵜草葺不合命以電、爲二上巻、突倭伊波禮豐古天皇以下、品陀御世以電、爲二中巻、大雀皇帝以下、小治田大宮以電、爲二下巻、忸札二三巻、当以獻上。臣安萬侶、誠惶誠恐頓首頓首。  和銅五年正月二十八日、正五位上勳五等太咆臣安萬侶謹上。
大抵、記す所は、天地の開闢より始めて、小治田の御世に訖る。故、天御中主神より以下、日子波限建鵜草葺不合命以前を上つ巻と為、神倭伊波礼豐古天皇より以下、品陀の御世以前を中つ巻と為、大雀皇帝より以下、小治田の大宮以前を下つ巻と為、忸せて三つの巻を録し、謹みて献る。臣安万侶、誠惶誠恐、頓首頓首。  和銅五年正月二十八日、正五位上勲五等、太朝臣安万侶、謹みて上る。
〔大抵〕おおよそ。たいてい。だいたい。真本は「抵」を「w」に誤る。〔訖二于小治田御世〕推古天皇の御世に終る。ここまでは、古事記の全部の終始を言い、次からは各巻を述べる。真本・延本は「于」を「干」に誤る。〔日子波限建鵜草葺不合命〕「命」を「尊」に作る本が多いが、いま、真本に従う。記に「尊」を用いた例がない。〔突倭伊波禮豐古天皇〕神武天皇。底本は「豐」を常に「毘」に作る。いま、真本・延本等に従う。紀も必ず「豐」に作る。なお、宣長は「豐古」を常に「ビコ」と訓じているが、「豐古」は「日子」「彦」に当てた仮名であり、「ヒコ」と訓ずべきである。延本の訓「ヒコ」が正しい。漢音。〔品陀御世〕応神天皇の御世。底本等の訓「ホムダ」は非。「ホムタ」である。くわしくは、記の本文の、その項参照。〔大雀皇帝〕仁徳天皇。この「皇帝」は「天皇」または「命」などとあるべきであるが、しばらく諸本に従っておく。 
[別出典]
上卷并序  
臣安萬侶言 夫混元既凝 氣象未效 無名無爲 誰知其形 然乾坤初分 參~作造化之首 陰陽斯開 二靈爲群品之祖 所以出入幽顯 日月彰於洗目 浮沈海水 ~祇呈於滌身 故太素杳冥 因本ヘ而識孕土産嶋之時 元始綿 頼先聖而察生~立人之世 寔知懸鏡吐珠 而百王相續 喫釼切蛇 以萬~蕃息歟 議安河而平天下 論小濱而清國土 是以番仁岐命 初降于高千嶺 ~倭天皇 經歴于秋津嶋 化熊出爪 天釼獲於高倉 生尾遮徑 大烏導於吉野 列攘賊 聞歌伏仇 即覺夢而敬~祇 所以稱賢后 望烟而撫黎元 於今傳聖帝 定境開邦 制于近淡海 正姓撰氏 勒于遠飛鳥 雖歩驟各異 文質不同 莫不稽古以繩風猷於既頽 照今以補典ヘ於欲絶
曁飛鳥清原大宮 御大八洲天皇御世 濳龍體元 雷應期 聞夢歌而相纂業 投夜水而知承基 然天時未臻 蝉蛻於南山 人事共洽 虎歩於東國 皇輿忽駕 浚渡山川 六師雷震 三軍電逝 杖矛擧威 猛士烟起 絳旗耀兵 凶徒瓦解 未移浹辰 氣自清 乃放牛息馬 ト悌歸於華夏 卷旌戈 詠停於都邑 歳次大梁 月踵侠鍾 清原大宮 昇即天位 道軼軒后 コ跨周王 握乾符而ハ六合 得天統而包八荒 乘二氣之正 齊五行之序 設~理以奬俗 敷英風以弘國 重加智海浩瀚 潭探上古 心鏡煌 明覩先代
於是天皇詔之 朕聞諸家之所 帝紀及本辭 既違正實 多加虚僞 當今之時 不改其失 未經幾年 其旨欲滅 斯乃邦家經緯 王化之鴻基焉 故惟撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉 時有舍人 姓稗田名阿禮 年是廿八 爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心 即勅語阿禮 令誦習帝皇日繼 及先代舊辭 然運移世異 未行其事矣
伏惟皇帝陛下 得一光宅 通三亭育 御紫宸而コ被馬蹄之所極 坐玄扈而化照船頭之所逮 日浮重暉 雲散非烟 連柯并穗之瑞 史不絶書 列烽重譯之貢 府無空月 可謂名高文命 コ冠天乙矣
於焉惜舊辭之誤忤 正先紀之謬錯 以和銅四年九月十八日 詔臣安萬侶 撰録稗田阿禮所誦之勅語舊辭 以獻上者 謹隨詔旨 子細採 然上古之時 言意並朴 敷文構句 於字即難 已因訓述者 詞不逮心 全以音連者 事趣更長 是以今或一句之中 交用音訓 或一事之内 全以訓録 即 辭理見 以注明 意况易解更非注 亦於姓日下謂玖沙訶 於名帶字謂多羅斯 如此之類 隨本不改 大抵所記者 自天地開闢始 以訖于小治田御世 故天御中主~以下 日子波限建鵜草葺不合尊以前 爲上卷 ~倭伊波禮毘古天皇以下 品陀御世以前 爲中卷 大雀皇帝以下 小治田大宮以前 爲下卷 并録三卷 謹以獻上 臣安萬侶 誠惶誠恐頓首頓首
和銅五年正月二十八日 正五位上勲五等太朝臣安萬侶謹上

臣安萬侶(やすまろ)言(もう)す。 夫(そ)れ混元(こんげん)既(すで)に凝(こ)りて、氣象(きしょう)未だ效(あらわ)れず。 名も無く爲(わざ)も無し。 誰か其の形を知らん。 然れども乾坤(けんこん)初めて分れて、參~(さんしん)造化(ぞうけ)の首(はじめ)と作(な)り、陰陽(めお)斯(ここ)に開けて、二靈(にれい)群品(ぐんぴん)の祖(おや)と爲りき。 所以(このゆえ)に幽顯(ゆうけん)に出入して、日月目を洗うに彰(あらわ)れ、海水に浮沈して~祇(じんぎ)身を滌(すす)ぐに呈(あらわ)れき。 故(かれ)、太素(たいそ)は杳冥(ようめい)なれども、本ヘに因(よ)りて土(くに)を孕(はら)み嶋を産みし時を識(し)れり。 元始は綿(めんばく)なれども、先聖に頼(よ)りて~を生み人を立てし世を察(し)りぬ。 寔(まこと)に知る、鏡を懸け珠を吐きて百王相續し、釼(つるぎ)を喫(か)み蛇(おろち)を切りて、萬~蕃息(はんそく)せしことを。 安(やす)の河に議(はか)りて天(あめ)の下を平らげ、小濱(おばま)に論(あげつら)いて國土(くに)を清めき。 是(ここ)を以(も)ちて番(ほ)の仁岐(ににぎ)の命(みこと)、初めて高千(たかちほ)の嶺(みね)に降(くだ)り、~倭(かむやまと)の天皇(すめらみこと)、秋津嶋を經歴したまいき。 化熊(かゆう)爪を出(いだ)して、天釼(てんけん)を高倉(たかくらじ)に獲(え)、生尾(しょうび)徑(みち)を遮(さえぎ)りて、大烏(たいう)吉野に導きき。 (まい)を列(つら)ね賊(あた)を攘(はら)い、歌を聞き仇(あた)を伏(したが)えたまいき。 即ち夢に覺(さと)りて~祇を敬(うやま)いたまいき。 所以(このゆえ)に賢后と稱(もう)す。 烟(けむり)を望みて黎元(れいげん)を撫(な)でたまいき。 今に聖帝と傳(い)う。 境(さかい)を定め邦(くに)を開き、近つ淡海(おうみ)に制(おさ)め、姓(かばね)を正し氏(うじ)を撰(えら)びて、遠き飛鳥(あすか)に勒(おさ)めたまいき。 歩驟(ほしゅう)各(おのおの)異り、文質同じくあらずと雖(いえど)も、古(いにしえ)を稽(かんがえ)て風猷(ふうゆう)を既に頽(すた)れたるに繩(ただ)し、今に照らして典ヘを絶えんとするに補(おぎな)わずということ莫(な)し。
飛鳥の清原(きよみはら)の大宮に大八洲(おおやしま)御(しら)しめしし天皇(すめらみこと)の御世に曁(いた)りて、濳龍(せんりょう)元を體し、雷(せんらい)期に應じき。 夢の歌を聞きて業を纂(つ)がんことを相(おも)い、夜の水(かわ)に投(いた)りて基(もとい)を承(う)けんことを知りたまいき。 然れども天の時未だ臻(いた)らずして南山に蝉蛻(せんぜい)し、人事共洽(そなわ)りて東國に虎歩したまいき。 皇輿(こうよ)忽(たちま)ちに駕(が)して山川を浚(こ)え渡り、六師(りくし)雷(いかづち)のごとく震え、三軍電(いなづま)のごとく逝(ゆ)きき。 杖矛(じょうぼう)威(いきおい)を擧げ、猛士烟(けむり)のごとく起り、絳旗(こうき)兵(つわもの)を耀(かがや)かして、凶徒瓦のごとく解けぬ。 未だ浹辰(しょうしん)を移さずして氣(きれい)自ずから清し。 乃ち牛を放ち馬を息(いこ)え、ト悌(がいてい)して華夏に歸り、旌(はた)を卷き戈を(おさ)め、詠(ぶえい)して都邑に停まりたまいき。 歳(ほし)大梁に次(やど)り、月、侠鍾(きょうしょう)に踵(あた)り、清原(きよみはら)の大宮に昇りて天つ位に即(つ)きたまいき。 道は軒后(けんこう)に軼(す)ぎ、コは周王に跨(こ)えたまいき。 乾符(けんぷ)を握(と)りて六合(りくごう)をハ(す)べ、天統を得て八荒を包(か)ねたまいき。 二氣の正しきに乘り、五行の序(つぎて)を齊(ととの)え、~理を設(ま)けて俗(ならわし)を奬(すす)め、英風を敷きて國を弘(おさ)めたまいき。 重加(しかのみにあら)ず智海は浩瀚(こうかん)として潭(ふか)く上古を探(さぐ)り、心鏡は煌(いこう)として明らかに先代を覩(み)たまいき。
是に天皇(すめらみこと)の詔(の)りたまいしく、「朕(わ)が聞けらく『諸家の(も)てる帝紀及び本辭、既に正實に違(たが)い、多く虚僞を加ふ』と。 今の時に當りて其の失(あやまり)を改めずば未だ幾年も經ずして其の旨滅びなんとす。 斯れ乃ち邦家の經緯、王化の鴻基(こうき)なり。 故(かれ)、惟(これ)帝紀を撰録し舊辭を討覈(とうかく)し、僞りを削り實(まこと)を定めて後の葉(よ)に流(つた)えんと欲(おも)う」とのりたまいき。 時に舍人(とねり)有り。 姓(うじ)は稗田(ひえだ)、名は阿禮(あれ)。 年は是れ廿八(にじゅうはち)。 人と爲り聰明にして、目に度(わた)れば口に誦(よ)み、耳に拂(ふる)れば心に勒(しる)す。 即ち阿禮に勅語(みことのり)して、帝皇(すめろき)の日繼(ひつぎ)及び先代の舊辭(くじ)を誦(よ)み習わしめたまいき。 然れども運(とき)移り世(よ)異(かわ)りて未だ其の事を行いたまわざりき。
伏して惟(おも)うに、皇帝陛下(すめらみこと)、一を得て光宅し、三に通じて亭育(ていいく)したまう。 紫宸に御してコは馬蹄の極まる所を被い、玄扈(げんこ)に坐(いま)して化は船の頭(へ)の逮(およ)ぶ所を照らしたまう。 日浮びて暉(ひかり)を重ね、雲散りて烟(けむり)にあらず。 柯(えだ)を連ね穗を并(あわ)す瑞(しるし)、史、書(しる)すこと絶えず。 烽(とぶひ)を列(つら)ね譯(えき)を重ぬる貢(みつぎ)、府、空(むな)しき月無し。 名は文命よりも高く、コは天乙にも冠(まさ)りますと謂(い)いつ可(べ)し。
焉(ここ)に於いて舊辭の誤り忤(たが)えるを惜しみ、先紀の謬(あやま)り錯(まじ)れるを正したまわんとして、和銅四年九月十八日を以ちて、臣安萬侶に詔(みことの)りして「稗田の阿禮が誦める勅語の舊辭を撰録して獻上せしむ」とのらししかば、謹みて詔旨(おおみこと)の隨(まにま)に子細に採り(ひろ)いつ。 然れども上古の時は、言(ことば)と意(こころ)と並(み)な朴(すなお)にして、文を敷き句を構うること、字に於きては即ち難し。 已(すで)に訓に因りて述べたるは、詞(ことば)心に逮(およ)ばず、全く音を以ちて連ねたるは、事の趣き更に長し。 是を以ちて、今、或は一句の中に音訓を交え用い、或は一事の内に全く訓を以ちて録(しる)しぬ。 即ち、辭理(じり)の見え(がた)きは注を以ちて明らかにし、意况(いきょう)の解り易きは更に注せず。 また、姓に於きて日下を玖(く)沙(さ)訶(か)と謂い、名に於きて帶の字を多(た)羅(ら)斯(し)と謂う。 此(かく)の如き類(たぐい)は本の隨(まにま)に改めず。 大抵(おおかた)に記す所は、天地(あめつち)の開闢(かいびゃく)より始めて、小治田(おはりだ)の御世に訖(おわ)る。 故、天御中主(あめのみなかぬし)の~より下(しも)、日子波限建鵜草葺不合(ひこなぎさたけうがやふきあえず)の尊より前(さき)を上つ卷と爲し、~倭伊波禮毘古(かむやまといはれびこ)の天皇(すめらみこと)より下、品陀(ほむだ)の御世より前を中つ卷と爲し、大雀(おおさざき)の皇帝より下、小治田(おはりだ)の大宮より前を下つ卷と爲し、并せて三卷を録して、謹みて獻上(たてまつ)ると。 臣安萬侶、誠惶誠恐頓首頓首。
和銅五年正月二十八日 正五位上勲五等太朝臣安萬侶謹上
 

 

【 神代の物語 】天地初発、別天神
天地初發之時、於二高天原一成突名、天之御中主突。【訓高下天云阿揺下效此】筱高御籥厥日突。筱突籥厥日突。此三柱突隅、竝獨突成坐而隱レ身也。筱國稚、如二浮脂一而、久羅下那洲多陀用幣琉之時、【琉字以上十字以音】如二葦牙一因二萌騰之物一而成突名、宇揺志阿斯訶備比古遲突。【此突名以音】筱天之常立突。【訓常云登許訓立云多知】此二柱突亦濁突成坐而隱レ身。上件五柱突隅、別天突。
天地の初めて発けし時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神。【高の下の天をアマと云ふ。下、これに效ふ。】次に高御産巣日神。次に神産巣日神。此の三柱の神は、並独神成り坐して身を隠したまひき。次に国稚く、浮かべる脂の如くにして、海月如す漂へる時に、【琉の字より上の十字は、音を以ふ。】葦牙の如萌え騰る物に因りて成りませる神の名は、宇麻志阿斯訶備比古遲神。【此の神の名は、音を以ふ。】次に天之常立神。【常を訓みてトコと云ひ、立を訓みてタチと云ふ。】此の二柱の神も独神成り坐して身を隠したまひき。上の件の五柱の神は、別天神。
〔天地初發之時〕あめつちのはじめてひらけしとき。神代紀、上に、「開闢之初」とあり、万三の三一七にも、八の一五二〇にも「天地の分れし時」とある。底本は、「天地初発之時」と訓じているが、これでは「発」の字を無視したことになる。
「天地開闢」とか「天地剖判」とかの思想は、シナ思想に基づくものであり、記もまた、これによるものである。記伝のいうように、紀のみが漢文の潤色によるものでない証拠である。その源泉は、「三五歴記」「述異記」「五運歴年記」等にあるところの、いわゆる磐古神話である。高木敏雄氏著「比較神話学」(一六五頁)に「日本神話の天地開闢説に関する、教個の源泉は、支那思想の影響を示す事著し。」とある。〔高天原〕たかあまのはら。訓注によれば、当然、かく訓ずべきである。上代語には、省音が多い。
省音とは、複合語(接頭語の付いたものをも複合語と見なす)において、上の語の末の音韻に、下の語の頭の音韻が吸収されて消失する現象をいう。したがって、taka-amaがtaka-maとなることは、あるべきであるが、ここは、延本の訓「たかあまのはら」に従う。神々の住んでいたと信じられた世界の意で、古代人の信じていた世界共通の思想である。ちなみに、チェンバレンの古事記英訳では、"the Plain of High Heaven"とし、ディクスンのインドネシア神話の英訳には、"the upper sky world"とある。〔天之御中主突〕あめのみなかぬしのかみ。神代紀、上、一書には、「天御中主尊」とある。恐らく、この神の名は、シナ神話の「中主王」の翻案であろう。高天の原の中央にましまして、宇宙を支配する主(大人)の意。〔高御籥厥日突〕たかみむすひのかみ。記伝・底本が「産巣日」を「むすび」と訓ずるは非。「むすび」は後世の訛。神代紀、上、一書に「皇産霊、此云二美武須豐。」とあり、和名抄にも「无須比」とある。「むす」は「草むす」「苔むす」などの「むす」で、「生・産」の意。「ひ」は霊力。高天原にましまして、天地万物を生産する霊力ある神。下の「神産巣日神」も同様の意の神名。〔三柱〕みはしら。「はしら」は、神・貴人などをかぞえるに用いる語。底本の訓「みばしら」は非。延本の訓「みはしら」に従う。 
【 神代の物語 】神世七代
筱成突名、國之常立突。【訓常立亦如上】筱豐雲上野突。此二柱突亦獨突成坐而隱レ身也。筱成突名、宇比地邇上突。次妹須比智邇去突。【此二突名以音】筱角杙突。筱妹活杙突。【二柱】筱意富斗能地突。筱妹大斗乃辨突。【此二突名亦以音】筱淤母陀琉突。筱妹阿夜上訶志古泥突。【此二突名皆以音】筱伊邪那岐突。筱妹伊邪那美突。【此二突名亦以音如上】  上件自二國之常立突一以下、伊邪那美突以電、忸稱二突世七代。【上二柱、獨突各云二一代。筱隻十突、各合二二突一云二一代一也。】
次に成りませる神の名は、國之常立神。【常立を訓むことまた上の如し。】次に豊雲上野の神。此の二柱の神も独神成り坐して、身を隠したまひき。次に成りませる神の名は、宇比地邇上神。次に妹須比智邇去神。【此の二神の名は音を以ふ。】次に角杙神。次に妹活杙神。【二柱】次に意富斗能地神。次に妹大斗乃弁神。【此の二神の名も音を以ふ。】次に淤母陀琉神。次に妹阿夜上訶志古泥神。【此の二神の名皆音を以ふ。】次に伊邪那岐神。次に妹伊那那美神。【此の二神の名も音を以ふること上の如し。】  上の件の国常立神より以下、伊邪那美神以前、忸せて神世七代と称す。【上の二柱は、独神各を一代と云し、次の双びます十神は、各二神を合せて一代と云すなり。】
〔國之常立突〕くにのとこたちのかみ。「くにの」は「あめの」に対する美称。「とこたち」は上述のとおり。〔豐雲上野突〕とよくもののかみ。底本の訓「とよくもぬのかみ」は非。「野」は上代語でも「ノ」と発音した。「ノ」の甲類音。延本の訓が正しい。「豊」は 「多い・富む」などの意の美称。「雲野」については、記伝に、こちたき説があるが、「原野をおおう叢雲」の意の神名と解する。〔上・去〕記中、ところどころ思い出したように、漢字の四声を記入している。「上」は尻上がりのアクセント、「去」は尻下がりのアクセントで、国語のアクセントとは必ずしも同一でない。語族を異にするシナ語のアクセントを国語のアクセソトに当てはめるが如きは、ナンセンスである。恐らく、漢学崇拝の念の強い後人の、さかしらな続入であろう。ことに、「宇比地邇神」の「邇」は上声、「須比智邇神」の「邇」は去声と考えることなどは、全く荒唐無稽である。
国語のアクセントからいえば、「ニノ」という二つの音節の関係のアクセントは同一型であるべきである。筆者は、記中の四声の記入を無視する。アクセントは、地方により、時代により、必ずしも一定せぬ。後世のアクセントをもって、上代のアクセントを律しようとするがごときは、全く不可能事に属するからである。〔宇比地邇突〕神代紀、上に「藺土畠尊」とあり、訓注に「藺土、此云二于豐尼。」とある。「う」は「おほ」の約。「ひぢに」は「泥土」の意。土壌成生の神の意。〔須比智邇突〕神代紀、上に「沙土畠尊」とあり、訓注に「沙土、此云二須豐尼。」とある。「す」は「小・細」の意。「沙土畠」は「細土」の意。土沙成生の神の意。〔角杙突〕つのぐひのかみ。底本の訓「つぬぐひのかみ」は非。葦の芽の角の形を軈の形に比した神名。「つのぐむ」説は、音韻転化のうえから従われぬ。〔活杙突〕いくぐひのかみ。「いく」は「生く」で、葦の芽の生き生きと萌えあがる意の神名。〔意富斗能地突〕「意」を「オ」と読むはずはなく、「億」の偏を省いた用い方。「ぢ」は男性、「ひこぢ」などの「ぢ」。「大殿」を意味する男性神。〔大斗乃辨突〕「ベ」は「め」とひとしく、女性。「大殿」を意味する女性神。訓注に「此二神名亦以音」とあるから「大」は記伝のいうように、誤写であろう。ただし、真本をはじめ、諸本みな「大」に作る。よほど古くから「大」に誤写されたものと見られる。〔淤母陀琉突〕真本は「琉」を「流」に作る。同音であるから、底本等に従う。神代紀、上には「面足尊」に作る。「八面足り満つ」の意の神名。〔阿夜訶志古泥突〕神代紀、上には「惶根尊」とも「吾屋惶根尊」とも、しるされている。「ね」は美称。「あやにかしこき」意の神名。〔伊邪那岐突〕「いざ」は「いざなふ」意。「な」は「の」。「ぎ」は「こ」の系列に属し、男性。「め」の系列に属する「み」に対する。「あわなぎ」「あわなみ」「つらなぎ」「つらなみ」の「ぎ」「み」と同趣。二神が国土・神々を生みなさんとして、互に「いざなった」ことによる神名という。〔伊邪那美突〕前項参照。〔雙十突〕ならびますとはしらのかみ。男女対偶の十柱の神。すなわち、五組の男女神。 
【 神代の物語 】二神天降
於レ是、天突跳命以、詔三伊邪那岐命・伊邪那美命二柱突、修二│理│固│成是多陀用幣流之國、賜二天沼矛而言依賜也。故、二柱突、立二【訓立云多多志】天浮橋而、指二│下其沼矛以畫隅、鹽許袁呂許袁呂邇【此七字以音】畫鳴【訓鳴云那志】而引上時、自二其矛末一垂落之鹽、累積成レ嶋。是淤能碁呂嶋。【自淤以下四字以音】
ここに、天つ神詣の命もちて、伊邪那岐命・伊邪那美命二柱の神に、この漂へる国を修理り固め成せと詔りごちたまひて、天の沼矛を賜ひて言依さしたまひき。故、二柱の神、天の浮橋に立たして、【立を訓みてタタシと云ふ。】其の沼矛を指し下ろして画きたまへば、塩こをろこをろに【此の七字、音を以ふ。】画き鳴して、【鳴を訓みてナシと云ふ。】引き上げたまふときに、其の矛の末より垂り落ちたる塩累積りて島と成れり。これ淤能碁呂島なり。【淤より以下の四字、音を以ふ。】
〔天突跳命以〕あまつかみもろもろのみこともちて。高天原の諸神のおことばをもって。この「みこと」は、おことば。〔天沼矛〕あめのぬほこ。底本の訓「あまのぬほこ」には従わぬ。「あまつ」「あめの」と訓ずるのが通例である。「あまつかみ」「あまつひつぎ」、「あめのうずめ」「あめのかぐやま」など。「あめの」は「高天原の」の意の美称。「ぬ」は「瓊」の転。玉のような、りっぱな矛。〔言依賜也〕ことよさしたまひき。底本の訓「ことよざしたまひき」には従わぬ。江戸時代の国学者は、濁るまじき語を濁る癖があった。
宣長は、これを排しながらも、当時の趨勢に抗し得なかったらしい。「言」は「事」の借字。「よさし」は「寄す」の未然形「よさ」に敬語の助動詞「す」の連用形「し」の付いた語。「事を依頼し給うた」意。〔立〕たたし。「立つ」の未然形「立た」に敬語の助動詞「す」の連用形「し」の付いた語、「お立ちになり」の意。〔天浮橋〕あめのうきはし。底本の訓「あまのうきはし」には従わぬ。「あめのぬほこ」参照。「あめの」は美称。「浮橋」については諸説があるが、筆者は「船」の義と考える。すなわち、海に浮いている橋で、「船」のこと。「天降る」は「海降る」であり、上代語では、「天」をも「海」をも「あま」と言った。のちにamaがumiと転化したもので、母音の転換である。古代人は水天髣髴、はるかなるかなたを「あま」と呼んだものと解する。〔鹽〕しほ。ここでは潮のこと。〔許袁呂許袁呂邇〕潮の次第に凝り固まってゆくさまの副詞。「和訓栞」に「こをろこをろ。凝の義。をはこの韻也。」とある。「ろ」は口調を整えるための接尾語。「子ろ」「嶺ろ」などの「ろ」の類。〔那志〕「鳴らし」の中略。〔垂落之鹽〕したたりおちたるしほ。垂り落ちた潮。底本の訓「しただるしほ」は、例の濁るまじきを、好んで濁る癖から来たもの。〔淤能碁呂嶋〕潮のおのずから凝り固まって生じ島。 
【 神代の物語 】二神結婚
於二其嶋一天降坐而、見二止天之御柱、見二│立八尋殿。於レ是、問二其妹伊邪那美命一曰二汝身隅如何成、答曰、吾身隅成成不二成合一處一處在。爾、伊邪那岐命詔、我身隅成成而成餘處一處在。故、以二此吾身成餘處、刺下│塞汝身不二成合一處上而、爲レ生二成國土一奈何。【訓生云宇牟下效此】伊邪那美命、答二│曰然善。爾、伊邪那岐命詔下然隅、吾與レ汝行二│迴│苡是天之御柱一而、爲二美斗能揺具波比上。【此七字以音】如レ此云期乃詔二汝隅自レ右迴苡。我隅自レ左迴苡、約竟以迴時、伊邪那美命、先言二阿那邇夜志愛上袁登古袁。【此十字以音下效此】後伊邪那岐命、言二阿那邇夜志愛上袁登賣袁一各言竟之後、告二其妹一曰二女人先レ言不一レ良。雖レ然、久美度邇【此四字以音】興而、生二子水蛭子。此子隅入二葦焙一而流去。筱生二淡嶋。是亦不レ入二子之例。
其の島に天降坐して、天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき。ここに、其の妹伊邪那美命に問うて曰りたまひけらく、「汝が身は如何に成れる。」とのりたまへば、答へて曰りたまひけらく、「吾が身は成り成りて、成り合はざる処一処あり。」とまをしたまひき。爾、伊邪那岐命、詔りたまひけらく、「我が身は成り成りて成り余れる処一処あり。故、此の吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合はざる処に刺し塞ぎて、国土を生みなさむと為ふは奈何。」とのりたまひき。【生を訓みてウムと云ふ。下これに效ふ。】伊邪那美命、「然善けむ。」と答へたまひき。爾に伊邪那岐命、詔りたまひけらく、「然らば、吾と汝と、この天の御柱を行き廻り逢ひて、みとのまぐはひせむ。」とのりたまひき。【此の七字、音を以ふ。】かく云ひ期りて、「汝は右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ。」と、詔りたまひ、約り意へて廻ります時に、伊邪那美命、先づ「阿那邇夜志愛袁登古袁。」と言りたまひ、【此の十字、音を以ふ。下これに效ふ。】後に伊邪那岐命、「阿那邇夜志愛袁登売袁。」と言りたまひき。各言りたまひ竟へて後に、其の妹に告りて曰りたまひけらく、「女人を言先だちて良からず。」とのりたまひき。然れども、久美度に【此の四字、音を以ふ。】興して、子水蛭子を生みたまひき。此の子をば葦船に入れて流し去てつ。次に淡島を生みたまひき。是も子の例に入らず。
〔見二│立天之御柱〕あめのみはしらをみたて。「見」は「御」の借字。「あめの」は美称。柱をお立てになり。古代、結婚の儀式には、新郎新婦がポールを回りあうことは、世界の各地にあった民俗であったようである。〔八尋殿〕やひろどの。「八」は「弥」。「尋」は「広」の義。両の手を左右にのばした時の、左右両指先間の長さ。「縦も横も、きわめて長い、大きな宮殿」の意。〔成成不二成合一處……成成而成餘處……〕古代人が、生殖がいかにして生ずるかを説明したもので、神話が事物・事象の原因を探究しようとしたものであることを物語る一条。〔刺塞〕さしふたぎ。刺しふさぎ。底本は一つの例外もなく「刺」を「剌」に誤り刻す。また、真本は「判」に誤写している。延本等の「刺」が正しい。〔美斗能揺具波比〕「み」は敬語。「と」は「処」の意で、男女の寝所。「まぐはひ」は「目交合」の約転で、男女が目と目を見合わせて、愛情の意を示すことから、転じて男女の交合。すなわち、寝所において、男女が交合する意。〔阿那邇夜志愛袁登古袁〕「あな」は感動詞、「ああ」。「に」は「玉」。「やし」は「はしけやし」「よしゑやし」などと言う「や・し」で、感動の助詞を二つ重ねた語。「え」は「えし」の下略。「あゝ、玉のような、りっぱな男よ。」の意。下の「阿那邇夜志愛袁登売袁」も、これに準じて知るべきである。〔不レ良〕よからず。よろしくない。底本の訓「ふさはず」は、やゝ意訳にすぎる。いま、延本等の訓に従う。〔久美度邇興〕「くみど」は「こもり処」の約で、「寝所」の意。「おこし」は「おこなひ」と語幹を共有する語で、「行動し」の意。「男女が寝所において交合し」の義。〔水蛭子〕ひるご。ひるのように、足なども立たぬ、よわよわしい子。〔葦焙〕あしぶね。葦の茎で編んで作った古代の小舟。人を葦の船に入れて流し去る民俗は、旧約聖書などに見え、古代世界の各地に見られるものである。〔淡嶋〕あはしま。つまらない、あわあわしい小島の意。淡路島の西北または西南にあった小島という。かく、水蛭子や淡島を生んだのは、女性が男性に先だって、ことばをかけたことによるまちがいから来たのだということを示す。男尊女卑の民俗。 
【 神代の物語 】結婚式のやり直し
於レ是、二柱突議云、今吾館レ生之子不レ良。憑宜レ白二天突之御館一來共參上、樽二天突之命。爾、天突之命以、布斗揺邇爾【上。此五字以音。】卜相而詔之、因二女先一レ言而不レ良。亦裝降改言。故爾、反降、更往二迴其天之御柱如一レ先。於レ是、伊邪那岐命、先言二阿那邇夜志愛袁登賣袁、後妹伊邪那美命、言二阿那邇夜志愛袁登古袁。
ここに、二柱の神議りて云ひたまひけらく、「今吾が生めりし子、良からず。なほ天つ神の御所に白すべし。」とのりたまひて、共に参上りて、天つ神に請ひたまひき。爾に天つ神の命もちて、布斗麻邇に【上。此の五字、音を以ふ。】卜相て詔りたまひけらく、「女を言先だちしに因りて良からず。また還り降りて改め言へ。」と言りたまひき。故爾、反り降りて、更めて其の天の御柱を先の如往き廻りたまひき。ここに、伊邪那岐命、先づ「阿那邇夜志愛袁登売袁。」と言りたまひ、後に妹伊邪那美命、「阿那邇夜志愛袁登古袁。」と言りたまひき。
〔布斗揺邇〕太占。「ふと」は美称。「まに」は「占」に同じ。上古の占ない。鹿の肩の骨を焼き、その裂けめの模様によって、吉凶を判断するもの。〔ト相〕うらへ。うらなえ。下二段の動詞の連用形。〔更〕あらためて。底本の訓「さらに」。意は同じ。 
【 神代の物語 】国土創成
如レ此言竟而、御合、生二子淡蕈之穗之狹別嶋。【訓別云和氣下效此】筱生二伊豫之二名嶋。此嶋隅、身一而有二面四。譌レ面有レ名。故、伊豫國謂二愛上比賣。【此三字以音下效此也】讚岐國謂二礦依比古、粟國謂二大宜綾比賣、【此四字以音】土佐國謂二建依別。筱生二隱伎之三子嶋。亦名天之竄許呂別。【許呂二字以音】筱生二筑紫嶋。此嶋亦身一而有二面四。譌レ面有レ名。故、筑紫國謂二白日別、豐國謂二豐日別、肥國謂二建日向日豐久士比泥別。【自久至泥以音】熊曾國謂二建日別。【曾字以音】筱生二伊伎鳴。亦名謂二天比登綾柱。【自比至綾以音。訓天如天】次生二津嶋。亦名謂二天之狹手依比賣。筱生二佐度嶋。筱生二大倭豐秋津嶋。亦名謂二天御癪空豐秋津根別。故、因二此八嶋先館一レ生、謂二大八嶋國。然後裝坐之時、生二吉備兒嶋。亦名謂二建日方別。筱生二小豆嶋。亦名謂二大野手上比賣。筱生二大嶋。亦名謂二大多揺上流別。【自多至流以音】筱生二女嶋。亦名謂二天一根。【訓天如天】筱生二知訶嶋。亦名謂二天之竄男。筱生二兩兒嶋。亦名謂二天兩屋。【自二吉備兒嶋一至二天兩屋嶋、忸六嶋。】
かく言りたまひ竟へて、御合ひまして、子淡道之穂之狭別島を生みたまふ。【別を訓みてワケと云ふ。下これに效ふ。】次に伊予の二名の島を生みたまふ。 この島は、身一つにして、面四つあり。面ごとに名あり。かれ、伊予国を愛比売と謂ひ、【この三字、音を以ふ。下これに效ふなり。】讃岐国を飯依比古と謂ひ、粟国を大宜都比売と謂ひ、【この四字、音を以ふ。】土左国を建依別と謂ふ。次に隠伎の三子の島を生みたまふ。亦の名は天之忍許呂別。【許呂の二字、音を以ふ。】次に筑紫の島を生みたまふ。此の島も身一つにして、面四つあり。面ごとに名あり。かれ、筑紫国を白日別と謂ひ、豊国を豊日別と謂ひ、肥国を建日向日豊久士比泥別と謂ひ、【久より泥に至る、音を以ふ。】熊曽国を建日別と謂ふ。【曽の字、音を用ふ。】次に伊伎島を生みたまふ。亦の名を天比登都柱と謂ふ。【比より都に至る、音を以ふ。天を訓む天の如し。】次に津島を生みたまふ。亦の名を天之狭手依比売と謂ふ。次に佐度島を生みたまふ。次に大倭豊秋津島を生みたまふ。亦の名を天御虚空豊秋津根別と謂ふ。かれ、此の八島を先づ生みませるに因りて、大八島国と謂ふ。然て後、還り坐しし時に、吉備児島を生みたまふ。亦の名を建日方別と謂ふ。次に、小豆島を生みたまふ。亦の名を大野手比売と謂ふ。次に大島を生みたまふ。亦の名を大多麻流別と謂ふ。【多より流に至る、音を以ふ。】次に女島を生みたまふ。亦の名を天一根と謂ふ。【天を訓む、天の如し。】次に知訶島を生みたまふ。亦の名を天之忍男と謂ふ。次に両児島を生みたまふ。亦の名を天両屋と謂ふ。【吉備児島より天両屋島まで、忸せて六島。】  
〔御合〕みあひまして。「婚して」の意。交合して。〔淡蕈之穗之狹別嶋〕あはぢのほのさわけのしま。「淡道」は今の淡路。兵庫県に属する。記伝は「阿波国へ渡る海道にある島の由なり。」と言う。「穂之狭」は、記伝は「稲穂の先づ出でそめたるによそへて、穂之早の意か。早は、早蕨・早穂などの早なり。」と言う。「粟」に関係のある名。「別」は、後に国造・稲置などの地方官の名となり、皇子などが多くこれに当てられたが、ここは、その語原の「吾君兄」の約「わけ」であろう。〔伊豫之二名嶋〕いよのふたなのしま。この「伊予」は、四国全体の称。「二名」とは、伊予と讃岐とを対偶として一つの名、阿波と土佐ととを対偶として一つの名としたもの。記伝の「二並」説には従われぬ。「並び」を「な」ということはあり得ない。「面ごとに名あり」の「名」である。〔伊豫國〕いよのくに。今の愛媛県全域。〔愛比賣〕「美しい女性」の意の神格。記伝の「兄比売」説には従いかねる。「愛袁登古」「愛袁不売」の「え」であろう。〔讚岐國〕さぬきのくに。記伝・底本の訓「さぬぎのくに」は非。「岐」は清濁両用の仮名。ここは清。天智紀六年一月にも、持統紀三年七月にも「讃吉」とある。「吉」は「キ」の清音のみの仮名。宣長のころの国学者たちは、何でも濁るのが古語だと考えていたようである。今の香川県全域。〔礦依比古〕いひよりひこ。「飯憑彦」の意の神格。「穂之狭別」「大宜都比売」などとひとしく、食物に因む名。〔粟国〕あはのくに。五穀中の粟に関係のある名。今の徳島県全域。〔大宜綾比賣〕おほげつひめ。「大食つ姫」の意。食物の女神。なお、底本は「宜」を「宣」に誤っている。〔土左國〕とさのくに。今、土佐に作る。高知県全域。〔建依別〕たけよりわけ。「武憑別」の意の神格。「建」を「たけ」と読むことはできない。「健」の偏を略したもの。「健・武」すなわち「たけし」の下略。以下、みな同じ。〔隱伎之三千嶋〕おきのみつごのしま。今の島根県隠岐島。日本海の沖に、主な島が三つ並んでいるのでいう。
【 神代の物語 】諸神誕生
蝉生レ國竟、更生レ突。故、生突名、大事竄男突。筱生二石土豐古突。【訓石云伊波、亦豐古二字以音、下效此。】筱生二石厥比賣突。筱生二大竿日別突。筱生二天之吹上男突。筱生二大屋豐古突。筱生二風木津別之竄男突。【訓風云加邪訓木以音】筱生二恭突、名大綿津見突。筱生二水竿突、名芫秋津日子突。筱妹芫秋津比賣突。【自二大事竄男突一至二秋津比賣突、忸十突。】此芫秋津日子・芫秋津比賣二突、因二河恭一持別而生突名、沫那藝突。【那藝二字以音。下效此。】筱沫那美突。【那美二字以音。下效此。】筱樞那藝突。筱樞那美突。筱天之水分突。【訓分云久揺理。下效此。】筱國之水分突。筱天之久比奢母智突。【自久以下五字以音。下效此。】筱國之久比奢母智突。【自二沫那藝突一至二國之久比奢母智突、忸八突。】筱生二風突名志那綾比古突。【此突名以音】筱生二木突。名久久能智突。【此突名亦以音】筱生二山突。名大山上津見突。筱生二野突。名鹿屋野比賣突。亦名謂二野椎突。【自二志那綾比古突一至二野椎、忸四突。】此大山津見突・野椎突二突、因二山野一持別而生突、名天之狹土突。【訓土云豆知。下效此。】筱國之狹土突。筱天之狹霧突。筱國之狹霧突。筱天之闇竿突。筱國之闇竿突。筱大竿惑子突。【訓惑云揺刀比。下效此。】筱大竿惑女突。【自二天之狹土突一至二大竿惑女突、忸八突。】筱生突、名鳥之石楠船突。亦名謂二天鳥船。筱生二大宜綾比賣突。【此突名以音】筱生二火之夜藝芫男突。【夜藝二字以音】亦名謂二火之砥豐古突。亦名謂二火之聟具土突。【聟具二字以音】因レ生二此子、美蕃登【此三字以音】見レ炙而病臥在。多具理邇【此四字以音】生突名金山豐古突。【訓金云聟那。下效此。】筱金山豐賣突。筱於レ屎成突名、波邇夜須豐古突。【此突名以音】筱波邇夜須豐賣突。【此突名亦以音】筱於レ尿成突名、彌綾波能賣突。筱和久籥厥日突。此突之子謂二豐宇氣豐賣突。【自字以下四字以音】故、伊邪那美突隅、因レ生二火突、蒹突袢坐也。【自二天鳥船一至二豐宇氣豐賣突、忸八突。】  凡伊邪那岐・伊邪那美二突、共館レ生、嶋壹拾肆嶋、突參拾伍突。【是伊邪那美突未二突袢一以前館レ生。唯意能碁呂嶋隅、非レ館レ生。亦蛭子與二淡嶋一不レ入二子之例。】
既に国を生み竟へて、更に神を生みます。故、生みませる神の名は、大事忍男神。次に石土豐古神を生みまし、【石を訓みてイハと云ふ。また、豐古の二字、音を以ふ。下これに效ふ。】次に石巣比売神を生みまし、次に大戸日別神を生みまし、次に天之吹男神を生みまし、次に大屋豐古神を生みまし、次に風木津別之忍男神を生みまし、【風を訓みてカザと云ふ。木を訓むに音を以ふ。】次に海の神、名は大綿津見神を生みまし、次に水戸の神、名は速秋津日子神、次に妹速秋津比売神を生みましき。【大事忍男神より秋津比売神まで忸せて十神。】此の速秋津日子・速秋津比売二神、河海に因りて持ち別けて生みませる神の名は、沫那芸神、【那芸の二字、音を以ふ。下これに效ふ。】次に沫那美神。【那美の二字、また音を以ふ。下これに效ふ。】次に樞那芸神。次に頬那美神。次に天之水分神。【分を訓みてクマリと云ふ。下これに效ふ。】次に国之水分神。。次に天之久比奢母智神。【久より以下五字、音を以ふ。下字に效ふ。】次に国之久比著母智神。【沫那芸神より国之久比奢母智神まで、忸せて八神。】次に風の神、名は志那都比古神を生みまし、【この神の名、音を以ふ。】次に木の神、名は久久能智神を生みまし、【この神の名も音を以ふ。】次に山の神、名は大山津見神を生みまし、次に野の神、名は鹿屋野比売神を生みます。亦の名を野椎神と謂す。【志那都比古神より野椎まで、忸せて四神。】此の大山津見神・野椎神二神、山野に因りて持ち別けて生みませる神の名は、天之狭土神。【土を訓みてツチと云ふ。下これに效ふ。】次に国之狭土神。次に天之狭霧神。次に国之狭霧神。次に天之闇戸神。次に国之闇戸神。次に大戸惑子神。【惑を訓みてマドヒと云ふ。下字に效ふ。】次に大戸惑女神。【天之狭土神より大戸惑女神まで、忸せて八神。】次に生みませる神の名は、鳥之石楠船神。亦の名を天鳥船と謂す。次に大宜都比売神を生みまし、【この神の名、音を以ふ。】次に火之夜芸速男神を生みます。【夜芸の二字、音を以ふ。】亦の名を火之砥豐古神と謂し、亦の名を火之聟具土神と謂す。【聟具の二字、音を以ふ。】此の子を生みますに因りて、美蕃登【この三字、音を以ふ。】炙かえて病み臥せり。多具理に生りませる神の名は、金山豐古神。【金を訓みてカナと云ふ。下これに效ふ。】次に金山豐売神。次に屎に成りませる神の名は、波邇夜須豐古神。【この神の名、音を以ふ。】次に波邇夜須豐売神。【この神の名も音を以ふ。】次に尿に成りませる神の名は、彌都波能売神。次に和久産巣日神。此の神の子を豊宇気豐売神と謂す。【宇より以下の四字、音を以ふ。】故、伊邪那美神は、火の神を生みませるに因りて、遂に神避りましぬ。【天鳥船より豊宇気豐売神まで、忸せて八神。】  すべて伊邪那岐・伊邪那美二神の共に生みませるは、島壱拾肆島、神参拾伍神。【こは伊邪那美神の未だ神避りまさざりし以前に生みませるなり。ただ、意能碁呂島は、生みませるにあらず。また、蛭子と淡島とは、子の例に入らず。】
〔大事竄男突〕おほことおしをのかみ。二神が国土創成の大事をなし終えたことによる神名であろう。「忍」は「おふし」の略。〔石土豐古突〕いはつちひこのかみ、記伝・底本の訓「いはつちびこのかみ」は非。「豐」は記伝等「毘」に作る。同字であるが、真本・延本等の「豐」に従う。書紀も「豐」に作る。この文字、集韻等に「頻脂切」とあり、漢音「ヒ」である。「豐古」は「日子」「彦」にあてた字音仮名であり、「ヒコ」と訓ずる。延本等の訓が正しい。記伝の最も大きな誤りの一。以下みな同じ。「いはつち」は「石之霊」の意で、岩石を神格化したもの。〔石厥比賣突〕いはすひめのかみ。記伝の訓「いはずひめ」、底本の訓「いはすびめ」ともに非。「比」は広韻に「卑履切」、集韻に「補履切」とあり、「豐」と同音「ヒ」であり、「比売」は「日女」「姫」に当てた字音仮名であり、「ビメ」と読むは非。「石巣」の「巣」は「すな」の下略。やはり、岩石・土砂を神格化したもの。〔大竿日別突〕おほとひわけのかみ。底本の訓「おほとびわけのかみ」は非。記伝は「産巣日」などと、濁る癖がある。家屋の「戸」「扉」などに関係のある神であろう。〔天之吹男突〕あめのふきをのかみ。「あめの」は美称。「ふき」は、屋根を葺く意の神名であろう。〔大屋豐古突〕おほやひこのかみ。「おほ」は美称。「や」は家。上の二神と共に家屋に関する神。〔風木津別之竄男突〕かざもつわけのおしをのかみ。底本の訓「かざげつわけのおしをのかみ」は非。訓注に「訓レ木以レ音」とある。「木」は呉音「モク」、「モ」の仮名。「もつわけ」の意は不明であるが、上の三神につづけて、風を他方へ分ちやり、これを家屋の中に吹き込ませない意の神名であろう。「おしを」の意は上に同じ。〔恭突〕わたのかみ。「わた」は「海」または「湖」の古語。「わたのはら」「おほわた」など。「わだ」は訛。この名詞に活用語尾「る」を付けて「わたる」と言う。「見る」(目る)、「取る」(手る)、「走る」(足る)などの類。〔大綿津見突〕おほわたつみのかみ。「おほ」は美称。「綿」は「海」の借字。「津見」は「陶」の字訓仮名。 
 

 

【 神代の物語 】伊邪那美命崩御
故爾、伊邪那岐命詔之、愛我那邇妹命乎、【那邇二字以音。下效之。】謂下易二子之一木一一乎上乃、匍二│匐御枕方、匍二匐御足方一而哭時、於二御撃一館レ生突、坐二香山之畝尾木本、名泣澤女突。故、其館二突袢一之伊邪那美突隅、葬下出雲國與二伯伎國一堺比婆之山上也。於レ是、伊邪那岐命、拔下館二御佩一之十拳劔上、斬二其子聟具土突之頸。爾、著二其御刀電一之血、走二│就湯津石村、館レ生突名、石拆突。筱根拆突。筱石筒之男突。【三突】次著二御刀本一血亦、走二│就湯津石村、館レ生突名、甕芫日突。筱沱芫日突。筱建御雷之男突。亦名建布綾突。【布綾二字、以音。下效之。】亦名豐布綾突。【三突】筱集二御刀之手上一血、自二手俣一漏出館レ成突名、【訓漏云久伎】闇淤加美突。【淤以下三字以音。下效此。】筱闇御津監突。  上件自二石拆突一以下、闇御津監突以電、忸八突隅、因二御刀一館レ生之突隅也。
故爾、伊邪那岐命詔りたまひけらく、「愛しき我が那邇妹命や、【那邇の二字、音を以ふ。下これに效ふ。】子の一つ木に易へつるかも。」とのりたまひて、御枕方に匍匐ひ、御足方に匍匐ひて哭きたまふ時に、御涙に生りませる神は、香山の畝尾の木の本に坐す、名は泣沢女神。故、其の神避りましし伊邪那美神は、出雲国と伯伎国との堺の比婆之山に葬りまつりき。ここに、伊邪那岐命、御佩かせる十拳の剣を抜きて、其の子迦具土神の頸を斬りたまへば、其の御刀の前に着ける血、湯津石村に走り就きて成りませる神の名は、石柝神。次に根柝神。次に石筒之男神。【三神】次に御刀の本に着ける血も、湯津石村に走り就きて成りませる神の名は、甕速日神。次に樋速日神。次に建御雷之男神。亦の名は建布都神。【布都の二字、音を以ふ。下これに效ふ。】亦の名は豊布都神。【三神】次に御刀の手上に集まれる血、手俣より漏き出でて成りませる神の名は、【漏を訓みてクキと云ふ。】闇淤加美神。【淤の下の三字、音を以ふ。下これに效ふ。】次に闇御津羽神。  上の件の石柝神より以下、闇御津羽神まで、忸せて八神は、御刀に因りて生りませる神なり。
〔那邇妹命〕なにものみこと。「汝の妹のみことの約転。妹なる汝のみこと。ここでは、夫から、妻を呼ぶ語。〔子之一木〕このひとつけ。「一片の木のはしくれ」と、子をおとしめた語。「木」は「き」「け」「こ」と母音が変化する。〔香山〕かぐやま。大和三山の一。「香」のシナ語音は"ka "であるが、国語は開音節であるから、pを「グ」と訓じたもの。「香具山」とも書くのは、「具」を捨て仮名としたもの。上代人がpの音を聞き分けたことを物語る。〔畝尾〕うねを。うねりくねっている丘。山裾。〔泣澤女突〕なきさはめのかみ。「さはめ」を、記伝は「さはめさはめなるべし」と言う。さめざめと泣く涙によって生じた女神。〔伯伎國〕ははきのくに。のちの伯耆国。いま、鳥取県に属する。 
【 神代の物語 】聟具土を斬った時に生じた神
館レ殺聟具土突之於レ頭館レ成突名、正鹿山上津見突。筱於レ胸館レ成突名、淤縢山津見突。【淤縢二字以音】筱於レ腹館レ成突名、奧山上津見突。筱於レ陰館レ成突名、闇山津見突。筱於二左手一館レ成突名、志藝山津見突。【志藝二字以音】筱於二右手一館レ成突名、監山津見突。筱於二左足一館レ成突名、原山津見突。筱於二右足一館レ成突名、竿山津見突。【自二正鹿山津見突一至二竿山津見突、忸八突。】故、館レ斬之刀名、謂二天之尾監張。亦名謂二伊綾之尾監張。【伊綾二字以音】
殺さえましし聟具土神の頭に成りませる神の名は、正鹿山津見神。次に胸に成りませる神の名は、淤縢山津見神。【淤縢の二字、音を以ふ。】次に腹に成りませる神の名は、奥山津見神。次に陰に成りませる神の名は、闇山津見神。次に左の手に成りませる神の名は、志芸山津見神。【志芸の二字、音を以ふ。】次に右の手に成りませる神の名は、羽山津見神。次に左の足に成りませる神の名は、原山津見神。次に右の足に成りませる神の名は、戸山津見神。【正鹿山津見神より戸山津見神まで、忸せて八神。】故、斬りたまへる刀の名を、天之尾羽張と謂ふ。亦の名を、伊都之尾羽張と謂ふ。【伊都の二字、音を以ふ。】
〔正鹿山津見突〕まさかやまつみのかみ。「正鹿」は借字。「真坂」の義。「つみ」は上述のとおり、坂や山の神。記伝の「俗にまさかの時などいふ、それより転れるなり。」では、説明にならぬ。〔淤縢山津見突〕おどやまつみのかみ。「おど」は「降り処」の略。山を降りる処の神。〔奥山津見突〕おくやまつみのかみ。奥山の神。〔闇山津見突〕くらやまつみのかみ。「くら」は、暗い谷間。山の谷間の神。〔志藝山津見突〕しぎやまつみのかみ。記伝の「繁木山」説に従う。木の茂った山の神。〔監山津見突〕はやまつみのかみ。端山の神。〔原山津見突〕はらやまつみのかみ、「原」は「腹」の借字であろう。山の中腹の神。〔竿山津見突〕「戸」は「外」の借字。「外山」は、ふもとの山。「奥山」の対。そこの神。以上は、すべて山に関係のある神。〔天之尾監張〕あめのをはばり。「あめの」は美称。「を」は刀の先。「は」は刃。先の張った刀。〔伊綾之尾監張〕いつのをはばり。「いつの」は尊厳の意。「をはばり」は前項に同じ。 
【 神代の物語 】黄泉国行
於レ是、欲レ相二│見其妹伊邪那美命、追二│往乱泉國。爾、自二殿騰竿一出向之時、伊邪那岐命語詔之、愛我那邇妹命、吾與レ汝館レ作之國、未二作竟一故、可レ裝。爾、伊邪那美命答白、臈哉、不二芫來、吾隅爲二乱泉竿喫。然、愛我那勢命【那勢二字以音。下效之。】入來之事恐故、欲レ裝、且與二乱泉突一相論。莫レ斎レ我。如レ此白而裝二入其殿触一之間、甚久難レ待。故、刺二左之御美豆良一【三字以音。下效之。】湯津津間櫛之男柱一箇取闕而、燭二一火一入見之時、宇士多加禮斗呂呂岐弖【此十字以音】於レ頭隅大雷居、於レ胸火雷居、於レ腹隅僂雷居、於レ陰隅柝雷居、於二左手一隅若雷居、於二右手一隅土雷居、於二左足一隅鳴雷居、於二右足一隅伏雷居、忸八雷突成居。
ここに、その妹伊邪那美命を相見まく欲して、黄泉国に追ひ往でましき。爾ち、殿の騰戸より出で向へます時に、伊邪那岐命、語らひ詔りたまひけらく、「愛しき我が那邇妹命、吾と汝と作れる国、いまだ作り竟へざれは還りませ。」と、のりたまひき。爾に、伊邪那美命、答へ白したまひけらく、「悔しきかも、速く来まさずて、吾は黄泉戸喫しつ。然れども、愛しき我が那勢命の【那勢の二字、音を以ふ。下これに效ふ。】入り来ませること恐ければ、還りなむを、且く黄泉神と相論はなむ。我をな視たまひそ。」かく白して、其の殿内に還り入りませる間に、甚く待ちかねたまひき。故、左の御美豆良に刺させる【三字、音を以ふ。下これに效ふ。】湯津津間櫛の男柱一箇取り闕きて、一つ火燭して入り見ます時に、宇士多加礼斗呂呂岐弖、【この十字、音を以ふ。】頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には柝雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、忸せて八の雷神成り居りき。
〔乱泉國〕よもつくに。よみのくに。死者の魂の行く国。「黄泉」は、シナの用字。冥界。冥土。〔殿騰竿〕とののあげど。唯「とのど」と読むは非。宮殿の揚げ戸。「あげど」は上へ押しあげて明ける戸。〔乱泉竿喫〕よもつへぐひ。「へ」は、へっつい。冥土のへっついで煮焼きしたものを食ったこと。すでに冥土の人となったこと。死人の仲間入りをしたこと。不吉である。〔那勢命〕なせのみこと。汝兄の命。夫の君〔且〕しばらく。少しの間。延本・底本等「且具」または「旦具」などの二字に作る。いま、真本等の「且」一字に従う。〔殿内〕とぬち。「とののうち」の約。「国内」を「くぬち」という類。「とのぬち」の訓は非。〔御美豆良〕みみづら。「角髪」の敬語。上代の男子の髪の結い方。頂の髪を中央から左右に分け、耳のあたりでわがねて緒で結び、耳の前に垂れたもの。〔湯津津間櫛〕ゆつつまぐし。「ゆつ」は、「五百箇」の約。多い義。「つま」は爪、すなわち歯。歯の多い櫛。他の解は非。〔男柱〕をばしら。櫛の両端にある大きな歯。「を」は「ひめ」「ひな」などに対して「大」の意。〔宇士〕うじ。虫。〔多加禮斗呂呂岐〕「たかれ」は「たかる」下二段の連用。「とろろき」は「盪く」の連用。どろどろにとけ。うじがたかって、どろどろにとけ。真本等は「許呂呂岐」に、延本は「斗斗呂岐」に作るが、底本等に従う。真本はよく「斗」を「許」「計」などに誤写する。また、「岐」は、ここでは「キ」。「とろろぎ」は非。「とろろく」は「とろく」に同じ。〔大雷〕おほいかづち。大きな雷。「いかづち」は「厳之霊」の意。かみ。かみなり。らい。以下、七種の雷の名の義、略す。 
【 神代の物語 】黄泉国退去
於レ是、伊邪那岐命、見畏而膩裝之時、其妹伊邪那美命、言レ令レ見レ辱レ吾來、虔二豫母綾志許賣【此六字以音】令レ膊。爾、伊邪那岐命、取二僂御鬘投棄乃、生二蒲子。是昭食之間膩行、憑膊、亦刺二其御美豆良一之湯津津間櫛引闕而投棄乃、生レ笋。是拔食之間膩行。且後隅、於二其八雷突副二千五百之乱泉軍令レ膊。爾、拔下館二御佩一之十拳劔上而、於二後手布伎綾綾【此四字以音】膩來、憑膊到二乱泉比良【此二字以音】坂之坂本時、取下在二其坂本桃子三箇上、待整隅、悉膩羮也。爾、伊邪那岐命、告二桃子、汝如レ助レ吾、於二葦原中國一館レ有宇綾志伎【此四字以音】呟人草之落二苦瀬一而患跋時、可レ助告、賜レ名赦二意富加牟豆美命。【自意至美以音】最後其妹伊邪那美命、身自膊來焉。爾、千引石引二│塞其乱泉比良坂、其石置レ中、各對立而、度二事竿一之時、伊邪那美命言、愛我那勢命、爲レ如レ此隅、汝國之人草、一日絞二│殺千頭。爾、伊邪那岐命詔、愛我那邇妹命、汝爲レ然隅、吾一日立二千五百籥屋。是以、一日必千人死、一日必千五百人生也。故、赦二其伊邪那美命、謂二乱泉津大突。亦云下以二其膊斯伎斯一【此三字以音】而赦中蕈敷大突。亦館レ塞二其乱泉坂一之石隅、赦二蕈反大突、亦謂二塞坐乱泉竿大突。故、其館レ謂乱泉比良坂隅、今謂二出雲國之伊賦夜坂一也。
ここに、伊邪那岐命、見畏みて逃げ還ります時に、其の妹伊邪那美命、「吾に辱見せたまひつ。」と言して、予母都志許売【この六字、音を以ふ。】を遣はして追はしめき。爾、伊邪那岐命、黒御鬘を取りて投げ棄てたまひしかば、蒲の子生りき。是を昭ひ食む間に逃げ行でますを、猶追ひしかば、亦其の御美豆良に刺させる湯津津間櫛を引き闕きて投げ棄てたまひしかば、笋生りき。是を抜き食む間に逃げ行でましき。且後には、其の八の雷神に千五百の黄泉軍を副へて追はしめき、爾、御佩かせる十拳の剣を抜きて、後手に布伎都都【この四字、音を以ふ。】逃げ来ませるを、猶追ひて黄泉比良【この二字、音を以ふ。】坂の坂本に到れる時に、其の坂本に在りし桃の子三箇を取りて待ち撃ちたまひしかば、悉に逃げ返りき。爾に、伊耶那岐命、桃の子に告りたまひしく、「汝吾を助けしが如、葦原の中国にあらゆる宇都志伎【この四字、音を以ふ。】青人草の苦しき瀬に落ちて患ひ跋む時に、助けよ。」と告りたまひて、名を賜ひて意富加牟豆美命【意より美に至る、音を以ふ。】と号ひき。最後に、其の妹伊邪那美命、身自ら追ひ来ましき。爾、千引石を其の黄泉比良坂に引き塞へて、其の石を中に置き、各対き立たして、事戸を度す時に、伊邪那美命、言したまひけらく、「愛しき我が那勢の命、かく為たまはば、汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ。」と、まをしたまひき。爾、伊邪那岐命、詔りたまひけらく、「愛しき我が那邇妹の命、汝然か為たまはば、吾は一日に千五百産屋を立てむ。」と、のりたまひき。ここをもて、一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まるるなり。故、其の伊邪那美命を号けて黄泉津大神と謂す。亦其の追ひ斯伎斯【この三字、音を以ふ。】に以りて、道敷大神とも号くと云へり。亦其の黄泉の坂に塞れる石は、道返大神と号け、亦塞り坐す黄泉戸大神とも謂す。故、其のいはゆる黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂ふ。
〔見畏〕みかしこみ。見て恐れて。〔豫母綾志許賣〕黄泉の国の醜女。「しこめ」は、顔のきたない、みにくい鬼女。〔僂御鬘〕くろみかづら。「くろいかづら」の敬称。上代のかずらは、髪を結び、または髪の飾りとした蔓草。真本等は「縵」に誤る。古写本の通弊であり、全く誤字である。延本・底本等の「鬘」が正しい。〔棄〕うつ。「捨つ」の古語。下二段。〔蒲子〕えびかづらのみ。山ぶどうの果実。「えびかづら」は、ぶどうの蔓が、えびのひげに似ていることから称。〔昭〕ひりふ。「拾う」の古語。四段活用。〔笋〕たかむな。たけのこ。記伝は「竹芽菜」の義と説くが、異説もあって従われぬ。その形が「蜷」に似ていることから、「竹蜷」の転であろうと説く者もある。必ずしも首肯されない説ではあるが、音韻転化からいえば、「たかみな」「たかむな」「たかんな」となることは、「神」が「かみ」「かむ」「かん」となることなどから見て、思いつきに過ぎぬとはいえ、かなり面白い説といえるであろう。いずれにせよ、「竹芽菜」説は、こじつけにすぎぬ。〔後手布伎綾綾〕しりへでにふきつつ。後ろ手に振りつつ。「ふく」は「振る」の古語。剣を後ろ手に振ることは、悪魔退散の、一種のまじないであろうか。〔乱泉比良坂〕よもつひらさか。「坂」は「境」の借字であろう。黄泉と現世との平らな境界。「平らな坂」との説があるが、「平らな坂」などのあろうはずはない。〔桃子〕もものみ。桃の実が悪鬼や悪病を退散するとの考えは、シナの伝説に多く見られ、桃太郎の鬼退治なども、これに基づくとの説もあるほどである。「杏仁」なども、漢方の良薬とされている。 
【 神代の物語 】禊祓による神々の生成
是以、伊邪那岐大突詔、吾隅到二於伊那志許米上志許米岐【此九字以音】穢國一而在豆理。【此二字以音】故、吾隅爲二御身之禊一而、到二│坐竺紫日向之橘小門之阿波岐【此三字以音】原一而禊祓也。故、於二投棄御杖一館レ成突名、衝立焙竿突。筱於二投棄御帶一館レ成突名、蕈長旺齒突。筱於二投棄御裳一館レ成突名、時置師突。筱於二投棄御衣一館レ成突名、和豆良比能宇斯能突。【此突名以音】次於二投棄御褌一館レ成突名、蕈俣突。筱於二投棄御冠一館レ成突名、齋咋之宇斯能突。【自字以下三字以音】筱於二投棄左御手之手纏一館レ成突名、奧疎突。【訓奧云淤伎。下效此。訓疎云奢加留。下效此。】筱奧津那藝佐豐古突。【自那以下五字以音。下效此。】筱奧津甲斐辨羅突。【自甲以下四字以音。下效此。】筱於二投棄右御手之手纏一館レ成突名、邊疎突。筱邊津那藝佐豐古突。筱邊津甲斐辨羅突。  右件自二焙竿突一以下、邊津甲斐辨羅突以電、十二突隅、因レ招二著レ身之物一館レ生突也。
ここを以て、伊邪那岐大神、詔りたまひけらく、「吾は伊那志許米上志許米岐【この九字、音を以ふ。】穢き国に到りてありけり。【この二字、音を以ふ。】故、吾は御身の禊せむ。」とのりたまひて、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐【この三字、音を以ふ。】原に到り坐して禊ぎ祓へたまひき。故、投げ棄てる御杖に成りませる神の名は、衝立船戸神。次に投げ棄てる御帯に成りませる神の名は、道之長乳歯神。次に投げ棄てる御裳に成りませる神の名は、時置師神。次に投げ棄てる御衣に成りませる神の名は、和豆良比能宇斯能神。【この神の名、音を以ふ。】次に投げ棄てる御褌に成りませる神の名は、飽咋之宇斯神。【宇より以下の二字、音を以ふ。】次に投げ棄てる左の御手の手纏に成りませる神の名は、奥疎神。【奥を訓みてオキと云ふ、下これに效ふ。疎を訓みてザカルと云ふ。下これに效ふ。】次に奥津那芸佐豐古神。【那より以下の五字、音を以ふ。下これに效ふ。】次に奥津甲斐弁羅神。【甲より以下の四字、音を以ふ。下これに效ふ。】次に投げ棄てる右の御手の手纏に成りませる神の御名は、辺疎神。次に辺津那芸佐豐古神。次に辺津甲斐弁羅神。  右の件、船戸神より以下、辺津甲斐弁羅神まで、十二の神は、身に着けたまへる物を脱ぎうてたまへるに因りて生りませる神なり。
〔伊那志許米志許米岐穢國〕いなしこめしこめききたなきくに。「いな」は意に反するときに叫ぶ感動詞。「しこめ」ほ形容詞「しこめし」の語幹。「いやな、みにくい」。「しこめき」は「しこめし」の連体。いや、どうも、いやな、みにくい、きたない国。〔竺紫日向〕つくしのひむか。「つくし」は今の九州。「ひむか」日向国、今の宮崎県。〔橘小門之阿波岐原〕たちばなのをどのあはきはら。「橘」は蜜柑。「小門」は小さな港。「阿波岐」は「檍」で、橿の古名。記伝が「岐を濁るべし。清はわろし。」と言うは非。「岐」は清濁両用の仮名。ここは清。全体で一つの地名である。恐らく、今の宮崎市と青島との間にある小港であろう。この小港は、古代、南方海洋との交通の門戸であり、南方の暖地から渡来したという橘は、まずこの港にもたらされたのであろう。それが「橘の小門」である。この小港には、書紀によれば、南方海洋に棲息する鰐が棲息していたと伝えられ、鰐をトーテムとしたと信じられる種族の女たる豊玉姫は、この地の浜に上陸して、鰐の形となり、匍匐委蛇いつつ、御子を生まれたとある。その地を「鵜戸」というのは、「小門」の転訛であろう。 さらに、彦火火出見尊は、この小門に棲息していた鰐の背に乗って海宮へ渡ったと伝えられている。また、この小門の向こうの青島には、今も欝蒼として南方植物が繁茂しているが、この林の中には、彦火火出見尊・豊玉姫・塩土翁の三神が合祀されている。凡そ、これらの理由をもって、橘小門は、宮崎市と青島との間にある小港と推定する。「檍原」も、宮崎市の海浜に檍が生じていたからであろう。必ずしも宮崎県宮崎郡住吉村塩路字青木の一地点に限る必要はないであろう。〔投棄〕なげうてる。「なげうつる」より、過去に読む方が可。〔衝立船竿突〕つきたつふなとのかみ。「つきたつ」は杖をつき立つ。「ふなとのかみ」は、紀に「岐神」とあり、本の名は「来名戸之祖神」とある。「船戸」は借字で、「経な処」の義。「ふなど」の訓は非。杖をつき立てて、「この処に経来るな」「この大道に入り来るな」の意。紀の「祖」は「おほち」すなわち「大道」に当てた借字。記伝は、自説を固執して、いろいろに強弁しているが、恐らく非。 
【 神代の物語 】諸神と三貴子との生成
於レ是、詔之、上腿隅腿芫、下腿隅腿洒而、初於二中腿一墮聟豆伎而滌時、館二成坐一突名、八十婆津日突。【訓婆云摩賀。下效此。】筱大婆津日突。此二突隅、館レ到二其穢繁國一之時、因二汚垢一而館レ成之突隅也。筱爲レ直二其婆一而館レ成突名、突直豐突。【豐字以音。下效此。】筱大直豐突。筱伊豆能賣突。【忸三突也。伊以下四字以音。】筱於二水底一滌時館レ成突名、底津綿上津見突。筱底筒之男命。於レ中滌時、館レ成突名、中津綿上津見突。筱中筒之男命。於二水上一滌時、館レ成突名、上津綿上津見突。【訓上云字閉】筱上筒之男命。此三柱綿津見突隅、阿曇苣等之督突以伊綾久突也。【伊以下三字以音。下效此】故、阿曇苣等隅、其綿津見突之子宇綾志日金拆命之子孫也。【宇綾志三字以音】其底箇之男命・中筒之男命・上筒之男命三柱突隅、豈江之三電大突也。於レ是、洗二左御目一時、館レ成突名、天照大御突。筱洗二右御目一時、館レ成突名、月讀命。筱洗二御鼻一時、館レ成突名、建芫須佐之男命。【須佐二字以音】  右件八十婆津日突以下芫須佐之男命以電十四柱突隅、因レ滌二御身一館レ生隅也。
ここに、詔りたまひけらく、「上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は瀬弱し。」と、のりたまひて、初めに中つ瀬に堕り迦豆伎て滌ぎたまふ時に、成り坐せる神の名は、八十禍津日神。【禍を訓みてマガと云ふ。下これに效ふ。】次に大禍津日神。此の二の神は、其の穢繁き国に到りましし時の汚垢に因りて成りませる神者なり。次に其の禍を直さむとして成りませる神の名は、神直豐神。【豐の字、音を以ふ。下これに效ふ。】次に大直豐神。次に伊豆能売神。【忸せて三神なり。伊以下の四字、音を以ふ。】次に水底に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、底津綿上津見神。次に底筒之男命。中に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、中津綿上津見神。次に中筒之男命。水の上に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、上津綿上津見神。【上を訓みてウヘと云ふ。】次に上筒之男命。此の三柱の綿津見神は、阿曇連が祖神と以伊都久神なり。【伊以下の三字、音を以ふ。下これに效ふ。】故、阿曇連らは、其の綿津見神の子字都志日金柝命の子孫なり。【宇都志の三字、音を以ふ。】其の底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命三柱の神は、墨江の三前の大神なり。ここに、左の御目を洗ひたまひし時に、成りませる神の名は、天照大御神。次に右の御目を洗ひたまひし時に、成りませる神の名は、月読命。次に御鼻を洗ひたまひし時に、成りませる神の名は、建速須佐之男命。【須佐の二字、音を以ふ。】  右の件八十禍津日神より速須佐之男命まで、十四柱の神は、御身を滌ぎたまふによりて生れませる者なり。
〔腿芫〕せはやし。記伝は「せばやし」と読むべしというが、筆者は濁らぬ方がよいと信ずる。〔墮聟豆伎而〕おりかづきて。降り潜って。「堕」の字、底本・延本等「随」に作る。いま、真本等の「堕」に従う。記伝は「随」も「堕」も「降」の誤りであろうというが、「堕」が正しいと思う。「堕」は「おりる」意の文字である。〔婆津日突〕まがつびのかみ。禍害または禍難を与える神。「まがつび」は「なほび」の対。底本の訓「まがつひ」は非。「なほび」参照。〔穢繁國〕しけしきくに。汚れた、きたない国。「きたなきしきぐに」「けがらはしきくに」などの訓は採らぬ。中巻、神武天皇の段の歌謡に「志豆志岐」(きたない、むさくるしい意)の語がある。その「しけしき」を「穢繁」の二字で表記したものと見る。〔直豐突〕なほびのかみ。「禍」を直す神。「なほび」は、神楽歌に「直日」とも訓じている。「び」と「み」とは音通。恐らく「なほぶ」「なほむ」という動詞があり、その名詞形であろう。上の「まがつび」に対する神名。ここの「豐」は呉音で、「ビ」と訓ずる。〔伊豆能賣突〕いつのめのかみ。「いつ」は「厳」の意。「いみ清む」「神聖」などの義で、「いづ」ではない。「豆」は清濁両用の仮名。ここは清。記伝の訓は非。「なほびのかみ」と同一の意の女神。 
【 神代の物語 】三貴子の統治分担
此時、伊邪那岐命、大歡喜詔、吾隅生二生子一而、於二生絏一得二三貴子。來、其御頸珠之玉緒母由良邇【此四字以音。下效此】取由良聟志而、賜二天照大御突一而詔之、汝命隅館レ知二高天原一矣、事依而賜也。故、其御頸珠名謂二御倉板擧之突。【訓板擧云多那】筱詔二月讀命、汝命隅館レ知二夜之食國一矣、事依也。【訓食云袁須】筱詔二建芫須佐之男命、汝命者隅館レ知二恭原一矣、事依也。故、各隨二依賜之命、館二知看一之中、芫須佐之男命、不レ治二館レ命之國一而、八拳須至二于心電一啼伊佐知伎也。【自伊下四字以音。下效此。】其泣寔隅、呟山如二枯山一泣枯、河恭隅悉泣乾。是以、惡突之音、如二狹蠅一皆涌、萬物之妖悉發。故、伊邪那岐大御突、詔二芫須佐之男命、何由以汝不レ治下館二事依一之國上而、哭伊佐知流爾、答白、僕隅欲レ罷二妣國根之堅洲國一故哭。爾、伊邪那岐大御突大忿怒詔、然隅、汝不レ可レ住二此國一乃、突夜良比爾夜良比賜也。【自夜以下七字以音】故、其伊邪那岐大突隅、坐二淡路之多賀一也。
此の時、伊邪那岐命、大く歓喜ばして詔りたまひしく、「吾は子生み生みて、生みの終に三の貴子を得たり。」とのりたまひて、其の御頸珠の緒母由良邇【この四字、音を以ふ。下これに效ふ。】取り由良迦して、天照大御神に賜ひて詔りたまひしく、「汝が命は高天原を知らせ。」と事依さし賜ひき。故、其の御頸珠の名を御倉板挙の神と謂す。【板挙を訓みてタナと云ふ。】次に月読命に詔りたまひしく、「汝が命は、夜の食す国を知らせ。」と事依さしたまひき。【食を訓みてヲスと云ふ。】次に建速須佐之男命に詔りたまひしく、「汝が命は海原を知らせ。」と事依さしたまひき。故、各依さしたまへる命の随に知しめす中に、速須佐之男命は、命さしたまへる国を治さずて、八拳須の心前に至るまで啼き伊佐知伎。【伊より以下の四字、音を以ふ。下これに效ふ。】其の泣く状は、青山を枯山如す泣き枯らし、河海を悉に泣き乾しき。ここをもて、悪ぶる神の音、狭蠅如す皆涌き、万の物の妖悉に発りき。故、伊邪那岐大御神、速須佐之男命に詔りたまひしく、「何とかも汝は事依させる国を治らさずて、哭き伊佐知る。」とのりたまへば、答へて白したまひしく、「僕は妣の国、根の堅洲国に罷らむと欲ふが故に哭く。」とまをしたまひき。爾に、伊那那岐大御神、大く忿怒らして詔りたまひしく、「然らば、汝は此の国には、な住みそ。」とのりたまひて、神夜良比爾夜良比たまひき。【夜より以下七字、音を以ふ。】故、其の伊邪那岐大神は、淡路の多賀に坐しますなり。
〔伊邪那岐命〕真本等、「岐」を「伎」に誤る。「伎」は「キ」。底本・延本に従う。〔貴子〕うづのみこ。とうとい子。紀は「珍」に作り、「宇図」と注している。万六の九七三には「宇頭」、祈年祭にも「宇豆」とあり、「貴」は「うづ」と訓ずべきである。〔母由良邇〕「も」は「ま」に通ずる。「ま」は「玉」の上略。玉がゆらゆらとゆらぎ、触れ合って鳴るさまの副詞。神代紀、上、一書に「瓊響潦潦、此云二奴儺等母母由羅爾。」とある。〔由良聟志而〕ゆらかして。揺り動かして。〔事依而〕ことよさし。ことをゆだねられ。任命され。「ことよす」の敬語。この「而」は、下文に徴するも衍であろう。読まぬ。〔御倉板擧之突〕みくらたなのかみ。「だな」と濁らぬ。「多那」の訓荘によるべきである。記伝に「天照大御神の、御倉に蔵め、その棚の上に安置奉りて、崇祭りたまひし故の御名なるべし。」とある。〔夜之食國〕よるのをすくに。夜を統治する国。「食す」は「治める」「流治する」意。〔恭原〕うなはら。記伝の訓「うなはら」に従う。万葉に「宇奈波良」とある。〔知看〕しろしめす。「知らす」「知ろす」を、さらに、ていねいに言う語。「統治する」の敬語。〔伊佐知〕「いさちる」(上一段)の連用。ひどく泣き。足ずりして泣き。〔如狹蠅〕さばへなす。「さ」は「五月」の「さ」、五月の蠅の如く。人にいやがられるということから、「涌く」「騒く」「悪し」などに冠する枕詞。ここは「わく」に冠している。〔涌〕わき。諸本みな「満」に作る。恐らく字形による誤写であろう。いま、意をもって改める。神代紀、下、一書には「如二五月蠅而沸。云々。」とある。記伝も「満字は、涌の誤りなるべし。」という。〔妣〕みはは。「み」を冠して敬語に読むべきである。伊邪那美命をいう。〔根之堅洲國〕ねのかたすくに。「根」は木の根などとひとしく、地の底にある意。「竪洲」は地の底が堅い磐から成る洲であると考えたことによるのであろう。よみのくに。記伝が「かたす」を「片隅」と考えたのは恐らく非。〔突夜良比爾夜良比〕かむやらひにやらひ。「かむ」は神のうえのことについていう接頭語。「やらふ」ほ「やら」に継続の意の接尾語「ふ」の付いた語。ここは、その連用。「追いやり」を重ねて言った語。〔淡路之多賀〕あはぢのたが。底本・延本等は「淡路」を「淡海」に作る。いま、詳本・春本等の「淡路」に従う。田中頼庸校訂本は「淡道」に作る。いずれにせよ、「淡路」であり、「淡海」ではないであろう。およそ、伊邪那岐命の活動範囲は瀬戸内方面から、その以南・以西の地方に及び、淡海(近江)の辺には及んでいない。伊奘諾神社は、淡路国(兵庫県)津名郡多賀村にあり、多賀大明神とも呼ばれている。近江国(滋賀県)多賀にも伊奘諾神社があるが、恐らく、古事記の誤写本に由来するものであろうと思う。記伝その他の「淡海」説には従われぬ。 
 

 

【 神代の物語 】須佐之男命の昇天
故、於レ是、芫須佐之男命言、然隅、樽二天照大御突一將レ罷乃、參二上天一時、山川悉動、國土皆震。爾、天照大御突聞驚而詔、我那勢命之上來由隅、必不二善心。欲レ奪二我國一耳來、解二御髪、纏二御美豆羅一而乃、於二左右御美豆羅、亦於二御鬘、亦於二左右御手、各纏二持八尺勾潴之五百津之美須揺流之珠一而【自美至流四字以音。下效比】曾豐良邇隅負二千入之靫、【訓入云能理。下效比。自曾至邇以音。】附二五百入之靫、亦館レ取二佩伊綾【此二字以音】之竹鞆一而、弓腹振立而、堅庭隅、於二向股一蹈那豆美、【三字以音】如二沫悠一蹶散而、伊綾【二字以音】之男建【訓建云多豆夫】蹈建而待問、何故上來。爾、芫須佐之男命答白、僕隅無二邪心。唯大御突之命以、問二賜僕之哭伊佐知流之事一故、白綾良久、【三字以音】僕欲レ往二妣國一以哭爾、大御突詔三汝隅不レ可レ在二此國一而、突夜良比夜良比賜故、以下爲樽中將二罷往一之寔上參上耳。無二異心一爾、天照大御突詔、然隅、汝心之厳明、何以知。於レ是、芫須佐之男命、答白、各宇氣比而生レ子。【自宇以下三字以音。下效比。】
故、ここに、速須佐之男命言したまひしく、「然らば、天照大御神に請して罷りなむ。」とまをして、天に参上ります時に、山川悉に動み、国土皆震りき。爾に天照大御神、聞き驚かして詔りたまひしく、「我が那勢命の上り来ます由は、必ず善き心ならじ。我が国を奪はむと欲すにこそ。」と、のりたまひて、御髪を解き、御美豆羅に纏かして、亦御鬘にも亦左右の御手にも、各八尺の勾潴の五百津の美須麻流の珠を纏き持たして、【美より流に至る四字、音を以ふ。下これに效ふ。】曽豐良には千入の靫を負ひ、【入を訓みてノリと云ふ。下これに效ふ。曽より邇に至る、音を以ふ。】五百入の靫を附け、亦伊都【この二字、音を以ふ。】の竹鞆を取り佩ばして、弓腹振り立てて、璧庭をば向股に踏み那豆美、【三字、音を以ふ。】沫雪如す蹶ゑ散かして、伊都【二字、音を以ふ。】の男建【建を訓みてタケブと云ふ。】踏み建びて、待ち問ひたまひしく、「何故上り来ませる。」と、とひたまひき。爾に、速須佐之男命、答へ白したまひしく、「僕は邪き心無し。唯、大御神の命もちて、僕が哭き伊佐知流ことを問ひたまひし故に、白し都良久、【三字、音を以ふ。】僕は妣が国に往らむと欲ひて哭くとまをししかば、大御神、詔りたまひしく、『汝は此の国には、な在みそ。』とのりたまひて、神夜良比夜良比たまひし故に、罷りなむ状を請さむと以為ひてこそ参上りつれ。異しき心無し。」と、まをしたまひければ、天照大御神、詔りたまひしく、「然らば、汝の心の清く明きことは、何にしてか知らまし。」と、のりたまひき。ここに速須佐之男命、答へて白したまひしく、「各宇気比て子を生まむ。」と、まをしたまひき。【宇より以下の三字、音を以ふ。下これに效ふ。】
〔山川悉動、國土皆震〕やまかはことごとにとよみ、くにつちみなゆりき。上に述べたごとく、スサノヲノミコトの暴風的性格を示す文。〔那勢命〕なせのみこと。汝兄命。女性から男性を親しんで称する語。いろせ。いろね。必ずしも夫君の意ではない。〔鬘〕かづら。真本その他「x」に誤る。「縵」のつもりであろうが、古写本の通弊である。「縵」に 「かづら」などの意はない。底本・延本などが正しい。 
【 神代の物語 】二神の誓約による諸神誕生
故爾、各中二│置天安河一而宇氣布時、天照大御突、先乞二│度建芫須佐之男命館レ佩十拳劔、打二│折三段一而、奴那登母母由良【此八字以音。下效此。】振二│滌天之眞名井一而、佐賀美爾聟美而、【自佐下六字以音。下效此。】於二吹棄氣吹之狹霧一館レ成突御名、多紀理豐賣命。【此突名以音】亦御名謂二奧津嶋比賣命。筱市寸嶋上比賣命。亦御名謂二狹依豐賣命。筱多岐綾比賣命。【三柱。此突名以音】芫須佐之男命、乞下│度天照大御突館二纏左御美豆良一八尺勾潴之五百津之美須揺流珠上而、奴那登母母由良爾、振二滌天之眞名井一而、佐賀美邇聟美而、於二吹棄氣吹之狹霧一館レ成突御名、正勝吾勝勝芫日天竄穗耳命。亦乞下│度館レ纏二右御美豆良一之珠上而、佐賀美邇聟美而、於二吹棄氣吹之狹霧一館レ成突御名、天之菩卑能命。【自菩下三字以音】亦乞下│度館レ纏二御鬘一之珠上而、佐賀美邇聟美而、於二吹棄氣吹之狹霧一館レ成突御名、天津日子根命。樸、乞下│度館レ纏二左御手一之珠上而、佐賀美邇聟美而、於二吹棄氣吹之狹霧一館レ成突御名、活津日子根命。亦、乞下│度館レ纏二右御手一之珠上而、佐賀美邇聟美而、於二吹棄氣吹之狹霧一館レ成突御名、熊野久須豐命。【忸五柱。自久下三字以音。】
故爾に、各天の安の河を中に置きて宇気布時に、天照大御神、先づ建速須佐之男命の佩かせる十拳の剣を乞ひ度して、三段に打ち折りて、奴那登母母由良に【この八字、音を以ふ。下これに效ふ。】天の真名井に振り滌ぎて、佐賀美に迦美て、【佐より下の六字、音を以ふ。下これに效ふ。】吹き棄つる気吹の狭霧に成りませる神の御名は、多紀理豐売命。【この神の名、音を以ふ。】亦の御名は奥津島比売命。次に市寸島比売命。亦の御名は狭依豐売命と謂す。次に多岐都比売命。【三柱。この神の名、音を以ふ。】速須佐之男命、天照大御神の左の御美豆良に纏かせる八尺勾潴の五百津の美須麻流の珠を乞ひ度して、奴那登母母由良に天の真名井に振り滌ぎて、佐賀美に迦美て、吹き棄つる気吹の狭霧に成りませる神の御名は、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命。亦右の御美豆良に纏かせる珠を乞ひ度して、佐賀美に迦美て、吹き棄つる気吹の狭霧に成りませる神の御名は、天之菩卑能命。【菩より下の三字、音を以ふ。】亦御鬘に纏かせる珠を乞ひ度して、佐賀美に迦美て、吹き棄つる気吹の狭霧に成りませる神の御名は、天津日子根命。又、左の御手に纏かせる珠を乞ひ度して、佐賀美に迦美て、吹き棄つる気吹の狭霧に成りませる神の御名は、活津日子根命。亦、右の御手に纏かせる珠を乞ひ度して、佐賀美に迦美て、吹き棄つる気吹の狭霧に成りませる神の御名は、熊野久須豐命。【忸せて五柱。久より下の三字、音を以ふ。下これに效ふ。】
〔天安河〕あめのやすのかは。高天原にあるという安の河。安らかな川の意であろう。真本は「河」を「阿」に誤写している。〔宇氣布〕誓ふ。誓約する。神に誓を立てる。真本は「布」を「有」に誤写している。〔乞度〕こひわたす。乞い取る。 
【 神代の物語 】三女神の鎮座地と諸神の子孫
於レ是、天照大御突、告二芫須佐之男命、是後館レ生五柱男子隅、物實、因二我物一館レ成。故、自吾子也。先館レ生之三柱女子隅、物實、因二汝物一館レ成。故乃、汝子也。如レ此詔別也。故、其先館レ生之突、多紀理豐賣命隅、坐二蹴形之奧津宮、筱市寸嶋比賣命隅、坐二蹴形之中津宮、筱田寸津比賣命者、坐二蹴形之邊津宮。此三柱突隅、蹴形君等之以伊綾久三電大突者也。故、此後館レ生五柱子之中、天菩比命之子建比良鳥命、【此出雲國芟・无邪志國芟・上莵上國芟・下莵上國芟・伊自牟國芟・津嶋縣直・蘚江國芟等之督也。】筱天津日子根命隅、【凡川内國芟・額田部湯坐苣・木國芟・倭田中直・山代國芟・馬來田國芟・蕈尻岐閉國芟・周芳國芟・倭淹知芟・高市縣主・蒲生稻寸・三枝部芟等之督也。】
ここに、天照大御神、速須佐之男命に告りたまひしく、「この後に生れませる五柱の男子は、物実、我が物に因りて成りませり。故、自ら吾が子なり。先に生れませる三柱の女子は、物実、汝の物に因りて成りませり。故乃、汝の子なり。」と、かく詔り別けたまひき。故、其の先に生れませる神なる多紀理豐売命は、蹴形の奥津宮に坐し、次なる市寸島比売命は、蹴形の中津宮に坐し、次なる田寸津比売命は、蹴形の辺津宮に坐すなり。此の三柱の神は、蹴形君らの以伊都久三前の大神者なり。故、此の後に生れませる五柱の子の中、天菩此命の子なる建比良鳥命、【此は出雲国造・无邪志国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・津島県直・遠江国造らの祖なり。】次に天津日子根命は、【凡川内国造・額田部湯坐連・木国造・倭田中直・山代国造・馬来田国造・道尻岐閉国造・周芳国造・倭淹知造・高市県主・蒲生稲寸・三枝部造らの祖なり。】
〔物實〕ものざね。「さね」は「たね」または「もと」。事物の根元となる物。材料。ものだね。ものしろ。〔詔別〕のりわけ。詔りて区別し。〔蹴形之奧津宮〕むなかたのおきつみや。「蹴形」は筑後国(福岡県)の郡名。「蹴形」「胸肩」「身形」「宗形」「宗像」などに作る。今日は「宗像」に作る。「奥津宮」は記および神社の伝では、「多紀理豐売命」をまつり、大島の西北なる小島、奥島にある。ただし、紀には「市杵島姫命」をまつるとある。〔蹴形之中津宮〕むなかたのなかつみや。前項参照。記には「市寸島比売」を祭るとあるが、紀には「田心姫」を祭るとあり、神社の伝えでは「湍津島姫」を祭るとある。宗像郡の中津宮であり、奥島よりは陸地に近い小島である。〔蹴形之邊津宮〕むなかたのへつみや。前々項参照。記には「田寸津比売」、紀にも「湍津姫」を祭るとあるが、神社の伝えでは「市杵島姫」を祭るとある。所在地は「田島」というが、「辺津」の語から見て、もと海辺であったのであろう。 
【 神代の物語 】須佐之男命の暴状
爾、芫須佐之男命、白二于天照大御突、我心厳明故、我館レ生子、得二手洒女。因レ此言隅、自我勝云而、於二勝佐備一【此二字以音】離二天照大御突之營田之阿、【此阿字以音】埋二其溝、亦其於下聞二看大嘗一之殿上屎揺理【此二字以音】散。故、雖二然爲、天照大御突隅、登賀米受而告、如レ屎、醉而吐散登許曾。【此三字以音】我那勢之命爲レ如レ此。樸、離二田之阿、埋レ溝隅、地矣阿多良斯登許曾【自阿以下七字以音】我那勢之命爲レ如レ此登【此一字以音】詔雖レ直、憑其惡態不レ止而轉。天照大御突、坐二忌服屋一而、令レ織二突御衣一之時、穿二其服屋之頂、膸二搭天斑馬一搭而、館二墮入一時、天衣織女見驚而、於レ梭衝二陰上一而死。【訓陰上云富登】
爾に、速須佐之男命、天照大御神に白したまひしく、「我が心清く明きが故に、我が生める子、手弱女を得つ。此に因りて言さば、自ら我勝ちぬ。」と云して、勝佐備に【この二字、音を以ふ。】天照大御神の営田の阿を離ち、【この阿の字、音を以ふ。】其の溝を埋め、亦大嘗聞し看す殿に屎麻理【この二字、音を以ふ。】散しき。故、然為れども、天照大御神は、登賀米ずて告りたまひしく、「屎如すは、酔ひて吐き放らす登許曽。【この三字、音を以ふ。】我が那勢の命、かく為つらめ。又、田の阿離ち、溝を埋むるは、地を阿多良斯登許曽。【阿より以下の七字、音を以ふ。】我が那勢の命、かく為つらめ。」登【この一字、音を以ふ。】詔り直したまへども、猶其の悪しき態止まずて転ありき。天照大御神、忌服屋に坐しまして、神御衣を織らしめたまひし時に、其の服屋の頂を穿ちて、天の斑馬を逆剥ぎに剥ぎて、堕し入るる時に、天の衣織女、見驚きて、梭に陰上を衡きて死せにき。【陰上を訓みてホトと云ふ。】
〔手洒女〕たわやめ。「た」は接頭語。「わや」は「よわ」に通ずる。弱い女。たをやめ。〔勝佐備〕かちさび。勝ちに乗じて、気の逸ること。勝ちほこること。「さび」は接尾語「さぶ」の名詞形。「さぶ」は「神さぶ」「翁さぶ」などの「さぶ」で、それらしくなる意。〔營田〕みつくだ。「み」は敬語。「つくだ」は「作り田」の中略。耕作する田。〔阿〕あ。あぜ。くろ。和名抄に「畔。和名久路。一云レ阿。」とある。「あぜ」は「畔背」の義である。〔大嘗〕おほにへ。「おほ」は敬称。「にへ」は記伝の言うごとく「新稲を以て饗へすること」である。そのために特に建てた殿が、「大嘗きこしめす殿」である。〔屎揺理散〕くそまりちらしき。「まり」は「まる」の連用。「まる」は、大小便をする意。転じて「ばる」ともいう。便器に「おまる」の語があり、小便を「ばり」というのは「ばる」の名詞形である。〔登賀米受而〕とかめずて。とがめないで。非難しないで。怒らないで。〔地〕ところ。田地。〔阿多良斯〕惜しい。因みに「新し」は後世の訛で、上代語では「新し」と言った。いま「新た」の語に、その名残が見られる。〔轉〕うたてありき。「うたて」を副詞と見て、それに「あり」を付けて読んだ記伝の説が可。「転てし」と形容詞に見て、「うたてかりき」と読んでいる人もあるが、従いかねる。「いよいよますます甚だしくなった」意。〔忌服屋〕いみはたや。斎み清めた機屋。神御衣を織る殿。いみはたどの。紀には「斎服殿」とある。〔突御衣〕かむみそ。神に奉る御衣。「そ」は衣。きもの。「衣手」を「そで」というのも、これである。字類抄に「衣、ソ。」とある。〔頂〕むね。棟。〔天斑馬〕あめのぶちごま。「あめの」は美称。斑点のある馬。「こま」は必ずしも「子馬」の意ではなく、ここでは「馬」の義。〔膸搭〕さかはぎ。尾の万から逆さに剥ぐこと。または、いやがるのを、逆らって剥ぐこと。〔天衣織女〕あめのみそおりめ。「あめの」は美称。神衣を織る女。真本その他に「衣」を「服」に作る本があるが、それならば「あめのはたおりめ」と読む。しかし、上に「神御衣」の語もあり、いま、底本・延本その他の多本に従う。〔梭〕ひ。「杼」にも作る。機を織る際、経糸の中に緯糸をくぐらせるに用いる具。〔陰上〕ほと。女子の陰部。上に出ている。〔死〕うせにき。死んだ。底本は「みうせき」と訓じているが、敬語を用いるまでもあるまい。 
【 神代の物語 】石屋ごもり(一)
故、於レ是、天照大御突、見畏、閉二天石屋竿一而刺許母理【此三字以音】坐也。爾、高天原皆暗、葦原中國悉闇。因レ此而常夜往。於レ是、萬突之聲隅、狹蠅那須【此二字以音】皆涌、萬妖悉發。是以、找百萬突、於二天安之河原一突集集而、【訓集云綾度比】高御籥厥日突之子思金突令レ思【訓金云加尼】而、集二常世長鳴鳥一令レ鳴而、取二天安河之河上之天堅石、取二天金山之鐵一而、求二鍛人天津揺羅一而【揺羅二字以音】科二伊斯許理度賣命一【自伊下六字以音】令レ作レ鏡、科二玉督命一令レ作二找尺勾潴之五百津之御須揺流之珠一而、召二天兒屋命・布刀玉命一【布刀二字以音。下效此】而、内二拔天香山之眞男鹿之氏拔而、取二天香山之天波波聟一【此三字以音。木名。】而、令二占合揺聟那波一而【自揺下四字、以音。】天香山之五百津眞賢木矣根許士爾許士而、【自許下五字以音】於二上枝一取二│著八尺勾潴之五百津之御須揺流之玉、於二中枝一取二覿找尺鏡、【訓找尺云找阿多】於二下枝一取二│垂白丹寸手・呟丹寸手一而、【訓垂云志殿】此種種物隅、布刀玉命、布刀御幣登孚持而、天兒屋命、布刀詔竿言板白而、天手力男突、隱二│立竿掖一而、天宇受賣命、手二│筱│覿天香山之天之日影一而、爲レ鬘二天之眞拆一而、手二│草│結天香山之小竹葉一而、【訓小竹云佐佐】於二天之石屋竿一伏二恩氣一【此二字以音】而、蹈登杼呂許志、【此五字以音】爲二突懸一而、掛二出蹴旺、裳茆竄三垂於二番登一也。爾、高天原動而、八百萬突共恁。
故、ここに、天照大御神、見畏み、天の石屋戸を閉てて刺し許母理【この三字、音を以ふ。】坐しましき。爾ち高天原皆暗く、葦原の中つ国悉に闇し。此に因りて常夜往く。ここに、万の神の声は、狭蠅那須【この二字、音を以ふ。】皆涌き、万の妖悉に発りき。ここをもて、八百万の神、天の安の河原に神集ひ集ひて、【集を訓みてツドヒと云ふ。】高御産巣日神の子思金神に思はしめて、【金を訓みてカネと云ふ。】常世の長鳴鳥を集へ鳴かしめて、天の安の河の河上の天の堅石を取りて、天の金山の鉄を取りて、鍛人天津麻羅を求ぎて、【麻羅の二字、音を以ふ。】伊斯許理度売命に科せて【伊より下の六字、音を以ふ。】鏡を作らしめ、玉祖命に科せて、八尺の勾潴の五百津の御須麻流の珠を作らしめて、天児屋命・布刀玉命を召びて、【布刀の二字、音を以ふ。下これに效ふ。】天の香山の真男鹿の肩を内技きに抜きて、天の香山の天の波波聟を取りて、【この三字、音を云ふ。木の名。】占合麻聟那汲しめて、【麻より下の四字、音を以ふ。】天の香山の五百津真賢木を根許士に許士て【許より下の五字、音を以ふ。】上枝に找尺の勾潴の五百津の御須麻流の玉を取り着け、中の枝に找尺の鏡を取り繋け、【找尺を訓みてヤアタと云ふ。】下枝に白丹寸手・青丹寸手を取り垂でて、【垂を訓みてシテと云ふ。】此の種種の物をば、布刀玉命、布刀御幣と取り持たして、天児屋命、布刀詔戸言板き白して、天手力男神、戸の掖に隠り立たして、天宇受売命、天の香山の天の日影を手次に繋けて、天の真拆を鬘として、天の香山の小竹葉を手草に結ひて、【小竹を訓みてササと云ふ。】天の石屋戸に恩気伏せて、【この二字、音を以ふ。】踏み登杼呂許志、【この五字、音を以ふ。】神懸して、胸乳を掛き出だし、裳の緒を番登に忍し垂れき。爾、高天原動みて、找百万の神、共に咲ひき。
〔閉二天石屋竿一〕あめのいはやどをたてて。「あめの」は美称。「いはや」は岩を掘って住居としたもの。「いへ」は「いは」の転。万二十の四四一六に「伊波なる我は紐解かず寝む」とある。防人の妻が「家にいる私は紐を解かずに寝よう」と詠んだもの。その石屋の戸をたてて。諸本みな「開」に作っているが、記伝は「開」を「閇」の誤写とし、「今は一本に依りつ」と言っている。その一本とは正保本のこと。前本は「閉歟」と傍書している。また、記伝は古代人が岩屋に住んでいたことを知らず、いろいろ説をなしているが、紀に「岩窟」とあるに徴するも、また、今日各所に「岩窟」の跡のあるのに徴するも、記伝の説は非。〔刺許母理〕さしこもり。石屋の戸をとざして、中にこもり。〔常夜往〕とこやみゆく。永久のやみがつづく。「とこよゆく」の訓は必ずしも誤りとも言えぬが、紀は「常闇」「長夜」「恒闇」を「とこやみ」と訓じ、神功紀では「常夜行」を「とこやみゆく」と訓じ、万十五の三七四二には「等許也未」とある。よって、「とこやみゆく」と訓ずることとする。宣長は「常夜」を「とこよ」と訓じたことから、「常世」の解釈に大きな誤りを来たしている。下文参照。〔聲〕おとなひ。「おとなふ」の名詞形。がやがやと音をたてること。うるさく騒ぐこと。〔狹蠅那須皆涌〕さばへなすみなわき。上述のごとく、諸本の「満」は「涌」の誤写であろう。意をもって改める。「さばへなす」は「わく」の枕詞。上述参照。また、記伝は「満」の上に「皆」を補っている。それに従う。〔突集集而〕かむつどひつどひて。神々が集り集って。〔高御籥厥日突〕たかみむすひのかみ。古事記冒頭に見える神。「むすび」の訓は非。〔思金突〕おもひかねのかみ。「金」は「兼」の借字。数人の思慮を一身に兼ね備える意の神名。智謀にたけた神。紀には「思兼神」とある。〔常世長鳴鳥〕とこよのながなきどり。常世の国から伝来した、声を長く引いて鳴く鳥。すなわち鶏。記伝は「常世は常夜にて」などと言うが、きわめて非。上代人の頭に描いた常世は一種の理想郷で、はるか南方の海洋上にあり、年中花が咲き、鳥が歌い、果実なども豊富で、不老長寿の楽天地であった。鶏の原産地は、はるか南方の地であり、思金神は下文に「常世の思金神」ともあり、その弟なる少彦名命は、南方の故郷常世の国から出雲国へ渡来し、また、故郷常世の国へ飛び去ったと伝えられている。宣長が「常夜」を「とこよ」と訓じ、そのために「常世」をも「常夜」と混同して、常世の概念に暗いかげを生じさせたことは惜しむべきである。筆者には別に「常世考」の論があるが、長くなるから、ここには述べない。 
【 神代の物語 】石屋ごもり (二)
於レ是、天照大御突、以二│爲怪、細開二天石屋竿一而、触告隅、因二吾隱坐一而、以下爲高天原自闇、亦二葦原中國一皆闇上矣、何由以天宇受賣隅爲レ樂、亦找百萬突跳恁。爾、天宇受賣、白下│言環二汝命一而貴突坐故、歡喜咲樂上。如レ此言之間、天兒屋命・布刀玉命、指二│出其鏡、示二│奉天照大御突一之時、天照大御突逾思レ怪而、稍自レ竿出而、臨坐之時、其館二隱立一之天手力男突、取二其御手一引出。來布刀玉命、以二尻久米【此二字以音】繩一澡二│度其御後方、白三│言從レ此以触不レ得二裝入。故、天照大御突出坐之時、高天原及葦原中國、自得二照明。
ここに、天照大御神、怪しと以為して、細に天の石屋戸を開きて、内より告りたまひしくは、「吾が隠り坐すに因りて、高天原自ら闇く、葦原の中つ国も皆闇けむと以為ふを、何由以天宇受売は楽びし、亦八百万神諸咲ふぞ。」とのりたまひき、爾、天宇受売、「汝が命にも益りて貴き神坐すが故に、歓喜び咲ひ楽ぶぞ。」と白言しき。かく言す間に、天児屋命・布刀玉命、其の鏡を指し出だして、天照大御神に示せ奉る時に、天照大御神、逾奇しと思ほして、稍戸より出でまして、臨み坐す時に、其の隠り立てる天手力男神、其の御手を取りて引き出だしまつりき。即ち布刀玉命、尻久米【この二字、音を以ふ。】縄を其の御後方に控き度して、「此より以内にな還りましそ。」と白言しき。故、天照大御神、出で坐せる時に、高天原も葦原の中つ国も、自ら照り明かりき。
〔樂〕あそび。舞楽。〔指出〕さしいだし。「指」は「差」に同じ。さし出す。「さしいでて」よりは「さしいだして」の方が可。〔尻久米繩〕しりくめなは。「くめ」は「こめ」に同じ。後方を限りこめる縄。しめなわ。〔澡度〕ひきわたし。引き渡し。 
【 神代の物語 】須佐之男命の追放
於レ是、找百萬突共議而、於二芫須佐之男命一負二千位置竿、亦切レ鬚、及二手足爪一令レ拔而、突夜良比夜良比岐。樸、食物乞二大氣津比賣突。爾、大氣綾比賣、自二鼻・口及尻一種種味物取出而、種種作具而荵時、芫須佐之男命、立二│伺其態、爲二穢汚而奉荵一乃、殺二其大宜津比賣突。故、館レ殺突於レ身生物隅、於レ頭生レ蠶、於二二目一生二稻種、於二二耳一生レ粟、於レ鼻生二小豆、於レ陰生レ麥、於レ尻生二大豆。故是、突籥厥日御督命、令レ取レ枴成レ種。
ここに、八百万神、共に議りて、速須佐之男命に千位置戸を負せて、亦鬚を切り、手足の爪をも抜かしめて、神夜良比夜良比き。又、食物を大気津比売神に乞ひたまひき。爾、大気都比売、鼻・口及尻より種種の味物を取り出だして、種種作り具へて進る時に、速須佐之男命、其の態を立ち伺ひて、穢汚きもの奉進ると為しければ、其の大宜津比売神を殺したまひき。故、殺さえし神の身に生れる物は、頭に蚕生なり、二つの目に稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麦生り、尻に大豆生りき。故ここに、神産巣日御祖命、枴を取らしめて種と成したまひき。
〔千位置竿〕ちくらおきど。上古、犯罪者に科してその罪をあがなわしめる祓え物を載せる多くの台。紀には「千座置戸」とある。「千」は多数、「位置」は台、「戸」は、ところの意であろう。多くの祓え物を科する意。真本は「戸」を「广」に誤る。〔拔〕真本は「秡」に誤る。〔大氣津比賣・大氣綾比賣・大宜津比賣〕おほげつひめ。食物の神。上に出ている。このように相接近して三様に表記している。記の文字づかいは、決しておごそかではない。〔味物〕ためつもの。「珍味」にも作る。「ため」は「たべ」の転であろう。うまい食物。美味な物。〔蠶〕こ。上代語では「こ」である。飼うので、後世「かひこ」と言う。記伝の訓「かひこ」は上代語でない。ちひさこべのすがるが、「蚕」と「子」とをとりちがえた話は名高い。〔突籥厥日御督命〕かみむすひみおやのみこと。冒頭に見える「神産巣日神」に同じ。「むすび」は非。「むすひ」は「生産」の義。故に、この神が大気津比売の身体から生じた五穀を取って、五穀の種としたのである。 
 

 

【 神代の物語 】大蛇退治(一)
故、館二袢膊一而降二出雲國肥上河上在鳥髪地。此時、箸從二其河一流下。於レ是、須佐之男命、以三│爲人二│有其河上一而、探覓上往隅、老夫與二老女一二人在而、童女置レ中而泣。爾、問二│賜│之汝等隅誰一故、其老夫答言、僕隅國突大山上津見突之子焉。僕名謂二足上名椎一妻名謂二手上名椎、女名謂二櫛名田賣。亦問二汝哭由隅何。答白言、我之女隅自レ本在二找稚女。是、高志之找俣蘚呂智【此三字以音】譌レ年來喫。今其可レ來時故泣。爾、問二其形如何、答白、彼目如二赤加賀智一而、身一有二找頭找尾。亦其身生二蘿及檜椙、其長度二谿找谷峽找尾一而、見二其腹一隅、悉常血爛也。【此謂二赤加賀智一隅、今酸漿隅也。】
故、避追はえて、出雲国の肥上河上なる鳥髪の地に降りましき。此の時に、箸其の河より流れ下りき。ここに、須佐之男命、其の河上に人有りと以為して、尋ね覓ぎ上り往かししかば、老夫と老女と二人在りて、童女を中に置ゑて泣くなり。爾、「汝等は誰そ。」と問ひ賜へば、其老夫答へて言しけらく、「僕は国神大山上津見神の子なり。僕の名は足上名椎と謂し、妻の名は手上名椎と謂し、女の名は櫛名田比売と謂す。」と、まをしき。亦「汝が泣く由は何ぞ。」と問ひたまへば、答へて白言しけらく、「我が女は本より八稚女ありき。ここに、高志の找俣遠呂智【この三字、音を以ふ。】年毎に来て喫ひき。今其が来べき時なるが故に泣く。」と、まをしき。爾、「其の形は如何。」と問ひたまへば、答へて白しけらく、「彼が目は赤加賀智如して、身一つに找頭找尾あり。亦其の身には蘿また檜・椙生ひ、其の長さは谿找谷峡找尾に度りて、其の腹を見れば、悉に常に血に爛れたり。」と、まをしき。【ここに赤加賀智と謂へるは、今の酸漿といふものなり。】
〔肥河上〕ひのかはかみ。肥の川の上流。「肥の川」は「簸の川」にも作る。出雲風土記に「斐伊川」とあり、今も「斐伊川」という。往時は西折して海に入ったが、江戸時代ごろから東折して宍道湖に注ぐ。「ひ」は「赤」であり、砂鉄のために河水が赤色を呈していたことによる名であろう。〔鳥髪〕とりかみ。紀は「鳥上之峰」に作り、出雲風土記も「鳥上山」に作る。出雲国(島根県)仁多郡の山。出雲と伯耆との境にある「焙通山」の古称。今、そのふもとに鳥上村がある。〔足名椎〕あしなづち。紀には「脚摩乳」とある。少女の脚を撫でるようにして、かわいがって育てた意の名であろう。「ち」は「のつち」「いかづち」「しほつち」「まろがち」などの「ち」で、「霊」「主」などの意。〔手名椎〕てなづち。紀には「手摩乳」とある。少女の手を撫でるようにして、かわいがって育てた意の名であろう。〔櫛名田比賣〕くしなだひめ。紀には「奇稲田姫」とある。その省音。「くし」は「霊ぶ」の語幹、「霊奇」の意。「稲田」は出雲国仁田郡の地名を負う名であろう。〔八稚女〕やをとめ。多くの少女。「找」は下文に「找俣遠呂智」「找頭找尾」「找谷找尾」などある「找」で、必ずしも「找」の意ではなく、「弥」の意の接頭語と見る方が妥当。〔高志〕こし。和名抄に「出雲国神門郡古志」とある地。およそ「こし」というのは、中央から山川などを「越し」てゆく地の称で、大和から山川を越してゆく国を「越国」という類。出雲の「こし」も、郡家から山川を越してゆく地の称であろう。〔找俣蘚呂智〕やまたのをろち。記伝は「の」を入れて読むはわろしというが、一般に「の」を入れて読んでいる。「找」は、多くの。多くの頭や多くの尾が俣のように生じている大蛇。「をろち」は「尾ろ霊」の意であろう。記伝の「尾於杼呂知」説は苦しい。もちろん、日本にかかる大蛇の棲息するはずなく、高志の山間に、多くの部下を有して威をふるっていた豪族で、はやく、肥の川の砂鉄を用いて刀を製していた者であろう。オロッコ族などの説は信じられぬ。〔赤加賀智〕あかかがち。下の注に「ほほづき」とあるが、大蛇の目を小さな「ほおずき」にたとえるのは、不自然であろう。今の出雲方言で、「すりばち」を「かがち」という。皿のような目よりは、さらに大きいすりばちのような目、それが赤かったと解した方が妥当であろう。「かがち」は「搗ち」の訛か。〔找頭找尾〕やかしらやを。多くの頭と多くの尾。上述のごとく、多くの頭目と多くの部下の意の比喩。その身に蘿や檜や椙が生えていたというのは、それらの豪族たちの住んでいた山地をたとえたもの。「蘿」は草。〔峽〕を。「峡」は普通には「かひ」であるが、「峡找尾」とつづけたところを見ると、この「峡」は「丘」の意と解すべきであろう。紀には「找丘」とある。〔血爛〕ちにただれ。記伝は「ちあえただれ」と読んでいるが、少し無理である。その腹が常に血にただれていると形容したので、肥の川の赤色を呈していたことの比喩。砂鉄のためである。〔赤加賀智〕訓注。諸本「智」を「知」に作る。本文に「智」とあるのだから、いま意をもって改める。〔酸漿〕ほほづき。ほおずき。諸本みな「酸弓」に誤る。いま、意をもって改める。ことに、真本のごときは「酸将酉」の三字に誤っている。 
【 神代の物語 】大蛇退治(二)
爾、芫須佐之男命、詔二其老夫、是汝之女隅、奉レ於レ吾哉。答白、恐亦不レ覺二御名一爾、答詔、吾隅天照大御突之伊呂勢隅也。【自伊下三字以音】故、今自レ天降坐也。爾、足名椎・手名椎突白、然坐隅恐。立奉。爾、芫須佐之男命、乃於二湯│津│爪│櫛│取│成其童女一而、刺二御美豆良、告二其足名椎・手名椎突、汝等、釀二找鹽折之酒、且作二│迴垣、於二其垣一作二找門、譌レ門結二找佐受岐、【此三字、以音】譌二其佐受岐、置二酒船一高、譌レ船盛二其找鹽折酒一而待。故、隨レ告而、如レ此設備待之時、其找俣蘚呂智、信如レ言來。乃譌レ焙垂二│入己頭、飮二其酒。於レ是、飮醉皆伏寢。爾、芫須佐之男命、拔下其館二御佩一之十拳劔上、切二│散其蛇一隅、肥河變レ血而流。故、切二其中尾一時、御刀之刀筑毀。爾、思レ怪、以二御刀之電一刺割而見隅、在二綾牟刈之大刀。故、取二此大刀、思二異物一而、白二│上於天照大御突一也。是隅草那藝之大刀也。【那藝二字以音。】
爾、速須佐之男命、其の老夫に詔りたまひしく、「これ汝の女ならば、吾に奉らむや。」とのりたまへば、答へて白しけらく、「恐しけれど亦御名を覚らず。」とまをしければ、答へて詔りたまひしく、「吾は天照大御神の伊呂勢なり。【伊より下の三字。音を以ふ。】故、今天より降り坐しつ。」と、のりたまひき。爾に、足名椎・手名椎の神、白しけらく、「然坐さば恐し。立奉らむ。」と、まをしき。爾、速須佐之男命、乃ち其の童女を湯津爪櫛に取り成して、御美豆良に刺して、其の足名椎・手名椎の神に告りたまひしく、「汝等、找塩折の酒を醸み、且垣を作り回し、其の垣に找門を作り、門毎に找佐受岐を結ひ、【この三字、音を以ふ。】其の佐受岐毎に酒船を置きて、船毎に其の找塩折の酒を盛りて待て。」と、のりたまひき。故、告りたまへる随にして、かく設け備へて待つ時に、其の找俣遠呂智、信に言ひしが如来つ。乃ち船毎に己頭を垂入て其の酒を飲みき。ここに、飲み酔ひて皆伏し寝たり。爾、速須佐之男命、其の御佩かせる十拳の剣を抜きて、其の蛇を切り散りたまひしかば、肥の河、血に変りて流れき。故、其の中の尾を切りたまへる時に、御刀の刃毀けぬ。怪しと思ほして、御刀の前を以ちて刺し割きて見たまひしかば、都牟刈の大刀あり。故、此の大刀を取らして、異しき物と思ほして、天照大御神に白し上げたまひき。こは草那芸の大刀なり。【那芸の二字、音を以ふ。】
〔伊呂勢〕ここでは「弟」の意。〔湯津爪櫛〕ゆつつまくじ。「ゆつ」は「五百箇」の約。多くの歯のある櫛。〔取成〕とりなし。変化せしめ。〔找鹽折之酒〕やしほをりのさけ。「找入折の酒」の意。「やしほ」は、幾度も。「をり」は、折り返し、くりかえしの意。よく、ていねいにつくった酒。〔釀〕かみ。酒をかもしつくり。「かむ」は「噛む」で、もと米を噛み、つばで醗酵させて酒をつくったことに起る語。「かもす」は、ここに起る語。大隅風土記に、米を噛んで、つはで醗酵させて酒をつくった記事が見える。奥山などで、今も発見される猿酒も、猿が果実類を噛んでつくった酒。記伝の説は非。〔找門〕やかど。記伝の訓「やつのかど」は非。多くの門。〔找佐受岐〕やさずき。多くの仮抃・桟敷。「さずき」は仮りに構えた棚。「やつのさずき」は非。〔酒焙〕さかぶね。酒槽。酒を湛えておく器。桶様のもの。〔設備〕まけそなへ。設け備え。〔己〕おのもおのも。おのおの。〔皆〕みな。諸本「死由」の二字に作り、真本は「死田」の一字に作る。この「死田」を「留」と見る向きもあるが、「皆」の誤写であろう。「とどまり伏し」は、おちつかぬ。よって、底本に従い「皆」と訓ずる。〔切散〕きりはふり。切りはなし。記伝は、下巻、允恭天皇の段の歌謡「おほきみを島に波夫良ば云々」の「波夫良」を「ハブラ」と訓じているが誤りである。「ハフラ」である。「夫」は「フ」「ブ」 の仮名。〔變レ血流〕ちになりてながれき。これ、肥の河の「ひ」が「赤」の意であり、砂鉄によって水が赤いことの比喩である。〔綾牟刈之大刀〕つむがりのたち。「がり」と濁るべきである。先がとがり、刀身のずんぐりした形の太刀。菖蒲の葉のよう形の太刀。記伝は「利刀」の意とするが、ただ一瞥しただけで、切れ味がよいかどうか分かるものではない。まず形が目にうつったのだから、上述の意に解する方が可。ただし、まだ研究の余地はある。〔草那藝之大刀〕くさなぎのたち。この称は、後に日本武尊が駿河の賊徒に野に囲まれて火を放たれた時、草を薙いで火難を免れたことによるもので、もとの称は「天の叢雲の剣」という。紀の一事に「本名、天叢雲剣。蓋大蛇所レ居之上、常有二雲気。故、以名歟。」とある。三種の神器の一とされ、熱田神宮にまつられている。 
【 神代の物語 】須賀の宮
故、是以、其芫須佐之男命、宮可二芟作一之地、求二出雲國。爾、到二坐須賀【此二字以音。下效此。】地一而詔之、吾來二此地、我御心須賀須賀斯而、其地作レ宮坐。故、其地隅、於レ今云二須賀一也。枴大突、初作二須賀宮一之時、自二其地一雲立騰。爾、作二御歌。其歌曰、 夜久毛多綾 伊豆毛夜幣賀岐 綾揺碁微爾 夜幣賀岐綾久流 曾能夜幣賀岐袁 於レ是、喚二其足名椎突、告言、汝隅任二我宮之首。且負二名赦稻田宮主須賀之找耳突。
故、ここをもて、其の速須佐之男命。宮造作るべき地を、出雲国に求ぎたまひき。爾に、須賀【この二字、音を以ふ。下これに效ふ。】の地に到り坐して詔りたまひしく、「吾此の地に来まして、我が御心須賀須賀斯。」と、のりたまひて、其の地に宮を作りて坐しましけり。故、其の地をば、今に須賀と云ふなり。枴の大神、初め須賀の宮を作らしし時に、其の地より雲立ち騰りき。爾、御歌を作みたまふ。其の歌に曰く、  (一) 找雲立つ 出雲找重垣 夫妻籠みに 找重垣作る その八重垣を ここに、其の足名椎の神を喚して、告言りたまひしく、「汝をば我が宮の首に任く。」と、のりたまひ、且名号を稲田の宮主須賀の找耳の神と負せたまひき。
〔須賀〕すが。「清」にも作る。出雲国(島根県)大原郡海潮村の地。今、この付近に須賀の小川などがある。〔須賀須賀斯〕すがすがしい。形容詞。さわやかである。気持がよい。紀には「清清之」とある。〔於レ今云二須賀一也〕いまにすがといふなり。字義に即して読むベきである。これは、古書の好んで説く地名起原説であって、信ずるに足らぬ。もともと須賀という地があったのである。〔夜久毛多綾〕枕詞ではなくて、多くの雲の立ちのぼる実景を詠じたもの。〔伊豆毛〕これも「雲の涌き出る」義。〔夜幣賀岐〕「やへ」は找重。「かき」は「垣」 の意ではなく、上代の住居の部屋と部屋とを限るために、上から垂れ下げる幕のこと。多くの綾かき。〔綾揺〕「妻」だけの意ではなく、「夫妻」の義。〔碁微〕「こもる」こと。〔袁〕感動の終助詞。「ゑ」とも言う。一首の意は、ああ、雲が立つ雲が立つ。涌き出る雲は、八重の綾垣。われらふたりのこもらむためと、八重垣つくる。あめつちの心うれしや、その八重垣よ。〔首〕おひと。「大人」の略。首上。ひとごのかみ。日本紀私記に「首、読二於比止。」とあり、記伝等の訓「おびと」は非。〔稻田宮主須賀之八耳突〕いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ。稲田は上述の地名。もと、須賀と同一の地か。そうとすれば、稲田の宮と須賀の宮とは同じ。「找耳」は、恐らく「聰明」の意であろう。一度に十人の訴えを聞いたという聖徳太子を「豊聰耳太子」という類。「耳」は「御身」の意にも用いるが、それでは、上の「找」の意は説けない。記伝の説は、恐らく非。 
【 神代の物語 】出雲神の系譜
故、其櫛名田比賣以、久美度邇起而館レ生突名、謂二找嶋士奴美突。【自士下三字以音。下效此。】樸、娶二大山津見突之女、名突大市比賣、生子、大年突。筱宇聟之御魂突。【二柱。宇聟二字、以音。】兄找嶋士奴美突、娶二大山津見突之女、名木埴知流【此二字以音】比賣、生子、布波能母遲久奴須奴突。此突、娶二淤聟美突之女、名日河比賣、生子、深淵之水夜禮埴突。【夜禮二字以音】此突、娶二天之綾度閉知泥上突、【自綾下五字以音】生子、淤美豆奴突。【此突名以音】此突、娶二布怒豆怒突【此突名以音】之女、名布帝耳上突、【布帝二字以音】生子、天之銭衣突。此突、娶二刺國大上突之女、名刺國若比賣、生子、大國主突。亦名謂二大焜牟遲突、【牟遲二字以音】亦名謂二葦原色許男突、【色許二字以音】亦名謂二找千矛突、亦名謂二宇綾志國玉突。【宇綾志三字以音】忸有二五名。
故、其の櫛名田比売を以て、久美度に起して生みませる神の名を、找島士奴美神と謂す。【士より下の三字、音を以ふ。下これに效ふ。】又、大山津見神の女、名は神大市比売に娶ひて、生みませる子、大年神。次に宇聟之御魂神。【二柱。宇聟の二字、音を以ふ。】兄找島士奴美神、大山津見神の女、名は木花知流【この二字、音を以ふ。】比売に娶ひて、生みませる子、布波能母遅久奴須奴神。此の神、淤聟美神の女、名は日河比売に娶ひて、生みませる子、深淵之水夜礼花神。【夜礼の二字、音を用ふ。】此の神、天之綾度閉知泥上神に娶ひて、【綾より下の五字、音を以ふ。】生みませる子、淤美豆奴神。【この神の名、音を以ふ。】此の神、布怒豆怒神【此の神の名、音を以ふ。】の女、名は布帝耳上神【布帝の二字、音を以ふ。】に娶ひて、生みませる子、天冬衣神。此の神、刺国大上神の女、名は刺国若比売に娶ひて、生みませる子、大国主神。亦の名を大焜牟遅神と謂し、【牟遅の二字、音を以ふ。】亦の名を葦原色許男神【色許の二字、音を以ふ。】と謂し、亦の名を找千矛神と謂し、亦の名を宇都志国玉神と謂す。【宇綾志の三字、音を以ふ。】忸せて五つの名あり。
〔找嶋士奴美突〕やしましのみのかみ。紀には「清之湯山主三名狭漏彦找島篠」とある。同一神である。紀の訓注に「篠、此云二斯奴。」とある。宣長は「やしまじぬみのかみ」と読むべきことを力説しているが、「士」はもとより「シ」、「奴」は「ノ」の甲類。「やしましのみのかみ」と読むべきである。「找島篠」の義、未詳。「美」は「御身」の略であろう。「找島士奴」と解し、「大找州の主」などの解は「奴」を「ヌ」と誤訓したことによるひがごとである。〔大山津見突〕おほやまつみのかみ。上に足名椎が「僕者国津神、大山津見神之子焉。」とある。ここに、二か所にわたって「大山津見神」の名が見えているが、足名椎の父神と同一とは見られず、「国つ神」の意で、それぞれ別の神であろう。 
【 神代の物語 】因幡の白兎
故、此大國主突之兄弟、找十突坐。然、皆國隅袢二於大國主突。館二│以袢一隅、其八十突、各有下欲レ婚二稻監之找上比賣一之心上、共行二稻監時、於二大焜牟遲突一負レ嗇爲二從隅、率往。於レ是、到二氣多之電一時、裸菟伏也。爾、找十突謂二其菟一云、汝將レ爲隅、浴二此恭鹽、當二風吹一而、伏二高山尾上。故、其菟、從二找十突之辻一而伏。爾、其鹽隨レ乾、其身皮悉風見二吹拆。故、痛苦泣伏隅、最後之來大焜牟遲突、見二其菟一言、何由汝泣伏。菟答言、僕在二淤岐嶋、雖レ欲レ度二此地、無二度因一故、欺二恭和邇一【此二字、以音。下效此。】言、吾與レ汝競、欲レ計二族之多少。故、汝隅、隨二其族在悉一率來、自二此嶋一至二于氣多電、皆列伏度。爾、吾蹈二其上一走乍讀度、於レ是、知下與二吾族一孰多上。如レ此言隅、見レ欺而列伏之時、吾蹈二其上一讀度來、今將レ下レ地時、吾云、汝隅我見レ欺言竟來、伏二最端一和邇、捕レ我、悉搭二我衣服。因レ此泣患隅、先行找十突之命以、誨下│告浴二恭鹽一當レ風伏上故、爲レ如レ教隅、我身悉傷。於レ是、大焜牟遲突、教二│告其菟、今緝往二此水門、以レ水洗二汝身、來取二其水門之蒲乱、敷散而、輾二│轉其上一隅、汝身如二本膚一必差。故、爲レ如レ辻、其身如レ本也。此稻監之素菟隅也。於レ今隅謂二菟突一也。故、其菟白二大焜牟遲突、此找十突隅、必不レ得二找上比賣、雖レ負レ嗇、汝命獲之。
故、此の大国主神の兄弟、找十神坐しき。然れども、皆国をば大国主神に避りまつりき。避りまつりし所以は、其の找十神、各稲羽の找上比売を婚はむとする心ありて、共に稲羽に行きける時に、大焜牟遅神に嗇を負せて従者として率て往きき。ここに、気多の前に到れる時に、裸なる菟伏せるあり。爾、找十神、其の菟に謂云ひけらく、「汝為むは、此の海塩を浴み、風の吹くに当たりて、高山の尾の上に伏せ。」と、いひき。故、其の菟、找十神の教へしに従ひて伏しき。爾に、其の塩の乾くに随ひて、其の身の皮悉に凰に吹き拆かえし故、痛み苦しみ泣き伏しければ、最後に来ませる大穴牟遅神、其の菟を見て言ひたまひしく、「何由も汝は泣き伏せる。」と、いひたまへば、答へて言しけらく、「僕、淤岐島に在りて、此の地に度らまく欲りつれども、度らむ因無かりし故に、海の和邇【この二字、音を以ふ。下これに效ふ。】を欺きて言ひけらく、『吾と汝と競べて、族の多き少なきを計らむ。故、汝は其の族の在りの悉の随率て来て、此の島より気多の前まで、皆列み伏し度れ。爾、吾其の上を踏みて走りつつ読み度り、ここに、吾が族と孰が多きかを知らむ。』と、かく言ひしかば、欺かえて、列み伏せる時に、吾其の上を踏みて、読み度り来て、今地に下りむとせし時に、吾云ひしく、『汝は我に欺かえつ。』と言ひ竟りければ、最端に伏せる和邇、我を捕らえて、悉に我が衣服を剥ぎつ。此に因りて泣き患ひしかば、先だちて行きませる找十神の命以ちて、『海塩を浴みて風に当たり伏せ。』と誨へ告りたまひし故に、教への如せしかば、我が身悉に傷はえつ。」とまをしき。ここに、大焜牟遅神、其の菟に教へたまひけらく、「今急く此の水門に往きて、水以て汝が身を洗ひ、即ちに其の水門の蒲の黄を取りて、敷き散らして、其の上に輾転びてば、汝が身、本の膚の如必ず差えむ。」と、をしへたまひき。故、教への如せしかば、其の身、本の如くになりき。此は稲羽の素菟という者なり。今は菟神と謂ふなり。故、其の菟、大焜牟遅神に白しけらく、「此の找十神は、必ず找上比売を得たまはじ。嗇を負ひたまへれども、汝が命ぞ獲たまはむ。」と、まをしき。
☆因幡の白兎の説話は、南方海洋諸島に多い説話であり、それが伝来し、大国主神に結びつけて語られたものであり、かつ、同神が医薬の神であることをも物語る説話である。この説話は、徳川義親氏の論文にも、 Dixon の Oceanic Mythology にも、多く収録されている。 〔稻監之找上比賣〕いなばのやかみひめ。因幡の找上(夜加美)の地に住んでいた女神。今も、鳥取県に八上郡がある。〔嗇〕ふくろ。説文に「嚢也。」とあり、「袋」と同音、同義。〔氣多之電〕けたのさき。因幡国気多郡の岬。〔裸〕あかはだ。垂仁紀に「阿箇潘娜」の語があり、雄略紀にも「禿」の語がある。毛をむしりとられて、赤膚となったこと。〔菟〕うさぎ。万葉に「乎佐芸」とあるが、東国方言である。しかし、この「う」がワ行の「う」であることを知るに足る。「大」は「腓」に通じ、漢書や佐伝などに用いられている。記伝に「大を兎とはかくべく、兎を大とはかくまじきことなりとぞ。まことにさもあるべきことなり。」などとあるのは、碩学の言にも似ぬことである。〔恭鹽〕うしほ。海水。潮。〔尾上〕をのへ。ふもとの丘の上。〔鹽〕しほ。「うしほ」の上略。今日いう「塩」のことではない。〔淤岐嶋〕おきのしま。紀は「億岐洲」に作る。沖の方にある島の意。島根県の海上約四〇海里の沖合にある小群島の称。〔和邇〕鰐。crocodileであって、断じて鮫や鱶などではない。この説話が南方説話であることを銘記すべきである。〔族〕うがら。記伝は「ともがら」と読むべしというが、「族」は神代紀に「宇我羅」とあり、同族・同類の義。〔多少〕おほきすくなき。延本・底本等に「多小」とあるが、真本等に従う。〔讀〕よみ。数をかぞえ。上代では、数をかぞえるを「よむ」と言った。今日、「さばをよむ」などに、そのおもかげを残している。〔最端〕いやはし。最も端。〔衣服〕きもの。兎の毛を称したもの。〔水門〕みなと。水の出入する門。港。〔蒲乱〕かまのほ。「かまのはな」の訓も誤りではないが、「蒲の穂」の黄色の粉末。これ、大国主神が医薬の神なることを物語る。蒲の穂の黄色な粉末を敷き散らして、その上にまろび、むしられて赤裸になった傷を治癒せしめた素朴な治療法。〔輾轉〕こいまろび。「臥い転び」の意。ころがりまわる。「展転」「反側」などの文字を、古書では「こいまろび」と訓じている。 
【 神代の物語 】大国主神の危難(一)
於レ是、找上比賣、答二找十突一言、吾隅不レ聞二汝等之言、將レ嫁二大焜牟遲突。故爾、找十突怒、欲レ殺二大焜牟遲突、共議而、至二伯伎國之手間山本一云、赤猪在二此山。故、和禮【此二字以音】共膊下隅、汝待孚。若不二待孚一隅、必將レ殺レ汝云而、以レ火燒二似レ猪大石一而轉落。爾、膊下。孚時來於二其石一館二燒著一而死。爾、其御督命、哭患而、參二│上于天、樽二突籥厥日之命一時乃、虔三蚶貝比賣與二蛤貝比賣、令二作活。爾、蚶貝比賣、岐佐宜【此三字以音】焦而、蛤貝比賣持レ水而、塗二母旺汁一隅、成二麗壯夫一【訓壯夫云袁等古】而、出蓆行。
ここに、找上比売、找十神に答へて言ひしく、「吾は汝等の言は聞かじ。大焜牟遅神に嫁はむ。」といひき。故爾、八十神怒りて、大焜牟遅神を殺さむとして、共に議りて、伯伎国の手間山の本に至りて云ひしく、「赤猪、此の山に在るなり。故、和礼【この二字、音を以ふ。】共追ひ下しなば、汝待ち取れ。若し待ち取らずば、必ず汝を殺さむ。」と云ひて、火以て猪に似たる大石を焼きて転ばし落しき。爾、追ひ下したり。取る時に即ち其の石に焼き着かえて死りき。爾に其の御祖命、哭き患ひて、天に参上り、神産巣日之命に請したまひし時に、蚶貝比売と蛤貝比売とを遣して、作り活かしめたまひき。爾、蚶貝比売、岐佐宜【この三字、音を以ふ。】焦がして、蛤貝比売、水を持ちて、母の乳汁と塗りしかば、麗しき壮夫と成りて、【壮夫を訓みてヲトコと云ふ。】出で遊行きき。
〔伯伎國〕ははきのくに。伯耆国の古称。今、島根県に属する。〔手間山本〕てまやまのふもと。記伝は「てまのやまもと」と訓じている。和名抄に「伯耆国会見郡天万郷」とある。その地の山の麓。〔御督命〕みおやのみこと。大国主神の御母なる刺国若比売。〔蚶貝比賣〕きさがひひめ。赤見を神格化した名。その殻の面に刻みがあるので「刻貝」と称したのであろう。出雲風土記島根郡加賀郷の条に「支佐加比比売命」の名が見えている。諸本に「y貝」とあるが、東雅等の説に従う。〔岐佐宜〕「きさぐ」(下二)の連用。「きさぐ」は「研らし削る」義。きりけずる。砕いて粉とする。〔焦而〕こがして。諸本「集」に誤る。「あつめ」では意をなさぬ。字形による誤写なること明らかであるから、いま意をもって改める。「集而」をそのままとして「こがして」と読むは非。〔蛤貝比賣〕うむがひひめ。「がひ」の約は「ぎ」であるが、上を「ききがひひめ」と読むなら、ここも「うむがひひめ」と読むのが妥当「はまぐり」を神格化した語。出雲風土記島根郡法吉郷の条に「宇武賀比比売命」の名が見えている。「うむぎひめ」の訓は、ここでは非。「きさがひひめ」参照。〔持レ水〕みづをもちて。水で。真本・延本等「待承」に作る。「まちうけ」でも意は通ずるが、やはり底本の「みづをもちて」の方が可。粉にした蛤の殻を焼き焦がして、それを水でこねて膏薬のようにしたのである。〔塗二母旺汁一隅〕おものちしるとぬりしかば。母の乳の汁のようにして塗ったので。〔出蓆行〕いであるきき。「いであそびあるきき」と読むも可。 
【 神代の物語 】大国主神の危難(二)
於レ是、找十突見、且欺率二│入山一而、切二│伏大樹、茹矢打二│立其木、令レ入二其中、來打二│離其冰目矢一而拷殺也。爾、亦其御督命、哭乍求隅得レ見、來拆二其木一而孚出活。告二其子一言、汝有二此間一隅、蒹爲二找十突一所レ滅、乃芫虔二於木國之大屋豐古之突御館。爾、找十突覓膊臻而、矢刺之時、自二木俣一漏膩而去。御督命、告レ子云、可レ參二向須佐能男命館レ坐之根堅洲國。必其大突議也。故、隨二詔命一而、參二│到須佐之男之命御館一隅、其女須勢理豐賣出見、爲二目合一而相婚、裝入白二其父一言、甚麗突來。爾、其大突出見而告、此隅謂二│之葦原色許男、來喚入而、令レ寢二其蛇室。於レ是、其妻須勢理豐賣命、以二蛇比禮一【二字以音】授二其夫一云、其蛇將レ咋、以二此比禮一三擧打撥。故、如レ教隅、蛇自靜故、徘寢出之。亦來日夜隅、入二寞公與レ蜂室。且授二寞公・蜂之比禮。教レ如レ先故、徘出之。亦鳴鏑射二│入大野之中、令レ採二其矢。故、入二其野一時、來以レ火迴二│燒其野。於レ是、不レ知レ館レ出之間、鼠來云、触隅富良富良、【此四字以音】外隅須夫須夫。【此四字以音】如レ此言故、蹈二其處一隅、落隱入之間、火隅燒蔬。爾、其鼠咋二│持其鳴鏑一出來而奉也。其矢監隅、其鼠子等皆喫也。
ここに、八十神見て、且欺きて山に率て入りて、大樹を切り伏せ、茹矢を其の木に打ち立て、其の中に入らしめて、即ちに、其の冰目矢を打ち離ちて拷ち殺しき。爾、亦其の御祖命、哭きつつ求ぎたまへば見得て、即ちに其の木を拆きて取り出だして活かしき。其の子に告言りたまひしく、「汝此間に有らば、遂に八十神の為に滅ぼさえむ。」と、のりたまひて、乃ち速やかに木の国の大屋豐古神の御所に虔したまひき。爾、八十神、覓ぎ追ひ臻りて矢刺す時に、木の俣より漏き逃れて去りたまひき。御祖命、子に告云りたまひしく、「須佐能男命の坐します根の堅洲国に参向ふべし。必ず其の大神議りたまはむ。」と、のりたまひき。故、詔命の随に、須佐之男命の御所に参到りしかば、其の女須勢理豐売出で見て、目合して相婚ひまして、還り入りて、其の父のみことに白言したまひしく、「甚麗しき神来つ。」と、まをしたまひき。爾、其の大神出で見て、告りたまひしく、「此は葦原色許男と謂ふものぞ。」と、のりたまひて、即ちに喚び入れて、其の蛇の室に寝しめたまひき。ここに、其の妻須勢理豐売命、蛇の比礼【二字、音を以ふ。】を其の夫に授けて云りたまひしく、「其の蛇咋はむとせば、此の比礼を三たび挙りて打ち撥ひたまへ。」と、のりたまひき。故、教への如せしかば、蛇自ら静かになりし故に、平く寝て出でたまひき。亦来る日の夜は、呉公と蜂との室に入れたまひき。且呉公・蜂の比礼を授けて、先の教への如したまひければ、平く出でたまひき。亦鳴鏑を大野の中に射入れて、其の矢を採らしめたまひき。故、其の野に入りましし時に、即ちに火以て其の野を回し焼きたまひき。 ここに、出でむ所を知らざりし間に、鼠来て云ひけらく、「内は富良富良【この四字、音を以ふ。】外は須夫須夫。【この四字、音を以ふ。】」かく言ひし故に、其処を踏みければ、落ち隠り入りし間に、火は焼け過ぎぬ。爾に、其の鼠、其の鳴鏑を咋ひ持ち出で来て奉りき。其の矢の羽は、其の鼠の子等皆喫ひたりき。
〔茹矢〕ひめや。記伝は「茹レ矢」を「矢を茹め」と読み、底本の欄外に「茹矢」ともある。しかし、下文に「冰目矢」とあるから、ここも「ひめや」と読むこととする。それにしても「茹」や「茄」に「はめる」などの意はなく、延本の欄外に「茄当レ作レ架乎」とあるが、「架」も首肯されぬ。「茹」 「茄」は必ず何かの誤写であろう。〔冰目矢〕ひめや。「はめや」の転であろう。木を割るとき、割れ目に嵌め込む楔形の具。〔拆其木〕そのきをさき。諸本「拆」を「折」に作る。いま、記伝の「今は一本に依れり。」とあるに従う。何本に拠ったか不明であるが、とにかく「折り」では意をなさぬ。〔大屋豐古突〕おほやひこのかみ。紀には「大屋津姫命」とあって女神とされている。スサノヲノミコトの子で、木の国に渡り、植林に功のあった神。「大屋」は「大家」の意で、木材で家を造ることによる神名であろう。〔矢刺〕やさす。「ひめや」を刺し插む。〔須佐能男命〕諸本、ここだけ「之」を「能」に作る。古事記の文字づかいは、決しておごそかではない。いま、そのままとする。〔根堅洲國〕ねのかたすのくに。諸本みな「洲」を「州」に作る。上には「洲」とある。「州」は「くに」と読む文字であり、「洲」は「す」と読む文字であるから、記伝に従って改める。説文に、「洲、水渚也。」とあり、また「本作レ州。後人如レ水以別二州県字。」とあり、和名抄に「水中可レ居曰レ洲。音州。和名、須。」とある。〔須勢理豐賣〕すせりひめ。記伝は「さすらひひめ」の約という。その説の可否はとにかくとして、スサノヲノミコトの女である。それが、スサノヲノミコト六世の孫なる大国主神の妃となるなどは、時空を超越した神話。〔目合〕まぐはひ。目と目とを見合わせて、愛情を示し合うこと。めくばせ。〔蛇〕へみ。和名抄に「蛇、和名倍美。」とあり、後世「へび」という。「み」と「び」とは音通。十二支に「み」の語が残っている。〔蛇比禮〕へみのひれ。「ひれ」は「ひらひら」する布。蛇を撥う功ある布。〔夫〕ひこぢ。「ひこ」は「男」。「ぢ」は尊称。おっと。〔來日〕くる日。あくる日。翌日。〔寞公〕むかで。「蜈蚣」の省字。「百足」とも書く。〔鳴鏑〕なりかぶら。かぶらや。「鏑」は木または鹿の角で、蕪の形に作り、中を空洞にし、数箇の焜を穿って矢に付けるもの。射れば、焜に風が入って鳴る。その鏑を付けた矢。〔大野・野〕「野」は上代から「の」と言った。記伝の訓「おほぬ・ぬ」は誤り。〔触隅富良富良〕うちはほらほら。中は「空洞」の意。「ほら焜」などの「ほら」である。〔外隅須夫須夫〕とはすぶすぶ。外は「すぼまっている」意。「すぶ」と「すぼ」とは音通。入口はすぼまっているが、中は広い。ねずみの住む地中の焜をいう。 
【 神代の物語 】大国主神の危難(三)
於レ是、其妻須世理豐賣隅、持二喪具一而哭來。其父大突隅、思二已死訖、出二│立其野一爾、持二其矢一以奉之時、率二│入家一而、喚二│入找田間大室一而、令レ取二其頭之虱。故爾、見二其頭一隅、寞公多在。於レ是、其妻、以三牟久木實與二赤土、授二其夫一故、咋二│破其木實、含二赤土一唾出隅、其大突、以下│爲咋二│破寞公一唾出上而、於レ心思レ愛而寢。爾、握二其大突之髪、其室譌レ椽、結著而、五百引石孚二│塞其室竿、負二其妻須世理豐賣、來孚下│持其大突之生大刀與二生弓矢、及其天沼琴上而膩出之時、其天沼琴、拂レ樹而、地動鳴。故、其館レ寢大突、聞驚而、引二│仆其室。然、解二結レ椽髪一之間、蘚膩。故爾、膊二至黄泉比良坂、遙望、呼二│謂大焜牟遲突一曰、其汝館レ持之生大刀・生弓矢以而、汝庶兄弟隅、膊二│伏坂之御尾、亦膊二│撥河之瀬一而、意禮【二字以音】爲二大國主突、亦爲二字綾志國玉突一而、其我之女須世理豐賣爲二嫡妻一而、於二宇聟能【三字以音】山之山本、於二底津石根一宮柱布刀斯理【此四字以音】於二高天原一冰椽多聟斯理【此四字以音】而居、是奴也。故、持二其大刀・弓、膊二袢其找十突一之時、譌二坂御尾一膊伏、譌二河瀬一膊撥而、始レ作レ國也。
ここに、其の妻須世理豐売は、喪具を持ちて哭きつつ来ませり。其の父の大神は已に死り訖へぬと思ほして、其の野に出で立たせば、其の矢を持ちて奉る時に、家に率て入りて、找田間の大室に喚び入れて、其の頭の虱を取らしめたまひき。故爾、其の頭を見れば、呉公多在。ここに其の妻、牟久の木の実と赤土とを以て、其の夫に授けたまへば、其の木の実を咋ひ破り、赤土を含みて、唾き出だしたまひければ、其の大神、呉公を咋ひ被りて唾き出だすと以為ほして、心に愛しく思ほして寝ましき。爾に、其の大神の髪を握りて、其の室の椽毎に結ひ着けて、五百引の石を其の室の戸に取り塞へて、其の妻須世理豐売を負ひて、即ちに其の大神の生大刀と生弓矢と、及其の天の沼琴を取り持ちて逃げ出でます時に其の天の沼琴、樹に払れて、地動み鳴りき。故、其の寝ませる大神、聞き驚かして、其の室を引き仆したまひき。然れども、椽に結へる髪を解かす間に、遠く逃げたまひき。故爾、黄泉比良坂に追ひ至りて、遥に望けて、大焜牟遅神を呼ばひて謂りたまひしく、「其の汝が持たる生大刀・生弓矢を以て、汝が庶兄弟をば、坂の御尾に追ひ伏せ、亦河の瀬に追ひ撥ひて、竟礼【二字、音を以ふ。】大国主神と為り、亦宇都志国玉神と為りて、其の我が女須世理豐売を嫡妻と為て、宇聟能山【三字、音を以ふ。】の山本に、底つ石根に宮柱布刀斯理、【この四字、音を以ふ。】高天原に冰椽多聟斯理【この四字、音を以ふ。】て居れ、是奴よ。」と、のりたまひき。故、其の大刀・弓を持ちて、其の找十神を追ひ避くる時に、坂の御尾毎に追ひ伏せ、河の瀬毎に追ひ撥ひて、国を作り始めたまひき。
〔須世理豐賣〕上文すべて「世」を「勢」に作る。これ、古事記の文字づかいの、おごそかでない所以である。また、下文すべて「世」。〔喪具〕はふりつもの。「はふりもの」と読むも可。葬送に必要な品物。葬具。〔八田間大室〕やたまのおほむろ。「田」は記伝のいうごとく「箇」の転であろう。多くの間(へや)のある大きな石屋。上代の住居は石屋。〔多在〕おほかり。形動終止。「多く」と「あり」との結合した語。〔牟久〕椋。和名抄に「椋、无久。」とある。にれ科の落葉喬木。花後、球形の核果を結ぶ。それを「むくのこのみ」という。「むくのきのみ」の訓には従わぬ。〔赤土〕はに。「埴」の字を当てる。質の緻密な黄赤色の粘土。〔含〕ふふみ。「ふふむ」の連用。ふくみ。〔唾出〕つばきいだす。つばきと共に吐き出す。〔愛〕はしく。形容詞。「はし」の連用。「はし」は「かわいい」意。因みにいう、「髪を椽ごと結びつけて、云々」の説話は、南方海洋諸島から伝来したもの。〔五百引石〕いほびきのいは。「千引石」とひとしく、五百人もの人の力で、やっと引くほどの大きな石。〔孚塞〕とりさへて。とりふさいで。〔生大刀〕いくたち。「生く」は、執る人を長く生きさせる意。持つ人を長命させる徳を有する大刀。〔生弓矢〕いくゆみや。執る人を長命させる徳を有する弓矢。〔天沼琴〕あめのぬごと。延本・底本等は「詔」に作るが、真本等は「治」に作る。いずれも「沼」の誤写であること明らかである。よって、意をもって改める。底本も欄外に「天沼琴」としるしている「天沼矛」と同趣の語で、「あめの」は美称。「ぬ」は「瓊」とひとしく「玉」の意の美称。りっぱな琴。記伝の「詔言所と云ふことなり。」などは苦しい限り。〔遙望〕はろばろにみさけて。「みさく」は「見放く」(下二)。はるかに、遠く見やって。〔館持〕もたる。もちたる。もてる。もっている。〔庶兄弟〕ままあにおとども。複数に読むべきである。「まま」は「継」にも作る。接頭語。「間間」の意で、隔てのある意。ここでは、異腹の兄や弟ども。〔御尾〕みを。「み」は接頭語。「を」は「丘」。山や坂などのふもとのなだらかな所。〔意禮〕おれ。やや卑しめて言う対称代名詞。おまえ。〔嫡妻〕むかひめ。「むかふ」は正しく「向かふ」意。「正しく夫にむかふ」妻。正妻。正妃。〔宇聟能山〕うかのやま。出雲大社の東に聳え立つ山。宇賀の里と南杵築の里との境にあり、最高峰を鼻高山という。この山を、今は出雲山とも出雲御埼山とも称する。〔布刀斯理〕「ふと」は「太」の意の美称。「しり」は、ここでは「しく」の意。いかめしく、りっぱに建て。〔冰椽〕ひぎ。「ちぎ」に同じ。神武紀は「摶風」に作る。「上摶風」の義。紀の旧訓「ちぎ」。上代の建築で、切り棟の左右の端に用いた長い木を、棟で交叉せしめ、その先を長く空中に突出せしめたもの。今も神社や山間の家造りなどに、装飾として用いられている。〔多聟斯理〕「しり」は「ふとしり」の「しり」に同じ。高く、りっぱに建て。〔是奴〕こやつ。上の「おれ」と同義。こいつ。ただし、愛情をふくめて言った語。〔始レ作レ國〕くにつくりはじめたまひき。「はじめてくにつくりたまひき」の訓は採らぬ。 
 

 

【 神代の物語 】大国主神の女性遍歴(一)
故、其找上比賣隅、如二先期、美刀阿多波志綾。【此七字以音】故、其找上比賣隅、雖二率來、畏二其嫡妻須世理豐賣一而、其館レ生子隅、刺二挾木俣一而羮。故、名二其子一云二木俣突。亦名謂二御井突一也。此找十矛突、將レ婚二高志国之沼河比賣一幸行之時、到二其沼河比賣之家、歌曰、 夜知富許能 聟砲能美許登波 夜斯揺久爾 綾揺揺岐聟泥弖 登富登富斯 故志能久邇邇 佐加志賣蘚 阿理登岐加志弖 久波志賣蘚 阿理登伎許志弖 佐用婆比爾 阿理多多斯 用婆比邇 阿理加用婆勢 多知賀蘚母 伊揺陀登加受弖 淤須比蘚母 伊揺陀登加泥婆 蘚登賣能 那須夜伊多斗蘚 淤曾夫良比 和何多多勢禮婆 比許豆良比 和何多多勢禮婆 阿蘚夜揺邇 奴延波那伎 佐怒綾登理 岐藝斯波登與牟 爾波綾登理 聟豆波那久 宇禮多久母 那久那留登理加 許能登理母 宇知夜米許世泥 伊斯多布夜 阿揺波勢豆加比 許登能加多理 其登母 許蘚婆 爾、其沼河日賣、未レ開レ竿、自レ触歌曰、 夜知富許能 聟砲能美許等 怒延久佐能 賣邇志阿禮婆 和何許許呂 宇良須能登理敍 伊揺許曾婆 知杼理邇阿良米 能知波 那杼理邇阿良牟蘚 伊能知波 那志勢多揺比曾 伊斯多布夜 阿揺波世豆聟比 許登能加多理 其登母 許蘚婆 阿蘚夜揺邇 比賀聟久良婆 奴婆多揺能 用波伊傳那牟 阿佐比能 惠美佐聟延岐弖 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 阿和由岐能 和加夜流牟泥蘚 曾陀多岐 多多岐揺那賀理 揺多揺傳 多揺傳佐斯揺岐 毛毛那賀爾 伊波那佐牟蘚阿夜爾那古斐岐許志 夜知富許能 聟砲能美許登 許登能聟多理碁登母 許蘚婆 故、其夜隅、不レ合而、明日夜爲二御合一也。
故、其の找上比売は、先の期の如、美刀阿多波志都。【この七字、音を以ふ。】故、其の找上比売をば、率て来ましつれども、其の嫡妻須世理豐売を畏みて、其の生ませる子をば、木の俣に刺し挟みて返りましき。故、其の子の名を木俣神と云す。亦の名を御井神とも謂す。此の找千矛神、高志国の沼河比売を婚はむと幸行ししときに、其の沼河比売の家に到りて、歌ひたまひしく、 (二) 找千矛の 神の命は 找洲国 妻覓ぎかねて 遠遠し 越の国に 賢し女を ありと聞かして 細し女を ありと聞こして さ婚ひにあり立たし 婚ひに あり通はせ 大刀が緒も 未だ解かずて 襲をも 未だ解かねば 少女の 寝すや板戸を おそぶらひ 我が立たせれば ひこづらひ 我が立たせれば 青山に ぬえは鳴き さ野つ鳥 きぎしはとよむ 庭つ鳥 鶏は鳴く うれたくも 鳴くなる鳥か この鳥も うちやめこせね いしたふや 天馳せ使ひ 事の語り言も 此をば 爾、其の沼河日売、未だ戸を開かずて、内より歌ひけらく、 (三) 八千矛の 神の命 怒澂草の 女にしあれば 吾が心 浦洲の鳥ぞ 今こそは 千鳥にあらめ 後は 和鳥にあらむを 命は な死せたまひそ いしたふや 天馳せ使ひ 事の語り言も 此をば (四)青山に 日が隠らば ぬばたまの 夜は出でなむ 朝日の咲み栄え来て 栲綱の 白き腕 沫雪の 若やる胸を そ叩き 叩きまながり ま玉手 玉手さし纏き 股長に 寝は寝さむを あやに な恋ひきこし 找千矛の 神の命 事の語り言も 此をば 故、其の夜は合はさずて、明くる日の夜、御合したまひき。
☆記紀の歌謡は、万葉がなのうち、字音仮名のみを用いているが、記の清濁などの用い方は、記伝の言うような「おごそかに分けて書いている」ものではない。この部分の清濁混用を見るに、「麻岐」の「岐」は 「ギ」、「岐加志弖」の「岐」は「キ」。「用婆比」の「婆」は「バ」、「加用婆勢」の「婆」は「ハ」。「伊多斗」の「斗」は「ド」、他では「ト」。また、「美許登」「美許等」のごとく、「ト」に異なるかなを用いている類であって、その用字法は必ずしも、おごそかなものではない。記伝の説に迷わされてはならぬ所以である。 〔美刀阿多波志綾〕「みと」は「御処」。「くみど」に同じ。夫婦のこもり寝る処。「あたはす」は「婚はす」。「みとのまぐはひ」「くみどにおこす」などとひとしく、「交合す」の義。交合した。〔刺挾〕さしはさみ。古訓古事記は「挾」を「狭」に誤り刻す。〔御井突〕みゐのかみ。上代語の「井」は「泉」の意。「泉の神」であって、上代、泉を重要視したあらわれであろう。記伝に「此の神、処処に井を作りて、民の利をなしたまへる御功ありしに因りて、称へ奉れる御名なるべし。」とあるは、「井」の解釈を誤ったものであろう。〔高志國〕こしのくに。越の国。越前・越中・越後などの総称であるが、ここは越後をいう。今も新潟県に「古志郡」の郡名が残っている。ここの「越」は新潟県西頸城郡沼川郷のこと。この地に「奴奈川神社」がある。大国主神が出雲から越後まで通ったとは、時空を超越して神話の常。さて、「越し」は出雲の「高志」の条でも説いたごとく、中央から野山を越して行く地の称で、記伝は「山を越えて行く国なる故の名と云ふは、ひがごとなり。若し然らば古延とこそ云ふべけれ。」と説いているが、これこそひがごとである。シナで中央から野山を越してゆく南方の地を「越」といい、その地方を総称して「諸越」と呼び、わが国では、これを訓読して「もろこし」と言った。もし、記伝の説によるならば、「もろごえ」とでも呼ぶべきことになる。〔沼河比賣〕ぬなかはひめ。万十三の三二四七に「沼名河の底なる玉」とあり、「ぬ」は「瓊」の転。玉。「な」は「の」に同じ。「玉のように美しい川」の意から、美しい少女の意の名であろう。〔夜斯揺久爾〕大找洲の国。日本全土。〔佐加志賣〕かしこい女。〔久波志賣〕「くはし」は、美しい。美しい少女。
〔佐用婆比〕「さ」は接頭語。「よばひ」は「呼び合ひ」の約。男女が呼び合って、婚を求めること。求婚。〔阿理多多斯・阿理加用婆勢〕あり立たし・あり通はせ。「あり」は接頭語。立ち行かれ・通わせられ。〔淤須比〕襲。上古、男女ともに用いた一種の服。顔を隠すために、頭からかぶり、衣の裾まで垂れた長い布。〔那須〕寝す。万五の八〇二に「まなかひにもとなかかりて、安眠し奈佐ぬ」の「なす」である。「少女の寝ている部屋の板戸を」であって、記伝の「少女の鳴すや板戸を」ではない。「少女が板戸を鳴らす」では意をなさぬ。
〔淤曾夫良比〕「押そ振ら」に継続の意の接尾語「ふ」のついた動詞「おそぶらふ」の連用。押しゆるがし。ゆさぶり。〔比許豆良比〕「引き争ふ」の意の「ひこづらふ」の連用。強く引き。ひっぱり。万十三の三三〇〇にも「そは舟に綱孚りかけ、引豆良比」とある。〔奴延〕ここの「ぬえ」は「とらつぐみ」の異称。燕雀目ツグミ科。夜間、口笛を吹くような声を発して鳴く。源頼政の退治したという「ぬえ」ではない。〔佐怒綾登理〕「さぬつとり」ではない。「怒」は「ノ」の甲類。「さ」は接頭語。「野に住む鳥」の意で、「きぎし」すなわち「きじ」の枕詞のように用いた語。〔登與牟〕鳴きひびく。ひびくように鳴く。〔爾波綾登理〕庭つ鳥。庭に住む鳥の意で、「かけ」すなわち「にわとり」の枕詞のように用いた語。〔宇禮多久母〕「うれたく」は「うれたし」の連用。「心痛し」の約転。にくくも。いまいましくも。うらめしくも。〔宇知夜米許世泥〕「うち」は接頭語。「やめ」は止め。「こせ」は願望の意の動詞「おこす」(虔す)と同義の「こす」の命令形。「ね」は促すの意の助詞。止めて欲しねえ。記伝に、こちたき説明があるが、誤りである。〔伊斯多布夜〕諸説があって決定しがたいが、契沖らの説「石飛ぶや」の転とする説が最も妥当であろう。「石の飛ぶように速く」の意をもって、「天馳せ使ひ」に冠する枕詞と解しておく。〔阿揺波勢豆加比〕天を馳せ翔りて飛ぶ鳥のように速い使い。〔許登能加多理其登母許蘚婆〕「其」は下文みな「碁」。ここの「其」も音「ゴ」。事の語り言も此をば。これをば、昔から語り伝えられたことであるよ。恐らく、語り部が長い口誦の後に言う、定まりの文句であろう。それゆえ、長い歌謡の最後に、この文句が、記中、しばしば用いられている。〔怒延久佐能〕「怒」は「ノ」の甲類。「萎え草」の転。「なえしおれた草」のように、弱弱しい意から「女」にかかる枕詞。「な」は「の」に同じ。「ぬなと」「なみなと」「はやすひなと」「ここな奴」などの「な」は「の」の意。「な」が「ぬ」に転ずる例はない。
ゆえに「ぬえくさの」非。〔宇良須〕浦洲。浦渚。海辺。〔知杼理〕浦洲にすだく千鳥。真本等、字形により「知」を「和」に誤る。真本は、きわめて誤写の多い本であるのに、この「和」をとって、「我鳥」と解する人があるが、きわめて非。「いま、わが心は浦洲に飛び回る千鳥のように、騒いで、おちつかないが││」の意。〔那杼理〕和鳥。心のなごやかな、おちついた鳥。「ちどり」に対して言う。契沖らの「汝鳥」説は「我鳥」の誤りなるごとく、きわめて非。記伝の説「今こそ逢ひがたくて、かく浦洲の千鳥の如く、心の騒ぐとも、後には必ず逢ひ見て、心の平和べきと云ふなり。」が、最も正しい。〔那志勢多揺比曾〕死に給うことなかれ。〔阿蘚夜揺〕青山。草木の葉の青々と茂っている山。〔奴婆多揺能〕枕詞。万葉に「烏羽玉の」ともあり、「からすおうぎ・ひおうぎ」の実は烏の羽のように黒いことから、「黒」「夜」などに冠する。〔惠美佐聟延〕咲み栄え。朝日の、かがやかしく昇ることの比喩。〔多久豆怒能〕「栲綱の」の転。栲綱は白いから、「白」に冠する枕詞。「な」と「の」との同義なること、上述のとおり。「な」が「ぬ」に転ずることはない。「たくづぬの」は非。「怒」は「ノ」の甲類。〔多陀牟岐〕「腕」の古語。〔阿和由岐能〕沫雪の。一般的には「消」の枕詞としているが、ここでは「若やる胸」に冠している。「まだ固まらぬ若々しい胸」に、比喩的に冠したもの。〔曾陀多岐〕そっと叩き。〔揺那賀理〕「な」が「ぬ」に通ずるとの説は、恐らく非。「な」は「た」に通ずる。「またがり」か。「ももなが」参照。〔揺多揺傳〕「ま」も「たま」も美称。「手」の美称。下の「多麻伝」も同じ。〔佐斯揺岐〕差し纏き。手をさし出して巻き。互に抱き合い。〔毛毛那賀〕股長。股を長くのばすこと。〔伊波那佐牟蘚〕寝は寝さむを。寝ましょうものを。〔阿夜爾〕ひどく。むやみに。〔那古斐岐許志〕「きこし」は「聞こし」。「言ひ」の敬語。恋ひのたまふことなかれ。〔不レ合而〕あはさずて。婚はさずて。交合しないで。 
【 神代の物語 】大国主神の女性遍歴(二)
樸、其突之嫡后須勢理豐賣命、甚爲二嫉妬。故、其日子遲突、和備弖、【三字以音】自二出雲一將レ上高二│坐倭國一而束裝立時、片御手隅、覿二御馬之鞍、片御手蹈高二│入其御鐙一而歌曰、 奴婆多揺能 久路岐美豆斯蘚 揺綾夫佐爾 登理與曾比 淤岐綾登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許禮婆布佐波受 幣綾那美 曾邇奴岐宇弖 蘇邇杼理能 阿蘚岐美豆斯蘚 揺綾夫佐邇 登理與曾比 淤岐綾登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許母布佐波受 幣綾那美 曾邇奴棄宇弖 夜揺賀多爾 揺岐斯阿多泥綾岐 曾米紀賀斯流邇 斯米許呂母蘚 揺綾夫佐邇 登理與曾比 淤岐綾登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許志與呂志 伊刀古夜能 伊毛能美許等 牟良登理能 和賀牟禮伊那婆 比氣登理能 和賀比氣伊那婆 那聟士登波 那波伊布登母 夜揺登能 比登母登須須岐 宇那加夫斯 那賀那加佐揺久 阿佐阿米能 佐疑理邇多多牟敍 和加久佐能 綾揺能美許登 許登能加多理碁登母 許蘚婆 爾、其后、取二大御酒坏、立依指擧而、歌曰、 夜知富許能 聟砲能美許登夜 阿賀淤富久邇奴斯 那許曾波 蘚邇伊揺世婆 宇知砲流 斯揺能佐岐邪岐 加岐砲流 伊蘇能佐岐淤知受 和加久佐能 綾揺母多勢良米 阿波母與 賣邇斯阿禮婆 那蘚岐弖 蘚波那志 那蘚岐弖 綾揺波那斯 阿夜加岐能 布波夜賀斯多爾 牟斯夫須揺 爾古夜賀斯多爾 多久夫須揺 佐夜具賀斯多爾 阿和由岐能 和加夜流牟泥蘚 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 曾陀多岐 多多岐揺那賀理 揺多揺傳 多揺傳佐斯揺岐 毛毛那賀邇 伊蘚斯那世 登與美岐 多弖揺綾良世 如レ此歌來、爲二宇岐由比一【四字以音】而、宇那賀氣理弖【六字以音】至レ今鎭坐也。此謂二│之突語一也。
また其の神の嫡后須勢理豐売命、甚く嫉妬したまひき。故、其の日子遅の神和備弖、【三字、音を以ふ。】出雲より倭国に上り坐さむとして、束装ひ立たす時に、片御手をば、御馬の鞍に繋け、片御足をは其の御鐙に踏み入て、歌ひたまひしく、 (五)ぬばたまの 黒き御衣を まつぶさに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時 はたたきも これはふさはず 辺つ波 磯に脱ぎ棄て 掻鳥の 青き御衣を まつぶさに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時 はたたきも 此もふさはず 辺つ波 磯に脱ぎ棄て 山がたに 蒔きし あたね搗き 染め木が汁に 染め衣を まつぶさに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時 はたたきも 此しよろし いとこやの 妹の命 群鳥の 我が群れ往なば 引け鳥の 我が引け往なば 泣かじとは 汝は言ふとも やまとの 一本薄 うなかぶし 汝が泣かさまく 朝雨の さ霧に 立たむぞ 若草の 妻の命 事の語り言も 此をば 爾に其の后、大御酒坏を取らして、立ち依り指挙げて、歌ひたまひしく、 (六)找千矛の 神の命や あが大国主 汝こそは 男にいませば うち見る 島の崎崎 かき見る 磯の崎おちず 若草の 妻持たせらめ 吾はもよ 女にしあれば 汝を措て 夫はなし 汝を措て 夫はなし 綾垣の ふはやが下に むしぶすま にこやが下に たくぶすま さやぐが下に 沫雪の 若やる胸を たくづのの 白きただむき そだたき たたきまながり ま玉手 玉手 さし纏き 股長に 寝をし寝せ 豊御酒 たてまつらせ かく歌ひたまひて、宇岐由比【四字、音を以ふ。】して、宇那賀気理弖、【六字、音を以ふ。】今に至るまで鎮まり坐す。これを神語と謂ふなり。
〔須勢理豐賣命〕ここでは、再び「勢」の文字を用いている。記の表記法の不統一を示すもの。〔嫉妬〕うはなりねたみ。嫉妬。語のおこりは、こなみ(老妻)が、うはなり(若妻)をねたむことであるが、ただ「嫉妬」の意となる。因みに、こなみを前妻、うはなりを後妻と見るは非。上代、ことに貴族は幾人もの妻を持っていた。老いた本妻が、若い次妻をねたむのである。〔日子遲〕ひこぢ。おっと。上に出ている。〔和備〕「佗ぶ」の連用。悲しく思い。困却し。〔倭國〕やまとのくに。大和国をいう。大国主神が大和国に行こうとしたなどは、時空を超越した神話の常であるが、その分身なる大物主神が大和の三諸山に祭られていることなどをも思い合わせると、出雲と大和とは、常に近く親しいものと考えられ、出雲族と天孫族との融合・統一から来た思想であると思われる。 
【 神代の物語 】大国主神の子孫
故、此大國主突、娶下坐二蹴形奧津宮一突、多紀埋豐賣命上生子、阿遲【二字以音】午高日子根突。筱妹高比賣命。亦名下光比賣命。此之阿遲午高日子根突隅、今謂二聟毛大突一隅也。大國主突、亦娶二突屋楯比賣命、生子、事代主突。亦娶二找嶋牟遲能突【自牟下三字以音】之女鳥耳突、生子、鳥鳴恭突。【訓鳴云那留】此突、娶二日名照額田豐蕈男伊許知邇突、【田下豐樸自伊下至邇皆以音】生子、國竄富突。此紳、娶二葦那陀聟突、【自那下三字以音】亦名找河江比賣、生子、芫甕之多氣佐波夜遲奴美突。【自多下找字以音】此突、娶二天之甕主突之女電玉比賣、生子、甕主日子突。此突、娶二淤加美突之女比那良豐賣、【此突名以音】生子、多比理岐志揺流美突。【此突名以音】比突、娶二比比羅木之其花揺豆美突【木上三字、花下三字、以音】之女活玉電玉比賣突、生子、美呂浪突。【美呂二字以音】此突、娶二敷山主突之女呟沼馬沼押比賣、生子、布竄富鳥鳴恭突。此突、娶二若晝女突、生子、天日腹大科度美突。【度美二字以音】此突、娶二天狹霧突之女蘚津待根突、生子、蘚津山岬多良斯突。  右件、自二八嶋士奴美突一以下、蘚津山岬帶突以電、稱二十七世突。
故、此の大国主神、蹴形の奥津宮に坐す神、多紀理豐売命に娶ひて、生みませる子、阿遅【二字、音を以ふ。】午高日子根神。次に妹高比売命。亦の名は下光比売。此の阿遅午高日子根神は、今、聟毛大御神と謂す者なり。大国主神、亦神屋楯比売命に娶ひて、生みませる子、事代主神。亦找島牟遅能神【牟より下の三字、音を以ふ。】の女鳥耳神に娶ひて、生みませる子、鳥鳴海神。【鳴を訓み云てナルとふ。】此の神、日名照額田豐道男伊許知邇神に【田の下の豐、又伊より下の邇に至る、皆音を以ふ。】娶ひて生みませる子、国忍富神。此の神、葦那陀聟神、【那より下の三字、音を以ふ。】亦の名は找河江比売に娶ひて、生みませる子、速甕之多気佐波夜遅奴美神。【多より下の找字、音を以ふ。】此の神、天之甕主神の女前玉比売に娶ひて、生みませる子、甕主日子神。此の神、淤加美神の女比那良志豐売に娶ひて、【この神の名、音を以ふ。】生みませる子、多比理岐志麻流美神。【この神の名、音を以ふ。】此の神、比比羅木之其花麻豆美神【木の上の三字、花の下の三字、音を以ふ。】の女活玉前玉比売神に娶ひて、生みませる子、美呂浪神。【美呂の二字、音を以ふ。】此の神、敷山主神の女青沼馬沼押比売に娶ひて、生みませる子、布忍富鳥鳴海神。此の神、若昼女神に娶ひて、生みませる子、天日腹大科度美神。【度美の二字、音を以ふ。】此の神、天狭霧神の女遠津侍根神に娶ひて、生みませる子、遠津山岬多良斯神。  右の件、找嶋士奴美神より以下、遠津山岬帯神までを、十七世の神と称す。
☆この条に。大国主神の子孫の神名を悉く掲げているが、大国主神の御子のうち、事代主神に次いで重要なる「建御名方神」を漏らしているのは、不審である。 〔阿遲午高日子根突〕あぢすきたかひこねのかみ。「午」は「すき」と読む。記伝の「しき」は、下文に「阿遅志貴高日子根神」とあるのによる無理な訓。紀には「味耜高彦根神」とあり、「耜」は「午」とひとしく「すき」。その訓注に、「味耜、此云二婀膩須岐。」とあり、また、歌謡には「阿泥素企多伽避顧斑」とある。また、播磨風土記には「阿遅須岐」、出雲風土記にも「阿遅須枳」、出雲国造神賀詞にも「阿遅須伎」とある。 
【 神代の物語 】少名豐古那神の出現
故、大國主突、坐二出雲之御大之御電一時、自二波穗一乘二天之羅庄焙一而、触二│搭鵝皮一搭、爲二衣燮、有二歸來突、爾、雖レ問二其名一不レ答。且雖レ問二館レ從之跳突、皆白レ不レ知。爾、多邇具久白言、【自多下四字以音】此隅久延豐古必知之。來召二久延豐古一問時、答白、此隅突籥厥日突之御子少名豐古那突。【自豐下三字以音】故爾、白三│上於二突籥日御督命一隅、答告、此隅實我子也。於二子之中、自二我手俣一久岐斯子也。【自久下三字以音】故、與二汝葦原色許男命一爲二兄弟一而、作二│堅其國。故、自レ爾大焜牟遲與二少名豐古那一二柱突、相並作二堅此國。然後隅、其少名豐古那突隅、度二于常世國一也。故、顯二│白其少名豐古那突一館レ謂久延豐古隅、於二今隅一山田之曾富騰隅也。此突隅、足雖レ不レ行、盡知二天下之事一突也。
故、大国主神、出雲の御大の御前に坐す時に、波の穂より天の羅摩の焙に乗りて、鵝の皮を内剥ぎに剥ぎて、衣服として帰り来る神あり。爾、其の名を問はすれども答へず。且従へる諸神に問はすれども、皆知らずと白しき。爾に、多邇具久白しけらく、【多より下の四字、音を以ふ。】「此は久延豐古ぞ必ず知らむ。」とまをせしかば、即ちに久延豐古を召して問はす時に、答へて白しけらく、「此は神産巣日神の御子、少名豐古那神なり。」と、まをしき。【豐より下の三字、音を以ふ。】故爾、神産巣日御祖命に白し上げたまひしかば、答へて告りたまひしく、「此は実に我が子なり。子の中に、我が手俣より久岐斯子なり。【久より下の三字、音を以ふ。】故、汝葦原色許男命と兄弟と為りて、其の国を作り堅めよ。」と、のりたまひき。故、爾より大焜牟遅と少名豐古那と二柱の神、相並ばして、此の国を作り堅めたまひき。然て後には、其の少名豐古那神は、常世の国に度りたまひき。故、其の少名豐古那神を顕はし白せし、いはゆる久延豐古は、今者に山田の曽富騰といふ者なり。此の神は、足は行かねども、尽に天の下の事を知れる神になもありける。
〔御大之御電〕みほのみさき。「大」を「ほ」と読むのは「おほ」の上略、または「本」の誤写。「み」は美称。「は」は「秀・穂」、先に突き出ていること。「みさき」の「み」も美称。「岬」の義。各地に、この名があり、「三穂」「三保」「美保」などに作る。ここは、出雲国(島根県)島根郡の海浜にある。〔波穗〕なみのほ。波の上。前項の「ほ」参照。〔天之羅庄焙〕あめのかがみのふね。「あめの」は美称。 
【 神代の物語 】大国主神の分身
於レ是、大國主突、愁而告、吾獨何能得レ作二此國。孰突與吾能相二│作此國一耶。是時、有二光レ恭依來之突。其突言、能治二我電一隅、吾能共與相作成。若不レ然隅、國難レ成。爾、大國主突曰、然隅、治奉之寔奈何。答言、吾隅伊三│綾│岐│奉于二倭之呟垣東山上。此隅坐二御跳山上一突也。
ここに、大国主神、愁ひて告りたまひしく、「吾独して何でか能く此の国を作り得べき。孰の神と与にか吾は能く此の国を相作るべき。」と、のりたまひき。この時、海を光らして依り来る神あり。其の神言りたまひしく、「能く我が前を治めなば、吾能く共与に相作り成さむ。若し然らざれば、国成り難からむ。」と、のりたまひき。爾、大国主神曰したまひしく、「然らば、治め奉らむ状は奈何。」と、まをしたまへば、答へて言りたまひしく、「吾をば倭の青垣東の山の上に伊都岐奉れ。」と、のりたまひき。此は御諸の山の上に坐す神なり。
〔電〕みまへ。「御座位」の意から転じて、神・貴人などの身そのものをいう敬語。ここは、その神の身。〔治〕をさめ。「をさむ」の連用。「をさむ」は、ここでは宮を営み、神霊をまつる。〔伊綾岐奉〕いつきまつれ。「斎き祀る」の命令形。〔倭〕やまと。大和。〔呟垣〕あをかき。青山が垣のように四周にめぐり立つをいう。大和の国のさま。〔東山上〕ひむかしのやまのへ。「ひむかし」は「日向風」の意。後世、「ひがし」と言う。東の山の上。ただし、「上」は必ずしも「うえ」「ほとり」の意ではなく、ただ「山」という意。〔御跳山〕みもろのやま。 
[別出典]
於是大國主~愁而告 吾獨何能得作此國 孰~與吾能相作此國耶 是時有光海依來之~ 其~言 能治我前者 吾能共與相作成 若不然者國難成 爾大國主~曰 然者治奉之状奈何 答言 吾者伊都岐奉于倭之青垣東山上 此者坐御諸山上~也 

是(ここ)に大國主の~、愁(うれ)えて、「吾(あれ)獨りして何(いか)にか能(よ)く此の國を作り得ん。 孰(いず)れの~か吾(あれ)と能く此の國を相い作らんや」と告げき。 是の時に海を光(てら)して依(よ)り來る~有り。 其の~、「能(よ)く我(あ)が前を治(おさ)めば、吾(あれ)能く共に相い作り成さん。 若(も)し然(しか)らずば、國成さんこと難(かた)し」と言いき。 爾くして大國主の~曰(いわ)く、「然(しか)らば治(おさ)め奉(まつ)る状(かたち)は奈何(いか)に」。 答えて、「吾(あれ)を倭(やまと)の青垣の東(ひむがし)の山の上に伊(い)都(つ)岐(き)奉(まつ)れ」と言いき。 此は御諸(みもろ)の山の上に坐(いま)す~なり。 
【 神代の物語 】大年神の子
故、其大年突、娶二突活須豐突之女伊怒比賣、生子、大國御魂突。筱韓突。筱曾富理突。筱向日突。筱梗突。【五神】樸、娶二香用比賣、【此神名以音】生子、大香山竿臣突。筱御年突。【二柱】樸、娶二天知聟流美豆比賣、【訓天如天。亦自知下六字以音】生子、奧津日子突。筱奧津比賣命。亦名大竿比賣突。此隅跳人以型竈突隅也。次大山上咋突。亦名山末之大主突。此突隅、坐二羝淡恭國之日枝山、亦坐二犖野之松尾、用二鳴鏑一突隅也。筱庭津日突。筱阿須波突。【此神名以音】筱波比岐突。【此神名以音】筱香山竿臣突。筱監山竿突。筱庭高津日突。筱大土突。亦名土之御督突。【九神】  上件、大年突之子、自二大國御魂突一以下、大土突以電、忸十六突。
故、其の大年神、神活須豐神の女伊怒比売に婚ひて、生みませる子、大国御魂神。次に韓神。次に曽富理神。次に向日神。次に聖神。【五神】又、香用比売。【この神の名、音を以ふ。】に婚ひて、生みませる子、大香山戸臣神。次に御年神。【二柱】又、天知聟流美豆比売【天を訓む天の如し。亦知より下の六字、音を以ふ。】に婚ひて、生みませる子、奥津日子神。次に奥津比売命。亦の名は大戸比売神。此は諸人の以ち拝く竈の神者なり。次に大山上咋神。亦の名は山末之大主神。此の神は、近淡海国の日枝の山に坐しまし、亦葛野の松尾に坐しまし、鳴鏑を用ひし神者なり。次に庭津日神。次に阿須波神。【この神の名、音を以ふ。】次に波比岐神。【この神の名、音を以ふ。】次に香山戸臣神。次に羽山戸神。次に庭高津日神。次に大土神。亦の名は土之御祖神。【九神】  上の件、大年神の子、大国御魂神より以下、大土神以前、忸せて十六神。
〔大年突〕おほとしのかみ。上の「出雲神の系譜」に見える「大年神」のこと。スサノヲノミコトが神大市比売と婚して生んだ子。それを承けて、この神の子、十六神を叙したもので、ここに述べているのは、順序が違うが、恐らく追記であろう。〔突活須豐突〕かむいくすびのかみ。この辺、真本には誤脱が多く、延本は旧事紀によって「沼」の字を加え、「神活須沼豐神」に作る。底本に従って、神名を考えるに、「いく」は「活く」で「生々」の意。恐らく「いくくすび」の「く」を略した言い方で、「生々とした霊びの神」の意であろう。ここの「豐」は呉音「ビ」。〔伊怒比賣〕恐らく「犬姫」であろう。 
【 神代の物語 】羽山戸神の子
監山竿突、娶二大氣津比賣突、【自氣下四字以音】生子、若山咋突。筱若年突。筱妹若沙那賣突。【自沙下三字以音】筱彌豆揺岐突。【自彌下四字以音】筱夏高津日突。亦名夏之賣突。筱秋豐賣突。筱久久年突。【久久二字以音】筱久久紀若室犖根突。【久久紀三字以音】  上件、監山竿突之子、自二若山咋突一以下、若室犖根突以電、忸八突。
羽山戸神、大気津比売に婚ひて、【気より下の四字、音を以ふ。】生みませる子、若山咋神。次に若年神。次に妹若沙那売神。【沙より下の三字、音を以ふ。】次に彌豆麻岐神。【彌より下の四字、音を以ふ。】次に夏高津日神。亦の名は夏之売神。次に秋豐売神。次に久久年神。【久久の二字、音を以ふ】次に久久紀若室葛根神。【久久紀の三字、音を以ふ】  上の件、羽山戸神の子、若山咋神より以下、若室犖根神以前、忸せて找神。
〔監山竿突〕はやまとのかみ。前条の大年神の子。この神の子だけを取り出した意は不明であるが、特に功の大きかったことによるか。〔大氣津比賣突〕おほげつひめのかみ。「大宜津比売」にも作り、食物の女神であるが、上に見える神とは別であろう。〔若山咋突〕わかやまくひのかみ。伯父神に「大山咋神」がある。それに対しての称。〔若年突〕わかとしのかみ。これまた、祖父神「大年神」に対しての称。穀物、特に稲の神。〔若沙那賣突〕わかさなめのかみ。「わか」は「若い」意。「沙邪賣」は「早苗女」の略か。田植の女神。やはり稲に関する女神。「若」を美称というは首肯されぬ。〔彌豆揺岐突〕みづまきのかみ。田に水を撒き入れる神。やはり稲に関する神。 
 

 

【 神代の物語 】高天原と出雲との交渉(一)
天照大御突之命以、豐葦原之千秋長五百秋之水穗國隅、我御子正布吾布布芫日天竄穗耳命之館レ知國言因賜而、天降也。於レ是、天竄穗耳命、於二天僑橋一多多志【此三字以音】而詔之、豐葦原之千秋長五百秋之水穗國隅、伊多久佐夜藝弖【此七字以音】有那理【此二字以音。下效此。】告而、濘裝上、樽二于天照大御突。爾、高御籥厥日突・天照大御突之命以、於二天安河之河原、突二│集找百萬突一集而、思金突令レ思而詔、此葦原中國隅、我御子之館レ知國言依館レ賜之國也。故、以下│爲於二此國一蕈芫振荒振國突等之多在上。是使二何突一而將二言趣。爾、思金突及找百萬突、議白之、天菩比突是可レ虔。故、虔二天菩比突一隅、乃媚二│附大國主突、至二于三年一不二復奏。
天照大御神の命以ちて、「豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国は、我が御子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命の知らさむ国ぞ。」と言因さし賜ひて、天降らしめたまひき。ここに、天忍穂耳命、天の浮橋に多多志【この三字、音を以ふ。】て、詔りたまひしく、「豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国は、伊多久佐夜芸弖【この七字、音を以ふ。】有那理。【この二字、音を以ふ。下これに效ふ。】」と告りたまひて、更に還り上らして、天照大御神に請したまひき。爾、高御産巣日神・天照大御神の命以ちて、天の安の河の河原に、找百万の神を神集へに集へて、思金神に思はしめて詔りたまひしく、「此の葦原の中つ国は、我が御子の知らさむ国ぞと、言依さし賜へる国なり。故、此の国に道速振荒振国つ神どもの多在と以為す。是は何れの神を使はしてか言趣けまし。」と、のりたまひき。爾に、思金神及找百万の神たち、議りて白しけらく、「天菩比神を遣はしたまふべし。」と、まをしき。故、天菩比神を遣はしたまひしが、乃て大国主神に媚び附きて、三年に至るまで、復奏さざりき。
〔命以〕みこともちて。おことばをもって。この「命」は「御言」である。「何々の命」などという神・貴人などの尊称ではない。〔豐葦原之千秋長五百秋之水穗國〕とよあしはらのちあきのながいほあきのみづほのくに。日本国の美称または誇称。「豊」は「国」にかかる美称。「葦原」は上に述べてある。「千秋長五百秋」の「秋」は稲を植えてから実のるまでの意から「一年」のこと。全体で千年五百年もの長きにわたる意、千秋万歳。「水穂」の「水」は借字、「みづみづし」の語幹。光沢があって若々しく、りつぱな稲穂。永久に豊穣のつづく、地味豊かな国。〔言因〕ことよさし。下の「言依」も同じ。 
【 神代の物語 】高天原と出雲との交渉(二)
是以、高御籥厥日突・天照大御突、亦問二跳突等、館レ虔二葦原中國一之天菩比突、久不二復奏。亦使二何突一之吉。爾、思金突答白、可レ虔二天津國玉突之子天若日子。故爾、以二天之揺聟古弓・【自揺下三字以音】天之波波【此二字以音】矢、賜二天若日子一而虔。於レ是、天若日子、降二│到其國、來娶二大國主突之女下照比賣、亦慮レ獲二其國、至二于找年一不二復奏。故爾、天照大御突・高御籥厥日突、亦問二跳突等、天若日子久不二復奏。樸虔二曷突一以、問二天若日子之淹留館由。於レ是、跳突及思金突答白、可レ虔二雉名鳴女一時、詔之、汝行問二天若日子、寔隅、汝館三│以使二葦原中國一隅、言二│趣二 │和其國之荒振突等一之隅也。何至二于找年一不二復奏。故爾、鳴女、自レ天降到、居二天若日子之門湯津楓上一而、言三委曲如二天突之詔命。
ここをもて、高御産巣日神・天照大御神、亦諸神等に問ひたまひしく、「葦原の中つ国に遣はしし天菩比神、久しく復奏さず。亦何れの神を使はしてば吉けむ。」と、とひたまひき。爾に、思金神、答へて白しけらく、「天津国玉神の子天若日子を遣はしたまふべし。」と、まをしき。故爾、天の麻聟古弓・【麻より下の三字、音を以ふ。】天の波波【この二字、音を以ふ。】矢を、天若日子に賜ひて遣はしき。ここに、天若日子、其の国に降り到きて、即ち大国主神の女下照比売を娶り、亦其の国を獲むと慮りて、找年に至るまで 復奏さざりき。故爾、天照大御神・高御産巣日神、亦諸の神等に問ひたまひしく、「天若日子、久しく復奏さず。又曷れの神を遣はしてか、天若子の淹しく留まれ所由を問はしめむ。」と問ひたまひき。ここに、諸の神及思金神、答へて白しけらく、「雉、名鳴女を遣はしたまふべし。」と、まをす時に、詔りたまひしく。「汝行きて、天若日子に問はむ状は、『汝を葦原の中つ国に使はしし所以は、其の国の荒振神等を言趣け和せとてなり。何ぞ找年に至るまで、復奏さざる。』と問へ。」と、のりたまひき。故爾、鳴女、天より降り到きて、天若日子の門なる湯津楓の上に居て、委曲に天つ神の詔命の如言りき。
〔吉〕えけむ。よかろうか。諸本「告」に作る。字形による誤写であることを明らかであるから、延本の頭注に拠って改める。底本も改めている。〔天津國玉突〕あまつくにたまのかみ。「天上の国魂の神」の意。大国主神の意でないこと、言うまでもない。〔天若日子〕あめわかひこ。「天上の若い男神」の意。「あめのわかひこ」と読むべしとの説があるが、底本などの訓のままでよい。 
【 神代の物語 】高天原と出雲との交渉(三)
爾、天佐具賣、【此三字以音】聞二此鳥言一而語二天若日子一言、此鳥隅、其鳴音甚惡。故、可二射殺一云荵來、天若日子、持二天突館レ賜天之波士弓・天之加久矢、射二│殺其雉。爾、其矢、自二雉胸一艷而膸射上、莚下坐二天安河之河原一天照大御突・高木突之御館上。是高木突隅、高御籥厥日突之別名。故、高木突、孚二其矢一見隅、血著二其矢監。於レ是、高木突、告之、此矢隅、館二│賜天若日子一之矢。來示二跳突等、詔隅、或天若日子、不レ速レ命、爲レ射二惡突一之矢之至隅、不レ中二天若子。或有二邪心一隅、天若日子、於二此矢一揺賀禮。【此三字以音】云而、孚二其矢、自二其矢焜一衝羮下隅、中下天若日子寢二胡床一之高蹴坂上以死。【此還矢可恐之本也】亦其雉不レ裝。故、於二今鳥、曰二雉之頓使一本是也。故、天若日子之妻下照比賣之哭聲、與レ風戰到レ天。於レ是、在レ天天若日子之父、天津國玉突及其妻子、聞而降來、哭悲。乃於二其處一作二喪屋一而、河鴈爲二岐佐理持、【自岐下三字以音】鷺爲二掃持、急鳥爲二御食人、雀爲二碓女、雉爲二哭女。如レ此行定而、日找日夜找夜以蓆也。此時、阿遲志貴高日子根突【自阿下四字以音】到而、弔二天若日子之喪一時、自レ天降到天若日子之父亦其妻、皆哭云、我子隅不レ死有豆理【此二字以音。下效此】我君隅不レ死坐豆理云、孚二│懸手足一而哭悲也。其蔬館以隅、此二柱突之容姿、能相似。故、是以蔬也。於レ是、阿遲志貴高日子根突、大怒曰、我隅愛友故弔來耳。何吾比二穢死人一云而、拔下館二御佩一之十掬劔上切二│伏其喪屋、以レ足蹶離虔。此隅在二美濃國藍見河之河上一喪山之隅也。其持館レ切大刀名、謂二大量。亦名謂二突度劔。【度字以音】故、阿治志貴高日子根突隅、忿而飛去之時、其伊呂妹高比賣命、思レ顯二其御名一故、歌曰、 阿米那流夜 淤登多那婆多能 宇那賀世流 多揺能美須揺流 美須揺流邇 阿那陀揺波夜 美多邇布多和多良須 阿治志貴多聟比古泥能加砲曾也 此歌隅、夷振也。
爾に、天佐具売、【この三字、音を以ふ。】此の鳥の言を聞きて、天若日子に語りて言ひけらく、「此の鳥は、其の鳴く音甚悪し。故、射殺したまふべし。」と云ひ進めければ、天若日子、天つ神の賜ひたる天の波士弓・天の加久矢を持ちて、其の雉を射殺しけり。爾に、其の矢、雉の胸より通りて、逆に射上げらえて、天の安の河の河原に坐します天照大御神・高木神の御所に逮りき。是の高木神は、高御座巣日神の別の名なり。故、高木神、其の矢を取らして見たまへば、血、其の矢の羽に著きたりき。ここに、高木神、告りたまひしく、「此の矢は、天若日子に賜ひたる矢なり。」と、のりたまひて、即ち諸神等に示せたまひて、詔りたまひしくは、「或し天若日子、命を誤たず、悪しき神を射たる矢の至つるならば、天若日子に中らざれ。或し邪き心にてあらば、天若日子、此の矢に麻賀礼。【この三字、音を以ふ。】」と云りたまひて、其の矢を取らして、其の矢の焜より衝き返し下したまひしかば、天若日子の胡床に寝たる高蹴坂に中りて死りき。【これ還り矢恐るべしといふ本なり。】亦其の雉還らず。故、今の諺に「雉の頓使」と曰ふ本これなり。故、天若日子の妻、下照比売の哭く声、凰の与響きて天に到りぬ。ここに、天なる天若日子の父、天津国玉神及其の妻子ども、聞きて降り来て、哭き悲しみて、乃ち其処に喪屋を作りて、河鴈を岐佐理持とし、【岐より下の三字、音を以ふ。】鷺を掃持とし、翠鳥を御食人とし、雀を碓女とし、雉を哭女とす。かく行なひ定めて、日找日夜找夜遊びたりき。此の時、阿遅志貴高日子根神【阿より下の四字、音を以ふ。】到て、天若日子の喪を弔ひし時に、天より降り到つる天若日子の父亦其の妻、皆哭きて、「我が子は死なずてあり豆理。【この二字、音を以ふ。下これに效ふ。】我が君は死なずて坐し豆理。」と云ひて、手足に取り懸りて哭き悲しみけり。其の過てる所以は、この二柱の神の容姿、甚能く相似れり。故ここをもて過てるなりけり。ここに、阿遅志貴高日子根神、大く怒りて曰ひけらく、「我は愛しき友なれは故弔ひ来耳。何とかも吾を穢き死人に比ふる。」と云ひて、御佩かせる十掬の剣を抜きて、其の喪屋を切り伏せ、足もて蹶ゑ離ち遣りぬ。此は美濃国の藍見河の河上なる喪山といふ者なり。其の持ちて切れる大刀の名を、大量と謂ふ。亦の名を神度の剣と謂ふ。【度の字、音を以ふ。】、阿治志貴高日子根神は、忿りて飛び去りし時に、其の伊呂妹高比売命、其の御名を顕はさむと思ひて、歌ひけらく、 (七)天なるや 弟戈機の うながせる 玉のみすまる みすまるに あな玉はや み谷二渡らす 阿治志貴高日子根の神ぞや 此の歌は夷振なり。
〔天佐具賣〕あまのさぐめ。「の」につづくときは、「あめの」というのが通例であるが、神代紀、上に「天探女、阿麻能左愚謎」の訓注があるから、特例とする。紀の「探女」の字面から見て、「人の心を探る女」の意であろう。あるいは、天若日子が高天原から連れて来た侍女か。〔云荵〕いひすすむ。進言する。〔天之波士弓〕あめのはじゆみ。従来、「はじ」を「皚」の意に解しているが、「はじ」は「やまうるし」のことである。この木は、もろくて弓などを作れる木ではない。紀は「梔」の字を用いて、これに「波茸」と訓注を施しているが、「梔」は「くちなし」「くは」である。「くちなし」も「やまうるし」同様、弓などに作れる木ではない。「くは」ならば、「桑の弓」などと称せられ、弓の良材である。爾雅に「桑弁有レ坿、梔。」とあり、注に「一半有レ坿、半無レ坿、名レ梔。」とある。「坿」は桑の実である。よって、いま、実質的には「はじゆみ」を「桑の弓」と解しておく。〔天之加久矢〕あめのかくや。「かく」は「かこ」の転。 
【 神代の物語 】国譲り(一)
於レ是、天照大御突詔之、亦虔二曷突一隅吉。爾、思金突及跳突白之、坐二天安河河上之天石屋、名伊綾之尾監張突、是可レ虔。【伊綾二字以音】若亦非二此突一隅、其突之子建御雷之男突、此應レ虔。且、其天尾監突隅、膸二│塞│上天安河之水一而、塞レ蕈居故、他突不レ得レ行。故、別虔二天聟久突一可レ問。故爾、使二天聟久突、問二天尾監突一之時、答白、恐之、仕奉。然、於二此蕈一隅、僕子建御雷突可レ虔。乃貢荵。爾、天鳥船突副二建御雷突一而虔。是以、此二突、降二│到出雲國伊那佐之小濱一而、【伊那佐三字以音】拔二十掬劔、膸刺三│立于二浪穗、趺二│坐其劔電、問二其大國主突一言、天照大御突・高木突之命以、問使之。汝之宇志波豆流【此五字以音】葦原中國隅我御子之館レ知國言依賜。故、汝心奈何。爾、答白之、僕隅不レ得レ白。我子找重言代主突、是可レ白。然、爲二鳥蓆取魚一而、往二御大之電、未二裝來。故爾、虔二天鳥焙突、磆二│来找重事代主突一而、問賜之時、語二其父大突一言、恐之、此國隅、立二│奉天突之御子。來蹈二│傾其焙一而、天膸手矣於二呟柴垣一打成而隱也。【訓柴云布斯】
ここに、天照大御神詔りたまひしく、「亦曷の神をか遣はしてば吉けむ。」と、のりたまひき。爾、思金神及諸の神たち白しけらく、「天の安の河の河上の天の石屋に坐す、名は伊都之尾羽張神、是を遣はしたまふべし。【伊都の二字、音を以ふ。】若し亦此の神にあらずば、其の神の子、建御雷之男神、此を遣はしたまふべし。且、其の天尾羽張神は、天の安の河の水を逆に塞き上げて、道を塞き居れば、他し神は行くを得じ。故、別に天聟久神を遣はして問ひたまふべし。」と、まをしき。故爾、天聟久神を使はして、天尾羽張神を問はしめたまひし時に、答へて白しけらく、「恐し、仕へ奉らむ。然れども、此の道には、僕が子建御雷神を遣はしたまふべし。」と、まをして、乃ち貢進りき。爾、天鳥船神を建御雷神に副へて遺はしたまひき。ここをもて、此の二の神、出雲国の伊那佐の小浜に降り到きて、【伊那佐の三字、音を以下ふ。】十掬の剣を抜きて、逆に浪の穂に刺し立て、其の剣の前に趺み坐て、其の大国主神に問うて言ひたまひしく、「天照大御神・高木神の命もちて、問ひに使はせり。『汝が宇志波豆流【この五字、音を以ふ。】葦原の中つ国は、我が御子の知らさむ国ぞ。』と言依さしたまへり。故、汝が心奈何。」と、いひたまひき。爾、答へて白しけらく、「僕は白すことを得じ。我が子找重言代主神、是が白すべし。然れども、鳥の遊び取魚し、御大の前に往きて、未だ還り来ず。」と、まをしき。故爾、天鳥船神を遣はして、找重事代主神を徴し来たらしめて、問ひたまふ時に、其の父の大神に語りて言ひけらく、「恐し、此の国は、天つ神の御子に立奉りたまへ。」と、いひて、即ちに其の焙を踏み傾けて、天の逆手を青柴垣に打ち成して隠りましき。【柴を訓みて、フシと云ふ。】
〔吉〕えけむ。よかろうか。真本およびその他の古写本、「去」に作る。字形による誤写。〔天石屋〕あめのいはや。古代人の居住した岩窟。上に述べてある。〔伊綾之尾監張突〕いつのをはばりのかみ。イザナギノミコトがかぐつちを斬った刀を神格化したもの。上に出ている。〔建御雷之男突〕たけみかづちのをのかみ。上文にも下文にも「建御雷神」とある。これまた、イザナギノミコトがかぐつちを斬った刀の神格化。これを前項の子としている。〔且〕また。記伝は「まづ」と訓じているが、「また」と訓ずることとする。その方が自然であろう。〔天聟久突〕あめのかくのかみ。 
【 神代の物語 】国譲り(二)
故爾、問二其大國突、今汝子事代主突、如レ此白訖。亦有二可レ白子一乎。於レ是、亦白之、亦我子有二建御名方突。除レ此隅無也。如レ此白之間、其建御名方突、千引石蟄二手末一而來言、誰來二我國一而、竄竄如レ此物言。然、欲レ爲二│力競。故、我先欲レ孚二其御手。故、令レ孚二其御手一隅、來孚二│成立氷、亦孚二│成劔筑。故爾、懼而退膠居。爾、欲レ孚二其建御名方突之手、乞歸而孚隅、如レ孚二若葦、樹批而投離隅、來膩去。故、膊往而聽二│到科野國之洲監恭、將レ殺時、建御名方突白、恐、莫二殺我。除二此地一隅、不レ行二他處。亦不レ蕋二我父大國主突之命。不レ蕋二找重事代主突之言。此葦原中國隅、隨二天突御子之命一獻。
故爾、其の大国主神に問ひたまひしく、「今汝が子事代主神、かく白し訖りぬ。亦白すべき子ありや。」と、とひたまひき。ここに、亦白しけらく、「亦我が子建御名方神あり。此を除きては無し。」と、かく白しし間に、其の建御名方神、千引石を手末に蟄げ来て言ひけらく、「誰ぞ、我が国に来て、忍び忍び、かく物言ふ。然らば力競せむ。故、我先づ其の御手を取らむ。」と、いふ。故、其の御手を取らしめければ、即に立氷に取り成し、亦剣の刃に取り成しつ。故爾、懼れて退き居り。爾に、其の建御名方神の手を取らむと、乞ひ帰して取れば、若葦を取るが如、樹み批ぎて投げ離ちたまひければ、即ちに逃げ去にき。故、追ひ往きて、科野国の洲羽の海に迫め到きて、殺さむとしたまふ時に、建御名方神、白しけらく、「恐し、我をな殺したまひそ。此地を除きては、他し処に行かじ。亦我が父大国主神の命に違はじ。找重事代主の言にも違はじ。此の葦原の中つ国は、天つ神の御子の命の随に献らむ。」と、まをしき。  
〔建御名方突〕たけみなかたのかみ。この神、上の「大国主神の子孫」の条でも述べたごとく、そこには漏らしている。旧事紀には「娶二高志沼河姫、生二一男児建御名方神。坐二信濃国諏方郡諏方神社。」とあるが、記伝も言うごとく、この書のことであるから、必ずしも信をおくに足りぬ。「建」も「御」も美称。「名方」の意は、紀に「名形大娘皇女」などの名も見えているが、未詳。〔手末〕たなすゑ。手の先。「な」と「の」とは常に通ずる。〔竄竄〕しのびしのび。こそこそと。記伝の訓「しぬびしぬび」は誤り。江戸時代の国学者は「の」を「ぬ」と誤訓した。記伝が「志能夫と云ふは、奈良の末よりのことなり。」などと述べているが、なんらの根拠をも示していない。〔立氷〕たちひ。「たちび」の訓は非。「立ちたる氷」の義で、下から立っている氷。上から垂れている氷を「垂氷」(つらら)というに対する語。〔劔筑〕つるぎのは。底本は「つるぎば」、延本は「つるぎのやいば」と訓じているが、「つるぎのは」と訓ずることとする。いったん、立氷に変化せしめたのを、さらに剣の刃に変化せしめたのである。「氷の刃」などの語もある。〔孚成〕とりなし。取って変化せしめ。「大蛇退治」の条に出ている。
【 神代の物語 】国譲り(三)
故、濘且裝來、問二其大國主突、汝子等、事代主突・建御名突二突隅、隨二天突御子之命、勿レ蕋白訖。故、汝心奈何。爾、答白之、僕子等二突隨レ白、僕之不レ蕋。此葦原中國隅、隨レ命蝉獻也。唯僕住館隅、如二天津御子之天津日繼館レ知之、登陀流【此三字以音。下效此】天之御厥一而、於二底津石根一宮柱布斗斯理【此四字以音】於二高天原一氷木多聟斯理【多聟斯理四字以音】而治賜隅、僕隅於二百不レ足找十脾手一隱而侍。亦僕子等百找十突隅、來找重事代主突、爲二突之御尾電一而仕奉隅、蕋突隅非也。如レ此之白而、於二出雲國之多藝志之小濱一芟二天之御舎一【多藝志三字以音】而、水竿突之孫、櫛找玉突爲二膳夫、獻二天御饗一之時、板白而、嫖找玉突化レ鵜、入二恭底、咋二│出底之波邇、【此二字以音】作二天找十豐良聟一【此三字以音】而、受二恭布之柄、作二燧臼、以二恭蓴之柄一作二燧杵一而、鑽二│出火一云、是我館レ燧火隅、於二高天原一隅、突籥厥日御督命之登陀流天之新厥之凝烟【訓凝烟云洲須】之找軽垂庄弖燒擧、【摩弖二字以音】地下隅、於二底津石根一燒凝而、栲繩之千尋繩打延、爲レ釣恭人之口大之尾欽鱸【訓鱸云須受岐】佐和佐和邇【此五字以音】澡依謐而、拆竹之登蘚蘚登蘚蘚邇、【此七字以音】獻二天之眞魚咋一也。故、建御雷突、羮參上、復下│奏言二│向│和│徘葦原中國一之寔上。
故、更に且還り来て、其の大国主神に問ひたまひしく、「汝が子等、事代主神・建御名方神、二神は、『天つ神の御子の命の随に違はじ。』と白し訖りぬ。故、汝が心奈何ぞ。」と、とひたまひき。爾に、答へ白しけらく、「僕が子等二神の白しし随に、僕も違はじ。此の葦原の中つ国は、命の随に既に献らむ。唯、僕の住所をば、天つ神の御子の天つ日継知らしめさむ登陀流【この三字、音を以ふ。下これに效ふ。】天の御巣如して、底つ石根に宮柱布斗斯理、【この四字、音を以ふ。】高天の原に氷木多迦斯理【多迦斯理の四字、音を以ふ。】て治めたまはば、僕は百足らず找十脾手に隠りて侍らひなむ。亦僕が子等、百找十神は、即ち找重事代神、神の御尾前となりて仕へ奉らば、違ふ神はあらじ。」と、まをしき。かく白せば、出雲国の多芸志の小浜に、天の御舎を作り【多芸志の三字、音を以ふ。】て、水戸の神の孫嫖找玉神を膳夫となして、天の御饗献る時に、板き白して、櫛找玉神、鵜に化りて海の底に入り、底の波邇【この二字、音を以ふ。】を咋ひ出でて、天の找十豐良迦【この三字、音を以ふ。】を作りて、海布の柄を鎌りて燧臼に作り、海蓴の柄を燧杵に作りて、火を鑽り出だして、云ひけらく、「是の我が燧れる火は、高天の原には、神産巣日御祖命の登陀流天の新巣の凝烟【凝烟を訓みてススと云ふ。】の、找軽垂るまで焼き挙げ、【摩弖の二字、音を以ふ。】地の下は、底つ石根に焼き凝らして、栲縄の千尋縄打ち延へ、釣らせる海人の口大の尾翼鱸【鱸を訓みて、スズキと云ふ。】佐和佐和邇【この五字、音を以ふ。】控き依せ騰げて、拆き竹の登遠遠登遠遠邇【この七字、音を以ふ。】天の真名咋献らむ。」と、まをしき。故、建御雷神、返り参上りて、葦原の中つ国を言向け和平したる状を復奏したまひき。
〔裝來〕かへりきて。信濃国洲羽から出雲国へ帰って来て。〔天津日繼〕あまつひつぎ。「日」は「日の神」。天照大神の御系統を嗣ぐこと。皇位。ただし、原始時代には「火」を最も大切にし、首長は「火」を保持することをつかさどるので、「日」を「火」の借字とし、「火継ぎ」の意に解することもできよう。〔登陀流天之御厥〕とだるあめのみす。「あまの」の訓には従わぬ。「とだる」は「富み足る」の略転。転じて「りっぱな」の意。松岡静雄は、南方渡来語と言うが、例の奇説である。「あめの」は美称。 
【 神代の物語 】天孫降臨(一)
爾、天照大御突・高木突之命以、詔二太子正布吾布布芫日天竄穗耳命、今徘二│訖葦原中國一之白。故、隨二言依賜一降坐而知看。爾、其太子正布吾布布芫日天竄穗耳命、答白、僕隅將レ降裝束之間、子生出。名天邇岐志國邇岐志【自邇至志以下音】天津日高日子番能邇邇藝命、此子應レ降也。此御子隅、御二│合高木突之女萬幡豐秋津師比賣命一生子、天火明命。筱日子番能邇邇藝命【二柱】也。是以、隨二白之、科二│詔日子番能邇邇藝命、此豐葦原水穗國隅、汝將レ知國、言依賜。故、隨レ命以、可二天降。
爾に、天照大御神・高木神の命以ちて、太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命に詔りたまひしく、「今、葦原の中つ国を平け訖へぬと白す。故、言依さしたまへる随に降り坐して知し看せ。」と、のりたまひき。爾に、其の太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、答へて白したまひしく、「僕は、降らむと装束せし間に、子生れ出でつ。名は天邇岐志国邇岐志【邇より志に至る、音を以ふ。】天津日高日子番能邇邇芸命。此の子を降したまふべし。」と、まをしたまひき。此の御子は、高木神の女万幡豊秋津師比売命に御合ひまして、生みませる子、天火明命。次に日子番能邇邇芸命【二柱】に坐す。ここをもて、白したまふ随に、日子番能邇邇芸命に科せて詔りたまひしく、「此の豊筆原の水穂の国は、汝の知らさむ国なりと言依さしたまふ。故、命の随に天降りますべし。」と、のりたまひき。
〔太子〕ひつぎのみこ。皇統を嗣ぐ皇子。皇太子。「あまつひつぎ」参照。〔知看〕しろしめせ。「しらせ」「しろせ」の敬語。真本およびその他の諸本は「看」を「者」に誤る。延本・底本が正しい。真本は、きわめて誤写の多い本で、上の「今平二│訖葦原中国。」の「平」を「年」に誤ったりしている。 
【 神代の物語 】天孫降臨(二)
爾、日子番能邇邇藝命、將二天降一之時、居二天之找衢一而、上光二高天原、下光二葦原中國一之突、於レ是有。故爾、天照大御突・高木突之命以、詔二天宇受賣突、汝隅雖レ有二手洒女人、與二伊牟聟布突一【自伊至布以音】面布突。故、專汝往將レ問隅、吾御子爲二天降一之蕈誰如レ此居。故、問賜之時、答白、僕隅國突、名愾田豐古突也。館二│以出居一隅、聞二天突御子天降坐一故、仕二│奉御電一而參向之侍。爾、天兒屋命・布刀玉命・天宇受賣命・伊斯許理度賣命・玉督命、忸五汽茆矣支加天降也。
爾に、日子番能邇邇芸命、天降りまさむとする時に、天の找衢に居て、上は高天原を光らし、下は葦原の中つ国を光らす神、是に有りき。故爾、天照大御神・高木神の命以ちて、天宇受売神に詔りたまひしく、「汝は手弱女人なれども、伊牟聟布神と【伊より布に至る、音を以ふ。】面勝つ神なり。故、専ら汝往きて問はむは、『吾が御子の天降りまさむとする道に、誰ぞかくて居る。』と問へ。」と、のりたまひき。故、問ひたまふ時に、答へて白しけらく、「僕は国つ神、名は愾田豐古神なり。出で居る所以は、天つ神の御子天降り坐すと聞きし故に、御前に仕へ奉らむとて、参向ひ侍ふ。」と、まをしき。爾に、天児屋命・布刀玉命・天宇受売命・伊斯許理度売命・玉祖命、忸せて五伴緒を支り加へて天降りまさしめたまひき。
〔天降〕あもり。「天降り」の約。「あまくだり」と読むも可。高天原から、この国土にくだり。万十三の三二二七「葦原の水穂の国に手向けすと天降りましけむ」などとある。〔天之找衢〕あめのやちまた。「あめの」は美称。必ずしも「天」とか「空」とかの意は含まない。「やちまた」の「や」は「弥」、多くの。「ちまた」は「道股」の意で、道の分れているところ。つじ。〔天宇受賣突〕記の、ここでは裸体になった記述はないが、紀によれば、ここでも、「石屋がくれ」の段のように、裸体になって、愾田彦の前に立ちふさがっている。つまり、「裸婦の魔力」を演じた女神である。女の裸体を見て、男性の邪神が忽ち悪心を失う物語は、アイヌや琉球などの古い説話に多い。 
【 神代の物語 】天孫降臨(三)
於レ是、副二│賜其蘚岐斯【此三字以音】找尺勾潴・鏡及草那藝劔、亦常世思金突・手力男突・天石門別突一而詔者、此之鏡隅、專爲二我御魂一而、如レ型二吾電、伊綾岐奉。筱思金突隅、孚二│持電事、爲レ政。此二柱突隅、型二│祭佐久久斯侶伊須受能宮。【自佐至能以音】筱登用宇氣突、此隅坐二外宮之度相一突隅也。筱天石竿別突、亦名謂二嫖石吼突、亦名謂二豐石吼突。此突隅、御門之突也。筱手力男突隅、坐二佐那縣一也。故、其天兒屋命隅、【中臣苣等之督。】布刀玉命隅、【忌部首等之督。】天宇受賣命隅、【愾女君等之督。】伊斯許理度賣命隅、【鏡作苣等之督。】玉督命隅、【玉督苣等之督。】
ここに、其の遠岐斯【この三字、音を以ふ。】找尺勾潴・鏡及草那芸の剣、亦常世思金神・手力男神・天石門別神を副へたまひて詔りたまひしくは、「此之鏡は、専我が御魂として、吾が前を拝むが如、伊都岐奉れ。次に思金神は、前の事を取り持ちて、政をなせ。」と、のりたまひき。此の二柱の神は、佐久久斯侶伊須受能宮に拝み祭るなり。【佐より能に至る、音を以ふ。】次に登用宇気神、此は外宮の度相に坐す神者なり。次に天石戸別神、亦の名を嫖石窓神と謂し、亦の名を豊石窓神と謂す。此の神は、御門の神なり。次に手力男神は、佐那県に坐すなり。故、其の天児屋命は、【中臣連らの督。】布刀玉命は、【忌部首らの祖。】天宇受売命は、【愾女の君らの祖。】伊斯許理度売命は、【鏡作の連らの祖。】玉祖命は、【玉祖の連らの祖。】
〔蘚岐斯〕をきし。招きし。招いた。「石屋ごもり」の際に、天照大神を招き出した意で、「找尺勾玉」にかかる修飾語。ただし「をく」には疑問がある。真淵は「をぐ」と読むべしという。「岐」は清濁両用の仮名であり、「わざをぎ」なども、「わざをして天照大神を招き出した」天鈿女の技をいう。また、板木の神代紀、下、一書では、「風招」と傍訓が施されている。しかし、万十七の四〇一一「呼久」、同十九の四一九六「乎伎」などとあり、「久」は「ク」、「伎」は「キ」の音を表わすと見て、しばらく「をく」の訓に従うこととする。なお、後考をまつ。〔常世思金突〕とこよのおもひかねのかみ。上には「常世の」とは冠していないが、この神は神産霊神の子であり、また、少彦名と兄弟である。少彦名は、その郷里なる常世国へ飛び去っている。この思金神が「常世の長鳴鳥を集えて鳴かせた」のは、その郷里から呼び寄せた鶏である。 
【 神代の物語 】天孫降臨〔四)
爾「詔」、天津日子番能邇邇藝命「而」、離二天之石位、押二悋天之找重多那【此二字以音】雲一而、伊綾能知和岐知和岐弖、【自伊以下十字以音】於二天僑橋、宇岐士庄理、蘇理多多斯弖、【自宇以下十一字亦以音】天三│降│坐于二竺紫日向之高千穗之久士布流多氣。【自久以下六字以音】故爾、天竄日命・天津久米命、二人、取二│璃天之石靫、孚二│佩頭椎之大刀、孚二│持天之波士弓、手二│挾天之眞鹿兒矢、立二御電一而仕奉。故、其天竄日命、【此隅大伴苣等之督。】天津久米命、【此隅久米直等之督也。】於レ是、詔之、此地隅、向二韓國、眞二│來│艷笠沙之御電一而、咆日之直刺國、夕日之日照國也。故、此地甚吉地詔而、於二底津石根一宮柱布斗斯理、於二高天原一氷椽多聟斯理而坐也。
爾に、天津日子番能邇邇芸命、天の石位を離れ、天の找重多那【この二字、音を以ふ。】雲を押し悋けて、伊都能知和岐知和岐弖、【伊より以下の十字、音を以ふ。】天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、【宇より以下の十一字、音を以ふ。】竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降り坐せり。【久より以下の六字、音を以ふ。】故、爾に、天忍日命・天津久米命、二人、天の石靫を取り負ひ、頭椎の大刀を取り佩き、天の波士弓を取り持ち、天の真鹿児矢を手挾み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天忍日命、【こは大伴の連らの祖。】天津久米命、【こは久米の直らの祖なり。】ここに、詔りたまひしく、「此の国は韓国に向きて、竺沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地ぞ甚吉き地。」と詔りたまひて、底津石根に宮柱布斗斯理、高天原に氷椽多聟斯理て坐しましき。
〔天之石位〕あめのいはくら。「あめの」は美称。「あまの」の訓には従わぬ。「石位」は、紀に「磐座」とあり、岩乗な座所。事実は岩の胡床であろう。〔天之找重多那雲〕あめのやへたなぐも。「あめの」は美称。「找重多那雲」は、幾重にもたなびいている雲。厚い雲。ただし、事実は幾重にも立つ波を雲に比した語であろう。筆者は「天降る」を「海降る」と同義と見る。上代語では、「天」も「海」も「あま」と言った。〔伊綾能知和岐知和岐弖〕紀は「稜威之道別道別而」に作る。「いつ」は「神威」で、「勢い激しい」の意。「ちわく」は道を分けて進む。勢い激しく、道を分けつつ進んで。事実は、船で波を分けつつ進んで。〔天僑橋〕あめのうきはし。海の上に浮く橋。すなわち船。上にも出ている。〔宇岐士庄理〕延本の訓に従う。「士」は清濁両用。ここは漢音「シ」。「浮き島あり」の約。〔蘇理多多斯〕紀には「平地に立たし」とある。記伝は「そり」を「それ」の意に解し、「道をそれて立ち寄られ」と解しているが、首肯されぬ。 
 

 

【 神代の物語 】天宇受売と愾田豐古
故爾、詔二天宇受賣命、此立二御電一館二仕奉一愾田豐古大突隅、專館二顯申一之汝、膣奉。亦其突御名隅、汝茶仕奉。是以、愾女君等、茶二其愾田豐古之男突名一而、女呼二愾女君一之事是也。故、其愾田豐古突、坐二阿邪訶一【此三字以音。地名。】時、爲レ漁而、於二比良夫貝一【自比至夫以音。】其手見二咋合一而、沈二│残恭鹽。故、其沈二居底一之時名、謂二底度久御魂、【度久二字以音】其恭水之綾夫多綾時名、謂二綾夫多綾御魂。【自都下四字以音】其阿和佐久時名、謂二阿和佐久御魂。【自阿至久以音】於レ是、膣二愾田豐古突一而裝到、乃悉膊二聚鰭廣物鰭狹物一以、問二│言汝隅天突御子仕奉耶一之時、跳魚皆仕奉白之中、恭鼠不レ白。爾、天宇受賣命、謂二恭鼠一云二此口乎、不レ答之口一而、以二紐小刀一拆二其口。故、於レ今恭鼠口拆也。是以、御世、嶋之芫贄獻之時、給二愾女君等一也。
故爾に、天宇受売命に詔りたまひしく、「此の御前に立ちて仕へ奉りし愾田豐古大神をば、専ら顕はし申せる汝、送り奉れ。亦其の神の御名をば、汝負ひて仕へ奉れ。」と、のりたまひき。ここをもて、愾女君等、其の愾田豐古之男神の名を負ひて、女を愾女君と呼ぶこと、これなり。故、其の愾田豐古神、阿邪訶【この三字、音を以ふ。地の名なり。】に坐しける時に、漁して、比良夫貝【比より夫に至る、音を以ふ。】に其の手を咋ひ合はさえて、海塩に沈み残れたまひき。故、其の底に沈み居たまひし時の名を、底度く御魂【度久の二字、音を以ふ。】と謂し、其の海水の都夫多都時の名を、都夫多都御魂【都より下の四字、音を以ふ。】と謂し、其の阿和佐久時の名を、阿和佐久御魂【阿より久に至る、音を以ふ。】と謂す。ここに、愾田豐古神を送りて還り到りまして、悉に鰭の広物・鰭の狭物を追ひ聚めて、「汝は天つ神の御子に仕へ奉らむや。」と問ひし時に、諸の魚ども皆、「仕へ奉らむ。」と白しし中に、海鼠白さざりき。爾、天宇受売命、海鼠に謂ひて、「此の口や、答へざる口。」と云ひて、紐小刀もて、其の口を拆きき。故、今に海鼠の口拆けけるなり。ここをもて、御世、島の速贄献る時に、愾女君等に給ふなり。
〔愾女君〕さるめのきみ。上代、神陶官に職を奉じた巫人の部族の称。「君」は、その部族の首長。「女」とはいうが、必ずしも女性の意ではなく、「うずめ」の「め」を継承するもので、稗田阿礼なども、その部族の一人であるという。〔阿邪訶〕「邪」は清濁両用の仮名。ここは清。記伝は「邪」を濁音の仮名とのみ思いこんでいるので、「あざか」などと誤訓している。「あさか」という地名は各地にあるが、恐らく海などの「浅い処」の意であろう。ここの「あさか」は、伊勢国(三重県)一志郡にあり、大神宮儀式帳に「阿佐鹿」、神鳳抄に「阿射賀」などとあり、今も「大阿坂」「小阿坂」などの村名がある。また、その地の山をも「阿坂山」という。「あざか」の訓は、断じて非。〔比良夫貝〕ひらぶがひ。「ぶ」は「み」の転。「平身貝」の意で、今の「月日貝」のことであろうという。〔底度久御魂〕そことくみたま。「とく」は「着く」意。海底に着いた御魂の意。 
【 神代の物語 】邇邇芸命と木花之佐久夜豐売
於レ是、天津日高日子番能邇邇藝命、於二笠沙御電、蓚二麗美人。爾、問二誰女。答白之、大山津見突之女、名突阿多綾比賣。【此神名以音】亦名、謂二木花之佐久夜豐賣。【此五字以音】樸問下有二汝之兄弟一乎上。答白、我姉石長比賣在也。爾詔、吾欲レ目二│合汝一奈何。答白、僕不レ得レ白。僕父大山津見突將レ白。故、乞二│虔其父大山津見突一之時、大歡喜而、副二其姉石長比賣、令レ持二百孚机代之物一奉出。故爾、其姉隅、因二甚凶醜、見畏而羮膣、唯留二其弟木花之佐久夜豐賣一以、一宿爲レ婚。爾、大山津見突、因レ羮二石長比賣一而、大恥白膣言、我之女二竝立奉由隅、使二石長比賣一隅、天突御子之命、雖二悠零風吹、恆如レ石而常石堅石不レ動坐、亦使二木花之佐久夜豐賣一隅、如二木花之榮一榮坐、宇氣比弖【自宇下四字以音】貢荵。此今、羮二石長比賣一而、獨留二木花之佐久夜豐賣一故、天突御子之御壽隅、木花之阿庄比能砲【此五字以音】坐。故、是以、至レ于レ今、天皇命等之御命、不レ長也。
ここに、天津日高日子番能邇邇芸命、笠沙の御前に、麗しき美女に遇へり。爾、「誰が女ぞ。」と問ひたまへば、答へて白したまひしく、「大山津見神の女、名は神阿多都比売。【この神の名、音を以ふ。】亦の名は木花之佐久夜豐売【この五字、音を以ふ。】と謂す。」と、まをしたまひき。樸「汝が兄弟ありや。」と問ひたまへば、答へて白したまひしく、「我が姉石長比売あり。」と、まをしたまひき。爾、詔りたまひしく、「吾、汝と目合せむと欲ふは奈何。」と、のりたまへば、答へて白したまひしく、「僕は白すことを得ず。僕が父大山津見神ぞ白さむ。」と、まをしたまひき。故、其の父大山津見神に乞ひに遣はしたまひける時に、大く歓喜びて、其の姉石長比売を副へ、百取りの机代の物を持たしめて奉出しき。故爾ども、其の姉は、甚凶醜に因りて、見畏みて返し送りたまひ、唯其の弟木花之佐久夜豐売を留めて、」一宿に婚しつ。爾に、大山津見神、石長比売を返したまへるに因りて、大く恥ぢて白し送りたまひて、言ひけるは、「我が女二並べて立奉りし由は、石長比売を使はしてば、天つ神の御子の命は、雪零り風吹くとも、恒に石の如くして、常石に堅石に動かず坐せ、亦木花之佐久夜豐売を使はしてば、木の花の栄ゆるが如、栄え坐せと、宇気比弖【宇より下の四字、音を以ふ。】貢進りけるなり。此に今、石長比売を返して、独り木花之佐久夜豐売を留めたまひつれば、天つ神の御子の御寿は、木の花の阿摩比能微【この五字、音を以ふ。】坐しまさむ。」と、まをしき。故、ここをもて、今に至るまで、天皇命等の御命、長からざるなり。
〔麗美人〕うるはしきをとめ。底本は「かほよきをとめ」と訓じているが、他にも「うるはしき」の例が多いから、いま、延本の訓に従う。〔大山津見突〕おほやまつみのかみ。櫛名田姫の父などとひとしく「国つ神」の意。この国土に早くから居住した神。〔突阿多綾比賣〕かむあたつひめ。「かむ」は美称。「あた」は笠沙の御前のある地。その地名をとっての名。〔木花之佐久夜豐賣〕このはなのさくやひめ。「木」は「さくらの木」であろう。その木の花の美しく咲く意で「さく」という。「や」は感動の終助詞で、記伝の「開光映」の意とするは非。「あな、玉はや」の「はや」を「映」と解することの非は上に述べてある。「びめ」の非なること、言うまでもない。 
【 神代の物語 】邇邇芸命の三皇子
故、後、木埴之佐久夜豐賣、參出白、妾妊身、今、臨二籥時。是天突之御子、私不レ可レ籥。故、樽。爾詔、佐久夜豐賣、一宿哉妊。是非二我子。必國突之子爾、答白、吾妊之子、若國突之子隅、籥不レ幸。若天突之御子隅幸。來作二無レ竿找探殿、入二其殿触、以レ土塗塞而、方二籥時一以、火著二其殿一而籥也。故、其火盛燒時、館レ生之子名、火照命。【此隅隼人阿多君之督。】筱生子名、火須勢理命。【須勢理三字以音】筱生子御名、火蘚理命。亦名天津日高日子穗穗手見命。【三柱】
故、後に、木花之佐久夜豐売、参出て白したまひしく、「妾妊身めるを、今、産むべき時に臨りぬ。是の天つ神の御子を、私しに産むべきにあらず。故、請す。」と、まをしたまひき。爾、詔りたまひしく、「佐久夜豐売、一宿にや妊める。是は我が子にあらず。必ず国つ神の子ならむ。」と、のりたまひければ、答へて白したまひしく、「吾が妊める子、若し国つ神の子ならば、産まむこと幸からじ。若し天つ神の御子にまさば幸からむ。」と、まをして、即ちに戸無き找探殿を作りて、其の殿内に入り、土をもて塗り塞ぎて、産ます時に方りて、火を其の殿に着けて産みましけり。故、其の火の盛りに焼ゆる時に、生れませる子の名は、火照命。【こは隼人阿多の君の祖なり。】次に生れませる子の名は、火須勢理命。【須勢理の三字、音を以ふ。】次に生れませる子の御名は、火遠理命。亦の名は、天津日高日子穂穂手見命。【三柱】
〔籥不レ幸〕みこうまむことさきからじ。真本・延本等「産時不幸」に作る。それによれば、「みこうまむとき……」となる。いま、底本・諸本に従う。御子を産むことが、つつがなく、平安ではありますまい。〔無レ竿找探殿〕となきやひろどの。出入口の無い大きな宮殿。土で塗りふさいだのである。うつむろ。事実は、産室の戸をしめて、人の見るのをさけたもの。〔殿触〕とぬち。「とのぬち」の訓には従わぬ。 
【 神代の物語 】兄弟釣針争い
故、火照命隅、爲二恭佐知豐古一【此四字以音。下效此。】而、孚二鰭廣物・鰭狹物。火蘚理命隅、爲二山佐知豐古一而、孚二毛殆物・毛柔物。爾火蘚理命、謂下其兄火照命、各相二│易佐知一欲上レ用、三度雖レ乞不レ許。然、蒹纔得二相易。爾、火蘚理命、以二恭佐知一釣魚綾不レ得二一魚。亦其鉤失レ恭。於レ是、其兄火照命、乞二其鉤一曰、山佐知母己之佐知佐知、恭佐知母己之佐知佐知、今各謂レ羮二佐知一之時、【佐知二字以音】其弟火蘚理命、答曰、汝鉤隅、釣レ魚、不レ得二一魚、蒹失レ恭。然、其兄強乞磆。故、其弟破二御佩之十軽劔、作二五百鉤一雖レ償不レ孚、亦作二一千鉤一雖レ償不レ受、云三憑欲レ得二其正本鉤。
故、火照命は、海佐知豐古【この四字、音を以ふ。下これに效ふ。】と為て、鰭の広物・鰭の狭物を取りたまひ、火遠理命は、山佐知豐古と為て、毛の殆物・毛の柔物を取りたまひき。爾に、火遠理命、其の兄火照命に、「各佐知相易へて用ひむ。」と謂ひて、三度乞はししかども許さざりき。然れども、遂に纔に相易へることを得たまひき。爾、火遠理命、海佐知を以ちて魚釣らすに、都て一つの魚をも得たまはず。亦其の鉤をさへ海に失ひたまひき。ここに、其の兄火照命、其の鉤を乞ひて曰しけらく、「山佐知も己が佐知佐知、海佐知も己が佐知佐知。今は各佐知返さむ。」と謂しし時に、【佐知の二字、音を以ふ。】其の弟火遠理命、答へて曰りたまはく、「汝の鉤は、魚釣りしに、一つの魚をも得ずて、遂に海に失ひてき。」と、のりたまひき。然れども、其の兄強ちに乞ひ徴りき。故、其の弟、御佩かせる十軽の剣を破りて、五百鉤を作りて償ひたまへども取らず、亦一千鉤を作りて償ひたまへども受けずて、「猶其の正本の鉤を得む。」とぞ云ひける。
〔恭佐知豐古〕うみさちひこ。「びこ」の訓は非。延本の訓に従う。紀は「海幸彦」に作る。ここの「さち」は漁猟による幸福・利得を得る意。海で漁を営む男性。〔山佐知豐古〕やまさちひこ。「びこ」の訓は非。前項の対。紀は「山幸彦」に作る。〔毛殆物・毛柔物〕けのあらものけのにこもの。毛の荒い獣、毛の柔い獣。もろもろの獣。「けのにこもの」を「鳥」とする説には従わぬ。「鰭の広物、鰭の狭物」に対する語だからである。記伝の説が正しい。〔各〕おのもおのも。めいめい。記伝は、「師の説」として「たがひに」と訓じているが、下にも「各」を「おのおの」と訓じている。字義に即して読む方が可。〔佐知〕ここの「さち」は漁猟の具をいう。すなわち、幸福・利得を得るに用いる具。弓矢や釣針の類。〔恭佐知〕うみさち。海の漁に用いる具。前項参照。〔綾〕かつて。すべて。全然。「都」は「世説・賞誉」に「使二人名利之心都尽。」とあり、現代シナ語でも、「すべて」の意を「都都的」と言っている。〔鉤〕ち。底本はすべて「釣」に誤り、「つりばり」と訓じているが、延本の訓が正しい。意は「つりばり」である。「ち」は、もと「乳房」「ちくび」の「ち」であり、その形の似ているところから、まるみを帯びた小さなもの、旗・幟・幕などの「ち」、わらじの「ち」、釣鐘の表面の疣状の突起、また「釣針」をもいう。紀は「鉤」を「ち」と訓じている。また、下文にも「淤煩鉤」「貧鉤」などとあり、文字の「釣」、訓の「つりばり」共に、底本の誤りである。 
【 神代の物語 】海宮行(一)
於レ是、其弟、泣患居二恭邊一之時、鹽椎突來問曰、何癪捏津日高之泣患館由。答言、我與レ兄易レ鉤而、失二其鉤。是、乞二其鉤一故、雖レ償二多鉤一不レ受、云三憑欲レ得二其本鉤一故、泣患之。爾、鹽椎突云、我爲二汝命、作二善議。來芟二无レ間勝間之小焙、載二其焙一以、教曰、我押二│流其焙一隅、差暫往。將レ有二味御路。乃乘二其蕈一往隅、如二魚鱗一館レ芟之宮室。其綿津見突之宮隅也。到二其突御門一隅、傍之井上、有二湯津香木。故、坐二其木上一考、其恭突之女、見相議隅也。【訓香木云加都良】故、隨レ辻少行、備如二其言。來登二其香木一坐。
ここに、其の弟、泣き患ひて海辺に居ます時に、塩椎神来て問ひて曰しけらく、「何にぞ虚空津日高の泣き患ひたまふ所由は。」と問ひけれは、答へて言りたまひしく、「我、兄と鉤を易へて、其の鉤を失ひき。是て其の鉤を乞ひし故に、多くの鉤を償ひしかども受けずて、『猶其の本の鉤を得む。』と云ひし故に、泣き患ふるなり。」と、のりたまひき。爾に塩椎神、云しけらく、「我、汝命の為に善き議を作む。」と、まをして、即ちに間无し勝間の小焙を造り、其の焙に載せて、教へて曰しけらく、「我、其の焙を押し流さば、差暫し往でませ。味し御路あらむ。乃ち其の道に乗りて往でましなば、魚の鱗の如造れる宮室あらむ。其は綿津見神の宮者也。其の神の御門に到りましなば、傍の井の上に、湯津香木あらむ。故、其の木の上に坐しまさば、其の海神の女、見て相議らむものぞ。」と、をしへまつりき。【香木を訓みてカツラと云ふ。】故、教へし随に少しく行でましけるに、備に其の言の如くなりしかば、即ちに其の香木に登りて坐しましき。
〔恭邊〕うみべた。うみばた。今も「じべた」などの語になごりが見られる。〔鹽椎突〕しほつちのかみ。「潮之霊の神」の意。必ずしも一人の神の名ではなく、神武天皇の段にも同名の人が出る。潮路のことによく通じた神。「つち」は「かぐつち」「のつち」などの「之霊」である。記伝の「知識大都知」などは、いかにも苦しい説明である。紀の一書に「塩筒」とあるは「つち」の転。〔无レ間勝間之小焙〕まなしかつまのをぶね。紀は「無レ目籠」に作り、分注に「無レ目堅間」とある。記の「間」は「目」の借字。「勝間」は「かたま」の転。目を堅く編んだ竹籠。すなわち、上代の小舟のことで、目を堅く編んだ籠で、外側に革などを張り、編み目をふさぎ、水に浮かべたもの。底本・延本等は「无」を「旡」に誤る「无」と「旡」とは、意も音も全く異なる。 
【 神代の物語 】海宮行(二)
爾、恭突之女豐玉豐賣之從婢、持二玉器、將レ酌レ水之時、於レ井有レ光。仰見隅、有二麗壯夫。【訓壯夫云蘚登古。下效此。】以二│爲甚異奇。爾、火蘚理命、見二其婢、乞レ欲レ得レ水。婢乃酌レ水、入二玉器一貢荵。爾、不レ飲レ水、解二御頸之獗、含レ口、唾二│入其玉器。於レ是、其獗著レ器、婢不レ得レ離レ獗。故、獗任レ著以荵二豐玉豐賣命。爾、見二其獗一問レ婢曰、若人有二門外一哉。答曰、有レ人坐二我井上香木之上。甚麗壯夫也。環二我王而甚貴。故、其人、乞レ水故、奉レ水隅、不レ飲レ水、唾二│入此獗。是不レ得レ離故、任レ入將來而獻。爾、豐玉豐賣命、思レ奇出見、乃見感目合而、白二其父一曰、吾門有二麗人。爾、恭突、自出見云、此人隅、天津日高之御子、癪捏津日高矣。來於レ内率入而、美智皮之疊敷二找重、亦絮疊找重敷二其上、坐二其上一而、具二百孚机代物、爲二御饗。來令レ婚二其女豐玉豐賣。故、至二三年、住二其國。
爾に、海神の女豊玉豐売の従婢、玉器を持ちて、水を酌まむとする時に、井に光あり。仰ぎて見れば、麗しき壮夫あり。【壮夫を訓みてヲトコと云ふ。下これに效ふ。】甚異奇しと以為ひき。爾に、火遠理命、其の婢を見たまひて、「水を得しめよ。」と乞ひたまふ。婢乃ち水を酌みて、玉器に入れて貢進りき。爾れども、水をば飲みたまはずて、御頸の獗を解かして、口に含み、其の玉器に唾き入れたまひき。ここに、其の獗い、器に着きて、婢、獗を離つことを得ず。故、獗を着けたる任にて、豊玉豐売命に進りき。爾、其の獗を見て、婢に問ひて曰ひけらく、「若し人、門の外にありや。」と問ひければ、答へて曰しけらく、「人ありて、我が井の上の香木の上に坐す。甚麗しき壮夫にます。我が王にも益りて甚貴し。故、其の人、水を乞はしし故に、水を奉りしかば、水をば飲まさずて、此の獗を唾き入れたまひき。是が離ち得ざりし故に、入れたる任将ち来て献れるなり。」と、まをす。爾に、豊玉豐売命、奇しと思ほし、出でて見て、乃ち見感でて、目合して、其の父に白して曰しけらく、「吾が門に麗しき人います。」と、まをす。爾に、海神、自ら出でて見て、云ひけらく、「此の人は、天津日高の御子、虚空津日高にませり。」と、いひて、即ちに内に率て入れまつりて、美智の皮の畳找重を敷き、亦絮畳找重を其の上に敷きて、其の上に坐せまつりて、百取の机代の物を具へて、御饗し、即て其の女豊玉豐売を婚せまつりぬ。 故、三年に至るまで、其の国に住みたまひき。
〔從婢〕まかたち。「前子等」の約転か。貴人に侍する女。侍女。こしもと。下文に「婢」とあるも同じ。〔玉器〕たまもひ。「たま」は美称。「もひ」は、もと「水」の義であるが、やがて水を盛る器をもいう。ここは、水を入れる器。紀に「玉鋺」とあるも同じ。〔唾入〕つばきいる。唾と共に吐き入れる。口に含んだものを吐き入れる。〔其獗〕そのたまい。 
【 神代の物語 】海宮行(三)
於レ是、火蘚理命、思二其初事一而、大一罧。故、豐玉豐賣命、聞二其罧一以、白二其父一言、三年雖レ住恆無レ罧、今夜爲二大一罧、若有二何由。故、其父大突、問二其聟夫一曰、今旦聞二我女之語、云、三年雖レ坐、恆無レ罧、今夜爲二大罧。若有レ由哉。亦到二此間一之由奈何。爾、語下其大突、備如三其兄罰二失鉤一之寔上。是以、恭突、悉召二│集恭之大小魚、問曰、若有下孚二此鉤一魚上乎。故、跳魚白之、頃跳赤恭蛇魚、於レ喉傘、物不レ得レ食愁言故、必是孚。於レ是、探二赤恭談魚之喉一隅有レ鉤。來孚出而、厳洗奉二火蘚理命一之時、其綿津見大突、誨曰之、以二此鉤一給二其兄一時、言寔隅、此鉤隅、淤煩鉤・須須鉤・悍鉤・宇流鉤云而、於二後手一賜。【淤煩及須須亦宇流六字以音】然而其兄作二高田一隅、汝命營二下田。其兄作二下田一隅、汝命營二高田。爲レ然隅、吾掌レ水故、三年之間、必其兄悍窮。若恨二│怨其爲レ然之事一而攻戰隅、出二鹽盈珠一而残、若其愁樽隅、出二鹽乾珠一而活、如レ此令二跋苦一云、唆二鹽盈珠・乾珠忸兩箇。
ここに、火遠理命、其の初めの事を思ほして、大きなる一嘆したまひき。故、豊玉豐売命、其の嘆きを聞かして、其の父に白して言ひたまひしく、「三年住みたまへども、恒は嘆かすことも無かりしに、今夜大きなる一嘆為たまひしは、若し何の由ありてか。」と、まをしたまひき。故、其の父の大神、其の聟夫に問ひて曰しけらく、「今旦、我が女の語るを聞けば、云ひしく、『三年坐しませども、恒は嘆かすことも無かりしに、今夜大きなる嘆きをしたまふ。』と、いへり。若し由ありや。亦此間に到ませる由は奈何に。」と、まをす。爾、其の大神に、備に其の兄の、失ひし鉤を罰れる状を語りたまひき。ここをもて、海の神、悉に海之大小魚を召び集へて、問ひて曰ひけらく、「若し此の鉤を取れる魚ありや。」と問ふ。故、諸の魚ども白しけらく、「頃者、赤海蛇魚、喉に傘ありて、物も食ふを得ずと愁ひ言ふ故に、必ず是が取りつらむ。」と、まをす。ここに、赤海蛇魚の喉を探りしかば、鉤あり。即ちに取り出だして、清洗して、火遠理命に奉る時に、其の綿津見大神、誨誨へまつりて曰しけらく、「此の鉤を其の兄に給はむ時に、言ひたまはむ状は、『此の鉤は、淤煩鉤・須須鉤・悍鉤・宇流鉤。』と云りたまひて、後ろ手に賜へ。【淤煩及須須亦宇流六字、音を以ふ。】然して、其の兄、高田を作らば、汝が命は、下田を営りたまへ。其の兄、下田を作らば、汝が命は、高田を営りたまへ。然為たまはば、吾水を掌れれば、三年の間に、必ず其の兄、悍窮しくなりなむ。若し其の然為たまふ事を恨怨みて攻め戦ひなば、塩盈珠を出だして残らし、若し其を愁ひ請さば、塩乾珠を出だして活かし、かくして跋苦めたまへ。」と云して、塩盈珠・塩乾珠忸せて両箇を授けまつりき。
〔大一罧〕大きなるなげきしたまひき。「一罧」を「なげき」と読むこととする。記伝は「大きなる罧き一つしたまひき」と訓じ、延本は「をほきになげきます」と訓じているが、ともに採らぬ。「なげき」は「長息」の約。ためいきをつくこと。長嘆息すること。〔聟夫〕むこ。記伝は「むこのきみ」、延本は「むこぎみ」と訓じているが、ただ「むこ」と訓ずることとする。「きみ」に当たる文字がない。〔今旦〕けさ。延本・底本その他「今且」に誤っている本が多い。いま、真本およびその他の古写本に従う。〔恭之大小魚〕はたのひろものはたのさもの。字義には即さないが、記伝の訓に従う。意をもって訓ずる方が可。〔赤恭談魚〕たひ。鯛。これまた、意をもって訓ずる。 
【 神代の物語 】火遠理命の帰郷
來悉召二│集和邇魚、問曰、今天津日高之御子癪捏津日高、爲レ將レ出二│幸上國。誰隅幾日膣奉而覆奏。故、各、隨二己身之尋長、限レ日而白之中、一尋和邇白、僕隅一日膣來裝來。故爾、告二其一尋和邇、然隅汝膣奉。若渡二恭中一時、無レ令二惶畏。來載二其和邇頸一膣出。故、如レ期、一日之触膣奉也。其和邇將レ羮之時、解二館レ佩之紐小刀、著二其頸一而羮。故、其一尋和邇隅、於レ今謂二佐比持突一也。
即ち悉に和邇魚どもを召び集へて、問ひて曰ひけらく、「今、天津日高の御子虚空津日高、上つ国に出幸でまさむとす。誰は幾日に送り奉りて覆奏さむ。」と、いひき。故、 各、己が身の尋長の随に、日を限りて白す中に、一尋和邇白しけらく、「僕は、一日に送りまつり、即ちに還り来む。」と、まをす。故爾、其の一尋和邇に告りしく、「然らば汝送り奉れ。若し海中を渡る時に、な惶畏せまつりそ。」と、のりて、即ちに其の和邇の頸に載せまつりて、送り出しまつりき。故、期りしが如、一日の内に送り奉りき。其の和邇返らむとせし時に、み佩かせる紐小刀を解かして、其の頸に着けて返したまひけり。故、其の一尋和邇をば、今に佐比持神とは謂ふなり。
〔和邇魚〕わに。下に「和邇」とあるに同じ。鰐であり、crocodileであること、上に述べてある。決して、鮫や鱶などではない。常世の国への交通は、鰐・亀などの水棲動物によることも、上に述べてある。紀の一書によれば、火遠理命は、往きにも鰐の背に乗っている。〔上國〕うはつくに。紀に「上国、此云二羽播豆矩酋。」とある。日本本土を尊重して言った語。シナで、地方の属国から中原の地を尊重して「上国」と称した。「主国」の意である。 
【 神代の物語 】火遠理命の復讐
是以、備如二恭突之辻言、與二其鉤。故、自レ爾以後、稍兪悍、更起二荒心、聽來。將レ攻之時、出二鹽盈珠一而令レ残、其愁樽隅、出二鹽乾珠一而救、如レ此令二跋苦一之時、稽首白、僕隅自レ今以後、爲二汝命之晝夜守護人一而仕奉。故、至レ今、其残時之種種之態、不レ縟仕奉也。
ここをもて、備に海神の教へし言の如くして、其の鉤を与へたまひき。故、爾より以後、稍兪悍しくなりて、更に荒き心を起して迫め来ぬ。攻めむとする時は、塩盈珠を出だして残らせ、其が愁ひ謂せば、塩乾珠を出だして救ひ、かくして跋苦めたまひし時に、稽首て白しけらく、「僕は今より以後、汝が命の昼夜の守護人となりて仕へ奉らむ。」と、まをしき。故、今に至るまで、其の残れし時の種種の態、絶えず仕へ奉るなり。
ここの文は、すべて「其の兄」「火遠理命」などの主語が略されている。叙述の内容によって、主語を補って解すべきである。 〔稍兪〕いよよ。いよいよ。ますます。〔稽首〕のみ。「のむ」の連用。字のとおり、首をさげて、請い願う。〔晝夜〕よるひる。「風雨」を「あめかぜ」と読む類。国語としては「ひるよる」「かぜあめ」などとは読まない。〔守護人〕まもりびと。紀の一書に「是以火酢芹命苗裔諸隼人等、至レ今不レ離二天皇宮牆之傍、代二吠狗一而奉事者矣。」とあることをさす。 
【 神代の物語 】豊玉豐売の上陸
於レ是、恭突之女豐玉豐賣命、自參出白之、妾已妊身、今臨二籥時。此念、天突之御子、不レ可レ生二恭原。故、參出到也。爾、來於二其恭邊波限、以二鵜監一爲二葺草、芟二籥殿。於レ是、其籥殿未二葺合、不レ竄二御腹之緝一故、入高二│坐籥殿。爾、將二方籥一之時、白二其日子一言、凡佗國人隅、臨二籥時。以二本國之形一籥生。故、妾今以二本身一爲レ籥。願勿レ見レ妾。於レ是、思レ奇二其言、竊伺二其方籥一隅、化二找探和邇一而、匍匐委蛇。來見驚畏而萵膠。爾、豐玉豐賣命、知二其伺見之事、以高二│爲心恥乃、生高二│置其御子而白、妾恆艷二恭蕈一欲二往來一然、伺二見吾形一是、甚糲之。來塞二恭坂一而羮入。是以、名二其館レ籥之御子、謂二天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命。【訓波限云那藝佐、訓葺草云加夜。】
ここに、海の神の女豊玉豐売命、自ら参出て白したまひけらく、「妾已に妊身めるを、今産むべき時に臨りぬ。此を念ふに、天つ神の御子を、海原に生みまつるべきにあらず。故、参出到つ。」と、まをしたまひき。爾、即ちに其の海辺の波限に、鵜の羽を以て葺草と為て、産殿を造りぬ。ここに、其の産殿の未だ葺き合へざるに、御腹の急に忍へがたくなりたまひければ、産穀に入り坐しぬ。爾に、産まむとする時に、其の日子に白して言ひたまひけらく、「凡そ佗し国の人は、産む時に臨れば、本つ国の形になりて産生むなり。故、妾も今本の身になりて産みまつらむ。願はくは、妾をな見たまひそ。」と、まをしき。ここに、其の言を奇しと思ほして、竊かに其の方に産みたまふを伺みたまへば、找探和邇に化りて、匍匐委陀ひき。即、見驚き畏みて、遁げ退きたまひき。爾に、豊玉豐売命、其の伺見たまひし事を知らして、心恥づかしと以為して、其の御子を生み置きて、白したまひけらく、「妾恒に海つ道を通りて往来はむと欲ひしに、吾が形を伺見たまひしこと、甚糲し。」と、まをして、即ちに海坂を塞きて返り入りましき。ここをもて、其の産れませる御子の名を、天津日高日子波限建鵜葺草葦不合命と謂す。【波限を訓みてナギサと云ひ、葺草を訓みてカヤと云ふ。】
〔妾已妊身〕あれすでにはらめるを。「已」を底本は「はやくより」と訓じているが、延本に従って「すでに」と訓ずることとする。また、諸本「已」を「己」「巳」などに誤る。古写本の通弊。いま、改める。〔波限〕なぎさ。渚。波うちぎわ。〔以二鵜監一爲二葺草、芟二籥殿〕うのはをもてかやとしてうぶやをつくりぬ。鵜の羽で屋根を葺き、産屋を造った。本草綱目や釈紀などに、産婦が鵜の羽を用いると安産するとある。鵜が魚を飲み、これをたやすく吐き出すさまに比して、安産のまじないとし、その羽を用いた民俗であろう。 
【 神代の物語 】火遠理命崩御
然後隅、雖レ恨二其伺菷、不レ竄二戀心。因下治二│養其御子一之茣上、附二其弟玉依豐賣一而、獻レ歌之。 其歌曰、 阿加陀揺波 蘚佐閉比聟禮杼 斯良多揺能 岐美何余曾比斯 多布斗久阿理豆理 爾、其比古遲、【三字以音】答歌曰、 意岐綾登理 加毛度久斯揺邇 和賀韋泥斯 伊毛波和須禮士 余能許登碁登邇 故、日子穗穗手見命隅、坐二高千穂宮、伍佰捌拾艢。御陵隅、來在二其高千穗山西一也。
然れども後は、其の伺みたまひし情を恨みたまひつつも、恋しきに忍へたまはずて、其の御子を治養しまつる縁に因りて、其の弟玉依豐売に附けて、歌を献りたまひき。その歌に曰ひけらく、 (找)赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装ひし 貴くありけり 爾、その此古遅、【三字、音を以ふ。】答へたまひける歌に曰りたまひしく、 (九)沖つ鳥 鴨着く島に 我が率寝し 妹は忘れじ 世のことごとに 故、日子穂穂手見命は、高千穂の宮に、伍佰捌拾歳坐しましけり。御陵は、即ち其の高千穂の山の西のかたに在り。
〔治養〕ひたす。養い育てる。養育する。中巻、垂仁天皇の段に「日足」とあるが、「養す」の借字であろう。記伝は、私記の言を引き、「児は、日数の積もるに随ひて、成長る物故に、日数を足らしむる意。」と説いているが、果たして「日足」の意であるかどうか疑わしい。語原、未詳。〔茣〕よし。えにし。因縁。〔玉依豐賣〕たまよりひめ。「霊憑姫」 の意。この名の女性が記紀に多い。神の霊の憑る貴女の意をもって、豊玉豐売の妹に付した名。恐らく、古代における巫女的性格を有する女性の通称であろう。〔阿加陀揺……〕この歌、紀には「明珠の光はありと人は言へど、君が装ひし貴くありけり」とある。記の歌も、紀によって解すべきであり、記伝の説には従いかねる。 
【 神代の物語 】鵜葺草茸不合命と諸皇子
是天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、娶二其姨玉依豐賣命、生御子名、五瀬命。筱稻氷命。筱御毛沼命。筱若御毛沼命。亦名、豐御毛沼命。亦名、突倭伊波禮豐古命。【四柱】故、御毛沼命隅、跳二波穗、渡三│坐于二常世國。稻氷命隅、爲二妣國一而、入二│坐恭原一也。 古事記上卷絏
この天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、其の姨玉依豐売命に娶ひまして生みませる御子の名は、五瀬命。次に稲氷命。次に御毛沼命。次に若御毛沼命。亦の名は、豊御毛沼命。亦の名は、神倭伊波礼豐古命。【四柱】故、御毛沼命は、波の穂を跳みて、常世の国に渡り坐し、稲氷命は、妣の国と為て、海原に入り坐しき。古事記上巻終
〔五瀬命〕いつせのみこと。「厳稲」の意と、記伝の説。〔稻氷命〕いなひのみこと。紀には「稲飯命」とある。紀の字義による名。〔御毛沼命〕みけぬのみこと。「御食主」の意と、記伝の説。紀には「三毛入野命」とある。〔若御毛沼命〕わかみけぬのみこと。末弟なるが故に、「若」を冠したもの。〔豐御毛沼命〕とよみけぬのみこと。「とよ」は「豊か」の意の美称。以上の四皇子の名は、すべて食物を意味するもので、豊葦原瑞穂国に生をうけたからによるものであろう。 
 
古事記 中巻 

 

【 神武天皇 】御東行の途上
突倭伊波禮豐古命、〔自レ伊下五字、以レ音。〕與二其伊呂兄五瀬命一〔上伊呂二字、以レ音。〕二柱、坐二高千穗宮一而、議云、坐二何地一隅、徘聞二│看天下之政。憑思二東行。來自二日向一發、幸二│行筑紫。故、到二豐國宇沙一之時、其土人、名宇沙綾比古・宇沙綾比賣〔此十字、以レ音。〕二人、作二足一騰宮一而獻二大御饗。自二其地一螻移而、於二竺紫之岡田宮一一年坐。亦從二其國一上幸而、於二阿岐國之多豆理宮一七年坐。〔自レ多下三字、以レ音。〕亦從二其國一螻上幸而、於二吉備之高嶋宮一八年坐。故、從二其國一上幸之時、乘二龜甲一爲レ釣乍、打監擧來人、蓚二千芫吸門。爾、喚歸、問二│之汝隅誰一也。答二│曰僕隅國突。樸、問下汝隅知二恭蕈一乎上。答二│曰能知。樸、問二從而仕奉乎。答二│曰仕奉。故爾、指二│度硼機、引二│入其御焙、來賜レ名號二硼根津日子。〔此隅倭國芟之督。〕
神倭伊波礼豐古命、〔伊より下の五字、音を以ふ。〕其の伊呂兄五瀬命と〔上の伊呂の二字、音を以ふ。〕二柱、高千穂の宮に坐しまして、議りて云りたまひしく、「何の地に坐さばか、平らかに天の下の政を聞こし看さむ。猶東のかたにこそ行かめ。」と、のりたまひ、即て日向より発たし、筑紫に幸行でましき。故、豊国の宇沙に到りたまへる時に、其の土人、名は宇沙都此古・宇沙都比売〔此の十字、音を以ふ。〕二人、足一つ騰の宮を作りて、大御饗を献りけり。其地より遷移りたまひて、竺紫の岡田の宮に一年坐しましき。亦其の国より上り幸でまして、阿岐の多豆理の宮に七年坐しましき。〔多より下の三字、音を以ふ。〕亦其の国より遷り上り幸でまして、吉備の高島の宮に八年坐しましき。故、其の国より上り幸でます時に、亀の甲に乗りて釣を為つつ、打ち羽挙り来る人に、速吸門に遇ひき。故、喚び帰せて、「汝は誰そ。」と問ひたまへば、「僕は国つ神なり。」と答へ曰しき。樸、「汝は海道を知れりや。」と問ひたまへば、「能く知れり。」と答へ曰しき。樸、「従ひて仕へ奉らむや。」と問ひたまへば、「仕へ奉らむ。」と答へ曰しけり。故爾ち、硼機を其の御焙に引き入れ、即ちに名を賜ひて、硼根津日子と号づけたまひき。〔此は倭の国造らの祖なり。〕
〔上伊呂二字、以レ音〕訓注。この「上」を四声と見て、記伝は削っているが、「上の伊呂の二字」の意で、削る必要はない。「下の何々」の例は多い。〔日向〕ここの「日向」は、のちの大隅。既述。〔幸行〕「行」を「御」に作るは、字形の類似による。真本は「御」を「行」になおし、右に「御本」としるしている。これに従う。校定本・田中本も「行」に従っている。すべての例が「幸行」であり、「幸御」の例はない。〔筑紫〕筑紫へ向かって行かれた意に解すべきであろう。 
【 神武天皇 】皇軍、長髄彦に敗る
故、從二其國一上行之時、經二浪芫之渡一而、泊二呟雲之白氏津。此時、登美能那賀須泥豐古、【自レ登下九字、以レ音。】興レ軍、待向以戰爾、孚下館レ入二御焙一之楯上而下立。故、號二其地一謂二楯津。於二今隅一云二日下之蓼津一也。於レ是、與二登美豐古一戰之時、五瀬命、於二御手一負二登美豐古之痛矢串。故爾、詔、吾隅爲二日突之御子、向レ日而戰不レ良。故、負二賤奴之痛手。自レ今隅、行迴而背二│負日一以整、期而自二南方、迴幸之時、到二血沼恭、洗二其御手之血。故、謂二血沼恭一也。從二其地一迴幸、到二紀國男之水門一而詔、負二賤奴之手一乎死、爲二男建一而崩。故、號二其水門一謂二男水門一也。陵來在二紀國之竈山一也。
故、其の国より上り行でます時に、浪速の渡を経て、青雲の白肩の津に泊てたまひき。此の時、登美能那賀須泥豐古、【登より下の九字、音を以ふ。】軍を興して、向かへて戦ひしかば、御焙に入れたる楯を取りて、下り立ちたまひき。故、其地を号づけて楯津と謂ふ。今者に日下の蓼津と云ふなり。是に、登美豐古と戦ひたまへる時に、五瀬命、御手に登美豐古の痛矢串を負ひたまひき。故爾に、詔りたまひしく、「吾は日の神の御子に為て、日に向かひて戦ひしこと良からず。故、賎しき奴の痛手を負ひたり。今よりは、行き回りて、日を背負ひて撃たむ。」と期りたまひて、南の方より回り幸でましし時に、血沼の海に到りて、其の御手の血を洗ひたまひき。故、血沼の海とは謂ふなり。其地より回り幸でまして、紀国の男の水門に到りまして詔りたまひしく、「賤しさ奴の手を負ひてや死ぬべき。」と男建びして崩りましぬ。故、其の水門を号づけて、男の水門とは謂ふなり。陵は即ち紀国の竈山に在り。
〔浪芫之渡〕今の大阪湾の渡航場。潮流が速いので「なみはや」という。〔呟雲之〕「白雲の」の意。青い雲などのあろうはずはない。「白」「出で来」などに冠する枕詞。〔白氏津〕「しらかた」は「平枚」の訛か。継体紀に「此岱抒駄」とある。今の大阪府枚方市。淀河の左岸。もと、河内国。〔登美〕今の奈良県桜井市富雄町の辺の古称。「とみ」は大和の他の地にもあり、「跡見」の意であろう。「跡見」は、狩猟の時、鳥獣の通った跡を見て、そのゆくえを考えること。また、その人。〔那賀須泥豐古〕紀に「長髄彦」とある。「びこ」ではない。「ながすね」は、「とみ」の旧称。 
【 神武天皇 】皇軍、熊野に入る
故、突倭伊波禮豐古命、從二其地一迴幸、到二熊野村一之時、大熊、髣出入、來失。爾、突倭伊波禮豐古命、倏忽爲二蘚延、及御軍皆蘚延而伏。【蘚延二字、以レ音。】此時、熊野高倉下、【此者人名。】齎二一熹刀一到レ於二天突御子之伏地一而獻之時、天突御子、來寤起、詔二長寢乎。故、受二│孚其熹刀一之時、其熊野山之荒突、自皆爲二切仆。爾、其惑伏御軍、悉寤起之。故、天突御子、問下獲二其熹刀一之館由上。高倉下答曰、己夢云、天照大突・高木突、二柱突之命以、召二建御雷突一而詔、葦原中國隅、伊多玖佐夜藝帝阿理豆理。【此十一字、以レ音。】我之御子等、不徘坐良志。【此二字、以レ音。】其葦原中國隅、專汝館二言向一之國故、汝建御雷突可レ降。爾、答曰、僕雖レ不レ降、專有下徘二其國一之熹刀上可レ降。【此刀名、云二佐士布綾突、亦名云二甕布布綾突。亦名布綾御魂。此刀者、坐二石上突宮一也】降二此刀一寔隅、穿二高倉下之倉頂、自レ其墮入。故、阿佐米余玖【自レ阿下五字、以レ音。】汝孚持、獻二天突御子。故、如二夢辻一而、旦見二己倉一隅、信有二横刀。故、以二是熹刀一獻耳。
故、神倭伊波礼豐古命、其地より回り幸でまして、熊野村に到りたまへる時に、大きなる熊、髣に出で入りて、即ちに失せぬ。爾に、神倭伊波礼豐古命、倏忽に遠延為し、及御軍皆遠延て伏しき。【遠延の二字、音を以ふ。】此の時、熊野の高倉下、【此は人の名。】一ふりの横刀を齎ちて、天つ神の御子の伏せる地に到りて献りし時に、天つ神の御子、即ちに寤め起きたまひ、「長寝しつる乎。」と詔りたまひき。故、其の横刀を受け取りたまひし時に、其の熊野の山の荒ぶる神、自ら皆切り仆さえき。爾、其の惑ひ伏せる御軍、悉に寤め起きたりき。故、天つ神の御子、其の横刀を獲し所由を問ひたまへば、高倉下答へて曰しけらく、「己の夢に云ひしく、天照大神・高木神、二柱の神の命以て、建御雷神を召して詔りたまひしく、『葦原の中つ国は、伊多玖佐夜芸帝阿理豆理。【此の十一字、音を以ふ。】我が御子等、不平み坐す良志。【此の二字、音を以ふ。】其の葦原の中つ国は、専ら汝が言向けし国なれば、汝建御雷神降るべし。』と、のりたまひき。爾、答へて曰しけらく、『僕降らずとも、専ら其の国を平せし横刀あれば降しなむ。』と、まをしき。【此の刀の名は、佐士布都の神と云ひ、亦の名は、甕布都の神と云ふ。亦の名は布都の御魂。この刀は、石上の神宮に坐すなり。】『此の刀を降さむ状は、高倉下の倉の頂を穿ちて、其より堕し入れむ。故、阿佐米余玖、【阿より下の五字、音を以ふ。】汝取り持ちて、天つ神の御子に献れ。』と、のりたまひき。故、夢の教への如に、旦己が倉を見しかば、信に横刀ありき。故、是の横刀を以て献りし耳。」 と、まをしき。
〔熊野〕「くまぬ」の訓は非。「木間野」の意。森林と森林との間の平地をいう。出雲にもある。ここは、紀伊国、牟婁の地の総称。〔髣出入〕ほのかに出で入る。「髣」を諸本「髪」に作る。字形による誤写であること明らかであるから、いま訂正する。ほのかに、すうっと山から出て山に入る。「熊野」の文字によって生じた伝説か。〔蘚延〕「をゆ」の連用形。妖気に悩む。〔高倉下〕高い倉の下に住んでいたことによる名であろう。〔齎〕「匱」は俗字。延本・底本等の正字「齎」を、真本等の俗字「匱」を正しいと見て、わざわざ「匱」になおした研究書がある。〔己夢〕底本は「己」を「巳」に誤る。「いめ」は「ゆめ」の古語。「寝目」の義。また、「寝見」の約ともいう。 
【 神武天皇 】皇軍、吉野に入る
於レ是、亦高木大突之命以、覺白之、天突御子、自レ此於二奧方、莫レ使二入幸。荒突甚多。今自レ天、虔二八咫烏。故、其八咫烏引レ蕈。從二其立後一應二幸行。故、隨二其辻覺、從二其八咫烏之後一幸行隅、到二吉野河之河尻。時作レ筌有二孚魚人。爾、天突御子、問二汝隅誰也。答曰、僕隅國突、名謂二贄持之子。【此者、阿陀之鵜養之督。】從二其地一幸行隅、生レ尾人、自レ井出來。其井有レ光。爾、問二汝隅誰也。答曰、僕隅國突、名謂二井氷鹿。【此者吉野首等督也。】來入二其山一之、亦蓚二生レ尾人。此人、押二│巖一而出來。爾、問二汝隅誰也。答曰、僕隅國突、名謂二石押分之子。今聞二天突御子幸行一故、參向耳。【此者吉野國厥之督。】自二其地一蹈穿越、幸二宇陀。故、曰二宇陀之穿一也。
是に、亦高木大神の命以て、覚して白りたまひしく、「天つ神の御子、此より奥つ方に、な入り幸でしめそ。荒ぶる神甚多かり。今天より八咫鳥を遣さむ。故、其の八咫烏道引かむ。其の立たむ後より幸でますべし。」と、のりたまひき。故、其の教へ覚したまへる随に、其の八咫烏の後より幸行でまししかば、吉野河の河尻に到りたまひき。時に筌を作りて取魚る人あり。爾に、天つ神の御子、「汝は誰也。」と問ひたまへば、答へて曰しけらく、「僕は国つ神、名な贄持の子と謂す。」と、まをしけり。【此は阿陀の鵜養の祖なり。】其地より幸行でたまへば、尾の生えたる人、井より出で来。其の井に光あり。爾、「汝は誰也。」と問ひたまへば、答へて曰しけらく、「僕は国つ神、名は井氷鹿と謂す。」と、まをしけり。【此は吉野の首らの祖なり。】即て其の山に入りたまひしかば、亦尾の生えたる人に遇へり。此の人、巌を押し分けて出で来。爾、「汝は誰也。」と問ひたまへば、答へて曰しけらく、「僕は国つ神、名は石押分の子と謂す。今天つ神の御子幸行でますと聞きしかば、参向かへまつるにこそ。」と、まをしけり。【此は吉野の国巣の祖なり。】其地より踏み穿ち越えて、宇陀に幸でましき。故、宇陀の穿とは曰ふなり。
〔覺白〕紀には、天照大神が夢で覚されたとある。伝の相違。なお、「白」の文字を用いたのは、天つ神の御子を貴んでのことか。やはり「詔」の文字を用いるべきところ。〔天突御子〕神武天皇をさす。以下同じ。〔莫使入幸〕この「使」は敬語。〔八咫烏〕一般に「やたがらす」と読みならわされているが、上巻、石屋ごもりの段に「八阿多」とあり、紀には「頭八咫烏」とある。よって、しばらく「やあたがらす」と訓ずることとする。〔隨二其辻覺〕底本は「隨」を「墮」に誤る。 
【 神武天皇 】兄宇聟斯、誅せらる
故爾、於二宇陀一有二兄宇聟斯・【自レ宇以下三字、以レ音。下效レ此也。】弟宇聟斯二人。故、先虔二八咫烏、問二二人一曰、今天突御子幸行。汝等仕奉乎。於レ是、兄宇聟斯、以二鳴鏑一待二│射羮其使。故、其鳴鏑館レ落之地、謂二訶夫羅前一也。將二待整一云而、聚レ軍然、不レ得レ聚レ軍隅、欺二│陽仕奉一而、作二大殿、於二其殿触一作二押機一待時、弟宇聟斯先參向、型曰、僕兄兄宇聟斯、射二│羮天突御子之使、將二│爲待攻一而、聚レ軍、不レ得レ聚隅、作レ殿、其触張二押機、將二待孚。故、參向顯白。爾、大汽苣等之督蕈臣命、久米直等之督大久米命二人、召二兄宇聟斯、罵詈云、伊賀【此二字、以レ音。】館二作仕奉一於二大殿触一隅、意禮【此二字、以レ音。】先入、明下│白其將レ爲二仕奉一之寔上而、來握二熹刀之手上、矛由氣、【此二字、以レ音。】矢刺而膊入之時、乃己館レ作押見レ打而死。爾、來澡出斬散。故、其地謂二宇陀之血原一也。
故爾に、宇陀に兄宇聟斯・【宇より以下の三字、音を以ふ。下此に效ふ。】弟宇聟斯二人ありけり。故、先づ八咫烏を遣はして、二人に問はしめて曰りたまひしく、「今天つ神の御子幸行でませり。汝等仕へ奉らむや。」と、のりたまひき。是に、兄宇聟斯、鳴鏑を以て其の使ひを待ち射返しき。故、其の鳴鏑の落ちたりし地を、訶夫羅前とは謂ふなり。待ち撃たむと云ひて、軍を聚めしかども、軍を聚め得ざりしかば、仕へ奉らむと欺陽りて、大殿を作り、其の殿内に押機を作りて待ちける時に、弟宇聟斯先づ参向かへて、拝みて曰しけらく、「僕が兄兄宇聟斯、天つ神の御子の使ひを射返し、待ち攻めむと為て、軍を聚めしかども、聚め得ざりければ、殿を作り、其の内に押機を張りて、待ち取らむとす。故、参向かへて、顕はし白す。」と、まをしき。爾に、大伴連等の祖道臣命、久米直等の祖大久米命の二人、兄宇聟斯を召して、罵詈りて云ひけらく、伊賀【此の二字、音を以ふ。】作り仕へ奉れる大殿の内には、意礼【此の二字、音を以ふ。】先づ入りて、其の仕へ奉らむとする状を明かし白せ。」と、いひて、即ちに横刀の手上握り、矛由気、【此の二字、音を以ふ。】矢刺して、追ひ入れし時に、乃ち己が作れる押に打たえて死にき。爾、即ちに控き出だして、斬り散りき。故、其地を宇陀の血原とは謂ふなり。
〔兄宇聟斯・弟宇聟斯〕「うかし」は上述の宇陀郡宇賀志村の古称。その地の土豪兄弟〔訶夫羅前〕宇陀の地であろうが、所在、未詳。〔押機・押〕今日言う「おとし」。〔蕈臣命〕初めの名は日臣命。皇軍の進路を開いたので、この名を賜わる。〔久米直〕底本の訓「あたへ」は誤り。既出。〔大久米命〕上に「天津久米命」とある。参照のこと。〔罵詈〕のる。「ののしる」の古語。大声で叫ぶ。 
【 神武天皇 】大聨の時の御歌
然而、其弟宇聟斯之、獻二大饗一隅、悉賜二其御軍。此時、歌曰、 宇陀能 多加紀爾 志藝和那波留 和賀揺綾夜 志藝波佐夜良受 伊須久波斯 久治良佐夜流 古那美賀 那許波佐婆 多知曾婆能 砲能那豆久袁 許紀志斐惠泥 宇波那理賀 那許波佐婆 伊知佐加紀 砲能意富豆久袁 許紀陀斐惠泥 亞亞【音引】志夜、胡志夜。此隅伊碁能布曾。【此五字、以レ音。】阿阿【音引】志夜、胡志夜。此隅嘲恁隅也。故、其弟宇聟斯、【此隅、宇陀水取等之督也。】
然して、其の弟宇聟斯、大饗を献りければ、悉に其の御軍に賜はりき。此の時、歌曰みしたまひしく、 (一〇) 宇陀の 高城に 鴫罠張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし くぢら障る 老妻が 食請はさば たちそばの 実の無けくを こきしひゑね 若妻が 食請はさば いちさかき 実の多けくを こきだひゑね 亜亜【音を引く】しや、こしや。此は伊碁能布曽。【此の五字、音を以ふ。】阿阿【音を引く】しや、こしや。此は嘲咲ふ者也。故、其の弟宇聟斯、【此は宇陀の水取らの祖なり。】
〔多加紀〕「高城」の意。「き」は「城」ではなく、高い地に一画を成した自然の地形。〔志藝和那〕鴫をとろうとする罠。〔佐夜流〕障る。(わなに)かかる。触れる。〔伊須久波斯〕諸説があるが、筆者は「いすかのはしと食いちがい」の意と解したい。〔久治良〕鯨。ただし、大和の山中に鯨のいようはずなく、「鯨のような大物」すなわち兄宇聟斯を指したのであろう。大言海は「鷹ら」と解しているが無理である。〔古那美〕前妻の意ではなく、年老いた妻の義。これまた、兄宇聟斯をいう。〔那〕食。「魚」のことではない。魚を請うのに、「木の実を与えよ」では意を成さぬ。〔多知曾婆〕「立杣」の転か。また、「そば」は「狭葉」の転とも見られる。いずれにせよ、実のならない木。和名抄に「柧稜、曽波乃岐。」とあるが、これは角材である。山に生えている角材などは考えられぬ。 
【 神武天皇 】土雲八十建、誅せらる
自二其地一幸行、到二竄坂大室一之時、生レ尾土雲【訓云二具毛。】八十建、在二其室、待伊那流。【此三字、以レ音。】故爾、天突御子之命以、饗二│賜八十建。於レ是、宛二八十建、設二八十膳夫、譌レ人佩レ刀、誨二其膳夫等一曰、聞レ歌之隅、一時共斬。故、明レ將レ打二其土雲一之歌曰、 意佐加能 意富牟廬夜爾 比登佐波爾 岐伊理袁理 比登佐波爾 伊理袁理登母 美綾美綾斯 久米能古賀 久夫綾綾伊 伊斯綾綾伊母知 宇知弖斯夜揺牟 美綾美綾斯 久米能古良賀 久夫綾綾伊 伊斯綾綾伊母知 伊揺宇多婆余良斯 如レ此歌而、拔レ刀、一時打殺也。
其地より幸行でまして、忍坂の大室に到りませる時に、尾の生えたる土雲【雲を訓みてグモと云ふ。】八十建、其の室に在りて、待ち伊那流。【此の三字、音を以ふ。】故爾に、天つ神の御子の命以ちて、八十建に饗を賜ひき。是に、八十建に宛てて、八十膳夫を設け、人毎に刀を佩かせて、其の膳夫等に誨へて曰りたまひしく、「歌を聞かば、、一時共に斬れ。」と、のりたまひき。故、其の土雲を打たむとすることを明かせる歌に曰りたまひしく、 (一一) 忍坂の 大室屋に 人さはに 来入り居り 人さはに 入り居りとも みつみつし 久米の子が くぶつつい いしつつい持ち 撃ちてしやまむ みつみつし 久米の子らが くぶつつい いしつつい持ち 今撃たばよらし かく歌ひて、刀を抜き、一時に打ち殺しけり。  
〔竄坂〕「おさか」は「おしさか」の略。奈良県桜井市忍坂の古称。〔大室〕大きな岩窟。土蜘蛛の住所。〔土雲〕土蜘蛛。「くも」は「こもり」。土の中にこもり住む人の意。「くず」に同じ。「さへき」とも称する。〔八十建〕多くの夷族の首長。〔待伊那流〕待ち吼るか。〔佐波爾〕さはに。多く。〔美綾美綾斯〕「御稜威御稜威し」の約であろう。皇軍の武勇なる意をもって「久米」に冠する枕詞。「くめ」は「組」であり、部隊である。既述。真淵の冠辞考は「瑞瑞し」と訓じ、「若くて美しい」意に解しているが、いま、前述の意に解しておく。"3×3=9"などの説は、ふざけすぎている。この説を「最も適当である」などと肯定する研究書もある。〔久夫綾綾伊〕「くぶつつ」は「かぶつつ」の転。既出。「い」は、ここでは格助詞「を」。〔伊斯綾綾伊〕「いし」は「石」ではなく、「いかめし」の約。「いしつ鍛」で、いかめしく鍛えた太刀。すでに、このころは石器時代を過ぎている。「い」は前項と同じく助詞「を」である。〔余良斯〕よろしい。
【 神武天皇 】登美豐古を誅せむとする御歌
然後、將レ整二登美豐古一之時、歌曰、 美綾美綾斯 久米能古良賀 阿波布爾波 賀美良比登母登 曾泥賀母登 曾泥米綾那藝弖 宇知弖志夜揺牟 又、歌曰、 美綾美綾斯 久米能古良賀 加岐母登爾  宇惠志波士加美 久知比比久 和禮波和須禮士 宇知弖斯夜揺牟 又、歌日、 加牟加是能 伊勢能宇美能 意斐志爾 波比母登富呂布 志多陀美能 伊波比母登富理  宇知弖志夜揺牟
然の後、登実豐古を撃ちたまはむとせし時、歌曰ひたまひしく、 (一二) みつみつし 久米の子らが 粟生には かみらひともと そ根がもと そ根芽つなぎて 撃ちてしやまむ 樸、歌曰ひたまひしく、 (一三) みつみつし 久米の子らが 垣本に 植ゑしはじかみ 口ひびく 我は忘れじ 撃ちてしやまむ 樸、歌曰ひたまひしく、 (一四) 神風の 伊勢の海の 大石に 匍ひもとほろふ 細螺の い匍ひもとほり 撃ちてしやまむ
〔阿波布〕粟の畑。〔賀美良〕「小韮」または「香韮」の転。「にら」の古称。みら。「賀」は漢音「カ」。〔曾泥賀母登〕其根が茎。其の根の本。〔曾泥米綾那藝弖〕其根芽つなぎて。ただし、草の根かきわけても(登美豐古を見つけ出して)の意。〔波士加美〕さんしょう。 
【 神武天皇 】兄師木・弟師木を撃った時の御歌
樸、整二兄師木・弟師木一之時、御軍暫疲。爾、歌曰、 多多那米弖 伊那佐能夜揺能 許能揺用母 伊由岐揺毛良比 多多加閉婆 和禮波夜惠奴 志揺綾登理上 宇加比賀登母 伊揺須氣爾許泥
樸、兄師木・弟師木を撃ちたまへる時に、御軍暫し疲れたり。爾、歌曰みしたまひしく、 (一五) 楯並めて 伊那佐の山の 木の間よも い往き守らひ 戦へば 我はや飢ぬ 島つ鳥 鵜飼が伴 今助けに来ね。
〔兄師木・弟師木〕大和国磯城(今の奈良県磯城郡)の地に住んでいた兄弟の土豪。〔多多那米弖〕楯を並べて。〔伊那佐能夜揺〕「いなさ」は東南の風。その風の吹く山。「いなさのをばま」参照。宇陀郡伊那佐郡の山。〔揺毛良比〕守らひ。「守る」の未然形「守ら」に継続の意の接尾語「ひ」のついた動詞。「守らふ」の連用。守りつつ。うかがいつつ。〔志揺綾登理〕「島にいる鳥」の意から「鵜」に冠する枕詞。「沖つ鳥鴨」の類。〔許泥〕来ね。「ね」は未然形に付いて願望の意を表わす終助詞。 
【 神武天皇 】邇芸速日命の帰順
故爾、邇藝芫日命、參赴、白レ於二天突御子、聞二天突御子、天降坐一故、膊參降來。來獻二天津瑞一以仕奉也。故、邇藝芫日命、娶二登美豐古之妹登美夜豐賣、生子、宇庄志揺遲命。【此隅、物部苣・穗積臣・区女臣督也。】
故爾に、邇芸速日命、参赴て、天つ神の御子に白しけらく、「天つ神の御子、天降り坐すと聞きし故に、追ひ参降り来ぬ。」と、まをして、即ち天つ瑞を献りて仕へ奉りき。故、邇芸速日命、登美豐古の妹登美夜豐賣に娶ひて生める子、宇摩志麻遅命。【此は、物部連・穂積臣・釆女臣の祖なり。】
〔邇藝芫日命〕紀に「酋芸波揶卑」と訓注。底本の訓「にぎはやび」は、例の濁る癖から生じた誤訓。「にぎ」は「豊饒」。「はやひ」は「捷霊」すなわち「勇勁」の意であろう。旧紀や紀によれば、神武天皇の大和御進入以前、多くの武将を従えて天降り、登美豐古を誅して帰順したとある。 
【 神武天皇 】神武天皇の后妃と御子たち
故、如レ此、言二│向│徘│和荒夫琉突等、【夫琉二字、以レ音。】膠二撥不レ伏人等一而、坐二畝火之白檮原宮、治二天下一也。故、坐二日向一時、娶二阿多之小橋君妹、名阿比良比賣一【自レ阿以下五字、以レ音。】生子、多藝志美美命、筱岐須美美命、二柱坐也。然、更求下爲二大后一之美人上時、大久米命曰、此間有二江女。是謂二突御子。其館三│以謂二突御子一隅、三嶋湟咋之女、名勢夜陀多良比賣、其容姿麗美故、美和之大物主突、見感而、其美人爲二大便一之時、化二丹塗矢、自下其爲二大便一之溝流下下突二其美人之富登。【此二字、以レ音。下效此。】爾、其美人驚而、立走伊須須岐伎。【此五字、以レ音。】乃將二│來其矢、置二於床邊、忽成二麗壯夫。來娶二其美人一生子、名謂二富登多多良伊須須岐比賣命。亦名謂二比賣多多良伊須氣余理比賣。【是隅、惡二其富登云事、後改レ名隅也。】故、是以、謂二突御子一也。於レ是、七江女、蓆二│行於高佐士野。【佐士二字、以レ音。】伊須氣余理比賣、在二其中。爾、大久米命、見二其伊須氣余理比賣一而、以レ歌白レ於二天皇一曰、 夜揺登能 多加佐士怒袁 那那由久 袁登賣杼母 多禮袁志 庄加牟 爾、伊須氣余理比賣隅、立二其江女等之電。乃天皇、見二其江女等一而、御心知三伊須氣余理比賣立二於最電、以レ歌答曰、 加綾賀綾母 伊夜佐岐陀弖流 延袁斯揺加牟 爾、大久米命、以二天皇之命、詔二其伊須氣余理比賣一之時、見二其大久米命黥利目一而、思レ奇、歌曰、 阿米綾綾 知杼理揺斯登登 那杼佐豆流斗米 爾、大久米命、答歌曰、 袁登賣爾 多陀爾阿波牟登 和加佐豆流斗米 故、其孃子、白二│之仕奉一也。 於レ是、其伊須氣余理比賣命家、在二狹井河上。天皇、幸二│行其伊須氣余理比賣之許、一宿御寢坐也。【其河謂二佐韋河一由隅、於二其河邊一山由理草多在。故、取二其山由理草之名、號二佐韋河一也。山由理草之本名、云二佐韋一也。】後、其伊須氣余理比賣、參二│入宮触一之時、天皇、御歌曰、 阿斯波良能 志豆志岐袁夜邇 須賀多多美 伊夜佐夜斯岐弖 和賀多布理泥斯 然而、阿禮坐之御子名、日子八井命。筱突八井耳命。筱突沼河耳命。【三柱】
故、此の如くにして、荒夫琉神等を言向け平和し、【夫琉の二字、音を以ふ。】伏はざる人等を退け撥ひたまひて、畝火の白檮原の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまひき。故、日向に坐しませる時に、阿多の小橋の君の妹、名は阿比良比売を娶して【阿より以下の五字、音を以ふ。】生みませる子、多芸志美美命、次に岐須美美命、二柱坐せり。然れども、濘に大后と為む美人を求ぎし時に、大久米命曰しけらく、「此間に媛人あり。是は神の御子なりと謂ふ。其を神の御子なりと謂ふ所以は、三島湟湟咋の女、名は勢夜陀多良比売、其の容姿麗美しかりければ、美和の大物主神、見感でて、其の美人の大便に為れる時、丹塗矢に化りて、其の大便に為れる溝流の下より、其の美人の富登【此の二字、音を以ふ。下此に效ふ。】を突きけり。爾、其の美人驚きて、立ち走り伊須須岐伎。【此の五字、音を以ふ。】乃ち其の矢を将ち来て、床の辺に置きけるに、忽ち麗しき壮大に成りぬ。即ち其の美人に娶ひて生める子、名を富登多多良伊須須岐比売命と謂ふ。亦の名を比売多多良伊須気余理比売と謂ふ。【是は、其の富登と云ふ事を悪みて、後に名を改めたるなり。】故、是を以て、神の御子とは謂ふなり、是に、七たりの媛女、高佐士野に遊行びしが、【佐士の二字、音を以ふ。】伊須気余理比売、其の中に在りき。爾、大久米命、其の伊須気余理比売を見て、歌を以て天皇に白して曰ひけらく、 (一六) 大和の 高佐士野を 七往く 乙女ども 誰をし 纏かむ 爾に、伊須気余理比売は、其の媛女等の前に立てり。乃ち天皇、其の媛女等を見そなはし、御心に伊須気余理比売の最前に立てることを知りたまひ、歌を以て答へて曰りたまひしく、 (一七) かつがつも いや先立てる 愛をし 纏かむ 爾に、大久米命、天皇の命を其の伊須気余理比売に詔れる時に、其の大久米命の黥けたる利目を見て、奇しと思ひて歌曰ひけらく、 (一八) あめつつ ちどりましとと など黥ける利目 爾、大久米命、答へて歌曰ひけらく、 (一九) 乙女に 直に会はむと 我が黥ける利目 故、其の嬢子、「仕へ奉らむ。」と白しけり。 是に、其の伊須気余理比売命の家は、狭井河の上に在りき。天皇、其の伊須気余理比売の許に幸行でまして、一宿御寝ましけり。【其の河を佐韋河と謂ふ由は、其の河の辺に山由理草多かりき。故、其の山由理草の名を取りて、佐韋河と号づけたるなり。山由理草の本の名を佐韋と云ひしなり。】後に、其の伊須気余理比売、宮内に参入りし時に、天皇、御歌曰みしたまひしく、 (二〇) 葦原の しけしき小屋に 菅畳 いやさや敷きて 我が二人寝し 然して生れ坐せる御子の名は、日子八井命。次に神八井耳命。次に神沼河耳命。【三柱】
〔畝火之白檮原宮〕大和の畝傍山の橿原の宮「かしばら」と濁るは非。畝傍山の東南麓に橿の林があり、それを伐って宮を建てられたので申す。奈良県橿原市の橿原神宮は、その址に建てられたもの。〔阿多之小橋君〕記の諸本、みな「橋」を「椅」に誤り、その後も無反省にこの誤字が用いられている。「椅」は音「イ」。「椅子」のことであり、また南天に似た木の名であって、「橋」などの意はない。字形による誤写である。神代紀、下に「吾田君小橋」とある。いま訂正する。ホノスソリノミコトの裔。「あた」は薩摩の地名。「かむあたつひめ」の項参照。この「あた」の地の首長。「をばし」は名であろう。 
【 神武天皇 】多芸志美美命の不倫
故、天皇紡後、其庶兄當藝志美美命、娶二其嫡后伊須氣余理比賣一之時、將レ殺二其三弟一而謀之間、其御督伊須氣余理比賣、患苦而、以レ歌令レ知二其御子等一。歌曰、 佐韋賀波用 久毛多知和多理 宇泥備夜揺 許能波佐夜藝奴 加是布加牟登須 樸、歌曰、 宇泥備夜揺 比流波久毛登韋 由布佐禮婆 加是布加牟登曾 許能波佐夜牙流 於レ是、其御子聞知而驚、乃爲レ將レ殺二當藝志美美一之時、突沼河耳命、曰二其兄突八井耳命一、那泥【此二字、以レ音。】汝命、持レ兵入而、殺二當藝志美美一。故、持レ兵入以、將レ殺之時、手足和那那岐弖【此五字、以レ音。】不レ得レ殺。故爾、其弟突沼河耳命耳命、乞二│孚其兄館レ持之兵一、入殺二當藝志美美一。故亦、稱二其御名一。謂二建沼河耳命一。爾、突八井耳命、讓二弟建沼河耳命一曰、吾隅不レ能レ殺レ仇。汝命蝉得レ殺レ仇。故、吾雖レ兄、不レ宜レ爲レ上。是以、汝命爲レ上、治二天下一。僕隅扶二汝命一、爲二忌人一而仕奉也。
故、天皇の崩りましし後、其の庶兄当芸志美美命、其の嫡后伊須気余理比売に娶けし時に、其の三はしらの弟を殺さむとして、謀りし間に、其の御祖伊須気余理比売、患苦ひて、歌以て其の御子等に知らしめたまひき。歌曰ひたまひしく、 (二一) 狭井河よ 雲立ち渡り 畝傍山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす 樸、歌曰ひたまひしく、 (二二) 畝傍山 昼は雲とゐ 夕されば 風吹かむとぞ 木の葉さやげる 是に、其の御子たち聞き知りて驚き、乃ち当芸志美美を殺さむとせし時に、神沼河耳命、其の兄神八井耳命に曰しけらく、「那泥【此の二字、音を以ふ。】汝が命、兵を持り入りて、当芸志美美を殺せ。」と、まをしけり。故、兵を持り入りて、殺さむとせし時に、手足和那那岐弖【此の五字、音を以ふ】殺すことを得ざりき。故爾に、其の弟神沼河耳命、其の兄の持てる兵を乞ひ取りて、入りて当芸志美美を殺しけり。故亦、其の御名を称へて、建沼河耳命と謂しき。爾に、神八井耳命、弟建沼河耳命に譲りて曰しけらく、「吾は仇を殺すこと能はず。汝が命既に仇を殺すことを得たり。故、吾は兄なれども、上と為るべからず。是を以て、汝が命は上と為りて、天の下を治しめせ。僕は汝が命を扶けて忌人と為りて仕へ奉らむ。」と、まをしけり。
〔庶兄〕「まませ」と訓ずるもよいが、「ままいろせ」と訓じておく。異母兄。〔嫡后〕「大后」に同じ。真本等「嫡」を「適」に作る。この二字は通用するが、「嫡」の方がより適している。よって、底本のままとする。〔娶〕「たはく」と訓ずるのは、不義だからである。〔御督〕母親。〔佐韋賀波用〕「用」は「より」の古語。「ゆ」とも言う。〔佐夜藝〕「さやぐ」の連用。「さやぐ」は、ざわめく。ざわざわと音がする。「騒ぐ」に通ずる語。〔久毛登韋〕雲と居。雲のままでいる。この「とゐ」を万二の二二〇「跡位浪」の「とゐ」の意に解する人もあるが、この「位」は「倍」の誤りとする説もあり、「十重浪」の意ともいう。よって、記伝の説に従う。 
【 神武天皇 】二皇子の子孫と神沼河耳命
故、其日子入井命隅、【茨田苣、手嶋苣之督。】突八井命隅、【意富臣、小子部苣、坂合部苣、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家苣、雀部臣、雀部芟、小長谷芟、綾豆直、伊余國芟、科野國芟、蕈奧石城國芟、常蕈仲國芟、長狹國芟、伊勢船木直、尾張丹監臣、嶋田臣等之督也。】突沼河耳命隅、治二天下一也。
故、其の日子八井命は、【茨田連、手島連の祖なり。】神八井命は、【意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都豆直、伊余國造、科野國造、道奧石城国造、常道仲国造、長狭国造、伊勢焙木直、尾張丹羽臣、島田臣等の祖なり。】神沼河耳命は、天の下を治しめしたまひき。
〔茨田苣〕まむたのむらじ。「茨田」は河内国の旧郡名。今の大阪府北河内郡の一部。〔手嶋苣〕てしまのむらじ。和名抄には「手島」とあり、万六の一〇二七の右には「豊島」とある。「豊島」は、摂津国の古郡名。今の大阪府豊能郡の一部。〔意富臣〕おほのおみ。紀は「多臣」に作る。「おほ」は和名抄に「大和国十市郡飫富」とある。壬申の乱の時に功を立てた多臣品治、記の撰者太安万侶は、この氏族の出。〔小子部苣〕ちひさこべのむらじ。多臣の族。小子部の部長。宮中の雑役に仕えた小人(侏儒)を統率した首長。記伝は越中国の地名によると言うが非。 
【 神武天皇 】神武天皇の御陵
此突倭伊波禮豐古天皇、御年壹佰參拾漆歳。御陵在二畝火山之北方白檮尾上一也。
此の神倭伊波礼豐古天皇、御年壱佰参拾漆歳。御陵は畝火山の北の方白檮尾の上に在り。
〔御年壹佰參拾漆歳〕紀には「一百二十七歳」とある。〔畝火山之北方白檮尾上〕この「上」を底本は「うへ」と誤訓している。「へ」であり、「ほとり」である。紀には「畝傍山東北陵」とある。記の記事は、畝傍山の北方の山裾(丘)の橿の林のあるほとり。奈良県橿原市の洞にある。橿原の宮は畝傍山の東南麓にあったから、この御陵は、その北の地域である。 
 

 

【 綏靖天皇 】
突沼河耳命、坐二犖城高岡宮、治二天下一也。此天皇娶二師木縣主之督河俣豐賣一生御子、師木津日子玉手見命。【一柱】天皇、御年肆拾伍歳。御陵在二衝田岡一也。
神沼河耳命、犖城の高岡の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふ。此の天皇、師木の県主の祖河俣豐売を娶して生みませる御子、師木津日子玉手見命。【一柱】この天皇、御年肆拾五歳。御陵は衝田の岡に在り。
〔犖城高岡宮〕今の奈良県南犖城郡吐田郷村大字森脇の付近にあった宮城。〔師木縣主〕「師木」の地は、「兄師木・弟師木」の項参照。その地の首長。〔河俣豐賣〕「びめ」の訓は非。紀の一書には「川派江」とある。「河俣」の名は、河内国若江郡川俣の郷名を負う。〔師木津日子玉手見命〕祖父の出身地「しき」を負う。「玉」は美称。「手見」は「日子穂穂手見命」の「手見」に同じ。安寧天皇の御名。〔肆拾伍歳〕紀には「八十四」とある。〔衝田岡〕紀には「桃花鳥田丘」とある。奈良県橿原市畝傍町の丘。中世、荒廃して所在が明らかでなかったが、幕末、この地に擬し、明治十一年、この地に治定。 
【 安寧天皇 】
師木津日子玉手見命、坐二片鹽浮穴宮、治二天下一也。此天皇、娶二河俣豐賣之兄縣主波延之女阿久斗比賣一生御子、常根津日子伊呂泥命。【自レ伊下三字、以レ音。】筱大倭日子午友命。筱師木津日子命。此天皇之御子等、忸三柱之中、大倭日子午友命隅、治二天下。筱師木津日子命之子、二王坐。一子隅、【伊賀須知之稻置、那婆理之稻置、三野之稻置之督。】一子、知知綾美命隅、坐二淡蕈之御井宮。故、此王、有二二女。兄名蠅伊呂泥。亦名意富夜揺登久邇阿禮比賣命。弟名蠅伊呂杼也。天皇、御年肆拾玖歳。御陵在二畝火山之美富登一也。
師木津日子玉手見命、片塩の浮穴の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふ。此の天皇、河俣豐売の兄県主波延の女阿久斗比売を娶して生みませる御子、常根津日子伊呂泥命。【伊より下の三字、音を以ふ。】次に大倭日子午友命。次に師木津日子命。此の天皇の御子等、忸せて三柱の中、大倭日子午友命は、天の下を治しめしたまひき。次に師木津日子命の子、二はしらの王坐しき。一はしらの子は、【伊賀の須知の稲置、那婆理の稲置、三野の稲置の祖なり。】一はしらの子、知知都美命は、淡道の御井の宮に坐しき。故、此の王に、二はしらの女有しき。兄の名は蠅伊呂泥。亦の名は意富夜麻登久邇阿礼比売命。弟の名は蠅伊呂杼なり。この天皇、御年肆拾玖歳。御陵は畝火山の美富登に在り。
〔片鹽浮穴宮〕底本は「片塩」を「かたしは」と誤訓している。万五の八九二に「堅塩」とある。この誤訓から、この宮を河内にあるように考えている。「片塩」と冠したのは明らかでないが、旧都址要覧に「北犖城浮穴村」とある地。奈良県北犖城郡浮穴村大字三倉堂である。今もこの地に、北大殿・西大殿・南大殿などの地名が残っている。〔波延〕はえ。諸本「波」を「殿」に作る。「波」の草体を「殿」の草体と見誤ったことに基づくものであろう。いま、真本の傍書「波御本」に従う。紀には「葉江」とある。この地名、未詳。〔阿久斗比賣〕諸本「斗」を「計」または「許」に誤る。草体の類似による。他にも多くの例がある。いま真本に拠る。延本の頭注にも「計字、一本作レ斗。」とある。摂津の地名を負うか。〔常根津日子伊呂泥命〕「常」は永久。「根」は美称。「伊呂泥」は「いろせ」に同じ。「いろも」を「いろと」ともいう類。 
【 懿徳天皇 】
大倭日子午友命、坐二輕之境岡宮、治二天下一也。此天皇、娶二師大縣主之督賦登揺和訶比賣命、亦名礦日比賣命一生御子、御眞津日子訶惠志泥命。【自レ訶下四字、以レ音。】筱多藝志比古命。【二柱】故、御眞津日子訶惠志泥命隅、治二天下一也。筱當藝志比古命隅、【血沼之別、多遲揺之竹別、葦井之稻置之督。】天皇、御年肆拾伍歳。御陵在二畝火山之眞名子谷上一也。
大倭日子午友命、軽の境岡の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふ。此の天皇、師木の県主の祖賦登麻和訶比売命、亦の名は飯日比売命を娶して生みませる御子、御真津日子訶恵志泥命。【訶より下の四字、音を以ふ。】次に多芸志比古命。【二柱】故、御真津日子訶恵志泥命は、天の下を治しめしたまひき。次に当芸志比古命は、【血沼の別、多遅麻の竹の別、葦井の稲置の祖なり。】この天皇、御年肆拾伍歳。御陵は畝火山の真名子谷の上に在り。
〔輕之境岡宮〕「岡」を「を」と読む。紀に「曲峡宮」とあるからである。奈良県橿原市畝傍町大字大軽・見瀬の辺。〔賦登揺和訶比賣命〕「ふと」「ま」は美称。「若い姫」の意。〔礦日比賣命〕「いひび」の訓は非。下の「ひ」は「霊」。〔御眞津日子訶惠志泥命〕「み」「ま」は美称。「みまご」の略ではないであろう。「かゑ」の意、未詳。「しね」は稲。孝昭天皇の御名。〔多藝志比古命〕「たぎし」は焙尾の舵の古称。神武天皇の皇子「たぎしみみのみこと」の「たぎし」は心の曲がっている称であろうが、ここでは、その意は含まれない。〔血沼之別〕ちぬのわけ。「血沼」は和泉国の地。既出。「別」の意も既出。〔多遲揺之竹別〕たぢまのたかのわけ。但馬の竹野郷の別。〔葦井之稻置〕あしゐのいなぎ。「葦井」の所在、未詳。〔肆拾伍歳〕紀には崩御の年齢をしるしていない。〔畝火山之眞名子谷〕「まなご」は「まさご」。砂を産する谷。奈良県橿原市畝傍町池尻の辺。今も「真名子谷」の地名が残っている。 
【 孝昭天皇 】
御眞津日子訶惠志泥命、坐二犖城掖上宮、治二天下一也。此天皇、娶二尾張苣之督奧津余曾之妹、名余曾多本豐賣命一生御子、天押帶日子命。筱大倭帶日子國押人命。【二柱】故、弟帶日子國竄人命隅、治二天下一也。兄押帶日子命隅、【春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、監栗臣、知多臣、牟邪臣、綾怒山臣、伊勢礦高君、壹師君、羝淡恭國芟之督也。】天皇、御年玖拾參艢。御陵在二掖上博多山上一也。
御真津日子訶恵志泥命、犖城の掖上の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふ。此の天皇、尾張の連の祖奥津余曽の妹、名は余曽多本豐売命を娶して生みませる御子、天押帯日子命。次に大倭帯日子国押人命。【二柱】故、弟帯日子国忍人命は、天の下を治しめしたまひき。兄天押帯日子命は、(この下の分注省略。注釈を見よ。)この天皇、御年玖拾参歳。御陵は掖上の博多の山の上に在り。
〔犖城掖上宮〕底本は「わきのかみ」と訓じているが、「わきがみ」の方が可。紀には「池心の宮」とある。この地に古くから池があったのであろう。今の奈良県南犖城郡掖上村付近。壺坂寺のある地。〔尾張苣〕既出。〔奧津余曾〕「沖つ世襲」の意か。〔余曾多本豐賣命〕「びめ」は非。「よそ」は兄の名にひとしい。「たほ」は婦人の「髱」の意か。紀には「世襲足江」とある。「たほ」の略か、または、「足る」意か。名の義、未詳。〔天押帶日子命〕「あめ」は美称。「おし」は「大し」の略。「たらし」は「満ち足る」意。〔大倭帶日子國押人命〕下には「押人」を「忍人」に作る。 
【 孝安天皇 】
大倭帶日子國押人命、坐二犖城室之秋津嶋宮、治二天下一也。此天皇、婚二姪竄鹿比賣命一生御子、大吉備跳荵命。筱大倭根子日子賦斗邇命。【二柱。自レ賦下三字、以レ音。】故、大倭根子日子賦斗邇命隅、治二天下一也。天皇、御年壹佰貳拾參歳。御陵在二玉手岡上一也。
大倭帯日子押人命、犖城の室の秋津島の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふ。此の天皇、姪忍鹿此売命に婚ひて生みませる御子、大吉備諸進命。次に大倭根子日子賦斗邇命。【二柱。賦の下の三字、音を以ふ。】故、大倭根子日子賦斗邇命は、天の下を治しめしたまひき。この天皇、御年壱佰弐拾参歳。御陵は玉手の岡の上に在り。
〔犖城室之秋津嶋宮〕「あきづしま」の訓は非。理由は、雄略天皇の段で説く。奈良県南犖城郡室村。「あきつしま」は、すでにこのころから存し、大和の地名から、やがて日本の称となる。〔姪〕天押帯日子命の女なること明らかである。〔竄鹿比賣命〕紀には「押江」とある。「おし」は大し。大鹿の意か。〔大吉備跳荵命〕真淵の説のように「もろずみ」と読むべきか。上代語に多い「むろつみ」「むろつすみ」の訛であろう。 
【 孝霊天皇 】
大倭根子日子賦斗邇命、坐二僂田廬竿宮、治二天下一也。此天皇、娶二十市縣主之督大目之女、名細比賣命一生御子、大倭根子日子國玖琉命。【一柱。玖琉二字、以レ音。】樸、娶二春日之千千芫眞若比賣一生御子、千千芫比賣命。【一柱】樸、娶二意富夜揺登玖邇阿禮比賣命一生御子、夜揺登登母母曾豐賣命。筱日子刺氏別命。筱比古伊佐勢理豐古命。亦名大吉備津日子命。筱倭飛監矢若屋比賣命。【四柱】樸、娶二其阿禮比賣命之弟蠅伊呂杼一生御子、日子寤間命。筱若日子建吉備津日子命。【二柱】此天皇之御子等、忸八柱。【男王五。女王三。】故、大倭根子日子國玖琉命隅、治二天下一也。大吉備津日子命與二若建吉備津日子命、二柱相副而、於二針間氷河之電、居二忌瓮一而、針間爲二蕈口一以、言二向和吉備國一也。故、此大吉備津日子命隅、【吉備上蕈臣之督也。】筱若日子建吉備津日子命隅、【吉備下蕈臣、笠臣督。】筱日子寤間命隅、【針間牛鹿臣之督也。】筱日子刺氏別命隅、【高志之利波臣、豐國之國前臣、五百原君、角鹿恭直之督也。】天皇、御年壹佰陸歳。御陵在二片岡馬坂上一也。
大倭根子日子賦斗邇命、黒田の廬戸の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふ。此の天皇、十市県主の祖大目の女、名は細比売命を婚して生みませる御子、大倭根子日子国玖琉命。【一柱。玖琉の二字、音を以ふ。】樸、春日之千千速真若比売を娶して生みませる御子、千千速比売命。【一柱】樸、意富夜麻登玖邇阿礼比売命に娶ひて生みませる御子、夜麻登登母母曽豐売命。次に日子刺肩別命。次に比古伊佐勢埋豐古命。亦の名は大吉備津日子命。次に倭飛羽矢若屋比売命。【四柱】樸、其の阿礼比売命の弟蠅伊呂杼に娶ひて生みませる御子、日子寤間命。次に若日子建吉備津日子命。【二柱】此の天皇の御子等、忸せて八柱。【男王五。女王三。】故、大倭根子日子国玖琉命は、天の下を治しめしたまひき。大吉備津日子命と若建吉備津日子命と、二柱相副ひて、針間の氷河の前に忌瓮を居ゑて、針間を道の口と為て、吉備国を言向け和しき。故、此の大吉備津日子命は、【吉備上道臣の祖なり。】次に若日子建吉備津日子命は、【吉備下道臣、笠臣の祖なり。】次に日子寤間命は、【針間の牛鹿臣の祖なり。】次に日子刺肩別命は、【高志の利波の臣、豊国の国前の臣、五百原の君、角鹿の海直の祖なり。】この天皇、御年壱佰陸歳。御陵は片岡の馬坂の上に在り。
〔僂田廬竿宮〕底本の訓「くるだ」は非。和名抄は「黒田」に「久留多」と訓注を施している。奈良県磯城郡都村大字黒田にあった宮。地名はその地の土壌が黒色を呈していたことによる。出雲などにも、同様の意をもって呼んだ地がある。〔十市〕底本の訓「とほち」は非。「とをち」であるが、古来「とほち」「とふち」などと誤訓されている。大和の旧郡名。いま郡名を失い、奈良県磯城郡耳成村の大字に十市の名を残しているにすぎない。〔大目〕目の大きかった人であろう。「大女」説には従わない。〔細比賣命〕「くはし」は、美しい。〔大倭根子日子國玖流命〕「くる」は「くくる」「統ぶ」意。国家を統治されたことによる御名。孝元天皇の御名。〔千千芫眞若比賣〕「ちぢ」は、多くの。紀には「千乳早山香江」とある。「はやま」は端山か。父の名をあげていない。〔千千芫比賣命〕御母の名をつぐ。〔夜揺登登母母曾豐賣命〕紀には「倭迹迹日百襲姫命」とある。「びめ」ではない。名の義、くだくだしいから省く。〔日子刺氏別命〕底本は「刺」を「剌」に誤る。名の義、未詳。〔比古伊佐勢理豐古命〕「いさ」は勇。「せり」は進む。 
【 孝元天皇 】
大倭根子日子國玖琉命、坐二輕之堺原宮、治二天下一也。此天皇、娶二穗積臣等之督触色許男命【色許二字、以レ音。下效レ此。】妹触色許賣命一生御子、大豐古命。筱少名日子建慂心命。筱若倭根子日子大豐豐命。【三柱】樸、娶二触色許男命之女伊聟賀色許賣命一生御子、比古布綾押之信命。【自レ比至レ綾以レ音。】樸、娶二河触呟玉之女、名波邇夜須豐賣一生御子、建波邇夜須豐賣命。【一柱】此天皇之御子等、忸五柱。故、若倭根子日子大豐豐命隅、治二天下一也。其兄大豐古命之子、建沼河別命隅、【阿倍臣等之督。】筱比古伊那許志別命。【自レ比至レ志六字、以レ音。此隅、膳臣之督也。】比古布綾押信命、娶二尾張苣等之督意富那豐之妹犖城之高千那豐賣一【那豐二字、以レ音。】生子、味師触宿斑。【此隅山代触臣之督也。】樸、娶二木國芟之督宇豆比古之妹山下影日賣一生子、建触宿斑。此建触宿斑之子、忸九。【男七。女二。】波多八代宿斑隅、【波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡恭臣、長谷部君之督也。】筱許勢小柄宿斑隅、【許勢臣、雀部臣、輕部臣之督也。】筱蘇賀石河宿斑隅、【蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之督也。】筱徘群綾久宿斑隅、【徘群臣、佐和良臣、馬御珸苣等督也。】筱木角宿斑隅、【木臣、綾奴臣、坂本臣之督。】筱久米能庄刀比賣。筱怒能伊呂比賣。筱犖城長江曾綾豐古隅、【玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之督也。】樸、若子宿斑、【江野間臣之督。】此天皇、御年伍拾漆歳。御陵在二劔池之中岡上一也。
大倭根子日子国玖琉命、軽の堺原の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふ。此の天皇、穂積臣等の祖内色許男命の【色許の二字、音を以ふ。下此に效ふ。】妹内色許売命を娶して生みませる御子、大豐古命。次に少名日子建猪心命。次に若倭根子日子大豐豐命。【三柱】樸、内色許男命の女伊聟賀色許売命を娶して生みませる御子、比古布都押之信命。【比より都まで音を以ふ。】樸、河内の青玉の女、名は波邇夜須豐売を娶して生みませる御子、建波邇夜須豐古命。【一柱】此の天皇の御子等、忸せて五柱。故、若倭根子日子大豐豐命は、天の下を治しめしたまひき。其の兄大豐古命の子建沼河別命は、【阿倍の臣らの祖なり。】次に比古伊那許志別命。【比より志までの六字、音を以ふ。此は膳臣の祖なり。】比古布都押之信命、尾張連等の祖意富那豐の妹犖城之高千那豐売【那豐の二字、音を以ふ。】に娶ひて生みませる子、味師内宿斑。【此は山代の内臣の祖なり。】樸、木の国造の祖宇豆比古の妹山下影日売に娶ひて生みませる子、建内宿斑。此の建内宿斑の子、忸せて九たり。 【男七。女二。】波多八代宿斑は、【波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君の祖なり。】次に許勢小柄宿斑は、【許勢臣、雀部臣、輕部臣の祖なり。】次に蘇賀石河宿斑は、【蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等の祖なり。】次に平群都久宿斑は、【平群臣、佐和良臣、馬御珸連等の祖なり。】次に木角宿斑は、【木臣、都奴臣、坂本臣の祖なり。】次に久米能摩伊刀比売。次に怒能伊呂比売。次に犖城長江曽都豐古は、【玉手臣、的臣、生江臣、阿芸那臣等の祖なり。】樸、若子宿斑は、【江野間臣の祖なり。】此の天皇、御年伍拾漆歳。御陵は剣の池の中の岡の上に在り。
〔輕之堺原宮〕今の奈良県橿原市畝傍町大字大軽の地にあった宮。今も、この付近に「さかきばら」の地名が存するという。〔穗積臣〕既出。〔触色許男・触色許賣〕「うつ」は「全」、または「美し」の語幹。「しこを」「しこめ」は、大国主神の一名「葦原醜男」の項参照。〔大豐古命〕紀に「大彦命」とある。「びこ」ではない。四道将軍の一人。〔少名日子建慂心命〕「すくなびこ」の訓は誤り。紀に「少名彦」とある。兄の「大彦」に対していう。「建猪心」は「たけゐごり」と訓ずる。紀には「男心」とある。底本等は「ごころ」と訓じているが、その約転「ごり」である。「建猪」は「建き猪」の意。強いこと。紀の「男」に当たる。〔若倭根子日子大豐豐命〕「若」を冠したのは、御父の子なる故。「倭根子日子」は既出。 
【 開化天皇 】
若倭根子日子大豐豐命、坐二春日之伊邪河宮、治二天下一也。此天皇、娶二旦波之大縣主、名由碁理之女竹野比賣一生御子、比古由牟須美命。【一柱。此王名、以レ音。】樸、娶二庶母伊聟賀色許賣命一生御子、御眞木入日子印惠命。【印惠二字、以レ音。】筱御眞津比賣命。【二柱】樸、娶二丸邇臣之督日子國意豆綾命之妹意豆綾比賣命一【意豆綾三字、以レ音。】生御子、日子坐王。【一柱】樸、豐二犖城之垂見宿斑之女斑比賣一生子、建豐波豆羅和氣王。【一柱。自レ波下五字、以レ音。】此天皇之御子等、忸五柱。【男王四。女王一。】故、御眞木入日子印惠命隅、治二天下一也。其兄比古由牟須美王之子、大筒垂根王。筱讚岐垂根王。【二王。讃岐二字、以レ音。】此二王之女、五柱坐也。筱日子坐子、娶二山代荏名津比賣、亦名苅幡竿辨一【此一字、以レ音。】生子、大俣王。筱小俣王。筱志夫美宿斑。【三柱】樸、娶二春日建國布竿賣之女沙本之大闇見竿賣一生子、沙本豐古王。次袁邪本王。筱沙本豐賣命。亦名佐波遲比賣。【此沙本豐賣命隅、爲二伊久米天皇之后。自二沙本豐古一以下三王名皆以レ音。】筱室豐古王。【四柱】樸、娶二羝淡恭之御上凸以伊綾玖、【此三字、以レ音。】天之御影突之女息長水依比賣一生子、丹波比古多多須美知能宇斯王。【此王名、以レ音。】筱水穗之眞若王。次突大根王。亦名八瓜入日子王。筱水穗五百依比賣。筱御井津比賣。【五柱】樸、娶二其母弟袁豆綾比賣命一生子、山代大筒木眞若王。筱比古意須王。筱伊理泥王。【三柱。此二王名、以レ音。】凡日子坐王之子、忸十五王。故、兄大俣王之子曙立王。次菟上王。【二柱】此曙立王隅、【伊勢之品遲部君、伊勢之佐那芟之督。】菟上王隅、【比賣陀君之督。】筱小俣王隅、【當揺勾君之督。】筱志夫美宿斑王隅、【佐佐君之督也。】筱沙本豐古王隅、【日下部苣、甲斐國芟之督。】筱袁邪本命隅、【犖野之別、羝淡恭蚊野之別督也。】筱室豐古王隅、【若狹之耳別之督。】其美知能宇志王、娶二丹波之河上之庄須輙女一生子、比婆須比賣命。筱眞砥野比賣命。筱弟比賣命。筱咆廷別王。【四柱】此咆廷別王隅、【三川之穗別之督。】此美知能宇斯王弟、水穗眞若王隅、【羝淡恭之安直之督。】筱突大根命隅、【三野國之本厥國芟、長幡部苣之督。】筱山代之大筒木眞若王、娶二同母弟伊理泥王之女丹波能阿治佐波豐賣一生子、聟邇米雷王。【聟邇米三字、以レ音。】此王、娶二丹波之蘚津臣之女、名高材比賣一生子、息長宿斑王。此王、娶二犖城之高額比賣一生子、息長帶比賣命。筱癪空津比賣命。筱息長日子王。【三柱。此王隅、吉備品遲君、針間阿宗君之督。】樸、息長宿斑王、娶二河俣稻依豐賣一生子、大多牟坂王。【多牟二字、以レ音。此隅、多遲庄國芟之督也。】上館レ謂建豐波豆羅和氣命隅、【蕈守臣、竄恭部芟、御名部苣、稻監竄恭部、丹波之竹野別、依網之阿豐古等之督也。】 天皇、御年陸拾參歳。御陵在二伊邪河之坂上一也。
若倭根子日子大豐豐命、春日の伊邪河の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふ。此の天皇、旦波の大県主、名は由碁理の女竹野比売を娶して生みませる御子、比古由牟須美命。【一柱。此の王の名、音を以ふ。】樸、庶母伊聟賀色売命に娶ひて生みませる御子、御真木入日子印恵命。【印恵の二字、音を以ふ。】次に御真津比売命。【二柱】樸、丸邇臣の祖日子国意豆都命の妹意豆津此売命を娶して【意豆綾の三字、音を以ふ。】生みませる御子、日子坐王。【一柱】樸、犖城之垂見宿斑の女斑比売を娶して生みませる御子、建豊波豆羅和気王。【一柱。波より下の五字、音を以ふ。】此の天皇の御子等、忸せて五柱。【男王四。女王一。】故、御真木入日子印恵命は、天の下を治しめしたまひき。其の兄此古由牟須美王の子、大筒木垂根王。次に讃岐垂根王。【二王。讃岐の二字、音を以ふ。】此の二はしらの王の女五柱坐しき。次に日子坐王、山代の荏名津比命、亦の名は苅幡戸弁【此の一字、音を以ふ。】に娶ひて生める子、大俣王。次に小俣王。次に志夫美宿斑王。【三柱】樸、春日の建国勝戸売の女、名は沙本の大闇見戸売に娶ひて生める子、沙本豐古王。次に袁邪本王。次に沙本豐売命。亦の名は佐波遅此売。【此の沙本豐賣命は、伊久米天皇の后と為りたまひき。沙本豐古より以下の三王の名、皆音を以ふ。】次に室豐古王。【四柱】樸、近淡海の御上の祝が以ち伊都久【此の三字、音を以ふ。】天之御影神の女息長の水依比売に娶ひて生める子、丹波の比古多多須美知能宇斯王。【此の王の名、音を以ふ。】次に水穂之真若王。次に神大根王。亦の名は八瓜入日子王。次に水穂五百依比売。次に御井津此売。【五柱】樸、其の母の弟袁豆都比売命に娶ひて生める子、山代の大筒木真若王。次に比古意須王。次に伊理泥王。【三柱。此の二王の名、音を以ふ。】凡て日子坐王の子、忸せて十五王。故、兄大俣王の子曙立王。次に莵上王。【二柱】此の曙立王は、【伊勢の品遅部君、伊勢の佐那の造の祖なり。】菟上王は、【比売陀の君の祖なり。】次に小俣王は、【当麻の勾君の祖なり。】次に志夫美宿斑王は、【佐佐君の祖なり。】次に沙本豐古王は、【日下部連、甲斐の国造の祖なり。】次に袁邪本王は、【犖野の別、近淡海の蚊野の別の祖なり。】次に室豐古王は、【若狭の耳の別の祖なり。】其の美知能字志王、丹波の河上の摩須郎女に娶ひて生める子、比婆須比売命。次に真砥野比売命。次に弟比売命。次に朝廷別王。【四柱】此の朝廷別王は、【三川の穂別の祖なり。】此の美知能宇斯王の弟水穂真若王は、【近淡海の安直の祖なり。】次に神大根王は、【三野国の本巣の国造、長幡部連の祖なり。】次に山代之大筒木真若王、同母弟の伊理泥王の女丹波能阿治佐波豐売に娶ひて生める子、聟邇米雷王。【聟邇米の三字、音を以ふ。】この王、丹波の遠津臣の女、名は高材比売に娶ひて生める子、息長宿斑王。此の王、犖城の高額比売に娶ひて生みませる子、息長帯比売命。次に虚空津比売命。次に息長日子王。【三柱。此の王は、吉備の品遅君、針間の阿宗君の祖なり。】樸、息長宿斑王、河俣の稲依豐売に娶ひて生める子、大多牟坂王。【多牟の二字、音を以ふ。此は多遅摩の国造の祖なり。】上に謂へる建豊波豆羅和気王は、【道守王、忍海部造、御名部造、稲羽忍海部、丹波の竹野別、依網の阿豐古等の祖なり。】 この天皇、御年陸拾参歳。御陵は伊邪河の坂の上に在り。
この開化天皇の段は、天皇の御子たちの御名と御陵のこと以外は、すべてその御子たちの子孫の記事に満たされているが、このことは以後の文に大いに関係があるから、軽々に看過してはならない。ことに、息長帯比売命(神功皇后)の系譜を明らかにしようとする意図が見られるのである。 
 

 

【 崇神天皇 】后妃と御子たち
御眞木入日子印惠命、坐二師木水垣宮、治二天下一也。此天皇、娶二木國芟、名荒川刀辨之女【刀辨二字、以レ音。】蘚津年魚目目微比賣一生御子、豐木入日賣命。筱豐午入日賣命。【二柱】樸、娶二尾張苣之督意富阿揺比賣一生御子、大入杵命。筱八坂之入日子命。筱沼名木之入日賣命。筱十市入日賣命。【四柱】樸、娶二大豐古命之女御眞津比賣命一生御子、伊玖米入日古伊沙知命。【伊玖米伊沙知六字、以レ音。】次伊邪能眞若命。【自レ伊至レ能以レ音。】筱國片比賣命。筱千千綾久【此二字、以レ音。】和比賣命。筱伊賀比賣命。筱倭日子命。【六柱】此天皇之御子等、忸十二柱。【男王七。女王五也。】 故、伊久米伊理豐古伊佐知命隅、治二天下一也。筱豐木入日子命隅、【上毛野・下毛野君等之督也。】妹豐午比命賣、【拝二祭伊勢大突之宮一也。】筱大入杵命隅、【能登臣之督也。】筱倭日子命。【此王之時、始而於レ陵立二人垣。】
御真木入日子印恵命、師木の水垣の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふ。此の天皇、木の国造、名は荒河刀弁の女【刀弁の二字、音を以ふ。】遠津年魚目目微此売を娶して生みませる御子、豊木入日子命。次に豊午入日売命。【二柱】又、尾張の連の祖意富阿麻比売を娶して生みませる御子、大入杵命。次に八坂之入日子命。次に沼名木之入日売命。次に十市之入日売命。【四柱】樸、大豐古命の女御真津比売命に娶ひて生みませる御子、伊玖米入日子伊沙知命。【伊玖米伊沙知の六字、音を以ふ。】次に伊邪能真若命。【伊より能まで音を以ふ。】次に国片比売命。次に千千都久【此の二字、音を以ふ。】和比売命。次に伊賀比売命。次に倭日子命。【六柱】此の天皇の御子等、忸せて十二柱。【男王七。女王五也。】 故、伊久米伊理豐古伊佐知命は、天の下を治しめしたまひき。次に豊木入日子命は、【上毛野・下毛野君等の祖なり。】妹豊午比売命は、【伊勢の大神の宮を拝き祭りたまひき。】次に大入杵命は、【能登臣の督なり。】次に倭日子命。【此の王の時、始めて陵に人垣を立てたり。】
この辺の読み、底本は「日子」「日売」を、「ひこ・びこ」「ひめ・びめ」などと混読しているが、すべて「ひこ」「ひめ」と訓ずべきである。「びこ」「びめ」と読むべき根拠は存在しない。 
【 崇神天皇 】意富多多泥古の出現
此天皇之御世、疫病多起、人民死爲レ盡。爾、天皇、愁歎而坐二突牀一之夜、大物主大突、顕二於御夢一曰、是隅我之御心。故、以二意富多多泥古一而、令レ祭二我御電一隅、突氣不レ起、國安徘。是以、驛使班二于四方、求下謂二意富多多泥古一人上之時、於二河内之美努村一見二│得其人一貢荵。爾、天皇、問二│賜│之汝誰子也。答白、僕隅大物主大突、娶二陶津耳之女活玉依豐賣一生子、名嫖御方命之子、礦氏厥見命之子、建甕檍命之子、僕意富多多泥古白。於レ是、天皇、大歡以、詔二│之天下徘、人民榮、來以二意富多多泥古命一爲二突主一而、於二御跳山一拜二│祭意富美和之大突電。樸、仰二伊聟賀色許男命、作二天之八十豐羅訶、【此の三字、以レ音(也)。】定二│奉天突・地陶之藤。樸、於二宇陀豈坂突。祭二赤色楯矛、樸、於二大坂突、祭二僂色楯矛、樸、於三坂之御尾突及二河腿突、悉無二蠑忘一以、奉二幣帛一也。因レ此而、疫氣悉息、國家安安徘也。
此の天皇の御世に、疫病多に起り、人民死せて尽きなむとす。爾に、天皇、愁ひ嘆きたまひて神牀に坐しませる夜、大物主大神、御夢に顕はれて曰りたまひしく、「是は我が御心なり。故、意富多多泥古を以て、我が御前を祭らしめたまはば、神の気起らず、国安く平らかならむ。」と、のりたまひき。是を以て、駅使を四方に班ちて、意富多多泥古とふ人を求ぎける時に、河内の美努の村に其の人を見得て貢進りき。爾に、天皇、「汝は誰が子ぞ。」と問ひ賜ひき。答へて白しけらく、「僕は大物主大神、陶津耳命の女活玉依豐売に娶ひて生みませる子、名は嫖御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子、僕意富多多泥古。」と白しけり。是に、天皇、大く歓びたまひて、「天の下平らぎ、人民栄えなむ。」と詔りたまひて、即ちに意富多多泥古命を神主と為て、御諸の山に、意富美和の大神の前を拝き祭りたまひき。樸、伊聟賀色許男命に仰せて、天の八十豐羅訶【此の三字、音を以ふ。】を作らしめ、天神・地陶の社を定め奉りたまひき。樸、宇陀の墨坂の神に、赤色の楯と矛とを祭り、樸、大坂の神に、黒色の楯と矛とを祭り、樸、坂の御尾の神と河瀬の神とに、悉に遺し忘るることなく、幣帛を奉りたまひき。此に因りて、疫気悉に息みて、国家安く平らぎけり。
〔疫病〕流行性の悪病。悪鬼のために役立たされる意。「疫」を真本等「役」に作り、記伝も「役」に作っているが、底本では「疫」に直している。いま、私有の古写本、延本・田中本および底本等に従う。書紀・和名抄など、すべて「疫」である。〔人民死爲レ盡〕真本は「死」を脱す。〔突牀〕天皇の御床。〔大物主大突〕大国主神の幸魂。既出。〔意富多多泥古〕紀は「大田田根子」に作る。「おほ」は美称。「たた」は地名。「ねこ」は尊称的接尾語。〔御電〕真本「御」を脱す。「みまへ」の意は既出。〔突氣〕かみのけ。神によって起された疫病。神のたたり。「け」は病。〔班〕あかつ。分け遣わす。真本「斑」に誤る。〔美努村〕みののむら。「みぬ」は非。「努」は甲類の「ノ」。 
【 崇神天皇 】三輪山伝説
此謂二意富多多泥古一人、館三以知二突子一隅、上館レ云活玉依豐賣、其容姿端正。於レ是、有二突壯夫。其形姿威儀、於レ時無レ比。夜夜之時、倏忽到來。故、相感共婚供住之間、未レ經二幾時、其美人姙身。爾、父母、怪二其姙身之事、問二其女一曰、汝隅自姙。无レ夫何由姙身乎。答曰、有二麗美壯夫、不レ知二其姓名、譌レ夕到來、供住之間、自然懷姙。是以、其父母、欲レ知二其人、誨二其女一曰、以二赤土一散二床電、以二閉蘇【此二字、以レ音。】紡揺一貫針刺二其衣襴。故、如レ辻而旦時見隅、館レ著レ針揺隅、自二竿之鈎穴一控艷而出、唯蠑揺隅、三勾耳。爾來、知下自二鈎穴一出之寔上而、從レ絲尋行隅、至二美和山一而、留二突藤。故、知二其突子。故、因二其揺之三勾蠑一而、名二其地一謂二美和山一也。【此意富多多泥古命隅、突君・鴨君之督。】
此の意富多多泥古とふ人を、神の子と知れる所以は、上に云へる活玉依豐売、其の容姿瑞正しかりき。是に、神壮夫ありて、其の形姿威儀、時に比なきが、夜半之時に倏忽に到来つ。故、相感でて、共に婚ひ供に住める間に、未だ幾時も経ざるに、其の美人姙身みぬ。爾に、父母、其の姙身める事を怪しみて、其の女に問ひて曰ひけらく、「汝は自ら姙めり。夫尤きに何由にしてか姙身める。」と、いへり。答へて曰ひけらく、「麗美しき壮大ありて、其の姓も名も知らぬが、夕毎に到来て、供に住める間に、自然懐姙みぬ。」と、こたへたり。是を以て、其の父母、其の人を知らまく欲りて、其の女に誨へて曰ひけらく、「赤土を床の前に散らし、閉蘇【此の二字、音を以ふ。】紡麻を針に貫き、其の衣の襴に刺せ。」と、をしへき。故、教への如くにして、旦時に見れば、針に着けたる麻は、戸の鈎穴より控き通りて出で、唯遣れる麻は、三勾のみなりき。爾即ち、鈎穴より出でし状を知りて、糸の従に尋ぎ行きければ、美和の山に至りて、神の社に留まりけり。故、其の神の子なりとは知りぬ。故、其の麻の三勾遺れるに因りて、其地を名づけて美和とは謂ひけるなり。【此の意富多多泥古命は、神君、鴨君の祖なり。】
〔美人〕真本「義人」に誤る。〔怪〕古写本・延本等、俗字「恠」に作る。底本の「怪」が正字である。〔无レ夫〕延本等「无」を「旡」に誤り、底本等「無」に作る。いま真本に従う。「旡」は音「キ」。「むせぶ」意。「无」と「無」とは音「ム」。「なし」の意。〔赤土〕はに。既出。真本は「赤」を「袁」に誤る。〔閉蘇〕へそ。巻子。つむいだ糸をつなぎ、輪状に幾重にも巻きつけたもの。おだまき。その形が臍に似ているので称する。〔美和山〕「みわのやま」と読む。万一の一七に「三輪乃山」とある。しかし、「みわやま」と訓ずるも可。奈良県桜井市大三輪町字三輪にある大神神社のうしろにある山。「みわ」とは、もと「{」の義。酒をかもす瓶である。また、「神酒」の意ともなる。これ三輪の神が醸酒の神として仰がれる所以である。「三勾云々」は、例の付会である。〔突君〕みわのきみ。三輪の神は、代代の皇室に尊崇されていたので、「神」を「みわ」と読むに至った。大和および近隣の地に威をふるった豪族。「大三輪の君」「大神の君」ともいう。出雲系。〔鴨君〕かものきみ。これは、京都の賀茂ではなく、大和の南犖城郡「鴫」の地に因る姓。この地に賀茂神社があり、その神社に奉仕する氏族。やはり出雲系。既出。 
【 崇神天皇 】四道将軍の派遣
樸、此之御世、大豐古命隅虔二高志蕈、其子建沼河別命隅虔二東方十二蕈一而、令レ和二│徘其揺綾漏波奴【自レ揺下五字、以レ音。】人等、樸、日子坐王隅虔二旦波國、令レ殺二玖賀耳之御笠。【此人名隅也。玖賀二字、以レ音。】 故、大豐古命、罷二│往於高志國一之時、燮二腰裳一少女、立二山代之幣羅坂一而、歌曰、 古波夜 美揺紀伊理豐古波夜 美揺紀伊理豐古波夜 意能賀袁袁 奴須美斯勢牟登 斯理綾斗用 伊由岐多賀比 揺巫綾斗用 伊由岐多賀比 宇聟聟波久 斯良爾登 美揺紀伊理豐古波夜 於レ是、大豐古命、思レ怪羮レ馬、問二其少女一曰、汝館レ謂之言、何言。爾、少女答曰、吾勿レ言。唯爲二詠歌一耳。來不レ見二其館如一而忽失。故、大豐古命、更裝參上、樽二於天皇。
樸、此の御世に、大豐古命をば高志の道に遣はし、其の子、建沼河別命をば東の方十二道に遣はして、其の麻都漏波奴【麻より下の五字、音を以ふ。】人等を和徘さしめ、樸、日子坐王をば旦波国に遣はして、玖賀耳之御笠【此は人の名なり。玖賀の二字、音を以ふ。】を殺さしめたまひき。故、大豐古命、高志の国に罷り往きし時に、腰裳を服せる少女、山代の幣羅坂に立ちて、歌曰ひけらく、 (二三) こはや 御真木入日子はや 御真木入日子はや 己が緒を 盗み殺せむと 後つ門よ い往き違ひ 前つ門よ い往き違ひ 窺はく 知らにと 御真木入日子はや 是に、大豐古命、怪しと思ひて馬を返し、其の少女に問ひて曰ひけらく、「汝が謂へる言は何にふ言ぞ。」と、いふ。爾、少女答へて曰ひけらく、「吾は言はず。唯詠歌ひしのみ。」と、いひて、即ちに其の所如も見えずて忽ち失せぬ。故、大豐古命、更に還り参上りて天皇に請しけり。
〔高志蕈〕後世の北陸道。越前・越中・越後の総称。加賀・能登などは、のちに越前から分かれたもの。〔東方十二蕈〕紀には「東方八道」とある。これは関東八か国。十二道は、明瞭でないが、下文に相津(会津)とあるから、後世の東海道の意ではなく、記伝も言うごとく、伊勢・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・総(上総・下総)・常陸・陸奥の十二か国か。〔日子坐王〕既出。紀には「丹波道主命」を丹波に遣わしたとある。記の「丹波比古多多須美知能宇斯王」すなわち「美知能宇志王」 に当たり、日子坐王の御子である。恐らく紀の伝が正しいであろう。なお、この辺、真本は誤写に満ちている。たとえば「日子坐王」を「四坐王」などとしている。 
【 崇神天皇 】建波邇安王の謀反
時、天皇、答詔之、此隅爲、在二山代國一我之庶兄建波邇安王、起二邪心一之表耳。【波邇二字、以レ音。】伯父、興レ軍、宜行。來副二丸邇臣之督日子國夫玖命一而虔時、來於二丸邇坂一居二忌瓮一而罷往。於レ是、到二山代之和訶羅河一時、其建波邇安王、興レ軍待蛹、各中挾レ河而對立相挑。故、號二其地一謂二伊杼美。【今謂二伊豆美一也。】爾、日子國夫玖命、乞云、其廂人先忌矢可レ彈。爾、其建波邇安王、雖レ射不レ得レ中。於レ是、國夫玖命彈矢隅、來射二建波邇安王一而死。故、其軍悉破而膩散。爾、膊二聽其膩軍、到二久須婆之度一時、皆被レ聽窘而、屎出、懸二於褌。故、號二其地一謂二屎褌。【今隅、謂二久須婆。】樸、蛹二其膩軍一以斬隅、如レ鵜僑二於河。故、號二其河一謂二鵜河一也。亦、斬二│波│布│理其軍士一故、號二其地一謂二波布埋曾能。【自レ波下五字、以レ音。】如レ此徘訖、參上覆奏。
時に、天皇、答へて詔りたまひしく、「此は為ふに、山代国に在る我が庶兄、建波邇安王、邪き心を起せる表にこそあらめ。【波邇の二字、音を以ふ。】伯父、軍を興し、宣行でませ。」と、のりたまひき。即ち丸邇臣の祖日子国夫玖命を副へて遣はしたまひし時に、即ち丸邇坂に忌瓮を居ゑて罷り往にけり。是に、山代の和訶羅河に到れる時に、其の建波邇安王、軍を興して待ち遮り、各中に河を挾みて対き立ちて相挑みけり。故、其地を号づけて伊杼美と謂ふ。【今は伊豆美と謂ふなり。】爾に、日子国夫玖命、乞ひて云ひけらく、「其廂の人先づ忌矢を弾つべし。」と、いひき。爾、其の建波邇安王、射しかども中つるを得ざりき。是に、国夫玖命の弾てる矢は、即ちに建波邇安王を射て死しぬ。故、其の軍悉に破れて逃げ散けぬ。爾に、其の逃ぐる軍を追ひ迫めて、久須婆の度に到れる時に、皆迫めらえ窘みて、屎出で、褌に懸りけり。故、其地を号づけて屎褌と謂ふ。【今は久須婆と謂ふ。】樸、其の逃ぐる軍を遮りて斬りしかば、鵜の如く河に浮かびけり。故、其の河を号づけて鵜河と謂ふなり。亦、其の軍士を斬り波布理し故に、其地を号づけて波布理曽能と謂ふ。【波より下の五字、音を以ふ。】かく平け訖へて、参上りて覆奏しけり。
〔我之庶兄〕「我」は「汝」の誤りと、記伝言う。誤りというよりは、「我」を対称代名詞と見てもよい。今日でも方言で「われはどこへ行って来たか」などと言う。しかし、今は記伝の読みに従って「な」と訓ずることとする。すなわち、大豐古命と建波邇安王とは異母兄弟であり、崇神天皇が建波邇安王を「わが庶兄」と言われるはずがないからである。これで見ると、建波邇安王は大豐古命より年長であったらしい。〔表〕「しるし」は、上にある少女の歌った童謡をさす。象徴。表象。シンボル。〔伯父〕崇神天皇は開化天皇の皇子であるから、孝元天皇の皇子たる大豐古命は、崇神天皇の「伯父」に当たる。前々項参照。〔丸邇臣〕既出。 
【 崇神天皇 】はつくにしらすすめらみこと
故、大豐古命隅、隨二先命一而、罷二行高志國。爾、自二東方一館レ虔建沼河別與二其父大豐古一共、往二│蓚于相津。故、其地謂二相津一也。是以、各和二徘館レ虔之國政一而覆奏。 爾、天下太徘、人民富榮。於レ是、初令レ貢二男弓端之調、女手末之調。故、稱二其御世、謂下館レ知二初國一之御真木天皇上也。樸、是之御世、作二依網池、亦、作二輕之酒折池一也。 天皇、御歳壹佰陸拾捌歳。御陵在二山邊蕈勾岡上一也。
故、大豐古命は、先の命の随に、高志国に罷り行きぬ。爾に、東の方より遣はさえし建沼河別と其の父大豐古と共に、相津に往き遇ひき。故、其地を相津と謂ふなり。是を以て、各遣はさえし国の政を和平けて覆奏しけり。 爾、天の下太平ぎ、人民富み栄ゆ。是に、初めて男の弓端の調、女の手末の調を貢らしめたまふ。故、其の御世を称へて、初国知らす御真木天皇と謂ふ。樸、是の御世に、依網の池を作り、亦、軽の酒折の池を作りたまふ。 この天皇、御歳壱佰陸拾捌歳。御陵は山の辺の道の勾の岡の上に在り。
〔相津〕福島県会津盆地の総称。その中心は会津若松市。和名抄に「陸奥国会津(阿比豆)郡」とある。元来、「津」とは「港」「焙着き場」の意で、河海・湖沼のほとりの地点をいう。会津盆地は、太古、大きな沼であり、今も大沼郡・河沼郡の名が残っている。のち、大沼が干あがり、陸地となり、この盆地は只見川・日橋川・大川・湯川などの諸川の合流地となり、これらが相合して阿賀野川となり、新潟県に流入して、日本海に注ぐ。この意味で、この盆地を「会津」と称したのであろう。記の地名起原説は、例の付会である。延本の頭注に「近江国滋賀郡大津」とあるは、ひどい誤りである。それにしても、「津」の意味は上述の通り。 
 

 

【 垂仁天皇 】后妃と御子たち
伊久米伊理豐古伊佐知命、坐二師木玉垣宮、治二天下一也。此天皇、娶二沙本豐古命之妹佐波遲比賣命一生御子、品牟綾和氣命。【一柱】樸、娶二旦波比古多多須美知能宇斯王之女氷監洲比賣命一生子、印色之入日子命。【印色二字、以レ音。】筱大帶日子淤斯和氣命。【自レ淤至レ氣五字、以レ音。】筱大中津日子命。筱倭比賣命。筱若木入日子命。【五柱】樸、娶二其氷監洲比賣命之弟沼監田之入豐賣命一生御子、沼帶別命。筱伊賀帶日子命。【二柱】樸、娶二其沼監田之入日賣命之弟阿邪美能伊理豐賣命。【此女王名、以レ音。】生御子、伊許波夜和氣命。筱阿邪美綾比賣命。【二柱。此二王名、以レ音。】樸、娶二大筒木垂根王之女聟具夜比賣命一生御子、袁邪辨王。【一柱】又、娶二山代大國之淵之女苅監田刀辨一【此二字、以レ音。】生御子、落別王。筱五十日帶日子王。筱伊登志別王。【伊登志三字、以レ音。】樸、娶二其大國之淵之女弟苅監田刀辨一生御子、石衝別王。筱石衝豐賣命。亦名布多遲能入理豐賣命。【二柱】凡此天皇御子等、十六王。【男王十三。女王三。】 故、大帶日子淤斯呂和氣命隅、治二天下一也。【御身長一丈二寸。御脛長四尺一寸也。】次印色入日子命隅、作二血沼池、樸、作二狹山池、樸、作二日下之高津池。樸、坐二鳥孚之河上宮、令レ作二熹刀壹仟口、是奉レ納二石上突宮。來坐二其宮、定二河上部一也。次大中津日子命隅、【山邊之別、三枝之別、稻木之別、阿太之別、尾張國之三野別、吉備之石无別、許呂母之別、高巣鹿之別、飛鳥君、牟禮之別等督也。】筱倭比賣命隅、【拝二祭伊勢大突宮一也。】筱伊許波夜和氣王隅、【沙本穴太部之別督也。】筱阿邪美綾比賣命隅、【嫁二稻瀬豐古王。】筱落別王隅、【小月之山君、三川之衣君之督也。】次五十日帶日子命隅、【春日山君、高志池君、春日部君之督。】筱伊登志和氣王隅、【因レ無レ子而、爲二子代、定二伊登志部。】筱石衝別王隅、【監咋君、三尾君之督。】筱布多遲能伊理豐賣命隅、【爲二倭建命之后。】
伊久米伊理豐古伊佐知命、師木の玉垣の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふ。此の天皇、沙本豐古命の妹佐波遅比売命に娶ひて生みませる御子、品牟都和気命。【一柱】樸、旦波比古多多須美知能宇斯王の女氷羽洲比売命に娶ひて生みませる御子、印色之入日子命。【印色の二字、音を以ふ。】次に大帯日子淤斯呂和気命。【淤より気までの五字、音を以ふ。】次に大中津日子命。次に倭比売命。次に若木入日子命。【五柱】樸、其の氷羽洲比売命の弟沼羽田之入豐売命を娶して生みませる御子、沼帯別命。次に伊賀帯日子命。【二柱】樸、其の沼羽田之入日売命の弟阿邪美能伊理豐売命を娶して【此の女王の名、音を以ふ。】生みませる御子、伊許波夜和気命。次に阿邪美都比売命。【二柱。此の二王の名、音を以ふ。】樸、大筒木垂根王の女聟具夜比売命を娶して生みませる御子、袁邪弁王。【一柱】樸、山代の大国之淵の女苅羽田刀弁【此の二字、音を以ふ。】を娶して生みませる御子、落別王。次に五十日帯日子王。次に伊登志別王。【伊登志の三字、音を以ふ。】樸、大国之淵の女弟苅羽田刀弁を娶して生みませる御子、石衝別王。次に石衝豐売命。亦の名は布多遅能伊理豐売命。【二柱】凡て此の天皇の御子等、十六王。【男王十三。女王三。】 故、大帯日子淤斯呂和気命は、天の下を治しめしたまひき。【御身の長、一丈二寸。御脛の長さ、四尺一寸ましき。】次に印色入日子命は、血沼の池を作り、樸、狭山の池を作り、樸、日下の高津の池を作りたまひき。樸、鳥取の河上の宮に坐しまして、横刀壱千口を作らしめたまひ、是を石の上神宮に納め奉りたまひき。即ち其の宮に坐しまして、河上部を定めたまひけり。次に大中津日子命は、【山辺の別、三枝の別、稲木の別、阿太の別、尾張国の三野の別、吉備の石无の別、許呂母の別、高巣鹿の別、飛鳥君、牟礼の別等の祖なり。】次に倭比売命は、【伊勢の大神の宮を拝み祭りたまひき。】次に伊許波夜和気王は、【沙本の穴太部の別の祖なり。】次に阿邪美都此売命は、【稲瀬豐古王に嫁ひましき。】次に落別王は、【小月の山君、三川の衣君の祖なり。】次に五十日帯日子王は、【春日の山君、高志の池君、春日部君の祖なり。】次に伊登志和気王は、【子無きに因りて、子代として、伊登志部を定む。】次に石衡別王は、【羽咋君、三尾君の祖なり。】次に布多遅能入理豐売命は、【倭建命の后と為りたまひき。】
〔師木玉垣宮〕「師木」は既出。「玉垣」は「たまかき」と読む。底本の訓「たまがき」は非。雄略天皇の段の歌謡に「多麻加岐」とある。「垣」の美称。仁徳紀に「纏向玉城宮」とある。今の奈良県磯城郡纏向村大字穴師の辺。〔佐波遲比賣命〕沙本豐売命の一名。既出。〔品牟綾和氣命〕下文に「本牟智和氣御子」とある。 
【 垂仁天皇 】さほひこの謀反
此天皇、以二沙本豐賣一爲レ后之時、沙本豐賣命之兄沙本豐古王、問二其伊呂妹一曰、孰二│愛夫與一レ兄歟。答二│曰愛一レ兄。爾、沙本豐古王、謀曰、汝寔思レ愛レ我隅、將三吾與レ汝治二天下一而、來作二八鹽折之紐小刀、授二其妹一曰、以二此小刀、刺二│殺天皇之寢。故、天皇、不レ知二其之謀一而、枕二其后之御膝一而、御寢坐也。爾、其后、以二紐小刀一爲レ刺二其天皇之御頸、三度擧而、不レ竄二哀菷、不レ能レ刺レ頸而、泣撃落二│笹於御面。乃天皇、驚起、問二其后一曰、吾見二異夢。從二沙本方一暴雨零來、緝沾二吾面。樸、錦色小蛇、纏二│繞我頸。如レ此之夢、是有二何表一也。爾、其后、以二│爲不才一レ應レ爭、來白二天皇一言、妾兄沙本豐古王、問レ妾曰、孰二│愛夫與一レ兄。是不レ布二面問一故、妾答曰、愛レ兄歟。爾、誂レ妾曰、吾與レ汝共治二天下。故、當レ殺二天皇一云而、作二八鹽折之紐小刀一授レ妾。是以、欲レ刺二御頸、雖二三度擧、哀菷忽起、不レ得レ刺レ頸而、泣撃落、沾二於御面。必有二是表一焉。
此の天皇、沙本豐売を后と為たまへる時に、沙本豐売命の兄沙本豐古王、其の伊呂妹に問ひて曰ひけらく、「夫と兄と孰か愛しき。」と、いひければ、「兄ぞ愛しき。」と答曰へたまひき。爾に、抄本豐古王、謀りて曰ひけらく、「汝寔に我を愛しく思はば、吾と汝と天の下を治らさむ。」と、いひて、即ち八塩折の紐小刀を作りて、其の妹に授けて曰ひけらく、「此の小刀を以て、天皇の寝たまふを刺し殺せ。」と、いひき。故、天皇、其の謀を知らさずて、其の后の御膝を枕きて、御寝坐しけり。爾に、其の后、紐小刀を以て其の天皇の御頸を刺さむと、三度挙げたまひしかども、哀しき情に忍びず、頸を刺すを能ずて、泣きたまふ涙、御面に落ち溢れたり。乃ち天皇、驚き起きて、其の后に問ひて曰りたまひけらく、「吾は異しき夢を見たり。沙本の方より暴雨零り来て、急かに吾が面を沾らしぬ。樸、錦色なる小さき蛇、我が頸に纏繞れり。かかる夢、是は何の表にかある。」と、のりたまへり。爾に、其の后、争はえじと以為ほし、即ち天皇に白言しけらく、「妾が兄沙本豐古王、妾に問ひて曰ひけらく、『夫と兄と孰か愛しき。』と、是く面問へるに勝へざりしかば、妾答へて曰ひけらく、『兄ぞ愛しきか。』と、いひぬ。爾、妾に誂へて曰ひけらく、『吾と汝と共に天の下を治らさむ。故、天皇を殺せまつれ。』と云ひて、八塩折の紐小刀を作り、妾に授けつ。是を以て、御頸を刺しまつらむと欲りて、三度挙げしかども、哀しき情忽ち起りて、頸を刺しまつるを得ずて、泣きつる涙落ちて、御面を沾らしまつれり。必ず是の表にこそあらめ。」と、まをしぬ。
〔沙本豐賣〕「さほひめ」と読むべきこと、上に述べてある。紀、狭穂姫。古往今来、「さほびめ」などと言ったことはない。宣長だけである。しかるに、今日、なお宣長の誤訓に従っている人の多いのは、字音仮名研究の不備による。〔沙本豐古王〕「さほひこのみこ」と読む。紀、狭穂彦王。下文に「沙本比古王」ともある。同一王の名を、二様に訓じなければならぬ理由は存在しないであろう。これ、記の撰者が「豐」と「比」とを同音の仮名として用いた証拠である。この二字は、もとより漢音「ヒ」なのである。〔夫〕おっと。垂仁天皇をさす。〔愛〕「はし」は、愛する。 
【 垂仁天皇 】さほひこ、誅せらる
爾、天皇、詔二之吾殆見レ欺乎、乃興レ軍、整二沙本豐古王一之時、其兄、作二稻城一以待戰。此時、沙本豐賣命、不レ得レ竄二其兄、自二後門一膩出而、笋二其稻城。此時、其后姙身。於レ是、天皇、不レ竄三其后懷姙及愛重至二于三年。故、迴二其軍、不二緝攻聽。如レ此艨留之間、其館レ姙之御子、蝉籥。故、出二其御子、置二稻城外、令レ白二天皇。若此御子矣、天皇之御子館二思看一隅、可二治賜。於レ是、天皇詔、雖レ怨二其兄、憑不レ得レ竄二愛其后。故來、有二得レ后之心。是以、蠏二│聚軍士之中、力士輕捷一而宣隅、孚二其御子一之時、乃掠二│孚其母王。或髪或手、當下隨二孚獲一而掬以控出上。爾、其后、豫知二其菷、悉剃二其髪、以レ髪覆二其頭、亦腐二玉茆、三重纏レ手、且以レ酒腐二其衣、如二全衣一燮。如レ此設備而、抱二其御子一刺二│出城外。爾、其力士等、孚二其御子、來握二其御督一爾、握二其御髪一隅、御髪自落、握二其御手一隅、玉茆且縟、握二其御衣一隅、御衣便破。是以、孚二│獲其御子、不レ得二其御督。故、其軍士等、裝來奏言、御髪自落、御衣且破、亦館レ纏二御手一之玉茆、便縟故、不レ獲二御督、孚二│得御子。爾、天皇、臈恨而、惡二作レ玉人等、皆奪二其地。故、鳥曰二不レ得レ地玉作一也。亦天皇、命二│詔其后一言、凡子名必母名。何稱二是子之御名。爾、答白、今、當下火燒二稻城一之時上而、火中館レ生。故、其御名宜レ稱二本牟智和氣御子。樸、命二│詔何爲日足奉、答白、孚二御母、定二大湯坐・若湯坐、宜二日足奉。故、隨二其后白一以、日足奉也。樸、問二其后一曰、汝館レ堅之美豆能小佩隅、誰解。【美豆能三字、以レ音(也)。】答白、旦波比古多多須美智能宇斯王之女、名兄比賣・弟比賣、枴二女王、淨公民故、宜レ柮也。然蒹、殺二其沙本比古王。其伊呂妹、亦從也。
爾に、天皇、「吾は殆に欺かえつるかも。」と詔りたまひ、乃ち軍を興して、沙本豐古王を撃ちたまふ時に、其の王、稲城を作りて待ち戦ふ。此の時、沙本豐売命、其の兄を忍び得ずて、後門より逃げ出でて、其の稲城に納りましき。此の時しも、其の后姙身ましたりき。是に、天皇、其の后の懐姙ましたると愛しみ重みしたまふこと三年に至りぬるに忍びたまはざりき。故、其の軍をやすらはしめつつ急けくも攻迫めしめたまはざりき。かく逗留れる間に、其の姙ませる御子、既に産れましぬ。故、其の御子を出だして、稲城の外に置き、天皇に白さしめたまひけらく、「若し此の御子をば、天皇の御子と思ほしめさば、治め賜ふべし。」と、まをさしめたまひけり。是に、天皇、詔りたまひけらく、「其の兄を怨むと雖も、猶愛しき其の后をば忍び得ず。」と、のりたまひき。故即ち、后を得むとする心あり。是を以て、軍士の中に、力士の軽捷きを選り聚へて、宣りたまひけらくは、「其の御子を取らむ時、乃ち其の母王をも掠ひ取れ。髪にまれ手にまれ、取り獲む随に、掬みて控き出だしまつるべし。」と、のりたまひき。爾に、其の后、予め其の情を知りたまひて、悉に其の髪を剃りて、髪を以て其の頭を覆ひ、亦玉の緒を腐して、三重に手に纏かし、且酒を以て御衣を腐して、全き衣の如服したまへり。かく設け備へて、其の御子を抱きて、城の外に刺し出だしたまひき。爾、其の力士等、其の御子を取りまつりて、即ちに其の御祖を握りまつらむとして、其の御髪を握れば、御髪自ら落ち、其の御手を握れば、玉の緒且絶え、其の御衣を握れば、御衣便ち破れぬ。是を以て、其の御子をば取り獲たれども、其の御祖をば得ざりき。故、其の軍士等、還り来て奏言しけらく、「御髪自ら落ち、御衣且破れ、亦御手に纏かせる玉の緒も、便ち絶えにしかは、御祖をば獲まつらず、御子をのみ取り得まつれり。」と、まをしけり。爾に、天皇、悔い恨みたまひて、玉を作りし人等を悪みまして、皆其の地を奪ひたまひき。故、諺に「地を得ぬ玉作。」とぞ曰ふなる。亦天皇、其の后に詔らしめて言りたまひけらく、「凡て子の名は、必ず母名づく。何とか是の子の御名をば称けむ。」と、のらしめたまひき。爾、答へて白さしめたまひけらく、「今、火の稲城を焼ける時に当たりて、火中に生れましぬ。故、其の御名をば本牟智和気御子と称けまつるべし。」と、まをさしめたまひき。樸、「何に為て日足し奉らむ。」と詔らしめたまへるに、答へて白さしめたまひけらく、「御母を取り、大湯坐・若湯坐を定めて、日足し奉るべし。」と、まをさしめたまひき。故、其の后の白さしめたまひし随にして、日足し奉りき。樸、其の后に問はしめて曰りたまひしく、「汝の堅めし美豆能小佩をば、誰か解かむ。」と、とはしめたまひき。【美豆能の三字、音を以ふ。(也)】答へて白さしめたまひけらく、「旦波比古多多須美智能宇斯の王の女、名は兄比売・弟比売、枴の二りの女王は、浄き公民なれば、柮ひたまふべし。」と、まをさしめたまひき。然ありて遂に、其の沙本比古王を殺したまひけり。其の伊呂妹、亦従ひたまひき。
〔殆〕ほとほとに。ほとんど。あやうく。〔稻城〕底本の訓「いなき」は非。「稲木」「稲城」「稲置」は、すべて「いなぎ」と訓ずる。「犖城」「高城」などに引かれての誤訓か。「稲城」は、紀に「積レ稲作レ城」とある。この「稲」は稲束であろう。大言海に「稲ヲ、俵ナガラニ高ク積ミ重ネテ城ニ築キ云々。」とあるが、「稲」を「米」の意に解しているようである。恐らく非。〔後門〕底本は「しりつみかど」と訓じているが、筆者は崇神天皇の段にある童謡「斯理都斗」の訓に従う。参照。〔迴〕底本の訓「やすらはしめつつ」に従う。攻撃の手を休めしめたのである。他へ回らせたのではない。〔令レ白二天皇〕以下、さほひめと天皇との応答は、すべて臣下をして行なわしめたのであって、両者の直接交渉ではない。故に、「令」の文字がなくとも、必ず使役の意に読むべきである。 
【 垂仁天皇 】本牟智和気王、ものいはず
故、率二│蓆其御子一之寔隅、在二於尾張之相津一二俣椙作二二俣小舟一而、持上來以、浮二倭之市師池・輕池、率二│蓆其御子。然、是御子、八軽鬚至二于心電、眞事登波受。【此三字、以レ音。】故今、聞二高往鵠之音、始爲二阿藝登比。【自レ阿下四字、以レ音。】爾、虔二山邊之大擢一【此隅人名。】令レ孚二其鳥。故、是人、膊二│探其鵠、自二木國一到二針間國、亦膊越二稲監國、來到二旦波國・多遲揺國、膊二│迴東方、到二羝淡恭國、乃越二三野國、自二尾張國一傳以、膊二科野國、蒹膊二│到高志國一而、於二和那美之水門一張レ網、孚二其鳥一而持上獻。故、號二其水門、謂二和那美之水門一也。亦見二其鳥一隅、於レ思二物言一而、如レ思爾勿二言事。
故、其の御子を率て遊ばしめし状は、尾張の相津に在る二俣椙を二俣小舟に作りて、持ち上り来て、倭の市師の池・軽の池に浮かべて、其の御子を率て遊ばしめき。然るに、是の御子、八軽鬚心前に至るまで、真事登波受。【此の三字、音を以ふ。】故今、高往く鵠の音を聞きて、始めて阿芸登比【阿より下の四字、音を以ふ。】為けり。爾、山辺の大擢【此は人の名なり。】を遣はして其の鳥を取らしめき。故、是の人、其の鵠を追ひ尋ぎて、木国より針間国に到り、亦追ひて稲羽国に越え、即て旦波国・多遅麻国に到り、東の方に追ひ回りて、近淡海国に到り、乃ち三野国に越え、尾張国より伝ひて、科野国に追ひ、遂に高志国に追ひ到りて、和那美の水門に網を張り、其の鳥を取りて持ち上りて献りけり。故、其の水門を号づけて、和那美の水門とは謂ふなり。亦其の鳥を見ば、物言ふと思ひしに、思ひの如に、言ふ事勿かりき。
〔尾張之相津〕この「相津」の地、未詳。ただし、福島県の会津と同様な意の地名であろう。その項参照。〔二俣椙〕「椙」は「杉」の国字。二俣に分かれていた杉の大木。地名ではないであろう。〔二俣小舟〕丸木舟の一。舳が一つで、艫が両俣に分かれているもの。〔市師池〕大和の十市郡磐余にあった池。今、奈良県楼井市に大字池内の名があり、同市の香久山に大字池尻の名がある。これらの地点であろう。〔輕池〕大和の高市郡軽。今の橿原市畝傍町の大軽の辺にあった池。さて、この辺の記事は、紀ではずっと後の履中天皇の三年十一月のこととなっている。 
【 垂仁天皇 】本牟智和気王、ものいふ
於レ是、天皇、患賜而、御寢之時、覺二于御夢一曰、修二│理我宮、如二天皇之御舎一隅、御子必眞事登波牟。【自レ登下三字、以レ音。】如レ比覺時、布斗庄邇邇占相而、求二何突之心、爾崇、出雲大突之御心。故、其御子、令レ拜二其大突一將レ虔之時、令レ副二誰人一隅吉爾、曙立王食レ卜。故、科二曙立王、令二宇氣比白、【宇氣比三字、以レ音。】因レ拜二此大突一誠有レ驗隅、住二是鷺厥池之樹一鷺乎、宇氣比落。如レ比詔之時、宇氣比其鷺墮レ地死。樸、詔二│之宇氣比活爾一隅、更活。樸、在二甜白檮之電一葉廣熊白檮、令二宇氣比枯、亦、令二宇氣比生。爾、名賜二其曙立王、謂二倭隅師木登美豐朝倉曙立王。【登美二字、以レ音。】來曙立王・菟上王二王、副二其御子一虔時、自二那良竿一蓚二跛・盲。自二大坂竿一亦蓚二跛・盲。唯木竿是腋月之吉竿卜而、出行之時、譌二到坐地、定二品遲部一也。故、到二於出雲、拜二│訖大突、裝上之時、肥河之中、作二僂厥橋、仕二│奉假宮一而坐。爾、出雲國芟之督、名岐比佐綾美、餝二呟葉山一而、立二其河下、將レ獻二大御食一之時、其御子、詔言、是於二河下一如二呟葉山一隅、見レ山非レ山。若坐二出雲之石脾曾宮一葦原色許男大突以伊綾玖之凸大庭乎問賜也。爾、館レ虔御汽王等、聞歡見喜而、御子隅坐二檳榔之長穗宮一而、貢二│上驛使。爾、其御子、一宿婚二肥長比賣。故、竊伺二其美人一隅蛇也。來見畏萵膩。爾、其肥長比賣、患、光二恭原、自レ焙膊來故、環見畏以、自二山多和一【此二字、以レ音。】引二│越御焙、膩上行也。 於レ是、覆奏言、因レ拜二大突、大御子物詔故、參上來。故、天皇歡喜、來羮二菟上王、令レ芟二突宮。 於レ是、天皇、因二其御子一定二鳥孚部・鳥甘部・品遲部・大湯坐・若湯坐。
是に、天皇、患ひ賜ひて、御寝ませる時に、御夢に覚して曰りたまひけらく、「我が宮を修理りて、天皇の御舎の如ならしめたまはば、御子必ず真事登波牟。【登より下の三字、音を以ふ。】と、のりたまひき、如此して覚めたまひし時に、布斗摩邇に占相て、「何の神の心ぞ。」と求めたまひしに、爾の崇は、出雲の大神の御心なりき。故、其の御子をして其の大神の宮を拝ましむるために遣はさむとしたまふ時に、誰人を副はしめてば吉けむと、うらなふに、曙立王卜に食へり。故、曙立王に科せて、宇気比て白さしめたまひけらく、【宇気比の三字、音を以ふ。】「此の大神を拝むに因りて誠に験あらば、是の鷺巣の池の樹に住める鷺や、宇気比落ちよ。」と、まをさしめたまひき。かく詔りたまはしめし時に、宇気比し其の鷺地に堕ちて死にけり。又、「宇気比活き爾。」と詔らしめたまへば、濘に活きけり。樸、甜白檮の前に在る葉広熊白檮を、宇気比枯らしめ、亦宇気比生かしめき。爾、其の曙立王に名を賜ひて、倭者師木登美豊朝倉曙立王と謂はしめたまひき。【登美の二字、音を以ふ。】即ち曙立王・菟上王、二王を其の御子に副へて遣はしたまひし時に、「那良戸よりは跛・盲に遇はむ。大坂戸よりは亦跛・盲に遇はむ。唯木戸ぞ腋月の吉き戸。」と卜ヘて、出で行かしむる時に、到り坐す地毎に、品遅部を定めしめたまひき。故、出雲に到りて、大神を拝み訖へて還り上ります時に、肥の河の中に、黒きの巣橋を作りて、仮宮を仕へ奉りて坐さしめき。爾に、出雲の国造の祖、名は岐比佐都美、青葉の山を餝りて、その河下に立てて、大御食を献らむとせし時に、其の御子、詔言りたまひけらく、「是の河下に青葉の山如せるは、山と見えて山にあらず。若し出雲の石脾の曽の宮に坐す葦原色許男の大神を以伊都玖祝の大庭か。」と問ひ賜ひたまひき。 爾、遣はさえし御伴の王等、聞き歓び見喜びて、御子をば檳榔の長穂の宮に坐せまつりて、駅使を貢上りき。爾に、其の御子、一宿肥長比売と婚ひしたまひき。故、竊に其の美人を伺ひたまへば蛇なりき。即ち見畏みて萵膩げたまひけり。爾に、其の肥長比売、患ひて、海原を光らして、焙より追ひ来たりければ、益見畏みて、山の多和【此の二字、音を以ふ。】より御焙を引き越して逃げ上り行でましけり。 是に、覆奏言しけらく、「大神を拝みたまへるに因りて、大御子物詔りたまへるが故に、参上り来つ。」 と、まをしけり。 故、天皇歓喜びたまひて、即ちに大上王を返して、神の宮を造らしめたまひき。 是に、天皇、其の御子に因りて、鳥取部・鳥甘部・品遅部・大湯坐・若湯坐を定めたまひき。
〔覺時〕底本は 「さとしたまふ時に」と訓じているが、夢から「覚めたもうた時に」であろう。〔布斗庄邇邇占相而〕既出。〔宇氣比白〕「比白」を諸本「皆」の一字に作る。延本の改めたのに従う。底本も、これに従っている。〔宇氣比三字、以レ音〕この注も諸本に「宇氣二字、以レ音」とある。「宇氣皆」と誤写したことによる。これまた、延本の改めたのに従う。底本も、これに従っている。〔鷺厥池〕今の奈良県橿原市畝傍町大字四分の鷺栖の森にある鷺巣八幡の所在地にあった池か鷺の多く棲んでいた森であろう。〔宇氣比其鷺云々〕記伝は「宇気比」の三字を読むべからずと言う。読んでよい。 
【 垂仁天皇 】丹波の四女王
樸、隨二其后之白、喚二│上美知能宇斯王之女等、比婆須比賣命、筱弟比賣命、筱歌凝比賣命、筱圓野比賣命、忸四柱。然、留二比婆須比賣命・弟比賣命二柱一而、其弟王二柱隅、因二甚凶醜、羮二│膣本土。於レ是、圓野比賣、慚言、同兄弟之中、以二姿醜一被レ裝之事、聞二於隣里、是甚慚而、到二山代國之相樂一時、孚二│懸樹枝一而欲レ死。故、號二其地一謂二懸木、今云二相樂。樸、到二弟國一之時、蒹墮二峻淵一而死。故、號二其地一號一墮國、今云二弟國一也。
樸、其の后の白したまへる随に、美知能宇斯王の女等、比婆須比売命、次に弟比売命、次に歌凝比売命、次に円野比売命、忸せて四柱を喚上げたまひき。然れども、比婆須比売命・弟比売命の二柱を留めて、その弟王二柱は、甚凶醜かりしに因りて本つ土に返し送りたまひき。是に、円野比売、慚ぢて言ひけらく、「同じ兄弟の中に、姿醜きを以て還さゆる事、隣里に聞えなば、是は甚慚し。」と、いひて、山代国の相楽に到りし時、樹の枝に取り懸りて、死なむとぞ欲ひける。故、其地を号づけて懸木とは謂ふなり。今は相楽と云ふ。樸、弟国に到りし時、遂に峻き淵に堕りて死りき。故、其地を号づけて堕国とは謂ふなり。今は弟国と云ふ。
〔喚上〕「めさぐ」は「めしあぐ」の約。宮中に召し入れる。〔美知能宇斯王〕真本は「知」を「和」に誤る。これ同本が、上巻、沼河日売の歌謡に「知杼理」を「和杼理」に誤り、これを正しいと見る人を生じた所以である。真本は、誤りの多い本であることを銘記すべきである。〔比婆須比賣命〕「ひばすひめ」の非なること、上に述べてある。「婆」を「ハ」と訓ずる例は、記に多い。紀の「日葉酢江」である。〔歌凝比賣命〕うたこりひめ。底本は「凝」を「疑」に誤り刻す。名の義、未詳。 
【 垂仁天皇 】多遅摩毛理
樸、天皇、以二三宅苣等之督、名多遲庄毛理一虔二常世國、令レ求二登岐士玖能聟玖能木實。【自レ登下八字、以レ音。】故、多遲庄毛理、蒹到二其國、採二其木實、以二蔭八蔭・矛八矛一將來之間、天皇蝉紡。爾、多遲庄毛理、分二蔭四蔭・矛四矛、獻二于太后、以二蔭四蔭・矛四矛、獻二│置天皇之御陵竿一而、蟄二其木實、叫哭以、白二常世國之登岐士玖能聟玖能木實持參上侍、蒹叫哭死也。其登岐士玖能聟玖能木實隅、是今橘隅也。
樸、天皇、三宅連等の祖、名は多遅摩毛理を常世の国に遣はして、登岐士玖能聟玖能木の実を求めしめたまひき。【登より下の八字、音を以ふ。】故、多遅摩毛理、遂に其の国に至り、其の木の実を採りて、蔭八蔭・矛八矛を将ちて来つる間に、天皇既に崩りましぬ。爾に、多遅摩毛理、蔭四蔭・矛四矛を分けて、太后に献り、蔭四蔭・矛四矛を、天皇の御陵の戸に献り置きて、其の木の実を蟄げ、叫び哭びて、「常世の国の登岐士玖能聟玖能木の実を持ちて参上りて侍ふ。」と白して、遂に叫び哭びて死せにけり。其の登岐士玖能聟玖能木の実は、今の橘といふものなり。
〔三宅苣〕天日槍の裔なる田道間守の後。くわしくは応神天皇の段を見よ。「三宅」は屯倉。屯倉は各地にあり、これを姓とした氏族が多いが、三宅連は但馬の屯倉の地を姓としたものであろう。紀によれば、三宅連は、天武天皇の十三年十二月に宿斑に昇格している。〔多遲庄毛理〕諸本、ここの「摩」を「麻」に作る。いま、真本に拠る。すぐ下には、すべて「摩」とあるからである。ただし、応神天皇の段では、この一族すべて「摩」とあるのに、この人だけは「麻」とある。但馬守の意であろう。〔常世國〕既出。記伝は「此は新羅の国を指して云へるなるべし。」などと言い、また「橘は漢国にても、南の方にありて、北の寒き国には無き物ときけば、三韓などには、いかがあらむ……此の常世の国は漢国を云へるならむ。」などとも述べている。この伝説を史実と思っているからである。垂仁紀百年三月によれば、田道間守は、常世の国への往復に十年の歳月を費している。片道五年として、橘の実を腐らせずに持って来ることは不可能であろう。断じて史実ではない。常世の国は、古代日本人の頭に描いた理想郷である。 
【 垂仁天皇 】天皇崩御
此天皇、御年壹佰伍拾參歳。御陵在二菅原之御立野中一也。 樸、其大后、比婆須比賣命之時、定二石棺作、樸、定二土師部。此后隅、葬二狹木寺間陵一也。
此の天皇、御年壱佰伍拾参歳。御陵は菅原の御立野の中に在り。 樸、其の大后、比婆須比売命の時、石棺作を定めたまひ、樸、土師部を定めたまひき。此の后をは、狭木の寺間の陵に葬りまつりき。
〔壹佰伍拾參歳〕紀には「百四十歳」とある。〔菅原之御立野〕紀には 「菅原伏見」とある。今の奈良県生駒郡都迹村大村尼辻。もとは、菅原の伏見の地域。記の「御立野」は明らかではないが、菅原の伏見の野であること疑いがない。〔大后〕この「おほきさき」は皇后。〔石棺作〕諸本「棺」を「祝」に誤る。記伝も草体の類似による誤写と言う。 
 

 

【 景行天皇 】后妃と御子たち
大帶日子淤斯呂和氣天皇、坐二纏向之日代宮、治二天下一也。此天皇、娶二吉備臣等之督若建吉備津日子之女、名針間之伊那豐能大輙女、生御子、嫖角別王。筱大碓命。筱小碓命。亦名倭男具那命。【具那二字、以レ音。】筱倭根子命。筱突嫖王。【五柱】樸、娶二八尺入日子命之女八坂之入日賣命、生御子、若帶日子命。筱五百木之入日子命。筱押別命。筱五百木之入日賣命。樸妾之子、豐竿別王。筱沼代輙女。樸妾之子、沼名木輙女。筱香余理比賣命。筱若木入日子王。筱吉備之兄日子王。筱高木比賣命。次弟比賣命。樸、娶二日向之美波聟斯豐賣、生御子、豐國別王。樸、娶二伊那豐能大輙女之弟伊那豐能若輙女一【自伊下四字、以レ音。】生御子、眞若王。次日子人之大兄王。樸、娶二倭建命之曾孫、名須賣伊呂大中日子王【自レ須至レ呂四字、以レ音。】之女訶具漏比賣、生御子、大枝王。凡此大帶日子天皇之御子等、館レ札廿一王。不二入記一五十九王。忸八十王之中、若帶日子命與二倭建命、亦五百木之入日子命、此三王、負二太子之名、自レ其餘七十七王隅、悉別二│賜國國之國芟、亦和氣及稻置・縣主一也。故、若帶日子命隅、治二天下一也。小碓命隅、徘二東西之荒突及不レ伏人等一也。筱嫖角別王隅、【茨田下苣等之督。】筱大碓命隅、【守君、大田君、嶋田君之督。】筱突嫖王隅、【木國之酒部阿比古、宇陀酒部之督。】筱豐國別王隅、【日向國芟之督。】
大帯日子淤斯呂和気天皇、纏向の日代の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふ。此の天皇、吉備臣等の祖若建吉備津日子の女、名は針間の伊那豐能大郎女を娶して、生みませる御子、嫖角別王。次に大碓命。次に小確命。亦の名は倭男具那命。【具那の二字、音を以ふ。】次に倭根子命。次に神嫖王。【五柱】樸、八尺入日子命の女八坂之入日売命を娶して、生みませる御子、若帯日子命。次に五百木之入日子命。次に押別命。次に五百木之入日売命。樸の妾の子、豊戸別王。次に沼代郎女。樸の妾の子、沼名木郎女。次に香余理比売命。次に若木之入日子王。次に吉備之兄日子王。次に高木比売命。次に弟比売命。樸、日向之美波聟斯豐売を娶して、生みませる御子、豊国別王。樸、伊那豐能大郎女の弟伊那豐能若郎女【伊より下の四字、音を以ふ。】を娶して、生みませる御子、真若王。次に日子人之大兄王。樸、倭建命の曽孫、名は須売伊呂大中日子王【須より呂に至る四字、音を以ふ。】の女訶具漏比売を娶して、生みませる御子大枝王。凡そ此の大帯日子天皇の御子等、録せるは廿一王。入記さざるは五十九王。忸せて八十王の中に、若帯日子命と倭建命、亦五百木之入日子命と、此の三王は、太子の名を負はし、其より余の七十七王は、悉に国国の国造、亦和気及稲置・県主とに別け賜ひき。故、若帯日子命は、天の下を治しめしたまひき。小碓命は、東西の荒ぶる神、及伏はぬ人等を平けたまひき。次に嫖角別王は、【茨田の下の連らの祖。】次に大碓命は、【守君、大田君、島田君の祖。】次に神嫖王は、【木国の酒部の阿比古、宇陀の酒部の祖。】次に豊国別王は、【日向の国造の祖。】
〔纏向之日代宮〕まきむくのひしろのみや。「師木の玉垣の宮」と同じ地。奈良県磯城郡纏向村大字穴師の辺。〔針間之伊那豐能大輙女〕はりまのいなびのおほいらつめ。播磨の印南の地出身の女姓。「大」は姉。この「豐」は呉音「ビ」。〔嫖角別王〕くしつのわけのみこ。「つぬ」は誤訓。「くし」は「奇し」。「つの」は「津の」か、未詳。〔大碓命〕おほうすのみこと。紀によれば、大碓皇子と小碓尊とが双子に生まれたので、父の天皇が怪しんで、碓にむかって叫ばれたので称したとある。「大」は兄。「小」は弟。「小碓命」の名も、これによる。〔倭男具那命〕やまとをぐなのみこと。「やまと」は「日本」。「をぐな」は「童男」すなわち「男の子」の意。「曲頸」の転か。上代は、男の子は髪を曲げて項に置いた。小碓命の一名。〔倭根子命〕やまとねこのみこと。「やまと」は「日本」。「ね」は尊称。「こ」は男子。この名を称する天皇が多いこと、上に述べてある。 
【 景行天皇 】大碓命
於レ是、天皇、聞二│看│定三野國芟之督突大根王之女、名兄比賣・弟比賣二孃子、其容姿麗美一而、虔二其御子大碓命一以喚上。故、其館レ虔大碓命、勿二召上一而、來己自婚二其二孃子、濘求二他女人、詐名二其孃子一而貢上。於レ是、天皇、知二其他女、恆令レ經二長眼、亦勿レ婚而跋也。故、其大碓命、娶二兄比賣一生子、押僂之兄日子王。【此隅三野之宇泥須和氣之督。】亦、娶二弟比賣一生子、押僂弟日子王。【此隅牟宜綾君等之督。】此之御世、定二田部、樸、定二東之淡水門、樸、定二膳之大汽部、樸、定二倭屯家、樸、作二坂手池、來竹植二其堤一也。天皇、詔二小碓命、何汝兄、於二咆夕之大御食一不二參出來。汝泥疑辻覺。【泥疑二字以レ音。下效レ此。】如レ此詔以後、至二于五日、憑不二參出。爾、天皇、問二│賜小碓命、何汝兄久不二參出。若有レ未レ誨乎。答白、蝉爲二泥疑一也。樸、詔二如何泥疑之。答白、咆曙入レ廁之時、待捕樹批而、引二闕其枝、裹レ薦投棄。
ここに、天皇、三野の国造の祖神大根王の女、名は兄比売・弟比売の二嬢子、其の容姿の麗美しきを聞しめし定めたまひて、其の御子大碓命を遣はして喚上げたまふ。故、其の遣はさえたる大碓命、召上げずて、即て己自ら其の二嬢子に婚けて、更に他女人を求ぎて、詐りて其の嬢女の名とまをして貢上りき。ここに、天皇、其の他女なることを知りたまひ、恒に長眼を経しめ、亦婚したまはずて、跋也。故、其の大碓命、兄比売に娶ひて、生みませる子、押黒之兄日子王。【こは、三野の宇泥須和気の祖。】亦、弟比売に娶ひて、生みませる子、押黒弟日子王。【こは、牟宜都君らの祖。】此の御世に、田部を定めたまひ、樸、東の淡水門を定めたまひ、樸、膳の大伴部を定めたまひ、樸、倭の屯家を定めたまひ、樸、坂手の池を作り、即て竹を其の堤に植えたまひき。天皇、小碓命に詔りたまひしく、「何ぞ、汝の兄、朝夕の大御食に参出来ざる。汝泥疑教へ覚せ。」【泥疑の二字、音を以ふ。下これに效ふ。】と、のりたまひき。かく詔りたまひて以後、五日といふ至に、猶参出たまはざりき。爾、天皇、小碓命に問ひ賜ひけらく、「何ぞ汝の兄、久しく参出ざる。若し、未だ誨へずありや。」と問ひたまへば、答へて白しけらく、「既に泥疑つ。」と、まをしたまひき。樸、「如何にか泥疑つる。」と詔りたまへば、答へて白しけらく、「朝曙に廁に入れる時に、待ち捕へ樹み批ぎて、其の枝を引き闕きて、薦に裹みて投げ棄てつ。」と、まをしたまひき。
〔三野〕みの。「みぬ」は非。美濃。真本は「三町」に誤る。〔突大根王〕かむおほねのみこ。諸本「神」の字を脱す。上文に「神大根王」とあり、延本の補ったのに従う。紀には「神骨」とある。〔兄比賣・弟比賣〕えひめ・おとひめ。姉妹の二江。紀は「兄遠子・弟遠子」に作る。〔令レ經二長眼〕ながめをへしむ。「眼」を諸本「肥」「服」などに誤る。いま、延本・底本に従う。「ながめ」は、物思いにふけって、長くじっと一所を見つめること。悲しみうれえること。「へしむ」は、長い間、周囲の臣下に「悲しみ憂えていられるさまを」見しめめる。〔跋〕ものおもふ。真本・延本など「惣」に誤る。底本の「惚」は「跋」の俗字。いま正字に改める。「跋」は上にも述べてあるが、意のようにならず、悲しみ憂える意である。「惚」などとは、音も義も全く異なる。 
 

 

【 倭潼命 】熊曾潼討伐
於レ是、天皇、惶二其御子之潼荒之菷一而、詔之、西方有二熊曾潼二人。是不レ伏无レ禮人等。故、孚二其人等一而虔。當二此之時、其御髪結レ額也。爾、小碓命、給二其姨倭比賣命之御衣・御裳、以レ劔納二于御懷一而幸行。故、到二于熊曾潼之家、見隅、於二其家邊、軍圍二三重、作レ室以居。於レ是、言三│動爲二御室樂、設二│備食物。故、蓆二│行其傍、待二其樂日。爾、臨二其樂日、如二童女之髪、梳二│垂其結御髪、燮二其姨之御衣・御裳、蝉成二童女之姿、交二│立女人之中、入二其室触。爾、熊曾建兄弟二人、見二│感其孃子、坐二於己中一而盛樂。故、臨二其酣一時、自レ懷出レ劔、孚二熊曾之衣衿、以レ劔自二其胸一刺艷之時、其弟潼、見畏膩出。乃膊二│至其室之梯本、孚二其背、皮レ劔自レ尻刺艷。爾、其熊曾潼白言、莫レ動二其刀。僕有二白言。爾、暫許押伏。於レ是、白言、汝命隅誰。爾詔、吾隅坐二纏向之日代宮、館レ知二大八嶋國、大帶日子淤斯呂和氣天皇之御子、名倭男具那王隅也。意禮熊曾建二人、不レ伏無レ禮聞看而、孚二│殺意禮一詔而虔。爾、其熊曾潼白、信然也。於二西方、除二吾二人、無二潼淮人。然、於二大倭國、環二吾二人一而潼男隅坐豆理。是以、吾獻二御名。自レ今以後、應レ稱二倭潼御子。是事白訖、來如二熟瓜一振拆而殺也。故、自二其時一稱二御名、謂二倭潼命。
ここに、天皇、其の御子の潼く荒き情を惶みまして、詔りたまひけらく、「西の方に熊曽潼二人有り。是は伏はず礼无き人等なり。故、其の人等を取れ。」と、のりたまひて遣はしたまひき。此の時に当たりて、其の御髪を額に結はせたまへり。 爾に、小碓命、其の姨倭比売命の御衣・御裳を給はり、剣を御懐に納れて幸行しき。故、熊曽潼の家に到りて見たまへば、其の家の辺に、軍三重に囲み、室を作りてぞ居りける。ここに、御室楽為むと言ひ動みて、食物を設け備へたりき。故、其の傍を遊行きて、其の楽する日を待ちたまひき。爾に、其の楽の日に臨りて、童女の髪の如、其の結はせる御髪を梳り垂れ、其の姨の御衣・御裳を服して、既に童女の姿に成りて、女人どもの中に交り立ちて、其の室内に入り坐しき。爾に、熊曽潼の兄弟二人、其の嬢子を見感でて、己が中に坐せて、盛りに楽げたり。故、其の酣なる時に、懐より剣を出だし、熊曽の衣の衿を取りて、剣もて其の胸より刺し通したまひし時に、其の弟潼見畏みて逃げ出でたり。乃ち其の室の梯の本に追ひ至りて、其の背を取らへ、剣もて、尻より刺し通したまひき。爾に、其の熊曽潼、白言しけらく、「其の刀をな動かしたまひそ。僕白言すべきこと有り。」と、まをす。爾、暫許して押し伏せたまふ。ここに、白言しけらく、「汝が命は誰にてますぞ。」と、まをしければ、爾ち詔りたまひけらく、「吾は纏向の日代の宮に坐しまして、大八島国を知しめす大帯日子淤斯呂和気天皇の御子、名は倭男具那王なり。意礼、熊曽建二人、伏はず、礼なしと聞看して、意礼を取殺れと詔りたまひて遺はしたまへり。」と、のりたまふ。爾に、其の熊曽潼、白しけらく、「信に然まさむ。西の方に、吾ら二人を除きては、潼く強き人なし。然るに、大倭国には、吾ら二人にも益して、潼き男は坐しけり。ここをもて、吾御名を献らむ。今より以後は、倭潼御子と称へたまふべし。」と、まをす。この事を白し訖へたれば、即ちに孰瓜の如、振り拆きて殺したまひき。故、其の時よりぞ、御名を称へて、倭潼命とは謂しける。
〔熊曾潼〕くまそたける。「潼」は「健」の省字。紀は「梟帥」に作る。「猛る」の終止形が名詞となった語。「すまふ」「かげろふ」「きかふ」などの類。「勇猛な夷族の械長」の意。「くまそ」は、古代、九州の南部に居住していた勇猛な種族およびその地方の称。隼人も、この種族であろうという。紀は「熊襲」に作る。熊の如く猛く、人を襲う義とも、地名から起るともいう。
今も肥後国に「球磨郡」「球磨川」「熊本」などの地名がある。また、大隅国に「囎唹郡」があり、「日向の襲の高千穂の峰」などもある。したがって、地名に起るというのが通説になっているが、上代語では、勇猛の意をもって「熊」の語を冠することが多いから、いちがいに「勇猛な襲族」の説を否定することもできぬ。 
【 倭潼命 】出雲潼討伐
然而裝上之時、山突・河突唹穴竿突皆言向和而、參上。來入二│坐出雲國、欲レ殺二其出雲潼一而、到、來結レ友。故、竊以二赤檮、作二│詐刀、爲二御佩、共沐二肥河。爾、倭潼命、自レ河先上、孚二│佩出雲潼之解置熹刀一而、詔レ爲レ易レ刀。故、後出雲潼、自レ河上而、佩二倭建命之詐刀。於レ是、倭潼命、誂云二伊奢合レ刀。爾、各拔二其刀一之時、出雲建、不レ得レ拔二詐刀。來倭潼命、拔二其刀一而、打二│殺出雲潼。爾、御歌曰、 夜綾米佐須 伊豆毛多豆流賀 波豆流多知  綾豆良佐波揺岐 佐味那志爾 阿波禮 故、如レ此撥治而、參上、覆奏。
然して還り上ります時に、山の神・河の神及穴戸の神を皆言向け和して、参上りましき。即て出雲国に入り坐して、其の出雲潼を殺さむ欲ほして、到りまして、即ちに友として結しみたまひき。故、竊かに赤檮を以て、刀に作り詐して、御佩と為て、共に肥河に沐したまひき。爾に、倭潼命、河より先づ上りまして、出雲潼の解き置ける横刀を取り佩かして、「刀易為む。」と詔りたまふ。故、後れて出雲潼、河より上りて、倭潼命の詐刀を佩きぬ。ここに、倭潼命、誂へて、「伊奢、刀を合はせむ。」と云りたまふ。爾、各其の刀を抜く時に、出雲潼、詐刀を抜き得ず。即ち倭潼命、其の刀を抜きて、出雲潼を打ち殺したまひき。爾、御歌曰みしたまひけらく、 (二四) やつめさす 出雲潼が 佩ける刀 黒犖多巻き さ身なしに あはれ 故、かく撥ひ治げて、参上り、覆奏したまひき。
〔穴竿〕あなと。紀は「穴門」に作る。記伝が「あなど」と訓じているのは、例の濁るべからざるを濁る癖から生じた誤訓である。延本の訓や紀の訓などが正しい。「水門」を「みなど」とは言わぬ。「あなと」は「海門」の転。のちの長門国である。「ながと」は「うなと」の転訛であろう。〔出雲建〕いづもたける。出雲国の械長。〔赤檮〕いちひのき。「いちひ」は「櫟」に作り、「くぬぎ」の古称。その実を「どんぐり」という。〔作詐〕つくりなす。いつわって作る。〔沐〕かはあみ。河水に浴すること。水泳。〔詐刀〕にせだち。実物は「木刀」であるが、この文字を、ただちに「こだち」と読むは意訳に過ぎる。「詐」を「作」につくる本もある。それなら「つくりだち」である。〔誂〕あとらふ。注文する。たのむ。希望する。現代語の「あつらえる」は、これから出たもの。諸本「誹」に誤る。いま、底本に従う。〔合レ刀〕たちをあはせむ。互に刀を見くらべて優劣を試みよう。 
【 倭潼命 】東夷討伐の途
爾、天皇、亦頻詔二倭潼命、言二│向│和│徘東方十二蕈之荒夫琉突唹庄綾樓波奴人等一而、副二吉備臣等之督、名御午友耳潼日子一而虔之時、給二比比羅木之八尋矛。【比比羅三字、以レ音。】故、受レ命罷行之時、參二│入伊勢大御突宮、拜二突咆廷。來白二其姨倭比賣命一隅、天皇蝉館二│以│思吾死乎。何整二│虔西方之惡人等一而、羮參上來之間、未レ經二幾時、不レ賜二軍衆、今濘徘二│虔東方十二蕈之惡人等。因レ此思惟、憑館二│思│看吾蝉死一焉。患泣罷時、倭比賣命、賜二草那藝劔、【那藝二字、以レ音。】亦賜二御嚢一而詔、若有二緝事、解二枴嚢口。故、到二尾張國、入二│坐尾張國芟之督美夜受比賣之家、乃雖レ思レ將レ婚、亦思二裝上之時將一レ婚、期定而、幸二于東國、悉言二│向│和│徘山河荒突唹不レ伏人等。
爾に、天皇、亦頻て倭建命に詔りたまひけらく、「東の方十二道の荒夫琉神及摩都楼波奴人等を言向け和平せ。」と、のりたまひて、吉備臣等の祖、名は御午友耳建日子を副へて、遣はしたまふ時に、比比羅木の八尋矛を給ひたり。【比比羅の三字、音を以ふ。】故、命を受けて、罷り行でます時に、伊勢の大御神の宮に参入りまして、神の朝廷を拝みたまひ、即て其の姨倭比売命に白したまひけらくは、「天皇、既く吾を死ねとや思ほすらむ。何なればか、西の方の悪はぬ人等を撃ちに遣はしたまひて、 返り参上り来し間、未だ幾時も経ざるに、軍衆をも賜らずて、今濘東の方十二道の悪はぬ人等を平けには遣はしたまふらむ。此に因りて思惟へば、猶吾に既く死ねとは思ほし看すなりけり。」と、まをして、患ひ泣かして罷ります時に、倭比売命、草那芸の剣【那芸の二字、音を以ふ。】を賜ひ、亦御嚢を賜ひて、詔りたまひけらく、「若し急の事あらば、枴の嚢の口を解きたまへ。」と、のりたまひき。故、尾張国に到りまして、尾張の国造の祖なる美夜愛比売の家に入り坐しき。乃ち婚ひせむと思ほししかども、亦還り上らむ時にこそ婚ひせめと思ほし、期り定めて、東の国に幸でまして、悉に山河の荒ぶる神及伏はぬ人等を言向け和平したまひき。
〔頻〕しきて。頻りに。重ねて。万十二の三〇二四「敷而恋ひつつ」など、その他多し。〔御午友耳建日子〕みすきともみみたけひこ。紀の「吉備武彦」に当たる。「午友」の意は懿徳天皇の段に出ている。「耳」は御身。「潼日子」は、健き男子。紀では、この人のほかに、大伴武日連や七掬脛などを副えたとある。〔比比羅木之八尋矛〕ひひらぎのやひろほこ。柊の木を柄とした長い矛。真本は「矛」を「弟」に誤る。〔突咆廷〕かみのみかど。真本は、「廷」を「苒」に作る。「庭」の意。「廷」に同じ。神官の御門。 
【 倭潼命 】駿河の賊
故爾、到二相武國一之時、其國芟、詐白、於二此野中、有二大沼。住二是沼中一之突、其蕈芫振突也。於レ是、看二行其突、入二│坐其野一爾、其國芟、火著二其野。故、知レ見レ欺而、解二│開其姨倭比賣命之館レ給嚢口一而見隅、火打有二其裏。於レ是、先以二其御刀一苅二│撥草、以二其火打一而打二│出火、著二向火一而燒膠、裝出、皆切二│滅其國芟等、來著火燒。故、於レ今謂二燒津一也。
故爾に、相武國に到りませる時に、其の国造、詐りて白しけらく、「此の野の中に大沼あり。是の沼の中に住める神、甚く道速振神なり。」と、まをしき。ここに、其の神を看そなはしに、其の野に入り坐しければ、其の国造、火を其の野に着けたりき。故、欺かえぬと知らしめして、其の姨倭比売命の給へる嚢の口を解き開けて見たまへば、火打ぞ其の裏にありける。ここに、先づ其の御刀以て、草を苅り撥ひ、其の火打以て火を打ち出だし、向ひ火を着けて焼き退け、還り出でまして、皆其の国造等を切り滅ぼし、即ちに火を着けて焼きたまひけり。故、今に焼津とは謂ふなり。
〔相武國〕さがむのくに。紀には「駿河国」とあり、万葉にも「駿河」とある。しかし、下の弟橘比売の歌にも「佐賀牟」とある。「相模」であり、「相」のシナ語音はsa であるが、国語は開音節であるから母音を加えて「さが」と発音する。「模」は「も」であるが、その転「む」といい、のちは濘に転じて「み」となる。「駿河」を「相模」というは、地理にくらい古代人の誤りか、または、駿河まで相模と言ったか、未詳。とにかく、ここの「さがむ」は「駿河」のことである。〔蕈芫振〕ちはやぶる。「稜威速ぶる」の約転。勢いの強い。荒ぶる。多くは枕詞として用いるが、ここは枕詞ではない。 
【 倭潼命 】弟橘比売の入水
自レ其入幸、渡二走水恭一之時、其渡突、興レ浪、迴レ焙、不レ得二荵渡。爾、其后、名弟橋比賣命、白之、妾易二御子一而、入二恭中。御子隅、館レ虔之政蒹、應二覆奏。將レ入レ恭時、以二菅疊八重、皮疊八重、絮疊八重、敷二于波上一而、下二坐其上。於レ是、其暴浪自伏、御焙得レ荵。爾、其后歌曰、 佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那聟爾多知弖 斗比斯岐美波母 故、七日之後、其后御嫖、依二于恭邊。乃孚二其嫖、作二御陵一而、治置也。
其より入り幸でまして、走水の海を渡ります時に、其の渡の神、浪を興し、船を回はせて、進み渡るを得ず。爾に、其の后、名は弟橘比売命、白したまひけらく、「妾御子に易りて、海中に入りなむ。御子は、遣はさえし政を遂げて、覆奏したまふべし。」と、まをして、海に入りまさむとする時に、菅畳八重、皮畳八重、絮畳八重を、波の上に敷きて、其の上に下り坐しき。ここに、其の暴浪自ら伏ぎて、御船進むことを得たり。爾に、其の后、歌曰ひたまひけらく、 (二五) さねさし さがむの小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも 故、七日の後に、其の后の御嫖、海辺に依りたりき。乃ち其の嫖を取り、御陵を作りて、治め置きけり。
〔入幸〕いりいでます。東の国の奥の方に入ります意。すなわち、駿河から相模へ入ります。〔走水〕はしりみづ。東京湾のうち、相模国から上総国へ渡る水路。潮流が速く走るのでいう。今の浦賀水道。いま、神奈川県横須賀市浦賀町に「走水」の名が残っている。そこに、走水神社があり、日本武尊をまつり、また弟橘江の碑が建ててある。〔弟橘比賣命〕おとたちばなひめのみこと。 
【 倭潼命 】東夷討伐の帰途
自レ其入幸、悉言二│向荒夫琉蝦夷等、亦徘二│和山河荒突等一而、裝上幸時、到二足柄之坂本、於下食二御粮一處上、其坂突、化二自鹿一而來立。爾來、以二其咋蠑之蒜片端、待打隅、中二其目一乃打殺也。故、登二│立其坂、三歎、詔二│云阿豆揺波夜。【自阿下五字、以レ音也。】故、號二其國、謂二阿豆揺一也。來自二其國一越、出二甲斐、坐二酒折宮一之時、歌曰、 邇比婆理 綾久波袁須疑弖 伊久用加泥綾流 爾、其御火焼之老人、續二御歌一以歌曰、 聟賀那倍弖 用邇波許能用 比邇波登袁加袁 是以、譽二其老人、來給二東國芟一也。
其より入り幸でまして、悉に荒夫琉蝦夷等を言向け、亦山河の荒ぶる神等を平和して、還り上り幸でましし時に、足柄の坂本に到りまして、御粮を食しめす処に、其の坂の神、白き鹿に化りて、来立ちにけり。爾即、其の咋遺の蒜の片端以て、待ち打ちたまひしかば、其の目に中てて、打ち殺したまひき。故、其の坂に登り立たして、三たび嘆かして、「阿豆麻波夜。」【阿より下の五字、音を以ふ。】と詔云りたまひき。故、其の国を号づけて、阿豆麻とは謂ふなり。即て其の国より越えて、甲斐に出で、酒折の宮に坐しましける時に、歌して曰りたまひけらく、 (二六) 新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる 爾に、其の御火焼の老人、御歌を続ぎて、歌ひて曰しけらく、 (二七) かがなべて 夜には九夜 日は十日を ここをもて、其の老人を誉めて、即て東の国造を給はりき。
〔自レ其入幸〕それよりいりいでます。走水を渡られ、今の上総国から常陸国の奥まで入られた。〔蝦夷〕えみし。上代における人種の一。「レ見」などの説には、従いかねる。〔足柄之坂本〕あしがらのさかもと。足柄山の麓。紀には「碓氷嶺」とある。伝の相違である。筆者の先輩で、今は故人になったが、箱根宮の下の蔦屋の主人は、蔦屋の裏の山であると断定し、日本武尊の立って、「あづまはや」と叫んだ石まで発見したと、筆者に語ったことがある。当人は、真顔で、そう信じきっていた。また碓氷峠に近い群馬県には「吾嬬郡」があり、「あづまはや」と叫ばれたことによる地名だと、バスガールなどは説明している。〔咋虔〕みをしのこり。食べのこり。底本は「遺」を「遣」に誤っている。〔蒜〕ひる。「のびる」のこと。野に生ずるのでいう。「にんにく」そのものではない。 
【 倭潼命 】美夜受比売との再会
自二其國一越二科野國、乃言二│向科野之坂突一而、裝二│來尾張國、入二│坐先日館レ期美夜受比賣之許。於レ是、獻二大御食一之時、其美夜受比賣、捧二大御酒盞一以獻。爾、美夜受比賣、其於二意須比之襴一【意須比三字、以音。】著二月經。故、見二其月經、御歌曰、 比佐聟多能 阿米能聟具夜揺 斗聟揺邇 佐和多流久豐 比波煩曾 多和夜賀比那袁 揺聟牟登波 阿禮波須禮杼 佐泥牟登波 阿禮波意母閉杼 那賀豆勢流 意須比能須蘇爾 綾紀多知邇豆理 爾、美夜受比賣、答二御歌一曰、 多聟比聟流 比能美古 夜須美斯志 和賀意富岐美 阿良多揺能 登斯賀岐布禮婆 阿良多揺能 綾紀波岐閉由久 宇倍那宇倍那 岐美揺知賀多爾 和賀豆勢流 意須比能須蘇爾 綾紀多多那牟余 故爾、御合而、以二其御刀之草那藝劔、置二其美夜受比賣之許一而、孚二伊燮岐能山之突一幸行。
其の国より科野国を越えまして、乃ち科野の坂の神を言向けて、尾張国に還り来まして、先の日に期りたまへる美夜受比売の許に入り坐しぬ。ここに、大御食を献る時に、其の美夜受比売、大御酒盞を捧げて献る。爾に、美夜受比売、其の意須比の襴に、【意須比の三字、音を以ふ。】月経着きたり。故、其の月経を見たまひて、御歌曰みしたまひけらく、 (二八) ひさかたの 天の香具山 利鎌に さ渡る鵠 弱細の 手弱腕を 纏かむとは 吾はすれど さ寝むとは 吾は思へど 汝が着せる 襲の裾に 月経立ちにけり  爾、美夜受比売、御歌に答へて、曰ひけらく、  (二九) たかひかる 日の御子 やすみしし 我が大王 あらたまの 年が来経れは あらたまの 月は来経行く うべなうべな 君待ちがたに 我が着せる 襲の裾に 月経たたなむよ 故爾に、御合ひまして、其の御刀の草那芸の剣を、其の美夜受比売の許に置きて、伊服岐の山の神を取りに幸で行きましき。
〔科野國〕しなののくに。信濃国。今の長野県全域。「しなぬ」は誤訓。〔坂突〕さかのかみ。この坂は信濃国伊那郡から美濃国恵那郡に越える恵奈が岳の山道。そこの土豪。〔意須比〕襲。衣服の名。「おそひ」に通ずる。「かつぎ」とも言う。上代、男女共に用い、顔を隠すために、頭からかぶり、衣の裾まで垂した長い布。のち、もっぱら女子が神をまつる時に、儀礼用として用いるに至った。〔月經〕つき。記伝は、ここは「さはりもの」と訓ずべしとし、歌中の「つき」は「月」の意とするが、必ずしも妥当でない。歌中の「つき」も「月経」と「月」とをかけて言っているので、ここも、やはり「つき」と訓ずる方が可。女子が月々に見る経水のこと。つきのさわり。げっけい。 
【 倭潼命 】伊吹山の危難
於レ是、詔、枴山突隅、徒手直孚而、騰二其山一之時、白慂苡二于山邊。其大如レ牛。爾、爲二言擧一而詔、是化二白慂一隅、其突之使隅、雖二今不一レ殺、裝時將レ殺而騰坐。於レ是、零二大氷雨、打二│惑倭潼命。【此化二白慂一隅、非二其突之使隅、當二其突之正身。因二言擧一見レ惑也。】故、裝下坐之、到二玉倉部之厳泉一以、息坐之時、御心稍寤。故、號二其厳泉、謂二居寤厳水一也。自二其處一發到二當藝野上一之時、詔隅、吾心恆念二自レ癪騎行。然、今吾足不レ得レ歩、成二當藝斯形。【自レ當下三字、以レ音。】故、號二其地、謂二當藝一也。自二其地一差少幸行、因二甚疲、衝二御杖一稍歩。故、號二其地一謂二杖衝坂一也。
ここに、詔りたまひけらく、「枴の山の神は徒手に直に取りてむ。」と、のりたまひて、其の山に騰ります時に、白き猪に、山の辺に逢ひたまへり。其の大きさ、牛の如くなりき。爾、言挙げ為て詔りたまひけらく、「是の白き猪に化れる者は、其の神の使者にこそあらめ。今殺さずとも、還らむ時に殺してむ。」と、のりたまひて騰り坐しき。ここに、大氷雨を零らして、倭建命を打ち惑はしまつりき。【この、白き猪に化れる者は、その神の使者にはあらずて、その神の正身なりけり。言挙したまへるに因りて、惑はさえつるなりけり。】故、還り下り坐して、玉倉部の清泉に到りて、息ひ坐せる時に、御心稍寤めましき。故、其の清泉を号づけて、居寤の清泉とは謂ふなり。其処より発たして、当芸野の上に到りませる時に、詔りたまひけるは、「吾が心、恒は虚より騎り行かむと念ひき。然るに、今吾が足、歩むことを得ずて、当芸斯の形に成れり。」【当より下の三字、音を以ふ。】と、のりたまひき。其地より、差少し幸行でまししに、甚く疲れませるに因りて、御杖を衝かして、稍に歩みましき。故、其地を号づけて杖衝坂とは謂ふなり。
〔徒手〕むなで。「空し手」の略。手に何も持たないこと。からて。この時、尊は刀を美夜受比売の許に置いて来たからである。〔白慂〕しろきゐ。毛色の白い、いのしし。〔言擧〕ことあげ。声をあげて言い立てること。揚言。高言。〔大氷雨〕おほひさめ。「ひさめ」は、氷の雨。雹または霰。それのひどいのを「大氷雨」という。〔打惑〕うちまどはし。「打ち」は接頭語と見るより、雹や霰で打つ意。「まどはし」は、悩まし。諸本に「或」とあるは誤りではなく、「惑」と「或」とは同義。ただし、延本の「惑」に従う。記伝が「諸本に或と誤れり。」と言うは、かえって誤りである。〔正身〕むざね。「身実」にも作る。「む」は「み」の転。正しく、その身。実体。さうじみ。〔玉倉部〕たまくらべ。美濃国(岐阜県)不破郡玉村の岩倉山の麓の辺の古称であろう。 
【 倭潼命 】倭潼命の薨去
到二│坐尾津電一松之許、先御食之時、館レ忘二其地一御刀、不レ失憑有。爾、御歌曰、 袁波理邇 多陀邇牟加幣流 袁綾能佐岐那流 比登綾揺綾阿勢袁 比登綾揺綾 比登邇阿理勢婆 多知波氣揺斯袁 岐奴岐勢揺斯袁 比登綾揺綾阿勢袁 自二其地一幸、到二三重村一之時、亦詔之、吾足如二三重勾一而甚疲。故、號二其地。謂二三重。自レ其幸行而、到二能煩野一之時、思レ國以歌曰、 夜揺登波 久爾能揺本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐夜揺 碁母禮流夜揺登志 宇流波斯 又、歌曰、 伊能知能 揺多豆牟比登波 多多美許母 幣具理能夜揺能 久揺加志賀波袁 宇受爾佐勢 曾能古 此歌隅、思國歌也。又、歌曰、 波斯豆夜斯 和岐幣能聟多用 久毛韋多知久母 此隅片歌也。此時、御病甚緝。爾、御歌曰、 袁登賣能 登許能辨爾 和賀淤岐斯 綾流岐能多知 曾能多知波夜 歌竟、來紡。
尾津の前なる一つ松の許に到りませるに、先に御食したまへる時に、其地に忘れたまへる御刀、失せずて、猶ありき。爾、御歌曰みしたまひけらく、 (三〇) 尾張に ただに向かへる 尾津の前なる 一つ松あせを 一つ松 人にありせば 刀佩けましを 衣着せましを 一つ松あせを 其地より幸でまして、三重の村に到りませる時に、亦詔りたまひけらく、「吾が足、三重の勾如して、甚く疲れぬ。」と、のりたまひき。故、其地を号づけて、三重と謂ふ。其より幸行でまして、能煩野に到りませる時に、国を思ばして、歌曰ひたまひけらく、 (三一) 大和は 国のまほろば たたなづく 青垣山 隠れる 大和し 麗し 又、歌曰ひたまひけらく、 (三二) 命の 全けむ人は たたみこも 平群の山の 熊橿が葉を 髻華に插せ その子 此の歌は、思国歌なり。 又、歌曰ひたまひけらく、 (三三) はしけやし 我家の方よ 雲居立ち来も 此は、片歌なり。此の時、御病甚急になりぬ。爾に、御歌よみして、曰りたまひけらく、 (三四) 少女の 床の辺に 我が置きし 剣の刀 その刀はや 歌ひ竟へたまひて、即て崩りましぬ。
〔尾津電〕をつのさき。もとの伊勢国桑名郡の尾津郷。今の三重県桑名郡多度村・古浜村の辺に当たる。伊勢湾に面した地。いま、古浜村大字御衣野に、日本武尊をまつる御衣野神社がある。〔一松〕ひとつまつ。一本松。孤松。いま、その跡に剣掛の松というのがある。〔御食之時〕みをししたまへるとき。諸本に「之」の字がない。真本・延本のあるに従う。お食事をとれた時。〔多陀邇牟加幣流〕直に向かへる。まっすぐに向かっている。〔阿勢袁〕延本は「勢」を「藝」に誤る。下も同じ。吾兄を。「吾兄よ」の意。親しんで呼ぶ語。紀には「阿波例」とある。 
【 倭潼命 】御葬の歌
爾、貢二│上驛使。於レ是、坐レ倭后等唹御子等、跳下到而、作二御陵、來匍二│匐│迴其地之那豆岐田一【自レ那下三字、以レ音。】而哭爲、歌曰、 那豆岐能 多能伊那賀良邇 伊那賀良邇 波比母登富呂布 登許呂豆良 於レ是、化二八尋自智鳥、騎レ天而、向レ濱飛行。【智字、以レ音。】爾、其后唹御子等、於二其小竹之苅杙、雖二足數破、忘二其痛一以哭膊。此時歌曰、 阿佐士怒波良 許斯那豆牟 蘇良波由賀受 阿斯用由久那 又、入二其恭鹽一而、那豆美【此三字、以レ音。】行時歌曰、 宇美賀由氣婆 許斯那豆牟 意富聟波良能 宇惠具佐 宇美賀波 伊佐用布 又、飛、居二其礒一之時、歌曰、 波揺綾知登理 波揺用波由聟受 伊蘇豆多布 是四歌隅、皆歌二其御葬一也。故、至レ今、其歌隅、歌二天皇之大御葬一也。故、自二其國一飛騎行、留二河触國之志幾。故、於二其地一作二御陵、鎮坐也。來號二其御陵、謂二白鳥御陵一也。然、亦自二其地一更騎レ天以飛行。凡此倭建命、徘レ國迴行之時、久米直之督、名七軽脛、恆爲二膳夫一以從仕奉也。
爾、駅使を貢上る。ここに、倭に坐す后等及御子等、諸下り到まして、御陵を作り、即て其地の那豆岐田に【那より下の三字、音を以ふ。】匍匐回りて、哭しつつ、歌曰ひけらく、 (三五) なづきの 田の稲幹に 稲幹に 艫ひもとほろふ 野老犖 ここに、八尋白智鳥に化りて、天に騎りて、浜に向きて飛び行でましぬ。【智の字、音を以ふ。】爾に、其の后及御子等、其の小竹の苅杙に、足數り破るれども、其の痛さを忘れて哭しつつ追ひましき。此の時、歌曰ひけらく、 (三六) 浅篠原 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな 又、其の海塩に入りて、那豆美【この三字、音を以ふ。】行きし時、歌曰ひけらく、 (三七) 海処行けば 腰なづむ 大河原の 植ゑ草 海処は いさよふ 又、飛びて、其の礒に居たまへる時に、歌曰ひけらく、 (三八) 浜つ知登理 浜よは行かず 礒伝ふ 是の四歌は、皆其の御葬に歌ひしなり。故、今に至るまで、其の歌は、天皇の大御葬に歌ふなり。故、其の国より飛び騎り行でまして、河内国の志幾に留りましき。故、其地に御陵を作りて、鎮め坐さしめき。即ち其の御陵を白鳥の御陵とは謂ふなり。然れども、亦其処より更に天に騎りて飛び行でましぬ。凡そ此の倭建命、国を平け回り行でましける時、久米直の祖、名は七軽脛、恒に膳夫と為りて、従ひ仕へ奉れるなり。
〔后等〕きさきたち。日本武尊を天皇になぞらえて、「妃等」と言わず、「きさきたち」と言ったもの。下文に見えるように、多くの妃を持っていられた。〔下到而〕くだりきまして。大和国から伊勢国能褒野へ下り来て。〔匍匐迴〕はらばひもとほる。平伏する。〔那豆岐田〕なづきだ。「並びつく田」の意。ずうっと連なっている田。〔哭〕みねなかす。「音泣く」の敬語。声をあげて泣かれる。〔伊那賀良〕稲幹。稲を刈りとったあとに残る切り株。〔登許呂豆良〕野老の蔓。〔八尋白智鳥〕やひろしろちどり。大きな白鳥。下文の「波麻都知登理」参照。〔小竹之苅杙〕しののかりぐひ。「しぬのかりくひ」は非。篠竹を切りとったあとに残った切り株。〔足數破〕あしきりやぶる。「數」は一字で「あしきる」であるが、ここでは「きる」意に用いている。足を篠竹の切り株で切り破る。 
【 倭潼命 】倭潼命の妃と子孫たち
此倭潼命、娶二伊玖米天皇之女布多遲能伊理豐賣命、【自レ布下八字、以レ音。】生御子、帶中津日子命。【一柱】又、娶二其入レ恭弟橘比賣命。生御子、若潼王。【一柱】又、娶二羝淡恭之安國芟之督意富多牟和氣之女布多遲比賣、生御子、稻依別王。【一柱】又、娶二吉備臣建日子之妹大吉備潼比賣、生御子、潼貝兒王。【一柱】又、娶二山代之玖玖揺毛理比賣、生御子、足鏡別王。【一柱】又、一妻之子、息長田別王。凡是倭潼命之御子等、忸六柱。故、帶中津日子命隅、治二天下一也。筱稻依別王隅、【犬上君、潼部君等之督。】筱建貝兒王隅、【讚岐綾君、伊勢之別、登袁之別、揺佐首、宮首之別等之督。】足鏡別王隅、【鎌倉之別、小津、石代之別、漁田之別督也。】次息長田別王之子。杙俣長日子王。此王之子、礦野眞僂比賣命。筱息長眞若中比賣。次弟比賣。【三柱】故、上云若潼王、娶二礦野眞僂比賣、生子、須賣伊呂大中日子王。【自レ須至レ呂以レ音。】此王、娶二淡恭之柴野入杵之女柴野比賣、生子、聟具漏比賣命。故、大帶日子天皇、娶二此聟具漏比賣命、生子、大江王。【一柱】此王、娶二庶妹銀王、生子、大名方王。筱大中比賣命。【二柱】故、此之大中比賣命隅、香坂王・竄熊王之御督也。
此の倭建命、伊玖米天皇の女布多遅能伊理豐売命【布より下の八字、音を以ふ。】に娶ひて、生みませる御子、帯中津日子命。【一柱】又、其の海に入りませる弟橘比売命を娶して、生みませる御子、若建王。【一柱】又、近淡海の安の国造の祖意富多牟和気の女布多遅比売を娶して、生みませる御子、稲依別王。【一柱】又、吉備臣建日子の妹大吉備建比売を娶して、生みませる御子、建貝児王。【一柱】又、山代の玖玖麻毛理比売を娶して、生みませる御子、足鏡別王。【一柱】又、一妻のうみませる子、息長田別王。凡て是の倭建命の御子等、忸せて六柱ませり。故、帯中津日子命は、天の下を治しめしたまひき。次に稲依別王は、【犬上君、建部君らの祖。】次に建貝児王は、【讚岐の綾君、伊勢の別、登袁別、麻佐首、宮首の別の祖。】鏡別王は、【鎌倉の別、小津、石代の別、漁田の別の祖なり。】次に息長田別王の子。杙俣長日子王。比の王の子、飯野真黒比売命。次に息長真若中比売。次に弟比売。【三柱】故、上に云へる若建王、飯野真黒比売を娶して、生みませる子、須売伊呂大中日子王。【須より呂に至る、音を以ふ。】此の王、淡海の柴野入杵の女柴野比売を娶して、生みませる子、聟具漏比売命。故、大帯日子天皇、此の聟具漏比売命を娶して、生みませる子、大江王。【一柱】此の王、庶妹銀王に娶ひて、生みませる子、大名方王。次に大中比売命。【二柱】故、此の大中比売命は、香坂王・忍熊王の御祖なり。
〔伊玖米天皇〕いくめのすめらみこと。垂仁天皇の御名。「伊久米入豐古伊佐知命」の略。上には「久」、ここには「玖」、記の用字は、必ずしも厳格ではない。〔布多遲能伊理豐賣命〕ふたぢのいりひめのみこと。「びめ」は誤訓。紀には「両道入姫皇女」とある。日本武尊の御叔母に当たる。叔母との結婚の例は、ウガヤフキアヘズノミコトを初めとして、古文献に多く見られる。〔帶中津日子命〕たらしなかつひこのみこと。成務天皇の御名。下文に「若帯日子天皇」とある。「たらし」は「足らし」、足り満ちる意。「なかつひこ」は、第二の皇子の意。紀では、第一の皇子を稲依王とし、次を足仲彦天皇とする。紀の伝が正しいであろう。〔若建王〕わかたけのみこ。「倭建」に称して「若建」と称したのであろう。 
【 倭潼命 】景行天皇崩御
此大帶日子天皇之御年、壹佰參拾漆歳。御陵在二山邊之蕈上也。
此の大帯日子天皇の御年、壱佰参拾漆歳。御陵は、山辺の道の上に在り。
〔壹佰參拾漆歳〕ももちあまりみそぢななつ。紀には一百六歳とあって、三十一歳若い。いずれが正しいか、いずれも誤りか、未詳。景行紀冒頭に、「垂仁天皇の三十七年に皇太子となりたまふ。時に年二十一。」とある。 
 

 

【 成務天皇 】
若帶日子天皇、坐二羝淡恭之志賀高穴穗宮、治二天下一也。此天皇、娶二穗積臣等之督建竄山垂根之女、名弟財輙女、生御子、和訶奴氣王。【一柱】故、建触宿斑爲二大臣、定二賜大國・小國之國芟、亦定二賜國國之堺唹大縣・小縣之縣主一也。天皇、御年玖拾伍歳。御陵在二沙紀之多他那美一也。
若帯日子天皇、近淡海の志賀の高穴穂の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふ。此の天皇、穂積臣らの祖建忍山垂根の女、名は弟財郎女を娶して、生みませる御子、和訶奴気王。【一柱】故、建内宿斑を大臣と為たまひ、大国・小国の国造を定め賜ひ、亦国国の堺及大県・小県の県主を定め賜ひき。この天皇、御年玖拾伍歳。御陵は沙紀の多他那美に在り。
〔志賀高穴穗宮〕しがのたかあなほのみや。紀によれば、景行天皇の五十八年、志賀の高穴穂の宮に遷りたまい、三年の後、景行天皇が、この宮で崩ぜられている。爾来、成務天皇も仲哀天皇も、ここを皇居とされた。近江国滋賀郡坂本村穴太の地。いま、大津市に入る。宮号の「高」は尊称であろう。〔穗積臣〕ほづみのおみ。上に出ている。 
【 仲哀天皇 】后妃と御子たち
帶中日子天皇、坐二穴門之豐浦宮唹筑紫訶志比宮、治二天下一也。此天皇、娶二大江王之女大中津比賣命、生御子、香坂王・竄熊王。【二柱】樸、娶二息長帶比賣命。是大后生御子、品夜和氣命。筱大鞆和氣命。亦名品陀和氣命。【二柱】此太子之御名、館三以茶二大鞆和氣命一隅、初館レ生時、如レ鞆宍、生二御腕一故、著二其御名。是以、知下坐二腹中一知上レ國也。此之御世、定二淡蕈之屯家一也。
帯中日子天皇、穴門の豊浦の宮及筑紫の訶志比の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふ。此の天皇、大江王の女大中津比売命に娶ひて、生みませる御子、香坂王・忍熊王。【二柱】又、息長帯比売命に娶ひたまひき。是の大后の生みませる御子、品夜和気命。次に大鞆和気命。亦の名は、品陀和気命。【二柱】此の太子の御名に、大鞆和気命と負はせる所以は、初め生れましし時に、鞆如せる宍、御腕に生りし故に、其の御名には着けまつれるなり。是を以て、腹中に坐しまして、国を知しめしたまへること知らえたり。此の御世に淡道の屯家を定めたまひき。
〔穴門之豐浦宮〕あなとのとよらのみや。「あなど」の訓の非なること、上に述べてある。「あなと」は後に「長門」と呼ぶ。和名抄に「長門国豊浦(止与良)郡」とある地。その地にあった宮殿。今も「とよら」と呼ぶ。「とようら」の省音。〔訶志比宮〕かしひのみや。紀は「橿日宮」に作る。もとの筑前国糟屋郡香椎村大字香椎の地。今の福岡市の香椎町。その地にあった宮殿。今、この地に香椎宮があり、仲哀天皇・神功皇后をまつる。 
【 仲哀天皇 】仲哀天皇崩御
其大后、息長帶日賣命隅、當時歸レ突。故、天皇、坐二筑紫之訶志比宮、將レ整二熊曾國一之時、天皇、控二御琴一而、建触宿斑大臣、居レ於二沙庭、樽二突之命。於レ是、大后歸レ突、言辻覺詔隅、西方有レ國。金銀爲レ本、目之炎輝種種珍寶、多在二其國。吾今歸二│賜其國。爾、天皇答白、登二高地、見二西方一隅、不レ見二國土。唯有二大恭。謂二爲レ詐突一而、押二│膠御琴、不レ控默坐。爾、其突大忿詔、凡枴天下隅、汝非二應レ知國。汝隅向二一蕈。於レ是、建触宿斑大臣白、恐、我天皇、憑阿二│蘇│婆│勢其大御琴。【自レ阿至レ勢以レ音。】爾、稍孚二│依其御琴一而、那揺那揺邇【此五字以レ音。】控坐故、未二幾久一而、不二│聞御琴之音。來、擧レ火見隅、蝉紡訖。
其の大后、息長帯日売命は、当時神を帰せたまひき。故、天皇、筑紫の訶志比の宮に坐しまして、熊曽の国を撃ちたまはむとしたまひし時に、天皇、御琴を控かして、建内宿斑の大臣、沙庭に居て、神の命を請ひまつりき。ここに、大后、神を帰せたまひて、言教へ覚して詔りたまひけらくは、「西の方に国あり。金・銀を本と為て、目炎輝く種種の珍宝、多に其の国に在り。吾今其の国を帰せ賜はむ。」と、のりたまへり。爾に、天皇、答へて白りたまひけらく、「高き地に登りて、西の方を見れば、国土は見えず。唯大海のみこそあれ。」 と、のりたまひて、詐為す神と謂ほして、御琴を押し退け、控きたまはずて黙し坐しぬ。爾、其の神、大く忿らして、詔りたまひけらく、「凡そ枴の天の下は、汝の知らすべき国にあらず。汝は一道に向かひませ。」と、のりたまひき。ここに、建内宿爾の大臣、白しけらく、「恐し、我が天皇、猶其の大御琴を阿蘇婆勢。【阿より勢に至る、音を以ふ。】」と、まをせり。爾、稍其の御琴を取り依せたまひて、那麻那麻邇【この五字、音を以ふ。】控き坐しけるに、未だ幾久もあらぬに、御琴の音、聞えずなりぬ。即ちに火を挙げて見まつれば、既に崩り訖へましぬ。
〔當時〕そのかみ。事のあった其の時。当時。〔歸レ突〕かみをよす。神を寄せる。神がかりとなって、「くちよせ」を行なう。こうした女性が、すなわち「憑姫」である。上代、「何よりひめ」と呼ばれた女性の多いのは、こうした巫女的性格を有する女性に付した名である。宣長は、「依は宜しなり」などと解しているが、誤りである。〔控二御琴一〕みことをひかす。上代では、琴は請神のために奏する楽器であった。 
【 仲哀天皇 】殯宮の場
爾、驚懼而、坐二殯宮、更孚二國之大奴佐一而【奴佐二字、以レ音。】種二│種│求生搭・膸搭・阿離・溝埋・屎竿・上艷下艷婚・馬婚・牛婚・鷄婚・犬婚之罪類、爲二國之大祓一而、亦建触宿斑、居二於沙庭、樽二突之命。於レ是、辻覺之寔、具如二先日、凡此國隅、坐二汝命御腹一之御子館レ知國隅也。爾、建触宿斑、白、恐、我大突、坐二其突腹一之御子、何子歟。答詔、男子也。爾、具樽之、今如レ此言辻之大突隅、欲レ知二其御名。來答詔、是天照大突之御心隅。亦底筒男・中筒男・上筒男三柱大突隅也。【此時其三柱大突之御名隅顯也。】今寔思レ求二其國一隅、於二天突・地陶、亦、山突及河恭之跳突、悉奉二幣帛、我之御魂坐二于焙上一而、眞木灰笋レ瓠、亦、箸唹比羅傳【此三字、以レ音。】多作、皆皆散二│浮大恭一以可レ渡。
爾、驚き懼みて、殯の宮に坐せまつり、更に国の大奴佐を取りて、【奴佐の二字、音を以ふ。】生剥・逆剥・阿離・溝埋・屎戸。上通下通婚・馬婚・牛婚・鶏婚・犬婚の罪の類を、種種求ぎて、国の大祓と為て、亦建内宿斑、沙庭に居て、神の命を請ひまつりき。ここに、教へ覚したまふ状、具に先の日の如くにして、「凡そ此の国は、汝命の御腹に坐す御子の知らさむ国なり。」と、をしへさとしたまひき。爾、建内宿斑、白しけらく、「恐し、我が大神、其の神の腹に坐す御子は、何の子なりや。」と、まをしければ、答へて詔りたまひけらく、「男子なり。」と、のりたまひき。爾、具に請ひまつりけらく、「今、かく言教へたまふ大神をば、其の御名を知らまく欲し。」と、まをせば、即ち答へて詔りたまひけらく、「是は天照大神の御心なり。亦底筒男・中筒男・上筒男、三柱の大神なり。【この時にぞ、其の三柱の大神の御名をば顕はしたまへる。】今、寔に其の国を求めむと思ほさば、天つ神・地つ陶、亦、山の神及河海の諸神とに、悉に幣帛を奉り、我が御魂を焙の上に坐せて、真木の灰を瓠に納れ、亦、箸及比羅伝【この三字、音を以ふ。】を多に作り、皆皆大海に散らし浮けて、度りますべし。」と、のりたまひき。
〔殯宮〕あらきのみや。「あらき」は「新城」の義。「き」は「ひとき」「おくつき」などの「き」。貴人の本葬を行なう前に、仮りに死骸を納めておくこと。「かりもがり」とも「もがり」ともいう。そのあらきの宮殿。殯宮。〔國之大奴佐〕くにのおほぬさ。「国の」は、筑紫の国の。「おほ」は美称。「ぬさ」は、ここでは祓に出す物。「ぬのふさ」の略。記伝の「板布佐にて、泥疑布を切むれば、奴となる。」などの説は、音韻転化の法則を無視したものである。「布総」すなわち「布麻」の略で、布・麻・木綿・紙などで作る。「にきて」とも「みてぐら」ともいう。「総」と「麻」とは同義。〔生搭・膸搭〕いきはぎ・さかはぎ。ほとんど同義。獣の皮を生きながら剥ぐこと。逆さに剥ぐこと。一説に、いやがって逆らうのを剥ぐこと。〔阿離〕あはなち。田の畔を切り離して耕作を妨げること。 
【 仲哀天皇 】神功皇后と三韓
故、備如二辻覺一整レ軍、雙レ焙、度幸之時、恭原之魚、不問大小、悉茶二御船一而渡。爾、順風大起、御焙從レ浪。故、其御焙之波瀾、押二│騰新羅國、蝉到二夜國。於レ是、其國王、畏惶奏言、自レ今以後、隨二天皇命一而、爲二御馬甘、譌レ年雙レ焙、不レ乾二焙腹、不レ乾二杷珸、共二│與天地、無膠仕奉。故、是以、新羅國隅、定二御馬甘、百濟國隅、定二渡屯家。爾、以二其御杖、衝二│立新羅國王之門。來以二豈江大突之荒御魂、爲二國守突一而、祭鎭裝渡也。
故、備に教へ覚しの如くにして、軍を整へ焙を雙めて、度り幸でます時に、海原の魚ども・大きなるも小さきも、悉に御焙を負ひて渡しまつりき。爾に、順風大りに起きて、御焙、浪の従にすすみけり。故、其の御焙の波瀾、新羅の国に押し騰りて、既に国の半らまで到りき。ここに、其の国王、畏ぢ惶みて奏言しけらく、「今より以後、天皇の命の随に、御馬甘と為りて、年の毎に焙を雙めて、焙腹を乾さず、杷珸を乾さず、天地の共与、無退に仕へ奉らむ。」と、まをしき。故、ここをもて、新羅の国をば、御馬甘と定めたまひ、百済の国をば、渡の屯家と定めたまひき。爾に、其の御杖を新羅の国王の門に衝き立てたまひき。即て墨江の大神の荒御魂を国守りの神と為て、鎮め祭りて、還り渡りましぬ。  
〔茶二御焙一而渡〕みふねをおひてわたしまつりき。底本の訓「わたりき」には従わぬ。大小の魚が、御焙を負うて、皇軍を渡しまつったのである。〔順風〕おひて。底本の訓「おひかぜ」には従わぬ。「て」は「ち」の転。神代紀、下、一書に「迅風」とある。焙をうしろから吹き送る風。順風。〔新羅〕しらぎ。「しらき」と読むのがよいと思うが、習慣読みに従う。万十五の三六九六に「新羅奇」、出雲風土記、意宇郡に「志羅紀」、姓氏録に「新良貴」などとある。三韓の一なる辰韓の一部。西紀前後の頃から強大となり、朴赫居世によって、今の韓国の東南部に建国。七世紀中、高麗・百済を併せて半島を統一したが、九三五年、高麗によって滅ぼされた。五十六王、九百九十三年続く。〔國王〕こにきし。韓語で「王」の意。「こきし」ともいう。北史、百済伝に「百済王、云々。 百姓為二嗹吉支。夏言王也。」とある。〔御馬甘〕みまかひ。「甘」は「飼」「養」に同じ。上に出ている。
【 仲哀天皇 】応神天皇の御誕生
故、其政未レ竟之間、其懷姙臨籥。來爲レ鎭二御腹、孚レ石以、纏二御裳之腰一而、渡二筑紫國、其御子隅阿禮坐。【阿禮二字、以レ音。】故、號二其御子生地、謂二宇美一也。亦館レ纏二其御裳一之石隅、在二筑紫國之伊斗村一也。
故、其の政の未だ竟へたまはざる間に、其の懐姙ませるみこ、産れまさむとせり。即、御腹を鎮めたまはむために、石を取らして、御裳の腰に纏かして、筑紫国に渡りましてぞ、其の御子は阿礼坐しける。【阿禮の二字、音を以ふ。】故、其の御子を生みたまへる地を号づけて、宇美とは謂ふなり。亦、其の御裳に纏かせる石は、筑紫国の伊斗村に在り。
〔政〕まつりごと。一般に「祭事」の意とするが、百官が朝廷に仕え奉る事、すなわち「行政」の意であろう。ここでは、三韓における行政が、まだ完全に終らないことをいう。〔爲レ鎭二御腹〕みはらをしづめたまはむために。宣長は、「いはひたまはむために」と訓ずべしと言うが、しかし、紀によれば、新羅へ渡られる前のことである。故に、胎中の御子を、事の終って帰る日まで、胎中にとどまるようにと、石を腰に插んで押さえたのである。だから、「しづむ」の訓が妥当である。神功紀、摂政前に「適当二皇后之開胎。皇后、則孚レ石插レ腰而祈曰、事竟還日産二於枴土。」とある。 
【 仲哀天皇 】玉島川の鮎
亦、到二│坐筑紫末羅縣之玉嶋里一而、御二食其河邊一之時、當二四月之上旬一爾、坐二其河中之礒、拔二│孚御裳之絲、以二礦粒一爲レ窖、釣二其河之年魚。【其河名謂二小河。亦其礒名謂二勝門此賣一也。】故、四月上旬之時、女人、拔二裳絲、以レ粒爲レ窖、釣二年魚、至二于今一不レ絶也。
亦、筑紫の末羅県の玉島の里に到り坐して、其の河の辺に御食したまへる時しも、四月の上旬に当たりしかば、其の河中の礒に坐して、御裳の糸を抜き取り、飯粒を餌と為て、其の河の年魚を釣らしたまひき。【其の河の名を小河と謂ふ。亦其の礒の名を勝門比売と謂ふ。】故、四月の上旬の時、女人、裳の糸を抜き、粒を餌と為て、年魚を釣ること、今に絶えざるなり。
〔末羅縣〕まつらがた。「まつらあがた」の消音。「あ」は、上の「ら」の音に吸収されて消失する。肥前国の旧郡名。和名抄は「万豆良」と訓じ、郷十一、駅五を管す。明治に入り、東・西・南・北の四郡に分け、東・西を佐賀県に、南・北を長崎県の管下に属せしめた。因みに、万五の八六八「麻都良我多」は「松浦潟」であり、唐津湾の辺であろう。〔玉嶋里〕たましまのさと。今の佐賀県東松浦郡玉島町辺の古称。松浦佐用姫によって名高い領巾振山も、この地にある。なお、「嶋」の文字は、真本等に拠る。延本は「島」に作り、底本は「嶌」に作る。〔其河〕そのかは。前項の玉島町を流れる川。「玉島川」とも「松浦川」とも言う。この川のほとりに玉島神社があり、神功皇后をまつる。 
【 仲哀天皇 】香坂王・忍熊王の謀反
於レ此、息長帶日賣命、於レ倭裝上之時、因レ疑二人心、一二│具喪焙、御子載二其喪焙、先令レ言二│漏│之、御子蝉紡。如レ此上幸之時、香坂王・竄熊王聞而思レ將二待取、荵三│出於二斗賀野、爲二宇氣比獵一也。爾、香坂王、騰二│坐芬木一而是、大怒慂出掘二其芬木、來咋二│食其香坂王。其弟竄熊王、不レ畏二其態、興レ軍待向之時、赴二喪焙、將レ攻二空焙。爾、自二其喪焙、下レ軍相戰。此時、竄熊王、以二難波吉師部之督伊佐比宿斑、爲二將軍、太子御方隅、以二丸邇臣之督難波根子建振熊命、爲二將軍。故、膊膠、到二山代一之時、裝立各不レ膠相戰。爾、建振熊命、權而、令レ云三息長帶日賣命隅蝉紡故、無レ可二更戰、來絶二弓絃、欺陽歸燮。於レ是、其將軍、來信レ詐、弭レ弓藏レ兵。 爾、自二頂髪中、砦二│出設絃、【一名云二宇佐由豆留。】更張膊整。故、膩二│膠苡坂、對立亦戰。爾、膊聽敗、出二沙沙那美、悉斬二其軍。於レ是、其竄熊王與二伊佐比宿斑、共被二膊聽、乘レ焙浮レ恭、歌曰、 伊奢阿藝 布流玖揺賀 伊多弖淤波受波 邇本杼理能 阿布美能宇美邇 聟豆岐勢那和 來入レ恭、共死也。
ここに、息長帯日売命、倭に還り上ります時に、人の心の疑はしきに因りて、喪焙を一つ具へて、御子を其の喪焙に載せまつり、先づ「御子は既に崩りましぬ。」と言ひ漏らさしめたまひき。かくして、上り幸でます時に、香坂王・忍熊王、聞きて待ち取らむと思ひ、斗賀野に進み出でて、宇気比猟為たまひき。爾に、香坂王、歴木に騰り坐して是るに、大きなる怒り猪出でて、其の歴木を掘り、即ちに其の香坂王を咋食ころしつ。其の弟の忍熊王、其の態を畏まずて、軍を興して待ち向ふる時に、喪焙*に赴きて、空し船を攻めむとす。爾、其の喪焙より、軍を下ろして相戦ひたり。此の時、忍熊王は、難波の吉師部の祖伊佐比宿斑を、将軍と為、太子の御方には、丸邇臣の祖難波根子建振熊命を、将軍と為たまひけり。故、追ひ退けて、山代に到れる時に、還り立ちて、各退かずて相戦ひぬ。爾に、建振熊命、権りて、「息長帯日売命は、既に崩りましぬれば、更に戦ふべきことなし。」と云はしめ、即ちに弓絃を絶ち、欺陽りて帰服ひぬ。ここに、其の将軍、既に詐を信みて、弓を弭し、兵を蔵めてき。爾に、頂髪の中より、設けたる弦【一つの名を宇佐由豆留と云ふ】を更に張りて追ひ撃ちけり。故、逢坂に逃げ退き、対ひ立ちて亦戦ふ。爾、追ひ迫めて敗り、沙沙那美に出で、悉に其の軍を斬りぬ。ここに、其の忍熊王と伊佐此宿斑と、共に追ひ迫めらえて、焙に乗り、海に浮かびて、歌曰ひけらく、 (三九) いざあぎ 振熊が 痛手負はずは にほどりの 淡海の湖に 潜きせなわ 即で、海に入り、共に死せにき。
〔於是〕ここに。底本は「於」を「施」に誤り刻す。すぐ上の誤字「}」に引かれたのであろう。〔因レ疑二人心〕ひとのこころのうたがはしきにより。「人の心」とは、香坂王・忍熊王およびその一味の人たちの意向。真本は「因」を「固」に誤る。〔御子載二其喪焙〕みこをそのもふねにのせまつる。神功紀では 「仲哀天皇の喪を収めて海路よりして京へ向ひます。」とあり、また、「武内宿斑に命じて、皇子を抱きて、横さまに南の海より出でて、紀伊の水門に泊てしめ、云々。」とある。紀の伝が正しいであろう。〔香坂王・竄熊王〕かごさかのみこ・おしくまのみこ。応神天皇の異母兄。上に出ている。〔斗賀野〕とがの。「とがぬ」は誤訓。紀には「菟餓野」、万葉十一の二七五二には「都賀野」、摂津風土記(逸文)には「刀我野」とある。今の大阪市平野町辺にあった野。一説に、今の神戸市夢野町の辺ともいう。 
【 仲哀天皇 】角鹿行
故、建触宿斑命、率二其太子、爲レ將レ禊而、經二│芬淡恭唹若狹國一之時、於二高志電之角鹿、芟二假宮一而坐。爾、坐二其地一伊奢沙和氣大突之命、見レ於二夜夢一云、以二吾名、欲レ易二御子之御名。爾、言板白之、恐、隨レ命易奉。亦其突詔、明日之旦、應レ幸レ於レ濱。獻二易レ名之巫。故、其旦、幸二│行于濱一之時、毀レ鼻入鹿魚、蝉依二一浦。於レ是、御子、令レ白レ于レ突云、於レ我給二御食之魚。故、亦稱二其御名、號二御食津大突。故、於レ今謂二氣比大突一也。亦其入鹿魚之鼻血槌。故、號二其浦一謂二血浦、今謂二綾奴賀一也。
故、建触宿斑命、其の太子を率たてまつり、禊せむとして、淡海及若狭国を経歴し時に、高志の前の角鹿に、仮宮を造り坐せまつりけり。爾、其地に坐せる伊奢沙和気大神之命、夜の夢に見れて云りたまひけらく、「吾が名を以て、御子の御 に易へまく欲りす。」と、のりたまひき。爾、言板きて白しけらく、「恐し、命の随に易へ奉らむ。」と、まをしき。亦、其の神、詔りたまひけらく、「明日の旦、浜に幸でますべし。名を易ふる幣を献らむ。」と、のりたまひき。故、其の旦、浜に幸行でませる時に、鼻を毀りたる入鹿魚、既くも一浦に依れり。ここに、御子、神に白さしめて云りたまひけらく、「我に御食の魚を給へり。」と、まをさしめたまひき。故、亦其の御名を称へて、御食津大神と号す。故、今に気比大神とは謂すなり。亦其の入鹿魚の鼻の血、槌かりき。故、其の浦を号づけて、血浦と謂ひき。今は都奴賀と謂ふなり。
〔建触宿斑〕たけうちのすくね。底本の訓「たけしうちのすくね」は非。上にも述べてある。記伝には「たけうちのすくね」とある。〔率二其太子一〕そのひつぎのみこをゐたてまつる。敬語を入れて読む。 ホムタワケノミコトがまだ幼少であられたから、武内宿斑がお連れ申し上げたのである。〔若狹國〕わかさのくに。日本海に面する国。今、福井県の管下に入る。〔高志電〕こしのみちのくち。「みちのくち」とは、大和からいって、最も近い地方の称。「みちのなか」「みちのしり」に対する語。ここは「越の前」 すなわち越前。今の福井県の大部分。〔角鹿〕つのが。「つぬが」「つぬか」ともに誤訓。「角」は「角杙神」「角臣」などと、必ず「つの」と訓ずる。「の」を「ぬ」と誤訓するようになったのは、江戸時代の中期以後の国学者たちによってである。「つのが」の地名のおこりは」記紀ともに、こちたく説いているが、すべて付会であり、「津の処」すなわち「港」の意であると信ずる。なお、下文の「都奴賀」の項参照。今の敦賀市のこと。 
【 仲哀天皇 】酒楽の歌
於レ是、裝上坐時、其御督息長帶日賣命、釀二待酒一以獻。爾、其御督、御歌曰、 許能美岐波 和賀美岐那良受 久志能加美 登許余邇伊揺須 伊波多多須 須久那美聟微能 加牟菩岐 本岐玖流本斯 登余本岐 本岐母登本斯 揺綾理許斯 美岐敍 阿佐受袁勢 佐佐 如レ此歌而、獻二大御酒。爾、建触宿斑命、爲二御子、答歌曰、 許能美岐袁 聟美豆牟比登能 曾能綾豆美 宇須邇多弖弖 宇多比綾綾 聟美豆禮加母 揺比綾綾 聟美豆禮加母 許能美岐能 美岐能 阿夜邇 宇多陀怒斯 佐佐 此隅、酒樂之歌也。
ここに、還り上り坐せる時に其の御祖息長帯日売命、待酒を醸みたまひて献らしけり。爾、其の御祖、御歌曰みしたまひけらく、 (四〇) この御酒は わが御酒ならず 薬の神 常世に坐す 石立たす 少名御神の 神寿き 寿き狂ほし 豊寿き 寿きもとほし 献り来し御酒ぞ あさず飲せ ささ かく歌ひたまひて、大御酒献りたまひき。爾に、建内宿斑命、御子の為に、答へて歌曰ひまつりけらく、 (四一) この御酒を 醸みけむ人は その鼓 臼に立てて 歌ひつつ 醸みけれかも 舞ひつつ 醸みけれかも この御酒の 御酒の あやに 転楽し ささ 此は、酒楽の歌なり。
〔待酒〕まちざけ。連濁で「ざけ」となる。底本の訓「まちさけ」には従わぬ。「しろざけ」「にごりざけ」の類。来る人に飲ませるために、醸み設けて、待つ酒。〔美岐〕御酒。「み」は美称。「き」は「酒」。「白酒」「黒酒」の「き」である。〔久志能加美〕「くし」は「薬」の転。医薬の神。応神天皇の段の歌謡に「ことなぐし、ゑぐしに、われ酔ひにけり」とあるように、百薬の長の意から「酒」の意ともなる。ただし、「くし」を直ちに「酒」とすることはできない。大言海「くし」の項参照。ここでは少彦名命をさす。大国主命と少彦名命とは、医薬療病の二神と称せられる。「くしがみの」なる枕詞は「二上」すなわち「二神」に冠する。万七の一〇九八に「くしがみの、ふたがみ山」とある。 
【 仲哀天皇 】仲哀天皇の御陵
凡帶中津日子天皇之御年、伍拾貳艢。御陵在二河触惠賀之長江一也。
凡そ、帯中津日子天皇の御年、伍拾弐歳。御陵は河内の恵君の長江に在り。
〔帶中津日子〕たらしなかつひこ。仲哀天皇の御名。景行天皇の段には「若帯日子命」とあり、この仲哀天皇の段の冒頭にも「若帯日子天皇」とある。しかるに、ここには「帯中津日子天皇」とある。こうした点に、伝誦の、または厨者の、不用意がうかがわれる。仲哀天皇の崩御の記事は、上にある。ここでは、しめくくりの意でしるしたものであろう。仲哀紀には、天皇崩御の年齢をしるしていない。 
 

 

【 応神天皇 】后妃と御子たち
品陀和氣命、坐二輕嶋之明宮一治二天下一也。此天皇、娶二品陀眞若王【品陀二字、以レ音。】之女、三柱女王。一名、高木之入日賣命。筱中日賣命。筱弟日賣命。【此女王等之父品陀眞若王隅、五百木之入日子命、娶二尾張苣之督、建伊那陀宿斑之女志理綾紀斗賣一生子隅也。】故、高木入日賣命之御子、額田大中日子命。筱大山守命。筱伊奢之眞若命。【伊奢二字、以レ音。】筱妹大原郎女。筱高目輙女。【五柱】中日賣命之御子、木之荒田輙女。筱大雀命。筱根鳥命。【三柱】弟日賣命之御子、阿倍郎女。次阿貝知能【此四字、以レ音。】三腹郎女。筱木之菟野輙女。筱三野輙女。【五柱】樸、娶二丸邇之比布禮能意富美之女、【自比至レ美、以レ音。】名宮主矢河枝比賣、生御子、宇遲能和紀輙子。筱妹八田若輙女。筱女鳥王。【三柱】樸、娶二其矢河枝比賣之弟袁那辨輙女、生御子、宇遲之若輙女。【一柱】樸、娶二咋俣長日子王之女息長眞若中比賣、生御子、若沼毛二俣王。【一柱】樸、娶二櫻井田部苣之督嶋垂根之女絲井比賣、生御子、芫總別命。【一柱】樸、娶二日向泉長比賣、生御子、大監江王。筱小監江王。筱幡日之若輙女。【三柱】樸、娶二聟具漏比賣、生御子、川原田輙女。筱玉輙女。筱竄坂大中比賣。筱登富志輙女。筱聟多遲王。【五柱】樸、娶二犖城之野伊呂賣一【此三字、以レ音。】生御子、伊奢能揺和聟王。【一柱】此天皇之御子等、忸廿六王。【男王十一。女王十五。】此中、大雀命隅、治二天下一也。
品陀和気命、軽島の明の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふ。此の天皇、品陀真若王【品陀の二字、音を以ふ。】の女、三柱の女王に娶ひたまひき。一はしらの名は、高木之入日売命。次は中日売命。次は弟日売命。【此の女王等の父品陀眞若王は、五百木之入日子命、尾張苣の祖、建伊那陀宿斑の女志理都紀斗売に娶ひて生みませる子なり。】故、高木入日売命の御子、額田大中日子命。次に大山守命。次に伊奢之真若命。【伊奢の二字、音を以ふ。】次に妹大原郎女。次に高目郎女。【五柱】中日売命の御子、木之荒田郎女。次に大雀命。次に根鳥命。【三柱】弟日売命の御子、阿部郎女。次に阿貝知能【此の四字、音を以ふ。】三腹郎女。次に木之菟野郎女。次に三野郎女。【五柱】又、丸邇之比布礼能意富実の女、【比より美に至る、音を以ふ。】名は宮主矢河枝比売を娶して、生みませる御子、宇遅能和紀郎子。次に妹八田若郎女。次に女鳥王。【三柱】又、其の矢河枝比売の妹袁那弁郎女を娶して、生みませる御子、宇遅之若郎女。【一柱】又、咋俣長日子王の女長真若中比売を娶して、生みませる御子、若沼毛二俣王。【一柱】又、桜井田部連の祖島垂根の女糸井比売を娶して、生みませる御子、速総別命。【一柱】又、日向之泉長比売を娶して、生みませる御子、大羽江王。次に小羽江王。次に幡日之若郎女。【三柱】又、聟具漏比売を娶して、生みませる御子、川原田郎女。次に玉郎女。次に忍坂大中比売。次に登富志郎女。次に聟多遅王。【五柱】又、犖城之野伊呂売【此の三字、音を以ふ。】を娶して、生みませる御子、伊奢能麻和聟王。【一柱】此の天皇の御子等、忸せて廿六王。【男王十一。女王十五。】此の中に、大雀命は、天の下を治しめしたまひき。
〔輕嶋明宮〕かるしまのあきらのみや。今の奈良県橿原市畝傍町大字軽の付近。応神紀四十一年二月に「天皇、崩二明宮。」とあり、「軽島」の語がない。〔品陀眞若王〕ほむたのまわかのみこ。「ほむだ」の訓の非なること、上に述べてある。河内の誉田の地に住まれたのであろう。これで見るも、「ほむたわけのみこと」の御名が、鞆(ほむた)の形の肉が腕に生じたなどの説の信ずべからざることを知るに足ろう。 
【 応神天皇 】天皇、二皇子の心を試す
於レ是、天皇、問三大山守命與二大雀命一詔、汝等隅、孰三│愛、兄子與二弟子。【天皇館三以發二是問一隅、宇遲能和紀輙子、有下令レ治二天下一之心上也。】爾、大山守命、白レ愛二兄子。筱大雀命、知下天皇館二問賜一之大御菷上而白、兄子隅、蝉成レ人、是無レ悒。弟子隅、未レ成レ人、是愛。爾、天皇、詔、佐邪岐阿藝之言、【自レ佐至レ藝五字、以レ音。】如二我館レ思。來詔別隅、大山守命、爲二山恭之政。大雀命、執二食國之政一以白賜。宇遲能和紀輙子、館レ知二天津日繼一也。故大雀命隅、勿レ蕋二天皇之命一也。
ここに、天皇、大山守命と大雀命とに問ひて詔りたまひけらく、「汝等は、兄子と弟子と、孰か愛しき。」と問ひたまひき。【天皇の是の問を発したまへる所以は、宇遅能和紀郎子に、天の下を治しめさせむとする心あればなり。】爾に、大山守命は、「兄子ぞ愛しき。」と白したまひき。次に大雀命は、天皇の問ひ賜へる大御情を知らして白したまひけらく、「兄子は、既に人と成れば、是は悒きことなし。弟子は、未だ人と成らざれば、是ぞ愛しき。」と、まをしたまひき。爾に、天皇、詔りたまひけらく、「佐邪岐阿芸の言、【佐より芸に至る五字、音を以ふ。】我が思ほす如くなり。」と、のりたまひ、即ちに詔り別けたまひけらくは、「大山守命は、山海の政を為せ。大雀命は、食す国の政を執り以ちて白し賜へ。宇遅能和紀郎子は、天津日継知らせ。」と、のりわけたまひき。故、大雀命は、天皇の命に違ひまつること勿かりき。  
〔孰愛〕いづれかはしき。「いづれかうつくしき」と読むも可。「はし」「うつくし」、いずれも、いとしい、かわいい意。〔兄子・弟子〕えこ・おとこ。記では「兄・弟」と並べていう時は「え・おと」という。「えうかし・おとうかし」「えひめ・おとひめ」など。「兄なる子・弟なる子」の意。紀では「長・少」に作り、「ひととなれる・わかき」などと訓じている。記の「えこ・おとこ」も意は紀に同じ。〔悒〕いぶせき。「いぶせし」の連体。不安である。心配である。憂えるべきである。
【 応神天皇 】矢河枝比売との邂逅
一時、天皇、越二幸羝淡恭國一之時、御二│立宇遲野上、望二犖野、歌曰、  知婆能 加豆怒袁美禮婆 毛毛知陀流 夜邇波母美由 久爾能富母美由 故、到二│坐木幡村一之時、麗美孃子蓚二其蕈衢。爾、天皇、問二其孃子一曰、汝隅誰子。答白、丸邇之比布禮能意富美之女、名宮主矢河枝比賣。天皇、來詔二其孃子、吾明日裝幸之時、入二坐汝家。故、矢河枝比賣、委曲語二其父。於レ是、父答曰、是隅天皇坐那理。【此二字、以レ音。】恐之、我子、仕奉云而、嚴餝二其家、候待隅、明日入坐。故、獻二大御饗一之時、其女矢河枝比賣命、令レ孚二大御酒盞一而獻。於レ是、天皇、任レ令レ孚二其大御酒盞一而御歌曰、 許能聟邇夜 伊豆久能聟邇 毛毛豆多布 綾奴賀能聟邇 余許佐良布 伊豆久邇伊多流 伊知遲志揺 美志揺邇斗岐 美本杼理能 聟豆伎伊岐豆岐 志那陀由布 佐佐那美遲袁 須久須久登 和賀伊揺勢婆夜 許波多能美知邇 阿波志斯袁登賣 宇斯呂傳波 袁陀弖呂聟母 波那美波志 比比斯那須 伊知比韋能 和邇佐能邇袁 波綾邇波 波陀阿可良氣美 志波邇波 邇具漏岐由惠 美綾具理能 曾能那聟綾邇袁 加夫綾久 揺肥邇波 阿弖受 揺用賀岐 許邇加岐多禮 阿波志斯袁美那 聟母賀登 和賀美斯古良 聟久母賀登 阿賀美斯古邇 宇多多氣陀邇 牟聟比袁流聟母 伊蘇比袁流聟母 如レ此御合、生御子、宇遲能和紀【自レ宇下五字、以レ音。】郎子也。
一時、天皇、近淡海国に越え幸でましし時に、宇遅野の上に、御立たして、犖野を望けまして、歌曰ひたまひけらく、 (四二) 千葉の 犖野を見れば ももちだる 家場も見ゆ 国のほも見ゆ 故、木幡の村に到りませる時に、麗美しき嬢子に其の道衢に遇ひたまへり。爾に、天皇、其の嬢子に問はして、「汝は誰が子ぞ。」と曰りたまひければ、答へて白しけらく、「丸邇之比布礼能意富美の女、名は宮主矢河枝比売。」と、まをしき。天皇、即ち其の嬢子に詔りたまひけらく、「吾明日還幸りまさむ時、汝の家に入り坐さむ。」と、のりたまひき。故、矢河枝比売、委曲に其の父に語れり。ここに、父の答曰ひけらく、「是は天皇に坐す那理。【この二字、音を以ふ。】恐し、我が子、仕へ奉れ。」と云ひて、厳しく其の家を餝りて、候ひ待てば、明くる日入り坐しぬ。故、大御饗を献る時に、其の女矢河枝比売命に、大御酒盞を取らしめて献りき。ここに、天皇、其の大御盞を取らしめながら、御歌曰みしたまひけらく、 (四三) この蟹や いづくの蟹 百伝ふ 都奴賀の蟹 横去らふ いづくに到る 伊知遅志麻 三島に着き みほどりの 潜き息づき 志那たゆふ ささなみ路を すくすくと 我が行ませばや 木幡の道に 会はしし少女 後ろでは 小楯ろかも 歯並はし 菱如す 櫟井の 丸邇坂の土を 初土は 膚赤らけみ 終土は に黒ぎ故 三栗の 其の中つ土を 頭衝く 真日には当てず 眉がき濃にかき垂れ 会はしし女 かもがと 我が見し子ら 斯くもがと 吾が見し子に うたたけだに 向かひをるかも い添ひをるかも かくて、御合ひまして、生みませる御子ぞ、宇遅能和紀【字より下の五字、音を以ふ。】郎子にはましましける。
〔一時〕あるとき。「かつて、ある時」の意。前にさかのぼっていう。〔羝淡恭國〕ちかつあふみのくに。近江国。底本の訓「あふみのくに」は、上来の訓の例に反する。〔宇遲野上〕うぢののへ。宇治の野のあたり。「うぢぬのうへ」の訓は非。「宇治」は山城国の地。上に出ている。〔犖野〕かづの。「かづぬ」は非。京都盆地一帯の地域の古称。犖野・乙訓・紀伊三部の汎称。和名抄は「加止乃」「加度乃」と訓じている。「犖」は「かづら」の略。かづらの生え茂った野の意の地名。〔知婆能〕千葉の。葛には多くの葉のあることから「犖野」に冠する枕詞。一説、この地域を「ちば」とも称したと。それなら枕詞ではない。千葉県や東京都に犖飾などの地がある。〔加豆怒〕「怒」は「ノ」の甲類。犖野。〔毛毛知陀流〕「ちだる」は「とだる」の転。きわめて富み足る。 
【 応神天皇 】髪長比売の上京
天皇、聞二│看日向國跳縣君之女、名髮長比賣、其顏容麗美、將レ使而、喚上之時、其太子大雀命、見三其孃子泊二于難波津一而、感二其姿容之端正、來誂二│屁建触宿斑大臣、是自二日向一喚上之髮長比賣隅、樽二│白天皇之大御所一而、令レ賜レ於レ吾。爾、建触宿斑大臣、樽二大命一隅、天皇、來以二髮長比賣一賜二其御子。館レ賜寔隅、天皇、聞二│看豐明一之日、於二髮長比賣一令レ握二大御酒柏、賜二其太子。爾、御歌曰、 伊邪古杼母 怒豐流綾美邇 比流綾美邇 和賀由久美知能 聟具波斯 波那多知婆那波 本綾延波 登理韋賀良斯 斯豆延波 比登登理賀良斯 美綾具理能 那聟綾延能 本綾毛理 阿聟良袁登賣袁 伊邪佐佐婆 余良斯那 又、御歌曰、 美豆多揺流 余佐美能伊氣能 韋具比宇知賀 佐斯豆流斯良邇 奴那波久理 波閉豆久斯良邇 和賀許許呂志敍 伊夜袁許邇斯弖 伊揺敍久夜斯岐 如レ此歌而賜也。故、被レ賜二其孃子一之後、太子歌曰、 美知能斯理 古波陀袁登賣袁 聟砲能碁登 岐許延斯聟杼母 阿比揺久良揺久 又、歌曰、 美知能斯理 古波陀袁登賣波 阿良蘇波受 泥斯久袁斯敍母 宇流波志美意母布
天皇、日向国の諸県の君の女、名は髪長比売、其の顔容麗美しと聞し看して、使ひたまはむとして、喚上げたまひし時に、其の太子大雀命、其の嬢子の難波津に泊てたるを見たまひて、其の姿容の端正しきを感でたまひて、即ち建内宿斑大臣に誂へ告りたまひけらく、「是の日向より喚上げたまへる髪長比売をば、天皇の大御所に請ひ白して、吾に賜らしめよ。」と、のりたまひき。爾、建内宿斑大臣、大命を請ひまつりしかば、天皇、即ちに髪長比売を其の御子に賜ひき。賜へる状は、天皇、豊明を聞し看す日、髪長比売に大御酒の柏を握らしめ、其の太子に賜ひき。爾に、御歌曰みしたまひけらく、 (四四) いざ子ども 奴豐流摘みに 比流摘みに わが行く道の 香はし 花橘は 上枝は 鳥居枯らし 下枝は 人取り枯らし 三栗の 中つ枝の ほつもり 赤ら少女を いざささば よらしな 又、御歌曰みしたまひけらく、  (四五) みづたまる 依網の池の 堰杙打が 刺しける知らに わが心しぞ いや痴にして 今ぞ悔しき かく歌はして賜ひき。故、其の嬢子を賜りて後に、太子、歌曰ひたまひけらく、 (四六) 道の後 古波陀少女を 雷の如 聞えしかども 相枕纏く 又、歌曰ひたまひけらく、 (四七) 道の後 古波陀少女は 争はず 寝しくをしぞも 愛しみ思ふ
〔跳縣君〕もろがたのきみ。記伝が「むらがた」と訓じているのは、和名抄が訛って「牟良加多」と訓じているのに惑わされたのである。日向の「もろのあがた」の首長。この「諸県」は日向国の旧郡名であったが、明治十七年、東・西・南・北の四郡に分け、鹿児島県に属せしめた。ここには、この首長の名をしるしていないが、紀には「諸県君牛諸井」とあり、記の下文にも名がある。〔難波津〕なにはづ。今の大阪港。〔端正〕きらきらし。端正で美しい。端麗である。神代紀、下、一書に「豊玉姫、聞二其児端正、云々。」とある。底本の訓「よき」には従わぬ。〔豐明〕とよのあかり。「とよ」は美称。「あかり」は、酒を飲んで、顔の赤らむ意。宴会。特に、宮中の饗宴。ここは、それ。〔聞看〕きこしめす。意は明らかである。真本等は「看」を「者」に誤る。この辺、真本は誤写に満ちているが、くだくだしいから、いちいちあげぬ。 
【 応神天皇 】吉野の国巣
又、吉野之國主等、瞻二大雀命之館レ佩御刀、歌曰、 本牟多能比能美古 意富佐邪岐 意富佐邪岐 波加勢流多知 母登綾流藝 須惠布由 布由紀能須 加良賀志多紀能 佐夜佐夜 又、於二吉野之白檮上、作二熹臼一而、於二其熹臼一醸二大御酒、獻二其大御酒一之時、整二口鼓、爲レ伎而、歌曰、 加志能布邇 余久須袁綾久理 余久須邇 聟美斯意富美岐 宇揺良爾 岐許志母知袁勢 揺呂賀知 此歌隅、國主等獻二大贄一之時時、恆至二于今、詠之歌隅也。
又、吉野の国主等、大雀命の佩かせる御刀を瞻て、歌曰ひけらく、 (四八) 本牟多の日の御子 大雀 大雀 佩かせる大刀 本剣 末ふゆ 冬木如す 枯が下木の さやさや 又、吉野の白檮の上に、横臼を作りて、其の横臼に大御酒を醸み、其の大御酒を献る時に、口鼓を撃ち、伎を為して、歌曰ひけらく、 (四九) 白檮の生に 横臼を作り 横臼に 醸みし大御酒 うまらに 聞しもち飲せ まろが主
〔吉野〕えしの。「えしぬ」の訓は誤り。大和国の地名。上に出ている。〔國主〕くず。「主」は「巣」「栖」などと同趣の字音仮名。「国主」などの意ではない。「くず」のことは、中巻、神武天皇の段に述べてある。〔本牟多能比能美古〕誉田の日の御子。すなわち応神天皇の日嗣の御子。底本が「本牟多」を「ほむだ」と訓じているのは、「品陀」を「ほむだ」と誤訓したことに基因する誤訓である。ここの「多」は「タ」の音を表わした字音仮名である。そのことは、宣長自身、「仮字の事」の条の表に示している。自家撞着である。「ほむた」のことは、上に述べてある。 
【 応神天皇 】三韓の文物伝来
此之御世、定二│賜恭部・山部・山守部・伊勢部一也。亦作二劔池。亦新羅人參渡來。是以、建触宿斑命、引率爲レ役二│之堤・池一而、作二百濟池。亦百濟國王、照古王、以二牡馬壹疋・牝馬壹疋、付二阿知吉師一以貢上。【此阿知吉師隅、阿直史等之督。】亦貢二│上熹刀唹大鏡。又、科賜、百濟國、若有二賢人一隅、貢上。故、受レ命以貢上人、名和邇吉師、來論語十卷・千字文一卷、忸十一卷、付二是人一來貢荵。【此和邇吉師隅文首等督。】又、貢二上手人、韓鍛、名卓素亦寞燮西素二人一也。又、秦芟之督漢直之督唹知レ釀レ酒人、名仁番、亦名須須許理等、參渡來也。故、是須須許理釀二大御酒一以獻。於レ是、天皇、宇二│羅│宜是館レ獻之大御酒一而、【宇羅宜三字、以レ音。】御歌曰、 須須許理賀 聟美斯美岐邇 和禮惠比邇豆理 許登那具志 惠具志爾 和禮惠比邇豆理 如レ此之歌幸行時、以二御杖一打二大坂蕈中之大石一隅、其石走袢。故、鳥曰三堅石袢二醉人一也。
此の御世に、海部・山部・山守部・伊勢部を定めたまひき。亦剣の池を作りき。亦新羅人参渡り来つ。ここをもて、建内宿斑命、引率て堤・池に役せしめて、百済の池を作れり。亦百済の国王、照古王、牡馬壱疋、牝馬壱疋を阿知吉師に付けて貢上りき。【此の阿知吉師は、阿直の史らの督。】亦横刀及大鏡を貢上りき。又、科せ賜ひけらく、「百済の国に、若し賢しき人あらば、貢上れ。」と、おほせたまひき。故、命を受けて貢上れる人、名は和邇吉師、即て論語十巻、千字文一巻、忸せて十一巻、是の人に付けて貢進りき。【この和邇吉師は、文の首らの督。】又、手人、韓鍛、名は卓素、亦呉服西素の二人を貢上りき。又、秦造の祖、漢直の祖、及酒を醸むことを知れる人、名は仁番、亦の名は須須許理等、参渡り来たれり。故、是の須須許理、大御酒を醸みて献りき。ここに、天皇、是の献れる大御酒に宇羅宜て、【宇羅宜の三字、音を以ふ。】御歌曰みしたまひけらく、 (五〇) 須須許理が 醸みし御酒に われ酔ひにけり ことなぐし ゑぐしに われ酔ひにけり かく歌はしつつ幸行でませる時に、御杖以て大坂の道の中なる大石を打ちたまひしかば、其の石走り避けぬ。故、鳥に「堅石も酔ひ人を避く。」と曰ふ。
〔海部〕あまべ。底本の訓「あま」は非。「海人部」にも作る。漁を業とする民部。諸国に、「海部」と書いて「あま」と読む郡があるが、地名を好字二字に定めよとの命が出てから、「人」の字を略し、訓の「ベ」を省いたものである・応神紀五年八月に「令二諸国、定二海人部及山守部。」とある。記伝の説「海部は、阿麻と訓むべし。」は、ひがごとである。〔山部〕やまべ。山林を守ることを職とする民部。 
【 応神天皇 】大山守命の謀反
故、天皇紡之後、大雀命隅、從二天皇之命、以二天下一讓二宇遲能和紀輙子。於レ是、大山守命隅、蕋二天皇之命、憑欲レ獲二天下、有下殺二其弟皇子一之菷上。竊設レ兵將レ攻。爾、大雀命、聞二其兄備一レ兵、來虔二使隅、令レ屁二宇遲能和紀郎子。故、聞驚、以レ兵伏二河邊、亦其山之上、張二絮垣、立二帷幕、詐以二舎人一爲レ王、露坐二寞床、百官恭敬往來之寔、蝉如二王子之坐館一而、更爲二其兄王渡レ河之時、具二│餝焙珸。隅、舂二佐那【此二字、以レ音。】犖之根、孚二其汁滑一而、塗二其焙中之簀橋、設二蹈應一レ仆而、其王子隅、燮二布衣・褌、蝉爲二賤人之形、執レ珸立レ焙。於レ是、其兄王、隱二│伏兵士、衣中燮レ鎧、到レ於二河邊、將レ乘レ焙時、望二其嚴餝之處一以、爲三弟王坐二其寞床、綾不レ知二執レ珸而立一レ焙、來問二其執レ珸隅一曰、傳三│聞枴山有二忿怒之大慂。吾欲レ孚二其猪。若獲二其猪一乎。爾、執レ珸隅、答二│曰不レ能一也。亦問二│曰何由。答曰、時時也往往也、雖レ爲レ孚而不レ得。是以、白レ不レ能也。渡到二河中レ之時、令レ傾二其焙、墮二│入水中。爾、乃浮出、隨レ水流下。來流歌曰、 知波夜夫流 宇遲能和多理邇 佐袁斗理邇 波夜豆牟比登斯 和賀毛古邇許牟 於レ是、伏二│隱河邊一之兵、彼廂此廂、一時共興、矢刺而流。故、到二訶和羅之電一而沈入。【訶和羅三字、以レ音。】故、以レ鈎探二其沈處一隅、覿二其衣中甲一而、訶和羅鳴。故、號二其地一謂二訶和羅電一也。爾、掛二│出其骨一之時、弟王歌曰、 知波夜比登 宇遲能和多理邇 和多理是邇 多弖流阿豆佐由美 揺由美 伊岐良牟登 許許呂波母閉杼 伊斗良牟登 許許呂波母閉杼 母登幣波 岐美袁淤母比傳 須惠幣波 伊毛袁淤母比傳 伊良那豆久 曾許爾淤母比傳 加那志豆久 許許爾淤母比傳 伊岐良受曾久流 阿豆佐由美 揺由美 故、其大山守命之骨隅、葬二于那良山一也。是大山守命隅、【土形君、幣岐君、榛原君之等督。】
故、天皇の崩後に、大雀命は、天皇の命の従に、天の下を宇遅能和紀郎子に譲りたまひき。ここに、大山守命は、天皇の命に違ひて、猶、天の下を獲むと欲りし、其の弟の皇子を殺さむとする情ありて、竊に兵を設けて攻めむとしたまひき。爾に、大雀命、其の兄の兵を備ふるを聞かして、即ちに使者を遣りて、宇遅能和紀郎子に告げしめたまひき。故、聞き驚かして、兵を河の辺に伏し、亦其の山の上に絮垣を張り、帷幕を立てて、詐りて舎人を王に為して、露に呉床に坐せ、百官恭敬往き来ふ状、既に王子の坐す所の如くにして、更に其の兄の王の河を渡らむ時の為に、焙珸を具へ餝り、者、佐那【この二字、音を以ふ。】犖の根を舂き、其の汁の滑を取りて、其の焙の中の簀橋に塗り、踏みて仆るべく設けて、其の王子は、布の衣・褌を服て、既に賤人の形に為り、珸を執りて焙に立ちたまへり。ここに、其の兄の王、兵士を隠し伏せ、衣の中に鎧を服、河の辺に到り、焙に乗らむとせし時に、其の厳しく餝れる処を望けて、弟の王は其の呉床に坐すとおもひ、都て珸を執りて焙に立ちたまへるを知らずて、即ち其の珸を執れる者に問ひて曰ひしく、「枴の山に忿怒れる大猪ありと伝に聞けり。吾其の猪を取らまく欲りす。若し其の猪を獲べきや。」と、問ひければ、珸を執れる者、「能たまはじ。」と答曰ひき。亦「何なる由なればか。」と問へば、「時時也往往也、取らむ為れども得ず。ここをもて、能たまはじと白すなり。」と答曰ひき。渡りて河の中ほどに到りし時に、其の焙を傾けしめて、水の中に堕し入れき。爾乃に、浮き出でて、水の随に流れ下りぬ。即て流れつつ歌曰ひけらく、 (五一) ちはやぶる 宇治の渡りに 棹取りに 速けむ人し わが許に来む ここに、河の辺に伏し隠れたる、兵、彼廂此廂、一時共に興りて、矢刺して流したりき。故、訶和羅の前に到りて沈み入りぬ。【訶和羅の三字、音を以ふ。】故、鈎を以て、其の沈みし処を探りしかば、其の衣の中なる甲に繋りて、訶和羅と鳴れり。故、其地を号づけて訶和羅前とは謂ふなり。爾に、其の骨を掛き出だせる時に、弟の王、歌曰ひたまひけらく、 (五二) ちはやひと 宇治の渡りに 渡り瀬に 立てる梓弓 真弓 い斬らむと 心は思へど い殺らむと 心は思へど 本方は 君を思ひ出 末方は 妹を思ひ出 いらなけく そこに思ひ出 悲しけく ここに思ひ出 い斬らずぞ来る 梓弓 真弓 故、其の大山守命の骨をば、那良山に葬りき。是の大山守命は、【土形君、幣岐君、榛原君等の督。】
〔竊〕みそかに。「ひそかに」の意。こっそりと。記伝は「しぬひに」などと、わけのわからぬ読み方としている。恐らく「しのびに」の意であろうが、筆者は「みそかに」と訓ずる。〔河邊〕かはのべ。宇治川のほとり。その草原の中であろう。真本は例によって「河」を「阿」に誤る。〔其山之上〕そのやまのうへ。宇治山の上。〔絮垣〕きぬがき。底本は「きぬかき」と訓じているが、延本の訓に従う。また、底本は「絮」を「}」に誤る。いま、真本・延本その他に拠る。緝布の幕を、垣のように張りめぐらしたもの。「あやがき」の類。〔帷幕〕あげばり。諸本は「帷」を「惟」に誤る。いま、訂正する。また、底本は「あげはり」と訓じているが、延本の訓に従う。これ、宣長が濁るべきを濁らざる癖による誤訓である。幄屋(幄舎)のこと。細い柱を立て並べ、屋根および三面を幔幕で張りめぐらしたもの。今日のテントのようなもの。〔舎人〕とねり。「殿入」の約。貴人に近侍して、雑事に仕える者。〔寞床〕あぐら。「胡床」が正しい。「上げ座」の意。高く大きく構え作った座席。貴人の座するに用いる。〔恭敬〕ゐやぶ。「ゐやまふ」に同じ。うやまう。ここは、その連用。〔隅〕「また」か。記伝は「亦」の誤写かと言う。いま、訓を欠く。〔舂〕うすつく。臼に入れて、物を搗く。底本は「うすにつく」と訓じているが、妥当でない。 
【 応神天皇 】大雀命、皇位につく
於レ是、大雀命與二宇遲能和紀輙子一二柱、各讓二天下一之間、恭人貢二大贄。爾、兄辭令レ貢レ於レ弟、弟辭令レ貢レ於レ兄、相讓之間、蝉經二多日。如レ此相讓非二一二時一故、恭人蝉疲二往裝一而泣也。故、鳥曰下恭人乎、因二己物一而泣上也。然、宇遲能和紀輙子隅、早紡。故、大雀命、治二天下一也。
ここに、大雀命と宇遅能和紀郎子の二柱、各天の下を譲りたまふ間に、海人い大贄を貢りき。爾、兄は辞みて弟に貢らしめたまひ、弟は兄に貢らしめたまひ、相譲りたまふ間に、既に多の日を経たり。かく相譲りたまふこと、一たび二時にあらざりしかば、海人は既に往還に疲れて泣きけり。故、鳥に「海人なれや、己が物因泣く。」とぞ曰ふ。然るに、宇遅能和紀郎子は、早く崩りたまひぬ。故、大雀命ぞ、天の下を治しめしたまひける。
〔多日〕あまたのひ。底本は「あまたひ」と訓じている。多くの日。〔恭人乎、因二己物一而泣〕あまなれや、おのがものからねなく。漁夫であるせいか、自分の持っている物に因って、声をあげて泣くよ。(普通の人なら、物が無ければ泣き悲しむのに。)紀の訓も同じ。延本・底本等、「己」を「已」 に誤る。これは、古本の通弊である。また。真本は「乎」を「平」に誤る。 
【 応神天皇 】天の日矛(一)
又昔、有二新羅國王之子。名謂二天日矛。是人、參渡來也。館二│以參渡來一隅、新羅國有二一沼。名謂二阿具奴庄。【自レ阿下四字、以レ音。】此沼之邊、一賤女晝寢。於レ是、日謹如レ虹指二其陰上。亦、有二一賤夫、思レ異二其寔、恆伺二其女人之行。故、是女人、自二其晝寢時一姙身、生二赤玉。爾、其館レ伺賤夫、乞二│孚其玉、恆裹著レ腰。此人營三田於二山谷之間一故、耕人等之飮抂茶二一牛一而、入二山谷之中。蓚苡二其國王之子天之日矛。爾、問二其人一曰、何汝飮抂茶レ牛、入二山谷。汝必殺二│抂是牛。來捕二其人、將レ入二獄囚。其人答曰、吾非レ殺レ牛。唯膣二田人之抂一耳。然、憑不レ赦爾、解二其腰之玉、幣二其國王之子。故、赦二其賤夫、將二│來其玉、置二於床邊、來化二美麗孃子。仍婚爲二嫡妻。爾、其孃子、常設二種種之珍味、恆抂二其夫。故、其國王之子、心奢詈レ妻、其女人言、凡吾隅、非下應レ爲二汝妻一之女上。將レ行二吾督之國。來竊乘二小焙、膩萵渡來留二于難波。【此隅坐二難波之比賣碁曾藤、謂二阿加流比賣突一隅也。】於レ是、天之日矛、聞二其妻萵、乃膊渡來、將レ到二難波一之間、其渡之突、塞以不レ入。
又、昔、新羅の国王の子あり。名を天日矛と謂ふ。是の人、参渡り来けり。参渡り来し所以は、新羅の国に一つの沼あり。名を阿具奴摩と謂ふ。【阿より下の四字、音を以ふ。】此の沼の辺に、一賤女昼寝したりき。ここに、日の謹、虹の如。其の陰上を指したり。亦一賤夫ありて、其の状を異しと思ひ、恒に其の女人の行なひを伺ひけり。故、是の女人其の昼寝せし時より姙身みて、赤玉をなも生みける。爾に、其の伺へる賤夫、其の玉を乞ひ取りて、恒に裹みて腰に着けたりき。此の人、山の谷の間に田を営りけれは、耕人等の飲食ひつものを一牛に負ほせて、山の谷の中に入りけり。たまたま、其の国王の子、天の日矛に逢へり。爾、其の人に問ひて曰ひけらく、「何ぞ汝は飲食ひつものを牛に負ほせて、山の谷へは入るぞ。汝は必ず是の牛を殺し食はむとするならむ。」と、いひて、即ちに其の人を捕らへて、獄囚に入れむとす。其の人答へて曰ひけらく、「吾は牛を殺さむとするにはあらず。唯田人の食ひつものを送る耳。」と、いひき。然れども、猶赦さざりければ、其の腰なる玉を解きて、其の国王の子に幣ひたり。故、其の賤夫を赦し、其の玉を将ち来て、床の辺に置きしかば、即ち美麗し嬢子に化りぬ。仍りて婚ひして嫡妻と為たりき。爾、其の嬢子、常に種種の珍味を設けて、恒に其の夫に食めたりき。故、其の国王の子、心奢りて妻を詈りければ、其の女人、言ひけらく、「凡そ吾は汝の妻と為るべき女にあらず。吾が祖の国に行なむとす。」と、いひて、即て竊に小焙に乗りて、膩萵げ渡り来て、難波に留りけり。【こは難波の比売碁曽の社に坐す阿加流比売とまをす突なり。】ここに、天の日矛、其の妻の萵れたることを聞き、乃ち追ひ渡り来て、難波に到らむとせし間に、其の渡りの神、塞へて入れざりき。
〔天之日矛〕あめのひぼこ。紀には「天日槍」とあり、古語拾遺には「海檜槍」とある。上代語では「天」と「海」とは同義。恐らく韓名ではなく、日本に来てからの名であろう。「ひぼこ」は、檜で作った矛の意であろう。〔參渡來也〕まゐわたりきけり。記伝は「来」を「けり」と訓ずべしと言う。しかし、「来」の活用に「け」があったかどうか、古来疑問とされているので、あえて従わぬ。〔阿具奴庄〕沼の名。「ぬま」は国語である。〔賤女〕しづのめ。身分の卑い女。〔虹〕のじ。記伝は「ぬじ」と訓じている。いま、雄略紀三年四月に「虹」とあるに従って訓ずる。「にじ」の古言。今でも新潟県の方言などで「のじ」と言う。〔賤夫〕しづのを。身分の卑い男。 
【 応神天皇 】天の日矛(二)
故、更裝、泊二多遲庄國。來留二其國一而、娶二多遲庄之俣尾之女、名電津見、生子、多遲庄母呂須玖。此之子多遲庄斐泥。此之子多遲庄比那良岐。此之子多遲揺毛理。筱多遲庄比多訶。筱厳日子。【三柱】此厳日子、娶二當庄之怡斐、生子、酢鹿之跳男。筱妹菅竈上由良度美。【此四字、以レ音。】故、上云多遲庄比多訶、娶二其姪由良度美、生子、犖城之高額比賣命。【此隅息長帯比賣命之御督。】故、其天之日矛持渡來物隅、玉津寶云而、珠二貫。又、振レ浪比禮・【比禮二字、以レ音。下效レ此。】切レ浪比禮・振レ風比禮・切レ風比禮。又、奧津鏡・邊津鏡、忸八種也。【此隅伊豆志之八電大突也。】
故、更に還りて、多遅摩国に泊てつ。即て其の国に留りて、多遅摩の俣尾の女、名は前津見に娶ひて、生める子、多遅摩母呂須玖。此の子、多遅摩斐泥。此の子、多遅摩比那良岐。此の子、多遅麻毛理。次に多遅摩比多訶。次に清日子。【三柱】此の清日子、当摩の怡斐に婚ひて生める子、酢鹿の諸男。次に妹菅の竃上由良度美。【この四字、音を以ふ。】故、上に云へる多遅比多訶、其の姪、由良度美に婚ひて、生める子、犖城の高額比売命。【こは、息長帯比売命の御督。】故、其の天之日矛の持ち渡り来し物は、玉津宝と云ひて、珠二貫なり。又、浪振比礼・【比礼の二字、音を以ふ。下、これに效ふ。】・浪切比礼・風振比礼・風切比礼。又、奥津鏡・辺津鏡、忸せて八種なり。【こは、伊豆志の八前の大突なり。】
〔多遲庄國〕たぢまのくに。但馬国。今、兵庫県に属する。〔泊〕はてつ。「はつ」は「果てる」意。焙が港に来て泊まる。碇泊する。〔俣尾〕またを。紀には「太耳の女、麻多能烏」とあって、女性となっている。「を」とあるから、恐らく男性であり、記の伝が正しいであろう。「全男」の意か。〔電津見〕さきつみ。底本には「まへつみ」とあるが、延本の訓に従う。記伝も「前は、佐伎と訓むべし。」と言いながら、古訓古事記では「まへつみ」と訓じている。「さき」の意、未詳。「み」は「身」であろう。 
【 応神天皇 】秋山の下氷壮夫と春山の霞壮夫
故、枴突之女、名伊豆志袁登賣突坐也。故、八十突雖レ欲レ得二是伊豆志袁登賣、皆不レ得レ婚。於レ是、有二二突。兄號二秋山之下氷壯夫、弟名二春山之霞壯夫。故、其兄、謂二其弟、吾雖レ乞二伊豆志袁登賣、不レ得レ婚。汝得二此孃子一乎。答二曰易得一也。爾、其兄曰、若汝有レ得二此孃子一隅、袢二上下衣燮、量二身高一而、釀二甕酒、亦山河之物悉備設、爲二宇禮豆玖一云レ爾。【自レ宇至レ玖、以レ音。下效レ此。】爾、其弟、如二兄言、具白二其母、來其母、孚二布遲犖一而、【布遲二字、以レ音。】一宿之間、織二縫衣・褌唹襪・沓、亦作二弓矢、令レ燮二其衣・褌等、令レ孚二其弓矢、虔二其孃子家一隅、其衣燮唹弓矢、悉成二藤花。於レ是、其春山霞壯夫、以二其弓矢、覿二孃子之廁、爾、伊豆志袁登賣、思レ異二其花、將來之時、立二其嬢子之後、入二其屋、來婚。故、生二一子一也。爾、白二其兄一曰、吾隅得二伊豆志袁登賣。於レ是、其兄、慷二│愾弟之婚一以、不レ償二其宇禮豆玖之物。爾、愁二│白其母一之時、御督答曰、我御世之事、能許曾【此二字、以レ音。】突帰。又、宇綾志岐呟人草帰乎。不レ償二其物。恨二其兄子。乃孚二其伊豆志河之河嶋一抉竹一而、作二八目之荒籠、孚二其河石、合レ鹽而、裹二其竹葉、令二詛言、如二此竹葉呟、如二此竹葉萎一而、呟萎。又、如二此鹽之盈乾一而、盈乾。又、如二此石之沈一而、沈臥。如レ此令三詛置二於烟上。是レ以、其兄八年之間、干萎病枯。故、其兄、患泣、樽二其御督一隅、來令レ羮二其詛竿。於レ是、其身如レ本以安徘也。【此隅突宇禮豆玖之言本隅也。】
故、枴の神の女、名は伊豆志袁登売神坐せり。故、八十神、是の伊豆志袁登売を得むと欲りすれども、皆婚ふを得ざりき。ここに、二の神あり。兄を秋山の下氷壮夫を号ひ、弟を春山の霞壮大と名ふ。故、其の兄、其の弟に謂ひけらく、「吾は伊豆志袁登売を乞ひしかども、婚ふを得ざりき。汝は此の嬢子を得てむや。」と、いひければ、「易く得てむ。」と答曰へき。爾に、其の兄の曰ひけらく、「若し汝、此の嬢子を得たらむには、上下の衣服を避り、身の高を量りて、甕に酒を醸み、亦、山河の物悉に備へ設けて、宇礼豆玖を為む。」と、爾云ひき。【宇より玖に至る、音を以ふ。下、これに效ふ。】爾に、其の弟、兄の言ひし如、具に其の母に白しければ、即ちに其の母、布遅犖を取りて、【布遅の二字、音を以ふ。】一宿の間に、衣・褌及襪・沓を織り縫ひ、亦、弓矢を作り、其の衣・褌を服しめ、其の弓矢を取らしめて、其の嬢子の家へ遣りしかば、其の衣服及弓矢、悉に藤の花とぞ成りにける。ここに、其の春山の霞壮夫、其の弓矢を嬢子の廂に繋けおきけり。爾、伊豆志袁登売、其の花を異しと思ひて、将ち来る時に、其の嬢子の後に立ちて、其の屋に入り、即ちに婚しつ。故、一の子を生みき。爾に、其の兄に白して曰ひけらく、「吾は伊豆志袁登売を得たり。」と、いひき。ここに、其の兄い、弟の婚せしことを慷愾みて、其の宇礼豆玖の物を償はざりき。爾、其の母に愁ひ白しし時に、御祖の答へて曰ひけらく、「我が御世の事は、能く許曽【この二字、音を以ふ。】神習はめ。又、宇都志岐青人草習へや、其の物を償はぬ。」と、いひて、其の兄なる子を恨みて、乃ち其の伊豆志河の河島の一節竹を取りて、八目の荒籠を作り、其の河の石を取り、塩に合へて、其の竹の葉に裹み、詛ひ言はしめけらく、「此の竹の葉の青むが如、此の竹の葉の萎むが如くにして、青み萎め。又、此の塩の盈ち乾るが如くにして、盈ち乾よ。又、此の石の沈むが如くにして、沈み臥せ。」と、かく詛ひて烟の上に置かしめき。ここを以て、其の兄い、八年の間、干き、萎み、病み、枯れにけり。故、其の兄い、患ひ泣きて、其の御祖に請ひしかば、即て其の詛戸を返さしめたりき。ここに、其の身、本の如くに安平らぎけり。【こは、突宇礼豆玖といふ言の本なり。】
〔枴突〕このかみ。上の分注の「伊豆志の八前の大神」をいう。〔伊豆志袁登賣突〕いづしをとめのかみ。「いづし」すなわち「出石」の地名、および祖神の名を負う。下は、すべて「神」と言わず、「いづしをとめ」とある。〔八十突〕やそかみ。多くの神たち。上巻に出ている。〔秋山之下氷壯夫〕あきやまのしたびをとこ。「したび」は真淵の言うごとく「したぶ」すなわち「萎ぶ」(上二)の転の名詞形で、秋の木の葉が、しなび枯れる、美しく色づく意であり、「もみじ」のことである。宣長は「朝備」すなわち「秋山の色の赤葉に丹穂へるが赤根さす朝の天の如くなる由なり。」と、秋山全体の意に説くが、首肯されぬ。万二の二一七に「秋山の下部留妹」とあり、名詞としては、同十の二二三九に「秋山の舌日が下に鳴く鳥の」などがある。兄の名は、「秋の山の紅葉のよう」の意であり、弟の名の「春山の霞」に対する。真本は、「壯夫」を「社夫」に誤る。下も同じ。なお、ある国語辞典は「奈良時代までは『したひ』と言った」などと説いているが、「下部留」の語を見落し、「舌日」の連濁にも気づかなかったせいであろう。 
【 応神天皇 】天皇の御子孫
樸、此品陀天皇之御子若野毛二俣王、娶二其母弟百師木伊呂辨、亦名弟日賣眞若比賣命、生子、大輙子。亦名意富富杼王。筱竄坂之大中津比賣命。筱田井之中比賣。筱田宮之中比賣。筱藤原之琴抉輙女。筱孚上賣王。筱沙斑王。【七柱】故、意富富杼王隅、【三國君、波多君、息長君、坂田酒人君、山蕈君、筑紫之米多君、布勢君等之督也。】樸、根鳥王、娶二庶妹三腹輙女、生子、中日子王。次伊和嶋王。【二柱】樸、堅石王之子隅、久奴王也。
又、此の品陀天皇の御子若野毛二俣王、其の母の弟百師木伊呂弁、亦の名は弟日売真若比売命に娶ひて、生みませる子、大郎子。亦の名は意富富杼王。次に忍坂之大中津比売。次に田井之中比売。次に田宮之中比売。次に藤原之琴節郎女。次に取上売王。次に沙斑王。【七柱】故、意富富杼王は、【三國君、波多君、息長君、坂田酒人君、山道君、筑紫の米多君、布勢君の督也。】又、根鳥王、庶妹三腹郎女に娶ひて、生みませる子、中日子王。次に伊和島王。【二柱】又、堅石王の子は、久奴王なり。
〔母弟〕みははのいろも。若野毛二俣王の御母なる息長真若中比売の妹。すなわち、同王は叔母と結婚されたのである。叔母と結婚した例は、ウガヤフキアヘズノミコト以来、多くの例がある。〔百師木伊呂辨〕ももしきいろべ。「ももしき」は、枕詞「ももしきの」から来た語で、禁中・禁裏・内裏の意。「いろ」は肉親、「ベ」は「め」とひとしく、女性の名の下につける。「何何いろべ」の名は多い。「ももしき」は、尊称または美称であろう。〔弟日賣眞若比賣命〕おとひめまわかひめのみこと。景行天皇の段の末尾、倭建命の子孫の条に出ている「弟比売」であり、それに更に「真若」(若い)意を重ねて付けた名。すなわち、倭建命の曽孫に当たる。〔大輙子〕おほいらつこ。名の義は明らかである。〔意富富杼王〕おほほどのみこ。「意富」は「大」。「富杼」は地名であろうが、所在未詳。 
【 応神天皇 】天皇崩御
凡此品陀天皇、御年壹佰參拾歳。御陵在二川触惠賀之裳伏岡一也。 古事記中巻絏
凡そ、此の品陀天皇、御年壱佰参拾歳。御陵は、川内の恵賀の裳伏の岡に在り。 
 
古事記 下巻 

 

【 仁徳天皇 】后妃と御子たち
大雀命、坐二難波之高津宮、治二天下一也。此天皇、娶二犖城之曾綾豐古之女石之日賣命、【大后】生御子、大江之伊邪本和氣命。筱豈江之中津王。筱蝮之水齒別命。筱男淺津間君子宿斑命。【四柱】樸、娶二上云日向之跳縣君牛跳之女髮長比賣、生御子、波多豐大輙子。【自レ波下四字、以レ音。下效レ此。】亦名大日下王。筱波多豐之若輙女。亦名長日比賣命。亦名若日下命。【二柱】樸、娶二庶妹八田若輙女、樸、娶二庶妹宇遲能若輙女。此之二柱、無二御子一也。凡此大雀天皇之御子等、忸六王。【男王五柱。女王一柱。】故、伊邪本和氣命隅、治二天下。筱蝮之水齒別命亦治二天下。筱男淺津間若子宿斑命亦治二天下一也。
大雀命、難波の高津の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふ。此の天皇、葛城の曽都豐古の女石之日売命【大后】に娶ひて、生みませる御子、大江の伊邪本和気命。次に墨江の中津王。次に蝮の水歯別命。次に男浅津間若子宿斑命。【四柱】又、上に云へる日向の諸県の君牛諸の女髪長比売を娶して、生みませる御子、波多豐能大郎子【波より下の四字、音を以ふ。下これに效ふ。】亦の名は大日下王。次に波多豐若郎女。亦の名は長日比売命。亦の名は若日下命。【二柱】又、庶妹八田若郎女に娶ひたまひ、又、庶妹宇遅能若郎女に娶ひたまひき。此の二柱は、御子まさざりき。凡て此の大雀天皇の御子等、忸せて六王。【男王五柱。女王一柱。】故、伊邪本和気命は、天の下を治しめしたまひき。次に蝮の水歯別命も亦、天の下を治しめしたまひき。次に男浅津間若子宿斑命も亦、天の下を治しめしたまひき。
〔古事記下巻〕この下に、真本は「起大雀皇豊御食炊屋比売命凡十九天皇」の十七字がある。この十七字は、「天」「盡」の二字を脱して、実は「起二大雀天皇、盡二豊御食炊屋比売命、凡十九天皇。」の十九字となるべきである。また、「几十八天皇」とした本もあり、寛本等のごときは、「雀」を「鷦鷯」に作っている。これらは、紀に拠って、さかしらに改めたものである。記には、すべて「雀」とある。
また、仁徳天皇から推古天皇までは「十八天皇」が正しく、「十九天皇」としたのは、「飯豊命」を一代としたか、または「八」を「九」と誤記したかであろう。しかし、この十七字または十九字は、後人の続入であること明らかである。上巻にも中巻にも、こんなことをしるしていない。いま、延本・底本に従う。田中本も、これらの文字をしるしていない。 
【 仁徳天皇 】多くの御名代を定む
此天皇之御世、爲二大后石之日賣命之御名代、定二犖城部、亦、爲二太子伊邪本和氣命之御名代、定二壬生部、亦、爲二水齒別命之御名代、定二蝮部、亦、爲二大日下王之御名代、定二大日下部、爲二若日下王之御名代、定二若日下部。
の天皇の御世に、大后石之日売命の御名代と為て、葛城部を定めたまひ、亦、太子伊邪本和気命の御名代と為て、壬生部を定めたまひ、亦、水歯別命の御名代と為して、蝮部を定めたまひ、亦、大日下王の御名代と為て、大日下部を定めたまひ、若日下王の御名代と為て、若日下部を定めたまひき。
〔大后〕おほきさき。既出。真本は 「太后」に作る。上の注には同本も「大后」に作る。ここは誤写。〔御名代〕みなしろ。その御名を永く後世に伝えようして設けた民部。〔犖城部〕かづらきべ。皇后の御生地なる大和の葛城の名を負う。大和・備前・周防・肥前等の各地に置かれた。〔壬生部〕みぶべ。「御産部」の約。「壬」は「任」の省字。 
【 仁徳天皇 】土木工事を起す
樸、鑑二秦人、作二茨田堤及茨田三宅、樸、作二丸邇池・依網池、樸、掘二難波之堀江而、艷レ恭、 樸、掘二小橋江、又、定二豈江之津。
樸、秦人を鑑てて、茨田の堤及茨田の三宅を作りたまひ、樸、丸邇の池・依網の池を作りたまひ、樸、難波の堀江を掘りて、海に通し、樸、小橋の江を掘り、樸、墨の江の津を定めたまひき。
〔樸〕また。真本は「刃」に誤る。〔鑑〕えだつ。「役」の古宇。下二段、他動。夫役に当てる。つかう。〔秦人〕はたびと。「はだびと」は非。既出。〔茨田堤〕まむたのつつみ。和名抄は「万牟多」と訓じている。今の河内国(大阪府)北河内郡の一部。 その地の堤、すなわち堤防。今の大阪府枚方市から大阪市の野田に至る、淀川左岸の堤防で、後世、京都街道は、この堤の上を通った。〔茨田三宅〕まむたのみやけ。「三宅」は「屯倉」。既出。〔丸邇池〕わにのいけ。紀は「和珥池」に作る。仁徳紀十三年十月に「造二和珥池。」とあり、推古紀二十一年十一月にも「作二掖上池・畝傍池・和珥池。」とあるが、この方は修築されたのであろう。大和国の和珥の地に作ったこと論なく、今の奈良県添上郡池田村の池であり、今、「光台寺池」と呼ぶ。 
【 仁徳天皇 】三年間、課役を免ず
於レ是、天皇、登二高山、見二四方之國、詔之、於二國中一烟不レ發、國皆貧窮。故、自レ今至二三年、悉除二人民之課鑑。是以、大殿破壞悉雖二雨漏、綾勿二脩理、以レ柬受二其漏雨、螻三│袢于二不レ漏處。後見二國中、於レ國滿レ烟。故、爲二人民富、令レ科二課鑑。是以、百姓之榮不レ苦二鑑使。故、稱二其御世、謂二聖帝世一也。
ここに、天皇、高山に登りまして、四方の国を見たまひて、詔りたまひしく、「国中に烟発たず、国皆貧窮し。故、今より三年までは、悉に人民の課鑑を除せ。」と、のりたまひき。ここをもて、大殿破れ壊れて、悉に雨漏れども、都て脩理ひたまはず、柬を以ちて其の漏る雨を受け、漏らざる処に遷り避けましき。後に国中を見たまへば、国に烟満ちたりけり。故、人民富めりと為ほして、課鑑を科せしめたまひき。ここをもて、百姓栄えて、鑑便に苦しまざりき。故、其の御世を称へて、聖の帝の世と謂すなり。  
〔高山〕たかやま。紀には「高台」とある。高楼の意。「四方の国を見給う」なら、高山の方が妥当。〔貧窮〕まどし。底本は「まづし」と訓じている。紀には「まどし」とあるから、そう訓ずることとする。「まづし」の古語である。〔課鑑〕みつぎえだち。租税と労役。〔大殿〕おほとの。「大」は美称。宮殿。真本は「大」を「太」に誤る。〔綾〕かつて。「すべて」の意。〔柬〕ひ。真本等は「斤」に、前本・猪熊本・寛本等は「哩」に、延本は「敘」に作る。記伝は「柬」を可とすると述べている。「柬」は「沱」であって、漏る雨を沱に受けて他に流すのである「敘」は説文に「篋也」とあり、「箱」。である。これも可。〔令レ科二課鑑一〕みつぎえだちをおほせしむ。
【 仁徳天皇 】皇后の嫉妬と黒日売
其大后石之日賣命、甚多嫉妬。故、天皇館レ使之妾隅、不レ得レ臨二宮中。言立隅、足母阿賀聟邇嫉妬。【自レ母下五字、以レ音。】爾、天皇、聞二│看吉備恭部直之女、名僂日賣、其容姿端正、喚上而柮也。然、畏二其大后之嫉、膩二│下本國。天皇、坐二高臺、望二│瞻其僂日賣之焙出浮一レ恭以、歌曰、 淤岐幣邇波 袁夫泥綾羅羅玖 久漏邪夜能 庄佐豆古和藝毛 玖邇幣玖陀良須 故、大后、聞二是之御歌一大忿、虔三人於二大浦、膊下而、自レ歩膊去。於レ是、天皇、戀二其僂日賣、欺二大后、曰レ欲レ見二淡蕈嶋一而幸行之時、坐二淡蕈嶋、遙望歌曰、 淤志弖流夜 那爾波能佐岐用 伊傳多知弖 和賀久邇美禮婆 阿波志庄 淤能碁呂志庄 阿遲庄佐能志揺母見由 佐氣綾志庄美由 乃、自二其嶋一傳而、幸二行吉備國。爾、僂日賣、令レ大二│坐其國之山方地一而、獻二大御礦。於レ是、爲レ煮二大御羹、採二其地之菘菜一時、天皇、到二│坐其孃子之採レ菘處、歌曰、 夜揺賀多邇 揺豆流阿袁那母 岐備比登登 等母邇斯綾米婆 多怒斯久母阿流聟 天皇、上幸之時、僂日賣獻御歌曰、 夜揺登幣邇 爾斯布岐阿宜弖 玖毛婆那禮 曾岐袁理登母 和禮和須禮米夜 又、歌曰、 夜揺登幣邇 由久波多賀綾揺 許母理豆能 志多用波閉綾綾 由久波多賀綾揺
其の大后石之日売命、甚多嫉妬したまひき。故、天皇の柮ひたまへる妾たちは、宮中をも臨き得ざりき。言立てば、足も阿賀迦邇、嫉妬したまひき。爾に、天皇、吉備の海部の直の女、名は黒日売、其の容姿の端正しきと聞し看して、喚上げて使ひたまひき。然れども、其の大后の嫉みますを畏みて、本つ国に逃げ下りき。天皇、高台に坐して、其の黒日売の船出して海に浮かべるを望瞻けまして、歌曰みしたまひけらく、 (五三) 沖辺には 小船つららく くろざやの まさづこ我妹 国へ下らす 故、大后、是の御歌を聞かして、大く忿りまして、人を大浦に遺はし、追ひ下ろして、歩より追去ひたまひき。ここに、天皇、其の黒日売を恋ひたまひて、大后を欺かして、「淡道島を見まく欲りす。」と曰りたまひて幸行でませる時に、淡道島に坐して、遥に望けまして、歌曰みしたまひけらく、 (五四) おしてるや 難波の岬よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島 淤能碁呂島 檳榔の島も見ゆ 先つ島見ゆ 乃ち、其の嶋より伝ひて、吉備国に幸行でましけり。爾に、黒日売、其の国の山方の地に大坐さしめて、大御飯を献りけり。ここに、大御羮を煮むと為て、其地の菘菜を採める時に、天皇、其の嬢子の菘を採む処に到り坐して、歌曰みしたまひけらく、 (五五) 山方に 蒔ける青菜も 吉備人と 共にし摘めば 楽しくもあるか 天皇の上り幸でます時に、黒日売の献れる御歌に曰ひけらく、 (五六) 大和辺に 西風吹きあげて 雲離れ 退き居りとも われ忘れめや 又、歌ひて曰ひけらく、 (五七) 大和辺に 行くは誰が夫 隠り水の 下よ延へつつ 行くは誰が夫
〔甚多〕はなはだ。万七の一三七〇「甚多も降らぬ雨ゆゑ」などとある。〔嫉妬〕うはなりねたみ。「うはなり」は、神武天皇の段の歌謡にも出ている。老いた妻、嫡妻の意である。その嫡妻が、こなみ(若い次妻)をねたむこと。転じて、ただ嫉妬の意となる。〔宮中〕みやぬち。「宮の中」の約。天皇と皇后とのおわしますところ。
そこを、妾たちは、のぞくこともできないのである。〔言立隅〕ことだてば。「言」は「事」の借字。「何か常と変わった事をすると」の意。つまり、天皇が、ある妾を特にかわいがるようなそぶりをされると。 
【 仁徳天皇 】皇后の嫉妬と八田若郎女
自レ此後時、大后、爲レ將二豐樂一而、於レ採二御綱柏、幸二│行木國一之間、天皇、婚二八田若輙女。於レ是、大后、御綱柏積二│盈御船、裝幸之時、館レ駈三│柮於二水取司、吉備國兒嶋之仕丁、是膠二己國、於二難波之大渡、蓚二館レ後倉人女之焙。乃、語云、天皇隅、比日婚二八田若輙女一而、晝夜戲蓆。若大后、不レ聞二看此事一乎、靜蓆幸行。爾、其倉人女、聞二此語言、來膊二│羝御焙、白四│之寔三│具如二仕丁之言。於レ是、大后、大恨怒、載二其御焙一之御綱柏隅、悉投二│棄於恭。故、號二其地、謂二御津電一也。來、不レ入二│坐宮一而、引二│袢其御焙、泝レ於二堀江、隨レ河而、上二│幸山代。此時、歌曰、 綾藝泥布夜 夜揺志呂賀波袁 聟波能煩理 和賀能煩禮婆 聟波能倍邇 淤斐陀弖流 佐斯夫袁 佐斯夫能紀 斯賀斯多邇 淤斐陀弖流 波豐呂由綾揺綾婆岐 斯賀波那能 弖理伊揺斯 芝賀波能 比呂理伊揺須波 淤富岐美呂聟母 來、自二山代一迴、到二│坐那良山口、歌曰、 綾藝泥布夜 夜揺志呂賀波袁 美夜能煩理 和賀能煩禮婆 阿袁邇余志 那良袁須疑 袁陀弖 夜揺登袁須疑 和賀美賀本斯久邇波 聟豆良紀 多聟美夜 和藝幣能阿多理 如レ此歌而裝、暫入二│坐筒木韓人、名奴理能美之家一也。
此より後時、大后、豊楽したまはむと為て、御綱相を採りに、木国に幸行でませる間に、天皇、八田若郎女に婚ひましつ。ここに、大后、御綱柏を御船に積み盈てて、還幸ります時に、水取の司に駈使はゆる吉備国の児島の仕丁、是が己が国に退るに、難波の大渡りに、後れたる倉人女の船に遇へり。乃ち語りて云ひけらく、「天皇は、比日八田芳郎女に婚ひまして、昼夜戯れ遊びますを、若し大后は、此の事を聞し看さねかも、静かに遊び幸行でます。」とぞ、かたりける。爾、其の倉人女、此の語れる言を聞きて、即ちに御船に追ひ近づきて、仕丁の言ひつる如状を具に白しき。ここに、大后、大く恨み怒りまして、其の御船に載せたる御綱柏をば、悉に海に投げ棄てたまひき。故、其地を御津の前とは謂ふなり。即て、宮には入り坐さずて、其の御船を引き避きて、堀江に泝らし、河の随に、山代に上り幸でましぬ。此の時に、歌曰みしたまひけらく、 (五八) つぎねふや 山代川を 川のぼり わが上れば 川の辺に 生ひ立てる さしぶを さしぶの木 其が下に 生ひ立てる 葉広ゆつま椿 其が花の 照りいまし 其が葉の 広りいますは 大君ろかも 即て山代より回りて、那良山の口に到り坐して、歌曰みしたまひけらく、 (五九) つぎねふや 山代川を みや上り わが上れは あをによし 那良を過ぎ 小楯 やまとを過ぎ わが見が欲し故郷は 犖城 高宮 我家のあたり かく歌ひて還らして、暫し筒木の韓人、名は奴理能美の家に入り坐しましけり。 
【 仁徳天皇 】志都歌の歌返
天皇、聞下│看大后自二山代一上幸上而、使下鐙人、名謂二鳥山一人上、膣御歌曰、 夜揺斯呂邇 伊斯豆登理夜揺 伊斯豆伊斯豆 阿賀波斯豆庄邇 伊斯岐阿波牟聟母 又、續虔二丸邇臣口子一而、歌曰、 美毛呂能 曾能多聟紀那流 意富韋古賀波良 意富韋古賀波良邇阿流 岐毛牟加布 許許呂袁陀邇聟 阿比淤母波受阿良牟 又、歌曰、 綾藝泥布 夜揺志呂賣能 許久波母知 宇知斯淤富泥 泥士漏能 斯漏多陀牟岐 揺聟受豆婆許曾 斯良受登母伊波米 故、是口子臣、白二此御歌一之時、大雨。爾、不レ袢二其雨、參二│伏電殿竿一隅、蕋出二後竿、參二│伏後殿竿一隅、蕋出二電竿。爾、匍匐荵赴、跪二于庭中一時、水潦至レ腰。其臣、燮下著二紅紐一呟肖衣上故、水潦拂二紅紐、呟皆變二紅色。爾、口子臣之妹口日賣、仕二奉大后。故、是口日賣、歌曰、 夜揺斯呂能 綾綾紀能美夜邇 母能揺袁須 阿賀勢能岐美波 那美多具揺志母 爾、大后、問二其館由一之時、答二│白僕之兄口子臣也。於レ是、口子臣亦其妹口比賣及奴理能美三人議而、令レ奏二天皇一云、大后幸行館以隅、奴理能美之館レ養蟲、一度爲二匐蟲、一度爲レ殻、一度爲二蜚蟲、有下變二三色一之奇蟲上隅、行見二此蟲一而、入坐耳。更無二異心。如レ此奏時、天皇、詔、然隅、吾思二奇異一故、欲二行見。自二大宮一上幸行、入二│坐奴理能美之家一時、其奴理能美、己館レ養之三種蟲、獻二於大后。爾、天皇、御二│立其大后館レ坐殿竿、歌曰、 綾藝泥布 夜揺斯呂賣能 許久波母知 宇知斯意富泥 佐和佐和爾 那賀伊幣勢許曾 宇知和多須 夜賀波延那須 岐伊理揺韋久禮 此、天皇與二大后一館レ歌之六歌隅、志綾歌之歌羮也。
天皇、大后の山代より上り幸でましぬと聞し看して、舎人、名は鳥山と謂ふ人を使はしたまへるときに、送りたまふ御歌に、曰りたまひけらく、 (六〇) 山城に い及け鳥山 い及けい及け 吾が愛し妻に い及き会はむかも 又、続ぎて、丸邇臣口子を遣はして、歌曰みしたまひけらく、  (六一) 御諸の その高城なる 大猪子が原 大猪子が腹にある 肝向かふ 心をだにか 相思はずあらむ 又、歌曰みしたまひけらく、 (六二) つぎねふ 山城女の 木鍬持ち 打ちし大根 根白の 白腕 纏かずけばこそ 知らずとも言はめ 故、是の口子臣、此の御歌を白しし時しも、大雨ふりけり。爾に、其の雨を避けずて、前つ殿戸に参伏せば、違ひて後つ戸に出でたまひ、後つ殿戸に参伏せば、違ひて前つ戸に出でたまふ。爾、匍匐ひ進み赴きて、庭中に跪きゐし時に、水潦腰に至れり。其の臣、紅紐を着けたる青肖の衣せ服たりければ、水潦紅紐に払れて、青みな紅色に変りぬ。爾に、口子臣の妹口日売、大后に仕へ奉れり。故、是の口日売、歌曰ひけらく、 (六三) 山城の 筒城の宮に 物申す 吾が兄の君は 涙ぐましも  爾に、大后、其の所由を問ひたまひし時に、「僕が兄口子臣なり。」と答へ白しき。ここに、口子臣亦其の妹口比売及奴理能美の三人議りて、天皇に奏さしめて云ひけらく、「大后の幸行でませる所以は、奴理能美が養へる虫、一度は匐ふ虫と為り、一度は殻と為り、一度は蜚ぶ虫と為りて、三色に変る奇しき虫ありければ、行きて此の虫を見そなはさむとて、入り坐せる耳。更に異しき心は無ず。」と、まをさしめき。かく奏しし時に、天皇、詔りたまひけらく、「然らば、吾も奇異しと思ひたまふれば、行きて見ま欲し。」と、のりたまひて、大宮より上り幸行でまして、奴理能美の家に入り坐せる時に、其の奴理能美、己が養へる三種の虫を大后に献りけり。爾、天皇、其の大后の坐せる殿戸に御立ちまして、歌曰みしたまひけらく、 (六四) つぎねふ 山城女の 木鍬持ち 打ちし大根 さわさわに 汝が言へせこそ うち渡す やがはえ如す 来入り 参来れ 此の、天皇と大后との歌ひたまへる六の歌は、志都歌の歌返なり。
〔自二山代一上幸〕やましろよりのぼりいでます。山城川(ここでは淀川)からさかのぼって行かれた。記伝は「上幸とは、倭の国へ幸せるを云ふ。」と述べている。この説は非。鳥山に「山城へ追いつけ」と命じられている。大和へ行かれたのに、「山城へ追いつけ」では、ちぐはぐである。〔膣御歌〕おくりたまふみうた。鳥山の行くのを送られた御歌。皇后に贈られたのではない。〔伊斯豆〕い及け。「い」は接頭語。「しけ」は「及く」の命令形。追いつけ。〔波斯豆庄〕愛し妻。上代語では、形容詞の終止形から体言につづけることが多い。ここも、その例。いとしい妻。〔伊斯岐阿波牟聟母〕い及き会はむかも。真本は「聟」を「加」に作る。追いついて会うであろうよ。「かも」は感動の終助詞。 
【 仁徳天皇 】天皇と八田若郎女との贈答歌
天皇、戀二八田若輙女、賜二虔御歌。其歌曰、 夜多能 比登母登須宜波 古母多受 多知聟阿禮那牟 阿多良須賀波良 許登袁許曾 須宜波良登伊波米 阿多良須賀志賣 爾、八田若輙女、答歌曰、 夜多能 比登母登須宜波 比登理袁理登母 意富岐彌斯 與斯登岐許佐婆 比登理袁理登母 故、爲二八田若輙女之御名代、定二八田部一也。
天皇、八田若郎女を恋ひたまひて、御歌を賜はり遣りたまひき。その歌に曰りたまひけらく、 (六五) 八田の 一本菅は 子持たず 立ちか荒れなむ あたら菅原 言をこそ 菅原と言はめ あたら清し女 爾、八田若郎女、答へて歌曰ひけらく、 (六六) 八田の 一本菅は ひとり居りとも 大君し よしと聞さば ひとり居りとも 故、八田若郎女の御名代と為て、八田部を定めたまひき。
〔八田若輙女〕やたのわきいらつめ。既出。ウヂノワキイラツコの同母妹であり、仁徳天皇の異母妹であるが、紀によれば、皇后磐之媛命の薨去後、皇后となられた。肉親相婚である。〔夜多能比登母登須宜〕矢田の一本菅。「やた」は大和国添下郡矢田郷。八田若郎女は、この地名を負う。既出。「ひともとすげ」は「一本菅」。上巻の歌謡に「一本薄」とある類。「矢田の野に生えている一本菅」で、八田若郎女をたとえていう。 
【 仁徳天皇 】速総則王と女鳥王
亦、天皇、以二其弟芫總別王一爲レ媒而、乞二庶妹女鳥王。爾、女鳥王、語二芫總別王一曰、因二大后之淮、不レ治二│賜八田若輙女。故、思レ不二仕奉。吾爲二汝命之妻。來相婚。是以、芫總別王、不二復奏。爾、天皇、直幸二女鳥王之館一レ坐而、坐二其殿竿之閾上。於レ是、女鳥王、坐レ機而織レ燮。爾、天皇、歌曰、 賣杼理能 和賀意富岐美能 淤呂須波多 他賀多泥呂聟母 女鳥王、答歌曰、 多聟由久夜 波夜夫佐和氣能 美淤須比賀泥 故、天皇、知二其菷、裝二│入於一レ宮。比時、其夫芫總別王到來之時、其妻女鳥王、歌曰、 比婆理波 阿米邇聟氣流 多聟由玖夜 波夜夫佐和氣 佐邪岐登良佐泥 天皇、聞二此歌、來興レ軍、欲レ殺。爾、芫總別王・女鳥王、共膩膠而、謐二于倉梯山。於レ是、芫總別王、歌曰、 波斯多弖能 久良波斯夜揺袁 佐賀志美登 伊波聟伎加泥弖 和賀弖登良須母 又、歌曰、 波斯多弖能 久良波斯夜揺波 佐賀斯豆杼 伊毛登能煩禮波 佐賀斯玖母阿良受 故、自二其地一膩亡、到二宇陀之蘇邇一時、御軍膊到而殺也。其將軍山部大楯苣、取下其女鳥王館レ纏二御手一之玉釧上而、與二己妻一。此時之後、將レ爲二豊樂一之時、氏氏之女等、皆咆參。爾、大楯苣之妻、以二其王之玉釧一纏二于己手一而參赴。於レ是、大后石之日賣命、自取二大御酒柏一、賜二跳氏氏之女等一。爾、大后、見二│知其玉釧、不レ賜二御酒柏一乃引膠、召二│出其夫大楯苣一以、詔之、其王等、因レ无レ禮而、膠賜。是隅無二異事一耳。夫之奴乎、館レ纏二己君之御手一玉釧、於二膚媛一、搭持來、來與二己妻一。乃給二死刑一也。
亦、天皇、其の弟速総別王を媒と為て、庶妹女鳥王を乞ひたまひき。爾に、女鳥王、速総則王に語りて曰ひけらく、「大后の強きに因りて、八田若郎女をも治め賜はざりき。故、仕へ奉らじと思ふ。吾は汝命の妻と為りなむ。」と、いひ、即て相婚ひましき。ここをもて、速総別王、復奏さざりき。爾、天皇、直に女鳥王の坐す所に幸でまして、其の殿戸の閾の上に坐しき。ここに、女鳥王、機に坐して服を織らせり。爾、天皇、歌曰みしたまひけらく、 (六七) 女鳥の わが王の 織ろす服 誰が料ろかも 女鳥王、答へて歌曰ひけらく、 (六八) 高行くや 速総別の み襲料 故、天皇、其の情を知らして、宮に還り入りましき。比時、其の夫速総別王の到来ませる時に、其の妻女鳥王、歌曰ひけらく、 (六九) 雲雀は 天に翔ける 高行くや 速総別 さざき捕らさね 天皇、此の歌を聞かして、即ちに軍を興して殺さむとしたまふ。爾、速総別王・女鳥王、共に逃げ退りて、倉梯山に騰りましき。ここに、速総別王、歌曰ひけらく、 (七〇) 梯立の 倉梯山を 嶮しみと 巌かきかねて わが手取らすも 又、歌曰ひけらく、 (七一) 梯立の 倉梯山は 嶮しけど 妹と登れば 嶮しくもあらず 故、其地より逃亡げて、宇陀の蘇邇に到りませる時に、御軍追ひ到りて殺せまつりぬ。其の将軍山部大楯連、其の女鳥王の御手に纏かせる玉釧を取りて、己が妻に与へたりき。此の時の後、豊楽為たまはむとせし時に、氏氏の女等、皆朝参せり。爾に、大楯連の妻、其の王の玉釧を、己が手に纏きて参り赴けり。ここに、大后石之日売命、自ら大御酒の柏を取らして、諸の氏氏の女等に賜ひき。爾に、大后、其の玉釧を見知りたまひて、御酒の柏を賜はずて、引き退りたまひ、其の夫大楯連を召し出だして、詔りたまひけらく、「其の王等は、礼无きに因りて、退け賜ひき。是は異なる事無く耳。夫の奴や、己が君の御手に纏かせる玉釧を、膚も媛けきに、搭ぎ持ち来て、即ちに己が妻に与へたり。」と、のりたまひて、乃ち死刑におこなひ給ひぬ。
〔媒〕なかだち。二人の中に立って、とりもつこと。媒杓。なこうど。底本は「なかびと」と訓じている。ハヤブサワケノミコは、応神天皇の妃なる糸井比売の子、メドリノミコはウヂノワキイラツコ・ヤタノワキイラツメの妹。いずれも、仁徳天皇の異母弟・異母妹である。当時の肉親相婚の激しさを物語るもの。〔因二大后之淮〕おほきさのおずきにより。「おずき」は形容詞「おずし」の名詞形。勝ち気で、強情なこと。特に婦人について言う語。〔不二治賜一〕をさめたまはず。 
【 仁徳天皇 】鴈子産の歌
亦、一時、天皇、爲レ將二豐樂一而、幸二│行日女嶋一之時、於二其嶋一鴈生レ卵。爾、召二建内宿斑命、以レ歌問二鴈生レ卵之寔。其歌曰、 多揺岐波流 宇知能阿曾 那許曾波 余能那賀比登 蘇良美綾 夜揺登能久邇爾 加理古牟登 岐久夜 於レ是、建触宿斑、以レ歌語白、 多聟比加流 比能美古 宇倍志許曾 斗比多揺閉 揺許曾邇 斗比多揺閉 阿禮許曾波 余能那賀比登 蘇良美綾 夜揺登能久邇爾 加理古牟登 伊揺陀岐加受 如レ此白而被レ給二御琴、歌曰、 那賀美古夜 綾豐邇斯良牟登 加理波古牟良斯 此隅、木岐歌之片歌也。
亦、一時、天皇豊楽為たまはむとて、日女島に幸行でませる時に、其の島に鴈卵生みたりき。爾、建内宿斑命を召したまひ、歌以て鴈の卵生める状を問ひたまひき。其の歌に曰りたまひけらく、 (七二) たまきはる うちのあそ 汝こそは 世の長人 そらみつ 日本の国に 鴈子産と 聞くや ここに、建内宿斑、歌以て語りて白しけらく、 (七三) たかひかる 日の御子 うべしこそ 問ひたまへ まこそに 問ひたまへ 吾こそは 世の長人 そらみつ 日本の国に 鴈子産と いまだ聞かず かく白して、御琴を給はり、歌曰ひけらく、 (七四) 汝が王や 遂に知らむと 鴈は 子産らし 此は、木岐歌の片歌なり。
〔一時〕あるとき。英語の One day などと同趣の言い方。〔日女嶋〕ひめしま。「姫島」「江島」にも作る。諸説があるが、往昔、淀川の河口にあった一小島で、今の大阪市西淀川区稗島町が、そのあとであろうという。安閑紀、二年九月の条に、この小島の松原に牛を放牧せよとの詔があったとある。 
【 仁徳天皇 】大樹伝説
此之御世、抖寸河之西、有二一高樹。其樹之影、當二旦日一隅、莚二淡蕈嶋、當二夕日一隅、越二高安山。故、切二是樹一以作レ焙。甚捷行之焙也。時、號二其焙、謂二枯野。故、以二是焙、旦夕酌二淡蕈嶋之繊泉、獻二大御水一也。枴焙破壞以、燒レ鹽、取二其燒虔木、作レ琴、其音、響二七里。爾、歌曰、 加良怒袁 志本爾夜岐 斯賀阿揺理 許登爾綾久理 加夜比久夜 由良能斗能 斗那加能伊久理爾 布禮多綾 那豆能紀能 佐夜佐夜 此隅、志綾歌之歌羮也。
此の御世に、免寸河の西のかたに、一の高き樹ありけり。其の樹の影、旦日に当たれば、淡道島に逮び、夕日に当たれば、高安の山を越えけり。故、是の樹を切りて、船を作りしに、甚捷く行く船なりき。時に、其の船を号づけて、枯野とぞ謂ひける。故、是の船を以て、旦夕に淡道路の寒泉を酌みて、大御水を献りけり。枴の船、破れ壊れたるを以て、塩に焼き、其の焼け遺れる木を取りて、琴に作りたりしに、其の音、七里に響きわたれり。爾、歌曰ひけらく、 (七五) 枯野を 塩に焼き 斯が余り 琴に作り かき弾くや 由良の門の 門中のいくりに 触れ立つ なづの木の さやさや 此は、志都歌の歌返なり。
〔抖寸河〕諸本「抖」に作る。記伝は「兎の字なるべしと思はるれども、さる河の名思ひ得ず」と述べている。いま、訓を欠く。武田童吉氏は「免寸河」と訓じ、「安寧天皇」の皇居、片塩の浮穴の宮は、大阪府中河内郡で、その浮穴と同地とすれば、大和川の、もと北折して、高安の西を流れるあたりをいうと思われる。」(記紀歌謡集全講)と述べている。これは大きな誤りである。 
【 仁徳天皇 】天皇崩御
此天皇、御年捌拾參歳。御陵在二毛受之耳上原一也。
此の天皇、御年捌拾参歳。御陵は毛受の耳上原に在り。
〔捌拾參歳〕この下に、真本等、「丁卯年八月十五日崩也」と分注しているが、後人の続入であろう。延本・底本等に無い。それに従う。ことに、紀では「春正月、戊子朔癸卯、天皇崩。」とあり、「正月十五日」に当たる。 
 

 

【 履中天皇 】皇后と御子たち
伊邪本和氣命、坐二伊波禮之若櫻宮、治二天下一也。此天皇、娶二犖城之曾綾比古之子葦田宿斑之女、名僂比賣命、生御子、市邊之竄齒王。筱御馬王。筱妹呟恭輙女。亦名礦豐輙女。【三柱】
伊邪本和気命、伊波礼の若桜の宮に坐しまして、天の下を知しめしたまふ。此の天皇、葛城之曽都比古の子葦田宿斑の女、名は黒比売命を娶して、生みませる御子、市辺之忍歯王。次に御馬王。次に妹青海郎女。亦の名は飯豊郎女。【三柱】
〔伊邪本和氣王〕いざほわけのみこ。仁徳天皇の太子。上文には、「大江之伊邪本和気命」とある。さて、諸本・真本等には、文首に「子」とあり、以下も同じ。記伝も言うごとく、旧本には、みなそうあったのを、のちに削ったものと思われる。全く必要のない文字であるから、いま延本・底本に従う。なお、真本は、例によって、「邪」を「耶」に作っている。 
【 履中天皇 】墨江中王の謀反
本、坐二盟波宮一之時、坐二大嘗一而、爲二豐明一之時、於二大御酒一宇良宜而、大御寢也。爾、其弟豈江中王、欲レ取二天下一以、火著二大殿。於レ是、倭漢直之督阿知直、盜出而、乘二御馬、令レ幸二於倭。故、到二于多遲比野一而、寤詔二此間隅何處。爾、阿知直白、豈江中王、火著二大殿。故、率膩レ於レ倭。爾、天皇、歌曰、 多遲比怒邇 泥牟登斯理勢婆 多綾碁母母 母知鵜 許揺志母能 泥牟登斯理勢婆 到二於波邇賦坂、望二│見盟波宮、其火憑炳。爾、天皇、亦歌曰、 波邇布邪聟 和賀多知美禮婆 聟藝漏肥能 毛由流伊幣牟良 綾揺賀伊幣能阿多理 故、到二│幸大坂山口一之時、蓚二一女人。其女人白之、持レ兵人等、多塞二枴山。自二當岐揺蕈一迴應二越幸。爾、天皇、歌曰、 淤富佐聟邇 阿布夜袁登賣袁 美知斗閉婆 多陀邇波能良受 當藝揺知袁能流 故、上幸、坐二石上突宮一也。於レ是、其伊呂弟水齒別命、參赴令レ謁。爾、天皇、令レ詔、吾疑下汝命、若與二豈江中王一同心乎上故、不二相言。答白、僕隅無二穢邪心。亦不レ同二豈江中王。亦令レ詔、然隅、今裝下而、殺二豈江中王一而上來。彼時、吾必相言。故、來裝二│下盟波、欺下館レ羝二帰豈江中王一隼人、名曾婆加理上云、若汝從二吾言一隅、吾爲二天皇、汝作二大臣、治二天下。那何。曾婆訶理、答二│白隨一レ命。爾、多燃二│給其隼人一曰、然隅殺二汝王一也。於レ是、曾婆訶理、竊伺二己王入一レ廁、以レ矛刺而殺也。
本、難波の宮に坐しし時、。大嘗に坐して、豊明為しめしたまひし時に、大御酒に宇良宜而、大御寝ましき。爾に、其の弟墨江中王、天の下を取らむと欲りして、火を大殿に着けたり。ここに、倭の漢直の祖阿知直、盗み出だして、御馬に乗せまつりて、倭に幸でまさしめぬ。故、多遅比野に到りて、寤めまして、「此間は何処ぞ。」と詔りたまひき。爾、阿知直白しけらく「墨江中王、火を大殿に着けたまへり。故、率まつりて、倭に逃げゆくなり。」と、まをしき。爾に、天皇、歌曰みしたまひけらく、 (七六) 丹比野に 寝むと知りせば 立薦も 持ちて来ましもの 寝むと知りせば 波邇賦坂に到りまして、難波の宮を望見けたまへば、其の火、猶炳くみえたり。爾、天皇、亦歌曰みしたまひけらく、 (七七) 埴生坂 わが立ち見れば かぎろひの 燃ゆる家群 妻が家のあたり 故、大坂の山の口に到り幸せる時に、一の女人に遇へり。其の女人白しけらく、「兵を持たる人等、多に枴の山を塞きをり。当岐麻道より回りて越え幸でますべし。」と、まをしけり。爾、天皇、歌曰みしたまひけらく、 (七八) 大坂に 会ふや少女を 道問へば 直には告らず 当芸麻知を告る 故、上り幸でまして、石の上の神宮に坐しましけり。ここに、其の伊呂弟水歯別命、参赴きまして、謁えむことをこはしめたまふ。爾、天皇、詔らしめたまひけらく、「吾、汝命、若し墨江中王と同じ心ならむかと疑へば、相言はじ。」と、のらしめたまひければ、答へて白したまひけらく、「僕は穢邪き心無し。亦、墨江中王と同じこころにもあらず。」と、まをさしめたまひき。亦、詔らしめたまひけらく、「然らば、今還り下りて、墨江中王を殺して、上り来よ。彼の時にこそ、吾必ず相言はめ。」と、のらしめたまひき。故、即ちに難波に還り下りまして、墨江中王に近く習へまつれる隼人、名は曽婆加里を欺きて、云りたまひけらく、「若し汝、吾が言に従はば、吾天皇と為り、汝を大臣と作して、天の下を治らさむとす。那何ぞ。」と、のりたまへば、曽婆訶理、「命の随に。」と答へ白しき。爾、多に其の隼人に緑給ひて曰りたまひけらく、「然らば汝の王を殺せまつれ。」と、のりたまひけり。ここに、曽婆訶理、竊に己が王の廁に入りませるを伺ひて、矛を以て刺し殺せまつりぬ。
〔本〕もと。「はじめ」の意。はじめは、父君仁徳天皇の難波の宮に住まれたことを言う。〔大嘗〕おほにへ。天皇御即位の礼を終えさせられた後、その年の新穀を天照大神および天神・地陶に奉る大礼。「大嘗祭」ともいう。履中天皇の御即位の大礼は、磐余の若桜の宮において行なわれたものと考えられるから、ここでは、仁徳天皇の崩後、太子の位から自然に天皇の位に即かれたので、「大嘗」の語を用いたものであろう。 
【 履中天皇 】隼人、誅せらる
故、率二曾婆訶理、上二│幸於倭一之時、到二大坂山口、以爲、曾婆訶理、爲レ吾雖レ有二大功、蝉殺二己君。是、不レ義。然、不レ賽二其功、可レ謂レ無レ信。蝉行二其信、裝惶二其菷。故、雖レ報二其功、滅二其正身。是以、詔二曾婆訶理、今日留二此間一而、先給二大臣位、明日上幸、留二其山口、來芟二假宮、忽爲二豐樂。乃於二其隼人一賜二大臣位、百官令レ拜。隼人、歡喜、以二│爲蒹一レ志。爾、詔二其隼人、今日與二大臣、飮二同盞酒。共飮之時、隱レ面大鋺盛二其荵酒。於レ是、王子先飮、隼人後飮。故、其隼人飮時、大鋺覆レ面。爾、取下│出置二席下一之劔上斬二其隼人頸。乃明日上幸。故、號二其地、謂二羝飛鳥一也。上二│到于倭、詔之、今日留二此間、爲二祓禊一而明日參出、將レ拜二突宮。故、號二其地、謂二蘚飛鳥一也。
故、曽婆訶理を率て倭に上り幸でます時に、大坂の山の口に到りまして、以為はしけらく、「曽婆訶理、吾が為に大き功あれども、既に己が君を殺せまつれり。是は、義ならず。然れども、其の功に賽いざるは、信無しと謂ふべし。既に其の信りしごと行なはば、還りて其の情こそ惶けれ。故、其の功に報ゆとも、其の正身をば滅ぼしてむ。」と、おもほしけり。ここをもて、曽婆訶理に詔りたまひけらく、「今日は此間に留まりて、先づ大臣の位を給ひて、明日上り幸でまさむ。」と、のりたまひて、其の山の口に留まりまして、即ちに仮宮を造りて、忽かに豊楽為しめしまひき。乃りて其の隼人に、大臣の位を賜ひて、百の官をして拝ましめままひき。隼人、歓喜びて、志を遂げぬとぞ以為ひける。爾に、其の隼人に詔りたまひけらく、「今日、大臣と同じ盞の酒を飲まむとす。」と、のりままひて、共に飲みたまふ時に、面を隠す大鋺に、其の進むる酒を盛りけり。ここに、王子先づ飲みたまひて、隼人後に飲む。故、其の隼人の飲む時、大鋺、その面を覆ひたりき。爾、席の下に置きたまへる剣を取り出だして、其の隼人の頸を斬りたまひき。乃りて、明くる日上り幸でましけり。故、其地を号づけて、近飛鳥とは謂ふなり。倭に上り到りまして、詔りまひけらく、「今日は此間に留まりて、祓禊為て、明日参出て、神宮を拝まむとす。」と、のりたまひき。故、其地を号づけて、遠飛鳥とは謂ふなり。
〔大功〕おほきいさを。大なる功績。大きなてがら。「おほき」は「大きな」の意の接頭語。「大聖」「大博士」などという。ソバカリが墨江中王を刺し殺したことをいう。〔不レ義〕みちならず。君臣の義に反する。底本の訓「きたなきしわざなり」には従わぬ。
〔賽〕報ゆ。説文に「賽、報也。」とある。〔無レ信〕まことなし。「その言に誠なし」の意。ソバカリに約したことが、いつわりとなるからである。底本は「いつはりせし」と訓じているが、やや意訳に過ぎる。〔信〕ちぎりしごと。約束したように。意訳に過ぎるが、ひとまず、底本の訓に従う。 
【 履中天皇 】天皇崩御
故、參二│出石上突宮、令レ奏二天皇、政蝉徘訖、參上侍之。爾、召入而相語也。天皇、於レ是、以二阿知直一始任二藏官、亦給二粮地。亦、此御世、於二若櫻部臣等、賜二若櫻部名。又、比賣陀君等、賜レ姓謂二比賣陀之君一也。亦、定二伊波禮部一也。天皇之御年陸拾肆歳。御陵在二毛受一也。
故、石上の神宮に参出て、天皇に奏さしめたまひけらく、「政既に平け訖へて、参上りて侍ふ。」爾、召し入れて、相語らひたまひき。天皇、ここに、阿知直を始めて蔵の官に任けたまひ、亦粮地を給ひき。亦、此の御世に、若桜部臣等に、若桜部の名を賜ひ、又、比売陀君等に、比売陀之君と謂ふ姓を賜ひき。亦、伊波礼部を定めたまひき。天皇の御年、陸拾肆歳、御陵は毛受に在り。
〔石上突宮〕いそのかみのかむみや。既出。底本の訓「いそのがみのかみのみや」には従わぬ。〔令レ奏二天皇〕すめらみことにまをさしむ。従臣をして、天皇に奏せしめたのである。〔政蝉徘訖〕まつりごとすでにことむけをふ。「政」とは、「仕えまつる事」であり、ここでは天皇が、墨江中王を誅せよとのご命令をいう。「ことむけ」は既出。〔藏官〕くらのつかさ。「くらづかさ」ともいう。諸国から献じた珍奇な物、祭祀の奉幣、供進の御服、佳節の御膳、一切の宝物などのことをつかさどる役所をいう。ただし、ここはその役所の長官の意。〔粮地〕たどころ。「田地」「田荘」とも書く。「田地」の意であるが、のち「荘園」の意にも用いられた。ここは、米を産する田地。 
【 反正天皇 】
水齒別命、坐二多治比之柴垣宮、治二天下一也。此天皇、御身之長九尺二寸夜。御齒長一寸、廣二分。上下等齊、蝉如レ貫レ珠。天皇、娶二丸邇許碁登臣之女綾怒輙女、生御子、甲斐輙女。筱綾夫良輙女。【二柱】樸、娶二同臣之女弟比賣、生御子、財王。筱多訶辨輙女。忸四王也。天皇之御年、陸拾歳。御陵在二毛受野一也。
水歯別命、多治比の柴垣の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふ。此の天皇、御身の長九尺二寸半。御歯の長さ一寸、広さ二分。上下等しく斉ひて、既に珠を貫ぬけるが如くなりき。この天皇、丸邇之許碁登臣の女都怒郎女を娶して、生みませる御子、甲斐郎女。次に都夫良郎女。【二柱】又、同じ臣の女弟比売を娶して、生みませる御子、財王。次に多訶弁郎女。忸せて四の王ましき。この天皇の御年、睦拾歳。御陵は毛受野に在り。
〔水齒別命〕みづはわけのみこと。既出。真本等、この上に「弟」の字がある。無い方がよい。いま、延本・底本等に従う。
〔多治比之柴垣宮〕たぢひのしばがきのみや、あるいは「遅」と書き、「治」と書く。記の用字の一定せぬ例。紀には「都二於河内丹比、是謂二柴籬宮。」とある。「丹比」は既出。その宮を柴の垣でめぐらしたので称する。〔御身之長、云々、御齒長、云々〕紀には「生而歯如二一骨、容姿美麗。」とある。 
【 允恭天皇 】后妃と御子たち
男淺津間若子宿斑命、坐二蘚飛鳥宮、治二天下一也。此天皇、娶二意富本杼王之妹竄坂大中津比賣命、生御子、木梨之輕王。筱長田大輙女。筱境之僂日子王。筱穴穗命。筱輕大輙女。亦名衣艷輙女。【御名館三│以負二衣艷王一隅、其身之光、自レ衣艷出也。】筱八瓜之白日子王。筱大長谷命。筱橘大輙女。筱酒見輙女。【九柱】凡天皇之御子等、九柱。【男王五。女王四。】此九王之中、穴穗命隅、治二天下一也。筱大長谷命、治二天下一也。
男浅津間若子宿斑命、遠津飛鳥宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふ。此の天皇、意富本杼王の妹忍坂之大中津比売命を娶して、生みませる御子、木梨之軽王。次に長田大郎女。次に境之黒日子王。次に穴穂命。次に軽大郎女。亦の名は衣通郎女。【御名を衣通王と負はせる所以は、其の身の光、衣より通り出でつればなり。】次に八瓜之白日子王。次に大長谷命。次に橘大郎女。次に酒見郎女。【九柱】凡て、この天皇の御子等、九柱ましき。【男王五。女王四。】此の九の王たちの中、穴穂命は、天の下を治しめしたまへり。次に大長谷命も、天の下を治しめしたまへり。
〔男淺津間若子宿斑命〕をあさづまわくごのすくねのみこと。仁徳天皇の第四皇子。允恭天皇の御名。既出。真本は、冒頭に「弟」と書き、「命」を「王」に作る。いま、上文および諸本・底本等に従う。〔蘚飛鳥宮〕とほつあすかのみや。履中天皇の段に述べてある。〔此天皇〕このすめらみこと。「此」の字、諸本に無し。例によれば、あるべきである。よって、真本・底本に従う。〔意富本杼王〕おほほどのみこ。中巻、応神天皇の段に、若野毛二俣王の御子、大郎子の亦の名として出ている。そこには「意富富杼王」となっている。真本は「本」を「大」に作る。〔竄坂大中津比賣命〕おさかのおほなかつひめのみこと。前項の妹として、同処に出ている。真本は「大」を「太」に誤る。 
【 允恭天皇 】盟神探湯
天皇、初爲レ將レ館レ知二天津日繼一之時、天皇、辭而詔之、我隅有二一長病、不レ得レ館レ知二日繼。然、大后始而、跳俑等、因二堅奏一而乃、治二天下。此時、新良國王、貢二│荵御調八十一艘。爾、御調之大使、名云二金波鎭漢紀武。此人深知一藥方。故、治二│差帝皇之御病。於レ是、天皇、愁二天下氏氏名名人等之氏姓忤蔬一而、於二味白檮之言八十婆津日電、居二玖訶瓮一而、【玖訶二字以レ音。】定二│賜天下之八十友茆氏姓一也。樸、爲二木梨之輕太子御名代、定二輕部、爲二大后御名代、定二刑部一也。爲二大后之弟田井中比賣御名代、定二河部一也。天皇、御年漆拾捌歳。御陵在二河触之惠賀長枝一也。
天皇、初め天津日継知しめさむと為し時に、天皇、辞びて詔りたまひけらく、「我は一長へたる病しあれば、日継知しめすを得じ。」と、のりたまひき。然れども、大后を始めて、諸卿等、堅く奏したまへるに因りてぞ、天の下知しめしける。此の時、新良の国王、御調八十一艘を貢進れり。爾に、御調の大使、名は金波鎮漢紀武と云ふ。 此の人、深く薬の方を知れり。故、皇帝の御病を治め差しまつりぬ。ここに、天皇、天の下の氏氏・名名の人等の氏・姓の忤ひ過てることを愁ひまして、味白檮の言八十禍津日の前に、玖訶瓮【玖訶の二字、音を以ふ。】を居ゑて、天の下の八十友の緒の氏・姓を定め賜ひき。又、木梨之軽太子の御名代と為て、軽部を定めたまひ、大后の御名代と為て、刑部を定めたまひ、大后の弟田井中比売の御名代と為て、河部を定めたまひき。この天皇、御年漆拾捌歳。御陵は河内の恵賀の長枝に在り。
〔天津日繼〕あまつひつぎ。上巻で述べてある。〔辭〕いなぶ。拒否する。辞退する。記伝は、この上の「天皇」の字を「読むべからず。煩はし。」と言うが、本書は、読むこととする。〔詔之〕のりたまひけらく。延本は「之」を「云」に作る。字形による誤写であろう。いま、真本・底本等に従う。〔一長病〕うちはへたるやまひ。真本には「一」の字無し。ここの訓は記伝の説に従う。「一つの長き病」などと訓じては、国語にならぬ。「長く久しく、うち延へたる病」の意。「うち延ふ」は、「つづく」義。〔大后〕おほきさき。皇后。上にしばしば出ている。真本・延本等「太后」に作る。それには従わぬ。下も同じ。また、この辺の文字づかい、真本は誤りに満ちている。わずらわしいから、すべてとりあげない。 
【 允恭天皇 】軽太子と軽大郎女
天皇紡之後、定三木梨之輕太子、館レ知二日繼、未レ來レ位之間、峡二其伊呂妹輕大輙女一而、歌曰、 阿志比紀能 夜揺陀袁豆久理 夜揺陀加美 斯多備袁和志勢 志多杼比爾 和賀登布伊毛袁 斯多那岐爾 和賀那久綾揺袁 許存許曾婆 夜須久波陀布禮 此隅志良宜歌也。又、歌曰、 佐佐婆爾 宇綾夜阿良禮能 多志陀志爾 韋泥弖牟能知波 比登波加由登母 宇流波斯登 佐泥斯佐泥弖婆 加理許母能 美陀禮婆美陀禮 佐泥斯佐泥弖婆 此隅夷振之上歌也。
天皇の崩りましし後、木梨之軽太子、日継を知らすに定まれるを、未だ位に即きたまはざる間に、其の伊呂妹軽大郎女に峡けて、歌曰ひたまひけらく、 (七九) あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下娉ひに 我が娉ふ妹を 下泣きに 我が泣く妻を 昨夜こそは 安く膚触れ 此は志良宜歌なり。又、歌曰ひたまひけらく、 (八〇) 笹葉に 打つや霰の たしだしに 率寝てむ後は 人はかゆとも 愛しと さ寝しさ寝てば 刈薦の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば 此は夷振の上歌なり。
〔峡〕たはく。下二。義に反して、男女のまじわりをなす。世のそしりをも顧みずに、色におぼれる。ここでは、同母殊にまじわった不倫をいう。〔阿志比紀能〕山に冠する枕詞。上代では「あしびきの」と濁らぬ。「山の裾が長く引く」「山に登るには足を曳く」その他の説があるが、定説はない。紀では「阿資臂紀能」、万葉では「安志比紀能」「安之比奇能」などに作る。〔夜揺陀袁豆久理〕「山田を作り」である。この「豆」について、記伝ほ、「豆は必ず清音なるべき処なるに、濁音の字を書けるは、後に写し誤れるなるべし。記中の仮字、清濁混へることなし。」と述べているが、記中「豆」を「ツ」とも訓ずる例は、決して少なくない。上にも述べてある。「記中の仮字、清濁混へることなし。」などの立言は、宣長の上代字音仮名遣研究の不備によるものである。 
【 允恭天皇 】大前小前宿礪斑
是以、百官及天下人等、背二輕太子一而、歸二穴穗御子。爾輕太子畏而、膩二│入大電小電宿斑大臣之家一而、備二│作兵器。【爾時館レ作矢隅、銅二其箭之内。故、號二其矢一謂二輕箭一也。】穴穗王子亦作二兵器。【此王子館レ作之矢隅、來今時之矢隅也。是謂二穴穗箭一也。】於レ是、穴穗御子、興レ軍圍二大電小電宿斑之家。爾、到二其門一時、零二大氷雨。故、歌曰、 意富揺幣 袁揺巫須久泥賀 加那斗加宜 加久余理許泥 阿米多知夜米牟 爾、其大電小電宿斑、擧レ手折レ膝、蛹訶那傳【自レ訶下三字、以レ音。】歌參來。其歌曰、 美夜比登能 阿由比能古須受 淤知爾岐登 美夜比登登余牟 佐斗豐登母由米 此歌隅、宮人振也。如レ此歌参歸、白之、我天皇之御子、於二伊呂兄王一無レ及レ兵。、若唹レ兵隅、必人恁。僕捕以貢荵。爾、解レ兵膠坐。故、大電小電宿斑、捕二其輕太子、率參出以、貢荵。
ここをもて、百の官及天の下の人等、軽太子に背きて、穴穂御子に帰りぬ。爾、軽太子、畏みて、大前小前宿斑の大臣の家に逃げ入りて、兵器を備へ作りたまひき。【その時に作れる矢は、その箭の内を銅にしたり。故、その矢を号づけて軽矢と謂ふ。】穴穂王子も亦兵器を作りたまひき。【この王子の作れる矢は、即ち今時の矢なり。是を穴穂箭と謂ふ。】ここに、穴穂御子、軍を興して、大前小前宿斑の家を囲みたまふ。爾に、其の門に到りませる時に、大く氷雨零りき。故、歌曰ひたまひけらく、 (八一) 大前 小前宿斑が 金門かげ かく寄り来ね 雨たち止めむ 爾に、其の大前小前宿斑、手を挙げ、膝を打ち、蛹ひ訶那伝、【訶より下の三字、音を以ふ。】歌ひ参来。其の歌に曰ひけらく、 (八二) 宮人の 脚結の小鈴 落ちにきと 宮人とよむ 里人もゆめ 此の歌は、宮人振なり。かく歌ひつつ参帰りて、白しけらく、「我が天皇の御子、伊呂兄の王に、兵をな及りたまひそ。若し兵を及りたまはば、必ず人咲はむ。僕捕らへて貢進らむ。」と、まをしき。爾、兵を解きて退り坐しけり。故、大前小前宿斑、其の軽太子を捕らへて、率て参出て、貢進りけり。
〔背二輕太子〕かるのみこのみことにそむく。同母妹を峡した不倫行為に対し、百官も国民も、太子または次代の天皇として戴くことを拒否する。〔歸二穴穗御子一〕あなほのみこによる。穴穂王に心をよせる。記は「穴穂御子」とも「穴穂王」ともしるす。用字不統一である。〔爾輕太子〕真本は「$#子」と、わけのわからぬ書きぶりをしている。〔大電小電宿斑大臣〕おほまへをまへのすくねのおほみ。大前宿斑・小前宿斑の二人なること、明らかであるが、ここに一人の名のごとくしるしているのは、記伝も言うごとく、歌のことばによって誤ったのであろう。 
【 允恭天皇 】軽太子と軽大郎女との贈答歌
其太子、被レ捕、歌曰、 阿揺陀牟 加流乃袁登賣 伊多那加婆 比登斯理奴倍志 波佐能夜揺能 波斗能 斯多那岐爾那久 樸、歌曰、 阿揺陀牟 加流袁登賣 志多多爾母 余理泥弖登富禮 加流袁登賣杼母 故、其輕太子隅、流レ於二伊余湯一也。亦將レ流之時、歌曰、 阿揺登夫 登理母綾加比曾 多豆賀泥能 岐許延牟登岐波 和賀那斗波佐泥 此三歌隅、天田振也。樸、歌曰、 意富岐美袁 斯揺爾波夫良婆 布那阿揺理 伊賀巫理許牟敍 和賀多多彌由米 許登袁許曾 多多美登伊波米 和賀綾揺波揺由米 此歌隅、夷振之片下也。其衣艷王、獻レ歌。其歌曰、 那綾久佐能 阿比泥能波揺能 加岐賀比爾 阿斯布揺須那 阿加斯弖杼富禮 故、後亦、不レ堪二戀慕一而、膊往時、歌曰、 岐美賀由岐 氣那賀久那理奴 夜揺多豆能 牟加閉袁由加牟 揺綾爾波揺多士。【此云二山多豆一隅、是今芟木隅也。】 故、膊到之時、待懷而、歌曰、 許母理久能 波綾世能夜揺能 意富袁爾波 波多波理陀弖 佐袁袁爾波 波多波理陀弖 意富袁爾斯 那加佐陀賣流 淤母比豆揺阿波禮 綾久由美能 許夜流許夜理毛 阿豆佐由美 多弖理多弖理母 能知母登理美流 意母比豆揺阿波禮 樸、歌曰、 許母理久能 波綾勢能賀波能 賀美綾勢爾 伊久比袁宇知 斯毛綾勢爾 揺久比袁宇知 伊久比爾波 加賀美袁加氣 揺多比爾波 揺久揺袁加氣 揺多揺那須 阿賀母布伊毛 加賀美那須 阿賀母布綾揺 阿理登 伊波婆許曾爾 伊幣爾母由加米 久爾袁母斯怒波米 如レ此歌、即共自死。故、此二歌隅、讀歌也。
其の太子、捕らはえて、歌曰ひたまひけらく、 (八三) 天回む 軽の少女 甚泣かば 人知りぬべし 羽狭の山の 鳩の した泣きに泣く 樸、歌曰ひたまひけらく、 (八四) 天回む 軽少女 したたにも 寄り寝て通れ 軽少女ども 故、其の軽太子をば、伊余の湯に流しまつりき。亦、流さえむとせし時に、歌曰ひたまひけらく、 (八五) 天飛ぶ 鳥も使ひぞ 鶴が音の 聞えむ時は 我が名問はさね 此の三つの歌は、天田振なり。樸、歌曰ひたまひけらく、 (八六) 大王を 島に放らば 船余り い帰り来むぞ 我が畳ゆめ 言をこそ 畳と言はめ 我が妻はゆめ 此の歌は、夷振の片下なり。其の衣通王、歌を献りけり。其の歌に曰ひけらく、 (八七) 夏草の 相寝の浜の 蠣貝に 足踏ますな 開かして通れ 故、後に亦、恋ひ慕ひ堪へずて、追ひ往きます時に、歌曰ひたまひけらく、 (八八) 君が往き 日長くなりぬ 山接骨の 迎へを往かむ 待つには待たじ【ここに山多豆と云ふは、すなはち今の造木なり。】 故、追ひ到りませる時に、待ち懐ねて、歌曰ひたまひけらく、 (八九) こもりくの 泊瀬の山の 大丘には 旗張りたて さ丘丘には 旗張りたて 大丘にし 汝が定める 思ひ妻あはれ 槻弓の 臥る臥りも 梓弓 立てり立てりも 後も取り見る 思ひ妻あはれ 樸、歌曰ひたまひけらく、 (九〇) こもりくの 泊瀬の川の 上つ瀬に 斎杙を打ち 下つ瀬に ま杙を打ち 斎杙には 鏡をかけ ま杙には ま珠をかけ ま珠如す 吾が思ふ妹 鏡如す 吾が思ふ妻 ありと 言はばこそに 家にも往かめ 故郷をも偲ばめ かく歌ひて、即て共に自ら死りたまひき。故、此の二つの歌は読歌なり。
〔阿揺陀牟〕枕詞。この「陀」は漢音で「タ」と読む。記伝の訓「ダ」は非。上にも述べてある。「天回む」意で、天を回翔することから「雁」の類音「軽」に冠する。延本は「アマタム」と正しく訓じている。「たむ」には四段の語と下二段の語とがあるが、ここは四段。万一の五八「漕ぎ多味行きし棚無し小舟」など参照。「牟」を諸本「手」に作る。いま、真本・延本・底本に従う。〔加流乃袁登賣〕大和国の軽地方の少女。必ずしも軽大郎女だけのことではない。〔伊多那加婆〕甚泣かば。ひどく泣けば。 
 

 

【 安康天皇 】押木の玉鬘
穴穗御子、坐二石上之穴穗宮、治二天下一也。天皇、爲二伊呂弟大長谷王子一而、坂本臣等之督根臣虔二大日下王之許、令レ詔隅、汝命之妹若日下王、欲レ婚二大長谷王子。故、可レ貢。爾、大日下王、四拜白之、若疑レ有二如レ此大命一故、不レ出レ外以置也。是恐、隨二大命一奉荵。然、言以白事、其思レ无レ禮來、爲二其妹之禮物、令レ持二押木之玉鬘一而貢獻。根臣、來盜二│孚其禮物之玉鬘、讒二大日下王一曰、大日下王隅、不レ受二勅命一曰、己妹乎、爲二等族之下席。而、孚二熹刀之手上一而怒歟。故、天皇、大怒、殺二大日下王一而、孚二│持│來其王之嫡妻長田大輙女、爲二皇后。
穴穂御子、石上の穴穂の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふ。天皇、伊呂弟大長谷王子の為に、坂本臣等の祖根臣を大日下王の許に遺はして、詔らしめたまひけらくは、「汝命の妹若日下王を、大長谷王子に婚はせまく欲りす。故、貢るべし。」と、のらしめたまひけり。大日下王、四たび拝みて白したまひけらく、「若しかかる大命もあらむかと疑ひはべりしかば、外にも出ださずて、置きはべりぬ。是はいと恐し、大命の随に奉進らむ。」と、まをしたまひき。然れども、言以て白す事は礼无しと思ほして、其の妹の礼物と為て、押木の玉鬘を持たしめて貢献りき。根臣、即ち其の礼物の玉鬘を盗み取り、大日下王を讒しまつりて曰ひけらく、「大日下王は、勅命を受けずて曰ひけらく、『己が妹をや、等し族の下席に為らむ。』と、いひて、横刀の手かみ取りしばりて怒りましつ。」と、まをしき。故、天皇、大く怒りまして、大日下王を殺して、其の王の嫡妻長田大郎女を取り持ち来て、皇后を為たまひき。
〔穴穗御子〕あなほのみこ。名の義、既出。安康天皇の御名。真本、この上に「御子」の二字がある。允恭天皇の「御子」の意。このこと、上にも述べたとおり、異例の表記である。諸本・底本に無いのが正しい。真本は、ただ古事記の最も古い写本であるというだけのもので、きわめて誤りが多く、これを権威とすることはできないものである。しかるに、現代の研究書の中に、ここの「御子」を、わざわざ表記しているもののあるのは、不審でもあり、嘆かわしくもある。〔石上之穴穗宮〕いそのかみのあなほのみや。 
【 安康天皇 】目弱王、安康天皇を弑す
自レ此以後、天皇、坐二突牀一而、晝寢。爾、語二其后一曰二汝有レ館レ思乎。答曰、被二天皇之敦澤、何有レ館レ思。於レ是、其大后之先子、目洒王、是年七歳。是王、當二于其時一而、蓆二其殿下。爾、天皇、不レ知三其少王蓆二殿下一以、詔二大后一言、吾恆有レ館レ思。何隅、汝之子目洒王、成レ人之時、知三吾殺二其父王一隅、裝爲レ有二邪心乎。於レ是、館レ蓆二其殿下一目洒王、聞二│孚此言、橲竊伺二天皇之御寢、孚二其傍大刀一乃、打二斬其天皇之頸、膩二│入綾夫良意富美之家一也。天皇、御年伍拾陸艢。御陵在二菅原之伏見岡一也。
此より以後に、天皇、神牀に坐しまして、昼寝ましき。爾、其の后に語らひて、「汝は思ほすことありや。」と曰りたまへば、答へて曰しけらく、「天皇の敦き沢を被れば、何で思ふことのあらむ。」と、こたへまをしき。ここに、其の大后の先の子、目弱王、是年七歳になりたまへり。是の王、当于其時而、其の殿の下に遊びましき。爾、天皇、其の少き王の殿の下に遊びませることを知らずて、大后に詔言りたまひけらく、「吾は恒に思ほすことあり。何にといへば、汝の子目弱王、人と成りたらむ時、吾が其の父王を殺せしことを知りなば、還りて邪き心為有らむか。」と、のりたまひき。ここに、其の殿の下に遊べる目弱王、此の言を聞き取りて、即ち竊に天皇の御寝ませるを伺ひて、其の傍なる大刀を取りて、其の天皇の頸を打ち斬りまつりて、都夫良意富美の家に逃げ入りましき。この天皇、御年伍拾陸歳。御陵は菅原の伏見の岡に在り。
〔神牀〕かむとこ。「神」は、天皇。天皇のおやすみになる床。真本その他は「牀」を「林」または「材」に誤る。いま、延本・底本に従う。〔后〕おほきさき。「大」の字がないが、ただ「きさき」と読むは非。あるいは、「大」の字を脱したのかもしれぬ。上文にも下文にも、みな「大后」とある。〔館レ思〕おもほすこと。ここでは、心配になること。気にかかること。〔澤〕みうつくしみ。ご寵愛。〔被〕かがふる。こうむる。 
【 安康天皇 】目弱王、誅せらる
爾、大長谷王子、當時童男來、聞二此事一以、慷愾忿怒乃、到二其兄僂日子王之許一曰、人、孚二天皇、爲二那何。然、其僂日子王、不レ驚而、有二怠緩之心。於レ是、大長谷王、詈二其兄一言、一爲二天皇、一爲二兄弟。何無二侍心、聞レ殺二其兄、不レ驚而怠乎。來握二其衿一控出、拔レ刀打殺。亦到二其兄白日子王一而、告レ寔レ如レ電。緩亦如二僂日子王。來握二其衿一以、引率來、到二小治田、掘レ穴而、隨レ立埋隅、至二埋レ腰時、兩目走拔而死。亦興レ軍圍二綾夫良意富美之家。爾、興レ軍待戰、射出之矢、如レ葦來散。於レ是、大長谷王、以レ矛爲レ杖、臨二其触一詔、我館二相言一之孃子隅、若有二此家一乎。爾、綾夫良意富美、聞二此詔命、自參出、解二館レ佩兵一而、八度拜、白隅、先日館二問賜一孃女子訶良比賣隅侍。亦副二五處之屯宅一以獻。【館レ謂五村屯宅隅、今犖城之五村苑人也。】然、其正身、館三│以不二參向一隅、自二往古一至二今時、聞二臣・苣隱一レ於二王宮、未レ聞三王子隱レ於二臣家。是以、賤奴意富美隅、雖二竭レ力戰、濘無レ可レ布。然、侍レ己入二│坐于隨家一之王子隅、死而不レ棄。如レ此白而、亦孚二其兵、裝入以戰。爾、力窮、矢盡、白二其王子、僕隅手悉傷、矢亦盡。今不レ得レ戰、如何。其王子、答詔、然隅、濘無レ可レ爲。今殺レ吾故、以レ刀刺二│殺其王子一乃、切二己頸一以死也。
爾に、大長谷王子、当時童男にましましけるが、此の事を聞かして、慷愾み忿怒りまして、其の兄黒日子王の許に到りて曰したまひけらく、「人、天皇を取りまつれり。那何にか為まし。」と、まをしたまふ。然れども、其の黒日子王、驚きたまはずて、怠緩に心ほせり。」こに、大長谷王、其の兄を詈りて言ひけらく、「一つには天皇に為し、一つには兄弟に為すを、何で恃しき心も無く、其の兄の殺せまつらえしことを聞きつつ、驚きたまはずて怠なる。」と、いひて、即ちに其の衿を握りて控き出だし、刀を抜きて打ち殺したまひき。亦、其の兄白日子王のもとに到りて、前の如状を告げたまへども、緩なること、亦、黒日子王の如くなりしかば、即ちに其の衿を握りて、引率来て、小治田に到りて、穴を掘りて、立ち随に埋めしかば、腰を埋むる時に至りて、両つの目走抜けてぞ死せたまひける。亦、軍を興して、都夫良意富美の家を囲みたまふ。爾、軍を興して待ち戦ひ、射出だす矢は葦の如く来散りぬ。ここに、大長谷王、矛を以て杖と為し、 其の内に臨みまして、詔りたまひけらく、「我が相言へる嬢子は、若し此の家にありや。」と、のりたまひき。爾に、都夫良意富美、此の詔命を聞き、自ら参出て、佩ける兵を解きて、八度拝みて白しけらくは、「先の日に問ひ賜へる女子訶良比売は、侍ひなむ。亦、五処の屯宅を副へて献らむ。【いはゆる五つところの屯宅は、今の葛城の五つの村の苑人なり。】然れども、其の正身の参向ざる所以は、往古より今時に至るまで、臣・連の、王の宮に隠りしことは聞けども、未だ王子の、臣の家に隠りませることは聞かず。ここをもて思ふに、賤奴意富美は、力を謁くして戦ふとも、濘に勝つ可くもあらじ。然れども、己を恃みて、随の家に入り坐せる王子をば、死ぬとも棄てまつらじ。」と、かく白して、亦、其の兵を取りて、還り入りて戦ひけり。爾に、力窮まり、矢尽きにければ、其の王子に白しけらく、「僕は手悉に傷ひ、矢も亦尽きぬ。今は戦ふことを得じ。如何にかせむ。」と、まをしければ、其の王子、答へて詔りたまひけらく、「然らば、濘に為むすべ無けむ。今は吾を殺せよ。」と、のりたまひければ、刀を以て其の王子を刺し殺せまつりて、己が頸を切りて死せぬ。
〔童男〕をぐな。既出。ただし、大長谷王子は、この時、すでに三十歳ほどであったのであるが、ここでは、髪を童形に結っていたので称したのであろう。〔慷愾〕うれたむ。応神天皇の段にも出ている。「心痛む」の約転。恨む。嘆く。〔忿怒〕いかる。ひどく怒る。激怒する。真本は「怨怒」に誤る。〔其兄〕そのいろせ。真本は「其仁兄」に作る。〔僂日子王〕くろひこのみこ。上には「境之黒日子王」とある。允恭天皇の皇子。安康天皇・雄略天皇の御兄。真本は「黒」を「里」に誤る。〔孚二天皇〕すめらみことをとりまつる。「取る」は「殺す」。記に多く用いられている。〔怠緩〕おほろかに。おろそかに。なおざりに。 
【 安康天皇 】市辺之忍歯王の難
自レ枴以後、淡恭之佐佐紀山君之督、名韓嗇白、決恭之久多【此二字、以レ音。】綿之蚊屋野、多在二慂鹿。其足隅、如二荻原、指擧角隅、如二枯樹。此時、相二率市邊之竄齒王、幸二行淡恭、到二其野一隅、各異作二假宮一而宿。爾明旦、未二日出一之時、竄齒王、以徘心、隨レ乘二御馬、到二立大長谷王假宮之傍一而、詔二其大長谷王子御汽人、未二寤坐、早可レ白也。夜蝉曙訖。可レ幸二獵濳。乃荵レ馬出行。爾、侍二其大長谷王之御館一人等、白三宇多弖物云王子【宇多弖三字、以レ音。】故、應レ愼。亦宜レ堅二御身。來衣中燮レ甲、取二佩弓矢、乘レ馬出行。倏忽之間、自レ馬往雙、拔レ矢、射二落其竄齒王。乃亦切二其身。入二於馬泪、與レ土等埋。於レ是、市邊王之王子等、意富豆王・袁豆王、【二柱】聞二此亂一而膩去。故、到二山代苅監井、食二御粮一之時、面黥老人來、奪二其粮。爾、其二王言、不レ惜レ粮。然、汝隅誰人。答曰、我隅山代之慂甘也。故、膩二渡玖須婆之河、至二針間國、入二其國人、名志自牟之家、隱レ身、鑑二於馬甘・牛甘一也。
枴より以後、淡海の佐佐紀山君の祖、名は韓嗇白しけらく、「淡海の久多【此の二字、音を以ふ。】綿の蚊屋野に、多に猪鹿在り。其の立てる足は、荻原の如く、指挙げたる角は、枯樹の如し。」 と、まをしけり。此の時、市辺之忍歯王を相率ひて、淡海に幸行でまして、其の野に到りまししかば、各仮宮を作りて宿りたまひき。爾に、明くる旦、未だ日の出でざる時に、忍歯王、以平心、御馬に乗れる随に、大長谷王の仮宮の傍に到り立たして、其の大長谷王子の御伴人に詔りたまひけらく、「未だ寤め坐さざるか。早く白すべし。『夜は既に曙訖。猟濳に幸でますべし。』」 と、のりたまひ、乃りて馬を進めて出で行きましけり。爾に、其の大長谷王の御所に侍らふ人等、「宇多弖物云ふ王子【宇多弖三字、音を以ふ。】故、慎みたまふべし。亦、御身を竪めたまふべし。」と白しけり。即、衣の中に甲を服まし、弓矢を取り佩かし、馬に乗らして出で行きましぬ。倏忽之間、馬より往き双ばして、矢を抜きて、其の忍歯王を射落したまふ。乃りて亦、其の身を切り、馬泪に入れて、土と等しく埋みたりき。ここに、市辺王の王子等、意富豆王・袁豆王、【二柱】此の乱れを聞かして、逃げ去りたまひき。故、山代の苅羽井に到りまして、御粮を食したまふ時に、面黥ける老人来て、其の粮を奪ひき。爾、其の二の王、言りたまひけらく、 「粮は惜しまず。然れども、汝は誰人ぞ。」と、のりたまへば、答へて白しけらく、「我は山代の猪甘なり。」と、まをしき。故、玖須婆の河を逃げ渡りて、針間国に至りまし、其の国人、名は志自牟の家に入りまして、身を隠したまひ、馬甘・牛甘にぞ鑑はえましける。
〔佐佐紀山君〕ささきのやまのきみ。孝元紀七年二月に大彦命の裔として、「狭狭城山君」の名が出ている。狭狭城(佐佐木)は、近江国(滋賀県)蒲生郡の旧庄名で、今の安土村およびその付近に当たる。「やまのきみ」は、山部の首長。記に、韓嗇を佐佐紀の山の君の「祖」とあるは、誤り。紀には「祖」とはない。〔韓嗇〕からぶくろ。「三韓の袋」の意の名か。この人、紀によれば、顕宗天皇により籍帳を削除され、山部連に隷属せしめられた。ゆえに、山の君の祖ではない。〔久多綿之蚊屋野〕くたわたのかやの。「かやぬ」は非。東大寺三綱記に「来田綿西明西寺、在二蒲生郡来田綿熊野。」とある。「蚊屋野」は恐らく「茅野」であり、後に「熊野」と訛したのであろうか。今の滋賀県蒲生郡西大路村字北畑の辺という。「北畑」は「来田綿」の訛であろう。 
 

 

【 雄略天皇 】后妃と御子たち
大長谷若建命、坐二長谷咆倉宮、治二天下一也。天皇、娶二大日下王之妹若日下王。【无子】樸、娶二綾夫良意富美之女韓比賣、生御子、白髮命。筱妹若帶比賣命。【二柱】故、爲二白髮太子之御名代、定二白髮部、樸、定二長谷部鐙人、樸、定二河腿鐙人一也。 此時、寞人參渡來。其寞人安三│置於二寞原。故、號二其地一謂二寞原一也。
大長谷若建命、長谷の朝倉の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふ。この天皇、大日下王の妹若日下王【无子】に娶ひたまひき。又、都夫良意富美の女韓比売を娶して、生みませる御子、白髪命。次に妹若帯比売命。【二柱】故、白髪太子の御名代と為て、白髪部を定めたまひ、又、長谷部舎人を定めたまひ、又、河瀬舎人を定めたまひき。 此の時に、呉人参渡り来けり。其の呉人を呉原に安置きたまふ。故、其地を呉原とは謂ふなり。
〔大長谷若建命〕おほはつせわかたけのみこと。上には「大長谷王」または「大長谷王子」とあって、「若建」の名は、ここに初めて現われた。「若く、健き」。意の名。「建」は「健」の省字である。この天皇の勇猛なことは、上文にも下文にも、いちじるしい。この天皇は、大和国の泊瀬に住まれていたので申す。「大」は美称。 
【 雄略天皇 】志幾の大県主
初、大后、坐二日下一之時、自二日下之直越蕈、幸二│行河内。爾、登二山上、望二國触一隅、有下上二堅魚一作二舎屋一之家上。天皇、令レ問二其家一云、其上二堅魚一作鐙隅、誰家。答二│白志幾之大縣主家。爾、天皇詔隅、奴乎、己家似二天皇之御鐙一而芟。來虔レ人、令レ燒二其家一之時、其大縣主、懼畏稽首白、奴有隅、隨レ奴不レ覺而蔬作。甚畏。故、獻二能美之御巫物。【能美二字、以レ音。】布二│螂白犬、著レ鈴而、己族、名謂二腰佩一人、令レ孚二犬繩一以獻上。故、令レ止二其著一レ火。來幸二│行其若日下王之許、賜二│入其犬、令レ詔、是物隅、今日得レ蕈之奇物。故、綾庄杼比【此四字、以レ音。】之物云而賜入也。
初め大后、日下に坐しける時、日下の直越えの道より河内に幸行でたまひけり。爾、山の上に登りたまひて、国内を望けたまひしかば、堅魚を上げて舎屋を作れる家あり。天皇、其の家を問はしめたまひ、云りたまひけらく、「其の堅魚を上げて作れる舎は、誰が家ぞ。」と、とはしめたまふ。「志幾の大県主の家なり。」と答へ白しき。爾に、天皇詔りたまひけらくは、「奴や、己が家を天皇の御舎に似せて造れり。」と、のりたまひて、即ちに人を遣はして其の家を焼かしめたまはむとせし時、其の大県主、懼ぢ畏みて稽首み白しけらく、「奴なれば、奴ながら覚らずて過ち作れり。甚畏し。故、能美の御幣物を献らむ。【能美の二字、音を以ふ。】」と、まをして、白き犬に布うち螂け、鈴を着けて、己が族、名は腰佩と謂へる人に、犬縄を取らしめて献上りき。故、其の火着くることを止めしめたまふ。即て其の若日下王の許に幸行でまして、其の犬を賜ひ入れて、詔らしめたまひけらく、「是の物は、今日道にて得たる奇しき物なり。故、都摩杼比【この四字、音を以ふ。】の物ぞ。」と云りたまひて、賜ひ入れき。
〔大后〕おはきさま。皇后。若日下王である。諸本「太后」に作る。いま、上文・下文および底本に従う。〔日下〕くさか。「草香」「孔舎衙」にも作る。河内国(大阪府)中河内郡孔舎衙村大字日下。生駒山の西麓の地。「くさか」を「日下」と書くことにつき、諸説があるが、記伝も言うごとく、明瞭でない。「暗坂の意にて、日の下れば、暗きものなるを以てにや。」か。〔直越蕈〕ただごえのみち。まっすぐに越える道(峠)の意であろう。今、暗峠と言う。奈良県平群郡から生駒山の南方を越えて、河内国に至り、大阪へ行く道筋に当たる。前項の暗坂が今の暗峠であり、樹木が茂って、昼なお暗い峠であったゆえの名であろう。〔山上〕やまのうへ。生駒山の上。暗峠の頂上。 
【 雄略天皇 】天皇、若日下王に和歌を贈り給ふ
於レ是、若日下王、令レ奏二天皇、背レ日幸行之事、甚恐。故、己直參上而仕奉。是以、裝二│上│坐於一レ宮之時、行二│立其山之坂上、歌曰、 久佐加辨能 許知能夜揺登 多多美許母 巫具理能夜揺能 許知碁知能 夜揺能賀比爾 多知邪加由流 波豐呂久揺加斯 母登爾波 伊久美陀氣淤斐 須惠幣爾波 多斯美陀氣淤斐 伊久美陀氣 伊久美波泥受 多斯美陀氣 多斯爾波韋泥受 能知母久美泥牟 曾能淤母比豆揺 阿波禮 來令レ持二此歌一而羮レ使也。
ここに、若日下王、天皇に奏さしめたまひけらく、「日に背きて幸行でませる事、甚恐し。故、己直に参上りて仕へ奉らむ。」と、まをさしめたまひき。ここをもて、宮に還り上り坐す時に、其の山の坂の上に行き立たして、歌曰ひたまひけらく、 (九一) 日下部の 此方の山と たたみこも 平群の山の 此方此方の 山の峡に 立ち栄ゆる 葉広熊樫 本には いくみ竹生ひ 末方には たしみ竹生ひ いくみ竹 いくみは寝ず たしみ竹 たしには率寝ず 後もくみ寝む その思ひ妻 あはれ 即ち此の歌を持たしめて、使ひを返したまひけり。
〔若日下王〕わかくさかのみこ。「若日下部王」に作る本は非。上に述べてある。いま、延本に従う。〔令レ奏二天皇〕すめらみことにまをさしむ。雄略天皇が若日下王の家を辞されてあとを追うて、若日下王が、使者をつかわして、天皇に申し上げさせたのである。〔背レ日幸行〕ひにそむきていでます。「そむく」は「背を向ける」。東の大和から西の河内へ行くには、太陽に背を向けるからである。これに反し西の河内から東の大和へ行くのは「日に向かふ」わけである。中巻の冒頭、神武天皇の段に「向レ日而戦不レ良。」とある。事情によって、日に背くを忌み、日に向かうを忌む。〔直參上而仕奉〕ただにまゐのぼりてつかへまつらむ。「ただに」は「つかへまつらむ」に係る。泊瀬の宮へ参上して、直接に仕え奉りましょう。陛下が、わざわざ河内へおでましになるのは、おそれおおいとの意。天皇の求婚を承諾したのである。 
【 雄略天皇 】引田部の赤猪子
亦一時、天皇、蓆行、到二於美和河一之時、河邊有二洗レ衣童女、其容姿甚麗。天皇、問二其童女汝隅誰子。答三│白己名謂二引田部赤慂子。爾、令レ詔隅、汝不二嫁夫。今將レ喚而裝二│坐於一レ宮。故、其赤慂子、仰二│待天皇之命、蝉經二八十歳。於レ是、赤慂子以爲、望レ命之間已經二多年、姿體痩萎、更無レ館レ恃。然、非レ顯二待菷、不レ竄レ於レ悒而、令レ持二百孚之机代物、參出貢獻。然、天皇、蝉忘二先館レ命之事、問二其赤慂子一曰、汝隅誰老女、何由以參來。爾、赤慂子答白、其年其月、被二天皇之命、仰二待大命、至二于今日、經二八十歳。今容姿蝉耆、更無レ館レ恃。然、顯二│自己志一以參出耳。於レ是、天皇、大驚、吾蝉忘二先事。然、汝守レ志待レ命、徒蔬二盛年、是甚愛悲。心裏欲レ婚、憚二其極老、不レ得二成婚一而、賜二御歌。其歌曰、 美母呂能 伊綾加斯賀母登 加斯賀母登 由由斯岐加母 加斯波良袁登賣 又、歌曰、 比氣多能 和加久流須婆良 和加久閉爾 韋泥弖揺斯母能 淤伊爾豆流加母 爾、赤慂子之泣撃、悉濕二其館レ燮之丹肖袖、答二其大御歌一而歌曰、 美母呂爾 綾久夜多揺加岐 綾岐阿揺斯 多爾加母余良牟 加微能美夜比登 又、歌曰、 久佐聟延能 伊理延能波知須 波那婆知須 微能佐加理豐登 登母斯岐呂加母 爾、多燃給二其老女一以、羮虔也。故、此四歌隅、志綾歌也。
亦一時、天皇、遊ばしつつ行きまして、美和河に到りませる時に、河の辺に衣洗ふ童女あり、其の容姿甚麗しかりき。天皇、其の童女に「汝は誰が子ぞ。」と問ひたまひければ、「己が名は、引田部の赤猪子と謂す。」と答へ白しけり。爾に、詔らしめたまひけらくは、「汝は嫁夫がずにをれ。今に喚しなむ。」と、のらしめたまひて、宮に還り坐しき。故、其の赤猪子、天皇の命を仰ぎ待ちて、既に八十歳を経たりき。ここに、赤猪子以為ひけらく、「命を望みつる間に、已に多の年を経て、姿体痩せ萎へ、更に恃む所なし。然れども、待ちつる情を顕はしまをさずては、悒きに忍えず。」と、おもひて、百取の机代の物を持たしめて、参出て貢献りけり。然るに、天皇、既に先に命りたまへる事を忘れたまひて、其の赤猪子に問はして、曰りたまひけらく、「汝は誰やし老女ぞ。何由以参来つる。」と、のりたまふ。爾、赤猪子、答へて曰しけらく、「其の年、其の月に、天皇の命を被りて、今日に至るまで、八十歳を経たり。今は容姿既に耆いて、更に恃む所なし。然れども、己が志を顕はし白さむとしてこそ、参出つれ。」と、まをしき。ここに、天皇、大く驚かして、「吾は既に先の事を忘れたりき。然るに、汝志を守りて命を待ち、徒に盛りの年を過ぐししこと、是は甚愛悲しきことなり。」と、のりたまひて、心の裏には婚さむと欲ほしたまへども、其の極く老いぬるを憚りて、成婚し得ずて、御歌を賜ふ。其の歌に曰りたまひけらく、 (九二) 御諸の 厳橿が本 橿が本 ゆゆしきかも 橿原小女 又、歌曰ひたまひけらく、 (九三) 引田の 若栗栖原 若くへに 率寝てましもの 老いにけるかも 爾、赤猪子の泣く涙、悉に其の服せる丹摺の抽を湿らしつつ、其の大御歌に答へて歌日ひけらく、 (九四) 御諸に 築くや玉垣 築き余し 誰にかも依らむ 神の宮人 又、歌日ひけらく、 (九五) 草香江の 入江の蓮 花蓮 身の盛り人 羨しきろかも 爾、多の禄を其の老女に給ひて、返し遣りたまひき。故、此の四つの歌は、志都歌なり。
〔一時〕あるとき。英語の one day と同趣。上にも述べてある。〔美和河〕「三輪河」である。奈良県桜井市大三輪町の三輪山の東北に発源し、この山の南をめぐり、初瀬川となる。雄略天皇の泊瀬の朝倉の宮から、そう遠くない。〔引田部〕ひきたべ。この「部」は部民の意ではなく、「部落」「村」の意。記伝は「ひけたべ」と訓じ、和名抄に「讃岐国大内郡引田(比介多)郷」とあるなどを引証しているし、また、斉明紀四年十一月に、有名な「阿倍引田臣比羅夫」などの名も見えている。しかし、ここの「引田部」は姓ではなく地名であり、神名帳に「大和国、城上郡曳田神社」が見え、和名抄に「城上郡辟田郷」とある。この「ひらた」は「低田」の意であるから、もと「ひきた」と称したものと思われる。歌に「比気多」とある「気」は漢音「キ」、呉音「ケ」であること、上に述べてある。ここは「ヒキタ」である。すなわち、今の奈良県桜井市初瀬町大字白河の辺。 
【 雄略天皇 】吉野の少女
天皇、幸二│行吉野宮一之時、吉野川之濱有二童女。其形姿美麗。故、婚二是童女一而、裝二│坐於一レ宮。後更亦、幸二│行吉野一之時、留二其童女之館一レ蓚、於二其處一立二大御寞床一而、坐二其御寞床、彈二御琴、令レ為レ蛹二其孃子。爾、因二其孃子之好蛹、作二御歌。其歌曰、 阿具良韋能 加微能美弖母知 比久許登爾 揺比須流袁美那 登許余爾母加母
天皇、吉野の宮に幸行でませる時に、吉野川の浜に童女あり。其の形姿美麗しかりき。故、この童女と婚ひして、宮に還り坐しぬ。後に更に亦、吉野に幸行でませる時に、其の童女と遇へりし所に留りまして、其処に大御呉床を立て、其の御呉床に坐しまして、御琴を弾きたまひ、其の嬢子に蛹はしめたまひけり。爾、其の嬢子の好く蛹へるに因りて、御歌作みしたまひけり。其の歌に曰りたまひけらく、 (九六) あぐらゐの 神の御手もち 弾く琴に 舞ひするをみな とこよにもがも
〔吉野〕えしの。「えしぬ」は誤訓。「よしの」ともいう。万一の二七に「芳野よく見よ、よき人よく見つ」とある。天智紀十二年十二月の長歌には「曳之奴」とある。「よい野」の意の地名。大和国の吉野川を中心として、北は竜門・鷹取から南は犖城山につづく山脈を境として、南にわたる山地および吉野川流域一帯の地域の称。応神天皇以来、しばしば行幸があり、また、離宮があった。ここの山は、さくらの名所であると共に、後醍醐天皇が、この地に遷都されてから五十余年間、帝都となった地。文学史のうえでは、この約六十年を「吉野時代」と呼ぶ。「吉野の宮」は、この地にあった離宮。 
【 雄略天皇 】秋津野
來幸二阿岐豆野一而、御獵之時、天皇、坐二御呉床。爾、合咋二御腕一來、蜻蛉來、咋二其合一而飛。【訓二蜻蛉一云二阿岐豆。】於レ是、作二御歌。其歌曰、 美延斯怒能 袁牟漏賀多氣爾 志斯布須登 多禮曾意富揺巫爾揺袁須 夜須美斯志 和賀淤富岐美能 斯志揺綾登 阿具良爾伊揺志 斯漏多閉能 蘇弖岐蘇那布 多古牟良爾 阿牟加岐綾岐 曾能阿牟袁 阿岐豆波夜具比 加久能碁登 那爾淤波牟登 蘇良美綾 夜揺登能久爾袁 阿岐豆志揺登布 故、自二其時、號二其野、謂二阿岐豆野一也。
即て阿岐豆野に幸でまして、御猟したまひし時に、天皇、御呉床に坐しましけり。爾に、合御腕を咋ひけるを、蜻蛉来て、其の合を咋ひて飛びいにけり。【蜻蛉を訓みて、アキツと云ふ。】ここに御歌作みしたまひけり。其の歌に曰りたまひけらく、 (九七) み吉野の 袁牟漏が岳に 猪鹿伏すと 誰ぞ大前に奏す やすみしし 我が大君の 猪鹿待つと 胡床に 坐まし 白栲の 抽着具ふ 手腓に 合かきつき その合を 蜻蛉速咋ひ かくの如 名に負はむと そらみつ やまとの 国を秋津島と云 故、其の時より、其の野を号づけて、秋津野とは謂ふなり。
〔來〕やがて。底本の訓「すなはち」には従わぬ。〔阿岐豆野〕秋津野。底本の訓「あきづぬ」は二重の誤り。「豆」は「ツ」「ヅ」の仮名。ここは「ツ」。「土」を「豆知」と訓じ、「夜麻陀表豆久理」(山田を作り)など、上に出ている。また、下文に「阿豆王」(紀「厚王」)などともある。また、「野」を「の」と読むこと、今日の学界では定説となっている。 
【 雄略天皇 】葛城山の御猟
又、一時、天皇、登二│幸犖城之山上。爾大慂出。來天皇、以二鳴鏑一射二其慂一之時、其慂怒而、宇多岐依來。【宇多岐三字、以レ音。】故、天皇、畏二其宇多岐、登二│坐榛上一爾、歌曰、 夜須美斯志 和賀意富岐美能 阿蘇婆志斯 志斯能 夜美斯志能 宇多岐加斯古美 和賀爾宜能煩理斯 阿理袁能 波理能紀能延陀
又、一時、天皇、葛城の山の上に登り幸でましき。爾に、大猪出でけり。即ち天皇、鳴鏑以て其の猪を射たまへる時に、其の猪怒りて、宇多岐依り来。【宇多岐の三字、音を以ふ。】故、天皇、其の宇多岐を畏みて、榛の上に登り坐まして、歌曰みしたまひけらく、 (九八) やすみしし 我が大君の 遊ばしし 猪の 病み猪の うたき畏み 我が逃げ登りし ありをの 榛の木の枝
記の、ここの記事には、葛城山に猟をしたとはないが、雄略紀五年二月に「天皇、校二│猟于葛城山。」とあるから、天皇が従臣たちを率いて葛城山に御猟をされたことは明らかである。ところで、紀によれば、その時、突然、怒り猪が草の中から走って来たので、舎人が恐れて木に登って、ぶるぶるふるえている。天皇が、その懦弱を怒られて、その舎人を斬ろうとされた時。舎人が命請いをするために詠じた歌が、記のここの歌とほとんど同じである。記では、天皇の御歌となっているが、天皇が「やすみしし、わが大君の遊ばしし」などと詠じられるはずはなく、紀の伝のとおり、これは舎人の詠である。それが、語り部などの伝誦の間に、記のような伝となってしまったものと思われる。しかし、今は、記の記事によって解しておく。 
【 雄略天皇 】一言主之大神
又、一時、天皇、登二│幸犖城山一之時、百官人等、悉給下著二紅紐一之呟肖衣上燮。彼時、有下其自二館向之山尾一登二山上人上。蝉等二天皇之鹵簿、亦其裝束之寔及人衆、相似不レ傾。爾、天皇、望令レ問曰、於二枴倭國、除レ吾亦無レ王、今誰人如レ此而行來、答曰之寔亦如二天皇之命。於レ是、天皇、大忿而矢刺、百官人等、悉矢刺爾、其人等亦皆矢刺。故、天皇、亦問曰、然、告二其名。爾、各告レ名而彈レ矢。於レ是、答曰、吾先見レ問故、吾先爲二名告。吾隅雖二惡事一而一言、雖二善言一而一言、言離之突、犖城之一言主之大突隅也。天皇、於レ是、惶畏而白、恐、我大突、有二宇綾志意美一隅【自レ宇下五字、以レ音。】不レ覺白而、大御刀及弓矢始而、招二百官人等館レ燮之衣燮一以拜獻。爾、其一言主大突、手打受二其捧物。故、天皇之裝幸時、其大突滿山末、於二長谷山口一膣奉。故、是一言主之大突隅、彼時館レ顯也。
又、一時、天皇、葛城の山に登り幸でましし時に、百の官人等、悉に紅紐を着けたる青摺の衣を給はりて、服たりけり。彼の時に、其の所向の山の尾より山の上に登る人あり。既に天皇の鹵簿に等しく、亦其の装束の状も人衆も、相似りて不傾。爾に、天皇、望けまして、問はしめて、曰りたまひけらく、「枴の倭の国に、吾を除きて、亦王は無きを、今誰人ぞかくて行く。」と、のらしめたまひけれは、答へて曰せる状も亦天皇の命の如くなりき。ここに、天皇、大く忿らして、矢刺したまひ、百の官人等も、悉に矢刺しければ、其の人等も亦皆矢刺しけり。故、天皇、亦問ひて曰りたまひけらく、「然らば、其の名を告らさね。爾、各名を告りて矢を弾たむ。」と、のりたまふ。ここに、答へて曰したまひけらく、「吾先づ問はえたれば、吾先づ名告為む。吾は、悪事も一言、善言も一言に、言ひ離つ神、葛城の一言主之大神なり。」と、まをしたまひき。ここに天皇、惶畏みて白したまひけらく、「恐し、我が大神、宇都志意美に有さむとは【宇より下の五字、音を以ふ。】覚らざりき。」と白したまひて、大御刀及弓矢を始めて、百の官人等の服せる衣服を脱がしめて、拝みて献りけり。爾、其の一言主大神、手打ちて、其の捧げ物を受けたまひき。故、天皇の還幸ります時、其の大神、満山末、長谷の山口に送り奉りけり。故、是の一言主之大神は、彼の時に顕はれたまひしなり。
〔犖城山〕かづらきのやま。上文に「之」の字があり、ここにはないが、読みは上に準ずる。〔紅紐〕あかひも。赤色の紐で、上代朝服の襟に付けた。ここでは、天皇に扈従するからである。真本は「紐」を「細」に誤る。〔呟肖衣〕あをすりのきぬ。既出。〔館向之山尾〕むかひのやまのを。「所向」の二字を「むかひ」と訓ずる底本に従う。「尾」は、山の裾の、なだらかにのびたところ。〔蝉〕すでに。ここでは「すっかり」「全く」などの意。 
【 雄略天皇 】春日の少女
樸、天皇、婚二丸邇之佐綾紀臣之女袁杼比賣、幸三│行于二春日一之時、江女苡レ蕈。來見二幸行一而、膩二│隱岡邊。故、作二御歌。其御歌曰、 袁登賣能 伊加久流袁加袁 加那須岐母 伊本知母賀母 須岐婆奴流母能 故、號二其岡一謂二金午岡一也。
又、天皇、丸邇之佐都紀臣之女袁杼比売を婚ひに、春日に幸行でましし時、媛女道に逢へり。即ち幸行を見て、岡辺に逃げ隠りぬ。故、御歌作みしたまひけり。其の御歌に曰りたまひけらく、 (九九) 少女の い隠る岡を 金午も 五百箇もがも 鋤き撥ぬるもの 故、其の岡を金午の岡とは謂ふなり。
〔丸邇之佐綾紀臣〕わにのさつきのおみ。春日の和珥の地に住んでいた豪族。春日臣と同義。「さつき」は「五月」に因む名であろう。「さ」を「い」とひとしい接頭語と見て「いつき」と解し、祠官の意とする人もあるが、もって回った考え方である。雄略紀元年三月に「春日臣深目」とあると同一人。「ふかめ」とあるから女性であり、この童女の母であるなどとする必要はない。男性にも「阿曇目」などという人もある。目のくぼんでいる人の名として、男性を「ふかめ」と称して、少しもおかしくない。 
【 雄略天皇 】三重の区女の歌
樸、天皇、坐二長谷之百枝槻下、爲二豐樂一之時、伊勢國之三重区女、指二│擧大御盞一以獻。爾、其百枝槻葉、落僑二於大御盞。其区女、不レ知二落葉僑レ於一レ盞、憑獻二大御酒。天皇、看二│行其僑レ盞之葉、打二│伏其区女、以レ刀刺二│充其頸、將レ斬之時、其区女、白二天皇一曰、莫レ殺二吾身。有二應レ白事一來、歌曰、 揺岐牟久能 比志呂乃美夜波 阿佐比能 比傳流美夜 由布比能 比賀氣流美夜 多氣能泥能 泥陀流美夜 許能泥能 泥婆布美夜 夜本爾余志 伊岐豆岐能美夜 揺岐佐久 比能美加度 爾比那閉夜爾 淤斐陀弖流 毛毛陀流 綾紀賀延波 本綾延波 阿米袁淤幣理 那加綾延波 阿豆揺袁淤幣理 志豆延波 比那袁淤幣理 本綾延能 延能宇良婆波 那加綾延爾 淤知布良婆閉 那加綾延能 延能宇良婆波 斯毛綾延爾 淤知布良婆閉 斯豆延能 延能宇良婆波 阿理岐奴能 美幣能古賀 佐佐賀世流 美豆多揺宇岐爾 宇岐斯阿夫良 淤知那豆佐比 美那許袁呂 許袁呂爾 許斯母 阿夜爾加志古志 多加比加流 比能美古 許登能加多理碁登母 許袁婆 故、獻二此歌一隅、赦二其罪一也。
又、天皇、長谷の百枝槻の下に、豊楽為しめす時に、伊勢国の三重の釆女、大御盞を指挙げて献りき。爾に、其の百枝槻の葉、落ちて大御盞に浮かべり。其の釆女、落ち葉の盞に浮かべるを知らずして、猶大御酒を献りけり。天皇、其の盞に浮かべる葉を看行はして、其の釆女を打ち伏せ、刀を以て其の頸に刺し充て、斬らむとしたまひし時、其の釆女、天皇に白して曰しけらく、「吾が身を、莫殺したまひそ。白すべき事あり。」とて、歌曰ひけらく、 (一〇〇) まきむくの 日代の宮は 朝日の日照る宮 夕日の日陰る宮 竹の根の 根垂る宮 木の根の 根延ふ宮 やほによし い築きの宮 ままさく 日の御門 新嘗屋に 生ひ立てる ももだる 槻が枝は 上つ枝は 天を蔽へり 中つ枝は あづまを蔽へり 下づ枝は ひなを蔽へり 上つ枝の 枝の末葉は 中つ枝に 落ちふらばへ 中つ枝の 枝の末葉は 下づ枝に 落ちふらばへ 下づ枝の 枝の末葉は ありぎぬの 三重の子が 捧がせる 瑞玉盞に 浮きしあぶら 落ちなづさひ みなこをろ こをろに 此しも あやに畏し たかひかる 日の御子 事の語り言も 此をば 故、此の歌を献しかば、其の罪を赦さえにけり。
〔百枝槻〕ももえつき。多くの枝や葉の付いている槻。「つき」は「けやき」に似た喬木。〔豐樂〕とよのあかり。既出。ここは、新嘗の儀の宴会。〔三重〕みへ。伊勢国(三重県)三重郡。今も同郡に采女村という村がある。〔区女〕うめね。のち、転じて「うねべ」とも言う。「いしこりどめ」が転じて「いしこりどべ」となる類。国語辞典類の説明は逆である。「うなぐ女」の約転であろう。髪をうなじの辺まで垂らしていた女性で、後宮の下級女官である。天皇・中宮の髪上げ、御手水・飯饌などのことに仕えた。郡の少領以上の娘の中から、美貌な者を選んで採用した。「釆女」の文字を当てるのは、後漢書、駅皇后伝に、「釆女。釆、択也。以レ因二釆択一而立レ名。」とあるに因る。 
【 雄略天皇 】天皇と皇后との御歌
爾、大后歌、其歌曰、 夜揺登能 許能多氣知爾 古陀加流 伊知能綾加佐 爾比那閉夜爾 淤斐陀弖流 波豐呂由綾揺綾婆岐 曾賀波能 比呂伊理揺志 曾能波那能 弖理伊揺須 多加比加流 比能美古爾 登余美岐 多弖揺綾良勢 許登能加多理碁登母 許袁婆 來、天皇、歌曰、 毛毛志紀能 淤富美夜比登波 宇豆良登理 比禮登理加氣弖 揺那婆志良 袁由岐阿閉 爾波須受米 宇豆須揺理韋弖 豆布母加母 佐加美豆久良斯 多加比加流 比能美夜比登 許登能加多理碁登母 許袁婆 此三歌隅、天語歌也。故、於二此豐樂。譽二其三重区女一而、給二多レ燃一也。
爾に、大后歌みしたまひける、其の歌に曰りたまひけらく、 (一〇一) 大和の この高市に 小高る 市の阜 新嘗屋に 生ひ立てる 葉広ゆつ真椿 其が葉の 広りいまし 其の花の 照りいます 高光る 日の御子に 豊御酒 奉らせ 事の語り言も 此をば 即ち、天皇、歌曰みしたひけらく、 (一〇二) ももしきの 大宮人は 鶉鳥 領巾とりかけて まなばしら 尾行き会へ 庭雀 うずすまりゐて 今日もかも 酒水漬くらし 高光る 日の宮人 事の語り言も 此をば 此の三つの歌は、天語歌なり。故、此の豊楽に、其の三重の釆女を誉めたまひて、燃多に給ひけり。  
〔多氣知〕高市。「たかいち」の約転。「たか」は「集る」の「たか」、「いち」は四方八方から人の集まるところの意。すなわち、人の多く集まって、にぎわう地。市街。都会。皇都。ここは「皇都」である。大和の郡名高市(今の高市)も、もと市街の意であるが、ここは、その郡名ではない。神代紀、上、一書に「会三八十万神於二天高市一而問之。」とあるのは、南天原の集会所である。〔古陀加流〕小高る。「小高かる」の下の「か」を省いた言い方。「少し高い」意。
【 雄略天皇 】天皇の御歌と袁杼比売の歌
是豐樂之日、亦春日之袁杼比賣、獻二大御酒一之時、天皇歌曰、 美那曾曾久 淤美能袁登賣 本陀理登良須母 本陀理斗理 加多久斗良勢 斯多賀多久 夜賀多久斗良勢 本陀理斗良須古 此隅、宇岐歌也。爾、袁杼比賣、獻レ歌。其歌曰、 夜須美斯志 和賀淤富岐美能 阿佐計爾波 伊余理陀多志 由布計爾波 伊余理陀多須 和岐豆紀賀斯多能 伊多爾母賀 阿世袁 此隅、志綾歌也。
是の豊楽の日、亦春日の袁杼比売が、大御酒を献れる時に、天皇、歌曰みしたまひけらく、 (一〇三) 水注く 臣の少女 秀辣執らすも 秀辣執り 堅く執らせ 下堅く 彌堅く執らせ 秀辣執らす子 此は、宇岐歌なり。爾に、袁杼比売、歌を献れり。其の歌に曰ひけらく、 (一〇四) やすみしし わが大君の 朝けには い倚り立たし 夕けには い倚り立たす 脇突が下の 板にもが あせを 此は、志都歌なり。

〔袁杼比賣〕乙江。この「杼」は「ト」の仮名であること、上にも述べてある。なお、真本は「杼」を「抒」に誤る。〔美那曾曾久〕水注く。枕詞。古来、諸説があるが、「水が注ぐ」または「水に浸る」ということから、水に縁のある「魚」「鮪」などに冠するとするのが、最も妥当な説である。ほかに複雑怪奇な説も多いが、いずれも首肯されぬ。ここでは「魚」と同音の「おみのをとめ」の「を」に冠している。なお、真本は「美那曽斗久」に誤る。〔袁登賣〕少女。紀の、丸邇之佐都紀臣の女、春日の袁登比売をいう。これで見るも、記伝の訓「をどひめ」などは、誤訓である。〔本陀理〕秀辣。「秀垂」の意。「秀」は「上」。「垂」は「したたり出る」意。酒を入れて、盃に注ぐ器。後世の銚子・徳利の類。「樽」は、この語に基づく。説文に「尊、注レ酒器」とある。「辣」「樽」「尊」は同義。ただし、樽が酒を入れて置く桶の儀に転じた。なお、延本は「本」を「太」に作る。この例は、上にもあった。下も同じ。〔登良須母〕執らすも。「す」は敬語の助動詞の終止形。「も」は感動の終助詞。執っていられるよ。天皇が袁登比売に感激されての言。 
【 雄略天皇 】天皇崩御
天皇、御年壹佰貳拾肆歳。御陵在二河内之多治比高斑一也。
天皇、御年壱佰弐拾肆歳。御陵は河内の丹治比の高斑に在り。
〔壹佰貳拾肆歳〕真本等には、この下に「【己己年八月九日崩也】」の分注がある。「己己年」は、「己巳年」の誤りである。また、「八月九日」は何に拠ったか不明。後人のさかしらな続入であろう。いま、延本・底本等に従う。因みに、雄略紀二十三年八月には、「天皇、病彌甚」とあるだけで、崩御のことはしるしてなく、清寧紀即位前には、「二十三年八月、大泊瀬天皇崩。」とはあるが、崩御の年齢はしるしてない。〔多治比高斑〕たぢひのたかわし。 
 

 

【 清寧天皇 】天皇と忍海郎女
白髮大倭根子命、坐二伊波禮之甕栗宮、治二天下一也。此天皇、無二皇后、亦無二御子一故、御名代定二白髮部。故、天皇紡後、無下可レ治二天下一之王上也。於レ是、問二日繼館レ知之王一也、市邊竄齒別王之妹竄恭輙女、亦名礦豐王、坐二犖城竄恭之高木角刺宮一也。
白髪大倭根子命、伊波礼の甕栗の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふ。此の天皇、皇后無しまさず、亦御子も無しまさざりしかば、御名代として白髪部を定めたまひき。故、天皇崩りまして後、天の下を治すべき王無しまさず。ここに、日継知しめさる王を問ふに、市辺忍歯別王の妹忍海郎女、亦の名は飯豊王、葛城の忍海の高木の角刺の宮に坐しましき。
〔白髪大倭根子命〕しらかのおほやまとねこのみこと。この上に、真本は「御子」の二字をしるしている。雄略天皇の御子の意であろうが、後人の続入であろう。諸本にない。いま、諸本および底本に従う。雄略天皇の太子。初めの御名は白髪命。清寧紀即位前に「天皇、生而白髪、云々。」とある。 
【 清寧天皇 】意富豆命・袁豆命の出現
爾、山部苣小楯、任二針間國之宰一時、到二其國之人民、名志自牟之新室一樂。於レ是、盛樂、酒酣、以二筱第一皆蛹。故、燒火少子二口、居二竈傍、令レ蛹二其少子等。爾、其一少子、曰二汝兄先蛹、其兄亦曰二汝弟先蛹、如レ此相讓之時、其會人等、恁二其相讓之寔。爾、蒹兄蛹訖、筱弟將レ蛹時、爲レ詠曰、物部之我夫子之取佩於二大刀之手上、丹畫著、其茆隅裁二赤幡、立二赤幡、見隅五十隱、山三尾之竹矣本訶岐【此二字、以レ音。】苅、末押靡魚簀、如レ調二八絃琴、館レ治二│賜天下一伊邪本和氣天皇之御子市邊之押齒王之奴末。爾來、小楯苣、聞驚而、自レ床墮轉而、膊二│出其室人等、其二柱王子、坐二左右膝上、泣悲而集二人民、作二假宮、坐二│置其假宮一而、貢二│上驛使。於レ是、其姨礦豐王、聞歡而、令レ上レ於レ宮。
爾に、山部連小楯、針間国の宰に任けらえし時に、其の国の人民、名は志自牟の新室に到りて楽せりき。ここに、盛りに楽げて、酒酣なるとき、次第の以に皆蛹ひけり。故、焼火の少子二口、竈の傍に居たるを、其の少子等に蛹はしむ。爾に、其の一の少子、「汝兄先づ蛹へ。」と曰へば、其の兄も、「汝弟先づ蛹へ。」と曰ひ、かく相譲れる時に、其の会へる人等、其の相譲らふ状を咲ひけり。爾、遂に兄まづ蛹ひ訖りて、次に弟と蛹はむとする時に、詠為て曰ひけらく、「物部の我が夫子が取り佩ける太刀の手上に、丹画き着け、其の緒には赤幡を裁ち、赤幡を立てて、見ゆれば五十隠る、山の三尾の竹を本訶岐【この三字、音を以ふ。】苅り、末押し靡かす魚簀、八絃の琴を調ぶる如、天の下を治しめし賜へる伊邪本和気天皇の御子市辺之押歯王の奴末。」と、のりたまへり。爾即、小楯連、聞き驚きて、床より堕ち転びて、其の室なる人等を追ひ出だし、其の二柱の王子を、左右の膝の上に坐せまつりて、泣き悲しみて、人民を集へて、仮宮を作らしめ、其の仮宮に坐せ置きまつりて、駅使を貢上れり。ここに、其の姨飯豊王、聞き歓ばして、宮に上らしめたまひき。
〔山部苣小楯〕やまべのむらじをだて。底本の訓「をたて」には従わぬ。中巻、応神天皇の段の歌謡に「袁陀弖」、下巻、仁徳天皇の段の歌謡にも「袁陀弖」とあり、すべて「小楯」の意である。ここは人の名であるが、連濁で「をだて」と訓ずべきである。播磨の国司伊与来目部小楯が、顕宗・仁賢二帝を世にあらわし奉った功によって連の姓を賜わったのであって、ここに「連」というのは、のちの姓を称したのである。すなわち、顕宗天皇によって、山官となり、山守部の首長となる。顕宗紀元年四月に「乃拝二山官、改賜二姓山部連氏。」とある。 
【 清寧天皇 】袁豆命と志豐臣、歌垣に立つ
故、將レ治二天下一之間、徘群臣之督、名志豐臣、立二于歌垣、孚二其袁豆命將レ婚之美人手。其孃子隅、菟田首等之女、名大魚也。爾、袁豆命亦立二歌垣。於レ是、志豐臣、歌曰、 意富美夜能 袁登綾波多傳 須美加多夫豆理 如レ此歌而、乞二其歌末一之時、袁豆命、歌曰、 意富多久美 袁遲那美許曾 須美加多夫豆禮 爾、志豐臣、亦歌曰、 意富岐美能 許許呂袁由良美 淤美能古能 夜幣能斯婆加岐 伊理多多受阿理 於レ是、王子、亦歌曰、 斯本勢能 那袁理袁美禮婆 阿蘇豐久流 志豐賀波多傳爾 綾揺多弖理美由 爾、志豐臣、蝙忿歌曰、 意富岐美能 美古能志婆加岐 夜布士揺理 斯揺理母登本斯 岐禮牟志婆加岐 夜氣牟志婆加岐 爾、王子、亦歌曰、 意布袁余志 斯豐綾久阿揺余 斯賀阿禮婆 宇良胡本斯豆牟 志豐綾久志豐 如レ此歌而、泣明、各膠。明旦之時、意富豆命・袁豆命二柱、議云、凡咆廷人等隅、旦參三│赴於二咆廷、晝集二於志豐門。亦今隅、志豐必寢。亦其門無レ人。故、非レ今隅、難レ可レ謀。來興レ軍、圍二志豐臣之家、乃殺也。
故、天の下を治しめさむとせし間、平群臣の祖、名は志豐臣、歌垣に立ちて、其の袁豆命の婚さむとせし美人の手を取れり。其の嬢子は、菟田の首等の女、名は大魚といへり。爾、袁豆命も亦、歌垣に立たしけり。ここに、志豐臣、歌曰ひけらく、 (一〇五) 大宮の 遠つ端で 隅傾けり かく歌ひて、其の末の歌を乞ひし時に、袁豆命歌曰ひたまひけらく、 (一〇六) 大匠 拙劣みこそ 隅傾けれ 爾、志豐臣、亦歌曰ひけらく、 (一〇七) 王の 心をゆらみ 臣の子の 八重の柴垣 入り立たずあり ここに、王子、亦歌曰ひたまひけらく、 (一〇八) 潮瀬の 波折を見れは 游び来る 鮪が鰭でに 妻立てり見ゆ 爾、志豐臣、蝙忿りて歌曰ひけらく、 (一〇九) 王の 王子の柴垣 八節しまり しまりもとほし 切れむ柴垣 焼けむ柴垣 爾、王子、亦歌曰ひたまひけらく、 (一一〇) 大魚よし 鮪突く海人よ 其が離れば 心恋しけむ 鮪突く鮪 かく歌ひて、闘ひ明かして、各退けましぬ。明旦之時、意富豆命・袁豆命の二柱、議りて云りたまひけらく、「凡そ朝廷の人等は、旦には朝廷に参赴り、昼には志豐の門に集ふ。亦今は志豐必ず寝ねつらむ。亦其の門に人も無けむ。故、今にあらずば、謀るべきこと難けむ。」と、のりたまひて、即ちに軍を興して、志豐臣の家を囲み、乃ち殺したまひき。  
ここの歌垣の物語は、紀では、数代後の武烈天皇が、太子時代に鮪臣と一少女を争った物語となっている。紀の伝が正しいであろう。なぜなら、つぶさに辛酸を甞められた袁豆命が、しかも、清寧天皇崩御の直後に、歌垣に立って、一少女を争うというようなことは、事情のうえからも、同王子の性格のうえからも、とうてい考えられぬことである。
記が、ここに、この物語を入れてしまったために、さしもの桀・紂・ネロ的性格で、多くの残酷な物語を有する武烈天皇の記事は、記には、ほとんどしるされていないのである。
【 清寧天皇 】意富豆命・袁豆命、皇位を譲りあふ
於レ是、二柱王子等、各相二│讓天下。意富豆命、讓二其弟袁豆命一曰、住二於針間志自牟家一時、汝命、不レ顯レ名隅、更非下臨二天下一之君上。是蝉爲二汝命之功。故、吾雖レ兄、憑汝命先治二天下一而、堅讓。故、不レ得レ辭而、袁豆命、先治二天下一也。
ここに、二柱の王子等、各天の下を譲りあひたまふ。意富豆命、其の弟袁豆命に譲りて曰たまひけらく、「針間の志自牟の家に住めりし時に、汝命、名を顕はしたまはざらましかば、更に天の下を臨らさむ君とはならざらまし。是は既に汝命の功にぞ為りける。故、吾は兄と雖も、猶汝命先づ天の下を治しめしたまへ。」と、のりたまひて、堅く譲りたまひき。故、辞みたまふことを得ずて、袁豆命、先づ天の下を治しめしたまひけり。  
〔意富豆命〕真本等、「意豆命」に作る。真本も、下文では「意富豆命」に作っているところがある。紀の「億計王」に引かれての誤写か。いま、延本・底本等に従う。〔不レ顯レ名〕上文にある袁豆命の韻文的調子のことば「物部の、わが夫子の……市辺の押歯王の、奴末。」をいう。このようにして、われら二人の素性・系統を表わさなかったら。「名」は、「素性・系統」の意。〔臨二天下一之君〕「天の下に臨む君」すなわち、皇位を嗣ぎ、天皇となる意。
【 顕宗天皇 】皇后に御子なし
袁豆之石厥別命、坐二羝飛鳥宮。治二天下一捌艢也。天皇、娶二石木王之女盟波王、无レ子也。
袁豆之石巣別命、近飛鳥の宮に坐しまして、天の下を治しめしたふこと捌歳なりき。天皇、石木王の女難波王に娶ひたまひしが、子まさざりき。
〔袁豆之石厥別命〕をけのいはすわけのみこと。記伝も言うごとく、「石巣別」の名は、他に見えず、名の義も、未詳。なお、この上に、真本は「装束別王御子市辺忍歯王御子」の十三字がある。「装束」は恐らく「伊邪本」(履中天皇)の誤写であろう。また、同書は「袁豆王之石巣別命」などとも誤写している。冒頭の十三字は、後人の続入であること言うまでもない。恐らく、後人の心覚えの傍注を、賢瑜が誤って本文に入れたのであろう。 
【 顕宗天皇 】置目老媼
此天皇、求二其父王市邊王之御骨一時、在二淡恭國一賤老媼參出白、王子御骨館レ埋隅、專吾能知。亦以二其御齒一可レ知。【御齒隅、如二三枝一押齒坐也。】爾、起レ民、掘レ土、求二其御骨、來獲二其御骨一而、於二其蚊屋野之東山、作二御陵墓、以二韓嗇之子等、令レ守二其御陵。然後、持二│上其御骨一也。故、裝上坐而、召二其老媼、譽三其不レ失見二│置│知其地一以、賜レ名號二置目老媼。仍、召二│入宮触、敦廣慈賜。故、其老媼館レ住屋隅、羝二│作宮邊、譌レ日必召。故、鐸懸二大殿竿、欲レ召二其老媼一之時、必引二│鳴其鐸。爾、作二御歌。其歌曰、 阿佐遲波良 袁陀爾袁須疑弖 毛毛豆多布 奴弖由良久母 淤岐米久良斯母 於レ是、置目老媼白、僕甚耆老、欲レ膠二本國。故、隨レ白膠時、天皇、見膣、歌曰、 意岐米母夜 阿布美能淤岐米 阿須用理波 美夜揺賀久理弖 美延受加母阿良牟
此の天皇、其の父王市辺王の御骨を求ぎたまひし時に、淡海国在る賤しき老媼参出でて曰しけらく、「王子の御骨の埋みたりし所は、専ら吾能く知れり。亦其の御歯を以ても知るべし。」と、まをしけり。【御歯は、三枝如す押歯に坐せりき。】爾、民を起てて、土を掘らしめ、其の御骨を求ぎしに、即ち其の御骨を獲たまひて、其の蚊屋野の東の山に、御陵墓を作りまつり、韓嗇の子等を以て、其の御陵を守らしめたまふ。然る後に、其の御骨を持ち上りたまふ。故、還り上り坐して、其の老媼を召したまひ、其の失れずに其の地を見置き知れるを誉めたまひて、名を賜ひて置目と号づけたまひき。仍りて、宮内に召し入れて、敦く広く慈み賜ひき。故、其の老媼の住む所の屋をば、宮の辺に近く作りて、日毎に必ず召したまひき。故、鐸を大殿の戸に懸け、其の老媼を召さむと欲りする時は、必ず其の鐸を引き鳴らしたまひき。爾、御歌作みしたまふ。其の歌に曰りたまひけらく、 (一一一)  浅茅原 小谷を過ぎて 百伝ふ 奴弖ゆらくも 置目来らしも  ここに、置日の老媼、白しけらく、「僕は甚く耆老にければ、本つ国に退らま欲し。」と、まをしけり。故、白せる随に退らしめたまふ時に、天皇、見送らして、歌曰みしたまひけらく、 (一一二) 置目もや 淡海の置目 明日よりは 御山隠りて 見えずかもあらむ
〔專〕もはら。「たうめ」とも言う。後世「もっぱら」と言うが、上代または平安時代ごろまでの文献には、促音は見えない。ここでは「最も」「いちばん」ほどの意。〔如二三枝一押齒坐也〕さきくさなすおしばにませりき。「三枝」は、ここでは「さきくさな」の略。その葉が三裂の小葉から成るので「三枝」と書く。毒草であるが、その若葉は、正月の若菜として食用に供する。音便で「さいぐさ」と言う。今の「つりがね草」である。「さゆり」や「やまゆりぐさ」などのことではない。「押歯」は「おそば」の転。「やえば」のこと。市辺押磐皇子の「おしは」も、「押歯」による名かもしれない。 
【 顕宗天皇 】猪甘の老夫を斬る
初天皇、苡レ盟膩時、求下奪二其御粮一慂甘老人上。是得レ求、喚上而、斬レ於二飛鳥河之河原、皆斷二其族之膝筋。以レ是、至レ今、其子孫、上レ於レ倭之日、必自跛也。故、能二│見│志│米│岐其老館在。【志米岐三字、以レ音。】故、其地謂二志米須一也。

初め天皇、難に逢ひて逃げたまひし時に、其の御粮を奪ひし猪甘の老人を求ぎたまひき。ここに求ぎ得たるを、喚び上げて、飛鳥の河原に斬りて、皆其の族どもの膝の筋を断ちたまひき。ここをもて、今に至るまで、其の子孫、倭に上る日、必ず自ら跛ぐなり。故、其の老の所在を能く見志米岐。【志米岐の三字、音を以ふ。】故、其地を志米頻とは謂ふなり。
〔慂甘老人〕ゐかひのおきな。豚を飼う老人。安康天皇の段に出ている。〔喚上〕よびあぐ。大和の飛鳥の宮に呼びのぼらす。〔飛鳥河〕あすかがは。大和国(奈良県)高市郡の高取山に発源し、西北に流れて大和川に入る。流程約三〇キロ。この川は、古来水域の変化が激しいので名高い。〔族〕うがらども。「うから」ではない。既出。〔膝筋〕ひざのすぢ。膝の裏の筋であろう。神功紀摂政前に「抜二王濯屡一云々。」の記事がある。「あはたこ」は膝の骨であるが、だいたい、ここの「膝の筋」と同じであろう。
【 顕宗天皇 】雄略天皇の御陵を破壊せしむ
天皇、深下怨殺二其父王一之大長谷天皇上、欲レ報二其靈。故、欲レ毀二其大長谷天皇之御陵一而、虔レ人之時、其伊呂兄意富豆命奏言、破二│壞是御陵、不レ可レ虔二他人。專僕自行、如二天皇之御心一破壞以參出。爾、天皇、詔二然、隨レ命宜幸行。是以、意富豆命自下幸而、少二│掘其御陵之傍、裝上、復二│奏│言蝉掘壞一也。爾、天皇、異二其早裝上一而、詔二如何破壞、答三│白少二│掘其陵之傍土。天皇、詔之、欲レ報二父王之仇、必悉破二│壞其陵、何少掘乎。答曰、館二│以爲一レ然隅、父王之怨、欲レ報二其靈、是誠理也。然、其大長谷天皇隅、雖レ爲二父之怨、裝爲二我之從父。亦治二天下一之天皇。是今、單取二父仇之志、悉下│破治二天下一天皇陵上隅、後人必誹謗。唯父王之仇、不レ可レ非レ報。故、少掘二其陵邊。蝉以是恥、足レ示二後世。如レ此奏隅、天皇、答詔之、是亦大理。如レ命可也。
天皇、其の父王を殺せまつりし大長谷天皇を深く怨みたまひ、其の霊に報いむと欲せり。故、其の大長谷天皇の御陵を毀たむと欲して、人を遣はさむとしたまひし時に、其の伊呂兄意富豆命奏言したまひけらく、「是の御陵を破壊たむには、他し人を遣はすべからず。専ら僕自ら行きて、天皇の御心の如破壊ちて参出む。」と、まをしたまふ。爾、天皇、「然らば、命の随に宜幸行でませ。」と詔りたまふ。ここをもて、意富豆命自ら下り幸でまして、其の御陵の傍を少しく掘りて、還り上りたまひて、「既に掘り壊ちぬ。」と復奏言したまひき。爾に、天皇、其の早く還り上りませるを異しみたまひて、「如何に破壊ちたまひしぞ。」と詔りたまへば、「其の御陵の傍の土を少しく掘りつ。」と答へ白したまふ。天皇、詔りたまひけらく、「父王の仇を報いむと欲りすれば、必ず悉に其の陵を破壊つべきに、何ぞ少しくは掘りたまひし。」と、のりたまふ。答へて曰したまひけらく、「然為つる所以は、父王の怨みを、其の霊に報いむと欲りするは、是誠に理なり。然れども、其の大長谷天皇は、父の怨には為れども、還りては我が従父に為します。亦、天の下を治しめしし天皇にまします。是を今単に父王の仇といふ志を取りて、天の下を治しめしし天皇の陵を悉に破ちなば、後の人必ず誹謗りまつりなむ。唯父王の仇は、報いずはあるべからず。故、其の陵の辺を少しく掘れるのみ。既に是恥みせまつりてあれば、後の世に示すにも足りなむ。」と、かく奏したまひしかば、天皇、答へて詔りたまひけらく、「是も亦大きなる理なり。命の如くにて可からむ。」とぞ、のたまひける。  
〔怨〕うらむ。真本・延本等「籖」に誤る。いま、底本に従う。以下同じ。〔殺〕しせまつる。底本は「ころしたまふ」と訓じている。また。真本は「遺」に誤る。これは古写本の通弊である。「殺」の俗字「搬」を誤ったもので、許容されぬものである。〔毀〕こぼつ。「こわす」「やぶる」意。底本は「やぶる」と訓じている。真本は、この文字を「髪」に誤っている。〔伊呂兄〕いろせ。兄。「いろと」の対。
【 顕宗天皇 】天皇崩御
故、天皇紡、來意富豆命、知二天津日繼。天皇、御年參拾捌艢。治二天下一八艢。御陵在二片岡之石坏岡上一也。
故、天皇紡りまして、即ち意富豆命、天日継知しめしき。この天皇、御年参拾捌歳。天の下を治しめすこと八歳ましましき。御陵は片岡の石坏の岡の上に在り。
〔天皇紡〕すめらみことかむあがります。顕宗紀には、天皇崩御の記事なく、御年もしるしてない。仁賢紀のはじめに、「三年夏四月、弘計天皇崩。」とあるのみである。〔意富豆命〕ここでは、真本も正しく「意富豆命」に作る。しかるに、「意豆命」と誤記している本があるので、それに従っている研究書もあるが、いま、真本・延本・底本等に従う。 
 

 

【 仁賢天皇 】
意富豆命、坐二石上廣高宮、治二天下一也。天皇、娶二大長谷若建天皇之御子春日大輙女、生御子、高木輙女。筱財輙女。筱久須豐輙女。筱手白髪輙女。筱小長谷若雀命。筱眞若王。樸、娶二丸邇日爪臣之女糠若子輙女、生御子、春日山田輙女。此天皇之御子、忸七柱。此之中、小長谷若雀命隅、治二天下一也。
意富豆命、石上の広高の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふ。この天皇、大長谷若建天皇の御子春日大郎女に娶ひて、生みませる御子、高木郎女。次に財郎女。次に久須豐郎女。次に手白髪郎女。次に小長谷若雀命。次に真若王。又、丸邇日爪臣の女糠若子郎女を娶して、生みませる御子、春日山田郎女。此の天皇の御子たち、忸せて七柱ます。此の中に、小長谷若雀命は、天の下を治しめしたまひき。  
〔意富豆命〕おほけのみこと。真本は「意富豆王」に作る。他に「意豆命」に作る本もあるが、延本・底本等に従う。また、この上に、真本には、例によって、「袁豆王兄」の四字がある。しばしば述べたごとく、後人の心覚えの傍注を本文にまぎれこませたものと信ずる。他書にはない。しかるにわざわざこの文字を入れた研究書もあるが、しいて異を樹てるものである。いま、多本に従う。
【 武烈天皇 】
小長谷若雀命、坐二長谷之列木宮、治二天下、捌艢也。此天皇、无二太子。故、爲二御子代、定二小長谷部一也。御陵在二片岡之石坏岡一也。天皇蝉紡、無下可レ知二日續一之王上故、品太天皇五世之孫袁本杼命、自二羝淡恭國一令二上坐一而、合二於手白髪命、唆二奉天下一也。
小長谷若雀命、長谷の列木の宮に坐しまして、天の下を治しめすこと、捌歳ましき。此の天皇、太子ましまさざりき。故、御子代として、小長谷部を定めたまふ。御陵は片岡の石坏の岡に在り。天皇既に崩りましたれど、日続を知しめすべき王なかりしかば、品太天皇の五世の孫袁本杼命を、近淡海国より上り坐さしめて、手白髪命に合はせまつりて、天の下を授け奉れり。
〔小長谷若雀命〕仁賢天皇の皇子。既出。真本は、この上に何もしるしてない。これ、今までの諸例が、後人のしわざであることを雄弁に物語るものである。〔長谷之列木宮〕はつせのなみきのみや。紀は「泊瀬列城宮」に作る。「列木」「列城」も地名であろう。「木」は借字で、小高い丘の並んでいる地の名か。宮址は奈良県桜井市初瀬町字出雲であろうという。真本は、この上の「坐」を「由」に誤り、「列」を「到」に誤っている。 
【 継体天皇 】后妃と御子たち
袁本杼命、坐二伊波禮之玉穗宮、治二天下一也。天皇、娶二三尾君等督、名若比賣、生御子、大輙子。筱出雲輙女。【二柱】樸、娶二尾張苣等之督凡苣之妹目子輙女、生御子、廣國押建金日命。筱建小廣國押楯命。【二柱】樸、娶二意富豆天皇之御子手白髪命、【是大后也】生御子、天國押波流岐廣庭命。【波流岐三字、以レ音。一柱。】樸、娶二息長眞手王之女揺組輙女、生御子、佐佐宜輙女。【一柱】樸、娶二坂田大股王之女僂比賣、生御子、突電輙女。筱茨田輙女。筱「馬來」田輙女。【三柱】「樸、娶二茨田苣小望之女關比賣、生御子、茨田大輙女。」筱白坂活日輙女。筱小野輙女。亦名長目比賣。【三柱】樸、娶二三尾君加多夫之妹倭比賣、生御子、大輙女。筱丸高王。筱耳上王。筱赤比賣輙女。【四柱】樸、娶二阿倍之波延比賣、生御子、若屋輙女。筱綾夫良輙女。筱阿豆王。【三柱】此天皇之御子等、忸十九王。【男七。女十二。】此中、天國押波流岐廣庭命隅、治二天下。筱廣國押建金日命、治二天下。筱建小廣國押楯命、治二天下。筱佐佐宜命隅、拜二伊勢突宮一也。
袁本杼命、伊波礼の玉穂の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふ。この天皇、三尾君等の祖、名は若比売を娶して、生みませる御子、大郎子。次に出雲郎女。【二柱】又、尾張連等の祖凡連の妹目子郎女を娶して、生みませる御子、広国押建金日命。次に建小広国押楯命。【二柱】又、意富豆天皇の御子手白髪命に娶ひて、【こは大后なり。】生みませる御子、天国押波流岐広庭命。【波流岐の三字、音を以ふ。一柱。】又、息長真手王の女麻組郎女を娶して、生みませる御子、佐佐宜郎女。【一柱】又、坂田大股王の女黒比売を娶して、生みませる御子、神前郎女。次に茨田郎女。次に馬来田郎女。【三柱】又、茨田連小望の女関比売を娶して、生みませる御子、茨田大郎女。次に白坂活日郎女。次に小野郎女。亦の名は長目比売。【三柱】又、三尾君加多夫の妹倭比売を娶して、生みませる御子、大郎女。次に丸高王。次に耳上王。次に赤比売郎女。【四柱】又、阿倍之波延比売を娶して、生みませる御子、若屋郎女。次に都夫良郎女。次に阿豆王。【三柱】此の天皇の御子等、忸せて十九王。【男七。女十二。】此の中に、天国押波流岐広庭命は、天の下を治しめしたまひき。次に広国押建金日命も、天の下を治しめしたまひき。次に建小広国押楯命も、天の下を治しめしたまひき。次に佐佐宜王は、伊勢の神宮を拝きまつりたまひき。
〔袁本杼命〕をほどのみこと。既出。真本は、「杼」を「雇」に誤る。なお、真本には、この上に「品太王五世孫」の六字がある。後人の心覚えの傍注を、賢瑜が本文に入れたか、または後人のさかしらな続入を、賢瑜がそのまま写したのかいずれかであろう。 ことに、武烈天皇の段には、「品太天皇五世之孫」とあるのに、ここに「品太王五世孫」としたことなどは、いよいよもって杜撰である。しかるに、この杜撰な続入を正しいものと信じこんでいる研究書もある。前段の武烈天皇の冒頭に、こうした文字のないことなども、これらの文字が続入であることの有力な証左であろう。いま、真本を除くすべての本に従う。〔伊波禮之玉穗宮〕いはれのたまほのみや。「磐余」は既出。
【 継体天皇 】竺紫の逆徒石井を誅す
此御世、竺紫君石井、不レ從二天皇之命一而、多レ无レ禮。故、虔二物部荒甲之大苣・大汽之金村苣二人一而、殺二石井。
此の御世に、竺紫君石井、天皇の命に従はずして、礼无きこと多かりき。故、物部荒甲之大連・大伴之金村連二人を遣はして、石井を殺さしめたまふ。
〔此御世〕このみよ。真本は「此之御世」の四字に作る。誤りではないが、いま、諸本に従う。〔竺紫君石井〕つくしのきみいはゐ。真本は「竺」を「笠」に誤る。「竺」と「筑」とは同音。紀には「筑紫国造磐井」とあり、その子を「筑紫君犖子」としるしている。「国造」と「君」とは同義。継体紀二十一年六月によれば、磐井は九州に王たらんとして叛逆を謀り、ひそかに機をねらっていたが、新羅がこれを知り、磐井に貨賂を送って、新羅討伐の軍をはばませた。 
【 継体天皇 】天皇崩御
天皇、御年肆拾參艢。御陵隅三嶋之藍御陵也。
この天皇、御年肆拾参歳。御陵は三島の藍の御陵なり。
〔肆拾參艢〕紀には「二十五年春三月、天皇病甚。丁未、天皇、崩二于磐余玉穂宮。時年八十二。」とある。この「二十五年」については、紀は「二十八年」とある一本を掲げ、「後勘校者、知レ之也。」と、分注を施している。二十五年は辛亥であり、二十八年は甲寅である。二十八年が正しいこと、記伝の言うとおりである。ところで、記の四十三、紀の八十二、はなはだしい違いであるが、継体天皇が越前の三国から上京されて、皇位につかれたのは、すでにかなりのご年齢であったことは、紀の記事によっても推測されるし、皇后手白髪命の前にも、相当多くの妃があったこと、記紀の記事に徴するも明らかである。 
【 安閑天皇 】
廣國押建金日命、坐二勾之金箸宮、治二天下一也。此天皇、無二御子一也。御陵在二河内之古市高屋村一也。
広国押建金日命、勾の金著の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふ。此の天皇、御子ましまさざりき。御陵は河内の古市の高屋村に在り。
〔廣國押建金日命〕既出。真本は例によって、この上に「御子」と続入し、また、「命」を「王」に作る。いま、他の諸本・底本等に従う。〔勾之金箸宮〕まがりのかなはしのみや。真本は「勾」を「句」に作る。「勾」と「句」とは同字。説文に「句、曲也。」とある。紀には「勾金橋」とある。奈良県高市郡金橋村字曲川の地。畝傍山の西北に当たる。天皇は、この地に都され、翌年崩御された。きわめて短命であり、御子も無かった。〔河内之古市高屋村〕かふちのふるちのたかやむら。諸本に「之」の字がないが、いま、真本に従う。ただし、真本は「古」を「石」に誤っている。「古市」は河内国の古郡名。和名抄に「河内国古市(不留知)郡」とある。後世、「ふるいち」と言い、今、大阪府南河内郡に入る。安閑天皇の御陵も、倭建命の白鳥陵も、この古市町にある。 
【 宣化天皇 】
建小廣國押楯命、坐二檜脾之廬入野宮、治二天下一也。天皇、娶二意富豆天皇之御子橘之中比賣命、生御子、石比賣命。【訓レ石如レ石。下效レ此。】筱小石比賣命。筱倉之若江王。樸、娶二川触之若子比賣、生御子、火穗王。筱惠波王。此天皇之御子等、忸五柱。【男三。女二。】故、火穗王隅、【志比陀君之督。】惠波王隅、【韋那君、多治比君之督也。】
建小広国押楯命、檜脾の廬入野の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふ。この天皇、意富豆天皇の御子、橘之中比売命に娶ひて、生みませる御子、石比売命。【石を訓む石の如し。下これに效ふ。】次に小石比売命。次に倉之若江王。又、川内の若子比売を娶して、生みませる御子、火穂王。次に恵波王。此の天皇の御子等、忸せて五王。【男三。女二。】故、火穂王は、【志比陀君の督。】恵波王は、【韋那君、多治比君の督なり。】
〔建小廣國押楯命〕既出。真本は例によって、この上に「弟」の一字を続入。安閑天皇の御弟の意。しかも、「楯」を「猪」に誤っている。この悪本を正しいと妄信している研究書もある。〔檜脾之廬入野宮〕ひのくまのいほりののみや。底本の訓「いほいりぬ」は非。真本は「脾」を「怕」に誤る。紀は「檜隈廬入野宮」に作る。奈良県高市郡明日香村檜前の地。宣化天皇は、皇子の時代から、この地に居住されている。
【 欽明天皇 】
天國押波流岐廣庭天皇、坐二師木嶋大宮、治二天下一也。天皇、娶二檜脾天皇之御子石比賣命、生御子、八田王。筱沼名倉太敷命。筱笠縫王。【三柱】樸、娶二其弟小石比賣命、生御子、上王。【一柱】樸、娶二春日之日爪臣之女糠子輙女、生御子、春日山田輙女。筱揺呂古王。筱宗賀之倉王。【三柱】樸、娶二宗賀之稻目宿斑大臣之女岐多斯比賣、生御子、橘豐日命。筱妹石脾王。筱足孚王。筱豐御氣炊屋比賣命。筱亦揺呂古王。筱大宅王。筱伊美賀古王。筱山代王。筱妹大汽王。筱櫻井之玄王。筱揺奴王。筱橘本之若子王。筱杼泥王。【十三柱】樸、娶二岐多志比賣命之姨小兄比賣、生御子、馬木王。筱犖城王。筱間人穴太部王。筱三枝部穴太部王。亦名須賣伊呂杼。次長谷部若雀命。【五柱】凡此天皇之御子等、忸廿五王。此之中、沼名倉大玉敷命隅、治二天下。筱橘之豐日命、治二天下。筱豐御氣炊屋比賣命、治二天下、筱長谷部之若雀命、治二天下一也。忸四王治二天下一也。
天国押波流岐広庭天皇、師木島大宮に坐しまして天の下を治しめしたまふ。この天皇、檜脾天皇の御子石比売命に娶ひて、生みませる御子、八田王。次に沼名倉太玉敷命。次に笠縫王。【三柱】又、其の弟小石比売命に娶ひて、生みませる御子、上王。【一柱】又、春日之日爪臣の女糠子郎女を娶して、生みませる御子、春日山田郎女。次に麻呂古王。次に宗賀之倉王。【三柱】又、宗賀之稲目宿斑大臣の女岐多斯比売を娶して、生みませる御子、橘之豊日命。次に妹石脾王。次に足取王。次に豊御気炊屋比売命。次に亦麻呂古王。次に大宅王。次に伊美賀古王。次に山代王。次に妹大伴王。次に桜井之玄王。次に麻奴王。次に橘本之若子王。次に杼泥王。【十三柱】又、岐多志比売命の姨小兄比売を娶して、生みませる御子、馬木王。次に犖城王。次に間人穴太部王。次に三枝部穴太部王。亦の名は須売伊呂杼。次に長谷部若雀命。【五柱】凡て此の天皇の御子等、忸せて廿五王。此の中に、沼名倉太玉敷命は、天の下を治しめしたまひき。次に橘之豊日命も、天の下を治しめしたまひき。次に豊御気炊屋比売命も、天の下を治しめしたまひき。次に長谷部之若雀命も、天の下を治しめしたまひき。忸せて四王、天の下を治しめしたまひけり。
〔天國押波流岐廣庭天皇〕継体天皇の皇子。既出。この上に、真本は、例によって「弟」の一字を続入。いま、諸本に従う。〔師木嶋大宮〕しきしまのおほみや。紀には「磯城島金刺宮」とある。記の「大」は美称。「しきしま」は、大和国磯城郡磯城島。今の奈良県桜井市の大三輪町金屋の辺。天皇の元年七月遷都、崩御まで三十二年間の皇居となる。〔檜脾天皇〕ひのくまのすめらみこと。欽明天皇の御兄、宣化天皇。御名は建小広国押楯命。檜脾の廬入野の宮を皇居としたので申す。真本は「脾」を「茲」に誤る。また、「隈」に作る本もあるが、紀の用字によって、さかしらに改めたのであろう。いま、延本・底本等に従う。〔石比賣〕いしひめ。欽明天皇は、御姪を皇后とされたのである。 
【 敏達天皇 】
沼名倉大玉敷命、坐二他田宮、治二天下、壹拾肆艢也。此天皇、娶二庶妹豐御抂炊屋比賣、生御子、靜貝王。亦名貝鮹王。筱竹田王。亦名小貝王。筱小治田王。筱犖城王。筱宇毛理王。筱小張王。筱多米王。筱櫻井玄王。【八柱】樸、娶二伊勢大鹿首之女小熊子輙女、生御子、布斗比賣命。筱寶王。亦名糠代比費王。【二柱】樸、娶二息長眞手王之女比呂比賣命、生御子、竄坂日子人太子。亦名揺呂古王。筱坂謐王。筱宇遲王。【三柱】樸、娶二春日中若子之女老子子輙女、生御子、盟波王。筱桑田王。筱春日王。筱大股王。【四柱】此天皇御子等、忸十七柱之中、日子人太子、娶二庶妹田村王、亦名糠代比賣命、生御子、坐二岡本宮、治二天下一之天皇。筱中津王。筱多良王。【三柱】樸、娶二漢王之妹大股王、生御子、智奴王。筱妹桑田王。【二柱】樸、娶二庶妹玄王、生御子、山代王。筱笠縫王。【二柱】忸七王。 御陵在二川内科長一也。
沼名倉太玉敷命、他田の宮に坐しまして、天の下を治しめすこと、壱拾肆歳にましき。此の天皇、庶妹豊御食炊屋比売命に娶ひまして、生みませる御子、静貝王。亦の名は貝鮹王。次に竹田王。亦の名は小貝王。次に小治田王。次に犖城王。次に宇毛理王。次に小張王。次に多米王。次に桜井玄王。【八柱】又、伊勢大鹿首の女小熊子郎女を娶して、生みませる御子、布斗比売命。次に宝王。亦の名は糠代比売王。【二柱】又、息長真手王の女比呂比売命に娶ひて、生みませる御子、忍坂日子人太子。亦の名は麻呂古王。次に坂騰王。次に宇遅王。【三柱】又、春日中若子の女老女子郎女を娶して、生みませる御子、難波王。次に桑田王。次に春日王。次に大股王。【四柱】此の天皇の御子等、忸せて十七王の中に、日子人太子、庶妹田村王、亦の名は糠代比売命に娶ひて、生みませる御子、岡本の宮に坐しまして、天の下を治しめしし天皇。次に中津王。次に多良王。【三柱】又、漢王の妹大股王に娶ひて、生みませる御子、智奴王。次に妹桑田王。【二柱】又、庶妹玄王に娶ひて、生みませる御子、山代王。次に笠縫王。【二柱】忸せて七王。 御陵は川内の科長に在り。
〔沼名倉太玉敷命〕既出。欽明天皇の皇子。敏達天皇の御名。真本は、この上に「御子」と続入。また、「太」を「大」に誤る。〔他田宮〕をさだのみや。「他」を「池」に誤る本もある。紀は「訳語田」に作る。「をさ」は「通訳」の意。「他」も「訳語」も、韓語「語司」の音読訛。崇神紀十二年三月「異俗重レ訳来。」、敏達紀七年八月「訳語卯安那」、推古紀十五年七月「小野臣妹子遣二於大唐一。以二鞍作福利一為二通事一。」などとある。他田の宮は、一名幸玉の宮とも言い、今の奈良県磯城郡纏向村大字太田の辺。「おほた」は「をさだ」の転か。〔壹拾肆艢〕とをあまりよつ。真本は「十四歳」に作る。記の表記法と著しく異なる。いま、諸本に従う。 
【 用明天皇 】
橘豐日命、坐二池邊宮、治二天下、參艢。此天皇、娶二稻目宿斑大臣之女意富藝多志比賣、生御子、多米王。【一柱】又、娶二庶妹間人穴太部王、生御子、上宮之廐竿豐聰耳命。筱久米王。筱植栗王。筱茨田王。【四柱】又、娶二當揺之倉首比呂之女礦女之子、生御子、當揺王。筱妹須賀志呂古輙女。 此天皇御陵在二石寸掖上、後螻二科長中陵一也。
橘豊日命、池辺の宮に坐しまして、天の下を治しめすこと、参歳にましき。此の天皇、稲目宿斑大臣の女意富芸多志比売を娶して、生みませる御子、多米王。【一柱】又、庶妹間人穴太部王に娶ひて、生みませる御子、上宮之廐戸豊聰耳命。次に久米王。次に植栗王。次に茨田王。【四柱】又、当麻之倉首比呂の女飯女之子を娶して、生みませる御子、当麻王。次に妹須賀志呂古郎女。 此の天皇の御陵は石寸の掖上に在りしを、後に科長の中の陵に遷しまつれり。
〔橘豐日命〕たちばなのとよひのみこと。欽明天皇の皇子。その条には「橘之豊日命」と「之」の字がある。記の用字は不統一である。また、真本は例によって、この上に「弟」の一字を続入している。のみならず、「命」を「王」に作る。このような杜撰な写本に従うことはできない。いま、延本・底本等に従う。 
【 崇峻天皇 】
長谷部若雀天皇、坐二倉梯柴垣宮、治二天下、肆艢。御陵在二倉梯岡上一也。
長谷部若雀天皇、倉梯の柴垣の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふこと、肆歳にましましき。御陵は倉梯の岡の上に在り。
〔長谷部若雀天皇〕既出。欽明天皇の皇子。崇峻天皇の御名。真本は、この上に「弟」と続入。本書は続入を無視する。〔倉梯柴垣宮〕くらはしのしばかきのみや。諸本「梯」を「椅」に誤る。「椅」は「いす」であり、また、一種の木の名である。記は上来しばしば「梯」「橋」を「椅」に誤っているが、宣長ほどの人が、この誤写に気づかぬのは不審である。その後の研究書も、すべて「椅」の誤字を踏襲している。延本は「埼」と誤写しているから、よほど古くから「椅」に誤ったものであろう。 
【 推古天皇 】
豐御抂炊屋比賣命、坐二小治田宮、治二天下、參拾漆艢。御陵在二大野岡上、後螻二科長大陵一也。 
【 古事記下巻絏 】
豊御食炊屋比売命、小治田の宮に坐しまして、天の下を治しめしたまふこと、参拾漆歳にましき。御陵は大野の岡の上に在りしを、後に科長の大陵に遷しまつれり。
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古事記下巻終り 〔豐御食炊屋比賣命〕既出。欽明天皇の皇女。異母兄敏達天皇の第二次の皇后となる。真本は、この上に、例によって「妹」の一字を続入。先帝崇峻天皇の御妹の意の心覚えの傍注が本文にまぎれこんだのであろう。本書は従わぬ。崇峻天皇が蘇我馬子のために暗殺されたので、立ちて天皇となり、推古天皇と申す。真本は「豊御倉泥屋比売命」に作り、右に「食炊」と書いている。〔小治田宮〕をはりだのみや。「小治田」は既出。推古天皇および皇極天皇の皇居の地。今の奈良県高市郡明日香村、もとの「飛鳥」の地。