古代日本 諸説 [2]

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雑学の世界・補考   

景初四年鏡をめぐって

 

今日は十一月の下旬に入りましてようやく冷えこんできました。お天気はどうかと心配していましたら、すっかり晴れてきました。前にはよく、わたしが旅行なんかに加えていただきますと雨がふりまして「雨男だ」、「嵐を呼ぶ男だ」といわれておりましたが、最近は「晴男」といった感じになりました。昨日も、一日旅行で滋賀県にまいりましたが見事な晴れでございました。
本日は先程、藤田さんからご紹介ありましたように最後に質問時間をとってほしいということで、私の方から一方的にしゃべるだけではなくて、皆様のご質問をいただいて私の現在知っているところを申し上げる、これは非常に大事だと思っています。
実は、今年の夏、中国にまいりました。去年も藤田さんや皆さんと一緒に好太王碑にまいりましたが、三月にも、また、八月にもまいりました。今度は同じ中国でも方向が全く違って内蒙古、それからシルクロードというコースに、私としてははじめてまいったわけです。この旅行の中で、私としては、多くの非常に深い問題にぶつかってきたわけでございます。こういう話も申し上げたいんでございますが、大変大きな話にもなりますので、それで時間がとられますと、本日予定したテーマの時間がなくなるということを恐れまして、その問題は後の方に回して、時間のある範囲で質問にお答えしたい。先ず、最初の問題について申し上げるというような形にさせていただいたらと思っています。
さてそこで、表題では「古代王朝と近世文書ー景初四年鏡をめぐって」という風にさせていただきましたが、「景初四年鏡」云々という副題の方は、ご存じのようにこの十月に、「主題」が決まった後の時点で出てまいった問題で、これは是非、十分にお話し申し上げたいということでこの副題をつけていただいたわけです。ご存じのように十月四日でございますか、福知山の丘陵の古墳の中から鏡があらわれてきて、その一番奥まった一番高い場所の四号墳からあらわれ、その鏡の中に中国の年号、それも古代史の研究者、あるいは関心のある方は誰でもピンとくる「景初」という言葉が今回はっきりと、読める形で、一字欠けているという形ではなく、「景初四年五月丙午之日」ではじまる銘文をもっているということはご存じの通りでございます。 
新聞報道の構造
これをスクープしましたのは京都の人はご存じのように、京都新聞だったようで、十月八日の一面の大部分をとって出されたわけです。その後NHKテレビなんかが、午后・夜にかけて、何回かこの報道を流したようです。私の方はたまたま、仙台の外里富佐江さんという若い主婦の方ですが、元大阪の会に出ておられた方です。大阪の朝日カルチャーで「通史」をやっていました。「倭人伝を徹底して読む」の前です。あれにも出ておられた方で、その「通史」の中で、わたしが卑弥呼とは実は、「ヒミカ」と読むんだとはじめて言ったわけです。この時赤ちゃんがおられて、生まれる以前から決めていた名前のーヒミカ(コ)」ちゃんが会場にきておられましたが、ダンナ様の転勤で仙台で、読者の会を作られました。その方と会のことでご連絡いただいて話している時に「NHKのテレビで鏡が出たというのを見ました」とお聞きしたのが、私がその鏡の事を知った最初だったわけです。
ところがその次の十月九日には、全国紙朝日、毎日、読売に報道されました。もっとも、これも細かい話になりますが八日の夕刊で、おそ版というのは紙面がすっかり変わるんです。新聞関係の方は常識ですが、そのおそ版で報じた全国紙もあるようです。まあ一般的には十月九日の朝、報道されたわけでございます。その後、大阪の朝日新聞の方から電話がかかってきました。そして「景初四年鏡」についてのコメントを求められたわけです。しかしその時点では、私は現物を見ておりませんので、お答えを避けました。現物を見ずにコメントをする、これは一番こわいことなんです。
一つの例を申し上げますと、例の飛鳥から「日本書紀の原資料か」という木簡が出たという、あの報道があったわけです。私なんかもそれを新聞で見て、すごいものがでたなと、かなり日本書紀の信ぴょう性という、そういうものが確かめられるんだとこう思って非常に喜んでこの記事を読んでいたわけです。現地へとびこんでいったわけですが、その時岸俊男さんが責任者(橿原考古学研究所の所長)でした。京大教授であった岸さんですね。新聞記者と応答しておられるところをたまたま岸さんにお会いするために、同じ部屋のはしっこで待っていて、記者との応答を聞いたわけです。新聞記者の方々は「日本書紀の原資料ですね」「壬申の乱の関係ですね」と確認しているのです。ところが、岸さんは非常に慎重な方ですので、「そういうことまでは言えません」と一所懸命言っておられるわけです。ところがそれを何とか、その言質と言っては変ですが、岸さんの言葉を取ろうとして、各新聞社の記者が共同会見で“せめたてる”といったような、いわば、そういう状況をうしろで見るということになったわけです。
つまりこれはどういうことかというと「日本書紀の原資料」ということが、その前に一部でていましたから、今度は壬申の乱に関係した事件であると見てよいですね、という形の質問が主になっていましたね。それを一所懸命岸さんが“おしかえして”おられたのを記憶しています。結局どういうことかというと新聞記者側とすれば、木簡がでた、木簡といえば簡単に言えば荷札のようなものですから、大和に住んでいる人物の名前なんかでてくるわけです。これは考えてみれば当たり前のことなんです。さて日本書紀の七世紀後半あたりになったら出てくる人物が架空の人物だなんて、そんなことをいう人はまずいないわけです。大和界隈に住んでいたに違いないわけです。
だからその時あった国名がそこに現われるのは当然ですし、人名がそこに現われるのも不思議ではないわけです。しかし、我々からみると非常に大変なことだと思うんですね。たとえば、筆跡です。こういう点について七世紀後半の筆跡というのは私なんかもいくら見ても見足りないというか、いくらあっても不足だと、もっといろんな字について全部筆跡がほしいとこんな感じを常時しておったわけです。ですからすばらしい希少価値があるわけです。しかし、それは私のような研究者の立場であって、一般の読者を相手にしている新聞としては、それではニュースの「トップ」は、「一面」は、とれないわけです。「日本書紀の原資料だ」とこうやれば「トップ」がとれるわけですね。「一面」はとれる「記事」にできる。だからやはりそういうところに持っていこうとするわけです。
ところが最初のコメントをする学者は「すばらしいですね。今回の出土は実にすばらしいです。日本書紀の原資料がでたということは最近にないことである。日本書紀の研究は大きく前進すると思う。」こういうコメントをだした学者もいたわけです。ところが、実際は、あとからのやりとりを私が見ますと、最初の第一報の段階では、コメントした人は「現物」を見ていないわけです。新聞記者の方は電話で「今度出土した木簡は、もしかしたら日本書紀のもととして使用されたという話もありますが」とこういう風に電話の向うでいうわけです。現物を“見ていない”学者は、「それはすごい話ですね」とこうくるわけですね。学者が「日本書紀の研究のためにも大変な進歩になりますね」とこういうとそれが記事にパッとでるわけですね。ところが実際に現物から見ますとすぐわかりますように、「日本書紀の原資料」という場合は少なくとも文章が出なければいけないわけです。文章が出て、その文章が、日本書紀の文章に一致していれぱ、「これはやっぱり原資料」という話しになっていくわけです。
ところが実際には単語だけだったら、今言ったようにその人物がいたことは間違いないわけですから、単語がでたからと言って「日本書紀の原資料だ」ということにはならないわけです。というようなことが段々にわかってきました。皆さんのように古代史にくわしい方は違いますが、一般の読者は「日本書紀の原資料がでたらしい」という見出しだけを頭にセットしておられる方が日本全国の大多数じゃないかと思うんです。実際は、皆さんだったら、そういう性格のものではなかった、ということはおそらくご存じだと思います。それでその学者にすると“あの第一報は大分オーバーだったな”“でも、新聞だからしょうがない”という形で、何とか了解している、という構造があるわけです。 
改元の詔勅
それ以来、私はつくづく思うんですが現物を見ずにコメントするということは、これはさせる方が悪いとも言えますが、新聞社側にすれば、やむをえない点もありますから、やはり答える側が、そこは慎重に応答しないといけない。やはり、“現物を見て”責任ある答をするという、そういう姿勢が大事だと私はつねづね思い、そのようにしてきているわけです。今回、またそういう問題にぶつかったわけです。私としましては、現物を見ていないからはっきりしたことは言えないと申したわけでございます。現物を見ない段階で質問を受けた内容がですね、いわゆる「景初四年」という年号がでていると。これは朝日新聞の朝刊にでていましたからそれを見てもらっても間違いないんだと。「ところがその景初四年という年号が暦にはない、ちょっとおかしいんじゃないかという話がでているんだが」という質問をいただいたわけです。私としましては、その点は暦にないからと言ってですね、にせものというかーーにせもの説は出ていなかったんですがーー疑問だとか、疑わしいとは言えませんよということをお答えしたわけです。
これはですね、簡単に問題の性格を理解していただくために、私の個人的な話をさしはさまさせていただきます。私は還暦を迎え、還暦の祝いをしていただいて、非常に恐縮に存じたんですが、大正十五年の生まれでございます。ところが大正十五年は同時に昭和元年であります。昭和元年生まれの方は非常に少数というか少ないわけです。つまり十二月の二十五日ですか、おしつまって大正天皇がなくなるということがありまして、昭和になったわけです。昭和元年の人は、三六五分の六位の人しかいないわけです。ところが、こういう年号の変え方というのは、我々はそういう形で明治以後、経験していますが、必ずしもいつもそうだとは限らないわけです。たとえて言いますと、景初でいいますと景初三年がすんで、景初四年になって、たとえば景初四年の一月十五日というような時に、改元の詔勅がでたとしますね。そういう場合、改元の詔勅の出方は、二種類考えられるわけです。というのは現在の大正、昭和の場合のように一月十五日から正始元年とするという、そういうやり方があるわけですね。言い変えると、景初四年は十四日間、つまり一月一日から十四日間が景初四年ということになるわけです。
しかしもう一つのやり方があるわけです。十四日間さかのぼって正始元年とする。というのは、元旦がなくて元年とするのは景気が悪いから、十四日前の「元旦」を正始元年元旦とするという詔勅が出るというケースがあるわけです。こういう場合は、実情は景初四年というのは十四日間あったんだが、しかし暦の上ではそれは消されてしまう。つまり「景初四年はなかった」事になる、というようなやり方もあるわけです。これは「どの王朝も必ずこのやり方をする」という事が決まっていれば楽なんですが、歴史学の上で、かならずしもーー一定の傾向ぐらいは、ありますがーー決まっているとは言えないわけです。細かい話をすれば、前になくなった天子と新しい天子との関係ですね。仲が悪いというか、対立するような、何かの派閥活動で、次の天子が登場した場合と、自然に親子の関係でつづいたというーー大正昭和はそうでしょうけどーーこれらのケースとまた違ってくるという事はあるわけなんです。
要するに一つ一つ、確認を取らなければいけないわけなんです。ですから、今、言っていることは、一つまあ仮定した例で言ったんですが、暦の上で「その年号がない」と言っても、それでは現実になかった、歴史上の事実としてなかった、と断定はできない、という事があるわけです。有名な例では、例の三一六年、西晋が滅亡しています。そして暦の上では東晋になっているわけです。西晋は洛陽を都としておりました。全国支配です。東晋は、今度は建康、今の南京ですね、そこを都にした。中国のほぼ南半分の支配です。ところで、東晋の年号に“暦の上では”なっているわけです。しかし実態は、そんなに簡単なものではなくて、中国の中の、ある「地方」では西晋の年号がずうっと使われ続けられたんです。事実は、そういうことです。
だから、そういう場合はそういう実態に則して考えていかなければいけないわけです。ですから暦に無いからと言って、それをいきなり“にせもの”であるとか、疑わしい、とかいう風に見てはいけないーーと、これは一般論として私は、この時お答えしたわけでございます。ところがその時は、学校へ出る直前で、忙しくて、調べるヒマがなかったもんですから、あと帰ってきて調べてみますと、どうもこのケースでは、今私がもうした一般的な心配、ある意味では慎重さですが、それは当たらないという事が、はっきりしてきたわけでございます。と言いますのは、『三国志」の少帝紀斉王というところを見ますと、第三代の天子になりますが、ここを見ますと、景初三年正月に第二代の明帝が死んでいるわけです。卑弥呼が使いを送った時の魏の天子ですね。彼が死んだ。前年の景初二年の十二月に病気になって、景初三年の正月に死んだ。まだ若い、壮年の天子だったんですが、亡くなったんです。それで、その後、斉王が位についたわけです。ところが位についてすぐ年号を変えるというやり方を斉王はしなかったわけです。代って「この一年間、明帝の喪に服してすごす。だから年号も改めない」という意志が表明されたわけです。
そうしておいて、十二月になって、この正月と十二月の間に、倭国との交渉問題なんかがでてくるんですが、その後十二月になって、斉王の詔勅がでてくるわけです。これがいわゆる改元の詔勅なんです。要するに翌年からを正始元年とするという詔勅です。ここに十二月のあつかいをめぐったちょっとした注釈が入ってきます。いわゆる殷の暦、夏の暦の問題をめぐってありますが、今はこれは、直接関係ないので省略いたします。要するに「正始元年正月」にするんだという予告の詔勅がなされるわけです。この場合に、十二月の何日に出されたかという事は書いてないんです。だけどおそらくこれは十二月の三十一日とかいうんじゃなくて、十二月の上旬とか、そういう時ではなかろうかと思われるんです。なぜかと申しますと、その洛陽で年明けて改元しますとこう言いましても、これを全国に、中国の天子が統治している各地に知らせるというのはこれはなかなか時間がかかるわけです。早馬で知らせるとか、早駕籠で知らせるとか、かなりのスピードで伝わっていくらしいんですが、それでも一週間や二週間はどうしてもかかります。
そしていよいよ年あけて、といいますか、その正始元年の正月に全国で正始元年の正月を祝うという、そういう予定のプログラムに従って詔勅が出されたというケースだろうと考えられます。一年前から喪に服するといってちゃくちゃくと準備していたわけですから、年が明けたら変わるんではないか、という予想はみんな持っているわけです。そういう予想の上に立っていよいよ「改元の詔勅」がだされるという、まあ理想と言えばおかしいかもしれませんが、そういう、よく準備されたケースである。こういうことは帝紀を見るとわかりますので、こういう立場にたって考えると、このケースはさっきいいましたように、実際は、景初四年があったけれども、暦の上でないだけだ、とこういうケースにはちょっと考えられない。一般にはどっちともいえない、というケースも多いんですよ。しかしこのケースは、どうもそういう心配をする必要はなさそうだ。一般論としてはいろいろありえても、このケースについては、ちょっといえないケースであるということが、帰って資料を調べているうちに私には確認されてきたわけです。 
「中国」と「夷蛮」
そうなりますと、現実にそういう「景初四年」と見える銘文の文字がある、という問題はどうなるのか、ということが次にでてきます。今の問題について、実は「残された領域」があるわけです。今申しましたのは、「中国の天子が直接支配している領域」に関することでございます。ところが、それよりほか、つまりあまり使いたくない言葉なんですが、古代中国では、自分達のことをまさに「中国」という言葉が示しますように、まん中の国である。そして天子のいる国である。またその民が中華の人間であると。それに対して、周辺の民族はいわゆる「夷蛮」、ふさわしくない表現かもしれませんが、一段“格の落ちる”連中である、という、現代で言えばまさに「民族差別」です。古代東アジアでは、中国側が正規の文書、正史をもってですね、まさに中国人と周辺の民族とをはっきりと「差別扱い」をした文書を出し、正史をだしています。それをまた喜んでといってはおかしいですが、周辺の民族も受け入れる、という、そういう時代であったことは、これはもう事実でございます。
今、仮に「夷蛮」、この言葉を使わせてもらいます。もっと他の言葉でいい言葉があれば、と考えたのですが、ちょっと思いつかずにきているんですが、またいい言葉があれば教えて下さい。今はこの言葉を一応かっこつきで使わせていただきます。つまり、今言ったことの次、第二の側面として、いわゆる中国の周辺の国々に、いちいち早馬だか、早船を派遣して全部知らせてまわる人などということはちょっと聞いたことがないわけです。そうするとその場合、どうなるかというと、周辺の国が中国に使いをもたらしていた。それを中国では「朝貢」という上下関係、それでなければ受けつけない。現在で言えば「民族差別」「国家差別」でしょうが、そういう「朝貢」をもっていった時に、年号の改定が伝えられるというのが、正式な伝え方であろうと思うのです。もちろん「正式」以外の伝え方もありうるわけでしょうが、これはあとにまわして、一応正式にはですね、そういう形で伝えられるその周辺の国がどの位の年数をあとで使いがくるかということは一定できません。遠い国もあれば近い国もありますので、三カ月後にくるのもあれば、半年あとにくるのもあれば、一年後にくるのもあるでしょう。
そういう時にその布告、「年号が変わった」ということが伝えられることになるわけです。そうしますとそういう国々で金石文をつくりました場合はどうなりますか。要するに中国本土内では存在しない「景初四年何月」という、そういう年号があらわれる可能性がでてくるわけでございます。事実、ここにちゃんとでてきているわけです。そうするとこの鏡は実は中国製ではない。「夷蛮鏡」という言葉を、私のいわんとする概念をはっきりさせるために、使ってみたんです。この年号は「夷蛮鏡」である証拠ではあっても、中国製である証拠とはならない、私は自分なりに確認したわけでございます。
さて、まず最初に京都新聞、ついで各全国紙で報道された時「景初四年鏡がでた」。そして、「それは中国製である」、「とすると三角縁神獣鏡もーー盤竜鏡という名前で伝えられていましたがーー盤竜鏡と同種類の鏡であるから、三角縁神獣鏡もまた中国製である」と。そこで「三角縁神獣鏡が中国製であるとすれば、魏から卑弥呼(ヒミカ)に送ってきた鏡も三角縁神獣鏡と考えてよろしい」と。とすれば「邪馬台国はやっぱり大和、つまり近畿説が正しい」と。ま、こういう形に話が論理的につながっていたわけです。
もしたった一面の鏡の性格いかん、というだけの話だったら、新聞の第一面のテーマにはなりませんよね。鏡なんかあちこちからでていますから。ところが実は、でたのは一面の鏡だが、これによって全三角縁神獣鏡が中国製か、あるいは国産かという、それを判定する鍵なんだ、それは同時に邪馬台国が九州だか近畿だかというそれをうらなうキイポイントになる。これが中国製だということになると邪馬台国は近畿だ、やっぱり卑弥呼は近畿にいたという話になってくる。ーーこういうニュアンスが京都新聞の第一報や全国紙の第一報でも、にじんでいたことを、おそらく古代史に関心の深い皆さんはお見のがしにはならなかったと思うのです。
なお、今度は私自身が経験した一つのエピソードを加えさせていただきますと、今回の京都新聞の第一報ではですね、鏡の研究家としてナンバーワンの専門家である京都大学の名誉教授になっておられる樋口隆康さんが、コメントというより、この方の判定というものを基盤にして記事がつくられていたことを、京都の方はご存じのことでございましょう。全国紙の場合も朝日新聞など、この型の記事のものがあった、と思います。私は、あとで京都新聞の第一報をみて、あれ、と思ったのです。というのは京都新聞の一面、ほとんど全部とったようなスクープで樋口さんが次のように語っておられるんです。「私はまだ現物は見ていない。いないが、写真で見るとどうもこれは・・・」という、そういう話しになっているんです。各地の皆さんがご覧になった分では、そういう形のコメントはなくなっていたと思うんです。そうなんです。これはさっき私がいいました、学者の不幸なケースという感じもいたしました。それはさておきまして樋口さんが非常に喜んでおられる様子も紙面から伝わってきました。
これには私の個人的な経験から見ても、わかるところがあったんです。樋口さんのところには京都にいる時分、しょっ中おうかがいしていました。何か間題があると樋口さんの所におうかがいしてそのお持ちの資料を見せていただいたり、見解をお聞きしたりしたわけです。同じく、同志社大学の森浩一さんの所にもしょっ中おうかがいしてご意見をお聞きしたり、関係の資料を見せてもらったわけなんです。これは私自身の研究の基本的な姿勢でこさいまして、京都におります時ーー今でも基本的に同じですがーー単独で研究しております。しかも非常に今まで言われていないようなこわいテーマにぶつかっている。私にとってこわいのはこういう時、ひとりよがりになって、自分だけの思いこみで袋小路に入ってしまうということがやはり一番こわいわけです。自分が学界で常識になっている資料を知らないがためにまちがって“思いこんでいた”というケースもあるんじゃないか。あるいは今までにもすでに、こういう風に考えられていたのに、それを知らないために、自分が一人で喜んではいないか。そういうことはーー親鸞研究の時もそうでしたが、古代史研究の時にも、絶えずあったわけです。そういう場合に、そういうものに対する私自身の対策としては、その問題についての権威者というか、あるいは学界の常識をもっている方、あるいは非常にすぐれた論文や本を出している方、その方に直接ぶつかって、何回もぶつかって、当面の問題点をただす、というやり方を親鸞の場合にも、また古代史の場合にも、やってきたわけです。そういう中でやはり、「ああこういうことであったのか」と、学びながら、そして自分の考え方を確かめてきていた、というわけです。
そういう方々は私にとって非常にありがたい存在であったわけです。親鷺研究における藤嶋達朗さんとか宮崎円遵さんとかいう方々、あるいは古代史では、考古学の方々で樋口さんとか森さんとかいう方々のところに私はたえず、遠慮なしに、何かおきたら飛びこんでいった。そういう方々は忌憚なく私の質問に答えてくださったという経験があるわけです。もちろん樋口さんと私は意見が全く違います。樋口さんは三角縁神獣鏡が卑弥呼のもらった鏡である、という見解をもっておられる方である。「卑弥呼の鏡」という論文もございます。にもかかわらず私にはしょっ中いろいろと見せてくださったし、またしょっ中教えてくださった、という方でございます。 
筆跡と字体
ところが、ある時、樋口さんが私におたずねになった。というのは、例の「景初」の「初」が見えない鏡がございます。たとえば、黄金塚の画文帯神獣鏡、また島根県の神原(かんばら)神社の三角縁神獣鏡、いずれも「景初」の「初」が読めません。また正始元年と呼ばれるもので「正」が欠けているものがあるわけですね。あれについて「古田さんは何という字だとお考えですか」ということを、行った時に聞かれたわけです。「いやあれはないから言えません」とそっけない話なんですが、そうお答えしたわけです。「何か、朝鮮半島あたりの年号とお考えですか」と聞かれたので、「いやそれもわかりません」と。「そういう可能性があるかも知れませんが、そうであるとはわかりません。ないから読めない。出てきたらそれを読む。というのが私のやり方です。」という事をお答えしたことがあるわけです。「ああ、そうですか」。何かこう、消化不良みたいな感じで言われまして、それ以上おっしゃられることはなかったわけです。しかしまあ、樋口さんが私の論点「ないものは読めない」と言っていることを、強く意識しておられる、という事がよくわかったわけです。そういう私自身の個人的な経験があるわけです。
まあ言っても別に失礼にはならないと思いますが、魏の年号鏡として、“景初四年という年号のあることがはっきりと言える鏡”が出たということで非常に喜んでおられるのが、新聞記事を通じて、ひたひたと伝わってまいりました。特に樋口さんが言っておられるのは、島根県の神原神社の景初三年鏡と比較してこれは非常に「筆跡」と言うか「字体」が、似ていると。だからこれはどうも、偶然の関係では無いというコメントを入れておられるのが印象に残りました。つまりここで、樋口さんが言っておられるのは、これは盤竜鏡一面の話ではなくて、これが中国製である、すなわち景初という魏の年号をもっているから、中国製である。とすればこれと同類の性格を強く持っている神原神社の三角縁神獣鏡も中国製になる。とすると、他の三角縁神獣鏡もみな中国製になる、わけです。こういう論理の連鎖を樋口さんがお感じになっている様子が、私にはまざまざと伝わってきた。特に京都新聞の第一報で見たとき、伝わってきたわけです。
さて、こういう自分の個人的な経験を思いおこしておりましたが、今や問題は実に“逆転し始めた”感じがあるわけです。なぜかといいますと私が今申しました、いわゆる年代論です。景初四年論から言いますと景初四年という年号は中国内で天子の直轄領内でつくられた金石文ではあらわされない性質の年号である。特に洛陽で、中国のド真中で作られた鏡でこういう年号があらわれることはおかしい。まして実際に魏の明帝の意志を実行したのは斉王の時ですが、その斉王が卑弥呼に送ってきた鏡に“存在しなかった年号”があったんでは格好がつきません。自分の方が「景初三年」までで、この「景初」の年号は終りだ。もう年が明けたらこの年号は使いませんよ、というおふれを景初三年の十二月に出しておいて、おふれに反した景初四年という年号鏡を倭王のところへ送る、これはもう全く自己矛盾もいい所で、全くこれはありうる話ではない。天子はいちいち忙しいから、単なるミスだろうと言えばおしまいですけれども。そういうミスを、中国製にしたいという自分の都合のために“しくむ”のはやっぱりフェアではない。素直にというかスムーズに考えた場合、これはやはり中国本土でつくられた、なかんづく洛陽でつくられた、さらになかんづく魏の天子が倭王たる卑弥呼に送った鏡ではありえない。
じゃ何がありうるのかと言えば、日本列島における国産鏡、いわゆる「夷蛮鏡」なら、ありうるわけです。もちろん、日本だけでなく、中国の東西南北、いわゆる「夷蛮」の地であれば、いいわけですが。しかし、今、日本列島で出てきているわけですから、まず日本列島という「夷蛮の地」と考えるのが一番素直でしょうからね。日本列島という「夷蛮の地」で製作された鏡、国内鏡ですね、国内生産鏡としての性格を非常に明確に持っている、漢字の文面で証明している、というそういうケースであるということに“逆転”してきたわけでございます。
なお念のために申し上げておかなければいけないのは「五月丙午之日」という言葉でございます。これは考古学界では、ご存じのように吉祥の意味をもった“決まり”文句でありまして、必ずしも文字通りにとって「五月の真最中につくった」というものには限らない、ということはよく知られています。
なぜかといいますと丙午(ひのえうま)というのは、日本では非常によくないイメージがありまして、「ひのえうま」生まれの女は男をくい殺す、などと言われて、現に、その「ひのえうま」生まれの子供が少ないという話が現代でもある位です。これなんか、はっきりいいまして、いわゆる迷信であります。その迷信も中国系でない迷信で、これも国内産の迷信です。中国ではどうも、「ひのえうま」の女は結婚相手に具合が悪いなんて話を聞いたことはありません。もちろん、現代中国でも「迷信」はかなり残っているとは思いますよ。民間においては、「迷信」はかなり残っているとは思いますが、「ひのえうま」の女はダメだという「迷信」はまだ知らないわけです。これは現在わたしの理解するところでは、おそらく日本列島産の迷信であろう。というのはですね「ひのえうま」というのは結局“いきおいがよろしい”馬が非常にいきいきとしてはつらつとした姿を示しているのが「ひのえうま」です。ですから「ひのえうま」の女というのはいきおいがよい、活発であるわけです。活発であって、いきおいがいいのが嫁さんに不適当である。だんなさんを上廻るからダメだと、おそらくこんな話になっていったんでしょうね。
中国の十干十二支という、いわゆる暦の編年が日本列島では非常に権威をもって“新しいもの”“舶来”といいますか、一種の権威をもったものとして受けとめられていた時期があったんではないか。もちろん日本列島産の縄文時代以来の「迷信」も、当然あったと思うんです。本当に「迷信」かどうかはわかりませんけどね。この時代は一つの“生活の知恵”だったのかもしれませんが、時代が移るにつれ、「迷信化」していったものかもしれません。それは“古くさい”「迷信」と見て信用しなくなっている若い人にとって、中国という新しい先進国の暦に結びつけた迷信は、これは迷信じゃないという形で受けとられるふんいきがあったんではないでしょうか。この辺もまた研究なさる方があるとおもしろいと思います。と言うのは、現在でもこれと似た事件が起こっています。例の血液型で何かA型とかB型とかO型とかいうものですね。それが年配の人間よりも若い女性なんかが飛びついている、という現象があるわけです。
それはともあれ、丙午というのはいきおいのいい日である。もちろん五月もいきおいのさかんな月でありますから、五月丙午というと、火が非常に燃えるのにさかんな月である。だからその時は鋳造物をつくるのに非常にふさわしい、この時につくった金属製品がこわれない、と。これも迷信と言えば言えなくないかもしれませんが、吉祥の“お目出たい言葉”として「五月丙午之日」の句が選ばれているわけです。実際は四月につくっても五月丙午の日と書く、六月につくっても五月丙午の日と書くというケースがあるということが知られているわけです。ただし、「正月丙午之日」というのもあるので一月、二月につくっておいて、「五月丙午之日」と、はたして書いたかどうかはちょっと疑問なわけです。こういう問題も含めて、どうにも「景初四年五月丙午之日」という表現は、中国本土内ではできえない、もしくは大変できにくい、ということになるわけです。これは中国産ではなくて国内産、いわゆる「夷蛮鏡」というべきものであろう、という結論になってくるわけなんです。 
反字と逆字
なお、次の問題があります。この鏡には、ひっくり返した字、「反字」という言葉、これもあまり安定した言葉ではないと思いますが、使われております。「陳」という字体が鏡に映したもののようにひっくり返っているわけですね、反字です。更に「孫」という字、右の方では三行目の最後、左側の方は、読み下しが書いてありますので「=孫」と書いてあるから、“糸辺に子”という字があるのがおわかりでしょう。これも私が作った言葉なんですが左右逆になっているので、「逆字」という風に呼んでおります。「逆字」という言葉はおそらく、辞書を見てもないんじゃないでしょうかね。もちろん「ない」ということには意味があって、中国ではあんまりこういう字は使わないから、「ない」ということなんでしょう。
景初四年鏡銘文
景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人[言名]之位至三公母人[言名]之保子宜[糸子]壽如金石兮
〈読み下し〉
(一)景初四年、五月丙午之日
(二)□(=陳)是(=氏)、鏡を作る。吏人、之に[言名]すれば、レ位三公に至り、母人、之に[言名]すれば、子を保ち[糸子](=孫)に宜(よろ)しからむ。
(三)□(=壽)は金石の如し(□=兮(ケイ)=終尾辞)
今回、早速福知山に飛んだのですが、市役所の三階でしたか四階でしたか現物を拝見したわけです。最初、現地にまず行って、あと実物を拝見したわけです。本当にもう目をこすりつけるようにして拝見し、手にとって、存分に拝見できたわけです。そうして見てみますと、実は「反字」の類はこれだけではなかった。読み下しでごらんいただければわかりますように、「寿(じゅ)は金石の如し」と。銘文ですと最後の行の先頭に変な様に書いているでしょう、これは苦心して反対に書いてみたんですが、これを新聞では「嘉(か)なること金石の如し」という風に報じていたわけです。それで朝日新聞の方からの問い合わせの場合も、「『嘉なること金石の如し』となってますが、これはどうでしょう」ということが言われましたが、「聞いたことがありませんね。普通は『寿は金石の如し』なら、よくあるんですが、『嘉なること金石の如し』はちょっと、聞いたことがありません。」こう言ってたんです。ところが、実際に現地にいって、現物を拝見しますと、これはやはり「寿の反字」である。“ひっくり返し字”である。いわば「鏡字」であったわけです。見ていただければ分かりますように、「壽」という字をひっくり返してみると、下の「口(くち)」が向かって右側にきます。そうすると「嘉」という字に似てくるわけです。最初にこれを読まれた方が、「嘉」と判断されたわけですね。誤報といえばおおげさですが、字をあやまって判断されたわけです。実際は「寿」のひっくり返し字であったわけです。それで今度は、最後の「兮(けい)」ですね、ケイという音の字ですが、普通日本の読み下しでは読まない字ですが、これが明白に“ひっくり返し字”「反字」になっていたわけです。その他にもですね、「反字」とおぼしきものがないことはありません。たとえば「母人」の「母」など、「あれも『ひっくり返し字』かもしれませんね」という話が、現地ででたんですが、そういえば言えないこともないかもしれないが、しかしこういう字は大体左右似ていますので、これが本当に反字であるか、あるいはこういう書体であるか、ということはそうすぐ判定しにくいということで、これはあえて言わなくてもいいだろう、ということになったのです。
しかし、今あげました「陳」とか「寿」とか「兮」とか、これははっきりした「反字」であるわけです。「孫」もはっきりした「逆字」です。それらは確認できたわけです。これにつきましてもですね、こういう「反字」が中国であるかないかという問題について、最初電話がかかってきたときから話はでておりました。「中国製でも、こんなの、よくありますよ」という意見の方もあったことも聞きました。この場合、ちょっと注意しなければいけないのはですね、「中国製でもよくありますよ」というのが、後でよく聞いてみますと、三角縁神獣鏡だったと。つまり、「日本産」の三角縁神獣鏡ですね、これは確かにあるんですよ。それを「中国製」という立場にもちろん立っている人が「中国にもありますよ」という返答になっていたことがわかってきた、そういうケースもあるんです。
これじゃ私の方は困るわけですね。だから“文句なしの中国製”にそれがあるかないかが問題のポイントなわけです。私はありていに内輪話を全部申し上げさせていただきますが、字の問題について、やっぱり問題がでたら、いつも意見をお聞きする方があるのです。私は無知無学な人間ですから、こういうことはいくらやってもやりすぎることはないわけです。京大の尾崎雄二郎という方で、かつて『三国志』の魏志倭人伝の版本をもとめるという探究をやりました。この時もやはり、古代史の学者にとびこんでいって意見を聞いたわけです。ところが、意外に日本史の古代史の学者は、「三国志』の版本の問題について無関心というかあるいは知らない人が多かった。そういう事情を知ったわけでございます。この点は、『「邪馬台国」はなかった』の中で、最初の所に書いています。なかにはご親切に、「やめなさい、あなたは親鸞だけやっていればいいですよ」ととめてくれた学者さえいたんです。そういう中で『三国志』の版本を教えて下さったのは、当時京都大学の教養部の助教授をしておられた尾崎雄二郎さんであったわけです。二十四史百納本を私に貸して下さった。私にとっては、非常に大きな喜びでありました。その後、数奇な運命と言いますか、尾崎さんと邪馬一国問題をめぐって論争するような局面がでてまいりました。尾崎さんはあれですね、卑弥呼を「ヒムカ」と読まれて、それを宮崎県の「日向(ヒムカ)」に関係するんではないか。壱与(イヨ)を四国の「伊予」に関係するんではないか、という、そういう向きの論文を書かれたりしました。私は立場は違っておりましたので、邪馬一国の問題について反論させていただいたことがあったわけです。にもかかわらず、それ以前にも、それ以後にも、論争にもかかわらず、私はとびこんでいって「文字」の問題についておたずねすると、非常に端的に、親切に、自分達の中国学の者の判断、学界での判断、ご自分の判断をのべ、また資料というものを何の忌憚もなくお見せいただく、そういう方です。有難いことといつも感謝しています。
この方に、今は東京と京都に離れていますので、失礼ですが電話でお聞きしたわけです。そうすると尾崎さんは「先程のような文章は、中国ではちょっと考えられませんね」という判断を示されました。特に今の「反字」の問題について、「通常の文章や金石文などを含めて、鏡のことは、私(尾崎さん)はよく知りませんが、一般の金石文ではそういうものは見たことがありません」と、いうことなんですね。ただちに何のけれん味もなくお答えいただいたわけです。まあ、これは常識かも知れませんが、こういう金石文や中国の文章に絶えずふれておられる尾崎さんの判断として、的確にお答えいただいたわけです。
中でも特別の問題をもっているのは「陳是」の「是」です。この字は「氏」と同じと考古学界では梅原末治さん以来、言われていますが、実際はこれは「名前」かもしれません。それは別として、“「陳」という人が鏡をつくった”という文が先頭にあることは、明らかです。つまり、「陳」という人は、鏡を作ったご本人であるわけです。“ご本人が自分の名前をひっくり返して書く”というのは、ちょっと考えにくいことです。皆さん、ご自分の名前をついひっくり返して書くということがありますかね。ちょっとないわけです。「古田」なんていうのはひっくり返しても古田ですが、「武彦」になると「武」なんていうのは面倒になりますね。ということですから、“ご本人がひっくり返して書く”というのは、ちょっと、ありにくい。大体文字を知っている人間が“ひっくり返して書く”というのはむずかしい。知らぬ人間なら、どっちでも同じかもしれませんね。なまじ知っている人間がひっくり返して書く、ということは、漢字では起りにくいわけです。“意図して”やらないと、なかなか“うっかり”とはできにくいわけです。そうすると、これはどうもご本人が作った鏡ではないんではないか、という問題がでてくるわけです。
この点については実は私も電話で申したんですが、すでにそれを強調しておられたらしいのが森浩一さん。森浩一さんがどうも本人が「陳」をひっくり返したのはおかしい、と語っておられたのが、新聞にも載っていました。森さんの判断は基本的に正しい、とこういってよいだろうと思うわけです。
他にも、日本列島の中から出てくる墓の中には「陳」とか、作鏡者にあたる字が、ひっくり返っているケースが時々出てくるわけです。これも今回と共通のテーマが存在するわけでございます。鏡を作るとき、「モデルになる鏡」があって、その「そっくりさん」を作るのが一番簡単なわけです。つまり、粘土を平たくしておいて、それに鏡をバァーと押しつけて、それを取ったら、そこに“そっくり”が写るわけですね。ところが一字だけひっくり返ったのを作ろうと思うと大変です。大変むずかしいでしょうね、“全面そっくりさん”が一番楽なんです。この鏡のように一部分だけひっくり返ったり、逆になったりしているという現象は、技術的には大変むずかしいことをやっているわけです。うっかり寝ぼけてやったから、一字だけひっくり返った、二字だけ逆になった、ということには、ならないわけです。 
ミスか故意か
問題を原則的に立ててみますと、こういう「反字」や「逆字」の生じるケースとして、ミスで生じるというのが一つと、もう一つは故意にそういうことにしたというケースが一つ、この二つ以外にはないですね。ミスか故意です。そして見るとですね、この場合、さっき言ったことからいいますと、ミスであるというケースはもちろんおいておかなければいけませんけれども、どっちかと言うとミス説にあたる可能性は大変少ないということです。でなければ故意になるわけです。「故意」とは何か。「反字」というのは、中国や、ことに日本では現象としては存在するんですが、これの研究というのは従来、あまりないんですね。考古学者でも、文字学者でも、それ自身を研究対象にして研究した本なんかを、私は見たことがないですね。ことにこういうのが多い、日本の中では、そういう研究者がでてしかるべきだと思うんですが、まだ、でておりません。特に、鋳造した職人は語ってくれないわけです。工人は無口である、ということのようです。
中国でも日本でも「こういうことをなぜやったか」ということについて何か、記録を残してくれれば、日本の方でも中国の方でも、それはまた、貴重な資料で論じやすいのですが、そういう記録がないわけです。そういう作った人自身の証言によってではなくて、結果を見て、我々がその理由を想像するより仕方がないわけです。そこで考えてみますと、さっき言ったようにペッタンコ、ペッタンコで“全面そっくりさん”を鋳造した場合には、これは言わば、「偽造」になりますね。“陳さんがいない”場所でも、いくらでもつくれるわけです。陳さんが死んでも、陳さんのとそっくりの鏡がいくらでも作れるわけです。作る側から言えば、そのほうがいい、つまり陳さんご本人がつくった本物と見られたら、結構だ、というような人もいるかもしれない。そうなると「偽造」です。陳さん作と思って高く売れれば結構。ということだったら、完全に偽造じゃないですか。「職人は偽造など、お手のものだ。」という考え方もあるかもしれません。
しかし、それとは逆に「職人こそ潔ぺきだ」という考え方も、あるわけです。結局、潔ぺきな人も潔ぺきでない人もいるんでしょうが、工人が「偽造であると見られることを欲しない」という場合、その場合には、一部分ひっくり返す、というやり方がありうるわけです。それを単純にご本人が間違えて、自分の名前などを“うっかりひっくり返す”ということはちょっと考えられません。また何か意図があって、自分で字をひっくり返して書くというのも、ちょっと考えにくいですね。そうすると、せっかく“ひっくり返してある”のにこれが「偽造」と思ったら、それは思う方が悪いのです。
「偽造でない証拠にこのようにひっくり返してあります」という可能性もある。特にこの場合なんかは、陳さん、陳だけじゃなくて全体の文章としてまして、この「景初四年五月丙午之日」という第一行がひとまとまりの文章、読み下しの方がそうなっていますのが、第一番目。「陳」から「保子宜孫」までの第二番目がひとまとまり。第三番目が「寿如金石分」と、おめでたい文句でひとまとまり。その第二番目の先頭の「陳」と、そして最後の「孫」と、「反字」もしくは「逆字」になっている。そしてまた、三番目の先頭の「寿」と最後の「号」が「反字」になっている。という具合に、何か、文節の最初と最後を変な字にしているという感じがあるわけですね。そうしますとこれは、ミスではなくて、何か意図してこういう風にしたんじゃないかということがうかがえる、そういう傾向をもっている。「反字」をやる人は、必ずこういう意図でやるという事にはなりません。しかしこの鏡は、どうもそういう性格を持っているようである。そうすると、いよいよもって、これは「偽物」ではなく、「模造鏡」であるという性格を持っているのです。
さて、この問題について『週刊読売』で書いた時、「反字」などは現実的には、中国でもあり得ると、こう書いたんです。はじめ『週刊読売』から「これについて文章を書いてくれ」とこういう申し入れがありました。それで何人か合わせて、私もコメントを出すのかと、思っておりましたら、「原稿用紙十枚書いて欲しい、私一人だ」という話だったんで、びっくりしました。「それにしてもまだ実物を見ていないから書けない」とことわったんですが、それでも、なお是非書いてほしい、という話がくり返しありました。その結果、「実は今晩発って福知山にいくんだ」という話をしましたら、「それじゃあらかじめ、十枚のうち、何枚か書いてもらって、それに現地で見たことを一枚分か、二枚分でもつけ加えてもらえないか、現地の通信局からファクシミリで送ってもらえればよい」と。「ではやりましょう」という話になりました。
あらかじめ、さっきもいった、現物を見なくても言える、論理的な問題を八枚分、書いておいた。その上で、現地に行って現物を見て、すぐ読売の通信局に行き、原稿用紙二枚分書きまして、すぐファクシミリで東京へ送ってもらった。最近はなかなか便利になったと思います。その文章を見ていただきますと、この二枚分がはっきり、それとわかる形で書いてございます。東京にいる時、書いた文の中に「論理的には、これは中国でもありうる」と、今、言いました「反字」「逆字」の問題を書いたんです。
私は、福知山に、次の朝早く立つ、その前の日に書道美術館(台東区根岸二ノ十四)にまいりました。これは、東京の上野駅のとなりの鶯谷の駅から十分ばかり歩くと書道美術館、中村不折さんという、明治、大正の書道の第一人者と言われる人ですが、そのお子さんーーお子さんといっても七〇歳をすぎておられる方なのですーーがその方が館長になっておられます。中村不折さんが所蔵されておられた貴重な品を展示してあります。月曜、火曜以外はあいております。上野の東博にも、その前に行きましてここは数は多いんですが、数少ない書道美術館の方がうんと質のいいものが集まっていた、と私は感じました。この中で特に私が目ざしましたものは魏の鏡です。
この陳列目録にもでておりますが、魏の甘露五年(二六〇)の鏡、これを見にまいりました。実にみごとな鏡でして、書体といい、また、鏡の金属の質といい、すばらしい鏡です。私がここに行ったのは、本物というか、間違いない魏の鏡を見ておいて、よく見て目にとどめておいて、福知山の出土鏡を見てみよう、比べてみようと、こういうことで前の日に行ったのです。
その時に館長さんに質問してみたんです。「このような『逆字』『反字』になっているのは、中国にありますか、見たことはありますか」と。すると「あります」というお答えでした。「全部裏返しになっていたのを中国で見たことがあります。」とこういうお答えでございます。私は「間違ってそういう風にしたのか、それとも意図があってそうしたんでしょうか。」「意図」というのはたとえば、全部ひっくり返っている場合、「反字」になってる場合、ここに紙を押しつけて、拓本をとる普通のぺースで、簡単に拓本がとれるわけです。
つまり簡単にまともにとるために、全文ひっくり返しに書いたというケースがありうるわけです。そういったような「何か『意図』があって、そうしたものでしょうか」と聞きましたら「いやそれは、もうはっきりした意図があって、おそらく、今あなたがおっしゃったようなそういった類の意味があってそうしたものと思います。なぜなら、偶然に一字だけひっくり返った、そういうものではありませんから」という風にお答えになっていた。「そういうもの以外には『ひっくり返し字」は、私は見たことがありません」こういうご返事であったわけです。 
異体字と夷蛮
私が今この問題にくどくどとふれておりますのは、論理的には中国でも「反字」はありうると思います。なぜかと言いますと、条件が二つあります。まず第一は我々が現在、中国本土、つまり中華人民共和国と呼んでおりますが、そのほとんどの地は夷蛮の地であるという問題がある。黄河流域が本来、彼等の中心の地でありまして、今度、私が行きましたシルクロードの新彊省なんていうのは夷蛮の地である。内蒙古だって夷蛮の地である。今の広東、ああいうところも夷蛮の地である。時代によって違いますけどね。だから、今の中国のかなり大多数のところは夷蛮の地であったわけです。ということはさっき私が言いました中国と夷蛮といういい方をしました場合、その中国では中華人民共和国を思いうかべていただいたら正確ではない。現代、「中国」と我々がよんでいる所の中にも、「夷蛮鏡」は産出されうるんだ、というテーマがございます。
なかんずく、ややこしくなってきますのは、南北朝や五胡十六国の時代に入ってまいりますと、中国が夷蛮と呼んでいた新興旬奴とか何とか、いろいろいますが、そういう民族がどっと北方から黄河流域に入ってくるわけです。そこで王朝を立てるわけです。そうすると、かつての「夷蛮」が今度は中国の中枢部をおさえる新王朝を築く、というような状態がでてくるわけです。これが、文字の問題にどういう影響を与えたか、という問題はちょっと簡単には決めがたい複雑な様相を帯びているわけです。現の証拠に、羅振玉の、異字を集めた『増訂碑別字』『碑別字拾遺』は、北朝系の王朝、たとえば北魏などの石碑に現われた「異体字」が非常に多いわけです。一言でいえばそういった文字における混乱が中国本土内で生じた、という歴史的な状況の反映であろうと、こう思うわけです。ですから、さっき中国と日本という形では非常にわかりやすかった「夷蛮鏡」問題、実は現在の中国本土内部にも「夷蛮鏡」の問題は存在するであろう、といった、判定上はややこしいのですが、こういう問題が一つある。そうすると、「中国へ行ってそれを見ましたよ」という話がでた場合、それは実は現在の中国本土内であってもかつての夷蛮で製作されたものであるという可能性がある。最後にもう一ついいますと、仮にそれがかつての夷蛮の地で作られたものでも、中国へ「献上」され、洛陽から出土する可能性もあるわけです。このような可能性も絶無とは言えません。非常に判定上困るんですよ。しかし論理的には、そういう問題も現実には存在する場合もありうるのです。
第二の問題としてですね、さっきいいましたようにうっかりミスではなくて、「故意」にした、しかも、さっきの仮説的な想定の場合のように、これが“完壁なる工人の精神のあらわれ”として、あえてひっくり返す、というケースもある。これは日本列島の工人のみが潔癖であったなんていうことはちょっと我々うぬぼれていうわけにはいきません。そのお手本もまた、中国の工人にあったと、考えて不思議ではない。むしろ、その方があたり前ではないか。そうすると、中国でも当然「模造鏡」という問題は起こりうるわけです。とくに名作に対しては。そうすると、中国でも模造鏡、あるいは模造金石文があった場合、「ひっくり返し字」が存在する可能性はあるわけです。新しい研究者がやる場合に今のような問題に当面しながら、それに苦慮しながらやっていくという問題が出てくるわけでございます。ですから“ひっくり返し”の「反字」、「逆字」間題からは確かに「中国製でない」可能性を一応は含んでいる。
しかしこの問題からは、「模造鏡」という問題は言えても、必ずしも「中国産ではない」という所へただちには進みにくい、そういう性格をこの問題はもっている。「模造鏡」問題を「反字」、「逆字」はもっている。しかし全く無関係ではなくて、やっぱり“夷蛮地における模造”ということがおびただしく行なわれている。特に日本の場合は鏡が特殊な意味をもちましたので、単なる女の人のお化粧品ということにとどまらない。太陽信仰のために、鏡が権力者に非常に重視されるという、日本列島における伝統がございます。そこにはことに、こういう「模造鏡」が非常に多く出てくるという、問題をもつわけですから、日本列島で「反字」、「逆字」問題は重要な問題になっていることは確かです。
しかし中国本土でもこれは全く絶無である、と断じるわけにはいかない。中国の工人において、完壁なる精神の表現として、すでに生じていた可能性も十分我々は考慮していかなければいけない、ということです。
いまの後半の問題は、言わない方が話がスッキリしたかもしれません。しかし、みなさんも古代史については深い認識をもっておられるわけですから、一応の認識では満足されないわけですから、そういう問題を、一見複雑だが事実もっている、ということをお考えいただければありがたい、こう思って申し上げたわけです。 
「[言名]」と「母人」の問題
なお、もう一つ問題がございます。それは、「[言名]」という字がございます。この字は、中国では通例には、あまり使われない字である。よく使われるのはもちろん金へんの「銘」です。有名な和泉黄金塚古墳で、そこから出て来たと言う画文帯神獣鏡、ここに「[言名]」が出てまいります。そこでまたそのお手本になったと私が論じたわけですが、神原神社古墳鏡に「[言名]」という字が出てまいります。神原の方は文章が長いのですが、それを切りちぢめて和泉黄金塚の方の文章が出来上がっている。ところが切りちぢめた結果が「これ」という代名詞の示すものが無くなっている、と言うことを私が論じたわけでございます。帝塚山大学でも報告致しました。
[言名]は、言偏に名。
また角川文庫の『邪馬一国の証明』でしたか、その中でもこの問題についての文章を載っけたわけです。ともかく、この黄金塚古墳にも神原神社古墳にも「[言名]」が出てくる。今度のにも「[言名]」が出てくるわけです。これからしても二つの鏡と今回の鏡とは、関係が深そうである、といえるわけです。しかも関係は深いんだが、このごんべんの「[言名]」はどうも洛陽のど真中では、あまり使われる字ではない。そうすると日本列島の工人か、あるいは朝鮮半島の在地の工人が渡来したか、そう言った人々の、一種の「俗用」ではないか。これは王仲珠さんが呉から来た工人が作った鏡だと言う考えを出しておられるように聞いているのですが、その場合には、呉の工人がこう言う字を使っている、しばしばこの「[言名]」を使っている、という実例をあげて説明を書いて頂くと我々としては非常にありがたい。今の尾崎さんのような中国の文字の研究家の目には「中国では通例は、あまり見ることができない」と言う風に言っておられました。こういう問題も一つございます。
二つ問題があって中国では、あることはあるにしても、あまり多くは使われない文字である。これはどうか、という問題が一つ。もう一つは、例の辰馬の考古資料館でーー『週刊読売』でわたしは「博物館」と書いていますが、正確じゃなくて考古資料館辰馬の考古資料館ーーに収蔵されていた鏡が今回の福知山と“そっくりさん”であると言うことが分かってまいりました。毎日新聞のスクープで、夕刊でしたか、載っておりましたが、それが日向=宮崎県で出て来た鏡です。ここでそっくりさんが出て来た。ここでもそっくりさんですから当然ながら「[言名]」である、と言うことであります。ここでも「ごんべんに名」の問題が一つある。
もう一つ問題は「母人」の問題。これは、私が現地に行く前に「母人」と言う言葉は知らないなあと思って、尾崎さんに確かめますと、尾崎さんも「『母人』と言う言葉は私は見たことがありません。中国ではまず使わない表現だと思います」というお答えをいただきました。これは私は「なかれ」ではないのではないかと考えて、『週刊読売』の場合も「母」(はは)と書いて「なかれ、か」と言う風に注をしたと思うんですが、現地に行って目をつけて見ますと、「なかれ」ではなくて「はは」なんですね、やっぱり。この点、後で奥野正男さんーー私についで三角縁神獣鏡国産説と言うものをデザインから立論された研究者ですがーー毎日新聞にお書きになったのを見ると、これを「なかれ」として扱って読んでおられるんです、もしかして奥野さんはまだ現物を見ておられないじゃないか、と言う感じを持ちました。私が現物を拝見したところでは「なかれ」ではなかった。「なかれ」にしてもうまく読めないんですが。「人をしてこれに詑せしむるなかれ」なんていう、何となく分かったような分からない表現ですのでピンと来ない。
そうではなくてここは、一応すっきりした形の対句、つまり「吏人これに[言名]すれば、位、三公に至る、母人これに[言名]すれば、子を保ち孫に宜しからん」と言う形の対句になっている。字数は合いませんが。その吏人というのは言うまでもなく、官僚です。これが[言名]すればーー[言名]すればというのは意味がはっきりしませんが、これを使えばというような結論的にはそういった意味だと思うんですがーーこの鏡を使うならば、位は、三公に至るだろう。三公というのは天子のもとでの最高のナンバー3までが三公。立身出世して人臣の位を極めるであろう。そう言う縁起のいい鏡である。「母人」というのは日本人だったらすぐ意味が分かるんですね。「母者人」というお母さんになる人が、これを使ったら子供や孫に宜しからん、つまり“いい子供や孫が生まれますよ”と、こう言っているわけです。ですから意味としては「母人」の方が非常によく分かる意味ではあるわけです。ところが、この「母人」が中国ではどうも普通、現われてこない、と言う状況がある。この辺もどうも呉の工人が作ったにしては・・・。では呉の鏡では「母人」という言葉を使っているのかと言うことを王仲珠さんが説明して頂ければ有難いのです。我々の今、持っている知識では「母人」と言う言葉は中国ではあまりないんだから、それが呉の鏡では特に好んで使われるということがあれば、もちろん、我々が持っている現在の知識を絶対化する必要はない訳です。普通の我々の考え方からいうと非常に中国人の表記には、ふさわしくないという感じです。 
中国産か国内産か
さて真の問題はその次に出てまいります。というのは、さっきいいました様に、この鏡が「国内産」だということは、たとえばこれと非常に共通な表記を示す神原神社古墳の鏡も「国内産」であることを意味する。言わんやそれを圧縮した鏡である和泉黄金塚古墳の「景□三年鏡」も「国内産」であることを意味する。日向の場合も「国内産」であるということを意味する。ひいては三角縁神獣鏡全体が「国内産」であることを意味する、と言う風に、さっきいいました「中国製の論理」が逆転して「国内産の論理」に反転して行く訳です。これは最初は中国製という形で「邪馬台国近畿説有利か」と言う感じで流れたのが、それから一週間、十日たつ内に、どうも逆流を生じて来たようです。
それは森浩一さんが私の前の日に現地に行かれて、祭日でしたが、見られて「これは中国製と言うのは非常に問題だ」と言うコメントをされてサンケイ新聞がその記事を出しました。それから私が注目している方に菅谷文則さんという方、現在橿原考古学研究所の所員の方だと思うんですが、若手のといいますか、三十代の方だろうと思いますが、この方は末永さんが館長の時に中国側との交渉の結果、「研究者を北京に派遣する、受け入れて欲しい」「よろしい」と言うことで二年間、北京へ行って鏡の研究をしてこられた。鏡の専門的研究者として北京に二年間留学されたわけであります。これは非常に意味が深いわけですね。我々中国へ行きますと博物館等で鏡があれば座り込んで見るわけですけれども、しかしそれは展示された物にすぎないわけです。中国では日本と違って鏡と言うのは中枢を成す器物じゃないですから、たかだかお化粧品みたいな手廻品ですから、展示の数も少ないしあんまり大きな場所もとっていない。それをいつも残念に思っているんですが、しかし専門の研究者として北京に居られたら、北京のみならず鏡をずっと見て廻って研究されているわけですから、そういう意味ではこの菅谷さんがどのような見解を示されるかということに私はかねがね関心を持っていたわけです。
ところが丁度私が福知山に行っている頃だと思うのですが、東京の東アジアの古代文化の会で菅谷さんが講演の講師か何かで出られ、その時、報じられたばかりの景初四年鏡について語られて「私はかねがね、三角縁神獣鏡は国産であると思い、主張もして来たが今回の出土によっていよいよそれが確かめられました」ということを非常に、まあ、興奮して話された。そしてその司会者の方が「私は今まで司会をよくやって来たけれども、講師がこれ程興奮してしゃべられたのは初めてです」といわれたそうです。その時会場におられた方から私は直後にお話をお聞きしたわけです。私が直接聞いた話じゃありませんが、そう言う話が伝わってまいりました。私は「ああ、さこそ」と言う感じを持ちました。今のように日本の鏡はもちろんよくご存じで、かつ中国の鏡に二年間没頭された菅谷さんが今のように三角縁神獣鏡を国産と考えておられると。それで今度の「景初四年鏡」はその確証であると考えられたという風に聞いたわけですが、このことには深い意味があるだろうと私は感じたわけです。
なお、その後王仲珠さんが来られて橿原考古学研究所で講演されて「やはりこれは国内産である」と言う旨を述べられたようです。しかし王仲珠さんの場合、「三角縁神獣鏡が、日本国産である、中国製じゃない」という議論と同時に「邪馬台国は近畿である」と言う説とダブッているわけでそれがどう言う風になっているのか、つまり卑弥呼がもらった魏の鏡、百面と言うのはどの種類の鏡なのかと言うことについての王さんの見解を私はまたゆっくりお聞きしたいと思います。また王さんがどこかでおっしゃった件があれば、教えて頂ければありがたいと思います。もちろん私の王さんに対する批判といいますか、そういうものは『多元的古代の成立(上下)』の「下」の方に載せてあり、それを王さんに送ってありますので、受けとったという返事はいただいたと思いますが、それに対する新見解は私としては受け取ることが出来ずにおります。
さて、今の話で大体、今回の鏡についての一つの答えは出て来たと思うんです。要するに、この鏡はやはり「夷蛮鏡」、「日本国内産の鏡」であると言うことが一つと、その事は即ち全三角縁神獣鏡に及ぶ性格であると。ところでもう一つ細かい話しを致す様ですが付け加えさせていただきますと、今の辰馬考古資料館にも“そっくりさん”があると言う報道がありました時に、これを「三角縁神獣鏡」であると言う形の報道がなされたわけです。それでちょっととまどったのです。というのは、さっきも書きましたように盤龍鏡と言う風にこれを理解していたわけです。特に森浩一さんが私の前の日に行ってこれをご覧になって「これは三角縁ではありませんね」そして「斜縁盤龍鏡ですね」と言う風に言われたと聞いたのです。その点私も特に朝日新聞の高橋徹さんと一緒に、一所懸命見たんですが、どうも三角縁と見るには不足だと言うか、「三角縁と迄は言えませんねえ、斜縁と言うところが妥当ですねえ」と言う結論に二人とも達していたわけです。ところが今の新聞報道では、「三角縁神獣鏡」と報道されたので混乱したわけです。
つまり“そっくりさん”と言うのは“全面そっくりさん“ではなくて、一部文字とかデザインがそっくりさんである。縁はまた違うんじゃないかと言う風に、現地では想像したんですね。実物を見ない段階では、辰馬の方のを知らない段階では。ところがその後、朝日新聞の高橋さんの方で確認をされたらしいんですが、田中琢さんーー田中卓さんは古代史、琢さんの方は考古学者、奈良の国立博物館にいらっしゃる方ですーーこの琢さんが鏡の専門家ですので、この方の解説でスクープ記事が出ていた。そのスクープでは「三角縁神獣鏡」とはっきり書いてある。
そのことを確認して見ますと、実物の問題ではなくて分類の問題でありまして、つまり三角縁は、この部分が三角です(,△)。これに対して斜縁と言うのは、左上が三角縁程とがっていない、かすかに、幾分確かにこうなってはいるんだが()三角縁と迄はちょっと言えないと言うのを従来、斜縁と呼んでいたわけです。そしてこれ(,□)を平縁と呼んでいる。ところが田中琢さんの見解では「斜縁も三角縁の一種である」と言うことで「三角縁神獣鏡」と呼ばれた。だから「実体の把握の違い」ではなくて「分類の違い」であると言うことが分かって来たわけです。確かにこの私がお聞きした田中琢さんの判断は、成程と思いましたのは、こう言う所が斜縁というのは厳密ではあるように見えますが、実際は、“何度までが三角縁で何度から斜縁“などとは言えないわけです。そうするとその辺を区別するったって、区別しにくいわけです。そうするとやはり名前で見たら三角縁と斜縁では完全に字が違いますが、実は同類であって、大きく三角であるのに違いはないから、「三角縁」と呼んでおいて、その中に「斜縁」と言う物を入れると言う、そう言う田中さんの判断は確かに私は、誤りではないと思う。
先の樋口さんが盤龍鏡と言われた、あの盤龍も神獣の一つであると言う考え方です。だからそう言う盤龍鏡と呼び斜縁盤龍鏡という呼び方、これを三角縁神獣鏡と呼ぶのは、呼び方の違いであり、実体の違いではない。こう言う問題が今回のいきさつを通じてはっきりして来たわけです。と言うことは、先程からくり返し言っております様に、「この鏡が中国製だと言うことになれば三角縁神獣鏡が中国製だと言う可能性が高まって来るし、この鏡が国産と言うことになれば、三角縁神獣鏡全体が国産と言う性格が高まって来る」と言うことが、今の分類の問題からもお分かり頂けたと思います。
さて、ここから出て来る新しい問題がある訳でございます。まずこの文章をみてみると、この文章は非常に変な文章と言えなくもないんです。まあ「男性が、(もちろん権力者、豪族でしょうけれども)この鏡を使ってくれたら、大変立身出世しますよ」と言う、「女性が、(女性は母になる人ですから)これを使ってくれたらいいお子さんが生まれますよ、お孫さんもいいお孫さんができますよ。いい子孫が出来ますよ」という、言い換えればこの鏡が作られた段階では、誰がこの鏡を使うか一切不明である。人間には男性と女性しかいないですからどちらがお使いになっても結構この鏡はいけますよ、縁起いいですよ、とこう言っている文章なんです。だからこの文面はどうも魏の天子が卑弥呼に送るのにふさわしいような感じじゃないわけです。はっきりいいましたら、これは商業生産のための鏡のPR文句であるという感じがはっきりと出ているわけです。
この鏡は、要するに商業生産用に作られた鏡ではないかと言う問題が出て来る。実は、皆さんそう聞くと、びっくりされる方もおられるかも知れませんが、このことを従来から強調しておられるのが、先程から言っております樋口隆康さん。樋口さんは、鏡は、商業生産用に作られたということを重視すべきだと言うことを今迄も繰り返し述べておられた。しかし樋口さんの場合は、中国製説ですからあくまで商業生産うんぬんは中国における商業生産、中国における鏡生産に関する話であったわけです。ところが今のように「国内産」だと言う話になって来ますと、これは日本列島内における商業生産、しかも西日本における商業生産ですが、当然、原鏡は景初四年時点で作られている筈です、「夷蛮鏡」として。その景初四年時点においてすでに「商業用の国内生産」として作られたのではないかと言う間題が出て来るわけです。これは、ちょっと、今迄の我々のイメージにない考えじゃないでしょうか。しかしねえ、これは言い過ぎのようですが、私の本を読んでいただいた方なら必ずしも驚かれないかも知れません。
と言うのは、たとえば『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社)の本をお読みいただきますと、いわゆる前漢式鏡と呼ばれる物が、立岩、博多の東側の立岩から出ています。見事な漢字であります。しかし、この見事な漢字を内容的に見てみると非常に不自然な省略がある。韻をふんでいる字が欠けて削り取られていたり、漢字がつめられていたり、或いは、文章が全然成り立たないものにつめられておったり、中国人が行う省略では、ありえないような省略が行われているという指摘をしまして、これはいわゆる日本製ではないか。事実、中国の鏡にもめったに見られない程、立派な鏡なんです。大きさといい、デザインといい、それは実は、中国ではたかだか女の人のお化粧品、男の人の手廻品でしかない鏡が、日本では太陽信仰の聖なる器として作られたからこそこれだけ立派な鏡が作られたんじゃないかということを論じました。これは前漢式鏡と呼ばれているものです。
また糸島郡の井原で出て来ました後漢式鏡、この中で、「王が不思議な気配が立つのを見てこれを探したところ、そこから善銅が産出するのを見た。」と言う風な意味の文面がありました。どうもこれは、中国の鏡にはない文面である。呪術的な王者と胴の産出に関する文面である。だからこれも「倭国産の鏡」であるとしなきゃならないんじゃないかと言うことを私は論じたわけです。ということは、言い換えますと、卑弥呼と同時代、もしくは、それより前の時代には「倭国産の鏡」が作られていた、というテーマを見せていたわけでございます。
この点は、もう一回、改めて考えてみますと、倭人伝の中に錦の問題がございます。つまり中国から錦を送られて来た、龍の模様の付いた色鮮やかな様々の模様が付いて送られて来た。送ったと言うことは、中国の天子の詔勅で述べられている、ところが同時に卑弥呼の方からも倭錦(倭国の錦)を献上したと言う事が述べられている。また壱与からも異文雑錦、中国から見て変わった模様をした雑錦、龍の模様なんかじゃない倭国独特の模様でしょう、雑錦が献上されたことが書かれております。ということは、倭国は既に錦を生産していた。錦の材質は絹です。そこへ本場の中国から本場の錦が送られて来たという構造になっている。まさか中国から送られて来た錦を見て「これはいいな、この模造品を作ろう」てんであわてて模造品を作って送ったなんて、そんな風に簡単に技術はうつるもんじゃないですからね、当然「卑弥呼以前からすでに錦は作られ続けていた」こういうのが自然だろうと思うんです。 
鏡は商業生産されていた
そうすると鏡もまたそうではないか。“何も鏡って作るのを知らない所へいきなりどーんと百枚送られて来た”と理解すべきか、それとも“鏡を既に倭国では作っていた、そこへ本場の鏡が送られて来た”のか。しかし鏡を献上したという話は無いじゃないかという反問が当然あるでしょうね。しかしこれは考えて見れば当たり前です。何故かといえば、鏡は倭国でこそ太陽信仰をバックにして最も神聖なる器具である。しかし中国ではお化粧品である。手廻り品である。こんな物を中国の天子に献上したら“笑われもの”です。そういう向こう側の事情を承知だ。だから鏡なんかは送らなかっただけである。鏡生産能力がないから、残念ながら送らなかった訳ではないでしょう。どうも我々は、この辺をただ「鏡百枚」だけを見ておりまして、そう言う形で見ておらなかったわけです。その事柄を、実状を考えれば、倭国における鏡も既に生産され始めていた、され続けていた。そこへ本場の鏡が来た。こう理解するのが私は自然ではないかと思うわけです。
さてそういう状況の中で考えて見ますと、皆さん、ここでひとつ疑問を感じられていると思うんですが、日本列島の中で商業生産の鏡なんて、そんな無茶じゃないかとお考えでしょう。これについても、この間題についてすでに大分時間もとっておりますので、細かい説明は出来ませんが、大まかな説明をさせていただきますと、瀬戸内海の香川県に去年まいりました。それは、弥生時代の瀬戸内海で何故その讃岐に弥生時代の金属器が集中しているのか。つまり銅鐸とか平剣とか鉄製品とかが讃岐に大変集中しているわけです。ところがそう言うものは当然大陸から来た物と思われるものです。瀬戸内海の中で讃岐が一番大陸に近いならいいけども、そうじゃないですから、一番遠い、というに近い位ですから、何故讃岐に集中しているのか、と言う疑問を永らく持っていたんですが、これは、出雲をやっている内にその答えが出て来ました。
つまり出雲で旧石器、縄文にかけて隠岐島の黒曜石によって「富める出雲」が繁栄していった。それをバックにして弥生時代になって金属器が出雲にあつまって来た。それは結局、八千矛神というような大国主の時代を生んだ。つまり「縄文をバックにして弥生を理解しなければいけない」と言うテーマですね。同じテーマで考えて見ますと、瀬戸内海の旧石器、縄文はサヌカイトの出土地である。サヌカイトは讃岐石ですから、讃岐のサヌカイトが瀬戸内海の各地で使われたわけです。ということは言い換えると、「富める縄文讃岐」というものになっている。このことがつまり弥生時代になって金属器が入って来る時に、讃岐に金属器が集中して行った理由です。もちろん大和とかそういう所もありますけどね、讃岐が大変に富める、弥生の金属器状態になったということの背景はやはり「縄文讃岐」を背景に考えなくてはならない。ということでサヌカイトを現地に見に行ったわけです。でその事は、はっきり確認できたわけです。
ところがそこでまた新しい疑問、難問が起こって来た。といいますのは、皆さんよくご存じの様に瀬戸内海に三本の橋がかかっている。ところで三本かかっている橋の内の真ん中の瀬戸内大橋は、岡山県から香川県に対してかかっている。それは島々を橋げたでつらぬいて付けられた。ところが、その島々の中から、おびただしい石器が何千何万と言う石器が、出土して来た。それがいずれも弥生とか縄文とかいう物じゃなくて旧石器の石器であった。しかも材質を調べて見るといずれも讃岐のサヌカイト、中でも金山のサヌカイトで作られていた。今、自動車ならまあ二〜三時間で行けるでしょうけれども、当時、自動車はないですから、エッサエッサと運んで来るわけですから意外と時間とエネルギーを使って運んでいる。そこで製造しているわけです。
いって見れば製造工場、製造集団、もう一つ付け加えますと、今は島ですが当時の瀬戸内海は今と地形が変わっていますから、私はおそらく突端部とか波止場とか、そう言う地形になっていたんではないか、これを試みるのは簡単でしょう。いわゆる瀬戸内海の海深図を海運局でーー神戸なんかに有りますねーーいただいて、その五十メートル下、百メートル下ととって行ってその当時の地形が表われれば、私は今、島になっている所は、何かの突端部になっているそう言う地質年代が有ったんじゃないか。今でいえば臨海工業地帯、そういう海に臨んだ便利な所で作っている。こういう例は他にもあります。下関で佐賀県から腰岳の黒曜石を持って来て下関の突端部の岬の所で製造している。それを製品にして売りさばいている、それがあることを下関の前田博司さん(読者の会をやっていただいている)に教えていただいてうかがいました。
同じように、黒曜石もサヌカイトもそうやっている。考えて見ると、その場合作りっぱなしじゃいけないわけです。当然運搬業者が運んでいるわけですね。大分の方だか大和の方だか、舟で当然運んでいるわけです。となりますと、製造業者有り、運搬業者有り、という事になってくる、これはもう我々の旧石器に対する今迄のイメージを一変させるものです。
縄文ですら狩猟採集で「喰っちゃ寝、喰っちゃ寝」という形でおそわって来た。まして旧石器なんて本当に「野蛮」もいい所なんです。これは民族差別ではなくて時代差別かも知れません。我々が無知なためにあの旧石器なんて非常に野蛮視して来た。しかし今の状況から見ると我々が考えているような、でたらめな時代というか野蛮な状態じゃない。そんな自然状態じゃなくて、やはりそこには製造の場が有り、製造する人々有り、運搬する集団有り、という構図を考えないと、旧石器と言う時代が解けないんじゃないか、こういう、私は本当にぼう然とするような新しい問題を与えられて帰って来たのを記憶しています。これは、瀬戸内海のそば、大阪に住んでおられる皆さんに是非また押し進めていただきたいテーマだと思うわけです。
さてこう言うことをご紹介すれば、これは旧石器ですから「弥生時代に商業生産は無理でしょう」なんていっていると笑われるんじゃないかという、感じは一挙におわかりいただけると思います。なおかつ、弥生に関して情報が欲しければ『三国志』の魏志韓伝、これを見れば、そこに鉄が出る、それを「韓、穢*(わい)、倭したがいてこれをとる。諸市買、鉄を用う。」つまり鉄を持って行けば何でも買えると言っている。つまり「中国の銭の如し」と言うんですから、中国のような銭というああ言う文字を刻んだ貨幣はない。しかし実際は鉄が貨幣の代りをしている。「鉄本位制」なんていう変な言葉を作りましたがね。言い方を変えれば「鉄という貨幣が通用している貨幣経済の社会である」と言いかえてもいいわけです。ということは、言い換えれば、そういう「鉄という貨幣」だけがあって「商品」が無いって事はないですから当然、「商品経済の時代」である。韓、穢*(わい)、倭とも商品経済の社会の中にある。ただ彼らは、我々のような銭ではなくて鉄を貨幣に使っている、とこう言う風に見なすこともできる。
穢*(わい)は、穢(わい)の本字。三水編に歳。第4水準ユニコード6FCA
そう言う目で見れば「弥生時代の日本列島に商品経済は無理でしょう」なんていう我々の感覚は、やはりひとつの先入観で考えていたのではないか、ということでございます。さて、そうなってまいりますと、要するに日本列島では景初四年に先立って「鏡の商品生産」が行なわれていた。もちろん豪族や権力者たちの間でしょうけども。そういう新しい問題が浮かび上って来る。この問題を押し詰めて、今後の若い方々の研究に委ねなくてはならないんですけども、なお二、三点申しておきますと、我々はこの場合、こういう概念が必要であると思うんです。「多発的、多層的な商業生産」という概念です。一般商業生産というのは、鏡の場合は豪族間の商業生産物という概念が必要になって来ます。たとえば出雲で三百五十八本の銅剣ーー実は出雲矛だと思いますーー昨日、西さんから提供して頂いた資料に剣と同じ形をしてて柄がずうっと長い、全部木でできている、そういう物の載ったカタログを北九州市のもので載っているのを見せていただきました。本来の矛は、こうだったんではないかというひとつの材料をいただいて嬉しかったんですが、ともかく我々が出雲矛といっているもので、考古学者が従来、銅剣と呼んでいるもの、これを考えて見ますと、これが何処で作られたかという問題があります。
私は、これに対しては第一候補出雲、第二候補筑紫、第三候補大和、第四候補その他と、常識論ですが、そう言う順序で考えていいだろう。で一番可能性があるのがやはり出雲である。『出雲風土記』にも大国主のために楯(たて)と桙(ほこ)を作ったという記録が二回にわたって出てまいりますが、それは彼等が嘘をついたというものではないだろうと、こう思っている訳です。そうしますと、三百五十八本が、もう使うことをストップされている事を意味するか、埋納されたままで使っていない訳です。そうすると仮にそこで生産されていたとする第一仮説に立ちますと、生産もまたストップされたと考えざるを得ない。生産だけ続けられていて使用だけストップとは考えられないですから。そうしますとその場合、従来作り続けられていたという事は何を意味するかといえば、まず第一に銅材料が流入して来る流入ルートがあったということです。出雲には、銅の産地は有ります。日本海と宍道湖の間などにそれは存在しますが、それだけではおそらく足らないと思います。そうしますと九州の遠賀川の上流に近い採銅所とか、或いは、兵庫県の生野銀山のつらなりの、銅が出る山脈とか、場合によると徳島県辺りの銅山とか、という辺りから銅が流入して来たルートが出雲へ向けて存在したであろう。それが第一。
第二に工人集団がいただろう、それも日本列島で抜群の能力を持つエリート的な工人集団がいなければ当然作れない訳です。ところが、今のように生産がストップするという事は、それが後どうなったかということを当然含む訳です。そうすると、その人達は全部、銅の流通は事前にストップして工人は四散して農業か漁業に帰ったという可能性もあるでしょうが、しかし“別の銅製品を作り出した”という可能性もある。「別の銅製品」とは何か、それは鏡である。その場合はもちろん彼らだけで、今迄ああいう物を作っていたのが、一挙に鏡を作るというわけには行きませんので、当然鏡作りのノウハウを持った工人が楽浪だって呉だって帯方だっていいんですが、そういう所からまねかれて、そういう人を何人かまねいて来れば、後はこちらは本来非常に技術を持った工人集団ですから、そういう人達に指導されて鏡を作る、と言うことは充分に可能である。
これは、おそらく、「国譲り」という事件に直接か間接か知りませんが、関係があると思います。つまり「国譲り」があって、すぐ、ぱっと使用も生産もやめたのか、或いは、それから何段階かまたあってやめたのか知りませんが、直接か間接か、やはり「国譲り」というあの事件と無関係ではないと思います。埋めた時期が、正直いって不明で分かりませんのでね、「物の時期」は大体わかっているが、「埋められた時期」はわからない。わからないから、断言は出来ない。だから「国譲り」の直後であるか、それから後何十年経ったか、何百年経ったかわかりませんけど、しかしやはり出雲がかつての「中心の時代」を失った、という事とは、私は無関係ではないと思う。ああいうたくさんのものが埋蔵されたことや、使用・生産ストップもそれと無関係ではないと思います。
そうなりますと今のように出雲で鏡生産が行われていた可能性がある。今の所、どうも「ごんべんの名」([言名])と言うのが日向で出てきて、和泉黄金塚で出てきて、それで福知山で出てきましたが、どうもそれの一番のもとを成しているのが島根の神原神社古墳らしい。神原神社ってのは、神原と言うのは例の三百五十八本出土の神庭とすぐ隣、何かそこに関係があるのかなあと、においにすぎませんので、何らの断言も申す段階ではありませんけども、そう言うことがあります。同じように今度は、のちに神武が大和に侵入したということになりますと、それ迄唐古で銅鐸を作っていた、優秀な銅鐸という日本列島抜群の銅製品を作っていた工人集団が有り、また大和では銅ができませんので兵庫県や徳島県から入っていた。ところが、神武の侵入によって、銅鐸生産はストップ。代って鏡生産の時代へ。ここでも、先の出雲のケースと同じ問題が生ずるわけです。ここに、いわゆる「鏡作神社」の問題も、あるわけです。
以上のように、日本列島中で、別地域で、別時間帯に、いわは多元的に、鏡生産がはじまっていた。この問題に注目していただきたいと思います。 
 
多元史観の新発見

 

私の話を聞きに、休みの日にお出でいただきまして、感謝いたしております。今回は、大変題目が抽象的といいますか、「多元史観の新発見」ということで、一体具体的に何を話すのか、わからないような題目でございます。にもかかわりませず、多くの方々にお集りいただいたわけですが、私、その題をつけます時には、ーー今より何ヵ月か前にこの題をつけたわけですがーーその際には、まだ何を六月の半ばになってお話しできるのか、自分でわからなかったわけです。一つの重要なテーマ、今日最後に申し上げます。これもまあ進展が予想されていたんですけれども、しかし六月の段階でどういう状況になってるかわからないと、いうようなことで、一応抽象的な題を付けさせていただいたわけです。ところが、その後三月、四月、五月と、非常に数多くの発見に恵まれまして、しかも本日の表題に丁度ぴったりのような発見にも恵まれまして、これはどうも題が内容を、呼び寄せたんじゃなかろうかと、思うような感じでございます。
ということで実は、今日お話ししたいテーマがあまりにもたくさんあるわけでございます。しかし時間が限られておりますのでその中で重要なものをピックアップしてお話しして、そして重要でないわけじゃないんですが、今後また発展するんでしょうが、割愛できるものはなるべく割愛して、あとで懇談会が用意されているようですから、そこでその点は補わさせていただくというかたちにせざるをえないであろう、いわば嬉しい悲鳴を感じているわけです。
今年四月の終りから五月にかけまして、例のゴールデンウィークの前後ですが、この間に二回にわたって古代史の旅行に同行させていただきました。前半天皇誕生日の前後のところは市民の古代、関東と大阪の皆さん方、それ以外の方も来ておられましたが、ご一緒させていただいて、群馬、栃木の古墳等を巡ったわけです。そしてついで五月に入ってのゴールデンウィークの後半ですね、この時は朝日トラベルの旅行で出雲へ隠岐島や斐川町こういった所を巡ったわけです。また出雲の立石(たていわ)、“立石さん”の現地にも行ったわけです。このなかに、わたしとしましては非常に重要な発見もしくは発見の糸口というべきものに、ぶつかったわけです。
その点をひとつひとつお話し申し上げたいんですが、先程申し上げましたように時間の関係で、なるべく割愛致しまして、ひとつだけ取りあげます。それはあの今の群馬・栃木の旅の時に、いわゆる群馬三碑といわれる山の上碑、金井沢碑、多胡碑という所に行ったわけです。後では栃木の例の那須国造碑にもいきましたが。でこの中で非常に重要な発見に遭遇したわけです。この点は是非、今日の最初のテーマとして報告させておいていただきたいと思うわけです。正直申しまして、この旅行の出発前に、私としては非常にたかをくくっておったわけです。といいますのは、群馬・栃木の旅は何回もまいりましたし、関東の四碑というようなものは何回か行っております。だからこれは別に特に予習をしなくてもいいだろうと、現地へ行って何か発見があれば見っけもんだが、という位のですね、呑気な気分で汽車に乗ったわけです。
ところがですね、なんのなんの、今迄何回も行ったと思っていたのは正に節穴の上でみていたにすぎない。そのものの真相をまったく気づかずに見たつもりになっていたということを知ったわけです。それは多胡碑です。私の感触を申しますと、従来その関東四碑の中で一番面白くないといいますか、“面白くない”とは変ですが、“間題性を持っていない”のがこの多胡碑であるように思っていたんです。といいますのは、山の上碑の場合は、これは「佐野の三家(みや)を」或いは「三家(みやけ)を定め賜える健守命」という言葉で始まっておりまして、従来の解釈では、そこに存在しない主語ですね、「天皇家が、大和朝廷が、定め賜える佐野の三家にいた健守命」そういう読みをしてきました。東京の学者も、現地の群馬大学の尾崎さんなどの学者も揃ってそういう読みかたをしてきたわけです。
これは私の方からみると、大変おかしいんじゃないか、というのは其処に「無い主語」を補っている。しかもそれが大してとるに足らないような主語といってはおかしいんですが、補っても大して文脈上にはさしたる影響はない“まあそんな補いもできるでしょうか”位の補いならいいんですが、しかし最も核心に触れる、或いは「核心そのもの」であるような主語を「無いもの」で補う。つまり「大和朝廷が定め賜うた」という風に、「大和朝廷」という言葉を補って解釈する、これはずいぶん乱暴なひどい話でありまして、あの文面を率直に読むかぎりは、「佐野の三家(みや)」と読むにしましても「三家(みやけ)」と読むにしましても“それを定めた”のは「健守命」といわれる人物、山の上碑を築いた人の祖先ですねーーおそらく石碑を建てたのは、その子孫か何かそういう人でしょうがーーその祖先になる「健守命が定め賜うた」としか読めない文章なんです。
勝手に主語を補って、しかもその補ったことによって「これは大和朝廷がここを支配しておった証拠だ」というかたちで扱ってきたわけです。まあこういうのが日本の学界、特に戦後の学界の流行でありまして、最近も例の出雲の岡田山一号墳出土の銘文入り鉄剣ですね、これはそれに対する新しい解答がみつかったというのが新聞の一面を飾りましたけど、これも「賜う」という字が判然とはみえないんですが「賜う」と解釈する。まあ賜うのなかの左側の「貝」という字の下の「只」みたいなのがみえるというので、想像でふくらまして「賜う」と解釈する。これも非常に“危ない作業”なのですが。
貝へんの字は漢和辞典をみればごそっと並んでいますから。仮りに貝へんであるとしても貝へんのどの字であるかはわからない。また貝へんの下の部分というのは、あの下の部分を持った漢字というのは幾つも有りますからね、貝以外にも。というので夥しい可能性のなかで「賜う」とその人は想像したわけです。想像することは勝手ですけどね。これ自身がまあ単にひとつの自分の主観的な想像として、という注釈付きでなければならないところなんです。ところがその上にさらに「賜う」は誰が賜うたか書いてない。でも“書いてなくても許される”ってのが日本の学界のルールなんです。つまりそれは大和朝廷である。大和朝廷、もしくは大和政権と言い替えてありましたが、実質はちがいません。
それを補って「大和政権が下賜した」というのが、新聞の紙面にのりました。私はすでに書いたことがあるんですが、或る新聞社の方に聞くと、要するに新聞の一面をとる秘訣は、その出土物を大和政権と結びつけることにある。そうするとデスクは一面に採用してくれるという話を聞きました。正にそれを地でいったような一面だ、と苦笑したわけです。こういうふうに、ない主語を補ったことによって“重大な政治関係が証明された”と称するという手法があるわけです。こういうことで、山の上碑ってのに興味をもっていたんです。
それに対して金井沢碑は埼玉の稲荷山の鉄剣と、様式が似ているから興味がある。また栃木県の那須国造碑、これは非常に重要な「評」の問題、「評」制の問題のとっかかりになる、ということで非常に重大な石碑であるということは、私の『古代は輝いていた」第三巻の最後に簡略ながら述べてあるところです。井上光貞氏もこれに注目し戦後史学の出発点とした。わたしもこれに注目して井上光貞氏と真反対の結論を抱いた、ということでございます。 
多胡碑
ところがそれに対して今問題の多胡碑、多(オオ)い胡(エビス)と書いて多胡(タゴ)碑です。これは最も判り切った内容であるように思われていたんです。ご承知と思いますがこの高崎の近辺に三つの郡があった。その三つの郡の中からひとつ新しい郡をつくった。(会場にしめして)これが拓本でございますが、“片岡郡、緑野郡、甘良郡、この三つの郡のなかから一寸ずつ削りとって、三〇〇戸削りとって”そして新しい多胡郡というのをつくった。それを羊太夫という者に与えたと。それは和銅四年の三月のことである。そこで与えた大和朝廷側の官職名、人物名が四人ばかり書いてある。官職付で書いてある。というかたちになっているわけです。ですから要するに大和朝廷からその羊太夫が多胡郡の長官に任命してもらった、という内容でありますから、これは非常に明晰であって何も問題がないっていいますかね、そういう感触でした。
多胡碑碑文
弁官符上野国片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊
八世紀を研究する面じゃ勿論、史料として意味があるでしょうが、問題性を“最も持たない”そういう意味では“面白くない”というか、そういうふうに私は考えていたわけです。ところが今度行きました時に教育委員会の人に連絡してありましたので今日も来ていただいている渡辺さんが、懇切に予め準備をしておいて下さったおかげなんですが、教育委員会の人が来て、鍵を開けて下さった。それで鞘堂の中に入ったわけです。三十何人くらいで入って一所懸命見たわけです。その中で高田さんっていう東京にいらっしゃる、女の方が「アッここに何か字がありますね」とおっしゃったわけです。ここに写真をのせましたがこういう石の帽子を冠った石碑です。
正面を今仮に第一面とします。今拓本をお見せした、その拓本にあたる大きさのものですが、これを第一面とします。向かって左側の方を第二面、直後を第三面、向って右を第四面と、好太王碑の時と同じように名前を一応つけてみました。高田さんが「あれっ」と云われたのは、その第二面、向って左側の面です。その下の方に、何か字のようなものがある。それは田圃の「田」ともみえるし、理由の「由」ともみえる。そういう字のようなものがちらっと覗いているわけです。しかし、「誰かが悪戯書きしたんでしょうね」とおっしゃった。これはなかなか古代史に詳しい方らしい見方なんです。といいますのは、これには泣かされるんです、我々は。“あっ、字がある”と思って喜んだら実はそれはあとで悪戯書きの字であった、といったことはよくあるわけです。九州でも私、それこそ走り廻った経験がございます。
というのは、現在は鞘堂に入ったり鍵をしたりして厳重にしてあるわけなんですけども、ところがそれはついこのあいだまでは、もう野晒し雨晒しにほっちらかされていたケースが多いわけです。そういう時に子供にしろ大人にしろ、それをみれば何か彫り付けたくなるという、人間にはそういう習癖があるらしくって、彫り付けるわけです。だからそれを見て喜んで「あっ字があった」なんてことになると笑い者になるわけです。そういう話は高田さんもよく聞いておられたとみえて、「これは悪戯書きでしょうね」と、こういわれた。で私は「どれどれ、どこですか」といってそれを見た。確かに「田」か「由」のように見えんことはないけども、しかしそれがその本来の字か、本来の字でないか、を俄かに判定し難い様子であった。「一寸待って下さいよ」とこういってわたしは三面、四面をこう見ていったわけです。それで皆で、それこそ三十何人ですから六十何個の目で一所懸命見て、議論をそこで始めたわけです。
そのうちに私が「これはどうもあれですね、あの、あとから書かれた字じゃないかも知れませんよ」ということをいいはじめた。といいますのは、向って右側ですね。この第四面の中ほどの位置にですね、「年(トシ)」という字が判然とこれは見えたわけでございます。これは、その位置といい、またその字形といい、非常にしっかりしている。つまり位置関係も上すぎたり、下すぎたりせず、「何年」というような字があって別に不思議はないような位置です。それから何より、この字そのものが非常にきっちりした字です。的確な字です。これはわたしのまったく主観にすぎませんけど。悪戯書きする時はまあ、あんまりぴっちりとした楷書で悪戯書きする人っているんですかね。私はあまり経験がないからわからない。経験のある方にお考えいただいたらいいんですが。私なんかは失礼ですが、公衆トイレでみると、あんまり楷書でかっちりとした字で、美事な字を悪戯書きしたものなんて、あんまり拝見したことがないんですね。大体書き殴ったというか、あんまり上手でないような字が多いように思いますね。ところが、これは非常にきっちりした字で書いてあるんです。
だからこれはどうも、という感じがしたわけです。しかしそれだけではまったく主観でありまして、中には几帳面な人がいて、悪戯書きといえども楷書できっちり書かねば気が済まないという、私なんかと違いまして、そういう人がいるかも知れない。字がぴっちりしてるか、してないかで悪戯書きであるかないかを決めるのは早計である。と、当然そういう話もそこで出たわけです。ところがそのうちに私は、これはやっぱり後からの字じゃないようですよ、とこういうことを、申したわけです。といいますのは、見ると第二面、第三面、第四面、第一面を除いて、あとの三面はほぼ全面的に剥落を生じている。 
二、三、四面は全面剥落か
つまり石が傷付けられて、元の石面が無いわけです。そのなかで辛うじて、今のように字が残存しているものがあるんで、その残存部を例外としては、ほぼ全面に剥落を生じているわけです。ところがそれに対して第一面は、まったく剥落はない。これは今でもこうやって拓本にきっちり採れるんですから。美事な拓本に採れる。山の上碑なんか採りにくいんですが、こちらの方は非常に採りいい、関東四碑の中で一番採り易い、字が判然としてる。それは石面がなんら剥落も生じていないし、傷付けられていないせいなんです。そうすると、こういう剥落の生じ方というものはーー剥落というのは削り落ちですーー「自然状態」ではあまりでないんじゃないかと、こう考えたんです。
といいますのはたとえば、今田圃の畔道の所に小さな川があって、そこにこの石碑をさかさにして橋替りに使っているといったことがあるわけですよ、昔は。ところがそういう場合は勿論、その上の面は傷むわけです。人間の草履で歩いた丈で傷むかどうか知りませんが、鍬でがちっとやったり、いろんな事をやったりすれば、上の面は傷みます。それでお付き合いに一寸鍬でこんこんすると、横の面も、両側の面も、多少は傷むでしょう。しかし今さっきのように“三面完壁に傷む”“完壁に剥落を生ずる”といった傷み方は一寸ありにくいんじゃないか。また田圃の中に埋もれているといったこともあります。埋もれていた場合でも、矢張り三面だけきっちり、傷付き剥落されて、第一面だけは、まったく何も傷が無いってのは、そういう自然状態ってのは私はこれは絶無とは云えないが大変難しいじゃなかろうか、有りにくいんじゃなかろうかと、そう考えます。
それじゃ有りうるのは何かというと、いうまでもありません「人間が人工的に傷付けた」と。これだったら、幾らでも四面のうちの三面だろうが、二面だろうが、傷付けようと思う所を傷付けられるわけですから。これは当然有りうることです。そうするとどうもこの傷の付き方は剥落のし方からいうと、自然に剥落したのではなくて人為的に剥落させたと、いう可能性が非常に強いんじゃないでしょうかと、こういう事を申したわけです。
勿論、その時、かなり時間を取ったと思います。三十人以上がわあ、わあ、わあ、わあ“こうでもないああでもない”と私を含めましていった挙げ句の、話ですから。まあこの発見というのはもう当然最初の第一声をあげられた高田さんを含めまして、当日全員の発見であると、こういうべきだということをその時も申したわけですが、その通りでございます。
しかしとにかくその現場で見た人々ーー皆とはいえないかもしれませんがーーの感触は私が申したことと必ずしも矛盾するところではなかったようです。それから、あまり時間をとっても後の予定があるからということで、バスに乗りこんだわけです。バスが動き出して、「御苦労様でした」といって私がマイクをとってバスの中で話し出します時に、私は先程と一種違ったニュアンスで話し出したわけです。「あれはどうもやはり後から第二面・第三面・第四面は剥落させたものだと思います」と。つまり、その主旨は変らないんですが現場の時には「これはどうも後からのもんじゃないだろうか」「どうもそういう感じが強いな」という、いわば疑問形で私及び私達はいっていたわけです。
ところが私はバスの中では、それからもう一歩も二歩も、私のつもりでは、進めまして「あれはまず自然剥落ではない。人工剥落と考えていいと思います」と。もちろん「思います」である以上は、断定ではないかも知れませんが、私としては心証、つまり心の持ち方において現場より何倍も進んだ感じになっていたわけです。それは何故そういう気持ちに、僅かの間になったかといいますと、私は一つのことに気が付いたからです。といいますのは、さっきお見せしたこの拓本ですね、これは「完結した文面」であるというふうに考えていた。また高田さんもその時「あの一面は完結していますわね」ということをいわれたのを覚えてますが。私もそういうふうに今まで考えてきた。これは恐らく皆さんも、そう思っておられたでしょうし、今までのあらゆる学者もそういうものとして史料に使ってきた。
ところが実は、「これは完結していない」ということに私は初めて、バスにつくまでの間に気が付いたわけです。といいますのは、その完結しているというのは「文法的には」完結してるわけです。この場合には問題なく「賜うた」のが大和朝廷であるってことは、和銅四年という大和朝廷の年号が書いてありますから、これは先程の場合と違ってそれを補うってことは決して、恣意的ではない。理の当然である。その他別に文面として、文法的に完結していないところはないわけです。だから「あれでいい」と私を含めて皆思ってきたわけです。しかし一旦この「内容」に考えを及ぼしてみますとこれは「完結していない」わけです。
何故かといいましたら、ここでは「羊に賜う」という表現になっている。この「羊」というのが羊太夫であるわけです。そう考えている。ところが、現場に、横に、大きな教育委員会による解説板が立てられておりまして、それが詳しいだけにいいヒントを与えてくれたわけです。といいますのは、かつては「羊」というのは方角のことであると見られた。「羊の方角」ってありますね。 
黒板説を検討する
それは黒板勝美という、東京帝国大学の国史学の教授で、正に国史学の権威がおられた。国史学をやる人はあの頃、黒板さんの『国史概説』ですか、でかい本ですが、あれを読まなければ話しにならないと、いわれてきたものです。あの「国史学の権威」である黒板さんが、これを「羊の方角」と読んでる。“羊の方角に多胡郡をつくった”とこう読んだわけです。ところが現在はその解読は採用されていなくて間違いとされている。これは「羊太夫に与えた」という意味だと考えられていると。こういう解説がこの教育委員会の解説板に書かれているわけです。これは何故羊太夫か。皆さんご存じのように、北関東には、羊太夫をめぐる伝承が色濃く豊富に残されている。だからその羊太夫に賜うたんだという解釈が現在の定説になっているわけです。皆さんもそういうかたちで多胡碑をご存じの方は理解しておられたと思うんです。
そういう意味では黒板さんの説は“既に乗り越えられた過去の説である”というふうにもいえるわけです。しかし問題は何故それじゃあ黒板さんがそのような読み方をしたかという問題を考えてみると、本当の問題はどうもまだ終っていないんじゃないか。といいますとですね、私は思うんですが、黒板さんの本を私も昔学生時代に読んだことがありますが、官職の表の解説がついていて、非常に詳しく考証のための方法が述べられてある本です。いわば文献考証学みたいな性格の非常に強いものです。だからぱあっと読める本でもないし、面白い、楽しい本でもないし、ぎちぎちぎち、官職や地名の変遷や、そういうものが細かく書いてあるような本です。けど、横に置いておいて論じなきゃあ学問的な議論にはならないといわれていた。
つまり官職或いは文書の、中世文書とか近世文書とか、そういう文書の有り方の専門家なんですね、この人は。この黒板さんにしてみれば、「羊に賜う」という、この羊が「人名」であることは、我慢できなかったんじゃないかと思うんです。だって「羊」ってのは官職も何もない“丸裸”でしょう。普通にいわれている羊太夫という場合「太夫」は官職です。それすらないんですね。じゃ、なんにもない庶民、一庶民が多胡郡の長官に任命されるもんですかね。そんなことはまあ一寸有りうるとは考えられないでしょう。だのに「真っ裸」。これは文書として有り得る様式ではない。黒板さんはそう判断したのだろうと、私は思います。
そうすると、「羊の方角」というのがあるから、普通「羊」という方角はこの字は書かないけど、まあこの字を書いたんだろう。そうすれば「羊の方角に賜う」と解した。次に「多胡郡をなす」と続きますから、これならまあまあよろしい、と。唯この場合は多胡郡をつくったけど、誰を長官にしたとかいう話はないことになるわけです。それはここでは触れていないと。とにかく「どこどこの方角に多胡郡をつくった」ということを書いた石碑であるというふうに黒板さんは理解されたんだと思うんです。今のように丸裸でいるという、丁度人間がストリーキングか何かで、ぱあっと裸ででたら、厳格な神経の持ち主は目をあげて我慢できないようにですね、恐らく黒板さんはそんな、丸裸で書かれた文書なんて、そういう古代文書、八世紀の文書なんてものはもう目をあげてみれおられない、と思うんです。そこにこれを方角と理解する黒板説が生まれたんだろうと、わたしは推察したわけなんです。
さらにもう一つ考えると、確かに現地には羊太夫の伝承は色濃いわけです。現地の郷土史家の人達がそういう伝承をたくさん集めておられます。しかしこれらは私の想像になりますけど、黒板史学にとっては、そういう「在地の伝承」なんていうものは“採るに足らん”もんだったわけです。つまり「田夫野人」が無責任にいっているものであって、そんな根拠があるかどうか全くわからない。そんなものを相手にするようじゃ歴史学とはいえない、と、こういう立場に黒板さんという人はいたのじゃないかと。黒板さんの本『国史の研究』には「民間伝承」なんて章はないですからね。
黒板さんと同じ時代に、例の柳田国男という巨大な民俗学の創始者が現れたんですが。これは当時のオーソドックスな歴史学からみると「相手にできない」と、まあ「無視」だか「軽視」だかされていたわけです。
私の先生の村岡典嗣(つねつぐ)さんに対してわたしの先輩の原田さんって方がーー今東北大学におられますがーー質問されました。「柳田さんの学問についてどうお考えですか」と。すると村岡さんは、「あれは非常に大事な重要な研究だと思います」と。「しかしあれには年代がない」と。「時間の尺度が全くない」と。だから「歴史学には、現在の段階では使うことはできないと思います」と。「将来はわからないけれどもね、現在では使うことができないようです」と、こういういい方をされた。村岡さんはものを非常に広く理解する方ですから現在歴史学に使えないということと、しかし柳田学のもっている未来性というものと、二つを分けて即座に返答されたのをわたしは、原田さんと二人しか居ない所でーー村岡さんの研究室でしたがーー答えられたことを聞き、耳に留めました。でも、村岡さんのような人はまだ、いい方で普通の文献学者は、「柳田、それはなんじゃ」「柳田なんて」といった、そういう感じの時代だったわけです。
だから黒板さんもそういう「時代の伝承」を全く知らなかったわけではないと思うんです。現地に行って調査しているんですから。しかしたとえそれを聞いたところで、「田夫野人」のいう「羊太夫」なるものにどんな根拠があるか、それとも単なる創作物か、そんなものは信用できない、という立場から、これを退けられたんじゃないか、というふうに私は想像するわけです。あの黒板さんにとっては、そういう官職位号というような、文書として必ず備うべきですね、その性格の方が大事なものに感じられたと、こう思うんです。するとその後羊太夫のいろいろ伝承を集める郷土史家なんか、柳田国男の影響をうけたりしたんでしょう、その結果現在どうもこれだけ色濃く、羊太夫の伝承が残っているのに、それと全く無関係にこの「羊」を考えるのは、やっぱりおかしい、というそのことで、やはりこれは羊太夫だ、という説が重きを占めて、それが現在の定説になってきているというふうに私は理解するわけです。
研究史の成り行きはそうでしょうけど、しかし決して事は終っていない。やはり研究史というのは恐いですね。こういう経験は私は絶えずやるわけなんです。親鷺研究においても、法隆寺再建論争の問題にしましても、いつもその問題にぶつかってきてるんです。今日最後に申し上げる間題もそうかもしれませんが。
ここで「羊太夫のことだ」ということが、現在決まったと考えます。それなら、黒板疑問ははたして全部解消したのか。全く解消していません。だってこれが羊太夫その人であるならば、丸裸で放り出されているという、事実は残るわけです。だから黒板結論、「方角だ」という、その解釈は消しさられても黒板疑問はいよいよ色濃く残っているわけです。「羊太夫である」という断定の強さに正比例してその疑間の方もまた、強く残っていると考えなきゃならないわけです。 
一人称の文体
ところが迂闊にも私は、今までそういうかたちでこの問題を意識してこなかった。じゃあ、体何か。私がバスに移る直前に頭に閃きましたものは、これは「一人称の文体」であると。「羊」というのは「私」という意味だと。つまり「私に賜いました」と。もし書いた人が羊太夫より“目下の人”が書いたとします。石工であったところで高崎辺の学者風の人であったにしても、羊太夫より“目下”でしょう、身分上は。そういう人が書いたら「羊」なんていう呼び捨てにはできません。
大和朝廷側からの目でも、「羊太夫」といった称号まで、当然いいわけです。まして自分自身が羊の目下ですから。当然「羊太夫」であるとか、敬称つきで呼ばなきゃいけないわけです。敬称つきで呼んだら大和朝廷が怒るってことはないでしょう。だから当然敬称がつく。
じゃ敬称がつかなくていいケースは何かと考えてみれば「御本人が書いたケース」なら敬称つけたらおかしい。つまり自分のことを「私に」という第一人称の呼び方もあります。しかしそれだけじゃなくて、自分を名前で呼んで、「羊に賜うた」と。私でいったら「古田に賜うた」と、こういういい方ですね。「古田先生に賜うたしと私がいったらおかしいですね。私が云う時は「古田に賜うた」といわざるを得ないわけです。「武彦に賜うた」といった形になるわけです。つまりこれは“羊太夫本人が書いた”かたちの文面である。
とすれば話はまだ終らないわけです。つまり、その羊なる者が一体何者かの説明がなきゃいかんわけです。どこになきゃいかんかというと、今いった第二面第三面第四面の所にです。どこどこの産で恐らくご本人がぱっと何かの職に就いたんじゃなくて、先祖伝来、何々の土地のとことこを支配しているという、あの有名な先祖ーー大体こういう時は先祖は「有名」に決まっているわけですーー。この高崎地方では少なくとも有名な、この方の子孫の、という形になってくる。丁度戦国時代に「やあやあ遠からん者は音にも聞け」という関東武士の“名乗り”ですね。あれでも先祖から、忙しい戦争の真っ最中、直前に、やるわけですからね。あれは鎌倉の人だけがああいう好みがあったってことじゃないと思う。それ以上に古代は“名乗り好き”だったと思うんです。関東のみならずですが、関東もまた。それは早い証拠が稲荷山の鉄剣、やはり先祖から名乗っているじゃないですか。そうするとやっぱり羊太夫もこういう先祖を持った、どこどこを支配している、どういう官職を貰っている、先祖が貰った、あるいは私が貰った誰々である、それが何年何月何日、この石碑をつくったとあって、あたりまえです。
これがそのうしろだか、横だかにあれば「羊に賜う」という文章は「完結」するわけです。それなしで、何者かわからん「羊に賜う」ではその「羊」が何者かは伝承に聞け、という。そんな書き方ってないわけです。そう考えてみますと、やっぱりさっきいいましたように文法的には一見完結してるようにみえたけども、内容的には決して完結していない、不完全文章である。こういうことに気が付いたわけです。
そうしますと先ほどの現地の実物観察、これが一番基本ですが、その示すところと対応させると、これが一致する。つまりあるべき文章の場所がみごとに完壁に削られている。第二面第三面第四面とも、剥落している。この事実はやはり偶然ではない。ということで「物に対する観察」と「文章に対する論理性の理解」とが合致したわけです。
私の本をお読みの方はそういうやり方はいつもでてきてご存じなわけですが、考古学的な出土物と、『三国志』魏志倭人伝、その他の文献の記載事実とが合致した時に「これは歴史事実である」と考えうるということです。としますと、次の問題は、それじゃあその削られた文面はどんな文面だったかと。これはそれが少なくとも現場でみえない以上は、何ともわからないんですが、推察はできる。
なぜかといいますと、残っている第一面をみれば残っていない面が、どんな性格の文面であったかがわかるわけです。つまり第一面の性格は一言でいえば、「大和朝廷とそのご本人『羊』との関係」であるわけです。それは“削られていない”わけです。とすると削られた所は「大和朝廷とご本人との関係ではなかった」であろうと。じゃ何かと。たとえば、羊太夫の「太夫」という官職名は「大和朝廷の官職名」じゃないんですね。とすると、これは誰から貰ったのかというと、これはもう恐らく疑いない。といいますのは高崎のお膝元ですから、つまり上野の毛野君のお膝元ですから。この上野の毛野君がこの与え主であろうと、すぐ推察できるわけです。
ここで思い出す、有名な話があります。『日本書紀』の安閑紀にでてくる話です。六世紀初頭の話として出てくるわけですが、『日本書紀』は、そこに書かれているからといって、その年代とは決められないんですが。とにかく武蔵の国造をめぐる話である。先ず毛野君が武蔵の国造を任命した。ところがその一族から、自分の方がなりたいのがいて、憤慨して大和朝廷にそれを訴えた。大和朝廷が軍勢を派遣して、その国造に任命されていた人物を殺した。そして訴えてきた人物を新たにその国造に任命した。という、有名な記載があるわけです。
これは実際に行われた時代が六世紀初頭であるかどうかはわかりませんが、そういう類の事実があったことは間違いないだろう。何故かといえば、『日本書紀』という本はかなりあちこちの史料を持ってきて自分の好きな時点に挿入するという癖があるわけですが、反面自分で勝手に、小説家が小説をつくるように、お話をつくってのせるというそういう悪い癖はないんです。私の知っている限りではありません。
そういう点からみると、今いった伝承、つまり一言でいえば毛野君と大和朝廷、もしくは大和の政権との権力争い、任命権争い、これが存在したということは恐らくは誤りないだろう。武蔵のような関東のど真ん中といいますか、そこでさえもある時点ではそういう任命権争いが行われたと。そして最終的には結局、大和政権側がその争いに勝って、そして大和朝廷というかたちで、東は関東、西は九州という支配権を樹立して行った、という歴史の一コマであろうことはですね、恐らく疑いないと。
そうしますと、そういう例からみると、先程の羊太夫が先祖代々官職を賜うた、この背景っていいますか権力者というのは先ず高崎ですから、上野の毛野君でなければ話は全く成り立たないと。武蔵よりもっと毛野君に近いいわば真中ですからね。ですから毛野君から先祖代々が授号して貰っていた、栄えある輝かしき歴史と、称号の歴史がそこに書かれていたであろう、ということは当然推察できるわけです。それが削られているということになるわけです。
この問題は実はまだまだ後日談がありそうでございますので、またその後の時にご報告できると思うんですが。またこれについて、非常に新たな研究をしておられる方もいらっしゃいますので、本日はそこまでの時点で一応打ち切らしていただきたいわけですが、要するに、そこ迄の時点でいいえることは、我々が今まで、これが史料だと思ってきていたものが実は「改竄された四分の一史料であった」と。史料として一番面白い史料の本領をなす所は知らずにきたと。今までのすべての学者、私の知っている範囲では、それを論じた学者を知りませんが今までのすべての学者、そしてーー今までの私が、その史料の本質的な性格を誤解してきたという、私にとっての「大発見」です。しかも金石文ですからね。おそらく私一人で行ったら気がつかなかったと思うんですが、皆さんとご一緒して頂いて三十何人の目でみて頂いて、そういう大きな「発見」に遭遇したというわけです。これは是非私としては、しっかり学術論文で、金石文の読み方が違っていた、或いは不充分だったんだということを述べたいと思ってるんですが、あらかじめ今日皆様に途中経過として報告させていただいたわけでございます。
追記 / この多胡碑については、多くの問題が残されています。問題の「年」は、果して当初からの文字か。また現地伝承として遣存する、多種多様の「羊太夫伝説」の系列・発展の姿の探究等です。これらの点、改めてふれたいと思います。なお、藤田友治さん、増田修さんなども、この問題にとりくんでおられます。 
出雲風土記の朝廷は出雲か大和か
さてそれでは次のテーマに移らせていただきます。大阪の皆さまには「倭人伝を徹底して読む」という二年間にわたって、ご聴講をいただいた講義の最終回に、到達したテーマでございますが、それがその後進展をみてまいりました。しかも重大な進展をみてまいりましたのでその件について申させていただきたいと思います。もちろん朝日カルチャーの「倭人伝を徹底して読む」の会に出ていらっしゃらなかった方も現在来ていただいているわけですから、簡略にその経緯を最初から追わせていただきたいと思います。といいますのは、一昨年三五八本のいわゆる「銅剣」、私がいいます「出雲矛」、これが出土しまして、さらに去年、六個の銅鐸、十六本の筑紫矛ですが出土しまして俄かに出雲に対して新たな関心と注目がよせられてきたことはご存じのところでございます。
私もそのシンポジウムに出ました。去年の七月斐川町につづき、今年の三月は東京の有楽町のマリオンのシンポジウム(朝日新聞社と斐川町主催)。そこで自分でも、史料を整備したり考えたりする機会が多かったわけでございます。その中で今年の一月上旬頃に私は重大な問題にぶつかったと感じたわけです。それは、『出雲風土記』に「朝廷」という言葉が二回出てまいります。「みかど」というような仮名を振って読まれたりしておりますが、漢字自身はこの「朝廷」という文字でございます。それは二回とも、国造という言葉と関連して出てまいります。この国造、つまり「くにつくり」が「神吉事」つまり「神様のよいこと」これを申すために「朝廷に参り向う時に」といったタイプのフレーズで二回とも出てくるわけです。
ところがこれに対して従来はほぼ例外なく「大和朝廷」としてこの「朝廷」を理解してきた。そして「国造」を「出雲国造」とこういうふうに理解してきました。したがって出雲と大和との、いわば“家来出雲とご主人大和”との関係を示す史料として、考古学者、国文学者、歴史学者を問わず、理解して使ってきたわけです。ところが私は、「待てよ」と。「これはそうではないんではないか」と。つまり、この「朝廷」というのは「大和朝廷」ではなくて「出雲朝廷」なのではないか、という疑いを持ったわけです。もっとも今まででもそういうことで書かれたものが絶無ではないんです。案外明治の頃に「出雲朝廷」なんて言葉を使ったりしている人があるようですが。しかしそれは格別今日、私が申し上げるような「論証」を経てのものではないようであります。
少なくとも大学の学者や岩波の古典文学大系の注釈とか、その他の『出雲風土記』の注釈なんかでは、すべてこれを「大和朝廷」と注釈し、理解してきたことは間違いないところですが、どうもそれはおかしいんじゃないか。というふうに感じたわけです。その理由は、『出雲国風土記』の中にでてくる人物、人物といっても、神様ですが。それをマークしていきますと、ここにスーパースターともいうべき人、神様がいる。それは有名な大穴持命です。「天の下をしらしし大神」という肩書きつきで大穴持命、これは大国主命と同じ神様だというんですが。この神様が繰り返しでてくる。三十四回出現する。
これに対して第二位といいますか、頻繁にでてくるのは須佐之男命、これは有名な神様ですね。もう一人は「神魂命」と書いて「かもすのみこと」。この二柱の神も十二回ないし八回登場する。
つまり第一位と第二、三位とでは、かなり数が違います。あとは五回とか三回とかですね。一回なんてたくさんありますね。ですから登場頻度からいいますと、第一位がいて、第二位も第三位も第四位も第五位もなくて、第七位か第八位の所へやっと二人現れる、というようなそういう感じです。ですから全く文字通りのスーパースターであるわけなんです。
ところがこのスーパースターの子供で「御子」と書いたのが六回でてくる。「御子」と書いてないが同一人物という神名をあわせますと、十回前後でてくるわけです。ところがその孫ですね大穴持の孫に当る人物ーーもちろん神様ですがーーこれも、二回位しか出てこない。ということは一体、何を意味するか。
考えてみると、私なんか今年還暦をむかえるわけですが、私ぐらいの年代になると、ぼつぼつそういう話になってくるわけです。子供はわたしの場合、そんなに子供はいませんけど、“子供が五、六人いる、ところが孫は一人か二人”だと、いう時間帯にいらっしゃる方もここにいらっしゃると思うんです。それが、もう少し時間がたってくると、孫が四、五人になり、七、八人になり、子供の数より増えて当り前ですね。というふうになっていくわけです。しかし、或る時間帯には子供は数人いるが、孫は一人か二人だという、そういう段階が必ずあるわけです。私と同年位の方でも、恐らく女のお子さんが多い方は、もう既にそういう状況にある方もあると思うんです。
つまりその大穴持命の晩年の或る時点において、全体のストーリーはストップしている。それ以後のストーリーはない。そうでしょう。それ以後の時間帯を含めるのなら、孫がもっと増えてきて曽孫も出てくるわけです。曽孫はゼロですから。曽孫がゼロで孫が僅かに一人か二人というんですから。そういう時間帯以前のストーリーしかない、以後のストーリーは扱われていないと、こういう事実に気が付いたわけです。これは、「説」ではなくて「事実」であります。
そうしますと『出雲風土記』のストーリーには「下限」がある。上の方は国引き神話とかいろいろありますから、この国が開けた開闢(かいびゃく)みたいな話も出てきますから、「上限」はわからないとしましても、少なくとも「下限」の方は判然と存在する。それは大穴持命の晩年である。こういうことがわかってきたわけでございます。とすると大穴持の晩年以前の時間帯の中で「朝廷」という言葉が二回ともでてくるわけですから。そうすると、この朝廷というのは、出雲の朝廷、つまりスーパースターの大穴持のいる場所、それを朝廷と呼んでいるのではないかという、そういう疑いを持ったわけです。
さてその後「倭人伝を徹底して読む」の最終会の直前、三月の後半に一つのポイントを見つけました。一つは、『三国志』を見ていきますと、ここで朝廷という、言葉が何回も出てきますが、これが漢と魏、これを「朝廷」と呼んでいる。これはもう、当り前です。その記述対象ですから。第一巻の武帝紀なんかは、後漢の献帝の時、「武帝」とよばれている曹操は、「天子」ではありませんから、当然そこにでてくる朝廷は漢の朝廷。三国の時代は魏が中心で書かれているから、魏の朝廷は当り前。なお意外だったのは、呉を「朝廷」と呼ふ例が直接法の中ではありますが、出てきていたこと、間接には蜀を「朝廷」と呼んだ痕跡もあらわれていたこと。もちろん事実としては、魏、呉、蜀、それぞれ自分のことを「朝廷」とよんでいたからこそ「三国対立」なんです。しかし『三国志』という、魏をうけた西晋の立場で書かれた正史がそういうかたちの、いわば朝廷多元説のようなかたちで書かれているのは、一寸意外でした。
しかしそれ以上に重大な問題は、西晋朝、つまり魏をうけついだ西晋朝。このときに『三国志』は書かれたわけですが、執筆時点が西晋、この西晋の史官陳寿が書いたのが「三国志』ですから、西晋が執筆時の「朝廷」であることは、もう疑いないんです。意外だったのは、この西晋朝を「朝廷」と呼んでいる例が全くなかったことなんです。“西晋の天子がこう云った”とか“西晋の年号の何年に”といった言葉は何回か、例外的にですが出てくるんです。にかかわらず西晋朝を「朝廷」とよんだ例は全く出てこなかった。言いかえれば歴史書として当り前かもしれませんが、「朝廷」という言葉は執筆対象の権力中心を指して使われている。執筆時点の権力中心を指しては使われてはいないと。この事実です。これも「説」ではなくて「事実」ですが、確認したわけなんです。
ということは、こういう東アジアの歴史書のあり方から『出雲風土記』を見た場合、執筆対象はさっきいいましたように大穴持の晩年以前である。執筆時点は、これはいうまでもなく八世紀、大和朝廷の時代である。例外的には景行天皇の時とか欽明天皇の時二回、天武天皇の時一回と出てきます。例外的にはそういうのがでてくるが、基本をなすストーリーはさっきいったように大穴持の晩年以前である。だから例外的に執筆時点の天皇の話や名前がでてくるという点まで『三国志』と共通しているんです。
ところがこの立場でもし見たらどうなるかというと、『出雲風土記』の朝廷は執筆時点の、「大和朝廷」ではなくて、執筆対象の「出雲朝廷」、大穴持命のいる場所を「朝廷」とよんでいる、とこうなるわけです。私はつくづく思うんですが、今まで江戸時代以来、ちっとは迷ってもよかったのじゃないかと。この「朝廷」が果たして出雲か、大和か、どっちだろうというような論争くらいはね、もし論争でなくても、自分でちっとは書く時に“迷って”みて、やっぱり大和朝廷だろう、というような人がいてもいいと思うんです。
まったく迷ってないんですよ、誰も。そりゃそうです。考えてみると。最初から大和ですよ。賀茂真渕や本居宣長から始まってるわけですから。国学の人達です。あの人達の古典研究は単なる文献いじりじゃなかった。要するに天皇家がいかに我が国では永遠の昔から中心であり、尊いかということを証明することが出発点であり、また到着点であったわけですね。「目標」であったわけです、だからそういう人達にとって“この「朝廷」はどこの朝廷でしょう”なんていう問い自身が、もう“禁じ手中の禁じ手”、不遜極まりないものと見られたと思います。だから彼等は何の疑いもなく「大和朝廷」と考えた。
それはやむをえないともいえますけど、それをその孫弟子だか曾孫弟子だか、明治の国語学者、国文学者、歴史学者が、その大先生達の教えをそのままうけついだ。そのまた子弟子、孫弟子達が今の各大学の国語学者、国文学者、考古学者なんでしょう。だから岩波古典文学大系その他をみても誰も迷うことなく「大和朝廷」と注記しているわけです。これはやはり行き過ぎっていうか、おかしいんじゃないか、という風に私は感じたわけです。 
国ゆずりの神話
さて決め手は『出雲風土記』自身から出てまいりました。といいますのは、その大穴持が三十四回出てくる最初に、“デビュー”する箇所が、先頭の方にあります。そこで大穴持は越の国を征伐して来てそこで語るわけです。「吾が、造り坐して命(し)らす国」は皇御孫命、「すめみまのみこと」です。これは「ニニギノミコト」だと思うんですが、彼にゆずる。そして自分は出雲に引退すると、こういうことをいうわけですね。いわゆる「国ゆずり」のテーマが、大穴持のしょっぱなに出てくるところに語られているわけです。
今朝、私が発見したことなんですけれども、それを次にのべます。
『古事記』、『日本書紀』の「国ゆずり神話」と「出雲風土記」とは“全然違う”という話が戦後いわれてます。そこで「出雲風土記は信用できるが、古事記、日本書紀の神話は信用できない」というのが“戦後の流行”のようになっています。ところが本当にそうか、と見てみるとどうもそうではないんではないか。「すめみまのみこと」というのは、私は出雲の“大国主の子孫”というふうに考えたこともあるんですがそういうお話しを申し上げたこともあるかも知れませんが今度見直してみるとやっぱりそうじゃなくて、これはやはり「ニニギ」であろう。
なぜかといえば、その後に「自分は出雲で引退する」と書いてあるのと、それから何よりもさっきわたしがみたように大穴持の晩年の或る時点、最晩年になると普通は子供より孫の方が多くなるんですがね、最晩年までいかない、晩年の「或る時点」でストーリーがストップしている。この引退するといった時点から後の“ストーリー”はない、ということを意味しているわけです。「自分の本当の孫」に譲るんだったら、ストーリーがストップする理由はないわけです。という点からみても、やはり「ニニギ」です。
さて『古事記』・『日本書紀』の神話では事代主・建御名方というのは大変重要な位置を占めています。初め大国主のとこへいって「国をゆずれ」といったら「自分は引退するからもう何ともいえない。子供に聞いてくれ」と。子供というのは事代主です。美保の関で会って聞いたら「承知します」とOKしてあと海へとびこんで死んだ。次に次男の建御名方を追って、諏訪湖のところで遂に承知させた、というのは有名な話。
ところがその話が『出雲風土記』には全くない。ないのみか事代主・建御名方の存在自身がない。大穴持命の「御子」がたくさん出てきてるのにね。事代主や建御名方なんか全然現われないわけです。大穴持がニニギに譲って後はストーリーがストップしているのですから。つまり譲って後、この話はつくられてるんですね。伝承してる人は、決して事代主が伝承してるわけでもなければ建御名方が伝承してるわけでもない。事代主はもう死んでしまったし、建御名方は諏訪湖にこもって、もうここからでませんと言っているんですから。
要するに他の子供達が出雲を統治するわけですね。筑紫に支配された、出雲を統治するわけですね。その時点の伝承として語っているわけです。だからそこでは事代主や建御名方は除外した形で語られるんです。今日も後で出てくる阿遅須似高日子(あじすきたかひこ)という、初めに小さい時“唖”だったという。ああいう子供がクローズアップされ、語られているわけです。だからいってみれば「AとBが一致している」という場合ーーこれが今朝考えたことですがーー一致している、という場合に「A=Bだ」というケース、つまりAとBとはここも、ここも、すべて、共通しているという、そういう対応の仕方もあるわけです。ところがそうじゃない対応の仕方もあるんです。
つまり、この「凸A」と「凹A」と、あの実物と鋳型との対応のタイプです。つまり凸と凹と相補う形のソックリさんです。凸と凹とは、全く似ていないわけです。見たとこでは全然真反対。ところがその凸と凹を合わせるとぴっちり合うわけです。これはやっぱり対応しているわけです。『古事記』『日本書紀』の「国ゆずり神話」と『出雲風土記』の「国ゆずり神話」とは、合うわけです。こういうふうに事代主死し、建御名方去りし後の姿にぴしゃっと合うわけです。そういう一致の仕方、対応の仕方をしているということを、私はそれに今朝気がついて「あっ、そうだったのか」という感じを持ったわけです。
さてそこで本筋へ戻りますと、大穴持がいってる「国」は当然国々の意味だろう。単数・複数は日本語、中国語とも同形ですから形だけではわかりませんが、意味内容から考えると、「越の国」を征伐してますし、少なくとも出雲と越との二つ国があります。ところが、そういう国だけではないわけです。『出雲風土記』の中であっちこっちに出てまいりますが、八世紀段階では「郡」に当るようなものを「国」として大穴持は発言しています。だから八世紀段階では「郡」であったものが、大穴持段階では「国」とよばれているのです。そういう意味で幾つもの「国」が寄り集まって「出雲国」という大きな国を成立させている。当然「越の国」の中にも、小さな「国」がたくさん寄り集まって「越の国」ができあがっている。「筑紫国」についてもそうでしょう。吉備あたりの方についてもそうでしょう。そういうのを全部統治してるから、先程のべました大穴持のあの称号の「天の下しらしし大神」となっているわけです。
つまり「天の下」というのは一つの「国」が「天の下」じゃないわけで、“統治し、支配した、すべての国々”が一言でいえば「天の下」とよばれている。こう考えざるをえないわけです。これが『出雲風土記』の構造だとしますと「くにつくり」という言葉は、いってみればこれは「一国造り」のことである。つまり今でいえば郡に当るような、そういう国を支配し統治している人物が「国造(くにつく)り」である。
それに対して「天下造り」「天の下造り」です。これがつまり、大穴持です。こういうふうに考えざるを得ないわけです。そうするとさっきいった「国造りが朝廷に参り向う時」というのは、当然「一国造り」の意味と考えられるわけです。とすると「朝廷」というのはこの「天下造り」の居る場所が「朝廷」と考えざるを得ない。つまり大穴持がいる所が「朝廷」です。これに対して“我が日本列島中では天皇家しか朝廷はあり得ない”という「絶対概念」を持ちこんでやみくもに読んでしまうのではなくて、あくまで『出雲風土記』の術語の使い方、『出雲風土記』の構造に立って、その文章を理解する。当り前の「文章の理解の仕方」だと思うんですが。それに従うかぎりは、こう考えざるを得ない。そして、その挙げ句は今日あとでいいます問題です。 
阿遲須枳高日子命
三澤郡(三津)のケースで、その事はさらに確認されるわけです。岩波の「古典文学大系」では三澤とありますが、これは原文は三津。
「三津の郷。郡家の西南の方二五里なり。大神大穴持命(例の大穴持です)の御子阿遲須枳高日子(あじすきたかひこ)命、御須髪八握(みいげやつか)に生(お)ふるまで、書夜哭(な)きまして、み辞(こと)通わざりき。その時、御祖の命、御子を船に乗せて、八十嶋(やそしま)を率(い)て巡りてうらがし給へども猶哭き止みまさざりき。大神夢に願(ね)ぎ給ひしく『御子の突く由を告らせ』と夢に願ぎませば、その夜、御子み辞通ふと夢見ましき。則ち、寤(さ)めて問ひ給へば、その時「御津』と申したまひき(みつという方がいいですね)。その時『何処と然いふ」と問ひ給へば、即て、御祖の前を立ち去り出でまして、石川を渡り、坂の上に至り留まり『此処ぞ』ともうしたまひき。その時、其の澤の水活(なが)れ出でて、御身沐浴みましき(其沢水活出而御身沐浴坐)」。
とあるが、これは原文を大分直してありまして写本に忠実によみますと「其の津の水に御身沐浴し坐すにて治す」(其津水治レ於二而御身沐浴坐一)と。漢文として一寸、妙な考えられない漢文ですが、私はこういう変則漢文であろうと思うんです。
キーポイントは「治す」という言葉が写本にはありますので、ここで治ったとその病気が治った、という結論になっていることが重要です。「くにのみやつこ」という読み方は、私は大嫌いですね。これは八世紀の近畿の天皇家がつけた読みをここへ持ちこんで読みをつけているんですから、とんでもない話です。
「くにづくりが神吉事奏しに」朝廷に参向う時「其の水活れ出でて用ゐ初むるなり」とこうなるわけです。つまりこの話を概略申しますと、大穴持の子供の阿遲須枳高日子命が大きくなるまで口がきけなかった。いわゆる「唖」といいますか、そういう病状を示していた。「そこで父親としては非常に心配して子供を船に乗せて、八十嶋、あちこちの嶋を連れて廻った。けれども哭いてばかりいて、口をきくことが依然できなかった。それで彼は或る宿舎で、旅の或る夜に夢でその神様に祈った」と。
我々は大穴持というと神様だと思っていますが、彼は生きている時は人間で、彼にとっての神様がいたらしくて神様に祈った。「『なんでこんなに哭いてばかりいて口が利けないか教えて下さい』と。神様が『よろしい。直してやろう』と。こういわれて『よかった』と思ったら、目が覚めた。それで直ぐ隣に寝てる子供に声をかけたら、その子供が『三津』と初めて言葉を喋った。わあわあ哭いている以外の『発音』をしたわけです。『どこのことを三津っていうんだ』と聞いたところ、その子供がぱあっと父親の前へ立ち上がってすっと走りだしたと。川を渡って坂の上にきてここっ、といった。そこの水をつかっているうちに病気が治った」と。
こういうふうにかかれているわけ。で問題はその次です。
「故、国造り、神吉事奏しに朝廷に参向うふ時、其の水活れ出でて用ゐ初むるなり」と。この時に朝廷にその大穴持がいて、この間まで口がきけなかったのがその水のおかげで治った。その子供がいて、そこへ仁多の国造りが「今朝あの三津の水で、体を沐浴してきました」「ああそうかそうか、あの水は実にいい、霊験あらたかないい水じゃ」と大穴持がいうわけです。そこで両者の交流がなされるわけでしょう。つまり全ストーリーは非常に自然な流れの話になるわけです。
ところがいきなり「大和朝廷」だったら、何も関係がない大和朝廷、“こんなもの、何をうろたえたか”という感じです。それなのに、文章としての流れをまったくぶったぎってまで、大和朝廷を持ちこんで、従来誰も疑わずに読んできたわけです。文脈の流れというのはやっぱり一番大事です。文章の流れはどうでもいい、読め読め、というのなら誰でも読めます。
しかしその流れによるかぎりは「朝廷」は大穴持のいる所ですね。でこの点は、現地へ五月の終りに行ったんですが、そこで気がつきました。というのは、現地へいくまでには、この「国造」というのを”出雲国の中の凡ての一国造り達”というふうに理解していたんですよ。ということは出雲国の中で「一国造り」は出雲大社の大穴持のいる所へいく時には、ここに寄って体を洗っていく、というふうに理解していたんです。
ところが出雲空港からタクシーで一時間十分くらいかかって、そこからさらに三十分くらいかかっていきましたが、非常に入りくんだ山奥なんです。だから今の出雲の中の国造りだってですね、西寄りの廻り道の山中まで行って、そこから大和朝廷へいくなんてのはむろん大変なことです。地理的にね。この点、出雲の各地の国造でもそうです。わざわざ出雲大社は近いのにそこへ行く前に、水だけあびにいくと“それが宗教的に大事なんだ”って理屈をつければいいようだけども、なんとなくおかしいわけです。
ところが現地で私、やっと気がつくんですけども「是はにたしき小国なりと詔りたまひき。故(かれ)、仁多といふ。」これは仁多郡の項目です。この仁多郡のところで、これは大穴持がこう仰しゃったという言葉が出てくるんです。“湿地の多い小国であると、こういうふうにおっしやった、だから仁多というんだ”という地名説話です。ということは、つまり仁多郡を「仁多国」、小さいけど「仁多国」だ、とこういってる話から始まってるわけです。
それからすぐあとに例の説話です。そうすると「国造り」というのは、これは「仁多の国造り」なんですね、これは。そうとしか読めない、初めから読んでいけば、「仁多の国造」なら、地理的に何の不思議もないわけです。その水のところまでは同じ三澤の村の中ですから、まあ二、三十分くらい朝早く起きれば、すぐいけるわけです。水を浴びられるわけです。然もそのすぐ側には、斐の川が流れている。斐の川の上流ですから、ここは。斐の川で船へ乗ったら、船というのは上流から下流へいくときは快適な、スピーディな乗り物ですから、恐らくわたしは数時間かからずに出雲大社に着けるだろうと思いますね。
これは今のタクシーより、或る意味では、もっと便利かも知れません。さーっと船に乗って川を下ればね。要するに朝その霊泉で水浴みして、お昼過ぎには大穴持とその子供に「拝謁」できるという、そういう話になっている。話は実にスムーズです。何の無理もしてない話です。それを今までのように、出雲国諸国の国造たちであるとか、いわんや出雲国造が大和朝廷へいく時にここに寄るということになると、もう地理的条件を無茶苦茶におし曲げて読んでしまっていたわけです。
私のいいたいところは要するに、この『出雲風土記』に出てくる二回の「朝廷」はやはり「出雲朝廷」であった、という結論でございます。術語としての性格からみても、単語としての統一からいっても、またストーリーの必然性からいってもこれは「大和朝廷」ではありえない、「出雲朝廷」であると。これはもう“疑問”ではなくて私は断言しうるというふうに現在考えるに至ったわけでございます。これはもちろん私にとっては非常に大きな発見でありました。
なぜとなれば多元史観というものは、一元史観に対するものである。一元史観というのはいうまでもなく「我が国では朝廷といえば天皇家以外になし」と、こういう国学以来の信念に基づいて文献を読むことでした。どんなに地理的に無理がおきようと文脈に無理がおきようと、意に解しないと。大事なのは「皇室を尊崇する」ことであって、古典もそのためにはねじ曲げても止むをえないと。ちょうどこれは邪馬壱国とあるのを邪馬台国とねじ曲げてもかまわない、という精神と江戸時代の同じ立場の学問精神に基づいたものです。“近世的”学風なんです。
要するに出雲朝廷は、大穴持の晩年をもって終ったわけで、次はニニギの「筑紫朝廷」に移るという形でちゃんと書いてあるわけです。だからまだまだ出雲朝廷以外は大和朝廷だけ、なんてわけにはいきません。その筑紫朝廷の一端の日向から、大和朝廷の遥か先祖すなわち“九州に絶望した”日向の地方豪族の末端たる、神武たちが出発したと、こういう話になっていくわけです。では、出雲と筑紫と大和だけかといえば、そんなことはありません。「朝廷」という言葉を使わないだけで関東にも、或いは東北、北海道にも或いは沖縄にも「朝廷」に当る存在は当然存在しえたはずです。ということで多元史観というイメ-ジを史料批判上、文献上、明確に立証できたケースとして、わたしは是非とも学術論文を以て報告したい、とこういうふうに思っているわけです。 
『古事記』序文を読み直す
さて、ここからの副産物といえばあまりにも大きすぎるんですが、大きな発見が続いてまいりました。というのは『古事記』の序文でございます。これは今年の四月に立川の朝日カルチャーで、第一回の講義を始めました。その時に『古事記』を基本的なテキストにしてということだったんで『古事記』序文を見ておりました。
わたしは東北大学に入ってすぐ村岡典嗣さんにゼミナールみたいな形で、学生が二人でしたけど、教わってたのがこの『古事記』序文でございます。昭和二十年私の十八才の時。だから古事記序文はもう先刻御承知だと高を括っておったんですが、これはやはりわたしの大きな思い違い、まことに浅ましいところでありまして、全然今まで『古事記』序文を私は読めていなかった、ということを感じたわけです。
これは、天武の言葉で、「朕聞かくは」、まあ「朕聞く」と切ってもいいんですが、「諸家の齎*(もた)る帝紀と本辞と既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふといへり。今の時に当りて、その失を改めずば、いまだ幾年(いくとせ)を経ずして、その旨滅びなむとす。」とこうありまして、それで「姓は稗田、名は阿禮」というのを見出だしてきて、そして彼に「勅語して、帝皇の日継と先代の旧辞とを誦み習はしめたまひき」となっていきます。これに対して昔からいろいろな説が出ているんですが、武田祐吉さんという京大の学者が戦前から戦後にかけて出されました、『帝紀考』という有名な論文がでまして、それによって大体戦後の学説は、統一とまでいきませんけど、多数説が形成されてきたわけです。
齎*は、(もたら)すの意味。強いていえば[喪]の下が貝編、士編に口二つ入れます。ユニコード8CF7、齎の略字。この字は有名な字です。
それは「帝皇の日継(ひつぎ)」と「帝紀」とは、イコールである。また「先代の旧辞」と「本辞」とはイコールである。だから「帝紀」というのは天皇家の系譜である。「本辞」とか「旧辞」とかいうのはそれ以外の説話である。こういう分析です。非常に明快な分析です。だから現在の『古事記』、「日本書紀」は何れも帝紀と本紀に分類できると。つまりあの中で天皇の系図、系譜に属するものが「帝紀」である。それ以外が凡て「本辞」である。というんですから、大変うまく“腑分け”できている。一種快適な有効性もありまして、現在「通説」に近い位置を占めてるといってもいいだろうと思うんです。
ところがこの非常に明快な通説には実は根本的な弱点がある。何かといいますと、この「帝紀」という言葉は天武天皇がつくった言葉じゃないんで、東アジアの術語である。丁度さっきの「朝廷」という言葉は、やっぱり東アジアの術語であった。だから東アジアの術語の「朝廷」というのを中国の歴史書における「朝廷の使い方」を無視してね、日本列島では「朝廷は大和朝廷に限っている」みたいなやり方は、本当に夜郎自大という感じのやり方だったわけです。考古学から現在の学者、私まで含めまして“夜郎自大”できていたわけです。
やっぱり「朝廷」という東アジアの術語を使う限りは、「朝廷」って言葉をどういう形で中国の歴史書は使っているか、という、そういう文脈の中で理解してこちらの場合も判断すべきだったんです。それを無視してきた。同じように、この「帝紀」というのもやっぱり「朝廷」に劣らぬ重要な術語なわけです。つまり『史記』、『漢書』どれをみても、「帝紀」が先頭にあるわけです。どういうものかといえば、当然天子の名前があげてあって、その天子の治世に行われた事績の記事が「帝紀」です。それがすんだら「列伝」になるわけ。つまりその天子の家来の豪族達の名前を挙げて、その時生じた記事を書いている。「列伝」に入る前は「帝紀」なんです。これは何の疑いもない。『史記』、『漢書』その他あらゆる中国の歴史書の定式です。その定式を完全に無視しているわけです。だって系図だけの帝紀なんて東アジアどこにもないわけです。日本側の従来の「通説」は東アジアの用例を完全に無視するという弱点を持っていた。なまじっかの弱点ではない。
そこで私は今度これを考えてみて、「あっ」と思いました。それは先程の『出雲風土記』の経験があったからです。つまり『出雲風土記』では風土記という名前に誤魔化されていた。これは八世紀に天皇家がつけた名前でね。全国のものにあわせて風土記とよんだだけのことでしょう。その実体をみれば、これ、完全に「帝紀」です。「朝廷」があって、で「天の下しらしし大神」というのが三十四回も頑張って出てきていて、しかもそれが「国を譲った」途端にストーリーが断絶する。その途端に出雲が全然“お話にもならない国”になったなんてありえないわけでしょ。にもかかわらずストーリーは断絶するんです。 
倭武天皇は倭建命に非ず
言い換えれば「帝紀」である範囲でのみ語られているそういう話が『出雲風土記』の内容なんです。そこから後は、いわば「筑紫帝紀」に移るわけです。だから恐らく『古事記』・『日本書紀』神代の巻などは「筑紫帝紀」の中の神代の巻でしょう。筑紫中心に語られていますからね。だから『出雲風土記』は実は「帝紀」である。そういう問題がでてきた。『出雲風土記』だけじゃありません。たとえば『常陸風土記』。ここにもスーパースターがいます。倭武天皇。倭武天皇というスーパースターが繰り返し巻き返し現われてきます。これをすべての注釈で、例によって例の如くで、これを倭建命と結びつけております。ところがおよそこの人物程、倭建と似ない存在はない、といってもいいくらいです。
なぜかというと『古事記』によると建は東京湾の南辺は渡ったがそこから先ではさしたる業績はなかったという形で語られている。わずかに山梨へいって、その歌の中で、その辺の記憶らしいものが歌われているんですが。しかしそれはそういう歌が他の人によってすでにつくられていて、その歌をそこで歌ってみただけかも知れない。説話内容そのもので千葉県や茨城県を活躍してまわったことを示す話は『古事記』にはまったくないわけ。いきなり「吾嬬はや」となってくわけです。それに対して「日本書紀」の方では、東北迄足をのばしたような感じで語られていますが、両者を比較してみると『古事記』の方が本来の姿で『日本書紀』の方は他の人物、恐らくは常陸の王者、いわば「東北侵略」といいますかそういうものを語った英雄譚を倭建の説話として『日本書紀』が“プラス”したものである、という分析はこの会でもすでに申しあげましたし、去年、徳間書店から出していただいた『古代の霧の中から」にも収録されました。この『市民の古代』の文章が収録されたわけです。それをご覧頂ければ明らかなところでございます。
大きな違いはーーこれは誰も忘れられない話ですがーー倭建の奥さん弟橘姫は東京湾で死んだと。走水の海ですか。そこで竜神に対する人身御供として死んだと、語られている。ところが倭武天皇は奥さんがいて大橘の姫という。彼女が倭からやってきて、常陸の周りを二人で巡幸して歩いている。時にはボートの船遊びみたいな感じで海の上に浮かんだみたいな話まであって、たのしく両者が巡幸して歩いているわけです。だから「大橘」と「弟橘」と。橘が一字似ているから向者同一ってわけにいかない。片方は海底に沈んでいる。片方は遊び廻っている。一字似ていれば同一人物ということなら、この部屋の中にも同一人物はたくさんいらっしゃるんじゃないか。「古田」と「山田」と「田」が一緒でももういいわけですから。同一人物になれるわけです。資格あり、というわけです。そんな馬鹿な話はないわけですよ。ですから先入観を去ってみれば、そういう名前が一字似ていれば天皇家の誰かだという、具体的な姿の説話が違っているのは「異伝である」と、あの流儀でやってきたからです。それで今まで通ってきた。
しかしAという人物とBという人物がイコールかどうかは名前が一字似ている、二字似ている、というようなことで決めるべきものじゃなくて、その「行動様式のアリバイ」とでもいいますか、それで決めるべきものです。そしたらどう見たってあれは両者同一にはならない。一番はっきりした話は、片方の倭建は一回も「天皇になったことはない」。これは判り切ったことで、ナンバー2で一生を終った。他の一方は「天皇」と終始かいてあるわけですから。天皇というのは、ナンバー1ですから。ナンバー1とナンバー2がイコールということはそもそもありえないわけです。あんまりはっきりしていることはみんな無視するらしい。男と女とが違うというのを無視するという、あの「日出づる処の天子」の問題と同じようにね。あんまり違いがはっきりしていれば、みんなで無視してかかる。こういう癖があるようでございます。
ということで冷静に、クールに考えれば倭武天皇が「倭建でない」ことは、もう自明、避けることのできない結論である、というふうに私には考えられました。ところがこの人物は、ではどういう人物かと。最初は、わたしはこれを常陸の英雄といいますか、常陸の五者と考えました。丁度廻っているところが水戸辺りを空白にしまして周りをずっとほとんど全部巡行しておりますので、常陸の王者ではなかろうかと、こう考えた時期がありました。
ところがその時にやはり私の頭に突き刺さって離れない疑問があったわけです。それは何かというと、その奥さんの大橘姫というのが「倭から来た」とこう書いてある。その「倭」とはどこかと。普通に考えれば、これは当然大和である。ところが大和から来たというと、倭建に大橘という后はいない。弟橘以外いないし、いわんや関東に行って一緒に遊び廻ったような后もいない。倭建以外の天皇や皇子に関しても、そのような后はいない。そうするとこの「倭」を大和と考えることはどうも考えられない。ということで、疑間に残っていたわけです。
ところがその後、まあ何年も経っての話ですが。「倭」の問題を追跡しているうちに「倭にはふた通りの倭がある」と。で本来の「倭」は「倭イコール筑紫」の「倭」であると。『古事記』の中にあるーー「大国古事記」とわたしがよびました大国主をめぐる一連の説話ーーこの中にでてくる倭は二つとも「筑紫」を指す倭である。という結論に到達してきたわけです。東大の史学会でも発表しましたが、「古代は輝いていた」の中でも終りの方にそのテーマが述べられております。そうなりますと「倭」という字があった場合、第一次の倭は筑紫、第二次的に派生した倭は大和である。今文献に現われた、その「倭」はどちらの倭であるかを判定しなければいけない、ということになってきたわけです。
従来の人は全然判定せずにみんな大和として読んできていたわけですがそれではいけないんだ、ということになってきた。そういう立場に立ちましたさいに、今問題の大橘が来たという「倭」は何処か、と。先ほど言いましたように「大和イコール倭」の倭ではあり得ない。そうすると二つのうちの一つではあり得ないんですから、残る所は第一次のほうとして、つまり「筑紫イコール倭」の倭と考えざるをえない。この「大橘は筑紫からきた」とまあ論理的にそう導かれていったわけです。この論理はさらに連鎖反応を最も重大なところへ及ぼします。とすると、倭武天皇の「倭」もまた「筑紫の倭」でなければならない。こういう重大なところへ逆戻りといいますか、心臓部に戻ってきたわけです。
この倭が筑紫であるとすると、この天皇というのは筑紫の王者である。筑紫の王者で倭武とこうなりますと、私はかねてより「倭の五王」というものを近畿の天皇家ではなくて「筑紫の王者」ーーまあ現地音では「ちくし」ですがーー「筑紫の王者」と考えてきていた。その最後が倭王武すなわち倭武である。その倭武がこの『常陸風土記」にでてくる倭武天皇であると。こういうまあ非常にわたしはその時は頭が“苦しかった”んですが、そういう結論に辿り着かざるをえなかったわけです。ところがその後調べてみると実はこの常陸には、九州の痕跡は非常に色濃く存在した。例えば虎塚。明らかに装飾古墳の各部分をなすデザインが非常に整理・整頓されて美事に表現されている。それはただ虎塚だけではありません。常陸から今度は福島県にかけて横穴古墳などに夥しく面をなして装飾古墳と同じデザインの、連続三角文とか、二重丸とか、そういう類のものが刻まれていたことを知ったわけです。ということでわたしが苦しみながら到達した文献解読は実は虚像ではなかった、という感じを持ったわけです。
なおその常陸における最大の前方後円墳が被葬者の名前だけはわかっているという、非常に不思議な例があります。その名前が「つくしとねの命」というふうに現地の石柱に刻まれております。「とね」は名前か官職名の類だろうと思いますが、どうも筑紫と関係があるような感じです。その人の事績がわかっておりませんけど。以上の点から見ますと私の分析も、あながち荒唐無稽ではなかったんだな、というふうに感じたわけです。このことは既に『古代は輝いていた』に二巻と三巻に分けて出てきているテーマでありますが、今の問題についてみますとこの『常陸国風土記』もまた「帝紀」である。それは今の倭武天皇、これは第一の権力者ですから。これは「筑紫朝廷」の倭の王者、中心の王者です。
たしかあそこでもやはりまた「巡行」という言葉が繰り返し書かれております、倭武天皇が行動することを「巡行」という形でかかれております。「天下巡行」ですかね。ということですからこれは「筑紫朝廷」を原点にする「帝紀」の一節である、ということになってくるわけです。また九州の風土記に二種類ある。郡の「こおり風土記」は全国共通の行政単位だが、県の「あがた風土記」については、九州を原点にする風土記であった、ということも今まで繰り返し講演でもお話し申し、角川選書の『よみがえる九州王朝』或は『古代は輝いていた」でも述べたところです。ということは言い換えると、阿蘇山を天下の中心として描いた、この『県風土記』は「筑紫朝廷」を原点とする風土記である。ということになります。つまり筑紫の「帝紀」をバックに持った風土記であるということにならざるをえないわけでございます。 
序文は多元的朝廷を証明
というようなことから見てまいりますと、ここで天武が言っているところの「帝紀」というのは、文字通り「帝紀」。つまり各地の権力中心に依る、権力中心の歴史、それを「帝紀」とよんでいるんだ。ここで解けてまいりましたのは、実は『古事記伝』で本居宣長が非常に悩みましたのは、そこにかいてある「諸家の齎*(もた)る」という言葉ーー「齎*る」という変な字ですけとも、これを非常になやんだ。漢和辞典で引けば、すぐわかりますように、これは「もたらす」という読みでありまして、つまり「BRING」“外部から内部に持ってくる”という意味しかないわけです。ところが、天皇の系図を、天皇家の外部の人間が天皇家へ持ってくるというなんて、変な話ですね。それで宣長は悩んだ結果、これに「もたる」という奇妙きてれつな読みをつけるわけです。つまり「諸家が持っていた」という意味に変えてしまうわけです。「BRING」“外部から持ってきた”という字を完全につかっているのを宣長が“読み換え”をやったわけです。一元主義による読み換えです。漢字をそんなに違う意味に変えて読むというのは、やはり「古典を尊重する」態度じゃないんです。宣長が古典を尊重してその通りに読んだ、なんて、一種のコマーシャルソングでありまして実際は天皇家のためならば、幾らでも“改竄(かいざん)”し“読み換え”もやったわけです。
ということで、それを今度は読み換えしないで、理解できるわけです。つまり諸家とは各地の権力者と考えざるをえない。普通に考えて。各地の権力者は「帝紀」を持っていた。それを天武は見ていたわけです。読んだわけです。そこで「この話では困る。大和中心の、我々中心の歴史をつくらなければいかん」とこう言っているわけです。それが『古事記』・『日本書紀』の編纂というところへつながっていくと、こういうわけです。だから天武は後々の皇国史観の持ち主のようには認識の目はつふされてはいなかった。むしろそういう日本列島各地の複数の「帝紀」を目にしたからこそ「古事記」・「日本書紀」というものの成立を渇望し願望し、そのために惜しみなく彼の力を使おうとした。ということを初めてわたしはこれを知ったわけです。
だから今まで私は「古事記」序文は何回も目を通しながら、少年時代以来通しながら、実はその内容を全く理解せずにきていた、ということです。この問題はまたいろいろな副産物をもたらすでございましょう。たとえば古事記偽書説と、古事記本文は偽書ではないけど序文は偽書だという、偽作だという説は、大和岩雄さん始め、かなり強く主張する人があるわけですが、今のように文章を理解してきますと、これはどうも無理じゃないですかね。「日本列島に多元的に朝廷があった」というそういう意味の文章なんか、後代の偽作者に書けるはずのもんじゃないですからね。そうするとやはりこれは天武が抱いた危機感である。そして白村江の九州王朝の「敗戦」で、ついに「我々の時代がきた」という、その時点においての天武の発言とすれば理解できる。ところが、天皇家の一元的な権力が確立していた、平安朝あたりの偽作者に考えつきうる文章ではないであろうというような、副次的な、しかし重要な問題も派生してくるようでございます。 
荷田春満の「出雲風土記」巻頭の改竄
後半に移らしていただきます。エドガー・アラン・ポーの名作で『盗まれた手紙』というのがありますが、そのテーマは一番大事なものというのは、一番目の前に置かれているとみんな気がつかない、というテーマでございます。最近もその作品を繰り返し読んだのですが。同じようなことが、実は『出雲風土記』にもあったわけでございます。前半で申しましたように『出雲風土記』の中心は「出雲朝廷」大穴持の場所を中心に描かれているんではないかということに辿り着いてきたわけです。ところが、そんなにごたごた辿らなくてもよかったわけです。実は『出雲風土記』の先頭にそのように書かれてあったわけです。
1).岩波版「古典文学大系」〔活字本〕
出雲國風土記
國之大體首レ震尾レ坤東南山西北屬レ海東西
一百卅九里一百九歩南北一百八十三里一百七十三歩
二百里一十七里
(一百歩)
(七十三里卅二歩)
(得而難可誤)
2).倉野氏本(倉郎憲司博士所蔵)〔以下、古写本〕)
出雲国風土記
国之大體首震尾坤東南宮北屬海
東一百卅七里一十九歩南北一百八
十二里一百九十三
一百歩
七十三里卅二歩
得而難可誤
3).細川氏本(細川護貞氏所蔵)
出雲国風土記
国之大體首震尾坤東南宮北屬海
東一百卅七里一十九歩南北一百八
十二里一百九十三
4).松下氏本(成簣堂文庫所蔵)
出雲国風土記
山西
国之大體首レ震尾レ坤東南宮北屬レ海
西
東一百卅七里一十九歩南北一百
八十三里一百九十三歩
5).萬葉緯本(三手文庫所蔵)
出雲国風土記
陸呼西
国之大體首レ震尾レ坤東南宮北屬レ海東一
百州七里一十九歩南北一百八十三里
一百九十三歩
6).桑原氏本(桑原羊次郎氏所蔵)
出雲国風土記
国之大體首レ震尾レ坤東南宮北屬レ海東一百
卅七里一十九歩南北一百八十三里一百
九十三
7).河村氏本(京都大学所蔵)
出雲国風土記
国之大體首震尾坤東南宮北屬海
西
東一百八卅七里一十九歩南北一百八〔この行の上欄に「東下疑有脱字」と書込み有り〕
十三里一百九十三
8).日御碕本(日御碕神社所蔵)
出雲国風土記
国之大體首震尾坤東南宮北屬海
東一百卅七里一十九歩南北一百八十三
里一百九十三
(2).〜8).は田中卓著『出雲国風土記の研究』出雲大社、皇学館大学出版部刊、昭28初版、昭49再版より)
活字本の1).では、「出雲国の風土記。国の大き體は震(ひむがし)を首とし坤(にしみなみ)のかたを尾とす。」「震」が東で、「坤」が西南をさしています。だから東が頭で西南が尻尾である。「東と南とは山にして、西と北とは海に属けり」「東西」は何里何歩「南北」は何里何歩と書いてあります。
ところが、この文章には内容的におかしいところがあるわけです。といいますのは「東と南とは山にして」とありますね。確かに出雲は「南」は山です。ところが「東」は、美保の関の向うは海ですね。米子の方もあれは米子平野で、平野でありまして決して「山」ではない。だからあくまで「南」は中国山脈で山であるけれど、「東」は海ないしは平野です。だから「東は山」というのは大体嘘です。
その上、もっと基本的におかしいのは、今読んだような文章は、『出雲風土記』には「全くない」という事実なんですね。何を言っているか、と皆さんお思いでしょうけども『出雲風土記』の古写本には、今読んだような文章は皆無であるというこの事実です。皆さんも恐らく、今初耳だろうと思うんですが、私も初めて知ってびっくりしました。“動転”しました。資料で見ますと、倉野本(2).)というのは、これは非常にいい古写本だといわれてるんですが「国之大體首震尾坤」の次に「東南宮北屬海」さっきの文章には「宮」なんていう言葉は出てこなかった。次に「北属海」です。次は『東』。「東西」とさっきいいましたね。ところが古写本には「西」という字はないわけです。次は「南北」この「北」はありますよ、ですから先ほどの字は「宮」という字を何と「山西」という字に“直して”あるわけです。ひどいもんですね。一字を二字に直すなんて。「東」というのも、「東西」に直すわけ。
「西が欠けたにちがいない」ということでしょうかね。こういうふうに次々と手直ししてつくった文章が、われわれの従来知っていた文面なんです。じゃ、次を見ていきましょう。次は細川本(3).)。これも非常にいい古写本、もっとも古い写本だといわれているものなんですが、ここでも「東南」の下は「宮」、ちゃんと「宮」という字があります。これを「山西」に直したんですよ。今度は2行目の先頭「東」でしょ。「東西」じゃないでしょ。ここを「東西」に直してます。次は松下本(4).)。ここでね、「宮」という字がありまして、その右に「山西」と書いてある。これは「山西」という写本があったのではないんでして、これを「山西」と直した注釈家がいるということです。これは後で申しますが荷田春満という国学の大家が、この「宮」は「山西」と直した方がいいんじゃないかと書き、後の学者がそれを受け継いでそこに註記しているわけです。また「東」を「東西」に直した方がいいんじゃないかという案、だから「西」を小さな字で書いているのは、これは写本の字ではない、ということをしめした配慮なんです。
次に萬葉緯本(5).)。そこは「宮」という字を、この人の別のアイデアで「陸」という字に直したらどうかというアイデアを右に書いている。面白いのはここに「陸乎」と書いているんです。これは大事でして、この「乎」というのは、要するに「これは陸という字の間違いか」ということ、「これは、わたしのアイデアだが」ということ、もとの古写本にあった言葉じゃない、ということをしめしているのでこれはやはりいい言葉です。「東」はやはり、東の右下に小さな字で「西」とあって、そのような「説」のあることをしめしているわけ。
桑原本(6).)。ここでもやはり「宮」でしょう。「山西」じゃないですね。同じ行の最後は「東」です。「西」はない。次は河村本(7).)。これも「宮」。「山西」ではない。二行目の初め「東」で小さな字で「西」とこういう註記を入れています。それから最後、やはり非常にいい写本なんですが日御碕本(8).)。例の出雲大社の西北の海に面した所に日御碕神社というのがありますが、そこに伝えられた『出雲風土記』です。いわば現地に伝えられた『出雲風土記』なんですが、ここでは一行目にやはり「宮」です。で二行目の先頭もやはり「東」です。さっき私が読んだような文面は全く存在しない。つまりどの古写本を採りましても今初めに読みましたような、岩波古典文学大系のような文章はないわけです。
この資料は田中卓さんの『出雲国風土記の研究』の先頭に載っているものです。神宮皇学館大学の学長をしておられると思うんですが、昔からわたしはよく存じあげてる人ですけども、この方の出雲風土記の研究が大変詳しい、というのは学界に定評があるんですが、この本でも完全に荷田春満の訂正によって本文をつくっております。また加藤義成という出雲現地で出雲風土記の研究の権威といわれている人です。二、三年前にお亡くなりになりましたが、この方の『校注出雲国風土記』も、荷田春満のアイデアによる“直した文章”を本文としています。というふうに、いかなる『出雲風土記』も、皆さんお宅へお帰りになってご覧になれば、みな荷田春満の改訂によって本文をつくっているわけです。
その荷田春満さんの文章を見ますと、はっきりと彼は「今案ずるに」と書き出して「宮」は「山西」と直したらよかろう、ということを書いている。「これは自分のアイデアですよ」「古写本にあるんじゃないんだが、私の考えではこう直した方が本当であろう、いい文章になる」「だからこう考えるんだ」ということをはっきりと書いてあるわけです。しかしこれはもう皆様おわかりのように、どの古写本にも全くない文章、学者がわたしの頭ではこういう文章に直した方がよろしいと手直してそれ以後、これを「本文」として、みんなが疑わずに使うというのは、これはずいぶん“異状な姿”だとは思われませんか。
私の立場はご存じのように、「原文は尊重すべきである」「軽々しく古典を改訂してはならない」「改竄してはならない」とこういう立場なんです。しかもその「改竄したもの」はさっきもいったように非常に不合理がある。地形からみても合わないわけです。それでは、その原文通りで合うか、どうか、というのが端的な問題になってきたんです。地図を見ながら、あのわたしの原文通りの読み下しを御覧下さい。「国の大体は震を首とし、坤を尾とす。東と南なり。宮の北は海に屬す。東、何里何歩、南北、何里何歩。」というわけです。だからこの場合キーポイントをなすもの、いわゆるキーワードは「宮」である。 
『出雲風土記』の「宮」=出雲大社
『出雲風土記』で「宮」といえば何処をさすか。これは杵築のことです。「天の下造らしし大神の宮」「諸の皇神等宮處に参集ひて」の「宮」というのは、いずれも杵築の宮つまり出雲大社です。疑いないです。これに対し、「五十足る天の日栖の宮」に似せて「天の下造らしし大神の宮」を作った、というところにも、「宮」があります。また「大神の宮の御装束の楯を造り始め給ひし所、是なり、と。仍りて、今に至るまで楯・桙をつくり、皇神等に奉る」と。こうありまして「宮」といえば必ずしも一つとは限らない。先ほどの「五十足る天の日栖の宮」というのは、出雲の隠岐島の海土町、海士村にある「縄文宮殿」であろうという、今までの学者が聞いたら“仰天する”か“笑いだす”かするような結論に私は到着しました。去年出した『古代の霧の中から』という本でも述べてあります。興味のある方はそれでご覧いただければいいので論じませんけども、「宮」といえばいろいろあるけれども、しかし「大神の宮」といえば、これはもう当然大穴持のいる杵築の宮です。
言い換えれば、何の注釈もなく、ただ「宮」といえばこれは杵築の宮、つまり出雲大社ですと。というのが「出雲風土記の常識」と考えていいだろうと思います。変な話ですが、私の学生時代は大学なんかで「党」といえば、もう日本共産党にきまっていたんですね。社会党も、自由党もあったんですけれども、そういうのを「党」なんていっても、もう笑われてしまう感じで、「党」といえばもう共産党以外に「党」とは言わなかった。現在でも恐らく、財界なんかでは「党」といえば自民党にきまっているんではないか、他の政党のことをいきなり「党」とは言わないんだろう。私は財界に行ったことないんですが、財界のサロンヘ行けば、恐らくそうじゃないかと思うんです。
同じように、その地域へいけばもう「宮」といえば、きまり、というのがあるわけですね。そういう例でいえば、この『出雲風土記』の世界で何もいわずに「宮」といえば、他の宮ではない杵築の宮、すなわち、大穴持の宮であると。こういうのが『出雲風土記』の常識であると、こういって恐らく反対なさる方はそれほどないだろうと思います。とするとここで「宮の北」といってる「宮」は杵築の宮であると。こういうふうに理解するのが私は筋であろうと思うんです。さてその意味で地図をもう一回ご覧下さい。そこに杵築の宮の所に二重丸をしてありますね。“「震」つまり東を首とし「坤」つまり西南を尾とする”というのは、杵築の宮を原点にしますと、東は美保の関の方が頭である。そして西南の方が尻尾であると、こういってるわけですね。
次に、「東と南なり」大体において“東側へと南側へと、出雲の大地は広がっているんだ”と、ね。杵築の宮を中心にすると大体そういう感じになります。次は、「宮の北は海に属す」。宮の北側は日本海ですから、これは海に属している。問題はこの次。「東」つまり杵築の宮から西はないでしょ。だから杵築の宮を原点にしたら「東西」と書いたらおかしい。「東」だけでいいわけです。「東」何里何歩、「南北」こちらは北が一寸あるでしょう。だから「南北」です。「南北何里何歩」。なんにもおかしくない。ところが、「宮」を消してしまったから実に変な現地の地形に合わないということになってしまった。原文通りにやれば地形にドンピシャリなんです。
つまり『出雲風土記』は“「宮」中心の記述法”になっていると。つまり「杵築の宮中心叙法」になっている。そういうことであったわけです。だから「以下、杵築の宮中心に読んで下さいよ」と、そういう前触れで「出雲風土記」は始まっていたのです。ところがそれを荷田春満が打ち消して、「宮」を抹殺してしまったわけです。以後、明治・大正・昭和とそれに従ってきたわけです。そこでこの「朝廷」はもしかしたら「出雲朝廷」じゃあないでしょうか、大穴持がそこにいる所じゃないでしょうかなとーーと辿りつつ、試行錯誤してきたのですけれど、そんなのは、もう初めから、ちゃんと「そう読んでくださいよ。この『宮』中心にこの後のストーリーを読んで下さいよ」とちゃんと書いてあったわけです。それを消してしまったから、ややこしくなったのです。そういうことがわかってきた。
荷田春満にすれば、そこでは説明していないけども、恐らく彼の考え方では、この精神ははっきりしているわけです。その証拠に、もしこれが伊勢皇大神宮中心叙法だったらこんなに簡単に“消す”なんて絶対にしない。また天皇の皇居中心叙法だったら“こんなの書き変えろ”なんて絶対に、口が裂けてもいいません。しかしここは伊勢皇大神宮でもなく、天皇の皇居でもない、そんな一地方の杵築の宮ごときを「中心」にというのは不穏当である。だからそれは“消せ”。「山西」ならいいだろう、という感じです。だから「山西に直す」とか、「東西に直す」などと、遠慮なく原文を改訂して「天皇家中心の風土記」らしく“書き改めた”わけです。それが江戸の学風であるわけです。それにまたそういう江戸の学風に、明治の考古学、国文学、歴史学の大家たちはお弟子さんのお弟子さんたちですから、みなそれに従い、そのまたお弟子さんのお弟子さんたち、現在の考古学者、国語学者、歴史学者も露これを疑わずに、『出雲風土記』を論じていたわけです。エドガア・アラン・ポオじゃありませんけど、あんまり先頭から、あんまり見事に消されると、誰も疑わない。万人が疑わずにきた、という恐るべき「レター」がここに存在した、ということにやっと気が付いたわけです。 
公害病は弥生時代から発生
さて次に、この三月以来私が夢中になってきておりますテーマに移ります。これも言いだすと非常に長い時間がいるんですが、今はキーポイントだけを申さしていただきます。それは三津の郷の問題でございます。「朝廷」問題にひかれて、ここを読んでおりますうちに、わたしは、はたとわたしの目が止まった。それは次の個所です。「此に依りて、今も産まる婦は、彼の村の稲を食はず、若し食ふ者あらば、生るるもの已に云はざるなり、と。」ーーこの一言です。つまり妊産婦が、この村の稲を食べるとご本人は何でもないが、生まれてくる胎児が口がきけない子供として生まれてくる、と。こういう異様な説話があるわけです。
これはこの二、三十年来日本列島に住んでいる人なら、恐らく誰でもピンとくる文章です。そうですね、水俣です。水銀汚染。公害病です。私は早速この三月から四月にかけて、医学書を買い漁って、読み漁ったわけです。公害病の本を。そうしましたら、本当にこれと関連する記述がありました。それも、ドンピシャリ一致しているのに驚きました。例えば東大の医学部の教授の和田攻(おさむ)さん。この方の『金属とヒト』という、かなり分厚い専門的な書物がありますが、これに各金属の汚染が書かれている。その中でたとえば砒素の汚染、ここでは「乳幼児の中枢神経が冒される」と、こうかかれてあります。またメチル水銀のところではメチル水銀を摂取すると、視野狭窄。目が直線的に前の方しかみえなくなる、周りの方がみえなくなる。口が十分にきけなくなる。要するに「唖」というような状況になる。
しかも最も注目すべき点は“胎児を持つ母親がこれを摂取すると、本人は何でもないけども、生まれてくる胎児が、今いった様な症状を持って生まれてくる”と。こう書かれているわけです。しかもその摂取量が一定量以下の場合は、これは「治癒可能」である。ところが一定量を越えると、「不可逆性」である。「不可逆性」、つまりもう治らない。そういうふうに書かれている。大国主の子供は“治った”わけですからね。ところが今も、“摂取量が「一定量以下」の場合は治る”と、こう書いてある。それにも一致すると。そのようなことで、これだけ一致するっていうことは、これは八世紀などのお話づくりの人が、小説のように、勝手にこの神話をつくった、それが二十世紀の医学書の症状に偶然一致したと、こんなことは私にはありうるとは思えなかったのです。
では、何故か。というと、答えは一つ。実際に弥生時代前後に公害病が存在した。その事実を反映した説話である。そう考えるほかはない。私にはそう思われました。この点、改めて詳しく報告させていただきたい、と思います。 
 
藤田友治著『好太王碑論争の解明』 (1986年新泉社刊) 書評

 

藤田さん。あなたから『好太王碑論争の解明』という本をいただいてから、半年がたちました。読んで感想を言うとの約束をのばしのばしした半年です。
たくさんの事を言いたい反面、これは言わない方がいいのではないかとためらうことも、感想の中にはあります。率直に言うのが私の信条ですから、簡単ではあれすべて申し上げます。
第一は書名。うけとったとき「論争の解明」ではなく、「碑〔文そのもの〕の解明」とすべきだったと思いました。これは形式と内容という間題にかかわります。
私は長いこと評論家として生きてきました。自分たちが生きている戦後についての評論から出発しました。いきおい沢山の事を、論争的批判的に論じてきました。マルクス主義の立場をとる論争家とみられてきました。論じて、論争して、・・・・・いま論じることの空しさを実感しています(ここのところはもっとじっくり言わないとご理解願えないでしょうが、紙数がありません、哲学者同士のカンでご理解いただくことにして、先を急ぎます。
学問には三つのレベルがあります。一つは古典の形成。二つにその古典の注釈(解釈)。三つに多様な注釈間の論争と、そこからいくとおりかの学説史の形成。かんたんに言うと、一に古典、二に注釈、三に論、です。
古典の形成とは、いま私たちにかかわる問題領域でいうと津田左右吉、古田武彦が追求した仕事。津田は記紀について『日本古典の研究』という古典を書き、古田は魏志倭人伝を克明に研究して『「邪馬台国」はなかった』という古典を書きました。古典の形式が同時に二の「古典」への注釈という仕事と重なってもきます。その上で三の、古田のケースでいえば津田への論争、津田学説史(戦後史学)への批判に、すすみ出てきたわけでしょう。
だから、古典、注釈、学説は、三位一体をなす三つのレベルと言うべきものです。しかし、このうちもし一つをはずすとすれば、聖人(学者)はためらうことなく論争(他の解釈・学説への批判)を割愛するでしょう。論争は三次的なものにすぎません。ところが凡人は三次の論争にこだわって一次の古典、二次の注釈をすてます。王より飛車を可愛がります。
『好太王碑論争の解明』は、碑文そのものについて全面的な解明(注釈)をきちんとすべきでした。それではじめて『好太王碑の解明』なのです。ところがこの本は一々に論争的です。このためかんじんの碑文の全体的解明が、その個々一々の他説への論争・批判にさまたげられて、すっと腑に落ちないにきらい(傾き)がある。『「邪馬台国」はなかった』ーーこれにも論争・批判はもちろんあるーーが古典になれて、『好太王碑論争の解明』が古典になれない所以を、ふりかえるべきでしょう。
あなたはそのことに気がついている。自分はおしゃべりだと自覚しています。おしゃべりとは口数が多いのとちがうでしょう。しゃべり方の無駄なるをおしゃべりというのではないでしょうか。
悪口を先に言います。文章もときにテニヲハがちがいます。たとえば、八七頁の後から二行目の「を」は当然「が」とあるべきところ。そしてこういうテニヲハのちがう文章は論争の部分に多いようにひが目にはうつります。ご一考下さい。
さて、では『好太王碑論争の解明』はつまらない本でしょうか。いな、「好太王碑の解明」でこれほど全体的かつ個別的に追究したものは、古田論文も王健群本もいれて、これまではなかった。つまり前人未踏の達成を示した本でした。私の書評がまず願ったのは、その内容を表現するのに、碑文の全注釈という形式の方が論争という形式よりもよかった、という一点にあります。内容と形式の問題と言った所以です。
書評とは、けっして対象とする本の要約ではありません。要約はやめて、読んで感銘したところ、前人未踏のところ一、二に言及することにしましょう。
あなたの本を読んで、(あなたが口数多く書いているせいもありますが)通化のホテルで、好太王碑前で、吉林省博物館で意見を交わしたのを思い出します。思い出すままかかげますと、(一)好太王碑問題は、改ざん説をめぐる論争から抜け出して、碑文全体の解明にすすむべきこと、(二)好太王碑を孤立させずに国崗の風土の中で、高句麗古墳群との関連の中でとらえるべきこと、(三)好太王が都した国崗について、その気象、農耕、産業とくに鉄生産といった事を視野にいれて考えるべきこと、そういった箇条がうかんできます。
一九八五年三月末の集安での旅の日々は、私たちが好太王碑の部分的論争の次元から、碑文(及びその環境)全体の史的意味を解明する次元へ、足早に駆け上がっていく日々でした。思考の速度に一つ一つの小「発見」の記録がおいつかない、そういう充実した日々でもありました。
あれこれの先行説への論争を、またあれこれの交渉史を(混雑をかえりみず)本書にいれたのは、あなた、が好太王碑の「解放」交渉から実現への過程を、身を以て推進したことへの熱い思いが原因だったでしょう。
あなたの本には、まさしく従来の好太王碑論争を超え出た成果が、みごとに出ています。だから“論争の解明”などという小さく低い次元は捨象して、“碑そのものの解明”に専念することを、私はすすめたのでした。若いときには論こそは輝いてみえます。しかし論は実事に及びません。実事求是の真義はそこにもあります。
(一)碑(文)そのものの解明で、あなたのポジチブな寄与は、第九章で「守墓人制度の確立」を解明したところにあります。むろんあなたが正当に謙譲に指摘したように、そのプライオリティは朴時亨、王健群にある。しかし守墓人の制度を定めたことの背後に、好太王の対外侵略の必然性、したがって倭との対戦の必然性、それに見合う高句麗の支配構造の独自性を見、これらの全体的関連の中に、碑面の三分の二を占める守墓人問題を据えてみせたのは、まことにめざましいあなたの成果でした。
なぜ好太王碑が建立されたのか、その好太王はなぜ南下して倭と交戦してまで「百残」「東海」ーー欠字にこれを当てた推論もあなたのメリットですーー「新羅」を臣民としたのか。まことに立碑、碑文が高句麗当該史の焦点・結節点でありました。そのあなたの解明の過程の中、私は歴史を解く醍醐味を味わわせていただきました。
(二)碑の風土的・歴史的環境については、如山の問題、また東台子遺跡の問題など、第十章その他で言及されています。
じつは現地集安県博物館で、私が最初から最後まで執着していたのが、東台子遺跡の見取図でした。不精な私が、博物館の瓦の拓本などをいれた袋に、遺跡の見取図を写したりしたのは、よくせきのことでした。これが高句麗の社禝を祀ったものであることは、一見してあきらかでしたが、祀ることの丁寧さに私はおどろいていました。他国を侵略収奪せねばなりたたない騎馬民族国家・高句麗が、ここ国崗の地ーー私は「倭は国のまほろば、たたなづく青垣、山こもれる倭しうるはし」を思い出しました、まことに集安県は高句麗の国中(くんなか)でありましたーーで、農耕社会への熱情を示した遺跡、それが東台子遺跡でした。
あなたも書いているように、注目されるのはI室に屹立する巨石の立石です。これを国崗の北に聳える“聖なる如山”を前に立つ巨大な好太王碑と、相似のものとみる視点は、私たちの共通認識となりました。そしてI室の巨石を玉石がとり囲むように、好太王碑は壁画古墳にとり囲まれていました。この古墳群がピョンヤン周辺の高句麗壁画墳をへて、その延長線上に、(高句麗と戦った)倭を併合した日本の高松塚古墳壁画を望見させるのも、まことに注目すべき構図と私には思われました。
あなたが方起東の東台子遺跡論もふまえて、好太王碑の史的位置をさぐったのは、こんご好太王碑を見る基本視座となるでしょう。
(三)その国崗(集安県)の地誌。長春で王健群さんを囲んではげしくも友好的に交わした討論は、すでにこの雑誌にのりました。(編集部注・『市民の古代』第七集ーー王健群・古田武彦・藤田友治・山田宗睦「討論好太王碑をめぐって」ーー参照)翌日古田さんをいれて三人、また吉林省自然博物館を訪ねました。このときさいしょ見まちがって入った中日戦争博物館で、人体実験など非人道の極致である七三一部隊をはじめとする日本軍の残虐行為を展示した数々には、粛然襟を正しました。(まちがって入ったのは幸いでした。私はいま神奈川県に戦争資料館をつくる努力をしています。)
その隣りの自然博物館で、集安県(国崗)は、(イ)鉄産出の集中地であること、(ロ)東北中国中、唯一の温暖多雨地であること、この二つを確認して、私たち三人が小さな歓声をあげたこともなつかしい思い出です。
これについて、あなたが第十章「好太王の時期の高句麗国家の構造」の前半をつかい、詳細に叙述しているのに感心しました。不精な私が事の確認で終えていたのに、あなたはメモをとり写真も撮っていました。そのせいで好太王碑の史的環境にひきつづき、碑の地誌的環境がはっきりして、総体として好太王碑の資料環境中の定位置が確認されました。
これは好太王碑を「渡海破」前後の小文に局限し矮小化する域から、あるべき広大な次元に据え直した、研究的立碑とでもいうべきものでした。
さいごになりましたが、忘れてならないことがあります。冗談風に言うと、しゃがれ声のおしゃべり先生で、生徒はさぞかし迷惑だろうと思うのですが、あなたはまごうかたなく教師でした。あなたをここまでおしすすめた動力の一つは、あなたと共に苦労した茨木東高校地歴部の生徒との共同作業でしょう。
この本の中でもっとも感動的なのは、大東急記念文庫の雙鉤加墨本の錯簡を正して、好太王碑四面に復元し、この「新」資料も加えて、各種拓本・雙鉤加墨本などの一字一字を比較対照できる一覧を作製したことでした。
こういう作業は生徒の中に必ずや、研究のみならず人生を歩むことへの記念碑を建立したことになるでしょう。ここにも別の好太王碑建立があった、と私は感動しました。 
 
古田史学の意義と日本書紀の研究

 

はじめに
山田でございます。私に与えられましたテーマは、ひじょうに大きなテーマでございます。「古田史学の意義と日本書紀の研究について」という、とてつもなく大きな題がついております。いか程の話ができるのか心もとない気もしております。
今から考えますと、古田さんの『「邪馬台国」はなかった』という衝撃的な本が出たのは十七年前のことです。ひじょうに驚きました。驚きという感情は不思議な感情ですが、その中に気になってしょうがないということを含んでいると思います。ですから、次々と古田さんの本が出るたびに拝見をいたしました。私は古代史というものには素人ですから、本が出るたびに驚くわけです。そ
して、そのうちに、ひょっと気がついたのですが、これは古田さんの『「邪馬台国」はなかった』という本が角川文庫に入る時に、私に解説を書け、ということで、短かな舌足らずの文章を付け加えました。その時、そのことをもっと書きたかったのですが、紙数がなかったために書けなかったのです。古田さんの本を読みますと、古代史についてお書きになっているわけですが、同時に人間の理性と申しますか、あるいは人間のものを考える時の方法・・・というようなことについて、しばしば言及しておられます。今の中小路駿逸さんのレジュメの最初のところで、古田史学の意義についてふれておられますが、そのいちばん最初に「学問としてあたりまえの方法」という表現をなされております。「あたりまえの方法」というのは、つまり、学問というものに、人間の学問であるかぎり、当然もたなくてはならない、また従わなくてはならない、そういう方法だと思うのです。古田さんは、しよっ中自分の本の中で「人間としての理性をもって考えれば、これ以外に考えようが無い・・・」というようなことをおっしゃっています。ここがひじょうにおもしろいところです。 
デカルトの理性
近代の哲学の始祖として、デカルトという人がおります。このデカルトが「方法序説」という本を書いています。これは画期的な本で、この本によってデカルトは近代的哲学の祖だといわれるようになった。この本の中で、有名な言葉ですが、「この世で最も公平に配分されているのはボンサンス(フランス語は略)である」と、こういうふうに説き明かしています。ボンサンスと申しますのは、たいてい良識と訳されます。ボンというのは良いという意味です。そして、サンスというのは英語のセンスと共通するところもありますが、正しい認識力をも意味します。それで、ボンサンスを訳して良識といっていますが、むしろ、常識とか良識とかといったような訳よりは、やっぱり、人間が持っている考える能力のことをボンサンス、こういっていると私は思っています。
そうすると、この世でもっとも公平に配分されているのは、よく考える能力である、ということをデカルトは言ったわけです。ご存知のように、ヨーロッパの近代と申しますのは、いわゆる自然に目覚めます。つまり、人間を造ったものはいったい誰か、というふうなことについて、中世では神が人間を造った、こういう立場に立っているわけです。その立場が、自然が造ったんだ、人間は自然によって造られたんだ、こういう考え方に変わるわけです。
神が造った人間というのは、身分的な序列をもっていて、坊さんがいちばん偉い。なぜかというと神様にいちばん近いからです。坊さんの次は誰かというと、封建貴族が偉い。この二つまでが身分で、それから後はもう身分の中に入りません。その身分の中には農民は入らない。また都市に住んでいるので市民とよびますが、その都市のブルジョワが、我々も又ひとつの身分、第三身分なのだという主張を始めるのです。そう主張し始めた時に、人間を造ったのは自然であって、自然が平等に人間を造ったということを根拠にします。神が造ると身分的な秩序ができるけれども、自然が造った人間というのは、みんな基本的に平等の権利がある。ここから近代というのが出発するわけです。この、自然が人間に平等に与えた自然権、自然が与えてくれた権利ですから自然権というのですが、この自然権の中に人間の理性、人間のものを考える能力、これも又平等に配分されているということを、デカルトが言ったということになります。つまり、デカルト哲学というのは、思考、ものを考える能力についての自然権を主張した、そういう哲学なのです。 
市民の理性
私は古田さんの本を読んで「人間としてもっている理性で考えれば、当然こう考えるより他はない」と、そういう言い方に接するたびに、デカルトの思考の自然権の哲学を思い出しました。古田さんの本というのは、どこか『方法序説』に似ている。近代の学問はそういうところから出発しましたから、当然学問というものが市民にむかって開いていないといけない。学問というものが公開性を持っている。こういうことはひじょうに大事なことなのです。象牙の塔で、密室の中の作業で学間がなされるということは決して健全ではない。理性そのものが、古田さんやデカルトがいうように、すべての人間に平等に配分されている。そうすると、学問というものも又学者だけの理性で作られるものではなくて、やはりそれが市民にむかって開いていて、市民の参加ができるということが、学問というものを見きわめる際のひとつのひじょうに大事なポイントだと、こう考えております。そういう点で考えますと、十七年前に古田さんが『「邪馬台国」はなかった』というご本を出されて、初めは孤独な作業だったのですが、本を出されてからは、古田さんの熱烈な読者が存在しているということが、ただちにおわかりになったと思います。初めは孤独だったのが、いつの間にか、今日この会が十周年をむかえた、ということで私も招かれてきたわけですが、市民として古代を研究する、そういう会が、東にも、西にもできてまいりました。この頃の古田さんのお書きになるものを拝見していると、しばしばこの点(たとえば九州年号の地域地域での発見)については○○氏の示唆を、あるいは教示を得ることができたということを書かれています。これは、つまり、ここにいらっしゃる皆さん方のことであり、あるいは東にいる同様の会の中の人なのです。つまり、古田さんのこの頃の史学の中には、市民が参加するということが実現してきています。私はその事をひじょうにすばらしいことの一つだと思っています。 
津田史学
戦後の史学は、すべて津田史学を前提にして、そこから成り立っているわけですけれども、それにかわる史学が、古田さんによって切り開かれたということは、だれの目にも明らかになってきていると思います。津田さんはひじょうに不幸な時代に自分の学説をうちたてました。大正の初めの頃はまだよかったのですが、だんだんと大正が終り、昭和が入ると、津田さんの説というのは『古事記』や『日本書紀』というのは造りものであるという説でしたから、だんだんと時勢が天皇は現人神である、『古事記』や『日本書紀』は真理だと、こういうことになってくるわけですから、津田さんの立場はだんだんと不幸な立場になってゆきました。じっさい、津田さんの本は発売禁止というふうなところをくぐりぬけてきたわけです。ですから、戦後の歴史学が、戦争中のあり方を反省した時に、津田さんの考え方、こういうものを受け継がなければならないというように考えたことについては、心情的にはひじょうにわかるのです。けれども、古田さんが指摘されたように、熱狂的な皇国史観も、その対極にあるかにみえる津田史学も、大和ないしは近畿という唯一の中心から、同心円状に歴史が波及していったと考える点では同じ性格をもっております。
この一元史観に対して、古田さんは自分の歴史観を「多元史観」と言っています。そうすると、またテカルトのことを言って恐縮ですが、デカルト哲学は一元論ではありません。哲学者は世界のこと、複雑で具体的な世界というものを明晰に解いていきたい、そういう欲望というか野心を持っています。哲学というのは、世界はこうなっている、こういう原理にもとずいてこうなっていると解きたがるのです。そうするとだんだんと一元論になる。これに対してデカルトが一元論に立っていないのが大事なことです。古田さんの「多元史観」は「人間としてあたりまえに考えるとこうなる」とのデカルト的な思考と結びついています。この思考と、その方法が帰結するところが、一元論にならずに多元論にいたったということは、ひじょうにおもしろいことです。デカルトはまた、人間の理性が当然とるべき方法として〈枚挙〉ということをあげています。ある事柄について考えようと思ったならば、そのものの事例をことごとく枚挙して考えなければならない。古田さんの史学が何よりも衝撃的であり、また人々を魅(み)するのは、あのいちばん最初の本の『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社)という本の中で、はたしてこの「壹」という文字が「臺」という文字に書き誤まられた例があるのかどうか、ということについて『三国志』全体を渉猟して、壹を臺に書き誤った事例はないとした鮮かさです。「壹」という文字、「臺」という文字をすべて枚挙してしまい、そこからの帰結ですから、ひじょうに衝撃的で、しかも読んだ人達にとってみると、これは真実に値するということがただちにわかることになります。この「枚挙」という方法はその後も古田さんがずっと守っておられる方法でした。
学問にとって、例外がでるかでないかはひじょうに大事なことです。全部枚挙してきて例外がなければ真実が実証されます。しかしすべての事例をみていくと例外があった。そうすると、なぜこの例外がでるかということについて探究を推(お)し進めて学問が進展していきます。このさい枚挙しなければ例外というものもわからない。そこが大事です。古田さんが最近の本にいたるまで、それぞれの「事例」について枚挙による周到な検証をなさっているのを私はひじょうに良いことではないかと思っています。近代初頭のデカルトの方法と古田さんの方法とに本質的に共通するものがあるということは、もしかすると、古田史学をもって日本にほんとうの近代的な史学が成立したことを証明しているのかも知れません。まことに魅力的な成果でございまして、今後とも古田さんの成果に着目して参りたいと、こう思っております。 
『日本書紀』の研究
私のテーマには、もう一つ『日本書紀」の研究ということがふくまれております。今、『日本書紀』を読むのにいろいろなテキストがあるわけですが、たいていの人は岩波書店が出版しました「日本古典文学大系」の中の『日本書紀』を、テキストにお使いになると思います。この『日本書紀』の校注には「日本書紀研究会」のメンバーが当りました。これには家永三郎さんも坂本太郎さんも入っていますが、戦後古代史の通説を作っていくうえで中心的な役割を果たした井上光貞さん、それから、さらに若い世代の黛弘道さん、青木和夫さんとか、笹山晴生さんとか、そういう人々が「日本書紀研究会」をつくって、『日本書紀』をどういうふうに読むべきか、克明な研究を続けました。その成果があのテキストです。それが大変良くできているのですが、古田史学の観点からいうと一元論に立った注釈をしています。しかし、一元論に立った注釈としてはよくできています。ただし、このテキストの注釈にしたがって読んでいくと、いつのまにか一元論の方へずり落ちていく、そのような働きをもっています。
そう考えますと、一元論の注釈書に対して、多元論の注釈書を作ることが大事な仕事になってまいります。『日本書紀』『古事記』について、これを本当に人間の「理性」、人間の「あたま」で読み解いていったならばどうなるか、という、テキストを作る必要があると私は思っています。つまり、井上さんたちの古代史が戦後の通説となるのに、この「日本書紀研究会」がひじょうに大きな役割を果たしたわけです。古田さんの歴史学をもっともっとみんなのものにするために、皆さん方の中で『日本書紀』を読む会、『日本書紀』を研究する会、そういうものをおこしていただきたい。このことを私は呼びかけたいと思うのです。
私も『日本書紀』を時々のぞきます。『日本書紀』はひじょうにおもしろい本でして、古田さんが言っているように、しばしば盗んできて書いている部分もあります。「九州王朝」の歴史書、これを私は「もとの本」といっていますが、この「もとの本」から盗んできて、ちょこちょこっとと書くのですが、ちゃんとまた、その本が『日本旧紀』という書物からだと、雄略天皇のところに残しておいてくれるのです。よく考えると、ほほえましくなります。「俺だったら、もうちょっと上手に、痕跡を消して、あとから尻尾をつかまれないようにするのだがなあーー」と思いながら読むところがたくさん出てまいります。そのようなところを発見すると、ひじょうに愉快な気分になってきます。今日、これから時間があるかぎり皆さんに申しあげたいと思いますのは、私が愉快な気分で『日本書紀』を読んだ、その例をひとつだけお話しいたします。 
九州平定の解明
資料として二つ用意しました。「景行紀」からひとつ、そして「仲哀紀」からひとつと、二つだけ事例としてお話してまいりましょう。古田さんの『盗まれた神話』という書物の中で(これはなかなか愉しい本でしたが)、アッといったのがいくつかありますが、その中のひとつが、「九州王朝」による九州一円を平定したという話です。それは『日本書紀』では景行天皇の熊襲征伐の話に盗まれている。もとを言えば筑紫に上陸をしてきた勢力がまず筑紫を平定し、この筑紫を平定したという話は「神功紀」の中にあると古田さんはおっしゃっていますが、こんどはその筑紫を根拠として九州一円を平定する話を、「景行紀」のところにあてはめていると指摘をなさいました。これもなかなか愉しい話ですが、しかし驚くような話でした。古田さんは、周芳(すはのくに)の娑麼(さば)というところから出発し、瀬戸内海を南下して豊前の国に上陸した、そして九州一円の平定が始まったのだと、こういうふうに書いておられます。それがここに引きました「景行紀」のはじめのところです。
フリガナは、掲載時より略しています(岩波古典文学大系を見て下さい)
《参考資料》「景行紀」より
十二年の秋七月に、熊襲(くまそ)反(そむ)きて朝貢(みつきたてまつ)らず。
八月の乙未の朔己酉(十五日)に、筑紫に幸(いでま)す。
九月の甲子の朔戊辰に、周芳の娑麼に到りたまふ。時に天皇、南に望みて、群卿(まへつきみ)たちに詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「南の方(かた)に姻氣(けぶり)多(おほ)く起つ。必(ふつく)に賊(あた)在(あ)らむ」とのたまふ。則ち留りて、先づ多臣(おほのおみ)の祖(おや)武諸木(たけもろき)・國前臣(くにさきのおみ)の祖菟名手(うなて)・物部君(もののべのきみ)の祖夏花(なつはな)を遣(つかは)して、其の状(かたち)を察(みしめ)たまふ。爰(ここ)に女人(をみな)有り。神夏磯媛(かむなつそひめ)と曰(い)ふ。其の徒衆(やから)甚多(にへさ)なり。一國(ひとくに)の魁帥(ひとごとのかみ)なり。天皇の使者(つかひ)の至(まうく)ることを聆(き)きて、則ち磯津山(しつのやま)の賢木(さかき)を抜(こじと)りて、上枝(かみつえ)には八握劔(やつかのつるぎ)を挂(とり)かけ、中枝(なかつえ)には八咫鏡(やたのかがみ)を挂かけ、下枝(しづえ)には八尺瓊(やさかのに)を挂かけ、亦素幡(しらはた)を船(ふな)の舳(へ)に樹(た)てて、参向(まうでき)て啓(まう)して曰(まう)さく、「願(ねが)はくは兵(いくさ)をな下(つかは)しそ。我(やつこ)が属類(ともがら)、必(ふつく)に違(そむき)たて・・・・・(以下省略)
ご覧のように景行天皇が十二年に、七月に熊襲が反(そむ)いてみつぎをたてまつらなかった。そこで八月に筑紫にでかけて行った。九月の五日に周芳の国の娑麼(さば)に到着をした。こういうように書いてあります。周芳の娑麼とは、今日の山口県に防府市というのがありますが、その防府市の中に佐波という地名が残っています。そこから出発したというのです。私はなんとなくこれにひっかかっていたのです。天国の勢力が筑紫の日向というところに上陸し、それから筑紫一円を平定後、その筑紫を根拠にして九州全体を平定するのだから、当然のことながら、筑紫から出発するのではないかと、こう思ったのです。それが周芳の娑麼という、やや離れたところから出発している。それがどうも気になっていました。しかしこれという説を出せるような状態ではなかったのです。古田さんは周芳の娑麼の辺に、同盟国というか、この九州王朝に協力をするような勢力があって、だから筑紫からそこまでの経過は書いていないが、周芳の娑麼から先は、こんどは敵地へ行くのだから、そこから先が書いてあるのだと、だいたいこういうふうにお考えだろうと私は思っています。そういう問題意識を背景にして「仲哀紀」をみてみましょう。
九月に穴門の豊浦宮(とゆらのみや)というところに仲哀天皇がやってきています。穴門の豊浦宮というと私の生まれた下関市のことでして、ここに豊浦神社というのがありますが、そこにやってきました。これが七年の九月のことです。八年の春正月の四日に下関を出発して筑紫にでかけて行った。ーーひととおり読みますが、この文章の中におかしなところがありますので、皆さんはそれがどこかということを、鵜の目鷹の目でご覧になりながら聞いて下さい。
《参考資料》「仲哀紀」より
九月(ながづき)に、宮室(みや)を穴門(あなと)に興(た)てて居(を)します。是(これ)を穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)と謂(まう)す。
八年の春正月(むつき)の己卯の朔壬午(四日)に、筑紫に幸(いでま)す。時に、岡縣主(をかのあがたぬし)の祖(おや)熊鰐(わに)、天皇(すめらみこと)の車駕(みゆき)を聞(うけたまは)りて、豫(あらかじ)め五百枝(いほえ)の賢木(さかき)を抜(こ)じ取りて、九尋(ここのひろ)の船の舳(へ)に立てて、上枝には白銅鏡(ますみのかがみ)を掛(とりか)け、中枝には十握劒(とつかのつるぎ)を掛け、下枝には八尺瓊(やさかのに)を掛けて、周芳(すは)の娑麼(さば)の浦(うら)に参迎(まうむか)ふ。魚鹽(なしほ)の地(ところ)を獻(たてまつ)る。因(よ)りて奏(まう)して言(まう)さく、「穴門より向津野大濟(むかつののおはわたり)に至るまでを東門(ひむがしのみと)とし、名籠屋大濟(なごやのおほわたり)を以(も)ては西門(にしのみと)とす。没利嶋(もとりしま)・阿閉嶋(あへのしま)を限(かぎ)りて御筥(みはこ)とし、柴嶋(しばしま)を割(かぎ)りて御[扁瓦](みなへ、此をば彌那陪みなへと云ふ。)とす。逆見海(さかみのうみ)を以て鹽地(しほどころ)とす」とまうす。既(すで)にして海路(うみつち)を導きつかへまつる。山鹿岬(やまかのさき)より廻(めぐ)りて岡浦(をかのうら)に入ります。水門(みなと)に到るに、御船、進(ゆ)くこと得ず。則(すなは)ち熊鰐(わに)に問ひて曰(のたま)はく。「朕(われ)聞く、汝(いまし)熊鰐は、明(きよ)き心有りて参來(まうけ)り。何ぞ船の進(ゆ)かざる」とのたまふ。熊鰐奏(まう)して曰(まう)さく、「御船進(ゆ)くこと得ざる所以(ゆゑ)は、臣(やつかれ)が罪に非(あ)らず。是の浦の口(ほとり)に、男女(ひこかみひめかみ)の二神(ふたはしらのかみ)有(い)ます。男神(ひこかみ)をば大倉主(おほくらぬし)と曰(まう)す。女神(ひめかみ)をば菟夫羅媛(つぶらひめ)と曰す。必(ふつく)に是の神の心(みこころ)か」とまうす。天皇、則ち[示壽]祈(のみの)みたまひて、挾杪者(かぢとり)倭國(やまとのくにの)菟田(うだ)の人伊賀彦(いがひこ)を以て祝(はふり)として祭らしめたまふ。則ち船進み(ゆ)くこと得つ。皇后、別船(ことみふね)にめして、洞海(くきのうみ洞、此をば久岐(くき)と云ふ。)より入しりたまふ。潮(しほ)涸(ひ)て進(ゆ)くこと得ず。時に熊鰐(わに)、更(また)還(かへ)りて、洞(くき)より皇后を迎へ奉る。則ち御船の進(ゆ)かざることを見みて、惶(お)ぢ懼(かしこま)りて、此(たちまち)に魚沼(うをいけ)・鳥池(とりいけ)を作りて、悉(ふつく)に魚鳥(うをとり)を聚(あつ)む。皇后、是の魚鳥の遊(あそび)を看(みそなは)して、忿(いかり)の心。稍(やうやく)に解けぬ。潮の滿(み)つるに及びて、即*(すなは)ち岡津(をかのつ)に泊りたまふ。又また、筑紫(つくし)の伊覩縣主(いとのあがたぬし)の租五十迩手(いとて)、天皇の行(いでま)すを聞(うふけたまは)りて、五百枝の賢木を抜じ取りて、船の舳艫(ともへ)に立てて、上枝には八尺瓊を挂(とりか)け、中枝には白銅鏡を掛け、下枝には十握劒を掛けて、穴門の引嶋(ひこしま)に参迎(まうむか)へて献る。因(よ)りて奏して言(まう)さく、「臣(やつかれ)、敢(あ)へて是(この)物を献つる所以(ゆゑ)は、天皇(すめらみこと)、八尺瓊(やさかに)の勾(まが)れるが如(ごとく)にして、曲妙(たへ)に御宇(めのしたしろしめ)せ、且(また)、白銅鏡(ますみのかがみ)の如くにして、分明(あきらか)に山川海原(やまかはうなはら)を看行(みそなは)せ、乃(すなは)ち是の十握劒(とつかのつるぎ)を提(ひきさ)げて、天下(あめのした)を、平(む)けたまへとなり」とまうす。天皇、即(すなは)ち五十迩手(いとて)を美(ほ)めたまひて、「伊蘇志いそし」と曰(たま)ふ。故(かれ)、時人(ときのひと)、五十迩手が本土(もとのくに)を號(なつ)けて、伊蘇國(いそのくに)と曰(い)ふ。今、伊覩(いと)と謂(い)ふは訛(よこなば)れるなり。己亥(二十一日)に、儺縣(なのあがた)に到(いた)りまして、因(よ)りて橿日宮(かしひのみや)に居(ま)します。(以下省略)
即*(すなは)は、即の異体字。JIS第3水準、ユニコード537D
人間の目というのはおかしなものでして、活字を追いかけるというとスゥーッと読んでしまいます。耳で聞いてもスゥーッといくのですが、『日本書紀』という書物を読む時には、私はうんと意地の悪い人間になって、ひとつひとつ立ち止まっては本当かな、という疑いの目でみていく必要があると考えます。この「仲哀紀」の変なところはいくつかの地名が出てきていますが、その地名を、東・西の直線の上に記入していきますと、仲哀天皇は穴門の豊浦の宮にいるわけです。この穴門の豊浦宮にいる天皇が豊浦の宮を発って筑紫の方にむかって出発しました。その時に、岡(遠賀川の河口)の熊鰐(わに)という首長が天皇を迎えるために根こそぎにした常緑樹の上の枝、中の枝、下の枝に、玉や剣や鏡を掛けて出迎えた、という話です。天皇は豊浦から来ているのですから、熊鰐は豊浦の方へ迎えに行けばいいわけです。ところが、『日本書紀』には岡の熊鰐は周芳の娑麼に出迎えたと明瞭に書いてあります。つまり、豊浦を通り越して周芳に出迎えに行ったのです。けれども、周芳の娑麼には誰もいません。この熊鰐という人はずい分変な人でして、豊浦から来る天皇を迎えるために、わざわざそこを通りすごして周芳の娑麼にまで行っているのです。つまり、大阪に迎えにくれば良いものを東京まで行ってしまったという感じです。この人、岡の熊鰐だけがおかしいのか。その次に、伊覩(いと)の国の五十迩(いとて)手という人物が、神功皇后のいる岡に出迎えにきたのですが、この人間もまた岡を通り越して、穴門の引嶋(下関市内のすぐそばに彦島というのが今日もある)に迎えに行っている。『日本書紀』はそういうように書いています。
これは誰が考えてもおかしいのです。私は、東西の直線の上にこのほか儺縣・橿日を記入してみながら、変だと気がついて、考えてみました。その結果、古田さんが九州一円の平定がそこから出発したと書いている、まさにその周芳の娑麼という地名がでてきていて、その記憶が頭の片すみにあったので、この話の中の進行方向を、東西引っくり返したら変なところは無くなるということに気がつきました。『日本書紀』では東から西へやってくる話になっていますが、そうではなくて、橿日宮にいた「九州王朝」の始祖が、儺の水門から周芳の娑麼にむけて出発した。その時に、伊都、これは古田さんが書かれているように、後の邪馬一国の中で特別の位置をしめている、特別の位置をしめているということは天国の勢力が上陸をしてきた時に既に同盟国としてあった、そういう存在だと思うのですが、それが出発する九州王朝の始祖の軍勢を送ってきたのです。そして岡から、さらには穴門の引嶋(ひこしま)まで送ってきて、その後引き返した。こうみると、五十迩手が引嶋に来ても全く不思議はない。五十迩手は穴門の引嶋から引き返したのですが、熊鰐の方は五十迩手が帰ったのちも、さらに穴門の豊浦から周芳の娑麼に到るまで送ってきた。方向を逆にしてしまうと、変なところは解消してしまいます。これは、つまり「仲哀紀」を終りの方から読んでいく、逆にずっと読むと、周芳の娑麼というところへ到着する。到着するとすぐそこから「景行紀」の十二年九月、周芳の国の娑麼に到りたもうというところにつながるのです。そうすると、古田さんが書かれた、九州一円平定の中で、周芳の娑麼から出発して九州一円をずっと征服した、というところに接続いたします。九州一円を平定する天国勢はやはり筑紫から出発したのです。その橿日宮から周芳の娑麼へ行った道筋はさかさに盗用されて『日本書紀』の中に残された、こういうふうに私は考えました。そうすると論理的な整合性がでてくるように私は思うのです。
これはほんのひとつの例でしかありません。皆さんの目、これだけの人数がいるのですから、その人数の目で、また『日本書紀』をみつめてみると、なぜこんな変なことが生じているのか、というような問題がつぎつぎと出てくるでしょう。それは古田史学を補強し展開するための、ひじょうに有力な援軍になるのではないか。だから、われわれの『日本書紀』研究会をぜひつくろうではないか、これが私が本日皆さんに申し上げたいことでございます。ひじょうに単純なことを申し上げましたが、お聞きいただきましたことを感謝致します。 
 
金石文と史料批判の方法 / 黒曜石・稲荷台鉄剣銘・多賀城碑など

 

はじめに
本日は市民の古代の十周年記念、よろこびと申しましょうか、感慨無量の思いでございます。私自身、孤立の中で研究を続けてきました。現在もそうですが、今日お話しをすることも、自分自身でも、ひじょうに怖いことで、断崖を歩くようなテーマばかりでございます。それにたいして、このような「会」を結成していただき、その上、雑誌をつくって、それがもう十号になんなんとする、というようなことは、ほんとうにこれがこの世に存在していることなのかと、私はいつも驚くわけでございます。そしてまた、今日、中小路さんや、山田さんから、ひじょうに深いご理解、知己のお言葉をいただいて、深い感銘をおぼえております。さらに、会場には、これだけたくさんの方々においでいただいて、私の話をお聞きいただくということは、私にとっては過分というか、言葉では言い表せない深い驚きでございます。
さて、私自身、関西の地におりまして、それから東京に向かってもう四年強が過ぎました。さいわいにも、最近、新しい発見が連続しております。あしたに大発見に取り組み、夕べに新発見に目を奪われるという経験を、今年の三月、四月、五月と続けております。したがって、今日もお聞きいただきたいテーマはたくさんあるのですが、時間も限られておりますので、その限られた時間で話をさせていただくことにいたします。お話しできなかったところは、あとで懇談会もありますので、そこでお聞きいただきたいと思います。大事なテーマが目じろ押しですので、ゆっくりと、ポイントを押えて申し上げたいと思います。 
黒曜石と国引き神話
じつは、先週の火曜日(五月一七日)、私はほんとうに自分にとっての大発見に遭遇しました。早稲田大学の考古学実習室、そこで講演が行われました。ソ連の学者(ルスラン・S・ワシリエフスキ氏、アレクサンドル・I・ソロビヨフ氏)が二名来ておられ、シベリアの研究所(ソ連邦科学アカデミーシベリア支部歴史文献学哲学研究所)の主任研究員などの方々ですが、直接お会いできました。そこで、シベリアという土地に秘められた、考古学的な出土物の状況、歴史ですね、それを大局的に、概観的に話されました。フランスの有名な考古学の本にもりこんである遺跡よりも、さらに古い放射能年代を持つ出土物が発見されたというような話から始まり、その最後のハイライトは、日本へ来る時に持って来られた、黒曜石のニュースでした。それらは、ウラジオストック近辺の、かなり多くの遺跡から出た黒曜石の製品です。そして、それを立教大学、原子力研究所の鈴木正男さんという専門家の方にスペクトルの分析をやっていただいた。ところが、それらの数多い黒曜石製品のだいたいのことを申しますと、約半分ちかくが出雲の隠岐島の黒曜石であるということが確認されました。さらに残りの半分ちかくは秋田県の男鹿半島(インターネット事務局注記、後に北海道赤井川産に訂正)、そこの黒曜石であった。あと一割弱の黒曜石が不明、まだ産地不明である。これは、おそらく北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の有名な白頭山という山、ここの黒曜石ではないだろうかと見ておられるらしいのです。これには対照資料が必要です。いくらスペクトルを分析しても、まちがいのない対照資料がないと駄目なのです。隠岐島や、男鹿半島はそれがあるから産地を特定できた。ところが白頭山のは、対照資料が無い、もしくは少ないので判定できない。おそらくそういうことと思います。
ですが、それらは数量の比率としては少ないものであり、大半は日本列島の黒曜石である。これは確定しました。そして、その遺跡は新石器、日本でいう縄文時代、はっきりしているもので、B.P.(放射能時代)四〇〇〇年から三五〇〇年、日本の縄文後期前半にあたるところのものです。そこからの出土物である。その中で、まだ放射能時代がはっきりしないものがあるということですが、それも新石器時代のものであるということはまちがいない。おそらく、これらのものには、日本でいう縄文晩期にあたるものもあるのではないかと思うのです。はっきりしているものは縄文後期前半にわたるもの、B.P.で四〇〇〇年から三五〇〇年のものです。B.C.(西暦年代)にするのなら、そこから二〇〇〇年を引けばよいのです。これが私にとっていかに大きな喜びであったかということは、私の今までの本(『古代史を疑う』駸々堂刊、『古代の霧の中から』徳間書房刊)をお読みの方にはおわかりいただけると思います。
と言いますのは、『出雲風土記』にでております「国引き神話」を分析しました。そこで、四箇所から国を引っぱって来ている。第一回は新羅から、第四回は高志(こし)の国から、おそらく能登半島ではないか、これはほぼ異論がないわけです。それに対して異論がでてきたのが第二回と第三回です。第二回が「北門(きたかど)の佐伎(さき)の国」、第三回は「北門の良波(よなみ)の国」、こう書いている。これを従来、岩波の『日本古典文学大系』の風土記の註では、出雲大社の真北の日本海岸部にある鷺浦を「北門の佐伎の国」にあてている。第三番目の「北門の良波の国」は松江のまっすぐ北、日本海側にある農波(ぬなみ)(野波)という所を良波(よなみ)とまちがえて書いているのだろう、となっている。これに対し不審をもって、ひとつの新しいアイデアを出されたのが清水裕行さんです。神戸大学で自然科学をされ、現在コンピューター関係の仕事をしておられますが、この清水さんが不審をもたれて『市民の古代』(第三集)に書かれたわけです。そのさいは、出雲の隠岐島、島前・島後のふたつをこれにあてはめられたのです。その後、出雲における郷土史家の速水保孝さん、それから、出雲の研究者として有名な門脇禎二さんなども同じ説をとられました。その濫觴をなすものは清水さんの説だと思います。私もその清水さんの説にひじょうに刺激されまして、『市民の古代』を見て、というよりも、それ以前から、講演会の後の喫茶店での話の中で、そのお話をお伺いしまして、この問題に対する関心をさそわれたものです。そして、私なりに考えを進めました。いまの異論の無い第一、第四のところから考えてみると、第一点、これは出雲より以外のところから持ってきている。第二点、現在の日本国家内部にはかぎらない、新羅は日本国家内ではないですから。第三点が出雲から見て「北」にある。北門ですから。第四点は、「門(ど)」と書いてあり、それは入口・出口となっている、交通の要所である。この四点からみると、地図を開くまでもなく、出雲の北にあるのは「沿海州」である。しかも、地図を見て驚いたのは、ウラジオストックは出雲大社から「真北」にあります。日本海の北岸部の中で入口・出口と言えるのは、やはり、ウラジオストック付近であろう。もちろん、ナホトカをふくむ、ウラジオ湾というか、ウラジオを頂点とする領域です。その湾岸部を意味します、「北門」といっているのですから。したがって、第二番目の「北門の佐伎の国」というのは、北朝鮮の東岸部にムスタン岬という雄大な岬が突出していますが、このあたりをいっているのではないでしょうか。そして第三番目の「北門の良波の国」こそは、ウラジオストック、ナホトカを頂点とする湾岸部を指しているものであろう、と考えたわけです。そうすると、地図で見た場合、私の目には大きくバランスがとれて見えたのです。
つまり、さきの四つの特徴をまとめ、そこから論理的に導いたものが、同時にバランスがとれているように私には見えたのです。まず第一が視野。朝鮮半島東岸部の南半分、そして朝鮮半島の東岸部の北半分、ウラジオストックを中心とする沿海州、そして能登半島と、出雲を中心にして、まさにぐるりととり巻いた「世界」をなしているように見えたわけです。とくに、出雲の漁民にとっての世界である。それが日本海の西半分だったのではないだろうか。第二は、私にとって怖いテーマです。この出雲の「国引き神話」がつくられた時期は縄文時代である、と、こう考えました。それはご承知のように『古事記』『日本書紀』の「国生み神話」、イザナギ・イザナミの国生み神話を分析して、ここでは、場所としては「筑紫」、物としては「矛」、「天の沼矛」です。『日本書紀』の一書では「戈」、「天の沼戈」です。こういう「筑紫」「矛」「戈」というものが三つの特徴をなした言葉である。『古事記』『日本書紀』の「国生み神話」においては。ところが、弥生時代の出土分布図を見ると、やはり博多湾岸、筑紫を中心にして、この銅矛・銅戈の出土が集中しています。ものの遺物もそうですし、とくに鋳型が、矛はほぼ一〇〇パーセントちかく博多湾岸中心に出土しています。私が言っている「筑前中域」こう呼ばれる線上にあります。そして戈は同じく博多湾岸を中心にして、東は北九州市、西は佐賀県におよんでいます。中心はやはり博多湾岸にあります。そうすると、「筑紫」、現地音で「チクシ」、われわれが言う「ツクシ」、「矛」「戈」というこの三点セットが神話の内容と、考古学的な弥生の出土物分布と一致している。
とすると、今までの戦後史学の常識、昭和二〇年いらい常識とされてきた津田史学の考え方はどうもおかしいのではないか。大和朝廷の史官が六世紀ないし八世紀頃、デッチあげた造作したものであるとすれば、それが弥生の筑紫の考古学的出土物の分布と一致するということはありえないだろう。偶然の一致ということなどありえない。ではなにかといえば、これは弥生時代にこの神話はつくられた、しかも、場所は「筑紫」でつくられた、こう考えれば両者が一致してあたりまえなのです。つまり、あの「矛」や「戈」はただ無目的にだまって捨てたのではなく、当然、権力者が自己の統治の正統性をPRするために造らしめたものと考えざるをえない。その正統性の根拠は何かといえば、私の祖先は「イザナギ」「イザナミ」である。イザナギ・イザナミが矛や戈を持って、大八洲の国々をつくりたもうた。西日本の地域をつくりたもうた。その子孫である私たちだから筑紫を中心とする支配を行うのは当然の権利である。こういう、権力の正統性のPRのために「矛」や「戈」を持ち出してきた、こう考えれば両者は一致してあたりまえである。私はこう考えたわけです。ところが私にとって本当に怖かったのは「国ゆずり神話」です。この神話が後世の造りものではなくて、リアルであると考えたならば、「国ゆずり神話」の意味するところ、筑紫中心の前に出雲中心の時代があったと、こう考えざるをえない。私は「出雲王朝」という言葉を『盗まれた神話』の最後で使ったのですが、その時は清水の舞台から飛び降りるような、強い緊張感で使ったのを覚えております。
と言いますのは、当時は、考古学者、神話学者、古代史学者はこぞって、「出雲神話」はでたらめだ、それは古い考古学的出土物が出雲にはたいして無いことをみてもはっきりする、とそろって書いていたわけです。私もそれは知っていたのです。しかし、論理の進行するところ、そのように考えざるをえないということで書いたのですが、それが先年、出雲から三五八本の、考古学者達の言う「中細剣」、私が言うところの「出雲矛」、これの出土によって裏付けが得られました。なお小型銅鐸六個、筑紫矛一六個もでてきました。そのようなことがあったのですが、さらに私の「国生み神話」の分析と対比すると「国引き神話」には、金属器が使われていない、いわゆる綱と杭だけである。「童女(おとめ)の胸〔金且〕(むなすき)」という、〔金且〕(すき)がでてくるけれども、これは風土記を見れば金ヘンで書いてあるが、これは八世紀時点で書く時にスキといえばこの字を使うわけで、スキ自身はそれ以前に、木製で存在しているものです。だから、どれをとっても、金属器でなければならないものは存在しない。むしろ、最大の中心である杭と綱というのは金属器以前から必ず存在する。そうなると、「弥生以後」という金属器が現われてきた時代に造られた神話ではなく、金属器が日本列島に流入する以前、つまり縄文時代にこの神話は造られた、と考えざるをえない。縄文時代の出雲の漁民が、彼らの伝統を元にして造ったものである。こういうふうに私は考えてきたわけです。ところが、このような縄文時代に神話を造るなんて、しかも、それが今も残っているなんていうイメージはまったく従来は無かったものですから、当然これに対して賛成する声は今まで学者の中から聞いておりません。ここにいらっしゃる方々、山田宗睦さん、中小路駿逸さんは別ですが、反対する声は出たのです。門脇禎二さんなどは“古田はあんなことを言っているがとんでもない。”と、だいぶ厳しく反発され、きめつけられました。しかし、私にとっては論理の大いなる冒険であり、また私の方法論に立って、その立場からの分析を何重にも積み重ねたところであった。それはあくまで私の論理的な方法論上の、進行からきた止むをえざる自然の結果でありました。別に奇をてらったわけでも何でもなかったのです。しかし、要するにこれは「仮説」である。私の方法に従って文献を、神話を解読すればこうなりますという、ひとつの仮説にすぎないのです。それを証明、裏付けるものは何か、というとものである。つまり、考古学的出土物である。と言いますのは、新羅が出雲と深い交流を持っていたことは、現地の速水さんが繰りかえして言っておられますように、よく知られています。また、越の国が出雲と古くから関係を持っていたことは、これも反対する人はおりません。
〔金且〕(すき)、金編に且。JIS第3水準、ユニコード924F
となると、もし私の分析が正しければ、出雲とウラジオストックとの間にものの交流がなければならない。その中でいちばんに考えたのは黒曜石です。出雲は旧石器、縄文と、隠岐島の島後(どうご)の黒曜石によって繁栄した、と私は考えました。で、大国主命などが弥生になって出てくるのは、その富の蓄積をバックにしたものである、こう考えました。そうすると、その黒曜石がウラジオストックの遺跡からもし出てくるのならば、私の仮説はもののみごとに裏付けをえたことになる。逆に、全然それはでませんよということになれば、私の仮説はひとつの机の上の仮説でとどまってしまいます。“事実の裏付けは無い。”と門脇さんからのような批判をあびてもやむをえないことになります。
私は門脇さんから言われる前に、私自身の中の問題意識として、“ウラジオストックの遺跡から出土する黒曜石を見たい”、こういうことで昨年ソ連に行ったわけです。大阪を中心とする一五人の学者の方々に加えていただきました。ほとんどは、政治学、経済学の方々であり、古代史は私ひとりでした。結果は、二週間にわたり、毎日毎日逆転につぐまた逆転という日々を送りました。これもまたおもしろい話ですが、それはこの前にお聞きいただいた方々も、ここにいらっしゃいますので、今日は時間の都合で省略いたします。結局、ウラジオストックには入れたが、肝心の黒曜石は見れなかったわけです。歴史博物館は改装中ですと言われ、日露戦争以後の展示物の会場に連れて行かれました。「こんなものを見に来たのではなく、黒曜石を見に来たのだ。」と交渉してもらったのですが、「許可がありません。」とのことで、まさに涙をのんだしだいです。印象的なことは、私について来て下さった二人のソ連の学者の方と海岸に出たとき、ひとりの方がつぶやかれました。「モスクワは遠いです・・・。」と。その意味は連日、二週間の中でよく判かった。つまり、ペレストロイカという立場からいうと、官僚主義を排除する、ということになっているのだが、実際はなかなかそうはならない、という嘆きなのです。「モスクワは遠いです。」とつぶやかれたのを、クッキリと覚えています。とにかく、そういうことで、状況設定全体については、まさに行った甲斐がありました。例えば「岩石研究所」などは大歓迎してくれました。ウラジオストックの中で。その「岩石研究所」で見せてもらった黒曜石を見ると、こちらの出雲の黒曜石とは、全く異なっているのです。これは将来、ここの遺跡から黒曜石の製品が出たとき、判別の可能性は十分ある、と思って帰ってきたのですが、今回はむこうから持って日本に来て下さった。それはまさに出雲の黒曜石を含んでいた。しかも年代がはっきりしている。縄文時代にウラジオストック周辺の幾多の遺跡の人々が出雲の隠岐島と交流を持っていたという事実を否定することは、もう誰もできなくなった。“縄文には沿岸航海というか海岸から五〇メートルぐらいのところしか往来しませんよ。”と、従来は言っていたのです。いわゆる「定説」的見地です。しかし、とんでもない、そんなものではない、ということもまた証明されました。これは例の倭人伝の「裸国・黒歯国」問題、縄文人の南米との交流問題へと論理的に波及する、ということは私の本を読んでいただいている方にはすぐお感じいただけるものと思います。私にとっては、本当に手の舞い、足の踏むところを知らず、というか全身の浮きあがるような喜びを覚えましたが、私にとって、私の方法の積み重ねとしての、何重にもかさねたひとつの結論、それがものの出土によって裏付けられた、という点において、非常な喜びを感じたしだいです。同時に、また「縄文」というものに対する考え方も大きく改められないといけないだろうということ、また神話という、『古事記』『日本書紀』などの神話というものについて、じつは縄文時代から伝わっているもの、が風土記に残っているという、今までの神話学の常識をまったく打ち破るテーマも、ここから生まれてくるという、さまざまの波及効果を持っているわけです。
詳しい話はまた別の機会にさせていただくとして、次のテーマに移ることにいたします。 
稲荷台鉄剣
今年の一月に千葉県の市原市で銀象眼の鉄剣が出てきた、というニュースがありました。皆さんも驚かれたでしょうが、私もひじょうに興奮を覚えました。千葉県は東京にいる私にとって近いですから、何回も何回もくり返し通いました。その実体をつかむこと、出てきた遺跡の実像を見る、ということに大変苦労しました。しかし、関係の方々のお力添えによってそれはできました。これも詳しい話は今日はできませんが、キーポイントだけを話します。まず、出てきた文字がどこまで確かな文字であるか、というテーマです。これは、本日ここに同席しておられる山田宗睦さんや藤田友治さんとごいっしょしました「好太王碑」、そこで経験した方法により、(A)(B)(C)(D)(E)と五段階に分け、(A)と(B)の間、(B)と(C)の間というふうに間を取り、全部で九段階の分類ができます。(A)が一番確かなもの、(E)が全然はっきりしないものです。
そのランクで分けてみますと、(B)ないし(B)と(C)の間というランクに入るものが三つあります。それは、表の「王」「賜」「敬」の三文字です。「敬」はふつう我々が知っている文字とは違いますが、こういう字もありますので、まずこれは(B)と(C)の間、または(B)というかたちにランクして良いと思います。ところが裏の方の、この最初の字を「此(この)」と読む。次を朝廷の「廷(てい)」と読みます。これは期待して行ったのですが、私の朝廷多元論からして「廷(てい)」だったら面白いな、と思ったのですが、どうも現在の状況で、「此(こ)の廷(てい)」と読むのはちょっと無理じゃないか。藤田さんたちとつくった基準からすると(C)前後になるのではないかと思います。(C)と(D)の間くらいになるのではないか。将来もっと読めてきますと(赤外線などで)、「此(こ)の廷(てい)」であるということになるかも知れないが、現状では「此の廷」と決めておいて議論するのは大変危い、これはやはり今のところは、やめておいた方が良い、というのが結論です。
そうすると、表の「王賜敬」という三文字になります。これはいずれも関連しあった言葉でして、王がありますと、その王からこの古墳の被葬者、葬られている人に「賜う」と、こうなります。それから「敬」というのは、その王に対する気持、尊敬を表わす言葉として出てきやすい言葉です。結局、キーポイントは王になります。王とは何者であるか。この点、じつは市原市で出されました『概要』(「稲荷台1号墳出土の『王賜』銘鉄剣、概要発表要旨、昭和63年1月11日」)というものがあるのですが、佐倉にあります国立の歴史民俗博物館の歴史研究部の方が執筆されたものですが、その『概要』を見ますと、ここでいっしょうけんめい「論証」をやっておられるのです。この発掘概要の中で「論証」を展開しているのです。どういう論証かというと、王の正体をめぐる論証です。ここで王というものについて五つ考えられると。例えば1).大和政権の中心の王者、2).その大和政権中心の王者の縁戚の王、後に「何々王」と言われる人々、3).中央の豪族、また4).各地の豪族、5).朝鮮半島の百済とか新羅の国王、こういったものが考えられると。ところが、この中で、第一番目の大和政権の中心の王者、後の天皇、その中心の王者と、新羅・百済などの国王、これ以外の場合、つまり天皇の皇族、親戚とか、有力な中央の豪族とか、地方の豪族とか、こういう場合には、たとえそれを王と呼んだ場合でも〇〇王と、固有名詞が付かなければならない。ところがここには「王」とだけあって固有名詞が無い。とすれば第一番目の大和政権の中心の王者、いわゆる天皇、ーー『古事記』・『日本書紀』の言うーーであるか。朝鮮半島の国王であるか、どちらかにならざるをえない。けれども朝鮮半島の場合には、この当時五世紀半ばですが、だいたい「刀」を造っており「剣」ではない。従ってこれは除外してよい。そうすると残るところ、大和政権の中心の王者(いわゆる天皇)、これと認定してよろしいと、こういう「論証」をやっている。私は報告書というものが「論文」になってしまったなあ、岸俊男さんのなさった「稲荷山の鉄剣」のさいの「論証」以来の方向が、どんどん進んできたんだなあ、という感じがしました。私の気持を率直に言うと、考古学の発掘報告書というものは事実を書く、「理論」や「解釈」ではなく、誰がみても疑いの無い、即物的な事実を書くのが、報告書であってほしい。私はそう思うのですが、どうでしょうか。ところが現在の報告書は、今のように「議論をする場」になっているようです。
さて、私の目から見ると、率直に言ってこの「議論」にはひじょうに問題があると思います。お世話になった方々が作られた『概要』ですので申しわけないのですが、学問のためにご勘弁を願えれば、問題があると思われます。ようするに、この五世紀というものを、例の岸さんなどが「稲荷山古墳の鉄剣」を通じてつくられたイメージ、五世紀にはもう近畿の天皇家を中心に、西は九州、東は関東まで統一した支配下にあったんだと、これは誰も疑わない前提だと、これを疑うのは学問じゃないのだと、こういう立場に立っているのです。だからその中で、固有名詞なしに「王」とあれば、近畿の天皇家の王者、こういうようになっているのです。現代も、日本列島は象徴天皇制の中ですから、そこで固有名詞なく天皇といえば、東京の宮城に拠する天皇を意味することは疑えないわけです。それと同じ状況を、五世紀の関東から九州までに設定しているわけです。そうすると、先ほどの論理、論法が生まれてくるのです。しかし、五世紀がどういう状況であるかということは、その「議論」を基にして解読の論証、報告書をやるべきではなくて、やはり、あのような金石文はひじょうに貴重なものであるから、それを基に当時の日本列島の政治状況を知るべき第一史料だ、というふうに見るのが私は正しいだろうと思うのです。で、それ以外に史料は無いかというと、この『概要』で取り上げていない史料がある。それは『後漢書』の、例の倭伝、范曄の書いた『後漢書』、そこで倭国には国々に王がいる。そしてその中心に大倭王がいる、そこで「邪馬台国」という名前もでてきます。これを私は五世紀の状況を示すと考えます。つまり五世紀の状況において、国々にみな王がいる、こう書いてあります。そうすると、やはり発掘した金石文に「王」が出てくる、これが大倭王とか書いてあればいいのですが、ただ王とあればむしろ小国の王である可能性が十分ある、と考えたわけです。もしこれを一世紀の状況と見なしたとしても、なおさら、五世紀時代なら、当然そうだったということになるわけです。「国々に王がいた」ということになるのです。
さて、私の理解では確かにこの金石文の特徴は、王と言って固有名詞が無い、というところにあります。ということは、この金石文を造った、あるいは造らしめたのは当然、この刀をもらった人、その人が「王から私に(誰々に)賜わった」とこういうふうに書いたと思うのです。あるいは、書いたものをもらった、と言っても良いのですが。そうすると、この市原の古墳の被葬者、葬られた人にとって、「ただ王と言えば、もうあの人」ということははっきりしていたと、固有名詞無しでもはっきりしていたと、こう私には思われます。ということは何かと言うと、論より証拠といいますか、市原の近辺におびただしい大古墳が造られている。たとえば、「天神山古墳」の規模が一三〇メートル。時期が四世紀。今の銀象眼がでてきた古墳は時期が五世紀半。規模は直径二〇数メートル。ところが既に四世紀にすぐ近所に一三〇メートルの「天神山古墳」がある。次いで、四世紀には他にも「塚山古墳」(一一三メートル)がある。今度は「二子塚古墳」これが五世紀、直径が一一〇メートルの前方後円墳です。その他にも「釈迦山古墳」が四世紀で直径九一メートル。「権現山古墳」が九〇メートルで五世紀末から六世紀初め。以上のようにめじろ押しに大古墳が並んでいるのです。これより下のランクにしても、「富士台古墳」が五世紀で五六メートル、「金比羅台一号墳」が五世紀で五五メートル、のような古墳が近辺にあります。ということは、「養老川」流域には、今言った一三〇メートルから五〇メートルぐらいまでの古墳がずらっと並んでいるのです。そういう中に、二六〜七メートルのこの「稲荷台一号墳」が存在しており、これに先ほどの銀象眼鉄剣が入っていたのです。そうなりますと、もちろん内容や副葬品の話も大事なのですが、もし古墳の大きさ・型からみましても、同じ領域、同じ川の流域にあり、これは同じ国の領域の古墳なのです。そこで同じ時期に「稲荷台一号古墳」よりずっと大きな古墳がある、それは四世紀からあると、こういう状況なのです。そうすると、あの大きな古墳の被葬者は、この銀象眼の主にとっては目上の統率者であったということはまず間違いないだろう。同輩や目下の者が何倍も大きなものを、すぐ側に造ったとは考えられないと思います。
それだけではありません。今回、この「稲荷台一号墳」からは、金環、銀環、銅環類がいっさい出ていません。ところがこの地域には四世紀から金環が出ているわけです。つまりこの主は銀象嵌入り鉄剣まで持って死ぬような、金属を“愛好”している人物なのに、それが金環、銀環、銅環を忘れてつけずに埋められてしまったとは、まず考えられません。ということは、やはり同じ領域の、金環、銀環、銅環の海の中で、特に金環をあげてみると、それをはめた人物に対して、より下位の身分の人物であった、ということもまた疑うことはできません。おなじ養老川流域、あるいは千葉県にはもっとありますが、この被葬者より、より大きな墳墓をもち、金環を持っている被葬者が、もう四世紀から五世紀にかけていくつも存在している。その人々はこの稲荷台一号墳の被葬者にとって、自分の統率者、直接の主君にあたるクラスの人々であると、こう考えてまちがいありません。『後漢書』の立場によると、「王」と呼ばれる存在、それに当るのです。もちろん、『後漢書』でいっているのは、西日本の筑紫を中心とする「倭国」の領域の話だと思うのです。筑紫を中心とする西日本がそういう状況であれば、とうぜん、近畿や関東でも同じような、同類の状況があるであろう。このように私は考えているわけです。
現在のところでは、この稲荷台一号墳の直接の目上のリーダー、これがここで王と呼ばれている人物であると考えることから“出発する”のが筋であろうと私は思います。もちろんこれを断定するのではありません。例えばもっとこの金石文が読めてきて、仮に、こんな千葉県かいわいの養老川流域のそんな狭い領域の話ではない、これは全関東を含んだ領域に大王がいて、それに関連した話であるということが読めて、わかってくれば、もちろんそう理解したらいいのです。この王というのが、千葉県以外の関東のどこかの人物であるということが、もし読めてわかればそう考えたらいいのです。さらに、もっと裏を読んで、そこに近畿の大和という言葉がでてきたと、この王は大和の王なのだというような裏付けが読めてきたら、そう考えたらよい。私はなにもこの王を絶対に“関東一円の王としてはいけない”“近畿の王にしてはいけない”とは考えません。
しかし、現在ほとんど読めていない。ほとんど読めていない状況では、いま言ったような考え方から“始める”べきである。それは今の状況からして、残念ながらそこで終わってしまうかも知れない。しかし、もっと読めてきて、関東一円となるかも知れないし、あるいは近畿中心となるかも知れない。それはどちらになってもかまいません。ただ、それはわからないのに、さっきのような「理屈」をたてて、“もうこれは近畿の王が支配していた証拠だ”と、これでは堂々巡りになってしまう。近畿が支配していたという前提で読んできておいて、読み終わったら、これによってもう近畿が支配していたことがわかる、というような堂々巡りになっていることは一番困ることです。こういうやり方は、私は正常ではないと考えます。
さらに、おもしろい問題が出てきました。この「稲荷台一号墳」は、実は二つ墓室を持っているのです。主室があり副室があるのです。まず主室がひとつの墳墓の形で造られた。造った人物はおそらく副室の人物です。まだ生きている。で、自分が死んだ時にその同じ古墳の脇に自分の身を横たえた、というかたちです。これを見て、すぐ思いおこすのは、その隣りに埼玉の「稲荷山古墳」が同じく二つの墓室を持っています。そして、粘土槨、主室の方は盗掘されてすでに無かった。ところが盗掘者が見逃した、粘土槨の脇の方から、金の象眼の文字を持った礫床の墓室が現れてきた。この稲荷山古墳はまずこの主室・粘土槨の人物のために造られた。この場合、とくにはっきりしているのは、副室と主室が一部ダブッているのです。副室と主室が一部切り合っているために前後関係がひじょうにはっきりしているのです。だから、あきらかに副室は後から造られている。こういうことが実証できるケースなのです。しかも、この場合におもしろいのは、さっきの「稲荷台一号墳」と違って最初造られるときに、自分が後から入る位置までちゃんと予定されていた。ちょっと中心からずらして、自分が横に眠る、こういう企画をもって最初から造っているのです。で、予定どおりそこに自分が眠っているという姿をしています。PG型(PartnereventotheGrave)、つまり、生前パートナーだったわけです。だから、死んでからもパートナーでいたいということ。これにはいろいろなタイプがあって、たとえば夫婦で並んでいる場合もあります。いちばん極端な例は殉葬・殉死です。弥生時代の殉死・殉葬はパートナーとしての極限状態です。これに対して、ここのケースはより普通のケースだと思いますが、主従型と言えます。生きている時も主従、死んでからも主従。もちろん主従と言ってもこの従はその他多勢の従ではありません。必ず右腕、場合によっては血縁的には叔父さんというように、実質的には上かも知れない。そういう第一の従、ナンバーワンの従なのです。そして死後もいっしょです。これを要するに、「P・G型古墳の中の主従型」というケースである。これが千葉の「稲荷台一号墳」と、埼玉の「稲荷山古墳」に共通しているのです。しかも、おもしろいことには、この埼玉「稲荷山古墳」の金象眼をもって死んだ、副室(礫床)の人物も、このご主人となる主室(粘土槨)の人物も、この「稲荷台一号墳」のことを知っていたと思うのです。なぜかというと、「稲荷台一号墳」の方は五世紀の後半の前半、それに対して、埼玉の「稲荷山古墳」の方は五世紀の後半の後半、五世紀の末に造られています。ということは、つまり千葉の「稲荷台一号墳」が造られたのは、この埼玉の「稲荷山古墳」の主従ともに生きていた時期に造られた。しかも、神聖な美わしい主従の間柄をしめす古墳として関東一円に聞えていたと思われます。とくに、あの頃は、利根川は東京湾へまっすぐ流れ込んでいました。東京湾にまっすぐ下って来たら、すぐその東横に市原があるのです。距離は埼玉と千葉でも、非常に近いのです。だから、当然、そちらの人々は市原のことを知っていたと。そして、それを知っていた埼玉の副室の人物が自分のご主人が死んだ時に、今度は「企画」をして、こういう「設計」で“予定どおり”の形で葬られた。こういう時間関係になっているのです。
となりますと、いよいよ従来の一元史観の読解のように、岸俊男さんがやられた、大王は「獲加多支歯*大王」=雄略である。それが「左治天下」・・・とこう結んでいる。としたら、そうすると、どうなるか。今の副室の人物は「自分と近畿の天皇との間」だけを強調した、肝心の、生前はもとより死後もお供しますと言っている主室の人物のことは知らんと、一笑に付して歯牙にもかけないという金象眼銘、その剣を抱いてそばの副室に眠っている。ーーこういう話になってしまうのです。これはとてもありうる話ではありません。当然ながらこの金象眼の銘文中の大王を「主室の人物」としてこそはじめて、生きている時、わたしはこの大王を、ナンバー・ツーとして補佐した、だから、死んでも離れず、あなたのお側にいるのです、ということになるのです。だから、やっぱり岸俊男さんの仮説は否定されざるをえないと思います。もちろん、学者の中で賛成する方もでてきておられます。青山学院大学の名誉教授だと思うのですが、鶴岡静夫さんという方が、わたしに手紙を下さり、あなたの稲荷山鉄剣の解読にはまったく賛成である。だから、自分もこの立場から論文を書いてお送りすると言って、青山学院大学の『紀要論文』を送って来られました。また、鶴岡さんが中心になって論文集を発行されるということですが、今年のうちに出ますが、私に「大和政権と九州王朝」という題で書いて欲しいという話がありました。私は「九州王朝と大和政権」という題なら書きましょうと言って、快く承諾していただいたので書きました。
獲加多支歯*の歯*は、歯の造字。占の中に九。
というように賛成して下さる方も出ているわけですが、やはり、今回の市原市の「稲荷台一号墳」は、その文面そのものが、ひじょうにまだ未確定です。未確定と見なす方が私は本当だと思うのです。わからない文字がたくさんあるのに、わかったように書くことの方が、私はかえって怪しいと思うのです。ところが、はっきりしていることはこの「稲荷台一号墳」がPG型、PG主型古墳だということ、これはもう動かせない、はっきりした事実です。それを無視することは、あまりに重大な問題を含んでいると思います。今日はこの点を申し上げておくところまでにしたいと思います。なおこれに関連して、おもしろい問題がでてきたのですが、それは昭和薬科大学の『紀要』(昭和六十三年度・二二号)に書きました。 
多賀城碑
次に申し上げたい点は、「多賀城」についてです。東北地方、仙台のすぐそばに「多賀城」というところがあります。ここに「多賀城碑」と呼ばれる石碑があります。それについては、以前に講演で述べたこともあり、『市民の古代』(第八集)にも載せていただきました。ところが、その後、おもしろい進展が若干みられましたのでその点を簡単に述べたいと思います。仙台で最近読者の方の会がひじょうに盛んでして、外里さんという方のお世話で、大へん進化発展をみました。その中で、酒井良樹さんという方が私の『市民の古代』に載った「多賀城碑の解読」に対して、大いに批判をしていただきました。それに対してお答えする中で、私自身も新しい発見に到達することができたわけです。そのポイントをお話ししますと、私の解読自身、初めての方もいらっしゃると思いますので、ごく簡単に申します。それは、まず、多賀城が「去京一千五百里、去蝦夷国界一百廿里、去常陸国界四百十二里、去下野国界二百七十四里、去靺鞨(まっかつ)国界三千里・・・」と、こうあるのですが、その方角が書かれていない。つまり、蝦夷国界とか、常陸国界とか、下野国界とか靺鞨国界との表現がありますが、国界といっても、四方に国界があり、少なくとも海を別にしても、三方ぐらいは国界があるはずなのに、どちらの国界かとは書かれていません。だいいち、距離だけ書いて方角がないのはおかしい。『倭人伝』などをみてもおかしいわけです。また、『漢書』西域伝などをみますと、最初に方角が書いてあり、西域ですからまあ西ですが、あと長安を去る何里、何里と、方角が無いのです。方角がないということは、最初に記したから無いのです。その点、従来、見逃されてきたのは「西」という大きな字です。これが実はそれを示すのではないか。「京」が西にあるということは多賀城から見て当然なのですが、「京」にだけ掛けるなら、「京」のところだけ「西の方京を去る・・・」という調子で書けばよい。ところが上に書いてあるということは、この「京」だけでなく「靺鞨(まっかつ)」までぜんぶ「西」が掛かっている、それを前提に読んで下さいという意味ではないか、と考えました。これが第一点です。そうすると、この里数解読でいちばん大きな難点になってきた「去常陸国界四百十二里、去下野国界二百七十四里」というのが、従来説のように、常陸の国や下野国の、現代でいう北側の境を指すとした場合には、だいたい多賀城から似た位の距離なのです。距離四百台と二百台というような、それほどの違いにはならない、ということが指摘されていたのです。
ところが、これを「西の国界」とすると、西という場合は、JRでいう東日本、西日本の「西」のことです。つまり、東西南北の四方向で見た場合、東北・北海道を北と見るか東と見るか、どちらでもとれます。それを東ととっているのだと。これは、『日本書紀』でも、陸奥の蝦夷のことを「東の蝦夷」だといっている。「北の蝦夷」とは、越の国の蝦夷だと、こういう記事が斉明紀に出てきます。要するに、東北といっているところを東といい、逆に京に近い方を西ととっている。西の国界ということになると、下野の場合と常陸の場合には段差があります。つまり、常陸の国界の方がだいぶ下がっており、多賀城から離れています。しかも、鹿島神宮の鹿島は現在神社ですが、当時は鹿島といえば常陸の中で、ひじょうに重要な宗教的・政治的・軍事的な拠点です。その鹿島を通って常陸に南辺(もしくは西南辺)から京へ向かうとなると、一段と距離が長くなります。そうすると、四百十二里に二百七十四里という段差ができるのではないか、というふうに考えました。次に、第二点は、従来の考え方では、多賀城は陸奥(むつ)の国にある、こう考えていました。ところが私が考えますところ、ここには「陸奥国」が無いのです。京・蝦夷国・常陸国・下野国・靺鞨国とだけあって、陸奥国というのが無いわけです。その無いものを根拠にして読むのはおかしいのではないか。「蝦夷国界を去る一百二十里」というのは、従来では、宮城県の北の県境と岩手県の南の県境、そのあたりを指すと考えられていました。これを逆に、わたしは、仙台から南、今の宮城県と福島県との境、もちろん、だいたいなんですが、その辺までをここで一百二十里と言う、と考えたわけです。つまり、多賀城は蝦夷国の中にあるという表記法ではないか。こういう蝦夷国中心の読法、従来説を「陸奥国中心読法」というならば、新たに「蝦夷国中心読法」をひとつの仮説として指示したわけです。今回、酒井さんからのご批判を受けて、さらに考えていると、この中心読法というのは(酒井さんは「多賀城中心読法」が正しい、と言われまして、それもたしかにそう言えますが)、これは、京を中心とする言葉である。京という言葉がちゃんとあり、これは奈良の都をさしている、そして、天皇家の年号が二つも入っているのだから、大義名分上は、「京中心読法」というのが正しい。その立場に立ちますと、実は多賀城からみて西の国界といっているのは、京からみるといちばん近い国界となるのです。なぜ多賀城から飛び越して、自分に近い方の国界を飛び越して、こちら(西の国界)を言うのかという問題があったのですが、京を中心にみれば、これにいちばん近い国界が、ここでいう「西の国界」だといわれるのではないか、という問題がひとつ。重要なのは、もう一点「靺鞨国」のことです。これは、蝦夷国のもうひとつ北側、ここでいう東側に「靺鞨国」を考えようとすると、三千里ということです。これは多賀城から京までが一千五百里、これの二倍の距離を、ずっと北海道のむこうにとらなければならない。地図で見ればわかりますが、だいたい樺太の北の端ぐらいになります。そこから北はオホーツク海です。そういうことで、どうも変だと思っていたのですが、ここでも酒井さんのご批判を契機に考えてみると、これはやはり、「靺鞨の西の国界」と、こうとるべきではないか。
と考えると、靺鞨とはいったいどこか、ということになった。調べてみると『旧唐書』に、靺鞨に二種類あって、粟末(ぞくまつ)靺鞨と黒水靺鞨の二種があると書かれています。粟末靺鞨というのが渤海(ぼっかい)です。その東北の方でばんばっていたのが、黒水靺鞨。黒水というのは黒龍江です。その周辺から樺太あたり、そういう地帯に領域のあった靺鞨。この時期に靺鞨というと黒水靺鞨をさすようになっていた。しかもその靺鞨には英雄がでます。中国名、李謹行といいます。「夷人(いじん)の憚(はばか)る所と為る」。夷人とは東夷の人です。新しい日本国も入ります。昔からの倭国も入ります。それら、当時の人々は靺鞨の英雄と強い財力・軍事力およびすぐれた文明に接して、非常に敬意を表する、恐れ憚るところとなっていた。このように中国側で観察して書いているのです。そして、その後、六七六年、七二五年、七二八年、これが多賀城ができた頃の記事なんです。この多賀城のできた時期において、靺鞨国というのはひじょうに強大な勢力を持っていた。そして、日本列島やその周辺の朝鮮半島の人々に非常に恐れられつつ、敬意をもってみられていた。ということが、中国がわの観察なのです。我々はなんでここの多賀城碑に靺鞨のことがでてくるのかと、何か不思議なようにも思われていたのですが、以上の観点からすると、たいへん筋のとおったことになるのです。要するにこれはウラジオストックより、さらに北に上ると、大きな湖がありますが、そこの辺の「西の国界」に到る距離を三千里と言っているようです。 
「大化」と宇治橋断碑について
さて、最後に、宇治橋断碑の問題を話すことにします。これこそ、ポイントをズバリとお話し、後で機会を得て、また詳しくお話をしたいと思いますが、私が『失われた九州王朝』を書くとき、この問題にとり組みました。「九州年号」という問題にぶつかったからです。で、この内容を検討すると九州年号というものは、どうしても偽作された年号ではありえないという結論を得ました。ところがその場合に問題になったのは、『日本書紀』の近畿天皇家の年号とされている年号とダブっている年号がでてきます。これは、ひとつは「白雉」(孝徳天皇の後半)、それから「朱鳥」(天武天皇の末年)、これは、同じ年号を九州王朝と近畿天皇家と両方が制定するということはありえないから、九州年号が実在とすれば、結局九州年号の二つの年号を天皇家は「盗用」している、他から持ち込んで、しかも「自分の年号」であるかのように書いてある。というふうに判断したわけです。ところが、そのさいに障碍になった、問題になったのは、取り残されたのは、「大化」でした。これも九州年号の中に、“見え隠れ”してあるのです。ところが、年代が先の場合とちがってかなりずれている。『日本書紀』の「大化」は六四五年であるのに対し、九州年号がわの「大化」は七世紀の終りごろに近いところに、出没している。各文献において少しずれるのです。それがひとつと、それ以上に大事なことは、宇治橋という、ここ(大阪市)に近い所に「金石文」がある。京都の宇治です。そこに「大化二年」で干支(えと)が「丙午」と書いてある。六四五年にあたる形で書いてある。金石文である以上、これを簡単に否定するわけにはいかない。したがって、残念ながら、“涙をのんで”これを「保留」したわけなんです。
ところがこれに対して勇敢に取り組まれたのが、丸山晋司さんです。『市民の古代』(第五集)に「『大化』年号への疑問」という論文を書かれました。私に、「古田さん、反論して下さい」と言われたのですが、「『反論』なんてとんでもない、私は『大化』が邪魔になってしようがない。三つとも、あれは九州年号からだ、と言いたい、ところが『宇治橋』が越えられないから、できないだけなんですよ、頑張って三つともなんとかして下さい。」というようなことを、丸山さんに言っておりました。ところが、最近、藤田友治さんが宇治橋断碑に取り組まれて、今日の資料にも藤田さんから提供していただいたものが入っていますが、どうもこれは乗り越えられると、詳しくは藤田さんの論文が『市民の古代』に載ると思いますので、今は簡単に結論だけを言いますと、あそこに出ている年号は、記述対象の文面中である。執筆時点の文面中ではない。つまり記述内容に年号が出てくる場合、これを(A)とします。ところが石碑ができた建立年代が裏に書いてあったり、その文面の最後に書いてあったり、これを(X)とすると原則として(A)≠(X)と考えねばなりません。もちろん、(A)と(X)が一致する場合があってもいいのですが、これはむしろ例外であって、今年のことを今石碑を立てて書くというケースも、例外的にはありうることです。ところが普通は、五年前とか、十年前とか、五十年前とかのことを石碑に書くわけです。それは石碑ができた年代と、書かれた文面に出てくる年代とは原則としては、別なのです。今回、正面から取り組んで、何か今まで障害だと思ってきたのが馬鹿らしくなりました。竹内理三さんの『寧楽遺文』の金石文の項目の中に、ちゃんと「大化」年代(七世紀中葉)の中の項目に並んでいるのです。それはあくまで記述対象の年代であって作成年代を指しているのではないのです。建立年代ではないのです。
だから、建立年代は七二〇年以前か、以後か、それが問題です。七二〇年というのは、『日本書紀』ができた年です。『日本書紀』では七世紀中葉に「大化」をあてて書いてあるのです。七二〇年以後に石碑を建てたとすれば、七世紀中葉のその時のことを書くには「大化二年」と書いて当然なのです。要するに、金石文とはかならずしも、同時代資料とはいえない、ということです。極端な話をすればわかりやすいのですが、紀元は二六〇〇年、私の少年時代、昭和十五年に、全国あちらこちらに石碑が建てられました。そこには「神武天皇は辛酉の年に即位せられしより・・・」と書いてあります。あれも金石文です。だが金石文に書いてあるからといって、「神武天皇が橿原の宮にあの時(B・C六六〇年)即位したのはまちがいない。」・・・ということにはならないわけです。金石文が建てられた年代(昭和十五年)と、それに書かれている年代(B・C六六〇年)とは(A)=(X)でないわけです。これはいちばん極端な例です。でも一般的にこの問題があるのです。だから、宇治橋断碑の文面に「大化二年」とあったとしても、丙午之歳とあっても、それはけっして障碍になることではないということです。もし宇治橋断碑を『日本書紀』を正しとする裏付けにしようとする論者があれば、最低限、この石碑が「七二〇年以前の成立」であることを証明したあとでなければなりません。それが問題の出発点です。あと、藤田さんが問題の様式論(塁線等)から精緻な研究をなさいました。いずれ発表されると思います。(編集部・本号に掲載。一六二頁を参照下さい。インターネット事務局注記日本古代碑の再検討宇治橋断碑についてで論じられています。)
となりますと、晴れて三つともそろって「九州年号」から入ってきたことになります。この考えは私が初(※)めてではなく谷本茂さん(「周髀算経」の研究をして、短里を見出された方)が発表を既にされています。丸山晋司さんが発表された翌年(一九八四・一二・一六)に東アジアの古代文化を考える会の研究発表会で発表されました。そこで、「三つとも日本書紀の机上の造作の可能性大」とレジュメに書いておられます。やはりそうだったのです。この点でも、また丸山晋司さんがひとつの新しいイメージを出しておられますが、今は時間がないのでそれは省略します。しかし、丸山晋司さんも結論として、「あの三つとも近畿天皇家の年号ではない」ことについては、まったく一致しておられます。丸山さんの提起しておられる問題は別に、また検討を行うこととして、今の問題は次のようです。じつは、「『日本書紀』は九州年号の表を横において書かれたものである。その中から三つだけサンプルにとって、使っている。」ということがわかってきました。なぜそういうことをしたか。ちゃんと先例があるのです。「神功紀」、『倭人伝』の中から卑弥呼に関する、三つの文を使っている。そして、西晋の「起居注」から壱与に関する一つの文をとって使っているのです。あれを使うことによって、「実は中国に行ったのは神功皇后という方の使者なのだ」と。もしそうでないという人があるのなら、それはまちがいですよと。「正しい歴史では、神功皇后が魏に、あるいは西晋に使いを送ったのだ」ということを正史に収めた。だから九州かどこかで違うことをいうような人物がおれば、それは「嘘の歴史」を語っているものとする、今後、七二〇年以後。同じく九州年号も、「実はこの三つは近畿天皇家が制定されたものである。だから、今後、それを含むような一連の年号のことを言うような人間があれば、それは『偽りの歴史』を言っているものと考えればよい」と。こわいような話です。もうひとつは、雄略天皇の遺詔、死んだ時の詔勅文、隋の文帝(高祖)の遺詔のそっくりさんを使っているのです。「あれが雄略天皇の正しい詔勅だ、と雄略紀に述べられている。正しく、このように定められている」と。とすれば、もしこれより後、隋の高祖とかいった人物が同じようなことを言ったら、彼らが「真似をした」のだ。「我が雄略天皇の遺詔を猿真似したのだ」と。隋はそれほど、いやらしい国であると。『日本書紀』が尊重したのは唐です。終始一貫唐であります。隋が一回でてくる煬帝の遠征軍の将兵は、みじめにも高麗で捕虜になり、その後始末の相談をうけたことを書いてあるのが、唯一の隋の記事です。もうひとつの「隋」に当る記事が今の「雄略天皇の、詔勅を真似している」というところです。それに対して輝ける唐帝はすべて、すばらしい天子たちであると。これが『日本書紀』の立場です。私はこの問題に正面からぶつかって、本当にぞっとしたのですが、これを一言で述べますと「真偽逆転の論理」といえます。だから、先ほど、山田さんが話されました、景行天皇とか仲哀天皇のことにしてもそうなのです。「あれが正しい天皇家の業績」と正史は「定めた」のです。あれと似たようなこと(九州年号)を九州あたりで、言う者が出てきたら、それは「偽りを述べている者」であると。そういうかたちで天皇家の歴史を、まさに造成した、新たに「造り定めた」のです。それが『日本書紀』という歴史書、しかも「正史」のとった態度である、という結論に到達したしだいです。 
 
金石文を問う / 金石文再検討について

 

一 金石文とは
金石文とは、金属や石などに文字が刻(きざ)みつけられたものを意味する。記述せられた文字や記述内容、及び対象素材などを研究する学問を金石学、金石史という。この学問は中国から起こり、文学の一ジャンルとして芸術、とりわけ書道の重要な科目ともなり、さらに歴史学、美術史、文学のそれぞれの有力な一分野を形成してきた。
金石学の歴史は、中国の南北朝時代の梁の元帝の『碑英』に始まるとされるが、現在伝わっていない佚書(いつしょ)であるから確認出来ない。宋代に応陽脩(おうようしゆう)、李公麟(りこうりん)、劉敝(りゅうしょう)らが輩出し、徽宗(きそう)の『宣和博古図(せんなはくこず)』などによって、金石学の礎(いしずえ)ができたと言えよう。
しかし、元や明代にはあまり発展を見ることは出来なかった。清代になって考証学の発展によって、これまで文献上によってのみ考えてきた学者に、考証の素材として金石文(鐘鼎文しようていぶんや石刻文字)の研究を迫ったのである。
中国に比して我国においては、金石学及び金石文研究は遅れていたが、江戸時代の中期以後になって、金石文の収集、研究書の刊行が見られ始める。周知の徳川光圀が那須国造碑の調査や保存を行っている。伊藤東涯の『盍簪録(がいせんろく)』、沢田東江の『上毛多胡郡碑帖』は多胡碑にふれており、藤原貞幹の『金石遺文』や、屋代弘賢(やしろひろかた)の『金石記』は金石文を広く紹介し、又、為政者の松平定信も『集古十種』を刊行するなど金石文への注目が始まっている。狩谷[木夜]斎(かりやえきさい)の『古京遺文』はよくまとまったものとして知られる。
狩谷[木夜]斎の[木夜]は、木編に夜。JIS第3水準ユニコード68DE
金石文の紹介当初は紀行文(例えば多胡碑の初出は、連歌師の宗長の「東路の津登」であるように)であったり、一部の好事家達のものであった。寛政年間に入って、系統的に研究が始められた。ただ、好古的な傾向を主としているという江戸考証学の制約がある。狩谷[木夜]斎という民間学者の登場によって、学問的研究としてようやく本格的に確立され始めたと思われる。 
二 再検討を要する金石文
金石文は歴史研究の上で重要な位置を占める。それ故、個々の金石文一つ一つを丁寧に調査し、文字の判読や読解を厳密になさなければならない。今日まで、古田武彦氏や市民の古代研究会会員が問題とし、再検討をしてきた主な金石文とその論拠を以下に簡約に示そう。
(1).金印「漢委奴国王」
一七八四(天明四)年、博多湾の志賀(しかの)島から発見された金印には、「漢委奴国王」と刻まれていた。『後漢書』東夷伝に、光武帝が倭奴国王に印綬を与えたとある記事に符合する。通説は三宅米吉が「漢委奴国王印考」(『史学雑誌』三ー三七、一八九二《明治二五》年)において、奴国を儺県(なのあがた)に比定して、「漢の委(わ)の奴(な)の国王」と読むところに源流をもってきた。
しかし、この読解は「AのBのC」という三段国名表記となり、あまりにも細切れの読み方である。実際に中国の印文の国名表記法のルールにかなうのかどうか、この点の疑問から再検討を始めたのが古田武彦氏であり、氏によって厳密で科学的な史料批判が加えられた。その結果、「漢の委奴イド(ヌ)の国王」という読解法が得られたのである(詳細は、古田武彦『「邪馬台国」はなかった』、『失われた九州王朝』、藤田友治「金印『漢委奴国王』について」『市民の古代』第二集を参照されたい)。
(2).三角縁神獣鏡
邪馬壹国の論争とかかわって、三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏朝から下賜された鏡か否かが問われてきた。その際、鏡が中国製(舶載鏡はくさいきよう)か日本製([イ方]製鏡ほうせいきよう)かを判別するのに、富岡謙蔵『日本製古鏡に就いて』が基準となっていた。富岡が[イ方]製鏡、即ち日本製と判断する根拠は次のようだ。
[イ方]製鏡の[イ方]は、人偏に方。JIS第3水準ユニコード4EFF
1.鋳上がりが悪いため、文様・図像・線などがあいまいになっていること。2.したがって、図様(文様・図像)本来の姿が失われていること。3.文字がないこと。もしくは、“文字に似て文字に非ざる”文様めいたものにくずされていること。4.鈴鏡は中国にないから日本製である。
この富岡の判定基準は、鏡に関して日本考古学の基礎となっていたものである。しかし、この判定基準は“日本製は文字がないかあいまい”という前提条件に立脚している。これが果して、そうであろうか。
古田武彦氏は、日本列島内の文字認識を問い(「日本の古代史界に問う」『倭人も太平洋を渡った』所収)、三世紀には既に、倭国では文字が知られていたということを、倭国が魏朝に送った上表文によって論証した。これによれば、“文字がないから”等による判別は真の基準たり得ないのである。
さらに、決定的に重要なポイントがある。三角縁神獣鏡は中国、朝鮮半島から出土せず、ほぼ日本列島だけに大量に出土するという分布状況がある。この点からも、古田氏は一貫して日本製であると提起している(『ここに古代王朝ありき』、『多元的古代の成立』、『よみがえる九州王朝』、『倭人伝を徹底して読む』等)。
従来の通説に対するこの古田氏の提起は黙殺されていたかに思われたが、一九八一年になって中国の鏡専門家の王仲殊氏が「日本の三角縁神獣鏡の問題について」(『考古』一九八一、第四期)を発表すると様相が一変し始めた。
王論文の核心は、「三角縁神獣鏡は中国から出土しない。すなわちこの鏡は中国製の鏡ではなく、日本製である。従って卑弥呼が魏朝から贈られた魏鏡ではありえない」ということである。この点、既に発表していた古田氏の説と同じ趣旨である。ただし、王氏は「邪馬台国」ととらえ、その所在地については、「今後の継続的な研究をまつべきである」として断定は避けている。
三角縁神獣鏡問題は「邪馬台国」近畿説論者の最大の依り処であったから、これが「魏鏡に非ず」とする王論文の帰結によって、近畿説はその命脈を断つかに思われたが、実は王氏自身は近畿説といってよい(この点への鋭い批判は古田武彦『よみがえる九州王朝』に詳しい)。
三角縁神獣鏡国産説の方は一層詳細な研究が進み、最近、千歳竜彦氏によって「銘文からみた銅鏡の製作」(『関西大学考古学等資料室紀要』第五号、昭和六十三年三月)がまとめられ、銅鏡の製作技術の変遷や銘文の分析によって国産説を明確にしている。今後の論争の進展が期待される。
(3).稲荷山鉄剣銘
十年前の毎日新聞(一九七八年九月一九日付)は、「世紀の発見」として、一面トップに「日本統一は雄略天皇ーー埼玉・熊本で出土の剣に“ワカタケル”の銘」という大きな活字が躍らせていた。X線でさびた鉄剣から文字を読みとる方法が有効性をもちはじめた画期的な出来事となった。
だが、銘文一一五文字は貴重な史料であることは言うまでもないが、その解読は「ワカタケル」と読んで「雄略天皇」ととらえ、さらに「倭王武」とつなげて、日本統一を五世紀にするなど問題は多い。
この点に対して、古田武彦氏は『関東に大王あり』(新泉社)において、まず「ワカタケル」という読みは正しくないことを指摘し、「加多支カタシロ大王」と読み、関東の大王とした。この解読は埋葬状態を含め、考古学的な事実とよく一致する。つまり、鉄剣は主棺の粘土槨らではなく、「左治、天下」する形で礫床の副葬となって出土している。さらに雄略天皇の宮は「長谷の朝倉宮」であって「磯城宮」ではない。しかも、肝心の現地、稲荷山の近くに「磯城宮」(栃木県藤岡町大前神社の古称ーー延喜式以前)があったのである(今井久順氏の指摘を古田氏が現地で確認したことによる)。
古田氏によるこの有力な反論に、一部ジャーナリズムによってあわただしく作られた「ワカタケル大王=雄略天皇=倭王武」という説は「定説」とはなり得ていない。高校日本史教科書の現行十八種類を全て調査したが、この等式を「〜と考えられる」(二点)、「〜と推定される」(二点)「さすらしい」(一点)と慎重であり、せいぜい「有力である」(二点)となっている。さらに、「これに疑いをもつ説もある」(一点)と問題点を提起しているものさえある。
ところが、本年の大学入試共通試験において、「(獲)加多支璽歯)大王』は、倭の五王の一人と考えられている」(第一問・問4)と出題されるにいたり、良識ある、人々の疑問をおこしている。学問は真理追求のためにありそのため当然異説を含め仮説を公平に扱わねばならない。受験生の若い探求心を一枚のテストで通説のみ強要することは「魂の公害」をもたらすであろう。
さて千葉県市原市稲荷台一号墳出土の鉄剣銘の解読がレントゲン写真によってすすみ、「王賜」など「12文字」の銀象嵌銘文があることが報道され(一九八八年一月十一日付毎日新聞、読売新聞等)。この銘文については、金井塚良一氏と古田武彦氏の対談(『歴史読本』一九八八年四月号)及び、本号の古田氏の記念講演、同じく本号の小野沢真氏「『房総の王』と稲荷台の銘文鉄剣」を参照されたい。
(4).好太王碑
従来、日本古代史の史料とし重視されてきた高句麗の好太王碑に対して、一九七一年以降から根本的な再検討が始められた中塚明、佐伯有清、李進煕各氏による一連の問題提起である。これらの各氏の研究は、好太王碑文の「拓本」各本にもたらした人物は、参謀本部の酒匂景信(誰が拓本をもってきたかは中塚氏、人名を正しく景信としたのは佐伯氏)であること、そして酒匂が好太王碑の改ざんを行ったという説(李氏)に帰結し、学界、思想界、教育界に大いに覚醒(かくせい)をもたらした。
これらの提起に対して、古田武彦氏は東大で開かれた史学会大会(一九七二年一一月一二日)で、「好太王碑文『改削』説の批判」を行い、精緻(せいち)な批判論文を発表した(「好太王碑文『改削』説の批判ー李進煕氏『広開土王陵碑の研究』について『史学雑誌』第八二編八号、『失われた九州王朝』等)。
本誌は系統的にこの問題の解明に貢献し得た。まず第二集において、現場の高校教師三名(徳野、藤田、山口各氏)により、「好太王碑にみる日朝関係」で、教育現場における好太王碑及び論争のもつ意義を扱い、さらに第四集において古田武彦氏の「画期に立つ好太王碑」、藤田友治氏の「好太王碑の解放を求めて」で、北京、長春各市において文物管理局に好太王碑の公開を求める運動の報告を行う。第五集では、特集II「好太王碑文研究の新視点」で、藤田氏の「好太王碑改削説への反証」によって従来注目されていなかった大東急記念文庫拓本の復原により、古田氏の論点とは別に明確に改ざん説を否定した。
第六集では、中国の王健群氏(吉林省文物考古研究所所長)の研究を踏まえて、藤田氏は「好太王碑論争の決着ーー中国側現地調査、王論文の意義と古田説についてー」で、王氏の改ざん否定は既に古田氏の論点の追認であること、拓工による文字の仮面字こそが「改ざん」といわれていることの正体であること等を明らかにした。
第七集では、本誌や私たちの研究会が中心になって組織した好太王碑現地調査の報告を特集した。長春市で王健群氏と古田武彦氏らとの対談を行えたこと、好太王碑の直接の管理者である集安県博物館の副館長耿鉄華氏の論文を発表し得たこと等、他誌にない特徴をもっている。
さらに第八集では、朝鮮民主主義人民共和国の社会科学院・歴史学研究室室長の孫永鐘氏と古田氏の対談、講演を報告し、いずれも改ざん否定に立って新たな研究へ進展を得た。第九集では、藤田友治著『好太王碑論争の解明』に対して山田宗睦氏が書評をされている。
本号においても、耿鉄華氏の「好太王碑発見時期についての新たな検討」・「好太王碑は火で焼かれる以前に完全な拓本はなかった」の二本の未発表、本邦初訳論文の掲載を行った。さらに中小路駿逸氏の「好太王碑文私見」が新たな問題を提起している。
これらの一連の論究において、古田武彦氏の好太王碑論が国の内外で、実証的に確認されていったと言えるであろう。
なお、古田氏は好太王碑に関する論考を、『古代の霧の中から』、『古代は輝いていた』(II)、『古代史を疑う』、『邪馬壹国から九州王朝へ』、『よみがえる卑弥呼』において具体的に展開している。
(5)日本古代碑について
好太王碑論争の決着後、古田武彦氏及び本会会員は日本古代碑の再検討に入った。那須国造碑について、古田氏は『古代は輝いていた』(III)、多賀城碑については、本誌第八集及び本号の記念講演、多胡碑については藤田氏の「削られた多胡碑」(第八集)、古田氏「多元史観の新発見」(第九集)で、多胡碑の現在残っている一面の他の三面は過去において削られたのではないかという問題を提起している。本号において増田修氏が「多胡碑の『羊』と羊太夫伝承」として羊太夫の伝承を追跡している。本誌巻末に「多胡碑と羊太夫伝説に関する文献目録」を掲載した。今日までのところ、最も詳しい研究文献目録であろう。
鬼室集斯墓碑については、九州年号論との関連で注目され、丸山晋司氏が「『朱鳥=九州年号』論批判」(第九集)で史料をあげて論述している。同碑は文化二(一八〇五)年以前に同碑に文字が見えないことを証言する史料(司馬江漢『江漢西遊日記』ー天明八・一七八八年、坂本林平『平安記録楓亭雑話』ー文政一三・一八三〇年以前)があり、同碑偽作論(湖口靖夫、満田良順、岡田精夫、瀬川欣一、喜田貞吉、内藤湖南各氏等)も多く、現在では厳密な意味での真作論は存在しないが、今後の検討も必要であろう。
宇治橋断碑については、碑に「大化二年」とあるところから大化年号の実在と考えられていたが、九州年号論の研究から丸山晋司氏が「『大化』年号への疑問」(第五集)において『日本書紀』中の「乙巳(六四五)大化」の実在性こそ疑われると説いた。本号では、宇治橋断碑の現地調査を踏まえた二論文を掲載した。中村幸雄氏「宇治橋に関する考察」、藤田友治氏「日本古代碑の再検討ー宇治橋断碑についてー」で、それぞれ論旨は異なるものの、いずれも宇治橋断碑を大化二年=六四六年創造とする従来説に対して根本的にこれを否定していることが共通していよう。 
 
金石文を問う / 日本古代碑の再検討・宇治橋断碑について

 

一 記念碑について
金石文のうちで、石柱に文字を記したものを記念碑という。記念碑とは、社会的及び個人的出来事(dasGeschehene)や、それに関係した人物等を後世に永く伝える目的で石柱に刻まれた文章と素材をいう。出来事の集積は歴史(Geschichte)であるから、記念碑は歴史学の重要な研究対象である。
記念碑は元来、屋外に立てられることが多いから、時の経過とともに風雪にさらされて風化等をこうむり、文字を解読する際、しばしば判読さえ困難な事例が多い(好太王碑文等を想起されたい)。又、人為的な手が後世に加えられたり(好太王碑の場合、拓工による石灰塗付、多賀城碑の場合、「此城神亀元年」の部分、更に六地蔵石幢の「三州」を「日州」に改める等)、更に記念碑はそもそも記念すべき事柄を建碑者の方で過大に記す傾向をもちやすいことにも留意が必要である。
既に白楽天は秦中吟の「立碑」について次のように言う。
「路傍の碑をみるに、勲を銘すること太公のごとく、徳を叙すること仲尼のごときものがある。文を作った彼(かれ)何人(なんびと)ぞ、但(た)だ愚者の悦びを欲して賢者の嗤(わら)いを思わざる者である。」(『白氏文集』巻二)
これらの理由によって、記念碑の研究は歴史学研究の重要な一分野でありながら、しばしば論争を孕(はら)んできたのである。
金石文や記念碑を研究すると確かに問題点をいたるところに見い出すことができる。しかし、深い疑いがあるからといって、これらの貴重な遺産を無視すべきではない。藪田嘉一郎氏は金石文研究に貴重な成果を後世に残してくれており、その研究方法は「まずいかなる金石文に対しても疑ってかからねばならない」(『石刻〜金石文入門』)という「学貴多疑」(中国古諺)であり、「問題のあるわが上代金石文」では我が国の多くの金石文を疑っている。深く疑い、問うことはあらゆる学問にとって貴重であるが、「疑う」根拠それ自身が、推定であったり、独断であったりしてはならないことは言うまでもない。
好太王碑“改ざん”論争のように、陸軍参謀本部・酒匂大尉による「石灰全面塗付作戦」などという断定を李進煕氏は主張したが、これはイデオロギーに基づく“改ざん”ではなく、拓工が拓本をとりやすいように石灰を塗ったことが「実事求是」である。この点、古田武彦氏の『失われた九州王朝』、王健群氏の『好太王碑の研究』、拙著『好太王碑論争の解明』で主張した通りである。要は、金石文一つ一つを実地に精査し、史料批判を徹底することにより、実事求是の立場で吟味、研究しなければならない。
古代から風雪に耐え、残されてきた重要な文化財を、私たちが厳密な史料批判を通して正しく解読するならば、古代からの貴重なる文化遺産を引き継ぐことになろう。
記念碑は中国や朝鮮で発達をとげ、我が国に影響を与えてきた。次に、日本古代の碑をとりあげ問題を探ろう。
表1日本古代碑付鐘銘等(作表・藤田友治、『書道研究ーー特集日本金石文の研究』(1)・(2)等によって作成)
名称目的α年紀
()は西歴β建立年
()は推定α−β界線建立者形態所在地
一宇治橋断碑
架橋
記念碑大化二年
(六四六)
記載なし
(七二一年以降)七五年以上外枠・
縦界線
割付あり記載なし自然石
碑面削平京都府宇治市東内
放生院橋寺
二山ノ上碑墓碑辛巳年
(六八一)辛巳年
(六八一)0無界・
割付なし放光寺僧自然石群馬県高崎市山名町
三那須国造碑墓碑
と誓文庚子年他
(七〇〇)庚子年
(七〇〇)0無界・
割付なし意斯麻呂笠石型・一面のみ削平栃木県那須郡湯津上村
笠石神社
四多胡碑建都
記念碑和銅四年
(七一一)記載なし
(七一一以降)0か
それ以上無界・
割付なし記載なし
(羊の説)笠石型群馬県多野郡
吉井町大字池
五超明寺断碑石桂碑養老元年
(七一七)養老元年
(七一七)0外枠の
一部あり超明僧自然石
碑面削平滋賀県大津市月の輪
超明寺
六元明天皇陵碑墓碑養老元年
(七一七)記載なし
(七一七以降)0か
それ以上記載なし直方体
切石奈良市奈良阪町
元明天皇陵
七阿波国造碑
墓碑墓碑養老七年
(七二三)養老七年
(七二三)0無界・
割付なし記載なし笠石型か徳島県名西郡石井町
中王子神社
八金井沢碑供養碑神亀三年
(七二六)神亀三年
(七二六)0無界・
割付なし
複数記載自然石群馬県高崎市根小屋町
九多賀城碑築城碑天平宝字
六年
(七六二)天平宝字六年
(七六二)0外枠・
割付なし藤原
恵美臣朝葛*自然石
碑面削平宮城県多賀城市市川
十薬師寺仏足石碑追善
供養碑記載なし記載なし
(七五三)0か
それ以上外枠・
割付なし智努王
(天武天皇の孫)自然石奈良市西の京町
薬師寺
十一宇智川摩崖経碑摩崖碑宝亀九年
(七七八)宝亀九年
(七七八)0無界・
割付なし記載なし
(仏教僧か)自然石五条市小島町宇智川左岸
十二浄水寺南大門碑門
記念碑延暦九年
(七九〇)
延暦九年
(七九〇)0外枠・
縦界線
割付あり記載なし
(仏教僧か)自然石熊本県下益郡豊野村
宇寺村浄水寺趾
1妙心寺鐘銘鋳鐘銘戊戌年
(六九八)戊戌年
(六九八)0無界・
割付なし槽屋評鐘京都府妙心寺
2紀吉継墓誌墓誌延暦三年
甲子
(七八四)延暦三年甲子
(七八四)0縦界線・
割付あり紀吉継[石専]大阪府南河内郡
太子町春日の伝
3興福寺南円堂
銅燈台銘追遵銘弘仁七年
景申
(八一六)弘仁七年
(八一六)0縦界線・
割付あり藤原朝臣公等銅燈台奈良県法相宗
本山興福寺
4神護寺鐘銘鋳鐘銘貞観十七年
(八七五)貞観十七年
(八七五)0縦界線・
割付あり真紹上人鐘京都市右京区
神護寺
5道澄寺鐘銘鋳鐘銘延喜十七年
(九一七)延喜十七年
(九一七)0縦界線・
割付あり道明と澄清鐘奈良県五条市
栄山寺
葛*は、けもの編に葛。JIS第三水準ユニコード5366 
二 日本古代碑の問題点 / 特に宇治橋断碑
長年の風雪に耐え、今日まで残存している主な石碑を整理して示すと、表1の通りである。名称で宇治橋断碑等、「断碑」と呼ぶのは碑全体が残っておらず、碑身の一部のみが残存していることを示す。この日本古代碑一覧表を作成することを通じて、金石文の史料批判を行うと、次の問題点が鮮明にうかびあがることとなった。よって、簡明に報告する。
(一)、断碑間題
あらゆるものの名称は重要である。名は体を表わす。断碑とは碑身の一部しか残存していないことを示す。残存している部分のみが、厳密には金石文の対象である。宇治橋断碑(一)の場合は、江戸時代に尾張の学者・小林亮適らが、『帝王編年記』を基に補って残存部分と接合したのである。この碑の残存部分は二十七字分のみであり、全碑文と推定される九十六字分の約三分の一弱であることに留意されなければならない。残存部分は次の通りである。
俛*俛*横流其疾如箭修・・・
世有釈子名曰道登出・・・
即因微善爰発大願結・・・
俛*は、三水編に免。ユニコード6D7C
この残存部分から意味のある文章を読みとるのは困難である。そこで、『帝王編年記』の記載によって、補って解読してきたのであるが、文献によって補った碑身の約三分の二は、果たして金石文という概念に入るのか、更に失われた部分が文献通りであったかという問題が厳密に言えば残っているのである。少なくとも、今日の姿をそのまま「大化二年」(六四六)の宇治橋碑とみなすことは到底出来ないのである。
(二)年紀ー建立年の“差”問題
従来、宇治橋断碑は『帝王編年記』によって補った文章によって、「大化二年丙午」と年紀があるところから、碑の建立も六四六年とされて一覧表等にも使用されてきた。
例えば、尾崎喜左雄氏『多胡碑ー上野国三碑付那須国造碑ー』(中央公論社)、今泉隆雄氏「銘文と碑文」(岸俊男編『日本の古代14』『ことばと文字』所収)の表でも、宇治橋断碑は「日本最古の碑」という扱いをしている(尼崎氏は「宇治橋碑」として、断碑であることを明示していない)。
日本の古代碑では、そもそも建立年を明確に記していないケースがある(宇治橋断碑(一)の他、多胡碑(四)、元明天皇陵碑(六))。建立年を記してあっても、厳密には確定できないのであるが、ほぼ建立年のものとみなしても大過はないであろう。ところが、建立年を記していない場合、碑文にある文面の年紀を建立年とみなして処理することは危険であり、誤差を含んだものとなる。碑文の年紀が直ちに建立年を意味するものでないことを、好太王碑を例にとって示そう。次に好太王碑文にある年紀を全て掲げよう。()内は西暦である。
甲寅年(四一四)、永楽五年乙未(三九五)、辛卯年(三九一)、六年丙申(三九六)、八年戊戌(三九八)、九年己亥(三九九)、十年庚子(四〇〇)、十四年甲辰(四〇四)、十七年丁未(四〇七)、廿年庚戌(四一〇)。
これらの年紀のおびただしい記載から、好太王碑の建立年をどうして確定するか。文面に年紀があるからといって、それを建立年とするわけにはいかないという自明の論理の存すること明かであろう。
幸いにも好太王碑は風雪に耐え、残存部分(1)に建立年を記載している文章がハッキリ残っていた。
以甲寅年九月廿九日乙酉、遷就山陵。於是立碑、銘記勲績、以示後世焉。
つまり、「甲寅年(四一四)の九月二十九日の日に好太王を山陵(帝王の墓ー太王陵)に移し埋葬した。この墓の前に碑を立て、好太王の功績を刻み、後世に示す。」とある。従って、四一四年に建立されたことが明確となっているのである(厳密に言えば、碑を立てた月日はわからない。九月二十九日に近いことが推定しうるだけである)。
一般に、金石文における作成年代の確定は、金石文に記載がある「年紀」をαとし、十分なる科学的方法で推定できる「作成年」(碑等の場合は建立年)をβとし、αーβの“差”を求めなければならない(古田武彦氏の教示を得た)。この“差”が「0」ないし「0」に近い程、その金石文は、年紀が記載してある同時代史料としての史料価値をもつのである。従って、従来のように、年紀があればそのまま建立年を意味すると把握してきた史料処理は拙速の感を免がれないであろう、この方法によって、αーβの“差”を示したのが、「日本古代碑」の表である。
1).“差”「0」を示すもの
山ノ上碑(二)、那須国造碑(三)、超明寺断碑(五)、阿波国造碑(七)、金井沢碑(八)、多賀城碑(九)、宇智川摩崖経碑(十一)、浄水寺南大門碑(十二)。
2).“差”「0」か「それ以上」を示すもの
多胡碑(四)、元明天皇陵碑(六)、薬師寺仏足石碑(十)。
3).“差”が大きく、年紀と著しく乖離(かいり)しているもの
字治橋断碑(一)。
(三)界線の問題
技術は時代とともに漸次的に、或いは革命的に発展し、進歩してきた。歴史的にある時期に達成されていた技術が、次の時期にはすたれてしまうことはあるが、その際は他の技術的手段により古い技術が克服され、発展的に解消するのである。打製石器が磨製石器に、木製武器が鉄製武器に変化したように。
石碑に文字を刻む技術も、技術史一般の発展法則に適含しなければならない。界線とは碑身の上に文字を整然と刻むのに引かれる境界線のことである。界線の技術は次のように発達したと考察できる。
1).無界・割付なし
碑身に界線を引かず、文字を刻んでいる。
山ノ上碑(二)、那須国造碑(三)、多胡碑(四)、阿波国造碑(七)、金井沢碑(八)、宇智川摩崖経碑(十一)。
2).外枠を作るが、割付なし
外枠を碑身に作るが、界線の割付はない。
超明寺断碑(五)、多賀城碑(九)、薬師寺仏足石碑(十)。
3).外枠・縦界線・割付あり
碑身に文字を刻む技術として発達した形式であり、外枠を作り、縦界線を入れ、更に割付をして整然と美的に仕上げる。
宇治橋断碑(一)、浄水寺南大門碑(十二)。
これらの碑の年紀αと建立年βの“差”(α−β)を考慮に入れて、界線の発達史を探ると、基本的には1).→2).→3).となる。もとより、1).と2).は一時期共存し合うが(丁度、新石器時代の特徴である磨製石器と、旧石器時代の打製石器の共存、使用があったように)、2).→1).と逆になることはない(磨製石器から打製石器へとなるのではないのと同様)。
宇治橋断碑(一)は建立年の記載がないので、建立年を記載した石碑で同じ特徴をもつのを探そう。外枠・縦界線・割付ありという特徴があるところから、浄水寺南大門碑(十一)と同じであり、その碑の建立年が延暦九年(七九〇)であることを考慮すると、延暦年間(七八二〜八〇六)であることが推定できるであろう。更に、鋳鐘銘や墓誌からも言えよう。
ただし、元明天皇陵碑(六)に問題がある。元明天皇陵の域内にあるため、実見できないという問題と文献による考証によっても伝えるところが異なるという問題がある。『古京遺文』(大正元年版)の一覧表でもこの碑を「亡」としており、『寧楽遺文』の金石文の部でも「今亡迭」としており、学者間でも知られていなかった。福山敏男氏の「元明天皇陵碑」(『中国建築と金石文の研究』)が詳細な研究をしているが、文献により文字が記してあるとするものと磨滅して判読できないとするものと両方あると指摘している。
『集古十種』の碑銘二に「大和国奈良佐保山御陵碑」として銘文を拓本のかたちで掲載してあるが、そこでは縦横界線と割付があるように見える。しかし、文政元年(一八一八)に成った先の狩谷[木夜]斎の『古京遺文』では、既に「このほか元明天皇御陵碑あり、剥落して一字無し」としてこの碑は採録していないのである。更に、寛政五年(一七九三)に成った『金石記』(屋代弘賢)に「この碑は磨滅して読むことができない」としている。この点からすると、『集古十種』は、文字も界線も鮮明でありすぎることから資料としては信頼できない(先行説に福山敏男説あり。福山氏は「作りもの」とされている)。
狩谷[木夜]斎の[木夜]は、木編に夜。JIS第3水準ユニコード68DE
念のため元明天皇陵碑が「縦横線・割付あり」と仮定して、建立年を年紀にある養老元年(七二一)以降とすると、宇治橋断碑は界線の技術発達史上、少なくとも七二一年以後である。そこで、宇治橋断碑の建立年は「記載がない」ところであるが「七二一年以降」としたのである。実際は、八世紀末の段階である蓋然性が高い。
界線は文字を整然と記入するための技術であるが、宇治橋断碑のように建立年の錯誤を正し、本来あるべき位置に整然と記入するのにも役立ったと言えよう。
(四)建立者の間題
碑に建立者を記しているのは、考察した十二の碑の内半数の六である。従って、記載していないのが半数あるわけである。もっとも、碑の目的に応じて、建立者は誰かは推定できるが、あくまで推定である。一応、記載があってハッキリしたものと推定を含めて(碑に記載がないため)建立者の階層を区分すると次のようだ。
1).権力者による建碑
那須国造碑(三)ーー意斯麻呂、多胡碑(四)ーー羊太夫か、元明天皇陵碑(六)ーー皇族、阿波国造碑(七)ーー国造、金井沢碑(八)ーー複数、多賀城碑(九)ーー藤原恵美臣朝葛*、薬師寺仏足石碑(十)ーー智努王の七碑である。
葛*は、けもの編に葛。JIS第三水準ユニコード5366
2).仏教僧による建碑
山ノ上碑(二)ーー放光寺僧、超明寺断碑(五)ーー超明僧、宇智川摩崖経碑(十一)ーー仏教僧か、浄水寺南大門碑(十二)ーー仏教僧か、の四碑である。
当時、碑を建立できる階層は権力をもつ者か、仏教僧のように社会的地位の高い者であって、庶民ではなかった。(2)では、宇治橋断碑は、いずれであろうか。碑文の文字は、深く仏教用語(3)に満ちている。それ故、仏教僧か仏教に帰依する人物によって建てられたであろうことに疑いを入れない。仏教僧によって建立された碑は、六八一年(二)〜七一七年(五)のものには仏教僧であることを明記している。一方、七七八年(十一)〜七九〇年(十二)のものでは、建立者を記さない。この点からも、宇治橋断碑は通説の六四六年の建立ではないことが明確であろう。
(五)所在・分布の間題
近畿天皇家という政権の中心部に石碑は少ない(元明天皇陵碑(六)、薬師寺仏足石碑(十))。かえって、その周辺部(宇治橋断碑(一)、超明寺断碑(五)、宇智川摩崖経碑(十一))や遠くの地域に石碑がある。とりわけ、江戸時代から「上野三碑」と称せられ研究されてきた、山ノ上碑口(二)、多胡碑(四)、金井沢碑(八)や那須国造碑(二)等関東においては石碑文化圏とも呼べる位発達しているといえる。この点で幾内を「文化の先進地」ととらえ、地方を文化的に「遅れた」ととらえ、出来ばえの格差を説く論((2)今泉隆雄氏)は歴史的事実を具体的に分析したものでなく、近畿天皇家一元主義に毒されてはいまいか。碑の分布は、多元的である。
(六)年号問題
碑文に銘記された年号は、次の三つのタイプに分れる。(4)
1).干支のみで銘記された碑
「辛巳」(六八一)の山ノ上碑(二)、「庚子」(七〇〇)の那須国造碑(三)。
2).年号と干支の両方で銘記された碑「和銅四年・・・甲寅」(七一一)の多胡碑(四)、「養老五年歳次辛酉」(七二一)の元明天皇陵碑(六)、「養老七年歳次癸亥」(七二三)の阿波国造碑(七)、「神亀三年丙寅」(七二六)の金井沢碑(八)、「天平宝字六年歳次壬寅」(七六二)の多賀城碑(九)。
3).年号のみで銘記された碑
「宝亀九年」(七七八)の宇智川摩崖経碑(十一)、「延暦九年」(七九〇)の浄水寺南大門碑(十二)。
この考察から、碑文に年紀を記すケースは歴史的変遷を示しており、基本的には一つのルールが存在していたことが判明する。即ち、次のようだ。
1).干支でのみ銘記→2).干支と年号の両方で銘記→3).年号のみで銘記
このルールは、年号が建元せられていない時代に、どのように時を示すかを考えた古代人が、まず干支で示すことを始め(1).)、次いで「大宝より建元された後」は、年号と従来の習慣である干支の両方で行ない(2).)、最後には、時は年号のみで表現できるのであるから、干支を除外させたのであろう(3).)。
ところが、宇治橋断碑は、ここでも一般のルールから遠く離れており、特異な姿を示している。「大化二年丙午之歳」(六四六)は、真に六四六年の建立であれば、「丙午之歳」だけでよく、1).のタイプであろう。この問題の考察は、宇治橋断碑の建立年を推定する重要な手掛りを与えてくれる。界線の問題から、本来の宇治橋碑の建立年は「七二一年以降」とすることができたが、「・・・年頃まで」という下限を示すことはできなかった。
年号の問題の分析から、建立者の意識に年号と干支の両方で記すべきだとあるのを見ることができるところから、2).のタイプの時代であるという蓋然性が高いと言えよう。
表2古代の造像銘(8世紀初め以前)
番号名称所蔵年紀刻銘位置刻銘
の時
干支年比定年
1光背東京国立博物館
(法隆寺旧蔵)甲寅推古2=594光背裏後
2菩薩半跡像東京国立博物館
(法隆寺旧蔵)丙寅推古14=606台座下枢前
3薬師如来坐像法隆寺
(金堂)丁卯推古15=607光背裏後
4釈迦三尊像法隆寺
(金堂)癸未推古31=623光背裏後
5釈迦如来及脇侍像法隆寺戊子推古36=628光背裏
6観音菩薩立像
東京国立博物館
(法隆寺旧蔵)辛亥白雉2=651台座柩前
7光背根津美術館
(観心寺旧蔵)戊午斉明4=658光背裏
8弥勒菩薩半跡像野中寺丙寅天智5=666台座下枢後
9観音菩薩立像島根・鰐淵寺壬辰持統6=692台座上枢
10銅板造像記法隆寺甲午持統8=694光背か前
11法華説相図奈良・長谷寺降婁文武2=698図の下
12観音菩薩立像大分・長谷寺壬寅大宝2=702台座枢後ら
13阿弥陀三尊像東京国立博物館
(法隆寺旧像)ーー台座背面前
14広目天立像法隆寺(金堂)ーー光背裏
15多聞天立像法隆寺(金堂)ーー光背裏
(1)奈良国立文化財研究所『飛鳥・白鳳の在銘金銅仏』『同銘文篇』による。
(2)年紀は必ずしも銘文の年代を示さない。
(3)刻銘の時は「前」は鍍金前に、「後」は鍍金後に刻銘したことを示す。今泉隆雄『銘文と碑文』(『日本の古代14』『ことばと文字』所収)より
表3古代の墓誌一覧表(別表示)へ
石碑の分析からは、以上の通りであるが、念のため石碑以外の金石文から一層厳密に考察をすすめよう。まず、造像銘の年紀(表2)は、全て干支年を示している。つまり、観音菩薩立像(12)の「壬寅」(七〇二)までは、年号を記さず干支のみを銘記する1).のタイプである。
続いて、墓誌や骨蔵器の年紀を調べてみよう。まず、界線のところで明確にしたように、太安萬侶墓誌(七二三)までは、無界、即ち縦界線は見られない。従って、宇治橋断碑の界線の特徴から、少なくとも七二一年以降としたことは、ここでも正しいと言える。
さて、年紀は、古代の墓誌一覧表(表3)にある通り、1).タイプの干支のみは、小野毛人墓誌の六七七年までであり、年号と干支の両方のタイプは、紀吉継墓誌(七八四年)まで続いている。つまり、ここでも、1).→2).のルールが存在していたことが判明する。なお、年号のみの3).のタイプは墓誌にはない。これは何故かということは、墓誌そのものが平安時代以降に衰退するからである。その理由は、早くから行われていた墓碑や、仏教と結びついて造立されるようになった墓塔が、より直接的な標識として次第に墓誌の役割にとってかわったと考えられる。(5)
ここでの考察をまとめると、次のようなルールが存在していたことが明確となる。(表4)
1).大宝二年(七〇二)までの金石文の年号表記は、干支のみである。
2).延暦元年(七八二)前後まで、干支と年号の両方で表記が行われた。
3).延暦元年前後から、年号のみで表記する。
表4金石文における年号表記のルール
年号/素材石碑造像銘墓誌
(1)干支のみ〜七〇〇年〜七〇二年〜六七七年
(2)干支と年号の両方七一一〜七六二年なし七〇七年〜七八四年
(3)年号のみ七七八〜七九〇年なしなし
このルールからすれば、宇治橋断碑の問題は明確となろう。つまり、従来のとらえ方のように六四六年の建立とするならば、碑には干支のみで表記されていたはずである。これとは別の点で、「大化」年号が碑にあることから、宇治橋断碑を疑ったのが藪田嘉一郎氏である。ただ、問題は「大化」年号の流通を疑っただけで、根本的に「大化」そのものを深く疑って問題としておられないのが残念である。
「しかし銘文の『大化』の年号の流通問題の如きについて考えるとき、より決定的となる。大化という年号の存否はともかくとして、その一般に流通したか否かについては疑わしく、古来之を疑うた人もあるのである。(6)」
私たちは疑いをこのレベルでとめてはならない。一層深く疑い、問いを立てよう。
そもそも、「大化」年号とは何か。現『日本書紀』は、大宝年号以前に、孝徳朝に大化・白雉、天武朝に朱鳥の三つの年号があったかの如く記している。しかし、その後、大宝元年まで長い空白が存していて、従来の研究者も疑うところであった。(7)今、年号論についての本格的な論述は別稿とし、ここでは必要最少限にとどめ簡略に記しておきたい。
友田吉之助氏は『日本書紀成立の研究』において、旧新両『日本紀』の存在を明らかにし、紀年において旧『日本紀』は甲寅年を神武元年とし、ここから一三六八年後の壬寅年(大宝二年・七〇二年)まで記述しており、一方新『日本紀』は辛酉年を神武元年とし、持統十一年丁酉(六九七年)に終るとした。
「わたくしは一年引き下げられた干支紀年法をもって、現存日本書紀成立以前に使用された紀年法と考える。」
そして、一年引き下げられた干支紀年法は中国の暦に基づいていることが示されている。
の[端頁](せん)は、立つ無。JIS第3水準、ユニコード9853、[王頁](ぎょく)は、JIS第3水準、ユニコード980A
つまり、暦とは紀元前三六六年を暦元とし、甲寅年とし、秦始皇帝の二六年(B.C.二二一)より漢武帝の太初元年(B.C.一〇四)まで、百十七年間行われた古い暦で、現行の干支紀年法に比べ、干支が一年下げられているものである。(8)『史記』、『漢書」は暦が用いられており、日本には百済の僧侶及び暦博士が伝え、推古朝以来、孝徳・天智朝ごろに使用されていたと考えられる。
友田氏の論理によって、宇治橋断碑の大化二年丙午を疑ったのが、重松明久氏である。「大化二年丙午」の年号と干支は、新『日本紀』系年号建てに依拠しているのは、宇治橋断碑が孝徳朝に建立されたものでなく、新『日本紀』の成立以後、養老年間(七一七〜七二四年)以後の奈良時代であるとされた。(9)つまり、六四六年建立であれば、干支は「乙巳」でなければならないからであろう。この論点は、至極、明解である。ただ、重松氏は金石文それ自身の分析、研究からでなく、年号論からのみ立論しているという弱点が存していよう。
「大化」年号を最も深く疑い、鋭く問い研究したのは、丸山晋司氏である。丸山氏の「『大化』年号への疑問」(『市民の古代」第五集)及び「『朱鳥〜九州年号」論批判」(『市民の古代』第九集)によれば次の通りである。
わたしは本誌第五集「大化年号への疑問」(以下、前稿と呼ぶ)において、『海東諸国記』等に見られる乙未年の「大和」年号は「大化」の誤伝ではないかとした。また、この六九〇年付近の「大化」が九州年号に実在したなら、近畿天皇家の年号とされる『日本書紀』中の「乙巳(六四五)大化」こそ、その実在性がうたがわれるのでは、と説いた。このことは、『宇治橋断碑』の問題がのこされているものの、論理的には支持されうるものと信ずる次第である。(10)
そして、丸山氏は九州年号「大化」元年を文献を渉猟し、分析を加え、ついに九州年号「大化」元年を丙戌つまり六八六年とされたのである。
この結論は、論理的に支持されうるものだけではなくて、丸山氏が自ら保留された宇治橋断碑の問題の解明からも支持されうるものである。つまり、六四六年に建立されていたとすれば、干支のみで表記されていなければならない。又、たとえ、年号と干支があったと仮定しても、前述の分析から、「大化二年丙午」ではなく、「大化二年=乙巳」となるのではないか。つまり、いずれをとっても、宇治橋断碑の建立は六四六年ではないという証明となるのである。そして、この問題は、九州年号にとっての“アキレス腱”ではなくて、反転して、近畿天皇家の年号にとってのそれとなるのである(後述)。
以上、六つの問題が宇治橋断碑に集中して存在していることを明らかにした。次にこれらの問題点を一層解明するために、現地に二度、市民の古代研究会会員諸氏と訪ねた。(11)更に、研究文献を渉猟し、解明しよう。 
三 宇治橋断碑
京都の宇治市橋寺放生院に、宇治橋断碑を、今日でも実見できる。この断碑は、江戸時代の寛政三年(一七九一)に寺の境内から、写真で指示した上部(碑身全体の約四分の一)の断石が発見された。
碑陰(碑の裏面に陰刻された文字)によれば、この碑は「埋没」して「不レ知ラ二其幾百載ナルヲ一」であった。「寛政辛亥」(一七九一年)の年に放生院(橋寺)が偶然この断碑「二尺計」を獲た。尾張の学者で小林亮適ら五人が「欲スレ復セントレ之ヲ」として、「古法帳より旧字を集めて「寛政癸丑」(一七九三年)の九月に碑は完成したのである。
碑文の文字は二十七字分が断碑として残存し、他六十九字分は『帝王編年記』によって補ない、今日の九十六字としてある。文章は四言句法になっており、四句を一節とし、二十四句(六節)をもって切り、全体は三区分になっている。
趣旨をまとめると次のようだ。(12)
1).河の水量が多く、流れも速いので、旅人は長く続き、馬を停(と)めて渋滞する。河の深いところを渡ろうとすると、人馬ともに危険で、昔から今にいたるまで渡し船もない。
2).道登という僧があり、山背の恵満家の出身である。大化二年丙午の歳にこの橋を構え立て、人馬を渡した。
3).この微善によって、ここに大願をおこし、この橋を因として果を彼岸に結ぼう。法界の衆生はみなこの願に賛同し、その昔の(苦しい(13))縁を空に帰せしめよう。
この碑は銘のみで、序や撰文者、建碑者、建碑年等のことは何も記していない。それ故に、古くから解釈が分かれてきた。碑にある「道登」についても、文献により解釈が分かれ、次の三つのグループに大別される(Aを道登説、Bを道昭説、Cを道登・道昭の両者とする説の三区分)。
A道登説『日本霊異(りようい)記』(日本最古の仏教説話集で景戒の著。八二二年ごろの成立)は次のように記す。
高麗学生道登者□□□□恵満之家而往大□二年
丙午營二宇治椅一□□□干奈良山渓為二人畜一所レ履
碑文にある文字と共通する語は、十四文字(文中の傍点、インターネットでは赤色表示)である。道登を「高麗」(高句麗)の「学生」(仏教を学ぶ者)といい、「恵満」の家の出身で、大□(化)二年に宇治橋を営(いとなむ)という。この文章によって、碑文の存在が窺(うかが)える。
次いで、『扶桑略記』(皇円の著。30巻の史書。平安末期の成立。)は碑の存在を明確に伝えている。
大化二年。丙午。始造二宇治橋一。件橋北岸石銘曰。世有二釋子一。名曰ニ道登一。出レ自一山尻(ヤマシロ)恵満之家一。大化二年丙午之歳。搆二立此橋一。済二度人畜一。
宇治橋の北岸に碑石があり、そこにある文章を記していると伝える。事実、三十二文字は碑文にある文字である。
道登説に立つ文献は、他に『今昔物語集』(成立は一一〇六年以降、十二世紀前半。巻十九に道登のことがある)、『仁壽鏡』、『濫觴抄(らんしようしよう)』、『日本皇帝系図裏書』等がある。
B道昭説
『続日本紀(しよくにほんぎ)』((14)菅野真道ら編。七九七年成立。四十巻)は『日本書紀』に次ぐ勅撰史書であり、根本史料の一つである。
文武天皇四年(七〇〇)、三月己未。道照和尚物化ス。(中略)於テレ後ニ周二遊天下ニ一。路傍ニ穿チレ井ヲ。諸ノ津濟ノ處ニ。儲ケレ船ヲ造ルレ橋。乃山背国ノ宇治ノ橋ハ。和尚之所ノ二創造スル一者也。和尚周遊スル凡十有餘載。
道昭伝を『続日本紀』は詳しく伝える。道昭は七〇〇年三月に死亡した僧侶で、全国を歩き、井戸を掘ったり、船を製造したり、橋を作ったりしたのである。山背国の宇治橋は、道昭の創造する所である。周遊は「十数年間」である。
正史である『続日本紀』の記載では、宇治橋は道昭が「創造」したといい、宇治橋は道昭の「周遊」の間ととらえられている。道昭は七十二歳でなくなる。道昭が唐より帰朝した後、十数年間の「周遊」の間に宇治橋が創造されたこととなろう。
道昭説は、『元亨釈書(げんこうしやくしよ)』(虎関師錬著。一三二二年成立。)や『本朝高僧伝』(美濃盛待寺僧卍元師蛮著。一七〇二年成立)等にもある。
C道登・道昭両者説
宇治橋は鎌倉時代の弘安九年(一二八六)に叡尊の勧進で修造されたが、この叡尊に橋を修造させる太政官符(弘安七年〔一二八四〕二月)に、「最初元興寺道登道昭之を建立す」と最初の造橋を偲んでいる。更に、『帝王編年記』(撰者、成立年不詳。古代より後伏見天皇までの記事があるところから、一三〇一年以降と考えられる)に、「二年丙午。元興寺道登。道昭。奉レ勅始造二宇治川橋一。石上銘。」と記載している。今日知られている碑銘と同じであるのは、『帝王編年記』に基づいて江戸時代に作成されたからである。厳密に言えば、断碑のみが金石文で、『帝王編年記』によって補った約三分の二は文献史料である。(傍点が断碑にある文字、インターネットは赤色表示)
俛*俛*横流其疾如箭修々征人停騎成市
欲赴重深人馬亡命従古至今莫知航竿
世有釈子名曰道登出自山尻恵満之家
大化二年丙午之歳構立此橋済度人蓄
即因微善爰発大願結因此橋成果彼岸
法界衆生普同此願夢裏空中導其昔縁
[来力]の別字。ユニコード52D1
俛*は、三水編に免。ユニコード6D7C
『帝王編年記』は宇治橋碑を実際に見て書かれていると思われる。しかし、石上銘に道登とあるにもかかわらず、道昭をも入れている。これは道昭説を無視できないと考えたからに他ならない。更に興味ある史料を見い出した。
『水鏡』(中山忠親著か。国史大系・前田家本)は、混乱した姿を示している。
大化二年ニ道證ト云物宇治橋ハ渡シ始メタリシ也。
つまり「道證」とし、道登とも道昭(證=ショウ)とも読みうるのである。しかも、『水鏡』は写本によっても異なり、専修寺所蔵本では「道登」に作り、尾張徳川黎明会所蔵本では「道昭」に作っている。『水鏡」は江戸時代の『道の幸』や西田直養の『筱舎漫筆』以来、ほとんどの論者はこれを道登説の書としてきたが、道登・道昭説としてもみることができよう。
以上の基本的な史料を、その文献の成立年代を基に、宇治橋に関するデータがどのように変遷したかまとめてみよう(表5宇治橋創建者に関する史料)。
従来、宇治橋の創建者をめぐって道登か道昭か、或いは両者かと論争のあるところであった。碑文をとれば、史料(『続日本紀』等)と異なり、史料をとれば、碑文にあるところと矛盾するという二律背反(アンチチノミー)を示していた。
既に狩谷[木夜]齋の『古京遺文』に、「蓋れ彼れ碑に拠りて道登と為さんと欲すれば則ち史と乖き、史に従ひて道昭と為さんと欲すれば則ち又碑と迂ふ。」と言わしめているところである。この難問を解きうる地平に、今や到達したのである。二律背反は、史料と碑を同等に扱うところから、「あれか、これか」或は「あれも、これも」と問うたのであった。
真の問題は、宇治橋碑は金石文としての同時代史料たりうるか否かと問われるべきであった。前節で、私達はこの点を他の金石文と比較、吟味しながら考察した所以(ゆえん)である。そこで得ることが出来た結論をまとめると次のようだ。 
まとめ
(1).宇治橋碑は断碑であり、『帝王編年記』を基に、江戸時代の一七九三年九月に今日の石碑は作製されたものである。
(2).原石碑部分と思われる断碑を他の金石文と比較して考察すると、界線は外枠・縦界線・割付ありを示す浄水寺南大門碑(七九〇年)と同じ特徴を示すから、延暦年間(七八二〜八〇六)と推定される。
(3).碑文を補って記載された「大化二年丙午」等の『帝王編年記』の記事(現在の宇治橋断碑)は、文献上の史料批判を行わなければならない。
(4).史料批判上、成立年代の早い史料が後代史料に優先するのは、文献学、考証学が示すところである。従って、『続日本紀』の「道昭和尚の創造する所」という史料が根本史料である。
以上の通りである。では、この結論は、宇治橋断碑についてどのようなことを明確にし得たのか、さらに歴史学上どういう意味をもつのだろうか。
従来は、宇治橋断碑をもって日本古代碑の“最古の石碑”として資料上扱ってきた。しかも、「碑面」の年紀に「大化二年丙午」とあることをもって建立年とみなし、『日本書紀』の「乙巳大化」(六四五年)の“実在”もしくは“流通”としてきたのである。
ところが、碑の実地調査、史料批判を厳密にすることによって得られたことは、現在の宇治橋断碑は『帝王編年記』によって補った文章であり、年紀「大化二年丙午」を建立年のこととみなすことは出来ないという事である。さらに今回明白にし得たことは、界線の技術の発達史、年紀のルールの存在である。このいずれの面からの分析でも、宇治橋断碑は七二〇年以前にはさかのぼれないのである。つまり、『日本書紀』成立(七二〇年)以後に、宇治橋断碑の「大化二年丙午」は成立しているのである。
この事実は重大な意味を提起している。『日本書紀』の「乙巳大化」(六四五年を元年とする)は、宇治橋断碑をもって証明とすることはできない。つまり、『日本書紀』の「乙巳大化」を根拠づける“金石文史料”は一つもない。この一点に帰結する。
この結論は、九州年号論、「大化改新」論等にさまざまな展開をもたらしうるであろう。又、なお、宇治橋断碑の問題点や研究課題も少なくはないのであるが、今は紙幅の都合上、この重大事実を報告するにとどめ、他日を期したい。 

(1)好太王碑は他の碑と比較して残存率は高い。大東急記念文庫拓本でも、判読可能な文字は、一五六七字、半分読めるものが二字、合計一五六九字分ある。王健群氏の推定される原碑の文字数、一七七五字からすると、八八・四パーセントであり、王氏の釈文では、□の不明字が第一面十六、第二面二四、第三面八○、第四面○で合計一二〇となり、残存率は九三・二パーセントである。
(2)建立者を区分するのに、「中央人・地方人」という区分をしているのが、今泉隆雄氏の「銘文と碑文」(『日本の古代14』『ことばと文字』所収)である。この区分は、今泉氏によれば「何といっても畿内は政治の中心地、文化の先進地であるのに対して、地方は政治の中心地から離れ、文化的にも遅れた面があるから、中央人と地方人の建立の碑の間には、大勢として、その出来ばえに格差がみられる」(同上書、五〇五頁)と言われる。だが、このような区分は正しく歴史的事実を把握しないばかりか、事実の具体的分析にも合わず、又偏見でしかない。「中央人」を近畿に限定しているところを見ると、近畿天皇家一元主義に毒されているとしか言えない。今泉氏も那須国造碑を実見されたら解るように、「碑として非常に優れたもの」(今泉氏の言葉)であり、氏の分析が誤っている証拠ではあるまいか。
(3)宇治橋断碑を『帝王編年記』によって補った文章から仏教用語を抽出すると次のような言葉がある。「釈子」「済度人畜」「微善」「大願」「結因」「彼岸」「法界」「衆生」「縁」。
(4)超明寺断碑は現存する断碑からは、3).の年号のみのタイプのように見えるが、断碑であり、全面的には解らないので、除外した方が厳密である。
(5)東野治之「日本古代の墓誌」『日本古代の墓誌』奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編、同朋舎参照。
(6)藪田嘉一郎『日本上代金石叢考』河原書店。
(7)『日本書紀』中の乙巳大化の存在への疑義を明確にした研究論文は、年号論を研究してこられた丸山晋司氏によれば、次の通り。佐藤宗諄「年号制成立に関する覚書」『日本史研究』第百号。原秀三郎『日本古代国家史研究』東京大学出版会。岡田芳郎「年号の始元」『日本の暦』木耳社。田中卓「年号の成立」『神道史研究』二五ノ五・六号。藪田嘉一郎『日本上代金石叢考』河原書店。重松明久「白鳳時代の年号の復元的研究」『日本歴史』第三一九号。
(8)新城新蔵『こよみと天文』一三二頁参照。
(9)重松明久氏前掲論文参照。
(10)丸山晋司「『朱鳥=九州年号』論批判」『市民の古代』第九集。
(11)一回目の調査は、一九八七年五月九日、広野干代子、小川澄子さんらのご協力を得た。二回目は、同年七月一九日「遺跡めぐり」として一行二十五名に同行して。
(12)福山敏男著作集六『中国建築と金石文の研究』を参照としたが、一部執筆者の判断で変えてある。
(13)「昔」か「苦」かは分れる。『帝王編年記』では「昔」に作る。拓本や碑文の観察では、「苦」に読みとりうる。
(14)道昭については、『日本書紀』孝徳天皇白推四年五月壬戌条に遣唐使随従の学問僧十三人の一人として記載されたのが初見である。次に、『続日本紀』文武天皇四年三月己未にかなり詳細な記述がある。道昭は文武天皇四年(七〇〇)に「時年七十有二」で死亡したとあるところから、生まれた年は舒明天皇元年(六二九)と逆算しうる。道昭の本貫は河内国丹比郡で、俗姓は船連、少錦下恵釋の子である。道昭は二十五歳で入唐し玄奘三蔵について勉強した。やがて、日本に帰ったが、その年代は斉明天皇七年(六六一)か、天智天皇四年(六六五)か二説に分れている。帰国後、元興寺の東南隅に別に禪院を建てて住み、天下行業の徒和尚に従って禪を学ぶ。その後、天下を周遊し、路傍に井を穿ち、津済に橋を架す等の善事を行った。十餘年にして勅によって還り、また禪院に住み、七十二歳にしてなくなったのである。 
 
多胡碑の「羊」と羊太夫伝承

 

一 はじめに
多胡碑の碑文中の「羊」とは何かについては、江戸時代以降今日に至るまで、説が分かれて枚挙にいとまがない位である。しかし、現在では、尾崎喜左雄氏(元群馬大学教授)が唱えた人名説が最有力となっている。尾崎氏は、「羊」とは吉井在住の新羅系の渡来人豪族の名前であるという。
一方、多胡碑は、地元吉井の人によって、羊太夫伝説の主人公羊太夫の墓と信じられ、神様として祀られてきた。
そして、羊太夫の子孫の第一に挙げられるのは小幡氏であり、次は多胡氏、その次は小暮(木暮)氏または甘田(天田)氏などであるといわれている。
ところが、江戸時代に筆録された羊太夫伝説によると、羊太夫は天児屋根命の子孫であるという。また、羊太夫伝説には、羊太夫が都へ日参するときの従者八束小脛には羽が生えており、戦に破れた羊太夫は蝶に化して逃げるという神話的要素がある一方で、羊太夫の家臣および討伐軍の将士の姓名ならびに戦闘状況などが戦国時代の様相を帯びている。しかも、羊太夫の子孫と言われている小幡氏は、祖先が勅命によって羊太夫を誅伐し、羊太夫の旧領を賜わって、小幡と改姓したともいわれている。
そこで、「羊」=新羅系渡来人説の根拠を検討し、次に、「羊」は、羊太夫伝説の羊太夫と同一人物といえるか否かを、羊太夫伝説の分布状況とその内容から検討してみよう。最後に、「羊」あるいは羊太夫の子孫は、果して小幡氏や多胡氏などかについて検討しよう。 
二 「羊」=新羅系渡来人説
「羊」は、新羅系渡来人であるという説は、江戸時代にも存在した。尾崎氏が第二次世界大戦後、この説を集大成し、多胡碑の所在地である吉井町をはじめとする群馬県の地方史誌では、定説的地位を占めている。
1新羅系渡来人説の根拠を列挙すると、次のとおりである。
(1).多胡郡は、和銅四年(七一一)に、甘楽郡から織裳・韓級・矢田・大家の四郷、緑野郡から武美郷、片岡郡から山等郷をさいて設置された。
甘楽郡は「カラ(韓)」の郡であり、織裳・韓級のような渡来した韓人の住地とみられる郷名がある。矢田郷は、現古君(韓矢田部造)が連れ帰った渡来人を安置した所と思われる。
(2).多胡郡の胡は、外国や外国人を指す。多胡郡は、渡来人の多く住居した郡である。
(3).『日本書紀』の仁徳天皇五三年(三六五)の条に、上毛野君の祖竹葉瀬の弟田道が新羅を征し、四邑の民を捕虜にしてきたとある。田道は、この四邑の民を、本貫地上毛野に移したと推定される。
(4).『続日本紀』の天平神護二年(七六六)の条によれば、上野国の新羅人子午足ら一九三人が吉井連と賜姓された。吉井連は、その名称から吉井に居住した。戸主一九三名は、四郷にあたり、新羅の四邑の民に相当する。
(5).上野国分寺跡から出土した文字瓦に「吉井」のへら書きのあるものが見える。吉井連が、寄進したものと思われる。
(6).吉井町大字矢田字千保原から「□井連里□」という、奈良時代の文字瓦が発見された。吉井連の一族の人名ではないかとみられ、吉井連が矢田郷に住んでいた物的証拠である。
(7).上野国分寺跡から「羊」とへら書きした文字瓦が多数出土している。多胡碑の「羊」が寄進したと推定される。
(8).吉井町大字黒熊字塔之峰からは、「羊子三」というへら書きの文字瓦が出土した。
(9).古代文献にみえる人名「羊」の出自は、その大部分が渡来人である。
(10).渡来人には、氏や姓がない者が多い。「羊」は姓氏を持たないので渡来人であろう。氏や姓のない者でも、郡司に任命された例はある。
(11).「羊」・「子午足」・「羊子三」の三人の名を並べてみると、順次関係ある人物のように思える。羊は未でもあり、子と午は十二支を代表するもので、子午足を羊の子とみることもできる。羊子三は、羊の子の三番目の子とみれば、子午足の三子という意味になる。
以上の論拠から、多胡碑の「羊」は、吉井在住の新羅系の渡来人豪族の名前である。多胡郡は、渡来人、特に新羅人を主体として、郡司には「羊」が任命されて建郡された郡である。そして、多胡碑は「羊」が建郡を祝って建てた記念碑であるという。
2それでは、「羊」=新羅系渡来人説の根拠を、順次検討してみよう。
(1).甘楽(良)郡の甘楽は、和名抄では「加牟良」と訓んである。甘楽に「カラ(加羅)」の名を立てるのは、「カムラ」の唱呼に背くという批判がある。「織裳」とは、裳を織ることで機織を指すというが、渡来人系の部といわれる錦織部・呉服部が郷名についているのとは異なる。織物の生産は、渡来人の独占ではない。魏志倭人伝では、倭国が倭錦・異文雑錦を貢献したという。「韓級(辛科)」にしても、シナ(科)とつく地名は更科・立科など多い。シナは樹名であって、カラシナは木綿布にも匹敵する柔軟な樹皮の名であり、信州秋山の樹皮製の衣服であるアンギンやバタも、韓人に学んだ織法ではないといわれている。「矢田」は、八田とも書かれ、邑楽郡にも八田郷がある。また、天平勝宝四年(七五二)上野国新田郡淡甘郷戸主矢田部根麻呂の名が、正倉院御物の墨書銘にみられる。現古君(韓矢田部造)は、新撰姓氏録によると、神功皇后時代の人で上毛野君の一族である。上毛野君の本貫は、群馬県東部(東毛)であるから、現古君の本貫も東毛にあり、連れ帰った渡来人も身近な所に安置したのではあるまいか。渡来人は、西毛よりむしろ東毛に在住していたと思われる。すなわち、勢多郡を中心として東毛には、渡来人が崇敬したと考えられる「村主」・「勝」と称する神社が九社ある。また、五世紀には、東毛では礫槨を主体部とする古墳が導入されるのに対し、西毛では舟形石棺を主体部とする古墳がみられるようになる。舟形石棺は、北九州の弥生期の割竹形木棺の系統を引く。東毛に本貫地を持つ上毛野君の一族は、招来した貴重な渡来人を、舟形石棺地域のような異なる文化圏に置くよりも、自己の本貫地に置いて、活用したのではなかろうか。
(2).多胡碑の多胡は、タゴと読まれ、多古とも書く。片岡郡にも多胡郷がある。多胡は、駿河・信濃・加賀・越中等にもあり、田子・多古等と通じる。タゴとは、通常は桶または農夫(田を作る人)をいい、胡人が多いという意味はない。また、「胡」は中国の北方に住む匈奴などを指す。奈良時代に「胡」が、韓人や渡来人を意味する言葉として使用された例があるのだろうか。
(3).田道は、上毛野君の祖であるから、本貫地も東毛であったと考えられる。新羅の四邑の民も、現古君と同じく西毛の吉井ではなく、本貫地の東毛に移したのではないか。
(4).吉井の地名は、古代からあったわけではない。天正一八年(一五九〇)徳川家康から、この地を与えられた菅沼定利が、城を築き、飯吉と称していたのを、吉飯のち吉井に改めて出来たものである。ところで、『箕輪軍記』(一七世紀以降成立)には、永禄六年(一五六三)の武田信玄の箕輪城攻めの際に、落城した小城の一つに吉井を記している。また、『後上野志』(江戸時代の地誌)に吉井は、北条の時松田尾張守康秀が住んだという。これらは、『箕輪軍記』・『後上野志』成立時の地名、すなわち飯吉が吉井に改められた後の地名でもって書かれていると思われる。それは、『後上野志』では、吉井は公田庄といい、壘城は町の北に在り、と述べているからである。なお、田道が虜とした新羅の四邑の民と上野国の新羅人子午足ら一九三人は、同一の単位として比較できるのであろうか。田道の頃の新羅の邑が八世紀の日本の郷と同一単位なのか不明であるし、『続日本紀』の書き方からみると、一九三人は一九三戸ではない。
(5).上野国分寺の僧寺・尼寺の中間点の東国分寺・元総社間道路拡張工事中「吉井」と「吉」と書いた文字瓦が出土している。一方、この文字瓦の「吉井」と全く同一人の筆跡とみられる「吉井」という文字瓦が、新田郡九合村東矢島道風山(現、太田市)付近の畠から出土している。この外に「吉」「手」「馬甘」と書いた、国分尼寺出土の礎出土のものと同様のものが発見されている。この地は、古くから「やくじ」と呼称され、多数の瓦片を出土しており、薬師寺という寺の跡と考えられている。東毛には、新田郡笠懸村鹿字山際阿佐見と同字田沢に、国分寺軒瓦生産窯と目されるものがある。この瓦窯は、国分寺だけではなく近くの上植木廃寺や寺井廃寺にも、瓦を供給していたことが判明している。多胡郡から新田郡へ瓦を運ぶ必要性は全くない。したがって、新羅人吉井連は、西毛の吉井町ではなく、上毛野君の本貫地の東毛に在住していたと考えるべきであろう。
(6).「□井連里□」の□井は、吉井と特定できない。吉井の近くには、平井、岩井、金井などの地名がある。これらの地名の方が、吉井よりも古い地名である。吉井は、江戸時代につけられた地名である。
(7).上野国分寺跡から出土した「羊」と書かれた文字瓦を、多胡碑の「羊」が寄進したとみることは許されよう。吉井町多比良字未沢には、国分寺軒瓦生産窯と認められるものがある。
(8).「羊子三」の文字瓦は、最近では「辛子三」と読むべきであるという説が有力である。
(9).正倉院文書にみられる羊には、北九州を中心に秦部羊が多くいる。しかし、物部羊など渡来人とはみえない羊も多数おり、羊とあれば渡来人というわけではない。
(10).多胡碑の「羊」が姓氏を持っていないとは断定できない。多胡碑は、羊が一人称で書き、他の三面のいずれかに姓氏を名乗っていたと考えられる。青木昆陽は「夜話小録」(延享二年、一七四五)で、「碑文の右に大文字ありつる様に見ゆ、後ろと左の方より今の正面の文字の見ゆる所まで碑文書続けたる様なり、今の正面は元来碑の左なるべし、三面は文字欠て見へず」という。
(11).羊・子午足・羊子三は、順次関係ある人物であるという説明は想像の域を出ない。吉井連子午足が東毛に在住し、羊子三は辛子三となると、三者は関係がない。
(12).渡来人を以て建郡する場合には、『続日本紀』はその旨を明記している。
すなわち、霊亀元年(七一五)七月「尾張国の人外従八位上席田君邇近及び新羅人七十四家を美濃国に貫し始めて席田郡を建つ」、霊亀二年(七一六)五月「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七国の高麗人千七百九十九人を以て、武蔵国に遷し、始めて高麗郡を置く」、天平宝字二年(七五八)八月「帰化新羅僧三十二人、尼二人、男十九人、女二十一人を武蔵国の閑地に移す。ここにおいて、始めて新羅郡を置く」とある。
また、『日本書紀』・『続日本紀』とも、東国における新羅人の動向については、かなり詳細に記述している。
ところが、『続日本紀』は、多胡郡を別置するに当って、新羅人には全く言及していない。
3以上により、多胡碑の「羊」が、新羅系の渡来人であるとするには、その根拠が極めて薄弱であるといわざるを得ない。
なお、韓級郷(吉井町神保)の辺を百済庄といったことがあったり、天平勝宝八年(七五六)の東大寺献物帳の御屏風百畳に該当するといわれる、正倉院御物の楷布屏風の袋の墨書銘に「上野国多胡郡山那郷戸主秦人高麻呂庸布一段」というものがあるので、多胡郡に渡来人が住んでいたことは確かであろう。しかし、これらから直ちに、多胡碑の「羊」が渡来人であるともいえない。 
三 羊太夫伝説
羊太夫伝説で、筆録された写本や地方史誌等に集録されているものは、私が調査しただけでも二十数種ある。
各種の羊太夫伝説にほぼ共通するストーリーは、次のようなものである。
昔、この地に羊太夫という者がいて、八束小脛という従者に馬を引かせて、都に日参していた。あるとき、羊太夫が昼寝をしている小脛の両脇を見ると羽が生えていたので、いたずら心から抜き捨ててしまった。そのため、羊太夫は参内できなくなった。
朝廷は、羊太夫が姿を見せなくなったので、謀反を企てていると考え、軍勢を派遣し羊太夫を討伐した。落城間近となった羊太夫は、蝶に化して飛び去ったが、池村で自殺した。
ところで、羊太夫伝説の羊太夫が、多胡碑の「羊」と同一人物であるとするには、羊太夫伝説の分布と内容が、和銅四年(七一一)多胡郡の郡司となった「羊」にふさわしいものでなくてはならない。 
1 そこで、羊太夫についての伝承がある寺社・旧跡・地名・行事などの名称を列挙し、それらの創立年・所在地・伝承内容を紹介しておこう。
1.若宮八幡藤岡市牛田
羊太夫の奥方を祀る石宮。羊太夫の家臣中尾源太宗永の子孫という中尾喜代三氏の家の前にあった。現在は、椿森神社(藤岡市本郷)に合祀。羊太夫を攻める軍勢が牛田を通り、多胡へ向ったという。
2.宗永寺元和元年(一六一五)藤岡市上落合
羊太夫の菩堤寺。中尾(長尾)宗永の開基。宗永は、この地の郷士で、織田信長に仕えたともいう。宝積寺(宝徳二年・一四五〇、甘楽町小幡、小幡氏の菩堤寺)の末寺。
3.七輿山古墳六世紀中期藤岡市上落合
羊太夫の妻妾七人が自害し、輿とともに葬り、塚を築く。羊太夫の墓ともいう。落城して、羊太夫の一族がこの地で落合ったので、落合の地名が起る。
4.般若寺藤岡市白石
羊太夫自身が書写した大般若経一巻を納めた。また、普門品一巻を、白石の野塚に納めた。
5.延命寺文禄元年(一五九二)吉井町黒熊
小幡羊太夫の家臣黒熊太郎の古跡。宝勝寺(大同二年・八〇七、甘楽町金井)の末寺。
6.随雲寺永禄年中(一五五八〜一五七〇)吉井町馬庭
羊太夫の龍馬が、雲に乗って去った古跡。
7.龍馬観世音吉井町馬庭
堂内に八束小脛の像がある。そばの神馬橋は、羊太夫の白馬が倒れた所。羊太夫が乗馬の調教をした所を馬庭という。
8.今泉吉井町今泉
羊太夫が秘蔵した名馬を出した所。馬泉といったが、後今泉という。羊太夫の名馬を埋めた所を馬埋といったが、後今泉ともいう。
9.多胡碑和銅四年(七二)吉井町池
小幡羊太夫宗勝の遺骸を埋葬して、碑を建立した。羊太夫の墓。
10.弥勒寺鎌倉時代(一一九二〜一三三三)吉井町小棚
羊太夫真筆の大般若経の一節がある。実物は、慈光寺にある貞観一三年(八七一)安倍小水麻呂(羊の孫ともいう)が書写させた大般若経の一節。
11.辛科神社大宝年間(七〇一〜七〇四)吉井町神保
多胡郡の総鎮守。私部羊(比都自)太夫が祖神として速須佐之男命、五十猛命を祀る。明治年間、塩野光清(羊太夫の家臣)を祀る鎧神社(吉井町塩)を合併した。
12.八束観音寺寛永年間(一六二四〜一六四四)吉井町神保
羊太夫の守本尊千手観世音(伝、行基作)を祀る。明治一八年廃寺となり、仁叟寺(応永年間・一三九四〜一四二八、吉井町神保)に安置。仁叟寺には多胡碑の模刻がある。
13.蓮勝寺和銅年間(七〇八〜七一五)吉井町塩
羊太夫の菩堤寺。羊太夫が武運長久を祈らしめた。明治四〇年延命院(延徳二年・一四九〇、吉井町吉井)に合併され、延命密院となる。
14.八束城跡戦国期?吉井町塩
城山ともいう。羊太夫の居城跡。近くの東谷・塩境の山中に、羊太夫の足跡という岩がある。
15.塩不動尊吉井町塩
羊太夫が、軍用金を埋めた所。
落城して羊太夫が近くの落合(吉井町東谷)に来たときの歌が残っている。
朝日さす夕日輝く駒行かず、小判千枚朱が千枚。
16.大沢不動尊奈良時代(七一〇〜七九三)吉井町東谷・大沢
藤原将監勝定夫妻が、不動尊に祈願し、羊太夫宗勝が生まれた。近くに、羊太夫が乗って天から降りてきたという舟石がある。近くの城山の中腹から不動尊に、羊太夫が鳥になって通り抜けた鳥穴という長いほら穴がある。羊太夫謀反の時、官軍が朝敵討滅を祈誓した。不動尊に、鳥穴という間道があることを教えられ、ここから攻めたので、八束城が落城した。境内末社に、多治比真人を祀る多胡社がある。明治一〇年、大沢不動尊を住吉神社と改称した。
17.長根吉井町長根
羊太夫がいた所。ここから牛に乗り、毎日大内裏に参観した。
18.新屋甘楽町新屋
上野国権大目となった羊太夫が、新しい屋敷を建てた。羊太夫の屋敷跡がある。
19.城山(天引山・朝日嶽)甘楽町天引
羊太夫が砦(望樓・城)を構えた所。
20.萩宮神社甘楽町小幡(善慶寺)
羊太夫を慕って都から来た姫、小萩の方が、羊太夫の死を知って、悲嘆の余り病歿したので、村人が石碑を建て葬った。近くに、小萩の乗って来た白牛が、水を飲んだ牛井戸という所がある。八束小脛の墓ともいう。
21.諏訪・熊野両社霊亀年間(七一五〜七一七)甘楽町小幡(町谷)
境内の宗福寺の鎮守縁由・再興を記した石碑(元文五年・一七四〇)に、霊亀年中、開基小幡の宗祖安芸藤松朝臣貞行が、天引邑の小幡羊太夫を勅令によって誅伐し、上信武三国を賜わり、小幡と改姓したとある。石碑の全文は、次のとおりである。
當山鎭守之縁由並再興之記
蓋案當山鎭守熊野三所懽*現者當寺開基小幡之宗租*安
藝藤松朝臣貞行人從碓氷勸請*也又諏訪上下明神右之
城主當子元正天皇靈亀年中恭敕命而誅伐天弓邑小幡
羊太夫宗勝(雄)士之後四邑建立上下之神殿是其一
也於是從朝廷賜貞行上信武三箇國姓改小幡云云□□
□□立二宮共□記草當固有故乎考和漢合(避)等(鍵)
元正天皇靈亀年中至元文年中凡□□□餘年也傳聞兩
社*之神宮創建之後□□年□而□□顛*倒也是故貞行公
末孫小幡左衛門尉高行人將造営佛□□□村再修□□
□□□□□□而及干荒廃也以此當邑之願主同其志欲
再修造之而應其分量持処再(禹*)以為工人之料也於
時元文五申年使同(秋畑村)匠人中條清臣全斧□鑿
之功矣伏願依此功不(中)力(□)土長□□□□
□□不侵當所安穏而千祥永生也詞白
兩社神宮三所殿造營再就既千
願依不宰功勲力餘祐永傳万〃年
元文五庚申稔九月吉祥日小幡山崇福*禪
寺嗣法小沙門播龍祖*快謹誌
図の「再興之記」を見て確認して下さい。
懽*は、阜偏の代わりに木編。
顛*の別字。JIS第3水準ユニコード985A
請*、禹*は表示できず。
租*、社*、福*、祖*の禾偏は、示編です。
22.厳島神社養老年間(七一七〜七二四)甘楽町小幡(轟)
安芸広島の人、広島宿弥が、小幡羊太夫を討滅し、厳島より勧請した。
23.国峰城跡甘楽町秋畑
始め羊太夫、後に小幡氏が住んだ所。秋畑の枇杷沢から片角という所に行く途中の川の沿岸に、大磐石があり、羊太夫の足跡があった(現在は、砕かれてない)。
24.羊太夫の産湯の井戸甘楽町秋畑(内久保)
羊太夫が産湯をつかった井戸。近くの宇野明神のあたりが、羊太夫の誕生地。羊太夫は、八束小脛ともいわれる。羊太夫は成長後、田篠に住み、一族が機織に従事したので、小幡と呼ぶようになった。
25.那須の獅子舞甘楽町那須
羊太夫は、那須で獅子舞をやった。藤岡市小柏下組、下野田その他藤岡市近辺では、羊太夫に獅子舞の伝授を受けた部落は多い。
26.牛田城跡甘楽町額部
羊太夫の居城、後牛田太郎に留守させた。
27.城山百八燈の火祭富岡市高瀬(大島)
羊太夫は大島に築城し、山城を神農原・野上に築いた。毎年、盆の一六日夜、城山に百八燈をともして、羊太夫一族の供養をしている。
28.七日市富岡市七日市
羊太夫が滅亡した時、配下の者が椿森に住みつき、この森で七のつく日に物々交換の市を開いた。
29.貫前神社教倒四年(五三四)富岡市一宮
神主小幡(一宮)氏は、羊太夫の子孫ともいう。しかし、貫前小幡文書には、その様な記載はない。一二月一二日の御戸開祭の前夜には、つじう団子(ひつじ団子)を作り、小萩の枝にさし神仏に供える。
30.南蛇井富岡市南蛇井
服部連は、百済から伝わった仏像を難波の堀に投げ込んだ罪で、那佐郷(南蛇井)に流された。この地で服部連と妻玉照姫との間に生まれた菊連の子が羊太夫である。羊太夫は、南蛇井三郎に愛馬を引かせて、八束小脛と共に南都に日観した。南蛇井三郎は、羊太夫の一番西の南蛇井の城を守った人。その居趾という所がある。
31.野殿安中市野殿
討伐軍の大将安芸国住人広島宿弥長利が本営を設けたことに由来する。
32.羊神社安中市中野谷
氏子の多胡氏は四〇戸あり、羊太夫を祀る。多胡宮羊太夫宗勝神儀位の石碑がある。
33.羊太夫の墓寛政九年(一七九七)安中市下秋間
石の小祀で、多胡寿男家の墓地にある。多胡碑全文を刻した石碑も、近くの公民館裏にある。この地には、多胡姓が一〇余戸ある。
34.多胡神社榛名町上里見(東間野)
上里見の間野・谷ケ沢・上神には、多胡姓が多い。この多胡氏の氏神・多胡羊太夫を祀る。多胡宮羊宗勝神儀位の石碑(寛延元年・一七四八)がある。
落城間近、羊太夫は嫡子宗顕、孫宗量の二人を派遣して、仮屋二軒を作って、一族の到着を待ち受けさせた(「二ツ屋」と呼ぶ)所が、近くにある。鳶に化けた羊太夫主従三人が飛んできて落ちついた「一ノ鳶」「二ノ鳶」「三ノ鳶」という地名が近くにある。
35.権田栗毛倉淵村
権田(倉淵村)の長者が、羊太夫の仁徳を聞いて、栗毛の駿馬を献上した。
権田栗毛は、天子谷の観音(吉井町)となった。
36.釈迦尊寺朱鳥二年(六八七)前橋市元総社
羊太夫の墓がある。中臣羽鳥連・妻玉照姫・子菊野連は、守屋大連の一味同心として、蒼海(元総社)に流罪となる。後、大赦を受け、菊野連の子青海(中臣)羊太夫は、玉照姫が聖徳太子から譲り受けた釈迦牟尼仏の安置所として、釈迦尊寺を建立した。羊太夫は、南都へ日帰し、名産落合芹を献じ、和銅年中、片岡・緑野・甘楽三郡に多胡郡を添えて賜与された。多胡郡に移り、小幡羊太夫と改姓した。
37.八束脛三社宮寛文七年(一六六七)月夜野町後閑
八束脛命を祀る。羊太夫の兵尾瀬八束が逃げのびた洞窟がある。
38.六句(供)村前橋市六供
小幡城主安芸守熊出将監が、神亀二年(七二五)長男須二郎に城を譲り、旅に出てここに居住。翌年正月庭先で前多胡郡領主羊太夫の守本尊千手観音を発見し、羊太夫にならって六ケ寺を建立して六句村と号した。
39.羊山(ツジ山)埼玉県児玉町河内(神子沢)
採鉄鉱跡と和銅遺跡がある。羊太夫が採掘した。
40.門平皆野町門平
城峰山の東側中腹の部落門平は、羊様が毎朝上州から来て、黒谷で鉱山を掘り、夕方には帰って行った所である。
41.聖神社和銅元年(七〇八)秩父市黒谷
自然銅を神体として金山彦を祀る。上州では、羊太夫を祀るという。羊太夫は、秩父の高麗若光にざん言されて、多治比真人や藤松朝臣貞行の大軍に攻められて、池田城で自殺した。
42.妙音寺聖武天皇の時代(七二四〜七四九)秩父市栃谷
近くの経塚山の頂上にあった経塚を、境内に再興、立札に「一説に羊太夫の納経とも言われている」とある。
43.法性寺小鹿野町長留
池村から秩父に移り住んだ羊太夫が、般若一六の地で、一六善神の助筆により大般若経を書写し、その残巻六巻がある。慈光寺のものとは異なる。
44.御塚小鹿野町般若
上円下方墳。羊太夫の墓。少し離れた旗居にある満留山様も、羊太夫の墓という。御塚の東方、道路を隔てて麦畑の辺が、羊太夫の邸宅の跡。
45.石宮様小鹿野町般若
石宮を祀り、現在は長若神社という。そばに羊太夫の墓がある。
46.慈光寺白鳳二年(六七三)都幾川村西平
貞観二二年(八七一)前上野国権大目従六位下安倍小水麻呂(羊太夫の孫という)が、願主となって書写させた、大般若波羅密多経一部六〇〇巻のうち一五二巻が残されている。
47.諏訪神社甘楽町天引
羊太夫が勧請した。羊太夫の氏神。近くに羊太夫の屋敷跡がある。 
2 以上のように、羊太夫伝説は、主として群馬県西南部を西から東に流れる鏑川流域に沿った地域と秩父地方が、主要な舞台となっている。
この羊太夫伝説の分布と伝承内容を検討すると、次のような疑問がわいてくる。
(1).羊太夫は、甘楽郡に生まれ、主として甘楽郡に居を構え、甘楽郡から多胡郡にかけて城砦を築き、何の障害もなく秩父で銅の採掘をし、かつ住居を持ち、甘楽・多胡・秩父の三郡の支配者であるかのように振るまっている。和銅・養老の頃に、甘楽・秩父には、他に郡司はいなかったのであろうか?
羊太夫伝説では、羊太夫は広域・大規模な反乱を起しているのに、『続日本紀』に記録されていないのは何故なのか?
(2).羊太夫は、小幡から奈良の都へ日参したという。史実であるとすると、奈良の都への日参は不可能である。しかし、千里馬のような駿馬に乗れば、関東の王者の都へなら日参は可能であろう。例えば、あの稲荷山鉄剣銘にあるカタシロ(通説ではワカタケル)大王のシキの宮(栃木県藤岡町ーー古田武彦氏の説)は、甘楽郡から、四〇キロ位の所にある。
(3).羊太夫の従者八束小脛は、羽が生えており、羊太夫は落城間近になると蝶(または鳶)となって飛んで逃げたという。
この神話的英雄の姿は、『日本書紀』神功皇后九年(二〇九)の条の「荷持田村に、羽白熊鷲という者有り。其の為人、強く健し、亦身に翼有して、能く飛びて高く翔る。・・・層増岐野に至りて、即ち兵を挙りて羽白熊鷲を撃ちて滅しつ。」という説話を想起させる。古田武彦氏は、羽白熊鷲を撃滅した女王に、卑弥呼以前の筑紫統合の始源の女王の姿を見、『日本書紀』の編者が「日本旧記」から切り取り、神功との接合を企図したものであるという。羽白熊鷲撃滅譚は、筑紫における神話の時代の説話であろう。そうすると、羊太夫伝説も、関東における神話の時代の説話ではないか?
羊太夫伝説の中にも「神代か人皇の代かはっきりしないほど昔、羊の大夫という人があって、この方は天下を総べられる王様の血統をひく尊いご身分であられたが、何かわけがあって都からはなれたこちらの地方へお下りになり」というものがある。
(4).羊太夫の配下が逃れ住んだという七日市は、碓氷峠を越えて討伐に来た軍勢が侵攻してきた方角である。また、七日市は、吉井町・甘楽町のすぐ近くで、大敗北を喫した後の隠れ場所としては適切ではない。これらは、羊太夫は大和朝廷の派遣軍に討伐されたのではないことを物語っている。一方、羊太夫の妻女は、七輿山古墳の方向へ逃げたというが、そちらは関東の王者の都の方角である。関東の王者から攻撃されたのであれば、逃げ出す方角ではない。そうすると、羊太夫は、それらの王者によって討たれたのではなく、近くの豪族によって討たれたと思われる。その豪族は、羊太夫を討つ大義名分を得るために、関東の王者の了解をとりつけたであろう。
これに対応するかのように、羊太夫伝説のなかには、「羊太夫の力が強くなると、恐れられて、近くの大将に攻められ、つぎつぎに城が攻め落され、最後に残った大島の城も落されてしまった」というものがある。この近くの大将に該当する者として、戦国期の上州武士として名高い小幡氏の遠い祖先をあげてみたい。小幡氏には羊太夫を討ったという伝承があるからである。
この場合、霊亀年間(七一五〜七一七)あるいは養老三年(七一九)小幡氏の宗祖安芸国藤松朝臣貞行(あるいは安芸住人広島宿弥長利)が、討伐軍の総大将として安芸国から派遣されたという伝承が問題である。
しかし、これは小幡氏の系図のなかに、始祖氏家の父を赤松播摩守則景とするものがあり、則景が安芸国に在った時、源頼朝が伊豆国で挙兵したので、はせ参じ関東にとどまったとしていること、および文和元年(一三五二)頃に小幡右衛門尉が安芸国兼武名に知行を持っていたことの反映と思われる。小幡氏自身は、奈良時代に安芸国から移住してきたとは主張していないし、小幡在住の古来からの家系であるという。
また一方で、小幡氏は羊太夫の子孫であるという伝承もある。ただし、小幡氏のどの系図にも、羊の子孫と書かれたものはない。
これらは、小幡氏の祖先が羊太夫を討った後の一時期、羊太夫のかつての領地を治めるには、朝命によって誅伐したという大義名分だけでは足りず、羊太夫の子孫であるといわなければ(そのためには、生き残った羊太夫の一族と婚姻関係を持ったであろう)領民を統治できない位、小幡羊太夫の名声が高く、かつ一族の力が強かったことを示唆しているように思える。
(5).『神道集』(文和・延文年間・一三五二〜一三六一)においては、羊太夫は、履中天皇の時代(四〇〇〜四〇五)の人として登場する。すなわち「赤城大明神の事」の中で、「群馬郡の地頭伊香保大夫は、利根川より西の七郡中、最も足早で有名な羊の大夫という人を呼び出して、手紙を書き、二人の姫君と父大将の自殺のことを都へ報告した。」「この羊の大夫は、午の時(正午)に上野国の多胡庄を出発して都へ上れば、未の時(午後二時)には都の指令を受けて、申の時(午後四時)には国もとへ帰着するので羊の大夫と呼ばれる」と紹介されている。
小幡氏については、『神道集』の「那波八郎大明神の事」の中で、光仁天皇の時代(七七〇〜七八一)の上野国甘楽郡尾幡庄の地頭尾幡権守宗岡として現われる。宗岡の娘尾幡姫が高井の岩屋の大蛇の餌として献げられるところを三条の宮内大夫藤原朝臣宗成(保延四年・一一三八死去)の子の宮内判官宗光に助けられる。宗光は上野国司となり、宗岡は目代となる。そして、多胡郡の鎮守辛科大明神は、宗光のことであり、本地は文殊菩薩であるという。
『神道集』は、比叡山東塔の竹林院の里坊である安居院によって、唱導の材料とするために編集されたものであるといわれている。その評価は、「伊香保大明神の事」の中で、「大宝二年(七〇二)壬寅の年より延文三年(一三五八)戊戌の年に至るまで七百一年なり」のように年数計算が合わない個所が多いため、荒唐無稽なものとされている。
しかし、『神道集』に現われる羊太夫と小幡氏の時代設定と人物像の相対的比較はできるであろう。これらの物語を聞く西上州の民衆にとって、この二名は著名な人物であったはずで、時代設定と人物像が当時の伝承と異なっては、聞くに耐えないものとなる。
そうすると、『神道集』が編集された一四世紀中葉には、羊太夫は、多胡碑の「羊」のような奈良時代の初期の人とは異なり、もっともっと古い時代の超能力を有する神話の世界に出てくるような人物と理解されていたことを示している。これに対して、小幡氏の描写は、羊太夫に比べて極めて現実的で、当時、小幡氏が奈良時代には甘楽郡の在地豪族であると思われていたことを反映している。
(6).羊太夫伝説では、羊太夫は養老五年(七二一)頃滅亡する。しかし、多胡碑の「羊」は、上野国分寺に羊の文字瓦を寄進している。上野国分寺は、天平一三年(七四一)頃、聖武天皇が国分寺・国分尼寺の造営を発願した後、天平勝宝元年(七四九)碓氷郡の石上部君諸弟、勢多郡の上毛野朝臣足人の両人が上野国分寺に智識物を献じ、共に外従五位下を賜わっているので、その前後には完成し、その後は補修がなされていると思われる。そうすると、「羊」は、養老五年(七二一)頃に滅亡しているどころか、上野国分寺に羊の文字瓦を寄進する位、益々繁栄していたのではないか? 
3 以上から、羊太夫伝説の羊太夫と多胡碑の「羊」は、同一人物ではなく、存在した時代、支配圏、臣従した王者が異なっているといえよう。
すなわち、羊太夫は、関東における神話の時代の人、あえていえば、弥生時代から『神道集』にいう五世紀初頭までの間のどこかに存在した人物であろう。
古田武彦氏は、羊とは日辻ではないかという。あたかも、卑弥呼を日甕(ヒミカ)と読むように。名古屋市北区辻町(山田庄辻村)に、延喜式内社羊神社があり、土地の人は、羊を要路の辻でもあったように考えていたことから、羊を日辻と考えてもよいのではあるまいか。
羊太夫(大夫ともいう)の「大夫」については、魏志倭人伝に「古より以来、其の使中国に詣るに、皆大夫と称す」とある。大夫は、関東の王者の下での称号でもあったのであろうか。 
4 羊太夫伝説は、『神道集』に取り上げられる以前から、西上州の民衆に親しまれていたと思われる。しかし、羊太夫伝説の羊太夫が、多胡碑の「羊」と結びつけられて語られるようになり、その内容も素朴なものから修飾過剰な戦記物へと変化したのは、多胡碑が一八世紀初頭土中から掘り出されて世間の注目を浴びるようになってからである。江戸時代に筆録された羊太夫伝説で、一八世紀以前に遡るものは一つもない。
江戸時代に筆録された、羊太夫伝説は、天正一八年(一五九〇)、豊臣秀吉の小田原攻めの時、北条方に味方して、甘楽の所領を失った小幡氏を偲び、羊太夫没落の姿と二重写しにして書作されたと思われる徴憑が至る所に認められる。
羊太夫の家臣の名前は、主として地名から取られている。塩野小太郎光清は吉井町塩、南蛇井三郎忠綱は富岡市南蛇井、山中六郎清次は神流川谷の山中領、鮎川七郎経政は藤岡市鮎川、中尾源太宗永は藤岡市の宗永寺のように、武田信玄が西毛に侵攻して来る以前の小幡氏の勢力圏を暗示している。羊太夫討伐軍の碓氷峠越の攻撃状況の描写は、永禄九年(一五六六)の信玄による西上州七郡の攻略や、天正一八年(一五九〇)小田原の役の際の秀吉の北陸支隊が碓氷峠から攻め込み、西毛を席巻し、小幡氏の国峰城を落城させた有様などを下敷としているようである。
そして、勅命によって小幡羊太夫を討ち、甘楽郡とその周辺の土地を朝廷から賜わり、小幡と改姓したということによって、江戸時代の今も小幡氏が甘楽一帯を支配する大義名分を持っていると、暗に主張しようとしているようにみえる。
江戸時代に筆録された羊太夫伝説は、小幡氏に深く心を寄せていた地元の人々によって、その原型が作り出されたように思われる。 
四 羊・羊太夫の子孫
小幡氏は、羊太夫の子孫の第一に挙げられているが、すでに述べたように、むしろ羊太夫を討伐した側であろう。多胡碑の「羊」でないことも明らかである。
小幡氏の出自から現在までの系譜については、白石元昭氏が「関東武士上野国小幡氏の研究」(昭和五六年)などで、実証的な研究成果を次々と発表している。
同氏は、1).羊太夫伝説を通じて、地元では小幡氏を極めて古い家系と認識している、2).小幡氏は、古代より甘楽地方に居住した地方豪族郡司層に発する、3).小幡氏は、鎌倉時代を通じて表面的にはさしたる勢力ではなかった、という。
次に、小暮(木暮)氏については、その系譜に羊太夫に関する伝説を掲げているものがあるという程度ということしか判明していない。甘田(天田)氏については、小幡氏の家臣にいたということ位で、見当もつかない。
そこで、多胡氏が羊・羊太夫の子孫といえるか、検討してみよう。
西毛における多胡氏には、二流ある。一つは、片岡郡多胡郷(榛名町上里見)の多胡氏である。もう一つは、多胡郡(吉井町)に発する鎌倉武士として著名な多胡氏である。
1片岡郡多胡郷の多胡氏
倭名抄の片岡郡の条に多胡郷がみえる。この多胡の名は、群馬郡榛名町大字上里見字多胡(碓氷郡里見村大字多子)に残存しているといわれている。字名の多胡・多子は、現在は資料を探しても見当らないが、多胡郷は鳥川右岸の現群馬郡榛名町里見一帯(特に、上里見)とされている。里見は、あの『里見八犬伝』で有名な安房国の里見氏の発祥の地である。
里見氏は、新田源氏の支族であるが、中世の里見氏の系譜の中に多胡氏の部将名がみえるという。この多胡氏と、多胡碑の「羊」や羊太夫伝説の羊太夫と結びつける伝承があったのかどうかは、不明である。
榛名町上里見の多胡氏は、いつ頃からこの地に住みついているのか判らないが、このほか、安中市下秋間と安中市中野谷に多胡氏がまとまって住んでいる。群馬県では、この三ケ所が多胡氏の多い地域である。
この多胡氏は、羊太夫の子孫と称し、「多胡羊大夫由来記」という江戸時代に筆録された伝説本を持ち、間野の多胡神社に羊太夫を祀り、三月九日の多胡郡建郡の日には同族祭を行なっている。また、多胡神社の境内には、寛延元年(一七四八)建造の多胡碑文を彫った多胡宮霊羊宗勝神儀位という石碑がある。しかし、系図は持っていないし、先祖の墓石銘も江戸時代以前のものはない。
現在のところ、この多胡氏が、多胡碑の「羊」や羊太夫伝説の羊太夫の子孫であるという確実な証拠はないといえよう。
2多胡郡の多胡氏
『吾妻鏡』には、多胡の地名を苗字とする鎌倉幕府の御家人が何人かみえる。これらの多胡郡出自と考えられている多胡氏が、「羊」の子孫であるという説は、従来みられないが、検討してみよう。
(1).『万葉集』には、多胡の地名を読み込んだものが二首あるが、奈良時代の多胡郡について記録したものはほとんどない。
ただ、天平一〇年(七三八)多胡郡山部郷五十戸が法隆寺食封となったこと、天平一三年(七四一)多古郡八□郷の上毛野朝臣甥が調布を貢進したこと、天平勝宝八年(七五六)多胡郡山那郷戸主秦人□□高磨が調布を貢進したこと、がみえる位である。
平安時代末期になると、仁平三年(一一五三)源義賢(為義の二男、義朝の弟)が、多胡庄を領し、多胡先生と呼ばれていたことが知られている。
義賢は、秩父二郎大夫重隆の養君となって、武蔵国児玉郡帯刀に住し、次いで武蔵国比企郡鎌形大蔵館に居し、都へ通ったという。義賢は、大蔵館で久寿二年(一一五五)悪源太義平(義賢の甥、頼朝の兄)に殺された。その時、義賢の子義仲は、二歳であった。
治承四年(一一八〇)源頼政が、平氏打倒の兵を挙げたのに呼応して、頼朝や木曽義仲をはじめとする各地の武士が挙兵した。義仲は、亡父義賢のゆかりの地多胡庄へ入ったが、関東には頼朝がいるので、勢力を張るのを断念して、信濃に退去した。多胡氏の中には、多胡次郎家包のように、義仲に従って行ったものがみえる。
(2).多胡氏は、鎌倉時代には御家人として登場する。この鎌倉期の多胡氏が、義仲の頃の多胡氏と系譜を同じくするかは、多少問題もあろう。多胡氏の鎌倉期から以降の動向は、次のとおりである。
文治元年(一一八五)勝長寿院供養に、頼朝の随兵中に多胡宗太の名がある。
建久六年(一一九五)奈良東大寺供養にも、頼朝の随兵中に多胡宗太の名がある。
承久三年(一二二一)宇治合戦で手柄をあげた者に多胡宗内がいる。
嘉禎四年(一二三八)将軍藤原頼経が入洛の際、随兵中に多胡宗内左衛門太郎の名がみえる。
正嘉二年(一二五八)将軍宗尊親王が二所に参る時、随兵中に多胡宮内左衛門跡多比良小次郎がいる。小次郎は、多胡氏の同族で、跡目を継いだものであろう。多比良は、多胡と隣接する地名である。
元弘三年(一三三三)楠木正成の蜂起に対し、幕府は追討軍を編成したが、その中に多胡庄の多相(胡)宗次跡がみえる。
観応二年(一三五一)足利尊氏派の武将佐々木高氏が多胡庄の地頭となったが、神保・小串・瀬下らの国人衆が入部を阻止し、その後も争っている。
その後、多胡氏がみえるのは、永祿四年(一五六一)上杉謙信が関東諸豪二五一家の家紋を集祿した「関東幕注文」の中に惣社衆として、多胡(二ひきりやう)とあるのが最後である。多比良氏は、二ひきりやうすそこ、と出ている。
(3).多胡郡の多胡氏は、有道姓児玉党の系譜に属するといわれている。有道氏の祖遠峯(延久元年・一〇六九死去)は、藤原伊周の子で伊周左遷の時、武蔵に下向して有道氏を称した。多子(多胡)氏は、遠峯の孫保義の系統に入っている。小幡氏も、遠峯の孫行重の系統である。また、児玉党と秩父氏は、同族関係にある。
児玉党の系譜は、婚姻関係と地縁による緩い結びつきによって、在地豪族が貴種を盟主として、一族の政治的保身を図ったもので、血族関係を示すものではないという。
小幡氏が古代からの在地豪族であるように、多胡氏もその可能性が高いと思われる。
多胡氏は、西上州の名門であったとみえ、摂関家流藤原氏の流れをくむ大中臣氏と婚姻関係を結んでいる。大中臣氏は、中世中期頃までに作成された「大中臣氏略系図」(桐村家所蔵)によると、常陸国中軍荘、那珂東西郡の地頭である。
(4).ところで、辛科神社には、源頼朝が寄進したと伝えられる懸仏がある。
この懸仏には、左側隅の円板の縁にそって建久八年(一一九七)大戈丁巳十二月二十六日、その内側に源大将頼朝と刻まれている。右側には大勧進惟宗入道小勧進清原国包とある。したがって、寄進者は惟宗氏と清原氏である。
この惟宗氏については、従来、吾妻鏡や正木文書に名がみえる鎌倉幕府の要職にある者と推定されている。そして、惟宗氏は、渡来人である秦氏の子孫であるから、辛科神社は渡来人によって崇敬されていたという。
しかし、武蔵国小代(勝代)郷(東松山市正代)の児玉党武士である小代氏の系図には、小代重泰右衛門次郎の母は、多胡宗内左衛門尉惟宗親時女と書かれている。多胡氏は、惟宗姓との複姓である。多胡氏は、惟宗氏と主従関係を結んでいたのであろう。
小代重泰の父重俊は、宝治元年(一二四七)北条氏が三浦氏一族を全滅させた宝治合戦の時の勲功の賞として、肥後国野原荘の地頭に任命され、以後その地の在地豪族として活動している。
そうすると、多胡宗内左衛門尉惟宗親時は、辛科神社の懸仏を寄進した惟宗入道と時代的に近く、同一人である可能性があろう。そうでなくても、仏門に入った多胡氏のなかの一人が、地元の辛科神社に、その本地文殊菩薩の懸仏を寄進したと考えてよいのではあるまいか。
(5).さて、武蔵国比企郡多比良村(埼玉県比企郡都幾川村西平)の慈光寺には、「羊の大般若経」といわれるものが、一五二巻現存する。
「天台別院都幾山慈光寺実録」(享和元年・一八〇一)によると、前上野国権大目従六位下安倍朝臣小水麻呂が、祖父「羊」の志を継ぎ、貞観一三年(八七一)大般若経六百巻の書写を完結して、慈光寺に納めたという。しかし、上野国権大目であった小水麻呂が、なぜ武蔵国の寺院に奉納したのか、疑問がある。
小水麻呂は、権大目という地位からみて上野国在地の人であろう。そして、「羊」の孫であるとすれば、「羊の大般若経」は本来、上野国多胡郡内の寺院に奉納されたと思われる。吉井町には、奈良時代の寺院跡と推定される所として、池字岡、馬庭字東、黒熊字塔之峰などがあり、瓦が多量に出土している。
そして、慈光寺の所在地多比良が、多胡郡の多比良と同じ地名であることは、古くから注目されていた。源義賢の大蔵館があった鎌形は、慈光寺のある都幾山への唯一の登山口に当り、距離的にも近く、比企郡多比良は義賢の所領の一部であったと思われる。義賢は多胡庄も領していたので、多胡庄の住人多比良氏が慈光寺の所在地一帯を開き、多比良と命名したのであろう。
「羊の大般若経」は、多胡氏と同族で跡目を継いだ多比良氏によって、戦乱を避けて多胡郡から慈光寺へもたらされたのではないだろうか。
多比良氏は、多比良豊後守友定が、天正一八年(一五九〇)の小田原の役の際、上杉景勝の先鉾藤田能登守信吉に降り、滅亡した。
(6).「羊の大般若経」を書写した、安倍朝臣小水麻呂が、多胡碑の「羊」の孫であるという資料は、前述の「慈光寺実録」以外にはない。
安倍朝臣と上野国の関係は、弘仁六年(八一五)から元慶八年(八八四)にかけて、上野介などに任ぜられていることが『三代実録』などにみえる。その中で、注目すべきは、安倍朝臣貞行が、貞観七年(八六五)上野介に任ぜられ、同八年には、百姓を使役して四四七町の水田を開発していることである。
推測すれば、「羊」の孫小水麻呂らも水田開発に協力し、安倍朝臣を名乗るようになったのであろう。そして、古代の郡司層など在地豪族は、苗字を変えながら後世に至っていることから、安倍朝臣も地名の多胡へと変化していったのであろう。
多胡碑の「羊」と鎌倉武士の多胡氏とを結ぶ確かな糸は、まだ見出せない。しかし、従来、多胡氏については、ほとんど研究がなされていないので、今後、徹底的に研究してみる価値があるといえよう。 
五 おわりに
多胡碑の「羊」の解明に当っては、甘楽・多胡の古墳時代の状況も検討する必要がある。古墳時代のこの地の豪族が八世紀以降も引き続き勢力を有していたと考えられるからである。小幡氏は、まさにそのような在地豪族であろう。多胡氏も同様と思われる。しかし、ここでは紙数の都合もあるので、問題点を指摘するにとどめる。
尾崎喜左雄氏は、その著書『上野国の古墳と文化』(昭和五二年)の中で、甘楽・多胡は渡来人が開発・居住したという前提に立って、この地の古墳の型・石室・出土物を検討しているが、渡来人がそれらの古墳を築造したと断定できず困惑している。例えば、尾崎氏は、甘楽郡の初期古墳である北山茶臼山古墳からは、三角縁画文帯盤龍鏡・玉類・刀類と三種の神器様のものがセットで出土しているので、渡来人が造ったものか疑問であるとしながら、一方で渡来人との関係を無下に否定することはできないであろうと、説明に窮している。
吉井町多比良の「先祖の塚」古墳からも、玉類・刀・鏡が出土している。五〜六世紀になると、甘楽・多胡には舟形石棺がみられる。その後も、渡来人独得のもので、渡来人によるものとしか説明できないような古墳はない。三種の神器様のセットや舟形石棺が北九州に淵源するものであることを承認できれば、古墳時代の甘楽・多胡は、倭人勢力の影響下にあったといえよう。
多胡碑の「羊」は、新羅系渡来人というより、むしろ倭人であろう。多胡碑は、永正六年(一五〇九)釈宗長の『東路の津登』に、その存在が記録されている。その後、戦国時代の戦乱の中で忘れ去られたのであろう。一八世紀初頭に至って、土中から掘り出されたときには、すでに碑文の「羊」とは何かについては、伝承を失っていた。多胡碑の研究に当っては、「羊」=新羅系渡来人説にとらわれることなく、新たな視点から取り組まなければならない時期がきているといえよう。 
 
最後の九州王朝 / 鹿児島県「大宮姫伝説」の分析

 

1 地方伝承と多元史観
古田武彦氏は多元史観により、九州王朝の存在とその滅亡に至る過程を明らかにされた。白村江の敗北を契機に九州王朝は近畿なる天皇家に取って代わられるのだが、その後も九州は半独立性を保ち続けた。古田氏はその著書『失われた九州王朝』において、十一世紀前半においても中国に朝貢を続けようとした「日本国太宰府」の存在を『宋史』より見いだされ、また、『三国史記』の記事から、九世紀始めに新羅が倭国(九州王朝の後裔)と「契約」を結ばんと画策して挫折したことを引用し、「この段階においても、なお、九州は一種の“半独立性”の残映をもって、朝鮮半島側には映じていたようである。」と指摘された。
これらは滅亡後の九州王朝の残映を記した貴重な史料であるが、いずれも国外史料である。九州王朝の存在が歴史的事実ならば、国内史料あるいは伝承が残っている可能性があるのではないか。残念ながら九州王朝の実在を直接証明できる国内史料は、近畿天皇家による歴史の改竄湮滅により見ることができない。ただ、古田氏の提唱された多元史観によって『記・紀』『風土記』など古代文献に内在する矛盾の史料批判により九州王朝の片鱗を垣間見ることができるだけである。とすれば、地方伝承も同様の史料批判をもってすれば、新たな歴史の真実が見えてくるのではないか。だが、そのような伝承が今も残っているのだろうか。
九州の南端、鹿児島県に不思議な伝承がある。「大宮姫伝説」と呼ばれている伝承だ。現在でも鹿児島県各地に大宮姫に関する伝承が語り継がれている。伝承によれば、大宮姫は天智天皇の妃とされ、天智天皇遷行説話とワンセットとなっている場合が多い。この伝承が『記・紀』の説話と矛盾することから、江戸時代においても俗信にすぎないと否定(1)され、現在に至っている。この「大宮姫伝説」に多元史観による史料批判を試みたのが本稿である。
(1)『三国名勝図会』第二十四巻「薩摩國頴娃郡」に大宮姫伝説批判が展開されている。 
2 「大宮姫伝説」の概要
「大宮姫伝説」は鹿児島県各地に存在しており、内容に若干の相違はあるものの大筋においては次の通りである。(2)
孝徳天皇の白雉元年庚戌の時、開聞岳の麓で鹿が美しい姫を産んだ。その姫は二歳の時入京し、十三歳で天智天皇の妃となったが、訳あって都を追われ開聞岳に帰って来た。その後、天智十年辛未の年、天智天皇が姫を追ってこの地に来られ、天智天皇は慶雲三年に亡くなられた。年齢は七十九歳であったと言う。その天皇の後を追うようにして大宮姫は和銅元年に五十九歳で亡くなられた。
といった内容であるが、『開聞古事縁起』は修飾を加えて、更に詳しく記している。以後『開聞古事縁起(3)』(『縁起』と呼ぶ)の史料批判を中心に論証を進めることとする。
(2)『日本伝説大系・13』所収「大宮姫」参照
(3)『修験道史料集(2)』五来重編所収 
3 大宮姫の同定
大宮姫伝説は明治二年の排仏棄釈において俗信として否定され、『縁起』の原本もその時に焼却されたという。現存している『縁起』の内容も『紀』の影響を色濃くうけ、近畿天皇家との関連でストーリーが展開されている。したがって、史料処理の方法として脚色と考えられる部分を省き、大宮姫当人の生涯のみを抽出してみると表一の様になる。
表一
西暦縁起に記された年代大宮姫の年齢縁起に記された事柄
六五〇孝徳天皇白雉元年庚戌二月十八日開聞神(大宮姫)誕生。
二歳入京。陸地ヨリ御上洛。
六六五天智天皇・四年乙丑十三歳皇后となる。
六七二天武天皇白鳳元年壬申十一月四日五十九歳薩州頴娃郡に着く
七〇八元明天皇和銅元年戊申六月十八日亡くなられる。
『縁起』によれば、大宮姫の生涯でそのハイライトとも言うべき事件は二歳で入京し、十三歳で天皇妃となったことである。このような人物に比定しうる存在をこの時代に見いだすことは、はたして可能なのだろうか。もしできなければ「大宮姫伝説」は定説通り俗信に過ぎないとされるであろう。が、しかし幸いにも一人だけ大宮姫に比定しうる人物がいる。
『続日本紀』文武天皇四年条(西暦七〇〇)に、次のような記事がある。(4)
薩摩の比売・久米・波豆、衣評督の衣君県、同じく助督弖自美、また肝衝の難波、これに従う肥人らが、武器を持って、覓国使刑部真木らをおどして物を奪おうとした。そこで、竺紫の惣領に勅して、犯罪の場合と同様に扱って罰を決めた。
この記事は文武四年六月にあるが、薩摩の比売らが刑部真木らをおどしたのがこの時なのか、罰を決めたのがこの時なのか今一つはっきりしない。しかし、この事件の前段の記事を見るとはっきりしてくる。関係記事を抜粋しよう。
文武二年四月文忌付博士ら八人を南嶋に遣わして国を求めさせた。そのために武器を支給した。
文武三年七月タネ・夜久・奄美・度感等の人々が、朝廷から遣わされた官人に従って都に来て、上地の産物を貢献した。身分に応じて位を授け、物を賜わった。
同年八月南嶋の貢献した品物を、伊勢大神宮および諸神社に奉納した。
同年十一月文忌付博士、刑部真木らが南嶋から帰って来た。地位に応じて位を進めた。
以上である。このような経過の後に、先の文武四年六月の記事へと続くのである。一連の記事を分析してみよをう。文武二年四月、大和朝廷は武装した文忌付博士ら南嶋へ朝貢を強要する為に派遣する。その結果、翌年七月南嶋より貢献を受ける。そして恭順した南嶋の人々に大和朝廷の冠位を授けることにより、支配下に組み入れることに成功する。そして大任をはたした刑部真木らに昇進の栄誉をほどこす。貢献の品物を伊勢大神宮に奉納していることなどから、大和朝廷にとっては記念すべき成果に違いない。しかし、それは百パーセントの成功でなかったことが、続く文武四年六月の記事で露呈する。
南の島々は貢献したが、九州南端の薩摩・大隅(肝属)そして肥の一部は武力でもって刑部真木らを追い返し貢献を拒否したのである。ようするに、大和朝廷は九州南部の自国組み入れに失敗したのである。そのことは次のことからも推察できる。
1).刑部真木らの帰国は南嶋貢献の約四カ月後であり、まだやり残した任務があったと考えられる。その任務とは薩摩など九州南部の国々への貢献強要であろう。
2).刑部真木らを武力で追い返した薩摩の比売らの処分も、「犯罪に準じて罪を決めた」だけで、早いはなしが何ら実効的な処罰を行なった形跡がない。
3).『続日本紀』によると、この後も隼人の“反乱”が続いており、九州南端の大和朝廷支配はまだ先のことである。
したがって、文武四年六月の記事はこれまでの分析から、「罰を決めた」時点のことであり、刑部真木らが襲われたのは、文武三年十一月の刑部真木ら帰国の直前の事と考えるべきであろう。いよいよ、最初の問題に移ろう。大宮姫に比定しうる人物とは、大和朝廷への恭順を武力でもって拒否した、九州南部の国々の代表者「薩摩の比売」この人である。論拠を述べよう。
1).『続日本紀』の薩摩の比売と大宮姫は同時代(七世紀から八世紀)の人物である。
2).大宮姫は頴娃郡の人であり、薩摩の比売も衣評督らを従えており、同地域の人である。
3).いずれも名前に「ひめ」を称号しており、「王」に継ぐ位である。
以上の点から、かなりの確率で、二人が同人物であると考えてよい。したがって、大宮姫伝説を定説通り俗信とするべきではない。歴史上実在した女性として捉え直す作業が必要である。そして、真の間題はここから始まるのである。
(4)『続日本紀』の現代語訳はいずれも東洋文庫『続日本紀』直木孝次郎他訳注による。 
4 最後の女王「大宮姫」
従来、大宮姫伝説が俗信とされて来た根拠は次の様な点である。
1)天智天皇にこのような名前の皇后はいないし、薩摩から妃を迎えたこともない。
2)天智四年、十三歳で皇后になったとあるが、若すぎるように思われる。
3)『縁起』の通り孝徳天皇白雉元年の誕生であれぱ天智四年は大宮姫十六歳にあたり、十三歳に皇后になったとする記事と矛盾する。
こうした事情から大宮姫伝説は俗信として否定され、開聞神社(枚聞神社)の格を上げるため、神社側が造作したものと言われている。検討してみよう。
まず1)であるが、『続日本紀』の分析から大宮姫を大和朝廷と結びつける必要はない。むしろ大和朝廷と対立する勢力、すなわち九州王朝との関係に注目すべきであろう。それは、文武四年六月の記事でも明らかなように、薩摩の比売に従った人物が九州王朝の官名「評督」「助督」を名乗っていることは示唆的である。また、後にふれるが『縁起』には九州王朝最末期の年号「大長」が記されている。このことからも、大宮姫伝説が枚聞神社関係者の造作とは言えず、九州王朝の伝承を受け継いだものと考えることができる。
このことは当然のこととして、大宮姫は、天智の皇后ではなく九州王朝の王妃であったことを導きだすのである。そう考えれば3)の矛盾も一つの解決法を見いだすことが可能である。それは年代を『日本書紀』の影響から切り離し、丸山晋司氏の精力的な研究により深められた「九州年号論」を基準に史料批判することで明らかとなった。論証してみよう。
「孝徳天皇白雉元年庚戌」から『紀』の影響と考えられる部分を取ると、「白雉元年」となりこれは丸山氏作成の九州年号モデルによれば、六五二年である。次に、「天智四年乙丑」だが、同様にこの時期に即位した九州王朝の王の即位四年と見れば、「白鳳四年」がその候補として上がる。この白鳳四年は同モデルによれば六六四年となリ、六五二年に生まれた大宮姫はこの年ピタリ十三歳である。考えてもみてほしい。『縁起』が造作であれば、ハイライトをなすべき大宮姫の皇后即位の年齢が矛盾するようなヘマはしないはずである。むしろ、『縁起』における大宮姫の年齢の混乱は、白雉元年に誕生し十三歳で皇后に即位したという九州王朝の伝承を、九州王朝の存在そのものが忘れ去られた後代において、『縁起』の編者が、「公認」された書紀の歴史観との齟齬に苦悩しながらもぎりぎりの所で伝えきった結果と言うべきであろう。私は、このことに深い驚きを禁じえないのである。
さて、最後に2)の疑問に移ろう。正直に告白すると、この問題は最後まで私を困らせた。それは次のような理由からである。大宮姫十三歳、六六四年という時期は九川王朝が白村江で唐・新羅の連合軍に大敗北を喫した翌年であり、九州王朝の王・筑紫の君薩野馬は捕虜となっているのだ。王が敗戦により捕虜となって不在という異常事態に、十三歳のしかも遠く離れた薩摩出身の少女が皇后に即位するのは常識的に考えておかしいと思ったのである。薩野馬に代わり新たに即位した王の妃になったのでは、とも考えたがそれならば改元されてもよさそうなものだが、この後も「白鳳」は続いているのだ。したがって、王の交替はなかったと考えなければならない。
ならば大宮姫の皇后即位は何を意味するのか。この疑問を解くヒントになったのは読者もよく御存じの次の文章であった。
卑弥呼以て死し、大いに冢を作る。径百余歩。殉葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々相誅殺し、当時千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女、壹与年十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まる。(5)
そう、魏志倭人伝の、一節である。卑弥呼亡き後、乱れた倭国を十三歳(ただし二倍年歴による)の壹与を女王に擁立することにより、倭国の危機を回避した記事である、この四百年後、白村江の敗戦による再度の王朝の危機にあって、新たに新たに王をたてるわけにもいかず(捕虜とはいえ、薩野馬は生きているから)、かといって代表者不在のままでは統率がとれない。そうした国家存亡の窮地に、九州王朝の官僚たちの脳裏に倭人伝の一節が思い浮かんだかも知れない。緊急避難的に壹与と同じ十三歳の大宮姫は王朝存続のシンボルとして有効であると、女王にまつりあげられたのではないか。とすれば、国難を回避できた壹与とは別の運命をたどった悲運の女王の姿が見えてきそうだ。九州王朝最後の女王を大宮姫伝説に垣問見ると言ったら、あまりに空想的であろうか。
(5)現代語訳は『倭人伝を徹底して読む』古田武彦による。 
5 「天智天皇」の同定
本稿の冒頭で大宮姫伝説は「天智天皇遷行説話」とセットになっているケースが多いと述べたが、大宮姫実在を論ずる以上、天智天皇説話についても、多元史観による分析がなければ片手落ちとなろう。『縁起』に記されている天智天皇の行動を抜粋すると次のようだ。
1)天智天皇十年辛未十二月三日大長元年、都を出て太宰府へ着く。その後、薩摩へ行き大宮姫と再会。
2)慶雲三年丙未三月八日、七十九歳にて頴娃郡で亡くなる。
記事が少ないので不十分ではあるが、分析してみよう。まず明らかなことは、この記事の人物は天智天皇のことではない、という点である。大宮姫が九州王朝の「女王」とすれば、この「天智」も九州王朝の王であると考えるべきである。既に述べたように、この時期の九州王朝の王は筑紫の君・薩野馬と考えられるのであるが、『縁起』からは直ちに断定できない。が、興味ある一致点が見いだせたりもする。天智が死んだ年にその人物が太宰府に現れ、後に薩摩に来るのであるが、天智十年に登場する人物を私達は知っている。その人物は白村江の敗戦により唐の捕虜となり、天智十年に筑紫に帰国した筑紫の君・薩野馬である。『縁起』をそのまま信用するならば、薩野馬はこの時四十歳前半となる。
また、『縁起』ではこの年を大長元年とも記しているので、そちらが正しければ六九二年のこととなる。これ以上のことは『縁起』からは推測することはできない。
既に述べたことだが、『縁起』に大長年号が使用されていることは重要である。最後の九州年号が九州南端の地の神社縁起に見えることは、大宮姫伝説における「天智天皇」が九州王朝最後の天子であることの証拠とも言えるからだ。
以下、筆者の想像であるが、天智十年、唐での捕虜生活を終えて倭国の地に帰り着いた薩野馬を待っていたのは、九州王朝に代わり倭国の代表者を自認する大和朝廷の九州進出と大和朝廷に恭順する、かつての九州王朝朝系の豪族ではなかったか。太宰府を始め、筑前、筑後、肥後の九州王朝直系の豪族達はもはや敗残の薩野馬に見切りをつけて、新たな実力者近畿なる大和朝廷へ走ったと思われる。太宰府においては、もはや代表者ではなくなっていた薩野馬は、遠く薩摩の地に落ちのびる。そこにはまだ大和朝廷への服属を拒否し、徹底抗戦を主張する「衣評督」等がいた。そして王妃「大宮姫」がいた。さらに想像を逞しくするならば、薩野馬の母方の出身もこの地ではなかったか。母の出身地「薩摩」、そして九州王朝発祥の地「邪馬壱国」から、それぞれ薩と邪馬(野馬)を名前にした。そのようにも思えるのである。そうすると、薩摩出身の大宮姫を王妃に迎えた理由も分からぬでもない。正史『続日本紀』に記された九州王朝の残映「衣評督」、そして鹿児島県頴娃郡の地の寺社縁起に記された「大長」、これらが指し示すところは、もはや偶然の一致ではなく最後の九州王朝がこの地に存在したという「事実」である。 
6 朝闇神社「筑紫舞絵馬」との共通点
大宮姫伝説の研究は様々な副産物をもたらしてくれた。たとえば、謎に包まれていた朝闇神社の絵馬の図柄についても、九州王朝の宮廷雅楽であったことを示唆する証拠が発見できた。報告したい。『縁起』には、都(本稿の論証の帰結として太宰府のことと見るべきである。)を離れた大宮姫を慰めるために舞われた神楽や、九月九日に神社に奉納される五人の男による神楽と八人の乙女の事が記されている。そしてこの「五人神楽男八乙女」というモチーフこそ、例の朝闇神社の絵馬の構図と同じなのである。絵馬では中心の人物を八人の女官がとりまき、その前で五人の山伏が踊っているのだが、それと同じ内容が『縁起』には記されているのである。『三国名勝図会』にも興味深い記事が見える。第二十四巻薩摩国頴娃郡の項に「土曲歌謡」として次のように記載している。
此邑の土曲に設楽曲(しだらぶし)とて、其歌謡十二章あり、手にて節奏をなし、三弦等の楽器を用ひず歌曲古雅にして、近世の俗謡と異なり、土人博えていふ、是上古大宮姫、京都より當國に下り給ひし時より始まるといへり、(後略)。
ここにも、九州王朝と現地の舞楽との関係を示唆する伝承が収録されているのである。一史に「五人神楽男八乙女」についての探索を続けよう。朝闇神社の絵馬と『縁起』の記述だけでは偶然の一致とも考えられるからだ。朝倉の南、筑後川を挟んで神籠石で有名な高良山がある。神籠石に囲まれて、筑後一宮の、高良大社が鎮座しているのだが、大社には中世末期に成立した縁起『高良記』が残っている。その『高良記』に次の記事を見いだした。
高良神楽ハ異国征伐ノ時ノ次第ナリ、毎日ヲコタラス。住古高良諏訪熱田三嶋五人の神楽男ノ子ヲヒウセリ。皇后河上宝満カレコレ八人ノ女房ヲヒウセリ。
『高良記』には白鳳年号も散見され、九州王朝と関わリの深さを感じさせるのだが、そこにも記された「五人神楽男八乙女」というモチーフが、もはや九州王朝や筑紫舞と無関係とは言えないように思われる。ここからも大宮姫伝説の持つ歴史の真実がうかがわれよう。「五人神楽男八乙女」については今後更に調査を続けたい。 
7 「別府」の仮説
もう一つの副産物を紹介しよう。それは別府という地名についてである。日本地図を調べてみてわかったのだが、別府という地名は鹿児島県に大変多い。リーダーダイジェスト社のホームアトラス『日本列島』によれば次の通りである。
鹿児島県別府(べつぷ)枕崎市
別府(べっぷ)頴娃町
別府川姶良郡
別府原河辺郡
南別府河辺郡
東別府河辺郡
上別府指宿郡
淵別府指宿郡
西別府鹿児島市
五ケ別府鹿児島市
横別府肝属郡
他府県についても「別府」そのものに限り挙げてみよう。
大分県別府(べっぷ)市
福岡県別府(べふ)福岡市
佐賀県別府(べふ)多久市
山口県別府(べふ)熊毛郡
別府(べっぷ)美祢郡
島根県別府(べっぷ)西ノ島町
別府(べっぷ)邑智町
鳥取県別府(べふ)八頭郡
広島県別府(べふ)佐伯町
別府(べふ)東広島市
別府(べふ)豊栄町
高知県別府(べふ)香美郡
兵庫県別府(べふ)加西市
別府(べふ)加古川市
別府(べふ)神戸市
大阪府別府(べふ)摂津市
以上であるが、何かに気づかれないだろうか。そう、これら「別府」地名群は西日本に偏っているのだ。しかも、よく見るとその分布の中心は近畿ではない。九州あるいは広島である。以上の事実から一つの仮説を提起したい。
太宰府が一時期、都督府と呼ばれたことが『紀』などからあきらかであるが、一方九州王朝の行政単位に「評」があり評督という官名が存在していたことを考えれば、その所在地が「評督府」と呼ばれていた可能性は大きい。したがって都督府の太宰府に対して、評督府を「別府」と称したのではないだろうか。そう考えれば、別府地名群が筑紫の太宰府と吉備の太宰を中心に分布していることが説明できるのである。以上、「別府の仮説」として読者に提起する。 
8 最後に
『開聞古事縁起』と『続日本紀』を中心に論証を進めてきたが、九州王朝最末期の姿を復元することが僅かではあるができたのではないかと思っている。古田武彦氏が提唱された多元史観を地方伝承に適用する方法は有効であったと言える。また、歴史上の人物を同定する方法についても古田氏が卑弥呼と風土記の甕依姫とを同定された手法(6)を参考にしたものである。
年代における史料批判は丸山晋司氏の九州年号研究の成果に負うところ大であった。更に、鹿児島県当地における大宮姫伝説の研究状況については指宿市の小川亥三郎氏のご教示を得た。記して感謝したい。
最後に、本稿で提起した「五人神楽男八乙女」の論証、「別府の仮説」については引き続き研究を深めていきたい。あわせて、読者の御批判を願う。
(6)『古代が輝いていたI』古田武彦著 
 
九州年号 / 古文書の証言

 

「大化」年号について
わたくしにとって、『失われた九州王朝』を書いて以来、一貫して“気にかかって”きたテーマがございました。課題です。それは「大化」という年号の問題でした。『日本書紀』『続日本紀』の中で、「大宝」以後、現在に至る“連続年号”は一応問題ないとして、問題は、それ以前に「三つの飛び飛び年号」があることです。「大化」と「白雉」と「朱鳥」ですね。孝徳天皇の前半が「大化」、後半が「白雉」ですね。七世紀の半ば(六四五〜五〇、六五〇〜五四)です。それからしばらく飛んで、天武天皇の最後の年、六八六年に、一年だけ「朱鳥」です。それから、また飛んで、七〇一年から「大宝」以降の“連続年号”がはじまるわけです。
しかし、考えてみると、「年号」が“飛び飛びに”ある、というのは、おかしいですよ。「年号」というのは、「時の基準尺」になるものですから、そのためには、“連続してつける”ということが、最低の必要条件。それなしには、ナンセンスです。
また、権力者が「年号」をつけうる状態にあるときには、これほど簡単なことはない。学者に命じれば、その学者は一晩あれば、「年号」ぐらい作れますよね。慎重に考えてみたにしても、一週間もあれば楽に作れるんじゃないですかね。そして権力者はそれを「公布」すればいいだけです。ですから、これほど権力者にとって、何の苦労もなしに“できる”ものはないわけです。それなのに、いったん作って、またやめる。やめて、しばらくして、また作る、なんていうことは、考えられないわけです。ですから『日本書紀』の“飛び飛び年号”の存在は、理解できない。人間の理性から見て、理解できない史料の状態であるわけです。
さて、右の三つの中の二つについては、『失われた九州王朝』で論じました。「白雉」と「朱鳥」ですね。どちらも、九州年号にある年号です。そこから“飛びこんだ”わけです。九州年号とは、六世紀前半から七世紀末まで、三十幾つの年号があるのですが、その中に「白雉」と「朱鳥」があるわけです。
この二つの年号が一方で九州年号にあり、他方で近畿天皇家の年号(『日本書紀』)にある。とすれば、どっちかが本物で、どっちかが“にせもの”。まかりまちがっても、両方とも本物、ということはないわけです。いうなれば、「共に天をいただかず」ということになりますね。
とすると、わたしが九州年号を「実在」と考えた場合、「白雉」は本来、九州年号側の「白雉」、「朱鳥」も本来、九州年号側の「朱鳥」、当然そうなるわけです。これをいいかえますと、近畿天皇家側はこれらの年号を「引用」した。ハッキリ言えば、「盗用」したことになるわけです。
ところが、そのように考えると、「大化」も当然、同じように考えるべきであった。なぜかというと、「大化」という年号も、九州年号の中に出てくる年号だからです。もっとも、古写本の中にいろいろちがいがあって、「大化」のあるものも、ないものもあるのですが、ともかく「ある」ものが存在することは、事実です。
ところが、わたしは、『失われた九州王朝』では、この「大化」だけは、ふれませんでした。保留課題だったのです。というのは、一つの「障害物」があって、そのため、ふれることができなかったのです。それは、京都の宇治にある、「宇治橋断碑」でした。そこに「大化二年丙午之歳」と書かれた金石文があった。金石文ですよ。これを簡単に否定するわけにはいかない。しかし、先ほどの論理からすると、これも当然九州年号の「盗用」と考えざるをえない。そう見るべきであるし、また金石文は無視できないし、ということで、これはあとであつかう保留テーマにしよう、ということだったのです。
ところが、この点、鋭く着目されたのが、丸山晋司さんでした。『市民の古代』の第五集(一九八三年)に載った「『大化』年号への疑問」という論文がそれです。今回、新泉社から出された『合本、市民の古代』第二巻にも収録されています。この合本はすばらしい企画ですね。
ここで丸山さんは、「古田は、『白雉』と『朱鳥』だけ扱って、『大化』は扱っていない。しかし『大化』も全体の進行と同じように考えるべきではないか。『大化』だけをその時代の年号として考えるのおかしい」。こういう主旨だったと思います。わたしはその論文を読んで、まさにその通りだと、わたしの本をよく読んで下さったと思ったわけです。だから、「反論して下さい」と丸山さんから言われると、「反論どころではありません。問題はあの『宇治橋断碑』を越えることです」というふうにお答えしたのを覚えております。
さてその後、去年の秋ですが、藤田友治さんがわたしのところへ来られたことがきっかけとなり、この問題をわたしの家で検討させてもらったところ、不思議にも話をしているうちにその歴年の障害物がとれてしまった。といいますのはこの前言いましたように、今問題になっていた「大化二年丙午之歳」という表現は石碑の表に書いてある。つまり、記載文面の中に出てくる年代である。かんじんのあの石碑ができた年代、普通だったら石碑の裏にあるべきものですが、それは現在残念ながら見つかっていない。断碑であって、上部三分の一ぐらいしか現物は残っていないのですから。そのために石碑ができた年代を知ることができない。それで同時代史料として使うことができない。従来の古代史の学者はプロの研究者を含めてほとんど全部の方がこれを今の「大化年代」の同時代史料としてみているのが通説だったわけですが、もし同時代史料として使いたいなら、そのためには、最小限「七二〇年以前」にこの石碑ができていたことを証明しないといけない。もちろん「大化二年」に石碑ができたということを証明できればもっといいわけです。しかし、どんなに遅れても、まず「七二〇年以前」にこの石碑はできていたということをまず証明すべきである。七二〇年というのはもちろん『日本書紀』ができた年であります。『日本書紀』ができた後の段階でしたら、『日本書紀』に、三つの飛び入り年号(大化・白雉・朱鳥)が七世紀半ば以後にありますので、当然「大化二年丙午之歳」といった形式で書かなければいけないわけです。京都のおひざ元近くで、『日本書紀』のルールに全く反する書き方ができるはずがない、この方が原則なのです。いわば『日本書紀』に従わざるをえない段階の書き方で、『日本書紀』を裏づける金石文(同時代史料)では、何らないわけです。ところが誰も今までこれを使用する場合に、「この石碑が七二〇年以前に造られた」という論証をしてから使った研究者は、大学の学者もふくめて誰もいないのです。まんぜんと「大化二年」銘の石碑がここにもある、という文脈で使っているのがほとんどである。ですから、これは本来、同時代史料とみなすべきではなかったのです。ということがわかってきました。
そうするとこの「大化」は、本来やはり「九州年号」にある「大化」ーー年代が少し後で七世紀の終り近くにあるのですが、ーーこれが実在の「大化」である。これをもってきて『日本書紀』の編者は、六四五年の記事を書いたということになるのです。では『日本書紀」は「三つの年号」をなぜ使ったかというと、その秘密は「神功紀」をみればわかる。「神功紀」でも『三国志』の魏志倭人伝の中から三つだけ卑弥呼の記事をもってきて使っているのです。そしてこれを神功皇后にあてている。と同じに壱与の記事も一つだけもってきて、同じく神功皇后にあてているわけです。ということは、卑弥呼、壱与の業績は「ヤマト」とは別の倭国の女王であると、『日本書紀』の編者たちはあきらかにそのことを知っていたわけですが、たしかに二人がひとりの人物でありえないことを、嘘であることを知りながら、“神功皇后ひとりにあてる”ことをやったわけです。同じく、今度は天皇家の年号でないことを、嘘であることを知りながら年号を三つだけもってきてあてているのです。
こういう新しい偽りの歴史づくり、これをやることが『日本書紀』にとって一番重要な目的の一つである。耐えられないことではあるけれど、そう判断せざるを得ない。だから『日本書紀』ができた「七二〇年以後」は、近畿天皇家以外に卑弥呼や壱与がいるなどと言うものがいたら、これは偽りの歴史を語る者である。また、問題の三つの年号を、本来は「九州年号」として実在だったなどという人がいたら、それは「偽りの歴史」を述べる者である。ーーこういう立場に立つことを宣言したのが、七二〇年『日本書紀』という「一大偽書」の成立である。
「偽書」・・・偽りの本という言葉の定義が今まで本気で行われてはいなかったわけです。はっきり言うと、要するに『日本書紀』に書いてあること、あるいは近畿天皇家一元主義に従っている内容でないものは「偽書」であると、こういう「偽書」の使い方が一般的であったと、わたしは思うのです。いまは時間が無いので詳しくは論じませんけれども。ずばり結論的に言えば。それはもうイデオロギー的な判断に立つ、ものさしに立つ「偽書」の定義である。本当の「偽書」とは、「故意の偽り」いわば一種の「犯意」があるものです。嘘と本人が知っていながら、なおかつこれが正しい歴史であると称して書いたら、これはまさに「偽書」です。まちがう場合、本人が正しいと思って書いたが今見るとそれはまちがいでしたと。このケースは「偽書」とは言えません。“判断がまちがっていた”だけですから。ところが、書いている本人がそれは真赤な嘘とわかっておりながら、それを本当の歴史であると称して書いたら、これは「偽書」です。わたしは「偽書」の定義を議論する時間は無いのですが、ズバリ言えばこれが「偽書」の、地球上どこへ行っても通る定義だと思います。その定義によれば、『日本書紀』は残念ながら「一大偽書」なのです。もう本人が嘘だと知りながら書いている景行天皇の九州大遠征、あれも筑紫の国の九州平定統一譚を、主語を切りかえて書いてある、とわたしは判断するわけです。これも完全に「偽書」の手法ですが、こういう「偽書」の手法が『日本書紀』には各処に見られるわけです。もちろん、ここで使われた材料その他において『日本書紀』は、ひじょうに重要な、人類にとっても非常に重要な意味をもっていることを、わたしは最近痛感しているのですが、今日はそれを申し上げる時間がないのが残念ですが、またつぎの折にでもお話できることと思います。
『日本書紀』は、史料としては「古いもの」を使っておりますから、それは非常に貴重な意味を持つのですが、歴史書としての構成自体はやはり「一大偽書」である。いわば「偽書」の見本のような存在である、と言わざるをえないとわたしは思います。以上「大化」問題は、まさに丸山晋司さんがかつて指摘された通りだったのですが、ここから『日本書紀』の「偽書」としての手法を一段と明瞭に認識することがわたしにとってはできたわけです。 
安本美典氏との対談
さて、次にわたしにとって大きな発見がありましたのは今年の四月の終わりでした。それは博多で安本美典さんとシンポジウムというか討論会が現地のヤマタイ国研究会・九州王朝文化研究会主催で行われ、その詳細については『歴史読本』(新人物往来社)十二月号に紹介されています。わたしはその内容を見るまでは何となく偏見を持っており、一応は紹介されるとしても、それほど正確ではないだろう、新人物往来社は、安本さんがわたしを批判した本を二冊出版しているところですし(『邪馬壹国はなかった』『古代九州王朝はなかった』)、と思っていたのです。それはまったくわたしの偏見でした。その内容はひじょうに正確で、わたしがその記事を読んでまったくその通りである、というかたちで紹介されていました。記事で紹介された方についてはわたしのご存知ない方でしたがその方(そこで速記ないしテープ起しされた方)に対し、また『歴史読本』の編集部に対し、深い敬意を持ったわけです。(後日、偶然担当者〈博多在〉にお会いした。またテープ起しが塩屋直子さんであることを知った。ーー後記)
かつて安本美典さんと討論を行った、中央公論社の『歴史と人物』とを比較してみてこういうふうに、わたしは思ったしだいです。あの時のことと言うと一言お話ししないといけないのですが、あの時は常に“対等になる”ような編集をした。常にあらゆるところが五分五分にみえるということは、ある意味では公平にみえます。しかし、実際に行われたところの「対談」が五分五分であれば公平であったと言えるのですが、ところが実際に行われたものが七対三とか六対四とか、八対二という感じの形勢でありながら、それを誌面で“五分五分に直す”というのは、一見紳士的で「公平」だけど、フェアーではありません。そういう現象をあの時にはひじょうに感じました。あの時は大変苦心して何回も何回も直されたのです。だからその後「創世記」という出版社が、その討論の時のテープから起した、そのままの内容を記録の本として残したい、という要望がありました。わたしはすぐに承知したのですが、安本さんの方が承知しないのではないですかと言ったのです。すると、果たして忙しいからあとにしよう、またあとにしようと次々安本さんから後にされて、そのうち「創世記」社が無くなってしまいましたので、その「打ち合せ」もできなくなってしまったわけです。
けれども、幸いにもそのテープは東京の研究会の田島さんがテープ起しして事務局においてあります。それを今も聞くことはできますが、相手の安本さんの承諾がなければ勝手に本にすることはできません。そのような状況にあったわけです。
この時、わたしはなるほど有名な雑誌というのは、こういうかたちで対談を「修正」するのだということを始めて知りました。おそらくわたしの対談だけでなく、あのような雑誌に載っている対談というのはたいていこういう配慮が加えられていると思います。そこで大変不信感を持ったものです。あれ以来、そういうものを信用しない癖がついたのですが、今回『歴史読本』を拝見しますと、ひじょうに正確に書かれておりました。 
「天孫降臨」について
この安本さんとの対談で問題になったひとつのテーマ「天孫降臨」をめぐるテーマです。安本さんもわたしも、「天孫降臨」は偽りのもの、架空のつくりものである、と津田左右吉などが考えたようなものではないと、考える、その点においては、共通しているわけです。ところが、その場所が全くちがう、ということです。安本さんは本居宣長に従って、宮崎県と鹿児島県のあいだの霧島連峰、高千穂山系のあたりであろうと考えています。それに対してわたしは、原田大六さんと同じく、福岡県の高祖山連峰、東に博多湾岸、西に糸島郡に囲まれた高祖山連峰であろうと考えているわけです。
その時の論争ではあくまでも史料上の分析からの結論にわたしは終始、立ちました。筑紫(現地音はチクシ)の日向の高千穂のクシフルタケ、こうなっている。ですから、筑紫となっているので今の福岡県と考えるべきである。そして最終到着地はクシフルタケとあるのだから、「クシフルタケという地点」であったはずだと。途中の「日向」というのは、現地高祖山連峰に日向峠(ヒナタトウゲ)、そこから博多の方に流れだしている日向川(ヒナタガワ)があります。高千穂とあるのは、高祖山連峰の形容として、「高千穂」のと表現している。こういうふうにわたしはその時述べました。安本さんの方は、本居宣長説が良いのだという立場からの地名分析の論証は、あまり述べられませんでした。
ところが東京への帰りがけの、ひとりだけの汽車の中でわたしは「重要な論証」がここに成立することに気が付きました。といいますのは、天照大神が『古事記』『日本書紀』の神代の巻に現われてくる時に、しばしば「三種の神器」、「勾玉」「鏡」「剣」。この三種のセットを身につけて現われてくることは、よくご存知のとうりです。いつもとは限りませんで、中には二種、「勾玉と鏡」とか、「勾玉と剣」とかにもなりますが。要するに「三種の神器セット」的なものを身につけて現われてきます。これは天照大神にとっては「三種の神器セット」的なものが政治的シンボルであると考えられる。そうすると、孫のニニギノミコトを筑紫のクシフルタケに派遣した。その場合にやはりニニギノミコトも三種の神器セットを政治的シンボルとしていたと考えてよい。
さてその次ですがニニギの後で、ヒコホホデミノミコトというのがあって、それは「五百八十歳ましき」と。五百八十年いらっしやったというのです。原文は
「かれ日子穂穂出見の命、高千穂の宮に五百八拾歳ましき。御陵はその高千穂の山の西にあり」、
『古事記』の本文にはこう書いてあります。五百八十歳というのは一人の人間が生きる年代では決してございません。これをわたしの言うところの二倍年暦にしましても二百九十年になります。二百九十年にしても一人の人間が生きる年代ではありません。そうしますと、ヒコホホデミノミコトとは個人名ではなくていわる称号である。天皇が二百年も三百年もつぎつぎといましたが、その「天皇」にあたる、称号である。その称号の人物が二百九十年続いたと、そういうことを言っているのです。これが大事であると考えられます。安本さんはこれを一人だと考えて五百八十年生きた、一人の時代としてしまうのですが、わたしはこのように時代を分けるわけです。すると二百九十年の間、仮に安本さん流に王の在位平均が十年であるとしますと、二百九十年だから約三十人くらいになり、一人が平均二十年としますと、十四〜十五ぐらいとなります。そのような十五人から三十人ぐらいの王者の時代が、相継いだ、ということになります。
問題はその次で、「御陵はその高千穂の山の西にあり。」ということを、帰りの汽車の中で思い出したのです。その高千穂は、年来、わたしの持論では、高祖山連峰になります。高祖山連峰にはっきりとクシフルタケがあるわけです。宮崎県の方にはありません。この高祖山連峰を高千穂と言っているのです。さきほど高千穂の宮と言いましたが、高祖山連峰の糸島側にある高祖神社ではないかと思います。これをわたしは高千穂の宮と考えているのですが、この高千穂の山の西にあり、言いかえれば、高祖山連峰の西側に代々の御陵はある、こう書いてあるのです。
そうしますと、この代々というのはさきほどの理解の上に立つと三種の神器セットを持った御陵なのである。王墓ですから、かなり豪勢な墓で王墓らしい墓で、三種の神器を持っている墓でなければなりません。時代は弥生時代ですから、そのような弥生墓があるのかと言うと、文字どおりあるのです。つまり、三雲・井原・平原。三雲・井原は江戸時代に見つかって、平原はごく最近に見つかったものです。いずれもその三種の神器セットを豪勢に持っているわけです。鏡を三〇面、四〇面と持っている、平原など最大の鏡が五面ですが出土しています。原田大六さんが発掘されました。江戸時代の場合は農民が畑を耕していて、カチンとぶつかってきて見つけているわけです。平原の場合には原田大六さんが発見し、幸いにも現在は資料館ができましてそこに保存されております。資料館ができる前に原田大六さんは亡くなり、現在は名誉館長になっておられますがそこに全部展示されています。
さて、同志社大学の森浩一さんが言っておられるテーマ、「森の定理」と言っても良いのですが、それをお話ししてみたいと思います。それは、ひとつ物が出てきた場合に決してひとつしか無かったと考えてはいけない、必ずそこにはその五倍ないし十倍はあったと考えなければいけませんよ、と。これは森さんの本を読めばたびたび出てまいります。わたしも京都におりました時、しょっちゅう森さんの研究室に飛び込んでは、いろいろお聞きしていたのですが、その時、そういう話が出て「ああその通りです」といってお互いに握手するような感じの場面があったのを覚えていますが、わたしも深くそう思います。これは森さんがすでに「書いて」おられることに敬意を表して「森の定理」と名前をつけさせていただいて、この定理を、さきほどの年代の問題に代入してみますと、ここに王墓が三つあった、ということは何を意味するのか。これらの王墓はまったく偶然に三つとも見つかった。ということは、こういう豪勢な王墓が三つしかないから、三つ出た、つまり、三つが百パーセントであると考えてはいけない。これはおわかりのことと思います。つまり、その五倍、十倍の王墓が糸島郡の地下にはまだ眠っている、と考えないといけません。五倍とすれば十五、十倍とすれば三十、つまり十五ないし三十の王墓が糸島郡にはまだ眠っていると考えられるのです。そうすると、さきほどの墓域を示した、高千穂の西には十五人ないし三十人の王墓があるということになります。あまりに合致しすぎて気持ちが悪いほどでございますが・・・。数そのものはともかくとしても、大筋のところで一致している、ということは疑いようがないのではないでしょうか。
これに対して、本居宣長および安本さんの説に立った場合、高千穂、これは霧島山脈ですと、その西といいますと鹿児島県の東部であるわけです。そこの弥生時代の墓は何か、そういうもの(三種の神器セット類)が出てくるのか。まったくそのようなものは出てきておりません。これはいわゆる隼人塚といわれる世界であります。半地下式と言って独特の墓制が存在します。
そこには「三種の神器セット」なんてものは無いわけです。無いということは「貧弱だ」ということではありません。逆に「三種の神器セット」というのは、勾玉は日本列島の縄文から出ますが、鏡と剣は少なくともそれが金属文化であるかぎりにおいては、大陸朝鮮半島の金属文明の伝幡した、その影響下にある。日本列島の勾玉と大陸・朝鮮半島からきた剣、鏡のふたつを合わせた、新しいセットをつくったわけです。
そういうものはまだ南九州には及んでいない、あるいは「及んでいない」という言い方をもっとはっきり言えば、彼らは「そういう新しいセットなんかはわれわれには採用できない、われわれにはもっと古くからの誇るべき文化・伝統があるから。」と、隼人の地においては、古くから伝統文明が存在しており、そういう新来の文明を受け入れようとしなかったという、固有の文明の存在を意味するものである。決して金属が出ないからといって、「たいした文明ではないよ」という判断をするのは、わたしはまちがいだと思います。ともあれ、この地域から三種の神器セットが出ないことは、まちがいありません。
しかも大事なことは、糸島郡の場合、ただ三つの王墓だけが、ぽっと出ているわけではなくいちぢるしいほど他にも、鏡だけ出ているとか、勾玉だけ出ているとか、剣のみの墓などが出ているのです。そういうものがやたらに出てきています。そんな中に三種の神器をセットとして持った王墓が三つ出てきているのです。ところが鹿児島県の東半分の場合は三つの王墓クラスのものが無いだけでなくて、その他大勢という墓、それが無いのです。これは別の世界・別の文明地帯なのです。というような事実からするとこれはもうはっきりしているのではないか。今までに話してきた「天孫降臨」の地が高祖山連峰という、原田大六さんやわたしの立場が正しいか、それとも本居宣長や安本さんらの立場が正しいか、それは考古学的出土物によって判定されることなのです。
これは文献だけでも、言うまでもないのですが、到着地点がクシフルタケで、そこにはクシフルタケが無ければおかしいわけです。第一に、宮崎県の場合は筑紫ではないのですが、九州自体を筑紫といったのだろうとした。二番目に出てくる筑紫の一部分である「日向」を日向の国と解釈した。そして三番目の「高千穂」をいきなり宮崎県の高千穂連峰にあてているのです。四番目の[クシフルタケ」はないまま。
このようなムチャを宣長はなぜ行ったか。その理由ははっきりしています。つまり、アマテラスがその孫であるニニギを宮崎県に「天孫降臨」させなければ、神武をその直系にすることができなかった。神武は「日向の国から出発したのだ」ということは、はっきり書いてあるからです。宮崎県出発であったことはまちがいありません。なのに「天孫降臨」が福岡県であれば、神武はわたしが解釈したように傍系にならざるをえないのです。それは本居宣長には耐えがたいことでした。実は宣長の国学というのは文献的な実証以前に、天皇家の神聖さを証明するための学問だったわけです。だからそれに合うように文献を読みかえることは誤りでないと、宣長には思えたのです。だから、これは一種の宗教学みたいなものです。宣長以前には福岡県の筑紫と考えた学者もいたようですが、宣長が新しい解釈を示した。その宣長の弟子のまた弟子が彼の説の立場でずっと解釈した。明治の教部省も、その系列です。だから明治以後、学校教育にも、「天孫降臨」は宮崎県高千穂の方だという常識がまかり通るようになってしまった。敗戦後も、地理認識としては、そのままだった。しかしそれがさき程申し上げてきましたように大きな誤りであるということがわかってきたのです。文献解読と同時にそういう考古学的な裏づけ、それが宣長らには考古学的な裏づけがまったく欠落していたということがここに証明されたわけです。宣長らの文献解読は、やはり事実に反していたということです。
これらのことにもっと早く気がつけば、安本さんとの討論の時に、もっと言えたのになあと思った次第です。ところが、これは安本さんとわたしの論議がどうか、どちらがただしいかを決定するだけのものではなかった。津田左右吉を受けついだ戦後の歴史学、また教科書において、「神話というものは、六世紀から八世紀の天皇家の史官が勝手につくったものである。歴史的事実とは関係がない」という考え方が、まったくまちがっているということを証明する論証である。これが六世紀から八世紀につくられたものなら、考古学的出土物の分布との一致をどう考えるのか。わたしは『古事記』の文面を真正直に解読をしたわけです。その結果、「高千穂の西に代々の、三種の神器セットの陵墓がある」という、分布上の事実にぶつかったわけです。『古事記』『日本書紀』に書かれている「天孫降臨」関連の記述が、実は津田左右吉が言ったような、現在の教科書の採用しているような、嘘・偽りのものではなくて、やはり歴史事実そのものを反映する話であった、そういうことが証明されたことになったわけです。考えてみると、今さらこんなことに時間を費やして興奮しているというのもおかしな話でして、本当は情けない話であります。一方で「高千穂の山の西に・・・」という『古事記』も読んできている、他方で三雲・井原・平原の弥生遺跡のこともさんざん読んで触れている。しかし、その両者が対応して「戦後史学はついに学問的に成立できない、津田左右吉の立場は成立できない。」というこの論証。またいわゆる皇国史観の、あのもとになった「本居宣長などの一連の読解もダメだ。」という論証になっていたのを知らずに来たのです。さっきの「大化問題」と同じように、ずっと気がつかずにいたことに、わたしはむしろ唖然とした。しかし、やはりこれは貴重な論証である。
だから、いぜんとして「津田左右吉の論証」が正しい、という人は、いまわたしの言った論証が、どこがどうまちがっているかを明らかにしなければならない。そして本居宣長のあの説ーー観光名所地にもなっているようですがーー宮崎・鹿児島説が正しいといまだに主張する人は、やはり、いまわたしのいった論証のどこがどうまちがっているかを明らかにしないといけない。こういう、ひじょうに重要な、自分の説に自信を持って伝えるのは自由ですが、しかしその人が誠実に学問を進めているかどうかが判定される、ことは重大な論証であると、わたしには感じられるものです。 
『二中歴』の成立問題
いま申し上げましたふたつの問題、「大化年号」と「天孫降臨の論証」の間題、このふたつは、この後にあらわれた論証の前提になっていたわけです、これは『二中歴』についての問題です。『二中歴』は平安の中期末、堀河天皇の時、あるいはその次の代あたりに成立した本であるとわたしは思います。なぜかというと、この全体の中にいろんなものから文献を引用しているのですが、その合い間に、「今案ずるに」という形で、くり返し、その編者自身の意見が書かれております。残念ながら編者の名前はわかっていませんが「今案ずるに」という形で自分の意見を挿入しているのです。これが全体で百近くあります。この中のひとつに、この冒頭部の「人代歴」のところで、神武天皇から現在の堀河天皇のところまで、「千七百五十九年」たっていると、年代計算をしているところがあります。「今案ずるに・・・」という中で計算をしているわけてす。とすると、今というのは、ーー堀河天皇の次の段階だから、前の天皇までと計算したと考えても良いのですが、ーーほぼ、堀河天皇(一〇八六〜一一〇七)の段階を指している、というふうに理解できます。その点が、この『二中歴』というのは、平安中期の成立であると、わたしが言った論証です。
これについて、この『二中歴」の現在の一番古い写本があるのは「前田尊経閣文庫」です。東京の駒場のところにあり、東大の教養部のそばにあります。前田百万石が持っていた書物のようで、ひじょうに良い史料をたくさん持っている私立の図書館です。そこにある『二中歴』は鎌倉時代の成立、その頃書写されたものであります。貴重な史料ですので、全文がコロタイプ版でできており、その解読では、これを鎌倉時代の書写だということと、この本は、鎌倉初期に成立した、ということが述べてあります。といいますのは、鎌倉初期の順徳天皇(一二一〇〜一二二一)を「当今」、近衛家實を「當時殿」と呼んでいる、等いくつかの理由をあげている。これは誤りではないが、十分ではないと、わたしには思われます。なぜかと言うと、これは、さきほど言いましたように、やはり「今案ずるに」という編纂者自身の文で、その中に、堀河天皇を今として計算しているわけですが、そこでこの本は、編集が成立したということになります。これは「書き継ぎ文書」です。つぎつぎと、つぎの人が書き足していくわけです。そして、今の鎌倉初期の天皇を「当今」と呼んでいるのは、鎌倉初期に書き足した部分の文章です。親驚を探究した時も、ひじょうによく似た問題が出てきまして、「今上(きんじょう)問題」というものにとり組んで「今上(きんじょう)」という言葉を平安、鎌倉期の記事をぜんぶ抜いて、抜いて、抜きまくった経験があった。そういう経験からしても、この「当今」が出てくるから、ここが成立時期と考えた、コロタイプ版の解説は、十分ではなかったようです。
図1二中歴図版へ
(参考)
二中歴年代暦(付西暦年数)
年始五百六十九年内丗拾九年無号不記干支其
間結縄刻木以成政
継体五元丁酉五一七〜五二一善記四元壬寅五二二〜五二五
(同三年発誰成始文善記以前武烈即位)
正和五元丙午五二六〜五三〇教倒五元辛亥五三一〜五三五
(舞遊始)
僧聴五元丙辰五三六〜五四〇明要十一元辛酉五四一〜五五一
(文書始出来結縄刻木止了)
貴楽二元壬申五五二〜五五三法清四元甲戌五五四〜五五七
(法文〃唐渡僧善知傳)
兄弟六戊寅五五八〜五五八蔵和五己卯五五九〜五六三
(此年老人死)
師安一甲申五六四〜五六四和僧五乙酉五六五〜五六九
(此年法師始成)
金光六庚寅五七〇〜五七五賢称五丙申五七六〜五八〇
鏡當四辛丑五八一〜五八四勝照四乙巳五八五〜五八八
(新羅人来従筑紫至播磨焼之)
端政五己酉五八九〜五九三告貴七甲寅五九四〜六〇〇
(自唐法華経始渡)
願転四辛酉六〇一〜六〇四光元六乙丑六〇五〜六一〇
定居七辛未六一一〜六一七倭京五戊寅六一八〜六二二
(注文五十具従唐渡)(二年難波天王寺聖徳造)
仁王十二癸未六二三〜六三四僧要五乙未六三五〜六三九
(自唐仁王経渡仁王会始)(自唐一切経三千余巻渡)
命長七庚子六四〇〜六四六常色五丁未六四七〜六五一
白雉九壬子六五二〜六六〇白鳳二三辛酉六六一〜六八三
(国々最勝会始行之)(対馬採銀観世音寺東院造)
朱雀二甲申六八四〜六八五朱鳥九丙戌六八六〜六九四
(兵乱海賊始起又安居始行)(仟陌町収始又方始)
大化六乙未六九五〜七〇〇
覧初要集皇極天皇四年為大化元年(六四五)
己上百八十四年々号丗一代(欠)記年号只人傳言
自大宝始立年号而己
翻刻追文飯田満麿
監修校訂古賀達也
平成十四年五月二二日 
「九州年号」
さて、この『二中歴』の中に問題の「九州年号」が出てきます。丸山晋司さんが『季節』の第十二号に掲載の論文「『二中歴』に見る古代年号」で表示された年号関係の古写本には、室町から江戸時代にかけて成立したものが多いのです。これに対して、平安時代の成立となると、この『二中歴』が唯一の古文献となるわけです。(古写本としては、鎌倉末期の成立)。
これに対して、まず問題をクローズアップされた方が、所功(ところ・いさお)さんという方であることを、わたしは忘れてはならないと思っております。この方は名古屋大学の国史学を出られ、それから神宮皇学館大学の助教授になられ、それから、現在は京都産業大学の教授になっておられます。この方は、『季刊邪馬台国』(第十八号)、安本美典さん編集の雑誌ですが、そこで「古田武彦説を批判する」という特集がありましたが、その中にかなり長い分量の論文を書かれて、古田の言う「九州年号」というのは駄目だ、とんでもない偽物である、という主旨の論文を書かれたわけです。
その論拠にされたのが、この『二中歴』でした。さすがに、やはり、「九州年号」の載った一番古い写本である『二中歴』をクローズアップして議論されました。そこで取り上げた内容は、ここで詳しく申し上げる必要はないのですが、ポイントを述べさせていただくと、例えば、古田は「九州年号」が実在した証拠として、「九州年号」が始まった年が、近畿天皇家の天皇の即位年代と一致しない、三十いくつの中で、一致するのは二つだけ、あとは全部一致しない、こういうところから見ると、これは「天皇家の中で、天皇家のために作られた年号」とは思われない、ということを論じている。
ところが、実はそうではない。なぜかと言えば『二中歴』の成立年代から見て、「九州年号」は南北朝時代におそらく作られたものであろう。南北朝の頃は、天皇の即位と年号の成立とが一致しない例が必ずしも珍しくない。その時代にこのような偽物がつくられたのだろう、という議論を書かれたわけです。あるいは、わたしが神武天皇から年号を「偽作」するのならわかるが、六世紀前半のなかばくらいのところ、継体天皇の十六年(五二二)頃から、いきなり年号を“偽作しはじめる”というのはおかしい。さらに、こんどは僧聴(五三六ーー六年)という、『日本書紀」にかかれた仏教伝来(五五二)という最初の記事より、十六年古く、仏教を背景にした年号が浮かびあがった。これも「後代偽作」とすれば、ありえないことだ。
わたしのあげた、これらの点に対して、所氏は批判された。第一に『扶桑略記』の中に、司馬達人が大和の坂田原で草堂を作った、という記事があり、その本尊として小さな仏像を安置した、という記事がある。この年代が「九州年号」の始まりと言われている「善記元年」(五二二)つまり、継体十六年にあたっている。だから、これをもとにして作ったのであろう、ということを議論されました。これに対して、さきほど申しました丸山晋司さんがこれを批判する論文を、先にあげた『季節』(エスエル出版会)第十二号という雑誌ーーわたしの特集号を組んでいただいたのてすがーーそこに長い論文を載せて、所さんを批判されました。その基本が、ようするに所さんはまちがっている。所さんは「鎌倉末期書写」と書くべきところを、「鎌倉末期成立」と誤解された。そして「鎌倉末期成立」なら南北朝に、と考えてもいいだろうということで議論している。ところがこのコロタイプ版の解説でわかるように、鎌倉初期の成立である。これはもう所さんとしてはひじょうに反論ができにくい点、事実問題なのです。丸山さんも指摘しておられますが、所さんが見られたのは、和田英松『本朝書籍目録考證』(一九三六)といった書誌解説書みたいな本を見られたのでしょう。そこに「鎌倉末」と書いてあったのを、書いた方の著者は「鎌倉末の書写」という意味で書いたのを、所さんは「鎌倉末成立」と誤解されたのです。そこでわたしに対する批判を行うにあたって、ひじょうに初歩的なミスを犯されたらしい。この点も、丸山さんがするどく指摘して批判されたわけですから、所さんとしては全面的に「わたしのミスでした」と言うほかにないのではないか、と、わたしは拝見して、そう感じました。そのように、丸山さんのひじょうにすぐれた「年号論」がございました。
ところが、それに続いて丸山さんが「附論」として、『二中歴』の中の九州年号の、その最初に、非常に不思議な文章があることに注目されました。所さんはこれについて、「自分にはよくわからないからパスする」と、こう言ってふれられなかったのですが、丸山さんはこれに対して執拗に食いさがられたわけです。“執拗に”とは、もちろん良い意味でです。『二中歴』の本文に「年代歴」とあります中に、二行の文章があります。
年始五百六十九年内卅九年無号不記支干其
間結縄刻木以成政
読みーー
年始、五百六十九年。内三十九年、号無く支干を記さず。
其間結縄刻木、以って政を成す。
そういう文章があるのです。丸山さんはこれに対していろいろ考えられた結果、こういう解釈を行いました。つまり、「九州年号」の始まりが五一七年である、内三十九とあるから、そこから三十九を引くと、四七八という数が出てきます。これを、この著者が「年始」“年の始まり”ととかんがえた。五世紀の終わり近くの四七八年を年始と考えたわけです。ところが、そこから「五百六十九足す四百七十八」は「一〇四七」という、十一世紀半ばになりますが、この時に、この文章は書かれたのだ、平安朝の十一世紀半ばに書かれたのだと、こういう解釈をされたのです。
この結論自身は、わたしがさきほど申しましたように、「今案ずるに・・・」というところから理解した点からしても、大きくズレてはいないわけで、べつにこの「結論」を、“そんなことはない”と否定するつもりはありませんが、つまりこの『二中歴』が平安時代の半ば頃に書かれたという話自体には反対ではないのですが、しかしこの「計算方法」については、わたしはどうも違うのではないか、という感想を持ったわけです。なぜかと言うと、まず、「年始」という言葉自身が“五世紀の終わり”というのは、言葉としても、ふさわしくないような感じがしました。それは感じに過ぎません。もっとはっきりしている問題は、その三十九年間は年号が無いというかたちで、丸山さんは表に現わしておられますが、この文章ではそれだけではありません。「年号は無く、かつ干支も記さない。」つまり「干支(えと)を書かない」と、こう言っているのです。まあ、程よく解釈すれば、“干支は知っていたけれども、わざと書きませんよ”という意味にもとれないことはないのですが、これは自然ではありません。要するに「干支も知らなかったから、干支もまだ書いていない」と、つまり“中国の「干支文化」にまだ接触していなかった”と、こういう意味の文章だと、わたしは思うのです。
ところが、これが今の五世紀の終わりから六世紀の始めにかけて、年号というのは、もちろん「倭国の年号」であり、「中国の年号」ではありませんから、「九州王朝の年号」ですから、これが無いのは当然としても、干支を知らないとか、知っていても書かないとか、というようなことはちょっと理解できません。なぜかと言えば、皆さまご存知の埼玉の稲荷山の鉄剣に書いてある干支(辛亥)は、もう五世紀の終りのものですから。大陸に近い九州で、まだ干支を知っていない、とはちょっと考えられない(近畿でも同じ)。さらに、こんどは「倭の五王」、これをわたしは「九州王朝の王」と考えているのですが、この「倭の五王」のあのみごとな漢文が書かれているのが五世紀の終りですから、あれだけみごとな漢文を中国に送って、しかも干支を知らないとか、知っていても書かないということは、わたしには理解できない。また、「結縄刻木」という点について、「其間」というのは三九年間のことです。「結縄刻木、もって政を成す」これはいかにも「政治の中心に結縄刻木があった」という感じの文章です。政治のわき道に結縄刻木も残っていました、という文面ではない。やはり文章というのは解釈と同時に、文章の持つ勢い、ニュアンスが大事だと思うのですが、この文章の勢いからすると、やはり政治の根本に「結縄刻木の制度」があったと、こういう感じの文章にわたしには読めるのです。それが“五世紀の終りから六世紀の始め”というのでは、少し時間がズレているのではないか。やはり、もっと古い縄文なり弥生時代、そういう時間帯ならわかるのですが、五世紀終りから六世紀始めでは、おかしいのじゃないか。わたしはそのように理解したわけです。
そこでわたしなりにもう一回読んでみました。つまり、五六九年というのは次に表われる「九州年号」の始まり、五一七年(継体元年)これをさかのぼる五六九年前が「年始」である、こういう意味なのです。この年始から九州年号開始まで五六九年経ったということですね、この年号ができるまで。だから、計算で言うと五六九、マイナス・五一七、つまり「紀元前五二年」、これが「年始」である。年始というのはその国の始まりの年である。言いかえると、「九州年号」の話ですから「九州王朝」の建国時点である。これをまた言いかえますと、「九州王朝」はいかにして始まったかというと、アマテル(アマテラスオホミカミ)がニニギを筑紫に派遣して、そこで「九州王朝」を建て、筑紫の王朝は始まったのです。つまり、「天孫降臨」の時点である。
「天孫降臨」は実在の事件です。筑紫のクシフルタケに壱岐・対馬からやってきた。そのアマテルたちの勢力の拠点は、壱岐・対馬の海人族だと思われます。この海人族が大陸からの武器を手にして、船という、当時もっとも大量の運搬具をあやつって、つまり最強の軍事力を持ちえたために、今までは中心権力者だったオオクニヌシに対し、主権の譲渡を「強制」し、それに成功した。そしてこの縄文水田・弥生水田として、日本列島で稲作のもっとも豊穰な筑紫を狙ったわけです。「国譲り」で狙った目的は菜畑・板付の縄文・弥生水田であった。というのがわたしの理解です。そこで「九州王朝」は始まった。それが実は「紀元前五二年」であった。これは東京の立川のカルチャーに行っている方に話をしたらご注意がありまして、「前五三年」かもしれない、紀元0年がないのでとのこと。そういう問題はあるとしても一応単純計算で、五六九年引く五一七年で、紀元前五二年といたします。それから三九年たったところ、つまり五二年引く三九年のところ、「紀元前一三年」この時まで年号は当然ありません。年号は五一七年に至るまで無いのですから、しかも中国の干支すら筑紫に伝わってきていなかった。この時間帯ならわたしは不思議はないと思います。紀元前の時間帯ですから。ところが、言いかえると、この紀元前一三年から中国の干支を採用し始めた。つまり干支を採用するということは中国の文明を知ったことを意味します。単に知っただけではなく、中国の暦計算に時間を合わせるということになります。つまり中国文明の圏内に入った、といいますか、そういうことの表現なのです。それが紀元前一三年からであるということです。
その次にある計算は、わたしがかってに考えた計算ですが、「十三年プラス五七年」この五七とは何かというと、後漢の光武帝の建武中元二年です。金印授与の年。そこまで何年たっているか、がわかるのがこの計算です。ちょうど七〇年になります。と言うと、つまり干支を採用した時点で中国文明と同じ暦の中に入って、ちょうど七〇年たった時点で志賀島の金印が付与された。わたしは思うのですが、金印をくれるということは、こちらが使いを送った、始めて送った。アッそれでは金印をあげよう、と、そんなことはまずありえません。そんなに簡単に金印をあげておれば、東アジアは金印だらけになってしまいます。東アジアで中国以外の国で金印が出てきている例はごくわずかです。そんなものではなく、やはり金印をくれるということは、それ以前に、その国とかなり長い国交史があり、交流の歴史があって、その結果、中国側からみてその国はどこにあり、どんな国か、そしていま使いを送ってくれる連中は、その同じ種族の中でどれくらいの支配力を持っているか、しかも安定した支配権を持っているか、という認識が十二分に成立して、はじめて金印を与えるという行為があるのです。もちろん中国側の事情もあるでしょうが、少なくともそのような前提が無ければ金印はそう簡単には与えられません。このように考えるのが筋だとわたしは思うのですが、どうでございましょう。常識から見て、あの金印を与えるまでに中国と倭国との間にかなり長い「国交史」が前提として存在した、といえると思います。ところが、この、いまの計算によると、まさにその通りで「七〇年の前史」があった。そして金印が付与された、ということですから、ひじょうに話として筋が通っているのではないかと思います。直接ではないのですが、間接に志賀島の金印という出土物、しかもあれは九州から出たものですが、筑紫から出たのですが、その出土物と、この計算とは、対応しているのです。
ということで、十分ではないけれども、出土物との対応もおかしくない、またいまの、ここの三九年間だったら、“この時間帯には年号も無いし干支も使われていなかった建国いらい三九年間は。”という記載として理解できるわけです。ところが干支も書いていないのにどうして三九年というのがわかったのか、ということが問題になるということを、この執筆者は知っておりまして、実は「倭国」側に、つまり「九州王朝」側に、暦を数える手段があったのだ、と。それは「結縄刻木」、“縄を結び木に刻む”と『隋書』イ妥国(たいこく)伝に書いてある記事、倭国は中国から暦が入るまでは、結縄刻木を行っていた、という記事と対応しているわけです。まさにその通りに「結縄刻木」をやっていたのです。それによって「三九年」というのが明らかにわかっていたわけです。この場合、皆さんがすぐ頭にえがかれるのは、この「結縄刻木」は当然ながら「二倍年暦」によるものであるということです。だから三九年とかいてあるが、「二倍暦」では「七八年」となるであろう、ということも、すぐ頭に浮かんでくることです。ともかく、そういう「結縄刻木」という暦法の倭国の中に、「干支」が入ってきた。中国風の太陰暦によるもの、それと並立し始めたのが紀元前十三年頃のことである、と、そう言っているのです。
以上のように、わたしは理解をしました。もちろん、これはわたしの解読の「仮説」ですから、これが絶対に正しいということは言えません。志賀島の金印と対応が納得できるという程度です。これが絶対に正しいのだ、ということは、今後に委ねないといけませんが、わたしとしては、少なくとも、この文章の解読として納得できるものは、これです。歴史的な状況とも、バランスよく対応している解読だと思われています。「天孫降臨」が史実である、という論証に四月にぶつかった、そして八月にはその「天孫降臨」の絶対年代を明らかにするという史料に逢う、という、望外の幸運にめぐまれたわけでございます。 
九州側の年号論
さて、その次にもうひとつおもしろいテーマがございます。これは「九州年号」について書かれている最後のぺージ、そこに「大化」が出てきます。「九州」の最後は「大化」、もちろん「朱鳥」もその前の下の段にあり、「白雉」も上の段の最後から三つ目に出てきます。「大化」・「白雉」・「朱鳥」というのが並んで出ています。その次にまた二行あり、それを正確に読んでみると、
巳上百八十四年々号卅一代□年号只有人傳言
自大宝始立年号而巳
「以上百八十四年、年号三十一代、読めない字があって、年号ただ人有りて傳え、大宝より始めて年号を立つと言うのみ。」
これが正確な読みであろう、とわたしは思います。この部分、実はさきほどの所功さんが論じられまして、「・・・ただ人有りて傳言するのみ。大宝より始めて年号を立つるのみ。」と読まれ、そこをクローズアップされて、「大化」以前は、この「九州年号」はただ人がうわさで言っているだけだ、こんなものは信用できないと、こう書いてあるではないか。それを古田が信用するのはおかしいではないか、というかたちで論じられたのです。
わたしは『古代は輝いていた』(朝日新聞社)の第三巻のところでこれを論じ、「所さんはそう言っているが、逆にこれから見ると、これを書いた人が勝手に作ったものではなく、それ以前からこういう傳承・傳来があったことを示しているのではないか、だから簡単に軽視するのはおかしいのではないか」というかたちで反論をしたわけです。
ところが、今になってみますと、これは所さんの文章解釈にのっかって反論したわけで、実は、二人ともまちがっていた、つまり基本的な文章解読がまちがっていた、ということに気がつきました。つまり「ただ」という言葉が最後の「のみ」という言葉と呼応する、熟語形である。「ただ〜のみ」という文型なのです。
この場合、「ただ〜のみ」の間の内容を、書いた、その人は信用していない。「ただこんなことを言っているだけのことだ」と、いう形の文型です。“近畿から九州へやってきた官僚”でしょう。名前はわかっているのでしょうが、それを遠慮して「人有りて」という表現にしてます。「傳え」という表現も、この人独特の用法で、“A地点からB地点へある考え方をもっていく”“品物を持っていく”という意味で、この人はこの表現を使っています。その人が傳えてどういうことを言うかというと「大宝」から始めて年号はできたのだ、それ以前は年号というものは無かったのだ。こういうことを彼はよそ(大和)から九州の地にやってきて言っている、と、しかし“彼がそんなことを言っているだけなのだ。われわれにはちゃんと巳上百八十四年間、三一代にわたる年号が確かにあったのだ。”と語っているのです。だから最初に書いたーー「巳上百八十四年々号卅一代」というのは、この大和から来た偉そぶった人の言い草に対し、「事実」を以って行う反論になっているのです。
ここで、実は、この二行の文章、さらにはさきほど言いました、“年始云々から始まる「九州年号」を含む文章がかかれた、”その全体の成立時点が判明するのです。なぜかというと、まず「大宝」という言葉が書かれていますので、まず「七〇一年以後」に書かれた文章であることはまちがいありません。大宝元年が七〇一年ですから、この「七〇一年以後」でないとこのような文章は書けません。同時に、この人も、またこの人が反感をもった大和の官僚か、と思われる或る人の言葉からしても、(この人も官僚も)両者ともに『日本書紀』を読んでいないのです。なぜかというと『日本書紀』を読んでおれば、さっき言いましたように、「『大宝』から年号は始まった」などと言えるはずがないのです。なぜなら「大宝」の前に三つ年号が書いてあるのですから・・・。「大化」あり、「白雉」あり、「朱鳥」ありですから。だからこのよそから来た官僚は“まだ『日本書紀」の内容を見ていない”のです。またそれを聞いている方も当然そのかたちで理解している。ということは何かと言うと、この文章は七二〇年以前に書かれた、例の『日本書紀」成立の「七二〇年以前」に書かれた文章である、ということです。
これはまさに一年前にわたしが丸山晋司さんや藤田友治さんのおかげで、幸いにも長年の懸案を解消することができまして、まさに晴れて「『大化』『白雉』『朱鳥』ともに『九州年号』から盗用した」ということがわかったのです。
これらの年号は近畿天皇家の年号ではなかったわけです。『日本書紀』をつくるときに『日本書紀』という一大偽書を作るさいに、実在の「九州年号」表を横において、そこから一・二つだけ抜いた。一つだけであれば何かまちがっている、と思われるが、三つも共通しておればかえって言いにくくなります。「三つを抜いて使う」という、例の手法がここにも行われたわけです。逆に言うと、年来の宿題を解決していたからこそ、この文章を見たとき、わたしはすっきりと理解できた、ということになるわけです。さらに『日本書紀』の「三つの飛び入り年号」はやはり「七二〇年以前」には、近畿の人にもそう考えられていなかったし、まして近畿から九州へ来た官僚も、そういう理解はしていなかった、ということがわかるのです。
以上のことで、一年前の障害物の撤去ということが、今年の八月四日の、この発見にとって、大きな「前提条件」となっていたことを知ったわけです。ですから、この文章は『日本書紀』より早く書かれた文章である、八世紀始めに書かれた文章である、それも「九州王朝」の筑紫の現地で書かれた文章である。それを『二中歴』が「年代歴」の先頭に採用していたということがわかってきたのです。今まで「天孫降臨」について九州王朝側で書かれた文章が、ーーもちろん神代の巻の一書がそうである、とわたしは理解していたのですが、他にも無いかと思い続けてきたのですが、計らずもそれが見出された。しかも「九州王朝」の始まりと「天孫降臨」時点の年時を含むかたちで、それが表わされていたわけです。 
「九州年号」の始まり
なお、第三番目に問題とすべきところは、この「九州年号」なるものは、さきほど言いましたように、「白雉」「朱鳥」「大化」という年号を含んでいると同時に、大きな特色として、一番最初が違うのです。つまり、継体五年から始まっており、その次に善記四年と記載されたかたちで記述されているのです。今までわたしが『失われた九州王朝』や『古代は輝いていた』第三巻に書いたものでは「善記」ないし「善化」というのが最初になっています。その点は丸山晋司さんが多く集められ、室町から江戸時代にかけての異年号、倭国年号の史料群ーー丸山さんは「古代年号」という言い方をされていますが、ーーこの史料群でも同じく「善記」「善化」で始まっているわけです。
ところが、この『二中歴』では、そうではないのです。「継体」から始まっています。しかも「継体」というのはここで見るかぎり「天皇名」ではないわけです。「年号名」であり、「五年間」だけなのです。継体天皇即位(五〇七)は、五一七年から十年前に属しているわけです。その後の五年間だけを「継体」という年号でかいてあるという、ひじょうに奇妙なすがたを示しています。
わたしはこの問題をこういうふうに考えてみました。つまり、これはA型の「九州年号」のタイプである。数が圧倒的に多いB型、つまり「善記」ないし「善化」から始まる、こういうものをB型と考えることにします。すると、どちらがより古い形であるのか、どちらが改ざん形であるのか、書き足したのか、書き消したのか、こう考えてみました。
この場合だいじなことは、神武・綏靖・安寧・懿徳という「漢風諡号」は八世紀の終りか九世紀の終りくらいにまとめて作られたものと言われています。つまり、これは後で作られたものなのです。これは『日本書紀』などを見ても、八世紀段階(断簡類)には神武や綏靖はでてきません。カムヤマトイワレヒコの系統はでてきます。ところが九世紀以後(写本)のところに、神武・綏靖系統の言葉がでてくるのです。誰が作ったかについては異論があるかもしれないが、とにかく、あれが“後になって作りだされた”ということは、誰も疑ってないわけです。だから古い話を考える場合この「漢風諡号」という話はいちおう横において、保留して考える必要があります。そうしてみると、この形式から見て「継体」は年号である、と、見ざるをえない。
さて、もしB型の方をより古い形で、A型は改ざん形である。多数と小数で多数の方が正しいのだという結果で考えてみるとどうなるのか。これはB型に「継体」という年号を後で五年間だけ前に作り加えたのだということになります。そんなことがあり得るのだろうか。この場合、後でこういうことは継体天皇の存在、「漢風諡号」を知った時代だと思うのですが、その後に継体天皇の存在を知っていながら天皇名と同じ年号を五年間だけ、それも二十四年間(五〇七〜五三一)ならまだしも五年間だけ年号名として作り加える、ということは、わたしには理解しにくい。そんなことをして何になるのかと理解することができないのです。このケースはありにくいのではないかということになります。
ではその逆のケースはどうか。A型が本来の形だが、それを見た後世の人、その人は「継体天皇」という名前を知っている人が「継体」という年号は変だ、しかもそれが五年間だけというのはどうもおかしいと、カットを行い、そして第二番目にあった「善記」からを年号として書いた。この方が、わたしはありやすいと思うのです。後世の人のやり方として。そういう基本的なわたしの判断からすると、やはりA型が本来の形である、そしてB型が改ざん形であるという判断に到達せざるをえません。この判断がおかしいというならば、いまわたしが言った論理的な判断が、どこでどうまちがっているのか、それをはっきり示してもらえば、もちろんこれにこだわる必要はありませんが、わたしにはそうとしか考えることができません。
これにはあと二つ理由があります。もうひとつは、本来はいちばん最初にお話しすべき、大事な点ですが、史料自身、『二中歴』が圧倒的に古いのです。平安の中期末に成立している。他の「多数」とはいいながら、B型の方はずっと後の室町から江戸時代にかけて成立したものです。このようにみますと、やはり古い史料のものを、まず重視すべきである。もちろんその史料の順序が即改ざん型・本来型になっていれば別ですが、新しい方がより古いものを表現しているケースもありうるのですが、その場合は慎重に、まさに「必要にして十分な論証」を的確に行わないといけないわけです。基礎的に言えば、古い段階に成立した史料がいちばん本来型であり、後に出てきた方が改ざん型というのが、いちばん普通のケース、原則です。
だからこの史料の成立新古という問題がまず、何よりも第一なのです。そして第二が、はじめにのべた論理判断です。第三は『二中歴」を見てわかるように、これは近畿の天皇の名前とぜんぜん「セット」になっていません。
ところが、実はB型の方は「セット」になっているのです。つまり、“倭国年号では何年、これは誰々天皇の何年にあたるという形。”例えば孝徳天皇の何年とか、持統天皇の何年とか、近畿天皇家の名前とこの倭国年号の名前が「セット」にして使われているのが、室町以後に出てくる写本の圧倒的多数なのです。ところが『二中歴』はまったく「セット」になっていません。近畿天皇家の年号は「大宝」から後でてきますが、「九州年号」の部分はまったく純粋に、近畿の天皇名とは独立に書かれています。しかも下に詳細の資料を記載しており、特に最後の行が示すように、近畿からの官僚だと思いますが、その「『大宝」から年号は始まる」という見方に対して、おもしろい反発を示しています。そういう姿勢がしめされているのです。そういう近畿天皇家側の主張に対して反対である姿と、近畿天皇家を「こみ」にして、年表として便利だから、といった形で使われているものと、どちらが本来の型かと考えると、当然「九州年号」である以上は近畿の天皇とは別個に置かれるべきものです。「こみ」にするのは後世の手で「こみ」にして使っているだけのことです。年表として使っているのです。史料として持っている姿からみると、先に述べたように、A型の方が純粋な本来の姿であり、B型はそれを改ざんしたものでしょう。これはおそらく近畿天皇家の天皇名と「セット」にする上で「継体」という年号が五年間だけ(継体天皇の時代に)入り込んでいるためおかしくなってしまった、ことと、おそらく無関係ではないのではないかと思われます(B型の、多くのケース)。
とにかく『二中歴』の示す姿の方が純粋である。以上、三つの点から判断し、この『二中歴』の示す「九州年号」が本来の姿を示すものであろうと考えます。だからわたしは『失われた九州王朝』『古代は輝いていた』でしめした「九州年号」の表はここで訂正させていただかないといけないという、思わざる、嬉しい、新しい局面にぶつかる結果となったわけです。 
「大化」の刻書土器
さて、続いてのテーマですが、『二中歴』の「九州年号」の下に小さな字で「注」が付いています。各年号の何年間と書いた後に小さい字で書いてあります。これはみんな「九州王朝」関係のひじょうにおもしろい問題をいろいろと含んでいますが、これをまず話していますとあとのテーマを話す時間が無くなりますのでこれは後にまわして、時間が残れば「注」の問題にふれることにいたします。
それに対して、ひとつだけ前半の話の補足をさせていただきたい点があります。それはこの「九州年号」とみられる年号を持った土器が出てきております。これは思いがけない場所からですが、関東・茨城県の水海道のそばの岩井市の矢作(やはぎ)、そこの富山さんのお宅に、江戸時代・天保九年に出てきた壷が残されています。八つか九つほど畑から出てきたらしいのですが、その中のひとつに文字が書いてありました。どういう文字が書かれていたかと言うと、書くというより刻まれていたのですが、「大化五(子)年二月十日」という文字が刻まれていました。この現物を拝見しましたが、字ははっきりと見えているのですが、「子(し)」という字は消されているのです。他の字ははっきりしているのに、この字は擦り消してあるのです。
ひじょうに残念に思ったところ、幸いにもその同じお宅に掛軸があり、それは壼が出てきた天保年間に土地の殿様が珍しいものが出てきたというので家に見に来られ、その時に南海という絵描きを連れて来られて、その南海が書いた軸物が残っていたのです。もちろん殿様の方にも残したでしょうから、あわせて二幅造ったと思われますが、その上三分の一に壷の出てきたいわれが記されているのです。天保九年に出てきた、すばらしい古物であると歌も最後につけた、風雅な文章が書かれています。その真中のところに南海という署名と赤い判が押してあります。そして、下三分の一のところにひじょうに上手な筆致でこの壼がえがかれています。そこには文字が書き込まれておりまして、はっきりと「大化五子年二月十日」と書いてあります。だから擦り消す前が子供の「子」であるということが南海の表記によってはっきりとわかります。この殿様はたいしたものです。絵描きを連れてきたということは、今のカメラマンを同行しているようなものです。
さらにもうひとつ証拠がありました。同じ茨城県に土浦というところがありますが、そこに色川三中さんという、お醤油屋さんだそうですが、そのご主人が醤油屋さんをずっとやりながら、同時に古代研究をされた。江戸時代には、そういう気運があるのです。本居宣長だって医者でありながら、古事記伝研究をやったのですから。その方が書かれた文章が保存されており今年の四月から始まった土浦市の資料館、そこに保存されています。それをわたしは十分に拝見し、写真に撮らせていただいたのですが、そこに、富山家に行かれて拓本をとり、その拓本を自分の本に貼りつけているのです。さらに、念入りに自分で見取図を書いておられる。いずれも「大化五子年二月十日」となっています。疑いようがないのですね、拓本ですから。カメラの無い時代の最高の手段ですから。そういう偉い研究者が江戸時代におられたのです。
だから、おそらくこれは明治以後になって何らかの理由で擦り消したと思われます。なぜ擦り消したかというと『日本書紀』に合わないからでしょう。『日本書紀』には、「大化五年、子の年」は無いのです。その近所にも無いのです。だから、これはおかしいというので擦り消したのです。擦り消し犯行自身が、いかに明治以後『日本書紀」に合わないものが「偽書偽作」であるということを前提にしていたか、という、その証拠の資料になると思います。ところが幸いにも、江戸時代の殿様や、江戸時代の学者たちがそれをちゃんと画や拓本にとっておいてくれたので、それは「完全犯行」にはなりえなかったということです。
なお、わたしにとって幸いだったのは、この茨城県の水戸市に県の歴史館の史料課長をしておられる佐藤次男さんにお逢いしたのですが、この方は考古学者であり、土師器の専門家なのです。だから県で『土師器集成』という本を二冊も出版しておられる。そこに書いてあるのをみまして、お逢いした時、まずこう聞いたものです。そこに出てくるあの壷はわたしには土師器とみえましたが、それは七世紀の土師器とみてまちがいないでしょうか、こうお聞きしました。すると「七世紀の土師器という言い方は問題ありません、その通りです。」と即答されました。その次にもう少し詳しくお聞きしますが、「七世紀の半ばと、七世紀の終り頃に分けてどっちに近いのでしょうか。」と、こう聞いたのです。「そういうふうに半ばと終わりに分けるのでしたら、それは七世紀の終りか八世紀の始めです。」こういうご返事でした。「あ、そうですか。」とわたし。ーーそこまでわたしは何の注釈もしておらず、いきなりご挨拶した後にそういう質問をしたわけです。
それからさきほどの話を、いっしょうけんめいお話したのです。するとひじょうに喜ばれました。この土師器はどうみても七世紀終りから八世紀の始めのものとしてしかみえないのに、「大化」とでてくるし、干支も関係がないし、これはおかしいと今までもう十年ぐらいずっと思っていらしたようです。「いろいろ書いて、偽作と書いてみたりもしましたが、それでわかりました。」とひじょうにスッキリしたお顔でした。それからわたしが見せていただきたい資料を次々と出して、協力して下さいました。ようするに、この壼は七世紀終りから八世紀始めの土師器であると、そこに「大化五子年・・・」とあると。これも、実は「一年の誤差」問題がからむようですが、これはまた改めてのテーマにして、ともかく『日本書紀』の「大化」ではない大化です。
宇治橋断碑の場合は『日本書紀』に合致した「大化」でしたが『日本書紀』に合わず、むしろ「九州年号」の「大化」とあう時間帯の「大化」が土師器に刻まれた文字として残っていた。従来これは、「偽作」とさえ扱われていた。こういうものを見てまいりましたので、お話しさせていただきました。このようなものは、他でもこれから出てくるものと思われます。『日本書紀」に合わないから「偽作」だと言われて、みんなの、人前には出せない、というかたちで存在するものが、他にもまだあるのではないでしょうか。 
 
吉野ケ里遺跡の証言

 

なぜ吉野ヶ里遺跡が重要か
さて、「吉野ヶ里」がなぜ注目されるかと言うと、これは「邪馬台国論争」、私から言うと「邪馬壹国論争」に広がる、かかわった関係が出てきたから、ひじょうに注目されたといってもまちがいではないと思います。
では、その「邪馬壹国論争」とはどうなったのか、その全体をお話しすると時間がかかるが、私の目から、私の見たこの十年来の「邪馬壹国論争」のすがたをふり返ってみると、まず第一に、二十年前(昭和四四年)、私が東大の『史学雑誌』に発表した「邪馬壹国」、それは『三国志』の魏志倭人伝の原文では「邪馬壹国」になっており、「邪馬台国」ではない。これを簡単に「邪馬台国」に書き変えて、近畿が「邪馬台国」即ち大和とか、九州が「邪馬台国」即ち山門とか、そういうかたちで論議を行うのはおかしいではないか。やはり原点の原文「邪馬壹国」にもどって議論すべきではないか、という提言を私は行いました。次いで、昭和四六年、『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社・角川文庫)という本を出版し、その中で、まず、「邪馬台国」近畿説には大きな不備、文献処理上の不備があることを述べました。それは先ほどの「邪馬壹国」を「邪馬台国」になおした理由が、松下見林の『異称日本伝』によって、中国や朝鮮の人が書いた日本の記録があり、そこに書かれた国名などに相違が見られるが、それは心配ない。我が国には、ちゃんとした国史『日本書紀』があり、その国史によって、それに合うものはとり、それに合わないものは捨てれば良い。その心がけさえあれば何も困ることではないのだと書いています。そこで、魏志倭人伝には「邪馬壹国」と書いてあるが、倭王といえば天皇である、その天皇は、光仁天皇まで、代々大和(ヤマト)におられた、だからこの倭人伝の文章はヤマトと読めなければいけない。読めないならば、それは倭人伝がまちがいであると、合うように直して使えばよい、これが彼の言ったことなのです。これは序文の宣言どおり。あきらかに天皇家は神武いらい、天照いらい、唯一の尊とむべき存在である。だから外国の史書に書かれた記事が、それに合えばオーケー、合わなければ捨てて、あるいは改定して何も悪いことではない、という弁明が語られているわけです。このような学間的立場に、彼は立っていたのです。これが近世の学問でした。
私は三〇代の頃、親鸞の研究に没頭しました。そのとき、本願寺教学というものがあることを知りました。そこで「親鸞聖人のイメージ」ができあがりました。その立場から、資料の合うものはとれ、合わないものは捨てろ、という内容のものでした。合わないものはどこかで“書きまちがえた”ものであろうから、合うように直せばよろしい。それは明快な方針で処理されていたわけです。ところが、私にとって幸いだったのは、親鸞の場合は、親鸞の自筆本というのがかなりあります。しかも、昭和三〇年代『親鸞聖人全集』というものが作られ、つぎつぎと各(かく)お寺に秘蔵されていた、自筆本が発見されました。そういうものに照らして私は校合を行いました。あるいは、親鸞自身の自筆本が無くても、鎌倉時代の人の自筆本があるのです。日蓮とか道元とか、その他の人々の自筆本があるのです。それによってみると、こんな語彙の使い方はおかしい、まちがいではないかとか、こんな語法はおかしい、写しまちがいだろうとか、こういうふうに決めつけられたところが、本当にまちがいなのかどうかの、確認がとれるわけです。そういう恵まれた状況にあったのです。そして調べていくと、やはり自分の都合のよいように直してあることが判ってきたのです。古写本をこのようなかたちで直したものはだいたいだめだったのです。このようなことを私は体験してきたのです。
さて、近畿説の場合はそれだけではなく、もうひとつ、どうしても原文を直さないといけません。それは、魏使が九州に上陸して、そこからあと、水行十日陸行一月というのを使って、近畿へ行こうとするのですが、残念ながらその方角が「南」である。これはどの写本も全部「南」である。これも、やはり「東」のまちがいだろうと直す。つまり、ダブル手直しをしなければ近畿説は成立しないわけです。
こんなふうに、ダブル手直しまでするのなら、もう別の手直し、南は西のまちがいだろうとか、南は北のまちがいだろうとか、いろいろな人がでてきても、それはいけないのだとは言えない話になってきます。そのことを私は予告したつもりですが、もちろんこのことは私が始めてではなくて、松本清張さんが『陸行水行』で予言されていました。しかし、松本さんは「邪馬台国」という手直しについてはいっさいふれておられなかった。私はそこから、議論を立てなおすことになったのです。
ところが、この近畿説にたいする私の批判に対して、以後、二十年ないし十八年間、近畿説の方から正面からのしっかりした反論は出なかったのです。私にとっては大変残念なことでした。それに代わって強調されてきたのが、あの有名な「三角縁神獣鏡」の理論です。もちろん、これは前からあったのですが、それが強調されだしたのは、二十年程前ぐらいからです。つまり、文献解説の上からは、いろいろ間題はあるだろうが、ともあれ、「三角縁神獣鏡」が卑弥呼からもらった鏡であるという、小林行雄氏の理論によれば「邪馬台国近畿説」は当然健在であると、こういう論法がでてきたのです。直木孝次郎さんなどは、小学館の『日本の歴史I』でそういう使い方をしておられます。
けれども、この「三角縁神獣鏡」については、すでに小林さんの理論に反論が出ておりました。それは若き日の森浩一さんの大半国産論、松本清張さんの全部国産論、そして私が、大阪府の茶臼山古墳から出た三角縁神獣鏡の典型というべき鏡を丹念に調べてみると、それは、中国・呉の国の工人が、日本・「海東」へやってきて、日本で鏡を作ったとおぼしき文章が書かれていたことを解明した。ついで奥野正男さん。九州の在野の考古学者、この方が「笠松形」というデザインが三角縁神獣鏡に出てくる。これは中国の鏡ではないと、だから三角縁神獣鏡は国産であるという発見をされました。ところが、これに対して、考古学の学者が反論を行っているのをほとんどみていません。対話というか、何人かで話したようなことを裏でしているのですが、それぐらいのことはたまにありましたが、いわゆる正面から批判されたのを私は知りません。その理由を比較的最近私は聞いて驚いたのですが、森浩一は素人(しろうと)である・・・。つまり、古墳についてはその道にたけた玄人であるが、鏡については素人である。素人の言うことをいちいち取り上げるのは、大人げない、だから反論しないのだ。こういう耳から耳へ伝わってきた話があり、私はそれを聞いてびっくりしました。なるほどそういう論法ができるのかと。これはもう、松本清張さんや、私や、奥野さんは素人も素人、ど素人になります。これでは反論がないのも無理がないな、という感じを持ったしだいです。これは要するに、論理で反論するのではなくて、肩書きで反論するというやり方です。もっとも、そういう人たちも、名刺に私は鏡の専門家であるという肩書をつけているのかどうか、私は知らないけれども、とにかく学界内の肩書きで勝負する、こういうやり方なのです。
ところが、このようなやり方がひどい竹箆(しっぺい)返しを受けたのが、王仲殊(おうちゅうしゅ)さんの論文です。これによると、三角縁神獣鏡は、これは中国の鏡ではない。しかも、中国の工人が日本に渡って造ったものである。それは大阪府の茶臼山古墳から出土した鏡の、「青同(銅)を用(も)って海東に至る・・・」という文面を見れば、分る。決して中国産の鏡ではない。だから国産である。こういう論証を述べたのです。しかし、そういう面だけでなくて、もう一方積極的な面としては、王仲殊さんの場合は中国の鏡の専門家ですから、中国の鏡についてはもっとくわしいわけです。私は中国の博物館などへ行きました。鏡は無いか、鏡は無いかと探すのですが、無い場合のほうが多いものです。中国の場合は鏡というのは日用品で、それほど価値のある存在ではないのです。ところが、日本の場合はたいへん貴重な存在です。考古学者の中でも、鏡の専門家がいちばん“重きをなしている”のです。事実、鏡というのはひじょうに重要なシンボル、宗教的シンボルとして扱われたようです。中国ではそういう扱いではなく、実際に出土しても、多くは倉庫にしまわれて展示されていません。そういうところで、私たちが倉庫へ入らせて欲しいといっても簡単に入らせてはくれません。ところが、王仲殊さんはまさに中国の学者です。しかも、研究所のナンバー2のかた、副所長でした。その後、所長になられた、トップクラスの学者です。こういう方は倉庫へでもスーと入っていけるわけです。だから十分に研究ができ、結局三角縁神獣鏡は無かった、ということを確認されたわけです。これは、事実確認という意味でも大切なことです。
また日本の鏡の専門家はふつう日本で出土した鏡の研究家であり、中国出土の鏡の専門家ではないのです。中国出土の鏡については素人です。ところが王仲殊さんは中国で出土した鏡の専門家です。その素人が、いくら王仲殊さんの論文に対し文句を言っても、先のような“肩書”で勝負をした場合、もう始めから勝負はついているのです。以上のようなことで、日本の考古学界はひじょうに大きなショックを受けました。けっきょく、肩書で勝負しろ、と言ってきたのは、論理ではうまく対抗できなかったからだと思います。だから、論理の面では彼らに対して、ボディ・ブローはかなり効いていたのです。そこへ王仲殊さんのパンチ力で膝をついてしまった、という状況が王仲殊さんショックだったのです。
もちろん、王仲殊さんの論理にも問題があります。先に言った「先行論文」に断りなしに、自分で同じ結論を述べておられます。私は『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社)、『多元的古代の成立』(上・下駿々堂)をお送りしましたが、この間、日本に来られたから、なにか御挨拶があるかと思ったら、音さたもございません。それから、三角縁神獣鏡が日本国産であると、しかも、それで邪馬台国・近畿説に立つ。では卑弥呼がもらった鏡はどれか、というような問題が王仲殊説にはあります。これも批判した文献(『多元的古代の成立」)をお送りして四〜五年は経ちますが、何の返事もありません。そのような、王仲殊さん自身に関する問題はある。
これははっきり申しあげておきますが、それとは別に、日本の考古学者は従来のような三角縁神獣鏡についての言い方、「舶載、定説」論はもうできなくなってしまったのです。 
環濠集落について
そこで、それに代わって持ち出されたのが「環濠集落」です。住居跡です。住居の周囲に堀がある、逆に言うと堀が住居を囲んでいる、それを「環濠集落」と言っています。なぜ環濠集落が「邪馬台国」問題で問題になるかというと、倭人伝の中に、卑弥呼の宮殿(宮室と書いてあるが)のことを述べたところで、そこには楼観・城柵があると書いてあります。楼観は物見やぐら、城柵は柵をめぐらして砦のようにしたものです。
しかし、これ自身を考古学的に問題にしようとすると、大へんにむつかしい。なぜかというと、二十センチメートルか、三十センチメートルぐらい柵を堀り込んであると思われるが、農民の方たちは、ひじょうに勤勉ですので、だいたいこの程度の深さだったら堀り返されてしまっているのです。だから、その確証がとりにくい。無い場合が多いのです。では方法はないかというと、手があるのです、ようするに濠をV字形に堀り込んで、その堀った土を上に盛り上げ、その盛り上げた上に城柵を築くのです。つまり、城柵というのはただの平地に建てたものもあっただろうが、むしろV字形の濠の上、片側に築かれたのがしばしば発見されていたようです。この城柵は若干しか残っていなかったり、ぜんぜん残っていなかったりしても、このV字形は人間が落ちてもすぐはい上がれる深さ、二〇センチや三〇センチの深さでは困るのです。人間の背の高さよりも深くなければ役立ちません。それだけの深さのものであれば、いくらお百姓さんたちが勤勉でも、全部堀り返すことは稀だと思います。つまり、弥生の濠はあちらこちらで発見されていました。逆に言うと、濠があればやはり城柵もいっしょにあったという可能性は高い。環濠集落というのは城柵つきの環濠集落ということになります。
それも倭人伝の記述からは正体がわからなかったのです。ところが、この環濠集落は城柵をもっている。これが考古学者の認識であった。その代表をなすのは奈良県の唐古遺跡、これが縦四〇〇メートル、横二〇〇メートルの大きさの環濠集落。従来発見できているものの最大のものである。その次に大阪府の池上遺跡、これは唐古よりは小さいが、やはり日本列島レベルで言えば、かなり大きなものである。また、愛知県の朝日遺跡、これは遺跡全体は大きいのだが、環濠集落になっている部分はそれほど大きくはないものです。しかし、この列島レベルではかなり大きい方です。もちろん唐古遺跡よりは小さい。ところがこれに対して、九州にはそんな大きな、いまお話ししたような大きなものは無いのだ、ということになっていました。するとやはり倭人伝のいう「邪馬台国」は近畿だ、こういうことが考古学者によってささやかれていたのです。私が“ささやかれて”と言ったのは、なぜそういう言い方をしたのかというと、論文に書かれたものは無いのです。それはあたりまえのことで、今のような話で、ある種の“部分としては”なるほどと思われる要素もありますが、しかし、だから「邪馬台国」は近畿だ、というのには、かなり中間にまだハードルが残っています。例えば王仲殊さんの論文はどうしたか、どこがまちがっているのかということ。あるいは、古田の“ダブル手直しはおかしいぞ”という問題にどう答えるのか、その他にもあるが、いくつかのハードルがあるのです。それらのハードルを越えて、やっと「邪馬台国」が近畿だということになればいいのですが、いまの環濠集落だけで「邪馬台国」は近畿だという論文にはならないのです。だからそういう論文は出ていないのです。私はそういう論文を見たことがなかったので、奈良県の考古学者の方に確認をしたのです。ところが、まったく無いのかというと、いわゆる「報告書」、遺跡を発掘した後の報告書の中に環濠集落が発見された時のことが書かれ、これは倭人伝と対応しうるとの主旨のことが時々記述されているようです。そういう考古学者の方がかなりおります、ということでした。しかし、報告書ですので、これを論文にするという話はあまりない。ですから、“秘かにしのび込ませてある”というわけです。
ところが、そこに「吉野ヶ里」が発見されたのです。吉野ヶ里は大きさが二五ヘクタール、ということは縦五〇〇メートル、横五〇〇メートル。これに対し、唐古遺跡は四〇〇メートルx二〇〇メートルです。八対二五、だいたい三倍の大きさのものです。もっとも、これは公平に扱う意味で話しますと、唐古の場合は何回も作り直しがされています。その作り直し分を全部入れてみると、だいたい吉野ヶ里と同じくらいになります。
私はひとつの公式を作りました。吉野ヶ里をY、唐古をKで表すと、Y大なり、イコールK(Y=<K)と言えば、ほぼ公平だろうと思います。この唐古の件については、この遺跡に長年取り組んでこられた橿原考古学研究所の寺沢薫さんに直接お聞き致しました。
さて、そういうことですから“大きさでいけばもう近畿だ、九州なんか問題にならない”とは言えなくなりました。しかも、私が現地で佐賀新聞を見たら、“世界最大”と書いてありました。これはちょっとオーバーではないか、と思ったのですが、その後調べてみると、そうでもなかったのです。これを詳しくお知りになりたい方は五月二七日付「ジャパンタイムズ」に吉野ヶ里の特集を何枚にもわたって掲載しています。従来、世界でもっとも大きかったのは英国・ロンドンの北にあるメイドン・キャッスル。それと比べると吉野ヶ里はその約一・五倍、逆に言えば、吉野ヶ里の三分二の大きさが従来最大といわれたところのメイドン・キャッスルの環濠集落である、ということが判明しました。これは記事からすると英国の学者にコメントをとっているようです。そうすると、佐賀新聞が書いた記事は必ずしも嘘ではなかったのです。 
楼観について
さて、もうひとつの問題は楼観です。物見やぐらというのは、日本列島弥生時代には、近畿にも九州にもどこにもなかったのです。後になれば、「やはりありました」ということもあるだろうし、また一部、すでに出てきているようですが、従来はその存在が認められていなかった。ところが、吉野ヶ里に楼観と中国語で表現できる物見やぐらがでてきたのです。なぜ、物見やぐらと判かったかと言うと、まずひとつの特徴は深さ。柱の跡の深さです。それが約二メートル。二メートルもの深さのある柱があるということは、一階建や二階建のような建物には必要がない。宮本さんという建築学の学者が確かめたところでは、まず、十メートル以上の高さであれば、これだけの深さが必要になるだろうと言う見解です。第二番目の理由として、その内濠。外濠と内濠があって内濠の中に住居、集落があります。その内濠の両側に三ケ所、相撲でいう徳俵みたいにとび出している場所があります。内濠も人間の背たけより深いのですが、三メートル前後の深さはあったものと考えられます。そのとび出したところに、いまの二メートルの深さの、矩形になった六個の穴があり、その徳俵の両側に道がついています。要するに道がついているところの真中に突き出しがあって、そこに高い建築物が建っていた。これは"物見やぐら"とみてよいだろう。現地の高島さんとか七田さんたちも、そうではないかと考えておられたと思いますが、それを佐原真さんが現地へ案内されて、これは“物見やぐら”であり、おそらく倭人伝でいう楼観にあたるものだろう、という認定をされた。
しかも“近畿説”で有名な論者であった佐原さん。もっとも、最近書かれたところでは、「自分はさほど熱心な近畿論者ではありませんよ」と書いておられますが、私が京都にいた時は、もう“近畿説中の近畿説”という強烈な近畿論者とおみうけしました。小林行雄さんのお弟子さんですが・・・。とにかくその佐原さんが認定者であることが、ひじょうに幸せなことでした。なぜかとなれば、他の人であれば、ひいき目に見て、「あの柱跡は倭人伝の記述する楼観と一致したものである」という認定をしたのではないかと“かんぐられる”ことも生じたでしょう。さて、いまのように、倭人伝の楼観・城柵いずれも吉野ヶ里には存在したと、こうなってくると、この問題をとれば近畿が優先していたものが、急に逆転するようになってきたことがご理解いただけるものと思います。 
祭祀遺跡
ところが、この吉野ヶ里はそれだけではなく、祭祀構造をもっていた。例えば墳丘墓。この墳丘墓の前に土の階段が付いています。弥生時代に作られた階段です。その両側に丸い柱が一本ずつ建っていた跡が現われた。二本の柱では建築物にはなりません。おそらくこれは鳥居であろう。鳥居というのは従来どこまで遡れるのか誰にも判からなかった。奈良時代にも本当に鳥居はあったのかと言われると実は、返事しにくかったのですが、弥生頃までそれが遡れるような新しい重要な手がかりとなるかも知れません。さらに火を燃やした跡が二つありました。ここで「神事」が行われたようです。それから、その階段の下のところから、西側に湾曲して、外濠の方へ道がついています。つまり参道です。外部から来た人はここからお入りになって、墳丘墓を拝んで下さい、というシカケになっています。ちょうど参道の途中に祭祀土器が発見されました。これは大変大事なことです。さっきお話ししたことは祭りだ、神事だ、焚いた火はそうだろうといっても、火を焚いただけではお祭りかどうか判かりません。ところが祭祀土器があるということは、これはやはりここがお祭りの場であることを語っています。弥生中期の祭祀土器の実物が参道から出土したのです。これはこれまでにない大発見でした。
こんどは、高床式倉庫が見つかったことです。倭人伝でいう邸閣といわれるもの、軍事用倉庫のことです。これがたくさん連なっている。もっとも、この問題が、私や、私以外の方もですが、大きな疑問だったのです。なぜかというと、税としての徴税物を保管したり、軍事用にそれを使ったりする、そんなものがなぜ外濠の外に建てられているのか。そんなものこそ外濠の中に入れておかなければ駄目ではないか。当然の疑問です。しかし、私は、この疑問については、解決しました。これについては、外濠のさらに東側と西側に二本の川が流れている。東側は田手川、そして西側は三本松川、これらはいずれも中近世につけられた川の名前です。しかし、それ以前から“暴れ川”として存在したというのが土地の郷土史家のお話しです。この川がひじょうに大事だと思います。なぜかというと、後で問題になりますが、巴型銅器の鋳型というのは“水”がかなり必要であろうと思うのです。茨木市の東奈良遺跡でも元茨木川の水を使っています。それから、唐古遺跡でも大和川に至る支流に沿っています。昨年五月、唐古遺跡の調査を行ったのですが、その時ひじょうに印象を受けたのは、銅鐸の鋳型が出る所はそこから何本も何本も潅漑用なのか、廃水を流すためなのか、人工の水路がくり返し何回も何回も掘られています。だから、銅鐸の鋳型に水が必要であった、ということではないでしょうか。もっとも鋳型が集中している福岡県の春日市も、御笠川と那珂川との間にはさまっています。川の存在というのは、このような銅器などの生産にとって大切なものであると思うのです。そうすると、両側の川こそ重要な防衛線、軍事的な布石になっていたのです。そこで問題なのは、西北のところに、一キロメートルにわたって、北へむかって二列の甕棺が並んでいます。甕棺というのは、どうも“位どり”があるように思われます。墳丘墓が一番位(くらい)どりが高いのでしょう。一方、南側と北側にやはり二列の甕棺が並んでいます。これはやはり死んでも私の主人の御前に眠りますと、やはり位の高い人たちでしょう。それ以外の甕棺は、墳丘墓から離れた甕棺はもっと位が低かった。ところが、その外濠に入れていない一キロメートルにわたる甕棺は、外濠の中の甕棺よりも、もうひとつ位が下、差別されているのです。しかも、おそらく、その人たちは川と外濠との間を守ることを、生前に任務とした人たちであり、だから死んでもその自分の陣地のところに眠っている、というすがたを示しているのです。残念ながら外濠の中だけが保存されるようですが、問題なのは外濠の中だけが大切なのではなく、本当は、吉野ヶ里というのは、濠の外までも重要な遺跡であるというふうに考えるべきです。
さらに、吉野ヶ里については、墳丘墓の問題があります。一番中心の甕棺、これが実は一番大きくて真中にあるから、そこから何がでてくるか、私も皆さんも期待をしたのです。が、四月六日、開けてみると銅剣(細剣)一本。ある意味で私もがっかりしたのですが、考えてみると、この細型銅剣一本というのは、これはだいたい倭国の三十国のひとつ、という位どりなのです。北部九州から瀬戸内海にかけての位どりの問題なのです。だから、倭人伝の中にある三十国の中のひとつの国だから、細剣一本ぐらいなければという位どりだと思います。だから、この墳丘墓の中心の人物は、そういう存在だったのです。問題は、その中心の南側の甕棺です。中心の甕棺とその南側の甕棺とは並んでいるのです。間が三メートル前後あるが、高さも深さも同じ位置に並んでいます。ただ北側と南側だけで、あとはぜんぜん同じ感じで並んでいます。これはどうも私は主人と家来の関係ではなくて、むしろ親父と息子、第一世代と第二世代、こういう感じを受けました。その南側の方が中心の甕棺より豪華なものが出土している。いわゆる分離形の飾り付き銅剣。それから、どうも“絹”もそこから出てきているらしいのですが、分りません。それから第三世代ともおぼしき西側の甕棺、ここから有柄銅剣が出土しました。この有柄銅剣は現在山口県(向津具むかつく遺跡)出土に次いでこれが二本目です。それと七十余個の管玉が出てきました。私が三月二日の夕方、二ケ出土するのを見ました。その、輝くライトブルーの美しさに驚きました。その時は、大陸からもらってきたのではなかろうか、と思ったのですが、しかし、そうは断言できないので、「大陸直通のもの」と、『週刊朝日』に書きました。けれども次の日、次の日と、泥をのけてみると出土してくるわけで、七〇個ほども出てきた。こうなりますと、とても中国からもらったというわけにはいきません。ガラスとは貴重なものです。こんなにたくさんもらう訳もないだろう。これはどうも倭国で生産したものであろうと、私は感じたものでした。
この点、由水常雄さんというガラスの専門家の方が、あれは材料は中国の揚子江あたりから持ってきているが製造は倭国で作ったのだろう、作りが幼稚であると書いていました。この“幼稚”ということが私は大事だと思う。なぜなら、ガラスといえば当然、中近東からシルクロードを通って中国へやってきた。その場合、中国で作ったものははじめ“幼稚”であった。ところが、“幼稚”だった後に、優れた中国のガラス製品の技術が成熟していった。同じく中国から伝わった倭国では“幼稚”であった。ということはやがて発達すべき前夜にあたる、こういうことを示しているのです。
そういうふうに考えてみると、いわゆる第二世代、第三世代にあたる南側と西側の人たちは、倭国全体の三〇分の一にあたるものではない。有柄銅剣にしましても管玉にしましても、とても三十何国分の一の長という感じではない。そうするとこれはむしろ倭国の中で十指の、あるいは五指に入るほどの富と権力を握った人で、そうした権力者に急速に成長したのです。その急速に成長した秘密は何かと言うと、さっき言いました巴型銅器の鋳型で、これも実物は七十個近く北部九州や瀬戸内海地方から出ております。ところが従来鋳型が出ていなかった。この巴型銅器は銅器の中でも最も製造技術が複雑である。そう言われているんですね。もちろん銅鐸もある意味では最高の銅器と言えるんですが、しかし小粒ではあるが非常に技術的には難しいノウハウで作られているのが巴型銅器なんですね。形が複雑である、真ん中の突起もその上の突起も一枚ものでできている。原理的には鋳型に銅を流し込んだらいいのですが、取り出してみたらぽろっと折れてしまう、これではしょうがない。そうならない為には銅の成分、錫であるとか鉛であるとかの成分をどのようにするのかという技術が、ノウハウが必要である。また、その温度ね、熱くする、それをまた冷やしていく、その順序と言いますか、そういう高度の技術が必要である。あれができれば、あとは大抵できますよ、という技術者の方の話を間接的に聞いたことがございます。でも大事なことは、銅器を作るというノウハウは当然ながら大陸、朝鮮半島のほうから入ってきた。ところが巴型銅器は中国、朝鮮半島には無いんです。日本列島独特、弥生時代で北部九州・瀬戸内海にかけて独特なんです。だからその独特の鋳型なるものは日本列島で作られたと考えざるを得ない。それは中国の技術を受け入れたうえで、中国の銅器にもない複雑な技法を、技術を完成していったという、今の表現で言えば先端技術にあたるものなんですね。だから、それがどこで作られたのか関心があったのですが、それが吉野ヶ里であった。他にも出るかもしれませんが、少なくとも吉野ヶ里がその一つであった。そうしますと、その巴型銅器の生産の技術集団を握っていたのが、この第二世代・第三世代の被葬者達であった。あるいは沢山出てきたガラス玉の生産の技術集団を支配していた、あるいは深いかかわりを持っていたのがあの第三世代の甕棺の主ではなかったか。その第二・第三世代の技術で築かれたのが、それが日本列島最大、いや、今のところ世界最大らしい、あの巨大な環濠集落であった。決して細剣一本の、あの中心の甕棺の主によってではない。あれはたんなる「クニ」の一つに過ぎないと言う人もいるが、それではあの世界最大級の環濠集落があと二十九も出てくるとお考えか、私にはとてもそうは思えません。だから倭国の中でもたいへん有力な、十指に入る、あるいは五指に入る有力な存在に成長していたのが、あの第二・第三世代の時期である。吉野ヶ里はその主の居城であった。そういうことでございます。 
編年の間題
さて最後に一つ申し上げておきたい点は、年代の問題でございます。実は吉野ヶ里遺跡で不思議なのは、二千三百ほどある甕棺の中で、三百が弥生後期で前期が若干あって大部分が中期の甕棺であると言われている。ところが、外濠は後期の外堀である。これも中期に始まって後期に完成した。中期に作られて後期にもう一度作られたとも言われていますが、とにかく最終的には後期に成立したものです。そして南には後期の住居跡があり、外濠は中期に始まり後期に作られている。その構造を見ますと明らかに北の端の墳丘墓を中心にめぐらされているわけです。ところが当初は墳丘墓だけで、中期から後期にかけて外濠が作られた。そして後期になって住居が作られて人間が中に入ってきた。しかしこの人間というのは生活を楽しむ為にここで生活したというよりも、やはり外壁に守られ、かつ墳丘墓に近いという、そういう形の性格で、ところが時代的に別の時代であったというのでは何となく分かりにくい。
弥生時代の前期・中期・後期の時代分けですが、BC300年からBC100年までが前期、BC100年からAD100年までが中期、AD100年からくAD300年までが後期、これが梅原末治さんや杉原荘介さんたちが作られた編年でございます。現在では始まりと終わりについては人によってちょっとずれております。しかし真ん中については考古学者の中でも一致した見方で違いはありません。ところがですね、土器の形式編年・様式編年を絶対年代に当てていいのだろうか。つまりこれは何世紀、あれは何世紀と当てていいのだろうか。早い話が、われわれの家の台所を見ましても分かりますように、分かりやすいように材質だけで言いますと、瀬戸物がある、ガラス製容器がある、アルマイトの容器がある、塩化ビニール系の容器がある。これを形式編年すれば瀬戸物なんか古いわけですね。ですからといって、それを皆絶対年代に代えうるか。われわれの台所がですよ、いつの時代のものか分からなくなる。やはり現在時点一九八九年、平成元年の台所にいろんな様式・形式編年のものが共存しているというのが、どの家庭でもだいたい同じような状況であろう。形式編年が違うものが同じ時代の台所に共存しているというところに私は人間社会の普通の姿がある。ある台所にはガラス製のものしかない、アルマイト製のものしかない、という例外もあるかもしれないが、併存・共存するのが原則である。私はそう思いますがどうでしょう。それが、今までのように形式編年で分けるというのでは本当は具合が悪いんです。私は、考古学者に何回も会って聞いてみたことがあるんです。そうしたら、そんなことを言われたら我々は困りますと、私だって困るんですよ。現場の発掘なんかに行きますと、机の上を覗くと、そこに編年の表が貼ってあるんですよ。そして、遺物が出てきたら、これは何世紀これは何世紀と表を見て決めていく。そういう表がちゃんと貼ってある。そういうものが、ちゃんとできているほうがこれは何世紀、何世紀と答えられるんですね。それが共存しているなんて言われたらちょっと答えられなくなるんです。前期であるか前期でないかということと、それが現実に合うか合わないかということとは、現実に合わないということのほうが問題なんです。そういう点で、従来のような形式編年を絶対編年に結びつけるやり方はおかしいのではないか。
それからもうひとつ、「骨壺」の例がある。私も皆さんもいずれはその中に入ってしまう。その骨壷というのはだいたい瀬戸物でできてて木の箱に入っているのが多い。ガラスの骨壼なんかも素晴らしいと思うが、あんまり見たことはない。アルマイトの骨壼も見たことはないですね。あんなもの腐りやすいので鋼鉄製で作るというのも聞いたことがない。それは何故か聞かれると、皆うまく答えられない。答えても何となくわりきれない。しかしこれはわれわれが持っている一種の保守性であります。そういう骨壷のような宗教的なものは保守性があって、なかなか変化しない。しかし日常生活はどんどこどんどこ進取の気性で新しい物を喜んで取り入れる。こういう両面性を持っているのがわれわれ人間である。これは中国でも日本でも変わらないのではないか。古代でも現代でも変わらない。そういう眼で見ますとね、今度の吉野ヶ里が大変おもしろいのは、私が今までずっと言っておりましたことが、ちゃんと甕棺で証明された。吉野ヶ里の本当の主人公は甕棺ですよ。環濠集落と言われていますが、本当はこの言葉は吉野ヶ里には正しくないと思う。環濠墓地集落、墓地が集落にまとわりついている、だから略して環濠墓落という言葉を作ってみました。その環濠墓落というのは今言ったように、中期の甕棺を後期の外濠が取り巻いている。後期の住居跡がその周りに仕えている。というのが今言った私の、事実から見た限りの状態で、後期と中期が共存して当たり前である。特に甕棺というのは大きな骨壼でございます。中期が主でなかなか後期に替わらない。ところで中期から後期に替わる替わり方ですね、例えば典型的な例でいうと最初は中期が十で後期がゼロ、そして新しい物ができてくると中期が九で後期が一、次に中期が七で後期が三、そして五対五、つまり中期と後期が同じくらいありますという時期がある。今度は中期が三で後期が七、中期が一で後期が九、そして中期がゼロで後期が十。この終わりの方になってくるとまた土師器との関係が出てきますが、このようにたえず共存・競合しながら移っているのが現実の地に住んでいる人間ではないか。しかし、いかに便利だからといって中期はいつ、後期はいつと、こうやって来たのが実はおかしかった。そのおかしかったことが吉野ヶ里は理屈ではなく、現実の構造でそれを示した。
今までみたいに、ちょっとこの辺掘りましたーー中期の甕棺でした。ちょっとこの辺掘りましたーー後期の濠が出ましたと。今まではそうでした。というのは、ちょっと恐い話しなんですが、例えば明治時代に須玖岡本の農家の庭先の、一つの甕棺から三十枚近くの前漢式鏡と魏・西晋朝時代三世紀のキ鳳鏡が出土したことを梅原末治さんが晩年必死になって論証し、今まで自分が言ってきたことは間違いだと発表した。ところが、このことがお弟子さん達からは完全に無視されてしまった。その三世紀のキ鳳鏡を含む須玖岡本の甕棺からは細剣や倭国の絹と中国の絹とが両方出てくる。そしてそれを含む甕棺は当然ながら須玖式甕棺である。ところが今回の吉野ヶ里の甕棺も大部分が須玖式甕棺で、第二・第三世代の甕棺も須玖式甕棺である。一番中心の甕棺は宇木汲田(うきくんでん)式と言って、中期の中葉とされています。須玖岡本は中期後半と言われています。一番中心が宇木汲田式、第二・第三世代は須玖式。ということは、須玖岡本と同じ様式である。そうするとあの須玖岡本も周りに後期の濠が取り囲んでいたかもしれない。中期に始まって後期に完成した濠を持っていたかもしれない。また、後期の集落を周りに持っていたかもしれない。ということが今度の課題で出てきた。そうすると倭国の中心、邪馬壹国はどこなのか。吉野ヶ里は邪馬壹国の中心では、当然だが、ない。週刊誌なんかには勝手に見出しでそう書かれたりしましたが、内容を読んでいただければ分かりますが、私はそうは言っていない。それではどこかと言えば須玖岡本近辺であろう。その中心領域はまず福岡市西寄りの室見川の流域ですね。吉武高木遺跡、これは最古の三種の神器セットが出てきた王墓ですね。すぐ隣の吉武樋渡遺跡では、今回よりも小ぶりの墳丘墓と甕棺があった。それから有田遺跡、最古の絹が出土した遺跡。私も感慨深いのですが、『「邪馬台国」はなかった』を書く前夜、あの付近、室見川流域を歩き回ったのですが、当地の考古学者に聞くと、糸島や須玖岡本には遺跡があるが、中間の室見川流域には何もないと、話しておられたのを覚えていますが、今や最も古い王墓地帯である。そして、糸島は王家の谷、三雲・井原からは三十面、二十面の鏡が出てきます。平原は割竹式木棺ですが、五十面近い鏡が出ているんです。三雲・井原からも倭国の王墓が出ている。ですからやはり中心領域は糸島、博多湾岸である。あのあたりが邪馬壹国の主心臓部をなす所である。 
吉野ヶ里は何にあたるか
おもしろい話を付け加えますと、「二つの横浜」という話がある。“吉野ヶ里は何にあたるのでしょうか”と若い編集者の人が聞くのです。横浜でしょうか、いや、僕は糸島がむしろ横浜にあたると思いますと答えていたんですが、よく考えると、二つの横浜ですよ。つまり玄海灘に臨む横浜が糸島で、有明海に臨む横浜が吉野ヶ里だったのです。当時は吉野ヶ里から約十キロの所に有明海があった。現在はもっと離れていますが、当時はもっと近かったのでしょうから当然櫓から見れば有明海は見えた。だからあれは有明海に対して防衛している。ですから横浜は一つと違って、北側と南側とに二つあった。若い人は感覚的にストレートに問い詰めて来ますので、私も概念的に整理できました。
そういうわけで吉野ヶ里は邪馬壹国の場所を示した。吉野ヶ里によって倭人伝に示された邪馬壹国の姿は嘘ではなかった。従来、考古学者が「楼観なんて書いてあるけど、弥生時代にはないじゃないか、だから倭人伝なんかあてにならない」などと言っていましたが、そうではなく倭人伝はリアルであった。次に、倭国の墓制がはっきりした。倭人伝には書いてなかったが、どうも甕棺が主要な墓制であったらしい。その甕棺の世界というのは福岡県から佐賀県にかけてであって、その甕棺の中で質量とも優秀な副葬品を持つ墓があれば、それが邪馬壹国の倭王の墓であった。前期末、中期初頭以降です。そして春日市の須玖岡本。これは三世紀を含む遺跡、そして王家の谷として糸島郡が倭国王の墓地として拓かれていた。それが今回の発掘が示すところです。
だけどですね、これに対して近畿説の人が何と言い出したかというと、これからは人口で勝負しましょうと言いだしている。あれ、悪い癖ですね。だって今まで行路の問題を解決せずに三角縁神獣鏡で勝負しましょうと言う。環濠集落が九州で大きいのが出た、おまけに物見櫓まで出た。そうするとそれはおいといて今度は人口で勝負しましょうと言う(笑い)。やっぱりこれはちょっと学問ではないんじゃないでしょうか。私はよく申しますが、倭人伝に書かれた邪馬壹国はどこかということと、その邪馬壹国である場所以外は皆くだらん場所で、文明もない野蛮な所である、といったそんな話とは全く関係がない。それぞれの地域にはそれぞれの文明があり、あの銅鐸なんかやはり素晴らしい銅器文明なんです。その文明の歴史を調べることは非常に重要なことで、いわゆる邪馬壹国でない所には立派な物がたいしてあるはずはないという、そんな独断とは全く関係がないわけでございます。
ということで、吉野ヶ里について申し上げたいことが多々ありますが、吉野ヶ里は一つの結論を示した。しかもまた将来への大きな出発を示している。それは邪馬壹国は分かった、それではその邪馬壹国はその後どうなったのか。私の九州王朝論、あるいは邪馬台国東遷論の可否に繋がって行くわけでございます。もう一つ吉野ヶ里関連で付け加えますと、板付ですね、板付に環濠集落がございます。縦が百十メートル、横が八十メートルでさっき言った近畿周辺のものより小さいですね。しかし、V字型になった、しかも底がまた掘込まれている。二段掘込みになっている。それは一回掘られて、後でまた掘られたと考えられておったんですが、最近よく調べてみると、発掘の担当者にお聞きしたのですが、当初から二段に非常にするどく掘込まれているらしい。しかも時期が少なくとも弥生初期である。少なくとも弥生初期ということは、おそらく縄文晩期からである。それはそうですね。板付というのは縄文水田と弥生初期の水田とが並んでいますから。ですから縄文の末に作られて弥生初期にまたがった環濠集落である。近畿では例があるか知りませんが、これも二重の環濠集落であったということが分かった。ですから、二重の環濠集落は縄文から始まっていた。それが吉野ヶ里に拡大して繋がっていた。そうすると中間に春日市があり、須玖岡本があるわけです。吉野ヶ里については一旦これで打ち切らせていただきます。 
遺跡の分布
お手元の資料にある弥生の絹の分布図ですが、これも邪馬壹国の位置を明らかにする重要な物の一つですが、布目順郎さんの調査によると弥生時代には室見川流域に有田・宮の前・樋渡・吉武に絹が出ます。それと、志賀島の付根にあたる唐の原・立岩・比恵、春日市の須玖岡本・門田、太宰府市の吉ケ浦、甘木市の栗山、それと朝日北というのが吉野ヶ里がある神崎町、吉野ヶ里からも絹が出ました。少し離れて島原半島の三会村、これらが絹の出土地なんですね。その中で中国の絹が出たのは一つだけ、須玖岡本です。倭人伝を見れば、銅鏡百枚というのはたった四字ですが、絹の話は繰り返し何回も出てきます。だから弥生遺跡の中で絹が出る所が邪馬壹国である。こう言って間違いないと思います。しかも大事なことは時期なんです。形式編年によれば、一番古いのが弥生前期末の有田遺跡、ところが一番遅いのが弥生の終末から古墳前期にかけての唐の原遺跡です。だから一番古いのが室見川流域の有田遺跡、一番遅いのが志賀島の根っ子の唐の原で、いずれも福岡市です。中期が一番多いのですが、絹について言えば形式編年によれば一番早い時期から一番遅い時期まで博多湾岸にへばりついています。ですから従来説のように福岡市が奴国であるならば、奴国の人ばかりが絹が好きで絹を着ていて、邪馬台国の人はそれほど絹を着ていなかったと。こんな馬鹿な話はないですね。だから絹の示すところ。弥生のどの時期をとって見ても博多湾岸が中心という結論が出てまいります。中国の絹が出ているということも無視できないですね。
それと今度は鋳型(弥生銅器)の問題ですが、福岡市・春日市が圧倒的に中心になっている。そして糸島郡からも出ている。それ以外では夜須、東背振、これは吉野ヶ里の隣ですね。巴型銅器とか銅剣の鋳型も出てまいりました。そして佐賀市。こちらには飯塚市、古賀、岡垣、志賀島に一つずつ。この鋳型は、主として弥生後期に形式編年では当てられていますが、その後期の鋳型は明らかに博多湾岸、福岡市・春日市が中心であります。この状況を見れば、筑後山門や八女が邪馬台国の中心だったと最近言っている人がおりますが、とてもそれは無理ではないでしょうか。近畿はもちろんのことですね。
さて、最後に一つですね、こういう問題が出ておりますが、一番中心の甕棺から細剣が一つ出ましたね。ところがあれが場合によっては矛かもしれないという問題があるんですね。『倭人伝を徹底して読む』という本にも書いてありますが、あの剣というのは矛ではないか。細剣というのは北部九州から瀬戸内海沿岸にかなり出ています。私の『盗まれた神話」の中にもその分布図が出ておりますが、中国では剣と言えば諸侯のシンボル物であって、考古学的には日本列島ほどたくさん出ていない。そうしますと、あれは矛ではないか。そうすると、これは国生み神話に関連するのではないか。天の瓊矛。瓊矛と書いてあるのもあるが、殆どは矛です。矛を国の原点にする神話であって、天の瓊剣というのはあまりないですよね。天の瓊矛という神話と対応しているのではないか。そういう問題がある。そうすると、あの細剣は長い柄を付けて矛として使ったのではないか。断定はできませんが、そういう問題がある。 
出雲の国引き神話
さて後半の話に移らせていただきます。何度も話していますが出雲の国引き神話です。この中で四箇所から国を引き寄せる話がございます。第一番めに志羅紀の三埼、第二に北門の佐伎の国、第三番目に北門の良波の国、第四番目に高志の都都の三埼。一番目の志羅紀というのは韓国の新羅である。高志というのは越中・越前・越後のあの越である。おそらく能登半島あたりだろう。ということはだいたい異論はないようです。ところが第二番めと第三番めの北門については、出雲の海岸部のどこかであろうと言われておりました。しかしですね、出雲の一部分から国を引っ張って来たのでは国は大きくはならないだろう。そこで新しい説を出されたのが今日も来ておられる、市民の古代研究会の清水裕行さんです。随分前に言っておられ、本にも書かれました(編集部註・清水裕行「『国引き説話』の検討」『市民の古代』第三集)が、それは出雲の隠岐島である。島前、島後と二つある。それがちょうど二番目・三番目にあたるのではないか。後で出雲の速水保孝さんという郷土史を研究しておられる方がおられますが、その方もその説を述べられました。また、門脇禎二さんがそれに同調されました。しかし、研究史上では明らかに「市民の古代」の清水さんが最初でございます。と私は思います。ところが私は清水さんからそういう刺激を受けまして考えましたところ、清水さんの従来説への批判は正当であるが、出雲の隠岐島ではもう一つ物足りないのではなかろうか。何故となれば、黒曜石の出土で知られますように古代出雲の心臓部が隠岐島でございます。八世紀の行政区間では出雲と隠岐島は別れますが、本来の古代出雲では心臓部である。そこから引っ張って来たのでは出雲が大きくなることにはならないのではないか。
そこで問題を整理して、一番目と四番目の安定した領域によって考えると、引っ張ってくる相手は出雲以外である。出雲の外である。次にそれは日本国家の中であっても外であってもかまわない。志羅紀は外、高志は中。北門と言うのだから出雲から見て北になければならない。門と言うのだから入り口、出口。しかも四回の中に二回も出てくるのだから、かなり大きな入り口、出口である。こういう条件をそろえると、答えは自ずから決まってまいりまして、地図で見ますと出雲大社の真北にあるのが,ウラジオストックであります。そうすると北門というのは大ウラジオ湾を示しているのではなかろうか。そうすると第二番目の北門の佐伎の国というのは北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国の東海岸にムスタン岬というでかい岬が飛び出している。これを指すのではないか。ウラジオを原点として右手の方が北門の佐伎の国、そして大ウラジオ湾を原点にして沿海州の一帯を北門の良波の国と呼んでいるのではないかと考えたのです。
しかも、これを作ったのは出雲の漁民たちで、この神話は道具立てを見ると船をつないで杭に縛るという漁民の労働で全神話が構成されている。更に作られた時期は縄文時代である。何故ならばここに出てくる道具には金属器がない。杭と綱と、鋤が出てきますが、金偏で書かれてありますが、鋤は縄文時代から木製の鋤があるわけです。いずれも金属製でなければならない物は存在しない。その点、例の国生み神話は天の瓊矛、天の瓊戈というものが明らかに銅矛・銅戈という金属器が道具の主人公になっていることと好対照です。それで国生み神話は弥生時代に作られた。筑紫で作られた。そう考えますと、金属器の無いこの神話は、出雲で、縄文時代に、作られたと考えざるを得ない。というのは道具によってそう考えざるを得ない。人から見ると突飛に見えるかもしれないが、私としてはそう考えざるを得なかったのです。
その裏付けとしては出雲とウラジオストックとの間に縄文時代に交流がなければならない。そう考えたわけですね。門脇禎二さんなんかは最近文章を書かれて古田はあんなことを言っておるが、古代の事実に合う論証ではない、と短い文章ですが、書かれているわけです。従来の学者はそういう反応をしたわけです。私としては当然その前に現地に、一昨年調べに行ったのです。ウラジオストックに入れるということで行ったのです。入れたのですが、残念ながら歴史博物館が改築中という理由で黒曜石が見せてもらえなかったのです。もちろん土器でもいいんですが一番分かりやすいのが黒曜石である。産地の判別が比較的容易である。顕微鏡検査により判別できる。だからもし両者の間に大きな交流があるのならば、必ず出雲の黒曜石がウラジオストック近辺に出なければならないと考えたのです。だがついに見れずに残念ながら引き返してきたんです。しかしこの残念さも八ヵ月で終わりました。去年の四月の終わりから五月の初めになりまして早稲田大学の考古学実習室でソ連の学者の講演がありました。ワシリエフスキーさんの講演がありました。その講演の最後のハイライトはですね、ワシリエフスキーさんがソ連から持ってきた、ウラジオストック近辺から出たーー近辺といっても百キロ近く離れた場所も含むのですが、ーー約三十数個の遺跡から出てきた七十数個の黒曜石のやじりを持ってきて立教大学の原子力研究所の鈴木正男教授に鑑定をしてもらった。ところがその結果は七十数個の約五割が出雲の隠岐島の黒曜石であった。約四割が秋田県男鹿半島(インターネット事務局注後に、北海道赤井川に訂正)、ここからはやや質の悪い黒曜石が出ますが、ここの黒曜石であった。約一割が産地不明。おそらくは白頭山、ウラジオストックのすぐ近くにありますが、ここの黒曜石ではないかと推定しているわけでございます。これによって、私が論理だけによって分析しました結論が、間違っていなかったことが分ったわけです。 
粛慎とは
さて、このテーマはこのぐらいで終わりまして、今日申し上げたいことですが、お手元の資料にあります粛慎(しゅくしん)についてであります。『日本書紀」の中に粛慎について書いた記事が出てまいります。一番が欽明天皇五年の記事で、佐渡島に粛慎の人がやってきて、そこで死んだという記事でございます。それから二番目が斉明天皇四年、この年越の国守、阿部の引田臣比羅夫、粛慎を討ちて生きた罷(ひぐま)二つ、罷の皮七十枚獻る。という記事がございます。三番には阿部の臣、名は闕(もら)せりとして、船百八十艘を率いて蝦夷国を討つという記事がありまして、四番目は斉明天皇の六年でございますが、三月に阿部の臣、またここにも名を闕せりと、名前が誰か分からない。とにかく阿部の臣という人間を遣わしてですね船師二百艘を率いて粛慎国を討たしむ。(以下、参考資料朗読)
ここで言っていることはどういうことかと申しますと、阿部の臣、名前は分かりませんが、阿部の臣は陸奥の蝦夷を自分の船に乗せて大河、大きな河のほとりに到る。その時に渡嶋の蝦夷が一千余り海の畔にいて河に向かっていおりをしていた。彼らの中の二人が粛慎の船がたくさん来るからわれわれは殺される助けてくれ、こう言ってきた。それで聞くと、粛慎の船は二十艘である。行って見たところ案外にも粛慎は戦争するつもりはなくて、物資交換の為にやってきた。そして物資を交換した。しかし阿部の臣はそれでは満足せず、ついには戦闘状態に入った。そして戦った結果、味方の能登臣馬身龍は戦死した。ところが敵の粛慎はなにせ二百艘対二十艘であるから敗れて自分の妻や子供を殺して彼らは滅んだ。こういう記事がある。
ところがこれに対してですね、この粛慎はいったいどこだ、ということが昔から問題になっているわけです。津田左右吉さんの「粛慎考」(『日本上代史研究』第一篇附録)という論文があるわけですが、これは非常に読みづらいのですが、結論から言いますと、阿部の臣が征伐した粛慎というのは青森市の近くである、青森市の蝦夷である。こういう結論なんですね。ちょっとびっくりしますね。これはおそらく「大河」という大きな河は岩手川のことで、河の畔に蝦夷がおったというのは岩手川の畔の蝦夷であろう。渡嶋の蝦夷というのは岩手川流域の蝦夷であろう。北海道ではあるまい。そこから進んで東に入っていって今の青森市近辺で見つかった蝦夷が「自分は粛慎だ」と嘘をついた。蝦夷という言葉がいやらしい字なので、それに対して中国古典に出てくる粛慎という字が非常に良い字なので、その良い字を彼らが偽称したのであろう、というのが、長い論文に書かれています。
皆さん聞いて呆気にとられたでしょうが、私も、呆気にとられたのです。しかし、津田左右吉さんがこういうことを言う背景があるんですね。何故かと言うと、津田さんの先生は有名な東大の白鳥庫吉、もちろん津田左右吉は東大ではなく早稲田ですが、ところがお二人とも岐阜県出身なんです。当時、明治時代の学者というのは同郷の子弟を薫陶するという、学校を問わず岐阜県の人を集めて、私塾というのですか、教えていたらしいんです。そこへ津田左右吉が行って、白鳥庫吉の教えを受けたのです。ところがこの白鳥庫吉というのは東大の東洋史の学者で、助教授に成り立ての頃でしょうかヨーロッパヘ留学するわけです。そして、ヨーロッパでヨーロッパの古典学を学ぶわけです。その概略はどういうことかというと、ようするにイリアス・オデッセイは架空の話しであり歴史事実とは関係ない、詩人の創作であるというのがヨーロッパ古典学界共通の見解だったんです。それを習った。ところが今考えたら不思議なんですよ。何故ならこの時シュリーマンはもう発掘してるんですよトロヤを。だから当時はトロヤは分かっていたんです。しかしシュリーマンなんてそれこそ専門家でもない、それが何か掘っている、当時ひどい論文というかコメントがヨーロッパで出ているのですが、「あれは、シュリーマンが骨董屋で買ってきたものだ」と有名な大美術館の館長さんがそう言っているのです。そういうまさにインチキ扱い。全く学問の方法に影響を与えてはいないんです。そしてその伝統的な古典学を白鳥庫吉は学んで帰るわけです。その学んだヨーロッパの新進の学問をですね、自分の専門の東洋史学に、中国史に適用するわけです。その結果中国の夏・殷・周は架空の国であると、夏のみならず、殷・周まで架空の国になってしまうわけです。だから、あの思想を『史記』の箕子の記載に適用した。ところが「殷墟」が、箕子、あの「麦秀詩」を詠んだ箕子(きし)が、そこを通って作った、その麦の生い茂っていた土地からズバリ出て来た。そうするとやはり「『史記』の記載は正しかった、ウソではなかった」ということになります。イリアス・オデッセイの記載の場合もそうです。発掘により古代トロヤの実在は証明された。そうすると結局、その啓蒙的な史観というのは、正しくなかったということになる。けれども現在でも学界ではそうなっていないのですよ。だから日本では、戦後はさすがに「殷墟」の発掘は無視できないから、殷の後半の時代の実在は認める。しかし前半は都の所在地も異なっていたことでもあり、殷の前半や「箕子朝鮮」の実在、それはまだ認められておりません。中国へ行くと違いますね、博物館の展示でも、「夏・殷・周」です。とにかく日本の東洋史学は今申し上げたような状態にある。だから白鳥の説をうけた津田氏が、白鳥に殉じて、ーー後「私は津田氏の亜流といわれてもよい」と言った方(井上光貞氏)もありましたが、ーー粛慎の実在を信じなかった、従って津田氏が、この時代に船二百艘もで沿海州へ行けた筈はないとして、粛慎の所在を青森あたりに想定した訳ですが、私は津田氏は間違っていた、書紀に粛慎とあるのは、昔から中国の古典で知られていた、あの粛慎であったと考えます。言い忘れましたが、先のウラジオストック近辺の遺跡の年代ですが、放射能測定によると、BC2000ー1500年、日本で言う縄文時代後期前半です。ところが、この黒龍江近辺からも、北海道との交流を示す遺物が大量に出る。なかでも黒曜石。そうすると黒龍江下流と北海道との間に交流があった。冬に北海道に押し寄せる流氷は、黒龍江の河口の方からも来るのですね、川の水が海に入って塩分が薄まると凍る。だから黒龍江の河口は交通の要衝であった。だから船二百艘で黒龍江口を襲撃した。派遣したのは誰だ?大和朝廷だとすると、大将に任命した安部臣の名前がわからない、などという筈はない。
五月に青森で『東日流外三郡誌』を調べて参りました。今日はその詳しいお話しはできませんが、秋田孝季の書いた地図がある。それには黒龍江にあたる場所に「大河」と書いてある。縄文時代から交流があったのですから、ここの「粛慎」はやはり、中国の古典に伝えられて来た、あの粛慎であると考えます。また同様に、日本の北の果てに「角陽国」というのがあります。この意味ですが、最近北極へ行った女の方がありましたね、女優さんで、そう和泉雅子さん、あのかたのテレビでの放送にあったようですが、北極の近くでは太陽が四角に見えたそうです。だから角陽国というのは千島列島とかずっと北の方の国と考えざるを得ない。隋書にある倭国の地理として、南北は三月行、東西は五月行というのがありますが、私の理解ではこれは沖縄から千島列島を含む概念である。『東日流外六郡誌絵巻』(津軽書房刊)ではこの全体を含む日本の中央を青森県に設定して、ここに「日本中央」の石碑を立て、その中央がここであると宣言している。こう考えてくると、船二百艘で黒龍江の河口まで攻めていったというのも不思議ではない。啓蒙史観に反して、当時の日本列島の広さの認識が、北の方向にずっと広かったのではないか、というのが結論です。 
隠された『日本書紀』
さて、それでは、もうすこし新しい発見についてお話しましょう。『日本書紀』・斉明天皇四年項です。
「是の月に、阿部臣(名を闕せり)を遣わして船師一百八十艘を率いて蝦夷の国を討つ。阿部臣、飽田・淳代(ぬしろ)、二郡の蝦夷二百四十一人、その虜三十一人、津軽郡の蝦夷一百十二人、その虜四人、膽振鋤の蝦夷二十人を一所に簡び集めて大きに饗たまい禄賜う。即ち船一隻と五色の綵帛とを以て、彼の地の神を祭る」
この文章は非常におかしいのですね。皆さん「おかしい」とおもいませんか?まず阿部臣の「名を闕(もら)せり」がおかしい。斉明四年といえば、書紀成立のわずか六十年まえなのに、有名な将軍の名前がわからない。次に阿部臣は水軍百八十隻を率いて蝦夷の国を討った、討ったのはよいが、やったことというのが「饗(あへ)たまう」、討伐といっておきながら、いきなり御馳走する、とは明らかにおかしい。私はここの第一行目(〜蝦夷の国を討つ)と第二行目(阿部臣、飽田)の間に大きなカット、カッティングが行われていると考えます。この間に討伐譚がいろいろ書いてあったのだが、大和朝廷の記事でなくて具合が悪いのでバッサリ切り落としてしまったのだと考えます。普通に考えようとすると討伐に行って、ごちそうするのが説明がつかず、学者たちはこまっているのですが。次のキーポイントは阿部臣に対して味方の蝦夷と敵の蝦夷がある、「その虜○○人」というのが敵の蝦夷です。味方の蝦夷というのは、部下の連中である。つまり、阿部比羅夫は越の蝦夷の首長か将軍であって、だから朝廷(九州王朝)の臣という位をもっていたのではないかと考えられます。(別に詳述)つまり蝦夷の国の統一戦争、これが『日本書紀』に繰り返しあらわれている。そうすると蝦夷の国の実態が浮かんできます。この話は安倍氏が蝦夷国を統一した戦争である。わたしは、統一戦争を行って成功した話を(九州王朝の史書『日本世記』から)『日本書紀』に転載したものであると理解したのです。(『日本世記』は高麗の僧・道顕著。斉明六年項引用。)
次に、最後の大きな問題が出てまいりました。それは同じく『日本書紀』宣化天皇元年項であります。
「夏五月の辛丑の朔に、詔して曰く、『食は天下の本なり。黄金萬貫ありとも飢を療すべからず。白玉千箱ありとも、なんぞ能く冷を救わむ。それ筑紫の国は、遐(とお)く迩(ちか)く朝にいたる所、去来の關門にする所なり。ここを以て海表の国は、海水を候して来賓し、天雲を望んで貢を奉ず。胎中之帝(ほむだのすめらみこと)より、朕が身にいたるまでに、穀稼を収蔵して儲粮を蓄積せり。遙かに凶年に設け、厚く良客を饗す。国を安んずる方、更に此に過ぐるは無し。故、朕、阿蘇の君(未だ詳ならず)を遣わして、また河内国の茨田郡の屯倉の穀を運ばしむ。蘇我大臣稲目宿禰は、尾張連を遣わして、尾張国の屯倉の穀を運ばしむべし。物部大連麁鹿火は新家連を遣わして新屋の穀を運ばしむべし。阿部臣は伊賀臣を遣わして、伊賀の屯倉の穀を運ばしむべし。宮家を那津の口に修造せよ。また、彼の筑紫・肥・豊三つの国の屯倉、散じて懸隔にあり、運輸せむこと遙かに阻たれり。もし須要(もちい)むとせば、以てにわかに備えむこと難かるべし。亦、諸郡に課し分移して、那津の口にあつめ建てて、非常に備えて、永く民の命とすべし。早く郡県に下して朕が心を知らしめよ。』とのたまう」
ここで言っていることは食糧は天下の基本、民衆の命であり、黄金も白玉も及ばない。近くの国からも遠くの国からも朝廷にやってくる使者は、それは筑紫の国へやって来る。筑紫の国には門があり関所がある。軍備が厳重である。そこで海外の国からは、海を渡り、天雲を望んで貢ぎものを持ってやって来る。次にある「胎中之帝」は「ホムダノスメラミコト」の読み仮名がついて、応神天皇と読ませていますが、そうすると、応神から朕、つまり宣化までは食糧を蓄えてきた、となる。それは凶年に備える処置であり、政治の上でこれほど大切なことはない。おかしくないですか、応神から蓄えはじめたとすると、それ以前の帝は食糧は蓄えなかったのか?、その上、これは凶作にそなえる処置である。そこで家来たちに食糧を運ばせる。河内の国は宣化のお膝元の土地である、そこから米を「筑紫」へ運ぶのであります。その最も近い近畿から運ぶ役の「阿蘇の君」の名前が書紀編者には「いまだ詳ならず」。最も深い関係の人と思われるのに、かえって名前がわからない。次に蘇我の稲目の臣は尾張の連を使って尾張国から、物部大連麁鹿火は新屋の米を、新屋というのはどこの新屋かよくわかりませんが、とにかく運べ。阿部臣は伊賀臣を使って伊賀の国、これは甲賀・伊賀の伊賀でしょう、そこの米を那の津、つまり博多へ運べ。筑紫・肥・豊の米倉庫は遠いし、アチコチ離れていて不便だから、博多へ一つに集めて非常に備えることにしよう。博多へ集めるのに近い九州からが主ではない。ほかの各地(近畿近辺)から博多へ集めよ、そして非常に備えておけば、永らく天下の民衆の命となるであろう、民衆は安らかである。
なにか「おかしい」とおもいませんか?もしこの命令者が宣化であれば、茨田郡(まむたのこおり)、これは寝屋川のあたりでしょう、そこは本拠地である、そこの米を九州人と思われる阿蘇の君に運ばせるとはどういうことだ。私の解釈ではこの命令者は「磐井」である。書紀に筑紫・肥・豊の国に根拠をもっていたと描写され、勢力を張っていた「磐井」が筑紫から命令を出して、筑紫へ食糧を集めさせる話、筑紫を中心とする話、主都の人民を安定させる話である。茨田郡は継体帝が本拠地をおいていた土地と考えられる。継体が招かれて天皇家を継いだとされながら、なかなか大和にはいることができず、大和の周辺にいたことは有名である。継体の陵墓はなぜ茨木・高槻の間にあるのか、南河内ではなくて。それは奥さんの関媛の本拠であり、継体の本拠もそこを中心としていたと考えられる。そこから米を運ばせた、しかも、命令の第一順位である。そうすると、この時の権力の中心は依然として九州であり、食糧調達を命じられた中心的な人物、それは継体であり、また物部麁鹿火であった。こう考えると『日本書紀』の「磐井の乱」の話がよくわかる。つまり食糧供出役として苦しんだ継体・物部が中心となって反乱をおこして磐井を殺そうと計画する、そこで磐井をやっつけることができたら、長門から東は継体のもの、西は物部麁鹿火おまえがとれ、などという約束の話がありましたね、反乱の計画はもっているのだが、表面は、味方として、米の運び役として博多へ上陸し、チャンスに乗じて継体側が磐井を攻めた。だから書紀の「磐井の乱」の記事には博多への上陸作戦の話がない。突如として攻撃に移っている。そして三井郡で磐井を斬った。吉野ヶ里にも近い所ですが、そこで斬ったけれども、さきの占領地支配計画は実行されず、わずかにカスヤの屯倉の割譲、これは土地ではなく倉庫の中の米だけですが、それのみで満足した。斬ったあとで形勢は逆転した。これがいわゆる「磐井の反乱」である。(古田『古代は輝いていた』第三巻冒頭参照)
さて、宣化紀の話は磐井が九州に米を集めようとした話を、「宣化の詔」として、“換骨奪胎”され、磐井の言葉が、ここにソックリはめこまれている、信じられないような話ですが、これが『日本書紀」の性格からみると当たり前のことなんでして、『日本書紀』の手法である。その前に、説明しておくべき大切なことをわすれていました。応神にあてられている「胎中之帝」という言葉、これがひとつのキー・ワードであります。「胎」という文字を辞書で調べますと、これは「始」という文字と同じ意味である。しかも「始中終」(たいちゅうしゅう)という熟語がある。これは「始めと中頃と終わり」つまり“物事の全体の経過”という意味である。「胎中帝より朕まで」というのは、“わが王朝の初代の帝から私まで代々”という意味である。帝位は私で終わるわけではないから終はない。「初代から代々ズーッと食糧を大切にしてきた、私も食糧を蓄えよう。」というのである。その「胎中帝」を応神帝と読める形に改文し、くっつけてしまったのですね。
次にまいりましょう。神功紀ですね、神功紀の中には卑弥呼(ひみか)が三回、壷與(いちよ)が一回、但し実名なしに、倭の女王などとして出てくる。この四回とも、同一人神功皇后であるかの形で出ている。出てくる時に「魏志に曰く」などではじまる注は、編者の原注であって後代の注ではない、と、すでに証明されています(田中卓氏等)。ところで神功紀五年項に「朴堤上」が出現しています。「毛麻利叱智」とあるのがそれですが、朴堤上といえば、私がこれまでしばしばとりあげたように『三国史記』に登場し、高麗と倭国に人質となっていた新羅王の兄弟たちを救い出して国に連れ帰る為に、選ばれた人物です。高麗王は説得することにより帰してくれた。次いで倭国へ行くが、説得では駄目とみて、朴堤上は海岸で漁をするとだまして、夜中に王の弟を脱出させる。夜明けになって番兵が気付いて追ったけれども霧にかくれて見失い、追うことができなかった。しかし朴堤上自身は捕えられて、鉄板で焼いて殺されたが人質は無事に帰りつき、新羅王は朴堤上を祭ったと、こういうことが書いてある。韓国では有名な話で、この話を知らない者はいない。日本では、歴史の教科書に出てきませんが。この朴堤上を派遣した新羅王は四一四年に建てられた好太王碑時代の王。朴堤上が五世紀の人物であることは明らかである。この人物がなんと、神功紀にでてくるのです。三世紀と五世紀の人物がごちゃまぜに神功紀にほうりこまれている、三世紀の二人の女王と、五世紀の一人の倭王が神功ただひとりの事として文章が書かれている。あちこちから従来あった材料をとり、結び付けて神功紀をでっちあげたと、こういう話ですね。ですから、神功紀が信用できるとか、できないとか論じる以前の問題で、ムチャクチャですが、これが、実は『日本書紀』の一貫した、史書を作るときの手法である。まあ、ハッキリいえば「偽書」といわざるをえないですね。端的にいえば、「日本書紀は偽書である」、そういうことであります。
住吉大神と金印
さて、これについて、もうちょっとおもしろい後日談があります。それは資料にあるように継体紀六年、ここに実は例の「胎中帝」が二回でてくるのですね。
「それ、住吉の大神ースミノエとかなが振ってありますがスミヨシと読んでおきます。ーー住吉大神初めて海表の金銀の国、高麗・百済・新羅・任那等を以て、胎中誉田天皇に授記しまつれり」
ここでは、完全に、応神天皇と読める様にして「本文化」してあります。
もう一ケ所は、
「胎中之帝より官家を置ける国を、かるがるしく蕃の乞うままに、たやすく、賜わらむや」
というところです。
ここの筋道は、住吉の大神が、朝鮮半島の国々を、「胎中帝」なるものに「授記」した。「記」とは“諸侯の文書”ですが、その「授記」した目的はというと、高麗・百済・新羅・任那の国々、これがみな「胎中帝」に従うことを明らかにした、その“証拠文書”を授けた。「胎中帝」とは本来、さきの例のように、わが王朝の初めと、中頃との帝の意味ですから、筑紫の王者は住吉の大神から「授記」された。そのお陰で朝鮮半島の国々が我国に服従することとなった。住吉大神とは何者か?神話でイザナギが出雲から帰って来て、日向の小戸の橘のアワギ原でミソギをする。そして神様を産む。そのなかで、底筒男、中筒男、上筒男の三神、これを住吉大神という。浪速にも住吉大社がありますが、姪の浜のすぐさき、海の先っちょに住吉神社がある。博多にも大きな住吉神社がある。姪の浜のお向かいの志賀島の志賀海(シカウミ)神社は、底津・仲津・表津の綿津見三神を祭る。その宮司は安曇氏である。ところがその志賀島には何があったか?「金印」が出た。わたしたちは金印が、なんであそこから、あの小さい島から出たのか分からなかった。
しかし、そこは志賀海神社の境内であった。その神域にあった。わたしは今度はじめて気がついて恥ずかしいような気持ちがしたのですが、この当時朝鮮半島の国で「金印」を貰った国がありますか?どうも、ないですね。銅とかはともかく、金はない。金印というのは、委奴国王に授けられた。わたしは「イド国」と読み、博多の王者のこととしますが、後漢の光武帝は、博多の王者を承認した。それはつまり、東夷の、その国々の支配を中国の天子がみとめるという意味あいがある。とすると、金印を貰った国に対しては、東夷の国々は礼をつくさねばならない。そして金印を貰った事が中国の天子を中心とした、それなりの身分構造を示すのがあの金印ではないか?後の倭の五王が中国の天子に対して、韓の国々の支配を主張する、その主張の強引さはなにか“気が狂った”ような感じでしょう?それに対して中国の対応がヘドモドしているのです。しかしそれは、突然の「ご乱心」ではなくて、後漢の時代から金印で認めていたじゃないか、そして、卑弥呼女王も親魏倭王として、「金印」を貰ったじゃないか、あなたが漢朝などをうけつぎ、中国の天子を称するなら、当然わが方(倭国)には朝鮮半島南半支配の権利がある、というのが「倭の五王の論理」じゃなかったか。ここまで考えてみて、はじめて驚いた次第です。もちろん、これは現代の政治問題には、全く無関係です。念のため。とにかく「住吉大神のお陰で、金印が貰えた、そしてそれがわが王朝の伝統である」と。こういう、九州王朝側の主張なのです。これが私の今回発見したことの簡略な報告であります。また次の機会に、詳しく聴いていただければ、と思います。今日の話を終わります。 
 
「九州年号」とは何か / 東アジアにおける年号観

 

1 はじめに
本年一月七日に昭和天皇が死去して、一月八日から「昭和」を「平成」と元号を換えた。政府は官公庁や教育機関を通じて元号を強制し、また、民間においても官房長官が元号を遵守するように「協力」を呼びかけた。
だが、今日の国際化した社会にあって、日本の元号は外国の人びとと共通の時間の尺度をもつことに困難をともなう。それ故、パスポートは西暦となっているのである。
時間は過去から現在、そして未来へと悠々に流れていく。大河の水と同じで、一刻、一瞬たりとも止めることができない「永遠の今」の連続である。この時間の流れに抗して、有限な存在者である人間が、政治的、思想的、宗教的、慣習等の理由によって人為的に区切ってきたものが、年号であることは自明である(今日の日本の元号は天皇制によっている。西暦もキリスト教という宗教に基礎を置いている)。
私たちが歴史を学ぶのは、それ(出来事・制度等)がよってきたった理由、背景、原因をたずねることにより、真実を探究することが、今日および明日をどう生きるかに役立つと信じるからであろう。
天皇が死去して翌日から年号が換わるというあわただしさは、日本の伝統であったのだろうか。今日の一世一元の制は明治維新によって確立した近代天皇制によるものであるが、そもそも天皇の践祚後直ちに改元された例はほとんどなく、むしろ即位後二、三年の大嘗祭の際に改元される例の方が多いのである。
さらに、天皇の治政が変わっても、改元されることなく相当期間にわたって元号が続いているケースもある。例えば、「天平宝字」(七五七〜七六五年。孝謙女帝〜淳仁天皇)、「応永」(一三九四〜一四二八年。後小松天皇〜稱光天皇)、「天正」(一五七三〜一五九二年。正親町天皇〜後陽成天皇)などである。このことからも判明することは、今日の日本の改元のやり方は、古代からの日本の伝統であるとはいえない。
一世一元の制は中国の明朝の太祖の元号「洪武」(一三六八〜一三九八年)から始まったものであり、清朝もこれを継承したのを、日本は明治維新以後模倣したのである。これは王制(日本では天皇制)の下に時間をも臣民として明確に縛りつけるものとして機能させるためのものである。
「明治」〜「平成」という元号の出典は次のようだ。
「明治」は『易経』の「聖人南面而シテ聴キ二天下ヲ一嚮テレ明ニ而治ム」および『孔子家語』の「長ジテ聡明、治メ二五気ヲ一、設ケ二五量ヲ一撫ス二万民」からであり、「大正」は『易経』の卦「大亨以正ス二、天之道ヲ一也」からであり、「昭和」は『尚書』の「百姓昭明、協和万邦」からとっており、いずれも中国の古典をその典拠としている。
そして、「平成」は『史記』の五帝本紀の中にある「内平かに外成る」、『尚書』の下禹謨の中から「地平かに天成る」という文章から「平」と「成」を組み合わせたものである。
このように、元号制度は全て中国の君主制の思想や制度に依拠しており、本来的に日本の伝統などではなくて、中国を模倣として作られ、今日なお存続している。しかし、中国は元号をやめ西暦を使用しているのである。
では、本来の日本人の時間観念はどのようなものであったか。さらに、東アジア(中国、朝鮮、日本など)の年号の始源および年号観はいかなるものであったか。これらの問いに解答を求めてみよう。 
2 古代日本人の暦
日本人の時間観念を探索することができる最も古い文献は、三世紀の『三国志』魏志倭人伝、裴松之註の「魏略に曰く。其の俗、正歳四節を知らず。但し春耕・秋収を計りて年紀と為す」にみることができる。この文章の意味するところは、「倭人の習俗は中国の暦法(太陰暦)の正月や四節を知らず、農耕の『春耕』と『秋収』の時点を計測して『年紀』としている」というのである。
さて、この文章の解釈には次の二通りがある。
(1)倭人は中国の暦は知らないが、春耕と秋収の時点を計測して、それぞれを年紀としている(古田武彦氏『古代は輝いていたI』)。
(2)倭人は、四季なんか知らず、ただ春に植えて秋に収穫することを一年としている(張明澄氏「一中国人の見た邪馬台国論争」『季刊邪馬台国』13号)。
それぞれの解釈の分岐によって、次のような立場が成立する。
1)倭国に「二倍年暦」あり、と見なす。
2)倭国にも「通常年暦」のみ、と見なす。
この二つの仮説は当然にも両立せず、相矛盾する。両解釈が分かれる点を除くと、「倭人は中国の暦ではなく、倭の年紀法をもつ」という情報が得られるであろう。この情報量では、両仮説のいずれが正しいか、判定できない。そこで、検証しよう。
日本民俗学が各地の伝承、口碑を解明したところによれば、日本人は稲作過程でいかに季節感を大切にしていたかが解る。
「山木蓮が咲くと籾蒔をせねばならぬ、散ると田植を始めにやならぬ」
「コブシの花が咲くと畑豆を蒔かねばならぬ(1)」
つまり、支配者が元号などの官暦・制定暦を定める以前から人間の生活の知恵として、自然界の変化から農耕や狩猟に役立て、生活のリズムをなしていた自然暦が存在していた。自然暦は大自然の気候の変化、動植物の変化に基づいている。「正歳四節を知らず」という文章は、倭人は中国の暦法(太陰暦)を知らないと証言しているのであり、四季を知らないと解することは著しく道理に反する。日本は温帯気候に属し、春夏秋冬が明瞭に分かる(本州・九州・四国)。従って、「四季」を知らないという意味は不可解であり、年紀を中国とは異なる尺度で計測していると解する他はない。では、日本人は年紀をどのように数えたか。
一年を二歳とする二倍年暦論は今から百年以上前から主張されていた。一八八○年(明治一三)ウイリアム・ブラムゼンは『日本年代表』において、「○1神武天皇から仁徳天皇までの17代の天皇の寿命の平均は109歳、○2履中天皇から寿命が短かくなり、履中以降17代の平均寿命は61歳。○3冬至と夏至の間、春分秋分をもって一年と数える暦によった」とする「一年二歳論」を主張した。(2)そして、ウイリアム・アストンは倭人の年紀に関する裴松之の註に関して、「しかし、故ブラムゼン氏が、もしこの文を知っていたならば、日本人は仁徳天皇時代まで、春秋の間の六ヵ月をもって一年としたという自説の一つの証拠としたであろう(3)」という。
その後、この考え方は独自の数理文献学を用いて、古代の天皇の平均在位年数を算出し、『古事記』『日本書紀』の分析から「一年二歳説」の可能性として認める安本美典氏に引き継がれている。(4)
ついで、安本氏と異なって『三国志』魏志倭人伝の「年数」および『三国遺事』の駕洛国記の分析から入り、『古事記』や『日本書紀』へと発展して「倭国の暦」を追求し、二倍年暦説を提起したのが古田武彦氏である(『古代は輝いていたI』「第二章『倭国の暦』)。
魏志倭人伝に現われる倭人の寿命は「長寿」が多い。「其の人の寿考。或いは百年。或いは八、九十年」「其の国、本亦男子を以て王と為し、住(とど)まること七、八十年。」
当時の食糧事情、医学等を考えれば、この記事は「長寿国」としてのイデオロギー上の偽作か誇張と考える他はない。しかし“二倍年暦”という仮説のみが十分合理的に説明しうるであろう。ただ、この仮説を承認しない人にはなお解釈上平行線をたどる。そこで、文献上の根拠以外に確かな証拠の必要性を痛感していたが、民俗学を学ぶことから、その根拠を示すことができるように思えるので、次に簡明にのべる。
古田氏は「(ただ、これはーー二倍年暦をさす。藤田註ーー記紀といった公式記録の場合であるから、一般の民間等には、その後も残りえた可能性は十分あろう。)(5)」と課題を明確に残していた。
これは民衆の生活史を学的対象とする民俗学の分野に入らねばならない。民俗学者たちは日本各地の年中行事を研究して、「一年が両分される」という事例に出会っていたのだ。つまり、今日のように正月から十二月までを一年と考えず、一年を二期とし六月を一つのエポックとして二分すると考えざるを得ない行事が、全国各地に伝承されている。この事実から、「結局この六月一日の行事をみると、暦法普及以前の段階に年を二度改め、再生することを願う人々の心意をうかがうことができる(6)」と結論づけている人もあるのである。
ではこの結論を根拠づけている六月一日の行事を次に示そう。
(1)「コオリノツイタチ(氷の朔日)」系・・・京都、滋賀、兵庫、福井、石川(一部)。
(2)「ハガタメ(歯固め)」系・・・青森、秋田、岩手、山形、宮城(一部)、奈良。
(3)「キヌヌギツイタチ(衣脱ぎ朔日)」系・・・新潟、長野。
(4)「ムケノツイタチ」系・・・宮城、福島、茨城、栃木(一部)。
(5)「浅間サン」系・・・千葉、埼玉、東京、茨城、栃木(一部)、三重。
(6)「六月ヒテイ(一日)」系・・・岡山、広島、香川、愛媛。
(7)「厄払い」系・・・大分、熊本。
(8)「正月」系・・・島根、鳥取、福井(一部)。
(9)「イリガシボン(煎菓子盆)」系・・・石川、富山。
以上(文化庁編『日本民俗地図』参照)。
これらは何を意味するのだろうか。各地域の表現形態の違いは、それぞれの地域毎の文化圏を意味していよう。そして、表現形態の違いを越えて、“六月一日が重要な折り目である”ということが共通した原型であり、“年祝い”をすることである。
たとえば、(7)の「厄払い」系である福岡、熊本、佐賀、大分の諸県では、六月一日に「厄払い」、「厄払い祝い」という。福岡県浮羽郡浮羽町では、「厄払い、ヘコカキ、イモジカキ」といい、ヘコやイモジは男女問わず子供が七歳になると氏神に参拝し、近所に赤飯を配る。子供の成長儀礼をなぜ六月一日に「厄払い」として行なうのだろうか。この問いは、佐賀県佐賀市鍋島町の六月一日を「半歳ノ元旦」とよぶ行事を分析すると解明できる。行事内容は、正月の餅を水につけて保存しておき、これを雑煮の代わりに朝食とし、「半歳の内祝い」を家ごと行っていたという。(7)つまり、正月の行事に他ならない。
この地が、最近『魏志倭人伝』の記述の信憑性を高らしめることとなづた佐賀市の吉野ヶ里遺跡の近くであることは示唆的である。『魏志倭人伝』の記事にある「楼観、城柵」等が吉野ヶ里遺跡の発掘調査によって、文献と考古学との対応関係が明白となった。倭人が中国の暦ではなく、「半歳」を一年とする暦をもつことを認識した場合の表現が、「其の俗、正歳四節を知らず。但ヾ春耕・秋収を計りて年紀と為す」と記されることとなったものと思われる。
一年を「二年」と考える二倍年暦は、今日の私たちには奇異なことではあるが、民俗学が明らかにしたところによれば、私たち祖先の古くからの年紀法であり、この暦によって『古事記』・『日本書紀」等の解読がなされねばならないのである。二倍年暦論は学問的仮説として、文献学のみならず、民俗学上の根拠をもつ説として十分検討さればならないだろう。
では、一年を今日の私たちが区切りとする一年(正歳四節)にし、また元号制度などの源流である中国・朝鮮をたずねてみよう。 
3 中国・朝鮮における年号観
東アジア文化圏の中で、年号は中国を源流としている。中国においても二倍年暦が行われていた可能性がある。
藤堂明保氏の『漢字の起源』によれば、「歳」は「穂が垂れて刈り取れるようになるまでの期間」をさすから、約半年間であり、対象とする穀物の種類によって異なった「季」がある。黍(きび)と麦とでは穂が垂れる時期が異なるからである。貝塚茂樹氏編集の『古代殷帝国』によれば次のようだ。
禾(か)季(上半年、すなわち後世の春夏)と麦季(下半年、すなわち後世の秋冬)とに分かれる。禾季は禾類(黍きび等)のできるとき、麦季は麦類のできるとき。卜辞の「春」「秋」はそれぞれ禾季と麦季にあたる。
「甲骨卜辞」の中には「十三月」と記したものがあり(8)、最古の文献といわれる『書経』の中に、「期は三百有六旬有六日、閏(じゆん)月をもって四時を定めて歳を成す」とあるところから、「閏月」をおくようになってきた。つまり、二倍年暦から「正歳四節」への発展である。閏月は、太陽と月の運行のかみ合わせの差をどのように埋めるか工夫したものである。
一年のうちに月がほぼ十二回満月を迎えるところから、初期の天文知識を基に十二進法が考えられ、十二支が成立した。本来、十二支は自然の生命の発達段階を示しており、今日の通俗化した動物名(鼠ね・牛うし・虎とら・・・・・)は後世付加されたものである。
漢字の語源をたずねれば次のようだ(『大漢和辞典』より。子・丑・亥を示す)。
「子ね」とは「万物」をいい、天地間の生物を意味し、「種、果」をいう。
子猶二万物一也。(『漢書』戻太子傳)
「丑うし」とは「生まれて始めて手をあげる」ことをいう。
丑、紐也。十二月、万物動用レ事。象二手之形一、日加レ丑、亦擧レ手時也。(『設文』)
「亥い」とは「男女陰陽が相交はって子を生ずる義である」。
このように、十二支は自然の生物の発達段階をいうのが原形であり、陰陽五行説の台頭によって、十干十二支に組み入れられたのである。
「元号」は漢の武帝の時に、王権の権威を一層貫徹するイデオロギー的支配として制定された。この元号は「建元」(紀元前一四〇年〜前一三五年)に始まり、「元光」(前一三四年〜前一二九年)、「元朔」(前一二八年〜前一二三年)と連続していくが、天の瑞祥(ずいしよう)によって次つぎと改元された。これは、専制帝王の恣意性にもとづき、神仙の術として「奇怪な神々(9)」を祀らさせていたことによるものである。
瑞祥を良いできごとの前兆、しるしとして天人相関の思想によって元号を変える祥瑞改元は日本にも大きな影響を与えている(「大宝」七〇一年から、「元慶」八七七年までの元号をみると分かる)。
ついで、朝鮮の年号を探究しよう。朝鮮には「独自な年号はなく、中国の元号を用いた」と考える学者が多い。王健群氏も「中原(中国ーー藤田註)の暦法に従い、干支による記年も同じであったから、独自の年号はなかったはずである(10)」という。集安で発見された高句麗の瓦当(軒先丸瓦)に「太寧四年」の四文字があり、晋の年号(三二六年か)と考えられている。前一〇八年以後、漢の朝鮮四郡が設置されたことから、漢の元号の影響があるとはいえる。しかし、民衆にも影響があったとはいえず、高句麗最盛期の好太王の頃は独自の紀年を用いたとも考えられる。
好太王碑文に「永楽五年歳在乙未」(一面上行)とある「永楽」は好太王の号であり、好太王の治政の間は一貫してこの紀年が用いられている。
永楽五年乙未(一面七行、三九五年)。
六年丙申(一面九行、三九六年)。
八年戊戌(二面五行、三九八年)。
九年己亥(二面六行、三九九年)。
十年庚子(二面八行、四〇〇年)。
十四年甲辰(三面三行、四〇四年)。
十七年丁未(三面四行、四〇七年)。
廿年庚戌(三面五行、四一〇年)。
好太王碑文は「永楽」の年号を示すだけではなくて、「永楽」年号の前後は干支を用いて年紀としていたことも示している。
好太王の即位前(三九一年)は「辛卯年」(一画九行)と記されており、好太王碑の建立を記す「以甲寅年九月廿九日乙酉遷就山陵於是立碑銘記勲績」(一面六行)の「甲寅」(四一四年)となっており、干支のみである。ここから、好太王の時の名号である「永楽」は同時に元号としても独自に機能していたことと、その前後は干支で表記していたことが明確である。つまり朝鮮最古の年号である。
新羅三面碑
(表示は論証に直接関係しません。異体字も多いので文字表示は略、)
新羅においては干支から始まり独自の元号へとすすんでいった。干支の使用例として最も古いものとしては、最近発見された三面碑(慶北迎日郡神光面冷水二里・李相雲所有畑)がある。碑石は高さ六七センチ、幅七二センチ、厚み二五〜三〇センチの花崗岩に三面にわたって二二九字がある(慶北道文化財委員・金英夏氏調査報告による(11)).
この碑の設立年代を記している「癸未年」(四四三年)は、「辛未年」(四九一年)の可能性がある。(12)「辛未年」であってもなお今日知られている金石文中最も古い碑である。
六世紀になると、新羅は独自の元号を使用し始めた。一九二六年発堀の瑞鳳塚出土の銀製蓋付鋺の銘文は次のようだ。
延寿元年太歳在(辛)卯三月中
大王敬造合杵用三斤六兩
この紀年法は「元号(延寿)+干支(辛卯)」という形に発達したことを示している。「延寿元年辛卯」とは五一一年と考えられる。
『三国史記』では新羅独自の元号を七例数えることができる。
元号干支西暦王
「建元」(丙辰、五三六年、法興王二三年)。
「開国」(辛未、五五一年、真興王一二年)。
「大昌」(戊子、五六八年、真興王二九年)。
「鴻済」(壬辰、五七二年、真興王三三年)。
「建福」(甲辰、五八四年、真平王六年)。
「仁平」(甲午、六三四年、善徳王三年)。
「太和」(丁未、六四七年、真徳王元年)。
新羅の元号は、高句麗の好太王碑の「永楽」にみられる一世一元制とは異なり、王の即位や践祚には関連がみられない(但し、真徳王元年を除く)。むしろ、中国の元号制を源流としたとも思える「建元」から連続年号の最初を置いている。また、「大昌」や「建福」等は慶事の祝福とみられる祥瑞改元と思われるが、「開国」のように政治的改元とみることができる元号もあり、独自性がある。
百済の元号は、「建興五年歳在丙辰」「忠清北道忠州郡出土金銅仏光背銘)の例がある。「建」の字については別の字ではないかという疑問もあるが、「元号(建興)+干支(丙辰)」という並記の段階に入っていたことがわかる。「丙辰」は五三六年或は五九六年かと考えられる。
東アジアにおける元号・律令等の制定(藤田作表)
国名(1)元号制定(2)律令制定(3)仏教伝来
元号名王名西暦
中国建元漢の武帝紀元前
一四〇年秦始皇帝
(前二四六〜二一〇年)武帝(前一五九〜前八七)
以後漸次伝播。
朝鮮高句麗永楽好太王三九二年小獣林王三年
(三七三年)小獣林王二年
(三七二年)
新羅延寿
建元智讃王
法興王五一一年
五三六年法興王七年
(五二〇年)法興王一五年
(五二八年)
百済建興聖王
(威徳王)五三二
(五九二)年『三国史記』に記載なし枕流王元年
(三八四年)
日本
九州善記
(継体)磐井五二二年「磐井の律令」
(『筑後国風土記』)四世紀末から五世紀
近畿大宝文武天皇七〇一年大宝律令五三八年
五五二年 
まとめ
東アジア文化圏における年号観の源流を探究してきたところを簡明にまとめよう。
元号は中国の漢の時代、武帝の時に制定された。元号制定以前の時間観念は、生物の生育が時とともに生起するところから認識されたものであろう。十二支の語源は万物の発達段階を私たちに知らしめている。この自然の時間観念に対し、人為的・政治的に時を区切り、王権の権威を明確にする形でイデオロギーを導入したのが武帝である。祥瑞改元がまず先行したのは、農耕民の五穀豊穣を願う気持ちに依拠し、時をも支配しようとする専制君主としての願望からであろう。
この願望は、高句麗の好太王碑文においても見ることができる。即ち、好太王即位前後は干支で表記されていたものが、好太王即位と同時に「永楽」号となり、一世一元制のように使用せられている。彼の正式名が「国岡上広開土境平安好太王」(碑文中四回出現)であることと彼の治政を考えると元号制定の役割が考察できる。好太王を「皇天」ととらえ王の絶対化を企てた時、「時間」をも支配しようという「願望」に他ならないのである。
新羅においても、干支の使用が先行し、ついで「元号+干支」(延寿元年辛卯)という形に発達したのが六世紀であり、「建元」より連続年号を持つにいたる。百済においても、六世紀に「建興」という元号がみえる。
このような東アジア文化圏の年号観の変遷は、日本に大きな影響を与えた。日本においては、農耕の節目である「春耕秋収」で計測していた(二倍年暦)に代わって、干支の知識の導入後、「年号+干支」という並記がすすみ、次いで元号のみとなった(金石文における年号表記のルールについては、拙論「日本古代碑の再検討」本誌第十集を参照されたい)。
元号制定は「東アジアにおける元号・律令等の制定」表によって判明するように、中国や朝鮮においては、「元号+律令+仏教伝来」という三つの契機がほぼ同時期になされている(百済は不明点あり)。これは偶然であろうか。
永遠なる時間をも支配しようとする為政者にとって、国内における支配の法的根拠である律令の制定、人間の意識への注入としての宗教。これらの契機がほぼ重なることは、偶然ではなくして、むしろ必然性をもつものといえよう。とすれば、通説の認める「大宝」元号及び「大宝律令」とともに、「善記」に始まる九州年号と磐井の律令をも同じ必然性をもつものとして真剣に検討されねばならないであろう。 

(1)川口孫治郎『自然暦』十頁。
(2)ウィリアム・アストン「日本上古史」『文』一巻十四号、十五号ーー一八八八年十月十三日、二十日参照。
(3)同右。ウィリアム自身は「日本人は春分または秋分から年を数え、新年から数えないという意味で、六ヵ月を一年とするという意味を含むのではないようである。」と考えている。
(4)安本美典氏は『卑弥呼の謎』『神武東遷』などの年代論で「古代の天皇の平均在位年数は約十年」と算出している。安本氏の立場は文献によって二倍年暦によるものとそれを認めないものと分けておられるようであるが、不徹底の観はまぬがれない。次のようだ。「『一年二歳説』は『古事記』『日本書紀』の古代の年紀については、あるいは成り立つ可能性があるが、『魏志倭人伝』の記事については、成り立つ可能性がほとんどないとみてよいであろう。」(『邪馬台国ハンドブック』講談社、二八四頁)
(5)古田武彦『古代は輝いていたI』(朝日新聞社、三一四頁)
(6)宮田登「暮らしのリズムと信仰」『日本民俗学講座3』朝倉書店、一五四頁。
(7)同上書、一五一頁。
(8)藤堂明保「中国の元号」『元号を考える』参照。
(9)同上書。
(10)王健群『好太王碑の研究』一六四頁。
(11)「東亜日報」一九八九年四月一三日付参照。この記事及び翻訳は岩崎良哉氏によって教示を受けた。
(12)「癸未年」を「辛未年」と考える理由は次の通りである。
碑文三行の「沙喙至都廬葛文王」中「至都廬」は知證王が六四歳(西暦五〇〇年)の齢で王位に登る前に使用していた名前であること。だから、この碑は五〇〇年以前に建立されたのには違いがないが、「癸未年」とすると四四三年となり、この時なら知證王は七歳に過ぎない子供であって、どのように考えても葛文王という高い地位に登って和白会議を主宰することができるかという疑問がある(碑文の最初の判読者沈載完氏)。さらに、李基白氏も「辛」字を「立/木」と記した例(慶州南山ミンソン碑)があるところから「辛未」とし、四一九年となるところから、この時智證王は、五五歳であり碑文の内容とも合致するとしている。私はこの説を首肯する。
好太王の碑文の「辛卯年」も「立/木」としており、永らく日本人研究者もこれを理解できず、「来」「耒」等としたり、改ざんではないかといわれたりしてきた問題と同じで、事実は「辛」は「立/木」と記されていたのである(詳細は拙著『好太王碑論争の解明』参照)。「立/木」の字が風化によって「立/大」のようになり、「癸」と判読されたものと思われる。今後の研究に期待したい。
[立/木]は、立の下に木。辛の異体字。
[立/大]は立の下に大。造字。 
 
よみがえる壹與 / 佐賀県「與止姫伝説」の分析

 

1 よみがえった卑弥呼
邪馬壹国の女王、卑弥呼が『風土記」に甕依姫として現われていたことを、古田武彦氏が論証された。(1)それにより、『風土記』は古代の真実を解きあかす上で多元史観による再検討を求められることとなった。また、卑弥呼と甕依姫を同定した手法を参考にして、地方伝承の再検討を試みたのが、『市民の古代」第十集の私の論文「最後の九州王朝(2)」であった。そして本稿では『風土記』と地方伝承の多元史観による分析で、ある人物の同定を試みた。
その人物は『肥前国風土記』に「世田姫」と記され、同逸文では「與止姫(よとひめ)」あるいは「豊姫(ゆたひめ)」「淀姫(よどひめ)」とも記されている。現在も佐賀県では與止姫伝説として語り継がれ、肥前国一宮として有名な河上神社(與止日女神社)の祭神でもある。ちなみに、近畿の大河淀川の名はこの與止姫神を平安初期に勧請(3)したことに由来しているという。
このように、『肥前国風土記』や地方伝承に現われた與止姫に比定した人物は、卑弥呼の宗女で邪馬壹国の女王に即位した壹與、その人である。『魏志倭人伝』に記された倭国の二人の女王。その一人、卑弥呼が『風土記』に甕依姫として伝えられているのなら、今一人の女王壹與が『風土記』に記されていたとしても不思議ではない。幸いなことに、今回壹與に比定を試みた與止姫は現在も地方伝承として、あるいは後代史料に少なからず登場する。これらの史料批判を通して論証をすすめたのが本稿である。
註1古田武彦著『古代は輝いていたI』『よみがえる卑弥呼』
2鹿児島県に伝わる「大宮姫」が『続日本紀』の文武四年条にある「薩摩比売」と同人物であることを論証した。なお、藤井綏子(やすこ)氏がその著書『九州ノート』において、大宮姫伝説を九州王朝系の伝承であるかもしれないと既に示唆しておられた。論文発表後、藤井氏からのお手紙によりこのことを知った。
3藤井綏子著『東背振村三津』に與止姫神勧請のことが触れられている。 
2 『風土記』の世田姫
與止姫伝説の文献上の初見は先にあげた『肥前国風土記』であるが、それには「世田姫」とある。その部分を抜粋する。
佐嘉の郡
(前略)郡の西に川あり。名を佐嘉川といふ。年魚あり。其の源は郡の北の山より出て、南に流れて海に入る。此の川上に荒ぶる神ありて、往来の人、半ばを生かし、半ばを殺しき。ここに、縣主等の祖大荒田占問ひき。時に、土蜘蛛、大山田女・狭山田女といふものあり。二の女子云ひしく、「下田の村の土を取りて、人形・馬形を作りて、此の神を祭祀らば、必ず應和ぎなむ」といひき。大荒田、即ち其の辭の随に、此の神を祭るに、神、此の祭りをうけて、逐に應和ぎき。ここに、大荒田いひしく「此の婦は、如是、實に賢女(さかしめ)なり。故、賢女を以ちて、國の名と為むと欲ふ」といひき。因りて賢女の郡といひき。今、佐嘉の郡と謂ふは、訛れるなり。又、此の川上に石神あり、名を世田姫といふ。海の神・・・鰐魚を謂ふ・・・年常に、流れに逆ひて潜り上り、此の神の所に到るに、海の底の小魚多に相従う。或は、人、其の魚を畏めば殃なく、或は、人、捕り食へば死ぬることもあり。凡て、此の魚等、二三日住まり、還りて海に入る。(『風土記』日本古典文学大系2より)
『肥前国風土記』のこの一節は大変興味深い。前半にある荒ぶる神が往来の人々を半ば生かし半ば殺すというパターンは例の甕依姫の説話に酷似している。しかも縣、王等の祖「大荒田」という人物が大山田女・狭山田女という二人の女性の助言に従って、この神を祭るという点も類似したパターンと言える。
更に注目すべき事は、その祭り方である。人形と馬形で祭るといった風習で思い起こされるのが、筑紫の君・磐井の墓、岩戸山古墳の石人・石馬である。又、縣主等の祖という肩書きをも示唆的である。九州王朝の行政単位「縣」の代表者たちの祖というのだから、大荒田は九州王朝の中心的人物の一員と見るべきであろう。そして、その大荒田が祭った神ならば、更に古い九州王朝始源の人物と推定できる。この荒ぶる神が後半の石神、世田姫と同一神かは文面からは定かではないが、共に佐嘉川の川上にあることや、荒ぶる神が過去の説話として記され、世田姫は『風土記』編纂時点の記事であることから、過去の荒ぶる神が『風土記』編纂時点には世田姫として祭られていたのかもしれない。いずれにしてもこれらが九州王朝の説話である可能性は濃厚である。この世田姫が海神を従えていると記されていることも重要な問題を含んでいるが、このことについては後に触れる。
さて次に、「風土記逸文」にある與止姫について見てみることにする。『延喜式神名帳頭註』(一五〇三年成立)に記された次の文である。
風土記に曰く、人皇卅代欽明天皇の廿五年、甲申のとし、冬一一月朔日、甲子のひ、肥前の國佐嘉の郡、與止姫の神、鎮座あり。一の名は豊姫、一の名は淀姫なり。
(『風土記』日本古典文学大系2より)
日本古典文学大系『風土記』の解説では、風土記にはこの種の鎮座は記さない、後代の記事とすべきである、として信憑性に疑問を投げかけている。しかし注意しなければならないことだが、九州には二種類の『風土記』が存在しており、古田武彦氏の研究(4)によれば、行政単位を「郡」とするものと「縣」とするものとに分けられる。そして、「縣」風土記こそ九州王朝が大和朝廷の「郡」風土記に先立って編纂したものであることを考慮すれば、「風土記にはこの種の鎮座は記さない」とする見解も問題があると言えよう。「郡」風土記にはなくても「縣」風土記になかったとは断言できないのである。それでは多元史観により逸文の内容を検討してみよう。
「逸文」の構成は鎮座記事と神名記事とからなっている。欽明天皇二五年(五六四)と言えば、筑紫の君・磐井が継体に倒されて約三十年後であるが、先の『肥前国風土記』にある「人形・馬形」による祭祀と磐井の墓の石人・石馬との関連が年代的にも一致してきそうである。更に、この鎮座記事を裏付ける史料がある。『太宰管内志』の次の記事だ。
佐嘉郡本荘大明神
「肥陽古跡記」に佐嘉郡〔與賀上郷十村ノ内〕本荘妙見山淀姫大明神〔本地十一面観世音菩薩也〕云云「知僧元〔甲申〕年九月廿八日夜於大塚妙見社来現垂跡給之神霊也(後略)。
(〔〕内は細注)
九州年号「知僧」を持つ神社の縁起譚が記載されているのだが、同じ與止姫を祭神とし、しかも場所も同じ佐嘉郡である。知僧元年(五六五)の千支は乙酉であり、甲申は師安元年(五六四)であるが、これが欽明天皇二五年と一致する。(5)とすれば、この時期この地域に與止姫を祭った伝承が「風土記逸文」や神社縁起に残されていたと考えられる。更に言及するならば、九州王朝が編纂した「縣」風土記には九州年号が使用され、九州王朝による神社勧請あるいは鎮座記事が記されていた可能性もあろう。ならば、疑問有りとされた先の「風土記逸文」の史料価値は高いと言える。
次に神名記事であるが、「與止姫」「豊姫」「淀姫」と混乱が見られる。『風土記』編纂時点において、既に祭神の名が、あるいは発音に数種の伝承が存在していたものと思える。「よと」「ゆた」「よど」と混乱していたため、『肥前国風土記』では「よた」といった名を記したに違いない。
以上、『風土記』に現われた與止姫について考察を続けたが、まとめれば次のようになる。
1).世田姫は與止姫、淀姫と同一人物であること。
2).九州王朝始源の人物であること。
3).甕依姫(卑弥呼)の説話と類似した現われ方をすること。
4).海神を従えた人物であること。
以上であるが、『風土記』に登場する「世田姫」あるいは「與止姫」が壹與であるとしても矛盾はないようだ。次章では、もう一つの與止姫伝説「神功皇后の三韓征伐」説話について分析してみることにしよう。
註4古田武彦著『古代は輝いていたIII』
5九州年号の干支のずれについては丸山晋司氏と平野雅曠氏、石川信吉氏との間で論争が展開されている。興味深い問題であるが、本稿の論旨には直接関わらないので、ここでは言及しない。 
3 「神功皇后の三韓征伐」譚と輿止姫
『古事記』『日本書紀』にある「神功皇后の三韓征伐」譚は史実としては疑問視されているが、多元史観によれば、これも本来九州王朝の伝承であったものを大和朝廷側が盗作した可能性が強い。ところが『記紀』とは少し異なった「干珠満珠型三韓征伐」譚というものが存在する。そこでは、神功皇后に二人の妹、宝満と河上(與止姫)がいて皇后を助け、その際に海神からもらった干珠と満珠により海を干上がらせたり、潮を満ちさせたりして敵兵を溺れさせるといった説話である。文献としての初見は十二世紀に成立した『水鏡(前田家本)』が最も古いようであるが、他にも十四世紀の『八幡愚童訓』や『河上神社文書』にも記されている。
この説話で注目されるのが神功の二人の妹、宝満と河上(與止姫)の存在である(ただし、『水鏡』では香椎と河上となっている)。中でも河上は海神から干珠・満珠をもらう時の使者であり、戦闘場面では珠を海に投げ入れて活躍している。そして干珠・満珠は河上神社に納められたとあり、この説話の中心人物的存在とさえ言えるのである。この説話が指し示すことは次のような点である。まず、この説話は本来、宝満・河上とされた二人の女性の活躍説話であったものを、『記紀』の「神功皇后の三韓征伐」譚に結びつけたものと考えられる。更に論究するならば、神功皇后と同時代の説話としてとらえられている可能性があろう。たとえば『日本書紀』の神功紀に『魏志倭人伝』の卑弥呼と壹與の記事が神功皇后の事績として記されていることは有名である。要するに、神功皇后と卑弥呼等とが同時代の人物であったと、『日本書紀』の編者達には理解されていたのである。(6)とすれば、同様に、宝満・河上なる人物も神功皇后と同時代に活躍していたという認識の上で、この説話は語られていることになる。このことはとりもなおさず、宝満と河上(與止姫)は卑弥呼と同時代の人物であることをも指し示す。
こうして、もう一つの與止姫伝説「干珠満珠型三韓征伐」から支持する説話であることが明らかとなったのである。また、この論証は宝満=卑弥呼の可能性をも暗示するのだが、こちらは今後の課題としておきたい。(7)
さて、宝満・河上の戦闘譚との関連で浮かび上がってくるのが、『魏志倭人伝』に記された邪馬壹国と狗奴国との戦争記事である。この戦争の伝承が「三韓征伐」譚と結びついたのかもしれない。次章では『魏志倭人伝』との関わりについて分析する。
註6もちろん両者は別の時代の人物である。卑弥呼は三世紀前半ないし中葉、神功は四世紀前半ないし中葉。『書紀』の紀年が二倍年歴により大きくずれているため、たとえば『三正綜覧』では神功皇后の在位期間が西暦201〜269年とされている。
7甕依姫説話の「麁猛神」は「ソタケルノカミ」と訓じ、筑紫神社(筑紫郡筑紫野町)の祭神「八十猛尊」のことではないかと、古田武彦氏は『よみがえる卑弥呼』で指摘しておられる。甕依姫(卑弥呼)を「祝」として祭った「麁猛神」が、氏の指摘通り筑紫神社の祭神「八十猛尊」であれば、筑紫神社には祭神として「宝満大神」も祭られていることが注目される。祭る側が後に祭られる側に入ることは十分考えられるし、そうであれば宝満=卑弥呼の傍証とも言えよう。 
4 「干珠」「満珠」の謎
「干珠満珠」で思い浮かぶのは、山幸・海幸説話だが、與止姫と干珠満珠が何故つながっているのかについて検討してみよう。おそらく山幸・海幸説話がバックボーンにあっての説話であろうが、藤井綏子氏が興味深い説を述べられている。それは、干珠満珠説話の発祥の地は潮の干満の差が激しい有明海ではないか、というものである。(8)有明海の干満の差は最高六メートルにもおよび、その影響で筑後川の流れが私の故郷の久留米市まで逆流するほどである。したがって佐賀県の興止姫伝説に干珠満珠が登場しても不思議ではない。ちなみに、河上神社には文化財として今も干珠と満珠があるという。(9)
それでは干珠満珠とはいったい何なのだろうか。『八幡愚童訓』『河上文書』には干珠は白珠、満珠を青珠と記している。そして、それに対応するかのように『魏志倭人伝』には倭国の産物として「真珠」「青玉」をあげ、次のような記事をのせている。
壹與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等を送りて還らしむ。因りて臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢す(『倭人伝を徹底して読む』古田武彦著より)。
ここに倭国からの献上品として「白珠」と「青大句珠」が登場するのである。壹與と白珠・青大句珠、そして與止姫と干珠(白珠)・満珠(青珠)。ここでも壹與=與止姫を示唆する物的証拠の存在が明らかとなったのである。
さて、ここで先にあげた與止姫と海神との関係について検討してみよう。『風土記』では海神が毎年訪れるとあるが、「三韓征伐」譚では干珠満珠を海神からもらったことになっているので、與止姫への献上品として海神がもたらしたのかもしれない。とりわけ、『魏志倭人伝』にある「白珠」は真珠のことなので、海神すなわち海の民の王からの献上品にふさわしい。となれば、この海神と記された者は、例の海幸の系統を引く人物と思われてならない。そして、邪馬壹国の女王壹與こそ、その国名が暗示するように山幸の系統をひく王と考えれば、『風土記』の記事がリアリティーを帯びてくるのである。それでは海神の国はどこか。それは海幸の子孫と伝えられている隼人の国、鹿児島県地方ではないだろうか。そしてその地は『魏志倭人伝』に言う「投馬国」であろう。(10)この問題については今後更に論証を深めたい。
註8藤井綏子著『東背振村三津』
9同右。
10古田武彦著『ここに古代王朝ありき』に投馬国の所在地が鹿児島県指宿市付近であることを考古学的事実により論証されている。 
5 共通する個有名「與」
いよいよ最後の論証に入ろう。人物を同定する場合、最も重要かつ基本的な論点、それは名前である。安易な人名比定による同定は危険であるが、同一人物であるからには名前がまったく違うとすれば、これもまた問題である。したがって、他の論証を十分につくした上で人名比定の作業に入る方法をとったのは論証に慎重を期したいがためである。
すでに読者はお気付きであろうが、壹與と與止姫の共通項、それは「與」の一字である。壹與の壹は国名(邪馬壹国の壹)を姓としたもので、固有名部分は「與」である。古田武彦氏の論証によれば、「與」は中国風一字名称と考えられ、国号を姓とし、中国風一字名称を付して、倭王は中国の天子への上表文の自署名としていたとされる。(11)與止姫の場合はどうだろうか。たとえば『日本書紀』景行紀に登場する「八女津媛」などの場合は地名(八女)プラス称号(媛)とも考えられ、「八女」が固有名かどうか判別できない。しかし、與止姫の場合はその心配はないようだ。なぜなら『肥前国風土記』には、石神の名が世田姫であると記しており、またこの地方に「よた」あるいは「よと」と呼ばれた地域は見当らない。したがって、與止姫の「與止」は固有名と見て間違いないであろう。壹與の固有名「與」、そして與止姫の「與止」。この「與」の一致は同定作業の大きな根拠となりえる。
註11古田武彦著『古代は輝いていたI』 
6 よみがえる壹與
八世紀中葉に成立した『肥前国風土記』に現われた世田姫は、十二世紀成立の『水鏡』では河上大明神と記され神功皇后の妹として活躍し、現在も淀姫様として佐賀県で語りつがれている。その與止姫伝説が邪馬壹国の壹與の伝承であったことを論証してきたが、ここで整理してみよう。
1).『肥前国風土記』の分析により、世田姫は九州王朝始源の人物であり、「風土記逸文」では與止姫として記されている。また、説話自体が甕依姫(卑弥呼)記事と酷似しており、卑弥呼との関係がうかがえる。
2).與止姫を祭った神社縁起に九州年号が現われ、六世紀には九州王朝が自らの祭神とした形跡があること。
3).神功皇后の「干珠満珠型三韓征伐」説話に登場し、同説話では中心的人物として活躍している。そして、そのことが卑弥呼・壹與と同時代の人物であることを示唆している。
4).「干珠満珠型三韓征伐」説話に現われる二つの珠の色が青と白であり、『魏志倭人伝』に伝える壹與の貢献品、白珠と青大句珠に対応していること。
5).名前にそれぞれ「與」の字を持っていること。
以上の通り、時代・名前が共通しており、ともに九州王朝始源の女性であることからして、與止姫が壹與であると同定してもよいと思われる。とりわけ、干珠満珠の色と、名前の「與」の件は偶然とは言いがたい一致を示している。ここに、古田武彦氏が論証された、卑弥呼=甕依姫説に加えて、壹與=與止姫説を提起したいと思う。そして、この仮説は邪馬壹国の領域が佐賀県にも及んでいたことを示唆する。このことを裏付けるかのごとく、本稿執筆中に佐賀県から大規模な弥生時代遺跡発掘(12)のニュースが届いた。まさに、邪馬壹国が、壹與がよみがえったのである。
註12佐賀県神崎郡吉野ケ里遺跡。本年二月二三日の新聞によると、佐賀県神崎町と三田川町に袴がって周濠と城柵を持つわが国最大規模の弥生集落遣跡が発見された。それは『魏志倭人伝』に記された邪馬壹国の描写に酷似していると言う。 
7 『高良記』系図の「世斗命」
最後に、読者に不思議な系図の存在を紹介したい。それは、福岡県久留米市の高良大社にある『高良記」に記された系図である。この『高良記』も「千珠満珠型三韓征伐」説話を載せている縁起であるが、その「三韓征伐」に参加した神々として「異国征伐之時三百七十五人ノ神立」と題した系図が記されている。その一部分に今まで聞いたことのないような名前の一群があるのだ。
そこには「稚日女命」から「天日神命」まで四十四代の名前が並んでいる。しかも二十五代目にあたる「五櫛彦命」から分岐して近畿天皇家の祖先ウガヤフキアエズヘと続いているのだ。古田武彦氏はこのことに注目して、この系図は九州王朝のものであり、近畿天皇家は傍流であると主張している系図ではないかと述べられている。(13)もし、氏の仮説が正しければ、九州王朝の歴代の王名が記された画期的な系図となる。そして、その中には当然のこととして卑弥呼や壹與の名前が記されているはずである。そして、その痕跡があるのだ。
『魏志倭人伝」によれば、長らく男王が続いた後、卑弥呼が擁立されたとあるので、系図の中で男性名が続いた後の女性が卑弥呼にあたる可能性が強い。二十一代目の「天造日女命」がそれに相当するようだ。他にも何人かの女性と思われる名前があるが、その前に男性名が九人も並んでいるのは「天造日女命」だけである。そしてその次の名前が「天世斗命」であり、與止姫の「よと」と「世斗」とが共通するのである。ただ、「天世斗命」が女性名と判断できないことに問題が残るが、名前が一致することから壹與のことである可能性は十分である。いずれにしても『高良記』系図の研究は今後の重要課題であろう。最後に、與止姫伝説は長崎県にも残っており、これらの分析も今後の課題である。まずは與止姫と壹與の同定を論証しえたことで、読者の御批判を期待しつつ筆を置きたいと思う。 
 
古代の琴(こと) / 正倉院の和琴(わごん)への飛躍

 

一 はじめに
和琴は、神楽笛・笏(しゃく)拍子などと共に、神楽歌・久米歌・東遊・大和歌・大歌・誄(るい)歌といった我国古来の歌曲の伴奏に使用されている。そして、和琴は、我国固有の楽器であるという。現在の和琴の制は、平安朝末期に固定化し今日に至っているが、その直接の祖型は、正倉院御物の六絃の和琴にある。
ところが、古墳時代の埴輪の弾琴像や埴輪の琴は、四絃または五絃で、六絃のものはない。近畿地方から出土した埴輪の琴も、五絃である。また、弥生時代から古墳時代にかけての遺跡から出土した木製の琴は、絃が残存していないため、尾部の突起の数や形状・埴輪の琴との比較などから推測せざるを得ないが、四絃または五絃である。六絃と明確に断定できるものはないといってよいであろう。
しかも、『隋書』(魏徴、貞観一〇年・六三六)倭国伝は、「楽に五絃の琴、笛有り」という。そして、倭国の聖地沖ノ島からは、遺棄されたような状態にあった五絃の琴の雛型が二面出土している。この雛型琴は、七世紀末葉から八世紀初葉に位置づけられるものと考えられている。一方、古墳時代の関東地方には、四絃の埴輪の琴が濃密に分布している。しかし、正倉院には、四絃や五絃の琴はない。
琴は、元来、王者の宝器で祭祀に用いられる神聖な楽器であった。琴の絃数の相違は、異なる幹音数で異なる音域の音楽を演奏していたことを証明している。これらの事実は、古代日本には、祭祀に当って異なった音楽を用いる異なった祭祀圏=政治圏が、存在していたことを示唆している。また、大和朝廷によって、七世紀末から八世紀初にかけての頃、琴制に大変革が加えられたことを暗示している。
そこで、多元史観の立場をとる古田武彦氏の研究成果に依拠しながら、古代の琴の構造・特徴、その使われ方、四絃の琴と五絃の琴の出土の分布の意味するところなどについて検討してみよう。 
二 出土した古代の琴
第二次世界大戦前は、埴輪の琴については、昭和六年後藤守一氏が、群馬県剛志村上武士所在の前方後円墳から出土した弾琴像と栃木県大内村所在の鶏塚古墳から出土した弾琴像を報告しているほか、相川考古館所蔵の弾琴像などが知られている位であった。木製の実物の琴は、昭和二六年黒沢隆朝氏が、昭和一八年登呂遺跡から出土した用途不明木製品中から、発見したのが最初である。
第二次世界大戦後は、復興・経済成長の波に乗ってあらゆる内容・規模の開発事業が全国的に行なわれるようになり、埋蔵文化財の発掘調査が激増した。その結果、現在では木製の琴や埴輪の琴の出土例は、五〇例以上に達している。そして、発掘調査報告書と研究論文が、次々と発表されている。
そこで、それらの報告・論文および『月刊文化財発掘出土情報』などに紹介された、古代の琴のリストを掲げておこう。リストは、出土地・種類(木製・埴輪弾琴像・埴輪片・須恵器装飾・金属製)・形状(箆形・台形・棒形、長方形は省略)・突起数(括弧内は推定)・絃数(線刻・粘土紐・隆帯、括弧内は推定)・張絃状態(木製は集絃口、埴輪は放射状・平行)・共鳴器(木製は槽、埴輪は左右腋板)・考古学年代(縄文時代〜奈良時代)・所蔵または管理者(教育委員会は教委と省略)・備考の順に記載した。不明な項目は記載していない。
1福岡県八女市岩戸山古墳埴輪五絃線刻放射状五二七年頃八女市中央公民館
2福岡県春日市辻田(つじばたけ)遺跡木製一号琴六突起集絃口槽弥生後期福岡県教委他に木製琴断片三点出土
3福岡県大島村沖ノ島五号遺跡金銅製一号・二号五絃放射状槽七世紀末〜八世紀初宗像大社宝物館鴟尾型
4鳥取県倉吉市野口一号墳須恵器装飾三絃線刻平行六世紀後半倉吉市教委
5岡山市南方釜田遺跡木製六突起集絃口槽古墳前期前半岡山市教委
6兵庫県春日町山垣遺跡木製四突起集絃口奈良前半兵庫県教委
7兵庫県篠山町葭池北遺跡木製棒形五突起集絃口古墳中期篠山町教委
8京都府大宮町正垣遺跡木製三突起残集絃口弥生後期財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター
9大阪府東大阪市巨摩廃寺遺跡木製一突起残財団法人大阪文化財センター
10大阪府新家遺跡木製三突起残財団法人大阪文化財センター
11大阪府野々井遺跡弾琴像五絃線刻平行左右腋板古墳大阪府教委頭部に集絃口様のものあり
12奈良県天理市森本寺山一二号墳埴輪五絃粘土紐放射状五世紀末橿原考古学研究所
13天理市荒蒔古墳埴輪(一絃)粘土紐六世紀前半天理市教委弓琴であろう
14天理市布留遺跡木製六突起集絃口奈良天理参考館
15奈良県橿原市四条大田中遺跡木製棒形二面五突起古墳中期橿原市教委
16滋賀県草津市中沢遺跡木製一突起残槽弥生後期草津市教委
17滋賀県守山市服部遺跡木製六突起槽古墳中期滋賀県教委
18守山市赤井野遣跡木製三突起残槽古墳前期滋賀県教委
19滋賀県野州町市三宅遺跡木製三突起残槽五世紀中期野州町教委
20滋賀県新旭町森浜遺跡木製棒状一号琴(五突起)古墳中期滋賀県教委他に木製二号・三号(三突起残槽)出土
21滋賀県彦根市松原内湖遺跡木製箆形(四絃)縄文晩期滋賀県教委他に木製箆形(二絃)出土
22三重県津市納所遺跡木製箆形(二絃)弥生前期三重県教育委他に木製台形(五〜六絃・平行)出土(木枕か?)
23石川県金沢市西念・南新保遺跡木製三突起残槽弥生後期金沢市教委
24新潟県刈羽村刈羽・西谷遺跡木製三突起残槽弥生末期〜古墳前期新潟県教委
25静岡市登呂遺跡木製六突起弥生後期登呂博物館
26静岡市小黒遺跡木製六突起集絃口弥生終末期〜古墳前期登呂博物館
27神奈川県横須賀市蓼ケ原古墳弾琴像四絃粘土紐放射状横須賀市自然人文博物館鴟尾型
28千葉県木更津市木製棒形五突起集絃口古墳後期金鈴塚遺物保存館
29千葉県芝山町姫塚弾琴像四絃線刻平行古墳後期芝山町はにわ博物館
30千葉県芝山町殿部田一号墳弾琴像四絃線刻平行古墳後期芝山町はにわ博物館鴟尾型
31埼玉県東松山市埴輪五絃粘土紐平行国学院大学櫛の可能性大
32埼玉県川本町舟山弾琴像四絃線刻放射状古墳後期埼玉県立博物館鴟尾型
33埼玉県熊谷市女塚一号墳埴輪四絃隆帯放射状五世紀末熊谷市教委琴以外の可能性あり
34埼玉県行田市稲荷山古墳埴輪四絃隆帯放射状五世紀末さきたま資料館
35行田市瓦塚古墳弾琴像四絃線刻放射状六世紀中葉さきたま資料館鴟尾型他に埴輪の琴(五絃線刻)出土
36行田市奥の山古墳埴輪四絃線刻放射状六世紀後半さきたま資料館
37群馬県前橋市朝倉弾琴像四絃粘土紐放射状左右腋板古墳相川考古館鴟尾型
38群馬県赤堀町埴輪五絃線刻放射状古墳後期相川考古館鴟尾型
39群馬県赤堀町弾琴像四絃粘土紐放射状古墳西村一明鴟尾型
40群馬県境町剛志上武士弾琴像(四絃?)粘土紐放射状左右腋板東京帝室博物館(現在は所在不明)
41栃木県佐野市羽田弾琴像四絃粘土紐放射状左右腋板古墳後期八王子市郷土資料館
42栃木県真岡市鶏塚古墳弾琴像五絃線刻平行古墳後期東京国立博物館鴟尾型琴頭に鈴が三個あり
43茨城県土浦市都和埴輪五絃線刻放射状左右腋板古墳後期瀬良陽介群馬県出土ともいう
44茨城県石下町篠山稲荷山古墳埴輪五絃線刻放射状古墳井上昇三鴟尾型
45茨城県岩瀬町弾琴女性像昭和三三年「はにわ展」(ブリジストン美術館)に出品(現在は所在不明)
46茨城県弾琴像五絃粘土紐放射状左右腋板古墳井上広明鴟尾型
47茨城県筑波郡荒川沖埴輪五絃線刻放射状古墳後期八王子市郷土資料館鴟尾型
48茨城県茨城町駒形埴輪五絃線刻放射状古墳東京国立博物館鴟尾型
49福島県泉崎村原山一号墳弾琴像四絃線刻放射状五世紀末〜六世紀初福島県立博物館
50青森県八戸市是川中居遺跡木製箆形(二絃)縄文晩期是川考古館一九本出土
51青森県木造町亀ケ岡遺跡木製箆形(二絃)縄文晩期慶応大学
52北海道小樽市忍路土場遺跡木製箆形(四絃?)縄文後期〜晩期財団法人北海道埋蔵文化財センター 
三 古代の琴の構造と特徴
それでは、古代の琴の構造と特徴を木製・金属製・埴輪の順に解説しよう。
(1)木製の琴
1).形状その外形から、岸辺成雄氏によって、箆形・棒形・台形・長方形の四種に分類にされている。
箆形には、八戸市是川遺跡・青森県亀ケ岡遺跡・津市納所遺跡・小樽市忍路土場遺跡・彦根市松原内湖遺跡から出土した箆状木器がある。是川遺跡から出土した箆状木器には、頭部に二個の突起がある。先端が完形のものは、先端が三つに分れているか、あるいは先端近くに二個の小孔が並列して存在する。松原内湖と納所出土のものは、先端近くに一個の小孔がある。そこで、これらの木器は、二絃の琴と考えられている。松原内湖出土の他の一本は、剣身状のものが三段重ねになって、頭部に二個の突起があり、先端近くに四個の小孔が並列している。したがって、四絃の琴とされている。忍路土場遺跡のものは、剣身が四段重ねで、先端は欠けているが、松原内湖出土の四絃の琴に似ている。
これらの箆状木器は、納所遺跡出土のものが弥生時代前期であるほか、縄文時代後期から晩期の所産で、縄文琴といわれている。ただし、箆状木器自体の情報(例えば、絃を張った痕跡がないこと)からは、これを絃楽器と理解することはできない、という反論がある。なお、是川遺跡の箆状琴は、木更津市菅生遺跡出土の棒形の琴と類似しているという指摘がある。
棒形には、滋賀県森浜遺跡の一号琴・檀原市四条大田中遺跡の二面・兵庫県葭池北遺跡出土琴・菅生遺跡出土琴の五面がある。
これらは、琴尾寄りの裏面には抉りを入れて琴尾に向って次第に薄く仕上げ、三角稜を作り出している。琴板の裏面は、肉厚で舟底形または三角形に膨らんでいる。琴尾の突起は、いずれも五本と推定されている。和琴の祖型の変型ともみられている。
台形には、津市納所遺跡出土の木製品がある。左右均斉・台形の板で、形状は和琴とは全く異なっている。両側縁に二列の対称的な配置をとっている三角孔が絃を張る構造に適していること、台形で共鳴器を持つ韓国の洋琴に似ていること、などから琴と推定されている。しかし、洋琴は時代的に後のもので、納所遺跡の一列のみから琴とみるには問題があろう。
長方形には、以上の箆形・棒形・台形を除く矩形のものが入る。和琴の祖型と考えられている。時代的には、弥生時代中期から古墳時代後期にわたる。長さも、登呂遺跡出土琴の四一センチから滋賀県市三宅遺跡出土琴の六一センチのものまで様々である。古いものでも共鳴槽を有するものがある一方、時代が下っても一枚板のものもある。一枚板から共鳴槽を有する琴へと発展したのではあるまい。共鳴槽の有無は、使用目的・地域などの差による相違であろう。
是川箆状木器(『是川遺跡出土物報告書』より)
松原内湖出土の縄文の四絃琴(『月刊文化財発掘出土情報』49号より)
木更津市菅生出土(『大場磐雄著作集五』より)
春日市辻田一号琴(『山陽新幹線関係埋蔵文化財調査報告』12より)
2).絃数
木製の実物は、絃が消失しているので、絃数の決定は困難である。尾部の突起の各々に絃を結びつけたり引掛けたりするのか、あるいは突起と突起との間から絃を出すのかによって、絃数が異なってくる。
守山市服部遺跡出土琴は、突起は六本ある。ところが、表板の両端の突起が、共鳴槽の先端と重なって厚くなっているため、絃を結びつけるのに適していないこと、および琴柱(ことじ)が琴の下から四点出土していることから、四絃と推定されている。しかし、絃を突起と突起の間から出す五絃の琴であろう。
その理由は、(一)服部遺跡出土琴の琴柱は、元々四点かどうか不明であること、(二)突起に絃を結びつけても、突起の間から絃を五本出せること、(三)絃の先端を輪にして突起の根元に引掛けて、突起ごとに絃を出す方法では、調絃が困難なこと、(四)突起の先に絃を引掛けるときは、金沢市西念・南新保遺跡出土琴のように突起の先にV字型の切り込みを作り出して、これに絃を引掛けていたと考えられること、(五)埴輪の琴には、絃が突起の間から出ているものがかなりあること、(六)近畿地方出土の埴輪の琴も、二面は五絃であること、(七)後に述べるように北九州は、五絃の琴が支配的な地域であって、春日市辻田遺跡出土の一号琴は六突起であるが、五絃と考えられること、などである。
なお、正倉院の和琴は、六突起で六絃である。しかし、これは突起の中央に穴を明けて絃を通しており、絃を単純に突起に結びつけたり引掛けているわけではない。むしろ、突起の先のV字型の切り込みの代わりに、穴を明けたものとみることができる。また、完形の木製の琴は、五突起または六突起であって、七突起のものはない。さらに、完形で出土したものには、集絃口がみられ、基本的には、絃を放射状に張っていたものと考えられる。
3).共鳴器
共鳴槽が付いたまま出土したものは、服部遺跡出土琴のほか僅かしかない。しかし、辻田遺跡出土一号琴のように左右腋板を嵌め込むための溝が表板の裏に切り込んであったり、左右腋板を結びつけるための小孔が表板の縁辺に沿って明けられている(結びつけるための樹皮が残っている例がある)ことから、共鳴器を持っていたかどうか判断されている。ただし、この方法では、底板の有無は分らない。
(2)金属製の琴
沖ノ島五号遺跡から金銅製雛型琴が二面発見されている。いずれも五絃で共鳴槽を持つ。頭部は、先端方向に撥状に開いた、鴟尾琴の形を残している。『倭名類聚抄』(源順、九三〇年頃)には、「倭琴、首造鴟尾之形也」とある。『延喜式』(藤原時平・忠平ほか、延長五年・九二七)でも、伊勢大神宮の神宝のいわゆる鴟尾琴について「頭鴟尾」という。現在では、和琴の鴟尾は突起を指している。しかし、古代の琴では、頭の撥状に開いた形を、鴟尾と呼んでいたと考えられる。
この雛型琴は、尾部が若干破損したり銹化欠失しているので、突起の有無は分らない。しかし、頭部寄りの鴟尾の根元の中央付近に並行して開けられた五個の絃孔から、尾部に向って放射状に絃が張られていたと推定される。一号琴の五点の琴柱は、上部に穴があいており、その穴に絃を通す構造になっているのが注目される。これに対し、出土した木製の琴柱は、上端中央が凹んでおり、そこに絃を置く構造である。
沖ノ島雛形琴一号〔『宗像・沖ノ島』Iより)
(3)埴輪の琴
埴輪は、省略したり強調したりしている部分があるので、必ずしも実物の琴をそのまま縮小して作られているわけではない。しかし、演奏者・演奏法・絃数・絃の張り方など出土した木製の琴では知ることのできない情報を提供してくれる。
1).演奏像
埴輪の弾琴像から演奏者をみると、一例を除き男性である。わずかに、茨城県岩瀬町出土の弾琴像が、頭部のマゲからみて、女性と判断される。弾琴像は、椅子に腰かけているものとあぐらをかいているものがあり、琴を膝の上に乗せている。そして、尾部の突起を左手側、頭部を右手側に置いている。ただし、右の女性弾琴像は、下肢が不自然に横向きに付いており、尾部の突起が右手側にある。この女性弾琴像は、胴体から上の部分と下肢・椅子の部分が異なるものを、合成した疑いがある。
演奏者は、王・武人あるいは楽人と思われる。埴輪の弾琴像は、死せる王の地位を、新たに承継する祭式で琴が弾かれている場面であると考えられている。
演奏像は、両手で絃を弾くような姿をとっているものが多い。千葉県殿部田一号墳および行田市瓦塚古墳の弾琴像は、右手に匙状の撥(ばち)を持っている。八女市岩戸山古墳からは、埴輪の琴片のほか、埴輪の撥が出土している。また、福島県原山一号墳からも、弾琴像のほかに、琴軋(ことさき)のようなものを持つ右手が出土している。更に、横須賀市蓼ケ原古墳出土の弾琴像は、両手指で絃を弾いているような手つきをしているが、右手指で小さな琴軋をつまんでいる。
古墳時代の琴は、両手指で弾くほか、撥や琴軋で演奏していた。現在の和琴は、箆状の琴軋で弾ずる。
2).絃数
埴輪の琴の絃は、多くは琴頭寄りの集絃口から尾部の突起に向けて放射状に、粘土紐または線刻で描かれている。平行に表現されているものもある。
絃数は、次の一面を除き、四絃または五絃である。六絃のものはない。倉吉市野口一号墳出土の装飾付台付壼に付いていたと推定される装飾用琴は、三絃の線刻がある。この琴は、極めて小さく絃数を正確に表現しているかどうかは、疑問である。
埴輪の琴は、尾部の突起が破損しているものが多く、突起の数と絃の数とを比較することができないものが多い。瓦塚古墳出土の弾琴像と埼玉県舟山出土の弾琴像の琴は、完形で、明瞭に五本の突起の間から四本の絃が出ているように描かれている。突起の数と絃の数が同数のものでも、絃の大部分は突起と突起の間から出ているように描かれており、絃を突起に引掛けたり、結びつけたりした表現のものはない。
蓼ケ原古墳出土の弾琴像の琴は、四絃の粘土紐が四突起の先まで張り付けてある。このような場合、実物では西念・南新保遺跡出土の木製の琴のように、突起の先にV字形の切り込みがなければ、絃は不安定となる。埴輪の琴は、そこまで表現していないのではないかと思われる。
3).共鳴器
埴輪の琴にも、左右腋板が表現されているものが幾つかある。しかし、左右腋板が表現されていない場合でも、埴輪の性格上、一枚板の琴とは断定できないであろう。
4).鴟尾
埴輪の琴には、頭部が鴎尾型のものが多い。特に、茨城県出土の埴輪の琴は、岩瀬町の女性弾琴像が不明であるほか、他の五面はすべて、頭部が鴟尾型である。
5).琴柱
殿部田一号墳と千葉県姫塚出土の弾琴像は、絃の上に粘土の円形薄片を張りつけている。また、岩戸山古墳出土の埴輪の琴片には、二絃・五絃の上に円を描いている。その部分には、絃の線はない。これらの円形は、琴柱を表現したものであろう。『塵袋』(編者不詳、文永・弘安の頃(一二六四〜一二八八)には、次のような記事があるからである。「琴は玉の琴柱ありと聞く・・・琴には玉の琴柱に穴を明けて絃を貫ぬきたるとかや・・・この朝には是を用ゐず常の琴柱を立つ」。沖ノ島の雛型琴の琴柱も、玉の琴柱であることを表現しているのではなかろうか。
44茨城県篠山稲荷山古墳出土ハニワ琴
ハニワ弾琴像
(4)六絃の琴
岐阜市坂尻一号墳(四世紀後葉)の主体部に副葬されていた六個の琴柱形石製品と呼ばれる碧玉製品は、琴柱に酷似している。水野正好氏によって、六絃の琴の存在を示す資料とされている。
金沢市西念・南新保遺跡(弥生後期)出土の木製琴は、四突起が残存しているが、琴板の横幅からみて、両端にもう一突起ずつあったと推定できる。この琴は、突起の先がV字型に切り込まれており、そこに絃を掛けたと思われる。突起の先がV字型に切り込みが作り出されている木製琴は、他に新潟県刈羽・西谷遺跡(弥生末期〜古墳初期・三突起残存)と京都府正垣遺跡(弥生後期・三突起残存)出土のものがある。
以上が六絃の琴であれば、銅鐸国家の琴制ではないか、と想定している。 
四 古代の琴の使われ方
ここでは、古代の琴が我国の古典にどの様に登場してくるか、主要なものを取り上げよう。次に、古代の琴はどの様な音階であったか、そして、中国の古代の琴との関係について一望する。
(1)古典に現われる琴
『古事記』には、大国主命が須佐男命のもとから須世理[田比]売を背負って、生大刀・生弓矢と天沼琴を取り持って逃げ出したという説話がある。天沼琴については、通説は天詔琴という。しかし、応永の古写本にいう天沼琴、すなわち瓊(ぬ)=玉で飾った琴という説が正しいのではあるまいか。天沼琴は、統治権と司祭権を象徴する神器の一つであろう。
須世理[田比]売の[田比]は、JIS第三水準、ユニコード6BD7
『古事記』には、また、神功皇后が筑紫の詞志比宮で熊曽国を撃とうとする時に、仲哀天皇が琴を控き、建内宿禰が祭の庭にいて神命を請うと、皇后に神懸りして神の教えを述べたという記事がある。『日本書紀』では、神功皇后がみずから神主となり、武内宿禰に琴を撫かせ、中臣鳥賊津使主を審神者にして、神勅を乞うた場面となっている。琴は、祭祀に用いられ、神を呼ぶ神聖な楽器であった。演奏者も、王者・高位者、すなわち政治的・宗教的権威を有する人々である。
『風土記』には、常陸国風土記の行方郡の条に、建間借命が国巣を討伐するとき、天之鳥琴・天之鳥笛を鳴らして七日七夜歌を唱い舞い続けて遊び、敵を油断させた説話がある。肥前国風土記逸文も、歌垣の際、士女が酒を携え琴を抱き、杵島嶽に登り、楽しく飲み歌い舞うという。『風土記』においては、琴は王者の持物である場合のほかに、宴飲歌舞や恋の小道具にも用いられていた。
なお、天之鳥琴は、いわゆる鴟尾型の茨城県出土の埴輪の琴のような形状であったのではなかろうか。
『万葉集』では、琴は主として恋の歌に現われる。日本琴に寄せた「膝におく玉の小琴の事なくはいとここだくはわれ恋ひめやも」(一三二八)という一首のように、その大きさは、埴輪の弾琴像が膝に乗せていたのと同じようなものであったことがわかる。
そして、琴は、天平元年(七二九)大伴旅人が対馬の結石山にあった桐の古木で琴匠に作らせた日本琴一面を、藤原房前に贈った際の謹状にあるように「君子左琴」の目的物となっている。このことは、小治田朝臣安萬侶の墓誌(東京国立博物館蔵)に添えられた副板二枚の「左琴神亀六年二月九日」。「右書神亀六年二月九日」という銘文にもうかがえる。七二九年(神亀六年八月三日天平元年と改元)には、和琴は神事に使用されてはいたものの、貴族がその教養を示すための道具としての面が、強く意識されるようになっていたと思われる。
(2)古代の琴の音階
昭和六二年、比較音楽学者山口庄司氏は、古代の琴の構造を分析した結果、古代の旋律と音階を検出した。
山口氏は、殿部田一号墳と姫塚から出土した弾琴像(四絃)を観察し、琴柱を表わしている円板が、外側が最も琴尾(突起)に近く、順に琴頭寄りに並んでいることに着眼した。すなわち、この円板の位置は、外側の開放絃が最も長く低い音を発する第一絃、次が第二絃、次が第三絃、手前奏演者側が最も短かく高い音を発音する第四絃を表わし、これは、琴箏の世界史に一致する配列であるという。そして、日本は五音音階、ペンタトニック圏に位置するから、可能な四音音列中、日本人が古来から好んでいた律音階の祖型とみなされる「ドレファソ」(移動ド)の音階と推定した。
五絃の琴については、ヨリ一層律音階に近づく「ドレファソラ」(移動ド)の音階が妥当であるという。六絃の和琴については、弘仁年間(八一〇ー八二四)に成立したといわれる『琴歌譜』(多安家書写、天元四年・九八一)を分析した結果、黄盤壱平の四音音階を以って六絃に分配していることなどから、壱越調徴音階がふさわしいという。すなわち、第一絃から順に、「ソミレラソレ」という四音音階を推定した。
山口氏は、また、縄文の四絃琴の音階も解析した。松原内湖遺跡から出土した四絃の木製琴を、古代中国の音律計算法「三分損益法」で鑑定した結果、日本の音階のルーツ、完全一二度「ドレファソラドレファソ」(移動ド)の律音階を得た。
(3)古代中国の琴との関係
山口氏によって析出された我国の古代の琴の音階は、中国の琴の音階によって強い影響を受けていることを示している。
我国の「コト」の名称は、言(コト)から出たという説がある。しかし、呉音の琴(コン)は、その音声から出たという。そして、黒沢隆朝氏は、呉音のコンからコトになったという。音(オン)がオトになったように。
ところで、中国における琴(きん)の起源は、神話の時代に遡る。伏羲あるいは神農が琴を作ったとか、舜が五絃琴を創作したという。そして、周の文主・武王が一絃ずつ加え七絃としたともいう。琴は、廟楽における聖なるものと考えられ、政権譲受の表象とされていた。また、『呂氏春秋』(泰の呂不韋編)には、「炎帝朱襄氏の世、多風にして陽気が蓄積し、万物散解して果実は実らないので、士達というものが五絃の瑟(しつ)という楽器を作って、天の気を和らげることができた」、という説話がある。すなわち、瑟によって天下を治めたことがうかがわれる。そして、孔子(前五五二〜前四七九)が、七絃琴を愛好したことから、七絃琴は君子の必須の教養の一つとなった。
七絃琴は、原則として第六・七絃が、第一・二絃のオクターヴ上であるから、実際には、五音音階で成り立っている。この五音は、三分損益法で求められている。なお、中国には六絃琴は存在しない。
ところで、我国の古墳から大量に出土する神獣鏡には、伯牙弾琴像が描かれているものが多数あり、「白牙挙楽」の銘文があるものも少なくない。伯牙は、春秋時代の人で、琴を弾いて天地を魅了した楽聖として、中国の古典に名高い。
こうしてみると、古墳時代の我国の各地の王や豪族は、中国の琴についての知識を有していたこと、そしてその知識は、我国の古代の琴のあり様に影響を与えていたように思われる。しかし、中国の琴箏瑟が我国の琴に影響を与えたのは、もっと古い古い時代のことのように思える。中国では、周の時代すでに七絃琴となっているのに、倭国の五絃の琴は、中国の源初の琴瑟の絃数を固守していたように見えるからである。もっとも、我国の五絃の琴は弥生時代以降のものしか出土していないし、絃を放射状に張ったり頭部を鴎尾型とすることは我国独得の構造であるし、中国では箏瑟にしか使用されない柱(じ)を我国では琴にも用いるなど、中国の琴とは異なった点が多いことは、確かだが・・・。
縄文の四絃琴は、亀ケ岡文化圏に属するもので、中国の古代の琴との関係は、不明である。また、高勾麗の玄琴、新羅の伽耶琴は、中国や我国の琴の様式とは異なり、それらは朝鮮・韓民族独得のものであるといわれている。 
五 古代の琴の出土分布
最後に、古代の琴の出土分布からみて、古代日本には少なくとも二大祭祀圏が存在したが、大和朝廷によって統一されたことを論じることにしよう。
(1)九州王朝の五絃の琴
五絃の琴は、九州では、岩戸山古墳と沖ノ島から出土している。
岩戸山古墳は、筑後国風土記にいう筑紫君磐井の墓墳である。古田武彦氏によると、磐井は九州王朝の王者で、継体二二年(五二八、古田氏によると五三一)大和朝廷の継体天皇側の反乱軍によって斬られたという。そして、沖ノ島は九州王朝の聖地で、九州王朝が七世紀末に滅亡した時、大量の財宝が沖ノ島にひそかに遺棄された。五絃の琴の雛型も、遺棄された財宝の中の一つであるという。
古田氏によると、倭国=九州王朝は、弥生時代大国主命から国譲りにより葦原中国の統治権を獲得し、卑弥呼の邪馬壱国、倭の五王の倭国、筑紫君磐井、日出づる処の天子多利思北弧のイ妥*国を経て、筑紫君薩夜麻が白村江の戦(六六三)に惨敗し、六七〇年近畿天皇家による日本国(『三国史記』の新羅本紀中、文武王」一○年の項に、倭国が終り日本の国号が始まった旨の記事がある)の創建により滅亡する。
そうすると、五絃の琴は九州王朝の宝器であって、春日市辻田遺跡出土(弥生時代後期)の六突起の木製琴も五絃で、岩戸山古墳出土の埴輪の五絃の琴、沖ノ島出土の雛型の金銅製の五絃の琴へと、連綿とその伝統が続いていたのではなかろうか。その間、倭の五王の一人である倭王讃は、義煕九年(四一三)晋の安帝から細笙と麝香を賜わっている。倭王讃は、この細笙と五絃の琴などを合奏して楽しんだと考えてもよいのではあるまいか。
イ妥(たい)国のイ妥*は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO
(2)関東王朝の四絃の琴
四絃の埴輪の琴は、福島県一面、群馬県三面、栃木県一面、埼玉県四面、千葉県二面、神奈川県一面と、関東一円から出土している。他の地方からは四絃の埴輪の琴は、出土していない。
その中で最も注目されるのは、行田市稲荷山古墳から出土した四絃の琴の埴輪である。古田氏によると、稲荷山古墳は鈴鏡に象徴される関東王朝の中枢部に存在する。この稲荷山古墳出土の鉄剣に刻された一一五の黄金文字中のカタシロ大王(通説はワカタケル)は、関東王朝の王者である。そして、鉄剣の銘文中のカタシロ大王の斯鬼宮は、栃木県藤岡町字磯城宮にある大前神社(延喜式以前の名称は磯城宮)の地にあったという。
そうすると、四絃の琴は関東王朝の王者の宝器であったといってよいだろう。
稲荷山古墳の王者を補佐する権力者の墓と考えられている、埼玉古墳群の中の瓦塚古墳からは四絃の弾琴像と五絃の埴輪の琴が出土し、奥の山古墳からは四絃の埴輪の琴が出土している。
五絃の埴輪の琴は、群馬県一面、栃木県一面、埼玉県二面、茨城県五面と出土している。これは、関東王朝を支持する勢力には、九州王朝の系譜を引く豪族達が、関東一円に存在していたことを示しているように思える。
ところで、茨城県は五絃の埴輪の琴が、五面出土しながら、四絃の埴輪の琴は出土していない。関東では、九州王朝の五絃の琴が優勢な地域である。古田氏は、常陸国風土記において、常陸国の周縁を巡狩する倭武天皇は、倭の五王の中の倭王武ではないかという。常陸国風土記は、九州乙類風土記(県風土記)と極めて近似した記述方法(例えば、四六駢儷体、「県」の散見など)がとられている。古田氏によると、風土記撰上の発せられた和銅六年(七一三)には、「郡」の制度となっているので、「県」風土記は、大和朝廷に先在した九州王朝が作った風土記であるという。そうすると、常陸国風土記は、九州王朝によって作られた県風土記の常陸国の条を加除改変したものである可能性がある。また、福島県・茨城県を中心に関東から東北地方にかけて分布する装飾壁画古墳は、九州装飾壁画古墳地帯の一端に位置し、九州から伝播したとみられる。そうすると、常陸国は九州王朝の直轄領であったと考えることもできよう。
なお、関東の四絃の琴は、九州の五絃の琴の形状・構造を受容しながら、四絃の縄文琴の伝統を承継発展させたものではないだろうか。
(3)大和朝廷の六絃の和琴
山口氏によると初期の六絃の和琴は、四音音階で、二絃は同音を重複させる役割しかなく、かつ、二列右肩下がりの調絃(ソミレラソレ)という和琴だけで琴箏史に例がない配列をとっていたという。この新しい特徴は、六絃の和琴が、大和朝廷により新たに制定されたことを決定するものといえよう。その時期は、六七〇年近畿天皇家が日本国を創建し、次々と新しい制度を制定した頃であろう.
ここで刮目すべきは、その六絃の和琴=やまとごとが、関東王朝がとっていた四音音階で構成されていたことである。和琴の別名を「あづまごと」とは、よく言ったものである。そして、「あづま」は和琴の惣名であるという。これは、大和朝廷が日本国創建に当り、関東王朝の少なからぬ援護を受けたことを物語っているように思える。すなわち、防人の派遣による九州の鎮護、蝦夷征討による陸奥国経営と、巨大な軍事力の提供を受けている。そして、和銅二年には上毛野氏は、五位以上の殿上人を五人出し、大和朝廷の中枢で重要な地位を占めていた。関東王朝は、白村江の戦で王者上毛野君稚子とその軍勢を失ない、大和朝廷に臣従するようになったのであろう。
なお、古墳時代の近畿地方の琴をみると、天理市森本寺山一二号墳出土の埴輪の琴と大阪府野々井遺跡出土の埴輪の弾琴像は、五絃である。近畿の豪族達も、九州王朝の系譜を引く祭祀圏の中にあったと思われる。そして、この事実は、大和朝廷は、日向国から出発した神武が大和に侵入し、その後発展したもので、九州王朝の分流であるという古田氏の説を裏書きしているようにみえる。 
六 おわりに
大和朝廷が六七〇年日本国を創建し、諸制度を整備・制定する中で、琴制については六絃の和琴の制がとられるようになった。
九州王朝の五絃の琴・関東王朝の四絃の琴その他の古代の琴は、その基盤を失い、奈良時代には歴史の霧の中に消えてしまった。雅楽用楽器・祭祀用楽器としての地位は、六絃の和琴に取って替わられ、再び歴史の表舞台に登場することはなかった。わずかに、毎年一一月二三日の夜、出雲大社で執行される「古伝新嘗祭」の神事の一つ「百番神舞」において、六人の神人が柳の細い撥で打ち鳴らす「琴板」によって、ありし日の面影を偲ぶことができるだけである。絃を失った「琴板」は、大国主命の天沼琴の変り果てた姿であろう。
この論文を書くに当っては、「市民の古代研究会」の会員である大芝英雄・斎藤隆一・橋本信子・丸山晋司・横山妙子の各氏の協力により文献資料を収集することができた。特に、横山氏の協力に負うところが多い。また、関東一円の博物館・資料館などにおける調査に当っては、多くの方々にお世話になった。心から感謝する次第である。 
古代の琴に関する収集文献目録
(1).栗田寛「楽器考」(『栗里先生雑著』一三、一九〇一年)
(2).神宮司庁『古事類苑』楽舞部二四・二五、一九一〇年
(3).田辺尚雄「倭琴の起原と其の系統に就て」(『東洋学芸雑誌』四二ー一、一九二六年)
(4).杉山寿栄男「石器時代有機質遺物の研究概報」(『史前学雑誌』二ー四、一九三〇年)
(5).後藤守一「埴輪の意義」(『考古学雑誌』二一ー九、一九三一年)
(6).佐藤行哉・後藤守一「鶏塚古墳発見の埴輪」(『考古学雑誌』二一ー九、一九三一年)
(7).館山甲午「上代に用ひられし楽器と出土品に就て」(『上毛及上毛人』二三七、一九三七年)
(8).岸辺成雄「口絵解説」(『東洋音楽研究』一〇・一一合併号、一九五二年)
(9).芝祐泰他三名「昭和二十五・二十六年度正倉院楽器調査概報」(『書陵部紀要』二、一九五二年)
(10).日本考古学会『登呂(本編)』、一九五四年
(11).森貞次郎「筑後風土記逸文に見える筑紫君磐丼の墳墓」(『考古学雑誌」四一ー三、一九五六年)
(12).三木文雄『はにわの美しさ』朝日写真ブック二八、一九五六年
(13).林謙三「和琴の形態の発育経過について」(『書陵部紀要』一〇、一九五八年)
(14).森豊『写真・登呂遺跡』現代教養文庫一九六、一九五八年
(15).日本経済新聞社・ブリジストン美術館『日本の美はにわ展』図録、一九五八年
(16).清水潤三『亀ケ岡遣跡ーー青森県亀ケ岡低湿地遺跡の研究』、一九五九年
(17).今井通郎「和琴考」(『国学院雑誌』六一ー六、一九六〇年
(18).多摩考古学会『井上コレクション考古学資料図録』、一九六二年
(19).田辺尚雄『日本音楽史』、一九六三年
(20).滝口宏・久地岡榛雄『はにわ』、一九六三年
(21).林謙三『正倉院楽器の研究』、一九六四年
(22).吉川英士『日本音楽の歴史』、一九六五年
(23).清水潤三『是川遺跡』、一九六六年
(24).坂名井深三「『琴』の古儀私案」(上)・(下)(『神道宗教』四九・五一、一九六七・六八年)
(25).正倉院事務所『正倉院の楽器』、一九六七年
(26).西田守夫「神獣鏡の図像ーー白牙挙楽の銘文を中心として」(『MUSEUM』二〇七、一九六八年).
(27).樋口清之「日本音楽ことはじめーー考古学から見た原始音楽」(『雅楽界』四九、一九六九年)
(28).宗像神社復興期成会『沖ノ島I宗像大社沖津宮祭祀遺跡』、一九七〇年
(29).佐田茂「沖ノ島発見の雛形琴について」(一)・(二)(『西日本文化』八二・八三、一九七二年)
(30).亀井正道「琴柱形石製品考」(『東京国立博物館紀要』八、一九七二年)
(31).八戸市教育委員会『是川遺跡出土遺物報告書』、一九七二年
(32).黒沢隆朝『図解世界楽器大事典』、一九七二年
(33).市村宏「万葉集と芸能」(『雅楽界』五一、一九七三年)
(34).木更津市教育委員会他『上総菅生遺跡昭和四七年度第一期調査速報』、一九七三年
(35).森豊『弥生の琴』、一九七三年
(36).林謙三『東アジア楽器考』、一九七三年
(37).大場磐雄「菅生発見の『やまとごと』」上・下(『どるめん』一・二、一九七三・七四年、『大場磐雄著作集』五、一九七六年に再録)
(38).水野正好「埴輪弾琴像幻想」(『月刊文化財』一六九、一九七七年)
(39).兼康保明「古代の琴ーー森浜遺跡出土などの遺品をめぐって」(『月刊文化財』一六九、一九七七年)
(40).服部遺跡を守る会事務局「滋賀県守山市服部遺跡の調査」(『考古学研究』二三ー四、一九七七年)
(41).荻三津夫『日本古代音楽史論』、一九七七年
(42).佐瀬仁「和琴と『邪馬台国』に関する九章」(『国立音楽大学五十周年記念論文集』一九七八年)
(43).小池史哲「辻田遺跡の発掘調査」(『ふるさとの自然と歴史』八六、一九七八年)
(44).滋賀県教育委員会『ほ場整備関係遺跡発掘調査報告書』V本文編・図版編、一九七八年
(45).吉川英史「原始時代のコトを考える」(『季刊邦楽』一八、一九七九年)
(46).水野正好「『琴歌譜』以前のコト」(『季刊邦楽』一八、一九七九年)
(47).水野正好「碧りに輝く琴柱」(『美濃の文化』四、一九七九年)
(48).水野正好「日本古代琴資料集成(昭和五四年度)」(『奈良大学紀要」八、一九七九年)
(49).佐瀬仁「弥生時代古代和琴のResonator(共鳴器)について」(『国立音楽大学研究紀要』一三、一九七九年)
(50).生田紀明「布留遺跡たより(一)やまと琴」(『天地』二ー七、一九七九年)
(51).第三次沖ノ島学術調査隊『宗像沖ノ島』I本文・図版、一九七九年
(52).菅生遺跡調査団『上総菅生遺跡』、一九七九年
(53).滋賀県教育委員会他『服部遺跡発掘調査概報』、一九七九年
(54).福岡県教育委員会『山陽新幹線関係埋蔵文化財調査報告』一二、一九七九年
(55).財団法人大阪文化財センター『爪生堂遺跡巨摩廃寺遺跡現地説明会資料』、一九七九年
(56).水野正好「琴の誕生とその展開」(『考古学雑誌」六六ー一、一九八○年)
(57).佐田茂「古代琴雑考」(『考古学雑誌」六六ー一、一九八○年)
(58).椙山林継「『やまとごと』の系譜」(『国学院雑誌』八一ー一一、一九八○年)
(59).西弘海「近年発掘された弥生時代の楽器」(『季刊邦楽』二三、一九八○年)
(60).石守晃「原始・古代楽器の考古学的一研究」(『長野考古学会誌』三七、一九八○年)
(61).佐瀬仁「和琴の初期年代に関する『上記』(古代史文献)に基く一試論」(『国立音楽大学研究紀要』一四、一九八○年)
(62).篠山町教育委員会『古代祖先のあゆみ』、一九八○年
(63).浜名徳永『上総殿部田古墳・宝馬古塚』芝山はにわ博物館研究報告六、一九八○年
(64).三重県教育委員会『三重県埋蔵物文化財調査報告』三五ー一・納所遺跡、一九八○年
(65).第四回神奈川県遺跡調査・研究発表会準備委員会『第四回神奈川県遺跡調査・研究会発表会発表要旨』、一九八○年
(66).埼玉県教育委員会『埼玉稲荷山古墳』、一九八○年
(67).東京国立博物館『東京国立博物館図版目録』古墳遺物篇(関東1)、一九八○年
(68).山上伊豆母「五世紀王朝と日本琴」(『講座日本の古代信仰』五、一九八○年)
(69).佐瀬仁「和琴のルーツーー男王天照大神と六絃弓琴」(『国立音楽大学研究紀要』一五、一九八一年)
(70).岸辺成雄「近年発掘されたコト(琴)」(『季刊邦楽』二六、一九八一年)
(71).岸辺成雄「和琴の祖型ー出土品を中心に」(上)・(中)・(下)(『雅楽界』五六・五七・五八、一九八一・八二・八三年)
(72).福島県教育委貝会『原山一号墳発掘調査概報』、一九八二年
(73).檀原考古学研究所附属博物館『特別展音の考古学「古代の響」』図録、一九八二年
(74).熊谷市教育委員会『めづか』、一九八三年
(75).兵庫県教育委員会『山垣遺跡』、一九八四年
(76).檀原考古学研究所附属博物館『特別展大和の埴輪』図録、一九八四年
(77).奈良国立文化財研究所『木器集成図録』本文・図版近畿古代篇、一九八五年
(78).大塚初重・森浩一『登呂遺跡と弥生文化』、一九八五年
(79).山上伊豆母『古代祭祀伝承の研究』、一九八五年
(80).埼玉県立さきたま資料館『瓦塚古墳』埼玉古墳群発掘調査報告書四、一九八六年
(81).鈴木克彦「亀ケ岡文化圏の様相」(『月刊文化財』二八一、一九八七年)
(82).竹原一彦「京都府正垣遣跡出土の弥生時代木製琴」(『考古学雑誌』七二ー四、一九八七年)
(83).乗岡実他二名「南方釜田遺跡出土の古墳時代琴」(『考古学雑誌』七二ー四、一九八七年)
(84).江坂輝弥「縄文時代遺跡発見の木製遣物の発見史と今後の研究への展望」(『月刊考古学ジャーナル』二七九、一九八七年)
(85).細川修平「松原内湖遺跡出土の箆状木製品」(『月刊考古学ジャーナル』二七九、一九八七年)
(86).種市幸生・三浦正人「小樽市忍路土場遺跡出土の木製品」(『月刊考古学ジャーナル』二七九、一九八七年)
(87).金井塚良一他五名『討論群馬・埼玉の埴輪』、一九八七年
(88).川島達人『埴輪の微笑』、一九八七年
(89).山口庄司「琴箏の源流と古代の楽理」(一)ー(三)、(四)、(五)〜(十)、(十一)〜(十六)(『楽道』五五二〜五五四、五五五・五六一〜五六六、五六七〜五七二、一九八七・八八・八九年)
(90).先史文化研究グループ『とやま古代のロマン』、一九八七年
(91).増田修「古代の楽器二題」(一)〜(四)(『市民の古代ニュース」五七・五八・五九、六〇・六一合併号、一九八八年)
(92).山口庄司「弥生・古墳時代の琴箏と音楽」(上)(中)(『季刊邦楽』五六、五八、一九八八・八九年)
(93).山口庄司「日本最古の木製絃楽器の発掘」(『季刊邦楽』五七、一九八八年)
(94).横須賀市教育委員会『横須賀市文化財調査報告書』二三(第一分冊)蓼ケ原、一九八八年
(95).埼玉県立さきたま資料館『特別展はにわ人の世界』図録、一九八八年
(96).朝日新聞社他二『日本列島発掘展』図録、一九八八年
(97).柴田南雄『音楽史と音楽論』改訂版、一九八八年
(98).柴田南雄「古代の楽器遺産」(岩波講座『日本の音楽・アジアの音楽』五、一九八九年)
(99).ジャパン通信社『月刊文化財発掘出土情報』6、26、49・50・61、66・70・71、一九八三・八七・八八年 
 
『琴歌譜』に記された楽譜の解読と和琴の祖型

 

一 はじめに
(1)『琴歌譜(きんかふ)』は、いわゆる大歌の楽譜であるが、近衛家が伝えた文書・典籍・美術工芸品などを収める「陽明文庫」所蔵の写本(巻子本)が唯一の伝本である。大正一三(一九二四)年、近衛家が京都帝国大学附属図書館に寄託した古典籍の中から、佐佐木信綱によって発見され、やつと世に知られるようになった。
『琴歌譜』の巻首には「琴歌譜」という内題が記され、巻末には「琴歌譜一巻安家書件書希有也仍自大歌師前丹波掾多安樹手傳寫天元四年十月廿一日」という、天元四(九八一)年に書写したと解される奥書がある。
『琴歌譜』の序文は、漢文で書かれ、「およそ音楽の具、種類多しと雖も、其の雅旨を求むるに、琴歌に過ぎたるはなし」と説き始め、記載した琴歌の楽譜については「点句の形に依り、歌声を表す」、「甲乙六干を以て六絃に配する」などと解説する。
本文は、まず、歌曲名を掲載し、その下に歌詞を万葉仮名で二行に記している。次に、歌詞の声譜が墨書で記載され、琴譜はその右側に朱書で記されているが、和琴の絃番号が示されているのは最初の二曲のみである。歌曲数は一九曲、歌詞は二二首(うち一首は同歌)である。歌曲の記載は、以下の順序で、四つの節日別になされている(便宜、歌曲に番号を付した)。なお、1・2・13・14・17・18・19には、縁起が附されている。
(十一月節)1茲都歌・2歌返・3片降・4高橋扶理・5短埴安扶理・6伊勢神歌・7天人扶理・8継根扶理・9庭立振・10阿夫斯弖振・11山口扶理・12大直備歌(歌詞なし、3と同歌)、
(正月元日節)13余美歌・14宇吉歌・15片降(声譜なし)・16長埴安扶理、自余小歌同十一月節、
(七日節)17阿遊施*扶理(三首)、
(十六日節)18酒坐歌(二首)・19茲良宜歌、
施*は,阜偏に。JIS第四水準ユニコード9641
従って、『琴歌譜」は、一一月の新嘗会から始まって、正月元旦、同七日の青馬の節会、同一六日の踏歌の節会に奏せられる大歌の歌曲の譜と推測されている。
そして、『琴歌譜』は、その原本を「大歌師多安樹」が伝写して所持していたことから、毎年一一月の新嘗会から正月一六日の踏歌の節会に奉仕する大歌人を大歌所で教習するために、和琴歌師の家である多氏が伝えてきた「琴歌」の教本であったと考えられている。
(2)さて、『琴歌譜』の歌謡には、『古事記』・『日本書紀』の歌謡や神楽歌・催馬楽・『古今和歌集』などに見えるものがある。
1茲都歌は古事記歌謡九四番、3片降は神楽歌三六番、5短埴安扶理は年中行事秘抄(五節舞姫参入並帳台試事条)に所引の本朝月令、14宇吉歌は古事記歌謡一〇三番、15片降は古今和歌集一〇六九番・催馬楽二七番・(続日本紀歌謡一番は類歌)、18酒坐歌(二首)は最初の歌が古事記歌謡三九番・日本書紀歌謡三二番、次の歌が古事記歌謡四〇番・日本書紀歌謡三三番、19茲良宜歌は古事記歌謡七八番・日本書紀歌謡六九番と、多少の差異はあるが、それぞれ同歌である(同歌・類歌番号は、土橋寛・小西甚一『古代歌謡集』日本古典文学大系三、一九五七年による)。
そこで、『琴歌譜』の歌謡は、古来の歌謡を宮廷風に編曲したものであって、神楽歌や催馬楽の先駆をなすものと考えられている(小西・前掲書)。従って、『琴歌譜』の楽譜が解読されれば、伝統芸能・民俗芸能などの歌謡音楽の源流でもある、古代の音楽を聞くことができるのである。
ところで、『琴歌譜』は、和琴の絃番号を記した楽譜としては、我国最古のものであるが、古代文学・古代歌謡研究者の間では一般に、未だ解読されていないと信じられているようである。例えば、近藤信義「琴歌譜」(『上代文学研究事典』、一九九六年)は、「琴歌譜の解読が日本の古代音楽再現へのアプローチとなることであろうし、その音楽的解明は楽しみな一面である」という。最近では、保坂達雄「歌論・歌謡」(『古代文学研究史』古代文学講座一二、一九九八年)も、今日の古代歌謡の研究動向を解説する中で、『琴歌譜』の琴譜の旋律が解読されていないことを前提にして、横田淑子の論文「歌謡のリズムー古代歌謡の定型を探るー」(『日本の美学』一三、一九八九年)が、古代歌謡の復元に大きな示唆を与えてくれると紹介しているに過ぎない。
しかし、『琴歌譜』の茲都歌と歌返の琴譜は、昭和六三(一九八八)年、山口庄司によって、その音階が四音音階で構成されており、六絃に四音が配された和琴によって演奏されていたことが解明され、基本的に解読されている。
本稿では、『琴歌譜』の楽譜の解読と和琴の祖型についての研究史を概観し、山口庄司の琴譜解読によって問われている、今後の研究課題を提示したい。 
二 『琴歌譜』の楽譜の解読
(1)佐佐木信綱は、『琴歌譜』を発見し、その大略を紹介する「新たに知られたる上代の歌謡に就いて」(『芸文』一六ー一、一九二五年)と題する論文において、「琴歌譜一巻は、わが国の歌謡史の上に、音楽史の上に、国話学の上に、国史の上に、神道研究の上に、寄与する所の尠くない書である」と述べている。
そして、『琴歌譜』の音楽的研究は、土田杏村・田辺尚雄・宇佐美多津子・林謙三・小島美子・岸辺成雄・磯部美佐らによってなされてきた。しかし、山口庄司に至るまで、琴譜を解読しようと試みた者で、その旋律の再生に成功した者はいなかった。
その原因の第一は、『琴歌譜』の楽譜が、後代の神楽譜・催馬楽譜などとは表現方式が異なるため、その解読が困難であったことである。第二は、和琴の調絃の基本となる音階は古来からの五音音階であり、それが六絃に配されており、かつ、和琴の演奏法が絃を掻き鳴らすだけで、歌詞に合わせて旋律を奏するものではなかったために、妥当な調絃法を探り当てることが困難であったからである。
(2)上田杏村は、「紀記歌謡に於ける新羅系歌形の研究」(『国文学の哲学的研究』三、一九二九年)において、『琴歌譜』の曲譜は、朝鮮系(新羅)歌謡の曲節と我国固有歌曲の曲節を融合同化させたものであり、その譜法は、唐代のものを伝えると考える『白石道人歌曲』(宋・姜尭章)のそれに類似していると指摘した。
そして、土田は、「『琴歌譜』の譜法の根本様式が、既に支那の其れに則つたものであるとすれば、和琴調絃の法は、やはり唐楽により影響せられた以後の其れであると見ることが出来よう。然らば、外側から絃の順序により、絃は壱越(甲)、黄鐘、壱越、盤渉、隻調、平調と数ふべきであらうか。これをト調の音階によつて現はせば、ド、レ、ミ、ソ、ラとなってシが無い」という。また、「手」の符号は、「拍板又は笏拍子の代りに手を打つたのであらう」という。その他の符号については、唐のものの影響は受けているが、その意義は相互一致しないとする。
土田は、「然らば、支那の楽譜を訓む様にして、『琴歌譜』の琴の方の曲譜を西洋式に現はすことは、大体において達せられ始めたのである。なほ、この伴奏の琴の譜がそのまま歌の譜であるかどうかは確定的に言へないことであるけれども、右の琴の譜を見れば少なくとも『琴歌譜』の歌の曲風の大体は知り得よう」という。
しかし、土田は、「以上、私は『琴歌譜』を解読する方法的準備を整へることに幾分か努力して見た。勿論、その考察は結論に達してゐないし、準備も亦解読の仕事の序曲にさへ達してゐない不完全のものである。併し、これ以上の仕事は、私などの如き日本音楽の門外漢がなすべきものでは無い」という。結局、『琴歌譜』の茲都歌・歌返の琴譜を解読できなかったのである。
土田は、唐楽の琴の音階・譜法によって、『琴歌譜』の琴譜を解読しようとした。しかし、中国の琴は、古来、五音徴調を七絃琴に配したものである。六絃の和琴が、なぜ土田のいうような音階・音列で調絃できるのか、何らの検討もしていない。土田のような方法では、『琴歌譜』の解読は不可能であることを示している。
(3)田辺尚雄は、『日本音楽史』世界音楽講座XIII(一九三四年)において、「琴歌譜の発見によって、上代歌謡の音楽的形式が一部丈けでも知り得られるやうになつたことは日本音楽史上の劃期的の問題である」という。そして、『琴歌譜』に掲載された歌曲のうち、茲都歌・片降・余美歌・茲良宜歌について音楽的考察を加えている。
田辺は、『琴歌譜』の茲都歌に見られる歌詞にある短歌の上句だけを歌い、しかも、その第三句を六回反復している形式は、神楽歌の庭燎が上の句だけを歌うのとよく似ていると指摘する。そして、関口竹治が、国学院大学卒業論文「琴歌譜の研究」(一九三三年)において、田辺によって五線譜に採られた神楽歌の庭燎の歌譜に、『琴歌譜』の茲都歌の歌詞を当てはめて、その第三句がピタリと合うことを証明したという。
また、田辺は、庭燎と茲都歌の両者を比較・対照した五線譜を見て、茲都歌は静歌、すなわち静かに引伸ばして歌われる歌曲、であるということが明瞭であるという。
小島憲之は、「古代歌謡」(『日本文学講座』一・古代の文学・前期、一九五一年)において、「『琴歌譜』の発見によって譜を想定した例」として、田辺の前記論考を挙げる。
しかし、それらの田辺の考察は、茲都歌と庭燎の一部の詞形が似ているので同じように歌えるということに止まり、『琴歌譜』の琴譜を解読し、調絃法を解明したうえでのものではない。
(4)林謙三は、「琴歌譜の音楽的解釈の試み」(『東洋音楽研究』一八、一九六五年)において、「琴歌譜は、平安初の大歌所に用いた歌謡の譜の一つとみなしてよいものであり、整理編集によるかなりの変形があるにせよ、そのうちに『記紀歌謡』として親しまれている上古の歌謡の、主としてうたいぶりの一面をある程度までよく保存していそうに思われる点に、歌謡文学史のみならず、日本音楽史にも資料的価値をもたらすものである」と評価する。
しかし、林は、「どれだけの音楽的研究がとげられたであろうか。それが寥々であるのは、この譜のもつ独自の表現や、それについての解説(序文)の不備や、類本の欠如などから、楽譜としてもすでに生命をまったく失った死譜と化しているからであろう」と指摘する。そして、「このような死譜を蘇生させようと夢みた音楽学者や篤学者が過去に幾人もあり、筆者も久しい以前から何度となく本譜の音楽的解説に心がけたことがある。しかしいつも成功しなかった。・・・結局この難解の楽譜は神楽譜や催馬楽譜などと表現方式を異にするところが多く、使用された当時でも、師伝なしには了解しにくく編集せられていて、後人がこの謎を解こうとするのをきびしく拒絶するかのようにみえるのである」という。
ところが、林は、『琴歌譜』の琴譜に付された注記・符号の解読を試みた倉野憲司「琴歌譜序私注」(『文学・語学』四、一九五七年)、西宮一民「琴歌譜に於ける二、三の問題」(『帝塚山学院短期大学研究年報』七、一九五九年)、宇佐美多津子「琴歌譜の基礎的事項に関する考察(正・続)」(『学習院大学国語国文学会誌』五・六、一九六一・六二年)らの論文を目にし、その中でも宇佐美の論文に興味をひかれ、琴歌譜解読の試論を発表するに至った。
林は、前掲論文「琴歌譜の音楽的解釈の試み」において、琴歌譜の概要を紹介した後、「琴歌譜とその問題点」として、「記号・符号の解釈」、「拍節の均拍・不均拍」、「歌詞を二段に分けた曲の音楽的処理」、「琴歌、和琴譜の新釈」の五項目を挙げて検討している。そして、最後の「琴歌、和琴譜の新釈」の項目において、『琴歌譜』は、「冒頭の二曲(注、茲都歌・歌返)にだけ、和琴の絃数を注記しているが、もしこの譜が後世の譜のように、単に歌謡の伴奏譜にとどまるならば、それから歌の旋律を引き出すことは初めから断念しなければならない。筆者の予想はその正反対である。・・・本譜の表現の仕方はいかにも歌の旋律を描きだそうとしているとしか見えない」という。
こうして、林は、妥当な和琴の調絃法を探り当てようと試みる。まず、古来からの和琴の調絃は、原理的に大別すると四型におさめることができるが、いずれも六本の絃に五声(そのうち一音は重複)を割り当てるとして、四型(一〇種・補遺一〇種)の調絃法を表に現わした。ただし、『琴歌譜』では、絃を外から数えるので、後世とは逆に絃をおいて調絃したのか、あるいは後世同様に調絃の姿のままを、ただ絃名だけ反対に呼んだのかの二つの解釈が成り立つので実質的には八型となる。更に、五絃だけをもって五声を組み合わせる、あらゆる型の表(和琴五声組織表・二四型一二〇種)を作成して参考とした。
そのうえで、それらの調絃法を用いて茲都歌と歌返を五線譜に現わし、古代歌謡にふさわしい五声からなる簡素な旋律を求めて、一二の条件を付して選別した結果、『琴歌譜』の調絃法として仮説二つを掲げている。しかし、確信はなかなか持てないとして、五線譜化した音譜は発表しなかった。
ところで、林は、右論文で、「わが上古では、初めは狭い音域をもつ、せいぜい三ー四声のたぶん不均拍の歌ーーー茲都歌の一、二句は三ー四声だけで活動するーーーをうたい、それが次第に五声を完備する歌謡に発展していったものであり、実際にうたわれた記紀歌謡の多くは五声程度の簡素な旋律のものであったと推定される」という。
そして、林は、右論文を『雅楽ー古楽譜の解読ー』東洋音楽選書一〇(一九六九年)に再録するに当たって、「補説」の中で、「茲都歌の片歌がほとんど四絃四声で現わされている点を参酌して、六絃でも四声に調律した方がさらによいのではないかと、近ごろふと思いついた。・・・いずれこのことはさらに吟味の末、改めて発表することにしたい」と記し、六絃を四音に分配することを示唆している。しかし、一九七六年六月九日、林はそれを果たすことなく亡くなった。
(5)山口庄司は、林の前記のような考察・示唆に啓発され、『琴歌譜』の茲都歌と歌返に付された奏法楽譜を解読し、その歌声・旋律を甦らせて、「琴箏の源流と古代の楽理(七・八)」(『楽道』五六三・五六四、一九八八年)に発表した。更に、山口は、右論文に補訂を加え、「弥生・古墳時代の琴箏と音楽(下)」(『季刊邦楽』五九、一九八九年)にも、ほぼ同じ内容で、『琴歌譜』の琴譜の解読結果を掲載した。
山口は、「琴歌譜』の序文に、「又以甲乙六干配於六絃」とあり、「又以十干配於六絃」、あるいは「又以甲乙丙丁戊己配於六絃」ではないことに注目した。また、六干は、横笛の相対値音関係を示す穴記号だが、古代学理では絶対値音として扱われている例が多く、六穴=壱越・宮、干穴=平調・商と認識されている。そして、序文の注では、十干の甲以下を順に、各絃に配しているので、「又以甲乙六干配於六絃」は、「また、甲(十干の始め一)=黄鐘・徴、乙(十干の次ぎ二)=盤渉・羽、六=壱越・宮、干=平調・商、からなる四音音階を以て、六絃に分配する」と解いた。
しかし、序文は、音高を表わす記号には触れていない。そこで、山口は、その論文「日本伝統音階の研究」(『日本の音階』東洋音楽選書九、一九八二年)・著書『能音楽の研究・地方と中央』(一九八七年)などで、旋律と音階を解読してきた理論を、『琴歌譜』に応用して六絃の各音高を決定した。
まず、『琴歌譜』は、踊り字を用いてシラブルを何拍延ばすか示しているので、茲都歌・歌返の音価値分布を調べた。音価値とは、旋律の中での存存時問の長短を、高低に変換した評価基準で、高いものが核音=重要な音に該当する。次に、音価値分布を対象に、陽旋律のトニカ・主音を抽出し構成音階を突き止めるための「陽音階理論」を用いて調絃抽出を行なった。
茲都歌の音価値分布は、一絃二六拍、二絃二四拍、三絃六一拍、四絃二九拍、五絃二三拍、六絃一拍であった。これを理論に照合した。そうすると、音価値の著しく高い三絃は、途中終止音にもよく使われるので主核音の黄鐘・Aラとなる。六絃は、一拍ながらも重要な終止音を奏するので、三絃と同音である。以下、途中終止音の多い五絃は核音壱越・Dレ、四絃は平調・Eミ、二絃は浮動音盤渉・Hシ、そして、一絃は五絃と同音・核音Dレとなった。歌返の音価値分布とそれを理論に照合した結果も、茲都歌と全く同じであった。
すなわち、一絃=壱越・Dレ、二絃=盤渉・Hシ、三絃=黄鐘・Aラ、四絃=平調・Eミ、五絃=壱越・Dレ、六絃=黄鐘・Aラとなった。これを、序文の「黄鐘・盤渉・壱越・平調の四音音階を以て六絃に分配する」と較べると一致し、日本音階のルーツ、律音階の祖形と見なせる壱越調徴音階、ソ・ラ・ド・レ(移動ド)が浮上したという。
山口は、序文の「依点句之形、表歌声、其句者・・・此有五種、点者・・・此有二種」に当たる、二〇種ほどの墨書き注記・符号は、微細な旋律変化、歌い方を記譜したものらしいというが、その解析は割愛している。そして、朱書きの「手」記号はリズム・アクセントの指摘記号と解き、絃の重音記号については、外側(高い方の音)を採ったが、内側(低い方の音)は装飾・前打音であろうとした。
こうして、山口は、茲都歌と歌返を五線譜に表わした。茲都歌については、歌いやすい音域であることも手伝って、「ゆったりとした、古代らしいおおらかな旋律が空間に現われ」、歌返は「茲都歌と比べて、かなり複雑な旋律を構成させていた」が、茲都歌の主パターン「ツキアマス」と歌返の「ウエツヤ」が同じパターンを用いていることなど興味深いという。山口が、前掲論文「弥生・古墳時代の琴箏と音楽(下)」に発表した『琴歌譜』の茲都歌と歌返の五線譜化した音譜を本稿の末尾に引用しておくので、解読結果を検証されたい。
山口は、『琴歌譜』の解読結果を振り返って、比較音楽学によって、次のように評価している。
1).平安中期の伝写なのに、六絃の和琴が、埋蔵文化財「やまと琴」(注、埴輪弾琴像・埴輪の琴)と同じオクターブに満たない、原始的な四音音階で構成されていた。従って、応神・仁徳以前の歌声を伝えた旋律だといえる。しかし、四音階の歌曲を六絃に無理して配した結果であろう、折角ある和琴の機能、六絃中の二絃を持て余したような特異な使い方をしていた。
2).古墳時代に五絃琴と四絃琴が共存していた理由は、『琴歌譜』の六絃四音階、あるいは『梁塵秘抄口伝集・巻一二』の和琴調絃に見る六絃五音階のように、必要に応じ核音を重複させて、五絃四音階に調絃させていたからである。
3).和琴だけで琴箏史に例のない、二列・右肩下がりの調絃については、、雅楽に組み入れるため、六絃オクターブに進化した頃になされた(注、その理由を分析して示している)。
4).和琴の絃番号の呼び方が逆なのは、雅楽への組み入れに当たって、高音側を奏者寄りに配する琴箏の歴史的決まりと異なることから、絃番号の数え方はそのままに、奏者位置を逆にした絃番号で呼ぶようにして、実質的に琴箏の歴史に合わせた。
5).古代人は、黄鐘調宮・Aを基音とするド・レ・ファ・ソ四音音階と別に、見事な理論転換で、壱越調徴・Aを基音とするソ・ラ・ド・レ徴四音音階を作り、歌い奏していた。このことは、三韓・唐楽の渡来以前、すでに律音階系で作る(四度と五度音程を持つ)旋律が日本人に好まれていたことを、決定的にした。
6).ところで、五線譜上では、この二つの音階は同じだが、音階の特性は大きく異なる。
ド・レ・ファ・ソ四音音階が、核音三・浮動音一の配分で堅固な構造なのに対して、ソ・ラ・ド・レ徴四音音階は、核音二・浮動音二の配分のため柔軟な旋律を生む特性を持つ。例えば、歌い継がれていく過程で、浮動音がそれぞれ半音下がって陰音階となり、それで出来た旋律が古墳時代に歌われていた可能性が大きく浮上する(注、古謡「子守唄」を四音音階に狭めて、その実例を示している)。
そして、このような陰旋律化されたメロディーが綿々と歌い継がれ、やがて江戸時代初期に箏・三味線と結合して、優美な音楽に変身し、都節を特徴とする近世邦楽を開花・成立させたのではないか。
(6)山口による『琴歌譜』の琴譜解読の後も、『琴歌譜』の音楽的研究については、横田淑子・若林重栄・猪股ときわなど、幾人かの論文が見られる。しかし、それらは何れも、山口の業績を取り上げることなく、茲都歌と歌返の旋律が復元されていないことを前提にして、琴譜について論じている。
また、『琴歌譜』の文学的研究も、佐佐木信綱・武田祐吉・賀古明・土橋寛らの研究を基礎として、青木周平・猿田正祝・阿久沢武史・斎藤英喜・居駒永幸・井口樹生・矢嶋泉・神野富一らによって進められている。最近では、神野富一が中心となって、従来の研究を集大成し、「琴歌譜注釈稿」として『甲南国文』四三号(一九九六年三月号)以降に順次発表しつつある。しかし、それらの文学的研究も、『琴歌譜』の琴譜解読については、いずれも林謙三の段階までの紹介に止まり、山口の研究には何も触れていない。
山口庄司による『琴歌譜』の解読結果が無視されているのは、従来の古代音楽・古代和琴についての通念からは、受け入れ難いからであろうか?それとも、山口の前記の各論文が、視野に入らないからであろうか?・・・ 
三 和琴の祖型
(1)ところで、林謙三が『琴歌譜』の解読に当たった当時、和琴の祖型は、どのようなものであり、どのようにして和琴に変身していったと考えられていたのであろうか?
なお、ここでは、和琴とはどのような楽器かについては、平野健次「和琴」(『日本音楽大事典』、一九八九年)に、簡潔にして要領を得た解説があるので省略する。
林は、「和琴の形態の発育経過について」(『書陵部紀要』一〇、一九五八年)において、黒沢隆朝が発見した登呂の木製板琴を始め、関東地方から出土した埴輪弾琴像・埴輪の琴は、和琴の特色の一部を見出すことができるが、絃は「五本が正式らしい」としている。
次に、『隋書』イ妥*国(倭国)伝の「楽有、五絃琴笛」という記述については、『隋書』では五絃(=五絃琵琶)の記事は多いが、我国への五絃琵琶の伝来は奈良時代に入って以後のことであるから、この記述は「五絃琴」と解釈するのが正しいとする。そして、この五絃琴は、埴輪弾琴像・埴輪の琴(以下、両者を一括して「埴輪の琴」という)のようなみすぼらしい琴ではなく、相当高度な絃楽器にまで発展していたと考えている。絃制については、奈良時代前期あたりに、五絃による五声に一声のオクターブ音の絃を加える必要を感じて、六絃が作られたのではなかろうかという。
すなわち、林は、和琴は我国固有の絃楽器であるが、弥生時代の木製板琴から古墳時代の埴輪の琴に見られる原始的な琴が、中国・朝鮮半島の文物の影響を受けて、さまざまな変遷過程をたどって、それとは根本的に差異のある六絃の和琴に発育成長していったのであろうとする。このような見解は、当時の通説といってよいであろう。
この頃までは、木製琴・埴輪の琴の出土例がまだ少なく、出土例についても集成・検討がなされていなかったので、正確な古代の琴の構造・形姿を把握することが困難な時代であった。以下、出土した木製琴・埴輪の琴を集成し、検討した主要な論文を紹介しよう。
(2)その後、水野正好は、「琴の誕生とその展開」(『考古学雑誌』六六ー一、一九八〇年)において、発掘された木製の古代の琴(弥生時代から古墳時代後期)を集成して、「板作りの琴」と「槽作りの琴」に分類して、琴尾の突起に五突起と六突起のものがあることを指摘し、それらの形態・構造の変遷について考察している。また、古墳から出土した埴輪の琴(古墳時代後期から六世紀代)には、右の二分類の他に「足作りの琴」があり、四絃と五絃のものが存在するという。
水野は、古墳時代後期は、絃制を始めとする琴形(絃孔を琴頭下端に穿つため琴頭は絃がなく、後に鶏尾琴と呼ばれる遊びの琴面になる)・制作技法(甲作りの採用)など諸方面に、前代と隔絶する大きな展開を見せるが、その背景には中国・朝鮮の影響を説くことができるであろうという。
そして、水野は、「碧りに輝く琴柱」(『美濃の文化』四、一九七九年)において、古墳時代には「琴の琴尾の突起の数と弦数はなお検討しなければならないにしても、四弦、五弦は一般的で、六弦も十分に考えられるところである」としている。
こうして、水野によって、出土した木製琴・埴輪の琴が集成・検討されて、木製琴の琴尾の突起に五突起と六突起のものがあり、埴輪の琴に四絃と五絃が存在することが、明確に意識されるようになった。
水野は、正倉院の和琴(六絃)は、中国の新しい文化の波をうけ、古墳時代の後期に成立し白鳳時代の沖の島の金銅製槽作りの琴(五絃)へと連綿と続き発展した琴制を否定し、明確にその存在を強調する琴制をとっているという。ここに、現在見られる和琴の祖型が成立したという。
(3)岸辺成雄は、琴に関する研究論文・発掘出土報告などに見られる出土した木製琴・埴輪の琴を実見・検討し、「和琴の祖型ー出土品を中心にー(上・中・下)」(『雅楽界』五六・五七・五八、一九八一・八二・八三年)において、木製琴を矩形(後の和琴の祖型)・棒形・箆形・台形に分類し、埴輪の琴はすべて矩形に分類する。
そして、矩形の木製琴については、「大小」(実物か雛形か)・「造り」(一枚板・二枚板、甲造り・槽造り・箱作り・脚造り)・「響穴(音穴)」・「集弦孔」・「鵄尾と絃数」(絃数は鵄尾数と同一するとはいえない。鵄尾数は四・五・六を報告するが、四・五は残欠)・「鵄尾は尾部か頭部か」・「琴柱」などの諸点を詳細に考察している。
埴輪の琴については、「演奏像」から弾奏法について考察し、「膝上按撫」(呉床に腰掛け琴を膝の上に横たえ、琴の頭部を演奏者の右に、従って鵄尾部を左にして奏する)・「両手の使用」(両手で絃を弾くように見えるものが多い)などをその特徴として指摘した。埴輪の琴の形態についても細かく観察し、絃数については、四絃と五絃を報告している。
岸辺は、出土した木製琴・埴輪の琴の楽器としての特徴を観察した結果、和琴は単純から複雑へ展開したとは確言し難く、また、中国・朝鮮の琴の直接の影響を認めるわけには今のところ行かないし、むしろ、日本に自生の祖型をもち、自主的な展開・発達をとげて行く要素や傾向の方が多いという。この論文には、岸辺の東洋音楽研究者としての鋭い観察とその見解が明らかにされている。
(4)山口庄司は、「琴箏の源流と古代の楽理(一・二)」(『楽道』五五二・五五三、一九八七年)において、水野正好・佐田茂・岸辺成雄らの先行研究を踏まえた上で、出土した木製琴と埴輪の琴の構造を観察・測定して、古代の琴(山口は「やまと琴」と総称する)の音階を解明した。なお、山口は、右論文とほぼ同様の内容のものを、「弥生・古墳時代の琴箏と音楽(上・中)」(『季刊邦楽』五六・五八、一九八八・八九年)と題して、発表している。
一九七六年、滋賀県守山市服部遺跡(古墳時代前期)から、六本の突起と響槽を有し、琴頭側が欠損するものの、完全に近い形の木製琴が、四個の琴柱を共伴して出土した。
山口は、この木製琴について、発掘報告書が推定する全長一五〇センチ(現在長一一五センチ)を開放絃長・基音として、仮に四絃四音音階で作る最大音程値、五度の絃長比三分の二を計算すると龍尾から五〇センチの所、五絃五音音階としても六一センチとなり、腐食部分・龍頭寄りに琴柱は立たないことになり、また、琴柱の高さが二・一センチなので、開放絃長はかなり短くなって、龍頭部の欠失は少なかったとする。
そして、琴柱が四本出土しているが、突起が六本あるので、四絃琴として良いかは難しい問題だという。しかし、「琴柱四個の共伴から、古墳時代前期、確実に音階があったことは確実だから、これと・・・埴輪の琴群が四絃優勢であることを加え、古墳時代の四絃琴の調絃法と音階を比較音楽学の手法で浮上させることは困難ではない」という。
すなわち、「三分損益法で琴箏の音階を作る場合、・・・箏類は琴柱の移動により、・・・三分損一に当たる五度の協和音と、三分益一に当たる四度の協和音を響かせながら音階を組み立てていく。そして、このような協和音を用いて絃楽器の調絃と音階を作る方法は、洋の東西を問わず太古から現代に至るまで用いられている方法である。したがって、服部遺跡に見る琴柱の存在も、琴柱の機能を知っていたからであったと言えるだろう」という。
また、山口は、前掲論文「日本伝統音階の研究」において、「音色を楽しむための楽器、バラランバラランと単一音響を奏でるものならば、人型をした柱(ジ)でなく、固定した一本のフレットがふさわしい。・・・中国と同じように・、和琴も古い時代から音階を作る楽器だったに違いない」ともいう。
こうして、山口は、まず、日本は五音音階・ペンタトニック圏に位置するから、その全音音階的五音音列から四音音列の組合せを抜き出すと、可能なものは四例のみとなる。次に、第一絃の龍頭寄りに立てた琴柱の作る音高をC(ド)と仮定、二・三・四絃の琴柱を移動させ、四度の協和音と五度の協和音を用いて、第三絃F(ファ)と第四絃G(ソ)を得る。更に、それで得たC・F・Gを用いて、四度と五度の協和音で得られる第二絃の音高を求めると、Gを基準に四度の協和音で得られるD(レ)のみとなる。従って、日本人が古来から好んでいたことが確かな律音階の祖形と見なされる、ド・レ・ファ・ソ(移動ド)の音階が浮上してくるという。
そして、千葉県山武郡芝山町所在の殿部田古墳と同県同郡横芝町所在の姫塚古墳から出土した埴輪弾琴像と比較することにより、鵄尾を左にして、外側の第一絃をC・第二絃をD・第三絃をF・第四絃をGとする、古代中国から韓国・日本に至る琴箏の調絃に順当に一致する、調絃法が確かなものになっていくという。
殿部田古墳(古墳時代後期)出土の埴輪弾琴像の琴は、長さ一七センチ・中央部の幅七センチ、五突起(一突起欠失)で、外側一突起(欠失部分)を左に、突起と突起の中間から線刻で表した四絃を龍頭端から全長の三分の一ほど手前まで平行に画いている。更に、全長の三分の一弱ほど突起に近いあたりの線刻上に、琴柱を表していること以外考えられない、直径八ミリほどの円板を張り付けた跡(現在は欠失)が並んでいる。これによって、琴柱が妥当な突起に近い所に装着されていたことを、始めて明らかにしてくれたという。
姫塚古墳(古墳時代後期)出土の埴輪弾琴像の琴は、長さ二三・五センチでわずかに鼓型、突起はなく龍尾幅七・二センチの端から、一部を欠失した龍頭幅七・四センチの手前三分の一あたりまで、四本平行にヘラ状工具で力強く引いたV状の溝(幅二ミリから三ミリ)で四絃を表す。龍尾から四分の一あたりの、それぞれの絃上に、直径一三ミリ、厚さ三ミリの円板を張り付けるが、外側が(外側のみ欠失、跡がある)最も龍尾に近く順に龍頭寄りに並べるという特徴を持つ。そうすると、円板は琴柱を表しているから、外側の開放絃が最も長く低い音を発音する第一絃、次が第二絃、次が第三絃、手前の演奏者側が最も短く高い音を発音する第四絃を表すという、琴箏の世界史に一致する配列を用いている。これによって、今まで分からなかった、「やまと琴」の琴柱の着装位置を証明することができ、その結果、調絃法と音階に加えて、絃と琴柱の並べ方まで分かったという。
山口は、これを一歩進めて、五絃の音階について考察した。楽理から見た序列として、四絃琴が先にあって、五絃琴に進化したはずであり、たとえ逆だとしても、両者の音階構造が異なるとは考えられないという。従って、歴史的に見て、日本人が好んだ律音階の祖形に当たる、ド・レ・ファ・ソ(移動ド)よりも一層律音階の形に近づく、第二絃Dを基準に五度の協和音によって得られる、第五絃A(ラ)を加えたド・レ・ファ・ソ・ラ(移動ド)が理論的に抽出される。これが五絃琴の妥当な音階であるという。
山口は、林謙三が六弦に四声を配分することを示唆していることに注目し、かつ、埴輪の四絃琴の音階が四音音階であることを解析していたので、論理の導くままに何の違和感もなく『琴歌譜』の琴譜が四音音階で構成されていることを解読できたのである。
(5)増田修は、「古代の琴ー正倉院の和琴への飛躍ー」(『市民の古代』一一、一九八九年)および「『常陸国風土記』に現れた楽器」(『市民の古代』一三、一九九一年)において、水野正好が集成した以降のものも加えて、五〇数例の出土した木製琴・埴輪の琴・金属製雛型琴について、その構造と特徴を分析し、かつ、琴の絃数の持つ政治的・文化的意義を考察した。
木製琴の絃数については、基本的には突起と突起の間に絃を出し、六突起のものは、五絃であることを論証した。そして、六突起の木製琴(五絃)と五絃の埴輪の琴は、主として九州から近畿にかけて分布し、四絃の埴輪の琴は、関東(常陸を除く)に濃密に分布していることに注目した。この分布については、例外もあるが、それらは各地の交流を示していると考えられる。
我国の古代の琴は、元来は王者の宝器で、祭祀に用いられる神聖な楽器であった。古墳時代の琴の絃数の相違は、山口庄司が解析したように、異なった音数で、異なる音域の音楽を演奏していたことを証明している。この事実は、古代日本には、異なった祭祀圏=政治圏が、存在していたことを示唆している。従って、四絃の琴は、関東の大王の政治・文化圏で主として用いられたものであり、五絃の琴は、倭国(筑紫)の政治・文化圏を中心として用いられたものと推定した。
埼玉県行田市所在の稲荷山古墳からは、一一五の黄金文字の銘文が刻され、「辛亥年」(四七一年に該当か)の干支を持つ鉄剣が出土しているが、四絃の埴輪の琴も出土しているのである。この鉄剣に「・・・今獲加多支大王寺、在斯鬼宮時・・・」と刻まれた「大王」は、栃木県下都賀郡藤岡町字磯城宮に所在する大前神社(延喜式以前の名称を磯城宮という)の地に君臨していたと思われる(古田武彦『関東に大王ありー稲荷山鉄剣の密室ー』、一九七九年・新泉社版一九八七年)。通説は、「獲加多支大王」は雄略天皇であるとするが、雄略が宮殿を置いたのは、長谷(泊瀬)の朝倉宮であって斯鬼宮(磯城宮)ではない。
イ妥(たい)国のイ妥*は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO
『隋書』イ妥*国伝には、「楽有、五絃琴笛」とある。イ妥*国は、大委(大倭)国の意であろう。中華書局版では、「五絃・琴・笛」と文字を区切っているが、我国では一般に「五絃琴」と続けて呼んでいる。しかし、『隋書』においては、他の個所では、五絃は総て五絃琵琶を指している。また、倭国の「五絃琴」であれば「柱」があるので、中国における楽器名で「五絃箏」と記録されるであろう。更に、この個所は、倭国の総ての楽器を記録しているわけではない。他の個所には、倭王が、隋の使者裴清を「鼓角」を鳴らして迎えたという記事もある。従って、ここでは、「五絃」は五絃琵琶、「琴」は七絃琴、「笛」は横笛を指していると考えられる。倭国は、すでに中国と同じ楽器も用い、五音音階の文化圏に入っていたと思われる。
ところで、『隋書』イ妥*国伝に見える倭国には阿蘇山があり、その倭王・阿毎多利思北孤は、日出づる処の天子と名乗り、妻(鶏弥)を有し、その後宮には女性が六、七百人いる。従って、この倭王は、女王・推古天皇や摂政・聖徳大子ではあり得ず、九州(筑紫)の王者であろう(古田武彦『失われた九州王朝』、一九七三年・朝日文庫版一九九三年)。
『旧唐書』は、日本列島内に二つの王朝ありとし、一方を倭国伝、他方を日本伝としており、「日本国は倭国の別種なり、・・・倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す、・・・日本は旧小国、倭国の地を併せたり」と記述している。そして、『三国史記』文武王一〇(六七〇)年条には、倭国が国号を日本と改めたという記事がある。
古田武彦は、『旧唐書』に見える倭国は九州王朝、日本国は近畿天皇家を指し倭国の分流(分家)であるという。そして、大宝元(七〇一)年、近畿天皇家は、白村江における百済救国の戦い(六六三年)で唐・新羅の連合軍に完敗して衰微した九州王朝を併呑して、新たに大宝律令を制定したという。大宝二(七〇二)年には、日本国は、遣唐使を派遣し唐王朝によって日本列島の代表王者として承認されたという(前掲『失われた九州王朝』)。
近畿天皇家は、日本国を創建し、諸制度を制定・整備するなかで、琴制については四絃・五絃を廃して、大嘗祭・新嘗祭で使用される大和朝廷独自の神聖な楽器として、新たな六絃の和琴の制を採るようになったのであろう。
ここで刮目されるのは、『琴歌譜』に見られるように、初期の六絃の和琴が四音音階で構成されていたことである。すなわち、和琴は、関東(あづま)の大王の四絃の琴に、その淵源を持つと考えられるのである。「あづま」は和琴の惣名であるとは、よくぞ言ったものである。この事実は、近畿天皇家が日本国創建に当たり、前記稲荷山古墳出土の鉄剣銘に刻まれた大王の後喬による、少なからぬ援護を受けていたことを物語っているように思われる。
(6)宮崎まゆみは、「埴輪に表現された楽器についての調査概報(その1・2)」(『武蔵野音楽大学研究紀要』二一・二二、一九八九・九一)において、三四例の埴輪の琴・埴輪の撥を整理して、「出土地」・「制作年代」・「コトの大きさ」・「頭部の形」・「尾端の形」・「絃孔・「絃数」・「コト板の構造」・「コト柱など」・「演奏法」・「弾琴人物の人物像」などについて検討し、多くの問題を提起している。この論文は、後に『埴輪の楽器〔楽器史からみた考古資料〕』(一九九三年)に収録された。宮崎の右著書には、集成した総ての埴輪の琴の写真も紹介されており、必読の文献である。
宮崎は、「埴輪に表現されているコトは、他のコトと区別される儀式用のコト(注、小型のもの)ではないだろうか。・・・その音楽とは、現代の我々が想像するようなメロディックな音楽でなく、単なる音の連続であった可能性が高い」という。そして、現行和琴と、埴輪表現されているコトとは、その構造から見て、関係があるのではないだろうかと指摘し、「現行和琴の基本的演奏方法は、右手に小さなヘラ状のピックを持ち、それで全部の絃を一気に引っ掻く。左手は、絃を並んでいる順番にピチカートする。いずれにしてもいろいろなメロディを弾くのでは無く、各絃を順番に鳴らす単純な奏法である。この特徴もまた、埴輪に表現されているコトの奏法を推測した結果と一致する」という。
宮崎は、一方、それでは出土した古代の木製大型コトは、音楽的演奏を目的とした楽器だったのか、と問われると、それも疑問に思う」という。そして、宮崎は、山口庄司が『楽道』に連載中の前掲論文「琴箏の源流と古代の楽理」も、楽器埴輪資料の収集に当たって情報収集開始の手がかりとしているから(宮崎前掲書「注書」2参照)、山口の論文を読んでいる。そうすると、宮崎は、出土した木製琴・埴輪の琴は歌に沿った旋律を奏でる楽器であるという山口の見解を、疑問視していると思われる。
(7)笠原潔は、「縄文時代の楽器」・「弥生・古墳時代の楽器」(放送大学教材『音楽の歴史と音楽観』、一九九二年)において、出土した木製琴・埴輪の琴を集成し、解説している。笠原の右著書は、放送大学において柴田南雄が用いた放送大学教材『改訂版音楽史と音楽論』(一九八八年)の後継教科書である。それは、また、柴田の「古代の楽器遺産」(岩波講座『日本の音楽・アジアの音楽」五、一九八九年)を、更に充実させたものでもある。
この笠原の著書には、「表9琴」の木製琴の一覧表の注記には、「琴に関する文献は多数に上がるため、省略する。増田修「古代の琴ー正倉院の和琴への飛躍ー」(『市民の古代』第十一集、一九八九)に詳細な文献表がある」と記されている。また、「表10弾琴埴輪・埴輪琴」の一覧表については、宮崎まゆみの前掲論文に基づくと注記されているが、宮崎前掲書に掲載されていない埴輪の琴も収録されている。
更に、笠原は、「出土琴の研究(1・2)」(『放送大学研究年報』一二・一三、一九九五・九六年〕において、弥生時代以降の出土琴を対象に、五〇例の木製琴を集成した。そして、「板作りの琴」・「槽作りの琴」・「棒状の琴」に三分類し、「雅楽で用いられる和琴は、これらの琴のうち、槽(共鳴槽)を持つものから発展してきたものと考えられている」として、時代・サイズ・外形・突起数・集絃機構・材質・文献との対応などについて検討している。
この笠原の論文は、現在のところ最も詳細な、古代の木製琴を集成・検討した論考である。木製琴の写真・図面は掲載されていないが、発掘出土報告書など出典が記載されているので、それらによって参照することができる。笠原の論文・著書も、必読の文献である。 
四 おわりに
(1)山口庄司による『琴歌譜』の琴譜の解読結果は、古代の和琴が四音音階で四音を六絃に分配しているという、予想も出来なかったものであって、従来の通念からは受け入れ難いであろう。しかし、山口の右解読結果は、次のような問題を提起している。それらの問題は、無視して済ませることができるような性質のものではない。
1).まず、山口が解読した『琴歌譜』の琴譜による琴の伴奏で、茲都歌と歌返が歌われるのを聞けば、古代の歌謡に相応しいものであると感じ取ることができる。もっとも、男性が歌うには、音域をもう少し低くとる必要があろう。そして、声譜(注記・符号)を解読し、歌い方に反映させることも必要である。
山口が再現した琴歌譜の歌謡は、林謙三が「『琴歌譜』の復元」(吉川英史編『日本音楽文化史』、一九八九年)において想定していたような、「上代の歌には、ごく狭い音域の旋律を用いたようです。・・・『琴歌譜』茲都歌の第一、第二句は、わずか三声の朗詠体であるのも、その古い名残りかと思います。・・・上代人の耳に歌の言葉がよくわかる程度の速さは必要だったと思います」というものに該当する。また、それは、小島美子が「古代歌謡のフシのこと」(『日本音楽の古層』、一九八二年)で想定していた、フシ・リズム・メロディなどによる、琴歌譜の歌謡の歌い方の範囲の内に入ると思われる。
2).次に、山口が、『琴歌譜』の琴譜を解読するに至った過程で適用した理論と方法は、客観的に検証でき、その当否を判定できる。
この点については、小泉文夫が、『日本の音階』東洋音楽選書九(一九八二年)の「解題」において、山口の前掲論文「日本伝統音階の研究」を、「山口氏の研究から教えられる所が多く、非常に示唆に富んだ内容を随所に見出すことが出来る。しかし、アイディアとして新鮮であるが、山口氏の所論の通りに納得できない点も多く、とくに厳密な科学性を志向する余り、かえって数値にたより過ぎる傾向も見られる」と批評したように、『琴歌譜』の琴譜の解読についても、同じような批判が出されるであろう。
しかし、山口が復元した『琴歌譜』の歌謡は、無理なく自然に歌え、かつ、古代の歌謡の特色を備えていることからも、琴譜解読に用いた理論・方法論が、正しかったことを裏付けているのではあるまいか。
3).更に、山口の『琴歌譜』の琴譜の解読は、和琴の祖型と考えられる古代の木製琴・埴輪の琴についての考古学的資料と音階理論が支持している。
勿論、出土した木製琴・埴輪の琴についての観察結果やその解釈について見解が分かれる点は、多々あろう。しかし、すでに木製琴は五〇例、埴輪の琴は三四例をそれぞれ超えている現在、自らそれらを再検討し、考察することが可能な時代なのである。
初期の和琴が、四音音階で調絃されていたことは、古墳時代には四絃の埴輪の琴が存在していたことからも、あり得ることなのである。また、我国の古代の関東に、四音音階の琴があっても不思議はない。黒沢隆朝は、『音階の発生よりみた音楽起源論』(一九七八年)において、第二次世界大戦前には、インドネシア・台湾に四音音階の音楽が存在していたことを調査・研究し、五音音階は四音音階から発展したことを論証している。
4).そして、『琴歌譜』の文学的研究に関しては、茲都歌と歌返が、山口が比較音楽学によって評価したように、「応神、仁徳大王以前の歌声を伝えた音楽」であるとすると、『琴歌譜』の原本の成立年代や収録されている歌謡の成立年代、歌謡の解釈などについて、再検討する必要があろう。
そのためには、山口が行った『琴歌譜』解読結果の比較音楽学による評価を検証・再検討することが、最初にしなければならない今後の研究課題である。
5).しかも、古墳時代の我国に、四音音階の地域(関東)と五音音階の地域(九州から近畿)が存在していた事実は、当時の我国には異なった祭祀圏=政治圏が存在していたことを示唆している。従って、近畿天皇家が、八世紀初頭には、正倉院の和琴に見られるように六絃の和琴(しかも、初期の和琴は四音音階)を用いるようになり、四絃・五絃の琴が消滅していった事実は、その頃、近畿天皇家が九州から関東にかけて日本列島を統一したことを窺わせる。
そうすると、それまでの古代の日本列島には多元的な王国・王権が存在したと思われ、従来の『琴歌譜』の文学的研究の前提も問い直す必要があろう。
勿論、埼玉県行田市所在の稲荷山古墳から出土した鉄剣の金象眼銘に出現する「大王」が関東の大王であるという説、および大宝元(七〇一)年に近畿天皇家が我国を統一するに至るまで、筑紫に日本列島の代表王者が先在したという九州王朝説は、容易に受け入れられることはないであろう。しかし、近畿天皇家一元史観では合理的な説明ができない記録が、中国の正史『隋書』イ妥*国伝、『旧唐書』倭国伝・日本伝、その他『日本書紀』自体にも見られるのである(古田武彦「多元的古代の成立」)・『史学雑誌』九一ー七、一九八二年。後に『多元的古代の成立』上巻ー邪馬壹国の方法ー、一九八三年に収録)。
以上のように、山口庄司による『琴歌譜』の琴譜解読は、我国の古代音楽を、古代の琴は歌のメロディに沿って弾くこともないというような、幼稚なレベルにあるものと捉えていた通念のみならず、近畿天皇家一元史観から組み立てられている古代文学・古代音楽研究の枠組みに対しても、根底から再検討を迫るものである。
ここまでは、『琴歌譜』に関する研究史として、引用した著書・論文等の筆者名について敬称を省略したが、御寛恕を願うものである。
(2)私が、このような『琴歌譜』の琴譜の解読と和琴の祖型についての研究史を書くに至った経緯は、次の通りである。
一九八八年五月、古代の琴についての論文を書く準備のため、神奈川県横須賀市所在の蓼原古墳から出土した埴輪弾琴像を観察しに、横須賀市人文博物館を訪問した。その際、同博物館の大塚真弘氏から、右埴輪弾琴像の四絃琴を復元して演奏しておられる、新倉喜作氏(湘南古典音楽研究会主宰)・新倉原子氏(一絃琴・京極流箏曲・中国古箏・古琴演奏家)夫妻を紹介された。
それからしばらく経って、古代の琴に関する。主要な報告書・論文の検索・収集は終わりに近づいたように思った頃、新倉涼子氏の演奏会の日に、新倉喜作氏から岸辺成雄氏に紹介していただいた。岸辺氏に、古代の琴の研究に当たり、更に読むべき論文について教えを請うたところ、山口庄司氏が『楽道』に連載中の「琴箏の源流と古代の楽理」を読むようにと勧められた。
山口氏の『琴歌譜』の琴譜解読については、その翌年五月に書き上げた前掲論文「古代の琴ー正倉院の和琴への飛躍ー」に援用した。その後、少しずつ『琴歌譜』に関する論文を収集して読んではいたものの、他の関心事に心を奪われている間に、約一〇年過ぎ去ってしまった。その間、古代文学・古代歌謡の研究者の間では、『琴歌譜』の琴譜の解読が待たれていながら、何故か山口氏の研究は取り上げられることもなく今日に至った。
そこで、『琴歌譜』に記された楽譜の解読と和琴の祖型についての研究史を纏めてみた。各分野の研究者、特に若い研究者が、本稿によって古代文学・古代音楽に対する探究心を刺激されて、新たな視点から『琴歌譜』の研究に取り組むことを期待したい。 
 
播磨風土記

 

はじめに
三十代のはじめを過ごしたこの神戸の地で講演をさせていただくということで、非常に楽しく存じながらまいりました。先ほどから当時のなつかしい方々とお会いしていたところでございます。
さて、今日はですね、先ほどご紹介がありましたように、お話し申し上げたい件がたくさんあるんですが、時間が限られていますし、またあした大阪で行われる講演会は、ぜんぜん違うテーマですので、今日は、ここに掲げました『播磨風土記と神話の誕生』の問題です。これは二つのテーマなんですが、この二つをしっかりと話させていただくと、そして時間の余裕があれば、また他のテーマにも触れさせていただくと、こういう形でやらせていただきたいと思います。
最初の『播磨風土記』の問題は、この前の第一回の時に話せなかったことというふうにご紹介があったんですが、そうではありますけれども、じつは新しくですね、先々週この資料を作っていて「あっ」という発見がありまして、それを今日早速話させていただく、そういう意味で、私にとっては一番新しいテーマとなりました。後半の『「人」話の誕生』という問題は、今年の始めから取り組んでいる問題で、私にとって恐らくライフ・ワークになるだろう、是非ライフ・ワークにしたい、とこう思っているテーマでございます。それをここで皆さまにお聞きいただきたい、と、こういうわけでございます。 
『播磨風土記』の史料性格
さて、この前、『播磨風土記』について、限られた時間で若干触れさせていただきました。それは何かと申しますとですね、『播磨風土記』というのは非常にすぐれた史料だと思います。『風土記』といっても、いろいろありますが、皆その性格が違うんですね。名前は同じ『風土記』でも、『風土記』の内実は、国々によって、まあ全部と言っていいくらい、それぞれ性格が違うわけなんですね。その中には非常に古い伝承をよく残しているものもあるかと思えば、逆に、比較的新しく、いわば“作りあげられた”ものもある。いわゆる「近畿中心主義の目」で書き直された、全体として作り直された、まあ、改竄(かいざん)と言いますか、そういう改竄の結果を示しているものもあるといった風に、いろいろな性格があるわけでございます。
どういう点かと具体的に言えば、『出雲風土記』は非常に古い、大国主に当る、大穴持中心の説話が語られている。『常陸風土記』もなかなか、現地の面白い状況が反映していると同時に、九州王朝、また近畿天皇家両方の人々が顔を出しているのです。次に、九州の肥前と豊後、こういうところの『風土記』は、古くからの九州王朝の伝承を近畿天皇家中心に、簡単に言ってしまえば「景行天皇」を中心に書き直しているというような性格のものになっている、といった風に、いろいろあるわけです。
ところが、それらに対して『播磨風土記』というのは、今あげたどれとも全く違うんですね。独特の性格を持っている。それは非常に古い、『古事記』『日本書紀』にない、原初的な史料、それも、これは他の風土記にはないことなんですが、つまり、天皇のことに触れながらーー『古事記』『日本書紀』は当然天皇のことに触れているんてすがーーそれより古い、原初的な、より本来の伝承を示している。つまり近畿天皇家に関して『古事記』『日本書紀』より、『播磨風土記』の方が古いという、第一等史料であるという性格を持っているのです。これは今までの学者にとっては注意されていなかったところであるように私には見えているんです。 
『記・紀」にない“宇治天皇”
その例をこの前あげさせてもらいましたが、「宇治天皇」というのが『播磨風土記』に出てまいります。これは応神天皇の皇太子、菟道稚郎子であるということは知られているわけです。ところが『古事記』『日本書紀』では「宇治天皇」という“ことば”がないわけです。菟道稚郎子は出て来ますけど・・・。じゃあ、それを「宇治天皇」として扱っている『播磨風土記』と、たんなる「皇子」として扱っている『古事記』『日本書紀』と、どっちが本来の姿かと言うと、答えは『播磨風土記』、つまり本来は宇治天皇であった、と。
これは伝承が示しますように、応神天皇の遺言として、長男でなくて、末の方ですけれども、菟道稚郎子に後を継がせたいと、こういう遺言をして亡くなられた、と書いてありますね。その後、この菟道稚郎子と、のちの仁徳天皇(お兄さんですが)、その両方共、勢力を持っているように見えたんでしょう。例の、漁師が魚をどっちへ持って行っていいかわからなくて困った、という有名な話があるわけです。ということは、もう菟道稚郎子は、実際は天皇の位についていたわけですね。にもかかわらず『古事記』『日本書紀』がそう書かないのは、結局仁徳が、自分ーー仁徳にとってさらに兄さんがいるわけてすがーーそれを次々殺してしまうわけてすね。次々殺して最後自分だけ残った。そして自分が天皇になったという、こういう「仁徳」という名前とは裏腹のような行為が率直に書かれております。特に『古事記』にはそれが非常に単純明快に書かれています。
この仁徳天皇の立場に立つとですね、どうも「宇治天皇」は困る。特に菟道稚郎子の直接(母を同じくしていた)妹(女鳥王)やその恋人(速総別王)を根絶やしに、殺していますからね。叛乱という名をつけて殺していますので、結局「宇治天皇」という存在はなかったことにして、応神天皇ーー仁徳天皇のお父さんーーを自分(仁徳天皇)が受け継いだという形で、「正統的な伝承」をさせたわけですね。
そういう「形式上の」というか、「仁徳天皇側の都合」に立った伝承を反映したのが『古事記』『日本書紀』である。ところが、実際は、歴史事実としては、菟道稚郎子は当然何年かわかりませんが、ある期間「天皇」であったと。それが父の応神の意志でもあった。そうしますと、その宇治天皇という名前は、勝手に後世造作したものではなく、本来の歴史事実そのものを反映している表現であると、こう考えるべきであろうと思います。 
「市辺天皇命」について
もう一つは、「市辺の天皇命」。天皇命となっていますね。これも『古事記』『日本書紀』にない表現である。これは先ほどの「宇治天皇」とは違います。なぜかと言うと、履中天皇の皇子であって、その直前に書いてある意奚(オケ)・袁奚(ヲケ)つまり仁賢・顕宗、顕宗が弟で仁賢が兄さんですね、弟が先に天皇になりました。この二人のお父さん(市辺の忍歯王)ですね。雄略天皇にこのお父さんが殺されて、馬のかいば桶の中に埋められた。それで危険を感じて二人の子供は播磨の国に逃げた。それで宴の時に弟の袁奚、これが名のり出て再び天皇の位置に戻った。再び大和に戻って天皇になった、という有名な話がございます。
ところがこの時、その顕宗が兄さんに「雄略天皇は自分の父親の仇敵である。だから、あの天皇の陵を毀して来て下さい」と、こう依頼する。と兄さんは「わかりました」と言って、すぐ帰って来た。「えらい早いですね」と言うと、「陵墓の傍の土をちょっと掘りこぼって来ました」「そんなことじゃ困りますし「いやしかし、いやしくも天皇になった方です。それを私達兄弟の怨みで陵墓を毀したとしたら。われわれは気持ちがいいけれど、必ず国民はこれを非難し、その行為を正当でないと考えるでしょう。だからわれわれの気持ちを現わすものとして、そのようにして来ました」「ああそれなら、兄さんがそうおっしゃるのなら、結構です」と言ったという、有名な話があるわけです。
この意奚・袁奚二人の皇子のお父さんが「市辺の天皇命」ですね。「天皇命」という形で書かれているわけです。
これはですね、先の宇治天皇とは違って、実際は、このお父さんは天皇にはならなかったわけです。しかし、当然雄略のやり方ーーこれも、雄略が次々兄弟を殺して、次の天皇への候補者を殺して行くわけてすがーーこれがなかったら、当然、父は天皇になるべかりし人であったと。二人の子供はそう思っているわけです。
だからこれに対して、「天皇命」と。これは「命」がついているのが意味があるわけです。さっきの「宇治天皇」と違って、「市辺天皇命」と、こうなっている。
と言うことは、要するに追号のようなものであって、「天皇になるべかりし霊(みたま)」といいますか、亡父という意味の称号である。こういう言い方をするのは、意奚・袁奚、つまり二人の皇子、なかんずく、ストレートに感情を爆発させようとした、弟の顕宗なんかは、当然そういう「表現」をしたのではないかとこう言えるわけなんですね。『播磨風土記』にはその表現になっている。『古事記』『日本書紀』はもちろん、そんな表現はないわけなんですね。
こう見てまいりますと、「市辺天皇命」という表現は、決して偶然ではなくて、やはり『古事記』『日本書紀』より古い。要するに顕宗・仁賢時点の、追号といいますかその形が表現されている。
この点は、その意奚・袁奚二人が逃げ隠れていったのが、播磨の国である。播磨のどこかというのが、まだはっきり判明しておりませんけれども、播磨の国であるということと、『播磨風土記』に本来の追号が出ているということとは、恐らくどこかで関係があるだろうということを申したわけでございます。
こういう姿を見ていくと『播磨風土記』には、『古事記』『日本書紀』より、より原初的な、本来の歴史事実に近い、表記、表現が現われている。
以上、二つの例でわれわれは確認したわけです。“たまたまこの二つだけが古くて、あとは全部新しい”というようなことは、理屈では言えますけれど、恐らくそうではない。他のいわゆる『播磨風土記』の史料もですね、やはり『古事記』『日本書紀』より以上に、要するに本来の伝承、歴史事実に近いもの、それが語られているという、これはいわば『播磨風土記』の史料性格と判定する、リトマス試験紙に二回かかった、その二回とも、どうも『古事記」『日本書紀』より、より本来の伝承であるという性格をもっていた。そうなれば『播磨風土記』の史料は、一般に『古事記』『日本書紀』より、より古いのではないだろうかという、こういう暗示を与えられるわけでございます。 
万葉集との対応
次にもう一つ面白いテーマがございます。それは、例のその万葉の中に有名な歌があります。
香具山は畝傍を愛(を)しと耳梨と相争ひき神代よりかくにあるらし古もしかにあれこそうつせみも妻を争ふらしき
反歌として
香具山と耳梨山と闘(あ)ひし時立ちて見に来し印南(いなみ)国原
これは要するに、その香具山と、耳梨山が喧嘩をした。妻争いをやったと。この解釈はいくつかありますが、要するに相争ったと。その時に、播磨の印南国原が見物に来たという歌なんですね。
ところが、これと対応する話が、じつはやはり『播磨風土記』にあるわけです。出雲の神様(阿菩の大神)がですね、この仲裁にやって来て、それで播磨に、この平野の一画、上岡の里に来た時に、もうその大和三山の争いが止んだということを聞いて、「じゃ、もう行くのは止めた」と言って、舟をひっくり返してしまった。その舟が、この山になっているという、有名な説話があるわけです。
というようなことで、この説話においてもですね、万葉の歌と相対応する。この大和三山の妻争いという説話は、やはり『古事記」『日本書紀』には出ていないわけです。「神代」の話であるにもかかわらず、出ていない。
これに対しては、私はすでに分析を書いたことがございました。『古事記』『日本書紀』の神話伝承というのは、要するに、天皇家が、自分の統治の由来をなす神話を語ると。いわば、「自己コマーシャル」している。そのために、記載されたのが『古事記』『日本書紀』の神話であるわけです。決してそういう目的抜きに、一般的に、「神話・伝承の採集者」めいた、好奇心から神話を集めた、といったものではないんですね。目的がはっきりしているわけです。そのことは、言い替えると、自分の身元を明らかにするための神話以外の神話は、断固カットした。初めから載せるつもりは一切なかった、ということになるわけです。
具体的には今の歌なんかは、中大兄(天智天皇)の歌です。中大兄が、弟の天武と、一人の額田王を争ったんではないかと言われています。したがって「大和三山、妻争い」の話は、天智が知ってる神話ですから、天武も知っていたはず、天武が知っていれば持統も知っていたはず。元明、元正も知っていたはず、です。ところが、その天武から持統、元明、元正の間に作られた『古事記』『日本書紀』に、いっさいこの説話は姿を現わさない。これを見ましても、たとえ知っている神話でも、「掲載」しない。天皇家の身元を、その由緒を示す、九州伝来の神話だけを掲載する。こういう断固たる方針に基づいていることがよくわかるわけです。
そうすると、その『古事記』『日本書紀』に掲載されていない、大和からそして播磨、そして出雲に伝わっていた神話が、別にあった。『古事記』『日本書紀』の神話と、全く別個に存在した、ということを意味しているわけですね。それを『播磨風土記』は、ズバリ表現している、と、こういうことになるわけです。
私がかつてこれを書きました『古代は輝いていた』(朝日新聞社)。今(朝日文庫)に入っているんですが、その第二巻に書いていますが、そこで扱った時には、じつはこの万葉の歌がこの争いの始まりであった。そして出雲の阿菩の大神が播磨の国にやって来て、その争いが終わったことを知って、「もう止めた」と言ったと。というのは、「近畿大乱」という名前を仮りに使いましたが、「近畿大乱」の出だしと尻尾の終わりのところで、中間は残念ながら全部抜け去って、ないんだと。だからまあ、“大和風土記”なんていうのがあれば出て来ただろうが、残念ながら、ないと。こういう形で理解していたわけです。 
神々の出現
ところが、これは正しくなかったんですね。私は間違っていました。あるいは、認識の目が不足していたわけです。それも大不足していたわけです。なぜかと言いますと、この『播磨風土記』を見ますとですね、『播磨風土記』の一番大きな内容は、先のような天皇の名前が次々と出て来て、天皇の逸話が書いてあることもさることながらそのもう一つ、より大事な事は、つまり、神々の話がたくさん出て来ることが特徴である。
その中で、播磨の主神と見られる伊和大神ーーこれが二十四回、例の出雲の大国主命に当るといわれる大汝(オオナムチ)命が十二回。それで今度は、新羅から来たと言われる天日槍命ーーこれが十一回。それて三輪山の大物主と同じであるとされている葦原志挙乎命が九回、それで今度は、讃伎日子神が六回、これがいわばナンバーファイブなんですね。
この中で、この、大汝命は、現われる時は決して戦闘場面には現われない。必ず、巡行みたいな形で現われて歓迎されて去って行くわけです。これは子供の事代主神も出て来ますが、同じなんです。それで今度は、第五番目に出て来る讃伎日子神はですね。これはなぜか、播磨へ来ていたが、追い払われて、讃岐へ逃げ還ったという形で、出て来るわけです。これもやはりね、軽視は出来ないんですね。
なぜかと言うと、弥生時代の瀬戸内海を見ますと、讃岐が中心なんですね。金属器が一番たくさん出て来るのが讃岐なんですーー香川県です。ところが、古墳時代になると、中心は明らかに山陽道の方ですね。吉備、播磨の方に古墳時代の中心が移ってしまう。そういう、瀬戸内海の弥生は讃岐が中心だったが、古墳時代になって讃岐はその中心たる位置を失っていくと。こういう現象があるわけです。これはもう考古学的な事実から見ると、そう考えざるをえないわけです。
ところが、ここにですね、讃伎日子神が播磨に来て威張っていたが、結局移り変って、追っ払われて逃げ還った。こういう神話は、なんとなく今の考古学的な事実と対応する感じである。これも私は軽視できないな、と思っているんです。
さて、その後、伊和大神ーーこれが播磨の主神ーーと新羅からやって来た天日槍命、それに大和の主神である葦原志挙乎命ーーつまり大物主神てすね。この三者は、なんと組んずほぐれつの大乱を展開しているわけですね。それも、個人三人が相撲を取るわけではなくて、皆それぞれが軍勢を連れて、この播磨かいわいを所狭しと勝ったり負けたり、押したり引いたりですね、チャンチャンバラバラやり続けている姿が、『播磨風土記』の主な、大体の話なんです。地名説話みたいになっていますが、その中で一番多くを占めているのが、この類の話なんです。これはもう皆さん『播磨風土記』をお読みの方は百もご承知のことですね。 
近畿大乱
考えてみますとですね、これこそは、じつはあの「近畿大乱」ではないか。つまり大物主神というのは、大和の主神ですから。大和だけではない。おそらく大和と大和界隈、河内とか摂津とか、そういうようなところをですねーー和歌山県も入るかも知れませんがーーそういうところを含んでの主神です。それに対して、伊和大神。播磨にもたくさん神様がいます。もうありがたいことに、『播磨風土記』には、神々がたくさん書いてあるんです。これも『播磨風土記』の、他の“風土記”にない、断然たる長所てすがこのたくさんの神々の中の、いわは主神が、伊和大神のわけです。伊和大神の勢力範囲は、播磨全土、いや播磨より、もっと大きいかも知れませんね。
それに対して、天日槍命というのは、これは『古事記』『日本書紀』に伝える天日槍命とはえらい違う。『古事記』『日本書紀』に伝える天日槍命はですね、たった一人でというんですか、奥さんに逃げられて泣き泣き難波へ追っかけて来たと。しかし、どうも奥さんに相手にしてもらえた形跡はないですね。なにかしらだらしなく、日本列島に居ついたと。はじめ琵琶湖の方へ行って、後、丹波の方へ行って居ついた、と。こういう話ですね。
これはこれで、なかなかいい話でしょう。もっとも男としては、何だか情ない姿ですけれども、まあ哀れを誘う話なんですが、しかし『播磨風土記』の方の天日槍命は全然違う。大軍を率いて、所狭しと播磨かいわいを暴れまくっているわけです。そして大物主神と戦うんですから、近畿の大和にも攻め込んでいるんじゃないですかね。そういう形で描かれているわけです。
ところが、大体従来の人は『古事記』『日本書紀』絶対主義でしょう。戦前はもちろんです。戦後だって、われわれの頭はそのままで、あまり頭がクリーニングされていません。“『古事記』『日本書紀』の記事に合っていれば何となく信用するが、合わなければいかがわしい”とね。“これはにせものだろう”と見るくせがついている。あれがいかんわけです。考えてみて下さい。天皇の名前も、『古事記』『日本書紀』にはない天皇名が出てきている。しかもじつは『古事記」『日本書紀』の方の姿が、近畿天皇家の利害で書き直された姿である。これに対し、『播磨風土記』の方が本来の姿であるという、二つのリトマス試験紙で二つ共そういう姿を示したわけです。
ところが、天日槍命についても、明らかに両者矛盾してますよね。そしたらこれも『播磨風土記』の天日槍命の方が、本来の天日槍命なのではなかろうか。『古事記』『日本書紀』の方から、先に、われわれの頭のコンピューターに入っていた「天日槍命のイメージ」は、だいぶ“書きかえられた”ものではなかろうか。こう考えていくのが、本筋になるわけです。ところが従来『播磨風土記」のことを扱っている学者は、そういう形では扱っていないのではないですかね。これはやはり、歴史に対する見方が、まだ、戦後本当の正しい史料批判に立った物の見方になっていないと。生意気なことを言うんですが、私もかつては一緒だったんですが、そういうふうに思うわけです。 
朝鮮半島との交戦
この問題も、考えてみますと、面白い問題がたくさんございましてね。例えば、『三国史記』を見ると、ーー朝鮮半島の『日本書紀』といわれる『三国史記』ですねーーこれを見ると、倭人がしょっちゅう攻めて来てますよね。百回近く倭人の記事が出て来て、その八割方は倭人が攻めて来た記事です。まあ、お互いに使節を交換したという類の記事も若干はありますがね。それを除けば、八割〜九割くらいは、倭人が攻めて来た。“倭人・悪者侵入譚”ですよね。
ところが、なぜか、新羅の人が日本列島へ攻めて来たという話はゼロ。あれは、不思議だと思わない方が、不思議ですよね。お近くさんで、相手は南極から来るわけじゃない。こちらが攻めて行けば、向こうからも攻めて来るのは当り前じゃないですか、人間同士だから。
あれでは、よっぽど片方が攻撃精神ばっかりの島で、片方がよっぽど「攻撃しない」精神、「やられる」精神の人ばっかり住んでいるということになります。そんなことは私は信じませんがね。あれだけしょっちゅうやられていれば、では、今度はやっつけに行こうという事件があっても不思議はないと思うんですが、私の考え非常識でしょうかね。
ところがなぜか、「その話は出たが、止めた」という話以外、全くない。じゃあ、この、「全くない」ということが疑われなかったのはですね。『古事記」より、『日本書紀』ですが、『日本書紀』というのをみると、これも日本から朝鮮半島へ行ってばっかり、やっつけてばかりであって、勝った、勝ったというようなことが書いてあってですね、朝鮮半島から攻めて来られて負けました、という話は全然ないですね。だからなんか、私は言うんですが、ま、ちょっと「サディスト」が書いた歴史書と、「マゾヒスト」が書いた歴史書と、この二つがなんとなく一種の対応を示しているように見えているので、われわれは「満足」というか、日本人側も、朝鮮人側、韓国人側も、なんとなくそれを“疑わず”にきた。
しかし、人間が、片方はサディストばっかりの集団の島、片方はマゾヒストばっかりの集団の半島、なんてことは、私はありえるとは思わない。私の人間としての理性、感覚では信じられない。ということは、今の若い人じゃないけど、「ウッソー」と、こう言いたくなるんですね。
ところがここでは、まさに、天日槍命という新羅の王子がいるじゃないですか。これが大軍を率いて、少くとも播磨ですが、恐らくは播磨だけでストップして、“あとは止めます。大物主神と戦うにも、大和へ入るのは天皇家に遠慮します”なんて言うはずはないのです。恐らく近畿を土台にして、大争乱を捲き起している。とすると、これは『古事記』『日本書紀』にないからいんちきだ、という見方はやはりちょっとかたよっているのではないですかね。
それは今の「サディストとマゾヒストと両者ピッタリ」の図を頭のコンピューターに差し込まれて、小学校か中学校か高校ぐらいの時に差し込まれて、それに対する批判も疑いも持たずにきた、哀れなる人間コンピューターだから、この『播磨風土記』の方の天日槍命説話を疑う。この新羅側の「侵入大戦闘譚」を疑うわけです。人間としての理性から見れば、逆です。こっちから倭人が攻め込んでいるのは嘘じゃない、と思いますよ。『三国史記』はそんな嘘を書く本じゃない。カットはするけれど。カットはするけれど「嘘を作って書く」という性格は、私の見た範囲では『三国史記』には見当りません。
だからあれは本当だと思う。あれが本当とすれば、それとは逆の、二分の一か三分の一か知りませんけど、向うからこっちに攻め込んで来た話があっても、べつに不思議はないと思います。それを、『播磨風土記』は大量に書いている。それでしかもこれはあした大阪の方の会て出ますけれとも、いわゆる『二中歴』ーーこれは今日も恐らくおいで戴いている丸山晋司さんが、非常に鋭い論文を、今の『市民の古代』(11集)に書いて下さって、私としても非常に喜んでいるわけですが、そこで問題になっている『二中歴』ですね、ーーそれには、新羅の軍勢が日本列島へ侵入して来ていた、六世紀の後半。そして筑紫から播磨まで、この播磨まで焼き払った、と。こういう、短いけれど、ドキッとするような記事があるんですね。これも従来の日本の歴史では、全然そういうことを知らん顔をしてきたんてすが、実際はーー平安時代に成立したと私は思うんてすが、ーーその『二中歴』に書かれているんですね。少くともその基になった本が平安時代であったことはまず間違いない。奈良かも知れませんが少くとも平安とみて間違いないんですが、その『二中歴』にそういう記事が出ています。
というようなことでね、これも『播磨風土記』を、もう一回はじめから軽視しないで『古事記』『日本書紀』で塗り固められた頭で読まないで、あらためて本気で読まなきゃいけない。こういうふうに私は思っているわけでございます。 
播磨神話の構造
神話問題をまとめますと、播磨神話の構造として、まず第一層は、土地の神々、大体一回か二回出て来る神さんが圧倒的に多いんですが、土地の神々がたくさん名前が出ている、このことが、何よりも『播磨風土記』の魅力です。他の「風土記」では、そんな神様の名前が出て来ません。『出雲風土記』は、わりと出て来ますが、あれはそれなりの体系で出て来ます。出雲と相伯仲するといいますが、また出雲のように整理されていない、たくさんの神々があって、今後の研究者を待っています。恐らく現地の現在の神社とか、そういう播磨の国の伝承と対応させて、本気で研究すべきものです。私みたいに播磨に今住んていない人間にはーーかつては神戸に住んておりましたが、また私の妻は姫路の生れですがーー今は住んでいない人間としてですね、ぜひ皆さんに、土地の神々との対応の研究をお願いしたい。それはたんなる民俗学の研究ではなくて、日本の重要な、新しい歴史の基礎的な研究になるだろうと思います。
第二番目が出雲の時代、出雲の大汝命が支配した、いわば「出雲のもとの平和」といいますか、そういう時代。だから『播磨風土記』に、大汝命と事代主神が現われる時は、いつも戦争はないわけです。これもやはり、リアルな姿であると思います。そしてその、第三番目が統一戦争の時代、こういうように読んだのですが、大物主神と天日槍命と伊和大神が、組んずほぐれつ大戦闘を行う時代が、この『播磨風土記』の一番主たるテーマになっている。それが従来の日本古代史には全然すっぽり抜け落ちているわけです。これを「歴史事実」とすることを忘れている。
その理由は唯一つ。『古事記』『日本書紀』にないから。それだけの、頑固なーーというと悪いんてすが、まあ私の言いたいことを理解していただくために、いささかオーバーな表現を許していたたけれはーーたんにそれだけの、イデオロギー的な理由によって、無視し軽蔑してきたわけです。 
『常陸風土記』の新しい視点
さて、この問題について、私が新しく発見したテーマに移らせていただきます。というのは、先ほど、天皇の名前をあげました表の中で、神功皇后が九回、と書かれておりますね、ところが、そこに私は「?」をしている。それは、私が「?」に気がついたのではなくて、ある方がーーこれは平田英子さんという主婦の方なんてすが、群馬県の太田市在住の熱心な方です。私が新宿の朝日カルチャー、あるいは立川の朝日カルチャー、いつもおいでになるんですね、その方は月二回来られますが、片道三時間半かかるんですね。だから帰りも三時間半かかるんですが、それで、カルチャー二時間、いつも出て来られる方なんてすがね。ーーこの方がある時、私にこういう質問をされたんてす。ーー先ほどの表をプリントて使った時にね。そのあとで私のところへ聞きに来られて、「あのう、大帯日賣命というのは、あれは本当に神功皇后と考えていいんでしょうか」。もちろん瞬間私は“へえ?”“あっ?”と思った。私は同じだと思ってました。だからその時渡した表には「?」はなかったのです。
ところが、なぜ、そういう疑問を持たれたかというと、例の『常陸風土記』を私がやった時にですね、あそこに「倭武天皇」というのが出てくる。と、あれはもういわゆる岩波の『日本古典文学大系』その他、すべて私以外のすべての人が「ヤマトタケルノミコト」のことだ、と注釈しているわけです。みんなそろってそういう扱いをしているわけです。ところがこれは、おかしいのではないか。なぜかというと、『古事記』『日本書紀』が示すところの「ヤマトタケル」、特にリアルなのは『古事記』の方だと私は思うんです。『日本書紀』の方に東北あたりまで出向いている日本武尊というのは、他の人の業績を日本武尊の名前ととり替えて書いたもの。ちょうど九州で、筑紫の王者「前つ君」の九州統一譚を、景行天皇の名前にとり替えて挿入しているのと、同じ手口がそこに現われているのではないか、とこう考えましたので、『古事記』に現われている倭建命が本来の伝承であろうと、私はそう判断したわけです。
ところが、それとくらべてみますと、今の『常陸風土記』の倭武天皇は、なぜか常陸の国を、あちこちと万遍なく回っているわけです。それだけではなくて、あの奥さんの「大橘比売命」ですね、彼女がやって来て一緒にくっついて回っているわけです。舟遊びなんかするわけです。今で言うとボートに乗って遊ぶ、というような、そういう光景が出てくるわけです。ところが、これをその注釈では、「弟橘比売命」のことだ、と書いてあるんです。「弟橘比売命」はご存知のように東京湾で海に飛び込んて死んだという。ーーここではそう言っても皆さん、文句は言われないでしょうが、東京の講演会でこういうことを言いますとね、「先生、それは違います。東京湾じゃない。あれは今の相模水道のところで東京湾じゃありません」。違うんですね、首根っこのところだから。あそこは東京湾と言ってはいけない。東京の人は、あの辺には精密ですから、きびしいんてす。ーーまあ、なんせ、あそこで飛び込んで死んだんですね。これは『古事記』『日本書紀』ともにあそこで死んでいるわけです。なのに、死なずに、常陸の中を舟遊びしたりして、遊び回っていたら、困るんですよ。
だから、結局結論として、これはヤマトタケルのことではない、と、私は判断をせざるをえなかった。本人の行動も然り、奥さんも然り。それで他に、弟橘比売命以外にそれに当たるような奥さんがヤマトタケルにいるか。もちろん、ヤマトタケルの奥さんの名は、『古事記』『日本書紀』に、たくさん出てきますが、ないわけですね。と、これがヤマトタケルの話ではない、とすると何か。私は非常に苦しい思いをしながら、長い間かかって、半歩づつ、三分の一歩ぐらいずつ前進したんですけれど、結論として、これは筑紫の倭王武ーー「倭の五王」というのは、九州王朝の主であるという、これはもう、『失われた九州王朝』で成立している論証ですね、私にとっては、その最後の「倭王武」ーーこれが「倭武天皇」であるという、私自身に思いがけない結論へと引っぱられて行ったのです。その間に、「倭」という字には二つの意味がある。本来は、「倭」はチクシを呼ぶべき字である。現地音はチクシ、われわれが言うのはツクシですね。それに対して、“ヤマト”とこれを呼びだしたのはぐんと新しいとね。七世紀の半ばです。天智天皇の最後の年(六七一)ですね。それから後、万葉集でも「倭」を「ヤマト」と読むことが始まると。これはべつに私の発見ではなくて、今日も来ていただいている中村幸雄(「万葉集『ヤマト』考」『市民の古代』8集等中村幸雄論集の電子書籍に収録)さんが発見されたテーマに、私も導かれたわけでございます。
そういうことを私が申しましたので、平田さんはそれをお聞きいただいて、『播磨風土記』の場合も、九回神功皇后が出てくるというのは、従来のすべての人の注釈者、学者の考え方によっています。ところが、じつは、その中で《息長帯日女命》あるいは、仲哀天皇の奥さん、という形で出てくるのもある。これはもう疑いもなく神功皇后。ところがその中で、そうでない名前の《大帯日賣命》という名前が、三回〜四回出てくるんですね。で、この《大帯日賣命》も、神功皇后だと、まあ今までの注釈では全部、そう扱っています。私もそう思って「計算」していたのです。「本当にそうですか」と、こう聞かれるとドキッとした。「そうですね、これは確かに考えてみる必要がありますね」と言って受け答えしたんですが、調べてみるとどうもやっぱりそうじゃない、平田さんの指摘通りだった、という結論になっていかざるをえなかったんです。というのはですね、今回整理してみて、もう当り前すぎまして、こんなことをなぜ今まで気がつかなかったんだろうと、こう思ってきたわけなんですが、それはいわゆる先々週この資料を作る時にですね、じつに愚鈍ながらやっと気がついた話があるわけです。
と言うのはですね、この1・2は、文句なしに神功皇后のケースなんです。1は仲哀天皇の皇后、という形で書いてある。2はそのあとですね。〈息長帯日女命〉と書いてある。だからこれは問題ない。問題は4ですね。それは
言擧阜(ことあげをか)右、言擧阜と称(い)ふ所以は、大帯日賣命(おおたらしひめのみこと)韓國(からくに)より還り上りましし時、軍を行(や)りたまふ日此の阜に御して、軍中(いくさびと)に教令(のりごと)しまたまひ
和語ばかりで読んでいるとめんどうくさいですから、音で読みますが、
軍中に教令したまひしく、「此の御軍(みいくさ)は、慇懃(ゆめ)言擧げな為(せ)そ」とのりたまひき。故(かれ)、號(なづ)けて言擧前(ことあげさき)といふ。
こういうふうになってますね。ところがですね、この“韓國より還り上りましし時”というのは、その右側に原文がありますね、漢文の。そこに同じように「大帯日賣命韓國還上之時」と漢文で書いてある。と、ああ、原文がこうなのかと、皆さんも思われるでしょう。私もそう思って読んできた。
ところが、そこに下に1と書いてあるでしょう。番号が打ってあるでしょう。その下の1、どう書いてあるかと言うと、「韓國還上」というこの4字ですね、これは原文にはない。古写本にはないんだと。ところが、文意から私が(「私が」というのは“岩波の『日本古典文学大系』の校注者ーー学者秋本吉郎氏。)が補った。だから原文を書き直した。それを読み下した、とこう書いてある。こんなの“あり”ですか。皆さんも恐らく播磨の方々でも、始めてじゃないですか、これに気づかれたのは、ね。これ、読み下しの通りだと思ってこられたのではないですか、大体。これ全然こんなのは原文、古写本にない文面なんです。それを現代の二十世紀の学者ですね、「文意から恐らくこういう意味だろう」というので、四字をーーたいへんな四字てすよね、韓國から還って来たということはです。ーーその四字を補っておいて、しかも原文に補っておいて自分で読み下した、こういうものを皆さんは今まで“読まされて”きた。私も、読まされて、気がつかずにきてたんですから、まあ、あんまり人のことは言えません。私、自分が一番“目のない”人間なんですね。
もちろん、〈大帯日賣命》は別のところで「韓國へ行った」という話はあるんですよ。だから、韓国に行ったこと自身は嘘ではないんですがね。しかしこの文章には「韓國云々」はないんですよ、はっきりと。それをこの文章にもやはり韓国を入れて解釈しよう、というんで学者が作った文章、正に「改竄」もいいとこなんです。で、そうすると、こういうのは私の方法論ではーー誰の方法論だってーー当然のことだと思うのてすがこういうのを補うのは、これはやりすぎだと。いかに学者という肩書を持っていたって、こんなことをやれる資格をもつ人はない、とこう思うんです。そうすると当然《大帯日賣命》の時、とこうなりますよね。「大帯日賣命之時」、やっぱりこの学者は、これが、面白くなかったはずだと思うんです。
なんでかと言うと「《大帯日賣命》が生きていた時」という意味に解釈すれば、何でもないようですが、しかしこの表現はですね、やはり「何々の時」という上にくる「何々」が、その地方の「第一主権者」である時に一番ふさわしい表現だと思いませんか。「昭和天皇の時」とかね。これは昭和天皇がいわば「第一主権者」だからそれはいいですよね(とくに戦前までは)。しかし、「秩父宮の時」とか「常陸宮の時」とかいうのはね、そういう使い方をしている人もいるかも知れませんけど、あんまりこれは普通の言い方ではない。常陸宮の家だけの、何かその家系図かなんかの時ならね、これはいいかも知れませんよ。しかし日本全体の歴史を言っている時に、「常陸宮の時」といった言い方は、妥当ではないですよ。やっぱり「何々の時」というのは、「この方が第一主権であられた時」という時の慣用文型であることは、皆さん、別に私がいろいろ言わなくてもおわかりでしょう。それはやはり、この編者には面白くなかったんですね。神功皇后は“奥さん”だから第一主権者ではないですよ。まして韓国へ行く前ははっきり言って「第二婦人」ですからね、あれは。第一婦人の后(大中津比売命)はちゃんと都ーー今の滋賀県だと思いますが、そこに残っている。第一婦人とその息子たちはね。そして第二婦人はまたお腹に子供がてきる前、ーーもっとも播磨の国で懐妊したか、どうか知りませんけれどもーーまたこれから生まれるんですからね。本当の若き女性、まあ今風に言えば「お妾さん」の位だったんですよ。ただ子供が応神天皇になったから、異様に神功皇后を応神天皇の時、クローズアップされたのです。さっきのケースと反対ですね。「宇治天皇」が仁徳天皇に消されてしまったみたいに、今度は応神天皇は自分のお母さんが「第二婦人」だったから、であるからこそじつは、格別な霊力を持たれた女性であった、というPRを一生懸命盛り込もうとしているわけです。で第一婦人の二人の子供は殺されますよね。猪に食われたり(香坂王)、戦争で負けたり(忍熊王)して死にます。
要するに「神功皇后の時」という表現は妥当ではない。だからそこに別のことばを入れて、「韓國より還り上りましし時」とやれば文句ないだろうというので、見事に直してしまった。かつて私は、邪馬壹国を邪馬臺国に直したのを、こんなことをやっていいんだろうかと思ったんですが、「よかった」んですね。何処でもこういうことをやっていたんですよ。別に「邪馬壹国だけ直した」のではありませんよ。「こんなことは、他にもありふれている、せせこましく吟味しなさんな」と恐らく“見えない”けれど、私の論文(「邪馬壹国」)を読んだとき、そう思っていた学者も多かったのではないですかね、きっと。
しかもまた、私は驚いたんですよ。「何か知らん『・・・之時』という表現は、あったなあ」と思いましてね、「ああ、あった、あった、『出雲風土記』にあった」と思って『出雲風土記』をめくったんです。そうしてみましたら左端の「・・・之時・・・」という例として、「古志の郷、即ち郡家に属けり。伊弉奈彌命・・・」ですね。「・・・日淵川を以ちて池を築造りき。その時、古志の國人等、到来たりて堤を為りき。即ち、宿り居し所なり。故、古志といふ。・・・」とこうあります。
私は『出雲風土記』の研究を論文にしまして、これは『よみがえる卑弥呼』という題で、駸々堂から出ております。論文集がね。この中に『出雲風土記』を分析した論文が二つ三つ出てますが、その中でこれを扱って、これは『古事記』『日本書紀』の「伊邪那美神」などとは少し違って、むしろ「伊弉奈彌命」が主神であると。単独の主神であるという感じで書かれていると。だから、出雲では、伊弉奈彌命は単独の主神だった、と。だから“伊弉奈彌命の時代”という表現がされていたんだろう、と。その点『古事記』『日本書紀』では、もう必ず、伊邪那岐神・伊邪那美神、といった男女のセットで出て来る。その上、彼女が先に「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」を発言したから、不具(ヒルコ)が生れたんだ、という形でね、まあ、“卑しめられる”というとおかしいんですが、「男に頭を下げろ」という形で出てくるんですね。
ところが、『出雲風土記』では、「伊弉奈彌命之時」という形で、中心の単独の神格という形で扱われている、ということを指摘したところがあるんですが、皆さんお読みになってご存知の方も、覚えておられる方もあると思いますが、これが大嘘だったんですね。というのは、漢文のところではね、やはり十二番とあるーーこの「風土記」に番号がついていると恐いんですよ、まあ、書いてあるだけいいんてすけれどもーーこれも岩波の『日本古典文学大系』で確認していただくと結構ですがね。要するに、原文には「伊弉奈彌命」の「奈」は、ないと書いてある。それを意味によって補った。また、補ってあった。つまり原文は、“伊弉彌命之時”という原文です。これを“伊弉奈彌”と“伊弉彌”とは、一字違いだけだから、“伊葬奈彌”にしとけというわけで、「奈」を補って“伊葬奈彌命”とした。原文もそう直してそれを読み下した。こんなことを後代の学者がやっては困るんですよね。結局これは“伊弉奈彌命”女性か男性かわからないけれど「彌」がお尻についているから女性かも知れませんがとにかく“伊弉彌命(イサミノミコト)”というのが「第一主権者」としていたと、出雲に。「その時代に」という話なんです。だから出雲の神さんが一柱ふえた。それも大事な神です。「・・・之時」というんですから、枝葉末節の神様ではないですよね。それが増えてしまった。 
『播磨風土記」の女性神
そう言えば、『出雲風土記』でも阿菩大神というのは、今の『出雲風土記』や『古事記』『日本書紀』には出て来ないですね。それでおかしいなあと思ったけれど、おかしくはないんですよ。これが当り前なんです。『出雲風土記』も立派な「風土記」であるけれども、『古事記』『日本書紀』もある意味で出雲を非常に重要視しているけれども、しかしそこに現われた神々が出雲の神々のすべてではないんです。それはむしろ全体の中のどのくらいのパーセンテージか知りませんが、要するに一部なんです。
『古事記』『日本書紀』や『出雲風土記』に出ている出雲の神様はね。実際に存在した、存在する出雲の神の一部分が記録に残っているだけなんです。記録に残っていない神様、しかも重要な神様が当然いたわけです。なぜかというと「風土記」というのは、ーー『古事記」『日本書紀』はさっき言ったように、イデオロギー的に、いかにして天照の方に第一主権が移ったかと。今まで「家来」だった天照がこれから「主人公」になりましたよ、ということを言うために出雲を“使って”いるだけなんですから。だから、その範囲でしか出雲の神さんのことを扱ってない。これはもう当然だといえば当然ですね。
それに対して今度は『出雲風土記』では、やっぱり『播磨風土記』と同じように、地名説話の神さんです。だから、ずーと一貫したその「一代通史」じゃないわけです。だから地名説話に関連して、要するに「出て来た」のが、出て来ているだけなのです。「あれに出て来ない神様はいなかった」ということじゃないわけですね。だから今の「阿菩大神」というのは、恐らくやはり、あれだけ近畿大乱の仲裁に呼ばれるぐらいですから、重要な神さんだったと思うんですがね。同じく“伊弉彌命”という神さんがまずいてですね、「第一主義者」であった、中心であった時代があったと、こういうことですね。
要するに、今までのそれら原文の“都合の悪い”ところは、どんどん学者が書き直してわれわれに提供している。われわれはまた、そういう、何々大学の教授であるとか、岩波の出版物であるとか、そういう名前に“騙され”てーー岩波の関係の人がいたらごめんなさいね。“騙された”方が悪いんですがーー“騙され”て、そうしてそれを信用させられて来た。そのためにやはり、本当に正しい歴史の見方が出来なくなっていた。“伊弉彌命”の場合も恐らく今後、まだまだ種々の連鎖反応を起こすと思いますが、もっと『出雲風土記』をしっかり見ればね、しかし今の問題は『播磨風土記』。これはもうはっきり《大帯日賣命》は、神功皇后じゃないですよ。播磨における、やはり「主神」格の、これは明らかに女性ですね。日賣命ですから。女性が「主神」格の人としていた。
考えてみたらね、なあんだ、と思いましたよ。だってね、神功皇后は息長帯日女命でしたね、名前が。ご存知のように、息長氏というのは氏族名で滋賀県にね、息長氏というのがあった。その古墳があって、これは神功皇后の古墳だなどといっている神社がありますよね。その息長氏の「帯(タラシ)」というのは、尊称といってもいいでしょう。意味とすれば、恐らくその一帯を統治したもうているという意味かも知れませんが、なにせ非常に尊い、一部分の人にしか、もちろんもらえない名前、尊称であるというのは確かだと思うんです。ということは、息長氏で「帯」といえばこの比売だと、こういう意味の名前です。
ところが《大帯日賣命》、『帯』という名は、何々氏、何々氏にそれぞれいるでしょう。しかしそんな、ただの『帯』じゃないんです。私は『大帯』であります。」と、こう言っているわけです。だからやはり、帯日賣とは格が違うんですね、これは。神功の方の格は「第二婦人」てすから。ーーもちろん、「第二婦人」だといって、私が別に軽蔑したり、軽視したりする必要は、毛頭ないんですが、当時のいわゆる位取りは「第二婦人」ですから。美人だったかも知れませんね。そういう「お妾さん」みたいな人になるんですから。しかし位取りは「第二婦人」です。滋賀県出身です。滋賀県に景行天皇のとき、都が移って来たんですから。その王朝の中で第二婦人にさせられたという、息長氏にしてみれば「名誉ある女性」でしょうけれど、全体から見れば決して抜群ではないわけです。
ところが、こちらの播磨の場合は、《大帯日賣命》。やはり播磨かいわいを統一し、統括する「大帯」という尊号をもった日賣命なんです。だから「位取り」が違うんですよ。考えてみれば、もう決まりきったことだったんです。だから、私も、平田さんに指摘されても、「その可能性はありますね」なんて、いかにも学者ぶった返答してごまかしたのも、おかしいんですね。もうはっきりこれは別の神である。そうするとズバリ言い換えれば、『播磨風土記』にとって重要な、ーーそれは重要ですよ。《大帯日責命》ですから。ーー先に言った一回、二回出てくるだけの神さんも重要ですが、しかし、それ以上にもう一つレベルの高い中心的な人物、これは重要なわけです。
この重要な人物が消し去られていた。『播磨風土記』から消し去られ、本来の姿を消し去られ、結局、日本の古代から消し去られて来た。これはなぜかというと、わからなくはない。というのは、この《大帯日賣命》が、ここの今申した所はでっちあげですが、別にやはり韓国へ軍勢を率いて行った“話が出てくるんです。だから従来は「女で韓国へ行った。もう神功皇后に決まっている」と。従来のデータに基づくコンピューターだったら、そう答えを出すんですね。そういう条件を与えて反応するという、コンピューター程度の(人間はコンピューターの生みの親ですから、コンピューターより人間の方が偉いはずなんですが)反応をすると、《大帯日賣命》は神功皇后になってくる。しかしさっき言いましたように『古事記』『日本書紀』というのは、あくまで近畿天皇家の側からの、自分のための歴史叙述ですからね。それが本当である点、また嘘である点もあるかも知れないが要するに基本的には、そうであることには変わりはない。だから、客観的な日本列島全体の歴史ではない。いわんや『古事記』『日本書紀』にないものは皆贋物だ、『古事記』『日本書紀』に見える神や人にひっつけて解釈してよろしい、というものではないんです。当り前ですね。
そうすると今はもう、言ってもいい、と思うんですが、九州王朝は朝鮮半島との戦いをーー新羅・高句麗と激突したのは九州王朝である、という、私が『失われた九州王朝』以来立証して来たテーマがございますね。そうすると、ーーそれは別に筑紫の勢力だけて戦ったわけてはなくて、それに対してやはり、山口県から播磨あたりまで協力していたとなりますと、当然播磨の女性の王者が、軍を率いて朝鮮半島へ行っていて不思議はない。もう別に、これも、「筑紫に協力していた」なんて決める必要はないかも知れません。独自に、朝鮮半島との戦いをした可能性もあるわけです。
なぜかと言うと、播磨の場合は、さっき言った「神代」らしき時代(弥生期か)に、天日槍命は新羅から播磨へやって来て引っかき回しているわけですからね。そうすれば「サディズム対マソヒズム」でない以上は、こっちからもやはり復讐に朝鮮半島に乗り込む、ということもありえて不思議はないわけです。そこのところは、どれ、と決める必要はないわけです。とにかくこれは今後の問題ですから・・・。《大帯日賣命》という重要な女性神がいて、女性の統治者がいて、朝鮮半島への出兵を行ったと。また無事に還って来たらしいということが『播磨風土記』に伝承されている。ところがこれは、従来の日本古代史からは一切カットされて追い出されて、場を与えられていなかった、ということでございます。以上が先々週確認出来て、「ああ、そうだったか」と。やはり平田さんのご質問通りだったと。私が今まで書いてきたのは大嘘を書いていたのだ、ということを感じたところでございます。さて、以上で『播磨風土記』の問題は一応終わらせていただきたいと思います。 
 
「人」話の誕生

 

射日神話
次は、「播磨」ということではなくて、もっと地球的にスケールの大きな話になってまいります。これは私にとっては今後のライフワークにしたいと、こう思っているテーマを、皆さまにお聞きいただきたいわけでございます。
この問題に気がつきはじめましたのは、五年近い前で、大阪の民族学博物館で民俗学シンポジウムが行われました。私がその傍聴をさせてもらったわけですね。今の館長梅棹忠夫さん、副館長の佐々木高明さんにお願いして傍聴させていただきました。そこで出たテーマの一つが、射日神話でした。
これは、荻原真子(おぎはらしんこ)さん、この方は、東京国際大学の助教授をしておられる女性の方ですけれども、ロシア語が堪能であって、ソ連の沿海州、そこのオロチ族、オロチョン族、そういうような原住民に伝わっている説話を、ソ連の学者がロシア語で採集したのを訳して報告をなさったんですね。いわゆる沿海州における射日神話の問題の報告でした。
射日神話というのはご存知の方も多いかと思うんですが、多くは、空に二つ、三つの太陽が出ていたということから話が始まるわけです。そこで暑くてしょうがなかった。それはそうでしょうね、太陽が三つもあったら暑いでしょね。それで困っていたら、神様が出て来て弓矢で太陽を落として下さった。まだ暑い。もう一つ落して下さった。最後は一つになる。必ず最後は一つ。零にはなりません。零になったら困るんですね。最後は一つになってこんな住みよい世の中になった。めでたし、めでたし、という形で終わるのが射日神話でございます。
ところがですね。その学会の席上で論争といいますか、意見の対立があったわけてす。吉田敦彦さんーー有名な民俗学者、神話学者てすがーーこの方なんかは、中国の雲南省にやはり射日神話がある。神様が出て来て弓矢で太陽を落す。これが非常に古いんだ。その理由は、ここでは神話の壮大な体系が出来ていて、その始まりになっている。これに対して、沿海州の場合は大変素朴、あるいは断片的である。それは恐らく、「断片」がそちらに伝播したものであろうと、こういうお考えのようであります。ところが真子さんの方は逆でして、沿海州の素朴な話の方が元で、後、雲南省あたりへいってそれが大きな体系になったんだろうと。もっとも、真子さんのお考えでは、沿海州の人達は、元山東半島付近にいたのが、漢民族に追われて沿海州へ移ったんだろうという話が入るんですが、ともかく、沿海州の説話の方が古いだろう、こういうようなお考えなのですね。
私は京都の家へ帰ってーーその時すでに東京の学校(昭和薬科大学)に行っていましたけれどーー京都の家へ帰って考えたんですが、どうも今日の話に関して意見の対立があるようだけれども、また非常に共通な点もある。対立した人達の間に何が共通しているかというと、射日神話というのは地球上のどこかで、「オギャー」と誕生した。一カ所で。それが他のところへどんどん伝播していった。地球の上を伝播して移っていったと、こう考える。こういう考え方においては全員一致。日本だけじゃなくて、その時は国際的な学者がたくさん来ておりましたが、皆、異論はないようでありまして、問題は、本家は何処だ、最初の誕生地は何処か、という点についての対立というか、片方は雲南省、片方は沿海州ということであったように、私の耳には聞こえたわけです。
これはーー私は、今非常に短絡したような表現をさせていただきますが、ーー農耕社会の考え方ではなかろうかと。そう考えたのです。いきなり「農耕社会」という言葉が出てきたので、皆さん怪訝に思われるかも知れませんが、その理由は次のようです。
つまり農耕社会では、太陽の神様というのは大変高い位置にある。一番いい典型が天照大神で主神である。たとえ主神にならなくても、かなりいい、代表的な位置をしめる神様であることには間違いはない。その太陽のおかげで農業がうまくいくということですから、その太陽の神の御神徳を宣伝するのが常である。だから、私なんか子供の時分から、そういう太陽を射落すなんていうことは思ったこともないし、天照大神を射殺してやろうなんて思ったこともない。やはり「天照大神のおかげで」という教育で育っているんですね。つまりなぜそんなことを言うのかというと、そういう頭の中にいる人は皆、世界中の学者は全部そうだと思うんです。農耕社会以後の社会に住んていますからね。だからーー太陽を射落すなんていう突拍子もない、バカか天才かというような、余ほどの風底りな者でないとそんなことは思いもつかない。これはもう論ずるまでもなく当り前のことだと思うわけです。だから誰か、“バカか天才”がいて、そういうことを考えついた。その後、面白い、面白いと、まねして「伝播」していった。こう考えまして、では、その本家は何処だろうという、「本家さがし」が学界の仕事になっている、というふうに、わたしという第三者の目にはみえました。
ところが私、考えたんですが、「農耕社会」が始まる前は、「狩猟社会」という時代であった。これは皆さんもご存知の通りですね。この時代は弓矢で鳥や獣を落すということは、人間の重要な生産手段であった。まあどんぐりや木の実を拾うという能力も大事だったんでしょうけれども。男は朝、弓矢を担いで外に出る。それで夕方までに鳥や獣をなるべくたくさん持って帰って妻や子に食べさせる。妻や子だけでなくて、種族全体か知りませんけど食べさせる。それでうろついている時、昔ですから銃もないし、たいした建物もないし自動車も走ってないし空には太陽が輝いている。標的みたいな丸い顔してますよね、太陽は。だから、あれを射落せるだけの能力があればどんなにいいだろう。つまりそういう時代には、人間最大の能力は、最も遠くへ、最もコントロールよく弓矢を射る能力というのが、人間の最大の能力だった、と思うんです。それが出来る人間が英雄なんです。「あの太陽が射落せたら、どんなにいいだろう」と思わなかった男は一人もいなかっただろうと思うんです。女でもいいですよ。しかし同時に「ああ、それはとても無理だ」という絶望をも、皆味わったであろう。
ということは、つまり「狩猟社会」の時間帯では、太陽を射落すというアイデアは、大変平凡なアイデア、誰れでも一回は思ったことがあるようなアイデアだったんではないだろうか。ということは、何かというと、さっき言ったように、“こんな突拍子もない話を思いつくのは、バカか天才か誰か一人に決っている。あとは模倣だ”ということを自明であると考えられて、そういうことは議論にさえなっていないような、共通の土俵なのです。しかしこういうアイデアは、多元的に地球上に生れて然るべきではないか。つまり、「ご本家探し」自身意味がないのではないか、というふうに私は考えたのです。 
蜃気楼と太陽
もう一つ、その時思い出しました話があるんです。それはかつて、古代史のツアーの講師をたのまれて、北陸の白山(ハクサン)へ行ったことがある。白山比[口羊](シラヤマヒメ)神社、これは縄文時代にさかのぼる信仰と思われる白山比[口羊]という神さんがいますが、この白山へ行った。夜旅館へ泊った時に、ある方、その当時五十歳近くの方だったと思いますが、話されたのに「自分はかつて少年時代に、白山に登りました。十四、五の時、十七、八の兄さんといっしょに二人で登りました。ところが山で道に迷って山上近くの洞窟で一夜を明しました。朝目が覚めてみると、洞窟の外に太陽が二つ出ていました。本当に二つ見えたんですよ。」とこう言われるんです。私はその顔を見て「ああこの人は本当に二つ見たんだろうな。」と思ったんです。真面目な顔をして言っておられましたから。
[口羊]は、口編に羊、JIS第三水準、ユニコード番号54A9
その話を想い起しますと、これは恐らく「唇気楼」を見られたのではないか。もしこの方が、二人の少年が、素早く洞窟の外に出て然るべき位置に立てば、もう一つ、太陽が見えたのではないか。本当の太陽をね。つまり本当の太陽があって、宇宙のプリズム、光の屈折率で二つにーー蛋気楼というのは両側に二つに分れる場合が多いてすからーー出ている、その二つを洞窟から見たのてはないか。だから本物の見える位置に立てば、合わせて三つ見えたのではないか、と私は思ったんです。この点は後で東京へ帰って荻原真子さんに詳しい資料を送っていただきますと、はたしてそうだった。というのは、ある沿海州の話の最後は、「だから今でも霧の深い日には太陽が三つ見えるのです。」という結びになっている話がありまして、ああやはり、沿海州は富山のお向いさんですからね。霧が深そうですから、やはり太陽が今でも三つ見える時があるのだなあ、とわかったわけです。 
幻の太陽
ついでながら私が、また想い出した一つの話がありました。それは少年時代のの終わり、十代の終わり頃ですが夢中になったのに、シューベルトの「冬の旅」という歌曲、リードがありました。ドイツリードですね。その終わりから二番目に“幻の太陽”という曲がありました。あれは全編失恋の青年の歌なんですが、終わりに近いところで、「天空に三つの太陽が輝いている。ああ私の運命はもう終わりだ。さあ、私の生涯もすでに破滅に向かっている。そこへ行こう」というような、絶望的な、デスペレートな歌なんです。ところが、私にはよくわからなかった。三つの太陽が空に浮んでいるというが、この人は精神錯乱に陥ったのではないか。しかもそれが出てきたら、なんで自分の恋が駄目になるのか。全然理屈が合わないではないかと思って、旧制高校(広島)ではドイツ語の文乙でしたから、(その時は大学に入っていましたが)ドイツ語の原文を見たけれども、やはりそう書いてある。書いてあるのは間違いないが、意味がわからない。「わからない」というので、四十年余り、頭の中に「?」が残っていたんですね。それを想い出しまして、やはりヨーロッパでも太陽が三つ、実際に出るのではないか、と思いました。
この点、幸いにも、確められました。難波さんという京大の宇宙物理を出られた、いわゆる「流出頭脳」ですが私と同年の方です。ドイツの大学やオランダの大学で宇宙物理学の講義をしておられる。天文台におられます。そういう優秀な学者がいらっしゃるんですが、その方がなぜか私のファンです。たまたま弟さんから送ってもらった私の本にとりつかれて、非常に熱心に読んでいただいています。今でも、忘れないのは『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』あたりだったと思うんですが、質問を書いて下さった。それが自然科学の人が使う大きなレポート用紙にびっしりと三十カ条ぐらい番号をつけてズラリと質問が並んでいるんですよ。こっちはそれに答えるのに一カ月ぐらい、朝から晩までかかって一生懸命、学生が答案を書くみたいに書いたことを覚えています。正確に言うと二十日ぐらいかかりましてね。朝から晩までかかってすごい質問に答えた覚えがあります。この方がたまたま日本へ帰って来られて、岡山と京都にお父さんお母さんがいらっしゃるのでお元気なうちに会っておきたい、ということで帰って来られて、それで私に連絡されましたので、直ちに私が神田のホテルに訪ねてお会いしました。その時に、私はそのことに夢中になっていたので早速お話ししたら、難波さんいわく「ああ、私も三つの太陽を見ましたよ」、ご自分の自宅からオランダの天文台へ行く霧の深い朝、太陽が三つ出ていた。急いで学校に行ってオランダ人の助手の方に「今太陽が三つ出ている。早く写真をとってきて下さい」と。急いでその青年が行ったらまだ出ていて、首尾よくカメラに収められたそうです。これはもう、物理学の方でいえば理論的には何も不思議な話ではないわけです。しかし理論的に不思議はないけれど実際に見るのは、そうないわけですから、急いでカメラに収められたという話なんです。だからやはり、オランダとドイツは近いですから、ドイツでも、三つの太陽が出るのでしょうね。
それで今の、運命ーー恋愛は終わりだというのは、恐らくゲルマンの神話が一族滅亡の神話ですから、三つの太陽が出たのが一族滅亡の前兆だったという話が恐らくあるんだろうと思う。そういう教養を持った青年だから、三つの太陽が出たら自分の運命の終わり、つまり今恋に夢中になっているから、もう私の失恋は決まった、と思ったんですね。だから、そういう背景を持たないこっちは全然わからなかった、という仕掛けなんです。このことは、ちょっと横道でございます。
ところが、この射日神話はその辺でまだ驚いてはいけなかったので、さらに夜考えてみると、「ああこれは、えらいことだぞ。」と思った。なぜかと言うと、すでに今までの話でもかなりえらいことだといえるのは、だいたい「農耕社会」以前の「狩猟社会」に誕生した説話が二十世紀の沿海州に伝わっていて、それをソ連の学者が採集したというんですね。だいたい現代の常識では、現在に伝わっている神話や説話は、だいたい江戸時代中期、古くても室町ぐらいに発生したのがせいぜいですよと。それ以前はとても無理ですよというのが、だいたい民俗学の常識らしくて、その時のシンポジウムの報告でも、そういう常識で報告された学者もあったようなんです。討論でも、その点格別の異議も出ませんでした。私もそんな趣旨を本で読んだことがあります。
ところが、今の私の分析が正しければ室町どころではない。今の「農耕社会」どころではない。「狩猟社会」に誕生した説話が二十世紀に伝わっているというテーマになってくる。非常に、わたしとしても怖いテーマなんです。ところがこんなに怖がっていたのではいけなかったのです。昼休みに私は荻原真子さんをつかまえて問いつづけましたーーシンポジウムの最中は、私はたった一人の“純粋な”「傍聴者」でしたから、質問の権利はなかった(学者の「つきそい」の人々が若干おられたようです)。その代わりに、昼休みに一生懸命質問したんです。そうすると真子さんいわく「だって、沿海州には石を投げて太陽を落す話があるんですよ。素朴でしょう」。こうおっしゃんたんです。「へえー」とその時はだだうなずきつつ、聞いていたんですが、帰ってから気がついた。ーー「これはえらいこっちゃ」とね。
なぜかと言えば、だいたい狩猟といえば、私なんかは「昔から狩猟はあった」という頭で考えてきた。弥生、縄文どれを扱ってもそういう頭で扱っていて、べつに不自由はしなかったんです。ところがじつは、その「狩猟時代」というのも上限があるのではないか。つまりそれ以前には、「狩猟なき何十万年」が、「弓矢なき何十万年」が流れていたのではないか。私の表現では「投石社会」です。そして弓矢を発明して或る日ーー「或る日」というのは短絡ですがーー弓矢を発明してにわかに威張りはじめた。それまでは動物の中で人間という動物は、たいした動物ではなかったと思うんです。だって、走る力だって跳ぶ力だって叫ぶ力だって遠くを見る力だって、人間よりずっとすぐれた動物がゴマンとおるではないですか。一番ーー「一番」というのは大袈裟かも知れませんがーーたいへんみすぼらしい存在が人間ではなかったか。身を細くして地球をとぼとぼ歩いていたのではないかと思うのてすが、ところが、弓矢を発明してーーパチンコみたいなのから入ったと思うのですがーー弓矢を発明してにわかに他の動物に対して強さを発揮しはじめた。頭の知恵の力でね。と考えてあまり誤りではないのではないか。その証拠に簡単な証明があります。今の動物園へ行ってお猿さんを見ますと、お猿さんは石を投げているけれど、弓矢を使っているお猿さんというのを見たことないですね。動物園だけではない、大自然の中でもないではないですか。あったらたいへんな発見ですけれどね。だからお猿さんというのは、まだ弓矢発明以前の時間帯に存在しているのではないか、広い意味で、お猿さんの一員であるわれわれは、すでに弓矢発明以後の時間帯に入っている。それだけのことですね。 
射日神話の淵源
というふうに考えてみますと、先程の石を投げて太陽を落すという話は、弓矢発明以前の時間帯、いわば「投石社会」に生み出された説話ではないか。その説話は私の大好きな説話ですので、次をご覧下さい。
ウリチ族
一人の男と一人の女がいた。三つの太陽があり、大地はなかった。その当時は、草で小舎を立てた。魚が(水から)跳ね出ると焼け焦げて死んだものだ。草は燃え、そして、小舎も燃えてしまった。男は戻って来て、新しい小舎をつくって待った。太陽が現われたので、彼はそれを殺した。残ったのは二つの太陽だった。彼は小舎から石を投げつけて、もう一つの太陽を殺した。それで残ったのは一つの太陽となった。
もう簡潔で、これ以上も以下もいらないというような、説話の中の説話という感じが私、するんですがどうでしょう。ここでは弓矢を使っていない。石を投げて太陽を落すという説話になっている。こんな説話を、もうすでに弓矢が出来て後の時間帯に作ったら本当に笑いものですよ。“石を投げて太陽を落すより、弓矢で落したらどう?”と言われるに決ってますよ。ところがまだ弓矢発明以前の時間帯の社会なら、こういう形になるよりしょうがないですね。ということで、これは「狩猟社会」という上限を突破してそれ以前の時間帯に誕生した説話が二十世紀に伝わっているのではないかという、今までの民俗学、神話学などの概念をむちゃくちゃにこわすようなところへ、私は論理的に導かれて行ったんです。しかし、まだこれぐらいで問題は終わらなかった。
というのは、私がこの大阪の民族学博物館へ行って帰ってですね。あれは、確か二月か三月頃でしたが、四月の授業の時、早速文化史の授業でしゃべったんです。その時、聴講生て若い青年の方が来ておられてコンピューター関係の仕事を持った方なのですが、比較的時間が自由になるということで私の授業を聴かせてほしいと来られたのです。その方が私を追っかけて来られて、授業が済んでね、「先生、今の、石を投げてという時には、神様はいなかったんですか」こう聞かれたんです。「ああ、それはいいご質間です。ちょっとおいで下さい」といって研究室へご案内してお話したんですが、要するにその方が疑問にされたのは、今の話には神様が登場しない。一人の男と一人の女しか登場しない。神様はどうなったんでしょうというご質問だったんです。それで私はですね「恐らく、神様はまだ生れていなかったのであろうと思います」と。
つまり、「男と女」というのは人類始まったと同時にわかっていたと思うんです。そうでしょう、見ればわかるんです、男と女というのは。しかし「神様」というのは、見えないけれど、いるんだというんでしょう、もうこんな高尚な話ってないわけです。誰も見えないけれど神様というのはいるんだぞ、というんですから、こんな考え方が人類発生と同時に始まったはずはないんです。もう、人間の能力が、たいへん抽象化が進んでいってそのあげくの果てに到達した、すごい概念。概念の発見というか、発明というか、概念とすれば発明、一つの事物と考えれば発見ですがね。
これも簡単に証明出来るんですよね。なぜかというと、さっきのように、もう一回動物園へ行ったらよろしい。祭壇を築いて拝んでいるお猿さんを見たことはありますか。あったらトップニュースですよ。どの新聞でも、世界にこのニュースを流せばよろしいんですね。
しかし、恐らく動物園のみならず、自然の山野でも、お猿さんが祭壇を築いているという話を私は聞いたことがない。そのことは、やはりお猿さんはまだ神を発見以前の時間帯にいらっしゃるのではないでしょうか。とすれは、人間というお猿さんは、ーー広い意味でーー人間というお猿さんは、ある日、ーーこれも短絡した言い方をしますとーーある日神を発見したことによって、あるいは、神という概念を発明したことによって、人間の精神的な能力は一新し、深さと広さを急速に拡大するに到ったのではないか。こう考えて私は大きく誤ってはいないと思う。念のために言っておきますが、いろんな皆さんご信仰をもっていらっしゃる、クリスチャンであるとか、いろいろその他ご信仰をもっている方がいらっしゃると思うんですが、そういう信仰の立場から見ると、けしからんと言われるかも知れませんが、今言っているのは、信仰の問題ではなくて歴史の問題だ。人間の歴史の問題でございますから、そのつもりで勘弁していただき、信仰とは別個にお聞きいただければ幸いであると思うんですがね。
さて、こういう立場から今のように、ある段階で神様を発見した。それ以後作られたのが神話です。つまり神様がさっきのように登場して来て弓矢で太陽を落すという活躍を演じられるのは、その社会ーーお話を聞く「社会」がなければお話が出来ないわけです。その社会の人々が、「神様」という概念を共通して共有しているから、そういう話が成り立つのてす。「神様」ーー「え?何?」「そんなの、知らないよ」。というのではお話にならない。だから神という発見があって、以後はじめて神様は説話の中で活躍を演じられるのであって、その「発見以前」には神様の活躍の場はない。当り前のことですね。
そうしますと、先の雲南省の神様が弓矢で太陽を射たという話は、当然神が発見されて以後、の話である。ところが沿海州の太陽を殺す話は、神様が全然出て来ないでしょう、確かにこんな地球の始まりの第一番目みたいな話だから、神様は出て来ていいはずだと思われて、その青年は私に質問されたんです。その通りです。ところが出て来ないということは、まだ神様は地球上に「誕生」していなかった。だからこの説話には神様は登場の場はなかったんだと。たいへん簡単な答になっていかざるをえないわけでございます。
そして、この考え方が認められますと、私はここから今までまだ人類にない新しい学問が誕生すると思うのです。なぜかと言えば、地球上の神々の話、神話とかそういうものを全部集めて、全部カード化してそれをコンピューターに入れていくわけです。そして前後関係をつけるのです。たとえば、アイヌの神話にあります、何か小人の神様なんかおりまして、いない、いないとさがし回ったら、何か葉っぱの陰にかくれて見つからないのを楽しんでいた、などという、本当にいたずら少年のような神様がいますね。あのような神様は、たいへん由緒古い、まだ人類の中で最初に生れたような時期の神様ではないでしょうか。
それに対して天照大神。『古事記』『日本書紀』に出て来ますのは天岩戸、あそこでせっかく須佐之男命の乱暴を避けて天岩戸に閉じ籠ったのに、外でどんちゃん騒ぎをやっている。「どうしたの」と聞くと「いや、あなたよりもっとすばらしい神さんが出て来たので皆んな大喜びをしているところです。」嫉妬心にかられてそっと開けて見たら、手力男の神がぱっと引き開けたという。だから嫉妬心に満ちた女性という点では、現代の女性と似たか寄ったかの性格をもった神様である。その上、岩の向うも見通せぬ。つまり「超能力」をもたないのです。人間と非常によく似た神様である。こういう神様もある。さらに今度は、バイブルの神様というのは万能の神様。宇宙を造ったと称する万能の神様。あれは私の分析の立場から見れば一番“新参の”神様。このようなことを言って、クリスチャンの方、怒らないで下さいよ。つまり人類の歴史の中で、必ずしも嘘ではないでしょう。恐らく、もっと新しいのが回教の神さんです。バイブルを“参考”にしながら、もっと「抽象化」した万能の神を造りあげたわけです。こういう万能の神というのは、人類史の中で一番“最近”に造られた概念である。こう考えざるをえないわけです。
そうしますとさっき言いましたように、こういう神々を考古学の土器の編年のように、ずーとその前後関係をつけていくわけです。そうするとその前後関係の編年体系は、すなわち「人類の精神の発達史」の映し絵である。こういう学問というのはまだないんです。なぜないかと言うと、結局ヨーロッパ、アメリカというのはキリスト教社会、だからわたしが、こんなに大口をたたいてしゃべっていますけれども、もしこれがニューヨークかなんかであれば、もう今晩は帰りが危ない。いつ、狂信的な人たちに、“ガン”とやられるかも知れない。だから、ヨーロッパ、アメリカでは、そういうことを「思った」にしても、公然と言うわけにはいかない、書くわけにはいかない。ちょうど戦前の時に、天皇制批判を公然と書けなかったのと同じ事ですね。一方、ソ連や中国というのは、今度はマルクスに従って、「宗教は阿片である」と頭から軽蔑していますから、今のような研究はしない。というのは私は信仰の人達にちょっとご勘弁下さい、とは言いましたけれど、べつに私はバイブルや各宗教の神をバカにしているのではない。むしろ人類が各段階で生み出した貴重な遺産というか文化遺産、精神の遺産。文化遺産というより精神の遺産ですね。というものとして、尊敬しているのです。ですから今のように宗教は阿片だ。神様はいんちきだとこう決めてかかる、その思想が絶対的に支配する世界では、やはりこういう研究は育たない。そういう点、日本という国は、だらしのないところはたいへんありますけれど、しかしプラス面としては「自由」な面もあります。私がこんなことを言っても、恐らく今晩、まだ無事に京都の家に帰れるだろうという社会なんですね。だから日本とは限りませんがフィリッピンでも台湾でもどこでもいいんですが、キリスト教やマルキシズムの専制社会でないところで発生します。そして未来は、確実にこの学問にあると思う。神を絶対化して、絶対にプラスに結論を決めておいたり、逆に、絶対にマイナスに結論を決めておいたり、そういう社会では発達しにくい。あくまで相対的に、客観的に扱える場においてこれは成立する学問です。それがやはり従来のヨーロッパ、アメリカ、ソ連、中国を含んだ世界より、次の未来に属する学問の世界である。私はそう思うわけでございます。 
神生み神話
ところが私は、意外な問題にぶつかりました。じつは『日本書紀』の中に、これと同じテーマが存在することに気がついたわけでございます。私は「神生み神話」という名前を考えた。「国生み神話」ということばは皆さんよくご存知。ところが『古事記』『日本書紀』の「国生み神話」の前に、神さんが次々生まれるという神話があるんですね。これは名前がないから、仮に「神生み神話」とこうつけさせていただきました。この神の生れるタイプは三つのタイプにわかれている。三つしかタイプはないんです。一つは神様が一柱生れたというタイプ。これは(第五)一書で、終りから二つ目のところにございます。
一書に曰はく、天地未(いま)だ生らざる時に、譬(たと)へば海上に浮べる雲の根係(かか)る所無きが猶(ごと)し。其の中に一物(ひとつのもの)生(な)れり。葦牙(あしかび)の初めて[泥/土](ひぢ)の中に生(おひい)でたるが如し。便(すなは)ち人と化為(な)る。國常立尊と號(まう)す。
[泥/土](ひぢ)は、泥の下に土、JIS第3水準、ユニコード番号57FF
これは国常立が一神現われたという、このスタイル一つだけ。次は二神が現われたというタイプが二つございます。一つは(第三)一書、これも読んでみます。
一書に曰はく、天地(あめつち)混(まうか)れ成る時に、始めて神人有す。可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこぢのみこと)と號す。次に國底立尊(くにのそこたちのみこと)。彦舅、此をば比古尼(ひこぢ)と云ふ。
これは二神が現われたというタイプ。もう一つ(第四)一書も二神が現われたというタイプ。あとは三神タイプが全部。本文がそうです。それから(第一)一書、(第二)一書、(第四)一書の方は二つに分かれてその後半、『古事記』もこれと同型です。それで(第六)一書、みんな三神が現われている。神さんの名前は違うが三神が現われたというタイプ。この三種類しかない。四神・五神が現われたというタイプはないんです、「最初に現われた」という形では、ですよ。
この三つのタイプの中で、どれが古くてどれが新しいかと考えてみると、私はやはり、一神タイプが最初で、次に二神タイプ、次に三神タイプという発展をとげて来たのではないかと考えました。これは本居宣長とは逆です。本居宣長は『古事記』を非常に尊重しました。『古事記』は三神タイプですから、だからそれの中で少し「伝」が欠け落ちたのが二つ。また欠け落ちたのが一つ、という感じ方が、どうも宣長にはあったようですが、私はそうではなくて、「一から二、二から三へ」という展開であろうと考えました。
なぜかと言いますと、もう一回一神タイプの(第五)一書を見ていただきます。
一書に曰はく、天地(あめつち)未だ生らざる時に、讐へば海上に浮べる雲の根係る所無きが猶し。其の中に一物生れり。葦牙の初めて[泥/土]の中に生でたるが如し。
少し横道ですが、南太平洋にフィジー諸島というのがある、あのフィジー諸島。あれ“フィジー”というのは“土”という意味だそうですね。現地語で(中島洋さんによる)。なんとなく、このへんが共通していて、何か気持ちが悪いんですが、まあそれは、今は別にしまして、
[泥/土]の中に生でたるが如し。便ち人と化為る。國常立尊と號す。
とこうありますね。ところが今の二神タイプの最初、(第三)一書をもう一回読んでみますと、
一書曰はく、天地混れ成る時に、始めて神人有す。可美葦牙彦舅尊と號す。次に國底立尊。・・・
とこうなっていくでしょう。だから、一神タイプの時には“葦牙の初めて泥土の中に生でたるが如し”と言って、生れた一神の形容のことばだったのが、こちらの方では独立した神格になっているわけです。これは、もし二神タイプが先で一神が後と考えた場合は、独立した神格を解体して片方の神さんの形容詞に使ったということになるわけです。こんなのは現代人ならともかく、古代の人のメンタリティでは、私はそういうことはありえないのではないかと。逆に最初は形容のことばだったのが、独立して一つの神格に、また成長するという、この方が考えやすいと思うのです。そういう点でやはり一神タイプが最初、二神タイプが後と。三神タイプでも可美葦牙彦舅尊は結構出てきますね。という「系列」をもっていると私は判断いたしました。
この判断が基本的に正しければ、ーー詳しく言えはいろいろまた問題はあるてしょうがーー基本的にはそういう理解が可能だと思うんですが、そうするとえらいことになったんですね。
なぜかと言うと、さっきの『播磨風土記』で見たのと同じ事なんですが、よく読んでいるうちに、一神タイプの(第五)一書、もう一回見て下さい。(第五)一書のまん中の行の最後、“すなわちかみとなる”と読みましたが、漢字は「人」と書いてあります。つまり『日本書紀』の古写本では「人」という字しか書いてないんです。それを宣長が“カミ”と読んだんです。カナを振って。それで『日本書紀』の注釈をつけた学者が、宣長の弟子になるような人達が“カミ”と皆読んでいくわけです。それで明治以後、岩波の『日本古典文学大系』などは皆、「かみ」と仮名をふっているわけです。だから私なんか皆、「かみ」と読んで今まできていたんです。だから「神生み神話」と言っても、皆さまがけしからんと思われなかったのは、皆さんもだいたいそういうくせできておられたから。実際は「神さん」ではない、生れたのは「人」が生れた、と書いてある。
さて次の今の(第三)一書、これをもう一回見て下さい。(第三)一書の一行目、「初めて神人有す」、つまりこれも神のごとき人。これも並の人ではないが結論は人ですね。“不思議な能力を持った人”とこう言う。これも「神人」と言う。やはり結論は人なんです。ところがそれ以外、つまり二神タイプのもう一つ(第四)一書全半と、三神タイプは全部「神」と書いてある。「人」ではない。「神人」でもない。全部「神」という字が書いてある。これは「かみ」と読んでべつに問題はないんですね。
そうすると、私の今の前後関係の判断が間違いなければ、『日本書紀』の示す「神生み神話」も、じつは最初は「人生み神話」であったと。第二段階が「神人生み神話」であった。第三段階で「神生み神話」になっていったという、その経過がみごとに示されていたわけです。するとさきほどの射日神話で、私が考えましたことと同じ傾向です。それよりもう少し詳しいかも知れません。というのは、「神人」という中間段階が入っているだけに、沿海州のより詳しい。それはそうでしょう。だって、沿海州のは二十世紀に採録しているのですから、ソ連の学者が。ところが『日本書紀』は、少なくとも八世紀にはもう記録されているのですから。実際はもっと早い六、七世紀頃に、九州王朝側で記録されたと思うのですが、それの再録だと思いますけれど、少くとも八世紀には最終的に記録されているのですから、二十世紀の記録より、詳しくて当り前なんです。
ということで、私の判断、“人類は永い無神時代を経ていた。だからその時代には「神話」はなかった。あえて言えば人話ーー人の話ーー「人話の数十万年」が過ぎた。恐らく人間が生れて口があるんだからおしゃべりはかなり早くからやっていたと思うんですが、そうすれば説話はあるわけです。それは「神無き説話」。つまり「人話」であった。それからやがて「神人話」の時間帯がやってきた。それで最後に「神話」の段階がきた。この点は、ヨーロッパ、アメリカ、ソ連を含めて、神話学では「人類は神話から始まった。」と皆そういう処理をしているんですね。それは嘘だ、という話になってくるんです。私のこの論理の冒険がもし間違っていなければ、今までの神話学はあやまりであって、「神話は新しい。人話が古い」ということになってくるわけでございます。 
ヨーロッパの神話
こういう私の到達しました結論を物差しと考えましてーー人類発展の物差しと考えまして、これを『日本書紀』の尺度、略して「紀尺」、使いやすいように妙な言葉にさせてもらって「紀尺」という言葉を考えたわけでございます。この「紀尺」をもって、これから先は非常に大それた話になってくるんですが、地球上の世界のすべての人類の神話・説話を「測定」してみようというテーマになってくるわけです。今とても残された時間で全部は申せませんが、たとえば、ヨーロッパというのは神話の墓場なんです。古代ゲルマンの神話はほとんど姿を消して、ない。言うまでもなく、キリスト教に滅ぼされた。だって、魔女裁判というのは誰でもわかっていることですが、「魔女」なんていうものではない。古代ゲルマンの巫女たちです。ドイツの魔女審問官というのが、数年ぐらいの間に何百何十人とちゃんと、記録しているんです。焼き殺した魔女を。そんな短い間にそれだけいたら、ヨーロッパは“魔女だらけ”ではなかったか。彼の認知の範囲はたいへん狭い範囲ですから。その狭い範囲でそれだけいたのでは、ヨーロッパの町は安心して歩けなかったのではないかと思いますが、じつはそうではなくて、それは巫女たち。「キリスト教に屈伏せざる巫女たち」です。それを“みせしめ”にして火祭りにしたわけですね。古代末から近世にかけて。ですから人間を火祭りにするぐらいですから、当然彼ら巫女たちが語っていた神話・人話も皆“焼滅ぼさ”れ、伝わっていない。一番古いのが伝わっているのが、アイスランド。アイルランドではないです。あそこはヨーロッパからの亡命、今で言えば難民ですね。これが国を造った。その人達が伝えた古代ゲルマンの神話がアイスランド・エッダ、あるいはアイスランド・サガと呼ばれまして、最も古い古代ゲルマンの神話なんです。いくつか本が出ております。新潮社から出ているデカイ本『アイスランド・サガ』が詳しいですね。その他にも、いいのがいくつか出ておりますが、これを見ますと、天地の始まって後、「巨人族」がまず生まれるんです。チターネンです。その次に「神族」ーー神様族が生れる。それて巨人族と神族が組んずほぐれつの大戦闘をやったという話が、アイスランド・エッダの当初のテーマになるわけです。だから巨人族というのが、今の例の「神人話」の方ですね。そして新しく生れた神様というのが神さん。だからやはり「紀尺」の、これは第二段階と第三段階の話であると、こういうわけです。第一段階はもうなくなっているわけです。それはそうで、アイスランド・エッダ(サガ)が記録されたのは九世紀〜十世紀、ところが『日本書紀』は八世紀ですからこっちの方が古い。実質は、すでに六〜七世紀ぐらいに九州王朝の方で記録されている。こちらの方が詳しくて当り前なんです。そういう姿を示している。
もう一つ非常に面白いのは、例のバイブルなんです。バイブルは面白い資料ですね。「資料」なんて言うと、神戸の方はクリスチャンの方がきっと多くいらっしゃって、お腹の中が煮えくり返っておられると思うのですが、ごめん下さい。私から見ると非常に貴重な資料なんです。というのはさっき言いましたように、エホバ(ヤハウエ)の神というのは万能の神ですから、やはり人類が生み出した神の中でも一番“新参者”の新しい時間帯に生み出された神、「新参」とか「新しい」とか言いましても、これは縄文の後期から晩期にかけての頃、もちろんイエスが生れた時は、もう旧約は成立しているのですから、あれ以前、縄文後期・晩期の時期なんですがね。という“新しい”時期に生れた神さん。
ところが全部新しいかというとそうではないんです。古いのがあります。だって、「アダムとイブ」がいます。アダムとイブというのは、一人の男と一人の女がいました。名前も残っていますというのでしょう、これはまさに「人話」ですよ。「砂漠の人話」ですよ。この砂漠に伝わった「人話」に新しい“新参の神様”の万能の神の「衣」を被せたという言い方をすれば、本当に信仰の方々には悪いんですが、私の目にはそう見える。そういう形で出来上った作品であると見て、まず私は間違いないと思う。これはそういう目から分析していくと面白いことが続々と出てまいります。
例えばご存知でしょうか、あの創世紀の最初のところ、あの神というのは複数形で書かれている。単数ではない。ただ不思議なことに動詞の方は単数形です。述語は。こういう変な型で書かれている。次に今度は、エホバの神という表現ヤハウエの神てすがね、原文は。今は普通のようにエホバと言っておきますが。ーーエホバの神という表現が出てくる。その次にエホバという表現が出てくる。それから大分後に行って単数の「神」になる。あとずっと最後まで単数の「神」で終わりに至っている。
ということは何かというと、結局一言で言って、唯一神という概念が多神教の、複数の神々の中から生まれた、という歴史事実を、あのバイブルの構成がそのまま証明しているわけです。
ところが皆さんがそのことに気がつかれなかったとすれば無理はありません。なぜかというと、英国のジェームス一世欽定訳というのがヨーロッパの聖書のもとの訳である。この時に全部を単数の神、ゴッドに統一してしまった。その方がいいですよね、信仰の上からみたら。今のようなことは、ちょっと、何となく困るじゃないですか。だから全部単数のゴッドにした方が信仰の上から見て非常にすっきりしますね。だからそういうすっきりした形に直したわけです。その直したものをもとの日本語の聖書、戦前の文語体のものも、戦後の口語訳も全部欽定訳をもとに、日本語に訳しているわけです。だから全部すっきりしている。皆さんのお家にある、帰ってバイブルを見られたら大体すっきりしている。しかしこれは、信仰の立場から言えば、もっともでありましょうし、私は別にそれに文句を言うつもりは一切ありませんが、しかし私の歴史の立場から見れば、これは「改竄」であります。やはり本来の聖書は今のヘブライ語の聖書が示すような姿が本来の聖書で、それを全部単数に直してしまうというのは、便利かも知れませんが、信仰には便利かも知れませんが、本来の聖書から見れば「改竄型」であると言わざるをえないわけです。「改竄」しない本来の姿が、事実“神の生まれたいきさつ”をあの一冊で証言している、ということになるわけです。
さっきの、“主語が複数で述語が単数だ”というのは、何でもないですね、というのは、本来は当然主語は複数だったら述語も複数だったはずですよ。Weだったらareであってisではないわけです。amでもないわけですよね。ところがそれが結局複数型が「一かたまり」と感じられ始めたから、述語が単数化してきた。やがて主語も単教に変っていく、という経過なんです。だから最初の文型も本当の最初の文型ではないわけです。多神がかなり一神に近づきつつある時期の表記方式が反映している、と考えれば何でもないでしょう。ところがクリスチャンの学者たちが注釈すると、そう簡単にはいかないんですね。今私が言ったように、アッケラカンとは処理出来ないので、「偉い人は複数型で表わす習慣がある。神様は偉いから複数型でいいんだ。」とかね。変な理屈を一生懸命、“御託”を並べざるをえなくなっている。しかしわれわれ第三者の方から見ると、何のこともない。
次の「エホバ神」というのも、見た目は単数だが唯一神ではないですよ。なぜかと言えば、なぜ「エホバ神」と言わなければいけないかといえば、他に「アポロン神」とか、「ビーナス神」とか、いろいろいらっしゃるからでしょう。そのワン・オブ・ゼムだということは百も承知だから「エホバ神」と書かれている。そうでしょう。始めから一つしかないと思っていれば、「エホバ神」なんて言う必要はないわけです。「エホバ」もそうですね。ところが、「われわれの世界では唯一の神だ」という形が、ある領域、ある民族の中で確立してきたから、もう「神」と単数型で言えばいいんだ、という形に、やがてなっていくわけです。ということをバイブルが証明しています。 
エデンの園
もう一つご紹介しましょうか。エデンの園の話がございます。エデンの園の章でーー創世記ですがーー最初にエデンの園から、四本の川が流れ出しているという話があるんです。ところが、始めの三本がよくわからない。
現在のどこかというのが。ところが四本目はユフラテ川、これはユーフラテス川だということがすぐわかるわけですね。チグリス・ユーフラエス川ーーイラク・イランのところと。そうすると、エデンの園の場所は決まるのではないですか。一つわかったら。だって、ユーフラテス川の始まる上流の、トルコの東部だということにならざる得ないわけです。ところが普通、聖書考古学という、本屋さんにあるからのぞいて見られたらいいんですが、そういう処理はしてない。むしろバグダッドの南の方を、エデンの園はここだとか言って発掘したとかいうような話がよく書いてある。あれは何かと言うと、バイブルにもう一つありまして、“東の方エデンに行き”という、これも有名な台詞でして、「エデンの東」という映画を青年時代に観て、感激した方もいらっしゃるでしょう。あの箇所で「東の方エデンに行き」という表現が出てくる。そうすると、“イスラエルから見て東”というと、バグダッドの南ぐらいになるわけです。それでこの辺にあるに違いないと発掘するわけです。
それはいいんですが、先ほどの話と矛盾するのではないですかね。ユーフラテスの、あれは下流近くになるんですから。その辺からユーフラテス川が出ているのではおかしいですからね。だから、「帯に短し襷に長し」で困るんですが、私のような第三者の場合だとなにも困らないのてす。それは、今のトルコの東部ーー金が出ていると書いてある。金が出るんてす。実際にーーそのトルコ東部が東に見える位置で、創世記が作られている。つまり、トルコの中部か西部、「多神教の聖地」です。ここで作られたんだと。こう考えたら何も矛盾しない。そこで作った話を、いかにも自分たちイスラエル人の始めからの話だという形で解釈しようとするから、「帯に短し襷に長し」になる。
これはちょうど、『古事記」『日本書紀』についての私の本(第三書)。『盗まれた神話』という、変な題ですが・・・。九州で筑紫のかいわいで作られた話を、いかにも「本来天皇家に直通する神話だ」という顔をして、載せたわけです。だから従来の本居宣長以後、明治・昭和の学者が皆、「大和中心」に解釈しようとする。邪馬壹国でも「邪馬臺国」に直して解釈しようとするんですから、もう『古事記』『日本書紀』の神話などは、当然「大和中心」に解釈しようとする。だからもう、どうにもうまくいかなくて、ごたごたしていたんですね。
ところが、それは「筑紫中心」の話である、という立場からすると、すっきり分析出来るという、「他の神話」をもってきて頭にくっつけたんだという、私の『盗まれた神話』の一つのテーマ、他にもありますがね。いろんなところからそういうものがあるということを『盗まれた神話』で証明したわけです。「天皇家というのはずいぶんひどいことをするものだなあ」と、内心思っていたけれども、今は「バイブルよ、お前もか」ということです。
だからやっぱりこれを見ると、地球上いろんなところでこういう類のことをやっているのではないか、という感じがいたしました。
そのトルコの中部や西部のところは、昨年から今年の始め、私は参りました。はじめはトロヤですね。ここへ行きたいと。行く時は先入観をもっていまして、もうああいうところは土で埋まっているだろう。へたしたら町の下になっているのではないか、しかし、トロヤからエーゲ海が見えたという、あのシュリーマンの感激を現地で確認したいと、こう思って行ったんです。これは嬉しい誤算、思い違いでした。シュリーマンが発掘したところがそのまま残っていました。後、ドイツやアメリカの調査隊が来て発掘したところもちゃんと立札が立って、ここはそれ、ここはあれ、と指示されてそのまま残っていました。
その後、トルコの西部・中部を回ったんですが、そうすると、多神教の女神なんかの石像がやたらにあるんです。皆、首がちょんぎられているんです。トルコの案内の人(ガイド)が言うには、「ヨーロッパ人が皆持って帰った」と。彼等はキリスト教徒ですから、多神教の神さんを恥ずかしめても平気なんですね。それでヨーロッパの博物館に並んでいる。われわれは、「イスラム教徒がずいぶん無茶をやった」という話を習いましたよね、昔。あれは、われわれの習った世界史、西洋史というのはヨーロッパ経由の、ヨーロッパの教科書の「翻訳」ですね。それをヨーロッパヘ行って習ってきた学者が書きくだいた世界史、西洋史を習っているんです。だからそこでイスラム教は悪者に出来る。ところが、キリスト教徒がそんなひどいことをしたという話は、ヨーロッパの教科書には載ってないのですね。だからわれわれは、本当にないんだと思っていた。悪いのはイスラム教だけか、と思っていた。が、さにあらず、ヨーロッパのキリスト教徒はずいぶんひどいことをしている。というようなことでした。そこトルコの西部・中央部は、多神教の聖地だったんですね。そこで作られた「創世記」を持って来て挿入していた。私の仮説では、というようなわけでございます。
この他にもバイブルを分析していきますと、次々に日本の古代史『古事記』『日本書紀』を分析しましたのと、同じような問題が出てまいりました。係りの方から、「もう時間がない」と言って来られたんですが、もう一つだけ紹介しましょう。 
創世記の多倍年暦
創世記をご覧になりますと、最初のアブラハムとかイサクとかああいうところに、年齢が出てます。ところが、最初のグループの年齢は、だいたい九百六十何歳というようなところまで生きているわけです。それで限りなく千歳に近づくのですが、千年生きた人はいない。九百何十年止り。ところがもう少しいきまして、「セム族の家系」といって、今度は別のグループのがまた次出てきますが、そこでは五百歳に近い。五百歳が一人います。しかし後は、四百何十歳前後で皆死んでいる。ある場所は、二百歳に近ずいて死ぬんですね。そういう、グループがいろいろ混ざっている。
それは何か。これはやはり、倭人伝をやった経験によりますと、私の本『「邪馬台国」はなかった』をお読みになった方はご存知のように、「二倍年暦」、「倭人は春、秋二回正月があったんだ」という話がありますよね。それでみると、ほぼ九十歳くらい、倭人は長生きだと書いてあるのが、実際は四十五歳であるという分析、そこからみますと、『古事記』『日本書紀』の天皇の寿命も、計算すると平均九十くらいになる。これも四十五歳。つまり二倍年暦で書かれている。それで天皇家の人達は、実は倭国、筑紫倭国の支配下に同じ文明のもとに生きていたんだという問題になっていくんですが、「二倍年暦」という問題です。ですが、さっきのは「二倍年暦」では片がつきません。何かと言うと、まず最初のは「二十四倍年暦」、十二倍でも片付きませんよ。先の五百歳は十二倍でいくんです。四十歳あまりになりますからね、十二で割ったら。ところが、千の場合はそれでもいかないでしょう。十二倍というのは言うまでもなく、陰暦一月で一歳、としをとってゆくと、一年間で十二歳になる。そうすると五百くらいはいけるわけです。本当はわれわれの年齢なら、四十何歳まで生きたわけですね。
ところが一月の中には「満ち欠け」があるではないですか、月の満ち欠け、半分半分です。あれで一歳ずつ。一月で二歳のわけですよ。そうすると今の一年で二十四歳になってしまうわけです。一歳の赤ちゃんが二十四歳になる。そうすると千年に近くなります。四十何歳か生きれば。二百歳未満は「二倍年暦」です。いや、「四倍年暦」もありますよ。そういういくつもの暦ーーこれをまとめて「多倍年歴」ということばを作ったんですが。要するに、人類にはいろんな暦があったわけです。言ってみれば、一つの文明ということは、一つの言語ーー共通言語ーーと一つの暦がなければいけない。こちらが「何歳」と言っても、相手の人が全然違う基準尺で理解したのでは、一つの文明とは言えません、通じなければ。だから、少くとも「共通の暦」がなければ一つの文明とは言えない。一つの言語、一つの暦ですね。それが文明のーーもっとあると思いますがーー最低条件。
それでしかも、一つの文明が他の文明に征服される。被征服です。そうすると征服者と被征服者と両方の暦が混用されることになる。あるいは征服、被征服ではなくても、先進、後進文明の場合でもいいですね。日本でも現在、西暦と平成・昭和などを混用しています。こういう混用が、中近東で混用された状態がバイブルに反映している。その証拠に「バベルの塔」の話があります。バベルの塔の話をしますと、人間が高い塔を造った。ところが天に近ずいて神さんのところに届きそうなので、神さんがこれは困ったというので言語を変えさせた。それで喧嘩しだして中途半端で終わったと。それで言語が乱れるということから「バベル(乱れる)」という地名がついたと書いてある。あれは、やはり『古事記』『日本書紀』の分析、われわれがやった立場から見ると簡単ですよね。「乱れる」という地名の方が先にあったわけですよ。それは恐らく川筋が乱れているかなんか、だけの話ですよ。ところがそこへもって、今度は「神様の信仰」が入ってきた。だからそこで勢力をもった神様に基づいた「地名説話」が作られた。「こじつけ」ですね、大体。日本では、天皇を基にとか中心の神さんを基に地名の解説が行われますね。「風土記」にもありますが、『古事記」『日本書紀』にもありますが、あれをやっているわけです。ところがこの場合には、基をなすことは、あのチグリス、ユーフラテス近辺の地帯に、やはり「複数の言語」がなければああいう説話は出来ません。しかも複数の言語が隣り合って、その民族同志が喧嘩し合っていなければ、ああいう説話は考えられません。だからああいう説話が地名説話としてでっち上げてくっつけられたということは、その歴史的なバックとして、「あの地帯には複数の言語があってからみ合っていた」という事実が必要です。仲良くしたり、喧嘩し合ったりしていたということです。
ということは、「複数の言語」のバックに「複数の暦」があったということになるわけです。先程の状態と合致している。ということで『古事記」『日本書紀』を分析した同じ方法で見ていくと、非常に面白い資料が時間がなくて申せないんですが、もっともっとあるんです。ということで、私はこういう「紀尺」、あるいは『古事記』『日本書紀』分析の“倭人伝”分析の成果をもって世界の神話をみて、非常にリアルに理解出来る。それがキリスト教の衣や、反キリスト教の衣の基に制約をもって暮らしている人たちより、ずっと客観的な、未来の学問を建設出来ると、こう私は信じているわけでございます。ぜひ皆さん、若い方々も、一つこれをやっていただければ有難いと思います。では終わらせていただきます。 
 
九州王朝の末裔たち / 『続日本後紀』にいた筑紫の君

 

九州王朝の残映
「どんなにもっともらしい理由があるにせよ、他国の領域に武力を行使し、それによって長期間影響力をもちつづけようとする大国は、すべて亡び去るほかない。それが歴史の鉄則だ。外に対する圧力は、必然的に内部の腐敗と矛盾を招き、ついにはみずからの基盤を掘りくずしてしまう。九州王朝は、みずからの全歴史をもって、この真理を実証し終ったのである。」
古田武彦氏は、その著書『失われた九州王朝』(朝日新聞社、角川文庫)の末尾をこのような一節で飾られた。
四世紀から七世紀にわたり、朝鮮半島に大軍を送り続けた九州王朝が白村江の敗北を機に滅亡にむかい、近畿なる大和朝廷に列島の代表者の地位を明け渡したのは七世紀末のことであった。
滅亡後も九州は半独立性の残映をもって、朝鮮半島側に映じていたことを古田武彦氏は前掲書で示された。『三国史記』の次の記事がそうである。
A(哀荘王三年、八〇二)冬十二月、均貞に大阿[冫食]を授け、仮の王子となす。以て倭国に質せんと欲す。均貞、之を辞す。
[冫食]は、にすい編に食。JIS第4水準ユニコード98E1
B(哀荘王四年、八〇三)秋七月、日本国と聘を交わし好を結ぶ。
C(哀荘王五年、八〇四)夏五月、日本国、使を遣わして黄金三百両を進ず。
〈『三国史記』新羅本紀第十、哀荘王〉
九世紀のはじめ、日本では桓武天皇の時代であり、BCの「日本国」という表記は当然としても、Aの「倭国」は九州王朝を指しており、平安期においても、なお、新羅は一旦は「倭国」(九州王朝の後裔)と「契約」を結ぼうとして挫折したのだと氏は指摘された。そしてこの指摘は必然的に次の問題を惹起するのである。九世紀において、新羅が「契約」を結ぼうとした「九州王朝の後裔」とは何か、そしてその実体とはいかなるものであろうか。
七世紀末の九州王朝の滅亡という大事件を、隣国の新羅が知らぬはずはない。だのに、その百年後に到っても交流を画策しようとするからには、国家交流の対象として何らかの実体がなければならない。そうした疑問から、滅亡後の「九州王朝」の実体にせまるべく、近畿天皇家の正史『六国史』等の史料批判を試みたのが本稿である。そして、その結論として九州王朝の王族の末裔、筑紫の君を『続日本後紀』に見いだしたのである。 
倭王の名称
古田武彦氏の九州王朝説の展開により、倭王やその一族の名前が次々と明らかになった。それらは次の通りである。
三世紀卑弥呼(倭風名称)
壹與(国名+中国風一字名称)
〈『三国志』魏志倭人伝〉
四世紀倭王旨(中国風一字名称)
〈七支刀・石上神宮蔵〉
五世紀倭国王・倭讃(国名+中国風一字名称)
倭国王・珍(中国風一字名称)
倭隋(国名+中国風一字名称)
倭国王・済(中国風一字名称)
倭国王・興(中国風一字名称)
倭国王・武(中国風一字名称)
〈『宋書』倭国伝〉
六世紀日十大王年(倭風名称+中国風一字名称)
〈人物画像鏡・隅田八幡神社蔵〉
委意斯移麻岐弥(国名+倭風名称、倭石今君か)
〈『日本書紀』継体紀「百済本記」〉
筑紫の君磐井(倭風名称)
〈『筑後国風土記逸文』〉
筑紫の君葛子(倭風名称)
〈『日本書紀』継体紀〉
筑紫君の兒・筑紫火君〔弟〕
火中君〔兄〕
〈『日本書紀』欽明紀「百済本記」〉
七世紀阿毎多利思北孤(倭風名称)
〈『隋書』イ妥国伝〉
上宮法皇〈法隆寺釈迦三尊光背銘〉
筑紫の君薩夜麻(倭風名称)
〈『日本書紀』天智紀〉
イ妥(たい)*は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO。
これらからわかるように、三世紀以後の倭王たちは中国風一字名称と倭風名を併せ持っていたようだ。ただ、七世紀に入ると阿毎多利思北孤のように中国(隋)の天子への国書に倭風名を用いていることから、この時代では倭風名だけになったのかも知れない。もう一つの特徴に、近畿天皇家側の史書『日本書紀』には「筑紫の君」と表記されていることがある。九州王朝の存在を抹殺した近畿天皇家の大義名分からすれば、「倭国王」と表記するわけにはいかないので、「筑紫の君」としたのであろう。さらに継体紀においては、筑紫の君磐井を「筑紫国造磐井」と記し、天皇家が任命した国造であると、大義名分を一層徹底させた表記としている。
「百済本記」においても「筑紫の君」と表記されていることから、「筑紫の君」は倭王の自称でもあったと考えるべきであろう。あるいは歴代の「筑紫の君」が倭王を世襲していたとも言えよう。筑紫の君磐井の子、葛子が同じく筑紫の君と記されていることからも、そのことがうかがえる。とすれば、白村江で敗北して唐の捕虜となり、天智十年に帰国した、筑紫の君薩夜麻こそ九州王朝最後の倭王となるのだが、その後の動向を史書は何も語らない。王朝の滅亡と共に筑紫の君の一族は歴史の闇に消え去ったのであろうか。 
「続日本後紀」にいた筑紫公
九州王朝の滅亡後、近畿天皇家は自らの正当性を主張すべく、先住した九州王朝の痕跡を消し去った「正史」の編纂を開始する。『古事記』『日本書紀』がそうであり、その後も『続日本紀』『日本後紀」『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録」と続く。『古事記』を除いた六書は総称して「六国史」と呼ばれているが、その内容から、近畿天皇家による律令支配体制が完備されていく様子がうかがえる。古田武彦氏は『古事記』『日本書紀」の史料批判により、九州王朝の神話や伝承が『日本書紀』に盗用されていることを論証された。(1)また、『続日本紀』にも九州王朝の官職名「評督」や年号「白鳳」「朱雀」などが記されており、先住王朝の痕跡が色濃く残っていることを明らかにされた。(2)しかしそうした痕跡も『日本後紀」以後になると様相を一変させる。その象徴的な例の一つに「筑紫」の表記の消滅がある。
筑紫を舞台とする神話が巻頭を飾っている『日本書紀』はもとより、『続日本紀』においても「筑紫」の表記はいたるところで使用されている。例えば、次の通りである。
「新羅の使を筑紫に以て迎える。」(文武元年)
「竺志の惣領に勅し、犯に准じて罰を決せしむ。」(文武四年)
「筑紫七国」(大實二年)
「筑紫の観世音寺」(和銅二年)
「筑紫大宰師」(養老三年)
「筑紫の諸国の庚午の籍七百七十巻を官印を以て之を印す。」(神亀四年)
「筑紫舞」(天平三年)
「筑紫の兵」(天平神護二年)
「筑紫道」(寶亀四年)
「筑紫府」(寶亀十一年)
これら以外も含めて四十以上の「筑紫」の表記が見られるのだが、ところが、この『続日本紀』に続く『日本後紀』では「筑紫」は皆無となる。この傾向は『日本文徳天皇実録(3)』や『日本三代実録』でも同様である。近畿天皇家の国史編纂者たちが意図的に「筑紫」の語を用いるのを止めたとしか考えようのない豹変ぶりである。そうした中にあって、例外的ともいえるのが『続日本後紀』だ。そこにはわずかではあるが、「筑紫」が出現している。
(1)新羅人、李少貞等四十人、筑紫の大津に到着する。(承和九年正月、八四二)
(2)太宰府が言う、「対馬嶋司が言うことには、去る延暦年中に東国人を防人に配した。後に又、筑紫人を防人に配した。しかし並んで廃された。当国の百姓、弘仁年中に病気で多く死ぬ。寇賊が急に有れば、何として防禦に堪えん。望み請うに、舊例に准じて筑紫人を防人に為さん。」(承和十年八月、八四三)
(3)肥前国養父郡の人、大宰少典従八位上・筑紫公文公貞直。兄、豊後大目大初位下・筑紫公文公貞雄等に忠世の宿祢の姓を賜る。左京六條三坊に貫附す。(嘉祥元年八月、八四八)
この三例の記事に「筑紫」が現われるのだが、おどろくべきは(3)である。筑紫公の姓を持つ兄弟のことが記されているのだ。『続日本紀』の次の記事から「公」は本来「君」の字であったことは明らかである。
天下の諸姓には君の字が著しい。公の字を以て換えよ。〈『続日本紀』(天平寶字三年十月、七五九)〉
この記事は政治的意味合いの強い内容を含んでいる。「君」も「公」も共に「きみ」と訓じられるが、その字義には大きな差があり、姓に用いる字の単なる変更にとどまらない。「君」の第一義は文字どおり天子を指すが、「公」の場合は「三公(4)」という語もあるように、天子より下の位なのである。したがって天皇家以外の者が「君」の字を姓に持つことは許されないという、きわめて政治的な記事なのである。「君」から「公」への変更を示す一例として、『続日本後紀』に次の記事がある。
左京の人、遣唐史生、道公廣持に當道朝臣の姓を賜る。和銅年中、肥後の守・正五位下・道君首名、(中略)廣持は首名の孫なり。
〈『続日本後紀』(承和二年正月、八三五)〉
八世紀の初め、和銅年中に「君」を姓としていた道氏の一族が九世紀初頭には「公」に換わっていたことを示す記事である。こうした例からも、筑紫公は本来、筑紫君であったと考えても間違いないであろう。とすれば、七世紀末に九州王朝の滅亡と共に歴史の闇に消え去った、倭王の一族、筑紫の君が近畿天皇家の正史『続日本後紀』に百五十年ぶりに登場していたのである。
(1)古田武彦著『盗まれた神話』
(2)古田武彦著『失われた九州王朝』、『古代は輝いていたIII』
(3)「筑紫」の表記の検索には『国史大系・六国史索引』を参考にした。また、人名に用いられた「筑紫」は省いた。
(4)古田武彦著『邪馬一国への道標」によれば、三公とは太宰・太博・太保という官名の総称で、淵源は周代にまで遡るという。 
『続日本後紀』の原文改訂
『続日本後紀』は天長十年(八三三)から嘉祥三年(八五〇)までの十七年間を二十巻にまとめたものであり、貞観十一年(八六九)に成立している。一巻あたりの年月は十ヶ月強となり、六国史の中では『日本三代実録(5)」に次いで記事は詳しいとされる。『日本書紀』の筑紫の君薩夜麻以来、百五十年ぶりに筑紫公が記されたのも、そうしたところが幸いしたのかもしれない。あるいは九州王朝の存在そのものが当時の天皇家史官にはすでに認識されていなかったという場合も有り得よう。
さて、『続日本後紀』に記された筑紫公文公貞直・貞雄の兄弟であるが、「定説」では必ずしも「筑紫の君」とは認識されていないようだ。例えば、太田亮著『姓氏家系大辞典』では「古姓に筑紫公文公と云ふもの見ゆれど、筑紫火君の誤写なるべし」として、「筑紫火君」の項目で扱われている。また、『日本の古代3・九州』(角川書店)では「筑紫火公貞直」と記され、肥君の一族として紹介されており、いつのまにか原文改訂された表記が何の説明もないまま一人歩きしているのである。このような原文改訂が、いつどのようにしてなされたのかは定かではないが、国史大系本『続日本後紀」には、その一端が現われている。
肥前國養父郡人大宰少典従八位上筑紫「公」火公貞直。兄豊後大目大初位下筑紫「公」火公貞雄等。賜姓忠世宿祢。貫附左京六條三坊。〈『国史大系・続日本後紀』〉
そして頭書に次の様な説明がなされている。
「公、當衍、下同」「火、原作文、今従細本、下同」
すなわち、国史大系の編者は、筑紫公の公の字は術字に当たるとして「」で綴じ、火の字は原文では「文」に作るが、今は細本(舊輯国史大系所引細井貞雄所蔵古鈔本)に従って「火」に改訂したと説明を加えているのだ。写本間の異同を詳しく載せ、比較的原文に忠実な国史大系本ではあるが、このような原文改訂は、はたして妥当なものであろうか。思うに、次のような理由で原文改訂を行なったのではないか。第一に、筑紫公文公と「公」が重なった表記は他に例がないこと。第二に、筑紫文公という名前は他の文献に見えないが、筑紫の火(肥)公ならば文献や金石文に見られること、などであろう。(6)それでは検討してみよう。まず、写本段階の誤写という見方であるが、筑紫公の「公」の字が立て続けに二回も他からまぎれこんだりするものだろうか。しかも二度とも同じ箇所にである。また、意図的に改訂される場合も、通常、意味が通りやすい方に改訂されるものであり、わざわざ他に類例を見ないような表現に改訂されるとは考えにくい。したがって筑紫公の「公」を術字とするには根拠が薄弱と言わざるを得ない。
確かに、筑紫公・文公・貞直のように姓が二つ並んでいるのは普通ではない。しかし似たような例がないわけではない。例えば次の例がそうである。
曾の縣主・岐の直・志自羽志 〈『続日本紀』(天平勝寶元年八月、七四九)〉
「縣主」は九州王朝の官職名と思われるが、九州王朝滅亡後も自らの由緒ある称号として名のっているのだ。そして「直」は姓である。こうした例を先の筑紫公にあてはめれば、次のような理解が可能となる。
筑紫公(称号)・文公(氏姓)・貞直(名前)
「筑紫の君」が倭国の王を意味していたことを考えれば、それがそのまま称号とされても何ら不思議はない。ひるがえって見れば、『隋書』イ妥国伝における、「イ妥王・阿毎・多利思北孤」と同様の表記方法なのである。とすれば文公を火公と改訂する理由は薄れる。なぜなら「筑紫の火(肥)公」と改訂するために最初の「公」を術字としたのだからだ。言い換えれば、「筑紫の肥君」という答えにあわせるために、「筑紫公」を「筑紫」とし、さらに「文公」を「火公」にするという二重の手直しが必要だったわけである。こうした二重の原文改訂をせずとも、「筑紫公」を称号と理解すれば、多数の写本が示す原文通りで無理なく読めるのである。
こうして、由緒ある称号「筑紫公」を冠する文公貞直・貞雄こそ九州王朝の王族の末裔だったのである。「一地方豪族」の「肥の君」とするための恣意的な原文改訂は厳に戒めねばなるまい。
(5)坂本太郎著『六国史』
(6)『日本霊異記』に「白壁天皇之世(七七〇ーー七八○)、筑紫肥前國松浦郡人、火君之氏」や熊本県浄水寺の延暦二十年(八〇一)銘の石碑に「肥公馬長」の文字がある。
吉野ケ里出土の墨書土器
『続日本後紀』の史料批判により、九世紀中葉の太宰府官僚に筑紫公を冠する、九州王朝の末裔たちがいたことを論証してきたが、文献以外にそうした事実を裏付けするものはあるだろうか。
肥前国養父郡の西の神崎郡吉野ケ里からわが国最大規模の弥生時代の環濠集落が発見されたが、それよりも以前に吉野ケ里遺跡群からは奈良時代の堀立柱建物が二百棟以上発見されている。そこからは墨書土器や木簡が出土しているが、その墨書土器等の中に「養父」「第*君」「丙殿」「丑殿」と書かれたものがある。(7)なかでも「弟*君」の文字は示唆的である。「第*」の字は通常「第」と同字とされるが、「弟」の異体字あるいは俗字でもある。もしこれが「弟君」であれば次のような理路が可能であろう。
第*は、「第」の異体字。ユニコード7B2B
『続日本後紀』の「養父郡人、大宰少典従八位上・筑紫公文公貞直。兄豊後大目大初位下・筑紫公文公貞雄」の記事によれば、弟の貞直は大宰少典として赴任するまでは養父郡にいた可能性が強い。とすれば、墨書土器の「養父」「弟君」の文字は偶然とは言いがたい一致を示しているのではないか。とりわけ「弟君」という文字は暗示的である。なぜなら、その時代のその地域に「君」の姓で呼ばれ、しかも具体的な名前でなく、「弟君」だけでそれとわかる有力な人物がいたことを意味するからである。しかも、九州王朝において「弟」という語は特別な意味を帯びている。九州王朝は伝統的に兄弟で統治するという特殊な政治形態をとっていたからである。(8)それは次の史料からもあきらかである。
乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰う。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年巳に長大なるも、夫壻無く、男弟有り、佐けて国を治む。〈『三国志』魏志倭人伝〉
癸未年八月、日十大王年・男弟王、意柴沙加宮に在りし時〜。〈隅田八幡・人物画像鏡〉
倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏跌して坐し、日出ずれば便ち理務を停め、云う「我が弟に委ねん」と。〈『隋書』イ妥国伝〉
このような三世紀の邪馬壹国の時代より、九州王朝倭王の弟は兄とともに統治に携わっていたのであるが、こうした倭国の兄弟統治の伝統の延長線上に、先の墨書土器の「弟君」があるのではないかと想像されるのである。
次に「第君」であるとすればどのような読解が可能であろうか。「第」には家・屋敷の意味があり、「第下」とすれば「貴下」「閣下」の意味となり唐代では「太守」の異称とされている。したがって、「第君」となれば邸宅の主人、しかも「君」と称された有力な人物を指すことは疑いない。このことを裏付ける証拠に、今一つ「丙殿」の文字がある。
【丙殿】東宮の御殿をいふ。〔山堂肆考〕丙殿、太子宮也、又曰青殿。〈『大漢和辞典』〉
明代、十六世紀末に成立した類書『山堂肆考』によれば、「丙殿」とは太子の御殿とあるのだ。このように吉野ケ里から出土した墨書土器等は、奈良時代のこの地方にただならぬ勢力とその居住地が存在したこと(9)をうかがわせるのである。ここに『続日本後紀」史料批判による「筑紫の君」存続論の傍証の一つとして、吉野ケ里墨書土器の証言として提示しておく。
(7)九州歴史資料館編集『発掘が語る遠の朝廷・大宰府』、佐賀県教育委貝会編『環濠集落吉野ケ里遺跡概報』
(8)古田武彦著『古代は輝いていたIII』(朝日文庫)
(9)『環濠集落吉野ケ里遣跡概報』では、これら一連の文字に対して「その記載内容が何を示しているのか不明なものが多い。」としている。 
太宰府の官僚組織
九世紀半ば、「筑紫公」を名のる、九州王朝の王族の末裔が太宰府の官僚として実在していたことは、九州王朝の滅亡について大きな示唆を与える。白村江での壊滅的な敗北により、国力を急激に衰えさせた九州王朝を近畿天皇家は征服戦らしい戦いの必要もないまま併呑したようであるが、その後直ちに独自の年号、律令、行政機構を矢継ぎ早に制定していった。しかし、王朝の交替につきものの官僚機構の入れ替えについて、九州に関しては行なわなかったのではあるまいか。「筑紫公」の存在はこのことを指し示すのである。そしてなによりも、九州王朝中枢の政庁名「太宰府」が、王朝滅亡後もそのまま残っていること自体が、そのことを雄弁に物語っているようにも思えるのだ。
以前、私は滅亡時の九州王朝における近畿天皇家への徹底抗戦派の存在を、鹿児島県の地方伝承と『続日本紀』の史料批判により指摘したが、同時に恭順派の存在(10)をも予想した。そして本稿で取り上げた「筑紫公」こそ、その恭順派に他ならない。征服された側の一族が引き続き官僚として残っている事実が、そのことを裏付けている。官僚機構の変更を伴わない「占領政策」は歴史上めずらしくはない。それでは太宰府の官僚機構について分析してみよう。貞観年間(八五九〜八七六)頃成立の『令集解」によれば、太宰府の官名は次の通りである。また、官位は天長十年(八三三)成立の官撰注釈書である『令義解』によった。
主神一人正七位下
帥一人従三位
大弐一人正五位上
少弐二人従五位下
大監二人正六位下
少監二人従六位上
大典二人正七位上
少典二人正八位上
大判事一人従六位下
少判事一人正七位上
大令史一人大初位上
少令史一人大初位下
大工一人正七位上
少工二人正八位上
博士一人従七位下
陰陽師一人正八位上
医師二人正八位上
算師一人正八位上
防人正一人正七位上
佑一人正八位上
令史一人大初位下
主船一人正八位上
主厨一人正八位上
史生二十人 〈『令集解』「職員令」、『令義解』「官位令」〉
このように、太宰府の官人は五十名にも達し、大国でも九名にすぎない一般の諸国とは比較にならない。むしろ、近畿天皇家の中央政庁をそのまま縮小したものと言ってもよい規模と構成である。また、「主神」という他に見られない官職もある。
このほかにも、下級事務に携わる「書生」、雑務に従事する「使部」、農民から徴発されて各種の労役に従事する「仕丁」なども存在しており、これら太宰府関係者は相当数にのぼったものと推定されている。(11)
大規模な太宰府官僚組織の中にあって、筑紫公文公貞直は、帥から典までの四等官と呼ばれる官職の中では最も低い大宰少典の地位にいたわけであるが、帥や弐、あるいは監までが近畿天皇家から派遣されていたことを考慮すれば、現地出身者としては比較的高官位であると言えないこともない。こうした点から、九州王朝滅亡後もその官僚組織、太宰府政庁はそのまま残され、トップクラスを近畿天皇家が派遣することにより、形式的な支配関係を形成したと考えられるのである。その結果として、九州王朝の王族の一部は引き続き太宰府官僚の地位を維持できたのである。とすれば、近畿天皇家による九州王朝の併呑は、征服というよりも、むしろクーデターに近いのではないか。筑紫の君薩夜麻が唐に囚われの身になっている間に、天智が九州王朝の乗っ取りに成功したのであろう。思えば、五世紀の初め継体が成し遂げられなかった野望を、その百四十年後に天智が果たしたのである。(12)
以上の論点を整理すると次の通りである。
1).九州王朝滅亡後も、その官僚組織(支配機構)はそのまま残された。
2).そのことの裏付けとして「太宰府」という政庁名は変更されていない。
3).さらに、九州王朝の王族の一部が太宰府官僚としての地位を維持していた。
4).太宰府官僚のトップクラスは近畿天皇家が派遣していた。
5).太宰府政庁の規模と構成は中央政府と呼ぶにふさわしく、九州諸国と近畿天皇家の中間に位置していた。これらの論理的帰結として、太宰府こそ滅亡後の九州王朝の後裔そのものであったと考えられるのである。だからこそ太宰府が名実ともに機能している間は、九州王朝の残映が内外に映じていたのである。この点、次章でさらに論証を続ける。
(10)「最後の九州王朝・・・鹿児島県大宮姫伝説の分析」『市民の古代」10集所収、「大宮姫伝説と九州王朝」『近畿南九州史談』5号所収。
(11)倉住靖彦著『太宰府』
(12)近畿天皇家の天智皇祖説に関しては中村幸雄氏による次の論文がある。「誤読されていた日本書紀」『市民の古代』7集所収。また、古田武彦氏も次の著書・論文で言及されている。「日本国の創建」『よみがえる卑弥呼』(騒々堂)所収、「新唐書日本伝の史料批判・旧唐書との対照」『昭和薬科大学紀要』二二号所収。 
太宰府の反乱
九州王朝滅亡後も、太宰府がたんなる近畿天皇家の出先行政機関でなかったことは、神護慶雲三年(七六九)の道鏡事件でも明らかである。時の女帝称徳天皇の寵愛を受けた大臣禅師道鏡が、八幡神の託宣として道鏡を皇位につけよという大宰の主神・習宜阿曾麻呂の奏上を受けた事件である。大宰の主神が近畿天皇家の皇位継承に関する発言権を持っていたことを示しているのだが、これも「太宰府」九州王朝後裔説の傍証の一つとなろう。
ひとたび、こうした視点に立てば、天平十二年(七四〇)の大宰の少弐・藤原広嗣の乱も、大宰少弐への左遷に対する広嗣の巻き返しという従来説とは別の見方が可能となる。すなわち、九州王朝の復権を企てた「太宰府」の反乱である。なぜなら、広嗣の大宰少弐の任官は、乱のわずか一年半前、天平十年(七三八)の末であるにもかかわらず、挙兵には筑前・筑後・肥前・豊後・大隅・薩摩から一万余が加わっている。こうした短期間での大規模な挙兵は、先住した九州王朝の存在ぬきでは説明できないのではないか。藤原広嗣の乱は、九州王朝の後裔「太宰府」が、王朝滅亡後の九州内においてなお現実的な影響力を有していた証拠でもあるのだ。
広嗣は挙兵に先立って上表文を提出しているが、その回答を待つことなく、直ちに挙兵したことを見れば、広嗣一人の意思で起こした反乱ではなく、背後に控えた「太宰府の反乱」とも言うべき性質の事件であると考えられる。その証拠に反乱鎮圧後、近畿天皇家は太宰府を廃止し、筑紫鎮西府を新設した。数世紀におよぶ太宰府の歴史にあって、太宰府が廃止されたのはこの時だけである。しかし、天平十七年(七四五)には早くも太宰府は復活している。これなども、九州王朝の後裔の勢力がなお強かったことの表われではないだろうか。
以上、国内の事件より「太宰府」九州王朝後裔説を検証してきたが、転じて国外史料を見てみよう。『宋史』日本伝の次の記事は注目にあたいする。
天聖四年(一〇二六)十二月、明州言う、「日本國太宰府、人を遣わして方物を貢ず。而も本國の表を持たず」と。詔して之を卻く。其の後も亦未だ朝貢を通せず。南賈時に其の物貨を傳えて中國に至る者有り。〈『宋史』日本伝〉
『宋史』のこの記事に対応して『宋會要」には「天聖四年十月、宋商周良史、太宰府進貢使と構し、日本の土宜を明州市舶司に進む」との記事が見える。(13)
十一世紀の前半、平安中期に至っても太宰府は単独で自主的に「朝貢」を続けていたという『宋史』のこの記事に、古田武彦氏は「ここに東シナ海を渡って南朝と国交をもちつづけた九州王朝の永き残映を見ているのである。」とのべられた。(14)こうした『宋史』の記事も、「太宰府」九州王朝後裔説によるならば、よりリアルな記事として再認識できるのである。
(13)『旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝』(岩波文庫)所収「日唐・日宋・日元交渉史年表」より引用。
(14)古田武彦著『失われた九州王朝』(朝日新聞社・角川文庫) 
筑紫公のゆくえ
『続日本後紀』の史料批判を通じて、論理のおもむくままに滅亡後の九州王朝の姿を探ってきたが、「太宰府」九州王朝後裔説に行き着いた。七世紀末をもって九州王朝の姿は歴史の表舞台から消え去ったと思われていたが、じつは衆知の存在であった「太宰府」こそ滅亡後の「九州王朝」そのものであった。
太宰府は中世に入って、その終焉をむかえる。源平の内乱などにより政庁は焼き払われたともいわれ、十二世紀前半にはかなり荒廃していたらしい。武家社会の到来とともに九州王朝は最後の残映さえも消してしまったようだ。(15)
時代はさらに下って天文五年(一五三六)、大内義隆は先祖代々の宿願であった大宰大弐に補任されたが、当時としては有名無実にすぎない地位を求めたのも、一族の心に残っていた九州王朝の残映のせいであろうか。九州王朝の同盟国百済から、九州年号の定居元年(六一一)に渡来した、百済聖明王の第三子琳聖太子の子孫(16)とされる大内氏にとって、「太宰府」が特別な意味を持っていたとしても不思議ではあるまい。
さて、『続日本後紀』に記された筑紫公文公貞直であるが、由緒ある称号「筑紫公」に換わって「忠世宿祢」を近畿天皇家より授かった。この忠世宿祢貞直については『日本三代実録」に次の記事が見える。
(貞観四年正月、八六二)外従五位下・忠世宿祢貞直を薩摩の守に為す。
(貞観五年八月、八六三)外従五位下・忠世宿祢貞直を以て薩摩の守に為す。貞直、貞観四年に薩摩の守に任ずるも、母の憂ゆるを以て職を辞す。今、詔して之を起す。 〈『日本三代実録』〉
伝統ある称号「筑紫公」と引き替えに外従五位下まで昇りつめた貞直ではあったが、遠く薩摩の地への赴任を命ぜられる。一度は母を思い、職を辞した貞直も再度の辞令を受けた。その後の消息を国史は記していない。
(15)倉住靖彦著『太宰府』。
(16)『群書系図部集・第七』所収「大内系図」。 
 
常陸国風土記研究文献目録

 

はじめに
「市民の古代研究会ー関東」では、一九八七年一一月三日「常陸を巡る旅」を実施し、同年一二月からは、月例会において、常陸国風土記の読書会を開始した。そして、一九八九年一一月一二日には、「常陸国風土記を訪ねる旅」を行なうなど、研究活動は、すでに三年目に入っている。
その間、会員の横山妙子と私は、常陸国風土記と古代の関東に関する文献を、協力して検索・収集した。そして、それらの文献の中から、重要と考える文献を、月例会の席で紹介してきた。
一九九〇年二月末現在、収集した文献は、千点を超える膨大なものとなった。そこで、右両名で整理・選択のうえ、常陸国風土記研究文献目録を作成した。この文献目録は、両名の汗の結晶である。
これから本格的に常陸国風土記を研究しようとする人々の基本的参考文献目録として役立つことを願うものである。
なお、初めて風土記に取組もうとする人には、まず、志田諄一「風土記の世界」(別冊歴史読本『続謎の歴史書「古事記」「日本書紀」』(一九八七)を一読されることをお勧めする。風土記の成立経緯・内容・問題点・研究史・今後の課題などが、簡潔にまとめられている。  
文献解説
それでは、従来の研究の中で、私達の研究会で関心を寄せている点、今後の研究目標・課題としている点に関係する文献を取り上げて解説することとしよう。 
1 校訂本
常陸国風土記の校訂本のなかで、一般に使用されているのは『秋本吉郎校注風土記』(日本古典文学大系2、岩波書店、一九五八)に収録されているものである。この秋本校訂文は、松下見林本を底本としているが、飯田瑞穂によって、脚注に示されている諸本の異同のうち、彰考館本に関するものはことに不正確であり、かつ、校訂に当たっては独自の改訂が施されている点が多い、と批判されている。
現存の常陸国風土記の諸本は、すべて、延宝五年(一六七七)加賀前田家の所蔵本を筆写した彰考館本から出ているが、加賀本は失われ、彰考館本は一九四五年戦災で焼失している。
飯田は、彰考館本の原形を忠実に筆写したと考えられる菅政友本を底本として校訂し、その校訂文・解説は、『茨城県史料』古代編(一九六八)に収録されている。飯田校訂文には、松下本・武田祐吉本などとの異同についても註記がなされている。
常陸国風土記の研究に当たっては、現在のところ、飯田校訂文によるのが適切であろう。
そこで、秋本校訂文と飯田校訂文との間の異同について、異なっているものと同じものを、各一点ずっ取り上げて、本文批判・訓詁がいかに重要かを指摘したい。
(1)杵島唱曲
行方郡の条に、建借間命が「杵嶋ぶりを歌って」七日七夜舞い歌うという計略を用いて国栖を誘き出し、討伐したという説話がある。天保一〇年(一八三九)の西野宣明校訂本以来今日まで、一般に「杵嶋ぶりを歌って」とされてきた個所は、菅政友本では「嶋杵唱曲」、松下本・武田本では「島杵唱曲」とある。語順からは、とうてい「杵嶋曲(ぶり)を唱(うた)う」とは読めない。しかし、秋本校訂文は「杵嶋の唱曲(うたぶり)」とし、飯田校訂文は「鳴レ杵唱レ曲」としている。
橋本雅之「常陸国風土記『建借間命』説話の杵島唱曲をめぐって」(『万葉』三一、一九八五)は、文脈の解釈・漢籍の表現・誤字の可能性・新撰字鏡の杵は桙也の記述などから、飯田校訂文の「鳴レ杵唱レ曲」を可とするという。この見解に従うべきであろう。
(2)率引免難
行方郡の条には、また、夜刀神についての記述がある。その割注に「俗云、謂レ[虫也]為二夜刀神一、其形[虫也]身頭角、率引免レ難時、有二見人一者、破二滅家門一、子孫不レ継・・・」という文章がある。この引の字は、菅政友本にはなく「紀」と傍書してある。松下本・武田本には「紀」とある。しかし、秋本・飯田校訂文は、いずれも、後藤蔵四郎の説に従って引としている。(『常陸国風土記』の「引」「家」は読解できない。推定文字として青色表示)
[虫也]は、JIS第3水準ユニコード8675
「率引免難時」とすると、すぐ前の本文に「相群引率」とあり、語順に問題があろう。また、有馬徳『常陸国風土記註釈』(一九七三)は、菅政友本も彰考館本の「ひき写し」かどうか疑問であるとして、加藤松蘿本(文化年間書写)を底本とし、校訂文を発表しているが、中山信名『新編常陸国誌』(一八三六)に従って、「率統屯群」としている。藪田嘉一郎は「卒起難免」とし、吉野裕は「率杞免難」とするなど、難読難解の個所である。「率引免難」という語句を前提として、直ちに、その主語が、蛇側か人間側かの解釈には入れないように思われる。 
2 研究動向
常陸国風土記の研究動向については、注目している研究文献を、国文学・歴史学・考古学・民俗学の各分野から、いくつか取り上げて解説しよう。そして、古田武彦のいう多元的古代の観点からも、考察してみたい。
(1)国文学
秋本吉郎『風土記の研究』(一九六三)は、九州乙類風土記と常陸国風土記は、極めて類同近似していると指摘している。両者は、1).地名記事の内容が地名説明を専らとするものではないこと、2).掲出地名の位置・里数記載の方式が相等しいこと、3).文章が「漢臭の濃厚」である点(四六駢儷体など文辞の類同・郡を縣とする例・四隅を乾坤巽艮と記す用字例・難読語の訓註)などに共通性があり、編述の根本方針を殆ど等しくするという。
ところで、古田武彦『よみがえる九州王朝』(一九八三)は、九州乙類風土記(古田は県(あがた)風土記という)は、九州王朝によって作られたことを論証している。そうすると、常陸国風土記は、九州王朝が作った県風土記の中の常陸国の条を加除改変したものであろう。秋本の研究は、その証明をしているように思われる。
さて、常陸国風土記の筑波郡の条には、筑波山の燿*歌(かがひ)会の様子が描かれている。そして万葉集には、高橋虫麻呂の「鷲の住む筑波の山の裳羽服津(もはきつ)のその津の上に率(あども)ひて未通女(おとめ)壮士の行き集ひかがふ燿*歌(かがひ)に・・・」(一七五九番)という長歌がある。この「裳羽服津」という場所が、筑波山の燿*歌会の実施されたところとも考えられている。しかし、万葉集についての著名な注釈書・研究書には、「裳羽服津」という場所が、どこかという点について明確に指示しているものはないようである。
燿*歌(かがひ)の燿*は、日編の代わりに女。JIS第3水準、ユニコード5B25
ところが、地元の研究者の間では、「裳羽服津」は、昔から知られていた場所である。「裳萩津」は、田井村大字六所萩津で、又の名を妹背が原・夫女(ふじょ)が原・亀が岡という。この地は、丹波の亀山と共に日本蓍(めどき)の名産地で、蓍はその形が萩に似ていたので、妻戸萩とも裳萩ともいう名が生じ、これからその名を負わせたものであるという(河野辰男『常陸国風土記の探求』中、一九八〇)。地元の伝承を無視しては、地名比定は困難であろう。
(2)歴史学
常陸国風土記は、郡評問題・国造制・総領制・郷里制などの研究対象ともなっている。その中で、佐々木虔一「常陸における国造制の一考察」(『原始古代社会研究』2、一九七五)と篠川賢「律令制成立期の地方支配ー常陸国風土記の建郡(評)記事をとおしてー」(日本古代史論考』、一九八〇)は、大和朝廷の地方支配機構という観点から、常陸国風土記の国造・建郡記事を、古墳分布と関連づけて、国造・評造の支配領域について検討している。また、古代村落制度の面からは、関和彦『風土記と古代社会』(一九八四)が注目される。これらの研究は、大和朝廷一元主義の立場からのものであるが、古代の常陸国研究に当たっての基礎的知識を与えてくれる。
常陸国風土記の郡・郷などの地名比定については、宮本元球『常陸誌料郡郷考』(一八五九)、中山信名『新編常陸国誌』(一八三六)、吉田東伍『大日本地名辞書』(一九〇三)、豊崎卓『東洋史上より見た常陸国府・郡家の研究』(一九七〇)などがあるが、最近では、茨城県立歴史館の久信田喜一が、雑誌『風土記研究』などに、精力的に論文を発表している。
しかし、地名比定については、その方法論と実際について問題を提起した和歌森民男「地方史研究の再検討ー常陸国風土記行方郡条の故地をたずねてー」(『地方史研究』三一ー一、一九八一)に教えられるところが多い。和歌森は、箭括氏麻多智と壬生連麻呂の開発した谷を、1).地誌・郷土誌史、2).国土地理院地図・航空写真、3).役場・旧家の文書・古地図などを丹念に収集して検討した。その結果、定説とされている谷奥に夜刀神社と俗称する小祠が現存する、玉造町泉につきあげる谷(鳥名木谷)に比定する見解に疑問を持った。むしろ、谷奥に現在も椎池と称する池が存在し、その谷を囲む地域に「巳待様」という蛇神を祭る講が存在する、麻生町行方の谷の方が、麻多智や麻呂の開発した谷であるという、麻生町郷土史研究会員の箕輪徳二郎の説の方が、妥当であるという。
(3)考古学
佐藤次男は、「角ある蛇と頭上の蛇」(『茨城の民俗』一八、一九七九)において、常陸国風土記の角ある蛇(夜刀神、角折浜の大蛇)と縄文時代中期末から後期初頭の土器にみられる蛇形把手との関連を指摘して以来、研究を続け、「常陸国風土記の角ある蛇について」(『常陸国風土記と考古学』、一九八五)で、資料を集成している。
岸辺成雄「和琴の祖型」(下)(『雅楽界』五八、一九八三)は、常陸国風土記の「天の鳥琴」は、現在の和琴の鵄尾(六個の突起部分)と関連づけられようという。従来、天之鳥琴は、鳥のような美しい音色を出す琴であろうといわれていたが、琴の形状に着眼したのは、岸辺が最初ではないかと思われる。
しかし、天之鳥琴は、茨城県から出土した埴輪の琴と同じように、突起部分の反対側(現在は、頭という)が、鵄(とび)の尾のように末広がりになっている形状(鵄尾型)のものであろう(増田修「古代の琴」『市民の古代』11、一九八九)。
そして、『和名抄』・『延喜式』にいう鵄尾は、現在いう頭部(突起部分の反対側)を指しており、古代においては、頭尾の呼称が現代とは逆なのである。茨城県結城郡石下町篠山稲荷山古墳出土の埴輪の五絃の琴は、鵄尾型で、沖ノ島出土の雛形琴(五絃)と、よく似ている。古田武彦によると、沖ノ島は九州王朝の聖地で、この雛形琴は、九州王朝の財宝の一つであったという(古田『ここに古代王朝ありき』一九七九)。そうすると、天之鳥琴を持つ建借間命は、九州王朝の地から常陸へ侵入してきたのではないだろうか。また、常陸と北九州との深い関係は、常陸と北九州に分布する装飾古墳の類似性からもうかがえよう。
(4)民俗学
一九六三年創刊された雑誌『茨城の民俗』は、創刊号から、「蛇綱」についての習俗が採集されている。そして、嶋田尚「蛇型綱の習俗に就いて(2)」(『茨城の民俗』二八、一九八九)は、盆に用いられる綱の信仰が多様化した段階で、九州北部沿岸・諸島部の半農半漁民が、黒潮にのって北上し、常陸南東部・下総北東部に移住し、盆綱行事をもたらしたという。
しかし、蛇綱(盆綱)の習俗は、我が国の各地にみられ、各地の民俗誌・地方誌史に採集・報告されている。それらを総合的に検討することによって、常陸国風土記の角ある蛇と蛇信仰・蛇綱習俗との関係を解明することができるのではないだろうか。
また、『茨城の民俗』は、甕葬の風習についても収録するなど、常陸国と北九州との関係を検討するうえで、興味深い問題を取り上げている。
倭武天皇についても、藤田稔「日本武尊の東征に関する常陸の伝承」(『茨城の民俗』七、一九六八)は、倭建命・日本武尊と同一人物とみて、伝承地・伝承内容を紹介している。そして、神社の中には、水戸光圀の神社整理や明治時代の統廃合によって、祭神を日本武尊に改めた神社があるので、誤認しないよう注意を促している。日本武尊伝承は、関東各地にみられ、郷土誌史に採集されているが、堀一郎『我が国民間信仰史の研究』(一)(一九五五)は、各地の伝承の大要を把握するのに便利である。
古田武彦は、常陸国風土記に登場する倭武天皇は、「倭の五王」のうちの倭王武であるという。そして、当時の倭とは、大和朝廷のことではなく、九州王朝だという(古田『古代は輝いていた』III・法隆寺の中の九州王朝、朝日文庫版三三五頁)。また、『日本書紀』の日本武尊は、『古事記』の倭建命と同一人物として描かれているが、両者の東国・陸奥における行動領域は、著しく異なる。さらに、関東各地には、『古事記』・『日本書紀』に現われない日本武尊伝説が残っている。これらの事実は、古田武彦のいう鈴鏡文明圏=関東王朝(古田『古代は輝いていた』II・日本列島の大王たち、一九八五)の王者の事跡や、九州王朝の倭武天皇の足跡あるいは大和朝廷の倭建命の伝承が、日本武尊一人の物語に集約・変容されて伝説化されたことを示しているように思われる。その分析は、採来の課題である。 
関連問題
常陸国風土記の研究に当たっては、日本武尊伝説のほかにも、常陸国の範囲をはみ出す問題が多数ある。ここでは、その中から三点紹介しておこう。
1毛野国
志田諄一は、「毛野の名称と周辺の問題」(『日本歴史』一九八、一九六四)において、常陸国風土記筑波郡の条に「筑波の県は、古、紀の国と謂ひき」とある紀の国は、木の国で毛の国の意とも思われるといい、筑波の西は毛野川と連なり下野とも近接しているので、毛野はある時期には隣接する常陸国の新治・白壁・筑波の一帯をも含む地域であったかも知れないという。そして、毛野国の分国は天武朝に行なわれ、上毛野君・下毛野君の賜姓をみるという。また、毛野氏の祖は、大和朝廷から赴任してきた皇族であるともいう。
三谷栄一は、「常陸国風土記より見る壬生氏と毛野氏との関係」(『実践文学』二三、一九六四)において、茨城国造壬生連・那珂国造壬生直などの壬生氏一族は、常陸国を制覇しているように見られるが、この壬生氏は東山道より発展して来た上毛野氏の一族である、と推定している。そして、毛野氏は、大和朝廷の豊城命から出ているという。
毛野国は、古田武彦のいう関東王朝に該当するであろう。前記の志田や三谷の説の前提となっている大和朝廷の東国支配を、九州王朝に読み変えるだけでは、関東王朝と九州王朝との関係や九州王朝と常陸国との関係を説明することは、困難であろう。多元史観の立場からの古代の関東へのアプローチは、古田武彦によって始まったばかりである。常陸国風土記の研究によって、古代の関東を解明する手掛かりを得ることができるのではなかろうか。
2黒坂命
黒坂命は、茨城郡の条に登場するが、逸文にも、陸奥の蝦夷を征討して凱旋の途中、多珂郡角枯山で病死し、その[車兪]轜車が日高之国に到ったという伝承がある。
このほか、黒坂命に関する伝承の地は、栃木県上三川町上蒲生にもある。纏向宮の御宇、黒坂命は日高見国から凱旋して、蒲生郷の南にいた佐伯を討ち、神慮によって、蒲生神社を創立したという。そして、その子孫は、蒲生稲置となったという(風山広雄『下野神社沿革誌』、一九〇三)。
その他、常陸国と下野国には、星神を祀る神社が多数分布するなど、共通した伝承がみられる。これらは、毛野国と常陸国との深い絆を示唆しているようにみえる。
3絹の道
関東においては、絹は、弥生時代の遺跡からは出土していない。絹は、古墳時代中期になると群馬・栃木・東京、古墳時代後期には茨城・千葉の遺跡から出土している(布目順郎『絹の東伝』、一九八八)。
絹の東伝については、常陸国風土記久慈郡の条に長幡部神社(常陸太田市幡町、延喜式内社)の創立説話がある。天孫降臨に従って天降った綺日女命は、筑紫国日向二折峰(注福岡県糸島郡高祖山)から三野国引津根丘に至ったが、美麻貴天皇の世に、長幡部の遠祖多弖(たて)命が三野国を避けて久慈に遷り、機殿を造立し初めて施*を織ったという。施*は、あしぎぬ=粗い絹織物である。
施*は、方の代わりに糸。JIS第3水準ユニコード7D41
埼玉県児玉郡上里村に延喜式内社・長幡部神社がある。現在の祭神は、天羽槌命・埴山姫命ほか四柱であるが、古くは、日子坐王の子大根王または綺日女命を祭ったともいわれている(井上善治郎『まゆの国』、一九七七)。
常陸国長幡部の絹は、天(あま)国(注)→筑紫国→美濃国→武蔵国の地を経てきたのであろう。また、常陸国には、欽明天皇の御宇、豊浦湊(日立市)に天竺国から金色姫が着き、死後、蚕になったという伝説があり、金色姫を蚕神様として祀る寺社は多い。
そして、関東各地には、オシラ(蚕神)様信仰が広がっている。古代の常陸へ絹が伝来した経路は、一つではないようである。 
おわりに
市町村郡誌史・郷土誌史の多くは、収集できずに、今日に至った。それらの書物の中には、貴重な資料・研究が埋もれたままとなっていると思われる。
また、市町村郡誌史・郷土誌史・考古学関係の調査・研究は、各地方自治体の境域内の事項に限定される傾向がみられる。しかし、古田武彦のいう鈴鏡文明圏(関東王朝)は、上野国・下野国・武蔵国・常陸国など、関東一円に広がりをみせている。そして、武蔵稲荷山古墳出土の鉄剣に刻まれた黄金文字中の加多支(カタシロ)大王(通説は、獲加多支ワカタケル)の斯鬼(シキ)宮(栃木県藤岡町字磯城宮所在の大前神社は延喜式以前の古名を磯城シキ宮という)の地は、右の各国が接する鈴鏡文明圏の地理的中心にある(古田『古代は輝いていた』II・日本列島の大王たち、朝日文庫版、三〇八頁)。大和朝廷は、関東王朝の都があった斯鬼宮の地と斯鬼宮の大王を佐治した者が眠っていた武蔵稲荷山古墳を引裂くように、その中間地域を起点に、領域を数ヶ国に分割して統治したのであろうか。
古代の関東の研究は、各地方自治体別になっている調査・研究を総合して検討する必要がある。しかし、市町村誌史・郷土誌史・発掘出土報告書などの中には、国会図書館に納本されていないものもあり、それらの検索・収集は容易ではない。
なお、目録中、菅政友筆写『常陸国風土記』(茨城県立歴史館所蔵)の写真撮影、飯田瑞穂「常陸国風土記の諸本について」(一)・(二)(『歴史研究』二七・二八)の収集は、会貝の椎名修によるものである。 

「筑紫国日向二折峰」と「天国」については、古田武彦『盗まれた神話ー記・紀の秘密』(角川文庫版)、『古代は輝いていた』I・「風土記」にいた卑弥呼(朝日文庫版)を参照されたい。 
 
歴史と歌の真実

 

はじめに
昨年は私にとって非常に画期的な意味をもつ年でございました。夏の八月一日から六日まで六日間、白樺湖のそば、昭和薬科大学の諏訪校舎で、「『邪馬台国』徹底論争」というシンポジウムを行いました。東方史学会という名前で行ったわけでございます。非常に不慣れで、というより初めてですので心配していたんですが、多くの方々のお力添えで無事に、経済的にも赤字を出さずに、無事以上に終えることができました。延べ三百人を超す方々においでいただきまして、のみならず質的に、これはもう予想も何もできなかった、願いはしても予想できなかったことですが、すばらしい質の内容が続出いたしました。今日お話申し上げることもその発展という問題を含んでおります。
さて年が明けて、そういう慣れない事務的な仕事からほぼ解放されまして、今度は腰を落着けて勉強したい、私も去年の八月八日で六五歳を迎えましたので、そろそろ真面目に勉強をしようと、実はこの新春一月一〇日にこの同じ建物(文京区民センター)の、もっと小さい部屋ですが、そこで研究会を始めました。共同研究会と仮に名づけまして、大化の改新から大宝律令まで、七世紀後半から八世紀前半までの百年間を中心にして研究する、ということで四十数名ご参加いただいて第一回を始めたわけでございます。これから三年間、二か月に一回、金曜日の午後五時半から九時まで、この場所で続けたいと心を固めているわけです。
今申しました百年間というのは、その中間に九州王朝滅亡という問題が入っているはずなんです。ですからいろいろ調べてみて、どこにもその気配がなければ、やっぱり九州王朝はなかったと、こういうことになるわけですね。もし九州王朝が実在したなら、滅亡の痕跡が文献とか考古学的出土物その他にもあるはずである、ということになるわけです。どういうことになるかわかりませんが、急がずになるべくノロノロと、みなさんといっしょに研究を進めていきたいと思っているわけでございます。
さて、実は今年の元旦に私は一つの論文を書きました。かねてから短い論文を書いてみたいという願いがありました。誰の影響でしょうか、恐らくアインシュタインの特殊相対性理論の論文が非常に短かったという話をどこかで読んだ影響かもしれませんが、短い論文を書いたわけです。四百字詰めで一〇枚の論文です。題して「すべての歴史学者に捧げる」副題が「政・宗*・満の法則」、そのアウトラインから入らせていただきます。
宗*は、立心偏に宗。JIS第四水準ユニコード60B0 
政・宗*・満の法則 / 軍司令官・張政
去年の白樺シンポの時のことでございます。八月三日の午後一〇時頃だったと思います。今日もきておられる木佐敬久さんという方のご発言に大きなショックを与えられました。どういうことかと言いますと、「倭人伝」の最後のところを見ると、張政という人物が倭国へ派遣されてきている。これは中国の魏の官僚である。彼は文官ではなくて、帯方郡から派遣されてきた武官であるらしい。塞曹掾史(さいそうえんし)、曹掾史というのは漢代以来、何々曹掾史というふうに官職名を呼んでいたらしいんです。「塞」、とりでの曹掾史ですから、これは軍事司令官であろう。で、卑弥呼が(私はヒミコでなくヒミカと発音します)、狗奴国に攻められて(クナ国と読む人もありますが私はコウヌ国と言っております)、帯方郡に対してSOSを発したと、そのSOSに応えて軍司令官が派遣されてきた。もちろん一人じゃなくて、しかるべく軍団を率いてきたんでしょうね。当世はやりの言葉で言えば、軍事顧問だったかもしれません。で、そのきた年ははっきり書いてありまして、正始八年。また帰った年も書いてある。いや「倭人伝」には書いてないんですが、帰ったことが書いてある。
それは卑弥呼が死んで国が乱れて、壱与が登場してくる。壱与登場の黒幕になったのが張政らしくて、張政が壱与に告喩したという言葉が出てまいります。そしてその後、本国へ帰っていくんですが、それを壱与が使いをもって送ったと。その使いが洛陽に至って、おびただしい貢献物を届けたということが「倭人伝」の最後に書かれています。卑弥呼の時はえらい貧弱なプレゼントの品でしたが、今回は豪勢な貢献物を届けたということで「倭人伝」が終わっている。その年は書いてないんですが、『失われた九州王朝』ですでに論じましたように、それは西晋の泰始二年であろうと思います。といいますのは『晋書』の「倭国伝」に、泰始の初めに倭国の使いがきた、と書いてある。これに当たるものであろう思います。
さらに『日本書紀』の神功紀。ここに晋の起居注が引用されておりまして、起居注というのは、天子のそばにいる記録官が日常のことをいろいろ記録していったもののことでございます。だから歴史よりもう一つの原資料に当たるものですが、その起居注が引用されている。資料としては大変な資料でございます。そこに泰初(始)二年に倭国の女王が使いを送ってきたと。例の「貴倭の女王」という面白い表記がありまして、それについて『失われた九州王朝』で私がくわしく論じております。これが壱与のことである、「倭人伝」の最後の記事に当たる、ということを述べました。この点は私だけでなく他の人もそういう処理をしている人が普通であります。つまり張政が帰ったのは泰始二年である、といろいろの人の本に出てまいりますから別に私一人の発見というわけではございません。  
「倭人伝」の里程は軍事用
さて、泰始二年まで張政がいた、となりますと、その間ちょうど二〇年になります。二〇年間、軍司令官張政が倭国に滞在したということになるわけです。木佐さんはその点を指摘されまして、だから「倭人伝」の先頭に書かれている行路里程記事、あれは軍事用の使用目的にかなうものでなければならない、と。だとすれば、南と書いてあるのが東の間違いだとか、そんなことでは軍事用の使用目的にかないませんわね。狗奴国を追っ払おうと思って南へ進んだつもりが実は東へ行っていたというようなことになったらね。どこまで行っても狗奴国の軍隊に当たりゃしません。その間に倭国の都は狗奴国に落とされていたってことになりますよね。そんなばかなことはあり得ない。
そして里程が五、六倍の誇張と、これは明治四三年の白鳥・内藤の論争以来、東大派、京大派が共通して認めたテーマなんです。五、六倍の大ウソが書いてあるとね。しかし、そんなことであれば、これまた軍事用の使用目的に合いませんよね。まあ一・一倍や一・二倍の誤差くらいだったら何とかなるでしょうがね、五、六倍もウソが書いてあって、そのプランによって行進したら、まだまだ着かんと思ったらもうすぐ敵にぶつかったり、もうすぐ着くと思ったら、まだまだ五、六倍も行かなきゃ敵に遭わなかったり、とんでもないことになるんですね。だからそんなことは考えられません。
そして何よりも大切なことは、日程、つまり帯方郡から倭国の都までの総日程が書かれていなければなりません。たとえば食糧を帯方郡から張政の軍隊へ送ろうとしても、何日かかるかわからんけれど、とにかく送りましょうなんて、そんな送り方ってありませんよね。予定がつきませんもの。またもらうほうでもいつ来るかわからないなんて、そしてまた食糧だけでなくて、狗奴国が意外に手強いと、もっと軍隊の増援を頼むと、張政がさらにSOSを発した場合、帯方郡から何日かかるかわからんところへ増派なんてできませんよね。少なくとも何日かかるかということは、他は、そこまで木佐さんはおっしゃいませんでしたが、私がちょっとオーバーに申しますと、他の記事全部なくてもですね、何日かかるということがなければ軍事用の役には立たない。そりゃそうですね。 
「邪馬台国」論争は終わった
ここでまた、私がちょっと木佐さんの言われない余計な話をしますが、木佐さんがこういうアイデアを思いつかれたのは大分前のようなんですが、とくに痛感されたのは恐らく湾岸戦争の際じゃなかろうかと。私は、みなさんもそうでしょうが、あの時は一生懸命テレビに釘づけになっておりました。木佐さんはその時はアナウンサーをしておられたんじゃないかと思いますが、それを放送されておったかもしれませんが。あれを見ていれば、やっばり食糧がどのくらい、何日ぐらいかかって着くかとか、戦線がのびれば兵站部にこういう問題が起きるとか、毎日、毎日やっていましたよ。ああいうのを見ればいよいよもって今の問題はリアルに強く感じられたんじゃないでしょうか(ベトナム戦争の時、木佐さんはこの点を意識されたという──古田後注)。それはともかくとして、総日程が書かれていなければならない、ということをおっしゃったわけです。
そうしますと、今申し上げたことは皆さんお聞きになって、それはおかしい、それは非常識だ、なんていうところはどこにもないと思うんです。みんなあまりにも筋が通って常識的すぎるわけです。とすれば、この瞬間に、「邪馬台国」近畿説はふっとびましたね。だって、近畿説というのは、南を東に直さなければ成り立たないんですから。そんなことはあり得ない。魏の使いは夏きたんだろう、だから太陽が実際は二〇度くらいずれていたのを、そこが東だと思い違えたんだろう、というようなことを言って全部二〇度ずつずらして一冊の本を作った人もいますがね。それは一回、ちょっときてそそくさと帰ったという場合ですわね。二〇年間も軍隊が駐留しているのに、絶えず二〇度間違えて方角を考えたなんて話は信じられませんね。 
二〇年前の私の説は正しかった
次に九州説でも、里程はインチキだと。どうせインチキな誤差のある里程なんだから、筑後山門にもっていってもいいだろうとか、いろいろやっておったわけです。それもどうもだめですよね。そして一番肝心な点は総日程で、「倭人伝」のなかで総日程に当たりうるのは、「水行十日、陸行一月」しかないんです。もう一つ日程がありますが、それは投馬国まで「水行二十日」とあって、はっきり投馬国までと書いてあるんですからね。これを倭国の都までの総日程にするわけにはいかない。「水行十日、陸行一月」しか日程はないんです。私はこれを帯方郡から邪馬壱国までの総日程と考えた。これは別に、木佐さんが言われたような軍事司令官が二〇年間いたんだからという発想ではなかったんです。これは、部分里程を足したら総里程にならなければいけない。総里程が一万二千余里とありますのでね。
ところが、部分部分を足して従来ではどうも千三百か千四百足らなかった、私の計算では千四百里足らなかった。これはおかしい、どこかに“隠れている”に違いないということで、探し求めて対海国の方四百余里、一大国の方三百里、これの半周、二辺ずつを足すと四百と四百で八百、三百と三百で六百、合わせて千四百、ちょうど足らない千四百里が出てきたわけです。その瞬間に私は古代史の世界に深入りすることになったわけなんですが。それはそれとしまして、その結果、「水行十日、陸行一月」が余ってしまった。いらなくなってしまったんです。それでどうかと考えてみると、あれは最後の邪馬壱国の話の直前に出てきますので、帯方郡治から邪馬壱国までの総日程と考えざるを得なかったというわけです。で、その間に「韓国陸行」という問題が出てきたのはご存知のとおりでございます。
さて、そういうことで、もう「倭人伝」のなかには「水行十日、陸行一月」以外に総日程に当たる日数は書いてございません。そして木佐命題によれば、他の何が省略されても総日程がなければならない、軍事用目的に欠かせない、ということでございますからね。これが合理的な問いかけであるとすれば、「水行十日、陸行一月」合わせて四〇日が、帯方郡から邪馬壱国間での総日程であると考えざるを得ない。ということで、幸いにも木佐提案に対して合格できたのが、私の二〇年前に提出した説であったわけでございます。奇しくも昨年の一一月が私が『「邪馬台国」はなかった』を書いてちょうど二〇年目に当たっていたわけでございます。
さて以上によりまして、木佐提案が合理性をもっているものであるとするならば、もう「邪馬台国」論争はふっとんだわけで、まだ学者はそれを知らないから、ふっとんだと思っていないだけであって、実際はふっとんだんです。近畿説や、くさぐさの九州説は成立できなくなってしまったということなんです。そういう画期的な事件が八月三日の午後一〇時前後に起こったわけでございます。 
『旧唐書』は阿倍仲麻呂の情報で
さて、それを受けまして私は考えたんですが、実は私自身が、この木佐さんのアイデアに似た考え方をすでにしていたということを思い返したわけでございます。それは『旧唐書』ですが、これは「倭国伝」「日本国伝」という二つの伝をもっています。つまり倭国と日本国は別物であるという立場に立っているわけです。ずばり言いますと、志賀島の金印から倭の五王、そして日出ずる処の天子から白村江まで、これは全部九州の倭国であった、という立場に『旧唐書』は立っているわけです。地形もちゃんと書いてありますからね、日本国と違って。これに対して日本国というのは、もと小国、小国というのは分派の国ということです。その日本国が、母国である倭国を併呑した、白村江の後、つまり七世紀の終わりから八世紀初めの時期です。そしてわが中国はこの新しき日本国と国交を結んだと、七〇三年、唐朝の則天武后の時である、とこう書かれてあるわけです。
そして、その日本国の使いが次々やってきて、そのなかで最も目立った人物として阿倍仲麻呂がいたと書いてある。そこでは仲満と書かれていますが、これが阿倍仲麻呂のことであることはよく知られております。後に朝衡という名も名のったと書かれています。彼はいったん日本へ帰ろうとしたが、台風に押し流されて帰れなくて、結局、長安で五〇年間とどまって死んだということが書かれているわけです。その間、唐側の高級官僚になって、官職を歴任したことが書かれているし、べトナム大使になったことも知られています。つまり阿倍仲麻呂のことが特記されているんです。日本国からきた遣唐使で、中国からみると一番目立った存在は阿倍仲麻呂であったと、こういう形で書かれているわけです。
となりますと、『旧唐書』の「倭国伝」「日本国伝」という在り方は、阿倍仲麻呂の報告によっているだろうと私は論じたわけです。日本国からきた大使で、現在、唐の国家の高級官僚で、長安にいるんですから、これを無視して「倭国伝」「日本国伝」の記事を書くなんて考えられない。彼の書いた文章を見ているかもしれないし、そうじゃないにしても、書いたものに対して阿倍仲麻呂のオーケーをとってあると考えるほうが筋道であって、阿倍仲麻呂のことなんぞ忘れておりましたなんてことは考えられないですね。阿倍仲麻呂のことを特記しているんですから。同じ記録官、起居注を書いた日常の記録官や、歴史官僚も同じ長安にいるんですから、しかも史官や記録官よりは身分の高い官僚なんです。これもすごいですね。
この唐という国際国家、よその国の大使を取り込んで自分の国の高級官僚にするというようなはなれ技、今の日本ではできておりませんね、国際化とか言っておりましても。そういうことを特記している『旧唐書』の著者が、著者というより、『旧唐書』は唐が滅亡直後の時期に成立しましたが、それの原資料は唐代の記録によっていることは明らかなんですね。そういう『旧唐書』の原資料の執筆者たちは阿倍仲麻呂の情報によって書いたということは先ず疑いないだろう。 
『古事記』『日本書紀』のウソ
そうしますと、あれは不体裁なばかげたことを書いていると、日本の学者は処理してきたわけです。そう処理しないと、従来の私以外の古代史の学者の説は全部成り立たないんですね。つまり『古事記』『日本書紀』に従って、とくに『日本書紀』に従って、大体、天皇家中心できておりますという形で、日本の古代史やっておりますね。三世紀はまだ近畿説、九州説があるけれども、四世紀から以後は天皇家中心、例外なし、倭の五王だって日出ずる処の天子だって白村江だって、全部、大和朝廷がやったものです、という形で現在の教科書もできています。高校・中学・小学全部そうできております。あれが全部パーになるんですから、あれはウソだよということになるわけです。そっちを本当だと言うためには、『旧唐書』がウソだよと言わなければならない。だからばかげたことを書いている、とこうやっているわけです。いちいちどこがウソかということは書いてないですからね。要するにウソだよ、とこう扱っているわけです。
ところが私は阿倍仲麻呂の証言ということからみると、これは疑うことができない、『日本書紀』に基づいてやったそっちがウソですよ、今使われている大学・高校・中学・小学校の教科書がウソですよ、というのが私の立場なんです。そこで阿倍仲麻呂の証言というテーマを講演でも述べ、書いたこともあるわけですけど、木佐さんもそれをお読みになったようでございますので、そういうところに一つのヒントを得られたのかもしれません。 
郭務宗*の帰国報告
さて、もう一つ重要なテーマが去年浮かび上ってまいりました。今、家永三郎さんと論争をやっているんですが、すでに『聖徳太子論争』という本が新泉社から出ております。そのつづきの論争を私信でやっておりまして、家永さんはああいう方ですから、これは公開されてちっともかまわないということを書いてきておられます。そのなかで出てきた問題なんです。
私は唐朝から占領軍が日本列島へやってきているという問題を提示したわけです。なぜそんな問題が話題になったかもお話すると面白いんですが、時間の関係でそれは省略させていただきます。結論として、そういう問題を私が出してきたわけです。なぜかと言いますと、天智二年に白村江の戦いが行われた。これは六六三年でございます。しかし実際は『旧唐書』や『三国史記』を見ますと六六二年で、一年のずれがございます。これも非常に面白い問題ですが今は立入りません。要するに『日本書紀』では天智二年八月白村江の戦いが行われたと書かれております。ところがそれから九か月たった天智三年、郭務宗*という人物が日本にやってきている。これは敗戦国百済におかれた中国の占領軍司令官の劉仁願が、自分の武将である郭務宗*を日本列島へ派遣した。五月にきて数か月いて一二月に帰っております。さらに翌年の天智四年、唐の天子が劉徳高という人物を派遣してきた。その副将的な立場で郭務宗*がまたやってきています。
宗*は、立心偏に宗。JIS3水準ユニコード60B0
天智三年にきたのが予備調査で今回は本番という感じかもしれません。この時は筑紫に至ってそこで表函を、国交の文書を、奉ったように書いてあります。この辺の問題も面白い問題をさまざま含むわけですので、また時間があれば立入って申させていただけるかと思いますが、とにかく今の問題としては、九月にきて一二月に帰っています。さらに第三回目、天智一〇年一一月にやってきている。これは二千人の軍隊を率いて四七隻でやってきている。大変なものですね。その時に捕虜になっていた筑紫君薩夜馬を返しにきている。これは九州王朝の君主ですけど、これを返しにきたという有名な事件がございます。
ということで、今必要なテーマについていうと、三回も日本列島へ郭務宗*はやってきているわけです。最初の一回は百済の中国側占領軍司令官の命によってやってきた。二回目は中国の天子の命によってやってきているわけです。とすると当然のことながら、三回とも軍司令官の劉仁願なり、唐の天子なりに報告をしていると考えるのは当たり前ですね。その報告書に基づいて唐側の「倭国伝」は書かれているはずだ。そういうことですね。当たり前すぎる話ですよ。『旧唐書』「倭国伝」を見ますと志賀島の金印とは書いてありません。光武帝から金印をもらった国、日出ずる処の天子のところ、白村江まで、全部九州の北部である、日本国とは違うんだと、こう書いてある。
三回にわたってきた報告書がどれだけ正確だったかということはわれわれ、わかりませんけどね。そりゃ細かなところに間違いがあったかもしれませんけど。国を一つか二つ間違えて報告したなんてことは、そんなことは考えないほうがいいんじゃないですか。そう考えなければ成り立たない説は、どこかインチキな説だといって言い過ぎでしょうか。そのくらいのことは正確に報告されていると思う。そう考えるほうが人間の理性じゃないでしょうか。そうすると『旧唐書』の「倭国伝」は間違っていない。また『旧唐書』の「日本国伝」は阿倍仲麻呂、日本国から派遣された遣唐使がその裏づけ人にいるわけですから、これも間違っていない。  
日本の使者の言は誇大
しかも大事なことは、一言つっ込んで申しますが『旧唐書』に面白いことが書かれているんです。どうも日本国の使いが言うことはおかしい、誇大であって矜大、誇り高く話が大きすぎて実に合わない。そういう者が多いと書いてある。これも面白いんで、今度気がついたんですが、すべてとは書いていない。ということは、日本国の使いのなかでも本当を言う者も少数はいたということですね。多数は矜大だと言っているのは何かと言うと、これは八世紀ですから、もう『日本書紀』によってしゃべっているわけです、当然のことながら。近畿天皇家の正使ですからね。『日本書紀』を離れて自分の個人的見解なんてしゃべりません。『日本書紀』のすじでしゃべっているわけです。
わが国は神代からわたしたちが中心でございます、という感じでしゃべっている。そうしたら中国側は、それは事実に合わないよというわけです。ところが少数は事実に合うのを語った者がいる。その少数のなかに阿倍仲麻呂が入ることは間違いないんじゃないでしょうか。というのは『旧唐書』はわれわれが見るように書かれているんですから。あれを実と考えていることは明らかですね。そうしますと『旧唐書』に書かれている姿が、大きな日本の古代史の筋道であって、『日本書紀』に書かれているものは矜大であって実ではないと。こう言われたものが現在日本の教科書になっている歴史である、とこうなってくるわけでございます。 
権力者が作る歴史書はPR
ということで、私はこの三つをまとめまして、張政の政、郭務宗*の宗*、仲満・阿倍仲麻呂の満で政・宗*・満。この三者の証言に基づいて歴史の骨格を考える、これはやはり歴史学の法則であろうと考えます。一つの王朝が歴史を作る場合はどうしても自己PRが急務になります。事実を正確に言います。そのために現在権力を握っている王朝がおかしいと思われてもかまいません、と。そんな歴史を作ってくれたら非常にうれしいというか、すごいと思うんですが、残念ながらそういう歴史書はまったくないとは言いませんがあんまりないんです。
中国の歴史書だって、その点に関してはやはり大分インチキみたいで、去年、一昨年とそれを私は次々感じたんですれけどね。私のところの副手の原田実さんのおかげで、『穆天子伝(ぼくてんしでん)』というものに目を向けまして、見てみますと、そこでは中国の天子は西域の西王母のところに行って、天子に任命されているという記事が出てきます。ちよっとまあ、『史記』『漢書』を見てたわれわれにはびっくりするようなことですが、どうもこれは大筋でいってウソではないようである。金属期以前の王の時代においては今でいうと甘粛省近辺ですね。西域に至る玉の産地、ここが文明の中心であった形勢が濃厚であると。だからこそ中国の天子は天子の判を、玉璽といって玉で作った。金やダイヤモンドで作ったってだめなんです。玉で作らなければいかんと、われわれのよく知っているあの話につながってくるわけです。この点は時間の関係で省略しますが、興味のおありになる方は、去年、駸々堂から出しました『九州王朝の歴史学』にくわしく二篇の論文をのせておりますので、ご覧いただければ幸いでございます。
そんなに古い話を言わなくても、唐朝の場合でも、唐の第一代というのは隋の一部将ですよ。それが反乱起こして乗っ取っただけのこと。しかし『旧唐書』を見ても、反乱を起こして乗っ取った、けしからん奴だなどと書いてない。いわば、いかにももっともらしく書いてありますよ。ウソをついているわけですね。だから中国の歴史書はみな本当だ、なんてそんなばかな話ではないんで、要するに一つの王朝が書かしめた歴史書というのは大義名分の、根本においては自己権力を正当化し美化するという大目的をもっているんです。その大目的についてはあまり信用しないほうがいいというだけのことなんですね。
『日本書紀』も実はその一つであったということなんです。したがって『日本書紀』がそういう書き方をしていること自身は、あえて不思議ではない。権力者が作る歴史書というのは大なり小なりそういうものであると思うんです。ただそれを事実であると思うと、くるってしまうわけです。そして戦前はもちろんですが、現在大きな迷信があって、戦前の皇国史観は間違っていた。しかし戦後は正しい歴史を教わっている、と思っている人が多いわけですが、これは大きな勘違いですね。今申したことでおわかりのように、一番歴史の基本のところにおいて、やはり戦前と同じく戦後も、テンノロジー(天皇ロジー)と私は去年から使い始めているんですが、テンノロジーと呼ばれる立場に立って教科書は書かれている。それを歴史だとあやまって思い込まされている。少年時代から教えられているというわけでございます。それに対して、人間の理性的な立場でみれば政・宗*・満の法則によって歴史を理解すべきである、というのが私の立場でございまして、これを各国語に翻訳して世界の歴史学者にも読んでもらいたいと、思っているのが今年の初夢でございます。  
神武の出発地とその歌
不幸な戦後の津田説
さてつづいて申し上げたい点は、去年ぶつかりました大きなテーマがございます。初めは調子よく進んだんですが時間がたつにつれて、予想しなかった重大なテーマであることが、だんだんわかってきたというテーマでございます。
去年の五月の終わりに神武天皇の問題について新しい見方が私のなかに生まれてきたわけです。青森県へ行く夜行列車のなかで思いついたのですけども、『古事記』『日本書紀』のなかに神武天皇の歌が書かれております。
みつみつし久米の子等が粟生(あわふ)には韮一董(かみらひともと)
そねが莖そね芽つなぎて撃ちてし止まむ
みつみつし久米の子等が垣本に植ゑし山淑(はじかみ)
口ひびく吾は忘れじ撃ちてし止まむ
という歌がありまして、戦争中はこれに曲をつけて歌わされたものでございます。私より年上の方たちはそのご経験があろうかと思います。戦後は忘れさられてしまいました。のみならず神武天皇は架空の人であるという、戦前の津田左右吉が出したテーマが一般に承認されまして、学界でも教科書でも神武天皇は架空の人という扱いで、教科書には神武天皇は姿を現わさないということになってきたわけです。
ところが、この場合、非常に不幸なことがあったわけです。なぜかと言うと、戦前にはほとんどの学者が津田左右吉とまともに論争した人がいないわけです。早稲田大学の変なのが変なことを言っているが、あんなものは話にならない。東大・京大全部、皇国史観の時代ですから、みなあざ笑って無視してしまったわけです。そしてそれが敗戦後になって占領軍がきまして、今までの教科書が墨で塗られ、さて皇国史観じゃだめだ、何でやろう、あっ、そうだ、津田説でいこう、というようなことになったかどうか、要するに津田説が新しい歴史学の基礎になったわけです。
ですから神武天皇が実在か架空かという論争を学者同士がやったという経験がないんです。論争やらない間に架空になっちゃったんです。はっきり言えば占領軍の命によって架空になってしまった、と短絡して言えばそういってもウソではないような状況で戦後は始まった。これは非常に不幸なことですね。ですから戦後の学者は、改めて神武天皇が架空であるという論証に情熱を傾けるとか、論争するとかの経験なしにきてしまった。 
本居宣長の苦悩
さて、この神武天皇が実在の人物であるということは、もう私は繰り返し述べてまいりました。『盗まれた神話』という本を朝日新聞社から出しまして以来述べております。それはもう繰り返しませんが、一つだけキイをなす論証を申しますと、大阪湾に突入した時に、舟で日下(くさか)の楯津というところに入って、長髄彦と戦ったようにみえる記事が『古事記』に書かれています。これを元に本居宣長は、なまじっか近畿の土地鑑があるために、これはおかしい、どこか文章が間違っていると考えたんです。ところがあにはからんや、弥生の末期、古墳の初期の地形図(『大阪府史』第一巻)が明らかになってきますと、実は今の大阪湾からもう一つの河内湾というのが入りこんでいて、それのドン突きが日下の楯津であったわけです。だから舟で入れるわけです。
しかも、そこで負けて逃げた時に、南方を経巡って逃げたと書いてある。宣長はこれもまた苦しんだ。ところが大阪湾から河内湾に入る狭い通路が、何と現在の新幹線新大阪駅、つまり昔の南方、現在も南方といっております。大阪にくわしい方はご存知のように、地下鉄で梅田から二つか三つ目の駅が南方駅でございます。これは要するに淀川の南岸部にある南潟、菊人形で有名な枚方、あれももともとは平潟ですね。ということで、弥生末、古墳初期の地形図だと、まさに南方を通ってしか逃げられないわけです。ですから『古事記』の描写はリアルそのものであったという論証をいたしました。
これにも例によって古代史の学者は賛成も反対もせずに知らん顔して、依然、神武は架空という形で書いていますけどね。しかし、もうこの論証を否定しない限り神武を架空とすることは無理になっているわけです。これはもう私の本をお読みになった方は百もご承知ですので繰り返しは申しません。  
神武が率いたのは久米部集団だけ
今回問題になったのは、その神武がどこから出てきたか、出発地はどこかという問題です。この点、私は通説に従って宮崎県だと考えてきました。『盗まれた神話』でもそういう立場で書いておりますし、その後も何回もそういう立場で書いたり講演会で述べたりしてまいったわけです。ところが五月の終わりに気がつきましたのは、神武が歌っている歌に繰り返し出てくるのは、「みつみつし久米の子等が」という久米部の集団に呼びかけている言葉ばかりである。他の集団に呼びかけている形跡がまったくない、これはどういうことだろうか。答えは一つしかないと考えた。つまり神武が率いていたのは久米部集団だけであったと。
この点、戦前の皇国史観のような神武天皇が全軍を率いて宮崎県の都から大和へ遷し給うた、というイメージだとおかしいんですね。他の集団は全然無視して、久米集団ばかり可愛がってお歌を述べられたと、これはどういうわけですか。戦前の生徒はそんなことは聞かなかったかもしれないが、聞いたらぶんなぐられたかもしれない。実際は、そういう問いに戦前の皇国史観は答えることができなかったはずです。同じく戦後の津田史学に基づくすべての学者、歴史学者・国文学者も答えることができないんです。
なぜかと言うと、ウソ話を七、八世紀の天皇家の史官が造作したならば、早くて六世紀以後の史官がでっち上げたならば、なぜ久米部以外の名前を登場させなかったのかと。七、八世紀に久米部以外いるじゃないですか。蘇我もおれば大伴もおればいろいろいるじゃないですか、有力なのが。それを一切無視して、たいして有力でもない久米だけをひいきしたウソ話を作る必要がどこにあるのでしょうか。
たとえ久米部の歌を利用したとしましても、それは利用にとどまればいいわけで、『古事記』に四回ばかり出てきますが、そのなかの一回や二回は大伴や蘇我にしてもよかったのではないかと思うんです。それをしていないということは造作説からみると説明不可能なわけです。これも今のように神武実在か架空かということを真面目に論争しなかった、私が書いても誰もこれに対して古代史の学者が、古田の実在説はおかしいよといってくれないわけです。ですから今の問題は出ずじまいで終わっているんです。
実は戦後四、五〇年の古代史学者はこれに答えることはできないはずです。もし生徒に教室で問われたら、その先生は答えることが不可能なはずです。ということで、その答えは私が言いましたように、神武が率いていたのは久米集団だけであった、という仮説をたてますと解けるわけです。ですから久米の子にしか呼びかけていないのは当たり前だと、こうなるわけです。 
出発地は福岡県糸島郡
さてそこで、久米はどこかという久米探しをいたしました。そして、さらに大事だと思われたのは、実はもう一つの集団の名前が出てくる、呼びかけたとまでは、いえないのですが、名前が出てくるんです。それは、
楯並(たたな)めて伊那佐(いなさ)の山の樹の間もよい行(ゆ)きまもらひ戦(たたか)へば吾(われ)はや飢(え)ぬ島(しま)つ鳥(とり)鵜養(うかい)が伴(とも)今助(す)けに来(こ)ね
いなさの山で戦った。もうお腹が減った。島つ鳥鵜養が伴、「とも」というのは「部(べ)」に当たるような言葉ですね。鵜養部の人たちよ、助けにきてくれ、と言ってるわけです。ですから目の前には鵜養部はいないんです。ただ鵜養部の存在をよく知っていて、しかも自分たちと関係の深い部であると考えている。これは非常にわかりやすいのは、神武のお父さんがウガヤフキアへズという、やはり鵜の鳥かなんかで屋根をふくような部であるらしいことを私は述べたことがございます。この問題も立入ると時間がないので省略しますが、とにかく鵜養部というのは神武にとっては関係の深い部であったらしい。
そうしますと、その「久米」と「島」、つまり鵜養部の枕詞が島つ鳥ですから、私はこの島というのは固有名詞であろうと。単なる普通名詞のアイランドだったら、日本中アイランドだらけですから意味をもたない。ですから伊勢志摩の志摩みたいに固有名詞であろうと考えていたんです。そうしましたら、その島と久米と両方あるところが九州にあった。福岡県の糸島郡、糸島郡は恰土郡と志摩郡が合わさったところです。その志摩郡に久米というところがあったわけです。ですから私は糸島郡が神武の出発したところではなかろうかと考えたわけでございます。
その点は、さらに裏づけができてきました。従来、宮崎県と考えましたのは『古事記』の先頭に「神倭伊波礼毘古命、その同母兄五瀬命と二柱、高千穂宮に坐して議りて云りたまひけらく、『何地に坐せば、平らけく天の下の政を聞こしめさむ』なほ東に行かむと思ひて、すなはち日向より発たして筑紫に幸行(い)でましき」とあります。つまり日向より発って筑紫へ行った。この言葉が宮崎県出発説の根拠であったわけです。ところが、その前にある高千穂という問題に四、五年前取り組みました。その結果、この高千穂というのは、宮崎県の高千穂山とか高千穂峡ではなくて、やはり糸島郡の高祖山連峯である、という結論に達したわけです。なぜかと言いますと、「筑紫の日向の高千穂のくじふる嶺に天降りまさしめき」とあります。これは筑紫と書いてあるから先入観なしに読めば福岡県である。福岡県に日向があるか、ある。博多と糸島郡の間の高祖山連峯に日向峠、日向山、日向川がある。一番大事なことは「くじふる嶺」というのがたしかにある。宮崎県と鹿児島県のほうはなくて困っていたんですが、ここにはたしかにある。
しかも、ニニギがここへきて言ったセリフ「此地は韓国に向ひて真木通り」、つまり韓国に真っ直ぐに相対していると。高祖山連峯に立ったら韓国が見えます。晴れた日ならね、かすかに。もちろん宮崎県からは見えません。ですから苦しまぎれに韓国岳(からくにだけ)のことを言ったんだろうと宣長はやったんですがね。文字どおり韓国に相対しているわけです。ということで天孫降臨の地を、博多と糸島郡との間の高祖山連峯であると考えた。これは『盗まれた神話』ですでに述べております。
そうしますと、その後につづく文章、何枚かページを繰ったところに出てくる高千穂は、やはり筑紫の日向の高千穂と解釈すべきである。文献の理解の仕方において。全然、別の高千穂だったら別の言い方をしなければいけない。あれとは違うんです筑紫じゃないんですよ、という言い方をしなければいけないはずです。それをせずに、いきなり高千穂宮とあるんですから、筑紫の高千穂と考えるのが自然だと考えたわけです。  
出土物による裏づけ
そしてまた、出土物がこれを裏づけました。それは高千穂の山の西側に代々の王墓があると書いてあるわけです。「五百八十歳坐しき」とありますが、これは二倍年暦と考えると、春秋二回、一年に二回年をとるという「倭人伝」にある考え方によりますと、二九〇年。一人一〇年平均とすれば三〇人、一人二〇年平均とすれば一五人の王墓がある。いずれもヒコホホデミを名のっていた。ヒコホホデミというのは称号ですね。「天皇」みたいなものです。事実、糸島郡からは三雲、井原、平原といった豪勢な三種の神器をもった弥生の王墓が出てきている。
「森の定式」と私が名づけた、同志社大学の森浩一さんによれば、一つ物が出てきたらその五倍ないし一〇倍、実在の物があったと考えなければいけない。私も同じことをいっておったんですが、先に書かれたことに敬意を表して「森の定式」と私は呼んでおるんです。その「森の定式」によりますと、今三つ出てきたということは、こういう三種の神器を豪勢にもった弥生の王墓が、糸島郡には五倍で一五、一〇倍で三〇まだ眠っていると考えなければいけない。そうしますとさきほどの『古事記』の記載に一致します。この点、宮崎県の場合ですと、西側は鹿児島領域になるんですが、鹿児島県には三種の神器も二種の神器もまったく出てきていない、という論証をやりました。
このように、神話的事実と考古学的出土物とが合致する。だからこれは歴史的事実である、という考え方はシュリーマンがトルコのトロヤにおいて確立した考え方です。ヨーロツパの歴史学はまだこれを十分に学んでいないように私には思えます。その証拠があるんですが、これはまたご質問があれば申します。ともかくそれを「シュリーマンの原則」と名をつけました。そのシュリーマンの原則はトルコだけ成立するものではない。日本列島においてもまた成立しなければならないということで、今の件がシュリーマンの原則の完結した姿である、と考えまして、天孫降臨の地は高祖山連峯であるという論証を行いました。これも「歴史学の成立」という論文に書いて大学の紀要にのせました。『九州王朝の歴史学』という駸々堂から出した本にのっております。 
筑紫の日向の高千穂
さて、そういう立場からみますと、本当はもうその時に気がついてよかったんですが、あとで高千穂と出てくれば、筑紫の日向の高千穂の略だと考えるべきだったんです。それは考古学的出土物と一致したわけですから。同じく日向と出てきたら筑紫の日向と理解すべきだったんですね。それを宮崎県と考えるのは突拍子もない考え方で、文献の論理に従っていなかったわけです。そして二番目に筑紫と言っているのは、これはかつての私には解けなかったんですが、今の私には簡単に解けます。
よくいう話なんですが、「太宰府を守る会」というのがありまして、そこの会長さんの森弘子さんに初めてお会いした時のことを忘れません。「どこでお生まれになったんですか」と聞きましたら「はあ私は筑紫郡筑紫村大字筑紫小字筑紫で生まれました」「えっ、そんなところがあるんですか」「ありますよ」って、びっくりいたしました。太宰府の近くですがね。ですから筑紫という言葉はいろいろな、国、郡、大字、小字というスケールであるわけです。ということを知りまして以来、ここで筑紫へ向かうというのは、どの段階の筑紫へ向かうのかは別に判定をしなければいけないことですね。そうすると、筑紫国のなかの日向という、仮にこれを大字としますと、向こうも筑紫国の大字筑紫へ行ったと。つまり太宰府の近くへ行ったと理解すべきものである、ということがわかってきたわけでございます。
というようなことで、さっきの久米、島問題と合わせまして、神武の出発地は糸島郡である、ということになってまいりました。この点もシンポジウムの時に外岡発言というのがありまして、横浜におられる都立大学の人類学・社会学を出られた方ですが、重要なテーマを提起されたのです。これも時間の関係で省略させていただきます。またご質問があれば申させていただきます。  
糸島郡に鯨がやってきた
さて、そのように神武の出発地問題が解けてきたことによって、いろいろまた解決した問題が出てまいりました。次の歌を見てください。
宇陀(うだ)の高城(たかき)に鴫罠(しぎわな)張る我が待つや鴫は障らずいすくはしくぢら障る前妻(こなみ)が肴(な)乞(こ)はさば立そばの実の無けくをこきしひゑね後妻(うはなり)が肴乞はさば[木令](いちさかき)実の多けくをこきだひゑねええしやごしや(略)ああしやごしや(略)
[木令](いちさかき)は、木編に令。
これも従来、本居宣長その他の学者を困らせた箇所なんです。これとほぼ同文が『日本書紀』にもあります。菟田、奈良県にも菟田があります。そこの高城に鴫、この鴫は山にも海にもおります。鴫罠を張っていた。自分が待っていると鴫はひっかからずに、鯨がひっかかったと。これはおかしいんですね。奈良県でなぜ鯨がひっかかるか。そこで、鯨というのは鷹のことであろうとか、山芋のことであろうとか、いろいろ変な解釈が出ていたわけです。余計おかしいのは、「前妻(こなみ)が肴乞はさば」、つまり一夫多妻ですね。前の奥さんがご馳走を要求したら、あんまり実のないところをやれ、若いほうの奥さんがご馳走を要求したら実の沢山あるところをやれ。津田左右吉はですね、書いて曰く、「ここは支離滅裂だ、何んにも意味がわからん、これは造作である証拠だ」と。今みるとかなり乱暴な論定なんですが、要するに意味不明だから後世の造り物だと、こういう論断を下している。
ところが、これが奈良県、大和盆地だと意味不明。糸島郡だと意味がすっきりするわけです。なぜかというと糸島郡にも宇田ケ原というところがあります。現在、川べりですが、弥生時代ここまで海が入ってきていた。しかもこの地帯には鯨がやってくる。ゴンドウクジラというのが玄海灘の特産でございます。鯨の罐詰今でも売っておりますよ。つまり、ゴンドウクジラが時々発狂したようになって陸に上がるわけです。そういう話、時々新聞に出ますね。ここにも上がってくるんです。ですからこの場合、鴫をとろうと思って罠を張っていたら、何のこっちゃ鴫はとれずに鯨がひっかかっちゃったぞと。こういう話はここでは非常にリアリティがあるわけです。しかも、その場合に発見者が一人占めしちゃいかんので、一村共同の食糧になるわけです。食糧の足らない時期ですからね。
ちょうどアイヌの熊祭りと同じように、熊だって一人占めしちゃいかんので、一村みんなで熊のご馳走にあずかるわけです。皮も共同で使用方法を決めるわけです。鯨も全部使いますのでね。一村共同で肉の分け前をもらい、すべての利用方法を決めるわけでしょうね。その時に一夫多妻ですので、皆殺気立っているからリーダーがユーモラスな歌を歌うわけです。「年上のかあちゃんがきた時は、あまり脂身の強いのやっちゃいかんぞ、太りすぎるからな。若いほうのかあちゃんなら、いいとこごっそり脂身のついた奴やってもいいけどな」とこういう歌を歌うわけです。そうすると皆がドーッと笑うわけですね。そうやって緊張感がほぐれたところで、実際に分けるのは村のルールで平等に分けるでしょうけどね。という弥生時代の鯨とりのユーモラスな歌。津田左右吉の言うような全然意味がわからんじゃなくて、まったく意味がわかる、すべてわかるというような感じの歌であったわけです。 
糸島郡にも「伊勢」があった
もう一つあげます。
神風の伊勢の海の大石に這ひ廻(もとほ)ろふ細螺(しただみ)のい這ひ廻り撃ちてし止まむ
「撃ちてし止まむ」というのは、もちろんこの大和盆地に入ってきたのは武装した侵略者ですから、彼等がつけた付け言葉だと思いますがね。その前を見ますと、「神風の伊勢の海の」、これもおかしかったんですね。私が三〇代の初めの頃、直木孝次郎さんと田中卓さんが論争しておられました。「続日本紀研究会」、まだ五、六人でしたが、私神戸から大阪の会に出ていたんです。昭和三〇年頃です。続日本紀研究会が始まって間もない頃、この時の一つの対立点に伊勢の皇大神宮の問題があって、直木さんが否定説、田中卓さんは垂仁天皇の時、『日本書紀』に書いてあるとおりでいいんだという感じの説でした。もちろん神武天皇の問題も出ていたと思います。
これは直木さんがのちに書いておられますが、「この歌もおかしい。なぜかなれば、“伊勢の海”と言っているから三重県のことだけども伊勢の皇大神宮ができたのは、『日本書紀』に書いてあるところだって垂仁天皇だ。そんなに早くできてはいないと私は思うけども、まして神武天皇の時にできてるはずはない。それなのに神風の伊勢というのは、これはもうおかしいんで後世作られた証拠である」と。直木さんは天武天皇の壬申の乱の時に天照大神を祀っている、あのあたりからだという説なんですがね。この歌はそれ以後のでっち上げだと、こういう形で論じられたんです。
ところが、内倉さんという朝日新聞の記者の方ですけども「糸島郡にも伊勢というのがあるんじゃないですか」という助言を得まして、「調べてみます」ということになったんです。そうしますと、実はあったんです。伊勢ケ浦というところがありまして、現在、陸地のど真ん中ですが弥生時代はここまで海が入ってきている。西側の唐津湾のほうから海が入っているわけです。しかも大事なことは、その海の一郭に大石という字(あざ)がある。大石という字は糸島郡に三つある。ですから大石と言っただけじゃどこの大石かわからん。ところが、伊勢の海の大石、と言えば決まるわけです。
鎮懐石神社というのがありますが、今の深江海岸、そこの大石ですと、伊勢の海の大石となるわけです。これは二段階地名だったんですね。従来、三重県の伊勢の、そこに大きな石があったんだろう。その大きな石のところに、しただみという貝の一種が一這いまわっているのを神武が見たんだろうという話だったんです。しかし神武が見たというのもおかしいんですね。神武は三重県へ行った形跡がないんですから、大阪湾から熊野回りで大和盆地に入ったんですから。それなのに、これを三重県と思い込んでいたから、みんな本当におかしかったんです。  
「吾子よ、吾子よ」の解釈
ところが今のように糸島郡に伊勢があり大石があった。しかも大事なことは、とくにこれは『古事記』じゃなく『日本書紀』のほうがなかなかいいんですが、「吾子よ、吾子よ」という言葉が入ってくる。これを岩波『古典文学大系』では、わが軍勢よ、わが軍勢よ、と訳しているんです。まあ奈良県ではそういう意味に使ったでしょうね、換骨奪胎して。しかし、もともと自分の軍勢のことを「吾子よ」と言うはずないです。これは文字どおり親が子供に呼びかける言葉なんです。しかも、これは私の独断をかなり言わせてもらいますと母親だろうと思いますね。つまり親が子供に「わが子よ、わが子よ、そこ、そこ、しただみがそこ、そこにいってるよ、さ、おとり、おとり」と言ってるんですからね。まあ父親が言っても別にかまわないんですが、何となく私は母親という感じがするんです。そういう母親が子供に呼びかける歌であり、場所は糸島郡の西の一郭であったということです。
それからもう一つ、それと対をなす歌が、
今はよ今はよああしやを今だにも吾子よ今だにも吾子よ
これは私は最初、親が子供に釣りを教える歌だと解釈したんです。というのは私は子供時分、広島県の呉市におりましたので、そのそばの天王というところによく父親に海水浴につれていかれた。また釣りを教えてもらったわけです。その時に、釣りは引上げるタイミングが大事ですから「今だ、今だ、もちょっと早く、いや遅すぎる、もちょっと早く」、そういうコツを教えてもらったわけですね。あの歌だろうと考えた。
ところが、これを博多の講演で述べたところ、兼川さんという、今「市民の古代・九州」の会長をしておられて、元西日本テレビの名ディレクターだった方ですが、講演会の帰りに言いました。「今日の古田さんの話、違いますよ」「なんですか」「あれはですね、海鵜ですよ、この糸島郡の海岸べりに鵜がたくさんいます。鵜飼のたねになる海鵜です。それをとるのは、朝早く暗いうちに行って、とりもちを海上に張り出した岩にべたべた塗りつけておく。そしてじっと舟に身をひそめて待っている。夜がしらじら明けてくると海鵜が襲来してくる。そしていつもの伝で岩の上に止まるわけです。ところが、とりもちがついている。そこでパッと行って捕まえるんですが、そのタイミングがむずかしい。あまり早く出て行ったらチューインガムのようにくっつきつつも飛び立って逃げてしまう。あんまり遅くタイミングがずれるとくっつき過ぎて、羽をばたばたやって羽がとれてしまう。そうするとこれは使い物にならないわけですね。だからその中間のちょうどいいタイミングで、わっと出なけりゃならない。まだまだ、まだまだ、それっ」というふうにね。
それをテレビ局にいた時に現地の専門家の漁師さんにやってもらって撮ったそうです。うまく撮れて西日本テレビで放映したそうですが、「あれですよ」というわけです。私はまだ見たことはないから何とも言えませんが、そう言われればなるほどという感じですね。そこでの場合は恐らく父親でしょうね。父親が子供にコツを教えている歌である。私思ったんですが、親が子供に歌う歌というのはかなりあったんじゃないでしょうか。現在は母親が子供に歌う子守歌がありますが、昔は生活のノウハウを歌で教えるということが、かなりあったんじゃないでしょうか。そういう歌、どなたかご存知でしたら教えてください。そういう、親が子供に歌う歌がここに出ているんですね。一つは父親の、一つは母親の、歌う歌がここに出ていると、こういうふうに私は理解したわけです。 
天孫降臨の時の歌「えみし」
さて、最後に残ったのが次の歌です。
夷(えみし)を一人(ひだり)百(もも)な人(ひと)人(ひと)は云(い)へども抵抗(たむかひ)もせず
この意味がわからなかったんですね。そこで考えてみました。問題を整理してみたんです。『古事記』『日本書紀』に出てくる神武の歌は、奈良県で作った歌はないんです。みんな糸島郡で歌っていた歌を奈良県で歌っているわけなんです。それはそうですよね。奈良県では戦闘の真っ最中ですから歌を創作しながら歌って歩くなんて暇はないわけです。自分たちが子供の時から歌っていた歌、今それを仮に糸島カラオケと変な名前をつけてみたんですが、糸島カラオケを奈良県で歌っているわけです。
そう考えますと残った一つのこの変な「夷を」という歌も糸島カラオケの一つではないかと考えたんです。しかも久米部が歌っていた歌というわけですからね。糸島郡における久米部の歴史に何かこういう事件があった。というのはこれは親が子に歌う歌じゃないんですものね。つまり、「えみし」、というのは敵です。それが一人で百人に当たるほど勇敢だと言われていたのに、何のことはない抵抗もできなかったじゃないか、といって自慢しているわけです。夷をやっつけた歌なんです、それが久米部の歴史にあったということなんです。
神武の頃は大体、今、論証は抜きに申しますが、二世紀の半ば頃だろうと私は考えております。弥生の後半期。天孫降臨というのは弥生の前半期で、前末中初といわれる時期、現在の考古学ではB.C.一〇〇年頃を当てております。ということで紀元前一世紀の歌を紀元後二世紀に歌っているという感じになります。つまり天孫降臨の事件を言っているのだと考えたわけです。天孫降臨というのは、出雲で大国主とボス取引をやったんだが、肝心の筑紫では相手の承諾を得ていないわけです。これは不法の侵入者ですから承諾するはずがないわけですね。その時の相手が、「えみし」と呼ばれているんじゃないかと。板付の縄文水田、博多湾のそばです。
高祖山から見おろしますと、さらに博多駅、その近くに板付の縄文・弥生水田がよく見えます。あれも不思議なことで、板付の縄文・弥生初期水田がありながらも、中期・後期に水田はないんです。最も稲作が盛んになったはずの中期・後期の水田が、水田稲作の元祖のような板付から消えてしまうわけです。このことの意味も、考古学者は誰でも知っているんですが意味は説明できなかった。ところが弥生前期末に天孫降臨、不法の侵略者がやってきたと考えますと理解できるんですね。
しかも板付の環濠集落、吉野ケ里で有名になった環濠集落です。板付では濠が二重に取り巻いているのが発見されました。もしかしたら三重かもしれないと、福岡市の現地の発掘責任者からお聞きしました。しかも大事なことは、真ん中の濠がV字型になっていて、さらに菱形になっているという奇妙な形をしていることがわかったわけです。最初からそうだったことが確認されたそうです。ですから、これは非常に堅固な要塞ですね。ここで守っている人たちは、一人で百人を相手にしても十分やれるという評判だった。勇猛な戦闘力をもっていると言われていた。ところが俺たちにかかったら抵抗もできなかった。とこういう自慢をしているんじゃないか。つまりこれは天孫隆臨の時の歌ではないか、と。こんなことを言うと国文学の人に怒られるというか、笑われてしまうでしょうけど、論理はそのように進んできたわけでございます。
しかも、その人たちは、「えみし」と呼ばれている人たちである。おそらく、「えみし」の「し」は越の国の「こし」の「し」のような接尾語だと思います。「えみ」の「み」は海の「み」だろうと思うんですが、「え」が語幹で。もしかすると博多湾とわれわれは今呼んでいますが、弥生時代に博多湾なんて言ったはずはない。ただ名前はあったはずですから、案外「えみ」と言ってたんじゃないでしょうか。これは私の独断的と言うか、仮説というほどにもいかない理解にすぎませんが、そういう地形に基づいた呼び名であろうと思います。  
安日彦・長髄彦は「えみし」
なお、これがこわいのは例の和田家文書の『東日流(つがる)外三郡誌』、今年はその全貌が明らかになる可能性があって期待しているんですが、その『東日流外三郡誌』によりますと、安日彦・長髄彦というのが筑紫の日向の賊に追われて津軽にやってきた、と述べているわけです。それを記録した秋田孝季は、九州の宮崎県の賊と考えて、神武天皇と理解した。それで長髄彦と結びつくと考えた。しかし安日彦というのが『古事記』『日本書紀』に出てこない。これは兄さんであって中心人物である。そういう中心人物を省略する必要はどこにもない、ということから、私は神武と長髄彦と結びつける考えは間違いである。では何かと言うと、筑紫の日向の賊というのは、ニニギたちである。天孫降臨と美化して称した、不法の侵略者ニニギに追われて逃げてきた、という意味だと理解したわけです。
それで、これに対しての考古学的なバックとしては、青森県で最近、次々に見つかった弥生の水田が、実は弥生の前期末から中期初頭の水田なんですね。はっきりしていることは、板付の水田のノウハウをもってきていると。これは現地の考古学者が盛んに言っていることなんです。私もあそこの資料館で館長さんからくわしく聞きましたが、ただ考古学者はなぜかってことは説明できない。ただ板付のやり方をもってきていることは間違いありませんということなんです。ということは、『東日流外三郡誌』で言っている安日彦・長髄彦が、筑紫の日向の賊に追われてきたという話と対応してくるわけです。今回、私が分析して驚いたのは、その人たちが「えみし」と呼ばれる人たちだった、博多湾岸でですよ。それが青森に行って、えみしになったと、こういうわかり易い話になってくるわけでございます。 
「ひだり」と「ひたり」
さて、そこでもう一つ出てくる問題があります。「夷を」の次が「ひだりももなひと」、「ももなひと」が百人というのはわかるんですが、「ひだり」というのが一人という意味。「ひとり」という言葉はよく使うんですが、不思議なことに、「ふたり、みたり、よたり」とは言いますが「ふとり、みとり」とは言いません。「ふたり、みたり、よたり」とこうなっていきます。そうすると最初も「ひたり」であるはずなんですね、ルールどおりなら。ただ、われわれはなぜか最初だけは「ひとり」という読みくせがついているだけで、ルールから言うと「ひたり」のはずなんです。ところがここでは「ひだり」と言っている。その「ひだり」ではないか、つまり数詞のルールの「ひたり」であって、それが濁音になっている、という問題にぶつかってきました。
そこで実は面白い問題があります。いきなり変な話が出ますが、宮沢賢治の有名な「雨にも負けず、風にも負けず」のなかに「ひでりの夏をおろおろ歩き」という一節があります。ところが宮沢賢治の自筆本によると「ひどりの夏」となっている、という話がございます。さきほどの木佐さんから、この資料をいただきました。また花巻の宮沢賢治の資料館へ、今日の司会をなさっている笠原賢介さんが行ってこられた。その話を聞いたのですが、宮沢賢治の自筆本がちゃんと出ていて、それははっきり「ひどり」となっているそうです。これは一人という解釈もあるんだそうです。お日さまの日ととって、日雇いという意味を東北では「ひどり」と言うんだ、という話も出ているそうです。これも面白い説だと思いますが、要するに、どちらにしても「ひどり」と濁音で言うんです。
ところが、博多でも「ひたり」となるところを「ひだり」と濁音で言っている。そうするとこの人たちはどうも、この人たちというのは、つまりこういう問題がもう一つ入るんですが、今の短い歌だが、二つに分かれている。「えみしをひだりももなひと」というところは、よくわからない表現ですよね。ところが「ひとは言えどもたむかいもせず」というのは、よくわかるじゃないですか。普通の日本語です。後半部は征服者たちが言っている言葉で、前半部は征服されたほうの「えみし」が誇っていた言葉でしょう。
そうすると、これは、えみし語ではないか。「ひだりももなひと」というのは現地語ではないか。あの短い歌に、前半は現地語、被支配者側、後半は支配した側という二つの言語が表現されているのではないか、という問題が出てきたわけです。そしてこの人たちは濁音を使っている人たちではないか、と。そうしますと糸島郡あたりで非常に濁音がありましてね。「がんだらき」とか「こうだらき」とかいう地名があるんです。「き」は要塞の柵(き)だろうと思うんですが、やたらに濁音のつく地名があるんですね。  
カムヤマトの「神」は地名
さて、そこで前半の終わりになりますが、私にとって長らく疑問になっていたテーマがあるんです。何かと言いますと、神武のことをカムヤマトイワレヒコと申しますね。あのヤマト、「倭」が、実は大和でなく筑紫を意味したんだろうと。志賀島の金印の「委」も当然、筑紫を意味する倭でしょう。志賀島に出てきたんですから。あれがまかりまちがっても奈良県の倭であるはずはないんです。神武は九州から出てきたことを誇りにしているはずですから、そこで名のっている倭は筑紫を意味する倭ではないかという問題が出てまいりました。
そして神、「カム」は何かという問題ですね。直木さんが言っておられたのですが、神武は架空だと、なぜかと言うと、「神」がついている。神さまが頭についているのは架空で人間ではない証拠です、という話をお聞きしたことがあるんです。これも考えてみれば論理として具合が悪いですね。そういう理由で神武が架空だと言うんなら、二代、三代少なくとも三代から後は「神」がついていませんからね。「神」がついていないのは実在だと言わなきゃならなくなるんです。その辺で造作説には具合が悪いわけです。
では、あの「神」は何かという問題です。私が考えたのは、この「神」もまた地名ではないかということを考えてきたわけです。といいますのはニニギの命でですね、天津日高彦という称号の出てくることはご存知のとおりです。日高津天津日高日子という「天」とは「天国」、これは海人(あま)国である。それは壱岐・対馬領域を中心とする、ということは私の『盗まれた神話』で述べました。「天降る」と言う時、筑紫や出雲や新羅、この三か所にしか天降っていない、しかも中継地なしに天降っている。とすると、その三領域の内側ではないか。そして天(あま)のなになにと、『古事記』で「亦の名」で言われているのは対馬海流上の島々に限られる。この両方からそう考えたわけです。そうしますと、天津は海人(あま)国の港で、彦は長官ですね。比田勝というのは対馬にありますが、ヒタカの津、ヒタカは地名ですね。日高津であろうということに気がつきました。そして連れてきた二人の武将の一人が天[木患]津(あまのくしつ)大久米というんです。久米集団を率いてきた。これは天国の港で櫛というのがちゃんと対馬にあるんです。その称号を、ニニギについて言えば、筑紫に天孫降臨したのちも、前の出身地の地名を名のっているわけです。
天[木患]津(あまのくしつ)の[木患]は、木編に串。JIS第3水準ユニコード69F5
そう考えますと、神武が神倭(かむわ)、倭(わ)は当時は「イ」と発音したでしょうから「カムヰ」という発音ですね。この「ヰ」というのは「ワコク」、つまり筑紫の倭国からきたということを自慢しているわけです。ところが「カム」というのは倭国のなかの、自分の出身地の地点を言っているのじゃないかと、前から私は気になっていたんです。ところが今朝、これに取り組んでいるうちに一つの答えに到着したわけです。というのは糸島郡のなかにやはりあったわけです。糸島郡の西端、伊勢浦の近くに神在(かむあり)村というのがあります。ここに神寄(かむよせ)、カムヨリと読むのかもしれませんが、そういう字地名もあります。
つまり、この地帯が「カム」という地帯であるということを示しているわけです。「アリ」というのは有り無しの有りではなくて、自分のことを「阿」というという「阿」がありまして、「リ」は「里」が何かしりませんが、要するに「アリ」という一つの地名表記だと思います。その「アリ」がついて「カムアリ」と言っている。片方は「カムヨリ」だったら同じような「ヨリ」ですし、「カムヨセ」だったら「瀬」でしょうね。つまり「カム」という地域なんです。そして、これは伊勢浦の大石の近くなんです。この地帯は「カム」という地帯であったわけです。 
「神風」は「神ケ瀬」
これは何かというと、「神風の」とありましたね。「カムカゼ」と言っているのは、三字目の「カ」は「ケ」に当たるものだと思います。で「瀬」を「ゼ」と言っています。是非の「是」であり、筮竹の「筮」ですから、これは恐らく濁音だろうと思います。岩波『古典文学大系』その他でも濁音で書いてあります。「神風」とありますので皆さん原文にそう書いてある、と思い込んでいる方が、私も何となくそんな気でいたんですが、確認しますと、そうではないんです。『古事記』も『日本書紀』も表音なんです。そうしますと、「カム」というのは固有名詞で、「カゼ」は「ケ瀬」。それを濁音で「カゼ」といっているのではないか。
つまり現地の人たちは濁音を好む人たちである。韓国の人たちは清音を好む人たちで、私たちが濁音で言っても韓国の人たちは清音にして発音しますね。ところが、われわれ以上に濁音好みの人であるみたいです。ですから「神ケ瀬」とわれわれが言っているのを「神風」と言っているんじゃないでしょうか、現地ではね。字地名で何々カゼといって「風」と書いてあるのが結構あるんですよ。あれはやっばり「カゼ」と発音しているから「風」で表わすんじゃないでしょうか。これも現地でもっと確認してみないと言えませんけど、字地名表によってみるとそういう感じがいたします。
ということで、ここへくる五〇分位前に「わかった!」と声をあげましたのは、神武の出身地、率いているのは久米集団ですが、久米の地そのものに神武がいた、と考える必要はないわけで、むしろ神武は「カム」出身だと。倭国のなかの「カム」の地(糸島郡神在(かむあり)村付近か)出身であることを誇りにして名のっていたのではないだろうか、ということに思い至りました。まだ本当にあつあつの持てば手からこぼれそうな発見ですから、とても断言はできませんけどもね。長らく思っていたことが一つの答えに到着したという感じでございます。  
人麿終焉の地をめぐって / 斎藤茂吉の『鴨山考』
私は少年時代から柿本人麿のファンでございまして、旧制の広島高校、一六歳から一八歳にかけてでございますが、その頃、一所懸命、柿本人麿のものを読みあさったことを覚えております。人麿のものというより、より正確に言いますと、斎藤茂吉が書きました『柿本人麿』という本、今五冊ぐらい出ておりますが、これを図書館で一所懸命、読みかつ書き、写したという記憶がございます。今だったらコピーをとるんでしょうが、当時はコピーなんてありませんのでもっばら写したのでございます。そのなかで茂吉がとくに力を入れましたものに『鴨山考』というのがございます。人麿力作のハイライトと言ってもいいだろうと思います。
そこで茂吉は、人麿がどこで死んだかという問題にしつっこく迫っていくわけです。彼はうなぎが大好きだというだけあって非常に油っこいというか、しつっこい追求力をもって迫っております。今これを読み返しても感心しますのは、彼が何回も現地に足を運んでいる。それも今のように交通便利な時代ではないですね。戦前から戦後にかけて、繰り返し現地に足を運んでいる。これはやはり普通の万葉学者以上に熱を込めて現地に足を運んでいたんじゃないかという感じがいたします。
その結果、どういう結論に達したか、これは皆さんもご存知だと思いますが、今、簡単に要約させていただきます。彼は人麿の奥さんの依羅娘子(よさみのをとめ)に当然ながら関心をもった。
今日今日とわが待つ君は石川の貝に一に云ふ谷に交(まじ)りてありといはずやも
直の逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ
この両方に出てくる石川というのはどこかということを、彼は鴨山さがしのキイポイントにおくわけです。その結果、彼が見つけたのは江川(ごうのかわ)であった。この川こそが石川である。これを石川と思わない人は歌を知らない者である、というようなすごい大独断を行うわけです。
実は、恥ずかしながら、私去年、初めて江川の中流・下流へまいりました。恥ずかしながらというのは理由があるので、私は実は江川のそばで育ったのです。江川といいましても上流、広島県になりますが、広島県の三次(みよし)盆地、そこの三次市、当時十日市町といいました。そこで少年時代を過ごしたことがございます。小学校の三年くらいから三次中学の一年までいました。二年生の途中で父親の転任に従いまして転校したわけでございます。十日市町というのは江川が貫流している町ですから江川は子供時分そこで泳いだり遊んだりした懐かしい川であるわけです。実にもうよく知っている川であった。
ところが、中流・下流、島根県石見国のほうへ行ったことがなかったんです。それで今回行ってみますと、まあ実にこれは美しい川ですね。上流の三次盆地のところは三つ又になっていて観光案内の地になっております。しかし、それとはまた別の意味で、あれくらい川が川らしいというんですかね、人間の手で変形させられていない豊かな川の美しさを保ちつづけている川というのはあんまりないんじゃないか。私など日本中あちこち講演したり、また研究旅行したりして歩きますけれど、ちょっと珍しいのではないかと思うほど美しい川でございます。 
茂吉の強引な「鴨山」さがし
そこで初めて、あっ、茂吉はこれが気に入ったんだなと。今でもそれくらいですから、戦前はもっとだったんでしょうね。すっかりいかれて、いかれてしまってというのは悪いのですが、もうこれだと。ですから思うんです。茂吉の考え方というのは、いきなりこういうことを言っては申しわけないんですが、結論を言いますと、茂吉の探し方は、人麿という一つのドラマを頭に描いて、その舞台として最も好適な場所はどこか、というような探し方をしてたような気がします。たしかにそういう探し方をすれば、他の貧弱な川、といってはおかしいですが、いろいろ島根県だって川はありますよ。しかし他の川より、この江川をバックにしてあの歌を鑑賞すれば一番うまくいくっていうのはわかるんです。
ですから、ずいぶん強引だと思いますけど、その強引さの秘密はこの江川の美しさにあったと。この辺はみなさんが何かの機会にここへ行かれましたら、私の言うことに思い当たっていただけると思います。江津から海に臨むところにありまして、そこから今はJRが三次のほうへ行っております。私の少年時代にはなかったですけどね。三江線と言いましたかね、川のそばを通っていますから、もちろん普通列車ですが、それに乗って行くと川の美しさが非常によくわかります。
さて、茂吉はそういうふうにして石川はここだと、あっちこっち歩いた結果ですが、結論を出したわけです。ですから当然ながら人麿本人の歌である。
鴨山の岩根し枕(ま)けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ
と、こういった鴨山はこの江川のそばになければならぬ、というところから入っていったわけですね。ところが、うまい具合に江川のそばに鴨山がなかったわけです。それで、かなり強引に仕立て上げました。江川の上流に湯抱(ゆがかい)というところがございます。そのそばに亀という部落があった。そしてそばに山があった。亀という部落のそばにある山だから亀山と呼んでよかろう、と。土地の人が亀山と呼んでいるじゃないんですよ。それを呼んでよかろうというんで亀山と名をつけたわけです。しかし亀山じゃまだいかんのですよ。つまり鴨山とならなければいかん。
そこで今度は「カモ」が「カメ」になまるという原則を立てようとして悪戦苦闘するわけです。これもねちっこく何ページにもわたって「カモ」が「カメ」になまることはないとはいえない、ということを延々と書きつづっている。私は延々とそれを写しましたけどね。その時はまあすごいことを調べる、やはりたいしたもんだなあと感心して写したと思います。それで、ここが鴨山である。本来、鴨山であったのが亀山になったんだと。ここの本当の名前は津目(つのめ)山と言います。津目山が元亀山であっただろう、それは鴨山がなまったものであろう、ということで、ここが人麿が死んだところであるという結論になっていくわけなんですね。ここは邑智郡粕淵(かすぶち)村と言います。  
ある青年からの手紙で一変
今お聞きになったように、かなり強引な決め方だったんですが、これを発表したのち、さらに事件が起こったわけです。津目山の近くの湯抱の青年から手紙がきたんです。その手紙によりますと、自分の住んでいる湯抱には鴨山という山があります。それは柴刈り山であるが、われわれは鴨山と名をつけて呼んでおります。普通の地図にはありませんが、という手紙が飛び込んできたわけです。それで茂吉はびっくりして地名台帳、土地台帳を取り寄せる。その点なかなか手堅いんですね。取り寄せてみたところ確かにそこには鴨山という地名が書かれている。そこで早速またそこへ行くわけです。この辺がえらいんですね。
その青年は苦木(にがき)虎雄さんと言って、二三歳ぐらいの時だったようですが、それで茂吉はとんで行ってみたところが、たしかに鴨山というのがあった。柴刈り山というイメージからいうと小さな山かと私、思っておりましたが、昨年行ってみて、かなり大きい山で、しかも形がいいんです。富士山を圧縮したような非常に形のいい山なんです。この辺も茂吉は、どういう状況のなかで死んだと考えれば歌が生きるか、というあの方法から非常に気に入ったんだと思います。それでここを最後の鴨山の地に定めようというんで歌を詠んでおります。浜原五首というのは最初の粕淵村、津目山が鴨山だといったその時の歌で、『白桃』という歌集にのりました。
浜原五首(歌集『白桃』より)
江の川濁り流れる岸にゐて上(かみ)つ代(よ)のこと切(しき)りに偲ぶ
夢のごとき「鴨山」恋ひてわれは来ぬ誰も見しらぬ
その「鴨山」を
あかり消してひとり寝しかばあな朗(ほが)ら浜原の山に鳴くほととぎす
人麿の死(しに)をおもひて夜もすがら吾は居たりき現(うつつ)のごとく
いつしかも心はげみて沢谷(さわだに)村粕淵(かすぶち)村を二日(ふたび)あるきつ
その時の感じがよく出ている歌でございます。次は『寒雲』という彼の歌集に出た湯抱五首。
湯抱五首(歌集『寒雲』より)
年まねくわれの恋ひにし鴨山を夢かとぞ思ふあひ対(むか)ひつる
我身みづから今の現(うつつ)にこの山に触(ふ)りつつ居るは何の幸(さち)ぞも
鴨山は古(ふ)りたる山か麓ゆく川の流れのいにしへおもほゆ
「湯抱」は「湯が峡」ならむ諸(もろ)びとのユガカイと呼ぶ発音聞けば
人麿がつひのいのちををはりたる鴨山をしもここと定めむ
この最後の歌が、茂吉の筆跡で、石碑が立てられております。
その前に立つと鴨山が非常に美しく見えます。現在公園になっております。そして彼は、苦木青年とのいきさつがあって三年目、苦木青年とのいきさつは昭和一二年ですから、昭和一五年に学士院賞をもらいました。ついでながら、敗戦がありまして、彼は失意のなかにーー彼は戦争賛美の歌を作りましたので、よけい傷ついた心をもって鴨山へ行くわけです。昭和一四年の時の歌もあげておきます。
鴨山を二(ふた)たび見つつ我心もゆるが如しひとに言はなくに
そして昭和二三年の歌ーー
十年(ととせ)へてつひに来れりもみぢたる鴨山をつくづく見れば楽しもまた
その同年末に、
つきつめておもへば歌は寂しかり鴨山にふるつゆじものごと
いい歌ですね。晩年の茂吉の心境が非常によく出ている。茂吉の生涯は鴨山とともにあったというか、かなりの生涯の核心部分に鴨山が存在した、とこういってもいいだろうと思います。 
梅原猛の痛烈な茂吉批判
ところがこれは、われわれにしみじみとした感動を与える話ではありますけども、論理の進め方からいうと非常に問題がある。この点を的確に指摘されたのが、梅原猛さんの『水底の歌ーー柿本人麿論』上下でございます。この論証もお読みになった方が多いと思いますので、簡単に要約させていただきます。いろんな議論が展開されておりますが、今、全部は必要ございませんのでキイポイントを申しますと、先ず上巻で、斉藤茂吉を痛烈に批判しておられるわけです。それは、最初、私が申しましたように、石川というのは江川である。石川を江川と思わない人は歌を知らない人である、という論理は学問とすれば大変独断的な論理である。さらに、津目山が鴨山である、といっておきながら、苦木青年から手紙がくると一変して、柴刈り山、鴨山にしたと。その柴刈り山の鴨山は江川に面していない。支流には面しているでしょうけれども江川本流には面していない。ですから、あのすばらしい江川でなければこんな歌はできない、と言ったそのすばらしい川に面していないわけです。そこにさっと変えるというのはまさに豹変であって、学者としての節操に欠けるものだ、という形で非常に痛烈に批判されたわけでございます。
私は、この『水底の歌』を読んで、梅原さんの茂吉批判に対しては全面的に賛成、梅原さんの言われるとおり、とこう感じたわけです。少年時代から斎藤茂吉のファンでもありますけども、それは心情問題でありまして学問的な筋道とはまったく別でありますから。、学問としてみた場合はやはりこれはノーである、こう考えざるを得なかったわけです。
それでは梅原さんはその後、どういうふうに問題を進展させられたかといいますと、最も重要としてキイポイントにされたのは次の歌でございます。
丹比真人名をもらせり柿本朝臣人麿の意に擬へて報ふる歌一首
荒波に寄りくる玉を枕に置きわれここにありと誰か告げなむ
この歌の先頭にある「荒波」という言葉を抜き出されたわけです。そして、人麿は荒波の寄りくるところで死んだ。では荒波というのは、川の波にふさわしいか、海の波にふさわしいだろうかと、梅原さんの膨大な本のなかでも重要なキーワードになるところですね。その答えは海の波にふさわしい。川の波ではちょっと言いすぎというか、あまりふさわしくない。ところが海の波だったら荒波というのは当然ありうる、というところから人麿は海で死んだ、というテーマを導かれたわけです。そして、その海はどこかということで、島根県の益田市のほとりで死んだ、と。
益田市というのは石見国で第二の人口をもつ町なんですね。その沖合、湾の入口になるところに鴨島という島がある。現在はないんです。中近世に地殻変動があってこの島は海底に沈んでしまった。しかし、当然ながら奈良・平安という時代にはあった、文献からも証明できるというわけです。ですから鴨島に、だいたい島というのは平地ばかりの島というのは珍しいので、山島ですわね。ですから鴨島の山部分を鴨山と呼んだであろうと。これもまた、鴨山と呼んだという証拠は出てこないんです。でも鴨島の山だから鴨山と言ったのであろうと、これもさきほど流に言えば、梅原氏が命名したような感じになるわけです。そこで、鴨山の沖合で死んだと。  
人麿は海に投げ込まれたのか
ここでご存知のように、読んでいてびっくりするようなアイデアが出てくるわけで、人麿は処刑されたのである。流刑人でここにつれてこられて、舟から海に投げ込まれたんだと。重しか何かつけられて投げ込まれたんでしょうね。その投げ込まれる前に鴨島で詠んだのが、あの辞世の歌である。そういう驚天動地の見解を述べられた。もちろん若干のバックはあるんです。この益田市には柿本人麿神社があります。実は二つあるんですね。一つは益田市にあってこれは立派な大きな神社です。もう一つは「とたこはま」と呼ばれる駅がございます。そこにも柿本人麿神社があるわけです。そこの祭礼が行われる時期が人麿が流刑になった時期であろう、というような話も入ってくるんですけどね。
その投げ込まれる瞬間を、梅原さん独自の筆力で、まざまざと読む人を引きずり込むように書かれております。ですから人麿は海で死んだ。しかも海に投げ込まれて処刑された。それは益田市の沖合の鴨島のほとりであった。だからそこに人麿の墓があるにちがいないということで、海底考古学というんでしょうか、滋賀県の田辺さんなんかを誘って、ここを発掘しておられる。去年第二回か三回の発掘予定だったのが延期になったと、私が行った時書いてありましたけどね。そういうことでみなさんも新聞その他でご存知のとおりでございます。  
元歌には「海」はない
さてそれでは梅原さんの言われる鴨山ですが、これはどうかと言われれば、私はやはりノーと、斎藤茂吉の場合と同じようにノーと言わざるをえないわけです。なぜかと言いますと、これは非常に単純な理由でございます。梅原さんが証拠にされた歌の詞書を読んでみますと、「丹比真人、名をもらせり、柿本人麿の意(こころ)に擬へて報(こた)ふる歌一首」。これは、丹比真人という名前がわからないんですが、人麿の気持になって奥さんの依羅娘子に報える歌だと。つまり奥さんが歌を詠んでいるわけですね。その奥さんの歌に対して、人麿が報えようとしても人麿は死んでいるから報えられないわけです。それでは私が代わって報えてあげましょうという形で作った歌だと。ですから歌の形としては報歌(ほうか)というものである、ということは依羅娘子の歌が下敷きになって、それに対して作られた歌ということです。
わかりきったことを繰り返すなと言われるかもしれませんが、これ大事なところなんです。そういう限定があるわけなんです。ですからその報歌を理解するには、元歌を基に解釈しなければいけないという制約があるわけですね。元歌を切り離して勝手に解釈していいというわけじゃないんです。その約束はみなさんそのとおりだと思われるならば、元歌には海はないわけです。石川は出てきます。川しかないわけです。そうすると、荒波とあったら石川の荒波と考えざるをえないですね。不満であっても約束からすると。依羅娘子の歌に出てくる石川なるものの荒波と考えざるをえないと、これが基本の約束なわけです。
それではさっきの、荒波は川の波にふさわしいか、海の波にふさわしいか、という問いかけは、元は非常に面白い、意味深い問いかけだったことが、この講演の最後におわかりいただけると思うのです。とにかく梅原さんがそう問われた。ところがそれに対する一応の答えはすぐ出るわけです。ある本の歌に曰く、としまして最後に出てくる歌ーー
天離(あまざか)る夷(ひな)の荒野に君を置きて思ひつつあれば生(い)けるともなし
「君」というのは当然、人麿です。そうするとこれを作ったのは奥さんということになりますね。しかし作者はいまだ詳(つまび)らかならず、となっているんですから奥さんが作ったわけではないわけです。つまり奥さんになり代わって作っている。おせっかいな人が多いですね。奥さんが死んだあとでしょうけど、そういう歌が万葉集にのっているんですね。そのなかに「荒野」という言葉が出てくる。「夷(ひな)」は中小路さんが夷問題を追求していて、非常に興味深い言葉なんですが、今それは省略します。
つまり、夷の荒野の一隅にあなたの死骸が横たわっているということを聞いて、さがしているが生きた心地もしない、という依羅娘子が作っているという形にして詠んだ歌です。ここに「荒野」と出てきますね。では荒野というのはどんな野原にふさわしいか。林があるほうがふさわしいか、無いほうがふさわしいか、家は何軒まで許されるか、こんなことを議論してもしょうがないと思いますね。要するにこの荒野というのは、家が何軒とか、家の高さは何メートルまで許されるとか、そんな話じゃないわけでしょう。人麿の死骸がむなしく横たわっている野原、という心情の世界としての「荒」である。こう考えるべきじゃないでしようか。
この点はすでに人麿自身が、この「荒」を使っているわけです。人麿が讃岐国、香川県ですね。そこへ行って水死人が岸辺に打ち上げられている。それを見て作ったという有名な長歌と短歌がございます。妻や子は帰りを待っているであろうに、それも知らずにご本人はここにむなしく岩に打ち上げられている、ということを長歌で、また短歌で歌っているわけです。そのなかに「荒床」という言葉が出てくる。私もここへ行きましたが、香川県内の教育委員会が立て札を立てて、この岩である、としているんです。たしかにそう言われればそうかと思うような大きな岩ですが、海岸べりで、上がわりと平べったいんですね。ですから、ここだと言われればそうかなという感じなんです。そこに水死人が波で打ち上げられていた。その岩を「荒床」と人麿は表現しているわけです。
ということは、その岩に苔が何センチ以下なら荒床と言えるとか、何センチ以上では荒床では無理であるとか、そんな話ではないと思うんです。妻子が今日か今日かと待っているだろうに、それをご本人は、船が遭難したんでしょうか、打ち上げられてここにいると。そのいわゆる空虚さ、むなしさ、荒涼たる気分、それを表現すべく荒床と言っているんだろうと思います。ですから、こういう「荒」は人麿自身も使っているし、人麿が死んだのち、依羅娘子に代わって作った歌にも表われている。ですから、丹比真人の「荒波」は、時間的にはその両者の間ですから、やはり基本的にそういうものとして理解すべきであろうと思います。「荒波」という単語を取り出して海か川か、いずれかを決定することは無理であろうと考えたわけです。したがって、ここを出発点にして、人麿は海で死んだというテーマをたてて鴨島へ行かれた梅原さんの手法は、力作ではあるけれど、茂吉の場合と同じように基本的な論理関係をあやまられたのではないかと考えたわけでございます。 
石見国の石見で死んだ
それでは、茂吉もだめ、梅原さんもだめという、いったいお前自身の考えはどうだと問いかけられるだろうと思います。この答えは意外に簡単に出てまいりました。やはりこういう問題を考える上では人麿自身の歌、さっきは依羅娘子の歌を原歌と言いましたが、本当の原歌は当然ながら人麿の歌です。
鴨山の岩根し枕けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ
これが一番の原歌であります。この原歌を基本に考えなければいけない。それでその原歌の詞書をみますと、「柿本朝臣人麿、石見国に在りて臨死(みまか)らむとする時、自ら傷みて作る歌一首」とあります。この「石見国に在りて」という言葉を従来の人は、斎藤茂吉も梅原猛さんもいずれも、石見国のなかのどこかで死に臨んだ時と解釈されたわけです。つまりサムウエア、エニウエアという言葉を補って解釈され、そのサム探しエニ探しにエネルギーを使われたと言っていいだろうと思うんです。それは、正しくなかったのではないかと私は思うんです。
なぜかと言えば、石見国で死んだという言い方には日本語としてーーよその国の言葉でも一緒だと思いますが、今、問題は日本語ですから日本語として言いますがーー約束がある。たとえば、私は京都に家があります。誰かが京都で死んだという場合、私の感覚ではできれば京都市内で死んでほしい。私の家がある向日町というのは京都の桂川の、文字どおり向こうで郊外ですが、まあその辺なら京都で死んだと言ってもそうウソとは言いません。しかし舞鶴で死んだのを、京都で死んだと言われると、それは京都府には入りますが、やはり京都府の舞鶴で死んだと言ってほしい。いきなり京都で死んだと言われると、何か言い方として的確でないという感じをもつ。ただ京都市で死んだのを、京都府の京都市で死んだ、と言ってもかまいませんが、それはちょっとご丁寧すぎる言い方であると私には感じられます。おそらく他の方でもそうだろうと思います。
ということは何か──石見国で死んだということは、石見で死んだという意味である。石見国の石見で死んだということを、石見国の石見で死んだと書いてもかまいませんよ。しかし、それは京都府の京都市で死んだという書き方で、普通の日本語としては丁寧すぎる。日本人はなるべくわかっていることは言わないんですから、そういう日本語でね、石見国の石見で死んだとは言わない。
これは、さきほど出ました筑紫の場合にその経験をしたわけです。といいますのは筑紫舞という、これも最近、面白い問題が続出して調べたいことが山ほどあるのに時間がなくて困っているんですが、筑紫舞という九州王朝の舞ではないかと言われているものですね。これを求めて宮地嶽へ行った時のことです。むかしは博多から宮地嶽のほうに馬車鉄道というのが通っていた。レールが敷かれて機関車の代わりに馬が鉄道を引っ張っていたわけです。これが大正から昭和の初めにかけてあったわけです。最初は朝倉のほうにも馬車鉄道がありましたが、こちらはもう早く廃止されて、残ったのは宮地嶽行きだけです。その馬車鉄道に乗って古墳の横穴みたいなところで筑紫舞を見た、と西山村光寿斉さんは言われたのです。それは正にこの馬車鉄道で、その古墳は宮地嶽古墳の横穴であったということが判明したわけです。このことは角川選書の『よみがえる九州王朝』に書かれております。
その時に馬車鉄道の馭者の生き残りの方にお目にかかってお話を聞いたんですが、「ああ、舞を奉納しに宮地嶽の古墳の穴のところにきとりました。一つは日向の国から、一つは筑紫からきとりました」。その時、私は瞬間混乱したんです。福岡県ですから筑紫国にきているつもりだった。ところが筑紫からきておったと言われてちょっと混乱したんですが、何秒かのうちに、ああそうかと、さっきの話ーー筑紫郡筑紫村大字筑紫小字筑紫というのがあるというのを聞いた後だったので、ああそうか、この人が筑紫と言っているのは、筑紫国ではなくて大字筑紫のほうで、つまり太宰府のほうのことだと理解しました。この場合もその方は、「筑紫からきた」とおっしゃつたので、「筑紫郡の筑紫村からきた」とか、「筑紫国の筑紫からきた」とか、そういう言い方はされなかった。日本語じゃそういう持って回った言い方はしない。「筑紫からきた」でいいわけです。
そういう経験がありましてね、そういう例からみますと、石見国で死んだということは、石見国の石見で死んだと理解すべきである。これは石見国の国府のあるところ、現在の浜田市ですね。そこで死んだという意味に理解しなければならない。浜田市は現在、石見国で人口最大の町でございます。  
浜田市に「鴨山」があった
ここで私の失敗談を申しますと、初め私は地図を開けましたら、広島県に近い山間部に石見町というのがありまして、そこかと思ったんです。で、出雲へ行った時にそこへ寄りましょうと、「市民の古代」の大阪のグループの人たちといっしょに行ったんです。そこからバスで帰る時に三木カヨ子さんという大阪の主婦の方ですが「先生、ここは昔から石見町と言ったんでしょうね。そんなことはもうお調べですわね」と言われた。「ああ、そうですね、それ調べてきます」と。うかつなことですが、帰って調べてみましたら真赤なウソだったんです。現在の石見町は昔はまったくなく、市町村合併の時に、みな自分の町名を残したいと譲らないので、どの町村名にもない、石見国だから石見町という名前をつけた、といういきさつを知りました。本当に顔が赤くなったわけでございます。
それでもう一ペん調べ直してみると、『和名抄』に出てくる石見というのは現在の浜田市、ここに石見国の国府があったということがわかってきました。そして現地へ行って確認しました。ここに石(いわ)神社、石見社とも言うんですが、石(いし)神を祀っている神社が浜田市の真ん中にある。「いわみ」というのは「み」は神様の「み」でしょうから、石神という意味なんですね。で、石神を祀った石見社というのが、さきほどの言い方で言いましたら、石見国石見郡石見村大字石見小字石見に当たるような石見なんです。浜田市の繁華など真ん中にあります。昔はその境内に岩があったそうです。今はもう壊れたのしかございませんけど。というようなことで、石見国府のあった土地、浜田市、ここが人麿の死んだ場所である、という結論に達しました。
私が最初に浜田市へ行きましたのはもう数年前になりますが、市役所へ行きまして、図書館へいらっしゃいと言われて図書館へ行きました。そうしますと図書館の館長さんが私の名刺を見て非常に歓待してくださいました。「よくいらっしゃいました、どうぞどうぞ」と。石見の人は丁寧なんだなと。たしかに丁寧なんですが、よく聞いてみると実はそれだけではなかった。と言いますのは、関ケ原の戦いの時、それまでの城主が西軍に味方して負けたわけです。その後、東軍のほうから新しい城主がやってきた。それは三重県からやってきたそうですが、それが古田某という城主であったわけです。それで私の名刺を見て「ああ、よくいらっしゃいました」。全然もう私関係ないんですけどもね。古田という姓で得したのは初めてでしたけども。
あっ、もう一回ありました。京都(妙心寺)で、糟屋の評というのが出てくる日本最古の鐘があるんですが、そこへ行った時に、そこの責任者の方が私の名刺を見て「あ古田か、わしも古田じゃ」と言ってですね、「岐阜の古田じゃ、お前はどこの古田じゃ」と言うんでえらい親切に、中までよく観察させてくれたことがあるんですが、まあその時以来二回目でございますかね。
そこで、いろんな文書を沢山出して、みなコピーしてくださったんですが、それでわかったことは、この浜田城は浜田市の真ん中の丘の上に建っているのですが、関ケ原までは、その浜田城の建っている丘が鴨山と呼ばれていた。ところが古田某が、鴨山なんて名前をもっと縁起のいい名前に代えろと、まあこれ無知だったんですね。おそらく鴨山の「カモ」は神様の「カミ」と同じで神聖な山という意味なんです。ところが古田某はそういう知識がないから、鴨がヒョコヒョコ歩いている山みたいに理解したんでしょう。それでもっとおめでたい名前に変えろと、土地の人は鴨山と昔から言ってきたのを、あまり違う音にしたくないので、似た音でおめでたい亀山と直したというわけです。有りがたいことに、関ケ原ぐらいだったら証拠文書がいっばいあるんですよ。それをいろいろコピーして出してきてくれましてね。それで鴨山が国府のど真ん中にあったということがわかったわけです。  
浜田川は昔「石川」と言った
これは私にとって満足できる結果でした。なぜかと言いますと、私は少年時代に一所懸命、斎藤茂吉の『鴨山考』を写しながら、ふと抱いた疑問があったんです。人麿は「鴨山の」といきなり始めているんです。これが、もしわかりにくい鴨山でしたら、どこどこの鴨山というはずだと。といいますのは、人麿の歌をみていたからですね。枕詞がやけに出てくるじゃないですか。もうひどいのは、五・七・五・七・七のなかで最後の七以外は全部枕詞みたいなのもあるではないですか。それでけっこう読み終わったら全体が強烈な主観を表現しているというね。それが歌の名人たるゆえんですね。そういう人麿ですから、歌が五・七・五・七・七の関係で省きましたなんてことはないわけです。もしこれが湯抱の鴨山なら、江川のなんとかなる鴨山に、とか、そう言わなければわからないじゃないですか。また鴨島だって、人が鴨山といえば誰でも石見の人はあそこしか思わない、ということはないから、益田なる何とかの海の上なる鴨山の、とか言うべきである。
それを言わずにいきなり「鴨山の」と言っているのは、いきなり鴨山でわかると、聞いた人もわかると、まあ、あれだけのプロですからね。聞く人をいつも意識して作っています。聞くほうもわかるという立場で作っているんではないかと。要するに、そんなにややこしい鴨山かなあと、少年なりの、少年と言えばどの少年もみな直観の天才でしょうからね。私も当時は天才だったわけで、そういう感じをもったんです。そうすると、その私の出発点の疑問からすると、ここの鴨山は正に国府のど真ん中、町の中心の山が鴨山なんですから、これを、何とかの鴨山という必要はないわけです。もう鴨山といえば誰でもここを考える、ということで、浜田市の鴨山はドンピシャリ、その条件に、私の基本的な疑問に対応できた。まあ、ここまでよかったんです。ここまでの話はもう聞いた方もあると思うんですが、実はそこからあとの問題に、去年の秋、当面することになったんです。
と言いますのは、私の学校の授業でこの話をしましたところ、一人の女生徒がきて「私は浜田市の出身です。何かお役に立つことがありましたら何でもおっしゃってください」と言ってくれたわけです。「それじゃ調べてほしい」「何ですか」「石川というのは何か、調べてほしい」「わかりました」。真面目なお嬢さんで、ちゃんと調べてきてくれて「こういうのがあります」。そうしたらちゃんと石川というのがあるんです。浜田市の真ん中を流れている川です。現在、浜田川と言っているんですが、昔はこれを石川と言ったというんですね。それは『浜田の歴史と伝承』という本が出ておりまして、そこに出ております。
石見川本村北方ニアリ。今浜田川ト唱フ。石川ト同川ナリ。勅撰ニ出ス。
石見潟本村北方ニアリ。石見郷ノ海辺ヲ云フ。名寄セニ出ス。
石見海本村北方ニアリ。石見郷ノ海ヲ云フ。類字名所集ニ出ス。
とありましてね、浜田川というのが昔、石川と言った、ということで石川が浜田市のど真ん中にあったわけです。
これはもう決まりだなあという感じをもちましてね。しかし、やはり現地を足で踏まなければと、秋田孝季が言ったように、「歴史は足にて知るべきものなり」というので現地へ行ったわけです。そうしますと行ってよかったんです。行った時は台風のあとでした。そして石川の上流へ行ったんです。なぜ上流へ行ったかと言いますと、茂吉に従って「石川の貝に交(まじ)りてありといはずやも」という、貝殻の貝が本文に書いてあるんですが、注釈で「一に云ふ、谷」という字が書いてあるんです。茂吉もこの問題に一所懸命に取り組みまして、峡谷の谷がいいだろうと、こう理解して江川の中流域の湯抱へ行ったわけです。 
浜田川(石川)の洪水
私も少年時代から、峡谷の谷だろうと思ってきたんです。ところが、浜田市の下流は町のなかを流れている平凡な川であって、全然、峡谷なんて感じじゃないんです。ですから峡谷がないかなと思って、朝早く起きてタクシーでずっと上流へ行ってみたわけです。そうしますと、たしかに上にダムがありまして、その界隈はかなり深い峡谷になっている。これでいい、と思いながら帰ってきたわけですが、途中で待てよ、峡谷は浜田川の上流にあるわけです。ところが鴨山というのは浜田城のあるところ、河口なんですね。海に臨んだところなんです。鴨山で死んだということは、海際で死んだことになりますね。「石川の谷(かい)に交(まじ)りてありといはずも」というのは上流になるじゃないですか、分裂するわけですよ。もう決まりだと思って、しかし念のため現地に足を運んだら、ばらばらに分裂して、この話が成り立たないということに気がついたわけです。これはやはり現地を足で踏むご利益ですね。
そしてその後、気がついたことがあるんです。タクシーの運転手さんから聞かされていた「この浜田川というのはおとなしそうだけども、一度、洪水になると始末におえんのですわ、よく人が死にます」と。そしてまた私のところの生徒のお父さん、お母さんがわざわざ案内してくださったんですが、そのお二方からも、この浜田川というのはよく洪水で人が死ぬ川です、と。戦前の昭和一八年頃、戦後の昭和三十何年か、ダムができてからでも昭和五七、八年頃ですか、ひどい時には二〇人ぐらい死んだことがある、という話を聞かされていた、それを思い出したんです。
つまり、これは本文どおりの貝殻の貝でいいのではないかと。「貝に交りて」というのは洪水ですね。この洪水の時、人麿が鴨山のほとりで死んだのではないか、ということに気がついたわけです。
そうなりますと、
柿本朝臣人麿の死(みまか)りし時、妻依羅娘子(よさみのをとめ)の作る歌二首
今日今日とわが待つ君は石川の貝に一に云ふ谷に交(まじ)りてありといはずやも
直の逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ
あとの歌はこれは原文を見ましても文字どおり、石川となっております。ところが前のほうは、読み下しでは石川となっていますが、原文は石水となっています。それを両方、石川、と従来カナを振ってきたわけです。しかし、これはおかしいですよね。同じ人が詠んで同じ時に書いたものを、片方を石川と書き、片方で石水と書くのはおかしいじゃないですか。これはやはり読みが違うと考えるほうが、原文尊重から言って自然じゃないでしようか。「石」は石見国ですから「イワ」と読んでいいと思うんです。「イワミヅ」ではないかと思いました。「ツ」というのは「津」、石見潟とか石見海とか並んでおりましたね。そこは港になっておりますので「イワミヅ」と呼ぶことができる。「いわみづの貝に交りてありといはずやも」。貝はあんまり川にはいない、海にいるんだという話がありますけれども、まさにこれは石水の海の貝、それにまじって人麿の死骸がある、ということで洪水で人麿は死んだのではないか、ということに気がついたわけです。
そうしますと、梅原さんが出された問いがはからずも非常に意味があったわけです。荒波と言えば海の波か川の波か。これは正に石見津の石川の荒波ですから、川が荒波を生ずるのは洪水の時です。ですから石川が氾濫したその荒波のなかで、人麿は流され、鴨山に打ち上げられて、おそらくもう自分の死期は近いということで作ったのがこの歌なのでしょう。依羅娘子というのは江川の入口の江津の出身だと言われているんです。驚きましたがね。依羅娘子のご子孫が今いらっしゃるんです。思いもしませんでした。この間までいらっしゃったんだが、現在はご主人が亡くなられて娘さんが二人。一人は大阪に、一人は仙台にいらっしゃって、お母さんのほうは大阪と仙台行ったりきたりして、今大阪にいらっしゃいますという話なんです。それから人麿記念館が最近できたんです。あの湯抱にね。村おこし一億円でしたか、そのお金で作ったそうです。その時に、そのお母さんが依羅娘子の子孫ということでいらしたそうです。依羅娘子の子孫ということは江津の人たちはそう言い伝えている。これは不思議な話ですね。まあこれは余計と言っちゃ何ですが、面白い貴重な話です。  
妻、依羅娘子の歌
とにかく依羅娘子は江津で作っている。人麿は鴨山で死んだと。それでですね、もう一つ最後に、依羅娘子のあとの歌ですが、これは従来の読みが少し違うのではないかと思っております。「ただの逢ひは逢ひかつましじ」と読まれております。直接、逢うことはできないだろう、だから石川に雲立ち渡れ、見ながら偲ぼう、と。これも変な話で、遠いから行くのがめんどうくさい、雲を見てがまんしようといった感じですね。しかし石川に雲が立つのが見えるくらいだから、あまり遠くはないはずですよ。それなのに直接行かずにすまそうなんてね、この奥さん依羅娘子、えらい怠け者だなあと。心ではえらい痛切なようなことを言いながら行動はさぼっているなと、こんな注釈した人は、ないと思いますが、感じて言うならばそんな感じがするんです。
ところが、これは文章の読みが違うんじゃないかと思います。原文では「直相者相不勝」となっております。これは「ただの逢いは逢いたえざらん」と読むのではないでしょうか。「かつまし」ではなくて「たえる」。杜甫の詩で「都を遠く離れているそのうちに自分は白髪になった。そして簪(しん)にたえざらんと欲す、白髪にかんざしがさせないような感じになってきた」というところで、この「勝」という字が書いてあります。「欲不レ勝簪」「簪に勝えざらんと欲す」あの「堪える」ですね。つまりこれは、「直接逢うことはお互いにがまんできないでしよう」。つまり使いの者から、人麿の死の惨状を聞いているわけです。足が折れたか、腹がどうなったか、むごたらしい死相を呈しているわけです。ですから「そういうあなたの顔を私は見たくない。私にとって、あなたはりりしく素晴らしい男子であったし、そのあなたを私は記憶しつづけたい。あなたもそんな自分を私に見られたくないでしょう」。「相不レ勝」「お互いに堪えることができないでしょう」というわけです。
これは現在でも交通事故で奥さんが警察にかけつける。死体安置室へ行って奥さんは見たくない。弟さんか誰かに「あなた見てきてください」、これは不人情ではないわけです。自分の愛する夫が変な顔に変形した、そういう顔を見たくないという繊細な心情です。怠け者の心情ではないわけです。それと同じような、ある意味ではもっとつっこんだ表現でしょうね。つまり、私はそういうあなたを見たくありません。あなたもそういう顔を私に見られたくないでしょう。これは「相勝えざらん」という「相」の意味ではないかと私は理解したわけでございます。まあ、この辺は主観ですからね、こうでなければいけないというわけではないんですが。遠いから行けない、というんではなくて、行けるんだけど私は行きたくない、という歌だと。そういう意味で、昔から好きな歌ではありましたが、一段と素晴らしい大好きな歌に現在なっているわけでございます。
ということで、私の鴨山論、結論に到達してみれば大変平凡な、わかりきった答えであろうと思いますけども、私はわかりきった答えに到着できたことで安心したわけでございます。
万葉学と言ってもずいぶん変わった発展をとげておりましてね。たとえば、人麿というのは歌俳優であって、万葉に出てくる歌はみんな本当の経験じゃなくて作られた歌にすぎない、とか、そういう説が学者によって出されているのです。そのあげくは、だからこの辞世の歌でも本当に死んだ時に作ったのではなくて、人麿が、私が死んでみたらどうだろうという頭で想像して作った歌だとかね。この石見というのは、大和にも石見があっただろうから、そこでイメージして、でも同じ石見なら辺境のほうが面白いというんで石見国に対して作ったんだろうとかね。なんだか読んでいて、へえ、と思うような説がいろいろあるんですが、私は最も素朴な、最も当たり前の歴史学の扱い方でこれを読んだら、こうなった、というところをお伝えしたわけでございます。  
「非時(ときじく)の香(かぐ)の木実(このみ)」の論証
「橘」はバナナか
最後にもう一つ申させていただきます。これも去年の、私の発見ではないのですが、大きな経験でございました。九月二〇日のことでした。今日もきておられるかもしれませんが、西江碓児さんという大宮の方がいらっしゃる。前からよく存じあげていたんですが、この方から初めてお電話がありました。私が青森県の石塔山神社のお祭りに行って帰ってきたその日、帰って二〇分ぐらいして電話がかかりました。「何ですか」と言いますと、「古田さんタジマモリの話ご存知ですね」と。「はあ知っています」「あれおかしいんじゃないでしょうか」「どこがおかしいんでしょう」「あれはトキジクノカグノコノミをもって帰ったと。で、それは橘である、と書いてありますね」「ああ、書いてあります」「橘というのは、『倭人伝』に橘があると書いてありますよね」と。「ああ、ありますね」「そうすると日本列島に橘はあったわけで、それを波涛万里取りに行ったというのは、『日本書紀』では一〇年かかったと。これはおかしいんじゃないでしょうか」と。「なるほど、それはそうですね」。
それともう一つは、「縵八縵(かげやかげ)」「矛八矛(ほこやほこ)」と従来読まれていた。これは『古事記』『日本書紀』ともに書いてある。タジマモリが垂仁天皇のところに持って帰ったその形が書いてある。帰った時は垂仁天皇は亡くなっておられたと。そこで墓のそばで泣き叫んだと、『日本書紀』ではそこで死んだと書かれている。ところが「縵八縵」というのは、岩彼『古典文学大系』の注釈によると、橘を紐でつないで、お祭りの時に飾りにして使ったんではないかと。まあこれはいいにしても、「矛八矛」はおかしい、橘をどんなにつないでみても矛の形にはなりません。西江さんは愛媛県のご出身で、みかんの名産地、だから子供の時おもちゃと言えばみかんしかなかったと、まあ極論でしょうけど。
みかんをいろんな形にして遊んだけれども、どうあれをつないでみても矛になりませんと、そりゃそうですよね。「あれはバナナじゃないでしょうか」。私は腹のなかでは、まあ何てつまらんことをと思ったんですよ。しかし、そうも言えないので「では後で『日本書紀』『古事記』をよく見てみますので」と、疲れていましたのでごめんこうむったのです。そこで次の日と次の日『古事記』『日本書紀』を読んでみますと、とんでもない、これはすばらしいアイデアであったわけです。
なぜかと言いますと、先ずこの場合、障害物になったは、『古事記』『日本書紀』ともに書いてある注釈である、原文注釈なんですね。つまりトキジクノカグノコノミというのは今の橘である、ということが『古事記』にも『日本書紀』にもちゃんと書いてある。だからそれによってわれわれは考えてきたわけです。ところがこれは、和田家文書『東日流外三郡誌』を扱う時に私が方法論として提出したものですが、資料に大きく分けて二種類ある。S資料とR資料がある。S資料というのはソース資料、R資料というのはリコメント資料。つまり原資料がS資料、後代資料がR資料。後代の学者の解釈で「トキジクノカグノコノミは今の橘である」と書いてある「今」というのは七、八世紀、『古事記』『日本書紀』が成立した七、八世紀現在の「今」である。七、八世紀の近畿天皇家の学者が、「これは今の橘である」という注釈をしている。
この文はR資料に属する。それ以外の説話全体がS資料である。というふうに分けて考えますと、そのS資料分に関しては、たしかに「倭人伝」という中国の同時代資料を基盤にして考える。その目で『古事記』『日本書紀』の内容を点検する、この方法は正しいわけですね。その目で見ると、やはり橘を遠くへ取りに行くというのはおかしい、ということになりますと、結論としてやはりこれはバナナと考えるほうがいいだろう。バナナだったら初めから矛の形をしていますからね。そしてまた房のようになっている。
天皇家の史官の誤認か
しかも私おどろきましたのは、私の学校に中村卓造さんという生物学の教授がいらっしゃるんですが、東南アジアへ三〇回前後、研究旅行をしていらっしゃる。行ったら一か月ぐらいおられるんですが、この方のところへ行って聞きましたら、実はバナナには二種類あるんだそうです。原種バナナというのは三十数種類あると辞書に書いてありまして、みな赤道近辺のインドネシアとかマレーシアとかインドとかにあるのですが、それを形態で分けますと二種類になるそうです。普通のバナナの実はしだれ柳のようになって、その先にわーっとついていて、重いので実が地に着いているそうです。ところが中村さんがマレー半島で見られたバナナは直立の幹、それに天に向けてバナナがなっている。下は何もなくて上だけで。だからあれを切って帰ったら正に矛八矛なんですね。しだれ柳をとって帰ったら縵八縵、これは本当は「きぬ八きぬ」と読んだほうがいいと思います。
諸橋『大漢和』で見ますと、縵というのは模様のない絹のことのようです。バナナは正に模様のないような感じですね。橘はつぶつぶで模様があるような感じですがね。「かげ」と読んだのは『延喜式』あたりで、蔭の読みをもってきて、かなを振ったんです。ですから本来、「かげ八かげ」と読むのはおかしかったんです。ということで、驚いたことに、矛八矛、縵八縵というのは原種バナナの二形態をそのまま表現していたんですね。非常にリアリティがある。この場所もおのずから決まるというか、かなり決まってくるんじゃないですか。
つまり、しだれ柳のバナナは赤道帯にかなりあるんですね。ところが直立のほうは割と珍しいですから、中村さん珍しがって盛んに写真をとっていらしたんだそうです。そうすると、両方がダブってある地域ということで、行った領域が限定できるんじゃないでしょうか。おそらく将来、植物学の本にのるでしょうね。というのは、今、植物学の本にのっているんですよ、この橘の話が。橘であるという解説で植物学の教科書にのっている。中村さんが見せてくれました。あれは書き直さなきゃいけないですね。
この経験は非常に重大な意味をもちます。なぜかと言うと、七、八世紀の天皇家の史官は大ポカをやったんですね。誤認したわけです。しかし誤認が素晴らしいわけです。なぜかと言うと、つまり七、八世紀の天皇家の史官にとってバナナというのは、手持ちの果物になかったということです。ですから一番似たものとして橘だろうとやったわけです。「橘かもしれない」くらいに書いておけばよかったんですがね。それを断定的に書いてしまったんです。
ということはつまり、S資料部分は彼等の造作ではなかったということですよね。津田左右吉は、『古事記』『日本書紀』の神話・説話はみな六世紀以後の天皇家の史官の造作で、でっち上げてあると、こういうすごい断定を下しましたよね。ところが、もしそうであったなら、自分たちがでっち上げた話を、自分たちで大ポカ、誤認するということはないわけです。この大ポカは、このS資料部分の説話が古くからの説話である、彼等のでっち上げではない、津田説は成り立たないという証明力をもっていたんですね。
今までにない近畿説否定論
もう一つある。邪馬台国問題にも関係するんです。なぜかと言うと、「倭人伝」によれば倭国には橘があったわけです。ところが、この七、八世紀の史官の目では、橘は昔はなかったと考えられているんです。昔からあったものだったら、よそへ取りに行く必要はないですから、七、八世紀現在では橘があって、みな食べておりますが、昔はなかったと考えている。こういう認識というのはばかにならない。たとえば、バナナというのはわれわれは明治以後のものだと知っていますよね。銭形平次がテレビでバナナを食べているという場面はないわけです。それがあったら視聴者がすぐ文句の電話をかけるでしょうからね。これは要するに、みながバナナは江戸時代になかったと思っているからなんです。その認識は正しいわけです。誰が証明したわけではないがみな知っている。
同じように『古事記』『日本書紀』の編者は、橘というのは昔はこの近畿になかったのだということを知っているわけ。ところが三世紀の「倭人伝」には「倭国に橘あり」と。そうだとすれば、近畿は邪馬台国ではないということになります。さきほどの木佐さんの軍団といい、この橘問題といい、こういう近畿説否定論は今までなかったんですからね。さまざまの効果をもちます。
例の海幸・山幸の話もなかなか私、解けずにいたんですが、この西江理論の効果によって解け始めたんです。あれは何となく対馬らしいと浅茅(あそう)湾の北岸部に海神(うみかみ)神社があって、天(あま)の真井(まない)もそばにあって、あそこが舞台じゃないかなと感じていたんですが、困ったことに「今、隼人が朝廷に犬のような格好をするのは、このせいである」というのがあって困っていたんです。ところが、今の方法、S資料とR資料によって、隼人が犬の格好をする、というのはR資料、近畿天皇家に関する学者の注釈、それを述べた部分がS資料で、これはどうも対島の海神神社をバックにした説話であろうということで、あっちこっちがすっきりしてきました。「今何々」というのがたくさんあるでしょう『古事記』『日本書紀』のなかに、あれはみな、西江理論によって見直されなければいけない、ということでバナナの威力は絶大でございます。
一市民の方のアイデアから、去年、私が教えられたというわけでございますので、一つ今年もみなさんのいろんなお知恵をいただいて勉強したいと。もう私なんかが思いつかないアイデアや考え方を提供していただいて、それに従って私が考えるという、私としては非常に楽しい、六五歳になった老人にふさわしい状況になっていますので、どうぞよろしくお導き、お願いいたします。
質疑応答
質問 / 柿本人麿は柿本佐留は同一人物でしょうか。また益田市で人麿が生まれたという説についてどうお考えでしょうか。
答 / 今おっしゃった二点とも、私も関心をもったテーマでございます。最初の問題は梅原猛さんが言っておられるんですが、『続日本紀』に出てくる柿本佐留というのが人麿なんだと。これもまあ一種の弁舌をふるっておられるように私には思えるんです。まあ率直に言ってあまり成功していない。これは梅原さんの構想からそれを結びつけたかった、ということはわかりますけれども、しかし客観的な分析からみて、「佐留」が「人」だっていうのはね。人麿を流刑にしたから、それをはばかって「サル」と書いたとか。これはまあ一つの解釈、思い込みではあっても、客観的な論証には耐ええないと私は思いました。
それから第二点の人麿が生まれた場所についてですが、益田市付近の「とたこはま」にある柿本神社の近く、五〇米も離れていないような感じですが、そこに人麿誕生地という場所があるんです。これは私は、かなり信憑性が高いんじゃないかという感触をもちました。というのは、どの家で生まれたとか、その家の名前とか、という伝承が伝わっているわけです。そういうのは『万葉集』にも『続日本紀』にも出ておりませんからね。これはかなり信憑性があるんではないかな、という感触をもっております。感触以上にこれは間違いないという論証はまだ得ておりません。ただありうることだなという感じをもっております。
質問 / 天孫降臨に追われたエミシはハヤトと同じと考えていいのですか。「愛瀰詩」とは美しい字です。エビスとかエゾを夷と当てていますがその関係はどうでしょう。またエビス信仰は強く残っていますが古代との関係はいかがでしょうか。
答 / 非常に面白い、またわからない問題のご指摘で、私としては整理させていただく程度のことしかできませんが、まず第一の問題、天孫降臨以前の博多湾岸、また糸島郡にも曲り田遺跡という縄文水田がございます。また唐津にも菜畑、これが今のところ一番古いんですが、縄文水田がございます。こういう人たちがエミシと呼ばれている人たちであろうというわけなんです。これとハヤトとの関係といいますと、要するに天孫降臨以前からいた人たちという意味では、北部九州のエミシも、南九州のハヤトも同じ性格をもつと思うんです。ただし、これは天孫降臨以前からいたという限りであって、それ以上、さらに進んで両者が同人種か同文明かってことになると、そこまでは今のところまだわからない。まあハヤトのほうは沖縄とかフィリピンとか南と関係の深い人たちであろうと思うんです。エミシもそうであるのか、エミシはまた違うのか、これは今後のテーマでございます。ということでお答えにならない答えが第一点ですね。
それから第二点のエミシが東北へ行ってエミシになったという話なんですが、エゾというのはうんと近世なんですね。これは明らかにアイヌのことをエゾと呼んでいるわけです。だからエミシとは分けて考えたほうがいいだろうと思います。
それから字面のほうですが、「蝦夷」は中国側が作った字であると私はかねて主張しています。大和朝廷が作ったように書いてあるのがありますが、これは間違いであろうと思います。なぜならば、中国の唐代の史料にこの字が使われておりますので。大和朝廷が作った字を中国側がまねして使うということはありえないです。とくにこういう夷蛮表記でね。彼等は自分が永遠の原点ですから、いつも自分を原点にしてしかものを言わないくせをもっておりますので。そういうことで、これは東夷のもう一つはるか、「蝦*」の字は、はるかという字なんです。虫へんは東夷・西戎・北狄を獣で表わす虫へんでございます。虫へんをとりますと、はるかなる東夷というね。つまり東夷のもう一つ向こうにいる人たちというイメージで作られた字であると思います。
蝦*は、虫編無し。JIS第四水準ユニコード53DA
では、音はどうかと言うと、これは「カイ」という音ですね。シべリアのほうで黒龍江の人たちが、アイヌのことを「クイ」と呼んでいるのが、東京国際大学教授の荻原真子さんの研究でわかっております。その「クイ」という言葉が「カイ」という音当てのバックにあるのではなかろうかと私は考えております。ちなみに青森県の太平洋岸、東南端のほうに名久井岳というのがありまして「クイ」がやはり入っております。この辺も面白いところでございます。
なお、今の問題に関連してもう一つこわい問題を申し上げますと、これは私の学校の副手の原田実さんが研究室で言いましたのに、「愛瀰詩」というのは非常にいい字じゃないんでしょうかね、と言うんですよ。ぞっとしましてね私。そんな無茶なと思ったんですが、しかし確かに理屈はあるんですよ。なぜかと言うと、ニニギ側が、侵略者側がつけたならもっといやらしい字を使うだろうと、ところがいい字ですわね。愛する、ポエジーの詩、瀰は深くたたえられた水、という意味です。みんないい字です。そんな良い字を侵略者がつけるだろうか、自分のほうならいい字をつけますよね。ですから理屈はあるんです。ただしかしねえ、という感じなんです。
ところが最近考えてみると、これは大変ありうるように私は感じているんです。なぜかと言うと、あの板付の縄文水田、あれがどこの影響かというのは、二つに分かれていて、考古学者の多くは北から、つまり楽浪郡・帯方郡からと言っていますね。人類学者のほうは江南からと言っています。まあ考古学者のなかでも江南からと言っている人もいます。樋口隆康さんなんかそういう意見になっていますがね。とにかくどちらからにしても、私は、それは周だと。つまり日本で言う縄文晩期は中国では周王朝ですから、それは周米であると、その点では共通しているんで、それを、こっちがウソならこっちが本当というような、そういう考え方をする必要がないんではないか、という考えを出したことがある。駸々堂から出ている『古代60の証言』でも述べております。
ところが、その問題を考えてみるともっと意味があるわけです。いずれにしろ周から米がきたということは、周というのは文字のある国なわけですよ。大篆・小篆。つまり文字のある土地から米をもってきたということです。あるいは向こうから技術者がやってきた可能性があるんですね。板付は非常に進んだ技術を示しています。堀割りにしてもノウハウが決して素朴なものじゃないです。そうすると向こうの技術者がかなりのり込んできている、もちろん協力したのはこちら側でしょうけどね。そうすると、その人たちは文字を知っている人たちである、という問題があるんです。江南でも同じですね、それは。
それからもう一つ。最近の話、吉野ケ里で銅器の製造跡が出てきた。弥生前期という時期。ところが弥生前期というのは天孫降臨以前ということですよ。天孫降臨は前末中初ですから。福岡県では前末中初(弥生前期の末、中期の初め)という言葉は考古学者の合い言葉なんです。その言い方でいうと、こんど吉野ケ里で出てきたのは前末中初以前なんです。ということは天孫降臨以前に、すでに銅器製産は行われていたということですね。当然これは、どう転んでも、中国はもうすでに夏・殷・周、銅器の盛りの国ですからね、そこから学んだに決まっているわけです。これも江南からであろうと、朝鮮半島からであろうと、中国からであることには疑いないわけです。
ところがその中国というのは、弥生前期ですから、これは周というよりは漢ですよ。漢ということになれば、大篆・小篆から、少なくてもオフィシャルには略体字としての漢字、われわれが旧漢字と呼んでいる字が略体字ですね。あの漢の文字どおり漢字に移った段階ですよ。ですから銅器ノウハウを学びに行ったお師匠さんは漢字を使っていたわけだし、もし向こうの技術者がきたんなら、その彼等は漢字を使っていたわけです。
そう考えると、天孫降臨以前から、大篆・小篆もしくは略体漢字は・日本列島に知られていたということになるわけです。そういう場合、一般論ですよ、情勢論からみるとね、原田さんがするどくつっ込まれた、「愛瀰詩」というのはエミシ側が書いた表記じゃないでしょうかという話も、むげにばかな、と言い切れないものがあるんです。こういうこわい問題に目下当面しておりますので、またいろいろお気づきのことがありましたらお教えいただきたいと思います。  
 
倭国の律令 / 筑紫君磐井と日出処天子の国の法律制度

 

一 はじめに
日本国最初の体系的な成文法典は、大宝律令である。『続日本紀』は、大宝元(七〇一)年八月癸卯(三日)、「三品刑部親王、正三位藤原朝臣不比等、従四位下下毛野朝臣古麻呂、従五位下伊吉連博徳・伊余部連馬養らをして律令を撰定せしむ、是に於て始めて成る」という。
しかし、早くも養老年間(七一七〜七二四)には、藤原不比等を総裁として、再び律令が刪定(さんてい)刊修され、天平勝宝九(七五七)年に至って施行された。これが、養老律令と呼ばれているものである。これ以後は、必要に応じて、格を発して律令を改廃し、新たに律令が編纂されることはなかった。
養老律令は、大宝律令の若干の内容修正のほかは、単に字句等を修訂したにすぎないといわれている。大宝律令は、律・令とも散逸してしまい、『令集解』(惟宗直本、貞観年間、八五九〜八七七)所載の「古記」に引用された逸文などによって、その一部が復元されているのみである。(1)現在、日本律令として伝えられているのは、養老律令である。
養老律は、全編の約四分の一(律目録、名例(みようれい)律前半、衛禁(えきん)律後半、職制律、賊盗律、闘訟律の一部)が残存し、他の部分も諸書に引用された逸文が、かなり蒐集されている。(2)養老令は、その大部が公定注釈書『令義解』(清原夏野、天長一〇年・八三三)および『令集解』の本文・注として現存し、亡失した倉庫・医疾の二篇も諸書に引用された逸文によって、ほぼ再現されている。(3)
この日本律令は、唐律令を継受して成立したものであるが、律の方は唐律より一般に刑を軽くした外には、大して改めたところもないが、令の方は我国在来の慣習に従って、かなり大きな変更を施しているとされてきた。(4)
しかし、石尾芳久(5)(6)(7)らは、大宝・養老律の編纂は、固有刑法の伝統への深い顧慮のもとに行なわれたという。そして、曽我部静雄(8)らによって、日本律令の条文の中には、魏晋南北朝の律令の影響を受けているものがあると指摘されている。
井上光貞(9)は、それは、古代の我国の国制が既に大化前代に、遠くは中国に由来し、朝鮮を経由した制度によって一応枠づけられ、律令法の体系的摂取は、この上に重層的にしかも大化前代の構造体を保存したまま、行なわれたからであろうという。
ところが、古田武彦(10)は、『旧唐書』(後晋・劉[日句](りゆうく)、九四五)に現われる日本国を近畿天皇家、倭国を九州王朝であるとし、百済を救援して唐・新羅との白村江の戦に敗れて衰微した九州王朝を、その分王朝であった近畿天皇家が併呑し、日本国と名乗ったという。『旧唐書』には、日本国は旧(もと)小国で倭国の別種であるが倭国を併合した、あるいは倭国は日本国と改名したとある。そして、『三国史記』(高麗・金富軾、一一四五)文武王一〇(六七〇)年の条には、倭国が国号を日本と改めたという記事がある。日本国は、長安元(七〇一)年・同二年・同三年と唐朝に入貢した(『冊府元亀』〈宋・王欽若、一〇一三〉外臣部朝貢、『旧唐書』本紀巻六則天武后、同書日本国伝)。こうして、日本国は、日本列島の代表王者として認められた。
古田は、倭国=九州王朝の六世紀前半に筑紫の君「磐井の律令」があり、七世紀前半に「日出づる処の天子の律令」があったという。そして、次のようにいう。このような新視点に立つとき、唐制に依拠したはずの大宝律令に南朝系の条句が見られるという法制史上著名の難問も、何の苦もなく解決しうる。なぜなら、九州王朝系の律令は、倭の五王が南朝の冊封下に参入するを願い続けたように、当然ながら南朝系の律令を核心としていたからである。なによりも、近畿天皇が撰定した『日本書紀』天智紀には「近江令」制定の記載がなく、持統三(六八九)年の条に「諸司に令一部廿二巻を班賜す」とありながら、その「令」制定の記事がないのは、いわゆる「近江令」「浄御原令」が、天皇家自身の制定によるものではないことを示している。すなわち、「浄御原朝廷」(持統朝)は、九州王朝系の「令」に依存しており、大宝律令もこれを准正とした旨、『続日本紀」大宝元年の条に明記されている、と。
そこで、日本律令の中から、魏晋南北朝の律令法の影響を受けているといわれているもの、および我国古来の慣習法といわれるものを幾つか取上げて、これまでの研究成果(11)を紹介しながら検討してみよう。そうすることによって、古田のいう倭国=九州王朝の律令制度の一端を垣間見ることができると思うからである。  
二 倭国の律令体制の成立
『筑後国風土記』逸文(『釈日本紀』巻一三)に筑紫の君磐井の墓墳の状況が記録されている。(12)(13)(14)
磐井は、生前自分の墓を作り、その東北角に別区(号して衙頭(がとう)という)を設け、人と猪の石像を展示している。その中央には、解部(ときべ)という人物が縦容(しょうよう)として立っている。その前に偸人(とうじん盗人)が伏せ、その側に贓物(ぞうぶつ盗品)である猪四頭がいる。解部(現代なら検察官兼裁判官)が、偸人を取調べ、かつ裁いている裁判の場である。
古田は、磐井がこのような展示場を自分の墓の側に作らせた理由は、磐井は裁判の基礎をなすべき法令(律を中心とする律令)の制定と施行を、自己最高の治績と見なしていたからであるという。(10)そして、磐井は、大将軍の本営を示す中国側の術諮「衙」を用い、贓物・偸人という法律用語・漢語を用いている。このことは、磐井が「大将軍」と称した倭の五王の継承者、すなわち倭王であることを示すと共に、他面において漢語を公的な日常世界において使用させていたことを示しているという。
一方、朝鮮半島では、高句麗が小獣林王三(三七三)年に律令を制定し(『三国史記』高句麗本記)、新羅は法興王七(五二〇)年に律令を頒示している(15)(16)(17)(18)(『三国史記』新羅本紀)。ところが、倭王武は、南朝宋の順帝の昇明二(四七八)年には、使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍・倭王に除せられている。その諸軍事の六国の中の新羅に律令が公布された時に、倭王側に律令がないとは考えられない。(10)
しかし、磐井を斬ったという継体の側には、律令が制定された形跡はない。『日本書紀』が、継体の反乱を磐井の反乱と記したのは、八世紀時点の近畿天皇家中心の大義名分論による。筑紫の君側は、糟屋屯倉を継体に与えただけで、日本列島の代表王者としての大義名分は依然として保持していた。だが、その権威の低下は、免れなかったであろう。
ところで、筑紫の君磐井が健在であった頃の倭国の領域は、かなり広大なものであったと思われる。倭王武は、南朝宋の順帝への上表文において、「東のかた毛人(倭国の東隣の倭種)の五十五国を征伐し、西のかた衆夷(倭国の本拠)の六十六国を帰順させ、さらに海を渡り海北(韓地)の九十五国を平らげました」という。また、古田(19)によると、『常陸国風土記』において、常陸国を巡狩する倭武天皇は、倭王武である。そうすると、倭王である筑紫の君磐井の軍事権は、我国では関東にまで及び、朝鮮半島では、新羅・加羅・任那さらには倭王武が自称したように百済にも及んでいた可能性があろう。
では、磐井の律令は、どのようなものであったのだろうか。
泰始四(二六八)年西晋の武帝が公布した泰始律令は、中国法制史上画期的な意義をもっていた。(20)(21)(22)(23)泰始律令の成立によって、刑罰法規としての律と行政法規としての令が、明確に分岐したのである。しかし、律と令の分業が成立しながら、刑罰法を重視する法家の伝統的思想は、この後も一貫して存続する。律令格式の先蹤は、晋代にあるが、律令格式の体系が整うのは隋代以後である。泰始律令は、東晋・南朝宋・斉に承継された。梁・陳は、律令を制定したが、晋律令を基本としたものであった。新羅の法興王の律令は、晋の泰始律令の影響下に成立した高句麗律令を母法とする。(24)(25)泰始律令は、南朝の冊封体制下にあった東夷の国々を、太陽のように照らしていたのである。
倭国の女王壱与は、泰始二年(『晋書』〈唐・房玄齢、六八四〉武帝紀、『日本書紀』神功六六年条所引『晋起居注』)西晋に入貢した。『晋書』によると、武帝年間の西晋には、東夷諸国がしきりに、来献・内附・帰化している。その後も倭国は、東晋の安帝の義煕九(四一八)年倭王讃が方物を献じたのを始めとして(『晋書』安帝紀)、南朝宋には珍・済・興・武と朝献して軍号を授与されるなどして(『宋書』〈梁・沈約、四八七〉)、少なくとも倭王武が梁の高祖武帝の天監元(五〇二)年鎮東大将軍から征東将軍に進号(『梁書』〈唐・姚思廉、六二九〉)するまで、南朝の冊封下にあった。
このような倭国が、晋泰始律令の影響を受けて、律令を制定するに至ることは、必然であろう。磐井の律令は、晋泰始律令を範として作られたと考えられる。しかし、解部という官職名が中国にはみられないように、律においては特に倭国の個有の伝統が重んじられていたであろう。磐井の墓の別区=衙頭は、政所であるといい、石馬三疋・石殿三間・石蔵二間が存在する。石殿は政治・行政を執行する宮殿、石蔵は租税などを収納する倉庫と思われる。磐井は、律のみではなく、令も制定していたといってよかろう。
解部は、『養老律令』職員令の刑部省および治部省の条に現われる。(26)(27)(28)
刑部省の大・中・少の解部は、争訟を問い窮めることを職掌とし、罪人に直接接触し、罪状を調べた。取調べに当たっては、拷問を実行する任に当たっていた。治部省の大・少の解部は、譜第の争訟を鞫問(きくもん)することを掌(つかさど)った。クガダチなどの神判も用いたことであろう。譜は系譜であり、第はその次第である。治部卿の職掌である本姓、すなわち氏姓の争訟を問うという重要な任務を負わされていた。そして、解部は、「其の解部は是れ別司と為す。同員に在(あ)らざる也。」(『令義解』治部省)とあるように、司法事務を管掌するある程度独立した品官であった。
しかし、養老官位令によると、刑部大解部は従七位下、刑部中解部および治部大解部は正八位下、刑部少解部および治部少解部は従八位下であって、その相当官位は刑部省・治部省の他の官人と比して格段に低い。解部は、裁判手続における中枢的位置を、もはや占めていなかったのである。
養老令刑部省および治部省の制は、それぞれ唐の刑部大理寺および礼部太常寺の官制であるが、解部に相当する「別司」たる官職は唐制にはない。解部は、我国独特の官職であって、唐制の導入によって設けられたものではない。解部は、いわゆる大化前代の百八十部の一つであって、部民を率いて司法事務に携わった伴造・伴部の一種である。伴部は、原則として負名氏(なおひのうじ)の入色者から採用されることになっている(『延喜式」巻一八・式部上)。負名氏とは、職業に関係ある名称を氏名とする氏であり、後に別の氏名を称しても、もと負名氏より出て祖先の職業を世襲していたものは、依然負名氏とされていた。(29)養老職員令の官司は、多くの伴部が配属されているが、それらは、倭国固有の政治組織に遡るものである。解部は、物部氏の支族である苅間連・韓国連などから補任されている。(26)解部をもって氏名としなかったのは、衆人の嫌悪するところであったのであろうという。
そして、養老律令の下では、唐制にのっとった司法官吏が存在し、彼らによって合理的な俗法裁判制度が励行されるようになると、神判や拷問の技術を世襲する解部は不要となり有名無実の存在となった。桓武天皇延暦一八(七九九)年四月辛丑詔勅(『類聚国史』巻一〇七・職官部一二)および平城天皇大同三(八○八)年正月二〇日詔勅(『類聚三代格』巻四・加減諸司官員并廃置事)によって、令制下七〇人置かれていた解部は、わずかに治部省の解部六人のみに削減された。磐井の律令のもと、栄光に輝いた解部の歴史に幕が引かれたのである。
筑紫の君磐井に次いで、倭国において律令を制定したのは、日出づる処の天子多利思北孤であろう。磐井の半世記余りあと、「天子」を自称した多利思北孤が律令を制定しないはずはない。(10)『隋書』(唐・魏徴、六三六)イ妥*国(=倭国)伝には、「新羅・百済・皆イ妥*を以て大国にして珍物多しと為し、並びに之を敬仰し、恆に通使・往来す」とある。その新羅のみならず、この頃にはすでに、百済にも律令があったのである。(18)
イ妥*国のイ妥*は、人偏に妥。
『隋書』倭国伝の刑罰記事は、「其の俗、人を殺し、強盗および姦するは皆死し、盗む者は臓を計りて物を酬いしめ、財無き者は身を没して奴と為す。自余は軽重もて或は流し或は杖す」という。
そこには、すでに北魏で成立している死・流・徒・杖・笞という五刑に対応する死・流・杖という法律用語がみられる。(30)賊すなわち盗物の量を計って、それに見合つ物を被害者に賠償する制度や、所定の賠償をなし得る財力を有しない者は、被害者に身柄を委付して奴となって被害を償わしめる刑は、東夷の諸国において古くから行なわれてきた。唐の名例律以贓入罪の条にも、盗犯に対する倍贓制が規定されている。
『隋書』イ妥*国伝の刑罰記事は、倭国の刑法すなわち律の存在を明示している。しかし、その獄訟は、磐井の時代と同じく、拷問・クガダチなどという古来からの色彩をまとった手続きのままであった。解部も相変わらず権勢を誇っていたであろう。
『隋書』イ妥*国伝は、官位十二階について、「内官に十二等あり。一を大徳と曰(い)い、次は小徳、次は大仁、次は小仁、次は大義、次は小義、次は大礼、次は小礼、次は大智、次は小智、次は大信、次は小信、員に定数無し」という。冠の制度は、隋代に始めて制定されたと別記している。これらは、倭国に官位令・衣服令があることを示している。
『日本書紀』推古紀の「冠位」十二階は、「官位」とは異なる。『日本書紀』推古紀は、「大唐」に朝貢したと告げており、「隋」に朝貢したとは書かれていない。推古紀のいわゆる遣隋使は、遣唐使の記録が、十二年上にずらしてはめ込まれていることから、現代人が遣隋使と思い違いをしているにすぎない。(10)日出づる処の天子は、『日本書紀』の聖徳太子ではなく、倭国=九州王朝の王者である。しかし、倭国は「兵(常備軍)ありといえども征戦なし」という。倭国は、五六二年任那日本府を失って朝鮮半島から撤退し、かつ近畿天皇家の勃興を目前にし、すでに征服戦争を遂行する能力はなかったのであろう。 
三 戸令 / 年令区分・戸籍の様式
中国では古くから、年齢を基準にして兵役・賦役を課すことを目的として、年齢を区分する制度が実施されてきた。(31)これを丁中制と称する。
養老戸令においても、「凡そ男女は、三歳以下を黄と為(せ)よ。十六以下を小と為よ。廿以下を中と為よ。其れ男は、廿一を丁と為よ。六十一を老と為よ。六十六を耆と為よ」と規定し、「凡そ老残(老丁および正丁に相当する年令の残疾者)は、並に次丁(じちょう)と為よ」という。そして、同賦役令では、次丁に課せられる調と役(庸)の負担は、正丁の半分と定めている。丁は、課役の負担者であることを示す用語である。
ところが、大宝二年の御野国戸籍・西海道戸籍(正倉院文書)における年令区分呼称について実際の使用例をみると、中男を少丁、老男を次丁または老夫、中女を次女または少女、老女を次女また老女と記載している。これらは、大宝律令の戸令の規定によって、記載されているという。(32)
この次丁の語は、晋の戸調之式(『晋書』食貨志)に見えるだけで、北斉以降唐に至るまでの丁中制には使用されていない。(8)晋制の次丁は、正丁(一六歳〜六〇歳)より年少の一三歳〜一五歳および年長の六一歳〜六五歳の両者を含む年令区分とし、正丁と次丁の賦課率を二対一としているのが特徴である。(33)そして、晋制と養老戸令では、正丁より年長の者については二段階の年令区分があるのに対し、隋唐の丁中制は、正丁より年長の者の年令区分は老(六〇歳以上)の一段階だけであり、次丁に該当する年令区分は存在しない。
そこで、晋・北斉・隋・唐・養老令の年令区分を、仁井田陞『唐令拾遺』(一九六四年復刻版)により、正倉院籍帳(戸籍・計帳)に記録された年令区分呼称を、竹内理三『寧楽遺文』上(一九七七年訂正五版)によって一覧表にしてみると、我国の丁中制、特に正倉院籍帳に現われた年令区分呼称が、晋制に似ていることがよく分かる。
虎尾俊哉(34)は、このような我国の丁中年令区分を、晋の戸調之式と比較検討し、唐令を下敷として日本令が制定される以前から、晋の制度が我国に流入し、ある程度定着していたことを示しているという。流入の経路は、次のように考えている。まず、正倉院蔵の「新羅国民政文書(35)」においては、老・除・丁・助・追・小という六等の丁中制が見られ、丁より年長の者を除老の二段階に分かっている点が晋制と同様であることに着眼し、晋の朝鮮支配を通じて、晋制が新羅の律令制度に継承されたと想定する。そして、我国には、任那のミヤケを媒介として導入され、後期ミヤケ制支紀において丁中制が行なわれるようになったのではないかと推定している。
井上辰雄(36)も、養老戸令の次丁という用語と大化の時代に見られる戸之調は、晋制には認められるが唐令にはないので、それらは後期的ミヤケ制の遺制とみなすべきではあるまいかという。
勝浦令子(37)もまた、晋の年令区分が、大化前代においても、先進的なミヤケでは実施されていた可能性はかなり高いと思われるという。晋の次丁の中に、我国の少丁にあたるものが、開始年令や賦課率は異なるが含まれている。そして、十代半ばから課の対象となっていることは、『日本書紀』欽明三〇年の吉備白猪屯倉の丁籍関係の記事「年甫十餘」との関連が考えられ、また、晋制は課口を丁として把握している点が、丁籍の丁(力役をあらわす男丁よほろ)と類似した関係があることを、その理由として挙げている。
大宝律令は、唐の律令を継受しようとしたのであるから、年令区分呼称にわざわざ晋の制度を導入することはあり得ない。西晋の泰始律令は、南朝においてそのまま継承されていたのであるから、南朝と深い交流があった倭国が、晋の年令区分呼称を受容していたと考えてよいであろう。
したがって、大宝二年の御野国戸籍と西海道戸籍に現われた「耆老・次丁・正丁・少丁・小子・緑児」「耆女・次女・正女・少女(次女)・小女・緑女」という年令区分呼称は、倭国=九州王朝系のものであって、日本国は大宝律令では倭国の丁中制の用語を継承したのである。そして、日本国は、倭国色をできるだけ払拭しようとして、養老律令において、少丁・少女(次女)を中男・中女、緑児・緑女を黄男・黄女と修訂し、唐の年令区分呼称に近づけたのであろう。しかし、永年の倭国の年令区分呼称の伝統は、我国の社会に広くかつ奥深く滲透していたとみえ、養老律令施行(七五七年)後の大平宝字二(七五八)年以後という因幡国戸籍にも緑子・少女、延喜二(九〇二)年の阿波国戸籍にも少丁・少女という年令区分呼称が記載されている。『万葉集」にも、「緑児(みどりご)の為こそ乳母(おも)は求むと言へ乳飲(ちの)めや君が乳母求むらむ」(二九二五番)と緑児という言葉が歌いこまれている。現在においても、緑児は、「三歳ぐらいまでの小児」の意味(新村出編『広辞苑』、一九六三年版)で用いられている。
正倉院籍帳については、曽我部静男(39)(8-b)が、大宝二年御野国戸籍は西涼建初一二(四一六)年の戸籍に、大宝二年筑前国戸籍・養老五年下総国戸籍は東西両魏時代(東魏武定五年・西魏大統一三年、五四五)の戸籍に、その様式が似ており、唐の形式に類似していないので、大宝・養老の戸籍の源流は、唐には無くて、それ以前の中国の制度にあることを示している、と指摘している。そして、西涼様式の根源は西晋にあり、両魏様式の根源は北魏にあり、我国へは、西晋型西涼式のものが先ず流入して実施されていた所へ、後から北魏型両魏式のものが入って来て、所によっては西涼式を両魏式に改めたが、改めない所もあって、両者が併存するに至ったという。
なお、西涼式の大宝二年御野国戸籍の系統に属するものには、和銅元(七〇八)年陸奥国戸籍((40)正倉院文書)と秋田城跡出土の和銅七(七一四)年出羽国戸籍(41)があるが、養老五(七二一)年下総国戸籍以降は、両魏式の大宝二年西海道戸籍(筑前・豊前・豊後)の系統だけが残存している。
御野国戸籍と西海道戸籍の記載様式の差異が、曽我部のいうように、編戸制度が我国に流入した時代差のみを示しているのであれば、同一国家内の同時代に両様式が併存したことを、合理的に説明することは困難である。
西涼式や両魏式のような古い時代の戸籍の様式が、唐の様式(42)を無視して、大宝律令施行後も現実に使用されている事実は、両様式が古くから定着して実施されていたので、近畿天皇家においても、直ちに様式を統一できなかったのであろう。筑紫の君磐井が、西晋型西涼式の戸籍の様式を採用した頃は、御野・陸奥・出羽も倭国の勢力圏にあり、それらの国にも同じ様式が導入されたが、その後、日出づる処の天子が北魏型両魏式の戸籍の様式を実施した時代には、倭国は大義名分上は日本列島の代表王者であるものの、御野・陸奥・出羽は倭国の直接の支配から離脱していたので、北魏型両魏式の様式を受容せず、その結果、両様式が併存するに至ったのであろう。
なお、編戸制度は、井田法、占田・課田法、均田法あるいは班田収授法のような田制・地割制度を実施することを目的として採用されるものであるから、我国における方格地割・条理制の成立と不可分の関係にある。
岸俊男(40)は、正倉院籍帳の研究に当たっては、単に記載様式の相異(43)だけでなく、その内容に立ち人って、もう一度総合的に再考すべき段階に到達しているという。その内容についての研究の一例として、西海道戸籍には存在しないが、御野国戸籍に見られる「少丁兵士」の研究を挙げておこう。(44)(45)
兵士の年令は、養老軍防令簡点次条に「軍に在る者、年六十に満ちなば、軍役免(ゆる)せ」と規定されているが軍役の開始年令は明示されていない。しかし、健児(こんでい)の開始年令が二〇歳である(『続日本紀』天平宝字六<七六一>年二月辛酉条)ことから、大宝令以後の律令軍制は正丁兵士を基本としていると考えられている。そうであれば、御野国が属していた東国には大宝以前から少丁年令を含む軍制が存在したが、西海道が属していた倭国は正丁兵士のみであったという、大宝令前代の制度の差を示している可能性があろう。
正倉院籍帳についての多元史観からの検討は、始まったばかりである。(46)正倉院籍帳の内容についての従来の研究を検討してゆけぱ、倭国=九州王朝の存在を示唆する事実が、次第に浮び上って来るであろう。  
四 田令 / 方格地割
養老田令田長条は、田の面積の単位と田租について、「凡そ田は、長さ卅歩(ぶ)、広さ十二歩を段と為よ。十段を町と為よ。段の租稲(そとう)二束二把。町の租稲廿二束」と規定している。
しかし、中国では、土地の面積の表示には、一般に頃(けい)・畝(せ)・歩が用いられており、町が使用されたことは稀である。しかも、我国では、町段歩制が行なわれる以前は、田積の単位に「代(しろ)」を用いていた。(47)
代は、一定量の稲(一束代=一代)が収穫できる面積を意味していたが、やがて、田の肥瘠(ひせき)によることなく、一定面積の単位となった。我国の代制においては、高麗尺(一尺=唐大尺の約一尺二寸)の六尺平方を一歩、五歩を一代として田積の単位とし、一代から一束(=一〇把)の稲が収穫される基準であった。
ところが、大宝令で、令大尺(唐大尺×一・二倍=高麗尺)五尺平方=一歩と改めたので、百代につき三束(一段=一束五把)であった租稲を、実質的に同量とするために一段当たりの租稲を二束・二把(不成斤という)とした。しかし、旧来の百代=三束(成斤という)の田積法・租法の習慣は、容易に改まるものではなかった。そこで、慶雲三(七〇六)年格によって租法は一段=一束五把とし、和銅六(七一三)年格によって三六〇歩=一段・方六尺(唐大尺六尺)=一歩として〔『令集解』田令田長条所収古記)、租法=成斤系・田積法=不成斤系という新旧折衷の田積法・租法が確定した。(48)(49)(50)
ところで、高麗尺六尺=一歩の度地(土地の測量)法に対応する代制から、高麗尺五尺=一歩の町段歩制へ移行した時期については、慶雲三年格の解釈によって、大宝令説と浄御原令説に大別される。(51)(52)(53)
慶雲三年格は、「准レ令、田租一段、租稲二束二把以方五尺為歩歩之内得米一升、一町租稲廿二束。令前租法、熟田百代、租稲三束以方六尺為歩歩之内得米一升、一町租稲十五束」という。
「准レ令」の「令」が大宝令を指すことに異論はないが、「令前租法」の「令」を大宝令と解するか、あるいは浄御原令と解するかによって説が分かれる。『日本書紀』においても、浄御原令施行後の持統四(六九〇)年以後、頃(代)から町への際立った変化が見られるからである。
しかし、岸俊男は、藤原宮などから出土した木簡のうち浄御原令施行期間に属すると見られるものは、地積の表示に代を用いて町段歩ではないこと、特にその一つには五百代と記されていて一町とは記されていないことなどから、大宝令において町段歩制が成立したことを論証した。(54)
養老田令田長条は、大宝令と同文と考えられているが、一段の土地の規定は、半折(はおり)型地割であることを示している。一段は、一〇〇代の方格地割を二等分して成立するが、現存する条理制地割には長地型の一段が多い。(55)
長地形地割は、武蔵橘樹郡、駿河静岡市南東、遠江引佐郡、越前足羽郡(六條村)、近江国湖東平野一帯、山城乙訓郡、大和平野一帯、摂津平野、播磨平野、讃岐平野、伊予今治平野、松山平野、筑前(福岡市席田附近)筑後平野、肥前三養基郡、肥後平野(宇土郡)などに分布し、五・六世紀の間に盛んに設置されたヤマト朝廷直轄領のミヤケ、国府、郡家と一致するといわれている。(56)
その原因は、代制の方格地割が、一辺が高麗尺三〇〇尺(五〇歩)、他辺が六〇〇尺(一〇〇歩)の長方形が基本で、その中は長辺が一〇等分され、外へは長辺の方向に連なっていたからである。すなわち、水野柳太郎は、一段方格の内部の分割時の畦畔の設定による実面積の減少が、長地型は半折型の半分に止まることなどから、実際には長地型が普及したという。(57)令文の半折型地割は、代制の現実を無視した、机上プラン的要素が強かったのである。
大宝令は、代制を唐の田積法である頃畝歩制に変更することが困難であったため、町段歩制をとることによって唐制の三段階の単位を形式的に継受する一方で、代制の性格を残しながら、町段歩制を実施しようとした。代制方格地割が、我国の古代社会に広く普及し、かつ深く根づいていたために、代制を根底から一掃することができなかったのである。
また、度量衡についても、唐制への切換えは容易ではなかった。(57)
代制の面積計算は、六尺=一歩であるから、五尺=一歩の唐制の影響を受けていない。『続日本紀』大宝二(七〇二)年三月乙亥(八日)の条には、「始めて度量を天下の諸国に頒(わか)つ」とあって、大宝令の施行と共に唐制に基づく新しい度量が頒布されている。これ以前の大尺は高麗尺で、小尺はその六分の五であったが、新しい尺は唐大尺を小尺とし、その一・二倍を大尺としたものと思われる。度地は、大尺五尺=一歩として、高麗尺の五尺=一歩と一致させようとしたのであろう。しかし、和銅六年には、唐令を継受して大宝令を制定したときの不手際を修正するため、度量衡を改正した(『続日本紀』和銅六年二月壬子条)。度地尺に関しては、唐大尺を大尺とすることにより、一歩を六尺として安定させたのである。
それでは、代制の方格地割は、いつ頃成立したのであろうか。
『令集解』田令田長条の古記が引用する幡説では、令制の度地尺で一歩五尺となる大尺を(唐大尺の一・二倍を令大尺として高麗尺に一致させて)高麗法と呼び、和銅六(七一三)年の度量衡改正以後の大尺が唐大尺であることと区別している。古記は、天平一〇(七三八)年頃に成立したとされている(58)ので、その頃には、代制と令大尺は高句麗から伝来したと考えられていたようである。
水野柳太郎(57)は、中国では周の井田法に始まる方格地割の観念が成立していたので、我国への稲作の伝米とともに、政治技術や土地支配の技術が輸入され、耕地面積と労働力との調和を図った可能性があるという。したがって、収穫量と関係する代制面積の存在は、高麗尺の輸入よりも遡るかも知れない、方格地割による面積計算も、必ずしも高麗尺のみに依存するものではなく、別個の尺度によっても成立が可能である、という。
森浩一(59)は、古墳の造営に当たっては、六世紀中頃以降は約三五センチの高麗尺、それ以前は約二四センチの晋尺によったと推定している。しかし、水野は、晋尺では、残存する方格地割とかなり大きな差を生じるので、更に古く約ニ一センチ(高麗尺の六寸相当)の尺が伝えられた可能性もあるという。(57)
曽我部静雄(8)-(a)は、『日本書紀』成務五(乙亥=一三五)年の条に、「阡陌(せんぱく)に随って(60)邑里を定む」とあることから、長地型の地割が、成務の時代に行なわれていたと主張している。そして、長地型地割は、縦の線すなわち阡に重点を置いて造られた地割りであり、阡は仟とも書き、仟と代とは字形が似るので、仟をもって代と見誤ったり、書き誤って、代と称する丈量単位が生まれたという。また、成務の在位は東晋の初め(三一七)前後と思われるので、西晋の武帝が実施した占田・課田法を輸入して実施したという。
ともあれ、代制は倭国において実施され、磐井の律令において、田令の基本とされていたと考えてよかろう。また、日本律令では、度量衡の単位は唐制によっているので、高麗尺とその度地法が倭国律令において採用されていたことは確実である。山東半島の地に建国した北魏・北斉の土地制度(一畝三六〇歩制)や、東魏尺(曲尺の一尺二寸)のような延びた尺が、朝鮮半島を経て我国にもたらされたのではないかという説(47)もあるが、代制がいつ始まり、高麗尺がいつ倭国に伝来したかは、現在のところ分からない。  
五 公式令 / 牒式・解式
ここでは、養老公式令に上申文書として定められている、牒式・解(げ)式・辞式のうち、殆ど用いられることがなかった辞式を除く、牒式と解式について検討しよう。
養老公式令には、二種類の牒が定められている。一つは、内外の主典以上の官人個人が、諸司に上申する場合の公文書である。もう一つは、移式の移を転用した牒で、僧綱(僧正・僧都・律師)・三綱(上座・寺主・都維那)と俗官官司との間の報答に用いられる公文書の様式である。
しかし、八世紀以降、実際に行なわれた牒は、令の規定にもかかわらず、俗官官司相互間では、唐の牒と同じく、下達文書としても、平行文書としても、あるいは上申文書としても用いられている。個人を差出者とする牒にも、上申文書と下達文書として用いられている牒があり、個人名で出しても、その内容は官司の牒であるものも存在した。
早川庄八(61)は、このような現象について、令の規定にかかわらず、唐の牒制が準用された可能性が最も大きいように思われるという。
ところで、一九九一年、滋賀県野洲郡中主町西原・湯ノ部遺跡から、「丙子年」の年紀を持つ文書文簡が出土した。(62)
その釈文は、次のとおりである。
(側面)丙子年十一月作文記
(表面)牒玄逸去五月中宮命蔭人
自従二月巳来□□□養官丁
久蔭不潤□□□蔭人
(裏面)次之□□丁□□□等利
壊及於□□□□□宮
裁謹牒也
文意は、官丁の玄逸が、蔭(おん)人の資格を得ているが、その蔭を受けていないので、是正を求めているという。
この木簡は、養老公式令の牒式では、結文が「謹牒」と規定されているのに、「謹牒也」となっている点や、宛先が書かれていない点を除くと、養老牒式に一致している。
牒は、唐代に始まったものではなく、南朝宋の時代にも使用されていた。『宋書』(梁・沈約、四八七)蔡廓伝には、「尚書袁愍孫牒」が見え、結文は「今牒」となっている。倭国の律令においても、牒式は存在したと思われる。湯ノ部遺跡木簡の「丙子年」は、天武五(六七八)年と考えられるから、浄御原令を班賜した持統三(六八九)年以前である。この木簡の牒は、倭国=九州王朝系の様式に基づいて書かれたものであろう。
次に、養老公式令の解式は、八省以外の内外の諸司が、所管の上級官庁に対して上申するとき用いる公文書である。
解の宛先は、太政官か、あるいは直属の上級宮司であるから、解に宛先を書く必要がない。しかし、正倉院文書には、個人が差出した解が多数残っているが、個人の解には、しばしば宛所を持つものが見られ、「啓式」「状式」に近似するものが多い。(61)解式は、八世紀以降、令の規定の枠にとらわれず、他の上申文書である牒・辞を圧倒して、盛んに行なわれた。
解式の様式は、次のように定められている。
式部省解シ申ス其ノ事(63)
其ノ事云云。謹解。
年月日大録位姓名
卿位姓名大丞位姓名
大輔位姓名少丞位姓名
少輔位姓名少録位姓名
ところが、藤原宮出土の木簡に「膳職白主菓餅申解解」と書かれた習書木簡がある。「膳職」は、大膳職・内膳職に分化する大宝令以前の職名である。「主菓餅(くだもののつかさ)」は、大宝令では大膳職に属する伴部であるが、伴部は大化前代からのものであるから、浄御原令下でも存在したであろう。この木簡の特徴は、「白(もうす)」にある。「白」は、藤原宮出土木簡にみえる「(宛先)の前に申(白)す」という文書形式に使用される。
そして、平城宮朱雀門付近出土の過所木簡に「関々司前解」というものがある。この木簡は、記載されている位階からみて、大宝・和銅年間の藤原宮当時のものとみられている。この木簡の「宛先(関々司)の前に解す」という表現は、やはり大宝令以前の書式から公式令書式に移る過渡的な表記法であるという。(64)(65)
東野治之(66)は、中国では、四世紀頃に「某の前(または坐前)に白す」の形式が、書状の宛名や冒頭に記す文言として行なわれていたという。我国の文書形式へは、むしろ隋唐以前の古い使用例が影響を及ぼしたとみるべきであるという。
日本古代では、上申文書の最も一般的な形式が解であるのに対し、唐ではそれに相当するのは牒ないし辞である。唐代の一般上申文書には、解は用いられていない。『大唐六典』(唐、玄宗・李林甫等注、七三八)では、上申文書として表・状・牋・啓・辞・牒をあげているが、解はない。そこで、黒板勝美(67)は、解は唐制にない文書形式であり、解式はおそらく中国六朝時代に行なわれた文書形式の影響であるとした。
しかし、仁井田陞(68)は、開元公式例残巻の符式条に「凡応為解向上者、上官向下皆為符」とあること、および『唐律疏議』(唐・長孫無忌、六五三)職制律・稽緩制書条の疏(71)に、「注に云ふ、制・勅を騰(つた)ふる符・移の類とは、正の制・勅を奉じて、更に騰へて巳(もつ)て出す符・移・関・解・刺・牒は、皆な是れなるを謂ふ。故に云ふ、『の類』と」あることから唐代にも解は存在したという。
それにもかかわらず、東野は、唐代の一般上申文書に解が用いられず、我国において極めて広く用いられた理由は、解という上申文書の形式が、唐制の影響を受ける以前から、我国で一般化していたためであり、その背景には、やはり六朝時代の制度の影響が考えられてよいという。(69)(70)
『文心雕竜(ぶんしんちょうりょう)』(梁・劉思*)に、「百官に事を詢(はか)るには、則ち関・刺・解・牒有り。」とあって、「解とは釈なり。結滞を解釈し、事に徴して以て対(こた)ふる也り。」と説いている。(67)『宋書』にも、「雲杜国解称」(礼志二)、「興平国解称」(礼志二)、「本県令公解言上」(沈曇慶伝)と三箇所に解が現われる。解は、牒と共に倭国の磐井の律令に採用され、使用されていたといってよかろう。
劉思*(りゅうきょう)の力思*は、力三つに思。JIS第3水準、ユニコード52F0。
東野治之は、更に、藤原宮木簡・正倉院文書などの書風について考察し、七世紀末から八世紀初めにかけて、官人の常用書体として、六朝風の書が広く行なわれていたと指摘している。東野は、その書風を次のように分析している。(66)(70)
上総国阿波評からの荷札で己亥(六九九)年の年紀がある木簡の「阿」の字は、阜偏(こざとへん)に対して、旁(つくり)の「可」の第一画が、かなり下から引かれているという字形上の特徴がある。同様な形の「阿」は、中央で書かれたことが確かな藤原宮出土の他の文書風木簡や付札にも二点みられるばかりでなく、飛鳥板蓋宮伝称地出土の木簡にもあって、書風上の一特徴と考えられる。このような書き方は、『法華義疏』に例があり、遡れば中国南北朝時代の写経などにも同じ形の「阿」を見出だすことができる。
ところが、「阿」の字に見るような不均衡ともいえる結体は、隋唐の書蹟になると影をひそめ、阜偏のふくらみの中程またはその直下に接して旁の横画がとりつく形が一般化する。しかし、新しい形の「阿」も、隋唐になって始めて出現したのではなく、六朝からその例は多い。したがって、そのような場合は、書の全体的傾向から書風を判断しなければならない。木簡では、古い形の「阿」がすたれ、新しい「阿」が優勢になってゆくのは、おおむね奈良時代前半である。
「阿」の他、「国」「可」「此」「奴」などの書体や、特異な門構えの書き方、肩の丸い柔軟な書き方、楷書・行書の中で二、三の文字のみ草体で書く慣習などは、六朝風の書風の影響が認められる。
また、正倉院文書の大宝・養老の戸籍は、地方の官人の筆になったものであるが、その書風は六朝風のものである。特に、養老五年下総国戸籍は、郡司の筆蹟と確認されている、という。
日本においては、このように七世紀末から八世紀初めにおいて、六朝風の書が盛行したのに対し、同時期の中国は既に唐朝の治下にあり、書の上でも六朝から隋にかけて行なわれた奇古な書風を一掃して、王義之を範とする階好な書が風靡していた。東野は、このような日本と唐との間の書風の大きなずれが生じた原因は、朝鮮で行なわれていた書風の影響に求めるべきであるとして、新羅真興王(五四〇〜五七五)の磨雲嶺碑、正倉院の「新羅国民政文書」、『日本書紀』持統五年の書博士百済末士善信の存在をあげる。
しかし、より直接的な原因としては、百済から倭国への仏教伝来をあげることができる。『隋書』イ妥*国伝によると、倭国は「仏法を敬す。百済において仏教を求得し、始めて文字あり」という。百済の仏教は、沈流王元(三八四)年、東晋から胡僧の摩羅難施*を迎え、翌年漢山州に仏寺を創建して僧一〇人を置いたことから始まった(『三国史記』百済王紀、『三国遣事』〈高麗・一然〉巻三)。そして、百済王余映が、東晋義煕一二(四一六)年、使持節節都督・百済諸軍事・鎮東将軍・百済王に任ぜられるなど、南朝の冊封下にあった。したがって、倭国の仏教は、南朝系の仏教であり、その仏教と共に伝米してきた文字の書風が南朝風であることは、自然なのである。中小路駿逸(72)と古賀達也(73)は、倭国=九州王朝への仏教伝来は、四一八(戊午)年ではないかという。
施*は、方の代わりに阜偏。JIS第四水準、ユニコード9641。
ところで、東野は、文字は支配の道具として、統治の手段と深く結びついていたので、書風の変化には、政治制度なども含め当時受容された文化系譜の違いといったものか、反映しているべきであるという。そして、八世紀前半を境に起る書風の変化は、統治機構一般の変革と無関係ではなく、唐制を範とする律令的諸制度確立の一環であり、このような変化の起る前段階において六朝風の書が、中央・地方を問わず広く普及していたため、それだけに影響は後まで残り、奈良時代を通じて徐々に消失した、という。
東野治之の研究は、倭国=九州王朝において律令が制定・施行され、文書行政が行なわれていたこと、そして、七世紀末〜八世紀初頭に、日本列島の主権者が倭国=九州王朝から日本国=近畿天皇家へ変化したことを、如実に物語っているといってよいであろう。 
六 おわりに
日本律令に規定された制度のなかで、唐律令に存在せず、魏晋南北朝に特有な制度や我国固有の慣習法といわれる制度は、倭国の律令に淵源を有している可能性が高い。そのような制度は、前記の他にも数多く日本律令の中に「緑児」のように眠っている。古田武彦の唱える多元史観の手によって、ゆり起こされるのを待っているかのように。例えば、仕丁・采女・舎人の制度あるいは僧正・僧都制などは、魏晋南朝の制度の影響があるという。
従来、そのような制度は、個々ばらばらに検討され、中国・朝鮮の制度を個別に受容したのであろう、あるいは固有法であろうという程度で、総合的に考察されることは少なかった。その原因は、「日本列島には、近畿天皇家以外に、律令を制定しうる公権力なしという、証明なき信仰に依拠していたため(10)」であろう。倭国=九州王朝に律令があったことを前提にして、始めてそれらは体系的な制度の一環として位置づけることができるようになり、その結果、倭国の歴史像の内容が一変することになるであろう。
倭国が白村江の戦に敗れた六六三年から大宝元(七〇一)年に至る期間は、近畿天皇家が倭国から日本列島の代表王者の地位・大義名分を奪取するために、列島各地の王者・豪族を、言向(ことむ)け平(やわ)し、あるいは討伐して、着々とその支配体制を築き上げ、新たな法体系を構築しつつあった時代といってよいであろう。
『続日本紀』は、文武五(七〇一)年三月甲午(二一日)、「元を建てて大宝元年としたまふ。始めて新令に依りて官名・位号を改制す」という。近畿天皇家は、始めて独自の年号を制定し、始めて自ら制定した新令=大宝令によって官制・位階・服制を施行した。近畿天皇家は、日本列島の代表王者であることを宣言したのである。  

(1)砂川和義・中沢巷一・成瀬高明・林紀昭「大宝令復原研究の現段階」(一)(『法制史研究』三〇、一九八○)。
(2)律令研究会編『訳註日本律令』二・三〈律本文篇、上・下〉、一九七五。
(3)井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫校注『律令』日本思想大系3、一九七六、本論文中の養老律令の条文の引用は、本書によった。
(4)滝川政次郎『日本法制史』上・下〈講談社学術文庫〉、一九八五。滝川は延暦一〇(七九一)年に刪定律令二四条が施行され、同一六年には刪定令格四五条が施行されたが、これらはいずれも律令を改訂したものであって、広義の格に属するという。刪定律令は、弘仁三(八一二)年停止され、刪定令格もまもなく廃止された。
(5)石尾芳久『日木古代法の研究』、一九五九。
(6)高塩博「日本律編纂考序説」(『法制史研究』三〇、一九八〇)。
(7)水本浩典『律令注釈書の系統的研究』、一九九一。
(8)(a)曽我部静雄『日中律令論』、一九六三。(b)同『律令を中心とした日中関係史の研究』、一九六八、(c)同「中国律令史の研究』、一九七一。
(9)井上光貞『井上光貞著作集』一、一九八五。
(10)古田武彦『法隆寺の中の九州王朝』古代は輝いていたIII〈朝日文庫〉、一九八八。
(11)日中律令制の比較研究の動向については、武光誠「日中律令制比較研究関係文献目録」(『東洋文化』六〇、一九八〇)、同「日中律令制比較研究の動向」(一)(二)(三)(『明治学院論叢』三〇八・三一三・三一八、一九八〇、一九八一)を参照されたい。
(12)福本日南『日南集』、一九一一。
(13)奥野彦六「筑後国風土記逸文『磐井の墓』に見える解部」(『律令古代法』、一九六六)。
(14)古田武彦『よみがえる九州王朝』〈角川選書〉、一九八三。
(15)武田幸男「朝鮮の律令制」(『岩波講座世界史』六、一九七一)。
(16)井上秀雄「新羅律令体制の成立」(『日本史研究』一三九・一四〇、一九七四)。
(17)井上秀雄「古代朝鮮における唐律令の影響」(『中国律令制とその展開』、一九七九)。
(18)井上秀雄「百済の律令体制への変遷」(『律令制ーー中国朝鮮の法と社会』、一九八六)。
(19)古田武彦『倭人伝を徹底して読む』、一九八七。
(20)堀敏一「晋泰始律令の成立」(『東洋文化』六〇、一九八〇)。
(21)堀敏一「魏晋南北朝における律令法体系の成立過程」(『中国律令制とその展開』、一九七九)。
(22)中田薫「支那における律令法系の発達について」「『支那律令法系の発達について』補考」(『法制史論集』四、一九六四)。
(23)泰始律令および梁・陳律令ならびに北朝系律令は、散逸して現存しない。それらの逸文は、程樹徳『九朝律考』(中華書局版、一九六三)に収録されている。なお、秦始令の逸文は、浅井虎夫『支那ニ於ケル法典編纂ノ沿革』(一九七七、影印版)にも収録されている。
(24)田鳳徳(渡辺学・李丙沫訳)「新羅の律令攷」(『李朝法制史』、一九七一)。
(25)林紀昭「新羅律令に関する二・三の間題」(『法制史研究』一七、一九六七)。
(26)利光三津夫「解部」(『律令制とその周辺』、一九六七)。
(27)熊谷公男「治部省の成立」(『史学雑誌』八八ーー四、一九七九)。
(28)石井紫郎「古代国家の刑事『裁判』素描」(『国家と市民』三、一九八七)。
(29)阿部武彦「伴造・伴部考」(『日本古代史論集』上、一九六二)。
(30)井上光貞「隋書倭国伝と古代刑罰」(『季刊日本思想史』一、一九七六)。
(31)鈴木俊「唐代丁中制の研究」(『史学雑誌』四六ーー九、一九三五)
(32)米田雄介「大宝二年戸籍と大宝令」(『日本古代の国家と宗教』下、一九八〇)。ただし、大宝二年戸籍は、浄御原令に依拠しているという説もある。
(33)西晋の田制・税制については、藤井礼之助『漢三国両晋南朝の田制と税制』、一九八九を参照されたい。
(34)虎尾俊哉「ミヤケの土地制度に関する一試論」(『史学論集対外関係と政治文化』第二、一九七四)。虎児俊哉「日本古代土地法史論』、一九八一に収録
(35)新羅の丁中制についての分析は、浜中昇『朝鮮古代の経済と社会』、一九八六を参照されたい。
(36)井上辰雄「『ミヤケ制の政治史的意義』序説」(『歴史学研究』一六八、一九五九)。
(37)勝浦令子「律令制支配と年令区分」(『続日本紀研究』一九一、一九七七)。
(38)正倉院籍帳の年令区分呼称の用語の使用例の分析については、平野博之「中男と少丁」(『日本歴史』二八一、一九七一)を参照されたい。
(39)曽我部静雄「西涼及び両魏の戸籍と我が古代戸籍との関係」(『法制史研究』七、一九五六)曽我部は、戸口数集計の記載方法が御野戸籍は初めに男と女とを文章にして記載しているが、筑前戸籍・下総戸籍は終りの所に課口と不課口とに大別した表が掲げらている点に相違があると指摘している。
(40)岸俊男『日本古代籍帳の研究』、一九七三。
(41)ジャパン通信社『月間文化戝発掘出土情報』一〇九、一九九二年一月号。
(42)古代中国の戸籍の形式の変遷については、池田温『中国古代籍帳研究』概観・録文、一九七九を参照されたい。
(43)宮本救「戸籍・計帳」(『古代の日本』九、一九七一)。
(44)米田雄介「大宝令前後の兵制について」(『続日本紀研究』九ーー四・五・六合併号、一九六二)。
(45)野田嶺志「律令軍事機構の成立とその役割」(『日本史研究』一五〇・一五一、一九七五)。
(46)古賀達也「『大宝二年西海道戸籍』と『和名抄』に見る九州王朝の痕跡」(『市民の古代研究』四九、一九九二)。
(47)亀田隆之「日本古代に於ける田租田積の研究ーー度量衡制との関連を通して」(『古代学』四ー二、一九五五)。
(48)池田久「田積法・租法および口分田班給率の変遷について」(『皇学館論叢』一九ー一、一九八六)。なお、田令集解古記の田積法三転説についての学説は、田中卓「令前の租法と田積法の変遷」(『律令制の諸問題』田中卓著作集六、一九八六)を参照されたい。
(49)八木充「田租制の成立とその意義」(『山口大学文学会誌』一二ー二、一九六一)。
(50)伊野部重一郎「八木充氏『令前の租法』を中心として」(『日本上古史研究』七ー六、一九六三)。
(51)伊野部重一郎「浄御原令と町段歩制」(『日本歴史』四九一、一九八九)。
(52)村山光一「代の制と班田収授制」(『史学』四九四、一九八〇)。
(53)梅田康夫「大宝二年(七〇二)西海道戸籍の受田額記載について」(『歴史教育』一一ー五、一九六三)。
(54)岸俊男「方格地割の展開」(『日本書紀研究』八、一九七五)。
(55)弥永貞三『日本古代社会経済史研究』、一九八〇。
(56)竹内理三「條里制の起源」(『日本歴史』二三、一九五〇)。深谷正秋「條里の地理的研究」(『社会経済史学』六ー四、六ー四、一九三六)。
(57)水野柳太郎「面積計算法と方格地割」〔『名古屋大学日本史論集』上、一九七五)。
(58)井上光貞「日本律令の成立とその注釈書」(『律令』日木思想大系3、一九七六)。
(59)森浩一『古墳の発掘』〈中公新書〉一九六五。
(60)阡陌(せんぱく)は、仟佰とも書かれ、井田法の地割である、仟佰は田間の道で、南北を仟と呼び、東西を伯と呼ぶ。
(61)早川庄八「公式様文書と文書木簡」(『木簡研究』七、一九八五)。
(62)ジャパン通信社『月刊文化戝発掘出土情報』一〇、一九九二年二月号。
(63)「式部省解申其事」は、「式部省解(げ)し申す其の事」と訓む(田中卓『住吉神代記の研究』田中卓著作集七、一九八五参照)。なお、太政官に向かうもの以外は、結分を、「謹啓解」とせず「以解」とする。
(64)岸俊男「木簡と大宝令」(『木簡研究』二、一九八〇)。
(65)荊木美行「初期律令官制研究の論点」(『古代史研究の課題と方法』、一九八九)。
(66)東野治之『日本古代木簡の研究』、一九八三。
(67)黒板勝美『虚心文集』第五、一九四一。戸川浩暁訳注『文心雕龍』上〈新釈漢文人系64〉、一九七四。
(68)仁井田陞『唐令拾遺』、一九三二。
(69)東野治之「大宝令成立前後の公文書制度」(『律令制社会の成立と展開』、一九八九)。
(70)東野治之『正倉院文書と木簡の研究』、一九七七。
(71)律令研究会編『訳註日本律令』六、一九八四。
(72)中小路駿逸「日本列島への仏法伝来、および日本列島内での漢字公用開始の年代について」(『追手門学院大学文学部東洋文化学科年報』二、一九八七)。
(73)古賀達也「四一八(戊午〕年、仏教は九州王朝に伝来したーー糸島郡『雷山縁起』の証言」(『市民の古代研究』三九、一九九〇)。  
 
日蓮の古代年号観 / 中世文書に見る古代像

 

一 はじめに
『二中歴』の九州年号部分の成立を古田武彦氏は七〇一年(大宝年号建元)以後、七二〇年(『日本書紀』成立)前とされ、その理由として、『日本書紀』を読んだ者であれば、「大宝から初めて年号はできた」とは記せないという点をあげておられる。(1)これに対し、丸山晋司氏は「古代末期から中世にかけて、大宝を創始年号だとする諸史料が散見されている」「後代に『日本書紀』の内容を知らず、『日本書紀』の内容にそぐわぬことを平気で書く学者や僧侶はゴマンといた」と反論を加えている。(2)
本稿ではこの間題、すなわち『日本書紀』にそぐわぬ年号観の存在について、日蓮文書より考察を加え、中世における古代像についての私見を述べるものである。なお日蓮文書の引用にあたっては、創価学会編『日蓮大聖人御書全集』『日蓮大聖人御書講義』『日蓮大聖人御書十大部講義』を用いた。 
二 日蓮の創始年号観
日蓮がわが国の創始年号について記した文書に『報恩抄(3)』がある。
此れ又何れの王・何れの年時ぞ漢土には建元を初めとして日本には大宝を初めとして緇素の日記・大事には必ず年号のあるが、これほどの大事に・いかでか王も臣も年号も日時もなきや。(『報恩抄』一二七六述作)
このように、日蓮は年号の初めを中国では「建元」、日本は「大宝」と認識している。これは丸山氏が指摘するように、日蓮が『日本書紀』の内容(大化・白雉・朱鳥の年号)を知らず、『日本書紀』にそぐわぬことを平気で書く僧侶であったことを意味しているのであろうか。そうではないようだ。というのも、日蓮文書にはいたる所で『日本書紀』が引用されており、また当時、日本における最高学府ともいえる比叡山で学んだ日蓮が『日本書紀』を読んでいなかったとは万に一つも考えることはできないからだ。たとえば『三論宗御書』では具体的に引用出典を記している。
三論宗の始めて日本に渡りしは三十四代推古の御宇治す十年壬戌の十月・百済の僧・観勒之を渡す。日本記の太子の伝を見るに異議無し、但し三十七代との事は流布の始めなり。(中略)
所謂日本記に云く「欽明天皇十三年壬申十月十三日辛酉百済聖明王始めて金銅釈迦像一躯を献ず」等云々。(『三論宗御書』執筆年次不明)
ここに見える「日本記」とは、まずは『日本書紀』のことと思われるが、『扶桑略記』(平安末期成伝・皇円著)の可能件も否定できない。なぜなら日蓮文書には、『日本書紀』には無く、『扶桑略記』に存在する説話の引用があることから、日蓮は『扶桑略記』を読んでいたと考えられるからだ。
天智天皇と申せし国王は無名指と申すゆびをたいて釈迦仏に奉る。此れ等は賢人・聖人の事なれぱ我等は叶いがたき事にて候。(『白米一俵御書』年次不明)
この天智天皇の説話は『日本書紀』には無く、『扶桑略記』に見える。また、日本の別名に扶桑という名前があることも日蓮文書には記されている。
夫れ以れば日本国を亦水穂の国と云い亦野馬台又秋津島又扶桑等云々。(『神国王御書」一二七五述作)
抑日本国と申すは十の名あり、扶桑・野馬台・水穂・秋津洲等なり。(『秋元御書』一二八○述作)
こうした日蓮の認識からすれば、「扶桑」を「日本」と読み変えて、『扶桑略記』を「日本記」としたという可能性も皆無ではない。しかし、その『扶桑略記』においても大化・白雉・朱鳥の年号が記されており、これら三年号を日蓮が知らなかったとは益々言えないのではなかろうか。更に『扶桑略記』には白鳳・朱雀の年号さえ記されている。したがって、日蓮がこれらの年号を知っていたことは否定できない。また、『扶桑略記』と同本かどうかは不明だが、『扶桑記』という文献名とその引用が『諌暁八幡抄』(一二八○述作)に見える。
この他、出典を明記していないものの、『兄弟抄』(一二七五述作、仁徳天皇と宇治稚郎子の説話を引用)、『兵衛志殿御返事・建治元年八月二一日』(一二七五述作、蘇我入鹿暗殺の故事を引用)、『崇峻天皇御書』(一二七七述作、崇峻天皇暗殺の故事を引用)、『四条金吾殿御返事・建治三年』(一二七七述作、欽明期の仏法伝来記事・聖徳太子記事・用明期の豊国法師記事などを引用)など、その他少なからぬ文書に『日本書紀』、あるいは『扶桑略記』からの引用とおぼしき記事が見える。さらに、引用ではないものの『日本書紀』を読んでいることを前提とした文章もある。
寺寺の御本尊皆かんがへ尽し、日本国最初の寺、元興寺・四天王寺等の無量の寺寺の日記、日本紀と申すふみより始めて多くの日記にのこりなく註して候へば其の寺寺の御本尊又かくれなし。(『新旭御前御返事』一二七五述作)
これらの文書から、日蓮は『日本書紀』の内容を知っていた上で、なお、日本の創始年号は大宝であるとしていることが推測できる。とすれば、日蓮の時代、すでに日本国の創始年号を大宝とする説が存在し、半ばそのことが公認されていたと考えねばなるまい。なぜなら、先に紹介した『報恩抄』は日蓮出家時の師、安房国清澄寺の道善房の死去にともない、兄弟子の浄顕房・義浄房へ送られたもので、日蓮五十五才の時の述作だ。そして、身延山より直弟子民部日向を遣わして、師の墓前で拝読させるようにとの指示が『報恩抄送文』に記されていることから、信徒への説法を目的とした公的性格をもった書状であることがわかる。したがって、そのような文書に記された年号観は、一人日蓮のみの見解と見なすべきではなかろう。
しかも、『報恩抄』の年号についての当該箇所は、空海の弟子真済が記したとされる『孔雀経音義』を批判した部分にあり、その要旨は、「弘法大師が、智拳の印を結んで南方に向かったところ、両門がにわかに開いて金色の毘盧遮那となる」という『孔雀経音義』の記事に対して、そのような大事件を記しているのにもかかわらず、その年号や日時が記されておらず偽作である、というものだ。この他、真言宗文書に関して仏法教義や歴史事実をあげて詳細な批判を展開している。そのような批判の根拠の一つとして、わが国においては大化より年号が開始使用されていることを述べているのであるから、その根拠が当時の社会、少なくとも仏教界にあっては「常識」とされていた、このことが大前提であろう。よって、鎌倉時代には「創始年号大宝説」が通説の一つとして容認されていたと考えられるのである。  
三 中世の創始年号観
このように、『日本書紀』の内容を知悉していた日蓮は、わが国最初の年号を大宝と理解しているのだが、ならば『日本書紀』に見える大化・白雉・朱鳥の三年号をどのように見ていたのであろうか。管見では日蓮文書にこれら三年号は見られない。もちろん、日蓮文書にはこの年号当時の記事を引用したものがあるが、いずれも皇極・孝徳・天武の時とするだけでこれらの年号は記していないようだ。一方、大宝(七〇一)以前の事績を引用した文書において、年次を記す場合は「○○天皇の御宇」「○○天皇の□□年」「○○天皇の□□年(干支・日付)」とするのがほとんどで、これらの史料状況からは日蓮が『日本書紀』の三年号(『扶桑略記』の白鳳・朱雀も含めれば五年号)をわが国の年号と認めていた形跡、これを見いだせず、一連の日蓮文書は『報恩抄』の記事と矛盾しないのである。(4)
大化・白雉・朱鳥、あるいは朱雀・白鳳といった年号の存在を知っていながら、これらを日本国の年号と認めていない、かくのごとき日蓮文書の実状から導き出される日蓮の認識としては次の二つが想定できよう。
1).これらの年号を偽作と考えていた。
2).これらの年号は日本国(近畿天皇家)ではないと考えた。
この二つである。しかし、日蓮の『日本書紀』に対する姿勢は、その内容を疑っているというものではなく、史実と理解した上での引用に徹しているように言える。よって1).のケースは除外してもよいと考えるとすると2).のケースが残るが、ここで思いおこされるのが『二中歴』年代歴に見える次の文章だ。
巳上百八十四年、年号丗一代、□(記)年号、只有人伝言。自大宝、始立年号而巳。(『二中歴』尊経閥文庫本)
丸川晋司氏の読み下しによれぱ、「以上百八十四年、年号三十一代、年号を記す。只、人の伝えてう有り『大宝より始めて年号を立つのみ』と・・・(5)」ということであるが、ようするにわが国における年号創始において二つの説、すなわち大宝からとする説と継体からとする説があり、大宝からというのはただ人の言い伝えにすぎない、ということのようだ。
『二中歴』に見えるこの文草の著者は、わが国の創始年号に関して二説が存在することを示し、内、一説を是としている。この二説が並存する状況は、先の日蓮の認識とも矛盾しないように思う。なぜならば、日蓮は大宝をわが国最初の年号と主張しているが、同時に『日本書紀』などにある大宝以前の年号(大化・白雉・朱鳥)の「存在」も鎌倉時代であれば当然知られていたはずである。よって、鎌倉時代においても、創始年号を大宝とする説と、それよりも以前のものとする二説があったであろうこと、日蓮文書からうかがい知ることができる。
こうした二説並存の状況を想定しうるとすれば、先の『二中歴』古代年号部分の成立時期を七世紀初頭(大宝以後、『日本書紀』成立以前)と見るよりも、平安中期(丸山説)あるいは『二中歴』成立時期にあたる鎌倉初期と見たほうが、日蓮の認識と時代的に近接し、より自然と思える。少なくとも、『日本書紀』成立以後では大宝を年号の最初とは言えないはず、とする古田氏の考証は「日蓮の証言」からしても他に傍証がない以上、成立困難と、言わざるを得ないのではないか。日蓮は『日本書紀』の内容を熟知した上でなお大宝を創始年号と主張している、この日蓮文書の持つ意味は大きい。  
四 日蓮は九州年号を知っていたか
そうすると次に問題となるのが、日蓮は九州年号を知っていたのかということであろう。管見によれば、日蓮文書に『日本書紀』の大化・白雉・朱鳥の三年号が見えないことはすでに述べたが、同時に九州年号もまた見ることができない。したがって、日蓮が九州年号を知っていたかどうかをその文書から直接的に検証することはできない。そこで状況証拠を調査すべく、日蓮の生涯、中でも若き日の学究の足跡を辿ってみよう。はたして日蓮に九州年号を見聞する機会はあったか。
此等の宗宗・枝葉をばこまかに習はずとも所詮肝要を知る身とならばやと思いし故に、随分に、はしりまはり十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国国・寺寺あらあら習い回り候し程に一つの、不思議あり。(『妙法比丘尼御返事」一二七八述作)
日蓮自らが記す所によれば、少年の項より、二十数年間、鎌倉や京部・奈良などの主要な寺院で学んだようだ。おそらくは、日蓮文書に数多く引用される仏典や内外の典籍のほとんどはこの時期に読んだものと思われる。なぜなら日蓮三十二歳(一二五三)の立宗宣言以降、既成教団や鎌倉幕府による迫害につぐ迫害の生涯が始まるからだ。
而るに日蓮二十七年が間、弘長元年辛酉(一二六一)五月十二日には伊豆の国へ流罪、文永元年甲子(一二六四)十一月十一日頭にきずをかほり左の手を打ちをらる。同文永八年辛未(一二七一)九月十二日佐渡の国へ配流、又頭の座(斬首刑場)に望む。其の外に弟子を殺され切られ追出・くわれう(科料)等かずをしらず。仏の大難には及ぶか勝れたるか其れは知らず。龍樹・天親・大台・伝教は余に肩を並べがたし。(『聖人御難事』一二七九述作)〈()内は古賀註〉
二度に亘る流罪、そして斬首寸前まで及んだ日蓮受難の時期に、内外の典籍をじっくりと紐解く余裕を想像することは難しい。さて、若き日の日蓮が精力的に学んだ十三世紀前半には九州年号群を記した史料が既に成立している。丸山晋司氏の研究(6)によれば『二中歴』(鎌倉初期成立・古代年号部分は平安未期に成立か)を筆頭に『本朝皇代記』(一三世紀中葉成立)、少し遅れて『和漢春秋暦』(一二七一成立)がある。更に、九州年号群ではなく個別の九州年号が記された「縁起」類はもっと多かったはずだ。こうした諸史料に見える九州年号が、博覧強記の日蓮の眼にとまらなかったとは言えまい。私にはそのように思われる。
このことを支持する記事が日蓮文書にも見える。先に紹介した『三論宗御書』に「善光寺流記」という引用文献名が記されているのだ。
善光寺流記に云く「阿弥陀並びに観音・勢至・欽明天皇の御宇天下十三年壬申十月十三日辛酉、百済国の明王、件の仏・菩薩、頂戴」と云々。(『三論宗御書』)
現存する『善光寺縁起』は一三六八年の成立とされ(7)、「貴楽」「師安」「知僧」「金光」「定居」「告貴」「願轉」「命長」「白雉」などの九州年号が散見される。日蓮引用の「善光寺流記」との差異は不明だが、全くの無関係とも考えにくい、これも日蓮と九州年号とをつなぐ傍証の一つと見なしたい。
以上、本節では日蓮と九州年号の関係を考察してみたが、結論として日蓮は九州年号を知っていたとするほうが、全く知らなかったとするよりも穏当と解されるに至った。しかし、日蓮が九州年号を九州王朝の年号と理解していたか、あるいは九州王朝の存在を認識していたかは別問題である。次節では日蓮の「九州観」を探ってみる。 
五 「九州」と「九国」
日蓮は九州には行ったことがない。また、日蓮文書に「九州」という表記は見えないようである。もっとも、九州島を「九州」と表記した原存史料の初見は鎌倉中期頃の成立とされる『平家物語』のようで(8)、当時あまり使用例を見ない。その九州について日蓮は次のように表記している。
筑紫九国一切諸人(『一代五時図』一二六〇述作)
八幡大菩薩は昔は西府にをはせしかども(『新尼御前御返事』一二七五述作)
西海道十一ケ国、亦鎮西と云い、又太宰府と云々。(『神国王御書』一二七五述作)
壱岐・対馬・九ケ国(『乙御前御消息』一二七五述作)
日蓮はいまだ、つくしを見ず、えぞしらず。(『清澄寺大衆中』一二七六述作)
筑紫・鎮西(『新池殿御消息』一二七九述作)
日蓮文書に見える九州の呼び名はさまざまであるが、中でも注目すべきは「筑紫九国」という表記だ。というのも、日蓮文書にはこの「九国」という表記を単に国が九ケ国あるという意味あいで使用しているのではなく、「国家」という意味で使用している例があるからだ。
かの漢土九国の諸僧等は円定・円慧は天台の弟子ににたれども円頓一同の戒場は漢土になければ戒にをいては弟子とならぬ者もありけん。(中略)
漢土の武宗皇帝の九国の寺塔四千六百余所を消滅せして僧尼二十六万五百人を還俗せし等のごとくなる悪人等は釈迦の仏法をば失うべからず。(『撰時抄』一二七五述作)
漢土の会昌天子の九国の僧旧を還俗せしめしに超過すること、百千倍なり。(『會谷入道等許御書』一二七五述作)
このように日蓮文書において「九国」と表記されているのは筑紫と漢土のみのようである。そしてその場合「九国」とは、古代中国において天子の直轄支配領域を九に分割統治し、その総称を「九州」と呼んだものだが、その「九州」の原義と同様の意味を有している。少なくとも「漢土九国」の場介、その「九国」が中国の天子直轄領域を指すことは文脈より明白だ。そうすると先の「筑紫九国」も同様の表記方法である可能性が生じる。そしてこの推察が正しければ、日蓮は筑紫を日本国内の半独立した地域と認識していたことになろう。少なくとも日蓮の時代にあって、筑紫(九州島)を中国同様に天子の直轄領域たる呼称、すなわち「九州」あるいは「九国」とする認識(九州王朝説に立てぱ「遺称」ということになろう)が存在したのではあるまいか。(9)  
六 中世からの視点
以上、各節で考究した日蓮文書に見える「九州年号観」や「九州観」より、次の点が明らかとなった。
1).日蓮は『日本書紀』に見える「大化」を日本国最初の年号とはせずに、「大宝」を創始年号と認識していた。
2).日蓮は『日本書紀』を読んでいるにもかかわらず、同書中の「大化」「白雉」「朱烏」を日本国の年号と認識した形跡がない。
3).日蓮は「九州年号」が記された史料を見ていた可能性が強い。
4).日蓮は筑紫(九州島)を中国同様に大子の直轄領域を意味する「九国」と記していることから、日本国内にあって筑紫を特別な領域と見なしていた可能性がある。
5).これら日蓮の認識は、一人日蓮のみの認識ではなく、鎌倉時代の知識人における共通認識の一つであったと考えられること。
これらの結論から、日蓮は古代において日本国とは別の国家があり、独自の年号を有し、そしてその国は九州にあったことを知っていた、という一つの推理(作業仮説)を導き出すことが可能である。この作業仮説ならば1).から4).までの日蓮文書の状況と無理なく整合するからだ。しかし、今一つ別の可能性もある。それは、九州王朝の存在を前提に、あるいは反映して記された諸史料により、日蓮の知識や教養が形成された結果、日蓮本人には九州王朝の存在が意識されないまま日蓮文書に再反映された、このケースだ。一応この二つのケースが想定できるのだが、私は前者の可能性がより高いと考える
理由としては、第一にこの時代から九州年号群史料が相次いで成立していることがあげられる。鎌倉幕府は近畿天皇家と京都から権力中心を移動させて成立した初めての武家政権だが、そうした政治的・思想的背景と密接に関連して、かの九州年号群史料が歴史の表舞台に復活してきたのではなかったか。少なくとも、天皇家の権威と対抗するうえで九州王朝の「存在」は幕府にとってマイナスに作用したとは考えにくい。たとえば、九州の宇佐にその淵源を持つ八幡神を鎌倉において崇敬したことも、こうした時代背景と恐らくは無関係ではあるまい。(10)既存の権威を否定あるいは乗り越えるために、先住したそれ以上の権威を持ち出すことは、歴史においてはよくあることだからだ。(11)このような中心権力の移動にともなって、それまで埋もれていた「九州王朝」の痕跡がさまざまな形で出現し始めた時代に日蓮の歴史認識は形成されたと言えよう。
第二の理由として、博覧強記の日蓮の文書において、ある史料群欠落の状況がある。その欠落した史料群とは中国史書中の『魏志』倭人伝を筆頭とする倭国(九州王朝)伝群である。倭国のことを記した『倭人伝』の他、『隋書』倭国伝・『旧唐書』倭国伝等の引用が日蓮文書には皆無なのだ。もちろん、日蓮はそれらの史書を読んでいなかったという場合もあるだろう。しかし、『史記』を初め内外の典籍を縦横に引用している日蓮が、それら倭国伝は知らなかったとは言いにくいように思う。むしろ、日本国とは別国と認識していたが故に、「大化」「白雉」などと同様に引用しなかったと考えてみたい。もちろん、このことを証明することは困難だが、欠落現象を説明しうる作業仮説の一つとして提示しておきたい。
最後に本稿で試みた方法論について述べる。今日、私たちが古代を知る上での史料はその殆どが後代写本である。更に、散逸して書名のみ伝えられている史料もあれば、書名さえも伝わらないまま消滅した膨大な史料が存在したであろうこと、これを疑えない。それと同時に、中世にあっては現代よりもはるかに多くの古代史料群が残存していたこと、そして中世の知識人たちはそれら史料群を自らの教養として摂取していたであろうこと、これもまた疑うことはできない。したがって、このような中世文書に記された古代認識の史料批判により、古代の真実を復原することが可能ではなかろうか。この可能性を日蓮文書によって追求したのが本稿である。こうした方法がどの程度有効であるかは、その史料の質と量に左右されるが、日蓮文書は質・量ともに史料批判に耐えうるものと思う。よって、ここに中世文書(日蓮文書)における九州王朝存在の痕跡というテーマとその方法論を提起し、諸賢のご教正を仰ぎたい。  

(1)講演録「九州年号ーー古文書の証言」『市民の古代』11集所収。
(2)「古田武彦九州年号論批判・・・『二中歴』を中心に」『市民の古代』11集所収。『古代逸年号の謎ーー古写本「九州年号」の原像を求めて』。
(3)明治八年、身延山久遠寺の失火により、真筆は焼火した。
(4)筆者未見の日蓮文書もあるようなので、現時点で断定するのは拙速かも知れないが、ほぼ例外はあるまいと予想している。また、日蓮文書の中にはその弟子等により焼かれたり、すきなおされ、現存しないものもあるようだ。日蓮亡き後、身延山久遠山を相承し、後に富士大石寺を開基した高弟日興は『富士一跡門徒存知の事」を著し、日蓮文書を焼いたりすきかえた他の高弟等を、先師の跡を破滅するものとして批判している。
(5)「古代逸年号は鎌倉期以降に偽作されたか・・・『二中歴』に見える古代逸年号」『季節』十二号所収。
(6)同右。
(7)『善光寺縁起』の九州年号記載記事部分の成立を奈良末期から平安末期の間と見る説もある。山田武雄氏「善光寺縁起の古代年号」『市民の古代ニュース』(4号・一九八四年五月)所収、同『日本古代研究整理』。
(8)中小路駿逸氏(追手門学院大学教授)の御教示による。但し、写本間の差異があるので厳密な史料批判が必要とのこと、
(9)九州島を「九国」と記す用例は「今昔物語』(十二世紀初頭成立)や『保元物語」(十三世紀初頭成立)等に見える。また、国内史料において、国家を「九州」と記す用例は「続日本紀』聖武天皇天平三年条に見える。この場合の「九州」は日本国を指しているようである
(10)鶴岡八幡宮の勧請は、一〇六三年、石清水八幡宮からのもので、宇佐八幡宮とストレートにつながっているわけではない。八幡宮と九州王朝との関係については別に論じる機会があるであろう。
(11)古くは平将門の即位に八幡大菩薩の使者が託宣を告げたことが『将門記』に見える。近代では明治の薩長政権による皇室の担ぎ出しがこれに該当しよう。
(補)「筑紫九国」ならびに八幡神と九州王朝との関連について興味深い史料が存在する。『八幡宇佐宮託宜集』(神吽編、一三一三成立)に見える次の記事だ。
昔、神亀五年(七二八)より始まりて、筑紫九国を領せる王有りき。阿知根王と云う。
八世紀初頭、「筑紫九国」の王、阿知根の事が記されているのだ。正史には見えない現地の伝承と思われる。いわゆる、滅亡後の「九州王朝」に関する断片史料と想像するが、今後の研究としたい。 
 
「男弟」を考える / あわせて「大王・年」について

 

一 男弟とは
「其国本亦以男子爲王、住七八十年、倭国亂、相攻伐歴年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大無夫壻、有男弟佐治国。」
これは、どなたも御存知の『三国志』魏志倭人伝、卑弥呼登場の一節だが、ここで使用されている「男弟」、という用語は有名なわりにはその意味について深く追求された形跡を知らない。通常、「おとうと」の意とされているようである。しかし、それならば何故他に使用されていないのであろうか。『三国志』では、おとうとの意には少数の昆弟、少弟等をのぞいてはほとんどが弟であり、男弟は使われていないようである。男弟に特別な意味があるからではないだろうか。考えてみたい。
さて『史記』巻五、秦本紀第五、に次のような文がある。
「荘公居其故西犬丘、生子三人、其長男世父。世父曰・・・戎殺我大父仲、我非殺戎王則不敢入邑。・・・遂將撃戎、譲其弟襄公。襄公爲太子。將公立四十四年、卒、太子襄公元年、以女弟繆贏*爲豊王妻。」
贏*は、貝の代わりに女JIS第4水準ユニコード5B34
ここでは「女弟」が使用されている。さきほどの男弟と女弟を並べてみると、この二つは対応した用法であることが窺われる。
『諸橋大漢和』によれば、
男弟弟をいう。(漢書、衞青法)
子夫男弟歩廣、皆冒二衞氏一。
女弟妹、女妹(説文)妹、女弟也。
とあり、女弟についてはさらにいくつかの用例を載せている。しかし、この説明では男弟について、弟の意、以上にはわからない。
『漢書』巻五十五、衞青霍去病伝第二十五を見ると以下のようである。
「青有同母兄衞長君及姉子夫、子夫自平陽公主家得幸武帝、故青冒姓爲衞氏。衞媼長女君孺、次女少兒、次女則子夫、子夫男弟歩廣、皆冒衞氏。」
衞青とは子夫の弟であり、霍去病とは子夫の姉の少見の子兒である。二人共、武帝の下で旬奴との戦いに勇名を馳せた将軍である。そして子夫とは、皇后に子が無い武帝に愛され男子を生み、元朔元年に皇后になった女性である。そこで先の倭人伝の卑弥呼の例と並べてみよう。
女王、卑弥呼(姉)ーー男弟、
皇后、衞子夫(姉)ーー男弟、歩廣
となる。すると男弟とは、姉、弟、という関係を表わす用語ではないだろうか(女王、皇后、という身分も限定されているのかも知れない。それゆえ多用されないのであろうか)。 
二 日十大王年は女王か
するともう一例の男弟が使用されている文章がある。和歌山県にある隅田八幡神社伝来の人物画像鏡の銘文だ。
「・・・癸巳八日、日十大王年、男弟王、意柴沙加宮・・・」
この銘文の解読についてはすでに古田武彦氏が『失われた九州王朝』で詳細に論証されている。「日十大王年」とは、大王の年、日は十日、と時間帯を表わしているのではなく、「日十」和風名称、「年」中国風一字名称、であり、大王の名であること、男弟王とは魏志倭人伝の用法と同じであるとされている。それでは先の二例と並べてみよう。
女王、卑弥呼(姉)ーー男弟
皇后、衞子夫(姉)ーー男弟歩廣
日十大王、年(?)ーー男弟王
となり、(?)には姉、が入ることになろう。日十大王年は、男弟の用例からすれば姉、女王であったのではなかろうか。 
三 女王擁立の条件
それでは次に別の側面から日十大王年、女王説を検証してみよう。
倭国の歴史において、女王が擁立された経緯はどのようであったのであろうか。倭人伝が伝える卑弥呼擁立の場合は、その国は本は男王であったが倭国乱れて相攻伐歴年であったと、そこで女王が擁立されたと記している。また、壹與の場合は、
「卑弥呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴碑百餘人、更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人、復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。」
と記され、壹與の場合も卑彌呼と同じように国中が乱れ、収拾がつかなくなるという危機にあたって女王が擁立された事が知られる。
それでは日十大王年が擁立された時にはどのような危機、あるいは画期が倭国にあったのであろうか。幸い癸巳の年、とは西暦五〇三年であったことが古田氏の先の本で論証されている。五〇三年とはどのような年であったのであろうか。 
四 日十大王年の時代
『宋書』は、高祖永初二(四二一)年「倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授」から、順帝昇明二(四七八)年「封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬環甲冑、跋渉山川不遑處」の武の遣使まで倭の五王の遣使を伝える。次に『南斉書』は建元元(四七九)年倭王武への鎮東大将軍任命記事を記し、『梁書』は天監元(五〇二)年倭王武を征東将軍への進号記事を伝える。しかし、その後『隋書』倭国伝の記事、「開皇二十年(六〇〇)倭王、姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩鶏彌、遣使詣闕」のあいだ空白となる。日十大王年の擁立から多利思北孤までのおよそ百年、中国正史はなにも伝えない。
一方、丸山晋司氏紹介の『二中歴』によれば、五一七年、継体という年号が最初の年号として記されている(丸山氏は継体年号を後世の誤伝と否定されている)。また、古田武彦氏は『筑後風土記』の分析、岩戸山古墳=磐井の墓、の分析を通して、六世紀倭国に律令が制定、施行されていたと『古代は輝いていたIII』で論証されている。
中国正史における、日十大王年の擁立から百年の空白=遣使の断絶。倭国における年号の創設。律令の判定・施行。以上三点を結び合せた時、見えてくるものは何か。それは中国の笠=冊封体制からの離脱、を意昧してはいまいか。
西晋滅亡によって、倭国が天子と仰ぐ朝廷は大陸の南半に逼塞し、朝鮮半島の楽浪郡、帯方郡は消滅し、その空白を埋めるべく倭国と高句麗の激突が始まった。その後の情勢は「好太王碑文」、あるいは『宋書』にみえる倭王武の上表文等によって窺うことが出来る。そして四七五年、百済の首都、漢城が落城し熊津城への遷都が象徴するようにこの時代高句麗の優位があきらかになってきたようである。そのような時にあたって高句麗との戦いに後盾ともたのむ南朝は、中国統一をはたし得ないばかりか、高句麗と対抗すべく求めた倭国の大義名分である開府儀同三司を否定し、征東大将軍ではなく、征東将軍としてしか遇しない(高句麗王は、開府儀同三司・征東大将軍であった)南朝に倭国は見切りをつけたのではなかろうか。そして、百済、新羅を糾合し、みずからが中心となって新たな東アジアの秩序を創造せんと決意したのではないか。その決意の表われが、女王、日十大王年の擁立であったのであろう。
そしてその延長線上にあるのが『隋書』の記す大業三(六〇七)年多利思北孤の国書、「日出處天子致書日没處天子。無恙」ではなかったか。『隋書』はさらに記す。「新羅、百済皆以イ妥爲大國、多珍物、並故迎之、恒通便往来」と。
女王、年の擁立以来百年、その実績と自信が多利思北孤をしていわしめたのであろう。
そしてその画期は、五〇三年、日十大王年の擁立にあったのではなかろうか。
イ妥(たい)国のイ妥*は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO 
五 むすびにかえて
男弟の用例の検討から日十大王年、が女王であったことを推定し、女王擁立の条件の検討から、五〇三年に倭国は大きな転換点を迎えたと推定してみた。
以上述べてきた観点に立つ時、その後の出来事の一つ一つが別の姿を見せてくれるようである。曰、継体年号の持つ意味、曰、磐井の乱の実体、等々考えてみたい問題はあるが、それらは別の機会に譲って、ひとまず、日十大王年・女王説について諸兄姉の教えを乞いたい。 
付記
(一)引用漢文は中華書局本に依った。
(二)『市民の古代』第六集「倭王武の和名とその系譜」で草川英昭氏は人物画像鏡の銘文の年を「武」と読んで日十大王は武であるとしているが、「年」を「武」と読むのは無理と思われる。
(三)古田武彦氏は『古代は輝いていたIII』で「大王ーー男弟王」は「兄(姉)弟統治」とされている。大王年が女性である可能性を示唆されているようである。 
 
筑紫朝廷と近畿大王

 

はじめに
新年おめでとうございます。祭日、成人の日であり、かつ雨の中をこれだけ多数お集まりいただきまして、たいへんうれしく存じております。
いま、司会の木佐さんからお話がありましたように、たしかに去年は、私にとってたいへんな収穫の年でございましたが、じつは本の中にかかれていることはそれより前の、一昨年よりさらにその前の年に発覚したというか、ぶつかった問題が本になって去年出たわけで、それ以外に、去年一年間の中で発見した新しい収穫がおびただしい数にのぼったわけでございます。
それを、今年は一つ一つ論文化して本の形にしていきたいと予定しているんでございますが、その去年の新しい発見の話を前半はさせていただきたいと思います。そして後半は今年の発見ですが、この二、三日来、また非常に大きな問題にぶつかりまして、それをお話申し上げたい、こういう予定でございます。
というような盛りだくさんでございますから、あんまり早口でしゃべってもしようがないですし、「要するにこういうことなんだ」と、そして「要点はこういうことであってくわしくはここに書いてある」というような言い方も話していただきながら、去年の収穫を前半に申し上げたいと思っております。 
寄生虫の研究
さて、去年の収穫も数が多いんですが、まず挙げさせていただきたいのは、寄生虫の問題でございます。と言うと、みなさん、何を言うかと思われる方と、ああ、あれかと思われる方がいらっしゃると思うんですが、一昨年、『アニマ』という動物雑誌(平凡社)に、影井昇さんという、目黒にあります国立予防衛生研究所の寄生虫の主任研究員の方の文章が出たわけでございます。私、ぜんぜんそれを知らなかったんですが、去年の七月の終わりに、安田陽介さんという京大の国史学科を出た方からのお手紙で知りまして、その内容を見て非常に驚いたわけです。というのは、その影井さんの文章の元になっているのは、ここにあります小さな小冊子ですが、学術書なんですね。ブラジルの寄生虫の学者、もちろん自然科学者達ですが、だいたい自然科学の論文というのは短いですから、それが集まってできた論文集なんですね。その内容を元に紹介された。どういうことかと言うと、ブラジルからエクアドル、ペルー、つまり南米の西海岸の北辺に至るこの地帯から糞石、ウンチですね。化石になった糞石があって、その中に寄生虫がやはり化石になっているわけです。それを調べたところ、アジア、特に日本列島に多い種類の寄生虫であることがわかったと。しかもその年代は、放射能測定によると今から三五〇〇年前、それぞれ数値が書いてありますが、日本でいう縄文後期を中心にする時期の糞石があるわけで、ミイラは当然ながらモンゴロイドであるわけです。モンゴロイドというと、アジアからベーリング海峡を渡って来たというのが通説である。このさい、この通説は成立不可能である、とその寄生虫の専門家は判断したわけです。なぜかというと、その寄生虫というのは寒さに弱い、摂氏二〇度以下になると死滅する。だからベーリング海峡を通って来たんでは生き永らえることはできないと。
では、どういう方法があるかということで、もう一つの選択肢、つまり、ワシントンのスミソニアン博物館のエバンズ夫妻、それからエクアドルのエストラダさん達が提唱している説、つまり日本列島から縄文人が黒潮に乗じてエクアドル、南米の西海岸に到着したと。あの説の場合は生存可能であると。だからこの寄生虫達はそのような伝播ルートを通って南米に入ったものと考えざるを得ないと。
こういう趣旨の論文なんですね。そして分布図が載っているわけです。それを影井さんが紹介したわけですね。で、影井さんの寄生虫の専門家としての目から見ても、それは筋が通っていると判断して紹介されたわけです。
私は七月末にこれに接しまして、八月半ばに影井さんの所にお伺いして詳細をお聞きしました。今の要点がそれでございます。これは私にとってはたいへんうれしいニュースで、みなさんご存知のように、二十一年前に出ました『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社)、この中で最もスリリングな、書いている当人の私にとって最もスリリングな一節は最終章、つまり裸国・黒歯国は南米の西海岸・北半部にあったと考えざるを得ない、倭国から見て東南にある。正確には侏儒国から見てですが、そして船で一年、二倍年暦という考え方を入れると、実質半年で到着できる。で、これを測定してみると南米の西海岸、それも北半にしかならない。南半にいくと半年では無理だ。つまり日本列島からサンフランシスコまでは三ヶ月ですからね、「太平洋一人ぼっち」といったような青年達の実験航海によると。同じ距離、同じ黒潮ですから、測定すると西海岸の北半ならいいけれど、南半まで行くと後三ヶ月では無理だということで、南米の西海岸・北半部、とこういう結果を書いたわけです。だからこれは怖かったわけですね。
で、これに対してやめなさい、とか削りなさいとか、いろいろの反応があったんですが、ところが二十一年目にして、それは正しかったという答が出てきたんです。しかも思いがけない自然科学者の、寄生虫の専門家の方から出てきた。その地図がまさに南米の西海岸の北半部にしか、その糞石が分布していないんですよ。チリとか南半分には分布していないんですね。これ見て私、ぞっとしましたですね。
『「邪馬台国」はなかった』はその後角川文庫に入りまして、去年の十二月半ば、日付は今年の一月一日で朝日文庫から出たわけです。最終章に新しく書き下ろしの一章を付けたんですが、その書き下ろしの一章の一番最後に、ブラジルの寄生虫の学者の分布図が掲載されております。やっとすれすれに間に合うといいますか、あれは七月の末に知ったのですが、もし八月末に知ったらとても間に合わなかったわけですけれども、なぜかすれすれ間に合う形で、手紙が私の所に来たというわけでございます。というようなわけで、この件は奇跡のような、私にとっては事件であった。
しかもこれは、考古学者達、その他の人達がバカにしてきた裸国・黒歯国問題がバカにできないものであった、ということを裏付けただけではないんですね。私にとっては倭人伝の信憑性の問題、倭人伝はリアルであると、陳寿を信じ通すというのが『「邪馬台国」はなかった』の序文の最後の宣言であったわけです。信じ通したらこうなった。裸国・黒歯国は南米の西海岸北半になった、とこういうんですから、つまり裸国・黒歯国の記事ですらリアルだったわけです。そうしたら、まして邪馬一国の記事がいい加減であるはずがない、とそこに帰ってくるわけです。私は寄生虫の専門家ではなくて、史料批判に最も関心を持っている研究者ですからね、史料批判上やっぱり倭人伝はリアルであったと。倭人伝はいい加減だと称してあっちを直しこっちを直してきたのは正しくないことが、海外からの報告によって裏付けられた、とこういうですね。自分の生きている時にこんな反応が来るなんて思いもできないことでございました。 
天皇陵の探究
さて次に、八月、中国に旅行する前の二七、八日ごろ、私にとっては大きな発見がございました。天皇陵に関する問題でございます。それは、市民の古代研究会の会長をしておられる藤田友治さんが編著者になりまして一つの本の企画をされました。題は『天皇陵を発掘せよ』とたいへんわかりやすい題ですね。どういうことが書いてあるか題を見れば全部わかるみたいな題ですが、これが三一書房から新書版で出る、今最後のゲラが私のところに来ていますので、おそらく一月の終わりか二月の半ばまでには出ると思います。その本の中の一つに、天皇陵について書いてほしいと要請されまして、はじめは迷惑というか、とても今天皇陵については書けませんよ、という感じだったんですが、しかし藤田さんのご依頼だから書こうと、正直言うとそういう感じで、取り組んだわけです。ところが、これは私にとってたいへんな意義深い収穫になったわけです。
ご存知のように今まで講演会で、九州王朝ということを言いましてね、七世紀末まで九州王朝が中心だったんだと、大和の王権はその分派であったにすぎない、言うなれば地方豪族であったにすぎない。巨大な地方豪族であったにすぎない、ということを述べてきたわけです。近畿天皇家が中心の王者になったのは八世紀以後である、ということを言ってきたわけであります。ところが、私の言っている理屈はそのとおりであって、その理屈がおかしいという反応はあまりないんです。またあっても私がすぐ答えられるような批判しか今のところは聞いていないんですね。プロの学者からも講演の聴取者の中からもですね。
ところが、それとはちょっと違った質問が何回か出てくるわけです。それは、天皇陵というのは、あれはどうでしょう、とこういうご質問なんですね。これのおっしゃる意味は明らかでありまして、理屈では確かに中国の歴史書から見ると、あんたが言う通りかもしれんと。しかし、天皇陵というものは最大の前方後円墳として近畿に群立しているではないか、これが何より近畿天皇家が少なくとも古墳時代以来、日本列島の中心の統一の王者であった証拠ではないか、というのがプロの学者も一般の日本人も心の中に思っていることです。歴史書はあまり読んだことないという人だって、今言ったようなことはみんな思っているわけです。
その時に、いつもお答えする言葉は決まっていたわけです。「ではお尋ねしますが、岡山県にある造山古墳、作山古墳、いずれも『つくりやま』と読みますが、これはほとんどの天皇陵より大きいわけです。なかんずく同時代の天皇陵より大きい可能性が高いわけです。これは一体どう考えたらいいでしょう」と。
「つまり大きい方がご主人で、小さい方が家来、こういうことですね、さっきの話は。もし外見上の大小が主人と家来を意味するものであるならば、作山・造山の時代は岡山の豪族がご主人、それより小さい天皇陵は家来、とこうなりますね、と。これは、造山・作山だけでなくて、宮崎県の日向のオサホ塚、これも大きな前方後円墳で並いる天皇陵よりはずっと大きいわけです。また関東の群馬県の太田市にある天神山古墳、関東最大の前方後円墳、これより小さい天皇陵はたくさんあります。ということを見ますと、大きい小さいで支配と従属というルールをたてるとしますよね、そうすると混線を生ずるわけですよ。そこだけは岡山が中心の権力者だった、ここだけは群馬が中心権力者だった、天皇家は家来だった、というのは何となく話がガタピシしますよね」というように言いますと、「そうですね」とわかったようなわからんような顔をしておられるわけですね。ま、こっちもあんまりわかったわけではないんで、ただそういう問題があるので簡単にはいきません。目下考え中です、という答えを何回か繰り返してきたわけですね。
それに今回正面から取り組んだわけです。で、その答えはですねーー答えを先に言うのは、今言った本をご覧になる時に答えを知ってしまうと、まあ、推理小説の答えを言う奴は殺してやろうという話があるようなもんで申しわけないんですが、私のは推理小説ではなくて学問上の真実ですから、その点はごめんをこうむって申しますとーー要するに、前方後円墳の方部では儀礼がおこなわれた。しかも、そこの中心権力者が死んで今円部に葬られるわけです。そして、相続者の息子が、あの上で儀礼をおこなうわけですね。それは死者を葬る儀式であり、自分が新しい支配者として相続する儀式であるでしょうね。
これは今までも考古学の方で言われてきています。梅原末治から水野さんに至るまで、そういう話がされてきているわけですね。水野さんは特にはっきり言っておられますが、そこでおこなわれる儀式は何かと言うと、ただ死んだ人を葬ればいいというわけではないんだと、祖先をも祀る儀式であったと。つまり、死んだ親父だけ私は関心があるんだ、お祖父さんやその先祖なんか知らんという、そういう人もいたかもしれませんが、日本のお祀りのルールはそんなものではないわけです。親父が死んだら祖先の中の一番新しい祖先に加わった、それをお祀りするというそういう性質のお祀りなんですね。よその国のことは知りませんが、少なくとも日本の場合それに間違いないと私は思います。
そうすると、たとえば天皇陵のばあい、祖先とは何か、当然のことながら祖先は九州にいるわけです。古事記・日本書紀読んだらそう書いてある。近畿でわれわれの先祖は始まりましたって書いてある古事記・日本書紀の一書などありますか。全部が全部九州から来たと書いてある。神話時代は九州であったと。一番簡単な話は古事記・日本書紀の神代の巻の国名を単純に抜き出していくと、古事記では出雲が第一位で筑紫が第二位、日本書紀は筑紫が第一位で出雲が第二位、全部あわせると筑紫が第一位、出雲が第二位と、こうなりますね。出雲というのも出てくるのはだいたい決まっているわけで、出雲から筑紫へ国譲り、権力が移りましたというストーリーで出てくるんです、ほとんどはね。だから、全体のウエイトは筑紫が中心であることは単純な作業でわかるわけなんです。ですから、天皇家の基をなす神代は筑紫にあったということを、古事記・日本書紀は一生懸命言っているんです。大和自生説というのは津田左右吉なんかが言いますけれども、これはあくまで新しい学説であって、古事記・日本書紀は大和自生説を唱えているところは一ヶ所もないわけです。そうすると先祖は九州にあり、それも筑紫にありということになって来ますね。そうすると、あそこでおこなわれたのは西方遥拝である、とこうなってきます。西方遥拝という言葉、私はじめて思いついたんですが、東方遥拝という言葉をね、関西などで少年時代過ごしたわれわれの年齢の人はみな東方遥拝をやらされた、戦争中にね、宮城を拝むのを東方遥拝といった。それを裏返して言いますと西方遥拝、近畿から見て九州は西方でございます。
それで今度は九州の場合、糸島・博多湾岸に三種の神器、正確には「三種の宝物」が埋められている王墓群がある。糸島にあるのが三雲・井原・平原、そして福岡市にあるのが吉武高木、最古の三種の宝物を持った弥生の王墓、それから博多のベッドタウン春日市の須玖岡本の弥生の王墓、中国製の絹が出てきた唯一の弥生墓ですね。それともう一つ忘れてはならないのが最近出てきたので、釜山の近くの良洞里から三種の宝物を持った王墓が出てきた。この中の鏡は小型イ方*製鏡で、日本の国産といわれているものが三種の一つになっていた。だから九州側の五つより、より遅い時期の三種の王墓であることを示しているわけですね。ですから、三種の宝物群は玄界灘を挟んで、九州側と釜山側にまたがったのが三種の宝物圏である。これが近畿の天皇家にとっての輝ける祖先の地であるわけです。そこを拝まなければ拝むところはないわけです。
イ方*製鏡の[イ方]は、JIS第3水準、ユニコード4EFF。
そして今度はそこの人達、三種の宝物を持った人達はどこを拝むかというと、たとえば糸島の平原でも、あれは原田大六さんが弥生古墳という言葉を使っておられますが、普通に言えば弥生墓ですね、当然ながら盛り土が本来あったわけで、その前には墓前祭をおこなう広場があったわけですね。そこで葬る前に墓前祭がおこなわれたわけです。そこで先祖を祀るというとどこを祀るか。当然私の理解では壱岐・対馬。天国と呼ばれているのは壱岐・対馬であるという論証を『盗まれた神話』でおこないましたけれどね。壱岐・対馬の中心の海上武装戦団が板付・曲り田の豊かな縄文水田地帯を侵略したのが、天孫降臨という歴史的事件であるということを繰り返し述べてまいりましたが、壱岐・対馬が彼らの本拠地です。天神というのは天国(あまくに)、実際には海人国(あまくに)でしょうけど、そこの神々を天神と言っている。その天神をバックにして侵略してきたわけですから、当然彼らの先祖の地は壱岐・対馬にある。だから、この場合は北方遥拝になる。釜山からだったら南方遥拝ですかね。
ということですから、今の天皇陵の方から見ますと西方遥拝になるわけです。これは私が勝手に言っているわけではなくて、日本書紀の神武紀を見ますと、神武が大和へ入って侵入を完成させた後、神武四年に大和の榛原で皇祖ーーというのはニニギの命、天神というのは壱岐・対馬の天つ神ーーそれを遥拝する儀式をおこなったということがちゃんと書いてあります。私が勝手に言っていることではございません。
というようなことで、それに付属する細かい問題があるんですけれども、今は省略いたします。さきほどの『天皇陵を発掘せよ』という本が出たら、それで私の論文を読んでいただければくわしくおわかりになりますし、それから、じつはもう一つ、その問題に触れた本が来週出るんですが、『失われた九州王朝』という本、私の古代史の第二番目の本で朝日新聞社から出て角川文庫に入っていた。それがさきほど『「邪馬台国」はなかった』と同じように里帰りすることになりまして朝日文庫から出た。これもやはり最終章にかなりの分量書き下ろしして、二〇年間における九州王朝関係の問題を書いておるわけですが、その中に天皇陵の問題が要約して書かれております。それでご覧いただいても結構でございます。くわしくは三一新書の方でご覧いただければいいのですが、要するにすべての前方後円墳は服属儀礼の場を墓といっしょに持った古墳であると。遥拝儀礼、服属儀礼というテーマに到着することができたわけであります。
それでは天皇陵以外の前方後円墳はどうなるのかと、そこまで言ってしまうと読む楽しみはないですから、もうここでは申しません。結論から言いますと、天皇陵に関して言いますと、あれは天皇家が日本列島の中心の支配者だった証拠だと、考古学者を先頭にして考えてきたが、これはあやまりである。天皇家が中心の権力者でなかった証拠である。分派であり服属者であった証拠である。というテーマが出てきたわけでございます。これだけの大きな問題を、まだ一〇分足らずの内に申しましたので十分に頭におさまり切れないと思いますが、これはさきほど申しました『失われた九州王朝』の朝日文庫、あるいは『天皇陵を発掘せよ』という三一新書でくわしくご覧いただければありがたい。私としては長年のテーマが解決できたということが、非常に大きな発見でございました。
で、やっぱり、講演会の後などで、壇の所へきて、ちょっと聞きたいんですが、とご質問いただく、あれがやっぱり非常にいいんですね。その時、答えられないのが一番いいんです。そこで答えが出るのは聞かれる方にとってはいいんですが、その時に答えられないものは、答えないのが私の、当たり前ですが、主義でありまして、だから私は何を聞かれても困らない人間なんです。知らないものは知らないと答えることにしているから、何を聞かれても困らないんですがね。その答えられないものこそ私の新しい宿題になっていくわけですね。ということで今日もぜひこの講演がすんだら、私の答えられるご質問やら答えられないご質問をしていただければありがたいと思います。
さて、天皇陵の問題はそれだけにします。 
西王母の国を求めて
次は、天皇陵問題を発見してすぐですね、翌々日ですか、中国に出発しました。さきほど司会者からご紹介がありましたが、二週間にわたって中国の甘粛省・青海省へまいったわけでございます。これは去年の二月、ちょうど今から一年ぐらい前ですが、この時にぶつかりました問題、穆天子(ぼくてんし)伝というものがございます。周の第五代の天子穆王が天下を巡行して歩いたその記録であります。なかんずくメインをなすのは、西域方面へ行って西王母にあってプレゼントをもらった。何よりも天子に任命されたらしい記事もあります。そして帰ってきたと、穆王は西王母にさまざまの貢物を献上した、とこういう形で書かれているわけです。
今お聞きになっただけでも、はじめての方はへえっと思われるでしょうね。われわれが今まで聞いたところでは、中国の天子というのは永遠の中心者であり、絶対である、これが中国思想だと聞いてきた。ところが穆天子伝は違うんですね。穆王は家来で西王母はご主人だというんですね。そういう位取りで書かれている。しかもそこへ行って帰ってくるまでの方角と部分部分の里程が細かに書かれている。そして最後に総里程が書かれている。すなわち倭人伝と同じスタイルになっている。しかもこの穆天子伝が発見されたのは、三国志を書いた陳寿の時代、つまり西晋の時代に発見されている。そして竹簡にウルシで周代の大篆で書かれていた、それをわれわれの知っている旧漢字、当時はあれは略字なんですが、それに翻訳して西晋の王朝がこれを公布した、というのが穆天子伝なんです。
ですから、三国志の倭人伝は穆天子伝をお師匠さんにしてそのお弟子として、あのスタイルは成立している。しかも穆天子伝においても、部分里程をすべて足せば総里程になっている、当たり前ですが、したがって倭人伝も部分里程をすべて足せば総里程になるはずである。『「邪馬台国」はなかった』で、この本を書く私のたった一つのキーワードですね。それは部分を全部残りなく足せば全体にならなければならない、全体になっていないのは残りがあるからだ、足し忘れがあるからだ、ということで、対海国・一大国、対馬・壱岐の方四百余里、方三百里の半周をそれぞれ足すと四百、四百、三百、三百で千四百里、私の計算では足らなかった千四百がピシャリ出てきたわけですね。ということで邪馬一国は博多湾岸とその周辺である。つまり部分里程を最後に書いてある不弥国、これが博多湾岸であるということはほとんどの立場ですからね。その不弥国で総里程が終わるわけです。女王国は不弥国にはじまると、つまり糸島から博多に入った姪の浜、そこに不弥国があって、そこが同時に邪馬一国の玄関であるというテーマになってきた。その元がじつは穆天子伝であったというわけなんです。
そういう意味で私にとって、その穆天子伝にぶつかって、三年前になりますか、早いもので、私のところの助手の原田実さんの出しました単行本『日本王権と穆王伝承』(批評社)、これがきっかけになって私は穆天子伝に取組むことになったんですが、今のような問題を知りまして、これはもう倭人伝の私の解読はあやまりではなかったという感じを持ったわけです。
そこにさらに加えて、司会をしていただいている木佐敬久さんが、木佐提案というのを信州の白樺湖のシンポジウムで出されました。『すべての日本国民に捧ぐ』(新泉社)という本を去年出しましたんですが、これを見ていただければくわしくわかりますように、木佐提案を出発点にして私の歴史観が論理化されるということになったわけです。
そういういきさつがそれぞれあったんですけど、元に帰りますと、その穆天子伝に書いてあった里程をたどると西王母の国に至ることができるんじゃないかと、ちょうど倭人伝の邪馬一国に至ることができたように、西王母にもそれを本気で信用してたどれば至れるんじゃないか、こういうふうに考えたのが去年の二月だったんです。そして結果は、明らかな答えに到達したんです。西王母が穆王を迎えたのは青海省の西寧の近辺、青海湖のほとりであろう、そして西王母の本国は敦煌、酒泉のエリア、これが西王母の国であろう、という結論に達したわけです。
倭人伝と同じ方法でやってみたら論理的にはその通りになったんですが、それではその現地へ行ってみなければいけない。“歴史は足にて知るべきものなり”という秋田孝季の名言がありますが、江戸時代の天才的な学者の秋田孝季の言葉です。その通りだと思うんです。それで行ってみなけりゃいかんということで、行くプランを立てて募集しましたら二十人近くの方が応募してくださって、ごいっしょに現地を回られたわけです。ここからたいへんな、もう予想もしなかったような多くの収穫があったわけです。三十六の収穫という形でプリントに書いたりしましたけれども、これを今から申し上げるわけにはとてもいきませんので、一月一九日に中野の老人大学で、中国旅行を中心にした講演をおこないますので、そちらの方に関心のある方はお出でください。中国最古の鏡に触れましたが、それは省略しまして、次のテーマに移らせていただきたいと思います。 
「国譲り歌謡」
次のテーマと申しましたが、この中国旅行のさなかに古事記・日本書紀の、今まで私がまったく気がつかなかった真相に気がつくという、まあ事件でしょうね、ぶつかったわけです。なんで中国に行ってそんなになるんだと言われても、これはちゃんと理由があるわけでして、つまり二十人近くの人といっしょに行っている間、絶えず私は話をし夜はホテルで討論をし、ということの繰り返しの二週間だったわけです。そういう意味では移動する講演会・シンポジウムという感じですね。その中で古事記・日本書紀の問題に関しても鋭い質問やご意見が出ましてね、その中で私がはっと気がついたわけなんです。忘れもしませんけど朝の五時前ころでしょうか、眠っていて気がついて、あ、もしかしたらと思って一緒に寝ている人を起こしちゃいかんので、トイレが別の部屋になっていますので、そこへ行って一生懸命古事記を開いて見たのを、今なつかしい記憶として思い出します。
どういうことかと申しますと、これは今日の後半の話にも関係がありますので是非申させていただかなければいけませんが、神武天皇に関して、神武歌謡と私は呼んでおりますが、古事記・日本書紀に歌がたくさん書かれているわけでございます。戦後の歴史学では、神武天皇は架空の人物ということになっておりましたので、この歌も神武天皇に関する歌ではなくて後世の造作であると、いわゆる津田史学的な解釈がされていたわけですね。ところが一昨年ふとしたことで私は気がつきました。
もちろん神武が実在だということは、一昨年どころではなくて二十年来、『盗まれた神話』以来言っていることなのです。しかもその証明をいろいろ繰り返しましたが、最も決定的な証明だけ一つ申しておきますと、大阪府史に載っております大阪湾のあたりの弥生の終わりから古墳時代のはじめにかけての地図があるわけです。これは地質学者と考古学者の共同作業で作られたものですね。それによりますと、古事記の示す神武の近畿侵入譚とピシャッと一致するわけです。つまり古事記によりますと、神武達が船で日下(くさか)の楯津という今は陸地のど真中になっている所に船で行っている感じなんです。現在、陸地のど真ん中ですから船で行けるはずはない、
ところが弥生末・古墳初期の地図だと船で行けるわけです。船で入り込んで大阪湾からもう一つの河内湾と呼ぶべきものがあったと想定するわけですが、それのドンツキ、突き当たりですね、そこが日下の楯津になっているわけです。だからこそそこへはいるのは当たり前になってくる。さらに、負けて逃げる時に“南方を経巡って”と書いてある。本居宣長はこれで七転八倒苦しむんですけども、本居宣長は今私が見ているような弥生末・古墳初期の地図を知らなかったわけで。江戸時代の近畿のことは彼はよく知っているんです、三重県出身だから。だから彼は困ったんです。ところがその地図を見ると、大阪湾から河内湾に入る入口になる所、わずかな水路、そこが南方、今の新大阪駅の所です。今でも南方と書いて「みなみかた」。だから南方を経めぐって逃げなきゃ逃げる方法ないわけですよ。古事記の描写はリアルであった、ということになってきたんです。
ではあの描写がリアルなら、神武が架空で描写だけ弥生の地形にリアルであるなんてことはあり得ないですから、神武はリアルな人間であったと、こうなるわけですね。これは繰り返し書いているから私の本を読んだ方は、ああ、あれかとその図を思い出しながら聞いておられると思うんですが、専門の学者からは一言の応答もないんですよね。一言の応答もないまま神武は架空にして、考古学者も神話学者も古典学者もあつかっているわけですね。
そういう前提がありまして、問題の神武歌謡に入っていきますが、『盗まれた神話』の段階で、私は神武は宮崎県出発と考えてきた。ところが、それは間違っていたということを知ったわけです。神武の歌を見ますと、「久米の子等、久米の子等」と言って、「撃ちてし止まむ」で終わる歌ですが、久米の子にだけ呼びかけている。それはなぜだろうと考えてみると、これは神武が率いていたのは「久米」部だけであったと、こういう仮説をたてればよくわかる。戦前の皇国史観のように、全軍を率いてと考えたらまったくおかしい、久米の子だけひいきにしている。そして津田左右吉の造作説でもおかしい。なおおかしい。八世紀に造作するなら、蘇我や中臣や大伴もおるわけですから、そういう者にも呼びかけるように造作すればいいわけで、それを一貫して久米の子にしか呼びかけないで造作するのはおかしいわけですね。みんなそれを聞いたら古事記・日本書紀、特に日本書紀は正史ですから、ぶうぶうブーイングが出るわけです。だから造作説では説明できない。では何かというと、唯一の仮説は、神武は全軍を率いるとかそんなんじゃなくて、わずか「久米」部だけを率いたゲリラ部隊というか、そういうスケールの侵略者であった。こういう仮説をたてると、久米の子等にしか呼びかけていないのは当然である、とこう考えたわけです。
さらにもう一つ、「島(しま)つ鳥(とり)」という言葉が出てきました。「島(しま)つ鳥(とり)、鵜飼(うかひ)が伴(とも)」という「しま」も地名であろうという問題が加わりまして「しま」と「くめ」がセットになっている所、しかも九州でということで探してみたところが、唯一該当する所があったわけです。それが福岡県の糸島ですね。その志摩町に「久米」というところがあるわけですね。ここが神武が歌っている「久米の子等」の原産地である。原産地って変ですが、まあ出発地である、という結論に到達したわけで、こういう仮説に立ってみますと、神武歌謡が次々にわかってまいりました。
「宇陀(うだ)の高城(たかぎ)に鴫(しぎ)罠(わな)張る」という言葉で始まる歌、鴫を獲るための罠を張ったら鯨が引っかかった、で年をとった奥さんにはあんまり脂身の多いところをやるな、若いおかみさんには良いところをやっていいぞ、という歌があって津田左右吉さんは、これをとらえてこんな支離滅裂な歌があるところをみても神武は架空に違いないと、ずいぶん乱暴な論法ですが、そういうことを言っておりましたけどね、これを糸島郡に持っていきますと、宇陀がやっぱりありまして「宇田川原」、今は川ですが当時は海に臨んでいる。そこには鴫はもちろんおりますが、鯨が陸に集団でときどき上ってくるわけですね。ですから、鴫を獲ろうと思っていたら鯨が引っかかったというのは非常にリアルである。しかも弥生時代ですから一夫多妻。みんな殺気立っている。そうするとリーダーが殺気をおさめるために「年とったかあちゃんにはあまりいいとこやるなよ。また太って困るぞ、若いかあちゃんならいいとこやってもしょうがないか」と、こう言うんでみんながどっと笑うだけですね。セクシュアルでかつ、ある所真実をついておりますので、どっと笑うわけです。そして殺気をなだめて、実際はまあ村のルールで分配をするんでしょうけど、弥生時代の鯨を分配する歌であったということになるともうがぜんリアルな歌になってきたわけです。
次に「神風(かみかぜ)の伊勢(いせ)の海(うみ)の大石(おひし)に這(は)ひ廻(もとほ)ろふ細螺(しただみ)のい這(は)ひ廻(もとほ)り撃ちてし止まむ」という歌がありますが、この「伊勢の海」というのが糸島郡にあった。今、伊勢が浦となっておりますが、弥生時代には海岸である。しかも伊勢が浦に「大石」という字地名があった。私もびっくりしましたね。内倉武久さんという朝日新聞の方に「糸島郡にあの伊勢もあるんじゃありませんか」と言われて探してみたら、ほんとうにあった。
ということで、神武歌謡が次々と解けてくることになったわけです。それで論理的には従来「神武が日向(ひゅうが)を出発して筑紫へ行った」と、こう読んできていたんですが、私や他の人達も。しかし天孫降臨の説話より何ページか後ですから、天孫降臨のところには、「筑紫の」、古事記では「竺紫」ですが、「竺紫の日向(ひなた)の高千穂のくじふる嶺(たけ)」とこう書いてある。「くじふる嶺」というのは、今の博多と糸島郡の間の高祖(たかす)山連峯にくじふる嶺というのがあるわけです。何よりもそれは筑紫に属しているわけです。で、日向(ひなた)峠があってここから日向川が流れ出して室見川と合流する所に、最古の三種の宝物を出す吉武高木遺跡があるわけですね。ですからあれは「ひゅうが」でなくて「ひなた」だった。高千穂は高祖のことで、くしふる嶺というのは現在でも存在しています。
これはやはり、神武歌謡は糸島カラオケであった、という、まあ変な話になってきたわけです。それでこの点は、これも複雑な話を短い時間で申しておりますが、新泉社から『神武歌謡は生きかえった』という本が去年出ました。それにくわしく載っておりますので関心のある方は見ていただければ結構でございます。
その神武歌謡の中で一つレベルの違う歌があるわけです。それは「夷(えみし)を一人(ひだり)百(もも)な人(ひと)人は云へども抵抗(たむかひ)もせず」という歌がありまして、これはさっきの歌とどうもレベルが違う。これは戦闘歌謡で、夷という連中が、「一人で百人に当たる、俺達は強いんだ」と自慢しておったが、俺達にかかったら抵抗さえようしなかった、ざまあみろ、というようなおごり高ぶったというか、勝ちどきをあげた歌なんですね。だから同じく「久米」部の人達が歌っているんでしょうが、現在の話であるよりも、過去の彼らの歴史の中で輝ける勝利譚があった、そこで歌われていた歌が糸島カラオケに入っていて、それを大和に侵入した時に歌った、というふうに解釈せざるを得ない。まあ長い時間苦しんでここに到達したものを今さっと申し上げるんですけどね。
すると、一人で百人を迎え撃つことができる、とこう言っていた人達とはだれか、それがもろくも屈服したとは何か、というと、これが天孫降臨といわれる事件であったであろうと。つまり「えみし」と言われているのは、板付とか曲り田、菜畑などの縄文水田、それが弥生初期の水田までつながっていますが、そこの人達であろうと。そこに二重、三重の環濠集落が、板付や那珂川で見出されていますね。しかも一番内側はV字型を、更に下に菱形を二重に切り込んだすごい厳重な環濠の跡が出土しております。福岡市教委がこれを報告しております。つまりこの縄文・弥生初期の人達は外敵に対して非常に警戒心を持って、何重もの濠を築いていたわけです。すなわち「夷を一人百な人」彼らは、一人で百人を引受けても大丈夫だ、と威張っていた、ところが俺達にかかったら抵抗もできなかったと、なぜ抵抗できなかったかというのは、おそらく国譲りという、出雲を先をやっつけて国を譲らして、その情報を手にいれたからじゃないかという問題があるのですが、その辺もくわしく書いてあります。そういう天孫降臨の時の戦闘歌謡ではないかという、従来の日本の歴史や歌謡の理解法からみれば素っ頓狂な話に、しかし私にすれば論理的な帰結に、論理に導かれて至ったわけなんです。そこまではこの本に書いてあります。
そして、それを元にして、中国のあれはたしか蘭州だったかと思いますが、ホテルで気がついたのはどういうことかと言いますと、この神武歌謡の中にもう一つ変な歌がある。「楯(たた)並(な)めて伊那佐(いなさ)の山の樹(こ)の間(ま)よもい行きまもらひ戦へば吾はや飢ぬ島つ鳥鵜養(うかひ)が伴(とも)今助(す)けに来(こ)ね」。島つ鳥の「島」が固有名詞、地名だろうという話の「島」はこれなんですがね。伊那佐の山で戦っていた、ところが長い期間がたって私は飢えてしまった、島つ鳥の鵜養が伴よ、今助けに来てくれ、とこういうんです。これは大和の奈良県に伊那佐という所が字地名であって、そこだろうと普通注釈されているわけです。しかし考えてみると変な話で、島つ鳥の「島」は福岡県の糸島郡の「志摩」だとしますね。で、「鵜養が伴」ってちゃんとあるんですよ。博多の西隣の糸島郡の北岸、玄界灘に臨んだそこが鵜の名産地、海鵜がたくさん集まってくる所の一つなんです。筑後川の鵜飼というのが今ありますが、そこの鵜は糸島郡の北側の鵜を取ってきてやるっていうんですね。そういうことですから「島つ鳥鵜養が伴」っていうのはとてもよくわかるんですけどもね。それはいいんですが、奈良県にいて「鵜養が伴、今助けに来ね」といったって応援に来るはずはないです。食料持ってくるはずもないじゃないですか。というんでこりゃ何か変なことだなあと思っていたんです。
ところが、中国の蘭州のホテルで気がつきましたのは、「どこかに伊那佐の浜があったな」ということ、そのすこし前に古事記に「出雲の国の伊那佐の小浜に降り到りて」と書いてある。要するに天照大神の使いとしてタケミカヅチと天鳥船神の二人が国譲りの交渉に行きますね。そして大国主に交渉したら、もう私は引退しているので息子の事代主に聞いてくれ、というんで事代主の所へ行った、美保の関で釣をしている所へ行って言うと、承知しました、と言って彼は国譲りを承知したという話をわれわれは知っているわけです。ところがですね、この美保の関の話が私にとっては発端になっていたんです。なぜかと言うと、ここへ朝日トラベルの旅行で行きました時に、美保神社の入口で一人の方が「古田さんちょっと来てよ、おかしいよ」と言うんです。「何ですか」と言って看板の所に行きまして、そこに書いてあるのを見ると、事代主は海の中に身を投じてかくれ給うたと、それを土地の人々は手を握って沈んで行く事代主をみて嘆き悲しんだと、その嘆き悲しむ姿が現在の神楽になって、四月のはじめに毎年おこなわれる神楽はその身振り手振りを表わしたものである、ということが書いてあるわけです。
その方が言うには「この事代主は投身自殺ですね、自殺ですよこれは」とおっしゃるわけです。なるほど読んでみればそう見える文章なんですね。ところが私の頭ではそういう考えはぜんぜんなかったんです、古事記・日本書紀読んで。なんか国譲りの模範生みたいな「はあ、どうぞどうぞ、いともかしこし」という感じで国譲りをしたような、そんなふうに私の頭にインプットされていたんです。私は戦前に少年時代、そういう教科書で習ったから。ところが現地ではぜんぜん違うわけです。考えてみるとこれはどうも現地の方が本当じゃないか。われわれが習った古事記・日本書紀の方は天皇家側の目で、国譲りをやらした側の成功譚として記録している。ところが、やらされた方はたまったもんじゃないですね。事代主は「戦い利あらず」ということで、自分さえ身を捨てれば民衆は助かると、これ以上戦っても死者が増えるだけであるといって海の中に身を投じていった。だから民衆はその心を知って嘆き悲しむわけですね。それが、弥生時代から二〇世紀の今日まで嘆き悲しむ祭りが続いている。すごいですね。
古事記・日本書紀は勝った方の、強引に承諾させた方の立場で記録している。が、現地の伝承の方が本来の姿ではないか、という問題に私は目を見開いてきた。私ははじめ、一人で美保の関へ行ったんですが、その時は何も気がつかなかったんですね。目は節穴で、やっぱりああやって何人か寄れば文殊の知恵じゃないですけど、私の全然気がつかないことを見てね、教えてくださったおかげだったんです。そういう、一つの経験があったわけです。
それで今度も気がついたんです。つまり、二人がいきなり最初から行って国譲れって、そんなバカな話はないですよ。何をバカ言うんだ帰れ帰れって言われるに決まっています。果物一つくれと言いに行くんじゃない、国全体をくれ、主権もよこせっていうの、そんなもの簡単にいくはずないじゃないですか。じゃ何か。当然ながら侵略軍が入ったわけですよ。侵略軍が伊那佐、これ出雲大社の前にあるんですよ現在もね、その伊那佐の山にこもる。出雲の大国主の方はこれを迎え撃つじゃないですか、で包囲するわけじゃないですか、そうすると孤立して伊那佐の山にこもるわけじゃないですか。そこでがんばっていればやがて本隊が来ると、本隊というのは糸島郡の鵜養が伴ですね。早く来てほしいと。これは簡単に来られるわけですね。対馬海流が通っていますから。連絡が行ってくるか、予定していてやがて行くということになってるかもしれませんですが、きっと来るわけですよ。で、それが来るまで持ちこたえて、お腹をすかせて、その時の歌なんですね。だから本隊が到着したら形勢が逆転して、大国主側は劣勢に追い込まれた。だから大国主は「もう、やむを得ません。しかし事代主に聞いてくれ」ということになった、当然、事代主の方も攻めたわけですよ。事代主の方も初めは抵抗して戦ったわけでしょう。しかしもうだめだということで、投身自殺をする。
ですからね、私はさかんに国譲りは歴史事実だ、天孫降臨は歴史事実だと、こう言ってきたんですね。しかし、それは、マッカーサーがパイプをくわえて飛行機から降りたのは歴史事実だという、そういう類の歴史事実なんですね。その前の太平洋を舞台にする激烈な戦闘があったわけで、それをバックにした花のところは、日本側で天皇が放送をするとか、マッカーサーが降りてくるとか、そういう話になってくるわけです。国譲りを承知したとか、天孫降臨で降りて来たら、鼻の長い神さんが迎えたとかね、あれは花の表のところだけなんです。その裏のところ、ほんとうのところは今のような具合なんです。しかもこの場合、興味深いのは、出雲に手を伸ばす前にすでに糸島郡に侵入軍は入っているということですね。
これは現地の鬼塚さんから聞かされたんです。鬼塚さん曰く、「もし天孫降臨が歴史的事件の侵入であったとすると、まず今山に来たと思います」。糸島郡に今宿(いまじゅく)という所があるでしょう。博多と糸島郡の境になる所、そのちょっと西北が今山なんです。その今山に来たはずです、と。なぜかというと、今山というのは石斧の産地なんです。そこの一番いい材料で今山で作った石斧が、後の銅剣・銅矛・銅戈の分布と同じで、金属器時代の前の縄文、弥生初期の時代においては今山こそ武器の中心の原点だったわけです。だから、筑紫の板付、曲り田、菜畑を支配しようと思えば、まず今山を攻めるべきだ。しかも、鵜も今われわれはのどかな話のことしか思いませんが、当時は弓矢の矢の羽を鵜の羽で作る。矢の方向指示器なんですね。弓矢ってのは重要な武器ですから、それにとって鵜の羽というのは大事なんですね。だからそれの名産地ですから。どれをとりましても、糸島郡の志摩の地を攻めるべきだ。ということを灰塚さん、鬼塚さんのお二人から教えていただきまして、なるほどと思ったんです。
で、確かにここに侵入している。しかし「一人百な人」でなかなか彼らは屈服しないわけです。だから今度はボス、位取りはボスだったらしいんですが、出雲を襲って屈服させて、そこから情報を得たんでしょう。返す刀でやって来て屈服させた。「一人百な人人は言えども抵抗(たむかひ)もせず」。こううそぶくような結果になった。
というようなことで、国譲りの時の戦闘歌謡がここで歌われていたという。私にとって思いがけもしないような問題を中国の蘭州で見出すことになったわけでございます。
さて、前半も終わりとなってきましたので、二、三申し上げておきます。 
「国引き神話」の結着
さらに去年の一一月のはじめ、私が得ました喜ぶべきニュースがございました。山陰中央日報という島根県の一番大きな新聞でございますが、そこに載った記事のことです。風土記が丘資料館で黒曜石の展示をした、という内容で、これは山口県の県立山口博物館に戦前から寄付されて持っていた石器類一七〇点、それを何点か島根大学の教育学部の三島教授に鑑定してもらった。それは北朝鮮、韓国から出土した黒曜石の鏃だったのですが、いずれも島根県の隠岐島産の黒曜石であることが判明したと、こういう記事なんです。
これは私にとって非常にうれしい記事でございました。なぜかと言うと、ご存知の方も多いと思うんですが、私はかつて三五八本の銅剣、私は銅矛だと思っておりますが、それが出ました時、シンポジウムが斐川町で行われまして、その時にですね、私は非常に怖い仮説を発表いたしました。それは何かといいますと、有名な国引き神話、出雲風土記に出てくる国引き神話では四ヶ所から国を引っ張ってきたことになっている。その第一番目は新羅から、、第四番目は越の国から引っ張ってきた、能登半島あたりだろう。これはまあだいたい異論がない。問題は第二番目と三番目ですね。北門の佐伎の国が二番目、北門の良波の国が三番目、そこから引っ張ってきたと書かれている。
従来これは島根県の日本海沿いの地点に当てる見解が岩波の日本古典文学大系などで書かれております。また隠岐島に当てる見解も出ておりました。が、私はこれに満足できなかった。なぜならば確定している第一番目と第四番目で考えてみると、それは出雲でない場所である。新羅も出雲でないし越の国も出雲ではないわけです。現代の日本国家の内でも外でもいいと。越の国の能登半島は内ですけど新羅は外ですね。どっちでもいい。そして北門という言葉が四回の中二回出てくるんだから、かなり大きな領域であるわけで、しかもそれは出雲から見て北に当たっている。そして門と書かれているから出口入口、つまり港である。出雲から見て北に当たっており、大きな港である、とこれだけ条件がそろえば地図を開かなくてもわかるわけで、ウラジオストックしかないわけです。二番目の北門の佐伎の国というのは、ウラジオストック側からみまして、右腕に当たる所に北朝鮮があって、ここにムスタン岬という世界地図にも姿を表わすような大きな岬がある。これがそうです。北門の良波の国の方は沿海州をバックにしたウラジオストックであろう、とこう考えたわけです。つまり日本海の西半分の世界から国を引っ張ってきたという壮大なスケールの神話であろうと、そして時代は縄文時代であろうと、この神話が作られたのは。なぜならば、ここには金属器がない。古事記・日本書紀の国生み神話には、天の瓊(ぬ)矛。天の瓊戈という二つの武器が登場する、そして筑紫が原点になっている。私の神話と考古学の接点を考える最初の問題になったのは、この国生み神話なんです。
この点はわれわれが現在知っている考古学的知識と一致する。つまり弥生時代、博多湾岸の筑紫を中心にして銅矛や銅戈の鋳型がおびただしく出土する。実物も出土している。そうすると、筑紫と矛、戈という考古学の示す出土中心と、神話が示す所は一致している。これは津田左右吉が言うように、六世紀以後の天皇家の史官が勝手にデッチ上げたお話ならば、考古学的文物と一致するということはあり得ない。だからあの神話は大和で作られたんではない。筑紫で作られたんだ、作られた時期は弥生時代である。弥生時代に作られたから、矛・戈というのが遺物の中心として語られているのだと考えたわけですね。作ったのは筑紫の権力者の支配を合理化、正当化するために、あの大八州国の話を作ったんだ。デッチ上げたんである。デッチ上げたのにはちがいないが、それは彼らの政治目的があって、権力としての理由があって神話を作らせたし、またたくさん出てくる実物も、武器そのものには鉄の方がいいわけですが、そういうコマーシャルのために、ああいうものを作らせて公示させたのである、というふうに考えていったわけです。
そういうふうに考えますと、出雲の国引き神話には金属器が出てこない。あそこでは綱と杭しか活躍してないわけです。綱で国を引き寄せて杭にしばりつけるという動作を四回繰り返している。そうするとこれは、金属器がまだ日本列島に入ってきていない時期に作られた神話である。つまり縄文以前に成立した神話である。そして作ったのは出雲の漁民である。彼らの生活の重要な動作だけで神話全体が構成されている。ですから、まとめて言うと、縄文時代の出雲の漁民が、日本海の西半分を世界とみなして作った神話である、と。こういうことを述べたわけですね。
これもたいへん冒険的な仮説であったわけです。それを確かめるために私はウラジオストックへ行ったわけです。学界のシンポジウムに加えてもらって行ったわけです。ところがその時は、ウラジオストックの博物館が長期休暇中で、私が求めていった物を見せてもらうことはできなかった。私が求めた物というのは言うまでもなく黒曜石の鏃であった。私の仮説が正しければ、出雲の隠岐島はすばらしい黒曜石の産地ですから、これの製品がウラジオストックから出るべきであると、それがまったく関係がないんだったら私の分析はウソだ、とこう思って行ったんですね。ところがその時は空振りに終わったんですが、それから八ヶ月たってソ連の学者が黒曜石の鏃を七〇数個持って日本にやってきた。そして立教大学の原子力研究所の鈴木教授に測定してもらったら、その七〇数個の約五〇パーセントが出雲の隠岐島の黒曜石であった。そして四〇パーセントは北海道の札幌の南にある赤井川の黒曜石、これは津軽海峡圏がそれを使っているわけですが、最初は秋田県の男鹿半島という話があったんですが、後に訂正されました。一〇パーセントは不明である。ということで、その遺跡の時期はソ連側で調べているわけで、これが縄文後期、今から三千五百年前後の時期の遺跡で、ウラジオストックを中心にする約百キロの範囲内の三〇いくつかの遺跡から出土した黒曜石の鏃を持ってこられたわけですね。
ということで、私の分析は見当ちがいではなかったということがわかったんですが、しかしまだ不十分であったんです。なぜかと言うと、北朝鮮と韓国の話がわからなかった。で、韓国なんかに行くと、博物館にはちらちら黒曜石の鏃があるのを見るんですが、みな産地の分析・測定をやっていないんです。見た目にはどうも出雲の隠岐島らしいとか、九州の腰岳のらしいとか、一生懸命こっちも見てますので、目ではそういう感じを持ったんですが、目だけでは結論出ませんでね、残念ながら引き返していたんです。ところが今回測定してみると、北朝鮮、韓国いずれも島根県隠岐島の黒曜石を使っていた。また同じ記事に能登半島にも出雲隠岐島の黒曜石が出てきていた、広島県からも出てきていたということが書かれていた。これは当然ですね。ということで首尾よく、私が分析した四ヶ所とも、出雲の黒曜石の鏃が出てくる地帯である。つまり縄文時代に交流のあった地帯であったということがわかってきたわけです。
ということはですね、私にとっては国引き神話の分析が正しかったということだけではないわけです。つまり私の話をお聞きになっておわかりのように、私の論理は二階建てになっているわけですね。一階の方は国生み神話、古事記・日本書紀の国生み神話、これが銅矛。古事記・日本書紀の多くは天の瓊(ぬ)矛ですね。で、日本書紀の一書に一つだけ天の瓊戈が主役である。しかも筑紫が中心であると。それと考古学的な鋳型等の出土中心が一致するというところからきたわけです。それを一階建てにしまして、その上に立ったら、金属器の出てこない国引き神話は縄文だ、というあぶない論理を進行させたわけです。ところが二階建てがほんとうだったわけですね。そうすると一階建てもほんとうでしょうね。一階建てはウソだけど、その上に建てた二階だけはほんとうなんて、まあないでしょう。だから一階建てはやっぱりほんとうだった。つまり古事記・日本書紀の神話はデッチ上げではなかった。あれを後世の造作物と見た津田左右吉の造作説は正しくなかった、と、そこにくるわけですよ。
だから私は、こういう問題の進展をこの何年か言っているのに、いぜんとして考古学者や古代史学者はぜんぜん相手にしてくれないと思ったら、やっぱりみんな頭のいい人達だから、論理が今のように進行することがおわかりなんですね。そこまでくるとややこしいと、古田にもう少し先をやらしておこうと、こう親切に思ってくださっているんであろうと、私は思っておりますが、要するに、古事記・日本書紀の神話がたんなる後世の造作ではなかったということを、島根県の山陰中央日報の記事が証明することになったわけでございます。
以上で大体時間がまいったのですが、もう一つだけよろしいでしょうか。もう一つだけ簡単に言わせていただきまして、くわしくは後半で必要に応じて述べさせていただきます。 
倭王宮殿群の出現
去年の一一月の終わりに吉武高木。福岡市の西寄りの高祖山からみると東寄りの、室見川と日向川が合流する所に出てきた日本最古の三種の宝物を持つ弥生の王墓ですね。これの東側五〇メートルの所から宮殿群の跡が出てきた。宮殿跡という報道をみなさんご覧になったと思いますが、くわしく現地の市教委に確認しますと、宮殿を取り囲んでまた宮殿があるという、だから宮殿群なんですね。これ、やがて次々発表します、ということです。
考えてみると吉武高木もそうで、三種の神器、つまり藤田友治さんが言っておられるように正確には三種の宝物なんですが、これを取り囲んで二種とか一種とかがごろごろ、そして甕(みか)棺や何かが取り巻いているわけですね。三種を中心に二種や一種が取り巻いた王墓群なわけです。主墓を取り巻いて副墓群ですかね。その東五〇メートルに、宮殿一つではなくて宮殿群が出てきたわけです。これは私にとってたいへんな大ニュースでございました。
さっそく現地へまいりました。『「邪馬台国」はなかった』で不弥国は姪の浜、ここが邪馬一国の玄関、とこういう言い方をしたわけです。ということは、不弥国に入った中国の使いは、目の前に室見川の中流あたりに、何かを見たんです。墓を見たって言うんじゃね、ちょっと物足りないでしょう。やはり建物が、それも今までの唐津や糸島なんかで見てきたのとは違った、これぞ女王国、というような何か建物があったわけじゃないですか。そういう問題が一つあったわけですね。
ところが、私がこの本を書いた時分に、九州大学の考古学研究室へ日参しました。確かあの時は高倉洋彰さんが大学院生(博士課程)の時だったと思うんですが、大変お世話になりました。「室見川の流域に何か出ませんか」「出ません」「だって糸島郡に出ているし、春日市に出ているんだから、その間だから何か出てるでしょう」「出ていません、あそこは何もないことが特徴なんです」と言われたのを忘れませんがね。ところがそれから後、吉武高木の王墓群が出てきたわけです。あれだけでもよかったんですが、よかったっておかしいんですが、あれだけでこっちは満足していたんですが、さらに宮殿群が出てきた。
これはまた、私にとって非常にありがたいのは『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社)の中に、「室見川の銘版」という章を設けてある。これは室見川の下流で出てきた文鎮みたいな金属版で、それをけとばして拾って帰られた原さんという学校の体育の先生がいらっしゃった。そこに後漢の年号があって、宮殿がここに建立されたという記事があったと。それをほとんどの考古学者は相手にしませんでしたが、私は現地へ飛んで行って見せてもらいました。長崎県で校長さんになっておられましたが、見せていただいて、これはどうも偽物ではないと。で、私の解読では、ここに宮殿を作ったと書いてある。室見川の下流というのは弥生時代は海ですからね、室見川の中流・上流あたりから流れてきたんだろう、が、上流というのは都地という所で狭すぎますので、中流あたりに宮殿があったと。そこに作られたもののこれは流出物であろうと。これも怖かったんですが、書いたわけです。もっと簡単には、朝日文庫に入っている『古代は輝いていた』の第三巻にも、このことがちょっと要約して載っていますが、やっぱり怖かったですよね。あんな室見川の中流に宮殿なんかないのに、あったに違いない、そこから流れ出したに違いない、と書いたんですから。ところが、今度宮殿が出てきたんですね。
これもおもしろい問題を言いますと、卑弥呼の時代の三世紀からみると、これは約四〇〇年くらい前になりますね。宮殿跡はBC一〇〇年とか二〇〇年とか言っていますから。だから少なくとも三〇〇年、多くて五〇〇年、ま、四〇〇年前後だということになるわけです。そんな前の、時代が違うじゃない、とこう言いますね。ところが、ここで変な話をしますが、日光の東照宮、あれは今から何年前か、だいたい四〇〇年くらい前ですわね。江戸時代のはじめみたいな顔して建っていますよ。建て直したり修繕したりしていますが、しかし江戸の初期らしい顔をして今も建っているじゃないですか。その間には明治維新という中心権力の変動があった。東照宮には三種の神器なんてないでしょう。ところが明治以後、三種の神器を神宝にする時代に変わったわけです。明かに文明のシンボルが激変したにもかかわらず、日光の東照宮のことは忘れられていないし、また日光の東照宮らしい顔をして在るわけです。ところがこの場合、三世紀の卑弥呼の時代は、やっぱり鏡を大事にする時代であり、そして矛が宮殿を取り巻いている時代であるわけですから、基本的には吉武高木と同質の文明なんですよね。その同質の文明の四〇〇年とか五〇〇年とか前の吉武高木のことを忘れて、ぺんぺん草だけで他に何もなかったはずはないわけですよ。何回建て直したにしても、当然三世紀から見たらいかにも古い宮殿に見えるものがあったわけですよ。こう考えますと、今回の宮殿群の跡が見つかったということの意味は非常に深いです。
ということで時間が過ぎましたので、ここで前半を終わらせていただきます。 
家型土偶の論証
後半に入らしていただきます。さきほどの最後に申しました問題で、じつは一つ続編があるわけです。といいますのは、福岡市西区拾六町という所から家型土偶が出たという報道がありました。ご記憶かもしれませんが、これに私は注目したわけです。なぜかと言うと、これは時期が弥生前期後半という時間帯なんですね。福岡市の教育委員会とか考古学の発掘関係の方には有名な言葉なんですが、「前末中初」という言葉があるわけなんです。つまり前期末と中期初頭でバーっと出土物が一変するわけですね。それまでは金属器があまりないんです。三種の宝物とかはみんな中期初頭以後なんです。出土物が一変するんです。それはもう常識でして、「前末中初」の前だ、後だという話がいつも出るわけです。
私の立場からみると、これは非常におもしろいわけです。何かというと、天孫降臨というのが歴史的事実だと言いましてもね、その天孫降臨といっている時期の前と後、何も出土物かわっちゃないよ。ということだったら大したことはないわけですよ。ところが今のように、考古学者は神話を相手にしないことを習慣づけられていますが、その人達が「前末中初」で出土物が一変すると言っているんです。これはつまり、天孫降臨、支配者が被支配者を駆逐したというか、その上にのしかかったというか、それで文明の姿が一変するわけですね。
それから、板付の場合、縄文水田と弥生初期の水田があるということをみなさんお聞きになっている。縄文の足跡なんていうので。ところが、あそこに弥生中期の水田や後期の水田ていうのはないんですよ。それも不思議なことですよね。不思議だけどよくわかることです。つまりその水田を作っていた人達は殺されたり追い出されたり逃亡したり、同じ場所で中期水田は続けられなかったということを意味しているわけですね。縄文水田があり弥生初期水田があるっていう事実はみんな知っているのにね、なんでそこで断絶したんだろう、という問いをせずにきていたんではないでしょうか。また問いかけても、神話は津田左右吉先生がおっしゃったように歴史とは関係がない、とこういうようにしてしまうと、説明のしようがないでしょうね、おそらく。
さて、お聞きになったらわかると思うんです。今の家型土偶ですね、家のかっこうをしていて穴がいっぱいあいてましてね、これはミニチュアで祭祀の場に、胴に突きさすように下に穴があいているそうですが、その上に乗っけて祭祀の場に飾られたんだろうという説明で新聞に出ていましたがね。そうだと思うんですが、家型というのは単なる家ではないと思うんです。祭祀の場で使うんですから、神殿であり宮殿であると思うんですね。しかも前期後半ですから「前末中初」より前なんです。ということは、侵略された人達の、つまり板付の水田の人達の神殿の土偶だ、とこうなってくるんですよ。
その出土した場所は、室見川の下流の壱岐団地、そこは「市民の古代・九州」の世話役をしていらっしゃる灰塚さんがいらっしゃる所ですが、その壱岐団地の隣が拾六町、そこで出てきている。そうすると、室見川は「前末中初」以後には吉武高木の宮殿群があったわけでしょ。ところが、「前末中初」の前にも神殿が、祭祀の場があったということですね。そして、それまでの祭祀の跡をぶっ壊して新しい支配者が自分達の宮殿や墓地を作ったという感じになってきますね。
まあ、支配者、侵略者というのは普通そうするんでしょうね。それまでの被支配者の分も大事にして、なんてことはあんまりしないでしょうね。日光の東照宮がぶっ壊されなかったのは、何か妥協が成立したからでしょうね、最後まで抵抗して戦っていたら日光の東照宮もぶっ壊されていたでしょうね。おそらく。
そこで考えてみると、天皇陵の下には何があるんだという問題が出てきますね。普通、天皇陵の発掘というと、石室の発掘が焦点でしょうけれどね、ほんとうは私なんか、あの下を知りたいというのがあるわけです。まあ、そこまでいくと余計発掘はいやだということになるかもしれませんけどね。しかし問題としてはあるわけですね。ああいう天皇陵群がずっとある。ところが、神武が侵入する以前、なんにもなかったただの平地なのか、あるいは、それ以前の人達にとって大事な神聖な祭りの場だったのかという問題は、歴史学の問いとしては避けることはできないわけです。まあ、そんなことでちょっと付け足させていただきました。 
朝廷と大王
さて、それでは後半のテーマに入らせていただきます。今日の題目が「筑紫朝廷と近畿大王」という変な題だと思われたと思いますが、これはこういういきさつなんです。
二、三年前だと思いますが、南九州へ行きました。これは朝日トラベルの旅行の講師で行ったんですが、その時バスの中でそれぞれ自己紹介と質問とか意見とかを一言ずつ言われたわけです。その時に山本真之介さんという方が、東京に、略称では古田会といっておりますが「古田武彦と古代史を研究する会」というのがありまして、読者の会で古い発祥を持っている会なんですが、そこの会長をながらくやっておられる方なんですね。何か鉄の関係の大きな企業の部長さんだか専務さんだかやって退職をしておられる方なんですね。この方が立って挨拶された時にこういうことをおっしゃたんです。
「私は古田さんとつき合いが長いけれども、当時から古田さんはまったく進歩しておらん。どうもよくわからんと思っていたけれど今でもぜんぜんわからん、進歩がない」。私何を怒られているんだかよくわからなかったんですね、最初。どういうことかと申しますと、「九州王朝ということを古田さんは言う。そして近畿天皇家と言う。九州王朝と近畿天皇家がどういう関係だかさっぱりわからん。古田さんによると近畿の方が分家だというから、そして九州の王が中心で王朝だというなら、たとえば近畿幕府とか、幕府はちょっとおかしいかもしれんが、まあ九州王朝と近畿幕府というならよくわかる。しかし九州王朝と近畿天皇家って言われたんじゃ何のこっちゃわからん。わからんと最初思ったけどいまだにわからん。ぜんぜん進歩がない」というね、もう八〇歳らいの方ですがね、聞いてて、ああこれは非常に鋭いことを言われたという気がしたわけです。つまり九州王朝なるものと近畿天皇家なるものとの位取り関係が言葉として表現されていないじゃないかと、どっちも顔を立てているような、そういう言い方じゃだめだ、という趣旨だろうと思うんですね。さすが往年、厳しい企業におられた方、面目躍如という感じが致しました。
私が近畿天皇家という言葉を使ったのは、じつは上田正昭さんとかかわりがあるんです。私ははじめのころ、『「邪馬台国」はなかった』を書いて間もないころと思います。上田正昭さんの「大和朝廷」という説を引用していたことがあったんですね。そしたら上田さんから私の所に電話がかかってきまして、京都の向日町にいた時ですが、「あなたの本を拝見しました」と、おそらく、朝日新聞から出たのやいろんな方の講演を集めた「邪馬台国」関係の本じゃなかったかと思いますが、「私のことを大和朝廷云々と書いてあったが、あれは違いますよ。私は応神とか仁徳とかあの辺のところについて大和朝廷という言葉は使っておりません」。「あれは難波にあって大和ではないですからね、だからあれを大和朝廷ということで引用されては困ります」とこういうことを電話で言ってこられた。
上田さんは私とかつての同僚といいますか、私が京都の洛陽工業高校の教師をしていた時、上田さんは泝鴨高校という元の女学校ですが、そこの教師をしておられたわけで、そのころから知ってるわけですからね。そういうことで電話をかけてご注意いただいたんです。なるほどと思いましてね。確かに大和朝廷とこう言えば、大和に天皇陵があったりする場合はいいけれども、大阪の方にある場合はその表現では適切ではないんだなとこう思いましてね、そこで考えたのが近畿天皇家ということだったんです。近畿なら大和だって難波だって近江だって入ると、そして天皇家というのは八世紀以降天皇家を名のるわけですから。だから近畿にいて、八世紀以降天皇家を名のった家、という意味で近畿天皇家という言葉にしようということでそういう言葉を使ってきたわけです。ところが、山本真之介さんのご批判のように、聞いている方じゃ両方共何となく同じ時間帯にあるような感じがいたしますよね。そうすると位取りがわからない、こういうご批判が出てくることになるわけです。 
人麿の証言
そういう問題意識を持っているうちに、今回の問題にぶつかった。それは柿本人麿の歌ですね。
柿本朝臣人麿、筑紫国に下りし時、海路にて作る歌二首
名くはしき稲見の海の沖つ波千重に隠りぬ大和島根は
大王の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ
巻の三ですね。大王の遠の朝廷、これは今までに論じたことがございます。『古代史を疑う』(駸々堂)という本の中で「大王の遠の朝廷」を論じていますので、くわしくはそれを見ていただけばいいのですが、要点を申しますと、万葉集の中に、大王の遠の朝廷という言葉が八回出てくる。その大部分六回は筑紫の太宰府の地を指して使っている。岩波の日本古典文学大系その他で解釈をしていますが、どうもその解釈は正当でないのであって、いずれも太宰府を指して使ったとみなければならないと。一つ一つ歌を吟味してそういう結論に達しました。
ところが例外は、時期的に一番最後に出てくる大伴家持の歌二首、これはぜんぜん違う場所つまり越の国を指して使っている。大伴家持がそこに赴任した時に作った歌に出てくるわけですね。あれは時期的に一番最後ですから、大伴家持が従来の用例を参考にしながら、それの応用編として新しい使い方を示したものと見るべきであろうと、それ以前は太宰府を指して使われている。こういうことを分析したわけですね。
証拠といえば、あげればいくらもあるんですけども、たとえば大伴家持が仙台の多賀城のところへ行った時には「黄金花咲く」という、特に長い長歌を作っていますが、その長歌の中では一回も、大王の遠の朝廷という表現をつかっていないわけです。越の国だけに使っているわけですね。この点ですね、従来の理解、つまり辞書にも必ずこのことが出てきますが、そこの解釈は、近畿天皇家のまあ大和朝廷の地方の役所を指す、とこういう解釈になっている。これはやっぱりおかしいわけです。だって地方の役所が遠の朝廷なら、日本中地方の役所があっちこっちにたくさんあるわけですから、もう遠の朝廷だらけでないといけない。ところがさっきのように家持の新しい使い方以外は全部太宰府を指している。四国へ行ったり島根県へ行ったり山口県へ行ったりした時に、大王の遠の朝廷という言葉はぜんぜん使われていない。地方の役所という解釈では史料事実は説明できないということを私は述べたわけです。
では、何かというと、答えは簡単でありまして、つまり大王と言っているのは「大王」を「おほきみ」とよんでいるわけですね。大王というのは持統天皇とみていいだろう。人麿の歌は大体持統天皇の時の絶対年代がわかるのに集中しています。天武もあるかもしれんが。せいぜい天武。持統というその辺を大王と指していることは間違いがないわけで、ところが朝廷というのは、これは一つしかないわけです。地方の役所を朝廷と、「みかど」とよんでも字は「朝廷」と書いてるわけですが、原文が「朝廷」ですからね。「みかど」というのは後でつけた呼び名にすぎませんからね。地方の役所が朝廷だったら日本中朝廷だらけ、中国なんてもう何千も朝廷がある。そんなことないわけで、朝廷は洛陽とか長安とか天子のいる所しか朝廷と呼ばない、というのが東アジアの常識、中国が東アジアに示した常識ですから、どんな常識より大事な常識は、「朝廷は一つしかない」という常識である。それが地方の役所みんな朝廷という、そんなべらぼうな常識はどこにもない。早い話が日本書紀みて、地方の役所をみな朝廷と書いてあるか、ぜんぜん書いてないです。ということで辞書のあの解釈はとんでもない解釈になるわけです。
しかし、もう一歩進めて、大王のいる所は朝廷とは言わないわけです。たとえば史記なんかで項羽ですね。有名な項羽・劉邦。項羽を大王と呼んでいますね。項羽のいる所を朝廷というか。言いやしませんよ。大王のいる所は朝廷と言いません。朝廷というのは天子のいる所しか言わないわけです。だから大和は、大王のいる所ですから朝廷ではないわけです、人麿にとっては。そして太宰府を朝廷と呼んでいるんですから、そこは天子のいる所とみているわけです。これは当たり前なんですがね。こんな当たり前の解釈、今までだれもしてないのが不思議ですよね。地方の役所と称して済ましてきている。Tennology(テンノロジー)もいいところ。テンノロジーというのは私の作った言葉で天皇中心主義。皇国史観というと「戦前で卒業した」というイメージがありますので、いやいや卒業していませんよ、戦前戦後を通じて大和中心主義・天皇中心主義のイデオロギーにからまれていますよ、という警告を発して、私はテンノロジーという言葉を使っているんですが。そのテンノロジーに立って解説するから、地方の役所が朝廷だという、東アジアの用語例を破り、日本書紀・続日本紀の用語例もすっかり打ちくだくような解釈を平気でやっているわけなんです。
さて、それでは筑紫に天子がいたか。ちゃんといた証拠、痕跡があるんですね。といいますのは、太宰府の奥まった所、太宰府の都府樓跡というのがありますが、そこの右奥になる所が字紫宸殿という字です。私の家があります京都の向日市に字大極殿というのがありまして、ごんぼがよくできるという畑だったんです。それが幻の長岡京が発掘されてみると、そこが大極殿だった。だから八世紀から二〇世紀まで、大極殿と土地の人が呼んできておったのが大極殿だった、と。当たり前の話ですね。お百姓さんが思いついて自分の畑に大極殿という名をつけてみたってだれも採用してくれるはずないです。その地域の共同の常識として皆がうなずいているから大極殿と言い続けてきているわけですね。八世紀から二〇世紀までその地名は連続しているわけです。和名抄とかにはぜんぜん出てませんけどね、そんな地名は。しかし連続している。すごいですね。やっぱり地名はいかに大事かということを感じますがね。
それと同じようにね、太宰府の奥に紫宸殿があるんです。あんなものだれかがすっとんきょうにね、私の畑を紫宸殿と言う、なんて宣言したってバカにされるだけです。紫宸殿があったから紫宸殿。一番簡単ですね。しかもだいたいね、太宰府というのがおかしいですよ。太宰府というのは、「太宰」が総理大臣ですからね、総理府ということです。で、総理府は、今の話でいうと宮沢首相の住んでいる総理府は、皇居と同じ東京にあるわけです。それが宮沢首相が北海道に住んでいて皇居は京都にあったりすれば不便でしょうないですね。同じまちにあるのが常識なんです。
中国の太宰府、太宰府というのは当然中国の言葉ですが、洛陽に天子がいる時は太宰府も洛陽にあるわけです。そして南朝で、建康、今の南京ですね、そこに南朝の天子がいる時に太宰府はその同じ場所にあったわけです。これは宋書なんかをみるとはっきり出てきます。太宰府という言葉は何回も出てきます。太宰も出てきますがね。天子と太宰府は同じまちにいる、と。これは当たり前すぎる話なんですね。
それを、大和に天子がいて総理府を博多に置くなんて、そんなバカバカしい話はないわけです。言葉は中国が原点ですが、そうかと言って南朝の建康に天子がいて、その総理大臣が博多にいるというような、そんなバカなことはもちろんないわけで、要するに天子のいる所のそばに太宰府はある、太宰府という用語からみたら、それ以上にないんです。あるとおっしゃる方がいたらそういう例を出してほしい。天子は洛陽にいて太宰府が南京にあったなんて例があったら、その例を出してもらいたい。私は知りませんね。第一不便でしょうがない。
そう考えてみると、紫宸殿と太宰府とが同じような場所にある、これはもう当たり前の話なんですね。こういうふうにみてきますと、日出ずる所の天子、多利思北孤、これは「阿蘇山あり。」と隋書に書いてある。これはやはり九州の天子である。近畿天皇家の推古天皇や聖徳太子ではないと、私は二〇年来言い続けてきて、『失われた九州王朝』でもそれを述べてきましたが、それと同じことを柿本人麿が歌で使っている。その歌は、みんながよく知っているのに、そのように今まで考えてこなかった。
このことに最近私が特に関心を持ちましたのは、「大王の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ」の「島門」はどこかという問題について、去年の五月二日でしたか、新しい扉に到着したわけです。これはさきほどからお名前が出ております中小路駿逸さんが、私の所に電話をかけてこられた。それは「九州へ行って講演をして来ました。その時灰塚さん(鬼塚さんと友達の灰塚さんがですね)、『島門っていうのは九州にありますよ』と。『え、それはどこですか』『それは遠賀川の下流、北九州のそばにあります』と、ずっと警察におられた方ですから土地勘があるわけですね。それで『じゃそこへ行ってみたい』『じゃお連れします』っていうんで(鬼塚さんの車だと思いますが)灰塚さんとごいっしょにお連れいただいた。そうすると確かに島門という地名が遠賀川の下流にあった。どうでしょう古田さん」というわけですね。
つまりこれは前後しますが、普通の解釈では、明石海峡のことを島門といったんだろうというのが一つの説、今度は岡山県の吉備の児島の近辺だろうというのが第二番目の説、関門海峡だろうというのが第三番目の説、私は関門海峡がいいんじゃないかと思っていた時期があるわけです。『古代史を疑う』の中ではそう書いておりますがね。ところが第四番目の説で遠賀川の河口のところに島門という、これは地名がある、他のところには地名がないんですが、ここだけは地名があるという問題が出てきたわけです。で、私はその時、「それは非常におもしろいんですが、そこから到着点は太宰府にきまっていますよね。大王の遠の朝廷とあり通ふ、といっているんですからね、そして人麿が“筑紫国へ下る”といっているんですね。筑紫国というのは筑紫国の中心である太宰府ということですから、これはだれも異論がないわけです。が、太宰府へ遠賀川の下流から行くにしたらちょっと遠すぎます。途中、宗像とかそういう所にお参りして行くんならいいでしょうけどね。」と言うようなことを言って電話が切れたわけですよ。中小路さんは「島門から裏道伝いに太宰府へ行く山道もあるそうです。入口まで連れて行ってもらいました」っていう話をしておられましたが。
その直後、私は考えてみたんですね。去年三月の終わりに私は博多に一〇日間滞在しました。それもまったく予定を決めずにぶらっと滞在した。といいますのは、最近はしょっちゅう博多へ行くんですが、しかしそれはいずれも何か用事があって、というか朝日トラベルの旅行の講師であるとか、その他の講師であるとか、講演頼まれるとかいうようなことで行くことが多いんです。だからそういう場合はたいていそそくさと帰ってくるんです。九州歴史資料館へ寄ってもちょっと見ただけで、添乗員の方から「ちょっと車が渋滞しているようですから、三〇分くらいで出てもらえませんか」と言われてね。そそくさと見てそそくさと出ていくわけです。これおもしろいなと思ってもゆっくり見られないわけですよ。そういう状態がここ五年、十年続いていたわけですよ。考えてみるとこれはやっぱり堕落じゃないかと。私が最初『「邪馬台国」はなかった』を書く前夜にはですね、春日市に私の中学時代の親友の堀内昭彦君という友人がいまして、彼の家に泊めてもらってその辺をうろつき回った。さきほどの室見川の近所なんかもうろつき回ったんです。やっぱり毎日その辺をうろつき回ってちゃんと見る、ということが大事なんじゃないかと思いましてですね。今回それをやろうということで行ったわけです。
それで太宰府へ行って何泊かして、九州歴史資料館に通ったり、また志賀島へ行ってそこでも泊まって、今まで志賀島へ行ったといっても金印公園にちょっと行ってさっと帰って来る、せいぜい志賀海神社へ行って君が代の伝承地だというんで、行ってさっと帰ってくる、こういうのが多かったんです。志賀島をぐるっと回ったこと、なかったわけです。みなさんもおそらくぐるっと回った方はいらっしゃらないと思いますね。それで今度は歩いて回ったわけです。で、あの一番突端の部分でね。博多の方を見るとじつに「絶景かな」という感じなんですよね。目の前に能古島があってね。
そういう印象があったのがよかったと思うんです。つまり、ここで島門といっているのは、海路で筑紫国へ下ると言っているんですから、当然志賀島と能古島の間を通って那の津へ着くわけですよ。そうすると、右手に能古島、左手に志賀島というね、志賀島は今は島じゃないですが、昔は島だったわけで、まあ島といって差し支えないと思います。それが西側と東側にある。それを人麿は島門とよんだのではないか。この解釈のいいところは「大王の遠の朝廷」これは太宰府ですね。「ありがよふ」っていうのは万葉のほとんどの例では、大道がまっすぐ通っているという用法なんですね。たとえば孝徳天皇が難波の宮に毎朝ここをお通りになるというのを「ありがよふ」という表現の歌が出てきますが、これも“山道をぐるぐる回って”というのではなくて、“大道が通っていていつもそこを通っていかれる”という、これはまあ一つは権力者のコマーシャルでもあるんでしょうけど、それを「ありがよふ」とたたえて歌っているわけです。「ありがよふ」というのはそういう感じの用法が本来なんです。これも家持なんかは違った用法にしますけどね。としますと、他の所じゃ太宰府へすっと通っているというわけにはいきませんわね。明石海峡はもちろん、一番近い字地名の島門にしましてもね。すっと太宰府に通っているというわけにはいきません。ところが、能古島と志賀島の間へ来たらもう目の前は太宰府だけという感じじゃないですか。だから「大王の遠の朝廷とあり通ふ」。
しかも一番いいのは「神代し思ほゆ」と結ばれているわけです。ところが今までのだと、明石海峡でどんな神を考えるのか、吉備の児島でどんな神を考えるのか、関門海峡でどんな神を考えるのか、そして字地名島門でどんな神を考えるのか、ま、神を考えるくらい空想だから勝手だと言われればおしまいですけどね、だから“神の好きな人だなあ”という感じがしてたんです。ところが今回は違うんですね。つまり、博多湾岸の入口に来た船が目の前に、博多湾岸、右手に能古島、オノコロ島の原型かと私が考えていた所、さらにその右手には高祖山連峰、筑紫の日向の高千穂のくしふる峯、そして天照、須佐之男、月読が伊邪那伎から生まれたという、そこが博多湾岸の西半分のところでしょう。能古島の先っちょの向かいですわね。そういう神話の世界の所がざっーと目の前に現われるわけですよ。そしたら「神代し思ほゆ」というのは古事記・日本書紀の神代の巻の神話を思ほゆっていう、そういう感じになるわけですね。だから神を思うっていうのが非常にふさわしいわけですね。ということで私はこの理解が正しいのではないかと、さっそく中小路さんにお電話しましてね。「これは中小路・古田説として言わせてもらいます」ということを申し上げたわけでございます。 
人麿のメッセージの深層
この問題、もう一言いわなければ不十分なんですが、ここで人麿が歌っているのは「大王の遠の朝廷」の現在の太宰府の地、そこの遠い光栄ある古の神代のことが偲ばれると歌っているわけです。これは第一のテーマです。しかしほんとうのテーマは第二にある。なぜかというと、その当時の、つまり持統天皇の頃七世紀後半の筑紫というのはどんなところか。白村江の敗戦の後である。六六二年、日本書紀では六六三年の白村江、それ以後である。そしてしばしば唐の軍事司令官・劉仁願、これはマッカーサーみたいな者で百済にいます。その部将の郭務棕*が来ています。こういう人が繰り返し来ているわけです。必ず筑紫に泊っていますね。大和へ行ったケースも一部ありますが、大部分は筑紫に駐屯していますよね。しかも“二千人連れて”とか来ています。これは半ば占領軍みたいなものですよ。つまり筑紫は敗戦国筑紫の中心である。そこに勝利の唐の占領軍が駐屯している。それが七世紀後半の白村江以降の筑紫なんです。
郭務棕*の棕*は、立心偏に宗。JIS第四水準、ユニコード60B0
人麿が今入ろうとしている筑紫は、そういう筑紫であるということを人麿はよく知っているわけです。その輝やかかりし神代よ、と歌ってるわけなのです。その歌を聞いた筑紫の人は一〇人が一〇人、一〇〇人が一〇〇人みんな現在の筑紫、汚辱にまみれた、敗戦と占領の中で屈辱にまみれた筑紫のことを思ったに相違ない。またそれを思うことを予想した歌である。つまり、真のメッセージはその第二の点にあるであろう、というのが私の理解なのです。考えてみると、こういう理解ができるというのは、私達というのは非常に“恵まれた”世代なんですね。なぜかというと、私の青年時代が正にそうだったのです。マッカーサーが降り立って、かつての大日本帝国の天皇はマッカーサーの所にお伺いを立てに向かわなきゃいけないなんてね、もう驚天動地の光景でしたけど。東京には浮浪児とか春を売る女性とかが満ちあふれていたんですね。その中を青年時代の私はうろついたんですけどね。それは原体験みたいなもんです、青春の。そういう私だから、今の情景というのは、説明されなくても、非常によくわかる。そういう歌です。
こういう歌として理解しますと、この人麿の歌っていうのは、人麿の歌の中でも最高級のレベルの歌ではないか。堂々たる歌ではないか。今までは何となくピントのはずれた歌に見えていたんですね。ところがピントがピタッと合ってみるとすばらしい歌になってくる。ということに気がついてきたわけでございます。
さてほんとうのテーマに迫るわけでございますが、そうすると、人麿にとってそこは天子のいます場所と見えていたことになりますね。そして自分が出発してきた大和は、これは大王がいます場所であると考えていたことになるわけです。さてそこで、柿本「朝臣」人麿とありますよね、あれだれが任命した朝臣なんでしょうか。こういう質問ね、みなさん受けたことがありますか、聞いたことがありますか。だれが任命したのか。日本書紀見ても人麿が朝臣に任命された記事ってもちろんありませんし、第一人麿という人が出てきませんよね。これは梅原さんが盛んに言っておられますが、それじゃ梅原さんが解釈されたように佐留さんと結びつけていいかと。ま、率直に言って私、おもしろくはあるが学問的にはだめだと。ちょうど斉藤茂吉さんの説を、歌人としての説としてはおもしろいが学問的にはだめだと、こう梅原猛さんはずばっと切り捨てられましたが、その点は私も大賛成ですがね。残念ながら梅原さんのその説も、やっぱり学問的には無理だと。
なぜ無理かと言いますと簡単でありまして、第二巻の最後近くに人麿の死んだ歌があります。持統天皇、「藤原宮御宇天皇代」という項目で二巻の歌があります。その項目の最後を飾るのが人麿が鴨山で死んだ歌なんです。人麿が死んだのは持統天皇の時だと理解せざるを得ないわけです。佐留さんが出てくるのは八世紀になってからですので、これはやっぱり具合が悪い。そして人麿を「猿」と名前を代えて辱めたんだという説もおもしろいですけど、なら、そう書きゃいいんですよ。辱めたのは天皇家の方ですから、それを遠慮して書かない必要はどこにもないので、一行か半行書きゃいいのでね「人麿を佐留と改名せしむ」とこう書きゃすむんですから、こんなことをおそれて“書くのは遠慮します”なんて必要どこにもないんです、権力者にとって。そういう点をとりましてもね、人麿イコール佐留さんというのは、おもしろくはあるが無理、とこうはっきり言わしてもらわざるを得ないわけです。
ところが、それは私にとって疑うべからざるところなんですけども、問題は、日本書紀に、持統天皇の時に柿本人麿は一切姿をみせない、そして朝臣と任命された記事がない、これがおかしいんですよね。ところがこの問題は人麿だけを見つめていても答えは出ないんです。万葉集の巻一に「近江大津宮御宇天皇代」そして「天皇内大臣藤原朝臣に詔して……」とありまして、藤原朝臣は鎌足だと注釈されています。ところが日本書紀を見て、藤原鎌足が朝臣に任命されたって記事まったくないんです。人麿ぐらいなら省略されたとかまた罪人にしたから書かなかったで済ませられるけど、鎌足を省略したなんて、罪人にもなってませんしね、そんなことは考えられないでしょう。だから人麿朝臣問題だけを取り出したらだめなんで、万葉集という全体の史料の中の一部分ですからね、いくらたくさん何回も出てきても、鎌足朝臣と同じレベルで考えなければいけないわけです。そうすると、鎌足は朝臣に任命されなかったのか、されたのか。されたのならなぜ日本書紀はそれを書かないのか、鎌足まで省略を及ぼすことはおかしいじゃないか、とこういうことになりますね。
もう一つの考え方、八世紀になって朝臣という名前を鎌足につけてあげた、つまり朝臣という名前は、鎌足当時の名前じゃなくて八世紀以後の名前でしょう、とこういう解釈もあるんですね。ところがその場合、朝臣という官職名はご存知でもありましょうが、天武天皇一三年「八色の姓」制定の記事がある。これのナンバー・ツウが朝臣なんです。ナンバー・ワンは真人なんです。そうするとおかしなことが出てくるんですよ。人麿の朝臣は天武一三年以後の朝臣と考えてまあ何とかいけそうです。朝臣は同じ朝臣で扱わなければいけないということになってくると、鎌足朝臣も同じ朝臣。鎌足というのは天武一三年より前に死んでいます。天智八年に死んでいます。だから天武朝は墓の下にいるわけです。それだのになんで八色の姓の第二位の朝臣をもらうことができるか、これは無理ですね。だから人麿朝臣も鎌足朝臣と同じレベルで問題になってくる。人麿は八色の姓の朝臣でしょうという形じゃすまされない。
それからもっとおかしなことがあるんですよ、天武天皇というのは、あの天皇、真人ですよ。「天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇」と、「真人」がちゃんとついている。これじゃ「真人」が真人を任命するって、これ、何かわけわかります?
私には意味不明ですがね。これ従来、意味不明といわないのがおかしいんです。
ということで、とにかく八幡の藪知らずというか、矛盾続出です。ところが考えてみると、万葉集というのはもっともっと大きなところで矛盾があるわけですよ。あんまりはっきりし過ぎていてどの万葉学者も問題にしない矛盾があるわけです。そんなのあるかと思われるかもしれませんが、奥書がない。そうでしょう?
万葉集をだれが何年に編したという奥書がないでしょう。あれば、小学校ぐらいから何年にだれだれが作りましたと教えるところです。ところが今まで聞いたことがないでしょう。万葉集の成立という論文はごまんと出ていますけど、ごまんと出るということ自体、それがないから出るわけで、書いてあれば論文も必要ないわけですよ。何であれだけの本作って奥書がないんですかって、これおかしいということを問題にした万葉学者の本、私は見たことないんですがね。歴史学の人間から見ると、そこからまず疑問を持ってほしいと思う。
さらにおかしいところがある。続日本紀・日本書紀どこを見たって「万葉集を作った」という記事がないんです。あれだけ、しかも枝葉末節の小さな五・六枚くらいの歌集作ったくらいなら載せる価値はありませんですむけれど、あれだけの大歌集を作って、載せる価値ありませんてことはないでしょう。だのに載ってないんです。これはなぜだってことを解き明かしてくれなきゃ万葉集の解説にはならんと思いますね。ところがどの解説みても書いてない。これも時間がないので結論を言いますと、日本書紀・続日本紀というものと万葉集とは一緒に存在してはいけない本なんですよ。両方共が日の目を見てもらっちゃ困るんです。
なぜかってね、だって日本書紀の引用があるじゃないですか。朱鳥三年、朱鳥四年、朱鳥八年までありますが、そんなの日本書紀にないじゃないですか。そんなもののない日本書紀をオフィシャルに天皇家が公布しておいて、それとは違う朱鳥何年なんて変な年号を使った日本書紀が出てもらっちゃ困るんですね。もう一つ困るのは古事記が出てくるじゃないですか、ちゃんと書いてあるでしょう、「古事記に曰はく、軽太子、軽太郎女に[姦干](たは)く云々」(九〇)とね、古事記が引用されている。その古事記もあっちゃ困るんです。あっちゃ困るって無茶なことを言うなと言われるかもしれませんが、古事記と日本書紀の内容はまったく矛盾しますしね。景行天皇は日本書紀では九州大遠征しているのに、古事記では近畿をぜんぜん出ていないわけですから、両方ほんとうだなんていわれちゃ困るわけです。われわれの比較研究には便利ですが、別に日本書紀は比較研究のために作ったんではなくて、「日本書紀は絶対の真実だ、これ以上に正しい歴史はない」と告知したわけでしょう。違う歴史を書いた古事記が現われてもらっちゃ困るわけです。事実、古事記もまた、日本書紀・続日本紀にないわけです。古事記を和銅五年に作ったという記事は続日本紀になけりゃいかんのに、ない。天武天皇の業績として、古事記の稗田阿礼の誦習を太安万呂に命じたというのは重要な文化的業績だと思いますが、それが日本書紀にない。
[姦干](たは)くの[姦干]は、JIS第四水準、ユニコード57E7
この辺のところも古事記偽書説云々の問題とからんでおもしろいんですが、去年これも古事記は偽書、という考え方は成り立ち得ないということがわかりましたので今日は申しませんが、去年の二月の頃でしたか(「天皇陵の史料批判」『天皇陵を発掘せよ』三一新書、参照ーー後記)。古事記がリアルだとなると、それが日本書紀にない、続日本紀にない、これはやっぱりおかしいわけです。しかし今のように考えると当然で、日本書紀と矛盾するものがあっちゃ困るわけです。だから日本書紀ができた時に古事記は隠されたわけです。で、日本書紀や続日本紀の記事にも当然ながら、一回は書かれたかもしれないが消されたわけですよ。そして本物もポイと捨てられたわけです。それが、内容を惜しんで書き続けていた人がいまして、名古屋の近くの真福寺からひょいと南北朝の時に現われた。だからわれわれにとってはありがたいんですが、ほんとうは具合悪いことになった。
同じく万葉集も、奈良時代の万葉って、断片しかないんじゃないですか。みんな平安時代じゃないですか、万葉の古い筆跡のは。これは岩波の日本古典文学大系なんかの解説を見れば出てきますが、宮中の女の人達が大事にして書き写していたような物がね、万葉の一番古いもので出てくるようです。つまりこの場合は古事記と違う、古事記はまったく宮中にはなかったみたいで、わずかに何らかの関係で真福寺からひょっと姿を現わしたんですが、万葉の方は、女の人とか宮中の裏側で中味を愛する人達が歌ってきておった。それが平安時代になったらだんだん表に出てきはじめた。表ったって公式の場に出たんじゃないでしょうけどね。
ところが、あれ読めなかった。それを仙覚・契沖・賀茂真淵・本居宣長、とみんな民間ですね。彼等が読みはじめた。あれがはじめてオフィシャルになったのは明治になってからです。明治十一年、明治天皇がポケットマネーといっていいのか、ご自分のお金を出して鹿持雅澄、土佐の高知の万葉学者ですが、彼の万葉古義を印刷して公布させた。十二年たって明治二十三年世に現われた。そこではじめてオフィシャルな天皇家公認という感じになったんです。それまでは宮中の女の人とか民間をもぐってきていた。ま、大雑把に言いますとね。
だから、あれを表に出してくると日本書紀・続日本紀と矛盾するわけです。どっちがほんとうかというと、基本的には万葉集がほんとうですよ。日本書紀は天皇家中心の正史という形で取り繕われたものですから、今の問題に関していえば人麿が詠んでいるのがほんとうです。七世紀の終わりごろには筑紫に天子がおり、朝廷は筑紫にあったと、そして有力な大王がわが持統天皇である、人麿はそう詠んでいるわけです。あとを継ぐ人達も、人麿の言葉を受けついで詠んでいる人が五人ばかりいた。しかしあんなものが公になったら困るわけです。日本書紀と違う。日本書紀は大和しか朝廷がないことになっている、それを筑紫まで朝廷があってもらっちゃ困るわけですよ。だから万葉集は日の目を見てもらっちゃ困る物だった。
さて後五分になりましたが、この三、四日夢中になっているテーマを申し上げます。 
「古集」は筑紫万葉
万葉集の中に「古集」というものがございます。古集というのは第七巻に出てまいります。「右の件の歌は、古集中に出づ」とこうあるわけです。これはたいへんな言葉でありまして、万葉集は新集である。古集があった。とこういっているのですね。そうでしょう?しかし古集の名前が書いてないんです。「古集」という名前を付けた歌集なんてないわけで、本来名前があったんだろう、それがカットされて、古い歌集という意味の「古集」という言葉で使われている。しかし論理的にみれば、万葉は新しい歌集であって、その前に古い歌集がありました、と、そこからの引用です、と。そういうわけです。
どれが古集かというのはむずかしいんですが、固いところで五十一首あるわけです。といいますのは一一九五の後に「右の七首は藤原卿の作なり年月を審らかにせず」と、この藤原卿が何者かわからんと頭注に書いてあるんですがね、しかしここで「右の件の歌は、古集中に出づ」は少なくともこれ以後ですね、五一首が入るということは固いとこだと思います。なぜ固いというかと言うと、これ以前も入るかもしれないんです。藤原卿云々もその古集に入っていて、藤原卿の作だという注釈とだぶってしたのかもしれないです。その可能性もないとはいえませんが、ま、固いところ後の五十一首ということになる。これは写本によって歌の出入りがあることはありますが、今日はそれは申しません。
さて、この五一首はだれが作ったかというと、その中に有名な、私の大好きな歌なのですが、「ちはやぶる金の岬を過ぎぬともわれは忘れじ志賀の皇神」(一二三〇)、金の岬というのは志賀島の東寄りの、宗像の東隣に鐘の岬というのが突き出しているわけです。そこを過ぎたとしても私は忘れない志賀の皇神のことを。志賀の皇神こそ私の魂である、と。だから外国へ行っても志賀の皇神のことは私は決して忘れないであろう。そういう、なんか独特の語気を持った歌なんですね。でこれは旅先で、志賀の皇神を拠り所としている。つまり博多湾岸の人の作った歌、とこう考えざるを得ない、ということを私はかつて指摘したことがございます。
それともう一つですね。「少女らが放(はな)りの髪を木綿(ゆふ)の山雲なたなびき家のあたり見む」(一二四四)。これは少女らが放れる髪の毛を結うと言うことと、別府の西側に由布岳というのがあるんです。湯布院盆地と別府との間の由布岳のことを歌っているんで、その由布岳に雲がたなびくな、私の家を隠して見えなくなるから、退いてくれ、といっているんですね。これ作者の位置がどこか、湯布院にいて作ったんなら、別府の方に家があることになる。別府にいて作ったんなら、由布岳の西の方つまり筑紫の方に家があることになるわけです。で、さっきのと結びつけますと、この人の原地は筑紫であって、私の筑紫の家の方が見えなくなるから、雲よどいてくれ、とこういってるわけですね。本人は別府で作った。こういうふうに私は指摘したわけです。
でこのことは、さらに裏づけをしますと、次の歌「志賀の白水郎(あま)の釣船の綱あえなくに情(こころ)に思ひて出でて来にけり」(一二四五)。「志賀の海人の釣船の網」、までは序言葉で、自分の恋人だか奥さんだかにあえなくて、心にだけ思って私の家を出てきた、とこういうんですから、やっぱり博多湾岸にこの人の家はあったわけですね。
だから、どれをとりましてもこの人は、博多湾岸、筑紫の人の歌である。ということになります。そうしますと、この五十一首を一連の歌とみますと、最初も恋人か奥さんの歌ではじまりますが、この古集は筑紫の人が筑紫を中心にした地理関係で作った歌集である、それを古集と呼んでいる、とこうなるわけです。これはたいへんなことですよ。万葉というのは普通大和が中心と思われているでしょう。そうですよね。大和の歌ではじまっていますよ。ところがそれは新集であった。古集は筑紫を中心に歌われている、とこうなるじゃないですか。
しかもさきほどの「ちはやぶる金の岬を過ぎぬとも」の歌はたいへんな歌ですよ。なぜかというと、私は何となくね、今まで習った教養で、大和から出てきて金の岬を過ぎてというイメージで解釈していたんです。それから朝鮮半島の釜山の方へ使いに行くという形で理解しておったんですが、その場合何となくおかしいですよね。金の岬を過ぎて志賀島へ来た時に、志賀の皇神は忘れん、と言って、他の皇神は忘れてもいいのかというようなことで何か変な具合だったんです。こんどは筑紫が原点でしょう。筑紫が原点で釜山の方へ行くんだったら金の岬はあまり関係ないですよ。そうすると何か。これは一週間か一〇日くらい前に気がついたんですが、これは慶州へ行く航路である。つまり対馬海流がありますね、そこから壱岐・対馬と別れたところで東朝鮮暖流。今は東韓海流といってるかもしれませんが、それが北上するわけです。それが慶州の前を通っていくわけですね。だからこれに乗ると日本を離れて慶州の方へ行く。だから原点は筑紫、で新羅に使いする人の歌、個人的な観光旅行なんて時代じゃないですから、これは使節、使者です。その使者の原点は筑紫であり、行先は先ず新羅、先ず新羅というのは、高句麗とか渤海でもいいんですけどね、おそらく一番近いところなら新羅方面へ使いする使者の歌だった。
そうすると、あえてもう言いますよ、筑紫万葉、これはたんに個人の歌集ではなくてオフィシャルな歌集であったということになってくる。それがお師匠さんで、それを模倣して大和中心の万葉ができた。模倣してと言っているのはですね、これもう時間がないから言いませんが、たとえば柿本人麿の歌もこれをお師匠さんにしている歌がずいぶんあるんですよ。一つだけあげましょうか。「高島の阿戸白波はさわぐともわれは家思ふ廬(いほり)悲しみ」(一二三八)、「小竹の葉はみ山もさやに乱げどもわれは妹思ふ別れ来ぬれば」(一三三)。普通「さやげども」になっているが斉藤茂吉が「みだれども」の方がいいんだということでさんざん議論をしましたけれどもね、この後の方の、人麿の代表作、これははじめの「古集」の中の歌のそっくりさんじゃないですか。換骨奪胎、言葉は変わっているがリズムはそっくり。この場合、当然ながら筑紫万葉の方がお師匠さんで人麿はお弟子さん、模倣者です。今までこういう人麿の解説書お読みになったことございますか。ないのが不思議ですね。
というようなことでね、この問題は万葉という大きな文化遺産は、じつは大和の方がお弟子さんで筑紫万葉の方が本来のものであった、という、しかもそれはオフィシャルなものであるからここに出ている以外にもいろいろの歌があったようだ、という問題が一つ出てくる。これは重要な問題を意味するということを証明するために、もう一言申します。
この筑紫万葉はいわゆる万葉仮名で書かれているんですよね。当たり前です万葉集ですから。で、万葉仮名という言葉、じつは具合悪いんだと中小路さんからさんざん聞かされましたが、まあ理屈を言えば、というか学問的にはそうなんですね。古事記・日本書紀だって万葉仮名で書いてあるんだし、たんなる表音でないものもあるし、それからまた、元をなす漢字を表音に使うというのは中国にもあったと、別に日本で発明されたものじゃないとかね、いろいろあるんですよ。そういう問題は当然学問的にありますけど、今大雑把な、もっと大事な基本問題を言いますよ。
今かりに万葉仮名と言わしてもらいますよね、万葉集の大部分を占めている表音のやり方をね。あれは大和で独創されたものじゃない。この「古集」、つまり筑紫万葉がすでに万葉仮名で書かれている。その万葉仮名を大和は真似して使ったんだ。そうなりません?
これ言語学の大問題じゃないですか。そう言語学者今までみなさんに語ってきました?言ってないでしょう。はじめから、万葉と言ったら、大和中心と決まっている、っていう顔してなかったですか。私も高校の国語教師をしていた時、そういう受け売りでしゃべった覚え、ありますけどね、とんでもないことですね。
で、この点は、今日も来ていらっしゃると思いますが、渋谷さんという方がいらっしゃいまして、新宿の朝日カルチャーで月に二回、火曜日一時からやっているんですが、そこで出てきていらっしゃる渋谷さんがすごい発言をされたんです。済んだ後の喫茶店でね。どういうことかと言うと、「万葉仮名は九州王朝で作られて使われていたものだと思います」いきなりおっしゃったのでびっくりしたわけです。「なぜかと言えば、あれはむずかしい字を一杯使っているから庶民の使ったものではなくてインテリの使い慣れたものだと思います」なるほどそうですね。しかも一つの音に対していろんな、めんどくさい漢字が当てられていますよね。「だから一人じゃなくて複数多数のインテリ学者が使ってたものだと思います」と、「そうするとその複数多数の者が使うとなれば、当然そこには権力者が中心にそれをリードしたっていうか命じたとかいうような話になると思います」。実際は命じたんではなくてもね、何天皇の思し召しによってこういう仮名が作られた、と正史には書くじゃないですか。「そういうことになると思いますが、日本書紀・続日本紀を見てもまったく書いてありません」とね。だれ天皇の時に万葉仮名を作らしたとか使わせたとかいう記事ないですよね。「ということは、近畿天皇家で最初に作られたり使われたりしたものではないとこう考えざるを得ません。そうすると近畿天皇家より前にすでにそういうことがおこなわれていたとなれば、古田さんのいう九州王朝でおこなわれていたと考える他ないでしょう、中国・朝鮮と近いし」。これだけの簡単なことをおっしゃった。ちょっと、ドキッとしてうなりましたね。
それでね、シンポジウムのテープ起こし第一巻、第二巻が新泉社から出まして、第三巻を今一生懸命作って二月か三月ぐらいには出ると思いますが(一九九三年四月刊行)、このビデオ起こしの中で私が吉本隆明さんの話を聞くというか対談するというか、その最後で、渋谷さんのその話出したんですね。それが今度活字になりますけど。じつはそれは渋谷さんが企業におられたころの判断の冴えをパッと適用されたんだと思うんですが、これはやっぱりウソじゃなかったわけです。実証的に「古集」筑紫万葉は、すでに万葉仮名で書かれている。こちらが本家ですよ。われわれが知っている「新集」大和万葉は、これを模倣したにすぎない、すぎないって言っちゃ悪いですが、模倣者であると。
言語学上もじつに重大な問題がある。こんな私のような、万葉集にそんなにくわしくない人間が、すぐというか、一生懸命になり出してすぐ気がつく問題をなぜ今まで気がつかないのか。これはやっぱりテンノロジーでしょうね。国学の人達が万葉集を扱ってますからね、あの人達ははじめから天皇家がいかに偉いかということを証明するために万葉集を扱い、証明し終わることで満足したわけですから。それが国学の立場ですから。だから今私が言ったような問題はぜんぜん出ないんですね。だって「大王の遠の朝廷」でも天皇家の地方の役所みたいな解釈でごまかして満足していた。ほんとうはごまかせるもんじゃないですよ。
万葉集は日本書紀と矛盾する。倶に天を戴くことができない、そういう性格をだれも指摘しなかったですね。国学が指摘しないのは当然としましても、明治以後の学者も指摘しないままで、みなさんに提供してきていた。私もそれで万葉集をみておった。こわいですね。ということで、万葉集に関しておもしろい問題がいろいろ出てきて今夢中なんですけども、時間がきましたのでこれで一応終わらせていただきます。 
質疑応答
万葉集と宮・京
伊藤 / 二つほど質問いたします。天皇の所在地は宮といって京とはいいません。続日本紀で京というのは、都城制のものを指しているか、後から振り返って飛鳥京とかいう場合で、それ以外は難波宮まで宮です。太宰府には名前がありませんが、何とかの宮といったと思います。たんに京といえば、太宰府の都城地を指すというような裏づけがあったのではないでしょうか。
もう一つ、前方後円墳として混在する円墳の場合の服属儀礼はどう処理したのでしょうか。また前方部の方向がまちまちですが、服属儀礼において不敬にならないようにするという配慮はなされたのでしょうか。
古田 / はい、わかりました。まず最初の点ですね。これは鋭いところを突いておられるわけで、最初は何々の宮という形で出てきておる。雄略から以後持統天皇まで。ところが何々京という言い方はそれ以後に出てくる、ということはやはり意味があるのではないかという御指摘ですが、なるほどおっしゃる通りですね。それは七世紀以前と八世紀以後の違いの一つになるかもしれませんので、ひとつ私も勉強させてもらいます。
で、第一点の問題について私が申したかったところを敷衍(ふへん)させてもらいますと、まず最初に巻一と巻二ができたということは、今まで普通に言われているわけです。というと、巻一と巻二は特別のスタイルを持っているわけです。何々の宮に天の下知らしめしし天皇のという形で、歌が各年代に入っているというのが巻一と巻二の特徴なんですね。だからこれなんかもうほんとうにオフィシャルな歌集の姿を持っているにもかかわらず、それが何時できたということが書かれていないのが問題になるわけですね。
それから、まず大和万葉として巻一・巻二は作られた。特に巻一ですね。雄略天皇が最初に出てきているんですが、あれは雄略天皇を出すためじゃなくて大和を歌った歌なわけですね。大和を歌った歌として雄略天皇の歌があったからそれを持ってきた。巻一の一番最後は藤原宮を賛美した歌で終わっているわけです。大宝何年というのが後に付きますが、これは後からプラスされたもので、何々の宮というのでは藤原宮賛歌で終わっているわけです。藤原宮は大和にありますから、巻一は藤原宮賛歌・大和賛歌として歌が集められているわけですね。
そして巻二の方は、芸術編というか相聞と挽歌で、人麿が死んだ歌で終わっているわけです。最初は仁徳天皇の奥さんの磐姫皇后の歌ではじまっているわけです。この磐姫皇后の歌というのは、人麿の歌との関係で出てきているんですね。これも時間がないので一点だけ申させていただきますが、人麿の「鴨山の岩根し枕けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ」(二二五)の本歌は、仁徳天皇の奥さん磐姫の「かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根し枕きて死なましものを」(八六)、これが本歌になっているわけです。
この歌はすごい歌で、仁徳天皇がよその女性を求めて出ていって、かえってこないわけです。だからこうやって待っているより、私は山へ行って高山の磐根を枕いて自殺をしてしまいますよ。あなたが帰ってきたら私の冷たくなった骸(むくろ)をご覧になるでしょう。とこういう歌なんですね、私純情な歌だと思ったけど、純情というより、すごい歌ですね。私これによって青年時代に「ソンブルディマンシュ」というダミアの作ったシャンソンを思い出しました。大好きだったんですが。“恋人が自分から去っていった、またあなたが来た時にはこの部屋で私は冷たい骸になっているでしょう。しかし私の目はいつまでもあなたを愛していたということを、あなたに告げるでしょう。”というね、鬼気迫るシャンソン「ソンブルディマンシュ・暗い日曜日」というのがあるんですが、それと似たような歌なんですね。それが人麿の歌の本歌になっている。
で、磐姫の歌もまた本歌があるんですね。まず、磐姫の歌は「ありつつも君をば待たむ打ちなびくわが黒髪に霜の置くまでに」(八七)。これはずっと家にいてあなたを待っていましょう。私の黒髪に霜が置くまでに、というのは、あなたが女ばかり追い求めて家を離れてて、帰ってきた時には私は老婆になって真っ白い髪であなたをお迎えしますよ。恨みのこもった目で迎えましょう。とこう言っているんですね、純情というかどうかね。
でこれの本歌があるんですよ。或る本の歌に曰わく、とすぐ後にある。「居明かして君をば待たむぬばたまのわが黒髪に霜はふれども」(八九)右一首、古歌集の中に出づ、とあります。これは古集、古歌集と二つ出てくるんですよ。で、古集と古歌集と同じか違うかという議論があるのですが、私から見れば違うと。古集と古歌集は言葉が違うから違うと。しかし本来の実名をカットされているという点では共通と、つまり大和の歌集ではないという問題があるんですが。今の問題は、この歌は文字通り純情な歌なんです。乙女が恋人に会いたい、しかし家がうるさくて親は会わしてくれない、だから私は外に出てそこで、いつも来るあなたを待っている、あなたもなかなか出てこられなくて会えない、しかしかまいません、夜明けまで待って私の黒髪がーーこれは霜です、文字通りの、ーー真白になってもちっともかまいません、あなたを待っていますわ、というね、そういう純情な歌なんですね。
ところが、その純情な歌を本歌にして磐姫は作っているんです。“私も昔はそうでした。あんなに純情でした。しかし今の私は違います、あなたが女あそびをして飛び回っているうちに、帰って来たらーーこれ部屋の中におるんですからね、霜は降りないーー白髪の老婆になってあなたを迎えましょう。それであなたはいいんですか”とね。鬼気迫る歌ですよね。今回私、恥ずかしながら万葉やってはじめて気がついた。この四首共私大好きな歌だったんです少年時代。純情な歌として大好きだったんですよ。ところが一〇代には一〇代くらいの解釈しかできなかったんですね。
ついでにもう一つ言いましょうか。最後の歌「秋の田の穂の上(へ)に霧(き)らふ朝霞何処辺の方にわが恋ひ止やまむ」、秋の田の穂の上に霧らう朝がすみ、それと同じように私の恋もいつ終わるだろう、これも純情だと思ってたんだがそうじゃないんですよ。朝がすみは今こめててもやがて消えるわけですよ。あなたはいつまでも私が待ってると思い込んで遊び歩いてるでしょう、しかし私の恋はあなたが帰ってきたときには消え去っているでしょう、今と同じ私と思ってたらとんでもないことですよ。ね、これもやっぱり一つの歌でも、読む年齢によって理解がぜんぜん違ってくるという例でございます。ま、こういう話いろいろしたいんですが、時間がないのでこの辺でやめておきます。
前方後円墳とミカ棺の方向問題
第二の問題は、天皇陵の前方後円墳の方向の問題ですか。これは答えは簡単なんです。といいますのは、みなさんよくご存知だから吉野ヶ里でいいますと、一列カメ棺というのが、ミカ棺ですが、ありますね、一列にずっとミカ棺が並んでいる所がある。あそこへ行ってみると、ミカ棺の向きがみんなばらばらなんですよ。同じ方向を向いていない。こんなに全体が一列になっているんだから、もう少し同じ方向に向いて据えればいいのにと思うんですが、ぜんぜん向いていないんですね。で、この点は、博多の金隈遺跡、これは福岡市が三六五日開館していますのでぜひいらっしゃったらいいんですが、ミカ棺の遺跡をそのまま屋根をかぶせて残しているんですが、これももう四方八方向いているんです。ということで、四方八方向くのが弥生からの「伝統」なんですね。それに対して、方角が何とかかんとか言い出すのは、中国から四方説とか方角思想が入ってきて言い出すわけですから。ところが、それにかかわらず前方後円墳は昔の「伝統」を守って、向きがいろいろ。どうもそういうことみたいですね。
もちろんこれはいろいろむずかしい問題があるところを、簡単に始まりと終わりだけ申したようなことになりますが、要するに、方角が必ずしも一定方向を向いていないというのが前方後円墳、天皇陵に限らない、弥生からじつはそうであると。これにはやはり何か理由があるだろう、彼らの宇宙観・天地観があるだろろう、いわゆる中国流の方角思想にしばられていない。中国思想にしばられていない。方角思想をやかましく言ったり、「方違え」をやかましく言ったりするのは後世の姿である。平安時代というのは後世の姿である、ということだけ答えさせていただきます。(「円墳」にも、当然墓前祭の場が、そのまん前にあったわけです。その方角問題も、以上と同じ。「定方向」ではないと思います。ーー後記)。
呉音・漢音と九州王朝
福永 / 都立高校で漢文の教員をやっております。小さいころから解けない謎がありました。漢字には呉音とか漢音とか一つの字に二つ以上の音があるわけです。続日本紀によると、僧達は呉音をやめて漢音になりますが、一、二割はまだ呉音が残ったままになります。
たとえば「いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、はち、く、じゅう」は呉音です。漢音だったら「いつ、じ、さん、し、ご、りく、しつ、はつ、きゅう、しゅう」に変わるわけです。今日先生がお話なさったように万葉集の「まん」というのも呉音なんです。漢音なら、「ばん」です。万葉仮名もほとんど呉音なんです。すべての音を漢音に改めよと言った天皇家は、自分達の呼称である「てんのう」すら変えていないのですね。漢音だったら「てんこう」ですから。その命令が出てかなり改まったにかかわらず、清少納言なんかは枕草子の中で「もんぜん」とか「ろんご」とか読んでいる。これだって「ぶんせん」とか「りんぎょ」になるのにならなかったんです。
仏教徒達が呉音を古く残してきた。われわれ民衆が生活に必要な部分の名詞について呉音を改めなかった。そして先生がおっしゃるように、筑紫にあったと思われる朝廷は、倭の五王に到るまで連綿として南朝とつき合ってきた。その名残が呉音という名前に残ってはいないでしょうか。
すると、漢音に改めよ、と命じ、遣唐使を派遣した唐の都に対して、唐の天子に対して、天皇と称し、ナンバーツウと称し、そしてわが国の漢字音を漢音に変えろと命令した天皇家は全部は消せなかったわけですよね。そのつながりが、万葉集とかこういったものとどのようにかかわってくるのか。こういった方面が、漢字音というわれわれが一番なじみ深い文化のところで議論がおこなわれているのか。私は、高校の方でやっておりますけど、じつはぜんぜんおこなわれていないんですね。みなさんも民衆の末裔とされて今まで漢字を使い分けてこられたわけですけど、私は四〇年間いまだに解けない謎なんですが、先生にどのようなお考えがあるのかお聞きしたいんですけど。
古田 / はい、今おっしゃったこと、非常に重要な問題でございます。まず、呉音とは何者かというと、漢や魏や西晋系列の音なんです。今ごろそんな、頭が混乱するよと思われるでしょう。別におかしくないんです。なぜかというと、三一六年西晋が滅亡します。匈奴・鮮卑が南下してきて洛陽や西安が一夜にして、というと大げさですが、滅亡して、その一族が南京ですね建康に移ってきて東晋を開くわけです。つまり魏・西晋の人達は当然、漢からの発音と同じですよね。禅譲されたって発音まで変わるわけでないですから。だから漢の発音を魏や西晋の人達は使ってたわけです。それがわーっと昔の呉の国いわゆる南朝に移るわけでしょう。“発音を持って”移ったと思いません?
“発音を置いて”移るなんてできないでしょう。
だから南北朝対立の時に、南朝は漢・魏・西晋朝の発音が支配者の発音になるわけで、被支配者の発音は昔ながらの呉の国の発音でしょうね。その全体を呉音と言っているわけです。そして北朝の方は鮮卑や匈奴が支配者になるわけです。そして北朝をつくるわけでしょう。で被支配者は昔ながらの漢・魏・西晋の発音なんですよ。でもこの場合当然オフィシャルには支配者の発音の方が優先しますよ。だから北朝の方は昔にくらべたら、がらっと違う発音になってくるわけですよ。
隋が北朝で、唐も北朝なんです。宋も北朝系列で、自分達の音を「漢音」と称した。これが間違いの元なんですね。それに対し、対応するようにして西晋の南朝の方を一地方的な呉の音という感じで「呉音」とよんだ。だれがよんだかしりませんがね。ところがそれは呼び名にすぎなくて、ほんとうの姿は呉音の方が本来の漢・魏・西晋の発音を主とするものである。そして漢音の方が混血発音というか異質発音という形になっている。今、私が言ったことの証拠に、倭人伝を見たら、呉音でだいたい読めますじゃないですか。漢音であれ読んだらなかなかややこしいですよ。だいたい呉音系列で読んでいる。それがれっきとした証拠ですよ。これが今の問題を解く第一の鍵。
第二の鍵はですね、これも非常に主要なポイントがあるんですが、日本書紀の天智紀に、筑紫都督府、という言葉が出てくるんです。これは何を意味するか。これは倭の五王のところでご存知の言葉があります。「使持節都督六国諸軍事」何とか何とか「倭王武」とか、そういうふうになっていたでしょう。必ず、都督が出てきたでしょう。つまり倭王は都督だったわけです、中国の天子から見ると。で都督のいる所を都督府という。当たり前ですね。都督一人だけいてあとだれもいないなんてことはないですから。役所を持っているわけですから、都督のいる所、倭王の都を都督府というわけです。
この証拠に、この時熊津の都督府から唐の使いが筑紫国に来ていると書いてある。熊津というのは、その時の百済の都ですから、その都督は、「使持節都督」何とか、六国諸軍事はありませんが、何とか「百済王」だれだれ、と宋書に出てくるわけです。だから百済王も都督なんです。そして百済の都熊津に都督府があったんです。百済王のいる所が都督府なんです。すると、倭王のいる所は倭国の都督府なんです。それは筑紫にあった。たいへん簡単ですね。こんな簡単な証明があるんだったら『失われた九州王朝』に書いとけばよかったと思ってるんですがね。その時は気が付かなかったんですね。
ということで見てみますと、倭の五王というのは南朝系ですよね、宋書ですから。南朝系列の都督府があったわけですよ、筑紫にね。そうすると、多利思北孤は仏教に帰依したというでしょう、当然、九州の天子、筑紫の紫宸殿の天子ですから、ま、紫宸殿という言葉は唐以来ですけども、要するに筑紫の天子です。それが仏教を取り入れるんですから、隋の時は北朝系でしょうけど、それ以前からもちろん仏教に帰依していたというでしょう。隋ではじめて仏教を習ったとは言ってないでしょう。だから隋以前の仏教といえば、当然南朝ですよ。陳に到る、宋・斉・梁・陳の仏教ですよ。南朝の仏教を習ってきていた。で「あんたは北朝系だけど、仏教を大事にするところ、私は気に入った、お互いに天子と言い合って仲良くしようじゃないか」とまあ、そういう言いぐさなんですが、向こうはそんなことはぜんぜん承知できんと、言うんですけどね。こちらの言いぐさはそうなんです。つまり隋までは南朝系の仏教の中に、多利思北孤はいたわけです。そういうふうに考えると、日本で経典が南朝系の呉音で多く読まれているというのは、意味がわかるじゃないですか。
それに対して、聖徳太子は高句麗の僧侶を自分の生涯の先生にしているじゃないですか。高句麗は南朝じゃないですよ。主として高句麗は北朝音ですよ。だから聖徳太子は先生の発音をそのまま覚えたら北朝系列の、いわゆる「漢音」で経典を読んでいたはずなんですよ。ところが日本の経典は多く「呉音」で読まれている。ということは、聖徳太子のもとにして日本仏教ははじまりました、というあの話はあやしいということになりませんか。だれも聖徳太子の話をして、そんなこと言わなかったでしょう。言ってみればしかし、当たり前の話でしょう。なんにも不思議ない話です。
だから、こういう仏教伝来という大問題が、九州王朝抜きにうまく説明できているんなら、九州王朝はなかったわけです。しかし事実、うまく説明できていないから、今、福永さんが、非常に困ってこられたわけです。やっぱり「九州王朝」という大事な仮説を導入しないと解けないんですよ。導入しなくてほんとうに解ければ、九州王朝は私の妄想にすぎない、ということですね。漢音・呉音の問題は非常に大事な問題だと思いますが、いいお話をしていただきました。
ついでにもう一言、言語の問題でね、もう私がしょっちゅう言っているのに言語学者のところに伝わらないのかもしれませんが、簡単な問題を申します。
つまり、神武は実在である。さっきから言いました。神武が実在であるならば、神武は九州弁をしゃべって入ってきた。もう当たり前ですね。近畿弁を勉強してから入ってきたなんてことはあり得ないですから。それもさっきのように、糸島カラオケばかり歌ってたらしいですから、彼らは糸島・博多弁をしゃべりながら入ってきた。そして大和の支配者になった。と、こうなりますね。そうすると「大和言葉」というのは、支配者は糸島・博多弁である、で被支配者は銅鐸圏の、縄文以来の大和弁である、とこうならざるを得ないですね。そうすると今の大和言葉は、基本的には九州弁である、とこうなりませんか。これ私何回も言っているんですが、「また。言っている」なんて思っていらっしゃる方もあるでしょうがね。どこか間違っているところがあったら教えてくださいよね。しかし私は間違っていないと思うので、そうなると思う。今の言語学では、ぜんぜんそんなこと言ってないでしょう。「大和言葉」といえば本来の生っ粋の大和で、自然発生した日本語であるみたいな扱いを国語の時間、私も国語の教師だったからその一端なんですが、やってきているんじゃないですか。あれ“大ウソ”かもしれませんね。ということでね、これ部分的な訂正なら簡単にいきますけど、大きな“大訂正”ですからね、これはもう全部変えなければならない。
ついでに万葉集で、おかしいと思うところ、もう一つあげさせていただきます。これも言ってみれば、バカみたいな話ですが、防人の話が出てきますね。ところがあの防人の話は八世紀の防人ばかりです。年代のわかる防人は。それじゃ七世紀に防人いなかったですかね。しかし白村江の戦をやっているのにね。防人がいない、っていうのはおかしいですよね。当然防人はいたと考えざるを得ないでしょう。そしたら七世紀の防人は歌を歌わない防人だったんですかね。歌を忘れたカナリヤっていいますが、歌を忘れた防人が七世紀においてね、八世紀の防人はいきなり歌に目覚めて歌い出した。なんて、そんな情況想像できますか。私はできませんね。しかも七世紀の天智・天武・持統の歌はちゃんとあるわけですから、防人の歌がないってことはおかしいですよ。
だから防人のことを高等学校の国語の時間に教えたら、これはおかしいよという話を出さない先生がいたら、おかしいです。私も出さなかったですけれどね。いや、出したか。そうそう、私が古代史に関心を持ったのはおそらく防人からかもしれません。確かにそれは、私が言ったんだか、生徒が言ったんだかしれませんが、二〇代のはじめごろその疑問を持った。じゃ私はもしかしたら「合格」かもしれませんがね。しかしうまく答えられなかったのは似たようなもんですがね。要するにおかしいですよ。ということは、やはり七世紀の防人の歌もあった。白村江の惨胆たる敗戦も歌われていたはずだ。どこにあったか。「古集」にあった。とこうなってくるんじゃないですかね。それはカット。古集で採用されたのは差し障りのないものだけ。防人の分は全部大幅にカットされている。言ってみれば当たり前のことですけれど、今までの万葉学者がだれも語らなかった。私が読んだ範囲では、語っていなかったテーマだろうと思います。 
万葉仮名と九州王朝
秀島 / 私も漢音・呉音には疑問を持っていました。いち、に、さん、し、という音は呉音だそうですが、こういう数のかぞえ方を外来語と思っている人はほとんどいないのではないかと思います。ということは九州王朝には数を数えるような場には、呉音を話す中国人がたくさんいたのではなかろうか、また万葉仮名を伝える人達もいたのではなかろうかと思うのですが、そこら辺はどう思われますか。
古田 / 今のお話も大事な点をついていただいたわけです。おっしゃる通りだと思います。九州王朝には中国や朝鮮半島の楽浪、帯方の人達がたくさん来ておったでしょうし、「三種の宝物」という考え方も元は朝鮮半島の方にイメージがあるんじゃないか。といいますのは、韓国の古い伝承で、三種の宝物を飾るところが出てきます。ただ内容は日本の内容とはぜんぜん違いますけどね、三種類の物をシンボル物にする話が、韓国の古い話に出てきますから、そういうかかわりはある。あるいはまた、直接倭国に中国文化をもたらしたのは、朝鮮半島の箕子韓国、と私は呼んでいるんですが、箕子朝鮮というのはご存知ですよね。衛氏が燕の国から亡命してきて、それを箕子朝鮮が受け入れて、その恩を忘れて衛満がぶんどった。で箕子は逃れて海を南下して今の扶余かあの辺だと思うんですが、韓国の西海岸近くの所に上がって、そこで新しい領域を開いた、ということが伝えられております。で、私はこれを「箕子韓国」と名前を付けているんですがね。
この箕子韓国が、「大夫」という、周代の官職名を使っていたということが三国志の倭人伝の裴松之注の中に出てまいります。だから私は、倭国の大夫は箕子韓国の大夫を真似したものであろうと考えているわけです。このようなつながりで、九州王朝に中国の制度の名や物がたくさん入ってきた、ということは疑うことはできないと思います。
ついでに、これもごく最近気がついた一つの例を申し上げますと、筑紫万葉の中に「大海の波はかしこし然れども神をいのりて船出せばいかに」と、これ原文の読みが少しおかしいと思うのですが、今は時間がないのでそれは省略します。今の問題は「大海の波はかしこし」というところですが、これはさきほど申しましたように、博多湾岸から志賀島、そして新羅の慶州の方へ行ってるわけですから、そこで大海といっているのは玄界灘をいっているのだろうと、そういうふうに私は理解するわけですがね。
そこではっと気が付いてドキッといたしました。漢書地理志のところで「楽浪東南大海の中に在り」「帯方東南大海の中に在り」、大海とあるじゃないですか、明らかに玄界灘のところを大海と表現しているじゃないですか。大海と同じ場所を呼んでいるんですね。どっちが元なんでしょうね。「大海」と漢字が三国志やなんかにあるからそれを「おおうみ」と読んだのか。あるいは倭人がここを「おおうみ」という固有名詞で呼んでいたから、倭人の読みにしたがって「大海の中にあり」と言ったのか。ドキッとするような問題が出てきますよね。ま、これはここだけでとどめておきます。
もう一つ申します。さきほど申しました神武歌謡の「えみしをひだり百人(ももなひと)人は云えども抵抗(たむかひ)もせず」というのは、天孫降臨の時の歌だと。板付なんかの先住民が、先住民ていうのはおかしいですよね。先進文明の稲作ですから、輝ける先進文明の民をエミシと呼んで、後には東北の人の呼び名になりますが、「えみしを一人百な人」の「一人百な人」はエミシ側が言ってる言葉なんですね。そう彼らは自慢して言っていたが、おれ達からみれば、大したことはなかった、と。「人は云えども抵抗もせず」というのはたいへんわかりやすい日本語で、ということはわれわれが大和言葉として知っている言葉である。
ところが「えみしを」の「を」を「よ」というんでしょうが、「一人」を「[田比][イ嚢]利」とむずかしい字で書いてあるわけです。これも万葉仮名的なもんですけど、「ひだり」。ところがですね、「ひとり、ふたり、みたり、よたり、いつたり」と勘定しますね。なぜか最初だけ「ひとり」と言います。ところが後は「ふたり、みたり、よたり」ですね。そうすると同じルールでいけば、一人は「ひたり」にならなければいかんですね。そして濁音で「ひだり」、そうなってくる。「ひだりももなひと」というのは本来の日本語の姿であって、われわれは変形して、何らかの理由で「ひたり」を「ひとり」と最初だけ変形させたのを日本語と考えている。しかしそれは変形日本語であって、本来のルール通りの日本語は、エミシが、板付縄文の民が使っていて「ひたり」とこう言っている。濁音で「ひだり」ですね。こういう問題が出てきましてね。これもおもしろい問題ですね。さっき「いち、に、さん」という数詞の問題を出していただきましたのでつけ加えさせていただきました。 
 
九州を諭ず / 国内史料にみえる「九州」の変遷

 

はじめに
九州。日本列島におけるこの地名は、不思議な歴史の光を帯びている。この用語は、ただ州が九つに分かれているというのではなく、古代中国における“天子の直接統治領域”を示す、いわば政治用語である。そして、その名を冠した地域が日本列島にあり、二〇世紀の今日にまで至っている。
通説では、現在の九州の名称は律令時代以来、その地が九国に分かれていたから、とされているが、いつごろから誰によって、九州と呼ばれはじめたのかは明らかにしえていないようである。(1)一方、九州王朝説を唱えられた古田武彦氏は、九州島の地名を九州王朝の天子による直接統治領域に由来するものとし、命名の時期を隋書イ妥国伝に記された“阿蘇山の国”、そのイ妥国王がみずからを「日の出ずる処の天子」と称した七世紀初頭とされたのであった。(2)
列島の代表者、九州王朝(倭国)が北部九州に存在したとする古田説によれば、九州という地名が、その論証上のキーワードとなりうること自明であろう。よって、限られた史料状況ではあるが、国内史料にみえる「九州」の史料批判により、その背景と九州の成立時期について考察を加え、一試論として提出したい。本稿をもって爾後の九州王朝論争の発展に寄与できれば幸いである。 
1 九州の論理
「九州」という用語は、古代中国における「天子の直接統治領域」を意味する政治用語である。その用例は中国の古典、代々の典籍のいたるところに存在する。たとえばつぎのとおりだ。
○禹、九州を分かつ。(尚書、禹貢)
○凡そ九州、千七百七十三州。(礼記、王制)
○天に九野有り、地に九州有り。(呂覧、有如)
○禹の九州を序する、是なり。(史記、[馬芻]椹伝)
○今、魏、九州に跨帯す。(蜀志十四)
[馬芻]椹の[馬芻]は、JIS第三水準、ユニコード9A36
古代中国の伝説の聖天子、禹はみずからの直接統治領域を九つの州に分けて統治したという。したがって「九州」といえば、そのまま天子の支配領域を意味し、必然的に九州には天子が君臨していることとなる。九州と天子のワンセット、この語義本来の論理性を突き詰めれば、近畿天皇家にとってみずからの全支配領域、すなわち日本列島を、あるいは近畿こそ九州と称すべき地域であった。すくなくとも、中心領域から離れ、かつ一支配領域にすぎない西海道を九州と命名するはずもなければ、他者が勝手に称することを許すはずもない。これこそ九州の語義がもつ政治性であり、論理性といえよう。
事実、近畿天皇家の正史「六国史」にみえる「九州」はいずれも日本国全体をさし、九州島をさした例はない。
○詔曰、朕、九州君臨、字養万姓、〜
(続日本紀、聖武天皇天平三年〈七三一〉)
○詔曰、〜仁襟被九州而有餘。
(三代実録、清和天皇貞観十四年条〈八七二〉)
○詔曰、〜夫以、九州雲樓。百郡星連。
(三代実録、陽成天皇元慶元年条〈八七七〉)
以上の三例はいずれも天皇の詔勅にみえる「九州」だが、その文脈から、すべて天皇家の支配領域を意味すること明白であろう。すなわち、「九州の論理」にしたがって使用されているのだ。一方、「六国史」にあらわれる九州島の呼称は、筑紫・九国・大宰管内諸国・鎮西・西海道などであり、九州と表記されることはない。ここでもまた、「九州の論理」は貫かれている。しかし、平安後期(十二世紀初頭)になると、それがゆらぎはじめるのだ。 
2 国内史料の九州
九州島が九州と称される歴史上の有名な事例は、足利尊氏によって設けられた「九州探題」であろう。鎌倉幕府も同様の役職をおいたが、それは「鎮西探題」と呼ばれている。しかしながら、史料上は鎌倉時代すでに「九州」といえば、それは九州島をさすのが一般的といえるほど、ポピュラーに使用されている。古代から鎌倉時代までの国内史料にみえる「九州」の用例を管見のおよぶ範囲で収集したので参照していただきたい
(表『国内史料にみえる「九州」表記一覧・古代〜鎌倉時代』、論文末尾に掲載)。
鎌倉時代、幕府による公文書に九州が頻繁に使用され、それらはいずれも九州島を意味している。「九州の論理」からすれば、大義名分の逆転現象がみられるのである。例外として『平家物語』や「法勝寺八講表白案」などには、日本国としての「九州」表記がみられるが、『平家物語』の当該部分(南都牒状)は平安時代(治承四年〈一一八○〉)の出来事として「九州」が記されており、鎌倉時代の実用例としての公文書とはいささか史料性格が異なるようである。また、「法勝寺八講表白案」は、法勝寺が京都の寺ということもあってか、近畿天皇家の大義名分に立った「九州」の使用例である。しかし、鎌倉時代の大勢として「九州」は九州島に対して使用されていたといえる。
そうすると、鎌倉幕府が九州島を九州と命名したのだろうか。史料によれば平安後期にすでに九州島を九州と記したものがあることから、鎌倉幕府もまたそうした先例を追認したと考えざるをえない。管見によれば、嘉承三年〈一一〇八〉の太政官符案(観世音寺文書)にみえる「九州」が九州島を指すものとしては現存最古のようである。
○太政官符案(『平安遺文』一六八八)
太政官符大宰府
應令観世音寺別當傳燈大法師暹宴、修造當寺金堂廻廊中門等事、
右、得彼府去三月廿日解状稱*、得彼寺所司等解状稱*、請被殊任道理、且奏聞、公家、且言上院廳、依其成功、申充勧賞、當(寺別当)暹宴大法師或既改造、或又欲営作當寺内破壊顛倒堂舎佛像等子細状、右三綱等謹檢案内、當寺者、天智・天武・聖武・三代之御願也、灰津久換、効果験猶新、然則傳彼東都三戒壇、移此西府之靈砌、誠是九州無雙之勝地、一府第一之壇場也、
(以下略)
嘉承三年六月廿一日〈一一〇八〉
稱*は、禾編の代わりに人編。JIS第三水準、ユニコード5041
このような「九州」の用例が近畿天皇家の公文書である太政官符にみえることは、「九州の論理」からすればありえないことだが、当該記事部分が観世音寺所司の解状からの引用文であることから、観世音寺側が自称した「九州」を太政官が事実上追認使用したと考えられるのである。この時期、別の観世音寺文書にも「九州」を自称した例がみえる。
○筑前観世音寺所司解(『平安遺文』補三一九)
観世音寺所司等解申請府裁事
(中略)
大石・山北・把岐三箇所司等解状
右、謹檢案内、當寺者、是九州之大厦、五代之御願也、尋草創者則天智天皇之聖代、終土木者亦天武皇帝之明時也、(以下略)
康治三年正月日〈一一四四〉
この解にみえる「當寺者、是九州之大厦、五代之御願也、」の九州が九州島をさすこと、つぎにしめす同時期の文書の用例からして明白であろう。
○重検案内、件塔婆者、先帝之御願、西府之大厦也、
嘉承元年五月廿五日〈一一〇六〉
(太政官符案『平安遺文』一五六七・一五六八)
○重検案内、件塔婆者、先帝之御願西府之大厦也、
(大宰府政所牒案『平安遺文』一六五九)
○重検案内、件塔婆者先帝之御願、鎮西之大厦也、
元永二年三月廿七日〈一一一九〉
(筑前國観世音寺三綱等解案『平安遺文』一八九八)
これらの文書の西府や鎮西が九州島を意味していることはいうまでもないが、同類の文脈で使用されているさきの「九州之大厦」も九州島とみなさざるをえないのである。
これらの史料から、平安後期にいたって、観世音寺側、すなわち九州島現地で「九州」を公然と自称しはじめたことがうかがえるのだが、その一方で平安中後期において近畿天皇家もひきつづき自らの大義名分に立って、日本国を「九州」と称していたことが別の太政官符案にみえる。
○太政官符東海東山道諸国司(『本朝文粋』巻第三)
応抜有殊功先輩加不次賞事尾張言鑑
右平將門、積悪弥長、宿暴暗成。狸招烏合之群、只宗狼戻之事。冤国宰而奪印鑑、領県邑而事抄掠。(中略)抑一天之下、寧非王土。九州之内、誰非公民。官軍鮎虜之間、豈無憂国之士乎。(後略)
天慶三年正月十一日〈九四〇〉
○太政官符案(『平安遺文』二八六七)
雑事伍箇条
一應令国司、且従停止、且録状言上、神社佛寺院宮諸家新立庄園事、
右、九洲之地者、一人之有也、王命外何施私威、(後略)
保元二年三月十七日〈一一五七〉
このように平安後期から末期にかけて、近畿天皇家の公文書に二種の「九州」が混在していることは興味深い。おそらく、平安後期における律令体制の形骸化と武士階級の台頭により、近畿天皇家の権威と「九州の論理」がゆるぎはじめたのであろう。しかしそれだけでは、九州島現地が「九州」を自称するための必要条件ではあっても十分条件とはいえない。なぜならば、天皇家の権威没落のみであれば、あらたな権力者、鎌倉幕府こそ天皇家に替わって「九州」を自称できるというだけのことだからだ。しかし歴史はそうは進まなかった。鎌倉幕府は九州島現地が九州を自称することを認めているのだ。史料事実にもとづくかぎり、そのように事態は推移したのである。
こうした史料情況を説明しうるケースが一つだけある。それは、過去において九州島が「九州」と称された歴史事実があり、そのことが平安・鎌倉時代においても記憶されていたという場合である。「九州の論理」を直視するかぎり、このケース、すなわちある歴史的時間帯において九州島に「天子」が君臨し、みずからの直接当地領域を「九州」と呼んだ、という仮説(九州王朝説)しか、後代史料にあらわれた「九州」の情況を説明できないのではあるまいか。 
3 九州の成立
「九州の論理」を無視、あるいは軽視して成り立っている通説によれば、律令時代に九州島内で成立した九国が、後に「九州」と称されたとしているが、その九国の成立時期を七世紀後半から八世紀初頭としているようである。その根拠として、『日本書紀』『続日本紀』などにみえる九国の初出記事としてつぎの例をあげている。
1).肥後国六九六年(持統十年)『日本書紀』持統十年四月条
2).筑前国六九八年(文武二年)『続日本紀』文武二年三月条
3).豊後国六九八年(文武二年)『続日本紀』文武二年九月条
4).日向国六九八年(文武二年)『続日本紀』文武二年九月条
5).豊前国七〇二年(大宝二年)豊前国戸籍
6).薩摩国七〇二年(大宝二年)『続日本紀』大宝二年十月条
7).筑後国七〇七年(慶雲四年)『続日本紀』慶雲四年五月条
8).大隅国七一三年(和銅六年)『続日本紀』和銅六年四月条
9).肥前国七四〇年(天平十二年)『続日本紀』天平十二年十月条
(井上辰雄「筑紫の大宰と九国三島の成立」『古代の日本・3九州』所収)
これらの「初見史料」にもとづいて、九国の成立を持統十年(六九六)ころから、そして最終的には大隅国が置かれた和銅六年(七一三)としている。しかし、史料事実に即してみるならば、こうした立論は不当である。なぜならば、「筑紫大宰」の初見史料として有名な『日本書紀』推古十七年四月条に「肥後国」の名がみえるからである。
〇十七年の夏四月の丁酉の朔庚子に、筑紫大宰、奏上して言さく、「百済の僧道欣・恵彌、首として、一十人、俗七十五人、肥後國の葦北津に泊れり」とまうす。(『日本書紀』推古十七年条)
また、持統紀四年十月条にも「筑後国」を記す一本が存在する。(3)すくなくとも推古紀にみえる「肥後国」を無視して、他の都合のよい部分だけを「初見史料」として立論することは、学問の方法論としていかがなものであろうか。(4)さらに『続日本紀」慶雲三年(七〇六)七月条に、「九国三嶋」という表記がみえ、この時期、九州島はすでに九国に分国していたことがうかがえる。
○大宰府言さく、「所部の九国・三嶋・亢旱し台風ふき、樹を抜きて稼を損ふ」とまうす。
(『続日本紀』慶雲三年条)
ここでも、通説ではこの「九国」の表記を「誤り」あるいは「追書」として無視しているのだ。律令体制以前の九州にこうした律令制的な分国があるはずがないとする通説は、史料事実ではなく、テンノロジーに依拠しているといわざるをえない。(5)
それに対して、私の立場は異なる。推古紀の「肥後国」も、『続日本紀』の「九国」も、いずれも大宰府からの「発言」記事中にあらわれるのであり、これらは大宰府側の認識をあらわした貴重な断片史料と考えられるのである。したがって、推古の時代すでに九州島内は筑紫の大宰府を中心に肥後国などの分国が成立していたと思われる。こうした史料状況は、九州王朝の天子と大宰府を中国のミニチュア版とされ、この時期に倭国(九州王朝)はみずからの直接統治領域を九州と呼んだ、とする古田説と一致する。かつ、後代史料にあらわれる「九州」の変遷状況から、古代において九州島が「九州」と呼ばれていたとする本稿の考察と符合するのである。 
4 九州の分国
九州という名称とその条件について、なお厳密にいうならば、かならずしも九つの分国を前提とはしない。たとえば近畿天皇家の場合、「五畿七道」を「九州」と称しているのもその一例である。したがって、九州王朝がみずからの直接当時領域を実際に九分割していたかどうか、九州という現存地名だけからは断定できない。しかしながら、九州島が現実に九国に分割されている歴史事実を重視すれば、やはり九州王朝により九国に分割されていたと考えてみたい。しかも分割の「方法」は、筑紫・肥・豊が「前・後」に分けられ、日向・大隅・薩摩はそれぞれ一国というのも不自然ではあるまいか。(6)このように不自然な分国の結果、偶然に九国になったと考えるよりも、最初から意図的に九国に分割するための措置とみるのが穏当のように思われるのである。みずからの政庁を中国風に太宰府と命名した九州王朝であれば、さらに直接統治領域を九分割した上で九州を自称したと考えてもよいのではないだろうか。
たとえば『風土記』には、筑紫・肥・豊がそれぞれ「前・後」に分割されたことを記されているが、その時期や誰によって分割がなされたのかは記されていない。
○豊後の國は、豊前の國と合せて一つの國たりき。(中略・地名起源説話がつづく)因りて豊國といふ。後、両つの國に分ちて、豊後の國を名と為せり。
(『豊後國風土記』總記)
○肥前の國は、本、肥後の國と合せて一つの國たりき。(中略・地名起源説話がつづく)因りて火の國といふ。後、両つの國に分ちて、前と後とに為せり。
(『肥前國風土記』總記)
○公望案ずるに、築後の國の風土記に云はく、築後の國は、本、筑前の國と合せて,一っの塵たりき((中略・地名起源説話が続く)因りて筑紫の國と曰ひき。後に両つの國に分ちて、前と後と為す。
(「筑後國風土記逸文」『繹日本紀』巻五)
こうした史料状況は、「分国」が近畿天皇家でなく九州王朝によりなされたことをしめしているように思われる。地名の起源はそれこそ千差万別であろうが、もともと一国であったものを「前後」に分割命名するというのは、分割された国はもとより、それらを含むさらに広範囲の地域の政治的権力者の存在を想定せざるをえない。そうすると、九州島内の国々において筑紫・肥・豊の三国のみが「前後」に分割されていることから、その三国に対して相当の影響力をもった権力者がいたこととなろう。そのような人物を想定することは次の『日本書紀』の記事からも可能である。
○是に、筑紫國造磐井、陰に叛逆くことを謀りて、猶預して年を經。事の成り難きことを恐りて、恆に間隙を伺ふ。新羅、是を知りて、秘に貨賂を磐井が所に行りて、勧むらく、毛野臣の軍を防遏へよと。是に、磐井、火・豊、二つの國におそひ據りて、使修職らず。(『日本書紀』継体二十一年条)
継体紀にみえる筑紫国造磐井が九州王朝の王であったとすれば、その最直轄支配領域が筑紫・火・豊であったことが、近畿天皇家側からも認められていることをこの記事は指し示している。このように九州王朝はみずからの最直轄領域をそれぞれ「前・後」に分けることにより、九州島内を意図的に九国に分国したのではあるまいか。 
5 九州王朝の「五京制」
以上、論じてきたとおり、古代・中世史料にあらわれる「九州」の史料状況や、『日本書紀』『風土記』などの考察から、九州の地名が九州王朝による自称であった可能性は高いといわざるをえない。そしてひとたび本稿の仮説、すなわち九州島内における九州・太宰府などの現存地名が古代九州王朝の痕跡であったことが承認されれば、他の政治的意味あいが強い地名も、同様に九州王朝との関連において検討されてもよいと思われる。たとえばつぎの地名だ。
○宮處郡(現福岡県京都郡)「豊前國風土記逸文(中臣祓氣吹抄)」
○宮處郷(佐賀県・所在地不明)『肥前國風土記』神崎郡条
○隈府(熊本県菊池市)
「みやこ」や「府」を含む、これら九州島内の地名の淵源を考察する際、「九州王朝淵源」説も一つの作業仮説として検討に値するのではないか。もとより、地名比定やその歴史的考察は「恣意性」がつきまとうであろうが、九州王朝説によってはじめて穏当な理解がえられるケースもある。本稿の「九州」や古田氏が論及された「太宰府」などがその好例だ。よって、作業仮説の段階ではあるが、これらの地名に対して「九州王朝の五京制」という概念を提起してみたい。
古代東アジアにおいて、首都とは別に複数の「都」がおかれた例がある。いわゆる「五京制」「五都制」は魏(三国時代)、新羅、渤海などが採用しており、東アジアの国々において採用された政治的システムのようだ。もちろん、国々において採用した事情やそのあり方には差があるようだが、メインの首都とは別に四つの「都」がおかれるという点では各国共通している。また、同列にはあつかえないが、百済は国が五部に分かれていたこともあってか、滅亡後は唐により五都督府がおかれた。
○魏(長安・洛陽・許昌・業*・[言焦])
○新羅(金城・北原小京・金官小京・西原小京・南原小京)
○渤海(上京龍泉府・中京顕徳府・東京龍原府・西京鴨緑府・南京南海府)
○百済(熊津、馬韓、東明、金漣、徳安)
業*は、業に邑篇。JIS第4水準、ユニコード9134
[言焦]は、JIS第3水準、ユニコード8B59
おそらくは中国も影響を受けて、周辺諸国も五京制を採用したものと思われるが、なかでも新羅が7世紀後半に百済と高句麗を滅ぼして半島を統一した後、全国を九州に分割したことは注目される。(7)こうした東夷における中華思想ミニチュア版を九州王朝が模倣しなかったとは考えにくい。古代アジアの状況からも、九州島内の「みやこ」「府」などの地名の淵源を九州王朝によるものとする「九州王朝の五京制」説は成立の余地があるように思えるが、いまはその比定地推定とともに作業仮説として判断を留保しておきたい。 
おわりに
九州出身の私は、故郷の地名が古代中国に淵源をもつ政治的名称であったなどということを古田史学に出会うまで知らなかった。まして、九州に天皇家に先住した天子がいたことなども。古田氏ご自身も、邪馬壹国の研究から九州王朝説へと考究を進められるなかで、「九州」という地名のもつ歴史的背景に気づかれたようである。その古田氏よりはるかに早く、九州島における天子の存在を質された先覚者がおられる。灰塚照明氏(市民の古代研究会・九州の会常任幹事)、この人である。氏は少年時代、九州というにも天子がいたのではないかと質問された。戦中の軍国主義時代のこと、灰塚少年に返ってきたのは質問の答えではなく、「馬鹿野郎」の怒声と鉄拳であったという。
しかし、いかなる権力も暴力も人間のもつ「不思議に思う心」を奪い尽くすことはできない。ましてや「真実は頑固である」(古田武彦)。そして歴史の真実を守り通すことは、忘却との闘いであり、それは多くの場合、民衆による闘いとなる。ながくつづいた近畿天皇家の列島支配の中にあって、九州王朝が滅んだ後でも九州島を「九州」と頑固に呼びつづけた民衆が一片の真実を伝えきったのである。これが本稿の結論だ。
最後にいう。本稿で試みたことは、九州島の名称が史料的にどの時点までさかのぼれるか、そして「九州の論理」がいきつくところはどこか、これであったが、その探求を支えたものは「不思議に思う心」と「なっとくする心」であった。灰塚少年の問が発せられて約半世紀が過ぎたいま、郷土の先達に畏敬の念を表しつつ本稿の結びとしたい。 

(1)井上辰雄「筑紫の大宰と九国三島の成立」(『古代の日本・3九州』所収、角川書店)。
(2)古田武彦『邪馬一国への道標』講談社。
(3)岩波古典文学大系『日本書紀』はこの「筑後国」を採用し、国史大系本は「筑紫国」とする。
(4)たとえば、倉住靖彦氏「筑前国司をめぐる若干の検討」(『九州歴史資料館研究論集13』所収)では、推古紀の「肥後国」の表記を「それぞれ追記であることは論をまたない」とされている。
(5)近畿天皇家一元史観にもとづく、論証抜きの断定をテンノロジーと古田武彦氏は命名された。
(6)同様の指摘が古田武彦氏によりすでになされている(古田武彦『邪馬一国への道標』講談社)。
(7)『三国史記』新羅本紀第八・神文王五年条(六八五)に「はじめて九州が備わる」とある。
(8)古田武彦編『倭国の源流と九州王朝』新泉社。 
 
『隋書』にみえる流求国 / 建安郡の東・水行五日にして至る海島

 

はじめに
流求の名があらわれる最古の文献史料は『隋書』である。『隋書』の帝紀・列伝は唐の貞観一〇(六三六)年魏徴の主編により成り、志は顕慶元(六五六)年長孫無忌が監修して成った。流求についての記事は、煬帝紀上(巻三・帝紀第三、大業三年三月癸丑条・大業六年二月乙巳条)、食貨志(巻二四・志第一九、煬帝即位条)、陳稜伝(巻六四・列伝第二九)、流求国伝(巻八一・列伝第四六・東夷)の四ヵ所にみえる。
『隋書』流求国伝は、「流求国は海島の中に居す。建安郡の東に当り、水行五日にして至る」という方位・行程記事ではじまる。
わが国においては、この琉求とは、流球国最初の歴史書『中山世鑑』(羽地朝秀、慶安三年・一六五〇)をはじめとして、琉球(現在の沖縄)であると考えられ、誰人もこれを疑うことはなかった。
ところが、明治七(一八七四)年フランス人サン・デニーが、『文献通考』(元・馬端臨、延祐四年・一三一七)四裔考の一部を翻訳し、その琉球条を根拠にして、隋代の流求とは台湾・琉球を含む島彙の総称であるが、『隋書』の流求は台湾であるという説を発表し、流求=沖縄という通念はゆらぎはじめた。ついで、明治二八(一八九五)年オランダ人グスタフ・シュレーゲルは、元代以前の琉球は今の台湾に限り、明(みん)初にはじめてその名がいまの琉球に遷ったという説を発表した。そして、明治三〇(一八九七)年文科大学(現在の東京大学)史学科教授ドイツ人ルードヴィヒ・リースが『台湾島史』(吉国藤吉訳、一八九八)を著わし、サン・デニーの説を踏襲して以来、わが国の学会においては、流求=台湾説が定説の地位を獲得した。(1)
朱寛・陳稜らが遠征した流求について、台湾説をとる者は、その他、箭内亙(2)、藤田豊八(3)(4)、鈴村譲(5)、市村讚*次郎(6)、和田清(7)(8)、伊能嘉矩(9)〜(11)、幣原担(12)〜(15)、曽我部静雄(16)〜(17)、白鳥庫吉(18)、甲野勇(19)、加藤三吾(20)、東恩納寛惇(21)〜(24)、種村保三郎(25)、宮良當壮(26)、桑田六郎(27)、国分直一(28)、金関丈夫(29)、李家正文(30)らで、多数派を形成している。
市村讚*次郎氏の讚*は、言偏の代わり王編。JIS第3水準、ユニコード74DA
台湾説の論拠は、水行五日では沖縄には到達できない、『文献通考』などに流求は「彭湖と煙火相い望む」とあるように台湾をさす、風俗・産物・動植物相などの記述は台湾であることをしめす、というものである。
これにたいして、沖縄説を唱えるのは、中馬庚(31)〜(32)、隈本繁吉(32)、秋山謙三(33)〜(35)、喜田貞吉(36)(37)、フランス人アグノエル(38)、藤田元春(39)、台湾人梁嘉彬(40)(42)、松本雅明(43)(46)、比嘉春潮(47)、川越泰博(48)、本位田菊士(49)、森浩一(50)、古田武彦(51)、村井章介(52)らである。
沖縄説は、沖縄は建安郡の東にあたり水行五日で到達できる、『隋書』には、流求は「彭湖と煙火相い望む」という記述はない、風俗・産物・動植物相なども隋代の沖縄のものと考えることは可能である、という。
伊波普猷は、最初沖縄説(53)をとっていたが、東恩納寛惇の批判を受けて、『隋書』流求国伝における二回の流求遠征のうち、前の遠征隊(朱寛)が訪問したのは台湾で、後の遠征隊(陳稜)が征伐した流求は沖縄である、と折衷説(54)をとるに至った。
流求=台湾説に対して、戦前全面的に沖縄説を展開し、台湾説を批判したのが秋山謙三である。そして、戦後は梁嘉彬が沖縄説の論拠を深化させ、台湾説を徹底的に批判した。
しかし、論争は、いまだに帰結をみない状況にあるという。(55)(56)(57)しかも、「『隋書』の記事には部分的に伝聞の誤り、或は誇張があるとはいえ、基本的には現在の沖縄本島を対象としているとみる見解が有力になりつつある(58)」とする者がいる一方で、「論争史を整理すると台湾説が有力であるが、しかし、この問題はなお学界に残された検討課題である(59)」とみる者がいるように、どちらの説が有力かの判断がわかれるくらい、形勢は混沌としているかのようである。
そこで、唐・宋・元・明代に編纂された中国の正史・政書・類書・地理書などを中心に、流求に関する記録を繙(ひもとく)とともに、台湾説・沖縄説の各論拠を再検討してみた。
その結果、『隋書』の流求は、沖縄そのものをさしていることは確実であると判断するに至ったので、その根拠を報告しよう。 
流求国の方位
『隋書』の流求を沖縄とみるか、台湾とするかについて、核心をなす論争点は、流求国伝の「流求国居海島之中、当建安郡東、水行五日而至」という記事の方位と行程の解釈にある。
隋代の建安郡は、現在の福建省に該当する。隋初には泉州といったが、大業初年[門/虫]州とされ、さらに改めて建安郡となった。そして、大業初年[門/虫]県(現在の福州)に建安郡(郡治)が置かれた(『隋書』巻三一・志第二六・地理下)。
[門/虫]は、門の中に虫。JIS第3水準、ユニコード95A9
この流求国伝にいう建安郡は、方位・行程の基点となる、建安郡治をさすと考えられる。すなわち、南北に数百キロにわたって伸びる建安郡の海岸線のどこから出航しても、東に水行五日というのでは、その到達地点は特定できないからである。
建安郡治は、北緯二六度に位置する現在の福州の地であるから、まさにその東は沖縄本島にあたる。
唐の顕慶四(六五九)年に成立した『北史』は、魏書・北斎書・北周書・隋書を基本資料としているので、その流求国伝(巻九四・列伝第八二)は「流求国居海島、当建安郡東、水行五日而至」と、冒頭部分から『隋書』流求国伝とほとんど同文である。
ところが、唐の貞元一七(八〇一)年に編纂された『通典』(杜佑撰)琉球条(巻一八六・辺防二・東夷下)には、「琉球自隋聞焉、居海島之中、当建安郡東[門/虫]川之東、水行五日而至」とある。『通典』は、黄帝・唐虞より唐の天宝年間(七四二〜七五六)に至るまでの中国歴代典章制度についての政書である。その琉球条は、『隋書』流求国伝を節略したものであるが、「建安郡東」に「[門/虫]川之東」、「義安」に「今潮陽郡」と二ヵ所に、新たに割注を付しているのである。そして、倭国条(巻一八五・辺防一・東夷下)には、「其国界、東西五月行、南北三月行、各至於海、大較在会稽[門/虫]川之東」とある。すなわち、『隋書』イ妥国伝(巻八一・列伝第四六・東夷)の「其国境、東西五月行、南北三月行、各至海」に「大較在会稽[門/虫]川之東」という方位を付加している。
梁嘉彬は、[門/虫]川とは[門/虫]江をさすという。[門/虫]江は、建安郡治(現在の福州)を流れて、東シナ海に注ぐ川である。そうすると、[門/虫]川の東にあたる流求は、沖縄であって台湾ではない。
ここで注目すべきは、『通典』が、倭国の位置を「大較在会稽[門/虫]川之東」としている点である。倭国は、大業四(六〇八)年階の煬帝が文林郎裴世清を派遣し、不遜にも日出ずる処の天子と称した国王天の多利思北孤の実情を調査させたところである(『隋書』巻八一・列伝第四六・東夷イ妥国)。その裴世清は、隋滅亡後唐朝の正規の外交官僚である鴻櫨寺の掌客に任用されている。(51)(60)倭国はまた、貞観五(六三一)年唐の太宗が新州刺史高表仁を派遣し慰撫させたが、その王子が無礼にも礼を争い、表仁は朝命を宣べることもできずに還った国である(『旧唐書』巻一九九上・列伝第一四九・東夷・倭国)。そして、『日本書紀』によると、天智二(六六三)年八月ついに、倭国・百済の連合軍は唐軍と白村江に会戦したが完敗し、唐は朝散大夫上柱国郭務宗等を五度倭国に派遣し、戦後処理をおこなわせている。(61)『通典』倭国条にも、倭は一名日本国というとして、朝臣(粟田)真人と朝臣(阿部)仲満が来朝したことが記録されている。
このように、外交・軍事行動の対象であった倭国の地理的位置を、『通典』は「大較会稽[門/虫]川の東に在り」というのである。それと同時に『通典』は、その倭国の方位である「会稽[門/虫]川の東」と重なるように、琉球国は「[門/虫]川の東」にあたるという。したがって、その琉球が沖縄をさすことは必至であって、台湾ではないことは明白であろう。『太平御覧』(宋・李[日方]等撰、太平興国二〜八年・九七七〜九八三)流求条(巻七八四・四夷部五・東夷五)にも、「陰ママ書曰、流求国居海島之間、当見建安郡東、水行五日而至[門/虫]川之東也」とあり、流求の方位は「[門/虫]川の東」であるとされている。
李[日方]の[日方]は、日に方。JIS第3水準、ユニコード6609
イ妥(たい)国のイ妥*は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO
『太平寰宇(かんう)記』(楽史等撰)は、宋の太宗が、太平興国四(九七九)年[門/虫]越・北漢を併合して全国統一を果たすと、その境域・外民族の事情を明らかにするために、編纂を命じた地理書である。その琉球条(第一七五巻・四夷四・東夷四)は、『隋書』流求国伝をやや簡略化し改編したものであるが、温州条の四至八到中にも琉球国があらわれる。
江南東道の各州の四至八到のうち、琉球の方位に関係があるものをみると、つぎのようになっている。温州の四至八到、「東至大海八十六里海以外是琉球国(注、宋版は幽求国(41))、南至福州水路相承一千八百里」(第九九巻・江南道一一)。福州の四至八到、「東北至温州水路一千四百七十八里、南至泉州三百七十里、東南至海一百六十四里、西南至泉州五百里」(第一〇〇巻・江南東道一二)。泉州の四至八到、「東北至福州五百里、東至大海一百八十里、東南至海四十里、西南至樟*州六百里」(第一〇二巻・江南東道一四)。樟*州の四至八到、「東北至泉州六百里、東至大海一百五十里、南至大海一百六十二里、西至潮州五百六十里」(第一〇二巻・江南東道一四)。そして、嶺南道の潮州の四至八到も、「東至樟*州七百五十里、東南至海口九十里、東至大海一百里、東北至汀州魚磯鎮六百五十里」(第一五八巻・嶺南道二)という。
樟*州の樟*は、木編の代わりに三水編。JIS第3水準、ユニコード6F33
すなわち、『太平寰宇記』は、温州の東の大海の外に琉球国があるという。温州は、北緯二八度線上に位置し、その東方はかつての琉球王国の領域であった奄美大島である。そして、福州・泉州・樟*州・潮州の東と東南は、たんに海があるだけで、その海外に琉球国はおろか、膨湖島や台湾に該当する島々の存在を告げることはない。『太平寰宇記』の江南東道の四至八到は、温州の東の海外にあるという琉球国が沖縄であることをしめすとともに、北宋の初めころには温州が琉球との交通の基点となっていたことを知らせてくれる。そのころは、いまだ中国と澎湖島・台湾との間の航路は開かれていなかったのである。「沖縄本島、および先島諸島諸地域から、いわゆる宋磁の類の出土がおびただしく、石垣島名護湾では、現在でも多くの宋磁破片が波に洗われつつ打ち上げられている(62)(63)」というが、北宋代の磁器は、温州から船積みされたものであろう。 
流求国への行程
『隋書』には、流求国伝冒頭の「流求国は海島の中に居す。建安郡の東に当り、水行五日にして至る」という方位・行程記事のほかに、行程をしめすつぎのような記事がある。
「帝(煬帝)、武賁郎将陳稜・朝請大夫張鎮州を遣わし、兵を率いて、義安より海に浮んで之を撃たしむ。高華嶼に至り、又東行二日にしてに至り、又一日にして便(すなわち)流求に至る。初め、稜(陳稜)は、南方諸国人を将(ひき)いて従軍せしむ」(流求国伝)。
「陳稜、・・・大業三年武賁郎将を拝す。後三歳、朝請大夫張鎮周と東陽を発す、兵万余人。義安より海に汎(うか)び、流求国を撃つ。月余にして至る」(陳稜伝)。
[句/黽][辟/黽]嶼は、句の下に黽。辟の下に黽。(亀に似た形から、久米島と考えられる。後記)
台湾説は、義安(現在の広東省潮州)から出航したのであるから、すぐ目の前の台湾を撃ったという。そして、台湾説は、高華嶼とを澎湖列島内の二島にあてる。しかし、澎湖列島内で東行二日は過大だし、方位も不自然である。
むしろ、これらの記事は、陳稜が東陽(現在の浙江省金華)から出兵し、南下して義安(潮州)に至り、そこで南方諸国人を戦力として補充し、糧食・飲料を補給し、大艦隊を編成したうえで、義安から出航したので、流求まで一カ月余かかったことを示している。陳稜の水軍は、義安から北上して、航行の目標としている高華嶼に至り、「又東行二日にしてに至り、又一日にして便ち流求に至る」のである。
高華嶼からを経て流求に至る三日は、建安郡治から出発して流求に至る五日の行程のうちの後半の三日の行程に該当する。これを裏付ける行程記事が、『新唐書』(宋・欧陽脩等撰、嘉祐五年・一〇六〇)にある。
『新唐書』には、『旧唐書』(後晋・劉[日句]等撰、開運二年・九四五)と同じく、流求国伝はない。しかし、『新唐書』地理志(巻四一・志第三一・地理五)の「泉州清源郡」の細注には、「自州正東海行二日至高華嶼、又二日至、又一日至流求国」という方位・行程記事が存在する。
劉[日句]の[日句]は、JIS第3水準、ユニコード662B
隋の建安郡は、唐初にはふたたび泉州となった。そして、景雲二(七一一)年南部の三県を分けて泉州、北部を福州と二分割した。この泉州は、天宝三(七四二)年から乾元元(七五八年)の間は泉州清源郡と称したが、その後また泉州となり、晋江県(現在の泉州)に州治を置いた(『旧唐書』巻四〇・志第二〇・地理三・江南道)。この泉州は、宋代の泉州(現在の泉州)へとつながっている。
そこで、梁嘉彬は、『新唐書』地理志の流求国に至る方位・行程の細注は、隋代の泉州・建安郡治が編入されている「福州長楽郡」の条に起すべきところを、宋代の執筆者が錯簡して、宋代の泉州に該当する「泉州清源郡」の条に起したという。しかし、そうではなくても、右の細注は、宋代の泉州から流求(現在の沖縄)に至る水行記録としても解釈できるという。(42)
現在の泉州は、北緯二五度に位置し、その正東は台湾西北端(その東は、琉球列島の南端の先島諸島)であるが、泉州と台湾の間には、「正東、海行二日にして至る」高華島や、「又二日にして至る」ような島々はない。
泉州から東に向って出帆すれば、明・清代の冊封便が福州から西南風に乗って琉球に向ったときと同じく、風向きと潮流によってやや東北寄りの進路となり、二日で高華嶼(台湾基隆港外の彭佳嶼であろう)に至り、さらに東行二日で(亀に似た形から、久米島と考えられる)に至り、また一日で流求(沖縄)に至ることができる。
つぎに、流求=台湾説は、明代の記録によると、「福州梅花所開洋、順風七晝夜、始可至琉球」(明・陳侃『嘉靖甲午使録』群書質異・「羸*蟲録」、一五三四)とか、「琉球国居海中、直福建泉州之東、自長楽梅花所開洋風利、可七晝夜至」(明・陳仁錫編『皇明世法録』巻八○・琉球、崇禎四年、一六三〇)とか、あるいは「長楽梅花所開洋、南風順利、十八日可至」(明・何喬遠編『[門/虫]書』巻一四六・島夷志、崇禎四年)とあって、琉球は順風でも七日から一八日かかる遠方にあり、隋代に五日で行けるのはヨリ近い台湾であるという。
羸*は、羊の代わりに女。JIS第4水準、ユニコード5B34
ところで、清の徐葆光は、康煕五八(一七一九)年冊封琉球国王(尚敬)副使として琉球に派遣され、『中山伝信録』(康煕六〇年・一七二一)という使録を出版している。(64)『中山伝信録』は、琉球をよく観察し従来の使録の誤りを正すなど、その記録が正確であるというだけではなく、琉球の風土・民俗を生き生きと描き出した名著で、中国や日本の琉球観の形成に大きな影響を与えている。
『中山伝信録』には、「歴代封舟渡海日期」という項目があり、嘉靖一三(一五三四)年の陳侃(ちんかん)使録から康煕二二(一六八三)年の汪楫(おうしゅう)使録に至る七回の渡海記録が収録されている。それによると、冊封使の船は、通常は夏至ののち西南風に乗って琉球へ行き、冬至ののちに東北風に乗って福州へ帰るが、最長一九日・最短三日・平均一二日を要している。徐葆光の船は、往路七日八夜、復路一四昼夜の航海であった。
梁嘉彬は、それらの渡海記録を各使録にもとづいて分析したところ、無風・逆風・台風などのため進むことができなかった日数や、卯針(正東針)を偏用するために、船が沖縄本島の北方海域に流されて、那覇に引返すのに要した日数を差引くと、すべて実日数水行四〜五日で福州と琉球間を航行しているという。(41)(42)
琉球人程順則が著した『指南広義』(康煕四七年・一七〇八)では、往路の福州五虎門から姑米山(久米島)まで四○更(四日)、復路の姑米山から福州定海に着くのに五〇更(五日)の航路である。
昭和六三(一九八八)年沖縄県ヨット連盟・東江会長一行は、ヨットによる「中国那覇間の進貢船航海を再現する試み」の渡航実験をおこなった。明・清代の琉球から中国への進貢船のルートにほぼそつた往復航行が、八月八日から八月二〇日にかけておこなわれた。その結果は、「この一行の要した時間は、往路(那覇〜福州)・帰路(泉州〜那覇)とも三日で、往時の冊封船や進貢船が要した日数より一日速かった(65)」。その原因は、帆や船体構造に差異があることと、一行のヨット航行の際には台風や低気圧が発生したので、その情報を的確に受信し、強い周辺風を利用しながら航海することができたからであるという。
それでは、中国大陸と台湾間の航海は、何日かかるのであろうか。梁嘉彬は、清初には厦門から水程わずか一一更(約一昼夜)で台湾(台南)に至り、鶏籠淡水から福州港口まで水程五〜七更であったという。前記の冊封使の渡海記録でも、福州から台湾北部海面までは、一日ないし二日の水程である。また、明の鄭成功の水師は、台湾から澎湖島に四更、澎湖島から金門へ七更(一更は約六〇里、一〇更で約一日)で達したという。
『隋書』流求は、方位・行程からみるとき、現在の沖縄であることを否定できないのではないだろうか。 
流求と台湾の混同
元朝が、流求国の所在について持っていた知識は、曖昧模糊としたものであった。『元史』(明・宋濂等撰、洪武二年・一三六九)瑠求伝(巻二一〇・列伝巻第九七・外夷三)は、そのあり様をつぎのように伝えている。
世祖至元二十八(一二九一)年九月、海[舟工]副万戸楊祥、請いて六千の軍を以て、往きて之を降し、命を聴かずんば、則ち遂に之を伐たんとす。・・・冬十月、乃ち楊祥に命じて宣撫使に充てて金符を給し、呉志斗は礼部員外郎、阮鑒は兵部員外郎として、並びに銀符を給し、往きて瑠求に使せしむ。
(至元)二十九年三月二十九日、汀路(現在の福建省長汀)の尾澳(金門湾口か)自り舟にて行く。是の日巳の時に至りて、海洋中の正東に、山の長く而して低き者有るを望見す。約五十里を去れり。祥(楊祥)称す、「是れ瑠求国なり」と。鑒(阮鑒)称す、「的否を知らざるなり」と。祥、・・・軍官劉閏等二百余人をして、小舟十一艘を以て、軍器を載せ、三嶼人陳[火軍]を領して岸に登らしむ。岸上の人衆、三嶼人の語を暁(あきらか)にせず、其の殺死せらるる者三人なれば、遂に還る。四月二日、彭湖に至る。祥、鑒・志斗の、巳に瑠求に文字を到さんとするも、二人の従わざるを責む。明日、志斗の蹤跡、之を[木/見](もとむ)るも、有る無き也。先に、志斗、嘗つて斥けて言う、「祥の事を生ずるは、功を要(もと)めて、冨貴を取らんと欲するのみ。其の言の誕妄にして信じ難し」と。是に至りて、祥の之を害せしことを疑う。
[舟工]は、舟に工。JIS第4水準、ユニコード8221
陳[火軍]の[火軍]は、JIS第3水準、ユニコード7147
[木/見](もとむ)るの[木/見]は、JIS第3水準、ユニコード8994
そして、元の延祐四(一三一七)年に成った『文献通考』(馬端臨撰)は、琉球国は彭湖と煙火相い望むとし、流求と台湾を混同した最初の文献となった。『文献通考』は、古代から天宝年間(七四二〜七五六)までは、『通典』にならいながら増補し、南宋の嘉定末(一二二四)年までの諸制度を記した政書であるが、馬端臨の文名は高く、その影響力は大きかった。
馬端臨は、『北史』流求国伝の『流求国居海島、当建安郡東、水行五日而至」という文章と、『諸蕃志』流求国条の「流求国当泉州之東、舟行約五六日程」、および[田比]舎耶国条の「泉(泉州)有海島、曰彭湖、隷晋江県、与其国密邇(きわめてちかし)、煙火相望」という文章を交ぜ合わせて、『文献通考』琉球条の「琉球国居海島、在泉州之東、有島彭湖、煙火相望、水行五日而至」(巻三二七・四裔考四)とした、(41)・・・と梁嘉彬はいう。
『文献通考』琉球条は、『北史』流求国伝の引用からはじまるが、それに加えて、琉球は彭湖と煙火相い望むとしている。そして、『北史』の引用部分につづけて、琉球国の旁には[田比]舎耶国があるとし、『諸蕃志』[田比]舎耶国条から、宋の淳煕年間(一一七四〜一一八九)に国の酋豪が泉州の村々を襲撃した事件を引抜いて、琉球条に付加しているのである。したがって、[田比]舎耶国条は、別条として立てていない。
[田比]舎耶国の[田比]はJIS第3水準、ユニコード6BD7
すなわち、『文献通考』の琉球条は、『北史』の流求国条と、『諸蕃志』の[田比]舎耶国条の一部から、合成されている。そして、『文献通考』は、『隋書』の流求を、彭湖と煙火相い望むほど近い、台湾であると考えているのである。また、[田比]舎耶国は、琉球の旁にあるとしているので、台湾の近くのフィリピン群島中の島を想定していると思われる。
『諸蕃志(66)』は、南宋の宝慶元(一二二五)年趙汝這*が泉州の提挙福建路市舶(市舶司の長官)であったときに撰述したものであるが、『嶺外代答』(南宋・周去非撰、乾道八年〜淳煕五年頃・一一七二〜一一七八)などの記事と、彼自身が泉州に来往した外国商人達から見聞したことをもとに、諸外国の風物を記した地志である。『諸蕃志』・『嶺外代答』ともに原本は散佚して伝わらないが、『永楽大典』(明・解縉等撰、永楽六年・一四〇八)所引の佚文が集められている。現在の『諸蕃志』は、流求国条と[田比]舎耶国条(67)が、各別に立っている。そして、流求国条の内容は、『通典』に依拠し、それに新たな知見が付加され、末尾が「旁有[田比]舎耶談馬顔等国」の文句で終っている。流求国条につづいて、[田比]舎耶国条が立てられており、その国は彭湖島の煙火が望見できるほど近いという。すなわち、『諸蕃志』の流求は、『隋書』の流求と同一国であり、その旁に[田比]舎耶国があるという。その[田比]舎耶国は、彭湖と煙火相い望むのであるから、当然台湾をさしている。
迫*は、白の代わりに舌。JIS第4水準、ユニコード9002
これにたいして、金関丈夫は、馬端臨が、『文献通考』琉球条の冒頭部分に、『諸蕃志』[田比]舎耶国条の「島有り彭湖という、煙火相い望む」という文字を勝手に移したようにみえるが、そうではないという。金関は、「この大典(永楽大典)の杜撰なことは古来定評があり、『諸蕃志』の『隋書』を引用する部分のごときも、甚だ解すべきからざる疎漏さであるのは、恐らく大典編纂者の省略によるものと思われる。流求国の章の後に、[田比]舎耶国を別章として取扱ったのも、大典編纂者の誤解より生じた杜撰な仕事の一つではなかったのか。『永楽大典』の編纂者より以前に『諸蕃志』を見た馬端臨が、[田比]舎耶国の別章を設けず、『諸蕃志』のその記事を「琉球」の中に収めているのは、それが『諸蕃志』の原形であったことを示すものに他ならない(29)」という。
しかし、現在の『諸蕃志』流求条に「島有り彭湖と曰う、煙火相い望む」という文章がない理由を、『永楽大典』編纂者の誤解や杜撰さに求めるのは、具体性のない一般論であって、説得力に欠けている。
そもそも、『隋書』およびそれにつづく『北史』『通典』『太平御覧』『太平寰宇記』『冊府元亀』(宋・王欽若等撰、大中祥符六年・一〇一三)『通志』(南宋・鄭椎撰、一一〇四〜一一六〇)の流求国に関する記事には、「有島曰彭湖、煙火相望」という文字は存在しないし、その内容も『隋書』と基本的に同じである。
馬端臨の『文献通考』につづいて、流求と台湾を混同した文献が、つぎつぎとあらわれた。
『宋史』(元・脱脱等撰、至正五年・一三四五)流求国伝(巻四九一・列伝巻第二五〇・外国七)は、「流求国は泉州の東に在りて、海東に有り。彭湖にて烟火相い望むと曰う」とし、『諸蕃志』流求国条の約三割と[田比]舎耶国条の約七割を切り取って、その内容に充当している。
『島夷誌略』(元・汪大淵撰、至正九年・一三四九)は、彭湖条のつぎに琉球条を立て、「大崎山極高峻、自彭湖望之、余登此山」と記述し、その内容も『隋書』流求国伝とはまったく異なり、明らかに台湾をさしている。しかも、[田比]舎耶国条も別に立てている。
しかし、明の洪武二(一三六九)年に成立した『元史』(宋濂等撰)瑠求伝(巻二一〇・列伝巻第九七・外夷三)は、「瑠求は、南海の東、樟*・泉・興(現在の福建省甫田)・福の四州の界内に在り。彭湖の諸島は瑠求と相対するも、亦た素より通ぜず、・・・漢唐より以来、史の載せざる所なり。近代の諸蕃の其の国に至るを聞かず」と記述し、元代の瑠求は『隋書』の流求と異なる国としている。
そして、明の太祖朱元璋は、洪武五(一三七二)年行人楊載を、瑠求ではなく、今の沖縄である琉球に派遣している。太祖の招諭を受けた中山王察度は、弟泰期を遣わし、臣と称して表を奉り方物を貢し、その後太祖から琉球国中山王に封ぜられた。
明朝は、『元史』を編纂するころには、元朝が瑠求と考えていたのは今の台湾で、『隋書』以来の流求は今の沖縄であることを知っていたので、琉球国と国交を結ぶことができたのである。
樟*州の樟*は、木編の代わりに三水編。JIS第3水準、ユニコード6F33 
隋・唐との交渉
『隋書』流求国伝にはまた、つぎのような流求の方位と距離に触れた記事がある。
「大業元(六〇五)年、海師何蛮等、春秋二時毎に、天清く風静かに、東望するに、依希(いき)として煙霧の気有るに似たり。亦幾千里なるを知らず。」
和田清は、この記事を根拠に、福建の近海から遠望できる横亙(わたり)数千里におよぶ大島が台湾であって、それ以外ではありえないという。(8)
しかし、何蛮らは「煙霧の気有るに似たり」というだけで、流求がみえるとは述べていない。また、「幾千里なるを知らず」というのも、流求までの距離をさし、流求の横幅が数千里という意味ではあるまい。そして、福州から台湾への距離は、数百里であって桁が違う。
むしろ、この記事は、「煬帝即位するや、能く絶域に通ずる者を募る」(『隋書』巻八二・列伝第四七・南蛮・赤土)というのに対応して、大業三(六〇七)年屯田主事常駿・虞部主事王君政等が赤土国に遣使されるよう請うたのと、軌を一にするものであろう。すなわち、海師何蛮は、建安郡の東方海上に流求国があることを聞き知っていたので、煬帝に申し出たのではないだろうか。
煬帝は、中華思想の発現として、外蕃を撫慰してその臣下に加えるという伝統的な思考のもとに、未知の国流求に使者を派遣することにしたと思われる。(68)
その結果は、「(大業)三(六〇七)年、羽騎尉朱寛をして海に入り、異俗を求訪せしむ。何蛮之を言う。遂に蛮と倶(とも)に往き、因りて流求国に到る。言相い通ぜず。一人を掠(かすめ)て返る。明(六〇八)年、帝復(また)、寛(朱寛)をして之を慰撫せしむ。流求従わず。寛、其の布甲を取りて還る。時にイ妥国の使来朝す。之を見て曰く『之れ、夷邪久国人の用うる所なり』と」(流求国伝)ということになったのである。
そして、煬帝は、流求国が服従しないので、軍事力を行使する。すなわち、「初め、稜(陳稜)、南方諸国人を将(ひき)いて従軍せしむ。[山昆]崘人の頗る其の語を解する有り。人を遣わして之を慰諭せしむ。流求従わず、官軍に拒逆す。稜、撃ちて之を走らしめ、進みて其の都に至る。頻りに戦いて皆敗る。其の宮室を焚き、其の男女数千人を虜にし、軍実を載せて、而して還る。爾(こ)れ自(よ)り遂に絶つ」(流求国伝)という。
[山昆]崘人の[山昆]は、JIS第4水準、ユニコード5D10
ところで、何蛮らが流求についての知識をえたのは、[山昆]崘人からではあるまいか。陳稜の流求征討軍には、流求語をよく解する[山昆]崘人が従軍している。[山昆]崘は、『旧唐書』林邑国伝に、「自林邑以南、皆巻髪黒身、通号為[山昆]崘」(巻一九七・列伝第一四七・南蛮・西南蛮)とあるように、現在のベトナム南部・カンボジア・タイ・ビルマ・マレー半島などの諸国の汎称であるという。[山昆]崘人については、『日本書紀』皇極天皇元(六四二)年二月丁亥朔戊子条に、百済の弔使の[イ兼]人(ともびと)等が「百済の使者、[山昆]崘の使を海裏に擲(なげい)れたり」といったという記事がある。また、『唐大和上東征伝』(淡海三船、宝亀一〇年・七七九)によると、天宝一二(七五三)年鑑真和尚に従って渡日してきた弟子達のなかに[山昆]崘人軍法力がいる。[山昆]崘人は、古代の大航海民族であったようである。一方、流求人も、陳稜らの船艦をみて「以て商旅となし、往々軍中に詣で貿易す」(陳稜伝)とあるように、交易には慣れていたのである。
[イ兼]人(ともびと)の[イ兼]は、JIS第3水準、ユニコード5094
流求国は、隋の不法な侵略にたいして国交を絶ち、唐とも公式の国交を開いていない。しかし、流求と唐との間に交渉はあった。『送鄭尚書序』(唐・韓[兪/心]、大暦三年〜長慶四年・七六八〜八二四、明『朱文公校昌黎先生集』巻二一所収)には、流求など海外雑国が広州に通商に来る、『嶺南節度使饗軍堂記』(唐・柳宗元、大暦八年〜元和一四年・七七三〜八一九、『柳河東集』巻第二六所収)には、流求(如)貿易は広州押蕃船使の統を受けていた、とある。
唐の開元通宝(高祖六二一年初鋳)は、沖縄の兼久原貝塚・熱田貝塚・連道原貝塚・野口貝塚群・具志川グスク・勝連(かつれん)城跡・普天間宮洞穴などから数多く出土しているし、乾元通宝(肅宗七五八年初鋳)も今帰仁(なきじん)城跡から出土している。開元通宝は、久米島の北原貝塚で一三枚、遣唐使船の寄港が考えられない西表島・石垣島といった八重山地域でも発見されている。(63)これらの銭貨は、唐と流求との交渉を物語っている。もちろん、日本人・新羅人を経由してもち込まれたものもあろう。
『嶺表録異』(『説庫』一所収)は、唐の昭宗(八八八〜九〇三年)のときに広州司馬となった劉恂(りゅうじゅん)が、広州を主とする嶺南地方の物産・風土を記録した書であるが、流求も採録されている。陸州の刺史であった周遇が、[門/虫]に帰国するとき、海路悪風に遭い五昼夜漂流し六国を経由した漂流譚のなかに、「また流国を経る。其の国人は幺麼(ようま短小)、一ガイ*(ひとしく)皆麻布を服し、礼有り。競いて将に食物をもって釘鉄かと易(か)えんことを求む。新羅の客また半ば其の語を訳す。客を遣りて速く過さしむ。『此の国は華人が瓢泛して至るに遇えば、[宀/火]禍あるを慮ると言う』と」とある。この漂流譚は、朱寛の来訪につづいて陳稜の流求攻撃があったことを、流求人がいまだに憶えていたことを記録しているようにみえる。そして、新羅人がなかば流求語を知っている事実は、少くとも新羅から流求に、しばしば交易にくる人々があったことを示している。
『朝野僉載(せんさい)』は、唐の張[族/烏](武后朝〜玄宗朝前期)が、主として武后一代(六八四〜七〇四)の朝野の見聞を記したものであるが、一旦散佚し『太平広記』(宋・李[日方]等撰、太平興国三年・九七八)などに収録された逸文が輯録されている。そのなかに、『隋書』流求国伝にはない、流求国の産物と捕虜についての記事がある。ただし、「煬帝、朱寛をして留仇(即ち後の流乢*なり)国を征伐(うた)しむ。男女の口千余人を獲て還る」と陳稜が朱寛となったり、男女数千人が千余人となっている点は、『隋書』とは異なる。
しかし、流求国は鉄を産出しないので、捕虜の流求人が自分の首に枷せられた鉄の鉗樔*を解かれたとき、あたかも貴金をとり上げられるかのように頭を叩いて惜しんだなど、興味深い記事が残されている(『太平広記』巻四八二所引)。
このように、唐代には、唐と流求との間には交易・遭遇があり、隋の流求侵攻の記憶をいまだ両国とも忘却していなかったのである。唐代に編纂された『隋書』『北史』『通典』の流求についての記事も、両国の間に交渉があった時代に書かれている。『通典』の流求国は「[門/虫]川之東」にあり、倭国は「大較在会稽[門/虫]川之東」、という割注も、『隋書』の記事を新しい知識によって再検討し、その方位をさらに明確にするために、加えられているのである。
[宀/火]は、宀の下に火。JIS第4水準、ユニコード707E
一ガイ*(ひとしく)のガイ*は、JIS第3水準、ユニコード69E9
張[族/烏]の[族/烏]は、族の下に烏。JIS第4水準、ユニコード9DDF
乢*の山の代わりに虫。JIS第3水準、ユニコード866C
樔*は、木の代わりに鉄。JIS第4水準、ユニコード93C1
[門/虫]は、門の中に虫。JIS第3水準、ユニコード95A9 
おわりに
『隋書』の流求に関する記事の基本資料は、朱寛・何蛮・陳稜・張鎮州らの公式報告と流求人捕虜の尋問記録であろう。陳稜・張鎮州は、俘虜数万を得(食貨志)、男女数千人を虜にして帰還し(流求国伝・陳稜伝)、大業六(六一〇)年二月乙巳煬帝に俘万七千口を献じ、百官に頒賜された(煬帝紀上)。「俘万七千口」は、陳稜・張鎮州の煬帝あての公式文書の数字であろう。『三国志』(西晋・陳寿、三世紀末)には、賊軍を撃破した場合の公式文書では、(斬首・捕虜の数について)一を十と(十倍に)計算する習慣であったとある(巻一一・国淵伝)。隋代でも同様であったとしても、「千七百口」もの流求人捕虜が、百官に頒賜されている。『隋書』の帝紀・列伝が完成した貞観一〇(六三六)年には、捕虜の多くはまだ生存していたと思われる。しかも、陳稜・張鎮州の遠征軍は、一万余人であったというのであるから、その将兵をはじめ艦船の船師たちも、多数現存していたことも確実であろう。
かりに、「大業中南荒朝貢者十余国、其事迹多煙滅而無聞、今所存録、四国而巳」(『隋書』巻八二・列伝第四七・南蛮伝序文)とあるのと同様に、流求国についての公式記録が煙滅していたとしても、流求遠征軍の将兵・船師に再報告させたり、捕虜を再尋問して、記録を再現できたのである。
流求=沖縄説の論者の多くは、『隋書』流求国伝の記事には、誤伝や誇張がある、伝聞によるものがあり信用できない、あるいは台湾の風俗・動植物相が混入しているという。しかし、『隋書』流求国伝の記事は、そのように疑っておよび腰になったり棄て去るまえに、原則として事実であるという観点から、真剣に検討されるべき問題ではないだろうか。
隋に連れ去られた流求国の捕虜達のその後の運命は、どうなったのか?それに答える手がかりはある。
『[門/虫]書』(明・何喬遠編、崇禎四年・一六三一)の福州府福清県福盧山の条には、「三十里為化南化北二里、隋時掠琉球五千戸居此」(巻六・方域志)とある。そして、福清県の南西、福建省仙遊県の砂糖工場の裏にある石畳の小路の石に、お椀大の図象文字が刻まれている(その石は、近くの山の上から運んできたものであるという)。その図象文字は、明治時代まで与那国島で用いられていた「与那国文字(カイダー字)」といわれるものと一致するという。(69)捕虜やその子孫が、故郷を偲んで刻んだものであろうか。それとも、いつのころか交易にいった与那国島民が刻んだものであろうか。
ところで、沖縄の歴史は、古墳時代から平安時代までの期間は、あたかも歴史がストップしていたかのようにまったくの空白になっているという。(70)この期間に相当する沖縄考古学の時代区分は、貝塚時代後期のフェンサ下層式土器あるいは類須恵器の時代として、ひとまとめにくくられている。その原因は、考古学的な調査研究の遅れだけではなく、『隋書』の流求国が現在の沖縄であることに確信がなく、その記事が当時の沖縄の実態を正確に記述しているとは受けとられていないことにある。
遺跡からの出土物については、放射性炭素年代法による年代測定を実施し、『隋書』流求国伝が七世紀初頭の沖縄を記録している基本文献であるという認識のもとに、出土物を検討すれば、稲作農耕・鉄器文化・グスクの発生・開始時期などの問題も、ヨリ精緻に論じることができるようになり、歴史の空白も埋まっていくのではないだろうか。
沖縄には、縄文時代早期から九州系の土器文化が、つぎつぎと南下し押寄せてきている。(71)縄文晩期には、沖縄に佐賀県腰岳産の黒曜石がもたらされ(63)、北九州では貝製腕輪が使用されるようになる。(72)(73)そして、最近では、沖縄の貝塚時代後期初頭の遺跡からは、移入された弥生式土器の出土が相次ぎ、同時に鉄斧や砥石・箱式石棺墓といった弥生文化を特徴づける文物が確認されるなど、弥生文化の定着を証す資料は、確実に増えつづけているという。弥生時代の北九州には、沖縄産のゴホウラ製貝輪(75)(76)(77)が大量に送り込まれているが、鉄と交換したのではあるまいか。
ところが、沖縄には古墳文化は存在しないという。しかし、北九州の弥生文化の構成要素のなかでも甕棺葬の風習は、沖縄には渡ってきていないのである。古墳がないからといって、古墳時代以降、九州の文化が突然沖縄に入ってこなくなったとは、考えられない。
隋に来朝していたイ妥国の使者は、朱寛が取って還った流求国の布甲をみせられて、「此れ、夷邪久国人の用うる所なり」と、尾久島で使用していることを認めている。イ妥国(=倭国)と流求国は、地理的にも近く、風俗の面においても共通のものを持っているのである。それだけではなく、倭国と流求国とは、貝の道によって結ばれていたように、政治的にも、ずっと密接な関係を保っていたのではないだろうか。
琉球国最後の正史『球陽』(蔡温等纂、延享二年・一七四五)は、流求の国君のはじめは天孫氏であるという。古田武彦のいう倭国=九州王朝の祖先も「天国(78)」の出身、同じ海人族の天孫氏である。天孫氏の裔孫による流求国の治政は、「交譲相伝ふこと、凡そ二十五紀、乙丑に起て丙午に尽る。一万七千八百有二年を歴る」という。丙午は、権臣利勇が国君を殺した一一八六年(南宋・淳煕一三年)にあたる。天孫氏の治政が、乙丑に始まり丙午に終るという干支は、『中山世鑑』にはじめてあらわれる。しかし、その原記録は、結縄刻木に残されていたのではないか?
沖縄の結縄刻木(バラサン、スーチューマ・カイダー字)と、『隋書』イ妥国伝に「文字無し、唯木を刻み縄を結ぶのみ。仏法を敬す。百済に於て仏経を求得し、始めて文字あり」という、倭国の結縄刻木との関係は、別に論じることとしたい。
この論文を書くにあたっては、横山妙子氏の協力により文献を収集することができた。記して感謝します。 

(1)秋山謙蔵「流求即台湾説成立の過程」(『歴史地理』五八ー六、一九三一)。
(2)箭内亙『東洋読史地図』、一九一二(改訂増補版・一九三一)。
(3)藤田豊八『島夷誌略校注』、一九一五。
(4)藤田豊八「琉求人南洋通商の最古の記録」(『史学雑誌』二八ー八、一九一七)、後に『東西交渉史の研究』南海篇(一九七四)に収録。
(5)鈴村譲「琉球弁」(『台湾海峡』、一九一六)。
(6)市村讚*次郎「唐以前の福建及び台湾に就いて」(『東洋学報』八ー一、一九一八)、後に『支那史研究』(一九四三)に収録。市村讚*次郎の讚*は、言偏の代わり王編。JIS第三水準、ユニコード74DA
(7)和田清「琉球台湾の名称に就いて」(『東洋学報』一四ー四、一九二四)。
(8)和田清「再び隋書の流求国について」(『歴史地理』五七ー三、一九三一)。
(9)伊能嘉矩「隋書に見ゆる琉球の人称名及土地名と台湾の蕃言との近似」(『東京人類学会雑誌』二四六、一九〇六)。
(10)伊能嘉矩「台湾と琉球」(『東京人類学会雑誌』二六五、一九○八)。
(11)伊能嘉矩『台湾文化志』上、一九二八(復刻版・一九六五)。
(12)幣原坦「琉球の支那に通ぜし端緒」(『史学雑誌』六ー九、一八九五)。ただし、次の(13)と共に、流求=沖縄説である。
(13)幣原坦『南島沿革史論』、一八九九。
(14)幣原坦「台湾の瑯僑*族」(『民族』四1一、一九二八)。瑯僑*族の僑*は、人編の代わりに山編。JIS第三水準、ユニコード5DAO
(15)幣原坦「琉球台湾混同論争の批判」(『南方土俗』一ー三、一九三一)。
(16)曽我部静雄「所謂隋代流求に就いての異聞二つ」(『歴史と地理』二九ー一、一九三二)。
(17)曽我部静雄「再び隋代の流求について」(『歴史と地理」二九ー六、一九三二)。
(18)白島庫吉「『隋書』の流求国の言語に就いて」(『民族学研究』一ー四、一九三五)、後に『白島庫吉全集』九(一九七一)に収録。
(19)甲野勇「隋書『流求国伝』の古民族学考究(予報)』(『民族学研究』三ー四、一九三七)。
(20)加藤三吾『琉球の研究』、一九〇七(改訂版・一九七五)。
(21)東恩納寛惇『大日本地名辞書』続編・第二琉球、一九〇九(増補版・第八巻、一九七〇)、後に『東恩納寛惇全集』六(一九七九)に収録。
(22)東恩納寛惇『南島風土記』、一九五〇、後に『東恩納寛惇全集』七(一九八○)に収録。
(23)東恩納寛惇「隋書の流求は果して沖縄なりや」(『東恩納寛惇全集』一、一九七八)、初出・『沖縄タイムス』一九二六。
(24)東恩納寛惇「伊波君の修正説を疑ふー隋書の流求に就きー」(『東恩納寛惇全集』一、一九七八)、初出・『沖縄タイムス』一九二七。
(25)種村保三郎『台湾小史』、一九四五。
(26)宮良當壮「琉球民族とその言語」(『民族学研究』一八ー四、一九五四)後に『宮良當壮全集』一七(一九八二)収録。
(27)桑田六郎「上代の台湾」(『民族学研究』一八ー一・二、一九五四)。
(28)国分直一「会稽海外の国ー台湾と琉求をめぐって」(『古代文化』二三ー九・一○、一九七一)、後に『南島先史時代の研究』(一九七二)に収録。
(29)金関丈夫「『諸蕃志』の談馬顔国」(『南方文化誌』、一九七七)。初出・日本人類学会、日本民族学協会第七回連合大会、一九五三。
(30)李家正文「流求と称した台湾」(『東アジア史の謎』、一九八五)。
(31)中馬庚「台湾と琉球との混同に付て」(『史学雑誌』八一ー一一、一八九七)。
(32)隅本繁吉・中馬庚「台湾琉球との混同に付て(承前)」(『史学雑誌』八ー一二、一八九七)。
(33)秋山謙蔵「隋書流求国伝の再吟味」(『歴史地理』五四ー二、一九二九)。
(34)秋山謙蔵「流求即台湾説再批判」(『歴史地理』五九ー一、一九三二)、後に(1)・(33)と共に『日支交渉史話』(一九三五)に収録。
(35)秋山謙三「唐と琉球」(『ドルメン』二ー七、一九三三)。
(36)喜田貞吉「隋書の流求伝に就いて」(『歴史地理』五四ー三、一九二九)。
(37)喜田貞吉「隋書流求の民族的一考察」(『歴史地理』五九ー三、一九三二)。
(38)M・C・アグノエル「隋書の流求を台湾に比定せんとするーー試案に対する批判」(『歴史地理』五八ー五、一九三一)。
(39)藤田元春『日支交通の研究』中近世編、一九三八。
(40)梁嘉彬『琉球及東南諸海島与中国』、一九六五。
(41)梁嘉彬「宋諸蕃志流求国[田比]舎耶国考証」(『大陸雑誌』四四ー一、一九七二)。
(42)梁嘉彬「隋書流求国伝逐句考証」(『大陸雑誌』四五ー六、一九七二)。
(43)松本雅明「南島の世界」(『古代の日本』三、一九七〇)。
(44)松本雅明『沖縄の歴史と文化』、一九七一。
(45)松本雅明「南島における文化の交流」(『九州文化論集』I、一九七三)。
(46)松本雅明「伊波普猷氏と『隋書』流求伝」(『伊波普猷全集』二・月報、一九七四)、後に(43)〜(45)と共に『松本雅明著作集』二(一九八六)に収録。
(47)比嘉春潮『沖縄文化史』、一九六三、後に『比嘉春潮全集』一(一九七一)に収録。
(48)川越泰博「『隋書』流求国伝の問題によせて」(『中国典籍研究』、一九七八)。
(49)本位田菊士「古代環シナ海交通と南島ーー『隋書』の流求と陳稜の征討をめぐって」(『東アジアの古代文化』二九、一九八一)。
(50)大林太良・谷川健一・森浩一編『シンポジウム沖縄の古代文化』(一九八三)における森浩一の発言(九五〜九八頁)。
(51)古田武彦『法隆寺の中の九州王朝』古代は輝いていたIII〈朝日文庫〉、一九八八。
(52)村井章介「古琉球と列島地域社会」(『新琉球史』古琉球編、一九九一)。
(53)伊波普猷「『隋書』に現れたる琉球」(『沖縄教育』一五七・一五八、一九二六)。
(54)伊波普猷「『隋書』の流求に就いての疑問」(『東洋学報』一六ー二、一九二七)、後に(53)と共に『伊波普猷全集』二(一九七四)に収録。
(55)鈴木靖民「南島人の来朝をめぐる基礎的考察」(『東アジアと日本』歴史編、一九八七)。
(56)真栄平房昭「琉球の形成と東アジア」(『新版古代の日本』三、一九九一)。
(57)田中健夫「東アジアの文献に誌された『琉球』」(『南の王国琉球』、一九九二)。
(58)田中健夫・石井正敏『古代日中関係編年史料稿」(『遣唐使研究と史料』、一九八七)。
(59)高良倉吉「王国の成立」(『図説琉球王国』、一九九三)。
(60)古田武彦「日本書紀の史料批判」(『文芸研究』九五、一九八○)、後に『多元的古代の成立』上(一九八三)に収録。
(61)『日本書紀』巻二七・天智天皇、(1)三年夏五月戌申朔甲子条・(2)四年九月庚午朔壬辰条・(3)六年一一月丁巳朔乙丑条・(4)一〇年正月辛亥条・(5)一〇年一一月甲午朔癸卯条。
(62)野口鉄郎『中国と琉球』、一九七七。中国正史の全流求国伝の訳注書である。
(63)宮城栄昌・高宮広衛『沖縄歴史地図』考古編、一九八三。
(64)原田禹雄訳注『完訳中山伝信録』、一九八二。
(65)石島英「季節風・海流と航海」(『海洋文化論』環中国海の民俗と文化I、一九九三)。
(66)藤善真澄訳注『誌蕃志』関西大学東西学術研究所訳注シリーズ5、一九九一。
(67)馬淵東一は、「明らかに台湾について述べていると考えられる最古の文献は、南宋時代の樓鑰(一一三七〜一二一三)の『攻魏集』である。これには、澎湖島に関する記述が見られる」という(宮本延人・瀬川孝吉・馬淵東一『台湾の民族と文化』、一九八七)。『攻魏集』行状条(巻八八)に、汪大猷(南宋・孝宗の頃・一一六二〜一一八九)が泉州の長官となった乾道七(一一七一)年、[田比]舎邪という島夷が平湖(彭胡)を襲ったとある。『宋史』汪大猷伝(巻四〇〇・列伝第一五九)にも、[田比]舎邪が泉州の海浜の居民を掠めたり、境を犯すとある。
(68)石原道博編訳『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』中国正史日本伝(1)〈岩波文庫〉、一九八五。
(69)劉恵*孫「中国・琉球往来史の探究」(『琉球ーー中国交流史をさぐる」、一九八八)。劉恵*孫の恵*は、草冠に恵。JIS第三水準、ユニコード8559
(70)當眞嗣一「考古遺跡は語る」(『新琉球史』古琉球編、一九九一)。
(71)新東晃一「海を渡った縄文土器」(『図説発掘が語る日本史』六、一九八六)。
(72)渡辺誠「縄文時代における貝製腕輪」(『古代文化」二一ー一、一九六九)。
(73)前原市教育委員会編『伊都ーー古代の糸島』、一九九二。
(74)岸本義彦「沖縄出土の弥生土器瞥見〔I〕」(『南島考古』八、一九八三)。
(75)三島格『貝をめぐる考古学ーー南島考古学の一視点』、一九七七。
(76)木下尚子「弥生時代における南海産貝製腕輪の生成と展開」(森貞次郎博士古稀記念『古文化論集』上、一九八二)。
(77)柏原精一「貝∴南海の道が証明された」(『図説邪馬台国物産帳』、一九九三)。
(78)古田武彦『盗まれた神話ーー記・紀の秘密』〈角川文庫〉、一九七九。 
 
九州王朝説からみる 『日本書紀』成書過程と区分の検証

 

はじめに
天武一〇年三月一七日(丙戌)「天皇、大極殿に御して、川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦中阿曇連稲敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し定めしめたまふ。大嶋・子首、親ら筆を執りて以て録す。」とみえるのが『書紀』編纂の出発点といわれる。これら編集者のうち上毛野君三千は同年一〇月死亡、六九一年川嶋皇子・七〇五年忍壁皇子・七〇八年三野王・七一五年竹田王とあいついで死去、約半数が完成をみることなく死亡している。
また『続日本紀』和銅七年二月一〇日(戊戌)「従六位上紀朝臣清人と正八位下三宅藤麻呂に詔して、國史を撰修させた。」の記事があり、同養老四年五月二一日(癸酉)「一品舎人親王は勅命をうけて『日本紀』を撰修した。このたび完成し奏上した。『紀』三〇巻と系図一巻である。」との記事が完成である。これはあくまでも建前上の編纂者で(一部は完成後撰上迄に実務にたづさわったか)、実際に主として編述にあたったのは別人であろう。 
さまざまな区分論
従来の研究では『古事記』『万葉集』の仮名は呉音系、『日本書紀』は漢音系、推古期遺文は魏・晋以前の古音をふくむといわれている。『書紀』の完成にはさまざまな分担を受けもった人々がいたであろうが、その区分と成書過程を明らかにすることは重要である。いままでの研究では、「岩波古典大系『日本書紀』解説」(小島憲之)の分類や、『書紀』の歌謡や訓注に使用される語句の偏在による区分(鴻池集雄)、「之」の偏在や歌謡の仮名の偏在による区分(西宮一民)、さらに音韻による中国漢音と、倭習の強い文章との音韻による区分(森博達)があり、三〇巻の『書紀』は大きく二区分される〈表1〉。 
編集の亀裂と外国人の参加
森博達氏によれば、音韻で、北方中国原音で正確に書かれた巻「α群」と、漢音・呉音のいりまじったものと倭音にもとづく仮名を混在させている巻「β群」にわかれ、αは中国人、βは日本人によるものと分類されている。また明らかに二分される記事があり、一四巻の「雄略紀」にありながら、安康天皇の崩御の経緯がくわしく書かれている。一方一三巻の「安康紀」では、「三年秋八月甲申朔壬辰、天皇為二眉輪王一見殺」ときわめて簡単にのべられ、その直後に「辞具(コトツブサニ)在リ二大泊瀬天皇紀ニ一」と分注がある。編年順であれば安康崩御の詳細は「安康紀」に、「雄略紀」は必要事実のみ記すのが普通である。また「雄略紀」冒頭に「妻を称して妹(イモ)とするは、蓋(ケダ)し古(イニシエ)の俗か」と分注がある。
一三巻までは妹が妻の意味に用いられていても注釈はない。一四巻以降は日本の習俗に暗い外国人が編述にあたったのだろう。外国人とは、中国人の音博士と記事のみえる續守言と薩弘格である。守言は斉明七年「日本世記に云はく、一一月に福信が獲たる唐人續守言等筑紫に至る。」とみえる百済より送られてきた捕虜である。(1)持統五年九月、音博士として薩弘格とともに銀を賜わるとみえる。薩弘格は後に「大宝律令」の選定にもかかわって藤原不比等とともに禄を賜わっている。 
一三巻までの編述
日本人により一三巻までが編述されたが、「神代」と倭国史の改竄は倭国の歴史官僚によると思われる。持統五年正月一四日(丙戌)詔して曰く「直広肆(従五位下)筑紫ノ史益(フヒトマサル)、筑紫大宰府ノ典に拝されててより以来今に二九年。(注、白村江敗戦以来)清白き忠誠を以て、敢えて怠楕(タユ)まず是の故に、食封五〇戸、施*(フトギヌ)五匹・綿二〇屯・布五〇端・稲五千束賜ふ」とあり、倭国の歴史官僚であった史益は、白村江敗戦後に大和のために、倭国史の改竄にあたった報奨と思われる。「仁徳紀」から「安康紀」は倭国史盗用がすくなく、大和の記事がほとんどである。紀朝臣清人等大和側の日本人によるものと思われる。『續日本紀』和銅七年にみえる紀朝臣清人は従六位上であり、三宅藤麻呂に至っては正八位下で『書紀』編纂の高官たちにくらべて官位がかなり低い。おそらく実務官僚であろう。
施*(フトギヌ)は、方の代わりに糸。JIS第三水準、ユニコード7D41
森氏によれば、四巻「綏靖紀」〜「開化紀」は正確な漢文で書かれていて、なんらかの原資料をそのまま転載したもので、「綏靖紀」末尾に「是即多臣之始祖也」で結ばれている。他の「開化紀」までも同様スタイルである。当時多氏の族長であった太安萬侶によるものと思われる(2)(古事記序文も同様立派な漢文である)。 
多元史観による検証
以上のことをもとに、一歩進めて九州王朝説にたって検証すると(〈表2〉参照)。
1 倭国史の盗用
倭国史の盗用については、古田武彦氏の『失われた九州王朝』以来数々の論証があるが、盗用改竄は同時代だけでなく、時代をかえて巧妙におこなわれている。一例をあげれば、瓊瓊杵尊と木花開耶姫・磐長姫との出会にある短命説話が『紀』の「神功紀」一伝(御孫尊)仲哀の若死であり(もとの倭国史では天孫は筑紫上陸後先住者(仲哀紀では熊襲)の矢にあたり若くして死亡)、筑紫平定は妻の木花開耶姫(鹿葦津姫=香椎津姫)〈拙稿「播磨風土記と大帯考」『市民の古代13集』参照〉香椎の女王に託される。つぎに「仲哀紀」の熊鰐が出迎える周芳の沙麼(サバ)は「景行紀」の九州平定(前ッ君の九州平定ーー古田説)から日本武尊の東征(倭武天皇の関東平定『常陸国風土記』)につながる。「神代紀」から「神功紀」まで時代を前後して大改竄されている。
日本書紀の倭国史盗用と改変後の紀
もとの
倭国史1瓊瓊杵尊
の短命短命
説話2香椎女王
の筑紫平定
(大帯比賣)周防

沙麼3前ツ君
の九州平定
(大帯比子)常陸の国
風土記4倭王武
の関東平定
(倭武天皇)
改変後
の紀3仲哀の
若年の戦士4神功
の筑紫平定
(息長帯比賣)1景行の
九州平定
(オシロワケ)2日本武尊
の東征
(オウス)
(数字は時代順)
「神代紀」二巻は九州神話で、三巻の「神武紀」と巧みに接合されて大和王権の始祖として利用されている(新唐書日本伝の天皇系譜)、その他小盗用改竄は「α群」にもかずかずみられる(〈表2〉倭国史盗用欄)。 
2 百済三書の引用
三書のうち「百済記」の引用は、「神功紀」「應神紀」にあり、筑紫史益によると思われ貴国と書かれている。同じ「百済記」でも一四巻以降の大和側による引用では、貴国とは書かれていない。「百済新撰」「百済本記」引用にも貴国はあらわれない。『紀』撰上直前に大和の手に入った時点(後述)で引用されたと思われる。「百済本記」の「継体紀」「欽明紀」引用には日本と書かれている。「百済記」は貴国(基山ーー基肆城に権力中心があった)の時代、「百済本記」は日本と改号されたあとの時代と考えられる。日本については古田氏の『失われた九州王朝』に論証されているように、九州が改号後に大和が盗用したと思われる。つぎにふれるが三書の一四巻以降の引用には「未だ詳(ツマビラカ)ならず」の表現が多出する、大和は資料を充分理解できていない。 
3 「未だ詳(ツマビラカ)ならず」と「名を闕(モラ)せり」
一四巻「雄略紀」から二七巻「天智紀」の称制期間まで、つまり天智による日本国の権力掌握まで「未だ詳ならず」二六例、「名を闕せり」四〇例、計六六の多数にのぼる。中間の「敏達紀」を境に前半が「未詳」、後半は「名闕」と書き方が一変する。前半一四巻から二〇巻迄と、後半の二一巻から二七巻までを續守言と薩弘格が二分して担当したものか。
一三巻までと天智即位後はこの種不確定な表現はまったくない。一三巻までは筑紫史益による倭国史改竄が大部分であり、天智即位以後は大和の単一権力下の記事であるから、この種不確実な表現がないのは当然であるが、一四巻から天智即位までの百済資料や筑紫資料の人名・事跡が不消化で利用されたことは明らかである。
「未だ詳ならず」は百済三書と百済記事がほとんどである(百済記3・百済新撰1・百済本記11・百済記事8・其の他〈任那・新羅・筑紫記事〉6合計二九・・・〈このうち百済記3は「神功記」に「知らざる人なり」と表現されている。「β群」)「α群」の大和編纂は二六である。「名を闕せり」は臣・連が特に多い。(臣(オミ)18・連(ムラジ)14・造(ミヤツコ)4・君3・直(アタイ)3・首(オビト)1・法師1計四四・・・〈うち重複四〉・・・)。これら官名は出雲や倭国で早くから使用されていて、大和はのちに利用している。ここにあらわれる氏族は本貫を筑紫にもつものがほとんどで、筑紫や韓半島南部の倭地の人名である〈表3〉。 
4 編集完了後の挿入記事
(1),『紀』の漢籍利用は今までさまざまに論じられてきたが、「仁徳紀」「允恭紀」「継体紀」「舒明紀」の即位記事は編集完了後に挿入改変されたものである(漢書文帝紀と呉志孫休伝)。とくに「継体紀」は大きく手が加わっている。磐井戦争の芸文類聚利用はとくに知られている
(2),「斉明紀」の分注「伊吉博徳書」も後日(天武一二年以後に己の功績を申し立てた手記)の挿入である。 
5 「α群」のなかの「β群」
一四巻から担当した中国人がなぜ三〇巻まで受けもたなかったのだろうか、「推古紀」「舒明紀」「天武紀」が「β群」に属し日本人の担当になっている。
(1).「推古紀」「舒明紀」は倭国(当時はイ妥国)の多利思北弧と同時代であり、「仁徳紀」から「武烈紀」までは中国史書の倭五王と同時代である。『書紀』は漢籍を多用している(史記・漢書・後漢書・三国志・梁書・隋書・芸文類聚百巻・文撰一四巻・金光明最勝王経等)。宋書は直接利用はないが、梁書利用から考えても参考にしたと思われる。これらに出てくる多利思北弧や倭五王は、中国との国交の中でくわしく書かれていて、同時代の大和の権力者とはあまりにも符号しないため、「景行紀」や「神功紀」のように大幅な改竄がむつかしい。冠位一二階や一七条の憲法(法華義疏が九州の上宮王の収蔵本であればーー古田氏『古代は沈黙せず』・・・義疏に「万善は是浄土の因なりと明かす中について凡て十七事あり」と十七の数をあげている。(3)憲法も上宮王の作となる)など読む人が大和の天皇家の事と思ってくれればよいという編集で、後代の松下見林や、現代の学者先生たちのように無理なこじつけをやっていない。『紀』の編者の方がよほど賢明である。
(2).「天武紀』は壬申の乱記事がメインである。編集者のなかには忍壁皇子・三野王・中臣大嶋・平群子首等のように乱をみてきたり、参加した者が多い。正に近代史である。「天武紀」は日本人の乱参加者の筆になる。 
撰上迄の最終編集
七百二十年元正天皇養老四年撰上の一三年前から、『續日本紀』に九州王朝滅亡を思わせるつぎのような記事がある。□□内を変えて三回同文があらわれる。(□□は、インターネットは青色)
亡二命シ山澤ニ一挾蔵□□百日不ンバレ首セ復スル罪如クレ初ノ
□□内は(1),七〇七年慶雲四年七月軍器
(2),七〇八年和銅元年正月禁書
(3),七一七年養老元年一一月兵器
(1),は集団で山城(神護石)にたてこもって反乱。
(2),は大和に都合の悪い九州王朝史料(大宰府の政治・歴史資料や百済資料・律令等)。
(3),武器をもった残党。
(2),と(3),の間に七一四年和銅七年二月に、前記の紀清人と三宅藤麻呂に詔して国史を撰修させたとある。七〇八年以後六年で禁書の大部分が大和側の手に入ったための選任である(この時、一四巻以後の百済三書引用か)。最終段階の改竄は紀朝臣清人が中心であろう。先の筑紫史益と同様の報奨記事がある。清人は学士として優遇され、その後も文章にすぐれた者として何度も報奨を受けている。『續日本紀』の記事は、
和銅七年二月一〇日國史の撰修を命ぜられる。(従六位上)
霊亀元年正月一〇日従五位下に上る。
〃元年七月一〇日穀百斛を賜う。
元年七月二三日穀百斛を賜う。
◎養老五年正月二七日施*(フトギヌ)一五疋・絹糸一五狗・麻布三〇端・鍬二〇口を賜う(歴史の学にすぐれた者として)・・・撰上後の報奨
養老七年正月一〇日従五位上に上る。
天平四年九月一七日右京亮に任ぜられる。
天平一五年五月五日正五位下に上る。
天平一六年二月二日平城京留守官。
天平一六年一一月二一日従四位下に上る。
天平一八年五月二日武蔵守となる。
天平勝宝五年七月一一日散位にて死亡。
『書紀』完成後、官位も進むが天平一八年武蔵守で終り、散位にて死亡、『紀』撰上前、国政の中心に参加していた紀氏はのちに没落し、一〇世紀はじめの『竹取物語』(源順作といわれている)でカグヤ姫に振られ虚仮(コケ)にされる貴公子たちは『書紀』撰上時の高官達(紀氏を除く)がモデルで、倉持皇子(ミコ車持氏に養育された藤原不比等)・大伴大納言(大伴御行)・右大臣阿倍みむらじ(阿倍御主人)そして石上磨足(石上麻呂)等を椰楡(ヤユ)したもので(4)、ほんとうの作者は紀氏の子孫、紀貫之ではないかとの説がある。 
おわりに
『紀』撰上の黒幕といわれている藤原不比等は、大宝律令には関係したとの記事はあるが、『紀』撰上にはかかわったとの記事はない。不比等は史(フヒト)とも書かれ中臣氏と藤原氏に関し大幅な改変をさせた疑がある。政治の世界では、いまもむかしも表面にあらわれぬ者のなかに最もうたがわしい者がある。「欽明紀」に出てくる物部尾輿とともに、堀江に佛像を流した中臣鎌子連が九二年後の「皇極紀」に鎌足の前名(中臣連鎌子)としてあらわれる。本来天兒屋根命系氏族中臣氏は藤原氏とは関係ない。『紀』編纂者の一人中臣大嶋が後に藤原朝臣と改名されるなど、藤原氏に取り込まれてしまう。藤原氏はのちの繁栄にかかわらず出所不明である。いつの時代も権力は歴史を創作していく。 

(1)森博達『古代音韻と日本書紀の成立』
(2)森博達『日本の古代(14)ことばと文字』
(3)坂本太郎『聖徳太子』
(4)阪倉篤義『竹取物語』 
 
憶良と亡命の民 / 嘉摩郡三部作を読む

 

はじめに
瓜食めば子供思ほゆ栗食めばましてしぬばゆ何處より來りしものぞ
まなかひにもとな掛りて安いしなさぬ
反歌
銀も黄金も玉も何せむに勝れる宝子にしかめやも
この歌はご存知のように、『万葉集』巻五に「思二子等一歌一首并序」と題された山上憶良の歌だ。まっとうに子供への愛をうたって、多くの人々に愛されてきた歌だ。瓜食めば・・・栗食めば・・・、とたたみかけるようなリズムで、幼な子のしぐさ一つ一つを眼前に浮かびあがらせる。読む人をして自分が経験した、あるいは経験しつつある子育ての一こま一こまを思い起させずにはおかない。まさに愛の讃歌だ。そして反歌は、やや説教調ではあるが、子に勝る宝は何物もありはしない、とうたいきる。だがこの歌は、愛の讃歌それだけではない。その珠玉の宝である子供たちの運命が、累卵の危うきに瀕していることを暗示した歌だ、といったらお笑いになるだろうか。
さてこの歌は、この後につづく「哀二世間難レ住歌一首并序」の反歌左注に、「神亀五年(七二八)七月廿一日。於嘉摩郡撰定筑前国守山上憶良」とあることにより、この歌の前の歌「令レ反二惑情一歌一首并序」と合わせて三部作だとされている(『万葉集私注』ほか)。そうであるならば、左注にある撰定とは、多くのなかから撰び定めることであるから、憶良がある目的をもって、この三部作を嘉摩郡に於いて撰定したわけである。その憶良の目的を考えてみたい。 
「令反惑情歌并序」について
惑は人あり、父母を敬ふを知り、侍養を忘れ、妻子を顧みざる、脱履よりも軽くし、自ら異俗先生と稱す。意気青雲の上に揚ると雖も、身体は猶塵俗の中に在り、未だ修行得道を験さず。蓋これ山沢に亡命の民なり。ゆえに三綱を指示し、更に五教を開き、之に遺るにもちてし、其の惑を反さしむ。歌に曰ふ
八〇〇
父母を見れば尊し妻子見ればめぐしうつくし世の中はかくぞことわりもち鳥のかからはしもよ行くへ知らねばうけ履を脱ぎつる如く踏み脱ぎて行くちふ人は岩木より成り出し人か汝が名のらさね天へいかば汝がまにまに地ならば大君います此の照らす日月の下は天雲の向伏すきはみ谷ぐくのさ渡るきはみ聞こす食す国のまほらぞかにかくに欲しきままに然にはあらじか
反歌
八の一
ひさかたの天路は遠しなほなほに家に帰りて業をしまさに
憶良はこの序文で、父母、妻子を顧みず修行得道にはしる人々を、山沢に亡命する民だという。その亡命の民にむかって、歌をもって三綱五教を示し、惑情を反さんというのである。亡命の民とはどのような人々なのか。はたまた惑情とは何か。それを解くことなしに、この歌を理解することは難しかろう。
さて、この「山沢に亡命の民」とは今日までどのように理解されてきたのであろうか。諸注釈は、漢籍、あるいは『続日本紀』の用例から、それを戸籍を脱した人ーー浮浪の民、あるいは仏徒の輩と解釈してきた。そこで、『続日本紀』をみると、慶雲四年(七〇七)七月、元明天皇即位の宣明、大赦条に「亡命二山沢一挟二藏軍器一、百日不レ首、後罪如レ初」とある(和銅元年正月、養老元年十一月の詔にも同様な文がある)。また天平元年(七二九)四月の勅に「有下下学二習異端一、蓄二種幻術一。壓歴咒咀、害二傷百物上。首斬從流。如有下停一住山林一。詳道二仏法一。自作二教化一。伝習授レ業。封二印書荷一。合レ薬造レ毒。万方作レ恠。違二犯勅禁一物上。罪亦如レ此。」とある。
なるほど天平元年の勅は「山林に停住し詳りて仏法を道ひ」とあり、仏法修行者とする理解がえられるやにみえる。しかし、この勅が時間差はわずかではあるが神亀五年の後であること、またこの勅に「亡命」の文字がみえないこと、によって、この勅による理解よりも、慶雲四年の詔による解釈をとりたい。なお「亡命」とは、戸籍を脱けることと理解されているが、中国古典からえられる理解はすこし異なるのではなかろうか。周代末、春秋、戦国時代には複数の国が存在し、そこで王位継承、あるいは政争に敗れた人々が国内、国外に逃亡した。これを亡命というのではあるまいか。むしろ現代に使用されている亡命の意のほうが、原義に近いのではなかろうか。
それでは、慶雲四年の詔はどう理解するか。ここにみえる「亡命山沢」をそれぞれ別の事柄とみることも可能ではあるが、さきの「亡命」の理解からするならば、一連のこととして理解すべきではなかろうか。またここでいう「軍器」とは、たんに武器をさすのではなく、後の養老・軍防令にみえるごとく、鉦・鼓・旙*等をも含む概念であろう。その軍器を所持し、山沢に亡命する民なのであるから、そこからうかがえる姿は、もはや浮浪の民、仏徒のそれではあるまい。私盗、群盗の類をも超えた姿ではなかろうか。一国の軍隊を想像させるに十分であろう。
旙*は、方の代わりに立心編。
さらに『続日本紀』には、文武四年(七〇〇)六月条に「薩末比売、久売、波豆。衣評督衣君県、助督衣君弖自美、又、肝衝難波。肥人等に從ひ、兵を持して覓*国使刑部真木等を剽劫す。是に於て竺志惣領に勅して犯を決罰せしむ、」(古田武彦氏読み下しによる)とある。薩末比売以下の人々が、肥人等にしたがって覓*国使を剽劫ーーおびやかした、という。また、文武二年(六九八)四月条には、「務広弐文忌寸博士等八人を南島に遣し国を覓*めしむ。因て戎器を給ふ。」とあるから、覓*国使が武器を所持した集団であったことは明らかであり、薩末比売以下が武力をもっていたこともまた当然であった。まさに「挟二藏軍器一」なのであった(古田氏は、この事件以前に肥人等自体が覓*国使を派遣した勢力との武力衝突をしており、それを『続日本紀』はカットしているという。うなずける想定だ)。
覓*は、覓の異体字。JIS第3水準ユニコード8994
さて日本列島の歴史は、卑弥呼以来筑紫に都を置く倭国が、白村江の敗戦を契機に衰え、近畿に都する日本国によってその地位を奪われたのであった。しかし文武四年の段階では、日本国はいまだ九州全土を制圧してはいなかった。そればかりか、元明天皇の時代に至ってもなお倭国残存勢力が存在した。それが文武四年の証明であり、元明即位の宣明にみる「亡命山沢、挟藏軍器」の意味するところであろう。
以上のように、「亡命山沢」が理解されるならば、憶良の歌に使用されている亡命の民も、同じ理解のもとに解釈されてよいのではなかろうか。
さて憶良は、そのような亡命の民の惑を、歌をもって反さんというのである。ならばその惑とは、青雲の志であり、修行得道などと仏教的な衣を着けてはいてもそのロ心は、倭国復興、ということになりはしないだろうか。ともあれその歌をみることにしよう。
父母は尊く、妻や子はいとしく愛らしい。それは世の道理ではないか。その愛を脱ぎ捨てて行く人は石や木から生まれたのか、人の心をもっていないのか、と憶良は歌う。第一のテーマ、愛、の提示だ。ます愛をもって翻意を促している。
天へ行くのなら気のむくまま、しかしこの国土は大君が支配している。欲するままにしようとしてもそれは不可能なのだと歌う。第二のテーマ、不条理、の提示だ。この地に生きてゆく以上、大君の支配に服する以外に生きる道はないのだ、と呼びかける。
そして反歌はいう。あなた方の目指す天路は遠くなってしまった。もうたどりつくことは不可能なのだと。家に帰って生業に励み、家族への愛をまっとうすることがあなた方の生きる道であり、それが道理なのではないか、と歌う。
さてこの歌には、天、あるいは天路、ということばが使用されている。地上にたいする天上の意と理解されているのだが疑問が残る。ひさかたの天路、と反歌はうたう。「ひさかた」とは、天・雨・月など天上のものにかかる枕詞であるという。しかし語義、かかり方未詳とする。「ひさかた」とは、「ひさしい」と近縁のことばなのではなかろうか。「ひさし」という時問の経過をしめすことば、そのひさしの彼方、ひさしの極限が、「ひさかた」なのではないだろうか。そうであるから、天・雨・月等にかかる枕詞になったのではないのであろうか(あまりにも素人妄想がすぎたのではあるが)。もしそうであるならば、「ひさかたの天路は遠し」とは、日本国がこの国土を支配するようになって、時間的、空間的にも倭国(天国)への路は遠くなり、たどりつくことは不可能なのだと、憶良はいうのではなかろうか。
憶良は序文で、「修行得道」という仏教的な衣を着せて、亡命の民の姿を表現した。また、その歌では、天、天路という一見仮想のようなことばによって、惑情、亡命の民の目指すところをあらわした。しかし、亡命の民を『続日本紀』の「亡命山沢、挟藏軍器」によって理解するならば、亡命の民の惑情とは、倭国復興ということになろう、とはさきに述べた。憶良はそれにたいして、愛と不条理をもって翻意を促しているのではなかろうか。つぎの歌をみることにしよう。 
「思二子等一歌首并序」について
釈迦如來、金口正に説けり、等しく衆生を思ふこと、羅喉*羅の如し。又説けり、愛は子に過ぐるなしと。至極の大聖なほ子を愛する心有り、況んや世間の蒼生をや。誰か子を愛せざらむ。
八〇二
瓜食めば子供思ほゆ栗食めばましてしぬばゆ何處より來りしものぞまなかひにもとな掛りて安いしなさぬ
反歌
八〇三
白金も黄金も玉も何せむに勝れる宝子にしかめやも
喉*は、口偏の代わりに目。JIS第3水準ユニコード777A
この歌の序文には、前歌序文にあった、「其の惑を反さしむ」のようなうたう目的が文字になっていない。また、「歌に曰ふ」という語もない。そのかわりに、誰か子を愛せざらむ、と憶良の思いが溢れるように述べられているようである。
釈迦如來が衆生を思うことは、釈迦がその子を思うことと同じである。愛は子への愛に勝るものはない。釈迦ですら斯のごとくである。ましてわれら凡人は、と解くその調子は、激情的な感じすらする。子への愛こそがすべての愛の根源なのだという。それは、愛、の展開そのものなのではないか。その説くところは、歌にまっとうに歌われている。歌については、「はじめに」で述べた。が、この歌で注意すべきに終わりの句、「安いしなさぬ」であろう。かわいい子供の姿がまなかいにかかって安眠させないという。安眠できないのは、子供がいっしょに寝ていないからではないか。子供がかたわらにいないから、もとなかかって安眠できないのだ。親と子は別の場所にいる。離れているのだ。そう理解するならば、この歌が「令レ反二感情一歌」とつながっていることがわかるのではないか。また、序文に歌う目的を何も記されなかった理由も。「令レ反二感情一歌」では憶良の意がつくしえぬために、さらにこの歌をうたったのだ。平凡な家族への愛ではたりなかったのだ。愛のなかの愛、子供への愛を歌ってこそ、亡命の民に憶良の意が通じると考えたのではないか。
銀にも、黄金、玉にも勝る宝、その珠玉の宝を残して、あなた方は山沢に亡命しているのですよ、子供たちはどうなるのですか、と。悲しい問いかけの歌だ。
『筑後国風土記』は記す。
「(前略)古老の伝へて云ふ。雄大迩天皇の世に当り、筑紫の君磐井、豪張暴虐、皇風に偃ず。生平の時預め此の墓を造る。俄にして官軍動発し、襲はんと浴する間、勢の勝たざるを知り、独り自ら豊前の国、上膳の県に遁れて南山峻嶺の曲に終る。是に於いて、官軍追尋して蹤を失ひ、士怒り未だ泄まず、石人の手を折り石馬の頭を打ち堕しき。古老伝えて云ふ、上妻の県、多く篤疾有りき、と。蓋し茲に由か。」
勝者たる官軍は、石人石馬さえ打ち壊したのである。この風土記の知識は、当然憶良も亡命の民もともに知悉していたであろう。残された子供たちの運命は想像するにあまりあろう。そこを憶良は歌にして訴えたのではなかろうか。当然その動機は嘉摩郡に存在した。わたしにはそのように思われる。不気味な余韻を響かせる歌だ。 
「哀世間難住歌一首并序」について
集り易く俳ひ難きは、八大辛苦、遂げ難く盡し易きは、百年の賞楽。古人の歎く所、今亦之と及にす。ゆえに因りて一章の歌を作り、以て二毛の歎きを撥ふ。其の歌に曰ふ
八〇四
世の中の術なきものは年月は流るる如し取り続き追ひ來るものは百くさに責め寄り來る
少女等が少女さびすと唐玉を袂に巻かし(或はこの句白桍の袖ふりかはし紅の赤裳裾引きといへるあり)よち子らと手たづさはりて遊びけむ時の盛を留みかね過し遣りつれ蜷のわたか黒き髪に何時の間か霜の降りけむ紅の(一に云ふ丹の頬なす)面の上に何處ゆか
皺かき垂りし(一に云ふ常なりし笑まひ眉引咲く花の移ろいにけり世の中はかくのみならし)ますらをの男さびすと剣太刀腰に取りはきさつ弓を手握り持ちて赤駒にしづ鞍うち置きはひ乗りて遊び歩きし世の中や常にありける少女等がさなす板戸を押し開きいたどりよりてま玉手の玉手さしかへ寝し夜のいくだもあらば手つか杖腰に束ねてかく行けば
人に厭はえかく行けば人に憎まえおよしをば此くのみならしたまきはる命惜しけどせむ術も無し
反歌
八〇五
常磐なすかしくもがもと思へども世のことなれば止みかねつも
神亀五年七月廿一日。於嘉摩郡撰定。
筑前国守山上憶良
苦しみは集りやすく避けがたい。楽しみは遂げがたくつづかない。それはむかしも今も同じである。そうであるから、老いの嘆きを歌によって晴らそうという。しかし老いを歌によって晴らすことができるのか。ともあれ歌をみよう。
その歌は、「術(すべ)なきものは、年月は」とまず逆らうことのできない時の流れを歌う。そして「百くさに責め寄り来る」とさまざまな辛苦が老いとともにやってくることを歌ふ。人生の花の盛りである時、少女も、若者も、それは長くはなかった。必ず老いはやってくる。どこへいっても厭(いと)われ憎まれる。それが人生なのだという。「命惜しけどせむ術も無し」とまたさからうことのできない嘆きを述べみずから慰める。
その序文では、「二毛の難を撥ふ」と歌ったのであるが、結局それはできなかった。さきに述べたテーマ、不条理の展開であろう。人生とは逆らえぬ時の流れという大河にさからうことなのだと。人生そのものが不条理なのだと歌うのではなかろうか。人は生れ年月にそって老いていく。青雲の志を抱き、山沢に亡命するのも一時、人生の一こまにしかすぎない。そうであるからこそ、父母、妻子への愛を慈しみ生きていこうではないか、と憶良は訴えているのではあるまいか。さらに反歌はうたう。常磐なす巌のように、いついつまでもと思ってみても、世の中のこと、時の流れは止めておくことはできないのだ、と歌い納める。 
おわりに
憶良は、万葉歌人のなかでも漢籍素養の豊かさを喧伝されている。したがって歴史への造詣もまた豊かであったことは疑いえない。中国の歴史は王朝交替の歴史でもあった。その王朝転覆の歴史のなかで、そのときどきの遺臣たちは、みずからの運命の撰択を迫られてきた。節に殉ずる者。新王朝に出仕する者。いづれの撰択をした者も、血の滲む決断であったことはその歴史の断片からうかがうことができる。
そのような異朝の歴史を知る憶良は、みずからもまたそのような激動の時代を生き抜いた一人ではなかったか。憶良の生年は白村江の敗戦をさかのぼることわずかの年月であるという(中西進『山上憶良』による)。白村江から大宝へ。この間の日本列島の歴史もそのような時代ではなかったか。『日本書紀』持統五年正月条にみえる、直廣肆筑紫史益のような人物は、倭国から日本国へと二朝に仕えた史臣ではなかったかと推定されている。一方、さきに述べた『続日本紀』文武四年六月条にみてきた人々のように、倭国の命運にかけた者もいた。憶良もまた、そのような時代に生を受け、さまざまな人生を見聞するなかで筑前国守にまで至ったのである。そして、嘉摩郡において述べてきたような、三部作を撰定せしめる事件に遭遇したのではなかったろうか。
『続日本紀』における「亡命山沢、挟藏軍器」から憶良の歌の「山沢に亡命の民」を解釈し、嘉摩郡三部作を読んでみた。そこにみたものは、愛と不条理。という二つのテーマをもって、三楽章からなるシンフォニーを奏でる憶良の姿であった。三部作はそれぞれ、漢文序、長歌、反歌一首と同じ型式をもつ、憶良はこの地でさからうことのできない時の流れと、なおそのなかでさからうて生きる人々の姿と、断ち裂かれゆく愛、をみたのではなかろうか。そこにおのれの人生経験を投げ込んで、燃え上る魂の叫びがこの三部作となったのではなかろうか。このようなドラマを、それを歌うには新しい器が必要であった。それが漢文序、長歌、反歌一首を三群、という新しい形を生み出したのではあるまいか。 
 
『古事記』と遊ぶ / 古代音の歌

 

『古事記』との出会い
どうもこんにちは。中山でございます。
私はですね、古代史についてそんなに知っているわけでもないし、古代史ファンの方と比べると、それほどのファンでもないんです。ただ、たまたま古田武彦さんの著書に出会って、それがたいへん読み物としても物の考え方としてもおもしろかったということがありまして、たまたまそのころ山田宗睦さんですとか、他の古代史のファンの方で、古代史とは関係のない分野の学者さんと、古代史とは関係のない分野でお知り合いになったんですよね。で、そういう人を介して、古田さんの別の著書に出会うというようなことがあって、そのうちだんだん『古事記』に興味を持つようになって、それで『古事記』って何が書いてあるんだろうな、どんなふうに書いてあるんだろうなっていうのが、ごく単純な疑問として出てきたんですね。
ていうのは、私たちの年代は戦後教育ですから、『古事記』や『日本書紀』っていうのは名前しか知りませんで、内容がこう書いてある、ああ書いてあるっていうようなことは、ほとんどと言うか、まるっきり習っていなかったわけです。で、古田さんのご本なんかを読んでいるうちに、『古事記』のここにはこう書いてある、ああ書いてあるというのが出てくるから、へぇ、こんな面白いことが書いてあるのかと思ったのが切っ掛けで、それで『古事記』を読みはじめました。
ところが、この『新・古事記伝』(築地書館刊)にも書きましたけど、難しくて難しくて、古典の素養も何もないわけですから、最初は何が書いてあるのかチンプンカンプンなんですね。一応、原文とされているものは、もちろん漢字しか書いてありませんし、それから読み下し文と言いまして、本居宣長さん以来の、漢字ばかりのをこう読むんじゃないかというひとつの読み方の見本といいますか、基本的な読み方が今日まで続いているわけですけれども、そちらの方を読んでも、たしかに平仮名は混じっていますが、これがまたたいへんな古文なので、読めるけど何を言いたいのか分からない、私にとってはそういう本だったんです。
それで、こりゃまいったなと思ったんですけど、だいたい私は本を読んで何でもやるっていう主義なんですね。まず第一に、人間が書いたものは一所懸命読めばいつか分かるだろうという気持ちをもって、書き物には面と向うんです。それで、たとえば編み物であっても、料理であっても、全部私が覚えたのは本で覚えたんですね。本読めばできるっていうのが私の確信なので、『古事記』を読んで分からなかった時に、非常にしゃくにさわって、人間が書いたんだから、読んで分からないってのはどういうことなんだと思いまして、それで私必死になって注を読んだりして、一所懸命一所懸命読んでいるうちに、だんだんだんだん、なんとなく読んですぐ頭に、あっ、こういうこと、言いたいのかって分かるようになってきたんですね。そうしたらおもしろくなりまして、その読み下し文とそれから原文の漢字ばっかりのところを、「へぇーこんなふうに読んでいるのか」とか、それから、思っていたよりもずっと『古事記』の女の人たちが、元気で生き生きとしているとこなんか、同性として非常に面白く思いましたし、それから、ちょっとしたこと、たとえば三種の神器なんかは、母なんかから聞いていた『古事記』や『日本書紀』に書いてあるという話とはずいぶん違っていまして、『古事記』を読みますと、どうも三種の神器っていうものもよく分からなくて、ぼんやりとしか書いていない。『日本書紀』というものも照らし合わせて読む間に、一般にざっと『古事記』や『日本書紀』には、三種の神器について母たちの世代で言われていたことが、ずいぶんインチキなんだなということも、実際に読んでみて分かりました。 
『新・古事記伝』
『古事記』は、私たちの持っている一番古い記録なわけですから、もうちょっと一般の人が近づけてもいいんじゃないかなと思ったんですよね。私自身が近づくのに非常に時間がかかったものですから、いきなりこれにいくと、もうこれを見てイヤになっちゃう人が多いかもしれないから、この一段階前になるようなものがあったら良かったのになと思いました。もちろん『古事記』の現代語訳っていうものもいくつかあって、図書館で調べたりしたんですけれども、たいていあまりにも素人向けっていうか、素人が読みやすいように、たとえば『古事記』そのものでは非常に齟齬のあるようなところも、なんとなく読めてしまうように書いてあったり、それから、とても親切に、読んでもつまらない名前ばっかりの羅列のところは、ちょっとはずしてあったりとか、するんですね。
そうすると、私が感じた『古事記』本来のおもしろさっていうのがどうもない気がして、もっと原文に忠実に、原文が持っている荒々しさであるとか、これは後に今日のテーマで話すつもりですけれども、私にはもう『古事記』を読んでびっくりしたことの一つは、実につぎはぎの粗雑なというか、編集の様子がね、荒っぽい本なんだなあということが、非常にびっくりしたんですね。だからそのことが翻訳の仕方によっては、一連の、非常に整ったつるんとした書物に見えちゃうわけですよ。これは本当の『古事記』の有り様というのを伝えている翻訳ではないなという気がしまして、私はなるべくそこを伝えたいと。そこを伝えると今度は読む人がつまんなくなるかなという気もしたんですけれども、本当の『古事記』ってこんなものなんだっていうのを、できるだけ現代語に訳す中で伝えたいと思いまして、なるべく原文に忠実に、表記なんかはもちろん別ですけれども、原文の雰囲気を残すにはどうしたらいいだろうというので、今から振り返りますと、もっとこうすれば良かった、ああすれば良かったというのが出てくるんですが、一応の努力をしてやってみました。それでこの『新・古事記伝』ができたんですね。
これしかないんですよ、私。とにかく『古事記』はおもしろくて一所懸命読みましたし、古田さんのご本、それから森浩一さんのご本なども興味のあるところは読んでいますけど、そんなに詳しいわけじゃありませんし。本当に『古事記』っていう書物を通して、『古事記』に書かれている範囲内のこと、むしろ一切いろんな知識を廃しまして、もし私の前に『古事記』っていう本があったらどうだろうか、これだけがあったらどうだろうかっていう、そういう接し方で『古事記』に接してきたんです。だって一番最初に『古事記』を読んだ人たちは、たぶんそんなふうに読んだろうと思うんですね。中国からの本も何にもなくって、ただ『古事記』があったと。『古事記』の研究書も何もなかった。本居宣長のももちろんなかった。そういう時の『古事記』っていうものに肉薄してみたいなというような気持ちもあって、できるだけそういうふうにしたつもりです。
だけど、えらい仕事をしてしまった、たいへんなことやっちゃったなと思うのは、本当にこういうことに詳しい方がいらして、古代史ファンの方の中に、実に詳しくいろいろ勉強してらっしゃる方がいらっしゃるでしょ。それで、読後感なんかいただくと、いろいろ勉強してらっしゃる上に校正の専門家みたいな方もいらつしゃいまして、これは誤字ではないかっていうのをたくさん拾いだしてね、送ってくださるんですよ。私は、これ専門的な校正の方にしてもらったわけじゃなくって、私と、私よりももっと若くて『古事記』のコの字も知らないような編集の男の子と、それからうちの私と一緒に仕事をしている、彼女も私よりもうんと若い、『古事記』のコの字も分かんない人ですが、その彼女とね、一所懸命校正をしたもので、誤字・脱字とかその他勘違いとか、ないとは思ったんですけど、やっぱりあるんですね。そうやって指摘されるとゴロゴロあるんです。それで、もう嫌になっちゃっているんですけれど。でもまあおおむねというか、ざっと全体としては、私が言いたかったことや、論を立てたかったことを根底から覆すような間違いというのは、今のところ指摘されていないので、まぁまぁいいかというふうに思って、神代の巻はもう何刷りかになっているんですけど、その何刷りかになる度に教えていただくところは、ありがたくですね、誤字や脱字を直すというような作業をして、今日に至っています。 
文化としての『古事記』を楽しむ
それで、お手伝いぐらいだったらいいんですが、こんな会にきて話すのイヤなんですよね、私。誤字や脱字どころじゃなくって、何を言うとるんだあれは、という話になるんじゃないかと。だけどどうしても来いというふうに言われましたんで、一回行っとけば、しばらく逃れられるだろうという気持ちで、今日は参りました。本当にもっとちゃんと知識をもった方のお話を聴かれたら、皆さんにタシになりますのに、私なんぞが出てきて申し訳ないと思います。だけど『古事記』を、これは本当に命懸けでやっておられる方には、怒られてしまうかもしれませんけど、ひとつの私たちの財産として楽しむというところが非常に大事だと思うんですね。そういう『古事記』との付き合い方があっていい。で、これは文化を比較して思うんですが、たとえばイギリスなんかのね、イギリスに住んだことも何もありませんけれども、たとえば小説なんか読んでいましても、ごく一般の人がシェークスピアのセリフを引用して、ふつうの日常会話の中で引用してしゃべったりするんですよね。それから、たいていやっぱりとても古くて題名が有名な書物の内容なんかについては、その国の人たちは庶民に至るまで良く知っています。だけど日本の場合、『古事記』や『日本書紀』が、軍部に不幸な利用のされ方をしたということがありまして、戦後はすっかり嫌われてしまって、そういう書物があるらしいなということぐらいしか、学校では知ることができません。だけど、やっぱりこれは、考えてみれば、ひとつの王様のおうちの家伝ではありますけれども、紛れもなく私たちが持っている非常に古い、すばらしい文化なわけですから、庶民がそれを知るのはいいことだと思うんですね。しかも、それに近づいていく時に、いろんなこと知ってなきゃいけないとかって言われると、私たちは身がすくんで近づきにくいですから、どう解釈してもいいんだ、どう読んでもいいんだ、この『古事記』でうんと遊んでみようよっていう、そういう近づき方っていうほうを私は受け持ちたいと思っているんです。 
二つのテーマ
さて、それでは私の話に入りたいと思いますが、今日私がもくろんでおりますのはですね、一つは、『古事記』がかなりつぎはぎだということが、どこいらあたりに表れているか。これ所々、方々に表れているんですけれども、一つの例として、12代景行のことを書いた景行記という、これを読むとですね、とてもつぎはぎだということがよく分かると、素人が読んでも分かるんじゃないかなと私なんかは思います。それをどういうところで私がそんなふうに考えたか、それからつぎはぎであるがゆえに、『古事記』の文脈の中ではですね、景行という天皇の、まだ景行という天皇名はついてませんよね、大帯日子倣*斯呂和気という天皇が出てくるわけですけれども、その天皇さんの息子、小碓という名前の息子さんが、別の名前がヤマトタケル。その倭建という人の子供が、14代目の仲哀という天皇なんだという文脈に、『古事記』の中ではなっているんです。だけどこれはどうも私にはそうは思えないんです。で、どういうところからそうは思えないのかっていうのは、そのズタズタに切れているということと同じことなんですけれども、そこらあたりをちょっと細かく、『新・古事記伝』の中でも書いていますけれども、今日はできるかぎり説明してみたいなというのが一つです。
大帯日子倣*斯呂和気の倣*は、人偏の代わりに、三水編。
それからもうひとつは、この景行記はとってもたくさん歌が出てくる「記」なんですね。これは仁徳さんのところも歌がたくさん出てきますけれども、『古事記』は、これも一つのつぎはぎの証拠だと思うんですけれども、歌の出方が全然平均していませんで、とても歌が出てくるところがあるかと思うと、この辺で、まぁミュージカルなら歌がほしいなと思うようなところが全然歌がなかったりするんですね。だからどうも書き方が歌謡物語として書かれた部分と、それからそうじゃなくて、歌謡の入らない記録的に書かれた部分と、それから歌謡無しの物語として書かれた部分と、というふうにずいぶんバラバラなんです。で、一人の人というか、一つの集団が一つの編集方針を持って書いたものとはずいぶん違うという感じが、私はします。たとえば『日本書紀』ですと、ずいぶんたくさんの人たちが関わって作ったということになっていますけど、あれは神様の話のところの作り方はこうと、それから人間の時代に入ってからの作り方は非常に資料をたくさん人れて、「何月何日ああしたこうした、何月何日ああしたこうした」っていうふうに書いていくということで、編集方針が、ほぼ初めから終りまで、一貫しているんですよね。ところが『古事記』というのは、見ていきますと、どうもその編集が私にはバラバラにみえます。
で、歌の多いこの中でですね、私のとても好きな歌もこの景行記の中に入っているんですが、たまたま『古事記』などを翻訳したために、それ以後、他の古代史関係の学者さんともお知り合いになることができまして、森博達さんという音韻学者と友達になったんですね。たまたまこの方が私の子供の頃からのファンだったんですね。それで歳は同じくらいなんですけれども、同じくらいの歳の人まではわりと中山千夏っていう名前は威力があるそうですから、その先生も「中山千夏、うわぁつ」ていう感じで、仲良くなったんです。森浩一さんに紹介されたんですが、彼が大変な有能な音韻学者でして、『日本書紀』を分析して、『日本書紀』のどこらあたりが中国人が書いたんじゃないかというような、とても難しくて私なんかせっかく本をもらっても、3ぺージぐらい読むとなんか眠くなっちゃうんですけれど、だけど一所懸命読んでいくと、とってもドラマチックなすごく着眼の新しい分析をしていらっしゃって。で、森浩一さんの言ですと、あれだけ中国語に精通した音韻学者というのは日本でも珍しいだろう、ということです。
その方が中国語から、日本語の古代音というものを推定しているんですね。だから『古事記』や『日本書紀』中に歌なんかが出てくると、その歌はたとえばこういうふうに読まれていただろうという、古代の音というのを推定しているんです。で、それを教えてくれましてね。いくつかやれるようになったんですよ。それがまたおもしろいんでね。あちこちでちょっと、まあ二、三回公演したりなんかして、わりとおもしろがられたので、古代史を非常に好きでいらっしゃる皆さんにはおもしろいかなと思って、その音韻の話と合わせて、今日はできるところまでやってみようと、それを後の方にやってみようかなと思っています。 
『古事記』の文体
それでは、最初の方にいきたいと思いますが、もしかしますと『古事記』なんかは、すでに熟知しているという方がおいでになるのではないかと思うんですが、でももう一度ここの部分だけおさらいする感じで、私のみちすじに一緒についてきていただければと思います。で、資料の「資料1、12代景行記の構成と倭建の登場態様」ですけれども、これは景行記というものがどういう構成になっていて、何がどういう順番でどの程度の量で書いてあるかということを、ざつとまとめてみたものです。
それをまず最初にざっとたどって、頭に入れていただきたいと思います。で、この変なカッコ〔〕の中は、話に必要な部分を抜き出したもので、私が読み下したものです。だから必ずしも岩波の読み下しと一緒ではありません。
皆さんももうご承知だと思いますけれど、『古事記』の文章というのはすべて漢字である。しかしながら、非常に漢文として整った句もあるかと思えば、とても中国人が読んだのでは分からないというような文法になっている漢文風なところもある。それから、あるいは一音一語あてて漢字を仮名として使って、あたかも平仮名を使うようにして書いた部分もある。歌なんかは全部その一音一語で書かれています。それからときどき、そうですね、印象的な例をあげますと、最初の方の国生みのところで有名なクラゲナスタダヨヘルという文句がありますね。クラゲのようにプカプカとただよっていたという形容があります。これなんかは「久羅下那州多陀用幣流」と一音一字で書いてあるんですね。それから、あとは天降(くだ)りのシーンなんかでもですね、非常に印象的な何語かはそういうふうに書いてある。ところどころそうやって、漢字を一音一語に使って平仮名を使うみたいにして書いてあります。
だからここがまた『古事記』がね、素人にとっつきやすいところだと私は思うんですけれども、つまり完全な漢文だったら専門家じゃないと、漢文に詳しい専門家と私の問には非常に大きな開きが出てしまうわけですね。けれども、『古事記』そのものが完全な漢文じゃありませんから、こちらもあまり完全に漢文が分かっていなくてもですね、だいたい読めてしまうと。だいたい読んでもそうはずれにはならないだろうと。で、それはもちろん、古語を研究して書かれた本居宣長さん以来の読み方は、おそらく一番日本の分かっているかぎりの古い言葉というものを活かしてある読み下しだとは思うんです。だけれども、『古事記』そのものは、もっと古いわけですから。だから必ずしもその本居さんが読んだように読んでいたかどうかというのは、疑問をはさむ余地がね、あるわけですね。完全な漢文じゃないだけに。
で、それが私の本にも書きました『古事記』の中の月経という字をですね、この景行記に出てくるんですが、月経という字をふつうはツキノサハリというふうに本居宣長さん以来読むんですけれど、これは訓読みですよね。意味をとって読んでるわけですよね。だけど月経という字がツキノサハリを漢字に直したとは私には思えない。ツキノサハリって書きたいんだったら、たぶん『古事記』を書いた人、ここの部分を記した人は違う漢字を使ったろう。だから月を経るというふうに書いたということは、ツキノサハリではない言い方が、本居宣長さんが知っている古代よりさらに古い『古事記』の古代にはあったに違いない。そういうことで偉い先生方が読んでいる読み方にクレームをつけたり、できるわけです。権威は私の方には全然ありませんけれども、でもそういう読み方だってしたかもしれないよということで言えば、まったく偉い学者の先生が読むのと同じだけの重みを、私たちが読むのも持つわけですね。そこが『古事記』はすごくおもしろいなと私なんかは思うわけです。で、読み下しもですね、勇気を持って、私自身が一番読んで分かりやすいなと思う読み下しをするようにしています。それがカッコの中に書いてあります。 
資料1 / 12代景行記の構成と倭建の登場態様
〔〕は中山の一読み下し。()は中山注。行数は岩波古典文学大系『古事記祝詞』の読み下しによる。(以下、同様)
(1)冒頭后子記事18行
〔大帯日子オシロワケ天皇、纏向之日代宮に坐して、天下を治む。是の天皇、吉備臣等の祖、若建吉備津日子の女、名は針間之イナビノ大郎女を娶り、生みし御子は、櫛角別王。次に大碓命。次に小碓命、亦の名は倭男具那命。次に・・・。〕
〔又、八尺入日子命の女、八坂之入日売命を娶り、生みし御子は、若帯日子命。次に五百木之入日子命。次・・・〕
〔又、倭建命の曾孫、名はスメイロ大中日子王の女、※訶具漏比賣を娶り、生みし御子は、大枝王。凡そ此の大帯日子天皇の御子等、録す所は廿一王、記し入れざるは五十九王、併せて八十王の中、若帯日子命と倭建命と、亦五百木之入日子命と、此の三王は、太子の名を負へり。・・・故、若帯日子命は、天下を治む。小碓命は、東西の荒神、及び、伏さざる人等を平らぐ。次に櫛角別王は茨田下連等の祖。次に・・・〕
(2)大碓の事跡9行
(天皇が召した女、美濃国の兄ヒメ弟ヒメを大碓が横取りする)〔故に其の大碓命、兄比賣を娶り生みし子は、・・・。此の御世に、田部を定め、亦、東の淡の水門を定む。又、膳の大伴部を定む。又、倭屯家を定む、又、坂手池を作りて、即ち其の堤に竹を植える。〕
(3)小碓の大碓殺し7行
〔天皇、小碓命に詔るに「何に汝が兄は、朝夕の大御食に参り出来ざるや」と。・・・爾に天皇、小碓命に問い賜ふに・・・〕
(4)小碓の熊曽退治24行
〔・・・爾に小碓命、其の姨、倭比賣命の御衣御裳を給はり・・・。爾に其の熊曽建の言ひて曰く「・・・汝が命は誰ぞ」と。爾に詔るに「・・・大帯日子オシロワケ天皇の御子、名は倭ヲグナ王なり。・・・」と。爾に其の熊曽建の建じて曰はく、「・・・然るに大倭国に、吾が二人に益して、建き男の坐けり。是を以ちて、御名を献らむ。今より後は、倭建御子と称すべし」と・・・。故に、其の時より御名を倭建命と称す。・・・〕
(5)倭建の出雲建退治9行(歌謡1行)
即ち出雲国に入り坐して、・・・。爾に倭建命・・・。倭建命の刀を・・・。是に倭建命・・・。即ち倭建命、・・・御歌に曰く・・・.〕
(6)倭建の事跡103行「倭建命」の「東方十二道」の征服と死。14歌を含む。
1).出発の経緯11行
2).尾張から東国へ3行
3).相武国造を征伐7行
4).弟橘ヒメの人柱物語(走水=浦賀水道)9行(歌謡1行)
5).足柄の神退治とアズマの名の由来6行
6).酒折宮の老人に東国造をさずける6行(歌謡2行)
7).尾張のミヤズ比賣との交流13行(歌謡6行)
8).イブキ山の神の逆襲7行
9).発病と死23行(歌謡7行)
10).葬儀と埋葬18行(歌謡4行)
(7)倭建の后子記事15行
〔此の倭建命、イクメ天皇の女、フタヂノイリビメ命を娶り、生みし御子は、帯中津日子命。又、其の海に入りし弟橘比賣命を娶り、生みし子は、若建王。又・・・。又、一妻の子は、息長田別王。凡そ是の倭建命の御子等は、併せて六柱。故、帯中津日子命は、天下を治む。次・・・。〕 
『古事記』の構成
それから「冒頭后子記事」とか、「小碓の事跡」とか、見出しをつけて構成を分けたんですが、その下に行、何行か書いてあります。これは『古事記祝詞』という私がテキストにした岩波の本の右ページに原文の漢字ばっかりのが書いてあって、左ぺージにその読み下し文というのが書いてあります。で、私の資料に書いてある行といいますのは、読み下し文を勘定して、何行が、たとえば「后子記事」にあてられているか、「小碓の事跡」という記事は何行分あるかということを書いてあるわけです。
で、さっと見てですね、この景行記の特徴というのが、まず(4)の途中までは、倭建というのは出てきません。というか倭建という名前を持った人物というのは出てこないんです。(4)自体がなぜ小碓が倭建と呼ばれるようになったか、という物語なんですね。ですから、(4)の後半からはじめてその人物は倭建と呼ばれるようになるわけです。で、倭建の物語が始まるわけです。それが(4)以降なんですけれども、
圧倒的に(5)以降が量が多いんですね。そして、景行天皇の事跡はほとんどというか、まるっきりないんですよ。これは『日本書紀』とも大いに違っている点です。見ていただけば分かるように、最初の(1)は、私は「后子記事」って言いならわしてるんですが、『古事記』の書き方、一つの形式として、ある天皇のことを書く時に、まず一番最初に「后子記事」を置きます。神武はいくぶんか神代の物語から繋がった形になっていますから、神武天皇のところは別ですけれども、二代目以降はですね、まずその天皇がどこで、つまりどこに居を据えて政治をしたかということ。それからどういう王妃さまをもらって、どういう子供を生んだかということ。それから時にはそこに続けて、この時代にした土木工事とか、それから行政区間の区割りを、部とかそういうものをどういうふうに作ったか、というようなことがちょっと書いてあります。それから物語がドヤドヤドヤとありまして、それで一番最後に、この天皇が死んだ、死んだ時はいくつだった、お墓はどこにある、これが典型的な『古事記』の代々の王様のことを書く書き方なんです。で、一応この景行記もその形をとっています。けれどもそれが、最初の出だしだけなんですね、ほとんど。 
冒頭后子記事
出だしは、18行の「后子記事」というのがあります.その一部が(1)にあります。〔大帯日子オシロワケ天皇、纏向之日代宮に坐して、天下を治む。是の天皇、吉備臣等の祖、若建吉備津日子の女、名は針間之イナビノ大郎女を娶り、生みし御子は櫛角別王。次に大碓命。次に小碓命、亦の名は倭男具那命〕。傍線を引いてあるのは、ここは、ちょっと後で重要なんだよ、覚えておいて、という意味です。(インターネットでは赤色表示)で、〔次に〕という調子で、いろいろこういう人をもらって、こういう人を生んだというのがあります。
それから、だいたいその、これも『古事記』の中の多くの書き方なんですが、(1)の三つ目〔又、倭建命の曾孫、名はスメイロ大中日子王の女、訶具漏比賣を娶り、生みし御子は〕というのがありまして、その後に〔凡そ此の大帯日子天皇の御子等、録す所は廿一王、記し入れざるは五十九王、併せて八十王の中、若帯日子命と倭建命と、亦五百木之入日子命と、此の三王は、太子の名を負へり〕。こういう調子で、この子供の中からどれが次の天皇になったかということを書きます。それからその後には、その天皇の子供のうち、主に誰の祖先になったということですが、誰だれはどうである、誰だれはこうであるという、これ典型的な書き方でよね。
その中で、〔若帯日子命は、天下を治む〕。それから〔小碓命は東西の荒神、及び、伏さざる人等を平らぐ。次に櫛角別王は〕と書いて、その下のは本文の注として小さく書いてあるんですよね。ここの書き方は私もよく分からないんですが、本文を見ますと、〔次に櫛角別王は〕の“は”っていうのは「者」という字を書くことが多いんですが、「者」と書いてその下になぜか突然ちっちゃい注になって、「誰だれの祖」ってなことが書いてあります。これはもしかすると、いつの時代かは知らないけれども、本当は違うことが書いてあったんだけれども、その注みたいなものと、いつかの時代に入れ替えたのかなというふうに私は見ています。ともかく、まずこういう「后子記事」があります。これは一応は景行天皇に関する記事だと言えるでしょう。 
大碓の事跡
続く(2)。これは「大碓の事跡」、先程読みましたように、大帯日子オシロワケ天皇が伊那毘能大郎女という人を娶って、そうして櫛角別王と大碓命と小碓命を生んだ。で、その内の大碓命の事跡がこの後に9行書かれています。ざっとした話をしますと、天皇が美濃国の兄比賣・弟比賣という人を召すわけですね。自分の宮に入れてお嫁さんの一人にしよう、というので召すわけです。これを大碓命が見まして、非常に気に入って横取りをしてしまう。それで、お父さんのオシロワケ天皇としては不愉快だった、というような話がここにあります。
その話があった後で、これもとても重要なことだと思うんですが、〔故に其の大碓命、兄比賣を娶り、生みし子は〕というので、景行天皇の「后子記事」を書いた同じ書き方で、大碓命の「后子記事」がここに続いて出てきています。こんなふうに、天皇になっていない人について、「后子記事」があるというのは、これはもうたいへん『古事記』の中で異例なことです。それから、なお、さらに続けてですね、〔此の御世に田部を定め、亦、東の淡の水門を定む。又、膳の大伴部を定む。又、倭の屯家を定む。又、坂手池を作りて、即ち其の堤に竹を植える〕。これもさっきお話したように、普通は天皇の事跡記事としてこういうことが書かれます。これは『風土記』なんかでも一緒ですけど、「その御世に」っていう書き方は天皇の御世ってことですから、この天皇さんの時にこういうことをしましたよということを書く。それは他の天皇記(『古事記』の中の他の天皇の話のところ)でもあるんですね。けれども、大碓さんのところにこれをくっつけて、「この御世に」って書いてある。『古事記』を通読して非常にこれは希有なことです。ふつう学問的にはですね、本当は天皇の事跡のところに書くべきことが先に大碓についてのエピソードを書いたために、こういう書き方になったのだろうというふうにとらえるのかもしれませんが、私はそうは思っていないんです。で、どう思っているのかは後で話しますが、ここはとても大事なところです。これもあまりというか、ほとんど景行天皇の話ではないんですね。大碓という景行天皇の皇子についての話です。ここでも景行天皇の事跡って全然ないんです。 
小碓の大碓殺し
その次、(3)。天皇が出てきますが、これもやはり天皇そのものというよりは、大碓の弟の小碓の話なんです。これが7行あります。ざっと話をしますと、どうも先にあった(2)の事件と連絡があるようなんですけれども、天皇が弟息子の小碓に「大碓がこの頃朝夕、顔見せに出てこない。どうしたんだ。おまえが兄さんに出てくるように言ってやれ」というふうに言います。そうすると小碓が「わかりました」と言うんですが、何日たってもお兄さんが出てこない。そこでお父さんがまた、「どうしたんだ、出てくるように言ったのか」って言うと、小碓は、「言いました」と。「どんなふうに言ったんだ」と聞いたら、「便所から出てくるのを待ち受けて、こもに包んで殺して捨てた」と言うんですね。なんてまぁ乱暴な男なんですね、この子は。それでお父さん、びっくり仰天しまして。はっきりとは書かれていないけれども、お兄さんが天皇に盾をついたというようなことを、先取りしてですね、弟がお兄さんを殺すことで懲らしめたんだ、という話の筋立てになっているわけです。
とにかくまぁ、こうやって兄を殺してしまったんで、天皇はびっくりしたというような話がこの(3)なんです。それが7行あります。これもやはり天皇が出てきはしますけれども、天皇自身の話というよりは息子の小碓の話です。それからここまではすべて小碓という名前で詔られています。全然、倭建という名前は出てきません。また、これ以後、景行さんというのは全然出てこないんですね、もう、だから景行天皇の記にはなっていて、大帯日子オシロワケ天皇は、というふうに始まってはいますけれども、内容を読んでみると、景行天皇というのは『古事記』を読んだかぎり、本当に夢みたいな人物なんですね。ほとんど居たかいないか分からない。お父さんとしての役割しか果たしていない、そういう感じです。 
小碓の熊曽退治
問題は残しておいて、先にどういうことが書かれているかを続けます。で、その「小碓の大碓殺し」に続いてですね、(4)に「小碓の熊曽退治」というのが24行あります。今までの中で一番長いですね。これはざつとどういう話かといいますと、まあご存知でしょうけれども、お父さんのオシロワケ天皇があんまり息子の小碓が乱暴なので恐れまして、ちょっと遠くへやろうというので、熊曽退治に行ってこいと、こう言うわけですね。それで息子は、おばさんのところへ行きまして、おばさんから着物を借りまして、女装をして熊曽のところへ行って、その宴会に入り込んで、熊曽が油断したところをやっつけるわけですね。これも小碓の特徴として、非常に残虐なやっつけ方をしています。
これはもう本当に最近のホラー映画でもないような凄い場面だと思うんですけれども、お尻から刀をズバッと突き入れたんです。そしたらその熊曽が、「その刀を動かすな」と、「私は今あなたに言うことがあるから、動かして殺すな」と言うんですね。そこで小碓はその刀を動かさないで、突き刺したまんま、「何だ」と言いますと、熊曽が「私は日本でも一番強いと思っていたら、もっと強い人がいたんでびっくりしているんだ。あんたはいったい誰なんだ」というふうなことを言います。そうすると、「私は大帯日子オシロワケ天皇の息子小碓なんだ」と。私の訳で言いますとね、セリフが啖呵ですね、もうこれは。本当に勢いのいいタンカ。「あたしは、纏向の日代宮にいなさって大八島国を治めていなさる、大タラシ日子オシロ和気天皇の御子、名は倭ヲグナ王じゃ。てめえら熊曽タケル二人は、服従せず無礼だと聞きなさって、てめえを取り殺せとお告げなされて、あたしを遣わされたんじゃ」。こういうふうに小碓は言います。ここでは倭男具那という、ヤマトヲグナというふうに名乗っているんですね。そうするとそれを聞いて熊曽建が、「いやぁ自分よりこんな強い人がいるとは恐れ人った。だからあなたはこれから倭建というふうに名乗るがよろしい」と名前を差し上げるわけです。
これは確か古田さんの著書で読んだんですけれども、名前をあげるというのは、偉い人が下の人にあげる行為であると。だから、ここでは熊曽が下のように大和朝廷の立場に立って、熊曽を非常に下のように書いてあるけれども、実は熊曽建というのは、倭国の中で非常に力を持っていた偉い王様だったんだ。だからこそ、倭建という名前をもっと下のチンピラにあげたんだ。で、チンピラの方は自分より下の者から名前をもらったって喜ぶわけはないんで、上の人から名前をいただいたんで、うれしくて、それから倭建という名前を名乗るようになったんだというようなこと、たしか古田さんの文章で読んだ覚えがあります。私もなるほどとその時思いましたし、それからいろいろ考古学やらなんやらの話で、九州の方の遺跡の分布とか見ますと、熊曽といわれている地帯は、『記・紀』に書かれているような未開の地ではなくて、むしろ下手をすると大和なんかよりは先に、非常に独特な優れた文化を持ったところだというふうに、考古学の方でも聞いていますので、たぶんその古田さんがおっしゃっているようなことが、この話の本当だったんだろうな。それを近畿の方を中心にして、纏向の天皇の方が熊曽よりも偉かったんだという意識で、ちょつと書き直したのが、この話なのかなというふうに思います。 
ヤマトタケル登場の謎
まあその話があります。で、初めてここに〔故に、其の時より御名を倭建命と称す〕と「称す」というのが出てくるわけなんです。私、『古事記』を読んで、まぁいろいろ驚いたり、へぇーっと思ったりしたことがあるんですが、一番なんだか肩透かしというか、「何なんだ何なんだ」と思ったのは、この倭建の登場の仕方なんですよね。ていうのは、私でも知っているぐらい倭建というのは有名でしたから、いつ出てくるのかなぁ、天皇になった人じゃないそうだから、天皇ではないわけだけれども、いつどんなふうにして出てくるのかなぁということで、非常に楽しみにして読んでいたんですよ。
で、まだ出てこないな、まだ出てこないな、というふろにして読んでおりましたら、これは資料の「3、フタヂノイリ毘賣(後方参照)というのがありますね。その(1)。これは11代垂仁記の冒頭記事からの読み下しなんですけれども、そこにですね、この天皇さんが、山代大国の淵という人の娘、苅羽田刀辮という人を娶って、布多遅能伊理毘賣という子を生んだという記事があります。で、この11代の天皇の子供たちが誰だれの祖先であるとかって書いてある中に、〔次にフタヂノイリ比賣は〕と書いて、それからちっちゃく〔倭建の后と為る〕って書いてあったんですね本文じゃなくて小さな注記です。これを読んだ時に、「おっ、やっと出てきた、倭建というのが出てきた」と。だけど、ここまで倭建っていうのは全然ないわけですから、そいじゃ、ここで生まれた女の人が后となる倭建というのはどこから出てくるのだろうと思いながら、どんどんどんどん読んでいくわけですね。で、11代記には全然出てこない。そして12代景行記に入りますと、さっき最初に説明した「冒頭后子記事」っていうところにですね、いきなり「又、倭建命の曾孫」うんぬんっていうのが出てくるんです。ここで私、大いに面食らったんですね。なぜかと言うと、全然、倭建っていう人が生まれてないんですよ。天皇の子供として。生まれたって書いてないんですね。にもかかわらず、その子供たちの説明のところに入ったら、いきなり何の説明もなしにですね、倭建命の曾孫とかですね、それからあろうことか、この倭建命というのが太子になったと書いてあるわけですよ。ところが、それまでの私の知識、『古事記』を普通に、頭から順繰りに読んできた知識ではですね、倭建が何者だか全然わからない。こういう出方をしてくる人物っていうのは一人もいません。『古事記』の中では。他の人たちはみんな明らかに出てくる前に素性が知れています。他の『古事記』のところの書き方でいえば、たとえば冒頭の「后子記事」のところで、「次に小碓命、小の名は倭男具那命」これに続けて、「亦の名は倭建命」とあるはずです。あるのが『古事記』の普通の書き方なんですね。そうすると、「あっ、あの小碓命というのが、あの倭男具那であり、倭建なんだな」ということが最初に分かりますから、その次に倭建命の曾孫がどうしたとかですね、それから倭建は太子になったと書いてあっても、あっ、これはあの小碓という人のことなんだな、景行の子供のことなんだなということが分かります。けれどもそれが全然書いていないから、いきなり出てくる倭建というのは何なんだろうとしか分からない。
で、何なんだろうな、何なんだろうなと思っているうちに、やっと小碓の熊曽退治というところまで読んだ時に初めて、熊曽がこの名前をあげたというのを読んで、「あっ、そうなのか、なあんだぁ、倭建っていうのは小碓のことだったのか」と、やっとここまできて初めて分かるわけです。これはとっても不思議な書き方だと私は思います。
ともかくこういう熊曽退治の話がありまして、それから続いて今度は、それとそっくりの(5)「倭建の出雲建退治」というのが9行あります。これには歌謡が1行含まれています。これは出雲建という人を小碓が騙し討ちをしたと。で、だまし討ちをする時に、こういう歌をうたったというだけの話です。なにか政治的な理由があったのかもしれませんが、(4)(5)は一連の記事のように良く似ていまして、熊曽建を退治する、それから出雲建を退治しました、ということで、小碓イコール倭建の武勇伝はここでもう完結したように見えます。 
倭建の事跡
ところがですね、またその後に(6)、今度は大々的に「倭建の事跡」というのが始まります。で、始まり方は(4)の熊曽建退治の始まり方と一緒でして、またもやお父さんの天皇さんが、今度は東方十二道を成敗してこい、というふうに命令をするわけです。けれどもこれが、同じ倭建の事跡でも(4)(5)とたいへん違うと思いますのは、(4)(5)の方は話が非常に簡単なんですね。ところが(6)は同じ形をとっていながら話が非常に緻密です。で、おばさんに何かを、道具をもらいにいくっていうか、おばさんの助けを得るところもですね、伊勢に行っておばさんに会ったと、そして草薙の剣をもらったと、非常に具体的に細かく書かれています。ところが、熊曽建退治の時には、おばさんに衣裳を借りたと、それから剣を持って出掛けたとしか書いてありません。だからおばさんがどこにいたものやら、なんでこのおばさんのところへ行ったものやら、剣だって何の剣だかさっぱり分からない。(4)はそういう書き方です。ところが(6)は非常にそれが詳しく詳しく書いてあります。(4)は103行、内容は東方十二道を征服して、死ぬまで。十四の歌を含んでいます。歌物語の形式です。
まず1).、出発の経緯。お父さんからこう言われて、伊勢へ出掛けて、おばさんのところで、「またもやお父さん、私に行けというのは私のことを嫌いなんだろうか。私なんか死んでしまったらいいと思っているんだろうか」というふうにおばさんに泣き言をいって、で、おばさんに不思議な宝、袋とそれから草薙の剣をいただいて、それで出発しました。というのが11行あります。
続きまして2).、尾張に行って、ミヤズ比賣という人のところに寄るんだけれども、この人と性的交渉をするのは征服が終わってからにしようということで、東の国へ出掛けました、という次第が3行あります。
続きまして3).、相武国造というのをテーマにした話が7行あります。
それから今度は4).、走水、浦賀水道にあたるというのが妥当なのかと思いますけれども、その浦賀水道を渡りましたという話が、主として一緒に連れて行っていた妻の弟橘姫が、水の神様を鎮めるために人柱となったという、その話に力点を置いて、1行の歌謡を含めて9行、美しい物語として描かれています。
続いて5).、足柄の神を退治しました。そして山に登って「あづまはや」というふうにため息をついたと。それでこのあたりをアヅマというようになったんですよ、というアヅマの名の由来が6行書かれています。
続いて6).、酒折宮の老人、これは甲斐ですよね。酒折宮の老人と歌のやりとりをしまして、うまいこと歌をうたったというので、その人を東国造にしてやりました。という話が6行、歌謡が2行入ってあります。
それから7).、尾張の美夜受姫との交流。これは私が非常に好きで大きく扱っている部分なんですけど、これが歌謡が6行、たくさん入っていまして、尾張のミヤズ姫と結婚した次第が書かれています。それから尾張のミヤズ姫のところを出発しまして、
8).、イブキ山の神をとろうと登山したけれども、逆にやられて下山しました、という話が7行。
次に9).、旅の途中、具合が悪くなり、三重の能煩野というところで、ついに死にましたという次第が23行、死ぬ間際にいろいろ歌った歌を7行含んであります。
それで10).、この死を悲しんだ家族、妻とか子供が、タケルの倒れた地にやってきて、それからタケルが白鳥になって飛んでいって、それを追っていって、そして河内に、もう一度御陵を造ったという次第が、歌謡4行を含めて18行書かれています。 
倭建の后子記事
以上があったのに続けまして、(7)に、倭建の「后子記事」というのが15行あります。これは行数で比べていただいてそんなに的外れにならないと思うんですが、冒頭の「后子記事」、天皇自身の「后子記事」が18行でした。それと見劣りしない長々しい后子記録が倭建の場合にはついているわけです。天皇にもならなかった人の后子記事がこんなに載っているというのも異例なことです。この理由はひとつには明らかでして、この倭建、『古事記』や『日本書紀』の文脈の中では天皇にはならずに死んだこの皇子の息子が、次の次の天皇になるわけですね。この景行さんが12代。13代目が成務という景行さんの息子がなって、そして14代目には、この倭建の息子が天皇位に即くわけです。その関係から、ここに長々とこの倭建という人の后と、子供が記されています。 
小碓の資料と倭建の資料は別物
以上が、いわゆる景行記、大帯日子オシロワケ天皇について書いた『古事記』の全体の構成なんです。
さて、先程ご説明しました景行記、話の筋を説明する問に、私が不思議だと思った箇所なども説明したので、だいたい予測はおつきかとも思います。第一に、〔亦の名〕っていうのをですね、〔亦の名〕が誰だれであると、ただそれが書いてある時は、そんなに別段怪しむ根拠もなにもないんですが、しかし、こんなふうに〔亦の名〕で続けることによって、ふたつの人物の在り方がつながっているような時には、これはもうほぼ間違いなく、関係ない資料から持ってきて繋げたものだというふうに考えるわけです。関係ないというのは、元の資料を見たわけではありませんから、もしかしたら小碓という人の異伝としてですね、倭建の物語があったのかもしれない。それは分かりません。まあ、私の推測ではほぼ別人なんですけれどもね。でも間違いなく言えることは、大碓・小碓の、たとえば(2)(3)などという話ですね。この(2)(3)に書かれているような大碓・小碓という人たちのことと、その親である天皇との関わりということを書いた資料とですね。それから倭建という人の物語を書いた資料とは、間違いなく別の資料であったろうと、いうふうに私は思うわけです。この景行記というのを書いた人はですね、この資料に書いてある大碓・小碓の小碓という人は、こっちの資料に書いてあるこの倭建なんだと、何か根拠があったんでしょう。その人なりの根拠が。そういう根拠があって、〔亦の名〕は倭建であるというふうにして、これをつないでしまったに違いないと私は今思っています.
そのわけは、さっき一度お話した倭建の出て来かたがすごく変であると。小碓というのが幼名で、それから大きくなってからは倭建になったんだという、そのことを一連の続きで書いてある資料があったとしたならば、こういう変てこな出て来かたはしないと思うんですね。くり返しますが、最初には倭建は何者だか全然わからない。やっと熊曽退治のところまでいって分かるようになる。
こういう出て来かたは、これもどういうふうにして『古事記』というものが書かれたかっていうのが私の大きな興味なんですけれども、どなたに聞いてもちょっと分からないんですが、私の受けた感じでは、紙や墨というものが非常に貴重だったのかどうか、まるでノリとハサミで、必要なものを切り貼りしたような印象をうけるんです。もし私が二つの資料を元に小碓というのは倭建であるというふうな論を立てたとします。そうしてこの景行記というものを書いたとしたならば、もつとスムーズに、頭からあの小碓は倭建なんだよってことが誰が読んでも分かるように、きちんと整理された形で書いたと思うんですね。けれどもそれがなされていない。大帯日子オシロワケ天皇の子供として、〔小碓命、亦の名倭男具那命〕、そこまでの資料はあったんだけれども、その倭男具那が倭建なんですよ、というふうに続いている資料というのはなかったということが、この冒頭の后子記事の書き方を見ると十分に推測できると思うわけです。 
異常な結婚
倭建のこういう出て来かたは、先程も言ったように、『古事記』の中でも異例で異常なことです。それから異例で異常なことは他にもありまして、私の資料の2、に「倭建の后子記事の図示」というのがあります。(a)(b)(c)はそれぞれ別の后の子です。これを見ていただくとよく分かると思うんですが、ここにはとんでもない歪みというか、信じられないような結婚が行なわれているんですね。ひとつには、景行(大帯日子オシロワケ天皇)がですね、(a)の方から勘定すると、倭建の曾孫と結婚しているわけです。これは確かに天皇さんというのは、ずいぶん離れた結婚もするし、現代の常識からするとだいぶん若い奥さんをもらったり、それから近い関係の、お母さんの違う兄弟と結婚したりすることもあるみたいですけれども、しかし、『古事記』という世界を見回した時に、これが異常なんですよ。古代はどうだったかは知りませんよ。だけど『古事記』の世界の中では、こんなに飛び離れた結婚というのは、ここにしかないんですね。
それからここにはもうひとつ、(b)との関係もあるわけです。(b)はある妻としか書いてない、これも非常に異常なことなんですけれども、妻の名が明かされていないんですね。ある妻の子として、息長田別王という方が生まれた。この人からたどっていきますと、これが倭建の子ですから、景行さんは、曾々々々孫と結婚しているんですよね。これはね、『古事記』の世界の中で見て、異常なことなんですよ、そりゃ、異常なことなのが、景行の特色であって、古代にはこういう結婚もあったんだとか言われると、そうかなっていう話になってしまいますが、私はそういうのはちょっとおかしいと思います。やっぱり『古事記』というのはひとつの書き物ですし、『古事記』が成立した時代から考えても古い時代のことを書いているわけですから、あんまり突拍子もない婚姻関係というのは、おそらく避けただろうと思うんですね。だからおかしいと思って検討をし直して、あまりおかしい資料というのは、たぶん信憑性をもたせるために、『古事記』を成立させた時代の人も取り入れなかったろうと。こういう記録を書いた人もね。そんな気がして仕方がないんです。
だから、『古事記』を作る時に、もうすでにこういう系図があったんだろうとは思うんですが、これはとっても異常なことだ。この異常は、たぶんどっかで生まれたに違いない。それはたとえば、ある妻の子というのが、とてもこれがおかしいわけですよね。なんで名前が書いていないんだろうと。ということを考えていくと、これはたぶん名前を明かしてしまうとですね、それがこの倭建という人の妻ではなかったということが、その当時としてはバレてしまうとかですね。何かそういうのっぴきならない事情があって、ある妻の子というふうに名前を伏せたんだろうと私は思うわけです。これが、ある妻の子というのが、こういう不自然な系図につながっていなければね、他の可能性もそりゃ考えられますよね。たまたま名前が抜けてたんだろうとか。だけれども、ある妻の子としてあげられた系図を、この景行記の文脈の中に並べると、こんなに異常な系図になってしまう。このことはとてもおかしいなと思うわけです。
それからどこでおかしくなってるかと考えてみると、倭建を景行の子供に置いたからなんじゃないかと。倭建が景行の子供でなければですね、少なくとも倭建が景行よりもずっと上の方に年代が上がるとすればですね、その曾孫だか曾々孫だか、なんだか知らないけれども、そのずっと下の方の子孫と景行が結婚したという話も、全然おかしくなくなるわけですね。そうするとこれはまったくの推測でしかありませんですけれども、たとえばの話が景行よりもずっと前に倭建という人がいて、その倭建の下にいろいろ子孫がいて、その子孫の一人と景行、大帯日子オシロワケという天皇が結婚しましたという資料がひとつあったと。しかしながら、なんらかの事情でこの倭建というのをですね、景行よりも新しくしたかったと。そいじゃ、何でも子供にくっつけるのが得意ですからね、じゃこれ景行より子供にしたらどうだろうというような考えが働いて、子供だという解釈ができてしまったために、あるいはもう少し政治的な理由で景行とどうしても仲哀をつなげなきゃならないというような政治的な理由があっために、倭建の時代を景行よりも下にしてしまった。そのために系図が歪んでしまったのだろうと。そういうふうに考えると、まあ系図の歪みというのは納得できるわけですね。
同時に、景行の子の小碓が倭建というのは怪しいな、ということも非常に納得できるわけです。ああ、やっぱりそういうふうに歪めてくっつけちゃったからであって、もともとの一連の資料としては、「倭建=景行の子」ということではなかったんではないだろうか。そう思うわけです。 
資料2 / 倭建の后子記事の図示
参考
若建王(a)弟比賣橘の子
息長田別王(b)一妻の子
帯中津日子命(仲哀)(c)イクメ天皇の娘フタジノイリ比賣の子
二人のカリハタトベ
実は、倭建という人が景行の、子供ではない世代のところにある資料、それが他にあったのではないかという片鱗が『古事記』にいくつかあるんですね。その片鱗のひとつが資料3、に書いた布多遅能伊理毘賣という人なんです。 
資料3 / フタヂノイリ毘賣
(1)11代垂仁記冒頭の后子記事より
〔イクメイリビコイサチ命、・・・。又、丹波ヒコタタスミチウシ王の女、氷羽州比賣命を娶り、生みし御子は.・・・。次に大帯日子オシロワケ命。次・・・〕
〔亦、山代大国の淵の娘、苅羽田トベを娶り、生みし御子は、落別王。次・・・。又、其の大国の淵の女、苅羽田トベを娶り、生みし御子は、石衝別王。次に石衝毘賣命、亦の名はフタヂノイリ毘賣命。・・・〕
〔凡そ此の天皇の御子等は十六王。・・・次に石衝別王は羽咋君、三尾君の祖。次にフタヂノイリ毘賣は倭建命の后と為る。〕
(2)9代開化記(説話無し)
〔若倭根子日子大ビビ命、・・・。又、丸邇臣の祖、日子国オケツ命の妹、オケツ比賣命を娶り、生みし御子は、日子坐王。・・・此の天皇の御子等は、併せて五柱なり。・・・次に日子坐王、山代の荏名津比賣、亦の名を苅幡トベを娶り、生みし御子は、大俣王。次・・・〕
(3)苅羽田トベを11代垂仁世代に合わせた(1)(2)の図示
このフタヂノイリビメという人は倭建の后の(c)ですが、11代の伊久米天皇の娘です。11代天皇の娘というのと、倭建が結婚をするわけです。フタヂノイリ毘費という人は、11代天皇とどういう関係で生まれてきたかと言いますと、資料3の(1)の二つめの〔〕に書いてありますように、山代大国の淵の娘苅羽田トベ(刀辮)を11代の天皇さんが娶りまして、いろいろ、子を生みます。それからその同じ大国の淵の娘、弟苅羽田トベ、これは苅羽田トベの妹という意味ですね。その弟苅羽田トベを嬰って生んだ子が、〔石衝別王、次に石衝毘賣命、亦の名は〕、これがまたね、またここで「亦の名」が出てくるんですね。でもまあ一応亦の名はフタヂノイリ(布多遅能伊理)毘賣である。で、この人が倭建と結婚をして、帯中津日子を生む、これが仲哀になる、という形になっているわけです。
ところがですね、『古事記』の中には時折、まったく同じ名前が違う表現で、あたかも違う人物であるかのように出てくる場合があるんですね。これ、私ちょっとあることで気がついてから輿味をもって、あらゆる『古事記』の中の人物の名前を年代順に書くっていうのをやってみたんですよ。で、そこで発見したことがいろいろあって、これもそれと非常に関係の深いひとつなんですけれども、9代天皇の開化の記録にですね、こういう一節があるんですね。資料3、の(2)です。〔次に日子坐王、山代の荏名津比賣、亦の名を苅幡トベを娶り、生みし御子は、大俣王。次・・・〕と。こういう記録があるんです。この日子坐王とは何者かといいますと、9代開化の息子なんですね。これも異例のひとつなんですが、9代開化の息子というだけで天皇にも何もなっていません。名前がここに出てきて、次の10代目の天皇のところで、誰かをやっつけたというようなちょっとした事跡が、1、2行出てくる、それだけの人物です。それが膨大な、その当時の8代目、9代目あたりの天皇と比べても見劣しないほどの「后子記事」をもっているんですね、なぜか。で、その中のひとつに苅幡トベというのが出てくるわけです。
片一方、11代の后は「山代大国の淵の女苅羽田トベ」、片一方、日子坐王の后は「山代の荏名津比賣、亦の名苅幡トベ」なんですよね。山代が共通していること、それからカリハタトベというまったく同じ名前であること、『古事記』の中でね、関係が無さそうなところに、まったく同じ名前が出てくるっていうのはね、私が調べたところでは、例もないんです。飛び離れて、『古事記』の文脈の中では関係が無さそうだけれども、あるんじゃないかなと思って疑ってみるとね、かならず同じ名前は同じ人物として通用する解釈がありうるんですね。で、それを発見していたものですから、これは同じ人なんじゃないかと。カリハタトベというのを、こちらの「山代の荏名津比賣の亦の名苅幡トベ」として記した記録とですね、それからもうひとつ「山代大国の淵の女苅羽田トベ」というふうにして記した記録と、同じ人物について二様の記録があったんじゃないかなというふうに思ったわけです。その二様の記録の片方を9代開化記の方に載せてですね、そのもう片方が倭建命の后子記事の方に表れているんじゃないか、実はこれは同じ人物なんじゃないかというふうに思ったんです。
で、資料3、の(3)に、この両者の系図を、カリハタトベが同じ人だとして、並べて考えてみたものがあります。右側が倭建の系図に出てきている山代大国の淵の二人の娘、苅羽出トベと弟苅羽田トベです。左側が9代開化記、日子坐王の系図に山てきている、山代の荏名津比賣、亦の名苅幡トベの系図です。そしてこの日子坐王の左の方に点線で書いてありますが、これは私の推測です。つまり日子坐王の方にも弟苅幡トベの記録があったんじゃないかと。その弟苅幡トベの記録があったんじゃないかと思う一つの理由は、こうやって並べてみるとなおさら類似点が目立つんですけれども、カリハタトベという人は、11代垂仁のところに出てくる苅羽田トベという人も、落別王以下三人の王と名のつく人を生んでいるわけです。で、日子坐王の方の山代の荏名津比賣、亦の名苅幡トベもですね、大俣王と名は違いますけれども、大俣王以下三王を生んでいるわけです。このカリハタトベという者は、全体の形からして、名前がそっくりであるだけでなく、三人の王と名のつく子供を持っていたという点においても非常によく似ています。そこから類推して、弟苅幡トベというのが、たぶん日、日子坐王の妻として書かれていた記録があったのではないかと私は考えたわけです。そうするとフタヂノイリ毘賣は、日子坐王の子供世代、開化の孫世代の人にあたります。それが倭建と結婚するとしますとですね、今の『古事記』の年代にあてはめると、開化が9代ですから、倭建は11代世代になるわけです。こういう系図から持ってきて、11代世代倭建を12代世代の子供として置いてしまったというあたりがですね、非常な歪みを系図の中にもたらしたのではないかと私は考えるわけですね。 
二人のカグロヒメ
それからもう一つはですね。カグロ比賣っていう人が出てくるんですよね。系図っていうのは、ややこしくて頭がおかしくなっちゃうんですけれども、この詞具漏比賣っていうのがまた不思議でして、私の資料1、の最初の東行の「后子記事」がありますね。この中に※マークがつけてある詞具漏比賣。〔倭建の曾孫、名はスメイロ大中日子王の女、※詞具漏比賣を娶り、生みし御子は〕というふうに書いてあります。資料2、にそれを図示してあります。景行記の中で、倭建の系譜と合わせて景行記がいわんとしているカグロ比賣の位置というのはここです。倭建の、子供に若建王、その子供に須賣伊呂大中日子王、その子供にカグロ比賣命。これと景行さんが結婚したというんですね。
ところがところが、カグロヒメというのが実はもう一人いるっていうのを、『古事記』の中でみつけたわけです。それはどこかと、言いますと、資料4、「カグロ比賣」のーの(1)に書いておきましたが、15代応神記、その冒頭の「后子記事」にあるんです。この応神、ホムダワケ命がいろいろお嫁さん娶って、子供を生んだという最後の方にですね、〔又、迦具漏比賣を娶り、生みし、子は、川原田郎女〕ってたった1行あるんです。この迦具漏比賣っていうのは、さっぱり素性が分からないんですよ、母子とも。なあんかどっかからね、持ってきて取ってつけたみたいに、ここに迦具漏比賣ってのがあるわけで、素性が全然わからない。だいたい応神の后子というのは、他の世代とスライドさせると良く似た形をしていることもあって、私はこれをめっけたんですけれども。こういう同じ名前があった時には、私は単純に同じ人だと思うんですね。字はやや違っていますけれども。カグロ比賣というのが、応神世代、応神が結婚してもおかしくないところに、このカグロ比賣という人がある、そういう記録があったんじゃないかと、私は考えるわけです。
そうしますと、カグロという人が、応神と結婚していい世代の人だとしますと、応神っていうのは『古事記』の中では15代ですから、15代を基準にしてカグロから逆にたどると、倭建という人は10代世代にあたるわけですよね。そうすると当然これも12代の景行の子供ではありえない世代にあたる。他にもいろいろな点を考えて私はそういう結論を出したのですけれども、おそらく、倭建の、子孫のカグロ比賣が応神の后であったという資料があったに違いないと。で、そんな資料を寄せ集めて、倭建という人を無理矢理景行天皇の子供とイコールに結んでしまったのが今の『古事記』の姿なんだ。その無理が、とんでもない系図を生んでいるし、それから倭建の登場の仕方が大変おかしいということを生んでいると、そんなふうに思います。 
資料4 / カグロ比賣
(1)15代応神記冒頭の后子記事より
〔品陀ワケ命・・・又、迦具漏比賣を娶り、生みし子は、川原出郎女。次は・・・〕
(2)カグロ比賣を15代応神と合わせた図示 
倭建は倭王武?
じゃ倭建という人は何だったのかと言いますと、これはとっても私のまた飛躍した想像なんですけれども、倭国の王様だったんじゃないかと思うんですね。というのは、『常陸国風土記』っていうのにね、倭武天皇っていうのが出てくるんです。これは、もちろん研究者の問では有名なことのようですけど。で、私もその『風土記』を読んだんですけれども、実に倭武天皇ってのは、具体的に『風土記』のなかではほうぼう歩き回って、いろんな事跡を残しているんですね。で、大橘比賣っていう奥さんも出てくるんですよ。これは普通、「記・紀」の倭建のことだって言われてます。だけど私が読んだかぎりでは、天皇になってない人を天皇と呼ぶことは、『風土記』ではないんですよね。たしかに神功皇后、息長帯比賣のことを「息長帯比賣天皇」と書いてあるところがあるんです。だけどこれ、よく見ますとね、時期的に夫の天皇が死ぬ時までは皇后と書いてあって、死んだ後のことだなと思われるところではじめて天皇って出てくるんですよね。だからそういう意味では『風土記』というのは、とても正確に天皇というのを使っている、それから他の『風土記』では宇治天皇とか、『古事記』にはない天皇が出てきますよね。でもそれは考えようによっては天皇であった時期がありうる人なんですよね。宇治天皇なんかは、仁徳と天皇を譲り合って、その譲り合う間に貢物を持っていく人がどっちに持っていったら良いものか迷ったというような記事があります。だからその迷ったというのはひとつの見方であって、実は宇治の方がその時天皇さんだったんだという見方もあり得る。『古事記』に書いてあるままでいくと空位時代ができてしまいますから、その空位時代が実は宇治天皇の時代だったんだっていう解釈ができるわけですよ。
けれども倭建に関しては、絶対できないわけ。『古事記』にはいつ景行が死んだか、書いていないわけですよね。で、どうもこの『古事記』の文脈でいきますと、景行がいて、景行が生きている間に倭建がいろいろと冒険をして死んで、それから景行が死んだ後に、その息予の成務が皇位に即くわけです。その間に何のもめごともないわけですね。『古事記』をどう解釈してもですね、どう無理に解釈しても倭建を天皇と呼べるような状況はなかった。全然なかった。にもかかわらず、『風土記』が倭武天皇というのを出して、そして、その事跡をこと細かに書いているのは、倭武天皇というのが別にいたに違いない。
学者のある説では、『古事記』や『日本書紀』のヤマトタケルというのを非常に大きく扱って、その結果それを誇大視して、倭武天皇というようなものを『風土記』は創出したんだという意見もあるみたいですけれども、それは絶対違うと私は思うんですね。なぜかと、言ったら、『古事記』の真似をして創ったとしたら、タケルっていう字が「建」のはずなんですよ。それでもし、『日本書紀』の方を真似したとしたら、「日本武天皇」のはずなんですよ。『日本書紀』は必ず「日本」って書くんですからね。『古事記』が「倭」と書くところ全部「日本」ですから。そうすると「日本武天皇」か、「倭建天皇」なら言えるんです、どっちかの真似したんだなと。「倭武天皇」って独特ですよね、考えてみると。で、これはそういう人が別にいたんだと。
これはおそらく、あんまり似すぎてて嫌になっちゃうけれども、「倭の五王」に「倭王の武」っていうのがいましたよね、あれとなんか関係があるんじゃないかと。あれそのものっていうのは、時代的にちよっと問題があるかもしれないけれど、もしかすると『古事記』や『日本書紀』の時代が間違っているかもしれないし、倭武天皇っていうのは、あの『宋書』に書かれている倭王武、倭の武という、これにぴったりじゃないかと。朝鮮の史書なんかですと、まったく同じ名前の王様がまた繰り返し、偉い王様が持っていたのを讃えて名前がついたりするみたいですから、そういうこともあったのかもしれないけれど、倭武という書き方そのものが、非常に「倭の五王」を思わせる。これは倭国の王様じゃないかなと、こんなふうに私は思っているわけです。
とにかく王様に違いないと思うことの一つは、さっき説明した、103行にわたる東方十二道へ行った時の物語、これはおそらくちゃんとした記録よりは物語的になっていると思いますけれども、これがもう何よりも雄弁に語っている。ひとつには、草薙の剣・鏡・伊勢神宮といったようなものと天皇や王子との関わりは、『古事記』の中ではほとんどというかまるでと言っていいぐらいありません。この倭建にだけあるんですね、伊勢神宮へ行って、おばさんから草薙の剣をもらったと。玉は出てきませんけれども、そんな話があるのはこの倭建だけ。草薙の剣というのは王統の象徴ですから、その王統の象徴を持って闘うことができるのは天皇に違いない。だからこの一事をとってみても、あの倭建というのはある権力の天皇であったろう。あの神話、草薙の剣というものが大切にされている三種の神器を大切にしていた、それは私の見たところでは、どうも大和朝廷ではないんですけれども、三種の神器を大切にしていた朝廷の王様であったと。それから、もうひとつは陵を造ったという記事が大々的に倭建のお話の中にあります。天皇にもならない人の、陵を造ったという話はとっても異常です。だから、これは逆にこの人はやっぱり天皇的な人だったに違いない。
それからとても印象的な問題は、お葬式の間に、お葬式のエピソードの間にいくつかの歌が記されています。こういうふうに書かれているんですね、その一番最後に。「この四つの歌は、みんなそのお葬式に歌ったのだ。それで、今に至るもその歌は、天皇の大いなる御葬式に歌うのだ。」と、これは私の訳ですけれども、そういう、やさしく言えばそんなふうに書いてある。そのお葬式に歌ったのだという「その」というのは、倭建のお葬式に歌ったということです。これ、ふつうに読み過ごすと、ああそうかで済んでしまいますけれども、よく考えたら変ですよね。天皇にもならずに死んで、しかも長男でもなかったわけです。その子のお葬式に歌った歌を、後の世の天皇のお葬式になんで歌うんでしょうね。私はこれはとってもおかしいことだから、やっぱりこのエピソードがもともと含まれていた資料の中では、倭建は天皇だったんだと。だからこそ、この偉人な天皇が死んだ時のお葬式の歌が、後々の世の代々その、子孫の天皇たちが死ぬたびに、そのお葬式の歌が歌われていたんだと。そういう文脈だったと私は思うんです。この倭建というのは、だから非常に天皇的な人物である。で、どこの天皇かといえば、たぶん、古田さんが言うところの、九州倭国の「倭の五王」の一人だったんじゃないかと、いうふうに夢を膨らませているわけです。一度みなさんも景行のところは、読んでですね、私の話が妥当かどうか、なるほどそうも考えられるかとか、バカみたいとか、考えてみて楽しんでいただけたらと思います。 
古代の音韻
さてそこで、えぇ何時まででしたっけ、ああ大変だ、急がなくちゃ。これからは本当のお楽しみです。資料の一番最後に、「古代の音韻」というのがあります。「景行記よりミヤズ比賣の歌」。平仮名で書いてありますが、元の表記は漢字です。漢字を仮名みたいに使って書いてあるわけです。ただし、今の平仮名では書き表わせない字があります。ていうのは、これはもうだいぶ前に発見されていたことなんですけれども、奈良時代にはですね、どうも今の日本語よりもたくさんの音韻があった。で、それが『古事記』の書き方を分類していくと、どうも必ずこの時の「オ」はこの字を使っている、こっちの「オ」はこっちの字を使っている。ちゃんときっちりと書き分けられていたもので、それを細かく研究した学者があって、音がもっとたくさんあったというふうに結論づけて、それがそうだろうということになってきました。今だいたいまとまっている結論では、音節の数が八十八音あった。今よりだいぶ多いわけですね。 
資料 古代の音韻「景行記より、ミヤズ比賣の歌」
たかひかるひのみこやすみししわがおほきみ
あらたまのとしがきふればあらたまのつきはきへゆく
うべなうべなうべな
きみまちがたにわがけせるたたなむよおすひのすそにつきたたなむよ
それで、その音自体がどう発音されていたかというのはまあちょっとした推測しかなかったんですけど、それを非常に綿密に考えて推定をしてきたのが、私がお知り介いになった森博達さんという先生なんですね。彼は中国語の方から入りまして、中国語にもなんか難しい古代音というものがあるそうですけれども、ちょうど日本のこういう文字が使われていた時代に、その文字が古代、同じ時代の中国でどのような音で読まれていたかということを非常に詳しく、これもなかなか分からない、発見するのが大変みたいなんですけれども、その推定を事細かにやっていきまして、それから逆に『古事記』や『日本書紀』で使っているこの漢字は、たぶんこういう音ではないだろうかということを出していったわけです。
今のところ彼の研究が行きついたところを言いますと、「アイウエオ」っていうのは、だいたい今と一緒なんですけど、「エ」っていうのが二重母音っていうんですか、「ウェ」っていうのに近い音だったようです。それから「オ」というのがですね、「ア」っていうような口の形をして喉の奥の方で「オ」って言うんですね。今はもう発音するのも難しいし、聴いてもなんか違いがあんまりよく分かりませんけれども、そんなふうに昔の人はきちんとしゃべり分け、きちんと聞き分けていたようです。それから、「カキクケコ」になりますと、「キ」と「ケ」と「コ」は二つ音があります。「キ」は「キ」という普通の現在に近い「キ」と、奥舌っていうらしいんですが、奥舌で発音する「キ」。それから、「ケ」も普通の「ケ」と、「クェ」というふうに二重母音で発音する「ケ」と二つあった。それから「コ」も、今の普通の「コ」と、さっきお話した奥の方でいう「コ」ですね。だから「カ」行は、八音あったというわけです。これと同じようにして、他の行も音が多くて、今も同じような音でも、少し違ってたりした、らしいですね。聴いたことないんで、本当は学者だって分かんないんですよ。でも彼が言うにはそういうことです。 
ミヤズヒメの歌
私はそれを聞いたときに、やぁもう『古事記』に出てる歌全部それに当てはめて教えてよ、と言ったんですけれども、なかなかどうも学問というのは、学者さんがする時にはそう無責任なことはできないらしくて、本当にこれは確実だと思える歌だけ教えてくださいました。森博達さんは大津に住んでいて、私は東京なので、親切にね、外国語の教育講座みたいなテープを作って送ってくれたの。それを私は一所懸命練習をしまして、それである程度歌えるように、歌えるというか言えるようになったんです。復元は発音よりアクセントの方が難しいんですって。というのは手がかりがないんですね。昔の、なんていう本だったかな、古い本にこういう『古事記』や『日本書紀』の歌をのっけて、それにこう、アクセントをふってある歌の本があるんだそうです。そういうものがある歌に関しては、アクセントをきちんと把握できる。もちろん『古事記』の時代そのアクセントだったかどうかは、ちょっと分かりかねるんだけれども、でもまあまあこうだったんじゃないかというところまで、推定することができるわけです。そういうことで、一番最初にたまたまそのアクセントがある程度明らかになっている、ほとんど全面的に明らかになっている、景行記の中のミヤズ比賣の歌というのを、彼が復元してくれました。
これはどういう場面かと言いますと、倭建が尾張の、ミヤズ比賣のところに行きますと、ミヤズ比賣が大歓待をしてくれるんですけれども、このミヤズ比賣の着ていた着物の裾に月経がついていたそうです。その月経を見て、倭建がある歌をうたったと、そういう場面です。そこをちょっと私の訳で読みますね。「その国から科野国へと越えて、さて科野の坂の神を説得し、尾張国へと帰って来た。そうして、先の日に約束したミヤズ姫のもとへ入りなさった。ここでたいへんなご馳走をさしあげたが、その時に、ミヤズ姫が立派な御酒杯を捧げてさしあげた。そこでミヤズ姫、そのオスヒの裾に月経が着いていた。それで、その月経を見ての御歌はこうだ」。
ひさかたのあめのかぐやま
とかまにさわたるくび
ひはぼそたわやがひなを
まかむとはあれはすれど
さねむとはあれはおもへど
ながけせるおすひのすそに
つきたちにけり
こんなふうに歌ったと。これを私流に意訳をいたしますとこうなります。「天の香具山をさっと渡りゆく白鳥よ。その白鳥みたいなしなやかな腕を、枕にして寝ようと楽しみにしていたのに、なんとまぁ、おまえの裾にツキタチが見えているよ、ずいぶん月日がたったんだな、ずいぶん待たせてしまったな」。ツキタチというのは、私はおそらく月経という文字は古代はツキタチと読まれていたに違いないというふうに決めているんです。その話には今日は立ち入りませんけれども、ツキノサハリだなんて絶対読まれてなかったといふうに決めているものですから、そういうふうに歌をうたったと。そこでミヤズ姫の答えた御歌、「ミヤズ姫、御歌にこう答えた」。
たかひかるひのみこ
(高く光る日の御子)
やすみししわがおほきみ
(やすみししあたしの大君)
あらたまのとしがきふれば
(新玉の年が来て過ぎれば)
あらたまのつきはきへゆく
(新玉の月は過ぎてゆく)
うべなうべなうべな
(そうよそうよそうよ)
きみまちがたにわがけせる
(君を待ちがたくてあたしの着ている)
おすひのすそにつきたたなむよ
(オスヒの裾に月が出るのでしょうよ)
これを意訳しますと、「私のすばらしい恋人よ。新しい年が過ぎれば、新しい月も過ぎてゆく。そうよそうよ。あんまり待たせるんだもの。ずいぶん月日がたったんでしょ。ついにツキタチになっちゃったわ」。こういうふうに歌った。私はなんてまぁ『古事記』というのは、おおらかな物語を載せているものかと感動をしました。『日本書紀』はなんだか気難しい書物ですから、このすばらしい部分を載せていませんけど、ここはとってもいい場面で、全然こう、ほとんど月経というものに対する見方が、もっといろいろあるんだなぁ、昔にもあったんだなぁということを思わせる。で、このミヤズ姫の御歌の方は、アクセントがはっきり掴めたらしいんですけれども、先の御歌の方はアクセントが掴めないらしくて、いまだに森さんは訳してくれないんですね。だからときどき内緒で自分で勝手にやったりしているんですけれども、知れたら怒られるかもしれませんね。で、いずれにせよ、今日は最後にですね、この歌を二、三度こういう音だったんだそうですよ、ということを皆さんにお聞かせして、終わりたいと思います。〔古代の推定音韻で「ミヤズ比賣の歌」を朗読〕
いかがでしたしょうか。まあこういうふうです。難しいところを言いますとね、月の「キ」っていうのが今の「キ」じゃないんですよね。さっきご説明したあの奥舌の「キ」、英語と同じくらい難しいですね。それから後はもうだいたい何度か練習すると上手になります。皆さんもやってみたらどうですか。私はこれをテープに入れまして、森さんに送ったんです。そしたら彼がもう非常に喜びまして、古代人そのままだって、聞いたこともないのによく言えると思うんですが、非常に上手だって言って誉められました。だから、森さんの思うところでは、私の発音は非常に古代人らしくていいそうなんですよ。
じゃあもう一回やりましょうか。それでおしまいにしますね。皆さんはなるべく目でも閉じてですね、裳というスカートのような美しいものを着た、髪はどうだったんでしょうね、そういうことの研究っていうか手がかりがなくって、もし絵に描いたらなんて時に困るんですけれども、どんなヘアースタイルをしていたんでしょうね。あっ、もう一つついでに言うと、この尾張のミヤズ姫っていうのは、「尾張国造の祖、美夜受比賣」こういうふうに紹介されているんです。一番最初に。『古事記』は父系制でほとんどは書かれていますから、女性を誰とかの祖と書くことは本当に数えるほどしかないわけです。けれども逆にいうと数えるほどあるってことはね、女系の系譜なり女系の伝承なりが残っていたということですよね。私の祖先は何々というおじいちゃんなのよって言うんじゃなくて、何々というおばあちゃんなのよって言っているわけですから。なんか他のいろいろな史料の研究でも、日本には女系の系図というのがあったんだそうです。ちらっと聞いたことがあります。で、『古事記』の中の系図も詳細に捜し出すとすれぱ、あると私は見ています。この尾張のミヤズ姫というのは、たしか尾張国造だったと思いますが、とにかく祖ミヤズ姫というふうに、この人のお父さんでも兄でもないミヤズ姫そのものを祖とする考え方が出ているんです。だから、この尾張のミヤズ姫というのは、一種の女首長でね、たいへん威容を誇っていた人なんじゃないか。そこに倭国から来た、倭建が行って、その大きな国のお姫さまと結婚をすることで、また政治的な力をですね、名古屋の方にまで拡げて行ったんじゃないかなって思っているんですが、そういうお姫さまだとしたならば、だいぶ唐風なんかも取り人れて、当時は唐風とは言わないんでしょうけれども、なんか中国風の頭なんかをしていたかもしれないななんて思うんですが、まあとにかくそんな女の人を想像して聞いてください。 
 
続『日本書紀』成書過程の検証 / 編年と外交記事の造作

 

一 はじめに
前号「市民の古代一五集」に続いて、さらに詳細に検証を加える。『日本書紀』は、『古事記』に比べて、様々な資料を多用して、本来の「帝紀」(1天皇名・2系譜・3治政年と宮・4后妃・子女とその事跡・5治政記事・6宝算と薨去年・7山陵・8臣下とその関係)に、対外記事をかぶせている。一つの記事を利用すると、つじつまを合せる為、前時代に関連記事をそう入している。しかし中国史書にある委奴国の金印や、邪馬壹(台)国・倭の五王の記事は全く現れない。わづかに「神功紀」の分注に倭女王の記事をそう入しているが、神功以外に比定する女王が無かったことを物語っている。本来、大和王権の外交は、朝鮮とは北陸から上がって来た、新来の継体から、中国とは「推古紀」の遣唐使が初交である。それ迄の時代の、『紀』にあらわれる朝鮮(高句麗・新羅・百済・任那(伽耶))や、中国(呉との交流)記事はすべて造作や盗用である。以下これ等について検証する。 
二 『書紀』の厚化粧
テレビに登上する女性タレントの、厚化粧について、よく話題にのぼるが、それに劣らぬ厚化粧ぶりである。「神功紀」から「欽明紀」迄、百済三書(「百済記」「百済新選」「百済本記」)が多用されている。此の間を時代をさかのぼって検証したい。
1 「欽明紀」の任那と日本府
「欽明紀」は八○パーセント以上が朝鮮記事で、三書多用は本文迄も及んでいる。任那や日本府は(任那一三二・日本府三四・[日本二九])合計一九五の多くにのぼる。任那は「崇神紀」に初出、「欽明紀」に滅亡、以後白村江で百済が滅亡るす迄、再参「任那を建てる」というフレーズで書かれている。『三国史記』の「新羅本紀」では五三二年金官国の投降として書かれ(『書紀』では南加羅・卓淳・碌*己呑)、五六二年伽耶の降服(『書紀』の任那十国「總言任那、別言加羅国・安羅国・斯二岐国・多羅国・卒麻国・古嵯国・子他国・散半下国・乞[冫食]国・稔禮国」)として書かれている。『書紀」は任那を總称としているが、『三国史記』には任那と書かれず、伽耶と書いている。(列伝に一ヶ所任那とある)任那という呼び方は、外国の文献や、金石文では次の様にあらわる。(1)
[冫食]は、JIS第4水準、ユニコード98E1
碌*は、石の代わりに口。
1広開土王碑・・・任那加羅(第二面九行)
2『三国史記」列伝・・・臣本任那加良人(強首伝)
3宋書・・・倭五王の将軍号の中
4翰苑・・・地總任那・加羅任那・任那加羅(蕃夷部)
5通典・・・加羅任那諸国滅亡之(新羅)
『書紀』にあわれる任那は東半分が小国家群・西半分は倭国の直轄地としてとらえられている。「欽明紀」本来の「帝紀」は二〇パーセントにすぎない。
2 「継体紀」の金村と麁鹿火
大伴金村の継体を三国に迎える記事と、百済えの四県割譲に始まり、物部麁鹿火の磐井の乱平定が、中心の記事である。金村と麁鹿火は登上から消える迄、重大な造作がある。
A大伴金村
大伴金村の記事は造文や、そう入の為かなり混乱して記録されている。
1、金村は大連(武烈紀任命)になる前に、大連と書かれている。(仁賢一一年一一月)
2、武烈二年一一月、大伴室屋大連に詔して「信濃の国の男丁を微発して、城を水派の邑に作れ」とあり、此の時点の大連は金村のはずである。(大和え來る前なのか?)
3、継体を三国に迎えるが、継体は河内の馬飼の首荒籠の情報により、安閑・宣化の息子を従えて、みずから畿内に上って来たので、金村が大和の豪族達と議(ハカ)って迎えたのであれば、二〇年も大和に入れない事などない。(陵も大和でなく、摂津である。)
4、磐井の乱に出発する麓鹿火の言葉に「・・・在昔道臣(ムカシミチノオミ)より、爰に室屋(ムロヤ)に及(イタ)るまでに、帝を助(マモ)りて・・・」と大伴氏の先祖の名が出て、物部の先祖の名が出ない。
5、「敏達紀」、一二年に天皇に召された火葦北(ヒノアシキタ)国造、阿利斯登(アリシト)の子日羅の言葉に、「檜隈宮(ヒノクマノミヤ)御寓天皇の世に、我が君大伴金村大連、・・・」とあり、かつて金村が火の国の主君で、九州王権下での百済えの四県割譲の失政によって、大和え逃亡した事を物語る。(四県割譲は大和ではない。)ーー(追記参照)
B物部麁鹿火
麁鹿火は物部尾輿とは別系で、本流でなく一代で消える。次項(武烈紀)でのべる影姫という娘は造作である。「武烈紀」で急にあらわれ、「宣化紀」で死亡し消える。磐井の乱の為だけの登上である。同じ様に乱の前に登上し、歌まで入れて念を入れている毛野臣も継体末に死んで消える。毛野臣はあきらかに麁鹿火の書きかえである。磐井の言の「いまでこそ使者だが、昔はわが伴として、肩をさすり肘をふれて、同じ釜の飯をくった。なんでにわかに使者となり、余(ワシ)をきさまの前に自ら伏させようとするのか」は麁鹿火であってこそ、ぴったりとくる。
(矛盾その一)
六万の大軍で,朝鮮に向う毛野臣を、磐井が遮(サエギ)って反乱を起こしたことになっているが、戦争の常識から考えて、これはおかしい。大軍を朝鮮に渡らせてから、反乱を起こせば、国内は手薄で成功の確度が高い、六万の軍を前にしての反乱は、はじめから結果は見えている。一軍を掌握する指揮官が、知らないはずがない。『風土記』逸文にある様に「・・・・突如として・・・」が真相で、磐井の反乱でなく、継体(麁鹿火)の反乱であろう。
(矛盾その二)
毛野臣(麁鹿火)は兵六万を率いて朝鮮に渡り、新羅に破られた南加羅と碌*己呑とを復興すると書かれているが、(五二七年)此の時点は任那は破れていない。五年後の(五三二年)金官国の投降に始まり、五六二年に滅亡する。まだ起っていない未来の出来事に六万の大軍を送るとはナンセンスで、あきれるばかりである。
物部麁鹿火の書き換えと推定される記事は他にもある。次にしるす。
1、継体九年春二月四日、百済の使者、文貴将軍らが帰国を請うた、そこで勅して、物部連(名を欠く)を副えて遣わした。(百済本記はいう物部至至連)・・・九州王権での出来事。麁鹿火は伴跛(ハへ)と戦う為(己[水文](コモン)の地の事で)朝鮮へ向う。
己[水文](コモン)の[水文]は、三水編に文。JIS第3水準、ユニコード6C76
2、夏四月、物部連は帯沙江にとどまること六日。伴跛が軍をおこして来攻した。(この時点の伴跛(任那東北部の小国)は新羅に備えて城を築き、倭には貢使を送るが己[水文]は百済にあたえられた為、武力で取ろうと備えていた。)衣装を剥(ハ)ぎ取り、所有物を劫椋(カスメト)って、ことごとく帷幕を焼いた。物部連らはおそれおののいて逃れ、わずかに身命をながらえて、[水文]慕羅(モンモラ)に泊まった。([水文]慕羅は島名である)・・・この時点で麁鹿火は大和え逃亡した。ーー(追記)
3、一〇年夏五月百済が、前部(百済は王城域を上・前・中・下・後の五部に分けていた)の木恊*不麻甲背(モクラフマコウハイ)を遣わし、物部連を己[水文]に迎えてねぎらい、ひきいて国に入った。群臣は各衣装(オノオノ)・斧鉄帛布を出して、国の産物に加えて、朝庭に積んで置いた。慰問もねんごろで、賞祿(タマイモノ)が特に多かった。・・・(前年の戦で失った己[水文]を得て百済が物部軍を大歓迎している。(物部のひきいる大和の軍)ーー(後注参照)
恊*の阜偏なし。JIS第4水準、ユニコード52A6。
4、継体一〇年(五一六)五月一四日百済が、灼莫古(ヤクマコク)将軍と、日本の(任那の官人)斯那奴阿比多(シナノノアヒタ)を遣わして、高麗使安定に副え、來朝して好を結んだ。・・・(高麗との初交の様に書かれているが、継体に対する百済の初交であろう。(己[水文]を得た答礼使)ーー(この時代迄百済は九州と国交、新來の継体とは物部・大伴を通じて初交となり、高句麗とは交戦が継き国交などありえない。)ーー注(磐井の乱は九年と十年の間に起り、「継体紀」は引延されているとの説あり。)(2)
3 「武烈紀」の造作記事
(1)『古事記』の「清寧条」にある平群鮪(シビ)との女を争う話が、『書紀』では「武烈紀」に移され、女(オオウオ大魚)と、その父(菟田首ウダノオビト)が、物部麁鹿火大連(大連任命記事なく、いきなりあらわれる)とその娘(影姫)として書き換えられている。また、平群鮪を亡ぼすのが大伴金村である。次の「継体紀」登上の伏線として二人を出したものである。
(2)「武烈紀」の暴虐記事、「刑理(ツミナエコトワルコト)」を好みたまふ。法令分明(ノリワキワキ)し。口晏(ヒクタ)まで坐朝(マツリゴトキコ)しめして、幽柾(カフレタルコト)必ず達((トオシシロ)しめす。獄(ウタヘ)を断(コトワ)ることに情けを得たまふ。又頻(シキリ)に、諸悪を造(シ)たまふ。一(ヒトツ)も善を修(オサ)めたまはず。凡を酷刑(カラキノリ)、親ら覧(ミソナ)はさずといふこと無し。国の内の居人、咸(コトゴトク)に皆震ひ怖づ。・・・前半は法令にくわしく、無実を見ぬいてはらす等、大へんほめているのに、又、以後は突然悪意に満ちた書き方に変わる。又、以後は後日の造文であろう。
4 「顕宗紀」の造作記事
大和の記事で終りかけた「顕宗紀」に木に竹をついだ様に、朝鮮記事があらわれる。「是歳、紀生磐宿禰が任那を占有してよりどころとして、高麗と交通した。まさに西三韓に王となろうとして、官司を整理し、神聖を自称した。任那の左魯(サロ)、那奇他甲背(ナカタコウハイ)らの計を用いて、百済適莫爾解(チャクマクニゲ)を爾林(ニリム)で殺した。帯山城を築いて、東道をふせぎ守った。粮を運ぶ港を断して、軍を飢えさせ困らせた。百済王は大いに怒り、領軍古爾解(コニゲ)、内頭莫古解(マクコゲ)らを遣して、衆をひきいて帯山に出向き攻めた。そこで生磐宿禰は、進軍して逆襲した。胆気はますますさかんで、向うところみな破った。一で百に当った。にわかに兵器が尽き力もつきた。事のならないのを知り、任那より帰った。それで百済国は、左魯、那奇他甲背ら三百余人を殺した。」とある。これは「欽明紀」にある「百済本記」引用本文の前説(マエセツ)としてここに挿入されたもので、『書紀』最終編集者、紀清人による紀氏に伝わる伝承と思われる。
5 「雄略紀」の割譲記事
大伴金村の四県割譲(上・下[口多][口利]等)の前説(マエセツ)として「二一年春三月、天皇、百済、高麗の為に破れぬと聞いて、久麻那利(コムナリ)を以て[水文]洲王に賜ひて、その国を救い興す。時ノ人皆云はく、「百済国属既(ヤカラスデ)に亡びて、倉下(ヘスオト)に聚(イハ)み憂ふと雖き、實に天皇の頼(ミタマノフユ)に、更(マタ)其の国を造(ナ)せり」といふ。[水文]洲王は蓋歯(カロフ)王の母の弟なり、日本舊記に云はく、「久麻那利を以て、末多王に賜ふといふ。蓋し是、誤ならむ。久麻那利は、任那国の下[口多][口利]の別邑なり。」と九州王朝の「日本舊記」が盗用されているが、大和側は朝鮮の地理を理解していない。久麻那利を後の四県割譲時の下[口多][口利]の別邑としてとらえ、日本舊記の記事があやまりと書いているが、現地の久麻那利=熊津(現公州)を理解していない。此の時代は百済と大和は国交の無い時代で、地理や出来事を充分理解せず書いている。もちろん九州王朝と百済との出来事である。
下[口多][口利]の[口多]はJIS第3水準、ユニコード54C6。[口利]はJIS第3水準、ユニコード540E
6 「應神紀」の造作記事
應神三年の記事に、「是歳、百済の辰斯(シンシ)王立ちて、貴国の天皇のみために失禮(ヰヤナ)し、故、紀角宿禰・羽田矢代宿爾・石川宿爾・木菟(ツク)宿禰を遣して、其の禮无(ヰヤナ)き状(カタチ)を嘖譲(コロ)はしむ。是に由りて、百済国、辰斯王を殺して謝(ウベナ)ひにき。紀角宿禰等、便(スデ)に阿花を立てて王として帰れり。」とあるが辰斯王の時代は、高句麗好太王の時代であり、百済は何度も攻められ、王は出先で死んでいる。辰斯王は三九二年薨で、『書紀』の應神の時代ではない。ーー(後述)百済三書引用は神功・應神の次は五代を飛ばして雄略になる。間の仁徳・履中・反正・允恭・安康は三書引用は無く、その間の朝鮮や呉の記事(後述)は大和の造作である。
7 「神功紀」の時代無視
「神功紀」に朝鮮の王達が多数登上するが、
A、波沙寐錦(ハサムキチ新羅五代姿婆尼今AD80〜112)
B、微叱己知波珍干岐(ミシコチハトリカンキ未斯欣新羅十七代奈勿尼師今の王子AD418)
C、宇流助富利智干(ウルソホリチカ干老・新羅十代奈解尼師今の子AD196-230)
の様にAD80〜418年にわたる様々な時代の王の話を集めている。『書紀』編集者は神功を中国史書の邪馬壹(台)国の卑弥呼女王に比定させる為、魏志を引用しているが、これは干支一二〇年持上げている為、無理な造作である。(後述)
以上時代をさかのぼって欽明から神功迄、見て来たが一つの造作が次ぎの造作を生む結果となっている。 
三 百済三書について
1、「百済記」「百済新撰」「百済本記」を百済三書と云う。『書紀』編年の基準として利用されている。その時代は、
「百済記」近肖古王ーー蓋歯王(九代間)(三四六ーー四七五)
「百済新撰」蓋歯王ーー武寧王(五代間)(四五五ーー五一三)
「百済本記」武寧王ーー威徳王(三代間)(五〇一ーー五五七)
三四六ー五五七の二〇〇年余をのべたもので、四〜六世紀を知る上で貴重な記録である。しかし「市民の古代一五集」の拙文でのべた様に、「未だ詳ならず」「名を閾せり」と不明瞭な記事が多出する。『書紀』編者には、充分理解されぬまま利用された。
2、百済三書に使用されている音仮名については、木下礼仁氏の研究「日本書紀と古代朝鮮」がある。(3)大正一五年一月の北里闌(タケシ)氏の、「日本古代語音組織考表図」をもとに百済資料を研究され、百済三書に使用されている音仮名は、他の古典(日本書紀・古事記・風土記・万葉集等)にあらわれないものがあるとされる。これによって『書紀』の分注以外にも本文に迄、三書から引用された部分があるのを知る事が出来る。

A百済資料のみ使用の音仮名
尉(イ)・移(イ)・印(イ)・有(ウ)・意(オ)・我(カ)・哥(カ)・支(キ)・跪(ク)・己(コ)・既(コ)・紫(シ)・支(シ)・酒(セ)・麁(ソ)・直(チ)・至(チ)・奴(ト)・枕(ト)・直(ト)・非(ヒ)・不(フ)・[足皮](ヘ)・本(ホ)・慕(厶)・移(ヤ)・歯(ロ)(二七字)
B日本書紀字音仮名(4)と百済三書共用の音仮名
阿(ア)・意(イ)・加(カ)・岐(キ)・既(キ)・久(ク)・胡(コ)・沙(サ)・佐(サ)・斯(シ)・資(シ)・陀(タ)・多(タ)・致(チ)・都(ツ)・都(ト)・那(ナ)・尼(ニ)・爾(ニ)・比(ヒ)・麻(マ)彌(ミ)・武(厶)・羅(ラ)・利(リ)・魯(ル)・留(ル)・禮(レ)・為(ヰ)・委(ヰ)・烏(ヲ)(三一字)
注)既のみ読みにより両方

Aの百済資料音仮名は他の史書にはあらわれない。例外として推古遣文(1伊予道後温泉碑文・2元興寺露盤銘・3元興寺丈六光背銘・4法興寺金堂釈迦佛光背銘・5天寿国蔓茶羅繍帳銘・6法隆寺三尊佛光背銘・7上宮記逸文・8上宮太子系譜)と上代三金石文(1江田舟山大刀銘・2隅田八幡鏡・3稲荷山鉄剣銘)は百済音仮名と、かなりな親近性をもつ。(但し伊予温泉碑と法隆寺三尊佛光背銘は音仮名は僅少の為、対象よりはずす)
3、推古遣文については、百済より亡命の舟氏のかかわりがみとめられる。(大矢透説)推古遣文は周代の古音が存在し、中国から韓半島を経由して我が国に亡命した百済・伽耶の渡来人とのかかわりも考えられる。舟氏については裴世清と船氏王平、百済僧道欣と舟氏竜、蘇我氏滅亡時に、火中より「國記」を取り出し、中大兄に献じた舟氏恵尺等が知られるが、後の『新撰姓氏録』は「國記」と各氏本系が先行書であり新撰と書かれる由縁であろう。(6)
『姓氏録』序文に、
「・・・國記皆燔。幼弱迷二其根源一。文*強倍二其偽説一。天智天皇儲宮也、船史恵尺奉二進燼書一。」とある。『新撰姓氏録』には、舟氏は、貴須王・大阿良王(安羅か?)の後としている。
4、三書の性格については、
(A)日本の歴史を編纂した『書紀』に、百済の歴史書の如き記事が多数入っている。
(B)特に「欽明紀」は八三パーセントが百済記事で、本来の日本の記事は一七パーセントにすぎず百済の史書の様である。
(C)神功・應神・雄略・武烈・継体・欽明の六代は三書引用で、百済音仮名の頻度が高い。(表1)参照。

表1百済音仮名使用数
巻別神功應神雄略武烈継体欽明その他巻平均
A百済音
仮名使用数14
207230801.3
百済記事58%22%31%19%50.5%83%
(武烈紀は暴虐記事と平群鮪滅亡談が大半をしめる為例外)

(D)百済が五七〇年中国えの朝貢先を、南朝から北朝にかえた為、以後呉音と古代音が無くなっていく。また伽耶(任那)滅亡により、欽明二三年(五六二年)を下限として百済三書は終る。
(E)『書紀』成書の八世紀時点では、百済三書の内容を理解する者が大和には無く(渡来人にも)、「未だ詳ならず」が多出する。
以上の点から伽那(任那)で倭系伽耶人(混血)と、百済人により作成され、九州王権にもたらされていた本が、七〇八年の禁書狩で大和の手に入った後、紀清人等により利用されたと考えられる。 
四 干支二巡持上げ
百済三書引用は、應神から雄略迄飛んでいるが、此の間の『書紀』の外国記事は、大和の造作記事だけである。應神崩御から雄略即位迄の一四六年間である。此の間を干支二巡持上げる事と、雄略二年「百済新撰」の「蓋歯王立つ」の記事を、(三国史記で四五五)二六年前の允恭一八年に、書きかえる(己巳の年と書いている)事により、干支二巡の一二〇年と、この記事二六年で、一四六年繰上げをはかっている。その目的は唯一の女王(神功)を倭女王の貢献記事と合わせ、この引き延ばした一四六年を中国の史書にある倭の五王の時代に置く為である。さすがに倭五王とは書けなかったが、後代の学者達はあれこれと比定して無理をしているのが現状である。(表2)

表2木下礼二氏の「日本書紀と古代朝鮮」より抜粋
記号西暦干支天皇(年)三國史記日本書紀
A二五五乙亥神功55肖古薨
B二六四甲申〃64貴須薨・枕流立
C二六五乙酉〃65枕流薨・辰斯立
D二七二壬辰應神3辰斯殺・阿花立
E二八五己巳〃16阿花薨・直支立
三〇八戌辰〃39直支王(妹新斉都媛)
A'三七五乙亥仁徳63近肖古薨・近仇首立
B'三八四甲申〃72近仇首薨・枕流立
C'三八五乙酉〃73枕流薨・辰斯立
D'三九二壬辰〃80辰斯薨・阿花立
E'四〇五己巳履中崩阿花薨
◎四二九己巳允恭18蓋歯立(百済新撰)雄略二年の記事
◎四五五乙未安康2[田比]有薨・蓋歯立(安康崩四五六年)
☆四七五乙卯雄略19蓋歯薨・文周立蓋歯薨(雄略即位四五七年)

AとA'〜EとE'はすべて一二〇年(干支二巡)差がある。『三國史記』に三九二年辰斯王が、高句麗好太王に攻められて出先で死んだとあることから、王の立・薨記事がすべて正しく『日本書紀」の記事がすべて一二〇年繰上げている事が証明出来る。この一二〇年は三品彰英氏によれば、應神三九年(三〇八年)から一二〇年目の次の年は允恭一八年(四二九年)にあたる。この允恭一八年は蓋歯王立(百済新撰)と雄略二年に書かれた己巳年は二六年引のばす為の造作である。新撰の記事を大和で改変している。ここに一四六年の造作が完成する。「百済新撰に云はく、己巳年に蓋歯王立つ。天皇阿禮奴跪(アレナコ)を遣して、來りて女郎(エハシト)を索(コ)はしむ。百済、慕尼(ムニ)夫人の女(ムスメ)を荘飾(カザ)らしめて、適稽女郎(チャクケイエハシト)と曰ふ。天皇に貢進(タテマツ)るといふ。」という記事で、この己巳年にあたる「允恭紀」に書かれず、雄略二年に(戊戌)記事としてあらわれる事は、允恭をはじめ一四六年間の王の事蹟は造作である事をしめしている。雄略一九年(四七五年)表2の☆印から『三國史記』と『書紀』の記事は『蓋歯王薨』と同一年代となる。この一四六年間別系統の三種の系図を縦につなぎかえて改竄したものである。(6)(系図1)
2、本来の三系統の系図A・B・Cを縦につなぎ一本にしたのがD(書紀造作後の系譜)である。
3、允恭は若子宿禰という特異な名を持っている。本来、宿禰は臣下の名である。中山千夏さんの「新古事記伝」人代上の「孝元条」に(隋書が言うところを倭語に直せば、「日が昇る前はオホエが政務をとり、日が昇ればスクナエが政務をとる」ではないか!宿禰とはアマ倭国のカバネだったに違いない)とある。(6)大国主に対するスクナヒコナに等しい、大臣的なともある。「孝元条」に武内宿禰の子九人(宿禰五人と女二人・葛城長柄曽都比古、そして最後に若子宿禰(允恭)がある。)他の宿禰は地名を冠しているが、若子宿禰にはない。『古事記』の「允恭条」は本人の事はわづかで、あとは死後の話である。『書紀』は一四年をすぎると、二三年、二四年、四二年と飛び、三年間の記事で終わる。引きのばした造作のあとがみえる。
4、應神と仁徳については、枯野という舟を造る話が、『書紀』は「應神紀」五年一〇月に、『古事記』は「仁徳条」に歌入りで書かれている。同一人物を二つに分けて書いたのではないかと、かつて直木孝次郎氏が「イリ王朝とワケ王朝という講演」で話されていた事がある。
5、他の履中・反正・安康治政は6・5・3年とみな短期間で、「安康紀」と「雄略紀」は前号「市民の古代一五集」の拙文でとりあげた様に、音韻による編集の切れ目である。以上により應神と雄略がつづき、その間の五代、一四六年間は(大和の別伝承を)造作挿入された事が判明した。その結果、神功は倭女王に比定出来ず、倭の五王も比定出来ない。 
五 中国との国交
應神・仁徳・雄略に呉の記事があらわれる。中国江南の呉とは時代が異なる。(呉(ゴ)は二八○年西晋により減される。)前項の一四六年繰上げをなくすると、應神は三九〇年以後となり、中国の呉とは時代が異なる。高句麗との説もあるが、(三品彰英・上田正昭)この時代は倭王武の上表文や好太王碑等から考えても交戦にあけくれた高句麗でもありえない。金廷鶴氏によれば、「呉(クレ)」は百済と伽耶の境にあった求礼(クレ)の地とする。又、山尾幸久氏によれば、呉(クレ)織や呉(クレ)衣縫などの渡来人は伽耶地方とする見解がある。現在の馬山の東北で、金海と昌寧の間の城を築いた山地久礼との説もある。(7)「坂上系図」を引く『新撰姓氏録』によれば、逸文、阿智王条は「譽田天皇御世、避二本国乱一、率二母並妻子一、母弟興徳、七姓漢人帰化」とある。阿智王祖先伝承をもつ七姓がある。その中に高向村主と牟佐村主がある。高向村主は未定雑姓右京条に「呉国人小君主後也」とある。続いて、阿智王奉請文が見え、「臣入朝之時、本郷人民離散、今聞編在二高麗百済新羅等國一、望二請使喚來一、天皇即使喚二問之一」とある。三国以外の本郷とは伽那の地である。
『播麿國風土記』揖保郡大田里条の「呉勝(クレノスグリ)」は韓国から渡来し、紀伊国名草郡大田村に定住したとある。彼もスグリ(村主)である。その付近にある岩橋千塚は伽耶式堅穴式横口石室ばかりである。その他呉(クレ)の名前のつく者も多いが、中国系でなくすべて伽耶か百済系である。(表3・4参照)

表3李永植氏の「伽那諸国と任那日本府」より
人名出自伝承推定系統出典
呉勝韓国(カラクニ)加耶系『播麿國風土記』
呉原忌寸阿知使主加耶系「坂上系図」所引
『新撰姓氏録』逸文
呉公雷大臣命(伊賀都臣)
と百済女との混血百済系『新撰姓氏録』山城國神別
・『続日本紀』天応元年七月条
呉服造百済人阿漏史百済系『新撰姓氏録』河内國諸蕃
呉氏百済人徳率呉伎側百済系『新撰姓氏録』未定雑姓右京
・『日本書紀』「孝徳紀」
白雉五年七月条
呉織阿知使主加耶系『日本書紀』「應神紀」
三七年二月・四一年二月条
『古事記』應神条・
『日本書紀』「雄略紀」
一四年正月条
呉服西素
呉衣縫
牟佐呉公呉國王子青清王加耶系『新撰姓氏録』未定雑姓・摂津國
呉王阿知使主との関連加耶系『日本書紀』「應神紀」
三七年二月条
磐余呉琴弾手屋
形麻呂百済國人・呉國人『日本書紀』「雄略紀」
一一年七月条
呉長丹吉士長丹呉氏賜姓『日本書紀』「孝徳紀」
白雉四年五月・七月条
呉原忌寸名妹丸高市郡波多里人韓南部系『日本霊異記』下巻三〇

表4呉の出自伝承をもつ人名と出自推定表(前記李永植による)
人名出自伝承推定系統出典(『新撰姓氏録』)
高向村主呉国人小君王加耶系未定雑姓右京
高向村主魏武帝太子文帝加耶系右京諸蕃下
高向村主阿智王加耶系「坂上系図」所引逸文
工造呉国人太利須須百済系右京諸蕃上
工造呉国人田利須須百済系山城国諸蕃上
祝部呉国人田利須須百済系右京諸蕃下
祝部呉国人田利須須百済系山城国諸蕃
和薬使主呉国主照淵孫智聡南朝系百済人左京諸蕃下
松野連呉王夫差?右京諸蕃上
蜂田薬師呉主孫権王・呉国人都久爾理久爾百済系和泉国諸蕃
小豆首呉国人現養臣和泉国未定離姓
刑部造呉国人李牟意爾加耶系河内国諸蕃
額田村主呉国人天国古百済系大和国諸蕃
茨田勝呉国王孫皓之後の意富加牟枳君加耶系河内国諸蕃

この他にも呉のつく古代人名は多いが、祖先伝承を辿れる者のみとする。
呉が求礼(クレ)又は久礼(クレ)という伽耶地方であれば『書紀』の中国との国交は「推古紀」の遣唐使が初交記事となる。
注、松野連は、古田武彦氏が九州王朝との関連をのべられた事がある。 
六 おわりに
『日本書紀」を前号に続き検証する事により、以下の様な点があきらかになった。
1、外国資料を重ねて造作している事。(特に神功から欽明迄)
2、百済三書の造文・音仮名のさらなる検証により、一段理解が深まり、今後の音仮名の研究の端緒となった。
3、干支二巡と二六年(一四六年間)の挿入が明らかになり、神功を倭女王に合せようとした『書紀』の造作が判明し、倭五王と大和の各天皇を合せる作業が無意味となった。
4、呉の記事の検証により、大和と中国は遣唐使以前に国交を持たない事があきらかになり、世々貢職を修(オサ)む、と書かれた中国史書とはかけはなれたものである。
従来『日本書紀』の編年についての資料批判から、『書紀』の云う神功が倭女王に時代が合わないことは知られていて、邪馬台国大和論者は神功以前の様々な大和の女性を(崇神代の倭迹々日百襲姫ーー肥後和男・景行代の倭姫命ーー内藤虎次郎等)比定したり、箸墓が卑弥呼の墓(笠井新也・原田大六)としたり、現在から見ると無理な比定が多い。
大和の天皇家の正史である『日本書紀』には、委奴国の金印も、倭の五王も、そして多利思北孤のイ妥国など全くあらわれず、『書紀』みずから別国である事を語っている。今後一層の『日本書紀」の検証により、耶馬台国大和説は砂上の楼閣となり、消えさらざるを得まい。 
追記 / 大伴氏・物部氏について
大伴氏は肥後、物部は筑紫を中心に肥前肥後・豊前が本貫地である。
1、大伴氏の一部は神武東侵にしたがって(道臣から室屋迄と磐井の乱の前に物部麁鹿火の言葉の様に)大和入りし、天皇家の権力掌握と共に権力の中心にのぼっていった。九州本貫の大伴氏(大伴武日連・大伴談・大伴狭手彦・大伴磐そして大伴津麿呂・大伴部博麻等)は、「君が代、うずまく源流」に「海ゆかばの歌」と共に古賀達也氏の論証にくわしくのべられている。
2、物部氏は北九州一円に広がるが、一部は饒速日命と共に大和入りし(『旧事本紀』の天神本紀にあり)、天津麻良をはじめ物部二十五部(筑紫弦田物部・鞍手二田物部・肥後益城当麻物部・遠賀嶋戸物部・宗像赤間物部・豊前企救聞物部・鞍手贄田物部等)が従ったとある。ーー谷川健一「白鳥伝説」
高良山の主神、高良玉垂命については諸説があるが、(武内宿禰説・彦火々出見説・筑紫君祖神説・物部氏神説等)物部氏が代々、大祝をつとめている。(物部胆咋連等)ーー太田亮・「高良山史」
金村と麁鹿火は九州王権下の失政(四県割譲)により、大和え鞍替えした。
(1)「韓国の古地名の謎」光岡雅彦
(2)「任那滅亡と古代日本」角林文雄
(3)「日本書紀と古代朝鮮」木下礼仁
(4)「日本書紀字音仮名一覧」大野晋
(5)「日本古代の政治と経済」角林文雄
(6)「新古事記傳」人代の巻上・下中山千夏
(7)「加耶諸国と任那日本府」李永植 
 
倭国の暦法と時刻制度

 

一、はじめに
『令集解』巻三・職員令・中務省・陰陽寮の条には、陰陽頭(かみ)の職掌として、「天文、暦数、風雲の気色、異あらば密封奏聞することを掌る」とある。その暦数の注釈をみると、『令義解』の分注からの引用は、「暦数は、日月の度数を計りて、而して暦を造り、時を授くるなり」と、一般的・抽象的な定義をしているに過ぎない。
ところが、「古記」は、「暦数は、十九年を一章と為し、三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、十一年閏十一月、十四年閏八月、十七年閏五月、十九年閏十二月とす。閏を置かざれば、未だ三年に盈(みた)ざるに一月差(たが)ひ、正月を反て二月と為す。未だ九年に盈(みた)ざるに、巳に、三月を校(かぞ)へ、則ち春を以て夏と為す、未だ十七年に盈(みた)ざるに、則ち六月差校し、便(すなわ)ち春を以て秋と為す。」と注釈している。「古記」は(1)一九年を一章とし、その間に閏月を七回置くという、章法に基づく暦法を説き、(2)閏月を置く基準として、一章の中の第何年目に閏何月を置くという型を示し、(3)そして、もし閏月を置かなければ、季節が定まらず、年月が整わないという、不都合が起こるという。「古記」は暦数の注釈を、具体的な暦法でもって説明しているのである。
「古記」は、「大宝令」の注釈書であって、天平一〇(七三八)年頃に成立したという。その頃の日本国では、儀鳳暦が行われていた。儀鳳暦は、章法から脱却した破章法による暦法であって、「古記」が示すような固定的な閏月の型を示さず、閏月は次第に進行する性質を持っている。「古記」が解説する暦法は、儀鳳暦ではない。
栗原治夫も、「古記」が十九年七閏法を挙げて暦数を説明しているのは、実情に合わないという。(1)そして、桃裕行は、「古記」の閏月を、基準としての下限を示しているものと見て、元嘉暦の閏月の型を示したものであるという。(2)これに対して、大谷光男は、「古記の閏月は元嘉暦ではない。古記の閏月の順位は、儀鳳暦(麟徳暦)によるものである。・・・が、無理した解釈は避けたい」という。(3)
しかし、「古記」の暦数についての注釈は、内山守常が指摘するように、『春秋正義』文公元年条と『尚書正義』尭典の文章の一部を抜粋して合成・修飾したものである。(4)そして、『春秋正義』は、「古記」のいう暦数を、古暦と称している。この古暦は、後漢四分暦と同じ四分暦法に基づく暦である。元嘉暦・儀鳳暦は四分暦法によっていない。
「古記」は、暦数の注釈において儀鳳暦を説かず、『日本書紀』・『続日本紀』において採用したという記事もない、古暦を示しているのである。そうすると、この古暦は、大宝元(七〇一)年日本国(近畿天皇家)が倭国(筑紫・九州王朝)に替わって日本列島の代表王者となる以前、倭国において施行されていた暦法ではあるまいか?
次に、『令義解』巻五・官衛令・開閉門条には、宮門の開閉は太鼓の合図によってなすことが規定されており、その分注において「鼓を撃つの時節は、別式有る可し」とある。その別式は、『延喜式』第一六・陰陽寮・諸門鼓条にある開門・閉門時刻の記載が対応している。それによると、一年を四〇の期問に区分し、各期問の日出・日入時刻と宮門開閉の鼓を撃つ時刻が指定されている。その時刻法は、一昼夜=一二辰刻、一辰刻=四刻、一刻=一〇分(ぶ)という、一日四八刻法をとっている。
『延喜式』は、康保四(九六七)年施行されている。ところが、元嘉暦・儀鳳暦はもちろん、貞観四(八六二)年から始行された宣明暦は、一日=一二辰刻=一〇〇刻法を採用している。中国においても、隋唐代を含め歴代十朝は、大体一日一二辰刻=一〇〇刻法をとっており、四八刻法であったことはない。
斎藤国治は、日出・日入時刻はその土地の緯度の関数であるから、『延喜式』の日出・日入時刻曲線は全般的に見て北緯三三度曲線との一致がよいが、夏至付近の日出と冬至付近の日入の部分は三五度曲線と一致するので、緯度が右の範囲に入る古代の首都は、京都平安京(北緯三五度)が第一候補であるという。(5)しかし、倭国の首都に存在した太宰府は、北緯三三度強に位置する。
そうすると、『延喜式』の日出・日入時刻は、むしろ倭国(筑紫)において採用されていた四八刻法に基づく日出・日入時刻を受継し、それに多少手を加えたものではないだろうか? 
二、「古記」の暦数
『十三経注疏附校勘記』(清・阮元校勘)に収録された「春秋左伝注疏・巻第十八」・「伝」文公元年条の「疏」には、次のような注釈がある。
正義曰、古今暦法、推閏月之術、皆以閏余、減章歳余、以歳中乗之、章閏而一、所得為積月、命起天正算外、閏所在也、其有進退、以中気定之、無中気則閏月也。古暦、十九年為一章、章有七閏、入章三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、十一年閏十一月、十四年閏八月、十七年閏四月、十九年閏十二月、・・・大率三十二月則置閏・・・。
「古記」が、陰陽頭の職掌の一つである暦数の注釈に、右の『春秋正義』の文章から引用していることは明白である。なお、「古記」は、「十七年閏五月」とするが、暦法上は『春秋正義』の「十七年閏四月」の方が正しく、「古記」の方は誤写であろう。
また、『十三経注疏附校勘記』・「尚書注疏巻第二・堯典第一」・「経」の「乃命羲和」・「伝」の「咨嗟」条の「疏」の終わりの方には、次のような注釈がある。
正義曰、・・・所以無閏時不定歳不成者、若以閏無三年、差一月、則以正月為二月、毎月皆差、九年差三月、即以春為夏、若十七年差六月、即四時相反、時何由定歳、何得成乎、故須置閏、以定四時。
「古記」の閏月を置かない場合の不都合を説明した部分は、右の『尚書正義』から採って修飾したものであろう。
「古記」は、これに続けて、(1)「春秋正義に曰く、古今の暦を言うものは大率(おおむね)皆周天を以て、三百六十五度四分度の一と為す。・・・故に一歳を十有二月と為す。日月は動くものにして、行度に大量有りと雖も、少しく盈縮有らざること能はず」、(2)「また曰く、期は三百有六旬〔有六日〕、謂えらく、冬至より冬至に至る、必らずこの数を満す。・・・暦法に於ては〔一日を〕分けるに九百四十分となし、月行日に及ぶは必ず四百九十九分なり。これ半ばを二十九分過ぐ。今一歳周は、三百六十五日四分日の一あり。・・・。一巻正義文」という。
右の文章のうち、(1)の部分は、『十三経注疏附校勘記』「春秋左伝注疏巻第三」・「経」隠公三年条の「疏」の中にみえ、(2)の部分は同書「春秋左伝注疏巻・第十八」・「伝」文公元年条の「疏」にある。これらは、四分暦法を解説したものであって、「古記」のいう暦数が四分暦法であることを証明している。
『五経正義』すなわち『周易正義』・『尚書正義』・『毛詩正義』・『礼記正義』・『春秋正義』は、貞観一二(六三八)年唐の太宗の命により、孔穎達等が撰修を開始し、貞観一六年審定成り、永徽*四(六五三)年長孫無忌等によって刊定され、高宗に奉られた。
『五経正義』は、五経に対する最良の注釈書を選択し、更にこの注釈書を再注釈した書物、すなわち六朝時代に作成された多くの義疏の中から最良のものを選定し、これを基本としてその不備を次善のもので補ったものである。(6)(7)『春秋』の注は西晋・杜預撰『春秋左氏経伝集解』、義疏は隋・劉[火玄](五四九〜六一七)撰『春秋左氏伝述義』と陳・沈文阿(五〇四〜五六三)撰『春秋左氏経伝義略』が選択されている。『尚書』の注は前漢・孔安国の『孔子伝』、義疏は隋・劉[火卓](五四四〜六一〇)撰『五経述義』と隋・劉[火玄]撰『尚書述義』が選定された。
徽*は、攵の代わりに于。
劉[火玄]の[火玄]は、JIS第3水準、ユニコード70AB
劉[火卓]の[火卓]は、JIS第四水準、ユニコード712F
の[端頁](せん)は、立つ無。JIS第3水準、ユニコード9853、[王頁](ぎょく)は、JIS第3水準、ユニコード980A
『五経正義』は、六朝時代の義疏の集大成であって、六朝四〇〇年に渡る時代が、その年月と共に徐々に堆積して行った講説の集成である。「正義」の多くは隋の劉[火卓]・劉[火玄]という二人の学者の「義疏」に基づくが、この二人の学者の書も更に基づくところがあるらしく、「二劉」の基づいたものは、更にまた基づくものがあろうという。(8)
『春秋正義』が説く古暦も、古暦というからには、六朝以前のものであろう。そして、前漢太初暦以降の正朔は、その名称と暦法が「正史」に記録されているのであるから、古暦とはそれ以前のものをいう。すなわち、『春秋正義』のいう古暦は、黄帝・・夏・殷・周・魯の名を冠した古六暦などを一括して指しているようである。『尚書正義』堯典は、それらの六暦は秦漢の際に仮託して制作されたものであって、古代の真の暦は戦国と秦を経て亡んだが、そのあらましの説だけは残っていて、一年を三六五日と四分の一日、一月を二九日と九四〇分の四九九日とし、一九年間に七回の閏月を置くという。劉宋・祖沖之は、この六暦は四分暦法に基づいているという(『宋書』巻一三・律暦志下)。同じ四分暦ではあっても、六暦の暦元はそれぞれ異なっており(『後漢書』志第三・律暦下、『開元占経』巻一〇五)、それが名称を異にする大きな理由である。
六暦の置閏法は、本来歳終置閏(年末閏)であろうが、祖沖之を始めとして一般には歳中閏としている。(9)周初には歳終置閏が行われており、『春秋左伝』の暦日資料を基に新城新蔵(10)が作成した暦譜によると、、二四節気の成立に伴ない、前七世紀末頃から歳中閏が一般的になったに過ぎない。ところが、『春秋正義』が示す古暦の置閏月は、復元された六暦や後漢四分暦の置閏月とは、必ずしも一致しない。(9)(11)
ともあれ、『春秋正義』のいう古暦は前漢代から流行した讖緯(しんい)説(12)〜(14)に依拠して主張された六暦(前漢四分暦)の系統に属するものであろう。それはまた、後漢四分暦法と本質的には同じ暦法である。この古暦が、六朝時代に伝承され、隋の劉[火玄]撰『春秋左氏伝述義』に採録され、『春秋正義』に収録されたのである。隋代には、『四分暦』(梁・四分暦三巻、漢・李梵撰)という書物も存在している(『隋書』巻三四・経籍志三)。
ところで、秦の始皇帝二六(前二二一)年から前漢の武帝太初元(前一〇四)年の前まで行われた暦法は、(せんぎょくれき)と称せられている。この暦法は、古・の歳首の位置を孟春正月から孟冬一〇月まで月名を変更せず、そのまま引き上げ、歳終置閏(=閏九月)としたものである。漢初に秦のが用いられていたこと(『史記』巻九六・列伝第三六・張蒼伝賛、『漢書』伝第一二・張蒼伝賛)については疑問視されていた。しかし、一九七二年山東省臨沂から二座の前漢墓が発掘され、その第二号墓から竹簡暦書が出土し、その中に前漢の武帝元光元(前一三四)年の暦と推定されるものがあり暦元の時刻の旦を正午に改めることによって、竹簡暦書の干支と一致することが判明した。(15)これによって、漢初には秦のが受け継がれていることが立証された。
前漢の武帝太初元(前一〇四)年夏五月、受命改制の指導原理の下に改暦が行なわれ、太初暦が前漢一代の暦法となった。太初暦は、一カ月の日数を二九日と八一分の四三日とする八一分法を採用している(『漢書』律暦志第一・上、『後漢書』志第二・律暦中)。そして、前漢末に劉[音欠]の手で増補されて三統暦となった。(16)・(17)
劉[音欠]の[音欠]は、JIS第三水準、ユニコード6B46
ところが、『史記』巻二六・暦書第四に見える暦術甲子篇には、武帝太初元(前一〇四)年から成帝建始四(前二九)年に至る七六年間の暦譜が記されている。この暦譜の定数は、四分暦法のそれであって、七六年という年数も四分暦法では、一蔀という周期に当っている。そのため、太初暦は四分暦法であるという説がある。(18)
しかし、『史記』は征和二(前九一)年頃成立し、撰者司馬遷は昭帝始元元(前八六)年頃に死亡しているので、暦術甲子篇の暦譜は、後人の増補になったものと考えられる。(16)それはスタインが敦煌で発見した漢暦の断簡中に神爵三(前五九)年のものが、八一分法に拠っていることからもいえよう。(19)
後漢でも三統暦が使われていたが、明帝永平五(六二)年頃には、暦面で実際の天象より一日の後れが目立ってきた。そこで、張盛等が四分暦法をもって推算して天象に一致する結果を得たので、編訴*・李梵等が四分暦を整理し、章帝元和二(八五)年から施行された(『後漢書』志第二・律暦中)。(20)(21)一年の長さを三六五日と四分の一日と、分数部分(斗分)が四分の一であることから四分暦と名付けられた。この後漢四分暦は、後漢一代の暦法となり、魏では青龍四(二三六)年まで、蜀では炎興元(二六三)年まで、呉では一年間(二二二)使用された。そして、後漢四分暦で当てた年の干支は、その後連続して継承され今日に及んでいる。(22)(23)
編訴*の訴*は、言偏に斤。 
三、倭国の暦法
それでは、倭国が中国の暦を受容するようになったのは、いつ頃からであろうか?
『二中歴』にいう「年代歴」は、倭国年号(九州年号)を年代記の形で所載した文献としては、最古のものである。(24)(25)「年代歴」の冒頭には「年始、五百六十九年内三十九年、号無く支干を記さず、其の間縄を結び木を刻み、以て政を成す」とある。続いて、「継体五年元丁酉(26)」から始まり、「大化六年乙未(27)」に終る年譜が記されている。年譜には、結縄刻木が止められたのは、明要元(五四一)年辛酉とある。
そうすると、倭国の「年代歴」の年始は、「継体元(五一七)年丁酉」から遡る五六九年、すなわち前五二年である。古田武彦は、この年が天孫降臨による倭国建国の年であるという。(28)それから三九年問、前一三年までは、結縄刻木により政治を行ない、無号不記支干であった。前一三年から五一七年までの間は中国年号・干支を用いた。そして、五一七年から倭国年号・干支が制定施行され、大化六(七○○)年まで続いたのである。
ところで、このような『二中歴』の「年代歴」を証明する証拠は存在するのだろうか?
まず、「室見川の銘版」がある。「高暘左・王作永宮齋鬲・延光四年五」と刻まれた、文鎮状の天然真鍮製の金属片である。古田武彦は次のように解説している。(28)(29)
(1)古暘左〈大篆〉=暘谷(日の出る所)の東(倭同)(2)王作永宮齋鬲〈大篆〉=(倭国の地に)倭王は宮殿と宝物を作り賜うた。(3)延光四年〈漢字〉五〈篆体〉=今、延光四(一二五)年五月(この銘版を刻す)
古田は、この金属片は室見川の中・上流域の弥生期の宮殿から流水によって河口に至ったと理解していた。それに答えるかのように、最近、室見川の上流域の吉武高木遺跡から最古の三種の神器が、その遺跡の東側から宮殿群跡が出土している。これらは、弥生中期初頭に位置づけられている。しかし、古田は引き続き卑弥呼の時代に成っても、吉武高木の弥生中期風の神殿群は、天孫降臨当時の聖地として、崇敬の対象となっていたという。(28)
倭王は、後漢の光武帝から建武中元二(五七)年、「漢委奴国王」の印授を賜っている。倭王は、天孫降臨以降、一世紀かけて九州とその周辺地域を平定統一し、倭人の代表王者と認められたのである。そして、安帝永初元二〇七)年には、倭王帥升等が、生口一六〇人を献上して、皇帝の接見を願い求めている。「室見川の銘版」に刻まれた延光四年五月という後漢の年号と暦月は、倭王が後漢の正朔を奉じていた証拠であろう。
次に、景初二(二二八)年、魏の明帝は、倭国の女王卑弥呼を「親魏倭王」となし、金印紫綬を授与している。そして、正始八(二四七)年、帯方郡太守王[斤頁]は、寒曹橡*史張政等を倭国に派遣し、張政は泰始二(二六六)年まで倭国に滞在していたと思われる。(31)〜(33)張政は、当然のことながら魏の暦を携えて、倭国に赴任してきたのであろうし、卑弥呼は魏の正朔を奉じたであろう。
橡*は、木編の代わりに手編。
王[斤頁]の[斤頁]は、JIS第四水準、ユニコード980E
魏では、明帝景初元(二三七)年に受命改制の説によって改暦が行われ、景初暦を採用した。景初暦は、一九年一章七閏の章法をとるが四分暦ではなく、後漢の劉洪が作った乾象暦を基礎にしている。乾象暦は、呉においては黄武二(二二三)年から天紀四(二八○)年の滅亡まで用いられた。(16)
西晋の武帝は、泰始元(二六五)年、景初暦の名称を泰始暦と改めただけでそのまま踏襲し、事実上、魏の正朔を改めなかった。
壱与は、泰始二年、西晋に入朝している。卑弥呼・壱世の時代、倭国においては、景初暦・泰始暦が行われていたと見ることができよう。卑弥呼は、正始元年(二四〇)年、魏の斎王に上表文を呈しているが、そこには景初暦に基づく年月日が記されていたことは確実であろう。景初暦の使用の痕跡は、古墳時代初期の古墳から出土するなどした「景初元年鏡」・「景初四年鏡」・「正始元年鏡」などの魏の年号を持つ紀年鏡であろう。そして、「元康元年八月廿五日鏡」(伝京都府山城町上狛古墳出土)は、西暦二九一年の西晋の紀年を鋳出している。
さらに石上神宮に神宝として伝わる七支刀は、百済王世子が倭王旨のために「泰和四(三六九)年五月十六日丙午正陽」に造ったものであるが、泰和は東晋の年号である。倭王も百済王も、東晋の天子の下の候王であることを物語っている。そして、倭王讃は、東晋の魏煕九(四一三)年、安帝に方物を献じている。倭国は、西晋・東晋朝を通じて、晋の正朔を奉じ、泰始暦とその年号を使っていたと見てよいのではあるまいか。
次の南朝劉宋の時代には、永初二(四二一)年倭王讃が修貢したのを始めとして、いわゆる倭の五王が遣使頁献した。倭の五王は、南朝の冊封下に参入することを願い、大将軍の称号を得ることを希求したのである。そして、元嘉二(四二五)年、倭王珍が安東将軍・倭国王に除せられ、倭王済・興・武も官職・称号を授与されている。特に、倭王武は、昇明二(四七八)年、順帝に上表して臣と名乗り開府儀同三司と自称し、使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に除せられている。倭の五王のうち珍・済・興・武は、南朝の正朔を奉じるべき地位に就いていたのである。(34)
南朝劉宋においては、永初元(四二〇)年劉裕(武帝)が東晋の恭帝から禅譲を受けて天子の位につき、その六月に泰始暦を改めて永初暦となしたが、名称を変えただけで晋の正朔をそのまま踏襲した。しかし、永初暦は天象と合致しなくなっていた。そこで、何承天が永初暦の改革を行ない、元嘉暦の名の下に文帝元嘉二二(四四五)年から施行された。元嘉暦も景初(泰始・永初)暦と同じく、四分暦ではないが章法をとっている。元嘉暦は、南斉(建元暦と改名)を経て、梁の武帝天監八(五〇九)年まで行われた。(16)
倭王武は、南斉の高帝建元(四七九)年鎮東大将軍に任ぜられ、梁の武帝天監元(五〇二)年征東将軍に進号している。ここまでは、倭国が南朝の冊封下にあったといえよう。(35)倭王済・興・武は、元嘉暦と南朝の年号を用いていたと思われる。
ところが、『二中歴』によると、継体元(五一七)年から倭国年号が始まり、大化六(七〇〇)年まで、一八四年間継続し、その間三一の年号を数える。
倭国が独白の年号を建てたということは、南朝の冊封体制から離脱し、自立したことを意味している。倭国は、自前の律令を制定し、南朝の暦を捨て、新たな暦を作ったのである。
それでは、倭国年号が乗っていた暦は、どのような暦法に基づいていたのであろうか?それは、『令集解』陰陽寮条の「古記」に見える「暦数」なのではあるまいか。「古記」の説く暦法は、後漢四分暦と同じく四分暦法・章法をとり、『春秋正義』が古暦(前漢四分暦)として記録している暦法である。倭国は、中国古代の由緒ある暦法と考えられていた四分暦法を採用していたのである。 
四、日本国の暦法
白村江の戦で唐に完敗した倭国に代わり、これを併合して八世紀以降日本列島の代表王者となった日本国は、どのような暦を用いていたのであろうか?
『日本書紀』持統天皇四(六九〇)年一一月甲申(一一)日条には、「勅を奉じて始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行う」とある。一方、『政事要略』(惟宗允亮、長安四年・一〇〇二)巻二五には、「儒伝に云う、小治田(推古)朝十二(六〇四)年歳次甲子正月戌申朔(37)を以て、始めて暦日を用う」と載っている。
しかし、『三代実録』清和天皇貞観三(八六一)年六月条には、「六月甲辰朔、・・・十六日己未、始めて長慶宣明暦経を頒行す。是より先、陰陽頭従五位下兼行暦博士春日朝臣真野麻呂奏して言ふ。謹しみて検するに豊御食炊屋(とよみけかしやき)姫(推古)天皇十年十月、百済国の僧観勒始めて暦術を貢る。而して未だ世に行はれず。高天原広野姫(持統)天皇四年十二月、勅有りて始めて元嘉暦を用ひ、次に儀鳳暦を用ふ。高野姫(称徳)天皇天平宝字七(七六三)年八月儀鳳暦を停め、開元大衍暦を用ふ」とある。
すなわち、歴代の暦博士の中で最も優れた中国暦術の大家であった大日春真野麻呂は、推古天皇の時代に暦書は渡来したが、未だ世に行なわれず、持統天皇四(六九〇)年になって始めて元嘉暦を用い、次に儀鳳暦を使ったという。
現存する『日本書紀』が、どのような暦法を用いているかについては、小川清彦の論文「日本書紀の暦日に就いて(第五稿(38))」によって、一応解明されている。小川は、『日本書紀』の暦日は三個の閏字の脱落があることを認めれば、五世紀の半ばまでは儀鳳暦の平朔、以後は元嘉暦によって推算したものであるという。この事実は、『日本書紀』が持統天皇四年に始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行なったといっていること自体に、疑いを生じさせる。
しかし、内田正男は『日本書紀』の暦日を分析し、持統天皇五年は元嘉暦と「書紀」は完全に一致するが、儀鳳暦によれば四回も違ってくるので、暦の正式採用は、持統天皇六年からであるという。そして、持統天皇一一(六九七)年七月までは、暦日は元嘉暦が主に用いられ、文武天皇元(六九七)年八月以降は儀鳳暦に一致するようになるという。また、内田は、「元嘉暦儀鳳暦併用の意味は、月朔は元嘉暦を主にし、日食予報には儀鳳暦を用いたということであろう。これによって持統五年により、初めて記載されだした日食の予報記事の説明もつく」という。(39)
ところが、持統天皇が譲位し即日文武天皇が即位したという、持統天皇一一年八月朔=文武天皇元年八月朔の干支を、『日本書紀』は乙丑と元嘉暦を採用しているが、『続日本紀』では甲子と儀鳳暦を採っている、という矛盾がある。(40)日の干支は、暦法の如何によらず、連綿として連続している。(41)したがって、甲子は乙丑の前日に当たるから、「続紀」の文武天皇の即位記事は、「書紀」の持統天皇の譲位記事の前日となる。「続紀」が、「書紀」が八月朔を乙丑としているのを熟知しながら、八月朔を甲子としている事実は、双方とも真実の持統譲位・文武即位の日の干支ではないことを、言外に示唆しているように思われる。近畿天皇家は、倭国の暦を用いて、持統譲位・文武即位の日を記録していたのではあるまいか。
しかし、「妙心寺梵鐘」の「戊戌(六九八)年四月十三日壬寅収」と、「那須国造碑」の「歳時庚子(七〇〇)年正月壬子日」は、いずれも儀鳳暦に合致する。(42)
唐においては、則天武后よって永昌元(六九〇)年二月、夏正(立春正月)が廃されて周正(冬至正月)が採用され、暦法も変更されようとしていたが、久視元(七〇〇)年一〇月には夏正に復し、暦についての混乱が終っている。
そして、『続日本紀』は、文武天皇五(七〇一)年三月甲午(二一)日「元を建てて大宝と為す。始めて新令によりて官名・位号を改制す」という。日本国は、この頃には儀鳳暦を公式に採用したのであろう。
大宝元年以降、儀鳳暦を使用していたことが確認できる最初の物証は、藤原宮跡東面大垣外濠から出土した暦断簡様の木簡である。それには、「五月大一日乙酉水平七月大一日甲申」と記載されている。右地点から出土した木簡は、文武朝ないし元明朝の紀年銘を持ったものが多いので、慶雲元(七〇四)年が該当する。すなわち、藤原京時代前後において五月と七月が大の月であり、かつ、月朔干支が乙酉と甲申である年は慶雲元年以外は存在せず、十二直の平は酉の日に当っており、これは五月節に含まれているからである。(43)(44)
正倉院文書の「天平十八年具注暦」・「天平二十一年具注暦」・「天平勝宝八歳具注暦」も儀鳳暦に一致する。(45)〜(47)
西暦四四五年から一八七一年の間の暦日は、内田正男が『日本暦日原典』(一九七五)に復元している。(48)そして、岡田芳朗は、奈良時代の古文書・古記録・金石文・『続日本紀』の月朔干支などを基に、奈良時代に実際に行われた、暦日を復元している。(49)〜(51)それらは、称徳天皇天平宝字八(七六四)年、大衍暦が始行されるまでは、儀鳳暦が用いられていたことを証明している。しかし、推算、暦による正旦日食を避けるために、進朔・退朔などの形で日を動かしているので、『日本暦日原典』や唐の麟徳暦とは、完全に一致しない。(52)(53)
さて、『日本書紀』を始めとする六国史は、「古記」の説く四分暦を用いたとは主張していない。六国史の暦日においても、四分暦は採用されていない。したがって、「古記」にみえる四分暦は、近畿天皇家が施行した暦ではありえない。
「古記」は、和銅六年二月一九日格・慶雲三年九月一〇日格(『令集解」巻十三・田令)などを引用しているので、「大宝令」の注釈書であることは否定できない。その「大宝令」は、「大略、浄御原朝廷を以て准正と為す」(『続日本紀』大宝元年八月癸卯条)という。「浄御原令」については、『日本書紀』持統天皇三(六九八)年条に「諸司に班賜す」とありながら「令」制定の記事はない。古田武彦は、この事実は「浄御原令」が天皇家自身の制定によるものではなく九州王朝(倭国)系の「令」に依存していることを示しているという。(54)そうすると、「古記」の暦数についての注釈は、倭国の「令」の注釈書に依拠していると考えてよいであろう。
それでは、「大宝令」の注釈書である「古記」が、なぜ暦数の注釈に、儀鳳暦ではなく倭国の四分暦を示したのであろうか?
それは、大宝元年以降も、近畿天皇家といえども、倭国の支配領域において長期間実施され社会生活に定着し、かつ正当性を有していた倭国の暦を、一気に廃絶することができず、「養老令」が施行される天平勝宝九(七五七)年頃までは、(それ以降もしばらくの間は・・・)倭国の承継者として併用していたからであろう。 
五、古代の時刻制度
『延喜式』第一六・陰陽寮・諸門鼓条には、一年を四〇の期間(七日〜一八日の不等区分)に区分し、各期間の日出・日入時刻と諸門・大門の開閉の鼓を撃つ時刻が記載されている。(55)例えば、第一番目と第三七番目の日出・日入時刻を取り上げると、次のようになっている。
起二大雪十三日一至二冬至十五日
日出辰一刻二分(注・七時六分)
日入申四刻六分(注・四時四八分)
起二立冬五日一至二十二日
日出卯四刻五分(注・六時四五分)
日入酉一刻五分(注・五時一五分)
季節によって日出・日入時刻が異なっているので、諸門鼓条に書かれている時刻法は、定時法によっている。それらの時刻を分析すると、一日は一二辰刻で干支の一二支が当てはめられ、一辰刻は四刻(零刻はなく、一刻から始まる)、一刻は一〇分(ぶ零刻から九分=終まで)となっている。(56)〜(58)したがって、一日は四八刻である。現用時でいうと、一辰刻は二時間、一刻は三〇分(ふん)、一分(ぶ)は三分(ぷん)である。子時は、午後一一時から始まり午前一時までの二時間をいい、午前零時は子時の三刻に当たる。
一日が四八刻であることは、『令集解』(惟宗直本、貞郷年間・八五九〜八七七)巻三五・公式令・百官宿直条の注釈に「日夜四八尅」とあることによっても確認できる。
『延喜式』の諸門鼓条は、『令義解』(清原夏野等撰、天長一〇年・八三三)巻二四・官衛令・開閉門条の分注「鼓を撃つの時節は、別式ある可し」に対応したものであろう。『延喜式』(藤原時平・忠平等撰)は、弘仁・貞観の二式を集成して、新たに弘仁・貞観・延喜の三代の格に対応する式としたものである。延喜五(九二七)年奏進され、康保四(九六七)年にいたって施行された。したがって、一日四八刻法は、当時の日本国における公式の時刻法であろう。
ところが、貞観四(八六二)年からは、宣明暦が始行されており、その暦法においては、一日一二辰刻=ー○○刻法なのである。宣明暦は、唐においては長慶二(八二二)年から景福元(八九二)年まで施行されたが、日本では貞享元(一六八四)年まで八二三年の長きにわたって、この暦法が用いられた。
中国における時刻制度は、歴代王朝において、大略一日一二辰刻=一〇〇刻法を採用していた。前漢の哀帝建平二(前五)年六月から八月までの間、一二〇刻法に改められたほか、梁の武帝が天監六(五〇七)年九六刻法、大同一〇(五四四)年一〇八刻法を採用したが、陳の文帝天嘉年間(五六〇〜五六六)の頃には再び、一○○刻法に復している。(59)そして、清の時代になって時憲暦に九六刻法が採用されるまで、一○○刻法が定着していた。もともと、元嘉暦・儀鳳暦・大衍暦・五紀暦・宣明暦の暦法上の時刻法は、いずれも一〇〇刻法であって、日本国において四八刻法を採用しなけれぱならぬ暦法上の必然性は、まったく存在しないのである。
ところで、宣明暦時代の具注暦の暦注には、一年間の日出・日入時刻と昼夜の時刻数が、節気を中心に四〇日分記載されている。(60)〜(61)この四〇日は、『延喜式』の諸門鼓条に記された四〇の期間にほぼ対応している。そこで、先に例示した諸門鼓条の第一番目と第三七番日に対応する、宜明暦の日出・日入時刻を取り上げると、次のようになっている。
十一月十三日
四十刻・夜六十刻
日出辰初二分(注・七時九分三六秒)
日入申三刻四分半(注・四時四七分)
十月五日
四十四刻・夜五十六刻
日出卯三刻五分(注・六時五〇分二四秒)
日入酉初二分(注・五時九分三六秒)
具注暦の日出・日入時刻も定時法で、一日を一二辰刻に分け、一辰刻は四刻一分(ぶ初=零刻から始まる)、一刻は五分(零分から始まり、四刻のみ一分まで)、一辰刻は合計二五分である。そして、「正」は一辰刻の真中二刻○・五分となる。したがって、一日=五〇刻法が採用されている。(56)〜(58)現用時でいうと、一辰刻は二時間、一刻は二八・八分(ふん四刻のみ九・六分)、一分(ぶ)は四・八分(ふん四分四八秒)となる。
一方、具注暦の昼夜の時刻も定時法によっているが、一日=一〇〇刻法である。春分・秋分の昼夜の時刻が各五〇刻であるので、昼とは日出から日入までの時間をとっている。しかし、具注暦の昼の時間数は、日出・日入時刻から得られる時問を二倍して一日を一〇〇刻に換算した昼の時間数とは一致しない。(59)(60)両者はまったく異なった時刻法に基づいて算出されているのである。
日本で宣明暦が行われていた当時の中国の暦を見ると、例えば、北宋の大中祥符三(一〇一〇)年の儀天暦には、二四節気の日出・日入時刻と昼夜の時刻が記載してあるが、両者の昼の時刻数は一致している。(59)中国では、両者共一日一二辰刻=一○○刻法をとっているからである。
それでは、奈良・平安時代には、どのようにして時刻を測定したのであろうか?
『令義解』巻一・職員令・陰陽寮条に、「漏剋博士二人。守辰丁を率ゐて漏剋の節を伺ふ事を掌る。守辰丁二十人。漏剋の節を伺ひ、時を以て鐘鼓を撃つことを掌る」とある。
そして、『延喜式』巻一六・陰陽寮・諸時刻条には、「諸の時に鼓を撃つ。子午には各々九下、丑未には八下、寅申には七下、卯酉には六下、辰戌には五下、巳亥には四下。みな平声。鐘は刻数に依れ」とある。
すなわち、漏刻博士が漏刻(水時計)によって時刻を知り、守辰丁に指示して、時刻の鼓鐘を打たしていたのである。
正倉院文書にも、漏刻博士の勤務状況を評定した「官人考試帳」が残っており(『大日本古文書』二四巻)、漏刻博士、漏刻に関しては、一二世紀末までその存在が確認されている(61)(『玉葉』、『三長記』など)。
清少納言も、長徳元(九九五)年陰陽寮と鐘楼を実現して、『枕草子』に「時司などは、ただ(太政官朝所の)かたはらにて、(鐘楼の)鐘の音も例には似ず聞ゆる」(一六五段・故殿の御服)と記し、また、時刻については「時丑三つ、子四つなど、時の杭さす音など、いみじうをかし。子九つ、丑八つなどこそ、里びたる人は言へ、すべて四つのみぞ杭はさしける」(二六九段、時奏)と述べている。
崇徳天皇大治二(一一二七)年二月一四日、大内裏に火災があり、陰陽寮、鐘楼など皆焼損したが、渾天図、漏刻器は取り出されている。この鐘楼は、桓武天皇が平安京に遷都したときに作られたもので、その後火災にも逢わず三三七年経たものであったという(『中右記』・藤原宗忠)。しかし、順徳天皇の時代(一二一〇〜一二二十一)には、時を奏するとき「上古ハ随テ一陰陽寮ノ漏刻ニ一奏スレ之ヲ。近代ハ指シ計リ蔵人ニ仰レ之ヲ丑杭以後ヲ為二明日分ト一」(『禁秘抄』奏時事条)というように、陰陽寮の漏刻は存在しなかったようである。
これらの漏刻が、どのような形状をし、その時刻法が、どうなっていたかは、文書も現物も残っていないので、不明である。
わずかに、『朝野群載』(三善為康、永久四年・一一一七)第一・文筆上の項に収載されている「十二時漏刻銘並序(62)(63)」(藤原敦光・永久四年)に、その形状と「時分四點」という語句が現れるだけである。點は刻(尅・剋)と同じものである。この語句は、一辰刻(時)を四刻に分ける四八刻法の表現である。古代日本の漏刻が、具注暦の五〇刻法や一〇〇刻法をとっていたことを示す資料は、今のところ見出せない。(64)
さて、『延喜式』の内閣文庫所蔵本(慶長写本)の諸門鼓条の冒頭には、「以下或虚音或対馬暦道例詞也」という書き込みがある。慶長年間(一五九七〜一六一五)には、『延喜式』の時刻は不審なものとして、「虚音」であり、「対馬暦道の例詞」ではないかと考えられたのであろう。対馬暦道とは、倭国の暦法・時刻制度を伝えるものではないだろうか。
また、藪内清は、「中国にも東晋時代に盧山の僧慧遠(三三四〜四一六)が蓮花漏なる水時計を造り、それには四十八刻法を用いたとみえる。もちろん、これは公式的な時法ではなかった。しかし、こうした時法が江南地方の寺院で使用され、それが留学僧などの手で日本に招来されたのではなかろうか。もちろん、これを証拠だてる資料はない」という。(65)
さらに、斉藤国治は、『延喜式』諸門鼓条の日出・日入時刻を図示した曲線は、北緯三三度の土地の曲線と一致がよいという。(5)京都市は北緯三五・一度、奈良市は北緯三四・四一度、福岡市は北緯三三・三五度である。しかも、『理科年表』(平成六年版)によると第三七番目の日出・日入時刻にみられるように、寒露から小雪の頃の日出・日入時刻は、むしろ福岡の方に近くて、京都のものではないのである。
このようにみてくると、『延喜式』諸門鼓条の四八刻法は、倭国の時刻法を受継したものと考えてよいであろう。
斉藤は、『延喜式』諸門鼓条の夏至付近の日出と冬至付近の日入の部分は、北緯三五度付近のものであるという。(5)
これは、日本国が倭国(筑紫)の日出・日入時刻のうち近畿との差が目立つ期間のみ修正し、それ以外はそのまま用いたことを示している。近畿天皇家は、倭国の日出・日入観測技術とその時刻の決定方法を十分に継受できなかったからであろう。
ところが、宣明暦時代の具注暦には、五〇刻法に基づいて、日出・日入時刻が記載されている。具注暦と『延喜式』の日出・日入時刻は、近似しているから、それほど不都合はなかったと思われるが、時刻の表示は異なっているのである。それを、どのようにして使い分けていたのであろうか。しかし、平山清次は、両者は日出・日入時刻の記載が、年間四〇あり、冬至・夏至からの日数が一致しているので、互に独立のものではなく、どちらかが元となっているという。(56) 
六 おわりに
「大宝令」が施行されていた時代、近畿天皇家は、公式の暦法として、儀鳳暦と倭国の四分暦を併用していたと考えられる。それでは、そのような痕跡が残っているのか?
友田吉之助は、『日本書紀成立の研究増補版』(一九八三年)において、文献に現れた「見せかけの上では矛盾しているかのごとく見える暦日および暦年に検討を加え、日本および中国において二年引きあげられた干支紀年法が行われていた事実を発見し、和銅日本紀が紀年法によって編年されていたことを知ることができた。また八〜九世紀のわが国および唐朝において、後漢四分暦とは異なる四分暦が用いられていた事実を明らかにすることができた」という。友田は、「古記」の暦数についての注釈を知らずに、このような結論に到達しているのである。友田の十支紀年法についての研究は、学会では無視あるいは一蹴されているが、真剣に再検討・再評価する必要があろう。『市民の古代研究』誌上で展開された、石川信吉・平野雅曠による倭国干支紀年論も同様である。
宣明暦時代の具注暦には、儀鳳暦時代の具注暦にはみられない、日出・日入時刻と昼夜時刻数が記されている。それらの時刻は、暦注の種本とされる『大唐陰陽書』に収載された時刻と一致している。そこで、具注暦の時刻は、『大唐陰陽書』またはそれと同系統の資料を写したものであろうといわれている。(66)
『大唐陰陽書』という書名は、『日本国見在書目録』(藤原佐世撰、寛平三年頃・八九一)五行家条に「大唐陰陽書五一巻」とみえる。しかし、現在では第三二巻と第三三巻の二巻のみが伝存している。
ところで、『類聚三代格』巻一七・元慶元(八七七)年七月二二日の大政官符「応レ加二行暦書廿七巻一事」条に、暦書二七巻の書名が挙げられている。大衍暦経一巻・暦議一〇巻・立成一二巻・畧例奏草一巻・暦例一巻・暦注二巻がそれである。広瀬秀雄は、この暦注二巻が『大唐陰陽書』のことであるという。(66)そして、京都大学蔵の『大唐陰陽書』下巻には、「大唐陰陽書卅三下巻開元大衍暦注第号唐陰陽書源保筆」と記されているという。大衍暦は、唐において開元一七(七二九)年から上元二(七六一)年まで二三年間施行された。日本では、吉備真備が天平七(七三五)年、大衍暦経一巻・大衍暦立成一二巻などを将来し、天平宝字八(七六四)年から九四年間行われた。このようなことから、『大唐陰陽書』は唐の陰陽書であるとされている。
しかし、『大唐陰陽書』の日出・日入時刻は、唐において知られていない五〇刻法によっている。しかも、中国では、二四節気の日出・日入時刻は示しても、四〇の日に区分することはない。それらの日出・日入時刻は、唐朝における公式のものではない。倭国において伝承されていたものであろうか。
しかも、橋本万平は、日本では日月触の記録にみられる時刻制度も、時代を追って変化し、四種類あるという。(57)
わが国の古代の暦法と時刻制度は、近畿天皇家一元史観による限り諒解不能の状況にある。古田武彦の唱える多元史観による探究が待たれているのである。 
注 (1)栗原治夫「続日本紀と暦」(『新訂増補国史体系月報53』、一九六六)。
(2)桃裕行「『職員令集解』陰陽寮条の『古記』に記された閏月の型について」(『日本歴史』三三二、一九七六)、後に『桃裕行著作集』七(一九九〇)に収録。
(3)大谷光男「平安時代における外国暦の導入について」〔『東洋文化研究所紀要』一一、一九九一)。
(4)内山守常「日本書紀暦日考(下の一)」(『横浜市立大学論叢』二八・自然科学系列一・二号、一九七七)。
(5)斉藤国治「『延喜式』にのる日出・日入、宮門開閉時刻の検証」(『日本歴史』五三三、一九九二)。
(6)福島吉彦「唐五経正義撰定考」〔『山口大学文学会誌』二四、一九七三)。 (7)野間文史『春秋正義の世界』、一九八九。
(8)吉川幸次郎「『尚書正義』訳者の序」(『書経・尚書正義』一九四〇)、後に『吉川幸次郎全集』八(一九七〇)に収録。
(9)張培[王兪]「前言」・「四分術一蔀内閏年位置表」〔『中国先秦史暦表』、一九八七)。 (10)新城新蔵『東洋天文学史研究』、一九二八。
(11)徐錫稘*『新編中国三千年暦日検索表」、一九九二。 (12)藪内清「両漢暦法考」(『東方学報』京都一一ー三、一九四〇)。
(13)武田時昌「緯書暦法考」(『中国古代科学史論』、一九八九)。 (14)新井晋司「暦法の発達と政治過程」(『東方学報』京都六二、一九九〇)。
(15)藪内清『科学史から見た中国文明』、一九八二。 (16)藪内清『増補改訂中国の天文暦法』、一九九〇。
(17)能田忠亮・藪内清『漢書律暦志の研究』、一九四七。 (18)飯島忠夫『補訂支那古代史論』、一九四一。 (19)橋本増吉『支那古代暦法史研究』、一九四三。
(20)川原秀城「後漢・四分暦の世界」(『中国思想史研究』四、一九八一)。 (21)大橋由紀夫「後漢四分暦の成立過柞」(『数学史研究』九三、一九八二)。
(22)飯島忠夫『天文暦法と陰陽五行説』、一九三九。
(23)橋本敬造「暦と歳星紀年法」(『東方学報』京都五九、一九八七)。橋本は、「太初元年は現行の干支紀年法によって逆算すると、丁丑になるが、『漢書』律暦誌によれば丙子、『史記』暦書では甲寅になっている。丙子と丁丑の一辰のずれは、三統暦術に基づいた『漢書』律暦志は劉[音欠]の超辰法によったものであるという自明の事実によって容易に説明できる、劉[音欠]は、秦の八年(前二三九)、太始二年(前九五)に超辰させ、さらに後漢の建武二六年(五〇)にも超辰する筈であったが、後漢にはこの超辰法を用いず、単に六十干支法でもって紀年を行なった。それが後世にまで連続する干支紀年法になった。丙子と甲寅の二辰の差は、歳星紀年法の成立から太初紀年法の成立に至るまでの期間のなかにその解答がある」という。
(24)丸山晋司『古代逸年年号の謎』、一九九二。 (25)古田武彦「独創の海」(『合本市民の古代』一、一九八八)。
(26)「継体五年元丁酉」は、年号「継体」は、元年から五年まで続き、元年は丁酉(五一七)年であることを示している
(27)「大化六年乙未」は、年号「大化」は、元年から六年まで続き、元年は乙末(六九五〕年であることを示している。
(28)古田武彦「朝日文庫版あとがきに代えてーー補章九州王朝の検証」(『失われた九州王朝』、一九九三)。 (29)古田武彦『ここに古代王朝ありき』、一九七九。
(30)大谷光男「『日本書紀』の暦日」(『古代の暦日』、一九七六)は、「『魏志』倭人伝・『後漢書』倭伝の記録が正しければ、わが国の暦の初伝は、この頃、すなわち西暦一世紀代のことであろうと推測される」という。
(31)古田武彦「古代史の論理」(『古代史徹底論争』、一九九三)。 (32)石田建彦「張政倭国二十年滞在説への疑問」〔『市民の古代研究』六一、一九九四)。
(33)木佐敬久「晋書と張政倭国二十年滞在説(1)〜(4)」(『市民の古代研究』六二〜六五、一九九四)。
(34)橋本増吉『東洋史上より見たる日本上古史研究』(一九五六、改訂増補版一九八二)は、景初暦・泰始暦が、卑弥呼や倭王讃・珍の頃将来された可能性があるという。そして、橋本は、倭王珍・済・興・武は宋の藩国となったのであるから、当然宋の正朔を奉じたと考えられるという。
(35)古田武彦『失われた九州王朝』(一九七三)は、隅田八幡神社の人物画像鏡は癸未(五〇三)年八月、百済の武寧王斯麻が、倭王日十大王年・男弟王に贈与したものであるという。
(36)儀鳳暦は、唐の麟徳二(六六五)年から開元一六(七二八)年まで用いられた麟徳暦と同じ暦であるという(内田正男『暦と時の事典』、一九九三)。今井湊「奈良朝前後の暦日」(『科学史研究』四〇、一九五六)は、新羅では文武王一四(六七四)年、入唐宿衛の徳伝が、暦経・立成を持ち帰り、その二・三年後の儀鳳年間から新羅で計算した年暦を作り始めたと思われるから、日本で麟徳暦を儀鳳暦と呼ぶのは、新羅の呼称を伝えるものであるという。
(37)井本進「日本最古の古典に現われた暦日の研究」(『科学史研究』一七、一九五一)は、推古天皇一二年正月朔は戊申ではなく、長暦によれば戊戌が正しいという。すなわち、ユリウス暦では、同年正月戊戌朔は六〇四年二月六日にあたり、戊申は六〇四年二月一六日に当るが、それは暦法の違いによるという。
(38)今井湊『天官書』」(第一集・第二集、一九五二)と内田正男(注39)に収録。 (39)内田正男『日本書紀暦日原典』、一九七七。
(40)岡田芳朗「古代暦日についての諸問題」(『女子美術大学紀要』七、一九七七)は、元喜暦から儀鳳暦への移行の時期は、文武二年始めからであるという。文武即位と同時に儀鳳暦を採用したとすると、即位の八月朔を儀鳳暦の甲子にするには、七月を大から小へと、さらに閏月の位置も変えなけれぱならない。すなわち、即位に先立って、このような大幅な暦の変更が実施されたとは考えられないという。
(41)青木信仰『時と暦』、一九九二。 (42)大谷光男「日本古代の金石文の暦日」(『古代の暦日』、一九七六)。
(43)岡川芳朗「歴史考古学と紀年法」〔『古代』六九・七〇、一九八一)。 (44)岡田芳朗「出土暦断簡について」(『古代探叢』II、一九八五)。
(45)岡田芳朗「天平勝宝八歳の暦日について」(『女子美術大学紀要』三、一九七一。
(46)岡田芳朗「奈良時代の頒暦について」(『熊谷孝次郎先生古稀記念論集日本史攷究』、一九八一)。
(47)大谷光男「正倉院所蔵の具注暦」(『古代の暦日』、一九七六)。
(48)『日本暦日原典』よりも利用し易いものに、湯浅吉美『日本暦日便覧』(上・下、一九八八、増補編・一九九二)と岡田芳朗・伊藤和彦・大谷光男・古川麒一郎『日本暦日総覧』(古代中期・後期、一九九三・一九九二)が出版されている
(49)岡田芳朗「古文書による奈良時代暦日の復元」(一)・(二)(『日本史攷究』一三・一四、一九六九)。
(50)岡田芳朗「古文書による古代暦日の復元ーー儀鳳暦時代」『女子美術大学紀要』六、一九七六)。
(51)岡田芳朗「古代暦日の諸問題」(『聖徳太子研究』」一三、一九七八)。
(52)岡田清子「墓誌の干支日付」(『太安萬侶墓』奈良県史跡名勝天然記念物調査報告43、一九八一)。
(53)岡田清子「なぜ天平五年二月三十日があるか。ー『出雲風土記』勘造日と儀鳳暦運用の問題」(『アジア・アフリカ語学院紀要』五、一九八五)
(54)古田武彦『古代は輝いていた』III・法隆寺の中の九州王朝、一九八五。後に朝日文庫に収録。
(55)虎尾俊哉校注『延喜式』上・神道大系古典編十一、一九九〇。 (56)平山清次「唐法及時法』、一九四三。
(57)橋本万平『日本の時刻制度』増補版、一九七八。 (58)橋本万平『計測の文化史』、一九八二。
(59)桃裕行「古記録零拾」(『高橋隆三先生喜寿記念論集古記録の研究』、一九七〇。 (60)渡辺敏夫『日本の暦』一九七六。
(61)清・蒋廷錫等編『暦法大典』上海文芸出版、一九九三(『欽定古今図書集成目録』第二巻・暦象彙編暦法典の影印版
(62)『本朝続文枠』巻十一にも「蓋天十二時銘小考」と題して、収録されている。
(63)吉田光邦「十二時不動尊名、蓋天十二時銘小考」(『科学史研究』七〇、一九六四)。
(64)橋本万平(注58)は、「律逸文」の中に「日と称するは百刻を以てす」という規定があるので、一日百刻制を使っていた場合がないともいえないという。しかし、橋本は、新訂増補国史大系本『律』、一〇五頁の該当個所を誤読している。「日と称するは百刻を以てす」という文章は、唐律からの引用部分であって、日本律の逸文ではない(日本思想大系本『律』四三・五三頁、『訳注日本律令』二、二一四頁〜二一七頁参照)
また、橋本(注57)は、『都氏文集』(都良香、寛平二年、八九〇)の中の「漏刻」と題する作文を、日本の漏刻について述べたものと誤解している。「漏刻」には、「百刻之点自分」と、一○○刻法が説かれている。しかし、「漏刻」は、貞観一一(八六九)年、方略試に及第した良香の対策文である。問者の春澄善縄が、「漢永元之旧制、梁高祖之新規、並挙綱要、陳其可否」という問題を出したのに対する答案なのである(『本朝文粋』巻三・対冊参照)したがって、「百刻之点自分」とは、中国の時刻法のことである。
(65)藪内清『歴史はいつ始まったか』一九八〇。『燕石雑誌』(滝沢馬琴、文化八年・一八一一)には、廬山の惠遠は四八刻したとある。『唐語林』(北宋・王[言黨])巻五には、惠遠が蓮華漏を作ったとある。しかし『高僧伝』(梁・慧皎)巻六、『釈門正統』(南宋・志盤)は、慧遠の弟子慧要が漏刻を作って一二時を定めたという。慧遠(惠遠)や慧要の漏刻が四八刻法によるという記録は探索したが、中国の資料には今のところ見出せない。
王[言黨]の[言黨]は、JIS第4水準、ユニコード8B9C (66)広瀬秀雄「一つの暦にも二種の定時法」(『日本史小百科暦』、一九七八)。
(67)大谷光男「日本古代の具注暦と大唐陰陽書」(『二本松大学東洋哲学研究所集刊』二二、一九九一)。
 
「日本」という国号に関する一考察

 

「日本」という国号は、いつ・どこで・だれが・なぜ名付けたのであろうか。そして、それにはどういう意味が込められているのだろうか。
史料はあまりにも少なく、これを論じようとすればある程度想像に頼らざるを得ない。しかしながら恣意にまかせた想像ではなく、その想像に論理の手綱をしっかりと付けるならば、或いは諸氏に納得して戴けるものとなるかもしれない。とは云いつつも、以下に述べることは妄想の域を出ていないのかもしれない。批判を待つ所以である。また、寡聞にして知らないことながら、先行説があれば、お知らせ戴ければ幸甚である。
旧唐書日本伝にいわく
1.日本国は倭国の別種なり。
2.その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。
3.あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。
4.あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。
これによれば、まず倭国=九州王朝が「倭」の名を嫌い、国が日辺にあることを理由として、「日本」と改称した。その後、倭の別種にして小国だった勢力が日本を併合し、その国名を継承した。と、いうことになる。
では、その改称の時期はいつであろうか?
国名とは国家の基本であり、そう軽々しく変えられるものではない。例えば、建国の時1.、絶対的もしくは相対的に国家の勢力が拡大したと考えた時2.、或いは国家の内外の大事件に関し改称が必然のこととなった時3.である。とすればそのチャンスはこの時代僅かしかない。
a多利思北孤が天子を称した時・ケース3.
b白村江の戦いに敗北し、唐に臣従を誓った時・ケース3.
c文武が正式に天皇位に即いた時・ケース1.
まず、倭国が自ら改称したとされているので、七〇一年以前ということになる。従ってc案は即座に否定される。
次にa案を検討してみよう。倭国王多利思北孤は「日出處天子」を称したのであるから、自国を宗主国と認識していたことは疑うことが出来ない。ところが古来より中華において宗主国の名称は全て一字国名なのである。念の為列挙してみると、
夏・商(殷)・周・秦・漢(前漢)・新・漢(後漢)・魏・呉・漢(蜀)・晋(西晋・東晋)・宋(劉宋)・斉(南斉)・梁・陳・魏(北魏・西魏・東魏)・周(北周)・斉(北斉)・隋・唐
勿論()内部の東西南北や前後は後世の歴史家たちの分類名であり、当事者たちが名乗った訳ではない。そして唐以降も、
梁(後梁)・唐(後唐)・晋(後晋)・漢(後漢)・周(後周)・宋(北宋・南宋)・遼・金・元・明・清
と、二字国名は一例も無い。尚、大唐・大宋等の名乗りは美称の一種であり正式国名ではない。
さらには、宗主国のみならず天子に臣従した国々も、自国を中華の国と認める限りにおいて、一部(春秋時代の中山国・五代の呉越国等)を除き一字国名なのである。
では、二字国名(三字も含む)の付けられた国は、
匈奴・月氏・突厥・吐蕃・大理・契丹・女真・蒙古・柔然・高句麗・新羅・百済・朝鮮等、
中華から見た夷蛮の国々なのである。
以上の事実は多利思北孤にとって常識であったと思われる。従って、天子の国「倭」がわざわざその一字国名を嫌い、「日本」という二字国名を採用するとは到底思われない。
とすれば、その改称時期は最早明白である。対唐戦に敗北しつ、君主を捕虜にされ、唐の進駐を受けた白村江の戦い直後ということになる。宗主国として戦いに臨み敢無く敗北した倭国は、講和の条件の一つとして一字国名を返上し、唐に媚びたのである。但し、これは改称時期を六六三年に特定するものではない。講和の条件交渉にかかった月日もあろうし、約束を交わしてもその実行に費やす時間を無視することが出来ないからである。
では、国名改称の実行者は誰であろうか?
白村江以降九州王朝は君主を欠いていたのだろうか?まず有り得ないことだ。慮囚と成り果てた薩夜麻に替わってその縁者が擁立された筈である。擁立した者は、その後の経過から考えて、おそらく列島内において実力ナンバー1であった天智であったに違いない。後漢の献帝と曹操の関係を想像すれば容易に首肯出来るであろう。そして、新しい君主を筑紫の唐進駐軍の真只中に残して、天智は近畿に居たのだろうか。これも考えられないことだ。必ずや新君主を近畿に伴ったであろう。であるならば、国名改称は倭国の宰相たる天智の手で近畿において行われた可能性が高いこととなる。
最後に「日本」の意味を検討してみたい。旧唐書には「日辺にあるを以て」とある。あるいは多利思北孤の「日出處」から採用されたのであろうか。考えてみよう。当時の列島人に自分たちの暮らす土地が「日辺」という認識があったのだろうか。列島人にとって太陽は太平洋から昇り東シナ海に沈むものである。つまり太陽運行上の中心に列島が存在するのであって、それ以上でも以下でもない。列島が「日辺」にあるとは、中国人の認識なのである。そして多利思北孤の「日出處」は隋唐との対等用語であるが故に、国名の改称動機から考えると採用出来ない。
もし、当時「日」と「倭(委)」が同音(ヰ)だったとすればどうであろうか。現在でも「日」=nichi「壹」=ichiであり、nの有無の差だけである。さらに、訓読では全く同音のhiが使われている。また、古代においては日本語と朝鮮語は非常に近い言語であったとされているが、現代朝鮮語では「日」=同じハングル文字、「壹」=同じハングル文字つまり同音(il)なのである。朝鮮語において、過去異音だったものが時代を経て同音になった等と考えられるだろうか。言語はその対象となる事象が歴史を下がるとともに増加し、自然複雑になっていくものである。従って、過去異音だったものが同音となることよりも、同音だったものが異音になるほうが圧倒的に多いのではなかろうか。とくに「日」や「壹」のような基本中の基本とでもいうべき言葉ならなおさらであろう。とするならば、古代朝鮮語においても「日」と「壹」は同音であったとみるべきではなかろうか。こう考えると当時の列島では「日」と「壹」と「倭(委)」が同じ音をもって使われていた、という想像はあながち無謀とは言い切れないだろう。
では、「日本」とはどういう意味か。「日本」は「ヰ本」なのである。『唐によって敗亡のうきめにあったヰはもう九州にはない。今後はこの近畿こそがヰの本国すなわち「もとつくに」なのだ。』天智はこう主張して「ヰ本」と改称し、ヰの字にあてて「日」を使用したのであろう。勿論、数々のヰ音を持つ漢字の中から「日」を選んだについては「日辺」のイメージや太陽信仰の影響は否定できない。
最後に放恣に想像の翼をはばたかせてみたい。もしかすれば、もともとこの弧状列島に棲む民族は自らを「日の民」として「ヰ」と名乗ったのではなかろうか。そして、彼らに接した大陸人たちはこれに「委」の文字を与えたのではないだろうか。 
 
古田史学と幻想史学

 

吉森は「『幻視』とは『想像』、『幻想史学』とは『想像による歴史ロマン』」と勝手に解説した上で、室伏幻想史学は「これはもはや学問とはいえるものではない」とお墨付きをくれる。だれでも現実をちゃちな妄想にでっちあげることによって否定することはたやすい。しかし現実はあるがままに厳然とあるように、室伏幻想史学も幻視も吉森妄想とちがって古代の共同幻想を踏まえてそそり立つものであることはいっておかねばならぬ。
吉森は幻想史学は「古田史学を学んでいる学徒としてのとるべき方向ではない」という。私は会員の誰一人として幻想史学に誘った覚えはないし、会員から本質的な批判を受けたこともないことは言っておいた方がよかろう。その上で、「古田史学とは何か」と吉森に聞いてみたい気がしないではない。古田史学は真理なのか。それは古代史を明らかにする仮説以上に絶対化すべきものではあるまい。かつて唯物史観は傲慢にも真理を独占したため、今は見る影もないのである。学問史は仮説の提出の歴史であり、もっとも整合性に富む仮説体系が時代をリードするのであり、今、古田史学は古代史の学説として恐れられ尊ばれる理由もそこにあろう。しかしどんな学も個的な時代的制約を免れないことを吉森は忘れている。
幻想史学はその一点に問いを集中することから生まれた。六〇年代の吉本隆明の言語論を始めとする幻想論が知的世界を席巻し、七〇年代に入るや大和朝廷に先在する九州王朝論を説く古田史学と、記紀を八世紀の律令国家のデザインのひとつとした梅原猛の日本学が新たな知のパラダイムを作り、もはや一つの理論をもって現代を説明するのは不可能なことを深く教えた。これらの優れた理論とたやすく心中するのではなく、その個的な枠組みを取り払い、それらを等価なものとして時代の最先端の知の中に解体し、方法としてより高度なものとして錬磨するとき、古田史学はどう面目一新し、新たな時代にさらに高く羽ばたくだろうか。つまり未来のあるべき古田史学の模索の中から幻想史学は生まれた。
そこから幻視という考えもまた生まれたのである。歴史が繰り返されるなら、現代にある諸現象は古代にあっても一瞬、生起したとするところに成り立つ、それはあるかなきかの危うい観念であり、実体化することは許されないものであった。その古代の真実を幻視せんがため、記述者はどんな思いをこの文字に込め、この語彙をそこに置いたのかと記紀文献の紙背の真実に迫ろうと、どれだけの論理と想像力が動員されたかはいうまい。その幻想史学の試みを「思いつき」や「想像による歴史ロマン」にしか回収できないことによって、吉森は自身の偏った知のつけをいま支払っているのではないのか。
記紀文献等の指示表出の真偽を確定し、史識に到達できなかったとは到底思えない」ひたすら思い込み、編纂者や記述者の思惑である自己表出(幻想表出)の内に指示表出がどう取り込まれ、どう張り付けられてあるかを読み取ることを怠って、歴史の復元をいうのはおこがましい。正史ほど時代の権力者の思惑(共同幻想)の内にあるものはないにも関わらず、その確定を怠り、ただ文献実証する史学とは何なのか。そのお目出度さに耐え得ず、幻想史学が生まれたことを吉森は本当に見てくれているのか。
吉森は六、七〇年代の諸学の成果の上に古田史学を解体し、新時代に向けて再構成しようとする幻想史学の意図が読めないから、古田史学と無縁に見えるのである。私は古田武彦とその学を深く敬愛しても、ただそれに追従する恋愛一途型でないのは、さらなる新たな仮説の構築なくして古田史学の明日はないとする第一義の問題に関わる。 
吉森「古田史学」の党派性
最後に吉森は吉本隆明の業績について、ほとんど著作は読んでいないとした上で、「吉本氏の論説は、所詮古田以前の学問の上に到達した最高点にすぎない」という。研究したるなどと口が裂けても言うまい。ただ黙って読んだこともない吉本へのこの論断は、室伏幻想史学以上の独断と偏見に満ちた「幻視」である。しかし幻想史学の幻視は少なくとも最少の文献には当たっており、気楽な吉森式「幻視」ではない。せめて文献を読み込む労を吉森に望まないではおれないではないか。
吉本の『共同幻想論』に古田史学を対比して吉森は「古田氏の『子供にも解る』明快な論理展開に魅かれてここまで来た。古田氏が『子供には理解不能と思われる』吉本氏の『達成』を踏まえなければ、あの新たな歴史認実を解釈することこそ史学のあるべき姿だと啖呵か寝言かわからぬことをいう。これは仲間内で見逃されても、世間で通用する文章ではないのだ。吉本は話し言葉への絶望を書き言葉に持ち込み今を成した人である。古田は話すことの先に書くことをさらに充実させた人だ。このまったく違う文体の実現によってそれぞれの領域で秀れた成果が刈り込まれたのである。その一つを欠いて現代を語りえないのは、あの権謀術数渦巻くルネッサンスをレオナルド・ダ・ヴィンチなしで、またミケランジェロを欠いて語りえないのと同じである。たやすく理解されることを拒否した『固有時の対話』や『マチウ書試論』への理解なくして、吉本が主宰した少数者のみを頼みとする『試行』の意義は考えられない。同様に開かれた言葉をもってした古田史学は、かつて千近い人数を『市民の古代』に集め、いま「古田史学の会」を始め多くの会を組織したとはいえ、それは玉石混淆した集団ゆえに、思わぬ混乱をかつて抱えたように、いまもたやすく混乱する矛盾から自由でない。
まったく違う領域での業績である前提を忘れ、吉本の古代史認識は古田史学に劣ると吉森は裁断するが、私の知る吉本隆明研究会のメンバーは決して古田の言語理解は吉本に劣とは思えない八卦への断定といい、たいして古田の高度な歴史理解の知見を喜んで取り入れるだけである。同時代における隣接諸学への理解を欠き、その必要すら認めない吉森の多元的史学の追求とはそれ事態、一個の自己矛盾でしかない。吉森はかつてのあらゆる秀れた高説への狂信が招いた不幸の数々を見ながら、古田史学を絶対化することから生じる未来への危惧が見られない。古田史学の会はもちろん古田ファンを集めながら、それぞれの会員の孤独な営為を尊重する中で、普遍的な古代史像を明らめるものではないのか。
転向を「日本の社会構造を総体のヴィジョンとしてつかみそこなったために起こった思考変換」とした吉本の高名な転向論に従えば、吉森は古田史学以外に目を閉ざす知の鎖国を説くことによって、古田史学の会員に明日の変節を用意し、敗北への道を善意で敷きつめてはいないか。あらゆる言説は自説を相対化する批評精神なくしてついに空しい。
吉森よ、古田史学をどう理解するかは勝手だが、古田史学を現在の最も高度な諸学の達成において解体し、明日のための古田史学に再構成しようとする幻想史学の試みもまた古田史学の理解の一つなのだ。それを古田史学とは無縁であると宣告し、排除する権限は会員の何人にも許されてはいない。それこそが古田史学というに及ばずあらゆる真摯な学問研究の場から解消すべき党派性であることはもはや自明である。 
 
古田武彦

 

(ふるたたけひこ、1926年8月8日-) 福島県生まれの日本思想史学者・古代史研究家。専門は親鸞等の中世思想史だが、むしろ古代史研究において著名である。
旧制中学の英語教師をしていた父親の転勤にともなって、出生地福島県喜多方市を離れ、広島県に育つ。旧制広島高校を経て、1945年、東北帝国大学法文学部日本思想史学科に入り村岡典嗣に師事する。1948年に大学卒業。
大学卒業後は長野県松本深志高等学校教諭、神戸森高等学校講師、兵庫県立湊川高等学校教諭、京都市立洛陽工業高等学校教諭として国語科・社会科を教える。在職中から、親鸞に関する研究で知られた。家永教科書裁判では、親鸞に関する記述について、原告(家永)側証人となった。
1969年、『史学雑誌』に邪馬壹国説を発表。1970年に教職を離れ、以後研究に専念する。九州王朝説を中心とする独自の古代史像を提示し、学界の通説に再検討を迫る。このなかには神武天皇実在説など「記紀」の内容を信用したうえでの説があるため釈古派や右翼とも言われている。また広開土王碑の改竄否定説を主張。それにより、多くの支持者・賛同者を集めるとともに、自説を巡って安本美典[1]など多くの研究者と論争を繰り広げた[2]。一時は高校教科書の脚注に仮説(邪馬壹国説、また親鸞研究時代の内容)が掲載されたこともある。賛同者・読者の会として「市民の古代研究会」が組織され、1979年より雑誌『市民の古代』が刊行された。
1979年度、龍谷大学文学部非常勤講師。1984年4月より昭和薬科大学(文化史研究室=歴史学)教授となる[3]。
『東日流外三郡誌』などの和田家文書と出会い、その内容を肯定的に評価した[4]。さらに後年、同書に対して「偽書ではないか」との強い疑念が提出されて以降も[5]、所蔵者の和田喜八郎を支持する姿勢を貫き、昭和薬科大学の「紀要」に論文を記載するなど、積極的な研究をしていた。それをきっかけとして、市民の古代研究会の分裂を招くにいたり、運営に当たっていた関西を中心とした一部の会員が古田から離れた[6]。ただし、神代文字や和田家文書以外の古史古伝一般については充分な研究が必要として扱うのに消極的だった。
1996年3月に昭和薬科大学を定年退職した後、京都府向日市に戻り、執筆・講演活動を続けている。なお、昭和薬科大学は古田の退職後に文化史研究室を廃止したため、現在では文化史研究室は存在しない。また、2006年5月には雑誌『なかった真実の歴史学』を創刊し、直接編集にあたっている。また、市民の古代研究会は古田から独立した研究会としてしばらく存続したが、雑誌は終刊となり、2002年12月に解散した[7]。古田を支持して脱退した人々は「古田史学の会」「多元的古代研究会」など複数の研究会を結成し、連合して年刊の雑誌『新・古代学』を発行していた。この中で古田は、和田家文書偽書派の主張に対して反論を行っている[8]。
2007年、古田は東日流外三郡誌の「寛政原本」を発見したと主張し、翌年にはその写真版を出版した[9]。この書籍には、笠谷和比古(国際日本文化研究センター研究部教授)による鑑定文が収録されている[10][11][12]。公表された文書について、かつて和田喜八郎が公表した写本と筆跡が一致しているとする主張がある[13][14][15][16]。
2009年、国記と天皇記からの引用を和田家文書の中から発見したと主張した。それと同時に『なかった』を休刊する。[17]
2010年、『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』[18]以下、古代史関係の著作をミネルヴァ書房より復刊。またミネルヴァ日本評伝選として『俾弥呼』を発刊予定。 
仮説とその評価
『魏志倭人伝』にある国の名を邪馬台国とせず、現在伝わる「魏志倭人伝」の原文通りに「邪馬壹国」の表記[19]が正しいとする。所在地を博多湾岸とする。
『魏志倭人伝』のみならず魏晋朝では1里75m〜90mの短里が公式に用いられたとする。
『魏志倭人伝』にある裸国、黒歯国は南米大陸北半(エクアドル)にあるとする。エクアドルの歴史参照
金印を賜った倭奴国から一貫して、倭国は、九州王朝であるとする。白村江の戦いによって急激に衰退し、分家である近畿天皇家(日本国)に吸収されたとみる。
須久岡本遺跡(福岡県春日市)の弥生王墓の年代は3世紀まで下るとする(通説では後1世紀頃)。
三角縁神獣鏡について通説だった魏鏡説を批判、国産説を唱える。
九州王朝説をはじめ、列島各地に王権が存在したとする「多元的古代史観」を提唱。稲荷山古墳金錯銘鉄剣銘文の分析などから、関東にも大王がいたとする。
広開土王碑は改竄されていなかったとする。(古田武彦の説で唯一定説になったもの)
研究スタイル / 原文に忠実な文献の解読を求めている。従前より行われているような、歴史的資料の校訂、原文改定を批判している。
評価 / 独特な文体と論理構造から、他分野の研究者や一般の読者には支持者も多い。「邪馬壹国」説の発表当初は、『史学雑誌』の「回顧と展望」で取り上げられた。『東日流外三郡誌』騒動で一時期のブームは去った。ただし、広開土王碑文改竄説を否定したこと、親鸞研究での評価はいまだに高い。中小路駿逸(元追手門学院大学教授)によれば、「大和なる天皇家の王権が7世紀より前から日本列島の唯一の中心権力者であった」とする日本古代史の「一元通念」を否定した点が最も大きな貢献とされる。一元通念が論証を経たものではなく、日中の文献や考古学的な遺物も多元的古代史観によって無理なく理解できると主張している[20]。『東日流外三郡誌』否定派の論文は反共雑誌『ゼンボウ』にも掲載された。最大の論敵安本美典は新しい歴史教科書をつくる会賛同者であった[21]。一方で、古田は共産党系雑誌である「文化評論」に論文を掲載したことがある[22]。古田と親交のあった藤田友治は、「大阪唯物論研究会哲学部会」のイデオローグでもあった[23]。しかし、古田はいわゆる左翼思想家ではないとする見方もある。学界でタブー視されることの多い「神武天皇実在説」を主張している。この点は論敵である安本美典と同じ見解である。「古事記や日本書紀の記述において鵜呑みにできないのは、天皇の代数ではなく在位年数である」という点においても、安本美典の主張と古田の主張は一致している(何故在位年数が鵜呑みにできないのかという点では、古田は2倍年歴を主張しているが、安本は自説にヒントを得たものだと指摘している)。また古田の場合、神武天皇を九州王朝の分流の一地方豪族として捉えている。
“記紀の近畿天皇家一元史観を疑う点で「疑古派」だが、書かれている内容を後代の造作として全否定しない点で「釈古派」である”というのが、記紀に対する古田のスタンスである。今は古田と袂を分かったかつての賛同者の中にも、古田武彦が『東日流外三郡誌』を支持した件について、「書かれている内容をまず信用するというのが古田武彦の研究スタンスであり、それがために騙されたのであろう」という擁護意見がある。ただし、資料の扱いが恣意的であると批判を受けることもある。
松本深志高校教員時代は、社会科学研究会によるソ連賛美の展示を糾弾した。現在も、引揚者に行ったソ連兵の暴行・略奪行為に対し、厳しく批判している。
学問的には妥協を許さぬ強い意志を持つ。読者の会の分裂騒動などでは、『東日流外三郡誌』真書説を支持することを踏み絵とするなど、排他的な弊害を生み、熱狂的読者は「古田信者」と揶揄されることもある。 

1. 安本美典は古田武彦を「具体的、実証的次元での論議が可能であると思われる」と評価したことがあるが、見解を改め、一連の著作(『「邪馬一国」はなかった』、『虚妄の九州王朝』などの著作、及び雑誌『季刊邪馬台国』他)で古田説を批判している。
2. 近年、古田武彦は『学士会報』No8572006-II所収「九州王朝の史料批判」において「これに対する学会の応答欠乏し」と述べている。
3. 古田説、『東日流外三郡誌』に関する著作、論考(『幻想の多元的古代万世一系イデオロギーの超克』(批評社、2000年)、(原正寿・安本美典との共著)『日本史が危ない!偽書「東日流外三郡誌」の正体』(全貌社、1999年)等)を発表している原田実は、1991年-1993年に昭和薬科大学文化史研究室で助手を務めた。
4. 『真実の東北王朝』(駸々堂出版、1990年)第4、5、6章
5. 安本美典、谷川健一(他)『東日流外三郡誌「偽書」の証明』(廣済堂出版、1993年)、斉藤光政『偽書「東日流外三郡史」事件』(新人物往来社、2009年)等参照。
6. 古田から離れた会員には、東北・関東・北陸の会員が含まれる。
7. この流れの人々は邪馬台国畿内大和説の研究家として知られる白崎昭一郎の『古代日本海文化』と合流し、季刊『古代史の海』を刊行している。
8. 『新・古代学』(新泉社、1995年)
9. 『東日流[内・外]三郡誌』(オンブック、2008年)
10. コンテンツワークス株式会社のプレスリリース(2008年7月24日)[1]には「国際日本文化研究センターの笠谷和比古教授による鑑定文を収録。寛政原本が、江戸時代に作成された文献であることが証明されています。」と記されている。
11. 参考[2]
12. なお、本書刊行前に古田は「寛政原本」の放射性炭素年代測定を行ったと主張していたが、それについての記述は無い。
13. 「寛政原本」の正体―『東日流外三郡誌』擁護論の自爆―
14. 『と学会年鑑AQUA』(楽工社、2008年)
15. 参考(「寛政原本」公表以前の筆跡比較)[3][4]
16. 一点について、表紙は和田喜八郎の筆跡であり、中身は僧侶が漢詩をつくるための覚書と思われるもので、おそらくは寺院からの流出物とする主張がある。考古学のこうじ
17. 『なかった真実の歴史学』第六集
18. 復刊に際しての加筆で読者に『国記』と『天皇記』の探索を呼び掛けている。
19. 『三国志(魏志倭人伝)』の版本(宋(王朝)以後のもの)は「邪馬壹國」または「邪馬一國」。『三国志』より後の5世紀に成立した『後漢書』倭伝では「邪馬臺国」。7世紀の『梁書』倭伝では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』では「魏志にいう邪馬臺(都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也)」となっている。書写の段階あるいは版本にする際に誤写・誤刻があったと考えるのが通説。
20. 古田史学会報八号「古田史学の会のために」
21. 「つくる会」賛同者全賛同者309名(平成16年11月19日現在)。肩書きは「産能大学元教授」。現在は不明。『日本人の歴史教科書』(自由社)推薦人名簿(『史』平成21年9月号(通巻76号))には無い。
22. 「邪馬壹国の証明」(『文化評論』228号(1980年4月))。安本美典は「「邪馬壱国」論の崩壊」(『文化評論』230号(1980年6月))を執筆した。
23. 古田武彦(他)『シンポジウム邪馬壹国から九州王朝へ』(新泉社、1987年)「好太王碑に現れる倭とは何か藤田友治」
24. 『学士会報』No8572006-II所収「九州王朝の史料批判」
25. 『新・古代学第4集』(新泉社刊1999)参照。古田史学会報には「森嶋氏は古代史は素人であるが、古田説には関心をもたれ、だいたいに於いて古田説に賛成である。限られた資料からロジカルに結論を出す。文献から結論を出す方法として、完璧で論理的である。と述べられた。」とある。古田史学会報30号
26. 「古田史学会報77号2006年12月8日」
27. 『平山洋氏の仕事』の「2007年02月19日到着安川寿之輔氏からの手紙」を参照。
28. 参考原田実による小論捏造された福沢諭吉像―今も進行する『東日流外三郡誌』汚染―
29. 「対談夢は地球をかけめぐる小松左京さんと語る」(『邪馬一国への道標』角川文庫版、巻末)
30. 「神津恭介氏への挑戦状『邪馬台国の秘密』をめぐって」(古田武彦『「邪馬壹国」の論理』(朝日新聞社、1975年))
31. 高木彬光『邪馬壱国の非論理』(私家版、1977年)、高木彬光『邪馬壹国の陰謀』(日本文華社、1978年) 
 
 

 

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