古代文化交流史

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雑学の世界・補考   

中日古代文化交流史 「和同開珎」と「井真成墓誌」

「和同開珎」(わどうかいほう)の謎
最近、私は「日本の「和同開珎」の謎がついに解明した」というタイトルで、論文を書きました。私の研究は一言で言えば、「和同開珎」の鋳造にかかる複雑な歴史的背景と古代日本人の国民性との密接な関係についてです。古代の日本人は、現代の日本人と同じように、非常に賢明でした。特に外来文化を受け入れる時、そのまま受け入れるのではなく、ある程度選択して自国の国民文化に適するものだけを模倣したのが、その特徴です。換言すれば、もし中国の古代文字をそのまま模倣すれば、中国の文字と区別はできません。しかし、少しでも変えると日本の国字になるでしょう。ですから、日本の漢字は、ざっと見ると、中国の漢字と同じですが、実際はすこし違うところがあります。例えば、中国の器物の「器」と日本の器物の「器」、中国の調查の「查」と日本の調査の「査」、中国の「惠」と日本の「恵」、中国の「コ」と日本の「徳」、中国の「冰」と日本の「氷」、中国の「臭」と日本の「臭」を比べると、いずれも違う所があります。中国の文字の中では「、」があるかどうかで意味が異なります。例えば、中国の「臭」と日本の「臭」を比べれば、一つの点「、」という差があります。「臭」という字は、上の「自」は、鼻の象形字で、下の「犬」は犬の象形字です。この字は犬の嗅覚(きゅうかく)のすぐれたことを表わします。もう一つの含意は鼻が一点(少しの意)でも大きすぎると、臭くなる、つまり、中国では鼻が少しでも高すぎると、臭くなるという意味を表わします。この字は「、」がなければ、文字にならないと言えます。ですから、中国では、日本のような「臭」字はありません。この点から見ると、日本のいわゆる「和同開珎(わどうかいちん)」の「珎(ちん)」の字は、中国の「珍(ちん)」字の異体字ではなく、「寳(ほう)」の真ん中の部分である「珎」だけをとって、自ら造った国字だったと思います。
「和同開珎」という通貨は、実際、唐高祖李淵の武コ4年(621)に初めて発行した「開元通寳(かいげんつうほう)」を模倣原型として鋳造した通貨だったと、私は思います。
「開元通寳」という銅銭名の文字は、唐代の有名な書道家・欧陽詢(おうようじゅん)(557-641)が書いた文字であったと言われています。唐代では「寳」の字の書き方が色々あり、例えば、この字以外に、「寶」のような書き方もあります。しかし、銅銭名の文字としてこのような「寶」の字を一切使わなかったのは、事実だと思います。
唐代の「開元通寳」という通貨は、現在、省略して「開元銭」あるいは「通宝銭」と俗称しますが、考古学者にとっていま一番困ることは、とりあえず「寳」を省略した「宝」の字を、よく使用することです。元々の「寳」の字の意味がなくなるばかりでなく、特に日本の「和同開珎」と何か関係があるのかどうかも全く分からなくなったのです。
それでは、唐代の通貨は、なぜ「開元通寳」と読むのか言うと、「開元」とは、初めて銅銭を発行したという「新紀元」「開国の奠基(さだめもと)」の意をもち、「通寳」とは、社会に流通する「通貨」の意を表わします。換言すれば、唐代の「開元通寳」は、「銭」を以って「寳」と為す「貨幣」のシンボルと言えるでしょう。
また、「開元通寳」の材質から見ると、銅幣以外に、金幣・銀幣・玳瑁(たいもん)幣・紙幣・泥幣があります。しかし、金幣と銀幣の「開元通寳」は、流通する貨幣ではなく、主に皇家の賞賜(しょうし)あるいは達官顕貴の観賞用となるものです。ゆえに銅幣が重要な流通貨幣です。法門寺出土の13枚の玳瑁幣は、貨幣よりもむしろ祭祀品だと思います。いわゆる紙幣・泥幣は墓の「冥銭」です。日本の学界における、今までの「和同通珎」に関する研究には、私の知る限り、少なくとも六つの誤りが存在しています。
「和同」の意味
「和同」について、日本の研究者の研究によれば、「和(やまと)」という国がはじめて「同」(銅)で銅銭を鋳造したとする解釈が昔から存在している。このような解釈はずいぶん間違っていると、私は思います。なぜかというと、「和同」の「同」は、すなわち「銅」の異体字です。「和同」とは、「和銅」という年号を表わしたものです。「和銅元年」とは、西暦708年ということです。
「和同開珎」の読み方
私の研究によれば、「開珎(かいほう)」は、上述の通り、唐代の「開元通寳(かいげんつうほう)」の省略だったと思います。「珎(ほう)」という字は、実際、中国の漢字である「寳(ほう)」の真ん中の部分だけをとって、日本古代人が自ら造った国字になったはずです。ですから、この「珎」の字の読み方は「珎(ちん)」ではなく、「珎(ほう)」の方が正しいと思います。「珎(ちん)」とは、めずらしいという意味です。「珎(ほう)」こそが、寳(たから)の本意です。
「和同開珎」の原像
「和同開珎」は、実際には「和銅開寳」と書くべきですが、日本古代人が唐の「開元通寳」をある程度変えるために、「和同開珎」という形にしたと、私は思います。皆様はどのように思われますか。
「和同開珎」の省略と「貝」
「和同開珎」の「珎」は、「貝」を省略するのが、少し省略しすぎとか変えすぎだと思います。ご承知の通り、「通寳」とは、流通する「通貨」の意を表わします。古代の「通貨」は、いまの言葉で言いますと、「貨幣」です。ここで注意すべきことは、「通貨」と「貨幣」は、いずれも「貝」という部分をもつ点です。「通貨」の歴史をさかのぼりますと、やはり「貝」から始まったのです。だからこそ、「和同開珎」の「珎」は、「開元通寳」の「寳」の字をある程度変えて造った国字の「珎」だと、私は思います。
いま問題にしたいのは、「和同開珎」の「珎」の字が、私の見たところでは、本当に省略しすぎ、変えすぎたという点です。「貝」をもたない「珎」は、納得できないというよりもむしろ貨幣にならないと言えます。
「和同開珎」の模倣原型
708年に発行された「和同開珎」の読み方は、時計回りに読むのですが、唐の「開元通寳」の上から下・右・左へと読む読み方に比べると、随分と違っています。私の最新の研究によりますと、「和銅」元年(708)に「和同開珎」を鋳造した時、おそらく乾封元年(666)夏4月、高宗李治が泰山に登る「封禅」を記念として「乾封」年号をもって鋳造した「乾封泉寳」(この貨幣は、わずかに8ヵ月だけ流通したという)を参考にしながら、主に「開元通寳」を省略した「開寳」の「寳」の字の真ん中の部分だけを模倣して鋳造した「和同開珎」ではないかと思います。もちろん唐肅宗李亨乾元元年(758)に鋳造された「乾元重寳」は、「開元通寳」の読み方に戻ったので、日本の「和同開珎」は、「開元通寳」と「乾元重寳」を模倣した以外の可能性はないと言えます。
「和同開珎」の「開」
「和同開珎」の「開」の字は、研究すべき問題です。この「開」の字は、「開元通寳」の「開」の字と比べれば、違いはないと思います。これは、模倣の証拠の一つとする私の最新研究です。
「井真成墓誌」(せいしんせいぼし)の発見と最新研究

 

井真成は、唐時代の日本からの留学生です。699年に生まれ、734年に僅かに36歳で亡くなったという人物です。その墓誌は、4年前の2004年4月頃、陝西省のある建築会社が西安市の東郊外においてショベルカーで不法工事をしていた時、偶然に見つかった墓誌です。この墓誌を発見してから今に至るまで、既に4年が経過したのですが、その研究の必要性はますます高まっていると言えます。
2005年の1月28日と29日、専修大学・西北大学共同プロジェクトによる東京朝日ホールでのシンポジウムには、2500人が応募しました。このような大きな会場はありませんので、仕方なく抽選にいたしました。2007年の10月27日と28日には、第2回遣唐使シンポジウムを行ないました。私も講演をいたしました。未解決の問題はまだまだあると思います。
井真成墓誌発見の経緯
先に述べたように、4年前の2004年4月頃、陝西省のある建築会社が西安市の東郊外で不法工事をしていた時、偶然に長安で死去した日本留学生の井真成という人物の墓誌蓋と墓誌銘を掘り出し、すぐ民間の文物市場に秘密裏に売り出しました。その際、西北大学歴史博物館の副館長賈麦明氏は、この情報を聞いて、早速この文物市場へ見に行きました。
特に墓誌銘に陰刻されている「公姓井、字真成。國号日本」に注目すると同時に、私の所へ電話で連絡してくれましたので、すぐ「井真成という日本人留学生を含む遣唐使墓誌の発見は初めてであるばかりでなく、日本という国号も墓誌に初めて出てきたものです。ですから絶対に研究価値と文物価値があります。よければ、急いで買いましょう」とすすめました。賈氏も勿論、この墓誌自体の価値をよく知っていたので、交渉した結果、この墓誌を信じられないほどの安価で購入できたのです。
井真成墓誌は、以上に述べたように、ショベルカーによる不法工事で掘り出したものです。その墓はすっかり破壊されてしまいました。これは非常に残念なことですが、幸いに墓誌という国宝級の文物が残留したのです。
この墓誌は、いま単に西北大学歴史博物館に収蔵・陳列されている文物の一つであるだけでなく、大学の「館を鎮める宝」という文物になったと言えます。このようなレベルの墓誌がもし日本で出土すれば、間違いなく「国宝」になるでしょう。中国には、「水を飲む時は源を考える」という諺があります。だからこそ、私たちが井真成墓誌を研究する時には、賈氏の功労を忘れてはいけないと、私は堅く信じています。
この墓誌は、いうまでもなく中国における在唐の日本人の墓誌の初発見ですので、たちまち中日の学界から注目を集めました。具体的に言えば、2004年10月10日の午後、西北大学は、陝西歴史博物館で「首次発現唐代日本留学生墓誌新聞発布会」を開催し、日中友好協会会長平山郁夫氏は井真成墓誌の初公開式に出席されました。その後、西北大学文博学院もまた数10人の中日の著名な専門家を招待して、同年の12月18日、19日に学院の会議室で「中古時期中外文化交流学術研討会」を開きました。この討論会では、諸先生からの積極的な発言を受け、いろいろな立場から井真成墓誌をめぐる諸問題を検討しました。
井真成と「贈尚衣奉御」の性格
「尚衣奉御」という官職は、隋唐時期の「尚衣局」の下の一種の職事官でありました。同時に「六尚」という職事官の一つでもありました。「六尚」とは、即ち「尚食奉御」「尚薬奉御」「尚衣奉御」「尚舎奉御」「尚車奉御」「尚輦奉御」を言い、その三番目の位置にあって、かなり権力があった官職と言えます。李隆基撰、李林甫注の「大唐六典」巻11の記載によると、「尚衣局、奉御二人、従五品上なり。……隋の門下省に御府局監二人有り。大業3年(607)、分かたれて殿内省に属す。其の後又改めて尚衣局と為し、皇朝は之に因る。龍朔2年(662)、改めて奉冕大夫と為し、咸亨元年(670)、旧に復す。……尚衣奉御は、天子の衣服を供するを掌る。其の制度を詳らかにし、其の名数を辨じ、而して其の進御に供す」とあります。このことから、「尚衣奉御」の主な責務は、「天子の衣服を供するを掌る」ことであるということがよくわかりました。しかし、「贈尚衣奉御」から見ると、井真成が生前にこの役人になったのではなく、死後に贈られた一種の栄誉官職であったことは明らかです。
注目に値することは、唐玄宗の李隆基の摂政期間(712-756)に、「尚衣奉御」の任用制度が、以前と比べて大きな変化をしたことです。例えば、唐玄宗の30人の息子の中で、「尚衣奉御」になった皇子は一人もいなかったのです。その時、皇后の妹夫である長孫マが、なんとこの「尚衣奉御」という席に座っていたので、皇子を含む皇室貴族が昇進して「尚衣奉御」の官職に就くことがいつの間にか厳しくなっていたのです。このことから見れば、出身低微の下級官吏が、唐玄宗の摂政期間に従五品上の「尚衣奉御」に昇進することはたいへん難しいのに、まして井真成は日本から来た一人の留学生でありました。もし井真成が確かに717年に第9次の遣唐使団に随って入唐していたのであれば、734年の不慮の死亡まで、彼は長安に19年以上滞在したことになります。ここで想像すると、井真成が青年期に死去したのでなければ、彼は結局何年まで長安に滞在したのか?最終的には唐朝のどの位の官吏にまで昇進したのか?ひいては本人は中日の文化交流に対してどのくらい貢献したのか?これは誰にも推測できないことでありましょう。ところで、私の考えでは、少なくとも「我が朝の学生にして名を唐国に播す者は、唯だ大臣(吉備真備)と朝衡(阿倍仲麻呂)との二人のみ」(新日本古典文学大系4「続日本紀四」)という二人だけではなく、たぶん井真成を考慮する可能性があったであろうと思います。
以上に述べた通り、井真成が長安に滞在した期間は、唐玄宗の李隆基の摂政期間であったばかりでなく、「尚衣奉御」の官職に昇進することが最も困難な特殊時期でもありました。これにより、井真成が生前に一度も「尚衣奉御」という官職に上れなかったことは、決して彼の能力の問題ではなく、当時の職位に空位のなかったことが原因であったと、私は考えています。ここで井真成の人柄をあえて推測するならば、無名の日本人留学生の井真成は、その死に対して唐玄宗の摂政・李隆基に悲痛の感を与えると同時に、「追崇するに典有り」という唐代の喪葬儀礼を行なわせたのでありました。このような情况は唐玄宗の李隆基が井真成の生前の人柄と能力を高く評価していたばかりか、二人の私下交往(上下の人間関係)もかなり親密であったことを反映していると思われます。更に言えば、二人の間のこのような密接な関係の形成は、井真成の19年間の長安滞在と「強学不倦」という一生懸命に勉強する精神及び才能のはなやかさと関係があったと思います。そうでないと、井真成墓誌に陰刻されている「皇上は哀傷し、追崇するに典有り、詔して、尚衣奉御を贈る」という墓誌銘文が説明できないと考えています。
井真成という中国風の姓名
中日の学界では、この井真成の改名について、いろいろな見方を提言したのであります。帰納すれば、おおよそ、「井上説」「葛(藤)井説」「唐名説」という三つの学説になります。
第一の学説は、国学院大学教授鈴木靖民先生が提出した「井上説」です。即ち、「「井」という中国姓は、現在の大阪府藤井寺市一帯を本拠とした渡来系の「井上忌寸(いみき)」という一族ではないか。一族の中でも特に優秀で、コネもあったのだろう」と、鈴木靖民氏は推測されました。
第二の学説は、奈良大学教授東野治之先生が提出した「葛(藤)井説」です。つまり、「ただ「井」という姓は、日本姓を省略して名乗っているはずだから、この字のつく氏族の出身者だったことは分かる。そこで、想起されるのは、7世紀末から8世紀前半にかけて、遣唐使少録、遣新羅使、遣唐留学生などを輩出した葛井氏の存在である。この一族は渡来系で南河内の葛井寺付近を根拠地とし、もと白猪氏といった。一族の中に古くから葛井を名乗るものがあったらしく、和銅ごろの人として葛井諸会が、白猪広成とならんで「経国集」に見える。一族には広成、葛井大成、同清成など、類似の名をもつ同世代人がいるが、あるいは真成の近親者であろうか。もちろん「井」が上につく氏でもよいが、葛井氏のように、この方面で活躍する人は出ていない」と、東野治之氏は研究されました。
第三の学説は、実は、私自身が提出していた「唐名説」です。換言すれば、井真成という遣唐の日本人留学生は、入唐してから、中国風の「唐名」に改名したと、私は推測しています。私の見たところでは、井真成の出身は、結局「井上氏」の出身であろうが、それとも「葛(藤)井氏」の出身であろうが、私は、上述の二つの推測の可能性をまったく否定はしないが、しかし、井真成の改姓は、たぶん「井上」とも「葛(藤)井」とも直接には関連がなさそうです。即ち、鈴木靖民先生の見方は、「井上」姓の下の「上」をとるべきであり、東野治之氏の見方は、これに反して「葛(藤)井」姓の上の「葛」(藤)をとるべきであります。この点から分析すれば、両者の改名には明らかに一定の規律がありません。思うに、井真成の名字は、元々の名前とは関係がなく、自ら「唐名」に改名したのであろうかと、私は推測しました。実際、早く隋の煬帝の大業3年(607)には、隋の人々が遣隋使の名字について音訳を行なっていたようです。例えば、当時、隋の人々は(小野)妹子(イモコ)を「蘇因高」と呼び、(難波)雄成(ヨナリ)を「乎那利」と呼んでいたのです。汪向栄先生と夏応元先生の研究によると、遣隋使の大使の「蘇因高」という名前は、妹子(イモコ)の日本語の音訳であり、「乎那利」という名前は、雄成(ヨナリ)の日本語の音訳です。唐代に至っても、遣唐使・留学生・学問僧たちは、みずから自分の名前をつけるのに熱心だったように思われています。例えば、阿倍仲麻呂(仲満)の中国名「朝(晁)衡」は、彼自身が自分のためにつけたものです。「旧唐書」巻119上「東夷列伝」の記載によると、「其の偏(副)使朝臣なる仲満は、中国の風を慕って、因って留まり去らず、姓名を改めて朝衡と為す」とあるのは、そのことです。こうしたことから、井真成の名前は、古代の日本風の名字でないとするならば、阿倍仲麻呂の状況と同じく、彼自身が自分のために改名した中国風の名字--井真成だったと推測できるのであります。これは、まさに私の第三の「唐名説」の学説の証拠であります。
なお、一般的に言えば、改名はしやすいのですが、改姓はかなり難しいのです。ここで、もう一つの実例を挙げたいと思います。
私は、2006年9月15日「唐日本留学生井真成改名新証」という論文を書いて「中国文物報」に掲載しました。私の見た資料の限りでは、唐時代の日本人の「井」に関する姓は、いままでに二つの例を捜すことができました。井真成以外に、もう一人「井俅替(せいきゅうたい)」という人物が存在したのです。この人は下痢のため唐時代の揚州で死亡した第19次遣唐使船の船師佐伯金成の傓従でありました。このことは、円仁の「入唐求法巡礼行記」の唐開成3年(日本承和5年、西暦838年)8月18日条に明らかな記載を残していると言えます。
ここで注目すべきは、井真成や井俅替など、彼らの改名は、何れも遣唐使と関係があったらしいことです。私の推測が間違いなければ、二人の改名は、たぶん阿倍仲麻呂の状況と同じように、入唐してから中国の唐名風を慕って、自ら改名したのであって、元々日本風の名前とは関係がなさそうに思います。これが、私の唐の日本人留学生井真成の改名に関する新証でもあると言えます。
実は、今に至るまで、この三つの学説以外に、また別の学説も存在しています。例えば、「情真誠説」「九州王朝説」「和姓説」もあります。
第四の学説は、中日関係史学会副会長張雲方先生が提出していた「情真誠説」です。つまり、彼の見たところでは、「「井真成」は、この日本人留学生の中国名であり、「井」姓はたぶん唐の皇帝から賜った姓だと思う」とあります。
なお、「阿倍仲麻呂の「朝衡」は、元の名前と関係がない。「朝衡」には、実際は永遠に唐の朝廷を拝し、朝貢するという意味が含まれていると思われる。「井真成」もひょっとすると「情真誠」(「情」と「井」は中国語の発音が似ている)という意味が隠されているのかも知れない。現在までのところ、現存する史料の中には、「井真成」という名前は見つかっていない。しかし、死亡した年から逆算すると、生まれた年は699年であることは間違いない」と推測しました。実は「井真成」の「井」の中国語の発音は「jing」であり、「情真誠」の「情」の中国語の発音は「qing」です。両者の発音が似ているとは言えないと思います。その上、中国の「百家姓」の中に「情」姓はなさそうです。
第五の学説は、古田史学の会事務局長の古賀達也先生が提出していた「九州王朝説」です。即ち、「第一話は最近(2005年)何かと話題になっている「井真成(いのまなり)」についてです。中国で発見された墓誌により「井」さんが遣唐使として中国に渡り、当地で没したことが明らかになったのですが、藤井さんとか○井さんとかが日本名の候補として上げられているようです。他方、「井」という姓が日本に存在することから、文字通り「井(せい)」さんではないかという異見も出されています。古田先生もこの「井」という姓に注目されています。電話帳で調べた結果では、熊本県に圧倒的に濃密分布しています。中でも産山村・南小国町・一ノ宮町が濃密です。この分布事実は九州王朝説の立場からも大変注目されるところです」と述べられています。
第六の学説は、日本の学界の諸先生が提出していた「和姓説」です。つまり、日本の学会では、「井」という姓をめぐって、和姓の一部を中国姓としたとする説が有力になり、元の和姓について、「葛井」「井上」「白猪」などの説が出されました。また、「井真成」の出身地は、現在の藤井寺市であると確定的に報道されています。さらに、墓誌里帰り運動が盛り上がり、墓誌は愛知万博で公開された後、東京→奈良→九州の各国立博物館での展示後、「郷里」藤井寺市へ届けられる手はずになっているようです。この墓誌発見以降の一連の「事態」に、室伏志畔氏(「越境の会」代表)のセンサーは敏感に反応しました。おそらく、「井真成」問題の「向こう側」を直感的に幻視したのでしょう。氏は、学会やマスコミを中心とした「こちら側」の安易な歴史認識に憤りを覚え、一ヵ月のうちに「腕と人間を見込んだ」8人を糾合し、図書「和姓に井真成を奪回せよ」を出版したのです。これはまさに、歴史認識において停滞し退廃した「状況」に対する抵抗戦であり、知的集団戦でもあります。室伏氏を中心とした「越境の会」の主張は、極めて明快です。すなわち、「井真成」の姓「井」は、中国姓に倣って一字姓に変えた「井(=セイ)」ではなく、和姓の一字姓「井(=イイ)」であり、「井真成」は(イイマサナリ)という名前であったとするものです。それでは、「井(=イイ)」姓の日本における分布はどうなっているのか。本書第4章の白名一雄氏の調査によると、非常に興味深い結果が示されています。全国の「井(=イイ)」姓の約半数は熊本県に集中している。さらに、熊本県の中でも阿蘇郡、特に「産山村」が最も多い。この観点からすると、「井真成」の故郷は藤井寺市ではなく、熊本県阿蘇郡産山村と考える方が理にかなうことになる。この、シンプルで力強い論理的推論が、「井真成」問題における「越境の会」の論の根幹です。日本の学会やマスコミは、なぜこのような可能性さえ思い描かないのか。本書を読み進むうちに、そのような思いが強くなってくる、と強調しました。
「日本」国号について
ここで注目すべきことは、井真成墓誌に初めて「國号日本」ということが出現しました。「日本」という国号は、今までに知られている中日の古代文献の記載から見ますと、中国で出現した年代は日本での年代よりやや古いのです。北宋の欧陽修(1007-72)・宋祁が書いた「新唐書」巻220「東夷列伝」の記載によりますと、「日本は、古の倭奴なり。……永徽初、其の王の孝コ即位し、改元して白雉と曰い、虎魄(即ち琥珀)の大なること斗の如きもの、瑪瑙の五升の器の若きものを献ず。時に新羅は高麗、百済の暴す所と為り、高宗、璽書を賜いて、出兵して新羅を援けしむ。……咸亨元年(670)、使を遣りて高麗を平らぐを賀せしむ。後に稍や夏音に習み、倭の名を悪んで、更めて日本と号す。使者自ら言わく、国、日の出ずる所に近ければ、以て名と為すと。或いは云う、日本は乃ち小国なれば、倭の併する所と為り、故に其の号を冒すと。使者は情を以てせず、故に焉を疑う。又た妄りに其の国都の方数千里を誇るも、南と西は海に尽き、東と北は大山に限られ、其の外は即ち毛人なりと云う。長安元年(701)、其の王の文武立ち、改元して太宝と曰い、朝臣真人粟田を遣りて方物を貢がしむ」(日本、古倭奴也。……永徽初、其王孝コ即位、改元曰白雉、献虎魄(即琥珀)大如斗、瑪瑙若五升器。時新羅為高麗、百済所暴、高宗賜璽書、令出兵援新羅。……咸亨元年(670)、遣使賀平高麗。後稍習夏音、悪倭名、更号日本。使者自言、国近日所出、以為名。或云日本乃小国、為倭所并、故冒其号。使者不以情、故疑焉。又妄誇其国都方数千里、南、西尽海、東、北限大山、其外即毛人云。長安元年、其王文武立、改元曰太宝、遣朝臣真人粟田貢方物)とあります。上述の記載に間違いがなければ、「倭」という国号を、正式に「日本」という国号に変えるのは、咸亨元年としたほうが良いと思います。
なお、后晋(936-946)の劉昫等が書いた「旧唐書」巻199上「東夷列伝」の記載によりますと、「日本国は、倭国の別種なり。其の国の日邊に在るを以て、故に日本を以て名と為す。或いは曰わく、倭国は自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為すと。或いは曰わく、日本は旧と小国にして、倭の国の地を併すと。其の人の朝に入る者、多く自ら矜大にして、実を以て対せず、故に中国は焉を疑う。又た曰わく、其の国界の東西南北各数千里、西界、南界咸な大海に至り、東界、北界大山有りて限りと為し、山外は即ち毛人の国なりと」(日本国者、倭国之別種也。以其国在日邊、故以日本為名。或曰:倭国自悪其名不雅、改為日本。或云:日本旧小国、并倭国之地。其人入朝者、多自矜大、不以実対、故中国疑焉。又云、其国界東西南北各数千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之国)とあります。実際には、「旧唐書」の成書年代は前にあり、「新唐書」の成書年代は後にあります。これによって、「新唐書」と「旧唐書」の中に「日本」国号と関係のある内容を述べた同類の記載も、珍しいことではありません。特に「新唐書」の「倭の名を悪んで、更めて日本と号す」という記載は、「旧唐書」の「倭国は自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す」記載の復刻であろうと思います。こう見るならば、「日本」国号は、中国で出現した年代が少なくとも唐高宗の咸亨元年(670)であるはずでしょう。これが今までに中国の文献で探された一番古い実例です。
まれではあるが唯一でないのは、古代の高麗の僧侶道顕がすでに「日本世紀」という書物を著しています。「日本書紀」天智天皇8年10月辛酉条の記載を見ますと、道顕が「日本世紀」を書き上げたのは天智天皇8年(669)より後であることがわかります。このことは、すでに述べたように天智天皇8年に「日本」に国号をあらためたという事実と符合します。中国社会科学院考古研究所の王仲殊教授の研究によれば、「日本書紀」は養老4年(720)に完成したとはいえ、天武10年(681)にすでに、川島皇子・忍壁皇子ら12人が命を奉じて「帝紀」を作成し、「書紀」編纂の礎を築いています。道顕の著作は、天武朝(672-686)の末年にまず「帝紀」に採録され、つづいて「日本書紀」の中に組みこまれたのではないでしょうか。要するに「日本世紀」という書名は、天智天皇8年(669)に国号を「日本」にあらためたという仮説を支持しているように思われます。この点においては、私も王仲殊教授の見方とまったく同じであります。さらに言えば、「日本」国号をもつ「日本世紀」という書物が669年に書き終わっていれば、「新唐書」と「旧唐書」のいわゆる670年に国号を「日本」にあらためたということと非常に近いだろうと思います。
しかしながら、「日本」国号は「日本書紀」をさがす限り出現した一番古い年代は、大宝元年(701)です。例えば、日本の文武天皇の大宝元年に頒布された「大宝令」公式令の中には、「明神御宇日本天皇詔旨云々」という詔書の書式が定められています。なお、大宝2年(702)に入唐した僧弁正の「在唐憶本郷」の詩の第一句に、国号「日本」という二字が出現しています。すなわち「日辺に日本を瞻て、雲裏に雲端を望む。遠游して遠国を労い、長安に苦しむを長く恨む」(日辺瞻日本、雲裏望雲端。遠游労遠国、長恨苦長安)と述べます。この詩は、弁正が故郷の「日本」への長く続く思念の情を表現しました。彼は最後まで帰国せずに長安で亡くなり「唐土」に身を埋めました。この情况は井真成の「形は既に異土に埋もれ、魂に故郷に帰らんことを庶(こいねが)う」(形既埋于異土、魂庶帰于故郷)の情况とまったく同じです。それ以外、「続日本紀」の記載によりますと、(文武天皇慶雲元年、704年)秋7月甲申朔、正四位下の粟田朝臣真人がはじめて中国の楚州塩城(今の江蘇省塩城県)にいたった時、彼に対して、どこから来た使者であるのかと尋ねた人がいました。真人は「日本国使」と答えたのです。その時が、唐人による「日本国使」という名称とのはじめての直接的な接触だったと言えます。これより以前の遣唐使の派遣時期はそれぞれ665年(第6次)と669年(第7次)であります。この情况はちょうど「咸亨元年(670)、使を遣りて高麗を平らぐを賀せしむ。後に稍や夏音に習み、倭の名を悪んで、更めて日本と号す」と符合しています。この情况は、当然なことです。だからこそ、「日本」の国号の出現年代は唐高宗の咸亨元年として問題がないと思います。しかし、「日本書紀」の701年は「新唐書」と「旧唐書」の670年と比べるならば、30年近く遅れてしまいました。したがって、「日本」国号が日本で正式に確立した年代は、これよりさらに古いと思います。
そのほかに、唐の張守節が作った注釈書の「史記正義」の中にいわゆる「武后改倭国為日本国」という記載もあります。「史記正義」の案に「……武后、倭国を改めて日本国と為す。……又た倭国は、武皇后、改めて日本国と曰い、百済の南に在り、海を隔て島に依りて居る。凡そ百余小国なり」とあります。「史記正義」の序文によれば、その成書年代は唐玄宗の開元24年(736)のことでありますが。今回、収集した井真成墓誌に見える「日本」という国号は、その年代が唐玄宗の開元22年(734)であり、唐の張守節の「史記正義」の成書年代より2年ほど古いのです。だから、井真成墓誌の発現は「武后、倭国を改めて日本国と為す」の真実を欠く歴史記載を正すと言えるだろうと考えています。
ここで強調しておきたいのは、井真成墓誌に見える「日本」という国号が中国西安で初めて発見された唯一かつ最古の、長安で客死した「遣唐使」の成員の一人である入唐の留学生に関する墓誌の実物資料となりました。上述の通り、当該墓誌の絶対年代は開元22年、今からほぼ1270年前であります。この時期は、日本の奈良時代(710-794)であると同時に、中日両国の全面的、頻繁な文化交流の時期でもあります。この期間に、「遣唐使」は、言うまでもなく大きな作用を発揮したと言えます。なお、「遣唐使」に関する墓誌は、中国西安で発見された井真成墓誌以外に、中国洛陽で井真成墓誌より21年早く日本使節の墓誌が発見されたこともあります。
以下の記事は朝日新聞社の渡辺延志記者の紹介です。
中国・西安で発見された遣唐使「井真成」墓誌に刻まれていた「日本」は最古のものとされていたが、「もっと古いものがあるようだ」との意見が出てきた。専修大が(2005年)1月28、29の両日に開催した研究検討会で、東洋大の高橋継男教授(中国史)が台湾の研究者の論文を紹介した。現物を見た人はいないが、「信用性は高そうだ」との見解が強い。多様な分野の専門家が集った場ならではの驚きだった。高橋教授が示したのは1998年に台湾の学術雑誌に掲載された台湾大学教授の論文である(筆者注:唐の先天2年(713)の「徐州刺史杜嗣先墓誌」には、「皇明遠被、日本来庭」という記録がある)。つまり、台湾の古美術店で1992年に見た唐の官僚の墓誌に、「唐の朝廷で宰相と一緒に日本からの使節に会った」と記されているという。この官僚は713年に死亡し、洛陽に葬られたと刻まれていたという。734年に死亡した井真成の墓誌より21年早いことになる。高橋教授は「井真成墓誌が発見され「最古の日本」と話題になったので気づいた」という。
白村江の戦(663年)の後は長らく遣唐使は途絶えていたので、この官僚が会ったとなると、702年に日本を出発した大宝の遣唐使のほかは見あたらない。国号を日本と名乗ることは前年の701年に制定された大宝律令で定められたばかり。「国といった場合、当時は播磨や常陸といった地域概念を示した。日本という概念は外交の場でだけ必要だったはずだ」と鈴木靖民国学院大教授は指摘する。日本という国号を初めて背負って外交の舞台に登場した遣唐使が記録されていたことになる。中国から参加した研究者は、台湾という想定しなかった場所にあぜんとした表情だった。
論文を書いた台湾大教授は碑文研究では定評があるというが、この墓誌を店先で書き写したと記しており、発表した雑誌には写真も拓本も載っていない。墓誌は高値で売買されるので、偽造はさほど珍しくないという。研究会では「まず拓本を入手しなくては」との声があがり、高橋教授ら東洋大のグループが研究に乗り出すことを表明した。
とにかく、「遣唐使」に関する墓誌を多く発見し、発掘すればするほど謎の深まる井真成の実像がはっきり見えるようになります。一言で言えば、徐州刺史杜嗣先墓誌と井真成墓誌が前後して発見されたのは、言うまでもなく1270年あまり前の日中両国の文化交流の歴史的証拠であって、その重要性と学術的価値は言葉には言い表わせないほどであります。私の研究によりますと、「日本」国号の出現の年代は唐高宗の咸亨元年(670)として問題がないと思います。しかし、701年に制定された大宝律令で出現した「日本」国号は、「新唐書」と「旧唐書」の記載でいう670年と比べるならば、30年近く遅れてしまいました。したがって、「日本」国号が日本で正式に確立した年代は、これよりさらに古いはずだろうと思います。また、「国号日本」の書き方については、氣賀澤保規先生が次のように述べています。すなわち、「墓誌での本貫の書き方は、本貫にあたる地名を入れて「○○人」とし、外国人(非漢人)でも「康国人」などと国名をいれて表記する。「国号日本」という書き方は、墓誌においては管見のかぎりでははじめての事例である」と言います。私の見たところでは、これは天宝3載(744)の「故九姓突厥契苾李中郎墓誌」の「九姓突厥」の書き方と非常に近いであろうと思います。しかし、将来、「国号日本」をもつ遣唐使墓誌が一つでも出土すれば、この問題は、議論の余地はなく、歴史的な史実になるだろうと考えています。今から、その新しい考古学発見を楽しみにしております。
 
弥生時期日本に来た中国人

 

帰化人と移民
縄文時代の日本列島は生産が立ち遅れ、社会の発展も長い間に停滞していたが、西紀前3、400年にいたって、強い外力の刺激のもとに、情況は一変した。採集経済から農耕経済へと進み、生産力の向上によって列島の社会もだんだん進展し、開化の域に入ったのが弥生時代であった。もちろん縄文晩期、日本列島のある地区では、時に農耕の痕跡が遺跡から見つけられる。しかし、この農耕、即ち縄文農耕の存在地域は極めて制限されているだけでなく、その耕作方式も簡単で、すこぶる原始的なものであったから、社会全体の生産方式を変更する力となるには至らなかった。縄文時代は数千年に及んだが、その内在的素因は社会の発展を促進する段階にはいまだならなかったわけである。それゆえ、西暦紀元前3、400年ころ、日本列島が突然農耕を主とする弥生時代に入ったのは、主として外からの影響である。当時、この力強い外力は、列島の主な地区あるいは先進地区の生産方式を採集経済から農耕経済に変えた。変化はさらに東へ東へと拡大し、最後は日本列島の全体が停滞の縄文時代から文明の域に入った。日本古代社会を論ずる場合、殊に先史時代の日本社会の発展に着眼するときには、当時列島の生産力を促進させたのが、外力作用であったことを認めなければならない。もちろん、列島内部にあった素因の作用もあるが主なることではない。これは日本歴史学者の定説である。世界のあらゆる国家、民族の社会の発展はみなそれぞれの素因をもつ。内在的なものもあり、外来的なものもあるが、その作用、又は社会の発展を促進する力の違いによって、主と従、軽と重の別を分けることが出来る。日本列島の社会発展が縄文から弥生時代に進んだ素因の中に、縄文から伝承するものも、弥生の独自の素因もあるが、その中の主なものは、外来的素因の受入である。より具体的にいえば、中国大陸からの先進文明、生産技術と知識、例えば水稲の植付、金属器の製造と使用などを受入れたことである。これら先進的文明、技術と知識は如何に外から日本列島に導入されたか。古代、殊に先史時代、あらゆる知識と技術、あるいは文明の伝播は、人の往来によるしかない。実際、弥生時代とその後の古墳時代において、列島土着の人々ではない、大勢の外来の移民達が日本列島に来た。彼らは中国大陸の先進文明を日本列島に将来し、日本社会の発展に巨大なる貢献をなしたが、かつて日本歴史において、彼らは帰化人と呼ばれていた。帰化という言葉も、やはり中国からのものである。知られているように、古代において、中国の文明程度と生産面の発達は、遥かに周囲の民族、国家より高く先進していたから、自然に中国を中心としての中華思想が生まれた。中国に定住した非中国本土の住民達は、みな中国の徳化を慕って移住した。それを帰化と称した。過去の日本においても、やはりこの中華思想と同様のものが生じ、日本に永住する外国人を帰化人といった。しかし、先史時代の日本列島の文明程度、生産発展のレベルは、中国と朝鮮に及ばないだけではなく、当時の日本列島には統一の政権すらない。中国か、朝鮮半島などから日本に移住した移民達は、明かに日本の王化を慕って来るのではない、だからこれを帰化ということはできない。けれども過去の日本歴史学者は、皇国史観を持つ、日本支配者と同じ立場から、帰化という名詞を使った。はなはだ不適当なことであるからこの3、40年来、極く少数の人を除いて、この帰化の名詞を使わず、渡来、渡来人と使い直した。これは当然のことと思う。日本の立場からいえば、渡来という名詞は適当であるが、移出国家としての中国、朝鮮から見れば、渡来ということばは適切ではないから、私はかってに移民という語を使っている。もちろんこれもあまり適切とはいえない。移民というのは、一般には計画的、組織的に外国へ移住することを指す。たとえば6、70年前の日本からブラジルへの移民、の如くである。しかし古代中国から他国に移住した人々は、多数は目的など持っていないのである。その中に非常に大きな移民集団もあるが計画的、又は組織的移住とは言えない。かれらは多く飢饉と兵乱を避けるため、別の地方へ逃亡し、あるいは酷政と迫害を避けるため外に亡命したものである。すなわち一定の目的をもたないので、移民という名詞を使うこともあまり適切ではない。が、中国人の立場から、てれ以外更に適当なことばはない。帰化人にせよ、渡来人にせよ、移民にせよ、用語の問題にすぎず事実に対しては重要ではない。問題の実質は名詞ではないのである。
人数
縄文晩期から弥生時代に至って日本列島の社会発展に変化の生まれる段階に、外から移住した人々の数はどの位であろうか。これはまことに答え難い問題である。精確に答えることはもちろん出来ない。当時の事情として、それら移民を受け入れた日本に、文字にかかれた歴史はまだ存在していない。のみならず、多くの移民が経た土地であり、移民と多大なる関係を有する朝鮮半島にも文字に書かれた歴史はない。主な移民を出す中国には、すでに相当完全な文字の記録はあるが、これらの文字記録は主に漢民族支配者のことを記し、周囲の各民族、国家に対しては本当に簡略である。漢民族支配者に関係の薄い移民などについては、ほとんど記録はない。あっても極めて少ないのである。その記録から当時外国に移住した者の人数を計測することは不可能なことである。ことに当時日本列島に入った外来移民の多と、は直接中国からではない。ほとんど朝鮮半島からであるから、中国の史籍にそれら移住の記録を見つけて、それを根拠として移民の数を計測することの可能性は全くないと思う。しかし、日本列島に地下出土した遺物の、弥生時代のものは縄文時代のものと明らかに異なる。その遺物の中に、朝鮮半島や、中国大陸の遺物と似てるものがあり、全く同じものもある。この事実から、これらの遺物は列島に住んだ土着縄文人のものではなく、外来移民としての弥生人が残したものであると考えてよい。それから人骨の測定など各方面から総合的に見れば、古代国家を立てる以前、すなわち弥生だけではなく、古墳時代まで日本列島に進入した外国移民の数は極めて多いと認められる。当センターの埴原教授はかって、日本人を骨の形態から東北中心型と近畿中心型の2種類に分け、近畿型は近畿を中心に西日本にいるが大陸糸に近い人たちであるとした。そのとき、彼は確実な人数は言わなかったが、形態から見れば、近畿型の人はかなり多いのである。その後、埴原教授は別の論文で非常に具体的論拠をあげつつ、弥生初代から初期歴史時代までの千年、即ち西紀前300年から西紀700年に至る間に、日本列島に移住した外国人は100万人以上に達すること、古墳時代における縄文系の土着民と渡来人の比率は1と9から2と8の問にあることを述バた。その推計は誠に驚くべきものである。それによると、今日の日本人の血統は、たいてい当時列島に来た外国移民と関係があることになるだろう。必ずしも渡来人の後裔でなくとも、混血は免れないからである。この推計と事実の間に、距離があるだろうか。一見すると、百万という数字は本当に驚くべきであるが、その百万は千年間の総計であり、年平均は千人位である。年平均千人であっても、先史時代の日本にあっては、やはり大きな数と言わなければならない。国立民族学博物館の小山助教授の推計によれば、縄文中期九州の人口は5300人、後期になっても10100人である。1000人の外来移民とは、まことに大きな数である。しかし後世の文字記録や、地下出土の遺物から見ると、この千人という数字は決して多くはない。あるいは少ないくらいかも知れない。「日本書紀」に秦造の祖や、漢直の祖などが朝鮮半島から日本に来たとき、あるいは120県の人夫を率いてとか、あるいは17県の黨類を率いて来たとか書いてある。1県の人数ははっきりしないが決して10人、20人ではないと思う。もちろん、それらの記録には若干誇張もあり、そのまま信ずべきではないが、少なくとも彼らが日本に入るときは大集団的行動であり、少数ではない。ご存知のように、中国の史籍に徐福の記事があり、その中に「徐福は千人以上の若い男女と技術者など若干人を率いて海を渡る、平原広沢の地に至って止まり、再び帰らなかった」とある。その「至るところ」は別の問題で、いま討議はしないが、徐福と一緒に国を出て、海を渡る人数は少なくない。大規模の集団行動である。もし彼一行の止まるところが日本列島なら、その大集団の人数は千人以上であろう。それゆえ、年平均千人という数は多くないのではないか。事実上原始社会から封建社会に至っておれば、外来の人々が全く未知の土地に定住と生存を得られることはきわめて困難なことである。一人一人ではもちろん不可能である。少人数でもだめ。土着民と対抗出来る力を持たなければならない。中国の史籍、日本の史籍にかかわらず、移民、渡来人として記録する場合、みな集団的であり、大人数の行動とし、そのゆえに年間千人程度は外来移民が日本列島に入って定住する人数としては決して多くないと思う。かれらは先ず朝鮮半島と最も近い北九州に入って、定住した。同時に当時中国大陸の先進文明や、生産技術、知識などを彼らの手によって列島に持ち込まれた。列島の生産力を上げたり、日本社会の発展と開化を促進したり、後世日本古代国家となる基礎を造ることに力を盡す。これら先史時代日本列島に入った外国移民達はほとんど再び故国に帰らなかった。列島に定住し、日本民族の一員になった。
何処から移入されたか
しかし、過去においても、いまになっても、それほど多人数の外来移民が連続的に列島へ入ることは簡単なことではない。ことに先史時代の日本列島は生産が低い情況にある。先進文明や、生産技術を有する集団的移民は何処から移入されたか。もちろん文字的記録は残ってないが、多くの地下出土の遺物はよくこのことを説明している。外来移民は多く朝鮮半島から入って来た。日本は海に囲まれた島国で、大陸とは接していない。先史時代の造船、航海技術のもとに中国から直接海を横切って、日本に渡ることは不可能ではないが非常にむずかしい。朝鮮半島から日本に渡るのはわりあいに簡単である。半島南端と日本の北九州の間は海を隔ているといえども、距離は近い。海面も静かで、原始的丸木舟なども潮に従って海を渡ることは出来るから、古い時代から両地の人民は絶えまなく往復が出来た。従って日本列島に来た外来移民は多く、あるいは主として朝鮮半島からである。しかし朝鮮半島から来た人々が全部朝鮮半島の人ではない。彼らがもって来た先進文明と生産技術、知識なども半島のものではない。当時、朝鮮半島の文明、知識レベルは日本に比べるともちろん高いが、中国よりは遥かに低い。しかも半島の文明、知識は大部中国から導入したものである。周知の通り長期にわたって、中国人民は常に移民の形で、自国の先進文明や、生産知識などを他の民族、国家、特に周りの遅れた地域に伝えている。それらの地区に住んでいる土着民の生産水準を高めようとする。朝鮮半島はその中でも最も顕著な例である。朝鮮半島と中国大陸とは境を接して、陸上は歩いても達することが出来る。海上も原始的丸木舟などを使って、沿岸航行しても半島に至る。日本列島に渡るような風浪の危険は少ないので中国の歴史上、社会上の大きな変動があるごとに人口の大きな移動が行われる場合には、常に朝鮮半島の方へ逃れている。ここに大きな変動というのは、天災と人災を指す。天災すなわち水、旱の災に際し、多くの住民達は衣食生計を計るためにふるさとを離れ、遠い異地に行かなければならない。人災すなわち支配者の惨酷なる圧政に耐えきれず、やむえず異郷に逃げて命を助ける。原因の違いによってかれらの組成も違うし、目標とする到達地区の要求も同じではない。天災のため食を求める人々は貧乏の庶民で、ただ生活の出来るところ、衣食のみ足りる地区を探すだけが、圧政を避ける人達は庶民の外に、貴族、奴隷主や官吏らも含まれた。かれらは禍を避けるので、目標地区は必ず中国大陸の支配勢力の及ばないところであり、それは遠ければ遠いほどよい。ことに秦王朝が6国をほろぼし、中国全国を統一した際、また漢王朝が朝鮮半島を征服し、4郡を置いて以後は、安全の立場からいえば朝鮮半島は理想的避難地とはいえない。けれども朝鮮半島とただ一海の隔にある日本列島は大海の中に孤立した離れ島なので、強大なる大陸にある統治力は及ばないところであるから一番理想的な地区と認められる。従って数多くの中国人が本土を離れ、朝鮮半島に移居し、間もなく日本列島に転居することは、全くありえないこととはいえない。中国の史籍に、日本列島へ移住する中国人のことは記録されていないが、朝鮮に移住の記録は、正史にも沢山ある。周の武王が箕子を朝鮮に封じる。燕王盧綰が朝廷に叛旗をひるがえし、匈奴に入った後、衛満は千余の亡命者を集めて、朝鮮に進入し、自ら王となる。あるいは辰韓の長老達は秦王朝の苛政を避けるため、朝鮮に行ったと語る。後漢書は、漢の初め中国は大乱となり、燕、斉、租から朝鮮に逃げる者は数万人もあると記録した。実際上、秦漢の前に、大陸から朝鮮に禍を避ける人も相当の数と考えられる。漢の武帝に至って朝鮮半島は正式に大陸の行政権に入った。4郡を設け、数多くの宮吏と庶民を朝鮮に送った。それゆえ西暦紀元前後、朝鮮半島の居民の中に中国大陸から来た人々の数量は極めて大量的と思われる。その数多くの中国移住民のうち僅かな中国東北地区の人を除けば、ほかはほとんど漢民族である。いうまでもなく、それほど多くの漢人のうちにあって、きわめて多数は衣食のみを要求する庶民達である。かれらは働く人であり、深く、高い学問的知識はないが生産面の技術、知識は必ずもっている。これら生産面の技術と知識は、当時の中国においては、普通なものと思うが生産レベルの低い周囲の民族、国家に対しては先進的なものというべきである。前に述べたとおり、中国大陸の人口移動は周囲の遅れた民族や国家に大陸の先進文明や、生産技術、知識などを伝える、輸出する機会である。それらの民族、国家は生産力を向上させ、社会の発展を得る。朝鮮半島の開化はその最も顕著な例である。日本列島でも同じで、長い間生産停滞にあった縄文期から弥生期へと移行したことも、この中国人口の移動と関係すると思う。4世紀の初め、朝鮮半島北部にある高句麗が南下して、楽浪郡を滅ぼし、漢王朝の勢力が半島からしりぞけられるとき、大陸から来た中国人に、一部は海を越し、日本列島に渡った日本書紀に書かれてある秦帝、漢王の裔孫と自ら称する人々は恐らくこれらの人であろう。弥生時期前後、数多くの中国移民が朝鮮半島を経て日本列島に至ったことは、伝説や史籍記録に筋書きを見るのみならず、日本の学者が出土した人骨を検証した結果もこの事実を証明している。九州大学の金関教授はかって北九州と山口県で出土した人骨の特徴を分析して、これらの人骨は渡来人と縄文人の混血であることを主張し、長崎大学の内藤教授は西北九州の弥生人骨を分析して、九州平原地区のものは渡来人の特徴を有し、沿海地区のものはまだ縄文人のままであると結論した。有明海地区出土の人骨は、この二つの特徴を共にもつ。内藤教授は平原地区の弥生人は農耕生産に従事し、沿海の人々はいまだ漁猟を主として暮すと主張した。今度吉野ゲ里から出土した人骨の分析にも渡来系の結論を得た。これら分析の結果から、当時日本列島に来た中国移民の活動地区は主に生産レベル高い北九州地区であり、時間の流れに従って、北九州から九州、瀬戸内海、近畿に拡がったのであろうと推測される。まとめていえば、縄文晩期以後、日本列島には数多くの中国移民が朝鮮半島を経由して渡来し、一番先に到達する地点は当時生産レベル高い北九州を中心とする地区であり、それから周辺より列島の各地に拡大した。かれらの移住したところはだんだんと在来の漁猟様式から農耕の生産様式へと変え、日本社会の発展に貢献した。けれども魚猟の様式が日本人民の問から消えたわけではないので、長い間にこの両種の生産方式が共存した。当時移民集中地区の北九州であっても例外ではない。
平和的移住ではない
移民、あるいは渡来人、帰化人たちが日本社会の発展になした貢献は、皆様はご存知のところで再び述べる必要はないが、それら日本社会の発展になされた貢献は、移民達が長期にわたってしんぼうし頑張った結果であることについて述べておきたい。ことばをかえれば、かれらの移住は決して平和的なことではないのである。古い時代からの人類社会だけでなく、動物の間でも絶えずあらそいがある。原始社会においても、常に相互同士間に食物を奪いとるための決死的闘争が行なわれる。いま時々見られる原始石器の中に、石鏃がある。これは獣を捕る場合使うものだけではない。人間同士の戦闘にも使う武器である。出土する人骨の中に、石鏃その他の武器によって傷を受けたものが時々発見される。ふるさとから離れ、全く知らない土地に生を求める移民達は武力がなければどんなところへも定着することは出来ない。生を求めることももちろん出来ない。当時の事状は、武力によって土着住民を征服したり、統治したりするか、または土着住民から征服され、かれらの奴隷になるかである。別の道はない。即ち平和的に定着する可能性は全くないのだから、中国大陸から周辺地区に移住する人達はみな武器を持って大規模の集団行動をとる。少人数または一人では絶対にいけない。中国の史籍の中で徐福のことを述べる場合にも、徐福はまず明らかに千単位の若い男女を引いて海を渡り、まもなく、徐福が国に戻って秦の始皇帝に武器と射撃の上手な人を要求し、再び海を渡る、とある。すなわち徐福を中心とする移民集団は、数多くの労働力と技術者のみならず、傍に力強い戦闘力を持つものを率いていた。そんな例は僅か一つではない。その他にも沢山ある。例えば朝鮮王衛満、南越王超陀らはみなそのような大きな力強い武装を持って、大規模な移民を行なった。かれらは新しい土地に到着し次第、武力によって土着民を征服し、統治したからこそ定住できた。そうでなければ、先進文明、生産技術と知識などの導入は全く不可能なことである。世界の歴史から見れば、古代、ことに原始社会に、平和的、あるいは話台の形で文明の伝播、知識の導入はほとんど出来ないことである。この事実は、日本列島の出土遺物から証明できる。九州に鏃傷、またはその他の武器によって傷をうけた人骨がかなり出土する。これら武器による傷を有する人骨は、みな戦闘の間に亡くなったものであった。もちろん集落同士の間にも戦闘は起こる。その場合にも戦死者が出るが、北九州と近い山口県土井ケ浜遺跡から出土した人骨は、二つの異なる文化集団の間の激しい戦闘のため戦死したものであることを証明する。この二つの異なる文化集団とは、外来移民集団と土着民のことを指す。土井ケ浜遺跡に、同じく弥生初期に属するが異なる地区文化を代表する須玖系土器と櫛目文土器が発見された。この発見から土井ケ浜は当時この異なる地区文化の接点であると認められる。ここに出土した二百体以上の人骨は一体を除き、みな弥生初期の土層から出土したのであった。これらの人骨には、多数抜歯と屈葬の特徴があり、これらの特徴から見れば、これらの人骨は縄文晩期に属する遠賀川系のものであると判断される。同時に、これら人骨の中に一般縄文人と違う長身の特徴をもつ男性人骨がある。この長身の特徴は当時の中国華北地区の人々のものであるから、おそらく縄文晩期から弥生初期までの、中国華北地区からの移民ではないかと考えられる。これら人骨の中に、鏃傷を受けた人骨が少なくない。一人の男性の人骨には16ケの鏃傷があり、頭骨も砕けている。右腕には二つの貝輪があった。その鏃傷をうけた人骨と同時に出土した土器の情況から見ると、恐らく西紀前2、3世紀頃、即ち弥生初期に、土井ケ浜で須玖系文化を有する外来移民集団と遠賀川文化系の土着民との間に、激しい戦闘が起こったことを認めなければならない。これら多くの人骨がその戦闘の激しさを証明するものである。遠賀川糸の土着民の長身特徴もかれらが日本列島の原始的土着民ではなく、やはり中国華北地区から移住したものであると考えられる。彼らが日本列島に入った時期は須玖系の人達よりずいぶん以前であるから、金属器文化などはまだ知らなかったため、金属器文化をもつ須玖系移民集団との戦闘には敗北しなければならなかったのではないか。いろいろの事情から見れば、弥生時期は先進文明や生産技術と知識を有する中国、朝鮮の大量移民集団が朝鮮経由、あるいは直接海を横切り、中国から日本列島に入った。激しい戦闘の後、土着民を征服し、支配し、その土地に定住した。次第に、知らず覚えずの間に中国の先進文明や、生産技術と知識を導入し、伝播んした。言うまでもなく、移民集団が定着するには、そして農耕文化を導入することなどは、みな時間を必要とするものであるから、日本に農耕が始まったのは弥生初期、即ち西紀前2、3世紀ごろのことと考えられる。農耕文化が日本列島にもたらされた時期がこれよりずっと以前ということはないであろう。土井ケ浜遺跡は恐らくその時期のものと推測される。これほど数多くの中国からの移民は、中国のどこから来たのか。これは誠に答え難い問題であるが、地理の面と人骨の検証から言えば、華北地区が最も適当と思われる。前に述べたように、中国の史籍に日本列島へ移民すること、または亡命することは一つも記されていないが、兵乱を避け、圧政に耐えられず朝鮮半島に亡命する燕、斉、すなわち華北地区の人々は沢山いた。それから九州に大量出土された甕棺は、中国夏商から戦国時代まで華北地区に見られる墓葬であるが奏漢、すなわち西紀前2、3世紀に至ると、華北地区はもう使われていない。ただ華北と華中沿海地区の貧乏庶民達はいまだこの簡単な甕棺を使っている。それから北九州に多く見られる高床式建築も、中国華北地区のものではない。華中、華南、ことに沿海の湿気の多い地区の建築様式である。日本の初期弥生時期農耕集落の代表的なものは板付遺跡であるが、この遺跡にある倉庫は穴倉であり、高床倉庫ではない。すなわち当時板付に農耕技術などをもたらした移民集団は、この以後とは異る地区から来たことを認めなければならない。私は縄文晩期から弥生初期にかけて日本列島に進入した中国移民は多く華北地区からの人々であり、弥生初期後半から中期、後期の移民は主として華北、華中沿海地区からの庶民であると推定している。この点については、後漢書などの中国の正史にある秦王朝が中国全土の統一を行なおうとする時代に、華中地区、ことに沿海地区の浪琅郡などから多くの人々が朝鮮にやって来たと考えられ、そして楽浪郡の墓葬方式は当時江蘇省あたりのものと合致しているので、弥生初期後半に朝鮮半島を経由し、日本列島に入った中国移民は、これら華中地区と華北地区沿海の人々ではないかと考えられる。もちろん弥生期に日本列島にきた外国移民達のほとんどが朝鮮半島経由であるが、かれらは日本社会の発展、生産力の向上に対し、莫大なる貢献をなした。この移民集団の人々が朝鮮半島からにせよ、中国からにせよ、日本列島にもたらした文化と知識はみな中国からのものである。かれらは武力を使って日本列島の土着民を征服したが、その後、かれら自身は再び故里に帰ることはなく、日本民族の一員になったのである。
 
「方丈記」の白楽天詩文摂取に見られる中国隠逸思想の変容

 

「方丈記」と白楽天詩文との関係については、すでに金子彦二郎氏の「方丈記と支那文学との関係―主として白楽天詩文との関係に就いて―」によって指摘されている。さらに、金子氏は「方丈記」と「池上篇並序」との直接的関係を指摘している。これに基づき、張利利氏は「「方丈記」と慶滋保胤・兼明親王の「池亭記」と白楽天の「池上篇並序」について―先行文学の中日比較―」で、中日先行文学と比較しながら、「方丈記」の先行文学から思想、宗教などの継承・発展を考察した。「方丈記」と老荘思想との関係について、初めて具体的に論じたのは、細野哲雄氏の「方丈記と老荘の思想」、「閑居考」など一連の「方丈記」研究と言えよう。細野氏は「方丈記と老荘の思想」で、仏教と老荘思想の要素が見られる「方丈記」の関連章節を検討し、「方丈記」と老荘の思想との係わり合いを考察し、「知足安分・自得自適の境界に救いを見いだそうとする長明の姿勢は、外ならぬ老荘の思想に基づくところが多い」と結論づけている。これを踏まえて、陸晩霞氏は「「方丈記」における老荘思想の影響」で、文学表現の視点から、「方丈記」における老荘思想の影響を考察し、さらに、自然愛好、養生自適、知足安分という観点から「方丈記」に見られる老荘思想の要素を検証した。「方丈記」と老荘思想の関係を取り上げた先行研究は「方丈記」思想面の研究において、多大な意義があると言えよう。しかし、ここには、「方丈記」に見られる老荘思想の要素が確認されているものの、隠者文学と称される「方丈記」に表れた隠逸思想は必ずしも中国の隠逸思想と一致するわけではないことに論及されてはいない。本稿は以上の先行研究を踏まえながら、隠逸思想の視点から「方丈記」と白楽天詩文の関係について、類似点の考察のみならず、相違点の考察も試みる。具体的には、まず、白楽天詩文に表れた隠逸思想の要素を考察する。次に、前中書王・慶滋保胤の「池亭記」など「方丈記」先行文学及び「方丈記」の文学表現を手がかりにして、「方丈記」における白楽天詩文の摂取から、白楽天詩文に表れた隠逸思想が「方丈記」に与えた影響を検証する。
最後に、白楽天詩文、主にその閑適詩に表れた隠逸思想と「方丈記」に表れた隠逸思想との比較から、両者の相違点を考察してみたい。  
白楽天詩文に表れた隠逸思想

 

中国の隠逸思想について
隠逸思想は中国思想にあって主流となる儒家思想と相対する思想であり、もともと乱世の産物である。隠逸とは、心が清く、世俗を超越し、俗人と交わらず、潔白清廉で飾り気がなく、見識が高く、物事の道理をよく見ぬいた人のことである。また、清貧な人であり、富貴を浮雲のごとくはかないものとし、さらに、謙譲の精神を身につけ、名利にとらわれない。隠逸は隠者・逸民・処士・隠逸・隠士と多くの名称で呼ばれているが、その中、世を避けて隠れる人、世を見捨てた人である「隠者」という言葉が早くも「論語」に見える。例えば、「論語」「微子篇」に、荷蓧丈人を指して、「子曰く、隠者なり」という。また同じく「微子篇」に、「逸民には、伯夷と叔斉、虞仲と夷逸と朱張、柳下恵と少連あり」とある。隠逸の動機について、社会的な動機としては、世俗の虚偽の生活に対する反感、官僚生活における裏面の汚濁に対する反感、個人的な動機としては、山水に対する純粋な憧憬、自己を固く守り、他と妥協し得ない性格、また、精神的なものとしては、世俗の拘束を逃れた素朴な世界に悠々自適に暮らしたいという願望などがある。その特徴としては、清貧、簡、拙なる生き方、自由、孤独感等が挙げられる。
中国では、王朝交替期に、反体制の態度を持ち、体制外に積極的に身を置く者として隠逸が現われた。殷周革命の時、義を守り周に仕えずに餓死した伯夷・叔斉がいる。漢の武帝の時には朝隠と称して朝廷に隠れたことを自嘲した東方朔がいる。後漢から魏晋に入ると、乱世から逃避して隠遁する者もあり、後漢の経学時代には、老荘思想の影響により、世俗を超越し、自然と一体となる者もあった。逃避という消極的な在り方から自適・自得という積極的な在り方へと進んできた。つまり、隠逸思想には儒家思想の要素もあれば、老荘思想の要素もある。その生き方の代表として、西晋の阮籍をはじめとする竹林七賢が挙げられる。
白楽天の「中隠」
唐代に入ると、隠逸詩人が輩出されている。また科挙制のため、文人と政治の関係が緊密になった。彼らは詩人であると同時に、政治家でもあった。そこに現実との妥協という隠逸の変貌が見られる。役人生活をしながらも精神的には自由な世界を抱くという朝隠が出てきた。この朝隠について、晋の王康琚は「反招隠詩」に、
小隠隠陸藪 小隠は陸藪に隠れ
大隠隠朝市 大隠は朝市に隠れ
と詠っている。
さらに隠逸と出仕を両立した生き方として、白楽天の中隠が現れた。「白氏文集」巻第五十二・二二七七「中隠」に、次のように述べている。
大隠住朝市 小隠入丘樊 大隠は朝市に住み、小隠は丘樊に入る。 
丘樊太冷落 朝市太囂諠 丘樊太だ冷落、朝市太だ囂諠。
不如作中隠 隠在留司官 如かず中隠と作り、隠れて留司の官に在るには。
似出復似處 非忙亦非閑 出づるに似て復た處るに似、忙しきに非ず亦た閑なるに非ず。
不勞心與力 又免飢與寒 心と力とを勞せず、又飢と寒を免る。
終歳無公事 隨月有俸錢 歳を終はるまで公事無く、月に隨ひて俸錢有り。
君若好登臨 城南有秋山 君若し登臨を好まば、城南に秋山有り。
君若愛遊蕩 城東有春園 君若し遊蕩を愛づれば、城東に春園有り。
君若欲一醉 時出赴賓筵 君若し一醉せんと欲せば、時に出でて賓筵に赴かん。
洛中多君子 可以恣歡言 洛中君子多し、以て歡言を恣にすべし。
君若欲高臥 但自深掩關 君若し高臥せんと欲せば、但自深く關を掩へ。
亦無車馬客 造次到門前 亦た車馬の客無く、造次として門前に到る。
人生處一世 其道難兩全 人生一世に處る、其の道兩つながら全くし難し。
賤即苦凍餒 貴則多憂患 賤くしては即ち凍餒に苦しみ、貴くしては則ち憂患多し。
唯此中隠士 致身吉且安 唯だ此の中隠の士、身を致すこと吉にして且つ安し。
窮通與豐約 正在四者間 窮通と豐約と、正に四者の間に在り。
これは白楽天五十八歳、長安における刑部侍郎の職を退いて洛陽に移った頃の作である。大隠と小隠に対し、白楽天は中隠の形をとった。中隠となって密かに官に留まっているのがよいとする。多忙でもないが閑でもなく、心と力も労することなく、飢えと寒さを免れるのである。人生はただ一度のみ、その生き方をみな叶えることは難しい。貧賎であれば寒さと飢えに苦しみ、出世して高位に上っても憂患が多い。ただ中隠の士だけが幸せで平安である。中隠とは困窮・通達と富貴・貧賎の間に生きているものである。彼は「仕」と「隠」とを両立させる中間の状態に隠逸の生活を求めているのである。これはあくまでも現実妥協的な隠逸である。なぜ白楽天はこの折衷的な道を選んだのだろうか。実はこのような処世観は「論語」「泰伯第八」に見られる「危邦不入、亂邦不居。天下有道則見、無道則隠」という出処進退の処世法と一致する。つまり、天下に道義のある場合は出て仕え、天下に道義が行われていない場合は隠れるとのことである。
「孟子」「尽心上篇」にも、「窮すれば則ち独り其の身を善くし、達すれば則ち兼ねて天下を善くす」という有名な言葉がある。この「独善」はすなわち隠遁者的な自己一人の幸福を追求する生きかたである。それに対して「兼善」或いは「兼済」は一個の自己にとどまらず天下のものすべての救済を責務とする意味である。この「孟子」の言葉は士大夫の行動の指針として広く知られているのである。白楽天も「與元九書」の中で、「僕は不肖なりと雖も、常に此の語を師とす」と述べている。この「独善」と「兼済」はそれぞれ白楽天の閑適詩と諷喩詩に対応し、白楽天の文学に影響を与えたのみならず、白楽天の「中隠」という隠逸思想にも影響を与えたにちがいないのである。
また、一連の「君若」の並列によって、自由自適で自然を楽しむ閑静な「中隠」生活が描かれている。このような趣向は白楽天詩文にしばしば見られる。例えば、彼は「池上竹下作」(「白氏文集」巻第五十三・二三九三)で次のように詠んでいる。
穿籬遶舎碧逶迤 籬を穿ち舎を遶り碧逶迤たり、
十畝閑居半是池 十畝の閑居半ばは是れ池なり。
食飽窻關V睡後 食飽く窻關Vたに睡りし後、
脚輕林下獨行時 脚輕く林下獨行の時。
水能性淡爲我友 水能く性淡く吾が友たり、
竹解心虚即我師 竹解く心虚に即ち我が師。
何必悠悠人世上 何ぞ必ずしも悠悠たる人の世上、
勞心費目覓親知 心を勞し目を費やし親知を覓めん。
俗世間の煩わしさをのがれて、流水が友となり竹が師となるという自然を楽しむ悠々自適の閑居生活に満足する心情がよくうかがえる。これは「荘子」外篇、天道第十三の中で世俗を避けて仕えない人が求めた「虛靜恬淡、寂漠無為」の境地と一致する。
以上の考察から分かるように、白楽天の「中隠」という隠逸思想には「独善・兼済」といった儒家思想の要素も含まれれば、「自由自適・知足安分」といった老荘思想の要素も含まれている。  
「方丈記」の白詩摂取に見られる隠逸思想の影響

 

「方丈記」先行文学の白詩摂取に見られる隠逸思想の影響
金子彦二郎氏が指摘しているように、白楽天の「草堂記」や「池上篇並序」は前中書王の「池亭記」や慶滋保胤の「池亭記」に影響を与え、「方丈記」を生み出している。本稿はまず白楽天詩文摂取の媒介の一つとされる前中書王・慶滋保胤の「池亭記」について、文学表現を手がかりにして、白楽天詩文に表れた隠逸思想の影響を考察してみたい。
「草堂記」や「池上篇並序」ほかの白楽天の作品に大きく影響を受けた前中書王の「池亭記」は短いとは言え、「独善」という言葉が二箇所ほど見られる。
余少携書籍、略見兼済独善之義。
独善之計、去此何求。
前者の出典は「白氏文集」巻第二十八・一四八六「與元九書」であり、後者の出典は「白氏文集」巻第一「月夜登閣避暑」と指摘されている。上流貴族にもかかわらず、前中書王は嵆康の「與山巨源絶交書」の言葉を借りて「七不堪、二不可、併在一身」と述べたように、自分は仕官にふさわしくないと判断して、結局「独善」の道を選んだ。しかし、「吾無古人之徳。位三品、齢半百。趨朝有官、帰家有亭」と述べているように、彼は完全に官をやめたわけではない。ここには、「晨與拜表称朝士、晩出遊山作野人」と白楽天が称揚した「中隠」の趣向が見られる。
「唐白樂天爲異代之師」と称する慶滋保胤の「池亭記」にも、白楽天の隠逸思想の影響がうかがわれる。前半において紙面を惜しまず都に住む煩わしさを論じた後、作者は自分の生活態度を述べている。例えば、「家主、職雖在柱下。心如住山中。官爵者任運命。天之工均矣」とは、官界に身を置きながらも、山中にいるように心の安らぎが保てるという意味である。長安に閑居している様子を詠んだ白楽天の「長安閑居」(「白氏文集」巻第十三・六六五)とよく似ている。
風竹松煙晝掩關 風竹 松煙 晝 關を掩へば、
意中長似在深山 意中 深山に在る似り長ず。
無人不怪長安住 人の 長安に住し、
何獨朝朝暮暮閑 何ぞ獨り朝朝暮暮閑ならんと怪しまざるは無し。
山林、田園など閑静な場所で閑居する隠逸者とは違い、白楽天はにぎやかな都に住みながら閑静な気でいられることを自慢している。
他には、「在朝身暫隨王事。在家心永歸佛那」や「晉朝七賢爲異代之友。以身在朝志在隱也」など、保胤の中隠の生活態度がはっきり表れており、白楽天の「中隠」の影響を受けていることは一目瞭然であろう。
また、自然と親しみ、悠々自適な境涯を楽しむ閑居生活の姿は、白楽天の「草堂記」や「池上篇並序」と同様に、両「池亭記」の中にもしばしば見られる。
匡廬奇秀、甲天下山。山北峯曰香爐、峯北寺曰遺愛寺。介峯・寺閨A其境勝絶、又甲廬山。元和十一年秋太原人白楽天見而愛之。若遠行客過故郷、恋恋不能去。因面峯腋寺作為草堂。…外適内和、一宿体寧、再宿心恬、三宿後頽然嗒然、不知其然而然。…又安得不外適内和、体寧心恬哉。(「草堂記」)
都城風土水木之勝、在東南偏、東南之勝在履道里、里之勝在西北隅、西閈北垣第一第、即白氏叟楽天退老之地。…毎至池風春、池月秋、水香蓮開之旦、露清鶴唳之夕、払楊石、挙陳酒、援崔琴、弾姜秋思、頽然自適、不知其他。…優哉游哉、吾将終老乎其間。(「池上篇並序」)
亭中置筆硯一両而備居閑、携絃歌十数而当行楽。…毎至池水緑、岸葉紅、華前春暮、月下秋帰、一吟一詠、聊以卒歳。独善之計、去此何求。(「池亭記」〈前中書王〉)
予杜門閉戸、独吟独詠。若有余興者、与児童乗小船、叩舷鼓棹。若有余暇者、呼僮僕入後園、以糞以灌。我愛吾宅、不知其他。(「池亭記」〈慶滋保胤〉)
ここでは、さらに閑居生活をたたえる気持ちもうかがわれる。白楽天の「草堂記」と「池上篇並序」においては、場所の美しさを強調し、「終老」の地として自ら住居を誇る部分が似ている。前中書王の「去此何求」と慶滋保胤の「我愛吾宅、不知其他」には、いずれも自分の池亭をたたえ、愛してやまない気持ちが溢れている。
以上の考察から、白楽天詩文に表れた隠逸思想の影響を、儒家思想と老荘思想の二つの要素に分けて、それぞれ確認できた。しかし、両「池亭記」、特に慶滋保胤の「池亭記」は、単なる白楽天詩文の模倣でなく、仏教信仰という要素が色濃く反映されているのである。例えば、慶滋保胤の池亭には文人が必備する書籍のほかに弥陀が安置されている。琴・酒などの趣味道具がなくても、弥陀は欠くことができないものであり、念仏読経していた彼の信仰心の深さが読み取れる。また「盥漱之初。參西堂。念彌陀。讀法華」といったように、念仏読経はすでに彼の日常生活の一部分となった。当時の浄土思想の隆盛がよくうかがえる。
「方丈記」の白詩摂取に見られる隠逸思想の影響
「方丈記」前半において、「世中にある人と栖」の無常は地獄絵のような五大災厄にたとえられている。長明はこの「世の不思議」について、いつも否定的に描き、「濁悪の世」と嫌悪し、きびしく批判している。
都の手振りたちまちに改まりて、たゞひなびたる武士に異ならず。世の乱るゝ瑞相とか聞けるもしるく、…(遷都)
あやしき事は、薪の中に、赤き丹着き、箔など所々に見ゆる木、あひまじはりけるを尋ぬれば、すべきかたなきもの、古寺に至りて仏を盜み、堂の物の具を破り取りて、割り碎けるなりけり。 濁惡(の)世にしも生れ合ひて、かゝる心憂きわざをなん見侍(り)し。(飢饉)
すべて世中のありにくゝ、我が身と栖との、はかなく、あだなるさま、またかくのごとし。
しかし、後半においては、積極的に閑居生活を楽しむ長明の姿しか見えない。長明は自分の「方丈」庵と都を対照的にとらえ、「おのづから、ことの便りに都を聞けば、この山にこもり居てのち、やむごとなき人のかくれ給へるもあまた聞こゆ。まして、その数ならぬたぐひ、盡くしてこれを知るべからず。たびたびの炎上にほろびたる家、またいくそばくぞ。たゞ假りの菴のみ、のどけくしておそれなし」と述べている。しかしながら、仏教的無常観というのは、生きているこの世のあらゆるものは「常ならぬ」存在であるという観念である。誰であろうと、どこに居ようと、この「諸行無常」の摂理から逃れることはできない。この点において絶対安全な場所は存在しない。ところが、閑居生活に浸りきっている長明は「たゞ假りの菴のみ、のどけくしておそれなし」と「方丈」庵を安心な場所として認めている。これは仏教的無常観の論理では解釈できないことである。長明の中で、「濁悪の世」と対置されたのは五濁・悪道のない西方極楽浄土ではなく、「方丈」庵なのである。地獄絵のように全面否定的に描かれた都を離れ、彼がたどりついたのは「方丈」庵の閑居生活である。
さらに「閑居の 氣 味 もまたおなじ。住まずして誰かさとらむ」と閑居生活を肯定し讃美している。閑居生活を讃美するのは、長明はただ一人であろうか。まず歴代の閑居者の声を聞いてみよう。この「住まずして誰かさとらむ」の典拠について、仁木宜春の「方丈記抄」は、「新古今集」巻十七の西行法師の「山ふかくさこそ心はかよふとも住まであはれは知らんものかは」を指摘している。ここで分かるように、閑居生活への讃美は長明独自のものではないようである。また、前述した通り、「方丈記」の先行文学にも、やはりこの悠々自適の閑居生活を讃美する語句がたびたびでている。
以上の考察から分かるように、凡そ閑居生活を経験して、隠逸志向を持っている文人であれば、多かれ少なかれその作品に閑居生活を称える気持ちが表されているのである。それは作者の心の底に潜んでいる隠逸思想とかかわっていると思う。世の中を地獄絵のように全面否定的に描いた後、自ら都から離れて、「方丈」庵の閑居生活を讃美する長明も、この隠逸思想となんらかのかかわりがあると思われる。
ここで、「閑居の 氣 味 」という表現を手がかりに、「方丈記」における隠逸思想の影響を探ってみる。「閑居」の意味について、「日本国語大辞典」は「閑静なところに住むこと。世間との交わりをやめ、わずらわされることなく、心静かに住むこと」と解釈している。また「日葡辞書」は「人里離れた所など静かな所に引き込んでいること」と説明している。まず、中国文学における「閑居」について考察してみよう。
「閑居」という言葉はすでに「毛詩」、「礼記」などの五経や「史記」、「後漢書」などの史書に見られる。「論語」には「閑居」は見当たらないが、「閑居」と関連する「隠居」は見られる。
孔子曰、見善如不及、見不善如探湯。吾見其人矣。吾聞其語矣。隱居以求其志、行義以達其道、吾聞其語矣。未見其人也。(「論語」季氏第十六)
この「隠居」は「世をのがれて仕えない」の意である。「隱居以求其志、行義以達其道」とは、「世の中に道が行なわれず、世間から隠退している時も、自分が道を行なおうという志を失わないで、学問と修養の志をいよいよ高く保ち、一度出世できた時には、また平素志した道を行なう」という意味である。
また、「荘子」にも「閑居」やその関連語が何箇所か見られる。次のような例が挙げられる。
夫虛靜恬淡、寂漠無為者、萬物之本也。明此以南鄉、堯之為君也。明此以北面、舜之為臣也。以此處上、帝王天子之コ也。以此處下、玄聖素王之道也。以此退居而陝焉A江海山林之士服、以此進為而撫世、則功大名顯而天下一也。(「荘子」外篇、天道第十三)
就藪澤、處陞D、釣魚陌|、無為而已矣。此江海之士、避世之人、 濶ノ者之所好也。(「荘子」外篇、刻意第十五)
傍線部の「退居而陝焉vとは「世を退き静かに生活を送る」と解される。次の「就藪澤、處陞D、釣魚陌|、無為而已矣」とは、人の住まないような片田舎に住み、広々としたところにいて、静かな場所で魚釣りなどするのは、何もする事なく暮らすということであり、まさに「閑居」であろう。このような「恬淡寂寞、虚無無為」の「閑居」生活は他でなく、「江海之士、避世之人、濶ノ者」つまり隠者の好みである。以上の用例を通して、「閑居」という行為は常に退隠と関連して現れるのが判明できる。つまり、「荘子」の中の「閑居」は、世俗を避けて仕えない人が求めた「虛靜恬淡、寂漠無為」の境地を指している。
このような隠逸的要素が入っている「閑居」は、「礼記」などで見られる、ただ閑でいて、静かに生活することを表す「閑居」とは、性質が違うように思われる。
潘安仁の「閑居賦」が先例として、「文選」における「閑居」は数多く見られる。「古今隠逸詩人の宗」と評される陶淵明の詩句にもしばしば「閑居」が詠われる。「陶淵明全集」に次のような例が挙げられる。
「辛丑歳七月赴假還江陵夜行塗口」(巻第二)
閑居三十載 遂與塵事冥  閑居すること三十載、遂に塵事と冥し。
詩書敦宿好 林園無世情  詩書 宿好を敦くし、林園 世情無し。
……
投冠旋舊墟 不為好爵縈  冠を投じて旧墟に旋り、好爵の為に縈がれざらん。
養眞衡茅下 庶以善自名  眞を衡茅の下に養い、庶くは善を以て自ら名づけられん。 
これは三十七歳の陶淵明が休暇を終えて、故郷から任地の江陵にもどる途中に詠んだ作である。ここでは、「閑居・塵事」、「林園・世情」、「投冠・養眞」といった閑居と世俗それぞれを象徴する言葉が表れ、作者の官をやめて故郷で自由に暮らしたいという心情が述べられている。「閑居」の用例は、ほかにもたくさんあるが、ここでは省略する。陶淵明は自身の窮状を描く時、多年の役人生活への嫌悪感、その束縛から離れたい気持ちを表わす時に、よく「閑居」という言葉を使った。田園詩人である陶淵明のこの隠逸思想は、孟浩然、王維、白楽天など多くの詩人に影響を与えた。白楽天の詩作、「昭国閑居」「長安閑居」などの詩題の中に「閑居」を含むものが十七首ほどある。
また、この隠逸の趣向を表す「閑居」の詩文は、日本文学にも強い影響を与えている。例えば、中国六朝の詩風にならった日本現存最古の漢詩集「懐風藻」に「吉野川に遊ぶ」という詩があり、悠々自適の生活を楽しむ閑居の姿が反映されている。
芝尢蓀澤。松柏桂椿岑。  芝尢蓀の澤、松柏桂椿の岑。
野客初披薜。朝隱蹔投簪。  野客初めて薜を披り、朝隱蹔く簪を投ぐ。
忘筌陸機海。飛繳張衡林。  筌を忘る陸機が海、繳を飛ばす張衡が林。
清風入阮嘯。流水韵嵆琴。  清風阮嘯に入り、流水嵆琴に韵く。
天高槎路遠。河廻桃源深。  天高くして槎路遠く、河廻りて桃源深し。 
山中明月夜。自得幽居心。  山中明月の夜、自らに得たり幽居の心。
ここでいう「野客」とは朝廷に仕官しながら隠士の操を守る者をさす。また中国隠逸思想の代表である阮籍、嵆康の名を借りて自分の隠逸志向を表している。そして「桃源深し」、「幽居の心」などで、この吉野の山中に世俗を離れた奥深い静かな住いの心境を述べている。六朝時代に生きる陶淵明の桃源郷の隠逸思想の影響がはっきり表れている。この時代の詩作はほぼ中国の漢詩を模倣して詠ったものの、当時の文人が自然を楽しむ閑居生活に憧れを抱いていることがうかがえる。「閑居」を詠う作は日本の漢詩文だけでなく、和歌にもしばしば見られる。例えば、西行は「閑待月」を題とした一首の中で「月ならでさし入る影のなきまゝに暮るゝうれしき秋の山里」(「山家集」「上、秋」三一八)と詠って、月光がさし込む以外は訪れてくるもののないわびしさを詠う上句と対照的に、下句は山里の閑居住まいのうれしさを表している。
「方丈記」の「閑居の 氣 味 もまたおなじ。住まずして誰かさとらむ」の中の「閑居」及びその隠逸思想は、いったいどこから影響を受けて書かれたのであろう。ここで「氣味」という言葉についても考察した。ここの「氣味」は、元来、においと味の意味であるが、味わい、趣にも解される。「氣味」という言葉について、安良岡康作は「方丈記(全訳注)」で、次のように述べている。
「本朝麗藻」巻下の、大江以言の「閑中日月長」の詩に、「閑中気味属禅房。唯得自然日月長」の句がある。「徒然草」の第一七四段に、「人事多かる中に、道を楽しぶより気味深きはなし。これ、実の大事なり」とある。…「白氏文集」巻第三十三「老来生計」に「人間栄耀因縁浅、林下幽閑氣味深」とあり、この二句は、「和漢朗詠集」巻下の「閑居」にも選ばれ
ている。長明も、そこからこの語を取り用いたのであろうと想像される。
白楽天のこの「人間栄耀因縁浅、林下幽閑氣味深」は「千載佳句」「幽居」にも見られる。さらに、「白氏文集」巻第十六・九六三「憶微之」では、次のように詠まれている。
與君何日出屯蒙 君と何れの日か 屯蒙を出でん、
魚戀江湖鳥厭籠 魚は江湖を戀ひ 鳥は籠を厭ふ。
分手各抛滄海畔 手を分ちて 各ゝ滄海の畔に抛ち、
折腰倶老緑杉中 腰を折つて 倶に緑杉の中に老ゆ。
三年隔濶音塵斷 三年 隔濶して 音塵斷え、
兩地飄零氣味同 兩地 飄零して 氣味同じ。
又被新年勸相憶 又た新年に相憶ふことを勸めらる、
柳條黄軟欲春風 柳條黄軟にして 春風ならんと欲す。
今、さびしきすまひ、一間の菴、みづからこれを愛す。おのづから、都に出でて、身の乞匃となれる事を恥づといへども、歸りてこゝに居る時は、他の俗塵に馳する事をあはれむ。若、人このいへる事を疑はば、魚と鳥とのありさまを見よ。魚は水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林をねがふ。鳥にあらざれば、その心を知らず。閑居の氣味もまたおなじ。住まずして誰かさとらむ。(「方丈記」)
「方丈記」の原文と比べてみると、「魚と鳥」の部分や、「氣味同」と「閑居の氣味もまたおなじ」など、より直接的な関連が明かである。安良岡氏が指摘した「人間栄耀因縁浅、林下幽閑氣味深」より、むしろこの詩句から直接的に摂取したのではなかろうかと想像される。「白氏文集」を調べたら、「漸老漸諳閑氣味、終身不擬作忙人」(「閑意」巻第十七・一〇四二)、「蓬山閑氣味、依約似龍棲」(「答蘇庶子」巻第五十五・二五五〇)、「爲報野僧巖客道、偸閑氣味勝長閑」(「和裴相公水傍絶句」巻第五十五・二五八二)など、「氣味」の用例がしばしば見られる。
ここでは、とくに注目すべきなのは、「白氏文集」においては「閑」と「氣味」との組み合わせが数多く使われているが、「文選」や陶淵明の詩文には「氣味」の語句は一例も見あたらないことである。「氣味」とは白楽天の独特な詩語と言えよう。すると、「方丈記」は白楽天の漢詩文とより身近な関係にあることが裏付けられる。さらに、「方丈記」の「閑居」は他でもなく白楽天の閑適系詩文から取り入れたのであろうと想像される。「方丈記」と白楽天詩文の直接的関係について、すでに金子彦二郎氏の研究によって指摘されている。金子氏の考察によると、「方丈記」には、すでに発見されている「白氏文集」関係の典拠が、およそ十六項見られるという。氏は「保胤の池亭記が楽天の池上篇に本づく事実は明瞭であるが、長明のそれは決して保胤の池亭記からの踏襲ばかりではなく、直接に又楽天の池上篇に拠ったものであることが知られるのであろう」と、「方丈記」と「池上篇並序」との直接的関係を指摘している。ここでは、いままでまだ指摘されていないもう一例を紹介する。
「白氏文集」「自題小草亭」(巻第六十五・三二三六)
新結一茅茨。規模儉且卑。土階全壘塊。山木半留皮。
陰合連藤架。藂香近菊蘺。壁宜藜杖倚。門稱荻簾垂。
窻裏風清夜。簷間月好時。留連嘗酒客。句引坐禅師。
伴宿雙棲鶴。扶行一侍兒。緑醅量盞飮。紅稻約升炊。
齷齪豪家笑。酸寒富屋欺。陶廬閑自愛。顔巷陋誰知。
螻蟻謀深穴。鷦鷯占小枝。各隨其分足。焉用有餘爲。
ここでは、住居の簡素さ、自然風物の楽しみ、富家に対する意識、小動物の比喩によって表れた知足安分の心境、閑居への愛着などの要素について、以下の通り、「方丈記」で相応の部分が見あたる。
…若、貧しくして、富める家のとなりに居るものは、朝夕すぼき姿を恥ぢて、へつらひつゝ出で入る。妻子・僮僕の羨めるさまを見るにも、福家の人のないがしろなるけしきを聞くにも、心念々に動きて、時として安からず。
…ほどせばしといへども、夜臥す床あり、晝居る座あり。一身をやどすに不足なし。かむなは小さき貝を好む。これ身知れるによりてなり。みさごは荒磯に居る。すなはち、人をおそるゝがゆゑなり。われまたかくのごとし。身を知り、世を知れれば、願はず、走らず。
…今、さびしきすまひ、一間の菴、みづからこれを愛す。
以上、中国の漢詩文における「閑居」及び「氣味」の考察によって、「方丈記」の表現がかなり白楽天詩文の影響を受けていることを究明した。しかし、「方丈記」に表れた簡素・清貧、知足安分、自由自適といった隠逸思想の要素を見れば、すべて老荘思想の要素であり、「独善・兼済」に基づく「中隠」といった儒家思想の要素はいっさい見られない。前中書王・慶滋保胤の「池亭記」といった「方丈記」の先行文学には儒家思想と老荘思想の要素を持っている隠逸思想の影響が検証されたものの、「方丈記」に表れた隠逸思想には老荘思想の要素だけ受け入れられており、儒家思想の要素がなくなったのはなぜであろうか。そこには、隠逸思想の変化があると思われる。  
「方丈記」に見られる中国隠逸思想の変容

 

「閑居」という表現の考察から分かるように、隠逸という行為は、「退」と「隠」が常に関連して現れる。しかし、何から退いてどこを離れて、隠逸という行為を取ったか、時代差や個人差があり、必ずしも一様ではないようである。つづいては、世俗に対する見方について、白楽天の閑適詩と長明の「方丈記」の比較、さらに、それらの文学作品が生まれるそれぞれの時代背景や、作者の身分・生涯などの比較を行ない、「方丈記」に表れた隠逸思想と中国隠逸思想の相違点を考察してみたいと思う。
白楽天の閑適詩
中国・日本文学に大きな影響を与えた白楽天、その七十五年の生涯は、貧困の生活を経て高官生活に入りながらも、しばしば左遷隠居するという起伏に富んだものである。官僚生活に対する心情は、彼の詩文に数多く見られる。「白氏文集」閑適三「香峯下新置草堂、即事詠懐、題於石上」(巻第七・三〇三)言我本野夫 誤爲世網牽 言ふ我は本野夫なり、誤つて世網の牽くところと爲る。
時來昔捧日 老去今歸山 時來りて昔 日を捧げ、老い去つて 今 山に歸る。
倦鳥得茂樹 涸魚反C源 倦鳥 茂樹を得、涸魚 C源に反る。
捨此欲焉往 人間多險艱 此を捨てて焉くに往かんと欲する、人間 險艱多し。
「白氏文集」閑適四「馬上作」(巻第八・三四七) 
彈琴復飲酒 但慕嵆阮徒 琴を彈じ復た酒を飲む、但だ嵆阮が徒を慕ふ。
闇被郷里薦 誤上賢能書 闇に郷里に薦められ、誤つて賢能の書を上る。
一列朝士籍 遂爲世網拘 一たび朝士の籍に列し、遂に世網の爲に拘せらる。
高有罾繳憂 下有陷阱虞 高きは罾繳の憂ひ有り、下きは陷阱の虞れ有り。
毎覺宇宙窄 未嘗心體舒 毎に覺ゆ宇宙の窄きを、未だ嘗て心體舒やかならず。
蹉跎二十年 頷下生白鬚 蹉跎たること二十年、頷下 白鬚を生ず。
何言左遷去 尚獲専城居 何ぞ言はん左遷し去ると、尚ほ城を専らに居るを獲たり。
以上の詩句から分かるように、白楽天は自分がもともと官界とは無縁の者で、ただ竹林七賢のように、琴を弾いたり、酒を飲んだりする生活を慕うと述べている。陶淵明「歸園田居(其一)」の詩句「誤落塵網中」に見られる「塵網」と同じように、白楽天の詩文にしばしば「世網」という言葉が見られる。「一列朝士籍、遂爲世網拘」の一句から見れば、この「世網」は他ならぬ官界のしがらみを指すことは明かである。「誤つて世網の牽くところと爲る」や「遂に世網の爲に拘せらる」といった表現によって、官僚生活に束縛されて自由を失うのは、自分の本意に背くことが表れている。この危険と困難に溢れる官界に身を置かれた白楽天は、心も身体も安らぐことなく、年老いてしまった。この朝廷に奔走した官僚生活から逃げるために、彼は山林に隠居する志を示しているのである。以上の考察から分かるように、白楽天にとっての世俗は、やはり官僚社会そのものである。しかし、自ら役人生活を辞めた陶淵明と対照的に、白楽天のほうは官界から離れず、世俗の名利も捨てず、朝廷にいながらも、精神的に自然と親しみ、自由、閑適な「中隠」生活を楽しもうとしている。
このような処世観を説く詩作は、白楽天の生涯にわたって数多く見られる。白楽天自らこれらの作品を「閑適詩」と分類し、さらに、閑適の概念を「又或退公獨處、或移病閑居、知足保和、吟玩情性者一百首、謂之閑適詩」(「與元九書」巻第二十八・一四八六)と規定する。「退公獨處」、「移病閑居」はまさに「閑」を指し、「知足保和」、「吟玩情性」はまさに「適」を指す。白楽天にとって「閑適」とは、埋田重夫氏が述べているような「公的な立場から離脱したより私的な時空を意味する価値概念」である。白詩に見られるこの「閑」は、「漸老漸諳閑氣味、終身不擬作忙人」(「閑意」巻第十七・一〇四二)、「似出復似處、非忙亦非閑」(「中隠」巻第五十二・二二七七)といったように、しばしば「忙」と対比しながら論じられる。白楽天の「閑・忙」に対する態度は、「閑忙」(巻第五十八・二八四五)の一首ではっきりと表れている。
奔走朝行内 朝行の内に奔走し
棲遲林墅間 林墅の間に棲遲す

閑忙倶過日 閑と忙 倶に日を過ごせども
忙校不如閑 忙は校だ閑に如かず
長年官僚生活の「忙」への嫌悪・否定と「閑」への肯定とは対照的で、白楽天の「閑」への志向が強く感じられる。白楽天の作品から分かるように、中国の隠逸が、絶えず「仕官」を意識しつつおこなわれることは、中国隠逸思想の特色と言えよう。彼らにとって、世俗は他でもなく官僚社会であり、官職を辞退し、官界を離れることは隠逸という行為と強く結び付いているのである。
「方丈記」
さて、「方丈記」では世俗がどのように意識され、どのように描かれているのだろうか。「方丈記」の前半を見ると、無常の理を提示した序の次に、長明は自分の体験に基づいて、大火、辻風、遷都、飢饉、地震など五つの災厄を年代順に記し、「世の不思議」を述べ、この世の無常、この世における人と住家とのはかなさを実証的に論じている。例えば、著者は「安元の大火」について次のように描いている。
吹き迷ふ風に、とかく移りゆくほどに、扇をひろげたるがごとく末廣になりぬ。遠き家は煙に咽び、近きあたりはひたすら焔ほを地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じて、あまねく紅なる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔、飛(ぶ)が如くして一二町を越えつゝ移りゆく。その中の人、現し心あらむや。或は煙に咽びて倒れ伏し、或は焔にまぐれてたちまちに死ぬ。或は身ひとつ、からうじて逃るゝも、資財を取(り)出(づ)るに及ばず、七珍万寶さながら灰燼となりにき。(大火)
大火の模様と延焼の状況についての描写はリアルで、まるで地獄絵を目の前に見せるように、想像させ、鮮烈な印象を残すものとなっている。しかし、長明は単に五つの災厄を記録しているだけだろうか。なぜそのように細部にこだわったのだろうか。大火、辻風、遷都、飢饉などの惨状を描いたあと、長明は次のように述べている。
あやしき事は、薪の中に、赤き丹着き、箔など所々に見ゆる木、あひまじはりけるを尋ぬれば、すべきかたなきもの、古寺に至りて仏を盜み、堂の物の具を破り取りて、割り碎けるなりけり。 濁 惡 (の)世にしも生れ合ひて、かゝる心憂きわざをなん見侍(り)し。(飢饉)
ここで「濁悪の世」という言葉が出てきた。この「濁悪の世」の意味は文字通り汚れや罪悪が満ちている世で、仏語でいうと末法の世である。「法華経」や「往生要集」の冒頭にも出ている。この「濁悪の世」についての批判は「養和の飢饉」に限らず、他の災厄描写にも表れている。例えば、「安元の大火」の段では、「人の營み、皆愚かなるなかに、さしも危ふき京中の家をつくるとて、寶を費し、心を惱ます事は、すぐれてあぢきなくぞ侍る」と、人間の財産を貪る欲望を批判している。また、「元暦の地震」の段では、「すなはちは、人みなあぢきなき事をのべて、いさゝか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日かさなり、年經にしのちは、ことばにかけて言ひ出づる人だになし」と、無常を悟りきれない当時の愚かなる人たちを批判している。
長明は「諸行無常」という仏教教理に基づき、地獄絵のようになまなましい五大災厄に託して、「濁悪の世」つまり末世をよみとって実感させようとしているのである。長明の災厄に満ちた社会を濁世ととらえる見方は中国の隠逸詩文に全く見られない独特なものである。このような厭世的な考えは平安時代の文学にもしばしば見られる。例えば、次のような例が挙げられる。
うき世にはかどさせりともみえなくになどかわが身のいでがてにす (「古今和歌集」巻第十八「雑歌下」九六四)  
わび人はうき世中に生けらじと思事さへかなはざりけり(「拾遺和歌集」巻第八「雑上」五〇五)
もろともにおなじうき世にすむ月のうらやましくも西へゆくかな(「後拾遺和歌集」巻第十五「雑一」八六八) 
平安中期は、道長を中心とした摂関政治の最盛期である。摂関体制内の不安と分裂、浄土教の伝播、さらに末法思想の流布などが、主な時代背景としてあげられる。上記の歌で詠まれているように、世の中が「憂き世」であるという現世否定の認識を持つ人は少なくない。続く平安末期、つまり貴族社会の崩壊、武家政治の開始という変動期にあって、保元の乱などの戦乱、都での火災、地震など、あいつぐ社会の変動を体験し、現世の無常、そして、末法時代への恐怖を感じた人々に、この末法・浄土思想が心の支えを与えて、貴族から庶民に至るまで広く信じられたのである。この時代を生きる長明も例外なく、末法・浄土思想の影響を受けたにちがいない。
一方、著者鴨長明は仕官と全く無縁とは言えない。例の河合社禰宜事件の失敗が長明出家の主要動機と指摘される。その後、後鳥羽院は氏社を官社に昇格させて、その禰宜に任じようと図ったが、長明はこれを固辞して、やがて遁世した。長明の心の底に官僚社会に対する不満が潜んでいるかもしれないが、閑居生活との直接の関連が「方丈記」の文面には読み取れない。官僚社会の嫌悪から発足した中国隠逸の伝統とは違って、「方丈記」は世の中の無常、「濁悪の世」への批判から閑居生活の讃美へと導いているのである。この違いが生まれたのは、「方丈記」が時代を色濃く反映する末法・浄土思想の影響を受けたためである。  
まとめ
本稿は前中書王・慶滋保胤の「池亭記」など「方丈記」先行文学から「方丈記」にかけての白楽天詩文の摂取を通して「方丈記」に表れた中国隠逸思想の変容を考察してみた。白楽天の詩文には、考察したように、「独善・兼済」に基づく「中隠」といった儒家思想の要素も含まれれば、簡素・清貧、知足安分、自由自適といった老荘思想の要素も含まれていることが確認できた。「方丈記」の先行文学とされる前中書王・慶滋保胤の「池亭記」では、白詩に見られる隠逸思想の儒家思想の要素と老荘思想の要素が如実に摂取されている。しかし、両「池亭記」は単なる白楽天詩文の模倣に止まらず、仏教信仰という要素が色濃く反映されているのである。「方丈記」に至ると、簡素・清貧、知足安分、自由自適といった老荘思想の要素が検証されたものの、儒家思想の要素がなくなったことは興味深い。その上、末法・浄土思想の影響がさらに強まり、作品の主導思想にもなっている。ここには、日本に伝わった中国隠逸思想の変容が見られる。
白楽天の隠逸であれ、鴨長明の出家遁世であれ、「世を離れる」という行為は根本的に一致する。但し、「世」の見方によって、違いが生じてくる。白楽天にとっては、「世=官界」である。彼は「退公」という手段によって、「兼済」から「独善」へ、仕官から自身へ、つまり「対他的」から「対自的」へという処世態度の変化で、官僚生活の「忙」から離脱して、隠逸生活の「閑」を求めたのである。一方、鴨長明にとっては、「世=濁悪の世」である。これは平安時代の中ごろから主流を占めた末法・浄土思想と深くかかわっている。「人と栖」の無常、醜悪な世俗の営み、俗欲を貪る愚者に満ちた末世を厳しく批判した後、彼は都を離れ、「方丈」庵を結び、閑居生活を始めた。和漢混淆文の代表である「方丈記」の中で、特に目立つのは「対句」表現の多用である。実は「方丈記」の構成も一つの対句と言えよう。「方丈記」の文章は、冒頭から仏教的無常観という否定表現から始まり、世の中を「濁悪の世」とみなし、また隠逸思想によって閑居生活の肯定に至り、最終的に閑居生活を否定し、再び原点の仏教にもどる、という構成になっている。浄土思想から解釈すれば、前半の「濁悪の世」への批判と後半の閑居生活への讃美は、それぞれ「厭離穢土」と「欣求浄土」に当てはまる。ただし、長明が求め得たのは、結局、本当の「浄土」ではなく、中国隠逸思想に関連の深い「閑居」なのである。  
 
弥生人の祖先霊信仰

 

首長霊信仰によって日本統一をなし遂げた大和朝廷
日本の古代史については、意外に皆知っているようで知らないのではないかと思います。学校の教科書にも明確な記述がないので、日本という国の誕生について、われわれ素人には、曖昧で不明瞭な部分が多いんです。そこでまず、日本の誕生、あるいは成立について教えていただけませんか。
武光 日本の成立というのは日本人の成立とも深く関わるわけですけれども、今のような日本人のもとができたのは、弥生時代の終わりです。
その前に縄文時代というのがあったわけですが、縄文人というのは、もともと北の方から日本列島に渡ってきた人たちで、狩猟、漁(ぎょ)ろうを中心に生活していました。そこへ、紀元前2世紀以降、水稲耕作という新たな文化を持った、いわゆる弥生人たちが、朝鮮半島から大量にやってきた。そして、縄文人と交流・混血しながら、弥生文化をつくりあげていったわけです。その弥生文化が日本国内で互いに交流して、ひとつまとまったものになったのが、3世紀の半ば頃です。
そしてその時期に、奈良盆地に今の天皇家の先祖にあたる大和朝廷が生まれて、日本統一への歩みを始めたのです。
なるほど。その大和朝廷が、数多くの小国や部族をとりまとめ、日本統一をなし遂げた秘密というか、理由は何でしょうか。
武光 大和朝廷が国家統一を成し得た最大の要因は「首長霊信仰」といえると思います。すなわち、一つの信仰のもとにすべての日本人をまとめ、国家をつくりあげたのです。
首長霊信仰とはどういう信仰なんですか。
武光 有力豪族の祖先を「首長霊」として祭り、その霊が、自身の子孫だけでなく、庶民も守ってくれるとする発想です。そして大和朝廷は、「天皇霊(すめらみことのみたま)と呼ばれる大王(おおきみ)の首長霊を最も尊いものとし、これを頂点として、豪族達の首長霊の序列をつくりました。つまり、天照大神(あまてらすおおみかみ)がいちばん偉い神だとし、天皇の祖先神を中心に神々の序列をつくったわけです。
そしてそれを上から一方的に強制するのではなくて、確かに序列はあるけれども、民にとっては、各氏族、各地方の神様がいちばん大切だ、というように、それぞれの自立性を残しながらまとめていったんです。
たいへんうまいやり方ですね。誰もが、自分たちの神様の系列をたどっていくと天照大神につながっていくわけですからね。国民の間に自然に一体感が生まれてくるというわけですね。
武光 そうです。一つの村が一つの神様を祭り、その信者同士がお互いに助け合ってまとまっている。その村々も、同じ神様を信仰するもの同士、助け合いにつながっているわけです。そういう日本の神社信仰はごく最近まで残っていました。今でも人間のつながりとか、人間の和というのは、われわれ日本人の中に根強くありますね。
"マアマア外交"が日本をここまでにした!?
なるほど。また、日本人は単一民族で価値観が割合一定していてまとまりやすいという要因もあったんでしょうね。そのうえ、ずっとその後、一つの国家が分裂しないで続いているのも大変珍しいと思います。
武光 ほんとうにこれは特殊なケースです。他民族から征服されることなく、村の首長がそのまま大きくなった形で国が統一されたというのは、外国にはない珍しい例です。そのうえ日本というのは、現代でも行政指導が意外に強い。それも、政治家が独裁的に決めるのではなくて、いろんな企業の意向を、なんとなく役人が調整するわけです。あまり表立った議論をしなくても、いつの間にかみんなが望むような政策が取れるシステムになっている。そのへんが、古代の日本の政治そのものなんです。
また、日本人は外交が下手だ、とよくいわれますが「マアマア外交」などといわれながらも、日本をここまで大国に押し上げてきた、という点で、日本の政治力はやはり優れているといえますね。
人間同士の身分格差が生まれた弥生時代
ところで、縄文人と弥生人の基本的な違いはどういうところですか?
武光 大きな特徴をいえば、縄文人は「円の発想」、弥生人は「区分の発想」を持っていた、という点でしょう。
「円の発想」というのはアニミズム(精霊崇拝)から生じたもので、人間も生き物も、風、雨、太陽、月、星等の自然現象もすべて精霊を持った平等な存在とみるものです。人間は何とでも互いに友達になるという発想で、むやみに木を切ったり、動物を殺したりしない。狩りで捕えた獲物にしても粗末にはしないで手厚く祭りますし、人間も動物も、死ねば同じところに葬ったわけです。自然の恵みのままに、自然を壊さないで、自然の一部として生活していこうという考え方です。
エコロジストだったんですね。自然との差別もないし、区別もない。人間同士も平等で、うらやましいような世界ですね。
武光 そうですね。集落も、円形の広場を中心にして、周囲には竪穴住居がめぐらされ、その周りにゴミ捨て場(貝塚)があるというもので、その三者が同心円を形成しているわけです。
なるほど。まさに、「円の発想」ですね。
武光 それに対して弥生人は、人間は自然の一部ではない、有益な動植物を増やし、有害な生き物を排除する権利を持っている、そして、人間には能力差があるから、それに見合った身分が必要だ、という発想を持っていました。これが「区分の発想」です。逆にいえば、そういう発想があったからこそ、土地を拓き、そこにいた動植物を追い出して水田を作ることができたのだということになるでしょう。その点縄文人が、農耕を知っても、森林や草原を壊さない範囲で耕作をして、決して自然の生態系には手を触れようとしなかったのとは対照的です。
また、人々の信仰も、精霊信仰に代わって、弥生人の間では人間中心の祖霊信仰がもてはやされるようになりました。祖霊が、太陽の神、水の神、山の神などになって、自然物を支配し人々を支えるという発想です。そして、祖霊のお告げを聞く巫女(シャーマン)が集落の人々の農作業や祭祀を指揮する指導者になっていったのです。邪馬台国の卑弥呼もその例です。当然、身分差も生まれました。
集落も、円形ではなく「区分」されるようになった…。
武光 ええ。弥生時代の集落には、多くの溝がみられます。まず、外界と集落とを分ける幅の広い深い溝、さらに個々の住居や水田も他者の進入を拒否する溝で囲まれています。同じ集落の中に、広い住居、狭い住居があり、時には、水はけが良く、眺望の美しい位置を独占している住居もみられます。これらは、その時代の人々が決して平等な暮らしをしていたのではなかったことを表すものです。
また、弥生時代の集落には広場と貝塚がないんです。これはつまり、共同のスペースを持たず、各家々が穀物を保管していたことになります。死者は住居から離れた墓地に葬られ、動物や魚介類の残滓や壊れた道具は、単なる不要物とされました。
日本では、農耕文化の伝来によって、指導者というものが存在するようになり、戦闘や競争が生まれ、さらには「統一」とか「天下をとる」という発想につながっていったんですね。
武光 そうですね。農耕は、狩りとは違い、土掘り、土運び、種まきなど、大勢の人間が歯車の一部みたいになって共同作業しなければならない。根気もいりますし、誰か強い指導者がいて号令をかけていないと、みんな働かなくなってしまいますからね。
環境を見つめ直す"ゆとり"が出てきた日本
ところで、戦後日本の急成長の中で、企業は、競争に勝とう、シェアを拡大しよう、と必死になっていました。しかし、最近はそのへんはトーンダウンして、地域の住民との融和とかコミュニケーション、あるいは地球や自然と仲良くしようといったエコロジーの問題に取り組むところが増えてきています。企業PRもそういうことを積極的に打ち出す傾向が強いですね。まるで縄文時代に戻っているような感じですね。
武光 そういう部分もあるんでしょう。これまで、経済中心の弥生時代的な価値観できたけれど、それが行き詰まってしまった今、ひょっとしたら弥生時代以来、大事なものを忘れていたのではないか、と考えるようになり、自然の中の人間というものを見つめ直す“ゆとり”が生まれてきたのではないでしょうか。
確かにゆとりということもいえますね。
武光 また、この2-3年の自然保護の動きを見ると、日本人は捨てたものではないな、日本人の良心は信用できるな、と思います。「割箸はひょっとして木の無駄遣いではないか」「フロンガスをなくそう」「埋立てになるプラスチックボトルはなるべくなくそう」という声が起こると、徐々にみんなに受け入れられて市民運動などに広がっていきますしね。
なんとなく浸透してくるという感じなんですね。日本人には、平均的に誰でもわかっていくというすばらしさがありますね。
武光 それは日本人の良さです。それと、日本人は勉強好きですし、雑誌や新聞もよく読みます。新聞記事にさりげなく自然保護のことが出た途端に、それがいつの間にか市民の声となっていくわけです。
環境問題にしても、今後、国がどうのこうのしようというのではなくて、一人ずつの中で価値観の変化が出てきたらすばらしいですね。自然や環境にとっても力強い。
武光 意外にそれは早いんじゃないかと思います。
 
鹿島神宮と行方四頭

 

Q. 鹿島神宮が何時頃作られたのか?鹿島神宮(茨城県)の運営、造営には、行方四頭が関わっていました。其の件に関して、何か分かることが、有りませんでしょうか?
A. 回答
鹿島神社や香取神社と言うのは、日本列島の原住民・蝦夷(えみし)が住む地を征服した際に、征服者がその地に建てた「征服の証」であり、東国(東北地方など)で多数建造されました。
この征服者と言うのは古墳時代のヤマト王権(昔の教科書では大和朝廷)となります。
その後、武士が出現すると、武神として鹿島神社や香取神社が日本各地に設営されました。
よって、全国各地にある鹿島神社は、比較的新しい趣旨の神社と、古くからあった神社と区分されます。
茨城県鹿嶋市の鹿島神宮創建は、神宮の説によると、初代天皇とされる「神武天皇」の創建となりますが、そうなると日本書紀などの場合、紀元前660年頃と、とてつもない昔になります。
卑弥呼が158年頃-248年頃とされていますので、その卑弥呼の時代より800年も前に鹿島神宮があったと言うのは考えにくいです。
また、初代天皇の神武天皇じたい、紀元前660年とは考えられておらず、だいたい西暦280年頃の人物ではないかと考えられています。
常陸大掾氏(だいじょうし)の分家の1つが行方氏となりますが、常陸大掾氏の先祖は、平高望とされています。
平高望は、桓武天皇の血を引くもの(孫?)とされ、いわゆる皇族でしたが、889年に宇多天皇の命により臣籍降下。平氏を名乗ることになります。その時の赴任先が常陸国であり、地元豪族と関係も深めて、のちに多くの分家を出して、関東における平氏の基となりました。よって、行方氏は、桓武平氏大掾氏流となります。
同じ常陸大掾氏の分家の1つが、源頼朝から社領の寄進を受けると、鹿島神宮を管理していた中臣鹿島氏(中臣氏系鹿島氏)を圧倒して実質的に鹿島神宮を支配し、その分家は鹿島氏(平氏系鹿島氏)を名乗ります。
平氏系鹿島氏は1584年の33館虐殺と言う、佐竹義重の策で滅ぼされてからには、元の中臣鹿島氏の家臣らが遺児を立てて徳川家康にお家再興を願い出て、鹿島神宮三要職の1人として鹿島神宮神職に戻り、200石で明治維新まで続きました。
1584年の33館虐殺では常陸大掾氏系の烟田・玉造・行方・手賀・島崎(嶋崎)・武田・中居・相鹿・小高らの一族各氏も滅ぼされています。大掾氏は豊臣秀吉小田原遠征の際に滅ぼされました。
中臣氏(なかとみうじ)は代々神事・祭祀の仕事を専門とした中央豪族で、ヤマト王権の命により、一族のうち常に誰かが鹿島神宮に派遣されていたと考えられます。しかし、途中から鹿島に土着して、中臣鹿島氏となりました。よって、後の世に平高望が常陸に赴任する以前は、鹿島神宮を中臣鹿島氏が鹿島神宮の神職だったと言う事は間違えないようです。
現在の茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮拝殿や奥宮本殿は江戸初期に徳川家の寄進により立派な建物となりましたが、昔は伊勢神宮と同様20年に一度の造営(修理)を行っていましたので、鹿島神宮が所在する地である行方郡の行方氏がその20年に1度の造営に携わっていたのは間違えなく、ご指摘の通りです。
ではいつ頃から鹿島神宮があったのでしょうか?
649年に鹿島神郡と言う行政区分ができ、初めて使を遣わして神宮を造営した事が古文書に残されていますので、その時代にはもう確実に存在しています。平高望が平氏になったのが889年となりますので、それより200年以上前にはすでに鹿島神が存在しています。
もっと昔に目を向けますと、朝鮮から渡ってき日本の王になったとも言われている「崇神天皇」(第10代・日本書紀などでは紀元前み97年-30年)の時の話として、常陸風土記に記載されている内容によると大阪山に香島国の天津大御神が現れたため、中臣神聞勝命と言う人物に命じて、神宝類を香島(鹿島)に奉じ、その中臣神聞勝命が香島(鹿島)に土着したと記載されています。
年代が確かな天皇から逆算して行く事と、そして崇神天皇の古墳の立地・墳丘の形式も考慮すると、崇神天皇が実際に暮らしていた年代がある程度明確になります。
その年代は、邪馬台国の時代よりも少しあとの、350年頃に実在した大王と捉える見方が多いです。
崇神天皇の時代には「字」と言うものが日本に現れたり、それまでの伝統を打ち破るような革新的な出来事が多くなります。
例えば、ヤマト王権の古墳はそれまでヤマト(奈良盆地)に営まれていましたが、300年代後半より河内平野に築かれることが多くなります。この後、ヤマト王権は日本全国に勢力を伸ばし、実際400年代後半には九州南部から東北の仙台・会津まで前方後円墳の分布が急速に拡大し、近畿の古墳も巨大化していきました。権力・財政も潤った証拠です。
この事からも、ヤマト王権が東国遠征を300年代後半から400年代に掛けて、日本全土に勢力を拡大して行った事が伺え、一般的には350年頃日本を統一したとされています。またすぐその後、ヤマト王権は、朝鮮半島にも進出し、新羅や百済を臣従させ、高句麗と激しく戦ったことが朝鮮の古文書に残されています。
小生は朝鮮からやってきた崇神天皇が日本の政権を握ったと言う説を支持する理由の1つとして「祭政の分離」と言い、それまで政治の場(宮廷内)に祭っていた神様を、別の建物(祠)を作って祭るようになった事を重要視しております。
考えようによっては、旧王族が信仰していた神を疎遠にし、新しい自分のやり方を導入した事になり、伝統を重んじるそれまでの姿勢と大きく異なります。
また、この頃、天神地祇と言い、天の神様「天津神(あまつかみ)」と大地の神様「国津神(くにつかみ)」と神様を分別した考えらています。
日本に古来より住んでいた人々の信仰は土地の神様「国津神」であり、崇神天皇以降、ヤマト王族が信仰したのは「天津神」=「天神」と考えられています。
鹿島神はもともと常総地方の土着の神だったようで、その鹿島神をヤマト王権が利用した可能性が高いことが考えられる理由は下記の通りです。
ヤマト王権が蝦夷(えみし)が住む東国(関東から東北地方)を征服するのに、兵は東国は霊的な場所、えたいの知れない地域として怖がられていました。実際、京都の宮中内では江戸時代後期まで、真剣に関東や東北を「怖いところ」と嫌っています。
そのような情報は当然兵士や中央の豪族にも知られており、兵を派遣するのに士気が上がらない原因でした。
それを打破する為に、中臣氏が鹿島神を日本神話の中で最強の武力を象徴する武甕槌神として登場させ、武甕槌神を祭る鹿島神宮を拠点として、武甕槌神の加護で兵を進められるので心配要らないと、東国征服を促進させたと考えられます。
鹿島神宮の武甕槌神(タケミカヅチ)は、武力神様の他に、ミカヅチ=雷神でもあり、崇神天皇以降、ヤマト王族が信仰した天の神=「天津神」の分類にあたります。
神社には珍しく鹿島神社正殿は「北」を向いており、これは国全体の北方を護るためだと古くから言われてきています。
鹿島の立地にしても、海流に乗り北上することができるだけでなく、霞ヶ浦、利根川、鬼怒川の水運も利用できますので、遠征軍の総司令部を置くのにも適していたのでしょう。
現在分社は茨城県内に約500神社、関東近県で約900神社と推測されており、鹿島より扇状に東北へ向かって集中しています。
ヤマト王権の東国遠征で一番有名なのは第12代景行天皇の子とされる、日本武尊(ヤマトタケル)がいます。八溝山頂にある八溝嶺神社は日本武尊が創建したと伝えられていますが、一般的の説では、ヤマト王権が日本統一の際に、各地で活躍した英雄の話を具体化して、1人の日本武尊と言う架空の人物の物語にした(伝説になってしまった)と考えられています。
香取神社は日本書紀でタケミカヅチとともに降ったフツヌシを祭っていおり、鹿島と言う漢字は昔、香島とも書かれており、香取神社も鹿島神宮と同じ境遇にあったと考えられます。
現在でも12年に1度午年には、鹿島神宮の祭神である武甕槌大神と香取神宮の祭神である経津主大神が水上で出会う鹿島神宮最大の祭典が執り行われています。
ヤマト王権時代、征服した地にも、自身の神を信仰させるのと、残る中央役人を加護するなどの理由から、鹿島神社や香取神社を分社として建造したと考えられます。この地はヤマト政権が征服したと言う証にもなる訳です。
ヤマト王権の遠征軍は朝鮮から持ち込んだ最新鋭の武器を所有していたと考えられますので、蝦夷(えみし)の人々の対抗もむなしかったのではと推測致します。
その後、ヤマト王権の中央より役人が地方各地に赴任する時代に入っていき、平高望もその地方に赴任したいち役人です。ただし、天皇と血筋と言うことで常陸国で勢力を拡大して行きました。
一方、鹿島神宮の神官になっていた中臣氏ですが、その先祖は、第1代天皇・神武天皇の兄・神八井耳命とされています。大化の改新で有名な飛鳥時代・推古天皇の時の中臣鎌足(藤原鎌足)は常陸国の中臣鹿島氏の出と鎌倉時代の古文書に記載されており、中臣鎌足(藤原鎌足)常陸出身説もあります。
しかし、鎌倉幕府創設に際しては、関東平氏のほとんどが源頼朝に協力した為、実質鹿島神宮も平氏系鹿島氏が支配することになったと言うことだと推測いたします。  
 
神倉神社

 

南紀・熊野には、古来、沖縄から海を伝った人々がやってきたと考えられます。その為、後世には熊野水軍などが発達しました。
そんな海に携わる人々を中心に「神」として崇めてきたのが、現在の新宮市の神倉山(かんのくらやま)にある巨岩・ゴトビキ岩です。昔は海岸線が山の麓近くであったことと推測でき、海で漁をしたりする際に大変目立つ岩であったことでしょう。このゴトビキとはヒキガエルをあらわす熊野地方の方言です。
その大きな岩が原始的な自然信仰の対象となり、石器時代・縄文時代ほ経て、弥生時代となると、西暦128年には神社の元になる人工物が祭られました。ゴトビキ岩を御神体とし、高倉下命・天照大神を祭神としています。そして、日本書紀や古事記にも当然のようにこの神倉神社が登場し、下記のような伝承が記載されています。
神倉神社は、神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あめのいわたて)の山である。このとき、天照大神の子孫の高倉下命は、神武に神剣を奉げ、これを得た神武は、天照大神の遣わした八咫烏(やたがらす)の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧した。
このように神倉神社は日本列島に人間が住み始めた古い時代から信仰の対象であり、熊野神社が出来るより遥か以前からありました。ちなみに、神倉神社の近くにある熊野速玉大社は神倉神社の伊邪那美神が移ったもので、神倉山にあった元宮に対して熊野速玉大社のことを新宮と呼ぶ事から、新宮市と言う地名にもなっています。
平安時代になると神倉山は神倉聖(かんのくらひじり)と呼ばれる修験者たちの修行場となりました。その後、
さて、神倉神社ですが、標高80mの山は断崖絶壁となっており、麓からは鎌倉幕府を開いた源頼朝が寄進したと伝えられる、急勾配の鎌倉積み石段が538段あります。
台風などで倒壊することもしばしばで、山上にある現在の社殿は大正時代に再建されたものですが、ゴトビキ岩を支える袈裟岩の周辺には古い経塚が発見されており、祭祀具・仏具などの遺物が多数出土しています。この経塚よりも下層からは、銅鐸片や滑石製模造品が出土していることから、石器時代から神道的な巨石信仰を伺うことができます。みのゴトビキ岩と袈裟岩は男女の性器そのものと言う人もおります。
御燈祭
毎年2月6日には勇壮な火祭りとして知られ、夜の暗い中、鎌倉積み石段538段を一気に駆け下りる御燈祭(おとうまつり)が行われます。
御燈祭の期間中、神倉山は女人禁制となり写真を撮るだけでも女性は立入禁止。祭りに参加する男性は白装束で荒縄を胴に巻き上り子と呼ばれます。身に付ける衣装はすべて白でなければいけません。また、朝からご飯や豆腐、かまぼこなど白いものだけを食べると言います。
日が暮れると、祭りに参加する男性約2000人が、熊野速玉大社・阿須賀神社・妙心寺に参拝・祈願し、松明を手に持って神倉神社の山上境内に集合します。ただし、10代の若者も清めの酒を飲んでいるらしく酔っ払っている者が多いと言います。
神倉神社では神職が火をつけた神事の後、中ノ地蔵堂にその碑が置かれ、上り子は松明に火をつけます。
火を松明につけると今度は麓までの競争が待っているので、山上の玉垣内に入ります。上り子たちは少しでもスタート地点になる山門近くの良い位置を確保しようと揉みくちゃになります。満員電車のように体と体の隙間がない揉みくちゃなので、松明は自分の頭上に上げるしかありません。頭上の松明からこぼれる火の粉が容赦なく上り子たちに降りかかるのです。
スタート直前には少しでも良い位置を確保しようと喧嘩や怒声がおこります。
そして、夜20時になると山門が開かれて、上り子たちは一斉に我さきにと538段の階段を駆け足で麓を目指します。火の海が流れるようだ、巨大な炎の龍が出現したとも例えられ、勇壮このうえありません。しかしながら、暗い中、足場が悪い急な階段を駆け下りますので、誰もが途中で転倒します。そして、ある者は途中で倒れ下まで辿り着けず、毎年、怪我人が出る勇壮な祭りです。女たちは麓の門口から炎の龍の舞いを眺め、男たちの無事の帰りを待ちます。
この御燈祭は、神倉山に降り立った神を人々が迎えた「神迎え」と、神が山を下りて熊野速玉大社へ鎮座するまでの「再臨」を再現した神事とされています。
570年頃に初めて行われたと言う記録があり、火を神聖なものとする熊野修験道と深くかかわりがあると考えられます。  
 
旧石器捏造事件

 

近頃では社会的に話題になることがほとんどなく、これを知らない人も出てきているようです。しかし決して風化させてはならないものです。今この事件を振り返ります。
旧石器捏造事件―節穴の目か―
今から5年前の2000年11月5日、毎日新聞のスクープ記事により旧石器捏造事件が発覚した。事件は藤村新一という民間研究者が自分で収集した数千年前の縄文時代石器を数万-数十万年前の地層に埋めて、旧石器時代の遺跡を次々に「発見」したというものである。彼の犯罪的行為は25年間にわたり、180ヶ所以上で遺跡捏造したことが判明した。なかにはその「功績」によって国史跡に指定されたもの(註1)まである。
彼は厳しく指弾され、家族からも見離され、今は名前を変えて生きているようである。今さら彼を云々する必要はない。それよりも問題なのは、彼の単純なトリックに引っ掛かった周囲の専門家たちである。彼らは大学、文化庁、博物館、教育委員会等々に勤める考古学プロフェショナルなのである。
藤村の果たした役割は最初の「発見」だけである。その後は藤村の手を離れてプロたちの作業となる。彼らは現場においては藤村の「発見」した石器を直接見て、その出土状況の写真を撮り、平面図や位置図等を作成して詳細に記録した。その石器を研究室に持ちかえっては時間をかけて観察し、精細な実測図を描き、写真を撮った。権威ある分析機関に依頼して理化学的な分析も併せて行なった。これを学会で発表し、学術論文を作成し、一般向けの歴史書に取り上げた。そして各地の博物館では石器の実物を展示し、多くの人の実見に供した。
プロならば最初に騙されても、直後から始まるこれらの作業の際にすぐに見破ることができるはずだが、25年間も気付くことがなかったし、疑問すら抱くことがなかった。そうだとしたらこのプロたちのレベルは一体どうなっているのか?所属機関を異にする多くのプロたちが軒並みアマチュアの藤村に騙されるということがあり得るのだろうか?その目は節穴に過ぎなかったのか?誰もが抱く疑問である。
(註)
1)宮城県の座散乱木遺跡は1997年7月に国指定史跡となったが、捏造が確認されたため2002年12月に指定を解除。捏造が理由で国史跡の指定解除となったのは初めてであり、文化財行政史上最大の汚点である。
発掘現場では―見えないものが見えた―
2000年2月、埼玉県秩父市の小鹿坂遺跡で50万年前の旧石器とともに住居跡が「発見」された。当時は「北京原人よりさらに年代をさかのぼる世界最古の、しかも原人は洞窟で生活していたという定説を覆す人類史上の大発見だ」と大騒ぎだった。この「大発見」には藤村だけでなく、栗島という考古学のプロが関わっていた。この二人は直後に「秩父原人に出遭った日」と題する対談を行なった。
藤村:石器に当たったんですよ。カチン。栗島さんに「今の音、聞いたか。石器の音だよ」といったら、「マジですか」と。それで掘ったらやはり石器が出てきて「エーッ」とね。「ちょっとやってみるかい」と言って、栗島さんが同じようにやるとまた、カチンときたんです。それが五月(ママ)二十二日の午前中。私が帰ってから、栗島さんはもう一点石器を見つけたんです。‥‥上からみても住居跡はわからなかった。たまたま直径10センチの穴があるのに気づいて、それを掘っていると、また、すぐそばに穴があって、結局五つの穴を掘ることになるのですが‥そして「建物跡かもしれない」ということになった。‥‥
栗島:小野昭先生は‥田名向原遺跡の住居遺構よりはるかに古いのに、柱穴の中の土の色を比べると、小鹿坂の方がわかりやすいのではないかということでした。
――最初に石器が見つかった時はどんな色だったんですか。
栗島:本当に真っ赤ですね。石材は鉄石英という石で、もともと真っ赤な石なんですね。それが数秒で黒ずんでいきました。‥‥
例えば私や藤村さんが柱穴を認めて住居跡と言っても、第三者が同じ評価を下さなければ「住居跡」とは認められない。‥‥ただ、現場をやっていて、土の色の違いとか、柱穴の規則性・規格性とか、遺物の分布との関係、さらに何といっても一番大きいのは、あの場所が人工的に盛土されたということが非常にはっきりしてる点ですよね。
――どんな方が見学に。
栗島:文化庁主任調査官の岡村道雄さん、明治大学教授の安蒜政雄さん、都立大学教授の小野昭さん、東北福祉大学教授の梶原洋さん、それに東北旧石器文化研究所所長の鎌田俊昭さんにも見てもらいました。前期旧石器時代の研究をやっている方が見て、「いや、これはおかしい」という人は一人もいないんです。(註2)
事件発覚後の検証により、「石器」はすべて藤村による捏造であることや「住居跡」の高まりと柱穴は自然地形や土層変化にすぎないことが確認されている(註3)。従って栗島が「本当に真っ赤‥それが数秒で黒ずんでいった」「人工的に盛土されたことが非常にはっきりしている」などと言っていることは、見えないものが見えたということである。そして旧石器の著名な研究者たちもまた、ないものが見えたのである。
(註)
2)産経新聞社「正論」2000年5月号250-260頁。
3)日本考古学協会「前・中期旧石器問題の検証」2003年5月204-238頁、287-300頁。
石器の観察―見えるものが見えない―
発覚直後に旧石器の研究会で捏造石器が多くの研究者に供覧された。その時にすぐさま指摘されたのは、石器に黒色土と鉄分の付着のあるものが多いことであった。
黒色土は田畑の耕作土等といった近年の表土に由来するものであり、鉄分は農作業等の際に鉄製道具(鋤鍬や耕運機、移植ゴテ等々)が擦った部分に付く、あるいは近年の草木の根が絡んだ部分に付くものである。従って数万-数十万年前の旧石器時代土層から出土する石器に付着することはあり得ない。逆に言うと、これらが付着する石器は旧石器として極めてあやしいものと判断される。しかもこれは出土時点からはっきりと見えたはずのもので、技術の発達によって見えるようになったというものではない。
発覚前の1999年に来日した中国科学院の衛奇は、この「発見」された「旧石器」を見て、
「当時韓国の朴英哲教授と個人的に交わした言葉は「石器は表面採集品であろう」というものであった。多くの石器の表面には鉄分の付着が見られたからである。鉄分が片面だけに見られるもの、両面に見られるものもあった。このような鉄分付着現象は、旧石器時代の人類のなせる業では決してありえない。‥‥上高森の一グリッドの最深部から、突然三点の石器が発見され‥幸運にもその新発見の石器を見ることができた。その中に一点、鉄分の付着のいちじるしい石器があり、その出土状況に疑問を抱いたのだった。」(註4)
という手紙を日本石器研究の第一人者である芹沢長介に送っている。
ところが日本のプロたちは石器を詳細に観察していたにもかかわらず、この付着について全く記録していない。発覚後に指摘されて初めて知ったのである。(註5)
外国人研究者に見えるものが、日本人には見えなかったということである。
(註)
4)芹沢長介「波乱の考古学界を憂える」(中央公論社「中央公論」2001年1月号)154頁。
5)旧石器文化談話会「旧石器考古学61」(2001)の112頁では、世話人会事務局渋谷孝雄が捏造判定に関して「石器の付着物やキズ等、今まで何気なく見過ごしてきたことが、検証の際の重要な判定基準となりうる」と書いている。短期間の来日訪問である外国の研究者は「付着物」に気付いたのに、日本では「何気なく見過ごしてきた」というのである。しかもその言い方に自分たちの不明を恥じるものがない。なお同じく見過ごした「キズ」とは、次節の「ガジリ」のことである。
石器の実測―太古と最近の区別がつかない―
捏造石器の供覧においてもう一つ指摘されたことは「ガジリ」が多いことである。「ガジリ」とは、発掘調査時にスコップ等でうっかり当てたり、あるいは耕作土中に混じっていたものが農作業の際に農耕具が当たったりして生じた傷で、従ってごく最近偶然にできたものである。一方石器は太古のヒトが意図して割って製作したもので、そこには割れ(剥離)が連続して見られる。
藤村が「発見」した石器は、整理研究室に運ばれてプロたちが観察し、実測図を作成し、様々な分析作業を行なった。この時に彼らはガジリを判別しなかったのである。事件発覚後の検証作業の報告によると、
「石器の実測図は美麗に描いてあるのに、ガジリ(後世の新しい割れ)にもリングやフィッシャーを描きこんであり、石器を製作・使用した当時の剥離面との区別をしていなかったことがある。石器の刃部の角度を測って細かな分析をしているけれども、ガジリと古い剥離面とを区別せず、ガジリの角度も測っていること、というよりガジリだらけの石器を分析対象に選んでいたこと‥‥驚きであった。」(註6)
と判明している。つまり太古の人為的な剥離と最近の偶然のガジリとが区別できていなかった(註7)。日本の石器実測技術は世界最高水準とされていた(註8)が、初歩的・基本的なところで大きな陥穽があったのである。そしてこれが事件発覚まで誰も気付かなかった。プロたちは、(註5)にあるように「何気なく見過ごしてきた」のである。
(註)
6)春成秀爾「前・中期旧石器問題の解析」(註3の597頁)
7)岡村道雄は発覚直後のシンポジウムで、「ガジリという現象は、私たちもけっこう見抜ける力を持っています。」と語った(「検証日本の前期旧石器」学生社2001年5月51頁)が、註6の検証でそうではなかったと判明した。
8)芹沢は註4の156頁で次のように自信をもって書いている。「松沢式実測図は、旧石器研究の歴史が100年をこえるヨーロッパにも見られない最高のものであり、日本の誇りうる技術と断言してよい。もし疑う人がいたら、ヨーロッパの旧石器時代の報告や論文に掲載されている石器の図と比較して見て戴きたい。このような実測図の完成は、石器にたいする鋭い観察と分析に裏付けられているのである。日本の石器分析のレベルは、外国に比して決して劣るものではないと私は考えている。」
層位は型式に優先する―信じられなくても疑わない―
藤村は数千年前の縄文時代の石器を、数万-数十万年前の旧石器時代土層に埋め込むことを繰り返した。その結果、旧石器時代のものしか出ないはずの土のなかから、縄文時代の石器が出土するという「事実」が生まれた。
「形や加工法を見ますと、ほとんど縄文時代の中期の石斧とちがわないのです。これが60万年前のものとは、最初は信じられなかったのですが、どうも地層も間違いない、年代測定も間違いないらしい。これは認めざるを得ないということになりました。」(註9)
「埋納という事実は、どのような思弁的な仮説よりも強いのであり‥‥」(註10)
「確かにおれだって不思議でしょうがないよ。だけど、それが現実なんだから、仕方ないとしか言いようがない。‥文句の言うやつには〈出た物で議論しよう〉って言ってるんだ。」(註11)
「理解できない面もある。信じたくないという思いもあった。平面上から出るという疑問もある。でも事実としてそこから出る。」(註12)
「旧石器研究の基本は層位であるという原則に立ち戻るまでもなく‥‥」(註13)
旧石器時代に縄文時代と同じ石器があるということは、江戸時代に電卓があるのと同じくらい(註14)に奇妙奇天烈なことである。しかしプロたちは型式論的に矛盾しても、その層位から出土した「事実」が重要なのであった。旧石器時代の層位から出たものは、どんなにおかしくても旧石器時代のものと断定する。考古学でいう「層位は型式に優先する」を絶対視するものである。信じられないと思ってもそこから出たという「事実」を疑うことをせず、従ってその検証作業をしようという発想は出てこなかった。そのために後に、
「縄文の石器と前期旧石器とが見ただけでわからないのなら、それはまさに八百屋さんがマッタケとシイタケと区別できずに売っているようなもの」(註15)
と皮肉られる事態となった。
(註)
9)芹沢「岩宿から上高森まで」(日本考古学協会編「日本考古学を見直す」学生社2000年4月所収)96頁。
10)梶原洋の発言。毎日新聞社「発掘捏造」(2001年6月)35頁。
11)鎌田俊昭の発言。註10の46頁。
12)木村英明の発言。註10の47頁。
13)会田容弘「1999年の考古学界の動向旧石器時代(東北)」(「考古学ジャーナル445号」1999年5月号)7頁。
14)註10の224頁。
15)竹岡俊樹の発言。註7の58-59頁。
捏造「事実」から生まれた歴史像―理屈と膏薬はどこにでも付く―
藤村の捏造「事実」によって、現代人と同じ数千年前の縄文人が作る石器を数十万年前のサルに近い原人も作ったということになった。当時プロたちはこれをどう解釈しようとしたか。
「ヨーロッパにないのに日本にあるのがおかしいというのはどうか。私はむしろ日本列島独自の尺度、考える基準が与えられたと前向きに考えたい。」(註16)
「欧米の研究者の間では、上高森で想定されるような人類の能力は、現生人類になってからのものだとする考え方が強い。‥原人の能力を低く考えるこれまでの欧米を中心とした学説の一部を覆す決定的な証拠といってもよいであろう」(註17)
「今回の「日本原人」の発見は、彼らが日本列島に腰を据えて、相当程度の知的水準を獲得しながら旧人へと進化し、その末嫡が新人に変わったのではなかったかという仮説の有力な根拠になりそうな気配を見せている」(註18)
「原人は、たぶん相当程度に抽象的な考え、さらには言語能力があったのではないか。そのように考えれば、何らかのメッセージとして石器を埋納することや、雨風を避けるために柱を立てることなどがあっても不思議ではないように思われる」(註19)
「六〇万年前の高森原人は、私たちに共通する美意識をもっていました。美しさに感動する心の歴史は古いのです。」(註20)
このようにおかしいと思われる点は日本の独自性であり、日本列島の原人は現代人と同じくらいに文化が高くまた同じ美意識があった、欧米では原人を低く評価するが日本は違うとなってしまった。そして彼らだけでなく多くの著名な研究者たちが捏造資料を根拠に同じような理屈を考え出して旧石器時代の歴史を語ったのである(註21)。まさに「理屈と膏薬はどこにでも付く」の通りである。
(註)
16)安蒜政雄の発言。註10の45頁。
17)梶原の発言。註10の35頁。
18)小林達男の発言。註10の48頁。
19)尾本恵一の発言。註10の48頁。
20)佐原真「美術館へ行こう大昔の美に想う」(新潮社1999年6月)6頁。
21)捏造資料から旧石器時代を組み立てたものは、引用文献以外に岡村「日本旧石器時代史」(雄山閣考古学叢書331990年)、同「歴史発掘@石器盛衰」(講談社1998年)、佐々木高明「日本の歴史@日本史誕生」(集英社1991年)、佐藤宏之「日本旧石器文化の構造と進化」(柏書房1992年)、安斎正人「理論考古学」(柏書房1994年)、藤本強「モノが語る日本列島史」(同成社1994年)、松藤和人「西日本後期旧石器文化の研究」(学生社1998年)等々多数ある。
脂肪酸分析―類が友を呼ぶ―
脂肪酸分析とは、あらゆる動植物がもつ脂肪酸の組成が種によって異なることを利用して、残存する脂肪酸を分析することによって元の動植物の種を判定するものである。日本では唯一中野益男がこれを行なっていた。
今は馬場壇A遺跡も藤村によって捏造されたことが確認されているが、かつて中野はこの発掘調査時に脂肪酸分析を行ない、出土石器およびその周辺の土からナウマンゾウの脂肪酸が検出されたと報告したのである。佐原真はこの時の感激を次のように述べる。
「1986年の8月のある夕べ‥‥宮戸島の宴席で馬場壇A遺跡の石器からシカとイノシシらしい脂肪酸が出たと、私にささやいた中野氏は‥‥。私たちが宮戸島の晩餐で現生動物ではイノシシにいちばん近いと聞いた動物の正体は、脂肪酸組成で忠類村のナウマンゾウと一致することを電話で知らせる中野氏も、奈良でそれを受ける私も、感激でふるえんばかりであった。」(註22)
このような佐原の援護や中野自身が岩波新書で執筆する(註23)などによって、馬場壇A遺跡のことは確定的事実として扱われてきた。だから当遺跡の調査責任者であった岡村道雄は、事件発覚後でもこの脂肪酸分析を根拠に旧石器捏造はありえないと主張したほどである(註24)。ところがこのような「大発見」にもかかわらず、中野は正式な報告としては学会の講演要旨として簡単なレジュメ(註25)があるのみで、学術論文として発表していない。
事件発覚後に難波絋二らが中野の分析を検証した結果、
・20万年前の石器に残存したとされる脂肪酸を証明するための対照実験として、23ヶ月前(!)に埋めたエゾシカの脛骨の脂肪酸を測定している。
・分析を依頼した岡村と依頼された中野のあいだに、サンプルの数や採取方法の記録の違いがある。
・石器表面から脂肪酸が検出されたとする信ずべき証拠がない。
・本来付着した脂肪酸と二次的に付着した脂肪酸とを統計処理によって分けるとしているが、その方法や統計ソフトが明示されていない。
・なぜ石器に脂肪が残っていたかの説明がない。
ということが明らかとなった(註26)。すなわち中野の分析はかなり杜撰なものであったのである。しかも分析対象の脂肪酸は捏造された遺跡・遺物から「検出」されたというのであるから、それ自体が捏造であった可能性が高い。
似た者同士集まった、あるいは類が友を呼んだと言うべきか。
(註)
22)佐原真「大系日本の歴史1日本人の誕生」(小学館1987年11月)14-17頁。
23)中野益男「脂肪酸が示す世界」(田中琢・佐原編「発掘を科学する」岩波新書1994年10月29-45頁)
24)岡村「日本列島の前期・中期旧石器研究の展望」(註7の52頁)
25)中野「考古学資料に残存する脂質―馬場壇A遺跡の石器に残存する脂肪の分析(講演要旨)―」(日本第四紀学会「第四紀研究28巻4号」1989年11月337-340頁)
26)難波絋二、岡安光彦、角張淳一「考古学的脂肪酸分析の問題点」(「日本考古学協会第六七回総会研究発表要旨」2001年度138-141頁)
批判はあったが―正しくても孤立する―
一方藤村の「発見」した遺跡に対して、竹岡俊樹は次のように書いて大いなる批判を発した。
「近年発見された日本の「前期旧石器時代」の遺跡、とりわけ60万年前とされる上高森遺跡から出土した石器群は、このような「前期旧石器」の概念からは大きくはずれている。‥それらはこの地方に分布する縄文時代の「石箆」と形態、製作技術ともに同一である。‥この遺構と遺物は既成の「前期旧石器」の概念からすれば、現段階ではまったく異状、いわばオーパーツなのである。」(註27)
彼はこの論文提出時に藤村を「一人の特殊能力の持主」と表現して批判しようとしたのだが、会誌編集委員会より削除を強制された(註28)。
また鎌田俊昭は彼に対して「彼は世界中の旧石器がみんなフランス式でなければならないと思い込んでいる。あんまり藤村氏の石器がきれいなもんだから、議論について来れない。だから、おかしいって言い出す。」(註29)と批判した。
そして会田容弘も「上高森遺跡群の進歩しすぎた姿に疑問を露にする。‥‥理化学的年代測定とも整合する資料を年代の根拠薄弱な例と海外の事例を引いて批判するのには無理があろう。」(註30)と批判した。
竹岡はその頃の自分を取り巻く状況について
「数年前からいろいろ言ってきても、だれも相手にしなかった‥‥ある研究者に「竹岡さんと一緒にやるとみんなに嫌われる」と返事を頂いた」(註31)
と発言している。当時の彼はなかなか賛同を得られずに孤立したのであった。
孤立したのは竹岡だけではなかった。その10年以上も前に、藤村らが「発見」し調査した座散乱木・馬場壇遺跡等の旧石器について小田静雄とキーリが厳しく批判する論文を発表した(註32)。小田はこの時の周囲のプロたちの反応を次のように言う。
「そのときにいろんな噂が私の耳に入ってきました。これで「小田は死んだ」。あいつは前期旧石器を探せないから、それで妬んで、あんなことをあっちこっち言って回っているのではないかと、言われました。私は本当に悔しい思いをしました。」(註33)
結局は事件発覚によって竹岡や小田の批判が全く正しいことが判明した(註34)。他のプロたちの言説はすべて否定された。
(註)
27)竹岡「「前期旧石器」とはどのような石器群か」(旧石器文化談話会「旧石器考古学56」1998年所収)。なお「オーパーツ」とは、あってはならない場違いな遺跡・遺物の意味。
28)旧石器文化談話会会誌編集委員会「「旧石器考古学」56の竹岡俊樹論文掲載の経緯について」(「旧石器考古学61」2001年92-94頁)。このなかで同委員会は「個人の名誉にかかわる事柄で」「今回の件に関しては、第三者の体験談や風評(寄稿当時)に依拠し、明確な事実と証拠に裏づけされていない竹岡氏の記述に対してリライトを要求したものです。」「削除していただけない場合は原稿の掲載を断念せざるをえないことも編集委員会で合意しました。」として、削除の強制は正当だったと主張した。これは結果的に藤村を擁護したことになるし、発覚後もその姿勢が変わっていないと見られても仕方ないだろう。
29)鎌田の発言。註10の93頁。
30)会田。註13と同じ。
31)竹岡の発言。註7の58-59頁。
32)小田静夫、C・T・キーリ「宮城県の旧石器及び「前期旧石器」時代研究批判」(「人類学雑誌94−3」1986年所収)
33)小田の発言。註7の18頁。
34)他に発覚以前から藤村を批判した研究者として、角張淳一と馬場悠男を挙げねばならない。
角張は事件時にはすでに「前期・中期旧石器発見物語は現代のおとぎ話か」をHPに公表していた。今は見られなくなっているが、経緯が発表されている。
彼は「神」になった―学界はついにカルト宗教と化す―
捏造事件は今のところ藤村の単独犯という結論になっている。彼が一人で石器を埋めて、それをみんなの見ている前で掘り出すという行為を繰り返した。そして彼の捏造「功績」は25年間の長きにわたって気付かれることがなかった。しかもその間に多くのプロたちが彼を賛辞したのであった。
「(藤村が)全国の研究者やマスコミに中期旧石器文化を認知させた功績はきわめて大きい。‥‥彼が遺跡を探し求めて歩き回る範囲がそのまま、前期・中期旧石器文化が確認された範囲と同じであるのも、彼の業績のすごさを証明している。‥‥彼がやおら現れて黙々と掘りはじめる。すると発掘現場に緊張が走り、やがて発見の勝ち鬨が上がってあたりが途端に活気づく。‥‥私たちには同じような褐色にしか見えない地層だが、ひょっとすると彼にはその微妙な色の違いが見えて、地層と地層の境、つまりかつて地表面であった地層の上面を、鋭く見極めることができるのだろう。‥‥長年培った勘が、隠されていそうな地形と石器の臭いを嗅ぎ分けるのであろう。」(註35)
「藤村新一さんは遺跡をまず見つけて、発掘中にはこういう特殊な遺構を、石器が出てくる前から予見するのだそうです。宮城県、山形県、福島県に分布する三万年以上前の遺跡の大部分は彼が発見したものです。‥‥藤村さんが日本国中を歩いたら、旧石器の遺跡は今の何十倍にも増えるのではないかと思います。」(註36)
「この「前期旧石器」調査の隆盛は、関連石器のほぼすべての発見に関与している石器文化談話会の藤村新一の存在がなくてはあり得なかったかもしれない。藤村の「異能」はいまや周知のことであり、彼にとっての新開拓地である山形県でもいかんなく発揮されて袖原遺跡を発見し‥‥」(註37)
彼は旧石器研究の権威たちからこれほどに賞賛された。さらに周囲やマスコミは彼を畏敬の念を込めて「石器発見の神様」「ゴッドハンド(神の手)」「神業(かみわざ)」などと呼んだ。彼は「神」になったのである。
「神」だけができる奇跡的発見、「神」への賛美、「神」を批判する者の排除、そして「神」が見つけ給うモノを学術資料として世間に広めた「宣教師」、さらに見えるものが見えず、見えないものが見える敬虔な「信者」たち‥‥。「宣教師」「信者」が実はプロの研究者たちだったのである。
旧石器研究の学界は、カルト宗教団体の様相を呈したのであった。
(註)
35)岡村「縄文の生活誌」(講談社2000年10月)24-25頁。
36)芹沢註9の97、98、100頁。
37)安斎「理論考古学」(柏書房1994年10月)257頁。
責任を問われることなく―彼一人を悪者にして責任逃れ―
そして2000年11月4日午後8時、藤村は新聞記者より石器埋蔵行為を撮影したビデオを見せられ、捏造を認めた。「神」の実像が「文化的犯罪の兇悪犯」(註38)であると発かれた瞬間であった。同時に日本旧石器考古学のプロたちの研究レベルがどれほどのものであったかが明らかになった瞬間でもあった。
彼は厳しい指弾と制裁を受けた。しかし関係したプロたちはどうであったのだろうか。彼らは考古学研究の王道を歩んでいたら早くから捏造を見抜けたはずであるが、その道を歩むことがなかった(註39)。そしてこのことが捏造をさらに拡大させて、国民の多大な血税と若き考古学徒たちのエネルギーを無駄にさせたのである(註40)。彼らは共犯あるいは加担者なのであって、その責任は実に大きいものがある。
しかし日本考古学協会の前・中期旧石器問題調査研究特別委員長の戸沢充則は次のように述べた。
「それらは、いずれも捏造事件の反省の上にたって、当面果たしうる責任の一つとして、検証作業に協力するという思いの中で作成された報告書、レポートであると理解してよいと思います。予稿集には名を出していませんが、多くの研究者が発掘の現場で、また石器検証の場で、あるいは独自の立場で苦悩の念をおさえながら自己検証を通じて検証調査に協力している等、我々はこの目で見、そして、話を聞いております。
特別委員長としては、そうした関係者の努力を受け止め、ただ単に責任を問うのではなく、さらに事実の解明のための協力に期待し、その結果の反省を、今後に生かす主体者になってほしいと願う」(註41傍線は引用者)
関係者たちによる事実解明作業は、研究者以前の人間として当然のことであろう。問題はこれによって明らかになった事実に基づいて、それぞれがどのような責任を果たしたのかである。ところが考古学協会は上述のように「責任を問うのではなく」としてしまった。
当事者のなかには恥じる言葉もなく他人事とし(註42)、さらには臆面もなく旧石器研究史を発表する(註43)権威者がおれば、捏造資料に基づいてなされた研究蓄積が「今でも大きな成果であったと考えている」(註44)と書く中央官僚研究者もいたし、発覚後まだ間がない時期に県の代表として自県の考古学界動向の報告(註45)をした地方官僚研究者もいた。彼らを含めて事件関係者においては、謝罪の言葉はあっても引責辞職や弁償したという話を聞かない。それどころか反省の弁すら見当たらない関係者も少なくないのである(註46)。
事件そのものは決着したこととされたのであるが、彼らは考古学協会のお墨付きのもと、藤村一人を悪者にして自分らは騙された被害者だという意識をつくりあげて責任逃れを図ったのではないかという疑問は消えない。(註47)
佐々木藤雄はこの事件から
「かれらが失格者の烙印を押されることも、考古学界から永久追放されることもなく安穏としていられるのは、プライオリティーの侵害や相互批判の欠如、権威づけられた定説への追随、発掘資料の私物化という日本考古学を広く覆う職業病、学界内でもっとも民主的といわれる団体を含めた日本考古学の伝統的体質の故にほかならない。‥
考古学の現在的存立基盤の検証を何らなしえない日本考古学のありよう‥」(註48)
と批判した。その通りと言うほかない。日本考古学そのものの研究能力や資質、さらにモラルに至るまでもが問われているのである。
(註)
38)立花隆「「旧石器発掘ねつ造事件」を追う」(朝日新聞社2001年3月)28頁。
39)藤村の共同研究者として一番身近にいた鎌田は、事件発覚の一年半後に「私自身の功績は皆無に等しくなった。研究者として一番脂の乗っていた二十数年間をこういうことに関わってしまった。取り返しがつかない。」と発言をしている(毎日新聞社「旧石器発掘捏造のすべて」2002年3月118頁)。捏造にまっ先に気付かねばならない立場の人間が、しかも研究者として脂の乗っていた時期に気付かなかったというのであるから、その研究レベルがどういうものであったか、しかも研究者として当然のことをしてこなかったということになる。更に加えて藤村を擁護し宣伝してきたのだから、共犯者でも最も罪が重い一人である。そうであるのに自分が被害者であるかのような彼の発言は、醜悪としか言いようがない。
40)捏造遺跡の発掘調査費用や指定史跡の土地買収費などに公金が使われた。そして多くの学生がこの遺跡の発掘に参加した。
41)日本考古学協会「日本考古学協会会報146」(2002年7月)40頁。
42)宮代栄一は「そして興味深いことに、芹沢氏の文章には自らの不明を恥じる一片の言葉もないのである」(註38の126頁)、また坂井隆は、芹沢が藤村の関わった多く調査で団長や指導の立場であったにもかかわらず「事件発覚後の表明は第三者的表現になっており、それまでのあり方と大きな差が見られる」(註3の546頁)と、この権威者の感想を述べている。厳しい言葉を使うなら、老醜である。
43)芹沢「前期旧石器研究40年」(「考古学ジャーナル503」2003年6月所収)
44)岡村「縄文の生活誌改訂版」(講談社2002年11月)7頁。
45)山田晃弘「各都道府県の動向4、宮城県」(日本考古学協会「日本考古学年報54(2001年度)」(2003年5月)108頁。彼は自分が事件当事者であることを認めている。事件の決着が出ていない段階であったのに、原稿を依頼する方も引き受ける方もどういう感覚を持っていたのか疑問を持たざるを得ない。
46)捏造関係者百名以上(重複含む)の名前が列挙されている。彼らは共犯あるいは加担者のはずなのだが、その多くが反省を語っていない。
47)「神々の汚れた手」(梓書院2004年6月)を公刊した奥野正男は、このことについて一貫して追及し続けている。敬意を表したい。
48)佐々木藤雄「自壊する考古学・成長しない集落論」(「土曜考古25」2001年5月)101-102頁。
参考文献(註以外のもの)
藤村新一「旧石器のみつけ方」(角川書店「ここまでわかった日本の先史時代」1997年所収)
「私には50万年前の地形が見える」(講談社「現代」2000年11月号所収)
梶原洋「内陸および東アジア」(「季刊考古学74」2001年2月所収)
馬場悠男「捏造遺跡の検証は免罪符」(文芸春秋「日本の論点2002」2001年11月所収)
江坂輝彌「日本の前期旧石器探索史」(「考古学ジャーナル503」2003年6月3頁)
奥野正男「旧石器遺跡の捏造をめぐって」(「東アジアの古代文化118」2004年2月所収)
日本考古学協会前・中期旧石器問題調査研究特別委員会「特別委員会報告T」「同U」
河合信明「最古の日本人を求めて」(新人物往来社)
(追記)
旧石器捏造事件の舞台の多くは、行政(教育委員会)主体の発掘調査現場である。そこには考古学専門の担当職員が常駐していた。藤村は最初のうちは調査の補助として参加するに過ぎなかった。しかし彼は捏造を繰り返して「成果」が認められるとともに、調査を指導するようになり、さらには調査団長として責任者にまでなるに至った。捏造する藤村をここまで「評価」させた要因の一つが、行政による発掘調査であったことに注目すべきである。
つまり行政発掘は必ずしも信頼できるものではないことが暴露されたのである。
ところが当事件が発覚して数年しか経っていない現在、遺跡の発掘調査というものは行政や官営財団が行なうべきもので、民間に調査させると利益のために手抜きをするから許されない、とする有力意見がある。官の調査は信頼でき、民の調査は信頼できないというのであるから、事件の教訓はどうなったのであろうか。
彼らは発掘調査における官民競争を否定し、これまで通りの官独占を主張する。しかし法律は民間参入を否定していない。先の総選挙で、小泉改革の郵政民営化が国民の圧倒的支持を受けた。従って彼らの考えが広まるものとは思えない。
これからは官も民も、効率と価格そして何よりも質を競争する時代になっていくだろうと予想する。  
 
「中」のシンボリズムについて / 宇宙論からのアプローチ

 

はじめに
今日、私はこの機会に漢字の「中」についてお話させていただきますが、つまり、「中」の最も原始的な意味やその派生的な意味や宇宙論的な意味を考えたいと思います。ご存じのように中国は長い歴史、古い歴史を持つ大国であります。中国の伝統文化を特徴付けたり、重要な哲学的概念を担ったキーワードがたくさん挙げられますが、なかでも一番注目されるのはなんと言っても「中」ではないかと思われます。したがって、「中」は中国四千年歴史の集大成で、中国文化の極致と言っても言い過ぎではないと思います。
まず、中国の国名はつまり「中」です。これは中華思想を浸透させた国名でした。中国とは元来、国の政治的中心、即ち王城、周囲を統率する王権の所在地を指す概念でありました。上古の時代、華夏族は黄河流域の中流に国を作り、自らが天下の中央に居ると思っていたので、中国と自称するようになったそうです。それにともない、他の地域を四方と、他の部族を「四夷」(東夷・西戎・南蛮・北狄)と呼ぶようになりました。この「四夷」の名称は獣偏や、虫が付いたりしているため、周辺地域の部族に対する蔑称であることは明らかです。そして、夏、商、周の時代には他の諸侯国は中央王権に臣伏する従属国でありました。その後、戦国時代の戦乱を経て、中国境内の各諸侯国は統一に向かい、中央集権の封建専制の秦漢帝国が誕生しました。そこで、「中国」というのは「都城」としての意味が次第に失われていきました。それにともない、天下の四方八方が帰属する中心、即ち、空間上、乃至政治上の統率力の中心という重要な意味を担う鍵概念へと、変わってしまったのであります。
以上において、「中」の「王権の所在地」から「政治的統率力の中心」への移り変わりを簡単にご説明しました。ところが、この話は本日のテーマから少し逸れていますから、これぐらいに留めておきたいと思います。
今から少し違う角度から「中」について考えたいと思います。「中」の古文字とその宗教的神話背景をテクス トとして、「中」の概念の成り立ちを考察してみます。そして「中」の真ん中を貫く縦線を神と人間を結ぶ、形而下の宇宙軸と仮定し、古文字を通して、天・地、神・人を繋ぐ「中」の聖なる表象の原型及び古代人のコスモロジーの構築におけるその役割を探り、神話伝説において「中」の宇宙論的具象的異態(バリアント)の共時的な観察を行っていきます。さらに思弁的角度から論理的方法論原則における「中」のあり方を論証し、なお宗教的人間、神話的世界の「中」の意識が形而上学的に拡大敷衍され、理念化され、中華思想の神髄たる中庸思想へと転化していく過程を辿っていきたいと思います。
「中」の初文について
ご承知のように、中国の文字は甲骨文字にまで溯ります。甲骨文字は殷の王室で行われていた占いの記録で、今日まで残される唯一の公的記録です。甲骨文字の最大の特徴はその象形性にあります。つまり、記号と被写体との間にある種の対応関係があるために、我々現代人でも、文字を構成するそれぞれの要素、文字の図像を手がかりにして、その象徴的な意味を捉えることができるということです。そのために、本研究にあたって、まず「中」の甲骨文字を調べてみました。中国の著名な文字学者孫海波氏の『甲骨文編』(巻一)には五十五個の「中」が収められており、それらはおおかた次の二通りの字形に大別できます。
a ■ b ■ 
■と■について、大方の文字学者は旗の象形としています。例えば、白川静氏が「○に従い、その上に偃旌を付けていることが多い。偃旌を付けている以上、その中は旗桿の象であり、○はその飾りと見られる」(1)と指摘しているように、旗の象形説とするのがほぼ定説となっています。■がより複雑なのは■に風に靡く吹き流しが付いているためであると見られています。したがって、■と■は同系統のものです。■は「中」の簡体で、■は「中」の繁体として考えられています。ところで、「中」はほかにもう一種の字体■があり、白川静氏、加藤常賢氏などは■は■・■とは別系統のものであるとしています。白川静氏は「卜文・金文では■に従うものと○に従うものと二形あり、もと別義異形の字である」(2)と述べています。そして、加藤常賢氏は■の意味を次のように述べています。
(■)は、鼻口の「口」と籌(数を計算する小さい竹の棒)の会意に籌の声からなり、会意に声を兼ねた字である。そしてその意味は「口で声を出して数を呼び上げて数える」意である。(3)
そこで、ここでは■を論述の対象とせず、旗の象形を意味するとだけ取り上げることにします。
1 トーテム神の標識としての「中」
「中」の甲骨文字は旗の象形ですが、旗は氏族社会のトーテム標識に由来するとするのは定説のようです。次に、トーテム崇拝と「中」の関連づけについて考えてみようと思います。
トーテム崇拝は原始氏族時代に生まれた一種の宗教信仰の形態です。各氏族はそれぞれある動物、植物、無生物、或は自然現象と血縁などにおいて密接なかかわりを持つと考え、それを自らの祖先や神霊として崇拝し、氏族の守護霊として敬っていたわけです。このトーテムは崇拝の対象だけでなく、その氏族のシンボルでもあります。
古代の中国においては主に動物をトーテムの対象としていたようです。各原始氏族の始祖神話はトーテム崇拝とかかわりを持つことが多いようです。例えば、中国の古代伝説の中に炎帝という帝王がいて、炎帝は蚩尤を打って天下を定めたという人物です。『史記・三皇本紀』によると、母の女登が神竜の徳に感応して、炎帝神農氏を生み、炎帝は人身牛首であると言います。また、女■という女神がいますが、女■は大洪水を治め、人類を創造したと言われている人物です。この女神もまた人面蛇身と伝えられています。黄帝時代には熊、羆、狼、豹、■、■、鷹、鳶をトーテムとする氏族があり、これらの氏族は黄帝を擁護し、炎帝との戦いにおいて大いに活躍したと伝えられています。この物語は『列子・黄帝』には次のように書かれています。
黄帝与炎帝戦於阪泉之野、帥熊、羆、狼、豹、■、虎為前駆、以■、■、鷹、鳶為旗識。
黄帝が炎帝と阪泉の野で戦った時、黄帝は熊や羆や狼や豹やや虎といった猛獣をひきつれて前ばらいとし、やや鷹や鳶のような猛禽を旗さしものの代わりに使ったという。(4) 
氏族は祖霊を中心とした血縁的集団であり、また軍事的共同体でもあります。守護霊であるトーテム神はその氏族集団にとって、すべての秩序の根本であるから、軍事的行動を取る際、なおさら守護霊の守護を必要とします。それで、トーテム神はある種の直観的、具象的、随時移動可能な形で表出されました。それはつまり旗です。トーテムの標識たる旗に守護神が宿っているとされていました。したがって、トーテム崇拝の信仰が字形化されたのが■・■であると推定されます。『周禮・司常』には、
皆画其象焉、官府各象其事、州里各象其名、家各象其号。 皆その絵を画き、官府は各々その事を象り、州は各々その名を象り、家は各々その号を象る。
とあって、神聖にして犯すべからざるトーテム霊物の表象は、言うまでもなく、旗に限るものではなく、常に守護神としてさまざまな形で人々の生活の中で顕現しています。
2 中央の概念の形成に関する諸説
旗の始まりはトーテム崇拝によるもので、トーテムの標識たる旗が文字的な意匠を施されて、「中」に変形されましたが、さて、「中」を構成する各文字素が具象的にそれぞれ何を象り、そして「中」はいかなる理由に基づき、「中間」、「中央」「中正」といった派生的の概念が生まれたのでしょうか。それについてはいろいろな説がありますが、代表的なものとしては目印説、日影説と標的・容器説の三つが挙げられます。
a 目印説
文化人類学者唐蘭氏は目印説の主張者で、氏は旗が軍隊の配列時の目印となることに着眼し、文化人類学の視点から、旗の「中」と中央の「中」の関連性を見出そうとしました。
蓋古者有大事、聚衆於曠地、先建中焉、群衆望見中而趨附、群衆来自四方、則建中(即建旗)之地為中央矣。列衆為陳(陣)、建中之酋長或貴族、恒居中央、而群衆左之右之望見中之所在、即知為中央矣。然則中本徽識、而所立之地、恒為中央、遂引申為中央、因更引申為一切之中。(5)
昔、大事があり、人々を空地に集めるにはまず「中」を建てる。群衆は「中」を見て速やかにそこへ向かっていく。群衆は四方より寄り集まってくるので、「中」(即ち旗)を建てる地は中央になる。衆を陳(陣)に並べ、「中」を建てる酋長或は貴族が常に中央に位置するため、その左右に並んだ群衆は中の所在地を見て、直ちにそこが中央であることを知る。このように、「中」はもともと標識であったが、それが立つ地は常に中央となる。この意味から(空間の)中央となり、さらに、すべての「中心」とまで意味が押し広められたのである。
同じ説は李孝定氏の『読説文記』にも見えます。
中之本義当訓旗、古者軍旅集衆、多以旗指揮進退、故引申得有中央之義耳。(6)
中の本義は旗とすべきである。昔、軍隊が衆を集める際、多くは旗を用いて進退の指揮をする。故に中央の意に転意したのである。
また、旗を軍隊の配列時の目印とするのは実際にずっと昔からあったようです。『国語・呉語』に、このことを語る記載がありました。
万人以為方陣、皆白裳、白、素甲、白羽之、望之如荼、王親秉鉞、載白旗以中(陳)陣而立。
一万人の方陣をつくり、みな白裳、白の旗、白いよろいかぶと、白羽のの矢で、望見するとちがやの花のようにまっ白だった。呉王は自らまさかりを持ち、車に白旗を載せて中軍を率いて立った。(7)
なお、卜文にも「立中」(前七、二二、一等)を卜とするものが見えます。白川氏は「殷には、左中右の三軍の制があり、立中とは、中軍にんで、元帥を謀る意であろう」(8)と述べ、李孝定氏の説と同じように中軍の旗は単に配列時の目印だけでなく、軍隊の統率力の中核をも成していると指摘しています。
b 日影説
姜亮夫氏は日影説の主張者です。「中」の初意の究明にあたって、氏はまず■と■の「○」の意味の考察に取り組み、次のように指摘しています。
○若■形者、即■柄在日中所投之正影、○者正象形、■者乃契所施、不無圭角也。蓋古之造暦者、候日■近退、以験陰陽消息之機。後世法漸密、則設水準縄墨、以度中■。上古樸質、立木以為表、取表端日光之面、以定正昃。即於表上建■、以為一族指■之用。於事既便、於理亦最簡、此氏族社会之常例。(9)
○又は■の形なるものは即ち旗柄が日中に投じた正影である。○は真面な象形であり、圭角(口)はもともとはなかったが、彫刻によって施されたのである。凡そ古代の造暦者は、日影の近退を待って、陰陽消息の機を試していた。後世になると、計算法がだんだん精密になり、水準になる縄墨を設置し、以て太陽の正影を計るようになった。上古は質樸で、木を立て、それを表(ノーモン)とし、表端の日光の面を見て、正影を定めたものである。そして、表に旗を建て、一族の指揮にも用いられた。やり方としても便利であるし、理屈の面においても最も簡潔なのである。これは氏族社会の慣例である。
このように、古代の人々は日影の測定によって一日の時間的座標を確定していました。この事実は幾つかの漢字の観察によっても確認することができます。
まず、「昆」と「昔」の一組ですが、この直観的な二文字においては太陽の象形としての旁「日」は構造的にそれぞれ相反する位置に置かれています。「昆」は太陽の運行が天頂に達した様子を象ったものですが、一方、「昔」は太陽が沈む様子を象ったものです。
「昆」は『説文』には「同也、日と比に従う」と言います。さらに「比」は象形文字では二人の人が並列する形をしています。従って、「昆」は太陽が人々の頭上に位置することを意味し、つまり正午の時刻を表しています。換言すれば、「昆」は空間的「中」であると同時に時間的な「中」でもあります。
日……至昆吾、是謂正中。
『淮南子・天文訓』
日は……昆吾の丘に至るとき、これを正中という。(10)
因みに「是」という字も「昆」と同質のものであると言えます。「是」の原形は「■」となっており、『説文』では「是、直也、日と正に従う」と解釈しているように、日が正中に当たるとの意味ですが、そこから出発して「正直」、「法度」、「善」などの抽象的概念が派生したのです。
一方、「昆」と同一垂直軸の下方にある「昔」は甲骨文では「■」となっており、日が果てしない大水の下にある様子を象ったもので、太陽が沈んでいくのを示しています。
なお、「昔」の類義語に「昏」と「暮」があり、古くはそれぞれ「■」(篆書)と「■」(甲骨文字)という形を取っています。これらもそれぞれ太陽が地平線に沈んでいく姿と、草むらに沈んでいく姿を表しています。さらに一方、早朝の時間を表す「旦」は金文では「■」という形のものがあって、それは太陽が地平線に顔を出して昇りはじめる動きを写し取ったものでしょう。
以上の観察によって我々の祖先がかつて日影を測定することにより、時間を計算していたことは明らかです。
「中」は一日の時間の中における最高峰で、これを過ぎると西のほうへ傾き始めます。■・■は正午の時刻に旗竿の真上を通過する太陽を象ったものです。その中で、「○」は太陽の輪郭を現わし、縦線は全く陰のない、地面と垂直する(日を計るための)旗竿の形を表すものです。したがって、■と■は時間的な「中」と見なされ、さらに「中央」、「中心」という意味が発生したわけです。
c 標的・容器説
「中」は矢が的を貫く象とも解釈されます。『通訓定声』では、「中」の字を、射候を射る象とし、「象射候形、従−通也、亦象矢形、横穿為母、縦通為中(射候の形に象り、−が貫通する象である。また矢の形も象り、横に穿つのを母とし、縦に通じるのを中とする)と解釈しています。この説に基づき、「○」を標的と見ることができると思われます。『史記・殷本紀』には帝武乙が革嚢という容器に血を盛り、それを高所に掛け、仰ぎみて矢を射かけたと記されています。
帝武乙無道、為偶人、謂之天神。與之博令人為行。天神不勝、乃■辱之。為革嚢盛血、仰而射之、命曰射天。
帝武乙は無道で政事を治めなかった。人形を作って、これを天神といった。これと博奕をやり、人に天神の代わりをさせた。天神すなわちその人が勝たないとこれを侮辱してよろこんだ。また革で嚢を作り、その中に血をもり、仰いでこれを射て、「天を射る」と称して楽しんだ。(11)
古代の戦争においては見方同士で盟約を結ぶ習慣がありました。盟約の作法としては神に牲血を捧げ、盟言を申し立て、牲血を啜り合って、士気を鼓舞していたのです。盟約の儀式に使われる牲血は「玉敦」、「珠盤」という容器に盛られていたそうです。
なお、『黄帝四書』に黄帝が蚩尤の革を剥がし、その胃袋をえぐりだし、干候・鞠(的)にして、人に射させる記事が見えます。
黄帝遇之(蚩)尤、因而■(擒)之。剥其革以為干候、使人射之、多中者賞。割其髪建之天口、曰“之尤之■”(蚩尤之旌);充其胃以為鞫(鞠)、使人執之、多中者賞。
黄帝が蚩尤に遭ったので、彼を捕まえて、その革を剥き干候を作り、人にそれを射させて、多く的中した人に褒美をやる。その髪を割いて、天口に建てて、蚩尤の旗という。また、その胃袋を充たし鞠にし、人に執らせて、多く的中した人に褒美をやる。
『史記・周本紀』には周武王が敵の首を晒してみんなへの見せしめとする記事が書き記してあります。
(武王)至紂死所、武王自射之、三発而後下車、以軽劔撃之、以黄鉞斬紂頭、縣大白之旗。而至紂之嬖妾二女、二女皆経自殺。武王又射三発、撃以剣、斬以玄鉞、縣其頭小白之旗。
(武王)はついに紂の死んだ場所に至り、武王みずから三本の矢を放ち射てから車を下り、(軽呂の)剣をもってその屍を打ち金のおので紂の頭を斬って大白旗の先にかかげた。武王は次いで紂の二人の愛妾のところに至ったが、二人はすでに首をくくって自殺していた。武王はまた矢を射こむこと三発、剣で打ち、鉄のおので首を斬って、その頭を小白旗の先にかかげた。(12)
敵の首を晒すのは一種の呪的行為です。その目的は祖先やトーテムを象徴する戦旗を祭り、或は敵からの呪的侵害を祓うことにあるそうです。(13)とにかく、盟約を結ぶ際に、牲血を盛る容器を旗竿に掛けるとか、干候や射鞠といった標的に矢が貫くのを象ったのが「中」であると見る説があります。
3 宇宙軸説
以上において紹介した「中」の初文についての三説はそれぞれ理にかなったものですが、本研究ではより広いヴィジョンを提示したいと思います。それは、つまり宇宙軸説というべきもので、それによって、上記の三説に共通点を見出そうと考えます。
まず、「中」の字形がどう変わろうとも、真ん中の「−」は変わらないということを指摘しておきたいと思います。これは神竿であり、一種の宇宙軸であると仮定してみます。
古代の社会は氏族を基本的単位とするもので、氏族は祖霊を中心とする霊的結合体です。そして各氏族は本氏族の標識を加えた族徽を持っていました。このような族徽はつまり原始的な旗でした。古代の人々は自分の住み慣れた土地を離れるとき、即ちその守護霊の範囲から外に出てゆく時にはその守護霊の依代である族旗を掲げて行動していたようです。例えば、「遊」という字の初文は「■」となっており、故郷を離れるとき旗を掲げた人の姿を象ったものです。そして、「旅」という字の初文の「■」は同様に人が旗を奉ずる姿を象ったものです。旗は氏族の霊的結合体のシンボルであると同時に、その氏族の守護霊を宿す聖なる区域でもあります。「中」の原形は「■の「■」の部分、「■」の「■」の部分と同一の物と推定できるでしょう。このような関連から特に吹き流しの付く「■」は「中」の初文が旗の象形であることを雄弁に物語っているように思われます。
ところで、人間と区別されるべき聖なる存在としての守護霊はいかなるルートで人間界に降下し、人間の守護霊になり得るのでしょうか。この通路はつまり旗の柱を象った「−」であると考えられます。旗はいわば移動式の宇宙軸のようで、旗(中)の真ん中を貫く「−」は神と人間を結ぶ、形而下の宇宙軸であると思います。
ところが、「中」の最も古い形としての■には○がありませんでした。■は李孝定氏の『読説文記』に示されており、氏は「中」字の変化過程を次のように説いています。
以作■形者最古、象旗之有■、漸省作■。古文垂直長画、往々於其中加点、即為■中且■之■。「・」変為「○」、則為金文習見之■、並其而省之則為、與小篆同矣。(14)
■の形のものが最も古く、旗にがあるのを象る。それがだんだん■へと簡略されてきた。古文字で垂直な長画には、往々にしてその真ん中に点を加える。それがつまり■中且■の■である。「・」が「○」に変わったのが金文によく見る■である。また、その■を省いたのが■となり、■は小篆と同じである。
つまり、「中」は幾度かの字形上の変形を経て、■に定着したのだと言います。次に○が宇宙論的にいかなる意味を持つかを考えてみたいと思います。前述したように、原始氏族社会ではトーテム神は旗という直観的、具象的、随時移動の可能な形で表出され、旗によるトーテム崇拝の信仰が字形化されたのが■・■です。しかも、旗は白川氏が氏族の守護霊を斎いこめたものである(15)と指摘しているように、このトーテムの標識たる旗に守護神が宿っていると信じられていました。したがって、「○」は、「−」を伝わって降下した守護霊が宿る神聖な区域であり、守護霊の依代であると読みとることができるでしょう。古代の人々にとって旗はカオスからの脱出であると同時にコスモスの確立であるという大切な意味を持つものと言えます。そこから霊の存在を身近に実感できるのです。このように「−」、「○」は単に文字を構築するための媒材のみならず、そこに宇宙観の抽象的変形が試みられ、その図像のうち、文字草創期の人々のコスモロジーを視覚的に捉えることができるように思われます。
このように考えると、「中」の旗識説は正論ですが、その理由ともなる人集めの目印という働きは■・■の実用的、物理的な部分に過ぎず、もっと内面的、本質的な理由は神との立体的連結という信仰上の「中」にあるのではなかろうかと考えます。人間と神との連結を可能にする「中」こそ至上の「中」なのです。
そして、日影説において「−」は日時計の立棒としており、■・■は正午の時刻に旗竿の真上を通過する太陽を象ったもので、「○」は太陽の輪郭を現わし、縦線は全く陰のない、地面と垂直する(日を計るための)旗竿の形を表すものとしていますが、その信仰上の意味を見逃してはならないと思います。
『山海経・海内南経』に「建木」という木が見えます。
建木、青葉、紫茎、黒華、黄実、其下声無響、立無影也。
建木は葉が青く、茎が紫、花は黒く、実は黄色、その下では声を上げても響きがなく、立っても影を生じない。(16)
とあり、この「立っても影を生じない」という木は時間を単に太陽を測定する縦座標というより、後ほど詳説するが、天上界の神々が地上界に降下してくる交通路、即ち宇宙軸であると同時に神々が宿る依代なのです。従って、正午を指すのを象った■・■は単なる時間的「中」ではなく、信仰的な「中」でもあると考えられるでしょう。
一方、中の標的・容器説も宇宙軸説と相通ずると考えられます。「中」の「○」が牲血の容器、射鞠だとすれば、それらは霊力のある旗竿や木に掛けられるのは普通のようです。武王が紂の頭を斬って、大白旗の先にかかげ、さらに紂の二人の愛妾の首を斬り、その頭を小白旗の先にかかげたという記事を見ましたが、この晒し首の儀式において、異族の首は呪具として使われ、そして首の掛けられたる旗はトーテムの対象、一族の族徽なので、当然一種の宇宙軸と考えられるでしょう。
以上の論述によって、この宇宙軸の視点から従来の三説にある共通点が見出せます。■・■の「−」は神聖な竿、宇宙軸であると考えれば、中部の円形は旗であろうと、日影であろうと、射鞠・容器であろうと、それほど重要ではないように思えます。宇宙軸はどこでも不動の「中」なのです。
聖なる原点としての「中」
生産力が低い時代において、人間は絶えず自然の猛威と背中合わせに生活していました。干魃・洪水・虫害・疫病・台風などのような、人力を越えた自然の威力に直面したときに人間は為すべきすべを知りませんでした。古代中国人は人間を取り巻く自然を恐れ、神として敬い、神々のいる純粋で穢れのない完全な世界に行きたいと願望しました。そして、その天上界の神々との交流が許され、神々の近くで生きることが可能な場所は「世界の中心」であると考えられていました。「世界の中心」という考え方は他の民族にも存在します。エリアーデ氏の『聖と俗』によると、オーストラリア土着のアチルバ人は世界の中心から離れないために、すなわち地上を越えた天上界との交流を保つために、遊牧に出かけた時でも必ず天上界と地上界を繋ぐ世界軸たる聖柱を持って歩き、その傾く方向に進路をとっていました。またかつて運悪くその聖柱が折れた時には、氏族全体が死ぬほどの不安に襲われ、しばらくの間は当てもなく彷徨したあげく、とうとう地面に座り込んで死を待っていたほどであると言います。(17)ここにいう聖柱は■・■と同質のものと思われ、原始文化の人々がいかに神の保護を切望し、神との触れ合いが可能な、彼らの命の保証とも言うべき「中」を大切にしていたかを窺わせています。
1 神話的表象の世界としての文字に見る「中」
厳しい自然環境に囲まれた古代の人々にとって、四季の順調な運行や日照・降雨・気温・風など、農作物の生産を左右する重要な諸条件についてこれらを司り支配する神々と直接交渉(神頼み・祈祷)する以外に有効な手段はなかったようです。彼らは自然そのものの中に神が存在し、祈祷などの直接交渉によって、自然が人間に幸福をもたらしてくれると信じていました。そして、神との交渉はつまり神の持つ超自然的な力に働き掛ける、呪術と呼ばれる数多くの象徴的行為です。祈る祭事における祈りの言葉や象徴的な行為を媒体にして、目に見えない神々の神聖な世界に踏み込み、神々と接触・交流することができ、それによってその超自然力を動かし、危機を克服し、思い通りのことを起こさせることができると古代の人々は信じていました。その象徴的、呪的儀礼を文字として形象化したのは漢字です。漢字の背景にはそのような呪的世界があります。つまり、漢字は図像のうちに呪的世界を見事に再現しているのです。そのために、古漢字という呪的世界に神と人間との仲介物としての「中」を見出すことができます。
例えば、■はその一例である。■という意符は白川氏によると、神に祈り、霊を祀るときに用いられる祝詞を納める器であり、つまり神に申す言葉であると言います。「門」は人家の前に立てるものではなく、神の住処の廟門であったそうです。(18)従って、「問」は神意を尋ねる意であると解すべきでしょう。は一種の呪符であり、人間と神を結び付ける媒介物で、「中」の異態とも考えられます。
なお、■は「言」、「語」の二字にも見られます。「言」(■)は辛(針)と■に従う字です。辛は入墨に用いる針の形であるから、それは入墨による刑罰を示したものでしょう。すなわち、「言」の字形は「神に誓い祈ることに、もし虚偽不純があるならば、我は神の刑罰としての入墨の形を受けるであろう」という自己詛盟を辛と■の二つの形体素の組み合わせによって示したのです。(19)つまり、「言」は神との誓約によって自己の願望を実現しようとするものです。一方、「語」の原形の「吾」はもっと大きな蓋器で■を覆う形(■)をしています。それはその祝告の機能をまもる意味を持つ字で、「言語」と連ねて言葉の意とします。(20)このように■を介在している言語は言霊の働き、神との結合を前提として、その機能に関する象徴的儀礼を文字に形象化したものです。
また、古文字において神が立ち現れる神梯(宇宙軸)を見ることができます。これは「■」です。神の陟降する神梯の前は言わば神と人間が相交わる場所であり、そこでさまざまな呪物や呪的行為によって、その神聖を顕示しました。また神梯の前で営まれたさまざまな象徴的儀礼によって、それらの表象として、多くの漢字が作り出されました。
例えば、鬲(れき)という三本足の器物がありますが、これは鼎の一種で、本来は食べ物を煮たり蒸したりするのに用いられますが、呪器としてもよく用いられています。「■」に呪器としての鬲を置くのは「隔」です。「隔」は神と人間の交流を阻止する(隔てる)意です。
「限」も「■」に従う字です。神の陟降する聖所はみだりに人の侵入を許すべからざる所であるから、そこに呪眼をかけて、接近することを禁じています。呪力を持つ邪眼を掲げて呵禁するものは限です。(21)
なお、殷墟卜辞に「貞ふ。陟降せんか」と、祖霊の陟降を卜うものがあります。「陟降」は祖霊が「■」を通って帝所より下界に降臨してくるという神話的観念を留めているものです。
2 神話伝説における「中」
古代の人々はつねに神々とともに生きたいと願い、神々に守護されて生きることは彼らの根源的な欲求で、神々との交流のできるところは彼らの安住の場所でした。その場所とは、天上界と地上界の接するところ、つまり世界の中心です。世界の中心についてのさまざまな表象はある一つ普遍的な概念として、長期間にわたって人々の宇宙観を規制してきました。神話伝説においても世界の中心の表象はさまざまな形態で現れています。世界の中心は宇宙軸とも呼ばれ、神話伝説において従来より霊木は宇宙軸の典型的な一形態となっています。
建木在都広、衆帝所自上下。日中無景、呼而無響。蓋天地之中也。
『淮南子・墜形訓』
建木は都広山にあり、そこからして諸帝が上り、下りする。日が中する時にかげができず、声を出してもひびくことがない。おそらくは、天地の中央なのであろう。
古代人の心の中では、天にも届くような大木は地上のあらゆる生命の象徴であると同時に、神々の住む住居に枝を張って、天上界と地上界を結ぶ通路、神聖な中心とされていました。天地の中心に位置する建木という宇宙軸を伝って、衆帝が地上界に降下してくることが伝えられていますが、なお、中国古代神話において太陽神樹と呼ばれる扶桑もまた同質のものとして語られています。
玄中記曰、天下之高者扶桑、無枝木焉、上至天、盤蜿而下、屈通三泉。
『太平御覧・九五五』
玄中記にいう、「天下の高いものの扶桑は無枝の木であり、上は天に至り、曲がりくねって下り、三泉に通ずる」。
なお、天地を結ぶ中(宇宙軸)としては建木、扶桑の霊木のほか、山という形態もよく見られますが、特に注目されるのは崑崙山です。
崑崙之丘、或上倍之、是謂涼風之山、登之不死、或上倍之、是謂縣圃、登之乃霊、能使風雨、或上倍之、乃維上天、登之乃神、是謂太帝之居。
『淮南子・墜形訓』
崑崙山には、その倍の高さのところに、涼風という山があり、その山に登ると不死を得る。またその倍の高さのところに県圃という山があって、その山に登ると霊を得、風雨を自在に役使する。さらにその倍の高さのところが、すなわち上天であって、ここに登れば、神霊を得る。ここが天帝の居所といわれるところである。(23)
昔の人々は「崑崙山為天柱」というように崑崙山は地に発しその頂上は天に通じていると信じていたのでしょう。崑崙山伝承も天地・聖俗両域が聖なる原点、「中」としての天柱によって結ばれることを窺わせています。
神聖な中心を媒介軸に天地・聖俗両域が垂直的に結ばれるコスモロジーの原形は日本『古事記』神話にも見出すことができます。
『古事記』の物語展開の主な舞台は「高天原」と「葦原の中つ国」の両域です。「高天原」は天つ神々の住む世界で、一方の「葦原の中つ国」は地上にある人間界、つまり「高天原」の対立概念として位置づけられています。
『古事記』の冒頭の言葉である「天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主」は極めて象徴的な意味を持っています。神の名前は単に任意的呼び名ではなく、神々の固有の本質を象徴的に表現しており、さらに言えば、各々の神名には古代人のコスモロジーなどが凝縮されていると考えられます。まず、天之御中主の名称ですが、「天之」は「神の住む天上界」を、「御中」は単なるポジション的な中心ではなく、「神が宿る神聖な中央」を意味しています。そのため、アメノミナカヌシは天地初発の時、原初の空間である高天原に原初の神として現れ、その位置はその名が示す通り「聖なる中心」です。(24)聖なる中心の人格神であるアメノミナカヌシは「高天の原」の支配者であると同時に、生成力の人格神であるタカミムスヒとカムムスヒ二神を従えて万物に君臨して、神々のヒラエルヒの頂点として、重要な意味と機能を担うのみならず、さらに生成霊(ムスヒ)の中心として下界の「葦原の中つ国」に天下って、国生み、神生み、穀物の化成などあらゆる生成活動を放射線状に広めていく機能をも持っているのです。ところで、生成霊が下界に天下るのに必要とする通路は宇宙軸以外にありません。タカミムスヒはこのための宇宙軸の一つとして位置づけられています。
タカミムスヒの神の神名全体は「天上界の神聖なる生成の霊力を持つ神」を意味します。この神の別名は高木の神(高い木を依代として君臨する)と言われるように「高所から降臨する」という特徴に基づいた命名でした。従って、タカミムスヒは「高天の原」と「葦原の中つ国」の両域を繋ぐ宇宙軸であると考えられます。神木の頂は「高天の原」に通じており、下は「葦原の中つ国」にしっかりと根を張っています。そのため、天上界に住む太陽神としてのタカミムスヒの日はあまねく大地に降り注ぎ、またそのムスヒ(産霊)は天と地を結ぶ霊木を伝わって象徴的に大地に注ぎこまれます。この神木によって達成される陰(地)陽(天)の交合は四季の循環、万物の生成、五穀の豊穣及び生命の復活を確保しています。さらには、高木という経験的、視覚的表象をとることによって、本来目に見えない隠身神だった生成の霊力ムスヒは具体的に顕現することができたのです。
なお、『古事記』にオノゴロ島での聖婚の話が語られています。つまりイザナギとイザナミがオノゴロ島に天下りし、「天の御柱」を立てるというくだりです。このオノゴロ島は天の沼矛の末より垂り落ちる塩の累積によりでき、広漠たる海洋の中に出現した最初の島で、国土生成の原点となっています。この聖なる原点において、イザナギとイザナミが行なった最初の仕事は、「天の御柱を見立て」ることでした。塩が浄めたこの聖なる原点にまず「天の御柱」を立てるとは、ここ生成の中心に真っ先に生成霊ムスヒを迎え入れることにほかなりません。この「天の御柱」は天つ神の神霊の依り憑く神聖な柱で、天地・聖俗を結ぶ宇宙軸と考えられます。
上記のタカミムスヒとカムムスヒの国土生成の説話は中国神話の殷始祖契の生誕説話と「中」のシンボリズムにおいて大きな共通点があり、殷始祖契生誕の説話の中で「中」を担うのは玄鳥と呼ばれる神鳥です。
殷始祖契の生誕説話の粗筋は次の通りです。天帝に命じられて飛来した玄鳥は上空から卵を墜し、それを簡狄が拾って呑み、始祖契を生みました。このことは『史記・殷本紀』には次のように記載してあります。
殷契母曰簡狄、有■、為帝■次妃、三人行浴、見玄鳥墜其卵、簡狄取呑之、因孕生契。
殷の契は、母を簡狄といった。有氏の娘で、帝の次妃であった。かつて、婦人たち三人と外出して、川で水浴をしているとき、燕が卵を生みおとしたのを見て、簡狄がそれをとって呑み、そのために妊娠して契を生んだ。(25)
なお、『詩経・玄鳥篇』には「天命玄鳥、降而生商、宅殷土芒芒(天は玄鳥に命じて降って商の先祖契を生ませ茫々として広き殷の地に宅らしめぬ(26))」と書いてあるように、玄鳥が神の意志に通じる天帝の使者でした。天帝の精ともいうべき卵を地上に投下し、人間に呑み込ませ、始祖の生誕を迎えるということから、玄鳥は天上界と地上界を結ぶ「中」(宇宙軸)の働きを担っており、すなわち前述した生成の神を地上に迎える「天の御柱」の一種のバリエーションと考えられるでしょう。 
「中」と方法論原則
中国の伝統社会において、宇宙の分類法は易の原理に基づく陰陽二分法モデルが主流を成しています。つまり、陰陽二つのカテゴリーによって、宇宙間森羅万象の事物と現象を分類することができます。
例えば、
陽剛積極昼男夫君大進動冨表真……
陰柔消極夜女妻臣小退静貧裏偽……
ところが、陰陽二分モデルは物理的存在としての森羅万象の事物と現象を分類化、抽象化する一つの方法に過ぎず、人間の世界への認知力はこのモデルのレベルに踏みとどまることがありません。さらに「中」の概念の啓示によって、新たな認知モデルを構築し、世界を認識します。それによって人類の論理的思考の飛躍を成し遂げようとします。
1 「中」と「参和」
二分化された世界は、我々の思惟展開の新たな出発点となるものです。それを基にして、さらに事物のもう一極が捉えられます。
有一物必有上下、有左右、有前後、有首尾、有背向。有内外、有表裏。有一必有二、故曰一生二。有上下左首尾前後表裏則必有中、中与両端則為三矣。
陸象山『三五以錯綜其数』
一物が有れば、必ず上下、左右、前後、首尾、背向、内外、表裏が有る。一があれば必ず二がある。故に一は二を生むという。上下左右首尾前後表裏が有れば、必ず中があり、中と両端とは三となる。
左右・前後・首尾・背向・内外・表裏の両端は各々事物の相対立する極ですが、「中」もまた両極に相対する極で、「二」との関係において位置づけられます。ところが、論理的思惟のなかでは、「中」は相対立する両極の統合を支える抽象的方法論原理となっています。
人有中曰参、無中曰両、両争曰弱、参和曰強。
『逸周書・武順』
人、中があれば参(三)といい、中が無ければ両という。両は争うから弱といい、参は和するから強という。
疑意以両、平両以参。
『逸周書・常順』
意を疑うのは両の為であり、両が均和するのは参の為である。
対立のみ見ていると疑い深くなり、ひたすらに対立を追求すると国が弱まり、人民が貧しくなります。これは「疑意以両」、「両争曰弱」の意味です。最良の対策は「平両以参」です。つまり「参」を以て「両」に均衡を持たせることです。そして「両」のレベルを乗り越え、「参」の境地に到達することができるかどうかは「中」の有無にかかっています。「参」は「両」の間の最も望ましい関係を表す状態であり、従って「中」は両者の間の最も望ましい関係を導きだすための媒介となります。ところが、「両」はいつも可視的実在であるのに対して、「中」は「両」に依存しながら、「両」に見え隠れする抽象的な方法です。だからこそ、参和を実現するためには「両」を達観し「中」を見出す慧眼を必要とします。慧眼があれば、参和の実現が可能になり、慧眼が欠けていれば、「参」の存在が消え、両しか見えなくなってきます。この場合の「参」は明らかに両の外に独立する「第三者」ではなく、既に現れた「両」を兼ね備え、それらを「中和」する方法です。従って、「両」と「参」の相違について厖朴氏は「両は形而下の器であり、参は形而上の道である」と定義付けています。(27)
『中庸・第二十二章』にいわゆる聖人の重要な役割が語られています。聖人というのは優れた徳の持ち主のことで、その徳は「中」の精神を極め、天地の化育の偉業を助ける立派なものであると言います。
唯天下至誠、為能尽其性。能尽其性、則能尽人之性。能尽人之性、則能尽物之性。能尽物之性、則可以賛天地之化育、可以賛天地之化育、則可以与天地参矣。
この世に最もすぐれた誠の人(となってこそ、)その性(の誠)を遺憾なく発揮することができるのである。己の性を発揮すれば、それを推し及ぼして、他人にも人としての性を発揮させることができる。他人にも性を発揮させることができれば、人々とともにすべての物を適正に扱って、その本来の発展をとげさせることができる。物の発展をとげさせることができれば、天地の万物を発生成長させる事業を助けることができる。天地の事業を助けることができれば、(それこそ)天地と相並んで、この世における最も完全な人間となることができる。(28)
至誠とは聖人の徳です。各々の性質に従って、天下の人にその徳を完成させ、天下の物にその用(働き)を極めさせます。天地は物を生じ、その用を極めることができません。必ず聖人を待って極めるのです。これが天地の化育を助けることです。つまり、至誠の聖人の功徳は天地の「両」と並び立って「参」となります。聖人の功徳が加わることによって、天地に「中」が備わり、さらにその功徳は天地の化育と渾然一体となり、参和を実現するのです。
さらにもう一つのケースがあります。「中」の慧眼によって、意識的に対立面を設置し、そして「一」と「二」を十分に吸収し、これらを参考にしながらも、「一」とも、「二」とも異なる新たな選択としての「三」を見つけることです。「中」が欠けていれば、たとえ千人でも百人でも、「一」に止まるだけであって、決して「参」には至らないのです。春秋時代に魯の君哀公が「群臣と計らっているのに国がいよいよ乱れるのはいったいどういうわけだろうか」と孔子に尋ねてきた時に、孔子は次のように答えたと言います。
今群臣無不一辞同軌乎季叔者。挙魯国尽化為一。君雖問境内之人、猶不免於乱也。
『韓非子・内儲説上』
今は群臣はだれでも、(魯の大夫で最も勢力のあった一家)季孫に口裏を合わせ、行いを一つにしない者はありません。魯の国じゅうがみな一色になってしまっています。たとえ君があまねく国内の者に相談されようとも、やはり国が乱れることは免れませんでしょう。(29)
頭数こそ多いとはいえ、魯国の群臣はすべて季氏一家の利益になるために言葉を揃えてしまいます。このように、「一辞同軌」の連中が何千何万あろうと、物を言うのはただの一人と同じで、結局「一」でしかありません。その対立面としての「二」がないために、「中」が生まれないし、「参和」に至らないのです。
また、戦国時代、地方長官に任命された魏国の臣西門豹に、功を立て名を揚げる術を聞かれて、魏の君文侯が敢えて粗探しの人の意見を聞くように助言したと言います。
西門豹為■令、而辞乎魏文侯。文侯曰、子往矣。必就子之功、而成子之名。西門豹曰、敢問、就功成名、亦有術乎、文侯曰、有之。夫郷邑老者、而先受坐之士、子入而問其賢良之士、而師事之。求其好掩人之美而揚人之醜者、而参験之。
『戦国策・魏巻』
(魏の臣の)西門豹がの令(長官)に任ぜられて、魏の文侯に暇乞いに行った。文侯が、「さあ、行くがよい。ぜひとも、功を立て、名を揚げよう」と言うと、西門豹が言った、「はばかりながら、おうかがいしますが、功を立て名を揚げるには何か方法がございましょうか」と。文侯が言うには、「あるとも。そもそも郷邑の老人で、真っ先に座席を進められるような人物には、こちらから出かけて、その土地の賢良の士を問い、これに師事することだ。」他人の美点をおおいかくし、他人の欠点を言い立てるものを探し求めて、あれこれ参考にすることだ。(30)
文侯は自覚的に「中」の道を求め、「二」を発見し、「三」の実現を目指す道を説いています。信頼に値する「郷邑の老者」、「賢良の士」の意見はどんなに優れても、「一」に過ぎません。従って、よりよい選択としての「三」を求めるには、その対立面、すなわち「人の美を掩うて人の醜を揚ぐるを好む者」の「二」を設置し、さらに「中」という論理的方法論を用いて、全体的に対立二項を捉えるべきです。こうして、はじめて、「三」が導き出されると言うのです。
2 易卦と「中」
易では中正が尊ばれています。易卦の三画、又は三数の重なりはこの崇中思想を巧みに図式化したものです。
六十四卦はそれぞれ六爻を備えたものです。そのうち、二爻の位は内卦もしくは下卦の中央で、五爻の位は外卦もしくは上卦の中央です。二爻と五爻は中を得ているため、中正なわけです。これに対して初爻とか、三爻とか、四爻とか、上爻とかいうものは中を得ていないため、中でないわけです。その爻が中か、不中かは凶吉悔咎が断定される理由の一つとなってきます。したがって、中を得た二爻と五爻は往々にして吉です。
例えば、乾卦九二の爻辞は「見龍在田、利見大人」となっています。これは今まで潜み隠れていた龍は地上に現れ、天下の人々は(この見龍に比すべき学問・教養があり、将来天下に君たるべき徳を備えた)大人を仰ぎ見るがよろしいという占いです。また、坤卦六五の爻辞は「黄裳。元吉」となっています。六五は上卦の中央にあって、中の徳を得たものです。
また、陰で、柔順です。まさに黄色(中央の色)の裳(腰から下にはく)の象があります。(かく中庸の徳があり、柔順にして謙遜よく人に下る象であるから、)大いに吉で福があるという占いです。
なお、『易・繋辞下』は次のように言う。
若夫雑物撰徳、弁是与非、則非其中爻不備。噫!要存亡吉凶、則居可知矣。……二多誉、四多惧。……三多凶、五多功。
爻を雑えて卦の徳(はたらき)を撰(ととの)え、それぞれの是非を弁別するとなると、中間の爻がなければ、卦の「吉・凶」は完備しない。それにしても、「吉・凶」、「存・亡」などを『易』のうちに求めれば、居ながらにして知ることができる。……第二爻は名誉が多いことを示すけれど、第四爻は惧れ戒めるべきことが多いことを示す。……第三爻は凶事が多いことを示し、第五爻は功績が多いことを示す。(31)
即ち、二、五は大半吉で、三、四爻はだいたい凶であるのはそれが占める位によるものです。内・外卦の中位はそれぞれの中央にあって、中道・中庸を象徴し、中正なものはその中道を行う者で、吉とされています。これは『論語』、『中庸』などに説いている中庸(常に中正を保つこと)を巧みに図式化したものです。
このように易卦においてすべて中を吉としています。次に「三」と中との関りから中が尊ばれる理由を探ってみます。
まず三爻のそれぞれの機能から見ると、「一」は独立するものの始まりを提供し、「二」は対峙関係を構成します。「二」までは静の状態です。そして、「三」は対峙する両者に新たな、動的要素を加え、「二」はそれによって働き掛け合い、融合し始めます。また、占筮の目的から言うと、「一」は吉凶のいずれかに過ぎず、「二」は取捨選択の条件を揃えることになります。そして、「三」は多数を形成し、行方を導きだす決め手となります。したがって、中間の爻の地位は極めて重要です。それは対峙する「二」に介入する仲介者であり、「二」の枠組を超越する中立でもあり、「二」の上に君臨する中正としても考えられます。ところで、発生順序の上では、「三」は「一」、「二」に遅れているため、「中」を担うことができません。「三」が「中」を担うのは三者の内在的繋がりにあるように思われます。つまり「三」は「一」と「二」の対立を包含し、両者を近づけさせ、双方の調和を遂げ、統一体の構築を完成するのです。換言すれば、調和、統一を意味する中の概念は「三」によってはじめて示されることになります。
3 「中」と「中庸」
中庸とは「中」を用いること、つまり、事物の両極に偏らず、折衷的な態度を取ることです。孔子に「至徳」とまで称えられたそれは儒家及び中国人一般の行動規範、処世術となっています。ところが、中庸思想は過不足なしで、その中間をとりさえすればよいというような生易しいものではありません。ただ中間をとるのでは、全く自主性を失った折衷主義・追随的機会主義となるでしょうから。中庸の「中」は単なる一直線の両極端の中ほどというような幾何学的中心ではなく、相対する両極の統一を支える超越的な中心です。
中庸の思想が始見する『論語・子路』では、狂者と狷者という両極端の人間をあげて理想的人間像、中行の人間を説いています。
子曰、不得中行而與之、必也狂狷乎。狂者進取。狷者有所不為也。
孔子言う、わしは中行を行いうる学徳兼備の人を得て、これと事をともにしたいと思うが。中庸の徳を備え得た人物は、なかなか得られないとすれば、わしはやむなく、狂者・狷者を得て、これと事をともにしたい。狂者は進んで善を行おうとする気迫があり、狷者は断乎として不善をなさぬという節操があるからである。(32)
孔子の言う狂者とは常識離れと言われるほどの進取的な情熱家です。しかし、その行動は進取的な故に、盲目的になりかねず、中道を過ぎる恐れがあります。一方の狷者とは不善をせず、かたくなに自分の殻を守る保守派です。しかし、その態度は保守的な故、消極的になりかねず、中道に達しない恐れがあります。聖人の道(中行)を行うために、狂狷両者の長所を兼ね備え、相対する両極を中和し、統合を計るべきであると説いています。
子曰、三人行、必有我師焉。択其善者而従之、其不善者而改之。
『論語・述而』
孔子言う、三人の人が同じ道を行けば、必ずその中に自分の師とすべきものがある。自分のほかの二人の中の、善なる者をえらんでそれを見倣うようにし、不善なる者にかんがみて、自分の不善を改めるようにする。かくすれば、そこに師はきっと得られるものだ。(33)
現実の人間にあっては、自分の意欲・行動を抑制する内省が必要なのです。善人を見て、我が師とし、不善人を見て、自らを反省する鑒(戒め)とします。従って、後者もまた一種の師、つまり反面教師です。この名言の主旨はほかではなく、「中」を求めることです。師を求め、人格の完全化を計るという意識は善と不善の次元を超越し、両極を包容し、一つに融合させてしまうのです。
仲尼曰、君子中庸。小人反中庸。君子之中庸也、君子而時中。小人之中庸也、小人而無忌憚也。
『中庸・第三章』
孔子はいわれた、「君子(の行ない)は中庸である。小人(の行ない)は中庸にたがっている。(というのは)君子の中庸は、君子の人がら通りにどんなときでもその節度にかなっている。(ところが、)小人の(みずから)中庸(と称していること)は、小人の人がらのままに(目先のことにひかれて)つつしみもおもんぱかりもないのである」と。(34)
真の中庸とは「時に中する」もので、時と場合によって動くものです。つまり固定した行動基準に従うのではなく、時と場所に応じて、節度を得て、その中正を保ち、自由無礙に妥当する正しい行動です。従って、中庸は「無的・超越的性格」を持つものです。
このように、中庸の理念は相対立する両端の統一を支える超越的性格をもつのが特徴で、原始社会における宗教的人間が切望した中心観念の理念化であると考えられるでしょう。宇宙論的次元で、「中」の確定はカオスからの脱出とコスモスの確立を意味するのに照応して、儒家が唱えている社会倫理の次元で、対立する両極を超越した中庸の実践は社会秩序の確立を意味することになります。したがって、中庸の理念は宗教神話的「中」と同じ流れを引いたものであり、「中」のシンボリズムが形而上学的に拡大敷衍されて、理念化され、遂に政治的倫理、行動的規範にまで転化したものと考えられます。 
まとめ
以上、「中」の古文字とその宗教的神話背景をテクストとし、「中」のシンボリズムを主軸に構築されるコスモロジカルなモデルの諸相を考察し、弁証法的思惟と中庸思想における「中」の機能を論証しました。弁証法的思考と中庸思想は宗教的人間がもつ、神話的世界の「中」の意識にその起源を求めることができ、「中」のシンボリズムの観念は中国古代思想と方法論原則に受け継がれていたと考えられます。
図示すると次のようになります。
神話世界聖俗・天上界地上界を連結する宇宙軸
論理的思考相対する二を中和し、三へと導く方法論
中庸対立する両極を支える超越的中心 

(1)白川静『説文新義』巻一127頁白鶴美術館1969年
(2)白川静前掲書同頁
(3)加藤常賢『漢字の発掘』245頁角川書店1971年
(4)小林明信訳本120頁新釈漢文大系22明治書院1978年
(5)唐蘭『殷墟文字記』53−54頁中華書局1981年
(6)李孝定『讀説文記』巻一9頁台湾学生書局1992年
(7)大野峻訳本771頁新釈漢文大系67明治書院1978年
(8)白川静前掲書同頁
(9)姜亮夫『“中”形形体分析及其語音演変之研究漢字形体語音弁証的発展』《杭州大学学報》第14巻52頁1981年
(10)楠山春樹訳本162頁新釈漢文大系54明治書院1979年
(11)吉田抗賢訳本133−134頁新釈漢文大系38明治書院1978年
(12)前掲書(11)162頁
(13)蕭兵『“中”源神桿説』《中国文化》第九巻57頁三聯書店1994年
(14)李孝定前掲書同頁
(15)白川静『漢字百話』60頁中公新書1978年
(16)前野直彬訳本449頁全釈漢文大系33集英社1975年
(17)M・エリアーデ風間敏夫訳25頁法政大学出版局1969年
(18)白川静前掲書(15)29・36頁
(19)白川静前掲書(15)34頁
(20)白川静前掲書(15)34頁
(21)白川静前掲書(15)40頁
(22)前掲書(10)209頁
(23)前掲書(10)209頁
(24)舟橋豊『古代日本人の自然観「古事記」を中心に』53頁審美社1990年
(25)前掲書(11)114頁
(26)目加田誠訳本295頁中国古典文学大系15平凡社1981年
(27)厖朴『対立与三分』《中国社会科学》1993第2期93頁
(28)赤塚忠訳本281頁新釈漢文大系2明治書院1978年
(29)小野沢精一訳本26頁全釈漢文大系20集英社1978年
(30)林秀一訳本916頁新釈漢文大系48明治書院1981年
(31)赤塚忠訳本573頁中国古典文学大系1平凡社1962年
(32)吉田抗賢訳本297頁新釈漢文大系1明治書院1978年
(33)前掲書(32)167−168頁
(34)前掲書(28)206頁赤塚忠
 
原人 / 前・中期の旧石器時代

 

日本列島人の起源
なぜ、石器は埋められたのか
「原人(げんじん)はなぜ、石器を人目から隠すように埋(う)めたのだろうか?しかも、何かを暗示するかのように、大きいものはT字形に、小さいものはそのまわりを取り囲んでいる……」
一九九五年、宮城県築館(つきだて)町上高森(かみたかもり)遺跡で、六十万年前のものと思われる地層を掘っていた人たちの間に衝撃が走った。
先ほどから黙々と土を掘っていた石器発見の名人、藤村新一氏が突然、「ここだけ土が円(まる)く軟らかい。小さな穴があるんじゃないか」といいはじめた。彼が慎重に竹串を刺して土の下を探っていくと、手ごたえがあった。少しずつ掘り進むと、石器が顔をのぞかせた。こうして先の驚くべき石器は発見された。四十五センチ×二十五センチ、深さ七センチの楕円形の穴に、五点の大型石器がT字形に並び、その周囲を十点の小型石器が放射状に取り囲むように埋められていた。
付近の九メートルほどのところには、前述のものも含めてこうした穴が合計五ヵ所、弧状に点在して見つかっている。それぞれ直径二十センチ前後の穴に、大型と小型の石器がセットで埋められていた。その石器は、東西方向とそれに直交する南北方向というように、どれも同じ向きになっていて、各々七、六、三、三点ずつ納められていた。しかも驚いたことに、赤や緑色のメノウや薄茶色の流紋岩(りゅうもんがん)で作った色とりどりの石器が、配色を考慮したように美しく並べてある。
使い終った石器に感謝の気持ちを込め、美しく並べて祀(まつ)り、祈ったのか、あるいはつぎにここを訪れるときのために隠匿(いんとく)したのであろう。つまり、祭祀(さいし)の跡なのか、「生活の知恵」なのか、それとも両方かねていたのか、解釈がわかれるところである。
方向や並べ方に規則性をもたせ、配色まで考えて石器を埋めることなど、これまでの「原人」のイメージからは想像もつかないことだった。
「原人」は、人間とは思えない、サルのような姿や顔をしていると思われていた。彼らは、放浪しながら手当たりしだいに食べられるものは何でも拾い、原始的な石器で草の根や野生のイモ類を掘り起こしたり、死肉をあさって切り刻んで食べるなどして、ようやく糊口(ここう)をしのいでいたような印象が持たれていた。
とにかく上高森遺跡での発見は、世界中を探しても類例のないビッグニュースだった。
このニュースが伝えられると、考古学者はもとより、一般の人びとからも、この埋納(まいのう)された石器の意味するところをめぐって、数多くの“謎解き”が寄せられた。とくに注目されている説は、発掘を実施した「東北旧石器文化研究所」が発表した「T字形が男性のシンボルを、周囲に放射状に並べたものは女性のシンボルをそれぞれ表し、両者を結合させた様子は祭祀の跡」というものである。
「秩父原人」の意外に高度な生活
二○○○年二月、埼玉県秩父市の前期旧石器時代の小鹿坂(おがさか)遺跡から、五十万年前に「原人」が残したと思われる埋納された石器とともに、円形に配列された穴跡が見つかった。この「秩父原人」も小さな穴を三つ掘って、上高森の「原人」と同様に石器を埋納する祭祀を行っていた。そしてその石器の両脇には、何とも不思議な「原人」の活動痕跡が二つ発見され、注目を浴びた。
いずれも小さな穴を五つ、ほぼ等間隔に円く配列し、その内側に七つずつ石器を配置した特殊なものであった。小さな五つの穴は建物の柱の穴で、世界最古の住居跡と解釈する見方もある。
しかし、その範囲は狭い方のもので一・三メートルしかなく、床面が凸レンズ状に盛り上がり、石器が全面に散らばっており、とても人間がここに横になれそうにはない。頻繁に移動生活を送っていたと考えられる「原人」が、短期の逗留(とうりゅう)のためだけに、はたしてここまでの労力を払って住居を築いたであろうか。今後の慎重な検討が必要であろう。
ともあれ「原人」はこれまでのイメージよりは、より高度な生活を送っていたのは確かである。焼け焦げた石器が発見されていることから見ても、火をおこして管理することも知っていた。たとえば、メノウ製の石器は、細工しやすいように火で熱して軟らかくし、精密に作られていた。
「原人」が使っていた石器は、石材の性質から二つのタイプに分けられる。一つは、メノウや玉髄(ぎょくずい)など、緻密(ちみつ)な石材で作った小型の尖頭器(せんとうき)・スクレイパー・彫刻刀形石器などである。もう一つは、流紋岩や頁岩(けつがん)など、丈夫で粘りのある石材で作った大型のハンドアックス・クリーバーやへラ状石器など。少なくとも五十万年の間、ほとんど変化なしに、同じような石器を継続して使用していたらしい。
先の二つのタイプに見られるように、石器の種類や使いみちによって石材を選んだうえで、形を整え、作り方を工夫していた。一定の形に両面を加工し、先端が尖(とが)るように仕上げた石器も見つかっており、すでに石器作りの基本的な技術を身につけていたと同時に、その方法も代々伝えていたと考えられる。
また集団で生活をしながら、技術や知恵を数十万年もの間にわたって伝えてきたのであるから、言語も存在していたに違いない。さらには、先に記したような祭祀さえ行っていたことを考えあわせると、精神生活もかなり高度であったろう。脳容積がたかだか千ミリリットル余り、現代日本人の半分から三分の二ほどの「原人」たちではあったが、けっして粗野で原始的な人びとではなかったのであろう。
六十万年前以前から日本列島にいた「原人」
日本で最も古い遺跡は、今のところ冒頭で紹介した上高森遺跡である。
理化学的な年代測定によって、およそ六十万年前に堆積したことが明らかになった地層から、石器が発見されたのだ。「原人」の骨はまだ見つかっていないが、人の手によって作られた石器が残されていたことにより、間接的に人間の存在が証明された。これほどの大昔から、日本列島に人が住んでいたということがわかったのである。
上高森遺跡では、二○○○年の二月に、さらに三メートルほど深いところの古い地層からも、石器が発見された。その石器は、百万年前に近い古さをもつ可能性がある。百万年前といえば、北緯四十度をやや越えた中国大陸内陸部の泥河湾(でいがわん)地区でも、百万年から百五十万年前以上の古い遺跡がいくつか発見されている。大陸と日本列島は、氷河期には陸続きになって同一歩調で人類の生活が展開されていたと考えられるから、今後は、日本列島においても、同程度の古さまで人類の生活痕跡がさかのぼって確認されるであろう。
上高森遺跡以外には、福島県安達(あだち)町の一斗内松葉山(いっとないまつばやま)遺跡や二本松市の原セ笠張(はらせかさはり)遺跡、山形県尾花沢(おばなざわ)市の袖原(そではら)6遺跡でも、百万年前くらいの古さまでさかのぼりそうな地層から石器が発掘された。最初の「原人」は、中国大陸から朝鮮半島を経由して日本列島に移住したと見られているので、今後西日本でも「原人」の遺跡が発見される可能性が高い。
最古の文化を追い求めて「岩宿の発見」
つい、二十年ほど前の教科書には「日本の歴史は約三万年前からはじまり、約一万二千年前までを後期旧石器時代(先土器時代、岩宿時代などとも呼ばれる)、それ以後の約二千年前までを、縄文時代と呼ぶ」と書かれていたことを思いおこすと、今では隔世(かくせい)の感がある。
もっとも戦前までは、火山灰が降り積もった関東ローム層と呼ばれる赤土層の中などに、人の生活の匂いや、石器が残されているはずはないと考えられていた。降りしきる火山灰の中や、火山灰が堆積した灰色の死の世界で、人間は生きていくことはできないし、東アジアのはずれにある孤島に大陸と同じように大昔から、人が住んでいたはずはないという歴史的偏見も強かった。地表面から黒土までを掘って、奈良・平安時代や古墳・弥生・縄文時代までの生活痕跡を見つけ、赤土層に到達すると発掘調査は終了だった。
ところが一九四九年夏、当時納豆売りなどの行商(ぎょうしょう)で生計を立てていた相沢忠洋という青年が、群馬県岩宿(いわじゅく)にある道路の切り通しの赤土層の中から、黒曜石で作られた槍(やり)の穂先の形をした立派な石器(槍先形尖頭器)を発見した。五年ほど前にはじめてこの場所にきたときから、細長い黒曜石の欠けら(細石刃)などを見つけていたが、この石器の発見によって、ここ岩宿が遺跡であることが確信できた。偏見を持たず、既成の学問にとらわれない遺跡好きな一青年の、曇りのない目が、赤土の中から黒く光って顔を出していた石器をとらえて離さなかった。
相沢氏は、この石器を携えて自転車に乗り、この発見を評価してもらうために九時間かけて東京の学者の所に通った。まず、当時明治大学の大学院生であった芹沢長介(せりざわちょうすけ)氏がことの重大さに気がつき、それを受けて杉原荘介氏の率いる明治大学考古学研究室が、秋に発掘調査を実施した。赤土の中から石器が出ることを確認した結果、日本にも旧石器時代が存在したことがあきらかになった。これが、戦後の考古学において最大の発見といわれる「岩宿の発見」であった。杉原氏はこの感激を、「ハックツニセイコウセリ、タダタダナミダ」と電文に残している。
ひとたび旧石器文化の存在があきらかになると、研究者もアマチュアも「旧石器研究丸」に乗り遅れまいと、全国各地で類例探しがはじまった。さらに古い時代の旧石器を求めての探求も進んだ。「原人」や「旧人」のものだと主張する石器の発掘や採集もあいついだが、石器として作られた「人工品」であるかどうか疑わしかったり、そこまで古いものなのか確証が得られなかったりと、学界全体としては、さらに古い「旧人」「原人」文化の存在については、否定的な空気が強く、暗中模索がしばらく続いた。
「第二の岩宿の発見」
ところが一九八○年春、宮城県北西部にある座散乱木(ざざらぎ)遺跡で、道路の切り通し下部の赤く風化した古い地層から、「旧人」の仲間(古代型ホモサピエンス)が残したと考えられる、中期旧石器時代の典型的な石器が十八点もまとまって発見された。同年の秋には、仙台市の山田上ノ台遺跡でも、三万年前まで確実にさかのぼる地層から、あきらかに人間が加工したと判断できる石器が発掘された。
さらに翌年の秋には、座散乱木遺跡で、後期旧石器時代の地層より下位に堆積したさらに古い層(理化学的な年代測定結果では、四万年前に堆積した地層であることが、ほぼあきらかになった)から、正式な発掘調査によって石器の出土を確認した。これによって日本列島の歴史は、「旧人」の仲間が活躍した中期旧石器時代にまでさかのぼることが確実となった。相沢忠洋氏による「岩宿の発見」(一九四九年)から、この座散乱木・山田上ノ台での発見まで、三十二年の歳月がたっていた。
宮城県の座散乱木遺跡は、日本の歴史がおよそ三万三千年前以前の、中期旧石器時代以前にさかのぼることを、一九八一年に確実にした遺跡として学術上著名であるばかりでなく、中期旧石器時代の末に位置づけられる代表的な遺跡としても重要である。
宮城城県北西部は、鳴子(なるご)温泉で有名な鳴子火山が十万年以上も前からしばしば東側に向かって噴出し、数メートルに及ぶこともある厚い火砕流(かさいりゅう)や火山灰堆積層によっておおわれ、東に向かって徐々に低くなる平坦な地形を形成している。このような地形の上に集落は営まれていたが、その後の火山堆積物によって地中数メートルの深さに埋もれてしまったため、地表面から遺跡の存在を確認することはできない。
座散乱木遺跡もこの地域の他の遺跡と同様に、この台地を深く切って敷かれた道の、切り通し崖面(がけめん)から石器が発見され、旧石器時代の遺跡であることが確認された。
このあたりでは、冬の間は崖面に霜が降り、霜柱(しもばしら)が立つ。暖かくなって霜が融けると、水分でやわらかくなった表面の土が崩れ、遺跡の中に埋もれていた石器が顔を出すようになったり、崖面からこぼれ落ちる。その時期を待ちかまえていて、切り通しの崖面をめぐっては、崖面下にこぼれ落ちた石器や崖の断面に突き刺さるように顔をのぞかせている石器を、丹念に探し回る作業を続ける。
一九八○年四月、座散乱木の切り通しの前に、藤村新一氏や私たちは横一線に並び、地層断面を一生懸命に削った。私の移植ゴテにも石器が当たった「カチッ」という手ごたえがあった。まちがいなく卒業論文以来、長年夢にまで見た「旧人」の石器だ。日本にも四万年前にさかのぼる中期旧石器時代に、確実に人類が生活していたのだ。その瞬間、あまりの感激に、体の中を電気が走り、あたりが暗くなるような眩暈(めまい)を私は覚えた。
この地域では民間の石器研究グループ「石器文化談話会」が、一九七五年から八五年頃まで丹念に遺跡探しをした結果、つぎつぎと旧石器時代の遺跡が発見された。最大の成果がこの座散乱木遺跡で、後期旧石器時代よりさかのぼる遺跡を発見・発掘し、日本列島の歴史が中期旧石器時代以前にあったことを確実にした。これは「第二の岩宿の発見」と呼ばれるような、考古学史上、画期的で偉大な成果であった。
その後、同県の中峯(なかみね)C遺跡、馬場壇(ばばだん)A遺跡などの発掘が進み、さらに古い地層から、「原人」段階までさかのぼる前期旧石器時代の石器が発見された。とくに馬場壇A遺跡では、中期旧石器時代の約四、五万年前から十万年前と、前期旧石器時代の約十三万年前から二十万年前の各石器群を発掘することができ、石器変遷の大筋が、ここにはじめて見えてきたのである。
現在では、宮城県の北西部を中心に、火山性堆積物の堆積順序や堆積年代があきらかになり、それら一連の地層から断続的に石器が発見・発掘されて、この地域の旧石器時代の時代区分と石器の変遷がおおよそ把握されている。
なお、冒頭で述べた上高森遺跡と隣接した高森遺跡などでも、三十万年前から六十万年以上も前の人類活動の痕跡(石器)が、上下十層以上にわたって火山灰や軽石(かるいし)層をはさんで整然と堆積した地層から重複して発見され、この地域は前期旧石器文化研究の標識的な地域となっている。
旧石器発見の「神様」と全国への広がり
宮城県以外の地域でも、山形県尾花沢市の袖原3遺跡や福島県二本松市の原セ笠張遺跡、最近では先に紹介した埼玉県秩父市の長尾根(ながおね)遺跡や北は北海道の総進不動坂(そうしんふどうざか)遺跡で、およそ三十万年前から四十万年前までさかのぼる石器が発見され、前述の宮城県上高森遺跡の中層や同県の中峯C遺跡最下層などとともに、貴重な資料を提供している。
そして約二十万年前に近い馬場壇A遺跡最下層、前期旧石器時代末に位置づけられる約十三万年前の馬場壇A遺跡第二十層上面や福島市の竹ノ森遺跡に続く。いずれも石器が出土した地層の地質学的な所見や、その理化学的な年代測定結果から古さが推定されている。
これらは、鎌田俊昭・藤村新一・梶原洋各氏らによる民間の研究団体「東北旧石器文化研究所」が中心になって、ほとんどの調査研究を進めている。とくに石器の発見は、冒頭に紹介した、当時会社員であった藤村新一氏の独壇場で、みんなで石器探しに出かけても第一発見者はほとんど彼であった。彼は社会人になってから考古学に興味を持ったという。発掘品の展覧会ではじめて見た旧石器に魅せられ、切り通しを虱潰(しらみつぶ)しに歩いては石器を探すようになった。
最初に通い詰めた遺跡は座散乱木で、地層断面から二万年ほど前の旧石器を抜き取り、宮城県で初の旧石器時代遺跡の発掘調査を実現させた。また断面から引き抜いた石器の中に、古そうに風化した石器が含まれていた。その石器は、四、五万年前の中期旧石器時代の特色をよく残した斜軸尖頭器(しゃじくせんとうき)であり、それを探し求めていた私の目を強く引きつけた。
彼に聞くとそれは、道路の切り通しの下部に堆積して赤く風化した、著しく粘土化した地層から発見したという。この発見が、座散乱木遺跡での第三次発掘調査による中期旧石器文化の確認につながり、それまでの学界のかたくななまでの否定的な雰囲気をいっきょに払拭(ふっしょく)して、全国の研究者やマスコミに中期旧石器文化の存在を認知させた功績はきわめて大きい。
その後も彼による遺跡の発見は続き、馬場壇A遺跡など宮城県内の重要遺跡、関東地方で初の中期旧石器文化が確認された多摩ニュータウン471−B遺跡、山形・福島県あるいは北海道石狩川中流域の総進不動坂遺跡での前期・中期旧石器時代遺跡の発掘調査は、すべてといっていいほど彼の発見を契機としている。彼が遺跡を探し求めて歩き回る範囲がそのまま、前期・中期旧石器文化が確認された範囲と同じであるのも、彼の業績のすごさを証明している。
私たちが発掘調査区を設定して掘り進め、地質学者の所見も踏まえて地層の古さの見通しが立ち、ようやく目あての石器が出土しそうな層位(そうい)に到達しても、なかなか石器は発見されない。疲労がたまった頃、待ちに待った休日を迎えた彼が、やおら現れて黙々と掘りはじめる。すると発掘現場に緊張感が走り、やがて発見の勝(か)ち鬨(どき)が上がってあたりが途端に活気づく。石器集中地点(数十点の石器が平面的にまとまった場所)と呼ぶ場所をみんなで一通り掘り終わると、彼は緊張が解けてぐったりと疲れていた。
彼は私に、自分は眼に疾患があると打ち明けたことがあるが、私たちには同じような褐色にしか見えない地層だが、ひょっとすると彼にはその微妙な色の違いが見えて、地層と地層の境、つまりかつて地表面であったある地層の上面を、鋭く見極めることができるのだろう。そしてそこに残された石器を、目ざとく発見することができるらしい。また、彼は何回も何回も同じ遺跡に通い、石器の出そうな場所を探り、鋭い眼で石器が含まれている地層を見分ける。長年培(つちか)った勘が、遺跡が隠されていそうな地形と石器の臭いを嗅(か)ぎ分けるのであろう。
火山灰の下の馬場檀A遺跡
前期旧石器時代の遺跡のうち、発掘によって全容が判明しているのは、いくつかの小集団が集合して、短期の生活を送ったキャンプ跡らしい馬場壇A遺跡、中峯C遺跡と、単一集団の短期の生活跡と考えられる仙台市の青葉山B遺跡や長岫(ながくき)遺跡、福島市の竹ノ森遺跡下層くらいであり、その社会や生活・文化の解明はまだほとんど進んでいない。
次節では、馬場壇A遺跡の例をモデルに、「原人」たちが「秋の狩り」に集まってきた様子を再現してみよう。
馬場壇A遺跡は、座散乱木遺跡に続いて前期旧石器時代の研究拠点となった遺跡で、約一万年前から十四万年前までの軽石や火山灰層が六層にわたって堆積している。その間の九層から石器が発掘され、石器の変遷が連続的に把握できた、石器研究の基軸、基礎を作った遺跡でもある。
とくに、約八万年前に遠く九州から飛んできた阿蘇火山灰や、約十万年前に北海道から噴き飛んできた洞爺(とうや)火山灰は、その上下の層から発見される石器の広域的な対比や年代決定に有効な武器となった。つまり離れた遺跡同士でも、同じ火山灰の下の層から石器が発見されれば、ほぼ同時期の石器であったことが証明される。
また約十二万年前に、近くの鳴子火山から噴出したローカルな軽石層である一迫(いちはさま)軽石が、当時の古い地表面の凹凸や石器のまとまりなどの生活痕跡を良好にパックしており、地表面の焚(た)き火跡や動植物の脂の痕跡、花粉など、科学的な分析の材料も良好に保存されていた。
この一迫軽石におおわれた旧地表面を、五回にわたって四百平万メートルの広さまで発掘した結果、およそ七つの小さな集団が、集合して短期の生活を送った痕跡の全体像がほぼ把握できた。加えて科学的な諸分析も実施できた唯一の遺跡である。ここではそれらの成果を総合して、前期旧石器時代末期に当たる「原人」の、遊動生活の様相を物語ってみたい。
(以下、略)

読者の皆様へ−藤村新一氏の「事件」について
十一月五日、藤村新一氏(前東北旧石器文化研究所副理事長)が、十月と九月に宮城県築館町上高森遺跡と北海道新十津川町総進不動坂遺跡において、遺構を工作・捏造したとの報道がありました。私自身、大変驚くとともに困惑を禁じ得ません。その後の記者会見で、本人も、あらかじめみずから石器を埋めておいたことを認めています。
今回、彼がとった行動は、絶対許されないことであり、誠に残念としか言いようがありません。この夏以来、会社を退職したことや、石器新発見に寄せられる周囲の期待から、時に心神喪失状態になっていたとも聞いています。
私は、一九七○年代半ばから何度か発掘をともにいたしました。拙著『縄文の生活誌』で述べましたように、旧石器に魅せられた藤村氏は、石器が埋まっていそうな切り通しを人の何倍も歩いて調べていました。本書では、そうした情熱を紹介しながら、旧石器時代の研究を巻頭の他に数ヵ所において概観いたしました。
本書は主として、一九九五年の上高森遺跡及び、それ以前の座散乱木遺跡や馬場壇A遺跡について言及しています。報道によれば、本年九月と十月の発掘においてのみ工作したとの発言がありました。いままでの数々の発掘成果、およびこれまでの同氏の業績は、疑いのないものと信じていますが、今後の調査の結果を待ちたいと思っています。
今回の事件が、これまでの旧石器時代研究、ひいては考古学全体に大きな打撃を与えたことは間違いありません。これを機会に、前期旧石器時代研究の方法等について、議論を深めていく必要性を痛感しています。また、考古学界の一隅に身を置く者として、このようなことがないよう、私自身も今回のことを教訓に研究にたずさわってまいりたいと存じます。
二○○○年十一月八日 岡村道雄
「日本の歴史」全二十六巻は、最新の研究成果をもとに気鋭の研究者が書き下ろすシリーズです。お陰様で第一回配本第00巻『「日本」とは何か』、第01巻『縄文の生活誌』は、多くの読者の方々から好評をいただいております。改めてお礼申し上げます。
このたび、上高森遺跡と総進不動坂遺跡について、前東北旧石器文化研究所副理事長の藤村新一氏が発掘を捏造した旨が報じられました。第01巻『縄文の生活誌』は、藤村氏にも言及しており、多くの皆様からご質問も多数寄せられましたので、ここに、編集委員並びに編集部の見解をご報告させていただきます。
あらゆる学問は事実や資料にもとづくものであり、それが捏造されたり改鼠されたりすることはあってはならないことで、今回の行為は、まことに許しがたい行動であります。藤村氏の業績に対する疑念も否定しがたいものがありますが、われわれとしては、今後の考古学界全体の調査を待ちたいと思います。新しい情報が入り次第、誠実に対応し最新の成果をお伝えする所存です。
今回のことをバネにし、旧石器時代研究がもう一度初心に返って議論が深まり、今まで以上に学問が発展することを切望いたします。
二○○○年十一月八日 「日本の歴史」編集委員一同 同編集部 
 
中国史書に見る「古代日本と中国の関係」

 

後漢(東漢) 建武中元二年(57)、貢獻した奴国の王に、「漢委奴国王」と称して金印を授ける(後漢書 東夷列傳)。
これは、「漢が委ねる奴国王」という意味である。この金印は、天明4年(1784)に博多湾沖の志賀島から発見され、今も福岡市博物館に展示されている。
金印を授けられたのは、第三代・安寧天皇(師木津日子玉手見命)の皇子・常根津日子命だった。常根津日子は大和朝廷から北九州に在った奴国の統治に派遣されていたのであろう。常根津日子の没後、身内か側近が金印の側面に諡号を書き込んだものであろう。
金印は後世の偽作ではないかと疑うむきもあるが、古代の奴国の在ったとみられる福岡県糸島郡二丈町に在る一貴山銚子塚古墳近傍から常根津日子命の墓碑「丙寅年三月十六日 御年四十七歳」が解読、生存年はAD20〜66年と比定され、後漢書の記述年代と合致する。
後漢(東漢)永初元年(107)、「倭国王師升等、貢ぎを献上」(後漢書 東夷列傳)。
倭国王師升等は、「わ・くに・おし・ひと」と読み、古事記が記す「大倭帯日子國押人(おおやまと・たらしひこ・くにおしひと)」のことで、第6代・孝安天皇である。書紀は、「日本足彦国押人(やまと・たらしひこ・くにおしひと)」としている。
大倭帯日子國押人命の生存年代は、宮と伝承されている室秋津嶋宮跡(奈良県御所市室)から画像解析で得られた墓碑から、AD 42〜118年とみられている。
後漢書の「倭国王師升等」を、「倭国王(わこくおう)師升(ししょう・すいしょう)ら」と誤読している歴史家がいるが、それでは答えは得られない。
曹魏 景初三年(239)、魏の明帝に朝獻した倭女王・卑彌呼(卑弥呼)に、「親魏倭王卑彌呼」の称号を与える(魏志)。
卑彌呼とは、日巫女(ひみこ)・王女(にめみこ)のことで、第7代・孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫や第10代・崇神天皇の皇女・豊鉏入姫のことをさしていることがわかった。
倭迹迹日百襲姫の古墳とされている桜井市の箸墓古墳の環濠、宮西側神社から発見された墓碑「倭母母曽日賣命 戊寅年十月二十日 御歳八十四歳」とあり、生存年代は115〜198年とみられ、魏志の記述年代と合わないが、魏志は後の日巫女(壹與=豊鉏入姫)と混同しているとみられます。
また、景初三年(239)六月、倭女王、大夫・難升米等を遣して云々、魏の明帝に朝貢。今汝を以て親魏倭王と爲し、金印紫綬を仮し、(中略)。汝、それ種人を綏撫し勉めて孝順をなせ」(魏志)と。
ついでながら、卑彌呼についての記述をみると、「・・・一女子を共立、王と為し、名に曰く卑彌呼、鬼道に事へ、能く衆を惑す、年已に長大にして夫壻無く、男弟有りて治國を佐く」とある。
神の威信を強く信じていたであろう当時、日巫女は鬼道(占術・日神信仰)の宗主として人々から崇められ、政治・軍事問題はじめ、事件や自然災害などの対処に、神懸かりした巫女の判断が神のお告げとして重視され、大王よりも優位な存在だったのであろう。
書紀も、「魏志に云う」としてこれを神功皇后39年、40年条に引用しているが、年代を改竄して神功皇后が卑彌呼だったと示唆しているつもりであろうが、神功皇后時代を一世紀も繰り上げている。
曹魏 正始七年(247)、「・・・卑彌呼、以て死す。卑彌呼の宗女・壹與(とよ)、年十三を立てて王と爲し、國中遂ひに定まる。壹與、倭の大夫・率善中郎將掖邪狗等二十人を遣し政等還るを送らしめ、 因りて臺に詣り、男女生口三十人を獻上し、白珠五千、(中略)・・・を貢ぐ」(魏志)とある。
余談になるが、壹與は、崇神天皇と荒河戸畔の娘・遠津年魚眼眼妙媛の皇女・豊鍬入姫のことである。豊鍬入姫は豊鉏入姫とも書かれ、齋宮(日巫女)として天照大神を祀っていたと、書紀の崇神紀にあります。
ただし、書紀は「伊勢の神・天照大神云々」としていますが、実際は古代天皇家の皇祖天照魂大神、つまり大和国の開祖・大歳尊(改名して饒速日尊)を祀る大神神社(おおみわじんじゃ=祭神は大物主神に改変されている)を祀っていたのです。
その証拠に、豊鍬入姫命は大神神社の摂社檜原神社境内の豊鍬入姫宮に祀られています。やはり倭迹迹日百襲姫の没後、大神神社の巫女として祭祀を司った大和国王家の王女だった確かな証しです。
ところで、遠津年魚目目微比賣命の墓碑が、和歌山市の紀の川北岸、大谷古墳近傍で発見され、「甲戌年六月十八日 御歳三十七歳」とあることから、生存年代は158〜194 年とみられている。
ついで乍ら、荒河戸畔は、古代の荒河荘の元祖とみられ、中世には荒川氏から平野氏に改姓し、その一族は荒川荘の下司や下司代等を司っています。また、天文12年(1543)、ポルトガルから種子島に伝来した鉄砲を導入した根来寺杉之坊の院主・自由斎や兄弟の津田監物筭長(算長)も、その末裔だったことが分かりました。 
中国は宋の時代になっても、長らく倭国を支配下に置いた。
劉宋 元嘉二年(425)、「讃(履中天皇:伊邪本和気命)死して、弟、珍(反正天皇:蝮水歯別命)立つ。使を遣し貢獻。・・・詔して安東將軍・倭國王に除す」。(宋書 倭国伝)
劉宋 元嘉十五年(438)夏、倭国王の珍(反正天皇:380〜438年)を以て、安東将軍となす(宋書 帝紀)。
劉宋 元嘉二十年(443)、「倭國王濟(允恭天皇:393〜453年:男浅津間稚子宿禰命)、使を遣して奉獻す。復た以って安東將軍・倭國王と爲す」(宋書 倭国伝)
劉宋 元嘉二十年(443)、河西国、高麗国、百済国、倭国、並使いを遣わして方物を献ず。倭王齋(允恭天皇)、宋に遣使し、安東将軍・倭国王に任じる。また、年元嘉二十八年(451)、秋7月甲辰、安東将軍倭王、倭の齋(允恭)、号を安東大将軍に進む。(宋書 帝紀)
宋 大明六年(462)、倭国王の世子の興(安康天皇:416〜456年:穴穂命)を以て安東将軍となす。(宋書帝紀)
劉宋 昇明二年(477)、「詔して武(雄略天皇:418〜479年:大長谷命)を・・・六國諸軍事、安東大將軍、倭王に除す」(宋書 倭国伝)
宋 昇明二年(478)、倭国王の武(雄略天皇)、使いを遣わし方物を献じ、武を安東大将軍となす。(宋書帝紀)
斉 建元元年(479)、武(雄略天皇)を鎮東大将軍となす。(南斉書列伝)
梁 天監元年(502)、武の号を征東大将軍に進む(梁書列伝)。といった具合である。ただし、雄略はこの時期すでに没しているので、この時の武とは、武烈天皇(489〜506年:小長谷若雀命)をさしているとみられる。
人物名の記されていないものまで数え上げれば、きりがない程に中国詣でをして朝貢し、中国は日本(当時は倭)の国王を配下としての称号を与えている。 
こうして、中国に対する貢獻は、しばらく途絶えていたが、隋の時代(600年)に再開され、唐まで続いている。この時代になると主に、すすんだ中国文明・文化の導入が目的となり、遣隋使・遣唐使の派遣となる。
「開皇二十年(600)、倭王、姓は阿毎(あま:天)、字は多利思比孤阿輩雞弥(たりしひこおおけみ:足彦大王)と号し使いを遣わして闕(長安の宮)に詣る。上(天子)、所司(長官)をしてその風俗を訪わしむ云々」(隋書)とる。
隋の開皇二十年は、書紀によれば推古天皇八年、太子厩戸皇子は27歳で摂政について活躍している年にあたり、倭王は推古天皇(女帝)です。
しかし「王の妻は?弥と号し後宮に女六、七百人あり。太子を名付けて和歌弥多弗利とす」ともあります。書紀はこの時の遣隋使には何も触れていません。書けば史実がばれるからでしょう。
実はこの倭王は蘇我馬子大王(天足彦大王)で、王の妻は雞弥(けみ=蘇我馬子の妻=物部鎌姫大刀自連公)、太子は大王の長男蘇我善徳だったとみられる。
また大業三年(607)のこととして、「その王の多利思比孤(たらしひこ:足彦=天皇の古名)、使いを遣わし朝貢す。・・・その国書にいわく、日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや云々。帝は覧て悦ばず。・・・蛮夷の書、無礼あるものは復以て聞かす勿れ」とあり、時の煬帝は、蛮夷の國から侮辱されたものと受け取り怒っている(隋書)。実はこの時の王も多利思比孤は蘇我馬子大王だったとみられる。
このときの使者・小野妹子は機転を利かせ、隋から受け取った国書を帰途に百済で盗まれたとして朝廷に隠している。一連の悶着が書かれていたので、あえて紛失したことにしたとみている。
古代東アジアの超大国だった中国(隋から唐)は、とかく東アジア全域の制覇を狙っていた。七世紀には建国の勢いに乗って周辺諸国に迫り、朝鮮半島諸国や日本は中国の陰にあって、自立の道を探るか、それとも中国に同化するか、二者択一を迫られていたであろう。大王蘇我馬子が選んだのはまさに前者だったとみられる。
後の天智(中大兄)は中国に迎合したが、壬申の乱で天智朝を制した天武天皇(大海人)も、西アジア的な太陽信仰に基づく文化的にも独立した日本国家の確立を目指したとみられている。 
旧唐書の貞観五年(631)条に、「日本国の者は倭国とは別種なり。その国は日の辺りに在るを以て、故に日本を以て名となす。或いは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。・・・。その人の入朝は、多く自ら矜大にして実を以て対せず。故に中国は疑う。・・・」とある。
日本国は倭国とは別で、その国は日の辺りに在るので日本とした。また、倭(うを→わ)と云う雅(みやび)でない字の意味を憎み、改めて日本にしたというのである。
このとき、中国では初めて日本という国名を認識したということであり、またそのときに入朝した使人の多くは尊大で、誠実でないので中国は疑う、と云っている。多分、これまでの使人とは態度が変わったのであろうか。
長年、中国は倭人、倭国と呼んできた。倭という字意を筆者のもとに研修に来ている中国人に尋ねてみると、「陰湿 隠 恥ずかしい 控えめ 引っ込み思案 逃げ腰」といった意味にとられていることがわかった。これも元々、中国人の名付けたものである。
日本人も、「倭・和」の字を自称に用いて通例は「やまと」と訓読しているが、室町時代頃には「わ」と音読して単独に日本または日本のものを意味する語として用いるようになった。
中国は隋・唐の時代、日本は中国文化・文明の導入に、盛んに遣隋使、遣唐使を派遣した。高野山の開祖・空海が真言密教を学んだのも唐の貞元二十年(804)だった。「使いを遣わし、留学生橘逸勢、学問僧空海来朝す」(旧唐書巻一九九 列伝・東夷・倭国・日本国)とある。 
 
東夷伝が証する東の島への民族移動

 

古代史の謎を紐解く「東夷伝」 
日本の古代史を散策するということは、ときには日本人の祖先を探し求めながらアジア大陸を巡り歩くことにもつながります。そして歴史をたどりながら寄り道をしているうちに、ふと気がつくと古代史を4000年以上もさかのぼり、文明の発祥の地と言われるメソポタミアに至る歴史の道を歩いていることに気付きました。人類発祥の地はアフリカであるといわれており、古代アジア大陸における人の流れは、およそ西から東へと向かいました。やがてメソポタミア周辺に文明が芽生え、中国では黄河文明や長江文明等の古代文明が開化し、アジア大陸の東西に世界有数の古代文明が栄えたのです。それから長い年月を経た後、多くの人々が東西を行き来するにふさわしい大陸横断の道が定まりはじめ、いつしかアジア大陸の文明の命綱とも言えるシルクロードの存在が浮かびあがってきたのです。
シルクロードとイスラエル集落の存在
旧約聖書外典のエズラ第2書第13章には、イスラエルから離散した民が、「異教徒の群衆から離れ、人がかつて住んだことのない地へ行き、故国では守ることができなかった律法を守るため」、大陸を東方へと横断したことが記載されています。そしてユーフラテス川を越え、「1年半という長い道のり」を経て、新天地にたどり着いたというのです。聖書の外典についてはその信憑性について疑問視される場合がありますが、この記述はあながち間違いではなさそうです。前7〜8世紀、北方からアッシリアの攻撃を受けた北イスラエル王国は、その西側が海、南西は天敵のエジプト、東南は砂漠であるが故に、逃げ道は東にしかなかったのです。その後、南ユダ王国も崩壊の危機に直面し、大勢の民が逃げ場を求めていたのです。その当時、預言者イザヤは、東の島々に救いの道があることを知り、国家の一大事の中にも希望が残されていることを同胞に対して語り告げたのです。その言葉を伝え聞いたイスラエルの民の多くは、アジア大陸を東へ移動したに違いありません。特にイザヤを熱く信望していた南ユダ王国の民は、新天地においても王国の復権を期待してやまず、イザヤの言葉に聞き従った民が少なくなかったに違いありません。
その結果、膨大な数のイスラエルの民が前8世紀後半から前7世紀にかけて祖国イスラエルを離れ、アジア大陸という未知の世界に向かって横断を開始したのです。その大勢の民の足跡から、やがて大陸を横断する道筋が明確に見えはじめ、それが後世のシルクロードへと生まれ変わっていったと考えられます。その後、シルクロードを介した交易で財を蓄えた商人の中にイスラエル系の民が多く存在したと言われていることからしても、シルクロードの主人公がイスラエル人であったと想定して間違いないでしょう。
中国には、大陸を横断してきたイスラエルの民の痕跡が各地に見られます。中国の史書によると、前漢時代に訪れたイスラエルの民は、割礼と呼ばれる宗教的な儀式を行うことから刀筋教民と呼ばれていました。また、中国にはイスラエルにルーツを持つ集落が複数存在したことも知られています。中でも開封(カイフォン)は有名であり、遅くとも宋代(10〜13世紀)に中央アジアから渡ってきたイスラエルの民が集落を築き、そこに19世紀ごろまで居住していたのです。また、それ以前にも、イスラエルの民が中国の寧夏(現在の甘粛省)に居住し、土着民族との混血を繰り返していったという伝承があります 。
1955年、中国による開封の調査において、その集落に住む、艾(Ai)、石(Shi)、高(Gao)、金(Jin)、李(Li)、張(Zhao)、趙(Zhan)の一族を、政府の役人が訪問しました。その際これらの姓は、明代(14〜17世紀)に皇帝よりイスラエルの民に授けられたものであり、イスラエル人の氏族の名前であるEzra、Shimon、Cohen、Gilbert、Levy、Joshua、Jonathanにちなみ、その発音に準じた中国名であることが確認されました。中国では既に、イスラエル民族の存在が公に認知されていることがわかります 。シルクロードの延長線にイスラエル民族が長い年月をかけて旅を続け、その末裔が中国に限らず、アジア大陸全体に離散したことは、もはや疑いもない事実なのです。イスラエルの失われた10部族の行方を調査する機関である「アミシャーブ」によると、離散したイスラエルの末裔は、アフガニスタン、パキスタン、インド、ミャンマー等に今日も住んでいることが判明しています。そして中国の東にある日本にも、イスラエルの民が渡ったのではないかと推測しているのです。
アジア史の謎を紐解く東夷伝
イスラエルの民がシルクロードを歩み、彼らが中国の集落に実際に居住していたとするならば、中国の史書に、イスラエルの民に繋がる何らかの記述があるはずです。その歴史の謎を紐解く鍵が「東夷伝」にあります。中国の史書として著名な「後漢書」、「三国志」、「梁書」、「魏書」、「随書」の東夷伝には、東アジアの民族に関する記述があります。東夷伝は、280〜290年ごろの三国志において初めて編纂されました。きっかけは、魏(220〜265年)の時代に東夷に向けて出兵したことにあると言われています。三国志には、日本で「魏志倭人伝」と呼ばれる「三国志魏書東夷伝倭人条」も含まれています。
東夷とは、古代中国の東方に居住する異民族の総称です。そして東西南北の四夷の一つを指します。東夷には9種類あり九夷とも呼ばれています。また東夷には、追い払うべき部外者という意味も含まれており、元来、忌み嫌われていた民族であったことが伺えます。しかし、東夷の意味は、時代によって変化しています。例えば、5世紀初めに編纂された後漢書では、東夷の意味として、「東方のことを夷という。夷とは根本の意味であり、それは命を大切にすることにより万物は土地に根ざしてできるもの」と美化されて解釈されています。孔子(前5世紀)が「これらの九夷とともに居住しようと望んだ」と語ったと記されており、孔子自身、「古い朝鮮を中心とした東夷を儒教的楽土と賛美」し、東夷に憧れていたことをうかがわせます。
また、東夷には君子の国があるとも記載されています。山海経によると君子の国は「衣冠をつけ、剣を帯びて獣肉を食べ、2体の飾りの虎をいつも傍らにおいている」とあります。日本の神社にある狛犬のように、守り神として2体の虎の飾りをいつもそばに置く民族であったことが伺えます。さらに山海経には「その人は色が黒く、長寿でなかなか死なない。君子国も不死国もともに東方にある」と書かれています。イスラエルでは、アブラハムからはじまる族長の時代においても皆、長寿であり、イスラエル建国の父であるヤコブも、140歳以上の長寿を全うしました。つまり、この東方にある君子の国や不死の国とは、イスラエル民族である可能性が高いのです。いずれにせよ、当初忌み嫌われていた東夷が、実態が明らかになるにつれて、いつしか孔子でさえも憧れる民族として認知されるようになったことがわかります。およそ秦の時代を境に、東夷に対する中国の見識が大きく変化したのです。
九夷の真相とはイスラエルか?
東夷には9つの部族が存在し、畎夷・于夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷をまとめて九夷と呼びます。279年に中国の河南省で発見された「竹書紀年」という前7世紀後半の史書においても、「九夷」の名称が確認されています。そこには夏の時代、8代目の帝である槐の即位後3年目に九夷がそろって夏を訪れ、天子の傍らに侍ったとあります。九夷は、前20〜21世紀前後に初めて中国を訪れ、秦の時代には山東省、江蘇省の淮水流域に居住し、秦の時代以降は朝鮮半島に隣接する吉林省や遼寧省、および、朝鮮半島や日本にも移り住んだと考えられています。
九夷が、どこから来たのかは定かではありませんが、その謎を解くヒントとして、後漢書や三国志に後年の東夷諸民族の特徴が記載されています。例えば、「道義が行われ」、「弁(かんむり)を冠り、錦の衣を着」、「みだりに盗む者もなく」、「(法が)7〜800年も続き」、「心に慎むことを慣習」とする民族であり、この「慎み」こそ、ほかの3方に存在する「蛮夷」とは異なることが明記されています。さらに礼服や、俎豆(ソトウ)と呼ばれる供え物を盛る器を用いて礼を重んじ、その上、「儒教の経典を学ぶことが好きで、文学や史書を愛読する。」(隋書列伝)とまで記載されています。これらから、九夷のルーツは優れた文化圏の出であることがわかります。
そこで、古代中国史に突如として現れた九夷の出自が、イスラエルにあるとは考えられないでしょうか。旧約聖書によれば、ヨセフがエジプトを統治していたころ、大規模な飢饉がカナンを含む西アジア地域を襲いました。イスラエルの11人の兄弟と父親ヤコブは飢えに苦しむあまり、食糧が豊富にあるというエジプトを訪ね、食料を買い付けることにしました。そのエジプトの統治者は、昔兄弟たちが奴隷として売り飛ばした弟のヨセフだったのです。そうとは知らぬ兄弟たちは、弟のベニヤミンを父に預け、兄弟10人でエジプトを訪ねました。ところがヨセフは兄弟の中からシメオンを人質に取り、しかもベニヤミンを連れてくるという条件を付けたのです。9人の兄弟は故郷に戻って父親に報告をするも、ひどく落胆した父親はベニヤミンを行かせることを拒み、兄弟は途方に暮れてしまうのです。窮地に追い込まれた9人の兄弟は、食料を求めてエジプトとは逆の方向である東方に旅し、中国まで到達したとは考えられないでしょうか。片道1〜2年の旅ですが、決して不可能ではありません。また、ヨセフの年代は前18〜19世紀ごろと考えられますが、中国の夏王朝の年代と重なっています。
九夷がイスラエルの民ではないかと考えるもう一つの根拠は、その言葉自体の発音です。九夷は中国語でjiu-yi(ジウィ)と発音します。これはユダヤ人を意味する英語Jewとほぼ同じ発音です。元来Jewは、ユダ族を意味するヘブライ語のyehudah(イェフダー)が語源であると言われています。それが4世紀に、ギリシャ語ではIoudaios、ラテン語のIudaeusとなり、18世紀に英語で記述された聖書において最終的にJew(ジュー)という言葉になりました。ギリシャ語訳の聖書である70人訳(セプトアギンタ)が登場してからおよそ2000年という長い年月をかけて、ラテン語のIudaeum、ギリシャ語のIoudaios(ユダイオス)が、古フランス語ではguieu、giu、英語ではgyw、giu、ieweと転化し、最終的にJewとなるのです。注目すべきは、古フランス語訳であるgiuからの流れであり、基になるギリシャ語のIoudaiosとの関連性が明確ではありません。中世の言語では「i」と「y」は同様の発音を持ち、「i」は後に「j」文字に枝分かれしたことがわかっていますが、何故、「ユ」または「イ」に近い発音となるIoudaiosの頭文字が古フランス語で「g」に付け替えられたのか、その理由が不透明です。
もしかすると、「gyu」や「giu」と訳された背景には、「九」の中国読みが潜んでいるかもしれません。つまり、長い年月をかけて中国を訪れたイスラエルの部族が、いつしか中国の地では九夷(jiu-yi)と呼ばれるようになり、この言葉が、 その後も各地で語り継がれた結果、いつしかイスラエルの民をjiu、giu、またはguieuと呼ぶようになったと考えられないでしょうか。実際、中国語の九夷(jiu-yi)の発音と、古フランス語のgiu、guieuの発音は酷似しているだけでなく、その後の英語のieweも、iとjを差し替えるだけで、同じ発音になります。Jewのルーツにある語源は、ヘブライ語のyehudahですが、そのアルファベットの綴りは、中国語のjiu-yiに由来している可能性があるのです。
九夷はシュメール系ヒクソスか?
イスラエル説以外にも、メソポタミアから脱出したシュメール人が、九夷のルーツであるという考え方があります。当時、ウル第三王朝においては、農耕、医学、天文学、貿易、造船技術、楔型文字による文学など、幅広く文化が栄えていました。ところが大規模な飢饉の発生や異民族の侵入により、都市国家は弱体化し、前2006年、エラム人によって滅ぼされてしまいます。その後のシュメール人の行方については、歴史の謎に包まれたままです。おそらく、シュメール人の多くは、王朝が崩壊する直前に国家を脱出したと考えられます。注目すべきは、ウル王朝が崩壊したころと時を同じく、九夷が中国を来訪していることです。最初に中国を訪れた九夷は畎夷(Chuan-Yi)と呼ばれましたが、シュメールの発音にちなんで畎(Chuan)と命名された可能性があります。また、シュメール人は航海技術を携え、インドと交易を行っていたことから、東アジアの海岸まで航海することも可能だったはずです。勿論、大半の民は徒歩で、アジア大陸を横断したと考えられます。こうして大勢のシュメール人が中国を訪れた可能性があるのです。
また、前17〜18世紀から1世紀以上にわたり、エジプトを支配した異国人として知られる「ヒクソス」の存在も見逃すことができません。ヒクソスのルーツも不明ですが、西セム語を使う、イスラエル民族と同じセム系の流れをくむ人種であることがわかっており、優れた文化を携えてきていることから、シュメールとイスラエルの混血ではないかと考えられます。そもそも、イスラエル民族の先祖であるアブラハムの故郷はウルであり、シュメール文化の出身であることから、イスラエル民族とシュメール人は親しい間柄であると想定できます。よって、そこからヒクソスと呼ばれる人種が現れても何ら不思議ではありません。ヒクソスという名前は、エジプト語でheku shoswet、「異国の支配者」を意味し、九夷(khoorYee)、「異国のイスラエル」と意味が似ています。そして古代エジプトにおいて、イスラエル人ヨセフが国家を統治しましたが、その時期は、ヒクソスがエジプトを支配したと言われる初期とほぼ重なっていることからして、シュメールとイスラエルをルーツに持つヒクソスが、ヨセフの統治を引き継いで、エジプトの歴史に台頭したと考えられます。
つまり、離散したシュメール人は、東方では中国において九夷と呼ばれるようになり、西は小アジア、シリア、エジプト方面へ向かい、長い年月を経てヒクソスと呼ばれるようになった可能性があります。そして、いずれの地域においても、親戚のような存在であるイスラエル人と出会い、共存し、ときには混血を繰り返しながら、アジア大陸の両端において歴史を塗り替えていく役割を担ったと考えられるのです。
東アジア史に眠るユダヤの痕跡 
前21世紀、東アジアにおいて夏王朝が繁栄したころ、九夷と呼ばれた異国人が、どこからともなく中国史に姿を現します。九夷については、「竹書紀年」と呼ばれる中国の古文書に記載されているだけでなく、夏王朝の存在自体が、考古学的にも最近の発掘調査から確認されたことからしても、歴史の重みを感じずにはいられません。
九夷の原点に潜むシュメール人
九夷の原点は、前20世紀、東アジアの中国に突如として姿を現した、9つの部族からなる異国人の集団にあります。九夷については畎夷・于夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷と9部族の名前が具体的に挙げられるも、抽象的な名称しか用いられていないことから、その実在は疑う声もあがっているようです。しかしながら夏王朝と同時期、西アジアで勢力を持ちはじめたイスラエル12部族も、年の月や、個別の色に結びついてそれぞれの部族がシンボル化されていました。ナフタリ族は1月の緑、ヨセフ族は2月の白、ベンジャミン族は3月の黒、ルベン族は4月の銀、シメオン族は5月の金、レビ族は6月の紫、ユダ族は7月の茶、イッサカルは8月の黄、ゼブルン族は9月の桃、ダン族は10月の青、アシェル族は11月の赤、ガド族は12月の灰と、各部族には年の月と色が割り当てられていたのです。つまり、古代社会において抽象的な名称が使用されることに何ら不思議はなく、むしろ九夷が、黄、白、赤という同じ色彩のアイデンティティーをイスラエルと共有していることに、九夷とイスラエルの関連性を垣間見ることができます。
イスラエルのルーツは、元をたどれば古代メソポタミア南部に興ったシュメール文化圏の大都市、ウル出身のアブラハムにさかのぼるため、シュメール人が先祖と言えます。そのシュメール人こそ、当初、東アジアを訪れた九夷の正体である可能性が高いのです。当時、シュメール文化圏では統治国家としての都市の雛型が存在していたと考えられ、人類最古の文字とも言われる楔形文字が体系的に整理されていました。また戦車を発明し、車を活用していただけでなく、高度な天文学の知識も携え、農業や灌漑、そして航海技術まで会得していたのです。ところが、シュメール国家は前21世紀ごろ、アモリ人によって征服され、突如として歴史から姿を消してしまいました。
シュメール人の一部は、アブラハム一家のように北西にあるカナンの地へと旅立ち、中には後にエジプトを支配する「ヒクソス」の先駆者となった者もいたことでしょう。しかしながら、ほかの大勢の民は、大陸を横断して東アジア方面に移動したと考えられます。また、沿岸伝いに船で東方に旅し、東南アジアまでたどり着き、そこから内陸へと移動する民もいたのではないでしょうか。国家を失ったシュメール人の行方はこれまで歴史の謎に包まれていましたが、シュメール国家の消滅と同時期に九夷が中国史に姿を現していること、その部族の筆頭が畎夷(Chuan-Yi)と呼ばれ、シュメールの頭文字ではないかと考えられること、そして後述するように九夷の文化的特徴が西アジアの中でも特にシュメールや、イスラエルと類似していることからも、多くのシュメール人は東アジアに移動し、九夷の原点となったと考えるのが自然です。
東夷に合流するイスラエル難民
長い年月を経て、九夷は徐々に大きな影響力を持つ存在となり、殷代(前17〜前11世紀)には中国の東部を拠点として数を増し、やがて東夷と呼ばれるようになります。そして後漢書や「通典」の東夷序略によると、周代(前10世紀以降)では中国の東方、淮河流域周辺や泰山周辺を拠点として、その勢力はきわめて盛んになり、現地の民から恐れられるまでになりました。
東夷のルーツはシュメール人と考えられ、イスラエルの先祖でもあることから、いつしか東方に楽園の地が存在することが語り告がれたのでしょうか。その新天地を目指して、イスラエルから大勢の移民が訪れたと考えられるのが、春秋時代です。ちょうど同時期、前722年、北イスラエル王国が消滅して大勢の難民が消息を絶ったと言われていますが、シュメール人と同様に、イスラエル人の多くはアジア大陸を東に旅したと考えられます。そして前8世紀から前6世紀にかけて、大勢のイスラエル難民が中国にたどり着き、現在の江蘇省・山東省周辺に拠点を持つ九夷の仲間入りを果たして、一大勢力となっていきます。
この膨大な数に上るイスラエル難民の流入が、実は春秋時代の引き金となった可能性があるのです。東アジア全体が混沌とした動乱に陥った春秋時代は「覇者の時代」とも呼ばれ、力ある者は誰でも実権を握り、諸侯を牛耳ることができました。その結果、東アジア各地では紛争が絶えず、国政は大いに乱れたのです。まず外国からの難民が絶え間なく押し寄せること自体が大きな社会的不安要素となり、政治的バランスを著しく崩しました。また、過度な難民の流入は、現地人との緊張が必然的に高まることを意味し、争いを避けることは困難であったと推測します。また、高度な文化を携えたイスラエル人は、自らの統治能力を駆使して新天地においても、常に政治経済の実権を握ろうとしたと考えられます。多くの革新的なアイデアを携えたイスラエルのリーダーたちは、各地の「覇者」となり政治権力を奪取しようと試みたのではないでしょうか。また、アジア大陸を旅してきたイスラエル難民は、当初北の10部族のみでしたが、その後、南ユダ王国も崩壊することにより、さらに大勢の難民が東夷を目指して旅をしてきたと考えられます。北イスラエルと南ユダ王国は元々兄弟同士でしたが、最終的に戦争をして国家を二分したわけですから、東アジアの新天地においても兄弟国同士、小競り合いや領地の奪い合いが絶えなかったはずです。よって、イスラエル難民の存在は、東アジアのパワーバランスを大きく狂わせてしまい、春秋時代という混沌とした時代を招く発端となったのです。
東夷の背景に潜むイスラエル文化
イスラエルの民が東夷の背景にあるならば、必ずや、イスラエル文化の痕跡が東アジアの歴史に残されているはずです。九夷や東夷の生活習慣や思想についての記述がある後漢書、三国志、梁書、魏書、随書などの東夷伝に、少なくとも2つの決定的な根拠が記載されています。まず後漢書東夷伝によると、東夷の風習は「酒を飲み、歌舞することが好きで、ときにはかんむりを冠り、錦の衣を着る」とあり、さらに「器具には、俎豆を使用する」と繰り返し記載されていることに注目です。「俎」は、生贄の肉を乗せるまな板であり、豆は菜を盛る高月(たかつき)のことです。この2つの文字を合わせると、祭祀の供を盛る器の意味となります。つまり東夷では、祭壇とお供えを伴う儀式を執り行い、燔祭を伴う宗教的儀式を営んでいたことがわかります。
次に、「政治のゆきわたったところでは、道義が行われる」だけでなく、「法は7〜800年も続き、それゆえ東夷は一般に穏やかに行動し、心に慎むことを慣習としている」と記載されていることにも注目です。これらの記述からは、東夷の民が先祖代々、律法を共有していたことがわかります。イスラエルの民はモーセの律法に従って燔祭の儀式を長年執り行ってきただけでなく、トーラとも呼ばれる律法を社会全般の規律として遵守することに努め続けてきた民族です。モーセに律法が与えられた時代は、およそ前13世紀です。そしてイスラエル国家が崩壊し、大勢の北イスラエルおよび南ユダ王国の民は、北イスラエルが前722年に滅びた直後の前6世紀に、そして南ユダ王国は前586年に滅びたことにより前6世紀から前5世紀にかけて、多くの難民がアジア大陸を東方に旅したと考えられます。つまり、モーセの律法を掲げたイスラエルの民が中国の淮河流域周辺に到達したと考えられる時期は、モーセの時代からちょうど7〜800年後のことであり、東夷伝の記述に合致します。
また、隋書列伝には、東夷は「衣服については一般の服装と礼服とが兼ね備わり」、「儒教の経典を学ぶことが好きで、文学や史書を愛読する」、そして「先哲の遺風がなければ、どうして能くこのような(良い風習に)なることができようか」、と書かれています。この特徴こそ、まさにイスラエル民族の天性といえる勉学や宗教に対する熱意と姿勢の表れではないでしょうか。そのイスラエルのルーツを自ら悟り、東夷をこよなく敬愛したのが孔子です。このように東夷は博学であるだけでなく、宗教的儀式にも長け、そして規律正しい人種だったことがわかります。古代社会において、同様の慣習や文化的背景を持つ民族は少なく、シュメールを先祖とするイスラエル人の民族移動と東夷の関係を結びつけることにより、多くの謎を解明することができます。
諸子百家は博学なイスラエル人
前6世紀以降、大勢のイスラエル難民が合流した東夷は、淮河流域を拠点とする人口の急増により、一気に勢力を拡大していったと考えられます。また、春秋時代に興された斉や魯のように、東夷の影響を強く受けたと考えられる漢民族系の小国が山東半島周辺に建国されるに伴い、東夷の一部は漢民族と同化していく傾向も見られたのではないでしょうか。それ故、魯においては古くからの礼制が尊ばれ、実際にその教えを体系的にまとめあげたのが儒教であり、その立役者はまぎれもなく孔子です。
春秋時代は混乱期ながらも、東アジアに移住してきたイスラエルの学者、およびその子孫に多くの活躍の場を与えたことに違いありません。その結果、政治的な大混乱を横目に、さまざまな新しい思想や宗教哲学が提言され、民衆レベルだけでなく国政にまで大きな影響を与えることにより、春秋時代は後の中国の土台となる文化の基礎が固まった時期となりました。そのような東アジア史の流れの中で、孔子、老子、荘子、墨子、孟子、荀子などの諸子百家と呼ばれる偉大な人物が現れ、これまで類をみない卓越した学識をもって、中国に多大なる文化的貢献を果たしたのです。彼らの多くはイスラエル人である可能性が高く、現存する諸子百家の肖像画における孔子や老子などは、西アジアの出自であることをあからさまに描写していると言って良いほど、その顔つきは西アジア特有のものです。また、孔子は背丈が2mを超えた体格の持ち主でもあり、自身がイスラエルの出自であることを知っていたからこそ、中国のさらに東方に存在するであろう「君子の国」、「不死の国」に憧れを持ったのでしょう。つまり、前6世紀前後より続々と登場する古代中国史に名声を連ねた哲学や宗教的思想の大家の多くは、イスラエルと何らかの関わりを持っていた可能性が高いのです。
淮河流域周辺に勢力を拡大した東夷は、春秋時代にピークを迎えるものの、その後、歴史の流れは、秦(前221年〜前206年)を境に一変します。そしていつしか東夷とは、朝鮮半島を中心とする地域を指すようになり、東夷は、海を渡った倭の国、日本も含むようになりました。日本の古代史が激変する前兆の訪れです。
中国古代史における人口激減の意味 
秦が滅亡した後、前漢から後漢、そして魏の時代にかけて、東夷の拠点はいつしか淮河流域周辺から北方に向けて移動しています。そして東夷という言葉は最終的に、吉林省から朝鮮半島、そしてその先、さらに東方にある日本の島々に住む民のことも言い表すようになりました。
東夷が北方に向けて民族移動した理由は、内陸からの軍事的圧力があったからと考えられます。秦の時代が終焉を迎えると同時に前漢の時代が訪れ、秦勢力の一掃を目指す漢民族による治世が始まります。大陸から日本に渡来した秦氏の祖先が秦始皇帝であるという古文書の記述が事実であり、しかもその秦氏がイスラエル系南ユダ王国の出自であるとするならば、秦始皇帝の出自も同じくイスラエルに絡んでいることになります。よって、秦の滅亡とはユダヤ系統治者の排除を意味し、西アジア系出身者が多い東夷の存在も国家から敵対視され、追放されることになったと考えられるのです。そして最終的には魏が中国の領域を海岸線まで広げるべく大軍隊を派遣し、東夷を制圧するまで、長い年月をかけて掃討策が講じられたのではないでしょうか。
その国家対策とも言える掃討作戦と迫害のために、東夷は大陸の太平洋側へと追いやられ、その後、さらに東へ向かうために一旦は北上し、その多くが朝鮮半島にまで達したのです。それは、先祖代々から約束の地が東方にあると語り継がれてきたイスラエル系の東夷にとって、これまで居住していた中国が、決して約束の地ではなかったことを知る結果となりました。秦の滅亡は、神の国家が大陸ではなく、やはり東方の島々で起こされるものであったことに目覚めるきっかけとなったのです。そして本来目指すべき地が、遠い昔から伝承され続けてきたはるか東の海の向こうにある不死の国、長寿の国であることが多くの民の心の中に再び思いおこされ、東夷は太平洋の海岸線づたいに朝鮮半島を目指したのです。
中国の歴史を振り返ると、前漢から後漢の時代、また三国時代前後の2〜3世紀にかけて、少なくとも2つの時期に、国家の人口が異常に激減したことが知られています。まず、前漢末にはおよそ6000万人の戸籍登録がありましたが、その後、人口崩壊が生じ、50〜60年という短期間に人口がおよそ半減するまで激減したと考えられているのです。国内の動乱や天変地異、食糧難など、さまざまな要因が指摘されていますが、その背景には、東夷の大規模な民族移動が深く絡んでいたと考えると、歴史の辻褄が合います。
そもそも、戸籍登録という律義な行政手法こそ、イスラエルの民が聖書の教えに基づいて古くから施行していたものです。よって、その戸籍を行政上管理していた役人も、イスラエルの出であり、東夷に関連していた可能性が高いのではないでしょうか。それ故、その戸籍登録の実務を仕切る東夷が中国から移住して東方に向かってしまうということは、多くの戸籍データを携えて民族移動することを意味します。それは中国側の立場から考えるならば、突如として戸籍データを喪失し、戸籍上の人口が急減することを意味します。つまり、史書に記載されている大規模な人口減少がおこったとしても、決して不思議ではないのです。後漢末(157年ごろ)には5600万人を超えるまで中国の人口は回復しますが、再び食料難や社会秩序の乱れなど社会不安の高まりから、大規模な農民の反乱として歴史に残る「黄巾の乱」(184年)が起きます。
それをひとつの契機として後漢は崩壊し、中国大陸に3人の英雄が君臨してしのぎを削る三国志の時代に入ります。このことが、また想像を絶する人口減少という悲惨な結末を招き、短期間のうちに三国の戸籍登録総数は1000万にも満たなくなりました。そしていつしか三国時代の戸籍登録数は818万人という驚くべき数まで激減したのです。晋や魏、呉など、各国政府高官らによる「10分の1になってしまうほどの全国的な人口減少」というような表現も古文書に散見されるため、戸籍登録の誤差は多分に考慮したとしても、実人口の激減は確実視されています。その後、西晋の統一下(280年)においても、人口数は戸籍上1600万までしか戻りませんでした。また609年、隋による戸籍登録では、人口数は4600万人まで回復するも、それでも600年以上前の人口数にさえも戻ることができなかったのです。
確かに戸籍上の人口が激減した背景には、戦乱による戦死者や、戦火を逃れて戸籍を外れる私民が大勢いたことなど、さまざまな政治要因が絡んでいることでしょう。しかし、それだけで、短期間に総人口が7分の1に減少するというような極端な理由は説明できません。その背景には前述したとおり、東夷による大規模な民族移動があったに違いないのです。まず、「黄巾の乱」(184年)が起きた後の大陸における3世紀の動向に注視してみました。大陸の北部には長い年月を経て遊牧民族が拠点を持っていましたが、この動乱に乗じて武力を増大し、華北へ向かってその影響力を伸展し、大勢の民が移動する動きが生じました。それは、秦氏らを中心としてユダヤ系民族が、列島に向けて総結集する号令がかかるときでもあり、また、実際に日本列島の人口が突如として急増したときとも重なります。歴史的な人口崩壊が大陸で発生し、遊牧民族が華北へ移動しはじめた直後の3世紀後半、かたや日本列島では応神天皇が詔を発し、神の都の造営を同胞に呼びかけたのです。このタイミングはもはや偶然とは思えません。
それまで大陸の湾岸を北上し、朝鮮半島にかけてまで広範囲に民族移動を展開していた東夷、そして秦の末裔、信望者がこぞって、日本を目指した結果、列島では人口が急増し、その半面、中国大陸では一種の人口の空白が生じたのです。また、多くの遊牧民族が北方より華北方面へ流入し、中には列島まで渡来した遊牧民族も一部、含まれていたのではないかと想定されます。こうして4世紀初めから大陸は、「五胡十六国」時代と呼ばれる、中国華北を中心とした複数国家の分立と興亡が繰り返される混乱の時代に突入し、隋が国家を統一する589年までの間、長期にわたり、およそ分裂と争いが繰り返されることになります。そしてその間も、中国大陸の人口は激変することになるのです。
 
古代北陸の国際交流

 

富山県は対岸の地域をにらんで、日本海学の刊行物やシンポジウム等で全国的なアピールをしていることを評価したい。能登臣馬身龍が見た北方日本海世界と北陸が、対岸とのかかわりでどのような働きをしてきたかという視点で話を進めたい。
日本海沿岸と太平洋海沿岸の対岸観の違い
日本海沿岸の人々は、朝鮮、沿海州から海岸に物が流れ着く場所であったこともあり、海の彼方に人の住む世界のあることを古代から認識していた。一方、太平洋沿岸の人々は、中世末期以降にヨーロッパと接触するようになってはじめて海の彼方に人の住む世界のあることを認識した。
対岸世界の認識 / 6000年前の縄文海進による干潟の形成によって、日本海沿岸の干潟付近に人間が住み出し、貝塚が形成され、この時期に日本海沿岸の人々は丸木舟を作り海に出た。対岸でも同様で、ロシアのザイサノフカ遺跡などの貝塚も日本と同時期に形成された。日本海を挟んで、人々の海洋適応が始まり、対岸世界の認識が生み出されたのであろう。
加賀(現在の金沢周辺)は高句麗との交流基地
百済、高句麗滅亡という北東アジアの大動乱の7世紀に、北陸の果たした役割は大きい。日本書記によれば、570(欽明31)年加賀に高句麗船が来着し加賀の豪族道君が大王と詐称し、高句麗の使節を迎えた。その後、欽明朝は使節を飛鳥に迎えた。これは、大和王権と高句麗の初めての公式接触である。その後、668年に滅亡するまで18回の渡来記録があり、来着地の記録がある分では越が4回、難波津、筑紫各1回と加賀が交流基地となっていたと見られる。高句麗は、新羅を避けるために加賀に来たのではないか。
また、670年、江沼郡(小松周辺)に河内から百済公一族が本籍を遷している。オンドルの住居跡群があることなどから、江沼には多くの亡命百済貴族がいたと考えられる。加賀地方は朝鮮から渡来人を受け入れる素地があった。
能登臣と北方日本海世界
660年能登臣馬身龍が越国守の阿部臣に従って、北方日本海=佐渡〜津軽〜北海道南部へ航海し渡嶋(余市から小樽の海岸か?)で、粛慎(あしはせ)と沈黙交易をしようとして、失敗し戦死した。
この阿部臣の航海は北方征伐ではなく、緊張する北東アジア情勢の中で、外交政策が破綻した朝廷が、阿部臣に北方の国際情勢を視察させることが目的だったと考えられる。
馬身龍が見た古代の北方日本海世界は、沿海州南部の靺鞨(まつかつ)人が貴重な錫製品を持って渡来し、オホーツク人が北海道の島づたいに南下する一方、倭人が鉄製武具等を持て北上し、蝦夷(えみし)を仲介して活発な交易が展開される豊かな交流世界であった。
渤海と北陸
699年に興った渤海は、唐との葛藤の中で生まれた。都城は8世紀には図們江流域で、9世紀には牡丹江流域にあり、都城から五道(日本、新羅、唐・長安、唐・営州、契丹)があった。
渤海は唐に対抗して日本と連携する狙いがあり、日本も新羅政策上渤海と連携することを望んでそれぞれ使節を派遣した。当初は軍事的様相が濃く、唐が渤海を冊封(認知)後は交易が主目的となった。
渤海と日本の航路は、8世紀は加賀から東北、9世紀は加賀から山陰の範囲であったが、加賀は全期間を通じての来着地となっていた。加賀に渤海使節を滞在させる便処が設置されていた。日本から渤海への派遣13回、渤海から日本への派遣は34回あった。2001年に渤海のものと考えられる帯金具が出土した畝田ナベタ遺跡は加賀の便処か?帯金具は花柄のデザインなどから、源流は契丹と考えられる。
渤海使節に関する史料で、「越中」に関する記述は『日本紀略』の中で「弘仁(810)5月27日 高南容を大使とする一行の、首領高多仏が越前国に残留。高多仏を越中国に安置し、史生・習語生に渤海語を習わせる」という内容の記述が一箇所だけ見受けられる。この越中の場所は呉羽か小杉辺りではないか。この辺りは製鉄の遺跡があり、渤海の優れた製鉄技術を受け入れる目的があったのではないかと考えられる。
日本海側こそが表日本
渤海と日本を結ぶ日本道は、長安−渤海−日本海−奈良をつなぐ、もう一つのシルクロードであり、この日本道の方が人や情報の往来が多かった。高句麗、渤海との交流において、加賀は来着地として、能登は出発地として役割分担をしていた。
日本海を越える交流は縄文時代からあり、7〜10世紀が最盛期であった。まさに、日本海側は表日本であり、富山県が作成した「逆さ地図」(これが正地図か?)を頭に入れて、世界観をつくるべきではないか。
*570年高句麗船来着に関する見解 江沼氏は大和王権の影響下で朝鮮南部(百済)の渡来人を受け入れ、道氏は大和王権の枠外で朝鮮半島諸国との接触を試み、事件後は大和王権の枠内で道氏が高句麗との窓口となった(ただ、現段階では、道氏と高句麗の交流の遺物は未発見である)。高句麗は、新羅を避けるために加賀に来たのではないか。 
 

 

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