南京玉すだれ

南京玉すだれ
くりからもんもん
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●南京玉すだれ
南京玉すだれ(なんきんたますだれ)とは、日本の大道芸の一つ。歴史のある芸で伝統芸能であるとも言える。一人の演者が長さ20 - 30数センチメートルの竹製の小型のすだれ(簾)を持ち、唄にあわせて踊りながらすだれを変化させて釣竿、橋、しだれ柳、旗などに見立てる。演者が持つすだれの名称でもある。
概要
芸人が「アさて、さて、さてさてさてさて、さては南京玉すだれ」の威勢良い掛け声とともに玉すだれを取り出し、「ちょいとひねれば、ちょいと、ひねれば、日米国旗に早変わり。日米国旗をちょいと伸ばせば、…」といった風に、すだれの形状を次々と変えて見せる。
現在町で見かけることはほとんどなく、イベントなどで演じられることが多い。イベントで行われる場合には、数人が並んで同じ技を見せることもある。
使われるすだれの玉数は流派などによっても違いがあり、24本、36本、46本などいくつかのバリエーションがある。
現在、日本にはいくつもの保存会や流派があり、カルチャースクールなどでも教室が数多く開かれている。
発生と名前
日本南京玉すだれ協会では、「発祥は富山県で、同県の民謡こきりこ節に用いられるささらが原型」としている。
「玉すだれ」は伊勢物語の短歌にもでてくる言葉ではあるが、一般的なすだれと同様に目かくしや日光遮断のために屋内で用いる家具のことであった。
玉すだれを使った「南京玉すだれ」という大道芸が現れたのは江戸期になってからである。名前から南京発祥だと勘違いされやすいが、日本発祥である。本来は「唐人阿蘭陀南京無双玉すだれ」と称されており、「唐人にも阿蘭陀にも二つとない小さな玉すだれ」という意味で付けられたといわれている。 大国明の大都市であった南京の名をつけることで、すだれの希少性を強調し芸の価値を高める意図があったと思われる。
歌詞例 1
アさて アさて アさて さて さて さて
さては南京玉すだれ
チョイと伸ばして チョイと伸ばせば
浦島太郎さんが浜辺にて 魚釣る竿にさも似たり
魚釣る竿がお目にとまれば元へと直す
   さてさてさてさて さては南京玉すだれ
   チョイと伸ばして チョイと伸ばせば
   瀬田の唐橋 唐金擬宝珠 擬宝珠ないのがお慰み
   瀬田の唐橋 お目にとまれば元へと直す
さてさてさてさて さては南京玉すだれ
チョイと伸ばして チョイとひねれば
越すに越されぬ 箱根の関所
関所が お目にとまれば 炭焼き小屋に早変わり
炭焼き小屋が お目にとまれば元へと直す
   さてさてさてさて さては南京玉すだれ
   東海道は五十と三次 中山道は六十と九次
   西へ東へ飛脚の姿
   あまた宿場になくてならない 茶店の看板 さも似たり
   茶店の看板 お目にとまれば元へと直す
さてさてさてさて さては南京玉すだれ
チョイと伸ばして グンと伸ばせば
阿弥陀如来か釈迦牟尼か 後光に見えればお慰み
後光が お目にとまれば 元へと直す
   さてさてさてさて さては南京玉すだれ
   チョイと返して チョイと返せば
   日本三景天橋立 浮かぶ白帆にさも似たり
   浮かぶ白帆がお目にとまれば 元へと直す
さてさてさてさて さては南京玉すだれ
チョイと返してチョイと返せば 万国国旗にさも似たり
万国国旗が お目にとまれば しだれ柳に早変わり
しだれ柳に飛びつく蛙(かわず) 蛙いないがお慰み
それでは皆様 お達者で あらエッサッサ〜
歌詞例 2
アさて アさて さては南京玉すだれ
チョイと伸ばせば 浦島太郎さんの 魚(うお)釣り竿にチョイと似たり
浦島太郎さんの 魚(うお)釣り竿が お目に止まればおなぐさみ
お目に止まれば元へと返す
   アさて アさて さては南京玉すだれ
   チョイと返せば 瀬田の唐橋(からはし) 唐金擬宝珠(からかねぎぼし)
   擬宝珠(ぎぼし)ないのがおなぐさみ
   瀬田の唐橋 お目に止まれば元へと返す
アさて アさて さては南京玉すだれ
チョイと伸ばせば おらが在所のご門でござる
おらの在所のご門が お目に止まれば 炭焼き小屋へと早がわり
炭焼き小屋が お目に止まれば元へと返す
   アさて アさて さては南京玉すだれ
   東海道は五十と三次 中仙道は六十九次
   あまたの宿々 なくてならない そばやの看板
   そばやの看板 お目に止まれば元へと返す
アさて アさて さては南京玉すだれ
チョイと伸ばせば 阿弥陀如来か 釈迦牟尼か
後光に見えればおなぐさみ
阿弥陀如来が お目に止まれば元へと返す
   アさて アさて さては南京玉すだれ
   チョイと返せば 日本三景は天の橋立
   浮かぶ白帆に さも似たり
   浮かぶ白帆が お目に止まれば元へと返す
アさて アさて さては南京玉すだれ
チョイと返せば 日米国旗にさも似たり
日米国旗が お目に止まれば しだれ柳に早がわり。
しだれ柳に飛びつく蛙(かわず) 蛙いないがおなぐさみ
アさて アさて アさて さて さて さて さては南京玉すだれ
 
 
 
 
●「くりからもんもん」 1
健全な読者の方には全く関係のない日本語
「くりからもんもん」をご存知でしょうか?任侠映画などで時々出てくる単語で、聞いた事ある人もいるかも知れません。
現代の日常会話には全く出てきませんし、筆者自身もこの単語を会話の中で使用した事は無いので今の20代の方なんかはまず知らないと思います。
筆者は勉強不足で、「首からもんもん」=全身に総入れ墨を入れている人を指すのだと思って生きてきました。ですがどうやらその知識、間違っているらしいと。。調査します。
倶利伽羅(くりから)でした。
首からじゃない。もう聞き間違えレベル。低次元の解釈でした、、言ってて恥ずかしいレベル。なんですか?首からって?自分の適当さに呆れます。
倶利伽羅竜王から来てます。
くりからは不動明王の変化身「倶利迦羅竜王」の事を指しています。
倶利迦羅竜王は、火炎に包まれた竜が岩の上に立った宝剣に巻きつき、呑み込もうとしているさまで表されます。
くりからもんもんの「もんもん(紋紋)」は、模様の意味の「紋」を重ねた語か、火炎に包まれた竜から「燃え燃え」の意味といわれるが、前者の「模様」が語源であろうと言われています。
本来、くりからもんもんは倶利迦羅竜王の入れ墨を指す言葉ですが、背中一面に彫られることから「大きな入れ墨」についても言うようになり、そこから、単に「入れ墨」も言うようになった。
「入れ墨」を指して「もんもん」と言うのも、「くりからもんもん」から来ています。
そもそも倶利伽羅(くりから)って何でしょう?
倶利迦羅(くりから)とは、サンスクリット語のkulikaの音写でした。(サンスクリット語は古代インドで使われた標準文章語です)
倶利迦羅竜王は、岩上に直立する宝剣に火炎に包まれた黒龍が巻きついているさまで形象され、この竜王は不動明王の化身として特に崇拝され剣と火炎は一切の邪悪、罪障を滅ぼすといわれています。  
江戸時代にはいると、博徒(ばくと=ばくち打ちの事)のあいだで背中に倶利迦羅竜王の刺青を背負うのが流行した様です。
それは、倶利迦羅竜王を、仏法を護るものから一人の人間を護るものへ、邪悪や罪を滅ぼすための力の表現が、他人を威嚇する力へと解釈が変わっていった事が要因です。
要するに、「縁起物、お守り」と「ケンカの時にビビらす為」の意味合いで流行したのですね。
結論
くりからもんもんは元を正すとサンスクリット語+日本語から来た造語だった。
首から〜じゃ無いのも衝撃でしたが、その語源が「サンスクリット語」から来ているのも衝撃的でした。
入れ墨もTATTOOも昔から「縁起物、お守り」の意味合いが非常に強く、元を正していくと自分が所属する民族の「宗教観」に行き着きます。
そんなことを考えて身の回りを見渡してみると木彫りの置物や、アクセサリー、全国各地にある大仏、神社仏閣、お祭り。毎朝放送される今日のラッキーな星座や血液型占い。身の回りは縁起物、お守りだらけ。
日本人は元来無宗教と言われていますが、実はそのルーツにある信心深さを感じます。
 
 
 
 
●倶利迦羅紋紋/くりからもんもん 2
背中に施した倶利迦羅竜王の模様のいれずみ。また、そのいれずみをした人。
語源・由来
くりからもんもんの「くりから(倶利迦羅)」は、サンスクリット語「Kulika(Kulikaraja)」の音写で、不動明王の変化身「倶利迦羅竜王」のこと。 倶利迦羅竜王の形像は、火炎に包まれた竜が岩の上に立った宝剣に巻きつき、呑み込もうとしているさまで表される。
くりからもんもんの「もんもん(紋紋)」は模様の意味の「紋」を重ねた語か、火炎に包まれた竜から「燃え燃え」の意味と言われるが、前者の「模様」が語源であろう。
 
 
 
 
●倶利迦羅紋紋/くりからもんもん 3
くりからもんもんとは、背中一面に彫った倶利迦羅竜王の入れ墨。また、その入れ墨をした人。入れ墨。
語源・由来
くりからもんもんの「くりから(倶利迦羅)」は、サンスクリット語「Kulika(Kulikaraja)」の音写で、不動明王の変化身「倶利迦羅竜王」のこと。
倶利迦羅竜王の形像は、火炎に包まれた竜が岩の上に立った宝剣に巻きつき、呑み込もうとしているさまで表される。
くりからもんもんの「もんもん(紋紋)」は、模様の意味の「紋」を重ねた語か、火炎に包まれた竜から「燃え燃え」の意味といわれるが、前者の「模様」が語源であろう。
本来、くりからもんもんは倶利迦羅竜王の入れ墨を指す語であるが、背中一面に彫られることから「大きな入れ墨」についても言うようになり、そこから、単に「入れ墨」も言うようになった。
「入れ墨」を指して「もんもん」と言うのも、「くりからもんもん」からである。  
 
 
 
 
●紋々/もんもん
1 入墨を云ふ。
2 刺青の事を云ふ。
3 文身、刺青のこと。女の文身に「白粉ぼり」といふのがある。白粉を流し込み、飲酒、入浴等の際は赤く浮き出て妖艶なものである。倶梨伽羅(くりから)紋々(もんもん)ともいふ。
4 判紋。魚津 不良、博徒虞犯仲間。
5 〔不〕〔犯〕入墨のこと、体に紋がついている意。
6 刺青。〔香具師・不良〕
7 入墨(刺青)。「倶利加罹もんもん」の省略。倶利加罹とは、不動明王のことで、「もんもん」は、模様をいい、入墨は勇ましいほりものが多いところからこの語が生れた。〔香〕
8 刺青のことをいう。 
 
 
 
 
●からくり
1 仕組み、システム全般の俗称。
2 日本における古い時代の機械的仕組みのこと。漢字では絡繰、唐繰、機巧、機関、機、械、関など。
3 江戸時代の見世物、覗機関(のぞきからくり)の略称。
江戸時代に日本で開花した機械的仕組みのこと。国際的なオートマタ(歴史的な自動装置・自動人形)研究でもその独自性、文化性によって「karakuri」とローマ字表記される。
語源
語源については、「糸を引っ張って動かす」という意味の「からくる」という動詞の連用形の名詞化といわれ、16世紀後半頃から用例が確認されている。
からくりの歴史
   古代のからくり
日本における最古の記録は『日本書紀』で、斉明天皇4年(658年)の指南車。
平安末期の『今昔物語集』巻第二十四には、桓武天皇の皇子高陽親王(賀陽親王)がからくり人形を作り、巻二十四第五には「飛騨工」(ひだのたくみ)が絵師百済河成を驚かせるため、四方に扉がある堂を作り、いずれの扉の前に立っても目の前の扉は閉じて違う場所の扉が開く仕掛けを作ったと記載されている。
   からくりの文化的開花
戦国時代 / 17世紀頃の戦国時代には西洋技術(とくに機械時計に用いる歯車やカムなど)を応用したからくり人形が作られ始めた。当初は公家や大名、豪商向けの高級玩具であったが、祭礼や縁日などに見世物として大衆の目に触れると人気を呼ぶようになる。専門の職人による非常に精巧なものが作られるようになった。
江戸時代 / 元和6年(1620年)に尾張国名古屋の東照宮祭においてに牛若弁慶の「からくり人形を載せた祭礼の山車」が中京圏を中心に普及する。
   からくり人形の大衆化
寛文2年(1662年)に大坂の道頓堀で初代竹田近江がからくり芝居を興行。この興行は「竹田からくり」と称され、その後約百年にわたって代々続く一大ブランドとなった。
18世紀初めの享保年間には、彦根藩藩士の平石久平次時光が後の三輪自転車に相当する新製陸舟車を発明した。 寛政9年(1796年)には、細川半蔵の著書『機巧図彙』(からくりずい)が出版される。
19世紀には、「筑波のからくり伊賀」こと飯塚伊賀七が人力飛行機や道を歩いて酒を買いに行くからくり人形を作ったとされる。
幕末の石川県には茶運び人形を流用したと見られる弁吉作という三番叟が確認されている。また「加賀の平賀源内」こと大野弁吉が空気銃や蒸気船の模型、写真機を製作した。
   現在のからくり
田中久重の「弓曳童子」や大野弁吉の「エレキテル」および「無尽灯」などを峰崎十五が修理復元。九代目玉屋庄兵衛が「弓曳童子」や京都祇園祭の山である「蟷螂山」を、東野進が「文字書き人形」を、後藤大秀が大垣祭の「相生山」や大津祭の「竜門滝山」を復元している。
からくりの種類
座敷からくり / 大名や豪商などが所有した座敷(屋内)で鑑賞するからくり。その多くは高価なもので、台の上に据えつけられた人形等が太鼓を叩いたり舞ったりする。茶や酒を注いだ盃を運ぶ茶運び人形のように移動するものもある。
からくり玩具 / 民芸品や郷土玩具として、日本各地で古くからその地方独自の、様々な仕掛けを持つ玩具。現在でもみやげ物として、販売される物も多い。一時期は日本の輸出産業を支えた「ブリキのおもちゃ」の仕掛けも絡繰玩具に由来する。
からくり傘 / 和傘または唐傘(からかさ)。中国由来の天蓋に開閉式の仕掛けを施した唐繰傘。
からくり家具 / からくり箪笥など。
からくり的 / 市や縁日や温泉場で行われた弓矢や吹き矢の射的の的。当たった場所により板でできた書割りが動く。大正時代までは繁華街や温泉街の射的場に現存していたが、現在では「鬼泣かせ」という機械仕掛けの鬼の的に名残が見て取れる。
山車からくり / 山車・車楽などにからくり人形を載せたもの。山車内部に操作者が乗り込み、曳行時や宮入りの演奏に合わせて操作、披露・奉納する。大部分は第二次大戦の戦災で失われたが、戦災を免れた岐阜県高山市の高山祭、美濃市の美濃まつり、愛知県犬山市の犬山祭、津島市の尾張津島秋まつり、半田市の亀崎潮干祭などの周辺地域には多く残る。カマキリのからくりで有名な京都祇園祭の蟷螂山、江戸の山王祭・神田祭など。元和5年(1619年)の名古屋東照宮祭以来、中京圏(主に愛知県と岐阜県)に特色ある祭礼文化を形成している。享保15年(1730年)に7代尾張藩主になった徳川宗春は「民と共に世を楽しむ」政策を実行し、8代将軍徳川吉宗の質素倹約策で自粛されていた東照宮祭の豪華に復活させ、他の祭や遊興を盛大に行う事を奨励し、活動の場を失っていた京都の玉屋庄兵衛をはじめとする、全国のからくり人形師達を名古屋に招いてからくり人形師達が尾張地方に移住した事により、名古屋を中心とする中京圏で、からくり文化が発展し根付いた。
舞台からくり / 田楽返しや提灯抜け、葛籠抜けなど歌舞伎の舞台で使われるからくり。現在の人形浄瑠璃ではでは人形遣いが中心となっているが、近松門左衛門の浄瑠璃にはからくりが多用された。
からくり屋敷 / 忍者屋敷などに見られる。
有名なからくり
   万年自鳴鐘
1851年(嘉永4年)に発明家田中久重が発明した万年自鳴鐘は、重要文化財に指定されている。ぜんまい式で、一度巻けば一年動くという驚異的な持続時間を実現した。
   茶運び人形
座敷からくりの代表作。お茶を入れた茶碗を人形が持った茶托に乗せるとお客のいる所までお茶を運び、客が茶碗を取ると停止する。お茶を運ぶ距離は予めセットする。客が茶を飲み、空になった茶碗を茶托に戻すと、踵を返して茶碗を元の場所まで運ぶ。ぜんまいと歯車、カム、棒てんぷでその動きを制御する。現在良く知られる茶運び人形は細川半蔵著の『機巧図彙』から復元されたものである。ただし現在各地に残る茶運び人形は機構上、『機巧図彙』で解説されるものとは異なるところがあり、『機巧図彙』に沿って制作された江戸時代のものは確認されていない。
昭和57年(1982年)には日本模型からプラスチック製の茶運び人形が発売された。平成14年(2002年)11月には「学研の大人の科学シリーズVol.8」で発売され、平成19年(2007年)6月29日に発売された大人の科学Vol.16ではミニ茶運び人形が付録についた。
   弓曳童子
現存するオリジナルは2体で、いずれも田中久重の製作。人形が矢立てから矢を取り、弓にセットして的に当てる座敷からくり。
人形の動作はぜんまいとカム、レバー、糸によって制御され、自動的に4本の矢を射ることができる。「田中久重によって、そのうち1本は的を外すように細工してある」との説明が一般に広まっているが、これは誤り。実際には、人形を修復した際に付属している矢をすべて新しく作りなおしており、「新しく作った矢のうち1本が、たまたまうまく飛ばない」というのが事実。ちなみに、人形が座っている台座部分に取り付けられている小さな唐子(中国風の衣装を着た人形)と、唐子が回すハンドルの機構も、修復前のオリジナルには存在しなかった。この部分は修復の依頼者の意向により、新たに取り付けられたもの。弓曳童子は、文字書き人形と並んで江戸からくりの最高傑作のひとつと言われている。
東野進が、平成2年(1990年)に徳川家から1体を発見し、平成3年(1991年)に伏見の前川家からもう1体を発見し、峰崎十五によって修復・復元された。現在、徳川家旧蔵の弓曳童子はトヨタ産業技術記念館に、前川家旧蔵の弓曳童子は田中久重の故郷久留米市の教育委員会に所蔵されている。同じ動きをする組立て模型キットが学研より発売されている。平成25年(2013年)機械遺産61号に認定された。
   文字書き人形
発見されているオリジナルは2体。
1体はアメリカで発見された。平成3年(1991年)、アメリカの研究家から日本の研究家に、アメリカのコレクターが所有しているとの情報がもたらされたが、そのコレクターは、江戸時代の文字書き人形に関する知識は持っていなかった。そこで日本の研究家からアメリカの研究家に、江戸時代のからくり人形に関する資料が逐次提供され、そのコレクターの理解と信頼を長年かけて獲得。平成14年(2002年)、人形売却の同意が取り付けられた。広く買い手が募られた結果、平成16年(2004年)に大阪府寝屋川市の東野進が購入した。この人形の製作に関する具体的な資料は見つかっていないが、台座を覆う衝立の模様が田中久重作の弓曳童子の台座の衝立と一致しており、久重作と推定されている。日本に持ち帰られた人形は、新しい所有者によって動かなかった機構が修理されると同時に、人形の顔や手が完全に塗り直され、衣装が新調され、さらに、台座の機構にはそれまでなかった装置が組み込まれ、翌年の愛・地球博で展示された。現在の所有者は久留米市教育委員会。
もう1体は右手と口に咥えた筆で「松」「竹」の二文字を同時に書ける文字書き人形で、平成21年(2009年)に安城市内の古民家から発見された。現在は安城市指定有形民俗文化財に指定され、安城市歴史博物館に所蔵されている。また九代目玉屋庄兵衛により複製品が製作され、同博物館に所蔵されている。
   からくりみくじ
京都・錦市場東端の錦天満宮にある。人が近づくと神楽が鳴り出して機械仕掛けの獅子舞がはじまり、硬貨を投入して御籤(みくじ)の種類(英文、和英対訳、子供用など6種類)を選ぶと、神楽に合わせて獅子が舞いながら御籤を届ける仕掛けが人気。 
 
 
 
 
●昔話 からくりもんもん 
 
・・・ お話としては昔話ふうです。
ひとりのきこりが、ヘンな木の枝?みたいのを見つけて、とりあえず鉢植えにしてみたのが発端。
文章では何も言っていませんが、挿絵ではその枝、枝というか、歯車と棒がくっついた、植物というよりもガラクタ的なものに描かれています。
枝には短冊?がくっついていて、曰く「からくりもんもんからくりもんもん となえりゃ望みのものとなる」とかなんとか。
きこりは、楽して商売したいなあとか言ってしまったようです。
数日すると、そのからくりの枝は、成長して先っぽに丸鋸がついたような形になってました。
こいつが木を簡単に切り倒してくれます。なるほどこれは楽だ。
からくりはどんどん伸びて形が変わり、どんどん木を切り倒し、きこりは大喜びです。
ところがこいつは山をまるはげにする勢いで大きくなり、複雑で大掛かりな形に伸びていき、ついには山自体をも削りはじめました。
挿絵では、自動車を正面から見たものに丸鋸やらショベルカーの先やらが生えた巨大なからくりが山に立ち、子供心にカッコ悪いと思ったナイスなデザインでした。
あいかわらず文章のほうは、機械とか工具とかそういったワードの一切出てこない昔話調を守っていますが、どうみても昔話には出てきそうにない暴走マシンです。
全体的にうろ覚えで、しかもこのあとどうなってしまったのかは覚えていないのですが ・・・  
 
 
 
 
●倶利迦羅 
●倶利迦羅 [くりから]
「倶利迦羅」といえば、連想するのは「倶利迦羅紋紋」であり、龍の絵が彫りこまれた刺青の大きな背中、丁か半かと賽をふる任映画の博打のシーンが目に浮かぶ。そこに描かれた龍は、人を威嚇するにあまりあるものといえるだろう。
倶利迦羅とは、サンスクリット語のkulikaの音写である。クリカはインドで八大龍王の内の一王の名であり、『陀羅尼集経』では鳩利龍王とも訳されている。倶利迦羅竜王は、岩上に直立する宝剣に火炎に包まれた黒龍が巻きついているさまで形象され、この竜王は不動明王の化身として特に崇拝せられる。剣と火炎は一切の邪悪、罪障を滅ぼすといわれている。  
ところで、富山県小矢部市と石川県津幡町の境に「倶利伽羅峠」とよばれる峠がある。寿永二年( 1183 )木曾(源)義仲が平維盛の軍勢をその峠の南斜面にあたる深い谷に攻め落としたことで有名であるが、この倶利伽羅峠の名も、その峠に倶利迦羅不動を祀る堂が存在したことに由来している。
倶利迦羅竜王もその一つである八大竜王は、みな護法の善神として挙げられる存在である。中でも倶利迦羅竜王の形象に表された凄みは、仏法を護り、かつ一切の邪悪、罪障を滅ぼす力を表現するものであったといえるだろう。
しかしそれが、江戸時代にはいると、博徒(ばくと)[ばくち打ち]が背中に倶利迦羅竜王の刺青を背負うようになる。それは、倶利迦羅竜王を、仏法を護るものから一人の人間を護るものへ、邪悪や罪障を滅ぼすための力の表現が、他人を威嚇する力へと読み替えられたことを意味した。このことは、社会が、人間を中心に動き始めたことと表裏の関係にあるといえるだろう。
倶利迦羅という言葉から「倶利迦羅紋紋」しか連想しえない現実は、現実の社会が、その延長線上にある仏の世界を見失った、人間中心の感性の上に成り立っていることを象徴しているのである。
●倶利迦羅竜王 [くりからりゅうおう]
不動明王の化身としての竜王。形像は、岩上で火炎に包まれた黒竜が剣に巻きついて、それをのもうとするさまに表される。剣は外道(げどう)の智、竜は不動明王の智を表したものという。
倶利迦羅龍王。倶利伽羅。倶利迦羅大龍。倶利迦羅明王。倶利迦羅不動明王。倶利迦羅不動。倶利迦羅龍。倶利迦龍。
●倶利迦羅龍王伝説
あの山には鬼が棲み着いている。
そんな噂がささやかれるようになったのは、さかのぼること1300年程前、現在の石川県と富山県の県境にある砺波山、通称 “くりからさん” でのことである。
「悪しきもの。私はそれを確かめに来た。」
名も名乗らず立ち去った一人の僧侶と、神秘的な池をとりまく物語。
千数百年経った今でも語り継がれる、倶利伽羅龍王伝説、その一端である。
●倶利伽羅明王・緒話
別にはクリカラ竜王、倶利伽羅不動とも呼ばれ、倶利伽羅竜王の巻きついてる剣をクリカラ剣という。
竜王(龍)の色は黒色?金色?であるらしい。口からはきだす息の音は二万億の雷が一時に鳴り渡るほどの凄まじさ、これを聞いた魔性のものはたちまち滅びる。
倶利伽羅(剣)の高さは1200万キロメートルから1600万キロメートルほどある。  
「倶力伽羅竜王儀軌」(くりからりゅうおうぎき)には大日如来が変じて不動明王となり、不動が変じて剣となり剣にゆかりのあるサンスクリットの種子(しゅし=シンボル文字)が竜王の形となると言う説明が見られる。
「覚源鈔 巻下」によるとクリカラ竜王は人の住むこの世を、剣は仏界をそれぞれあらわす。これは衆生の心のうちに仏の知剣を導きいれて、仏と人が一体となることのたとえで、それが剣を飲む龍で表現されているのである。
クリカラ不動のかたちは不動明王をあらわす「我」と「空」の意味を持つサンスクリットを合成したものだと言う説がある。
「我」は剣に「空」は竜に通じる。また「我」は「煩悩」と」同じでもあると言う。いづれにせよ、わが身のうちの迷いを打ち払って空にする形が剣をのむ竜となったものであるらしい。
クリカラ竜王は剣をのむかたちのに作られるだけでなく、まれには人間の姿に作られることもあるらしい。
倶利伽羅陀羅尼経の説によれば、不動明王と魔王と法力の争いをなし、法力を現して魔王の剣をまとひしものなりとある。
「矩里迦龍王像法」によると形は蛇の如く雷電の勢に作せ、身金色にして如意寶を?け、三味の?起つて四足蹴?する形なり。
 
 
 
 
 
 
 
   
 
 
  
 
  


2023/12