写研

大塚の友人に年末の挨拶
新大塚から歩く

懐かしい「写研」ビル
解体工事中
何があったのだろう 気になる

大昔 「写研」 写植機で露光されたロールペーパー その自動現像機の開発に関わった
30m 蛇行なく現像に成功
喜んだこと 思い出しました

日本の文字文化 支えています

 


 
 
 
 
2023年 新本社ビル竣工 移転
私の知る  懐かしい「写研」ビル 旧本社 
移転が終わり 解体工事が始ったのでしょう
 
 
 
 
●書体と特徴 
フォントの種類
・ゴシック体
・明朝体
・丸ゴシック体
・五体(楷書体/行書体/篆書体/隷書体/草書体)
・宋朝体
・タイポス書体
・ファンテール書体
・手書き書体
・装飾書体
膨大な数のフォントが存在していますが、最低限ゴシック体と明朝体の2つだけは覚えておきましょう。ゴシック体は装飾がなく線幅にも差をつけないシンプルな書体。明朝体は線の強弱、端や角の装飾、線のはらいがあるのが特徴。ゴシック体を使うか、明朝体を使うかによって与える印象や読みやすさが大きく変わるので違いをしっかりと意識しておきたいです。
ゴシック体
ゴシック体は装飾がないため太くしても視認性を損なわなず、遠くからでも読みやすいフォント。目を引きやすく力強い印象を与えるゴシック体は、その特性から広告や見出しなどに多く利用されています。また、多くのゴシック体は線幅がほぼ均一になっています。英語では Gothic ですが海外では使われておらず、装飾のないフォントという意味のサンセリフ体が日本で言うゴシック体に相当します。
明朝体
明朝体は「うろこ」と「はらい」によって飾り付けされ、文字の縁や角が強調されているのが特徴。うろこは必ず右側につくため文字が右上がりに見え、右上がりの文字が美しい楷書体に通ずる部分があります。線は細いものの要所はうろこによって強調するため細い文字でもハッキリと読むことができるので長文に適したフォントとなっています。
丸ゴシック体
丸ゴシック体は線の端や角が丸くなったゴシック体のこと。ゴシック体をベースにしているので線の幅は均一でゴシック体の視覚性の高さも持っています。端や角が丸くなることでやわらかい印象になりお堅い感じがなくなります。
漢字五体
漢字五体とは下記の5つの書体のこと。
・楷書体
・行書体
・隷書体
・草書体
・篆書体
現在では楷書体と行書体が一般的に使われており、過去の文字の特徴を活かして現代漢字にデザインしたフォントも存在しています。五体は「和風」「伝統」「歴史」を強調するタイトルや見出しに利用されることが多いです。
   漢字書体の発展
漢字書体は以下の流れで発展してきました。漢字書体発展の推移は、甲骨文→金文体→篆書体→隷書体→草書体・行書体→楷書体、です。
   楷書体
楷書体は漢字書体である五体のなかではもっとも新しく、すべての書体を継承している基本書体となっています。草書体や行書体と比べると省略や流し書きなく「正式」「堅い」といった印象があり、読みやすいため認印やビジネス文書でよく使われています。
   楷書体と行書体の違いは? 
行書体と楷書体の最大の違いは崩して書くか、しっかり止めるかの違いです。
・行書体:筆で流れるように書くため、繋がりや省略がある
・楷書体:一画一画、筆を離して書く
   楷書体と明朝体の違いは?
・横線の傾き:明朝体は直線だが楷書体は傾く
・横線の幅:明朝体は横線が細いが楷書体はほぼ同じ幅
・うろこ:明朝体はうろこがハッキリしている楷書体はハッキリしていない
   筆書体
筆書体は可読性や判別性が低いものの、日本の伝統的な雰囲気や高級感を出したり、インパクトや勢いがあるのでタイトルなどに向いています。筆書体の多くが漢字五体の楷書体や行書体をベースにしています。
   装飾書体(デザインフォント)
装飾書体は力強いものからやさしいものまで、個性やデザイン性の強い書体で、個々の主張が激しいのでタイトルやロゴに使用されることが多いです。デザイン書体はインパクトが有るため目を引きますが、可読性が低いものが多いので多用するとゴチャゴチャした印象になるので使う際には注意が必要。ついつい使いたくなってしまう装飾書体ですが、安っぽく見えやすいので初心者は使わないほうが無難だったりします。 
 
 
 
 
●ゴシック体 
[ゴシックたい、英語:Gothic、ゴチック体とも言う] 日本などの東アジア圏のフォントで使われる書体。デジタル時代においては明朝体と並んでよく使われる主要なフォントである。
漢字、かなに使われる書体で、従属欧文(アジア圏の書体に含まれる、漢字やかなと同列の文字としてのアルファベット)としてゴシック体のアルファベットが存在することもある。ただし、西洋において「Gothic」というと単に「ローマン書体以外の文字」という意味しかなく、ブラックレターなども含まれるかなり広い概念であるため、西洋では通用しない言葉である。「装飾性を排している」という意味では、西洋のsans serif(サンセリフ)書体に相当する。
特徴
縦横の太さが均等なのがゴシック体の特徴。
漢字とかなが存在する日本語では、明朝体(アンチック体)のかなとゴチック体の漢字を組み合わせた、「アンチゴチック(アンチック)」という使い方ができる。
呼び方
日本においては縦画と横画の太さが均等で起筆、終筆点にかざりのない書体を指す。欧文書体におけるサンセリフ体に相当する。英語においてゴシック体 (Gothic Script) というと通常は中世風のブラックレターを指すので注意を要する。中国組版においては、同様の漢字書体を「黒体(ヘイティ)」と呼んでいる。
(日本の)ゴシック体は、「ゴジック」「ゴチック」とも呼ばれ、初期には当て字で「呉竹体」とも表記されていた。印刷業界においては「ゴチ」あるいは「ゴ」と略される。組版指定や修正指示においては、朱筆によって『ゴ』あるい『ゴチ』とだけ記入すれば、当該箇所をゴシック体にする、という意味になる。会話においては「ゴ」のみでは分かりづらいためか、「ゴチ」という表現が用いられることのほうが多い。まれに「ゴシ」と略されることもある。
使用場面
昔から印刷物では明朝体を使うことが一般的だったが、漫画などの質の悪い紙に大量に印刷する印刷物では、明朝体の細い部分が潰れやすいという欠点があった。そのため、一般的な漫画雑誌や単行本では、漢字部分をゴシック体、かな部分を明朝体(アンチック体)にした混植が一般的に行われていた(これを「アンチゴチック」、略してアンチゴチともいう)。また、テレビ番組『日曜日の初耳学』では「字種ごとに書体が異なることにより違和感が生まれ、それにより人間が喋っているような抑揚ができるため使われている」という意見が取り上げられた。デジタル時代においてはすでに混植されているフォントも使われている。
自動車のナンバープレートに用いられる数字書体は、「ゴジック体」と定められている。だがこれには制定書体があるわけではなく、特段の字形の規定がない。
   コンピュータ
コンピュータの世界においては、ゴシック体は標準的な地位を占めている。
初期のディスプレイの表示解像度の問題から、縦画横画の太さの差異やウロコ(明朝体でいえば三角形になっている部分)のある書体は読みづらくなり、環境によってはにじんで読みづらい一方、ゴシック体は初期のディスプレイでも適切に表示できたためである。
標準でインストールされるMS ゴシックと呼ばれるフォントは、マイクロソフトによる独自開発ではなく、写真植字機開発の伝統を持つリョービのゴシック-Bをベースに、リコーが開発しフォントデータとして仕上げたものである。その後、現ダイナコムウェアによるリョービのゴシック体も登場したが、MS ゴシックとは字形がわずかに異なる。
歴史
タイポグラフィとしての和文ゴシック体は、見出しなどでの強調を目的として生まれた書体とされる。
ゴシック体が正確にいつ出現したかは明らかでない。しかし、『朝日新聞で読む20世紀』(1999年1月1日発行の『知恵蔵』の別冊)に掲載されている朝日新聞の記事を読むと、1919年1月1日付のヴェルサイユ条約について報じる記事で「講和問題」の文字が小さいながらもゴシック体で表記されているのが確認できる(p38より)。また、1936年8月12日のベルリンオリンピックにおける水泳の記事で小さいながらもゴシック体で見出しを付けていることから、この頃には使われる機会が増えていたことが窺える。
たいていの印刷物において、本文が明朝体で組まれ、その中で見出し部分や、強調したいところにゴシック体が使われた。それには、縦画と横画の差が大きく、欧文のローマン体にも擬せられる明朝活字が本文用書体として可読性にすぐれていた一方、インキのつく面が広く視覚的訴求性の高いゴシック体の特性があった。
そもそも金属活字の時代には、日本語など漢字を使う言語においてはアルファベットとは比較にならないほど多数の活字をそろえねばならないため、欧文活版印刷のように多種の書体を混植することは難しく、よほど大きな印刷所以外では明朝とゴシックのみ、というところが多かった。このため「本文はミン(明朝)、強調はゴチ」という日本語組版の了解事項のようなものがあり(当時から「欧文のように多彩な書体を使いたい」という需要はあった)、時代が下って写真植字やDTPが興隆し多数の書体を自在に扱えるようになっても、このシンプルなルールは変わることなく続いている。
DTPの黎明期においても、扱えるフォントは事実上のリュウミンLと中ゴシックBBBだけであり、デザイナーたちはその制約の中で意匠をこらした。それは確かに写植の多彩な書体から見れば制約ではあったが、金属活字を削って工夫していた状態に比べれば遙かに大きな利便性を得ていた。現在では扱えるフォント数は選択に迷うほどに増加しているが、それでもやはり明朝とゴシックの組み合わせは王道とされる。 
 
 
 
 
●明朝体 
[みんちょうたい] 漢字の書体の一種で、セリフ書体に分類される。漢字や仮名の表示や印刷において標準的な書体である。中国語では一般に宋体といい、明体とも呼ばれる。日本語の明朝体は活字技術の導入期以来ひらがな・カタカナを含むが、漢字とは様式が異なる。
特徴
活字として彫刻するために、基本となる楷書の諸要素を単純化したものが定着している。縦画と横画はそれぞれ垂直・水平で、おおむね縦画は太く、横画は細い。しかし「亡」や「戈」に見られる緩やかな転折では、どちらもほぼ同じ太さとなる。ほかには、横画の始めの打ち込みや終わりのウロコ、縦画のはね、また左右のはらいなどに楷書の特徴を残している。しめすへんやしんにょうなど一部の部分では、隷書と類似したものも見られる。
活字としての利便性から字形が正方形に近づいたため、筆書体とは要素のまとめ方が異なり、字面において点画が可能な限り均等に配置される。こうした字面を一杯に大きく使う手法は、小さいサイズでの可読性が向上するだけでなく、文章を縦横二方向に組むことが行われるようになった後は、いずれの方向へ組んでも整然とした効果を得られるという点で、さらに有効なものとなった。
   字体問題
明朝体は活字の書体として成立したため、書き文字よりも字体が固定化しやすい。様式化のために手書き書体で正統なものとされた楷書との字体の相違が発生した。加えて『康熙字典』に発する字体の問題があり、明朝体の字体をめぐる問題はこれらが合わさって起こっている。
木版印刷や活字による活版印刷における印刷書体として成立した字体は、当時の通用字体または正字体を反映して様式化されたものであった。例えば筆押さえは楷書では運筆上で軽く添えるだけのもので、明朝体のような様式化されたものではない。
そのほかにもくさかんむり(艹)を3画につくる明朝体は、楷書体が原則として4画につくるのと対立した。そしてぐうのあし(禸)の1画目の始めの位置と2画目の始めの位置が同じである明朝体は、1画目と2画目を左上で交わらせる楷書体と対立した。『康熙字典』において『説文解字』などに則り新たに定められた正字はこれらとは異なっていた。それまでの「隠」と「隱」のような字画の構成要素の不足で正誤または正俗字体を区別していたのに加えて、書体の変遷として通用していた「曽」の点画の向きが『説文』の小篆のものと異なるのを問題として「曾」を正字とするなどとした。
しかしそれでも一般的な出版においては通用字体が主流のままであったが、中国へ欧米勢力が入り、金属鋳造活字の開発を始めた時、『康熙字典』を参照して漢字活字を製作した。一部において通用字体が使われることもあったが、欠画なども『康熙字典』のままであった。これらの活字技術が従来の技術に取って代わり、金属活字によると明朝体が日常で見られるものとなると、それまでの通用字体・正字体との隔たりが大きな問題となった。例えば楷書体では「吉」の上部は「土」につくり「𠮷」として、「高」は「はしご高()」が多かったが、新たに入ってきた明朝体の字体を理由にこれらが誤りとされるなど、筆記書体に大きな影響を与えた。
筆押さえなどは、字を示す上で必要がないとされることもある。中国や台湾の規範ではこれらを省いた場合があり、楷書風に改めたものが示されている。日本で1949年4月に当用漢字字体表が告示された際、手書きの表であったため筆押さえなどがなかった。したがって、ないのが正しいとして、活字を作り直す業者や、新字体で印刷するのにそれらを不要とする顧客もあった。しかし当用漢字表外の漢字や、一部活字業者では筆押さえなどは残されたままであった。教育などでは正しい字体の指導上問題になるとして明朝体を使用しなかったり、使用したとしても「印」や「収」などの折れ曲がりの部分、しんにょうが楷書と異なるとして特別に変えたりした。
ただし常用漢字などでは、このような筆押さえ等の形状に加え、点画の付くか離れるかや長短などという細かい差異を「デザイン差」と呼び、専ら統一などするまでもない「差」として、統一は強制でないとしている。日本産業規格(JIS)などでもそれに従うが、教育の場などにおいて省みられることは少ない。
使用場面
明朝体は主に印刷において、本文書体として使われ、比較的小さいサイズでの使用が多い。一方、そのデザイン上の特徴を生かして、大きいサイズでも使われる。特に太いウェイトのものは、コントラストが高くインパクトが要求される見出しや広告などの場面で使用されることもある。
20世紀終盤にはゴシック体で本文を組む雑誌などの出版物も増えてはいるが、教科書体が使われる教科書以外の書籍は、ほとんど明朝体の独擅場と言える。よってフォントを制作・販売する企業(古くは活字母型業者、のちには写植機メーカー、そしてフォントベンダー)は、ほぼ必ずラインナップの中核に明朝体を据えている。そうしたことから、明朝体は活字文化の象徴として捉えられることもあり、かつては明朝体で組まれた文章・紙面とは、すなわち印刷所を経由してきたものであった。
1980年代の日本語ワープロの普及、続くパソコンの普及により状況は変わっている。パソコンで文字を扱うに際しても明朝体のフォントがOSに付属するため、そういった機器・ソフトウェアを使用する誰しもが明朝体で組まれた文書を作成・印刷できるようになっている。一方でウェブブラウザなど、もっぱら画面上で文字を扱う場合には、明朝体はあまり用いられず、字画のよりシンプルなゴシック体が広く用いられる。これは解像度の低い画面では、ウロコなど明朝体独特の装飾がギザギザに表示されたり、縦横の線の幅が不統一になりかすれるなどして可読性を損ねるためである。
ゴシック体ほど多くはないが、鉄道設備(駅・車両等)のLED表示機でも広く使われている。
歴史
明朝体は木版印刷や活字による活版印刷における印刷用書体として成立しており、1670年にはすでに存在していたとみられる。木版印刷は、当初楷書で文字を彫っていたが、楷書は曲線が多く、彫るのに時間がかかるため、北宋からの印刷の隆盛により、次第に彫刻書体の風をうけた宋朝体へと移っていった。宋朝体がさらに様式化し、明代から清代にかけて明朝体として成立し、仏典や、四書などの印刷で用いられた。清代に入り古字の研究成果がとりまとめられた『康熙字典』は明朝体で刷られ、後代の明朝体の書体の典拠とされた。『康熙字典』は『説文解字』など篆書体や隷書体で書かれた文字を明朝体で書き直したため、伝統的な書字字形と大きく異なった字形がなされた。
19世期に清朝が弱体化し、ヨーロッパ諸国が中国に進出するようになると、まず中国への興味から、その風習などと共に文字が紹介された。中国進出を誇示する目的もあって、ナポレオン1世とパルマ公によってそれぞれ作られた『主の祈り』という本に使われた活字はフランス王立印刷所やジャンバッティスタ・ボドーニ(イタリア語版)の印刷所などヨーロッパの印刷所で彫られたものである。その後中国研究が始まり、中国語の辞典や文法書などの印刷のために漢字活字の開発が必要とされた。清の時代は直接の布教活動が許されていなかったが聖書や小冊子での布教は許されていたため、宣教師により翻訳が始められた。東アジアに既に存在した製版技術を利用せず、金属活字の技術を持ち込んで使った。そしていずれも漢字を活字にするに当たって明朝体を選択した。これは欧文の印刷で普通だったローマン体(漢字活字の開発は主に英仏米の勢力が中心であった)とテイストが合っていたためといわれる。宣教の場面では、活字はヨーロッパで使われていたものを使用したり、現地で使用するのに木などに活字に彫って製作した。
ヨーロッパで使用されていたもので、初めてまとまった量が作られたのはルイ14世の命によるフランス王立印刷所の木活字(1715–42年)であった。この活字はのち、ナポレオン1世の中国語辞書編纂のために拡充された。その後ジャン=ピエール・アベル=レミュザの『漢文啓蒙』で使われた活字は、鋳造活字であった。木活字も鋳造活字もともに明朝体であった。19世紀中葉、王立印刷所のマルスラン・ルグラン (Marcellin Legrand) は中国の古典の印刷を目的として活字制作を依頼され、明朝体の分合活字を製作した。ルグランの分合活字では、偏旁冠脚をそれぞれ分割して、より少ない活字製作で多くを賄おうとしたがデザインは劣悪であった。
キリスト教宣教では、主にプロテスタントが伝道を担った。彼らは伝道する地域の言語で伝道することを重視し、そのために漢字活字の開発が重要だった。ヨーロッパから、例えばルグランの分合活字などの活字を取り寄せることもあったが、現地で活字を開発するものも多くあった。サミュエル・ダイア (Samuel Dyer) など幾例かがあるが、その代表例は上海の「英華書院」や「美華書館」である。英華書院は London Missionary Society Press の漢訳名で、倫敦伝道会 (London Missionary Society) の宣教師が設立したものであり、美華書館は American Presbyterian Mission Press の最後期の漢語名称で、美北長老会差会 (American Presbyterian Mission) の印刷所であった。特に後者では、6代館長にウィリアム・ギャンブル(中国語版)が入り、スモール・パイカ(small pica = 11ポイント。普通のパイカ(pica)は12ポイント)のサイズなどの活字の改刻を行った。これらのミッションプレスの活字は欧米から来た技術者が指導して制作された金属活字で、サイズも自国の活字サイズに基づくものであった。活字の大きさは、特定の大きさのみを作り、大きい方から順に「1号」、「2号」……と呼んでいた。
美華書館は一時上海で隆盛を誇ったが、美華書館の活字を二次販売する商務印書館などの業者が現れ、廃業する。
   日本
日本に明朝体が入ってきたのは明代や清代に仏典や四書などを輸入したものを再版したことに興る。特に大規模なものは、黄檗宗僧侶・鉄眼道光禅師による一切経の開刻であった。その後もこれらの用途では明朝体は使われていたが、楷書が使われるほうが多く、一般にいたっては「御家流」と呼ばれる連綿体の一種が主流であった。
大鳥圭介による明朝体での活字開発はあったが、金属活字における明朝体の歴史は一般に本木昌造が長崎鉄工所に開かれた活版伝習所において、美華書館に来ていたウィリアム・ギャンブルを招聘し講習を受けた際、ギャンブルが持っていた明朝体を本文書体として使い続けたことに始まる。当時、美華書館の活字にも仮名文字は存在したがあまりクオリティが高くなかったため、本木が「崎陽新塾活字製造所」(後の東京築地活版製造所)を立ち上げ、連綿体であった平仮名を一文字ずつ切り離した活字を開発する。
明治末期から昭和にかけて活字のサイズがアメリカン・ポイント制へ移行した。ベントン母型彫刻機を導入して新たに活字を供給する事例が出現した。一字ずつ木に父型を彫り、電胎法で母型を得てそこから活字を作る蝋型電胎法とは異なり、ベントンは一字ずつ原字パターンを制作しそれを基に機械的に縮尺を行って母型を得るものであった。ベントンの導入の際、より細い字形を作った。
昭和に入って写真植字の開発も行われ、嚆矢となる写研の石井明朝体は築地活版の12ポイント活字を利用して作られた。以後も写植では活字からの翻刻書体が開発・利用されることがあった。写植ではファミリーが形成され、特に太いウェイトの字形では、横線を極端に細く、縦線を極端に太くされた。
1949年に当用漢字字体表が告示されると、各社は新字体によった字体に変更し始めた。この時、当用漢字字体表の字体に筆押さえなどのエレメントがなかったのを、これも字体変更のうちと判断し、新字体への変更と同時に取り除かれることがあった。しかしこれは当用漢字字体表の字体は手書きであるために筆押さえがないのであり、筆押さえなど明朝体に特有のエレメントがないのは改悪だとの批判もあった。
日本語デジタルフォントの初期はビットマップフォントが使われていた。字体はJISに準拠することになるが、JIS X 0208の2次規格(通称JIS83)により、漢字の字体変更や入れ替えが行われたことで混乱が生じた。アウトラインフォントが実用化されると、モリサワがPostScriptフォントとしてリュウミンを投入したことをはじめ、幾多の会社が活字の復刻・翻刻書体や新規書体を開発して市場に投入した。
   かな
日本で活版印刷を実現する場合、仮名の鋳造も必要となる。
明治20年代、明朝体の仮名の出発点であり東京築地活版製造所による書体、「築地体前期五号」が完成した。ただし、明治7年には使われていたものとする説も存在する。漢字に合わせるため手書きのニュアンスを外し記号性を強めている。明治30年代には「後期五号」が完成し、明朝体の基本となった。
印刷技術の向上や印刷紙の質の劣化に伴い、1910年頃から文字を細くする傾向が生まれる。印面がシャープに刷りあがるということから始まった。加えて日中戦争に向かうにつれ印刷用紙が劣悪になり、それまでの文字では滲んで使い物にならないというのがその傾向に拍車をかけた。細字化とカナ文字派の「仮名の視認性の向上」などの動きから、仮名文字を大きく形作る書体がさまざまに試みられ、それまでの小ぶりな字(文字の中の白い部分が狭い=懐が狭い)から、懐が広く「明るい」字が作成されるようになった。
1929年に実用化された写真植字機と、1950年代以降日本の金属活字の製造で一般化したベントン母型彫刻機では、一つの原字から複数のサイズで同じ字形を生成することができるようになった。これにより、写植時代に同じ字形で太さが異なる書体群(ファミリー)が発生した。
1951年、写研により石井明朝体のニュースタイルかなが発売された。書体作者の石井茂吉の弟が教科書会社に勤めていたこともあり、教科書体の流れを汲んだ書体となっている。また、この書体以降明朝体の仮名にニューかな系が増加した。
日本語の表記において仮名の比重が増すにつれて、仮名フォントの重要性も高まり、仮名だけを変えて使うという例も増えた。例としては、モリサワのフォントリュウミンの仮名を「リュウミン オールドかな」に置き換えて使用するものなどがある。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
●写研 1
東京都豊島区南大塚に本社を置く、写真植字機・専用組版システムの製造・開発、書体の制作およびその文字盤・専用フォント製品を販売する企業である。
星製薬を退職して写真植字機の実用化を目指していた石井茂吉と森澤信夫が2台目の試作機を完成させた1926年11月3日、石井の自宅を所在地に設立した写真植字機研究所を由来とする。1929年には最初の実用機の販売を開始。戦後1948年に一時的に復帰していた森澤が写研を再度離れ、新たに「写真植字機製作株式会社」(現・モリサワ)を設立したのちも、高度成長期の印刷需要急伸に伴う写真植字の急速な普及の波に乗り、先進的な写真植字機と高品位の書体が評価されて写真植字のトップメーカーに成長した。
1963年の石井茂吉没後、半世紀以上にわたって社長として君臨した三女の石井裕子(1926年9月28日 - 2018年9月24日)のワンマン経営のもと、写植全盛期の1980年代半ばには関東で8割、関西で6割の書体占有率を誇り、当時の価格で手動写植機が1台1000万円、電算写植機が1台数千万円から1億円余(SAPTRON-APS5H、1981年)と同業他社に比べても割高で、さらに組版から出力までの専用機器一式を販売するごとに億単位の売上を確実に得られる自社機器の販売で年商は300億円を超え、従業員は1200人を超える大手企業となった 。
しかし1990年代、写植にない操作性の良さと低コストで広く普及したMacintoshによるDTPには背を向け、印字1文字ごとにユーザーから使用料を徴収でき、高額な自社製機器販売による売上が見込める自社固有の電算写植システムに固執したため業績は急激に悪化。過去の利益を蓄えた数百億円に上る多額の内部留保金を温存したまま、2003年以降、大きく事業規模を縮小した 。
活字時代のモトヤ出身で1963年から30年余にわたり文字制作責任者として写研の数々の書体の制作や監修を手掛け、のち活字メーカーを母体とするイワタエンジニアリング(現・イワタ)で現場指導にあたり同社を国内有数のデジタルフォントベンダーの1社に育てた書体設計士橋本和夫(イワタ顧問)のほか、写研を代表する装飾書体「スーボ」を生み、のちに字游工房社長として「ヒラギノ明朝体」(1993年)などを送り出した鈴木勉(1998年没)や、今田欣一(欣喜堂)、小林章(独モノタイプ)など、現代のデジタルフォント環境に貢献する著名な書体デザイナーを輩出したことでも知られる。

 
歴史
   1970年代
長く活字組版の効率性を越えることができず、主に端物用として扱われた手動写植機の欠点をコンピュータで補うことで、本文組を活字から奪うことを目指した写真植字機「電算写植」は、高額な設備投資がユーザーに可能であった高度経済成長の追い風のもと、写研の「SAPTON」システムが牽引する形で、大手の新聞社や出版社、印刷会社を顧客の中心として1970年代から普及が本格化。「写植」は登場から半世紀を経てようやく組版の主役となったが、地方の印刷会社では経営規模に比べ負担があまりにも過大なため、1971年の長野県を皮切りに、複数社が共同で資金を出し合って電算写植システムを共有する「電算写植協同組合」が設立されるほど、多額の費用を写植機メーカーに支払う必要があった。
   1980〜1990年代
1980年代、米国のベンチャー企業アドビシステムズ(現・アドビ)は、パーソナルコンピュータで日本語組版を行うDTP環境構築に不可欠な日本語PostScriptフォントの制作を目指していた。アドビは1986年、国内トップメーカーであった写研に提携を持ち掛けたが、絶頂期にあった写研はこれを拒否。最終的にアドビは業界2位のモリサワと提携し、1989年、モリサワの「リュウミンL-KL」および「中ゴシックBBB」をPostScriptフォント化して搭載したプリンター「LaserWriter II NTX-J」がアップルコンピュータジャパンから発売された。これは1990年代以降の急速な日本語DTP普及の端緒となった。
一方、そのころの写研は電電公社民営化(1985年)に伴う電話回線のデータ通信端末機器開放を受け、1987年以降、各出力装置を電話回線で写研のサーバと結び、印字1文字ごとにフォントレンタル料を徴収する従量課金制を導入。この課金徴収システムの整備と、高額な電算写植機の製造販売で、1991年には年間売上が過去最高の350億円に達した 。
しかしバブル崩壊の中、関連機器を含めた一式の導入に安くても数千万円から億単位の投資が避けられない電算写植に比べ、圧倒的に低コストで設備を整えることができ、機器操作専門のオペレーターを介することなくデザイナー自身の手による効率的な作業が可能で、フォントを買い切るためランニングコストも低いという数々の利点を持つDTPは、その標準プラットフォームとなったApple製パーソナルコンピュータ「Macintosh」とともに急速に普及し、写研の業績は瞬く間に悪化した。
写研はフォントレンタル料徴収に加え、組版データをPDF出力する新機能にも従量制の高額な使用料を課すなどして売上維持を図ったが、ユーザーの写植離れとMacintoshへの移行の流れはとどまるところを知らず、1998年には売上175億円の写研に対し、PostScriptフォント事業に注力するモリサワが売上187億円となり、モリサワが年商ベースで写研を抜いた 。
   書体制作部門の混乱
この間、1989年には鈴木勉や小林章など、文字開発部の主力デザイナーが一斉に退社し、その後も1990年代末にかけてデザイナーの退社が相次いだ。
創業者石井茂吉の三女で1963年からワンマン経営を続けていた社長の石井裕子自身は、没するまで書体制作には一度も携わったことはなかったが、文字開発のデジタル化に伴いワークステーション上での原字修整作業を可能にしたいとする文字開発部の要望を拒否し、デジタル化した原字データを再度アナログ出力し手作業で修整する従来の工程厳守を命じた。創業70周年の1995年に向けて開発中だった本蘭ゴシックファミリーは、石井の要求でデザインコンセプトの大変更を余儀なくされたことも重なり、70周年には間に合わなかった。石井はまた、この時期に提案された写研書体の自社システム以外での使用開放案も却下した 。
   2000年以降
写研は2000年、電算写植システム専用の新書体として本蘭ゴシックファミリーを当初の予定から5年遅れで発表したが、結果としてこれが写研最後の新書体となった。売上は対前年比で毎年約10〜30%の落ち込みが続いたため、2003年に早期退職募集を行った結果、組版システム開発にあたるソフト開発部門は56人から3人、製品販売を手掛ける営業部門は46人から1人にそれぞれ激減し、事業体制は零細・小企業並みの規模に転落した。
2006年の売上は機械販売5500万円、機械付属品販売1億4800万円、売上全体の7割を占めるフォントレンタル収入も9億1700万円にとどまり、年商規模は1990年代末のおよそ10分の1となったが、写研の本来の事業とは無関係なアルバイト程度の内職仕事を社外から集め職場で従業員に従事させながらも、企業として目立った事業展開は行わないまま、最盛期に蓄えた400億円を超す内部留保だけは取り崩さず堅持するという異様な経営を続けた。2007年7月時点の従業員数は109人で、うち工場所属は40人(埼玉工場30人、川越工場10人)、地方営業所所属は9人と、最盛期の10分の1以下となり、まもなく100人を割り込んだ。高齢化も進み、同年5月現在で従業員全体の7割以上が50歳以上であった 。
以後、パーソナルコンピュータによる各種出力が一般化し、機器老朽化や写植用印画紙の供給終了(2013年10月)などによる既存写植機との置き換えが進んだことで、一般商業印刷、放送業界におけるテレビ番組のテロップ、各種屋外掲示物などで広く使われてきた写研書体のほとんどは姿を消した。
2018年、半世紀以上にわたり代表取締役社長の座を占めた石井裕子が在任のまま92歳で死去した。後任社長には資産管理を行っている顧問税理士で取締役の南村員哉が就任し、閉鎖状態となっていた旧工場などの遊休地処分をただちに開始した。同年には旧川越工場(埼玉県川越市)の施設を解体して鶴ヶ島市内の所有地と合わせて住友商事に売却し、同社運営の物流施設「SOSiLA川越」(2019年2月竣工)が進出。2020年には旧埼玉工場(埼玉県和光市)も写研が発注者となって解体工事を開始した。跡地は食品スーパーのヤオコーへ賃貸され、2021年10月にヤオコーが管理・運営する商業施設「the marketplace 和光」となった。2020年8月には南村に加え、前年7月に取締役に加わったばかりの笠原義隆が代表権を取得し社長に就任した。
 
 
写研書体の「OpenTypeフォント化」
写研は2011年7月、東京ビッグサイトで開かれた「第15回国際電子出版EXPO2011」に出展。従来の方針を大きく転換し、OpenType化した「写研フォント」を年内をめどにリリースすると石井裕子社長名で発表した。写研はこの時点でOpenType化作業は終了しているとして、会場ではどの書体からリリースするべきかのアンケートを行うとともに、印刷業界におけるプロユースを念頭に、Adobe InDesign CS5上での組版やiPadでの電子書籍閲覧などで写研フォントを用いるデモンストレーションを行い、大きく注目された。価格は未定で、電算写植機用デジタルアウトラインフォント(Cフォント、タショニムフォント)で存在する全書体を予定していた 。
しかしOpenType化の元データとなったCフォントやタショニムフォントは、1980年代初頭の古い技術と設計水準で製作されたもので、各社の現行デジタルフォントに比べ、原字に対するアウトラインの精度が低かったため、写研は1文字ずつデータを修整する作業に着手せざるを得なくなり、2011年末を過ぎても販売時期未定の状態が続いた 。
さらに写植時代の既存文字だけではAdobe-Japan1-3(OpenType Std)相当にしかならない問題があり、写研が印刷業界の自社ユーザーに聞き取りを行ったところ、最低でもAdobe-Japan1-4(OpenType Pro、2000年3月発表)以上を必要とする現代の商業印刷では、プロユースに用いるには難しいとの指摘がなされた。印刷業界が求めるAJ1-4以上にするには、写植時代にはなかった不足分の文字を各書体ごとに新しくデザインする作業が避けられない一方、写研から書体開発のデザイナーたちが去って既に10年あまりの年月が経過しており、結局2016年ごろを最後に「写研フォント」を提供しようとする動きはいったん途絶えた。
   モリサワとの共同事業へ
2021年1月18日、モリサワは写研社長・笠原義隆およびモリサワ社長・森澤彰彦の双方のコメントとともに、両社共同事業として写研書体のOpenTypeフォント開発を進めることに合意したと発表した。手動写植機試作1号機開発中の1924年に石井茂吉と森澤信夫が行った邦字写植機特許申請100周年に当たる2024年から順次提供するとしている 。
書体開発はモリサワと同社子会社の字游工房が共同で行い、写研出身の書体設計士、鳥海修(字游工房)が全体監修を行う。クラウド型フォントサービス「Morisawa Fonts」で2024年に提供する予定の書体は、『石井明朝』ファミリー(「ニュースタイル」および「オールドスタイル」、ウェイト各4種)と『石井ゴシック』ファミリー(ウェイト5種)の計13書体としている 。
 
 
自社公式サイトの開設
写研は1990年代初頭に一時自社ドメイン"SHA-KEN.CO.JP"を取得したものの、更新手続きを行わず1993年に日本ネットワークインフォメーションセンター(JPNIC)によって削除された。その後21世紀に入っても長く公式サイトが存在しない状態が続いていたが、石井裕子没後の2019年7月19日に"SHA-KEN.CO.JP"を再取得。同ドメインによる自社公式サイトを2021年3月8日に初めて開設し、同年5月26日には過去に発表した自社書体や歴史を紹介する「写研アーカイブ」を公開した。
 
 
不祥事
1998年(平成10年)、写研は所得隠しと粉飾決算の疑いで国税庁の査察を受け、社内の地下金庫で同庁の査察史上前例のない現金約85億円と割引金融債約25億円が一度に見つかったことが1999年(平成11年)1月に明らかになった 。
写研は高額な電算写植機の販売が急伸していた1975年(昭和50年)ごろから1988年(昭和63年)にかけて、自社の取引のほとんどを現金や小切手で行っていたことを利用し、営業部門の売上から取り除いた現金を毎年10億円前後、経理担当幹部が地下倉庫の金庫に運び込み、裏金として蓄財していた。さらに急速な業績悪化が始まった1992年(平成4年)からは、赤字決算を避けようと、裏金を年間5、6億円程度経理に戻し、高いもので一式の価格が1億5000万円の印刷機器などを販売したことを装い、架空の利益を計上して決算を粉飾していた 。
発覚時点で脱税に関しては時効が成立していたため、国税庁は発見された現金等を会社資産として繰り入れるよう指導するとともに、割引金融債の時効内の利息分に対してのみ追徴処分をとった 。
 
 
代表的な製品
   特徴
写研は「美しい組版のために文字(書体)と組版機器・ソフトウェアを切り離すことはできない」とうたい、両者を抱き合わせた形態でしか販売しなかった。
   タショニムコード
写研システムでは書体を「MMAOKL」「MNAG」などの、アルファベット数文字の記号「タショニムコード」で管理した。「多書体をニモニック化してコードで分類したもの」の意であった。基本的に明朝=Mやゴシック=Gなどの略語表記と、それぞれのフォントファミリーにおけるウェイト(文字の太さ)、仮名のスタイル(NKS=ニュースタイルかなスモール、OKL=オールドスタイル[築地体ベース]かなラージ)などで構成されるため、規則性を理解すれば直感的に把握しやすかった。
   デジタルフォント
光学式印字では印字速度に限界があるため、電算写植では1977年のSAPTRON-APS5型から、装置内部に組み込んだ印字用小型CRTにフォントのデジタルデータを表示して印画紙に焼き付ける方式になった。当初は精密ビットマップフォントが使用されたが、1983年のSAPLS-N型で、のちのDTPにおけるデジタルフォントと同様に文字の輪郭情報を利用したアウトラインフォントが導入された。これはCフォントという独自形式のフォントで、文字コードは独自のSKコード(SK72/78の2種。違いは同一コード間でのグリフの違い)で管理され、約2万字を包括した。体裁制御コマンドによるテーブルを介した書体指定を行う関係上、同一画面上で使用できる書体数に制約があったが、1993年にはタショニムコードで直接書体を指定することで同一画面上で100書体まで使用可能にした「タショニムシステム」が登場し、同システムに対応するアウトラインフォントを「タショニムフォント」と呼称した。Windows NT上で動作する写研の専用組版システムSingis(シンギス)にはIllustratorやPhotoshopもインストールされていたが、写研のアプリケーション以外からCフォント・タショニムフォントを使用することはできなかった。
   SAPCOL
写研の電算写植機では SAPCOL(サプコル)と呼ばれるページ記述言語を用いた。日本語組版に最適化されたもので、出版社ごとに異なる複雑な組版規則(ハウスルール)にも対応できた。1969年にミニコン上で編集処理をするために作られたソフトウェアを30年にわたって更新して構築したプログラムで、「究極の組版プログラム」とも呼ばれた。DTPで主流を占めるPostScriptはデータの後に命令を記述する形式だが、SAPCOLは「ファンクションコード」というコマンド文字で組版情報を設定しテキストデータと混在させるマークアップ方式となっている。ただしPostScriptと異なり、プログラム言語に不可欠な繰り返し処理や変数/関数定義などの機能は持っておらず、任意の値を相対的に変化することはできない。この点ではSAPCOLは柔軟性に欠け、手作業に代わってパーソナルコンピュータなどでファンクションコードを自動挿入するプログラムを組む例がよく見られた。
   システムの独自性
写研の電算写植システムは、そのほとんどが独自仕様であり、DTPシステムとはデータの互換性がほとんどなかった。1990年代からしばらくの間は、まだ写研書体に対する需要が高かったため、他社の電算写植やDTPで組版したデータを写研の出力機で印字できる形式に変換する他社製のコンバータソフトウェアが用いられた。当時のDTPにおいて多用されていたQuarkXPressにも、XTensionとして組み込めるコンバータが存在した。
   手動写植機
試作1号機(1925年)
試作2号機(1926年)
実用機(1929年)
タイトル専用機(1931年)
石井式写真植字機(A型、1936年)
石井式二六〇四年型(SK-1型、1943年)
MC型(1950年)
   SK型
SK-2型(1954年)
SK-3型(1955年)
SK-3R型(1957年)
SK-4型(1957年)
SK-4E型(1958年)
SK-T1型(1959年)
SK-3RY型(1960年)
SK-16TV型(1961年)
   SPICA型
SPICA-S型(1963年)
スピカテロップ(1964年)
SPICA-L型(1965年)
SPICA-Q型(1966年)
SPICA-AD型(1968年)
SPICA-QD型(1969年)
SPICA-A型(1973年)
SPICA-AP型(1975年)
SPICA-APU型(1976年)
SPICA-AH型(1979年)
   PAVO型
PAVO-8型(1969年)
PAVO-9型(1981年)
PAVO-10型(1981年)
   Jシリーズ 中級機種。
PAVO-J型(1969年)
PAVO-JP型(1977年)
PAVO-JL型(1979年)
PAVO-JV型(1979年)
   Kシリーズ 多機能上位機種。
PAVO-K型(1973年)
PAVO-K2型(1977年)
PAVO-K6型(1977年)
PAVO-K3型(1978年)
PAVO-KL型(1979年)
PAVO-KS型(1981年)
PAVO-KV型(1983年)
PAVO-KVB型(1983年)
PAVO-KY型(1987年)
   Bシリーズ ビジネスフォーム用。
PAVO-B型(1975年)
PAVO-B2型(1978年)
PAVO-BL型(1981年)
   Uシリーズ 新聞組版用。
PAVO-U型(1971年)
PAVO-KU型(1975年)
PAVO-UP型(1979年)
   電算写植機
   SAPTONシリーズ
SAPTON試作機(1960年)
SAPTON-F(1962年) - 防衛庁向け乱数表作製用数字専用機。
SAPTON-N3110(1965年) - 初の実用機。新聞棒組用。共同通信統一文字コードCO-59を採用。1967年に朝日新聞北海道支社に続き2番目に導入した佐賀新聞社では1968年3月5日付紙面で日本初の日刊紙全面写植化と活字全廃を達成。
SAPTEDITOR-N(1966年) - SAPTON-N用新聞用さん孔テープ編集機。記事オリジナルテープと赤字訂正指令テープを読み取り、編集組版処理済みの紙テープを出力。
SAPTON-P(1968年) - 一般印刷用棒組全自動写植機。1号機は出版社ダイヤモンド社に納入。
SAPTEDITOR-P(1968年) - SAPTON-P用さん孔テープ編集機。
SAPTON-H - 新聞見出し作成用。
SAPTON-A5260/A5440(1969年) - 一般印刷用棒組専用機。従来のさん孔テープの代わりにDEC社製ミニコンピュータPDP-8を使用した編集組版用ソフトウェアSAPCOL-D1と組み合わせて使用。
SAPCOL-D1 - 一般印刷用組処理ソフト。
SAPTON-N5265(1970年) - 新聞棒組用。新聞用組処理ソフトSAPCOL-D3と組み合わせて使用。
SAPCOL-D3 - 新聞用組処理ソフト。
SAPCOL-D5 - 一般印刷用組処理ソフト。
SAPCOL-H6 - 一般印刷用組処理ソフト。
SAPCOL-H3 - 新聞用組処理ソフト。
SAPTON-N12110(1972年) - 新聞棒組専用、初のスタンドアロン型(ハードウェアを標準化し、ミニコンピュータSAILACで顧客毎のカスタマイズを行う方式)。小型化・低価格化目指す。
SAPTON-N7765(1972年) - 新聞用スタンドアロン型。
SAPTON-Spitsシステム(1972年) - 一般印刷用スタンドアロン型。全自動写植機で初めてページ組版に対応。
SAPTON-Spits7790 - 感材のロールバック機構を搭載し任意の位置への印字、スポット罫引きが可能に。
SAPCOL-HS - ページ組処理ソフト。HITAC-10を使用。日本語組版のJIS規格化の基本となった。
SABEBE-S3001 - Spitsシステム用漢字さん孔機。「一寸ノ巾式左手見出しキー」を採用。
SAPTON-NS11(1975年) - 新聞用。赤字訂正処理機能付。搭載ミニコンをHITAC-10Uに変更。
SAPTON時刻表組版システム(STC、1976年) - 日本交通公社向け。
SAPTON-NS26D(1977年) - 新聞用。共同通信文字コードCO-77に対応。
SAPTON-Somanechi6812(1977年) - 一般印刷用。
SAPNETS-N(1977年) - 新聞用編集・校正・レイアウトシステム。校正用のVDT表示用文字発生装置搭載。
SAPTON-NS26DF(1981年) - 新聞用。SAPTON-NS26Dにデータ入出力用フロッピーディスクを使用できるようにした。
SAPTON-Somanechi6812S(1981年) - 一般印刷用。SAPTON-Somanechi6812にデータ入出力用フロッピーディスクを使用できるようにした。
   SAPTRONシリーズ 高解像度のCRT上に文字を出力して感材に露光する方式で印字高速化。
SAPTRON-G1(1977年) - 文字円盤を投影するアナログフォント方式CRT写植機。新聞用。
SAPTRON-APS5(1977年) - 米オートロジック社のAPS5型CRT写真植字機を和文仕様にしたビットマップフォント投影のデジタルフォント方式CRT写植機。
SAPTRON-G8N/G8S(1979年) - 8書体搭載アナログフォント方式CRT写植機。
SAPTRON-APS5H(1981年) - 文字記憶方式を改良して印字速度毎分1万3200字を実現した超高速CRT写植機。価格1億300万円。
SAPTRON-APSμ5(1981年) - APS5型の印字速度を毎分3000字にスペックダウンして価格を下げたCRT写植機。価格は棒組仕様が6000万円、台ページ組仕様が7000万円。
SAPTRON-Gelli(ジェリー、1983年) - 計測機器用5インチCRTを使用した写研独自方式のデジタルCRT写植機。
SAPTRON-APSμ5S(1983年) - 編集組版用ミニコンピュータとAPSμ5を一体にしたスタンドアロン型CRT写真植字機。
SAPGRAPH-L(1983年) - APS5/APSμ5/APSμ5S用図形入力サブシステム。
SAPTRON-Gimmy S1040/SS1040(1985年) - SAPTRON-Gelliをベースに投影フォントをビットマップからCフォントに変更。一般印刷用。
SAPTRON-Gimmy N1440/N1425(1985年) - Gimmy S1040の新聞用Cフォント出力機。
SAPGRAPH-L61(1985年) - CCDスキャナ実装などSAPGRAPH-L改良の図形入力サブシステム。
SAPGRAPH-G(1987年) - 写真画像を扱えるようにした図形入力サブシステム。
   SAPLSシリーズ アウトラインフォント(1985年、Cフォントと命名)を搭載しレーザーで感材に露光する方式で文字画像を一括出力するイメージタイプセッター(製版機)。
SAPLS-N(1983年)
SAPLS-Laura/Michi(1987年) - SAIVERT-H202用出力専用機。
   SAIVERTシリーズ SAPNET-NをベースにほぼWYSIWYGを実現したレイアウトターミナルで、出力機として校正用プリンターSAGOMESシリーズやイメージタイプセッターSAPLSシリーズが別に必要。印画紙出力に近いイメージを画面表示することができた。ページ物向きとされたSAIVERT-SとSAIVERT-P、端物を主に扱う単ページ用のSAIVERT-Hがあった。
SAIVERT-N(1983年) - 表示用20インチCRTを搭載した新聞用校正編集レイアウトターミナル。
SAIVERT-S(1984年) - 表示用15インチCRTを搭載した一般印刷用レイアウトターミナル。
SAZANNA-SP313(1985年) - 文字入力とともに組上がり状態が確認できる組表示付入力校正機。SAPCOL-HSやSAIVERT-S用テキストデータを出力。
SAIVERT-H101(1985年) - 出力用Cフォントを使用し,出力時と同じ体裁をCRT画面上に表示する端物用レイアウトターミナル。
SAIVERT-H202(1987年) - レンタルの30書体フォントパックを搭載し初めて印字の従量課金制を導入したレイアウトワークステーション。レーザー出力専用機SAPLS-Laura/Michiと組み合わせて運用。
SAIVERT-P(1989年) - 作図機能や画像入力編集機能などを追加し表示組版可能文字サイズを拡張。
   SAMPRASシリーズ 
SAMPRAS-C(1997年) - WYSIWYGレイアウトアプリケーション。価格780万円。出力機が別に必要。ハードディスクドライブ全体のファイル検索といった基本操作ができないなどの制約があった。日立製ワークステーションで稼働。
   Singis
Singis(シンギス、2000年) - 写研写植機の事実上の最終機種。出力機が別に必要。カラー対応、多ページ対応。メイン21インチCRTディスプレイのほかに、パレット類表示用15インチ液晶ディスプレイを標準装備する。写研機ではじめて一般的なPC/AT互換機(日立FLORA)をベースマシンとして採用し、Windows NT上で動作するソフトウェアとなった。価格500万円。PC用の画像データ取り込み用にAdobe Illustrator9.0とAdobe Photoshop5.5も搭載。
   TELOMAIYER 放送用電子テロップ送出装置。
TELOMAIYER-T(1983年) - 初代テロメイヤ。ディスプレイを用いてレイアウトを行い、画像メモリに蓄積したデータを黒地に白文字の感熱紙に出力。
TELOMAIYER-TG(1985年) - テロップカード出力のほか、ビデオ出力にも対応。
TELOMAIYER-C(1989年) - PC-9800シリーズ上で稼動し、感熱紙プリンタ・スキャナが接続可能。Cフォント搭載。フォントデータは1書体35万円。
TELOMAIYER-C1 - 日立製ワークステーションで稼動。使用フォントに制約があるCフォントに代わりタショニムフォント搭載。
TELOMAIYER-C1 HD - C1のSD画質をアップコンバートすることでHD出力に擬似的に対応したもの。
   書体
写研は、自社製品対応書体のほとんどを社内で設計・開発した。活字に比べ写植文字盤は1書体あたりの専有面積が少なく、字数が多い日本語でも多くの書体を扱うことが可能となったため、同社では積極的に新書体を開発した。1969年には賞金100万円(第1回当時)の石井賞創作タイプフェイスコンテストを設けて開発を奨励。ゴナやスーボ、ナール、ボカッシイなど、ユニークかつ完成度の高いデザイン書体が多く発表された。
写研の主な和文書体の発表年は次の通りである。
1932年 - 石井太ゴシック、石井楷書
1933年 - 石井中明朝
1937年 - 石井ファンテール
1951年 - 石井細明朝
1954年 - 石井中ゴシック
1956年 - 石井中丸ゴシック
1958年 - 石井細丸ゴシック、石井太丸ゴシック、石井中教科書
1959年 - 石井太明朝、石井横太明朝、石井太教科書
1960年 - 石井特太明朝、石井細教科書
1961年 - 石井特太ゴシック
1964年 - 新聞特太明朝、新聞特太ゴシック
1967年 - 岩田新聞明朝(岩田母型製造所原字提供)
1968年 - 岩田細明朝、岩田太ゴシック(岩田母型原字提供)
1970年 - 石井中太ゴシック、岩田新聞ゴシック(岩田母型原字提供)
1972年 - 曽蘭隷書、ファニー
1973年 - ナール
1974年 - スーボ、ナールD
1975年 - 本蘭明朝L、大蘭明朝、石井新細ゴシック、ゴナU、ナールL、ナールM、ナールO、岩蔭行書
1976年 - スーボO
1977年 - ナールE
1979年 - ゴナE、ゴナO、スーシャL、スーシャB、淡古印
1981年 - 秀英明朝(大日本印刷原字提供)、石井中太ゴシックL、ゴナOS、ゴーシャE、ファン蘭B、けんじ勘亭
1982年 - ゴーシャO、ゴーシャOS、ファン蘭O、ファン蘭OS、イナブラシュ
1983年 - ゴナL、ゴナM、ゴナD、ゴナDB、ゴナB、ファン蘭E、ボカッシィG、岩陰太行書、ナカフリーL、ナカフリーB、イノフリー
1984年 - スーボOS、織田特太楷書、イダシェ
1985年 - 本蘭明朝M、本蘭明朝D、本蘭明朝DB、本蘭明朝B、本蘭明朝E、本蘭明朝H、ゴナH、ゴナIN、ミンカール、カソゴL、紅蘭細楷書、紅蘭中楷書、茅楷書、茅行書、織田勘亭流、鈴江戸、イナひげ、イボテ、ナミン
1987年 - ナールDB、創挙蘭E、ナーカン
1989年 - ゴーシャU、曽蘭太隷書、イナクズレ、イナミンE、いまりゅうD
1991年 - キッラミン、けんじ隷書、ナカゴしゃれ、ナカミンダB-S、ナカミンダB-I
1993年 - 爽蘭明朝、創挙蘭L、創挙蘭M、創挙蘭B、今宋M、イナピエロM、イナピエロB、イナピエロU-S
1995年 - ナールH、ナールU、いまぎょうD
1996年 - 石井中少太教科書、石井中太教科書
1997年 - ゴカールE、ゴカールH、ゴカールU、スーシャH、横太スーシャU、ゴーシャM、はせフリーミンB、はせフリーミンE、はせフリーミンH、紅蘭太楷書、紅蘭特太楷書、田行書、けんじ特太隷書、ナカミンダM-S、ゴナラインU
2000年 - 本蘭ゴシックL、本蘭ゴシックM、本蘭ゴシックD、本蘭ゴシックDB、本蘭ゴシックB、本蘭ゴシックE、本蘭ゴシックH、本蘭ゴシックU、イダサインM
※書体名は2001年時点の呼称。当初、本蘭明朝Lは「本蘭細明朝」ファミリー展開前は、ゴナUはゴナ、創挙蘭(現在の創挙蘭E)などはウェイト表示のないものとしてリリースされた。
 
 
沿革
1924年 - 石井茂吉、森澤信夫により写真植字機が開発される
1926年 - 写真植字機研究所設立。東京都北区堀船町に本社を置く。
1944年 - 東京都豊島区巣鴨(現南大塚)に移転。
1948年 - 森澤信夫、同社を離脱し写真植字機製作株式会社を設立(のちのモリサワ)
1950年 - 株式会社写真植字機研究所に改組。
1963年 - 石井茂吉の三女・石井裕子が社長に就任。
1972年 - 株式会社写研と改称
2018年 - 石井裕子が社長在任のまま死去。後任として南村員哉が就任。
2020年 - 南村員哉が会長に就任、同時に笠原義隆が社長に就任。  
 
 
 
 
 
●写研 2  
ことばを文字にするとき、その伝わりかたは文字のかたち=書体によって大きく変わります。株式会社写研は、90年を超える長い時間のなかで、ことばの表現力をより豊かなものにするために、数多くの書体を世に送り出してきました。写真植字のために作られた確かな品質、時代のデザインを作り上げた多様なバリエーションは、日本の文化、日本語の表現のなかで今なお息づいています。そしていま、写研の文字は、次の未来へ。
企業理念
“愛のあるユニークで豊かな書体”で社会に貢献する
会社概要
商号 株式会社写研
創業 1926年(写真植字機研究所)
設立 1950年(株式会社写真植字機研究所)
   1972年(株式会社写研に名称変更)
資本金 97,200千円
本社所在地 東京都豊島区南大塚二丁目35番2号
代表取締役会長 南村員哉
代表取締役社長 笠原義隆
事業内容 デジタルフォントの開発及び販売、不動産賃貸及び管理
沿革
1924年(大正13年) 石井茂吉、森澤信夫⽒と邦⽂写真植字機の特許を出願
1925年(大正14年) 写真植字機試作第一号機発表
1926年(大正15年) 写真植字機研究所を創設
1936年(昭和11年) 石井式写真植字機の販売を開始
1950年(昭和25年) 株式会社写真植字機研究所を設⽴し石井茂吉が社長就任
1952年(昭和27年) 石井茂吉「諸橋大漢和」原字制作開始 「藍綬褒章」受章
1956年(昭和31年) 電算写植機「SAPTON」開発開始
1960年(昭和35年) 石井茂吉「諸橋大漢和」書体完成 「菊池寛賞」受賞
1963年(昭和38年) 石井茂吉逝去、石井裕子社長就任
1965年(昭和40年) 電算写植機「SAPTON-N」発表
1970年(昭和45年) 第1回⽯井賞創作タイプフェイスコンテスト開催
1972年(昭和47年) 株式会社写研に社名変更 第1回「漢字読み書き大会」開催
1983年(昭和58年) 石井裕子「藍綬褒章」受章
1985年(昭和60年) つくば万博に写研ブースを出展
1988年(昭和63年) レンタルフォントパック販売開始
1991年(平成3年) 「漢字読み書き大会」20回開催で幕、翌年から「日本語と遊ぼう会」へ
1996年(平成8年) 多書体対応のレンタルフォントパック「Nパック」販売開始
2004年(平成16年) 「文字の生態圏カレンダー」で石井裕子と杉浦康平氏が連名で「佐藤
           敬之輔賞」受賞
2018年(平成30年) 石井裕子逝去、南村員哉社長就任
2020年(令和2年) 南村員哉会長就任、笠原義隆社長就任
     埼玉工場を取り壊し、跡地を大手食品スーパー・株式会社ヤオコーへ賃貸開始
2021年(令和3年) 株式会社モリサワとのOpenTypeフォント共同事業を発表
2023年(令和5年) 新本社ビル竣工、2〜3階に本社を移転
     4〜10階を学生寮運営会社へ賃貸開始    
 
 
 
 
 


2023/12

 

   あいうえお

   かきくけこ

   さしすせそ

   たちつてと

   なにぬねの

   はひふへほ

   まみむめも

   やゆよ

   らりるれろ

   わゐゑを