因果応報

因果 応報

無事に今がある
大きな間違い 悪いこと  無かった しなかった やらなかった 
当たり前 普通の生き方 
世間の常識 持ち合わせていました

若いとき 一時仕事は営業マン
お客獲得 新規開拓
競争相手の営業マン よく引きずり下ろしました
社内評価 勝ち取る
サラリーマン 結果が全て

古臭い言葉 「因果 応報」 思い出す

 


因果応報1因果応報2因果応報3因果応報4因果応報5・・・
因果因果の道理親の因果が子に報う「因果」のイメージ・・・
 
 
 
 
 

 

●因果応報 1
1 人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。仏教語。行為の善悪に応じて、その報いがあること。現在では悪いほうに用いられることが多い。「因」は因縁の意で、原因のこと。「果」は果報の意で、原因によって生じた結果や報いのこと。
2 人の行いの善悪に応じてその報いも善悪にわかれるということ。注記仏教のことばで、「因果」は、因縁(原因)と果報(報い)。ある原因のもとに生じた結果・報いの意。一般には、悪い行いに対する悪い報いの方をいうことが多い。
3 善悪の因縁に応じて吉凶禍福の果報を受けること。善因には富楽などの善果を受け、悪因には貧苦などの悪果を受けること。現在では悪因悪果にかたよった意味に用いることが多い。
4 仏語。前世あるいは過去の善悪の行為が因となり、その報いとして現在に善悪の結果がもたらされること。
5 仏教で、前世やその人の過去の行いが原因で、さまざまの結果を報いとして受けること。
6 仏語。善悪の因縁に応じて吉凶禍福の果報を受けること。善因には富楽などの善果を受け、悪因には貧苦などの悪果を受けること。現在では悪因悪果の意で用いることが多い。因果報応。
7 仏教用語。原因としての善い行いをすれば、善い結果が得られ、悪い行いは悪い結果をもたらすとする。善因善果、悪因悪果、三世因果などと表現される。
8 仏教語で、因果報応ともいう。善悪の原因があれば必ずそれに相応する楽苦の結果のあることをいう。ことばとしては《大唐慈恩寺三蔵法師伝》に見える。仏教の基本的考えである因・縁・果・報の認識をもとに、宗教的達成をめざすための教えであるが、結果的には勧善懲悪的な役割を果たした。早くから、仏教が日本人に教えたことであったが、平安時代初頭の《日本国現報善悪霊異記(日本霊異記)》にはこれが横溢している。この教えのすこぶる普及したことは、多くの因果応報説話によっても知られる。
因果応報の例文
・・・ すると人はきっと何かしら神秘的な因果応報の作用を想像して祈祷や厄払いの他力にすがろうとする。国土に災禍の続起する場合にも同様である。しかし統計に関する数理から考えてみると、一家なり一国なりにある年は災禍が重畳しまた他の年には全く無事な回り合・・・ 寺田寅彦「天災と国防」
・・・ 月日を経るに従い、これぞまさしく因果応報の戒めなるべくやと、自然に観念いたすように相成り申し候。・・・ 永井荷風「榎物語」
・・・ もとより、私は因果応報を信じない。厄日や家相などというものを信じない・・・ 檀一雄「波打際」
・・・ 後鳥羽院の隠岐へながされたことにふれている部分は、怨霊のおそろしさと因果応報の理を強調するために、あとになって付け加えられたものであって・・・ 花田清輝「小説平家」
・・・ 物語を通じて、仏の功徳、因果応報のことわり、仏教徒として生きる道などを説きました――そういうと、いかにも抹香くさく、形式的な説教集のように思われがちですが、一つ一つのお話が、とてもいきいきして面白いのです!・・・ 田辺聖子「文車日記」
・・・ 鈍おぞくも罠わなに落ちて、この野の露と消えんこと、けだし免れぬ因果応報・・・ 巌谷小波「こがね丸」
類語
悪因悪果・悪因苦果・因果報応・前因後果・善因善果・自業自得・・・
解説
他人にひどい仕打ちをすると、その相手から恨みを買います。恨みを買った結果、その相手からひどい仕打ちを受けます。世の中の原因と結果は、小さな車輪のようにぐるぐる回ります。これが「因果応報」です。
仏教で「因果」とは「原因・結果」のこと。「応報」は「報い」のこと。つまり、「因果応報」とは、「いい原因にはいい結果が、悪い原因には悪い結果が、報いとして現れる」ということです。
古典には、前の世で悪いことをしたために、この世でつらい目にあう話がよく出てきます。これも「因果応報」です。身体的な障害まで前世の行動のせいにされることも多かったのですが、さすがにこれは現代の感覚には合いません。
現代では、自分の行動について、あとで報いを受ける場合に多く使います。たとえば、部下をどなりつけていばっていた上司が、定年後、誰からも連絡をもらえなくなることがあります。これなど、因果応報の典型例と言えるでしょう。
・・・ 仏教の説くこのような因果法則は自然科学的因果法則というよりは、むしろわれわれの行為に関するものである。したがって〈因果応報〉といわれるように、それはわれわれの行為を倫理的に規定する教説である。自己の原因としての業がなんの結果ももたらさないと考え、いかなる道徳的行為をも否定する見解を〈因果撥無の邪見〉とよび、そのような見解をいだく人を、けっして悟りを得る能力のない〈断善根〉の人とよんで強く非難する。・・・
・・・ 行為を意味するサンスクリットのカルマンkarmanの漢訳語。善人も悪人も死んでしまえばみな同じだというのは不公平だという考えをもとに、インドではブラーフマナ文献あたりから因果応報思想が見え始める。それがウパニシャッド文献では、輪廻思想の成立とともに急速に理論化されるにいたった。・・・
・・・ 旧約聖書では律法に対する違犯は律法にもとづいて罰せられるとしたが、新約聖書では、とくに〈最後の審判〉のときに神によって下される永遠の刑罰が重要視された。またインドでは、一般に業(ごう)(行為、カルマン)の理論と因果応報の観念が成立することによって、現世における悪しき行為はそれにふさわしい報い(罰)をうけるという考えが発達し、それが世俗法(《マヌ法典》)と宗教法(仏教の〈律〉)に影響を与えた。仏教においては、姦淫、盗み、殺生(せつしよう)などの罪の種類に応じて教団からの追放、一定期間の懺悔(ざんげ)謹慎、公の場での懺悔告白などの罰則が設けられた。・・・  
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●因果応報 2
因果応報とは
日常生活でもよく耳にする「因果応報」という言葉は、仏教の教えを表す言葉です。一般には、人を騙したり、嘘をついたり、不正をした結果、それが発覚して、処罰を受けるようなことがあると、「因果応報だ」などと使われたりしています。「苦しんでいるのは、自分のやった悪い行いのせいだ」という意味で用いられる場合が多いのですが、本来は、悪い結果に限らず、善い結果も「因果応報」です。
善いのも悪いのも、自分が受ける結果のすべては、自分が作るのだよ、ということを教えられているのが「因果応報」の本当の意味なのです。これが正しく分かれば、毎日の行動に確実に変化が現れ、苦しみの人生も、明るく楽しい人生に好転すること間違いありません。今回は、「因果応報」を正しく理解するためのポイントをお伝えしましょう。
因果応報の「因果」とは
「因果」とは、「原因」と「結果」のことで、「どんな結果にも必ず原因があり、原因なしに起きる結果は一つもない」ということです。事故を報じるニュースで、必ずといっていいほど、「事故の原因を詳しく調査しています」とアナウンサーが語るのも、どんな結果にも、必ず原因があるのが大前提だからです。
ただ、原因が“分からない”ことはあります。例えば、飛行機が墜落して、海底深く沈み、機体を引き上げられない場合は、事故原因を知るのは難しいでしょう。しかしそれは原因が“ない”のではありません。エンジントラブルや機長の操縦ミスなど、必ず何らかの「原因」があって、墜落という「結果」が起きたのです。
大事故ばかりではなく、「携帯電話を紛失した」「段差につまづいて転んだ」など、日常のどんな些細な結果にも、必ず、それ相当の原因があります。「東京駅のホームで、20年ぶりに幼なじみとバッタリ出会った」というような「偶然」と思えることでも、原因がないのではありません。自分では分からないだけで、すべての出来事には原因があり、そういう意味では「必然」だということです。
因果応報の「応報」とは
次に、「応報」とは、「原因」に応じた「報い(結果)」が現れる、ということです。
   まいた種に応じた結果が必ず現れるのが「因果応報」
野菜を育てることで例えてみましょう。カボチャのタネを蒔いたら、カボチャが出てきます。大根のタネを蒔けば、大根が出てきます。カボチャのタネから大根が出てきたり、大根のタネからカボチャが出てくることは絶対にありません。 同じように、原因に応じた結果しか現れないと教えるのが仏教の「因果応報」の教えです。
「そんなの当たり前じゃん!」と思われるかもしれませんが、これは一切の例外を認めません。ですから、私たちの幸福や不幸という「結果」にも、それに応じた「原因」が必ずあるということなのです。
   あなたにとっての「因果応報」
では、私たちの幸福や不幸という「運命」を決める「原因」は、一体何でしょうか。仏教を説かれたお釈迦様は、それは、私たち自身の「行い」だと教えられています。自分のやった「行い」が自分の「運命」を作るのです。
例えば、受験生は、勉強することなしに大学に合格することはありません。大学合格の「結果」は、受験生自身の「勉強」という行為が生み出すものです。お酒を飲みすぎて、翌朝、二日酔いで頭がガンガンするのは、飲みすぎた自分の行為が作り出した結果に違いありません。このように、私たちの身に起きる結果のすべては、自分のやった行為が生み出したものなのです。
次に、行い(原因)と運命(結果)には、どんな関係があるのでしょうか。これについてお釈迦様は、「善い行い」は「善い結果(幸せな運命)」を生み出し、「悪い行い」は「悪い結果(不幸や災難)」を引き起こす、と教えられています。これを「善因善果、悪因悪果」といいます。
あくまでも、「行い」に、“応じて”、「運命」は、決まりますから、「善い行い」から「悪い運命」が現れることもなければ、「悪い行い」から「善い運命」が現れることも、ありません。一見すると、「いやあ、正直者がバカを見ることもあるから、例外もあるんじゃないの?」と思えることでも、長期的に見れば、すべて「善因善果」「悪因悪果」にしかならないのです。
因果応報は不幸な時に限定されません。幸せも因果応報です
一般に、「因果応報」という言葉は、悪事を重ねて事業に失敗した時などに使われますが、「因(行い)」には、「悪い行い」だけでなく、「善い行い」もありますので、「善い結果」が現れた時も、「因果応報」といえるのです。「飽くなき研究心で、実験を何千回も繰り返し、ついにノーベル賞を受賞した」とか、「社会復帰するためにリハビリを続け、再び歩けるようになった」など、「善い行い」によって「善い結果」が現れた時も、「因果応報」です。
善い運命も悪い運命も、すべて、「自分の行い」に応じて現れた結果であることが分かれば、むやみに人を恨んだり憎んだりすることは、なくなります。
そして、幸せになりたければ、「自分の行い」を変えればいいこともハッキリしますので、自分自身の種まきに、心が向くようになるのです。そうなれば、毎日の行動が変わり、人生も着実に変わっていくでしょう。
時間差に見る「因果応報」
   すぐに結果が出るとは限らない 因果応報の時間差
最後に「結果が起きるのには時間差がある」ということについてお話しいたしましょう。
まず植物で考えてみると、結果が現れるのに時間差があることがお分かりになられると思います。
例えば、モミダネ(原因)は年内に米(結果)となり、実りの秋に刈り取ります。
麦は地域によって差がありますが、9月〜12月の間にタネ(原因)をまき、6月〜8月に収穫(結果)となります。年内ではなく、年をまたぐのですね。
「桃栗3年・柿8年」といわれるように、桃や栗はタネ(原因)をまいてから3年で実り(結果)、柿はタネ(原因)をまいてから約8年(実際は、6、7年といわれる)と、米や麦に比べて結果が現れるまで時間がかかります。
   あなたにとっての因果応報の時間差
私たち人間の場合でもまいた種(行為)が結果を生みだすまでに時間差があります。
もちろんスグ結果が現れる場合もあります。どなったら、どなり返されたとか、殴ったら、殴り返された。 褒めたら、褒め返してもらえた、挨拶をしたら挨拶が返ってきた、など。
しかし、大分時間がかかって結果が現れる場合があります。
地震によって建物が倒れ、何年も前の手抜き工事が発覚したとか、万引き常習犯が、10回目にして捕まるとか、弁護士を目指して勉強し、3回目でやっと司法試験に合格した、などです。
時間に遅い早いはありますが、まいた種はかならず生えます。他人が見ている、見ていないも関係ありませんから、このことを理解し、善い種まきに努めるようにし、悪い種まきはしないよう心掛けていきましょう。
まとめ
・偶然はない。すべては必然
・「私の行い」に応じて「私の運命」が決まる
・不幸も幸福も「因果応報」
・遅い早いの違いはあっても「まいた種は必ず生える」 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●因果応報 3
因果応報とは?
まず、因果応報について、仏教の辞典で見てみましょう。
「因果応報 すべての行為(業ごう)には必ず結果がこたえ報いるということ。原則は、<善因楽果・悪因苦果>であるが、一般には、悪因苦果に関して語られることが多い。結果(果報)そのものの性質は苦楽で、また善とも悪ともいえない行為の結果は不苦不楽とされる。一方、原因となる行為は、伝統的に身体・言語・思考による身口意しんくいの三業さんごうに分類される。また、結果が生じる時期については現世・次世、あるいは第三世以降という三時業の説が広まった。行為そのものの性格づけと、行為がいかに結果をもたらすかについては、部派によって理解を異にした。経量部きょうりょうぶは、行為の潜勢力を種子しゅうじと呼び、それが心と身体の継続(相続)のなかで保持され、果報を生じると説明した。瑜伽行派ゆがぎょうははさらに、すべての種子は識しきの中に薫習くんじゅうされるとし、この識を異熟いじゅく識あるいはアーラヤ識(阿頼耶あらや識)と呼んで、現世および三世にわたる因果応報の理論化につとめた。因果、十善。」
辞典では言葉遣いが難しいので、もっと分かりやすく簡単に解説していきます。
「因果応報」は、約2600年前、ブッダが説かれたことです。
「因果応報」の漢字の意味を説明すると、「因に応じて果が報う」ということです。「因」は原因という意味で、「果」は結果です。つまり「原因に応じた結果を受ける」ということ。因果応報は、因果の道理のことでもあります。因果の道理は下記「仏教の根幹」で説明します。
または「善悪応報」ともいいます。善悪の原因に応じて結果が報いることで、『過去現在因果経』には、こう説かれています。
「一切衆生、善悪の為す所は果報を受くに及ぶ。」 (一切衆生 所爲善惡 及受果報)
すべての人は、善悪の所為によって結果が報うということです。また、『無量寿経』には、こう説かれています。
「善悪報応し、禍福相承かふくあいうく。」 (善惡報應禍福相承)
善悪の報いによって、不幸や幸せを受けるということです。
因果応報は必ずあります。まずは因果応報の実話を紹介します。
因果応報の恋愛での恐ろしい実話
まず、因果応報の恋愛上の恐ろしい実話があります。
外国にいた日本のある美しい女性が、夫が重要な用件で日本に帰った留守中、ある外人と不倫をしたのです。その直後、彼女は子供を宿しました。
「四方壁で誰も見えない所でした行為が3ヶ月後には何かの形をとって必ず世の中に知れる」ということわざもありますので、彼女は内心ばれやしないかと非常に心配していました。
やがて女の子を産みましたが、どう見ても日本人の子供だったので、彼女はやっと安心しました。後は胸のキズさえ包んで黙っていれば、立派な貞女です。
ところがその娘が19才になって、ある秀才と結婚しました。
間もなく産まれてきた孫は、赤い髪に緑色の目、白い肌もどう見ても西洋人でした。
20年間黙り込んでいた悪い行いがあばかれ、貞女の本性が曝露されたのです。
まいたタネは必ず生える、これを「因果応報いんがおうほう」といいます。
千年前からある因果応報の詩
「因果応報」は仏教の言葉ですが、 そのよくある具体例を、中国の有名な詩人、白楽天はくらくてんが詩にしています。白楽天は仏教熱心なことでも有名で、最初、弥勒菩薩みろくぼさつのもとへ往生しようとしていましたが、晩年病気になると、極楽浄土を描かせてすべての人が阿弥陀あみだ如来の浄土へ往生できるよう願ったような人です。
その白楽天の残した「燕の詩」は、このように非常に人の心をゆさぶる詩です。
雄と雌の燕が、軒下に泥で巣を作り、4羽の雛を産みました。日に日に育っていく雛たちは、エサを求めてピーチクパーチク鳴いています。
青虫をとってくるのは簡単ではなく、雛達はどれだけでも食べたがります。親鳥は、くちばしや爪が折れそうになっても、一心にエサを取ってきます。
子供達がお腹をすかせているので30日の間に1000回も往来すると、母親はやせて、子供たちは太っていきます。
親は子供に言葉を教えて、毛づくろいをします。ある日、羽ができたので、庭の枝の上に連れて行くと、子供たちは風に乗って、振り返ることなく四方へ飛び立っていきました。
驚いた両親は、空に向かって鳴きながら、声をからして呼びますが、子供たちは帰りません。親鳥は、空の巣に帰り、夜通し嘆き悲しみました。
燕よ燕、悲しむことなかれ、自分自身を思い返してみなさい。自分が雛だったとき、同じように高く飛び立って、母に背いたのではありませんか。そのときの父母の思いを今日まさに知るのです。
これが燕の詩ですが、これを日本では五・七・五で「親捨てた 報いで子にも 捨てられる」といいます。自分が親を捨てた報いで、自分も子供に捨てられるということです。これは「因果応報」の分かりやすい一例です。
では「因果応報」は、仏教ではどんな意味なのでしょうか?
姑を殺そうとして自分が死んだ嫁
例えば、『雑宝蔵経』にはこのような話が説かれています。
バラモン教を信じている夫婦と老母がありました。美しく、色欲が盛んな嫁は、律儀な姑が目の上のたんこぶでした。何とか亡き者にしようと思いながらも、上辺は姑を大切にします。母親をやさしく世話する嫁に、夫はいつも感謝しました。「そんなに言われたら穴にでも入りたい気持ちがするわ。私のようなふつつか者が世話する位ではとてもご満足は頂けないと思うの。それよりも天上界に生まれると、とても楽しいそうよ。お母さんもそんな所へ行かれると、もっとすばらしい暮らしができるでしょう。一体どうしたら天上界へ行けるんでしょうか」「確かバラモン教では天上界に行くには身体を火の中に投げ込めばいいそうだ」「まあ、そんなことで天国へ行けるの? それなら一日も早くそうしてあげたらお母さんも、どんなにお喜びになるでしょう」
愚かな夫は、妻の本心を知るよしもなく、母を天上界へ生まれさせることにしました。
ある日、野原の真ん中に大きな穴を掘り、山のように薪を積んで火をつけました。婆羅門の僧侶を呼んで昇天式をすると、夫婦は老母を火坑に突き落とし、後も見ずに逃げ帰ります。ところが火坑の一部に安全地帯があったので、無事、老母は外に這い出すことができました。
もうあたりは真っ暗です。家に帰ろうとするも林に迷い込み、虎狼の難を避けて大樹に登って仮眠をとることにしました。
やがて話し声で目をさますと、木の下に人相の悪い泥棒たちが集まっています。その時、老母は不覚にも、ゴホンゴホンと咳をしてしまいました。泥棒たちは驚いて、「それ化物だ」と一人が叫ぶとみんな後ろも見ず、盗んだ金銀財宝を置いたまま逃げ去ってしまいました。
夜明け近く財宝を背負って帰宅した老母を、夫婦はてっきり幽霊かと思って震え上がります。老母はニコニコ笑って、こう言います。「おかげで天上界へ行くことができて、こんなに土産をもらってきた。まだまだあったが、私は年をとってあまり持てなかったので、今度は若い者が取りに来てくれとのことだった」それを聞いた嫁は喜んで、「今度は私が行って思う存分もらってくるわ。昨日と同じように火の中に落としてください」欲深く愚かな夫は大賛成。大好きな妻を火の中に投げ込みます。それっきり妻は、帰ってきませんでした。 (『雑宝蔵経』)
嫁は姑を焼き殺そうとして、自分が焼け死んでしまいました。まさしく因果応報です。
このように因果応報というのは、自分のたねまきに応じた運命がやってくるという因果の道理のことです。因果の道理は、「縁起えんぎ」と言っても同じで、「縁起説」と言われることもありますが、それはこの因果の道理のことです。
では、因果の道理とはどんなことなのでしょうか?
仏教の根幹
因果の道理は、仏教の根幹です。
そのことを『中阿含経』にはこう説かれています。
「もし縁起を見ればすなわち法を見る。もし法を見ればすなわち縁起を見る。」 (『中阿含経 ちゅうあごんきょう』)
「縁起」とは因果の道理のこと、「法」とは仏の説かれた大宇宙の真理のことですので、因果の道理を見るものは法を見るということは、因果の道理は、大宇宙の真理である、ということです。
さらに、パーリ仏典にはこう説かれています。
「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは仏を見る。」 (『象跡喩大経ぞうしゃくゆだいきょう』)
因果の道理は、大宇宙の真理であり、その因果の道理を悟ったのが仏だということです。ですから、仏の教えである仏教は、因果の道理を根幹として説かれています。
よく「仏教の中心思想は縁起説である」と言われたりしますが、要するに、因果の道理は仏教の根幹ということです。
「根幹」とは、根っこであり、幹である、ということです。
仏教を木にたとえると、因果の道理は、根っこであり、幹にあたります。
木には、枝が出て葉がしげり、花が咲いて、実がなります。それは、根っこがあり、幹があるからです。根っこや幹がなければ、木は枯れてしまいます。
ブッダの説かれた一切経は、七千余巻のたくさんのお経ですが、その七千余巻の一切経を貫いているのが、因果の道理です。
仏教の根幹は因果の道理ですから、因果の道理が分からなければ、仏教は一切分かりません。
どんなに『法華経ほけきょう』の意味が知りたいとか、『華厳経けごんきょう』の意味が知りたいとか、『般若心経はんにゃしんぎょう』の意味が知りたいと思っても、因果の道理が分からなければ、決して分かりません。それだけ重要なのが、因果の道理です。
では、因果の道理とはどんなことなのでしょうか?
「道理」とは?
まず、因果の道理の「道理」とは、三世十方を貫くもののことです。
「三世さんぜ」とは、過去、現在、未来のことで、いつでも、ということです。「十方じっぽう」とは、東西南北上下四惟しゆい(北東、北西、南東、南西)のことで、どこでも、ということです。
いつでもどこでも変わらないものを道理といわれます。
このことについて『雑阿含経ぞうあごんきょう』にこう教えられています。お釈迦さまがある時、クル(拘留)国で教えを説いておられると、一人の修行者がやってきました。お釈迦さまのお弟子ではありませんでしたが、礼儀正しく挨拶してから、少し下がって座ると、「一つ質問があるのですが、よろしいでしょうか?」と言います。お釈迦さまが、「何でも尋ねるがよい」と言われると、「それではお尋ねいたします。仏教に説かれる因果の道理は、お釈迦さまが作られたのでしょうか? それとも他の誰かが作ったのでしょうか?」その時ブッダはこう説かれています。
「縁起の法は我が所作に非ず、また余人の作にも非ず。しかも彼の如来の法は世に出づるも、及び未だ世に出でざるも法界常住なり。彼の如来は、自ら此の法を覚して等正覚を成じ、諸の衆生の為に分別し演説し開発し顕示す。」 (縁起法者 非我所作 亦非餘人作 然彼如來出世及未出世 法界常住 『雑阿含経』)
これは「そのことであったか。因果の道理は、私が作ったものでもなければ他の人が作ったものでもない。如来がこの世に現れようが現れまいが常に存在している真理である。それを悟って仏のさとりを開き、人々に説き聞かせているのが仏なのである」ということです。
ですから、昔も今も、今からも成り立つ大宇宙の真理が、「道理」です。
では、いつでもどこでも変わらない大宇宙の真理とはどんなことでしょうか?
「因果」とは?
いつでもどこでも変わらない、大宇宙の真理とは何かというと、「すべての結果には必ず原因がある」ということです。これを「因果」といわれています。
もちろん、原因が分からないことはあります。例えば、昔はなぜ伝染病になるのか分かりませんでした。そのため、神の怒りだとか、魔女のせいだとか、色々な原因を考えましたが、全部はずれでした。
しかしそれは、原因がないということではありません。
19世紀になると、科学が発展して、伝染病の原因は病原菌だと分かりました。
原因が分からないことはあっても、原因がないということは絶対にありません。
この世のことすべては、どんな小さな結果にも、必ず原因があるのです。
特に仏教では、私たちがもっとも知りたい運命の原因と結果の関係が教えられています。
運命の原因と結果には、どんな関係があるのでしょうか?
運命をつむぎ出す原因と結果の法則
その運命の原因と結果の関係を教えられたのが、このブッダの教えです。
「善因善果ぜんいんぜんか 悪因悪果あくいんあっか 自因自果じいんじか」
これは、善いたねは、善い運命、悪いたねは、悪い運命を引き起こす。自分のまいたたねは、自分が刈り取らなければならないということです。
植物でいいますと、アボカドのたねをまけばアボカドが出てくる、柿のたねをまけば柿が出てきます。
アボカドのたねをまいて柿が出てきたり、柿のたねをまいてアボカドが出てくることは絶対にありません。
この「たね(因)」というのが、行いのことですので、善い行いは、幸せという運命を生みだし、悪い行いは、不幸という運命を引き起こす、自分の運命は、自分の行いが生み出すのだということです。
「因果応報」とは、
 善因善果
 悪因悪果
 自因自果
という運命をつむぎ出す法則のことなのです。
これをブッダは繰り返し教えられています。例えば『ダンマパダ』にはこう説かれています。
「みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。」 (『ダンマパダ』)
パーリ仏典の相応部にはこのように説かれています。
「蒔きたる種子の如き 果実を刈るが如く 善をなして善果あり 悪をなして悪果あり 種子は蒔かれ植えられたり 汝はその果報を受くべし」 (『相応部』)
この仏教の教えを元に書かれたのが、世界的なベストセラーになっている、ジェームズ・アレンの『原因と結果の法則』であることが知られています。
因果応報のポイント
この因果応報というのは、幸せがやってきたときには、よく分かります。大学に合格したのは、自分が頑張って勉強したからだと思います。
お金が儲かったのは、自分が頑張って働いたからだとか、難しい局面を乗り越える自分のアイディアがよかったからだと思います。
ところが、因果応報が分からないのは、不幸が訪れたときです。
テストの点が悪かったときは、自分の勉強不足とはなかなか思えません。自分は頑張って勉強したのに、先生があんな問題を出すからだと思います。
仕事がうまく行かず、損したときには、自分は頑張って働いているのに、景気が悪いとか、ライバル社が悪いと思います。
しかし、因果の道理は、道理ですから、いつでもどこでも成り立つ大宇宙の真理です。自分の都合のよいときだけ、「自分が頑張ったからだ。因果応報は当然だ」と思って、自分に都合の悪いときは、「因果応報とはとても信じられない」と思うのは、一貫していません。
自分の都合に関係なく、因果応報は、いつでも成り立つ真理なのです。
運命の分かれ道
因果応報は、幸せが来たときには簡単に受け入れられますが、不幸が来たときには、なかなか受け入れられませんから、不幸が来たときこそ、自分を振り返ってみなければなりません。
不幸がやってきたときに、自分のたねまきを反省できるかどうかが、今後の運命の分かれ道です。
例えばパートナーが不倫をしたとき、相手が悪いと思いますが、接し方に問題があったり、実は自分も不倫をしていたりするかもしれません。
自分をたなにあげて、相手だけ変えようと思っても、事態が改善することはありません。
白楽天の燕の詩のように、子供が言うことを聞かずに困っていたら、実は自分も、親の言うことを聞いていないかもしれません。はたまた部下が言うことを聞かなければ、自分も上司の言うことを聞いていないかもしれません。
因果応報、すべては自分のたねまきの報いが現れているのです。相手を責めるのではなく、自分を振り返ってみなければなりません。
自分の運命を生み出しているのは、善くも悪くも、すべて自分の行いですから、因果の道理が知らされるほど、自分の行いを反省して、悪いことをやめようという気持ちが起きてきます。『涅槃経ねはんぎょう』にはこう説かれています。
「善因より善果を生ずと知り、悪因より悪果を生ずと知り、果報を観じおわりて悪因を遠離す。」 (知從善因生於善果知從惡因生於惡果觀果報已遠離惡因 『涅槃経』)
都合が悪いときほど、自分のたねまきを反省して、少しでもよりよい未来を生み出せるよう、悪いことをやめて、善い行いをするようにしていきましょう。
では、そうやって生きていくと、最期は必ず死がやってきます。これは誰にも避けることはできません。では因果応報だとすれば、最後、死んだらそれまでの種まきはどうなるのでしょうか?
因果応報は死んだらどうなる?
仏教では、因果の道理にしたがって、死ぬまでの行いによって、死んだ後が決まると教えられています。
次にどんな世界に生まれるかも、やはり因果応報なのです。そうやって、生まれ変わり死に変わり、永遠に苦しみ迷いの輪廻転生を繰り返します。
では、輪廻転生の原因は何なのでしょうか? すべての結果には必ず原因がありますから、輪廻転生にも原因があります。
その苦しみ迷いの根本原因を知り、断ち切れば、苦しみを離れ、永遠の幸福になれると教えられたのが仏教です。 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●因果応報 4
「人が持ち去る作物は自分が蒔いた種によるものです。そのように善行為をした人は善果を、悪行為をした人は悪果を得るのです。」 パーリ仏典、相応部 帝釈相応
「まだ悪果が熟しないあいだは、悪人でも幸運に遭うことがある。しかし悪果が熟したときは、悪人は災いに遭う。」 ダンマパダ
一切が、自らの原因によって生じた結果や報いであるとする考え方を、因果応報と呼ぶ。
「善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす」といった考え方自体は、仏教に限ったものではなく、世界に広く見られる。ただし、仏教では、過去生や来世(未来生)で起きたこと、起きることも視野に入れつつこのような表現を用いているところに特徴がある。
もともとインドにおいては、沙門宗教やバラモン教などさまざまな考え方において広く、業と輪廻という考え方をしていた。つまり、過去生での行為によって現世の境遇が決まり、現世での行為によって来世の境遇が決まり、それが永遠に繰り返されている、という世界観、生命観である。
仏教においても、この「業と輪廻」という考え方は継承されており、業によって衆生は、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天」の六道(あるいはそこから修羅を除いた五道)をぐるぐると輪廻しているとする。
仏教が目指す仏の境地、悟りの世界というのは、この因果応報、六道輪廻の領域を超えたところに開かれるものだと考えられた。
修行によって悟ることができない人の場合は、(現世で悟りに至らなくても)善行を積むことで天界に生まれる(=生天)のがよいとされた。
因果応報の受容
インドではもともと業と輪廻の思想が広くゆきわたっていたので、仏教の因果応報の考え方は最初から何ら違和感なく受容されていたが、それが他の地域においてもすんなりと受容されたかと言うと、必ずしもそうではない。
中国ではもともと『易経』などで、家単位で、良い行いが家族に返ってくる、といった思想はあった。だが、これは現世の話であり、家族・親族の間でそのような影響がある、という考え方である。輪廻という考え方をしていたわけではないので、個人の善悪が現世を超えて来世にも影響するという考え方には違和感を覚える人たちが多数いた。中国の伝統的な思想と仏教思想との間でせめぎあいが生じ、六朝期には仏教の因果応報と輪廻をめぐる論争(神滅・不滅論争)が起きたという。
とはいうものの、因果応報はやがて、六朝の時代や唐代に小説のテーマとして扱われるようになり、さらには中国の土着の宗教の道教の中にもその考え方が導入されるようになり、人々に広まっていった。
日本では、平安時代に『日本霊異記』で因果応報の考え方が表現されるなどし、仏教と因果応報という考え方は強く結びついたかたちで民衆に広がっていった。現在、日本の日常的なことわざとしての用法では、後半が強調され「悪行は必ず神仏に裁かれる」という意味で使われることが多い。ただ、『日本霊異記』においての因果応報という考えも輪廻との関わりよりも、現在世というただ一世での因果を強調しているという事実も見逃すことはできない。  
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●因果応報 5
意味と読み方
まずは「因果応報」の基本的な意味を見ていきましょう。
   因果応報とは、人の良い行いには良い報い、悪い行いには悪い報いがあるという四字熟語
「因果応報」は、「どのような行いも自分に返ってくる」ことを意味します。特に「悪い行いをすると悪いことが起こる」という意味で使われる印象が強いですが、「どのような行いも等しく自分に返ってくる」という意味のため、良い行いをして良いことが起きたときも使うこともできます。
さて「因果応報」は「因果」と「応報」、2つの単語が組み合わさってできた言葉です。それぞれの意味も細かく見ていきましょう。
   因果の意味は「原因と結果」
「因果」は「因縁と果報、報い」「原因と結果」といった意味を持ちます。「因果応報」と同じく、「何事も原因があってその報いがある」ということを表現するときに使います。
「因果」を用いた例として、「因果関係」という言葉もあります。「物事と物事との間に、原因と報いのつながりがある」ことを意味します。
   応報の意味は「自らの行為に対して受ける報い」
「応報」は「応じる」と「報い」が合わさった言葉で、「原因に応じた報い」、つまり「自らの行為に対して受ける、相応の報い」を意味します。
「応報」を使った例で代表的なものは「応報刑主義」「応報的司法」などです。「応報刑主義」は「刑罰の本質は犯罪への報いである」という考え方のことをいいます。「応報的司法」は「犯罪は国家への違反行為であり、司法が刑罰の決定者である」とする考え方です。
   因果応報の読み方は「いんがおうほう」
「因果応報」は「いんがおうほう」と読みます。
因果応報の由来は仏教用語
「因果応報」はもともとは仏教用語です。前世や過去の行いが現在に影響を及ぼすのだから、常に善行を積むように、という教えであったようです。人は死んでも生まれ変わる、という輪廻転生(りんねてんせい)の概念を持つ仏教ならではの言葉といえるでしょう。
   因果応報の使い方
「因果応報」の使い方を、例文を参考に見てみましょう。「因果応報」は良い意味のときも悪い意味のときも使えるので、2つのパターンに分けて例文をご紹介します。
   因果応報を良い意味で使った例文
「因果応報」を良い意味で使うと、次のような例文になります。
因果応報を信じて真面目に頑張っていたら、仕事で結果が出ました
頑張れば報われる、良い行いは良い結果となって返ってくるという意味の例文です。
あなたは入社当初から努力していたのだから、昇格したのも因果応報ですよ
昇格という結果を残した相手を称賛する例文です。相手の頑張りを見守っていたこと、認めていることが伝わるでしょう。頑張った相手を評価するときに使うとよさそうです。
   因果応報を悪い意味で使った例文
「因果応報」を悪い意味で使うと、次のような例文になります。
昔、散々人の彼女を口説いてきたんだから、奥さんに浮気されたのも因果応報だよ
自分がやった悪い行いは悪い結果となって自分に返ってくる、という意味の例文です。相手が反省していないときに使うと効果があるかもしれません。
いつも人に仕事を押し付けてばかりだから、いざというときに助けてもらえないとは、まさに因果応報だ
こちらも普段の行いが悪かったために、いざというときに困った結果になっているのだと、戒める意味の例文です。
因果応報の類語
「因果応報」の類語表現についてまとめました。前述したように「因果応報」には良い意味と悪い意味があるので、類語に言い換えるときは意味の違いに気を付けましょう。
   身から出た錆(さび)
悪い意味の「因果応報」の類語表現として、「身から出た錆」があります。
「結果の原因は自分にある」ということを表す、戦国時代からの古いことわざです。江戸のいろはかるたに採用されて、現在も広く使われている表現です。
   自分で蒔いた(まいた)種
「自分で蒔いた種」も「因果応報」の類語表現です。「自分で蒔いた種は自分で刈れ(刈らねばならぬ)」ともいいます。「自分のしたことの始末は自分でする」という意味が転じて「自分のしたことは自分に返ってくる」という意味になったようです。
新約聖書の記述に由来があるとされており、英語では「You reap what you sow. 」「As you sow, so shall you reap.」と表現されています。「sow 」が「種を蒔く」、「reap」 が「刈る、収穫する」を意味します。
   悪因悪果(あくいんあっか)
「悪因は必ず悪果をもたらす」ということをそのまま表現した、「悪因悪果」という言葉もあります。
   善因善果(ぜんいんぜんか)
「悪因悪果」と反対に、「善因は善果をもたらす」といった意味の「善因善果」という言葉もあります。
   自業自得との違い
「因果応報」とよく似た言葉に「自業自得」があります。実は「因果応報」も「自業自得」もどちらも仏教用語で、意味に大きな違いはありません。どちらも「善悪にかかわらず、自らの行いの報いを受けること」を意味しています。
「自業自得」にも、本来は良い意味もあるのですが、現在は悪い意味として使われることが多いようです。
因果応報の対義語
「因果応報」には類語表現は多数ありますが、ぴったり当てはまる対義語はないようです。
反対の意味を表現するとすれば、「良い行いに悪い結果が伴う」「悪いことをしたのに良い結果が返ってきた」といった文章や、あるいは「偶然の結果」「たまたま」などになるでしょう。
因果応報は良い意味にも悪い意味にも使えることわざ
「因果応報」の意味や使い方についてまとめました。
因果応報は悪い行いは悪い結果に、良い行いは良い結果につながるという意味の仏教用語です。自分の今の行いが将来の自分に影響するという戒めの言葉である一方、うまくいかないことがある場合も、原因を究明して行動を変えれば、望む結果や未来を手に入れられるかもしれません。
「これだけの努力をしたのだから因果応報だ」と、胸を張れるような結果につなげていきたいですね。 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●因果
因と果。因とはものごとを成り立たせる原因、果とは因に基づいて起こる結果のこと。
古代インド哲学における因果論
仏教以前から古代インドでは、善因楽果・悪因苦果という因果応報の思想があり、業の報いとして輪廻すること(業報輪廻)からの脱却(解脱)が探求されていた。伝統的な民俗信仰であるバラモン教では、秘伝の知識をもつ聖職者・バラモンによる祭式が輪廻から解脱できる行い(業)とされていたが、哲学の展開とともに、バラモン教の内外から種々の思想が生まれた。そのうちの一つであるウパニシャッド哲学では、生命の不変の本質とされた我(アートマン)についての知識が重視され種々の思想が展開された。また種々の因果に関する説が生まれ、その一つとして、原因の中に結果の性がそなわり、それが直接的に開き現れるとする「因中有果」説がある。これは、古代インドの伝説的な哲学者である三仙のうち、数論外道(サーンキヤ学派)の祖とされる迦毘羅[かびら](カピラ)の説とされる。これに対して、原因に果は内在しておらず、いくつかの原因が集まってまったく新しい果が発生するとする「因中無果」説を唱えるものもあった。これは、三仙のうち勝論師(ヴァイシェーシカ学派)の祖とされる漚楼僧佉[うるそうぎゃ](優楼迦とも、ウルーカ)の説とされる。さらには、ある時には原因の中に結果の性があって展開し、ある時には原因の中に結果の性がない場合もあるという「因中亦有果亦無果」説を主張するものもあった。これは、三仙のうちジャイナ教の祖とされた勒裟婆[ろくしゃば](リシャバ)の説とされる。
仏教の因果論=縁起説
仏教以前からの善因楽果・悪因苦果の因果応報の考え方に基づいている古代インド哲学の諸説に対して、仏教では、直接因である因が内在するとするが、それが直接的に果をもたらすのではなく、外在的間接因である縁と合わさること(因縁和合)を条件としてはじめて、果が生じるとし、果がもたらされるのは縁によることを強調する。それ故、因縁説、縁起説とも呼ばれる。この事物・事象のあり方を説明する縁起の思想は時代とともに発展し、十二因縁、頼耶縁起など種々の縁起が説かれた。また仏教では、あらゆるものごとが因・縁の和合によって生ずるとし、ものごとに固定的な実体としての我が存在せず(無我)、実体は種々の可能性に満ちた空であると説くので、仏教が説く因果は決定論ではない。これは、自らの心身の行為(業)によって、自己の存在のあり方を主体的に形成する可能性を示している。業についての因果・縁起の思想は、今世における行いとその果報としての苦楽にとどまらず、永遠の生命観に則って三世にわたって展開され、輪廻とそれからの解脱に関する因果論となった。
十界各具の因果
日蓮大聖人の仏法では、善因楽果・悪因苦果の因果応報の考え方を「常の因果」(960n)と位置付けられている。十界の各界の業因とその果報という意味での因果は、「十界各具の因果」という。
因果俱時
法華経は釈尊と同じ仏知見が一切衆生にそなわることを説くのであるから、この法華経本門に示された元意は、九界も仏界も俱に一切衆生の生命にそなわっていることを示すことにあるといえる。これを因果俱時[いんがぐじ]という。衆生の己心に本来的にそなわる無始の菩薩界が本因であり、衆生の己心に本来的にそなわる無始の仏界が本果である。そして、法華経の文底に示された南無妙法蓮華経を信じ実践することによって、仏界の境涯が顕現する。日蓮大聖人は、自身の生命にそなわる妙法を曼荼羅御本尊として図顕され、末法の一切衆生が信受すべき本尊とされた。仏界の境涯が顕現しても、九界が無くなることはないが、その悪の働きは消え去り(冥伏)、九界それぞれの特性が仏界によって生かされる。それ故、九界をそなえる凡夫の身そのままで仏界の生命境涯を開き現す即身成仏が可能になるのである。 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●因果の道理
「因果応報」や「カルマ」という言葉を聞かれたことがある方も多いと思います。
「因果応報」も「カルマ」も仏教から出た言葉です。どちらも仏教に説かれる「因果の道理」と関係があります。
お釈迦さまの教えを書き残されたお経は、7000巻余りありますが、そのすべてのお経を貫いている根幹の教えが「因果の道理」です。
ですから「因果の道理」がわからなければ、お経を読んでもわかりませんし、お釈迦さまの教えを理解することもできません。仏教が一切わかりませんし、「因果応報」や「カルマ」の意味もわかりません。
そこで「因果の道理」を通して「因果応報」「カルマ」について解説します。
道理とは
「因果の道理」の「道理」とは、仏教では「三世十方を貫くもの」をいいます。
「三世十方を貫く」とは、三世を貫き、十方を遍くということです。
「三世を貫く」とは、三世とは、過去、現在、未来ということで、いつでも変わらないということです。「十方を遍く」とは、十方とは、東西南北上下四維のことで、どこでも変わらないということです。
ですから「道理」とはいつでもどこでも変わらないものという意味です。
科学の分野での万有引力の法則や慣性の法則のような科学的真理も、いつでもどこでも変わらないものです。法律や倫理道徳は、時代や国によって変わるので道理とは言われません。
仏教は、約2600年前のインドで説かれましたが、どれだけ時間が経ってもどれだけ時代が変わろうとも、どこの国に行っても宇宙に飛び出しても、変わらない道理が教えられています。
因果とは
「因果」とは、原因と結果のことです。
どんな結果にも必ず原因がある原因のない結果は、絶対にない。
これが、原因と結果の関係です。
事故が起きた時に誰もが知りたいのが、どうしてそんな事故が起きたのかという原因です。大きな事故の場合、必ず原因究明がなされます。原因のない結果は絶対にないからです。
もちろん調べても原因がわからないことはあります。しかし「原因がない」と「原因がわからない」は全く違います。「原因がわからない」とは、原因はあるけどわからないということですから、原因がないのとは異なります。
どんな結果にも必ず原因があるのです。
因果の道理で教えられること
飛行機の墜落や車の事故などの因果関係もありますが、仏教では幸福や不幸の原因と結果の関係が教えられています。それが、私たちの一番知りたいことだからです。
誰もが、不幸になりたくない、幸せになりたいと思って生きています。将来どうなるかわからない。このままだと不幸になるのではないかと思うと、不安になります。どうすれば幸せになれるのか、皆が知りたいことをお釈迦さまは教えられているのです。
幸福や不幸の原因と結果の関係
私たちの幸・不幸の原因と結果について、お釈迦さまは次のように明示されています。
   善因善果(ぜんいんぜんか)
   悪因悪果(あくいんあっか)
   自因自果(じいんじか)
「善因善果」とは、善い原因は善い結果を生み出す、「悪因悪果」とは、悪い原因は悪い結果を引き起こす、ということです。
善い種をまいて悪い結果が起きることも、悪い種をまいて善い結果が現れることもありません。まいた種に応じたものが生えてくるということです。
植物で例えると、カボチャの種をまいたらカボチャ、ナスの種をまいたらナスが生えてきます。カボチャの種をまいてナスが出てきたり、ナスの種をまいてカボチャが出てくることは、絶対にありません。
次に「自因自果」とは、自分のまいた種の結果は、自分に現れるということです。これを「自業自得」とも言います。
他人のまいた種の結果が自分に現れる「他因自果」もなければ、自分のまいた種の結果が他の人に行く「自因他果」も絶対にないということです。
自分が健康になろうと思ったら、自分が運動し、自分が食事に気をつけねばなりません。他の人がどれだけ心配しても、本人がやらなければ、本人に結果は現れません。
ここで「因」とは「行い」のことであり、「結果」とは「運命」のことです。
行いのことを仏教では「業(ごう)」と言います。「業」のことを昔のインドの言葉では「カルマ」と言います。ですから「カルマ」とは私たちの行いのことです。
よい行いをすればよい運命、悪い行いをすれば悪い運命が訪れる。幸せというよい運命はよい行いが生み出したものであり、不幸や災難という悪い運命は悪い行いが引き起こしたものであるということです。
よいのも悪いのも、自分に現れる結果のすべては、自業自得。自分の行いによって生み出されたものですよと、お釈迦さまは教えられています。これを因果応報といいます。
まとめ
「因果応報」も「カルマ」も仏教の「因果の道理」という教えから出た言葉です。
「因果の道理」は仏教の根幹の教えです。
仏教では「行い」のことを「業」と言い、インドの昔の言葉で「カルマ」と言います。
「因果の道理」とは「よい行いをすればよい結果がやってくる。悪い行いをすれば悪い結果がやってくる。自分に現れる結果のすべては、自分の行いによって生み出される」という教えです。
これを漢字四字で「因果応報」と言います。 
 
  
 
  

 

 
 
 
 
 

 

●親の因果が子に報う [おやのいんががこにむくう]  
1 親が行った悪行が、罪もない子供に悪い結果としてあらわれる。
2 親の犯した悪行の結果が、なんの罪科もない子孫に及んで災いすることをいう。
3 親のした悪業の結果がその子に現れて、罪もないのに災いを受ける。
4 親の過った行動の結果が、子供に災いを及ぼす。
5 親の悪事・悪行の報いが子に及んで、本人には罪のない子が苦しむこと。仏教教義を前提にして、「自分の努力では避けることのできない不幸な運命」についていう時に使われることわざです。「因果(いんが)」というのは、「物事には必ず原因があって結果があるということ」を意味する仏教用語です。「因果」とは、「前世の悪業が原因になって、現世で不幸の果報を受けることになる」という仏教の教えなのです。
話1
娘の恋愛観の障害は、親夫婦の愛情、特に父親から受ける愛情の不足による。この他、子供が幼児期に求めて得られなかったもの、愛情の不足による思い残しは子供の対人関係、人を愛せないこと、人を尊敬できないこと、を生ずると。
愛情あふれる家庭で仕事も学校もうまくいってる家というのはまれだろうから、この本に書いてあることは誰にも思い当たることがあるだろう。その原因が親からの愛情にあることを解き明かす。
人は自分がされなかったことは理解できない。だから自分の親から愛されなかったことを理解できないまま、自分の子供に対しても愛を充分に注がない。こうして親子間の愛情不足の問題は連鎖し続ける。
しかし、これでは何も解決しない、無間地獄のように見える。この本を読んで納得することも多いのだが、同時に憂鬱になるのは、親の因果が子に報いたまま永久に連鎖するように思われること。自分の生き方は自分の親やそのまた親から連鎖してきたもので、自分の問題は自分の気づかないうちに、自分の努力では断ち切ることができないまま、すでに自分の子供に連鎖しているということ。
もちろん著者は解決の処方箋を用意している。自己の客観化としての日記つけ。事実と自分の判断を峻別すること。
それでも社会全体に愛情不足による「思い残し」が蔓延していることは、もはや個人の努力では解決不可能になってしまっているように思われた。
話2
親の因果は子に報いるのか、紛れもなく事実である。そのレベルも一から十まで、である。つまりその子供が幸福な人生を生きられるためには親がいかに至誠生き、善行を積んだか、で決まる。別に親が立身出世を遂げたとかどうかは問題ではない。逆に悪行を親が重ねた場合、その報いが必ず子に降りかかる、だから自分自身ではどうしようもない力によって人生はまず決められてしまう、理不尽であるが、酷薄な真実というものである。だから我が子が幸福な人生を歩まそうと思えば、まず親は善き生活を心がけること、人を泣かさないこと、その逆の生活は必ず子供を不幸にする、子供が生まれる前でも後でも、それは変わらない。
いちぐうをてらすという言葉がある。何も立身出世、栄達は必要ない。誠心誠意、その道に生きて社会に貢献すればそれに勝るものはない。悪をなして栄達ではそのしっぺかえしは子に降りかかる。
・・・・別にきれいごとでも何でもない。子供がいてもいなくても人に迷惑をかけたり、人に不幸をもたらすような悪行をなしてはならないのは当然である。だが将来子供持つ可能性は基本的に存在する。自分一代で終わるわけではない、終わっても善をなす、悪を排する姿勢は絶対でなければならない。
そこで親の因果が子に報い、であるが。私の場合はまさしくそれであった。親の悪行の一語に尽きるその罪が私の降りかかったのは理不尽にしてあまりに熾烈であった。
いつか、子猫に指を引っ掻かれたといって発作的にその子猫を絞め殺した野蛮で凶暴だった、顔だけは人間でも実は劣獣であった父親、悪意の塊でありとあらゆる口汚い罵詈雑言を一日こ欠かさず私を中心に誰彼なく浴びせかけた、やはり劣獣であった母親、およそあれほど至誠とかけ離れた存在もないであろう。そいうひどすぎる人間(人間とも云いたくはないが)だったあの両親のなした際限もない悪行が子供に不幸wをもたらすことも、至って必然であった。兎に角一事が万事、人に害毒をなす悪の化身であった。あれほど、ひねくれた心の歪んだ人間?はいまだかって他に見たことがない。人を呪い、人の不幸ばかりを願った外道だった。
生きることは自分ひとりということではない。必ず自分以外にも我が身の行いはその善悪に応じて周囲に及んでいく、その最たるものが当然、我が子である。親はそれだけ心して、もちろん親になる前から、至誠を尽くす気構えで生きるべきである。この世での行いは全てあらゆるものに連結している。悪をなしてそれで終わりはないのである。
話3
「親の因果が子に報い… 」と始まるのを、いま本当に言っている所みることは少ないでしょうが、まあ知っている人はいるでしょう。「お代は見てからで結構だよ。さあさあさあさあ入って入って、間もなく始まるよ〜」 そして、ジリリリ〜と中の出し物が開演する、見世物小屋の「口上」。
これは一種の芸で、これを見世物小屋で聞いて薄暗い建物の中に入っていくのと口上がなくただ入って行くのでは心の高まりが違うと思うのです。
アドルフ・ヒトラーは(結果やってしまった事の良し悪しはともかく)演説により、一時代のドイツの人を熱狂させました。その演説は、物凄く計算され尽くした成果だったというのはよく知られています。
どういうセリフを何回繰り返し、どのタイミングで顔を横に向け、机を何回叩く…まで決まっていたそうです。
これ聞くと、上手い芸人は2回同じネタ見た時初めて(これって台本通りの物だったのか)と判るのと似ている──と不謹慎な事を思う僕。
閑話休題──
ようは、使いようで言葉は大変効果的な武器になるということなのです。
ココナラの「サービスの説明」とか「キャッチコピー」とかあります。あの項目1000文字くらいのスペース。あれを「説明文」をただ書き連ねて「良し」としているのは、宝の持ち腐れである! というのは判っているのです。
言葉を武器として正しく使えば店にお客様を引き入れ、それどころか、言い方は悪いのを恐れずに言うと「お財布のお紐がお緩みになるかも…」(一応最上級に丁寧にいいました)
頑張って商品の質を上げるのは、もちろんそれが一番重要。
もう一度いう。これが最重要。
でも宝の持ち腐れは我慢できない! でも持つ方法がいまいち解らない!
話4
結婚を決断した時は誰しも、此の人と幸せに成って終焉を迎え様と決心するものだと思います。でも、長い結婚生活の中では所詮他人と言う部分が出て来る時もあります。
今からのお話しは、実際私の身近な所で起こった出来事です。其れは、70代の男性の最期が近づき入院されていた時の事です。その男性には奥さんと息子と娘がおりましたが、入院先での世話は娘さんがされるだけで、奥さん・息子・息子の嫁は一切世話をしておりませんでした。
何故なのでしょうか?聞く所によりますと、奥さんは旦那さんに愛情を感じたと言うよりも、お金に魅力を感じて結婚を決断したとか・・・その為か、入院中の下の世話とか、お洗濯などの身の周りの世話等はしたくなかったとの事。そして、同居していた息子も息子の嫁も同様だったそうです。ですので、嫁いだ娘さんだけが一生懸命、父親が亡くなるまで世話をされていたそうです。
結婚は確かに自分の一生の生活を考えなければ成りませんが、此の様な結婚をする人達は、果たして幸せに成れるのでしょうか?皆様はどう思われますか?
私は、自分の生活確保の為に、金銭を重要視した結婚を同じ人間として、寂しく悲しく情けなく思います!正に、自分の死に際に相手の愛情が分かる訳ですよね!
ベストセラー「女性の品格」の著者の先生が「こんなに素敵な男性が、何でこんな女性と結婚したのか?と言う男性が何故か多い。」と言われる様に、男性の女性の価値基準は何を一番に考えるのでしょうか?先ずは見た目?なら、女性の立場から見た結婚の重要ポイントとして、見た目を磨く事が最も大切なのでしょうか?いえいえ違いますよ!一番大切なのは「心」です。うわべだけで、結婚しても長い結婚生活は続けられません。仕事も上手く行きませんよね。其の上、自分は勿論、家族まで不幸にしてしまいますよ!
最近は8〜9割が「出来ちゃった婚」とか、終焉まで苦楽をともにする人生の伴侶を「出来ちゃった婚」の様な安易な行動で決めてはいけません!
此れから結婚を考えてみえる男女の方々に、こうは成って欲しくはありませんし「親の因果は子に報い、因果は巡る。」と昔から言われる様に、順序を踏まえない不条理な結婚は子供までにも因果が巡って来ます!「因果応報」を誰しも肝に命じておいて欲しいと思います。
正しく、出会って関わった人によって、人生が良くも悪くも成りますので、人生において人の見極めって本当に重要ですよね!
では、人の見極めは?「類は、類を呼ぶ!類は、友を呼ぶ!」と言われる様に、其の人がお付き合いしている周りの人達を観る。そして、家庭環境を観れば、其の人がどんな人か判断出来ますよ!
「人生に悔いなし!」と終焉を迎えたいですよね!
話5
因果応報についてではあるのですけれど、その少しばかり発展した形と言いますでしょうか。
「親のしたことが子に返るのか」ということについて書いていきたいとおもいます。これを書ききったときには、子どもが親を選んで生まれてくるというのは本当か、というご質問にも同時にお答えできるんじゃないかと思います^^
単純な因果応報については、これまでも多く書いて参りました。
   ・義理と不義理のはざま−因果応報−
   ・因果応報には嬉しいこともある
   ・因果応報
   ・まずは自分を疑え
まずは、親がしたことは子に返るのか、親の因果が子に報いということは本当に起こるのかということ。
結論から言うと、ありません。
なんでよ! あの親のせいでこんな思いをしているのに。あそこの家庭は親のせいで子どもがあんな不幸になってかわいそうなのに。
そういったご意見、たくさんあるかと思います。けれど、親の因果が子に報いることはありません。
この説明をさせていただくのには、魂の根源的なところから掘り下げていかねばなりません。
まず言えることは、魂は限りなく「個」であるということ。親は親自身の魂が選んだ人生を歩み、子は子自身が選んだ人生を歩みます。自分の課題の設定は自分自身でいしているということ。ここがとても重要なポイントになります。
親は自分の遺伝子を半分ずつ出し合って子を作りますよね。特に母親は、何カ月も自分の胎内に宿して子を育てます。まさに言葉のとおり、体の一部になる。
けれど医学的には体内の子は、母親にとって異物なんだそうです。魂として考えても納得です。他人というか、他魂なのです。
胃の中に、体に悪いモノが入ってきたら吐き気がしますよね。胃腸でも悪いものを食べたら胃腸炎になったりして、体外に排出しようとする。子は素敵な存在ですが、体の機能の面だけで考えると単なる異物。だからつわりって吐き気がするのかなと思ったりします。
親は自分がお金と時間をかけて育てていく過程で、子を自分の一部のように感じてしまうようになります。実際に胎内に子がいるとき、母親にとっては、まさに一心同体ですものね。また成長過程においても、子は親からの影響を大きく受けるため、親と自分を完全に切り離して考えることがむずかしい。
そのせいで、親の因果が子に報いるという考え方に向かうのかな、とは思います。また、以前にも「自殺のペナルティ」で書かせていただいたような、できるだけ良い行いをしていくようにとの、戒めの一種でもあると思っております。
長々と書きましたが、要するに親の因果は子には報わないということ。魂は限りなく「個」であることを受け止めていただければと思います。
話6
「三人だから生きられた」というのは『シネマ歌舞伎 三人吉三』のキャッチコピーなのだけど、こちらの映画の方がしっくりくる。
生き方を選べなかった子どもたち。一人は自分からのめり込んでいったけど。
その半ばやけくそな諦めきった感が映画を支配する。追いつめられてと言うより、のし上がってと言うより、半ば自死のような、半ばやけくそな行為。虚しさが半端ない。
ストーリーもだからか、杜撰すぎる計画をはじめとして「どうしてそうする」と言いたくなる破滅へ向かう展開。彼らには計画を立てる力も育たなかったのか。「負け犬」「飼い殺し」「何やったって…」という位置づけを刷り込まれてしまって、と思いたくなるほど、成り行き任せ。まるで、”下流”を自認し、這い上がる気力さえ失っている今の若者を見ているようで痛くて悲しい。『誰も知らない』で描き出された、本当に自分達が幸せになるための方法を選べずに、刹那的な生き方をする子どもたちのように。ただただ、自分の中に湧き上がる怒りを持て余しているが、それすらも、父達のように相手を倒すほどのエネルギーを持続できず、単発の爆発で終わってしまう。
そんな様が流れに乗って滑落(滑走)するのかと思いきや、説明もあまりなく飛ばすシーンと無駄に長いシーンと(会社の要請で、無理くりカットしたとイ記事で知った)。
「キリンを猛獣の中に入れたら・・・」という監督の言葉をどこかで読んだ。キリンは麒麟じゃなくて、動物園にいる方だろう。勇人・大輔・麻美がキリン? でも、誠司の中途半端な悪っぷりも、キリンに見える…。森澤の妄執ぷりだけが、キリンに見えない…。と、主要メンバーは狙い通りのところと、?のところと。でも、何よりも、この設定が活きていないのが、”猛獣”。誰を猛獣として描いているのだろうか。ヒットマンも、猛獣というより、蛇とか、もっといやらしさの方が際立っている(蛇に睨まれた蛙の抵抗)。式根・父も猛獣には見えない。ハイエナも猛獣?弱い者いじめしかしていないじゃないか。不協和音が鳴り響く。
他の記事からは、監督は残された者を描きたかったと知った。ならば、彼らの日常のエピソードこそ丁寧に描いてほしかった。展開そのものを練り直してほしかった。でもそうすると、監督のバイオレンスに期待している方々からは不評なのかな。前作未鑑賞だからそう思うのかしら? 復讐というのなら別の方法を考えればいいものをなんて彼らは短絡的なのか。人物関係図を思い浮かべると、警官の息子が復讐に走るのわかるけど、勇人と大輔は内部抗争じゃないか。前作未鑑賞だからしっくりこないのか。もう一人は親と五條会の関係知らないようだし(前科者だから日の目を見られないとしか聞いていないようだし)。自分達への扱いに対する復讐というのならわかる。前作と揃えなければならないからの”あの方法”?というより、彼らがきっちりとした計画を考えられなかったようにしか見えない。
なにはともあれ、自分の行いが、子の一生を決定づけてしまうのなら、もっと考えて生きないといけないなあと涙して幕。
役者さんはそんな若者を雰囲気たっぷりに演じていらして良かった。前作に比べて主人公たちの線が細いと他のレビューにもあるが、上記のような子どもたちなら、振り切れない様子がかえってリアル。東出氏の、母に愛され育まれた、まじめな好青年も活きていた。桐谷氏は、auCMと同じで皆のお兄さん役なのが笑った。自分の境遇・扱いへの怒り、でも守るものがあるからの中途半端さがとても伝わってきた。支配する側に回ったことにない、カリスマ性もない、夢はあるけれど、負け犬状態が芯からしみ込んでいるような悲しさが滲み出てくる。土屋さんの人生なげてる風なのも胸が痛くなった(ご両親ともいない設定)。そして柄本氏の怪演が半端ない。妄執。死にかけている時のあの表情(この人の役もご両親ともいない設定)。親子二代で恐ろしい役者だ。
話7
成人した?大人?が引き起こす事件。特に最近際立つのが「殺人」であります。その方法も陰湿陰惨なものが多く、ゆがんだ人間性が犯罪の形にそのまま表れるようです。車の中やアパートの一室、倉庫、山中などもちろん他人に見られることのない場所で行われるわけですが、今や「隣は何をする人ぞ」の世の中ですから、えーっこんなところで・・・というような場所で平然と犯罪が行われていく。方法もおよそ人間の仕業とは思えないような残酷極まりないやり方。
もちろん事件ですから、犯したヤツが追及され罰せられる。顔写真も出て(中には中学時代の写真なんかが出たりしてビックリ)。ある程度の履歴も報道されたりする。そうすると、恵まれない境遇であった過去などもくろーずあっぷされたりして、あーこんなだからこうなっちゃったんだろうなー、みたいなことが分かるわけです。虐待されて育ったとか、いじめにあってきたとかそういう過去を引きずって、結果こんなことをしでかした・・・・となるわけです。皆がみんなそうだと言ってるわけではない。
過去に何かなければ、人間、そうそう「悪」にはならない。何等かの愛があれば踏みとどまることができる。劣悪な犯罪を犯すやつには、大人になるまでに恐らくこの「愛」を感じるチャンスがなかったのであろう。そうすると、それは誰のせいなのか?ズバリ、「親」のせいである。親ったって、じゃあ親のいない子はどうなるんだよー!と言いたいあんた。親というのは何も「産みの親」だけのことを言っているのではない。そういう親がいなくたって、育ての親というのがいる。そういうのがいなくたって周りにたくさん大人はいるはずだ。そこまで含めての「親」ということである。
「悪いことは他人事」時代の極みである現代社会。自分の事ばかりで、人の事なんかに構ってらんねーですよね。大そうな偉そうなことを言わせてもらえば、子育ては社会がするもんだ。その社会を育て健全なものしていくのが我々大人の使命だ。というわけで、犯罪人を生み出してしまうことは我々大人の責任であるともいえる。
犯罪を犯した当事者だけを責め罰するのではなく、そういった者を生み出してしまった「親」がもっと責められるべきである。ましてや犯罪者が未成年であった場合などは、連帯責任者として、その「親」が罰せられるべきである。それを学校のせいにしたり、世の中のせいにしたり、私はb知らないなどと、とんでもない親があまりにも多い。あんたらにこの言葉を贈ろう。「親の因果が子に報い」なんだよ!
話8
ある年の2月、高齢の母が転んで、腕を骨折しました。その後順調に快復し、完全復活。一人住まいを謳歌しています。
そして半月後、今度は私がつまづいて、大腿骨にひびが入りました。当然、入院手術となり、しばらくリハビリに通います。
また数年前、母が顔を擦りむいて、鼻の傷跡がしばらく残っていましたが、その一ヶ月後に、私も鼻に傷を負う怪我をし、前歯も折ってしまいました。
どうして母の後を追う様に同じ事が起こるのでしょう。それも悪い事だけ。そして必ず私の方が大きなケガになります。
「親の因果が子に報う」という言葉が頭をよぎります。もしかしたら、母の両親(私の祖父母)からの因縁があるのかも…。第三者からすれば、非科学的な、と嘲笑されるでしょうか。気になると止められません。母に生きていた頃の祖父母について聞いてみました。
さも自慢げに語ります。「お婆ちゃんは産婆さんで島に出産があると出掛けていた」
明治、大正時代の出産について、生まれた子供に障害があると口と鼻を押さえて、若い母親には「死産だった」と諦めさせた。という話は聞いた事があります。当時は表沙汰には出来ない「暗黙の了解」があったでしょうか。
祖母もその一人だったかもしれません。健康な赤ちゃんを沢山取り上げるおめでたい仕事ですから、地域の人々から喜ばれていたに違いありません。本人は人の為になる仕事をして、むしろ誇りに思って活躍していたでしょう。
そんな彼女にも、何の因果か、知的障がいの孫がいました。彼女の長男(母の兄)に三人の子供がいて、そのうちの一人に成長の途中、知的障がいが分かります。家から一切外に出さず隠し通します。私も一度も会ったことがありません。
そのうち彼はいなくなっていました。「どこに行ったの?」と母に尋ねても「さぁ、どうしたのかな」と濁します。隠し事があると確信しますが、その時は私も小学生、それ以上何も考えられません。一体、彼の両親・祖父母・叔父叔母は、彼をどうしたというのでしょう。当時は養護施設はありません。今にして悪い想像をしてしまいます。祖父母も両親も、とうに亡くなっていますし、瀬戸内の小さな島で生活する叔父叔母に連絡する事など無くなります。真相は闇の中。高齢の母も墓場まで持っていく事でしょう。
知的障がいのあの子は、表立っては生死も明らかにされず秘密裏に闇に葬られ、さぞ辛かっただろう、淋しかっただろうと思うのです。この様に頻繁に思い出すのは、彼が私をして罪を償わせているのかもしれません。その上、若い母親や赤ちゃんを悲しませてきた大罪で、孫の私がこんな形で報いを受けるのでしょうか。
ここで後ろ暗い過去を明るみにして彼の供養になれば良いと願います。もし彼がどこかで生活しているなら、生を全うし生まれ変わって幸せになってほしい。
夫に出会ってから、夫の人生の運の良さを知ると、自分の人生を振り返り、大きな隔たりを感じるのです。
人知の及ばぬ所に存在する何かをあなどってはいけない。私の生き方が、子供の人生に後々何らかの形で影響するかもしれません。
話9
日本人にとって、長い歴史の中で育まれた「親の因果が子に報い」という言い伝えは、通奏低音(つうそうていおん)の様に、私達の心の根本の部分で響いているかのようです。
「親の因果が子に報い」とは、本来仏語です。前に行った善悪の行為が、それに対応した結果となって表れるとする。とくに、前世あるいは過去の悪業(あくごう)の報いとして、現在の不幸があるとする考え方です。
運勢鑑定の鑑定の考え方の、根本にある「易経」は、「陰極まれば陽転す、陽極まれば陰転す(いんきわまればようてんす、ようきわまればいんてんす)」といいます。即ち、何事も底に至れば浮かび上がり、頂上に達すれば下降するのは自然の理(ことわり)である、ということです。
私達の祖先は、仏教にしても易経にしても、その説明に自らの人生を重ねて、納得することが多々あったのでしょう。それを素直に受け入れて、代々口の端(は)にのせて、自らや子供たちに伝えてきたからこそ、後の子孫である私達が、腑(ふ)に落ちる言葉として今も残っています。
善因善果(ぜんいんぜんか)、善いことを行えば善い結果が、悪因悪果(あくいんあっか)、悪いことを行えば悪い結果が、・・・起きると考えるのが、日本人の素直で善良な考え方です。
話10
「因果応報」「親の因果が子に報う」という言葉があります。果たしてこれは本当なのでしょうか?今回は、かつていじめっ子だった人たちが親になったとき、どのような心境なのか…リサーチしてみました。
彼女たちは今、昔の自分の罪を悔い、我が子がその報いを受けないだろうかと戦々恐々としているのか。それとも過去のことなど忘れて、子どもに「いじめは絶対にいけないこと」としたり顔で説いているのでしょうか…?
   かつて私は「いじめっ子」でした
今回お話をお伺いしたのは、小学2年生の女の子の母親、A子さん(43歳)。A子さんは中学校時代、ひとりのクラスメートに執拗ないじめを“していた”…と告白してくれました。
「きっかけは些細なことでした。中学2年生の時、私の好きだった男の子が、クラスメートのSちゃんに片思いをしている…という噂を耳にしたこと。Sちゃんは、いつも『Aちゃんは可愛いし、人気者だよね。
私なんか全然目立たないから』『Aちゃんには本当、憧れてるの』と私のことを持ち上げるような発言を繰り返していました。中学のとき、確かに私はクラスでも中心的な存在。みんなが憧れている上級生から告白されたこともあり、自分でも目立った存在だということは自負していたんです」
「放課後Sさんと男子生徒が教室に残っていた」「Sさんと男子生徒が授業中、目配せで合図を送っていた」などという噂が飛び交うたびに、否定も肯定もせず、恥ずかしそうにほほ笑むSさんに、Aさんは次第にいら立ちを覚えるようになったのです。「Sちゃんは私の好きな人を知っていたんです。それなのに…。私はSちゃんに馬鹿にされているような気がしてなりませんでした」
AさんはSさんに報復を決意。最初はグループ内の無視から始まります。それがだんだんエスカレートしてクラス全体で無視。
Sさんの席を廊下に出したり、Sさんがトイレに入っているときに、上からホースで水をかけたり、体操服を隠したり…。「当時はSちゃんが私のことを馬鹿にしたのだから当然の報いだ、と思っていました。Sちゃんが謝ってきたら許してあげようと。でも、彼女は決して謝らなかった。今思うと当然ですよね、悪いことしていないのだから。でも当時はそれがまた腹が立って…」
中学2年、3年とSさんをイジメて過ごしたAさん。卒業文集に、Sさんは一言「面白くなかった」と残したのだそうです。Aさんは、当時から自分はイジメをしている、という自覚はあったのだそう。
しかし、担任の先生も見て見ぬふり、クラスメートもみんな自分に同調してくれる、それに何よりSさんをいじめることによってストレス解消になっていた…いろいろな要因が重なり、「悪いことをしている」という感覚は皆無に等しかったのだ、と言います。
   我が子への想い
Aさんの話を聞いた筆者は少々いじわるな質問を投げかけました。「Aさん、あなたの子どもがもしいじめられたら、かつてのあなたのように、『理由があるからいじめられるのは仕方ない』とお子さんに言えますか?」
Aさんははっとしたような顔をした後、うつむいてこう答えました。「それは無理ですね。自分勝手かもしれないけれど、学校や相手の親に徹底的に抗議すると思います」
「では、あなたのお子さんが誰かをいじめたら?」Aさんはしばらく考え込んだ後、こう言いました。「いじめはいけない、と娘をきつく叱り、相手のご両親に謝罪に行きますね…」
そしてAさんはこう続けました。「Sちゃんには本当に悪いことをしたと思っています。けれど日々の生活では、かつて自分がいじめていたことなんてほとんど忘れています。
Sちゃんのことを思い出すこともありません。自分がいじめっ子だったから、娘もその遺伝子を引き継いでいじめっ子になるのでは?なんて考えたこともありませんし、他の親御さんと同程度に、『我が子が誰かにいじめられないかな』という心配はしています。ムシが良いのかも知れませんが、中学校時代のことはもう過去のことなんです」
席を立つAさんを見送りながら「もし、Aさんの娘さんに『お母さんの中学時代のお話をして?』と言われたら…Aさんはどんな話をするのだろう」と思った筆者でした。
   いじめっ子だったあなたへ「我が子に胸をはれますか?」
誰かをいじめた経験のある人、傷つけた経験のある人が、残りの人生、一分一秒欠かさず懺悔し続けて暮さなければいけない…とは思いませんし、幸せになってはいけない、とも思いません。ただ、「いじめっ子だった」という十字架は一生背負っていくべきではないか、と思います。
Aさんの話しぶりからして、きっとAさんは子どもに「自分がかつていじめっ子だった」ということを打ち明けることはないでしょう。しかし、何かあるたびに、過去の自分を思い出して胸が痛むはず。…そうあってほしい、と思ってしまうのです。  
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●「因果」のイメージ
人は良い行いをすれば良い報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある。行為の善悪に応じて、その報いがあること。現在では悪いほうに用いられることが多い。「因」は因縁の意で、原因のこと。「果」は果報の意で、原因によって生じた結果や報いのこと。
因果の良いイメージ
若いとき頑張った
だから 人並の今がある
因果の悪いイメージ
勝てば官軍
負ければ賊軍
茶坊主社員
多数派 忖度 上司に従う
飲み屋の女性に入れあげる
蓄え 巻き上げられる
馬の気持ち 判るはずありません
馬主に騙される
上がったものは 必ず下がる
バブルで霞んだ 株価の常識 
若いときよく遊ぶ
今は家賃不要 路上生活
若いときよく遊んでも
年とれば 生活保護 素晴らしい日本
 
 
 
 

 

 
 
 
 

 

 
 
 
 

 

 
 
 
 

 

 
 
 
 

 

 
 
 
 

 

 
 
 
 

 

 

 
 
 
 

 

 
 
 
 

 

 
 
 
 

 

 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 

 



2023/6