10年ぶりに揺すられる
東京 震度5強
慌てておきる
よろけながら 玄関扉を開け ストッパー
吊り下げランプ 手で押さえる
お風呂の湯 ポッチャポッチャ
猫の風・雷 猛ダッシュ 押し入れに逃げ込む
もしかして 次は大鯰
大鯰・要石1・要石2・要石3・要石4・鎮石・鹿島神宮・鯰が暴れると地震が起こる・鯰に対する誤解・鯰大地震の前兆・地震予知・鯰と地震・地震を鯰と結びつけ・鯰絵の世界・鯰のかば焼・地震の前兆とされる魚の伝説・大鯰秀吉の天下を倒す・世直し鯰繪・・・ 断層と鯰・大明神鯰を叱る・大鯰後の生酔・紀の川の大鯰・大鯰は実在するか・しゃべる鯰・鯰は地震を予知するか・鯰岩・地震蟲・鯰絵にみる地震観の変遷・龍蛇・ナマズ・鯰と地震と要石・要石・地震鎮める石・地震と神様・・・ ■聖獣伝説・首都直下型地震・日本天変地異記・神無月・藁の大蛇・那珂川伏見神・阿曇磯良と祇園祭・深海魚は大地震の前触れ・いわしが大地震の予兆・電気製品の不調や耳鳴り・上空の電離層乱れ・前兆の自然現象・地震前兆・伏見宮と伏見稲荷大社・神功皇后・地震なまず・首都直下地震近況・・・ |
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発生時刻 2021/10/7 22:41頃 震源地 千葉県北西部 規模 M 6.1 震度 5 強 埼玉県 川口市、宮代町 東京都 足立区 |
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●大鯰 (おおなまず) 巨大なナマズの姿をした、日本の伝説の生物。地下に棲み、身体を揺することで地震を引き起こすとされる。 古くは、地震を起こすのは日本列島の下に横たわる、あるいは日本列島を取り囲む竜だといわれていたが、江戸時代ごろから、大鯰が主流になった。 鹿島神宮の祭神武甕槌大神は、大鯰を要石で押さえつけることで地震を鎮めるという。ただしこれは要石が鹿島神宮にあったことによる後代の見付で、武甕槌大神は本来は地震とも大鯰とも無関係である。 ●大鯰 巨大なナマズの姿をした、日本の伝説の生物。地下に棲み、身体を揺することで地震を引き起こすとされる。 地震にまつわる古代の世界観として、地底には巨大な毒蛇が棲んでおり、このヘビが身動きをするのが地震である、という「世界蛇」伝説が、アジア一帯において共通して存在していた。これは日本も同様で、江戸時代初期までは、竜蛇が日本列島を取り巻いており、その頭と尾が位置するのが鹿島神宮と香取神宮にあたり、両神宮が頭と尾をそれぞれ要石で押さえつけ、地震を鎮めている、とされた。しかし時代が下り江戸時代後期になると、民間信仰からこの竜蛇がナマズになり、やがてこれが主流になった。 安政地震の後には200種を超える鯰絵が出回った。特にこの地震は黒船の来航中の出来事であったため、黒船自体がナマズに比類するものとみなされたとされる。 ただし、ナマズと地震の関係について触れた書物としては古く『日本書紀』にまで遡ることができるといわれる。安土桃山時代の1592年、豊臣秀吉が伏見城築城の折に家臣に当てた書状には「ナマズによる地震にも耐える丈夫な城を建てるように」との指示が見え、この時点で既にナマズと地震の関連性が形成されていたことが伺える。 ●主な伝承 ●大村神社には、天平神護3年(767年)に武甕槌大神と経津主神が常陸・下総の国より奈良の三笠山遷幸の途次、大村神社に御休息し地下の大鯰を鎮める要石を奉鎮したと伝わる。 ●福岡県筑紫野市には、道を塞いでいた大鯰を通りかかった菅原道真が退治し石になったと伝わる鯰石がある。 ●阿蘇山の湖では昔、健磐龍命が開田のため外輪山の現在の立野あたりを蹴破り湖の水を外に出し、その時湖の主の大鯰が引っ掛かり水がスムーズに流れ出なかった。健磐龍命が大鯰を説得すると、おもむろに流れていきその跡が今の黒川、白川であり、流れ着いたところが、上益城郡嘉島町の「鯰」になったという。この地方には他にも鯰の伝承・信仰が数多く残っている。 ●『竹生嶋縁起』には、竹生島で海竜が大鯰に変じて大蛇を退治した伝説がある。竹生島は金輪際の島であり、大鯰に取り囲まれて守られているという。 ●大鯰 鎌倉時代、幕府の実力者だった北条時頼は諸国めぐりの際、橋本の利生護国寺に滞在した。ある日、地元・隅田党の代表らが時頼を紀の川の川狩りへ招いた。その日は好天で大漁だったが、突然暗天の雲が空を覆ったかと思うと、地鳴りと共に大鯰が現れた。 時頼らは果敢に槍を投げつけた。暴れる大鯰は真っ赤な血を噴出させ、まるで縄のようによじれながら川下へ流れていった。 大鯰の出た深みは今でも和歌山県橋本市隅田町中下あたりにあり、「血縄の渕」と呼ばれている。 ●ナマズと地震との関係 犬やカラスやミミズなど、様々な動物の異常行動が世界各国で報告されている中で、日本では「地中の巨大ナマズが怒れば地面が揺れる」、古くからナマズと地震との関係には因縁ようなものがあります。鯰と地震の俗信が生まれたのは江戸時代の初期頃、人口の多い江戸で地震の被害が大きくなるとともに、ナマズの不思議な行動と地震との関係に関する言い伝えが生まれたようです。江戸時代末期には世間一般に信じられていたようで、現在でもその伝説に基づく民話が残されています。 とくに、安政2年(1855)の安政江戸地震の直後には、鯰をモチーフにした錦絵が出まわりました。これは鯰絵と呼ばれ、鹿島大明神が「要石」で大ナマズを押さえている絵などがあります。鹿島の神が、大地に要石を打ちつけて、大鯰または大蛇の首を押さえこんでおり、鹿島の神が時折留守をしたり、気をゆるませたりすると、大地震になるという言い伝えが、鹿島の要石と鯰の関係で表現されるなどしています。茨城県鹿島神宮には今でも、「要石」という石があり、鯰の民芸品が観光用に売られているようです。 安政江戸地震の状況を書いた安政見聞誌には次のような記事が書かれています。 「本所永倉町に篠崎某という人がいる。魚を取ることが好きで、毎晩川へ出かけていた。二日(地震当日)の夜も数珠子という仕掛けでウナギを取ろうとしたが、鯰がひどく騒いでいるためにウナギは逃げてしまって一つも取れぬ。しばらくして鯰を三匹釣り上げた。さて、今夜はなぜこんなに鯰があばれるかしら、鯰の騒ぐ時は地震があると聞いている。万一大地震があったら大変だと、急いで帰宅して家財を庭に持ち出したので、これを見た妻は変な事をなさると言って笑ったが、果たして大地震があって、家は損じたが家財は無事だった。隣家の人も漁が好きで、その晩も川に出掛けて鯰のあばれるのを見たが、気にもとめず釣りを続けている間に大地震が起こり、驚いて家に帰って見ると、家も土蔵もつぶれ、家財も全部砕けていたという。」 安政江戸地震の3-4時間前に地震を予知した話です。 さて、地震と鯰の関係、一体どんな関係があるのでしょうか? |
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●要石 (かなめいし) 1 ●要石が地震を起こす地底の大鯰の頭を押さえているから、鹿島地方では、大きな地震がないと伝えられています。 ●要石は見かけは小さいが、実は地中深くまで続いている巨岩です。地上の部分は氷山の一角です。 ●水戸の徳川光圀公(みつくに)が、要石の根本を確かめようと、七日七晩この石の周りを掘りました。でも、掘れども掘れども、掘った穴が翌日の朝には元に戻ってしまい、確かめることできませんでした。さらに、ケガ人が続出したために掘ることをあきらめた、という話が「黄門仁徳録」に伝えられています。 ●現在は、要石の下には鯰がいると言われていますが、江戸時代の始めごろまでは龍(りゅう)がいると言われていました。 ●万葉集に、香島の大神(おおかみ)がすわられたと言う、石の御座(みまし)とも古代における大神祭(おおかみほうさい)の岩座(いわくら)とも伝えられる霊石(れいせき)です。 ●「 ゆるぐとも よもや抜けじの 要石 鹿島の神の あらんかぎりは」 |
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●要石 2
●茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、千葉県香取市の香取神宮、三重県伊賀市の大村神社、宮城県加美町の鹿島神社に存在し、地震を鎮めているとされる、大部分が地中に埋まった霊石。 ●茨城県の鹿島神宮の境内などにある石。根は深く、地震をしずめるといわれている。仮名草子・かなめ石(1663)下「ゆるぐともよもやぬけじのかなめいしかしまの神のあらんかぎりは」。歌舞伎・暫(1714)「動かぬ鹿島の要石(カナメイシ)、なまづがうっつひ姉ヱゆゑ」。浄瑠璃・神霊矢口渡(1770)二「是ぞお留守の要石(カナメイシ)、動かぬ胸のしめくくり、南瀬の六郎宗澄出仕の上下さはやかに、金作りの大小も流石お家の家老職」。囲碁で、彼我の攻防の要点を形成する重要な石。石造りまたはれんが造りのアーチの中央(頂上)に入れる石。剣石。楔石(くさびいし)。キーストーン。〔日本建築辞彙(1906)〕 ●謡曲。脇能物。廃曲。天保一五年(一八四四)水戸の徳川斉昭の作。鹿島神宮参詣の奉幣使の前に建御雷神(たけみかずちのかみ)が現われる。 ●地震を抑えると称される石。これを称する石は各地の神社にみられる。なかでも、茨城県鹿嶋(かしま)市の鹿島神宮の境内にあるものが著名である。直径25センチメートル、高さ15センチメートルほどの丸い石で、頭の部分がわずかにくぼんだ形をしている。地中に深く根を張っているといわれる。古来、地震をおこすナマズの頭を抑えているとの伝説をはじめ、数々の俗信に結び付いている。『鹿島宮社例伝記』には、鹿島の大明神が降臨したときにこの石に座ったとある。古くは御座(みまし)の石とよばれていたことからもわかるように、要石は元来、神の依(よ)りきたる磐座(いわくら)であった。各地に知られている腰掛石や影向(ようごう)石の信仰と同じ性格である。 ●茨城県鹿島神宮の境内にある石。根が深いところから、地震をしずめるとされる。ある物事の中心となる重要な場所や人など。「医学界の要石として重きをなす」。石・煉瓦造りのアーチの最頂部に差し入れて、全体を固定する楔形(くさびがた)の石。キーストーン。剣石。楔石。囲碁で、彼我の攻防の要点を形成する重要な石。 ●建築用語。アーチ、ボールトの頂部を飾る迫石 (せりいし) 。アーチの両側の力の持合う部分で、壁面から突き出していることが多く、また装飾的な彫刻が施されているのが普通である。アーチやボールトの安定性はこの石にかかっており、これを抜取るとくずれるのでこの名がある。 ●茨城県の鹿島神宮境内にある石。祭神たるタケミカズチノカミが降臨したとき坐した石で、地震を防ぐと伝えられる。 ●…東南アジアや東アジアには、世界魚または世界蛇が多い。茨城県鹿島地方の鹿島神宮には要石(かなめいし)があって、鹿島明神が世界魚である鯰(なまず)の頭と尾を押さえつけているという俗信がある。要石が鯰を押さえている釘(くぎ)で、これがゆるくなると鯰が動き地震が起こるというのである。… ●…地震や天候変化に敏感なため、地震を起こす力があるとか、地震の予知能力があるなどという伝承がある。安政の地震の際にはナマズがさわいだという記録があり、これをおさえているのが常陸鹿島神宮の要石(かなめいし)であるともいわれているが、ナマズを瓢簞でおさえること、つまり粘りがあるものを丸いものでおさえることの困難さを諷した〈瓢簞鯰〉から転じて、安定させることの困難なものとして地震が考えられ、それを生物化したものとして地震の発生をナマズに付会したとも考えられる。近世末の社会的動揺と江戸人のしゃれとが合体して生まれたものとみるべきであろう。… ●…あるものを空間的に閉じこめ、内外の空間の間の相互干渉を遮断するためのしるし。この空間は、文書の封のように物理的に設定されたものもあれば、たとえば地震鯰を封じこめるために鹿島神宮の要石によって作られたそれのように、呪術的に設定されたものもあった。文書の場合、現在の封筒のようにして作られた空間の封じ目に、〆や封などのしるしを印判や手書きで加えることによって封が完成するが、このしるし自体に空間を守る呪力がそなわっており、したがって封印で守られる空間も単なる物理的なそれではないと意識されていたところに、前近代の封の特質がある。… ●鯰と要石 / 安政の大地震後、「鯰絵(なまずえ)」がよく描かれた。「鯰絵」は地震から身を守る護符として、あるいは不安を取り除くためのまじないとして庶民の間に急速に広まりました。地震は地中の鯰が動くことで起こると信じられていたことから、安政地震の後、鯰を素材とした戯画「鯰絵」が大量に出版され、人々にもてはやされました。地震のあった10月は、神無月(かんなづき)とも呼ばれ、全国の神々が出雲に集まるため不在となる月です。茨城県鹿島神宮境内の地震を鎮めるとされた要石に寄りかかっているのは、留守居役の恵比寿と推察され、その恵比寿が居眠りした間に大鯰が暴れたということを表しているようです。日頃、要石で鯰を押さえている鹿島大明神が、「早く行ってかたをつけなくては」と馬を急がせている様子も描かれています。 ●要石歌碑 徳川斉昭 (茨城県水戸市 弘道館) 「行く末もふみなたがへそ 蜻島(あきつしま) 大和の道ぞ 要(かなめ)なりける」 |
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●要石 3
鹿島神宮の要石には、「地震をおこす大鯰の頭を押さえている」との伝説もあり、江戸時代後期の安政の大地震(1855年)の後には、江戸で “ 地震鯰をこらしめる鹿島様の絵図 ” 「鯰絵」が大流行しています。 ●鯰絵 「地震太平記」では、各地の地震なまずが鹿島大明神にわびを入れている様子が描かれています。右の「あんしん要石」では、民衆が要石に手を合わせて拝んでいます。文字部分には、「年寄」「大工」「新造」「瀬戸物屋」「芸人」「医師」などそれぞれの立場の人々の願い事が面白おかしく書かれています。この他にも、沢山の面白い鯰絵が発行され、ブームとなりました。 ●年寄 要石大明神、このたびの大地震を逃れることができ、ありがとうぞんじます。私はもう年寄で長く生きることもないでしょうが(中略)どうぞもう二三百年生きているうちには地震の無いようお守りください。 ●大工 私のお得意さんの方々から、「来てくれ」「来てくれ」とやかましく言われて気が狂いそうです。どちらもお得意様ですからどちらの仕事もきちんとはたせるよう、どうか十人前に働ける体になりますように守ってください。 ●新造(若い女性) 私の願いは、去年も長々と芝居が休演になってしまって今年もいつ見に行けるかわからず悲しくてたまりません。どうぞこれからは地震と火事のないようにお守りください。きっとでございますよ。 ●瀬戸物屋 何卒、この地は地震のないようにお願いします。もし、ある時は事前にちょっとお知らせくだいますようお願い申し上げます。(原文でも「ちょっとおしらせ下さるやうねがひ上げます」と書かれています。) ●芸人 わたしどもは遊芸の稼業なので、世間が穏やかでないと暮らしていけません。この度のようなことになって、三味線にバチが当たるともわたしどもに罰があたる覚えはありません。どうぞこれからは世界が平穏でありますように。 ●吉原の人 この度は本当に急変してしまって、建物は揺り潰れ焼け出されてしまって、とても難儀をしています。(中略)どうか早く収まり、地震のないようにお守りください。 ●医師 この度の騒ぎ(地震)で、手足をけがをした人が沢山治療にきます。骨をおって治療をしていますが、日数がかかり手がまわりませんので、早く治って私の手から離れるようお願いいたします。 ●理屈者 「このような地震があるのを見ると神も仏も無いようだ。そのうえ鹿島の神様は地震を押さえて守る神というのにどういうことでございましょう。」と言っていると不思議なことに石から声が聞こえた。「いかにもだ。この道理を明らかにするのは簡単なことではない。天意と思って諦めよ。今度少しでも動いたら石がえしをしてやる。」とのお言葉で、いずれの皆さんも安心し平和に戻ってめでたいめでたい。 (※「石がえし」と「意趣返し」と掛けており、意趣がえし=仕返しをしてやると言っています。) |
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●要石 4
●要石神社 沼津市 大きな安山岩が露出していて、この石よりは高潮が来ないとか、安政の大地震の時は被害が少なかったといわれている。寛永の初め頃(江戸時代17世紀)一本松新田の開拓者大橋五郎左衛門が祀った。 言い伝えによると「要石は地上に顕れたる部分はわずかであるが、地中に隠れたる部分は実に大である。祠より北三町をへだてる、大橋源太郎氏宅地井戸端辺の間に広がった一面の巌石で、太古地中に大鯰が居て数々動きて地震を起こし人畜を害した、依って此の大岩石を彼の鯰の頭上に載せ以て自由に動くことが出来ないようにした。因ってこれを要石という。」そうである。要とはもともと扇子の骨をまとめるための金具で、転じて、鯰の動きを押さえるのもまた要であるという意味からこの名がついた。 また、要石神社は、耳の悪い者はここに祈願して穴あきの石をあげると必ず治るともいわれている。 ●黄門 要石を掘る 鹿島神宮の奥宮の近くに要石があります。直径四十センチメートルほどの円型の小さな石です。神様が地上に降りた時すわられた石で、根が地下深く通じ、終わる所なく、大地震のもとである鯰を押さえているといわれています。 ある時、徳川光圀が、この話を聞き、本当かどうか掘って確かめようといいだしました。家来たちは神罰をおそれ反対したのですが、光圀は聞き入れませんでした。 さっそく、人夫を集め、一日で五メートルほど掘り下げました。 次の朝、人夫の一人が光圀のもとへきて、昨日掘った穴がきれいに埋めつくされているというのです。怒った光圀は、昨日以上の深さに穴を掘らせた上に、そばに見張り小屋を建て、寝ずの番をさせました。 ところが次の朝も同じでした。光圀は、すぐ現場にかけつけて確かめましたが、誰一人としてうそをついている様子はありません。「埋められるのは、作業をやめるからだ。今日から昼も夜も掘り続けるのじゃ。」光圀の声がかりで、さらに沢山の人夫が集められ、昼夜交替で七日間掘り続けました。 その夜のこと、眠っている光圀の耳に不思議な声が聞こえてきました。「光圀。要石を掘りたい気持はわかるが、物には限度というものがあるぞ。人間、それを忘れると、いつか禍いがふりかかるものだよ…。」光圀はびっくりしてとびおきました。 次の朝、光圀は家来や人夫を集め、「これだけ掘り続けてもビクともしない要石は、間違いなく地中の根に達しているにちがいない。もう穴を掘るのはやめにしよう。」といったそうです。 ●「要石」を祀る由来 鹿島神社 (宮城県加美郡加美町) 古歌に 「ゆるげども よもや抜けじの 要石 鹿島の神の あらん限りは」 要石に鹿島の大神が降臨して守護っているから日本の国土はぐらぐらしないと云う意味です。要石は鹿島神社以外の神社には祀られていません。俗に要石を拝むと云う事は家庭的にも社会的にも精神的には、どんな地震が起きるともびくともしない不動の精神を養うと云う信仰の精神は、すなわち人間の 「へそ」であり其の「へそ」が要石とも云えます。現在鹿島神社境内に祀られている要石は昭和四十八年故事来歴により奉納された「約十トン」の要石で往古の要石と共に祀られています。 鹿島神社の境内にある要石は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)※1 の象徴として国家の鎮護の石剣として祀られている事は有名です。 この要石は国を鎮める意想で日本国をとりまく「リュウ」を鎮める石剣とされています。「リュウ」龍は古代では海水を意味し、日本をとりまく「リュウ」が転化してナマズ(鯰)になりました。 地震は地下にもぐった鯰の寝がえりだとされてこの要石は地震ナマズを永遠におさえていると云う 信仰をうんだのです。(日本民族学全集より) 加美町鎮守鹿島神社社殿の西御山下の老杉の根元に要石というのがあります。 安永書上の風土記にも高さ一尺二寸余、廻り四尺八寸余(住古より要石と申伝候事)とあり、頭の方一尺余り出ているが地下の大鯰の背中に達していると云われて来たもの、これは常陸の鹿島神宮の要石に模したものと伝えられます。 常陸(茨城県)鹿島神宮の要石の伝説によれば昔その地方にしばしば地震があり、それは地下に大鯰がいてあばれるからだと云うので、鹿島の神々達が相談の上大きな石の棒(石剣)で鯰の頭を釘刺してしとめました。それが即ち要石で地震の際にはこの要石は殊の外大いに揺れるが どうしても抜くことが出来ないと云われて来ました。 我が地方においても大地震はくるけれども鹿島神社には要石が祀られているから昔から大きな災害がないと語り伝えられています。 ※1 古事記では建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ) ●掘っても掘っても根元が見えない「要石」 大村神社 近鉄大阪線「青山町」から南東へ10分、と言うより伊勢への参宮道である初瀬(はせ)街道の阿保(あお)宿の東端、「宮山」に大村神社は鎮座している。主神である大村神は、11代垂仁天皇の皇子・息速別命(いこはやわけのみこと)と伝える。 奈良時代、藤原氏は常陸の鹿島から武甕槌(たけみかづち)神、下総の香取から経津主(ふつぬし)神、河内の枚岡から天児屋根(あめのこやね)命と比売神を勧請して、大和の御蓋(みかさ)山麓に春日大社を創建した。大和の地に東国の神々を遷幸する際、当地に立ち寄ったとされる。この時から大村神社でも鹿島・香取の神を祀るようになったとか。 新たに祀った鹿島・香取には地震を抑える要石がある。鹿島の要石は水戸黄門が七日七夜掘っても掘りきれず、香取の要石もやはり黄門が掘らせたが根元を見ることができなかったと。当地では鹿島・香取の神とともに、彼の地で祀られていた土地を鎮める神も合わせて奉斎したのである。 大村神社の本殿脇には一抱えほどの丸石、要石が祀られている。この要石の起源について地元の地誌『三国地志』(1763年)に見られないことから、安政の大地震(1855年)以降に注目されるようになったのでは、との見方もある。 大村神社の要石の起源はともかくも、ナマズの背中に乗っているような日本列島。現代の科学をもってしても抑えられない地震。要石様のお力にすがりたくなる。 |
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●高千穂宮の鎮石 (しずめいし)
高千穂神社の境内には「鎮石」と呼ばれる石があります。この石に触れ祈ると悩みや世の乱れが鎮められるという言い伝えがあり、人によっては触れた時に「電気が走ったようにビリビリ感じた」そうです。 第11代垂仁天皇の勅命により、我国で初めて伊勢神宮と当高千穂宮が創建された際、用いられた鎮石と伝えられます。尚住古関東鹿島神宮御社殿造堂の祭、高千穂宮より鎮石が贈られ同宮神域に要石として現存します。 ●鎮石 本殿東後方に「鎮石(しずめいし)」と呼ばれる石が柵に囲まれています。伊勢神宮を建立したといわれる第11代垂仁(すいにん)天皇の勅命によって、高千穂神社建立の際に用いられたと伝わっている石です。 古事記では、垂仁天皇の時代は紀元前13年から西暦70年ごろとされています。およそ2000年の間、この石はここで何を見てきたのだろうという思いがふと頭をよぎります。 鎮石は、祈ると個人の悩みだけではなく世界の乱れまで鎮められるといわれるパワーストーンで参拝客の注目を集めています。石に触れた時に「ビリビリと電気が走ったように感じた」とか「掌が温かくなった」などと感じる人もいるので、ぜひ祈りをこめて触ってみてください。平穏な日々を祈りながら触れれば悩みも吹き飛ぶのではないでしょうか。また、鎮石の画像をスマホなどの待ち受けにしているだけでも開運につながるともいわれています。 高千穂地方の神社の中心である高千穂神社は、神話の生まれた地にふさわしい荘厳な社殿とパワー宿る杉、そしてパワーストーンがある神社です。パワーを授かり心身を癒してはいかがでしょうか。 ●高千穂神社の鎮石 第11代垂仁天皇の勅命により、我国で始めて伊勢神宮と当高千穂宮が創建せられた際、用いられた鎮石と伝えられます。尚往古関東鹿島神宮御社殿御造営の際、高千穂宮より鎮石が贈られ同宮神域に要石として現存しています。またこの石に祈ると人の悩みや世の乱れが鎮められると言われています。 高千穂といえば、日本神話の一場面「天孫降臨」と神秘的かつ荘厳な「高千穂峡」の渓谷美で知られるところ。九州屈指の観光地として年間140万人(2018年の推計)を超える観光客が訪れる。 記紀に語られている天孫降臨神話は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天照大神(あまてらすおおみかみ)の命を受けて、地上界を支配すべく、高天原(たかまがはら)から天降(あまくだ)ったというお話し……。 その降臨地が日向(ひむか)の襲(そ)の高千穗峯(たかちほのみね)であったと伝えられている。この「高千穗峯」の比定地については、古くから2つの候補地が挙げられている。一つは、宮崎県と鹿児島県の県境にある霧島山系の高千穂峰で、もう一つが、今回訪ねた現高千穂町である。どちらも有力な候補地とされ、国学者・本居宣長も頭を悩ませたが、いまだにはっきりとした決着はついていない。 高千穂町は、古くは知鋪(ちほ)郷と呼ばれていた。高千穂神社の神名として、平安時代の『続日本後紀』『日本三代実録』に高千穂皇神(たかちほすめがみ)とあり、従五位下に列していた。天慶年間(938〜947)には高千穂の領主となり、三田井家を興した大神政次(おおがまさつぐ、高千穂太郎)の時代から「十社(じっしゃ)大明神」とよばれるようになり、高千穂郷八十八社の総社として人々の篤い信仰を集めてきたという。明治6年(1873)に「三田井神社」と改称、同28年(1895)に「高千穂神社」に改められ現在に至っている。 高千穂皇神は日向三代と配偶神の総称で、十社大明神は三毛入野命(みけいりののみこと、神武天皇の兄)および妃神の鵜目姫命(うのめひめにみこと)とその御子神たち10柱の総称とされている。社伝によれば、三毛入野命が神籬を建てて祖神の日向三代とその配偶神を祀ったのが創まりとされ、社殿の創建は垂仁天皇の時代と伝えられているが、詳細については明らかでない。 ● 高千穂神社の本殿は、 安永7年(1778)に再建されたもの。この本殿の右横に「鎮石(しずめいし)」とよばれる鏡餅状の丸い石が、瑞垣のなかに納まり鎮座している。形状は茨城県の常陸国一宮・鹿島神宮の「要石(かなめいし)」にそっくりで、案内板には「往古関東鹿島神宮御社殿御造営の際、高千穂宮より鎮石が贈られ同宮神域に要石として現存しています」と記されている。鹿島の要石の起源が高千穂にあったとは、にわかに信じがたい話だが、昔からの伝承説話には、どこかに無視できない史実が残されているとも考えられる。 鹿島の要石といえばナマズの伝承だが、となりの阿蘇国にナマズに関わる興味深い伝承が残されている。江戸時代中期の地誌『肥後国誌』によると、大昔、阿蘇のカルデラは満々と水をたたえた湖沼だった。阿蘇大明神(健磐龍命(たけいわたつのみこと))が湖を干して平野にしようと、阿蘇の外輪山を蹴ったが、山が二重になっていて、水が外に出なかった。そこで火口瀬である立野を蹴破って水を流し、やっと平地をつくることに成功した。この時、湖の主であった大鯰が流れ出し、遠く嘉島村に流れつ着いた。そこでこの村を鯰村という。とある。阿蘇神社の祭神・健磐龍命が、阿蘇を開拓する以前、この谷は先住民の「鯰」に支配されており、これを退治して健磐龍命は阿蘇を支配することができた。というのが、この伝承の意味するところだろう。ちなみに、阿蘇神社の社家の人々は、いまなおナマズを食べないといわれる。 このナマズの伝承は、阿蘇国と高千穂に伝わる「鬼八(きはち)」の伝説につながっているように思う。本殿右側の脇障子に、高千穂神社の祭神・三毛入野命が、荒ぶる神「鬼八」を退治している像がある。「鎮石」がそのすぐ傍らにあることから、てっきりこれは「鬼八」の霊を鎮める石かと思ったが、案内板の記載には「この石に祈ると個人の悩みから世の乱れまでの一切が鎮められるという」とひどく漠然としたもので、鬼八に関わる記載は見られない。鬼八への鎮魂は「個人の悩みから世の乱れまでの一切」のなかに含まれているのだろうか。 ●高千穂の鬼八伝説 高千穂の「鬼八」は、足が早く「走健(はしりたける)」ともよばれていた。鬼八には阿佐羅姫という美しい妻がおり、またの名を「鵜目姫(上記で解説した三毛入野命の后神)」といった。ある日、三毛入野命が水鏡に写る美しい姫の姿を見て、鬼八からその妻を奪わんとする。命は姫を解放するように迫るが、鬼八はこれに応じない。命は44人の家来を引き連れて鬼八を退治する。ところが、鬼八は何度殺されても一夜のうちに蘇ってしまう。魔性のものは一か所に埋めては、もとの姿にもどるという。そこで命は、鬼八を首、胴、手足の3つに切り離し、3ヶ所に分けて埋めてしまう。それでも鬼八の怨念は深く、凶作の原因と成る早霜を降らせて農作物に害を与えるなど、さまざまな祟りを起こした。困り果てた人々は、毎年、16歳になる少女を「生贄」として捧げ、これを鎮めたという。伝承では、人身御供はじつに天正年間(1573〜92)までつづき、その後、人間の代わりに、猪肉を供えるようになった。のちにこの神事は鎌倉時代から続く「猪々掛(ししかけ)祭り」(毎年旧暦の12月3日に開催)となって、現在に至っている。 鬼八の伝説は、阿蘇国(熊本県)にも伝えられている。阿蘇国においては、鬼八は健磐龍命(ナマズを退治した阿蘇大明神)の従者として登場する。健磐龍命は阿蘇山から弓を射るのを日課にしていた。その矢を拾ってくるのが鬼八の役目だが、連日の矢拾い疲れ果てて、ある日、百本目の矢を足の指にはさんでを投げ返した。命はこの無作法に激怒する。鬼八は逃げるが、結局、捕らえられ首をはねらてしまう。するとその首は天に昇り、早霜を降らせる祟りをなす。人々は霜宮を建立して鬼八の霊を祀ることになった。というもの。 阿蘇と高千穂に、同類の伝説が残されているのは、古代、両地方に色濃い交流があったためだろう。高千穂町は現在宮崎県に属しているが、古くは、肥後国(熊本県)阿蘇郡知保郷に属していたという。実際、肥後国の阿蘇郷にも知保郷があって、こちらは「下高千穂」とよばれ、日向国の智保郷は「上高千穂」とよばれていたという記載が、平安時代に成立した「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に残されている。 両地方に残る鬼八伝説は、この地方にやってきた天孫族が、先住民であった鬼八一族を討ち滅ぼし、 そこの支配者に成り代わる抗争劇の悲哀を、今に伝える物語だと思われる。 ● 高千穂峡の渓谷美は、阿蘇山から噴出した火砕流が、五ヶ瀬川沿いに流れ出し、冷却されて柱状節裡が生じ、長い年月の侵食を受けできあがったものである。渓谷には、約1kmの遊歩道が整備されており、「槍飛橋」の東に、鬼八が投げたと伝えられる「鬼八の力石」がある。石の高さは約3m、重さ200トンともいわれることから、鬼八に古来の「だいだらぼっち(巨人)」 伝承が受け継がれていることがわかる。 また、高千穂町大字上野字鬼切畑には鬼八を切った場所とされる「鬼切石」があり、大字向山椎屋谷の竹之迫には「鬼八の膝付き石」、ホテル神州前に「首塚」、神仙旅館西50mの田の畦に「胴塚」、高千穂高校裏淡路城中腹に「手足塚」がある。 |
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●鹿島神宮の御由緒・御祭神
鹿島神宮の御祭神「武甕槌大神」は、神代の昔、天照大御神の命を受けて香取神宮の御祭神である経津主大神と共に出雲の国に天降り、大国主命と話し合って国譲りの交渉を成就し、日本の建国に挺身されました。 鹿島神宮御創建の歴史は初代神武天皇の御代にさかのぼります。神武天皇はその御東征の半ばにおいて思わぬ窮地に陥られましたが、武甕槌大神の「韴霊剣」の神威により救われました。この神恩に感謝された天皇は御即位の年、皇紀元年に大神をこの地に勅祭されたと伝えられています。その後、古くは東国遠征の拠点として重要な祭祀が行われ、やがて奈良、平安の頃には国の守護神として篤く信仰されるようになり、また奉幣使が頻繁に派遣されました。さらに、20年に一度社殿を建て替える造営遷宮も行われました。そして中世〜近世になると、源頼朝、徳川家康など武将の尊崇を集め、武神として仰がれるようになります。 現在の社殿は徳川二代将軍の秀忠により、また奥宮は徳川家康、楼門は水戸初代藩主徳川頼房により奉納されたもので、いずれも重要文化財に指定されています。 鹿島神宮の例祭は毎年9月1日に行われますが、うち6年に一度は天皇陛下の御使である勅使が派遣される勅祭となり、さらにそのうち2回に1回、すなわち12年に一度の午年には、水上の一大祭典である御船祭も斎行されます。 ●鹿島神宮の要石の謎 常陸国一ノ宮は鹿島神宮、下総国一ノ宮は香取神宮である。それぞれ国府は石岡市と市川市である。この両神宮における共通点を見てみると非常に興味深い一致点があることに驚かされます。 両神宮(神社)ともに創建は古くて記録ははっきりしませんが、鹿島神宮は神武天皇元年の紀元前660年の創建とされ、香取神宮も神武天皇18年(紀元前643年)と伝えられています。これは神社の総元締めである伊勢神宮が垂仁天皇26年(紀元前4年)(内宮)とされており、これより600年以上前です。当時の日本は卑弥呼が3世紀始めであり、大和朝廷の成立が4世紀頃と思われているので、はっきりした記録がないのも当然とも言えるでしょう。また平安時代の延喜式によると伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の3社だけが神宮の称号で呼ばれており、これは江戸時代まで続いています。それだけ特別の神社なのです。 ●要石に秘められた謎 この両神宮は武道の神様を祀っていることで知られています。鹿島神宮が武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)であり、香取神宮は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)です。これらの神は日本書紀・古事記にでてくる出雲の国譲りの神話にて日本での支配を古代出雲から大和朝廷(天皇)へ譲るために大変重要な神であるのです。この二神に反対した建御名方神(たけみなかたのかみ)(大国主命の第二王子)は諏訪まで追われて逃げ込みそこで忠誠を誓ったので諏訪神社の神として祀られたのです。これは神話の世界であるがそれぞれの神社の置かれた位置を考えるのに非常に興味深いと考えます。それぞれの神社の関係をレイライン(光の道)ととらえて研究しているサイトもあるので興味のある方は調べてみると良いと思います。 ここでは、この二つ神社に共通した「要石」について、お話したいと思います。この要石は地表に出ている部分はほんの少し(高さ15cm位、直径40cm位)で、地下の部分が非常に大きくけして抜くことができないと言われています。鹿島側は上部中央部が凹形で香取側は凸形をしています。昔水戸黄門(徳川光圀)が七日七夜掘り続けても底が見える様子がなく、さすがの光圀公もあきらめて作業を中止したといわれており、鹿島神宮の要石と香取神宮の要石は下でつながっているとも言われています。大昔、神様が天からこの地にお降りになった時、最初にお座りになった石であると伝えられています。しかし、この石は地震を抑える石であるとしての信仰が続いてきました。 昔から、この地方は地震が多く、これは地中に大なまずがいて暴れるからだと信じられており、鹿島・香取の両神様がこの要石でなまずの頭を釘のように打ち付けて動けなくしているといわれているのです。このため、この地方では地震は起きるが大きな被害はないといわれています。この石が有名になったのは江戸時代の安政の大地震(1885年10月)のとき、江戸の下町を中心に町民の4300人の死者を出し1万戸以上の家屋が倒壊したと伝えられていますが、江戸の町中が大騒ぎとなりました。この時に地震から家を守るお札が流布しました。このお札に鹿島神宮のなまずの絵がモチーフに使われたのです。地震が10月(神無月)であり、鹿島の神様は出雲に出掛けていて留守であったとの話も説得させるものがあったようです。 「揺ぐともよもや抜けじの要石、鹿島の神のあらん限りは」 ●地震は地中の蟲(むし)の仕業? しかし、なまずは大昔からこの地方にいたという記録はないのです。関東地方になまずが知られたのは江戸時代になってからだとも言われています。また、地震神として鹿島神宮が記録に現れるのは12世紀半ば以降との文献もあるようです(「地震神としての鹿島信仰」「歴史地震」8号1992年)。鎌倉時代の伊勢暦には地震蟲(むし)の想像図が載っています。頭が東で尾が西を向いており、10本足です。目には日と月を備え、5畿7道を背の上に乗せ、鹿島大明神が要石で頭部を抑えるさまであり、地震神としての鹿島神宮の起源は12世紀頃と考えてよいでしょう。地震を起こすものが鯰(なまず)となったのは、江戸時代以降であると考えられます。しかしこの要石の信仰はもっとずっと昔からあったと考えても良いのではないでしょうか。ではこの要石が地震抑止信仰となる前はどのような役割を担っていたのでしょうか。右のような地中に住む怪物蟲の仕業であるとの解釈もされていたようです。その蟲がいつのまにか地震を予知できるなまずに置き換えて考えられるようになっていったものと考えられます。 ●鹿島神宮・要石 香取神宮、息栖神社(いきすじんじゃ)とともに東国三社に数えられるのが鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)。香取神宮同様に境内には要石と呼ばれる霊石があり、この石が地震を鎮める石として信仰されています。古来「御座石」(みまいし)や「山の宮」とも呼ばれた霊石で、江戸時代の錦絵『鹿島要石真図』にも描かれています。 地震は鯰(ナマズ)が引き起こされるという考えがあり、その大鯰を押さえつけるための石がこの要石。要石は大鯰の頭と尾を抑える杭という信仰で、地上には直径30cm・高さ7cmほどしか出ていませんが、地中には巨石が埋まっているのだとか。『水戸黄門仁徳録』には、水戸藩主・徳川光圀が要石の周囲を7日7晩掘り起こしても、穴は翌朝には元に戻ってしまい根元には届かなかったと記されています。神無月(かみなづき=旧暦10月)に起こった地震は、祭神の武甕槌大神(たけみかつちのおおかみ)が出雲に行って不在のために発生した(武甕槌大神が要石を押さえているという信仰から)とも。 『鹿島要石真図』は、安政2年10月2日(1855年11月11日)に発生した安政江戸地震後に描かれた地震鯰絵。鹿島神が地震を起こす大鯰を剣で押さえつけています。よく見ると、鹿島神の周囲には材木、金槌(かなづち)や鉋(かんな)などの大工道具、小判が散らばる様子も描かれ、復興バブルの風刺画、あるいは災い転じて福となすという教えにもなっているのです。 出雲の国譲り神話の中で、出雲に赴いたとされるのも武甕槌命(鹿島神)と、経津主命(香取神)。その武神たる神の武威に、出雲を支配する大国主命が従うことになったとされ、大和朝廷の東北平定に際して、鎮座したのが鹿島神宮、香取神宮。 鎮護国家の神として大和朝廷の東国経営の一翼を担うにあたり、懸案だったのが地震鎮護。そのため、神の武威を示すためにもこの要石が重要な役割を担ったと推測できます。鹿島神宮の要石は凹型ですが、香取神宮は凸型。ペアになっていることからも、両神が大鯰を抑えるという古代の地震鎮護の図式がよくわかります。 ●香取神宮・要石 千葉県香取市香取にある全国にある香取神社の総本社で、古代には大和朝廷の東国経営の一翼を担った香取神宮。香取神宮境内西方に配された霊石、要石(かなめいし)は、下総国に数多い地震を鎮めるために置かれた凸型の石。鹿島神宮には凹型の要石があり、対になっています。 古来、地震は地中に棲む大鯰(おおなまず)が起こすものと考えられ、地中に深く石棒を差し込み、大鯰の頭から尾を刺し通したのがこの要石。見た目は小さいのですが、貞享元年(1684年)、徳川光圀が香取神宮を参拝した際、要石の周囲を掘らせましたが根元には届かなかったと伝えられ、かなり奥深くまで石が延びていると推測できます。 平城京(奈良の都)の守護と国民の繁栄を祈願するために創建され、中臣氏・藤原氏の氏神を祀る、春日大社。第一殿の祭神・武甕槌命(たけみかづち=藤原氏守護神、常陸国鹿島の神・鹿島神宮の祭神)、春日大社第二殿に祀られる経津主命(ふつぬしのかみ=藤原氏守護神、常陸国鹿島の神・香取神宮の祭神)という関係があり、香取神宮本殿に祀られているのは、経津主命。 武甕槌命(鹿島神)と、経津主命(香取神)が、地中に深く石棒を差し込み、大鯰の頭尾を刺し通して地震を起こす大鯰を制したと伝えられています。 出雲の国譲り神話の中で、出雲に赴いたとされるのも武甕槌命(鹿島神)と、経津主命(香取神)。その武神たる神の武威に、出雲を支配する大国主命が従うことになったとされ、大和朝廷の東北平定に際して、鎮座したのが鹿島神宮、香取神宮。鎮護国家の神として大和朝廷の東国経営の一翼を担うにあたり、懸案だったのが地震鎮護。そのため、神の武威を示すためにもこの要石が重要な役割を担ったと推測できます。 ●息栖神社・忍潮井 息栖(いきす)神社は、鹿島神宮(鹿嶋市)、香取神宮(千葉県香取市)とともに『東国三社(とうごくさんじゃ)』と呼ばれ、古くから信仰を集めてきました。岐神(くなどのかみ)を主神とし、相殿に天鳥船神(あめのとりふねのかみ)、住吉三神を祀っています。天鳥船神は交通守護のご霊格の高い神様で、鹿島大神の御先導をつとめられた神様です。大鳥居が常陸利根川沿いに建てられ、江戸時代は利根川の河川改修で水運が発達したため遊覧船も行き来し、庶民の間で東国三社を参詣するのが流行となりました。水郷の風景を楽しむ人や文人墨客など多くの参拝者で賑わっていました。現在も、息栖神社を含めた東国三社は、関東屈指のパワースポットとしてテレビや雑誌など各種メディアで取り上げられ、東国三社巡りバスツアーなどが頻繁に行われています。 息栖神社で隠れたスポットなのが、常陸利根川沿いの大鳥居(一の鳥居)の両脇に設けられた二つの四角い井戸「忍潮井(おしおい)」です。それぞれの井戸の中に小さな鳥居が建てられ、水底を覗くと二つの瓶(かめ)がうっすらと見えます。この二つの瓶は「男瓶(おがめ)」と「女瓶(めがめ)」と呼ばれ、1000年以上もの間、清水を湧き出し続けてきたとされています。この忍潮井は、伊勢(三重)の明星井(あけぼのい)、山城(京都)の直井と並び、日本三霊泉の一つに数えられています。しかもこの清水には、女瓶の水を男性が、男瓶の水を女性が飲むと二人は結ばれるという言い伝えがあり、縁結びのご利益もあるとされています。現在忍潮井の水を直接飲むことはできませんが、境内の手水舎の奥にある湧き水は、忍潮井と同じ清水で、お水取りをすることができます。 |
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●「ナマズが暴れると地震が起こる!」ことわざが生まれたワケ
日本人にとって地震はとても身近な自然現象だ。昔からなぜ地震が起こるのか?と多くの人が疑問に思ってきたことだろう。地震は地下深くの岩石が断層を境として揺れ動くのが現在の科学的見解である。しかし、地球の内部で何が起きているのかを突き止めることは容易ではない。江戸時代には「大ナマズが暴れるから地震が起こる」と信じられていた。なぜ、ナマズ?と思われる方もいるだろう。第一、大地を揺らすほどの体を持ったナマズがいるとは想像しがたい。まずナマズと地震がどう結びついたのかについて、触れておきたい。 ●ナマズが暴れると地震が起こる? 江戸時代は人口が急激に増えた時期で、地震が起こると被害も大きくなった。そのため、地震に対する関心も高かったと考えられ、地震に関する記録が多数残っている。『安政見聞誌』などによれば、地震に先行してナマズが暴れたことが記述されている。ナマズが地震を誘発するのか、あるいは地震前に何かを察知しているのか。その科学的な根拠は現代でもよくわかっていない。ただ、その様子を見た江戸時代の人々は、釣りをしている時などに「ナマズが暴れているから地震が起こったんだ」と解釈したのかもしれない。 ●鹿島信仰における大ナマズ ナマズと地震を関連づけるのは、信仰上の経緯もある。茨城県の鹿島神宮に伝わる神話によれば、雷神タケミカヅチと海神フツヌシが「要石(かなめいし)」を大地にうちたてることにより、大ナマズを鎮めたとされる。これは、大ナマズ(動くもの)と要石(不動のもの)を統合することで、秩序をもたらしたことを意味する。これを実世界に置き換えてみれば、混沌とする世の中が統一されたという見方もできる。 実際に鹿島神宮に行くと、「要石」の実物が見られるという。きっと大きい石に違いないと想像する方も多いだろうが、実際には地上にちょこんと顔を出す石にすぎない。しかし、地下深くまでその石は続いていると言われており、その底を見た者はいないという。 ●江戸時代にナマズ絵が大流行 鹿島信仰における大ナマズの話が広まったのは江戸時代。1855年の安政の大地震では、大都市・江戸を中心に甚大な被害が広がった。その際に、ナマズ絵という風刺画が大流行。大きな被害が広がったのにも関わらず実態が捉えられない地震を、ナマズに例えて想像力豊かに描いている。中には、吉原の遊女たちがナマズを懲らしめている絵や、ナマズが地震の復興作業で潤った大工・左官たちに小判を与える絵などユーモラスなものばかりだ。 地震は人々の生活に打撃を与え苦しめる一方で、建築物の建て替えや都市の復興などによって経済的な潤いをもたらした。地震が起きて間もない時期に、地震の肯定的な側面まで描いてしまうナマズ絵の風刺力には驚かされる。これができたのも、ナマズ絵は無許可の出版物で規制が及ばないところで出回っていたという背景があるからだ。私たちはナマズ絵から、人々が地震に対してどう向き合っていたのかをストレートに読み取ることができる。 ●現代人にとっての地震 さて、現代は地震が起きた際に、携帯電話で緊急地震速報が鳴るご時世。地震発生のメカニズムに関する研究が進み、誰もが地震の発生を事前に知ることができるようになった。しかし、2011年の東日本大震災地震では、地震のみならず津波や原発の倒壊なども発生し、自然の脅威が人々の予想を超えてきたというのも事実である。科学で解明できる世界ばかりではない現代において、見えないものに対する想像力を掻き立てる瞬間は少なからず存在する。そのような時に人々は脅威を感じ、精神的な支柱を求め、無限に広がっていくイメージの中に祈りや絵画の題材を見出すのかもしれない。 |
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●ナマズに対する誤解
「ナマズ」と聞くと、大方の人が「地震を感じますか。地震予知に役立ちますか。」と地震との関連を尋ねてくる。生物学的知見に乏しい門外漢ならともかくも、こともあろうに生物研究者までがそうであるからいささか困ったことである。これは、「ナマズが騒ぐと地震が起る」との古い言い伝えがあることから、異変に先立つ前兆現象としての生物の異常行動が異変予知に役立つのではないかとの、想像するだに恐ろしい天変地異に対する不安に加速された、社会的な強い期待の素朴なる反映に他ならない。その意味でこの問題の解明は自然科学に課せられた重要なことがらの一つではある。しかしながら生物学的側面からは異変に先立つ物理的、化学的過程としての前兆現象の諸要素を生物が如何様に感知するかという点に問題が収歛するであろう。換言すれば、地震なら地震の地質学的過程の解明によって浮上する様々な環境要素の変動に対して生物がどう反応するかということであり、地震そのものの研究の進展を待たなければ、我々の側からは明確な回答を提示することはできないわけである。つまり、地震予知は地震学者の問題であり、我々生物研究者はそれに対して若干の助力となるだけである。それ故に私は、かかる質問に対して、「さあどうでしょう。ナマズが地震を起すわけではありませんから。」と、特に生物研究者に対してはこう答えることにしている。そして彼らは憮然となる。 そこで、少なくとも、水界の生物をその直接の対象とする水産研究者にだけは、このような皮肉を言わずに済むように、ナマズのいささか特殊な能力についてその誤解を解いておきたい。 地震の間際になると振動刺激に対してナマズが興奮状態を示すという実験的観察はHataiら(1932、1934)が行なったが、それ以前にParkar&VAN Heusen(1917)により、同科に属するヨーロッパ・ナマズが高い電気感受性を持つことが発見されていたところから、地震時の地電流変化がこの興奮状態をひき起す重要な要因であるという示唆を行なった。彼らによると、電気的に大地とつながった水槽では、地震の間際に震動刺激に対してナマズが敏感になるが、そうでない水槽ではこのようなことは起らないということである。この研究の意義は、刺激−感覚−行動という生物学的に立証され得る一般的法則に基づき、それまで神秘的に考えがらであった生物の予知的行動に科学的根拠を与え、また、我々人間が持たない感覚に媒介された環境世界が、これら生物種に対して展開していることを示した点にあると言えよう。 しかしながら一歩退いて、この問題を生物学的視点から捉えかえしてみると、いささか異なった側面から解かねばならないことに気付くはずである。つまり、ナマズとその電気的環境とのより基本的な関係の解明である。 そもそも、電気に対する高い感受性がナマズにあるとすれば、それは何も地震などのような何時起こるともわからない現象を感知することにあるはずはなかろうというものである。一般に動物の感覚系の意義を考えてみるならば、それは進化過程において与えられた環境の内で、その動物種が自ら保身に必要な情報を感覚系を通して得、これに対して適切な行動をとるところにある。この保身のための行動は、さまざまであるが、基本的には餌をとること、そして、外敵から逃れることがまずあげられる。動物の行動が直接に、間接に餌に結びつき、逃避行動との複雑な絡み合いの中で、摂・索餌行動として発現していることは、行動学の指摘するところである。 ナマズの習性に着目すると、これは水の停滞しがちな河川や湖沼に生息し、日中は水草の繁った泥底などに潜み、夜間や増水などで水が濁ったときに行動して小魚などの小動物を捕食している。同じ生息域に棲む他の魚種と違って、特に夜行性でありかつ肉食性であることは、この習性を可能とする感覚機能の存在を示唆していることになる。従って、ナマズが同じ生活圏に棲む魚種の中で、例外的に電気に敏感であるならばその感覚機能こそ、夜間の捕食活動のために特別に発達したものと考えてしかるべきであるし、また、一方捕食対象である小魚などの水生生物から、何らかの電気発生のあろうことも当然に推察されてくる。 結論から述べてしまうならば、この論理的予想はズバリ“アタリ”であった。ナマズは、魚などの水生生物が生理的に不可避に発生する電気を感知して、これを正確無比に捕えるのである。つまり、わかりやすく言えば、ナマズは視覚の効かない状況下にあって視覚に代わる感覚系を持ち、それが電気感覚であるということである。 ここで、この感覚の感度がどれほどのものなのか、という疑問が呈されよう。この疑問はナマズの電気に対する敏感さが果して感覚系と呼び得るかという問題にもかかわってくる。 習性を利用してナマズを自ら塩ビ管に潜入させ、その管内にあらかじめ装着しておいた電極により、呼吸運動に同期する水中電位変動を観察しながら、水槽壁にとり付けた刺激電極を通じて数段階の周波数の矩形波を魚の体軸方向に与える。すると、有効な刺激電圧に対して反射的に呼吸運動が停止したり、あるいは緩徐となるが、この応答は餌を与えることで容易に強化される。そこで、電気刺激を与え、応答が得られたときに餌を与えるという刺激を繰返しつつ刺激電庄を下げて行くと、やがて反応が認められない電圧に行きつく。こうして反応率が50%となる電圧を閾値とすると、4尾の平均がDCでは0.17μX/cm、1Hz−0.05、3Hz−0.05、10Hz−0.04、30Hz−0.17、100Hz−4.2μX/cmとなった。ナマズは乾電池の数千万分の一の電位差を感知し、特に1〜10Hzの低周波電位変化によく応ずるのである。体表の全面に分布する小孔器と呼ばれる感覚器に対して電気生理学的に調べてみたところ、その感覚細胞にかかわる神経放電は、低周波刺激ならば弱い電圧でも同期するが、周波数が高くなるにつれて強い電圧が必要となり、個体レベルでの周波数応答特性とピタリ符合する特性が得られた。従って、ナマズの電気に対する敏感さというものは感覚系の存在によることが明らかとなったわけである。比較のために、ナマズと同じ淡水域に生息するウナギやコイについて、同じような方法で調べたが、こちらは体側筋の痙攣が起る高い電圧まで何らの反応も見せなかった。 ならば、捕食対象の魚の電気発生如何が問われよう。魚類の周囲の水中に電極を置くと、その呼吸運動に同期した電位変動(以下“呼吸波”と呼ぶ)を捉えることができる(図1)。そして、この呼吸波の発生や発生源は、鰓において主に行なわれる浸透圧調整機構とかかわっていることが判明した。 軽く麻酔したコイの周囲水中を、水流によって電極電位が乱れないように工夫した電極で探査し、電場形状を調べてみると、口および外鰓孔へ向けて電極を近づけるに従って、無限遠に対する0電位から指数関数的な電位上昇が観察され、それぞれの近傍で1〜3mVの正電位に達した。一方、他の体表では逆に電位が下降し、近傍では1〜3mVの負電位となった。このような測定をもとに電場形状を描くと図2が得られる。明らかに電流は口および外鰓孔から流出し、他の体表部分へと流入している。 ついで、呼吸波を調べてみると、図3にL(0)で示した線を境界に、頭部側の領域(S)では変動の位相が鰓付近のそれに一致し、尾部側の領域(R)では逆転している。L(0)上では電位変動は殆どない。外鰓孔が開くときの電位変動は頭部領域では上昇、尾部領域では下降であるから、口および外鰓孔の開閉により、電流が制限される結果、呼吸運動に同期した電位変動、すなわち、呼吸波が生じているというわけである。 この電場や呼吸波をもたらすそもそもの電流の源は、少し手の込んだ実験によって、魚類が生理的に体液の塩類濃度を一定に保つ機構(能動的なイオン輸送)とその結果として生ずる体内外の塩類濃度差による物理化学的な「液間電位差」との微妙なる組合わせであることが示された。 以上のことから、ナマズは電気感覚を具有し、その食対象たる魚類から生理的に電気の発生があることがわかり、ここに役者がそろったようである。ならば、ナマズは電気的情報をたよりに捕食活動をするのであろうか。 ナマズは照明下では殆ど行動を示さない。そこで、眼球摘出した個体を1尾ずつガラス水槽で飼育しながら、捕食行動に着目して観察、実験を行なった。ただし、水槽中に放した1尾の小魚を捕食するに要する時間が、眼球摘出の前後で有意に違わず、従って、視覚の有無が捕食行動にあまり影響を与えないことを、あらかじめ確かめておいた。 ナマズは一日の大半、水槽の隅で、じっとして動かないが、水面の振動や餌の臭いに敏感に反応して“身構える”。このような状態では、1)生きた小魚が体表から約5cm以内の距離に進入すると、これを正確に一瞬のうちに捕食する、2)帯電体を水槽外で動かすと、それを追う。3)局所電流を生ずる金属棒に対して攻撃するが、ガラス棒に対しては、それが体表に触れるまで何の反応も示さない。4)小魚周囲の電場、すなわち呼吸波を電極を通じて水槽中に再声すると、電極にかみつく、5)この電場を強くすると、逃避行動を示す。6)大きなコイを水槽に入れると、それに近付かないなどの行動を示す。また、コイ肉片を5〜6pの間隔で2個つるし、その一方に電極を装着して小魚の呼吸波を再声したところ、ナマズが電極付きの肉片を捕食する回数は、全試行回数に対して、6尾平均76.7%であった。この結果から、ナマズの捕食行動に際して、餌魚周囲に存在する電場が有効な手掛りを与えていることが確認できるだろう。しかも、大型魚周囲におけるような強い電場に対しては、ナマズは逆に逃避行動を示すのである。 一日をノタリ・ノタリと過し、地震となるとあわてふためく、怠け魚の代表のように思われているナマズであるが、実はこのような特殊な能力を持っていたのである。ナマズに対する認識を一新されたであろうか。地震−ナマズというのは、生物研究者としてはいささか的外れの容認され得ない発想である。 |
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●ナマズが暴れる、イワシ大漁… 動物の「異常行動」は大地震の前兆なのか
古くから日本では「ナマズが地震を起こす」と信じられてきた。実際に、ナマズと地震の関連性は科学的な研究が積まれてきたという。日本地震予知学会会長で、東海大学海洋研究所客員教授の長尾年恭氏はこう話す。 「1976〜1992年の16年間、東京都水産試験場はナマズの行動を調査し、東京都で震度3以上の地震を観測した10日以内にナマズが異常行動を起こした割合は31%だったと報告しました。ただし、異常行動の判定基準を変更すれば結果が変わるとの指摘がありました。その他の研究結果を見ても、関連性を証拠づける満足な結果は得られているとは言い難い」 ●吉村昭がレポートしていた、3.11でも観測された「イワシの大漁」 東日本大震災と、その115年前の明治三陸地震では、ともに魚の大量発生が観測された。 明治と昭和の三陸地震をルポルタージュした作家の吉村昭は、震災の1か月前の青森県の漁港で〈海面は鰯の体色で変化して一面に泡立ち、波打ち際も魚鱗のひらめきでふちどられた〉と記した(『三陸海岸大津波』)。 東日本大震災直前の2011年2月にも、マイワシの月間漁獲量の異常が東北6漁港で観測された。 「3.11と漁獲量との関連性は、2005年からのマイワシの漁獲量を見ると、計12か月にわたり異常が報告された。そのうち、漁獲異常が観測されてもM7〜8級の地震が発生しなかったケースもあった。この結果から、マイワシの大漁が大地震の前兆だと判断するのは早合点だといえます」(長尾氏) ●イルカ、クジラの集団座礁 2011年3月4日、茨城県鹿嶋市の海岸で、イルカの一種であるカズハゴンドウ54頭の集団座礁が観測された。東日本大震災の1週間前だったため、SNSで「前兆現象だったのでは」と騒ぎになった。 「日本鯨類研究所が公開しているイルカ、クジラなどの海棲哺乳類の座礁情報によると、2005〜2010年まで年間200件以上打ち上げが観測されており、カズハゴンドウも含めて、直後に地震が発生しなかった事例のほうがはるかに多い。イルカやクジラの集団座礁と地震は一般には関係ないと考えるべきでしょう」(長尾氏) |
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●ナマズは「地震予知」できるのか
人類は昔から予知できない未来の出来事をどうにかして知ろうとしてきた。地震予知もその一つだが、動物の持つ人類にはない能力が地震の予兆を感知するという伝承も広く流布している。そうした研究も多く、それら研究から動物の地震予知能力について改めて検証する論文が出た。 ●地震とナマズの関係とは 地震の多い日本では、地震に関する研究に多額の予算を投入してきた。その額はざっと年間数百億円ともいわれているが、地震の予知にはあまり多くの研究予算が割かれていないようだ。 この地震予知に関しては、1990年代の終わり頃から科学雑誌上で研究者らにより盛んに議論がなされてきた(※1)。地震については、それが起きるメカニズムなどの研究は多く歴史も長い。だが、こと地震予知では、過度な期待を市民国民に抱かせるべきではないと主張する研究者も少なくない。 日本の地震予知研究と政治行政の関係については別の問題もあるが、この記事では動物が地震を予知するという伝承について考える。すでにこの伝承に対しては科学的に懐疑的な意見もあるが、地震の前兆に関する錯覚や思い込みの代表的な例とする研究者も多い。 日本では巨大なナマズが地中深くにいて、そのナマズが暴れると地震が起きると長く信仰されてきた。こうした伝承は、地震の前にナマズが暴れたり不自然な挙動をしたという考え方によるものだ。そのため、江戸時代には地震を起こすナマズ退治の様子を描いた鯰絵というものが広まったりした(※2)。 1855年に起きた安政江戸地震の際に民間に広まった鯰絵。「地震よけの歌」とある。Via:早稲田大学博物館所蔵 地震の予知に関し、ナマズが本当に異常な行動をするかどうかの研究がある。戦前に東北帝国大学教授として多くの研究成果を挙げた生物学の大家、畑井新喜司は、自身が青森県に1924(大正13)年に創設した東北帝国大学理学部付属浅虫臨海実験所において、ナマズ(Parasilurus asotus)を使った実験を1932(昭和7)年に行った(※3)。その結果、ナマズは地震発生の6〜8時間前に普段とは違う敏感な行動を見せることがわかったという。 戦前に限らず同様の報告や研究結果は意外にも多い。例えば、1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災の前日、大阪大学の実験用マウスが異常行動を示していたという報告(※4)があったり、2009年4月6日にイタリアで起きたラクイラ地震の数日前からヒキガエル(Bufo bufo)が異常行動を示したという研究(※5)があったりする。 ●地震体験と心理状態 これらの行動については、生物が微弱な地震波動や電磁波を感知するのではないかという仮説はあるが、はっきり理由はわかっていない。一方、我々の間に流布しているこの種の伝承についていえば、地震という異常事態の体験が生物の行動と結びつき、より強調した記憶になるという認知バイアス的な心理状態(錯誤相関)による影響が考えられている。 つまり、生物は時として我々が知らない行動をとることがあり、たまたま地震の前にそうした行動があったことを地震と関連づけて強く記憶してしまうというわけだ。確率的にはありふれたものと強く印象づけられた体験との間の因果関係に、ついついヒューリスティックなヒモ付けをしてしまう。 大きな地震の前に、中小群発地震が増えたり地下水の水位に変化が起きたり電磁波に異常な事象が観察されるのは確かだ。これを宏観(こうかん)異常現象(Electromagnetic anomalies、Microscopic and macroscopic physics of earthquakes)というが、地球内部物理学などの実証的な観察研究と前述した心理的因果関係による錯誤相関が混在し、地震の予兆を探る上での障害になることもある。 最近、米国の地震学会誌に過去に発表された生物の異常行動と地震予知に関する160の研究論文を比較し、生物が地震予知できるかどうかを分析したシステマティックレビューが出された。ドイツにあるヘルムホルツ協会GFZドイツ地質科学研究センターの研究者によるもので(※6)、生物が地震を予感するという宏観異常現象の研究報告には多くの不備や欠点があり、仮にこうした研究をするなら基準を設けるべきとしている。 このシステマティックレビューでは2014年までに発表された160論文に729件の事例が報告されているが、これらと国際地震センターの地震カタログ(※7)の地震データを比較したところ、時系列を含めた生物行動の観察方法、異常行動の基準や定量性などデータの評価、天候や気温といった地震以外の環境要因、比較対象の有無、データの処理や解釈の方法などの点で科学的な検証に耐えうるものが少ないことがわかったという。 例えば前述した畑井新喜司の実験については、実験期間の7ヶ月間に178件の地震が起き、そのうち149件(約80%)でナマズの異常行動が観測されたという内容だが、観察スパンは1日に2回だけであり観測期間の85%に地震が発生した可能性があるため、単なる偶然と区別できないとする。また、閉ざされた水槽内での観察であり、空間時間的な異常行動について比較できる情報が示されていないのも問題と指摘する。 特に重要な問題点は、ほとんどの研究で事後的に異常行動の観察が報告されていることと、それら生物の個体や集団の健康状態について記録がないことだ。このシステマティックレビューを出した研究者は、生物が地震予知できることを否定しているわけではない。だが、少なくとも2つ以上の事例で同じ観察があったかどうかという再現性や異常行動の基準(閾値)、時系列で地震前からの観察かどうかなどの評価項目をそろえてから研究報告すべきとしている。 地震研究の研究者でさえ地震予知に関しては懐疑的だ。現実的には、起きた後の被害をどれだけ軽減できるかという方向で議論すべきだろう。困ったときの神頼みならぬナマズ頼りでは、せっかくの人類の叡智が宝の持ち腐れだ。 |
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●なまずと地震
江戸は災害の多い町でした。富士山の噴火(1707年)、寛保の大水害(1742年)、安政の大地震(1855年)、江戸大風(1856年)などはその代表的なものでしょう。特に地震は、火事に次いで人々が恐れたものでした。 ●安政(あんせい)の大地震 1855年(安政2年)10月2日午後10時ごろ。震源地は現在の亀有と亀戸の線上あたりといわれています。 マグニチュード6.9の直下型の大地震で、余震は29日まで続きました。最も被害が大きかったのは、地盤の弱い上野、浅草、本所、深川あたり。 地震発生とともに30か所以上から出火しましたが、さいわい風が弱かったため、火事はそれほど大きくはなりませんでした。死者1万人以上、倒壊家屋1万4000戸以上、消失家屋多数をだした大地震でした。 ●瓦版(かわらばん) 江戸時代に登場した新聞です。江戸や全国のニュースをすばやく人々に知らせました。火事や地震など、災害のニュースは、瓦版でよく取り上げられた話題です。 最初に瓦版が発行されたのは1615年、大阪落城のときですが、その後、八百屋お七の火事、赤穂浪士の討ち入り、大火や水害、黒船来航など、さまざまな事件や災害、うわさ話などがのった瓦版は大いに売れました。安政の大地震のときも、約600種類もの瓦版が発行されたということです。 「瓦版」という名は、瓦をつくる粘土に字や絵を彫り、それを焼いて版にしたからついたといわれていますが、実際には木に彫ったものが多く残っています。当時は内容をおもしろおかしく読み上げながら売ったので、「読売」ともよばれていました。 ●なまず絵の流行 地震は地底にいる大きななまずが起こすものだから、そのなまずを鹿島神社(茨城県)の要石(かなめいし)で押さえつけようという信仰は古くからありました。また、なまずは日本民謡のなかでは「物いう魚」で、災害が起こる前に人間に警告を発するといわれていました。安政の大地震の前にもなまずが騒いだという記録があります。 このように、なまずは地震と関係の深いものと考えられていましたので、安政の大地震の後、「なまず絵」は地震よけのお守りになりました。また「こんなひどい災害が起こるのは政治が悪いからだ、世の中すべてを新しく変えよう」という世直しの考えが生まれ、「地震をきっかけになまずが世直しをしてくれる」という願いを込めて「なまず絵」が売り出され、大流行しました。 |
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●地震をナマズと結びつけた話はいつごろ生まれたのか… 2018/6/18
18日朝、大阪市北区などを襲った最大震度6弱の地震は、都市機能のもろさをあらわにした。通勤・通学客が駅で長時間足止めされ、高速道は通行止めになり一般道も混雑。水道や通信などインフラにも被害が及び、経済活動も混乱した。甚大な被害が想定される南海トラフ巨大地震は30年以内の発生確率が70〜80%と推定され、対策が急がれる。 地震をナマズと結びつけた話はいつごろ生まれたのか。その最古の文書は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の手紙という。以前の小欄も触れたが、1596年の大地震で倒壊した伏見城の築城の際「なまづ大事」と地震対策を指示したのだ。天下人の指示も大地震には無力で、秀吉は命からがら幼い秀頼(ひでより)を抱いて裸で逃げた。この伏見地震で大坂でも町家の大方が崩れ、死者は数知れないとの記録がある。現在の大阪府茨木市の総持寺(そうじじ)の観音堂、箕面市の瀧安寺(りゅうあんじ)も倒壊した。この地震は大阪平野の北縁を通る有馬−高槻断層帯が動いたものだった寒川旭(さんがわ・あきら)著「地震の日本史」)。そしてきのう、高層ビルの林立する現代大阪の通勤時間帯を直撃した最大震度6弱の地震もこの断層帯との関係が疑われている。 政府の調査委の推計では、有馬−高槻断層帯で大地震が今後30年間に起きる確率は0・1%未満とされていた。また大阪では震度6の地震は1923年の観測開始以来初めてとなる。だが地下のナマズはそんな人の計数に遠慮しない。人間の側も建物の耐震化は進めたが、きのうは学校のブロック塀の倒壊で女児の命が奪われ、やはり塀の倒壊や家具の転倒でお年寄りが亡くなっている。ひと揺れあればまだまだ凶器に変わる構造物にかこまれた都市の暮らしである。地盤の緩みが心配な大阪地方はこれから雨がひどくなるという。復旧作業にあたる人々にとっても、なんとも無慈悲な梅雨である。せめてナマズよ、地震をすぐ止め、水神(すいじん)に頼んで大雨を降らすな。 |
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●鯰絵の世界
●はじめに 安政2年(1855年)10月2日の夜、江戸安政地震が発生した。地震直後から、「地震は、鹿島大明神の要石に抑えられている地下の大ナマズが暴れて起こすjという俗説に基づいた『 鯰絵』が多数出版され、爆発的なブームとなる。現在、鯰絵は二百数十点が確認されているが、図像としては、安政地震を起こした地震鯰を鹿島大明神が叱責しているもの、地震で被害を受けた人々が地震 鯰を打擲しているものが目に付く。一方それらとは逆に、大工・左官などの職人や雑多な職業の人々が、地震鯰を歓待している図像のものも多く知られている。この様な、「鯰絵の世界Jとも呼ぶべき図像の多様さは、一体何を表しているのだろうか。 ●地震鯨が「悪者」の鯰絵 江戸安政地震の余震は昼夜を問わず約一ヵ月間続き、家財を失った被災者たちは不安な日々を過ごした。鹿島神が叱責する鯰絵には、「地震よけのまじない・呪歌」が描かれていることもあり、明らかに地震よけの護符としての側面が見られるのである。また、 鯰を打擲する図像には、鬱憤晴らしの;意が込められている。このように、地震の張本人たる地震鯰が明確に「悪者 」に描かれている鯰絵は、余震が続いている時期に好まれたと考えられる。 ●地震鍛が「善者」の鯰絵 さて、地震直後から始まった江戸の復興は、次第に本格化していく。 瓦礫の撤去や土運びの為に多くの労働需要が生まれ、特に大工・左官などの職人層は引く手あまたとなり、普段の何倍もの高賃金を得て大いに潤った。彼らの儲けは、屋台店での飲食や仮宅などの遊廓でも浪費され、俄景気となった。一方、普段は儲けている富裕な商人は、家や蔵を失って大きな打撃を受けた。また富裕者は地震・大火などの緊急時には「施行」という、被災者への施しが義務となっていた。これを風刺して、地震 鯰が金持ちから黄金を吐き出させている鯰絵もある。富裕者の財産が貧しい者に施されて、復興景気も盛り上がっていくと、多くの人々が「安政地震は世直しである」と感じるようになった。すると 鯰絵には劇的な変化が見られ、悪者扱いされていた地震鯰は、「世直し鯰」として描かれ、地震鯰を懲らしめていた鹿島神や要石は、鯰絵の中から姿を消す。ついには、地震鯰を「流行神 」(一時的に人々の爆発的信仰を受ける、にわか神様)のように描いた鯰絵すら現われたのである。 ●鯰絵の終わり このように鯰絵の図像は、安政地震の余震が収まり江戸が復興していく中、まさに百八十度変化した。江戸の人々は次々と出される鯰絵を見ることで「安政地震は世直しである 」と感じ、震災のダメージから立直っていったと考えられる。一方で、俄景気を謳歌する人々に対して、地震で亡くなった者を思い起させたり、俄景気の終焉を暗示する鯰絵もあり、 鯰絵の世界をより深いものとしている。 ところで、全ての鯰絵は、幕府の検聞を受けていない違反出版物であった。大部分の鯰絵は、普段は美人画・風景画などの錦絵(多色刷りの浮世絵版画)や草双紙などの軟派本を販売する、地本問屋と呼ばれる業者が作成していたと推定される。当初 鯰絵の出版を大自に見ていた幕府も、安政地震発生から約2ヵ月後の12月15日、全ての鯰絵の版木を破棄させた。幕府は、鯰絵などの情報操作による、世論の更なる盛り上がりを危険視し、封じ込めてしまおうと考えたのだろう。 |
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●鯰のかば焼大ばん振舞
この絵は「鯰絵」の1種で、画題は「鯰のかば焼大ばん振舞」とあります。絵の上部の小字の文章は判読できませんが、大きな鯰を前にして左側の鹿島大明神が包丁を持ち、中央の讃岐金比羅さまが皿を拭き、右側の西の宮の恵比寿さまが炭火を起こしています。左上の酒樽に書かれた要石(かなめいし)は、常陸国の鹿島神宮の境内にあって、地底の地震鯰を押さえつけて地震を防いでいるとされる石の名です。地震は地底の大鯰が暴れて起きるという俗信は、江戸時代以前からありました。 安政の大地震は、安政2年(1855)の10月2日夜半に起こった、江戸の直下型地震で、マグニチュード6.9といわれています。全壊と焼失家屋は14000戸余りで、死者は7000人以上と推定されています。鯰絵は地震鯰を題材にした錦絵(多色刷版画)で、余震が収まる頃から売り出されて人気があり、地震後1ヶ月頃には400種も売られていたといいます。 地震は鯰が暴れると起きるというのは俗信ですが、鯰が地震を予知する能力を持っているとする見方もあります。『魚の博物事典』(末広恭雄著)には、安政の大地震の少し前に川で鯰が騒いでいたという記録、大正12年の関東大震災の前日に池の鯰が騒いでいたという新聞記事が紹介されており、鯰をはじめ多くの魚が地震に先だって異常な行動をとることは事実と考えられるとあります。ただし、鯰が騒いでも必ず地震が起こるとは限らないと断わり書がついています。 江戸時代の料理書にある鯰の料理は、蒲焼のほか、汁・蒲鉾・なべ焼・杉焼などです。室町時代の『宗吾大草紙』には「かまぼこはまなず本也。蒲のほをにせたる物なり」とあり、蒲鉾の原料は最初は鯰だったようです。姿が異様なので摺り身にしたのでしょうか。 |
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●日本沿岸で発見相次ぐ「地震の前兆」とされる魚の伝説
日本では昔から、様々な動物の行動が地震に関連づけられている。その中でもよく語られるのが、地震を引き起こす巨大なナマズである大鯰(おおなまず)の存在だ。大鯰は地下に潜み、時々尾を振ることで地震を起こすとされてきた。 このナマズにまつわる伝承は、地震の直前にナマズが普段と違う行動をとることに基づいているとされている。しかし、背景はもっと複雑だという説もある。一部の地域では、ナマズは洪水や豪雨から人々を守る、川の神とされてきた。しかし、一方でこのナマズが巨大化し、大鯰という妖怪になると信じられてきたのだ。 ナマズ以外にも、日本では一部の魚類が災害の前兆を示す存在と考えられてきた。その一例とされるのが、水深200〜1000メートルの深海に生息するリュウグウノツカイだ。全長4メートルほどに成長する巨大なこの魚は、地震や津波が差し迫っていることを人々に教えるために、竜王が差し向けると考えられてきた。 2月1日には富山湾の沖合で、相次いでリュウグウノツカイが定置網に引っかかっているのが見つかり、気がかりなニュースとして伝えられたばかりだ。 2011年の東日本大震災の1年前にも十数匹のリュウグウノツカイが見つかり、地震との関連を疑う記事が多数書かれた。米国でも2015年7月に、南カリフォルニア沖のサンタカタリナ島付近で、この魚が相次いで発見された。一部のメディアはサンアンドレアス断層の地震活動との関連を調べたが、特に目立った関連は見つからなかった。 通常は深海にいるリュウグウノツカイが浮上したり、死骸が漂着する理由について、生物学者たちは様々な説をあげてきた。海流の変化で海面付近に押し上げられてしまい、疲労から息絶える、などと言った説だ。 また、一部ではリュウグウノツカイが海底の亀裂から放出されるガスや、化学物質によって死ぬという説もある。しかし、この魚の行動と地震活動の間の科学的な関連性は、現在のところ確認されていない。 ●日本沿岸でリュウグウノツカイの発見相次ぐ 「地震の前兆」と恐れる声も 2019/2 日本沿岸で最近、珍しい深海魚リュウグウノツカイが相次いで見つかった。この魚は「地震の前兆」という言い伝えもあり、インターネット上で心配の声も上がっているが、科学的な関連性は確認されていない。 富山湾では1日、定置網にかかったリュウグウノツカイ2匹が見つかった。富山県では昨秋以降、すでに射水市沖で全長4メートルのリュウグウノツカイが定置網にかかり、魚津市の海岸に全長3.2メートルの1匹が打ち上げられるなど、計5匹が確認されていた。 リュウグウノツカイは銀色の体と赤いひれが特徴で、水深200〜1000メートルの深海にすむ。地震の前兆を知らせるという言い伝えもあるが、科学的な関連性は確認されていない。 魚津水族館の飼育員、西馬和沙さんはCNNの取材に対し、「リュウグウノツカイが大地震の前後に現れるという説に科学的な裏付けは全くないが、可能性を100%否定することもできない」と語った。発見が相次いでいる理由として、地球温暖化や未知の要因による影響も考えられるという。 2011年3月に起きた東日本大震災の前には、日本の沿岸に1年間で十数匹が打ち上げられたと報告されている。西馬さんは、地震発生前に海底で起きるわずかな地殻変動によって海流が変化し、その影響でリュウグウノツカイが海面近くまで浮上してくるのかもしれないと指摘する。 稲村修館長によれば、リュウグウノツカイはえさになるオキアミが海面まで浮上するとそれを追って移動し、沿岸部に姿を現すという。 ●リュウグウノツカイ 古くからの伝説 リュウグウノツカイは、神秘的な見た目と、めったに遭遇できない珍しい存在であることから、さまざまな伝説と関わりがあります。ここでご紹介するのはあくまでも「伝説」であり、科学的な根拠や証拠となる文献が存在しているわけではありませんので、おもしろ話のひとつとしてお楽しみください。 ●リュウグウノツカイが海面付近に現れると災害が起きる リュウグウノツカイは通常、水深200〜1,000mに生息しているため、海面付近で目撃されたり、捕獲されたりするのは非常に稀なケースです。そのせいか、リュウグウノツカイが海面付近に現れるのは災害が起こる前触れとされており、日本では忌み嫌われることも少なくありませんでした。今のところリュウグウノツカイと災害の関わりは解明されていませんが、東日本大震災が起こる1〜2ヵ月前や、2018年に発生した大阪北部の地震の前日にリュウグウノツカイが目撃されていることから、災害と関連づけて考える人も多いようです。 ●リュウグウノツカイを食べると不老不死になる 日本には、古来より人魚の肉を食し、不老不死になった女僧「八百比丘尼(やおびくに)」の言い伝えが残されています。比丘尼が食した人魚の正体については諸説ありますが、鎌倉時代に編まれた世俗説話集「古今著聞集」にて、「人魚なのかもしれない」と描かれた大魚の特徴がリュウグウノツカイと似ていることから、人魚=リュウグウノツカイとする説もあるようです。ちなみに漁網にかかり、リュウグウノツカイを食べた人の話では、水分が多く薄味のため、味はイマイチだということです。 ●リュウグウノツカイが網にかかると豊漁になる 災害の前触れとされるリュウグウノツカイですが、その一方で、網に掛かると豊漁の兆しと喜ぶ人もいます。普段は深海にいるリュウグウノツカイが海面近くまで浮上するのは、エサとなる魚がたくさんいるから…というのが主な理由のようです。実際、ノルウェーなどでは、ニシンが大量に釣れるときにリュウグウノツカイが目撃されることがあるため、「King of Herrings(ニシンの王)」という異名が付けられています。国や地域によって吉兆にされたり、凶兆にされたりする不可思議さも、リュウグウノツカイの神秘性を高める要因になっているのかもしれません。 ●リュウグウノツカイ 1 [ 竜宮の使い、学名:Regalecus glesne ] アカマンボウ目リュウグウノツカイ科に属する魚類の一種。リュウグウノツカイ属における唯一の種。特徴的な外見の大型深海魚。発見されることがほとんどなく、目撃されるだけで話題になる場合が多い。 ●形態 リュウグウノツカイは全身が銀白色で、薄灰色から薄青色の線条が側線の上下に互い違いに並ぶ。背びれ・胸びれ・腹びれの鰭条は鮮やかな紅色を呈し、神秘的な姿をしていることから「竜宮の使い」という和名で呼ばれる。全長は3 mほどであることが多いが、最大では11 m、体重272 kgに達した個体が報告されており、現生する硬骨魚類の中では現在のところ世界最長の種である。 体は左右から押しつぶされたように平たく側扁し、タチウオのように薄く細長い。体高が最も高いのは頭部で、尾端に向かって先細りとなる。下顎がやや前方に突出し、口は斜め上に向かって開く。鱗・歯・鰾を持たない。鰓耙は40 - 58本と多く、近縁の Agrostichthys 属(8 - 10本)との鑑別点となっている。椎骨は143 - 170個。 背びれの基底は長く、吻の後端から始まり尾端まで連続する。全て軟条であり、鰭条数は260 - 412本と多く、先頭の6-10軟条はたてがみのように細長く伸びる。腹びれの鰭条は左右1本ずつしかなく、糸のように長く発達する。腹びれの先端はオール状に膨らみ、本種の英名の一つである「Oarfish」の由来となっている。この膨らんだ部分には多数の化学受容器が存在することが分かっており、餌生物の存在を探知する機能を持つと考えられている。尾びれは非常に小さく、臀びれは持たない。 ●分布・生態 リュウグウノツカイは太平洋、インド洋、大西洋など、世界中の海の外洋に幅広く分布する。海底から離れた中層を漂い、群れを作らずに単独で生活する深海魚である。 本来の生息域は外洋の深海であり、人前に姿を現すことは滅多にないが、特徴的な姿は図鑑などでよく知られている。実際に生きて泳いでいる姿を撮影した映像記録は非常に乏しく、生態についてはほとんどわかっていない。通常は全身をほとんど直立させた状態で静止しており、移動するときには体を前傾させ、長い背びれを波打たせるようにして泳ぐと考えられている。 食性は胃内容物の調査によりプランクトン食性と推測され、オキアミなどの甲殻類を主に捕食している。本種は5 mを超えることもある大型の魚類であり、外洋性のサメ類を除き、成長した個体が捕食されることは稀と見られる。 卵は浮性卵で、海中を浮遊しながら発生し、孵化後の仔魚は外洋の海面近くでプランクトンを餌として成長する。稚魚は成長に従って水深200 - 1000 mほどの、深海の中層へ移動すると見られる。 2018年(平成30年)12月、沖縄県読谷村の沖合で雌雄の個体が網に掛かった。2匹から精子と卵子を取り出して沖縄美ら島財団総合研究センターが人工授精、人工孵化させたところ20匹が孵化した。このリュウグウノツカイの人工授精と人工孵化は世界初の事例となった。 ●分類 リュウグウノツカイ科は2属2種からなり、Nelsonによる魚類分類体系において、本種はリュウグウノツカイ属を構成する唯一の種となっている。 リュウグウノツカイ属の分類には様々な見解があり、日本近海からも報告のある Regalecus russelii を Regalecus glesne とは別種とみなし、こちらに「リュウグウノツカイ」の和名を与える場合もある。本稿では両者を R. glesne にまとめ、R. russelii をシノニムとして扱うNelsonの体系に基づいて記述しているが、本属の分類については再検討の必要性も指摘されている。 ●人間との関わり リュウグウノツカイはそのインパクトの強い外見から、西洋諸国におけるシーサーペント(海の大蛇)など、世界各地の巨大生物伝説のもとになったと考えられている。その存在は古くから知られており、ヨーロッパでは「ニシンの王 (King of Herrings)」と呼ばれ、漁の成否を占う前兆と位置付けられていた。属名の Regalecus もこの伝承に由来し、ラテン語の「regalis(王家の)」と「alex(ニシン)」を合わせたものとなっている。中国と台湾では「鶏冠刀魚」や「皇帯魚」と呼ばれる。 ●人間との関わり・日本 人魚伝説は世界各地に存在し、その正体は海牛類などとされるが、日本における人魚伝説の多くはリュウグウノツカイに基づくと考えられている。『古今著聞集』や『甲子夜話』『六物新誌』などの文献に登場する人魚は、共通して白い肌と赤い髪を備えると描写されているが、これは銀白色の体と赤く長い鰭を持つ本種の特徴と一致する。また『長崎見聞録』にある人魚図は本種によく似ている。日本海沿岸に人魚伝説が多いことも、本種の目撃例が太平洋側よりも日本海側で多いことと整合する。 日本近海では普通ではないものの、極端に稀というわけでもなく、相当数の目撃記録がある。漂着したり漁獲されたりするとその大きさと外見から人目を惹き、報道されることが多い。 サケガシラなど他の深海魚の浅海での目撃や海岸漂着を含めて、天変地異、特に地震の前兆(宏観異常現象)の一つとされることもあるが憶測に過ぎず、東海大学の研究でも否定されている。こうした日本の伝承・俗説は、インドネシアでも知られている。 2014年1月に兵庫県豊岡市に漂着した個体では、市内の環境省の学習施設の職員らが解剖調査を行った後に調理して試食しており、身に臭みや癖がないことや、食感が鶏卵の白身のようであること、内臓の部位によっては味が濃厚であることなどを報告している。生きたリュウグウノツカイを漁師が銛で突き、極めて新鮮なうちに食べた記録が、長崎県壱岐諸島の『壱岐日日新聞』519号(2010年1月29日付)にある。全長約5メートル、40 - 50キログラムの個体で「刺身で食べたらゼラチン質がプリプリして、甘みがいっぱい。まるでエビの刺身」という。また、鍋で食べても、「身が甘くてツルッとした口触りで柔らかく、鍋一杯がアッという間になくなるほど好評だった」という。 富山県では冬になると本種がしばしば定置網にかかり、漁師から「おいらん」と呼ばれている。また新潟県の柏崎では「シラタキ」と呼ばれる。 ●リュウグウノツカイ 2 ●リュウグウノツカイとは? ●ヘビのような深海魚 リュウグウノツカイは比較的知られている深海魚です。深海魚を図解した書物には間違いなく載っている代表的な深海魚で、ヘビのような特徴ある姿を見たことあるという人は多いはず。竜宮城に由来したとされるネーミングも覚えやすく、深海魚といえば、最初にリュウグウノツカイを思い浮かべる人も少なくないでしょう。 ●まだまだ謎が多い リュウグウノツカイは生きた状態のものを見ることが難しい魚です。捕獲されることが珍しく、捕獲して水族館に移しても、数時間しか生きていないのです。もし、その短いタイミングで見られたのなら、とんでもなくラッキーなことだといえます。飼育法は現在もまったく確立されていません。そのため、生態調査なども進んでいない謎の多い魚です。 ●リュウグウノツカイの形状 ●最長の硬骨魚類 リュウグウノツカイは非常に大きな魚です。一般的には3m程度ですが、5mにもなる個体も珍しくなく、過去には全長11mという記録も残っています。これはサメやエイなどの軟骨魚を除く、硬骨魚類の中では現存する魚として最長です。ただし、生体が見られるのは稀で、ほとんどは死骸が浜に漂着することで確認されます。 ●尾びれがほとんどない とにかく特徴的で、インパクトのあるリュウグウノツカイ。細長い胴体と、頭から尾にかけてヒラヒラとした赤い尾びれという姿は、普段浅瀬で見られる魚とはまったく違います。上向きの口で、胴体は白っぽい銀色。側面には青い模様がライン上に並びます。胴体は尾に向かって細くなり、尾びれがほとんどないので、ヘビのようです。 ●トサカを持つ不思議なスタイル 縦に平べったいリュウグウノツカイで、特に目立つのは鶏のトサカのような頭部に近い背びれ。最初の数本から十本が特に長いのです。ひれは柔らかく、背びれは毛のように背部から最後部まで続いています。胸びれも優雅なループタイのように長いです。なんと歯もウロコもウキブクロもなく、かなり変わった魚といえるでしょう。 ●リュウグウノツカイを動画で見よう ●泳ぐリュウグウノツカイ 他の魚とはまったく似ていないリュウグウノツカイの姿は、文章だけではなかなか伝わりにくい。しかし、最近は動画サイトで生きた、泳ぐリュウグウノツカイが見られます。滅多に見られない深海魚なので、こういう動画でその美しさを確認してみてください! ●海水浴場のリュウグウノツカイ 海水浴で出会ったというリュウグウノツカイが撮影されています。まだ成長しきっていないリュウグウノツカイで、華やかさは少々といったところです。でも、海水浴できる場所で見られたという、かなり貴重な動画といえるでしょう。 ●リュウグウノツカイを解体 こちらはリュウグウノツカイの解体動画です。短い動画ですが、リュウグウノツカイの大きさや、体の構造がよくわかるでしょう。アップで見ると顔はあまり可愛いほうではありません。でも、口が飛び出すなどの生態や、白身の肉の感じが見られます。 ●リュウグウノツカイの名前の由来 ●竜宮城からやって来た? リュウグウノツカイは漢字では「竜宮の使い」と書き、浦島太郎の話に出てくる竜宮城から来た深海魚という意味であると考えられますが、はっきりした由来はわかりません。しかし、リュウグウノツカイという名前はロマンチックで、羽衣が舞うような神秘的な姿にふさわしく、この魚がよく知られる理由なのは間違いありません。 ●英語では櫂の魚 英語でリュウグウノツカイは「oarfish」。Oarは船のオール、つまり櫂のことで、大きめの頭から尾に向かって先細りする形が由来です。「ribbonfish」――リボンのような魚と呼ばれることもありますが、リボンフィッシュはリュウグウノツカイの近種のサケガシラなどフリソデウオ科を指す言葉で、厳密には違う魚のことです。 ●高貴なイメージから命名 リュウグウノツカイは世界各地で知られており、ヨーロッパでは王冠を被ったような姿に由来して「ニシンの王」と呼ばれていました。中国では「皇帝魚」「鶏冠刀魚」と書き、これも王冠状のひれが由来でしょう。和名のリュウグウノツカイもそうですが、どこか華やかな貴族を彷彿とさせるイメージは共通しているようですね。 ●リュウグウノツカイの分布 ●世界中に分布。日本にも多い リュウグウノツカイは死んだ個体が打ち上げられることが主で、その特徴的な姿からニュースになることも多いのです。打ち上げられた場所は広く、日本でも北から南、太平洋から日本海に関わらず打ち上げや目撃が数多くあります。このことから太平洋、大西洋、インド洋、世界中の各地の外海に幅広く生息していると考えられています。 ●深海から浅瀬にも浮上 さて、リュウグウノツカイは深海魚ですから、生息するのは深さが200〜1,000mの間です。だから普段は見られないのですが、浅海に浮上してくることもあります。漁師さんやダイバーなどは海面近くにいる生きたリュウグウノツカイを見ることもあります。しかし、これも稀で、後述しますが災害の予兆と不吉がられてもいるのです。 ●リュウグウノツカイの生態 ●プランクトン食性で温和 リュウグウノツカイは単独で行動する生態です。食性は以前は不明でしたが、胃の内容物を調べたところ、オキアミや甲殻類を食べていることが判明しました。歯もありませんから、肉食の獰猛魚でないことは確実です。大型魚であることから、捕食されることはまずありません。天敵は深海の大きなサメくらいでしょう。 ●普段は立ち泳ぎ? リュウグウノツカイに似たサケガシラなどもそうですが、水中では縦になっている生態も知られています。泳ぐときも進行方向に向かって体を斜めにして進みます。スピードは遅いです。アンカーなどの人工物があると、それに沿って浅海まで浮上してくることがあり、そういう施設ではリュウグウノツカイがよく見られる傾向があるといいます。 ●尻尾を切って体力温存 面白い生態として、トカゲのように尻尾を切るというのがあります。この生態は敵に襲われたとき切って逃げるとか、栄養が不足した場合に尾を切り離してエネルギー消費を減らすと考えられています。見つかるリュウグウノツカイはほとんど尻尾が切れているので、深海では食生活が厳しく、それに合わせた生態なのでしょうね。 ●リュウグウノツカイは食べられる? ●食べるチャンスがないわけでもない リュウグウノツカイは稀に漁網に引っかかるという深海魚なので、市場に出回ることはまずありません。漁港の近くでたまに売っていることもありますが、味は今一つということで、個人が購入することもないでしょう。飲食店が変わったメニューで出すくらいです。お店のほうが美味しく調理してくれて、味わえるのでしょうね。 ●水っぽくて美味しくない白身 気になる味ですが、食べた人の意見をまとめると、「水分が多い白身」「味は薄い」「甘味がある」「骨は柔らかい」のだとか。アカマンボウに近い種であるリュウグウノツカイですが、アカマンボウはマグロの味に近い特徴があります。そのため、味わいはマグロとタラに近いのですが、癖があって美味しいとはいえる魚とはいえません。 ●向く料理と向かない料理 リュウグウノツカイの食べ方はいろいろです。切り身で手に入れられたら、バターでソテーにするのが簡単で美味しいでしょう。味が薄いので、煮付けにして醤油味をよく染み込ませるのもおすすめの食べ方です。逆に向かないのは刺身。味の好みは人それぞれでしょうが、水っぽくてフニャフニャとした食感で、不味いです。 ●リュウグウノツカイは地震を予知する? ●災害前に見られる特徴がある 深海魚は地震の予兆とよくいわれます。リュウグウノツカイも天変地異の予兆を告げるとされており、日本では忌み嫌われてきました。生物の行動と、地震などの関連性は解明されていませんが、予兆として生物が普段と違う行動をすることは事実あります。リュウグウノツカイも何かの異変を感じている可能性は否定できません。 ●地震との関連はわからない 2011年の1〜2月に日本各地でリュウグウノツカイが目撃されました。その3月に東日本大震災があったのはご承知の通りです。2018年に大阪北部で起こった地震の前日にも、リュウグウノツカイが目撃されています。このような事例はいくつか見つけることができます。これを予兆といっていいのかは意見が分かれるところでしょう。 ●地震とは関係ないらしい リュウグウノツカイと地震は関係ないというのが一般的な意見です。日本は地震の多い国なので、リュウグウノツカイが見つかるという珍しいことと、地震のタイミングが合いやすいだけなのです。なので、リュウグウノツカイが捕獲、あるいは打ち上げられたといっても、それが災害の予兆といって怖れることはないと思ってください。 ●リュウグウノツカイの伝説 ●実は豊漁を予兆していた? 「リュウグウノツカイが海面で見られれば大量になる」と喜ぶ漁師さんもいます。深海魚が海面に浮上するということは、海面付近に餌が豊富にあるということだから、豊漁になる予兆だという理屈です。これも関連性ははっきりとしないのですけれど、災いの予兆という不吉な言い伝えだけではないということも知ってほしいです。 ●大ウミヘビの由来になった 西洋には海の大ウミヘビの伝説があり、シーサーペントと怖れられているのですが、その正体が実はリュウグウノツカイではないかといわれています。確かに海でヘビのような形をした、10mもの生物といえばリュウグウノツカイが疑わしいでしょう。シーサーペントの噂の由来はリュウグウノツカイなのかもしれませんね。 ●人魚とリュウグウノツカイ リュウグウノツカイは、日本の人魚伝説と関連があるという説があります。人魚といえば上半身は人間で、下半身は魚という格好ですが、昔の文献には下半身が異様に長い、ヘビのような人魚が描かれています。その特徴がリュウグウノツカイに酷似しているのです。これも想像の域を出ませんが、海の怪物はリュウグウノツカイが由来になっているのも多そうです。 ●まとめ ●不思議な美しさを持つ深海魚 特徴的な姿と、よくわからない生態。謎は多いですが、リュウグウノツカイには一度見れば、つい心が惹かれてしまう魅力があります。こんな不思議な魚が、日本の近海にもたくさん生息しており、時には浅瀬で見られたり、浜に打ち上げられるのですから面白いですね。不吉の予兆ともいわれますが、見られたら相当ラッキーなのは間違いないでしょう。 |
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●大ナマズ秀吉の天下を倒す…歴史を変えた大地震
崩れ落ちた建物、ひび割れた道路、悲鳴を上げて逃げ惑う人々…。大地震の発生直後ほど、人の無力を思い知らされる場面はない。豊臣政権が長続きしなかった要因の一つに、16世紀末に日本を襲った2つの大地震があった。最新の地震学を基にそのメカニズムと、歴史学との接点を探ってみると――。 ●地震の謎に古文書で挑む 6月18日朝、大阪府の北部を中心とする最大震度6弱の地震があり、大きな被害が出た。千葉県の房総半島では「スロースリップ」によるとみられる地震が続いた。群馬県でも大阪の地震の前日、県内を震源とする地震で初めて震度5弱の揺れを観測した。 「深層NEWS」でも大阪で地震があった日に、日本地震学会会長で名古屋大学教授の山岡耕春こうしゅんさんをお招きして、多発する地震についてじっくり解説してもらった。 古文書などの記録から過去の大地震の時期や規模を推定し、最新の観測データと重ねあわせてその周期やメカニズムを探る研究が、徐々に成果を上げつつある。歴史家の磯田道史さんは『天災から日本史を読みなおす』(中公新書)で、最新の研究成果を分かりやすく紹介している。最新の地震学と歴史学は、今回の大阪の地震をどうとらえているのか。 ●「中央構造線」が引き起こす連動地震 日本で起きる地震には、太平洋プレートの沈み込みによって起きる「海溝型地震」と、内陸部で活断層が動く「内陸型(直下型)地震」がある。今回の大阪の地震は内陸型地震で、震源の近くには有馬−高槻断層が走っている。1596年(文禄5年)に「慶長伏見地震」を引き起こしたとみられる断層だ。 この地震の規模を示すマグニチュード(M)は7.5前後と推定され、豊臣秀吉(1537〜98)が隠居用の城として築城し、完成したばかりの伏見城天守が倒壊した。イエズス会宣教師がローマ教皇庁にあげた報告には、秀吉は愛児の秀頼(1593〜1615)を抱いて庭に飛び出し、九死に一生を得たとある。加藤清正(1562〜1611)が伏見城など被災地の復旧にあたり、その際に得た知識を熊本城の耐震化に役立てたとみられることは、以前にも紹介した。 記録をたどると、この地震の1週間前から大分県の別府湾付近で慶長豊後地震、愛媛県で慶長伊予地震という推定M7.0以上の大地震が続いている。発生した時の年号は文禄なのに「慶長〇〇地震」と呼ばれるのは、短期間に大きな地震があまりに続いたため、直後に改元されたからだ。 3つの地震の震央はいずれも日本最大の断層帯である中央構造線に近く、最初の地震が中央構造線を動かし、次々に直下型の地震を誘発する「連動地震」だった可能性が指摘されている。こうした連動が起きるなら、18日の大阪の地震の導火線は2016年4月に中央構造線の西端で起きた熊本地震なのではないか。中央構造線は群馬県下も走っており、17日の群馬の地震との関連を指摘する向きもある。 だが、山岡さんは「中央構造線が導火線の役割を果たしたなら、熊本から近い九州北部や四国北部でも大きな地震が起きていたはず。一足飛びに大阪北部に伝播でんぱすることはない」という。また「中央構造線は紀伊半島より東ではこれまでほとんど地震を起こしていない」。群馬の地震との関連もないようだ。 ただ、山岡さんは、西日本での中央構造線による連動地震のメカニズム自体は否定していない。四国北部などで今後、連動地震が起きる恐れは残る。 |
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●“世直し鯰繪”の話
安政大地震の後で売出された鯰繪の図柄は、多種多様で番付形式のものや、報道的なもの、お守札にしなさいといっているもの、被害情報を中心としたものなどが見られるが、この時に発売された鯰繪の最大の見所は、なんといっても、この鯰繪のような“世直し”という幕末期の庶民の総てが持っていた、幕府の政策に対する社会批判、政治批判を鯰に置替えて、言わせるという手法の“世直し鯰繪”ではないだろうか。 徳川幕府の政策は、政権維持と威信の確立のために、大名政策に重点がおかれ、士農工商の社会制度が厳然と守られ、工、商などにたづさわる庶民などは、社会の底辺にいつしか追いやられて省みられることが少なかった。 こゝに庶民が持った不平不満は、何時しか潜在意識となって蓄積され始めたが、これという力を持たない人々は、わずかに洒落や諷刺でうっ噴を晴らしていた。このような潜在意識は、大事件、大災害などをきっかけとしてこの鯰繪のような形となって、俄然爆発したもので、安政時代になると、公然と“世直し”などと直接的な表現で、当局の施策を批判するようになったものである。 さらに、安政大地震を転機に世相は大きく転換の方向へ動き出し、武家の衰退が商人の実力に屈し、外国勢力の圧力などが加わり、わが国の世情は、ようやく騒然とした様相を呈し始めることになった。 この絵の見所は、これまた鯰を善人、正義の味方、庶民の味方と擬人化して、地震で苦しむ庶民に特別の施策をはからなかった、当局に対する痛烈な皮肉を込めて画かれている。 そのことを、庶民と鯰との対話調に書き記し、庶民が、地震の時に諸人を助けたのは“御神馬(ごしんめ)”が駈けめぐって救助したもので、その証拠は着物についていた白い毛であり、有難いことだと言わせている。そこへ鯰がやって来て、今の話は違っていて、本当はおれ達の仲間が救ったのだというと、庶民の一人が、鯰がそんなことをできるものか、足元の明るいうちにとっとと消えろとおどかすと、また、鯰は、おれ達がよってたかっても、地震なぞ起せるものか、地震は“陰陽の気”でおれ達の仕業じゃないが、鯰を悪く言うやつ(役人や地震で損をする人々)は救わないで、おれ達のことを歓迎してくれる人々(地震で大儲けする人々、弱い立場の人々)を助けるのだ。といい、これを聞いた人々は、鯰にはそんな情けがあったのか(これも世直し批判)、というと鯰は、“魚心あれば水心”と洒落でこの会話を終らせている。 これでわかるように、この鯰繪は、鯰が地震そのものを起すというこれまでの発想の鯰繪と、大きく異る部類のもので、鯰は“世直し”のために人助けをするので、鯰を悪くいうやつは助けないといわせて、暗に当局の庶民政策の無策ぶりを批判したものである。 そのことは、難儀をしている庶民の中から助けられるのは、大工や鳶や左官屋といったような、職人達であり、倒れても助けてもらえないのが、金持、分限者といわれるような人だという風態を画いて、そのことを現わしており、痛烈な政治批判の極めつけである。 皮相的にたゞこの鯰繪を見ただけでは、その意味はわかりにくいが、このような見方で鯰繪を鑑賞することにより、歴史的な時代背景を理解することができよう。 |
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●断層と鯰について
私は建築分野の中でも、建築構造、耐震工学を専門としており、地震動の特性、建物の揺れ方と損傷、揺れを抑える免震構造・制振構造などを、観測、実験、解析に基づいて研究しています。最近では4月に熊本で大きな被害をもたらす地震が発生し、熊本県を東西に横切る断層を中心として余震が続いています。 地震は地殻プレート運動によって発生し、東北地方を例にすると、東日本・北日本が載っている陸側のオホーツクプレートと海側の太平洋プレートがぶつかり合う日本海溝付近で、プレートに蓄積されたひずみが一気に解放されるときに地震と津波が発生します。1978年宮城県沖地震(M7.4)や2011年東北地方太平洋沖地震(M9.0,東日本大震災)、発生が懸念されている東海地震、南海地震などがこのようなプレート型の地震です。また、陸側のプレートに蓄積されたひずみに耐えられなくなって地盤が割れる断層が原因となる地震もあり、この場合は直下型で震源が浅いため、小規模でも大被害となる可能性があります。 今回の熊本地震(M7.3)や1995年兵庫県南部地震(M7.3,阪神・淡路大震災)、2004年新潟県中越地震(M6.8)などは断層による地震で、宮城県では、利府長町断層による直下型地震が懸念されています。ところでマグニチュードMは地震そのものの大きさ・規模を表す指標ですが、Mの数値の違いと地震の規模の違いの関係をご存知でしょうか。 地震のエネルギーは、係数×(10の1.5M乗)、と計算されますので、Mが1.0大きくなるとエネルギーは(10の1.5乗)倍、つまり約32倍となり、Mが0.1大きくなるとエネルギーは(10の0.15乗)倍、つまり約1.4倍となります。 地震を引き起こす断層は、時として地上に現れて、そのエネルギーのすさまじさを見せつけることがあります。愛知県、岐阜県一帯に大被害をもたらした1891年濃尾地震(M8.0)の根尾谷断層(岐阜県本巣市水鳥)では、上下6m,水平2mのずれが地表に現れました。下の写真は左が地震当時、右が現在のものですが、当時の写真は断層近くの丘の案内板に掲示されていて、見比べると現在でも断層がよく分かります。この地震のM8.0は日本の内陸地震では最大級であり、東日本大震災を引き起こしたM9.0の地震の32分の1の巨大なエネルギーを持つ地震が直下型で起こったことを考えると、そのすさまじさは想像を絶します。 下左写真は阪神・淡路大震災を引き起こした野島断層(兵庫県淡路市小倉)で、現在はその上に断層記念館が建設されて保存されています。右の写真の住宅は断層からわずか1mの場所に建っていましたが、建物自体の損傷は少なく、住民の方は地震後4年間居住し、現在はメモリアルハウスとして保存・公開されています。 ところで、日本では鯰が地震を起こすといわれ、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)には鹿島大明神(武甕槌大神、たけみかづちのおおかみ)が大鯰を封じ込めたという要石(かなめいし)があります。下左写真の木の根元に見える直径40cm程度の石ですが、実は地中は巨大で、徳川光圀が七日七晩掘らせ続けても全体が見えず、ついにあきらめたとの史料があります。境内には鹿島大明神と大鯰の碑もありました。 地震と鯰の関係については、豊臣秀吉が前田玄以に送った書簡の記述が最古のものといわれていますが、1855年安政江戸地震(M7.0〜7.1)の際に鯰絵と呼ばれる瓦版が多種発行されたことからイメージが広く定着しました。この地震は旧暦の10月、つまり神無月に発生したので、出雲に出張していた鹿島大明神や留守を任されながら大鯰を抑えられなかった恵比寿様を揶揄するような絵、地震で儲けた材木商、大工、左官などに対する非難、袋叩きにされる鯰や復興景気で金をばらまく鯰、鯰による歌舞伎や相撲のパロディなど、多種多様な鯰絵があります。当時は不況や裕福な商人に対する不満、黒船来航による世情不安など、不安定な社会情勢で、また、前年の安政東海地震(M8.4)、安政南海地震(M8.4)など、比較的地震も頻発していました。滑稽な鯰絵は、悲惨な震災を笑い飛ばし、不満のはけ口とし、ストレスに負けずに生きていくための江戸っ子のバイタリティの表れだったのではないでしょうか。 |
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●大明神、地震を起こした鯰を叱る
おふざけかユーモアか?江戸の奇妙な鯰絵 安政大地震の際、江戸の庶民に「正しい情報」を伝えるため、下世話な儲け主義だったはずのかわら版屋が大活躍し、ジャーナリズムの萌芽を感じさせました。 しかし、地震の直後に登場したのは「鯰絵(なまずえ)」とよばれるかわら版や錦絵でした。擬人化したした鯰が世直ししたり、大暴れして鹿島大明神に叱られたり、一見ただのおふざけのような、深読みするとじわじわ染み込むブラックユーモアにあふれた鯰絵は、江戸の庶民には大うけだったそうです。そんな鯰絵はどのような目的で作られ、どのような点が江戸の庶民の心に響いたのでしょうか? 大阪学院大学、准教授の森田健司さんが解説します。 ●とにかく笑えて、バカうけだった鯰絵と江戸っ子気質 1855(安政2)年10月2日、多くの人々が眠りについた午後10時頃に発生した安政江戸地震は、江戸中の建物に被害を与え、数え切れないほどの人命を奪い去った。愛別離苦の深さは、今も昔も変わるものではない。人々の嘆きや悲しみは、160年近く後の世に生きる我々にも、容易に想像できる。 しかし、この地震の直後に流行したある刷り物は、現代人の目には、おそらく奇異に映ることだろう。その刷り物は、後に「鯰絵(なまずえ)」と呼ばれることになる。 その名の通り、鯰絵には、魚類である鯰の絵が描かれていた。巨大地震のすぐ後に売られた刷り物であると聞くと、おまじないに使うものや、お守りの類を想像するかも知れない。そう思って鯰絵を見ると、拍子抜けすること請け合いである。鯰絵の多くは、深刻さの欠片すらない、ユーモラスな雰囲気を醸し出す一枚刷りなのだ。実に、絵柄も今の漫画に繋がるものが多い。これは一体、何なのか。 オランダの人類学者、C・アウエハントは、鯰絵について次のように述べている。 当時の社会状況のなかで考えてみると、鯰絵がねらっていたことの一つは、明らかに、嘲笑、下品な冗談、泣き笑いを絵の中に折り込んで、都市に住む民衆の生活にもっと潤いを与えることであった。 つまり、鯰絵とは、震災直後の江戸に「笑いを提供する商品」だった。冒頭に掲載した「世直し鯰の情」は、擬人化された鯰3匹が被災者を助けている様が描かれたものだが、悲壮感がないどころか、滑稽にしか思えない。ここに込められた思いについては後述するが、とにかく、感傷的とは程遠い、ユーモラスな一枚刷りであることだけは間違いがなさそうだ。 鯰絵は、その多くが多色刷りだが、普通の錦絵とは違って、ほとんどが非合法出版だった。幕府の許可を受けずに売られたので、多くには、改印がなく、絵師名も出版元も明記されていない。その意味でも、鯰絵はかわら版の一種だった。 地震直後から企画され、数日後には完成した鯰絵は、驚くほどの数が売れた。どんどん発行し、鯰絵で一財産築いた者もいたぐらいである。現在確認されているだけでも、軽く200種を超えている。震災から2カ月半が経って、幕府が禁令を出し、版木を没収するまで、鯰絵の流行は続いたようである。 それにしても、震災後の混乱時に、笑いを求める人々のたくましさには驚かされる。しかし、これこそが当時の江戸に生きた庶民の精神性だった。いわゆる、江戸っ子気質である。さっぱりしていて、どこまでも前向きな江戸っ子は、悲惨な状況にも屈することなく、泣き笑いしながら復興に勤しんだのだ。 ●「鯰が地震を起こす」という俗信 鯰絵を読み解くためには、まず江戸時代に生きた人々の「常識」を知る必要がある。 当時、「地震は地底にいる大鯰が暴れることによって起きる」という俗信があった。その大鯰は、普段は鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の鹿島大明神が、要石(かなめいし)によって押さえており、動くことができない。ところが、安政江戸地震が起きた10月は、神無月である。この月は、諸国の神々が出雲に参集する月と考えられていた。鹿島大明神も、その例外ではない。この鹿島大明神が留守にした隙を衝いて、大鯰が動き、大地震が起きたのだ。人々は、俗信に基づき、そのように理解したという。 地震の後に、鯰を描いた一枚刷りが流行したことには、このような背景がある。よって、最も単純な鯰絵は、「地震を起こした鯰を懲らしめる」というものとなる。実際に、これに類する鯰絵は、極めて多く確認されている。 例えば、鹿島大明神が鯰を叱り付けているもの、叱るだけではなく瓢箪(ひょうたん)で押さえ付けているものなどが、その代表例である。神々の留守居役である、恵比寿や大黒などが、鯰を瓢箪で押さえ付けている絵も多く見られた。 なお、瓢箪を使っている理由は、「ヌルヌルの鯰をツルツルの瓢箪で押さえるにはどうすれば良いか」という、禅問答における問いにちなむ。「瓢箪で鯰を押さえる」(要領を得ないことの意)ということわざも、同じルーツを持つものである。だから、当時から鯰を懲らしめる道具として、瓢箪が描かれることがよくあった。 次に掲載する鯰絵「地震方々ゆり状の事」も、この「地震を起こした鯰を懲らしめる」カテゴリーに分類できるものである。 絵を見ると、真ん中に鯰、右に瓢箪、左に要石が、それぞれ擬人化して描かれている。いわゆる「奉公人請状(うけじょう)」、つまり「奉公人の契約書」のパロディーで、瓢箪が保証人となり、鯰を要石の元に奉公に出す、という内容が書かれている。 絵の雰囲気からもわかるように、全体的に滑稽な内容で、「天災ざん年(残念の駄洒落)鹿島の神無月二日」という日付表記に至っては、少々不謹慎な感じさえある。しかし、こういったブラックなユーモアさえ許容する文化が、当時は確かに存在していた。 ●地震で儲かった人々 次に掲載する鯰絵「地震節用難字尽」は、創作漢字を並べて、安政江戸地震を風刺する一枚である。 創作漢字を、いくつか紹介してみたい。1番目は、「凶」偏に「災」で「なまず」と読むらしい。これは、地中の大鯰が暴れることで、「凶事」であり「災難」な大地震が起きたという、先の俗信を知っていれば理解できる。 次の二つは、この大地震でお金を儲けた職業を教えてくれるものである。11番目を見てもらいたい。ここでは、「木」偏に「手間」と書いて、「はんじょう」と読ませている。木を用いて仕事をする、大工の仕事が急激に増えたことを表すものである。言うまでもなく、倒壊した家々を、建て直さなくてはならなかったからだ。12番目は、「小手」偏に「塗る」で「いそがしい」と読ませている。これは、壁を塗る仕事、つまり左官が忙しくなったことを表すものである。 大工や左官とは逆に、仕事がなくなってしまった人たちもいた。5番目がそれで、「人」偏に「芸」で、「こまる」と読ませている。芸人への需要が、一気に低減してしまったのだろう。笑いは求めていても、芸人が活躍する小屋もなくなり、道も瓦礫で埋もれてしまっているからである。18番目は「役」偏に「者」で、「をあいだ」と読み、役者が「御間(=不用)」となってしまった状況を表している。「披露する場所」を必要とするエンターテインメントが、一気に不景気に陥ったのだ。 なお、16番目の創作漢字を見ると、鯰絵のブラックさが了解されるだろう。なんと、「人」偏に「焼」と書いて、「こんがり」と読ませているのである。地震によって発生した火事で、多くの焼死者が出た中、ちょっと信じられないセンスに思える。不謹慎極まりないが、過激なものほど売れるのも、かわら版の世界の常だった。 最後に、初めに掲げた鯰絵「世直し鯰の情」に戻りたい。この一枚は、絵や本文以上に、タイトルが意味深だ。現代人が普通に読むと、なぜ「世直し」などという言葉が、大地震に関連した刷り物の名となっているのか、理解に苦しむはずである。しかし、当時の人々にとって、「世直し」と「大地震」は、決して縁の遠い言葉ではなかった。 そう、地震は硬直化し、多くの問題を抱えた世の中を破壊し、再生させる現象とさえ考えられていたのである。当時の俗信における用語を使えば、「滞った気を、正しく流すための現象」として、地震をとらえたということになる。 もちろん、大多数の人にとって、安政江戸地震は悲劇以外の何物でもなかった。だが、この地震によって大儲けした大工や左官、そしてかわら版屋は、ある意味、その悲劇を天恵とすらとらえたのだろう。また、大地震によって財産を全て失った「かつての大金持ちたち」を見て、ほくそ笑み、地震を「世直し」と感じた貧困層の人々もいたのである。 鯰絵は、江戸っ子気質が生み出したユーモラスな刷り物であると同時に、人であれば誰もが持つ、嫉妬や憎悪などの負の感情も織り込まれたものだった。幕末という特殊な時代背景も手伝って、ほかに類を見ない奇妙な「商品」となった鯰絵は、今も多くの人々の関心を引いている。 |
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●「大鯰後の生酔」の話
この鯰繪は、地震で大暴れした大鯰を魚板の上にひっくり返し、鹿島太神宮が腹を立てゝ「おれの留守中に世界を騒がせ、よくも暴れおったな」と取おさえて地震をおさめたことを意味し、これを中央に大きく画くことによって、上段のわらいの止まらぬ儲連中と、下段の泣くに泣けない大損連中とに区別して、地震の後の庶民達の明暗を画きわけている。 この点で〔其ノ壹〕の「地震出火後日角力」と全く同一の意図を絵にしたもので、その意味は同様のものである。この意味合を更に強調するために、上段の大儲け連中は、笑がとまらないが、鹿島太神宮の前だけに、ぐっと押えてもっともらしい人相に画いている。陽気な顔とまでいかなくてももっともらしい顔に画き、その脇で“おいらん”(女郎)と“夜たか”が客待ち顔に画かれている一方、下段の泣くに泣けない大損連中は、何れも渋い顔に画きたてて上段と下段の人相を対象的にしている。 また、鹿島太神宮を腹立ち上戸と表現しているのと、宝剣で大鯰をひっくり返して、その腹を断ち切ることで“腹立ち”を引っかけた洒落で、江戸の文書、史料、絵画の中で、特に市井に出廻ったこの手の史料を見る時は、洒落を見落しては意味のない、唯の絵になってしまうことだろう。これがこの鯰繪の見所で、この洒落を入れて、人間よりはるかに巨大に大鯰を画いて、これをひっくり返して人々を驚かすことで、この鯰繪を売らんとした意図をみることができる。この絵を見て直ぐに連想することは、鰻屋が商売でする仕草を、大鯰に置替え、見ただけで腹をさかれてしまう情景を構図としたところなど、売らんかなという作者と版元の商魂を見ることができる。 さて、この鯰繪に画かれた「儲連中」と「損連中」のそれぞれの職業を紹介しておこう。さらに、〔其ノ壹〕の見立番附と対比して、鑑賞されると一層と興味を引かれることであろう。 |
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●紀の川の大鯰
ナマズちゅうのは、なかなかおもしやい魚やな。 立派なヒゲを生やして、地震を起こすといわれてらしょ。 今時、そんなアホなこと信じる人はないけど、実際にこのナマズは、地震の予知能力はあるらしいで。 そいで一生懸命に研究してる学者もいてるくらいやもんな。 紀ノの川にもそら大きなナマズが棲んでて、二メートル近いよな怪物もおったらしいわ。 鎌倉時代の昔、幕府の実力者だった北条時頼が諸国をめぐっていたが、紀州へもやってきて橋本の利生護国寺に滞在してたそうな。 そこで地元の武士集団である隅田党の代表らが出かけて行って、ある日のことに時頼を紀ノ川の川狩りに招いたんや。 さて当日、川漁師や腕に覚えのある侍たちが集まって、あちこちの深みに網を入れたんやが、コイやフナがおもしろいはどとれた。 天気もええし、時頼らは小舟に乗って楽しそうに見物してたが、その時、突然ど〜うという地鳴りが聞こえてきたんや。 そして目の前にまるで海坊主のような大ナマズが姿を見せたんや。 小舟は大ゆれにゆれて、何人かの人が水の中に投げ出されたが、いずれもこの大ナマズにパクリと吸いこまれてしもうた。 「こ、これこそ紀ノ川のヌシと云われている大ナマズに相違ありません」と付添っていた武士が震え声で答え、他の警護の侍たちはそらもう必死になって、大ナマズめがけて槍を突っこんだんやしょ。 大ナマズは暴れまくったな。 背中から赤い血がドクドクと吹き出して、その血はまるでナワのようによじれながら川下の方へ流れていったと。 いっとき台風の時のように荒れ狂った川面は、やっとのことに落ち着いてきたんで、時頼らの一行も生気を取り戻した。 この大ナマズの出現した深みは、血がナワのようによじれて流れたことから「血縄の渕」と呼ばれるよになり、おとろしとこやといわれて、ここに近づく人もなかったとい。 今でも紀ノ川は美しい流れをたたえて、多くの人から「母なる河」と呼ばれて親しまれているけど、このナマズの棲んでたという橋本市隅田町中下のあたりに「血縄の渕」というところがあり、そこは深い淀みとなってるで。 |
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●大鯰は、実在するか?
日本の民話には、とてつもなく大きい鯰(ナマズ)が登場することがありますね。例えば、茨城県の鹿島神宮にまつわる話で、語られます。「ヒトが乗れる大きさがある」などと言われたりします。そのような大型のナマズは、日本にいるのでしょうか? 日本で、最も普通に見られるナマズの仲間は、「ナマズ」という種名のものです。他種のナマズと区別するために、マナマズと呼ばれることもあります。この種は、言われるほど大きくなりません。せいぜい、60cmくらいです。 もっと大きくなるナマズの仲間が、日本にいます。日本に分布するナマズで、最大なのは、ビワコオオナマズという種でしょう。この種は、全長1mほどになります。 ビワコオオナマズは、民話の大鯰のモデルなのでしょうか? そうとは限りません。「オオナマズ」といっても、全長1mでは、ヒトが乗るには、小さすぎますね。 加えて、ビワコオオナマズは、分布が限られています。日本国内でも、琵琶湖と、淀川水系にしか分布しません。前述の鹿島神宮の場合などは、そもそも、ビワコオオナマズが分布しない地域です。話が成り立ちませんね。 じつは、江戸時代より前には、普通のナマズ(種名ナマズ)も、鹿島神宮付近には、分布しなかったのではないかといわれます。 種名ナマズは、本来、西日本にしか分布しなかったようです。種名ナマズの分布は、ヒトによって、広げられました。食用になるためです。東日本の人々にとっては、見慣れぬ不気味な魚だったのかも知れません。そのため、民話の材料にされたのでしょうか。 民話や伝説の大鯰は、誇張されたものでしょう。あくまで「お話」です。 それでも、ビワコオオナマズは、日本の淡水魚では、最大級の種の一つに入ります。ビワコオオナマズと同等か、それ以上に大きくなる淡水魚と言えば、日本の在来種では、イトウ、チョウザメ、オオウナギ、コイくらいしかいません。 |
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●しゃべるナマズがいる?
魚は、普通、声を出さない生き物ですね。ところが、釣り上げたり、たもですくったりした魚が、「鳴く」ことがあります。彼らは、本当に、声を出しているのでしょうか? 魚は、哺乳類や鳥類のように声を出すのではありません。体内の鰾【うきぶくろ】を震わせたり、鰭【ひれ】を体にこすりつけたりして、音を立てます。どんな魚でも、音を出せるわけではありません。特定の種だけが、「鳴く」ことができます。 有名なのは、ギギとギバチですね。どちらも、日本の淡水に棲むナマズの仲間です。鰭をこすりつけて「鳴く」魚たちです。「鳴き声」は、ギーギーとか、ギュウギュウといった感じに聞こえます。ギギやギバチという種名は、これらの「声」から来ています。 ギギやギバチは、なぜ「鳴く」のでしょう? おそらく、敵を脅すためです。 ギギとギバチは、同じナマズ目ギギ科に属します。この仲間には、共通する特徴があります。背鰭【せびれ】と胸鰭【むなびれ】に、鋭い棘【とげ】を持つことです。この棘には毒があり、刺されるとたいへん痛いそうです。 「鳴く」ことにより、彼らは、「手を出すと危険だぞ」と知らせます。釣った魚が鳴きだしたら、ヒトでもびっくりしますよね。気味悪がって、逃がしてくれるかも知れません。 ギバチの脅し効果について、面白い説があります。江戸の本所【ほんじょ】七不思議の一つ、「置いてけ堀」の正体は、ギバチだというものです。 置いてけ堀で魚を捕ると、誰もいないのに「置いてけ」という声がしたそうです。無視しても、声はしつこく付きまといます。結局、魚を置いていくことになります。この謎の声を、ギバチが出すというのですね(ギギは関東に分布しません)。江戸時代の暗い夜は不気味です。その中でなら、ギバチの出す音も、人の声に聞こえた、というわけです。 個人的には、この説には無理がある気がします。けれども、完全に否定はできません。外国に、talking catfishと呼ばれる「鳴くナマズ」がいるからです。「しゃべるナマズ」という意味ですね。彼らも、ギギやギバチと同様の音を出します。それを「しゃべる」と表現したのは、外国でも、置いてけ堀のような伝説があったのかも知れません。 |
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●鯰は地震を予知するか?
先日、インドネシアのジャワ島で、大きな地震がありました。現在わかっているだけで、五千人を越える死者が出たようです。 このような地震があると、「地震を予知できないのか?」という声が上がりますね。日本には、「ナマズが地震を予知する」という俗信があります。これは本当でしょうか? 結論を先に書けば、「まだわかっていない」です。日本では、ナマズと地震との関係が、七十年ほども前から研究されているそうです。なのに、なかなか結果が出ません。実際に研究するとなると、難しい問題が山積みだからです。 ナマズの行動を観察するには、長期間、ナマズを飼育する必要があります。飼育するには、ナマズの体の仕組みや、生態を知らなければなりませんね。野生生物の生態を知るのは、難しいことです。野生での生態を再現できるように飼うのは、もっと難しいことです。 もし、ナマズが地震を予知するとしたら、なぜ、そんなことができるのでしょう? これは、「電気の異常を感知するからではないか」と推測されています。 ナマズは電気に敏感です。ナマズの皮膚には、電気を感じる感覚器がたくさんあります。水は電気を通しやすいので、電気に敏感であることは、いろいろと有利です。ナマズは、周囲のちょっとした「電気環境」の違いを知って、食べ物を見つけるようです。この「電気感覚」が、地震の予知に使われるのかも知れません。 地震の前には、地中で電気的変化が起こります。ナマズにしてみれば、普段と違う「電気環境」になるでしょう。何かがおかしいと感じて、異常行動を起こすかも知れません。 ここまで書いてきたのは、日本のナマズについてです。全てのナマズの種に、前記のことが当てはまるわけではありません。ナマズ目に属する魚は、世界に二千種以上もいます。そんなに多くの種が、同じ「電気感覚」を持つはずはありませんよね。 日本だけでも、十種ほどのナマズが分布します。地震研究に使われるのは、日本語で普通に「ナマズ」と呼ばれる種です。お馴染みの長いひげを持つ魚です。 地震国である日本の「電気環境」は、彼らにとってはどんな感じなのでしょう。 |
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●鯰岩 1 筑紫野市二日市
その昔、葦が茂る沼だったこの辺りには大鯰がいて通行人を困らせていました。ある日ここを通りかかった道真の前に大鯰が立ちはだかり行く手を阻みました。道真が、太刀を振って、頭、胴、尾と3つに切って退治したところ、それぞれが飛び散って3つの岩になったということです。現在でも頭、胴、尾の部分と伝えられる3つの岩が残っています。 その後、日照りの時に、この石を酒で洗えば雨が降ると言われ「雨乞い」の石として大事にされるようになったということです。また、太宰府天満宮所蔵の菅公御縁起絵第7幅に、この鯰岩の伝説の場面が描かれています。 ●鯰岩 2 筑紫野市の鬼の面(きのめん)のバス停の付近の二日市北8-12-14の住宅地には、鯰岩と伝えられる頭・胴・尾の3つの岩がある…かつて葦が茂る沼だったこの辺りには大鯰がいて通行人を困らせており、ある日ここを通りかかった道真の前に大鯰が立ちはだかり行く手を阻んだが、道真が太刀を振って頭・胴・尾と3つに切って退治したところ、それぞれが飛び散って3つの岩になったということらしい。 その後は日照りの時に、この石を酒で洗えば雨が降ると言われ、「雨乞い」の石として大事にされるようになったそうだ…道真は鯰岩の先の高尾川と呼ばれていた川に差し掛かった折、橋がなくて渡れずに困っていると、その時通りかかった農夫がとっさに鍬の柄(くわのえ)を差し出して、橋の代りにして道真を渡したということで、それから高尾川は「鍬柄川」とも呼ばれるようになり、後に架けられた橋は「鍬柄橋」と呼ばれているようだ。 |
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●(7) 昭和十六年十二月十七日嘉義地震の発光
昭和十六年十二月十七日午前四時二十分、台湾嘉義市附近から発した大地震は、家屋全壊八、六九六戸、死者一、〇九一人を生じたが、この時にも発光現象の興味ある実例が、台湾気象台の川瀬二郎理学士によって蒐集された。川瀬氏から直接聞いたところによると、通訳を連れて聞いて歩かれたそうである。発震時は午前四時二十分であるが、東京の経度では午前三時ごろに相当する。発光の目撃者は農夫に多く、殊に地震直前に光を見たものが多かった。その一部を左にかかげる。 嘉義群水上床中床の東方二キロの地点で、四人が観察したところは次の通りである。地震の前東に向かって進行していると、東の空から野火のごとき色の幕のように拡がった光が下降し、地鳴りが聞こえて震動の始まるころには上昇し始め、震動が最も激しかった時は光は上昇の極点に達し、まもなく消えた。光の強さは前にいる人を識別できる程度であった。 二人の農夫の語るところによると、色は青白く、大きさは拳こぶしくらいで、流星のように上から落ちて来て、急に拡がってブーと音がしたら、地震を感じた。 斗六郡草嶺に大規模な山崩れが起こったが、その附近では、山崩れによる土埃の中に光を認めたものがある。その光は周囲に電灯がついたような弱い明るさであった。 新営郡鳥樹林国民学校の報告によると、地震で戸外に飛び出し校庭に行った。教室附近に青白い光が三、四秒ずつ継続して発した。数カ所からパッパッと発し、震動が終わると光も消えたと言うことである。 |
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●(8) 昭和十八年三月四日及び五日鳥取地震の発光
昭和十八年三月四日午後七時十三分鳥取県賀露附近から破壊地震を発し、続いて翌五日午前四時五十分同県浜村沖から同じくらいの強さの地震が起こったが、この二回の地震の際にも発光現象が多くの人々によって観察された。この現象を綿密に調査した表俊一郎博士によると、両地震の場合に、大多数の人々の発光を目撃した方向が、いずれも震央の方向であったことは注意すべき事実である。この現象に関連して、地震の際における火事、電光、及び高圧線の切断等を一応考慮しなければならないが、火事は全くなかったし、電光の見られるような天候ではなかった。断線については、五日の地震で三カ所において断線したけれども、光を見た方向を地図上に矢印で記入すると、矢印は震央に近い海上において交わるので、この地震の発光を送電線の切断による光とは考えられないと言うことである。表博士はその他光り具合及び光の色についても調査の結果を報告している。そして発光源においては相当に強力な光が放出されたであろうと推測した。 |
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●(9) 昭和二十一年十二月二十一日南海道地震の発光
昭和二十一年十二月二十一日午前四時十九分ごろ、東経一三五・六度、北緯三三・〇度の地点、すなわち紀伊半島南方沖から大規模地震が発現した。この大地震の発光は、他の事項と共に中央気象台その他の気象官署及び水路部によって調査されたが、前者の完全な調査報告はまだ出版されていない。 この地震の場合には、火事を遠方から望むような光象も報告されたが、火の玉を見たという報告が甚だ多く、また海上に発光を認めたという報告は更に多かった。 紀伊半島の九鬼では、地震の直後、西方の山地に赤い御光の如き光を数回見た。村の人々は山火事と間違えて騒ぎ立てた(三重県熊野灘沿岸南部踏査概報)。 真柄浩氏の報告によると、三重県多気たけ郡相可口おうかぐち駅前の自宅から西方の山の上に火柱が見えたので、隣村の火事と思ったそうである。 右は遠方の火事の如き光象である。次に火の玉の例を少し挙げて見る。 紀伊半島田辺湾の中央附近に、弧を描いて北から南へ飛ぶ光を見た人が相当に多い(伊吹山測候所調査)。 和歌山県西牟婁むろ郡和深わぶか村江田では、地震の直前に潮岬方向の海中から赤い火の玉が飛び出したのを見たものがあった(中央気象台、南海道大地震調査概報)。 紀州沖でイカ漁をしていた漁夫の話によると、何か光ったものが天から降って来て、海中に没したと思うと、まもなく震動を感じた(水路部、昭和二十一年南海大地震報告)。 ある漁夫の話によると、紀州沖から火の玉が飛んで来て、尾鷲おわせ附近で一たん止まり、北方に飛び去った(水路部、前掲)。 熊野の曽根では、地震の最中に北々西と南東に赤い火球状の光を認めた(三重県熊野灘沿岸南部踏査概報)。 賀田でも地震の後北方と南東に火球状の赤紫色の光を見たと言う(前同)。 高知県野見湾に出漁中の船は、須崎方面に火の玉の飛ぶのを見たと言うことである(水路部、前掲)。 海上に光を認めたと言う報告はきわめて多く、しかも地震の前に観察したという報告も若干含まれている。 岡山県小田郡今井村字絵師の川相末蔵氏の談話によると、地震のあった日の午前四時に用便に起きた時、南方笠岡湾にある木之子島の向こうの海上が、夕焼けの如くボーッと明るくなっていた。それから出勤の仕度をしていると、地震が起こった。光はその時まで続いていたように思われる(岡山県下被害踏査報告)。 和歌山県椿の一老人は地震の前夜、今夜は何か異変があると言っていたが、午前三時過ぎに起床して見ると、はじめ白浜沖、次いで周参見すさみ沖に火柱が立ち、その下の水がえぐれたように見えた。皿のように凹んでいたのである。その後に地震が起こった(水路部、前掲)。 高知県室戸岬に近い津呂の臼掘り職人の話によると、二十日午後六時ごろから、東南東海上にくすんだ灰色の数段の光帯が現われ、虹のようであった(室戸岬測候所調査)。 また高知県の甲かんノ浦うらでは、二十日の夜から地震の前まで、南方沖合が明るかったと言われている(四国地方各県踏査報告)。 以上はいずれも地震の前に海上に光象を見たものである。 岡山県高梁たかはし川河口の乙島にいた警官は、地震の時南東方向の海上が明るく光って、十五メートル位離れている人が分かるほど、一面に明るかったと言う(岡山県下被害踏査報告)。 笠岡湾北方の大井村からも、海上に火柱の立ったのが見えたといい、また児島湾でも、沖の方が明るくなったのが観察された(前同)。 その他和歌山、三重、高知の諸県でも、海上の発光が観察された。 |
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●寺田、清水両博士の見解
日本の各地で大地震の際に観察された発光がいかなるものであるかは、以上の資料によって大体了解されるであろう。ここに掲げた以外にも資料は沢山あるが、これ以上に資料を羅列する時は、いたずらに読者の倦怠を招くばかりであるから、資料の記載はこのくらいで打ち切って発光の原因について記述することにしよう。 わが国でこの現象について考察を試みた最初の学者は寺田寅彦博士であった。博士は昭和五年十二月地震研究所において、「地震にともなう発光現象について」と題して研究の結果を発表し一層詳細なる論文は翌年地震研究所彙報に掲載された。その論文の要旨は次の通りである。 「この現象の原因について考察した結果は次の通りである。(一)火事と(二)雷雨にともなう電光とはこの際問題にならない。(三)送電線の接触又は切断によるスパークは、現象の一部を説明するとしても、これでは説明されないいちじるしい現象がある。そうしてそれは(四)山崩れ、地すべりによる摩擦発光として説明すれば多くの場合に質的には容易に説明されそうである。しかし著者が行った簡単な実験を基礎として試みた量的の計算(もちろんある仮定の下に)の結果ではこれだけですべての現象を説明するのは困難であるように見える。それで電線のショートと山崩れと両方ですべてを説明すれば一応はもっともらしいようである。しかし充分強力な放電に関する確証が得られないのみならず、また電線の存在しなかった時代における東西両洋の記録の共通圏内に多数に現れる閃光的現象が、今日の場合にショートで説明されるものとほとんど同一であり、しかもそれが雷雨の疑いのない時にでも度々あったと考えられるところに困難がある。以上の原因の外に、従来全く考慮されなかったと思われる一つの可能な原因がある。それは毛管電気現象に関するもので、地殻内における水の運動のために地殻中、従って空中にいちじるしき電位差を起こし、場合によっては高層の空中放電を生ずることが可能であるというのである。」 東京大学教授清水武雄博士は、昭和七年四月日本数学物理学会年会において、寺田博士とは異なる見解を発表された。その大要を記すと次の如くである。 「地震の発光現象は送電線からのアークを誤認したのだと言う説は、多数の人によって提出されたものらしいが、これに対する難点は、震源地方では全く送電線のない方向にも同様な光が認められたこと、並びに全然送電線のなかった古い時代の地震記録にも、確かに同じような発光現象の記事のあることである。がもし昔も今も、またいかなる地方にも送電線があったとすれば容易に解決される。果たしてそのような送電線はないであろうか。それは存在すると信じられる。すなわち地電流がそれである。地電流は地質の相違並びに水分の多少に従って非常に不規則に、あたかも多数の中州をもつ流れのように、大小の網目をなして流れている。しこうして電流の小さい地域に鉛直な地割れが生じても、地電流には何事も起こらないであろうし、電流の流れやすい地域内で地割れが生じても、電流はその部分を避けて流れやすいために余り目立つ現象は起こらないかも知れないが、一つの電流の通路全体にまたがって地割れが生じた場合には、実験室で一つの回路をブレーキした時と同様、その割れ目の数カ所にアークを生じても別に不思議はない。ただ問題となるのは、色々の量の大きさの程度であるが、これは仮定の仕方によって随分大きい範囲内でいろいろになり得る事は明らかである。数学的に最も簡単な一模型について吟味して見るに、微弱な地電流といえども、好都合の場合には強烈なアークを生じ得る可能性のある事がわかる。もし地震にともなう発光現象の大部分が地電流によるアークであるとすれば種々の事実が比較的自然に説明される。地平線の一点から上空に向かって放射する光は地割れにやや直角な方向から見たのであり、柱状の光は地割れの延長線上から見たものと考えられる。またラッパ状に上に向かって拡がった光は、柱状に見える上部に霧があって、その部分が幅広く見えたのかも知れない。多数の球状の光が一直線上に次々現れたのは、小さいアークが一つの亀裂に沿って順次に位置を変えたものと考えられる。亀裂とまで行かなくても、土壌のような不均等な物質では、単に振動を与えただけでも、無線電信のコヒーラーのように抵抗を増すであろうから、地面の表面にアークを生ずるかも知れない。ゆえに強震を感じるような地域で至る所にアークを生じても不思議ではない。人体に感じる振動の止んだ後に発光の生ずるのは、きわめて局部的地層が落ちつく際に起こるものと考えられる。また地震の前に発光現象の起こるのは、地震の前に起こるきわめて繊細な地殻の変化が地電流に鋭敏に感じるに基づくのかも知れない。もしそうとすると、夜間のみに観測される発光現象よりも、地電流そのものを観測する方が有利である。要するに、地電流の急激な振動的変化の実測は、地震予知問題と関連して甚だ重要なるものではあるまいか。」 |
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●筆者の考え
地震の発光現象の原因に関する寺田・清水両博士の考察の結果は、前述の如く、甲は毛管電気現象として乙は地電流による現象と考えて、全く一致を見ない。いずれが正しい見解であるか、浅学不才の筆者にはこれを批判すべき資格がない。筆者はただ自分の思うままを次に記すだけである。 筆者が地震の発光の調査を開始すると、あれは送電線のスパークだと、さんざんけなされたものである。科学者の中にも同じ考えの人が少なくなかったようである。ある科学者から親しく聞いたところによると、その学者は地震の時に送電線が接触して発光するのを観察したことがあったそうである。その経験を多分唯一の根拠として、地震の発光現象全部を送電線のスパークなりと主張したのであった。先入感は恐ろしいものである。この現象に関する古今の記録を虚心坦懐読んで見れば、そんな事はいわれないはずである。 寺田寅彦博士の言葉を借用すれば、「古い昔から、大地震の時に、空中又は地上にいろいろの不思議な光が現れたと言う記録が日本地震史料のみならず、外国の文献にも沢山ある。イタリアの学者でそういう記録を沢山に集めて現象の種類を分類した人もあった。面白いことにはそれらの外国の記録にあらわれた現象の記述でわが国の古文書中に見出される記述のあるものとほとんど符節を合わせたように一致するのが多数にある。」 「もちろん高圧送電線などというものは夢にも知られなかった昔の話であるから、電線の切断又は接触によるスパークなどは問題にならない。」 地震にともなう発光現象のほんの一部だけが送電線の接触又は切断によるスパークだとすると残りの大部分の発光は一体いかなる機構によって出現するのであろうか。一口に地震の発光といっても、いろいろの種類がある。(一)地表から放射する光もあれば、(二)遠方の火事を望見する如き光象もあり、(三)空中を飛ぶ火の玉もあり、(四)地中から現れる小火焔もあり、また(五)海上の発光もある。 (一)地表から空中に放射する光は、送電線の接触又は切断による光としばしば混同される種類の光象であるが、筆者はこの種類の発光の大部分は山崩れによる摩擦発光であろうと考える。前に記した如く、寺田博士は「著者が行った簡単な実験を基礎として試みた量的の計算(もちろんある仮定の下に)の結果では、これだけですべての現象を説明するのは困難であるように見える。」と記載されたが、「簡単な実験を基礎として」「ある仮定の下に」計算した結果だと言われるからには、周到綿密な実験を基礎とし、他の仮定の下に量的の計算を行ったら、あるいは容易に説明が出来るかも知れないのである。 理論はいかにもせよ、実際山崩れの場合にいちじるしい光を発することは確実と言ってよい。弘化四年善光寺地震の時、岩倉山が崩れ崩土が犀川を閉塞したが、その時昼の如く明るくなったことは前に記した。また「川中島善光寺名所略記」の中に「善光寺大地震の説」と題する一節があり、「震災の夜朝日山なる阿弥陀松より一筋の光明長野を指して照らしけり」と書いてあるが、この朝日山には今なお明瞭な山崩れの跡を留めているので、これまた山崩れによる発光であったことがわかる。 古来の大地震の中でこの善光寺地震ほど山崩れのおびただしく起こった地震はない。山崩れの数は松代領内にて大小四万二千カ所、松本領で一千九百カ所、総計四万三千九百カ所に及ぶ。発光現象のいちじるしかったのは当然である。 明治四十二年姉川地震の時、伊吹山中腹の「白崩れ」及び「大富崩れ」の崩壊に顕著な発光をともなったことも前に述べた。小藤文次郎博士は「その発光の原因はすこぶる不明なり」と記したが、現在ではすこぶる明瞭である。 昭和五年伊豆地震の時には、下狩野村字佐野の梶山が崩れ、何人かの人が崩土の下に生き埋めになり、筆者が同地を訪れた時には埋没された家が地下で焼けていて、その煙が崩土を通して立ち昇っていたのがいかにも哀れであった。この山崩れの場合にもいちじるしい発光をともなったことは、多くの人々の証言によって明らかである。 箱根町で石内九吉郎氏父子及びその他の人々によって観察された光象も、また山崩れの発光であることは疑いない。石内氏が西方外輪山上に見たと言う光球の列は、実は外輪山内側の中腹か下部であったに相違ない。とっさの間の観察だからこのくらいの誤りは止むを得ないであろう。実際この方面一帯に山崩れが起こったのである。石内吉見氏が駒ヶ岳・神山の中腹に見た円形の光もまた山崩れの発光であること寸毫の疑いもない。神山・駒ヶ岳の芦ノ湖に面する山腹を見ると、若干の山崩れの跡を指摘することが出来る。その位置は石内氏のスケッチに示される発光点とほぼ一致する。石内氏は塔ヶ島半島にも一カ所発光点を記入しているが、その部分にも崖崩れが起こり、崩れた跡は滑らかな面を示していたのである。また某氏が万福寺方面に見たと言う一直線に横に並んだ円形の光り物は、万福寺を埋め寺男一名を生き埋めにした山崩れの発光と推定される。この山崩れは旧位置から崩土を数町湖岸に向かって押し出したので、その光の列は多分進行しつつあった崩土の末端であったろうと想像される。 地震に先立って現れた光及び地震の後も引続き観察された光は、すべてこの種類のものである。おそらく地震の発現する前に地盤の緩慢な傾動が起こり、崩れやすい状態にあった山腹がそのために崩落して発光を生ぜしめたのであろう。また主震によって崩れやすい状態になった部分が、続々発する余震によって崩れ落ち、その度ごとに発光したのではないかと考えられる。 また昭和十三年屈斜路地震の場合に観察された光は、いずれも丸山の方向に見えたと言われるが、この丸山に山崩れがあったのである。 右に記載した如く、山地における発光現象の大部分は、山崩れの摩擦発光として大体説明し得られるように思われる。しかし関東平野から発した安政二年江戸地震の場合の同様の光は、いかにこれを解釈したらよいであろうか。この説明は大して困難を感じない。この地震の震源地は、亀有かめあり、亀戸を含む地帯と信ぜられ、特に亀有には土竜もぐら状隆起が現れたと伝えられるが、これは地震断層であったと想像される。地震断層が生じる場合に、山崩れの場合と同様、摩擦によって光を発するであろうことはもちろん可能であろう。当時の記録によると、品川沖から北東に当たって発光を認めているものがあった。これは多分断層生成の時の摩擦発光だろうと思われる(昭和五年伊豆地震の時、著しい地震断層と多くの山崩れを生じた箱根、丹那を連ねる地帯に最もいちじるしい光が見られたのは当然である)。 この地震の時、吉原土手の地割れから光を放射したと当時の記録に書いてある。これも真実であったかも知れない。その場所は沖積層の低地であり、しかも人工で築いた土手であるから、震動によって極度に揉み抜かれ、その摩擦によって光を発したのかも知れないのである。 次は地中から現れる小火焔、これは正嘉元年鎌倉の地震を始め多くの例が記録されているから、幻覚として否定することは出来ない。この現象は多分地中から可燃性ガスが噴出して、それに何らかの原因で火がつくのであろうと考えられるが、何者によって点火されるかという段になると余り話が簡単でなくなる。そのガスをメタンと仮定すると、引火点は摂氏六五〇度ないし七五〇度だという。地震に際してこれだけの熱がいかにして発生するだろうか。筆者にとってまだ解きがたい謎である。 海中から空中に投射される光については、津浪にともなう発光現象の条下に記すから、ここでは触れない。 以上各種の地震にともなう発光現象に関する愚見を記したが、まだ他の二種、すなわち遠方の火事を望む如き光と火の玉とが残っている。この二種の光象については、現在のところ筆者は全然その原因を説明し得ないことを告白する。 |
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●結び
終わりに、この現象の調査研究について多大の援助を与えられた寺田寅彦博士の言葉を掲げて本文の結びとする。 「これが単に流言であり虚言だとすると、昔の日本人が昔のイタリア人と申し合わせて、同じ嘘をついたことになるわけである。またもしこれが幻覚だとすると、古今東西を通じて多くの人に共通な幻覚だとしなければならない。しかもそういう幻覚は生理学上で知られている普通の錯覚的現象としては、容易に説明することが出来ないのである。」 「またこれがすべての場合に火事や、電光や、電線の故障等だけで説明することは出来ないので、ともかく直接に地震によってひき起こされる一つの発光現象が存在することが明らかになったと思われる。」 「このような発光が主なる地震の前から現れることもありはしないかと疑わせるに足るような若干の例もあるので、この点から見ても、この現象は、地震学上必ずしも無視することの出来ない一つの問題を提供するものであろう。」 |
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●四 津浪の発光 | |
●学界の処女地
地震に発光をともなう場合があり、また筆者の調査した結果を、外国の学者の記載と比較して見ると、よく一致することは、前に述べた通りである。しかるに津浪に発光をともなうということは、筆者の知る限りにおいて欧米各国の報告にも見当たらず、従ってこの現象を調査研究した学者も全くなかったようである。多分欧米には津浪がきわめてまれだから、この現象を観察する機会が乏しいためであろう。従ってこの現象は学界の処女地と言っても過言ではない。 筆者がこの処女地に鍬を入れるようになったのは、地震及び津浪に関する古今の記録を調べている中に、津浪の発光の記事が少なからず見出されたからである。このような記事を見た学者は必ずあったに相違ないが、根拠のない記載として、てんで問題にしなかったのであろう。そこで筆者はこの閑却されていた現象に素っ裸で取り組んで見ようと思い立ったのである。 |
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●昔の記録にある津浪の光
津浪の光の最古の記事は「三代実録」にある。貞観じょうがん十一年(西暦八六九)五月二十六日、「陸奥の国に大地震が起こり強烈な光が幾度もひらめきわたって、あたりが昼のように明るくなった。人々わめき叫び、立つことが出来ない。あるいは家の下敷きになって圧死し、又は地割れにはさまれて死んだ。その中に雷のような海鳴りがして、大浪が襲来した」と書いてある。この記事を文字通りに解釈すると、地震の光のように思われるが、一方明治二十九年と昭和八年の津浪の場合の光と比較し、他方海岸から内陸までの距離を考え合わせると、あるいは津浪の発光ではなかったと思われる。 延宝五年(西暦一六七七)十月九日陸奥から尾張にかけての海岸に津浪が寄せた時、尾張の海上で、三個の光り物が海中から飛び出して、西北に飛び去ったと、色々の本に書いてある。この津浪は地震津浪でなく、風津浪(高潮)の疑いがある。この光り物は暴風雨の時に往々観察される光象であったかも知れない(暴風雨の時には色々な光が見られ、火の玉が空中を飛んだ例も少なくない。これらの実例は先年筆者が発表した「暴風雨にともなう発光現象について」の中に掲げてある)。 宝永四年(西暦一七〇七)十月四日の大地震大津浪の時、紀伊田辺の附近で、山の上で津浪の襲来を見ていた人が記すところによると、進んで来る大浪の中に、白く円い形の光り物があったと言う(嘉永七年甲寅地震海翻之記)。これと全く同じ光り物が、昭和八年の津浪の時、岩手県釜石湾で観察された。 寛政四年(西暦一七九二)四月一日、島原半島の前山が崩壊し、岩石土砂が有明海に突入したため、大津浪が起こって一万五千人の死者を生じたが、この時にも浪がいちじるしい光を放ったと記されている(西肥島原大変聞録、北窓瑣談)。 安政元年(西暦一八五四)十一月五日南海道大地震大津浪の時、遠方の空が火の燃えるように見えたが、その方向は津浪に襲われた海岸の方向であったと記している人がある(大屋祐義日記)。 同じ地震津浪の時、紀伊田辺附近で観察した人によると、海上に火柱が立つと、たちまち津浪が寄せて来た。また鹿島の山から火の玉が飛び出して、終夜海上に浮かんでいた。火の玉の大きさは遠くから見て、鞠まりほどであった(嘉永七年甲寅地震海翻之記)。 西南の沖で大砲のような音が続けざまに聞こえ北から南へ火柱が移動して来るので、てっきり津浪と思い、子供達をさきに逃がし、自分は後から避難したが、途中まで行って振り返ると、自分の家のあたりは海になっていた(紀州日方町大地震津浪の記)。 同じような記録は、土佐にもあるが、大した違いもないのではぶくことにする。 |
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●海上一面白色に輝く(明治二十九年三陸津浪)
明治二十九年六月十五日の三陸津浪は、この現象に関する有益な資料を少なからず供給してくれた。 岩手県九戸くのへ郡野田村駐在所の遊佐巡査は、津浪の当夜駐在所をへだたる約十町の地点まで来かかると、海上に異常な鳴動が聞こえたので、怪しみながら歩き続けている中、大浪が襲来した。この時数十の提灯ほどの怪火が民家のあるあたりから背後の山にかけて現れたので、狐か狸のいたずらだろうと思っていると、家屋の倒壊する音がすさまじく、救いを求める声が此処ここ彼処かしこに聞こえるので、さては津浪かと村に入って見ると、部落はほとんど全滅、巡査の妻と二人の愛児は共に無残の最期を遂げていた。後で調べて見ると、怪火の見えた所は浪で洗われたところと一致していた(風俗画報、岩手県沿岸大海嘯取調書)。 小友村の黄川英次と言う人は、清水峠にさしかかった時、遥か遠方に鳴動を聞き、夕立が来るのかと思いつつ峠を越すと、轟然一発大砲の如き音響と同時に、一面の海上煌々と白色に輝き、あたかも雪山が崩れ落ちるようであったので、始めて津浪だと気がついた(風俗画報)。 青森県上北部三川目の故老の話によると、釣りランプが長く揺れてから、三十分くらいたって堀に海水が流れ込んで来た。それから十分ほどたつと二回の浪が来て、邸内にイワシの滓が海水と共に流れ込んで来た。それから約二十五分後に、見上げるような大浪が押し寄せたが、浪頭の飛沫がものすごく輝き、その夜は霧深く暗かったにもかかわらず、逃げ登る足元が見えるぐらい明るくなった(三陸沖強震及津浪報告)。 明治二十九年三陸津浪の光については、以上の外にも資料はあるが、余り長くなるからこの辺で打ち切って、次に移ることにしよう。 |
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●津浪の発光解明に三陸海岸へ
昭和八年三月三日午前二時三十分ごろ、三陸地方はまたもや大津浪の襲おそうところとなった。この時にも発光が観察されたと言う情報が相次いで筆者のもとに送られて来た。ある日筆者は地震研究所長石本博士からすぐ来きたれと言う電報を受け取った。早速罷まかり出ると、千載一遇の機会だからすぐ現地へ行って発光現象を徹底的に調査して貰いたいと言うご沙汰。わずか二年ばかりの間に、大分ご時勢が変わったものだわいと、腹の中では思ったが、もちろんそんな事は顔には出さない。有難くお受けをして、勇躍出発したが、北上山地を越えた時の寒さ、あるいは大吹雪に遭い、あるいは共産党員と間違えられて(人相のよろしくないせいであろうが)刑事に尾行されたり、辛い事やいやな事もあったが、とにかく出張費が底をつくまで根気よく歩き廻って調べ上げた。 発光は三陸海岸地帯の各地で見られたのだが、その中でも最も強烈な光が観察されたのは釜石の附近らしかった。そこで一つの部落を訪ねるごとに光の見えた方向を指示してもらって、それを地図に記入して行くと、多くの線が釜石湾口あたりで交叉こうさする。これで大体の見当はついたものの、まだ真に眼の前でその光を見た人には出会っていない。これを探すのがまた一苦労だった。とうとうポンポン船に乗って、釜石湾から外洋に突出している御崎半島の白浜しらはまという部落へ出かけた。ポンポン船は陸に横づけにはならない。一同海の中を平気でザブザブ歩いて行く。筆者がためらっていると、一人の土地の人が背中を向けておぶって上げましょうと言う。好意を感謝しておぶってもらったが、四十男がおんぶした格好は余りよいものではない。 分教場の校長さんが、津浪の時光を見たものは出て来いと命令を下すと、現れたのは五十がらみの婦人だった。どの辺で光ったかと尋ねると、あそこだと指す所は正に釜石湾口だ。あそこに火柱が立ったと言うので、手真似でその模様をやって見せてくれないかと言うと、両手を差し上げ、こんな風にモヤーッと光ったのだと言う。こう言うわけでやっとのことで発光地点を確かめることが出来た。帰途は陸路を選んだ。平田へいたと言う部落で、ちょうど釜石湾口を真正面に望む家があったので、早速来意を告げて聞いて見たが、前記のオバサンの話と少しも違わぬ。地震の後に唐丹とうにの方向でドンという音がした。それとほとんど同時に湾口の所に強烈な光を認めたと言うのである。発光地点を確認したのがうれしくて、その日は宿屋の女中にまんじゅうをおごった。しみったれているようだが、何しろ大津浪直後のことだ、まんじゅうのほかには何も買ってやる物がなかったのである。 釜石にいる間におかしな経験をした。筆者が三陸地方へ出張すると聞いて、友人のSと言う男が、釜石に自分の伯父がいるから、立ち寄ったら便宜をはかってくれるだろうと言って紹介状をくれた。釜石に着いた翌朝行って見ると、家はすぐわかったが戸があかぬ。見ると堂々たる構えである。通行人を呼び止めてこの家は何だいときくと、女郎屋だと言う。なるほど早朝に行っては戸がしまっているはずである。Sの奴いやな家を紹介したとは思ったが、午後になって再び訪ねて見た。入口に「T楼」と大きく染め出したのれんが下がっている。気まりが悪かったが、あたりを見廻してからのれんをくぐって入ると、よい鴨でも舞い込んだと思ったのであろう、しどけないなりをした接客婦がゾロゾロ出て来たのには大いに面食らった。結局T楼主人からは何の得るところもなかった。 余談が長くなった。本論に入ろう。 |
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●又もや三陸津浪の発光
昭和八年の三陸津浪の発光に関する各地からの報告はおびただしい数にのぼる。その上中央気象台の報告の中にも少なからぬ情報が掲かかげてある。それらの資料の全部を、ここに掲載することは不可能であり、また必要もない。 それらの報告に記載してあるところは種々様々であるが、大体次の八種類に分けられるようである。(一)浪頭がボーッと光った。(二)海面が一帯にピカピカ光った。(三)津浪が海岸に打ち当たった時岸の部分が青く光った。(四)津浪の襲来に先立って海水が退いた時海底が青く光った。(五)流星のような光。(六)円い光り物が浪と共に進んで来た。(七)海面に近い空中に現れた光り物。(八)海中から放射した強烈な光。 浪頭がボーッと光ったという報告は数カ所から送附された。たとえば船越村では「浪頭が白く直線になっていた」、また越喜来おつきらい村で高地から津浪の進行を観察した人は、「浪頭が幅四米くらいの帯状をなして真白に光っていた」と言う。 安あん渡の海苔場へ手伝いに行っていた織笠村の人の話によると、地震を感じて後海岸で海を眺めていると、海面が一体にピカピカ光った。それは夜行虫の光とも違うようであった。その状況を見たある老人は、「津浪が来る」と言って自宅へ飛び込んだが、それからすぐに浪が来たと言う。同様の現象は、越喜来村の先浜でも観察されたと言うことである。 釜石湾口の白浜部落で、当時七十七歳の老漁夫にあって話を聞いた。彼は明治二十九年の津浪の時にも浪にさらわれて九死に一生を得たが、昭和八年の津浪にまたもや幼い孫を抱いたまま浪に呑まれ岩礁の上に打ち上げられていたのを救われたのだそうである。彼が海上を漂っていた時岸の方を見ると、岸の部分の海水は煮え返るように見え、また青く光っていたと言う。 釜石水上警察の小野巡査は、地震の約三十分後に海水が退き始め、見る見る中に百メートルくらい退いたが、その時海底の泥の中から、水と共に青い光の噴出するのを観察した。 流星のような光を見たと言う報告をしたのは、大沢小学校の訓導で、地震の後、南方大島の上に生じている樹木の少し上の所に、流星のような光が斜めに飛ぶのを見たと言うのである。 釜石町長小野寺有一氏は、町の背後の山の中腹に避難して、海面を見ていると、浪(多分二回目の浪だろうとのこと)が湾口に近い中根燈台の辺りから、湾の中央部に進んで来る間、浪頭のすぐ下の所に、大きさ菅笠かたらいほどの円形の光り物が三つばかり横に並んで、進んで来るのを見た。色は青味がかった紫色であった。その光がサーチライトのように四辺を照らし、浪頭の折れ返るのや、船の破片などが浪に翻弄されるのがありあり見えた。浪が湾の中央部より奥へ進行すると、浪そのものがグジャグジャになって、光り物も見えなくなった。この光り物を、山上に避難していた多くの人々も見たそうである。 釜石水産試験場の小林忠次氏も、この光り物を見た一人だが、小野寺町長の話とは少し違う。小林氏によると、津浪が湾内に侵入して来た時、浪頭が一直線に黒く見え、浪頭の直ぐ上の所に、数個の円い光り物が、同じくらいの間隔をおいて並び、浪の進退と共に光り物も猛烈な勢いで進退した。その中に光り物は一つ消え二つ消えして、全部見えなくなった。色は提灯の光のようであった。 釜石水上警察の小野巡査はまた次のように語った。「私は地震の後町の人々に海岸で焚火をして警戒するように命じました。寒いのでそのあたりにいた人々はみな焚火のまわりへ集まって来ました。地震があってから三十分ばかりすると、海水が退き始めたので、それ津浪だと二町ばかり山手の方へ逃げて、後を振り向いて見ると、湾口の方で探照燈のように光るのが見えました。そうしている中に、津浪が湾内へ侵入してきましたが、その浪頭の上に、青い明るい玉が数個並んで光っていました。その時足のところまで水が来ました。」 右の三人は同一の現象を観察したことは確実と考えられるが、三人の言うところに、わずかながら一致しない点がある。一人は浪の中と言い、二人は浪頭の上だろうと言う。色についても甲は青紫色、乙は提灯の光に似ていたと言い、丙は青かったと言う。とっさの間に観察が如何に困難なものであるかが、これでもわかるように思われる。 右の光り物の類例が気仙町から報告された。津浪は真黒に見え、「メロメロ」と陸にのし上がったが、陸上に上がった海水の中に、直径五寸ないし一尺くらいの、夜光虫のような青い光が、所々に認められたと言うのである。 この光り物は実に不思議な現象であって、もしこれを報告した人が単数であったとしたら、誰もこれを信用しなかったであろう。しかし何人もの人が、多少のくい違いはあるにせよ、この現象を観察しているからには、これを幻覚とみなすわけには行かない。 またこの光り物と全く同じ現象が、前に記した如く、宝永四年の大地震大津浪の時に、紀伊の海岸で観察されていることは、この光り物が幻覚でも虚偽でもないことの、一つの証拠として役立つであろう。昔の人と現代の人が、申し合わせたような嘘をつくはずがない。 不可思議な現象のもう一つの例は、次に記すところのものである。この事を話してくれたのは、漁船幸栄丸乗組の原田鶴松と言う漁夫であった。彼の言葉は純粋の岩手弁で、筆者にはほとんど一語も通じない。やむを得ず仲間の漁夫に通訳を頼んで、ようやくノートを取ることが出来た始末であった。 漁夫原田の語るところによると、彼は三月三日(津浪のあった日)午前零時ごろ釜石を出港三貫島北東四海里位の海上で、タラの延縄漁を行うために縄を下ろし、下ろし終わって船を縄の真中まで戻した時、船の前面、白崎の方向に、大きな火の玉が出現した。火の玉の大きさは満月くらい、高さは海面から二、三十尺、ちょうど汽船のトップ・ランプの高さだった。てっきり、トロール船が来たのだと思い、面舵おもかじをとったり、取舵をとったりしたが、先方では一向避ける様子がない。ままよと火の玉めがけて船を進めると、火の玉は次第に小さくなり、ついに消滅した。火の玉の色は炭火に似て、やや淡かった。当時空は晴れていた。火の玉は何の音も立てず、また他の異常現象をともなわなかった。そして火の玉が消滅するとほとんど同時に、釜石の火事が見えたと言うのである。右の話は通訳をしてくれた漁夫が、再三再四聞き返した結果だから観察者の言うところを誤り伝えてはいないと思われる。 海中から放射した光は、最も多くの人々によって観察され、従ってこの種類の報告は数が最も多かった。代表的なものを二、三挙げてみる。 宮古の北方に位する田老たろう村は、昭和八年の津浪の時、非常な損害をこうむった所であるが、津浪のあった夜、この村の沖で漁をしていた漁夫によると、海鳴りが聞こえ、サメ縄がパタパタ鳴り、そして南方の沖が夜明けのように明るくなったという(大沢小学校にて聴取)。 船越村は釜石の北方約二十キロの地峡部にある村である。この村の小学校長鈴木忠二郎氏の話によると、地震の後約二十分位たって、同地から東南に当たって、青白い光がパーパーパーと三回続けて、天空に放射された。物凄いものであった。その少し右に、釜石の火事が見えた。 大槌実科女学校長鈴木兼三氏は次のような報告を筆者に送って下さった。光を見たのは津浪襲来の直前である。方向は大槌より南少しく東寄り、釜石沖の方向。光り具合は放射状と言うものと探照燈の光芒のようだと言う人がある。色は黄又は赤味を帯びた青色で、瞬間的な光であった。 鵜住居うのすまい村白浜分教場の宮館金見氏によると、津浪の襲来と同時に、南方の山の彼方に、スパークのような淡青色の光が見えた。電光の如き鋭い閃光ではなかった。一回だけでなく度々光った。ある人は水産指導船岩手丸の探照燈だと言ったが、自分が見たところでは光芒ではなかった。釜石鉱業所のベンブールが爆発したのではないかと思った。 両石りょういしの小島菊松氏は次のように語った。地震があってから二十分ぐらいたって、ドンという大きな音がした。それと同時に一面に青白く光り、人の顔まで見えた。村の人は電光と間違えたが、雷鳴は聞こえなかった。それから十分ほどたって、平常の満潮のところまで潮が上げて、ついで急に退き出した。 鵜住居小学校の小松訓導の報告には、次のように書いてある。 「私は鵜住居村両石部落のものですが、三日の午前二時三十分ごろのあの大地震と共に、海岸に出て警戒致しました。私の部落では、明治二十九年の津浪で約九百五十人の中七百五十人の死者を出し、下閉伊郡の田老村気仙郡の唐丹とうに村と共に、惨禍の大関だったので、地震があれば、夜昼問わず警戒をする慣習になっております。三日の夜も同様四、五十名のものが、海岸で焚火をして警戒していました。三十分もたったと思うころ、沖が鳴りました。ちょうど大砲のような音で、少し余韻をともなっていました。驚いて沖を見ると、真東の方が一面明るくなっています。非常に強烈とは言われませんが、淡緑色で、軍艦の探照燈を幾つも集めたような光景でした。集まっていた人々は、あるものは津浪が来ると言い、あるものは雷だと言います(沖に出ていると、雷雨模様の時には、折々強い光を見ます。これを当地方では「ホデリ」と言います)。この時もホデリがしたのだと主張して譲らない人があったのです。なぜこんな議論になったかと言うと、明治二十九年の津浪の時にはもっと大きな音がしたと言うのです。そこで遠雷説の方が優勢になって来ました。その中に潮がさして来て、陸に引き上げてあった船が飛び上がる様子なので、何だか変だと言い合っている中に、急に潮が退き出したので、そら津浪だと、一同家に飛び込み、全員避難致しました。私も家族と裏の山に駆け登った時、天地も砕けよとばかり狂濤が押し寄せて来ました。」 釜石夜間中学校の報告によると、地震の二十分ぐらい後に、湾口から光を発し海岸の山々に反映した。探照燈をめぐらす如く移動し、連続して発光した。電光に似て青かった。大漏電かとも思われ、また海上の大船が避難を援助するために探照燈を照射するのかとも思った。 釜石鉱山郵便局長の観察したところでは、午前二時五十分ごろの第二回の強震から約六分を経て、真東に光を見た。光るたびごとに発光地点が南に移動した。その直後海水の退く音が聞こえた。光は探照燈より強く、電光よりやわらか味があった。 釜石町の通称「アメリカ徳」と言う人はこう語った。はじめ嬉石うれいしと松原の間で光り、その後強烈な光が出た。女、子どもはそれを見て震え上がった。その光が消えると同時に第一の浪が山際に着いた。 前に一度触れたことのある、釜石湾口白浜部落の佐々木はるのという婦人の話によると、地震があってから、湾口の所がいっぱいにモヤーッと青赤く光った。それからまた地震があった。すると白浪がまくれて来て、その後ろから高い真黒な浪が進んで来た。光った所は馬田岬と鐙岬の中間である。 平田へいた部落の岡田留七という人の語るところはこうである。地震の後でドンという音がした。それから三分か五分すると、サワサワという音がした。それから一、二分の後、自分の兄が戸を叩いた。兄は明治二十九年の津浪の時には錨を入れてある船は流失をまぬがれたので、念のため錨を入れておこうと海岸に出て、綱をほどいていると、潮が引き出した。錨を投げ込んだ時分には退潮が烈しくなったので、津浪が来るのではないかと思ったが、みだりに騒ぎ立てて万一津浪が来なかった場合には、村の人々から非難されるであろうと、決心しかねて自分の家を叩き起こしたのであった。その時電燈が消え、馬田岬の右の所から光を発した。下の方からピカーッと光った。非常に強い光で、何回も光ったようだった。そこで自分は逃げた。村の人たちも「オカタがさきになったりワラシが後になったりして」逃げた。三町ほど逃げた時、岸へ浪が来た。音のしたのも馬田岬の方であった(註、オカタは女房、ワラシは子どものこと)。 大船渡おおふなと小学校長鈴木与吉氏は、左記の報告を筆者に寄せた。時刻は午前二時五十五分から三時までの間で、北方の山の端が光った。最初は電光かと思ったが淡く空をぼかしたようで、瞬間的ではあるが、電光ほど速やかではなかった。色も電光にくらべるとやや赤味を帯びていたようである。 大槌町の漁船海運丸は、広田湾と唐桑の境をへだてる二百メートルの海上で、金華山沖の方向に、探照燈のような光を三回目撃したが、昼間のように明るくなった。 |
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●強烈な津浪の光
資料全部をあげることが出来ないので、多少不徹底なうらみはあるが、ここにあげただけの資料によって、海中から射出した光の少なくとも輪郭はつかむことが出来るであろう。 資料全部の記載を綜合すると、この種類の発光は、三陸地方沿岸の各地で観察された。その中で最も顕著な発光の観察をされたのは、釜石湾口であった。光の色は青みがかっていたというのが真実であろう。光度がきわめて強烈であったことは、釜石町で女子どもが震え上がったといい、また宮城県の小鯖では、多数の人々が海中に流され、救助を求めていた時、突然海が一面、サーチライトで照射した如く明るくなったので、救出にきわめて便利であったと言う事実によって想像される。この光は一地点から続けて何回も放射されたようである。 |
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●津浪の発光の原因
津浪の発光の資料はおびただしく集められた。しかしそれ等の資料に基づいて発光の原因を明らかにすることは、実に困難な仕事である。第一、大多数は瞬間的の現象であって、研究の基礎となるべきものは何一つ残っていない。のみならず、観察者の報告は、とっさの間の観察だから誤謬が含まれている事を期待しなければならぬ。従ってこの現象の原因は、現在のところ多分こうであろうという推測の範囲を出ないのは、止むを得ないことである。 筆者はさきに昭和八年三陸津浪の発光を八種に分類した。その中、(一)浪頭がボーッと光った、(二)海面が一帯にピカピカ光った、(三)津浪が海岸に打ち当たった時岸の部分が青く光った、(四)津浪の寄せて来る前に海水が退いた時、海底が青く光った、この四つの場合は、発光生物が、海水の動揺に刺激されて光を発したものと推定して誤らないであろう。発光生物専攻の神田左京氏も、多分夜光虫の発光であろうと、筆者の推定に裏書きして下さった。 (五)流星のような光、これは「流星のような」でなくて、実際に流星だったかも知れない。津浪の夜、流星を見たと言う報告が二、三ある。 (六)円い光り物が浪と共に進んで来たと言うのはきわめて奇怪な現象であって、幻覚と考える人もあるかも知れないが、少なくとも三人の目撃者があり、その中には知識階級の人も含まれていることであり、宝永の津浪の時の記録にも、全く同じ現象が記されてあるから、幻覚でないことは確実である。 円い光り物が浪の上にのっていたか、浪の中にあったのか、目撃者の言いぶんが一致していないが、常識的に考えて、浪の中にあったのであろうと思われる。もしこの推測の通りであったとすれば、これもまた発光生物の発光と考えられないことはない。目撃者は数個の円い光り物が横に並んでいたという。その一つ一つの円い光り物は、発光生物の集団の放った光であったろうと想像される。 その光が円形に見える生物に海螢がある。体長わずか一分ぐらいの甲殻類であるが、ボーッと光ってスーッと消えるところは、ちょうど満月を海中に沈めて、それを明滅させるようである。海螢の光で明るくなる面積は、夜光虫にくらべれば遥かに大きいが、まさか菅笠や盥ほど大きくはない。のみならず海螢の光は静かに明滅するが、釜石湾で観察された光り物は明滅しなかったようである。 明治二十九年の三陸津浪の時、岩手県九戸郡野田村で、遊佐巡査によって観察された、数十個の提灯ほどの「怪火」のことは前に記載した。後になって調べて見ると、「怪火」の見えた所は津浪で洗い去られた部分だけで、「怪火」の見えなかった高地の家は別条なかったそうである。遊佐巡査のこの調査は、この「怪火」の正体を明らかにする上に、きわめて重要である。もし遊佐巡査の観察と調査が誤っていないとすれば、それらの提灯ほどの「怪火」は、陸上にのし上がった津浪の中での発光とみなされねばならない。そうすると、これ等の「怪火」は釜石湾で津浪と共に進行して来たと言われる円形の光り物と、全く同じ性質の現象と考えられ、すなわち発光生物の集団の発光と考えられるのである。 ここで一つ問題になるのは、発光生物――といっても種類が多いが――が、なんらかの刺激を受けた場合、何千何万の個体が、たちまち密集して一塊になる性質があるかどうかと言うことである。この事は、将来観察又は実験によって証明される見込みがないでもない、いや必ずあるだろう。 右に記載した光り物の類例が、宮城県桃生郡前谷地村の鈴木喜代治氏から報告された。その報告には左のように書いてある。 「午前二時ごろでありました。私にはいまだかつて覚えざるほどの強震が起こりましたので、目を覚まし、ある場合にそなえるため、逃げ道を開き置く必要ありと思いまして、起き上がり戸を開いて外を見ました。私は地震に対する恐怖よりも、むしろ次の怪しげなる光景を物凄く感じました。私の家は石巻港をへだたる北々西約四里をへだてたる所にありますが、石巻方面を中心として、東は本吉郡沖合、西は松島湾方面一帯にわたる海上に、あたかも大漏電の如き光色を呈する数十の発光体が盛んに現滅しておりました。一光体の発光時間は一秒ないし二秒くらいと覚えました。その発光体の現出の多少が、地震の強弱に比例し、やがて地震が終わると同時にこの発光現象も止みました。発光体には大小はありましたが、距離の測定が出来ませんので、従ってその大きさについては、お話し致しかねますが、光力は相当強く、当地においてすら事物の見分けがつくほどでございました。」 鈴木氏の報告は、津浪の約三十分前の地震の最中に目撃した発光であるが、この現象も、釜石湾で観察された円い光り物、野田村で観察された提灯ほどの「怪火」と同じく、海水の異常な動揺によって刺激を受けた、発光生物の密集群の発した光と推定して誤らないであろう。 地震研究所彙報に発表した昭和八年三陸津浪の発光に関する報文の別刷を鈴木氏に送附したら、折り返し鈴木氏から手紙が来た。それには、あの現象は夜光虫の光などとは比較にならぬ。実況を見ないで軽率な結論をするのはけしからんと言う意味のお叱りの文句が書いてあった。しかし筆者は今なお自分の推定が誤っているとは思わない。「発光体の現出の多少が地震の強弱に比例し、やがて地震が終わるのと同時に、この現象も止みました」という記載は、発光生物の発光であったことを暗示するようである。また光度については、発光生物の一個体の発する光と大集団の発する光とは、量において比較にならないことは当然である。当時その地方におびただしく出現していた発光生物は、夜光虫であったかそれとも他のプランクトンであったか、今日これを知る術がないが、地震の発する前に、底着性プランクトンの大群が、表層に浮かび上がったと推定される事実が、末広博士によって発見されているから、あるいは非常に強烈な光を発する種類のプランクトンがおびただしく表層に浮かんでいたかも知れない。鈴木氏が観察した光の現れた海で取れたイワシが、泥を呑んでいたと言うことは前に書いておいたが、この事実、すなわちイワシの消化管の中から平素と異なる食物が発見されたと言う事実は、あるいは底着性プランクトンの浮かび上がりを示すものではないかと想像される。とにかく、光度がきわめて強大であったという事実に基づいて、発光生物説を否定することは出来ないとい思うのである。 (七)海面に近い空中に現れた光り物は、筆者のために通訳の労をとってくれた漁夫が、本人からくわしく聞いてくれたのだから、目撃者の語るような光り物が出現したことは、信用してよいと思われる。しかしこの光り物が津浪と関係があったとは考えられない。 このような光り物が海上で観察されることは必ずしもまれではないようである。水産講習所技師小瀬二郎氏は、次のような経験をしたそうである。「明治三十六、七年ごろのことであった。館山からボートに乗って、三崎へ餌を買いに行った途中のことである。十一月ごろでシケの後であった。ガスのある晩だったが、城ヶ島沖から東京湾に向かう大船の舷燈かと思われる赤い光が見えた。その光は異常に大きく、直径一尺ほどもあるようだった。その光が急速度で我々のボートに接近し、まさに衝突するばかりになって消失した。」(気象雑纂) 水産講習所の鎌田技師も海上で不可思議な光り物を観察したことがある。「明治三十八年十一月頃、場所は熊野から三十浬ほどの沖であった。ちょうどシケの最中で、快鷹丸は航海力を失って漂流していた。従って小汽船の出られる日ではなかった。その時風上から赤いぼんやりした赤い光り物が急速度で接近して来て、光が強くなると急に消失する。このようなことを三回繰り返した。最初の光り物が現れた時、水夫が驚怖して報告したから、一同甲板に出て観察した。」(前掲) 藤原咲平博士によると、上記の現象は、一種の蜃気楼的現象だろうという。 須川邦彦氏も、同じような光り物を数回目撃した。大正六年三月、常陸丸で印度洋を航海していた時、ある晩十一時三十分ごろに、前檣の頂きに、直径約一メートルの青白い火の玉が現れた。船がローリングするたびに、火の玉はフラフラ揺れるが、落ちることはなかった。やがて次第に小さくなって消えてしまった(須川氏より聴取、以下同じ)。 大正十一年二月のある夜、北緯十度四十八分、東経五十九度二十七分の印度洋上で、またも火の玉が檣頭に現れた。 明治三十七年六月二十日ごろの夜半、機雷敷設船台北丸の檣の上に、同じような火の玉が現れた。時あたかも日露戦争の最中で、その月の十三日には機雷が破裂して二十一人の死者を生じた直後だから水平達は惨死者の亡霊だと思って恐怖した。須川氏によれば、これらの火の玉はセントエルモの火だと言う。 須川氏はまた明治三十九年日本海において、一種の不可思議な光を見た。敦賀からウラジオストックに向かって航海中、深夜一つの火の玉が、正面から右手四十五度乃至五十度の方向に現れた。その火の玉は非常な速力で、正面から左手五十度くらいの所まで移動して消失した。その火の玉はスーッと飛んだのではなく、消えた瞬間に旧位置の少しさきに現れ、それが消えると、またそのさきに現れるというふうであった。当時北寄りの風がかなり強く吹いていた。最初は漁船の燈光かと思ったが、漁船や鳥にしては余り速度がはや過ぎた。この怪光の正体は今もってわからない。 丸川久俊氏によると、航海者は往々幽霊船に遭遇することがあるという。汽船が夜間航海する時には、左舷に紅、右舷に青のサイドランプをつけるのが規則であるが、幽霊船に出会った海員の話では、幽霊船のサイドランプは、赤と青が反対になっていると言う。それに気づかず、コースを右に転じて衝突を避けようとしたために、かえって岩礁に乗りあげ、沈没した例があるそうである(海をひらく)。 いわゆる幽霊船なるものは霧に投影された自分の乗っている船の姿ではあるまいか。サイドランプの色が逆になっているのは多分そのためであろう。日露戦争の最中に、ある日本の哨艦が、朝霧の中から一大軍艦が姿を現したので、一同部署について戦闘準備を整えたが、間もなくそれは霧にうつった自分の艦だということが判明したそうである。 上記の如く、海上で観察される火の玉には、色々な場合があるようである。藤原博士の言われる如く蜃気楼的現象の場合も、須川氏の語る如くセントエルモ火の場合も、汽船のトップランプもしくはサイドランプの霧に投影される場合もあり、なおそのほかに未知の場合もないとは言われぬ。ともかく昭和八年三陸津浪の時、釜石港外三貫島沖で観察された火の玉は、津浪とは関係のない現象であろう。最後に安政元年南海道大地震にともなった津浪の場合に、紀州田辺附近の山から火の玉が飛び出して、終夜海上に静止していたという記載が、右の火の玉と幾分類似していることを附記して置く。 (八)海上から放射した強烈な光、これは津浪の発光の中で最も多く人々によって観察され、そしてまた最も重要なものであろう。 この種類の発光もまた発光生物による光と考えられる。 発光性プランクトンの中には、きわめて強い光を発する種類がある。その最もいちじるしい例は「オホーツク海の怪光」と呼ばれていた現象である。発見された当時は、正体が不明だったので、怪光と称せられたのである。このいわゆる怪光は水産講習所の練習船雲鷹丸の乗組員によって発見されたもので、丸川久俊氏によると、この光の中に船を乗り入れた時は、八十尺のマストの頂部までその光が反映し、甲板上で新聞が読める程度に明るかったと言う。丸川氏は検鏡の結果、その光はメトリヂア・ロンガと言う橈脚とうきゃく類が、魚群に刺激されて発する光であることを明らかにした。このようなプランクトンによる強烈な発光は、北の海に限って見られるものではなく、日本海でも観察されたことがある。 熊田頭四郎氏が大正四年五月六日、山口県川尻御崎の北方十五浬の地点で観察した発光は、これまたすばらしいものであった。 「わが船はサバ漁の目的で前記の地点に夕方到着した。午後七時、長さ一千メートルの流網はキャンバス・ポラッド及び浮樽二十一個と浮燈三個を海面に留めて、一文字に投ぜられた。…午後十時には海面全く死したる如く、網具のすれる音さえなかった。船首に立って網を見張っている際にはるか東北方に当たって、荘厳なる光の一群を海面に認めた。……遠くこれを望む時は、水平に投射されたサーチライトを遠方から見るようで、しかも柔らかみを持っていた。光芒群は刻々に移動して、ついに網の半部をかすめたと見る間に、光は十数個の煌々たる青白い火柱になった。……最初のこの光群は幅五百メートル、長さ六、七百メートルほどであったと思われる。須臾しゅゆにして第二回の光群が襲来した。その進行方向は確かに本船に向かっていた。遂に光群の三分の一の部分で本船に衝突した。壮絶快絶、船はアーク灯下に照らされるようで、船首、手綱、舷側等は、特に一種名状することの出来ない強い凄い青光を放った。……翌日未明網を揚げて沿岸に走った。採集した材料を昨夜のものと比較して、全く同一種類であることを知った。検鏡の結果、ピロシスチス・シュウドノクチルカのみであることを知った。」 右の二つの例によって、特殊な事情のもとにおいては、顕微鏡的の微生物であるプランクトンが、非常に強烈な光を発することが知られる。遺憾ながら、昭和八年三陸津浪の場合には、津浪襲来直前における三陸沿岸水域のプランクトンの種類とその密度についての資料が全くないのである。従って発光の原因を直ちにプランクトンに帰することは、早計のそしりを免れないであろう。しかしその光が海中から発したことは確実であり、また一方に、寺田寅彦博士の指摘された如く、電光でもなく、いわんや送電線のショートや山崩れの発光でもなく、地下の割れ目の発生による放電や、地下水の移動による電位差に起因する空中放電とも考えられないとすれば、残る一つの可能性は、発光性プランクトン群が、津浪による海水の擾乱のために刺激されて、一斉に発光したということである。 少なくとも釜石の場合には、津浪が湾口に到達した時に、光が放射されたことは疑う余地がない。従って、発光を見て直ちに高地に避難すれば、津浪に流される心配はないはずである。災害防止の方面からも、この現象は閑却すべきでないと思うのである。 |
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●第二部 地震雑筆 | |
●一 地震を予知する南米の原住民 | |
●ドイツ人技師の体験
日独協会の機関紙「ヤマト」の一九三一年第六冊に、カルル・ヘーネルという鉱山技師が面白い話を書いている。南アメリカのアンデス高原の鉱山で坑夫をしているクロインディアンは三十分ないし四十五分前に地震を予知して、坑内から逃げ出すというのである。またコルディエラ地方で生活をしているケチナ族も、同様に地震を予知して生命の安全をはかるという。 ヘーネルの記す所によると、地震の起こる前にまず空中に一種独特のキラキラする光が現れ、閃光を発する。極光に似た淡い黄緑色の光が、太陽を薄霧のようにおおい、まるで太陽が薄絹で包まれたように見える。それについで気温がいちじるしくくだり、呼吸が減じる。またこの山地に来てまもない人々やヨーロッパ人が悩まされる鼻血、頭痛、吐気はきけは怱ち拭いてとったように消失し、心臓や肺も静穏になる。それにもかかわらず、何となく気分が悪い。このような徴候が現れると、坑内で働いている原住民は、たちまちそれと気づいて「テレモト! テレモト! (地震、地震)」と叫びつつ坑外へ走り出る。坑外へのがれるのに十分とはかからない。すると必ず三十分から四十五分の後に、地震が起こる、と言うのである。 ヘーネルは、ボリビヤとペルーの高原で、このような現象を、六年間に八回経験したと言う。その中最初の経験は、一九〇六年四月二十六日、チリのヴァルパライソ市を破壊し二万人以上の死者を生じた大地震の時だった。一九三一年一月十四日のメキシコの大地震の前にも、コルディエラ山地で観察される現象と全く同じ現象を認めた。ヨーロッパへ帰った後も、一九三一年六月十九日に、イングランドで、同じような黄緑色の光、磁針の偏向、寒波の現象が、地震の数時間前に観察された。とヘーネルは記している。 地震に先立って現れる特殊な大気中の現象について、ヘーネルの記しているところは、大体右の通りである。右の特殊な現象が実際地震と関係があるかどうか、また地震と関係があるとすれば、どんな機構でこの現象が現れるか、これは現在のところだれにも説明は出来ないであろう。 |
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●「地気」の上昇で地震を予知した話
日本にも大気中の現象によって地震を予知したという話、特に坑夫が地震を予知して、坑内からのがれたという話がある。真偽は保証出来ないが、南アメリカ原住民の地震予知とかなりよく似ている点が面白い。 「地震考」と言う古い本に、老朽な百姓は畑を耕す時、煙のようなものが地面から出るのを見て、まもなく地震のあることがわかる、また雲の近くなるのは地震の前徴で、これは雲ではなく「地気」がのぼるのだと書いてある。この「地気」とはいかなるものか、「和漢三才図会」や西川如見の「怪異弁断」などにも出ていない。 寛文二年(西暦一六六二)五月一日近畿地方大地震の日には、朝から空が「もうもう」としていたと当時の記録に書いてある。これも「地震考」の筆法でいうと「地気」がのぼったのであろう。 享和二年(西暦一八〇二)十一月十五日佐渡大地震の日に、広島某という人が、小木おぎの町で天候を見るため、船頭と共に丘に登った。その時船頭の言うに、今日の天気は実に不思議だ、あたり一面ぼうっとして、雲が山の腰を包み、中腹から上ははっきり見える。雨の前徴とも違い、風の前徴でもない。今までこんな天気模様を見た覚えがない。広島氏がいうに、これは「地気」がのぼるためで、大地震の前徴だ、こうしては居られないと、支度もそこそこに出立したが、果たして四里ばかり歩くと大地震にあったと、これも前記の「地震考」に書いてある。 |
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●佐渡金山の坑夫が地震を予知した話
前記の広島氏が、地震後に佐渡の金山きんざんをおとずれ、先日の大地震の時には、さだめし坑内で怪我人も出たであろうと尋ねると、この土地では、地震は前もってわかる、先日の大地震も三日前からわかったので、誰も坑内に入るものはなく、従って怪我人も出なかったと言う。 それでは地震の前にどんな徴候が現れるのかと重ねてたずねると、地震の起こる前には坑内に「地気」が立ちのぼって、近くにいる人々も互いに腰から上はかすんで見えないものだ、と答えたそうである。この話も「地震考」にのっている。 |
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●星が低く見え冬暖かな年は大地震があると言う話
これは安政二年の江戸大地震の時のことである。ある旗本の門番が、夕方天を仰いでいたが、やがて家へ駈け込んで来て、今夜は必ず大地震があるとて、急いで飯をたき、用意万端整えて待っていると、果たして大地震が起こった。主人が後でその理由を尋ねると、答えて言うには、私は文政十一年(西暦一八二八)に越後三条で大地震にあい、信州で弘化四年(西暦一八四七)の大地震を経験した。三条にいた時、ある物知りから聞いた所では、大地震の前には天がどんより曇って近く見え、星が平素の倍も光り、暖かいものである。それを聞いてから毎晩空を仰いで注意しているが、弘化四年の大地震の前夜には、星の光が大きく見え、スバル星の中の小さい星までよく見えた。しかるにこの一両日この方、空模様が常と異なり、弘化の地震前の状況に似ているので、大地震の前徴だろうと考えたのであると答えたという話がある。 元禄十六年(西暦一七〇三)の関東大地震の前に、天野弥五左衛門という老人が、星が低く見え冬暖かな年は大地震があると言って、家屋を補強したという話もある。 前記のヘーネルは、地震の起こる前に太陽が薄絹でおおわれたように見えると言っているが、同じような例は外にもある。フンボルトは、地震の起こる直前に、赤味がかった霧が現れる、自分もしばしば観察したことがあると言い、また一九〇八年メッシナ大地震の時は、天気模様が甚だ奇怪で、霧が突然メッシナ海峡に立ちこめたといわれている。 |
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●大気中の現象によって地震予知が出来るか
カルル・ヘーネルの記事とそれと関連した話を右に列挙した。「話」と言ったのはそれらの記載が多少眉唾の気味があるからである。 筆者は大地震に前駆的現象のあることを疑わない。地形変動並びに地下水、地電流、地磁気、土地の傾斜の変化が大地震に先んじて現れることは疑いない。しかし大気中の特殊な現象が地震に先立って現れるということは、我々の現在の知識では考えられないのである。今日でも大気中の特殊な現象によって地震の予知が出来ると称する人があるが、筆者はそれを信ずることが出来ない。念のために附記するがその人は科学者ではない。 |
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●二 地震と「なゐ」 | |
●日本語に地震を表す言葉がない
世界一の地震国である日本に、地震現象を表現する言葉がない、と言ったら多くの人は、そんな馬鹿なことがあるものかと、いきり立つであろう。しかし嘘でも偽りでもない、正真正銘の事実である。中には、たった今貴様が使った「地震」と言う言葉があるではないかと、反駁する人があるかも知れない。こんな事は言うだけ野暮だが、「地震」と言う言葉は、お隣の中国からの借り物で、固有の日本語ではないのである。もし中国の文字や学問が輸入される以前に、日本で使われていた「地震」を意味する言葉があったら、教えて頂きたいものである。 日本には、昔の昔の大昔から、多くの地震が発したに相違ない。また大地震もしばしば起こったに相違ない。日本民族が、最も古い時代から、集団生活を営んでいた北九州、日向、出雲、大和、これらの地方はいずれも有史時代において、少なくとも一度は、大地震のあった土地である。従って上代の日本人は、現在の我々と同様、しばしば大小の地震を経験したはずである。それにもかかわらず、「地震」を意味する言葉がないのは、全くもって不思議千万と言わねばなるまい。 |
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●「なゐ」の語源
地震の記事が日本の歴史に初めて現れるのは、「日本書紀」の允恭天皇五年(西暦四一六)七月十四日の条で、「五年秋七月丙子朔巳丑地震」と書いてある(丙子朔は七月一日が丙子に当たるという意味、従って巳丑は十四日である)。「日本書紀」では、この「地震」を「ナヰフル」と読ませてある。「ナヰフル」の「フル」が「震う」の意味であることは、言うまでもないが、問題はその上の「ナヰ」である。 この「ナヰ」の意義については、さまざまな解釈が発表されている。「土佐国群書類従」の中に、次の記事が掲げてある。スサノオノミコトが高天原にのぼって行った時、大海がとどろき、山や岡が鳴動したと言う。これは確かに地震である。スサノオノミコトは、平素子どものように泣きわめく癖があったから、地震を「泣きゆり」と言ったのが、転じて「なゐ」となった。これは実に驚くべき珍説で、全く問題にならない。 畑銀鶏の「時雨しぐれの袖」の中に、好徳と言う人の説を紹介しているが、これがまた驚嘆に値する卓説で、「ナヰ」は「なえしびれる」の意味で、大地震の時には、全身が麻痺して立つことが出来なくなるからだというのである。 新井白石の「東雅」には、「ナヰ」は「鳴る」「フル」は「動く」で、すなわち鳴動の義だとある。大槻文彦の「言海」には、白石の説を少し修正して、「鳴り居る」の意かと書いてある。 白石、大槻、この二人の説も筆者は承服しかねる。地震現象の中で最も人の注意をひくのは何と言っても震動であって、鳴動ではない。また鳴動はすべての地震にともなうものではない。他の国の地震を意味する言葉を調べて見ても、たとえば、英語の Earthquake、ドイツ語の Erdbeben、フランス語の Tremblement de terre、イタリー語の Terremoto、中国語の地震及び地動、いずれも地の震動の意味である。日本の「ナヰ」だけが例外とは、どうも合点がゆかないではないか。 国学者の加茂季鷹は「ナヰ」は「ナユリ」のつまったので、「ナ」は「魚」、「ユリ」は「揺り」で、魚が尾鰭を動かすように地面が揺れるからだと言い、また秋山某は、「ナユリ」は「波揺り」の義だろうと言う。いずれも根拠が薄弱である。「ナユリ」が「ナヰ」に転化することは言語学上ありえないそうである。 地震学者の今村明恒博士は、「ナヰ」をアイヌ語で解釈した。今村博士の説によると、アイヌ語の「ナイ」は「平坦な土地」の義で、稚内わっかないはじめじめした平地、シャツナイは乾いた平地、幌内ほろないは広い平地の意味である。このような土地は地震の発現する所であり、また特に強く揺れる所でもある。そこでこの「ナイ」が元になって、地震を「ナヰ」と言うようになった、というのである。 今村博士は、明治二十七年東大を卒業すると同時に、中村清二博士と共に交通極めて不便であった北海道の磁気測量に従事され、その間にアイヌ語を覚えたのだが、「ナヰ」をアイヌ語で解釈するのは無理であろう。第一、アイヌ語の方は「ナイ」で、ここで問題になっているのは「ナヰ」、発音からして違う。失礼な申し分ながら、雉子も鳴かずばの嫌いがないでもない。 |
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●「なゐ」の語源論に止めを刺した新村博士
「ナヰ」の語源論の中で最もすぐれているのは、新村出しんむらいずる博士の説であろう。その要点を摘記すると、「ナヰ」は地震現象そのものを表すのではなく、「地」又は「地面」と言う意味で、「ナヰフル」で始めて「地面が揺れる」の意味になる。満洲族は土地を「ナ」と言い女真じょしんの言葉でも「ナ」、トゥングース族も大地を「ナ」、樺太のオロッコや黒竜江辺りの住民も土地を「ナ」と言う。朝鮮では「ナラ」と言うが、これは土地よりもむしろある面積をもつ国土又は領土の意味に使われる(奈良も多分この意味であろう)。 次に、「ヰ」は場所そのものの存在を明らかにする場合に使う言葉で、雲を雲井、田を田井、官を官居、本もとをもとゐと言う如く、「ヰ」をそえるのは日本の古語の一つの癖である。 新村博士の説は大体右の通りであるが、おそらくこれは動かしがたいものであろう。 ようやくのことで「ナヰ」の意義が明らかになり、「フル」という動詞がそえてある理由も判明した。上代においては、地震現象を表す名詞がなかったので、「ナヰフル」すなわち「地面が揺れる」と言う子どもじみた表現をしたのである。 |
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●なぜ日本に地震を表す言葉がなかったろうか
日本のような地震の多い国に、中国から「地震」と言う名詞が輸入されるまで、地震現象を表す言葉がなかったのはなぜだろう。思うに上代の日本人は日蝕、大風、雷電の如き自然現象ほどに、地震現象に対して関心を持たなかったのではあるまいか。日本の神話の中に、地震現象が全く現れないと言う事実は、筆者の想像を裏書きしてくれるように思われる。 日本の神話の中には、自然現象に基づいて作られたと考えられる話が含まれている。例えば、ヒコホホデミノミコトが海神から潮満玉しおみつたまと潮涸玉しおひるたまを授けられた話は、潮汐現象の神話化したものと考えられる。 アマテラスオオミカミの岩戸隠れは、皆既日蝕と解釈するのが最も合理的である。この神話の要点だけを抽出すると、要するに、天地が突然暗黒になった、人々が驚き怖れて宗教的儀式を行ったら、天地が再び明るくなったというのである。明らかに皆既日蝕である。岩屋の外の騒ぎが甚だしいので、アマテラスオオミカミが岩屋の戸を細目に開いてのぞき見たと言う叙述は、皆既が終わって太陽の一端が現れる時の状態そのままである。 北米インディアンの一派のイロコワ族は、太陽をしいたげる悪霊を駆逐すべく、太鼓を打ち鳴らしてわめくという。古代のスカンディナヴィア人は、日蝕は三頭の狼が太陽を食おうとするためと考えて、金属の器物をたたき、大声をあげたということである。また中国では日蝕の時に太鼓を叩く習慣があったことが、荀子に書いてある。後世になると単に儀礼的になったが、始めはイロコワ族などと同じく、太鼓を叩いてわめいたのであろうと想像される。 話が少し横道にそれることを許されるなれば、岩戸隠れの話をもう少し続けたい。 天の岩戸の前で、ウズメノミコトが神がかりの状態になって踊り狂ったと、古事記に書いてある。ウズメの踊りは、北東アジア一帯に行われているシャーマン教の巫女の祈祷の状態そのままである。ウズメの踊りは遊戯的のそれではなくて、真剣な祈祷であったに違いない。 ウズメが体のある部分をさらけ出して踊ったとも書いてある。その部分には霊力が宿っていると信じられていたので、その霊力によって光明を取り戻そうとしたのであろう。 このような事を言うと、信用しない人があるかも知れないが、未開人と現代の文化人とでは、者の考え方が違う。未開人は実際その部分に神秘的な力がそなわっていると考えていたのである。ひいては形態が右の部分と酷似する一種の貝までが尊ばれ、ついには通貨として使われるようにもなったのであろう。 余談が余りに長くなった。話を前に戻すことにする。前に述べた如く、日本の神話の中には、自然現象の要素が含まれている。それにもかかわらず、地震に関しては、全く痕跡も認められないのはなぜだろう。思うに、上代においては、庶民は穴居か掘立小屋、貴人でも「アシヒトツアガリノミヤ」などという粗末きわまる家に居住していたので、たとえ大地震が突発しても、被害と称すべきものはほとんどなかったのであろう。震害がないとすれば、地震を恐怖することもなかったであろう。従って日本の神話の中に、地震に関するあるいは地震現象を暗示するような説話が含まれていないのではないかと、考えられぬこともないようである。 |
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●三 日本の地震鯰はあばれもの | |
●明治二十七年六月二十日の東京地震
明治二十七年六月二十日午後二時ごろのことである。廐橋に近い浅草三好町のある銭湯の女湯では、何人かの女が体を流しながらよもやまの話に花を咲かせていた。その時である。突然けたたましい響きと共に銭湯の建物ははげしく揺れ出した。すわ大地震と今までののどかさとは打って変わって浴場は阿鼻叫喚の地獄と化した。 ある者は悲鳴をあげて逃げ惑い、ある者は丸裸で外へ飛び出した。その大混乱のうちに一人だけ流し場にペタリと坐って、幼い子を固く固く抱き締めているお神さんがあった。その抱かれていた子供こそ当時わずか三歳四カ月の筆者であり、抱き締めていたお神さんは筆者の養母であった。この時風呂屋が倒壊したら、つぶされた上に生きながら火葬にされたであろうが、幸い倒壊を免れたので、筆者も無残な最期をとげないですんだのであった。その代わり長年苦労をし続けたあげく、六十過ぎた今日なおこんなつまらぬ雑文を書いて生き恥をさらすような仕儀となった。どちらが幸いだったかわからない。 阿鼻叫喚の地獄と言ったが、それは想像で附け加えたおまけである。丸裸で逃げ出した女たちのことも後になって養母から聞かされた話で、筆者自身はいっこうに覚えがない。今でもありあり記憶に残っているのは、浴槽のお湯が怒濤のように数回にわたってザブリザブリ流し場にあふれ出た物凄さと何が何やら訳も分からずにただ怖ろしさに養母の体に固くしがみついていた哀れな自分の姿だけである。 やがて震動がしずまり、迎えに来てくれた養父に抱かれて外へ出ると、隅田川を越してはるか東の方に火事の煙がもうもうと上がっているのが見えた。これが筆者にとって最も古い地震の記憶であり、また最も怖ろしかった経験でもある。 |
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●東京鯰は幕下級でもおこればこわい
この地震は実は大したものではなかったのである。大地震番附を作るとしたら、たかだか幕下級であろう。この地震は埼玉県鴻ノ巣・岩槻附近から亀有・亀戸辺に至る地帯の地下に潜んでいる地震鯰が少しばかり身震いをしたに過ぎなかった。その少しばかりの身震いのために、東京市内で数十軒の家が破壊され、百八十一人の死傷者を生じたのだから、身震いといっても馬鹿には出来ない。 元来この方面に棲息する地震鯰は大した代物しろものではない。世界中の地震計に記録されるような大規模の地震を起こすほどの威力はない。しかしそんな小鯰でも一たびお冠が曲がって大暴れに暴れ出す段になると、なかなかすさまじい破壊力を発揮する。安政二年十月二日午後十時ごろに発した江戸の大地震などはその最もいちじるしい例で、江戸市中で一万四千戸以上の家がつぶれ、死者は一万人くらいに達したらしい。元和元年及び慶安二年の江戸の大地震は、詳細は不明だがやはりこの地域の鯰の仕業であったようである。 |
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●日本国中に棲息する大小の地震鯰
東京附近から東京都内にかけて、このような物騒な怪物が地下に棲息しているが、この鯰とは比較にならぬ威力をもっている大鯰が相模湾の海底にすんでいる。この鯰があばれ出すと、関八州はとてつもないばくだいな損害をこうむる。関東地方はこやつのために幾度となくひどい目にあわされた。大正十二年の関東大地震はその一つである。この地震の被害は一府三県にわたり、全壊半壊合わせて二十五万戸、焼失四十五万戸、津浪による流失八百六十八戸、死者と行方不明を合わせると、十四万人、これだけの数字を見てもいかにこの鯰の勢力の偉大であるかがうかがわれる。正に原爆に匹敵する被害である。 大正十二年の大震災についで、翌年一月十五日にも大地震があり東京でも全壊半壊合わせて百戸という被害があったが、これは丹沢山の鯰の仕業で、この鯰は東京に甚大な被害を生ぜしめるほどの力はない。 このような地震鯰が日本全土の陸地内にも海底にも無数に棲息して、機会があれば大地を震撼し人類に脅威を与えようと四六時中待機しているのである。鹿島明神一柱ではとうてい衆寡敵すべくもない。中でも濃尾地方、三陸沖、東海道沖、南海道沖等の地震鯰は、いずれ劣らぬ堂々たる横綱の貫禄をそなえた大物中の大物である。 |
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●地震鯰は引っ越しはきらい
現在ではそれらの地震鯰の棲息地とそこに棲んでいる鯰の大小強弱は大体見当がついている。従って将来大地震の起こる可能性のある土地とその土地から発現する大地震の最大限度とは、ある程度まで指摘できる。 故大森房吉先生によると、大地震は決して同じ場所から再び起こることはないという。先生は機会あるごとにこの説を反復された。もし先生のお説が誤っていないとすれば、一度大地震の洗礼を受けた土地は、未来永劫大地震から免疫になり安住の地となるはずである。それならば誠に好都合であるが、不幸にして筆者は先生と見解を異にする。筆者は先生の地震学に対する甚大なる貢献に敬意を表する点においては人後に落ちないつもりであるが、そうかと言って先生のお説に盲従することは、筆者の良心が許さない。 筆者の信ずるところでは、各々の地震鯰は常に一定の場所に棲息して、彼らの生命の続く限り時々身震いをし寝返りを打つのである。論より証拠、同一地点から発現したと推定される古来の大地震の例は、お望みとあれば幾つでも取り出してお目にかける。 従って一度大地震のあった土地は、安全な土地どころではなく、おそかれ早かれ再び大地震におびやかされる運命にあることを忘れてはならぬ。 のみならず地震鯰の活動は意外に早く繰り返される場合がある。明治二十九年六月十五日三陸沖の海底から大規模な地震を発しその副産物なる大津浪で二万七千人が溺れ死んだ。この地震津浪は途方もない大きいものであったから、三陸沖鯰は百年くらいは休養して鋭気を養うだろうとたかをくくっていると、意外にもわずか三十七年後の昭和八年三月三日ほぼ同じ地点からほぼ同じ程度の大地震大津浪が起こり、約三千人の溺死者を生じた。油断大敵である。もっとも考えようによっては三十七年後に大津浪が繰り返されたのはもっけの幸いである。もしかの大津浪が、前回の津浪を経験した者が一人残らず死に絶え、津浪の被害が全く忘却された時分に襲来したら、その損害は更にいっそう甚だしかったかも知れないのである。 |
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●地震鯰は続けてあばれることがある
一度大地震があると少なくともその後数年間か数十年間は大丈夫であろうと誰しも考えるであろうし、また大体においてその通りである。また大地震があると例外なく大小の余震が発生する。余震は、多少の例外はあるが、大体において破壊的なものでない。それなら大地震の後しばらくの間は安心してよろしいかというと、そうもいかないのである。 時として一匹の地震鯰が二回続けて寝返りを打つことがあるのである。振動が止んでやれ安心という時に再び大地震に見舞われるのだから誠に始末がわるい。しかも二回目の地震の方が最初の地震より強いのが普通である。明治三十一年八月の福岡県糸島郡の地震は十日と十二日と二回続発し、大正七年十一月十一日長野県大町の地震の場合には、十三時間の後に二度目の地震が起こった。 |
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●義理固い鯰のおつき合い
なおその上に、と言うとまだあるのか、いい加減にしろと仰せられる向きもあろうが、あるのだから致し方がない。というのはこういうわけである。ある土地の地震鯰があばれると隣接地域の鯰がつまらぬ義理を立てておつき合いにあばれ出すことが、これまたまれでないのである。 近年の例を一、二あげて見ると、大正十二年九月一日相模湾の大鯰が大あばれにあばれたおかげで東京の二分の一が焼け野原になったが、翌十三年には丹沢鯰、七年後の昭和五年には伊豆鯰が活躍した。そのために芦ノ湖畔の箱根町の如きは二回全壊のうきめを見たのである。 大正十四年但馬北部の鯰があばれ出し、翌々年の昭和二年には東隣の奥丹後半島の鯰が大いにあばれ、その結果両震源地の中間地域では、二年間に二回同じ程度の震害をこうむることになった。 古い例を一つあげると、安政元年十一月四日東海道沖の大鯰が活動し、大津浪をともない、プチャーチンの率いるロシヤ軍艦ディアナが下田で沈没するという騒ぎも起こったが、翌五日正確に言うと約三十二時間の後、今度は南海道沖大鯰が大いにあばれて、この地震にも津浪をともなった。従ってある地方では二日続けて同程度の大地震大津浪に襲われる結果となった。 それだから大地震があった場合に、人心安定のためにもう心配はないとは言うものの、本当のところを言うと、ある大地震の時某村役場に掲示してあったように、「心配するな、ただし油断するな」である。 |
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●地震鯰は気紛れ
地震鯰の活動が何年目に起こるかということがわかっていると、震災予防の上にきわめて都合がよいが、地震鯰ははなはだ気紛れで、いつ身震いするか、いつ寝返りを打つか、その予想がむずかしい。 中にはかなり周期的に鯰の活動する土地もある。南海道沖の大鯰の如きはその一つで、少なくとも過去においては、約百年に一回の割合で活動を繰り返した。また関東地方に重大な関係のある相模湾鯰は、多少の仮定を許されるならば、約二百年の周期をもって活動が繰り返されたように見える。しかしそれとても、百年内外、平均二百年くらいという頼りない話である。 今村明恒先生が指摘したように、秋田県象瀉きさがた附近の鯰の活動は嘉祥三年と文化元年の二回で、その二つの地震の時間的間隔は九百五十四年である。新潟県高田の鯰は貞観じょうがん五年と宝暦元年に活躍し、間隔は八百八十八年、長野県北部の鯰は仁和三年と弘化四年で、間隔は九百六十年、伊豆の鯰は承和八年と昭和五年で、間隔は千八十九年、播磨の鯰は貞観十年と元治元年で、間隔は九百九十六年、九州島原半島の鯰は天武天皇六年と寛政四年で、間隔は千百十三年である。 このような例を並べ立てると、これらの土地では約千年の周期をもって地震鯰の活動が繰り返されるものの如く見えるであろうが、わずか二回の地震に基づいて周期的に大地震が起こると断定するのは早計である。これが真の周期であるかどうかは、今後数千年間の地震鯰の活動の経過を見きわめた上でなければ、確かなことは言われないはずである。 |
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●大地震は未然に防ぐことが出来るか
原爆被害者の写真を見ると戦争のむごたらしさを痛感しないわけにはゆかない。戦争は当局者同士の話し合いで避けることが不可能ではあるまいが、地震鯰の活動は今のところ人間の力で防止することが出来ないから誠に始末がわるい。のみならず大地震の被害は時として原爆水爆の被害に劣らないのである。 耐震耐火の家を建てて大地震にそなえるのはもとより必要だが、この方法は消極的である。もし何らかの方法によって大地震の発現する前に叩きつぶしてしまうことが出来れば、それに越したことはない。 藤原咲平博士は中央気象台長の地位にあった時、台風が国土に接近する前に原爆で叩きつぶしたらどうかと言われたことがある。この方法は原爆を所有している国が実行する意志さえあれば可能であろう。 今村明恒博士は、火山の内部に大爆発をひき起こすだけの勢力が蓄積されぬ中に、火口に爆弾を投げ込み、小爆発をうながすことによって、大爆発を未然に防ぐことが出来るだろうと考えた。この方法は可能性の点において前者よりやや劣るかも知れぬが、そうかといって全然望みがないとも言われまい。 幸いに日本に棲息する主なる地震鯰の棲息地は大体見当がついている。この鯰共が大活動をしないうちに撃滅する方法はないであろうか。言葉をかえて言えば、地殻内のある部分に蓄積されるエネルギーを少しずつ小出しに放出させる方法はないだろうか。この問題はもとより困難には相違ないが、やる意志さえあれば不可能ではないかも知れない。研究者が少しはこの方面にも関心をもってもらいたいものである。 |
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●四 東京と大地震 | |
●わが国における近年の地震活動
近年わが国にはやつぎばやに大地震が発生した。最近十数年間に起こった大地震をあげてみると、昭和十四年男鹿半島、同十五年積丹半島沖、同十六年長野、同年日向灘、同十八年鳥取、同年野尻湖附近、同十九年東南海、同二十年三河、同二十一年南海道、同二十三年福井、同二十四年今市、同二十七年十勝沖、同二十八年房総沖とほとんど毎年大地震が発現した。その中でも昭和十九年の東南海地震及び昭和二十一年の南海道地震は、共にその規模が雄大で、広範囲にわたって莫大な被害を生じた。 わが国古来の地震の歴史を調べて見ると、大地震の相ついで発した時期と比較的大地震の発現の少なかった時期があった。今村明恒博士によると、わが国の有史時代に三回の地震活動旺盛期があり、そして弘化四年(西暦一八四七)以後は第三回目の旺盛期に当たるという。しかし右の第三旺盛期はいつまでも継続するのか、それとも既に終わったのであるか、それはもうしばらく地震活動の経過をみなければ、確かなことは言われない。 |
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●大地震の起こりそうな地域
前に記した如く、近年わが国の地震活動は活気を呈していた。この活動はまだしばらく継続するかも知れず、近き将来にいずれかの地域から大地震の発現を見ることもないとは保証しかねるのである。それでは次の大地震はどの地域から起こるであろうか。この問題に対して正確な解答を与えうる人は、日本国中探し求めてもおそらく一人もいないであろう。 適中率が相当に高いといわれる我が国の天気予報程度の地震予報が公示されることは、本邦の如き地震国ではきわめて望ましいことではあるが、地震の予知予報がその域に到達するのは遠い将来であろう。 そのような正確な予報は今日すぐには望めないとしても、きわめて大ざっぱな予報、すなわち将来かくかくの地方に大地震があるだろう、そしてその規模は最大これこれの程度であろうというくらいのことであれば、現在でも必ずしも不可能ではなさそうである。日本地震史調査の結果から、大地震の発現する可能性のある地域とその地域から発現する大地震の規模はある程度見当がつくように思われるからである。 この本の中に一度書いたことがあるが、大森房吉博士は、大地震は同一地点から決して発現しないという見解を生涯堅持していたようである。しかし日本の地震の歴史をくわしく調べると、同一地点とは言われぬかも知れぬが、少なくも同一地域から大地震が再び発現したことは決してまれでない。むしろ一度大地震のあった地域は、二度も三度も繰り返して大地震に見舞われる可能性があると言う方が真実である。 一々例を挙げることは煩わしい。その上この本の別の所で若干の例を示したから、ここではなるべく重複しないような例をあげることにする。仁和三年(西暦八八七)と弘化四年(西暦一八四七)の信濃北部大地震を比較すると、激震区域といい被害状況と言い、符節をあわす如くである。三陸沖の海底から古来しばしば大規模地震を発し、大津浪をともなった最大級の津浪だけを拾っても、貞観十一年(西暦八六九)、慶長十六年(西暦一六一一)、明治二十九年、昭和八年の四回あり、いずれもほぼ同じ地域から発したようである。南海道沖もまた大規模地震のしばしば起こる所で、天武天皇十二年(西暦六八四)、仁和三年(西暦八八七)、正平十六年(西暦一三六一)、慶長九年(西暦一六〇五)、宝永四年(西暦一七〇七)、安政元年(西暦一八五四)、昭和二十一年に大地震を発したが、これらの場合もほぼ同一地域から発現したようである。 また地震の規模について言えば、これも地域が大体一定している。最大級の大地震の起こる地域は、三陸沖、相模湾、東海道沖、南海道沖濃尾地方等に限られている。それにつぐ大地震は信濃北部、琵琶湖附近、日向灘、北海道東方沖などから発し、その他の地域から起こる地震は、上記の地域の地震にくらべて、比較的規模が小さいようである。 |
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●将来東京に大地震が起こるか
将来東京の直下又は附近から大地震が起こって、甚大な被害を生じる可能性があるであろうか。それとも東京の地は地震に関して全く免疫になっているのであろうか。これは東京に居住する者にとって大問題でなければならぬ。この問題については、筆者は遺憾ながら将来いつかは大地震に見舞われるであろうと答えざるを得ないのである。なぜこのような悲観的な予言をあえてするかと言うに、東京の地は古来幾度となく大地震によって損害を蒙った経験をもっている。そして前述の如く、過去において大地震の経験のある土地は、将来もまた大地震によっておびやかされる可能性があるからである。 東京に大いなる被害を生ずるような大地震は、東京の直下あるいは附近から発現するだけでない。相模中部及び相模湾から発する大地震によっても損害をこうむる。すなわち東京はこれらの三地域から起こる大地震によって、何年に一度は大なり小なり破壊される宿命をもっている土地と言わなければならぬ。 |
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●相模湾から発する大地震
過去において相模湾から発現し、関東全域に被害を生じたと推定される大地震は、(一)弘仁九年、(二)永仁元年、(三)永享五年、(四)元禄十六年及び、(五)大正十二年の五回である。 弘仁九年(西暦八一八)の地震は、その詳細は明らかでないが、被害が甚大であったことは、当時の詔勅によって想像される。 永仁元年(西暦一二九三)の地震は鎌倉時代の被害のみが伝えられて、他の地方の被害状況が明らかでないが死者二万人と言われ、また「諸国大地震」などと記されてあることによって、三浦半島から発した局部的地震とは考えられない。多分関東全域にわたる大地震であったろう。 永享五年(西暦一四三三)の地震は、鎌倉に被害があり、利根川の水が逆流したと伝えられる。利根川が逆流したという事実は、相模湾から発した津浪が東京湾に侵入し、更に当時東京湾に注いでいた利根川を遡ったと考えるのが最も合理的な解釈であろう。 元禄十六年(西暦一七〇三)及び大正十二年の地震は、時代が新しいためにその状況が詳しく知られているが、両者の震域、津浪、地形変動等が全く同一で、共に非常な被害があった。将来相模湾から大地震が発現する場合には、大正十二年程度の被害があるものと覚悟していなければならぬ。 右に述べた五回の大地震の時間的間隔を調べて見ると、四百七十五年、百四十年、二百七十年、二百二十年となり、弘仁・永仁両地震の間隔が、他の場合とくらべて、非常に長いことが気づかれる。ことによると、弘仁・永仁両地震の間に洩れた地震が一回あったのではあるまいか。上記の如き仮定のもとに各地震の間をかぞえると、平均二百二十一年となり、元禄・大正両地震の間隔とほぼ等しくなる。もしかりに将来も過去と同様の間隔をおいて大地震がこの地域から発現するものとすれば、百五十年ないし二百年に一回の割合で大地震が起こる勘定になるが、もとより仮定に立脚した議論だから、果たして右の通りになるかどうかはその時になって見なければわからない。予想を裏切って思いのほか早く大地震の発現することもないとは言われぬから、右の結果を過信して、今後百年くらいは相模湾から大地震の起こることはあるまいとのんきにかまえるのは考えものである。 |
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●相模中部から発する大地震
相模中部から発現する大地震は、相模湾から起こる地震にくらべると、規模が小さく、従って被害の範囲もせまく、その上発現の回数も少ない。しかしこの地域から発する大地震も東京に相当の被害を生じるので、これまた警戒を要する。元慶二年(西暦八七八)及び大正十三年の地震はこの地域から発したもので、前者では相模・武蔵両国の民家がことごとく倒壊破損したと伝えられ、後者の場合には東京市内のみでも全壊二十五戸、半壊七十八戸を生じた。 |
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●東京及び附近から発する大地震
埼玉県鴻巣こうのすの辺りから岩槻いわつき、越こしヶ谷や、亀有かめあり、亀戸を経て東京湾に延長する一地震帯があって、この地震帯から、小規模ではあるが、強烈な地震が起こる。この地名から容易に知られるであろう如く、この地震帯の南部は東京東部を通過している。従って時として東京都内の直下から大地震の発現することがありうる、いな実際にあったのである。故にこの地震帯は東京に居住する人々にとってきわめて重大な関係を有するものと言わねばならぬ。 江戸時代にこの地帯から発したと推定される大地震は、元和元年(西暦一六一五)、慶安二年(西暦一六四九)、安政二年(西暦一八五五)の三回で、明治時代に入ってから明治二十七年の地震が起こった。 右の四回の大地震はいずれもその被害がはなはだしかったが、とりわけ安政二年十月二日夜の十時ごろに発した大地震は、亀有、亀戸の辺りが震央であったものの如く、すなわち江戸の直下から発した地震であったので、江戸市中は非常なる損害を蒙った。死者の数は関谷清景せきやせいけい博士に従って従来は約七千人といわれてきたが、ことによったら一万人くらいの死者があったかも知れぬ。大正十二年関東地震の場合の東京市における死者は六万人に達するが、そのほとんど全部が焼死であり、警視庁の調査によって明らかに圧死と認定されたものはわずかに二千人に過ぎぬ。それに反して安政地震の場合の死者はほとんど全部が圧死である。震動がいかに激烈であったかはこの一事からも想像し得られる。 明治二十七年六月二十日午後二時ごろに発した地震は、前者にくらべれば被害が少なかったが、それでも東京市内で二十四人の死者を生じた。この地震は前記の地震帯の中の安政地震の震央よりやや北方から発したようである。 |
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●東京・相模湾・東海道沖・南海道沖大地震の発現順序
十七世紀以後において東京(江戸)、相模湾、東海道沖、及び南海道沖から発した大地震を表にすると次の如くなる。 この表に掲げた十二回の地震がきわめて規則正しく一定の順序に従って発現したことは、一瞥して看取されるであろう。すなわち二回の東京地震に始まり、ついで相模湾から大地震が起こり、最後に東海道沖及び南海道沖の各々二回の大地震で一回の輪廻が終わる如く、再び二回の東京地震から同じ順序で地震が発した。しかも元和・慶安両地震の間隔は三十九年、安政・明治両地震のそれは三十三年、ほぼ等しいのである。これが偶然であろうか。偶然と考えるのはあまりに規則正しいようである。 もし将来もこの順序で大地震が起こるとすれば、東京が安政程度の激震に見舞われるのは遠い将来のこととなって、きわめて望ましいことではあるが、何しろ十七世紀以後という比較的短い期間について調べた結果であるから、今後長い期間における地震活動の経過を見なければ確かなことは言われないのである。 |
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●地震鯰にご用心
前述の如く東京及び東京附近には大地震の発現する可能性のある地域が三つもある。その中相模中部は比較的重要でないが、他の二つの地域に対してはたえず厳に警戒を続けるべきである。また一方東京に居住する人々は東京の地が地震に関して決して安全でない。いつ何時なんどき大地震に襲われるかわからぬことを充分心得ていなければならないと思うのである。 |
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●五 今村明恒先生素描 | |
今村明恒先生が亡くなられてからかれこれ九年になる。なろうことなら学者としてまた人間としての先生の全貌を後世に伝えたいとは思うが、それは筆者にはとうてい出来ない相談である。誰かやってくれる人はいないかと物色しても、中村清二先生を除いては適任者が見当たらない。といって中村先生はすでに八十何歳、筆をおとりになるのがおっくうかも知れない。そこでせめて自分の知っていることだけでも、関係者にあまり迷惑を及ぼさない範囲で、書き留めておきたいと思い立ったのである。これだけのことでも今の中に書き残しておかなければ、すべてが跡形もなく消えてしまう。それは筆者にとって忍びがたいことである。
先生の先祖今村英生ひでしげは長崎の大通詞だいつうじで、当時オランダ語にかけては通詞の中で英生の右に出るものがなかったという。ローマ法王から日本に派遣された宣教師シドッチを、宝永六年新井白石が取り調べるに当たって、まずオランダ人についてラテン語を学び、その知識によって立派に通訳の大任を果たした功労者はこの人であった。 昭和十四年の夏、先生は日々帝国学士院に通い「出島蘭館日誌」について英生の事績を調べた。「出島蘭館日誌」は長崎出島にあったオランダ商館の記録で、寛永十八年に始まり幕末で終わる非常に大部のものである。原本はハーグのオランダ文書館にあるが、その複写が日本学士院に保管されているのである。いうまでもなくこの日誌はオランダ語で書いてある。先生は「和蘭語四週間」によってオランダ語を独習してこの記録を読んだ、そして英生に関する数十項の重要記事を写しとったのである。その結果今村英生が白石のために通訳を勤めたばかりでなく、博物学特に薬物学に関する知識も豊かで、オランダの書物を翻訳した最初の人であったことも明らかになった。 先祖の英生と末孫の先生とが申し合わせたように新たに一つの国語を修得して、共にそれを使って重要な業績を残したということは、思えば不思議な因縁である。 先生は明治八年満五歳で小学校に入学した。その学校の教務主任三原佐吉という人が先生の家を訪ねて、この子は将来必ず家を興こしお国の役に立つに相違ない、大事に育てなさいと言ったそうである。 先生の叔父に大河平おこうびら某という人があった。この人はひとかどの人物で地方官をしていたが、明治九年突然職をなげうって郷里に帰った。思うに鹿児島の形勢いよいよ切迫したためであったろう(この人は翌年西郷の挙兵に参加して戦死をとげた)。 この叔父がある時先生の母堂に向かって、常は見込みのある子だ、特に大切になさい、と言ったそうである。「常」とは「常次郎」のことで、先生の幼名である。 三原先生や大河平叔父が先生の将来に望みをかけたことから想像すると、幼年時代の先生はいわゆる神童ではなかったが、どこかよい意味で他の子供と違うところがあったのであろう。 先生がある日大河平叔父の家へ行くと、叔母が「フズキ」を一つとってくれという。「フズキ」は「ほおずき」の方言である。先生は「フズキ」なんてものはありませんといっかなきかない。「そこにあるではないか」。「あれはフズキではありません、ほおずきです。」「どうだっていいではないか。」「いけません、ほおずきをとってくれといわないうちはとりません。」先生はとうとう強情を張り通したということである。かげでこの押し問答を聞いていた叔父がおもしろがって、一冊の本をくれたそうである。 相手の欠点を少しも仮借しない先生の峻厳な性格は、生涯を通じて変わらなかった。このような性格の人はともすると敵をつくる。この性格は先生にとって得にはならなかったようである。 明治十年西南戦争当時先生は七歳の少年であった。官軍が郷里鹿児島に迫り砲声が次第に近づくので、先生一家は、厳父一人を残して、宇宿にあった厳父の乳母の許へ避難した。ひとり家を守っていた厳父は、ある日白刃を提げた官兵に襲われ、危いところを辛うじて免れたということである。 官軍の撤退と共に鹿児島に戻ったが、薩軍が続々敗退して来るので、再び宇宿に難を避けることになった。しかしこの地も安全といわれなかった。ある日母堂が先生の弟を連れて川の畔にたたずんでいると、突然銃弾が雨霰と飛来するので、あわてて谷間に身を潜めたということである。 西南戦争の結果厳父は職を失い、先生は真正コレラにかかって九死に一生を得るなど、この年は不祥事の連続であった。 厳父は後になって鹿児島県等外二等出仕に任ぜられた。 先生の幼年時代には今村家は相当裕福で、下女下男も使い何不由なく暮らしていたそうである。それが厳父の過失によってたちまち貧乏のどん底に落ち込むことになった。厳父がある人に有価証券七百円全部を詐取されたのである。この証券は多分士族に与えられた金禄公債であろう。 生活はたちまち窮迫を告げ、教科書代にもことを欠く状態に陥った。明治十四年先生十一歳の時のことである。 明治十六年に先生は首尾よく鹿児島中学に入学したが、その翌年には厳父が依願免官になった。家の暮らしはますます苦しく、家具庭木まで売り尽くした。当時神戸で巡査をしていた長兄から月々二、三円の仕送りはあったが、わずか二十銭の古靴を求めることさえ容易ではなかったそうである。 豆腐の如きも、食べるのは厳父だけで、他のものは一年に数回、それも一片か半片を与えられるのみであった。副食物は明けても暮れても卯の花の味噌汁ばかりだったと言う。当時先生の最大の願望は、早く立身出世して三食とも豆腐を食べられるような身分になりたいということであったそうである。先生が、戦争のため食糧が欠乏するまで、毎朝豆腐と若布の味噌汁を欠かさなかったのは、この少年期におけるはかない望みに由来していたのかも知れない。 明治十八年に厳父が准判任御用掛を拝命して、月俸金七円を支給されることになった時には、家計いよいよ窮迫、赤貧洗うが如き時であったから、家族一同狂喜したということである。 鹿児島中学は県立中学造士館となり、再び変わって高等中学造士館となった。旧制高等学校に昇格したのである。 先生は学力試験に及第して入学の資格は与えられたが、困ったのは従来のように官費ではなくなったことであった。厳父には学資を負担する資力がない。先生は止むを得ず二人の兄君に手紙を書いて援助を乞うた。 次兄の手紙は冷たかった。大言壮語を止めて適当の職につけというのである。それに反して長兄の返事には、自分は甘んじて犠牲になるから初一念を貫けと励ましてくれた上に金六円の為替が封入してあった。当時長兄の月給は金八円に過ぎなかったのである。 先生は造士館入学を取り止め、上京して一高に入った。一高時代には薄手の冬服一着で間に合わせ、夏は網シャツ一枚、冬は小倉の白シャツで調節した。靴下は全然用いなかった。 明治二十四年東京大学理科大学物理学科に入学した。 先生が物理学科を選んだのは、全く鹿児島中学教諭渡辺譲理学士の感化であった。この恩師のおかげで物理学が好きになったのだそうである。良師を得た人は幸福である。この点は寺田寅彦先生も同様であった。 ある日菊池大麓教授の幾何学の講義がまさに始まろうとした時、先輩の大森房吉理学士があわただしく教室に入って来て先生に、濃尾地方に大地震があった。君はすぐ現地へ行ってくれと言う。先生は直ちに震災地に向かったはずでありまたこれが先生にとって最初の地震調査でもあったはずであるが、なぜか先生は当時の行動については一言半句も話されなかった。わずかに岐阜師範の舎監であった名和靖氏に会ったこと、名和氏が地震で負傷していたことを別の話のついでに伺ったに過ぎなかった。思うにこの出張は単に大森理学士現地調査の瀬踏みのためであったろうと想像される。 大森理学士が、震災地を視察して帰り、その報告会が行われた。その時先生は色々の質問を発したそうである。その質問に対する大森先輩の答えはことごとく「まだわかっていない」の一点張りであった。地震に関してこんなにもわからぬことだらけなら、自分は地震学を専攻して未知の領域を開拓してやろう、先生はこの時こう決心をしたそうである。これが先生が地震学者となる第一歩であった。 明治二十六年すなわち大学卒業の前年に先生は昌平学舎という寄宿舎を設けてそれを主宰することになった。郷里から貧書生が続々上京するので、それらの学生の面倒を見るためであった。昌平学舎の位置は始めは駿河台、ついで本郷東竹町、最後が本郷弥生町であった。最後の家だけは今も残っている。東大地球物理学教室の下にある古びた二階家がそれである。 明治二十七年七月先生は東大を卒業した。しかし卒業式には列席が出来なかった。卒業式に先立って磁気実測のため中村清二理学士(後に博士)と共に北海道に出張したからである。 当時交通機関のほとんどなかった北海道を、あるいは馬あるいは徒歩で跋渉した話は、「鯰のざれごと」(後に「地震の国」と改題)の中に「野宿」と題して面白く記されてある。その中の鹿島は先生、中牟田は中村清二先生のことである。 支給された旅費が約十円残ったので、その中から三円を投じて柳原で古着を買い、残りの金で十二月までしのいだ。 東京遊学の費用は直接には長兄から与えられたが、長兄は不足の分を岳父岡留信好氏に仰いだ。遊学五年間の学資は合計三百六十八円であった。 同年十一月三十日附で震災予防調査会から磁力実測結果計算のため、月十五円を支給されることになった。先生は早速その中から十円を厳父に送金した。これが両親に対する仕送りの最初であった。以後郷里への送金は、十円一回、十五円数カ月、令弟たちが成業して送金に参加するまで二十五円を下ることがなかった。その後の分担額十五円、ただし年末や利子支払の月には臨時に増額した。 先生は二十七歳で結婚してから続々子供が生まれて、全部で十一人の子福者であった。それだけでも大変なところに、つぎつぎに上京する弟の扶養と教育を一身に引き受け、なおその上に、両親に仕送りをしなければならなかったのである。家計の苦しさは言語に絶するものがあったに相違ない。 明治三十三年市ヶ谷佐内坂泰宗寺の境内に住んでいた時の如きは、多分井戸水のためであったろうが、夫人、弟明彦少尉、恩人の令息岡留肇の三人が赤痢にかかり、そのためにいよいよ生計に窮して家庭教師までもしなければならなかった。翌年地文学教書や対数表が出版されたが、これも急場を切り抜けるためのアルバイトではなかったろうか。 このような窮乏のうちにあっても、両親に対する仕送りは一月も欠かさず続けられた。 大正七年十二月厳父明清氏は先生の多年の援助に対して感謝状を送ってきた。子が親から感謝状を贈られるということは世間に余り例がない。先生の孝養の並々でなかったことを如実に物語るものはこの感謝状でなければならぬ。 感謝状にはこう書いてある。「ここに其方の功により多年の間安楽に代を送り候のこと、明治二十七年以来卒業の月より御送金なし下され、それがため拙者もこのように長命いたしたるものと存じおり候。……この間一遍の故障もこれなく、誠に感謝の至りに御座候。これのみならず明孝以下明光明徳教育上につきしかも一方ならず御配慮下されたることと、これまた低頭御厚礼申上候。ついては養子にも心配も多々ありし御事と存じ候間、同人にもよろしきよう御願申上候。以上。」 厳父は大正十年、母堂は昭和六年、いずれも満八十七歳で亡くなったが、両親の存命日数が一日も違わなかったそうである。 明治三十八年四月先生は理学博士の学位を授けられた。大学卒業当時の席次は七人中六位であったが、同級生で学位を授けられたのは先生が最初であった。六十人目の理学博士である。 先生の学位論文は、牛込区加賀町のお宅で執筆されたが、この家で生まれて先生の大の秘蔵子であった百合子さんがこの家で亡くなるという悲しい事件が起こった。ある夕方もうお父様がお帰りになる時分だと、二階の手摺りから体をのり出して見ている中に、誤って庭に落ちたのである。百方手を尽くされたがその甲斐がなかった。 先生自身執筆された「悔恨三十年」に次のように書いてある。 「百合子は誠に利巧な子供であった。亡くなったとき、歳はわずかに三年三月であったが、普通の子供のようではなかった。当時余の出勤は早かった。午前七時に授業開始の日が多かった。それでも大てい余と一緒に食事をした。そうして給仕をしてくれた。自分のお碗をよそいかけていても、余のお代わりとなるのを認めるや否や自分の方はすぐ差しおいて、まず余の方の給仕をしてくれるのが普通であった。百合子は聞きわけのよい子供であった。当時不如意がちであったので、玩具や画草紙など買ってやることもまれであったが、ただ雑記帳に絵をかいて貰うことをこの上もなく喜んでいた。そしてそれを大事にしていた。余の忙しそうな様子や不機嫌な風を見ると、無理にせがむようなことは決してしなかった。ただ「あちた書いてね」といって、折角出して来た雑記帳をまた大事にしまうのであった。」 明治三十九年は先生にとって生涯忘れることの出来ない悪い年であった。 これよりさき明治三十二年に先生は明治二十九年三陸津浪の原因に関する見解を発表した。先生は大規模の海底地震にともなって起こる津浪は主として海底の広範囲にわたる地殻変動によってひき起こされると提唱したのである。この説は今では地震学上の常識であるが、当時は猛烈な反撃をうけたのであった。中でも「海底の広範囲にわたる地殻変動」は無理な仮定であると烈しく反対したのは大森博士であった。 明治三十八年雑誌「太陽」に先生は「市街地における地震の損害を軽減する簡法」と題する論文を発表した。この論文ではまず過去の大地震の災害について述べ、慶安二年、元禄十六年、安政二年大地震は平均百年に一回の割合で発生している。そして安政二年以後すでに五十年を経過しているから、今後五十年間にこのような大地震に襲われることを覚悟しなければならぬといい、次に東京が元禄、安政程度の大地震に襲われた場合の災害を予想して、合計十万ないし二十万の死者を生ずるであろうと記し、最後に震災軽減法を詳しく記され、特に石油ランプを廃止することの急務が説かれてある。全文を通読しても、多少の欠点はあろうが、要するに震災予防を論じたもので、少なくとも東京市民は感謝をもって読むべきものであった。 |
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しかるに厄介なことが起こった。翌三十九年一月に東京二六新聞が「今村博士の説き出せる大地震襲来説、東京市大罹災の予言」と題して、最後の最も重点がおかれている震災軽減法を棚上げにして、ただ大地震襲来の可能性ばかりを書き立てたのである。これが大問題になった。大森博士は先生に取り消しを求め、先生は釈明的の手紙を新聞に載せなければならなかった。
これだけならまだよかった。またもや困ったことが起こった。翌月二十四日の朝東京湾から強震を発して多少の被害があった。その日の午後中央気象台の名をかたって午後三時と五時の間に大地震があると各方面に電話で知らせた人間があったのである。何者の仕業か知れないが、悪いいたずらをしたものである。東京市内では大騒ぎになった。 大地震の予言が如何に大なる影響を及ぼすかを大森博士は痛感したのであろう。それから以後大森博士の攻撃は今村先生の地震予報に向けられた。もとより今村先生は右の地震騒ぎの張本人ではなかったが、さきに発表した東京大地震の予報を憎んだのである。大森先生は機会あるごとに「今村博士の東京大地震の浮説」、「例の二十万死傷説」といって痛烈にまた執拗に攻撃したものである。一方先生の親切な警告は私利をはかるための浮説とそしられ、大法螺吹きと嘲られもした。 先生は恩も忘れないが怨みも忘れない人である。大森先生に対する怨みは骨髄に徹した。自分の死後東京に大地震が起こったら墓前に報告せよと夫人に命じておいた一事でも、先生の憤激の程度がよくわかる。嘘ではない。先生の直話である。 これだけではない。またしても一つの問題が起こった。大正四年十一月大正天皇のご即位式が京都で行われた。ちょうどその時上総の東部から相次いで地震が起こり、数日間に六十五回に達した。大森博士は御大典参列のため不在、留守を預っていた先生は押しかけて来た新聞記者に向かって地震活動の経過を説明した上、「九分九厘までは安全と思うが、しかし精々注意を加えて火の元などは用心するに越したことはない」と当然すぎるほど当然の注意をしたところ、これが意外な反響を起こして中には野宿をした人もあったという。 このために急いで京都から戻った大森博士は先生の不謹慎を責める、先生は躍起となって弁駁する、両先生の間の溝はますます深くなるばかりであった。 さきに記したように、大森博士は先生の東京大地震予言を烈しく攻撃した。それでは大森博士は東京に大地震が起こらぬと確信していたのかというとそうではなかった。大正十二年の関東大地震を大森博士は豪州で知り急いで帰国したが、帰りの船中で自分の予想より六十年はやかったといったそうである。大森博士はまた大地震による水道鉄管の破損について東京市の当局者に再三警告を与えている。これも東京大地震を予想してのことである。要するに大森先生は賢明で今村先生は馬鹿正直ということに帰着するであろうか。正直者が馬鹿を見るのは昔も今も変わりはない。世の中には何をいっても無条件に承認される人もあり、何をいっても非難攻撃を浴びる人もある。大森先生は前者、今村先生は後者であろうか。 ある日筆者は成城のお宅に先生を訪ねた。先生は例の通り書斎兼応接間にどっかと腰掛けていたが、いつになく元気がない。話しかけてもろくに返事もなさらない。どうしたことかと不審に思っていると、やがて「今日は呂昇の祥月命日だ、今日が命日だということを思い出しているのは、親族を除くと私ひとりだろう。」というその言葉にも力がない。いかにも淋しそうである。 呂昇とは明治から大正にかけて、美貌と美声とをもって天下の義太夫愛好者を魅了した豊竹呂昇その人である。 それなら今日は呂昇のレコードをかけて故人をしのぶことにしては如何でしょうと筆者がいうと、先生急に元気づいて、ウンそれがいい、そうしようと、それから何枚ものレコードをきき、はては先生自身が朝顔日記の素語りをする。お暇をする時分には見ちがえるように元気になられた。 筆者が先生のお手伝いをするようになってから、この時ほど先生が心から喜ばれたことはなかったように思われる。いかに先生がお喜びになったかは、この呂昇をしのぶ集いが年中行事の一つになって、お亡くなりになるまで毎年続けられたことによっても想像できる。 話は四十年の昔にさかのぼる。濃尾大地震満二十五周年記念日の夜、先生は広島から大阪に向かう一等車にのっていた。車中に一人の老紳士がうとうと眠っている。どこかで見たことのある顔だなとは思ったが思いだせぬ。その中に銀杏返いちょうがえしの艶めかしい女客が乗り込んで来たが、老紳士を見より「アラ名和先生じゃございませんか」と言葉をかけた。先生はそれをきいて思い出した。その老紳士は昆虫で名高い名和靖氏であった。先生と名和氏とは濃尾大地震当時震災地で顔を合わせた以来の、しかも二十五周年記念日当日の奇遇であった。名和氏が「これが有名な呂昇です」といって女客を先生に紹介した。「ヘエー呂昇は男だと思っていたが女だったのですか」と先生は眼をみはったということである。 先生の先夫人は義太夫が好きで、呂昇をききに行きたいとしきりにせがんだが、先生はどうしても許さなかったという。そういうことがあったから、先生も呂昇の名前だけは聞いていて、一途に男性だと思い込んでいたのであろう。 先生の若いころは娘義太夫の全盛時代であった。しかし生活にゆとりのなかった先生は寄席に通うことも絶えてなかったのであろうが、それにしても当時全盛をきわめていた呂昇を男と思っていたのは少々ひど過ぎるようである。 その先生が一度呂昇その人に会い、夫人にうながされて彼女の義太夫をきくに及んで、たちまちにして義太夫狂になったのだから、思えば不思議な話である。 義太夫に凝り出した先生は呂昇をきくだけでは満足せず、呂昇吹き込みのレコードを買って、それを師匠として稽古を始めた。何しろ声量が豊富の上に大の凝り性ときているから進歩が早い。なおその上に呂昇の前で一段語って(大した心臓である)悪いところを直して貰うのだからめきめき上達したことはいうまでもない。夫人に三味線を習わせてお相手をつとめさせようとしたが、これは呂昇に止められた。家庭の仕事と芸は両立しませんからおよしなさいといわれたそうである。 先生夫妻と呂昇との交際はいつごろからいかにして始められたか、筆者は知らない。しかし汽車の中での初対面からまもなく始まったようである。呂昇の方でも先生を訪問する、先生もまた何回となく呂昇の自宅をたずねた。 東京で呂昇をきくだけでは満足が出来なかった。名古屋に滞在中たまたま呂昇が浜松へ巡業に来たので、わざわざ浜松まで出向いたこともある。欧州行きの船を門司で待ちあわすうち、博多まで呂昇に会いに行ったこともある。 ある年消防協会主催の講演会が大阪で開かれ、先生も講演者の一人として列席したが、帰京する段になって南海電車の駅前まで来ると、ぼくはここで失敬すると、呆気にとられている中村清二先生を置きざりにしてどこかへ姿を消してしまった。後になって呂昇に会いに行ったことが露見したそうである。 名古屋で呂昇の壺坂を聞いた時、語り口が従来と少し違っていた。後で宿屋に呂昇を訪ねて話がそのことに及ぶと、まだ東京でやる自信はありませんが、地方で試しにやって見ているところですという話、先生がその語り口について批判を始めると、呂昇はちょっと待って下さい、弟子を呼んで来ますからといって、弟子たちと一緒に先生の批評をきいたそうである。先生の批評が常に肯綮こうけいに中あたっていたからであろう。 先生が最後に呂昇に会ったのは、彼女の重態が伝えられていた時であった。面会して病気にさわってはという心づかいから、まず隣に住んでいる呂昇の令息をたずねて容体をきいた。令息がお目にかかっても大丈夫でしょうというので座敷に通った。その時令息は引退した後も母を訪ねて下さるのは先生だけですといったそうである。呂昇はすぐ出てきてお夕飯はときく。実はまだ食べていないと先生がいうと、彼女は自分の家に引き返しておかずを持って来てくれたそうである。 先生ご逝去の後、筆者は蔵書その他の整理に当たったが、その際呂昇の手紙十二通が一括して保存されてあるのを発見した。消印を見ると最も古いのが、大正七年、最も新しいのが昭和四年、大部分が巡業先からの短いたよりであるが、大正十五年七月二十六日附の手紙には、「引退後は淋しく暮らしております」と書いてある。この短い文句に当時の呂昇の淋しい気持がにじみ出ているようで哀れ深い。この手紙を書いてから四年後に呂昇は死んだのである。美しい声の持ち主であった呂昇も年にはかてず、声は衰え、一番弟子には背かれ、その上心臓が弱り、引退後は今村先生を除いては誰ひとり訪れる人もなく、多くの芸人の末路がそうであるように、ほんとうに淋しく死んで行ったのである。 先生と呂昇との交際は夫人も認めていた。はじめはむしろ夫人の方が主動的であったようである。先生と呂昇とがますます親密の度を加えていっても、別に家庭争議の種にはならなかった。先生の方では呂昇との間に一線を画していたし、夫人の方でも深く先生を信じていたからであろう。 先生は自から呂昇の弟子と称しそれを誇りとしていたが、実際は師弟の関係ではなくて、芸を通しての親しい友人関係にほかならなかった。二人の間に流れていたのは清らかな美しい友情であった。 とはいうものの、単なる友情とは少し異なる感情が先生の胸底に潜在していなかったともいわれないように思われるのである。 先生のお通夜には、生前のご希望によって、霊柩の前で呂昇のレコードをかけて先生の霊をお慰めした。 大正十二年九月一日先生は東大地震学教室で大地震に遭った。教室は三回も燃え上がったが辛うじて消し止め、搬出物の始末その他を済ませ、東大久保の自宅にたどり着いたのは翌二日の午前一時であった。 「自宅へ数町のところで夜警の青年団にひどい目にあったのはこの時である。それはこうである。自分は団員がどこへ行くかとの問に対して東大久保四十八番地に行きますと答えて通り抜けようとすると、いきなり後ろからえりをつかみ待てと大喝しながら五、六歩引き戻し、帽子を取らせ提灯をつきつけて五、六人の団員がかわるがわる顔を検査する。後ろからやっつけろという声が聞こえたようだったから、やっつけられては大変と考え、正直に地震学専攻の今村ハカセですと名乗った(わざとハクシとはいわなかった)。この名乗りは利き目があったらしく、やっつける気配がなくなったようである。しかし、しばらくいずれも無言であるから、団長たる特務曹長殿に恐る恐るまだ何かお取り調べがありますかときいたら首を振られた。もうよろしいのですかと聞いたらうなずかれた。それでようやく虎口を脱することが出来たのである。」 「大地震調査日記」には右のように書いてあるが、先生から直接伺ったところでは、「正×位勲×等理学博士今村明恒」と名乗ったのだと言う。この方が本当らしい。こんな名乗り方をしてよくやっつけられなかったものである。 大正十二年十二月二十六日東京大学教授に任ぜられた。それまでは本職は陸軍士官学校の教頭で、大学の方は無給の助教授であった。当時のある新聞に、「今村博士がやっと助教授から教授に昇進、地震驚いて、何だ、まだだったのか。」 大正十四年十二月十二日の朝日新聞に次の記事が掲載された。 「十一日夕方の地震で今村博士にお尋ねすると、博士は、こんな小さな地震が何です。こんなのにびくびくされる人々の無理解を私はむしろ憐れむべきだと思います。」 この言葉は何となく相手に好感を与えない言葉である。こういう口のきき方をするのは先生の一つの癖であった。場合によっては敵をつくることになったかも知れない。 かくいう筆者もいささかながらむっとした経験がないでもない。筆者の友人で今村先生の忠実な追従者であるTという人がある。ある時その人に今村先生は何を差し上げたら一番喜ばれるかと聞いて見た。Tのいうにはそれはコーヒーがいい、一番喜ばれるのはコーヒーだ。そこでコーヒーを持参したが、その時は何事もなく済んだ。他の機会に再びコーヒーを差し上げたら、先生じっと見ていたが、やがて口を開いて、「君の家にはコーヒーのなる木でも植えてあるのか。」それ以来筆者は先生にコーヒーを上げるのを止めた。懲りた。 先生は研究のかたわらよく書きよく講演した。大正十二年の震災当時だけでも、通俗雑誌に寄稿したものが四十篇、この外に遺漏がどのくらいあるか分からない。講演は神奈川県五六回、千葉県二三回、名古屋一回、大阪一回、東京に至っては先生自身も覚えていないほどの回数であった。 ある年先生のお伴をして静岡県海岸の某所に調査に行った。その時立ち寄ったある寺の住職は面白い坊主だった。彼いわく、この寺は檀家の数が少ないので住職がいつかない。昔から風呂桶寺といわれてきた。私は住職のかたわら雑貨商をやり易者もやる。こういう才能のない人間にはこの寺の住職はつとまりません。この坊主、来訪者が今村博士と知って、私は大正十二年の地震のお蔭で金儲けをしましたという。そのわけをきいて見ると、その土地の者で東京に行っている人が少なくない。その人々の家族が安否を心配して自分に卜うらなってもらいに来たものが沢山あったからだとのこと。後で先生はあの地震の時の講演料は最低二十円最高千円、原稿料と合わせて××円になったと話されたがその金額は今覚えていない。 ご前講演の光栄をになったことも一再に止まらなかった。昭和二年赤坂離宮において丹後地震調査の結果を講演した時には、両陛下をはじめ各宮様も御臨席になった。講演が終わって茶菓が供せられた時、陛下並びに側近者から色々な質問が出たそうである。ある側近者からつぎの大地震はどこから起こるかという質問を受けて、「それは今村命がけでなければ申し上げられません」と答えたので、陛下をはじめ列席者一同腹をかかえて笑い、皇后様も大きな声でお笑いになったそうである。夢中になってしゃべっている中、ふと気がついて見ると、食べかけのケーキが紅茶茶碗の皿の上にのっているし、卓布の上にはケーキのかけらが散乱している始末で、これには恐縮したそうである。 昭和四年十二月帝国学士院創立満五十年を機会に、会員一同にご陪食を賜った。ご陪食が終わってから桜井院長が一々会員の氏名と専攻学科を述べてご紹介申し上げた。 先生の番になった時、院長が氏名を申し上げようとすると、陛下はそれをお止めになって、「今村は度々地震の話をしてくれたからよく知っている」と仰せられた。先生はそのお言葉をきいて非常に感激して、帰宅してから左の歌を作った。 思いきやなが智利行はいかにぞと玉のみこえのかかるべしとは 身にあまる大御心の畏さをかくとえいわず下りけるかも あなかしことうとしと思うばかりにてむくいまつらん言の葉ぞなき 最初の歌の中にある「智利行」とは、その年一月チリ公使館からチリ国政府では日本一流の地震学者を招聘して地震観測と震災予防に関する施設をしたいと申し入れがあったことをいったもので、陛下は新聞でご承知になって、これに関するご下問があったのであろう。 チリ行きの話は先方の都合で沙汰止みになった。 先生のおつむりは知る人ぞ知る、令弟明光医博とお名前を交換した方が適当かとさえ思われたが、連合軍総司令部に提出する資格審査調書の「傷痕特徴」の項をこっそりのぞいて見ると“Partially bald”と書きこんであった。「部分的禿頭」というとほんの一部だけが禿げているような印象を与えるが、先生の場合は実はその反対であった。しかも先生はいわく、「禿頭は無毛とは違う。細い毛が生えているんだ。」負け惜しみの強い人であった。 昭和二十一年十二月二十一日、友人の葬式から戻るや否や先生は服も着替えずいきなりラジオのスイッチを入れた。午後三時のニュースは南海道地震の状況を伝え始めた。先生は立ったままニュースにじっと耳をすましていた。ニュースが終わると同時に、「ああ十八年の苦心水の泡となった!」と憮然として長嘆息されたのである。 先生が落胆したのは無理もない。南海道沖から発生する大地震に先立つ数時間あるいは数日前に現れることが期待される前徴を捕らえようと、紀伊、室戸両半島の七カ所に設けてあった私設観測所は、資材欠乏のため観測中止を余儀なくされていた。その隙をねらったかのように大地震が起こったのである。次の機会は百年後でなければ来ない。その場にい合わせた筆者は先生を慰める言葉がなかった。 戦争が苛烈になり食糧事情はますます深刻の度を加えた。しかし先生は闇行為を憎んで断じて闇物資を買うことをしなかった。その代わり二百坪ほどの土地を借りて農耕を始めた。その土地は一面篠笹におおわれた荒地であった。誰一人手助けをするものなく全く独力でこの荒地を開墾することは、七十歳を越した先生にとって非常な重労働であったに相違ない。 研究心の強い先生は農事についても研究を怠らず、後には串竿と称する器具を考案し、それを使って雨天でも南瓜の受精が出来るようになった。 夫人は先生の過労を心配してしばしばとめられたが、先生は頑として聞きいれなかったそうである。たしかにこの労働は先生の体にこたえたに違いない。しかしこの菜園がなかったら、先生の生活は一層悲惨なものであったろうことも事実である。 戦争後の先生の生活は実にお気の毒な状態であった。かつて陸軍教授の職にあったため突然恩給が停止されたのみならず、前年度の恩給までも返納しなければならぬ羽目になった。先生の唯一の収入は少額の学士院の年棒のみになった。これでは先生夫妻が食べてゆかれるはずがない、先生には蓄財がなかったのである。及ばずながら筆者も先生のために奔走もしたが、世間は落ち目になった人には冷たい、にべなく断られてそれを先生に伝える時、先生の落胆した顔を見るのがつらかった。止むをえず、先生は不本意ながら令息等に援助を仰がなければならなかった。貧苦を忍んで長年両親に仕送りを続けた先生が、今や全く逆の立場におかれることになった。 地震予知委員会が成立した時の先生の喜びは大したものであった。非常な期待をもって参加されたが万事意の如くならず、最初の期待が大きかっただけ失望も大きく、ついに筆者に命じて和達委員長に辞表を提出せしめるような結果となった。 地震学会は先生によって創立され、創立後十数年活動を続けて来たが、ある事情によって会長の地位を去らねばならなくなった。そのことが地震学会の総会で決定されるや先生は黙って会場を出た。筆者もそれに続いて退場した。新宿でお別れするまで先生は一言も発しなかった。帰宅しても夫人に向かって「会長をやめたよ」と一言いっただけであったそうである。 文部省震災予防評議会が廃止されたので、先生はその代わりに財団法人震災予防協会を創立して理事長となった。はじめは事業に支障をきたさぬだけの資金を擁していたが、戦後のインフレによる貨幣価値の低落はたちまち協会の経済に大影響を及ぼすことになった。病床にあって先生が悩み続けたのはこの問題であった。 あれほど頑健な、あれほど負けぎらいな先生も、打ちつづく物質的精神的の打撃に疲れはて打ちひしがれてしまったのであろう。十一月下旬からどっと床につくようになった。 ある日筆者がお見舞いに伺うと、「あなたは私の研究も助けてくれた。経済上の心配もしてくれた。私のために防壁の役目もしてくれた。深く感謝します」とていねいに礼を述べた後、著書の未完成の部分を口授するから筆記してくれといわれる。おなおりになってからでもよいではありませんかといったが、五分間でもよいから口授を許してくれといって、「本邦大地震大観」の中の関東地震の部分を筆者に書きとらせた。 寒い冬だったが、病室に暖炉はおろか火鉢さえなかったのである。 十二月三十日に辛うじて床の上に起き上がって人に助けられつつ喜んでソバを食べたのが一生の食べ納めとなった。かくて昭和二十三年元旦の払暁、先生の悪戦苦闘の生涯は終わりを告げた。先生と親交のあった豊竹呂昇の末路と同じく淋しい最期であった。行年七十八歳。 呪うべきは戦争である。かの戦争がなかったら先生はまだ死ぬ人ではなかったと思われる。 昭和十一年に癌の疑いがあってくわしい検査を受けた時、医師は言った。あなたの生理的年齢は五十代であると、その時先生は六十六歳であった。田中館愛橘先生もつねづね俺の長寿の跡継ぎは今村だといっていたそうである。 あの戦争さえなかったならば、先生は恩給で安楽に余生を送ることが出来たであろう。多年の宿願であった南海道地震の前徴も首尾よく捕捉されて地震予知の上に一大貢献をなされたであろう。無理な労働をするにも及ばなかったであろう。また先生の胸を痛めた数々の忌わしい問題も起こらなかったであろう。 先生の死期を早めたものは疑いもなく戦争である。しかも戦争は、皮肉にもかつて陸軍士官学校において先生が親しく薫陶したその軍人たちによってひき起こされたのである。 この小文において筆者は主として「人間今村明恒」について記述して、「地震学者としての今村博士」については余り多く触れることをしなかった。先生の地震学上の業績については、先生の著書論文を見ればわかるし、またその方面の叙述には他に適当な人があると考えたからである。 先生によって発表されたものは、単行本十四冊、論文約六百篇、その他通俗雑誌に寄稿されたものに至っては先生自身も記憶しないほどの多数に上る。精力絶倫とは先生のために作られた言葉のようである。 |
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●東京・埼玉で10年ぶりの“震度5強” 首都直下地震との違いは 2021/10/7
7日遅く、千葉県北西部を震源とする地震があり、東京・足立区や埼玉県川口市などで震度5強の強い揺れを観測しました。東京23区で震度5強の揺れを観測したのは10年前に発生した東日本大震災以来で、気象庁は今後1週間程度は同じような揺れを伴う地震に注意するよう呼びかけています。この地震の特徴は、また想定される首都直下地震とはどう違うのか、詳しくお伝えします。 ●想定される首都直下地震とは違う? 今回の地震と国が想定する「首都直下地震」との関係について気象庁は、「今回の地震は想定されている首都直下地震より深い地震で規模も小さかった」と説明しています。「首都直下地震」は、政府の地震調査委員会が今後30年以内に70%の確率で発生すると推計しているマグニチュード7クラスの大地震です。内閣府の想定によりますと、東京が最大震度7の激しい揺れに襲われるなど関東南部で甚大な被害が発生し、最悪の場合、死者はおよそ2万3000人にのぼると想定されています。 ●気象庁「首都直下地震はもう少し浅くて大きな地震」 気象庁によりますと、今回の地震はマグニチュード5.9と推定され最大震度が5強だったのに対し、首都直下地震はマグニチュード7クラスで最大震度が7と想定され、一回り規模が小さくなっています。今回の地震と首都直下地震との関係について気象庁の束田進也地震津波監視課長は「想定されている首都直下地震はもう少し浅くて大きな地震で、今回はそれより深い地震で規模も少し小さかったというふうに考えている」と述べました。 ●プレート境界付近で起きた地震か 気象庁の地震津波監視課の束田進也課長は、今回の地震のメカニズムについて「岩盤が東西から圧縮されて起きた『逆断層型』と呼ばれる地震で、さらに精査する必要があるが、現時点ではフィリピン海プレートと太平洋プレートの境界付近で起きた地震ではないかと考えている」と述べました。その上で、「今回の地震が本震なのか、より大きな地震の前震なのかなどは、全体の地震活動が終わらないとわからない。ただ、過去の地震の評価から今後1週間程度、特に2〜3日の間は、今回と同じ程度の強い揺れを伴う地震に注意して欲しい」と話しています。 ●なぜ震源と離れた場所で震度5強 今回の地震で、最も大きい震度5強の揺れを観測したのは、震源地の千葉県北西部のある千葉県ではなく、東京・足立区や埼玉県の川口市などでした。これについて気象庁の束田進也地震津波監視課長は、「特別な地震の仕組みで起こったというより地盤が昔の川沿いだったり、周囲に比べて地盤が軟らかい場所のため、震度が大きめに出た」と説明しています。気象庁によりますと、今回の震源となった千葉県北西部では16年前の2005年7月にマグニチュード6.0の地震が発生していますが、この地震でも東京・足立区で最も大きい震度5強の揺れを観測していました。 ●地盤の“よしあし”どう知る? 「地盤緩いと言われていたけど、こんなに揺れるとは…」「地盤しっかりしているから大したことなかった」SNS上でこうした書き込みが相次いだ今回の地震。揺れを左右したのは震源からの位置に加えて地盤、とくに、地表に近い「表層地盤」でした。でも、地盤の“よしあし”は少し離れただけでも異なること、ご存じですか?最新の調査に基づく詳細なデータを確認してみてください。 ●「表層地盤」軟らかい粘土層など堆積 揺れ増幅されやすい 防災科学技術研究所が運用しているウェブサイト「J-SHIS」(地震ハザードステーション)はことし3月関東地方について、より現実に近いデータに更新されました。一般に、地震は地震波が届く距離が近いほど大きく揺れます。ただ、地盤の中でも地面に近い「表層地盤」に軟らかい粘土層などが堆積していると、揺れが増幅されやすいことがわかっています。 ●関東で行われた調査で「揺れやすさ」明らかに これまでは地形に基づく分析でしたが、防災科学技術研究所はより実態に近づけるため、2014年から17年にかけて関東で調査を実施。「微動アレイ」と呼ばれる高性能な地震計を使いました。合計1万4000か所で行われた調査に、ボーリング調査の結果も加味して分析した結果、表層地盤の地質と、地震波の伝わり方、つまり「揺れやすさ」が明らかになりました。詳細なデータを反映させると、これまで見えてこなかった地域の特性が浮かび上がってきました。 ●震度5強を観測した足立区周辺も増幅率が大きい 従来のものと比較すると、利根川や荒川といった川沿いの地域で揺れの増幅率が大きくなっているのがわかります。今回震度5強を観測した足立区周辺も増幅率が大きいことが確認できます。一方、川沿いであってもそこまで揺れやすくなかったり、一般的に地盤がかたいとされている台地であっても、揺れが増幅されたりすることもわかったということです。東京の都心、文京区や台東区、荒川区の周辺では地域によって大きな違いが出ています。防災科学技術研究所は、今後ほかの地域でも調査を進めていくことにしています。 ●見方と注意点 注意しなければならいのは、増幅率がそのまますべての建物の揺れにつながるわけではない、ということです。建物には揺れやすい「周期」というものがあります。例えば、一般に低い建物は“がたがた”とした短い周期の揺れで揺れやすく、高い建物はゆっくりとした長い周期の揺れで揺れやすくなります。地震の揺れにはさまざまな成分が含まれていて、地盤の性質によって、増幅される揺れが異なり、軟らかい地盤が厚いと、周期の長いゆっくりとした揺れが増幅されやすくなります。つまり、固いとされる地盤だったとしても、揺れの周期と建物が持つ周期があう=共振が起きれば、建物の揺れは大きくなってしまうのです。建物の特性を把握しておくことも重要です。 ●「長周期地震動」 東京23区と千葉県北西部で階級2を観測 気象庁によりますと、今回の地震で、高層ビルなどがゆっくりと大きく揺れる「長周期地震動」が発生し、東京23区と千葉県北西部で4段階のうち下から2番目の階級「2」を観測しました。これらの地域の高層ビルの高層階などでは、物につかまらないと歩くことが難しく、棚にある食器類や本棚の本が落ちることがあるなど大きな揺れになった可能性があるということです。 ●“盛り土”も被害に影響することも また、表層地盤以外にも被害を左右するものがあります。盛り土によって造成された宅地です。古い年代を中心に盛り土された宅地では、10年前の巨大地震を含め、これまで大地震で相次いで被害が確認されています。大規模なものなど、一定の条件を満たす場合は自治体が調査し、公開されています。盛り土だからといってすべて危険だというわけではありません。また、マップに示されていない盛り土でも被害が起きていますので、限界があることに注意が必要です。自宅や働いている場所、通っている学校の周辺がどうなっているのか、ぜひ一度確認してみてください。 ●気象庁「今後1週間程度 特に2、3日 地震に注意」 今回の震源付近では、8日午前5時すぎにもマグニチュード3.6の地震が発生し、東京・練馬区で震度2の揺れを観測しています。気象庁は、今後1週間程度、特に2、3日は、今回と同程度の強い揺れを伴う地震に注意し、倒れやすい家具を固定するなど対策をとるよう呼びかけています。また、揺れの強かった地域では、落石や崖崩れの危険性が高まっている可能性があるので注意してください。 ●関東大震災と酷似…?相模沖・巨大地震発生の予兆とは 2020/6/30 巨大地震が目前に迫っている、のかもしれないーー。 予兆は、6月4日に神奈川県の三浦半島で起きた異臭騒ぎだ。「ガス漏れのようなにおいがする」など500件を超える通報があったが、いまだ原因は分かっていない。「異臭の原因は海底から噴き出たガスだろう」と話すのは、考古調査士の資格を持ち火山や地震活動に詳しいジャーナリストの有賀訓氏だ。 「南関東の地下一帯には国内埋蔵量の8割を占める広大なガス田が広がっています。地殻活動が活発化することで、ガスが噴き出す。三浦半島に接する相模湾が震源だとされる関東大震災(1923年)の際にも、今回と同じ場所からガスが噴き出したことがわかっているんです」 関東大震災の記録を詳細に記した大正震災志(内務省社会局編)には、地震の直後に測量船で行った相模湾の地盤調査に関する地図がある。そこには、三浦半島突端の城ケ島付近と東部の浦賀で海底からガスが噴出したと書かれていた。 相模湾付近には、東日本を覆う北米プレートと西日本の南方に広がるフィリピン海プレートが接する相模トラフがあり、そのトラフは東西で太平洋プレートとユーラシアプレートに繋がる。4つのプレートが複雑に絡み合う場所のため過去に何度も大地震を引き起こしてきたが、いままたその兆候が高まっていると言う。有賀氏が続ける。 「2013年には三浦半島の城ケ島近くで最大6mの海底隆起が見つかり、その2年後には箱根の大涌谷で観測史上初となる噴火が起きました。伊豆半島沖でたびたび発生する群発地震や、最近増えている千葉や茨城などを震源とする地震も相模トラフ付近。ここを震源とする大地震は70年周期で起きるとされ、前回の地震からすでに97年が経過しています。いつ起きても不思議はありません」 立命館大学・環太平洋文明研究センターで災害リスクマネジメントを研究する高橋学氏も、2011年の東日本大震災以来続いてきた北米プレートと太平洋プレート境界での地震の傾向が変化していると言う。 「ここのところ相模トラフ周辺で起きる地震が目立つようになってきました。5月20日から22日にかけて、あまり地震が起きない東京湾で7度立て続けにマグニチュード(M)3前後の地震が発生し、その後、約2週間ずつ間隔を開けて三浦半島の異臭騒ぎ、千葉県南部を震源とするのM4.2の地震があった。その8日後の6月24日早朝に発生したのが千葉県東方沖での震度5弱の揺れです。地下の異常は、すべて地震につながっていると考えるべきです」 高橋氏は、相模トラフ周辺域で7月中旬にも大きな地震が来るかもしれないと予想する。 「あまり地震が起きない場所でM3前後が連続して起き、その後2ヵ月程度の静穏期を挟んだ後に同じ場所でM3程度の地震が起きたら要警戒です。半日から3日後にM6.5以上の地震が起きることが多い。阪神・淡路、新潟県中越、熊本、鳥取県中部地震などもそうでした。 もし7月20日前後に東京湾でM3程度の揺れがあれば、その直後に相模トラフの周辺で大地震が起きるかもしれません」 これらの警鐘が杞憂に終わることを願う一方で、周期を考えれば、巨大地震がいつ起きてもおかしくない状況にあることは確かだ。震災への備えだけは、忘れてはならないのだ。 ●活発化する地震活動 「大地変動の時代」に入った日本 2020/4/27 日本全国で毎月のように震度3以上の地震が発生しているため、市民に不安が広がっている。地震が多くなったのは9年前の2011年に起きた東日本大震災からだ。気象庁が発表する地震活動のデータを見ても、昨年1年間に発生した「震度1以上」の地震は1564回と、東日本大震災以降に活発化したままだ。今回は私が専門とする地学の観点から、地震活動の原因と将来予測について分かりやすく解説しよう。 最も懸念されるのが首都圏に暮らす約3000万人を襲う「首都直下地震」である。首都圏の地下には「プレート」と呼ばれる厚い岩板が4枚もひしめいている。東日本大震災によってプレートのあちこちにゆがみが生じ、それを解消しようと地震が頻発している。震災前に比べ内陸地震は約3倍に増えており、我が国は言わば「大地変動の時代」に入ってしまったのだ。 現代と同じ地殻変動は1100年ほど前の平安時代にも訪れたことがある。西暦869年に東日本大震災と同じ東北沖の震源域で、貞観(じょうがん)地震という巨大地震が発生し、その後も全国で地震が頻発した。 その9年後の878年にはマグニチュード(M)7・4の内陸直下型地震(相模・武蔵地震)が起きた。これを現代に置き換えると2011年の9年後は2020年になる。もちろん、歴史年表を単純に足し算しただけで、その通り起きるわけではないが、首都直下地震がいつ起きても不思議ではないことは確かである。 国の中央防災会議は今後30年以内に70%という非常に高い確率で起きると予測しているが、その日時を前もって予知するのは不可能だ。ちまたには年月日を特定した地震予知ビジネスがあるが、日本地震学会は「科学的ではない」と明言している。よって、首都直下地震は不意打ちに遭うことを覚悟しなければならず、言わばロシアン・ルーレットの状況にある。 中央防災会議は、首都直下地震が起きる場所を19カ所特定しているが、その代表は「東京湾北部地震」で、M7・3の直下型地震が起きると予想している。なおMは地震の規模を表す単位で、これは1995年に6434人の犠牲者を出した阪神・淡路大震災と同じ大きさである。 東京湾北部地震は東京の下町付近の直下で発生し、東京23区の東部を中心に震度7の極めて激しい揺れをもたらす(図)。ちなみに、東京湾北部地震は江戸時代にも起きたことがある。幕末の1855年に安政江戸地震(M7・0)が発生し、4000人を超える犠牲者を出した。 こうした甚大災害に対しては、事前に予知できなくても「減災」の発想で被害を最小限に抑える準備を行う必要がある。 ●161年前に起きた首都直下地震「安政江戸地震」 2016/11/11 ●161年前の首都直下地震 1855年11月11日(安政2年10月2日)午後10時ごろに、江戸を強い揺れが襲いました。安政江戸地震です。東京湾北部から江東区辺りを震源とするマグニチュード(M)7程度の直下地震と考えられています。今心配されている首都直下地震の一つです。旧暦の10月は神無月で、全国の神様が出雲大社に集まる月に当たります。大鯰を押さえつける要石で有名な鹿島神宮の祭神の武甕槌神(たけみかづちのかみ)が出かけて留守にしたために、大鯰が暴れて地震が起きたとも言われました。江戸では鯰絵が描かれたお札や瓦版が流行しました。 ●激動の時代に起きた安政江戸地震 江戸地震の起きたときは、社会も大地も動乱の時代でした。前年1854年には、7月9日に伊賀上野地震(M7.4)、12月23日に東海地震(M8.4)、翌24日に南海地震(M8.4)、さらに26日に豊予海峡地震(M7.4)が、1855年にも3月18日に飛騨地震(M6.8)、9月13日に陸前地震(M6.7)と続発していました。この時期は、黒船が来航し開国要求が行われた直後で、1854年3月31日に日米和親条約、10月14日に日英和親条約、1855年2月7日に日露和親条約が締結され、我が国は長い鎖国時代を終えたところでした。まさに、激動の時代に首都直下地震が発生したことになります。 ●下町で甚大な被害 地震での死者は、武士・町人合わせ7000人以上とされており、1万人を超えたとも言われています。中央防災会議の「災害教訓の継承に関する専門調査会」がまとめた「1855安政江戸地震報告書」(2004年3月)によると、青山、麻布、四谷、本郷、駒込の辺りの台地部の揺れはゆるく、御曲輪内、小川町、小石川、下谷、浅草、本所、深川の辺りが大きな揺れだったようです。とくに大手町から丸の内の大名小路で大きな被害を出しました。また、30数箇所で火災が発生し、新吉原では廓全体に延焼して1000人以上が死亡したようです。江戸城は堀端の雉子橋の多門櫓のみが大きな被害を受けただけで、日枝神社の被害も無かったようです。現在の紀尾井町に位置していた井伊家上屋敷の外まわりでも破損箇所は少なかったようです。このように武蔵野台地上の被害は軽微なのに対し、かつての大池、平川、ため池、日比谷の入り江だった場所の被害は甚大でした。このことは、大正関東地震(1923年9月1日、M7.9)と共通します。 ●尊王攘夷派から開国派へ 現在の小石川後楽園にあった水戸藩上屋敷では、屋敷が残らず崩れました。これによって、水戸藩の徳川斉昭を支える両田と言われた藤田東湖と戸田忠太夫が圧死してしまい、水戸の尊王攘夷派も力を失っていきました。そして、開国派の井伊直弼へと力が移っていきます。この背景には、井伊直弼と水戸斉昭の屋敷の地盤条件の違いがあると思われます。安政江戸地震の後、日米修好通商条約や将軍の継嗣問題に関して徳川斉昭と井伊直弼の対立が深まっていきます。そして、1858年に井伊直弼が大老に就任し、直後に、安政大獄事件で吉田松陰を処刑します。その後、徳川斉昭は失脚し、斉昭を推した島津斉彬も急死します。ですが、その井伊直弼も1860年に桜田門外の変で水戸脱藩浪士に命を奪われることになります。この間には、1856年には八戸沖地震が発生、9月23日には江戸を大暴風雨が襲いました。この暴風雨に関しては、「近世史略」に死者10万人余りとの記述もあります。さらに、1857年10月12日に芸予地震、1858年4月9日に飛越地震が発生し、コレラも大流行しました。そして、明治へと移っていきます。中学や高校の日本史の時間に災害の歴史も一緒に教えてもらえれば、私たち日本人の歴史観もずいぶん異なるものになり、災害を未然に防ぐことの大切さを実感できるように感じます。中央防災会議によれば、首都直下地震の予想被害は、最悪、死者23千人、全壊・焼失61万棟、経済被害95兆円と予想されています。2020年東京オリンピックやパラリンピックを控え、首都直下地震が懸念される中、大きな歴史の転換期に発生した安政江戸地震のことを思い起こし、首都の地震対策を一層進めていきたいと思います。 |
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● 東京 ● 千葉・埼玉 ● 茨城 ・栃木・群馬 |
●2021
2021年10月07日22時41分頃 千葉県北西部 M5.9 5強 ● 2021年10月06日02時46分頃 岩手県沖 M5.9 5強 2021年09月16日18時42分頃 石川県能登地方 M5.1 5弱 2021年05月01日10時27分頃 宮城県沖 M6.8 5強 2021年03月20日18時09分頃 宮城県沖牡鹿半島の北東20km付近 M6.9 5強 2021年03月15日00時26分頃 和歌山県北部 M4.6 5弱 2021年02月13日23時08分頃 福島県沖 M7.3 6強 |
●2020
2020年12月21日02時23分頃 青森県東方沖 M6.5 5弱 2020年12月21日02時22分頃 --- --- 5弱 (岩手県内陸北部) 2020年12月18日18時09分頃 伊豆大島近海 M5.0 5弱 ● 2020年12月12日16時19分頃 岩手県沖 M5.6 5弱 2020年11月22日19時06分頃 茨城県沖 M5.7 5弱 ● 2020年09月04日09時10分頃 福井県嶺北 M5.0 5弱 2020年06月25日04時47分頃 千葉県東方沖 M6.1 5弱 ● 2020年03月13日02時18分頃 石川県能登地方 M5.5 5強 |
●2019
2019年12月19日15時21分頃 青森県東方沖 M5.5 5弱 2019年12月12日01時09分頃 宗谷地方北部 M4.2 5弱 2019年08月04日19時23分頃 福島県沖 M6.4 5弱 2019年06月18日22時22分頃 山形県沖酒田の南西50km付近 M6.7 6強 2019年05月25日15時20分頃 千葉県南部 M5.1 5弱 ● 2019年05月10日08時48分頃 日向灘 M6.3 5弱 2019年02月21日21時22分頃 胆振地方中東部 M5.8 6弱 2019年01月26日14時16分頃 熊本県熊本地方 M4.3 5弱 2019年01月03日18時10分頃 熊本県熊本地方 M5.1 6弱 |
●2018
2018年10月05日08時58分頃 胆振地方中東部 M5.2 5弱 2018年09月06日03時08分頃 胆振地方中東部 M6.7 7 2018年07月07日20時23分頃 千葉県東方沖 M6.0 5弱 ● 2018年06月18日07時58分頃 大阪府北部 M6.1 6弱 2018年06月17日15時27分頃 群馬県南部 M4.6 5弱 ● 2018年05月25日21時13分頃 長野県北部 M5.2 5強 ● 2018年05月12日10時29分頃 長野県北部 M5.2 5弱 ● 2018年04月14日04時00分頃 根室半島南東沖 M5.4 5弱 2018年04月09日01時32分頃 島根県西部 M6.1 5強 2018年03月01日22時42分頃 西表島付近 M5.6 5弱 |
●2017
2017年10月06日23時56分頃 福島県沖 M5.9 5弱 2017年09月08日22時23分頃 秋田県内陸南部 M5.2 5強 2017年07月11日11時56分頃 鹿児島湾 M5.3 5強 2017年07月02日00時58分頃 熊本県阿蘇地方 M4.5 5弱 2017年07月01日23時45分頃 胆振地方中東部 M5.1 5弱 2017年06月25日07時02分頃 長野県南部 M5.6 5強 ● 2017年06月20日23時27分頃 豊後水道 M5.0 5強 2017年02月28日16時49分頃 福島県沖 M5.7 5弱 |
●2016
2016年12月28日21時38分頃 茨城県北部 M6.3 6弱 ● 2016年11月22日05時59分頃 福島県沖いわきの東北東60km付近 M7.4 5弱 2016年11月22日05時56分頃 --- --- 5弱 (福島県浜通り) 2016年10月21日14時07分頃 鳥取県中部 M6.6 6弱 2016年09月26日14時19分頃 沖縄本島近海 M5.6 5弱 2016年08月31日19時46分頃 熊本県熊本地方 M5.2 5弱 2016年07月27日23時47分頃 茨城県北部 M5.4 5弱 ● 2016年06月16日14時21分頃 内浦湾 M5.3 6弱 2016年06月12日22時08分頃 熊本県熊本地方 M4.3 5弱 2016年05月16日21時23分頃 茨城県南部 M5.5 5弱 ● 2016年04月29日15時09分頃 大分県中部 M4.5 5強 2016年04月19日20時47分頃 熊本県熊本地方 M5.0 5弱 2016年04月19日17時52分頃 熊本県熊本地方 M5.5 5強 2016年04月18日20時41分頃 熊本県阿蘇地方 M5.8 5強 2016年04月16日16時01分頃 熊本県熊本地方 M5.3 5弱 2016年04月16日09時50分頃 --- --- 5弱 (熊本県熊本) 2016年04月16日09時48分頃 熊本県熊本地方 M5.4 6弱 2016年04月16日07時23分頃 熊本県熊本地方 M4.8 5弱 2016年04月16日07時22分頃 --- --- 5弱 (熊本県熊本) 2016年04月16日07時11分頃 大分県中部 M5.3 5弱 2016年04月16日03時55分頃 熊本県阿蘇地方 M5.8 6強 2016年04月16日03時03分頃 熊本県阿蘇地方 M5.8 5強 2016年04月16日01時45分頃 熊本県熊本地方 M6.0 6弱 2016年04月16日01時44分頃 --- --- 6弱 (熊本県熊本) 2016年04月16日01時25分頃 熊本県熊本地方長崎の東90km付近 M7.3 7 2016年04月15日01時53分頃 熊本県熊本地方 M4.8 5弱 2016年04月15日00時03分頃 熊本県熊本地方 M6.4 6強 2016年04月14日22時38分頃 熊本県熊本地方 M5.0 5弱 2016年04月14日22時07分頃 熊本県熊本地方 M5.7 6弱 2016年04月14日22時06分頃 --- --- 6弱 (熊本県熊本) 2016年04月14日21時26分頃 熊本県熊本地方 M6.5 7 2016年01月14日12時25分頃 浦河沖 M6.7 5弱 2016年01月11日15時26分頃 青森県三八上北地方 M4.6 5弱 |
●2015
2015年09月12日05時49分頃 東京湾 M5.2 5弱 ● 2015年07月13日02時52分頃 大分県南部 M5.7 5強 2015年07月10日03時32分頃 岩手県沿岸北部 M5.7 5弱 2015年06月04日04時34分頃 釧路地方中南部 M5.0 5弱 2015年05月30日20時23分頃 小笠原諸島西方沖 M8.5 5強 2015年05月25日14時28分頃 埼玉県北部 M5.5 5弱 ● 2015年05月22日22時28分頃 奄美大島近海 M5.1 5弱 2015年05月13日06時12分頃 宮城県沖 M6.8 5強 2015年02月17日13時46分頃 岩手県沖 M5.7 5強 2015年02月06日10時25分頃 徳島県南部 M5.0 5強 |
●2014
2014年11月22日22時37分頃 長野県北部 M4.3 5弱 ● 2014年11月22日22時08分頃 長野県北部 M6.7 6弱 ● 2014年09月16日12時28分頃 茨城県南部 M5.6 5弱 ● 2014年09月03日16時24分頃 栃木県北部 M5.1 5弱 ● 2014年08月10日12時43分頃 --- --- 5弱 (青森県三八上北) 2014年08月10日12時43分頃 青森県東方沖 M6.1 5弱 2014年07月08日18時05分頃 石狩地方南部 M5.6 5弱 2014年07月05日07時42分頃 岩手県沖 M5.9 5弱 2014年05月05日05時18分頃 伊豆大島近海 M6.0 5弱 ● 2014年03月14日02時06分頃 伊予灘 M6.2 5強 |
●2013
2013年12月31日10時03分頃 茨城県北部 M5.4 5弱 ● 2013年11月10日07時37分頃 茨城県南部 M5.5 5弱 ● 2013年09月20日02時25分頃 福島県浜通り M5.9 5強 2013年08月04日12時28分頃 宮城県沖 M6.0 5強 2013年05月18日14時47分頃 福島県沖 M6.0 5強 2013年04月17日21時03分頃 宮城県沖 M5.8 5弱 2013年04月17日17時57分頃 三宅島近海 M6.2 5強 2013年04月13日05時33分頃 淡路島付近 M6.3 6弱 2013年02月25日16時23分頃 栃木県北部 M6.2 5強 ● 2013年02月02日23時17分頃 十勝地方中部 M6.5 5強 2013年01月31日23時53分頃 茨城県北部 M4.7 5弱 ● 2013年01月28日03時41分頃 茨城県北部 M4.9 5弱 ● |
●2012
2012年12月07日17時18分頃 三陸沖牡鹿半島の東240km付近 M7.3 5弱 2012年10月25日19時32分頃 宮城県沖 M5.6 5弱 2012年08月30日04時05分頃 宮城県沖 M5.6 5強 2012年08月25日23時16分頃 十勝地方南部 M6.1 5弱 2012年08月12日18時56分頃 福島県中通り M4.2 5弱 2012年07月10日12時48分頃 長野県北部 M5.2 5弱 ● 2012年05月24日00時02分頃 青森県東方沖 M6.0 5強 2012年04月29日19時28分頃 千葉県北東部 M5.8 5弱 ● 2012年04月01日23時04分頃 福島県沖 M5.9 5弱 2012年03月27日20時00分頃 岩手県沖 M6.4 5弱 2012年03月14日21時05分頃 千葉県東方沖 M6.1 5強 ● 2012年03月10日02時25分頃 茨城県北部 M5.5 5弱 ● 2012年03月01日07時32分頃 茨城県沖 M5.4 5弱 ● 2012年02月19日14時54分頃 茨城県北部 M5.1 5弱 ● 2012年02月08日21時01分頃 佐渡付近 M5.7 5強 2012年01月28日07時43分頃 山梨県東部・富士五湖 M5.5 5弱 ● 2012年01月23日20時45分頃 福島県沖 M5.1 5弱 |
●2011
2011年11月24日19時25分頃 浦河沖 M6.1 5弱 2011年11月21日19時16分頃 広島県北部 M5.4 5弱 2011年11月20日10時23分頃 茨城県北部 M5.5 5強 ● 2011年10月05日23時33分頃 熊本県熊本地方 M4.4 5強 2011年09月29日19時05分頃 福島県沖 M5.6 5強 2011年09月21日22時30分頃 茨城県北部 M5.3 5弱 ● 2011年09月07日22時29分頃 浦河沖 M5.1 5強 2011年08月19日14時36分頃 福島県沖 M6.8 5弱 2011年08月12日03時22分頃 福島県沖 M6.0 5弱 2011年08月01日23時58分頃 駿河湾 M6.1 5弱 ● 2011年07月31日03時54分頃 福島県沖 M6.4 5強 2011年07月25日03時51分頃 福島県沖 M6.2 5弱 2011年07月23日13時34分頃 宮城県沖 M6.5 5強 2011年07月15日21時01分頃 茨城県南部 M5.5 5弱 ● 2011年07月05日19時18分頃 和歌山県北部 M5.4 5強 2011年06月30日08時16分頃 長野県中部 M5.5 5強 ● 2011年06月23日06時51分頃 岩手県沖 M6.7 5弱 2011年06月04日01時00分頃 福島県沖 M5.6 5弱 2011年06月02日11時33分頃 新潟県中越地方 M4.7 5強 2011年05月25日05時36分頃 福島県浜通り M5.1 5弱 2011年05月06日02時04分頃 福島県浜通り M5.3 5弱 2011年04月23日00時25分頃 福島県沖 M5.6 5弱 2011年04月21日22時37分頃 千葉県東方沖 M6.0 5弱 ● 2011年04月19日04時14分頃 秋田県内陸南部 M4.8 5弱 2011年04月17日00時56分頃 新潟県中越地方 M4.8 5弱 2011年04月16日11時19分頃 栃木県南部 M5.9 5強 ● 2011年04月13日10時08分頃 福島県浜通り M5.8 5弱 2011年04月12日14時07分頃 福島県浜通り M6.3 6弱 2011年04月12日08時08分頃 千葉県東方沖 M6.3 5弱 ● 2011年04月12日07時26分頃 長野県北部 M5.5 5弱 ● 2011年04月11日20時42分頃 茨城県北部 M5.9 5弱 ● 2011年04月11日17時26分頃 福島県浜通り M5.6 5弱 2011年04月11日17時17分頃 福島県浜通り M6.0 5弱 2011年04月11日17時16分頃 福島県浜通り M7.1 6弱 2011年04月09日18時42分頃 宮城県沖 M5.4 5弱 2011年04月07日23時32分頃 宮城県沖 M7.4 6強 2011年04月02日16時56分頃 茨城県南部 M5.0 5弱 ● 2011年04月01日19時49分頃 秋田県内陸北部 M5.1 5強 2011年03月31日16時15分頃 宮城県沖 M6.0 5弱 2011年03月28日07時24分頃 宮城県沖 M6.5 5弱 2011年03月24日17時21分頃 岩手県沖 M6.1 5弱 2011年03月24日08時56分頃 茨城県南部 M4.9 5弱 ● 2011年03月23日18時55分頃 福島県浜通り M4.7 5強 2011年03月23日07時36分頃 福島県浜通り M5.8 5強 2011年03月23日07時12分頃 福島県浜通り M6.0 5強 2011年03月19日18時56分頃 茨城県北部 M6.1 5強 ● 2011年03月16日12時52分頃 千葉県東方沖 M6.0 5弱 ● 2011年03月15日22時31分頃 静岡県東部 M6.0 6強 ● 2011年03月14日10時02分頃 茨城県沖 M6.2 5弱 ● 2011年03月13日08時25分頃 宮城県沖 M6.2 5弱 2011年03月12日23時35分頃 新潟県中越地方 M4.4 5弱 2011年03月12日22時15分頃 福島県沖 M6.0 5弱 2011年03月12日05時42分頃 新潟県中越地方 M5.3 6弱 2011年03月12日04時32分頃 新潟県中越地方 M5.8 6弱 2011年03月12日03時59分頃 新潟県中越地方 M6.6 6強 2011年03月11日20時37分頃 岩手県沖 M6.4 5弱 2011年03月11日17時41分頃 福島県沖 M5.8 5強 2011年03月11日16時29分頃 三陸沖 M6.6 5強 2011年03月11日15時15分頃 茨城県沖 M7.4 6弱 ● 2011年03月11日15時06分頃 三陸沖 M7.0 5弱 2011年03月11日14時46分頃 三陸沖 M7.9 7 ――東日本大震災―― 2011年03月09日11時45分頃 三陸沖 M7.2 5弱 |
●2010
2010年10月03日09時26分頃 新潟県上越地方 M4.7 5弱 2010年07月23日06時06分頃 千葉県北東部 M5.3 5弱 ● 2010年06月13日12時33分頃 福島県沖 M6.2 5弱 2010年03月14日17時08分頃 福島県沖 M6.6 5弱 2010年02月27日05時31分頃 沖縄本島近海 M6.9 5弱 2009年12月18日08時45分頃 伊豆半島東方沖 M5.3 5弱 ● 2009年12月17日23時45分頃 伊豆半島東方沖 M5.3 5弱 ● 2009年08月13日07時49分頃 八丈島東方沖 M6.5 5弱 2009年08月11日05時07分頃 駿河湾 M6.6 6弱 ● 2008年09月11日09時21分頃 十勝沖 M7.0 5弱 |
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