蜜柑

蜜柑 ミカン 
金柑 キンカン
椪柑 ポンカン
橙   ダイダイ
柚子 ユズ
柑子 コウジ


季節変わりの楽しみ 味わい

 


蜜柑金柑椪柑柚子柑子柑子と徒然草と今昔物語柑子緒話1柑子緒話2柑子緒話3・・・温州鏡もちミカンの品種温州蜜柑・・・
 
 
 

 

●みかん (蜜柑)
ミカン科の常緑小高木。高さ約三メートル。茎にはとげがない。葉は長卵形または披針形で翼をもつ柄がある。初夏、白い五弁花が咲く。果実は扁球形で黄色に熟し、芳香を放ち甘酸っぱい味がして生食される。古くから栽培されウンシュウミカン・キシュウミカンなど種類が多い。みっかん。《季・冬》
みかんの花《季・夏》〔撮壌集(1454)〕[語誌]この類では、古く「柑子」が伝来し、「かうじ」という字音語で呼ばれ、中古・中世、「今昔物語」や「徒然草」に見られるように、おいしい果物として大切にされた。後に「蜜」のように甘い果汁の新品種が伝えられ「蜜柑」と呼ばれた。当時はミッカンと音読することが多かったが、次第にミカンの形の方が一般化する。近世にはその種類も多くなり、広く栽培もされて、ミカン類の総称となった。
みっかん=みかん(蜜柑)。看聞御記‐応永二七年(1420)一一月九日「当年蜜柑難レ得也」。浮世草子・好色一代男(1682)六「密柑(ミッカン)ひとつ、我口添し跡ながら手から手に渡して」。
ミカン科ミカン属の常緑小高木。また、その実。暖地に産し、葉は長楕円形。初夏、白色の小さな5弁花をつけ、黄橙色の実を結ぶ。果樹として広く栽培され、ウンシュウミカン・キシュウミカンなど多くの品種がある。たちばな。こみかん。《季 冬 花=夏》「―の香染みたる指を洗はずに/誓子」。ミカン科の双子葉植物の総称。約900種が温帯から亜熱帯に分布し、主に木本で、樹皮や葉に油腺をもつ。ミカン・キンカン・カラタチなどの属を含むミカン亜科とサンショウ亜科とに分けられる。
(ミカン・ミツカン) 植物。ミカン科の常緑有刺低木またはその果実の総称。

●ミカン科
双子葉植物の科で約150属、900種からなる。木(一部草本)の状態で存在し、温帯から熱帯に分布する。精油を含み芳香(異臭の場合もある)を有する。花に芳香のあるものも多い。かつての日本ではヘンルーダ科と呼ばれていた。牧野 (1940) はマツカゼソウから取ってマツカゼサウ科としている。
ミカン科の柑橘類(ミカン属、キンカン属、カラタチ属などのグループ)は果樹として非常に重要であるとされ、サンショウ、コブミカン、オオバゲッキツなどは、香辛料として用いられる。キハダ、ゴシュユ、ヘンルーダなど薬用に用いられたものや、ミヤマシキミなど有毒植物もある。観賞用に栽培されるものとしてボロニア (品種)、ゲッキツなどがある。また、アゲハチョウ科のチョウの食草としても知られる。

●みかんの昔の呼び方は『ミッカン』だった
12月3日は『みかんの日』です。実はそれ以前にも『みかんの日』がありまして、11月3日です。これは『11』を“いい”、『3日』を“みっか(3日)ん”と読む語呂合わせで、『いい(11)みっか(3日)ん』=『良いみかん』で『みかんの日』です。同じように12月3日も語呂合わせで『良いみかん』=『みかんの日』としたそうです。
3日のことを“みっかん”と読んだのには理由がありまして、元々、古くからミカンは“みっかん”と呼ばれていたそうです。日本語をポーランド語に訳した、17世紀の辞書にもミカンは『miccan(ミッカン)』と表記してあったそうです。このように本来は『ミッカン』と呼ばれていたものが、小さい『ッ』が省略されて、『ミカン』となったそうです。
ミカンは漢字で『蜜柑』と書きます。この漢字の由来ですが、室町時代に中国からミカンが伝わって来たとき、それまであった柑橘類とは違って甘かったそうです。そこで“蜜のように甘い木”という意味で、『蜜柑』という漢字が誕生したと考えられています。
そんなミカンですが、ミカン科の柑橘類の総称で、一般的には『温州(うんしゅう)みかん』を指す言葉として用いられています。『温州』とは中国の地名で、柑橘類の名産地として知られています。そんな温州の柑橘類のように、素晴らしいミカン…ということで『温州みかん』の名前が付いたといわれています。

●みかんの話
みかんのルーツ
みかん(柑橘類)の世界の原生地は、インド東部のヒマラヤ山麓からアッサムにかけての地域と、中国の四川省以東の揚子江流域以南と浙江省から広東省に至る沿岸地域が原生地とされています。前者のインド東部を中心とする地域ではインド野生みかん、シトロン、ライム、レモン、ブンタン、ダイダイ、オレンジ、ポンカン等の原生種が見られます。後者の中国地域では、ユズ、みかん類、きんかん、カラタチなどの原生種が確認されています。この二つの地域即ち、インド東部と中国地域が世界のカンキツの原生種を網羅しているのでカンキツの原生地とされています。
柑橘類の原生地はインド、ビルマ、インドシナ半島、中国、日本まで広域にわたるが、中国では紀元前1000年前後、周の国の「詩経」に「柚(ユズ)」の記述があり、また紀元前1世紀の「史記」の中に「棗(ナツメ)」が産業として栽培されていたとある。
日本古来の原生果樹は「橘」と沖縄に原生する「シイクワシヤー」であると確認されている。このことは、西暦297年、中国晋の人、陳寿が書いた「魏志倭人伝」に日本では「はじかみ(ショウガ)、橘、胡麻、茗荷が自生しているのにその滋味を知らず」つまり、食に用いることを知らないと記されている。
温州みかんの由来
「温州みかん」は鹿児島県出水郡長島(現東町)が原産地である。中国浙江省や黄岩県から伝来していた「早桔」か「慢桔」または「天台山桔」類のミカンが長島で『偶発実生』したもので、時期は《江戸初期》のころ発現したものであろう。(田中長三郎博士の研究による)
最近になって、農林水産省果樹試験場カンキツ部でのDNA鑑定では、インドシナ原産で、室町時代に、南中国から  沖縄を経てわが国に伝来し、紀州みかんや柑子とともに江戸時代までの日本の主流品種であった「クネンボ(九年母)」に遺伝子が似ているという研究がある。
温州みかんの名前の由来
「温州みかん」の名は文献では、天保年間(1830年から1843年)にかけて完成した「紀伊続風土記」巻之九十五物産第三の項に「温州橘」が有田で栽培されていたことの記述がある。これは「温州蜜柑」のことであろう。名付けた当時の人たちは、自分たちのミカンの多くは、中国浙江省の温州地方から入ってきている。ミカンの産地で名高い「温州」の名前が冠せられたのではなかろうか。だから紛らわしいが、温州みかんは必ずしも「原産地」を意味するものではないと言える。
温州みかんの拡がり
温州みかんは、「種無し」のため不吉として珍重されなかったので、商業的栽培にはいたらなかった。しかし、発祥地鹿児島県での温州みかんの本格的栽培が明治28年から、また他県でも同時期ぐらいから栽培が本格的に始まったのである。
宇和島市吉田町とみかんの歴史
愛媛県の中でも、“みかんと言えば吉田町”のイメージが定着していますが、なぜ宇和島市吉田町が「みか  んの町」として発展したのでしょう。吉田町でみかん栽培のはじまりを探りました。
「愛媛みかん発祥の地」として吉田町のみかん栽培には200年以上の歴史があります。1793年に加賀山平次郎氏が、土佐から温州みかんの苗木を持ち帰り、庭に植えたことがはじまりであると記されています。(書籍『立間村柑橘/立間村農会/1913年発行』による)
みかん栽培が盛んになったのは明治時代。吉田町は、年間を通して温暖で、収穫の秋に雨が少なく安定した気候。山並みが複雑に入りくみ、そのまま海に落ち込む急傾斜地帯であるため、水はけが良く日当たりが良い。土地が海底から隆起してできたためにミネラル成分が多い。この3つの自然条件がうまく重なり、美味しいみかんを作ることができたのです。
以降、吉田町のみかん栽培は、美味しいみかんを育てる自然環境のもと、運送手段の進歩と熱心な生産者の増加により、1915年(大正4年)には収穫量が愛媛県全体で、全国の半分近くを占めるまでになりました。
 
 
 

 

●キンカン (金柑)
ミカン科キンカン属の常緑低木の総称である。別名キンキツ(金橘)ともいう。果実は小粒で甘酸っぱく、ほろ苦い後味が残るので知られる。
中国の長江中流域原産。日本へは中国から伝わり、暖地で栽培されている常緑低木。
名の由来は、黄金色のミカン(蜜柑)の意味から金橘、金柑の中国名が生まれて、日本ではそれを音読みしてキンカンとなった。俳句では秋の季語になっている。 英語などの「Kumquat」もしくは「Cumquat」は「金橘」の広東語読み「gam1gwat1 (カムクヮト)」に由来する。
カール・ツンベルクによりミカン属に分類され、1784年刊行の『日本植物誌』においてCitrus japonicaの学名を与えられていたが、1915年にウォルター・テニスン・スウィングルにより新属として分割され、ヨーロッパに紹介したロバート・フォーチュンへの献名として新たな学名(Fortunella)を与えられた。 しかし近年の系統発生解析は、キンカンがミカン属の系統に含まれることを示唆している。
日本の標準和名キンカンとよばれる種は、別名でマルミキンカン、マルキンカンともよばれている。同属には、ナガキンカン(ナガミキンカン)、ネイハキンカン(ニンポウキンカン、メイワキンカン)、マメキンカン、チョウジュキンカン(フクシュウキンカン)、近縁のなかまにトウキンカン(別名:カラマンシー)などがある。一般に栽培されている種がナガキンカンと呼ばれるもので、果実が丸いものをマルキンカンという。マルキンカンは樹高が約2メートルで枝に棘があるものとないものがあり、ナガキンカンは樹高約3メートルで枝に棘がない。
日本における2010年の収穫量は3,732 トンであり、その内訳は宮崎県2,604 トン、鹿児島県873 トン、その他255 トンとなっている。
利用​
果実は食用に、また薬用に用いられ、10 - 11月ころによく熟した果実が収穫される。
食用​
果実は果皮ごとあるいは果皮だけ生食する。皮の中果皮、つまり柑橘類の皮の白い綿状の部分に相当する部分に苦味と共に甘味がある。果肉は酸味が強い。果皮のついたまま甘く煮て、砂糖漬け、蜂蜜漬け、甘露煮にする。甘く煮てから、砂糖に漬け、ドライフルーツにすることもある。
キンカンの砂糖漬けは、果皮に刃物で切れ目を入れて、軽く茹でてから竹串などで種子を除いて、果実量60 - 70%ほどの砂糖と水をかぶるほどの鍋に入れてから落し蓋をして、中火からとろ火で汁がなくなるまで煮詰めたあと、陰干しにする。
薬用​
マルキンカン、ナガキンカンともに薬用とされる。
果実は民間薬として咳や、のどの痛みに効果があるとされ、金橘(きんきつ)と称することがある。果実にはいずれの種にも、有機酸、糖分約8%、灰分約0.5%を含み、果皮中には少量のヘスペリジン(ビタミンP)、精油などを含んでいる。有機酸には制菌作用、ヘスペリジンは毛細血管の血液透過性を増大させたり、抗菌や利尿などにも役立つとされている。また、精油は延髄中枢を刺激して、血液循環を良くして、発汗作用の働きがある。
民間療法では、風邪や咳止めにキンカンの砂糖漬けを2 - 3個カップに入れて熱湯を注いで飲む方法や、生の果汁をおろしショウガ、ハチミツと一緒にカップに入れて熱湯を注いで混ぜて飲むなどの方法が知られている。疲労回復や保健に、10月ころに変色し始めた果実を焼酎1リットルあたり300グラムの割合でビンに入れて漬け込み、冷暗所に3か月保存したものを毎日盃1杯ほど飲むとよいといわれている。ただし、手足がいつも火照るような人への連用は避けるべきとされる。
観賞用​
観賞用として庭木として植えられることも多い。剪定に強いので生垣や鉢植え、盆栽にもできる。広東省や香港では、旧正月を迎える際に柑橘類の鉢植えを飾ることが多く、キンカンも好まれる。
種​
キンカン属には4から6種が属する。カンキツの分類学者ウォルター・テニスン・スウィングルが4種、田中長三郎が6種と設定しており、前者はニンポウ・フクシュウキンカンを雑種として種から外している。
マルミキンカン(中国語版)(丸実金柑)・マルキンカン(丸金柑)・ヒメタチバナ(姫橘) Fortunella japonica
ナガミキンカン(ドイツ語版)(長実金柑) Fortunella margarita
フクシュウキンカン(中国語版)(福州金柑)・オオミキンカン(大実金柑)・チョウジュキンカン(長寿金柑) Fortunella obovata
ネイハキンカン・ニンポウキンカン(寧波金柑)・メイワキンカン(明和金柑) Fortunella crassifolia
ホンコンキンカン(ドイツ語版)(香港金柑)・マメキンカン(豆金柑)・キンズ(金豆) Fortunella hindsii - 観賞用
ナガハキンカン(長葉金柑) Fortunella polyandra
主な品種​
ぷちまる - 種無し金柑(正確には数粒のしいな種子が入ることがある) ナガミキンカン×四倍体ニンポウキンカンの交配から生まれた三倍体種間雑種。
スウィートシュガー - 極甘品種の金柑
交雑種
ライムクアット(英語版) - マルミキンカンとメキシカンライムの交雑種
サンクアット(英語版) - マイヤーレモンとの交雑種
オレンジクアット(英語版) - ウンシュウミカンとネイハキンカンの交雑種
シトレンジクアット(英語版) - ナガミキンカンとシトレンジ(英語版)(オレンジとカラタチの交雑種)の交雑種
マルミキンカン​
樹高は2mほどになる。枝は分岐が多く、若い枝には短い刺があることがある。
葉は互生する。長さは5-7cm、長楕円形で厚みがあり周囲には浅い鋸状歯がある。葉が上側に反っていることが多い。葉柄には小さな翼があるがないものもある。
夏から秋にかけて3-4回、2-3cmほどの白い五弁の花をつける。雌しべは1本、雄しべは20本。花の後には直径2cmほどの緑色の実をつける(初夏につけた花は実がならないことが多い)。晩秋から冬にかけて実は黄色く熟する。
ニンポウキンカン​
歴史​
日本への渡来は江戸時代の文政9年(1826年)のこと。現在の中国浙江省寧波(ニンポウ、当時・清)の商船が遠州灘沖で遭難し清水港に寄港した。その際に船員が礼として清水の人に砂糖漬けのキンカンの実を贈った。その中に入っていた種を植えたところ、やがて実がなり、その実からとった種が日本全国へ広まった。
主なブランド​
たまたま - 宮崎県産。JAブランド。開花結実から約210日以上を経過し、糖度が16度、直径2.8 センチメートル以上のニンポウキンカンにつけられる。
たまたまエクセレント - 宮崎県産。JAブランド。上記の「たまたま」の中でもさらに糖度18度、直径3.3 センチメートル以上のニンポウキンカンにつけられる。
春姫 - 鹿児島県南西部産。JAブランド。開花結実から約210日以上を経過し、糖度が16度、直径2.8 センチメートル以上のニンポウキンカンにつけられる。 
 
 
 

 

●ポンカン (椪柑、凸柑)
ミカン科ミカン属の柑橘類の一種。田中長三郎は独立種としたが、ウォルター・テニソン・スウィングルはマンダリンオレンジに含め、変種とした。
和名の中の「ポン」、および、変種名もしくは種小名 poonensis は、インドの地名プーナ (Poona) に由来する。当てられた漢字「椪」は単独では、タブノキ属 Machilus の1種 Machilus nanmu、もしくは国訓でクヌギを意味するが、音による当て字である。
中国語では「蘆柑」(ルーガン、拼音: lúgān)と称するが、中国の主産地である福建省、広東省や台湾で用いられている閩南語や潮州語では漢字で「椪柑」と書き、「ポンカム」と発音するため、日本語は閩南語の音に拠っているという説もある。
果重(1個の重さ)は120–150 gで、完熟すれば橙色となり独特の芳香を有する。外皮はむきやすく、果肉を包む内皮は柔らかいので袋のまま食べられる。果梗部にデコが現われやすい。12–2月にかけて収穫される。
 
 
 

 

●ダイダイ (橙、臭橙、回青橙)
ミカン科ミカン属の常緑樹、およびその果実。柑橘類に属する。正月の飾りや鏡餅に乗せるのでよく知られる。
名称​
和名ダイダイは、一つの株に数年代の果実がついていて見られる特徴から、「代々栄える」の意味で「ダイダイ」と呼ばれるようになったとされる。また、「回青橙」とも呼ばれる。
特徴​
インド、ヒマラヤが原産。日本へは中国から渡来した。また、ヨーロッパへも伝わり、ビターオレンジとして栽培されている。
日本では静岡県の伊豆半島や和歌山県の田辺市が主産地。その多くは正月飾り用であったが、近年は消費が落ち込んでいたため、ポン酢などに加工されるようになった。
高さ4 - 5メートル (m) になる常緑小高木で、枝には刺がある。花期は初夏(5 - 6月)。枝の先に1輪から数輪の5弁ある白い花が咲き、冬に果実が黄熟する。果実の色は橙色と呼ばれる。葉柄は翼状になっており、葉身との境にくびれがある。果実は直径7 - 8センチメートル (cm) になり、冬を過ぎても木から落ちず、そのまま木に置くと2 - 3年は枝についている。冬期は橙黄色となるが、収穫せずに残しておくと翌年の夏にはまた緑色に色づき、再び冬が来るとその実は橙黄色になる。
利用​
11 - 12月ころに熟した果実を採集して利用する。果汁は酢として料理に利用したり、薬用にもする。また、果実は鏡餅、お供え物に使用する。
果実には、リモネンを主成分とする精油、糖分、クエン酸、リンゴ酸、ヘスペリジン、ナリンギンなどのフラボノン、ビタミンA・B群・Cなどを含んでいる。果皮には、リモネン、シトラルなどを成分とする精油や、配糖体、カロチン、キサントフィル、ペクチン、脂肪油、フラボノイド、ビタミンA・B群・Cなどを含んでいる。ダイダイの精油には、ヒトの胃液の分泌を高める健胃作用があり、皮膚につけば血行促進作用がある。精油以外の成分は滋養保健効果があるといわれている。
食料​
酸味と苦味が強いため、直接食するのには適さない。マーマレードおよび調味料として利用される。果汁は酸味が強く風味がいいことからポン酢の材料としても好まれる。
飲料​
北欧では、クリスマスのときに飲む温めたワインの「グロッグ」にダイダイを用いる。スウェーデンのレシピの特徴は使うスパイスの種類にあり、起源は風味の落ちたワインを調味するためである。またあらかじめ干しぶどうを湯で戻し、アーモンドとともに小さなグラスに入れて準備しておいて、供する時にそこにホットワインを注ぐ点はスウェーデンならではという。グラスがとても小さい背景に家々を回ってふるまってもらう、この国の伝統的なグロッグ・パーティーの習わしがある。
薬用​
漢方では、果実を縦に4つ切りして、果実の皮を採集して乾燥させたものを橙皮(とうひ)といい、日本薬局方にも収載され、去痰薬・健胃薬として用いられたり、橙皮チンキ、橙皮シロップ、苦味チンキなどの製薬原料にされている。また、未熟果実を乾燥させたものを枳実(きじつ)といい、芳香性苦味健胃、去痰、排膿、緩下薬として用いられる。
民間療法で、食欲不振、消化不良、胃もたれに、橙皮を細かく刻んですり潰し、粉末状にしたものを1回量1 - 2グラムとして毎食後に服用する。ひび、あかぎれなどには、生の果汁を塗るとよく、あらかじめ肌にすり込んでおけば予防に役立つと言われている。
ダイダイの皮と果実はシネフリンという化合物を含む。これは生薬の麻黄(エフェドラ)に含まれる成分(エフェドリン)と類似の構造をもつ。交感神経・副交感神経混合型興奮作用を有していることから、この成分を加工したものが「シトラス」という名称でアメリカでダイエット用の健康食品として使用されているが、エフェドラと同様の作用を示すことから、副作用報告も出ている。なお、「体脂肪を燃焼する」、「運動機能を向上させる」などの、ヒトでの有効性については、信頼できるデータが十分ではない。
精油​
精油を採取した部分で呼び名が異なる。これらは香料として香水や化粧品、食品等に使用される。アロマテラピーにも用いられる。
果皮から圧搾法また水蒸気蒸留法で採取された精油はオレンジ油、ビターオレンジ油、橙油 と呼ばれる。
枝葉を水蒸気蒸留して採取された精油は プチグレイン(英語版) と呼ばれる。
花を水蒸気蒸留して得た精油はネロリ、ネロリ油、橙花油。水蒸気蒸留の副産物としてオレンジ花水が得られる。温浸法(アンフルラージュ)または溶媒抽出して得た精油はネロリアブソリュート(ネロリAbsとも書く)、オレンジ花アブソリュートと呼ばれる。花から採取する精油は高価である。
台木​
ダイダイは耐寒性が強く、普通に植えた場合は枯れてしまう種類の柑橘類を接ぎ木で育てる時に根側をこれにすることで、寒い地域でも他の柑橘類を育てられるようになる。
文化​
日本では、名前が「代々」に通じることから縁起の良い果物とされ、鏡餅などの正月の飾りに用いられる。 見かけはよく正月の飾りには使えるものの、食べるのに酸味と苦みが強いという特徴から、見掛け倒しの武将を指して「橙武者」と呼ぶことがある(薄田兼相など)。
 
 
 

 

●ユズ (柚子)
ミカン属の常緑小高木。柑橘類の1つ。ホンユズとも呼ばれる。消費量・生産量ともに日本が最大である。
果実が小形で早熟性のハナユ(ハナユズ、一才ユズ、Citrus hanayu)とは別種である。日本では両方をユズと言い、混同している場合が多い。また、獅子柚子(鬼柚子)は果実の形状からユズの仲間として扱われることがあるが、分類上はザボンやブンタンの仲間であり、別種である。
名称​
日本では古くから「柚」、「由」、「柚仔」といった表記や、「いず」、「ゆのす」といった呼び方があった。『和名抄』(932年ころ)には、漢名で「柚」、和名も「由」として表されている。別名を、ユノスともいう。酸っぱいことから、日本で「柚酸(ユズ)」と書かれ、「柚ノ酸」の別名が生まれている。
「柚(ゆ)」は古くはユズを意味したが、近世にはユズに近い大型柑橘類が伝わり、1712年の『和漢三才図会』では柚(ゆ)には二種あり、大きなもののほうは「朱欒(しゅらん)」とも呼ぶとしている。この「朱欒(しゅらん)」はブンタン(ザボン)のことで、1709年の『大和本草』には「朱欒(ザンボ)」とある。また『大和本草』には朱欒(ザンボ)は京師(京都)では「ジャガタラ柚(ゆ)」と呼ばれているとしているが、「ジャガタラ柚(ゆ)」はジャカルタから伝わったブンタンの近縁種で獅子柚子のことともいわれている。
学名のジューノス(junos)は、四国・九州地方で使われた「ゆのす」に由来する。中国植物名(漢名)は香橙(こうとう)という。柚子は中国での古い名だが、今の中国語で柚や柚子はブンタンを指している。
原産地​
ユズ(本ユズ)は、中華人民共和国中央および西域、揚子江上流の原産であると言われる。中国から日本へは平安時代初期には伝わったとみられ、各地に広まって栽培されている。また、日本の歴史書に飛鳥時代・奈良時代に栽培していたという記載がある。
花ユズは日本原産とも言われるが、詳しいことは判っていない。
形態・生態​
常緑広葉樹の小高木で、高さは4メートル (m) ほどになり、樹勢が強く直立して大木になる。葉腋に棘があり、葉柄に翼がある。花期は初夏(5 - 6月ころ)で、葉のわきに白い5弁の花を咲かせる。
秋には球形の果実を結ぶ。果実は比較的大きく、果皮の表面はでこぼこしている。種子の多いものが多い。酸味は強く、独特の爽やかな芳香を放つ。
ミカン属の中でもっとも耐寒性が強く、年平均気温12度から15度の涼しい気候を適地とする。柑橘類に多いそうか病、かいよう病への耐久があるため、ほとんど消毒の必要がなく、他の柑橘類より手が掛からないこと、無農薬栽培が比較的簡単にできることも特徴のひとつである。
成長が遅いことでも知られ、「桃栗3年柿8年、ユズの大馬鹿18年」などと呼ばれることがある。このため、栽培に当たっては、種子から育てる実生栽培では、結実まで10数年掛かってしまうため、結実までの期間を短縮するため、カラタチへの接ぎ木により、数年で収穫可能にすることが多い。
分布・栽培​
海外では、韓国最南部の済州島や全羅南道高興郡など、中華人民共和国の一部地域で栽培されている。
現在の日本で栽培されるユズには主に3系統あり、本ユズとして「木頭系」・早期結実品種として「山根系」・無核(種無し)ユズとして「多田錦」がある。「多田錦」は本ユズと比較して果実がやや小さく、香りが僅かに劣るとされているが、トゲが少なくて種もほとんどなく、果汁が多いので、本ユズよりも多田錦の方が栽培しやすい面がある(長いトゲは強風で果実を傷つけ、商品価値を下げてしまうため)。
なお、収穫時にその実をすべて収穫しないカキノキの「木守柿」の風習と同様に、ユズにも「木守柚」という風習がある地方もある(相模原市沢井地区など)。
日本の主な産地​
農林水産省の統計によると昭和40年代までは埼玉県が主な産地であったが、1970年以降は高知県、徳島県などが主要な産地となっている。特に1990年以後から大幅に収穫量が伸びており、今日では四国地方(高知県、徳島県、愛媛県)の3県で国産ユズの8割近くを占める。また、四国山地を初め、九州山地、中国山地、紀伊山地といった山間部に産地が集中しているが、これは1965年頃から、それまでの主産業であった農耕馬生産、林業、木炭製造、和紙原料栽培の衰退やそれに伴う過疎化に対し、活性化策として産地形成されたものが多いためである。西日本の産地が大規模化する一方で、東日本の産地は相対的に規模縮小しており、関東地方全都県を合わせても300トン程度(鹿児島県の半分未満)に過ぎない。
茨城県 常陸太田市
栃木県 茂木町
埼玉県 毛呂山町、越生町、ときがわ町(旧都幾川村)
東京都 青梅市
山梨県 富士川町(旧増穂町)、上野原市(旧上野原町)
静岡県 川根本町(旧中川根町)
岐阜県 関市(旧上之保村)
京都府 京丹波町(旧瑞穂町)
大阪府 箕面市
兵庫県 神河町(旧神崎町)、姫路市(旧安富町)、養父市(旧八鹿町)など
和歌山県 …国内生産量7-10位。2000年以降から生産量を伸ばしており、2015年は山口県、熊本県を凌ぎ、生産量7位となっている。古座川町平井地区はユズによる地域活性化で注目を浴びた。 紀美野町(旧野上町)、古座川町、有田川町(旧清水町)、田辺市(旧龍神村)など
島根県 …国内生産量7-10位。美都はユズの一大産地。 益田市(旧美都町)、大田市、出雲市など
岡山県 久米南町、井原市(旧芳井町)、美作市(旧作東町)、高梁市(旧成羽町)
広島県  三次市(旧作木村)、安芸高田市(旧高宮町)
山口県 …国内生産量は7-10位。※近年生産量を増やしている長門ゆずきち産地は含まない。 萩市(旧川上村、旧旭村)
徳島県 …国内生産量2位。古くから自生のユズが点在していた。スダチとともに加工品需要が大きく、また木頭ユズが知られる。 那賀町(旧木頭村)、美馬市(旧木屋平村)、上勝町、つるぎ町(旧一宇村)など
愛媛県 …国内生産量3位。県南部の鬼北、宇和に大規模な産地がある。 鬼北町(旧日吉村、旧広野町)、松野町、西予市(城川町)、内子町など
高知県 …国内生産量1位で、生産量1万トン以上。国内シェアの40%〜50%を占め、四国山地一帯に産地が点在する。1960年代から林業や和紙原料製造に代わる山村集落の活性化策として産地が相次いで形成され、県を取り囲むようにユズ産地が展開する。馬路村、北川村などの商業的成功を受け、他自治体も追随するようになり、年々栽培面積を増やしている。 香美市(旧物部村、旧香北町、旧土佐山田町)、安芸市、北川村、馬路村、高知市(旧土佐山村)、大豊町、四万十町(旧大正町)、四万十市(旧西土佐村)、三原村など
福岡県 八女市(旧矢部村)、上毛町(旧新吉富村)、東峰村(旧宝珠山村)
熊本県 …国内生産量は7-10位。 山都町(旧矢部町)、熊本市、八代市(旧泉村)など
大分県 …国内生産量4-5位。院内や津江の産地が知られる。県内消費が多いため、出荷量は相対的に少ない。 宇佐市(旧院内町)、日田市(旧中津江村、旧上津江村)、杵築市(旧山香町)など
宮崎県 …国内生産量4-5位。九州山地の山間部はユズの一大産地となっている。 西都市、小林市(旧須木村)、日之影町、西米良村など
鹿児島県 …国内生産量は生産量6位。大隅半島の山間部が主産地となっている。 曽於市(旧末吉町)、大崎町、伊佐市(旧大口市)など
人間との関わり​
食材​
ユズの果汁や皮は、日本料理等において、香味・酸味を加えるために使われる。また、果肉部分だけでなく皮も七味唐辛子に加えられるなど、香辛料・薬味として使用される。いずれも、青い状態・熟れた状態の両方とも用いられる。九州地方では、柚子胡椒と呼ばれる調味料としても使用される。これは柚子の皮に、皮が青い時は青唐辛子、黄色く熟している時は赤唐辛子と塩を混ぜて作るもので、緑色または赤色をしている。幽庵焼きにも用いられる。
熟したユズでも酸味が非常に強いため、普通は直接食用とすることはない。薬味としてではなくユズ自体を味わう調理例としては、保存食としてのゆべしの他、韓国の柚子茶のように果皮ごと薄く輪切りにして砂糖や蜂蜜に漬け込む方法などがある。ユズの果汁を砂糖と無発泡水で割ったレモネードのような飲み物もある。果汁はチューハイ等にも用いられ、ユズから作られたワインもある。
柚子の果実のうち果肉の部分をくりぬいて器状にしたものは「柚子釜」と呼ばれ、料理の盛りつけなどに用いられる。近年ではスペインの著名なレストランであったエル・ブジが柚子を大々的に喧伝したのが発端となり、フランス料理を始めとした西洋料理にも柚子の使用が広まりつつある。
ユズ果汁にはクエン酸、酒石酸、シトラール約9%が含まれている。果実は、口内やのどの渇きを癒やす清涼止渇作用があり、果汁液にコレラ菌や腸チフス菌に対する制菌作用が報告されている。果皮にはビタミンCが豊富に含まれ、ウンシュウミカンとの比較で約4倍量(約150 mg)ある。
精油​
独特の爽やかな香りのため、様々な香水に使用されている。日本の植物から精油を精製する日本国内メーカーが増えており、果皮を圧搾することにより精油を採油している。その他、多彩な方法で利用されている。果汁搾汁後の残滓に含まれる精油が残滓を堆肥にする時の生物活性を低下させる要因になっていることから、精油を商品価値のある状態で取り除く方法として、超音波減圧水蒸気蒸留法が開発されている。
柚子湯​
収穫時期の冬場に、果実全体または果皮を布袋にいれて、浴湯料として湯船に浮かべる。薬効の成分は特定されていないが、血行を促進させることにより体温を上昇させ、風邪を引きにくくさせる効果があるとされている。肩こり、腰痛、神経痛、痛風、冷え症などに良いとされる。
京都市右京区嵯峨水尾では、柚子の栽培農家9軒が、柚子風呂付きで鶏料理を提供している。
薬用​
果実は橙子(とうし)、果皮は橙子皮(とうしひ)と称して薬用にする。悪心、嘔吐、二日酔い、魚やカニの食中毒に薬効があるとされ、果実を11 - 12月に採集して冷暗所に保存するか、輪切りに切って天日乾燥して用いる。
民間療法として、乾燥果実1日量2 - 3グラムを400 ccの水で煎じて3回に分けて服用する用法が知られる。また、風邪の初期に、就寝前に生の果皮を削ったものを小さじ半分量か、果実1個分の果汁を搾り、砂糖か蜂蜜を適宜加えて熱湯を注いだ「ポン酢湯」を飲んですぐに就寝すると、咳も和らげて効果が期待できる。疲労回復、冷え症などには果実が青い未熟果を切って焼酎に漬けたユズ酒を、就寝前に盃1 - 2杯ほど飲むとよく、飲みにくいときは蜂蜜で甘く味付けしたり、水や湯で割ると良い。ユズ酒は、35度の焼酎1リットルに対して未熟果2個の割合で浸して、密封した上で冷暗所に3か月保存してから中の果実を除いて作る。その他果汁には、顔や手足にすり込むと肌荒れやあかぎれ予防に役立つとされる。
ユズの種子油には、メラニンの生成抑制やアレルギー性皮膚炎の症状緩和の効果があるとする研究報告もなされている。
季語​
俳句においては秋の季語。これは実を指し、その花は夏の季語になる。また、柚子湯は冬の季語となる。

●柚子胡椒
唐辛子とユズとを原料とする調味料の一種。
唐辛子を粗刻みにし、ユズの果皮と塩を入れて磨り潰し、熟成させたものである。九州では一般的な調味料として多くの料理で使用される。九州のほか、ユズの産地である徳島県木頭村(現:那賀町)や高知県でも製造されている。
名称の「胡椒」は唐辛子を意味する九州方言で、ここでは一般的なコショウではなく唐辛子の事を指している。なお、コショウは「洋胡椒」と呼んで区別する。
唐辛子は青唐辛子を用いるのが一般的であるが、赤唐辛子が用いられる場合もある。青唐辛子と青柚子なら緑色、赤唐辛子と黄柚子なら朱色の柚子胡椒に仕上がる。一般的に緑色の物は辛味が強く、赤色の物は香りが強い。地元では鍋料理や味噌汁、刺身などの薬味として用いられるが、他地域に知られるようになってからは、より多様な使い方をされるようになっている。
発祥は、大分県日田市(旧豊後国日田郡天瀬町等)とする説や、日田と同じ豊国である豊前国の英彦山周辺とする説など、九州各地を発祥地とする説が存在している。大分県日田市では、津江地域(旧前津江村、中津江村、上津江村)を中心に柚子の栽培が盛んであり、旧天瀬町や津江地域では古くから家庭で柚子胡椒が作られていたとされる。一方、商品としての販売は、豊前国田川郡添田町の会社によって1950年(昭和25年)に行われた例がある。
九州で主に使われていたが2000年代に入り全国的な知名度が向上し、一般的なスーパーなどでも販売されるほどになった。
利用​
和風の鍋料理や汁物をはじめ、刺身、天ぷら、焼き鳥、豆腐などの和風料理の薬味として用いられることが多い。また、九州以外の地域で入手が容易になったこともあり、たとえば、スパゲティ、サラダドレッシング、豚カツ、ラーメン、焼売などのさまざまな料理に用いられるようになっている。
加工食品では、鶏肉の燻製、炭火焼などに柚子胡椒を加えているものが、九州を中心に製造、販売されている。
また、以下のようなスナック菓子やチョコレート菓子も販売されている。スナック菓子は水分を減らす必要があるため、ゆずパウダーや唐辛子パウダーを組み合わせて風味を出し、柚子胡椒は使っていないことが多い。
堅あげポテト ゆずこしょう味 - ポテトチップス、カルビー
かっぱえびせん 柚子こしょう味 - カルビー
プリッツ ゆずこしょう味 - 江崎グリコ
カールスティック 柚子胡椒味 - 明治製菓
亀田の柿の種柚子こしょう - 亀田製菓
キットカット 柚子こしょう - ネスレ
 
 
 

 

●コウジ (「甘子」または「柑子」)
ミカン科ミカン属の常緑小高木で柑橘類の一種。 「ウスカワ(薄皮)ミカン」とも言われる。
古くから日本国内で栽培されている柑橘の一種だが、8世紀頃に中国から渡来したと言われる(一説には「タチバナ」の変種とも)。果実は一般的な「ウンシュウミカン」よりも糖度が低く酸味が強い。種は多いが日持ちは良い。
樹勢が強く耐寒性に優れている為、「ウンシュウミカン」の露地栽培が難しい日本海側の一部でも栽培されている。

●柑子
(「かんじ」の変化した語) ミカン科の常緑小高木。在来ミカンの一種で耐寒性が強く山陰・北陸・東北地方にも家庭用として栽培されている。果実は扁平で小さい。果皮は蝋質黄色、滑らかで薄くむきやすい。果肉は淡黄色で、八〜一〇室あり、酸味が強く種子が多い。スルガユコウ、フクレミカンなどの品種がある。新年の注連縄(しめなわ)、蓬莱などの飾りに用いることがある。こうじみかん。また一般にミカンの異名としてもいう。《季・秋》。※宇津保(970‐999頃)国譲中「梨・かうじ・橘・あらまきなどあり」。「こうじいろ(柑子色)」の略。※邪宗門(1909)〈北原白秋〉古酒・立秋「憂愁のこれや野の国、柑子(カウジ)だつ灰色のすゑ、夕汽車の遠音もしづみ」。襲(かさね)の色目の名。表、裏ともに朽葉色(くちばいろ)のもの。※増鏡(1368‐76頃)一〇「紫のにほひ・山吹・青鈍・かうじ・紅梅・桜萌黄などは女院の御あかれ」。植物「からたちばな(唐橘)」の異名か。狂言。各流。預かっていた柑子を食べてしまった太郎冠者は主にいろいろ言い訳をするが、ついに六波羅(腹)におさめたと白状する。
(「かんじ」の音変化) ミカン科の小高木。果実は濃い黄色で、酸味が強い。日本で古くから栽培され、現在は山陰地方から北陸地方にみられる。こうじみかん。《季 実=秋 花=夏》「仏壇の―を落す鼠かな/子規」。「柑子色」の略。
植物。ヤブコウジ科の常緑低木、園芸植物。カラタチバナの別称。
植物。ミカン科の常緑低木、園芸植物。タチバナの別称。

●カラタチバナ (唐橘)
サクラソウ科ヤブコウジ属の常緑小低木。葉は常緑で冬に赤い果実をつけ美しいので、鉢植えなど栽培もされる。同属のマンリョウ(万両)に対して、別名、百両(ヒャクリョウ)ともいう。 従来の新エングラー体系、クロンキスト体系では、ヤブコウジ科の種としていた。
樹高は20-100cmになる。茎は直立して円柱形、単純であまり分枝しない。樹皮は茶褐色で、若いときに粒状の褐色の微毛が生える。葉は互生し、葉身は狭卵形で、長さ8-20cm、幅1.5-4cmになり、約8対の側脈があり、先端は次第にとがって鈍頭になり、基部は鋭形、縁には不明瞭で低い波状の鋸歯があって鋸歯間に腺点がある。葉は葉質が厚く、表面は鮮緑色、無毛で光沢があり、裏面も無毛であるがときに多少細かい鱗片毛がある。葉柄は長さ8-10mmになる。
花期は7月頃。花序は散形状になり、葉腋または葉間にある早落性の鱗片葉の腋につき、花序柄の長さは4-7cmで斜上し、10個ほどの花を下向きにつける。花冠は白色、浅い皿状で深く5裂し、花冠裂片は長さ約5mmの卵形で、外面は無毛で腺点があり、花柄の長さは約10mmになり、微毛が生える。萼は深く5裂し、萼裂片は狭長楕円形で長さ約2mmになり、多少の腺点がある。雄蕊は5個あり花冠裂片よりやや長く、葯は狭卵形になる。雌蕊は1個で花冠よりやや長く、子房はほぼ球形で無毛。果実は液果様の核果で径6-7mmの球形となり、11月頃に赤色に熟し翌年の4月頃まで残る。中に1個の大型の種子が入る。

●タチバナ (橘)
ミカン科ミカン属の常緑小高木で柑橘類の一種である。別名はヤマトタチバナ、ニッポンタチバナ。
日本に古くから野生していた日本固有のカンキツである。本州の和歌山県、三重県、山口県、四国地方、九州地方の海岸に近い山地にまれに自生する。近縁種にはコウライタチバナ(C. nipponokoreana)があり、萩市と韓国の済州島にのみ自生する(萩市に自生しているものは絶滅危惧IA類に指定され、国の天然記念物となっている)。静岡県沼津市戸田地区に、国内北限の自生地が存在する。日本では、その実や葉、花は文様や家紋のデザインに用いられ、近代では勲章のデザインに採用されている。三重県鳥羽市ではヤマトタチバナが市の木に選定されている。
樹高は2mから4m、枝は緑色で密に生え、若い幹には棘がある。葉は固く、楕円形で長さ3 cmから6cmほどに成長し、濃い緑色で光沢がある。果実は滑らかで、直径3cmほど。キシュウミカンやウンシュウミカンに似た外見をしているが、酸味が強く生食用には向かないため、マーマレードなどの加工品にされることがある。タチバナの名称で苗が園芸店で売られていることがあるが、ニホンタチバナではなくコウライタチバナと区別されず混同されていることがある。コウライタチバナは、葉や実がタチバナより大きく、実がでこぼこしているのが特徴である。

●ヤブコウジ (藪柑子)
サクラソウ科ヤブコウジ属の常緑小低木。林内に生育し、冬に赤い果実をつけ美しいので、栽培もされる。別名、十両(ジュウリョウ)。従来の新エングラー体系、クロンキスト体系では、ヤブコウジ科の種としていた。
日本の北海道南部(奥尻島)、本州、四国、九州に分布し、丘陵地林内の木陰にふつうに自生する。国外では朝鮮半島、中国大陸、台湾に分布する。
常緑の草状の小低木。細くて長い地下茎(匍匐茎)が横に這って、先は直立する地上茎になる。地上の茎は円柱形で、高さは10-30cmになる。茎の上部と若い花序にはごく短い粒状の毛が生える。葉は茎の上部2-3節に集まって3-4枚輪生し、深緑色で光沢があり、長楕円形または狭楕円形で、長さ6-13cm、幅2-5cmになり、5-8対の葉脈があり、先端はとがり基部はくさび形、縁には低く細かい鋸歯がある。葉柄は長さ7-13mmになる。
花期は夏(7-8月)。花序は散形状になり、葉腋または鱗片葉の腋につき、花序柄の長さは1-1.5cmで、2-5個の花を下向きにつける。花は白色または帯紅色で両性花で、径6-8mmになる。花冠は5裂し、花冠裂片は長さ4-5mmの広卵形で、片巻き状に右回りに並び、腺点があり、花柄の長さは7-10mmになり、微小な軟毛が生える。萼は5深裂し、萼裂片は広卵形で長さ1.5mmになる。雄蕊は5個あり花冠裂片より短く、花筒の基部について花冠裂片と対生する。雌蕊は1個で花冠と同じ長さ、子房は卵円形で上位につき1室ある。花は葉陰に隠れるため、果実ほど目立たない。
果実は液果様の核果で、径5-6mmの球形となり、秋(10-11月)に赤色に熟し、中に1個の大型の種子が入る。核は球形で多数の縦筋がつく。核を剝くと中に種子があり、マンリョウの種子に姿が似ている。葉陰に隠れるように下向きにつく赤く艶やかな果実は、丈も低いことから、地上性の鳥が食べると考えられている。
 
 
 

 

●柑子と徒然草と今昔物語
●徒然草 [第十一段]
現代語訳
神様たちが出雲へ会議に出かける頃、栗栖野というところを越えて、とある山奥を徘徊し、果てしない苔の小径を歩いて奥へと進み、落ち葉を踏みつぶして歩くと、一軒の火をつけたらすぐに全焼しそうなボロ屋があった。木の葉で隠れた、飲料水採取用の雨どいを流れる雫の音以外は、全く音が聞こえてこない。お供え物用の棚に、菊とか紅葉が飾ってあるから、信じられないけれど誰かが住んでいるのに違いない。
「まったく凄い奴がいるものだ、よくこんな生活水準で生きて行けるなあ」と心ひかれて覗き見をしたら、向こうの方の庭にばかでかいミカンの木がはえていて、枝が折れそうなぐらいミカンがたわわに実っているのを発見した。そのまわりは厳重にバリケードで警戒されていた。それを見たら、今まで感動していたことも馬鹿馬鹿しくなってしまい「こんな木はなくなってしまえ」とも思った。
原文
神無月かみなづきの比ころ、栗栖野くるすのといふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入いる事侍はべりしに、遥はるかなる苔こけの細道を踏み分けて、心ぼそく住みなしたる庵いほりあり。木の葉に埋もるゝ懸樋かけひのじづくならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚あかだなに菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに、住む人のあればなるべし。
かくてもあられけるよとあはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子かうじの木の、枝もたわゝになりたるが、まはりをきびしく囲かこひたりしこそ、少すこしことさめて、この木なからましかばと覚おぼえしか。

●柑子(こうじ)と徒然草と御伽草子
西暦900年から1000年の間に前回お話した本草和名(ほんぞうわみょう)で柑子(こうじ)が記載されています。
この柑子は、外国から日本にもたらされたものではありません。
興味深いのは、日本で初めて発生した自然交雑種であることです。柑子は、日本の固有種であるタチバナと中国の原生種であるミカン類との自然交雑種です。タチバナの実は全く酸っぱくて食用にはなりませんが、この柑子は食用になったと見えて、その後、様々な文献に登場してまいります。
徒然草に「柑子」の言葉が出て来ます。
[十一段 神無月の頃]
神無月の頃、粟栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遥かなる苔の細道踏み分けて、心細く住みなしたる庵あり。(中略)かくても在られけるよと、あはれに見る程に、かなたの庭に大きなる柑子の、枝もたわわになりたるが、まわりを厳しく囲ひたりしこそ、少し興覚めて、この木なからましかばと覚えしか。
とあります。柑子泥棒よけにバリケードを作っているところを見ますと、柑子は十分に美味しかったようです。
御伽草子「和泉式部」に柑子売りの話が出てまいります。
このお話は和泉式部と比叡山の高僧道明阿闍梨(どうみょうあじゃり)のお話です。
比叡山の高僧道明は和泉式部が若い頃、里子に出した子でした。道明が十八歳になったある日、内裏(宮中)で法華経を講説することになりました。折しも、風のいたずらで局の御簾が吹き上げられ、一瞬、美しい女房の姿を垣間見てしまいました。その美しい女房こそ、誰あろう自分を捨てた母、和泉式部だったのです。道明はそのことを知る由もなく、和泉式部も自分が見られたことを知りませんでした。道明は、比叡山に帰ってからも、何とかこの女房を一目見たいと思うあまり柑子売りになって宮中に入りこみました。道明が柑子を売りながら、かの女房の局あたりにやってまいりますと局の中から一人の女官が出てまいりました。女官は銭二十で柑子を求め道明はその銭を数えたのですが、自分の思いをこめた恋歌二十首で数えたのです。御簾の内の和泉式部はその歌に感じ入りやがて宮中を出て道明の宿に訪れ一夜の契りを結ぶのでした。そうこうするうちに、道明の持つ守り刀に見入ってしまいました。それは、若い頃、自分が里子にもたした刀だったのです………

●橘たちばなと柑子こうじの話
『今昔物語集』を読んでいると、時折、他の作品のとある場面が想起されたり、どこかで出会った気がする類似のプロットの展開に驚きをおぼえたりすることがある。そのような時はあれこれ妄想が湧き上り、しばし『今昔物語集』から離れて、とりとめのない連想の渦の中で、探索の糸を紡ぎ出す時間をもつこととなる。ここに取り上げるのも、そのような妄想のひとこまで、時を超えて、古典世界の脇道わきみちを彷徨ほうこうしたものにすぎない。
庵の前の橘の木
『今昔物語集』巻二十第三十九話「清滝河奥聖人成慢悔語」は、清滝川きよたきがわの奥に庵いおりを結んで修行していた僧が験力で水瓶すいびようを飛ばしては水を汲みつつ、自分の験力に慢心していたところ、上流に水瓶を飛ばす有験うげんの僧がいることを知り、妬ねたんでその庵に押しかけ、火界かかいの呪じゆをもって挑んだが、逆に身を焼く苦しみを味わわされ、慢心を悔い改めたという内容の話である。この清滝川の僧が水瓶の行方を追跡し、上流に住む老僧の庵を発見する場面を、『今昔物語集』は次のように描写している。
「見みレバ、僅わづかニ奄見いほりみユ。近ちかク寄よりテ見レバ、三間許さむげんばかりノ奄也いほりなり。持仏堂及ぢぶつだうおよビ寝所しむじよナド有あリ。奄いほりノ体極ていきはめテ貴気也たふとげなり。奄いほりノ前まへニ橘木有たちばなのきあリ。其そノ下したニ行道ぎやうだうノ跡踏あとふミ付つケタリ。閼伽棚あかだなノ下したニ、花柄多はながらおほク積つもりタリ。奄いほりノ上うへニモ庭にはニモ苔隙無こけひまなク生おヒテ、年久としひさしク、神かみタル事こと無限かぎりなシ。」
庵のたたずまいはいかにも閑寂で、聖の住居にふさわしく、尊い雰囲気が漂っている。庭は苔こけに覆われ、閼伽棚には花が備えられていた形跡がある。庵の前には橘の木が植えられ、その周囲を行道ぎようどうした足跡が残っていたという。どこかで見たような光景である。そう、すぐさま想起されるのは、隠遁聖いんとんひじりの庵のありさまを描いた『徒然草』第十一段である。そこでは次のように記されている。
「神無月かみなづきの比ころ、栗栖野くるすのといふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遥はるかなる苔こけの細道をふみわけて、心ぼそく住みなしたる庵いほりあり。木この葉はに埋うづもるる懸樋かけひのしづくならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚あかだなに菊きく・紅葉もみぢなど折り散らしたる、さすがに住む人のあればなるべし。かくてもあられけるよと、あはれに見るほどに、かなたの庭に大きなる柑子かうじの木の、枝もたわわになりたるがまはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。」
この章段は直接体験の回想の助動詞「き」を用いて記されているので、述主である兼好けんこう法師の体験に基づくものと解釈されている。兼好が初冬の十月ごろ、栗栖野を通り過ぎて山里深く分け入った時のことである。遥かに続く苔に覆われた細道のかなたに、いかにももの寂しげに住みなした庵がある。閼伽棚には菊・紅葉が折って散りばめられている。兼好は庵の主の清貧な隠遁生活を偲しのんで感嘆し、このような生活が理想的であると思っていると、向こうの庭に大きな柑子の木があり、枝もたわわに実がなっている。ふと見ると、その木の回りを柵さくが厳重に囲ってあるではないか。それを見た瞬間、庵の主の物欲がほの見えて、少々興ざめしたというのである。
本段は家居のありさまと住人の人柄との関係を説いた第十段を受けて記述されている。体験談の体裁をとっているとはいえ、いささかその構成ができすぎているとの感が深い。『今昔物語集』とでは、橘の木と柑子の木の相違があるものの、両者の庵の光景はあまりによく似た構図である。『今昔物語集』と同文的同話が『宇治拾遺物語』第百七十三話にも見えるので、このような庵のたたずまいが典型的なものとして、兼好の脳裡のうりに刻まれていたのではあるまいか。
ところで、修行者や隠遁者は庵の庭に橘(あるいは柑子)の木を植えるのが常であったのであろうか。そのあたりを少々探ってみよう。『今昔物語集』巻十三第四十二話「六波羅僧講仙聞説法花得益語」は、六波羅蜜寺ろくはらみつじの住僧講仙こうぜんが僧房の前に植えた橘の木が成長し、枝も茂って花が咲き、実を結ぶようになったのを愛惜し、蛇に転生したという話である(出典は『大日本国法華経験記』上巻第三十七話)。また、『発心集』巻八第八話には、ある僧の家に植えられた橘の木がたくさんの実をつけ、美味であったため、隣に住む重病の尼が食べ尽したいと願って死に、虫に転生してしまった話を載せる。ともに僧房の前には食用としての橘の木が植えられている。橘はミカン科の常緑小喬木で、秋に直径二〜三糎センチの黄金色の実をつける。その味は酸味が強く、食用にはあまり適さないが、非常時の食用として、あるいは滋養強壮、薬用のために植樹されたのではなかろうか。
三つなりの橘
橘は古代では「ときじくのかくの木の実」(古事記・中巻・垂仁天皇の条)といわれ、常世とこよの国からもたらされた霊妙な果実、つまり招福、長寿の縁起物として珍重されていたようである。時代は下って、『曾我物語』巻二「時政が女の事」には次のような著名な伝承が見られる。北条政子まさこは妹が見た
たかき峰にのぼり、月日を左右の袂におさめ、橘の三なりたる枝をかざす
という夢を買い取り、その後、源頼朝よりともと結婚して、北条氏の栄華を招いたというのである。また、『八幡宮寺巡拝記』第二十四話「橘奇瑞の事」は、ある入道が石清水いわしみず八幡宮に月参りして三つなりの橘を授かったが、その帰途、ともに詣もうでた男にそれを乞こわれて拒否し、「橘ヲマイラスルゾ」と言葉の上だけで譲ったところ、男は次第に栄えたが、入道は幸運にも恵まれなかったという話である。これらの説話伝承から、橘(とくに三つなりの橘)は招福、致富のシンボルとして信仰されていた事象がうかがい知れる。先述の『今昔物語集』巻二十第三十九話の清滝川の上流に住む聖の庵に植えられていた橘の木の背後には、このような信仰、縁起物としての意味合いが隠れていたのかもしれない。
三つの大柑子
一方、『徒然草』第十一段では橘の木ならぬ、枝もたわわに実のなった柑子の木であった。柑子はコウジミカンで、ミカン科の常緑小喬木、在来ミカンの一種である。果実は偏平で温州うんしゆうミカンより小さく、味は淡白である。古くから栽培され、食用にもなっていたという。柑子といえば、「藁わらしべ長者」の話が思い起されよう。『今昔物語集』巻十六第二十八話「参長谷男依観音助得富語」に見える話がそれである(同話は『古本説話集』下巻第五十八話、『宇治拾遺物語』第九十六話にも所見)。父母も身寄りもいない貧乏な青侍が、長谷寺はせでら観音に救ってくれるようにと祈願して夢告を受け、寺から退出する際に最初に手にした藁しべ一本から、次々に物々交換を重ねて、富裕の身となり、幸福を得たという致富譚である。青侍が藁しべに虻あぶをくくりつけて持っていると、長谷寺に参詣さんけいする女の子供がそれを欲しがり、大柑子三つと交換する。この三つの大柑子は先述した三つなりの橘と同様に、招福、致富のシンボルで、これ以後、青侍はとんとん拍子に有利な交換を繰り返し、富裕な身への道を歩む。すなわち、その後、この三つの大柑子は疲労こんぱいして長谷寺に参詣する高貴なお方の喉のどを潤し、青侍はそのお礼として美しい布三反をちょうだいする。それから以後は、馬、水田と交換して富裕の身となったわけである。ちなみに、この大柑子は具体的には夏ミカンの類をさすかと考えられる。
三つの大柑子に関する話としては、『世継物語』第四十二話に以下のような吉兆の夢合せ譚がある。宇治殿藤原頼通よりみちが大柑子三つの夢を見たところ、夢解きが三頭の牛が現れると解く。これを藤原有国が知り、せっかくの良夢を悪く合せたとして、再び夢合せを試み、三代の天皇の関白になると予見した話である(同話は『雑々集』上巻第十二話にも所見)。ここでの三つの大柑子は吉兆のしるしであり、大いなる立身栄達のシンボルになっている。
また、先述した喉の渇きを潤す柑子については、『撰集抄』巻六第一話に見られる真如しんによ親王渡天説話が浮んでくる。すなわち、平城天皇第三皇子の高岳たかおか親王(法名真如)にまつわる説話である。真如親王は仏法を求めて渡唐するが、唐には優れた師僧がおらず、天竺てんじく(インド)まで行こうと決意する。唐の皇帝は真如の志に感激して、種々の宝物を賜る。その中に三つの大柑子が出てくるのである。
「もろこしの御門、渡天の心ざしをあはれみて、さまざまの宝をあたへ給へりけるに、「それよしなし」とて、皆々返しまゐらせて、道の用意とて大柑子三つとヾめ給へりけるぞ、聞くもかなしく侍るめる。」
とある。真如は皇帝から賜った宝物をちょうだいできないとして返上し、ただ大柑子三つを道中の非常用の糧として留め置いたという。天竺までの大旅行に大柑子三つを携行して出かけるのは無謀であるとともに、非現実的である。ここでの大柑子は招福のシンボルというより、予想される飢えと渇きを癒いやしてくれる無尽蔵の宝物(宝珠)を意味していよう。なお、この大柑子の具体的イメージとしては、いわゆるコウジミカンではなく、鹿児島をはじめとする南方産の文旦ぶんたんのような柑橘かんきつ類ではなかったかと想像する。水分が多く、表皮まで食用となり、日もちがするからである。
さて、その後、真如親王がいかなる運命をたどったかについては、『閑居友』上巻第一話に詳しい。そこでは次のように記される。
「渡り給ひける道の用意に大柑子を三つ持ち給ひたりけるを、飢つかれたる姿したる人出で来て乞ひければ、取り出でて、中にも小さきを与へ給ひけり。この人「おなじくは大きなるを与あづからばや」といひければ、「我はこれにて末もかぎらぬ道を行くべし。汝はこヽのもと人なり。さしあたりたる飢ゑをふせぎては足りぬべし」とありければ、この人、「菩薩の行はさる事なし。汝、心小さし。心小さき人の施すものをば受くべからず」とて、かき消ち失せにけり。親王あやしくて、化人の出で来て、わが心をはかり給ひけるにこそ、とくやしくあぢきなし。さて、やうやう進み行くほどに、つひに虎に行きあひて、むなしく命おはりぬとなん。」
天竺に渡る途中で一人の飢人が現れ、真如に大柑子を乞う。真如は今後の道中の苦難を考えて、惜しんで小さいほうを与える。すると、飢人はその行為を菩薩ぼさつ行に当らぬと非難し、真如を心の狭い人であると罵ののしって消え失せたという。いうまでもなく、この飢人は仏菩薩の化人で、真如の心を試すために現れたのである。真如は自分の心の狭量を恥じ、残念に思う。その後、真如親王は虎に襲われて、尊い命を失ったと伝えられている。
仏菩薩の化人が現れて人の心を試すというモチーフは、玄奘三蔵げんじようさんぞうが瘡病人の膿汁を吸い舐ねぶり、観音から『般若心経』を授かる話をはじめ、聖徳太子の片岡山説話、光明皇后の湯屋の話などが想起されよう。虎に襲われて命を奪われる話は、薩埵さつた太子の捨身飼虎の布施行譚がこれに当ろう。次から次に新たな連想がふくらんできて、脇道にそれて行ってしまう。とりとめのない彷徨はこのあたりで止めておこう。
それにしても、『徒然草』第十一段の枝もたわわになった柑子の木には、はたしてどれほど招福、致富、吉兆、栄達、無尽蔵の宝物、などのシンボルとしての意味がこめられていたであろうか。ただ単に、庵の主の食用として植樹されたにすぎなかったのであろうか。
『今昔物語集』を繙ひもといて、このように勝手な妄想に耽りながら、探索の小道を彷徨して時を過すのも、読む行為の一つなのかもしれないと思っている。

●宇治拾遺物語
わらしべがみかんに
「長谷にまゐりける女車の、前の簾(すだれ)をうちかづきてゐたる児(ちご)の、いとうつくしげなるが、『あの男(をのこ)の持ちたる物はなにぞ。かれこひて、我(われ)に賜(た)べ』と、馬に乗てともにある侍(さぶらひ)にいひければ、その侍、『その持ちたる物、若公のめすに参(まゐ)らせよ』といひければ、『仏(ほとけ)の賜びたる物に候(さぶら)へど、かく仰事(おおせごと)候へば、参らせて候はん』とて、とらせたりければ、『この男、いとあはれなる男なり。若公のめす物を、やすく参らせたる事』といひて、大柑子(こうじ)を、『これ、のどかはくらん、食べよ』とて、三、いとかうばしき陸奥国紙(みちのくにがみ)に包(つつ)みてとらせたりければ、侍、とりつたへてとらす」。
みかんが上等の布に
男が旅をつづけていくと、身分の高そうな女の人が、のどがかわいて苦しんでいました。「不便(ふびん)に候(さぶら)ふ御事(おんこと)かな。水の所は遠くて、くみて参(まゐ)らば、程(ほど)へ候ひなん。これはいかが」とて、つつみたる柑子(こうじ)を、三つながらとらせたりければ、悦(よろこ)びさはぎて食はせたれば、それを食ひて、やうやう目を見あけて、『こは、いかなりつる事ぞ』といふ。白くよき布(ぬの)を三匹(みむら)取り出でて、『これ、あの男(をのこ)に取らせよ。この柑子の喜(よろこ)びは、いひつくすべき方もなけれども、かかる旅の道にては、うれしと思ふばかりの事はいかがせん。これはただ、心ざしのはじめを見するなり』」
わらしべ長者
日本のおとぎ話のひとつ。『今昔物語集』および『宇治拾遺物語』に原話が見られる。舞台は奈良県桜井市初瀬の長谷寺と伝わる。世界中でも似たような物語が存在しており、ブータンや朝鮮、イギリスなどにも見られる。
ある一人の貧乏人が最初に持っていたワラを物々交換を経ていくにつれて、最後には大金持ちになる話である。今では、わずかな物から物々交換を経ていき最後に高価な物を手に入れることに対する比喩表現としても使われる。なお原話(今昔物語集)の結末は馬と田を交換して地道に農作物の収益で豊かになると言うものである。
また、この物語は大きく分けて今日広く知られている「観音祈願型」の他に「三年味噌型」と呼ばれるものがある。物語の大筋はほぼ同じだが、後者は婿取婚を巡る話となっている。両者は主題も異なり、観音祈願型は今昔物語集で「参長谷男、依観音助得富話」と題されているように霊験譚としての性格が強く、結末もある程度の忍耐(稲作や留守番)の賜物であり、それゆえに説教や唱導として盛んに語られた形跡がある。それに対して三年味噌型にそのような性質はなく、あくまでも致富を主題とした幸運譚として語られたことが見て取れる。
 
 
 
 緒話1

 

●茶道用語
柑子口 (こうじぐち)
器物の形状の一。「かんすくち」「かんしこう」とも読む。口縁部が丸く膨らんでいる器形をいう。「柑子(こうじ)」は蜜柑の一種で、口縁部の膨らみが蜜柑に似ているところからの名称。中国では、この器形を「蒜頭」(ニンニク)という。漢時代にはこの口部を持った青銅器の瓶が多く作られ遺品が多く、漢銅器の形を写した蒜頭瓶は陶磁として元時代の青磁に製作されいる。
曾呂利(そろり)
花入の形状の一。「ぞろり」とも。座露吏とも書く。古銅の花入の一種で、文様がなく、首が細長く、肩がなく、下部がゆるやかに膨らんでいて、全体に「ぞろり」とした姿なのでこの名が出たという。「山上宗二記」に「一そろり古銅無紋の花入。紹鴎。天下無双花入也。関白様に在り。一そろり右、同じ花入。四方盆にすわる。宗甫。一そろり右、同じ花入。京施薬院並びに曲庵所持す。四方盆にすわる。」とある。「南方録」には「ソロリ合子獅子ノ飾」に「名物ノ五道具ハ二具アリシト云々」として「杓立ソロリ、柑子口」とあり、杓立として用いられている。「今井宗久茶湯日記抜書」の永禄元年(1558)9月9日の松永久秀会に「一、床ソロリ白菊生テ」とみえる。
白隠慧鶴(はくいんえかく)
江戸時代中期の臨済宗の禅僧で、近世臨済禅中興の祖とされる。貞享2年(1686)-明和5年(1769)。道号は白隠、法名は慧鶴。別号は鵠林。駿河駿東郡原宿の長沢家の三男として生まれる。1699年(元禄12)同地「松蔭寺」の單嶺祖伝について出家。各地の禅匠に歴参。1708年越後高田の英巌寺性徹のもとで「趙州無字」の公案によって開悟するも満足せず、宝永5年(1708)信儂飯山の正受庵主道鏡慧端(正受老人)のもとで大悟し、印可を受けた。享保2年(1717)「松蔭寺」に住し、翌年「妙心寺」首座となり白隠と号した。以後自坊「松蔭寺」において大勢の参徒を指導、弟子を育成するとともに、請に応じて各地に仏経・祖録を講じ布教につとめ、曹洞宗・黄檗宗に比して衰退していた臨済宗を復興させ「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」と歌われた。宝暦13年(1763)三島(静岡県)の竜沢寺を中興開山。明和5年(1768)松蔭寺で示寂。明和6年(1769)後桜町天皇より神機独妙禅師の諡号を、また明治17年(1884)明治天皇から正宗国師の諡号を賜る。「槐安国語」「息耕録開筵普説」「荊叢毒蘂」など漢文体の語録と「夜船閑話」「壁生草」「薮柑子」「遠羅天釜」「おたふく女郎粉引歌」「大道ちょぼくれ」などの仮名法語がある。会下に東嶺円慈、遂翁元盧、峨山慈棹、葦津慧隆など多数の禅傑を輩出、鵠林派(こうりんは)ともよばれその厳しい公案禅は臨済宗を席捲し法流を独占するにいたる。明治以降、白隠の名はその墨蹟・禅画に対する興味が先行してひろく知られるようになり、臨済宗十四派は全て白隠を中興とし「白隠禅師坐禅和讃」を坐禅の折に読誦するが、没後100年にはすでに「中興の祖」とする認識が定着し「坐禅和讃」が日課として誦まれるようになっている。

●色道大鏡
・・・ 一、端女郎の事、端女の居る所を局といふ、局にかくる暖簾、むかしは花族の御家へ申上、御ゆるされを蒙りてかけたり、免許なければかくる事かなはず、即、彼御家より出たる暖簾布を、柿染にして、長さ四尺、はゞ三幅也、縫合の二所に柑子皮の露あり、然といへども、此儀今は断絶して、かの御家より吟味なし、傾城屋自分のはからひとして、是をかくる、当時暖簾の色は紺染を用ゆ、されども、太夫町一町ばかりには、柿色を今に用ゆる事、吉例をもつてす、寔に殊勝の事也、この局の内、土間は外にして、畳二帖敷を先定れる法用とす、或は三帖敷もあり、又四帖半に床棚を付るも有、昔の局には、壁に対て竿をつる、是を衣掛の竿といふ、子細これあり、江戸の局は、口の間も広く、奥の間に寝所をかまふ、西国の局には、端女二人三人一所に並居て、男来れば、その好む女一人残りて、外は奥に退く、是国々の風俗也、  
局の具、  
屏風、主人よりこれを引、屏風の模様は、物ずきにかまはず、只目にたつを本とす、  
蒲団、敷筵、主人よりこれを渡す、  
莨宕(正しくは草冠)盆、端女自分として用意す、たばこも自分にこれをまかなふ、  
手水鉢、主人よりこれをおく、  
火鉢、火ばちは主人よりわたす、炭は端女自分にこれをまかなふ、  
上帯、下帯、楊枝、雑紙、はきもの等、端女自分にまかなふ、  
端女の遣手外にあり、端女の多少によらず、その家に一人宛これ有、挙女郎の遣手を兼てめしつかふ事なし、 ・・・

●わらべ歌・歳時唄
(石川県)
正月さん どこまでいらした 
山のころころ橋の下までいらした 
お土産はなにやった 
榧や勝栗 密柑 柑子(こじ) 橘 犬のふんだ年餅 
猫のふんだ粥餅  あまの裏の串柿 
(石川県)
正月さん 正月さん  どこまでござった 
ごろごろ山の山までござった 
土産なんじゃ  密柑 柑子(こじ) 橘じゃ 
天(あま)から下りた串柿と 
猫のふんだ粥餅と 
座敷(でい)の隅の辛酒と 
勝手の隅の甘酒と 
枝やゆずり葉にのって 
へんこらへんこら ござった 

●今昔物語
第40話 狐託人被取玉乞返報恩語
今昔、物の気病(けやみ)為る所有けり。物託(ものつき)の女に物託て云く、「己は狐也。祟を成て来れるには非ず。只、『此る所には自然ら食物散ぼふ物ぞかし』と思て、指臨(さしのぞき)て侍るを、此く召籠られて侍る也」と云て、懐より白き玉の小柑子などの程なるを取出て、打上て玉に取るを、見る人、「可咲気なる玉かな。此の物託の女の、本より懐に持て、人謀らむと為るなめり」と疑ひ思ける程に、傍に若き侍の男の勇たるが居て、物託の女の玉を打上たるを、俄に手に受て、取て懐に引入れてけり。
然れば、此の女に託たる狐の云く、「極き態かな。其の玉、返し得(えさ)せよと」と切(しきり)に乞けれども、男、聞きも入れずして居たるを、狐、泣々く男に向て云く、「其は其の玉取たりと云ふとも、持つべき様を知らねば、和主の為には益有らじ。我れは、其の玉取られなば、極き損にてなむ有るべき。然れば、其の玉返し得しめずば、我れ、和主(わぬし)の為に、永く讐と成らむ。若し、返し得しめたらば、我れ神の如くにして、和主に副て守らむ」と云ふ時に、此の男、由し無しと思ふ心付て、「然は、必ず我が守と成り給はむや」と云へば、狐、「然ら也。必ず守と成らむ。此る者は、努々虚言為ず。亦、物の恩、思知らずと云ふ事無し」と云へば、此の男、「此の搦させ給へる護法、証せさせ給ふや」と、云へば、狐、「実に護法も聞こし食せ。給を返し得(えさ)せたらば、慥に守と成らむ」と云へば、男、懐より給を取出して、女に与へつ。狐、返々す喜て受取つ。其の後、験者に追はれて、狐去ぬ。
而る間、人々有て、其の物託の女を、やがて引へて立たしめずして、懐を捜けるに、敢て其の玉無かりけり。然れば、「実に託たりける物の持たりける也けり」と、皆人知にけり。
其の後、此の玉取の男、太秦に参て返けるに、暗く成る程に御堂を出て返ければ、夜に入てぞ、内野を通けるに、応天門の程を過むと為るに、極く物怖しく思えければ、「何なるにか」と怪く思ふ程に、「実や、『我れを守らむ』と云し狐有きかし」と思ひ出て、暗きに只独り立て、「狐、々」と呼ければ、こうこうと鳴て出来にけり。見れば、現に有り。「然ればこそ」と思て、男、狐に向て、「和狐、実に虚言為ざりけり。糸哀れ也。此を通らむと思ふに、極て物怖しきを、我れ送れ」と云ければ、狐、聞知顔にて、見返々々行ければ、男、其の後に立て行くに、例の道には非で、異道を経て行々て、狐、立ち留まりて、背を曲(かがめ)て抜足に歩て、見返る所有り。其のままに男も抜足に歩て行けば、人の気色有り。
和(やは)ら見れば、弓箭・兵仗を帯したる者共、数(あまた)立ちて、事の定めを為るを、垣超しに和ら聞けば、早う盗人の、入らむずる所の事定むる也けり。此の盗人共は、道理の道に立る也けり。然れば、其の道をば経で、迫(はざま)より将通る也けり。狐、其れを知て、其の盗人の立てる道をば経たると知ぬ。其の道、出畢(いではて)にければ、狐は失にけり。男は平かに家に返にけり。
狐、此れのみに非ず、此様にしつつ、常に此の男に副て、多く助くる事共ぞ有ける。実に守らむと云けるに、違ふ事無ければ、男、返々す哀れになむ思ける。彼の玉を惜むで与へざらましかば、男、吉き事無からまし。然れば、「賢く渡てけり」とぞ思ける。
此れを思ふに、此様の者は、此く者の恩を知り、虚言を為ぬ也けり。然れば、自然ら便宜有て助くべからむ事有らむ時は、此様の獣をば、必ず助くべき也。但し、人は心有りて、因果を知るべき者にては有れども、中々獣よりは者の恩を知らず、実ならぬ心も有る也となむ語り伝へたるとや。 

●空海と最澄と高雄山神護寺
「薬子の変」と空海
空海が高雄山寺に入った翌年の弘仁元年(810)9月に、朝廷を揺るがす大きな事件が勃発しました。その事件とは、嵯峨天皇に譲位して、奈良の旧都平城京に移られていた平城上皇が、天皇の時に設置した観察使の制度を嵯峨天皇が廃止して、蔵人所を設置して参議を復活させるなどの朝廷改革をおこなおうとされたことが切っ掛けになったようです。
その改革に、平城上皇は怒りを顕わにされ、天皇と上皇が対立することになりました。平城上皇の天皇位の復権をもくろんでいた上皇が寵愛した女官の藤原薬子と、その兄の藤原仲成とが共謀して、両者の対立を大いに煽り助長しました。上皇と天皇の両勢力の対立が深まる中で、9月6日に平城上皇は、京の都の平安京を廃して、旧都の平城京に遷都するように詔を発しました。この上皇の急な遷都の勅命に人心は大いに動揺をしました。
嵯峨天皇は、上皇の発した遷都勅命を拒否する決断をし、旧都平城京に近い伊勢(現三重県)、近江(現滋賀県)、美濃(現岐阜県)にある国府と関所を兵士で固めさせました。その上で、上皇一派の藤原仲成を捕らえ、薬子の尚侍の職を解きました。この天皇の動きを知った上皇は、東国に赴いて挙兵をする決断をし、薬子等とともに平城京を去って東に向かいました。この動きを察知した嵯峨天皇は、坂上田村麻呂に上皇の東上の防止を命じました。そして投獄されていた藤原仲成を射殺の刑に処しました。旧都を去った平城上皇の一行が、大和国添上郡田村(現奈良県)に至った時に、すでに兵士に行く手を固められていることを知り、やむなく勝機が無いと悟って平城京に戻りました。平城京に戻った上皇は、剃髪して出家し、薬子は服毒自殺して果て、一件の事件は収まりました。この一件の事件を「薬子の変」と称されています。
この事件の後、平城上皇の皇子で、嵯峨天皇の皇太子であった高岡親王は廃されました。代わって天皇の弟の大伴親王(後の淳和天皇)が皇太子に立てられました。高岡親王は、東大寺に入って剃髪し出家されました。出家した法親王は、後に空海の直弟子となり、十代弟子の一人と称された真如法親王です。この真如法親王の誕生には、嵯峨天皇と空海の間に、事件に関わったことから、何らかの高岡親王に対する身の処置方の配慮などの相談があった可能性も十分に考えられます。空海の直弟子になった真如法親王は、やがて中国に密教や仏教の求法を目的に渡られ、さらに中国からインドに向かわれる旅の途中のマレー半島で入滅したと伝わっています。
空海の鎮護国家の祈願修法空海が嵯峨天皇の護持僧として、「薬子の変」を加持祈祷の力を発揮して平定することが出来たとする説もありますが、しかし、この事件が終息した直後の10月27日に、空海は高雄山寺で鎮護国家の修法を朝廷に願い出ていることから、この説はあくまでも想像の域出るものではないものと思います。ただ、この事件後に、嵯峨天皇の配慮もあって、高岡親王を空海の直弟子に迎える過程で、空海が国家の平和と安寧を願って鎮護国家を願う修法をおこないたい意志を、嵯峨天皇に伝えられていた可能性は考えられますが、事件勃発中の戦勝祈願を願った祈祷があったような説は少し穿ったみかたであるように思います。
空海から朝廷に願い出た鎮護国家修法の実修申請書の内容については、『性霊集』巻第四所収の「国家の奉為に修法せんと請う表」が伝わっています。この申請書には、空海の実修に対する思いが書かれています。その内容は、唐より請来した護国経典の『仁王経』、『守護国界主経』、『仏母明王経』などの護国経典の功徳を説いて、その修法の方法は習いましたが、今だ実修をおこなったことがありません。しかし、ぜひ国家の平和や安寧を求めて修法を実修いたしたいので許可を頂きたい。修法は、12月1日から高雄山寺で始め、その修法の成果が生まれるまで、鎮護国家を祈り続けるとの決意が綴られています。
この空海による鎮護国家を祈る密教の修法は、薬子の変が治まった直後のタイミングでおこなわれ、真言密教のもつ効験力に対する期待が、嵯峨天皇や朝廷関係者に注目される切っ掛けになったものと思われます。この空海の鎮護国家を祈った修法は、いつまで高雄山寺で修されていたのか不明ですが、『東大寺要録』によると、弘仁元年(810)から4年(813)まで、空海に鎮護国家を祈願して建立された奈良の東大寺の別当職を朝廷は命じたようです。高雄山寺での空海の鎮護国家を祈る修法の実修期間は、一定期間を限って修されたものであったと思われます。
また、空海は、弘仁2年(811)11月9日に旧都長岡京の乙訓寺(現京都府長岡京市)の別当に任じられたとの記録があります。乙訓寺は、早良親王が桓武天皇に、延暦4年(785)7月に起こった長岡京造営長官であった藤原種継の暗殺事件に関わったと疑われて、親王が幽閉された寺院です。早良親王は無実の罪を訴え食を断って抗議しましたが、淡路島に配流される途中に餓死して没しました。その早良親王の怨念亡魂を鎮める目的もあって、空海は乙訓寺の修造別当に朝廷から任じられたのではないかとみる説もあります。
空海に対する東大寺や乙訓寺の別当職任命の背景には、空海の高雄山寺で修した真言密教の鎮護国家を祈る修法の効験力に対する期待が朝廷にあったのかも知れません。薬子の変が治まり、直後の空海による密教の鎮護国家の祈願修法の実修は、嵯峨天皇や朝廷の治世に対する精神的な安心感を与えたものと思われます。嵯峨天皇と空海の親交も深まり、桓武天皇が最澄を親任したように、嵯峨天皇も空海を親任し庇護をおこないつつ交流が親密になっていったようです。
空海は、嵯峨天皇を後ろ盾に、高雄山寺を拠点として、朝廷の要請で東大寺や乙訓寺などの別当を務めて活躍の場を広めていきました。空海と嵯峨天皇との交流は、書や漢詩などの文化交流に留まらず、互いの地位を乗り越えて、時とともに急速に親密の度を深めていったようです。乙訓寺の別当を務めていた空海が、庭に植えられていた数株の柑橘の木に蜜柑の実が黄金色の色づき千個ほど実りました。西域からもたらされた蜜柑の木を、私は初めて見るものでとても興味をもちました。私の作った漢詩に添えて、毎年の恒例の献上品となるようですが、小さな実の蜜柑を六箱、大きな蜜柑の実を四箱を乙訓寺より献上しますとの上表文を書して献上しています。丁寧な言葉使いの中に、嵯峨天皇と空海の両者の親密な人間関係が感じられる上表文と漢詩です。
この蜜柑の献上の記録が『性霊集』巻第四所収の「柑子を献ずる表」にのこされています。この蜜柑の献上は、空海が乙訓寺の別当を務め始めた弘仁2年(811)11月9日から翌3年(812)10月29日に解任される間のことで、おそらくは弘仁3年の秋に乙訓寺の庭で採れた蜜柑の献上と思われます。私は9月下旬に乙訓寺を訪れた時には、まだ庭の蜜柑の木の実は残念ながら色づいてはいませんでした。 

●空海伝
嵯峨天皇との親交
そのころ、薬子(くすこ) の変という政変が起こりました。これは、平城(へいぜい) 天皇が弟の嵯峨天皇に位を譲って上皇となったあと、寵愛する藤原薬子にそそのかされて、もう一度天皇に復位し、都を奈良の平城京に移そうと企てたものです。薬子とその兄の藤原(ふじわらの) 仲成(なかなり) とが共謀して、クーデターを起こそうとしたわけです。しかし、その目(もく) 論(ろ) 見(み) は未然に発覚して、首謀者の仲成は殺され、薬子は自殺します。そして、平城上皇は出家しました。このとき、上皇の子高岳(たかおか) 親王も皇太子の位を追放されています。平城上皇の一味は、すべて政界から退くということになったのでした。この高岳親王は、後に名を真如(しんにょ) と改め空海の十大弟子の一人になり、法を求めてインドまで行こうとしてマレー半島の付近、ジョホールバルと推定される地域で、インドを見ずして亡くなっています。
弘仁元年 (810) 九月にこの薬子の変が起こり、その直後の十月二十七日に、空海は高雄で護国の為の護摩(ごま) をたきたいと、手紙で願い出ました。これは、大変いいタイミングといえます。
政情不安定なときに、自分が新たに持ち帰った密教で世の中を鎮める為に護摩をたこうとしたのでした。おそらくこれは、自分の師匠の恵果(けいか) のさらに師匠である不空(ふくう) 三蔵(さんぞう) にならったのでしょう。唐で安禄山(あんろくざん) の乱というクーデターが起きて皇帝が長安の都から逃げ出したとき、不空は長安にとどまって護摩をたき、皇帝が早く無事に長安に帰り着くように祈願したことがあります。この故事を頭に思い浮かべた空海は、ちょうど自分の新しく持ち帰った密教の宣伝のための絶好の好機だと考えたのでしょう。
こういう事件がありまして、空海と嵯峨天皇が親しく交わるきっかけが出来ました。桓武(かんむ) 天皇というのは、曲がったことを非常に嫌い、都を京都の移し、新しい気運で政治を再建するというような、あるいは最澄を軸にして仏教の再編成を図るというような、かなり理想主義的な肌あいの天皇でした。これに対して嵯峨天皇というのは、文化的な面にかなり意欲を注いだ人でした。新しいもの好きという感じです。ですから、そこに空海という新しい人物、幅広くあらゆることを身につけて帰ってきて、中国の先進文明のにおいをプンプン漂わせている人物とは、うまが合ったのでした。
空海は、大同(だいどう) 四年から弘仁(こうにん) 三年にかけて、持ち帰った請来(しょうらい) の詩、書、梵字(ぼんじ) の書など中国の先進文化の香り高い品物を嵯峨(さが) 天皇に、あるいは狸毛(たたげ) の筆 (タヌキの毛で作った筆) などを東宮に献上しています。また空海の寄宿していた乙訓寺(おとくにでら) にある柑子(かんす) をとって、やはり嵯峨天皇に献上しています。当時、柑子というのは、文化の香りが高いものだとされていたようです。あるいは、 「世説(せせつ) 」 という中国の書物の中より秀句を選び、空海が書いた 「世説(せせつ) の屏風(へいふう) 」 なども朝廷に献上されています。このように、空海は嵯峨天皇とは非常に肌あいが合ったようです。
空海は、弘仁二年 (811) の十一月から乙訓寺(おとくにでら) の別当(べっとう) つまり主管者に任ぜられます。乙訓寺というのは、今の長岡京市にある、現在でもさびれたお寺ですが、空海の時代にはまったく荒廃しており、空海は僧綱(そうごう) の一人に乙訓寺の伽藍(がらん) 修理の援助を求めております。また、桓武天皇の皇太子であった早良(さわら) 親王がこの乙訓寺に幽閉され、のちに非業の死を遂げた関係から、当時の人たちの間には、この寺に早良親王の亡霊が宿り、それが天皇に病をおこさせるという信仰が根強くありましたから、空海にこの乙訓寺の別当をさせるということは、こいった魂を鎮めよ、という意味があったのかもしれません。 
早良親王の怨霊(御霊)の魂鎮め
空海の身辺は多用多忙がつづいていた。
高雄山寺には実弟である真雅(後の東大寺別当、東寺長者)が来て弟子になるなど、少しずつ密法の弟子の養成がはじまっていた。
年甫テ九歳、郷ヲ辞シ、都二入リ、兄空海二承事シ、真言ノ法ヲ受学ス。(『三代実録』)
別当となった東大寺も官務として堂塔の整備に追われ、さらに講義や法会を通じて密教化の基礎も固めなければならなかった。そこに弘仁2年(811)11月、嵯峨から長岡京の乙訓寺を別当として修築する勅が下った。
乙訓寺は、桓武天皇が平城京を廃して長岡京を造営した際に新都の七官大寺の筆頭として大増築をした。境内は南北100間あったという。そこに、造営使の藤原種継暗殺事件に連座した疑いで桓武の実弟だった早良親王が幽閉された。早良は無実を訴えつづけたが、淡路島に流される途中河内国の高瀬橋の付近で怒りに満ちたまま命を落としている。桓武の後を継いだ平城は、この早良親王の怨霊に悩まされ神経を病んだ。乙訓寺はこの早良親王の怨霊のせいか人法振るわず、以後は荒れていた。おそらく嵯峨は、朝廷の内に隠然と宿る早良の怨霊(御霊)の魂鎮めのために空海の密教をたのんだに相違ない。
この怨霊(御霊)の魂鎮めは、後に空海の後を追うように御霊会として神泉苑や東寺や西寺で行われ、やがて町衆の祭礼(伏見稲荷の稲荷祭(神幸祭)、松尾大社の松尾祭、八坂神社の祇園祭など)に発展してゆく。早良親王の怨霊は「六所御霊」の最初にあげられている。
空海はここに1年止宿して復興に当った。ほぼ務めを果たし高雄山寺に帰ろうといていた弘仁3年(812)10月、最澄が突然、興福寺維摩会の帰り道、弟子の光定をともなってわざわざたずねてきた。空海の正統密教の教示と潅頂受法を要請するためであった。太宰府以来の奇しき対面であった。
おそらく最澄は、内供奉禅師として宮中に出仕した際、あるいは興福寺維摩会に参列した際、空海が東大寺の別当になったことを知って、勢いと運が空海に傾いていることを察知したにちがいない。しかし最澄は最澄で自らの天台宗を確立しなければならず、大乗「菩薩戒」の戒壇建立の夢もある。引くに引けない思いが募るなかで、自らの密教の不備は空海にへりくだってでも正しておきたいと腹をくくったのかもしれない。最澄は正直な人であった。
乙訓寺ニ宿シ、空海阿闍梨ニ頂謁ス。教誨慇懃、具ニ其ノ三部ノ尊像ヲ示シ、又曼陀羅ヲ見セシム。即チ告ゲテ曰ク。空海生年四十、期命尽クベシ、持スル所ノ真言ノ法ハ、最澄闍梨ニ付属スベシ。(『伝教大師消息』)
最澄大唐ニ渡ルト雖モ、未ダ真言ノ法ヲ学バズ。今望ラクハ大毘盧遮那胎蔵及ビ金剛頂法ヲ受学セン。(『伝教大師消息』、円澄の引用)
空海は最澄の要請に応じた。その翌々日、空海は乙訓寺を発って高雄山寺に帰り、11月15日には金剛界、12月14日には胎蔵界の潅頂を行った。
阪急京都線「長岡天神」駅から約2キロ弱、JR東海道線「長岡京」の駅から約2.5キロ、車で10分のところに、乙訓寺がある。観光案内の標識に従ってたずねてみると、今は住宅地にこじんまりとまた遠慮気味にたたずんでいる。往時は奈良の官大寺に匹敵する大伽藍の威容を誇ったにちがいないが、今は昔の面影を偲ぶことも無理である。
現在は真言宗豊山派総本山長谷寺の末寺で、ご本山の有名な牡丹庭園を模範にされたのか境内のあちこちにみごとな牡丹園が整備され、ゴールデンウィークにはたいへんな人出だと聞いた。古寺の法灯を守りながら、花の寺として再生の道を歩まれる山容整備のご苦労がそこここに偲ばれる。
往時は「柑子(こうじ)」という柑橘が境内に実っていて、空海は嵯峨にそれを贈ったという。現在もミカンの木があり、そのそばに説明札が立っている。
乙訓寺ニ数株ノ柑橘アリ。例ニ依ッテ交ヘ摘ンデ取リ来レリ。(『性霊集』) 

●弘法大師 (空海) 
大慈山 乙訓寺(おとくにでら) / 京都府長岡京市今里  
弘法大師 弘仁2年(811) 別当  
この地は、二千年前の弥生時代から多くの人々が住んでいた。継体天皇が弟国宮(おとくにのみや)を築かれたともいわれるこの景勝の地に、推古天皇の勅願を受けた聖徳太子は、十一面観世音菩薩を本尊とする伽藍を建立させた。この寺が即ち乙訓寺である。  
延暦三年(784)、桓武天皇がこの乙訓の地に遷都されたとき、京内七大寺の筆頭として乙訓寺を大増築された。この当時の境域は、南北百間以上もあり建てられた講堂は九間に四間の大建築で難波京の大安殿と同じ規模のもであった。翌年、藤原種継が春宮房の人々により暗殺されるや天皇は皇太子早良親王を当寺に幽閉された。  
嵯峨天皇は、弘仁二年(811)十一月九日太政官符をもって弘法大師(空海)を別当にされた。大師の残されたご事跡も多く、八幡明神の霊告をうけて合体の像を造り(現在の本尊・八幡弘法合体大師像)また、境内に実る柑子を朝廷に献上された。(性霊集に記載)  
弘仁三年(812)十月には、当寺を訪ねられた天台宗祖・伝教大師(最澄)と、密教の法論を交わされ灌頂の儀の契りを結ばれる。(伝教大師の弟子・泰範に宛てた書簡に記載)  
永禄年間(1558〜1569)信長の兵火により一時衰微したが、元禄六年(1693)五代将軍綱吉は、堂宇を再建して乙訓寺法度をつくり、寺領を寄せ徳川家の祈願寺とせらる。  
昭和四十一年(1966)には、講堂や大師がご起居されたと考えられる単独僧坊跡が発掘調査され、出土瓦などにより平安期に隆盛を極めていたことがわかっている。草創から一千三百有余年、時に盛衰はあったが大師ゆかりの真言道場として今日に及んでいる。  

●献柑子
桃李(とうり)雖珍不耐寒
豈(あに)如柑橘(かんきつ)遇霜美
如星如玉黄金質  
香味応堪実簠簋
太寄珍妙何将来
定是天上王母里
応表千年一聖会
攀摘持献我天子
読み下し文
桃李(とうり)珍(ちん)なりと雖(いえど)も寒(かん)に耐えず
豈(あに)柑橘(かんきつ)の霜(しも)に遇って美(び)なるには如(し)かんや
星の如く玉の如し、黄金(こうきん)の質なり
香味(きょうみ)は簠簋(ふき)を実(み)つるに堪えたるべし
太(はなは)だ寄(き)なる珍妙(ちんみょう)、何(いづこ)よりか将(も)ち来る
定めて是れ、天上の王母が里ならむ
千年一聖の会を表すべし
攀(よ)ぢ摘んで持て、我が天子に献ず
語句
簠簋(ふき);祭祀の供え物箱
攀(よ)ぢ摘んで;よじのぼって実を摘む
太;はななだ太好(タイハオ)は現在中国語でも使われますが、空海が恵果和尚に初めて会った時に、恵果和尚が思わず口にしたのがこの「太好!」だったと言われておりますので、むかしからあった中国語です。
寄;この場合は「奇」という意味で、「奇妙」、「珍奇」
応;ここでは「べし」という読みになり、可能や許容を現す意味になります。
天上の王母が里;天井の仙女が住む世界。王母とは仙女の名で、『列仙金伝』という西王母のこと。この王母が仙桃七顆を得て、四つを帝に与え、三つを自ら食べたとされ、その桃は三千年に一度実る珍果であると言われている。以上の故事は『漢武内伝』によります。
千年一聖の会を表すべし;嵯峨天皇を讃嘆している。千年に一度聖人が現れるというが、その聖人(嵯峨天皇)に会った喜びを象徴的に表しているものだと、空海は柑子の珍なる香味を喩えている。
詩の意味
桃は珍しいけれども寒さに耐えられない。みかんが霜に遇っていよいよ美しいのに及ばないのではなかろうか。
星や玉のようであり、黄金の品質である。その香りは、祭祀の供え物箱にいっぱいに満ちている。はなはだ珍奇、珍妙なる味はどこからもたらされたのだろうか。これはきっと天女、西王母がふるさとであろう。
千年に一度聖人が現れるというが、それを表している。木に攀じのぼって実を摘んで、我が聖人たる帝に献上致します。

●空海
宝亀5年(774)護岐国多度郡、で生誕したと伝える。幼名、真魚。父は佐伯直田公、母は阿刀氏。然し近年、生誕地は畿内と言う説もある。『弘法大師空海の研究』(吉川弘文館)参照。延歴7年(788)都に出、母方の舅(おじ)阿刀大足について、論語、孝経・史伝・文章等を学ぶ。後に大学(明経科)に入学し春秋左氏伝、毛詩、尚書等を学ぶ。20歳すぎに大学を去り、山林での修行に入ったとされる。『空海僧都伝』によれば当時の心境を「我習う所は古人の糟粕なり。目前に尚も益なし。況や身斃るるの後をや。この陰已に朽ちなん。真を仰がんには如かず」と伝えている。空海の得度に関しては古来様々に云われてきたが、現在は31歳得度・受戒説が有力となっている。
空海の若き日の苦悩。
なぜ人は生まれて来るのか。人はなぜ老いて病み死んでいくのか。今の人生にどんな意味があるのか。なぜ高い位に生まれ栄華を極める者がいる一方で、生まれながらに体が不自由で貧しく恵まれない者がいるのか。今学んでいる学問に貴重な時間をかけて学ぶ価値があるのか。大學を出て立身出世をして、それが本当に幸福といえるのか。旨く立ち回って出世する者もあれば実直に働いて認められない者もいる。立派な家に住み美しい着物を着て素晴らしい車に乗り瞬く間に過去のものになり消え去る流行を追い求めことが幸せなのか。死とは何か。そして死後にはどんな世界が待っているのか。
空海はこれらの答えを探す為に苦しんでいた。十五歳で上京し十八歳で栄達が約束された大學へ地方豪族の子としては異例の入学が出来た。一族の大きな期待を一身に受けていた。空海の出世が一族の繁栄に繋がる時代であった。都の政治権力闘争の中で造営中途放棄され、空海21歳の時、更に北の平安京へと移された。長岡京造営が始まる。陰謀により早良親王が乙訓寺に幽閉され憤死する。その後も朝廷には不吉なことが多く出現する。四国の讃岐から上京したばかりの多感な青年期の空海は、この激しい政治腐敗と人間の権力や富への果てしない欲望。弱肉強食の世界を見るにつけ深い絶望感を抱く。空海は大學の学問に知的欲求を満たし宇宙の真理を解き明かし又、自からの問いに答え得る真実の輝きがあれば、ひたすら学究の徒としての道もあった。
然し、空海は「今の大學の学問はすでに過去の遺物、かすのようであり、今を生きる者にとっては全く役に立たない。まして死後のことなどを。深く悩む心に光りを当てられない。この身は刻一刻と老いて死に向かっていく。本物を求めよう」このように述べている。空海には兄二人が若くして亡くなっていることも空海に生命の儚さを実感させ、生命とは何かという深い問いを持たせた。空海を宗教哲学の輝く精神へと誘った。一族の期待を担って進んだ大學を悩みながら去った。国が取り締まりに手を焼き弾圧までした私度僧という山林修業者の中に自由を求めて身を投じてしまう。空海の精神は山で癒され満たされ自由を感じていた。山に一人の沙門、僧がいた。その沙門が誰なのかは解らない。奈良の高僧勤操とも言われている。その沙門から一つの秘法を授かる。虛空蔵菩薩の真言を法に従い百万回唱えると、あらゆる教えも教典も立ち所に暗記出来るという。空海はこの法を行じた。山中で眼前に海が洋洋と広がる岬で。
空海を仏教へ誘ったのは教典では無くこの山中や海へ臨んで真言マントラを唱え続けたときに輝いた明星にほかならない。宗教的開悟の原始体験。その光源を極めるための新たなる旅が始まった。
延歴(23年)遣唐大使の乗る第一船で肥前国松浦郡田浦を出航、入唐の途につく。空海の活躍期は9世紀の前半。中国で中唐時期に相当する。中唐は唐詩の第3の興隆期。「駢儷体」に替わる「古文」という新しい散文の文体が形成された時期になる。この時期の詩人では、韓愈、白居易、蜿@元、等、然し空海が彼等と相知る機会は無かった。空海は『文鏡秘付論』に於いて作詩の一般的な規則を提示している。詩を作るに就いて 、声韻の結果によって起こる八つの忌むこと、即ち避けなければならない事が有る。是は、梁の沈約が定めたもので、称して詩の八病と言う。現代の漢詩衰退時には、厳しく戒められないが 、一応この様なことが有る、と認識する程度で良いとされている。「詩の八病」に即いては曾って吉川孝次郎氏が『文鏡秘付論』について批判的な評価をされていた。
詠響喩
口中峡谷空堂裏。    口中 峡谷 空堂の裏
風気相撃声響起。    風気 相い撃ちて声響起こる
若愚若智聴不同。    若しは愚 若しは智 聴くこと同じならず
或瞋或喜匪相似。    或いは瞋り 或いは喜ぶ 相似に匪らず
因縁尋覓曾無性。    因縁 尋に覓む 曾つて無性なり
不生不滅無終始。    不生不滅にして終始なし
安住一心無分別。    一心に安住して 分別すること無かれ 
内風外風誑吾耳。    内風外風 吾が耳を誑かす
聞後夜佛法僧鳥
閑林独座草堂暁。    閑林 独座 草堂の暁
三宝之声聞一鳥。    三宝之声 一鳥を聞く
一鳥有声人有心。    一鳥 声あり 人 心あり
声心雲水倶了了。    声心 雲水 倶に了了
声字実相義
五大皆有響。    五大 皆な響き有り
十界具言語。    十界 言語を具す
六塵悉文字。    六塵 悉く文字なり
法身是実相。    法身は是れ実相なり
過因
莫道此華今年発。    道う莫れ此の華 今年発くと
応知往歳下種因。    応に往歳の種因を下せしを知るべし
因縁相感枝幹聳。    因縁 相感じ枝幹聳へる
何況近日遭早春。    何ぞ況んや近日 早春に逢うことを
献柑子
桃李雖珍不耐寒。    桃李 珍と雖えども 寒さに耐えず
豈如柑橘遇霜美。    豈に柑橘 霜に遇うて美なるに如かん
如星如玉黄金質。    星の如く玉の如く 黄金の質
香味応堪実簠簋。    香味 応に簠簋に実つるに堪るべし
太奇珍妙何将来。    太はだ奇なる珍妙 何こに将ち来る
定是天上王母里。    定めて是れ天上の王母の里ならん
応表千年一聖会。    応に千年 一聖の会を表わすべし
攀摘持献我天子。    攀じ摘まんで持って我が天子に献ずる
中寿感興
黄葉索山野。     黄葉 山野に索め
蒼蒼豈始終。     蒼蒼 豈に始終なるや
嗟余五八歳。     嗟、余は五八歳
長夜念円融。     長夜 円融を念う
浮雲何処出。     浮雲 何処より出づる
本是浄虚空。     本とより是れ 虚空を浄す
欲談一心趣。     一心の趣を 談ぜんと欲す
三曜朗天中。     三曜 天中に朗かなり
般若心経秘鍵
真言不思議。    真言は不思議なり
観誦無明除。    観誦 無明を除く
一字含千理。    一字 千理を含む
即身証法如。    即身 法如を証す
行行至円寂。    行行として円寂に至る
去去入原初。    去去として原初に入る
三界如客舎。    三界 客舎の如し
一心是本居。    一心 是れ本居なり
詠旋火輪喩
火輪随手方与円。    火輪 手に随い 方と円と
種種変形任意遷。    種種 変形は意に任せて遷る
一種阿字多旋転。    一種の阿字は多く旋転す
無辺法義因茲宣。    無辺の法義 茲に因って宣ぶ
現果
青陽一照御苑中。    青陽 一たび照らす御苑の中
梅芯先衆発春風。    梅芯 衆に先んじて春風に発く
春風一起馨香遠。    春風 一たび起こり馨香遠し
華蕚相暉照天宮。    華蕚 相い暉き天宮を照らす
 
 
 
 緒話2

 

●日蓮聖人御書
三沢抄/建治四年二月五十七歳御作
かへすがへすするがの人人みな同じ御心と申させ給い候へ。
柑子一百こぶのりをご等の生の物はるばるとわざわざ山中へをくり給いて候、ならびにうつぶさの尼ごぜんの御こそで一給い候い了んぬ。
さてはかたがたのをほせくはしくみほどき候。
抑仏法をがくする者は大地微塵よりをほけれどもまことに仏になる人は爪の上の土よりもすくなしと大覚世尊涅槃経にたしかにとかせ給いて候いしを、日蓮みまいらせ候ていかなればかくわかたかるらむとかんがへ候いしほどにげにもさならむとをもう事候、仏法をばがくすれども或は我が心のをろかなるにより或はたとひ智慧はかしこきやうなれども師によりて我が心のまがるをしらず、仏教をなをしくならひうる事かたし、たとひ明師並に実経に値い奉りて正法をへたる人なれども生死をいで仏にならむとする時にはかならず影の身にそうがごとく雨に雲のあるがごとく三障四魔と申して七の大事出現す、設ひからくして六はすぐれども第七にやぶられぬれば仏になる事かたし、其の六は且くをく第七の大難は天子魔と申す物なり、設い末代の凡夫一代聖教の御心をさとり摩訶止観と申す大事の御文の心を心えて仏になるべきになり候いぬれば第六天の魔王此の事を見て驚きて云く、あらあさましや此の者此の国に跡を止ならばかれが我が身の生死をいづるかはさてをきぬ又人を導くべし、又此の国土ををさへとりて我が土を浄土となす、いかんがせんとて欲色無色の三界の一切の眷属をもよをし仰せ下して云く、各各ののうのうに随つてかの行者をなやましてみよそれにかなわずばかれが弟子だんな並に国土の人の心の内に入りかわりてあるひはいさめ或はをどしてみよそれに叶はずば我みづからうちくだりて国主の身心に入りかわりてをどして見むにいかでかとどめざるべきとせんぎし候なり。 ・・・

●白隠禅師
・・・ しかしそんなことよりも、本書が看話禅あるいは白話禅としてのコンテクストをよくつくったことに感心したい。いまでは「あなたは体の調子が悪いですね」「よく眠れないでしょう」「ときどき食事をしたくなくなることがあるでしょう」と漠然と畳みこんで、それではねと改めてその解決法に急激に飛んでみせる話は少なくないのだが、そのようなことを相手の体にあずけながら説法する方法は、まさに白隠が開発したものだったのだ。  
そしてもうひとつ感心したことがある。白隠こそは江戸中期において、最もよくタオイズムに精通していたのではなかったかということだ。  
すでにぼくは岡倉天心の『茶の本』初読においてタオイズムにめざめ、ついで内藤湖南と幸田露伴を知ってまたまたタオイズムに出会い、さらに富岡鉄斎の水墨にタオイズムの極上を知った者であるのだが、その後に出会った白隠こそがその先駆をしていたとは思っていなかった。また誰も、白隠からタオの香気を引っ張り出そうとはしてくれなかった。  
これは落ち度であろう。白隠こそは、そして『夜船閑話』こそは日本のタオイズムの近世的出立だったのである。このこと、鈴木大拙や鎌田茂雄には気づいてほしかった。  
白隠の公案と白隠の禅画にふれるチャンスを逃したが、一言ずつ加えておく。  
公案についてはなんといっても「隻手の音声」がよく知られている。両手で打った音があるのなら、片手の音はどう聞くかという公案だ。ぼくはこれを勘違いして、両手で打った音のどっちの手に音が残っているかと掴まえて、何度もその話をいろいろの場面でしてきた。その後、『薮柑子』(白隠の著作)をよく読んでみたらまったく違った意味だった。まあ、いいだろう。公案とはそういうものだ。  
白隠の書画の面目については、これも何度も打ちのめされた。かつてぼくはNHKの日曜美術館で「白隠・仙涯(ガイのフォントがない!)」の番組に出たとき、原の松蔭寺を訪れてそうとうにじっくり白隠を見たのだが、まず、その大きさに驚いた。ついで、その闊達に蕩け、最後にその凛気に吹かれて、たじたじだった。  
そのときとくに自戒したことは、白隠の書画をまねる者は無数にいるが、これは白隠をいったん離れて「楷なるもの」に戻るべきことを教唆しているのではないかと思ったことである。なぜそうなのか、とは問うてほしくない。白隠の「南無阿弥陀仏」を見ればすぐわかる! ・・・  

●葛の葉の子別れ
・・・ ところへ、天下の博士(はかせ)、芦屋道満(あしやどうまん)、参内す。公家大臣、御覧じて、「いかに、道満、今日不思議のことあり。十三四なる、童(わらわ)参内せしめ、御門の御悩を、占ひ奉り、たちまち、御平癒、なられ候」と、一々語らせ給へば、道満、大きに驚きしが、さらぬ体(てい)にて、「さてその者は、いづくのたれと申し上げて候」。「されば、摂州、安部の晴明(はるあきら)、と名のり、すなはちかれが父、安部の保名といふ者、連れて参内いたしたり」。道満心に思ふやう、「さては先年、わが弟の悪右衛門を、討ちたる敵(かたき)よな。きやつを、いろいろ尋ねしが、いづくにか、忍びつらん。わが身の妨げ、まして敵なれば、いかでそのまま置くべきや」と、「さておのおの、その童が、占形、まことと思しめすか。まづ、案じても御覧候へ。この道満が、占形と申すは、唐土(もろこし)にても並びなき、法道仙人の伝へ、天下に一人の者と呼ばれしそれがしが、さやうの浅々しきことにて、御平癒なるべきを、存ずまじきや。ああ愚かなる仰せや」と、頭(かしら)を振つてぞ申しける。人々のたまふは、「いかに御分(ごぶん)、申されても、御悩そのまま平癒なり、まして蛇蛙(へびかわず)取り出だす。これに過ぎたる証拠なし」と、口をそろへて申さるる。道満聞きて、「いや御平癒、なられしは、まづ典薬頭、心を尽くされ、諸寺の高僧、加持護念の行なひ、数ならねども、この道満、このたびにおいては、玉体、危うく存じ、ありとあらゆる、諸典の、考へ、工夫仕り、祈りしゆゑ、御平癒なられて候を、とくより存じ、さてこそ参内申したり。また、蛇蛙ありしは、たれにても候へ、かの者どもに、心を通はす方(かた)あつて、わざと押し入り、置きたるにて候。御平癒の、よき折からに、参内して、奇特の誉(ほま)れを取るは、あつぱれ、果報の者にて候。かやうに申せば、なにとやらん、そねみ申すに、似たれども、一つは君の御ため、もつたいなくも、天子を掠(かす)めし、悪人に、所領を給はり、あまつさへ、御綸旨まで下さるる。それがしかくてありながら、さほどのことを知らぬかと、末の世までの人口(じんこう)に、かからんと存じ、かやうに、申し奉る。これ偽りならば、かの者を召され、それがしと占形の、奇特を競(くら)べさせて、御覧候へ。実否(じっぷ)、明らかに知れ申さん」と、はばかりなくぞ申しける。公卿、詮議あつて、やがて奏聞なされける。内よりの宣旨には、「もつともなり。かつうは、不思議を晴らさんため、すなはち明日南殿(なんでん)にて、その勝劣を、糾(ただ)せ」と、宣旨あり。道満喜び、御前を立ち、清明方へは、勅使立ち、はや用意とこそ、三重聞こえけれ。
すでに、その日に、なりしかば、清明親子、道満、未明よりも参内す。御門、南殿に、出御(しゅつぎょ)なれば、公家、殿上人、残らず、はなやかなりし、見物なり。内よりの宣旨には、「それぞれ両方、奇特を競(くら)べ、いづれにても、勝ちたるを、師匠、負けたるを、弟子にして、いよいよ、行なふべし」との、宣旨なり。両方「はつ」と、勅答す。そのとき、内より、唐櫃を、数十人して舁(か)き出だす。さて中には、猫二匹入れ、錘(おもり)をかけたり。「この中(うち)なる物を、占ひ申せ」と、宣旨あり。そのとき、道満、「いかに清明、その方は、占形名人と聞く。さだめて、それがし御弟子になるべき間、諸事指南にあづからん」と、嘲る体(てい)にぞ申しける。清明聞きて、「おうそれは、互ひなり。さてそれがし、占ひ申さんや。ただし、御分(ごぶん)占ひ給ふか」。道満聞きて、「まづその方、占ひ給へ」と、さも大様(おおよう)にぞ申しける。そのとき、清明考へて申し上ぐる。「この唐櫃の中は、猫二匹候はん」と、占ひける。道満、はつと思ひしが、さらぬ、体(てい)にて、「これは奇特に、占はれたり。いかにも、猫にて候。毛色は、赤白(しゃくびゃく)なり」と申す。人々立ち寄り、蓋を取りて見れば、くだんの猫、現はれたり。月卿雲客、はつと感じ給ひける。然れども、これは勝ち負けの、しるしなしと、また内より、大きなる、三方(さんぼう)の上に、覆ひをかけ、その中に、大柑子(こうじ)を十五入れ、すなはち持ち出で、「これも中(うち)なる物を、占へ」との宣旨なり。今度は、道満、苛(いら)つて申し上ぐる。「この中には、大柑子十五候」と、勢(いきおい)掛かつて申し上ぐる。清明もとより名人なれば、柑子とは、知つたれども、さすが、名誉の者なれば、ここぞ、奇特をあらはすところと思ひ、やがて、加持し、転じ変へて、申し上ぐる。「この中なるは、大柑子にては、あるまじく候。鼠十五匹候」と、申し上ぐる。御門を始め、公家大臣、さてこそ、清明、占形は仕損じたりと、つつやきささやき、互ひに、目と目を見合はせ、ただ、清明が顔を、守つてゐたりける。道満、しすましたりと喜び、「なんと人々、いづれか違ひ候はん。さだめて、それがしが占ひこそ、違ひつらん。いかに清明殿、ただ今申し上げられしに、別に変りは候はぬか。蓋を取つてその後、かまひて、悔み給ふな」と、勢掛かつて申しける。保名も、今は急(せ)き色になり、額(ひたい)に汗を流し、「やれ清明、変ることはこれなきか。かならず卒爾申すな」と、急(せ)ききつてぞ申しける。清明、少しも騒がず、「御気づかひあるべからず。いそぎ蓋を取り給へ」と申す。ぜひなく、人々、立ち寄つて、蓋を取れば、柑子はなくして、鼠十五匹駈け出づる。四角八方へ駈け回る。そのとき最前の二匹の猫、かの鼠を見るよりも、そのまま駈け出で、追つつめ、ぼつかけ、あるいは、くはへて振り回し、かなたこなたへ、飛び巡れば、御門を始め、公家、大臣、后、官女、もろともに、御簾(みす)も几帳(きちょう)も、さざめきて、「さてさて奇特の清明や」と、感じ給ふ御声、フシしばしは鳴りも静まらず。始め、勇みし、道満は、清明が弟子と、しほしほと御前を立つ。さて清明には、数の褒美を給はり、やがて御前を罷り立てば、父はうれしく、「ああ仕りたり、清明。イロわが子ながらも、不思議の者や」と、あふぎたてあふぎたて、屋形をさして帰りける。保名がうれしさ、清明が奇特のほど、例(ためし)まれなる、相人(そうにん)やと、みな感ぜぬ者こそなかりけれ。 ・・・  

●愛護若
玉手御前
合邦道心の娘お辻は、河内の国の大名高安左衛門の後妻玉手御前となり、先妻の遺児俊徳丸に道ならぬ恋をする。毒を飲ませて癩病にした俊徳丸を追って館を出奔、合邦庵室で俊徳丸を口説く。見かねた父に刺され、実は俊徳丸を救うための偽りの恋だったと本心を明かす。寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に生まれた玉手の肝の生血を鮑貝の盃に入れて飲むと俊徳丸は本復し、継母のために月江寺(げっこうじ)を建立することを誓う(「合邦庵室」)。
高安の長者の後妻が、わが子のために嫡子信徳丸(しんとくまる)をのろい癩病にする話(説教節『信徳丸』)に、二条蔵人の後妻が嫡子愛護の若(あいごのわか)に惚れて口説くが相手にされず、讒訴して愛護の若が漂泊する話(説教節『愛護の若』)を重ねたもの。説教は、『今昔物語』巻四の四。天竺の狗拏羅(くなら)太子という美しい大使が眼(まなこ)を抉り取られるが、人々の涙で洗うともとの姿に戻ったという仏教説話。玉手御前の名は、市天王寺の「玉出の水」(白石玉出水)に拠る。白い石より湧き出る清水で、慈悲心をもって飲むと法薬になり、亡者の霊魂を弔うというので彼岸中、お盆の七月十六日などに人々が群集した(『摂州名所図会大成』巻之五)。寅の年月日などが揃う「三時合(さんじごう)」「四時合(よじごう)」の趣向も、『阿弥陀の胸割』などの説教節のもの。俊徳丸物の先行作『莠伶人吾妻雛型』の初花姫の格。鮑貝の盃は、四天王寺西方(さいほう)の料理茶屋「浮瀬(うかむせ)」の名物。月江寺は、子を産むことなく死んだ女性を弔うために創建された尼寺であった。
玉手御前の年齢は、原作では「十九(つづ)や二十(はたち)」。大阪の女形四代目山下金作や二代目中山南指が玉手御前を「抱え帯」(前帯)姿の年増で演じ、歌舞伎では玉手御前を原作より年齢の高い女性として演じるようになった。眼目となる「面はゆげなる玉手御前」のクドキ(さわり)を歌舞伎では二つに分けて、「なおいやまさる恋の淵」からを俊徳丸へのクドキにする。現行では、歌舞伎、文楽ともに盆灯篭を灯す夏の物語として演出するが、原作は春の彼岸。幕切れに玉手御前が、「吹き払う迷いの空の雲晴れて」と言う辞世の歌を詠むのも歌舞伎の入れ事である。扮装は、黒または紫紺の留袖で裾模様に藪柑子(やぶこうじ)などを描く。鬘は、町人風の丸髷または武家奥方の勝山、公家風の下げ下地を用いることもある。花道の出に被る頭巾も、演出により黒または紫になる。
聖徳太子二千百年忌の年、安永二(1773)年に大阪竹豊座の人形浄瑠璃で初演。再演は寛政四(1792)年で、このときから上下二段のうち下の巻のみの上演になる。歌舞伎での初演の記録は、天保六(1835)年に大阪の四代目山下金作が上京して京四条北側の芝居で上演したものが早い。参考文献=古井戸秀夫「玉手の恋」(『歌舞伎━問いかけの文学』ぺりかん社、平成十年)、「帝国劇場、歌舞伎座『合邦』合評会」(『新演劇』大正八年七月)。 

●大鏡
・・・ ○ の空夜半(よは)のけぶりとのぼりなば海人(あま)の藻塩火(もしほび)焚(た)くかとや見む 
かかるほどに、御験(ごげん)いみじうつかせ給(たま)ひて、中堂(ちゆうだう)にのぼらせ給(たま)へる夜(よ)、験競(げんくら)べしけるを、試(こころみ)むと思(おぼ)し召(め)して、御心(みこころ)のうちに念(ねん)じ御座(おは)しましければ、護法(ごほふ)つきたる法師、御座(おは)します御屏風(びやうぶ)のつらに引きつけられて、ふつと動きもせず、あまりひさしくなれば、今はとてゆるさせ給(たま)ふ折ぞ、つけつる僧どものがり、をどりいぬるを、「はやう院(ゐん)の御護法の引き取るにこそありけれ」と、人々あはれに見奉(たてまつ)る。それ、さることに侍(はべ)り。験(げん)も品(しな)によることなれば、いみじき行(おこな)ひ人(びと)なりとも、いかでかなずらひまうさむ。前生(ぜんしやう)の御戒力(かいりき)に、また、国王の位をすて給(たま)へる出家(すけ)の御功徳(くどく)、かぎりなき御ことにこそ御座(おは)しますらめ。ゆく末までも、さばかりならせ給(たま)ひなむ御心には、懈怠(けだい)せさせ給(たま)ふべきことかはな。それに、いとあやしくならせ給(たま)ひにし御心あやまちも、ただ御物(もの)の怪(け)のし奉(たてまつ)りぬるにこそ侍(はべ)めりしか。
なかにも、冷泉院の、南院(みなみのゐん)に御座(おは)しましし時、焼亡(せうまう)ありし夜(よ)、御とぶらひに参(まゐ)らせ給(たま)へりし有様(ありさま)こそ不思議に候(さぶら)ひしか。御親の院は御車(みくるま)にて二条町尻(まちじり)の辻(つじ)に立たせ給(たま)へり。この院は御馬にて、頂(いただき)に鏡いれたる笠、頭光(づくわう)に奉(たてまつ)りて、「いづくにか御座(おは)します、いづくにか御座(おは)します」と、御手づから人ごとに尋ね申(まう)させ給(たま)へば、「そこそこになむ」と聞(き)かせ給(たま)ひて、御座(おは)しましどころへ近く降りさせ給(たま)ひぬ。御馬の鞭腕(むちかひな)に入れて、御車の前に御袖(そで)うち合(あは)せて、いみじうつきづきしう居(ゐ)させ給(たま)へりしは、さることやは侍(はべ)りしとよ。それにまた、冷泉院の、御車のうちより、高やかに神楽歌(かぐらうた)をうたはせ給(たま)ひしは、さまざま興(きよう)あることをも見聞(き)くかなと、おぼえ候(さぶら)ひし。明順(あきのぶ)のぬしの、「庭火(にはび)、いと猛(まう)なりや」と宣(のたま)へりけるにこそ、万人(ばんにん)えたへず笑ひ給(たま)ひにけれ。
あてまた、花山院の、ひととせ、祭(まつり)のかへさ御覧(ごらん)ぜし御有様(ありさま)は、誰(たれ)も見奉(たてまつ)り給(たま)ひけむな。前の日、こと出(いだ)させ給(たま)へりしたびのことぞかし。さることあらむまたの日は、なほ御歩(あり)きなどなくてもあるべきに、いみじき一(いち)のものども、高帽頼勢(かうぼうらいせい)を始(はじ)めとして、御車(みくるま)のしりに多くうちむれ参(まゐ)りしけしきども、いへばおろかなり。なによりも御数珠(ずず)のいと興(きよう)ありしなり。小さき柑子(かうじ)をおほかたの玉には貫(つらぬ)かせ給(たま)ひて、達磨(だつま)には大柑子(おほかうじ)をしたる御数珠、いと長く御指貫(さしぬき)に具(ぐ)して出(いだ)させ給(たま)へりしは、さる見物(みもの)やは候(さぶら)ひしな。紫野(むらさきの)にて、人人、御車に目をつけ奉(たてまつ)りたりしに、検非違使(けびゐし)参(まゐ)りて、昨日、こと出(いだ)したりし童(わらは)べ捕(とら)ふべし、といふこと出(い)できにける物(もの)か。このごろの権(ごん)大納言(だいなごん)殿、まだその折は若く御座(おは)しまししほどぞかし、人走らせて、「かうかうのこと候(さぶら)ふ。とく帰らせ給(たま)ひね」と申(まう)させ給(たま)へりしかば、そこら候(さぶら)ひつるものども、蜘蛛(くも)の子を風の吹き払(はら)ふごとくに逃げぬれば、ただ御車副(みくるまぞひ)のかぎりにてやらせて、物見車(ものみぐるま)のうしろの方より御座(おは)しまししこそ、さすがにいとほしく、かたじけなくおぼえ御座(おは)しまししか。さて検非違使つきや、いといみじう辛(から)う責(せ)められ給(たま)ひて、太上(だいじやう)天皇(てんわう)の御名は下(くだ)させ給(たま)ひてき。かかればこそ、民部卿殿の御いひ言(ごと)はげにとおぼゆれ。
さすがに、あそばしたる和歌は、いづれも人の口にのらぬなく、優(いう)にこそ承(うけたまは)れな。「ほかの月をも見てしがな」などは、この御有様(ありさま)に思(おぼ)し召(め)しよりけることともおぼえず、心ぐるしうこそ候(さぶら)へ。あてまた冷泉院に笋(たかうな)奉(たてまつ)らせ給(たま)へる折は、
○ の中にふるかひもなきたけのこはわが経(へ)む年を奉(たてまつ)るなり 
御返し、
○ 経ぬる竹のよはひを返してもこの世をながくなさむとぞ思(おも)ふ
「かたじけなく仰(おほ)せられたり」と、御集(ぎよしふ)に侍(はべ)るこそあはれに候(さぶら)へ。誠(まこと)に、さる御心(みこころ)にも、祝ひ申(まう)さむと思(おぼ)し召(め)しけるかなしさよ。
この花山院は、風流者(ふりうざ)にさへ御座(おは)しましけるこそ。御所(ごしよ)つくらせ給(たま)へりしさまなどよ。 ・・・

●今昔物語集
池尾の禅珍内供の鼻の語
今は昔、池尾と云ふ所に禅珍内供と云ふ僧住みき。身淨くて眞言など吉く習ひて、懃ろに行法を修して有りければ、池尾の堂塔・僧房など露荒れたる所無く、常燈・佛聖なども絶えずして、折節の僧供・寺の講説など滋く行はせければ、寺の内に僧坊 無く住み賑はひけり。湯屋には寺の僧共、湯涌さぬ日無くして、浴み りければ、賑ははしく見ゆ。此く榮ゆる寺なれば、其の邊に住む小家共、員數た出で來て、郷も賑はひけり。
然て、此の内供は、鼻の長かりける、五六寸許なりければ、頷よりも下りてなむ見えける。色は赤く紫色にして、大柑子の皮の樣にして、つぶ立ちてぞ れたりける。其れが極じく痒かりける事限無し。然れば、提に湯を熱く涌して、折敷を其の鼻通る許に窟ちて、火の氣に面の熱く炮らるれば、其の折敷の穴に鼻を指通して、其の提に指入れてぞ茹で、吉く茹でて引き出でたれば、色は紫色に成りたるを、喬樣に臥して、鼻の下に物をかひて、人を以て踏ますれば、黒くつぶ立ちたる穴毎に、煙の樣なる物出づ。其れを責めて踏めば、白き小蟲の穴毎に指出でたるを、鑷子を以て抜けば、四分許の白き蟲を穴毎よりぞ抜き出でける。其の跡は穴にて開きてなむ見えける。其れを亦同じ湯に指入れてさらめき、湯に初の如く茹づれば、鼻糸小さく萎み まりて、例の人の小さき鼻に成りぬ。亦二三日に成りぬれば、痒くて れ延びて、本の如くに腫れて大きに成りぬ。此くの如くにしつつ、腫れたる日員は多くぞ有りける。 ・・・
三獣行菩薩道兎焼身語
今昔、天竺に兎・狐・猿、三の獣有て、共に誠の心を発して、菩薩の道を行ひけり。各思はく、「我等、前世に罪障深重にして、賤き獣と生たり。此れ、前世に生有る者を哀れまず、財物を惜て人に与へず、此の如くの罪み重くして、地獄に堕て、苦を久く受て、残の報にかく生れたる也。然れば、此の度び、此の身を捨てむ」。年し、我より老たるをば、祖の如くに敬ひ、年、我より少し進たるをば、兄の如くにし、年、我より少し劣たるをば、弟の如く哀び、自らの事をば捨てて、他の事を前とす。
天帝釈、此れを見給て、「此等、獣の身也と云へども、有難き心也。人の身を受たりと云へども、或は生たる者を殺し、或は人の財を奪ひ、或は父母を殺し、或は兄弟を讎敵の如く思ひ、或は咲(ゑみ)の内にも悪しき思ひ有り、或は慈(いつくしび)たる形にも嗔れる心深し。何況や、此の獣は、実の心深く思ひ難し。然らば試む」と思して、忽に老たる翁の、無力にして、羸(つか)れ術無気なる形に変じて、此の三の獣の有る所に至給て宣はく、「我れ、年老ひ羸れて、為む方無し。汝達三の獣、我れを養ひ給へ。我れ、子無く、家貧くして、食物無し。聞けば、汝達三の獣、哀びの心深く有り」と。
三の獣、此の事を聞て云く、「此れ、我等が本の心也。速に養ふべし」と云て、猿は、木に登て、栗・柿・梨子・菜(なつめ)・柑子・𦯉1)(こくは)・椿(はしばみ)・𣗖2)(いちひ)・郁子(むべ)・山女(あけび)等3)を取て持来り。里に出ては、苽(うり)・茄子・大豆・小豆・大角豆(ささげ)・粟・薭(ひえ)・黍(き)び等を取て、好みに随て食はしむ。狐は、墓屋(つかや)の辺に行て、人の祭り置たる粢(しとぎ)・炊交・鮑・鰹・種々の魚類を取て持来て、思ひに随て食はしむるに、翁、既に飽満しぬ。
此の如くして、日比を経るに、翁の云く、「此の二の獣は、実に深き心有りけり。此れ、既に菩薩也けり」と云ふに、兎は励の心を発して、灯を取り、香を取て、耳は高く、𤹪(くぐ)せにして、目は大きに、前の足短かく、尻の穴は大きに開て、東西南北求め行(あ)るけども、更に求め得たる物無し。然れば、猿・狐と翁と、且は恥しめ、且は蔑(あな)づり咲ひて励ませども、力及ばずして、兎の思はく、「我れ、翁を養はむが為に、野山に行くと云へども、野山、怖しく破(わり)無し。人に殺され、獣に噉はるべし。徒に心に非ず身を失ふ事量無し。只如かじ、我れ、今、此の身を捨てて、此の翁に食はれて、永く此の生を離れむ」と思て、翁の許に行て云く、「今、我れ、出でて甘美の物を求め奉らむとす。木を拾ひて、焼て待ち給へ」と。然れば、猿は木を拾ひて来ぬ。狐は火を取て来て、焼付けて、「若しや」と待つ程に、兎、持つ物無くして来れり。
其の時に、猿・狐ね、此れを見て云く、「汝ぢ、何物をか持て来らむ。此れ、思つる事也。虚言を以て人を謀て、木を拾はせ、火を焼せて、汝ぢ、火に温(あたたま)らむとて、穴憎く」と云へば、兎、「我れ、食物を求て持来るに力無し。然れば、只我が身を焼て、食ひ給ふべし」と云て、火の中に踊入て焼死ぬ。
其の時に、天帝釈、本の姿に復して、此の兎の火に入たる形を、月の中に移して、普く一切の衆生に見しむが為に、月の中に籠め給ひつ。
然れば、月の面に、雲の様なる物の有るは、此の兎の火に焼たる煙也。亦、「月の中に兎の有る」と云は、此の兎の形也。万の人、月を見む毎に、此の兎の事、思出すべし。

●伊沢蘭軒
二百五十五
わたくしは榛軒弘化丁未杪冬の詩と、曾能子刀自の記憶する一話とを此に併せ録する。詩に云く。「邇来量滅病酲頻。孤枕小屏日相親。囊物常無半文儲。盆梅頼報一分春。家中長短宜封口。世上嘲譏足省身。遠大思懐灰燼了。遂為売薬白頭人。」
次に刀自の語る所はかうである。刀自が十三歳の時の事であつた。父榛軒は数日来感冒のために引き籠つてゐて、大晦を寝て暮した。そこへ石川貞白が訪ねて来たが、其云為には周章の状が著かつた。そして榛軒に窮を救はむことを請うた。榛軒は輒ち応へずして、貞白をして一組の歌がるたを書せしめた。貞白は已むことを得ずして筆を把つたが、此時上下の句二百枚を書くのは、言ふべからざる苦痛であつた。しかし書き畢つた比は、貞白が稍落着いた。榛軒は方纔篋を探つて、金三十両を出してわたした。貞白は驚喜してこれを懐にして去つたと云ふのである。
推するに榛軒は貞白の神定まるを候つて金を授けたのであらう。自ら「囊物常無半文儲」を歎じつゝも、友を救ふがためには、三十金を投じて惜む色がなかつた。此三十金は必ずや事ある日のために蔵してゐて、敢て自家のために徒費しなかつたものであらう。榛軒の生涯は順境を以て終始したので、その人と為を知るべき事実が少い。わたくしが刀自の此一話に重きを置く所以である。
此年猶榛軒詩存中に「賀関氏子」の七絶がある。関某の誰なるかは未詳であるが、榛軒は其子の「廟堂器」たらむことを期してゐる。
北条霞亭の養嗣子進之が始て仕籍に列し、舎を福山に賜つたのも亦此年である。会々進之の妻山路氏由嘉が病んで歿した。跡には十歳の子念祖が遺つた。
此年榛軒四十四、妻志保四十八、女柏十三、柏軒と妻俊とは三十八、女洲七つ、国四つであつた。蘭軒の女長は三十四、蘭軒の姉正宗院は七十七であつた。
嘉永元年(1848)には榛軒詩存に、「弘化五戊申初春偶成」の七絶がある。「去歳漫蒙債鬼窘。囊中払尽半文無。先生私有遊春料。柑子一双酒一壺。」丁未杪冬の頷聯と併せ読んで伊沢氏の清貧を想ふ。
次に詩中月日の徴すべきものは、「嘉永元戊申十二月朔夜作」の七絶である。「畏縮去年今日栄。野人浪上玉京城。酔濃客散三更後。一枕水声睡味清。」詩は何れの地にあつて作られたかを知らぬが、末句の水声には山中に宿したらしい趣がある。
柏軒身上には此年種々の事があつたらしい。先づ事の重大にして蹟の明確なるものより言はむに、柏軒は十月十六日に「医学館医書彫刻取扱手伝」を命ぜられた。次にわたくしは側室佐藤氏春の柏軒に仕へたのが此年よりせられたであらうと推測する。次年己酉の四月には春が嗣子磐を生んでゐるからである。
二百五十八
わたくしは此年庚戌の正宗院八十の賀に、清川安策の五古があつたと云つた。今これを下に写し出す。
「賀正宗尼君八十初度、漫賦十韻以代戯話。天錫無疆寿。譬諸松栢栄。繁枝庇百草。心堅而操貞。昔日絶世累。晩節傲玄英。窮陰無衰態。足以慰物情。仙鶴棲其上。有雛揚家声。二字誰所命。称其宗之正。請看甘冽酒。与君同美名。老後最多福。奉養有両甥。松下聞鶴唳。筵間金尊盈。雲仍遶膝坐。交起挙賀觥。梧陰廃叟拝具。」花天月地の同巻中に榛軒に此詩を寄せた時の添書があつて、「口上茶番に代候例の譫言」とことわつてある。此書状にはトと署してあり、又詩箋にも「清川」と「ト」との二印がある。日附は「蜡月十二日」である。徳さんに質すに、清川玄策、名はト、号は梧陰又藹軒であつたと云ふ。蘭軒門人録に「清川玄道、初安索、江戸」(安は玄、索は策か)とあり、榛軒門人録に「清川安策、岡」とある。梧陰は前者であらうか。榛軒詩存に唱和の詩数首があつて、皆「清川安策」とのみ書してあるが、それは後者であらう。渋江保さんの言に従へば、清川トに二子があつて、兄を玄策徴と云ひ、弟を安策孫と云つた。此孫が順養子となつたさうである。按ずるに梧陰は蘭門の玄道で榛門の安策の父ではなからうか。梧陰の齢は逈に榛軒より長じてゐたらしい。
曾能子刀自の語る所に拠れば、正宗院の賀筵は十二月中三日間引き続いて開かれたさうである。果して然らば十一、十二、十三日であらう。梧陰の詩は其中の日に贈られたのである。又刀自の言を聞くに、榛軒は此賀筵を催すに当つて黒田家に請ひ、正宗院を丸山の家に遷らしめたさうである。丸山の家の図に正宗院の居室のあつたことは前に云つた如くである。
わたくしは上に此年三事の記すべきものがあつたと云つて、榛軒の日光山の遊、正宗院の八十の賀、梅の誕生を挙げた。梅は榛軒の初に迎へた女壻全安の柏に生ませた女である。わたくしは其生日を知らぬが、全安の伊沢氏を冒してゐた期間より推すに、庚戌三月よりは遅れなかつただらう。
最後にわたくしは榛軒詩存中より、「嘉永三庚戌冬夜直舎即事」の詩を抄出する。「酔醒人散三更後。独擁銅炉臥官楼。撃柝響時寒愈急。宿鴉鳴処月将浮。尋得残酒尋残夢。憶来旧詩憶旧遊。世事初知消気カ。笑看半点暁灯油。」
此年榛軒四十七、妻志保五十一、女柏十六、孫女梅一つ、柏軒笠妻俊四十一、女洲十、国七つ、柏軒の妾春二十六、蘭軒の女長三十七、蘭軒の姉正宗院八十であつた。
嘉永四年(1851)は蘭軒歿後第二十二年である。榛軒に元旦の詩がある。「嘉永四辛亥元旦、与塾中諸子同分韻得看、近日諸子学術頗進、後句及之。団欒児女迎新歳。更献椒杯又進肴。恰恰山禽呼屋角。暉暉旭日上梅梢。青州従事頻通好。白水真人久絶交。諸子精研尤可喜。先生自此酔東郊。」榛軒詩存巻首の詩である。尋で「嘉永四辛亥初春偶成」の詩がある。「飽食暖衣慚此身。又逢四十八青春。少年宿志渾灰燼。遂為尋常白首人。」此詩の転結は四年師杪冬の七律第七八と殆全く同じである。皆稿を留めざる矢口肆筆の作である。「遠大思懐灰燼了。遂為売薬白頭人。」
十月二十四日に榛軒は福山の執政高滝某を旅館に訪うた。「嘉永四辛亥十月廿四日、与立夫魯直酔梅家弟柏軒、同訪高滝大夫旅館、此日大夫遊篠池、有詩次韻。昔年今日訪君家。記得林泉清且嘉。亡友共算暁星没。問齢同歎夕陽斜。詩題檠上奇於壁。酒満尊中何当茶、酔渇頻思蜜柑子。二千里外福山賖。」高滝大夫の称は樸斎詩鈔、藤陰舎遺稿等に累見してゐる。武鑑に「年寄、高滝左仲」と云ふは此人か。撲斎に「弔高滝常明君墓」の詩がある。常明は左仲の名ではなからうか。同行者立夫は森枳園、魯直は岡西玄亭である。酔梅は朱だ考へない。
 
 
 
 緒話3

 

●抒情小曲集
「故郷を辞す」 1925
・・・ しかし何と言つても兼六公園と別れるのは、わたしが故郷に一年もゐる間に一番深く馴染んでゐるだけ心は惹かれがちであつた。用なしのわたしは何かのついでには此の公園に来て、泉滴の音を聴いたり茶店に坐つたりしてゐたのだつたが、いま此処を去ると思ふと一さう沁沁した気持ちになつた。わたしが噴水のほとりの松の老い木が繁つたあたりに出たとき、霰はまた一と頻り走つて青い苔の上に点点たる時ならぬ梅花を散らした。この地方の苔の美しさは四季を通じて冬の初めが一番色が冴え、そして雪の下敷になつて萌えてゐた。町によくある築地の石垣、または崖や屋根の上の苔など、雪のまだらななかに艶乎して鮮苔の色を深くした。いま、わたしの数歩前の松の根本から一面の苔が烈しい寒さにも劣らずに苔を燃やしてゐる。冬でなければ見られぬ鮮やかな色であつた。
町をつつんだ木はすつかり裸になり、ところどころの庭のある家家には、小盃の絵三島のやうな渋い立木と落葉とにうづもれてゐる。十一月になると庭を掃かうとしない町の人人は、しぐれと霰とに色の変りかけた柿色の庭庭を荒れたままうつちやつて置いてあつた。落葉を叩くそれらの雨やあられの音は、俳句の題の身に沁むにはすこし遅いやうではあるが、全く身に沁みる風景の数数であつた。わたしは柑子の黄ろくなつた庭さきや、茶の花が白く覗いてゐる玄関先き、または累累として実だけ残つて柿の木のある畑地などを見返りながら、寂しいうそ寒い散歩をつづけてゐるうちに、幾たびとなくくさめをするために外套の袖から手を出したりした。ただ一切が心の底へぞつくりと応へる風色である。その木の姿なぞ肌身に映つてくるやうな気がした。濡れた瘠せほそれた枯木の姿の、好ましい立ちすくんだ枝枝が心に触つてくる。……
家へ帰ると門の前に川漁師が二人、川岸づたひに歩いてくるわたしの姿を見て、防寒帽を眼深にかぶつたまま挨拶をした。見ると一人の男は一疋の大鮭を下げてゐる。それが光つて見える。――前の川で今|漁(と)れたのだと言つて海苔のやうな濃い蒼い脊中をしてゐる鮭を玄関の石の上に置いた。女の大腿くらゐある腹に朝焼けのやうな紅みが走つてゐて、大きなあぎとがぱつくりと動いた。眼はまだ活きてゐて美しかつた。わたしはその蒼い脊中に矢羽のやうにつつ立つてゐるひれに指をふれた。腹がふくれてゐるところから見るとめすらしかつた。めすの鮭は卵をうみつけるときに、自分の頭で川底の砂利を二尺四方くらゐ穴を掘るさうである。どうかすると、さういふ穴を三つも四つも見つけることがあつて、その中に鮭がじつと泳ぎ澄んでゐるさうであつた。何だか物凄く立派な画布がわたしの心を惹いた。漁師が去つてしまつてからわたしは永い間この美事な魚を感心してながめた。腹の中に二たすぢのすぢ子がうすい袋におさめられ、柘榴のやうに透明な紅い色をたたへてゐた。口の中へ入れると花火のやうにつぶれた。不思議な液体があふれた。むかしのわたしなら「ルビーを食ふ人」とかいふ題で、何かしやれた一篇の詩をかいたらうにと苦笑した。 ・・・
「名園の落水」 1966
・・・ 「これが厠でございます。」
厠は二畳敷でむかしは畳が敷いてあつたさうだが今は板じきで、次の間がついてゐる。――壺には蓋がしてあつて止り木のやうな取手がついてあつた。三尺障子が二枚、うす曇りの明るみを静かにはらんでゐる。――わたしは当然想像すべきことをわたしの頭から追ひ払ふことにした。
この部屋からは先刻の庭が一望される……奥ほど大木の茂りを見せ、前ひろがりに明るみを引き、樹を低く池を中心にした庭は、兼六公園のところどころにあるかなめに似てゐた。それゆゑ同じ庭つくりの系統をひいてゐることが分つた。流れには土に食はれた石にもいい姿をしてゐるのがあつたが、大したものがなかつた。成程古い。しかもその古さは荒れてゐる。荒れかかつてゐるのは人工を加へないで、自然に荒れてゐるのが気もちよいと思つた。
本多邸を出て兼六公園へ行つて見る気がした。いつも東京からの客の案内役をしてゐて一人でゆつくり行つたことがないからである。翠滝の洲にある夕顔亭に李白の臥像を彫り出した石盥があつた。水はくされてゐて虫が浮いてゐる。お取り止めの石ださうであるが、蒼黒い肌をしてゐて一丈くらゐ廻りのある大椎の立木のかげにあつた。
滝壺のすぐわきにお亭があつた。お亭の下は池の水が滝の余勢で弛く動いてゐる、お茶をのむためにむしろ冷爽すぎるお亭の中へ這入つて見た。十年前に一度這入つたがいまが初めてである。池の中洲に海底石の龕塔(がんたふ)が葉を落した枝垂桜(しだれざくら)を挿んで立つてゐる。それを見ながら横になつてゐると、滝の音とは違ふ落ち水のしたたりがお亭の入口の方でした。小さい崖になつてゐて丸胴の埋め石へ苔からしぼられた清水が垂れる些(ささ)やかな音だ。そこは四尺とない下駄をぬぐところである。よく見ると白い寂しい茸が五六本生えてゐて、うすぐもりの日かげが何時(いつ)の間にか疎いひかりとなり、藪柑子(やぶかうじ)のあたまを染めてゐる。これはいいなと思ひ、わたしは龕塔(がんたふ)の方へ向けたからだを落水の方へゐなほした。そのとき一丈三尺の龕塔の頂上の一室に何だか小さい石像のほとけさんが坐つてゐるやうな気がして、また首をねぢむけたが、そんなものがゐる筈がない。寂然と四方開いてゐて、松の緑を透した空明りが見えた。秋おそく落ち水聴くや心冴ゆ……でたらめを一句つくり茶をのんで、けふは実に悠悠たる日がらだなと思つた。
滝の落ち口のお亭の前を通つたときに、この春芥川君が来て泊つたお亭を覗いてみたが、秋深く松葉が散らばり二三本の篠竹の青い色を見られる格子戸に、人のけはひすらしなかつた。亭亭たる松の梢にある飼箱に群れる小鳥の声がするばかりであつた。このお亭にこのごろ泊つたら寒からうと思つた。
曲水のほとりは水もうつくしくながれ、玉石の敷かれたあひだを喜んで上る目高が、群れてあるひは雁行してゐた。わたしはむかし歌合せなどの催しのあつたらしい此の曲水が好きだつた。石の姿や、その石をつつんでゐるつつじをながめてゐるうち、石のしたに敷島のからが流れてゐるのを悲しく見た。が、つつじの抜き枝や、円物づくりの姿のくづれたのが気になつて、何故手入れをしないのかと考へた。そしてこれが自分の庭だとしたら、終日あほらしい顔をして此処に佇(た)つて、水の動いて流れるのに倦きることはないだらう。水の流れるのは浅いほど美しく表情も複雑であどけなく思はれるが、深い水は何か暗澹として掻き曇り、心におしつける重りかかるものがあつた。それにくらべると曲水は古いがその感情は新鮮である。手を入れて掬ひたいやうだつた。石と石との間に決して同じい姿をしない水のながれに、いい着物のひだなどにみる媚びた美しさがあつた。古い言草で飛んでもない思ひつきだが、水はいまさら美しいと思つた。 ・・・

●邪宗門
樅のふたもと
うちけぶる樅(もみ)のふたもと。薄暮(くれがた)の山の半腹(なから)のすすき原(はら)、若草色(わかくさいろ)の夕(ゆふ)あかり濡れにぞ濡るる雨の日のもののしらべの微妙(いみじ)さに、なやみ幽(かす)けき Chopin(シオパン) の楽(がく)のしたたりやはらかに絶えず霧するにほやかさ。ああ、さはあかれ、嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。
はやにほふ樅(もみ)のふたもと。いつしかに色にほひゆく靄のすそ、しみらに燃(も)ゆる日の薄黄(うすぎ)、映(うつ)らふみどり、ひそやかに暗(くら)き夢弾(ひ)く列並(つらなみ)の遠(とほ)の山々(やまやま)おしなべてものやはらかに、近(ちか)ほとりほのめきそむる歌(うた)の曲(ふし)。ああ、はやにほへ、嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。
燃えいづる樅(もみ)のふたもと。濡れ滴(した)る柑子(かうじ)の色のひとつらね、深き青みの重(かさな)りにまじらひけぶる山の端(は)の縺(もつ)れのなやみ、あるはまたかすかに覗(のぞ)く空のゆめ、雲のあからみ、晩夏(おそなつ)の入日(いりひ)に噎(むせ)ぶ夕(ゆふ)ながめ。ああ、また燃(も)ゆれ、嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。
色うつる樅(もみ)のふたもと。しめやげる葬(はふり)の曲(ふし)のかなしみの幽(かす)かにもののなまめきに揺曳(ゆらひ)くなべに、沈(しづ)みゆく雲の青みの階調(シムフオニヤ)、はた、さまざまのあこがれの吐息(といき)の薫(くゆり)、薄れつつうつらふきはの日のおびえ。ああ、はた、響け、嵯嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。
饐(す)え暗(くら)む樅のふたもと。燃えのこる想(おもひ)のうるみひえびえと、はや夜(よ)の沈黙(しじま)しのびねに弾きも絶え入る列並(つらなみ)の山のくるしみ、ひと叢(むら)の柑子(かうじ)の靄のおぼめきも音(ね)にこそ呻(うめ)け、おしなべて御龕(みづし)の空(そら)ぞ饐(す)えよどむ。ああ、見よ、悩(なや)む、嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。
暮れて立つ樅(もみ)のふたもと。声もなき悲願(ひぐわん)の通夜(つや)のすすりなき薄らの闇に深みゆく、あはれ、法悦(ほふえつ)、いつしかに篳篥(ひちりき)あかる谷のそら、ほのめき顫(ふる)ふ月魄(つきしろ)のうれひ沁みつつ夢青む忘我(われか)の原の靄の色。ああ、さは顫(ふる)へ嗟嘆(なげかひ)の樅(もみ)のふたもと。   四十一年二月
立秋
憂愁(いうしう)のこれや野の国、柑子(かうじ)だつ灰色のすゑ夕汽車(ゆふぎしや)の遠音(とほね)もしづみ、信号柱(シグナル)のちさき燈(ともしび)淡々(あはあは)とみどりにうるむ。
ひとしきり、小野(をの)に細雲(ほそぐも)。南瓜畑(かぼちやばた)北へ練(ね)りゆく旗赤き異形(ゐぎやう)の列(れつ)は戯(おど)けたる広告(ひろめ)の囃子(はやし)賑(にぎ)やかに遠くまぎれぬ。
うらがなし、落日(いりひ)の黄金(こがね)片岡(かたおか)の槐(ゑんじゆ)にあかり、鳴きしきる蜩(かなかな)、あはれ誰(たれ)葬(はふ)るゆふべなるらむ。   三十九年八月
柑子
蕭(しめ)やかにこの日も暮(く)れぬ、北国(きたぐに)の古き旅籠屋(はたごや)。物(もの)焙(あ)ぶる炉(ゐろり)のほとり頸(うなじ)垂れ愁(うれ)ひしづめば漂浪(さすらひ)の暗(くら)き山川(やまかは)そこはかと。――さあれ、密(ひそ)かに物ゆかし、わかき匂(にほひ)のいづこにか濡れてすずろぐ。
女(め)あるじは柴(しば)折り燻(くす)べ、自在鍵(じざいかぎ)低(ひく)くすべらし、鍋かけぬ。赤ら顔して旅(たび)語る商人(あきうど)ふたり。傍(かたへ)より、笑(ゑ)みて静かに籠(かたみ)なる木の実撰(え)りつつ、家(いへ)の子は卓(しよく)にならべぬ。そのなかに柑子(かうじ)の匂(にほひ)。
ああ、柑子(かうじ)、黄金(こがね)の熱味(ほてり)嗅(か)ぎつつも思ひぞいづる。晩秋(おそあき)の空ゆく黄雲(きぐも)、畑(はた)のいろ、見る眼(め)のどかに夕凪(ゆふなぎ)の沖に帆あぐる蜜柑(みかん)ぶね、暮れて入る汽笛(ふえ)。温かき南の島の幼子(をさなご)が夢のかずかず。
また思ふ、柑子(かうじ)の店(たな)の愛想(あいそ)よき肥満(こえ)たる主婦(あるじ)、あるはまた顔もかなしき亭主(つれあひ)の流(なが)す新内(しんない)、暮(く)れゆけば紅(あか)き夜(よ)の灯(ひ)に蒸(む)し薫(く)ゆる物の香(か)のなか、夕餉時(ゆふげどき)、街(まち)に入り来(く)る旅人がわかき歩みを。
さては、われ、岡の木(こ)かげに夢心地(ゆめここち)、在(あ)りし静けさ忍ばれぬ。目籠(めがたみ)擁(かか)へ、黄金(こがね)摘(つ)み、袖もちらほら鳥のごと歌ひさまよふ君ききて泣きにし日をも。――ああ、耳に鈴(すず)の清(すず)しき、鳴りひびく沈黙(しじま)の声音(いろね)。
柴(しば)はまた音(おと)して爆(は)ぜぬ、燃(も)えあがる炎(ほのほ)のわかさ。ふと見れば、鍋の湯けぶり照り白らむ薫(かをり)のなかに、箸とりて笑(ゑ)らぐ赤ら頬(ほ)、夕餉(ゆふげ)盛(も)る主婦(あるじ)、家の子、皆、古き喜劇(きげき)のなかの姿(すがた)なり。涙ながるる。   三十九年五月
暮愁
暮れぬらし。何時(いつ)しか壁も灰色(はひいろ)に一室(ひとま)はけぶり、盤上(ばんじやう)の牡丹花(ぼたんくわ)ひとつ血のいろに浮び爛(ただ)れて、散るとなく、心の熱も静寂(じやうじやく)の薫(くゆり)に沈み、卓(しよく)の上両手(もろて)を垂れて瞑目(めつぶ)れば闇はにほひぬ。
※[「窗/心」]の外(と)は物(もの)古(ふ)りし街(まち)、風湿める香(かう)のぬくみに、寺寺の梵音うるむ夕間暮、卯月つごもり、行人(かうじん)の古めく傘に、薄灯(うすひ)照り、大路(おほぢ)赤らみ、柑子(かうじ)だつ雲の濡いろ、そのひまに星や瞬く。
わが室(むろ)は夢の方丈、匂やかに名香(みやうかう)なびき、遠世(とほよ)なる暮色(ぼしよく)の寂(さび)に哀婉の微韻(ゆらぎ)を湛へ、髣髴と女人(ぢよにん)の姿光さし続く幾むれ、白鳥(はくてう)の歌ふが如く過ぎゆきぬ、すべる羅(ら)の裾。
そのなかに君は在(おは)せり。緑髪(みどりがみ)肩に波うち、容顔の清(すが)しさ、胸に薔薇色(ばらいろ)の薄ぎぬはふり、情界の熱き波瀾に黒瞳(くろひとみ)にほひかがやき、領巾(ひれ)ふるや、夢の足なみ軽らかに現(うつゝ)なきさま。
ああ、それも束(つか)の間(ま)なりき。花祭ありし夕(ゆふべ)か、群衆(ぐんじゆう)のなだれ長閑かに時花歌(はやりうた)街(まち)を流れて辻辻に山車(だし)練る日なり、行きずりに相見しばかり、高華なる君が風雅(みやび)も恋ふとなく思ひわすれき。
今行くは追憶(おもひで)の影――黄金なす幻追ひて、衰残の心の大路(おほぢ)暮れゆけば顧みもせぬ人生の若き旅びと、――くづをれて匂ゆかしみ我愁ふ、追慕の涙綿綿と青む夜までも。 

燕は翔(かけ)る、水無月(みなづき)の雲の旗手(はたて)の濡髪に。――暗き港はあかあかと霽(は)れぬ、滴(したた)る帆の雫。
燕は翔る、居留地の柑子色(かうじいろ)なす※[「窗/心」]玻璃(まどがらす)ななめに高く。――ほつほつと霧に湿(しめ)らふ火のにほひ。
燕は翔(かけ)る、葉煙草とヴオロン薫(く)ゆる和蘭(おらんだ)の酒楼のまへを。――笛あまた暮れつつ呻(によ)ぶ海の色。
燕は翔(かけ)る、花柘榴(はなざくろ)――濡るる埠止場(はとば)の火あかりに。かくてこそ聴け、艶女(やしよめ)等が猥(みだ)らにわかきさざめごと。
南国
ああ、君帰(かへ)れ、故郷の野は花咲きてわかき日に五月(さつき)柑子(かうじ)の黄金(こがね)燃(も)え、天(そら)の青みを風ゆるう、雲ものどかに薄べにのもとほりゆかし。――帰(かへ)れ君、森の古家(ふるや)の蔦かづら花も真紅(しんく)に、飜(ひるが)へれ、君はいづこに、――北のかた柩(ひつぎ)まうけの媼(おうな)さび、白髪(しらが)まじりの寒念仏(かんねぶつ)、賢(さか)し比丘(びく)らが国や追ふ。ああ鬱憂(うついう)の山毛欅(ぶな)の天(そら)、日さへ黒ずみ、朽尼(くちあま)が涙眼(いやめ)かなしむ日の鉦(かね)に、畠(はたけ)の林檎紅(べに)饐(す)えて蛆(うじ)こそたかれ。帰れ、君、――筑紫平の豊麗(ほうれい)に白(しろ)がね鐙(あぶみ)、わか駒(ごま)の騎士も南(みなみ)へ、旅役者、歌の巡礼、麗姫(ひめ)、奴(やつこ)、絵だくみ、うつら練(ね)り続(つづ)け。なかに一人(いちにん)、街道(かいだう)や藤の茶店(ちやみせ)の紅(あか)き灯に暮れて花揺(ゆ)る馬ぐるま、鈴の静(しづ)けさ、四(よ)とせぶり、君も帰らふ夕ならば靄の赤みに、夢ごころ、提灯(ともし)ふらまし。朝ならば君は人妻、野に岡に、白き眼つどへ、ものわびし、われは汀(みぎは)の花菖蒲(はなあやめ)、風も紫(ゆかり)の身がくれに御名や呼ばまし、逢見初(あひみそ)め忍びしわかさ薄月に水の夢してほそぼそと、ああさは通(かよ)へ、翌(あけ)の日も、山吹がくれ雨ならば金糸(きんし)の小蓑(みの)、日には※[「足へん+鉋のつくり」](だく)、一の鳥居を野へ三歩、駒は木槿(むくげ)に、露凍(つゆしみ)の忍び戸(ど)、それもほとほとと牡丹花(ぼたんくわ)ちらぬほど前へ、そよろ小躍(をど)れ薔薇(いばら)みち、蹈めば濡羽(ぬれは)のつばくらめ、飛ぶよ外(と)の面(も)の花麦(はなむぎ)に。あれ、駒鳥のさへづりよ。籬(まがき)根近し、忍び足、細ら口笛(くちぶえ)琴やみぬ、衣(きぬ)のそよめき、さて庭へ、(それと隠れぬ。)そら音(ね)かと、(空は澄みたれ、また鳴(な)らす。)ほほゑみ頬(ほほ)に、浮(うけ)あゆみ楝(あふち)、柏(かしは)の薄ら花ほのにちる日(ひ)の君ならばそぞろ袂もかざすらむ。はや午(ひる)さがり、片岡(かたをか)の畑(はた)に子(こ)ら来て、早熟(はやなり)の和蘭覆盆子(おらんだいちご)紅(べに)や摘む歌もうらうら。――風車(かざぐるま)めぐる草家(くさや)は鯉のぼり吹きこそあがれ、ここかしこ、里の女(をんな)は山梔(くちなし)の黄にもまみれて糯(もち)や蒸(む)す、あやめ祭のいとなみに粽(ちまき)まく夜のをかしさか、頬(ほ)にも浮(うか)べてわかうどは水に夕(ゆふべ)の真菰刈(まこもがり)、いづれ鄙びの恋もこそ。君よ。われらは花ぞのへ、夕栄(ゆふばえ)熱(あつ)き紅罌粟(べにげし)の香(か)にか隠(かく)れて筒井(つつゐ)づつ振分髪(ふりわけがみ)の恋慕びと君(きみ)吾(われ)燃ゆる眼(め)もひたと、頬(ほほ)ずりふるへそのかみの幼(をさ)な追憶(おもひで)――君知るやフランチエスカの恋語(こひがたり)――胸もわななけ、人妻(ひとづま)か、罪か、血は火の美しさ、激しさ、熱(あつ)さ、身肉(しんにく)の爛(ただ)れひたぶるかき抱(いだ)き犇(ひし)と接吻(くちつ)け死ぬまでも忘れむ、家も、世も、人も、ああ、南国の日の夕。
恋びと
ああ七月(しちぐわつ)、山の火ふけぬ。――花柑子(はなかうじ)咲く野も近み、月白ろむ葡萄畑(ぶだうばたけ)の夜(よ)の靄に、土蜂(すかる)の羽音(はおと)、香(か)の甘さ、青葉の吐息(といき)、情慾の誘惑(いざなひ)深く燃(も)え爛(ただ)れ、仰げば空の七(なな)つ星(ほし)紅(あか)く煌(きら)めき、南国の風さへ光る蒸し暑さ。はや温泉(ゆ)の沈黙(しじま)――烏樟(くろもじ)の繁み仄透(ほのす)き灯(ひ)も薄れ、歓語(さざめき)絶えぬ。――湯気(ゆげ)白う、丁字湯(ちやうじゆ)薫る女(をんな)の香(か)、湿(しめ)りただよひわが髪へ、吹けば艶(えん)だつ草生(くさぶ)なか。露みな火なり。白百合は喘(あへ)ぎうなだれ、花びらの熱(ねつ)こそ高め。頬(ほ)に胸にああ息づまる驕楽(けうらく)の飛沫(しぶき)ふつふつ抱擁(だきしめ)に人死ぬにほひ、血(ち)も肉(にく)もわななきふるふ。
ああ七月(しちぐわつ)、ふと、われ、ききぬ――忍び足熱(あつ)きさやぎを水枝(みづえ)照る汀(みぎは)の繁木(しげき)そのなかに。さは近づくは黄金髪(こがねがみ)、青きひとみか、また知(し)らぬ、亜麻(あま)いろ髪か、赤ら頬(ほ)か、ああ、そのかみの恋人か、謎の少女(をとめ)か。遠つ世の匂香(にほひが)あまき幻想(まぼろし)に耳はほてりぬ。うつうつと眼さへ血ばみて、極熱(ごくねつ)の恋慕(れんぼ)胸うつくるほしさ。風いま燃(も)えぬ。ゆめ、うつつ、足音(あのと)つづきぬ。身肉(しんにく)のわづらひ、苦(にが)き乳(ち)の熱(ねつ)に汗ばみ眠(ぬ)れば心の臟(ざう)、牡丹花(ぼたんくわ)の騒ぎ瞬(またたく)く間(ま)、あな頬(ほ)は爛(ただ)れ、百合のなか、七尺(しちしやく)走(はし)る髪の音、ひたと接吻(くちつ)け、紅(くれなゐ)の息、火の海の、ああ擾乱(じようらん)や、水脈(みを)曳(ひ)き狂ふ爛光(らんくわう)に、五体(ごたい)とろけて身は浮きぬ。牡丹花(ぼたんくわ)ひとつ、血(ち)の波(なみ)を焦(こ)がれつ、沈(しづ)む。
おかる勘平
おかるは泣いてゐる。長い薄明(うすあかり)のなかでびろうど葵の顫へてゐるやうに、やはらかなふらんねるの手ざはりのやうに、きんぽうげ色の草生(くさぶ)から昼の光が消えかかるやうに、ふわふわと飛んでゆくたんぽぽの穂のやうに。
泣いても泣いても涙は尽きぬ、勘平さんが死んだ、勘平さんが死んだ、わかい奇麗な勘平さんが腹切つた……
おかるはうらわかい男のにほひを忍んで泣く、麹室(かうじむろ)に玉葱の咽(む)せるやうな強い刺戟(しげき)だつたと思ふ。やはらかな肌(はだ)ざはりが五月(ごぐわつ)ごろの外光(ぐわいくわう)のやうだつた、紅茶のやうに熱(ほて)つた男の息(いき)、抱擁(だきし)められた時(とき)、昼間(ひるま)の塩田(えんでん)が青く光り、白い芹の花の神経が、鋭くなつて真蒼に凋れた、別れた日には男の白い手に烟硝(えんせう)のしめりが沁み込んでゐた、駕にのる前まで私はしみじみと新しい野菜を切つてゐた……
その勘平は死んだ。
おかるは温室(おんしつ)のなかの孤児(みなしご)のやうに、いろんな官能(くわんのう)の記憶にそそのかされて、楽しい自身の愉楽(ゆらく)に耽つてゐる。
(人形芝居(にんぎやうしばゐ)の硝子越しに、あかい柑子の実が秋の夕日にかがやき、黄色く霞んだ市街(しがい)の底から河蒸気の笛がきこゆる。)おかるは泣いてゐる。美くしい身振(みぶり)の、身も世もないといふやうな、迫(せま)つた三味(しやみ)に連(つ)れられて、チヨボの佐和利(さはり)に乗つて、泣いて泣いて溺(おぼ)れ死にでもするやうにおかるは泣いてゐる。(色と匂(にほひ)と音楽と。勘平なんかどうでもいい。)   四十二年十月

●獄中への手紙
・・・ 来年も亦いい一年であるように。きっとそうでしょう。大笑いのこと教えてあげましょうか。新年号には(女の雑誌など)よく占いが出るでしょう。何だったか、この間みたら、私は何だか運がいいのですって。そして、特別に註が入っているの、曰ク、御主人大事にと心がければ吉。笑ってしまった。失礼よ、ね、私に今更そんなこと。私の吉運は八方ふさがりの間にだって、その一点で開運、上吉の卦にかわっていたのですものね。トンマねえと大笑いしてしまいました。
あなたのところへ小さい寄植の鉢がゆきます。どんなものが植っているかしら。福寿草だのやぶ柑子(こうじ)だのがあるでしょうね。いつかキャベジのようなと仰云った葉牡丹はやめました、あれはいいようで何か陰気だから。
あなたの右の肩を三つ、それから左の肩を三つたたいて丈夫に年越しの、おまじないしてさし上げます。どんな?いいでしょう?どうぞ御機嫌よく。元日のお雑煮は今年は、あなたのお箸が私のお箸という工合にします。私はちょっとおしゃれするの。そして、そこにいるような顔してそちらを見るのよ。忘れて、そっぽ向いたままでいらっしゃらないで下さい。あの写真についてはお言葉なし、ね、どうして?まだどっかにおかれているのでしょうか。余り自然で、却っていや?それは又その心持としてわかるところもあります。 ・・・ ワグナアはニイチェと親しかったけれども、オペラをつくって、王フリードリッヒに、統御の方法として音楽による馴致は有効であると建言して、自身のオペラを隆盛ならしめるようになってからは、ニイチェを邪魔にしました。原因はニイチェが馬鹿正直で、ワグナアに忠実で、心から賞め、心から批評するのが、策略にとんだワグナアにはありがためいわくになったからだそうです。ワグナアが真面目を発揮して、秀吉に対する千利休より遙かに外交的、政治的、従って非芸術的に処世して宗教オペラなどこしらえるので、やはり段々真面目を発揮して来て、バイブルは手袋なしには読まれない、余りきたないから、と云うようになったニイチェが、お前さん正気かと心配するという有様で、ワグナーは、凡俗人の数でオペラを支えようとしているから、常識に挑むニイチェは不便になりました。そしてうんと冷やかに扱い、ニイチェが傷ついてワグナアの顔を二度と見るに耐えないようにしました。自分は冷静なのよ、ね勿論。バルザックは小説の中で云っています。非常に親しい人々の間に、全くおどろくような疎隔が生じる場合がある。人々は理解しがたいことに思う。しかし其は最も理解しやすいことだ、何故なら、親しい全く調和した互の心の交渉をもった人々は、その調和を破る一つの不誠、一つの裏切りにもたえないほど、緊密な結ばれかたをしているのだから。と。これは本当であると思います。いくつかの近頃の経験でそう思います。宝は宝として大事にしなければいけないわけです、ルビーはあのように紅く濃く、誠実のしるしだから丈夫な宝石だろうと、火にかけて代用食を焼こうとすればルビーは破(わ)れて散ってしまいましょう。
大事なものの大切さは私達に分っているよりももっとねうちの大したものね。多くの場合、心の足りなさから大事なものを失って、そのあとになって全くあれは大切だったと心づくのでしょう。大事なものは、風化作用もうけずに永もちすると勘ちがいもするのね、浅はかな貪慾心から。
おもと一本だって、やぶ柑子の土とはちがった土で育てられるのにね。小鳥さえ各〃ちがった餌で育つのですものね。
大きい智慧、ぬけめない配慮、天使の頬っぺたのような天真爛漫な率直さ。
バルザックを読んで、いろいろ考えます。そして本当のフランス文学史は少くともまだ日本文ではないと思いました。「現代史の裏面」これにはディケンズがフランスに与えた影響について考えさせます。今よんでいる「暗黒事件」は、ナポレオン時代というものの混沌さ、あの時代からあとに出来た所謂貴族のいかがわしさが、おそろしく描かれています。フランスが、亡命貴族の土地財産をこっそり或は大ぴらに買い取った二股膏薬どもを貴族として持っているからこそ、あの一方から考えると奇妙でさえある伝統の尊重、本当の貴族への評価があって、しかも貴族はいつも競売にさらされているようなわけだと分りました。
この前、ツワイクがフーシェという人物をかいている、そのもとがバルザックだということお話しいたしましたね、この「暗黒事件」にタレーランやなどとフーシェが出て来てフーシェに巻きついて血をすった最後は伯爵某が、小説の奸悪な、向背恒ないナポレオン時代のきれ者たるマランとい主人公です。 ・・・
 
 
 

 

●「温州みかん」の「温州」って何なの?
年末年始はもちろん、寒い冬は「こたつ&みかん」が定番中の定番である最強タッグといってよいでしょう!そして私たちが口にする代表的な「みかん」の正式名称は「温州みかん」ですが、皆さんは「温州」を何て読んでいますか? 普通に読んだら「おんしゅう」ですが、実は「うんしゅう」と読むんです。読み方が違っていた方は、これから「うんしゅう」と読みましょう!
ここで疑問となるのが「温州」って、何のことか?ということです。「みかん」で有名な産地の和歌山県の旧国名が「紀州国」ですから、「紀州みかん」であれば納得するのですが、いったい「温州」は何を意味しているのでしょう??
実はこの「温州」、中国の地名であり、中国語では「ウェンジョウ」と発音されるのですが、日本では「うんしゅう」と読まれるようになりました。となると、「温州みかん」は日本が原産じゃないの??と思われた方も多いのでは?!いやいや!「温州みかん」の原産地は、鹿児島県の長島地域が発祥の地なのですが、柑橘類の名産地である中国の「温州(ウェンジョウ)」にあやかってこの名前が付けられたということです。
ちなみに欧米では、「温州みかん」のことを原産地である鹿児島にちなんで「サツマオレンジ」や「サツママンダリン」と呼んでいます。

●温州みかんの「温州」ってどこ?
「温州みかん」を正しく読めますか?
伊予柑や有田みかん、最近でははるかやカラマンダリンなどみかんの品種は昔と比べるとずいぶんとバラエティ豊かになった気がします。中でも、日本で一番おおく栽培され、食べられているみかんは「温州みかん」です。一般的にみかんといえば、温州みかんを指します。まずはとっても基本的なことから、「温州みかん」正しく読めますか? 決して「おんしゅう」とは呼ばないように。お店などで見かけたときは、自信をもって「うんしゅう」と呼ぶのが正しい読み方です。
温州みかんの「温州」ってどこ!?
伊予柑などに代表されるように、みかんの名前は産地の名前が含まれることが多いです。「温州」も何となく地名のような気もしますが・・一体どこを指しているのでしょうか?実は、温州みかんの「温州」は中国の温州地方が名前の由来と言われています。温州はみかんの産地として名高く、そこのみかんのように素晴らしいというのが温州みかんという名前の由来と言われています。
温州みかんは日本独自のみかん
また、中国には日本とみかんは無く、温州みかんは日本で生まれた日本独特のみかんと言われています。温州みかんの誕生は江戸時代にさかのぼり、当時種があったみかんが、突然変異によって種無しとなり、温州みかんと名付けられました。発祥は鹿児島県の長島地区とされ、実際、欧米などでは鹿児島(=薩摩地方)にちなんで、「サツマオレンジ」や「サツママンダリン」と呼ばれていることからも伺い知ることが出来ます。その後、明治時代に日本各地で作られるようになり、「紀州みかん」「有田みかん」「愛媛みかん」などのブランドが生まれていくことになったのです。

●温州みかん発祥の地
温州(うんしゅう)みかんは、約500年前中国から伝わったみかんの種子の偶発実生(ぐうはつみしょう)と言われております。
伝えたのは、当時黄岩県(おうがんけん)に留学していた天台宗の僧ではないかと 言われています。
江戸時代末に長崎に来たドイツ人医師シーボルトが温州みかんの錯葉(おしば)を作り、これにNagashima(ながしま)と記(しる)していました。これが長島が温州みかん発祥の地であることの証拠となりました。
温州みかんの名は、中国の温州府(おんしゅうふ)に由来しています。温州府はみかんの産地として名高ったことからそのみかんのように素晴らしいというのが温州みかん命名の由来と言われています。
※偶発実生とは親がわからないでたまたま果樹としておいしいものができることをいう。
※鹿児島県出水郡長島町

●温州みかんの歴史
温州みかんは、みかんを代表する品種ですが、しばしば「おんしゅう」と誤って読まれることがあります。正しくは「うんしゅう」ですが、最初に見たときは分かりませんね。読み方も特殊ですが、そもそも、なぜ「温州」と名付けられたのでしょうか。
温州みかんの名前の由来は、日本ではなく、中国にあります。中国の有名な柑橘の産地である、浙江省の温州市にあやかって、温州みかんと名付けられました。しかし「温州みかん」という名前が定着したのは、明治時代になってからで、それまでは各地でさまざまな名前で呼ばれていました。
由来となった中国の温州市ですが、そこから日本にみかんを直接取り入れたわけではなく、原産地は鹿児島県だといわれています。日本ではなじみありませんが、実は、海外における温州みかんは、「サツマ(Satsuma)」と呼ばれています。明治の初めに日本に来ていたアメリカ大使館員の夫人が、みかんの苗を薩摩国(鹿児島県)で購入し、本国へ送ったことが最初とされ、その地名のままサツマと呼ばれているそうです。日本では直接の関係がない中国の地名で呼ばれ、海外では原産地である日本の地名で呼ばれる。なんとも不思議ですね。
愛媛県の温州みかんは、宇和島市吉田町立間の加賀山次郎氏が、寛政6年(1794年)に、土佐からの苗木を1本導入したことに始まります。そこからおよそ100年後の明治28年(1895年)、西宇和の地で温州みかんの栽培が始まりました。昔から続く歴史を考えると、名前や味に感慨深いものがありますね。

●温州蜜柑
温州みかんとは、ミカン類の代表的一品種。一般に「みかん」と言えばこれを指す。果実は黄橙色の扁円形で、果皮は薄い。
温州みかんの由来・語源
温州みかんは、室町時代末期から「温州橘(うんじうきつ・うんじゅきつ)」の名で見られ、江戸時代から「温州蜜柑」や「唐蜜柑」と呼ばれている。「温州」は中国浙江省の地名で、みかんの中心的産地として知られる。しかし、原産は鹿児島県出水郡長島町と考えられており、中国には同じ品種が存在しないことから、原産地に由来する名ではなく、遣唐使が温州から持ち帰った種(もしくは苗)から突然変異して生まれたため、この名が付いたと考えられている。
温州みかんの親品種は、DNA鑑定の結果からクネンボと考えられ、クネンボの伝来が室町時代で時期的にも合うため間違いないと思われる。しかし、クネンボは沖縄を経て伝来しているため、遣唐使が温州から持ち帰ったために付いた名ではなく、みかんの産地として有名であった「温州」にちなんだだけとも考えられる。
アメリカでは「Mikan(ミカン)」の名称のほか、薩摩(鹿児島県)から渡ったため「Satsuma(サツマ)」とも呼ばれる。また、ナイフで皮を剥くオレンジと違い、温州みかんはテレビを観ながらでも食べられることから、アメリカ・カナダ・オーストラリアなどでは「TV orange(テレビオレンジ)」の愛称がつけられている。
別名・類語 / みかん・サツマオレンジ・Satsuma・テレビオレンジ・オレンジ・柑橘類

●“謎だらけ”だった温州みかん
冬の風物詩である「みかん」──いわゆる「温州みかん」は日本人にとって最もポピュラーな果物の一つだ。しかし、古くから親しまれてきたこのみかん、実は“謎の多い果物”でもある。いつ、どんな親品種を掛け合わせて作られたのか、他の柑橘(かんきつ)類とはどんな関係か、ほとんどの実で種がないのはなぜか……など、ハッキリしていないことは多い。今年、そんな謎に光を当てる研究成果が発表された。国立研究開発法人 農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)が、温州みかんの全ゲノム解読を実現したのだ。同時に、温州みかんを中心とした親子系統がゲノムレベルで再確認され、重要な遺伝子の働きも特定した。芽が出た段階で、DNAの情報から果実の特性を予測する見通しも立ってきた。柑橘類の新品種開発が一気にスピードアップする可能性がある。
静岡県静岡市に国内における柑橘類研究の総本山とも言える施設がある。所在地は、駿河湾の西側にある清水港から北東に車で10分ほどの興津という地区。正式名称は「国立研究開発法人 農業・食品産業技術総合研究機構 果樹作業研究部門 カンキツ研究領域」という。ここでは、将来有望な柑橘類の新品種を育成しながら、ゲノム情報を使った育種研究を進めている。以下では短く「農研機構」と略称で呼ぶ。
この農研機構が国立遺伝学研究所と協同で「温州みかんの全ゲノムを解読」と発表したのが今年2月のことになる。同機構では、高度なバイオ技術とコンピューター解析技術を駆使して温州みかんが持つすべてのDNA配列を解読。この過程で、温州みかんの遺伝子といくつかの重要な働きを突き止めた。研究を主導した農研機構 上級研究員の清水徳朗氏は、発表の内容を少し詳しく次の3項目に整理してくれた。
1 温州みかんの全てのDNA配列を解読した。
2 その中に約2万9000個の遺伝子があることと、そのうちの約80%の機能を推定すると共に、柑橘類の着色に関わる遺伝子や実の着き方に関わる遺伝子を見出した。
3 温州みかんを含む5品種の全配列も合わせて解読。「紀州みかん」と紀州みかんの子である「クネンボ」という品種が交雑して温州みかんが生まれたことをゲノムレベルで再確認した。
ゲノムという言葉は、「一つの生物の遺伝情報のすべて、生物の設計図の総体」を指す。生物の遺伝情報は通常、複数の染色体に収められ、一つひとつの染色体はDNA分子が配列されたものから成っている。このDNA配列の中に膨大な遺伝子が潜み、生物の様々な特性(形質)を形づくる。
新品種開発を一気にスピードアップ!?
農研機構では、温州みかん以外の他の柑橘類についても全ゲノムを解読しており、これらの情報と系統図、遺伝子解析技術などを元に新品種の開発(育種)や既存品種の改良を目指す「カンキツ育種2.0」の仕組み作りを進めている。これは従来の育種法を大きく変えるもので、柑橘類の開発・改良を一気にスピードアップさせる技術として大きな期待が寄せられている。
研究を主導する農研機構 果樹茶業研究部門 カンキツ研究領域 ゲノムユニット の清水徳朗上級研究員は「新品種を育成するときに、従来は親品種の交配をすることで新しい世代を作る。それを何世代も繰り返すことで徐々に形質(味や果実の重さ、形、柔らかさなどの特性)を変えていくことが従来のセオリーだったのですが、そういうことを全くせず、1世代でガラッと変えられるような、欲しいものを一発で作る一発育種ができるのではないかと考えています」とゲノム技術を駆使した新しい育種法について語る。
これまでのやり方では、一つの新しい品種を育成するのに「平均で22.8年」(清水氏)というように気の遠くなるような時間がかかっていた。「まず親品種の花が咲いて交配して種を採るまでで1年。種を播いて木を大きくして花が着くまで約6年。その間ただひたすら木のお世話をするだけです。花が咲き、実がついたら甘いとか酸っぱいとか何グラムあるとか、いろいろな評価を通常10年ほど続けます。しかもこれで終わりではありません」と清水氏。
10年以上かけて選抜し残った候補は苗木として各地に配布される。ここから各地での実地での栽培がスタートする。この段階で収穫した果実は各地の研究者の手に渡り、そこで受け入れられればようやく新しい柑橘品種の誕生ということになる。
いったん誕生しても、消費者に受け入れられなければその品種は作られなくなり、やがては消えていく。長い年月を費やして育種した挙げ句、新しい品種にならない、長年の苦労がまさに徒労に終わることも珍しくない。新品種の開発に平均で22.8年かかるというのもうなずける。
農研機構が今まで開発した新品種には、「デコポン」の名で知られる「不知火」のほか、「清見」「せとか」「はるみ」など、現在も人気がある有力品種がズラリと並ぶが、これらの品種が消費者に受け入れられた歴史の裏には、長年コツコツと積み上げられてきた地道な努力が隠されている。
柑橘類の系統図をゲノムレベルで確認
2つの親品種を掛け合わせて有望品種を開発する時に大きな役割を果たすのが親子関係を示す系統図だ。農研機構では、温州みかんやその親、子孫などのゲノム解読を進めながら、柑橘類全体の系統図を精緻化している。
清水氏は「系譜がわかってくると、今ある優良な品種がどうやって生まれてきたのか、また育種のために重要な親品種がわかります。柑橘の育種ではいろいろな品種を作らなければいけませんし、消費者の求める品質のレベルが非常に上がっています。なおかつそれを短いスパンで育成しなくてはいけない。『多様性の拡大』『高品質化』『高速育種』という3つの相反する目標を同時に実現しなくてはいけない状況を『トリレンマ』と呼んでいるのですが、正直厳しい。ちょっと頑張ればいいじゃないかと言われるのですが並大抵のレベルではありません。ここで参考になるのが柑橘の系譜です」と清水氏は系統図の重要性を指摘する。
「例えば、愛媛でよく作られている『イヨ(伊予柑)』は、『カイコウカン(海紅柑)』と『ダンシー』──これは『大紅みかん』というのですけど──それらが交配してできたものだとわかります。実はこの2つ、特にカイコウカンは誰も見向きもしなかった品種なのです。しかし、これがいろいろな品種の親になっていることが分かってきました。『温州みかん』の親の『クネンボ』も、温州以外のカギを握る品種になっている。『紀州みかん(キシュウ)』とクネンボが交配して温州ができたわけですが、父親と母親が逆になると『ヤツシロ』ができる。またクネンボは『ハッサク』の親ということがわかりましたし、『ユズ』とクネンボが交配して『カボス』が生まれ、ユズが何かと交配することで『スダチ』が生まれています」
今後、さらに多くの品種のゲノム解読を進めていけば、この系統図はさらに精密で広範なものにできる。どんな親品種を掛け合わせればどんな子ができるかという知見はさらに増えてくるのだ。育種の効率はさらに高くなることが期待できる。
DNAマーカーでさらに効率化
ゲノム解読技術そのものも進化している。最近では「高速シーケンサー」というDNA配列分析ツールが進化し、解析にかかるコストが下がり、時間も短くなっている。これによって、多くの柑橘類のゲノム解析が進むようになり、膨大な遺伝子情報が蓄積されてきている。
同時に、高度な数学や統計学の手法を使って大量のDNA情報をコンピューター処理し、果実特性(形質)と関連づける技術が高度化している。バイオ技術の世界では、こうしたDNA配列からの予測精度を高める「ゲノミックセレクション」(GS:Genomic selection)、「ゲノムワイド関連分析」(GWAS:Genome-Wide Association Study)といった手法が用いられている。
農研機構ではGSやGWASの手法を柑橘類にも応用して、柑橘類の芽生えの段階のDNA情報から果実の形質を高精度に予測する取り組みを進めている。種から芽が出た段階でDNA配列を調べ、果実の甘みや酸っぱさがどうなるのか、どのくらい大きく重くなるのか、じょうのう(1つひとつの房)の柔らかさ、皮の剥きやすさといった様々な果実特性を高い精度で予測し、優良そうな個体を確率良く残していくことを狙う。ここで、ある有用な特性と相関関係の高い特徴的なDNA配列を「DNAマーカー」と呼び、これを品種改良のための目印に利用する。
このDNAマーカーによる選抜は、柑橘育種の世界でこれまでも行われてきたが、たくさんの遺伝子がちょっとずつ関わるような複雑なものにはうまく使えなかった。例えば、果実の重さや色、皮の剥きやすさなどといった特性は、数多くの遺伝子が複雑に関与し合って現れる。農研機構では東京大学や国立遺伝学研究所と協同で、GSやGWASの手法を駆使して、こうした多数の遺伝子が複雑に関係する果実特性を芽生えの段階で予測できるようにした。
清水氏は精密で広範な系図やGSやGWASといった技術が、前述の「カンキツ育種2.0の基盤になっている」と語る。
「系図情報を使うことで、(柑橘の育種をする上で)多様性を拡大できます。ただ、それだけだと育種に時間がかかってしまう。このため GSやGWASも使って(芽生えの段階で)果実形質を選抜する。こうすることで1世代でも選抜できるようになります。高速・短時間での選抜です。さらに選抜したものの形質については100%とは言わないまでもある程度は保証できるので、高品質化にも貢献すると考えています」と、系図や新技術の役割を説明する。
ゲノム解析を進めていけば、この「系図」がさらに精緻化されGS、GWASといった新しい技術の精度もさらに上がる。こうなることで「カンキツ育種2.0」が3.0、4.0と進化していき、育種が抱える三つの困難“トリレンマ”の解決になると期待している。
温州みかん系統の品種改良にも大きな力に
「カンキツ育種2.0」の基盤が整いつつある中で、今回温州みかんの全ゲノム配列を解読したことは、温州みかんそのものの品種改良と、主要柑橘類の品種改良に大きく寄与する。
温州みかんはそれ自身が日本を代表する柑橘類というだけではなく、「清見」や「不知火」など70を超える品種や系統の直接、間接の親となっている。また、温州みかんの中でも、甘さや酸味、果実の形、実がなる時期などが異なる突然変異種が各地で数多く生産されている。今回の研究成果で全ゲノムを解読した温州みかんもその一つ「宮川早生」(みやがわわせ)という突然変異種だ。
他の温州みかんの突然変異種や、温州みかんの子孫となる品種を改良する場合に、今回得られた温州みかんの「ゲノム配列」解明が大いに役立つことになる。
「温州みかんには着色や減酸の時期、糖度、果皮や果肉の色、果形、皮のむきやすさや食味などの違うたくさんの突然変異が選抜されてきています。これまでは突然変異系統の全ゲノムを高速シーケンサで解読し、他品種のゲノム配列と比較することで検出してきましたが、今回解読した温州みかんのゲノムと直接比べることができるようになり、変異の検出とその後の解析にかかる作業が大幅に省力化されます」(清水氏)。
日本の果樹産業そのものにも大きな影響
冬になればスーパーや青果店の店先で一番目立つ果物といえば、やはり温州みかんだろう。どこの店でも、みかんの鮮やかな色が真っ先に目に飛び込んでくる。1970年代の最盛期から大きく生産量を減らしているとはいえ、国内で作られる果樹の中で今も大きな存在感を示している。いまだ果物の女王と言ってもあながち言い過ぎではない。農林水産省の統計によれば、果物の国内出荷量のうち27%と、りんごの26%を抑えて1位。他の柑橘類とひとくくりにすれば41%にまで膨れ上がる。農業生産の観点からは、山がちの斜面地を利用して生産できる作物として重要な役割を果たす。神奈川より西の温暖地では、温州みかんを主要な産物にしている県も多い。
温州みかんという名前は中国の温州地方という俗説もあるが、400年ほど前に日本(九州)で出来た品種とされている。果物の女王的な存在でありながら、どんな親品種を掛け合わせて作られたのかがつい最近までわかっていなかった謎多きみかん。今回の成果はこうした温州みかんの謎の一端を解き明かしたことになる。この成果がベースとなり、さらに深く広く解明が進んでいけば、温州みかんを含む柑橘類全般の新品種開発と改良が加速する。国内の果樹生産に占める割合や斜面地の利用での重要性を考えると、農研機構が進める柑橘のゲノム研究は、未来の日本の果樹産業に大きな影響を与えることは間違いない。
 
 
 

 

●鏡もちに乗せるの「みかん」じゃない
お正月を迎える準備はいろいろありますが、中でも毎年必ず見かけるのが「鏡もち」ですよね。お正月のスーパーなどにいくと、ずらっと鏡もちが売られていますが、実際なぜ飾るのか、どこに飾るのが正しいのか知らない人も多いはず。そこで、越後製菓株式会社に「鏡もち」について、くわしく話しを聞いてみました!
どうして鏡もちを飾るの?
昔から餅は、ハレの日に、神様に捧げる神聖な食べ物と言われていました。鏡もちは餅を神仏に供える正月飾りであり、穀物神である「年神様」をお迎えるするためにお供えするものです。歳神様は新しい年を運んでくる神様と言われています。古来から、鏡(銅鏡)には神様が宿るとされ、神様に供えられてきました。丸い餅が、銅鏡に似ているからと言われ、丸い形には、家族円満を表し、重ねた姿は、「福を重ねる・円満に年を重ねる」という意味があります。一般的には大小2段で、月と太陽・陰と陽を表しています。昔は町内に賃餅屋さん(餅を搗いてくれる店)が何軒かあって、祝い事や正月に赤飯や餅を搗いてくれましたが、餅は数日でカビて真っ青に。そこで、餅メーカーがカビない鏡餅を作ろうと特殊パック入りの鏡餅を1980年前後に発売しました。スーパーでは、カビない鏡餅を望んでいましたので、短時間で全国に広まり、現在では、鏡もちはスーパーやホームセンターで買うことが一般的になりました。
鏡もちはどこに飾るのが正しいの?
神様が祭られているところ(床の間、神棚、水神様、火神様)や厄払いしたいところ、大切な物や道具などに供えます。日本の信仰は、生活を取り巻くあらゆる物に神様が宿るとされてきました。「八百万(やおよろず)の神」と言われるほど神様がたくさんいます。道具や、台所などに鏡餅を供え、物に感謝したり、いつくしむ日本人特有の文化のあらわれと考えられます。最近の傾向は、核家族化、マンションなどの住宅事情(神棚がない)等の理由で、玄関や居間などに飾られることが多くなっています。
鏡もちの上にのっている果物の意味は?
実は、一番上に乗っているのは、みかんではなく橙(だいだい)って知ってましたか? 橙は、青い実が冬になって赤味を帯び黄色に熟した後、春になっても実が落ちずに枝についたままで、翌夏にはまた緑色の実に戻ります。一度実がなると、4〜5年以上落果しないと言われていることから、こうして何代もの橙が枝についたまま、新しい実を加えながら一つの木になっている事で、健康長寿の家庭・家族に見立て、家系代々の長寿・繁栄を願います。
鏡餅についての歴史は深く諸説あるので、あくまでも参考ですが、その意味や由来を知っていると、より面白いですよね! 1年間に感謝をし、新しい年を縁起の良いものにするために、ぜひ飾ってみてはいかがでしょうか。(松本美保)

●鏡餅の上のかんきつは何?
お正月は、お年玉に初詣、門松やしめ縄、鏡餅を飾るなどたくさんの出来事があります。そんな風物詩の一つである鏡餅ですが、重ねられた餅の上にはかんきつがのっていますね。これは何でしょうか?
実は、一般的にはみかんではなく、橙(だいだい)というかんきつです。橙は、ミカン科の木ですが、直接食べられることは少なく、あまりなじみがないかもしれませんが、「だいだい色」の元なったかんきつであり、その名前は広く親しまれています。また、果実が実ってもなかなか落ちないことや、「代々」栄えるようにという語呂合わせから、縁起の良いかんきつとしても知られています。かんきつは日本の文化とも関係が深いですね。

●「鏡餅」は何故丸くて、みかんを上に乗せるんでしょう?
「鏡餅」といってもなんで鏡?というのが素朴な疑問ですよね。実はこれは昔の鏡をたとえたもので、古代の鏡は青銅製で円形だったんです。歴史の教科書などでなんとなく見覚えがある方もいるかもしれないですね。その鏡は神事に用いられており、次第に神仏にお供えをするときにお餅を鏡のような円形にして鏡に見立てて供えるようになったんだそうです。鏡の中には「神が宿る」ともされており、鏡に見立てたお餅を飾ると神様と一緒に新年をお祝いできるということで、習慣になっていったようですよ。
みかんの色はだいだい(橙)色で、子孫が代々(だいだい)まで繁栄するようにということで縁起を担いだんですね。いわば語呂合わせです。またお餅を重ねるのは「穏やかに年を重ねる」という意味で、大小のお餅で太陽と月を表現しているんだとか。

●鏡餅
古来より、餅は神に供えられてきた
「鏡餅の『いわれ』『飾り方』『風習』は、その地方によって異なり、諸説あります。ですから『これが正解』ではないことをご承知おきください」と断ったうえで、石坂さんはこう語ってくれた。
「元禄時代(1690年頃)の書物に鏡餅の絵が描かれているとのことですが、鏡餅の起源は詳しくはわかっていません。ただ古来より、餅は米から作られ、神様の恵みによって授けられた賜物と考えられています。めでたい行事のときには、餅(おこわ)をついて神様に供える風習もありました。これを、五穀豊穣を守る『年神様』に供えることにより、感謝の気持ちを表したのが、鏡餅であると考える説があります」(石坂さん)
鏡餅の形状にも由来があるという。
「鏡餅が丸い形状をしているのは、神社などに供えられてきた『銅鏡』に似せていることから、神様が宿るとされているからです。また、餅を重ねた姿は、家族円満に年をめでたく重ねるという意味もあるそうです」(石坂さん)
鏡餅は、神社のご神体にもなっている銅鏡とも関係しているのだ。
鏡餅に乗っているのは、「みかん」ではなく「橙(だいだい)」
鏡餅といえば「みかん」をイメージする人も多いようだが、本来は「みかん」ではない。
「みかんは春になると熟し切って枝から落ちてしまいます。しかし、橙は春になっても枝についたままです。それどころか翌夏にはまた緑色の実に戻り、一度実がなると、4〜5年以上落果しないといわれています。こうして何代もの橙が枝についたまま、新しい実を加えながら一つの木になっていることから、橙を健康長寿の家庭・家族に見立て、家系代々の長寿・繁栄を願うといわれています」(石坂さん)
鏡餅の上にはみかんではなく橙。筆者のように勘違いしていた人も多いのではないだろうか。
鏡餅はいつ飾る?
「鏡餅を飾り始める日は、早くても問題ありません。ただ、『大安の日』や『12月28日』が最適とされることが多いようです。というのも、『八』は末広がりで、日本では縁起がよい数字とされています。こうした縁起のよい日に飾られるのが一般的です。逆に、飾り初めに12月29日と31日を選ばないほうがよいといわれています。29日は『九』が『苦』で苦しみにつながり、縁起が悪いからです。31日は『一夜飾り』といい、『お正月の神様をお迎えするのに、たった一夜では誠意にかける』『葬式の時には、一夜飾りになるため、それに通ずるから避けたほうがよい』といった説があります」(石坂さん)
供えておいた鏡餅は、いつまで飾っておくのだろう。
「神様にお供えした鏡餅を下げて食べる風習を『鏡開き』といいます。地方により日にちは異なりますが、一般的には1月11日に行います。正月中に神様の宿った餅を食べることで、御利益をいただけると考えられています」(石坂さん)
鏡餅のお飾りには、さまざまな意味がある
市販の鏡餅セットには、橙(イミテーション)と鏡餅のほか、三方、四方紅、裏白、などのお飾りが入ったものが多い。それぞれのおかざりの意味も聞いてみた。
「三方は、神様、尊い相手への供物を載せる台で、三方向に穴があいているためこの名がつきました。敷紙(四方紅)はお供えを載せる色紙のことです。四方を『紅』で縁取ることで、天地四方の災いを払い、繁栄を祈願しています。シダの仲間である裏白は、古い葉と共に、新しい葉が次第に伸びてくるため、久しく栄えるという意味を持っています。また、葉の裏が白いことから、心に裏が無い清廉潔白を願い、かつ白髪になるまでの長寿も祈願しています。なお、正式には、裏の白いほうを正面に向けて飾ります」(石坂さん)
このほかにも、家督を親から子へゆずり、代々続くことを願う「ゆずり葉」、喜ぶの語呂合わせから「昆布」などが飾られることもある。地方によって異なり、必ずこれを使わなければならないという決まりはないとのことだった。
 
 
 

 

●ミカンの品種
紅まどんな
南香(なんこう)と天草を掛け合わせた品種で、2005年に愛媛県の試験場で品種登録された新しい柑橘です。甘平と同様に、愛媛県のみで栽培が許されている限定品種です。房の薄皮が非常に薄く、水分量が多く、まるでゼリーのよう。外皮も薄いためむきにくいのですが、半分に切ってスプーンですくって食べることで、さじょうのとろけるゼリーのような食感をさらに感じることができ、オススメです。
せとか
「清見」に「アンコール」を掛け合わせたものに、「マーコット」を掛け合わせたタンゴールです。長崎の試験場で生まれ、2001年に品種登録されました。サイズは大きくやや扁平で、外皮は非常に薄くなめらかで、房の袋は無いに等しいほど薄いです。アンコール由来の独特な香りと、頭一つ抜きん出たコク深い甘さがあります。柑橘の大トロという二つ名で親しまれ、柔らかいゼリーのようにとろける舌触りも魅力の一つです。全体の約7割が愛媛で生産されています。旬は2月〜3月下旬です。
あすみ
あすみは2014年に登録された新品種です。スイートスプリングとトロビタオレンジを掛けたものにはるみを交配しました。明日のカンキツ産業を担うはるみの子品種ということで「あすみ」と名付けられました。大きさは温州ミカンと同じくらいです。味は非常に濃く甘く、時には濃すぎるくらいです。また、独特の芳香があります。外皮、薄皮共に薄く、ペリペリとむくことができます。旬は2〜3月です。
甘平(かんぺい)
西之香(にしのかおり)というタンゴール(ミカンとオレンジを交配したもの)とポンカンをかけ合わせて生まれ、2007年に品種登録されました。愛媛県でのみ栽培が許された限定品種です。大きくて扁平(へんぺい)な形と、粒のシャキッとした食感が一番の特徴です。外皮も房の袋も非常に薄いため、むくときや房同士をはがす時にパリッと音がします。味は非常に濃く甘く、果汁もかなり多くずっしりとしています。旬は1月下旬〜3月中旬です。
津之輝(つのかがやき)
津之輝は清見と興津早生を掛けたものにアンコールを交配した、2009年に登録された比較的新しい品種です。表皮は濃い橙(だいだい)色で、少しゴツゴツとしており、手に持つとズッシリとした重みを感じられます。一番の特徴はまるでゼリーの集合体を食しているようなプリプリな食感です。味は甘く濃く、薄皮は薄いです。また、アンコールに似た芳香がほのかに香ります。旬は1月中旬〜2月中旬です。
不知火(しらぬい)
1972年に長崎県の試験場にて、清見と中野3号ポンカンの掛け合わせによって誕生したタンゴールです。生産が始まった熊本県不知火地区の名前にちなんでつけられました。中でも、糖度13度以上、クエン酸1.0%以下、かつJAに加盟している農家さんによるもののみが「デコポン」(商標)として出荷されます。ゴツゴツした外皮とてっぺんのこぶが特徴です。味は酸味も甘さも非常に濃く、果汁もたっぷりです。旬はハウス物だと12月頃から、露地物は2月頃〜4月です。
せとみ
「清見」に「吉浦ポンカン」を掛け合わせた品種で、山口県の研究所で2004年に品種登録された山口県のオリジナル品種です。せとみの中でも一定の糖度、酸度の基準を満たしたものは「ゆめほっぺ」という名称で販売されます。収穫後およそ1カ月貯蔵してから出荷されるため、酸味が抜けておりとても甘さを感じます。旬は3〜4月です。
清見(きよみ)
清見は1979年に登録された国内初のタンゴールです。タンゴールとはミカンとオレンジを交配した柑橘の総称です。清見は宮川早生(ミカン)と、トロビタオレンジの交配により誕生しました。ミカンとオレンジの交配は技術的に難しいため、清見の誕生の意義は非常に大きく、以後の品種開発に大きな影響を与えました。外皮はむきづらいですが、果肉はゼリーのようにプルプルで甘く、新品種にも負けないおいしさです。旬は4月です。
南津海(なつみ)
「カラマンダリン」と「吉浦ポンカン」を掛け合わせた品種で、研究所ではなく、山口県の山本柑橘園の園主である山本弘三さんの手によって交配されたという珍しいエピソードを持つ品種です。旬が5〜6月と遅いですが、鮮やかなオレンジ色でとても甘いのが特徴です。
スイートスプリング
スイートスプリングは八朔と上田温州を交配した品種です。1982年に登録されました。外皮は硬くて厚く、むきづらいです。また、薄皮は少し厚いためむく人もいます。果皮の色は緑色〜黄色です。果皮が緑色の時でも中身はしっかりと熟しており、おいしく食べることができます。果肉はその見た目とは裏腹に明るいオレンジ色をしており、味は酸味や苦みが全くない分、かなり甘く感じられます。旬は1〜2月です。
小原紅早生(おばらべにわせ)
1973年に香川県の小原さんという農家さんの畑で偶然見つかった宮川早生(主流の温州ミカン種)の枝変わり(突然変異種)です。一番の特徴はなんといってもその赤橙色(せきとうしょく)をした表皮でしょう。普通の温州ミカンと比べるとその差は一目瞭然です。味は通常の温州ミカンより甘く濃厚です。食べやすさは通常の温州と変わらず、簡単にむくことができます。価格はやや高めですが、値段を裏切らないおいしさを持っています。旬は12月です。
天草
天草は清見と興津早生を掛けたものにページオレンジを交配したもので、1995年に登録されました。赤橙色の果皮をしており、球に近い形をしています。一番の特徴はそのプルンプルンでジューシーな食感です。紅まどんなや大分果研4号といったゼリーのような食感を売りにした品種にはこの天草が親品種として使われています。外皮や薄皮は非常に薄くむきづらいため、スマイルカットにして楽しむのがおすすめです。旬は1月です。
はるみ
はるみはポンカンと清見を交配した品種です。1999年に登録されました。むきやすく、種もなく、薄皮も薄い食べやすい品種です。味は甘みだけでなく、うまみが濃く感じられます。また、果肉のつぶつぶ(さじょう)一つ一つがしっかりしていることが一番の特徴で、つぶつぶとした食感を楽しめます。同じ掛け合わせの品種に不知火とせとみ、はるきがありますが皆違う個性を持っています。旬は2月です。
みはや
みはやは2014年に登録された新品種です。津之望(つののぞみ)に清見とイヨカンを掛けたものを交配しました。一番の特徴は目を引く濃い赤橙色で、果肉も同じように濃い色をしています。また、果皮はツヤツヤとしています。独特の芳香があり、味は甘く、濃いめながらさっぱりとしています。酸味はかなり少ないです。温州ミカンよりはむきづらいですが、薄皮は厚くなくそのまま食べられます。旬は12〜1月です。
はるか
日向夏の自然交雑品種として生まれたといわれています。アルベドまで甘い点は日向夏に似ていますが、お尻の丸いリング状のへこみがはるかの特徴です。このリングのへこみが薄ければ薄いほどおいしいはるかとされています。皮が厚く手でむきにくいですが、お尻のリングをはがしてからむくと比較的簡単に手でむくことができます。旬は3〜4月です。
水晶文旦
その名のとおり、果肉が水晶のように透き通った文旦です。栽培が難しく、ハウス栽培のものがほとんどです。他の文旦類と比べるとジューシーで、砂糖菓子のような上品なほのかな甘みと柔らかな苦みが文旦類の中でも際だって上品です。旬は10〜11月です。
ネーブル
ネーブルオレンジは早生(わせ)のスイートオレンジです。底部分にあるくぼみにちなんで英語で「へそ」という意味の名前が付けられました。形は球〜やや縦長で、外皮と薄皮は薄く種も少ないため生食に向いています。ただし手でむくのは難しいためナイフを使うことが多いです。甘みが強く、華やかな香りがあります。アメリカ産のものが多く、輸入物は11〜4月頃に出回り、日本のものは2〜3月頃が旬です。
伊予柑
伊予柑は山口県で発見された柑橘です。ミカンとオレンジの交雑種ではないかと言われています。愛媛に持ち込まれ栽培が盛んになったことから”伊予”柑と呼ばれるようになりました。現在も愛媛県が一番の生産量を誇ります。果皮は厚めですが手で簡単に剥くことができます。かなり多汁で、爽やかな甘みを口いっぱいに味わうことができます。伊予柑にも複数品種があり、主流な品種は宮内伊予柑です。旬は12月下旬〜2月です。
紅まどか
文旦の一種であり、「平戸文旦」と「麻豆(まとう)文旦」を掛け合わせた品種です。“紅”と名前にあるように、果肉が薄いピンクなのが特徴です。文旦類の中では甘みが強く、苦みが控えめです。果皮に傷がつきやすく販売用に向かないため、市場で見かけることはまれです。旬は1月中旬〜2月です。
ポンカン
ポンカンはインド原産とされアジア各地で栽培されている品種です。種がやや多いのが難点ですが、外皮はむきやすく薄皮も厚くないため食べやすいです。酸味が少なく、まろやかな甘さが際立ちます。また、独特の芳香があります。実はポンカンには太田ポンカン、吉田ポンカン、今津ポンカンなどいくつもの品種があります。品種の交配にもよく利用され、不知火や甘平といった人気品種を多く生み出しました。旬は1〜2月です。
媛小春(ひめこはる)
黄金柑(おうごんかん)に清見を交配して育成されました。愛媛県オリジナルの品種で2008年に登録されました。黄色く、上部が膨らんでいる形が特徴的で、「紅まどんな」や「甘平」と並ぶ愛媛県の主要品種です。黄色い見た目で酸っぱそうに見えますが、実は酸味は少なく黄金柑譲りの爽やかさと清見譲りのまろやかな甘さが特徴的な隠れた美味柑橘です。外皮もむきやすく、薄皮も厚くないため気軽に食べられます。旬は2〜3月です。
弓削瓢柑(ゆげひょうかん)
その名のとおり、ひょうたんのように細長い形をした珍しい柑橘です。房も細長く、むいて楽しい柑橘の一つです。文旦類の一種と言われており、その味はグレープフルーツに例えられることが多いですが、グレープフルーツに比べ甘み・酸味共に優しいです。グレープフルーツなどに含まれている「フラノクマリン」という成分が含まれていないため、これと相互作用を起こす医薬品を服薬中でも食べることができます。旬は4〜5月です。
クレメンティン
アルジェリアで偶発的に生まれ、地中海マンダリンの雑種とされています。その後種がないものがスペインで発見され、日本に伝わってきました。やや小ぶりで形は球に近く、外皮はむきやすく温州(うんしゅう)ミカンと似ています。香りが強く、食感は少しサクサクで、味はすっきりした甘さがあります。佐賀県で多く作られており、旬は12〜2月です。
日向夏(ひゅうがなつ)
宮崎県が原産地とされており、1820年頃発見されたと言われています。小夏やニューサマーオレンジという名前で呼ばれることもあります。果実はさっぱりとした甘みと酸味がありますが、アルベド(皮と果肉の間の白いふわふわな部分)が甘いのが特徴的です。外皮のみをカットして果肉を一口サイズにカットして食べます。このようにしてアルベドと一緒に食べることでより一層甘みが感じられます。旬は4〜5月です。
晩白柚(ばんぺいゆ)
ザボンの一種で、原産地はマレー半島です。柑橘類最大級のサイズを誇り、大きいものだと3キロを超えます。外皮は抜きん出て分厚く、内側はふわふわのクッションのような触り心地です。房の袋も非常に分厚く、基本的に全てむいてから食べます。酸味はあまりなく、優しい甘さとかすかに感じる苦さが上品な味です。また甘く爽やかな香りも特徴的です。身はかなり引き締まって硬く、一粒一粒シャキシャキした歯ごたえがあります。旬は1〜3月です。
河内晩柑(かわちばんかん)
自然交配によって偶発的に生まれた品種で、1935年頃に熊本県の河内町で見つかりました。文旦の血を引いているとされています。サイズは大きめで縦長の形をしており、外皮は黄色くやや厚いです。房の袋も少し厚めですが、粒は柔らかく圧倒的な果汁量があります。和製グレープフルーツとも呼ばれ、爽やかな甘さ、酸味、苦みが特徴です。旬は4〜7月と長く、春から初夏のものはとても瑞々しく、後半のものは比較的身が引き締まっています。
土佐文旦
文旦の中でも一番メジャーな品種がこの土佐文旦です。土佐とあるように高知県で栽培が盛んです。土佐文旦の収穫は12月からですが、甘みを増すためにしばらく貯蔵をするため、2月から出荷となります。外皮はかなり厚く、薄皮も厚いためむくのには手間がかかりますが、一房が大きいため食べ応えがあります。ザクザクとした食感で、甘みと特有の苦みが調和した爽やかな味がします。また、皮は砂糖漬けにして食べることもできます。
タロッコ
イタリア地中海地域原産で、国内で生産されているブラッドオレンジ2種のうちの一つです。スペインのサンギネッロ種の突然変異と言われています。温暖化に伴って愛媛の南予地域でも生産されるようになってきました。外皮・果肉ともに濃い赤とオレンジがグラデーションのようになった色をしています。皮はややむきにくいですが、房の袋は薄く種もあまり多くありません。甘さも酸味も非常に濃く、ジュースとしても人気があります。旬は3〜5月です。
モロ
イタリア地中海地域原産で、国内で生産されているブラッドオレンジ2種のうちの一つです。サンギネッロ種の突然変異と言われています。タロッコと同じように近年温暖化に伴い日本でも育てられるようになりました。外皮・果肉ともに鮮烈な赤黒い色が特徴で、甘美かつ独特な香りです。味は濃く甘酸っぱく、タロッコに比べるとほんの少しえぐみがあります。アントシアニンがたっぷりです。主な産地は愛媛で、旬は2〜3月です。
湘南ゴールド
黄金柑に今村温州を掛け合わせた品種で、1999年に神奈川県で品種登録されました。神奈川県のみで栽培が許されている品種です。見た目は黄金柑とさほど変わりませんが、香りが豊かで少し甘みが強いように感じられます。神奈川県では本品種を使用した加工品に力を入れており、湘南ゴールドの果汁を使用したさまざまな商品が発売されています。旬は3〜4月です。
八朔(はっさく)
江戸時代末期に広島県・因島のお寺の境内で原木が発見されたと言われています。親品種は明らかになっていませんが、文旦の血を引いているのではと推測されます。外皮も房の袋も分厚く、身はしまっていてシャキシャキとした歯ごたえがあり、甘さ、酸味、ほろ苦さのバランスがとれた味です。名前は「八月の朔日(1日)には食べられる」という意味から来ているそうですが、現在の旬とはずれていますね。旬は2月〜4月下旬頃です。代表的な産地は和歌山です。
黄金柑
黄金柑は日本に古くから自生していた柑橘の一つとも言われており、明治時代にはその存在が確認されています。見た目から、黄金柑のほかにゴールデンオレンジや黄蜜柑(きみかん)などという名前で呼ばれることもあります。小さくて黄色いので酸っぱそうなイメージがありますが、まろやかな甘さと酸味のバランスが良く、とてもおいしいです。旬は3〜4月です。
甘夏
品種名は「川野夏橙(かわのなつだいだい)」といい、大分県津久見市の川野豊さんの農園で夏ミカンの枝変わりとして発見され1950年に品種登録されました。外皮は分厚くゴツゴツしており、房の袋も厚めです。香りが非常に良く、味は夏ミカンより酸味が弱く、優しい甘さと苦さがあります。食感は硬めでシャキシャキしています。主な産地は熊本、鹿児島、愛媛で、旬は1〜6月です。
 
 
 

 

●ウンシュウミカン(温州蜜柑)
ミカン科の常緑低木またはその果実のこと。様々な栽培品種があり、果実が食用にされる。
名称​
現代において「みかん」は、通常ウンシュウミカンを指す:21。和名ウンシュウミカンの名称は、江戸時代の後半に蜜柑の産地として有名だった中国浙江省の温州市から名付けられ、温州から入った種子を日本で蒔いてできた品種であるとの俗説がある事に由来するが、本種の原産地は日本の薩摩地方であると考えられており、必ずしも温州から伝来したというわけではない。2010年代に行われた遺伝研究により、母系種はキシュウミカン、父系種はクネンボと明らかになっている。
「みかん」が専らウンシュウミカンを指すようになったのは明治以後である。江戸時代に普及していたのは本種より小型のキシュウミカン(紀州蜜柑)Citrus kinokuniであり:21、「みかん」を代表していたのはキシュウミカンであった。
「蜜柑」「みかん」について​
「みかん」は蜜のように甘い柑橘の意で、漢字では「蜜柑」「蜜橘」「樒柑」などと表記された。
史料上「蜜柑」という言葉の初出は、室町時代の1418年(応永26年)に記された伏見宮貞成親王(後崇光院)の日記『看聞日記』で、室町殿(足利義持)や仙洞(後小松上皇)へ「蜜柑」(キシュウミカンと考えられる)が贈られている。1540年頃と年次が推定される、伊予国大三島の大山祇神社大祝三島氏が献上した果物に対する領主河野通直の礼状が2通が残されているが、一通には「みつかん」、もう一通には「みかん」と記されており、「みつかん」から「みかん」への発音の過渡期と考えられている。
江戸時代には甘い柑橘類の種類も増え、「橘」と書いて「みかん」を意味するケースや、柑子(コウジ)の甘いものを蜜柑(みつかん)と呼ぶケース、「柑類」で「みかん類」を意味するケースなど、名称に混乱が見られるようになった。
「温州」について​
南宋の韓彦直が1178年に記した柑橘類の専門書『橘録』には、柑橘は各地で産出されるが「みな温州のものの上と為すに如かざるなり」と記している。日本でも『和漢三才図会』(1712年)に「温州橘は蜜柑である。温州とは浙江の南にあって柑橘の産地である」とあり、岡村尚謙『桂園橘譜』(1848年)も「温州橘」の美味は「蜜柑に優れる」と記す。温州は上質で甘い柑橘の産地と認識されていた。古典に通じた人物が、甘みに優れた本種に「温州」と名付けたという推測は成り立つが、確証といえるものはない。
『和漢三才図会』(1712年)には「蜜柑」の品種として「紅蜜柑」「夏蜜柑」「温州橘」「無核蜜柑」「唐蜜柑」の5品種を挙げている:25。「温州橘」「無核蜜柑」は今日のウンシュウミカンの可能性があるが、ここで触れられている「温州橘」は特徴として「皮厚実絶酸芳芬」と書かれており、同一種か断定は難しい:25。「雲州蜜柑」という表記も見られ:21、19世紀半ば以降成立の『増訂豆州志稿』には「雲州蜜柑ト称スル者、味殊ニ美ナリ」とあって、これは今日のウンシュウミカンとみられる:25。
1874年(明治7年)より全国規模の生産統計が取られるようになった(『明治7年府県物産表』):27。当初は地域ごとに様々であった柑橘類の名称を統一しないまま統計がとられたが、名称を統一する過程で、小蜜柑などと呼ばれていた種が「普通蜜柑」、李夫人などと呼ばれていた種が「温州蜜柑」となったという。明治中期以降、温州蜜柑が全国的に普及し、他の柑橘類に卓越するようになる:29。安部熊之輔『日本の蜜柑』(1904年)は、蜜柑の種類として「紀州蜜柑」「温州蜜柑」「柑子蜜柑」の3種類が挙げられている:33。キシュウミカンの産地は紀州以外にも広がっており、ウンシュウミカンの普及後は生産地との混同を避けるために「小蜜柑」と呼ばれることが多い:21。
植物学的な特徴​

 

原産・生育地​
日本の不知火海沿岸が原産と推定される。農学博士の田中長三郎は文献調査および現地調査から鹿児島県長島(現・鹿児島県出水郡長島町)がウンシュウミカンの原生地との説を唱えた。鹿児島県長島は小ミカンが伝来した八代にも近く、戦国時代以前は八代と同じく肥後国であったこと、1936年に当地で推定樹齢300年の古木(太平洋戦争中に枯死)が発見されたことから、この説で疑いないとされるようになった。発見された木は接ぎ木されており、最初の原木は400 - 500年前に発生したと推察される。DNA鑑定により種子親がキシュウミカン、花粉親がクネンボであると推定された。
ウンシュウミカンは主に関東以南の暖地で栽培される。温暖な気候を好むが、柑橘類の中では比較的寒さに強い。
形態・生態​
常緑小高木で、高さは3 - 4メートルほどになる。日本で一般的に使われているカラタチ台では2 - 4メートルの高さに成長する。「台」については「接ぎ木」「挿し木」参照。
花期は5月頃で、花径3センチメートルほどの白い5花弁の花を咲かせる。
秋になると果実が結実する。果実の成熟期は9月から12月と品種によって様々で、5 - 7.5 センチメートル程の扁球形の実は熟すにしたがって緑色から橙黄色に変色する。一般的に花粉は少ないが単為結果性のため受粉がなくても結実する。自家和合性であるが、受粉しても雌性不稔性が強いため種子を生じにくく、通常は種なし(無核)となる。ただし、晩生品種は雌性不稔性が弱いことから、近くに甘夏等の花粉源があると種子を生じることがある。生じた場合の種子は多胚性で、播種しても交雑胚が成長することはまれであり、ほとんどの場合は珠心細胞由来の珠心胚が成長する。そのため、種子繁殖により母親と同一形質のクローン(珠心胚実生)が得られる。ただし、種子繁殖は品種改良の際に行う。未結実期間の短縮、樹勢制御、果実品質向上等のため、日本では通常は接ぎ木によって増殖を行う。台木としては多くはカラタチが用いられるが、ユズなど他の柑橘を用いることもある。
ミカンの歴史​

 

柑橘の伝来​
柑橘の原種は3000万年前のインド東北部のアッサム地方近辺を発祥とし、様々な種に分化しながらミャンマー、タイ、中国等へ広まったとされる。中国においては古くから栽培が行われており、戦国時代に完成したとされる文献『晏子春秋』には「橘化為枳」(橘、化して枳と為る。境遇によって元の性質が変化するという意)との故事が記されている。
日本にはタチバナと沖縄にシークヮーサーが原生していたが、3世紀の日本の様子が書かれた『魏志倭人伝』には「有薑橘椒蘘荷不知以爲滋味」(生薑、橘、山椒、茗荷があるが、それらを食用とすることを知らない)と記されており、食用とはされていなかったと考えられる。
日本の文献で最初に柑橘が登場するのは『古事記』『日本書紀』であり、「垂仁天皇の命を受け常世の国に遣わされた田道間守が非時香菓(ときじくのかくのみ)の実と枝を持ち帰った(中略)非時香菓とは今の橘である」(日本書紀の訳)との記述がある。ここでの「橘」はタチバナであるともダイダイであるとも小ミカン(キシュウミカン)であるとも言われており、定かではない。
その後も中国からキンカンやコウジ(ウスカワミカン)といった様々な柑橘が伝来したが、当時の柑橘は食用としてよりもむしろ薬用として用いられていた。
日本の「ミカン」​
ミカンとして最初に日本に広まったのはキシュウミカンである。中国との交易港として古くから栄えていた肥後国八代(現・熊本県八代市)に中国浙江省から小ミカンが伝り、高田(こうだ)みかんとして栽培され肥後国司より朝廷にも献上されていた、それが15 - 16世紀頃に紀州有田(現・和歌山県有田郡)に移植され一大産業に発展したことから「紀州」の名が付けられた。また江戸時代の豪商である紀伊国屋文左衛門が、当時江戸で高騰していたミカンを紀州から運搬して富を得た伝説でも有名である(史実ではないとされる。詳細は紀伊国屋文左衛門の項目を参照)。また江戸時代初期、徳川家康が駿府城に隠居したとき、紀州からキシュウミカン(ホンミカン)が献上され、家康が植えたこの木が静岡県のみかんの起源とされている。 静岡のみかんの起源には富士市(旧富士川町)の農夫が外国から移植した経緯もあり、家康が起源のみかんとは歴史も古く品種も異なる。
ウンシュウミカンは当初「長島蜜柑」「唐蜜柑」等と呼ばれていたが、種子を生じない性質から武士の世にあっては縁起が悪いとされ、ほとんど栽培されることはなかった。しかし江戸時代後期よりその美味と種なしの利便性から栽培が行われるようになり、明治27年(1894年)頃から生産を増やして徐々にキシュウミカンに取って代わるようになった。「温州蜜柑」との呼称が一般的になったのもこの頃である。
栽培の拡大​
明治時代に入ると、以前よりミカン栽培に力を注いできた紀州有田はもとより、静岡県や愛媛県等でもウンシュウミカンの栽培が本格化する。産地の拡大により市場競争が始まり、栽培技術の改善や経営の合理化が図られるようになった。またアメリカ合衆国フロリダ州に苗木が送られたのを皮切りに北米や朝鮮半島にも輸出されるようになり、日本国外への展開も始まった。昭和初期にはナツミカンやアメリカから輸入されたネーブルオレンジ等も広く栽培され、柑橘市場の成長は最初のピークを迎える。その後、太平洋戦争に突入すると、食糧増産の煽りを受けて栽培面積は減少し、資材の不足と徴兵による労働力の減少により果樹園は荒廃した。戦後の復興期もしばらくは食糧難の解消が最優先とされ、栽培面積の減少が続いたが、数年後には増加に転じ、1952年に戦前の水準まで回復した。
そのまま高度経済成長の波に乗り、ミカン栽培は飛躍的な伸びを見せる。復興ブームによる果実消費の増大によってウンシュウミカンは高値で取引されるようになり、一部では「黄色いダイヤ」とも呼ばれた。1960年以後は行政施策の後押しもあって全国的に過剰なまでに増産され、1968年の豊作時には計画生産量を上回った。この頃には完全に生産過剰となっていたがなおも増産は続けられ、1972年には豊作とこの年から始まったグレープフルーツの輸入自由化の影響により価格が暴落。ピークの1975年には生産量は終戦直後の約8倍にあたる366.5万トンに達していた。
近年の動向​
生産過剰に加えて1970年代よりアメリカからオレンジ輸入枠拡大の要請が強まり、政府はミカン栽培縮小へ方針を転換した。政府の政策は他種への改植を促すことにもなり、ウンシュウミカンの栽培面積が年々減り続ける一方で、他の柑橘の栽培は拡大した。
1980年代からの日米貿易摩擦の中で1991年にオレンジの輸入自由化が始まった。円高も相まってオレンジの輸入が増大する一方で主に北米向けに行われていた輸出は途絶え、ミカン栽培は危機を迎えた。これに対して各産地では生産調整、品質の向上、価格が高い早生や極早生への切り替え等で対応し、ウンシュウミカンの価格は傾向として一時的に上昇した。しかし農家の後継者不足や果樹消費の多角化等、日本のミカン栽培は今なお様々な問題を抱えている。農林水産省の2021年予想生産量は76万トンで2020年実績より6000トン少ない。農家の高齢化などにより供給量が需要を下回るようになっており、2020年産から緊急需給調整事業を廃止。過剰栽培を抑える意味で公表していた「適正生産量」を、増産を促す意味合いを持つ「予想生産量」へ切り替えた。
近年では新たな販路として日本国外への輸出拡大が試みられており、主な輸出先である北米の他にも香港や台湾といったアジア諸国への輸出も始まった。  
主な品種と出荷時期​

 

極早生温州​
9月から10月頃に掛けて収穫される。1970年代に発生したオイルショックを受けて、ハウス栽培における石油消費量を減らす目的で研究が進められるようになった。近年は生産過剰気味である。
   宮本早生
宮川早生の枝変わりとして1967年に和歌山県下津町(現海南市)の宮本喜次によって発見され、1981年に品種登録された。果実は扁平で、収量性に優れる。宮川早生よりも2-3週間程早く成熟する。かつては極早生温州の中心品種であったが、後の品種改良で誕生した極早生品種に比べ糖度が低く食味が劣るため近年では栽培は激減している。
   日南1号
興津早生の枝変わりとして1978年に宮崎県日南市の野田明夫によって発見され、1989年に品種登録された。比較的樹勢が強く、瓤嚢膜(じょうのう)膜が軟らかい。栽培容易で糖度、酸度ともに安定しているため栽培が広がり、現在では極早生温州の中心品種となっている。
   日南の姫(日南N1、ニュー日南)
日南1号の枝変わりとして2008年3月18日に品種登録された。日南1号と比べ減酸や着色が早いため、8月下旬から収穫可能な超極早生品種として栽培が広がりつつある。日南の姫(ヒナノヒメ)は都城大同青果株式会社の登録商標である。
   岩崎早生
興津早生の枝変わりとして1968年に長崎県西彼杵郡西海町(現・西海市)の岩崎伝一によって発見された。極早生の中でも最も早く出荷される品種のひとつである。
   崎久保早生
松山早生の枝変わりとして1965年に三重県南牟婁郡御浜町の崎久保春男によって発見された。三重県の主力品種。上野早生宮川早生の枝変わりとして1970年に佐賀県東松浦郡浜玉町(現・唐津市)の上野壽彦によって発見され、1985年に品種登録された。減酸が緩やかなため、他の極早生品種に比べて収穫時期が遅れるが、その分食味は長く保たれる。また浮皮の発生が少ないのも特徴である。
   ゆら早生
宮川早生の枝変わりとして1985年に和歌山県日高郡由良町の山口寛二によって発見され、1995年に品種登録された。他の極早生品種に比べ糖度が高く、瓤嚢膜膜が極めて薄く、多果汁であるため食味がよい。樹勢が弱く、さらに小玉果が多いため栽培が難しい。
   YN26(紀のゆらら)
2001年に和歌山県果樹試験場によりゆら早生の珠心胚実生から育成され、2012年に品種登録された。ゆら早生よりも糖度が高く、減酸や着色も早く、樹勢も強い。ゆら早生同様にじょうのう膜が薄く多果汁であるため食味がよい。小玉果が多いという欠点はゆら早生から引き継いでいる。栽培および苗木の供給は和歌山県内に限られている。紀のゆららは和歌山県農業協同組合連合会の登録商標。
早生温州​
10月から12月に掛けて収穫される。比較的単価が高いことから、中生や普通温州からの切り替えを進める産地もある。
   青江早生
1892年(明治25年)頃に大分県津久見市青江で発見された従来木の枝変わりの早生品種。日本初の早生温州とされる。1903年(明治36年)に広島県大長に導入されたほか、日本全国に広まった。現在ではほとんど栽培されていない。
   宮川早生
1910年頃に福岡県山門郡城内村(現柳川市)の宮川謙吉邸にて発見された枝変わりを、1925年に田中長三郎が発表した。育てやすく収量性が良いなど優れた特徴を持つため、古くから全国的に広く栽培されるようになった。食味がよいため現在でも早生温州の代表的な品種で、ハウス栽培用としても広く用いられる。また、袋掛けを行い樹上で越冬完熟させたものなども出荷されている。
   興津早生
1940年に農研機構(旧農林省園芸試験場)において宮川早生にカラタチを受粉させた珠心胚実生から選抜され、1963年に品種登録された。宮川早生と比べて着色が1週間程早く、樹勢が強い。宮川早生と共に早生温州の代表的品種である。
   田口早生
興津早生の枝変わりとして1978年に和歌山県有田郡吉備町(現有田川町)の田口耕作によって発見され、1995年に品種登録された。興津早生と比べ糖度が高く、減酸が早い。幼木のうちは大玉果になりやすいという欠点がある。
   木村早生
宮川早生の枝変わりとして1976年に熊本県で発見された。宮川早生と比べ糖度が高く、じょうのう膜が薄いため食味がよい。大玉果になりやすく浮き皮が多く、さらに隔年結果になりやすいため栽培は難しい。
中生温州​
11 - 12月頃に収穫される。
   藤中温州
神奈川県湯河原町吉浜在住の藤中氏の農園で昭和初期頃発見された系統で、現在は湯河原町 - 小田原市を中心に早生みかんから晩生みかんへの中継役として育成されている品種である。
   南柑20号
1926年に愛媛県宇和島市の今城辰男の果樹園にて発見された系統で、本種を優良系統として選抜した南予柑橘分場(現・愛媛県立果樹試験場南予分場)にちなんで名付けられた。中生温州の代表的な品種で、愛媛県、特に南予地方において主力品種とされている。浮皮が多いのが欠点。
   愛媛中生
1973年に愛媛県立果樹試験場において南柑20号にパーソンブラウンを受粉させた珠心胚実生から選抜され、1994年に品種登録された。南柑20号に比べて1週間程着色が早く糖度が高い。
   向山温州
1934年に和歌山県伊都郡かつらぎ町の向山勝造によって発見された。樹勢が強く大果。果皮の紅色が濃いのが特徴。糖度が高く酸が低い。年により浮皮が多いのが欠点。
   きゅうき
1989年に和歌山県有田市宮原町の久喜護によって向山温州の1樹変異個体として発見された。2011年品種登録。向山温州に比べ浮皮の発生が極めて少なく、糖度が高く減酸も早い。さらにじょうのう膜が薄く早生温州と似た食味である。向山温州に比べ樹勢はやや弱いが、隔年結果しずらく豊産性。栽培および苗木の供給は和歌山県内に限られている。
   久能温州
農研機構(旧農林省園芸試験場)において長橋温州にジョッパオレンジを受粉させた珠心胚実生から選抜され、1971年に品種登録された。樹勢が強く果実は大きく育つ。缶詰用としても利用される。
   瀬戸温州
農研機構(旧農林省園芸試験場)において杉山温州にトロビタオレンジを受粉させた珠心胚実生から選抜され、1971年に品種登録された。果実は浮皮が少なく、風味は糖度が高く酸が低い。瀬戸内などの雨量が少ない地域で特徴を表し、広島県を中心に栽培される。
   盛田温州
宮川早生の枝変わりとして佐賀県東松浦郡七山村(現・唐津市)の盛田博文によって発見され、1980年に品種登録された。表面が非常に滑らかでトマトにたとえられることもある。
普通温州​
11月下旬 - 12月に収穫される。特に遅く出荷される品種(青島や十万など)は晩生温州として区別される。
   青島温州
静岡市葵区福田ヶ谷の青島平十によって、枝変わりとして1935年頃発見された。果実は大きく育ち、浮皮になりにくい。高糖系品種の代表格で、長期間の貯蔵も可能である。特に静岡県において主力品種として多く栽培されている。じょうのう膜が硬く、さらに隔年結果しやすいのが欠点。
   十万温州
高知県香美郡山南村(現・香南市)の十万可章の果樹園にて発見された。長く貯蔵が可能で3月いっぱいまで出荷される。徳島県で多く栽培されている。
   大津四号
1964年に神奈川県足柄下郡湯河原町の大津祐男が十万温州の珠心胚実生から選抜した。1977年に品種登録。青島温州と並び高糖系品種の代表格として各地で栽培されている。隔年結果しやすいのが難点。
   今村温州
福岡県久留米市草野町吉木の今村芳太の果樹園にて発見された。濃厚な味わいで貯蔵性が良いが、樹勢が強く結実が不安定なため栽培が難しい品種とされる。栽培が難しく流通量が少ないため「幻のミカン」とも言われる。当時発見された原木は伐採されて現存しない。
   紀の国温州
和歌山県果樹園芸試験場(現・和歌山県農林水産総合技術センター果樹園芸試験場)において丹生系温州の珠心胚実生から選抜され、1986年に品種登録された。丹生系温州よりも2週間程早く成熟する。
   寿太郎温州
1975年の春、静岡県沼津市西浦久連で山田寿太郎の青島温州の木より発見された青島系統品種。青島温州よりも小ぶりでM・Sサイズ中心の小玉みかん。果皮は温州みかんとしては厚めで日持ちが良い、糖度も12度以上と高く濃厚で今後期待される品種である。近年産地保護育成の期限が切れ栽培解禁となった。 
農産​

 

日本で最も消費量の多い果実であったが、近年の総務省の家計調査では一世帯あたりの消費量においてバナナに抜かれて二位に転落し、2013年時点はバナナ、リンゴに次ぐ3位となっている。尤も、産地近辺では栽培農家からお裾分けをもらうことが多い。
産地​
ウンシュウミカンの生産量は、和歌山県、愛媛県、静岡県が年間10万トン以上、続いて、熊本県、長崎県が5万トン以上、佐賀県、愛知県、広島県、福岡県、神奈川県、が2万トン以上、三重県、大分県、大阪府、香川県、徳島県、鹿児島県、宮崎県が1万トン以上、山口県、高知県が5000トン以上(2016年度の生産量に準拠)となっており、これらの県で99%以上を占める。以下、千葉県、岐阜県、兵庫県、岡山県が1000トン以上、その他茨城県、埼玉県、東京都、新潟県、福井県、京都府、奈良県、島根県、沖縄県などでも作られている。このように、ウンシュウミカン栽培は、温暖、かつ日当たり、風当たり、水はけが良い斜面の地形が条件であり、主な産地のほとんどが太平洋や瀬戸内海に面した沿岸地である。
近年は保存技術の向上と共にビニールハウスや温室で栽培されたハウスみかんも多く流通し、ほぼ一年中目にすることが出来る。ハウスみかんでは佐賀県、愛知県、大分県などが主産地となっている。
日本以外では、世界最大の産地である中国浙江省の寧波市・奉化市・寧海市、他に米国アラバマ州、スペインやトルコ、クロアチア、韓国の済州島、ペルーなどでも栽培されている。
収穫量​
収穫量(2016年度)
 全国合計 80万5,100 トン(2015年比 2万7,300 トンの増加)
 1.和歌山県 16万1,100 トン(全国シェア約20%)
 2.愛媛県 12万7,800 トン(全国シェア約16%)
 3.静岡県 12万1,300 トン(全国シェア約15%)
産出額(2017年度)
 1.和歌山県 335億円
 2.静岡県 246億円
 3.愛媛県 235億円
昭和初期まで和歌山県が首位を独走してきたが、1934年の風水害で大きく落ち込み、以降は静岡県が生産量1位の座についていた。
愛媛県は1970年より34年連続で収穫量1位を守ってきたが、2004年度から13年連続和歌山県が逆転し首位に。これを機に、愛媛県では新品種柑橘類の栽培を推奨したため、相対的にみかん産地(特に極早生)が減少。結果として全国シェアの差が年々広がっている。
ウンシュウミカンは収穫が多い年(表年)と少ない年(裏年)が交互に発生する隔年結果の傾向が顕著なため、統計対比は2年前の統計を対象に行うのが通例となっている。実際は香川県、佐賀県、鹿児島県など裏年の方が収穫量が多い都道府県もある。
普通温州のみの生産量は静岡県が最も多い。早生、極早生などを含むウンシュウミカン全般(農水省のミカンがこれに当たる)および柑橘類全般では和歌山県が最も多い。また、極早生、早生種のみは熊本県、ハウスみかんは佐賀県が一番多い。
上位三県以外の九州地方も全県が上位に含まれるなど、みかん栽培が盛んである。特に佐賀県や長崎県ではマルチシート被覆率が高い。
2006年度は1963年以来43年ぶりに収穫量が100万トンを下回った。その原因として、開花後の日照不足や、夏季の少雨で果実が十分に成長できなかったことなどがあげられる。
栽培北限は「最寒月の平均気温が5℃以上」とされている(北限産地については後述)。
日本の主要産地とブランド​

 

生産上位県​ 
   和歌山
年間収穫量は14万トン - 19万トンで、大産地の割に隔年結果の影響は少なく、また出荷調整を行っている。主産地に有田市、有田川町(旧吉備町、旧金屋町)、湯浅町、広川町、海南市(旧下津町、旧海南市)、紀の川市(旧粉河町、旧那賀町、旧打田町、旧桃山町)、和歌山市、由良町、日高川町(旧川辺町)、田辺市、かつらぎ町、紀美野町(旧野上町)、上富田町など。主な出荷先は近畿、北海道、新潟、関東(栃木、横浜など)などで、京阪神市場の7割以上を占め、また新潟、横浜、札幌市場などで高い評価を得ている。大都市圏に近いため、観光農園や直売所も多い。かつては京阪神中心で、東京の市場へはそこまで重視していなかったが、近年は出荷量ベースでは愛媛県産に肉薄してきている。
   有田みかん
有田川流域や有田郡の沿岸で栽培される和歌山県の代表的ブランドで、有田市と有田郡の3町(有田川町、湯浅町、広川町)が指定産地。江戸時代からの名産地であり、県産みかんの40%以上を占めるが、ミカン樹木の老齢化も進んでおり、近年は内陸の産地が主力となっている。管内には10以上の選果場(古くは20以上あったが統廃合により集約された)があり、更にJA直営と地域運営に分けられる。前者によるものはAQみかん(AQはArida Qualityから。内陸に位置する複数の選果場を統合し、有田川町に2箇所と広川町《マル南》に選果場を持つ。全国に先駆けて非破壊酸度測定装置《シトラスセンサー》を導入)というブランド名が付けられる。対して、地域運営による共同選果場のものとしては、宮原共選(有田市宮原町)、マルス共選(湯浅町栖原。昔は有田市須谷にも須谷マルス共選があったため、栖原マル栖共選といわれていた)、マル御共選(有田川町庄。御は御霊地区に因む)、マル有共選(有田川町西丹生図)、マル賢共選(有田川町賢。マル賢みかんと呼ばれ、宇都宮市と石巻市の市場にのみ出荷)、ありだ共選(有田市千田。アルファベットの「A」を象ったエースマークがシンボルで、ハウスみかん生産も多い)等がある。これらの選果場では、JAが指定する協会共通のブランドに「味一α」「味一みかん」があり、上記の選果場共通で糖度12.5%以上の優良品に付けられる。また、有田市にある選果場では、一定糖度以上の優品に対し「有田市認定みかん」という独自の選定ブランドも設けられている。それとは別に出荷組合による個撰ブランドがあり、「新堂みかん」(有田市新堂。新堂みかん出荷組合)、湯浅町の「田村みかん」(湯浅町田《旧田村》。田村出荷組合)、「田口共販みかん」(有田川町田口。田口共販組合。田口みかんともいい、同地区は田口早生発祥地)が知られる。これに農業法人や企業、または個人農家のブランドもあり、上質みかんをジュースにして販売し成功を収めた、早和果樹園(草創は早和共選)などが知られる。有田みかんは全国他の51箇所とともに地域団体商標の全国第一弾として認定された。
   下津みかん
海南市下津町は有田郡に次ぐ和歌山県の主産地で、江戸時代から連綿とみかん栽培が行われており、紀伊國屋文左衛門がこの下津から船を出したと伝わっている。早生種が中心の有田に対し、普通温州が中心。経営的な戦略もあって有田みかんとは時期をずらし、みかんの出荷が減る1月 - 2月頃に「蔵出しみかん」という貯蔵みかんを出荷する。収穫後に貯蔵を行うことで、酸を和らげ糖度を増し、旨味を高めることができる。このようなみかんを貯蔵みかん、蔵出しみかんといい、みかんの芸術品と言われている。貯蔵みかん産地として下津町は国内最大規模で、「下津蔵出しみかんシステム」が2019年に日本農業遺産に認定された。また、選果場を最新の糖度センサーを導入した蔵夢選果場1箇所に集約しており、ブランド品に糖度13%以上の「ひかえおろう」、12%以上の「雛みかん」などがある。京阪神のほか、北海道への出荷が多い。「しもつみかん」として地域団体商標登録。また、旧海南市域の藤白地区でも栽培が盛んで、「下津みかん」として出荷している。貯蔵みかんは、下津の他に徳島県勝浦町、静岡県浜松市北区(旧三ケ日町)、岐阜県海津市、佐賀県小城市などでも実践されている。
   紀南みかん
JA紀南管内である和歌山県田辺市・上富田町・白浜町など西牟婁郡で栽培される、JA紀南管轄内におけるみかん産地の総称。紀南地方は気候が有田地方より温暖なため、内陸部の斜面に産地が多い。温暖な気候を活かした極早生みかんの早出し出荷および早生みかん・中晩柑類の樹上完熟出荷が特色である。ブランドとして田辺市大坊地区の「大坊みかん」、極早生みかんの「天」、早生みかんの「木熟みかん天」「紀州一番」、デコポンやポンカン、八朔、清見、ネーブルオレンジの「木熟」シリーズ等があり、有田や下津と比較すると、首都圏への出荷比率が高い。
   日高郡
日高郡はどちらかというとシラヌヒ、イヨカン、甘夏、セミノールなど中晩柑の生産が盛んであるが、みかんの栽培を行っている地域もある。太平洋に面した由良町はゆら早生の発祥地として知られ、ミカンの他にもレモンや清見などを栽培する複合産地となっている。「ゆらっ子」は日高郡由良町で生産されるブランドみかんで、マルチ栽培により高糖度を実現している。また日高川町(旧川辺町)でもみかん栽培が盛んで、総称して川辺みかんと呼ばれ、ブランド産地では若野地区の若野みかんなどがある。
   紀の川市、和歌山市
紀の川市、和歌山市山東地区でもみかん栽培が盛ん。紀の川市はJA紀の里が管轄しており、紀ノ川南岸、龍門山脈北嶺にみかん産地が展開する。生産量は県内有数で、極早生種や紀州ミカン(紀州小ミカン)の栽培が中心だが、早生種、普通種も見られる。大阪という大都市に近いため、観光農園や直売所販売も多い。汎用的な名称である和歌山みかんが一般的だが、産地を差別化するため、管轄JAの名から紀の里ブランドみかん、紀の里みかんと名乗っているケースも散見され、近年は差別化とブランド向上のために、有田で主流の早生種、宮川早生のほか、愛媛県で生産が多い普通種の南柑20号を生産している農家も増えている。また、一帯は八朔の生産が盛んで、生産量、出荷量、栽培面積において日本一の産地となっている。和歌山市は和歌山電鉄貴志川線沿線の山東(さんどう)地区で栽培が盛ん。
   愛媛県
年間収穫量は12万トン - 16万トンで、出荷額は高い。また、市場価値の高い中晩柑生産にシフトしてきている。主産地に八幡浜市(旧八幡浜市、旧保内町)、宇和島市(旧吉田町、旧宇和島市、旧津島町)、西予市(旧三瓶町、旧明浜町)、伊方町(旧伊方町、旧瀬戸町)、伊予市(旧双海町、旧伊予市)、砥部町、松山市(旧中島町、旧松山市、旧北条市)、今治市(旧大三島町、旧大浦町、旧関前村、旧菊間町、旧今治市、旧大西町)、大洲市(旧長浜町)など。主な出荷先は関東、甲信越、近畿などで、愛媛みかんという名称で県外に出荷するため、箱の色や選果部会の商標で産地を区別している。
   西宇和みかん
JAにしうわが管轄する愛媛県八幡浜市、伊方町、西予市三瓶地区(旧三瓶町)で生産されるみかん産地の総称。明治時代から痩せ地を開墾し、戦後みかん産地として発展。海岸沿いの南向き、西向き急斜面という好条件により、品質に優れたみかんを生産、首都圏の築地や大田市場を中心に高い評価を受け、首都圏を中心に名の通ったブランド産地に成長した。中でも「日の丸みかん」(八幡浜市向灘地区で、名称は共同選果部会名から。ブランド品に「豪琉頭日の丸千両」「日の丸千両」「百年蜜柑」などがあり、高級品特化。また、もっぱら葉擦れ品を扱った家庭用一般用に「ガキ大将」があるが、この産地だけは茶箱を用いていない)、「真穴みかん」(八幡浜市真網代《まあじろ》地区及び穴井地区。旧真穴村にあった真穴選果部会に因み、マルマの愛称を持つ。ブランド品に「ひなの里」がある。また、真網代青果による「真穴みかん貴賓」などがある)、「川上みかん」(八幡浜市川上地区。旧川上村にあった川上選果部会に因み、マルカと略される。ブランド品に「味ピカ」「味ピカ小太郎」「風」など)はウンシュウミカン専作の産地となっている。他には旧保内町喜須来、宮内と八幡浜市の日土町から成るみつる共選(以前の名称は保内共選。みつるはブランド品「蜜る」に因んだもの)、八幡浜共選(八幡浜市内にあり、川之石、舌田、粟野浦の市内沿岸3地区から成る中晩柑との複合産地で、収穫量最大の選果部会。ブランド品に「濱ノ姫」「濱美人」)、八協共選(八幡浜市内内陸に位置する矢野崎、千丈、双岩、神山の4地区から成る中晩柑との複合産地。ブランド品に「媛美月」)、三瓶共選(西予市三瓶地区(旧三瓶町)を包含。ニューサマーオレンジの産地として知られる複合産地。ブランド品に「しずる」《雫流》)、伊方共選(伊方町。ウンシュウミカンを中心とする複合産地。ブランド品に「媛匠」)などの10箇所の共同選果部会が独自のブランドを築いている(あと、伊方町(旧三崎町)に三崎共選があるが、ここは清見タンゴールなどの中晩柑専作であり、ウンシュウミカン栽培はほとんど行っていない。あと、同じく中晩柑中心の磯津共選(同旧保内町内磯津地区)があるが、規模は小さい)。また、箱の色から高級品は俗に黒箱と呼ばれるが、家庭用一般品は茶色の箱。なお、JAにしうわでは西宇和みかんPRとキャンペーンのために、例年クレヨンしんちゃんの野原しんのすけを採用している。
   宇和みかん
JAえひめ南が管轄する宇和島市吉田町(旧吉田町)、宇和島市を中心とした産地で作られるみかんの総称。特に宇和島市吉田町は八幡浜市に次ぐ県内2番目のミカン産地で、戦後しばらくは首都圏に盛んに出荷され、八幡浜を凌ぐ県内随一の産地であった。赤色の箱が特徴で、宇和青果農協時代からの銘柄である「うわの赤箱」という愛称で親しまれている。宇和島市吉田町内に味楽、玉津、喜佐方、宇和島市に宇和島共同の、計4箇所の選果場がある。ブランド品に「美柑王」「お袋さん」などがあり、またブランド力の高い玉津選果場では厳選品を「たまもの」という名称でブランド販売している。温州みかんのほか、甘平、甘夏、ポンカン、不知火の産地にもなっている。
   明浜みかん
八幡浜市と宇和島市吉田町の中間に位置する西予市の明浜地区(旧明浜町)で生産されるみかん。みかん産地の中でこの明浜だけがJAひがしうわ管轄となっており、箱の色も他とは異なり、橙色である。一般品の「風のいたずら」、ブランド品に「はまかぜみかん」などがあり、契約農家が任意で搾汁し販売するムテンカというストレートジュースでも注目を浴びている産地でもある。有機栽培農法でみかんを栽培、販売する無茶々園も同地区内にある。
   興居島みかん(ごごしまみかん)
愛媛県松山市の西部に位置する興居島(旧興居島村)で生産されるみかんで、「島みかん」と呼ばれ親しまれている。県外出荷の他産地と異なり、市内流通が中心となっているため、愛媛みかんという名称を用いていない。また、共同選果場がなく、個人選果を行っている珍しい産地である。箱の色は濃紅色。
   中島みかん
愛媛県松山市の北西部に位置する中島(旧中島町)で生産されるみかん。かつては選果場を持ち、マルナカブランドとして京阪神、首都圏などに出荷していたが松山市に吸収合併されると産地として衰退した。後にブランド再興の気運が高まり、松山市の内地産と差別化(内地ではハウスみかん中心)を図るため、「中島便り」として販売される。ブランド品に「中島便り 匠と極」。箱の色は黄緑色(管轄JAのJAえひめ中央に因む)。伊予柑、カラマンダリンやその他柑橘の複合産地にもなっている。
   今治、越智地方
県北部の今治市(旧越智郡を含む)もみかん栽培が盛んな地である。JAおちいまばり管轄となっており、青色の箱から、青箱と呼ばれる。また、産地から瀬戸内みかんと呼んでいるケースもある。ブランド品に「サンエース」があるが、宇和地方の産地がブランド志向となるなか、一般向け中心であり、比較的京阪神方面への出荷も多い。中晩柑の栽培も盛んで、せとか、はれひめ、愛媛県果試28号(紅まどんな)などの生産も盛んになっている。
   松山市(島嶼以外)、伊予市、砥部町
JAえひめ中央が管轄し、県中心部、中予に位置する産地で、ハウスみかん生産が主流である。ブランド品に「道後物語」がある。また、一帯は伊予柑、せとか、甘平、愛媛県果試28号(紅まどんな)の主産地としても発展してきている。
   静岡県
年間収穫量は10万トン - 13万トン(隔年結果の差が大きい)。主産地に浜松市(旧三ヶ日町、旧浜松市、旧細江町、旧引佐町、旧浜北市)、湖西市、藤枝市(旧藤枝市、旧岡部町)、静岡市葵区、静岡市清水区(旧清水市、旧由比町)、沼津市、熱海市、伊東市、島田市、牧之原市(旧榛原町)などで、県内の東西に産地が分布する。普通温州栽培国内1位。特に浜松市はみかん栽培が盛んな三ケ日町や細江町、引佐町などを合併したため、収穫量、出荷量ともに自治体として国内トップである。主な出荷先は中京圏、北陸、関東、東北など。
   三ケ日みかん
静岡県浜松市北区三ヶ日(旧三ケ日町)。静岡県内最大の産地で浜名湖北部の南向き斜面に産地が広がり、中京圏を中心に高いブランド力を持つ。ミカちゃんという少女がトレードマークとなっている。収穫後出荷を行うもののほか、貯蔵してからの出荷も多く、産地の出荷期間は長い。高級ブランドとして指定登録、樹上熟成などを徹底した「ミカエース」を初め、「心」、貯蔵みかんの「誉れ」などがあり、また浜松市の卸売会社マルマによる私撰の「マルマみかん」も知られる(同社はミカンが有名だが、柿、馬鈴薯などもブランド化している)。
   丸浜みかん
浜松市。浜名湖の北東部に位置する丸浜選果場に因み、丸浜柑橘農業共同組合連合会によるブランドみかん産地。片山ミカンという品種(原産は徳島県。普通温州)を多く栽培することで知られる。
   浜名湖みかん
三ヶ日町の周囲の浜名湖畔はみかん産地が集中しており、細江町、引佐町、浜松市東区、湖西市知波田地区などで盛んとなっている。また、一帯のみかんを指して浜名湖みかんと名乗っていることが多い。浜松市細江町は白柳ネーブルの産地としても知られる。また、浜松市内にあるJAとぴあ浜松ではとぴあみかんという名称で販売もしており、マルチ栽培による高糖度みかんを「天下糖一」としてブランド販売している。
   西浦みかん
沼津市に位置し、県東部を代表するブランドみかん産地。駿河湾に面する斜面に産地が展開し、古くからの産地となっている。寿太郎温州という糖度の高い品種の栽培が主流になってきており、貯蔵により糖度を上げた「寿太郎プレミアム」、ハウスみかんの「寿太郎プレミアムゴールド」というブランド品がある。
   静岡青島みかん
静岡市葵区の山間部は青島温州の発祥地。マルチ栽培によるブランド化を進めており「夢頂」「いあんばい」などの銘柄がある。
   清水のミカン
静岡市清水区は県中部で盛んな場所の一つで、清水のミカンと呼んでPR活動(清水産柑橘類の統一ロゴマークの設定、応援ユニットの結成など)を行っている。温暖な気候を生かし、ミカンのほかに不知火、はるみ、スルガエレガント(静岡県独自の中晩柑)、ポンカンにハウスみかんなどを栽培する複合産地となっている。また、全国でも珍しく平地面でみかん畑が広がる(一帯は降雨が少なく、日照時間が長いため実現した。日照時間の均一化、高齢者の負担を軽減する目的)。古くは地元のみかんを使った缶詰(缶詰は清水を代表する産業である)も作っており、清水から海外に輸出し、外貨を獲得していた。
   藤枝市とその周辺
藤枝市(旧岡部町含む)は県中部で最も盛んな場所の一つで、岡部は県内みかん栽培の発祥地とされている。まれに、地域名から志太みかんとも言われる。管轄のJAおおいがわは、厳しい検疫をクリアした輸出ミカン管理組合を置いており、国内の対米、カナダ、ニュージーランドへのミカン輸出拠点となっている。また、島田市ではハウスみかん栽培が盛んなほか、神座みかんというブランド産地がある。
   熊本県
年間収穫量は7万トン - 10万トン。2017年は不作の静岡県を上回り、収穫量全国3位となっている。主産地に熊本市(旧熊本市、旧植木町)、玉名市(旧天水町、旧玉名市)、宇城市(旧三角町、旧不知火町)、宇土市、荒尾市、玉東町、和水町(旧三加和町)、山鹿市、天草市(旧牛深市)など。八代海に面した県北部に産地が集中する。主な出荷先は九州、岡山、中京圏など。極早生種の生産が多い。
   河内みかん
熊本県河内町(1991年2月熊本市に編入)の金峰山山麓の西側で多く栽培されている産地の総称。江戸後期からみかん栽培が勧められ、1934年には県立果樹実験場が設置。石垣を組んだ段々畑となっており、温暖な気候と八代海の反射光、石垣からの反射熱から良質のみかんが作れ、県最大の産地となった。一帯には4箇所の選果場があったが品質向上のために統合され、夢未来みかんとして出荷している。ブランドに「夢の恵」などがある。
   天水みかん(小天みかん)
小岱山麓にある玉名市天水町付近は熊本県内有数の産地。夏目漱石の『草枕』にもその記述があり、ブランド品「草枕」の由来にもなっている。また、玉名市などでは「小天みかん」と呼んでいる。
   三角みかん
熊本県宇城市三角町(2005年1月宇城市に編入)で多く栽培されているブランド。早生種の「肥のあかり」「肥のあけぼの」の特産地にもなっている。温州みかんではないが、熊本県果実連合会が登録商標を持つデコポンでも有名。
   長崎県
年間収穫量は5万トン - 7万トン。主産地は佐世保市、諫早市(旧多良見町、旧小長井町、旧諫早市、旧高来町)、西海市(旧西海町、旧西彼町)、長崎市、大村市、南島原市(旧北有馬町、旧有家町)、長与町、川棚町、長崎市(旧琴海町、旧長崎市)、時津町、東彼杵町など。主な出荷先は九州、関東など。200年以上の歴史がある長崎みかんは、長崎県を代表する特産品の一つとなっており、大村湾を中心とした海岸地域を中心に、県内広く生産されている。長崎県は三方を海に囲まれて対馬海流の影響を受け、年間を通じて温暖な気候であり、また海からの反射光があること、傾斜地を利用して非常に日当たりのいい段々畑を中心に栽培されていることなども併せて、みかん作りに適した環境が整っている。また、マルチシート被覆率は50%を超え、愛媛県と並びブランド戦略が活発である。
   西海みかん
針尾島などの佐世保市南部から西彼杵半島西岸に位置するみかんの愛称。西海みかんではさせぼ温州という早生種が栽培されており、ブランド品に「味っ子」「味まる」(JAながさき西海)や「ながさきの夢」「味ロマン」(JA長崎せいひ)などがある。その中で、「出島の華」は14度以上という糖度が保証されたブランド品で、させぼ温州の県共通ブランドであるが、西海地区での栽培が盛ん。
   伊木力みかん・長与みかん
長崎県諫早市多良見町(旧多良見町)を中心とするみかん産地で、旧市町村では多良見町が県内最大の産地であった。とりわけ伊木力(いきりき)地区のものが知られ、伊木力みかん、更に佐瀬地区のものは皇室献上の歴史もなどもあり、佐瀬みかんとして高級ブランド化している。隣接する長与町でもみかん生産は盛んで、200年の歴史を持つ。町内にはかつて長与選果場があり長与みかんと呼ばれていたが、2011年にことのうみ伊木力選果場に統合されたため、県外向けには伊木力みかんとして出荷、販売される場合もある。また、この伊木力と長与は共にJA長崎せいひの管轄内であり、長崎中央卸売市場による「ながさき甘姫」という共通のブランド品もある。
   南高みかん
長崎県南島原市の南高(なんこう)果樹農協を中心とするみかん産地で、周辺の産地を島原みかんと呼ぶこともある。堆肥にステビアの葉を利用しているのが特色(ステビア有機農法は桃やメロンなど他の果物でも実践している地区がある)で、糖度の高いみかんができる。ハウスみかん栽培が多く、県共通ブランド品「長崎恋みかん」の主産地にもなっている。また、管轄JAのブランドに「太鼓判」、「南高自信作」、「味錦」などがある。
   県央
大村湾東岸に位置する県央部の大村市や川棚町もみかん栽培が盛んな地区であり、JAながさき県央の管轄となっている。大村湾の海面と多良岳西麓の斜面など地形条件に恵まれており、ブランド品に糖度13度以上の「味ホープ」、12度以上の「はなまる物語」などがある。
   豆酘みかん
長崎県対馬市の豆酘(つつ)地区で栽培されるみかん。豆酘地区はみかん産地としては北限に近く、かなり高緯度となっているが、対馬海流の温暖な気候を利用して、ブランドみかんが栽培されている。
   佐賀県
年間収穫量は5万トン前後。主産地に唐津市(旧浜玉町、旧唐津市、旧七山村)、太良町、鹿島市、佐賀市(旧大和町)、多久市、小城市(旧小城町)、玄海町、伊万里市など。県の東西にオレンジベルトと呼ばれるみかん生産地が分布している。「さが美人」は県共通の高級ブランド。ハウスみかんの収穫量は国内1位。出荷先は北九州、京阪神などであり、大阪市場では和歌山産の次にシェアが高い。
   からつハウスみかん
佐賀県唐津市浜崎、玉島地区(旧浜玉町)は愛知県蒲郡市と並ぶハウスみかんの一大産地。古くからハウスみかんの生産が盛んで、4月 - 9月の間に京阪神圏などに出荷される。また、唐津市の上場地区(旧鎮西町)では「うわばの夢」という高糖度のみかん(ハウス・露地)を生産する。
   太良みかん(たらみかん)
多良岳の山麓、太良町で生産されるみかん。戦後は全国最大級の極早生産地として一世を風靡したが、その後の社会情勢に伴い生産量が激減。近年は選果場統合の危機に直面したことで、「たらみかん活性化プロジェクト」を立ち上げ、同町内のミカン農家が有志で立ち上げた「たらシトラス会」で情報発信や地元への奉仕活動を行ったり、たらみかん通販サイト「タラッタ」で太良みかんを販売したりしている。盛田温州(皮肌がツルツルしているため、トマトみかんという愛称を持つ)やクレメンティン(スペイン原産の柑橘)などが産地の特色である。
   鹿島市
鹿島市は太良町と並び、多良岳山麓の大規模みかん産地。鹿島市は祐徳稲荷神社の門前町であり、「さが美人」の中でも、特に糖度の高いみかんを選び「祐徳みかん」としてブランド化している。
   天山みかん
県北部にそびえる天山の南麓に分布する産地の総称。佐賀市大和町、小城市、多久市が栽培の中心。貯蔵みかんやハウスみかんなどで個性化を出しており、大和町の貯蔵ブランドみかん「あんみつ姫」、小城市の高糖度高級ブランド「プレミアム天山」、多久市の「孔子の里」などがある。
主要産地(累年統計をとっている産地)​

 

   広島県
年間収穫量は2万5000トンから4万2000トン。1960年半ばまでは、和歌山県、愛媛県と並んでミカンの三大名産地といわれたが、以降は順位を落とした。当時は広島の瀬戸内海の島々はミカンの島ばかりで、晩春初夏の交に瀬戸内海を船で行くと、潮風にのってくるミカンの花の香に旅情を慰められた。1954年に県花を決める際も、ミカンが有力だったが、愛媛に譲りモミジを選んだ。主産地は呉市(旧豊町、旧豊浜町、旧倉橋町、旧蒲刈町)、大崎上島町(旧大崎町、旧木江町、東野町)、尾道市(旧瀬戸田町、旧向島町、旧因島市、旧尾道市)、三原市など。芸予諸島で生産が盛んだが、内地にも三原市、尾道市などにみかん産地がある。出荷先は広島、岡山、阪神地方など。
   大長みかん(おおちょうみかん)
広島県を代表するブランド産地。大長とは呉市豊町(旧豊町)に属した旧大長村に因む。大崎下島、豊島(以上広島県呉市)、大崎上島(同大崎上島町)のほか、岡村島(愛媛県今治市)で栽培されるみかんも歴史的経緯などから大長みかんとして出荷される。大崎上島では石垣を組んだ産地で育てた「大長石積みかん」がある。
   瀬戸田みかん
尾道市瀬戸田町(旧瀬戸田町)は、国産レモン、あるいは国産ネーブルの産地として知られる一方で、みかん栽培でも名高い。瀬戸田みかんとして県内では大長みかんに並ぶほどの成長を遂げ、最高級品には「せとだの五つ星」というブランドが付けられる。
   高根みかん(こうねみかん)
旧瀬戸田町のうち、高根島で栽培される高根みかんは高島屋百貨店のブランドロゴに類似したロゴを使いまるたかみかんと呼ばれ、古くは関西、関東方面へも出荷された。高根みかんとして地域団体商標に登録しているが、今日では瀬戸田のブランド知名度が上がったため、瀬戸田みかん(高根島産と付記することも)で販売されることもある。
   石地みかん(いしじみかん)
石地みかんとは倉橋島の農家、石地富司清の農地で発見された突然変異種。糖度が高く味が濃厚で、倉橋島の特産となって今日に至っている。ブランド品に「いしじの匠」がある。
   因島
尾道市因島(旧因島市)もみかんの産地として知られ、因島みかんと呼ばれる。また、一帯は八朔の発祥地としても知られ、八朔、紅八朔は特産品となっている。
   愛知県
年間収穫量は2万3000トン - 3万トン。主産地に蒲郡市、美浜町、東海市、南知多町、豊川市(旧御津町)、知多市、豊橋市など。ハウスみかん栽培国内2位。出荷先は中京圏、関東など。
   蒲郡温室みかん
愛知県蒲郡市は温泉資源が豊富であるため、温泉水を利用したハウス栽培が盛んになった。蒲郡温室みかんは栽培されるハウスみかんのブランド品で、主に中京圏、首都圏に出荷される。蒲郡みかんとして地域団体商標登録。
   知多みかん
知多半島では美浜町が中心となって栽培が盛んであり、あいち知多柑橘出荷組合が陣頭指揮を執る。ブランド品にマルチ栽培の露地みかんである「あまみっこ」、ハウス栽培の「みはまっこ」、「さわみっこ」がある。
   東海市
かつては斜面沿いにみかん畑が多く見られ、県内有数の産地であったが、後に宅地化が進行し、また畑作が主流となったため、産地としては大きく縮小した。一方で、名古屋都市圏への近接性から観光農園が散見される。
   福岡県
年間収穫量は2万トン〜3万トン。筑後地方が主産地で、みやま市と八女市で県内の6割以上を占める。主産地にみやま市(旧山川町、旧高田町)、八女市(旧立花町、旧黒木町)、大牟田市、豊前市、古賀市など。県統一のブランドに、「ハニーみかん」「マイルド130」「博多マイルド」などがある。
   山川みかん
みやま市(旧山川町)は県内随一の知名度を誇るブランド産地で、山川みかんは高級品として九州を中心に市場出荷される。マルチシート被覆率が高いほか、青年部での研修会など人材育成にも注力している。
   立花みかん
八女市立花町で作られるみかん。立花は山川と並ぶ大産地で、露地みかんの他に貯蔵みかん、ハウスみかん栽培も多く、また国内最大のキウイ産地としても知られる。ブランド品に「姫たちばな」「華たちばな」がある。
   神奈川県
年間収穫量は2万トンから3万トン。主産地は湯河原町、小田原市、南足柄市、中井町、大磯町、秦野市など。大規模産地としては日本で東端、北端に当たり、相模湾岸に果樹園が分布するほか、内陸にも見られる。観光農園、直売所販売も多い。
   湯河原みかん
温暖で温泉地でもある湯河原は柑橘の産地でもあり消費地としても盛んなため、一年中小売できるように一つの畑で数十品種を栽培している農家も多い。大津四号・師恩の恵の原産地でもある。
   小田原市
県内最大の産地で、富士山の火山灰土により、質の良いみかんができ、市南西部の片浦、市北西部の久野、市南東部の国府津、市北東部の曽我などに広がる。大津四号、青島温州、そして県が開発した湘南ゴールドなどを生産する。
   片浦みかん
小田原市片浦地区のみかん。かつては「西の大長、東の片浦」と呼ばれたブランド産地だったが、生産量が最盛期の10%程になるなど宅地化や高齢化などで産地の存続が危ぶまれており、片浦みかんプロジェクトによって六次産業化が進んでいる。
   早川みかん
小田原市早川地区のみかん。先進的な農道整備により第二回カンキツ全国大会の視察地になった。鎧塚俊彦の営業する一夜城店を中心とした農商工連携が盛ん。ドレッシングを初めとする様々な商品が開発され、早川みかんのブランドを確立している。
   三重県
年間収穫量は2万トン前後。主産地は御浜町、南伊勢町(旧南勢町)、熊野市、多気町、紀宝町など。県単位でブランド化を図っており、全国に先駆けて7月に露地栽培による極早生種の出荷を行っている。市場出荷のほか、観光地での販売促進も盛ん。
   南紀みかん
三重県中南部、南紀地方で栽培されるみかんの共通ブランド(和歌山県では同地方産のみかんを紀南みかんと名乗っているため名称の混同はないが、三重県産と強調するため三重南紀みかんと名乗っている)で、ブランド品に南伊勢町五ヶ所地区の「マルゴみかん」、極早生種の「みえの一番星」などがある。また、一帯はカラマンダリンの産地としても知られ、全国有数の生産量を誇る。
   大分県
年間収穫量は1万3000トン - 1万7000トン。主産地に杵築市、国東市(旧安岐町)、日出町、津久見市、宇佐市、大分市など。ハウスみかん栽培が盛んで佐賀、愛知に次ぐ大産地となっており、ハウスみかん市場で、4月の出荷量は一番多い。
   杵築市
県内で最も生産が盛んな主産地。栽培が難しい品種「美娘」を特産し、ブランド化している。また、デコポン、アンコールの生産も盛ん。
   一尺屋みかん
大分市佐賀関町に位置する古くからの露地みかん産地。
   宮崎県
年間収穫量は1万トン - 1万6000トン。主産地に宮崎市(旧南郷町、旧宮崎市)、高岡町、日南市、日向市など。極早生中心だが、土壌がみかん栽培に適し、温暖で降雨が少ないため、糖度の高い良質のみかんができ、国内で最も出荷時期が早い産地の一つ。早生の優良種、日南1号の発祥地としても知られる。ミカンの省力化大規模経営組織「シトラス21」も宮崎の一農家から始められた。また、柑橘類では日向夏の生産が全国トップである。
   ひょっとこみかん
日向市で生産、販売されるブランドみかん。ひょっとこは日向市に伝わる伝統芸能のひょっとこ踊りに因む。木の皮を剥いで陽光を多く取り込む独自の農法により、糖度の高いみかんができる。
   鹿児島県
年間収穫量は1万2000トン - 1万6000トン。主産地に出水市(旧出水市、旧高尾野町、旧野田町)、南さつま市(旧加世田市)、大崎町、阿久根市など。また、ペットボトルキャップ大の桜島小みかんで有名。奄美大島や徳之島などの奄美群島では、熱帯果樹であり本土では栽培が難しいポンカンやタンカンの栽培が盛んである。奄美群島では重要病害虫であるミカンコミバエの侵入が数年に一度あり、発生した年は島外への果実の持ち出しが禁止される。
   桜島小みかん
桜島や霧島市などで栽培されるペットボトルキャップ大のみかんで、ギネスブックに世界一小さなみかんとして登録されている。桜島大根と並ぶ桜島の主要作物であり、江戸時代初期から栽培が勧められた。
   米ノ津みかん・針原みかん
出水市。平均17度という温暖な気候と赤土の土壌がみかん栽培に適していたため、県内最大のミカン産地となった(国内ウンシュウミカン発祥となった長島町からも近い)。地名から米ノ津みかん(針原地区では針原みかんとも)と呼ばれている。ミカンの他に「早香」という柑橘類や甘夏、ポンカンなども特産する。
   香川県
年間収穫量は1万1000トン - 1万8000トン。主産地に坂出市、三豊市(旧仁尾町、旧高瀬町)、高松市、観音寺市(旧大野原町)、善通寺市など。小原紅早生という皮が紅いミカンがよく知られる。
   坂出市
小原紅早生の特産地。糖度によって「さぬき紅」「金時みかん」としてブランド販売している。また、王越地区では古くからみかんの名産地として知られ、王越みかんというブランド品となっていたが、後に後継者不足や他産地との競争で衰退したため、近年は保存運動や有機栽培農法などが行われ、再興の試みが始まっている。
   曽保みかん(そおみかん)
荘内半島西岸に位置する三豊市仁尾町曽保(そお)地区は県を代表するブランド産地。高松市場を中心に高級品として出荷されている。
   徳島県
年間収穫量は1万3500トン前後で、隔年結果の影響が少ない。主産地に勝浦町、徳島市、阿南市、小松島市、佐那河内村など。ハウスみかん栽培も盛んで、大阪市場では徳島県産が一番多く出荷されている。
   勝浦みかん
勝浦町で生産されるみかんで、同町は県内最大のみかん産地。収穫後に土蔵で貯蔵を行い、糖度を増してから出荷する貯蔵みかんで知られる。一帯では十万温州という、貯蔵に適した品種を栽培している。
   大阪府
年間収穫量は1万3500トン前後。主産地に和泉市、岸和田市、千早赤阪村、堺市、貝塚市、富田林市など。大消費地に近いため、観光農園や直売所が多い。
   大阪みかん
大阪府は、戦前は和歌山県に次ぐ国内2位の大産地であった。戦後になって宅地化や都市化、他地区との競争で大きく栽培面積を減らすものの、生産量は依然1万トンを超える主産地である。 大消費地に近いため、直売所や観光農園が多い。また、マルチ栽培や有機栽培などにも注力しており、学校給食にも提供されるなど地産地消を勧めている。
   山口県
年間収穫量は8000トン〜1万3000トン。主産地に周防大島町(旧橘町、旧久賀町、旧大島町、旧東和町)など。また、響灘沿岸の下関市や旧豊浦町、旧豊北町、周防灘沿岸の柳井市、防府市などにも産地がある。
   山口大島みかん
屋代島(周防大島)は県産みかんの8割以上を産出するみかんの島で、県内では大島みかんと呼ばれている。同県で開発された「なつみ」という品種も特産。また、同島には皮ごと焼いたみかんを鍋に入れて具材と一緒に煮込む「みかん鍋」でも有名である。
   高知県
年間収穫量は6000トン - 9000トン。主産地に香南市(旧香我美町、旧野市町)など。ハウスみかん栽培が盛んで、国内4位となっている。
   山北みかん
香南市(旧香我美町)は県内最大の産地で、県収穫量の半数以上を占める。山北地区で栽培される山北みかんがブランド化しており、露地栽培、ハウス栽培の双方が行われるため、年中通してミカンが生産される。
以上の19府県が主要産地となっており、それ以下の県と大きく収穫量を離しているが、千葉県、兵庫県も累年統計を取っている。
   兵庫県
年間収穫量2,000トン以上。主産地に淡路市(旧一宮町)、南あわじ市(旧南淡町、旧緑町)、赤穂市など。淡路島ではみかん栽培が行われており、淡路みかんと呼ばれ、ブランド育成のための品評会が行われているほかに観光農園も多い。また、内地では赤穂市などでみかん栽培が行われているが、周辺府県と比較すると栽培面積、収穫量は少ない。
   千葉県
年間収穫量1,000トン以上。主産地に南房総市(特に旧三芳村・旧千倉町)、鴨川市、館山市。中小規模の産地を除けばみかん産地としては東端に当たり、房州みかんと呼ばれ、市場出荷のほか観光農園が多い。とりわけ、旧三芳村は観光みかん園が集まる県内最大の産地。
その他の産地​
収穫量は最新の全国調査を行った作況調査(果樹)2014年版による。
   岐阜県
主産地に海津市(旧南濃町)。養老山地の山麓はみかんの一大産地で、県の9割以上を占め、内陸県では唯一年間収穫量1000トンを超える産地となっており、北限の産地の一つとして知られる。地名から「にしみのみかん」「南濃みかん」と呼ばれ、貯蔵して糖度を増してから出荷する。 なお、累年統計を取っている主産地を除くと最も収穫量が多い。
   岡山県
年間収穫量1,000トン以上。主産地に瀬戸内市(旧邑久町)、玉野市、備前市など。瀬戸内海に位置し、気候条件に恵まれるものの、沿岸は平野が広がり、傾斜地が少ないため産地としては小規模。瀬戸内市邑久町黒井山付近が県内の主な産地で、生産組合がある。
   奈良県
年間収穫量500トン前後。主産地に桜井市、明日香村。内陸県だが、明治時代にみかんが植えられてから、現在も桜井市穴師地区では連綿とみかん栽培が続けられている。住宅地に近いため、観光農園が主体。
   沖縄県
年間収穫量500トン前後。主産地に名護市、国頭村、本部町など。かつては固有種のオートゥーやカーブチー・シークヮーサー・クネンボなどが栽培され名産品となっていたが、1919年にミカンコミバエの本土侵入を防ぐために果実の移動規制が敷かれたため生産量は激減した。1982年、沖縄郡島でミカンコミバエの完全駆除に成功。以後は本土への果実の出荷が行えるようになったため、早生ミカンやタンカン産地となった。しかし、ミカンキイロアザミウマなどの害虫が発生しやすく、産地としては大きく収穫量を落としている。
   京都府
年間収穫量400トン前後。主産地に舞鶴市、宮津市、井手町など。後述するが、丹後地方の舞鶴市大浦地区及び宮津市由良地区は古くからの歴史を持つみかん産地となっており、国内北限の産地の一つ。一方、山城地方はそこまで栽培は盛んではなく、井手町多賀地区(多賀フルーツラインと呼ばれている)に観光農園が点在する程度である。
以下、茨城県、埼玉県が年間100トン以上、福井県、東京都が年間80トン以上、島根県が年間50トン以上、群馬県と新潟県が年間20トン以上、また収穫実績があった県として栃木県、石川県、滋賀県が記されている(詳細については次項で解説)。
北限の産地​
前述したように、年収穫量1000t以上の経済的産地形成としては岐阜県の養老山地山麓、あるいは千葉県の房総半島周辺となっている。だが、それ以外にも小規模な産地が点在し、それぞれが北限の産地と名乗っている。栽培技術の進歩と品種改良、また気候条件の変化などにより北限産地は年々北上している傾向がある。
   東日本内陸のみかん産地
一般的には、筑波山麓が北限のみかん産地と呼ばれていた。産地としては茨城県桜川市真壁町酒寄地区(酒寄みかん)や石岡市八郷町などがあり、周辺の年収穫量は100t以上となっている。この周辺では名物の七味唐辛子の原料にもなる陳皮産地で知られる福来ふくれみかん(厳密にはタチバナの品種)が栽培されてきた歴史がある。近世以降になると埼玉県の比企地方にもみかん産地が展開し、盆地の気候を生かしたみかん作りが行われてきた。具体的な産地の例としては同地区内最大規模の産地である寄居町風布・小林地区(規模は年収穫量は数十トン程度だが、市場出荷といった農業生産を行っている産地としては北限に当たる)、ときがわ町の大附地区(福みかんという固有品種《福来みかんと同種》で知られる)、東秩父村の大内沢みかんなどがある。その他、東京都武蔵村山市も北限と言われた産地の一つで古くからみかん栽培が行われており、狭山みかんと呼ばれている。後に栽培技術の発達や品種の改良によって、北関東内陸県でも観光目的によるみかん栽培が行われるようになった。栃木県那須烏山市小木須地区では1980年代ぐらいから観光農園が出現し、北限のみかん産地として宣伝している。1995年には群馬県藤岡市鬼石の桜山公園でも、観光農園中心のみかん産地が成立した(みかん産地としては、国内で最も内陸に位置する)。また、藤岡や烏山ほどではないが、茨城県日立市十王町にも観光みかん園が存在する。更に高緯度となると、1985年に福島県広野町が町民にみかんの苗木を配布し、みかん栽培が行われている(ただし、町民のレクリエーション目的で市場出荷は行っていないため、今まで収穫実績はない)。一方で、関東以外の内陸部にはみかん産地は少なく、前述した岐阜県海津市南濃町、奈良県桜井市穴師地区や京都府井手町多賀地区ぐらいである。
   本州日本海側のみかん産地
本州日本海側にも古くからのみかん産地が点在している。山口県ではまだ下関、豊浦、萩などみかん産地が多く見られるが、島根県以北となると冬場は厳寒になるため、産地は一部に限られる。その中で、京都府舞鶴市の大浦半島に位置する瀬崎、大丹生地区、京都府宮津市の由良地区は本州日本海側最大の産地で、古くから寒暖の差が激しく、良質のみかんが生産されている。栽培面積はそれぞれ10ha以上、年収穫量はそれぞれ100t以上と、中規模産地としては国内最北端に位置し、それぞれ大浦みかん、由良みかんと呼ばれている。また、福井県の越前海岸にもみかん産地が展開する。福井県敦賀市東浦地区も北限産地の一つとして知られ、東浦みかんと呼ばれる。 ここでは従来の早生や普通種なども栽培可能だけでなく、かつては阪神地方に出荷したり、ロシアに輸出も行っていたりしたほどの規模があった(現在は年収穫量30 - 50t程度で、市場に出回ることは少ない)。その北部に延長する福井県福井市越廼村、越前町などにも観光農園が点在する。島根県松江市美保関町の美保関みかんなども再興の気運があり、美保神社への奉納にちなんで、ゑびすみかんと呼んでPRを行っている。島嶼部では、長崎県対馬の豆酘地区における豆酘みかんや隠岐島の崎みかんなどがある。対馬の豆酘(つつ)地区は県内のシェアは低い(長崎県が全国有数の産地であるため)ものの、ブランド化の動きも進んでいる。島根県の隠岐諸島に位置する海士町には崎みかん(東浦より高緯度。年収穫量10t程度)と呼ばれる産地があり、Iターンの若者たちによる再生プロジェクトが進んでいる。そして佐渡島の羽茂地区でもみかんが明治時代から自家用に植えられていた。2007年12月には新潟県佐渡島の農家が早生種の「興津早生」など約1トンを出荷し話題となった。後に産地として成長し栽培農家数は約20人、栽培面積も3haの規模となっており、佐渡みかんと呼ばれジャムなどの加工品も作られている(これが暫定的な国内最北端の産地となっているが、佐渡の南部沿岸は降雪も少なく、丹後や北関東より気候条件としては温暖である)。 
栄養価​

 

果肉にはプロビタミンA化合物の一種であるβ-クリプトキサンチンが他の柑橘に比べて非常に多く含まれている。これには強力な発ガン抑制効果があるとの報告が果樹試験場(現・果樹研究所)・京都府医大などの共同研究グループによってなされ、近年注目されている。
オレンジ色の色素であるβ-クリプトキサンチンなどのカロテノイドは脂肪につくため、ミカンを大量に食べると皮膚が黄色くなる。これを柑皮症という。柑皮症の症状は一時的なもので、健康に悪影響はない。その他にもクエン酸、食物繊維などが多く含まれる。白い筋にはヘスペリジンが含まれ、動脈硬化やコレステロール血症に効果があるとされている。  
用途​

 

食用​
ミカンのおいしさは、含まれている糖と酸の量・バランスやホロの薄さなどによって決まる。糖度が高いことは重要だが、酸の量も同様に味の決め手になる。
生食されることが多く、内皮(瓤嚢膜)を丸ごと食べる人と食べない人で個性も分かれている。また、むき方も「へそ」から剥く方法と、へたから剥く方法と、刃物で切る方法とさまざまある。
他に北陸地方、東北地方、九州地方など地域によっては焼きミカンといって焼いて食べる所もある。また凍らせて冷凍みかんにしたり、お風呂に入れて食べたり、下記のように用途に応じて様々な加工品も作られている。ミカンの全生産量の約2割はジュースや缶詰に加工されている。
缶詰 そのまま食べるか、ケーキなどのトッピングに使用する。
ジュース(特に安価な濃縮還元ジュースは中国産が多い) 飲用のほか、クリームなどの材料になる。
砂糖菓子 主に皮の部分を使用する。よく洗った外皮を細かく切り、炒めて水気を飛ばしたものに砂糖をまぶした菓子。
ダイエット食として​
食物繊維として含まれるペクチンには整腸作用の他、消化酵素の一つである膵リパーゼの働きを阻害する作用があるとされる。これを食前に摂取することにより食物中に含まれる脂肪の吸収を抑制することができる。またシネフリンにはβ3アドレナリン受容体に働きかけて脂肪分解と熱生産を促進する効果があり、体脂肪を減らす効果が高い。特に熟していない青い果実に多く含まれている。
しかし、こうしたウンシュウミカンの性質が優れたダイエット効果をもたらすというわけではない。ミカンからシネフリンを抽出しダイエット効果を謳ったサプリメントも市販されているが、シネフリンと刺激性物質(カフェインやカテキン等)を同時摂取した際の危険性も指摘されている。
また、ミカンダイエットを大々的に報じたテレビ番組『発掘!あるある大事典II』2006年10月22日放送分においてミカンの血糖値抑制効果を示すグラフが提示されたが、後にこのグラフは改竄されたものであった事が報告された。
薬用​
果皮には精油を含んでいて、精油成分は主にリモネン90%である。その他に、成分としてヘスペリジン、ルチン などフラボン配糖体が含まれている。ヘスペリジンは、毛細血管の透過性を増大させる作用があり、もろくなった毛細血管を回復させることが知られているほか、抗菌、利尿、抗ヒスタミンなどの作用もある。従って、高血圧の予防、腎炎、蕁麻疹の予防に役立つ漢方薬の一種でもある。
漢方では熟したものの果皮を陰干しにしたものを陳皮(ちんぴ)と称して利用する。陳皮とは、「1年以上経過したもの」を意味する陳久品(ちんきゅうひん)を使用しなさいという意味、すなわち「古い皮」の意で名付けられている。陳皮は漢方で健胃、利尿、鎮咳、鎮吐などの目的で処方に配剤されるほか、七味唐辛子の材料としても用いられる。また、製薬原料としても大量に用いられている。なお、中国における伝統医学「中医学」において、みかんは体を冷やす食べ物として分類されるため、風邪を引いた際には食べてはならない食品として認識されている。また、精油はアロマテラピーに用いる事もある。
民間療法では、風邪の初期症状で多少熱がある時に、陳皮1日量10 - 15グラムを600 ccの水で半量になるまでとろ火で煮詰めた煮出し液(水性エキス)を、蜂蜜などで甘くしたり、おろし生姜を混ぜて食間3回に分けて飲む用法が知られる。食べ過ぎ、食欲不振、悪心、嘔吐に、1日量2 - 3グラムを水400 ccで煎じて服用しても良いとされる。手軽にできる胃腸薬として用いられるが、胃腸に熱があるときは服用禁忌とされる。肩こり、腰痛、神経痛、冷え症の改善に、陳皮を布袋などに入れて風呂に浮かべて、浴湯料に使用してもよい。
工業​
油胞と呼ばれる果皮の粒々にはリモネンという成分が含まれ、合成樹脂を溶かす溶剤として注目されている。また、オレンジオイルやリモネンは洗剤等にも利用されている。
ミカンを使った遊び​
ミカンの搾り汁はあぶりだしに用いることが出来る。特に冬には手軽に手に入れることができるため、年賀状に使うこともある。また、ロウソクの炎に向かってミカンの皮を折り曲げ、飛んだ油脂で炎の色が変わるのを楽しむ遊びもある。
ミカンの皮は剥きやすく、すぐに剥がれ、剥いた皮は様々な形になるので、意図的な形に切ることによって動物などの形を作ることができる。典型的なものとして「8本足のタコ」がある。  
ミカンにまつわる話​

 

和歌山県とミカン​
和歌山県は古くからミカンの栽培が盛んである(江戸時代の豪商である紀伊国屋文左衛門が、当時江戸で高騰していたミカンを紀州から運搬し富を得た伝説は既述)。そのため、みかんをモチーフにした加工品やキャラクターなどが存在する。
和歌山県のみかんブランドでは有田みかんが全国的に有名だが、県内では「ジョインジュース」と呼ばれるものも名が知られている(近畿地方以外ではCMがないので、近畿圏外の人には分からない)。これはJA和歌山県連の商品で、農協などで売られている。
和歌山県には、「正統和歌山剥き」(または「有田剥き」)と呼ばれるみかんの剥き方が存在する。手順は以下の通り。
   1.みかんを数回〜数十回ほど揉む
   2.ヘタがない方に指を入れ、2つないし3つに割る
   3.2つに割った場合は、さらに4つに割る
愛媛県とミカン​
愛媛県はミカンの一大産地としての地位を長らく誇っており、ミカンやその加工品が色々な場面に登場する。県の花はミカン、県の旗はミカンの花をあしらっている。
キャラクターとしても積極的に利用しており、県の公式イメージアップキャラクターのみきゃん、サッカーの愛媛FCのキャラクターはミカンをモチーフとしたデザインであり、ユニフォームのシンボルカラーもオレンジ色である。また、四国アイランドリーグplusの愛媛マンダリンパイレーツやジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグの愛媛オレンジバイキングスも同様である。
愛媛とミカンに関するジョークで最も有名なのが「愛媛では蛇口をひねるとポンジュースが出てくる」という話である。ポンジュースの製造元のえひめ飲料ではこれを逆手にとって「うわさのポンジュース蛇口プレゼントキャンペーン」を実施したり、今治市の直売所や松山空港に期間限定の「ポンジュースの出る蛇口」を設置したことがある。これらが好評であったことから、2008年6月から2009年3月まで毎月第三日曜日に松山空港ターミナルビル内に設置され、その後も断続的に設置されている。
愛媛県の一部の地域では、学校給食に「みかんごはん(あけぼのめし)」というものが出てくるという。作り方は普通の炊き込みご飯と変わらないが、ダシの代わりにポンジュースを入れて炊き込む。
愛媛のミカンジュースと言えば前述のポンジュースが有名であるが、他にも農家ごとに別々に瓶詰めされたムテンカが雑誌やテレビで紹介され、通販の人気商品になった。
愛媛県には「いよかん大使」を起用したミカン(かんきつ類全般を対象とする)PRキャンペーンを例年行なっている。毎年一般公募で選ばれ、全国各地をまわり愛媛みかんをPRする活動を行っているもので、このキャンペーンは1959年から続いている。
静岡県とミカン​
ミカンの起源は奈良時代以前にまで遡るが、生食用としては江戸時代初期、徳川家康が駿府城に隠居したとき、紀州から紀州みかんが献上され、家康が植えたこの木が起源とされている。現在も駿府城公園に「家康公お手植えのみかんの木」として残っている。
静岡県内で最も広く栽培されている温州みかんの一品種である青島みかんは、静岡市の青島平十氏が昭和初期に自己のみかん畑で枝変わりを発見、育成したもので、普通の温州みかんに比べ一回り大きく形はやや平たく味にコクがあるのが特徴。浜松市三ケ日町のものは「三ケ日みかん」として有名である。
オレンジ色をシンボルカラーにしている企業や団体等が多数存在する。
   代表例
   国民体育大会の静岡県選手団のシンボルカラー / 1957年に行われた静岡国体ではそれまで東京都が独占してきた天皇杯を初めて獲得し「オレンジ旋風」と称された。
   清水エスパルスのシンボルカラー
   静鉄オレンジツアー
   東海道本線のラインカラー / 0系およびその塗色を踏襲した湘南電車の黄かん色に由来。この塗色は静岡特産のミカンと茶(ミカン畑との意見もあるが)をイメージしたなどといったもっともらしい説明がされることがあるが、実際はアメリカのグレート・ノーザン鉄道をモデルにしたものであり、まったくの無関係である。
その他の地域のミカンにまつわる事柄​
アメリカでは温州ミカンは「サツママンダリン」と呼ばれ、1878年にフロリダ州に移入された。温暖な南部では大規模な栽培が行われており、アラバマ州には「Satsuma」という名前の町がある。
イギリスやカナダでは年末年始に皮が固く剥け難いオレンジに替わって、ミカンを食べて家族と一緒の時間を過ごすのが100年以上前から続く伝統的な家庭での風景。そのため、ミカンはクリスマスオレンジと呼ばれている。
キャラクター​
かつて放送されていた子供向け番組『ウゴウゴルーガ』(フジテレビ系)にミカンせいじんというCGキャラクターが登場した。そのシュールさから人気を得て、スクリーンセーバー等の関連グッズが発売。後に『ガチャガチャポン!』やフジテレビHPデジタルコミック『週刊少年タケシ』等で復活した。
サンエックスのキャラクターであるみかんぼうやが、2003年から2006年までハウス食品「フルーチェ」のイメージキャラクター「フルーチェメイツ」の一員に起用されていた。
ミカンと歌​
ミカンにまつわる歌として最も知られている『みかんの花咲く丘』は終戦直後の1946年に生み出された。急ごしらえで作られた曲であったが大反響を呼び、以後童謡として現在まで歌い継がれている。歌の舞台は静岡県伊東市である。
1996年にヘヴィメタルバンドのSEX MACHINEGUNSが、愛媛みかんに対する感情を『みかんのうた』として歌い上げた。
2006年にはGTPのシングル『冷凍みかん』が静岡県を中心にヒットし、連動して冷凍みかんの売上が急増した。
1970年代から活躍していたフォークデュオ、あのねのねの10枚目のシングルとして『みかんの心ぼし』(1980年9月25日)が発売されヒットした。後にPART2も発売された。
2001年にシンガーソングライターの福山雅治が『蜜柑色の夏休み』という楽曲を発表している。長崎みかんの産地である大村湾沿岸が楽曲の舞台である。
その他​
日本の代表的な果物であり、冬になれば「炬燵の上にミカン」という光景が一般家庭に多く見られる。
落語には、真夏に季節外れのミカンを求める『千両蜜柑』という演目がある。
腐りやすい上に箱詰めされて出荷されるため、1つでも腐ったミカンがあるとすぐに他のミカンも腐ってしまう。この様子は比喩として使われることもある。ドラマ『3年B組金八先生』でそのたとえが使われた。腐ったリンゴも参照。
『三国志演義』には柑子(こうじ)を巡る曹操と左慈の逸話が記されている。横山光輝の漫画『三国志』ではこれを「温州蜜柑」と表記しているが、正確には温州産の柑子であり、ウンシュウミカンではない。
花言葉は「純潔 花嫁の喜び 清純」 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 


 
2021/10