ハイヒール ピンヒール
散歩の途中
若い女性 センス良し スタイル良し
歩き方 綺麗
足元を見る
ハイヒールの踵(かかと) 長い釘一本
■ハイヒール / ハイヒール・歴史1・歴史2・歴史3・歴史4・歴史5・歴史6・歴史7・歴史8・歴史9・歴史10・歴史11・歴史12・・・ ■立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花・・・ ■ギャルメイク / 眉毛まつ毛うぶ毛・ギャルメイクの歴史・平成メイク・平成令和の小顔メイク・ヤマンバの登場と衰退・ガングロギャルのカリスマ・ファンデーション・どうしてあんな格好を・ガングロギャルのロック魂・かわいいマンバとガングロ・・・ ■ミニスカート / ミニスカート・ミニスカートの誕生・ミニスカ時代も流行も超えた・60年代ファッション・デニムスカート・女性パンツ200年史・・・ ■大根足 / 大根足・大根の白腕・正月の大根・練馬大根・三浦大根・大根の主な種類品種・脚太に似合うスカート・足太をカバー・足太を隠すファッション・・・ |
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娘に教わる 釘ではなくて ピンヒール |
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踏まれたら 痛いだろう 人混み 通勤電車 エレベーター つまらないことを 考えてしまう 年寄り |
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背筋伸ばして 直線の上を歩く 歩く姿に 女らしさ |
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ハイヒール 昔から 女性 自己主張の道具 |
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大昔 銀座のお姉さん 足を長く見せる |
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大昔 ミニスカート 大根足 引き立て役 |
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エスカレーター つい見上げてしまう 前段の女性の足元 |
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スカート丈 短く 長く 繰り返す ハイヒール 高さ 靴底厚み 組み合わせ |
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●ハイヒール | |
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(high heels)
履くとかかと部分が爪先よりも7cm以上持ち上げられる形状の靴のこと。「高いかかと」という意味を持つ。
パンプスからブーツに至るまで多くのバリエーションがある。かかとの高さや太さ・爪先の形状などによっても別称が存在しており、かかとが細く尖っているものはピンヒールやスティレットヒール(英: stiletto heel)、サンダルに近い形状で爪先やかかとが露出するなどのものはハイヒールサンダル(英: high heel sandal、high-heeled sandals)やストラッピーハイヒールズ(英: strappy high heels)、ミュール(仏: Mule)とも呼ばれる。日本でいう厚底靴のようなかかとと爪先の両方が共に高いものはプラットフォームシューズ(英: platform shoes)と呼ばれる。 近年一般的にこの形態の靴はウェスタンブーツやシークレットシューズの様な紳士靴を除いて、殆どが婦人靴に限定されている。 |
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●歴史
現代に続くハイヒールの起源の説はいくつかあり、定説は定まっていない。 紀元前400年代、アテネで、背を高く見せるハイヒールが遊女間に流行した。これは男性も履いていた。 15世紀からイタリア、及びスペインで、チョピンというファッション用オーバーシューズが貴族の女性や高級娼婦で流行する。 16世紀末に欧州で現代に続くハイヒールが生まれる。 町に溢れる汚物を避けるために生まれたといわれることもあるが、現代に続くハイヒールはファッション用であり、その起源は汚物を避けるためとは関係がない。 ルイ14世は背を高く見せるために愛用していたなど、前近代から近代初期にかけては男女を問わず履かれていた。しかし、ナポレオン戦争が始まり各国で国民軍が創設されると、戦場を駆け回るために男性は機能的な靴を選ぶようになったため、ハイヒールは女性の履物と見なされるようになった。 |
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●長短
●利点 背を高く、足を長く見せ、頭身の外見的均衡を整える(長期的には逆にスタイルを悪化させる)。 低身長の人が立ち話をする際に、会話の相手を仰ぎ見る必要を減少させる。 女性の足取りを強調しファッションを引き立たせる。 ●欠点 自動車を運転する際、足の指先が自由に動かない為足先の感覚が鈍ってペダルの踏み込み加減がわかりにくくなる。またアキレス腱を常に緊張させている為ペダル操作がギクシャクしやすい。このためハイヒール(他に下駄やサンダルなど)を履いた状態で自動車を運転することは各都道府県の道路交通法施行細則により禁止されている場合がある(道路交通法第71条)。 航空機から緊急脱出スライド(すべり台)で脱出する際、ハイヒールの鋭利なかかとが脱出スライドを損傷させる原因となる。このため、緊急脱出の際、乗客は、ハイヒールを脱ぐ必要がある。 ●健康上の欠点 靴の形状と足先への影響重心の安定が悪く快適でない。また足首の捻挫を起こしやすくなる。 人間は本来裸足での歩行に向いた骨格になっているため、ハイヒールを履き続けることで姿勢がゆがみ、外反母趾、むくみ、肩こり、重症となれば椎間板ヘルニア・腰痛ともなる。骨格に対して無理な緊張を強い続ける結果、骨や筋肉に負担がかかり骨盤が歪む。骨格が歪むと、冷え、むくみ、腰痛等を発症し、最悪の場合は妊娠機能低下にまで繋がる。 骨や筋肉が歪むため、平たい尻、下腹の膨らみ、O脚といった状態にも繋がり、スタイルを悪化させる。 高さのあるハイヒールを履く事で転倒し易くなり、体重を支える足首への衝撃や事故が増える。 直立、歩行時に安定性が保てないため、足に過度の負担が掛かり痛みが発生する(長時間の場合は殊更である)。その結果、履き続けると骨と腱を傷付け「外反母趾」になる場合もある(下記参照)。 グレーチングの穴に踵が嵌まって転倒する。 かかとを高くするデザインにより、着用者の体重が極端に爪先方向へ移動し押されがちである。 / 靴先のデザインがつま先で絞られていると足指の自由がなく結果指の付け根で歩く事になる。長期間の着用は筋力のバランスと指間の靱帯を弛緩させ、足の骨格を歪ませてしまう(例:ヴィクトリア・ベッカムはハイヒールの履き過ぎで足の骨格が変形し、歩行が困難になり、その回復には患部の切開を伴う手術を要した)。 ハイヒールの靴はかかとを持ち上げる構造の為、常にアキレス腱を緊張させる。 ハイヒールを履く事による着用者の足裏の不具合は、特に魚の目と水疱の形で現れる事がある。これは、体重がこの部分に集中し、足骨と地面とで挟まれる為である。 |
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●社会的な受容
ハイヒールについて強い愛好・憎悪を持つ者もいる。例えばフィリピンのイメルダ・マルコスや、ルーマニアのエレナ・チャウシェスクはハイヒールの膨大な蒐集で有名だった。反面、幾人かのフェミニストはハイヒールの靴が男性による、動作を束縛し女性を圧制する道具であると主張している。 |
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●ハイヒールの歴史1 / 女性の履物の進化 | |
美しい女性の履物の代表といえば、やはりハイヒール。優美なヒールの形状と、足首からふくらはぎ、ひざ上にかけての脚線美を作り出してくれるハイヒールは女性の強い味方。ハイブランドの美しいハイヒールは、まさに憧れの象徴です。女性の足を1番美しく見せるともいわれているハイヒールですが、実は昔は男性も愛用しているものでした。
●男女関係なく履いていた!?ハイヒールの歴史 ハイヒール自体は紀元前より存在していましたが、流行が始まったのは16世紀。ペルシャの戦士たちが馬に乗る際に、あぶみに引っ掛けて乗りやすくするために履いていたハイヒールを「男らしさを強調するため」にヨーロッパの貴族たちが履き出したのがきっかけでした。背が低かったルイ14世は背を高く見せるためにハイヒールを愛用。またフランスでは、下水道が発達しておらず汚物まみれの道を、服の裾を汚さずに歩けるハイヒールが庶民にも浸透しました。 そうして男女関係なく履かれていたハイヒールですが、ナポレオン戦争など国民を上げての戦争が増えるにつれ、男性はがっしりとしたヒールの低い靴を履くようになり、結果的にハイヒールは女性の履物とみなされるようになったのです。 20世紀に入ると、女性のスカート丈が短くなり、靴もファッションの重要な一部となりました。また、ヒールの芯に使われていたコルクや木に代わってスチール芯が使われるようになると、細くて優美なピンヒールなどが登場。さまざまな形状のハイヒールが続々とデザインされるようになり、現在の多様なデザインのハイヒールへと変遷していきました。 そんなハイヒールですが、女性の足を美しく見せる高さには個人差があります。スポーツをやっているなど筋肉質な女性には5cmヒールが似合い、150cm程度の身長の女性が10cmヒールを履くとかえってバランスが悪くなってしまうなど、身長や体型によって似合うヒールの高さはさまざまです。 ●女性の永遠の憧れ!クリスチャン・ルブタンのレッドソール ブランドのハイヒールと聞いてパッと思い浮かぶのは、やはりクリスチャン・ルブタンの靴底が真っ赤に塗られた「レッドソール」ではないでしょうか。ルブタンを象徴する靴であるレッドソールは、デザイナーであり創業者であるクリスチャン・ルブタンが、工場内で出来上がったばかりのハイヒールの靴底に赤いマニキュアを塗ってみたことから生まれたといわれています。さすが、女性の永遠の憧れの靴。誕生秘話までオシャレです。黒いシンプルなハイヒールからちらりと見える真紅が、足元を美しく印象的に演出してくれるクリスチャン・ルブタンのレッドソール。オシャレな女性ならぜひ1足は持っていたい靴ですね。 |
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●ハイヒールの歴史2 / ハイヒール誕生の衝撃的事実 | |
●女性を象徴するハイヒール
トップページの画像は「Christian Louboutin」と呼ばれるハイヒールのトップブランドである。 ハイヒールは女性を象徴とした靴で、その様は他の靴の作りでは感じられない美しさや色気を持ち合わせています。 「利便性を捨てでも、美しさを求めて作られた靴に違いない!」と思っている方も多く、大人の女性ファッション文化として定着している。 しかし、意外にもハイヒールの原点は美しさを求めてではなく、利便性を追求して作られたのをご存知だろうか? 今回はハイヒールの驚きの誕生秘話と共に、歴史についてご紹介したい。 ●初めて誕生したハイヒール ハイヒールの起源は3つの有力説がある。まず、最も古い説が紀元前400年前にアテネで使用されたとされる厚底靴だ。 その理由は「姿を高く見せるため」だったという。 姿を高く見せるために使用されたという点で、現在のハイヒールと使用目的は一部一致しているものの、ソール全体が厚底になっているため形は全く異なるものだった。 2つ目の有力説は、15世紀に流行したチョピンと呼ばれたファッション用の厚底靴。 製品自体はスリッパの底が厚くなったような靴で、これも同様にハイヒールとは全く異なった形であった。 そして現在の原型となったと言われている最も有力説が、16世紀末に欧州で使われるようになった靴である。 ●女性がハイヒールを履くのは汚れから身を守るためだった? 16世紀のヨーロッパは街中に汚物が平然と捨てられていたという。「捨てます!」と周囲に宣言すれば、2階からでも汚物を捨てててもよいルールもあったほどだ。臭いもそうだが、路面に汚物は置き去り状態で一般的な靴では、スカートの裾が汚れてしまい、人々は悩みながらも捨てることをやめなかたっという。 そこで注目されたのが、厚底靴。 しかし厚底靴はこれまでも存在していたにも関わらず、歩き辛さや、ファッション的に好まれず中々浸透しなかった。そこで誕生したのが底が高くても歩きやすく、見た目も細く美しい、かかと部分のみを厚底にしたのがハイヒールである。 誕生後は、ハイヒールを気に入って履いていた偉人「ルイ14世」を筆頭に、瞬く間に最先端のファッションとして一般庶民へ定着していった。 ●環境が変わってもハイヒールの文化は続く 汚れから裾を守るという目的を果たさくてよくなった今、ハイヒールはファッションとして愛用されている。当時、宮廷で流行していた時には男性も履いていたが、時代が進むにつれ機能性を求め、男性は革靴やブーツへと移行していった。 今では国際的なブランドも数多く存在しており、ハイヒールは大人の女性を表現する上で欠かせない靴となった。高級志向のブランドも登場し、それらのハイヒールは女性の憧れとしてあり続けている。 ●まとめ 古くから存在し、汚物で裾が汚れない靴として注目を浴び、宮廷ファッションとして現行の形となったハイヒール。今回はハイヒールの誕生に焦点を当てて説明したがは、次回はヒール部分の変化の流れについて紹介していきたい。 |
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●ハイヒールの歴史3 / 靴の歴史〜ヒールの変遷から〜 | |
●はじめに
靴の歴史をみる時、機能性と服飾性は大きなポイントであろう。この二面は競合するものではなく、相互の発達を促しあうものであったはずである。 筆者は長く日本はきもの博物館(以下、博物館と略)の学芸員をつとめ、その収蔵資料の保存や展示に関わってきた。その中で、欧米の歴史資料を扱う時、新しいスタイルを求めることがそれを可能にする技術を生んできたという思いを強くしてきた。ここでは、その靴の変遷、発達をヒール(外底踵部に付けて足を持ち上げるもの)を通して紹介してみる。 ●1.対象資料の概要 ヒールの出現は16世紀末期といい、その要因は諸説あるが、西アジアの騎馬民族が鐙から靴が滑らないように踵に付けた楔形の革の影響ともいわれている。いずれにしても、現在のヒールをもたらしたものは、それらの要因が触発したヨーロッパ・ファッションの高さへの欲求であったろう。ヒールは17世紀の宮廷ファッションの展開の中で形を成していき、18世紀に形を整えている。 博物館では、1978年の開館以来、外国の靴資料の収集にもつとめており、「歴史資料」としている欧米のシュー・ファッションを伝える資料も441点ある。その内訳は、17世紀まで10点、18世紀54点、19世紀172点、20世紀205点となっており(注1)、ある程度時代の変遷を追える内容をもっているといえるであろう。 外観上形態の明瞭なヒールの変遷は、時期的特徴を捉えやすく、筆者は、古いことであるが、1997年の企画展で「ハイヒールの系譜」展として取り上げたことがある。この展示では18世紀から1970年代までの流れを、その特徴をとらえて、「ルイヒール」「再生したヒール」「完成したヒール」「露出するヒール」「成熟したヒール」「突出するヒール」と区分してみた。今回もこの流れで紹介する。 なお、掲載する写真は記載のないもの全てが日本はきもの博物館所蔵である。 ●2.18世紀のヒール 18世紀のヒールは曲線的な側面形に特徴がある。この優美なヒールは「ルイヒール」として現在も基本形となっているが、この呼称は19世紀後半に復活した時、フランスの「ルイ15世時代のヒール」ということでついたという。 初期には10センチ前後の高さの細いヒールで、細く尖った爪先にむかって下りる硬い革底とあわせて、まさに「爪先立ち」しているような不安定さがあった。17世紀のヒール(写真1)と比して、上端部の広がりが際立っていることがよく分かる(2、4-1)。ヒールは、踵というより、土踏まずの位置に付く形になっているのである。ヒールの中央で体重を支えようとすることが、曲線的なヒールを生んだといえる。そして、シャンクやカウンターにあたる保護材のない靴の機能性を、このヒールのカーブで補ったといえる。この時期、靴の底革は厚みのある硬いもので、基本的に左右の別がない。このことを靴研究者ジューン・スワン氏は the innovation of 'straights'と記している(注2)。 1730年頃になると、ヒールは太さを増しやや低くなっていく(3、4-2)。この安定感のあるヒールは60年頃まで続き、残された資料の中で最も多いと思われる。60年代頃から次第に細くなっていったヒールは、70年から80年頃、再び細く高い華奢なものになっていく(4-3・4)。この時期の靴は、爪先も接地部が小さく、ほとんど自立しないほど不安定である。その反動のように、90年代になると、ヒールは非常に小さく低いもの(4-5)になり、世紀末から次世紀に入ると姿を消していくのである。 装飾性豊かなロココ様式そのままに、靴も、ドレスにあわせた豪華なシルクや高価な革が用いられ、緻密な技術の刺繍で飾られていた。そのファッション性を支えるものとしてヒールが求められたが、そのための技術はまだ未熟だった。この世紀のヒールの変遷は、爛熟期から市民革命へと向かう社会の変化に呼応しているようでもある。 ●3.19世紀のヒール 19世紀前半は基本的にフラット・ソールの時期で、ヒールが戻ってくるのは世紀中頃である。そのヒールは、フラットなままの底の踵部に小さな支えを付け足したかのもので、高さも3センチ前後であった。写真5は積み革で、7-1はコルクをアッパーと同じシルクサテンで巻いてあるが、平らな底が見てとれる。 ヒールが再生するのは、やはり、時代の欲求だと思われる。経済的発展はファッションにも大きく影響し、美しくあろうとした時、靴にはヒールが求められたであろう。 再生したヒールは次第に高さも取り戻して完成にむかうが、そのためには体重を支える機能が必要であった。そのことが「ルイヒール」への回帰をよんだのか、形状の美しさを求めると曲線にいたるのか、70年代になると曲線的なヒールが付くようになる(7-2・3)。この頃には、靴底土踏まず部には硬い革と思われる芯が入れられるようになる。シャンクの機能が意識されていることがうかがわれ、写真7の2と3の側面形の違いにみえるように、土踏まず部が立ち上がるようになっていく。そして、90年代末には高さ10センチに近いハイヒール(7-4)も登場してくる。ただ、ヒールの形状には18世紀の残影がみえる。 資料の性格上、外観と手触りでしか観察できないため、土踏まず部の芯の素材を確かめることは出来ないが、その硬さの変化は20世紀に変わる頃にあったと思われる。写真7-5では金属と思われるしっかりした芯が入り、底革の左右も明確なものになっている。6のようなシルクサテンのブーツもしっかりした芯のカウンターで形もととのい、機能性をもって完成したといえるだろう。 ●4.20世紀のヒール 靴にとって画期的であったのはスカート丈が短くなったことであったろう。裾から垣間見えるものだった靴がスカートの外に出たのである。そのことが靴のスタイルに与えた影響は大きかったと思われ、見られることを意識しヒールは様々な姿を生んでいく。 「露出するヒール」とした20 〜 30年代のヒール(7-6、8)は、土踏まずを離れて、踵の下で支える位置にあるようになる。この位置に達するために長い努力を要した訳であるが、制約を解かれて安定感のあるハイヒールが生まれたといえる。裾広がりのカーブをもつものや直線を描くものなどデザインも多様化していく。 これまでヒールの芯はコルクや木であった。形を作り易く軽かったが、体重を支えるうえで一定の太さが必要であった。ヒールの美しさを実現するために重要な細さにはまだ制約があった。最後の制約を解いたのがスチール芯であり、50年代に出た「ピンヒール」(9)は靴の優雅さを実現した。ここにヒールの成熟した姿がみえるだろう。 60年代になると、ファッションそのものに革命的変化があり、靴も大きく姿を変えた。その厚い底には高いヒールが伴い、そのうえ太さも強調された(10)。存在を誇示するようなヒールを「突出するヒール」といわせてもらった。 この後は、ファッション全般とともに、ヒールも時代を画するというより、ヴァリエーションを増やし個性を競うようになっているようである。 ●おわりに 古代のギリシャ悲劇では主役が履き、16世紀にはチョピンとなり、フェラガモも挑戦したのは、ヒールを持たない厚底であった。これは自らを主張しつつファッショナブルであろうとした時、足元に高さが求められたことを示し、それを軽やかに実現したヒールに、まず狂喜したのが、かのルイ14世であったことはうなずけることである。 18世紀に女性の専有ともなったヒールが完成していくまでをたどってみたが、もちろんヒールは靴の部分であり、靴の歴史の中で捉えられるべきものである。前号の宇留野氏のご論考(注3)にあるように、左右の違いについても、ここで述べたことが全体をカバーするものではない。古代から左右の違いは意識されてきたが、ヒールとの連動性の中で独自の流れを作ったと考えられる。 ●注 1)詳しくは、市田京子「収蔵資料のまとめ〜世界の靴の歴史編〜」『(財)遺芳文化財団・日本はきもの博物館・日本郷土玩具博物館年報13』(2007年)を参照してほしい。 2)June Swann "Shoes", B.T.Batsford Ltd, London (1982) P. 7 ジューン・スワン氏はイギリスのノーザンプトン・ミュージアムで長年靴の研究に携わった。 3)宇留野勝正「左右同型靴の史的考察」『かわとはきものNo.153』東京都立皮革技術センター台東支所、2010年 |
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●ハイヒールの歴史4 / ハイヒールと中世と糞の話 | |
いつからか、どこからか、インターネッツの世界ではハイヒールの起源について一つの言説が広まっているように見えます。端的に言えば、以下の様なものです。
「中世ヨーロッパでは溜たまった糞尿を窓から投げ捨てていたため、道に落ちた糞便を踏まないようにするためにハイヒールが生み出された。」 あちこちで見かける言説なので、目にした方も多いかと思われます。さてそんな言説でありますが、皆々様はどう思われたでしょうか? 個々の要素は尤もらしくも見えますが、リテラシーの高い皆様から見てみますと、なんと言いますか、こう、文字と文字の間から与太話の匂いが漂ってきませんか? この手の言説は、お堅い歴史というよりは豆知識とかファッションとかそういう文脈で語られることが多く、そういう場でソースや参考文献が示されることもまずありません。 とは言え一方で、まとまった説明も世間には無いようですので、本稿ではハイヒールと欧州について語ってみたいと思います。ちなみに、いざ書いてみると意外と長くなってしまいました。ご了承下さい。 |
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●第一部:ハイヒールと道の糞 | |
●結論
面倒くさいので結論から語ってしまいましょう。 Q1:中世ヨーロッパでは溜たまった糞尿を窓から投げ捨てていたか A1:事実。ただし多少の補足は必要 Q2:その道の糞を踏まないようにハイヒールが生み出されたか A2:底の厚い靴は存在した。ただし降ってきた糞便対策が主用途というわけではない。 Q3:その厚底靴がハイヒールの起源になったか A3:今日のハイヒールとの直接の関係はない Q3.5:では今日のハイヒールの起源は何か A3.5:諸説あるが、少なくとも糞ではない 要するにハイヒールの起源と糞はほぼ関係ないということになります。以下では、上述の3つの論点についてそれぞれ解説していこうかと思います。 |
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●第一章:前提としてのヨーロッパの道
●道の糞と窓から糞 巷で言われる通り、中世ヨーロッパの都市世界において、道というのはお世辞にも整ったものではありませんでした。「窓から糞」が人目を引くので埋もれがちですが、それだけではありません。そもそも道がしっかり舗装されていることは稀で、雨が降ればあっという間にぬかるみ、端に目をやればほうぼうには草が生い茂っています。そんな道を豚や羊などの家畜が歩きまわり、またその家畜の糞が道に還るといった有様です。 例えば当時に描かれた絵画を見てみましても、舗装されていない都市の図は数多く見受けられます。 で、「窓から糞」です。ローマ時代からこの手の行為はあったと言いますが、中世の記録だと、13世紀のフランス王ルイ九世が夜明け前に教会に向かう途上、都市に住む学生が窓から捨てた汚水をかぶってしまったという逸話が残っています。※1 慣習として整備されてくるのはちょっと後の14世紀頃からのようです。中世末のイタリアの詩人レオナルド・ブルーニは、不潔な都市を誹る描写として「夜のうちに出た汚物を、朝になるとそのままそっくり他人の目の前に投げ捨て、それを道路に放置したまま、足で踏まれるに任すのである」と語っています。不潔であるという認識はあったにせよ、このようなことが行われていたのは確かでしょう。やはりイタリアの都市アレッツォでは窓からの投棄に関しても細々と法が定められています。窓から糞を投げ捨てることは罰金対象だったようですが、逆に言えばそういう事が行われていたからこそ取り締まりの対象になったとも言えます。 イングランドやドイツなどの他の地域でも同じような法律は確認されており、法で規制する当局と、必ずしも守らない住民というのが当時の都市の姿と言って良さそうです。 この辺の事情を総称して「全てを道に」(トゥー・タ・ラ・リュ)なんていう言葉もあるくらい。そんなわけで人々は家庭ごみにしろ汚水にしろ、面倒くさいものは全て道に委ねたのでした。道や下水の整備といった問題は当時の人間も認識はしていたものの、コストと手間や諸権利等の都合から実現はなかなか容易ではなかったのですね。 ※1:ちなみに、この学生は罰せられることなく、逆に「夜間まで勉学に励むとは感心である」として賞賛に預かったとされています。 ●「道の糞」「窓から糞」への保留 ただし、注意が必要なのは、この手の話にもやはり地域差、時代差、そして程度の差があるということです。 例えばイングランドやドイツなどの中世都市の多くでは便所や家々から糞便を引き取る「汲み取り人」が活動しており、当時の資料からは「窓から糞」よりもこの便所やこの汲み取り人の方がより頻繁に言及されている様も伺えます※2。 また「窓から糞」は、その物理的特性から都市の過密化と建物の高層化とに密接に関連していることは自明でしょう。しかしパリやイタリア主要都市のような大都市はともかくとして※3、人口が一万人に達していれば上出来という当時の一般的な都市世界ではまた事情が変わりえます。 また、上述したように中世の都市では豚などの家畜が闊歩する姿が見受けられましたが、この豚が人の糞を食べてきれいにしてくれるというエコシステム的な側面もありました。つまり、「窓から糞」はあったのは確かだとしても、どの程度の頻度で行われ、それがどの程度の影響を及ぼしていたかは疑問の余地が結構残っているわけです。汲取人が処理するケースと川に捨てるケースと窓から棄てるケースがそれぞれどの程度あったか中々に難しい問題です。例えば英語圏のサイトでは、(中世イングランドに関しては)「窓から糞」などは中世について語られる数多くの都市伝説の一つにすぎないと断言するものもあったりします(流石に言い過ぎだとは思いますが)。 また、実を言うと、「窓から糞」に関する言及は中世よりも16世紀以降‥つまり近世近代の方が数多く見受けられたりもします。特にパリやロンドンなどの大都市は、近世になると過密化・高層化が進むが一方でインフラの整備は整わずという状況で、道の泥はますます深刻になっていくのでした。この手の都市で衛生状態の悪化が限界に達するのは大体18〜19世紀のことで、上の方に掲載した「窓から糞」の版画絵も、中世っぽく見えるかもしれませんが実際には18世紀の作品だったりします。 ※2:汲み取り便所は当然「窓から糞」には含まれません。もっとも、汲みとった糞を汲取人が横着して道に棄てるようなことは割とあったようなので、「窓から糞」ではなくても「道の糞」には含まれうるというややこしい自体も生じ得るのではありますが。 ※3:大雑把に言えば、中世欧州の都市人口は「パリ >> イタリアの大都市 >> 他」みたいな感じになっています。アルプス以北に関しては、パリのライバルたるロンドンが、中世末期にようやく5万(千代田区相当)に近づくとか、それくらいのレベルです。 ●道の糞まとめ というわけで長くなってしまいましたが、ハイヒール話の前提となる「道の糞」をまとめると以下の様な感じになります。 ◾中世欧州では糞が窓から捨てられていたよ ◾ただし、どの程度のものであったかは議論の余地があり、与太話として否定する向きもあるよ ◾また、中世もそうであるが近世近代も事情は似たようなものであり、より悪化するケースが多かったよ ◾まぁでも、それはそれとして、糞にかぎらず色々と道が汚かったのは確かだよ |
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●第二章:中世人が履いたもの
●パッテンの歴史 「道から糞」の程度はともかくとしても、当時の欧州の道に問題が多かったのは確かです。そんな環境にあって、中世人は一つの解決策を見出しました。それが、これ。 デデン。フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクの手になる「アルノルフィーニ夫妻像」。イタリア商人夫妻の姿を描いた1434年の作品ですが、当時にあって、その繊細な筆致や巧みな錯視的技法は群を抜いていたと言われています。 が、絵画の情報はここではどうでもよくて、重要なのは絵画の左下の方に転がっている、なんか便所の下駄みたいなオブジェクトです。拡大してみましょう。ドン。 はい、これが本稿の主役の一つ。これはパッテン(patten)と呼ばれるオーバーシューズ(靴の上から更に履く靴)の一種で、中世ハイヒール伝説の正体の一つです。 12世紀から存在が確認されており、特に15世紀頃から一般層にも普及し絵画にも多く描かれるようになります。15世紀はクラコーなど先の尖った靴が流行った時期でもありますので、これとセットで用いられたようです。 またこのパッテンは基本的に実用本位の靴なので、基本的に男女の別なく用いられていました。近代に入ると男性用厚底ブーツの登場の影響で段々女性用になっていくのですが、ともあれ時代に応じて形状を変えつつも実に20世紀まで用いられ続けていったのです。 そんなパッテンの世界は、やはり語るより見た方が早いでしょう。そんなわけで我が家のパッテンフォルダの一部を皆々様にもご紹介。 ●パッテンの用途は何か さてそんなわけでパッテンな世界をご紹介しましたが、そのパッテンの目的は必ずしも自明ではありません。というのも、資料によって言ってることが微妙に異なってるんですね。状況証拠的な憶測も多分に含んでいるのでしょう。そんな断片的な情報をまとめると、パッテンの存在意義は大体以下の様な感じなります。 ●1:道の泥 まず当然考えられるのが当時の道でしょう。何度か述べたとおり、都市部であっても舗装は不十分だった中世の道。全体的に泥っぽいし、雨が降れば容易にぬかるみ水たまりができます。そんな中でこのパッテンは雨靴としての役割を期待されたとされています。もちろんそういう「泥」の中には人や家畜の糞便もあり、その中には窓から投げ捨てられたものもあったでしょう。大抵のパッテンは接地面積を減らす構造になっており、このことからも泥対策であった事が伺えます。この辺は日本の下駄と同じ理屈です。 ●2:靴の補強 そして同様に、或いはそれ以上に当時履かれていた革靴の方にも注意を向ける必要があります。当時の革靴は現代の靴のような厚い靴底も持たず、薄くて頼りないものでした。防水性能も低く、そんな靴にとってぬかるんだ道や雪道は大敵と言えましょう。雪道をサンダルで歩いた経験のある方なら、薄い靴で雪道をゆく心細さが想像できるのではないでしょうか。雪が溶けて水たまりになっている箇所は特に堪えるものです。 ●3:足の保護 道の汚れは別にしても、僅かな厚みの靴で中世の荒れた道や石畳の上を歩くのは足にも負担が大きかったことでしょう。また、冬の石床の上に居ると、薄い靴の上から冷たさが伝わってくるという記述もあります。室内で用いている絵画も多く残されていることから、道の泥に限らない様々な足元の苛酷さから足を守るためにパッテンは用いられたようです。 ●4:靴の保護 足のみならず、靴自体の保護も用途として考えられます。又聞きではありますが、一般的な中世の靴は安くはない割に3〜4ヶ月程度しか持たなかったという説明も存在します。そんなか弱い靴を保護する目的で用いられたという説明も説得力があります。 また近代に入ると女性のドレスの丈が長くなり裾が足元にまで及ぶようになったため、これを汚れから守るという用途も増えました。 パッテンの用途をざっと書き下すと上記のようになります。これらを踏まえて、「パッテンは道の糞対策だったか」という問いに立ち返ってみますと、「全くの間違いというわけではないが、優先度的には『ついで』くらい」あたりが妥当な答えではないでしょうか。 道の糞と言うよりは、道の糞も含めた泥・汚物・ぬかるみ・雪などの劣悪な路面環境全般への対策と見るのが妥当でしょう。例えば「SHOES AND PATTENS」によれば、「防水、泥、雪」が要因とされています。もし「道の糞」なんてピンポイントのオブジェクトが本当に問題なのだったら、わざわざこんな追加パーツを装備しなくても、避けて歩けばいいだけの話でもあります。 というわけで第二章の内容をまとめますと ◾中世人はパッテンと呼ばれる靴外靴を使用していた(こともあった) ◾しかしその用途は複合的であり、「道の糞対策のために発明された」とは言えない という感じになります。しかし、このパッテンを眺めるだけではハイヒール伝説の正体はまだ見えてきません。次に問うべきは、このパッテンとハイヒールは如何なる関係にあるのか、でしょう。 尚、「このパッテンとやらも高い靴底を持ってるんだし、ハイヒールに分類して良いのでは」という意見もあるかもしれません。もちろん不可能ではないのですが、歴史的連続性や仕様形態を無視してそのような分類を行った場合、下駄もぽっくりも竹馬も全部ハイヒールということになってしまいます。 |
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●第三章:ハイヒールの系譜
ここらでパッテンのことはいったん忘れて、今度は今日的なハイヒールの起源について調べてみましょう。 ‥というわけで海外の情報をざっと眺めてみたのですが、どうも幾つかの説が並立しており、これが定説と呼べるものは無さそうな感じです。ともあれ、順番に紹介しましょう。 ※注:本章の内容は、その多くが英語圏のサイトの記述に拠っています。海外の書籍も少しはあるのですが、調査コストの問題であまり参照していません。海外のサイトも正確さという意味では割といい加減なものも多いのですが、ここではそれらをざっと吟味した上で整理した内容をお届けします。まあ、正直この辺の内容は5年も経てば古くなっていそうな匂いがしますので、腐る前にお早めにお召し上がり下さい。 ●1:カトリーヌ説 まず最も通俗的な説は、1533年にイタリアから後の仏王アンリ二世の元に嫁いできたカトリーヌ・ド・メディシスがこれを最初に履いたというものです。 嫁いだはよいものの、当時十四歳の彼女は背も低く、ルックス的にも特に秀でたところはなかったと言われています。そんな彼女を無視して、夫であるアンリ二世は(彼女よりずっと背の高い)愛人のもとに通い詰めていました。いまいち夫の寵愛を得られない彼女としては、自身の立場を維持するためにも宮廷や国民に対して自己をアピールする必要がありました。で、そのために思いついたのがハイヒールというわけです。このお洒落な靴に身を包んだ彼女の姿は高く評価され、ハイヒールという新たな文化がフランスに花開いたとか。 涙ぐましい努力ですね。泣けますね。でも多分これ、嘘です。実際にはハイヒールが用いられていたという証拠は1580〜90年代になって初めて登場しており、1533年前後に生み出され流行ったのであれば50年もの謎の空白が生まれてしまいます。 それに伝説の主役が「あの」カトリーヌ・ド・メディシスという点がいかにも怪しいものです。※4 ※4:カトリーヌ・ド・メディシスは、「あのあたりの時代にフランスに伝わった大抵のものは彼女に帰せられる」という特殊スキルを持っています。フランス国民としては、自分たちの文化がイギリスやドイツやイスラム圏から伝わったものだという事実には耐えられないが、カトリーヌの故郷たるイタリア由来だったら何とか耐えられる、という事なのでしょう。例えばフランス・アルザス地方の料理「シュークルート」はドイツのザワークラウトの一種とされるのですが、自国の文化がドイツ起源だと認めたくないフランス人は「中国人がキャベツに塩をふることを始め、タタール人がシュークルートを作り、カトリーヌ・ド・メディシスがもたらした」という遠大な物語を主張しているのだそうです。 ●2:第二の靴、チョピン そんなわけでカトリーヌ自体説は怪しいのですが、このような説が語られるにはそれなりの背景があったと思われます。それが、彼女の故郷イタリアで以前から履かれていたサンダル、その名は、チョピン(Chopine)。中世ハイヒール伝説のもう一つの正体です。 これはヴェネツィアを中心とするイタリア、及びスペインで用いられていたオーバーシューズで、その起源の一つはトルコの風呂場のサンダルにあると言われています。 初期の一時期を除いて、このチョピンは前述のパッテンとは異なりファッション的な用途で用いられました。これを主に用いたのはイタリアの貴族の女性や高級娼婦。女性用であり、今日に残っているものもその多くに細やかな装飾が施されています。写真を見れば、実用一点張りなパッテンの無骨さとは全く別物であることが伺えるかと思います。実際、ヴェネツィアでは「奢侈禁止令」の一環としてこれが禁止されたりもしています。 記録に残っているチョピンの中には例えば高さ60cmなんてものもあり、とても実用的とは言えません。実際この手のチョピンを履いて歩くには杖やお付きの者が必須だったようで、そんな感じで実用性を度外視しているがゆえに、却って高いステイタスを誇示するアイテムとして用いられました。もはや道の糞を避けるとかそういう次元の話ではありません。 このチョピンは15世紀からイタリアで用いられていましたが、16世紀の終わりごろからフランスなどにも普及していったとされます。勿論厳密な意味では今日的なハイヒールとは別物なのですが、海外の文献でも微妙にハイヒールと混同されることもある罪な奴です。明言こそされないものの、このチョピンからハイヒールが生まれたのではと見る向きも存在します。 ●3:第三の靴はペルシャから さて、カトリーヌやチョピンとは別に、ハイヒールにはもう一つの有力な起源があります。それがライディングブーツ、つまり乗馬靴です。 これは騎乗時に鐙に足を引っ掛けやすいように踵を高く作られた靴で、アジアでは古くから用いられていたと言われます。これまで紹介したパッテンやチョピンは、確かに踵も高く持ち上げられてましたが、むしろ靴全体を持ち上げることにその第一義がありました。それに対してこの乗馬靴は確かに「せり上がった踵」という今日的なハイヒールの特徴を備えています。それ故にこの乗馬靴をファッション化させたものがハイヒールだとする説もあります。 ではこの乗馬靴はどこから来たかというと、これまた幾つか説があるようです。 ◾靴の(踵の)補修を繰り返しているうちに、偶然に乗馬靴のように踵の高い靴が生まれたよ説 ◾昔から乗馬靴が用いられていたペルシャ経由で伝わったよ説 当時のペルシャを治めていたサファヴィー朝のアッバース一世は、オスマン帝国への対処の必要性から西欧諸国との連携を模索するようになります。で、そうなるとペルシャから使節が各地に派遣されることになりますが、この使節がペルシャ風の乗馬靴を履いており、これが欧州人の注目を浴び、流行したというものです。 ●ハイヒール起源まとめ なんだか参考資料によって言ってることがてんでバラバラですが、これまでの説をまとめると、大体5つくらいのシナリオが浮かび上がります。 ◾Aルート:カトリーヌが無から、あるいはチョピンや乗馬靴を参考にハイヒールを発明したよ ◾Bルート:16世紀末あたりにペルシャから騎乗用の厚底靴が伝わり、これがファッション化しハイヒールになったよ ◾Cルート:16世紀のいつごろか、靴の修理の過程か何かで踵の厚い靴が生まれ、騎乗用厚底靴を経てファッション化したハイヒールが生まれたよ ◾Dルート:イタリア経由で広まったチョピンを下地に、16世紀末ごろから何となくハイヒールが生まれたよ ◾Eルート:その他だよ 個人的にはBかDあたりじゃないかなあと考えていますが、断定するには全く証拠が足りていないというのが正直なところでしょう。 しかし、厳密なハイヒールの起源はわからなくとも、少なくともこれまでの議論から2つのことが言えると思います。 つまり、 ◾その1: ハイヒールの起源にパッテンは(少なくとも直接は)関わっていない ◾その2: ハイヒールの起源に道の糞は関わっていない 本章をご覧になった方ならわかると思いますが、ハイヒールの起源を巡る説の中には、パッテンも道の糞もびっくりするほど登場しません。カトリーヌ、チョピン、乗馬靴のいずれの説をとるにせよパッテンは絡んできませんし、そして今日的なハイヒールは本質的なファッションな存在なのでその起源が道の糞と絡む要素はないわけです。 勿論、ファッション目的で生み出されたハイヒールが後に道の糞対策に転用されたという可能性もありますが、その辺を主張する海外の資料は今のところ見つかっていません(もっと探せば見つかるかもしれませんが)。逆に、「ハイヒールは泥だらけの欧州の道には大変不便であり、それゆえに貴人のステイタスを示すアイテムとして機能した」とする言説ならありました。 |
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●結論
これまでのお話をまとめますと ◾中世の道は汚く、よくぬかるんだりした ◾そんな泥の中には窓から棄てられた汚物やそれが雨で泥になった物も含まれた ◾それらの泥や防水対策、靴の保護などの目的のために中世人は靴の上から「パッテン」を着用することもあった ◾それとは別に、イタリアでは14世紀頃から「チョピン」という婦人用厚底サンダルがステイタスの誇示を目的として用いられた ◾それとは別に、ペルシャを経由してかしないでか、16世紀頃から騎兵用の踵が高い靴が欧州に現れた ◾恐らくチョピンあるいは騎兵靴あたりの影響を受けて、近世(16C世紀末)にハイヒールがファッション・ステイタスを目的として生み出された となります。 というわけで随分と遠回りをしてしまいましたが、「ハイヒールは中世欧州の道の糞対策として生まれた」というハイヒール伝説は事実ではない、いうのが本章の結論となります。 |
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●第二部:ハイヒール起源説の起源 | |
さて、ここから先は余談です。
風説の検証に随分と手間をかけてしまったので、手間をかけたついでに「日本におけるハイヒール『道の糞』起源説」はどこから来たのかについても軽く調べてみることにしました。要するにこんな面倒をかけさせやがったのは一体誰やねんという話です。さて、皆々様、石を投げる準備はできましたか? それでは参りましょう。 ※今回の調査は主にgoogle先生の力(web検索およびbook検索)に頼っています。google先生の精度が本調査の限界である点はご留意下さい。 ではまず、ハイヒールの起源について触れた書籍を、古い順に幾つか紹介していきましょう。 |
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●書籍の中のハイヒール起源説
●大塚製靴百年史 (大塚製靴株式会社/1976) まず、調査した限りで、この辺の事情に最初に言及したのは1976年の「大塚製靴百年史」。そのうちの京都大学霊長類研究所長 近藤四郎の寄稿による「足と靴の機能」の一節です。553ページを一部抜粋。 「洋靴の歴史の中で見落とせないのは、ヒールの誕生、ハイヒールの歴史であろう。現用の踝部だけを高くするヒールは、十六世紀にヨーロッパにおいて誕生した。その理由としてはいろいろいわれているが、中世のヨーロッパにおいては便所がほとんどなかったために汚物が都会の道路にも流れていて、それを避けるためとか、底革のいたむことを防ぐ、乗馬靴に拍車をつけやすくするためなどの説が理由として考えられよう。背丈を高く見せるために、ヒールが考案されたということは、ほとんど考えられない。(中略)ルネッサンス時代になってチョピンと呼ばれるハイヒールが復活する。これは次項に示したように当時の夫人のドレスが末広がりで背丈が低く見えることを恐れて考案されたもので、軽い木でできていたという。もちろんコトルノス、チョピンともに現用の踝部だけを高くするハイヒールの祖型として考えられるが、歩くための”はきもの”ではなかったことに注意したい。」 「道の糞対策」「革靴保護」「乗馬用」「チョピン」などこれまで述べてきた要素が既にこの時点で登場していることがわかります。 しかし、本稿のまとめと照らせば、前者二つ「道の糞」「革靴保護」はハイヒールではなくパッテンの用途であり、最後の「乗馬用」はハイヒールの由来候補のうちの一つでした。この辺の書きぶりから察するに、パッテンに関する情報が曖昧なままハイヒールと結び付けられていた可能性が考えられます。 今日の主張に繋がる「道の糞説」も既にこの時点で挙げられているものの、あくまで可能性の一つとして言及されている点が印象的です。40年前の環境では中近世の混沌とした足事情を俯瞰し整理するのは困難だったと思われますが、それゆえに断定を避けているのは学者として誠実な態度と言えましょう。 ●図書 (岩波書店/1979) 次に見つかったのは岩波書店の雑誌「図書」。1979年。 ‥が、残念ながら国会図書館でもamazonでも該当する号を見つけられなかったので、ここではgoogle booksの断片的なキャッシュ情報だけを抜粋するにとどめます。以下の様な感じになります。 「現用のハイヒールのかたち、つまり爪先部よりもヒールだけがい型は、十六世紀末にヨー口ッパで誕生した。その理由としては、中世の道路が汚物でよごれていたからとか、乗馬靴に拍車をつけるためにヒールをつけたことにならったとか、いろいろのことがいわれ‥」 書かれている内容は、上で挙げた「大塚製靴百年史」のほぼ受け売りですね(勿論、更に共通のの元ネタがある可能性は当然考えられますが)。ただ、「大塚製靴百年史」が挙げていた「革靴保護」の理由がここでは除去されている点は注目すべきでしょう。伝統的に、「道の糞対策」と異なり革靴保護機能はあまり日本人の注目を惹かない傾向があるようです。 ●ハイヒールと糞尿―個性的街づくり(中島 源太郎/1985) 今度は都市に関する様々なコラムを収めた一冊。実にストレートなタイトルです。該当箇所は38-39ページ。 「今はファッショナブルな婦人のハイヒールが、もとはといえば「汚物除け」だったことをご存知だろうか。その昔、中世ヨーロッパの都市は塵芥と汚物にあふれたまことに不潔きわまるものだった。道路は、窓から捨てられる排泄物や、垂れ流しの排水とで悪習を放つ泥沼の様相を呈していた。(中略)したがって靴は高くて重くて、底の厚いものでなければならなかった。特に、着飾った貴婦人が馬車から居りて屋敷に入るときにドレスの裾を汚さぬようにと考案されたのが、ぽっくりのような形をした、現在のハイヒールの原型だったというわけだ。」 ここでは、やはりパッテンの汚物避け要素がハイヒールの起源として語られています。後段の内容は、「貴婦人」「ぽっくり」の単語から察するに、チョピンの事を指しているようです。このように、パッテンとチョピン、ハイヒールが滑らかに結び付けられているのがこの手の言説の特徴です。 ●舶来事物起原事典(富田 仁/1987) 次は、文字通り海外から伝わった物事の起源を扱った辞典。ハイヒールを扱っているのは284-285ページ。 「西欧では、14世紀にクロッグと称する靴の下に下駄のようなものをつけ、靴底の痛みを防止したり、泥や埃に汚されないようにする目的で、ハイヒールがつくられたという。また、ルネサンスの時代には、上流階級の女性たちはチョピンと呼ばれた木製の下駄のようなものをつけた靴を履いたともいう。(中略)ハイヒールの起源をたどるとき、このように三つのルーツが認められるのであるが、現在のハイヒールは、16〜17世紀の頃、アンリ2世の妃カトリーヌ・ド・メディシスが高いヒールのスリッパを履いて皇后の威厳を示そうとしたことに端を発しているといわれる。」 こちらは、パッテンとチョピンに触れつつも、無理矢理に一本の線に結びつけるのではなく、複数説併記の立場を堅持しています。 ●やんごとなき姫君たちのトイレ(桐生 操/1992) 最後は古今の下世話な話を専門とする著者による一冊。二箇所でハイヒールに関する言及があります。 43P(角川文庫版)より「いわゆるハイヒールが作られたのは一七世紀初めだが、じつはこれも、この種の必要に迫られて生まれたものだ。汚物のぬかるみでドレスの裾を汚さないため考え出された、苦肉の策だ。当時のハイヒールはかかとだけでなく、爪先のほうも高くなっていて、いわば靴に下駄を取りつけたような恰好だった。中には六〇センチもの高さのヒールがあったという。いったいどうやル資歩いたのだろう。」 154P(角川文庫版)より「女性がハイヒールをはいたり、コルセットでからだを締めつけるようになったのは、一七〜一八世紀初めのことだ。ハイヒールの発祥は一五世紀のヴェネツィアだが、広く用いられるようになったのは、ロココ時代のフランスでのことである。」 一冊の本の中で、ある箇所ではハイヒールは17世紀に生まれたと語っているかと思えば別の箇所では15世紀ヴェネツィア起源と語ったりと、随分と混乱している様子が伺えます。まあ、多分それぞれ異なる文献から引っ張ってきたんでしょうけど。 |
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●傾向と対策
さて、こんな感じで先人の著作を眺めていますと、幾つかの傾向が認められることがわかります。 ●パッテン、チョピン、ハイヒールの各概念の混同 先人の各著作で述べられている内容は、確かにパッテンを指していたりチョピンの事を語っていたりするのですが、それらがどういう関係にあったか、という点で著しくごっちゃになっている傾向があります。 特に、パッテンはその特徴がハイヒールと結び付けられる事があるにも関わらず、ハイヒールとは別個の概念としてのパッテン自体に言及した資料は、探した限りでは存在しませんでした。 ●ハイヒールの起源に関する混乱 例えば「大塚製靴百年史」でもハイヒールは上背目的ではないとしながらも、上背を目的としたチョピンをその祖型であると述べており、それぞれの関係はあやふやになっています。 「やんごとなき姫君たちのトイレ」でも、ハイヒールが生まれた時期の記述が箇所によって食い違っていたりと、よくよく見ると一冊の本の中に微妙に矛盾が潜んでいたり曖昧さが佇んでいることが多々あります。 この混乱は、幾らかはハイヒールの起源説自体が諸説ある状況に由来するものかと思われます。海の向こうの本家ですら諸説紛々な状況なので、日本での説明が混乱するのも無理からぬ事と言えるかもしれません。並立する諸説に加え、中世に関する乏しく断片的な情報が加わった結果、ご覧の有様になったのでしょう。 ただ、「大塚製靴百年史」や「舶来事物起源辞典」など学者先生が記した書物では諸説あることや定説がない事もきちんと断られているのですが、俗な本になるとその辺の情報が抜け落ちて、断定的な描写がされるようになっている点は見逃すべきではないでしょう。 |
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●ネットの中のハイヒール伝説
書籍時代のハイヒール話を幾つか探してみましたが、ハイヒール伝説のが一般層にどう広まったかは未だ不透明です。そこで次は、やはりgoogle先生の力をお借りして、インターネッツの上でのハイヒール伝説を探してみましょう。 まずはネット上での初出に関してですが、これは割と簡単に見つかりまして、1999年4月5日に放送された伊集院光のラジオ「深夜の馬鹿力」のコーナーの一つ「豆知識予備校」の書き起こし記事。中身は以下の様な感じです。 「おしゃれな淑女の必須アイテム、ハイヒールに日傘。そもそもの始まりはヨーロッパの生活習慣に由来する。中世ヨーロッパでは溜たまった糞尿を窓から投げ捨てていたためぶつからないように日傘、踏まないようにハイヒールが必要だった。」 google先生を信じる限り、これがネットにおけるハイヒール伝説の最初の言及です。 内容的には「道の糞」説そのものですが、日傘の情報も加わっている点が趣深いです。 それからしばらくの間は、ネット上で見られる言説は件のラジオの内容かその孫引きが多くを占めています。 ●ネット上の話題の推移 さて、その後の展開はどんな感じでしょうか。ハイヒール起源説がどの程度話題になっているかを知るため、一年ごとに期間を区切って「中世 ハイヒール」で検索し、検索結果のうちハイヒール道の糞起源説に新たに触れたサイトの件数を調べてみました。勿論、全てのサイトをクロールできているわけではないので歯抜け前提ですし、正確な叙述をしている限りハイヒールの起源は「中世」ではないのですが、ウェブ界隈の傾向を掴むことくらいはできるでしょう。というわけで各年に更新された記事の数をグラフ化してみました。 ※注:各年にプロットされているデータは、「その年に」新たにハイヒール伝説に触れた記事の数であり、これまでの記事数の累計ではありません で、その結果がこちら。 こうして見ると、意外と件数の絶対数が少ないですね。とはいえ、最近になるほど件数が増えていることもわかります。 もちろん、「消失したサイトは反映されていない」、「ネット上の総情報量自体、加速度的に増えている(はず)」などのバイアスには留意すべきです。しかしそれを考慮しても、基本的にハイヒール伝説に関する話題はここ最近じわじわと活発になりつつあることが伺えます。 ちなみに、これらのネット上での言及は、九分九厘「道の糞説」です。革靴の保護やヴェネツィアの高級娼婦が云々などに触れたサイトはほぼ皆無。騎乗靴説だけは比較的多く、2、3件ほど見つかったという具合です。 ●インターネッツの震源地 あともう一つ、検索結果を個別に眺めていると、ある時期を境に存在感を増しているサイトがあることにも気が付きます。つまり、検索結果の上位に君臨し続けていたり、検索ヒット数の増加に影響していたりと、この話題の普及に貢献していると思しきサイトがちらほら見つかるのです。 具体的にいうと、こちら。ドン。デン。ドドン。 正直、ちょっと、この調査を始めたことを後悔し始めてきました。まぁ、今更悔やんでも仕方ありません。話を進めましょう。 まず、知恵袋に代表される人力検索サービスは2004年から検索結果に登場し始め、以後は毎年のようにハイヒール伝説に触れた質問が出され続け、そして検索結果の上位に居座り続けています。googleでのヒット数も、2004年までは増えているか減っているかよくわからないという具合でしたが、知恵袋系サイト登場の翌2005年から上昇を始めています。 で、お次がインターネットモザイク壁画ことNAVERまとめ。2014年から検索結果に登場し、件数こそ他に比べて少ないものの、今では知恵袋をしのいで検索結果のトップに君臨しています。 最後がみんな大好きまとめブログ群。登場時期は前後しますが、2013年頃から検索結果に頻繁に登場し始め、ヒット件数が一気に増加した2014年以降は、結構な割合をこのまとめサイトが占めていたりします。 これらの三つはそれぞれ対象相手を異にしつつも、ハイヒール伝説の話題の拡散に一役買っていると言っていいでしょう。 ●インターネットハイヒール論客のねぐら しかしながら、このデータにはtwitterなどのSNSや匿名掲示板群の情報はほぼ反映されていません。そこで、今度は匿名掲示板群でハイヒール伝説説が話題になったスレッドの数を調べてみました。その結果がこちら。 やはりあまり数が多くないことや、2010年以前にほとんど該当スレが無いことが意外ですが、検索に使ったサイトや調査方法の問題かもしれません。ただ、やはり傾向としては最近になるほどハイヒール伝説の話題が人口に膾炙している様が伺えます。 ついでに、どういう人達が話題にしているかを把握するため、上記のデータを板ごとにプロットし直してみました。結果はこちら。 ‥えーと、何と申しますか、あー、全体的に素朴な味わいのある方々が集まるような板で話題になっていることが伺えます。世界史板の該当件数が3件しかないのは不自然ですので、やはりこの結果は歯抜けが多く、実際にはこのデータよりもなんぼか多くのスレが存在するかと思われますが。 ともあれ、世界史のような専門的な板というよりは、一種の雑談的な板で集中してハイヒール伝説が頻繁に言及されていることは示唆的であります。つまり、特定の板の中で深く突っ込むこと無く繰り返し話題にされ、ついでにまとめサイトなどで取り上げられ、というサイクルを繰り返すことによってハイヒール伝説が徐々に定着していくという過程が見えてきます。 ●ハイヒール伝説の伝播まとめ 幾らかの推測も混ざっていますが、ハイヒール起源に関する話題・情報の流れはこのような感じなっているものと思われます。 ただ、今回の調査の限りでは、ハイヒール伝説の普及には決定的な役割を果たした特定の一サイトや特定の一個人‥というものは存在しないようです。どちらかというと、掲示板群や人力検索サイトで何度となく話題にされ続けることで、じわじわと定着していったと表現して良いでしょう。 そういう意味では、ハイヒール伝説を広めた真犯人はみんなの心のなかにこそあったのかもしれません。あんまり特定の誰かを糾弾しても角が立ちますしね。そんなわけで、お手元の石は、お好きな方に投げちゃって下さい。 ●余談 そういえば、結局SNS上でのハイヒール伝説の広がりは調べられず終いでした。例えばtwitterで年ごとにどの程度話題になったか調査する方法とか無いもんでしょうかね。広告系の人とかはそういうノウハウをいっぱい持ってそうな気もしますが。 |
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●結論
それでは、最後に、日本におけるハイヒールの起源説のおさらいをいたしましょう。 ◾大前提として、ハイヒールの起源に関する話は海の外においてもややこしい ◾日本の書籍でハイヒールの起源が語られた頃から「道の糞対策」説は存在した ◾ただし当初のちゃんとした書籍では、起源が諸説あることに触れたりと、保留の態度も示されていた ◾しかしこれらの情報が俗な書物に孫引きされていくにつれ、糞尿説以外は無視されていき、また保留の態度も削ぎ落とされ、断定的な記述が増えていく ◾2000年頃からこれらの情報がネット上にも散見されるようになる。この時点で記事のほとんどが「道の糞対策」説に限られている ◾2005年頃から徐々に言及例も増え、特に2010年頃以降は、影響力のあるサイトの増加や伝播・拡散体制の確立によってハイヒール伝説が定着する こんな感じでしょうか。情報がいかに伝わるかという意味で、色々示唆的な結果になったような気もします。もう少し気合を入れて調べればより細かい情報も判明するかもしれませんが、今回の調査はここまでとしたいと思います。 |
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●ハイヒールの歴史5 / パンプスの歴史や発祥から近年の流行まで | |
女性らしさの代名詞である「パンプス」は、世界中の女性から愛されています。現在、パンプスやハイヒールを履く女性は減少傾向と言われていますが、それでもオシャレな女性にパンプスは欠かせないアイテムのひとつです。
今回は、女性シューズ専門店のmamianが、パンプスがファッションアイテムとなった歴史について紹介します。 ●現在のパンプスの発祥は? 1600年代のフランス・パリで履かれるようになった靴がパンプスの原形、と言われています。 (※"ヒール靴"という括りならば紀元前400年の遊女が履いていたもの、とされることもありますが、ここでは”パンプス”の原形についてお話しします。) 1600年代のフランス・パリ。 聞こえこそオシャレで高貴な印象があるものの、このとき登場したパンプスはファッション目的ではありませんでした。 中世のヨーロッパでは、トイレに行って用を足す習慣がなく、建物のなかから投げ捨てたり、庭や木の植え込みのなかで済ませたりしていました。この行為は、ベルサイユ宮殿内でも行われていたくらい当たり前だったのです。 当時の女性が履いていた裾が長くて膨らんだ形をしたスカートも用を足す姿を隠すためでしたが、道や庭が非常に汚かったことから、スカートや靴は歩くとすぐに汚れてしまいます。そこで、厚底靴が注目され始めますが、厚底靴は歩きづらいことからなかなか浸透しませんでした。 そこで、厚底でも歩きやすいように改良されたかかと部分のみを厚底にした靴=ハイヒールが誕生します。 このハイヒールの原形が誕生したあとは、フランスのルイ14世が気に入ったことでファッションアイテムとして広がっていきます。ハイヒールは履いた時に背筋が伸び、ふくらはぎの筋肉がきゅっと引き締まることで脚線美を生むため、立ち姿が非常に美しいと男女問わず舞踏会で人気を博しました。 ●パンプスの名前の由来は? パンプスの名前の由来は、近代ヨーロッパで作られた御者用の靴と言われています。この御者用の靴は、履き口が大きく開いたデザインで、長時間馬車を運転するのに最適でした。馬車を運転する際に、ブレーキペダルを何度も踏む様子が、手押し「ポンプ」の動きと似ていたことが「パンプス」の由来と言われています。 パンプスは履き口が開いていることから、足を長く見せる効果があったためドレス用に転用されていきます。ルイ14世の時代には舞踏会で男女問わず人気を博したパンプスですが、男性はナポレオン戦争の時期から実用的なブーツを履くようになったため、これ以降は女性用の靴としてデザインされるようになりました。 ●90年代前半のパンプス 1910年代はファッションアイテムやデザインの種類も少なく、ブーツが主流の時代でした。ハイヒールのパンプスは、夜会やお祝い事の日に履くもので、デザインも19世紀の印象が強いままです。 1920年代、1930年代には、ファッションにバラエティが出てきて、さまざまな素材・デザインのパンプスが生み出されました。女性のスカートが少し短くなった時代でもあり、ストラップ付きのパンプスや、カットアウトデザインなどで多くの女性が足元のオシャレを存分に楽しみました。 ハリウッドの全盛期には、人気女優たちの間でセクシーな服装が流行った流れで華やかかつグラマラスなパンプスが流行します。素材には、レザー、着色したレザー、スウェードが使われました。 1940年代は戦争の影響で「非常時に備えた」ファッションが主流に。パンプスもシンプルな色とデザインが主流になり、太いのヒールのものが多くみられるようになってきます。40年代に流行したトレンチコートには華奢でエレガントなパンプスよりかっちりしたものがよく似あったので紳士靴風のマニッシュなパンプスも増えていきます。 ちなみにプラットフォームパンプスやウェッジソールの原形が登場したのもこの時代だったようです。 ●90年代後半のパンプス 1950年代のパンプスは、戦後の晴れやかな雰囲気と相まって、華やかで可愛らしいデザインのパンプスが流行します。ヒールが細いパンプスも再び流行し、露出の多いデザインも増えました。ビニールやプラスチックといった新しい素材も登場し、オシャレの幅が広がった時代です。 1960年代は、カウンターカルチャーの時代。若者文化が広く花開き、左右非対称など斬新なデザインやピンヒールなどが登場します。 オードリー・ヘップバーンの履くキトゥンヒールも大きな注目を浴びます。 また、ロンドンのストリートカルチャーが大流行した時代でもあります。古き良きノスタルジックなデザインが流行しました。 1970年代はディスコ全盛期。ダンスが踊れて派手なデザインのパンプスが主流になります。レインボーカラーや大胆な柄のパンプスも流行しました。 1980年代は、肩パットやギャザースカート、フリル袖、ソバージュ系パーマなどのボリューミーなファッションがトレンドとなりました。パンプスもこのトレンドにのって、インパクトがある大きなデザインのものが流行。力強い原色で印象付けたり、フリル付きソックスと合わせたりと派手なオシャレが主流でした。 1990年代は、80年代の反動で、スタイリッシュでシンプルなファッションが流行します。スキニーなトップス・パンツに、ストレートの髪、ナチュラル・シンプルなメイクの時代です。パンプスも同様にシンプルでシックな印象のデザインが多くなりました。トゥ部分のみの控えめな装飾、ベーシックなカラー…ギラギラした派手なデザインのものは影を潜めます。また、シンプルでも脚が長く見えるプラットフォームが人気でした。 ●2000年代のパンプス 2000年代になるとパンプスのデザインの多様性が格段と広がります。ミュールが流行したのもこの時代。00年代はガールズバンドが大流行した時代でもあり、セクシーさの中にも「戦闘力」のある強めなデザインのパンプスが流行します。 ●2010年代のパンプス 2010年代はSNS全盛期。セルフプロデュース力の高いセレブたちや一般人でも流行を生み出す時代になり、これまで「一部の特殊な趣味な人たち」のファッションだと思われていたものが当たり前に使われるようにもなります。個性的なデザインからミニマルなデザインまで。本当に様々なデザインのパンプスが世に出てきています。 ●まとめ 今回は、パンプスの歴史について、発祥から近年の流行までまとめて紹介しました。mamianの靴は、女性の足を美しく魅せる靴を作っています。 カジュアルなデザインのものから、就活・ビジネスシーンで使えるものまで多彩なパンプスが揃っているため、ぜひ自分好みのパンプスを選んでみてください。ヒールの高さやつま先の形、色から絞りこんでみましょう。 |
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●ハイヒールの歴史6 / 古代人の履いた靴を現代人も履いている? | |
人類が直立を始め、現代人とほぼ同様の姿になったのは約3万年前だと考えられています。生活圏も広がり、長い距離を移動することも多くなる中、暑さや寒さから身を守る衣類、歩くときに石や熱くなった砂から足を保護するための靴が作られるようになりました。現存する最古の履物としては、1938年、アメリカのオレゴン州中部「フォートロック洞窟(1万年以上前に人類が暮らした痕跡のある遺跡)」で発見された1万500年前の「サンダル(語源はギリシャ語でsandalion(板の意))」が有名です。これは樹皮からとった繊維を編んで作られたもので、日本のわらじとよく似ています。
発掘された遺物の中でも、最も古い皮靴は、2008年、「アルメニアの洞窟(アルメニア国はトルコとアゼルバイジャンの間にあった国)」で発見された革靴で、紀元前3500年頃のものだといわれています。片方だけ見つかった靴は1枚の牛皮(この技法は「一枚甲」と呼ばれるもので、今でも高価な靴で用いられている)で作られており、今でいう「モカシン(アメリカの先住民が履いていた、一枚革で作られた靴)」に似た形状。靴のサイズは約24.5cmですが、持ち主が男性か女性なのかはわかっていません。また、1991年、オーストリア・イタリア国境のアルプス山中で見つかった、紀元前3000年頃(新石器時代末期)の男性のミイラ「アイスマン(エッツイ)」も靴を履いており、ヒグマとシカの皮で作られたものでした。 古代エジプトでも、貴族や王は、主に牛や山羊、羊の革でできた「サンダル」を履いていました。初期の頃は白色でしたが、その後は黄色や緑色、まれに青色に染めたサンダルが作られたそうです。発掘された紀元前2000年頃の革製サンダルは、現在の草履に似た長い鼻緒が付いたもので、ルクソール神殿の側壁にも、サンダルを履いた神官達の絵を見ることができます。また、ツタンカーメン王(在位紀元前1361頃〜前1352頃)の墓からも、木に皮を貼り付け、金箔で装飾したサンダルが発見されています。 なお、古代中国では、水田に足をとられないように「田下駄」を用いていました。最古の田下駄は紀元前3000年頃のもので、日本でも200年頃(弥生時代後期)の遺跡から田下駄が出土しています。 サンダルや下駄などは、今も当時と近い形で、使用され続けられているわけですから、古代人の履物は画期的な発明だといえるでしょう。 ●悲劇役者の舞台衣装がハイヒールのルーツ? 壁画や発掘品を見る限り、古代人は「フラットヒール(靴底の前部と後部との高低差が少ないタイプの靴)」の靴やサンダルを履いていたようです。しかし、文明の発達や階級制度の確立などに伴い、実用性の高いフラットなものだけでなく、祭りや儀式などで、衆目を集めることのできるデザイン性豊かな履き物が作られるようになります。たとえば、古代ギリシャで演劇では、観客が鑑賞しやすいよう、また上演の際に身長を高く見せるため、役者たちは「コトルノス」という舞台用の厚底靴(ブーツ状)を履いていたそうです。なお、悲劇役者に用いられたコルトノスに対し、喜劇に出演する役者は「サイコス」と呼ばれる底の薄い靴を履いていました。なお、サイコスは英語のソックス(靴下)の語源で、sykhosからラテン語のsoccus(ソッカス)となり、socksに変わっていったようです。 底の厚い靴は、役者同様、背を高く見せたい紀元前400年代のギリシャ、アテネの遊女たちの間で流行し、男性を含む市民も利用したといいます。今でいえば、さしずめ「シークレットシューズ」だったのかもしれません。 ●衛生事情が生んだ、最高30cm?のハイヒール 時代が下り、14〜15世紀頃になると製靴技術も進み、様々な種類の靴が登場します。当時のニーズの多くは、やはり古代ギリシャ、ローマ同様、「背を高く見せるための靴」だったようです。中世ヨーロッパにハイヒールが広まったきっかけは、1530年頃、背の低いことに悩んでいたカトリーヌ・ド・メディシスが、イタリアからフランスのアンリ2世に嫁ぐ際、ハイヒールを持ち込んだことに端を発します。また、15世紀あたりからは、イタリアやスペインで、長いスカート時に着用した厚底の靴、「チョピン」が貴族や上流階級の女性、高級娼婦の間で流行り始めます。これはあらかじめ短靴を履き、高い台座に足をのせて使う「つっかけ」のようなもので、木やコルク、足付きの鉄輪などでできていました。かかとの高さは13〜18cmもあり、中には30cmにおよぶものもあったそうですが、中世のお洒落な女性たちは、少しでも背を高く見せようとチョピンを利用したといいます。表面は絹やビロード、銀のレースといった豪華な布地や皮革でおおわれ、精巧な刺繍や浮彫を施したものもあり、とても高価なものでした。ただ、転倒する人も少なくなかったため、禁止令も出たそうです。 チョピンもハイヒールのルーツのひとつとされていますが、その用途は身長を高く見せ、スタイルアップするだけではありませんでした。というのも、当時のヨーロッパには下水がなく、おまるのような物に用を足して、窓から投げ捨てる、植え込みや木陰などの屋外で用を足していたため、町中にはゴミや糞尿といった汚物が溢れていたからです。チョピンには、それらを避ける役割もあったといわれています。このような背景から、やがてロングスカートの裾を汚さないため、接地面積の少ない靴、後のハイヒールが考案され、広まっていったのです。 ●フランスの「太陽王」も愛用したハイヒール 背を高く見せる一方で、汚物を避ける役割を果たしていた厚底靴を「ファッションアイテム」にしたのは、ブルボン朝の最盛期を築き「大王」「太陽王」と呼ばれたフランス国王ルイ14世(1638〜1715年。在位1643〜1715年)です。彼は背が低かったためにヒールの高い靴を愛用しており、その高さは約5〜6cm。ヒールの付け根が太く、中ほどはくびれ、下に向かって広がるような形状は「ルイヒール(ルイ・フィフティーン・ヒール)」と呼ばれ、現代の靴にも見られるほど、一般的なデザインになっています。ちなみにルイ14世の肖像画には、ルイヒールを着用している姿を描かれたものがあります。 国王が愛用したことも手伝って、当時は女性だけでなく、貴族男性もこぞってかかとの高い靴を履いたそうです。ただ、フランス革命(1789年に始まり、1799年、ナポレオン1世の独裁に至るまでのフランスの市民革命)後、ナポレオン戦争で各地に国民軍が創設されると、男性は戦場で動きやすい、実用的かつ機能的な靴を履くようになります。そのため、ハイヒールは女性の履物へとシフトしていきました。 ●航空母艦用の技術を応用した「スティレット・ヒール」 その後、製靴技術が進歩し、様々な素材が用いられるようになると、ヒールの高さや靴の形状は多様化していきます。現在、シューズショップでよく扱われているのは、「ハイヒール」をはじめ、「ピンヒール」「フラットヒール」「チャンキーヒール」「コーンヒール」「ルイヒール」「キューバンヒール」「ウェッジヒール」「ピナフォアヒール」「セットバックヒール」「スタックドヒール」などの靴です。時代によって流行は変化しますが、女優といったセレブが影響を与えることもあります。 そのひとりがマリリン・モンローでしょう。映画『七年目の浮気』(1954年)の中に、地下鉄の通気口から吹き上がる風によって、マリリンのスカートが浮き上がる有名なシーンがあります。その時、彼女が履いていたのは、「スティレット・ヒール」。同じくかかとの部分が細く鋭く尖った「ピンヒール」に似ていますが、さらに尖った針のようなヒールが特徴です。なお、このヒールは、航空母艦用に発明された新素材と技術を応用したものだといわれています。アルミニウムを採用して、金属とプラスチックを接合する射出成型が誕生したことから、これだけの高いヒールが実現できたのだそうです。 歩きにくいこともあり、スティレット・ヒールは1970年代には廃れていきます。とはいえ、背を高く、脚元をセクシーに魅せてくれる「ハイヒール」や「ピンヒール」が、今でも女性の憧れであることに変わりはありません。その反面、履き慣れていない人にとっては歩きづらく、無理して履き続けると足の健康障害を引き起こす原因になりますから注意も必要です。 |
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●ハイヒールの歴史7 / パンプスの歴史について | |
●身分ある人のための履物から、ファッションへ
履物としての靴の歴史はとても古く、紀元前2500年頃のエジプトまででさかのぼります。今でいうサンダルの形状で、鼻緒がついており、靴底を紐で足に巻きつけ固定して履くスタイルでした。当時は裸足の人がほとんどで、履物であるサンダルを履いているのは、それなりの身分のある人に限られていました。 ヒールの高い靴は、背を高く見せる目的で、紀元前400年代のギリシャ、アテネの遊女たちの間で流行し、男性も履いていようです。文化の爛熟度が高かった当時の人達から見ても、ヒールの高い靴を履いた姿は、やはりすらっとして格好良く、セクシーだったのですね。 ずっと時代が下った1570年頃のヴェネツィアでは、チョビンというイスラム風のハイヒールが、高級娼婦の間で流行ったようです。これはかなり非実用的な形で、底と一体化したようなヒールは18cm位ととても高く、花瓶またはすり鉢の上に乗せられているスリッパ、という様な外観です。とても歩けるようなものではなく、履いている時の姿が重視されていたようです。 ●ハイヒール発祥の凄い理由 現在のパンプスとしての形に近く、ハイヒールらしい形になるのは、1600年代のフランス、パリ。しかし発祥当時の目的はファッションではありませんでした。当時の衛生概念は低く、おまるに近い物に用を足しては、建物の窓から街路にあたりかまわず投げ捨てるという状態、庭の木々の植え込みの中で済ませるといった燦々たる有様。あの美しい庭園や、丈が長くおおきく膨らんだスカートはそのためでもあったようです。歩く所があまりにも汚かったため、汚物で裾が汚れないようにするための物でもありました。これではペストが何度も大流行するはずです。日本の江戸時代の方が、格段に清潔でエコロジカルな省エネ文化だと力説する方がいるのは、このあたりが最大の理由です。 さておき、このハイヒールをファッションにしたのは、かの太陽王ルイ14世です。履いた時、背筋がピンと伸びる姿勢の美しさ、ふくらはぎの筋肉が締まる脚線美から、男女問わず履かせ、舞踏会を開いていました。その頃の名残がルイヒールという、ヒール形状を表す名前で今も残っています。その後さらに時代が下り、フランス革命後のナポレンオン戦争の頃から、男性は実用的なブーツタイプの靴を履くようになり、ハイヒールは女性用の靴とみなされるようになっていきました。 ●パンプス(Pumpus)の起源 ところで、パンプスという名前の起源は諸説ありますが、英語のPumpという言葉から近代イギリスのようです。馬車をあやつる御者用が運転しやすいように、かかとを低く、長時間履きやすいように履き口を深く広くカットした靴の形、馬車のブレーキペダルを、ポンプのように何度かに分けて足で踏む様が、名前の由来となったようです。履き口が浅く広いパンプスは、足を長く見せる効果があったので、ドレス用としてヒールの高さと共にデザインが転用されていったようです。その後パンプスは、靴の製造技術が進化していくにつれ、ヒールは細く長く、装飾したものなどがつけられるように、様々に進化していきます。 私たちが女らしい履物と思っていたパンプスが、実はハイヒールとは少し違う意味を起源に持っていたなんて、とても意外でしたね!現在の私たちが普段身につけている物の多くが、実はかつて大昔であれば、優雅とはかけ離れていた実用的ものが原型となっていることが多いようです。ちょっと、つま先が尖っている、ヒールが細く高い、くらいで不自由に感じてしまうなど、今の時代はアクティブで、実用さ優先な時代なのですね。 |
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●ハイヒールの歴史8 / ハイヒールは男性のファッションとして始まった | |
女性が履くハイヒールは女性らしさを表現するファッションとして定着しています。しかしその歴史を振り返ると、もともと女性のファッションとして始まったわけではありません。最初にヒールを履くようになったのは中世ペルシャの騎兵隊だと考えられ、それがヨーロッパに伝わり現在に至っているのです。
”ペルシャとのつながりがヨーロッパ人に男らしさの空気を与えたため彼らは初めてヒールに惹かれたが、男性の衣服の要素を取り入れようとする女性のファッションの流行は彼らの使用がすぐに女性や子どもたちに広がったことを意味していた。セメルハックは「1630年代に女性は髪を切り、その服装に肩の装飾具を加えた」と述べている。「彼女たちはキセルを吸い、非常に男性的な帽子をかぶっていました。そしてこういうわけで女性たちはヒールを取り入れ、それは彼女たちの服装を男性化するための努力でした。” ●ハイヒールの起源は中世ペルシャ 今日、女性が履くハイヒールは女性らしさを表す象徴の一つと言えるでしょう。少なくとも男性がハイヒールを履くことはありません。しかし、ハイヒールの起源をたどると、もともと女性の靴として発達したわけではないようです。 ハイヒールの起源は中世のペルシャ(現在のイラン)であると考えられています。その当時ペルシャには強力な騎馬軍隊があり、乗り手が足をかける馬のあぶみの上で弓をひくときに体を安定させる目的でかかとの高い靴が用いられていました。やがてペルシャの文化は中世のヨーロッパに伝わり、ルネサンスの原動力の一つとなります。ペルシャの男性らしい力強い文化をヨーロッパの人々が真似するようになり、かかとの高い靴が貴族の男性を中心に取り入れられるようになります。ヒールは初めは男性のファッションとして始まったのです。この頃のヒールは現在の私たちが考えるハイヒールのようなものではなく、日本でウエスタンブーツと呼ばれているような、かかとの部分ががっしりしてやや高くなっているタイプのブーツに似ていました。 しかし、ヒールは一般大衆にまで瞬く間に広がったため、貴族階級の人々は一般大衆との違いを示すためによりかかとの高いヒールを履くようになります。これがハイヒールの誕生です。 ハイヒールは実用面で言えば極めて不合理なものです。歩くこと自体が困難で道路の段差やくぼみに足を引っかけることになります。舗装された平坦な場所でしかハイヒールで歩くことはできません。しかし、逆に言えばそれこそが貴族階級にハイヒールを広める理由となったのです。彼らのハイヒールは、彼らが舗装されていない道や長い距離を歩く必要がない高貴な身分であることを示す装飾具となったのです。 一方で、17世紀のヨーロッパは女性が男性的なファッションを取り入れる時代でもありました。その結果、女性もヒールを履くようになり、ヒールは男女に関わらず用いられるようになります。 しかし17世紀終わりごろから男性のファッションはより実用的なかかとの低い靴に変化していき、その一方で女性の靴はよりかかとの細いものへと変化していきます。なぜ女性の靴のかかとが細くなったのかについてははっきりしていませんが、男性たちが女性を社会にとって実用的ではない存在として見なしていたことの反映であると考える人もいます。少なくともこの時代では、ハイヒールを履く女性は教育レベルの低い人間として見下されていました。やがて18世紀に入ると、女性がハイヒールを履く習慣も消えてしまいました。 ●ハイヒールはメディアを通じて再生する こうして一度は流行から消えたハイヒールですが、19世紀後半に女性のポルノ写真として復活します。その当時、フランスのヌードモデルの多くがハイヒールを履いていました。また二度の世界大戦においても、戦地に赴いた若い兵士たちがハイヒールを履いた女性のピンナップ写真を荷物に忍ばせていました。 ハイヒールを履いた女性は姿勢を保つために独特な背骨のアーチを描くため、それが女性の性的な印象をより高めていると主張する研究者もいます。戦後のハイヒールはメディアと一般大衆の関係を通じて、流行と衰退を繰り返しながら現在に至っています。 ●ハイヒールは健康に悪い ハイヒールは人間の本来の姿勢を阻害するため、関節を痛めたり血行が悪くなったりします。そのため、ハイヒールのような靴を市場に流通させるべきではないと考える人もいます。また、ハイヒールが表現する女性らしさは男性中心の社会がメディアを通じて作り上げた一種の洗脳であり、女性はその洗脳から解放されるべきだと主張する人もいます。 女性のハイヒールに限らず、真夏にジャケットを着ている男性なども社会によって押し付けられた不合理な慣習と言えます。私たちがハイヒールの歴史を知ることで、この問題についてより良い解決策を考えることができるようになるでしょう。 |
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●ハイヒールの歴史9 / ハイヒールの終わりが来たのか 2019/6 | |
2014年1月に故カール・ラガーフェルドは、シャネルのオートクチュール・コレクションを開いた。架空の「カンボン・クラブ」だという舞台設定で、カーラ・デルヴィーンを先頭にモデルたちは巨大階段を次々と流れるように下りた。管弦楽の演奏を背景に、モデルたちはきらきらと光る繊細なニットやツイード、透ける絹の薄布による創作を身にまとっていた。ここまでは、実にオートクチュールそのものだった。しかし、何かがふだんとは違った。何かと言うと、モデルたちの足元だ。
シャネルのオートクチュール・ショーでラガーフェルドはモデルたちに、特注のスニーカーを履かせることで、スタイルを完成させた。一足の値段は推定3000ユーロ(現レートで約37万円)、完成に30時間かかるものだった。オートクチュールにスニーカーという組み合わせは当時、大勢を驚かせたものの、大胆な第一歩でもあった。 きらびやかな高級ハイファッションの世界が、スニーカーを温かく受け入れるようになった。オフィスやパーティーの前に急いで履き替える、機能性重視の履物だったスニーカーが、シャネルも認める正真正銘のぜいたく品に格上げされたのだ。 あれから5年たった今、ファッション・スニーカー現象はもはや後戻りできないところまで、到達したようだ。シャネルが第一歩を踏み出して以来、スニーカーはどんどんクレイジーになり、ごつくなり、往々にして値段もどんどん上がり続けた。極悪なまでに派手で奇妙なデザインのものほど、喜ばれる。ファッション検索サイト「Lyst」によると、2018年第4四半期の検索用語トップ10の上位4つは、スニーカー関連だった。ファッション・アイテムとしてのスニーカーの可能性に最初に気づいたのは、ナイキやアディダスといったスポーツ・ブランドだったが、高級ブランドもすぐに可能性に目覚めた。スタイルの上でも、そして商品としても。そして高級ブランドは、人が欲しがるものを作り出すことにかけてはプロだ。 インスタグラムは、ごついスニーカーを誇らしげに履いたインフルエンサーの写真であふれている。ジジとベラ・ハディッドにヘイリー・ビーバーなど、こうした人たちは、Tシャツとジーンズにスニーカーを合わせるだけでなく、カクテルドレスにも大ぶりのスニーカーを履く。特に人気なのが、ルイ・ヴィトンのアークライトやバレンシアガのトリプルSだ。デザインによって値段は違うが、どれもだいたい1足10万〜15万円はする。 セリーナ・ウィリアムズは自分の結婚披露宴だけでなく、ハリー王子とメガン妃の披露宴二次会にも、ヴァレンティノのドレスにスニーカーを合わせた。わずか10年前でもスニーカーはフォーマルな場にふさわしい履物とは認められていなかったが、この10年間で意識は大きく変わった。ドレスコードはもっぱらカジュアル志向になり、スニーカーは職場でも大丈夫になった。ちょっとした外出着やスポーツカジュアル・ウェアと同じように、スニーカーは色々な場所で市民権を得た。 「1960年代以降に生まれた世代は、徐々にハイヒールから遠ざかっている。女性は職場でハイヒールを履くべきだという、女性を見下した、差別的な発想を置き去りにしている」と、「リスト」のモルガーヌ・ル・ケールは言う。フェミニズムの第4の波が押し寄せ、男女二元論的なジェンダー定義が世間で広く議論されるようになった今、スニーカーが台頭したというのは、あるいは偶然ではないのかもしれない。 「高級ブランドのスニーカーは、現代の状況をよく表している。様々な服の着方が受け入れられるようになった」と、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の学芸員、ルチア・サヴィも同意する。 ●セックスと権力 仮にハイヒールが、女性の歩みを遅らせるために作られた、父権的な道具なのだとしたら、ブランドもののスニーカーの登場は最適な反撃手段だ。ということは、ハイヒールは終焉(しゅうえん)を迎えたのだろうか? いや、そうとも言い切れない。くらくらするほど高いヒールとの関係は今でも、フェミニズムにとって複雑な議論の対象だ。ハイヒールの象徴性は多くの場合、文脈と個人的意見に左右される。今年3月に出版された著作「High Heel」でサマー・ブレナンは、「ハイヒールは、よしやるぞという時のための靴だ。野心、雑誌の表紙、レッドカーペット、授賞式、役員会、裁判所、国会議事堂、討論会の壇上などで履く靴だ」と書いた。 「そして、それとはいささか矛盾するが(それとも矛盾しないのか)、150年前から続くフェティシズム産業によると、ハイヒールは常にセックスのための靴とみなされてきた」 ハイヒールと権力の歴史的関係は、時代と場所によって異なる。実をいえばヒールはそもそも、男性性を強調するためのものだった。16世紀後半にアジアから欧州に伝来した当初、最初に取り入れたのは男性だった。乗馬の際にあぶみのなかで足を安定させるのに便利だったからだ。ヨーロッパ人の頭の中で高いかかとは、ペルシャ軍の勇壮な武力と結びついて認識されたため、男たちがこぞってかかとの高い靴を履くようになった。女性や子供が履くようになったのは、それより後のことだ。1643年から1715年にかけてフランス国王だったルイ14世が、初期のヒール・インフルエンサーの1人だった。派手に装飾されたきらびやかな靴は、肉体運動にはまったく不向きで、それゆえに国王の強力な権威を強調する役割も果たした。 現代では今なお、女性がオフィスでハイヒールをはかなくてはならない業界もある。2016年にはロンドンの会計事務所で受付として働いていたニコラ・ソープが、ハイヒールを拒否したため帰宅を命じられた。これは会社にとって大きなスキャンダルとなり、職場でのハイヒール強制を禁止する法律の立法を求める請願に15万人以上が署名した。その結果、英議会は性差別的なドレスコードを調査することになったが、今のところは法律に変化はない。 ハイヒールは今も、レッドカーペットを歩く女性にとっての標準的なドレスコードだ。しかし、フランスのカンヌ映画祭は2015年、これが理由で批判にさらされた。ヒール着用のルールを無視してスパンコールのついたフラットシューズを履いた女性たちが、レッドカーペットから上映会場に入るのを制止されたと明らかになったためだ。これまでに、エミリー・ブラントやベニシオ・デル・トロといった俳優たちが、映画祭の強圧的な服装規定を表立って批判している。2018年にはクリステン・スチュワートがレッドカーペットをあえてはだしで歩き、映画祭のルールを笑い飛ばした。 しかし、ファッションはそもそも気まぐれなものだ。トレンドがいざメインストリームになって一般化してしまえば、何がおしゃれかという振り子は正反対に振れる。今の時点でこれだけスニーカーがはやっているからには、ヒールの復権はもうすぐそこまで来ているに違いない。 実際のところ、最近の各地のファッションウィークでは、デザイナーたちはスニーカー人気から距離を置き始めているように思えた。バレンシアガのクリエイティブ・ディレクターで、高級おじさんスニーカーの流行のさきがけとなったデムナ・ヴァザリアは最新の秋冬コレクションに、スニーカーを使わなかった。 たとえ、高級スニーカーのトレンドはやがて廃れるとしても、職場などきちんとした服装が求められるTPOでスニーカーが受け入れられる状況は、長期にわたり続く女性のライフスタイルの変化の表れだ。調査会社NPDグループでファッション・ブランドの履物やアクセサリーのトレンドを担当するベス・ゴールドスタインはこう言う。 「一過性のものではないと思う。もうかなり長いこと続いているので。忙しい毎日を送る消費者は、『楽かどうか』を重視している。そして、ファッションとしてのアスレチック・ウェアは進化し続けている。成長基調はもちろん緩やかなものになるが、スニーカーは今後も市場を動かし続ける」 調査会社ミンテルの2018年調査によると、米市場で「履いていて楽か」を基準に靴を選ぶ可能性が最も高い(37%)年齢層は、18〜34歳だった。 高級ブランドサイト「マッチズ・ファッション」の買い付け担当、ナタリー・キンガムは、「誰か他人のために靴を選ぶのではなく、履いていて楽で機能的でデザインが面白いかが、靴選びでは大事だ。間違いなく。色々なフラットシューズが登場して、次々と人気を得ている。装飾性の高いがっしりしたブーツから、スポーティーなサンダルまで」と話す。 キンガムによると、ハイヒールを選ぶ人の間でも、低めで楽な靴が好まれるようになっている。 「面白いことに、売れるハイヒールのほとんどは9センチ以下だ。ワンドラーのような新しい靴ブランドや、ボッテガ・ヴェネタのようにデザイナーが交代してデザインの方向性が新しくなったブランドは、9センチより高いヒールをコレクションに加えていない」 キンガムが好む新しい靴メーカーは、ローヒールが得意な「Gray Matter」。「球形のかかとなど、造形のディテールがまるでインテリア・オブジェ」とも言われるデザインが揃っている。 ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館のサヴィ学芸員は、私たちがまったくハイヒールを履かなくなることはないだろうが、関係性が進化していると考えている。「何百年も前から世界各地の様々な文化で、人の身長というものには一定の役割があった。それはすぐには消えないと思う。長身かどうかは今後も意味をもち、その文脈の中でピンヒールはこれまでとは違った形に変化するかもしれない」。 近年では男性用のハイヒールが、ファッションショーのキャットウォークや映画プレミアのレッドカーペットを闊歩(かっぽ)し始めている。社会とヒールとの関係が、またしても変化しつつあるかもしれないのだ。グッチやカルバン・クライン、サンローラン、バレンシアガといったブランドは、男性用コレクションにハイヒールのブーツや靴を取り入れ、ラメや大胆なプリントで飾っている。 2018年にはイタリア高級ブランドのデザイナー、フランチェスコ・ルッソが日本で言う23センチから27.5センチのサイズで、ユニセックスのピンヒール靴をラインで提供し始めた。ルッソはヴォーグ誌に、「何か議論したいわけでもなければ、政治的な発言でもない」と説明。「ただ単に、社会が進んでいく方向を反映しただけだ。自分たちには、世界に反応した商品を作る義務があると思う」と述べた。男性用ピンヒールは限定版として発売されたが、あまりに人気が集まり、定番コレクションに加えられた。 高いかかとの伝統的なシンボリズムをひっくり返しているブランドとしては、ほかに米ブルックリンを拠点とする「Syro」がある。この会社はハイヒールやブーツを男性サイズでも作り、男性、トランスジェンダー、ノンバイナリー(性別の男女二元論に限定されない人)の顧客に販売している。 Syroの靴はおしゃれで、流動的なファッションセンスを推奨している。「可視化を通じて多様性」を推進し、「コミュニティーを通じた力の獲得」を実現することが、ブランドの方針だと宣言している。 要するに、そういうことなのかもしれない。ハイヒールを禁止するのではなく、どの性だからどうと社会が押し付ける期待や社会規範から、ハイヒールを解放するべきなのだ。そうなればハイヒールは、単なる靴、それだけのものになる。 ハイヒールを履くかどうかは究極的に、個人の選択であるべきだ。高いかかとの靴を父権的な、あるいは身体的な抑圧と感じる人がいる一方で、力強い自己解放の手段だと感じる人もいるのだから。 |
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●ハイヒールの歴史10 / 美しいヒールに託された女性像の変遷 2019/4 | |
ファッション偏差値アップを目指す新連載「FASHION ENCYCLOPEDIA」。第二弾は、女性らしさの象徴ともいえる「スティレット(=ハイヒール)」にフォーカス。高いヒールが権力の象徴だった時代から、女性らしさを否定するかのようなアレキサンダー マックイーン(ALEXANDER McQUEEN)のアルマジロブーツまで、女性性とスティレットの関係、その進化の歴史を辿っていこう。
かつて、靴底の高さは階級や権力、富を象徴するものだった。16世紀の裕福なヴェネチアの女性たちは、スカートに泥がつかないように「チョピン」と呼ばれる厚底靴を履いき、17世紀の西アジアでは、騎馬兵が鐙(あぶみ)に足をかけやすいよう、靴底にヒールが取り付けられた。18世紀のフランスでは、国王ルイ14世が自らの権威の象徴として赤いヒール靴を愛用し、以来、18世紀の終わりまで、ハイヒールはジェンダーを問わずに求められる存在だった。しかし、やがてそれが軽薄な女性のイメージと結びつけられるようになると、男性はハイヒールを脱ぎ捨てた。こうして、完全に女性のためのものとなったハイヒールは、より高く進化を遂げ、ついには技術的な限界に達するまでになった。 ●ハイヒールは、技術革新の賜物だった。 ブロックヒールや厚底靴は、古代ギリシャ時代から存在していたといわれているが、極端に細いスティレットは、20世紀の発明だ。スティレットという名は、元々イタリア語で「短剣」を指す言葉で、細長い刃と針のような鋭い剣先が特徴だ。このヒールが設計されたのは1950年代で、航空母艦用に発明された新素材と技術を靴に応用したものだ。アルミニウムを採用し、金属とプラスチックを接合する射出成型のおかげで、これまでにない高いヒールが可能になった。カギとなったのは、つま先とかかとにかかる負担を和らげ、脚と靴を一緒に動かせるように土踏まずのアーチをサポートする方法を見つけることだった。 2.5〜13センチの高さがあり、ヒールの先に向かって細くなるデザインは、1948年から1954年頃、サルヴァトーレ・フェラガモ、ロジェ・ヴィヴィエ、アンドレ ・ペルージャといったデザイナーの手によって発明されたといわれている。1950年代、マリリン・モンローのかの有名な挑発的ウォーキングを可能にしたのは、ヒール高10cmのサルヴァトーレ フェラガモ(SALVATORE FERRAGAMO)のスティレットだ。60年代に入ると、一般女性もハリウッド女優のように着飾ることができるようになり、スティレットも、多くの女性に選ばれるようになった。しかし70年代になると、カウンターカルチャー運動の勃興によってスティレットは逆に否定されるようになり、履きにくくて動けないと嘲笑された。 ●権力の象徴から人生の相棒に。 そんなスティレットがカムバックを果たしたのは、1980年代、パワー・ドレッシングの台頭に後押しされてのこと。それまで、女性のセクシーさばかりを強調し、エレガンスに欠けるといわれてきたヒールが、強いワーキングウーマンたちの究極のファッションステートメントに昇格したのだ。 足を長く見せてくれるのはもちろん、女性の体の曲線を強調してくれるスティレットは、そのフェティシズム的側面を武器に、「強力な誘惑の道具」という称号を得るに至った。一方で、高すぎるヒールは体の動きを制限し、歩幅が嫌でも狭くなってしまうという点で、高いスティレットを履くという行為はどこか拷問のようでもあった。写真家のヘルムート・ニュートンやギイ・ブルダン、アーティストのアレン・ジョーンズなどは、スティレットを履く女性たちが象徴するものとして、性や暴力、権力というテーマを作品を通じて探求した。 90年代から2000年代初頭にかけてのスティレット再燃の立役者といえば、アメリカの大人気TVドラマ『セックス・アンド・ザ・シティ』の主人公、キャリー・ブラッドショーだろう。94話にも上る長編ドラマを通して、キャリーはマノロ ブラニク(MANOLO BLAHNIK)のシューズを履いて恋をし、プロポーズを受け、人生に躓き、友人たちと笑った。キャリーにとってスティレットは、ときに前に進むための原動力であり、ときに人生の荒波を乗り越えるためのライフセーバーでもあった。 ●スティレットが体現する新しい女性像。 さて、かつては女性性や権力を象徴していたスティレットも、時代の急激な変化にともなう新しい女性像の誕生とともに、それまでのイメージに抗うかのような大きな進化を遂げることになる。それをある意味体現していたのが、2010年春夏コレクションでアレキサンダー マックイーン(ALEXANDER McQUEEN)が発表したアルマジロブーツだ。ランウェイ以外でも、レディー・ガガやダフネ・ギネスがこのブーツを支持し、「意外にも履き心地に優れている」とコメントしている。 もちろん、スティレットがいわゆる女性性のシンボルとしてお役御免になったわけではないし、ジミーチュウ(JIMMY CHOO)やオスカー・デ・ラ・レンタ(OSCAR DE LA RENTA)、クリスチャン ルブタン(CHRISTIAN LOUBOUTIN)といったデザイナーによる女性らしいセンシュアルなヒールは、いまも女性たちを熱狂させ続けている。むしろ、こうしたヒールをめぐるさまざまな価値変遷を経て、スティレットはいま、誰に媚びるでもない、女性が自分らしく生きるための「プレイフルな相棒」というポジションを謳歌しているようにも思えるのだ。 |
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●ハイヒールの歴史11 / 女性がハイヒールを履く生物学的理由 | |
なぜ女性はハイヒールを履くのだろう?進化生物学的な観点から長年の謎が解明された。
心理学学術誌「フロンティアーズ・イン・サイコロジー」に昨年掲載されたDavid M. G. Lewis氏らの研究では、女性がハイヒールを履いた時に腰の湾曲(カーブ)が特定の角度(45.5度)に近づくと、男性からより魅力的と評価されることがわかった。 ●ハイヒールの歴史 英紙「デイリー・テレグラフ」の上の解説動画によれば、ハイヒールの歴史は16〜17世紀のペルシャ軍の男性にまでさかのぼれるという。戦いの際、馬具の鐙(あぶみ)に足を安定させるのにヒールが役立ったようだ。 それから17世紀に、強さや権力の象徴となったハイヒールは、ヨーロッパの身分の高い男性たちに取り入れられた。例えばフランスのルイ14世は、ハイヒールを履くことで背を10cmほど高くして、さらに宮廷の男性には底の赤いハイヒールを履くよう命令し、政治的権力を誇示したという。 続いて、女性が服装を男性化しようとする試みの中でハイヒールを取れ入れた。18世紀のフランスやアメリカの革命で貴族制が否定されると、ハイヒールはすたれた。19世紀中頃までに写真やポルノが流行ったこともあり、ハイヒール人気が復活。 第2次世界大戦後の1950年代にはスティレットヒール(金属製で短剣のように頑丈で細くとがったハイヒール)が流行。マリリン・モンローは、片方のハイヒールだけを削って左右の靴の高さをアンバランスにすることでセクシーな歩き方を実現したと言われている。1960年代には、もともと子供の女性用に作られた、高さが低めのキトンヒールが流行。1970年代にはディスコの流行もあって、底の厚いヒールが現れる。1980〜1990年代以降、現在に至るまで、優れたデザイナーによるハイヒールへの人気は続いている。 ●なぜ女性はハイヒールを履く?―長年の謎 女性がハイヒールを履く理由については、これまでにさまざまな仮説が考えられてきた。例えば、 ●メディアによってハイヒールが性的なものと結び付けられている、という仮説 ●ハイヒールを履くと歩き方が男性にとってより魅力的に映る、という仮説 などがあるが、はっきりとした理由はいまだにわかっていない。 ●ハイヒールの新しい仮説:腰の湾曲の角度と性的魅力 2015年に発表されたDavid M. G. Lewis氏らの研究では、女性の腰の湾曲の角度が45.5°の時に最も男性から魅力的だと評価されることがわかった。 45.5°という角度は、女性の妊娠時の適切な姿勢・重心や、背骨の損傷を防ぐことと関連していると考えられている。 また未発表の最新研究によると、魅力的な男性の前では、女性の腰の湾曲の角度が大きくなるとの結果も得られているという。 ●ハイヒールは腰の湾曲の角度を変えて性的魅力を高める! David M. G. Lewis氏らの研究では、冒頭のような2枚の写真を男性が比較して魅力を評価してもらう実験を行った。この実験では、 ●ハイヒールそのものを写真から除外 ●写真を加工して足の長さや身長の影響も排除 ●写真のため、ハイヒールによる歩き方の変化は無視できる 実験の結果、腰の湾曲の角度が45.5度近くに変化した時にのみ、ハイヒールを履いた女性がより魅力的だと判定された。 そのため本研究によって、女性がハイヒールを履く生物学的な理由の1つは、腰の湾曲の角度が変わることで性的魅力が高まるからだと言えるだろう。 ●管理人チャールズの感想 女性のファッションについて生物学的に考察した研究でした。ハイヒールを履くことで性的魅力は高まるようですが、一方で、足や腰に無理な負担がかかったり、転倒のリスクが増したりとデメリットもありえるように思いますので、ハイヒールを履かれる際はご注意下さいね! |
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●ハイヒールの歴史12 / 心に残るシューズの歴史 | |
ヒール靴は、着用する人にボディラインをすっきり見せる効果や自信を与えながら、どんな服装にも気軽に合わせられるアイテムだ。とはいえ、ハイヒールの美しさには、さまざまなシェイプやスタイルがある。キトゥンヒール、プラットフォームヒール、ストラップヒールサンダル、ウエッジ、それからアクリル樹脂でできたヒールやジオメトリックなシェイプなどを思い浮かべてみて。1500年代から今日まで、オードリー・ヘプバーンの愛用した黒のキトゥンヒールからレディー・ガガの巨大なアルマジロシューズに至るまで、ハイヒールは何世紀にもわたってワードローブに不可欠なもの。長い年月をかけて、ハイヒールがどのように進化してきたか見てみよう。
●1500年代 / もっとも初期のハイヒールシューズの例は、古代エジプトにまでさかのぼるが、このスタイルが本当に人気を得るのは16世紀になってからだ。 “chopines”と呼ばれた、高いプラットフォームは、背丈をより高く見せてセックスアピールをプラスするためにヴェネツィアの娼婦たちが最初に取り入れたと考えられているが、通りを覆っていた汚物の中で、服の裾を引きずるのを避けるため、貴族たちの間ですぐに流行アイテムとなった。 ●1700年代 / 現在、ヒール靴は基本的に女性たちが履くものだが、1600〜1700年代を通して、このスタイルは男性の間で人気だった。特に、ルイ14世(左)やポンパドール夫人(右)など、フランスの王族や上流階級の人々は、これらを着用するということは、実用的な靴が必要ない、または歩きやすい靴を履く必要がないという意味を伝えるものだったので、ハイヒール靴を愛用した。 ●1800年代 / ヴィクトリア時代、20世紀初頭までに、ヒール付きのブーツがエレガントな女性たちの間で主流となった。それらには外側のボタンで留めるようになっているのもあったが、この時代のフルレングスのスカートの下であまり目撃されることはなかった。 ●1920年 / 狂騒の20年代、スカートの裾が短くなり、シューズがようやく日の目を見るように。流行のバックルシューズを見せつける、このおしゃれな女性をご覧あれ。 ●1921年 / シューズのデザインがシンプルなとき、デコラティブなガーターがお役立ち。 ●1922年 / スカートの裾がまだ長めだった頃、カットアウトなどのよく考えられたディテールが、丈夫なレザーのパンプスに遊び心を加えたものだった。 ●1923年 / シャイニーなサテンのヒール靴で、この女性はハイヒールをより魅力的なものに昇華させている。 ●1924年 / 一方、この女性はブロケード素材のヒール靴を着用。 ●1925年 / テイラー・スウィフトのTストラップシューズへのこだわりは、どこから来たか考えたことある? これらの実用的なパンプスが良いお手本だ。 ●1926年 / イブニングの装いには、魅力のないレザーよりも繊細なサテン素材で、Tストラップシューズをよりおしゃれに進化させようとする試みがなされた。 ●1927年 / この頃になるとよりおしゃれ度がアップ。これらのキャップトウのTストラップシューズには、さらにグラムなタッチが加わった。 ●1928年 / テイラー・スウィフトがたぶん今履きそうなヴィンテージシューズ。 ●1929年 / ようやくヒールに高さが加わった貴重な瞬間をとらえた1枚。1929年にこれらを履いた女性たちはおそらく大胆な気分になっただろう――世界恐慌がやってくるまでは。 ●1930年 / 1930年は、シューズにとってはまったくイケてない時代だった。 ●1931年 / ハリウッドの黄金時代のおかげもあり、ジーン・ハーロウのような素晴らしいスターたちが、ヒール靴のよりグラマラスな波へのインスピレーション源となった。 ●1932年 / ドレスに対して少しカジュアルな印象のヒール靴。 ●1933年 / ベティ・デイヴィスはベーシックな黒のパンプスの威力を知っていた。 ●1934年 / そう、これぞ私たちと同じ種類の女性だ。彼女のコレクションを見て! ●1935年 / ヒールは低めで、カットアウトにこだわった白のストラップヒール靴。 ●1936年 / 1936年の夏用のシューズは、今日プールサイドで履かれているビーチサンダルよりもずっとシック。 ●1937年 / たくさんのパンプス。この時代は、足の甲を深く包み込むようなデザインが主流に。 ●1938年 / サルヴァトーレ・フェラガモは、1938年に、女優のジュディ・ガーランドのために歴史に残るレインボーカラーのプラットフォームシューズを制作した。 ●1939年 / プラットフォームシューズが大流行するのは1970年代だが、1930年代に、初めて靴の舞台に登場した。 ●1940年 / 1930年代のパンプスに代わり、40年代は、ウエッジが女性のシューズコレクションの主役に。 ●1941年 / そして高さのあるウエッジの興隆のおかげで、パンプスのヒールも少し高くなり、ソールにも厚みが出て、ヒールは太くなった。 ●1942年 / シューズのデザインは、40年代になると軽やかになり始めた。カットアウトがストラップサンダルの原型へと変貌。 ●1943年 / 小さなリボンのディテールや、指のつけ根をあらわにすることで、黒のパンプスがはっきりとフェミニンな表情に。 ●1944年 / サテン地にラッフルのディテールが、ブドワール風のラウンジシューズを次のレベルに上げて。 ●1945年 / これまで見てきた中でも、もっともユニークなスタイルのひとつ。ジンジャー・ロジャースのウエッジには、ミッドソールがない! ●1946年 / ラッフル飾りが甲についたドルセーパンプスは、1950年代のデザインへの道を開いた。 ●1948年 / 1948年にはさらに甲が深く開いたクロスストラップが登場。 ●1949年 / チャンキーなブロックヒールとともに、プラットフォームシューズは複雑なディテールがあしらわれてアップデート。 ●1950年 / 子犬と小さなリボンが付いたパンプス、どちらがかわいい?(子犬でしょう) ●1951年 / 1950年代とともに、怒涛のフェミニニティが到来。エヴァ・ガードナーは、網タイツと繊細なアンクルストラップサンダルで、大いにセックスアピールを伝えた。 ●1953年 / キラキラと輝く黒のクロシェニットが、同じように輝く黒のサンダルを呼んで。 ●1954年 / ソフィア・ローレンは、カンヌにぴったりなマリン風ドレスに完璧な白のパンプスを合わせて、ビーチサイドで寛いでいる。 ●1955年 / クリスチャン ディオールのためにロジェ・ヴィヴィエがデザインした、このバタフライサンダルより魅惑的なものはない。 ●1957年 / 50年代後半、シューズはとても慎み深くなった。繊細なディテールのフェミニンなパンプスが「履くべき」シューズに。 ●1958年 / 「シャンデリアからぶら下がるの、シャンデリアから!」 ●1959年 / ジュークボックスの音楽が鳴るなか、このスツールに腰掛けた女性たちが、ソーダファウンテンでひと休みしているところを想像してみて。 ●1960年 / この当時、このつま先の長いシューズは「ウィンクル・ピッカーズ」と呼ばれていた。 ●1961年 / ブラックキトゥンヒールの女王、オードリー・ヘプバーンに拍手喝采を。 ●1962年 / 1960年代、ヒールの高さはモッズの影響もあり、顕著な変化を遂げる。華奢なキトゥンヒールや低めのブロックヒールが流行した。 ●1963年 / 当時、ゴールディ・ホーンのバックストラップシューズは、ガーリッシュで女らしさ満点。 ●1964年 / 60年代、それは靴をドレスとぴったりお揃いにした時代。 ●1965年 / ローヒールとパテントレザーは、この時代に流行したミニドレスを完璧に補完するもの。 ●1966年 / ツイッギーと人気のメタリック素材。 ●1967年 / 1967年、カトリーヌ・ドヌーヴは、映画『昼顔』でロジェ ヴィヴィエのバックルパンプスを履き、このシューズは爆発的人気を博した。 ●1969年 / アリ・マッグローは、60年代から70年代のスタイルへ、スムーズに移行。 ●1970年 / ホースビットが新しいバックルとして登場。 ●1971年 / 淑女の皆さん、編み上げましょう。 ●1973年 / ジェーン・バーキンは、リトルブラックドレスに鮮やかな赤のスーパーハイヒールで、70年代風のひねりを効かせた。 ●1974年 / ジーン・シュリンプトンなど、文字通りすべてのイットガールがトレンドに乗った。 ●1975年 / オリビア・ニュートン=ジョンが、ウッドソールのサンダルを愛用していたのは、誰もが知るところ。 ●1977年 / ディスコグラマーの最盛期。 ●1980年 / ちょっと野暮ったい、甲を半分覆うストラップヒール靴に、ソファに使われているような花柄。そう、80年代の到来だ。 ●1981年 / ネオンカラー時代の幕開け。ライザ・ミネリもその中へ。 ●1982年 / 80年代が完全に席巻する前、1970年代の最後の残り香を漂わせるストラップサンダル。 ●1984年 / 少なくともグレース・ジョーンズだけは、クールなブラックパンプスのパワーを理解している。 ●1985年 / 白いパンプスにパンストは、80年代のスタンダード。 ●1986年 / ダイアナ妃にならってすべてお揃いにするのがマスト! ハットもドレスも、ヒール靴も。 ●1988年 / とりあえずポルカドット。 ●1989年 / そして誰もが忘れられないダイエイブルズ。80年代(そして悲しいことに情報を得られなかった90年代、2000年代初頭の人々にとっても)“どんな服装にもマッチする”このサテンのパンプスは、あらゆる結婚式やプロムパーティーの写真に登場している。 ●1990年 / ローラ・ダーンのお揃いコーディネートは、オールブラック。これなら私たちも取り入れられる。 ●1991年 / この手のコーディネートは別次元…かも…… (これはダイアナ妃の足元を撮ったもの)。 ●1992年 / 世界はまだ、ワントーンコーディネートを手放す準備ができていなかったようだ。 ●1993年 / ナオミ・キャンベルでさえ、つまずかせたことで名高いシューズ。ヴィヴィアン ウェストウッドによる、12インチの高さを誇る「Gille」ヒールだ。 ●1995年 / スクールガールルックの人気は、映画『クルーレス』の主人公シェール・ホロウィッツが履くニーソックスとメリージェーンスタイルで、さらに火がついた。 ●1996年 / マライア・キャリーのリトルブラックドレスとアンクルストラップシューズスタイルは、90年代ミニマリズムの典型。 ●1997年 / 一方で、スパイスガールズが履いたプラットフォームシューズも大人気を博す。 ●1999年 / ケイト・モス+カルバン・ クライン=90年代の最高のもの。 ●2000年 / 2000年代初めは、ファッションを振り返るときに間違いなくもっとも不作の時代。ブリトニー・スピアーズのスクエアトゥのサンダルは、この時代に少なくとも抗っているアイテムだ。 ●2001年 / 2001年、パリス・ヒルトンのチャンキーな木のサンダル(おそらくCandiesのもの)でさらに事態は少し悪化。 ●2002年 / 2000年代初頭、ポインテッドパンプスがあらゆるところで履かれていた。そしてキャメロン・ディアスはここでもキュートに見えるけど、ストライプ柄のハンカチーフヘムのドレスには、ここまで辛口のシューズでないほうがより素敵に見えただろう。 ●2003年 / 2000年代初頭のもうひとつのシックな特徴? キャリー・ブラッドショーの定番、マノロ・ブラニクだ。 ●2004年 / ポインテッドトゥのパンプスとブーツカットジーンズ。悲しいかな、これが当時のイットガール全員の「カジュアルシック」なユニフォームだった。 ●2005年 / ラインストーンで飾られたパンプスが、2000年代半ばに復活。ビヨンセのバタフライパンプスは、誰もが髪に着けていたバタフライクリップを思い起こさせる。 ●2006年 / 2006年、つま先がちょっとだけのぞくピープトゥが流行した時、ペディキュアをきれいに維持するのは至難の技だった。 ●2007年 / サンローランのシューズのラインナップの中でもアイコンは、この「トリュビュート サンダル」だ。これは何年もセレブリティのお気に入りとなった。 ●2008年 / そして突然、すべての新婦がロイヤルサテンのマノロ・ブラニクの「Hangisi」パンプスを“サムシング・ブルー”に欲しがるように。 ●2009年 / クリスチャン・ルブタンが、シューズの世界へ大々的に登場した。クールなブラックパンプスは、表向きは真面目な顔をしながら、裏側のソールに冒険心と華やかさが。 ●2010年 / レディー・ガガの姿勢が、このアレキサンダー・マックイーンのアルマジロシューズで歩くのがどれだけ困難かを示している。 ●2011年 / キャサリン妃が今までL.K.ベネットのヌードカラーのパンプスを履かなかったことなどあるだろうか? ●2012年 / イザベル マランのウエッジスニーカーは、スニーカーとヒールを組み合わせたもの。このハイブリッドなデザインは、数え切れないほどの類似品を生み出しつつ、すぐさま2012年の“イット”シューズに。 ●2013年 / ヴァレンティノのロックスタッズヒールは、エレガンスとエッジィのバランスをうまく取っている。だからこそ、私たちはいまでもこれが大好き。 ●2014年 / スチュアート・ワイツマンの「ヌーディスト」。これは絶対的にどんなアウトフィットにも合う、究極のミニマリストサンダルだ。 ●2015年 / 70年代がメジャーにカムバックを果たした。特にサンローランは、このディスコにインスパイアされたプラットフォームシューズで、この流行を牽引。 ●2016年 / キム・カーダシアンは、カニエのYeezyコレクションのサンダルに見られるような、アクリル樹脂のヒールの虜に。公正を期すと、ある意味こういうシューズは何にでも似合う。 ●2017年 / 2018年春夏コレクションのランウェイで、ジャックムスがジオメトリックヒールを発表した後、このスタイルはすぐさまあらゆるイットガールたちが取り入れた。 ●2018年 / クロック……ヒールズ? 2018年の奇妙なシューズは、バレンシアガのランウェイに登場したクロックスのスティレットヒール靴だ。そしてこれはソーシャルメディアで、誰もが話題にした。 ●2019年 / 2019年、ネイキッドサンダルが公式的にトレンドに。この超ミニマルなデザインは、90年代後半と2000年代初めのバイブを感じさせつつ、どんなスタイルも完璧に仕上げてくれるもの。 |
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●立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花 | |
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●1
芍薬も牡丹も共に美しい花で、百合は清楚な花であることから、美人の姿や振る舞いを花に見立てて形容することば。 芍薬はすらりと伸びた茎の先端に華麗な花を咲かせ、牡丹は枝分かれした横向きの枝に花をつける。百合は風を受けて揺れるさまが美しい。 これらのことから、芍薬は立って見るのが一番美しく、牡丹は座って見るのが一番美しく、百合は歩きながら見るのが一番美しいという説がある。 また、芍薬はまるで美しい女性が立っている姿のよう、牡丹は美しい女性が座っているよう、百合は美しい女性が歩く姿のようだなど、諸説ある。 単に「立てば芍薬座れば牡丹」とも、「立てば芍薬居(とと)すりゃ牡丹歩く姿は百合の花」ともいう。 |
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●2
「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」、これは美人を形容する言葉ですが、元々は生薬の用い方をたとえたものです。漢方薬は数種類の生薬を混合し煎じたものです。それぞれの生薬は特有の薬効を有しており、症状に応じて適したものを用います。 「立てば芍薬」の”立てば”はイライラとし気のたっている女性を意味し、芍薬により改善されます。芍薬の根を使うのですが、痛みを取ったり、筋肉のこわばりを取ったりします。「座れば牡丹」の”座れば”はペタンと座ってばかりいるような女性を意味し、それは「お血(おけつ)」(お=やまいだれ+於)が原因となっていることもあります。 「お血」とは、漢方で症状を表現するのに用いられる言葉のひとつで、腹部に血液が滞った状態を意味します。「お血」は牡丹の根の皮の部分(牡丹皮・ぼたんぴ)により改善されます。「歩く姿は百合の花」は百合の花のようにナヨナヨとして歩いている様子を表現しており、心身症のような状態を意味します。その場合には百合の球根を用います。 このように、それぞれの症状に合った生薬を用いると健康になれます。つまり、「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」は、健康な女性は芍薬・牡丹・百合の花のように美しいという意味かと思います。 ●生薬としての芍薬、牡丹、百合、芍薬 ボタン科の芍薬の根を乾燥したものです。皮を除去したものを白芍(びゃくしゃく)、皮付きのものを赤芍(せきしゃく)と称します。北海道でも栽培され、調製加工後に出荷されています。芍薬の「芍」は薬の意味です。「芍薬」は「薬の中の薬」という意味なのでしょう。鎮痛、鎮痙薬。 筋肉とくに腹直筋を緩和します。「当帰芍薬散」、「芍薬甘草湯」などの婦人に処方されることが多い漢方薬に配合されています。 ●牡丹 ボタン科の牡丹の根皮を乾燥させたものです。牡丹の花は豪華なので、中国では花王と賞されています。牡丹は中国の国花とされていた時代もあり、詩歌で詠まれ絵画に描かれ愛でられてきました。独特の芳香を有し、鎮静、鎮痛、駆お血薬として婦人科疾患などに用いられます。「大黄牡丹皮湯」、「桂枝茯苓丸」などに配合されています。 ●百合(びゃくごう) ユリ科の百合(多種類が用いられている)の鱗茎の鱗片を乾燥させたものです。消炎、鎮咳、利尿、鎮静薬として用いられます。中国の後漢時代の中医学者である張仲景は、百合の精神安定薬的な効用を示しました。「百合知母湯」、「百合地黄湯」などに配合されます。 ●生薬の分類 中国で西暦100年頃に「神農本草経(しんのうほんぞうけい)」という人類最古の薬物書が書かれました。それは漢方などで用いられる生薬の原典です。その中には365種類の生薬が記載されており、それらは上薬(じょうやく)・中薬(ちゅうやく)・下薬(げやく)の3種類に分類されています。前述の芍薬・牡丹も記載されており、中薬に分類されています。その分類について簡単に説明します。 上薬(120種) / 上品(じょうほん)とも言われる。「君と為す」と記され、薬の王様に位置づけられています。無毒で、多く服用しても、長期に服用しても人体に害を及ぼさず、長寿のためにも用いることができます。 中薬(120種) / 中品(ちゅうほん)とも言われる。「臣と為す」と記され、大臣クラスの薬と位置づけられています。有毒のものも無毒のものもあるので、その性質を考慮して適宜配合して用いる必要がある。 下薬(125種) / 下品(げほん)とも言われる。「佐使と為す」と記され、実際に病を治す効力を有する薬と位置づけられています。有毒のものが多く、長期に服用することはできません。たとえば下薬のひとつである附子・烏頭は、有毒なトリカブトの塊根を乾燥したもので、大量に用いると危険です。 これらの上薬・中薬・下薬を配合して用いるのが漢方薬です。上薬が中薬の作用を調節し、中薬が下薬の作用を調節し、好ましい効果を引き出しその毒性を減弱させる、というような関係にあるようです。人間社会にも上品・下品な人がいますが、それらの特徴を生かして調和した関係が必要なのとよく似ているように思います。 ●陰陽五行説 日本の漢方や中国の中医学で用いられている言葉や考え方が、私たちの日常でも用いられています。五臓六腑という言葉もそれに含まれます。五臓六腑は陰陽五行説に基づく概念です。次に陰陽五行説について簡単に説明します。BR> すべてのものを陽と陰に分けます。例えば、太陽と月(大陰)、光と影、昼と夜、男性と女性が陽と陰になります。また天地万物を五種類に分けます。基本は木、火、土、金、水の5種類です。その五種類には陰陽があり、それらが動くこと(行)から陰陽五行と表現されます。それらの関係は、木は火を生じ、火は土を、土は金を、金は水を、水は木を生じるというような相手を生じさせる関係(相生:そうじょう)、さらに水が火を消すような相手を抑制する関係(相剋:そうこく)として理解されています。種々のものを五行に分類したものを表に示します。 木、火、土、金、水と日(太陽)、月(大陰)を合わせると曜日になります。五臓六腑と言いますが、表では五臓五腑しかありません。腑は袋状のものを意味します。人体をひとつの袋とし一腑として加え、人体全体を五臓六腑と表現します。 食品を五味五色に分けることもあります。五味子(ゴミシ)という名の生薬があります。酸っぱい、苦い、甘い、辛い、塩っぱい(鹹)の五味を有する実という意味です。五味子はチョウセンゴミシの実で、北海道に野生しており、秋に赤い実をつけます。一度味わってみてはいかがでしょうか?チョウセンゴミシは北海道立衛生研究所薬草園でも観ることができます。 |
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●3
昔から「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」などと申します。どれも美しい花ですが、芍薬は、すらりと伸びた茎の先に、華麗な大輪の花を咲かせます。花は、牡丹も芍薬もよく似た大輪の花を咲かせますが、牡丹が「木」なのに対して、芍薬は「草」です。 草は木ほど丈夫でしっかりとはしていませんから、そんなところから芍薬の花言葉は(大輪の花なのに)「はじらい、はにかみ」です。振り袖の着物を着た立ち姿が、ちょっと恥じらいがあって、すこしはにかんだ笑顔がまるで花が咲いたよう。そんな姿が「立てば芍薬」という言葉になっているのかもしれません。 「牡丹」は、「百花の王」といわれるくらいで、まさに豪華絢爛、華麗で美しい花を咲かせます。洗剤などのメーカーの「花王」さんの「花王」も、もともとは牡丹のことを言った言葉です。まさに花の王様で、花言葉も「高貴」。 座った姿に品があり、高貴ささえも感じさせる。そんな姿が「座れば牡丹」の言葉になったのかもしれません。ちなみに、鑑賞する際に、芍薬は立って鑑賞するのが良く、牡丹は座って眺めるのが良いから「立てば芍薬、座れば牡丹」という説もあります。 「百合」の花言葉は、「無垢、純潔」で、ほかにも「威厳」というものもあります。ちなみに百合の名前の由来ですが、百合は球根が一枚一枚むけるのですが、それが100枚(つまりたくさん)あることから、百枚合わせで「百合」なのだそうです。もっとも、大きな花が風にそよいでユラユラ揺れる、そんな風情から「ゆり」となったという話もあり、どちらがほんとかは、わかりません。 百合は、花そのものが清楚な印象がありますので、まさに「歩く姿は百合の花」なんて、とっても美しい形容だと思います。 記紀では、まず日本の国土が生まれ、次いで神々が誕生したとあります。わたしたちの国においては、国土や風土と神々は兄弟です。その神々の直系のご子孫が歴代の天皇です。その天皇の家系に連なっているのが日本人です。ですからわたしたちの国では、国土や風土や森の樹々や草花などと、わたしたち人との間には、わかつことが出來ない深い絆があるとされてきたのです。 柿本人麻呂は、万葉集で次のように書いています。 「やすみしし 我が大王(おおきみ) ~(かむ)ながら~さびせすと 芳野川(よしのがは)たぎつ河内(かふち)に 高殿を 高しりまして 登り立ち國見をすれば疊(たゝな)はる青垣山 山祇(やまつみ)の 奉(まつ)る御調(みつぎ)と 春べは 花かざしもち 秋立てば 黄葉(もみぢ)かざせり ゆきそふ 川の~も 大御食(おほみけ)に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川(うがは)を立て 下つ瀬に 小網(さで)さし渡し 山川も 依りてつかふる ~の御代かも」 この歌は、持統天皇の吉野行幸に際して詠まれた歌で、現代語に訳すと次のようになります。 「天の下を知らす我がおおきみが 神として、そして神の御業をなさるため 吉野川の激流渦巻く都邑に高い宮殿を建て その高殿に登り立って国見をなさると 幾重にも重なりあって緑なす山々の 山の神が天皇に捧げる貢ぎ物として 春には花を髪にかざし 秋には紅葉を飾り 流れる川の神も天皇の御食(みけ)に仕えようと 上の瀬で鵜飼いを催(もよお)し 下の瀬では投網をさし渡し このように山の神も川の神も仕えている、 まことに尊い神の御代であることよ」 日本は、風土も人も、一体です。 |
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●眉毛・まつ毛・うぶ毛 〜歴史年表〜 | |
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●古代〜中世
女性の眉化粧が歴史書に初めて登場 / 今から約1300年前の奈良時代、和銅12年(712)に成立した日本最古の歴史書「古事記」に、若い女性が眉を描いていたという記述があることから、眉・まつ毛・うぶ毛のうち、眉化粧の歴史が最も古いと言えるでしょう。 眉毛ケアは毛抜き一本の時代 / 平安時代になると、貴族の女性は毛抜きで眉を抜き去り、新たに描く化粧をしていました。『源氏物語』には、のちに光源氏の妻になる紫の君が、10歳前後で眉化粧をしたことが記されています。当時はできの良い毛抜きが少なかったため、さぞかし痛い思いをしながら眉を抜いたことでしょう。 |
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●江戸時代
カミソリが登場!毛抜きとともに化粧道具に仲間入り / 顔や襟足(えりあし)をそり、眉をそり落とすのに、への字型のカミソリを使うようになりました。 眉のそりあとに美しさを見出す時代 / 1 公家や上流武家の女性は決められた年齢になるとお歯黒をつけ、眉をそり落とし、儀式の際には額の上の方に別の眉を描きました。2 庶民の女性の場合、結婚するとお歯黒をつけ、子どもができると眉をそり落しました。庶民の場合は、眉の有り無しで子持ちかどうかが一目でわかるのが、江戸時代の眉化粧の約束事でした。現代の美意識では異様に感じますが、当時の女性は眉のそりあとに美しさを見出していたのも事実です。 眉と目の間が狭いのは品がない! / 江戸時代を代表する美容書『都風俗化粧伝』では、眉と目の間が狭い人は眉毛の下の方を少しそり上げるようにすすめていました。眉と目の間は広い方が美人だったのです。 浮世絵美人は目が細い! / 浮世絵に描かれた美人をよく見ると、目の大きさそのものが顔に対して小さく、一重まぶたが一般的です。まつ毛に関しては、描かれていても毛の流れは上下共に、目の内側を向いていて、決して目を大きく見せようとはしていません。 生え際にこだわる美意識 / 江戸時代の美人はうりざね顔(やや面長)が基本。『都風俗化粧伝』には、丸い顔を長く見せるために、「額をそり上げるべし」とあります。きれいにみえるように顔のバランスを考えて、生え際のうぶ毛や髪を少しそっていたのです。当時は前髪をアップにして額が丸見えでしたから、なおさら生え際にこだわったのでしょう。 大きい目は美人の象徴ではなかった時代 / 江戸時代の美容書にはまつ毛のケアに関する記述が出てきません。ということは、まつ毛は美しさを左右する要素ではなかったのでしょう。また、目が大きすぎるのは美人ではありませんでした。『都風俗化粧伝』には目について「りんと強きがよし」と記されていますが、同時に「あまり大き過ぎたるは見苦し」ともあります。 大きすぎる目の対処法に、「目を伏せぎみにして小さく見せましょう」とあることからも、程よい大きさの目がよかったことがわかります。 “肌の白さ”が美人の第一条件!! / 「色の白いは七難隠す」といわれた江戸時代、肌の白さは美人の第一条件でした。当時の肌の美意識は、白く透き通るような顔色で、真珠のようにきめ細かくツヤのある肌でした。そのために重要なのがおしろい化粧だったのです。 おしろいのノリを良くする手法としてうぶ毛そりは常識 / おしろいのノリをよくするため、女性たちがカミソリで顔や襟足のうぶ毛をそっている様子は、浮世絵や版本にもよく描かれています。顔や首をそるのは、化粧の前段階のケアとし、日常化していたと考えられます。 |
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●明治時代
眉剃りは撤退し、自然な眉を生かす方向へ / 日本の伝統化粧に転機が訪れたのは、明治維新以降です。西洋文化を積極的に受け入れる過程で、外国人に不評だった眉剃りは衰退し、化粧は少しずつ洋風へと変わっていきます。 |
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●明治時代末期
若い女性に自然な太眉が流行!目の美意識も洋風へと変化し始める / 当時のブロマイド「美人絵はがき」に登場する有名芸妓(げいぎ)の万龍や、素人対象の美人コンテストの優勝者末広ヒロ子は、太眉、二重まぶたでぽっちゃりした近代的美人です。 まつ毛が重要視されるきざし / 美容書に、目の美しさは「目・まつ毛・眉毛」の3つの美が重なり合っているという記述がみられるようになります。ここにきて、やっと日本でも目の化粧の要素としてまつ毛が注目されてきました。 生え際の美意識はまだまだ続く / 明治末期の美容書にも、富士額にするために、生え際のうぶ毛をそり、その跡にまゆずみを薄く敷いておくのがよいと書かれています。 |
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●大正時代から昭和時代前期
眉を細く剃り、こめかみまで延ばすハリウッド女優風メイクが流行!! / 大正時代に入ると、欧米ではマスカラが使われるようになります。そして大正末期、モダンガールたちは、アイシャドウやアイラインをつけ、眉を細く剃り、こめかみまで延ばすといった、ハリウッド女優をまねた洋風メイクにチャレンジしました。モダンな洋風化粧は、洋服に合う化粧としておしゃれの最先端に踊り出ます。 目は大きい方が良いという美意識 / 大正末期から昭和初期の美容記事には「目をパッチリ見せる」ためのまつ毛の化粧法が記されています。目は大きい方がよいという美意識がみられるようになり、同時にマスカラやビューラー、つけまつ毛が紹介され始めます。 立体的な顔立ちへ憧れを抱き始める / ベースメイク重視で平面的な日本の伝統化粧に対して、欧米の化粧はポイントメイク品を用いて、顔に陰影をつけて立体感にみせるのが特徴です。現代の日本人女性が持っている立体感のある顔立ちへの憧れは、この時期に芽生えたと言えるでしょう。 |
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●昭和時代前期
お化粧映えのためには顔そりが重要! / 昭和初期の美容書によると、お化粧映えさせるにはカミソリをあてることが必要とあります。顔をそるのは入浴後が一番。でも普通の場合には、熱いタオルでよく蒸して、皮膚を柔らかくしてからがよいとも。 そる時には石鹸をつけ、終わると化粧水をつけるなど、肌に負担をかけないケアにも気を配るようになります。 戦時体制に突入。洋風メイクの普及は一時中断 / アイメイクの流行に待ったをかけたのが戦争でした。日中戦争がはじまると「健康美」「簡素美」が求められ、粉おしろいや頬紅、口紅程度のシンプルな化粧が推奨されます。 |
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●昭和時代戦後
眉の形は流行や世相を反映して太くなったり細くなったり / 戦前にアイメイクをしていたのは流行の先端層に限られており、一般女性にとってはまだまだ日常的ではありませんでした。戦後になってから、一般の女性たちにも流行として広まり始め、アイメイク全般に関する記事が、新聞や雑誌でも少しずつ増えていきます。眉の形は流行や世相を反映し、太くなったり細くなったりと変化するようになります。 アメリカ文化の流入で化粧も一気に洋風化へ / 昭和20年代、日本にはアメリカ軍が多く駐留した影響により、アメリカ文化が流入しました。着物から洋装へとファションが変わることで、化粧も欧米風が当たり前になります。 むだ毛を剃る練習!?うぶ毛そりであか抜け肌に! / 昭和25年(1950)の『美容と作法』には、「桃の肌のようにうぶ毛がいっぱいに生えていると、どんなに化粧をしたところであか抜けない」とあります。そのために必要なのが「むだ毛をそる練習」でした。本には、顔そりの準備から注意点、順序、カミソリのとぎ方、顔そり後のケアまで事細かに紹介されています。洋風化粧が主流になっても、うぶ毛のケアは美容の一環として、ずっと続いていたことがわかります。 映画女優のアイメイクが大流行! / 昭和30年代、大ヒットした映画『ローマの休日』の主役オードリー・ヘップバーンをまねた、角度をつけた太い眉が流行します。 アイメイクブーム到来 / きっかけは、昭和42年(1967)のファッションモデル、ツイッギーの来日です。彼女のトレードマークともいえるミニスカートとともに、ダブルラインのアイシャドウ、つけまつ毛やマスカラを重ねたアイメイクが注目され、日本でもアイメイクがブレイクしました。 その一方で、目を強調するため、眉は細くなりました。 |
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●昭和時代末期
ナチュラルメイクの流行から太眉ブームに! / 女性の地位が向上した昭和50年代から昭和末期は、ナチュラルメイクが提唱された時期でした。つけまつ毛はすたれ、アイシャドウもナチュラルなブラウン系が流行。眉は手入れをしない自然のままか、太く濃い極太(ごくぶと)眉に。太くりりしい眉は、パワフルな女性の象徴だったのです。 |
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●平成時代
コギャルメイクが注目を浴びる / ナチュラルメイクの流行が一段落して、再び目のまわりの化粧の比重が高まります。平成8年(1996)頃からはコギャルの間で、細眉にマスカラやアイライナーで目元を強調するメイクがブレイク!眉の形をくりぬいた眉テンプレートが販売され、まつ毛パーマやまつ毛エクステが流行し始めます。同時期にあった小顔ブームの影響で、顔のパーツのひとつである目を大きくみせて相対的に顔を小さくみせようとしたことも、目の化粧が盛んになった理由のひとつです。 新しい世紀の始まりは「目ヂカラ」そして「引き算メイク」へ / 「目ヂカラ」という言葉が注目され始めたのは平成12年(2000)。つけまつ毛、マスカラの塗り重ね、アイシャドウやアイライナーで目を囲む「デカ目」メイクなど、アイメイクに重点を置く盛りメイクが、趣向を変えながら10年余り続きました。その後は、適度に強弱をつけバランスをとる「引き算メイク」が注目を浴び、ナチュラルメイクの傾向に。眉については、次第に極端な細眉はすたれ、ナチュラルに整えた形になりました。 |
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美しさの基準は時代によって違いますが、いつの時代も女性はきれいでありたいと思うもの。そんな気持ちを持って日本人女性は、古来から化粧を進化させてきました。
そのきめ細やかな化粧意識は、独自の眉化粧や、額の生え際から襟足までこだわったうぶ毛のケアにも反映されています。ベースメイクを重視する美意識は時代を経ても変わらず、うぶ毛をそることは、戦後になっても続けられてきました。女性たちの心には、江戸時代の肌の美意識と同じ「真珠のような肌」に憧れる気持ちが今もあるのでしょう。 その一方で、近代になって大きく変わったのが目元の化粧です。自分の眉を活かして、まつ毛を強調する立体感のあるアイメイクを、日本人女性は見事に自分のものにしました。世界の流行のよいところを取り込む柔軟な探究心を持って、私たちはこれからも美の可能性を広げていくことでしょう。 |
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●現代の日本人女性に・・・“顔まわりの毛”との向き合い方は?
●まつ毛 今のトレンドまつ毛は、自まつ毛のように自然なボリュームと長さのナチュラルなスタイル。まつ毛美容液というケアアイテムもかなり充実してきたうえ、マスカラやマスカラ下地にも美容成分が配合されているので、まつ毛を育てる、いわゆる“まつ育”はすでに立派な定番ケアに。自分のまつ毛はあくまでも強くしなやかに育てるというセルフケアを行いながら、目的に合わせてエクステンションやメイクアップでバージョンアップするのも良し。ライフスタイルや自分のまつ毛状態に最適なアプローチが選べる時代です。 ●眉毛 時代の流れやトレンドを最も反映するのが眉毛というパーツですが、それだけ重要にも関わらず、自分に合った眉毛に整えられている人は非常に少ないというのが実情。「上手く描けない」「自分に合う形が分からない」という声は多く、まさにトップクラスに君臨する悩みです。コレはもう自分だけのテクニックでは“重要な一線”を越えることは不可能。一度、サロンなどで形を整えてもらう、メイク教室で自分に一番似合う眉の描き方を教えてもらう、といった“プロの手”を借りるのがベスト。必ずアップデートされた新しい自分に出逢えるはずです! ●うぶ毛 日本人が昔からうぶ毛を気にする理由のひとつは、やはり毛が黒いからにほかなりません。毛が全体的に明るい外国人モデルなどは、顔のうぶ毛はほぼ生やしっぱなし。それが逆に“桃”のような柔らかさやピュアさを演出してくれるから、何とも羨ましい限りです。日本人はうぶ毛が残っているだけで、どんなに肌自体が明るく美しくても「くすんでいる」と捉えられがちなので、うぶ毛はオフするのが得策。正しくシェービングすれば、不要な角質もオフできるので肌のターンオーバーにも効果的ですが、顔全体を自分でそるのは至難の業。理容師免許をもつ顔剃りのプロに身を委ねることもおすすめです。 |
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●ギャルメイクの歴史 | |
90年代からのギャルメイクとファッションの流行についてまとめてみました。
ギャルの始まりは、90年代半ばにブレイクした、安室奈美恵を真似たアムラーが原点だと思われます。 ●90年代ギャルの特徴 ・日焼け肌 ・メッシュを入れたヘアカラー ・青系のアイシャドウ ・アイラインはひかえめ アムラーと同じ頃に、黒ギャルの亜種にあたる、ヤマンバと呼ばれる人たちも登場。 奇抜なメイクがテレビでも注目され、パリコレではモデルのヘアメイクに、ヤマンバメイクを取り入れた海外ブランドもありました。 2000年代に入ると浜崎あゆみがブレイクし、黒ギャルの時代は終了。 今は美の基準として当たり前になっている、色白・大きい目・長いまつ毛が可愛いという価値観が定着したのもこの頃。 この時代からアイメイクに力を入れ、いかに目を大きく見せるかということが重視されるようになります。 人気が出た当初の浜崎あゆみは、60年代風の囲み目メイクとクラシカルなファッションでした。 このときの浜崎あゆみのファッションは、2000年代初頭にお姉系と呼ばれた、コンサバ系ファッションの流行にもつながりました。 同じ頃に美白の女王と呼ばれた、鈴木その子さんがテレビで注目されたこともあり、時代は美白ブームとなりました。 美白ブームで黒ギャルの時代から、浜崎あゆみをお手本とした白ギャルへと変化。 ●白ギャルの特徴 ・色味のないリップ ・アイラインで目を強調 ・巻き髪 ・ベージュ系アイシャドウ アイラインで目を囲み、ベージュ系アイシャドウとベージュ系リップを使った、ヌーディーなメイクが主流になった。 2000年代には、白ギャルの亜種にあたる姫系ギャルが登場。 キャバ嬢を読者層とする、小悪魔agehaに多く見られたタイプのため、age嬢と呼ばれていました。 ●姫系ギャルの特徴 ・逆毛を立ててボリュームを出した髪型 ・不自然に広い二重幅 ・カラコン ・つけまつ毛 2000年代に入り、白ギャル優勢な時代が続いていましたが、最近では日焼け肌の南国系ギャルと、ageha系ギャルの2タイプが、ギャルのカテゴリに存在しているようです。 どちらのタイプもそれぞれ、黒ギャル・白ギャルを継承していますが、昔のギャルに比べると、髪色や服装が落ち着いてマイルド。 2000年代前半まではテレビでギャルが持ち上げられていましたが、喋っている姿をテレビで見せたことで、見た目だけが派手で中身がないというイメージも付いてしまいました。 ギャルのイメージダウンにより、ガーリー系に路線変更した老舗ギャルブランドのセシルマクビーですが、2020年には全店舗の閉店が決まった。 他の109系ギャルブランドも全盛期に比べると勢いが落ちています。 今後ギャルというカテゴリは、さらに厳しくなると思いますが、日本独特のギャルという文化に、これからも注目したいと思います。 |
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●平成をメイクで振り返る | |
「平成」がスタートしたのは、バブル景気に沸き、女性らしさをアピールするファッションやヘアメイクが全盛だった1989年。男女雇用機会均等法(1985年)施行後の世代として、美容、ファッション、フィットネス、資格取得などの“自分磨き”にお金と時間を費やす女性が増え、日本独自の文化や美容意識が次々と生まれた。
それまで10年単位で変化していたトレンドは、平成に入ってからは4〜5年単位で移り変わるようになり、若年層が流行を牽引する時代に。なかでもミレニアル世代は、自分たちが生まれた頃に流行した過去の文化をアップデートしながら柔軟に取り入れて楽しむ傾向が。つまり、彼女たち独自の価値観や要素を加えながら新たな潮流を生み出しつつも、トレンドは一巡していることがわかる。 ●平成元年〜5年(1989〜1993年) 昭和の名残を感じさせるバブルゴージャス バブルの絶頂期を迎えた平成元年。海外旅行などの贅沢を謳歌する女性たちが増え、本物志向や高級志向の高まりもあって、空前の「お嬢様ブーム」が到来。「ボディコン(ボディコンシャス)」で女性らしさをアピールするファッションが人気となり、一方で「渋カジ」と呼ばれた、紺ブレにデニムを合わせたトラッドで上品なカジュアルスタイルや、コンサバティブなファッションも流行した。 この頃のメイクの特徴は、レッドや青味がかったローズピンクなど、ビビッドな色味のリップカラー。口元以外は全体的にナチュラルで、アイシャドウも淡いローズやパープル系などで女性らしく仕上げるのがトレンドに。ヘアスタイルは、「ワンレン(ワンレングス)」のロングが主流。さらに、前髪を立たせた「とさかヘア」や薄くおろした「すだれ前髪」、毛先のみにパーマをかけた「ソバージュ」もこの時代を象徴するスタイル。 ●平成6〜10年(1994〜1998年) スーパーモデルブームに影響を受けた茶髪・細眉・小顔メイク バブル崩壊後、長く続く平成不況に突入し、さまざまな分野で安価な商品が人気に。パソコンや携帯電話が一般に広く普及し始め、得られる情報量が格段に増えた。ファッションでは、ルーズソックスのブームをきっかけに女子高生に注目が集まり、厚底ブーツやミニスカートなどのいわゆる「ギャル文化」が台頭。彼女たちが社会に与える影響も大きくなり、ファッションの幅や自由度が広がっていく。 スーパーモデルブームと相まって、茶髪、細眉、小顔メイクが大流行。髪色に合わせた眉のブリーチや、下地でツヤ肌を演出するなど、細部へのこだわりも見られ、美容への関心が一気に高まった。また、光沢感のあるファッションの流行と連動して、パールアイシャドウやベージュ系リップが主流になるなど、クールで近未来的なメイクがトレンドに。 メディアではカリスマ美容師が注目され、レイヤーカットやシャギーカットが提案された。 ●平成11〜15年(1999〜2003年) 大胆な囲み目とブロンズ肌でギャルメイクが独自に進化 ミレニアムのこの時期、ストリートファッションはかつてない盛り上がりを見せ、ギャル系、エレガント系、裏原(裏原宿)系など、流行のピラミッドがいくつにも枝分かれし、カテゴライズ化されていった。この頃に印象的なのが、90年代の「ギャル文化」が渋谷を中心としたエリアで独自に進化したこと。カラフルな原色の服、花の髪飾り、個性的なヘアメイクなど、奇抜なストリートスタイルが流行し、海外からも注目が集まった。 この層のメイクの最大の特長は、小麦色の肌。実際に日焼けをする人もいれば、濃い色味のファンデーションやフェイスパウダーで日焼け肌を演出する人も。目の際をアイラインで縁取る囲み目メイクと薄い色の眉を組み合わせ、目元をより強調したメイクがトレンドに。ヘアは、ハイトーンのイエロー、アッシュ、ハイブリーチなど、色のバリエーションが増加。ヘアカラー人口もさらに増えて一般化した。 ●平成16〜20年(2004〜2008年) モテを意識した女子力高めの盛りメイクがブームに 不況や格差が深刻化した平成16年以降は、不安感からか、安定志向や結婚願望の高まりが顕著に。婚活ブームが起こるとともに、女性たちの「モテ意識」も強くなっていった。フリルやレースを使ったロマンティックなファッションや、手軽にトレンドを楽しめるファストファッションの人気が拡大。また、インターネットの普及も急速に進み、トレンド情報をいち早く発信するブロガーが注目を浴びた。 メイクはナチュラルな色使いが人気で、アイシャドウはブラウン、リップはピンクベージュ。色はナチュラルながら、より女性らしさを強調する「盛りメイク」が大流行。囲み目やマスカラの重ねづけ、つけまつげなどで目を大きく見せ、口元はリップにグロスを重ねてツヤを与えるなど、さりげなく“盛る”のが常識。さらに、カラーコンタクトやまつげエクステなど、化粧品以外の手段も駆使するといった美容熱の高まりが見られた。 ●平成21〜25年(2009〜2013年) ゆるふわ癒し系、大人カワイイ女子がトレンドを牽引 不況の深刻化と同時に、「勝ち組・負け組」といった格差意識が社会に蔓延していたが、2011年の東日本大震災を機に、世の中全体の価値観や、消費マインドに変化が現れ始めた。女性たちも本当に必要なものは何かを自問自答し、身の丈に合った消費傾向に。ファッションも肩の力が抜けた「脱力系ゆるふわ」の自然体へと移行し、癒しブームが到来。この頃、若年層から派生した“カワイイ”文化やファッションは、海外からも注目され、「KAWAII」が世界共通語に。 メイクもファッションと同様に力の抜けたナチュラルな傾向が強まり、下まぶたにパールのハイライトを効かせた「涙袋メイク」や、頬の高い位置に頬紅を入れる「湯上りチーク」などが出現。ヘアは、パーマやヘアアイロンで柔らかくふんわりと見せる巻き髪スタイルや、毛先を内巻きにしてエアリーな空気感を漂わせるナチュラルスタイルが支持された。 ●平成26〜現在(2014〜2018年) 80〜90年代のトレンドが回帰、抜け感バブルリバイバル 景気の緩やかな回復や訪日観光客の増加などで、好景気への期待が高まった平成末期。ミレニアル世代の存在感が増し、カテゴリーに縛られない新しい価値観を楽しむ人が増加した。ファッションは、ハイウエストボトムやプロデューサー巻き、スニーカーブームなど、80〜90年代のトレンドがリバイバル。動画投稿サイトや画像共有SNSなどの普及により、自撮り写真を発信する傾向が顕著になり、多くのインフルエンサーが登場した。 メイクはやや大人っぽい「レディ」「モード」がキーワードに。バブル期を想起させる「ナチュ太眉」といった、色が明るく短めの太い眉が特徴。しばらく見られなかった赤リップや鮮やかなローズ、ビビッドなピンクなど、ブライトな口紅がバブル期以来、初めて流行。ヘアはボブスタイルがトレンドとなり、「かきあげ前髪」やバブル期に「すだれ前髪」と呼ばれた薄くおろした前髪が「シースルーバング」として再び人気に。 ●平成から新元号へ! 今後のヘアメイクのトレンドは? 一周まわってフューチャリスティック カテゴリーにとらわれない多様な価値観を楽しむ傾向が広がりを見せる今、新しい時代を代表するトレンドは、従来のように単一には絞れず、数ある情報の中から、それぞれが新しさを取捨選択していくことになるだろう。ヘアメイクの世界でも、個性を際立てる「パーソナライズ化」が加速。気分やシーンによってさまざまな装いを楽しむ「多様性」の傾向にあり、表現の幅や選択肢がさらに広がる予感。 「多様性」の一例として、90年代後半の近未来的なファッションとメイクのトレンド「フューチャリスティック」が新たな解釈でリバイバルされていることが挙げられる。形や色よりも質感を重視する傾向があり、ツヤのある素肌っぽいベースメイクに、パールシャドウや光沢感のあるリップをプラスするなど、すっきりとクールでイノセントな印象が新鮮。まつげにワンポイントのカラーをのせるなど、プレイフルな表現もありそう。 過去30年間を振り返ると、平成の時代は変化の周期が非常に早かったことが読み取れる。それと同時に、ヘアメイクのトレンドが世相を反映することも再認識。改元が行われる来年以降、女性の意識やトレンドがどのように変化していくのか、とても楽しみだ。 |
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●懐かしい平成〜令和の小顔メイク | |
●1 1990年〜小麦肌のギャルメイク
ポイント:小麦色の肌 使用アイテム:ファンデーション 小顔印象テク:日焼けした肌にみえるファンデーションで引き締め印象効果を狙う 1990年代半ば、海外のスーパーモデルブームによって注目され始めた「小顔」。そんな小顔メイクの火付け役となったのは、当時カリスマと言われていたあの人気歌手! 彼女に少しでも見た目を近づけようと、ファッションやヘアスタイルを真似する女性が急増。そのひとつとして注目されたのが、彼女の魅力のひとつである「小麦色の肌」。「骨格は変えられなくても、小麦色の肌にすると顔が引き締まって見える」という発想から、自分の肌色よりも少し暗めでツヤのある、日焼け風「ブロンズ肌ファンデーション」がトレンドに! さらに小麦色の肌に映えるとして、目元を明るくみせる白やブルーの輝く「ラメ入りアイシャドウ」が大流行しました。 ●2 2000年〜デカ目命のモテOLメイク ポイント:囲みデカ目 使用アイテム:アイライナー、まつ毛アイテム(ビューラー、マスカラ、つけまつ毛等) 小顔印象テク:アイラインやまつ毛で目を囲い、大きくみせることで小顔と錯覚させる 続く2000年代のキーワードは「モテ」。2000年代後期には「婚活」という言葉が広まるなど、恋愛や結婚に積極的なアクションを行う女性が増えたことが、メイクやファッションにも大きく影響します。当時大流行したのが、かわいらしくて上品な女性らしさが特徴の「モテOLメイク」。ポイントはなんといっても大きな目! メイクでぱっちりした目をつくることで、目元の印象アップと同時に小顔錯覚も狙えると話題に。中でも、アイライナーでぐるりと目を縁取り、マスカラなどでまつげを長く見せることでパーツ自体を大きくみせる「囲みデカ目」が人気を集めました。 ●3 2010年〜オルチャン太眉メイク ポイント:太め平行眉 使用アイテム:アイブロウ 小顔印象テク:眉を太く平行にすることで、顔の縦幅/横幅を目立たなくする 2010年代前半は第二次韓流ブームが到来! 韓国アイドルのメイクを真似した「オルチャンメイク」がトレンドになりました。韓国語で「かわいい」「美少女」という意味の「オルチャンメイク」、その特徴は太めの平行眉。顔の重心をさげて長さ(縦幅)を目立たなくさせ、さらに眉尻を細めず太さをキープすることで横幅も縮めて見せる小顔効果があるんです! この小顔効果の高さで韓国好き女子以外からも支持を集め、それまでの「細め」で「角度をつけた眉」からのトレンドシフトにつながりました。 ●4 2010年〜海外風メリハリ立体メイク ポイント:コントゥアリング 使用アイテム:ハイライト&シェーディング 小顔印象テク:顔に立体感を出すことで小顔に見せる 2010年代後半には、海外から「コントゥアリングメイク」が上陸します。コントゥアリングとは、顔にシェーディング(影)とハイライト(光)で陰影をつけ、立体感を出すことで小顔に見せる手法のこと。丸顔や面長などのコンプレックスをカバーしなりたい骨格を演出できる、と海外セレブリティが紹介したことで爆発的人気に。またこのコントゥアリングメイク、大胆に塗ったシェーディングとハイライトを馴染ませてつくるため、馴染ませる前のインパクト抜群な顔がInstagramやYouTubeで拡散され、世界的ブームの一端になりました。 ●5 2015年〜ナチュラル血色感メイク ポイント:血色感チーク 使用アイテム:チーク 小顔印象テク:ほてったようなチークで顔にメリハリをつけて、小顔を演出する ライフスタイルもメイクもナチュラル志向になった2015年からは、「すっぴん風メイク」など元からかわいくみせるテクニックが流行。中でも一大ブームになったのが、ナチュラルメイクをベースに部分的な血色感を出すことで、お風呂上がりのような高揚した肌を演出する「血色感メイク」! じゅわっと内側からにじみ出る様なチークがポイントで、ソフトな色っぽさのある仕上がりに。内側を濃く、外側を薄めにした濃淡をつけることで、チークだけで立体感を出し小顔に見せられます。 |
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●2021年はどんなメイクが流行る?
この20年間で大きく変遷を遂げた小顔メイク。そして2021年、KATEが提案するのは「アイシャドウ」を使う下まぶた強調メイクです。 ●新トレンド / 下まぶた強調メイク ポイント:目の下のアイシャドウ 使用アイテム:アイシャドウ 小顔印象テク:目を下に大きくみせて、ほほの余白を埋める 「下まぶた強調メイク」とは、下まぶたにアイシャドウを広くいれることで、目を「下」に大きくみせるメイクテクニックのこと。ほほの余白を埋めることで、まつげメイクなど目を「上」に大きくみせるのとは違った印象の小顔演出が可能に。これまでの「たれ目メイク」や「涙袋メイク」の進化系とも言えるでしょう。このメイクのコツは、色や質感に特徴のあるアイシャドウを選ぶこと! 様々なトレンドメイクをご紹介しましたが、いつの時代も重要なのは「自分に似合っているかどうか」! より魅力的な自分を目指して、新たなトレンドの波に乗ってみるのもいいかもしれません (菅原菜々帆) |
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●「ヤマンバ」の登場と衰退 | |
●ヤマンバ登場の時代背景
1998年、突如、渋谷に登場し、様々なメディアで取り上げられたガングロ。年齢は10代半ば〜10代後半。ボリュームゾーンは東京、千葉、埼玉、神奈川などに住む15歳から18歳までの女子高生とされた。髪は茶髪あるいは白髪で、顔面は真っ黒。原色の衣服にミニスカートをはき、厚底ブーツもしくはサンダルを履き、集団行動を基本とする。日焼けサロンで焼き上げた顔の黒さが異様に目立つことから、顔黒(ガングロ)と命名。「肌をガンガンに黒く焼く」ことから「ガングロ」と呼ばれるようになったという説もある。目と口のまわりを白く隈取りしたような特殊なメイクは黒と白のコントラストを放ち、“パンダメイク”とも称され、特異性を見せつけた。特筆すべき点は、見る者、特に男性に明らかに違和感や嫌悪感を与えるメイクであったこと、日本のメイク史には前例のないメイクが脈絡なく登場したこと、集団性が顕著であったことなどである。全盛期にはさらに黒さを競うように「ゴングロ」まで登場した。「ゴングロ」とはガングロよりさらに焼けている様。ゴンは「超」の最上級を表わす接頭語である。 ガングロが登場した要因は諸説あるが、まず、ガングロ誕生の前に遡り、渋谷に顕著に見られた現象面から1990年代をたどり、時代背景を検証してみる。 |
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●渋谷で見られた現象とガングロの登場史
1991-1992年 渋谷にチーマー出現、チーマーの抗争激化。渋谷でルーズソックスが流行。日焼けサロンに注目が集まる。陸サーファーが復活。 1993-1994年 コギャルの誕生。援助交際が社会問題に。チーマーの終焉。コギャルの細分化が始まる。 1995-1996年 コギャルが首都圏で一般的になり、地方にも飛び火。コギャルの間にPHSが普及。ルーズソックスが一般化する。援助交際が全国区へ 波及。渋谷では日焼けサロン、カラオケに出入りする女子高生が話題に。アムラー登場。「Cawaii」創刊。ストリートマガジンが実施した読者モデル制の浸透。 1997年 渋谷に「髪に花を飾るロコガール」出現。 1998年 ロコガール・ブーム。「ガングロ」という呼称が登場。厚底ブーツ、金髪が登場。109「エゴイスト」が全国区に。カリスマ店員が話題。 1999年 センター街のガングロが話題に。一方では、美白の鈴木その子が脚光をあびる。ガングロの茶髪に白髪も登場し、「ヤマンバ」「ヤマンバ ・ギャル」という呼称が登場。パラパラブーム。ディスコやクラブにガングロ登場。 2000年 「ゴングロ3兄弟」が人気。「egg」のカリスマ読者モデルのブリテリ、柾川めぐみ(マサメグ)がガングロのファッションリーダーに。 「egg」休刊。 2001年 春、ガングロ消滅。 ガングロの全盛期は1998年〜2000年。わずか3年の間に渋谷から消えたことになる。果たして彼女たちはどのようにして誕生し、どこへ消えたのだろうか。 |
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●白と黒。メイクとヤマンバの相関関係
ガングロが独自のメイク・アイテムを買い揃えたのは、主に「マツモトキヨシ」や「100円ショップ」「ドン・キホーテ」などであった。可処分所得の少ない彼女たちは、日焼けサロンの利用代金とケイタイの通話料を支払わなければならないため、洋服はリーズナブルなものを選び、工夫してコーディネートしていた。時にバッグだけは一点豪華主義を貫くなど消費スタイルとしてはメリハリがある。ガングロが登場する要因のひとつに挙げられるのが、「Cawaii」や「egg」などストリート系雑誌の隆盛。読者が街角でスナップ撮影され、モデルとして登場。このようにして一瞬にして読者側から見られる側へショート・カットできるストリート系雑誌という「装置」が、ガングロたちをしてますます特殊で目立つメイクに走らせたという見方も根強い。 日本では長い間、白い肌が尊ばれてきた。日本のメイク史の文献によると、白い肌を尊ぶ考え方が発達し始めたのは、中国から白粉のつくり方が伝わって以降とされている。700年代末には日本でも白粉が普及し、支配階級で使用されたと想像される。白い肌を美とする傾向は平安時代に入り、より明確になっていく。絵巻の世界では肌の色の違いが身分階級の違いとして具体的に表現されている。肌色の美意識は時代とともに多様化していく。1960年代には若者たちの間で日焼けが受け入れられるようになり、さらに1980年代後半になると、海外旅行が一般化し、日焼けに優越感がなくなったことや紫外線の問題などがあり、日焼けを嫌う時代とタンニングマシーンによって人工的に日焼けする時代が並行する。つまり肌の色が自由に選択できる時代が到来したのである。 メイクを核に据えてファッションやボディ、表情など様々な文化にまで研究の幅を広げる「ポーラ文化研究所」が発刊する雑誌「化粧文化」の2000年号に「ガングロ」に注目した特集記事がある。同研究所は早くからガングロに注目し、研究に着手していた。「ポーラ化粧品本舗」(本社:五反田)広報部係長の掘さんは「イタリアの上流階級の、いわゆる貴婦人の間では、ほどよく日焼けをして金のジュエリーやホワイトゴールドのアクセサリーを身につけ、白いリップやアイシャドーをほどこすメイクが流行ったことがあるが、イタリアではほどよい日焼けは経済的な余裕の象徴。日本のガングロは突然、脈絡もなく発生している」と説明する。 当時、ガングロ女子高生にグループインタビューを行った「化粧文化」のコメントには「心の隙間を埋めるためにファッションやメイクに凝ってみる、という図式が浮かんでくる。(中略)黒肌が持っている健康的イメージを目指しているという感じはしない。また、白髪というのは年配者を意味するものだ。現在の生活に満足できず、気持ち的に疲れ、若いのに何年も生きてしまったような気がする自分に半分イヤ気がさしている。そんな気持ちがヘアーメイクに現れている気がするのだが…(後略)」と記されている。掘さんは「ガングロ少女たちは決して自分のメイクが素敵だとは思っていなかった。ただ仲間はずれにされたくない、というグループ所属の意識が高かったのだろう」と、グループへの帰属意識が仲間を表示する特殊なメイクをほどこしたと分析する。さらに「ガングロが登場した当初、メイクは穏やかだった。しかし、徐々に激しさを増していった。ヤマンバのようにメイクが過剰になったのは、リーダーがメンバーの忠誠心を試す意味もあったし、周囲から特別な目で見られることでさらに帰属意識を高めたのではないか」と進める。「それでも不自然な状態は長続きしない。飽和状態を迎え、バブルのように消えた。極度の日焼けはシミになるばかりか、歳を重ねるごとに老けて見られるなどメリットはない」(掘さん)。 一方、「ポーラ文化研究所」が1999年10月に発刊した「肌色をもっときれいにする本」では「美白とガングロ」にページを割き、逸早くガングロに言及している。興味深いのは、短大生と大学生に行ったアンケートの結果。黒い肌の利点として(1)健康的に見える63% (2)個性的にできる15% (3)欠点を隠す11% (4)若く見られる4% となっている。さらに「欠点を隠す」に触れ、ガングロに傾斜する女性の心理を分析する。「白くなったとしてもそれだけでは満足できず、今度は目鼻立ちまでもが評価の対象になる。このように何段階もの努力をしたところで得られるものが少ないとしたら、白肌で勝負するよりもむしろ違う方策を考えたほうが得」、「白一辺倒になりがちなまわりに対して、大きな異議申し立てをして、自分たちの個性を主張していると理解できる。その意味で、結果的には肌色の価値観の多様性を表現し、主張しているように見える」、「グループのアイデンティティとしてのガングロとも解釈できる」と、様々な角度からガングロ化を分析している。 |
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●ファッション、音楽、日焼けサロンとガングロの相関関係
渋谷エリアで最大規模のフラ・ショップ「マウナロア」(恵比寿)を経営する「エムエムジェイ」代表の白杉さんは1999年まで渋谷センター街に10代の女の子をターゲットとしたアンテナ・ショップを開いていた。ショップを展開した時期はまさに“ガングロ・ブーム”の前夜から全盛期である。白杉さんはトロピカル・テイスト、ロコガール・テイストを演出する小物としてハワイアンの必須アイテムであるレイを販売。またたくまにレイは色黒の彼女たちの髪に飾られ、1998年に「ロゴガール・ブーム」を呼び起こした。一部では「ガングロ・ブーム」の呼び水になったという見方もある。白杉さんは当時の若者の2大トレンドを挙げ、少女たちの「ガングロ化」を次のように整理する。 (1)この時期、陸サーファーがブラック・ミュージックの影響を受け、ダンス系に移行。サーファー志向の強い色黒の若者もストリート系のヒップホップに目覚め、黒人に対する憧れが広がっていった。女の子たちもその影響を受け、その一部が人気雑誌「egg」や「Cawaii」に後押しされ、顔の黒さを増していった。 (2)「第3次パラパラ・ブーム(1998年)」の余熱が冷めない頃だったので、同じファッション、同じダンスをしていても、集団の中でさらに目立つメイクとして独自に進化していったのではないか。 「ガングロ・ブームの以前から、渋谷にはコギャルとの差別化を図ろうとする、数少ないがガングロ・メイクの女の子たちが徘徊していた。ブレイクする何年か前からファッションとしての予兆はあったようだ」と、白杉さんは話す。「ガングロ」と命名される以前に現象としてあったことを示唆する証言でもある。 「SOLE渋谷店」(宇田川町)ほか都内に26店舗、全国に約80店舗のタンニングスタジオを経営する業界最大手の「サンライズ・ジャパン」(本社:南平台)のソラリオン事業部・鳥居さんは、ガングロが街にあふれた頃を苦々しくふりかえる。「当時は、日焼けサロン=ガングロとマスコミに報道され、著しくイメージが低下した時期。特に渋谷店などは中学3年生や高校1年生といった子供たちがあふれていたが、我々からすれば迷惑だった」。日焼けマシーンはもともと日照時間の少ない北欧などヨーロッパの主要都市で日照不足による体の不調症状の改善や、体力強化のために開発された人工光線による日光浴マシーン。つまり、医療器具として開発されたものである。しかし、日本に上陸した際にファッションの一環としてPRされたため、「本来の使い方とは異なる利用がなされ、1980代末に一気にブレイクした」(鳥居さん)。その後、ガングロ・ブームが訪れ、イメージの低下に危機感を抱いた同社が業界に呼びかけ、「日本ソラリウム協会(JSA)」を設立。欧米各国のタンニング協会、光線科学の専門家とコミュニケーションを図る一方、JSA加盟店による週1回の会議を開くなど、光線浴による健康法や安全なタンニング方法、紫外線の生理作用などの正しい知識の普及活動を行っている。 鳥居さんは「タンニングスタジオの客層は地域によって大きく異なり、渋谷は若い方が多いが、例えば隣の恵比寿では若い利用者は少なくなり、五反田ではサラリーマンが主流となる。どちらにしても現在、どの店舗にもガングロはほとんど見当たらない」と現状を語る。さらに「ガングロが流行った際に男性にも黒くなりたいという願望が芽生えたという興味深いレポートがある。事実、現在では利用客の8割が男性で、経済的にも余裕のある方が多い。精悍に見られるようになりたい、明るく元気に見られたい、という男性の願いがあるようだ」と、男性マーケットが拡大した要因を分析する。また、同社では大手フィットネスクラブにタンニングマシーンを納品していることから「健康的に日焼けしたいという健康志向の高い男性はフィットネスクラブでタンニングマシーンを利用する傾向にあり、日焼け人口はひそかに増えている。しかも夏だけでなく、利用客は通年タイプに移行している」(鳥居さん)という。「ヤマンバの時代もあったが、今となってはプラスになっている。ケイタイの通信費を払うのに四苦八苦する10代をターゲットとした日焼けサロンが相次いで店を畳んだのは自然の流れ。マーケット自体は多少縮小したかもしれないが、逸早くマーケットのシフトチェンジを行った企業は今日、安定したビジネスを行っている」と、日焼けサロン業界を俯瞰する。 「週刊プレイボーイ」2000年5月2日号では、当時の「渋谷ギャル・ヒエラルキー」を次のように紹介している。あえて肌を黒くしない色黒指数=0を「ギャル」とすれば、その下に、金髪・茶髪等なにかにつけて中途半端でヤマンバたちから嫌われている色黒指数=1の「チョイギャル」が生息していた。一方、「ギャル」の上には、パンダメイクには至らない色黒指数=5の「ガンギャル」が、さらに上には白髪、エクステンション、パンダメイクで色黒指数=8〜9の「ゴンギャル」が存在した。そして頂点には、時にペンキ等も使うとされる色黒指数=10の「ヤマンバ」が存在し、中でも「ブリテリ・ふみっこ・アコ吉」の通称「ゴングロ3兄弟」が、雑誌「egg」等を通じてカリスマ的人気を集めていた。 |
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●ヤマンバの民俗学的分析
当時の雑誌からメイクに関する記事を集計すると不思議な相関関係が浮かび上がる。「美白」と、「小麦色」「ガングロ」「ヤマンバ」という「黒肌」系のキーワードの掲載量を検証してみると、美白のピークを迎えた1999年1〜3月頃、「ガングロ」が登場し、2000年7〜9月頃の「ガングロ」の低迷とともに秋からは「美白」が再浮上している。交互に登場する「白」と「黒」の対比が時代を象徴していて興味深い。ちなみに、「ヤマンバ」という俗称を最初に紹介したのは1998年9月1日号の「SPA!」だった。当時の誌面では「ヤマンバ・ギャル」別名「ブタギャル」とあることから、この段階ではまだネーミングが完全に定まっていなかったことも読み取れる。 それでは、進化した「ガングロ」が何故、「ヤマンバ」と呼ばれるようになったのだろうか。ここで伝承の中の「山姥」を検証する。伝承の中では、山姥は金太郎の母親であった。山姥は山に住む特別な力を持つ存在で、1751年の文献では角がはえ、牙の出た山姥の絵が残っている。鬼婆である。江戸時代、寛政後期に歌麿が描いた金太郎の母=山姥の絵は母性を備えたやさしい表情で描かれ、その後は一貫して美女として描かれることとなる。倉石教授によると「ヤマンバは近世以来の出版物等の文字によって表象化された山姥像とは異なり、別の伝承がヤマンバの命名に影響している」と説明する。人里に下りて人を食らう、異界からの使者・山姥は数多くの民話や昔話に数多く登場する。「渋谷のヤマンバは感覚的に伝承性の強い民間伝承として蓄えられた文化が噴出したもの」と、ヤマンバの誕生と照らし合わせる。「伝承的な山姥が出現するのは“ハレ”の時で、場所は“市(いち)”。山姥は市に出て買い物をした。市は、特定の時に集まってきて物を売り買いする場所のこと。人が集まりやすく物資を交換しやすい所に市ができた。つまり市は里の人と山の人や、そうした所への物資の出会いの場である」。山の世界と里の世界が交じり合う境界領域に登場するのが山姥。ここで姿が異なる山姥とセンター街の少女たちが結びつく。そして「ヤマンバと呼ばれる異様さは、白が美しいとされる美の秩序を崩した」と、少女たちの革新性にも関心を寄せる。 色白、黒髪、赤い唇といった美女としての一般的な認識とは相容れない「ガングロ」。あえて一般的な美意識と反対方向で目立つことを選んだ「ヤマンバ」誕生の背景には、「受身から攻撃へ転じる少女たちがそこにいる。里の文化と相容れない山姥の特性でもある。しかし、どこにでも出現するわけでなく、渋谷のセンター街であった。普通の生活の場ではなく“ハレ”の場、つまり日常とは異なる時空ではじめて異端も認められることになる。センター街のような盛り場では、匿名性が保証される点と、盛り場なりの秩序がある点も、彼女たちの出現に大きく影響したという。 |
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●渋谷“センター街”の異界性
反秩序的なファッションのヤマンバも、渋谷センター街では安心して身を置くことができる。渋谷全体が非日常化しているわけでなく、センター街に特化して見られた理由は次のように説かれる。「二つの異なる秩序が出会ってつくり出されるもうひとつ境界的な空間、秩序がセンター街に相当し、そこでは一般的に認められている美的感覚とは異なるファッションをしても認められる。異界性を持つ山姥が入り込めるようなところである」。さらに境界的な存在であるヤマンバは、少女から大人へと移行する境界的な女性のあり方とも見られるのである。 倉石教授はヤマンバが渋谷のセンター街で数多く見られたことから、「民俗学的に渋谷センター街を捉えると、“ハレ”の場ということになる。異界との境界的な入り合いの場であり、異界の者で異様であっても異様なりに受け入れられる場」と定義し、渋谷という“盛り場”が持つ特異性に着目する。「異端者は言葉を変えれば“かぶき者”でもある。センター街は異界性が強く、幅も深さもある。センター街は、ある意味で“年中お祭り”状態であるから、“かぶき者”が普段から登場するのも自然な成り行き。しかし、ヤマンバ・ギャルに遭遇すると、無意識的に山姥のような異界の存在を連想し、畏怖する。ヤマンバ・ギャルがあえて異様なメイクを施し、センター街を闊歩したのは無意識的であっても、何かの意志表示であったのかもしれない」と、センター街とヤマンバの相関関係と彼女たちが自らをメディア化したのかもしれないという見解を展開する。当時“ヤマンバ”や“ヤマンバ・ギャル”と、あえて異端をあらわす呼称が付けられたのも「潜在的に異質なもの、特異な外見のものを排除するような心理があったのかもしれない」と分析を加える。 倉石教授によると、ヤマンバはその後、2000年夏頃「アマゾネス」へと発展を遂げるが、その攻撃性が受け入れられず一気に衰退へと向かった。 マスメディアが作り出す“劇場社会”とはひと昔前にネーミングされた現代社会や都会を指す言葉だが、渋谷はその“劇場社会”の「表舞台」である。ここでは多くのスポットが照らされ、異質なものも報道性や話題性があればピンスポットを浴びることができる。今、改めて振り返れば、“非日常性”を帯びた渋谷は、毎日が“非日常的=ハレ”の場所であることから「ヤマンバが登場したとしても何ら不思議ではない」と、民俗学的に捉えることができる。 彼女たちがあえて大人や異性に好かれないメイクを施したのは、美白化への抵抗、やさしさを強制させる女性性の否定、あるいは大人化への抵抗を表す“記号”であったのかもしれない。あるいは、ほんの一瞬の間だけなら“カリスマ”になれることを自ら体験しようとしたのかもしれない。ただ、経済的なアプローチで捉えると「表舞台」から消えたヤマンバたちは、渋谷の消費リーダーたりえなかったとも言い表せる。センター街を自己表現の舞台としてのみ捉えるヤマンバは、渋谷で新たな消費スタイルを確立できなかったのである。 講座「渋谷学」誕生の背景には、動き続ける渋谷の記録を集約しておきたいという関係者の願いもあった。過去の資料や文献もさることながら、動きが早く、行き交う情報量が膨大な渋谷だけに、その時々で大きなインパクトを与えた最近の事象についても、記録や資料が散逸しがちで、結果として十分に検証されないまま、時が過ぎて行くケースも少なくない。「ヤマンバ検証」は、渋谷の歴史を語る上で必須ではないかもしれないが、ほんの数年前にマスメディアを通じて大きな影響を与えた事象として改めて捉え直すことで、都市の情報発信性を解き明かす手掛かりとなる可能性は大きい。連続する文化の中で渋谷を捉えようとする民俗学的アプローチの今後の成果に期待したい。 |
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●ガングロギャルのカリスマを有吉弘行が謎のプッシュ 2019/6 | |
元ガングロギャルでタレントのあぢゃが、6月15日放送の『有吉反省会』(日本テレビ系、毎週土曜23:30〜)に出演し、「ここ最近、ガングロブーム代表として平成を振り返る特番に呼ばれまくっているが、このブームに乗じて荒稼ぎをもくろんでいること」を反省した。
有吉弘行が司会を務める同番組では、ゲストの「反省人」たちが過ちを告白&懺悔。毒舌タレントが「反省見届け人」として参加し、最後に反省人が行う「禊」を見届ける。今回の反省見届け人は、バカリズム、指原莉乃、博多大吉。 平成11年のガングロブームと共に出現し、奇抜なヤマンバメイクで一躍注目を浴びたあぢゃ。バラエティ番組をはじめ、CMやドラマなどにも出演し、時代の寵児となるが、その後、ガングロブームも過ぎ去り、現在はタレント活動と並行して銀座のクラブでホステスとして働いているという。 しかし、改元による“令和ブーム”が到来したことで状況は一変。かつてガングロギャルの代表だったあぢゃは、平成を振り返る特番に呼ばれまくっているのだとか。これまでに7本の番組に出演し、どさくさに紛れてガングロメイクも復活。さらに、ガングロのキャラクタービジネスにも手を出し、荒稼ぎしているそう。 あぢゃは、「ヤバタニエン」など、現代のギャル語も使用しつつ、当時のガングロメイクでスタジオに登場。「かわいいね。これくらいであってほしいもん、ギャルって。みちょぱとか全然ダメ」と、みちょぱを引き合いに出して適当に褒めちぎる有吉に対し、「お目が高い、オメガ! オメガ!」とノリノリで返していた。 一方で、指原は、NHKの改元特番『ゆく時代くる時代』であぢゃと共演したときには、まだヤマンバメイクをしていなかったと証言。その番組であぢゃは「キレイ系になったんですよ〜」と言っていたそうで、指原は今のあぢゃに対し、「すごい変貌を遂げた」と驚いていた。 これにはあぢゃも、「それはやっぱ、GAP大事だから、ギャップ」と説明。そこに有吉も乗っかり、「わからないんだろうな、サシタニエンは」「もうちょっとマンバったほうがいいよ」と、ギャル語風に指原をディスっていた。 また、バカリズムはあぢゃに対し、「デコレーションしたうんこ」や「黒く塗ってごまかしてる」など、辛辣な対応。しかし、あぢゃの好みのタイプはバカリズムだそうで、「俺、ホント、なんでこんなイタイやつばっかにモテるの?」とぼやいていた。 そんなあぢゃへの禊は「ヤマンバが出ると言われている超激ヤバ心霊スポットで恐怖体験」に決定。あぢゃは真顔で「本当にヤダ」と拒否しながらも、バカリズムに「一緒に行こうよ」と声をかけていた。 |
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●ガングロメイクのファンデーション 2020/7 | |
ガングロ芸能人って、どこのブランドのファンデーション使ってるかご存知ですか? 最近よくガングロギャルについてテレビで特集されてますよね。ガングロギャルっていうのは超色黒のメイクをした若い女性です。私の年齢は30代半ばなのですが、ガングロは確か中学生くらいの時にものすごく流行りました。西暦で言うと2000年前後でしょうか。アムラー、シノラーと共にものすごく流行って、日本の文化のひとつになりました。令和元年の現在でも、少数ながらガングロメイクが大好きな女性達がいて、渋谷や原宿では外国人たちに大人気です。一緒に写真を撮って欲しいと頼まれているガングロギャル達も多数います。2020年は東京オリンピックで外国人観光客はものすごく増えるでしょう。となるとガングロギャル達の人気はさらに上昇し、ガングロメイクの再ブームが起こるかも知れません。それに合わせて「これからガングロをやってみよう!」という女性が増えると思います。ということで、これからガングロを始めてみたい方はどんなファンデーションを使えば良いのか、調べてみました。
●ガングロメイクのファンデーションはどのブランドのものを使うべき? 結論から言うと、メイクアップフォーエバーという会社のものが良いです。メイクアップフォーエバーは1984年にフランスのパリで生まれました。元々プロのメイクアップアーティスト用に作られたものです。ですのですごくたくさんの種類の商品をリリースされています。うまく使いこなせば、どんな表現もピンポイントで出来ます。※プロ向けなのでちょっと高いですが・・・。amazonでも楽天でも気軽に買う事が出来ますし、メルカリにも多数出品されてます。またメイクアップフォーエバーの公式サイトにはメイクのやり方まで載っています。メイクの練習や復習をしてみるのも良いかも知れません。なぜメイクアップフォーエバーのファンデーションを推奨するのか、他にも理由があります。何か新しいことを始める時には、その道のプロにやり方を聞くのがいちばん手っ取り早く確実です。ということでガングロのプロの話を聞いてみましょう。今の日本でガングロのプロと言えば黒ギャルユニット『Black Diamond(ブラックダイアモンド)』のあゆたまさんです。このあゆたまさんがメイクアップフォーエバーのファンデーションを使ってるのです。しかし、同じくBlack DiamondのはるたむさんはMACのものを使われています。どのファンデーションが良いのかは、お店で聞くよりも実際に使っている人の生の意見を参考にする方が良いです。Youtube、インスタグラム、ツイッターなどで探してみましょう。本記事のようにただのブログで紹介している所はあまりありません。 ●まとめ 以上、なんだか内容の薄い記事になってしまってすみません。もう一度おさらいしますと、メイクアップフォーエバーやMACのファンデーションがオススメです。コスメショップの店員に聞くと、自分のお店の商品を勧められるに決まってます。それが商売ですから。やはり、実際に使っている人の生の意見の方が信用できますよね。ゼロから探してみたい場合は、Youtubeやインスタでガングロ、黒ギャルメイクのプロを探してきて、今度はそのプロ達の使う化粧品を探してみるのが近道です。 |
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●「どうしてあんな格好をしていたんだろう……」 2018/3 | |
ファッションというのは時代とともに流行が変わるもの。ファッションの流行の歴史をたどると、その背景にある文化やアートの歴史まで触れることができるため、興味深く迫ってみるとなかなか面白いものです。
しかし、ファッションの流行というのは時にとんでもなく奇抜なものを生み出してしまうもの。当時は誰もが当たり前のようにやってきたファッションでも、ブームが去ってから写真などを見て振り返ってみると「どうしてみんなこんな格好をしていたんだろう……」と恥ずかしくなってしまうことも少なくありません。 そこで今回は、近年でいわゆる黒歴史とされるファッションをずらりとまとめてみました。それぞれ当時は流行していたのに、今振り返るとなぜ流行っていたのかわからないほど恥ずかしいものばかり。特に30〜40代の人は実際にやっていたという方が多いのではないでしょうか。 ●1. ミニスカートの下にジャージ スカートをパンツが見えそうなほどに短くして、その下にジャージやハーフパンツを履くのが流行っていたことがあります。隠すことや寒さ対策が目的だったら最初からスカートを長くするか、ジャージだけを履いたりしても良かったのでは…。 ●2. 眉毛がなくなる 細眉が流行っていた頃は誰もが暇さえあれば眉毛を抜いていました。メイクを落とすと「平安顔」に変化するため、家族にびっくりされたと言う方も多いはず。すっぴんの顔なんて見せられません。現在は太眉が主流ですが、当時眉毛を抜きまくった女性には眉毛の植毛をする人もいるのだとか。 ●3. ガングロ・ヤマンバギャル 「ガンガン黒い」の略称だったガングロ。日焼けサロンで焼いたり、濃い色のファンデーションを塗ったりして黒く見せるメイクでした。さらに、真っ黒な肌に白い唇、白系の淡い色のアイメイクをほどこし、カラーコンタクトをつけたヤマンバギャルも流行りました。 ●4. 100センチを超えるルーズソックス ルーズソックスブームの最盛期には、ソックスの裾にひだをたくさん作るために、1メートルを超える長さのルーズソックスを履くこともありました。重いのでソックスがずり下がってしまうため、超強力なノリを使ってソックスを止めていましたね……。 ●5. 厚底サンダル・厚底ブーツ ソールの高さが15センチ以上ある厚底のサンダル・ブーツが流行ったこともあります。大流行のきっかけは安室奈美恵さんでしたが、厚底ブーツは片方で重さ1キロ以上。足首に重りをつけて鍛えるスポーツマンのようです。歩きにくいのに無理して履けたのは若かったからでしょうか。 ●6. 長めの前髪をアップ 長めの前髪をゴムでまとめ、アップにするのが流行ったことがあります。その姿は茶髪のちょんまげのようでした。 ●7. 大量のストラップ 携帯電話(またはPHS)に大量のストラップをつけるのが流行っていました。量が多すぎて携帯よりストラップの方が重くなるほど。行ったこともないご当地キティちゃんをひたすら集めて携帯につけるのも流行りました。 ●8. ブランドの紙袋を使い倒す ブランドのバッグではなく、紙袋を持つのが流行った時期があります。ブランド紙袋は比較的頑丈ですが、それをボロボロになるまで使い倒していました。 ●9. キャミワンピ1枚で街歩き キャミソールが流行っていた頃は、キャミソールのワンピース1枚にミュールや厚底シューズで街中を歩く人が続出。下着が見えていても何も気にせず、上着も羽織らず街を歩く人が多かったのです。写真で振り返ると、どう見ても下着で街歩きしているようにしか見えません。 ●10. 浜崎あゆみの真似をして尻尾 浜崎あゆみさんの全盛期は若者のファッションリーダー的な存在でしたが、浜崎さんが腰にキツネの尻尾をつけていたのを真似して、同じようなものを買って腰のベルトのところにつける人が続出しました。 ●11. ヒステリックグラマーブーム ヒステリックグラマーが好きで、SEXなど過激なプリントTシャツを着る人が続出することもありました。「女子なのに卑猥な言葉の服を着こなすロックな自分がかっこいい」という考えだったそうですが、外国人からしたらびっくりだったはず。 ●12. へそピアスをあけた ピアスが流行り、耳だけではなくへそピアスなど「ボディピアス」をする人が多かった時期があります。へそにピアスをしても見せる機会があまりないため、チビTを着ておへそを出して歩く人も多かったです。 ●13. シノラーだった シノラーと呼ばれる奇抜なファッションをしていた篠原ともえさんに憧れて、縄跳びで作った腕輪をつけ、ランドセルを背負って街を歩く人がたくさんいる時期がありました。重度の人はファッションだけでなくしゃべり方までコピーしていたのです。 ●14. 短ラン・長ランが流行っていた 短ラン・長ランのどちらも人気がありました。あまりに短く・長くするのはダサく、少しだけ短くしたり長くしたりしていたのですが、今見直すと中途半端でしかありません。 ●15. 腰パンでトランクスを見せる ズボンを腰で履いて、トランクスが見えているのがかっこいいと言われる時期がありました。ゴムが伸びたトランクスを履いていると半ケツ状態になりますが、当時は誰も気にしていなかったのが凄い。 ●16. ブレザーはゆるく着る ズボンは腰パンかつダボダボ。シャツの裾は上に出し、第2ボタンくらいまで外し、ネクタイは緩める。そんな酔っ払ったサラリーマンのような着崩しスタイルが流行っていたことがあります。 ●17. 学ランの下にパーカー 学ランの下にパーカーを着るのがかっこいいという風潮があった時期があります。家から学校に着て行くと没収されてしまうため、パーカーはバッグに入れて通学し、授業終了後にわざわざ駅のトイレで着替えて遊びに行くという面倒なことをしていたのです。 ●18. 他の高校のカバンを使う 自分が通っている学校指定のバッグを使わず、他の高校のバッグを使うのが流行していた時期があります。友人の繋がりがないと買えないものが多く、学校によってレア度のランク付けがされていました。 ● 今こうして振り返るといずれも恥ずかしいファッションですが、すべてに共通して言えるのは、当時は誰も恥ずかしいと思っていなかったというのが恐ろしい限り。もしかしたら現在流行っているファッションも、あと5年10年して振り返るととんでもなく恥ずかしく思うのかもしれませんね。 |
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●ガングロギャルの“ロック魂”に共感 『黒い暴動』を観る 2016/7 | |
肌を黒く焼き、目の周りを白く囲んで、パラパラに精を出すガングロギャル。1998年から2000年をピークにヤマンバ、マンバと少しづつ形を変え、2008年頃まで進化し続けていた。今もガングロカフェなるものもあり、絶滅したかと思いきや、実はまだ生息している。日本文化にある舞妓の美とは、まさに真逆を行くようなそのスタイル。日本文化の研究者に言わせると、ガングロは伝統的な日本社会に対する復讐の一形態だそうだ。
当時、彼女たちを見て、正直よく分からない存在だと思っていた。そして今回このガングロギャルを描いた映画『黒い暴動♥』について書くことになり、一体何を書けというのか!?と内心思った。ギャル映画を観て何か感じるものがあるのかと。しかも題名の最後に♥も付いている。おそらくガングロと聞いて「懐かしいな」と同調する人と「そういえば、そんなのいたな」と敬遠する人がいるだろう。私もかつて多少肌を焼いた時期もあったが、ガングロギャルに対して特に敬遠もしなければ、興味も持っていなかったタイプである。ところがこの映画を観て一転、同調する派に回ってしまった。まるで自分がかつてガングロギャルであったかのように。 石川県の片田舎で煮え切らない「クソ」な日々を過ごしていた女子高生、美羽(馬場ふみか)がガングロギャルに変貌。そしてアラサーとなった今を描いている。最初の掴みからテンポよく持って行かれ、エネルギッシュさと多少の切なさも感じながら、気がつけばエンディングに。最後には沸々と湧き上がって来る、得体の知れない疾走感。そして、かつて自分が感じていた根拠のない自信。宇賀那健一監督が「ギャルとはあの時代、世界中で日本だけに発生したロックンロールだ!」と言うのも妙に納得できる。 ギャルはパラパラに熱中する。「明日世界が滅亡する」と思って毎日を生き、「外野は空気だ」と自分を貫く。周りから見れば、すごくくだらないことかもしれないけれど。かつて自分も彼女らと同じように、青春時代を生きていたことを思い出す。ただ熱中する矛先が違っただけで、モチベーションは同じだったかもしれないと気づく。それは淡々と生きる毎日への反抗心であったり、きれいごとを並べる社会へ投じた一石だったのかもしれない。しかもアラサーになったギャルたちの「どんなに生きても27までだと思っていた」という言葉にハッとした。私も全く同じ考えだったから。限りある時間だからこそ、怖い物なしで生きられた。 世間からは計画性がない、そう思われるかもしれない。ただ長い人生と考えた場合、それがどんな形であれ、命を燃やすような瞬間が一瞬ぐらいあってもいいのではないだろうか。生きて行くうちに、それでよかったと思うのか、間違いだったと思うのか。それを肯定しても否定しても、後々の人生の糧にはなるような気がする。そして何かに熱中したという感覚は、挫折を味わった時、自分を再度奮い立たせる原動力になるのではないだろうか。あの時、ワクワクした気持ちは体にインプットされているのだから。 元ヤンで、後に更生して成功したという人の話もよく聞く。何かしらに反抗心を持ち、疑問を抱き、その中で肯定や反省を繰り返しながら、生きて来た結果なのかもしれない。だからと言ってヤンキーになれ、ギャルになれ、という話ではないが。特に草食系が多い昨今、多少の反抗心を持つことも必要なのではないかとさえ思う。もちろん周りに迷惑をかけなければが前提で。 普通に考えればガングロは、肌を焼けば将来シミにもなるし、当時、その容姿は日本の外観を乱すと言われていたかもしれない。パラパラも将来、役に立つわけではない。決して世間体もいいわけではない。でも、私はそのエネルギッシュなロック魂は肯定したい。 劇中、ギャルを演じる皆が、水を得た魚のように自由でキラキラして見えた。『黒い暴動』この題名も、彼女たちにはピッタリだ。ギャルにはギャルの世界観がある。 |
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●かわいいマンバとガングロ 2004/6 | |
●1.「ガングロ」の再来
今、渋谷では「マンバ」と呼ばれる若者が増えている。その外見は、一見するとあの「ガングロ」の進化形である「ヤマンバ」とそっくりである。1999年に世間を席巻し、2000年に収束した「ガングロ」ブームは、今静かに再来しつつある。「マンバ」は主に10代後半の若者で構成される。一般に、この年代の若者は感性が鋭く、時代の雰囲気を敏感に捉えて行動するものと考えられている。彼らの姿は、現代社会のどのような実相を映し出しているのか。今回は、景気の動きと社会の変化という視点から、彼らのスタイルのもつ意味を分析する。 |
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●2.「マンバ」の素顔
●(1)「マンバ」とは何か そもそも「ガングロ」「ヤマンバ」を知らない(もしくは忘れた)方のために、彼らの特徴を簡単に整理しておこう。ガングロとは、「ガン=顔、グロ=黒」すなわち顔を黒くした若者(女性)である。通常は日焼けサロンで黒く焼いており、髪は茶髪、メッシュ1 が多い。高校生がメインであった。渋谷センター街が発祥の地とされており、当時は、渋谷駅前の通行人の半分がガングロであったといっても過言ではない。彼女達はクラブでパラパラを踊り、街でマッタリする。ガングロギャルがさらに過激になったものが「ヤマンバ」である。ヤマンバもその名の通り、山姥のような爆発した白髪(メッシュ入りも)、より黒くなった顔、白く塗った目元と唇が特徴であり、共に周囲からは際立つ存在であった。では、今回増えつつあるマンバはどのような感じなのだろうか。大まかにみてみよう。年齢は基本的に15〜20歳前後、高校生が中心になっている。居住地域は首都圏(東京を中心)に散在しており、特に目立った偏りはない。よく見かける場所はやはりセンター街であり、その他の場所で出会うことは少ない。マンバの男性版も出現し、センター街で見かけることから「センターGUY2 (ガイ)」と呼ばれている。彼らはクラブによく通っており、複数のヒアリング対象者によると、平均で週に3〜4回ほどは通っているとのこと。パラパラではなく、トランスやテクノなどの音楽に合わせて踊る。曲によって異なる振り付けを覚えるのが大変らしい。服のブランドは「アルバローザ3 」が主流である。道端に座るのは日常的なことであり、おしゃべりをするだけでなく、鏡(20cm四方ほどの大きさのものもある)を取り出して化粧をする、バイト雑誌を広げる、といった光景も見られる。彼らの間で流行っているのは、ネコに代表される動物モノである。ふわふわしたネコ耳を頭に付けている子、コンシーラー4 でネコひげをメイクする子など、様々である。手と手首を丸めて前に出す「にゃン」というネコポーズもよくとられている。他にも、「汚(お)ピンク」と称して明るいピンク色の格好で全身を固めるスタイルもかなり浸透している。 彼らの素顔をもう少し具体的に知るために、マンバの生活ぶりを少し覗いてみる。 ●ある19歳マンバギャルの休日 午後3時起床。昼間はクラブに行くはずだったが、寝過ごす。青葉台(横浜市青葉区)に住む彼女は、電車(東急田園都市線)で1時間かけて渋谷へと向かう。午後6時ごろ、渋谷で友達と待ち合わせをして、到着。荷物はたくさん持つ。カバンの中には化粧道具、鏡、アイロン、ドライヤーなど。ナイロンの手提げカバンの中にも、キティちゃんの小銭入れ、着替え(クラブ用)など様々。全部で4〜5キロほどもある。午後11時からクラブに行くので、それまで適当にセンター街をぶらぶらする。クラブでは大抵朝まで遊ぶので(この日は明朝5時まで)、今晩は徹夜の予定。早いときは友達の家に行ったり、漫喫5 で夜を明かすが、この日はまだ決まっていない。 このような感じである。センター街で見かける彼女達は、ただ無目的に来ているわけではなく、友達と会ったり、クラブで遊ぶという目的をもって来ていることが多い。 ●(2)「マンバ」と「ガングロ」の共通点 このようにみてくると、マンバの生活スタイルに関しては、基本的にはガングロと大差がないように思われる。ガングロとの共通点をいくつか挙げてみると、 1) 肌の色が真っ黒 2) 「渋谷109」6 でお買い物 3) 街で座って群れる 4) クラブで遊ぶ 5) 周囲から見ると異様 6) 目立ちたがっている などがある。しかし、2) 3) 4)は最近のギャルにも見られる行動であり、これだけでマンバをガングロと同じ人種とみなすことは早計である。むしろ、次の項でみるガングロとの違いに着目したい。 ●(3)「マンバ」と「ガングロ」の違い 「マンバ」と「ガングロ」をもう少し別の視点から比較してみよう。ガングロは、茶髪にマイクロミニスカート、厚底ブーツが多く、その外見や言動は自己主張・自信の表れと捉えられた。当時の雑誌の特集からは、彼女達にとって、「カッコいい」が共通の目標であったことが浮かび上がる。どちらかというと周囲に対して敵対的であり、社会に対する反抗的な性格が取り上げられることも多かった。一方、マンバの特徴的な性格を端的に表すキーワードは、「汚ピンク」「ネコキャラ」「カワイイ」に集約される。従来では忌み嫌われる言葉であった「汚」を多用することは、ガングロには見られなかった現象であり、社会一般から見てもきわめて特殊である。しかし、実際に彼女達が「汚」を価値あるものと捉えているかについては不明な点もある。彼女達の「汚」の使い方には、 「汚ピンク隊」→(お)ピンク隊7 「汚水色」→(お)みずいろ 「汚いら」→おいら 「汚天気」→お天気 「汚外」→お外 などの例がある。一見するとわかるように、「汚」自体の意味を捉えているものはあまり見当たらない。「ネコキャラ」「カワイイ」は、これとは全く逆の意味をもつ。興味深いのは、彼女達の関心の方向が、世間で一般に認められた価値と共通する点である。ネコは元々愛玩の対象となる生き物として人気があり、子供がネコの着ぐるみ姿で登場する車のCMもあるほどである。彼女達はネコグッズを多用し、「にゃン」というセリフを好んで使う。これらは「カワイイ」ものを好むという、従来からある価値をより押し広げたものである。この点は、「肌の白さ」という従来の価値に反発して、別の価値観を打ち立てようとしたガングロとの最も大きな差である。また、「センターGUY」の登場も目を引く。ガングロは女性を中心とした現象であり、男性にはあまり極端な動きが見られなかった。しかし今回は、マンバの男性版である「センターGUY」が登場している。彼らはマンバと同様に唇を白く塗り、「アルバローザ」の服を着るなど「マンバファッション」を身にまとっている。男性が「かわいくなりたい」「ちやほやされたい」などと発言するのは、これまでの価値観ではあまり考えられなかったことである。彼らの登場は、これまでと比べて、異彩を放っている。このように、ガングロからマンバに至る過程では、価値観の方向性に変化がみられる。このような変化が起こった要因は何か。何か他の社会的な現象と連動しているのか。以下では、ふたつのブームに沿って生じた共通現象とその変化を探り、マンバブームの背景を追究する。 |
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●3.出現の歴史と社会の変化
●(1)「ガングロ」「マンバ」ブーム共通の社会背景 ここでは「ガングロ」ブームと「マンバ」ブーム、一見似通っているこのふたつの現象の背景にある共通項について考察する。まず、近年になってこのように極端とも思える現象が若者の間で見られるようになったのはなぜであろうか。これに関してはマスコミの存在が大きいと考えられる。マスコミは、現象を取り上げることによって広範に知らしめ、社会の大勢であるかのような錯覚を与える。その錯覚によって彼らに自信を与え、現象の増幅を促進しているのである。また、若者はマスコミが与える刺激全てに反応しているわけではなく、自らの思いと合致する現象を選択している。そのため、彼らが共鳴したその現象は、若者が時代を読み取ったうえでの、若者自らの主張であるとみなすことができる。 次に、彼らの動きがなにを表しているのかについて考えてみる。彼らの出現する「渋谷」はヒト・カネの集中する場であり、社会経済の変化の影響を受けやすい場と考えられる。ここで経済の機運、時代の雰囲気を捉えた若者がそれに反応し、主張しているのではないであろうか。これらの現象が現れた年代に着目してみると、 1998〜2000年 ガングロ 2003年〜現在 マンバ となっている。一方、同時期の社会経済状況をみてみると、 1998〜2000年 ITバブルによる景気の上昇機運 2003年〜現在 製造業などの好調による景気の上昇気運 となっており、重なりがあることがわかる。景気の上昇局面と連動性があるという事実は、一見単なる偶然であるかのようにもみえる。しかし、「景気の上昇局面」との連動ではなく、「景気の上昇局面の裏に隠れた何らかの変化」との連動、と捉えるとどうであろうか。この連動性は、経済の表層をみるだけでは理解できない。 ●(2)「マンバ」「ガングロ」に表れる社会環境の変化 それでは、「マンバ」「ガングロ」ふたつの現象の差異は何を表しているのだろうか。この間に社会環境がどのように変化してきたかをみてみよう。 まず、「ガングロ」が隆盛した1999年、バブルが崩壊して以来景気が低迷し続け、これまでの終身雇用・年功序列の日本的な雇用体制が見直されるようになった。リストラが当たり前のようになされ、実力主義、「勝ち組負け組」、といった価値観がもてはやされるようになり始めた頃である。ガングロの主張する「かっこいい」という価値観はこの流れをあらわしている。自らを実力あるものとし、実力主義的価値観への移行に対する共感、リストラに怯える情けない社会への反発を体現していた。ガングロのやや攻撃的な性格は、ここからきているとみることができる。 次に、「マンバ」が登場し始めた現在である。1999年頃から現れた実力・成果主義、勝ち組負け組、といった価値の現実が見え始める。階層化が進み、ごく一部の限られた人間しか「勝ち組」にはなれないというのがわかってきた。それでもまだ競争を強要され、それを「自己責任」と片付けられる。マンバが現れたのは、そんな現在なのである。マンバはなにを伝えようとしているのだろうか。 |
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●4.社会の変化と「マンバ」の思い
●(1)「対立」から「協調」へ ガングロが「かっこいい」ものを目指し、周囲に対しても敵対心を見せていたのに対して、マンバからは周囲に対する敵対心があまり感じられない。人から愛される「カワイイ」ものを好み、時には自らを「気持ち悪い」と表現してみせることからも、それは明らかであろう。だからといって、マンバは現在の社会に「協調」しているわけではない。実力主義、競争重視の社会、争うことを強要された上でさらに負け組のレッテルを張られる社会構造を、「周囲(や仲間)との協調」によって否定しようとしているのである。 マンバの協調的・柔軟な態度は、センターGUYの登場にも見ることができる。これまで、ガングロの時であっても男は「かっこいいもの」を目指すべきものとされていたが、センターGUYは「かわいいと言われたい」と主張し、弱さを見せることにも抵抗がない。これも競争への反発、「強くなければならない」「勝たなければいけない」という強迫観念からの離脱を示している。マンバがよく使用する「強め」という言葉にも、それが表れている。「強め」という言葉は、ガングロの「強い(いかちぃ)」とは多少異なる意味を持つ。「強い」は、それひとつで完結した表現であり「強い」ものの中に「弱い」ものが入り込む余地はない。しかし「強め」は、ひとつのものの中に強さと弱さが並存することを前提とした言葉である。したがって、マンバはガングロと違い、自らの中にも「弱め」な部分があることを認めているのだと解釈することができる。マンバは強さも弱さも許容しており、必ずしも強くあることを求めていない、という姿勢が表れている。 ●(2)小さな「しあわせ」への帰着 そしてマンバが主張するのは、実力主義、競争至上主義からの離脱、小さな「しあわせ」の重要性である。競争的な社会からの乖離を求め、「カワイイ」「ピンク」なものたちに囲まれようとする。「カワイイ」「ピンク」は「しあわせ」の象徴とも考えられ、よく見ると彼女たちの表情、言動からも「しあわせ」がにじみ出ていることがわかるであろう。また、「ガイ」のカリスマ的存在であり、雑誌等によく登場している「ほりたけ」は「Men's Egg」誌上で「林家ペー・パー子夫婦のようになりたい」と語っていた。ここからは、彼らのもとめる小さな「しあわせ」が、やや浮世離れしたものであることもうかがえる。彼らの求める小さな「しあわせ」は、従来の価値観のなかでは築けないということを、彼らは主張したがっているのかもしれない。一見何も考えていないかのようにみえるガングロ・マンバ達であるが、実際に彼らの考え方を見てみると、金銭感覚・将来展望などかなり現実的である。マンバは現実をきちんと見据えた上で、現在の社会とは別のなにかを構築しようとしているのである。そしてそのなにか別の世界にあるものが、小さな「しあわせ」なのであろう。 |
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●5.「マンバ」からの提言
結局マンバが伝えたいこと、示唆していることは何なのであろうか。経済の上昇機運と共に出現し、勝ち組負け組といった実力主義、競争至上主義への反発を示すマンバ達。彼らは「しあわせ」を求め、対立・争いを嫌いつつも、目立ちたい・注目されたいという欲求を持ち合わせている。彼らは対立・争いのない「しあわせ」を説いている。つまり、「協調主義」そして「平和主義」を主張しているとみることができるのではないだろうか。現在の日本社会は実力主義、競争至上主義に押された結果、個人の能力ばかりが重視され、チームワーク・組織力が軽視される傾向にある。行き過ぎた競争と実力主義、個人主義が与えた弊害は、戦争や組織の効率性・結束力の低下をはじめとして、現在の日本の各所にみられるようになってきた。彼らはそのような価値観の矛盾を肌で感じ取り、警鐘を鳴らしているのではないだろうか。マンバの主張する「協調主義」と「平和主義」。彼らは競争のみを重視することによって社会が失おうとしている価値、日本社会が本来有していたはずの価値を呼び戻そうとしている。 |
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●附注
1 毛髪の一部を染めたものを指す。シルバー(白)、茶、オレンジなど、様々な色で用いられる。 2 「GUY」とは、「男、野郎(米話)」「異様な服装の人(英話)」の意味。 3 ファッションブランドのひとつ。明るい色に花柄などを配置する南国風のスタイルを提案する。渋谷を始めとする各地に店舗があり、ガングロブームの際にも人気を博した。 4 目のクマや顔のシミを隠すためのベースメイクの一種。一般に白色や肌色が多い。マンバは本来とは異なる使い方をしており、これで目の周りや唇を白く塗って強調することが多い。 5 漫画喫茶店のこと。24時間営業の店も多い。 6 渋谷駅前にある、若者に人気のファッションビルの名称。主に、若者向けのアパレルショップや化粧品、雑貨店などで構成されている。 7 マンバギャルとセンターガイ(後述)から構成されている、特定集団のニックネーム。雑誌などで取り上げられることもある、マンバの先駆け的集団。 |
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●ミニスカート | |
丈の短いスカートの総称である。ミニスカートの長さの基準は特に決まっているわけではないが、一般的には、着用した状態で、裾のラインが膝よりも明らかに高い位置にくるもの、すなわち、いわゆる膝丈よりも短いスカートを指す。
「ミニスカ」あるいは「ミニ」略称されることがある。ミニスカートの中でも特に丈が短かく、大腿部の中央付近よりも上に裾がくるものは、「マイクロミニスカート(スペイン語版)(マイクロミニ)」と呼ばれることもある。 |
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●歴史
考古学的に発掘された最古のミニスカート状の衣服は、紀元前1380年頃のエクトヴィズ・ガールのものである。 中国のミャオ族の清朝時代の衣装、短裙苗もミニスカートに似ている。 ダンサーのジョセフィン・ベーカーが1920年代半ばに舞台衣装として着ていたバナナスカートも非常に短いものであった。 1920年代以前は、西洋の女性は足首までの丈のスカートを着るのが通例であった。1920年代には、ココ・シャネルのデザインを筆頭にそれ以前の西洋の女性のスカートよりも丈が短いものが見られ始めた。しかし、1930年代は世界恐慌のため、1940年代は第二次世界大戦のため、女性のファッションは再び保守的なものとなった。1950年代後半から、一部の女性の間でスカートが短くなり始めた。 1960年代はプレタポルテの台頭に加えて若者のファッションであるストリートファッションの影響力も強くなっており、その典型的アイテムが『ミニスカート』であった。1959年にロンドンのストリート・デザイナーマリー・クヮントが若者向けに売り出し、大ヒットする。1965年1月のヴォーグ誌では、John Batesがデザインしたミニスカートのドレスが特集され、後のその年のドレス・オブ・ザ・イヤーに選ばれている。さらなる世界的な流行の火付け役は、フランスのファッションデザイナー、アンドレ・クレージュによる1965年1月の発表であった。彼はその前年の1964年8月にもミニスカートを発表している。これに続き、その他のデザイナーたちもミニスカートを発表し始めるようになった。この頃から、イギリス出身のモデルツイッギーが着用してブームを呼び起こし、これによりミニスカートは世界中に広がった。ツイッギーは1967年10月に来日し、日本にもツイッギー旋風を起こしてミニスカートを流行させた。 ●日本での歴史 1965年(昭和40年)8月11日、帝人が日本で初めてのミニスカート「テイジンエル」を発売。1967年(昭和42年)の3月、野際陽子がパリから帰国した際に着用。同年10月、英国モデルのツイッギーが来日した時にミニスカートを着ていた。同年に美空ひばりがミニスカート姿で『真赤な太陽』を歌謡番組で歌った。都市部の若い女性だけにとどまらず、世代を超えて全国津々浦々に広がり、1969年(昭和44年)に首相・佐藤栄作の訪米に同行した首相夫人・佐藤寛子は当時62歳の年齢でミニスカートを着用した。この当時多くの女性のミニスカートはひざ丈よりやや短い程度であった。また既存のスカートの裾を自ら短くしてミニスカートに改造することも多く、その様は漫画『サザエさん』でもしばしば描かれている。この第一次ミニスカートブームは交通機関・女性警官・大阪万博での多くのパビリオンのコンパニオンなど女性の制服にも影響したが、1973年(昭和48年) - 1974年(昭和49年)頃には終息した。 その後1982年(昭和57年)頃の小流行を経て、1980年代末から1990年代初頭のバブル期には膝上30〜35cmで「超ミニ」、「マイクロミニ」などとも呼ばれるミニスカートが流行した。この流行はボディコンシャスなスタイルの流行に伴うもの。 その後は若年層を除いて極端なミニスカートの流行がたびたび見られる。スカートの丈と経済の好況不況が関連付けて論じられることもある。 ●日本の中高生の制服 最初にミニスカートが流行した1960年代後半〜1970年代前半にもある程度学校の制服のスカート丈が短くなった時期があったが、当時は学校の校則や年少者に対する社会の締め付けが厳しかったこともあり、学生が制服を明らかなミニスカートに改造することはなかった。 1970年代後半 - 1990年(平成2年)頃にかけては、制服のスカートを長くすることこそが「格好良い」とされ(スケバン・不良と呼ばれる女子生徒達はこぞって長いスカートを着用した。『なめ猫』や『スケバン刑事』などに代表されるツッパリブーム)、制服のスカート丈は長めとなった。 1990年代中盤以降には、女子高生らにとってのスカート丈は「短いほどカワイイ」ものに変化し、制服のスカートは短く丈詰めしたり、ウエスト部分で折ったり、ベルトでとめるなどして、膝上20cm〜40cmに短くして着用されるようになった。また、既成の制服スカートもそれまで定番であったが膝下丈から、膝丈や膝上丈となる制服が多くなった。ただし、制服のスカート丈の流行には地域差も大きく、例えば大阪・神戸などでは、膝丈もしくは膝下のスカートを着用している生徒も多くみられる。2005年(平成17年)には写真週刊誌『FLASH』が、「制服のスカート丈が全国一短いのは新潟である」と報じて話題となった。 |
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●職場の制服
女性警察官、OLなど、現在でもミニスカートが制服として採用されているところもある。民間企業で女性の制服が存在する場合、スカートである場合もある。この際には動きやすさを重視して短めのスカート丈が採用されるが、幅広い年齢層の女性が着用することもあり、丈は膝丈程度であることが多い。女性警察官のスカート丈は公務員の制服の中では最も短いとされ、女性自衛官のものがそれに次ぐが、ただしこれらの職種ではスカートに代わってスラックスが選択されることが増えてきている。客室乗務員の制服も、日本の航空会社の場合には膝丈のスカートが一般的であるが、スラックスの採用が増えている。 かつてテレビのクイズ・ゲーム等のバラエティ番組では、フリップを持ったり、賞品を運んだりするアシスタントの女性がテニススコート型のミニスカートを着用している例が多く見られた(「アップダウンクイズ」・「クイズドレミファドン」など)。 |
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●その他
1960年代から1970年代は子供にもミニスカートや丈の短いワンピースを着せる親が多く、成長の早さも相まってショーツが露出した格好になっている女児も多く見られ、『サザエさん』の登場人物に因んで「ワカメちゃんスタイル」と呼ばれていた。 10月18日は「ミニスカートの日」とされている。由来はツイッギーが1967年(昭和42年)に初来日した日であることから。 2009年、日本一スカートの短いアイドルグループとしてスマイレージ(現・アンジュルム)が結成され、ミニスカートを穿いて活動している。 ミニスカートの流行は、世界の価値観を大きく変えた。それまで、上流階級の女性に無くてはならない宝石であった真珠は、ミニスカートに似合わないという理由で1967年ごろから需要が激減している。 |
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●ミニスカートの誕生 | |
3月2日は「ミニの日」。日本でBMW MINIの販売がスタートした日であり、ミニチュアや小さいものを愛そうという記念日なのだそうだ。少々ニュアンスは異なるが、ミニの日にちなみ、「ミニスカート」について調べてみたので紹介しよう。
「教えて!goo」には、「女性がミニスカートをはく理由はなんですか?」という質問が寄せられている。これに対して、「単に、他人に見てもらいたいからです。それは、不特定多数か、特定の方(恋人)かもしれません」、「そりゃ男の目を引くためですよ」などの回答が。確かにそういう側面もあるかもしれないが、「そもそも超ミニスカートをはいている方全てが、同じ理由ではいていると思っている? 十人十色だと思いませんか?」という意見にも納得。背が低いのでなかなか合うスカートが無い、ミニスカートをはくことで緊張感が保てる、単純に暑い……などの理由もあることを、女性の立場から補足しておこう。 ●世界で最初にミニスカートをはいたのはイギリス人 そもそも、ミニスカートはいつどのようにして誕生したのだろうか。パーソナルスタイリストの五十嵐かほるさんに話を伺った。 「ジバンシーのサックドレスが変化したのが起源と言われています。ですが、ロンドンのキングスロードのチェルシー地区に集う、ファッションに敏感な“チェルシーガール”たちのストリートファッションとして自然に生まれたものを1961年にイギリスのデザイナー、マリー・クワントがデザインに取り入れ、『ミニスカート』と命名したのが始まりです」 ジバンシーはフランスのデザイナー、および彼が設立した有名ファッションブランド。起源となったサックドレスはウエストラインに切り替えの無い、寸胴型のゆったりとしたワンピースのことだ。 「その後、1965年にフランスのアンドレ・クレージュがオートクチュールのパリコレでミニスカートを発表してから世界的に大流行! スカート丈も年々短くなりました。1967年にはイギリスのスーパーモデル、ツィッギーが来日記者会見でミニスカート姿を披露し注目を集め、その影響で日本での爆発的なミニスカート人気が始まりました。1968年には『マイクロミニ』と呼ばれる膝上30cmのスカートが登場し、“ミニスカート=ツィッギー”が世界共通の認識とされています」 60年代のファッションアイコンとして、今でも絶大な人気を誇るツィッギー。「ミニスカートの女王」と呼ばれ、彼女の存在抜きでミニスカートは語れないとも言われている。ちなみに、 「1967年にパリ留学から帰国した女優の野際陽子さんが着用していたのが日本では最初とされているようです」とのこと。和装のイメージが強い野際陽子さんが始まりとは、意外! ●女性解放の歴史と深く関連する 五十嵐さんによると、ファッションと社会的背景にはとても深い関係があるのだそうだ。 「現在でもスカートの丈と経済の好・不況は関連付けて論じられます。1960年代当時、イギリスでは『女性は慎ましく肌を隠すべき』という体制的な価値観があり、この反発からミニスカートが生まれたと言われています。ちょうどその頃、アメリカでは『ウーマン・リブ』という男性的な価値観や文化からの解放を謳った女性解放運動が広まっていたことを考えると、ミニスカートは『反体制的な精神を広めるため、また、女性らしいとされるファッションからの解放』を目的として生まれたと言えるでしょう」 現在ミニスカートは女性らしさの象徴ともいうべきファッションアイテムだが、元々は“社会的な女性らしさの強要”から脱却することを目的としていたとは意外な事実だった。 ファッションは時代を映す鏡。一過性のものとして捉えることもできるが、その背景に注目してみると、新たな発見があるのかも。 |
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●ミニスカートは、時代も流行も超えた! | |
●それは、60年頃のロンドンのストリートで生まれた
ファッションには、流行が終わったその後には、二度と顧みられなくなるものがある。しかし、その反対に定番となって後世に残るものも存在している。 また、一端廃れた流行が時を経て復活することもある。そして、定番となったものは、ファッションサイクルのなかで現れては消えるを繰り返すのである。 それが宿命であるかのようにーー。 そのようなファッションの歴史のなかで、ミニスカートの誕生は革命的であったと思われる。スカートの丈は、時代の変化とともに短くなっていたが、60年前後に登場したミニスカートという概念は、その後のファッションに大きな影響を与えたといっても過言ではない。 ちなみに、このミニスカートは、60年頃のロンドンで誕生したそうである。一般的には、マリークワント(デザイナー)が考案したように捉えられているが、どうもそれは違うようである。 60年前後、ロンドンのキングスロードのチェルシー地区という若者が集まる場所に、チェルシーガールと呼ばれる当時の先端ファッションを着こなす女性たちがいた。 ミニスカートは、このチェルシーガールの着こなしの中から自然発生的に生まれたものだそうである。また、ミニスカートの普及には、モデルのツイッギーがマーケティング(市場創造)的なミューズとなって世界市場の拡大に貢献している。 マリークワントは、自身がトレンドセッター(流行を先駆ける人)であったことから、このファッションが時代のトレンドになると考えて、それを商品化し市場に流通させた。ミニスカートと命名したのは彼女らしい。なんでも車のミニにちなんだものと言われている。 ともかく、この成功によって彼女の運命は決まったといえる。後に彼女は、このファッションの成功をきっかけにした外貨獲得の功績によって女王より勲章を授かっている。ちなみに、あのビートルズも同じ勲章を授かっている。 マリークワントによって一般大衆に認知されたミニスカートは、次にはフォーマルの世界にも広がっていく。その役目を担ったのが、フランスのデザイナーであるクレージュであった。クレージュは、オートクチュールのデザイナーであった。 したがって、スポーティーでカジュアルなミニスカートに品性のある清楚をもたらした。それによって、フォーマルな場にも、ミニスカートが進出する機会を創出したといえる。 ミニスカートは、マリークワントが大衆に、そしてクレージュがハイソ(上流)に訴求することでほぼすべてを網羅することができた。これによってファッションの定番は約束されたものとなった。 ●ミニスカートは、時代を超えてゆく 60年代に一世を風靡したミニスカートであったが、70年代になると世相を反映したのか、何故かスカートの丈は長くなっていた。ロングスカートが流行したのである。 その後は、パンタロンというスカートではなくパンツルックも流行した。もうミニスカートは見れないのかと思ったが、80年代になると、それは燦然と輝くボデコン(ボディコンシャス)のミニスカートとして復活したのである。 ピッチピッチでパッツンパッツンのボデコンは、体にフィットしたワンピース?のミニスカであった。これを文字通り発明したのは、デザイナーのアライヤであった。 1983年にこれを発表すると世界中で瞬く間に模倣を生み出した。そして、そのファッションは、ディスコ文化とともに一世を風靡することになった。 しかし、このスタイルも90年代前半までで、以降は廃れてしまった。しかし、ミニスカートは生き続けたのである。 90年代になると、ボデコンは廃れたが、女子高生の定番スタイルとしてミニスカートは欠かせないものとなっていた。これは、現在でも続く、けっこう息の長いスタイルとなっている。また、2000年代以降では、アイドルとミニスカートは切っても切れない関係となっている。 これもまた、現在進行系である。このように、数あるファッションのなかでも、これほど長く愛されているアイテムはないのではないか。 ミニスカートは、その誕生からすでに半世紀であるが、ほんの僅かの間消えていた70年代の一時期以外では、ほぼファッションのメインストリームであり続けたと言っても過言ではないだろう。まさに、時代も流行も超えた存在となったのである。 |
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●60年代のファッション - ストリートからミニスカートやモッズ | |
1960年代になると、既製服業界の成長とともにオートクチュールは衰退の一途をたどっていた。さらに戦後生まれのベビーブーマー世代で成人するものも出始め、人口比率も戦前2倍程度まで増えた。若いエネルギーの勢力が増し、エレガンスよりも、自身の価値を求めていた。ストリートの勢いが強まっていた。
ユースカルチャーからモッズ、ミニスカート、ジーンズ、ヒッピーなど、オートクチュールから降りてくるファッションではなく、若者が自身でファッションを選び、ファッションによりアイデンティティを示しはじめた。ミニスカートはストリートでの人気からハイエンドにも波及。ユースカルチャーからファッション、新しいスタイルが登場し、大きな転換期を迎える。 ●それ以前の若者のファッションとは? 若者文化が生まれる以前、若者はどんなスタイルだったか? 実は若者ファッションというカテゴリーは存在していなかった。若い女性でも母親と同様のスタイルで規律に従った同質的なもの。ディオールなどオートクチュールやハイファッションのデザイナーから生み出される「大人エレガンスの世界」から降りてくるものだった。 このような中でも次第に若者は”自分達のスタイル”を求めるようになっていく。 |
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●スウィンギング・ロンドン | |
1960年代のロンドンで若者文化の集まる場所、ストリートファッションの発祥の地はキングスロードのチェルシー地区だった。そして、チェルシー地区のファッションを着こなす女性のことをチェルシーガールと呼んだ。この時期のロンドンを”スウィンギング・ロンドン”などと呼び、ミニスカートの他にも、モッズなどのスタイルも生み出します。
音楽ではビートルズ、ローリングストーンズ、美容師ではヴィダル・サスーンなどイギリスの文化は旋風を巻き起こす。 ●マリークワントとミニスカートの登場 ミニスカートはマリークワントが発明したものという意見もあるが、そうではない。チェルシーガールのスタイルの中から自然に生まれたもので、実は誰かの発明ではないのだ。起源としては、ジバンシィなどが発表していたサックドレス(シュミューズスタイル)が徐々に変化してミニスカートになったとも言われている。 マリークワントは、ロンドンのトレンドセッターであり、チェルシー地区のファッションそのもの。より多くの人のために初めてミニスカートを商品化したデザイナーと言える。そのような点で、マリークワントは20年代のシャネルのようなカリスマ性をもった人物。シャネルと異なるところは、マリークワントは、より多くの若者、等身大の若者のレイヤーに自身を置いていたので、当然アイテムも多くの人々が購入できるような展開を見せる。 ●チェルシーのミニスカート チェルシーの流行をそのまま表現するクワントのスタイルは、ミニスカートに、ヴィダルサスーンのカットしたショートボブの髪型。そこからマリークワントの影響を受けたデザイナーも登場し、ミニスカートは徐々に普及。65年には、なんとオートクチュールコレクションで、クレージュが発表。世界的にも普及が加速した。 ●トレンドはグラマラスから痩せてる女性へ 1960年代以前の理想の女性像は、マリリン・モンローのような豊満でセクシーな女性やグレイスケリーのようなエレガントな女性。しかし60年代になると、ロンドンのイメージを表現した女性は全く逆。小柄で、胸は小さく、痩せている、ごく身近にいそうな活動的な女性像。その代表格がツィギーだ。日本でもツィギーの来日とともにミニスカートが爆発的に流行。50年代にオードリー・ヘプバーンが登場したのは、その前兆だったのかもしれない。 ●モッズ - メンズファッションの変化 メンズファッションは18世紀から固定した服装形式として、スーツが変化することなく着用されてきた。スーツは18世紀当初に実用着として取り入れられたのだが、その当時の目的はなくなり、それは社会的な、ビジネスの場での制服の役割に変化してしていた。体制社会のシンボル的存在になっていたのだ。そんな1世紀以上安定していたメンズファッションの流れにもストリートファッションの流れが押し寄せてくる。 ●モッズ・ルック モッズはロンドンの低所得層者から生まれたサブカルチャー。高所得層への反抗からくる自己表現として生まれた。最初は細身のテーラースーツから始まりますが、徐々にカラフルなデザインへと変化。 ロンドンのカーナビーストリートを中心に発信された、モダーンズ(モダニズム)を略してモッズと呼ばれたファッションの特徴は、長髪、花柄や水玉など派手な色彩、細身のスーツをテーラーで仕立てて、細身のシャツ、股上の浅いスリムパンツ、ブーツなど。カラーはウィメンズファッションの要素を大きくもったもので、女性化したようなムードを持っているが、男が女性的になったわけではない。反体制的なシンボルとして生まれた自己表現がそのようなファッションを生み出したのだ。 モッズスタイルはビートルズ、ローリングストーンズが身に着け、さらに世界的な注目が集まります。ミニスカートともににスウィンギングロンドンというイメージで世界へ発信されていく。 ※同時期、より反抗的なグループ、ロッカーズが存在していたことから、正確にはモッズ以上に「高所得層への反抗」していた人々がいた。 ●日本でもモッズ 日本でもブームになる。きっかけはもちろんビートルズ。ビートルズが来日した1966年、音楽的な衝撃とともに、彼らが着ていたモッズファッションは、日本のメンズファッションにも大きな影響を与え大ブームになった。 |
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●ヒッピーファッション | |
●ヒッピー登場
ヒッピーファッションヒッピーは1960年代後半の最大のサブカルチャー。ドラッグ、音楽、ファッションが融合して生まれた文化だった。 1960年代、アメリカではベトナム戦争の反戦運動、人種差別の反対(公民権運動)、フランスでは学生を中心とした5月革命、日本でも学園紛争など若者は大暴れ。ヒッピーは近代の政治、社会などへの疑問から出発し、「ラブ&ピース」の理想を掲げ、一つの対抗文化を生み出していく。ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」(1967)はその時代を象徴する曲とされている。1969年、今や伝説となる「ウッドストックフェスティバル」がニューヨーク郊外で開催され、なんと50万人のヒッピーが集まる。 ●ヒッピースタイル ヒッピーの中で、ファッションは自らのイデオロギーを表現するものとして定着。メインで取り入れられるのはTシャツ、ジーンズやフォークロアなど。ジーンズはもともと作業着などに使われていたが、ヒッピーや反戦を唱えるフォークシンガーが着用したことから、若者の文化に定着していく。 フォークロアは60年代半ばから広まった。もともとフォークロアとは、民俗風習、部族の衣装の特徴を用いたファッションで、インド、アフリカ、東欧、中近東系の衣装やアクセサリーのスタイルであったり要素を入れたもの。(70年代、ケンゾーがハイファッションの世界でもフォークロアやエスニックファッションを取り上げる) 代表的なスタイルは長髪にヒゲをはやし、刺繍の入ったカフタン、バンダナ、スカーフなどになります。カラーは花柄やカラフルで、様々なカラーを混ぜた混沌とした色が使用された。また、意図的に「服を着ない」というスタイルも登場。男性はもちろん、女性でさえも裸になることもあった。ボディペインティングも同時に出てくる。 ●ヒッピーの終焉 1960年代に暴れまわったヒッピーも1970年代前後の時期には、長い髪を切って社会の一員と戻っていく。 背景にはさまざまな理由があるが、一つは反戦運動や学生運動が過激化した点。ヒッピーがカルト集団化して事件も起こり、例えば「戦場のピアニスト」で有名なロマンポランスキー監督の妻で女優の妊娠中のシャロン・テートを殺害する事件も起こった。 また、ヒッピーの活動でベトナム戦争は止められなかった点。ヒッピーに影響を与えていたミュージシャンのジャニス・チョップリン、ジミ・ヘンドリックスがドラッグ中毒で死んでいくといったことも一員に上げられるだろう。 理想とはかけ離れていった世界が、ヒッピーの終焉へと導いていったのではないだろうか。 ●ピーコック革命 1960年代の後期のメンズファッションに大きな影響を与えた考え方で、男性ももっと服装に個性的を取り入れようと言うのが基本アイデア。それを雄孔雀(ピーコック)に例えたことが由来。 日本でも紳士服業界では男性のワイシャツとネクタイのカラフル化が推し進められた。フリルつきのシャツや柄のパンツに代表されるモノセックス感覚のファッションが男性にも取り入れられ、これをピーコックファッションと呼ぶようになった。 |
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●「デニムスカート」ルック史 | |
誰もが一着は持っている(?)、定番の「デニムスカート」。労働者たちのユニフォームとして生まれたジーンズが、女性用スカートになり、ファッションとして幅広いバリエーションを持つように。伝統的な女性らしさからの解放やフェミニズム運動、フラワー・チルドレンや’80sブーム。世相とともに進化してきたデニムスカートの歴史を<マリ・クレール>とともに振り返ります!
●1840年:スカート / 19世紀の女性のファッションは、重ね着をして肌を覆い隠すことが一般的。ドレスやスカートは、そのドレスコードに沿ったデザインしかありませんでした。 ●1873年:ジーンズ / 史上初のジーンズは、リーバイ・ストラウスが販売していたコットン生地を使い、1873年に生み出されました。このデザインはゴールドラッシュの最中、破れないパンツが必要だった労働者たちから愛されました。 ●1890年:実用性のあるスカート / 19世紀の終わりにかけてスカートの裾が広がり、ボクシングや自転車に乗るときなど、アクティブな女性に愛されるように。 ●1925年:ショート丈 / 1920年代には、スカートの裾はどんどん短くなり、膝上までに。 ●1930年:女性の支持 / 1930年代になると、写真のコンスタンス・ベネットをはじめ、女優たちがジーンズをワードローブに取り入れ始めました。 ●1948年:カジュアルウェア / 女性が日常的にもジーンズを着用するように。まだこの頃は、家事や庭仕事をする時に限られました。 ●1955年:デニムショーツ / 1950年代後半にデニムのショートパンツがファッションシーンに登場。ハリウッドで人気を博しました。デニムスカートの誕生までもう少し! ●1965年:ミニスカート / 60年代後半、ミニスカートがファッション界を席巻。コーデュロイからコットン、スエードまで、デニム以外のほとんどの素材のミニスカートが登場。 ●1970年:デニムスカート(ついに!) / デニムスカートは1970年代に初めて登場。手持ちのデニムパンツを再利用する方法として生まれたトレンドは、すぐさま大人気に。 ●1972年:フラワーチャイルド・スタイル / デニムスカートは、70年代の自由奔放なスタイル、フラワーチャイルドの雰囲気にぴったり。特に、パッチワークが施されたヴィンテージ風のデニムが大人気でした。 ●1975年:ニュースタイル / ファッションメゾンもデニムスカートに注目し、さまざまなスタイルでの生産が開始されました。最もポピュラーだったのは、フロントスナップのデザイン。 ●1980年:ペンシルスカート / とにかく個性的なファッションが目立った80年代。デニムも例外ではなく、ペンシルスカートにお揃いのジャケットを合わせた写真のスタイルは今見てもクール。 ●1986年:オーバーサイズ全盛期 / オーバーサイズ全盛期の80年代。写真の女優、カースティ・アレイもオーバーサイズのデニムジャケットを着こなしています。 ●1987年:ケミカルウォッシュ / 色落ちが魅力のケミカルウォッシュが80年代後半に大流行。ジャケットからドレス、もちろんデニムスカートに至るまで、幅広く登場。 ●1990年:引き続き、ケミカルウォッシュ / このトレンドは息が長く、1990年に入っても大流行していました。人気学園ドラマ『セイヴド・バイ・ザ・ベル』のキャストもご覧のとおり。 ●1992年:軽めのウォッシュ / 1990年代になると、より柔らかいデニムウォッシュが人気に。この写真ではヨーク公爵夫人が、カラフルな柄のボタンダウンシャツと、ゆったりシルエットのデニムスカートをスタイリング。 ●1993年:子供服にも / デニムスカートは90年代半ばには子供服にも登場。写真のユージェニー王女の、なんて可愛いこと! ●1995年:ハイファッション / 「シャネル」のようなファッションメゾンもこのトレンドを取り入れ始め、パリやミラノのランウェイでも、デニムスカートが見られるように。 ●1996年:お腹見せ / ライトウォッシュのデニムのミニスカートにクロップドトップをあわせたパメラ・アンダーソンのスタイルは、まさに90年代。 ●1998年:ティーン市場 / 1998年ごろ、ブリトニー・スピアーズが10代の少女たちのあいだで大人気に。ティーン向けブランドから、写真のようなデニムスカートが数多く販売されました。 ●1999年:パンツとのレイヤード / 黒歴史とも呼べる、90年代後半のファッショントレンド。写真のグウェン・ステファニーのように、デニムスカートはパンツの上に重ねて着用されていました。 ●2000年:マキシスカート / 2000年には、デニムスカートは誰もが親しむファッションアイテムに。当時最新のスタイルは、写真のヘザー・ロックリアが履いているようなマキシスカート。 ●2001年:デコレーション / クリスタルの装飾やフリンジのディテールなどが加わったデザインが、2000年代初頭に大流行。キラキラのデニムスカートとチューブトップを組み合わせたトリ・スペリング以上に、2000年代らしいスタイルはないでしょう。 ●2002年:フロントスリット / フロントスリット入り、膝丈のデニムスカートが大人気に。グウィネス・パルトロウが証明しているように、それはロングブーツと合わせるととても素敵! ●2003年:ミニスカート(再び) / ロング丈が支持された一方で、2003年頃のスカーレット・ヨハンソンのように、再び裾を短くするのがブームに。 ●2004年:「アグ」と一緒に / 10代の若者にとって、デニムスカートと「アグ」のようなブーツの組み合わせが、イケてるスタイルの象徴に。 ●2005年:タイツと一緒に / 2000年代には、タイツはと合わせて寒い季節にも着用されるように。 ●2006年:あらゆるシチュエーションで / 10代の若者がモールで着るもの、という枠を超えて、あらゆる場面で着用されるように。写真のように、ブレザーとヒールでスタイリングすることも。 ●2007年:オーバーオール / キャメロン・ディアスをお手本に、オーバーオールがトレンド入り。 ●2008年:ビジネスカジュアル / 2008年には、デニムスカートはあらゆるシーンのファッションに登場。それを証明するのが、写真のデニムスーツルック(別名、デニムブレザーとペンシルスカート)。 |
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●女性のための「パンツ200年史」 | |
にわかには信じ難いが、たった8年前の2013年前まで、フランスには女性のパンツ(ズボン)着用禁止条例が存在した。現代では、誰もがパンツをはくことが完全に受け入れられているが、実際には、パンツの歴史は2世紀以上前から続く女性解放のための長い闘いの産物である。
●数世紀続いた女性に対する理不尽な命令 多くの人にとって2013年1月31日という日付は特別な意味をもたないかもしれない。しかし、この日はフランスで1800年11月7日に制定された女性のパンツルック、いわゆるズボン着用禁止の条例が、213年越しに廃止された日。そう、女性解放の象徴の日なのだ。 19世紀当時、パンツは男性のための衣服として認識されていた。かつての条例には「男性の格好をしたい女性は、警察本部に報告しなければならない」と規定されていた。文書の背後には、その理由がいくつか記されている。そのひとつは、フランス革命戦争(1792〜1799年)が完全に終焉したことを国民に認識させたいという帝国の願望が隠されている。 フランス・アンジェ大学の現代史の教授であり、ジェンダー史の専門家であるクリスティーヌ・バードは、数年前に出版した著書「ズボンと政治史(Une histoire politique du pantalon)」の中で、戦争中に一部の女性は武装して男性とともに戦っていたことを強調している。当時制定されたこの条例は、女性が女性としての存在を明らかにし、女性らしい道を再開することを推奨した。しかし、そこには女性が男性の支配をサポートする思考と矛盾がはらみ、女性にスカートをはくよう推奨することで、特定の活動や職業の実践を妨げていた。免除の要求が可能なのは、健康上の理由、馬に乗る場合、もしくは原告がパンツの着用が不可欠な男性の仕事をしていることを証明した場合。この規則に違反したら、罰金のペナルティが発生した。 200年以上経過し、フェミニストの戦いと慣習の長い進化の後、ついにこの条例が議題に上がることとなった。2000年代初頭、幾度となく廃止要求が出されたが、当初は見向きもされなかった。しかし、2010年にクリスティーヌ・バードの著書がリリースされたことで事態は加速した。 「本を出版したという事実が何かを引き起こしたようです。パリ市長への願い、警察本部からの否定的な反応、ナジャット・ヴァロー=ベルカセム(フランスで女性として初めて国民教育・高等教育・研究大臣に就任した政治家)の介入が想起されます」とクリスティーヌは話す。2013年1月13日、警察署からの返答を受け、政府が問題の手直しをすることとなった。この条例は、憲法およびヨーロッパ公約に祀られている女性と男性の平等の原則、特に憲法第1条、および欧州人権フォーラム条約と矛盾していると訴えた。「非互換性により、2013年11月7日に条例が暗黙的に廃止されました」 ●キャサリン・ヘップバーンとマレーネ・ディートリヒ。銀幕の反逆者 女性がパンツを着用することが当たり前になるまで長い時間を要したが、その過程には男性と女性の両方の強力なサポーターがいた。大西洋を超えて、ドレスコードがフランスと同じように性別で分けられていたアメリカにも。 女優キャサリン・ヘプバーンは、1930年代からドレスとスカートの着用を避け、非難を受けながらも女性解放の探求と信念に忠実になることに躊躇しなかった反逆者の一人である。映画の撮影中、ジーンズを没収されると下着姿でセットの中を歩いていたというエピソードが残されている。また、1951年、ロンドンのクラリッジスホテルのコンシェルジュがロビーでは女性がズボンを着用できないことを伝えると、ロビーを避けるため裏口の使用を選択したという。1933年に彼女がヨーロッパを旅行中、パリに到着するのを待っていた警察署長から彼女を護衛したのはハリウッド女優マレーネ・ディートリヒ。2人とも強い決意をもっていたことが分かる。 しかし、全てが順調に進んだわけではない。フランス出身のアスリート、ヴァイオレット・モリスは日常着として男性服を着用することを好んでいた。1930年、これが“モラルの欠如”という理由からオリンピック出場を禁止されたことを受けて、彼女はフランス女性スポーツ連盟に対して訴訟を起こした。だが、当時の世論の共感は女性解放よりも男性支配に傾いていたこともあり、彼女の主張は負けることとなる。 ●モードの世界とパンツの変遷 モード界はもちろん、女性のズボンの台頭を認めている。業界は一般的に需要と供給のシステムによって支配されているが、ポール・ポワレは20世紀の初めから彼のクライアントにズボンを提供していた。商業的な成功はそこにはなかったが、女性解放の最初のきっかけとなったことは確かである。 数年後、ガブリエル シャネル自身がボーイッシュなルックと幅広のハイウエストパンツで登場した。それは男性用ワードローブから直接借りたもので、リラックスした全く新しいエレガンスの代名詞となった。だが、この時はまだ彼女自身の衣服として着用しただけだった。 1960年代にパンツが民主化されたのは、特にイヴ・サン=ローランの功績が大きい。独自のワードローブを提供しながら女性解放を熱望した彼は、1966年に女性用タキシード、翌年にパンツスーツ、いわゆるスモーキングルックを発表した。曲線を隠さず強調するためにカットされたアンサンブルは、生涯にわたるミューズ(ベティ・カトルーからカトリーヌ・ドヌーヴまで)や、自由を愛するパリの女性たちにたちまち採用された。 また、アンドレ・クレージュとピエール・カルダンも女性解放に貢献したクチュリエのひとり。そして、まさにこのパンツスタイル革命を支えているのは、プレタポルテの発展にある。衣類がより身近になり、内容も変化し、動きやすさが重視されたためだ。 しかしながら、法的には実は何も動いていなかった。1968年5月、当時の市議会議員ベルナルド・ラファイは、パリの知事にパンツ着用禁止条例を廃止するよう要請したが、彼の要求は無視され封印された。「モードは予測不可能な変化がつきものであり、いつまで話題になるか分からない不確実な事象によって条例は変更しない」と一蹴された。 クリスティーヌ・バードが本の執筆の一環として、ベルナルド・ラファイにこの件について尋ねた。「イヴ・サン=ローランやクリスチャン・ディオールによるスカートやドレスは、ときにパンツよりもフィットし、ほとんど場合十分にエレガントであった。要するに私の信念は、反対の党からは容易に批判する内容だったようだ」と彼は答えた。 ●ワードローブはジェンダーを超えて 1960〜70年代にかけて広まった女性のパンツの着用は、今や必然的に当たり前になっている。この間、フランスでは女性の生活が大きく変わった。避妊を支持し、中絶を非犯罪化する法律は、女性に自身の体を独立して管理する自由を与えた。同時に、政府は労働市場に多額の投資をしており、女性が自身の名前で銀行口座を開く権利を初めて獲得した時代でもある。 映画と広告は、これらの新しい自由を反映している。1977年公開の映画『アニー・ホール』のダイアン・キートンのマスキュリンなユニフォームから、1981年に写真家リチャード・アヴェドンによるブルック・シールズの有名な「カルバン クライン」の広告は、“女性にとってパンツは不可欠”と主張しパンツの民主化を進めた。 80年代は、衣服がもつジェンダーの隔たりを壊す役割を果たした、完全にユニセックスなアイテムであるジーンズのグローバル化によって特徴付けられた。ビッグメゾンがこの流れに続き、ドレスとスカートは次第に勢いを失っていった。そして2000年代に移行すると頃には、パンツは多様性と遍在性をより確実にするかのように、さまざまなスタイルで登場して発展していったのだ そして、ますます性別が流動的な現代のモード界で問題は逆転する。パンツが今やユニセックスのワードローブの一部であり、誰も文句をつけられない今、その矛先はスカートに向けられている。男性向けのスカートは、マーク・ジェイコブスが自身の私服としてしばらくの間取り入れられ、90年代からはジャン=ポール・ゴルチエのキャットウォークに登場した。 クリスティーヌ・バードは「今の課題はスカートを普遍化することです」と述べる。「私たちは男性と女性の二元主義から抜け出しているので、“普遍化”という言葉を好みます。特に、自分たちを非二元的であるとみなし、男性または女性のどちらかとして識別したくない若者がますます増えています。もしもあなたがこのアイデンティティを主張するなら、どんな衣服を着るでしょうか?」 広義に解釈すれば、より包括的で性別の少ないファッションのトレンドがますます高まっており、通常の束縛から遠く離れたシルエットへの扉が開かれている。2019年11月、「WWD」はZ世代の消費者の56%が「割り当てられた性別以外」の服装をしていると報告した。いつの時代もファッションは、慣習を素早く変更するための最良の方法なのかもしれない。 |
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●大根足 | |
●大根足とは?
大根足の大根とは皆さんがイメージされる通りの野菜の大根のことです。しかしその歴史は古く、西暦313年に即位した仁徳天皇が和歌の中で細く白いきれいな足のことを大根に例えたと言われています。ではなぜ昔は細くてきれいな足のことを大根足と言っていたのに、今では真逆の太くて不格好な足のことを大根足と言われるようになったのでしょうか。実はこれは大根の開発の歴史に大きく関係しているのです。 ●大根足の大根はどちらのイメージ? ほとんどの方は左のイラストを大根と認識する方が多いかと思います。でも実はどちらのイラストも同じ大根なのです。江戸時代には100種類以上あると言われた大根は、元々細い大根が多く「すずしろ」と言われることもありました。この細くて色白のきれいな大根を、元々は大根足と言っていたのです。100種類もある大根なので「祝い大根」と言われる細くて白くてきれいな大根まで今でも販売されています。しかし大正後に品種改良が行われて、細い大根から太い大根へと変わっていきました。元々大根足と言えば「細くて白いきれいな足」を指していたのが、品種改良が進むことで「太くて不格好な足」を意味するようになってしまいました。大根はどの土地でも日本では比較的簡単に栽培できるため、足にも揶揄されるほど身近な食品になっているのです。 ●大根足の原因は遺伝なの? 大根足に悩む女性が気になるのが、親も足が太かったので遺伝では?ということだと思います。結論から言うと遺伝もありますが食生活や運動による影響が大きいです。遺伝は日本人は欧米人よりも足が太くなりやすい傾向があります。また筋肉の付き方や骨格は親から引き継がれるものなので、遺伝の影響は多少なりともあります。 ●生活習慣を見直すことで大根足を治す 大根足になるのは食習慣や運動の頻度、睡眠時間などに左右される影響の方が大きくなります。甘いものや炭水化物を取りすぎたり、運動不足で足に脂肪がたまったり、むくみも運動不足の原因です。また睡眠不足になると自律神経のバランスが崩れて足の活動量が減り、食べていないのに太りやすくなるため大根足の原因になることがあります。 ●大根足とむくみの関係 むくみは女性の天敵であると言っても過言ではなく、女性の64.5%の人が足にむくみを感じています。むくむと大根足に見えるのでまずはむくみの原因についてみていきましょう。血液は心臓から体中に送り出されますが、血液のポンプ機能だけで全身をめぐる力はありません。そこで体の筋肉が心臓の代わりにポンプ機能を果たしているのです。ふくらはぎは「第二の心臓」を言うことを聞いたことがある方もいると思います。しかし運動不足になると血行が悪くなり排泄物や水分が下半身から移動しなくなり、大根足の原因となってしまいます。したがって大根足を改善するためには、まずは運動することが大切です。 ●大根足の基準を決める計算式 大根足の基準については明確なものはありませんが、美脚の理想値を用いることで判断することができます。美脚の理想値とは身長に対して足の太さを測定することで判断できる基準です。 美脚理想値 ふともも:身長×0.3 ふくらはぎ:身長×0.2 是非この基準から大根足になっているのか判断してみるといいですよ。 |
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●大根足・諸話 | |
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太くて白くてむっちりとした脚。ダイコンのように太くむちっとした脚。たいていは女性に対して用いられる。「大根足」と書くが「脚」を表現しているのが普通である。昔の大根は白くてすらっとしており、「大根足」は褒め言葉として用いられていたが、江戸時代後半から太い大根が出回るようになりマイナスイメージとして使われるようになってしまった。 古い時代のアニメにおける女性キャラも、男性向けの場合、現代から見ると1980年代まで、戦前からの米国作品「ベティ・ブープ」や、1950年代からの手塚治虫作品の影響を受けたフォロワーの系譜による作家が、その時代で魅力的とされた大根足的な表現手法を好む傾向が多かった。 現代的な足の趣向に代わるのは、1970年代における少女漫画の表現手法や要素が逆輸入されだしたころから拮抗しだし、1992年の「美少女戦士セーラームーン」の放映開始による男女を巻き込んだムーブメントから、少女漫画的な脚の描き方に完全に取って代わられ(大根足であると当該コスチュームを描いたとき様にならない)、現代では主流からは完全に外れている。(タイトルメイン画像のような現代の漫画表現における「大根足」も一旦完全に少女漫画ナイズされた系譜の後のものであり、洗練度は80年代とは比べ物にならなくなっている。PIXIVにおけるベティ・ブープの投稿画像も、現代の絵師による投稿であることから、体や脚の書き方は現代風に描かれているものがほとんどである。) ●2 大根足とは、太い足を嘲う言葉。大根のように太い足を意味し、古く江戸時代から女性の足を対象に使われた言葉である。「大根のように」と書いたが大根の白さは特に関係なく、あくまで太いというイメージから使われている。 ●3 「大根足」と言われる足は、概おおむね白く太い足を指す。そして、悪口と捉えられている。 女性が言われた場合、実はとっても良い「褒め言葉」だったりということを知る人は・・・割と少ない? 元々の意味は、長野の方で、大根のように太くてすべすべしていて白い足。=しっかりしていて、健康的な足の事を指す。多少泥に汚れていても、さっと洗えば白さを取り戻す足。農家の人からすると、「本来の意味」では、「健康的で立派な働き者」を指す言葉なのだとか。 それとは逆に、不名誉な呼ばれ方としては、「ゴボウ足」というものもあるらしい。ゴボウのように細く黒く不健康そうですぐに折れそうな足。病弱で、アクが強く、古くは悪実と書いてゴボウと読むように。まぁ、ゴボウも今や、悪い印象は少ないと思われる。 ●4 「大根役者」は悪口か? その語源をたどれば、消化酵素の多い大根は、傷みにくいために腹を壊したり、食中毒にならないことが、その元となったらしい。「食当たりしない → 当たらない → 売れない(役者)」 食材としては優秀な大根が、いつの間にか「売れない役者」になってしまっている(また一説には、下手な役者が役をおろされることを、大根おろしにかけたというのもある)。 では「大根足」は? 「古事記」には、女性のか細い腕枕で眠るさまを詠んだ仁徳天皇の和歌がある。ここでは、「白く細い大根が、美しさを表す褒め言葉となっている」。ところが後の世、かつてはか細かった大根が、度重なる品種改良のおかげで、現在のような「ブッとい大根」になってしまった。これまた食材としては大変に有難い話であるが、「大根足」のほうはといえば、ありがた迷惑なほどに太くなりすぎた。 そんな大根。禅寺では昔から変わらずに重宝されてきた。大根を干して、大きな木樽で数千本の沢庵をつけるのは、禅寺の風物詩。修行僧用の沢庵は、向こうが透けるほどに薄い。それは、ポリポリ噛む音が聞こえないように、との配慮だというが、少し物足りなさもあるような…。また、参拝者用のお膳では、沢庵を一枚残す作法がある。その残した沢庵、椀にお茶を注ぎ、残ったわずかなお米を頂くためだそうだ。 永平寺の典座老師というお方は、心をこめて大根料理をつくっていたという。「ワシなどもう何十年も寺の台所に立っておるが、同じように煮たつもりでも、決して同じ味にはならん。今でも大根の煮物ひとつ、思い通りの仕上がりになるかどうか、やってみなければ分からんくらいだ」 大根の煮物ひとつでも、決して軽んずることのなかった典座老師。長い年月をかけて一事に専心して精進していくことを、大根料理で教えるのであった。「一事をこととせざれば、一智に達することなし」「多般を兼ぬれば一事をも成ずべからず。努々(ゆめゆめ)学人一事を専らにすべし」 これらは、道元禅師の正法眼蔵に見られる言葉である。 ●5 「大根足」は大根のように白くて細長いスラリとした足をほめる言葉(ただし練馬大根に限る) 「花の雨ねりまのあとに干大根」という江戸時代の古川柳があるのだけど、これはこういう意味だとされている。春の花見の席で、突然雨が降り出した。わいわいやってた花見客が逃げ出すわけだが、若い女性が着物のすそをからげて走り出すと、白くて細い足があらわになる。そんなにすばやく動けない年寄りも後に続くが、当然、着物の下の足はしわしわである。このようすを「ねりまのあとに干大根」と見立てたわけだ(干大根とは、ぬかみそにつけてたくあんにする前に、水分を抜くために干した状態の大根のこと。なお、この干大根はほしだいこと読む、この川柳では)。 「ねりま」といわれてわけがわからない人もいないだろうと思うが、これは「練馬大根」のことだ。 でも大根でしょ、大根足って太い足(一説にはくるぶしあたりの「くびれ」がない寸胴の足とも)のことじゃないのと思うかもしれないけど、それは練馬大根を見たことがないからだろう。 上の写真が練馬大根だが、いまの(よく売ってる)大根とはかなり違うのがわかると思う(この練馬大根を見て「太い」と感じるだろうか? なお、練馬大根といっても複数の品種があり、それらを練馬系とよんだりするらしい。これは尻細という元祖に近いものかもしれない)。いまのふつーの大根はこんな感じだものね。 とゆーわけで、「やーい大根足」とからかわれたら、「練馬ね! ありがとう!」と言い返そう。言い返せない人はザンネン(三浦大根みたいだったら言い返せないわな)。 注:その当時に「大根足」という言葉があったかどうかは知りませんし、これが正しい意味だというわけでもありません(大根の姿かたちが変わってきてるんだから、意味も違ってきて当然でしょう。それに、実際のところ、足のことを形容する言葉であっても、必ずしもほめているとは限らないかもしれません)。→80を超えている親が、若い女性の白くて細長い腕を大根と形容していたので、昔はそういう使い方をしていたのかもしれないです。もちろん地域にもよるでしょうが。 この写真は光が丘で行なわれた農業祭の品評会で撮ったものだけど……その農業祭、沖縄のJA(農協)もやってきて、カーブチーというみかんを売ってた。んだけど、どうもここのところ売らないみたいだ。今年もカーブチーだけを楽しみに行ったのだけど、やっぱ売ってない(せっかく早めに行ったのに)。 カーブチー売らないなら、もう行かない。サーターアンダギーとかちんすこうとか、そんなんスーパーや駅でやってる沖縄フェア行けば買えるし。 とりあえず、その品評会に出ていたキウイフルーツのでかいやつに驚いた。 しかしまあ、こういう品評会ってのものなぁ。「まっすぐなキュウリ」に代表されるように姿かたちがいいものがヨシとされるわけで、そういう評価基準にあわせて農家も野菜を作るわけだ。それも一理あるけど、そればっかりではナンだよなぁ……と思わなくはない。 まあいいけど。 けっこうこの祭りで買ってる人がいるけど、産直ってことなら、このあたりにはいくらでも無人販売の店があるのに。タイミングが合えば、正真正銘の「さっき採ったやつ」が買えるんだよねぇ。私がこのあたりに引っ越してすぐのころは、ばあちゃんが毎朝リアカーに野菜を積んで、無人販売の店に置きに来てた……けど、まあ、20年の間にずいぶん畑も減ったわな。 追記:干大根(ほしだいこ)について / たぶん、これも見たことない人が多いだろうから写真を出しておこう。まず、収穫された大根は、伝統的にはこんなふーに吊るされて干される(地域によって干し方は違う)。んで、水分が抜けるとこーなるわけだ。これをぬかみそにつけるとたくわんになる。生の大根を娘の足、この干大根を年寄りの足に見立てたってのは、笑点の大喜利ならば、座布団3枚モノだと思う。つか、ねりま(ねりま大根)といえば若い娘の足ということは、当時のお約束の比喩(たとえ)だったのだろう。そーゆー共通の基礎知識がないと、この川柳は通じないはずだから、そーゆーお約束があったのだと思う……少なくとも当時の江戸の一部の人たちの間では(練馬大根がない他の地方ではどうだか知らん)。 ●6 古事記にある仁徳天皇の歌。 「つぎねふ 山背女の 木鍬持ち 打ちし大根 根白の白腕 纏かずけばこそ 知らずとも言はめ」 大根の白さと同じような美しい白い腕で抱いてくれた仲ではないかと、白くて細い美しい腕の例えだった「大根」。その後、足の例えとなり、当初は白いスラッとした足のことを指していたそうですが、今では太い足をからかう言葉になっていますよね。昨日社長から大根を頂いたのですが、同じ品種、同じ畑で、同じように育てられても、こんなに違う大根。左が元々の「大根足」の意味、右が今の意味って感じがしますよね。 |
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●大根の白腕 1 | |
敗戦後の10年間、屈辱感・食糧難・生活苦で打ちひしがれていた日本は、昭和30年に転機を迎えました。この年は理想的な天候に恵まれ、当時GNP(国民総生産)の20パーセント近くを占めていた農業生産が飛躍的に伸び、経済全体に広がって好景気となりました。このときの景気を神武(じんむ)景気と呼び、その後の日本経済大発展の始まりとされています。国の財政も好転し、大幅減税が行われました。
神武景気とは詳しくは「神武以来の景気・仁徳以来の減税」ということなのです。神武とは日本最古の歴史書・古事記(こじき)と日本書紀(にほんしょき)に伝えられる日本初代の天皇の名。仁徳(にんとく)とは第16代の天皇の名。第七話はこの仁徳天皇と皇后・磐之媛(いわのひめ)のお話です。 ● 磐之媛は葛城(かつらぎ)氏の出身。そのころ葛城氏は葛城山の東(現在の奈良県御所(ごぜ)市付近)を本拠とする大豪族でした。磐之媛は気性のしっかりした美貌の女性で、皇族以外から皇后となった最初の女性です。仁徳天皇との仲むつまじく、4人の皇子の母となりました。そのうちの3人はのちに履仲(りちゅう)天皇・反正(はんぜい)天皇・允恭(いんぎょう)天皇としてそれぞれ皇位についています。 仁徳天皇は難波(なにわ)の高津宮(たかつのみや)に住まわれました。皇位についてまもなく、高殿から回りを見渡され、民家から立ち上る炊飯の煙が少ないことから民の生活が苦しいと察しられて、全国民の税や奉仕を3年間免除されました。 このために宮殿は荒れ宮廷の倉の蓄えも乏しくなりましたが、3年後に民のかまどの煙が多く立ち上るのを見て喜ばれたということです。「仁徳以来の減税」はこの故事に由来しています。 ● このような善政を敷かれた天皇も、権力者の常として、次第に他の女性に気を移され始めます。天皇は皇太子の時に日向国(ひゅうがのくに・今の宮崎県)から父・応神天皇に贈られた髪長媛(かみながひめ)をねだってもらわれたことがありましたが、今度は吉備国(きびのくに・今の岡山県)の美女・黒媛(くろひめ)を呼び寄せて宮殿に入れられました。しかし、黒媛は皇后を恐れて逃げ帰ってしまいましたので、天皇はあとを追って吉備国まで行かれました。黒媛はおもてなしの食べ物を作るため畑へ菜を摘みに行くと、天皇も同行されて歌をお詠みになりました。 「山県(やまがた)に 蒔(ま)ける菘菜(あおな)も 吉備人と 共にし摘めば 楽しくもあるか」 (山の畑に作ってあった菜も、吉備の乙女と一緒に摘むと楽しいよ) 菘菜とは、当時すでに渡来して広く栽培されていたアブラナ科の野菜で、現在のハタケナの類のようです。でも天皇は磐之媛皇后を恋しく思われて、まもなく難波にお帰りになりました。また天皇は、弟の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)から将来を頼まれていた異母妹の八田皇女(やたのひめみこ)を宮殿に入れたいと磐之媛皇后に話されましたが、皇后は反対されました。ところが、皇后が儀式に使う葉を採りに紀国(きのくに・今の和歌山県)に出かけられている間に八田皇女を宮殿にお入れになりました。帰りの船中でこれを聞かれた磐之媛皇后は、高津宮へは戻らず、淀川から木津川をさかのぼって筒城(つつき・今の京都府綴喜郡)に着かれ、ここに宮殿を建ててお住まいになりました。これを聞かれた仁徳天皇は多くの従者を引き連れて筒城へ行き、皇后のお住まいの表に立って次のように歌われました。 「つぎねふ 山背女(やましろめ)の 木鍬(こくわ)持ち 打ちし大根(おほね) 根白(ねじろ)の白腕(しろただむき) 纏(ま)かずけばこそ 知らずとも言はめ」 この歌の意味は、 「山城の国の女が木の鍬を使って育てたダイコン。その根の白さと同じ美しい白い腕で抱いてくれた仲ではないか」 ということです。ほんとに率直でおおらかな表現ですね。しかし磐之媛皇后は難波へはお帰りにならず、筒城の宮にお住まいになって、数年後にこの地で亡くなられました。古事記や日本書紀では、磐之媛皇后を嫉妬深い女性と書いています。でも、本当は聡明な方だったのではないでしょうか。長年連れ添った夫を、なおも心から愛し続けたいがゆえに、あえて天皇のお迎えを拒んで別居の道を選ばれたのでしょう。磐之媛皇后は筒城の宮に移ってまもなく、山城(今の京都府南部)と大和(今の奈良県)の境の平城山(ならやま)に登り、奈良盆地のかなたに生まれ故郷の葛城山を望んで、若かったころを回想し、仁徳天皇への思慕を深められたとのことです。 昭和9年、高知県宿毛(すくも)出身の歌人・北見志保子は、この平城山に立って磐之媛皇后を偲びつつ、自身のつらい恋と重ね合わせて数首の短歌を詠みました。翌昭和10年、同じ高知県出身の平井康三郎はこの歌の二つを歌詞として曲を付け、歌曲「平城山」を発表しました。この歌は格調高い日本の歌曲として歌い継がれています。平城山は京都府木津川市と奈良市にまたがる丘陵地で、現在は住宅地としての開発が進んでいますが、幾つもの陵墓や古墳があり、磐之媛皇后もここに眠っておられます。 ●ことば豆辞典 【古事記】 稗田阿礼が習い覚えた神代から推古天皇までの神話や伝説を712年に太安万侶が記録したわが国最初の歴史書。上中下3巻から成り、万葉仮名で記述。 【日本書紀】 720年に舎人(とねり)親王らが編纂した30巻の勅撰歴史書。神代から持統天皇までの記録を漢文で記述。 【難波】 今の大阪市とその周辺の古称。日本書紀によると、神武天皇御東征のときこの地の潮の流れが速かったので浪速(ナミハヤ)の国と名づけ、これが訛ってナニワと発音するようになったという。今では浪花と書くことが多い。 【菟道稚郎子】 仁徳天皇の異母弟。はじめ皇太子とされたが固辞し自害した。京都府宇治市に墓がある。 【北見志保子】 1885-1955。大正・昭和期の歌人。本名は川島朝野。高知県宿毛市出身。上京して結婚するが、若い学生と恋に落ちて夫と離婚し、若い恋人と再婚した。「平城山」に歌われる短歌は、前夫と別居中に奈良に旅したときの作とされる。 【平井康三郎】 1910-2002。昭和・平成期の作曲家。本名は平井保喜(やすき)。高知県伊野町出身。東京音楽学校卒業。母校で教鞭を取る傍ら作曲活動を行い、「平城山」や「スキー」などを作曲。合唱連盟理事、日本音楽著作権協会理事、大阪音楽大学教授等を歴任。 ● ダイコンは日本の野菜の代表のような存在です。太古の時代に渡来して、永く栽培されて来ました。日本の風土に適応して野生化したものもあります。長い年月の間に各地の気候風土に適応し、愛知県の守口ダイコンのように細長いものから鹿児島県の桜島ダイコン(野菜こぼれ話第七話・桜島大根の釘隠し参照)のように丸い大型のものまで多くの品種ができました。生産額も栽培面積も最近まで野菜のトップを占めていました。まさに日本の野菜の代表といえましょう。 しかし重要なもの必ずしも尊重されるとは限らず、かえって日常的過ぎて有り難味を感じないことが多いものです。平安時代半ばに清少納言(せいしょうなごん)が書いた枕草子(まくらのそうし)にも、 「えせもののところ得るおりのこと 正月の大根(おほね)」 (つまらないものが幅を利かせるとき。正月のダイコン) とあります。これは正月の歯固めの行事に使われたことを指しています。えせものとはひどい言い方だと思うのですが、その後も大根足とか大根役者などと良くない形容に使われています。生食、煮物、漬物など広い用途があり、千切り干し大根は野菜の端境期(はざかいき)の栄養源となるなど、永く日本人の栄養を支えてくれたダイコンにわれわれはもっと感謝するべきではないでしょうか。 仁徳天皇のお歌のとおり、ダイコンの根の白さはほんとに美しいのです。最近は全国的に青首長ダイコンばかりが出回って、地方の多くの品種の消滅が心配されています。 |
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●大根の白腕 2 | |
●古事記 【 仁徳天皇 】 志都歌の歌返 天皇、大后の山代より上り幸でましぬと聞し看して、舎人、名は鳥山と謂ふ人を使はしたまへるときに、送りたまふ御歌に、曰りたまひけらく、 (六〇) 山城に い及け鳥山 い及けい及け 吾が愛し妻に い及き会はむかも 又、続ぎて、丸邇臣口子を遣はして、歌曰みしたまひけらく、 (六一) 御諸の その高城なる 大猪子が原 大猪子が腹にある 肝向かふ 心をだにか 相思はずあらむ 又、歌曰みしたまひけらく、 (六二) つぎねふ 山城女の 木鍬持ち 打ちし大根 根白の 白腕 纏かずけばこそ 知らずとも言はめ 故、是の口子臣、此の御歌を白しし時しも、大雨ふりけり。爾に、其の雨を避けずて、前つ殿戸に参伏せば、違ひて後つ戸に出でたまひ、後つ殿戸に参伏せば、違ひて前つ戸に出でたまふ。爾、匍匐ひ進み赴きて、庭中に跪きゐし時に、水潦腰に至れり。其の臣、紅紐を着けたる青肖の衣せ服たりければ、水潦紅紐に払れて、青みな紅色に変りぬ。爾に、口子臣の妹口日売、大后に仕へ奉れり。故、是の口日売、歌曰ひけらく、 (六三) 山城の 筒城の宮に 物申す 吾が兄の君は 涙ぐましも 爾に、大后、其の所由を問ひたまひし時に、「僕が兄口子臣なり。」と答へ白しき。ここに、口子臣亦其の妹口比売及奴理能美の三人議りて、天皇に奏さしめて云ひけらく、「大后の幸行でませる所以は、奴理能美が養へる虫、一度は匐ふ虫と為り、一度は殻と為り、一度は蜚ぶ虫と為りて、三色に変る奇しき虫ありければ、行きて此の虫を見そなはさむとて、入り坐せる耳。更に異しき心は無ず。」と、まをさしめき。かく奏しし時に、天皇、詔りたまひけらく、「然らば、吾も奇異しと思ひたまふれば、行きて見ま欲し。」と、のりたまひて、大宮より上り幸行でまして、奴理能美の家に入り坐せる時に、其の奴理能美、己が養へる三種の虫を大后に献りけり。爾、天皇、其の大后の坐せる殿戸に御立ちまして、歌曰みしたまひけらく、 (六四) つぎねふ 山城女の 木鍬持ち 打ちし大根 さわさわに 汝が言へせこそ うち渡す やがはえ如す 来入り 参来れ 此の、天皇と大后との歌ひたまへる六の歌は、志都歌の歌返なり。 |
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●清少納言・枕草子 | |
●(一四九段)
えせものの所うるをりの事 正月の大根。行幸のをりの姫大夫。六月十二月の三十日の節折の藏人。季の御讀經の威儀師。赤袈裟著て僧の文ども讀みあげたる、いとらうらうじ。 御讀經佛名などの、御裝束の所の衆。春日祭の舎人ども。大饗の所のあゆみ。正月の藥子。卯杖の法師。五節の試の御髮上。節會御陪膳の采女。大饗の日の史生。七月の相撲。雨降る日の市女笠。渡するをりのかん取。 |
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●えせものの所うるをりの事 1 | |
清少納言が見た生意気な大根 今からおよそ千年前に書かれた枕草子。この作品の中に『えせものの所得るをり』という章段があります。清少納言は、この章段で不思議な事を言っています。『ふん!大根のくせに・・』これは一体どういうことなのか? ●生意気な大根 ●原文 まずは、清少納言が『えせものの所得るをり』の中で、どのように言っているのか原文を確認してみましょう。「枕草子一五六段『えせものの所得るをり』 正月の大根。行幸のをりの、姫大夫。御即位の御門司。・・・・・・ 」 『えせものの所得るをり』は、このように始まります。つまり清少納言は、この章段の最初で大根について触れています。そして、『正月』の大根と言っています。 ●『えせものの所得るをり』とは? 簡単に言うと 「大した物でもないくせに幅を利かせるもの」というような意味になります。つまり清少納言は、大根に対してこのように感じていたことになります。大根は大した物でもないのに幅を利かせている・・ 清少納言に言わせると、大根は生意気なのです・・。 ●何故『正月』の大根が生意気なのか? それでは、清少納言が大根を生意気だと思っていた理由をお伝えします。なお、かなり彼女独特の感性なので、理解に苦しむかもしれません。ここでポイントとなるのが『正月の大根』であることです。まず前提として、清少納言は『大根』そのものを、大したことのない物と感じていたようです。そんな大したことのない大根が幅を利かせる時・・・清少納言に言わせると、それが正月なのです。ちょっと分かりづらいですが、彼女は要するに正月に食べる大根料理の事を言っています。 つまり『おせち料理』です。「重箱の中で、様々な彩りを放つ食材たち・・。その中で大したことのない大根が偉そうに自己主張をしている・・。」これが、清少納言が感じた『生意気な大根』なのです。 どのような大根料理の事を言っているのかはよく分かりませんが、おそらく漬物の類か何かだったんじゃないでしょうか。 ●清少納言の面白い感性 解釈の仕方はいろいろあるかと思うのですが、『えせものの所得るをり』に書かれている『正月の大根』はおおむね以上のような意味になります。実際に清少納言が見たおせち料理で、大根がどれほど目立っていたのかは不明です。しかし、現代人でも『おせち料理で自己主張している・・生意気!!』なんて感性を持っている人がいるでしょうか? よく意味の分からない感性ではありますが、これこそが清少納言の面白さなのです。そんな清少納言の、ちょっとぶっ飛んだ感性が随所に散りばめられた枕草子。日本史を代表する才女の目の付け所を、あなたも楽しんでみませんか? |
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●えせものの所うるをりの事 2 | |
枕草子 第百四十九段 えせ者のところ得るをり
えせ者のところ得るをり。 正月の大根(オオネ)。 行幸のをりの姫大夫(ヒメマウチギミ)。 御即位のみかど司。 六月・十二月の晦の、節折(ヨヲリ)の蔵人。 ・・・ (以下割愛) ● つまらない者が幅を利かせる時。 正月の大根。(元旦の歯固めに用いられた。歯固めは、大根・瓜・獣肉などを食べて長寿を願う行事) 行幸の折の姫大夫。(姫大夫は、行幸の折、馬に乗って供奉する内侍司に属する女官。普段は目立たない存在) 御即位のみかど司。(即位式で御座に絹蓋を挿しかける役のみかど司の女官。やはり普段は目立たない) 六月と十二月の月末の、節折の蔵人。(六月・十二月の大祓の夜に、女蔵人が竹を使って天皇の身長を計った。寸法通りに竹の節を折ることから節折といわれた) 春秋の御読経(百僧を請じて大般若経を宮中で読ませた大法会)の威儀師(イギシ・法会の折の先導の僧)。赤い袈裟を着て、僧の名を次々と読み上げているのは、とても清らかで立派です。 春秋の御読経・御仏名などで、場内の設備をする蔵人所の衆(人たち)。(蔵人所の衆は六位なので、本来昇殿出来ないが、この準備の時だけは紫宸殿や清涼殿に昇ることが許された) 春日祭の近衛舎人ども。(祭りの前日に近衛中将が勅使に立つが、舎人が供に着く。途中で舎人を左右大臣などに任ずるような、ふざけた除目を行う習わしがあったらしい) 元三の薬子(グアンサンのクスリコ)。(正月三が日、天皇が召し上がる屠蘇酒の毒見をする童女のこと) 卯杖の捧持。(正月上の卯の日に、宮中では大舎人寮・兵衛府などから天皇・中宮・東宮などに卯杖を献じた。この時舎人などが捧持したが、その得意そうな様子を指している。なお、「捧持」を「法師」とする説もあるが、この時天皇の御前などに法師は登場しない。第七十五段にも登場している) 御前の試みの夜の理髪(ミクシアゲ)。(五節の第二日清涼殿孫庇で行われる御前の試みには、理髪の女官も舞姫に同道する) 節会の御まかないの采女。(節会で天皇などの配膳にあたる采女は、晴れがましい役である) 「えせ者]といえば、偽物、似ているが本物ではない、といった意味に使いますが、当時は少し違うようです。本段も、分相応な役を得て鼻高々なものをあげています。おそらく、少納言さまお得意の分野だと思われ、数多く示されていますが、いずれもかなり難しいものばかりでした。 |
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●えせものの所うるをりの事 3 | |
つまらないものが幅をきかせる時。正月の大根。行幸の際の姫もうちぎみ。即位の時の御門司(みかどのつかさ)。六月や十二月の末日に開催される節折(よおり)の蔵人。季の御読経の時の威儀師。赤い袈裟を着て、僧の名前を読み上げるのは、すごくキラキラしてて威厳があるわ。季の御読経や御仏名なんかのイベント設営をする蔵人所のスタッフたち。春日祭の時の近衛の舎人たち。元日の薬子(くすりこ)。卯杖の法師。五節の御前の試みの夜の髪結い担当の女房。節会の時、帝の配膳を担当する采女(うねめ)。
● 大根(おおね)ですが、大根(だいこん)のことです。元々、おほね→大根だったものを、ダイコンと読んだのが、時系列的には正しいようですね。 正月の大根と言うのは、「歯固め」というイベントに出されたもののようです。当時は、三が日に、鏡餠などを食べて長寿を願ったらしいですが、鏡餠の膳には、大根、瓜、芋、猪や鹿の肉、押し鮎なども出されたようなんですね。 押し鮎? 食べたことないですけど、想像通り、塩漬けにした鮎だとか。不味そー。 で、歯固め、っていうのは赤ちゃんの時にする儀式みたいに思いますが、みんなやってたわけですね。まあ、当時の正月恒例行事なんでしょう。箱根駅伝みたいなもんですか。 と、つまらないことはさておき、大根です。大根? まあまあおいしいですけどね。おでん買う時は、まず大根でしょう。清少納言は大根が嫌いだったんでしょうかね。 姫まうち君。「まうちきみ(もうちきみ/もうちぎみ)」というのは「まへつきみ」とも言うようです。天皇の御前に仕える人に対する尊敬語だそうですが、姫が付きますから女官なのでしょうか。ということで、「ひめもうちぎみ」で検索。すると、「東豎子(あずまわらわ/東嬬)」とあり、「姫大夫(ひめもうちぎみ)とも称し、これが訛ったとされる姫松の呼称も用いられた」とウィキペディアに書いてました。 名称としては「東豎子(あずまわらわ/東嬬)=姫大夫(ひめもうちぎみ)=姫松」とのこと。内侍司に所属していた下級女官の1つで、帝が行幸の際には東豎子2名が男性官人の服装をして参列していたらしいです。このため男装の女官、とも言われるそうですね。この日ばかりは、下級女官なんだけど男装!ってことですから、清少納言的には「なんて日だ!」でしょう。バイきんぐ小峠ですか。 御門のつかさ(みかどのつかさ)というのは「闈司」とも書くそうです。「いし」と読むらしいですね。意味は、「令制で後宮十二司の一つ。宮中の諸門の鑰(かぎ)の管理および出納をつかさどる」とのこと。「闈」は門がまえに韋です。前に出てきた「囂し」(かしがまし)もそうですが、「闈」も一生書かないでしょうね。ここで書かれているのは、その「みかどのつかさ」のスタッフのことなのだと思います。 節折と書いて「よおり」と読むらしいです。宮中で毎年6月と12月の末日にこの儀式が行われたそうですね。竹を節のところで折って、天皇、皇后、皇太子の身長を測って祓を行ったらしい。蔵人は、所謂蔵人になぞらえて設置された女性版蔵人です。ただ、雑務をこなす下級女官ではあります。装束や裁縫のことも女蔵人の仕事の一つですが、この「節折蔵人」(よおりのくろうど)というのは、期間限定、節折担当という感じでしょうか。 「季の御読経」というのは、春と秋に国家安泰を祈願して宮中に僧を招いて行う、大般若経を転読する仏教法会なんだそうです。威儀師はこうした法会などで儀式を進行し、衆僧を指揮する役目の僧侶のことを言うのだそうですね。 「きらきらし」は「煌煌し」と書きます。「光り輝いている、威容がある」という形容詞ですが、擬態語、オノマトペの「キラキラ」と合致していますね。こういう語は意外とあって、「スベスベ」は滑滑、「ツヤツヤ」は艶艶、「フサフサ」は総総、「ヒラヒラ」は片片、という具合です。これは日本語ならではだという気がしますね。 近衛舎人(このえのとねり)は、近衛府の下級職員ということですが、春日大社の例祭に追従したようです。 元三(がんざん/がんさん)は、年、月、日の三つの元、ということで、正月の一日、元日のことだそうですね。わざわざそんなややっこしいこと言わなくてもと思いますが。で、平安時代には、この元日に、帝の供御される屠蘇(とそ)を未婚の少女の中から選ばれた薬子(くすりこ)が試飲、毒味をしたそうです。名誉なことなのかもしれませんが、子どもに毒味させるというのもどうかと思いませんか。 卯杖は、正月初の卯の日に、魔よけの具として用いる杖だそうで、以前、「ここちよげなるもの」に出てきました。これを持っている法師が誇らしげだったと書かれていますから、ま、そういうものなんでしょう。 「五節(ごせち)の御前の試み」というのは、五節の第2日の寅(とら)の日の夜に、帝が五節の舞姫の舞を清涼殿などでご覧になる儀式なんですが、その夜にダンサーたちのヘアメイクをした人たちがいたのでしょう。 さて、この段は、そもそも「似非もの」ですからね。完全に上からです。一つだけ野菜ですが、あとは下級職員的な人たち。清少納言としたら、そりゃ、自分はセクレタリー、幹部的な地位にいるのでしょうけど、現場で雑務をこなすスタッフを見て、卑しい身分なのに、いいタイミングでいい所に配置されてよかったね、という感じです。かなりイヤラシイですね。 ●原文 えせものの所得(う)る折 正月の大根(おほね)。行幸の折の姫まうち君。御即位の御門つかさ。六月・十二月のつごもりの節折(よをり)の蔵人。季の御読経の威儀師。赤袈裟着て僧の名どもをよみあげたる、いときらきらし。 季の御読経。御(み)仏名などの御装束の所の衆。春日祭の近衛の舎人ども。元三の薬子(くすりこ)。卯杖の法師。御前の試みの夜の御髪上げ。節会(せちゑ)の御まかなひの采女(うねべ)。 |
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●練馬大根 1 | |
大根の練馬か、練馬の大根かと言われるほどに名をはせた練馬大根の栽培は、江戸時代の元禄期頃には盛んになりました。当時すでに人口百万をこえる江戸の需要にこたえる野菜の供給地として、練馬大根の栽培も発展していきました。よい大根を作るための肥料は、江戸の下肥(人糞)が用いられ、野菜を納める代わりに受け取る貴重なものでした。
明治の中頃から東京の市街地が拡大していくのに伴い、練馬大根の生産も一層増大していきました。その練馬大根は、たくあん漬けとして製品にされ出荷しました。また、干し大根としても販売され、一般家庭ではたくあん漬けが作られました。 その後、昭和の初めのころまで盛んに栽培され続けますが、昭和8年の大干ばつや、何回かのモザイク病の大発生によって大きな痛手を受けました。その後も、食生活の洋風化・急激な都市化による農地の減少などにより、昭和30年頃から栽培が衰退し、練馬大根が出回ることがほとんどなくなってしまいました。 練馬大根の栽培が激減していくなかで、キャベツ栽培が主になり、現在の主要生産物はキャベツになっています。 ●練馬大根の歴史 練馬大根とは、練馬地方で作り始めた大根をいう(※注釈)。練馬大根の栽培は江戸時代に始まった。この地方の表土は深くて大根栽培の適地だったから、すぐれた大根が生産され、練馬といえばすぐに大根を思い起こすほどの国内有数の産地となった。 ※注釈:純粋な練馬大根は、沢庵(たくあん)漬専用の「練馬尻細大根」と、生売用の「練馬秋づまり大根」(煮食用。ベッタラ漬、糠味噌(ぬかみそ)漬にも用いる)の2品種である。しかし品種改良の結果、今まで多くの練馬系大根が誕生した。これらの練馬系大根も、広義には「練馬大根」といえる。 ●大根栽培の土質 大根は栽培する土の性質によって根形が著しく変化する作物である。 桜島大根は世界一大きい大根で、直径が30〜40センチメートルにもなる。この大根が栽培されている土壌は、桜島火山砂礫土という軽石を砕いたような粒のあらい砂の層である。土地の人はこれをボラ土とよんでいる。ポラ土の層は水はけがよく、空気も入り込む。また、ポラ土の粒には細かい穴が無数にあり、そこに水がしみ込むので適当な水分も保たれる。根の発育には好都合な土壌である。 長さくらべでは守口大根が世界一である。産地は濃尾平野の一部で、細かい砂地の軟らかい土質の畑で栽培されている。木曾川砂土といい、砂層が2〜3メートルものところがある。だから長い根がぐんぐんと下へのぴる(※注釈)。さて、練馬大根が生まれた練馬地方の土壌は、関東ロームよばれる赤土層である。この層は洪積世(地質時代区分の一つ、今から200万〜1万年前)に活動した箱根・富士火山の火山灰が、西風に乗って関東一円に運ばれ、それが風化して粘土化した地層である。東京野菜の研究者福井 功は、「練馬地方一帯を覆う武蔵野台地の土が火山灰の洪積層に厚く覆われ私宅付近の地下鉄工事現場の調査では七メートルに及ぶ所もあった。この土が根の深く入る植物の生育に最適なのであって、ダイコンばかりでなく同じ伝来野菜のゴボウ・ニンジンなどにも適し、その後新しく伝来したサツマイモの栽培も盛んになったことからも納得できるのである。」と述べている。 ※注釈:ここでは桜鳥大根や守口大根が大きく成長する条件として土壌だけをとりあげたが、このほかに、適切な気候、良質な種、施肥など育成管理の工夫があることは勿論である。 江戸では「葛西」(葛飾・江戸川方面)と「西山」(武蔵野台地一帯)で栽培する野菜の種類が異なるが、これは土壌の違いによる。葛西は荒川や利根川の運んだ沖積土で水が豊富であったから、水気を好む野菜が主であり、これに対し、火山灰土の西山は根菜類の栽培に適していたのである。 火山灰が厚く積もった赤土の台地という自然条件のほかに、練馬の地で大根生産が盛んになったのは江戸近郊農村だったからである。江戸は大消費地、練馬〜江戸間は15キロメートルほど、日帰りで出荷できる。また、江戸市民の人糞(下肥)は大根栽培のよい肥料となった。 折しも沢庵漬が普及し始めた。沢庵用の大根には、練馬大根が最適である。かくて需要は益々高まった。 ●練馬大根の品種 練馬大根の代表的な品種は、練馬尻細大根(沢庵漬用)と練馬秋づまり大根(煮食用)である。しかしこの2種を基本としながらも、収穫量、収穫の時期、病虫害対策等々のため、品種の改良が行われてきた。次図は、森 健太郎が「種苗指針 第3号」に発表した練馬大根の系統図である。 練馬系大根の系統図 練馬地方で栽培していた品種は時代によって変わるが、昭和32年刊の「練馬区史」では、昭和10年の調査として大略次のように紹介している。 1.練馬尻細大根は沢庵大根として知られ、秋大根の王者とも称すべきもの。根身は長大で2尺5寸から3尺に及ぶ。重さ430匁ほど(1尺=約30センチメートル、100匁=375グラム)。首は細く、中央部太く、下部はやや急に細り、尻がとがっているので尻とがり大根ともいう。肉質しまり、水分少なく、皮薄く、色白く、乾きやすいので、干し大根として最良である。 2.練馬秋づまり大根は、煮大根として有名である。肉質柔らかで美味、糠漬にもよい。早晩二種がある。早生づまりの根身は円筒形で、頭が少し細く、長さ2尺2寸、重さ400匁ほど。地上に露出し湾曲しやすい。晩生づまりの根身は円筒形で、上下、殆ど同じぐらいの太さ。長さ1尺9寸前後、重さは500匁ほど。地表に出ることは少ない。両者とも肉軟らかな上、よくしまって水分甘味に富む。 3.みの早生大根は、夏から秋にかけ他の秋大根に先んじて市場へ出荷されるという有利さが喜ばれ、元来は練馬のものでなかったが、盛んに栽培されるようになった。 |
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●練馬大根誕生伝説 | |
●将軍綱吉説
この伝説の初見は、「北豊島郡誌」(大正7年刊 北豊島郡農会編)であり、次のように記載している。 往時、徳川綱吉公右馬頭(うまのかみ)たりし時、偶々脚気症を患ひ、医療効を奏せず、時の陰陽頭をして、卜(ぼく)せしめしに、城の西北に方り、馬の字を附する地を択び、転養するに若かずと。依て地を下練馬村に卜して、殿舎を建て、療養せしに、病漸次癒え、徒然を慰むるため、蘿蔔(だいこん)の種子を尾張に求め、試みに字桜台の地に栽培せしむ。結果良好にして、量三貫匁、長さ四尺余の大根を得たり。公病癒えて帰城するや、旧家大木金兵衛に培養を命じ、爾来年々献上せしめ、東海寺の僧沢庵をして、貯蔵の法を講ぜしむ。 とある。これが、練馬大根誕生伝説の一つである綱吉説の重要な文献になっている。しかし、この「北豊島郡誌」をさかのぼる20年前、その祖型と思われる「日本園芸会雑誌」(第80号日本蔬菜名品録、市川之雄編 明治30年発行)では、次のように記している。 練馬大根は東京府下北豊島郡練馬村の産にして、秋大根中有数の名品なり、(略)今其起源を聞くに記録の因なるべきものなく、幾百年より栽培したものなるや確知し難しといえども、徳川将軍綱吉公の同村に別邸を建築せられたるとき、邸内の空地に大根を栽培して進献したる処、其性沢庵漬に適せる良味のものなりとの御諚ありたるより以降、同村に於て大根栽培せらるるものなり。 ●考察 1.大正7年刊の「北豊島郡誌」と明治30年刊「園芸会雑誌」に記載されているものを比べると、前者の方は修飾が多いきらいがある。「園芸会雑誌」には、「右馬頭の脚気、陰陽師の卜、種子を尾張に求め、桜台(現在の北町4丁目辺り)に栽培、大木金兵衛に培養を命じ」などの記述はない。 2.史実では、綱吉は正保3年に出生し、沢庵和尚はその前年に没している。「北豊島郡誌」に述べられているように、綱吉が僧沢庵に貯蔵法を講ぜしむることはできない。 3.当時、将軍や世子兄弟の病気や湯治、屋敷の拝領などに至るまで「徳川実記」(嘉永2年完成−初代家康から10代家治に至るまでの将軍を中心にした編年体実録)には詳細に記録されているが、右馬頭が下練馬村で療養したことは出ていない。しかし、「新編武蔵風土記稿」(天保元年上呈、徳川幕府による武蔵野国の官撰地誌)の下練馬村の項には、「屋敷跡 村の南にあり、右馬頭と称せるもの住すといふ、其姓氏及何人たる事を伝へず、今陸田となり御殿 表門 裏門の小名あり、礎石なと掘出す事ままありと云。」とある。 4.下練馬村内田家文書「御府内并村方旧記」の元禄10年のくだりには、「護国寺建つ、館林御殿、当村に之有り候を引き移し建つ」とある。これによれば、旧記の執筆者が生存していた頃には、綱吉が下練馬村に御殿を構えていたという伝聞があったことは確かである。 5.種苗研究家森健太郎は、「北豊島郡誌」に「蘿蔔(だいこん)の種子を尾張に求め」とあるのは疑わしいということを、次の理由を挙げて説明している。「練馬大根が、尾張からとりよせた大根を宮重とすると、(練馬大根には)遺伝学上、どこかに宮重の遺伝現象が認められるはずであるが、(練馬大根には)なんら認められない。」(全日本種苗研究会機関紙 種苗指針第2号所収、括弧の部分は補記) 6.「武蔵野歴史地理」(高橋源一郎著 昭和3年刊)には、下練馬御殿の考証とともに、練馬大根の起源にふれ、「(北豊島郡誌の説は)甚だ信用し難い説である。或人は後人の偽作かとも云って居る。新編武蔵風土記稿には之に関することは少しも記していない。されば、この偽作も文化・文政以後最近のことであらうか。」と述べている。 ●篤農又六説 この説の初見は「武蔵演路」(大橋方長著 安永9年)であり、次のように述べている。 或云 上練馬村百姓又六といへる者 所を練馬第一とせしハ 元祖又六作り始しハ壱尺八寸□リ程在し也と云 今其子孫にて作る処は一尺五六寸も有べしといふ 然れども其味他より少しおとれりといふ 上練馬内 中ノ宮組 高松組 貫井組 田柄組と大村故に四に分つとぞ これが又六説の出処である。誠に素朴な所伝である。又六説は「武蔵演路」に出ているだけで、前掲「新編武蔵風土記稿」「北豊島郡誌」など、大正期までの文献には出ていない。 ●考察 1.種苗研究家森健太郎は、「幕府の小石川お薬園で、練馬大根の片親と認むべき北支那系の品種があり、これを叉六が入手して毎年栽培を続けているうちに、たまたま古い練馬大根に自然交雑し変異したものを発見し、(略)のちの練馬大根(練馬尻細)の原種となったものと推測される。年代は享保以後と思われる。」と解釈している。(括弧内は補記) 2.又六が実在していたことについては、重要な資料として又六庚申塔が現存することにより明らかである。この庚申塔の造立は享保2年(1717年)で、「武蔵演路」(1780年)に又六説が紹介される約60年も前のものである。庚申塔の又六と「武蔵演路」に登場する又六とは同一人物であるとは即断できないが、いずれも上練馬村の住人としていることは確かである。 以上のことから、上練馬村中の宮(現春日町3・4丁目辺り)を練馬大根の発祥地としていることはうなずける。 ●両者の複合説 「北豊島郡総覧」(昭和7年刊 北豊島総覧社発行)の板橋区の巻には、綱吉説を挙げ、さらに「一説には上棟馬村の百姓叉六が作り始めたとあるが、大木氏の手から種を得て、又六が多量生産を始めたのだらうやうに思ふ。」とある。ここでは綱吉説を主にしながらも、下練馬村の大木金兵衛と上棟馬村の又六を結び付けている。 さらに、昭和15年に建立した春日町の練馬大根碑(下記参照)では、「北豊島郡総覧」で述べている複合説をさらに変形し、「将軍綱吉が館林城主右馬頭たりし時 宮重の種子を尾張に取り 上練馬の百姓又六に与へて栽培せしむるに起ると伝ふ」とある。ここでは、将軍綱吉より直接上練馬村の百姓又六に宮重大根の種子が与えられたことになっている。将軍綱吉と又六を結び付けて光彩を添え、上練馬村が練馬大根の発生地であることを強調している。 伝説とは、このように時代や地域により種々変化して語り継がれていくものである。変化することによって時代や地域に生きるものであるから、どちらが先かを争ったり、一方を否定したりすべきものではない。 私たちは、いずれの伝説も練馬大根誕生の地が上・下練馬村の富士大山道沿いにあることを踏まえ、さらに史的な展望を試みたい。 ●練馬大根碑 東京府知事 川西實三 / 所在地 練馬区春日町4-16 蔬菜は人生一日も欠き難き必須の食品なり特に大根は滋味豊潤にして栄養に秀て久しきに保ちて替る所なく煮沸干燥或は生食して各種の調理に適す若し夫れ沢庵漬に到りては通歳尽くるを知らず効用の甚大なる蔬菜の首位を占む今や声誉中外に高き我が練馬大根は由来甚だ久しく徳川五代将軍綱吉が館林城主右馬頭たりし時宮重の種子を尾張に取り上練馬の百姓又六に与へて栽培せしむるに起ると伝ふ文献散逸して拠るべきもの乏しと雖とも寛文中綱吉が再次練馬に来遊せしは史籍に載せられ当時の御殿阯なるもの今に存するを思へば伝説に基く所ありて直に斥くべきにあらず爾来地味に適して栽培に努めしより久からずして優秀なる品種を作り練馬大根の称を得て主要物産となり疾く寛政の頃には宮重を凌ぎて日本一の推賞を蒙るに至れり 抑も練馬の地たる鎌倉時代の末葉に当り豪族豊嶋景村来住せしより文明中太田道潅の政略に遭て亡ぶるまで世々其の一族の守る所として知られしも其の名は大根に依りて始て広く著はる而して輓近国運の伸長は歳と共に其の需用を増し加ふるに沢庵漬として遥かに海外に輸出さる、より競ふて之栽培を計り傍近数里殊に盛なるものありと雖ども尚且つ足らざるを感ぜしむ 昭和七年十月東京市に編入の事あり都市計画の進程に伴ひて耕耘の地積徐に減退を告げ其の栽培の中心は傍近の地に移るの余儀なきを覚えしむ現時沢沢庵漬の年額八万余樽に達せるは最高潮と称すべきか 滋に光栄輝く皇妃二千六百年に当り奉賛の赤誠を捧げて崇高なる感激に浸ると共に東京練馬漬物組合一同相胥り地を相して各自壓石を供出して基壇に充て其の旨を石に刻して後昆に遺さんと欲す偶々其の記を予に嘱せらる丶も不文敢て当らず予や尾張の出にして居を此地に営み大根の由来と稍々相似たるものあるは多少の縁因なきにあらず奇と云ふベきか辞するに由なきより乃ち筆を呵して其の梗概を記す 昭和十五年十一月 / 柴田 常恵 撰 / 練月山 亮通 書 |
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●練馬大根 2 | |
東京の練馬地方で作り始めた大根をいい、練馬区の特産品にもなっている。この地域の土壌が関東ローム層であり、栽培に適していた。
白首大根系の品種。沢庵漬けに適している「尻細大根」と、その改良型で煮て食べたり、浅漬に用いられた「秋詰まり大根」の2種類があり、秋詰まり大根は早晩2種がある。練馬尻細大根の長さは2尺5寸から3尺(1尺は約30センチメートル)、重量は430匁(100匁は375グラム)。早生づまりは長さ2尺、重量は400匁、晩生づまりは約長さ1尺9寸、重量は約500匁になる。尻細大根は、首と下部が細く、中央部は太い。早生づまりは頭が少し細く、晩生づまりは上下がほぼ同じ長さの円筒形である。辛味が強い。 ●利用法 練馬区の委託により栽培された練馬大根の一部は、沢庵に加工され、「ねりま本干沢庵」の名称で販売されている。練馬大根の「引っこ抜きづらさ」を生かして、「本数」と「長さ」を競うJA東京あおば主催の「練馬大根引っこ抜き大会」が開催されている。地産地消の取り組みとして練馬区立小学校の「練馬大根スパゲティ」という給食メニューが提供されている。また、依頼を受けて練馬大根を栽培している農家の畑で、練馬大根の収穫体験が2011年は4戸で実施された。 ●歴史 文献上の初見は、1683年(天和3年)の地誌「紫の一本」(戸田茂睡編)に「ねりま大根、岩附牛旁、笠井菜、芝海老、千住葱、とりかえとりかえ馳走する」とある。発祥にはいくつかの伝説がある。一つは江戸幕府5代将軍綱吉にまつわるもので、綱吉が将軍になる前に、下練馬村に別邸を建て、邸内の空き地に尾張の宮重大根の種を持ち込み、栽培したという説。また、上練馬村の篤農・又六の功績により、当地が第一の大根産地になったという説。元禄10年(1697年)刊の「本朝食鑑」では「巻之三菜部葷辛類十九種」の中に大根を挙げ、「江都近郊最モ美ナル者ノ多シ就中根利間 板橋 浦和之産 為勝タリ(江戸近郊農村には、おいしい大根がたくさんできる。とりわけ根利間・板橋・浦和のものが勝っている」とある。 練馬大根は、水分が少ないので乾きやすく、干しあげたときの歩留まりも多いので、沢庵漬の原料として最適であった。当時の東京府は、全国最大の沢庵漬の産地であり、その中心は現在の練馬区であった。江戸時代に、現在の練馬区の農家が武家屋敷に下肥代金として沢庵漬を納めており、明治以降は生産が盛んになっていった。明治10年(1877年)に明治政府が殖産興業政策の一環として開いた第1回内国勧業博覧会で上練馬村の農家が沢庵漬けを出品し「有名ノ産ヲ以テ製スルカ故ニ、風味美ニシテ日常ノ食前(膳)ニ宜シ」という評で褒賞された。明治の中頃から東京の市街地が拡大していくのに伴い、練馬大根の生産も一層増大していった。その練馬大根は、沢庵漬として製品にされ出荷された。また、干し大根としても販売され、一般家庭では沢庵漬が作られた。その後、昭和の初めのころまで盛んに栽培され続けるが、昭和8年の大干ばつや、モザイク病の大発生によって大きな痛手を受けた。 1945年(昭和20年)の敗戦により、軍をはじめとする沢庵の大口需要がなくなり、大根生産は減少していった。昭和30年代頃から食生活の洋風化や練馬区の都市化に伴う農地の減少により練馬大根の生産は衰退し、生体の主体はキャベツ等に変更されていった。昭和52年の時点では練馬大根の主生産地が郡馬方面に移ったとされる。1998年(平成10年)時点では契約農家は10軒程の小規模生産となっていたが、1989年(平成元年)に練馬大根育成事業が、2006年(平成18年)には伝来種保存事業が始まる。その他、毎月12月に行われる「練馬大根引っこ抜き競技大会」など区民の間で昔ながらの練馬大根の種を守る取り組みが進められている。 ●石造物 ●又六庚申塔 元々春日町3丁目33番に建てられた、「享保2年(1717年)霜月十日」「中宮村 講中 十三人」「親講鹿嶋又六」と刻まれた石造物。又六の実在を証明する遺物ではあるものの、安永9年(1780年)に出版された『武蔵演路』に登場する又六と同一人物と断定はできないと練馬区は紹介している。平成14年(2002年)時点では春日町4丁目16番9に移動されている。 ●練馬大根の碑 1940年(昭和15年)11月建立。全体の高さが464センチメートル。練馬大根育成者である又六を記念するために、又六の菩提寺である練月山愛染院山門口に建立された。題字は当時の東京府知事・川西實三による揮毫。「練馬大根碑」には「将軍綱吉が館林城主右馬頭たりし時 宮重の種子を尾張に取り 上練馬村の百姓又六に与へて栽培せしむるに起ると伝ふ」とある。基壇は持ち寄られた沢庵石によって作られている。 ●鹿島安太郎翁の顕彰碑 昭和41年4月建立。全体の高さが443センチメートル。練馬大根の碑の隣に建てられた。練馬大根の品種改良や栽培・加工の技術向上並びに普及に努めた鹿島安太郎(又六の子孫、明治16年 - 昭和41年)の碑。 ●愛染院の鐘楼 練馬区春日町四丁目にある愛染院の鐘楼は、元禄14年(1701年)に木村将監安継により造られた。平成17年(2005年)に練馬区の指定文化財に登録。鐘楼の礎石には沢庵石が使われており、当時の東京練馬漬物組合員149名が持ち寄ったもの。 ●その他 生産量が減少した理由として、収穫時の重労働がある。練馬大根の特徴が、首と下部は細く、中央が太いということがあり、収穫で練馬大根を引き抜く際、非常に力が必要である。ある調査によれば、練馬大根を引き抜くには、青首大根の数倍の力が必要であるという。その為、高齢の農家への負担が大きいという。 神奈川県特産の三浦大根は、三浦半島の地元の大根と練馬大根の交雑種である。 練馬区にある自転車フレームメーカー、タカムラ製作所のブランド名「ラバネロ」(Ravanello、イタリア語で「大根」の意)はこれに因む。 |
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●三浦大根 1 | |
神奈川県の三浦半島特産のダイコンの品種である。かつては三浦半島の主力品種であったが、1980年(昭和55年)頃を境に作付が激減し、青首大根に主力の座を譲った。 現在は地域の出荷量全体の1%程度に留まり、主に正月商材として冬季(12月〜3月)に流通する。
白首大根系の品種。重さは通常2.5〜3kg、大きいもので5kg〜8kg、長さは約60cmほどになる。首の部分が細くて尻に向って太くなる「中ぶくれ」。このため収穫時に抜き難く、高齢化が進む農家から敬遠される原因となった。肉質は緻密で柔らかく、煮崩れしにくいためぶり大根などの煮物やおでんの具に向く。辛味は強め。 ●利用法 煮物、なます、つま。 焼酎原料。 ●歴史 三浦半島では、江戸時代初期の寛永年間から大根栽培が行われていた。 1905年(明治38年) 三浦の地場大根の高円坊大根と練馬大根などを交配させ、長期に渡り耐病性の三浦大根が育成される。 1925年(大正14年) 郡農会の岸亀蔵技師により正式に「三浦大根」と命名される。 1979年(昭和54年) 台風20号によって甚大な被害を受ける。追播に栽培が容易で多収、軽量の青首系品種「耐病総太り」が導入される。 1980年(昭和55年)頃より、急速に作付が減少し、1981年(昭和56年)には青首大根に主力品種の座を譲る。 ●関連商品・施設 だいこん焼酎 三浦 - 三浦大根と米と麹から作られる単式蒸留焼酎。アルコール度25%。三浦ブランド商品として企画され、福岡県の目野酒造株式会社に製造を委託。三浦市とその周辺の酒店での店頭販売のほか、通信販売も行なっている。 安房埼灯台 - 城ヶ島公園に建つ灯台(2代目)。2020年(令和2年)3月に現在地へ移転新築する際、三浦大根をモチーフにデザインされた。 |
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●三浦大根 2 | |
●三浦ダイコン
ダイコンは寛永年間から栽培されていたことが相模風土記に記録されています。大正14年から東京市場に出荷されて「三浦ダイコン」の名が付けられました。この三浦ダイコンは在来の「高円坊系」に「練馬」を交配したものが基本で、三浦特産の冬ダイコンとして長年にわたって名声を維持してきました。三浦ダイコンは、青首ダイコンに比べて大きく、長さ約60cm、重さ約3kg、大きいものは5から8kgに肥大します。現在では三浦半島地域におけるダイコン出荷量全体の1%まで減少しましたが、栽培が減少した現在でも「三浦ダイコン」の人気は根強く、契約栽培や直売などでは12月から3月上旬まで販売されています。 ●青首ダイコン 昭和54年以降消費動向の変化等により、「青首ダイコン」が増加し、現在は99%が青首ダイコンになっています。冬のダイコン産地として全国有数の大産地であり、関東から北海道にかけて、大きな市場占有率を誇っています。は種期は9月上旬から10月中旬(畦幅42から60cm、株間18から24cm)、収穫期間は11月中旬から3月下旬、収量は10aあたり約10,000kgです。 |
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●三浦大根 3 | |
三浦半島でのダイコンの歴史は古く、寛永年間から栽培されていたことが相模風土記に記録されています。大正14年に三浦産のダイコンが「三浦ダイコン」と正式に命名されて以来、三浦特産の冬ダイコンとして長年にわたって名声を維持してきました。しかし、昭和54年に大型20号台風が三浦地域を襲い、三浦ダイコンが大きな被害を受けたのを契機に、「青首ダイコン」が三浦のダイコンの座を取って替るようになりました。甘みと小振りなサイズが消費者ニーズに合い、台風被害後のまき直しでも威力を発揮したことや、三浦ダイコンに比べ栽培が容易で多収、軽量で作業が省力化されるという生産者側にとっても好ましいことなどから、わずか2〜3年で切り変わってしまいました。現在は99%が青首ダイコンになっています。
●青首ダイコン 三浦市はダイコンの産地として全国的に有名で、ここ数年、全国市町村別生産額順位で、絶えず1位か2位を誇っています。現在、11月どり、12月どり、1月どり、2月どり、3月どりの5作型で栽培し、11月〜3月まで約500万ケース(大型トラック約5,600台)を出荷しています。1本の重量は標準的な大きさで1.1〜1.4sです。毎年、5作型(収穫時期)にあった品種の検討会を行っています。 ●三浦ダイコン 作付面積は6〜7ha程度で、年末の3日間、正月商材として出荷しています。 一部契約栽培や直売などでは12月から3月上旬まで販売している例もありますが、出荷量は全体の1%に満たない少量栽培にとどまっています。平成17年度の出荷量は約5万袋(1袋約10s)です。 三浦ダイコンの特徴は、首の部分が細くて尻に向って太くなる「中ぶくら」で、 長さ約60p、重さ約3s、大きいものは5〜8sに肥大します。肉質はたいへん緻密で柔らかく、煮物やなます、ツマに向いています。出荷は、今では珍しくなった袋詰めで行なっています。青首ダイコンに切り変わっても、「三浦ダイコン」の人気は根強く、冬の時期には三浦ダイコンを求めて直売所を訪れる観光客を多く見受けます。 ●レディーサラダ 和52年以降、「ダイコンの消費拡大」と「小型化でより良い味」を目的とした品種改良がスタートし、サラダ専用(※用途別)に品種開発された『レディーサラダ』が誕生しました。レディーサラダは、三浦ダイコンとアメリカやドイツのダイコンの交配によって育成し、名称は美しい赤色とサラダに向くことから女性をイメージして命名しました。特徴は、外側の色彩がピンク色を帯びた美しい赤い色で、内部の色は純白。皮ごと食べることで、白いダイコン に比べてアントシアニンを摂ることができます。重さは1本300〜350gと食べきりサイズになっています。10月中旬から3月末まで、約14万ケース出荷しています。用途別のダイコンの品種開発では、レディーサラダの他に「小桜(こざくら)ダイコン」「淡桜(あわざくら)ダイコン」や「ニューレディーサラダ」などを開発しています。 |
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●大根の主な種類・品種 | |
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●主な8品種の大根 | |
●青首大根 / 主な生産地、北海道、千葉県、徳島県。青首形の宮重大根をベースとした一代雑種で、日本に流通する大根の約90%を占めています。青首大根とは、みさなんがスーパーなどで普段購入している一般的な大根のことです。ほとんどのスーパーの置かれている大根は「青首大根」という名前の大根なのです。上部が緑色になっていて下部が白色をしています。形はふっくらとした円筒形をしており、水分を多く含んでいます。甘味があるので、生食でサラダなどにしても食べることが出来ます。
●練馬大根 / 名前の通り、東京都の練馬区にて栽培されています。地元ではかなり古くから栽培されている大根なだけあって、とても大切に守られている大根なのです。白首大根の一種で、重さは平均で1kgから2kgです。長さは70cmから100cmあり一般的な大根に比べるととても長い大根となっています。首と下部の部分が細く中央部分が太くなっているのが特徴で、味は辛みがとても強いです。沢庵などによく使われている大根でもあります。「練馬大根」の中でもまたさらにいくつか品種改良されており、煮物に適した練馬大根も存在するようです。 ●三浦大根 / 三浦半島特産の大根です。白首大根の一種で、根の全体は真っ白で重さは約2.5kgから3kgほどで長さは約60cm程です。一般的な大根と比較しても長さや重さは平均的です。しかし重いもので重さが約5kgから8kgともあるそうなので、個体差が大きい大根です。根の上部が細く、下部に向かうにつれて太くなっているのも特徴的です。肉質はとても柔らかく、煮崩れしにくい為煮物やおでんなどに多く利用されています。焼酎の原料としても使われている大根でもあります。水分を多く含んでいるので、みずみずしさを感じます。 ●白首大根 / 主な生産地、神奈川県三浦半島。名前の通り真っ白な大根で、根が地中に潜るタイプの大根です。首の部分が白く、中央が丸くふくらんでいるのが特徴です。重さは約4kgと一般的な大根と比較すると大きいのも特徴の1つです。「白首大根」は辛みや苦みが強く、人気がなかったので、「白首大根」を品種改良し生まれたのが「青首大根」と言われています。漬物などによく使われています。 ●宮重大根 / 主な生産地、愛知県。「みやしげだいこん」と読み、尾張大根を代表する大根です。青首大根の一種でもあり、スーパーなどでも多く販売されています。「宮重大根」は「青首大根」のルーツとも言われており、「宮重大根」を品種改良してできた大根が「青首大根」なのです。根の上の部分が薄い緑色になっており下の部分は白くなっている、一般的な大根です。水分を多く含んでおり、食感はシャキシャキしています。「宮重大根」は昭和の初期の頃はとても多く栽培されていましたが、時代とともに「白首大根」が主流となり一度は姿を消したようです。しかし、また栽培を再開し今ではまた主流の大根となりました。 ●大蔵大根 / 東京都にて栽培されている大根です。「白首大根」の一種になります。根の長さが約50cmから60cm程で、青首大根と比較しても長い大根です。重さは約4kgから5kgもあり、とても重い大根となっています。色はとてもツヤのある純白色をしており、青首大根系の大根とはすぐに見分けることができます。上部から下部までの太さが均一なため、輪切りなどにしても綺麗に揃いうので無駄なく使用することができます。葉の部分がとても柔らかいのでサラダやおひたしにオススメで、根の部分は水分が少なく甘味が強いです。しかし下部に向かうほど辛みが強くなるので、火を通した加熱料理がオススメです。 ●御薗大根 / 主な生産地、三重県。宮重大根と練馬大根を交配させて生まれた大根です。一般的な大根と比較すると白くて長く、長さは50cmで直径が5cmとなっており、重さは1.5kgが「御薗大根」の標準となっています。葉柄は緑色を帯びた白色で、食物繊維を多く含んでいるだめ歯切れがとても良く、天日干しをすると甘味が増します。主に伊勢たくあんの原料をして使用されている大根で、辛漬けが中心に作られています。 ●辛味大根 / 主な生産地、京都府。別名で「吹散大根」とも呼ばれています。京野菜の1つでもあり「京の伝統野菜」に指定されています。一般的な大根と比べて辛味が強く、小さいのが特徴です。辛味大根だけでも、「からいね大根」「辛吉大根」「雪美人大根」「親田辛味大根」などといった様々な品種があります。栄養素が多く含まれており、ビタミンC、ビタミンB、ナトリウム、カルシウムといった栄養素が含まれています。水分量は少なく、辛味が強すぎるので煮物などには向いていないようです。大根をすることで辛味が分解されるので、大根おろしなどにして食べることがオススメです。 |
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●地域のブランド大根25品種 | |
●とっくり大根 / 山口県の伝統品種の大根となっています。根の形がとっくりの形に似ている為、「とっくり大根」という名が付けられました。大きさが直径が6cmから8cm、長さが13cmから17cm、重さが約500g程しかなく、一般的な大根と比べるととても小ぶりな大根です。ビタミンCを多く含んでおり、辛味も強い大根です。小さい大根ほど辛味が強いと言われています。肉質は緻密で漬物にすると歯ごたえがとても良いと評判です。木の枝などに竹竿を渡してつるす光景は周南の冬の風物詩となっているようです。小学校などの特別授業として「とっくり大根」を実際に沢庵に漬けることを体験したりもしているそうです。
●庄大根 / 愛媛県の伝統品種の大根となっています。また三月に収穫できることから、「三月大根」とも呼ばれています。根の上部が赤く、下部が白くなっているのが特徴です。綺麗な赤と白の二色の大根になっています。果肉はとてもキメが細かくて柔らかく、甘味が強いのも特徴の1つです。年明け以降の霜にあたることによって赤色はより鮮やかになり、甘味も更に強くなります。パリパリ・コリコリした食感が強く、お漬物によく使われている大根です。水分量が少ないため。大根おろしなどにするとふわふわでとても美味しくなるそうです。大根の大きさが平均で2kgもあり、一般的な大根と比べるととても大きい大根となっています。 ●岩国赤大根 / 山口県の伝統品種となっています。岩国赤大根は部位によって味が異なります。葉に近いほど甘味が強く、下に行くほどどんどん辛くなっていきます。最大根径は12cm、根長15cmが一番良い大根とされており重さは1.5kgから2.5kgが良いと言われています。大根の形は短円筒形で「大丸聖護院」によく似ていると言われています。皮だけが鮮紅色をしており内部は真っ白な大根です。カリウム、カルシウム、ビタミンC、ビタミンE、β−カロテン、などを多く含んでおり身体にもいい大根となっています。 ●戸隠大根 / 長野県の伝統品種となっています。「戸隠地大根」とも呼ばれています。肉質がとっても硬く、根の下がやや膨れているのが特徴です。大根の形は円筒形で、長さは約18cm程です。直径は約4cmで重さは約300gとなっています。一般的な大根と比較すると小ぶりな大根となっています。葉がとっても長いのも特徴の1つです。水分量が多く辛味がとっても強く一般的におろしなどにして薬味として食べられている大根です。パリっとした歯ごたえも特徴で、その食感を活かして味噌漬けにもされています。沢庵にして食べる事も多くあります。 ●牧大根 / 長野県の伝統品種の大根となっています。大きさは約15cmから20cmで一般的な大根と比べると小ぶりな大根です。直径は約4cmで、重さは200gから250gとなっています。色は「青首大根」と似ており、根の上部が薄い緑色になっています。下部は真っ白で、下膨れになっているのも特徴です。肉質は硬く主に漬物にして食べられることが多い大根となっています。水分量が極めて少ないのも特徴の1つです。澱粉質が多く甘みがあり特に長期漬けに向いている大根です。うどんやそばの薬味として食べてもとても美味しいです。 ●上野大根 / 長野県の伝統品種の大根となっています。地元では「諏訪湖姫」としても呼ばれています。大根の大きさは長さが約23cmから25cmで、一般的な大根と変わらない大きさです。きれいな円筒形をしており、色合いは「青首大根」とよく似ています。根の上部が薄い緑色をしており、下部は真っ白なのが特徴です。先っぽがひょろっと出ているのが良い大根と言われているそうです。交配種なので、大根は綺麗に揃います。歯ごたえもとても良くコリコリしているのでお漬物によく使われている大根です。上野大根で作った沢庵を、地元の方達は「おうこう」と呼んでいるそうです。 ●高倉大根 / 東京都の伝統品種の大根です。八王子市倉町特産品となっています。肉質が緻密でキメが細かいです。辛味もほとんど無く、とても食べやすい大根となっています。一般的な大根と比べると、細長くゴボウの様な形をしています。歯ごたえがしっかりしていてコリコリしているのでお漬物によく使われている大根です。長さは約60cm程で、見た目は軽そうに見えますが持ってみるとずっしりしていて重いのです。太さが均一ではなく、デコボコしているのも特徴です。 ●山口大根 / 長野県の伝統品種の大根です。「信州地大根」の1つにもなっています。大根の大きさが約15cmから20cmと一般的な大根と比べると小ぶりな大根です。お尻がぷっくりとしているのが特徴で、ビタミンCを多く含んでいます。普通の大根よりも水分がとっても少なく歯ごたえが良く、甘味と辛味が適度にあるので漬物に最適の大根と言われています。生で食べる際は漬物やおろしにして食べるのが一般的です。加熱をすると甘味が増すので、加熱料理で食べる際は天ぷらなどにして多く食べられています。コリコリサクサクした食感が人気の大根となっています。 ●方領大根 / 愛知県の地域ブランド野菜にも認定されている。江戸時代にあったあま市の方領地内が原産地であることが由来です。方領大根は江戸時代から栽培されていた歴史の長い大根で、「日本2大大根」としても有名です。当時、村人がこの大根を献上したところ太さ・大きさ・美味しさの3つが揃っていると尾張徳川候が讃称し、「尾張大根」という名前で全国的に知られることとなりました。現在では「あいちの伝統野菜」の認定され、愛知県を中心に栽培・生産が行われています。見た目の特徴としては、真っ直ぐではなく湾曲しており、色が特に白い大根です。ぎゅっと詰まったような肉質で、煮くずれしにくいので煮物料理を始めとする様々な料理にアレンジできます。 ●アザキ大根 / 福島県の伝統品種に認定されている大根です。「会津大根」とも言われています。長さ20pほどの根は硬くて水気が少ないのが特徴です。大根をそのまま調理に使うことはほとんど無く、おろしにしてそれをしぼり、しぼった汁「しぼり汁」を主に食べます。大根の長さや約20cmで一般的な大根と比べると小ぶりな大根です。ジアスターゼをはじめとする消化酵素やビタミンC、食物繊維などを多く含んでおり、内臓の調子を整えてくれます。特にビタミンCは一般的な大根の約10倍も含まれているそうです。 ●親田辛味大根(辛味大根) / 長野県の伝統品種となっています。辛味大根の一種です。蕪のような扁平の球形をしており、小ぶりな大根です。肉質は水分がとても少なく、辛いのが特徴です。辛味成分のイソチオシアネートを一般的な「青首大根」の約4倍も含まれています。基本的には、大根おろしにして食べるのが一般的で大根をそのまま食べる事はあまりしません。蕎麦やうどん、焼き魚の薬味として多く使用されています。直径が6cmから9cmで重さが200gから250gの大きさが良いと言われています。 ●山田ねずみ大根(辛味大根) / 滋賀県の伝統品種の大根となっています。色が真っ白でとてもキメが細かい大根です。歯ごたえが良く噛めば噛むほど味がでてくるのでお漬物にオススメです。「ねずみ大根」と似ており根の下部が下膨れになっているのが特徴です。その先に細い根が伸びていてねずみに似ていることから「ねずみ大根」という名が付きました。一般的な「ねずみ大根」は辛味が強いのが特徴ですが、「山田ねずみ大根」は辛味が少なくサラダや煮物などにして食べる事ができる大根となっています。大根の大きさは15cmから25cm程で小ぶりです。 ●女山大根 / 佐賀県の伝統品種の大根となっています。葉も皮も全て真っ赤な色をしている大根です。この赤みはポリフェノールを多く含んでいる証拠です。生産する際に大根のサイズにバラつきがでるため、それをそろえる為にとても手間がかかる大根です。サイズは大きい物で約80cmにもなり重さはなんと13kgにもなることがあるようです。一般的な大根を比較してもかなり大きい大根ということが分かります。肉質はとても硬く、歯ごたえもしっかりしています。煮崩れしにくいので、煮物などにも多く使用されている大根です。甘味もとっても強く一般的な大根のおよそ1.5倍も糖度があるのです。甘味が強いので生で食べる事も多くサラダなどにしても食べられています。 ●松館しぼり大根 / 秋田県の伝統品種に認定されています。肉質がとても硬く、水分が少ないのが特徴です。カブのような丸みを帯びており小ぶりな大根です。重さは約400gから500gとなっています。葉が長いのが特徴で1mまで伸びる大根もあるそうです。辛味がとってみ強い大根で、一般的に普段食べられている「青首大根」と比べるとその辛さは約3.7倍とも言われています。大根をそのまま食べるというよりは、大根おろしにしてその汁と絞った「しぼり汁」にして食べられることが多いそうです。血液サラサラ効果や抗菌作用、消化促進作用もあるようです。 ●糸巻き大根 / 宮崎県の伝統品種の大根です西米良大根、米良大根とも呼ばれています。紫色の糸が薄く巻き付くように横に筋が入っているのが特徴です。その様子から「糸巻き大根」という名前が付けられました。葉は約40cm程あるのに根が約10cmしかないという面白い形をした大根です。全体的に丸みを帯びており、ずっしりしているのが特徴です。「糸巻き大根」の最大の特徴は甘味です。糖度がとっても高く、一般的に販売されている「青首大根」の2倍はあると言われています。甘味が強いでの生で食べることもでき、果肉も柔らかいのでサラダなどにしてよく食べられています。煮崩れしにくいのも特徴なので、煮物にも使用されており、ジューシーな味わいになります。 ●田辺大根 / 主な生産地、大阪府。なにわの伝統野菜の1つとなっています。大根の根が白色の円筒形をしており、先が少し膨張して丸みを帯びているのが特徴です。長さは約20cmで太さは約9cmとなっています。一般的な大根と比較すると、短い大根になります。その他にも一般的な大根を比べても糖度が高く粘り気があるのも特徴の1つです。大根の葉には産毛のような毛茸がなく小松菜によく似ています。肉質は緻密、柔らかいのも特徴となっています。根の部分には、でんぷんの分解酵素でもあるジアスターゼを豊富に含んでおり、胃の調子を整えてくれる役割りもあります。葉にはビタミンCが多く含まれていて、その他にもビタミンA、ビタミンB1、B2、カルシウムなども多く含んでいます。なので、栄養がたっぷり含まれている葉も全て食べきることをオススメします。 ●伊吹大根 / 滋賀県の伝統品種の大根となっています。「伊吹大根」は「ねずみ大根」の異名です。水分が少なくとっても辛いことです。一般的に販売されている「青首大根」の二倍は辛いと言われています。滋賀県では郷土料理の「伊吹そば」と一緒に食べるのが伝統的な食べ方と言われているようです。大根の長さは20cm程で、一般的な大根の大きさと比べるととても短いです。「ねずみ大根」の異名と言われているように、根の先にちょろりと細長い毛が出ているのが特徴です。伊吹大根の葉柄には赤みが付いており、地表から出ている部分は緑色になっています。地表にでていない部分は真っ白な大根です。 ●レディーサラダ / 神奈川県三浦市の伝統品種となっています。赤い色をした大根で「赤大根」とも言われています。一本の重さが約300gから350gと一般的な大根と比較すると小ぶりな大根です。皮は赤色をしていますが、切断すると中身は白色をしており、一般的な大根と同じです。生のままで食べられることが多く、サラダなどに多く使われます。紅白で見た目も鮮やかでとても綺麗なので、料理に色合いをだしてくれる役割もしています。辛味が少ない大根なので、小さなお子様でも食べやすい大根となっています。 ●源助大根 / 金沢市打木町の篤農家・故松本佐一郎氏によって育成された大根です。加賀野菜の1つとなっています。直径約8cmで長さが22cmから25cm程の大きさです。短円筒形で尻のつまりがよいと言われています。生育が旺盛で、ウイルス病や萎黄病にかかりにくいのが特徴ですが、ス入りや空洞症が発生しやすいのが生育の短所です。肉質はとても柔らかく、シャキッとした食感があり歯触りがとても良い大根です。ほんのり甘味が口に広がるのも「源助大根」の特徴です。「源助大根」は煮崩れしにくいのでおでんに最適な大根といわれています。また、ぶり大根やお漬物にも多く使用されています。 ●亀戸大根 / 東京都江東区亀戸の特産品となっています。亀戸大根は「幻の大根」と言われており、希少価値がとても高い大根です。「亀戸大根」はビタミンCが一般的な大根の2倍含まれています。長さは約20cm程、直径は約3cm程でスーパーなどで販売されている大根と比較しても小ぶりサイズです。果肉がとても緻密で辛味が強いのも特徴です。なので、大根おろしにして辛味を少し和らげてから食べられていることが多いです。うどんやそばなどの薬味としてもよく使われています。大根の葉は柔らかくおいしいので、漬物としても食べられています。 ●ねずみ大根 / 長野県の伝統品種大根となっています。全国的に、小さい大根のことを総称して「ねずみ大根」と言います。根の首の部分よりも下部の方が膨らんでいるのが特徴です。根の先端が尻尾のような形になっており、ネズミに似ていることからその名が付けられたと言われています。地元では別名で「中条大根」とも言われており、古くから親しまれている大根です。大きさは250gから300gととても小さく、手のひらサイズとなっています。味は辛味大根に似ていてとても辛いのも特徴です。肉質はとても硬く水分が少なく、舌触りがとても良い大根です。長野県の伝統品種野菜、「信州の伝統野菜」にも認定されています。 ●守口大根 / 愛知県丹羽郡扶桑町と岐阜県各務原市の木曽川流域。飛騨・美濃伝統野菜に認定されている大根です。2007年には、「なにわの認定野菜」にも認定されました。一般的な大根と比較すると細長く、直径は2cmから3cm、長さは約120cmとなっています。2013年に愛知県丹羽郡扶桑町の農家さんが育てた『191.7cm』の「守口大根」が世界最長の大根として「ギネス記録」に認定されました。一般的な大根と比べると身が締まっており固いので、漬物に向いている大根です。味は辛味がとても強いで小さなお子様には不向きな大根となっています。 ●紅芯大根 / 主な生産地、中国。「赤大根」(あかだいこん)とも言われています。「青皮紅芯大根」とも言われています。紅芯大根は中国原産の大根で、中国では「心里美(シメンリ)」と呼ばれている大根です。皮は一般的な大根と同じで上部は薄い緑で下部は白色をしていますが、形は球形をしており、カブに似ています。切断すると中心部が鮮やかな紅色をしており、とても綺麗です。アミラーゼやプロテアーゼといった消化酵素を多く含んでおり、アントシアニンも豊富なので美白効果があると言われています。甘味が強い大根なので、生食でよく食べられています。 ●桜島大根 / 鹿児島県の桜島で発見された大根です。地元では「しまでこん」と呼ばれて親しまれています。鹿児島県の特産品でギネスブックにも登録されている世界一大きい大根です。重さは平均で約6kgあり、大きい物になるとその重さはなんと30kgにもなるのです。長さは40cmから50cm程にもなるとても大きな大根なのです。かつては桜島の特産品であったことから「桜島大根」と名付けられたようです。一般的な大根よりもキメが細かく繊維が少ないのが特徴で甘味も強いです。大根おろしや風呂吹き大根、煮物などに多く使用されています。漬物などにも使用され、大きな千枚漬けは鹿児島県の特産の土産品として販売されています。 ●聖護院大根 / 京都の伝統野菜品種の1つとなっています。京都の冬にか絶対に欠かせない大根となっているようです。別名「丸大根」・「まるだいこん」とも言われています。京野菜の1つで、ブランド京野菜に指定されています。長さは短く球形の大根で、大きい物で重さは約3kgから4kg程あります。改良種は広く栽培され、淀のものは「淀大根」と言われているそうです。煮崩れしにくく甘味がとても強い大根なので、煮物やおでんなどによく使われています。また京漬物にも使用されています。肉質はとても柔らかく、生で食べても辛味は少ないので小さなお子様でも食べやすい大根となっています。「聖護院大根」には食物繊維が多く含まれているので、腸内環境を整えてくれる役割りもしています。 |
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●外国産大根3品種 | |
●青皮紅心大根 / ブのような形をした大根です。葉は緑色で根は上部は薄い緑色で下部は白色をしており、青首大根と同じです。しかし、切断すると中は紅色をしておりとても鮮やかで綺麗な果肉です。形も大根特有の長い物ではなく、丸くカブのような形をしています。「青皮紅芯大根」は中国から輸入された大根で、中国では「心里美(シンリメイ)」と言われています。生で食べることもでき、見た目も鮮やかなことから飾り切りをして華やかにする役目もあります。お酢に漬けると紅色から鮮やかな赤に変わるのも特徴の1つです。
●黒大根 / 名前の通り真っ黒な大根のことです。「黒長大根」(くろながだいこん)とも言われています。その他にも「黒丸大根」(くろまるだいこん)と呼ばれている大根もあります。「黒大根」と言われる大根は実は二種類存在し、「黒丸大根」という大根もあります。「黒大根」はヨーロッパではポピュラーな大根でフランス料理などでもよく使われています。葉は緑色で皮は真っ黒ですが、切断すると中心部は白いのが特徴です。大きさは長さが20cmから30cmが「黒大根」の平均です。表面の皮はガサガサしており、水分も少なく辛味大根の肉質とよく似ています。生のまま食べるには辛味が強いので、大根おろしなどにして辛味を分解してから食べることをオススメします。「黒丸大根」は葉や皮の色は「黒大根」と同じですが、丸いカブのような形をしています。イタリアやスペインなどではよく使われている大根です。日本では一般的な大根の品種ではなく、「ラディッシュ」の一種と言われています。大きさは直径8cmから10cm程で手のひらサイズです。表面の皮は真っ黒でザラザラしていますが、中は一般的な大根と同じ白色です。果肉部分の水分は少なくカリッとした食感が特徴で、辛味大根と似ています。辛味が強いので、大根おろしなどにして辛味を分解してから食べるのがオススメです。 ●ラディッシュ / ラディッシュは別名「二十日大根」(ハツカダイコン)と呼ばれており、原産はヨーロッパです。ラディッシュは洋名、二十日大根は和名となっています。ラディッシュはとても小さい大根で根は約2cm程となっており形は丸くなっています。種を植えてから収穫まで20日で出来るため「二十日大根」と言われています。大根の色は白と淡い緑が一般的ですが、ラディッシュは赤色をしています。赤色以外にもピンク、白、黄色、紫色などたくさんの色があり、とてもカラフルな大根です。栽培がとてもしやすい大根なので、家庭菜園初心者の方でも簡単に栽培することができます。葉にはカロテン、ビタミンC、カルシウムなどが多く含まれており、根にはビタミンC、ジアスターゼなどを多く含んでいます。 |
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●脚太い女性に似合うスカートは? | |
●脚太いのがコンプレックスだけどスカートを履きたい…!
女性が体型で気になるポイントNo.1の脚は、コーディネートによってはコンプレックスが強調されるので隠す着こなしばかりになってしまいがち。おしゃれなスカートを履きたいけど、脚太いのが悪目立ちしそうで履けない…でもやっぱり履きたい…と葛藤している女性も多いのではないでしょうか? そんな脚太いのがコンプレックスな女性必見!今回は、脚太いのがコンプレックスな女性が避けるべきスカートのデザイン・長さと、体型カバー&おしゃれ見えが叶うスカートの種類とおすすめコーディネートを合わせて紹介します! |
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●脚太いさんは気をつけて!コンプレックスが目立つNGスカート
まずは、脚太いのが強調されてしまうスカートのデザインをチェックしておきましょう。 ●脚太いのが目立つスカート1 タイトスカート 脚太いのが目立つスカート1は、タイトスカート。タイトなシルエットのスカートは、縦にすらっと長く見せてくれるので体型カバーに効果的。ですが、ピタッとタイトすぎるとパツパツに見え、逆に脚の太さを強調してしまう心配もあるんです。脚が太いのがコンプレックスの女性がタイトスカートを履くなら、ぴったりすぎないものを選ぶのが必須ですよ。 ●脚太いのが目立つスカート2 ミニ丈スカート 脚太いのが目立つスカート2は、ミニ丈スカート。脚のラインがむき出しになるミニ丈のスカートは、コンプレックスをカバーするどころかさらけ出してしまいます。脚が太い女性が履くなら、ヒールの靴を合わせたり上半身にボリュームを出したりと、コーディネートを工夫する必要ありです。 ●脚太いのが目立つスカート3 膨張色のスカート 脚太いのが目立つスカート3は、膨張色のスカート。膨張色のスカートは、説明するまでもなく脚が太いのを際立たせてしまいます。どうして履きたいなら、黒などのダークカラーを合わせてコーディネートをキュッと引き締めてあげると◎ ●脚太いのが目立つスカート4 ニットスカート 脚太いのが目立つスカート4は、ニットスカート。ふっくらとした素材が魅力のニットスカートは、着膨れして見えてしまいがち。素材の柔らかさもあり肉感を拾いやすいので、お尻が大きい・脚が太いのが気になる女性が履きこなすのは難しいかも…。 |
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●脚太いタイプ1《太ももむっちり》さんにおすすめなスカート
脚が太いのを強調してしまうスカートをチェックしたところで、ここからは脚太いさんにおすすめなスカートを見ていきましょう。脚が太いのがコンプレックスと言っても、太ももが太いのかふくらはぎが太いのかで似合うスカートは変わってきます。まずは、太ももの太さが気になる女性におすすめなスカート&コーディネートからご紹介! ●膝丈・ミモレ丈スカート 太ももの太さが気になっている女性におすすめなのが、膝丈・ミモレ丈スカート。一番コンプレックスに感じている太ももがすっぽり隠れる長さの膝丈・ミモレ丈のスカートを履けば、すらっと脚が長く見えること間違いなしです!タイトなシルエットだと太ももの肉感が目立ってしまうので、程よいゆとりのあるデザインをチョイスしてくださいね。 おすすめコーディネート / ボタンがアクセントになった膝丈のスカートは、脚の太さカバーとおしゃれ見え、両方叶います♡コーディネートをモノトーンでまとめることで、全身がすらっと見えスタイルアップ効果も狙えそう。 ●台形スカート 名前の通り、台形のように裾に向かって広がったデザインのスカートなら、ミニ丈でも脚が細く見える効果あり!脚太いから…と諦めていたミニ丈のスカートも、これなら難なく攻略できちゃいますね。 おすすめコーディネート / 太ももが隠れる長さの膝丈スカートかつ台形シルエットなら、脚太いなんて思わせないスラッと脚長コーディネートが作れるんです!ヒールのブーツを合わせて、スタイルアップ効果をより高めるのもおすすめ。 |
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●脚太いタイプ2《ふくらはぎ太い》さんにおすすめなスカート
続いては、ふくらはぎが太いのが気になる女性におすすめなスカート&コーディネートをご紹介。 ●ロング丈スカート ふくらはぎが気になるなら、ロング丈のスカートですっぽり隠すのが手っ取り早いかも!腰回りや太ももの太さは気にならず、ふくらはぎだけがコンプレックス…という人ならタイトなロングスカートもバランスよく着こなせるので、ぜひ取り入れてみて。 おすすめコーディネート / タイトなロングスカートなら、ふくらはぎの太さカバーだけでなく全身をほっそりと見せてくれるんです!シャツのウエストをキュッと絞れば、腰の位置が高く見え脚も長く見えそう。女子の希望を全て叶えてくれる欲張りなコーディネートを手に入れちゃいましょう♡ ●フレアスカート 裾に向かってふわっと広がるフレアスカートなら、脚の太さをサクッとカバーしてくれます。ミモレ丈や半端丈でもいいですが、やっぱりふくらはぎを丸ごと隠してくれるロング丈がおすすめ! おすすめコーディネート / 長めだけど足首がちょっと見える…という半端な長さの時は、ハイカットスニーカーを合わせて脚全体を隠してしまいましょう!下半身が重く見えてしまうなら、髪の毛をアップにしてバランスをとって。 |
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●脚太いから…って諦めないで!スカートでコンプレックスをカバーしよう♡
脚太いのを強調してしまうスカートと、脚太いさんにおすすめなスカートをコーディネートと合わせて解説しました。脚太いから…と諦めていた人でも、自分の体型にあったスカートのデザイン・長さをチョイスすればバランスよく着こなせるんです!自分の体型にあったスカートで、コンプレックスカバーを目指しましょう♡ |
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●「足が太い」はテクニックでカバーする! | |
自分の体型、特に足の形や太さに満足していますか?「太ももが…」「ふくらはぎが…」なんて、コンプレックスに感じている人の方も多いはず。そんなお悩みは、コーディネートできれいな美脚シルエットを!今回は「着痩せするコーディネート」を15個ご紹介。足の太さを気にして、いつも同じような「隠す」スタイリングになってしまう…という方にこそおすすめしたいトレンドアイテムを使ったスタイリングや、スタイルアップの鉄板法則など「引き立たせる」を意識したテクニックをお届けします。 | |
●太ももが気になる人におすすめのコーデ
この太もものせいで「余計足が太く見える〜!」なんて悩みの多いパーツですよね。しかし、上半身と近い太ももはトップスで隠したり、細い足首を出したりとカバーする方法もたくさんあるんです。 ●長めトップスで隠しちゃおう! 美脚の王道アイテム、センタープレスパンツ。長めトップスと組み合わせて、太ももをおしゃれにカバーして。カジュアルなスタイリングもきれいめに導いてくれるキーアイテムなので、ぜひワードローブに取り入れましょう! ●スキニーパンツは脇役使いが鉄則! ピタッと引き締めてくれる、ダークカラーのスキニーパンツ。一見細見えに役立ちそうだけど、タイトなトップスと合わせるとパツパツ感が強調されてしまうことも。オーバーサイズのトップスを主役に、パンツはとことん脇役に徹するのが着痩せコーデの鉄則! ●細いとこだけ!足首見せフェミニンコーデ トレンドのゆるシルエットで仕上げたフェミニンカジュアルコーデ。細い足首はしっかり見せて、メリハリを出すのが正解。引き締めUP&スニーカーでも足長見せが叶う、黒ソックスのチョイスも◎。 |
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●ふくらはぎが気になる人におすすめのコーデ
ガッチリとしたふくらはぎのせいで「足全体がゴツく見える…!」と悩ましいパーツ。隠しつつトレンドもしっかりカバーできる旬なアイテムが揃っているので、ぜひ使い方をチェックしてみてください。 ●トレンド感ならコレ!フレアパンツで細見えコーデ トレンド感と細見えを兼ね備えた、フレアパンツは今季マストハブ。シャープなラインが演出できるスリット入りは特におすすめの一本。足元にボリュームが出るので、着痩せを意識するなら細身のシューズを合わせたい。 ●長めタイトスカートで作る美脚コーデ ふくらはぎガッチリさんにおすすめしたいスカートは、くるぶし丈のタイトスカート。腰回りはスッキリと、気になるふくらはぎはカバーできる優秀アイテム。ニットの柔らかな質感と、レディなスカートのギャップがニクいデートにもおすすめの着こなし。 ●ロングブーツでメリハリUP! 気になるふくらはぎは隠しつつ、太ももは出した上級者のGOODバランスコーデ。モノトーンで仕上げることで大人可愛い雰囲気に。肌見せが気になるようなら、引き締めカラーのタイツを加えても◎。 |
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●足首を細く見せるコーデ
細見えコーデの鉄則は、細い部分を強調すること。足首のアピール方法ってどうしたらいいの?3つのスタイリングから、足首美人のルールをマスターしましょう。 ●アクセントカラーで視線を誘って! ゆるりとしたラインのデニムは、足首を出してスッキリ感を演出して。ピンクのパンプスをアクセントに取り入れることで、細い足首に視線を誘ったテクニックがお見事。 ●細身のブーツでカバー&美シルエットに シーズンムードが演出できるブーツは、いち早く取り入れたいトレンドアイテム。足首の細見えを狙うなら、足のラインはカバーしつつ美シルエットを作り出してくれるポインテッドトゥのブーツがおすすめ。 ●黒のアンクルパンツ×ぺプラムで最強足長コーデ とにかく足を細くきれいに見せるなら、黒のアンクルパンツはマストハブ。トップスにぺプラムシルエットを合わせれば、腰の位置もグッと高く見え足長効果は抜群。お腹周りもカバーしてくれるこのスタイリングは、もはや最強の着痩せコーデ。 |
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●足の短さをカバーするコーデ
足が太いと、どうしても全体的に足が短く見えてしまうもの。気になるパーツ、というよりも「全体的に足を長く見せたい!」という人はこちらのコーディネートを参考にして。 ●大人可愛いカジュアルスタイル 春夏に続いてトレンドのオーバーオール。愛らしい雰囲気が、大人にも人気のアイテム。レッグラインはカバーしつつ、ウエストの位置を高く見せてくれるのでカジュアルに決めつつ足長効果も期待できる今季のキーアイテムです。 ●羽織り×トップスインで今季らしい足長コーデ トップスインで足長に見せつつ、ロング丈の羽織で太もももカバー。攻守バランスのいいスタイリングは、今季のトレンド。ボトムスは秋冬らしいベロア素材。落ち感があるので、スッキリ見せにも効果的! ●上級者見えはスリット入りにおまかせ! チラリと見える素肌にどきっとするスリット入りボトムスは、まだまだ人気継続中!レッグラインを切り取って魅せてくれるので、足の細身せにも効果的。手首・足首など細く見える部分は積極的に出していって。 |
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●O脚さんにおすすめコーデ
足の太さと合わせて、その足の形にもコンプレックスを感じることも。今っぽさとカバー力を兼ね備えたスタイリングから、O脚さんにおすすめのコーディネートをご紹介します。 ●視線をトップスに!ほっこり冬カジュアル 隠すだけじゃ楽しくない!レッグラインの出る細身のパンツを選ぶなら、トップスに視線が集まるアイテムを選ぶのがバランスGOOD。白シャツをレイヤードし、きれいめにシフトするのが今季の気分。 ●ロングスカートの安心スタイル レッグラインのカバーできるロングスカートは、防寒もできるこの冬頼れるワードローブ。パーカーと合わせて、旬のカジュアルスタイルを楽しみたい。丈感は短めを選んで、トレンドムードと美脚の両方取りを。 ●柄パンツでおしゃれにカバー! コーデの主役を飾る柄パンツ。ワイドシルエットかつ柄アイテムのパンツは、レッグラインを曖昧に見せてくれる頼れる一本。今季らしく、トップスインで着こなして足長効果も狙いたい! 足の形や長さ、太さなど人によってお悩みは色々。お手本のコーディネートを参考に、スタイルアップの着こなし術をマスターしてお出かけしましょう! |
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●足が太いのを隠したい!スタイル良く見えるファッション | |
下半身は脂肪がつきやすく、さらに痩せにくいパーツ。そのため、足の太さに悩む女性は多いですよね。ダイエットをしたとしても効果が出るまで時間がかかるので、今すぐコンプレックス解消するのは難しいかもしれません。しかし、コーデを工夫することで、上手に足の太さをカバーできます。今回は、足が太いのを隠したい女性におすすめな、スタイル良く見えるファッションをご紹介します。 | |
●足が太いのをカバーする3つのポイント | |
まずは、足が太いのをカバーするために知っておきたいポイントをご紹介します。普段のコーデに取り入れて、スタイルアップしましょう。
●1.ロールアップする 最近流行りのロールアップ。トレンド感を演出するだけでなく、足の太さをカバーしてくれる効果もあるんです。ロールアップすると、肌がチラ見えして足首にくびれができたように見えます。足元が華奢な印象になることで、足全体をスッキリと細く見せられます。 ●2.ヒールを履く 女性を綺麗に見せるには、やっぱりヒール。ヒールを履くとふくらはぎがキュッと上がり、美脚効果を期待できます。普段は隠れている足首もちらっと見えるので、健康的な印象に。高いヒールだと足への負担が大きいので、ここぞというときのオシャレに活用したいですね。 ●3.トップスに視線を持っていく 鮮やかな色のストールを首元に持ってきてアクセントにしたり、ビビットカラーや目を引くデザインのトップスを選んだり。視線が上に行くと、足の太さに意識が向きにくくなります。ウエストをマークして、コーデにメリハリをつけるのもおすすめです。足の太さだけでなく、ウエストもキュッと引き締めてスタイルアップできます。 |
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●足の太さに悩む女性におすすめのファッション | |
●トレンドアイテムをたっぷり取り入れた今どきコーデ
ベアロ素材のビスチェに、ボリュームのあるワイドチノパンツ。トレンド感のあるアイテムを揃えて、今どきコーデに。フロントリボンでウエストをマークしているので、くびれを強調して脚長効果を期待できます。ゆったりとしたシルエットなので、足が太くても気になりません。 ●ワイドパンツでウエストも足の太さもしっかりカバー 淡いラベンダーカラーは、女性らしさをアピールしたい方にぴったりです。トップスが淡いパステルカラーで膨張しやすい分、ボトムスには視覚的に引き締め効果のあるブラックカラーを選んで。サッシュベルトを巻いてウエストを引き締めることで、女性らしいシルエットになります。裾に向けて広がるワイドパンツで、ウエストも足の太さもしっかりカバーしてくれます。 ●プリーツ入りのワイドパンツで縦のラインを強調 ダボッとしたシャツ×ワイドパンツのふんわりしたシルエットのコーデは、のっぺりと平面的に見えがち。そんなときは、ひじと同じ高さにベルトを巻いて胴長を防止しましょう。ブラックやベージュなどシンプルなカラーのベルトを選べば、違和感なくコーデに馴染みます。さらにプリーツ入りのワイドパンツで、縦のラインを強調。足の太さをうまく隠せます。 ●ロールアップで足首の華奢さをアピール 足の太さをカバーするには、ロールアップしましょう。足首のくびれを肌見せすることで、足全体がほっそりとした印象に。トップスには、半袖のワンショルダートップスをチョイス。トレンドのオフショルも良いけれど、「肩を露出するのには抵抗がある…」という方はワンショルダートップスで片方だけ露出するのがおすすめです。 ●ロールアップ×ポインテッドトゥで大人のカジュアルコーデ ブラウンのニットにデニムを合わせたシンプルなコーデは、デニムをロールアップすると一気に今風なコーデに。足首をスッキリ見せて、足の太さをカバー。野暮ったくなりがちなぺたんこ靴も、パイソン柄を選べばこなれ感を演出できます。トップスは浅めのVラインで、さらに髪をアップするとデコルテがすっきりした印象に。 ●鮮やかなピンクのワイドパンツを、ヒールで引き締めて トレンドのカラーワイドパンツで、かっこかわいいコーデに。ビビットなピンクをボトムスに取り入れるとどうしても視線が下にいってしまいますが、ワイドパンツならゆるっとしたシルエットなので足の太さを感じさせません。足元は高めのヒールをチョイスして、キュッと引き締めるのが細見せのコツ。ブラックのクラッチバックなどキレイ系の小物を取り入れることで、幼くならずラフな大人カジュアルになります。 ●厚底サンダルで手軽にスタイルアップ ふわふわしたシルエットのサロペットで上手に足の太さをカバーしつつ、厚底サンダルで脚長効果も実現。物理的に背が高くなるので、低身長女子にもおすすめです。シンプルなブラックカラーならスポーティーでもフェミニンでもどんなスタイルにでも合いやすく、取り入れやすいのがポイントです。 ●膝丈スカートで体型カバー 「ふくらはぎや足首は細いのに、太ももだけ太い!」そんな悩みを抱える女性におすすめなのが、膝丈のフレアスカート。ふんわり広がるフレアスカートなら、太ももだけでなくヒップラインもカバーしてくれますよ。全体をブラック系のアイテムでまとめることで、ガーリーになりがちなフレアスカートも大人っぽいスタイルに。 ●ボリュームトップスで視線を上に ふわふわ可愛いフリルブラウスは、スカートと合わせてフェミニンなスタイルにするのも良いけれど、デニムと合わせることで程よくカジュアルダウン。今っぽいラフなスタイルに仕上がります。明るいカラーと特徴的なシルエットのトップスで自然と視線が上がり、足の太さを感じさせません。レース素材で軽やかさもプラスして、こなれ感のあるコーデに。 ●鮮やかなトップスでパッと目を引く華やかコーデ パッと目を引く華やかコーデにしたいなら、トップスに明るい色を取り入れるのがおすすめ。ピンクカラーのレーストップスなら、視線が自然と上に集まります。ワイドパンツで下半身のシルエットをふんわりさせて気持ち長めの丈のものを選べば、さらに太ももから足首までのラインがカバーできます。 |
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足の太さをカバーしたくて、ゆるっとしたシルエットのコーデばかり着ている女性は多いですよね。しかし、コンプレックスのせいでおしゃれが制限されるのはもったいないです!ロールアップしたりヒールを合わせたりとちょっとした工夫をすることで、足の太さを感じさせないコーデになるので、ぜひ様々なコーデに挑戦してみてください。 | |
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