親鸞

親鸞1親鸞2浄土教における救済
(時宗・一遍>転載)
一遍と親鸞1一遍と親鸞2一遍と親鸞3
恵信尼の書簡恵信尼消息1恵信尼消息2発掘「歎異抄」二河白道連続無窮安心と安穏唯説弥陀本願海親鸞聖人の生涯親鸞聖人の教え「正信偈」流罪伝承親鸞と浄土真宗・・・
親鸞諸説 / 仏教観思想史願生道本願三心非呪術三心説管見「教行信証」成立「教行信証」成立問題大菩提心「方便」「時」の問題教法観悪人正機浄土真宗と悪人正機の思想現代に生きる浄土真宗愚禿親鸞親鸞親鸞の聖徳太子信仰浄土の真実浄土真宗と正覚宮沢賢治仏法往生思想仏道
 

雑学の世界・補考   

慚は自ら罪を作らず、愧は他を教えて作さしめず。
この言葉は、「涅槃経(ねはんぎょう)」の一節を親鸞(しんらん)が引用したものである。悉達多(しっだるた)という王が耆婆(ぎば)という名医に、「私が病気になったのは、多くの罪を犯したからであろうか」と問うたのに対して、「王さまは罪を犯したとはいえ、それを恥じ入る心があるから救われる」と答えたときの言葉である。「慚(ざん)」は、自分の心に犯した罪を恥じて、再び罪を犯さないことである。「愧(き)」は、自分の罪を告白し、他の人に罪を犯させないようにすることである。そのため「慚愧(ざんき)に堪えない」という場合には、自分の恥じ入る行為を他の人に告白して許しを請うことであり、それによって二度と同じ過ちを犯さず、他の人にも過ちを犯さないようにさせるものである。親鸞は、間違いを犯した人の真剣な内省と告白の大切さを説いている。「教行信証」
悪性さらにやめがたし。こころは蛇蝎のごとくなり。
身についている悪い性分が、ますますあらわになってきて抑えることができない。わが心は、人に嫌われる蛇やサソリのように醜いものだ。こう詠んだ親鸞(しんらん)は、続けていう。「修善(しゅうぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆえに、虚仮(こけ)の行(ぎょう)とぞなづけたる」自分は醜く、人に嫌われる心を持ち、罪深い悪人であるという深い内省を通して、そんな人間でも救ってくれると誓った阿弥陀如来の本願にすがったのが、親鸞である。だが、避けられない煩悩を自覚せずに、いたずらに表面を取り繕(つくろ)うような善行を行ったとしても、その善行自体が人間の醜い本性からなっているのであれば、それは害毒であり、虚構の行いである。私たちは、煩悩に満ちあふれて、欲望の海に迷い込む存在であり、そのためどんな修行をしても、それを克服できるものではない。救われるためには、醜く罪悪の深い存在であることを自覚し、そうした存在でも救うと誓う阿弥陀如来に導かれることである、と親鸞は説く。「正像末和讃」
いずれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は一定棲ぞかし。
「地獄に落ちるぞ」といわれると恐怖を感じるが、親鸞(しんらん)はどんな修行や善行をしても悟ることができない身であるから、自分は必ず地獄に行くしかないと言い切る。だが親鸞は地獄に行く人は、誰ひとりとしてない、という前提でこの言葉を言っているのである。親鸞は、誰ひとりとして漏らすことなく救うと誓った阿弥陀如来の本願(ほんがん)を、ただひたすら信じることだけが真実であって、そのことによって極楽に生まれるか、地獄に落ちるかは、まったく論外であったのである。煩悩(ぼんのう)にまみれた我が身は、ただ阿弥陀如来の本願を信じるのみである、と親鸞は説く。「歎異抄」
善悪の二つ惣じて存知せざるなり。
「私は善や悪ということについては、まったくわからない」と善悪の価値観を仏にゆだねる親鸞(しんらん)の立場を明らかにした言葉である。社会の規範でつくられた善悪や、仏を供養する人が善人で、仏を軽視する人が悪人だという行為や心の持ち方で善悪を論じようとすることが本当に正しいことなのか、と親鸞は自問する。私たちの生きる世界や心は、親鸞にいわせれば、みんな「そらごと、たわごと」であって「まことあること」のないものである。そのため、すべてを知り尽くして、私たちを救う智恵を完成した阿弥陀如来の心に善悪の判断を求めるしかない。親鸞は世俗の善悪を超えて、阿弥陀如来に帰すという絶対他力の信仰を示している。「歎異抄」
親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。
親鸞は今は亡き父母を供養するために、一度たりとも念仏を唱えたことは、いまだかつてない、という意味である。父母をはじめ祖先を供養することが仏教徒の勤めだ、と考えている人が多くいる。しかし、親鸞はそうした仏事を否定する。その理由を親鸞は、こう語っている。「すべての生きたものは、生まれ変わりする生命の流れからみると、すべての人びとはわが父母であり、わが兄弟である。そのため私たちが死んで仏になったとき、わが父母や兄弟ばかりではなく、いずれの人もみな救わなければならない。そのため個人の救いを求める念仏は自力のものであるし、念仏は個人のために唱えるものではない」親鸞は、救いは仏からなされるもので、それに応えて念仏するという立場をとっている。「歎異抄」
明日ありと思う心のあだ桜 夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは
1 これは、親鸞聖人が、9歳の時、得度される前夜に詠まれた歌と聞いています。9歳でこんな歌が出て来るとは信じ難いですが。「明日桜を見ようとしても、夜に嵐が来て、桜は散ってしまうかも知れない、桜の運命と同様、明日の事は私達人間には分らないのですから、今、得度させて下さい」と言う松若丸(親鸞の幼名)の心情を表わしたものであると言われています。
2 親鸞聖人は九歳で出家をされました。聖人は貴族の出身でしたが、下流貴族で、父母を亡くし生活にも困窮していたといわれています。出家の動機は今では想像するほかありませんが、その時のエピソードとして、こんな話しが伝えられています。聖人が得度(僧侶になること)するために青蓮院の慈円和尚のもとを訪れた時、すでに夜は更けていました。得度には時間もかかりますし、たくさんのお弟子を集めなければなりません。「もう遅いから明日にしよう」といった慈円和尚に、わずか9歳だった親鸞聖人は和歌を詠んで答えたといいます。「この世は無常であり、今を盛りと咲く桜が夜中の嵐で散ってしまうかもしれません。同じように、私の命もいつなくなってしまうかわかりません。どうか、今ここで得度の儀式を執り行って下さい」という聖人のそのことばに心打たれ、慈円和尚はすぐに得度の手配をされたということです。
3 親鸞聖人が出家したのは1181年(養和元)のことで当時9歳である。時代は、源平の争乱が激しさを増し、平清盛が失意のうちに亡くなっている。そのような状況の中で親鸞聖人(幼名・範宴)は、「明日ありと思う心のあだ桜、夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは」という和歌を詠み、日が暮れたお堂の中で、後の天台座主で歌人としての才能を持つ慈円和尚のもと、出家をしたと伝えられている(現=青蓮院)。この和歌を幼少の親鸞聖人が詠み、強い気持ちで出家をしたかどうかは別にして、後の人が親鸞聖人をどのような方として受け止めてきたのかが大事なのだろう。また、肉親と訣別したため、通仏教に習い得度・出家をしたと伝えられている。和歌については、栄枯盛衰が激しい時代状況の中で、誰しもが強く世の無常を感じていたことが反映されている。ともあれ、末法と言われる時代状況と仏陀釈尊以来の仏教の歴史に後押しされながら、今でいう仏教の総合大学・比叡山に登ることになったのである。



親鸞1

出家から公式妻帯まで
親鸞の出家
親鸞は1173年に藤原氏の末流である下級公家、日野有範(ありのり)の子として京都で生まれた。4歳のときに父を亡くし、8歳のときにその母を亡くした。9歳となった親鸞は「愚管抄」の著者として知られる慈円のもとで出家した。ちなみに慈円は関白九条兼実の弟にあたる人物である。出家した年齢から考えると、法然の場合とちがって、「自分の意志」による出家ではなく、おそらく周りの勧めによって親鸞は仏門に入ったのではないかと想像できる。
比叡山に入り、天台宗の僧として修行を続けた親鸞でだが、ある疑問から山をおり、京の六角堂という寺に参籠した(参籠とは、寺に籠もって祈り続けること)。
親鸞の疑問
親鸞の疑問とはどのようなものであったのか。20代後半に達した親鸞には、どうやら恋人がいたらしいのだ、恵信尼(えしんに)という女性である。当時の仏教の戒律では僧侶は妻帯することはできない、つまり女性を愛することは禁止されていた。これはあくまでも「たてまえ」で、当時の仏教界では戒律をまじめに守る僧は少なくなっていた。むしろ偉い僧ほど「かくし妻」がいるということは、いわば「公然の秘密」であった。
親鸞はまじめな人だった、当時の仏教界の潮流に流されることなく、「僧侶は妻帯してはならない」という戒律を守ろうとして、「恵信尼を愛している」という自分の感情との対立に苦しんだわけだ。
親鸞の疑問とは「どうして僧侶は女性を愛してはならないのか」というものだ。もちろんだめであり、それはお釈迦様の定めたルールだからである。この矛盾の解決のため、親鸞は六角堂に参籠した 。
聖徳太子のお告げ
仏の教えと自分の感情、この矛盾の解決のため京の六角堂にこもった親鸞は、100日間、救世観音に祈り続けることによって解決しようとした。95日目の夜、親鸞の夢に聖徳太子が現れ、「お告げ」を与えた。ちなみに当時、救世観音と聖徳太子は同体であると考えられていた。その「お告げ」とは次のようなものだ。
行者宿報設女犯  我成玉女身被犯
一生之間能荘厳  臨終引導生往生
お告げの意味は次のようになる。
もし仏教を修行中の者が、前世からの宿命で妻帯するのならば、自分が玉女の身となってその妻となり、女犯の罪を犯すことはないだろう。そして一生の間、その身を飾り、死にのぞんでは極楽に導くであろう。
このとき親鸞は29歳であったといいます。「お告げ」を受けた親鸞は比叡山を離れ、法然のもとへ弟子入りした。ちなみに法然の弟子には九条兼実がいた(親鸞の師であった慈円は兼実の弟 にあたる)。
妻帯
親鸞の有名な言葉に「たとひ法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」というものがある。この言葉の意味は「法然上人になら、だまされて地獄へ堕ちても後悔しません」ということだが、この言葉からも親鸞がいかに法然を信頼していたかが分かる。
では法然は親鸞の「僧侶は妻帯してもよいのか」という疑問に答えることができたのか、この点に関する直接の史料はない。しかし研究者の意見によると、親鸞が法然の教えのうち、どのような言葉を書き記しているのかを見ることである程度推測できると言う。その中で有名なものをひとつ紹介する。
現世をすごすには念仏を唱えられるようにせよ。念仏の妨げとなるものはすべていとい捨てやめるべきである。聖であって念仏ができないならば妻帯して念仏せよ。妻帯したために念仏ができないというならば、聖になって申せ。
つまり、「念仏することが何より大切なのであって、その妨げとなるのなら妻帯して念仏すればよい。」ということである。
親鸞は31歳のとき、公式に妻帯したと言われている。「自分には妻がある」ということを公に宣言した。これは当時としてはかなり衝撃的な事件であった。裏で妻帯している僧侶はめずらしくなく、世間の人々もそのことは承知していた。「たてまえ」はあくまでも「僧は一生独身」である。ですから親鸞も他の僧侶と同じように「本音」と「たてまえ」を使い分けて、裏で妻帯してもよかったはずだが、それをしなかった。親鸞はその意味で、本当にまじめな人柄だったのだ。
そんな親鸞を法然も認め、入門5年目33歳のとき、法然の書いた「選択本願念仏集」の書写を許されるまでになっていた。
越後流罪と悪人正機説
越後から常陸へ
1207年、親鸞が35歳のとき、「法難」があった。法然の弟子たちの行いに連座する形で、法然自身も「念仏停止」を言い渡され、讃岐(香川県)へ流罪となった。このとき法然の高弟であった親鸞も僧侶の資格をうばわれ、越後(新潟県)に流された。
親鸞は妻の恵信尼を伴い、越後へと赴いた。越後で二人の間に男の子も誕生した。
1211年、親鸞は法然とともに罪を許された。しかし、1212年1月に法然の死を知った親鸞は、師のいない京へ戻ろうとはせず、越後にとどまった。
1214年、越後を出た親鸞は常陸国(茨城県)の稲田に移り、そこで布教と研究の日々を約20年間にわたっておくることになった。
親鸞はこの間、「自分は僧でもなければ俗人でもない。」という立場を主張したと言う。むずかしい言葉で「非僧非俗(ひそうひぞく)」と言う。その立場をはっきりさせるためか、親鸞はみずから愚禿(ぐとく)と名のった。
「愚」とは「おろか」という意味で、謙遜の表現であると考えられる。「禿」とは「かむろ」、つまり総髪の意味ではないかと言われている。総髪とは、髪の毛を長くのばし、それを後ろでたばねる髪型だ。「妻帯せず」という戒律を捨て、念仏だけを選択した親鸞にとって、剃髪にこだわる必要はなかったのだ(剃髪とは髪の毛をそり上げること、僧侶の髪型を言う)。
悪人正機説
「愚禿」親鸞の教えはどのようなものだったか、次の言葉を見て下さい。
善人なおもて往生を遂ぐ、況(いわん)や悪人をや
「善人ですら極楽往生することがある。ましてや悪人ができないはずはない。」一見すると「善人」と「悪人」が逆ではないかと疑問をもつが、誤りではない。この一見、逆ではないかと感じる親鸞の言葉こそ、有名な「悪人正機説(あくにんしょうきせつ)」である。
「善人」とはいわゆる「善い人」という意味ではなく、自力修行によって仏の世界に至ることができると信じている人を指す。「善人」とは「自分が善人であると信じている人」「自分は善を行うことができると信じている人」という意味だ。これに対し「悪人」とは、「善人」ではない人すべてを指す。努めて「善行」を積むわけでもなければ、それができるとも考えていない人々、つまり自力で仏の世界に至ることができない人々である。
阿弥陀如来の本願は、あくまで「自分を信じ念仏するものは極楽浄土に生まれ変わらせる」というもので、「善人」であるかどうかは極楽往生には関係はない。
「悪人」は自力ではなく阿弥陀如来の力(つまり他力)を頼って極楽往生をとげよ。阿弥陀如来の力は絶対的なもので、必ず往生できるとしている。これに対し「善人」は自分の力で往生しようとするから、阿弥陀如来の本願からすれば、往生は不確実なものになる。これが「悪人正機」の意味である。
親鸞の主張は、「大切なことは善行を積むことではなく、あくまで阿弥陀如来の絶対他力を信じることである。」。もちろん「善行」を否定しているわけではない。阿弥陀如来の絶対的な力に対して、人間はあまりにも劣った存在であり、比較の対象にすらならない。だからこそ、まず阿弥陀如来を信じることが必要だと親鸞は言っているのだ。
歎異抄
「歎異抄」という書物がある、親鸞の弟子であった唯円(ゆいえん)が、親鸞の死後、その教えが乱れることをおそれて著したものだとされている。「歎異抄」は、唯円が親鸞に教えられたことをそのまま書き記し、それに唯円の意見をそえるという形式をとっている。「悪人正機説」も、この「歎異抄」にある。
以下に「歎異抄」の「悪人正機」を記した部分を引用する。
善人なをもて往生を遂ぐ、況や悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣(いしゅ)にそむけり。そのゆへは、自力作善(さぜん)の人は、ひとへに他力をたのむ心かけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力の心をひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土(しんじつほうど)の往生をとぐるなり。煩悩具足(ぼんのうぐそく)のわれらは、いづれの行にても生死(しょうじ)をはなるることあるべからざるを哀たまひて、願(がん)をおこしたまふ本意、悪人成仏のためならば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因(しょういん)なり。よりて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はとおおせさふらひき。
現代語訳するとおおまかな意味は次のようになる。
善人ですら極楽往生することがある。ましてや悪人ができないはずはない。しかし世間の人はふつう「悪人でさえ往生する。まして善人は言うまでもない。」と言っている。人々がそう考えるのも分からないではないが、阿弥陀の本願、阿弥陀の他力にもとづく救いの道からははずれた考え方である。
なぜならば自分の力に頼って善をなそうとする人は、いちずに阿弥陀の他力を信じる心にかけており、それは阿弥陀の本願からはずれているからである。そうではなくて、自分の力を頼む心をしっかり改め、阿弥陀の他力を頼れば本当の極楽往生ができるのである。
すべての煩悩を身につけている私たちは、どんな修行によっても生死を重ねるという状態から抜け出すことはできないのである。それをあわれに思った阿弥陀が、私たちを救おうと本願を起こしたのである。阿弥陀の目的はそんな悪人たちを成仏させるためなのである。したがって阿弥陀の他力のみを頼む悪人が第一に極楽浄土に往生できるのである。と師はおっしゃいました。
親鸞の言葉と死
親鸞の言葉
親鸞が何よりも大切にしたのは「阿弥陀如来を信じる心」でした。その信心を表す方法が称名念仏、つまり「南無阿弥陀仏」と唱えることである。念仏は「修行」ではなく、「善行」でもない。このことを示す親鸞の言葉を紹介する。
「念仏は、自分の考えで行うことではないから修行ではない。また自分の考えで行う善事でもないから善行でもない。念仏はただただ、阿弥陀の他力によるものであって、自力を越えたものだから、唱えるものにとっては修行でもなく、善行でもないのである。また、みなさんは意外に思うかも知れないが、念仏は本来、死者を弔うものでもない。」
親鸞は、両親の死後の供養のために念仏したことは一度もない。親鸞の教えの根本は「阿弥陀如来の本願を信じる心さえあれば、極楽往生できる」というもので、人間のもつ力を極めて小さいものとし、反対に阿弥陀如来の力(他力)を想像もできないくらい大きなものとする考えに基づいている。
教団の否定と親鸞の死
関東で多くの信者を得た親鸞だが、浄土宗から独立して新しい宗派をおこそうという考えは、親鸞にはなかったようだ。この点に関し、親鸞は次のように言っている。
「専修念仏の人たちの間に、自分の弟子だ、他人の弟子だという争いがあるようだが、これは思いもよらないことだ。親鸞には弟子は一人もいない。自分のはからいによって、他人に念仏を唱えさせているのであれば、その人は自分の弟子だということになるが、阿弥陀のおはからいによって念仏を唱える人を自分の弟子だと言えるわけがない。」
関東で約20年をすごした親鸞は、60歳をすぎて京へもどった。そして京で親鸞はその主著である「教行信証」を著し、1262年に90歳で亡くなった。
親鸞の死後、関東の弟子たちは専修寺派を立て、親鸞の曾孫にあたる覚如(かくにょ)は本願寺派を立てました。親鸞の意に反し、親鸞の教えを継ぐ教団が形成されていった。親鸞の教えを伝えるこれらの宗派を総称して浄土真宗と言う。
 
親鸞2  
承安3年-弘長2年(1173-1263)
浄土真宗の開祖。初期鎌倉時代の仏教僧。下級貴族・日野有範(ありのり)の子で幼名松若丸。4歳で父と別れ7歳で母と死別して天涯孤独と成り伯父に育てられるも、1181年(8歳)、源平争乱の真っ只中、飢饉と疫病が蔓延する都の中で、子どもながらに人の死後を憂い比叡山に出家。以後、心の救済を求めて約20年の修業の日々を送る。だが、最澄が開いた日本仏教の最高学府比叡山は、400年の間にすっかり俗化していた。裕福な貴族たちと結んで大荘園の領主となり、僧兵を組織して他派と争い、熾烈な権力争いが飽くことなく続いていた(もちろん、真面目に学問に励む者もいたが)。
親鸞はいっこうに悟りを得ることが出来ない自分自身と、堕落してしまった比叡山への絶望もあって、1201年(28歳)、ついに下山。都で説法していた法然の元へ足を運ぶ。そこで阿弥陀仏の慈悲を全身全霊で体感した親鸞は「たとえ法然上人に騙されて念仏して地獄に落ちようとも後悔せず」と弟子入りを決意する。当時の出家者は独身を守らねばならなかったが、深く愛する女性・恵信尼と出会った親鸞は、30歳の時に法然の許しを得て結婚した(結婚は後の流刑後説もアリ)。昼夜を問わず勉学にいそしむ親鸞は、多くの門弟の中でも目に見えて頭角を表わし、入門4年目にして、法然の肖像を描くことと、師が記した「選択本願念仏集」の書写を認められた。
高い学識を持つ師の法然は、当時の旧仏教の最大勢力、奈良興福寺や叡山延暦寺からも一目置かれており、布教の当初は弾圧もなかった。しかし、浄土宗が栄えるにつれ、信者の激増が危機感を与え圧迫が始まった。1204年(31歳)、法然は綱紀粛正の為に弟子に向けて「七箇条制戒」を記し、親鸞はこれに綽空(しゃっくう)の名で連座署名した。しかし、門徒の中には「念仏を唱えれば何でも帳消しになる」と平気で悪事を行なう者もいて、弾圧はさらに厳しくなった。あげくに朝廷の女官と通じる弟子が出てきて、1207年(34歳)、とうとう朝廷から「念仏停止(ちょうじ)」の命令が下され、弟子の2名が死罪、法然は讃岐に、親鸞は越後(新潟)に流罪となった。この時代は出家者を法で裁けなかったので、わざわざ親鸞を還俗させて俗名・藤井善信(よしざね)と付けてから流した。この後、師弟は二度と再会することはなかった。 1211年(38歳)、親鸞は4年で流罪をとかれたが、法然の死を知り京都へ戻らず、東国で布教活動を始めた。41歳、関東を飢饉が襲う。当時は何回も経典を読むことが人々の救済に繋がるというのが常識だった為、根本経典(三部経)を千回読もうと思い立つが、人の渦に飛び込み伝道する事こそが重要だと悟って中止、約20年にわたって農民と共に暮らし、常陸、下総、下野を中心に、関東から東北まで教えを広めた。
この時代の僧侶は、律令制に従って国家によって認定を受け、寺の奥深くで厳しい戒律を守り、国土の安泰を祈っていた。だから、親鸞のように庶民の輪に入って仏法を説くことは極めて異例だった。この意味で親鸞は自身を「僧にあらず」と言い、一方で心底から阿弥陀を信仰する点では紛れもなく僧なので「俗にあらず」と位置づけた。非僧非俗。
封建制度の下で徹底的に痛めつけられ、他人を押しのけねば生きていけない悲惨な状況の民衆。生活の余裕から善根を積む貴族のようにはいかない。しかし民衆こそ切実に救いを求めていた。なのに多くの宗教者は、人々の弱い心につけこんで神仏を恐れの対象とし、祈祷や呪術に明け暮れている。仏は罰を与えるものではなく、救いを与えるものではないのか。仏罰の怯えの中で安らぎなど得られるはずもない。親鸞は「南無阿弥陀仏」の念仏だけで救われるという師・法然の教えの重要性をますます強く実感していく。
そして、法然が「悪人でも念仏を唱えれば“死後に”浄土に行けるが、善人の方がより救われる」とした思想(浄土宗)をさらに発展させ、「ひとたび念仏を唱えれば臨終を待つことなく“生きながら”にして救われる」(浄土真宗)との考えに至り、親鸞にとっての念仏は、“浄土に行きたい”という意味合いではなく、浄土に行くこと(往生)が決定したことで、阿弥陀に感謝する“報恩”の念仏であると説いた。そして「善人が救われるのは当たり前だが、悪人であればなおさら往生できる」とした(「善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」=“悪人正機説”)。
※ 「悪人正機(しょうき)説」は関東の弟子唯円(ゆいえん)が師の言葉を没後にまとめた「歎異抄(たんにしょう)」にある。親鸞の死後、教義について様々な噂が入乱れたことから、教義を明確にする為に師匠の真の口伝を刻んだ。
「世間では悪人でさえ往生できるのだから、善人なおさら往生できる言われるが、これは他力本願(阿弥陀の救いを信じ抜くこと)の主旨に反する。自力で善を為せる人は、阿弥陀に頼る必要がない。だが、どんなに行を積んでも煩悩から逃れらない私(唯円)どももいる。阿弥陀はそれを哀れに思って、自分を頼る者は必ず救って見せると願を起こされた。だから親鸞聖人は、善人だって往生するのだ、まして悪人はと仰せられたのだ」
「ある時、師が「私の言うことを信じ、けっしてそむかぬか」と仰せられるので賛意したところ、「では千人を殺せば往生できると言われたら殺すのか」と仰せであったので、「一人も殺せそうに思えません」と答えると、「それはたまたま、お前が一人とて殺せる業や縁がないから殺さないのだ。心が善いから殺さぬのではない」との仰せであった。殺さずにすむ縁に感謝すべしとのことなのです。阿弥陀の救いをあてにして、わざわざ好んで悪を行なった者に対しては、「薬があるからと言って毒を飲むようなことをするな」と正された。この頃では、善人だけが念仏を唱えるかのように、道場に貼り紙をして、これこれのことをなしたるもの、道場に入るべからずなどというのがある。これは本末転倒というもの。善きも悪しきも、業報に任せきって、ひたすらに本願に頼ってこそ他力というものだ。だいたい罪業、煩悩をなくしてから本願を信ずるというのであれば、もう煩悩が消えているのだから、そのまま仏である。仏にとっては、阿弥陀の願も用なきものであろう」
※ 生涯にわたって苦しみ悩み続ける人々を何とか助けてやりたいという大きな慈悲心から、阿弥陀は「我を信じよ。どんな苦悩を持つ者でも、この世も未来も最高無上の幸福にしてみせる。もし、絶対の幸福にできなかったら、仏の生命を捨てよう」と本願(約束)を立てた。「この世も」ということから、これは死後の救いではない。親鸞の布教はいたってシンプルで、「阿弥陀仏の本願による救いを、自らも信じ、人に伝える」こと。徹底した他力信仰。現在、一般に「他力本願」という言葉はマイナスイメージの誤った使い方をされているが、仏教用語の本来の意味は、阿弥陀(他力)の本願(約束)を信じ、その為に心を整えるという尊い言葉だ。いつ死んでも浄土に往生できる安心感の中で生きるわけで、死後の不安は微塵もない。この歓喜を一人でも多くの人に親鸞は伝えたかった。法然門下の兄弟子が「念仏の徳により、死後に極楽往生させて頂けるのが、阿弥陀仏の御本願の有難さです」と説いた時の、親鸞の反論が残されている。「あなたは阿弥陀が死後でなければ助けて下さらぬとおっしゃいましたが、私は既にもう救われたことを喜ばずにおれません。“腹痛はこの世では治らぬから辛抱しなさい。死んだら何とかしてあげよう”と言う医者はいません。濁流に溺れている者に、“今は救ってやれないが土左衛門になったら助けてやるから待っていろ”と言う人がいましょうか。人間ですらそうです。ましてや慈悲深き阿弥陀仏が、“この世の苦悩はどうにもできぬから苦しくても我慢せよ、死んだら助けてあげるから”、と誓われる道理がありましょうか」。
親鸞は従来の宗派と異なり「肉食(にくじき)妻帯」の立場をとって、食欲や性欲を否定しなかった事から、浄土真宗は多くの人に受け入れやすく急速に広まった。1234年(61歳)、23年ぶりに京都に戻り弟の家に住み、74歳で主著「教行信証」を完成させ真宗の基礎を固めた。しかし、親鸞が去った関東では、幕府の弾圧や日蓮の念仏批判を受け、信者の間に動揺が広がっていた。親鸞は事態を安定させる為に息子の善鸞を派遣したが、善鸞は逆に同門内に対立を引き起こした。そして親鸞の息子という権威を高めるために「父から自分だけが教えてもらった秘法は祈祷の予言」と嘘をついてしまい、護符で病を治す祈祷師として権力者との癒着すら行なった為、1256年(83歳)、親鸞はあえて善鸞を絶縁した。
1262年、全てを阿弥陀仏の救済に任せて、心に平安を抱きつつ、末娘の覚信尼や弟子たちに看取られ89歳で大往生。遺言は「一人いて喜ばは二人と思うべし。二人いて喜ばは三人と思うべし。その一人は親鸞なり」。
旅立ちの翌日に東山の延仁寺で火葬され、翌々日に大谷へ納骨し墓標が立てられた。やがて巡礼者の増加に伴い、墓所に六角のお堂を建て親鸞像が安置された。これが現在、大谷本廟と呼ばれているもの。1694年に宝形造りの廟堂が建てられ、1709年にはお骨が納められた祖壇の前に、拝堂「明著堂」が造営された。
親鸞は終生、自分は教祖でも師でもなく、阿弥陀の前で人々と平等な存在だと考えていた。浄土真宗という教団が誕生したのは没後半世紀が経ってからだ。信者はいたが教団を結成する意志は皆無で、自分からは進んで弟子を持とうとも、寺を持とうともしなかった。とにかく、命を尽くして阿弥陀仏へ恩返しがしたい、その気持ちだけで人生を駆け抜けた。死後、見真(けんしん)大師の名を与えられる。 ※ 親鸞自身は日頃から「私が死んだら賀茂川へ捨てて、魚に食べさせよ」と言っていた。いかに名誉や形式への執着心がなかったかが分かる。また、僧侶でありながら菜食主義ではなく多くの魚を食したことから、死後に自らの肉体を差し出したかったのかも。
※ 東京の築地本願寺には歯が埋葬されている。
※ 「今日、英訳を通じて、初めて東洋の聖者、親鸞を知った。もし、10年前に、こんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったなら、私はギリシャ語や、ラテン語の勉強もしなかった。日本語を学び、親鸞聖人の教えを聞いて世界じゅうに広めることを、生きがいにしたであろう」(哲学者ハイデッガー)
 
親鸞浄土教における救済

 

浄土教において救済の問題は大変大事なことである。この救済について親鸞以前の浄土教では大体において来世のこととして語られたのであるが、親鸞は現世からの救いを強調したのである。現実の社会に生きている人々に意味をなすものは、来世の救済の世界ではなく現世における救済の世界であると考える。以下この点について考察したいと思う。
信一念における救済の主張
親鸞は「大経」下巻の初めにある本願成就文を独自の訓点により
諸有衆生、其の名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せむ、至心に回向せしめたまへり。彼の国に生ぜんと願ずれば、即ち往生え不退転に住せん。(「教行信証」「信巻」)
と読んでいる。この本願成就文の一念を信の一念とし、その時不退の位に住するとしたのである。法然は「選択集」五、利益章において、この一念を念仏(行)とみているのであり、また親鸞書写の「選択集」においても同様である。従って本願成就文の一念を信の一念と釈し、現生に不退(正定聚)の位に住するということは、法然にもみられない親鸞独自の釈顕であり、しかも親鸞自身もよくそのことを承知していたものである。また親鸞は自身の著述に引用する「往生礼讃」はすべて「集諸経礼懺儀」によっていると思われる@。「教行信証」の「行巻」と「信巻」に「集諸経礼懺儀」所収の「往生礼讃」深心釈が引用されて
深心は即ち是れ真実の信心なり。自身は是れ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界を流転して、火宅を出でずと信知す。今彌陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、定んで往生を得しむと、一念に至るに及ぶまで、疑心あることなし、故に深心と名づく。とある。「集諸経礼懺儀」所収の「往生礼讃」深心釈の特徴は法の深信の部分の「名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで」とある所である。真宗聖教全書所収本「往生礼讃」、親鸞聖人加点本「往生礼讃」、親鸞聖人書写本「選択集」引用の「往生礼讃」深心釈の文はすべて「名号を称すること下至十声一声等」となっているのである。「下至十声一声等」ならば往生のために少なくとも一声の念仏は必要と言うことになる。「下至十声聞等」ならば一声の念仏も必要ではない。聞即信であるので、信一念の往生決定を主張する親鸞にはここが大変重要であったのである。従って親鸞は法然の引用したものとは異なることを承知の上で自身の著述の引用に「集諸経礼懺儀」所収の「往生礼讃」を用いたのであろう。このように現世における信の一念に救いを得ること強調し、往生決定の身になり、現生正定聚に住することを主張したのが親鸞であった。
臨終来迎否定の問題
親鸞は現世からの救いを強調し、信心決定による現生正定聚、如来とひとし、彌勒におなじ等の主張があるが、現世の救済を顕す親鸞浄土教の一番の圧巻は臨終来迎否定であると思う。
幸西は「玄義分抄」別時門Aに「現生不退の益」・「入正定聚というは一念を指す」等と述べて現生不退(正定聚)を主張し、現世からの救済を述べている。証空は「定善義他筆抄」に「此世とは、即便往生を云ひ、後生とは、当得往生を云う也」と現世の往生である即便往生を述べて現世の往生を述べている。また一遍は「一遍上人語録」Bに「十劫に正覚す衆生界、一念に往生す彌陀の国、十と一とは不二にして無生を証し、国と界とは平等にして大会に座す」と述べ、現世の往生成仏を述べているのである。このように幸西、証空、一遍においては現世の救いが強く述べられているのであるが、臨終の来迎の否定はない。即ち幸西は「略料簡」に
命終わらんと欲する時に、仏来現す。心に従っては生ぜず。彼の願に依れ。(「浄土法門源流章」)
と述べ、証空においては臨終来迎の所説は代表的著述である「観経疏観門要義抄」の諸処にあるが、簡潔な言葉として「女院御書」に他力本願をたのみて、過去の罪をも、今生の罪をも懺悔して、仏かならず迎給へと思ひて念仏せば、かならず本願にも相叶ひて臨終には仏の来迎にもあづかるべきものなり。(「西山上人短編鈔物集」)
と述べ、一遍は「一遍上人語録」に
ただ不思議の名号をきき得たるをよろこびとして、南無阿弥陀仏をとなへて息たえ命おはらん時、必ず聖聚の来迎に預かりて、無生忍にかなふべきなり。これを念仏往生といふなり。
と述べ、現世からの救済を主張しながら、臨終来迎は語るのである。これに対して親鸞は「末灯鈔」一に
来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆへに、臨終ということは諸行往生のひとにいふべし。いまだ真実の信心をえざるがゆへなり。(中略)真実信心の行人は、摂取不捨のゆへに正定聚のくらいに住す。このゆへに臨終まつことなし、来迎たのむことなし、信心のさだまるとき往生またさだまるなり。と臨終来迎をはっきりと否定しているのである。また「末灯鈔」六には
まづ善信が身には、臨終の善悪をばまふさず、信心決定のひとは、うたがひなければ正定聚に住することにて候なり。
と述べて、臨終の善悪を申さずと信心決定こそが大事な問題であることを強調しているのである。このことは親鸞の独自の臨終来迎否定の考えからでたものと考えられるが、親鸞がこの臨終来迎否定・臨終善悪不問の考えに如何に徹していたかが、「恵信尼消息」にも窺えるのである。
「恵信尼消息」五の初めに
去歳の十二月一日の御文、同二十日あまりに確に見候ぬ。なによりも殿の御往生中々はじめて申に及ばず候。
とあり、次下に
されば、御臨終は如何にもわたらせ給へ、疑ひ思まいらせぬうへ、同じ事ながら、益方も御臨終にあいまいらせて候ける、親子の契りと申しながら、深くこそ覚え候へば、嬉しく候々。
とある。末娘覚信尼が父親鸞の死とその臨終の様子を母(親鸞の妻)恵信尼に知らせた手紙への返事である。覚信尼の手紙は残っていないが、親鸞の臨終の様子を述べ、親鸞の往生について、恵信尼に尋ねていたとも思われるが、恵信尼は上引のように「なによりも殿の御往生中々はじめて申に及ばず候」、「御臨終は如何にもわたらせ給へ、疑ひ思まいらせぬ」とあるように、臨終の様子がどうであったとしても殿(親鸞)の往生は間違いはないと断言しているのである。これは恵信尼が生前の親鸞より臨終来迎否定・臨終善悪不問の考えをよく聞き、深く理解していたからであり、親鸞の臨終来迎否定・臨終善悪不問の考えの徹底さを物語るものである。
上述のように現世からの救済を得く幸西、証空、一遍においても臨終来迎否定の思想はない。臨終来迎否定の思想がなければ、臨終善悪不問の思想はででこないであろうし、どうしても臨終が問題となり、極めて少々であるとしても、不安が残ることになるのではなかろうか 。
真仮・隠顕による発揮
念仏一行専修を主張する法然浄土教に対する非難に対応して、法然の意を明らかにするために生まれたものと考えられるのが、親鸞の願海真仮の釈であり、三経隠顕の釈である。第十九願を諸行往生、要門の方便(仮)の願とし、第二十願を自力念仏往生、真門の方便(仮)の願とし、第十八願を他力念仏往生、弘願の真実の願とする。そして「観経」の顕説を第十九願意の方便(仮)、「阿弥陀経」の顕説を第二十願意の方便(仮)とするのである。この親鸞の独自の釈顕がまた臨終来迎否定・臨終善悪不問の独自の見解の本になったと考えられる。上引の「末灯鈔」一に「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆへに、臨終ということは諸行往生のひとにいふべし。いまだ真実の信心をえざるがゆへなり」等とあるところにそれが窺われる。
また親鸞は「末灯鈔」一八には
御同行の、臨終を期してとおほせられさふらふらんは、ちからおよばぬことなり。信心まことにならせたまひてさふらふひとは、誓願の利益にてさふらふうへに、摂取してすてずとさふらへば、来迎臨終を期せさせたまふべからずとこそおぼへさふらへ。未だ信心さだまらざらんひとは、臨終をも期し来迎をもまたせたまふべし。と述べ、「尊号真像銘文」には
ひごろかの心光に摂護せられまいらせたるゆへに、金剛心をえたる人は正定聚に住する故に臨終のときにあらず、かねて尋常のときよりつねに摂護してすてたまはざれば摂得往生とまっふす也。このゆへに摂生増上縁となづくる也。またまことに尋常のときより信なからむ人はひごろの称念の功によりて、最後臨終のときはじめて善知識のすすめにあふて信心をえむとき、願力摂して往生をうるものもあるべしと也。臨終の来迎をまつものは、いまだ信心をえぬものなれば、臨終にこころをかけてなげくなり。
等と述べているように上引の「末灯鈔」一と同様に、真実信心(信心まこと、金剛心)を得ることによる現世からの救済の強調によって、臨終来迎を否定し、しかも臨終来迎をこころをかけるものは、いまだ信心を得ていないものと述べているのである。「唯信鈔文意」では法照の「五会法事讃」を引用して「観音勢至自来迎」とある「自来迎」について
「自来迎」といふは、自はみづからといふなり。彌陀无数の化仏、无数の化観音、化大勢至等の无量无数の聖聚、みづからつねにときをきらはず、ところをへだてず、真実信心をえたるひとにそひたまひて、まもりたまふゆへにみづからとまふすなり。
と「五会法事讃」の当分は臨終来迎が述べられているところを真実信心のひとの現世の利益としているのである。
このように四十八中の第十九願に誓われ、「観経」、「阿弥陀経」の当面に説かれており、浄土教において大変重要な課題とされていた臨終来迎を否定したのが親鸞である。
現世における救済の確信
上に論じたように、臨終来迎否定は従来の浄土教の常識を打ち破るものであった。これは法然の意を正しく継承せんがための教義形成より生じた願海真仮、三経隠顕の釈顕により、臨終来迎を方便(仮)と釈したからではあるが、それ以上に親鸞をして従来の常識を打破る臨終来迎否定の釈をなさしめたのは、自分自身の信心決定による現世における強い救済の実感と慶び、いまさら臨終は一切関係ないというすでに救済を体得した絶対的確信と安堵、にあったものと考えられるのである。このことが、上に引用した臨終来迎をまつものは真実信心の人でないという批判の言葉になっているのである。
「高僧和讃」の曇鸞讃の三不信の中の不淳心の「若存若亡」の左訓に
あるときにはわうしょうしてむすとおもひあるときにはわうしょうはえせしとおもふをにゃくそんにゃくまうといふなり
と述べている。即ち、ある時は往生できると思い、ある時は往生はできないと思うことを「若存若亡」する不如実(不真実)の信心であると述べているのである。近年親鸞の信心に誤った解釈がなされ、本願を疑う心がなくなることはなかったとか、往生に確信をもつことはなかったとかいう意見があるが、それはとんでもない間違いである。現世で救済に確信がなければ臨終来迎をたのむ真実信心のなきひとということになろう。真仮の釈顕により、弘願(第十八願、真実)と真門(第二十願、方便)厳しく分別するのが、親鸞であるが、真実信心の慶びを「信巻」に
遇またま淨信を得ば、是の心?倒せず、是の心虚偽ならず。是を以て極悪深重の衆生、大慶喜心を得、諸の聖尊の重愛を獲る也。
と弘願の信心(真実信心)の慶びを大慶喜心と述べているのである。これに対して真門の信心については、「化土巻」真門釈下に
真に知んぬ。専修にして雑心なる者は大慶喜心を獲ず。と大慶喜心をえることはできないと述べている。このように第十八願の真実信心による慶びを強調し、現世の救済をかたっているのである。また晩年の親鸞の著述である「正像末和讃」誡疑讃で厳しく自力真門念仏をいましめているE。弘願の他力念仏とは「正像末和讃」に
真実信心の称名は彌陀回向の法なれば不回向となづけてぞ自力の称念きらはるる
とあるように、真実信心の称名(念仏)であり、彌陀回向(他力回向)の念仏なのである。称える念仏のすべてが彌陀回向(他力回向)の念仏というのではない。真実信心の称名(念仏)が彌陀回向(他力回向)の念仏なのであり、自力真門の念仏はそうではないのである。「正像末和讃」誡疑讃に
不了仏智のしるしには如来の諸智を疑惑して罪福信じ善本をたのめば辺地にとまるなり
仏智の不思議をうたがひて自力の称念このむゆへ辺地懈慢にとどまりて仏恩報ずるこころなし
等と述べ、仏智疑惑、信罪福の真門の自力念仏のひとは、真実報土に生まれることはできず、辺地・懈慢の方便化土に生まれると戒めているのである。このように死後方便化土に生まれることを厳しく戒めているのであるが、実はこのいましめは死後のみのことではなく、現世に関わったことなのである。親鸞はむしろ現世において真実信心決定の人となり、臨終来迎不要の現生正定聚のひと、大慶喜心のひととなることを願っていたのであろうと思う。
このように現世においてはっきり救済をえるのが親鸞の宗教体験であり、親鸞浄土教の特色といえるであろう。
世をいとうしるし
「末灯鈔」二〇に
仏を信ぜんとおもふこころふかくなりぬるには、まことにこの身をもいとひ流転せんことをもかなしみて、ふかくちかひをも信じ阿弥陀仏をもこのみなんどするひとは、もともこころのままにて悪事をもふるまひなんどせじとおぼしめしあはせたまはばこそ、世をいとふしるしにてもさふらはめ。
とある。ここにある「世をいとうしるし」という言葉は親鸞の消息の諸処にみられる。これは信心決定のひとがいかなる行動をするのであるか、救済の現実性、を考察する上で大変重要なものである。一部の意見にこれを反体制的社会実践とするものがあるが、そうではなかろう。「教行信証」「信巻」冒頭に信心の徳を嘆ずる十二嘆名の第二に
欣淨厭穢の妙術
と、浄土を欣い、穢土を厭う心をおこさせる妙術とあるように、「世をいとう」ということは穢土そのものを厭うということであり、社会の体制状況を指すものではない。このことは「信巻」別序に
淨邦を忻ふ徒衆、穢域を厭ふ庶類、取捨を加ふと雖も、毀謗を生ずること莫れ。
とあり、また「信巻」三一問答法義釈下に「序分義」を引用して
真心徹到して、苦の娑婆を厭ひ、楽の无為を忻ひて、永く常楽に帰すべし。
ともあることで明らかである。このように親鸞のいう「世をいとうしるし」とは、煩悩濁世の穢土(苦の娑婆)をいとい涅槃清淨の浄土(楽の无為)をねがうということであり、それが他力回向の真実信心にもようされて生ずるとされるのである。

以上のように信一念による往生決定を述べ、現世の救済を強調したのが親鸞であった。それが従来の浄土教の常識を打破した臨終来迎否定・臨終善悪否定の教義の形成となり、また信不具足の真門念仏を厳しく簡別したのも、未来の化土往生の戒めというより、未だ他力信心獲得に至らない真門念仏者の現世における「若存若亡」の不決定心、大慶喜心の欠落に対する痛みにあったと思われるのである。「歎異抄」の後序に唯円が
かなしきかなや、さいはいに念仏しながら、直ちに報土にむまれずして辺地にやどらんこと。
とあるのも真門念仏を峻別した親鸞の意が窺えると思う。
「浄土和讃」に、 仏慧功徳をほめしめて十方の有縁にきかしめん信心すでにえんひとはつねに仏恩ほうずべし。
とあるが、ここに「信心すでにえんひとは」とあるように現世において信心決定の大慶喜心のひととなり、欣淨厭穢の信心のもようしによる報謝・伝道活動(自信教人信)の実践こそが親鸞浄土教の救済の現実的意義の根本になるものと考えるのである。

一遍と親鸞1

 

一遍と親鸞の二人は、共に浄土の教えによる万人救済という究極の立場を採ったという点で、大きな共通点を持つが、その生涯や発言を比べると、極めて対照的である。
対照的な二人
・生まれ 一遍[武家・河野家] 親鸞[公家・日野家]
・出身地 一遍[伊予(地方)] 親鸞[京都(中央)]
・勉学の地 一遍[博多(西山義)] 親鸞[比叡山(天台教学)]
・生活 一遍[遊行] 親鸞[比較的定住]
・結婚 一遍[離縁] 親鸞[妻帯]
・対神社 一遍[神明尊重] 親鸞[神祇不拝]
・芸能への関わり 一遍[深い] 親鸞[希薄]
・歓喜 一遍[踊躍歓喜] 親鸞[歓喜なし]
・弟子 一遍[時衆の形成] 親鸞[持たず]
・戒 一遍[時衆制誡] 親鸞[無戒]
・慈善 一遍[積極的] 親鸞[否定]
・著作 一遍[なし] 親鸞[多数]
・歌 一遍[和歌] 親鸞[和讃]
・寿命 一遍[50余年(1239-1289)] 親鸞[90歳の長寿(1173-1262)]
特徴的な言葉
生活・妻帯
一遍(「播州法語集」)
旅ごろも 木のねかやのね いづくにか 身のすてられぬ ところあるべき  又云、念仏の機に三品あり。上根は、妻子を帯し、家にありながら、著せずして往生す。中根は、妻子をすつといへども、住所と衣食とを帯し、著せずして往生す。下根は、万事を捨離して往生す。我等は下根の者なれば、一切をすてずば、さだめて臨終に諸事に著して、往生を損ずべきものなり。よくよく思量すべし。
親鸞(「御伝紗」)
六角堂の救世菩薩の夢告「行者、宿報にて、たとひ女犯すとも、我、玉女の身となりて、犯せられん。 一生のあいだよく荘厳して、臨終に引導して、極楽に生ぜしめん。
踊躍歓喜
一遍「聖絵」
ともはねよ かくてもをどれ こころごま みだのみのりと きくぞうれしき
親鸞(「歎異抄」)
念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。
弟子・戒・慈善
一遍
我が遺弟等、末代に至るまで、すべからくこの旨を守るべし。努力三業の行体を怠ることなかれ。
親鸞(「歎異抄」)
親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のこと(途方もないこと)なり。
浄土教の教えの基本・弥陀の本願
計り知れないほどの昔、世自在王仏という仏がいらしたとき、ある国王が出家をして法蔵と名のった。仏の指導のもと法蔵菩薩は計り知れないほどの長い間思惟し、修行が完成し仏国土ができあがったとき何が成就されるべきかという願を立て(48願)、無量のあいだ修行し、遂に修行を完成させ、阿弥陀仏となった。そして、今も極楽という浄土にいらっしゃる、という「無量寿経」の教えに基づく。この48願の中で、われわれの極楽往生に関係する願は 、18、19、20願の3願である。この中で特に重要とされるのが18願です。第18願「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。 」ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
また、「無量寿経」下巻冒頭には「十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心回向したまへり。かの国に生まれんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。 」とありこれも重要です。「観無量寿経」には「上品上生というは、もし衆生ありて、かの国に生まれんと願ずれば、三種の心を発してすなわち往生す。何等をか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具すれば、必ずかの国に生ず。 」と説かれます。
三心とは、「第18願」では、至心、信楽(信じ喜ぶこと)、欲生、「観無量寿経」では、至誠心、深心、廻向発願心で、これはどちらも同じことで、浄土に向けての、真実純粋な心、深く信じる心、真摯に往生したいと願う心のことです。
善導は「往生礼讃」の中で、次のように説きます。「この三心を具すれば、かならず生を得、もし一心少けぬれば、すなはち生ずることを得ず」。これを受けて、法然も「選択本願念仏集」で 「極楽に生ぜんと欲はん人は、まつたく三心を具足すべし」と説きました。
ここに、信心と名号という問題が生じてきます。
すなわち「南無阿弥陀仏」と唱えるとき、心底から信じ切って浄土に行きたいと願って言わなければ、無意味なのか、という問題です。そして、人間はそういう純粋極まりない心を、持とうとして持てるものなのかという問題でもあります。
この問いに対する答は、親鸞と一遍では大きく異なってくるのです。
親鸞の信心為本(親鸞の和讃)
真実信心うるひとはすなはち定聚のかずにいる不退のくらゐにいりぬればかならず滅度にいたらしむ
と親鸞は、信の大切さを強調します。親鸞の「信」に関する思想を、彼の主著「教行信証」によって見ていきます。
まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生(生ませる)の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識(内なる心)にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明・名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。
すなわち、親鸞はここで、阿弥陀仏の光明と南無阿弥陀仏の名号は、往生のための外からの間接的原因であり、自らの信こそが内なる直接的原因であると言うのです。 親鸞が信心と名号の関係をどう捉えていたかを端的に表す言葉が「信巻」にあります。
真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。
真の信心を持てば必ず自ずから南無阿弥陀仏という声が出てしまうが、逆に南無阿弥陀仏と言っているからといって信心を持っていることにはならないと言うのです。
しかし、親鸞は極めて罪の意識の強い凡夫の自覚の強い人でした。そして、そういう煩悩にまみれて、純粋な信心を持てない人々の救いを求めたのでした。これでは教えが矛盾してしまいます。それを解決していくのが、親鸞の三心についての独特の解釈なのです。
至心
一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、・・清浄の心なし、・・真実の心なし。 ・・・如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。 すなはちこれ利他の真心を彰わす。
信楽
信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無礙の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。 ・・・如来、苦悩の群生海を悲憐して、無礙広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。 これを利他真実の信心と名づく。欲生についても、同様である。
欲生
欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。 ・・・しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。 ・・・利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。
つまり、至心、信楽、欲生の三心はいずれも、われわれの側の心のことではなく、阿弥陀仏がわれわれに向けて与えてくれるものだ、と親鸞は言うのです。
ここに、親鸞特有の廻向の思想があります。
煩悩にまみれたわれわれは何をやろうと功徳を積むことはできず、廻向は不可能である。廻向とは如来がわれわれに向けてその無限の徳を振り向けてくださることを言うのです。 そして、親鸞にとって、三心は結局、真実の信心という一心に帰するのであるが、われわれが真実の信を持つことができるのも、如来から与えられるが故に名のである。
常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。 なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。 たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。 ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。
しかし、ここまで見てきてもやはり、われわれが真実の信心に目覚めるということが極めてまれであるということに変わりないではないか、という疑問が残るでしょう。われわれは如来から無限の慈悲によって与えられている真の信心をどのように受け止めればよいと、親鸞は説くのでしょうか。
ここで重要なのはやはり名号ではないかと思われます。先に見たように、「真実の信心はかならず名号を具す」のです。 おそらく、自分の計らいによって言う念仏ではなく、何らかの仕方で真の念仏の声に出会うとき、自ら純粋な信心を起こすことなど到底できないと深く悲しみをいだいて、それでもわれわれを救ってくれようとする如来の慈悲に気づき、信心に目覚めると、考えてよいのかもしれません。
一遍の「信不信をえらばず」 
親鸞の言葉として最も有名なのは、おそらく「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」でしょうが、一遍の場合それは「信不信をえらばず、浄不浄をきらわず」(「聖絵」)でしょう。この言葉では、一遍は、親鸞と全く逆のことを言っているように見えます。「播州法語集」にも 「熊野権現 信不信をいはず、有罪無罪を論ぜず、南無阿弥陀仏が往生するぞ と示現し給ひし時、自力我執を打払ふて法師は領解したりと云々。常の仰なり」とあります。
しかし、「南無阿弥陀仏が往生するぞ」とは、どういうことでしょうか。
又云、決定往生の信たたずとて、人毎になげくは、いはれなき事なり。凡夫の心には決定なし。決定は名号なり。しかれば、決定往生の信たたず共、口に任せて称名せば往生すべきなり。所以に、往生は心品によらず。名号によりて往生するなり。
またさらに、一遍は次のようにさえも言います。
全く往生は義によらず、名号によるなり。たとひ法師が勧むる名号を信じたるは往生せじと心には思ふとも、念仏申さば往生すべし。 いかなるえせ義を口にいふとも、心に思ふとも、名号は義によらず、心によらざる法なれば、称すれば決定往生すると信じたるなり。
これは、いわば究極の念仏思想とでも言うべきでしょう。
これまで議論されてきた三心も、一遍においては南無阿弥陀仏に帰すとされ、名号にそのまま含まれるとされる。 しかも、「声と念は一体なり」とされ、声に出して唱える念仏こそが大切なのです。
ここで、親鸞における信、一遍における名号という二人の強調点の違いがはっきりしましたが、しかしながら、この点において二人は対立しつつも、なぜか不思議な一致を見せていると言いたくなります。要は、われわれの側の心の問題ではなく、如来の大いなる救いの力であるということでしょう。  
十一不二
念仏を唱えるその時その時が臨終であり、念仏はただ今の一念である。一念は機の上からいえば初一念であって、本質的には臨終もなければ平生もない。臨終と平生は同一であるといっいる。只今の一念のみで往生できるが、一念でとどまることなく念仏を相続せよ。相続が多念であり時分である。多念は一念のつみかさねである。十劫の昔、法蔵菩薩が阿弥陀仏になったのは、只今の一瞬に衆生が念仏を唱えて往生するからである。したがって十劫の昔と只今の一念とは不二である、というのが十一不二の意味である。
 
一遍と親鸞2 

 

はじめに
親鸞と一遍は日本の浄土教において、現世からの救済を説いた双璧といえる。
親鸞は「真実信心うるひとは すなはち定聚のか ずにいる 不退のくらいにいりぬれば かならず滅度にいたらしむ」(浄土讃)等と述べ、信心決定による現生正定聚を主張し、一遍は「十劫に正覚す衆生界、一念に往生す彌陀の国、十と一とは不二にして無生を証し」(十一不二頌、一遍聖絵第1)等と述べて念仏の一念による現世往生を主張して、共に現世からの救済を強調しているのである。このように現世からの救済を強調する両者であるが、その主張内容には、諸処にかなりの相違があるのである。
以下、信心と念仏、往生、臨終来迎、師弟観・家族観についての両者の相違点を窺うことにより、親鸞における現世の救済の内容を明らかにし、その意義を考察 する。
信心と念仏
親鸞は信心正因を主張し、信心決定のとき往生が決定するとした。念仏は、それによって往生が決定するのではなく、信心決定(往生決定)後の報恩行とした。そして念仏を要門(万行随1)真門(万行出過)弘願(他力)の三つに分け、要門念仏・真門念仏を自力念仏(方便)、弘願念仏を他力回向の他力念仏(真実)としたのである。親鸞においては、信心と念仏は完全に区別がなされている[注1]。
一遍においては36歳の時、それによって他力念仏の本意を悟った(熊野成道)といわれる熊野証誠殿での熊野権現の夢告に「融通念仏すすむる聖、いかに念仏をばあしくすすめらるるぞ、御房のすすめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定するところ也。信不信をえらばず、淨不淨をきらはず、その札をくはるべし」(一遍聖絵第3)とある。一遍は他者に念仏をすすめ往生決定の証拠として念仏札を配る賦算をしたのであるが、阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は決定しているのであるから、往生は信不信は関係ないと述べている。
また「何ともかともあてがひはからずして、本願に任かせて念仏したまふべし。念仏は安心して申も、安心せずして申も、他力超世の本願にたがふことなし。」(一遍上人語録)
決定といふは名号なり。わが身わが心は不定なり。このゆへに身は無常遷流の形なれば、念々生滅す。心は妄念なれば虚妄なり。たのむべからず」「名号は、信ずるも信ぜざるも、唱ふれば他力不思議の力にて往生す」「決定往生の信たたずとて、人毎になげくは、いはれなき事なり。凡夫の心には決定なし、決定は名号なり。しかれば決定の信たたず共、口に任せて称名せば往生すべきなり」(播州法語集)
等とあるように、凡夫の心には決定往生の信はおこりえないとして、信心決定を不必要と考えているのであり、信心を重視した親鸞とは明らかな相異がみられる。また「極楽にまいらむとおもふこころにて 南無阿弥陀仏というそ三心(一遍聖絵第9)三心というは名号なり。このゆへに「至心信楽、欲生我国」を称我名号と釈せり。故に称名するほかに、三心はなきものなり」(播州法語集)等と述べているところから、念仏と信心とを別の者として区別していないように考えられる。
このことは二祖他阿真教が「信心決定とまうすは本願名号に落居する一念なり。されば此信心の人ひとへに本願をあふぎ、機の徳をもたざるのあひだ。称名の一行より外に心のをもむきなければ、信心の人と称名の人ともいかでかわけ候べき。もし称名と信心をわけば。安心起行二途になりて、千中無一の行者たるべし」(他阿上人法語巻6)と述べて、信心と称名(念仏)を同一のものと述べていることからも明らか だ。
親鸞は信心を強調し、信心決定する時往生決定し、現世で正定聚に住することを述べたのである。そして親鸞は念仏についても自力(方便)他力(真実)とを峻別して、真実信心具足の念仏を他力念仏としたのである。一遍においては信心決定はとくに必要ではないのであり、称名することが信心であり、称名の他に信心があるのではないとしているようである。この立場であれば、念仏の中にさらに自力・他力の分別はないであろう。このことは一遍聖絵第4で一遍から念仏をうけた武士が一遍をこの僧は日本一の狂惑惑ものといいながら、念仏には狂惑なしといっていることも、念仏はすべて真実であるとみているものと思われる。
往生
親鸞の往生についての見解は真実報土往生の難思議往生、方便化土往生の双樹林下往生と難思往生とがある。本願成就文の「即得往生」を現世往生とする意見があるが、これはあくまでも現生正定聚の意と釈すべきであり、現世往生を述べるものではない 。これに対して一遍は上述の十一不二頌にあるように念仏の一念の往生を主張する。
これについて「往生は初一念なり、最初一念といふも、なお機に付いていふなり。南無阿弥陀仏は本より往生なり。往生というは無生なり。此法にあへる所をしばらく一念とはいふなり。三世裁断の名号に帰入しぬれば、無始無終の往生なり。臨終平生と分別するも、妄分の機に付いていふなり。南無阿弥陀仏には、臨終なし、平生なし」(播州法話集)
とあるように最初の念仏の一念で往生するのであり、往生は無生であり、臨終平生の分別はないと述べている。また「他力称名の行者は、此身はしばらく穢土に有といへども、心はすでに往生を遂げて浄土にあり、此旨面々にふかく信ぜらるべしと云々」(一遍上人語録)
と親鸞の「超世の悲願ききしより われらは生死の凡夫かは 有漏の穢身はかはらねど こころは浄土にあそぶなり」(帖外和讃)と内容は相違しているが似たような言葉がある[注4]。これも平生往生の主張とみるべきであろう。そして「六字の中、本生死なし、一声の間、即ち無生を証る」(一遍上人語録)とも述べている。ここでは現世往生のみならず、現世成仏の主張がみられる。
親鸞は現生正定聚を主張して、現世からの救済を強調したのではあるが「凡夫といふは、无明煩悩われらがみにみちみちて、よくもおほく、いかりはらだち、そねみねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらずきえずたえず」 (一念多念文意)等とあるように、現世においてはあくまでも、煩悩具足であることを述べたのである。往生を現世としないにであるから、当然のことながら「凡地にしてはさとられず安養にいたりて証すべし」(浄土和讃)とあるように、現世成仏を否定したのが親鸞であった。
臨終来迎
来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆへに、臨終といふことは諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆへなり。(中略)真実信心の行人は摂取不捨のゆへに正定聚のくらいに住す。このゆへに臨終まつことなし、来迎たのむことなし、信心のさだまるとき往生またさだまるなり」 (末灯鈔)とあるように、48願中の第19願に誓われ浄土教の祖師においても大変重視された臨終来迎を否定したのである。これは親鸞独自の釈顕である願海真仮の釈に関連するものではあるが、「臨終まつことなし、来迎たのむことなし、信心のさだまるとき往生またさだまるなり」とあるように、往生の定まるのは臨終の時ではなく、平生の信心決定の時であることを強調している。これは親鸞自身の救済体験による確固たる確信であることに他ならない。
臨終来迎について一遍は「厭離穢土欣求浄土の志深くして。息たえ命をはらむをよろこび。聖衆の来迎を期して彌陀の名号をとなへ。臨終命断のきざみ。無生法忍にはかなふべきなり」(一遍聖絵第7)「南無阿弥陀仏ととなへて、わが心のなくなるを、臨終正念といふ。此時、仏の来迎に預て極楽に往生するを、念仏往生といふなり」(一遍上人語録)等と述べているように、前述のように平生において往生成仏を主張しているようにあり、現世において確固たる往生成仏の体得を述べているようにもあるが、他面、臨終来迎に預かることを語り、それによって無生法忍にかなうことを述べているのである。
この点の相違は救済の現実的意義を考察する上で大変重要なことであると思われる。
親鸞は、信心決定のところで正定聚不退の位に入り、往生と同時に成仏(滅度)することを主張するのである。そして臨終来迎を否定する。この臨終来迎を否定するということは、信心獲得の平生においてすでに救済をえたという大きな確信から生まれたものと考えられる。この点一遍は現世の救済を強調しながら臨終来迎に預かることを語ることはどう考えるべきであろうか。
さらに「唯仏智よりはからひてあてられたる南無阿弥陀仏ばかり所詮たるべしとおもひさだめて、名号を唱へ、息たえ命終る。これを臨終正念往生極楽といふなり」「只今の称名のほかに臨終あるべからず。唯なむあみだ仏ととなえて、命終するを期とすべし」(一遍上人語録)等とあるように命終の時まで念仏を称え続けるべきことが述べられている。
最後の時まで称え続けなければならないとすると、最後まで不安が残るような様気がするのである。これに関して弟子であり第二祖である真教(他阿)の語録には「ほとけの本願のちから名号不思議の行体をもて善悪の凡夫必往生ををとぐべしといふ理り。まうし談ぜしとこそおぼえさふらふ。往生は臨終の一念に名号をとなへて。永く娑婆の旧業をつくし。
不退の浄土に生ずべし」「この三性は仏法をさへたる業なれども。臨終称名のこえにそのつみ滅して往生をとぐるのあひだ。是を超世の本願名号の不思議とはなづけたるなり。これらの疑心ははれさせ給ひてさふらふとも。念仏なくしては往生不可なるべし」(他阿上人法語集)とある。
これは真教(他阿)の語録であるので一遍自身のものではないが、弟子であるから一遍の思想と考えて差し支えないであろう。これによるとやはり臨終の一念の念仏で往生するのであり、それがなければ往生はできないと述べられているのである。これならば最後(臨終の一念)まで安心はできないことになるのではなかろうか。
親鸞は現生正定聚を主張して臨終来迎を否定した。一遍は現世の往生成仏は述べながら、臨終来迎に預かるべきことを述べ、臨終一念の念仏を説いた。最後に来迎に預かるのであれば、どうしても最後まで不安が残るのではなかろうか。
師弟観
親鸞は「親鸞は弟子一人ももたずさふらう。そのゆへは、わがはからひにて、ひとに念仏をまふさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、彌陀の御もよほしにあづかて念仏まふしさふらうひとを、わが弟子とまふすこと、極めたる荒涼のことなり」(歎異抄)と述べている。実際には約80人程の弟子がいたと考えられるのであるが、自分には一人の弟子もいない。皆仏の弟子であると述べているのである。
一遍は「南無阿弥陀仏一遍弟子当信用十二道具心」(一遍聖絵第10)「わが門弟子におきては、葬礼の儀式はととのふべからず。野に捨て獣にほどこすべし」[注5](一遍上人語録)とあるように、弟子という語を使い「弟子一人ももたず」と師弟の立場を否定した親鸞とは異なるものである。
家族観
親鸞は「行者宿報設女犯、我成玉女身被犯、一生之間能荘厳、臨終引導生極楽」とある「六角夢想」、また法然の「現世のすぐべき様は念仏の申されんようにすぐべし。念仏のさまたげになりぬべくば、なになりともよろずをいといすてゝ、これをとどむべし。いはく、ひじりで申されずばめをもうけて申すべし。妻をもうけて申されずば、ひじりにて申すべし。(中略)衣食住の三は念仏の助業なり」(和語灯録)等とある言葉により、公然と肉食妻帯の生活をし、家族と一緒の生活をしたのである。
一遍は10才の時、母の死により出家し、25才の時父の死により帰郷して家督を継ぎ妻帯して子も儲けた。そして36才で再出家したのである。そして家族を棄てた生活をした。家族について一遍は「念仏の機に三品あり。上根は、妻子を帯し家にありながら、著せずして往生す。中根は、妻子をすつといへども、住所と衣食とを帯し、著せずして往生す。下根は、万事を捨離して往生す。我等は下根の者なれば、一切をすてずば、さだめて臨終に諸事に著して、往生を損すべきものなり」(播州法話集)と述べて、我等下根の者は妻子は勿論のこと住所衣食の一切を捨てなければ、臨終に執着し往生は出来ないと述べているのである。
この点は明らかに親鸞と立場をことにしているのである。また「衣食住の三は三悪道なり。衣装を求めかざるは畜生道の業なり。食物を貪求するは餓鬼道の業なり。住所をかまへるは地獄道の業なり。しかれば、三悪道をはなれんと欲せば、衣食住の三つをはなるべきなり」(播州法話集)とも述べているのである。上述の「和語灯録」五の言葉のように、肉食妻帯をせず一生ひじりで過ごした法然も「衣食住の三は念仏の助業なり」と述べているのであり、「三悪道をはなれんと欲せば、衣食住の三つをはなるべきなり」という一遍はまさに捨て聖といわれる面目躍如というべきであろう。だがそれほど執着を離れないことには往生はできないと考えていたのであろう。肉食妻帯をし家族と生活をしているままでは往生はできないという考えであったのであろう。
むすび
親鸞浄土教の救済の現実的意義を明ににするために、親鸞と同様に現世からの救済を強調する一遍の教学を比較検討した。
親鸞は現世での往生および成仏は否定し、あくまで現生正定聚を主張した。これに対し一遍は「十一不二頌」に示されるように、現世における往生成仏を主張しているのである。この点に限れば一遍の方がより強く現世からの救済を主張しているかにみえる。
しかし親鸞が「臨終まつことなし、来迎たのむことなし、信心のさだまるとき往生またさだまるなり」(末灯鈔)と信心さだまるとき往生さだまると断言し臨終来迎は最早往生には一切関係無しと断じたのである。一遍は平生往生平生成仏を語る面はあるのであるが臨終来迎にかかわる面を残し、往生のための念仏を臨終時まですすめているのである。これでは最後まで往生についての不安が残ることになるのではなかろうか。
親鸞においては信心と念仏が区別され念仏の中にも自力(真門)他力(弘願)の分別がなされ、信心決定が重視されそのとき往生が決定するとしているのであるが、一遍においては念仏即信心であり、臨終の時まで往生のための念仏をすすめるものと窺える。親鸞が「彌陀仏の本願を憶念すれば 自然に即の時に必定にいる 唯能く常に如来の号を称して大悲弘誓の恩を報ずべしといへり」(正信偈)と述べる信心決定(往生決定)後の報恩念仏(称名報恩)の主張は往生決定(往生一定)確固たる確信の上において生まれたものなのである。一遍は上述のように
念仏は安心して申も、安心せずして申も、他力超世の本願にたがふことなし」(一遍上人語録)
名号は、信ずるも信ぜざるも、唱ふれば他力不思議の力にて往生す」「決定往生の信たたずとて、人毎になげくは、いはれなき事なり。凡夫の心には決定なし、決定は名号なり。しかれば決定の信たたず共、口に任せて称名せば往生すべきなり」(播州法話集)
等と述べているように、安心決定、信心決定の自覚は否定されており、それに関係なく念仏(往生ののための念仏)すべきことが説かれているのである。因みに一遍においては称名報恩の主張はみられない。一遍の主張に「踊り念仏」があるがこれも確固たる救われたよろこびの念仏ではなく、往生のための念仏と考えるべきであろう。
師弟観、家族観においても両者相違は明確である。これは非僧非俗の立場をとった親鸞と捨て聖に徹した一遍との違いであろう。みずからが極めて重視した信心が如来よりたまっわったものあ他者のの信心も同様に如来よりたまわるものであるという徹底した他力の立場から「弟子一人ももたず」と述べ、またその信心による往生決定の絶対安堵の境地は、一遍の捨てた「俗塵ににまじはりて恩愛をかへり見」(一遍聖絵第1)る、家族と一緒の煩悩に煩わされる中の現実生活においても些かも崩れることのないものであったのである。

[注1]真宗教学において信(信心)行(念仏)不二という場合があるが、これは信のうえでいう言葉である。信心も念仏も共にその体は名号であるという意味でいう。
[注4]一遍は「此身はしばらく穢土に有といへども、心はすでに往生を遂げて浄土にあり」と述べ、親鸞は「有漏の穢身はかはらねどこころは浄土にあそぶなり」とある。一遍は心はすでに往生を遂げて浄土にあり、と述べているのに対し、親鸞は有漏の穢身は変わらないと述べて、あくまで煩悩具足のままであることを強調し、身は穢土にあることを述べている。
尚、「帖外和讃」は「三帖和讃」に収まってないところから、真偽不明とされるのであるが、この和讃のある「九首和讃」は真作であろうと考えられている。(仏教大辞彙)
[注5]この臨終の言葉は親鸞の「某閉眼せば賀茂河にいれてうほにあたふべし」(改邪鈔)とあるものに類似している。また一遍は教信沙彌を慕っていた(一遍聖絵第9)。これも親鸞と共通している。  
 
一遍と親鸞3

 

日本浄土思想と言葉 / 一遍は和歌を作り親鸞は作らなかった
今日は、日本浄土思想と和歌という文学形態との関係について、考えてみたいと思います。このテーマには、二つの基本的な問題が絡んでいます。一つは、仏教と文学あるいは和歌との関係であって、もう一つは、より広い意味での、仏教と言語との関係であります。
しかし、今日は、こうした重要な問題を詳しく考察することはできません。また、特に日本文学に関して私は門外漢でありますので、限られた範囲になりますが、従来とは少し異なったアプローチで、日本浄土教における宗教自覚と和歌という表現形態との関係についての考察を進めてみたいと思います。
仏教と平安・鎌倉時代の和歌の関係についての研究は、幾つかのアプローチで行われています。歌人たちの立場に立ちますと、仏教は様々な形で和歌に取り入れられました。功徳を積むための修行として、仏教の概念や教えを表す和歌が詠まれるようになり、勅撰和歌集に「釈教歌」という分類ができましたし、また、自らの芸術を発展させ、深めるために、仏教思想を借用する歌人もいました。藤原俊成と彼の「古来風躰抄」にみられる天台思想は典型的な例でありましょう。
そしてまた、仏教行者あるいは遁世者としての生活をしながら、文芸にいそしんだ人々もいました。このような人々としては西行や鴨長明、兼好法師等がすぐに思い出されます。こうした、言わば隠者、修行者である文芸家にとって、一つの課題となるのは「狂言綺語」説という文学に対する仏教的批判でありましょう。しかし、こうした問題の在り方は、主に文学中心であり、研究の対象となるのは、文学的に優れた価値を見いだせる作品とその作者に限られます。
今日は、こうした研究と違って、仏教思想と和歌という文学形態との関係、つまり和歌の宗教表現としての適用性あるいは可能性に焦点を当ててみたいと考えております。その為に、次の二つの作業をしてみたいと思います。その一つ目は、仏教思想家の和歌を考察すること、そして二つ目は彼らの和歌制作の背景を比較することです。
前者のものとしては、もちろん単に五七五七七の形をとった表現を和歌と認めてはなりません。和歌の伝統的手法、つまり「枕詞」「縁語」「掛詞」「本歌どり」などを、どのように宗教的表現として取り入れているのかが問題なのだからです。したがって、仏教者であって、またある意味で歌人であった人物の歌を読むということになります。
一遍と和歌
こうした考察の為に、一遍は適切な対象になるかと思われます。勿論、仏教者の間にも、もっとれっきとした歌人はいます。西行や慈円もいましたし、後の時代には良寛がいました。また連歌の世界では、心敬や宗祇といった人々が思い出されます。しかしこうした仏教者は、一遍の場合とは異なって、日本仏教思想に独自な発展をもって貢献したとは言い難いのではないでしょうか。というのは今日でも、西行はなぜ出家したのか、それは自由に和歌を作るためではなかったのか、というような議論は続いていますし、また良寛の覚りはどういうものであったのか、意見は分かれています。
一方これに対して一遍は、鎌倉新仏教を創造した人々のうちの一人として認められていて、仏道に対するその献身的姿勢には疑う余地はありません。一遍は死ぬ間際に、阿弥陀経を唱えながら自分がそれまでに書いたものすべてを焼いてしまいました。最終的には阿弥陀仏の名号しかない、という意味だったのです。こうした行動は、西行にも長明にも到底考えられないことです。
しかし同時に、一遍は西行を自分の先達、自分の師匠の一人としてみていたのではないかと思われます。「西行法師」といい、西行が訪れた歌枕の地を自らも訪ね、その地で同様に歌を詠んでいます。つまり、一遍は西行を慕い、彼のように和歌を自分の日常生活の一部分にしていたのではないかと思われるのです。
江戸時代に編集された「一遍上人語録」には、約70首の和歌が記録されています。ある研究者は、一遍は、その生涯においてその10倍の数、つまり約700首の和歌を詠んだに違いない、と言っています。残っている和歌を見ると、かなり多くの和歌を詠んでいたとしても、ちっとも不思議ではありません。というのも、何気なく詠まれた歌が多く、また手紙に書き添えたり、あるいはお寺や神社にお参りした際に奉納したなど、随時に読まれた歌が多いからです。一遍の16年間の遊行生活においては、残っている歌と同じ様な和歌を詠む機会は沢山あったはずです。
したがって、一遍は、仏教思想家であって、そして、文学的評価はともかくとして、ある意味では、歌人であったとも言えましょう。故に、思想と和歌という形態の関係を探る為には、まことに適切な対象になるのであります。そして今日の二番目の作業は、先にも述べました通り、比較することです。和歌を詠んだ仏教者と詠まなかった仏教者との比較を通して、詠歌(即ち和歌を詠む)という行為を支えた思想的要素、そしてあるいは和歌という文学形態を不適切にした思想的要素が明らかになる可能性があるのではないかと思うのです。
それが、私の疑問、「なぜ一遍が和歌を作って、親鸞が作らなかったか」という今日のテーマであります。
一遍と親鸞
一遍は1239年に生まれています。親鸞が亡くなった1263年には、彼はおよそ24才で、そして、それは九州で11年間の勉学と修行を終えた年であります。しかし、同時代の人物とは言いましても、年齢は離れていて、直接的な接触は何もなかったようです。また、一遍が親鸞のことを知っていたという証拠は何もありません。
しかし、一遍が学んだ仏教は法然の弟子の證空が発展させた西山派の浄土教です。證空は法然門下の重要な弟子でありまして、親鸞が吉水の一門に入ってから流罪になるまでの6年間を、一緒に過ごしたのではないかと考えられています。また證空と親鸞はともに、法然門下では、一念義系統と言われています。つまり、念仏の行を強調する多念義系統に対して、本願を信ずることをより強調したグループに属していたと言われています。そうしますと、思想的なルーツに関して言えば、親鸞と證空の孫弟子であった一遍とは、わりと近いことになります。今日のテーマである比較のためには、このことは好都合であります。
もう一つ、今日のテーマに関係して、思想的に非常に近い点があります。それは、普通の言語行為、すなわち我々の日常の言葉に対する批判的な態度です。親鸞の有名な言葉に「よろづのこと、みなもてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」というのがあります。又一遍も、次の様に言っています。「念仏の外の余言をば、皆たはごととおもふべし」。ここには、言語に対して二つの考え方がみられます。これらの考え方は、浄土教一般についていえるのでありますが、親鸞と一遍におきましては、非常に明確に表現されています。
その考え方の一つは、言語に対して否定的なもの、これは人間の概念・思考は、歴史的・社会的に条件づけられたものであって、必然的にある状況の中から、またある特定の立場からの観点を表しているという認識であります。つまり、言葉・概念は事実そのものを表象しているのではなく、人間のものの見方は自己中心的であり、自己の立場からのものの把握は歪められているとします。こうした大乗仏教一般にみられる考え方には、徹底した言語批判が内包されています。
もう一つは、言語に対して肯定的な考え方、つまり人間存在の言語性を認めるものであります。したがって、人間が実在(即ち真実あるいは真理)に触れる道は、こうした言語性からは離れ得ないとするのであります。この点において、浄土思想は、他の仏教諸伝統とは異なっています。他の多くの仏道では、行者は妄想(我執やものの実体化により歪められた思考や言語の世界)を種々の修行や持戒によって打ち破り、解脱を得るとされています。
それ故に、それらの仏教では禅定の実践や智慧の実現が中心的な課題となるのですが、それに対し日本浄土仏教はまさに言葉によって、また言葉を媒体として覚りに至る、あるいは実在と出会う道であります。無論、通常の思考・言語行為を真実として肯定するのではありませんが、日常生活は宗教的転換の場として肯定されています。
こうした意味での言語の肯定によって浄土教は日本での土着化を遂げたのであり、そして宗教自覚と和歌の表現もここに関係してくるのであります。
ここで、言葉あるいは言語行為に関する疑問が起こってきます。
一見相反するこうした二つの姿勢を有する日本浄土教は、特定の概念をもつ世界観を築きながら、一方で、同時にこうした概念の限界を認め、執着を否定しています。こうした言葉に対して批判しながら同時に肯定するという思想構造は、どのように融合されていて、文章(あるいは、今日のテーマである詩歌)となっていったのでしょうか。
一遍と親鸞にはともに、詩歌の形のものとして、漢文の偈頌と和讃があります。勿論ほかにも、二人ともに消息法語と語録、そして別の種類の書物もあります。親鸞には500首以上の和讃がありますが、その一方で和歌は、確かなものとしては一つもありません。親鸞は和歌を一つも残してはいないのです。
一遍の和歌
では次に、一遍の場合を考えてみましょう。まず、一遍の和歌の種類と性格を掴む為に4-5首の例を見たいと思います。
先ず、神社詣での際に授けられた御告には、和歌の形をとったものがあるということに注目すべきであると思います。夢に受けた啓示は、一遍の宗教生活と思想に重要な役割を果たしました。一遍と時宗の代々の指導者たちの和歌・連歌の文芸活動を研究した金井清光氏は、一遍の詠歌に関して、「法語よりも和歌のほうが適切であり効果的であった」といい、「神仏のことばは昔から韻文形式によって人々に示されて来た」としています。つまり一遍の場合、「神仏の真言」としての和歌の性格を強調しているのであります。
「一遍聖絵」などに、確かに和歌の形態をとった神(権現)からの御告が幾つか記録されています。例えば、
大隅正八幡宮にまうで給(ひ)けるに御神のしめし給(ひ)ける歌とことは(葉)に南無阿弥陀仏ととなふればなもあみだぶにむまれこそすれ
「なもあみだ仏に生まれ」るという一遍の思想表現がでていて、「一遍上人語録」の「南無阿弥陀仏の外に能帰もなく、又所帰もなき」に似ています。しかし、この様な御告の和歌は、数少なく、また和歌としての文学性を欠いていまして、一遍の和歌の中でも典型的なものとはいえないと思われます。また、数は少ないものの、釈教歌の性格を帯びた歌もあります。例えば、
法の道かちよりゆくはくるしきにちかひの舟にのれやもろ人
この歌も、内容・表現ともに一見平凡にみえます。「難行道」(聖道門)と「易行道」(浄土門)は、龍樹の「易行品」において、陸道を歩行することと水路に乗船することに例えられていて、浄土教の伝統に頻繁に使われてきた譬喩であります。
しかし、この歌は単に教義を表す釈教歌ではなく、背景にある一遍の遊行の生活と時衆の指導者としての活動が浮び上がってくるのであります。彼は四国・九州・本州の間をたびたび渡っていましたが、こうした時、水軍を率いる豪族である河野家出身であった一遍は、自らの親族の助けを受けて舟を利用したと推測されています。実際「聖絵」に時衆が何艘かの舟に乗っている場面が幾つか描かれています。
そして右の歌は、こうした舟に乗る時に作られたのではないかと推測されるのです。このように理解すれば、一遍の和歌の性格をよく表していることになります。というのは、和歌の形態は神仏の言葉に相応しいといっても、一遍の場合、御告・釈教の歌は極めて少なく、教義内容を頭に残る形にしたというよりも、和歌に別の機能や可能性を求めたのではないでしょうか。
それは相手を、通常の世界観やものの見方から、超越した境地に導くことでありまして、右の歌の場合、世間を遊行している時衆を仏法あるいは仏道の世界に転入させようとしているのであります。
一遍の和歌の典型を明確に述べようとするならば、次の三つの重要な要素から構成されていると考えられます。(一)訓戒の態度にみられる歌の機能、(二)名号という根源(三)捨て聖というペルソナ。特に(三)に含まれるスタイル、テーマ(こころ、捨てること)や、イメージ(はな、月)などについては、西行の歌の著しい影響を考えなければなりませんが、それは別の機会に譲り、ここでは(一)と(二)について考えてみようと思います。
一遍の和歌の機能
先に述べましたように、一遍の歌の多くは、質問に対する返答、あるいは何かの出来事に対する反応であり、随時に詠まれたものであります。例えば、
予州御化益の頃、三輩九品の念仏の道場に、管弦などして人々の遊びたはぶれ侍べるを、見たまひてつの国やなにはも法のことの葉はあしかりけりとおもひしるべし
一遍の歌が果たしている役割を考察するために、まずこの和歌のテーマと、それを表現している和歌という形態との密接な関係に注目してみたいと思います。
詞書によれば、一遍は、遊行中のとある時、人々が念仏道場において楽器で歌を楽しんでいるのをみて、戒めとしてこの和歌を詠んだ、とあります。「三輩九品の念仏」は、融通念仏のことを指していると推測されていますが、融通念仏の聖たちは、仏法を広めるために今様をよく作ったといわれています。一遍は、念仏行者が道場で仏教の教えを表す今様を歌っているのをみて詠んだのでありましょう。
しかし、一遍の戒めは、単に道場の中における「遊びたはぶれ」に対する批判ではありません。人々が仏教のメッセージを伝える今様を楽しむことの背景にある、文芸も修行であり、功徳を積む手段であるという考え方を批判したのであります。一方「一遍上人語録諺釋」には、この和歌は「後拾遺集」の遊女宮木の左記の歌に基づいているという注釈があります。
津の国のなにはのことか法ならぬ遊び戯ぶれまでとこそきけ
この和歌のテーマは、「法華経」の教えに基づいています。この経典に、もし子供が砂遊びで卒塔婆を作れば、それは遊びでも功徳を得る結果をもたらすと説かれています。つまり、歌を詠むのも仏道にかなうという主張であります。さらに、「なには」という地名は、「何事も」という意味をもつ掛詞として用いられています。ここには、世間のものすべては、虚空の相であり、また法身仏の現れであるという密教的考え方が窺われます。こうした世間にある物事を肯定的に捉える考え方をもって、先に述べた文芸を批判的にみる仏教の文学観は翻されるでありましょう。
一遍は、今様を楽しむことが仏道の修行になるという見方を否定し、通常の言語行為を批判する浄土教的観点に立っています。しかし特に注目したいのは、一遍の批判自体が和歌の形をとっていることであります。歌をもって歌を楽しむことを戒めるということになります。一遍は本歌どりという手法をもってこの逆説的状況を強調しています。そして、「なには」という掛詞だけではなくて、「あしかり」(芦、悪)という縁語を用いて批判を表します。つまり、和歌の手法を巧みに使用し、文芸が仏道になるという考えを否定しているのです。
こうした矛盾しているようにみえる状況は、一遍の言語観に根差しています。一遍は、通常の言語をもって人々を、普段の虚偽的概念や言葉への執着からその克服へと導こうとして、そしてまた和歌という文学形態をこうした機能をもつ言語表現の仕方として好んだのであります。
前述の、「神仏の真言」はよく和歌の形をとるという考え方は、一遍の場合にも示唆的ではありますが、その意味はより広い観点から理解されるべきでありましょう。一遍にとって、熊野神社での啓示は彼の人生に転換をもたらし、また和歌の形をとらなかったものの、一遍の和歌にみられる機能を果たしたのであります。一遍は、念仏札を阿弥陀の本願を信じない人にも渡していいのかという、自分の伝道活動に関して深い疑問を抱いて詣でたのであります。そして権現の戒めは次のようにいうのであります。
融通念仏すすむる聖、いかに念仏をばあしくすすめらるるぞ。…信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし。
これによって、一遍は善悪という分別に対する執着から離れることができたのです。一遍の和歌の機能も、こうした戒めと同様であります。例を一つみてみましょう。
山門横川の真縁上人よりの文に、「すみすまぬこころの水の色々にうつりうつらぬ雲のみゆらん」。…
すみすまぬこころは水の泡なれば消たる色やむらさきの雲
このように手紙に付された歌交換の例は幾つかありますが、一遍はよく相手の和歌に基づいた歌を詠み返事をしています。相手の言葉を用いながら、転換した理解の仕方を表しているのであります。これは、比叡山の真縁が、心の水を澄んだ状態にしなければ、臨終来迎の雲が見えてこないという和歌を一遍に送ったときの、その返事の歌であります。ここでは、通常に考えられる実体化された心が問題にされ、自分の努力でそれを集中したままにしなければならないのではないかということです。
しかし一遍は、心の状態はどうであれ、それは妄想であると返事しているのです。こうした心が妄想であり、自己に対する執着が消えるときこそが臨終であるというのです。つまり、彼は通常の考え方の枠組みを崩壊へと導こうとしているのであります。
名号を和歌の根源とする
一遍の和歌は、通常の虚偽的言葉ではなくて、人々を普段の世界観や考え方から転換された宗教自覚へ導くという機能を有しています。こうした言葉はなぜ可能であるのでしょうか。普通の言語行為とどのように異なっているのでしょうか。一遍の考えでは、彼の和歌は名号と同じ性格をもっているからであり、また名号から出て来る言葉であるからといえるでしょう。名号と同様の性格を例をみて考察してみます。
まず一遍は、和歌あるいは宗教的働きを果たす言葉の根源という問題を意識して、それを「こころ」というテーマで直接扱ったことに注目すべきであります。例えば、次の和歌があります。
身をすつるすつる心をすてつればおもひなき世にすみ染の袖
一遍にとって、修行に対する執着(すつるこころ)を捨てることが肝要であります。行者は世間だけではなくて、何よりも自分の善や徳に対する我執を克服しなければなりません。一遍自身の場合、こうした決定的な宗教体験は、熊野神社での啓示によって起こったのでありましょう。先にみたように、一遍は念仏者の理想的生き方を「すててこそ」という言葉で表現しています。右の和歌では、これは身も心も捨てて、「おもひなき世」に転入するといっています。また、「すみ染」の衣は掛詞であり、世に「棲む」と「おもひなき」心の「澄んでいる」ことでもあります。
この和歌は全体的に勢いがあり、ある種の論理で統一されています。また最後が具体的なイメージで結ばれているのは一遍の和歌では少なくて珍しいのですが、通常の観念と判断を超越するというテーマは、和歌の動きに反映されています。こうした点において、「すてる」ところに出現する名号に類似しています。一遍は、釈迦仏の一生の教えはすべて「南無阿弥陀仏になりはてぬ」であるというのですが、和歌にも凝縮する力があり、普段の分別(すみすまぬ)や思惟(すつるこころ)を超えた世界観を表す力があるともいっているのであります。
和歌のこうした凝縮力と統一された形を作る簡潔性は、一遍にとって大事であったと思われます。つまり「すててこそ」という生活「おもひなき世」の今のこの瞬間に現れる言葉であります。一遍は、この「わが心のなくなる」瞬間を「臨終正念」といい、この死の間際において生きようとしたのであります。念々を臨終として生きたのです。そして、この瞬間に出現する名号は、通常の意識で称えるのではありません。故に、名号が名号を称えると一遍はいうのであります。一遍の和歌もこの瞬間からでたもので、名号の跡であるといえましょう。
主なき弥陀の御名にぞ生まれけるとなはすてたる跡の一声
一遍の名号は「主なき」言葉であり、通常の考慮が捨てられたところからでてくるのであり、一遍の和歌も、人を導く働きを果たすために同じ性格をもたなければなりませんでした。しかし、「主なき」といっても、一遍の和歌は彼自身の経験からでてくる言葉でなければなりません。したがって、一遍はまた次のようにいっているのです。
仏こそ命と身とのあるじなれわが我ならぬこころ振舞
我執を捨てて、「主なき」名号に生きる行者には、阿弥陀仏が行為と言葉の主人であります。この背景には、證空の思想がありますが、それを考察する前に、さらに一遍の名号観に関して二三の点に焦点をあててみたいと思います。
證空の教えは観念的であるといわれ、それに対して一遍の仏道は遊行、賦算、踊念仏にみられますように、より身体的であります。仏法の身体的受け方・現れ方は和歌にもみられ、特に息に対する一遍の考え方が重要であると指摘したいと思います。先に述べましたように、一遍は臨終の一念に生きようとした。「南無阿弥陀仏をとなへて息たえ命をはらん」というのが「念仏往生」であると言った。和歌という言語表現の形態もこうした息と関係していたといえるでしょう。一遍は次のように詠んでいます。
阿弥陀仏はまよひ悟の道たえてただ名にかなふいき仏なり
南無阿弥陀ほとけの御名のいづる息いらば蓮の身とぞなるべき
この二首は、死を間近にしたときの和歌で、一遍の思想をよく表しています。命と息は密接な関係にあり、今の一瞬の息は臨終の息であって、「おもひなき世」に阿弥陀の命でいきることであります。こうした自覚を表現するのに、和歌はまことに適切でありました。さらに、一遍は次のようにも詠んでいます。
いつまでも出入人の息あらば弥陀の御法の風はたえせじ
名号と同じように自然にあらわれた和歌は阿弥陀仏の教えの風となるのであります。
一遍の和歌作りの思想的背景
こうした一遍の歌作りの活動を思想的に支えたものは、彼の思想の背景にある證空の教えであり、また仏法の身体的体得への一遍の志向でありました。
證空は、14才の若さで法然門下に入り、22才の時には勘文という役を勤め、「選択集」の撰集を手伝ったと言われています。しかし、法然と何人かの弟子が流罪になった時、證空自身も流罪になるはずでありましたが、彼は自らの親族関係を通して助けられたのです。そして法然滅後は天台密教を学び、法然教学を展開させるために、天台の考え方と概念を積極的に借用したのであります。
したがって、一遍は他の鎌倉新仏教の開祖と言われている僧侶たちとは異なって、比叡山で天台教学を学んだことはありませんでしたが、證空の教えを通して、天台の考え方や密教の概念を学んだのであります。西行、慈円、明恵など、平安・鎌倉時代の代表的な歌人僧侶たちの殆どが、天台密教や真言を学んだ僧であったということを考えあわせてみますと、こうした天台あるいは密教の世界観が、一遍の詠歌活動を大きく支えたであろうと推察できますが、それが具体的にどのように影響したのかを探らなければなりません。
そのためには、證空の思想で特に重要な(一)領解という宗教自覚と、(二)行者と仏陀との一体性に焦点を当てて、それらがいかに一遍の和歌作りに影響を与えたのかを考察してみたいと思います。前者には、天台の本覚思想の影響、そして後者には、密教で説かれる行者と仏陀の不二の関係の影響がみられるのであります。
解釈としての転換
日本の天台や密教思想には、覚りあるいは仏陀は普遍的な実在であり、衆生も本来、悟っているのであるという、いわゆる「本覚思想」という概念があります。いろいろなニュアンスで理解されてきた概念ではありますが、より拡大された解釈をしますと、現実の、この世とこの身はそのまま覚りの境地であると言い、大事なのはこうしたことを自覚するということになります。このように日常生活を肯定する思想は、文学へも影響を与えたはずであります。
一遍も親鸞も、こうした拡大された理解を直接に否定していますが、證空にはある意味での本覚思想的な発想が見られるのであります。證空の教えによると、阿弥陀仏が本願を成就した十劫の昔に、すべての衆生の往生と覚りが決定されていたのである。したがって今生きている人々の往生と成仏は、もう既に阿弥陀仏の本願と修行によって決まったことになっていて、われわれは覚りを得るための修行は何もする必要がないのであります。むしろ必要なのは、こうしたことを把握するということで、證空の言葉では「領解」といい、それは即ち理解の仕方における転換であります。
したがって、證空の浄土教で中心となるのは、経典の解釈であります。つまり、経典に説かれた教えの受容、即ち信ずるという事よりも、その教えの真意を正しく把握する事が肝要になるのであります。それは、仏陀の意図したものは、必ずしも表面的な、文字通りの意味というわけではないということであります。
ここで重要なのは、テキストによって異なった解釈が可能であるということです。通常の考え方で理解することも可能であり、また「我に道理有りと執すれども、其の執心を翻して、…仏心に順ずれば、」迷いではなくて転換された理解もできる。つまり、無明に根差した解釈と、真理あるいは実在に相応する把握が可能であり、前者を翻して後者に入ることが肝要なのであります。これに関して、證空の考え方には、言葉にはいろいろな働きがあるという認識があり、概念化された真理を知性的に伝えるという機能だけではなく、直接には表現不可能な真理の把握へ導くという役割をも果たすことができるという理解であります。
ここで、證空の思想を考察する手掛かりの一つとして、行の問題を考えてみます。法然が亡くなって間もなく彼の主著である「選択集」が出版されましたが、直ちに強烈な批判が放たれました。その批判の一つは、法然は念仏以外の行を認めていないということにありました。こうした批判に応えようとする弟子の間には、「諸行往生」という概念が説かれるようになりました。これは、阿弥陀仏の本願には念仏往生の願もあるのですが、また一方では、念仏以外の行で阿弥陀の浄土に往生ができるという願もある、という考えであります。
実際、「観経」には、いろいろな行が説かれています。この経典には、16観のうち最初の13観は、順に日想観、水想観、地想観などに始まり、阿弥陀仏の浄土や仏・菩薩の姿を観察する方法が説かれています。しかし、最後の三観は三つずつ、九段階のレベルに分けられており、種々の行および善い行為が説かれていて、称名念仏はその最後のレベルであり、他の善を行う能力のない人のために説かれているのであります。したがって詳細に説かれた様々な観察の行が中心であり、称名念仏は最も程度の低い行であるかのようにみえるのであります。
しかし證空にとっては、「観経」の真意は、こうした文字どりの観察の行ではありません。彼は、この行を説くいきさつに注意を払い、こうしたいきさつの中にその16観を譬喩、あるいは宗教自覚に導く為の「観門」として理解しているのであります。要するに諸行を説く教えは、日常の道理・因果説に合っているのであります。善を行なえば善い結果が得られるので、善を勤めるべきであると考えるのです。悪も同様に因果関係で起こるので、悪は避けるべきであるということになります。
しかし、日常生活の論理は、妄想である自己の把握に根差しています。つまり、我執、即ち自我を拡大する為の計算、はからいの現れなのであります。
したがって「観経」を学び修行に勤しむということ、あるいは他の行の中から称名念仏を選択するということが、證空の解釈においてはポイントではありません。むしろ、修行に対して新たな理解の仕方が必要であり、こうした新しい理解は自己に関しても新しい把握の仕方になるのであります。これが念仏の意義であります。念仏は功徳を積んで、浄土に往生を遂げるための行ではなくて、自分の存在の新しい把握の仕方の現れとするのであります。
證空の説では、釈迦牟尼仏は「観経」において16観の行法を説いたのですが、これはわれわれにこれらの行を行ずるように勧めているのではなくて、浄土や阿弥陀仏の姿の観察は、むしろ譬喩ということになるのです。人間の我執や執着に基づくはからい・計算から、仏陀の働きの目覚めへと導く教えの言葉(観門)ということであります。つまり、この経典を読み正確に理解しようとするならば、読みながら理解の仕方に変化が起こらなければなりません。
浄土教との関わりは、ある過程を辿っているからであります。そして、その教えに関して、または自己に関して、新しい理解の仕方が生まれてくるのであります。 先にも述べましたように、一遍の和歌にも日常の分別・思惟から超越へと導く働きがあり、その背景にはこうした證空の言語観があったと思われます。妄想を払ってしまうところに、分別を超えた実在が現れ、この自覚から和歌が生まれてくるのであります。
一遍の体験重視
もう一つの思想的要素は、特に密教に見られるのですが、行者と仏陀の不二あるいは融合を強調することであります。行者は、身体で手印を結び、口には真言を唱えて、こころで本尊を観察するということによって、仏陀の働きが行者の身に入り、又行者の身・口・意の業は仏陀に入ると言われています。この相互的関係あるいは一体性は、「入我我入」と表現されています。
これと類似する関係は證空、そして後に一遍も説いています。これは善導の説に基づいていて、衆生が口で阿弥陀仏の名号を唱え、体で礼拝し、心で念ずれば、仏もまた衆生を聞き、見、憶念するという関係です。つまり衆生と仏の働きが互いに一体となって離れないということであります。證空はこれをいろいろな言葉で表し、例えば「往生とは、仏の御心と我心と一に成りあひたる処を云いけるなり」と述べています。
しかし證空には、和歌を詠むという詠歌活動があまりありません。したがって一遍の場合には、もう一つ他の要素が背景として考えられます。これは、宗教体験、あるいは超越した次元との接触の追求であります。證空は「観経」を説くいきさつ、いわゆる王舎城の悲劇の物語に注目してその経典の教えを解釈したのです。しかし一遍は、教えにおける「往生」「来迎」等の概念を象徴的に解釈するだけでなく、ある浄土教の譬喩の物語を身をもって新たに実現しようとしたのです。和歌もその実現のための表現の一つであったのであります。
一遍の宗教家としての生涯はおおよそ二つに分けることが出来るのではないかと思います。まず、約12才から24才までの11年間、つまり九州で證空の弟子に浄土教を学んだ期間であります。
そして父親が亡くなった時に、四国の実家に帰り、暫く世俗生活に戻りました。この間に結婚したとも言われています。しかし、何か問題が起り、32才で再び出家することを決心し、この時は以前のように教学的な勉強をするというのではなくて、仏法を自ら体得することを求めて、そして後には日本全国の人々に阿弥陀の名号に、いろいろな手段で、身をもって触れさせようと積極的な活動をしたのであります。これを一遍の宗教家としての第二の生涯ということができるのではないでしょうか。伝道の為に念仏札を配り、踊り念仏を行ない、そして死ぬまでの16年間、遊行という旅の生活を送ったのであります。
一遍にとっての詠歌作りも、仏法との接触、あるいは彼自身の宗教自覚の、極めて自然で、身体的な現れではなかったかと思うのであります。
一遍と宗教体験 / 二河白道の譬喩
以上申し上げました二つの側面、即ち證空の浄土思想と仏法の体得への追求は、融合した形で一遍の「二河白道」という譬喩の理解に見られるのであります。一遍にとって、この譬喩は自らの生き方のパラダイムであり、そしてまた歌を詠むパラダイムでもあったといえると思います。
「二河譬」は簡単に言いますと、ある旅人が西の方向に向って歩いていると、後ろから群賊と獣が襲ってくる。逃げようとすると、前には火と水の二つの河が立ちはだかっている。よく見ると二つの河の中間に、細い白道があり、ほかには渡る術がない。引き返しても、留まっても、前進しても死を逃がれえないような状況のもとで、旅人は白道に踏み出す決意をすると、丁度その時、東の岸からは進めよという声がし、また西の岸から来いと呼ぶ声が聞こえる。
そして旅人は一心に進み、彼岸に至る。これが「二河譬」の譬えであります。善導は、浄土への願望の在り方と信心の守護とを教えるために、「観経疏」にこの譬喩を書いたのであります。
再出家した時に、一遍は善光寺を訪れています。善光寺の阿弥陀仏は生きている仏様として当時は広く信仰されていて、一遍もこの阿弥陀仏との出会いができたと、聖絵には書かれてあります。その後四国に帰り、自らの宗教体験を確かめるために3年間「閑室」にこもり、世間から離れて念仏生活を送ったのでありますが、この間、この善光寺で書き写した「二河譬」の絵を、本尊として東の壁にかけて、その横に自分の理解を表わした偈頌をかけていたのであります。その偈頌は次の通りであります。
十劫正覚衆生界 一念往生弥陀国
十一不二証無生 国界平等座大会
この偈頌には、一遍の西山派の概念が表われています。阿弥陀仏は十劫の昔に正覚を得たが、これは衆生のためであり、この正覚は衆生界に今も満ちている。したがって、現在のこの瞬間の一声の念仏に衆生は往生を得る、即ち十劫の昔の正覚の瞬間と今の念仏の瞬間は、不二であるということであります。
しかし、一遍は、西山の概念と考え方を用いながらも、彼独自の思想を主張しているのです。證空の観経の解釈は絵画的、あるいは空間的であります。観経には、いろいろな行は連続的順番、また階層的順番に説かれているのですが、證空はこうした順番を重要とせずに、いわば行を平面に並べて空間的な解釈を施すのであります。證空によれば、観経の本当の意味は、阿弥陀の本願に関して行者はすべて平等である、なぜなら、衆生の力で往生できるのではないからということなのであります。
同じ様に、一遍は「二河譬」の物語を絵画的、あるいは空間的に解釈したのであります。プリントにある絵は幾何学的で、また曼陀羅風で、一遍がこうした絵を写したかどうかわかりませんが、ある意味で一遍の解釈をよく表していると思われます。白道が中心にあり、この白道の場において、仏陀から衆生へという動きと、この世から浄土へという動きの二つが融合されて、二元論的考え方、即ち仏と衆生、またこの世と浄土という分別がなくなるのであります。
行者にとって、この白道での一歩一歩は臨終であり、浄土で阿弥陀の大會に入ることであります。一遍にとって、この世での命は白道に踏み出すことの繰返しであります。そして行者と仏陀、この世と浄土という譬喩における概念は、今のこの瞬間に凝縮され、日常の論理や考えから外されて不二、平等になるのであります。
一遍は、白道を彼独自に解釈しました。善導に依ると、白道は回向発願心つまり浄土への志の象徴でありますが、一遍にとっての白道は、名号そのものを表しているのであります。つまり計らいや分別のなくなる場あるいは姿であります。
阿弥陀仏は要素として風であると真言では言われていますが、一遍は、無量寿である阿弥陀仏を、即ち息であると考えたようであります。
そして一遍の和歌作りにも、それは関係があると思われます。彼の和歌は、念仏の様に自然に口に表れ、名号と同じく、その瞬間、我執に根差した思惟の否定、崩壊の姿でありました。和歌がこうした機能を果たせるのは、形として短いということと、縁語等、日常的論理以外の手法で統一されているということによります。和歌の形は、「二河譬」の絵画化と同じように、時間を凝縮し、普通の思考の基となっている二元論を超える場や姿を作るのにまことに適切なのであります。
一遍の和歌にこうした働きが見られます。
親鸞と和讃
時間が殆どなくなってしまいましたが、ここで今日の二番目の作業、なぜ親鸞が和歌を作らなかったか、あるいは、一遍の和歌作りの思想背景との違いは、どこにあるのかに移ります。
まず、この二人の思想家の言語に関する考え方の根本的な類似性を認めなければなりません。さらに二人はある転換の瞬間、衆生と仏陀、この世と浄土という、教えを成している対立の概念はある意味で不二となる瞬間を説き、この不二の姿が名号であり、親鸞も一遍もこの名号を本尊とするのであります。
しかし、この心の転換に関して、基本的な違いがあります。一遍は、行者はあらゆる執着を捨てるべきであるとします。こうした考えはお手許のプリントにも見られます。しかし親鸞にとっては、普通の人間にはこの捨てるということができない、だからこそ凡夫であり、迷いにあるというのであります。では親鸞の場合、この転換のメカニズムはどのように起こるのかという問題があります。
その構造は「歎異抄」に見られます。例えば、先に見た言葉に
善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします
とあります。ここでは、善悪の価値判断が問題にされています。多分、ある質問に対する答えです。例えば、往生を遂げるためには、善を為し、悪を避ける必要があるのでは、という考えに対する親鸞の発言であるかも知れません。親鸞は、自分は善悪の二つを全く知らないと返事するのであります。ここに、普通の我執に基づく論理、計らいへの否定が見られます。ある意味で一遍と同じであります。
しかし親鸞の仏道は、人間はあくまで言語、概念の世界の中に暮らすのであり、すべてを捨てなければならない、とは言わないのであります。
「歎異抄」で親鸞は、計らいがなくなるということは、悪の自覚と結び付いているのであると、つまり善悪を知らないということと、自分の存在の悪を自覚することは、普通の論理では矛盾していますが、切り放せない一つの自覚の二つの面であるというのです。
詩歌の形を考えた場合、この矛盾した二つの面を同時に表すためには、和歌より和讃の方が適切であります。例えば、次の親鸞の和讃があります。
よしあしの文字をもしらぬひとはみな
まことのこころなりけるを
善悪の字しりがほは
おほそらごとのかたちなり
是非しらず邪正もわかぬ
このみなり
小慈小悲もなけれども 
名利に人師をこのむなり
ここでは、述懐という気持ちが、和歌の形でなくて、和讃の形をとっていますが、その必然性は、善悪に関して二つの態度を同時に表さなければならないからであります。
この二つの態度は、論理的に矛盾するのですから、親鸞は他の人々と自分に分けていますが、歎異抄の言葉から解るように、この二つの面は両方とも親鸞の自覚にあったのです。
今日の話は、単に問題提起で終わりますが、宗教的、文化的多元性を認めざるをえない現在の世界においても、親鸞と一遍の言語観は示唆的ではないでしょうか。
 
恵信尼の書簡 / 仏教に生きた中世の女性(親鸞の妻)

 

この手紙は一般に「恵信尼文書」、あるいは「恵信尼消息」という題で世に知られています。恵信尼(1182-1268?)という名前をあげると、外国人は言うまでもなく、日本人もあんまり聞いたことはありません。それに対して、親鸞(1173-1262)という名前をあげると、全然聞いたことのない日本人は、割と少ないようです。恵信尼は、要するに親鸞の妻にほかならない人物であります。この手紙は、覚信尼(1224-83)という末子の娘宛に書いた通信で、親鸞の生涯にかかわる内容が、さまざまに含まれています。ご承知のように、親鸞は鎌倉時代の有名な仏教思想家で、新仏教の創始者の一人、そして本願寺を中心にする浄土真宗の開祖という、甚だ歴史的な大立て者でございます。これに対して、恵信尼がたいへん漠然とした、歴史的には隠れた人物であることは、非常に残念なことと思います。「恵信尼文書」以外には、恵信尼に触れる史料はわずかなものしか残っていません。それにしても、恵信尼の手紙を通じて、我々はある程度まで恵信尼の生涯、特にその晩年のことを覗いて見ることが出来ます。
「恵信尼文書」は史料としては古いのですが、それが残存することは、20世紀まであまり知られていませんでした。1921年に、鷲尾教導(1875-1928)という真宗史の学者が、京都の西本願寺の宝物庫の調査を行ないながら、その手紙を偶然に発見しました。そして2年の後、つまり1923年に、「恵信尼文書の研究」という本でその史料を世に紹介しました。この研究には、手紙の写真版も活字版も載せてあります。鷲尾先生の多くの努力で、「恵信尼文書」がやっと広く知られるようになりました。しかし、その内容に多数の問題が含まれていることから、鷲尾先生の校訂は、ある意味で研究の出発点にすぎなかったと言えるでしょう。具体的にいうと、くずし字、変体仮名、当て字、同音異義の言葉、文章や言葉の切り方、昔の方言、虫くいで見えなくなった字などの問題で、「恵信尼文書」はかなり解読しにくい史料となっているのでございます。ですから、鷲尾先生のご研究が出てからもう65年になりますが、学者の解読・研究は現在でも続いている状態でございます。
鷲尾先生のご研究が発表された時代には、親鸞の伝記について論争がありました。それは、いわゆる「親鸞 抹殺論」という論争でした。その論は、簡単に言うと、親鸞は歴史上の存在か、あるいは架空の人物か、という論議なのです。その抹殺論は二つの証拠に基づいています。その一つは、親鸞に触れる鎌倉時代の古文書などの史料は、真宗の中のものを除けば、一つも残っていないということです。その二つは、真宗の中の親鸞像、特に栄光に輝く聖人伝のイメージは、何百年かの長い間に作り上げたもので、あまり歴史的な信頼性を持っていないということです。従って、親鸞が本当に生きていたのかを確めることは出来ませんし、生きたと仮定しても、その生涯の活動を具体的に知ることが出来ないのでした。こうした状況の中に、「恵信尼文書」が初めて出て来たのでした。その手紙の内容には、親鸞の生きた出来事がありありと述べてあることから、親鸞の生きていたことも、活躍したことも確認でき、抹殺論は消滅することになりました。そして「恵信尼文書」は、歴史上の親鸞の研究のために、第一の史料の一つに位置づけられました。現在、親鸞の伝記の研究で、「恵信尼文書しに依拠しないものはめったにありません。
私は、ドクター論文の研究を行なった時に、「恵信尼文書」を初めて読みまし た。その時は、親鸞のことに興味がありましたので、この手紙が史料として評判が高いということを聞いて読んだのですが、手紙を読んで一番驚いたのは、親鸞に実質的に触れる手紙が、割と少ないということでした。その内容は、どちらかというと、恵信尼のこと、つまり彼女の日常生活、観念、希望などが圧倒的に多いのです。このことが分かるやいなや、私はこの手紙のより広い歴史的な価値を自覚しました。すなわち、この文書は親鸞の伝記研究にとってだけでなく、浄土教の一般的な信者の信仰、そして女性の事情、さらには日本の鎌倉時代における日常の生き方を様々に表わす史料と見なさなければならないということです。現在行なっている小研究は、出来るだけ親鸞の問題から離れて、手紙の別の面を調べようとするものです。
「恵信尼文書」の原文研究について
さて、「恵信尼文書」の内容と意義に触れる前に、その原文研究の問題を二つ三つ述べたいと思います。手紙そのものの問題は鷲尾教導先生の時代から多くの優れた学者が取り挙げて、幸いに大部分を解決してくださいました。その第一の問題は手紙の数ということです。鷲尾先生が文書を発見した時に、18枚の原文がありました。(そのほか、「無量寿経」という聖典の引用写本も付いていましたが、手紙として数えることは出来ないので、ここでは除いて置きます。)その18枚がいくつの手紙になるかという点については、いろいろな説があります。鷲尾先生は、文書を校訂した時に、10通の手紙に整理しました。しかし、乱丁、落丁などの理由で、9通、または11通からなっているという説もあります。今では10通ということに、大体、定説ではなっていますが、頁の順序、そして手紙の分け方は、鷲尾先生の校訂から少々変わってきています。
その第二の問題は手紙の年月日を 確証することです。10通の内、3通(第1.2.5)には、年月日が付けてあり、ほかの4通(第4.8.9.10)には、月と日だけが記されています。あとの3通(第3.6.7)には、何の日付けもありません。しかし幸い別のヒントを、手紙の中に見付けることが出来ます。その一つは恵信尼の歳です。4通(第7-10)には彼女の歳が記されており、その内2通(第9.10)には、生れた年も干支の寅の年という形で書いてあります。もう一つは、2通(第4.8)の手紙に、書かれた年が別の手で書き込まれています。それは、恐らく手紙の受信者である覚信尼、あるいは覚信尼の孫である覚如(1270-1351)が書き込んだもので、かなり信頼性が高いと評価されています。こうした様々な証拠に基づいて、全10通の書かれた年、あるものは書かれた日までが、知ることが出来ます。それによって書かれた順序が分かっています。一番早いのは1256年、すなわち恵信尼が数え年で75歳の時のもので、一番遅いのは1268年、恵信尼が87歳の時に書いた手紙です。これらの手紙は恵信尼の晩年の状態をよく表しています。
その次の問題は、手紙の文字の解読です。彼女の手紙 の文字は、大部分、平仮名で、所々に片仮名や漢字が少し散らしてありますが、老年のくずし字や虫くいでなくなった字などの問題で、謎がかなり出てきて、解読の論争が少なくありませんでした。そのうえ、濁点も付いていませんので、例えば第8通にある一行、「ことには、おとこにておはしまし候へは」という箇所は、手紙の受信者に対して言っている文句なので、この手紙は娘ではなく、別の人に送ったものではないかという論争が、長くありました。結局、その解決は「おとこ」という言葉に濁点を付けて「おとご」と読み、古語の末子という意味に解読することで、かたが付けられました。このような問題は数多くありましたが、今では学者の多くの努力のおかげで、解読の問題になる箇所は、10数ケ所しか残っていません。そして、そうした問題の箇所にも、説得力のある仮説がかなり出て来ています。
「恵信尼文書」の概略
さて、次には手紙の内容に進んで行きたいと存じます。まず、「恵信尼文書」の内容を非常に簡単に述べたいと思います。手紙は、内容の上から見ると、三つのグループに分類することが出来ます。その分類は、幸いに手紙の年月日の順序にぴったり当てはまっています。最初のグループは第1通と第2通からなっています。この二つの手紙は共に1256年に書かれたもので、両方とも譲状という法律上の書類です。その内容は、恵信尼が娘の覚信尼に7-8人の下人を譲ろうという決心を伝えたものです。下人というのは、あの時代の最下層の労働者で、歴史家によると、奴隷か農奴に近い身分の人のことです。下人は土地と共に恵信尼の財産を構成するものだったのです。その財産の一部を娘に譲ることを、この譲状で正式に表明した訳です。しかし、その下人はすぐに覚信尼の所へ行ったのではなく、恵信尼が死んだ後に、覚信尼のもとへ行ったようです。従って、この手紙は遺言書のようなものと解釈してもよいと思います。その下人は後の手紙にも触れてありますが、こうした手紙から、当時の下人の事情がほんのちょっと窺えます。
その次のグループは第3通から第6通までの手紙からなっています。この4通は全部1263年に書かれたもので、恵信尼の夫、すなわち親鸞にかかわる手紙です。この4通は、間違いなく、親鸞の亡くなったことを伝えた覚信尼に対して、恵信尼が返事として草した手紙です。その内第3通と第5通は、親鸞の生涯の出来事を述べたもので、かなり長いものです。すなわちその第1は、親鸞が比叡山の天台宗の修行道場から離れて、京都の六角堂に籠り、聖徳太子が意味深い詩文を授ける夢を見て、それをきっかけとして浄土宗の開祖、法然(1133-1212)の弟子になったという出来事です。そしてもう一つは、親鸞が1231年に病気になり、病床に伏しながら宗教的な自覚を体験したこと、つまり救いの為の人間の様々な努力は結局むなしいもので、自らの計らいを一切やめて、ただ一心に阿弥陀仏のはたらきに任せるよりほかに、道はないという自覚の出来事です。この二つの手紙は、言うまでもなく、真宗の学者の関心を引いて、集中的に研究されるようになりました。その微妙で徹底的な研究の一例として、第3通の追伸の中にある「堂僧」という言葉をめぐる研究を上げることが出来ます。恵信尼によれば、親鸞は比叡山にいた時、「堂僧」、つまりお寺の堂の僧侶という役についていたと書かれていますが、学者はこんなに僅かな文句によっても、親鸞の宗教的な背景を明らかにしようとして、あの時代の文献を広く調べて、「堂僧」とは具体的にどんなものだったのかを知ろうと努力しました。また第3通のもう一つの目立った要素を忘れてはいけません。それは恵信尼自身の夢の話のことです。彼女は夢の中で、主人の親鸞は観音菩薩の化身であるという目覚を持ちました。その夢は数10年前のものですが、その時から、恵信尼は親鸞を特別の存在として尊敬したのです。このことによって、恵信尼を後の真宗の開祖信仰の先駆者として認めてもいいと思います。
次の第3番目のグループは、第7通から第10通までの 手紙からなっています。この4通は1264年から1268年の間に書かれたもので、恵信尼の死去の近づいた時期の手紙です。このグループの手紙には、前の二つより恵信尼の日常経験や出来事がよく描かれています。例えば、年寄りの悩み、病気、老人ぼけという話が所々に出てきます。また、家族の話、特に覚信尼からの贈物への感謝、孫たちの成長や活躍を尋ねるものなどが含まれています。また、飢饉と流行病にも触れてあります。その苦難の結果、恵信尼の家にいた数人の下人は、大人も子供も死んでしまいました。まことに無常観の強い体験だったろうと想像出来ます。このグループの2通には、五重の卒都婆、恐らく五輪塔だろうと思いますが、石碑を作ってもらいたいという希望が強く表われています。恵信尼は、死が近づくにつれて、この卒都婆がはやく仕上がるように益々希望しました。これは何らかの理由で、彼女にとって最も大切な希望のようでした。また、最後の手紙の中に、恵信尼の宗教生活もうかがえます。それは念仏を中心にする生活で、阿弥陀仏の名前を称えながら極楽浄土に生まれ変わる期待をかけるものです。その世界は、この世の悲しみやつらいことが全然ない極楽 で、久しく別れた親子や友人に再び会えるに違いないと考えられています。この4通の手紙は、鎌倉時代の日常的な交わりや生き方、そして恵信尼自身の希望と失望、宗教的な期待から人間的な好き嫌いまでを語る文章で、本当に大切な史料だと思います。
私の研究方法について
次に「恵信尼文書」の意義に触れる前に、私の研究上の立場と問題意識を明らかにしておきたいと思います。言うまでもなく、このような史料は様々の立場から研究することが出来ます。私の研究分野は、はっきりと言えば、真宗学でもなく、仏教学でもありません。また、哲学でもなく、宗教学でもありません。それぞれの分野は私の研究の周辺に触れますから、ある程度それにも興味がありますが、わたくしの分野は、どちらかと言うと、「宗教史」というものです。歴史学の態度をこの史料に対して取ろうと思います。宗教史という研究は、宗教現象を対象とします。その立場はできるだけ宗教現象を現代の考え方でとらえるのではなく、むしろ発生した時代の中でとらえていこうとするものです。ですから、自分の研究は宗教の真実の探険ではないことを、お断りしたいと思います。しかし、宗教の体験を歴史の現象の内に研究する限り、真宗学や仏教学と共通の問題点があるかも知れません。また、宗教哲学や宗教学と同じように、比較宗教の問題にも、ある程度まで興味があります。特に、ある時代やある文化の宗教体験は、別の時代と文化のそれと似ているか、または似ていないかという考察が、私の関心を引いています。それにもかかわらず、宗教体験を「宗教史」という立場で研究しようとする問題意識が、私の研究原則です。それに宗教体験に止どまりません。その体験を出発点にして、別の現象に研究を延ばすこともできます。例えば、原始教団やその教権、修行や儀式、礼拝の対象、行者の組織、そして教団の否定するいわゆる迷信、神話、異端なども、興味深い歴史的な現象として取り扱います。以上のように、中世日本の宗教を幅広く理解するために、宗教体験から始めて、各方面を総合的にきわめようというのが、私の方法論です。
「恵信尼文書」の問題点
このような方法論を以て「恵信尼文書」を調べると、どんな問題が出て来るでしょうか。それは言うまでもなく、数えられないぐらい多いものですが、ここではその中の三つぐらいを取り挙げたいと思います。その三つは、(一)浄土教の世界観、(二)女性の信仰と生き方、(三)真宗の信仰的な内容という問題です。ただ、ここでは考察の範囲を中世宗教という現象に限定しておきたいと思います。というのは、この三つの問題を、中世のものの考え方とその時代の一般の経験の用に位置づけたいと思うからです。日本の中世宗教を主題にする場合、前もってその根本的な前提と特徴を、大ざっぱに上げておいた方がいいように思います。その一つは無常観ということ、つまりこの世の一切のものは永続する能力を持っていないから、信頼出来ないという考え方です。もう一つは、明治時代以降の神仏分離という神道と仏教をはっきり区別する感覚は、中世には、ほとんどなかったということです。むしろ、神々も仏・菩薩も、同じような宗教的な範囲に位置づけられるという見方の方が、圧倒的に多かったようです。このほかの特徴もありますが、一応、この二つを念頭において、日本の中世宗教の問題を考察して行きましょう。
中世の浄土教の世界観
その第一の問題は、中世における浄士教の世界観ということです。浄土教は、ご承知のように、鎌倉仏教の一つの系統で、あの時代の最大の系統でした。(そのほかには、禅と日蓮という系統もありました。)浄土教は、特に中世の無常観に基づいている信仰と言えます。つまり、この世の無常性や不信頼性を痛感しない人には、極楽浄土に生まれたいという願望は、あんまり強く出て来ないからです。浄土教は、簡単に説明すれば、阿弥陀という仏が、伝統的な修行では悟りが開きにくい人々の為に、別の世界、浄土を創り上げました。この一生が終って浄土に生まれ変われば、浄土は最高の環境なので悟りが開きやすく、誰でも悟りに達することが出来ます。ですから、この信頼しえない無常の世で修行する必要は全くなく、ただ阿弥陀仏を深く信じる心で毎日を送り、浄土に生まれることを願えばいいのです。その為の唯一の行は念仏、つまり阿弥陀の名前を「南無阿弥陀仏」という形で称えるというものです。真宗の解釈によれば、念仏は阿弥陀に対して救いを求める祈りではなく、救いがもう保証されていることへの感謝報恩の表現ということになります。浄土教は、修行の能力が弱く、あまり自信のない人にとっては、特別の魅力を持っている教えでした。特に、無常観が至る所に広まった中世には、浄土教が広く信者の帰依を集めました。
「恵信尼文書」には、無常観という感覚も浄土教という信仰も、姿を表してい ます。無常観は、大体、恵信尼の経験した苦難や悲劇的事件の裏に、前提としてあります。その苦難の例を上げれば、第3通と4通に、作物が出来なくて飢饉が広がり、二人の男の下人が死に、恵信尼も死ぬかも知れないと恐れたことが書かれています。また第8通には、下人が皆逃げてしまったことが記されていますが、恐らくこれも飢饉のせいでしょう。また、第9通と10通によると、流行の熱病の為に、数人の下人を失い、その用には覚信尼に譲る約束になっていた子供と大人の下人も含まれていました。別の下人は、腫れ物が頭に出てきて不自由になり、由々しい状態になりました。これらの証拠から、恵信尼の目にした世界は、確かに苦難の世界であったと結論出来ます。
このような飢饉や病気の為に、中世の人々の寿命は、現在のより遥かに短いものでした。人口史学者によると、中世における平均寿命は、史料が少ない為に非常に統計がとりにくいのですが、恐らく40歳に過ぎなかっただろうと言われています。平均寿命が40歳と言っても、全く高齢者がいなかったという訳ではなく、ご承知のように、恵信尼や親鸞のように80歳代まで生きた人もいました。従って、中世の人達は長生きできる可能性はあっても、その実現性はかなり低いということを、皆自覚していました。この自覚が仏教の無常観に呼応して、中世の至るところに現れました。その意味で、無常観は中世の代表的な思想と言えると思います。
恵信尼の浄土信仰は、当然この無常観に根づいていると思います。これは鎌倉初期の鴨長明(1153-1216)の「方丈記」とほぼ同じパターンです。「方丈記」の場合には、この世の災害の原因を末法思想で説いている所が一箇所あります。末法というのは、この世の安定や安心、そして仏教の教えの理解や修行が混乱に陥る時期のことです。恵信尼は手紙の中で末法のことには触れていませんが、末法という言葉を聞けば、彼女はすぐ理解したでしょう。手紙には末法というような教義的な概念ではなく、もっと一般的な表現が出て来ます。例えば、第10通に浄土のことに触れて、「なに事もくらからず」という言葉が出て来ます。すなわち、浄土は現世の暗い様子に比べると、暗くない世界、つまり光の世界に違いないと考えているのです。「暗くない」という表現には、別に深い意味などないと思う人も多いかも知れませんが、阿弥陀が無量光仏、すなわち光の限定のない仏と言われている以上、それは浄土教の原則に基づいている表現なのです。恵信尼はこの簡単な言い方で、浄土教の根本的な二元説を表しているのです。その二元構造とは、この暗い世界とあの明るい浄土という構造です。教義的な言葉で表現すれば、「厭離穢士、欣求浄土」、つまりこの汚れた世界を厭きて離れて、あの極楽浄土を喜んで求めよう、という信仰的な動機から出た構造です。この二元構造の世界観が、恵信尼の「暗からず」という言葉の裏にあると思います。
浄土教の二元説は、他の中世の仏教思想に比べると、何となく原始的で、素朴な思想に見えるかも知れません。大乗仏教は、一般にこのような二元構造の世界観を否定して、その代わりに、一元説、つまり真実は唯一のもので、二つに分けるのは、人間の偽りに過ぎない、ということを説きました。このような考え方は、天台の本覚思想、真言の即身成仏、禅の見性成仏などの仏教教義の論題に姿を表わしています。この一元説は浄土教の思想家にも影響を及ぼしました。例えば、裟婆即浄土という教え、つまり現在の苦しい世界が、そのまま極楽浄土に他ならない、という理論があります。親鸞も大乗仏教の一元説を理想の原則として、認めましたが、ただ、現在の状態でその理想を悟ることは非常に難しいので、その悟りを浄土に譲らざるを得ないと考えました。ですから二元構造の浄土思想が、人間の現在の有様に一番ふさわしい教えであると主張しました。天台、真言、禅などの教えは、宗教の思想としては、遥かに微妙で優れた考え方であるとしても、中世の一般の人々の実感にはぴったり合わなかったようです。普通の人は天台や禅などの修行は出来なかったし、厳しい現実から開放されたいという希望しか分かりませんでした。浄土教は、ある意味で一般の人をそのままで迎えようとした教えです。平民的な世界観を用いながら、真理に導こうとする宗教思想です。恵信尼の「暗からざる一浄土のイメージは、一般の人の中に現れた理想の一例です。
ここで、かなり分かりにくいことに、少し触れて行きたい と思います。それは下人についてのことです。特に下人の宗教的な傾倒はどうであったかという問題について、考えておきたいと思います。言うまでもなく、この問題にかかわる史料はほとんど残っていません。ですから、この話は想像上の空言に過ぎないかも知れません。それにしても、下人にも宗教的な面があったことくらいでも認めてもらえれば、この話も無駄ではないと思います。下人というものは、非常に漠然とした現象ですけれども、身分が一番低い中世の労働者と言えます。下人の主人は、下人を売ったり譲ったりする権利を持ちましたが、恵信尼の譲状は丁度その権利を示す史料です。実は恵信尼の時代ごろから、人間を売買することに反対する様々な法律的、宗教的な処置が出てきていました。ですから、恵信尼の譲状は、厳密に言えば、売買の書類ではなく、ただ自分の家族に譲る文書ということになります。下人の主人は、その下人の希望も、ある程度まで認めました。例えば「恵信尼文書」の第9通によると、「とう四郎」という下人は、覚信尼のところへ譲られたくなかったので、恵信尼はその代わりを捜そうとしたようです。下人はただの物理的な財産ではなく、封建制度における最下層の従者として、取り扱われたのではないかと思います。時には主人の一番大事な従者になる下人もいました。例えば、親鸞の親密な弟子になった蓮位という人は、恐らく下人の形で親鸞に結び付いたと考えられています。この場合は、下人が主人の宗教的な影響を受けたということになります。
下人の宗教については、色々考えることが出来ます。その知識と教育がかなり低い場合、神祇、御霊などの崇拝、また迷信的な信仰が圧倒的に多いの ではないかと想像されます。しかしそれだけではなく、もっとレベルの高い面もあったようです。例えば、恵信尼の第9通によると、隣りの下人は仏教の「入道」、つまり俗人的なお坊さんになったそうです。ただ、入道になっても下人の身分から解放されたのではなく、前と同じく下人の義務は担ったようです。下人の仕事をしながらでは、宗教的活動がかなり限られて、決して専任のお坊さんには成り得ないでしょう。しかし念仏のような行は、割と簡単にその生活に組み入れることが出来ます。聖典や礼拝の道具も必要ではないし、仕事などをしながらでも、阿弥陀の名前を称えることは出来るからです。この点でも、浄土教は下人にふさわしい教えではないかと思います。もう一つのポイントは、浄土教、特に真宗は伝統的な仏教の方法では救われない人達に向けられた教えであるということです。最下層の下人たちは、他の人々よりもこうした教えに魅かれがちでしょう。さらに、もう一つ考えられることは、下人は「恵信尼文書」が示すように、飢饉、流行病などによって、かなり若くして死にました。そういう人たちにとっては、極楽浄土という理想は、ものすごく魅力的に思えたでしょう。あこがれがあったはずです。以上の理由で、下人が浄土教に帰依する可能性は十分あったと思います。実際にそういうことがあったかどうか、非常に分かりにくい問題ですが、恐らく下人の活躍の範囲はたいへん狭く、主人の宗教ぐらいはよく知っていて、その影響が一番強かったでしょう。もしそうであるならば、恵信尼の下人は念仏の行や浄土の信仰を受け入れていたと想像されます。
中世の女性の信仰
次には、中世における女性とその信仰という問題に進みたいと思います。「恵信尼文書」から分かるように、中世の女性は近世の女性より生活の独立と経済的な自由を多少持っていました。文書が示すように、恵信尼は三人ぐらいの子供と一緒に、親鸞から離れて越後の国で暮らしました。これは離婚ではなく、ただ別居のことでした。恵信尼は自分の家族から土地と下人などの財産を相続しました。その財産を管理する為に越後の故郷に帰り、そこで晩年を過ごしました。末子の娘、覚信尼は、京都に残って親鸞と自分の子供と共に暮し、手紙で母の恵信尼とたびたび連絡しました。この母と娘の間には、暖かい親しみが10数年にわたってずっと続きました。この二人は共に頭がよくて、能力があり、独立的な人物でした。覚信尼の方は、親鸞が亡くなった後、そのお墓に御影堂、つまり親鸞の肖像を安置する堂宇を建ててもらい、その管理の職につきました。その御影堂は、結局、本願寺に展開しましたから、覚信尼はある意味で本願寺の創立者と言えると思います。恵信尼の方は、手紙が示すように、自分の財産を積極的に管理しました。80歳になっても力が衰えず、それに益々努力しました。恵信尼の財産は、夫の親鸞の財産と比べると、圧倒的に多いのです。親鸞の方は、大体、弟子達の寄付に頼っていました。それなのに、恵信尼は持っている財産を、親鸞ではなく、自分の子供に譲ろうとしました。手紙の第1通と第2通は、愛嬢の覚信尼への遺言書に違いないのです。この一例が明らかにするように、中世の女性は、場合によって独立性や経済力を持ったようです。
恵信尼の宗教生活は、手紙の所々に部分的に見えています。先に申し上げ ましたように、浄土は「暗からず」という想像を抱いていました。この苦難の多い一生が済んで、あの光る極楽に生まれたいという期待を、信仰の中心にしていました。この確信から、念仏の行が出て来ました。その念仏を称える習慣は毎日の生活に融けこんでいて、恵信尼の信仰は誰でもすぐ分かるほど世に現れたと思います。浄土教が女性に向けた思想であったことは、インドと中国の起源にまで遡ることが出来ます。日本の仏教の中では、浄土教と日蓮宗が特に女性の帰依を引き付けました。浄土教の女性救済論が、仏教の女性軽蔑思想を逆手にとっていることは、否定出来ません。それは簡単に言えば、女性は男性より仏教の悟りを開きにくいので、一度、男性に生まれ変わり、その形で悟りに進む方が間違いないという考え方です。浄土教は一般に仏教の難しい修行が出来ない人を対象にする教えです。女性に対しては、仏教の差別的な伝統を受け継いで、女性の劣った性質を認めていますが、同時に救いの希望を与えました。ただ阿弥陀仏に命を任せるだけで、必ず極楽に生まれることを説きました。ある意味で、女性は下人と司じようにこの世の卑しい身分に位置づけられていましたから、浄土の救いをよく分かったはずです。残念ながら、「恵信尼文書」には、浄土教の女性向きの論理がはっきりとは出ていませんけれども、恵信尼がその論理を聞いたことがないとは想像しにくいことです。いずれにしても、恵信尼の信仰は女性の立場だけではなく、人間全体の立場からの信仰です。すべての人々は、等しく阿弥陀仏の対象になって、浄土に生まれることが出来るという確信です。恵信尼の宗教生活はただの在家、つまり俗人的な生活ではなく、尼として暮しました。恵信尼と覚信尼の「尼」という字は、ご承知のように、「あま」という意味があります。この名前は、もちろん二人の法名、すなわち尼になった時に授かった名前です。恵信尼は、自分自身が尼であることを目覚していて、文書には、自分に対して「あま」という百葉を2ケ所(第3.10通)で使っています。室町時代に描かれた恵信尼の肖像が信頼できるとすれば、典型的な尼の姿、つまり髪を剃り、法衣を着て、念珠を持っているという姿をしていました。この肖像を見ると、恵信尼は宗教生活に一身をささげたようです。尼の生活を考える時、「平家物語」に表された建礼門院(1155-1213)という女性を思い出します。彼女は、一般に尼の理想的な姿でしょう。建礼門院は平清盛の娘で、そして安徳天皇(1178-85)の母でした。ご承知のように、壇ノ浦の合戦で平家も7歳の安徳天皇も滅びてしまいました。この悲劇的事件をきっかけとして、建礼門院は世間を捨て、仏教の得度を受けて尼になることを断行しました。その時代の貴族の女性にとっては、これは非常に意味深い決心でした。なせならば、貴族の女性の髪はものすごく長くて、女性美の証しでした。剃ってしまえば、恐らく元の姿には戻れなかったでしょう。建礼門院は、尼になって京都の大原にある寂光院に籠り、質朴な生活を送りながら、平家の菩提を弔い、社会との交わりをほとんど絶ちました。恵信尼を建礼門院と比べると、相違点はかなり目立っています。恵信尼は尼の姿をしていても、家族と財産に関心を持ち続けました。建礼門院の理想から考えると、恵信尼は純正の尼になっていないという判断が導かれるかも知れません。しかし、その判断は仏教の伝統的な僧俗分離、つまり僧侶は俗人の活動を一切やめて、別の世界観を養うた めに社会から引き下がるべきだという観念に基づいています。恵信尼は、夫の親鸞と同じように、僧俗分離を認めないで、親鸞の言葉を借りるならば、「僧にあらず俗にあらず」という新しい理想に生きました。具体的に言えば、外面的には家族と仲間と社会から離れなくても、内面的には宗教的な生活を熱心に営むということです。この「非僧非俗」という生活は、浄土教の帰依者にとって最もふさわしい生き方なので、現在の真宗には、それが宗教生活の理想として挙げられています。恵信尼は、恐らくこの理想に基づいて生きたと思います。
中世の真宗の構造
次には、中世における真宗の構造という問題について、考察して行きたいと思います。「恵信尼文書」が書かれた時代は、原始真宗の教団が形成され始めた時期でした。そのころ、親鸞の教えを中世の歴史的、宗教的な事情に適応させる動きが起こりました。「恵信尼文書」は初期真宗の姿について、あるヒントを含んでいます。そこで、「自信教入信」と「卒都婆」という話を出発点にしたいと思います。「自信教入信」とは、20世紀の真宗において主要な話題になってきていますが、その意味は、自分自身を阿弥陀に任せて信心が起こりますと、自分の信心が他の人の模範になり、他の人に信心の経験をさせるようになる、というものです。そうなれば、これより優れた宗教行為はないでしょう。つまり、信心の生活が第一なのです。文書の第5通によると、親鸞はこのことを目覚した時、繰り返しお経を唱えるような修行をやめて、信仰に身を任せたと述べられています。この手紙は、真宗の一番大切な宗教条件である信心の状態を、よく伝えるものです。真宗の教義にとって、信心より大事な論題はありません。信心は、極楽浄土に生まれる原因であり、念仏を称えることは、ただ信心の表現であり、別の目的や利益の為の行為ではありません。また信心そのものも、自分で作り上げるものではなく、むしろ人間の態度や意図を一切中止して、阿弥陀仏の働きに任せることなのです。信心は心の有様であり、阿弥陀に親密な個人的な状態なのです。その点で、真宗は修行の宗教ではなく、信心の宗教と言えます。この信心用心の思想は、親鸞から現在に至るまで、真宗全体の歴史にわたる原則です。誠に真宗の真髄だと思います。恵信尼はこの原則を理解していて、手紙に「自信教入信」という話を書き込んだのだと思います。
 次には、文書の第7と第8通に出て来る「卒都婆」の問題を取り挙げたいと思います。卒都婆は、恵信尼にとって非常に大事なことでしたが、 現在の真宗学者はあまり関心をもっていないようです。実際、教義的な立場からは卒都婆が解釈しにくいと言えます。卒都婆というものは、五輪塔のような石碑で、普通、人の墓、あるいは亡くなった人の記念として、または菩提を弔う為に作られたものです。こういう習慣は修行的な行為ですから、修行を否定する真宗の思想と合っていないようです。従って、恵信尼の卒都婆は教義上、謎と言えます。またはその卒都婆は、生きている間に自分の墓に建てる寿塔というものだったのでしょうか。それにしても、真宗の理想からは外れた行為です。それともその卒都婆は、親鸞の記念として建てられた仏塔だったのでしょうか。それならば、ただの記念ではなく、開祖信仰的な意味が生じてくるのではないかと、私は思います。いずれにしても、恵信尼の卒都婆は、何となく、中世的な宗教の現象のように思えます。そして、真宗の中世的な面をよく表していると思います。
中世的な宗教 とは、一体どんなものでしょうか。中世の宗教には、言うまでもなく、種類の異なった数多くのものがありました。新仏教と旧仏教だけではなく、神道と民俗信仰なども含まれていました。この種々様々な環境の中で、どんな宗教態度が有力であったかと言いますと、それは多神論的な意識だろうと、私は思っています。(勿論、多神論と一神論は西洋の概念で、非常に問題になる点がありますが、取り敢えず使わせて頂きます。)中世の宗教は 多神論的だったといっても、一神論的な傾向がなかったとは決して言えません。鎌倉仏教の浄土教と禅と日蓮は、皆、一神論的な面がありました。しかし、現代の一神論的な意識と比べると、鎌倉のは強くなかったと思います。現代の一神論意識は、中世の神々や霊魂や悪魔などを人間の経験の範囲から、出来るだけ退けようとします。唯一認められる神は、この世界を超越して、あるいは偏在して、特定のものに限られていない存在です。従って、現代の一神論的意識は普遍的な考え方です。それに対して、中世の宗教の神は特定的な考え方でした。と言うのは、仏などは絶対的な存在で、超越したものであったとしても、特定の形を取って人間と交わりました。中世の人達は、もの、時、場所などを非常に大切にしましたので、神や仏が、どんな形で、いつ、どこに現れるかということについて、非常に敏感でありました。この意味で、中世の宗教は多神論的と言えますが、中世の多神論は、必ずしも一神論と対立していません。その点で、一神論という西洋の概念を使っても、それは西洋的な理解では使っておりません。
親鸞は、この多神論的な中世に複雑な教えを唱えました。阿弥陀仏に対して一神論的な信心を強調しましたが、中世の特定的な信仰も、ある程度まで認めました。神道の神々に対しては、かなり批判的な立場を取ったとよく言われていますが、積極的な評価もありました。例えば、神は念仏信者に影のように伴って、守ってくださるとも言いました。中世の数多くの信仰の中でも、特に聖徳太子信仰をもっていました。また、浄土教のいわゆる七祖高僧に対しても、信仰的な態度を表しました。そしてそれらをあがめる和讃を著わし、その中で高僧、法然は勢至菩薩、あるいは阿弥陀仏の化身であるというほどまでに、尊敬の念を唱えました。この尊 敬の念は、典型的な中世信仰だと私は思っています。以上のように、親鸞は一心専修の浄土信仰を進めながら、中世的な信仰も矛盾なく受け入れていました。
19世紀ごろから、「歎異抄」という真宗聖典がものすごく人気 になりました。それは、一神論的な真宗思想を前面に出して、説得力のある表現で書かれています。「歎異抄」は私を非常に感激させたものであり、親鸞の教えを忠実に伝えている聖典だと思います。しかし、読めば読むほど、現代的な宗教観のように感じます。中世に書かれたのに、中世らしくない考え方を示しています。ですから、明治時代になって初めて世に出た、ということもうなづけます。「歎異抄」の内に中世真宗の姿を捜そうとすれば、確かに僅かに見出すことができますが、それよりも、本願寺の建築の方を調べれば、そこに中世的な構造がはっきりと読み取れます。本願寺の正門を入ると、偉大な堂宇ともう一つの堂宇が目に入ります。大きい方が親鸞の御影堂で、小さい方が阿弥陀堂です。この構造は、親鸞の方を重んじているように見えます。勿論、それには歴史的な理由があり、本願寺が親懲の墓から発展したお寺だということと大いに関係しているでしょう。ただ、それだけではなく、宗教的な理由もあったように私は思います。つまり、開祖信仰というものが、中世真宗の重要な要素となっており、その時代の普通の信者の意識の中では、親鸞と阿弥陀がそんなに区別されていなかったと考えられるのです。さらに、恵信尼の曾孫の覚如の影響により、親鸞が阿弥陀の化身であると見られてきました。ですから、開祖信仰が発展して、親鸞に対する報恩講などの儀式が本願寺の根本的な行事になったのです。この開祖信仰は、恐らく真宗の宗派の形成に大切な役割を果したでしょう。その信仰がなければ、真宗は宗派として出現できなかったと、私は思っています。そして言うまでもなく、この開祖信仰は中世的な宗教現象でした。「歎異抄」の思想も中世にありましたが、この開祖信仰の背景として位置づけられていました。中世の帰依者は、多分、開祖信仰を通じて初めてその信心用心という思想を分かるようになったと思います。開祖信仰がなければ、親鸞の優れた思想は今日まで生き残れなかったかも知れません。ですから、中世真宗の構造は二つの要素からなっていました。一つは信心という宗教的な理想、もう一つは開祖信仰です。この二つは、「恵信尼文書」の「自信教人信」と「卒都婆」という話に、すでに現れていると思います。
「恵信尼文書」の史料的価値
最後に、「恵信尼文書」を史料として評価しようと思います。私は中世の文献をそんなに幅広く読んだことはありませんが、知っている限りでは、このような史料は思い出せません。中世の文書の中には、色々なものがあります。例えば、古文書は山ほど残っています。また「玉葉」のような政治家の日記、そして「吾妻鏡」のような幕府の歴史も上げられます。これらは、政治、社会、経済、法律史上、非常に大切なものです。しかし、恵信尼の手紙と比べると、体験的な面が欠けています。ほかには、女性の日記文学、例えば「更級日記」と「十六夜日記」を注目しなければなりません。これは京都の貴族の価値観と美意識を前面に出して、文学として感動的なものです。それにかかわらず、「恵信尼文書」と比較すれば、相当に違った雰囲気を表しています。もう一つの文献は、法然・親鸞・日蓮などの仏家の手紙です。これらは「恵信尼文書」と同じように、一身上の詰も記されていますが、内容は宗教関係の話が圧倒的に多いのです。これらに比べ、恵信尼の手紙は非常に素朴です。内容は日常の体験が主で、一読しただけでは、あまり大したものではないという印象を受けるかも知れませんが、この手紙の純粋な素朴さは、非常に大きな特長と言えます。飾り気がないので、中世の体験を生き生きと伝えてくれる文書です。このような手紙がほかに残っているでしょうか。「恵信尼文書一は、誠に中世の純真な声と、私は思っております。
 
恵信尼消息1 / 本願寺展

 

仏教に三尊像と呼ばれる仏像がある。釈迦三尊は釈迦仏に文殊菩薩と普賢菩薩、阿弥陀三尊は阿弥陀仏に観音菩薩と勢至菩薩を配する。親鸞の妻、恵信尼は親鸞が観音菩薩、法然が勢至菩薩だと告げられる夢を見ている。
この夢は恵信尼筆の「恵信尼消息」に書かれ、1921年に本願寺で発見された。今回この書状と恵信尼像が出展される。親鸞は妻帯を公言した初めての僧だが、その夫婦の姿がこの手紙に明かされる。親鸞没後に書かれたこの手紙は亡き夫へあてた恋文に見える。
いつの時代でも女性の心をつかんだ宗教は発展する。真宗の出発点にそれがあった。念珠を繰る恵信尼像の朱に染まる口元に上るのは、亡き夫への尽きせぬ思いと称名念仏だ。
恵信尼が見た夢と呼応するような夢が親鸞にもある。比叡山で行き詰まった親鸞が1201年に京都の六角堂にこもり、そこで聖徳太子から受けた、「観音があなたの妻になる」という夢告である。その経緯も「恵信尼消息」に書かれている。それにより親鸞は法然に帰し、妻帯した。この夢告を右上に記した親鸞像が今回出展される「熊皮御影」である。
この親鸞像も念珠を繰る。その前には念仏聖が用いた途中が二股になった鹿杖が置かれている。本願念仏を伝える人生の出発点にあったのがこの夢告である。それはまた恵信尼とともに歩んだ旅路だった。二股が一本となる鹿杖は二人の旅を象徴するかのようだ。
恵信尼像を左に、親鸞像を右に、中央に「名号本尊」を置くと私の三尊像が完成する。こう並べれば、二人が向き合ってともに念仏しているように見える。
親鸞が書いた名号は「南無阿弥陀仏」の六字名号の他に「南無不可思議光仏」の八字名号、「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号がある。名号を本尊とするのは親鸞から始まると言われる。
親鸞が名号を本尊としたのは彼にとっての念仏が偶像崇拝ではなかったことをよく示している。しばしば宗教は偶像崇拝に過ぎないと批判される。しかし親鸞にとっての念仏は「本願」という世界の根本精神による「真実」の救いの表れだった。「本願と名号」という御心と御名の、世界に通じる普遍的宗教がここにある。「四海のうちみな兄弟」「四海同胞」の宗教である。
その親鸞の言葉は悩める青年唯円の心を捕えた。唯円がその感動を記した「歎異抄」の蓮如本が出展される。
いつの時代でも若者の心をつかんだ宗教は発展する。「歎異抄」が若者を中心に一般に読まれ始めたのは20世紀になってからだ。新たな種はまかれたばかりである。
親鸞御影と恵信尼像
会場に入ってすぐのところに親鸞の御影が二種類と恵信尼像が並べてかけてあった。二人が向かい合い語り合っているような雰囲気があった。その恵信尼像の前に、恵信尼が親鸞から聞いた言葉を記した「恵信尼書状」が並べられていた。古筆の仮名書きの文は慣れていないと読みにくいが、幸いに対照して読めるように活字にしたものも置いてあり、それを見ると内容がわかる。実際に親鸞と恵信尼の肖像の前でそれを読むと、今目の前で親鸞が彼女に語りかけているかのようだった。「歎異抄」と同様に親鸞の肉声が聞こえてくる「親鸞ライブ」の趣があり、貴重な体験だった。
1921年に西本願寺でこの書状が見つからなければ、現代人の知る親鸞像はなかったと言っていい。親鸞が比叡山を出て六角堂にこもり、「後世をいのらせたまひけるに」、九十五日目の暁に聖徳太子の示現を得て法然上人に帰したことがそこに書かれている。「恵信尼書状」は青年親鸞の求道のさまが描かれた実に貴重な資料であり、大きな発見だった。「恵信尼書状」により親鸞の比叡山下山の理由は「生死出づべき道」を求め、「後世」を祈るという仏道上の問題であったことがよくわかる。親鸞が法然に帰したのは「教行信証」に書かれているように1201年のことである。これまで何度か書いてきたが、「恵信尼書状」が発見された1921年は1201年と同じく60年に一度巡る干支が「辛酉」の年である。中国で革命の年と言われた辛酉の年に日本で初めに注目したのは、その在世中に601年の辛酉の年を経験した聖徳太子(574-622)だろう。1921年は1201年と同じ辛酉の年であるとともに、また聖徳太子千三百回忌の記念すべき年でもあった。私は聖徳太子の導きが今も続いているのだと思っている。
またこの「恵信尼書状」には、親鸞が聖徳太子の示現を得て「後世のたすからんずる縁にあひまゐらせんとたづねまゐらせて」、法然上人のもとを訪れても、その場ですぐに弟子になったのではなく、またそこから百日間、雨の日も晴れの日も、来る日も来る日も法然上人の言葉を聞いて、やっと納得して法然上人に帰依したことが記されている。「また百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にもまゐりてありしに、ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを、うけたまはりさだめて候ひしかば、上人のわたらせたまはんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわららせたまふべしと申すとも、世々生々にも迷いければこそありけめとまで思ひまゐらする身なれば」(「恵信尼消息一」)
こうして195日かけて、半年以上かかってやっと法然上人にどこまでもついていくという決意を固めたのである。おそらくはこれまで学んだ比叡山での聖道門の仏教に照らして法然の教えを考えるとともに、最後は分別を捨てて法然を信じるしかないという気持ちだったのだろう。親鸞の慎重な性格と思索、そして最後はただ信じるというあり方はここにもよく表れている。親鸞の著作を見ると思索とそこからの飛躍が見事に組み合わされているが、本当の思索というものはそういうものだろうと思う。分別知から無分別智へと飛躍するのである。
恵信尼書状に見る「聖道から浄土へ」
この「恵信尼書状」に記された親鸞の言葉から、親鸞の聖道門から浄土門への転向の過程が見えてくる。それは聖道門の教えが間違っていたということではない。その教えが自分にもたらすものを知った結果、次の道を求めざるをえなかったのである。聖道門を下敷きにしながら次の段階に進んでいるのである。やがて「教行信証」として結実する道のりがここから始まっている。それを仏教の根幹をなす「因果の法」を中心に見てみよう。
釈尊の説いた原始仏教は元来理知的な宗教で「因果(縁起)の法」(因果律)を中心としている。ただし単純な因果律だけなら、同じく因果律を基礎とする科学と同様に、理知的に受容するだけで済むだろうが、それが過去世、現世、来世に渡る「三世の因果」となると信が必要となる。それを信じないものにとっては何の価値もないものだろう。それどころか欲望の赴くままに生きたい人間にとってはかえって邪魔に見えるものだろう。残念なことに現代においてはこの因果の法を無視することがまかり通っている。まずこの因果の法を知ることから始めなければならい時代である。「信解脱」は原始仏教の中にもあり、親鸞浄土教ほどではないが、釈尊の言葉を信じることから仏教は始まる。因果の法について言えば、「善因善果、悪因悪果」が中心である。
そう言いながらも、実際にはこの世界では悪徳が栄えるように見えることがある。これについてはすでに釈尊在世中から疑問を持つ者がいたようであり、また現代でも因果の法を語るときには反論されることだろう。釈尊も因果の表れる時間的なずれは認めた上で、時間的にずれることはあっても必ずこの因果は表れ、特にこの世を去ったときにはっきりとそれがわかるとしている。「悪いことをしても、その業は、刀剣のように直ぐに斬ることは無い。しかし、来世におもむいてから、悪い行いをした人々の行きつく先を知るのである。のちに、その報いを受けるときに、劇しい苦しみが起こる。」(「感興の言葉(ウダーナ・ヴァルガ)」)天上から地獄までの悪趣を含めた世界があることは釈尊の言葉にはっきりと説かれている。
こうしてこの世のことだけではなく「三世の因果」が説かれる。その上でさらにそれを越えて「この世とかの世をともに捨てた」彼岸の涅槃の世界が説かれている。「奔り流れる妄執の水流を涸らし尽くして余すことのない修行者は、この世とかの世とをともに捨てる。あたかも蛇が旧い皮を脱皮して捨てるようなものである」(「スッタニ・パータ(ブッダの言葉)」)。親鸞が「生死出づべき道」を求め、「後世」を祈るというのは、「三世の因果」を信じた上で、六道輪廻の中の最高所である天上世界に生まれたいのではなく、仏教が目指した六道輪廻を越えた世界に至ろうとしたからである。
そこに至るのもまた因果の理法による。「苦(果)、集(因)、滅(果)、道(因)」の「四諦」を観じ実践することで可能になる。「道諦」がその実践で、原始仏教では「八正道(正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)」、大乗仏教では「六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)」が説かれる。その実践を因として煩悩を断じ尽くせばこの世で彼岸に至る。
では現世で煩悩が滅し尽くさなかったら迷いの生死輪廻の中にとどまるかというとそうではない。現世で解脱できなかったとしてもあきらめる必要はなく、釈尊は仮に煩悩が残ったとしても四諦を観じて行じた者は迷いの生存には戻らないと説いている。道諦の因はこの世だけで滅諦の果をもたらすわけでなく、死後にも迷いの生死を離れるという滅諦の果を生じる。これは先に述べた、時間的にずれることはあっても必ず因果は表れ、特にこの世を去ったときにはっきりとそれがわかるとしたことの延長上にあり、「苦(果)、集(因)、滅(果)、道(因)」の「四諦」の因果と「三世の因果」を組み合わせたものである。
「どんな苦しみが生ずるのでも、すべて素因に縁って起こるのであるというのが、一つの観察である。しかしながら素因を残りなく止滅するならば、苦しみの生ずることがないというのが第二の観察である。修行僧らよ、このように二種を正しく観じて、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。すなわち現世における証智か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないこである」(「スッタニ・パータ(ブッダの言葉)」)同様の言葉が十六回繰り返されている。
即ち親鸞の「現生正定聚」「往生成仏」と同様のことが説かれている。釈尊においては自分がそうであるように「此土得聖」が中心だっただろうが、それだけではなく浄土教の「彼土入聖」に当たるものもすでに説かれている。浄土教の原点は確かに原始仏教にある。浄土教はしばしば聖道門から仏教ではないと批判される。それはこれから述べるように聖道門の因果の法の上にさらに浄土の因果の法を説いたからだが、仏教の基本からはずれてはいない。原始仏教の延長上にあり、むしろ浄土門が開かれたことで仏教は完成した面がある。
問題はこの因果の理法が、原始仏教においては此岸の衆生を出発点とし、そこから解脱するか、解脱せず生死の迷いを繰り返すかの、此岸から此岸へか、此岸から彼岸への一方通行の因果であることだ。この因果に基づくと現在の苦の果は過去の迷いの因の結果であり、また現在の苦と迷いが因となって来世の苦をもたらす。この連鎖の中にあることを知らされる。もし過去世において解脱していればもはやこの生に還ってくることはないので、この生があることは過去世で解脱していなかったことを示している。何よりも現世を苦と感じる限りは過去世で解脱があったとは思えない。過去世の迷いが現世の苦となっていると受け取られるのである。
そのため釈尊であっても、自分はこれまで幾生となく無益に生死の苦しみを経巡ってきたと述懐するのである。「わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、-あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。」(「真理の言葉(ダンマ・パダ=法句経の原典)」)親鸞もまた「世々生々にも迷いければこそありけめとまで思ひまゐらする身なれば」と言うが、これは聖道の因果を信じた結果である。これが実は此岸の衆生を起点とする「聖道の因果」の特徴の一つである。釈尊は実際には還相の如来・菩薩だったはずだが、自ら説いた此岸を起点とするこの因果に基づくとこのように言わざるをえないのである。
これがこの後に述べる浄土を起点とする「浄土の因果」になると違ってくる。法然はこの度の往生は三度目だが、今回はことに往生を遂げやすいと述べるし、また自ら還相の菩薩であることを述べるのである。「命終その期ちかづきて本師源空のたまはく往生みたびになりぬるにこのたびことにとげやすし」(親鸞「高僧和讃」)、「われ、もと極楽にありし身なれば、さだめてかへりゆくべし」(「法然上人行状絵図三十七」)。
これは因果の起点が此土から浄土に転換したことによる。「此岸の因果」では此岸を出発点とするので、その因果によって生死を繰り返し此岸に留まり続けるか彼岸に至るかのどちらかで、生死輪廻か往相かである。「浄土の因果」となると浄土の如来を出発点としてその廻向である往相と還相の両方向が出てくる。真実が循環する因果の法である。往相はどちらにもあるので、還相があるのが「浄土の因果」の特徴である。もし釈尊を還相の如来・菩薩として受け取るなら結果的に浄土の因果を認めることになる。聖道門でも大乗仏教では「久遠実成の釈迦仏」を説き、釈尊はその化現とする。これは浄土教の還相と同様の方向であり、浄土の因果を認めたのも同然だろう。結局仏教、特に大乗仏教としては往相、還相の両相があるのが望ましいのである。このように親鸞浄土教は仏教の因果の完成という意味をもっている。
話を元に戻し、自力の修行で煩悩を絶ち迷いと苦の因果の連鎖を乗り越えることができるなら、生死を越えて涅槃に至り再び生死に戻ることはない。しかしそれができないとなると、生死を繰り返すしかない。この此土の衆生を起点とする「聖道の因果」を信じることは仏教の基本だが、その因果を信じた結果もたらされるが、聖者の場合は出離だが、我々凡夫にとっては出離不能である。これが「機の深信」である。欲望人間にとっての因果の信である。この因果は逃れがたい業の連鎖として、過去も現在も未来も三世に渡り我々にのしかかってくる。今この苦界にいることがその因果が働いている何よりの証しである。
「聖道の因果」は元来因果律というものの理知的な理解を中心として、「生死輪廻」の生命の連続性という三世の生を信じることを組み合わせたものなので、「機の深信」は自分を深く見つめた結果もたらされる理知的な自覚でもある。ただしそれは分別知である。
ここにおいてもう一つの因果が要請される。それはすでに浄土にある如来を起点とする因果である「浄土の因果」である。浄土の如来の本願を因として此土の衆生がここで信心を得て救われる果がもたらされ、さらにそれをまた因として浄土への往生成仏という果がもたらされる。如来を起点、出発点とする如来廻向の因果である。これを信じるのが「法の深信」である。ここでの法は「浄土の因果の法」「如来廻向の因果の法」である。これが他力の世界である。この信は知に対応させれば無分別智でもある。これが「信心の智慧」である。「二種深信」は聖道の因果の信と浄土の因果の信を組み合わせたものである。「二種一具の信」と言われるが、そこには仏教の因果である「二種一具の因果」があり、それを信じるものだ。聖道門の因果を無視してはこの信はなりたたず、「造悪無碍」に陥るのはそのことがわかっていないからである。
この「浄土の因果の法」は、浄土の祖師から始まるが、この時代では法然がその端緒を開き、親鸞の「教行信証」によって完成されたと言っていいだろう。これにより仏教の因果の法が完成したと言える。往相、還相の両相をもった仏教となる。今我々はありがたいことに、すでに法然、親鸞によって完成されたものを受け取ることから始まっているが、これまでにないものを説くことの難しさは想像を絶するものがあるだろう。親鸞はしばしば経典の読み替えを行うが、「浄土の因果の法」を完成させる営みがそこにある。
そのように後に完成した立場から見れば法然の教えを受け取ることは容易だろうが、親鸞は長年比叡山で聖道門の修行をした人間であり、聖道門の因果が身にしみ込んでいる。それから見れば浄土の因果の世界へ進むのは、次の段階といいながらも大転換である。親鸞が六角堂にこもってから法然の弟子になるまでの百九十五日間がその難しさをよく表している。「恵信尼書状」を読みながら感慨深いものがあった。
また六角堂で受けた夢告は観音があなたの妻になるというものだったと考えられている。その夢告を記したのが「熊皮御影」である。これも出展(後期)されている。親鸞の悩みとその解決、その後の親鸞と恵信尼の出会いもここにある。青年の悩みと男女の出会い。その背後に見えるのが法然と阿弥陀仏の存在である。
靉光の絵と真実を求める青春群像
この他にも見るべきものは多々あるが、本願寺展を見た後、私は常設展も見たので先にそのことに触れておく。そこで見た絵に、親鸞と恵信尼像と重なるものがあった。それは靉光の天を仰ぐような自画像と、「コミサ」という俯いて祈るような女性像である。これが出会う前の親鸞と恵信尼の姿に重なって見えてくる。靉光(1907-1946)は広島県(北広島町壬生)出身の画家で、昨年2007年が生誕百年に当たり、それを記念する展覧会が東京国立近代美術館他、広島でも開かれた。その際にもこの絵を見たが、今回特に印象に残った。昨年はまた1207年の「承元(建永)の法難」から八百年の年だったが奇縁である。
靉光の自画像は三種類あるが、広島県立美術館所蔵のものは「帽子をかむる自画像」である。この自画像は戦争中に描かれたもので、そのどこか天の一角を仰ぐような姿は苦難の時代の中で真実の美を求めてあがいている姿のようにも、また救いを求めている姿のようにも見える。年齢的には三十代半ばのものだが、真実を求め苦しむ青年の自画像と言っていいだろう。この時代の多くの若者が同じような気持ちだったかもしれない。美を求める画家は誰よりも敏感に困難な時代の中で真実を求めようとしていたように見える。その姿に比叡山時代の親鸞と重なるものを感じる。親鸞も比叡山で真実を求めながらしばしば天を仰ぐことがあったのではなかろうか。キリスト教に「神の沈黙」といわれるものがある。求めても祈っても神は沈黙したままであることを表すものだ。仏教でこれを言えば「如来の沈黙」ということになるだろう。求めても得られないものをなお求めざるをえない人間の姿がここにある。これが法然と出会う前、本願と出会う前の、後世を祈っていた親鸞の姿だろうと思う。人がいつか一度は通る道である。
もう一つの「コミサ」は靉光二十代の作品である。傘に寄りかかって目を閉じた少女は俯いて祈っているように見える。題名は作者の妹の名を取ったものだが、その雰囲気がキリスト教の「ミサ」を連想させる。少女の祈りに救いを求めるものを感じる。この作品は作者が傾倒したルオーの影響が強く出ていると言われる。ルオーはキリスト教の宗教画家としてよく知られ、この作品もルオーのもつ宗教性を引き継いでいるように見える。
私にはこれが親鸞と出会う前の恵信尼の姿と重なるように見える。彼女は晩婚で親鸞との出会いの経緯ははっきりしないが、彼女もただ自分の幸せを祈るということだけではなく、親鸞同様に後世を祈る気持ちが強かったのではあるまいか。そうでなくただ幸せな結婚を望むだけなら、当時はありえなかった僧侶との結婚に踏み切るはずがない。二人がどこで結ばれたかははっきりしないが、同じく法然の教えを聞いた縁があったと考える方が自然に思える。だからまた親鸞も法然に出会うまでの自分のことを彼女に語ったのだと思う。靉光の作品は、妹の結婚を機にその結婚前にこの作品を描いたと言われる。妹は自分のこれからの幸を祈っていたのだろうか。あるいは靉光は自分の気持ちを妹に投影したのかもしれないし、また妹を自分の理解者として自分の気持ちを代弁させたのかもしれない。この仰ぐ像と俯く像が、やがて真実において出会うとき、親鸞と恵信尼の像のように向かい合う像になるように見えるのである。
親鸞と恵信尼の出会い以来、青春と浄土教の縁は深い。それは20世紀においても顕著である。「歎異抄」が青年を中心に一般に読まれ始めたのは清沢満之(1863-1903)とその門下の影響が大きい。清沢満之が「精神界」を発行したのが1901年で20世紀の初めの年である。広島県庄原市出身の倉田百三(1891-1943)が「歎異抄」を下敷きにして書いた「出家とその弟子」は1916年に発表され、ベストセラーとなった。「出家とその弟子」は青春の宗教文学である。またすでに述べたように、「歎異抄」と同様に、親鸞の言葉を実際にその場で聞いた「親鸞ライブ」としてそれを記した恵信尼の「恵信尼書状」が西本願寺で発見されたのは1921年のことだ。そこには青年親鸞の姿と恵信尼の姿が記されている。これが発見されるまで恵信尼の存在は今のように大きくはなかったはずだ。当時の「歎異抄」や「恵信尼書状」は古典というよりも、新しく発見された書物として青年の心を捕らえたのだと思う。
また先に述べた靉光は20世紀前半を生きた画家であり、ここにも同じく20世紀前半の青春がある。靉光の自画像と「コミサ」は20世紀の青春群像を代表するかのようだ。「歎異抄」や「恵信尼書状」を受け入れたのも、靉光の絵を受け入れたのも、彼ら20世紀前半の青春群像だったのだろう。親鸞と恵信尼の物語は20世紀前半を生きた若者の青春と呼応するものを宿した永遠の青春と言うべきものがあったのだと思う。これは単なるロマンティシズムではない。青春の真剣な真実と愛を求める姿がそこにある。親鸞と恵信尼の存在は「無量寿」に照らし出された青春であり、二人なのである。そこに惹かれた若者はそれを一つの理想像としたのだろう。
 
恵信尼消息2

 

本書は大正時代になってはじめて公表されたもので、親鸞聖人の内室、恵信尼公が弘長3年(1263)から文永5年(1268)に至る6年間にわたって、末娘の覚信尼公にあてて書き送られた8通の手紙である。なおそのほかに譲状2通と、『大経』の音読仮名書が添えられている。最初の4通は、聖人の御往生について覚信尼公から書状を受け取った際に、聖人のことを懐かしく回想されて書かれたものである。これらの書状のなかでとくに注目すべきものは、聖人が比叡山で堂僧をつとめられていたことや、法然上人との出会いに至るまでのことを示した記事であろう。また聖人がかつて三部経千回読誦を中止されたことを回顧された記述や、法然上人が勢至の化身であり聖人が観音の化身であるという恵信尼公の夢のことなども注意すべきである。他の6通には恵信尼公の身辺のもようが記されている。このように本書は、聖人の生涯、さらに聖人と恵信尼公、覚信尼公と恵信尼公との間柄を伝える貴重な資料でもある。  
(1)
去年の十二月一日の御文、同二十日あまりに、たしかにみ候ひぬ。なによりも殿(親鸞)の御往生、なかなかはじめて申すにおよばず候ふ。
山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて後世をいのらせたまひけるに、九十五日のあか月、聖徳太子の文を結びて、示現にあづからせたまひて候ひければ、やがてそのあか月出でさせたまひて、後世のたすからんずる縁にあひまゐらせんとたづねまゐらせて、法然上人にあひまゐらせて、また六角堂に百日籠らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふにもまゐりてありしに、ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを、うけたまはりさだめて候ひしかば、「上人のわたらせたまはんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世々生々にも迷ひければこそありけめとまで思ひまゐらする身なれば」と、やうやうに人の申し候ひしときも仰せ候ひしなり。
さて、常陸の下妻と申し候ふところに、さかいの郷と申すところに候ひしとき、夢をみて候ひしやうは、堂供養かとおぼえて、東向きに御堂はたちて候ふに、しんがくとおぼえて、御堂のまへにはたてあかししろく候ふに、たてあかしの西に、御堂のまへに、鳥居のやうなるによこさまにわたりたるものに、仏を掛けまゐらせて候ふが、一体はただ仏の御顔にてはわたらせたまはで、ただひかりのま中、仏の頭光のやうにて、まさしき御かたちはみえさせたまはず、ただひかりばかりにてわたらせたまふ。
いま一体はまさしき仏の御顔にてわたらせたまひ候ひしかば、「これはなに仏にてわたらせたまふぞ」と申し候へば、申す人はなに人ともおぼえず、「あのひかりばかりにてわたらせたまふは、あれこそ法然上人にてわたらせたまへ。
勢至菩薩にてわたらせたまふぞかし」と申せば、「さてまた、いま一体は」と申せば、「あれは観音にてわたらせたまふぞかし。あれこそ善信の御房(親鸞)よ」と申すとおぼえて、うちおどろきて候ひしにこそ、夢にて候ひけりとは思ひて候ひしか。
さは候へども、さやうのことをば人にも申さぬときき候ひしうへ、尼(恵信尼)がさやうのこと申し候ふらんはげにげにしく人も思ふまじく候へば、てんせい人にも申さで、上人(法然)の御事ばかりをば、殿に申して候ひしかば、「夢にはしなわいあまたあるなかに、これぞ実夢にてある。
上人をば、所々に勢至菩薩の化身と夢にもみまゐらすることあまたありと申すうへ、勢至菩薩は智慧のかぎりにて、しかしながら光にてわたらせたまふ」と候ひしかども、観音の御ことは申さず候ひしかども、心ばかりはそののちうちまかせては思ひまゐらせず候ひしなり。
かく御こころえ候ふべし。
されば御りんずはいかにもわたらせたまへ、疑ひ思ひまゐらせぬうへ、おなじことながら、益方も御りんずにあひまゐらせて候ひける、親子の契りと申しながら、ふかくこそおぼえ候へば、うれしく候ふ、うれしく候ふ。
またこの国は、去年の作物、ことに損じ候ひて、あさましきことにて、おほかたいのち生くべしともおぼえず候ふなかに、ところどもかはり候ひぬ。一ところならず、益方と申し、またおほかたはたのみて候ふ人の領どもみなかやうに候ふうへ、おほかたの世間も損じて候ふあひだ、なかなかとかく申しやるかたなく候ふなり。かやうに候ふほどに、年ごろ候ひつる奴ばらも、男二人、正月うせ候ひぬ。なにとして物をも作るべきやうも候はねば、いよいよ世間たのみなく候へども、いくほど生くべき身にても候はぬに、世間を心ぐるしく思ふべきにも候はねども、身一人にて候はねば、これらが、あるいは親も候はぬ小黒女房の女子、男子、これに候ふうへ、益方が子どもも、ただこれにこそ候へば、なにとなく母めきたるやうにてこそ候へ。いづれもいのちもありがたきやうにこそおぼえ候へ。
この文ぞ、殿の比叡の山に堂僧つとめておはしましけるが、山を出でて、 六角堂に百日籠らせたまひて後世の事いのりまうさせたまひける九十五日の あか月の御示現の文なり。御覧候へとて書きしるしてまゐらせ候ふ。  
(2)
「ゑちごの御文にて候ふ」
この文を書きしるしてまゐらせ候ふも、生きさせたまひて候ひしほどは、申しても要候はねば申さず候ひしかど、いまはかかる人にてわたらせたまひけりとも、御心ばかりにもおぼしめせとて、しるしてまゐらせ候ふなり。よく書き候はん人によく書かせてもちまゐらせたまふべし。
またあの御影の一幅、ほしく思ひまゐらせ候ふなり。幼く、御身の八つにておはしまし候ひし年の四月十四日より、かぜ大事におはしまし候ひしときのことどもを書きしるして候ふなり。
今年は八十二になり候ふなり。一昨年の十一月より去年の五月までは、いまやいまやと時日を待ち候ひしかども、今日までは死なで、今年の飢渇にや飢死もせんずらんとこそおぼえ候へ。かやうの便りに、なにもまゐらせぬことこそ心もとなくおぼえ候へども、ちからなく候ふなり。
益方殿にも、この文をおなじ心に御伝へ候へ。もの書くことものうく候ひて、別に申し候はず。
「弘長三年癸亥」   二月十日  
(3)  
善信の御房(親鸞)、寛喜三年四月十四日午の時ばかりより、かざ心地すこしおぼえて、その夕さりより臥して大事におはしますに、腰・膝をも打たせず、てんせい看病人をもよせず、ただ音もせずして臥しておはしませば、御身をさぐればあたたかなること火のごとし。頭のうたせたまふこともなのめならず。
さて、臥して四日と申すあか月、くるしきに、「まはさてあらん」と仰せらるれば、「なにごとぞ、たはごととかや申すことか」と申せば、「たはごとにてもなし。臥して二日と申す日より、『大経』をよむことひまもなし。たまたま目をふさげば、経の文字の一字も残らず、きららかにつぶさにみゆるなり。さて、これこそこころえぬことなれ。念仏の信心よりほかにはなにごとか心にかかるべきと思ひて、よくよく案じてみれば、この十七八年がそのかみ、げにげにしく三部経を千部よみて、すざう利益のためにとてよみはじめてありしを、これはなにごとぞ、〈自信教人信難中転更難〉(礼讃)とて、みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、まことの仏恩を報ひたてまつるものと信じながら、名号のほかにはなにごとの不足にて、かならず経をよまんとするやと、思ひかへしてよまざりしことの、さればなほもすこし残るところのありけるや。人の執心、自力のしんは、よくよく思慮あるべしとおもひなしてのちは、経よむことはとどまりぬ。さて、臥して四日と申すあか月、〈まはさてあらん〉とは申すなり」と仰せられて、やがて汗垂りてよくならせたまひて候ひしなり。
三部経、げにげにしく千部よまんと候ひしことは、信蓮房の四つの歳、武蔵の国やらん、上野の国やらん、佐貫と申すところにてよみはじめて四五日ばかりありて、思ひかへしてよませたまはで、常陸へはおはしまして候ひしなり。 信蓮房は未の年三月三日の昼生れて候ひしかば、今年は五十三やらんとぞおぼえ候ふ。
弘長三年二月十日   恵信 
(4)
御文のなかに先年に、寛喜三年の四月四日より病ませたまひて候ひしときのこと書きしるして、文のなかに入れて候ふに、そのときの日記には、四月の十一日のあか月、「経よむことは、まはさてあらん」と仰せ候ひしは、やがて四月の十一日のあか月としるして候ひけるに候ふ。それを数へ候ふには、八日にあたり候ひけるに候ふ。四月の四日よりは八日にあたり候ふなり。
わかさ殿申させたまへ   ゑしん 
(5)
もし便りや候ふとて、ゑちうへこの文はつかはし候ふなり。さても一年、八十と申し候ひし年、大事のそらうをして候ひしにも、八十三の歳ぞ一定と、ものしりたる人の文どもにも、おなじ心に申し候ふとて、今年はさることと思ひきりて候へば、生きて候ふとき卒都婆をたててみ候はばやとて、五重に候ふ石の塔を丈七さくにあつらへて候へば、塔師造ると申し候へば、いできて候はんにしたがひてたててみばやと思ひ候へども、去年の飢渇に、なにも、益方のと、これのと、なにとなく幼きものども上下あまた候ふを、殺さじとし候ひしほどに、ものも着ずなりて候ふうへ、しろきものを一つも着ず候へば、(以下欠失)
一人候ふ。またおと法師と申し候ひし童をば、とう四郎と申し候ふぞ。そ れへまゐれと申し候ふ。さ御こころえあるべく候ふ。けさが娘は十七になり 候ふなり。さて、ことりと申す女は、子も一人も候はぬときに、七つになり 候ふ女童をやしなはせ候ふなり。それは親につきてそれへまゐるべく候ふなり。よろづ尽しがたくて、かたくてとどめ候ひぬ。あなかしこ、あなかしこ。 
(6)
便りをよろこびて申し候ふ。たびたび便には申し候へども、まゐりてや候ふらん。
今年は八十三になり候ふが、去年・今年は死年と申し候へば、よろづつねに申しうけたまはりたく候へども、たしかなる便りも候はず。
さて、生きて候ふときと思ひ候ひて、五重に候ふ塔の七尺に候ふ石の塔をあつらへて候へば、このほどは仕いだすべきよし申し候へば、いまはところどもはなれ候ひて、下人どもみな逃げ失せ候ひぬ。よろづたよりなく候へども、生きて候ふとき、たててもみばやと思ひ候ひて、このほど仕いだして候ふなれば、これへ持つほどになりて候ふときき候へば、いかにしても生きて候ふとき、たててみばやと思ひ候へども、いかやうにか候はんずらん。そのうちにもいかにもなり候はば、子どももたて候へかしと思ひて候ふ。
なにごとも生きて候ひしときは、つねに申しうけたまはりたくこそおぼえ候へども、はるばると雲のよそなるやうにて候ふこと、まめやかに親子の契りもなきやうにてこそおぼえ候へ。
ことには末子にておはしまし候へば、いとほしきことに思ひまゐらせて候ひしかども、みまゐらするまでこそ候はざらめ。つねに申しうけたまはることだにも候はぬこと、よに心ぐるしくおぼえ候ふ。
「文永元年甲子」   五月十三日
ぜんあくそれへの殿人どもは、もと候ひしけさと申すも、娘うせ候ひぬ。 いまそれの娘一人候ふ。母めもそらうものにて候ふ。さて、おと法師と申し 候ひしは、男になりて、とう四郎と申すと、また女の童のふたばと申す女の 童、今年は十六になり候ふ女の童は、それへまゐらせよと申して候ふなり。なにごとも御文に尽しがたく候ひてとどめ候ひぬ。またもとよりのことり、七つ子やしなはせて候ふも候ふ。
   五月十三日(花押)
これはたしかなる便りにて候ふ。ときに、こまかにこまかに申したく候へ ども、ただいまとて、この便りいそぎ候へば、こまかならず候ふ。またこの ゑもん入道殿の御ことばかけられまゐらせて候ふとて、よろこび申し候ふな り。この便りはたしかに候へば、なにごともこまかに仰せられ候ふべし。あなかしこ。  
(7)
便りをよろこびて申し候ふ。
さては去年の八月のころより、とけ腹のわづらはしく候ひしが、ことにふれてよくもなり得ず候ふばかりぞ、わづらはしく候へども、そのほかは年の故にて候へば、いまは耄れてさうたいなくこそ候へ。今年は八十六になり候ふぞかし、寅の年のものにて候へば。
またそれへまゐらせて候ひし奴ばらも、とかくなり候ひて、ことりと申し候ふ年ごろのやつにて、三郎たと申し候ひしがあひ具して候ふが、入道になり候ひてさいしんと申し候ふ。入道めにはちあるもののなかのむまのぜうとかや申して御家人にて候ふものの娘の、今年は十やらんになり候ふを、母はよにおだしくよく候ひし、かがと申してつかひ候ひしが、一年の温病の年死にて候ふ。親も候はねば、ことりも子なきものにて候ふ。ときにあづけて候ふなり。
それまた、けさと申し候ひし娘の、なでしと申し候ひしが、よによく候ひしも、温病に亡せ候ひぬ。その母の候ふも、年ごろ頭に腫物の年ごろ候ひしが、それも当時大事にて、たのみなきと申し候ふ。その娘一人候ふは、今年は二十になり候ふ。それとことり、またいとく、またそれにのぼりて候ひしときおと法師とて候ひしが、このごろとう四郎と申し候ふは、まゐらせんと申し候へば、父母うちすててはまゐらじと、こころには申し候ふと申し候へども、それはいかやうにもはからひ候ふ。かくゐ中に人にみを入れて代りをまゐらせんとも、栗沢(信蓮房)が候はんずれば申し候ふべし。ただし代りはいくほどかは候ふべきとぞおぼえ候ふ。これらほどの男は世にすくなく申し候ふなり。
また小袖たびたびたまはりて候ふ。うれしさ、いまはよみぢ小袖にて衣も候はんずれば、申すばかり候はずうれしく候ふなり。いまは尼が[恵信尼]着て候ふものは、最後のときのことはなしては思はず候ふ。いまは時日を待つ身にて候へば。
またたしかならん便に、小袖賜ぶべきよし仰せられて候ひし。このゑもん入道の便りはたしかに候はんずらん。また宰相殿はありつきておはしまし候ふやらん。よろづ公達のことども、みなうけたまはりたく候ふなり。尽しがたくてとどめ候ひぬ。あなかしこ、あなかしこ。
   九月七日
またわかさ殿も、いまは年すこし寄りてこそおはしまし候ふらめ。あはれ、ゆかしくこそ思ひ候へ。年寄りてはいかがしくみて候ふ人も、ゆかしくみたくおぼえ候ひけり。かこのまへのことのいとほしさ、上れんばうのことも思ひいでられてゆかしくこそ候へ。あなかしこ、あなかしこ。
      ちくぜん
わかさ殿申させたまへ   とひたのまきより  
(8)
「わかさ殿」
便りをよろこびて申し候ふ。
さては、今年まであるべしと思はず候ひつれども、今年は八十七やらんになり候ふ。寅の年のものにて候へば、八十七やらん八やらんになり候へば、いまは時日を待ちてこそ候へども、年こそおそろしくなりて候へども、しはぶくこと候はねば、唾など吐くこと候はず。腰・膝打たすると申すことも当時までは候はず。ただ犬のやうにてこそ候へども、今年になり候へば、あまりにものわすれをし候ひて、耄れたるやうにこそ候へ。
さても去年よりは、よにおそろしきことどもおほく候ふなり。
またすかいのものの便りに、綾の衣賜びて候ひしこと、申すばかりなくおぼえ候ふ。いまは時日を待ちて居て候へば、これをや最後にて候はんずらんとのみこそおぼえ候へ。当時までもそれより賜びて候ひし綾の小袖をこそ、最後のときのと思ひてもちて候へ。よにうれしくおぼえ候ふ。衣の表もいまだもちて候ふなり。
また公達のこと、よにゆかしくうけたまはりたく候ふなり。上の公達の御ことも、よにうけたまはりたくおぼえ候ふ。あはれ、この世にていま一度みまゐらせ、またみえまゐらすること候ふべき。わが身は極楽へただいまにまゐり候はんずれ。なにごともくらからず、みそなはしまゐらすべく候へば、かまへて御念仏申させたまひて、極楽へまゐりあはせたまふべし。なほなほ極楽へまゐりあひまゐらせ候はんずれば、なにごともくらからずこそ候はんずれ。
またこの便は、これにちかく候ふみこの甥とかやと申すものの便に申し候ふなり。あまりにくらく候ひてこまかならず候ふ。またかまへてたしかならん便りには、綿すこし賜び候へ。をはりに候ふ、ゑもん入道の便りぞ、たしかの便りにて候ふべき。それもこのところにまゐることの候ふべきやらんときき候へども、いまだ披露せぬことにて候ふなり。
またくわうず御前の修行に下るべきとかや仰せられて候ひしかども、これへはみえられず候ふなり。
またわかさ殿のいまはおとなしく年寄りておはし候ふらんと、よにゆかしくこそおぼえ候へ。かまへて念仏申して極楽へまゐりあはせたまへと候ふべし。
なによりもなによりも公達の御事、こまかに仰せ候へ。うけたまはりたく候ふなり。一昨年やらん生れておはしまし候ひけるとうけたまはり候ひしは、それもゆかしく思ひまゐらせ候ふ。
またそれへまゐらせ候はんと申し候ひし女の童も、一年の大温病におほく亡せ候ひぬ。ことりと申し候ふ女の童も、はや年寄りて候ふ。父は御家人にてむまのぜうと申すものの娘の候ふも、それへまゐらせんとて、ことりと申すにあづけて候へば、よに無道げに候ひて、髪などもよにあさましげにて候ふなり。ただの童にて、いまいましげにて候ふめり。
けさが娘のわかばと申す女の童の、今年は二十一になり候ふが、妊みて、この三月やらんに子産むべく候へども、男子ならば父ぞ取り候はんずらん。さきにも五つになる男子産みて候ひしかども、父相伝にて父が取りて候ふ。これもいかが候はんずらん。わかばが母は、頭になにやらんゆゆしげなる腫物のいでき候ひて、はや十余年になり候ふなるが、いたづらものにて時日を待つやうに候ふと申し候ふ。
それに上りて候ひしをり、おと法師とて童にて候ひしが、それへまゐらすべきと申し候へども、妻子の候へば、よもまゐらんとは申し候はじとおぼえ候ふ。尼(恵信尼)がりんずし候ひなんのちには、栗沢(信蓮房)に申しおき候はんずれば、まゐれと仰せ候ふべし。
また栗沢はなにごとやらん、のづみと申す山寺に、不断念仏はじめ候はんずるに、なにとやらん撰じまうすことの候ふべきとかや申すげに候ふ。五条殿の御ためにと申し候ふめり。
なにごとも申したきことおほく候へども、あか月、便りの候ふよし申し候へば、夜書き候へば、よにくらく候ひて、よも御覧じ得候はじとてとどめ候ひぬ。
また、針すこし賜び候へ。この便にても候へ。御文のなかに入れて賜ぶべく候ふ。なほなほ公達の御事こまかに仰せたび候へ。うけたまはり候ひてだになぐさみ候ふべく候ふ。よろづ尽しがたく候ひて、とどめ候ひぬ。
また、さいさう殿いまだ姫君にておはしまし候ふやらん。
あまりにくらく候ひて、いかやうに書き候ふやらん、よも御覧じ得候はじ。
   三月十二日亥の時  
 
発掘「歎異抄」

 

私の頭にモデルとしてあったのは、親鸞の「末灯抄」などの和文の消息類や、その流れを引く蓮如の「御文」である。漢文中心だった仏教が和文で表現されていくということが、鎌倉新仏教以降の流れとしてあり、これは大事なことだと思っている。蓮如の布教は行動力とともに、大量の「御文」による文書伝道と名号本尊を書き与えることによっていると言えるだろう。「御文」は親鸞の和文の消息類に基があり、名号本尊も親鸞の独創で親鸞から始まると言われる。親鸞にとっても蓮如にとっても、消息や「御文」を書くことと、名号本尊を書くことは、その一つ一つがともに「本願念仏」を伝えることだったのだと思う。私の一話一話もそうありたいと思って書いたものである。
親鸞の名号本尊は、誰でも本尊を持てるものである。これは仏教を貴族文化から一般民衆に解放したという面で大きな意味がある。寺や仏像は貴族しか持てないが、名号本尊があれば、家がそのまま道場となるのである。在家仏教という面ではこれは大きな意味をもつ。もう一つ仏像や仏画はそれを拝むことにより偶像崇拝に陥りやすいという問題がある。名号本尊はそこに表れた、ある精神そのものを直接受け取るものであり、親鸞の念仏が何であったかをよく表している。つまり親鸞による偶像崇拝の否定という面があり、私は現代においてはその意味をあらためて受け取り直す必要があると思っている。偶像崇拝ではない「真実」の宗教としての真宗がここにある。このようにある精神をそのまま伝えていくということが宗教伝道の中心であり、親鸞はそのためだけに生きたと言えるだろう。その純粋さが「歎異抄」を支えているものである。
現代では宗教はしばしば偶像崇拝や現世利益に過ぎないと批判される。崇拝の対象は物体やカリスマとして外にあるものだけとは限らない。我々は心の中に観念としてそれを作り出し、結果的に自我の補強を行っていることが多い。宗教紛争の基はここにあり、偶像崇拝の問題を解決するだけでも宗教はわかると言ってもいいくらいである。自我の補強手段である偶像崇拝でもなく、この世に人々を縛り付ける現世利益でもないのが、親鸞の伝えようとした「真実」である「本願念仏」の精神である。
人々の心から見失われた「真実」を、あらためて現代の文章の中に込めて、世の人々に伝えたいというのが私の願いであり、この世界に「本願念仏」の精神を伝えることは、「全員聞法、全員伝道」を基本とする「非僧非俗」の同朋教団として、親鸞の後継者である真宗門徒の等しくなすべきことだろう。本書は一念仏者による、その一つの試みである。
現代における宗教の伝え方
宗教の伝え方はその人が宗教をどう受け取っているかによって変わってくるので人それぞれである。真宗では先に述べた文書伝道と名号本尊とともに、「歎異抄」に見られるように、説法と聴聞が重視された。「歎異抄」は親鸞の語録を基にして当時の異義を批判するという形をとっているが、「歎異抄」が広く読まれるようになったのは親鸞の語録、特にその対機説法の魅力によるところが大きい。直に親鸞に接した人が書いた「親鸞ライブ」という面がある。これは先に述べた「本願念仏」の精神の体現者の自由自在に語る姿を写し出しているからである。これが教条主義的な真宗理解を越えたものをよく表している。親鸞がただの思想家、イデオローグではないことをよく表している。唯円の「歎異」の異義批判の部分には、まだ教条主義を脱し切れていない部分が感じられる。
親鸞その人の表したこの自由度は「自然法爾」という言葉によく表れているが、現代において新たに表現をしようとするときは、親鸞の書いたものを教条主義的に受け取ることを越えないとできないという面がある。浄土教の近代化、現代化を進めようとするとしばしばこの壁に突き当たる。教条主義的、原理主義的な親鸞浄土教の受け取り方との溝がどうしても生じる。20世紀初頭に始まった清沢満之の改革もその壁との戦いだったと言えるだろう。こういった新たなものを生み出すエネルギーが教団内部のことで消耗されてしまうのははなはだ惜しむべきことだと思う。
そもそも「歎異抄」が青年を中心に一般に読まれ始めたのは20世紀になってからのことだ。また「歎異抄」と同様に、親鸞の言葉を実際にその場で聞いた「親鸞ライブ」として、それを記した恵信尼の「恵信尼消息」が西本願寺で発見されたのは1921年のことだ。そこには青年親鸞の姿が記されている。「歎異抄」や「恵信尼消息」は新しい書物として青年の心を捕らえたのだと思う。それは親鸞再発見という面があった。しかし新しさは有名になればなるほどその力は減じてしまうという面がある。
そうこうしている間に、宗教を巡る世のあり方は激変している。私自身の経験でも真宗を巡る環境はこの十年ほどで相当変わったと言える。20世紀から21世紀にかけての世紀の変わり目に、世代交代の波とともに変化が押し寄せているのだろう。戦後に育った人は戦後教育の影響や繁栄する物質文明の中で育った環境のせいか、概して宗教に無関心である。真宗の法座もお参りする人がかなり減っている。私がよく聴聞に行く広島で明治時代から続く「闡教部」という門徒による自主的な講があるが、そこでその変化を実感している。内部で異義だ、異端だ、異安心だと、言い争っている間に真宗そのものが衰退の危機に瀕しているというのが実態だろうと思う。連綿として伝えられてきた「本願念仏」の精神が伝わらなくなることは大変な事態である。私はそれを様々な表現を通してもう一度伝えたいと思っている。
その際に人々から敬遠されつつある宗教を宗教そのものとして語るだけではなく、その精神の表れを様々な事象や文化を通して語ることも必要だと思っている。宗教の偉大さは、それがこの世界だけではなく、全世界大の大きさで、全てを包含していることにある。私の目には宗教から漏れるものは何一つとしてないように見える。それが見えなくなった現代というのは異常な時代に見えるし、人々がそれで平気で生きているのはおかしいのではないかとさえ思う。しかし本当は人々の心の中は相当すさんでいるのだろう。日本での年間三万人という自殺者の数もそのことをよく表しているだろう。
私が宗教を伝えるに当たって重視しているものに、芸術と哲学がある。いずれも宗教の精神がそのまま表れやすい領域であり、宗教芸術、宗教哲学というものもある。浄土教の浄土も「本願」という根本精神の芸術的表現と言っていいものである。芸術と哲学は、宗教の具象的表現と抽象的表現、あるいは感性的、情緒的表現と知的表現という面がある。阿弥陀三尊は阿弥陀仏を中心に観音菩薩と勢至菩薩からなり、これは観音が阿弥陀仏の慈悲を、勢至が阿弥陀仏の智慧を表すと言われる。これは宗教を中心において芸術と哲学が言わば三尊を形成していることと対応していると思う。観音に当たるのが芸術、勢至に当たるのが哲学である。また、仏教全体、さらには宗教全体としては、三尊は慈悲の宗教である浄土教と智慧の宗教である禅の役目にも対応していると思う。鈴木大拙もそのように浄土教と禅を理解していたのだろう。それで私もこの三尊的な表現で浄土教を語ることをしてきている。名付けようのないある世界の根本精神の表れを、私はそれを仮に「本願」と語っているのだが、「本願」を「本願」として語るとともに、さらにその表れとして、芸術と哲学、具体的表現と抽象的表現、慈悲や愛と智慧の他の宗教を語る形である。
他の宗教も語るというのは、愛の宗教としてのキリスト教がその典型となる。私の語るキリスト教は現在ある正統的なキリスト教とは表面的には違うかもしれないが、私にはキリスト教が伝えようとしたものがよくわかるので、それをしばしば文章に取り入れている。キリスト教が世界宗教なら同じく浄土教も世界宗教である。真宗が日本だけの宗教であるのは本来のあり方ではないし、世界の人々に語っていくときに必要な表現を供えるべきだと思っている。「発掘歎異抄親鸞を読み解く百話」はその一つの試みでもある。
悪人正機について
「歎異抄」に表れた浄土教の精神の一つがいわゆる「悪人正機」である。これはもとは法然の口伝にあったと思われ、真宗側ではそのように伝承されてきた。浄土宗の側では必ずしもそうではなかったようだが、これについては梶村昇氏の詳しい論考があり、「悪人正機」は親鸞や源智といった限られた門弟に語られた口伝だったと考えて間違いないだろう。法然はその影響の大きさからこれを誤解する可能性のない限られた門弟に語ったようで、これとは別の表現も伝わっているが、親鸞はこれこそ浄土教の中心精神と考え、語ったと思われる。それで真宗の側ではこれを公開して伝道したわけである。
その結果が、おそらくは法然もおそれた「造悪無碍」となって表れるのであり、「真実」を伝えることの難しさがここによく表れている。しかしこの壁の前で立ちすくんでは道徳と変わらない宗教になる。それを乗り越えて進んだのが親鸞の歩みだった。「歎異抄」はその親鸞の姿を実によく捉えている。私もその精神を現代に伝えていきたいと思っている。「歎異抄を読む―悪人正機の時代を生きる―」という本の副題もその気持ちを込めているし、「発掘歎異抄親鸞を読み解く百話」でも多くの回を「悪人正機」を語ることに当てている。
先に宗教の三尊について述べ、慈悲、愛の宗教としての浄土教と、智慧の宗教としての禅ということを述べたが、これは言葉を換えれば「救い」の宗教と「悟り」の宗教と言ってもいいものであり、私は宗教の二大原理を「救い」と「悟り」、救済と覚醒だと思っている。他に加える原理としては創造原理だろうと思っている。浄土教の中心は「救い」を語ることにあり、自分の役目もそれにあると思っている。その上で結果的にそこで語られることは、「悟り」の宗教や「創造」の宗教で語られることとも合致すると思っている。
そのように受け取っているので「救い」の究極的表現とも言える「悪人正機」はこれを語らずして救いは成就しないものであり、「本願成就」の証しこそが、この私が救われる「悪人正機」なのである。「悪人正機」なくして「本願」なしというのが私の立場であり、それを語るのが親鸞の役目だった。それが招く誤解は「歎異抄」に語られている通りである。私もそれを語る以上は誤解と非難は覚悟している。
しかしできれば誤解を避け、その「真実」を受け取ってもらいたいと思い、あらゆる角度からこれを捉えている。言わば「真実」の門として「悪人正機」を語るという形をとっている。「歎異抄」を知り、「悪人正機」を知った人の多くがその門の前で立ち止まってしまっている。夏目漱石が「門」で、禅を取り上げて同様のことを語っているが、せっかく門の前まで来ながらそこで立ち止まり、結局は常識、あるいは良識に留まって虚しくこの人生を終わる人の何と多いことか。禅と同じく「百尺竿頭」に一歩を進めなければ「真実」の門は開かれない。これが親鸞にとっては「悪人」の自覚であり、それとともに起こる「信」だった。その一歩を踏み出したときに救いは表れるのであり、自分の側に踏みとどまったまま、自分にしがみついたまま救いを求めてもそれは救いようがない。
そしてその自覚は必ずしも「悪」だけとは限らない。「悪」というのは、如来と自分を「善悪」の軸で語るものだが、如来と自分の軸は無数と言っていいほどあり、その捉え方は人それぞれである。仮にそれを古来宗教でよく語られてきた「善悪」の軸で語っているのである。別の言い方では仏教で言ってきた、「無明」と「無常」の自覚でも同じである。阿弥陀仏は人間の「無明」に対しては「無限の光明」である「無量光」として、「無常」に対しては「永遠の命」である「無量寿」として語られている。「無明」と「無常」に閉じ込められた人間の解放者が「無量光」「無量寿」である阿弥陀仏である。そこから我々を解放しようとするのが「本願」であり、「本願念仏」が全ての人に与えられたその解放の鍵なのである。「二種深信」が「二種一具」として語られているように、「法の深信」と「機の深信」「救い」を受け取ることと「無明」「無常」の自覚はセットであり、何の自覚もなくただ「無明」「無常」の側に腰をおろしたまま救われることはありえない。
釈尊の説いた「因果(縁起)の法」は此岸の衆生を出発点とし彼岸へ至る因果だが、このわかりやすい因果をまず信じることが仏教の主発点である。聖道門仏教がそうであるようにこの修行が可能ならこれだけもかまわない。しかしまたその因果を信じるだけでは無始以来流転し続ける自分の愚かさを知らされるだけという人もいる。これが「機の深信」に当たるが、そこに浄土の如来を出発点とするもう一つの因果である「浄土の因果」が説かれるとき救いの門が開かれる。これが「法の深信」である。二つの因果は同じく因果の法である。この因果が展開していることに人は気付こうとしない。せめて此岸の因果だけでも信じることがなければ出離はない。そこに人間の愚かさがよく表れている。因果の中にある自分の自覚を促すとともにそこに表れる救いを語るのが親鸞のやり方である。
親鸞の場合はしばしばこれを「悪」の自覚として語るが、それは親鸞が本来極めて倫理観の強い人間だからであり、微細なことも「罪」として感じるからである。「悪」の方で語るのは、「無明」の側で自覚と救いを語ることと同じである。蓮如は主として「無常」の側でこの救いを語っている。親鸞と語り方は違っても「無常」の自覚を促すともにそこからの「救い」を語っている。私もこの伝統を受け継ぎつつ、「無明」と「無常」の自覚を語り、それとともにそこからの解放を「救い」として語っている。
これらはできるだけ具体的に語る方が自分の身近に感じられるだろうと思い、自分自身の身辺に取材したことや、あるいは芸術作品を通して語っている。「発掘歎異抄」は今も続編を書いているが、最近のこととしてはミュージカルの「美女と野獣」を通してこの救いを語っている。魔法によって道具や野獣に変えられてしまった人間が真実の愛によって人間に戻るという展開に浄土教と通じるものを感じるからである。人間が、現代の物質文明が、自らかかってしまったこの魔法を解く鍵が「本願念仏」にあるからである。
最近私は広島で「本願寺展」を見たが、同時に見た常設展で、広島出身の画家の靉光の天を仰ぐ自画像と、「コミサ」という俯いて祈るような女性像を見た。これが出会う前の親鸞と恵信尼の姿に重なって見えた。美を求める人の姿は真実を求める人の姿と重なるものがあり、これも「悪人正機」と通じるものがある。靉光は20世紀前半を生きた画家で彼の人生と「歎異抄」の紹介や「恵信尼消息」の発見は同じく20世紀前半で重なっている。20世紀の青春がこれらのものを受け入れたのだと思う。
また私は哲学的でも語れるものは語ろうと思っている。これについては先に挙げた清沢満之の宗教哲学の教学によく表れている。私はそれを踏まえつつ、特に「悪人正機」を一種の「弁証法」として語っている。「正・反・合」と進み、矛盾からより高次の統合に至る「弁証法」のあり方が、善の希求から悪人の自覚へ進み、そこに人間の善悪を越えた救いの表れる「悪人正機」と同様の構造をもっていることを感じるからである。私はヘーゲルの哲学や、プラトンの「イデア論」は浄土教と同じレベルのことを語っていると思っている。私の表現にはしばしば両者に通じるものがあると思うが、キリスト教の場合もそうだが、意図的にしているよりも、今述べたように元々同レベルのものを語っているので自ずからそうなっているのだろうと思う。これも世界宗教として浄土教を語る一環である。  
 
二河白道を生きる

 

私と二河白道
私と二河白道をつなぐ最初のものは、私の祖母の部屋にかけてあった二河白道図である。祖母の部屋は二階にあり、仏壇は一階にあった。晩年足が不自由だった祖母にとってはこの図は本尊の代わりにもなっていたのだろう。子どものころは私はこの図を二河白道図とは知らなかったので、地獄と極楽を描いたものかと思っていた。旅人に襲いかかる群賊悪獣、火と水は子ども心には地獄の様を描いているように見えたものだ。自分の宗教的イメージの形成にとってこの絵は大きな役割を果たしたのだろうと思う。
昨年の夏に境港市にある水木しげる記念館を訪れたが、その展示に地獄極楽図の複製があった。これは水木しげるが子ども時代に家に手伝いに来ていた、のんのん婆というおばあさんに連れられていっていた寺にあったものの複製である。のんのん婆の家は境港市の対岸の島根半島にあり、のんのん婆は民間宗教者だったということだ。小泉八雲は松江に来て島根半島のもつ不思議な魅力にとりつかれた人だが、小泉八雲と水木しげるの世界は重なるものがある。小泉八雲には民俗学者としての面があるが、水木しげるも同様で水木しげる記念館にはその展示もある。水木しげるが異界に関心を抱いたのは、島根半島の近くに育ったことや、このおばあさんや地獄極楽図の影響が大きいのだろう。そのことは安芸門徒の地に生まれ、熱心な念仏者だった祖母に親しみ、二河白道図を見て育った私の人生と重なるものがある。
私が子どものころ二河白道図を見てこれを水木しげるが見たような地獄極楽図のように思ったのは正確に言えば間違いだが、強ち間違いとは言い切れない。少なくとも極楽図の部分は重なっている。また水火の難と群賊悪獣はこの世界のものだが、それは自分の心の中に起こる煩悩として地獄に通じるものをもっている。親鸞聖人の「地獄は一定すみかぞかし」であり、自分の心の中の地獄が描かれていると取ることができる。
またこの世界で起こる、人間のもつ貪欲、瞋恚の表れである戦争や、水害といった災難を考えれば、この世の地獄はいくらでもある。私の祖母は太平洋戦争を経験し、原爆で子ども二人を失い、自身も被爆者だったが、戦争を経験した人にとっては、水火の難と群賊悪獣は、戦難でもあり、また敵兵でもあっただろう。これは群賊悪獣に武士の姿が描かれることがあることからもよくわかる。戦乱の時代を生きた人々にとって敵に追われ、火に追われということが実際にあったのである。それはほんの数十年前までは日本の現実としてあったことだ。
また現代でも、戦難は今も海外では起こっている。水の難、火の難としては、地震や台風といった自然災害がある。さらに環境破壊の結果として温暖化現象があり、それによって台風の大規模化、洪水の多発、低地の浸水、猛暑、干ばつといったものが人類を襲っている。今後ますますその程度が大きくなるかもしれない。これも元をただせば、人間のもつ貪欲の表れである。
このように言えば、まるでそれは平安鎌倉時代の人々がもった末法意識と同様ではないかと思われるかもしれない。一面においてそれはその通りだと思う。それは人間の煩悩、無明といったものはいつの時代でも変わらずあり、少なくともそれは人が自分の心の中をのぞいて見ればわかることである。また文明の進歩によって目に見える形ではこの世界はよくなっているように見えるが、世界全体としてはまだまだであるし、その文明の進歩が地球規模での環境破壊を招いているという現実がある。要するに見る目次第では人間とこの世界は無明の中にあるという意味で常に末法なのである。
しかし同時にその人間世界の無明を照らしだし、闇を破る光明も常にある。それが無量光であり無量寿である阿弥陀仏である。阿弥陀仏は無明と無常からの解放者である。この光が消えることはなく、その光が我々を照らしだし導くことは常に変わらない。見る目さえあれば常に正法でもある。従って末法とは一面において正しいがそれはまだ認識の半ばに過ぎない。「二種深信」の「機の深信(心)」が末法の自覚に当たり、「法の深信」が正法の認識に当たる。「二種深信」も「二河白道」も善導が唱えたものなので両者は対応しているはずである。浄土教は正法・像法・末法の「正・像・末」三時通説で、なおかつ法滅後も続く教法であるが、道を歩むものの実感としては自分の中の末法と如来の正法の認識が中心となる。
このように二河白道図は地獄図ではない。無明の世界から光明の世界に通じる道、無常の世界から永遠の命の世界に通じる道を指し示すものである。光明の世界、永遠の命の世界から言えば、無明の世界、無常の世界は仮のものに過ぎない。本当にあるのは浄土教が阿弥陀仏として語ってきた、無量光、無量寿だけである。無限の光、永遠の命である。人生はそれを発見する旅であると言える。そしてそれに目覚めさせようとする願いと働きが常に我々に臨んでいる。それが本願であり、本願力である。我々を真実に生かそうとする願いと働きである。真実願と真実力である。そのことに目覚めたときに、人生という道は「無碍の一道」となる。これが「信心」という「白道」である。信心の白道を歩む我々の人生は、本願成就の人生であり、我々一人ひとりが本願成就文である。「地獄は一定すみかぞかし」から出発し「無碍の一道」を説く「歎異抄」の世界も、一つの二河白道図である。
この信心という「白道」はもはや水にあって溺れることなく、火にあって焼けることのない、水火の難を逃れた「安心」の道である。群賊悪獣はここに立ち入ることはできない。その信心がもはや無明と無常の私ではない本当の私であり、永遠の命である。その永遠の命である信心がそのまま浄土に往生する。往生するのは信心である。信心の往くところが浄土である。「信心すなはち仏性なり」という、仏性である信心が浄土に往生する。「如来より賜る信心」が如来のもとに還るのである。「如来より賜る信心」は如来の分身であり、それが本体である如来のもとに還る。永遠の命が永遠の命の世界に還るのである。私が往生するのではない。自己執着の対象である自我としての私が往くのなら、それはまだ六道輪廻の世界である。「如来より賜る信心」という、もはや私のものではない私が往生する。それで輪廻の有の生と区別して、浄土往生を「無生の生」と言う。
確かに信心をいただいても、この世で肉体としての私の中に信心がある限りは、ある程度は肉体の制約を受けるように見えるかもしれない。二河白道図で水火の煩悩の中に信心の白道があるように見えるように。また「病」はその制約としては誰しも逃れ難いものだろう。次いで「老」があり、さらにその先に「死」がある。こうして肉体の制約がどんどん厳しくなっていくように見える。ところが最後に解放が起こる。ただしこの解放が機能するには、それ以前に肉体の制約を超えたもの、永遠の命である仏性に目覚めている必要がある。それが平生業成である。それがあると肉体を失うことでもはや肉体の制約を受けることは全くなく、仏性が常に全面的に開顕する。これが往生成仏である。こうして我々は肉体の制約を逆縁として肉体を越えたもの、信心という永遠の命、仏性に目覚めていくのである。
そもそも束縛に満ちたこの世界、此土は、束縛の全くない順縁の浄土に対しては逆縁として存在しているのだとも言える。無明と無常は、その対極にある光明と常住、永遠の命を知らせる逆縁なのである。悪人正機もこの世界と人間の逆縁的構造を端的に表現したものと言うことができる。
しかし肉体を制約の面だけで捉えるのは一面的である。肉体を持っていることは如来から見れば仏性としての信心をこの世界に留めることでもある。それは如来に本願の働き場、活躍の舞台を提供することである。この意味で肉体を持つことは極めて重要なことであり、本願にかなうことである。生き急ぐ必要は全くない。むしろ先に救われた者こそ最後までこの世界に留まり、全ての人を彼岸に渡していく浄土の渡し守となるのである。たとえ群賊悪獣に囲まれても。それが信心をいただいた者の役目である。東岸の釈尊の役目と同じである。「涅槃経」の「阿闍世王の為に涅槃に入らず」「阿闍世の為に無量億劫に涅槃に入らず」という釈尊の精神である。本願の「設我得仏、不取正覚」の精神である。この生でそれが終わらなければまた還ってきて続ける。こうして我々は肉体を持っても失っても、本願を生き続けるのである。
私はこのように考えるので、自分が、あるいは世界が、今も二河白道図の中にあると思っている。浄土教の提示する人生地図として、あるいは世界地図として、二河白道図は今も生きていると思うし、また現代の二河白道図が次々と生まれているのではないかと思う。人間の深層意識の中では依然として人生の生と死の軸として東西軸は活きており、その上でこれを道として歩む二河白道図は活きているのだと思う。またそのことを意識できた人の人生は、それに気付かないまま、確かな目的もなく欲望のおもくままにさまよったあげくに、無常の風の前に虚しく死を迎える人の人生と大きく変わるはずである。欲望の人生と本願の人生は全く異なるのである。後に仏教の心理学である「唯識」との関連であらためてそのことを考えたい。
平山郁夫展より
昨年11-12月に広島県立美術館で開かれた「平山郁夫展」で絵を見ながら、これも現代の二河白道図ではないかと思った。平山郁夫の絵の人気の秘密もその要素があるのではないかと感じた。芸術の中には無意識の表象という要素がかなりあり、その中に二河白道図の要素が入っているように思ったのである。
今回の展覧会は平山郁夫の画業六十年を記念したものである。私は名前が同じで、また同じ学園の同窓生ということもあり、平山郁夫に縁を感じている。私は職場への出勤の途中に毎日のように朝日を浴びた二葉山の仏舎利塔を見、また安芸の小富士である似の島を見ている。似の島は白島通りで白島電停を過ぎたあたりから八丁堀にかけてビルの谷間によく見える。私の学校の校歌は「安芸の小富士にあかねさし希望の光輝けば」と始まる。この校歌から題を採った「希望の光安芸の小富士」という絵が平山郁夫によって描かれている。これが陶板画となって同窓会によって寄贈されて本校の本館ロビーを飾っている。かなり大きな絵で吹き抜けの壁一面を飾っている。この絵が私の最も親しんだ平山郁夫の絵で、この絵はかつての仏教がもっていた「須弥山」の世界を感じさせるものがある。
平山郁夫の世界は大きく言えば仏教絵画、昔で言う仏画の世界であり、それがシルクロードによって東西を結んだ世界的な東西軸の上に展開している。平山郁夫の絵画の一つの原点は広島での被爆体験である。これが絵になったのはかなり後のことで1979年に「広島生変図」として描かれ広島県立美術館に所蔵されている。焼けただれる原爆ドームの空を一面に覆う紅蓮の炎と、その炎の中に不動明王を配したもので、人間の作り出した業火とそれを鎮めようとする不動明王を描いた一種の仏画となっている。
私はこの絵を見ると芥川龍之介の描いた「地獄変」のモデルとなった「宇治拾遺物語」の「絵仏師良秀」の話を思い出す。絵仏師という仏画を描いていた良秀という絵師が、自分の家が焼けたときにそれを見て初めて不動明王の火炎の描き方がわかり、それ以来良秀の描く不動明王は「よじり不動」として有り難がられたという話である。
この炎の記憶は平山郁夫にとっては忘れようにも忘れられないものだろう。これが二河白道図の炎と重なる。そしてまたこのときの広島の川は炎から逃れる人々で溢れたという。その人々は水によっても亡くなっていったのである。八月六日の広島は二河白道図の中にあったのである。平山郁夫も修道中学での学徒動員中に被爆し、危うくこの難を逃れた。しかし戦後も長く原爆症の後遺症に苦しみ、これが仏画を描く動機となったと言われている。幸いにしてそれが認められ、やがてさらに仏教伝来のルートとしてシルクロードを描き、国民的な人気作家となっていった。
その画業も展示も明らかに東西軸をもっているのだが、その西の端というべき所に位置し、また時間的には仏陀の時代を過去の始点に置くと、現代に最も近いところに位置する作品に1996年「平和の祈り―サラエボ戦跡」という作品がある。シルクロードも砂漠地帯で日本画の画題としては描きにくいと思うが、この戦場跡も本来が花鳥風月を得意とする通常の日本画からはかなり離れたもので、描きにくい作品だろうと思う。この作品は瓦礫の山の前に八人の子どもが立ち、その後ろによく見ると瓦礫の山を縫うように白い道が続いている。子どもたちの中心に立つのは赤い服に黒いズボンの少女であり、その右横に白いシャツの男の子、その後ろに白いヘアバンド、白いシャツ、白いズボンという白ずくめの少女が立っている。この二人の後ろから白い道が延びているように見える。子どもたちの表情は戦場跡に立つ者としては明るい。微笑をたたえているようにも見え、絶望の表情ではない。
私はこのに絵にたいそう心を動かされ、ヒロシマから出発した平山郁夫がヒロシマの焼け跡とサラエボの焼け跡を、また自分の青少年時代と現地の少年少女を重ねて描いているのだろうと思った。この絵の配色や構図は二河白道図と重なるものがあると思う。また少年少女の八人という数はヒロシマの八月の「八」と重なっているのだろうか。また私は仏画を描いてきたこの人にとって「八」は法輪図の「八」の矢とも重なっているのだろうと思う。
「転法輪」とは法輪を回すことだが、またこれは法輪に転ずるとも読める。欲望と業の結果としてあるこの世界の輪廻の悲惨を法輪に転ずるのが仏道である。「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。」(法句経)、憎しみに対するのに憎しみを以てすれば憎しみのやむことはない。これが平和の教えとしての仏教の根本にある。怨み、憎しみをも逆縁として法輪に転ずるのが仏教である。「観無量寿経」の阿闍世の非道もそうである。私はこの八人の子どもたちにそれが託されているように感じた。二河白道図で言えば、もし旅人が後ろから迫る群賊悪獣と戦ったら彼はどうなっただろう。輪廻から逃れることはできなかったはずである。被爆の後遺症に苦しみながら仏画を描いた平山郁夫の心にはこの仏陀の教えが響いていたのではあるまいか。戦後の自らの歩みとこの絵は重なり、そしてまたこれからの世界を担う次の世代へとその願いは託されている。このメッセージを多くの人にまた青少年に受け取ってもらいたいと思う。
平山郁夫の画業が仏陀の時代から現代を結び、しかも東西軸をもって世界的な規模で展開していることは、この展覧会を見た多くの人々の心に焼き付いたことだろう。この中間にシルクロードのシリーズがあるのだが、次にそれについて述べたい。
平山郁夫の初期の画業は仏陀の時代を描いていた。広島県立美術館にある「受胎霊夢」は釈迦が摩耶夫人に宿る際に摩耶夫人が見たという霊夢の伝説に基づく。キリスト教で言えば「受胎告知」に相当するものである。金色の光に包まれた白い象の穏やかな表情とあずまやに座り静かにそれを受け入れようとする摩耶夫人の姿が闇の中に浮かび上がる。この白い象を受け入れる摩耶夫人の姿に信心が見える。広島県立美術館にあるのでこれまでも何度も見てきたが私の好きな絵である。この白い象から「白道」が始まったのだと思う。
仏伝に基づくこのシリーズに続くのが、玄奘三蔵が歩んだ仏教伝来のシルクロードのシリーズである。初期の仏伝を描いていた時代は平山郁夫はインドには行っておらず、想像で描いていたという。そのためか空想的なロマンティシズムが画面から感じられ、それはそれで一つの魅力になっている。それがシルクロードのシリーズになると現場に立ち実景を見て描いているために、かなり画風が変わったのではないかと思える面がある。ロマンティシズムよりリアリズムが前面に出てくる感じがする。乾ききった砂漠や荒野の風景は、伝統的な日本画が得意とする緑豊かな花鳥風月の情緒の世界とは異質な世界に見える。
しかし法を求めてインドに旅した玄奘三蔵の旅の中に、人々は自分ではなしえないことを成し遂げた人物の壮大なロマンを見てきた。玄奘三蔵自身が残した「大唐西域記」(646年)と、その旅行に着想を得た「西遊記」は仏教の枠を越えて人々のまだ見ぬ世界へのロマンをかき立ててきた。日本で「西遊記」が繰り返しドラマ化されているように、それは今も続いている。こうしてシルクロードのシリーズには画題そのものがロマンティシズムをもっていてそれがリアリズム的な画面によって描かれている。ロマンティシズムとリアリズムの融合がここにある。これもまた二河白道図の要素である。二河白道図はそもそも幻想的で空想の世界だが、極めてリアルでもある。
この玄奘三蔵(六○二-六六四)の時代は善導(六一三-六八一)の時代と重なっている。ともに長安にいた。玄奘帰国の年(貞観19年645年、日本では大化の改新の年)は善導の師、道綽が84歳で没した年であり、善導は33歳で、長安での教化を始めた。善導も「大唐西域記」を読んだだろう。善導の二河白道は荒野を行く旅人が忽然として現れた幻を見るもので、この旅は玄奘三蔵の西域の旅が念頭にあるかもしれない。また当時の漢詩にも西域はよく描かれ人々のロマンをかき立てた。長安の都では西域から来た人々の体験談がよく聞かれたことだろう。僧侶にも西域出身の人達が多くいたことだろう。そのような人々の語る体験談がこの話の基にあるように思う。
二河白道の旅の中に求法の旅が重なっていたとしておかしくない。むしろその方が話の展開としては自然だろうと思う。求道心のある人物が主人公でなければこの話は成り立たない。また求道心があれば、たとえ西域、さらにインドまで行くことはできなくても、自分の置かれた立場を自覚しさえすれば、今ここで安心を得ることができるのが浄土教であるという立場がここにある。なお一般的には二河白道の旅は善導が長安と終南山を往復する経験が基になったのだろうと言われている(塚本善隆)。確かにそれもあるだろう。ただ終南山はその名の通り長安の南にあり、南北に行くことになり、方向が合わない。この南北を東西に置き換える時に、玄奘三蔵のことが意識に上るだろうと思う。
玄奘三蔵は自身の仏教的立場としては唯識を宣揚し、弥勒信仰をもっていた。その門下の慈恩大師窺基(基)が唯識を説く法相宗の祖である。法相宗は日本では興福寺、薬師寺、法隆寺(現在は聖徳宗を名乗る)の宗教で奈良仏教の中心だった。玄奘は浄土教に対しては阿弥陀仏の浄土に凡夫が往生できるはずはないと批判していたと言われる(道世・編「諸経要集」)。善導の二河白道はそれに対する反論という意味も込められているように思う。
善導が玄奘三蔵の旅と思想を念頭に置いたとすれば、二河白道はそこから着想を得たとも言えるし、またその旅に対して浄土教の立ち場を新たに示したものだとも言えるだろう。着想としては、西への求法の旅という面がまず共通点としてある。もう一つは玄奘が専門とした唯識の立場を応用あるいは転用していることが考えられる。二河白道はイメージの世界として「観無量寿経」の観想念仏に通じるものがあるが、観想念仏で観想するのは浄土と仏なので二河白道では西の岸が対応する。二河白道は「観経疏」で語られているので当然関係が考えられる。それとともに私は唯識とも関係するのではないかと思う。
唯識は唯心論的な思想だが、二河白道の世界もすべて旅人の心の中で起こったできごとであり、唯心所現の世界である。唯識は存在を、迷いとしての遍計所執性、迷いと真実の中間的存在として依他起性、真実としての円成実性の三つに分けるが、この三区分は二河白道が迷いとしての東岸と中間の河、真実としての西岸から成ることに対応する。唯識の依他起性は縁起によって迷いにも真実にもどちらにもなりうるものだが、浄土教ではその中間に当たるところに真実の白道を置いていることで、唯識を越える立ち場を示していると思う。また玄奘の求法が常人にはできない旅であったのに対して心さえあれば誰でも歩むことができるというものである。即ち難行に対して易行の立場である。その易行は信心を得たことによって易行となるのである。問題は心の問題である。心に信心を生じるかどうかという内的な問題であって、何をするか、どこに行くかいった外的な問題ではなくなる。
こうして、玄奘三蔵の旅は人々が憧れながらも彼にしかできなかったものだが、二河白道の旅は信心さえあれば誰にでも歩めるものになったのである。ただ心さえあれば誰にでも可能であり、ただ信心さえあれば歩めるものとなる。玄奘の旅とその教えの矛盾点を突いているように見える。確かに西天インドは遠いが、西方浄土の十万億土に比べれば比較にならない。しかしそのとてつもない距離はただ信心一つで縮まるのである。旅という面でも、心という面でも浄土教は玄奘以上のことを誰にでも可能にしている。浄土教こそ人の心の奥底を見つめて誰にでも歩める道を示したものであるという立ち場である。これは唯識のお株を奪っているのではないかと思える。唯信によって唯識という唯心を越えているのである。
またこの善導と玄奘の関係は浄土門仏教と聖道門仏教の関係として捉えると、日本での法然門下の浄土教と聖道門の関係とよく対応している。法相宗の興福寺が「興福寺奏状」によって、「偏依善導」を標榜する法然浄土教を批判したのもこの流れから言えば必然だったのだろう。
このシルクロードの旅を描いたものとして平山郁夫に「絲綢之路天空」がある。天山山脈の火焔山の前に広がる砂漠をラクダのキャラバンが進んで行く。画面の右から左に進むその旅が二河白道の旅と重なるのである。そして、大画面のせいか、画家の力量のせいか、それまでに見て来た仏教伝来の旅の影響か、自分もそのラクダの歩みの中に入って進んでいるような錯覚に陥る。その列が今も歩み続けているように思えるのである。
会場ではその先に「西方浄土須弥山」が置かれていた。これは白い雪を頂いたヒマラヤ山脈を三枚の大画面に描いたものである。西方浄土と須弥山は本来は別物だが、平山郁夫の中では重なっていたのだろう。中国人が西方浄土を思う時にはヒマラヤ山脈と須弥山に重なっているのかもしれない。本当の旅の目的地はこの山の向こうにあるはずなのだが、この山が目的地になっている印象を受ける。それでいいのだろうと思う。この絵は2007年となっているので、私が親しんできた「希望の光安芸の小富士」の絵が先に描かれているのだが、私が「希望の光安芸の小富士」に須弥山を感じたのは間違ってはいなかったのだと思う。画家の中で仏教的世界観があり、それが現実の風景の中に投影されてきたのだろう。「絲綢之路天空」と「西方浄土須弥山」を続けて見ると、ここに二河白道図が見えてくるのである。
また平山郁夫の絵にはしばしば太陽が描かれているが、なぜかこれが夕日に見えるのである。実際に夕日を描いたものが多いが、「明けゆく長安大雁塔」という作品がある。これは題名を見れば朝日を描いていることは明らかだが、私にはこれが夕日に見えた。仏塔と夕日が浄土信仰の出発点にあったのだろうと私は思う。実は「希望の光安芸の小富士」も校歌の内容から言えば朝日を描いているはずなのだが、これも夕日を描いているように見える。私はそれでいいと思っているのだが、平山郁夫の中には夕日のイメージが強くあるのではないかと思っている。これは画家の感性に関係するのだろうが、浄土教が夕日を重んじてきたこととも関係するように思う。
このようにして私は平山郁夫の人生にも画業にも二河白道図を感じるのである。これだけ大画面の大量の作品を見る機会はそうはないかもしれないので、貴重な経験をさせてもらった。平山郁夫の作品は大画面のものが多いが、これはその必然性があることが実物を見てわかる。絵の中に引き込まれるような感覚は写真では難しく、この大画面を前にしないと味わえないように思う。
善導の「二河白道の譬喩」
善導の「二河白道の譬喩」は「観経疏」「散善義」に説かれたもので、かなり長いものだが、要約すると次のようになる。人が西に向かって百千里を行こうとするが、その前に忽然として二つの河が現れた。火の河が南に、水の河が北にある。それぞれ河幅は百歩、深くて底が無く、また南北に果てしなく続く。その水火の河の中間に白い道がある。広さが四五寸で道の長さは河幅と同じく百歩である。その道には水と火が絶えず襲いかかって休むことがない。見渡す限りの荒野には頼ることのできる者はなく、それどころか群賊と悪獣がこの人が一人であるのを見て殺そうと競って迫って来る。引き返しても死、立ち止まっても死、進んでも死である(三定死)。この人はどうやっても死を免れないならこの白道を行こうとする。そのとき東の岸に声があり、「この道を決定して行け」と勧め、西の岸にも声があり、「一心正念にして直ちに来たれ、汝を護らん」という呼び声がする。この人が白道を歩み始めると東の岸の群賊と悪獣は「この道は険悪で死ぬに違いないないから帰ってこい、自分達には悪心はない」と言う。しかし人はこの声に耳を貸さず道を進むとたちまちにして西の岸に着き、永く諸々の難を逃れ、善友と相まみえて喜びあった。
この譬喩は善導自身によってこの後に解説されている。東の岸が娑婆の火宅の世界、西の岸が極楽浄土。群賊と悪獣は衆生の六根、六識、六塵、五陰、四大。無人の荒野は悪友のみいて善知識のいないこと。水の河が貪愛、火の河が瞋憎という煩悩。白道が衆生に生じた清浄の浄土願生心。東の岸の発遣の声が釈迦の教法、西の岸の招喚の声が阿弥陀仏の衆生を呼ぶ声である。
この譬喩の舞台となるのは、西域に想定された無人の荒野だろう。そこを行く旅人が主人公である。忽然と現れる幻は砂漠での幻覚を思わせる。この幻覚は衆生の心に生じたものだが、迷い、無明によって生じたものと、真実、光明によって生じたものとがある。群賊と悪獣という衆生の六根、六識、六塵、五陰、四大。無人の荒野という悪友のみいて善知識のいないこと。水の河である貪愛、火の河である瞋憎という煩悩。これらはいずれも無明の側に属する幻であり、本来は無いものである。それが人を迷わし、人はそれに惑わされるのである。これに対して、白道である衆生に生じた清浄の浄土願生心。東の岸の発遣の声である釈迦の教法。西の岸の招喚の声である阿弥陀仏の衆生を呼ぶ声。これらはいずれも光明の側に属し、これが本来あるものである。
そもそもこの旅を求法の旅とすれば、初めから教えも行き着く先も道もあったのである。すでに古人によって歩まれた一貫した道があった。それが幻によって隠されようとしている。幻が消えれば道も法もある。玄奘三蔵の旅がそうであったように。これがこの旅の基本である。
またこの道はただ一人歩むものである。それは人が一人生まれ、一人死す存在だからだ。この白道は一人で渡るものだ。狭く見えるのは自分一人の道であることを示している。そして回りを見渡しても誰もいないということがわかったとき道は一人で歩むものだとわかる。きょろきょろしている間はまだ自分の道が見えていないということだ。そして本願の道はその一人ひとりに対応している。必ず備えられた道である。渡り始めればそれが大道だとわかるものだ。そうして人にその道の存在を示すことができる。もちろんそれはその人のために備えられた本願の道である。
ここで考えたいことがある。この白道はこの世、此土、此岸に属するものなのか、それとも浄土、彼岸に属するものなのかということである。二つの岸の中間にあるのだから、どちらでもないというのも一つの答えだろうし、どちらかというのもあるだろう。また中間にあるのだから両方に属するというのもあるだろう。両方に属する場合でも無量光の世界はこの有量の世界を包含していてそれで両方に属するように見えるという答えもあるだろう。浄土にたどり着くまでは水火に襲われるのだから此土、此岸に属するという答えもるだろうし、信心は如来廻向のもので、群賊悪獣はそこに立ち入れないので、浄土、彼岸に属するという答えもあるだろう。
これを数学の集合論で使うような二つの円の関係で考えてみよう。そうすると次のようになる。(一)まず二つの円が離れていると考えるもの。確かに「西方十万億土」という言い方ははてしない隔たりを感じさせる。次に二つの円が接していて、(二)此岸の側にあると考えるもの、(三)両方にあると考えるもの、(四)彼岸の側と考えるもの。(五)二つの円が部分的に重なっていると考えるもの。(六)二つの円の片方が一つの円の中にあると考えるもの。この六種類が考えられるだろう。(七)またそれに加えて、これは歩むにつれて変わるのだという答えもあるだろう。此岸の要素が減っていき、彼岸の要素が増えていくという考え方で、これも出発点をどうするかで変わるが、これも一つの種類に入れよう。この七つめの考え方は前の六つを含めることもできる。そうすると七種類の考え方がありそうだ。私はこれは一種の公案として成立しうると思う。その答えはその人の受け取り方、立場、心境によって変わってくるだろう。
ここでこれを考える一つの手がかりを出したい。それは陰陽五行説との関係である。私はこの譬喩で南に火の河、北に水の河があるのは、陰陽五行説によるのだと思う。陰陽五行説では「木、火、土、金、水」の五行をそれぞれ方位の「東、南、中央、西、北」に配当する。またこれには色があり、「青、朱(赤)、黄、白、玄(黒)」となる。南に火と赤、北に水と黒、西に金と白となる。西の浄土が清浄の白で阿弥陀仏は金色だろう。この配当だと中央の土が中間の道になるのはいいのだが、色としては黄になりそうなものだ。実際昔は道の色は土の色だった。それが白になるのはこれが西への道だからだろう。また西に属する道として西から延ばされてきた道ととることもできる。私はこの道はこの世で無明煩悩に沈もうとする衆生に、浄土から延ばされた救いの道として感じるので、この世にありながらも浄土の側に属するものだと思う。中央の「土」がそのまま「浄土」の「土」の表れになるのだと思う。だから水火が襲ってもこの道を消すことはできないし、群賊悪獣はここに立ち入ることはできない。この白道は我々を往生させようとする如来の「願生心」の表れである。それが我々の「願生心」となる。この如来廻向の信心が白道であり、「即得往生」の道である。この道を通して、我々の信心として、浄土はこの世界に進出しようとしている。その意味では浄土は拡張する世界である。二河白道を陰陽五行説と対応させると白道が浄土の側に属することがよりはっきりすると思う。二河白道は中国伝統の世界観の上に仏教、浄土教の世界観を重ねたものだろうと思う。
この考え方から先の二つの円の関係を考えると、私は二つの円が離れているという受け取り方は「百千里」を行こうとする出発点ではあるかもしれないが、信心をいただいた後は、接しているという受け取り方、部分的に重なっているという受け取り方、二つの円の片方が一つの円の中にあるという受け取り方のどれかだろうと思う。またこれが心境に応じて変化していくと考えると、初めは離れていたものが、接点を持ち重なってきてやがて包含され(摂取)、最後は片方つまり浄土の円だけが残る(往生成仏)のだと思う。これが如来廻向のあり方だと思う。なお聖道門ではこれがよく悟りの世界が円相で示されるように、初めから一つの円しか問題にしないだろう。浄土門はこれを二つの円の関係で考えるのだと思う。また天台には「十界互具」という考え方があり、これは今の円で示すと円が重なっている受け取り方や、包含されている受け取り方と近いのだろうと思う。
また、この浄土の位置づけと関連して思うことがある。先に善導の「二河白道の譬喩」は玄奘三蔵の旅を念頭に置いたのかもしれないと述べたが、玄奘三蔵はインドから多数の仏典を持ち帰った。このように仏典を持ち来たることを「将来」すると言う。動詞としての使い方である。普通我々が「将来」という言葉で思い浮かべるのは時間的にこれからやって来るもの、「将に来たらんとするもの」という意味で未来と同じような意味の、時間に付けられた名詞としての将来である。我々にとって浄土は将来そこに行く世界であるが、それに先だって浄土がこちらに自らを将来するのだと思う。さらに言えば、持ち来たるの「将来」だけでもよい。ここに浄土が持ち来たらされ、また我々が浄土に持ち来たらされる。我々のところに浄土が将来され、また我々が浄土に将来されるのである。白道が浄土に属するものであるということをこれに当てはめると、白道は浄土から自らを将来し、またそれによって将来の浄土に我々を運ぶもの、我々を将来するものでもある。これが自力ではない如来廻向の世界である。
このように私は「将来」という言葉に如来廻向を感じる。「即得往生」「平生業成」「常来迎」「正定聚」がそこにある。自力的な浄土観では時間的な将来しか見えないだろうと思う。一般的には将来が未来とほぼ同じ意味で使われるが、「未来」とは「未だ来たらず」であり、まだ来ていないことである。肯定的に言えば将来、否定的に言えば未来である。普通の将来の裏にはこの未確定で否定的なものが潜んでいて、期待の裏に不安が隠れている。期待という自力の裏に不安が隠れている。前に時間の壁がまだ立ちはだかっているのである。それに対して白道の信心をいただいた我々は、如来廻向のすでにここに将来された浄土を生きている。如来の側ですでにこの時間の壁を打ち破ってくださっているからである。すでに御手の内にあるのである。ここに本当の安心がある。このような意味でも私は白道は西の側、浄土の側に属するものだとも思う。
また「如来」という言葉も「如より来たる」ものであるとともに「如に来たる」ものでもある。如来の原語である「タターガター」には両方の意味があると言う。この働きは真如から我々のところに来たるものでもあり、我々を真如の世界に連れて行くものでもある。この働きと如来廻向は重なっている。親鸞聖人が如来というものを実感したときに自ずと出てきたのが如来廻向という表現だったのだろうと思う。私は「将来」という言葉にもしばしばそれを感じるのである。
親鸞聖人と「二河白道の譬喩」
親鸞聖人は「教行信証」「信巻」に「二河白道の譬喩」を引用される。ここでは親鸞聖人の解釈を引用する。「まことに知んぬ、二河の譬喩の中に「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相廻向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力廻向の大信海なるがゆゑに破壊するべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。」
善導の自釈を補うものだが、まず注目するのは白道が善導は「清浄の願往生心」が生じたものとしているのに対して、親鸞は「選択摂取の白業、往相廻向の浄業」としていることである。これは衆生が起こすというよりも、如来廻向のものなのだということをより明確に述べている。
この中心を衆生から如来に転換することによって、白道が「路」に対する「道」であって「大道」であると述べられている。「四五寸といふは衆生の四大五陰」であって、衆生の四大五陰のこの体の中に宿った信心が大道であることが示されている。人一人の道だが大道なのである。それがさらに拡大するのが「大信海」である。本願海がそのまま大信海になる。これは拡大の極めつけである。ここまで拡大すると二河白道の構図が壊れてしまうほどなのだが、これが実感なのである。足下から拡大、拡張するものなのである。水火の二河は元々無い幻なのだからこれは当然とも言える。砂漠の中に現れた幻なら、それを見破ればまた足下には大地が広がっているだけだ。もはや踏み外しようがない無碍の大道である。これが自力の小乗ではない大乗の道である。
親鸞聖人がこの「二河白道の譬喩」を門弟に語っておられたことは「親鸞聖人御消息」「十三」にある慶信にあてられた返事に付けられた蓮位の添え状に出てくる覚信坊の話からもわかる。高田の覚信坊が京に上る時に、国を発ち、「ひといち」(不明の地名)という所で病気になり始め、同行たちが帰れと勧めたにもかかわらず、「死するほどのことならば、帰るとも死し、とどまるとも死し候はんず。また病はやみ候はば、帰るともやみ、とどまるともやみ候はんず。同じくは、みもとにてこそをはり候はば、をはり候はめと存じてまゐりて候ふなり」と語ったという。
これを蓮位は「この御信心まことにめでたく候ふ。善導和尚の釈の二河の比喩におもひあはせられて、よにめでたく存じ、うらやましく候ふなり」と褒めている。この添え状のついた返書を親鸞聖人の前で読み上げたとろこ、聖人は「ことに覚信坊のところに、御涙をながさせたまひて候ふなり」と書かれている。覚信坊が親鸞聖人のもとで往生を遂げたことは「口伝抄」「十六」にも述べられている。親鸞聖人の当時、「二河白道の譬喩」をそのまま生きたような人がいたのである。この譬喩が強く人々の心を捕えたことがこの話からもよくわかる。我々がこの師弟の信心から学ぶところはあまりに多い。
「二河白道」変奏曲 / 文学作品に見る「二河白道」
二河白道の譬喩は非常に優れた比喩であり、善導の文学的、芸術的才能を感じさせる。二河白道は宗教芸術なのである。またこの比喩は人間の深層意識にその原型が潜んでいるように思う。すでに平山郁夫の画業や唯識との関連でそのことを見たが、一見仏教とは関係ない文学作品にもその変奏曲と言うべきものがあり、そのことを感じさせる。最後に近代以降での作品で、中学生向きの作品、高校生以上向きの作品、児童文学の三作をあげて、二河白道が今も生きていることを示したい。
まず初めはよく知られた太宰治の「走れメロス」である。中学の国語教科書に定番作品として入っている作品である。そのあらすじを述べながら二河白道との対応を考える。舞台は古代イタリア。村の牧人の青年メロスは、シラクスの街に妹の結婚式の準備のためにやってくるが、その街が以前来たときと変わっているのを知る。それは人間不信のために多くの人を処刑している暴君ディオニスのせいだった。それを聞いたメロスは激怒し、王を暗殺しようと王宮に入ったが、警吏に捕らえられ、処刑されることになる。メロスは親友のセリヌンティウスを人質として王のもとにとどめておくことと引き替えに、妹の結婚式を済ますために三日間の猶予を得て村に帰る。王はメロスにもし遅れて来ればお前を許してやるという。メロスは自分が信じられていないのを悔しがるが、ともかく村に帰って結婚式を済ませる。そして「信実」を示そうと約束通り街に帰ろうと村を出発する。
ところがまずメロスを襲うのが洪水である。次に山賊。そして灼熱の太陽である。これは二河白道の水の難、群賊の難、火の難に当たる。ここにきてついにメロスは疲労困憊して倒れ、いっそこのまま生き延びようかとも思う。こうして自分も王と同じ醜い人間だと知る。そのメロスの耳にふと水の流れる音が聞こえる。岩の裂け目から清水が湧いていたのである。それを飲むと夢から覚めた気がする。そうして再び信頼に応えようと走り始める。この転機となるのは、まず自力の限界によって倒れたメロスに起こる悪人の自覚であり、それとともにその時に耳に聞こえてくる清水の音である。自我の裂け目から聞こえる声である。それが二河白道の如来の発遣と招喚の呼び声である。
ここからメロスを動かすのはそれまでの勇者になろうという名誉欲ではない。間に合うかどうかも問題ではない。欲心からではなく「もっと恐ろしく大きいもののために走っているのだ」「わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った」のである。言わば彼を動かすのは「信実」の力であり、「他力」なのである。自信家としてのメロスは死に、信実の人として蘇ったのだ。夕陽を追いかけるようにメロスは西の街に向かって走る。市の塔が夕陽を受けて光っている。そしてついに街にたどり着き友人と抱き合って涙を流す。それを見た王も改心する。王は言う「信実とは決して空虚な妄想ではなかった」と。この夕陽と西の街に向かって走るのは二河白道を歩むことと同じ、友人と再会を喜ぶのも二河白道の善友との再会と同じだ。王は人間の無明、群賊悪獣を代表する存在だが、それは結局「信実」を証明するためにある仮の姿であり、阿闍世と同様の逆縁的存在である。
次に新しい作品として村上春樹の「鏡」を取りあげる。これは最近の高校の教科書に入っている作品である。二河白道と完全に対応しているわけではないが基本構造がよく似ている。村上春樹の父は国語教師で僧侶だったそうだが、村上春樹は二河白道の話を知っていたのかもしれない。
大学に行くことなく、アルバイトをしながら各地を放浪していた青年はある中学校に夜警として勤務する。ある深夜、警備の見回りを終えて、東から西へと長く延びる廊下を西の端にある自分の部屋に帰ろうとした青年は、その中間にある玄関で、本来そこにあるはずのない鏡が突然現れたのを見る。自分が知らない間に鏡が取り付けられたのかと思う。ところが鏡に映った自分が、自分でありながら自分ではなく、自分を激しく憎悪しているのを見る。青年は恐怖のあまりその鏡を壊して部屋に逃げ帰るのだが、翌朝そこに行って見ると鏡はなかった。それ以来青年は恐くて鏡を見ることができない。
この作品は青少年がもつモラトリアム、猶予、逃避の問題と、自己嫌悪、自己憎悪の問題を小説の形で提示している。自分が最も向き合いたくなく、向き合うのを避けていた自分に、深夜に夜警として勤務した学校の廊下で、鏡を通して向き合う。この廊下が東から西に延びその中間で本来そこにあるはずのない鏡が突然現れ、そこに自分を激しく憎悪するもう一人の自分を見るという展開は、二河白道の譬喩とよく似ている。火の河、水の河、群賊悪獣もすべて自分のもつ無明の表れである。青年が鏡に見たのも自分の無明である。二河白道ではここに「白道」という救いの道があるが、小説の青年は鏡を打ち壊して逃げる。救いの手前までが描かれる。
この作品が「鏡」によって表すように、避けていても人は自分といつか向き合わなければならない。人間の自我は仮のものなので、仮の自己が自分で自分を否定しようとする自己否定の衝動がしばしば起こる。ここに自己嫌悪、自己憎悪が起きる。自我の確立期である青年期に起きやすい。これは本当の自分に目覚めていく一つの過程である。問題はその自己否定の衝動が下手をすると自己破壊となり、自傷行為や自死につながることだ。二河白道でも旅人に襲いかかるのは自分の分身である。宗教はその自己否定の衝動を本当の自分に目覚めることに導くものだ。この衝動がなぜ起こるのか示すことはその予防にもなる。二河白道はすべて自分の心の中に起こることを描いており、人間自我の問題とそれを越えたものの関係に直結している。人間の自我の問題を扱った「鏡」のような現代文学にもその原型が反映しているのを見ると、二河白道が今も新しい形をとって生き続けていることがわかる。
最後に取り上げるのは、今年1月に発行されたばかりの児童文学の新作、朽木祥・著「彼岸花はきつねのかんざし」(学習研究社)である。この作品は先に取り上げた平山郁夫の世界と重なるものがある。それは作者が被爆二世で、広島での被爆を扱った作品だからである。
物語は広島市の近郊に住む一家と、その家の裏の竹藪と鎮守の杜に住む狐一族の、祖母、母、孫娘の三代にわたる交流を描く。化かしたり、化かされたりしながら、一家と一族が同じ自然の懐に抱かれて生きている。人間一家の主人公となるのは小学四年生の孫娘の「也子(かのこ)」。狐一族の主人公が孫の子狐。子狐はまだそれほど人を化かすのに慣れておらず、白いしっぽが美しい。子狐の母は街に出て行ったまま帰って来ないという。也子の父も戦争に行ったまま帰って来ない。この二人(一人と一匹)の交流が中心となる。
二人はともに花が大好きで、出会いの場面は春の一面の蓮華畑から始まる。夏になり戦争がますます激しくなり空襲警報が絶え間なく出された八月の初めのある日、二人の話題は季節にはまだ早い彼岸花の話になる。花を持ってきてあげると言う子狐に、也子が彼岸花がほしいと言うのだ。それもできれば白い彼岸花がいいと。子狐は白い彼岸花は街の近くにしかないと言う。
そして八月六日。也子は学校の校庭で被爆する。プラタナスの木陰にいて助かったものの、それ以来寝たきりとなる。その病床で也子は子狐と会う夢を何度も見る。子狐と鬼ごっこをしたり、狐の嫁入りや、子狐と約束した彼岸花の夢である。一家は竹藪と鎮守の杜のお陰で助かったが、お手伝いの「ねえやん」は街に友達を捜しに行き、街で「毒を拾って」原爆症となり秋を前に亡くなる。
そして秋になり、やっと起きられるようになった也子に、祖母がこのあいだ、お彼岸のころ、裏の竹藪の地蔵石に妙な花束が供えてあったのを見たという。「白い彼岸花」である。それを聞くか聞かぬかの内に也子は家を飛び出す。駆けつけた地蔵石には確かにすでに干からびた白い彼岸花が供えてあった。しかしそこに子狐の姿は見えなかった。いったい子狐はどこに行ったのだろう。
子狐は急に姿の見えなくなった也子を心配しながら、約束の白い彼岸花を見付けるために、何も知らずにまだ毒の残っている街に出かけて行ったのだろう。也子が夢に見た、一面の赤い彼岸花の畑の中に、一点のように咲く白い彼岸花。それを持ち帰って也子の無事を祈って地蔵に供えられた白い彼岸花。しかし素足で被爆後の街に入った子狐にピカの土の毒はきつかったに違いない。白い彼岸花は二人の信と友情の印だった。それは子狐の命とひき替えだったのだろうか。実は地蔵に供えられていたのは子狐の命だったのだろうか。すでに子狐は、街に出て行ったまま帰らなかったという母の国に旅立ったのかもしれない。その胸に白い彼岸花を抱いたまま。
私は自分がよく見てきた、川土手の道沿いに一面に群れ咲く彼岸花を思い出した。あれも二河白道に見える。秋のお彼岸に墓参りに行くときに見る光景だ。山の懐に抱かれて「南無阿弥陀仏」と刻まれた我が家の母方の墓の回りにもなぜか彼岸花が咲く。いつか誰かが植えたのだろうか。そこには被爆死した私の伯母と伯父が入っている。真っ赤な彼岸花の列は確かに彼岸へと続いている。そこに白い彼岸花があれば、それは二河白道の信心の色だろう。私は白い彼岸花を見たことはないが、薄紅色、ピンクがかった彼岸花を見たことがある。これは遠目には白に見える。
この物語を読んで私の目には、焼け跡に咲いた真っ赤な彼岸花の中を、やっと見付けた白い彼岸花を大事にくわえて、白いしっぽを揺らしながら帰って来る子狐の姿が焼き付いた。信じ合う朋のために、朋と会うために。その白い道は彼岸へと続いている。子狐がその後どうなったかに関係なく。子狐と「かのこ」はいずれ「かの岸」で会うに違いない。この岸で会ったとしてもそれはすでに「かの岸」である。二人が信じ合っているからだ。
それはまた広島に生き、二河白道を生きる私達念仏者の姿ではないのか。親や朋との再会を喜び合う「倶会一処」の浄土だけが約束の地ではない。広島に生きる私達にとっては、ここ広島もまた約束の地である。被爆二世の作者にもその思いがあるのではないだろうか。今回この作品を読んで、あらためて私はそのことを思った。
また作者は前作「たそかれ」(福音館書店)でも鎌倉を舞台に戦災をテーマにした作品を描いている。舞台は鎌倉、心は広島という作品である。その主人公は河童の「不知」。浄土教で重んじる「一文不知」の「不知」である。浄土教で「一文不知」の精神が大事なのは、その「不知」が、ただ文字を知らず知識がないということだけではなく、知識や分別を積み重ねることによっては決して得ることのできない「信」を表し、「信心の智慧」に通じるからだ。こうして「不知」は「信」を介して真の智慧、無分別智と同じになる。二河白道は決して知識や分別知では渡ることはできない。知的に分析すればするほどその道は狭く危険になる。転落必至である。信や無分別智が生じない限り。人にとって知はしばしば躓きの石となる。信や無分別智が生じて初めて知識も分別知も活きてくる。
この「たそかれ」の「不知」も人間の友人の言葉を信じて60年間待ち続ける。それによって人間の友人「司」も河童の「不知」も救われる。この物語は戦災に遭った学校とプールを舞台にしており、ここにも火と水が出てくる。そこから「信」が浮かび上がってくる。これも二河白道に通じるものがある。二河白道は戦乱の時代を生きた人間の姿を一つの原型としているとも考えられるので、戦災を扱った作品では共通点が生まれやすいのだろう。「彼岸花はきつねのかんざし」とともに合わせてご一読をお勧めする作品である。  
 
連続無窮

 

困難を越えて / 本年2007年は、承元の法難から800年に当たる。この法難により法然教団は壊滅的とも言える打撃を被るが、法然上人によって灯され、親鸞聖人をはじめとする法然門下の人々によって継承された法灯は決して消えることはなかった。この時以来、日本の浄土教、特に真宗は幾多の困難、即ち法難、論難、受難、戦難を乗り越えてきた。織田信長との戦い、江戸時代から明治初年まで続いた薩摩藩、相良藩での念仏禁制、明治時代の廃仏毀釈、太平洋戦争、特に広島においては原爆という人類史上まれに見る災厄を被った。私は戦後の広島の復興に当たっては安芸門徒の真宗信仰が大きな力を発揮したと思っている。この法灯を絶やすことなく次代に引き継ぎ、日本のみならず世界に伝えていくことが、「恩徳讃」にあるように仏恩と祖師の恩に報いることであろう。
新たなる困難 / しかし戦後50年を過ぎたあたりから世代交代の波とともに、平和を願うヒロシマの声も、念仏の声もともに小さくなってきているのではないかという危惧を抱かざるを得ない。私の祖母もそうだったが、戦中戦後の困難な時代を念仏によって生き抜いた人々が次々と亡くなる一方で、その後に続くべき人が少ないためだろう。自然減である。これは人が亡くなっていくことだから止めようがない。
現代の困難がこれまでの真宗にふりかかった困難と違うのはこれまでの困難が法難、論難、受難、戦難といった目に見える形であり、それに対して結束を強めて対処するという面があったのに対し、直接的ではないことにある。それだけに対処がしにくい。人々の宗教への無関心や宗教の必要性を認めない心が一般化している。放っておけばいずれ消えてなくなるだろうし、無くなってもかまわないくらいに思われているのだろう。それに加えてより魅力的に見えるのだろうが、他の新しい宗教への流出もある。死による自然減の場合とは違うが、去る者を止めることは難しい。こうして自然減、無関心、流出という非常に対処しにくいものに襲われているのが今の真宗だろう。
私が「こころの回廊」の連載の最後に書いた、「末広がりの末代」「還相廻向の時代」ということは、浄土教の精神に照らして見れば当然のことだと思うが、あえてこの現状を打破するという観点から書いた面がある。今回この御縁をいただき継承について考えたい。
継承させるもの
法則 / 普通に考えれば、継承するためには我々が伝え、広めるという努力をすることが必要である。しかし本当にそうなのだろうか。人間が作り出したものなら人間の努力なしには伝わらないだろう。しかし人間が作り出したものには限界がある。ここ百年の思想の世界を見ても、人間が作り出した思想は一時期はもてはやされてもいずれ消え去る。「無常」の風の前には耐えられない。人間が作り出したものでなく自然界にあるものでも、一見無尽蔵に見えながらも枯渇する資源はいくらでもある。エネルギー問題は資源に依存する限りは資源を乗り換えるだけで根本的な解決にはならないだろう。しかし「法則」は別である。この世界を支配する法則は変わることはない。
仏教の法は人間によって発見され、表現されるものではあるが、人間が作り出したものではない。ここに永遠性がある。この世界と人間存在そのものの中にある変わらないあるものが、仏法として表されている。浄土教も当然その一部を担っている。親鸞聖人の「自然法爾」「法則」はこうした理解に基づく。経典や文書はそれを表現したものであり、我々の原点はその表現の基にあるものである。それが常に我々を動かしているのであり、「本願」「本願力」として表されているものである。「自ずから然り」も法だが、「自ずから然らしむ」と言われるように、浄土教の場合は特に法の働きに中心がある。継承の原動力は人間の努力ではなく、この「自ずから然らしむ」という人間に働きかけてくる力にある。
縁と因 / 従って伝えるとは、過去から未来へという時間の中で古いものを守って伝えるリレーではなく、本当は常に新しいものを伝えることになる。変わらないが新しいものである。それが「無量寿」という永遠の命の本質である。炎が常に新しく燃えているように、伝統ではなく、伝灯である。浄土教は経典や人を縁とし、本願を因として伝わるのである。経典、寺院、教団を引き継いでも、それを成り立たせているあるものが伝わらなければ意味はない。昔は輝いていましたではなく、今輝いていなければ意味はない。宗教は文化財や文化遺産ではなく、今我々が生きていることそのものの中にある。「今、ここ、私」が仏法である。このことを忘れると、原理主義に走ったり、制度をいじくり回したりと、いらだちから結局は破壊的な方向にエネルギーを発散させることになりかねない。
親鸞聖人の場合
「教行信証」「後序」 / 親鸞聖人の活動は、自分に働いているあるものを表し、伝え続けるものだった。教化、著述はみなその一環であり、そしてその活動は自分のこの世での生とともに終わるようなものではなかった。今回の講題は「教行信証」「後序」に引用された「安楽集」の言葉「前に生まれんものは後を導き、後に生まれんひとは前を訪へ、連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆゑなり。」から採らしていただいた。私の好きな言葉の一つである。親鸞聖人は自分がこの「無辺の生死海」を尽くそうとする「連続無窮」の働きの中にあることを自覚されていた。また同じく「教行信証」「後序」に引用される法然上人との出会いも、法然上人からの「選択集」の付属も、この「連続無窮」の中にある。無窮の本願の表れである。「無窮」は「無休」となり、「休止せざらしめん」となる。その由来を語る「悲喜の涙」は本願海の潮が溢れ出たものである。
ここに限らず私は親鸞聖人の著述にしばしば「涙」を感じる。自分を飲み込む本願海の潮が、口からは念仏として、目からは涙として溢れ出る。溢れ出る念仏は「非行非善」だが、涙も「非行非善」である。念仏の中に阿弥陀様はおられるが、ナミダの中にもアミダ様はおられる。むしろナミダの中のアミダ様の方が人間の「自然」をよく表しているかもしれない。人がナミダを流す限りアミダ様は消えることなく、浄土教が消えることはない。このことは後で、宮沢賢治と中村久子の項においてもう一度述べたい。
「歎異抄」第二章 / この「連続無窮」が人を介して歴史の上に展開しつつ、そのたび毎に直接「本願」から出ていることを表すものとして「歎異抄」の第二章を挙げたい。「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもってむなしかるべからず候か。」ここに浄土教が経典や人を縁とし、本願を因として伝わることがよく表されている。この中で直接の師弟関係があるのは法然と親鸞だけである。それ以前は普通に言う伝授ではない。またはじめにある阿弥陀仏と釈尊の関係も大乗非仏説を定説とする仏教学の常識からは否定される。
しかしこの伝授は間を飛ばして「弥陀の本願まことにおはしまさば、親鸞が申すむね、またもってむなしかるべからず候か。」でも成立する。誰であっても「本願力にあひぬればむなしくすぐるひとぞなき」である。しかしはじめにその存在を知らせていただいたのは経典であり、師である。本願という根本の因があってもこの縁がなければ、地図無くして荒野をさ迷うようなもので、本願と出会うことは極めて難しい。ここに継承ということの重要さがある。比叡山で長く迷いの中にあった法然上人も親鸞聖人も、そのことを誰よりもよく分かっておられた。
この「歎異抄」の第二章の背景には親鸞聖人の長子である善鸞の言動が関東の人々を惑わした事件があると言われている。親鸞聖人から義絶された善鸞は後に祈祷師のようなことをしていたと言われている。ここに親子にしてすでに伝わらないという問題が起きているのである。本願寺の系統では親鸞聖人から孫の如信に伝わったとする。父と子で伝わって当然のはずなのだが、現実には伝わらないこともある。そこで親子、近親者の間で、伝わらなかった例と、困難を越えて伝わった例をあげて継承の問題を考える参考としたい。
宮沢賢治(1896-1933)
浄土教から法華経へ / 宮沢賢治は私にとっては大きな課題である。多くの人がそうだと思うが、子供時代に宮沢賢治の伝記を読み、またその作品を読み、一種の聖者のような印象をもって育った。国語教師になってからはその作品を何度も授業で扱っている。文学者としてだけ考えればそれほど問題はないのだが、宗教者としての面を考えると私にとっては大きな問題がある。
彼は篤信の真宗(大谷派)信者の家に育ち、普通の人よりもかなり濃厚な真宗の宗教的環境の中で育ちながら、結局は浄土教から法華経の信者となり、そのことを全面に出して活動し、臨終に当たっては法華経の頒布を遺言し、宮沢家は日蓮宗に改宗してしまった。
賢治が転向した法華経は大乗仏教の一つの大きな流れである中国・日本の天台の正統の経典であり、親鸞聖人、法然上人も比叡山で修学されたものである。日蓮は題目を唱えてこれをより熱狂的に支持する日蓮宗を開き、その系統の団体は大きな力をもち、特に戦後は相当数の真宗からの転入者を吸収していると考えられる。永遠(久遠実成)の釈迦仏への帰依を中心とする天台・法華の系統、またその世界観を継承する教団は大きな力をもっているということを認めた上でこの問題を考えるべきだろう。
また宮沢賢治の場合は旧家における家と個人、父と長男の確執という問題が宗教の問題と絡んでいて、賢治の転向を宗教だけの問題として考えていいのか、家や父への反抗の結果として考えていいのか、あるいはその両方なのか、非常に難しいものがある。確かに家と個人、父と子の問題も含んでいる。それは親鸞聖人と長子の善鸞の間でも起こったかもしれないことである。さらにこの問題は観無量寿経の阿闍世父子の問題ともつながる。アジャセ・コンプレックス、エディプス・コンプレックスと言われる根深い父子確執の問題として決して特殊な出来事ではない。即ち賢治において起こった、浄土教と法華経、家と個人、父と子の問題のいずれも特殊な出来事ではなく、そこから学ぶべきことが多い。
まず宮沢賢治の場合は、家や父への反抗が、家の宗教、父の宗教からの離反を招いたという面がかなりあると思われる。それは束縛を嫌う青年期には誰でも起こりうることだが、宮沢家の場合、岩手県花巻という東北の農村地帯での質屋・古着屋として貧しい農民からの収奪によって家業が成り立っており、そのことに賢治が罪悪感を感じていたことは著作から明らかであろう。農学校教師を経ての、羅須地人協会での農民への献身的な活動は贖罪意識と菩薩道とが重なったものだろう。体を壊してまでの活動には多分に贖罪意識が働いていたと思われる。篤信の真宗信者の家であり、その財力で仏教講習会を開くほどの家のあり方が、農民の間に生きた親鸞聖人の同朋同行の教えと全く矛盾するのではないかという批判意識が高まったからだろう。
父が有志とともに主催していた仏教講習会では毎年、明烏敏、村上専精といった当時の第一級の真宗僧が講師を務めている。その教えが賢治の身にしみこんでいたことは容易に想像がつく。賢治の中学四年の時の父への手紙には「歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」と述べているほどである。
家や父への反抗といいながら、この家の持つ罪業が自分の罪業意識として自覚される上で、家と父の宗教である真宗は確かに賢治の中に根をおろしていたはずである。家や父以上に彼の方が教えを忠実に受け取っているのである。賢治から見れば父の念仏は家業に対する免罪符のように見え、悪人正機の教えも都合のいい隠れ蓑に見えたのではなかろうか。それなら家や父を批判しながら、そこからより純粋な真宗信者が生まれる可能性があってもいいはずである。しかしそうはならなかった。彼は自分の苦しみと農民の苦しみを同時に解決する道を求めたのである。浄土教は現世変革の力にはならないように見えたのだろう。またこの岩手の地の浄土教に、表立って寺で説かれる正統派とされる真宗とは別に「隠し念仏」と言われる秘事法門の系統のものがあり、そのことも賢治が浄土教を離れる原因となったと言われる。しかしそれもやはり自分はそこで、その地での浄土教改革者として、純粋な真宗信仰に生きるという形で克服する道もあったはずである。しかし浄土教では満たされない何かを賢治は求めたのだろう。
この転換のきっかけを与えたのは意外にも本願寺派の僧であった島地大等の訳した法華経だった。島地大等は島地黙雷の養嗣子で盛岡市の北山願教寺第26世住職となった。賢治はその教えを受けることができた。賢治が法華経に帰依した時期については諸説あるが、盛岡中学を卒業したころから盛岡高等農林学校時代のどこか、二十歳前後になるだろう。法華経の「従地涌菩薩品」の地涌の菩薩や「如来寿量品」に説く久遠実成の釈迦仏が若い賢治の心を捕らえたことが想像できる。特に地面から涌きだしてくるという地涌の菩薩は農学校に学び農民の生活を何とかしたいと念願していた賢治にとってこれこそ自分の姿だと思えたに違いない。自分は地涌の菩薩だという高揚感が賢治を支えたことが想像できる。しかしそれは罪悪感の裏返しとも言うべき面があり、慎重になるべきだったのではないかと思う。賢治は活動的な菩薩像を自画像として選択したわけだが、それはまだ理想像というべきものであり、それと自分が一致していたとは言い難い。その精神的葛藤が「修羅」として表されている。理想像に追いつこうとして精神的葛藤を抱えたままの活動が始まる。ここが信心という安心を出発点とする真宗との違いとなる。すでに救われているという安心から生きるのが真宗である。宗教者とし見たとき彼がどこまでこの理想像と自分の距離を埋めることができたのかが、一つの評価になる。理想像である限りは常に距離がある。
農民の生活を何とかしたいという思いは関東で農民の暮らしを見た親鸞聖人の中にも常にあった思いではないかと思う。しかし宗教家として親鸞聖人はまことの救いを本願の念仏一つに定めてそれを伝えられたのである。念仏者は弥勒菩薩と等しいという如来等同の教えは、法華経の地涌の菩薩に匹敵するかそれ以上のものである。親鸞聖人は法華経の地涌の菩薩を念頭にそれを説いたのかもしれない。久遠実成の釈迦仏はそれと同等のものが久遠実成の阿弥陀仏として親鸞聖人においても説かれている。おそらく親鸞聖人の場合は法華経を越えて浄土教だったのである。賢治はそれが逆になってしまった。宗教家になるか農民とともに生きるか、ここが一つの分かれ目だったのだろう。
こうして活動的な菩薩像を自画像として賢治は生きることになるが、さらにそれが同じ法華経信仰に生きるとしてもかなり現世志向の強い国柱会への入会となった。当時の法華経信仰の最も活動的で戦闘的な地点に立つのだが、こうなると私はついていけないものを感じる。国柱会は国粋主義的主張でも知られる。賢治は昭和8年に37歳(満)で亡くなるが、戦争の時期まで生きていたら、かなり苦しむことになったのではないかと思われる。
宮沢賢治は父には強く改宗を迫ったが、著作上では浄土教をとりたてて批判しているわけではない。我々に対しては無言の論難というべきものがそこにある。それは今も続いていると考えるべきだろう。私は親鸞聖人は法華経を越えて浄土教に行き着いたと考えているので、親鸞聖人の中ではこの問題は解決済みの問題だったと思っている。救いなのか行動なのか、信者なのか行者なのか、ということに集約してもいいだろう。青年の心を捕らえやすいのは行動かもしれない。しかし自分を見つめる人間にとってはそれはそう簡単なことではない。内を見つめる人間であることが私は仏教の出発点であると思っている。まず内省がある。内省がなければしばしば政治へと走ることになる。実際賢治の活動は宗教ではなく政治的な労農運動の一環としてとらえることも可能だろう。宗教ならまず内省がある。そしてそこからどうするかは「面々の御はからひ」である。
共通するもの / 賢治が浄土教を離れたとして、おそらく彼の表面上の意識ではそうだったとして、本当に浄土教を捨てきってしまったのだろうか。私はそうとは限らないという思いがあるので、そのことに触れておこう。
賢治は確かに法華経信仰に生きた。それを信奉する日蓮宗は「折伏」という他宗の者に論難を挑んで屈服させるという戦闘的な布教方法で知られている。他の宗教を邪教扱いし、浄土教に対しては「念仏無間」という言葉で厳しく批判している。賢治は父を折伏しようとしそれが親子の激しい対立を生むが、すべての宗教に対してそれが通用すると思っていたのだろうか。できればそれをしたいという思いもあったかもしれないが、賢治は一方で科学者として、教育者として、文学者としても生きた人である。科学、教育、文学にあるような普遍性を宗教において求めたとしても不思議ではない。宗教にも真、善、美と同様の普遍性があるはずである。というかむしろ科学が発達するまでは宗教こそが普遍性の代表だった。それが逆転してしまったのだが、宗教もいずれは科学と同じような普遍性のもとに共通の認識に至ると考えていたと思う。
そのことを表すものとして一つは「四次元」の主張がある。これはアインシュタインの理論を取り込んだもので、宗教的世界を三次元のこの世界を越えた四次元の世界としてとらえている。これが賢治にとっての科学と宗教の接点となっている。賢治の代表作である「銀河鉄道の夜」は主人公のジョバンニが川に落ちた友人カンパネルラとともに、本当の幸いを求めてする一種の霊界旅行とでも言うべきものだが、そこでこの銀河鉄道のことを「幻想第四次の銀河鉄道」と呼んでいる。ジョバンニがこの列車に乗ることができたのはどこまでも行ける切符をもっていたからだが、これが賢治にとっては法華経であり、題目だったのだろう。しかしそれは浄土経典であり、念仏だったとしてもおかしいとは思えない。それぞれの人の信仰、宗教に合わせて読めるように書かれている。文中の記述としては仏教よりもむしろキリスト教の方が表に出ている。知らない人が読めば、クリスチャンが書いた作品と思うのではなかろうか。
また作品中に、「みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう。けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。」「信仰も化学と同じようになる。」とも書いている。いずれは信仰も科学と同じように普遍的なものとあることを賢治は考えている。それはすでに親鸞聖人が「法則」としてとらえられていたことと同様である。それが証明されるまでは例えば素晴らしい行為には「涙」が出るということに普遍性を見ている。文学者でもあった賢治が「涙」に注目したことは卓見だと思う。もちろん涙にもいろいろあるが、素晴らしいもの、感動に涙が溢れるのは、そこに「自然」の働きを感じる。ナミダの中にアミダ様がおられると思うのである。これは「悲」を極めれば「大悲」となることの中にも表れている。この機微は元来は浄土教の中にあるものだろうと思う。
もう一つ別の作品を挙げよう。「なめとこ山の熊」という作品である。これは熊撃ちの猟師小十郎と熊たちのつながりを描いた作品である。小十郎は猟師だが決して好きで熊を撃っているわけではない。山も畑もない彼は本当は熊が好きなのだが、熊を撃って、その毛皮と熊の胆を売るしか生きる道がないのだ。熊たちも本当は彼が好きなのだ。その彼がとうとう熊によって倒される日がくる。熊はお前を殺すつもりはなかったと言う。そして最後の場面では山の小高いところに小十郎をおいて何頭もの熊がその前にひれ伏したまま動かないでいるのである。小十郎の顔は何か笑っているようにさえ見えるのだった。
この同じ世界に生きるあらゆる生き物への共感、生き物同士の共感がここにある。それは仏教の「悉有仏性」であり、「歎異抄」の「一切の有情はみなもって世々生々の父母兄弟なり」の精神である。また「改邪抄」の「某閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」も同様だろう。私はこの作品を読むと因幡の源左が熊の胆を仕入れて持ち歩き、僧に与えて、食べて供養してやってくれと言ったという話を思い出す。源左は生き物をかわいがり、牛にも話かけていたという。小十郎が源左に見えてくる。私にはこれは浄土教的作品に見える。大乗仏教の精神を極めていけば、本当は浄土教も法華経も同じものが流れているのだろう。またそれは他の宗教においても同様のはずである。
補足植木徹誠(1895-1978)
なお賢治とほぼ同じ時代に生まれた真宗(大谷派)僧侶に植木徹誠がいる。タレントの植木等の父君である。彼は東京に出でてクリスチャンになったが、労農運動にも関わり、郷里三重県の寺の息女との結婚を契機に郷里で真宗僧侶となった。徹誠に一貫しているのは人間平等の精神である。「等」の名もそこから採られたという。徹誠は住職であった地域の労農運動や解放運動に関わり反戦思想の持ち主として、戦争中は投獄されていた。植木等は父の投獄中はその代理を務めて檀家回りをしている。しかしやがて時局の変化とともに檀家は徹誠一家の追放を決め、一家は寺を追い出され、さらに困窮することになる。植木等は僧侶になるべく東京の真宗の寺で小僧をしながら東洋大学を卒業する。在学中の戦争中から続けていた音楽による慰問活動がそのまま卒業後の芸能活動となり、僧侶にはならなかった。寺を失った父も二度と住職になることはなかった。
徹誠は晩年に等に「俺は、あの世に行っても親鸞に合わせる顔がない。俺は恥ずかしい」と言ったという。その植木等も故人となった。これは継承された例なのか、されなかった例なのか。親鸞聖人を知る人ほど、「合わせる顔がない」と思うのだろう。
中村久子(1897-1968)
その生涯 / 中村久子も宮沢賢治、植木徹誠と同じ時代の生まれである。様々の点で宮沢賢治と対照的である。飛騨高山の貧しい畳職人の長女として生まれる。2歳の時に足のしもやけがもとで突発性脱疽になり、両手両足を失う。久子の家は真宗(大谷派)の家で、特に祖母は熱心な念仏者だった。しかし久子の病気をきっかけに父親が病気を治してもらおうと一族の反対を押し切り天理教に入信する。6歳の時に父を失う。母は久子を連れて再婚するが、再婚先での久子は二階の一部屋から出してもらえず、つらい生活を送る。母が製糸工場に出稼ぎに出ている間は久子を可愛がる祖母と暮らし、これが心の支えとなる。勉強は学校に行けなかったので、祖母から読み書きを習う。字は口にくわえた鉛筆や筆で書く。天理教の教会に長く預けられることがあるが、天理教には入信しなかった。
19歳の時に見せ物小屋に売られ、芸人となる。口で書いた習字や、口と短い手での裁縫などの芸を見せる。この見せ物小屋での生活は昭和17年まで26年間続く。この間に四度の結婚、死別二度、離婚一度、はじめの夫と二番目の夫、三番目の夫の間に各一人三人の娘をもうけるが、三女は幼くして亡くなる。四度目の結婚相手が中村敏雄で、久子を最期まで看取る。晩年の久子はこの敏雄と次女の富子の献身的な世話で、背中に背負われて請われるままに全国に慰問や講演に出かける。敏雄に背負われた久子の写真は実に幸せそうである。敏雄は多くの人から慕われ、久子の没後も敏雄は高山の朝市の顔として親しまれる。富子は敏雄からよくしてもらったと言う人に多く会ったという。久子は戦前に一度、戦後に二度ヘレン・ケラーと会見している。昭和43年、高山で71歳で亡くなる。
宗教との関わり / 何不自由なく育った賢治と、経済的にも身体的にも不自由だった久子とは全く対照的な生まれと育ちである。賢治は浄土教から法華経へと転向した。しかし久子は父親が天理教に入信しその教会に長く預けられながら、天理教に入ることはなかった。また昭和4年32歳の時クリスチャンでベッドに寝たきりの生活をしていた神戸女学院の座古愛子を知り、心の師とする。座古女史からは直接聖書の教えを受けるが、クリスチャンにはならなかった。中村久子には多くの宗教からの勧誘があったがどれもなじまなかったという。結局真宗に行き着くのだが、真宗が本当に彼女の心に届くには長い時間が必要だった。
昭和13年、ある婦人会で書家の福永鵞邦を知る。彼から大須賀秀道の「歎異鈔真髄」をもらう。この本を読んだことがきっかけとなり、念仏者としての生活が新たに始まる。幼い頃祖母の唱えていた念仏が久子の心についに届いたのだった。自伝「こころの手足」に言う。「長い間土の中にうずめられていた一粒の小さい種子がようやく地上にそうっとのぞいて出始めた思いがしました。そして幼い日に抱かれながら聞いた祖母のお念仏の声が心の裡に聞こえたのです。どれほど自分で考えてみたところで何ができよう、そうだ、お念仏させて頂きましょう。そして仏様にすべてはおまかせ申し上げよう。ようやく真実の道が細いながらも見出せた思いがいたしました。-一度心にともされた正法の灯は、かぼそくも消えなかったことは大きな幸いでした。」
それ以来仏書をあさり読み、足利浄円、梅原真隆、曽我量深、金子大栄などを読む。賢治も聞いた明烏敏の講習会も聞き、花山信勝にも教えを受ける。昭和33年「大乗」での甲斐和里子との対談は実にほほえましい。そこで甲斐和里子は中村久子に初めて会ったときのことを告白している。中村久子は「先生はお気の毒ですね、手があるから、ややもすると、お土産さげて行こうとする、私は幸いなるかな、手が無いから、いつでも、やァす、やァす、と手ぶらでお浄土に参りますヮ」と言ったという。「実際頭が下がりましたんです。このことはあなたには初めて告白するんじゃけれど」と中村久子に語っている。
このころの歌「手足なく60年はすぎにけりお慈悲のみ手にともなはれつつ」中村久子は真宗を中心としながらも付き合いは宗派を越えたものがあった。臨済宗の山田無文老師とも親しく、「このバァサンご安心を得たな」と老師は羨ましくさえ思ったという。
昭和41年に転居した新居の玄関には因幡の源左の言葉「ようこそようこそ」の言葉を口で書いて掲げる。42年には心の師として慕った恩人、座古愛子の23回忌法要を神戸でつとめる。43年脳溢血により高山で亡くなる。
中村久子の「歎異抄」との出会いは彼女の心境がそれを受け入れるのを待っていたかのようである。その縁は祖母によって幼い心にしみ込んでいた念仏の声によってつながっていたのだが、時機が整って初めてわかったのだろう。次女の中村富子に久子は「歎異抄は本当に困ったとき、本当に悲しいとき読まなくては分かりません。表面だけ読んでも読み違えます」と言ったという。中村富子は25歳の時に親友に死なれ、仏壇の前で「歎異抄」を読んだときに号泣し、初めて母の言葉がわかったという。
こうして親は他の宗教に転向したものの、祖母から孫の久子へ、久子から娘の富子へと本願の念仏は伝えられたのである。中村久子の伝記は涙無くしては読めない。彼女ほど幼い時から泣き続けた人はいないかもしれない。幼い頃はその泣き声のために親は何度も転居したという。これでもかというくらい痛めつけられ泣き続けた人生だった。受難の連続だったが、ある時そのナミダの中にアミダ様が住み、泣いていたのは自分ではない、親様なのだということが分かったのだと思う。それが「歎異抄」との出会いであり、娘に語った「歎異抄は本当に困ったとき、本当に悲しいとき読まなくては分かりません。」ということである。人に悲しみがある限り大悲は決して消えることはない。人にナミダがある限りアミダ様が消えることはない。アミダ様がおられる限り人のナミダが涸れることはない。必ずナミダが本願海の潮であることに気付く時がくる。この打ち寄せる波は「連続無窮」である。  
安心と安穏

 

安心について
原爆慰霊碑の碑文
原爆慰霊碑の碑文は「安らかに眠って下さい過ちは繰り返しませぬから」と刻まれている。これは自身も被爆者で広島大学教授だった英文学者の、故・雑賀忠義教授が当時の浜井信三広島市長の「祈りと誓いの言葉を刻みたい」という意向を受けて考案したと言われる。1952年8月6日に除幕したが、早くもその年の11月に東京裁判で日本無罪を主張した「パル判決書」で知られるインドの国際法学者パル博士が広島を訪れ、この碑文の後半の主語を日本人として受け取り、日本だけの過ちではないと批判した。これは「パル判決書」にも通じる博士の考え方が碑文解釈にも影響を及ぼしたものだと考えられる。雑賀教授は主語は「We」であり、全人類であると反論している。こうして碑の除幕直後からこの碑文は、いわゆる「碑文論争」として、ともすれば日本擁護の立場からこの碑文を自虐的とする意見をもつ人々からの攻撃を受けてきた。その意味では受難の碑文である。
私はかつて「アジア・太平洋戦争を考える視点」を書いた時、「パル判決書」を読み、ネール首相の意向も受けたと思われるこの書の意図は理解しているつもりである。ただこの碑文論争の後半の主語の部分については起草者の雑賀教授の言われる通りだと思う。
信心と安心
私にとっての問題はそこより、むしろ前半の「安らかに眠って下さい」という表現にある。これは被爆者の冥福を祈るという趣旨なのだと思うが、私の宗教的立場からはいつもしっくりこないものを感じている。特に私にとっては「安らか」と「眠る」というのがつながらないのである。安眠という言葉があるのだから何ら問題ないと感じる人もいるだろう。それは死者は沈黙していると考える人の考え方だろう。それは一歩間違えれば唯物的な考え方と同じになってしまう。
しかし原爆で無くなった人、特にそれを念仏者として考えた場合、それが往生した人なら「安らか」は当然だが、「眠る」ということはありえない。生前「安心」という如来廻向の信心を得ていた人は浄土の平安の中で「安らか」に「目覚め」ているのであり、そしてまたその「安らかな目覚めの心」を我らに送り、我らを導き続けるはずである。それが浄土にあっての還相廻向である。私はこの如来廻向の「安心」こそが「安穏」という平和をもたらすのだと思っているので、この碑文は方向が逆に見えるのである。
この碑文は前半と後半が倒置されているので元に戻すと「過ちは繰り返しませぬから安らかに眠って下さい」となる。つまりこの世の人間が平和を実現することであの世の人が安らかになるという考え方がここにある。それはいわゆる普通の仏教で言う、この世の人があの世の人のためにする追善供養の「回向」と同様の考え方になる。即ちこの世からあの世へという自力の回向である。
しかし我々はそうは考えない。逆に如来の涅槃という絶対の安らぎの徳が我々に廻向されて我々の信心という安心になり、それが肉体を失い肉体の煩悩を去った後は往生しての涅槃となり、さらにまたそれがこの世界に廻向される。あるいは再びこの世界に戻って来る。こちらは仮の世界であり、本当の中心は如来、浄土、彼岸の側にあるのでる。
従って本当の主語は前半部での往生した被爆者になければならない。それが後半の我々を廻向によって導くのである。自力回向の碑文ではなく、往生し成仏した覚者からの廻向の碑文こそが念仏者、安芸門徒にとっての真の碑文ではないだろうか。私の場合は例えば「安らかに目覚めていて下さい過ちを繰り返しませぬよう」となる。それでは何のことかわからないと言う人もいるだろうが、その意味を受け取る人こそが真の平和の担い手であると思う。
安穏について
二種類の平和
このように考えることは平和に二種類あると考えることである。即ち浄土でのすでに実現している完全なる平和と、この世界での成就しつつある平和である。すでに実現している平和を知らない人がこの世界に平和をもたらすことはできないはずである。それ故に「大無量寿経」に「兵戈無用」が説かれるのである。仏法が広まれば自ずと人々の心が安らかになり、兵も武器もいらなくなるのである。
「兵戈無用」自体を目的とする平和論もあるかもしれない。しかしそれでは「無用」となるのではなく無くそうとすることになる。その努力は新たな争いを生むもとになる。そう考える人はこの世界での平和しか見えない人だろうと思う。結局平和は力によってしか実現できないことになる。この過ちを我々は繰り返してきたのではないだろうか。「過ちを繰り返さない」ためには、すでに実現している平和を知ることが最も肝要なのである。
・「世のなか安穏なれ」
「世のなか安穏なれ」は2011年親鸞聖人750回大遠忌の本願寺派のテーマだが、私はすでに述べたように、これを「安心」による「安穏」の実現であると思っている。「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」という親鸞聖人の言葉からもそれは明らかだろう。この安穏はこの世界での平和であるが、それは浄土の平安をこの世にもたらすことによって可能となる。それを僧団、教団の中だけのことにするのではなく世の中全体のことにするのは我々一人一人の信心のありようによる。この大遠忌を我々の信心を見つめ直し、その徳を世に伝える契機としたい。
仏教、浄土教と他の宗教
ここで仏法が広まれば、それでその世の中が平和になるのはいいとして、では仏教以外の宗教との関係はどのように考えればいいのかという問題が出てくる。それは世界の中ではいわゆる宗教戦争とか、一つの宗教の中でも宗派間対立という問題が起こっているからである。このような事態を見て、人によっては宗教こそが平和の障害になっていると考える人もいるだろう。そういう人は文明が進歩すれば宗教はいずれ消えてなくなるはずだと考えているだろう。宗教を頑迷な迷信と同じように考えているわけである。
しかし本当にそうだろうか。宗教が平和の障害になるように見えるのは、人間の自我を宗教の教義による信念がより強固にするからである。それは自分の抱く信念であって「如来より賜る信心」という無我の信ではない。この信心と信念の違いがわかっていないのが大きな問題であると思う。無我を説くのが主として仏教だからやむをえないのかもしれないが、このことをいわゆる信仰を説くすべての宗教の人々に理解してほしい。
また浄土教の本願は存在の根本願としてあらゆるものに及ぼされるものであり、そこから漏れるものは何一つとしてない。全てが本願の中で生きている。一対一の一人一人のための本願であり、世界に60億の人がいれば60億の本願がある。しかしてそれは一つの本願なのである。60億の宗教があってしかも実は一つである。様々な宗教があるように見えるのは個別の相から見た場合の見え方である。
これは教義というよりむしろ一つの表現である。芸術が様々な作品を通して美というものを表現しているように、宗教もある根源的なものの現れ方を様々に表現したものだと考えてもよい。芸術的宗教観である。多様性と一元性は宗教の二つの顔である。多即一、一即多という相即である。浄土とはその両面性をもつ世界である。それは阿弥陀仏の浄土に無数の聖衆がいるように、一つの浄土の中でも言えることだが、また他の無数の仏国土があるように他の仏土との関係でも言えることである。他の仏土が他の宗教に当たる。
また別の考え方として宗教学にあるような、理知的、学問的に宗教現象に共通点を見出していくことで相互理解を深めることも大事なことだと思う。宗教の構造化といってもよい。建築に例えれば建物は違っても共通の構造、力学をもっているということだ。私は宗教で重要な要素として救済原理、覚醒原理、創造原理ということを挙げているが、これはこうした考え方に基づく。浄土教は救済原理を中心としているが、救済原理を中心とする宗教は共通の要素をもっている。如来(無限者、超越者、絶対者、神、仏)の本願(超越的意志、御心、恩寵、慈悲、愛)、信(信心、信仰)、行(行為、奉仕、報恩、冥想)。念仏という称名行も御名を呼ぶ、唱えるという形で他の宗教にも類似したものがある。本願信受の念仏が「自然法爾」であるのはそれが世界と人間の共通の本性に基づくからだ。放送に例えれば、放送局(如来)から電波(本願)が発信され(廻向)、ラジオ(衆生)が受信し(信心)、音が出る(称名念仏)。ラジオが勝手に音を出している(自力)のではない。ここにあるのは「法則」である。
このように宗教理解を進めていく時代だと思う。そのように理解した上で各自が自分にふさわしい道を歩めばよい。すべてが調和する華厳の「事々無礙」の世界である。
 
唯説弥陀本願海 / 法難・論難を越えて

 

今年2007年は、1207年の承元(建永)の法難から800年の年に当たる。これを機にほぼ600年おきに起こったこれまでの法難と論難を振り返り、それによって決して衰えることのない本願の働きを明らかにし、浄土の新たなる千年紀への一歩としたい。
まず承元の法難に先立つものとして聖徳太子の時代に仏教伝来とともに起こった法難である破仏をとりあげる。両者を結ぶ存在として聖徳太子があり、これによって承元の法難が浄土門という新たなる仏教興隆のうねりの中で起きたものであることを示したい。
またこの法難に伴って提起された明恵の論難をとりあげる。そこで提起された問題が再び形を変えて宗門内で起こり、三業惑乱へとつながったと思われるので、この問題について考え、今後の浄土教を考える参考としたい。
物部守屋の破仏
「皇太子聖徳奉讃」「聖徳太子奉讃」和讃等により、親鸞聖人は自分の身に起こった法難と、聖徳太子時代の法難とを重ねて受け取っておられたと思われる。1201年(建仁元年辛酉)に聖徳太子の示現を得て法然上人に帰した親鸞聖人にとっては、600年前、聖徳太子時代の仏法興隆の一度目のうねりの中で起きた法難が、今また形を変えて、自分達の身に起こっていると感じられたはずである。これは浄土門興隆という仏法興隆の第二のうねりがきていることであり、初めの法難を乗り越えた太子の導きによってこの法難を乗り越え、新たなる仏法を興隆していくのだという確信があったはずである。太子が自分を導く意味がそこにあることを受け取っておられたはず。
「日本書記」に欽明天皇13年(552年)に仏教公伝の記事。なお一般には仏教公伝は「上宮聖徳法王帝説」「元興寺縁起」による538年戊午とされる。戊午の年は革命説による「革運」の年。また「上宮聖徳法王帝説」では破仏の年は570年とされる。
552年は釈迦入滅を紀元前949年(周の穆王53年)とし、正法500年・像法1000年で計1500年とすればこの年から末法。日本では、普通は正法・像法2000年とし、500年後の1052年(永承7年)を末法元年とする。「上宮太子御記」(正嘉元年1157年親鸞聖人)の末尾に、仏法公伝の年を「入像法五百歳也」。
また552年は「大無量寿経」が康僧鎧により訳出されたという252年から300年後になる。252年は先の計算では仏滅後1200年になる。252年の康僧鎧訳は疑わしいと言われている。これらの年代にはある歴史観が働いているのかもしれない。
また「教行信証」に仏滅算定年代としてあげられている1224年(元仁元年)は立教開宗の年とされ、この年親鸞聖人は52歳だった。教と時と機(人)との不思議な縁を感じさせられるものがある。
「日本書記」の記事。百済の聖明王「仏の「我が法は東流せむ」(「大般若経」による)と記(のたま)へるを果たすなり」「-天皇、聞こしめし已りて、歓喜踊躍したまひて(「最勝王経」による)-」この記事の「仏法東流」と、それを聞いて「聞即信」を思わせる天皇の言葉は出典は異なるが浄土教の精神に通じるものがある。
しかし物部尾輿と中臣鎌子が反対。蘇我稲目が個人的に仏像を祀る。まもなく疫病がはやり、物部尾輿と中臣鎌子の申し出で仏像は難波に流され、寺は焼かれる。仏教伝来とともに第一次の法難。
・574年(敏達天皇3年)聖徳太子誕生(-622年49歳)
・584年(敏達天皇13年)蘇我馬子が仏像を祀る。還俗していた高麗の法師・恵便を師とする。司馬達等の娘・島が出家し、善信尼となる。日本初の出家者。この名は聖徳太子が親鸞にお告げで与えた「善信」と同じ。他に善信尼の弟子二人、禅蔵尼と恵善尼。(恵善尼の「恵」と善信尼の「信」をとれば恵信尼となる。)
・585年物部守屋と中臣勝海が疫病の流行を理由に仏法停止を奏上。守屋が寺を焼き、焼け残った仏像を難波に捨てる。三人の尼は法衣を奪われ鞭打たれる。第二次の法難。
「やけのこりし仏像は難波のほりえにすていれき三人の尼をばせめうちておいいださしむときこえたり」(「聖徳太子奉讃」)
「如来の遺教を疑謗し方便破壊せむものは弓削の守屋とおもふべししたしみちかづくことなかれ」(「皇太子聖徳奉讃」)
この「方便破壊」に、守屋を非難しつつも、本当に仏法を破壊することはできないということとともに、それを縁に結果的に仏法興起につながったということが読み取れるように思う。すなわち、「観無量寿経」の「王舎城の悲劇」を「浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ」(「教行信証・序」)として浄土教が興る機縁としてとらえる見方と同様の見方がうかがえる。これは親鸞聖人の法難に対する見方に共通のもの。「教行信証」は「序」に「王舎城の悲劇」(受難)を語り、「後序」に「承元の法難」を語る。釈尊在世中の「王舎城の悲劇」、守屋の破仏、承元の法難はいずれも浄土教が興る機縁として一貫したものとしてとらえられているように見える。
「正・像・末」という衰退の三時説の一方で、三時共通でしかも拡大し展開していく本願の歴史観(「浄土史観」「本願史観」)がある。それは逆縁を順縁に「転」じていく本願の働きよる。また聖者が点と線によって結ばれて高さを維持していこうとする「高さ」の宗教である「竪超」の聖道門に対して、面として広がっていく「広がり」の宗教である「横超」の浄土門のあり方による。これも本願の働き。
その後、蘇我馬子だけが個人的に崇仏を許され、三人の尼は馬子に返される。
・587年蘇我馬子が物部守屋を討つ。聖徳太子(14歳)も他の皇子とともに馬子方として参戦。形勢が不利となる時、ヌリデの木で四天王像を刻み、寺を建てることを誓って戦勝を祈願し、勝利する。四天王寺の起こり(造営は太子が推古天皇の摂政となった593年から。)翌588年蘇我馬子は「本願の依(まにま)に」法興寺を建てる。善信尼等は志願して百済に留学。590年に帰国し桜井寺に住む。
・601年(辛酉)聖徳太子は斑鳩宮を建てる。斑鳩寺(後の法隆寺)を併設。「聖徳太子奉讃」の末尾に引用文で「神武天皇始即位元年辛酉歳、釈迦滅後数二百五十年成」とあり、日本の歴史と仏教史を重ねる見方が読み取れ、親鸞聖人も同様の見方をされていたと思われる。それはまたその歴史の中に身を置く自分の位置づけと重なっていたと思われる。
承元(建永)の法難
・1175年(安元元年)法然、専修念仏に帰す(43歳)。比叡山を出る。西山広谷を経て、東山大谷に住す。
・1186年(文治2年)大原談義。
・1190年(文治6年)東大寺で浄土三部経を講じる。
・1198年(建久9年)「選択本願念仏集」撰述。
・1201年(建仁元年)親鸞聖人、聖徳太子の示現を受け、法然上人に入門。
「建仁辛酉の暦、雑行を捨てて本願に帰す」(「教行信証」)
・1204年(元久元年)延暦寺の衆徒、専修念仏停止を座主真性に訴える。
法然上人「七箇条制誡」を示し門弟を戒める。親鸞聖人も「綽空」として署名。
・1205年(元久二年)4月親鸞聖人「選択本願念仏集」を授かる。「綽空」から「善信」に改名。10月「興福寺奏状」(解脱房貞慶・起筆)九箇条の失をあげ、念仏停止を院に訴える。「興福寺奏状」は内容的には念仏停止を求めたことを除けば、「論難」と言うべきものがあり、教理的裏付けを持ち、法然の教えが聖道門的立場から見て不当であることを示している。後のより緻密な明恵の論難につながるものがある。
第六「浄土に暗き失」、第七「念仏を誤る失」は法然浄土教がそれまでの浄土教と異なる点、法然浄土教の特徴をとらえていると言えるだろう。特に第七「念仏を誤る失」は法然の「口称」の念仏を念仏の中で観念等の念仏に比べて最下のものと批判。この批判は当然予想されるものだが、「一枚起請文」にあるように、最下を自認する法然上人にとってはこれこそ本願の行。上から脱けていくのが聖道門、下から横に抜かれていくのが浄土門。最下の自覚がなければ理解できないものがある。
・1206年(建永元年)3月朝廷は遵西、行空を配流。行空は破門される。暮れに住蓮、安楽の事件。後鳥羽上皇(1180-1239)の熊野臨幸の留守に院の女房が住蓮、安楽の勤めた鹿ヶ谷の別時念仏に加わり、発心して尼になる者(松虫、鈴虫)が出て、院の逆鱗に触れる。翌年2月住蓮、安楽は死罪。
・1207年(建永2年10月改元承元元年)2月法然上人は四国(土佐から讃岐に変更)に、親鸞聖人は越後に流罪。住蓮、安楽を含む死罪四人、流罪八人(「歎異抄」)。「主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これによりて真宗興隆の太祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもって姓とす」(「教行信証・後序」)。法然上人は12月に赦免。
・1211年(建暦元年)法然上人帰洛を許される。親鸞聖人赦免。
・1212年(建暦2年)法然上人入寂。明恵「摧邪輪」を著す。
・1214年(建保2年)親鸞聖人、関東に移住。
・1221年(承久3年)後鳥羽上皇、承久の乱。この時動揺した鎌倉方をまとめた尼将軍・北条政子は法然上人に帰依していた。後鳥羽院は敗れて隠岐に配流。土御門院は土佐、順徳院は佐渡流罪。「百人一首」の最後は後鳥羽院、順徳院二人の歌。九十九首目後鳥羽院、百首目順徳院。一つの時代の終わり。
聖覚は後鳥羽院と関係があり、敗れた後鳥羽院のために書いたのが「唯信抄」ではないか(千葉乗隆)。親鸞聖人は「唯信抄文意」を書いて門弟に勧める。
また後鳥羽院が隠岐で晩年に書いた「無常講式」は浄土信仰の書。「およそはかなきものは、人の始中終、まぼろしのごとくなるは一期のすぐるほどなり。三界無常なり、いにしへより、いまだ万歳の人身あることをきかず、一生すぎやすし。いまにありてたれか百年の形体をたもつべきや、われやさき、人やさき、けふともしらず、あすともしらず、をくれさきだつひとは、もとのしづく、すゑのつゆよりもしげしといへり。」本願寺三世覚如の子・存覚上人の「存覚法語」に引用され、さらに本願寺八世・蓮如上人の「白骨の御文章」に引用されて今日まで広まる。
後鳥羽院は結果的には、阿闍世と同様に「逆謗摂取」の例を自ら演じたと言える。逆縁を順縁に「転」じていく本願の働きを証したことになり、「教行信証」の「序」と「後序」は対応する。
親鸞聖人はなぜ関東に向かわれたのか。恵信尼の実家三善氏との関係や、念仏聖、善光寺の勧進聖として関東に向かったなど、諸説ある。それに加えて思うに、東の端に向かわれたのではないか。西方浄土から最も遠いところに本願を伝えることが、本願にかなうことであり、自分をそうさせるものがあることを感じられたのではないか。端へ端へ、末へ末へと向かう本願の働きが今自分に臨んでいるという実感。本願と向き合い救われた後は、さらに進んでいく本願の後ろ姿を感じられ、それに随われたのだろう。またそれは浄土教のみならず、日本への仏法伝来の時の「我が法は東流せむ」という釈尊の言葉にかなうことでもある。弥陀・釈迦、二尊の発遣。こうして仏法が西天・印度からはるか東の端の「粟散片州」日本に伝わり、さらにその東の端である東国・常陸に自分が行くことで、世の隅々まで仏法、本願が伝わることになり、伝道を全うすることができる。また日本国内でも法然上人は四国へ、さらに鎮西に聖光聖人(善導寺)があり、自分が東の端を担うことで浄土門のネットワークが完成する。
浄土教がもつ東西軸は、地球が丸くて自転し、さらに太陽の周りを公転しているということが自明の現代では、特定の方向を指すものでないことは明らかである。浄土の本質はどこにあるかということよりも、それが何であるかということの方にあり、他界、生の根源の世界としての浄土はどこにあってもかまわないものである。「尽十方」ということから言えば世界の中心である。しかし人間の深層心理の中では依然として東西軸は太陽の運行と結びついた「生と死」の軸のイメージとして生き続けており、それが人生という「道」のイメージと重なっていると思う。また「東西」は南北や上下に比べて「横」を意識しやすい軸である。さらに「十万億土」も人間が自分で埋めることができない果てしない隔たりとして意味がある。「横超」の思想はそれらと結びついており、本願力によって、品位階次を言わず、「横」さまに果てしない隔たりを「超」える宗教である。よってこれらの意味は大きい。浄土教は具体相によって救う宗教であり、イメージから入って真実に至るという面がある。そのため下手に抽象化して具体相を捨ててしまうと、同時に肝心の救いを捨ててしまうことになる可能性があることに注意すべきである。
60(-63)歳頃の帰洛はなぜか。「教行信証」を完成させるためというのは確かに大きい理由だろう。さらにその意味は、東の端に行くことでの空間的な末端への伝道に加え、時間的な末端、すなわち後世への伝道を書物として遺して行うためだったのではないか。「大無量寿経」の「特留此経」(「教行信証・化身土巻」)の精神と同じ。それが時空を越えて働き続ける本願を、末広がりの宗教としての本願の浄土教を彰すことになる。「還相廻向」もその時間的な意味でも末広がりの宗教としての浄土教を表している。すでに述べたように、いかなる逆縁、法難があろうとこの働きは決して止めることはできず、むしろ広がるのに拍車をかけるだけである。こうした思いから「教行信証・後序」に承元の法難が語られる。
また関東と離れたことにより消息等の文書による伝道が中心となり、結果的に「教行信証」以外の著書も増えた。それにより後の蓮如上人の「御文章」(「御文」)による遠方への文書伝道のさきがけとなる。
明恵の論難
・1212年(建暦2年)法然上人入寂後に「摧邪輪」を著す。法然上人在世中には「選択本願念仏集」は門外不出で、数人の門弟に筆写が許される。入寂後に刊行。
「高弁、年来、聖人において、深く仰信を懐けり。聞こゆるところの種種の邪見は、在家の男女等、上人の高名を仮りて、妄説するところなりとおもひき。未だ一言を出しても、上人を誹謗せず。たとひ他人の談説を聞くと雖も、未だ必ずしもこれを信用せず。しかるに、近日この選択集を披閲するに、悲嘆甚だ深し。」
「二の難を出して、かの書を破す。」「一は、菩提心を撥去する過失。二は、聖道門を以て群賊に譬ふる過失。」(「摧邪輪」)
明恵の聖道門の立場から見れば「菩提心」がないのは仏教ではない。法然上人は口称念仏だけで往生できるとし、菩提心等を諸行とし、廃捨したが、法然浄土教はそれまでの浄土教の立場からも否定されるべきもの。聖道門でも浄土門でもない邪説である。長年法然を高僧として「仰信」していた明恵は裏切られたという気持ちがあったのだろう。落胆と義憤が感じられる。
明恵の論難は聖道的立場に立てば当然であり、また伝統的浄土教の立場からも疑問をもつのはもっともだろう。親鸞聖人の法然上人への帰依が遅かったのも、伝え聞く法然浄土教に疑問を感じていた可能性があり、聖徳太子の示現があって初めて帰依することができた。そのことを「本願に帰す」と述べられたのであり、法然浄土教を支えていたのが「本願」の感得・信受であり、また自分もそれを受け継ぐのだという自覚があった。従って「本願」の立場、如来廻向の立場からしかこの論難には答えられない。それによって聖道門の立場と浄土門の立場が鮮明になる。こうして「二双四重の教判」が生まれる。親鸞聖人の「横超」に対して、「竪超」は特に明恵を意識したものであろう。
明恵と親鸞聖人はともに1173年(承安3年)に生まれた。この二人は仏教のもつ、智慧を中心とする「覚醒原理」と、慈悲を中心とする「救済原理」の二つの面をよく表している。親鸞聖人も二人の間にある対応関係を感じておられたのだろう。明恵の考え方の中には親鸞聖人とかなり近いものがある。明恵は十八願文について「至心信楽の文、必ずしも菩提心にあらずと言ふと雖も、もし口称の外に内心を取らば、内心を以て正因とすべし。口称は即ち是れ助業なり。」と言う。また明恵は「欲生心」を取り上げない。後に「三業惑乱」の三業派は「欲生心」を別して取り上げたが、「欲生心」を取り上げない明恵はよく浄土教を理解していたと言える。これは信楽中心の信心正因という親鸞聖人の立場に近い。口称より至心信楽という内心が正因となるのは、明恵に「形より心」という考え方があるからである。
これは親鸞聖人も同様である。法然上人が十八願を「念仏往生の願」とし、親鸞聖人が「至心信楽の願」とされたことを考えると、明恵が十八願の中心は「十念」の口称の念仏より「至心信楽」にあるとしたのは明恵の卓見であり、親鸞聖人はこれと同様の立場である。ただし親鸞聖人はそれを如来より賜るものとし、ここが明恵と異なる点である。明恵の菩提心と親鸞聖人の信心とはよく対応し、自力と他力の違い、聖道門と浄土門の違いがわかる。明恵が菩提心を中心としながらも信心もある程度理解できたのは、釈尊崇拝の念が極めて厚く、その心情が親鸞聖人の阿弥陀仏崇拝の念と共通するものがあったからだろう。親鸞聖人は明恵を批判していないがその理由がよくわかる。
また聖道門は主として根本存在の寂静相を表し、浄土門は主として活動相を表すとも言える。浄土門が具体相を好むのはそのためである。如来の人格的表現、浄土、名号、往生、廻向等によってその救いが具体的に表される。親鸞聖人の「浄土真実」である。こうして無相を好む聖道門からは浄土門の具体相が無相に達する前段階に見え、また具体相を好む浄土門からは聖道門の無相は具体相が表れる前段階に見え、相互の誤解を生みやすい。
「教行信証・信巻」「菩提心釈」「しかるに菩提心について二種あり。一つは竪、二つは横なり。」「横超とは、これすなはち願力廻向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。横竪の菩提心、その言一つにしてその心異なりといへども、入真を正要とす、真心を根本とす、邪雑を錯とす、疑情を失とするなり。」「「論の註」にいはく、-この無上菩提心は、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。」
このように「竪超」の菩提心を認めつつ、「横超」の菩提心を説く。両者は異なる立場だが、当然成仏という点では一致する。両者の違いをよりいっそう明らかにするに当たり、「願作仏心」を衆生の心に先立つ如来の願心、本願として受け取ると、「願作仏心」はまず如来が我々を成仏させようとする「仏に作さんと願ふ心」となる。それは如来が我々を救おうとする「度衆生心」であるとともに、我々を成仏させることで如来と一体となって衆生済度に参加させ、より多くの衆生を救おうと願う「度衆生心」である。先に如来の「仏に作さんと願ふ心」である「願作仏心」があり、それが廻向されて衆生の「仏に作らんと願ふ心」である「願作仏心」となって表れる。「願力廻向の信楽、これを願作仏心といふ」ということは「願力廻向」の「願作仏心」である。往相、還相、二廻向は「度衆生心」という如来の本願の働きとして一環一体のものである。「横超」の菩提心は如来の度衆生心の表れ、本願の表れである。自ら悟り成仏しようとする聖道門の「竪」の菩提心は覚醒原理の表れ、如来が衆生を成仏させようとする本願の働きである浄土門の「横」の菩提心は救済原理の表れと言える。
成仏を目指す聖道門の「竪」の菩提心は成仏して涅槃に入って終わりかもしれないが、度衆生心の表れである「横」の菩提心では成仏は始まりであり終わりではない。それは成仏が定まった正定聚の段階からすでに始まっている。本願に生が定まったからであり、また本願は常に働き場を求めているからである。こうして信心が本願の働き場となる。それが我らの「無我」である。具体的には「自信教人信」であり、「常行大悲」である。「教人信」は「自信」という如来より賜る信心が「人をして信ぜしむ」(教は使役の助字)のである。如来の願心が本当の主語である。「常行大悲」も同様であり、如来の慈悲が我らをして「常に大悲を行ぜしむ」のである。「自づから然らしむ」働きである。こうして我らは我なすにあらずして浄土でも此土でも本願を表し、終わりなき「無量寿」の徳を表し続ける。
三業惑乱
三業惑乱は江戸時代末期に本願寺派において起こったもので、当初は宗門内の論争・論難だったが、混乱が増しついには幕府という公権力の介入を招く。三業派に反論した安芸の大瀛の著書は発行禁止となる。さらに大瀛は病身にもかかわらず、京都、江戸に呼び出されて取り調べを受け、江戸での寺社奉行の取調中に亡くなる(1804年46歳)。また幕府により、多くは三業派が処分されるが、反対派も処分を被り、本山は百日間の閉門となった(1806年)。大瀛の死には殉教的要素も感じられる。こうして法難の要素ももつ事件と言える。
三業惑乱の最も大きな争点は「欲生心」の解釈にある。またこれと結びついた「たのむ」「助け給へ」の解釈も問題となった。「欲生心」を三業派は衆生が浄土に往生しようと欲する心とし、これを十八願文の「至心・信楽・欲生」の「三心」の中で特に重視して、身・口・意の三業によって如来に帰命するとした。
「今吾宗に伝る弥陀をたのむといふことは、本願の三信を統括して近く六字の名号なることを示し、三信即一の欲生の一心開発をあらわしたまふすかたと見えたり」(巧存「願生帰命弁」)。巧存は学林の第六代能化。第七代智洞がこれをさらに主張し三業惑乱となる。
反対派(信楽帰命派)は「欲生心」は「信楽」の表れであるとし、如来の欲生心が衆生に表れたものとした。
このことを最もよく表すのが大瀛の「横超直道金剛?」。秘密裏に出版計画が進められ、1801年(享和元年・辛酉)5月に京都で刊行され、6月には本山の学林からの申し立てにより幕府が発行禁止にする。
「欲生」とは「仏、衆生をして我が国に生ぜしめんと欲す」こと。(大瀛「横超直道金剛?」)
「この至心信楽はすなはち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず」(親鸞聖人「尊号真像銘文」)
親鸞聖人の釈と大瀛の釈を合わせると、十八願文の意は、使役を「信楽」と「生」にかけて「十方の衆生をして至心に信楽して我が国に生ぜしめんと欲す」となる。あるいは同様の意で「十方の衆生をして至心に信楽せしめて我が国に生ぜしめんと欲す」となる。
大瀛は「願生」についても「欲生」と同様に本願とする。「願生彼国の願は即ち至心に廻向したまへるの願なり。然れば即ち仏の本願なり。衆生は仏の廻向したまへる願をもちいて己が願とす。」(大瀛「横超直道金剛?」)
「欲生心」は一般的には自分が浄土に往生しようとする心でかまわないが、「純佗力」(大瀛)である真宗的立場では、未徹底となる。はじめは自分が往生しようと思っていたのが、本願との出会いにより、如来が私を往生させようとしておられるのだと信知する。この転換があって真宗となる。「こちらから」が、「向こうから」に向きが変わる。この向きを廻らすのが本願力廻向である。同様に「願生心」も一般的には自分が浄土往生を願う心だが、本願として如来が我々を生じさせようと願われる心である。その如来の願心が衆生に表れたのが衆生の「願生心」である。
結局この問題は「菩提心」の問題と同様に、衆生の側で起こすのか、本願から受け取るのかという構造をもっていることがわかる。主体が衆生にあるのか、如来・本願にあるのかということである。自力か他力かということと同様である。
このように如来の願心として「欲生心」を受け取ることで浄土往生の往相だけでなく、さらに如来が我らを此土に生じさせようとする還相の「欲生心」ともなる。どこに生じるのも如来の「欲生心」であり、如来の本願による。「勅命」のままである。こうして十八願の中に「還相廻向」の願の二十二願意も含まれ、十八願から展開する「真実五願」(十一・必至滅度の願、十二・光明無量の願、十三・寿命無量の願、十七・諸仏称名の願、十八・至心信楽の願)に二十二願を加えた、言わば真実六願が十八願から展開する。
また「我が国」は第一義的にはもちろん浄土だが、第二義的には一切衆生を「一子地」と見る如来にとっては、我が子のいる国はすべて我が国であり、無礙光の及ぶ処、本願の及ぶ処、十方すべて我が国である。故に「欲生我国」は第一義的には浄土に生じさせようとすることであるとともに、さらに続いて第二義的には此土に生じさせることにもなる。その意味でも「往・還」二廻向を含む。
また十八願の「唯除文」は、「抑止門」「摂取門」として読み、結局救われるということだけでなく、それを前提としてそれに加えて、「除」かれている「五逆誹謗正法」のことが、それまで本願に背いていた自分のことであるとわかると、その文のままでもいっこうにかまわなくなる。「摂取」の「摂」のことを「もののにぐるをおはえとるなり」(「浄土和讃・左訓」)と言われているように、摂取された時にそれまで自分が本願に背いていたことがわかる。それは「五逆誹謗正法」と同じである。そこで浄土往生することから「除」いてもらい本願によってここに留めおいてもらうことになる。最下の自分が救われ「正定聚」としていただいたのだから、最後までここに留まって「自信教人信」を続けることこそ本願と感じられる。信心が本願の働き場となる。最も罪の重い者が救われたことをここに留まって伝えることが本願の偉大な働きを彰すことになり、報恩となる。もちろん娑婆の縁尽きればいずれ往生することになるが、浄土では成仏しても無余涅槃に入ることなく、最後までここに留まるために浄土から「除」いてもらって再び還り来て本願を行じ続けようとする。こうして「唯除文」が言わばそのまま「唯除門」でかまわなくなる。ここにも還相廻向がある。十八願の「唯除」の「除」は、二十二願の還相の菩薩を浄土から「除」く「除」の構造と精神に一致するものがある。
また最後までここに留まろうとする精神は、一切衆生が救われるまで成仏しないと誓う「不取正覚」の精神と一致する。「不取正覚」は四十八願すべてに共通する本願の精神である。それはまた「教行信証・信巻」に引用される「涅槃経」の「阿闍世の為に無量億劫に涅槃に入らず」「為といふは一切凡夫、阿闍世王とはあまねくおよび一切五逆を造るものなり」という精神でもある。
さらにこの最後まで留まる精神は「大無量寿経」の「経道滅尽」後も「慈悲」をもって此の経を留める「特留此経」の精神とも一致する。法然上人はこれを「特留念仏」(「選択集」)と解釈。これは「特留十八願」であり、「特留念仏者」でもあり、「特留信心」でもある。言わば本願力は求心力(引力、引き寄せる力)としても遠心力(留める力、広げる力)としても働き続ける。十八願には両者が宿っている。未だかつて本願がここを離れたことはなく、親鸞聖人は我らの信心として留まり続けておられるのである。
こうして悪人こそ最初に救われ最後に渡る。最下が最初で最後となる。それによってすべての者が救われる。本願は下から上まで、初めから終わりまで遍く働く。
「悪人正機」は「悪人生機」であり、自分の力では決して往生することのできない我らを浄土に生じさせていただくことだが、それは「生じさせる」だけではなく、まずここで自分の力では決して本当の人生を生きることのできない我らを本願によって「生かし」ていただくことである。本願によって「生かされる」のであり、「生かされている」のである。こうして我らはどこにあろうとも本願を「生きる」ことができる。本願力は「生じさせる」働きであるとともに「生かす」働きである。命の泉である。どこにあっても「自づから然らしむ」働きである。
浄土は我先に行くところではない。自分が浄土に往生したいという「欲生心」では往生したらそれで終わりになってしまう。また早くこの世を捨てて往生した方がいいことになる。実際各種の「往生伝」にはその類の話がある。
確かに本願と出会い信心をいただく時、もうこれで死んでもいいという気持ちになる。生死を越えてすでに浄土の住人となり、「即得往生」がその言葉通りだとわかる。「無量光」なるが故に夜が明け、「無量寿」なるが故に永遠の命を得る。
しかしそれで終わりではない。本願が自分を生かしてしているのだとわかると、そこから新たな生が始まる。本願によって生まれ変わるのである。いったん夜が明けてしまえば雲が出ようが雨が降ろうがもはやたいした問題ではなくなる。こうして浄土教はゴールを競う宗教ではなく、先を譲り最後まで留まろうとする宗教となる。それが大乗の菩薩道である。
そもそも人間の欲心で行けるのは「天」(欲天)までであり、浄土は人間の欲心で行けるところではない。「西方十万億土」というこの果てしない隔たりをいったい誰が自分で埋めることができようか。欲心は必ずその限界を知ることになる。「欲生心」は念仏者にとってはしばしば躓きの石となりやすく、注意が必要である。
また死が恐くて浄土に往きたいから信じる、浄土に往くために信じるというのも同様である。恐怖心や欲心があるのは信心でも安心でもなく、また信心は手段ではない。しかし人として生まれて恐怖心も欲心もなく計らい心のない者は誰一人としていない。みな悪人である。その人間の恐怖心が欲心が計らい心が、必ず如来の本願力廻向によって転じられて信心となり安心となるのである。
喩えれば本願力廻向はオセロゲームに似ている。「悉有仏性」なるが故に初めの一手は必ず如来の一手であり、その後いかに人が欲望・欲心・自我力によって迷い、いくら頑張って●を続けようとも、必ず再び○がくる。即ち本願と出会う時がくる。そのとき○によってはさまれた●はすべて○に変わる。本願力廻向によってひっくり返されるのである。今が変われば、過去も変わる。未来も変わる。これが「一念」に「八十億劫生死の罪を除く」ということである。
(○●●●●●●●●→○●●●●●●●●○→○○○○○○○○○○)  
結び
いかなる法難、論難があろうとも、本願の働きを止めることは決してできない。我らはどこに生まれようがどこにあろうが、ただ我らを生かしてやまない本願の働きのままに生き、本願直系の念仏を申してこの偉大なる働きを称(たた)え続けるだけである。それが我らの「唯説弥陀本願海」である。
 
親鸞聖人の生涯

 

何のために生まれ、何をして生きるのか、あなたは、この間いに答えられますか、親鷲聖人はこの問いに一つの答えを出されました。
「何のために 生まれて 何をして生きるのか 答えられないなんて そんなのはいやだ」
これは、「アンパンマンのマーチ(作詞やなせたかし)」の一番の歌詞です。アンパンマンというのは、顔がアンパンのアニメのキャラクターで、小さな子どもたちには、大人気です。そんな子ども向けのアニメの主題歌の中で、こんな難しいことが歌われているのです。
あなたは、「何のために生まれて、何をして生きるのか」答えられますか? これは、大変難しい問題で、そう簡単に答えられる問いではありません。
ある人は、この問いいに対して、「その答えを探すために生きるのです」と言われました。確かにその通りでしょう。しかし、親鸞聖人は、この問いに、一つの答えを出されました。聖人がどのような答えを出されたかは、後に述べますが、今は、答えを急がず、この問いを、一人ひとりが自分の問いとして持ち続けてほしいと思います。
そして、親鸞聖人の生涯と、その教えを学ぶ中で、「何のために生まれ、何のために生きているのか。そして、どこに向かって生きているのか」、つまり、「生まれてきた意味と、生きる意味と方向」をしっかりと見定めていきましょう。
私は誰?/「仏教と人生」(百華苑) の中に、 「人間はこの地上に生れる以前に、誰一人としてこれから始まる自分の生涯について、目標を定め計画を立てたものはいない。人間の生命は自分の意志を越えて与えられたものであり、自分が自分自身について気づいた時にはすでにこの地上に生れていたのである。その意味で人間とは投げだされた存在であるということができよう。それはちょうど、もう開幕されている演劇の舞台に、それがどういう筋書きか、またその中で自分がどういう役割を演じるのか、何も知らないままに連れだされたようなものである」とあります。私は一体何者なのでしょう。考えてみましょう。
生死を超える道/親鸞聖人が生涯をかけて練物唱れた道は、「生死出づべき道(生死の迷いから出ることのできる道)」(「恵信尼消息」)であると言われています。生に迷い、死におびえて生きている私たちに、生死を超える道を示し、生きる意味と死ぬ意味を与えてくださったのが聖人なのです。  
誕生
聖人は1173(承安3)年5月21日、京都・日野の里でお生まれになりました。父は有範、母は吉光女といわれています。
親鸞聖人は、平安時代の末、1173年(承安3年)5月21日(旧暦4月1日)に、お生まれになりました。場所は、京都の東南、日野の里です。
父の名は、日野有範、母に関しては確かなことはわかっていませんが、吉光女であると言われています。日野家は、藤原氏末流の下級貴族で、父・有範は、皇太后宮大進という役職についていました。しかし、のちに出家して、三室戸大進入道と呼ばれ、三室戸寺の僧侶として、少なくとも聖人が成人される頃までは、生きておられたようです。
母・吉光女は、源氏の流れをくむ女性(源義親の娘、または孫?・)であり、聖人8歳の時に亡くな
られたのではないかとも言われていますが、いずれも定かではありません。
また、聖人の幼名は、松若麿といい、兄弟については、尋有・兼有、有意、行兼の4人のい弟がいたようです。この日に、聖人の誕生を祝う「降誕会」の法要を行っています。
日野家/日野家は、藤原氏の流れをくみ、始祖の藤原鎌足(614〜669)の七代の孫・家宗(817〜877) の時、京都の東南にある日野に法界寺を創立しました。また、家宗の五代の孫・資業は日野を姓とし、法界寺に阿弥陀堂を建てました。聖人もこの阿弥陀如来さまを拝まれたのかもしれません。また、日野家は、代々、儒学と歌道をもって朝廷に仕えていました。
家系と時代背景/親鷲聖人が明らかにされた仏教を学ぶ上で、聖人の人生を学ぶことば、大きな意味があります。それは、どのような家系・家庭環境に生まれ、どのような時代に生きたかと小汚ことが、聖人の求道に大きな影響を与えているからです。  
時代背景
聖人は日本の歴史の大きな転換期に誕生されました。源平の戦乱や天災地変、飢饉や疫病などが相次ぐ時代に、人々は生きる意味を問わすにはおれなかったでしょう。
親鸞聖人が誕生された時代は、どのような時代だったのでしょダか。聖人の幼年期から青年期にかけて、日本の歴史は、大きな転換期を迎えていました。つまり、藤原氏を中心として長く続い・ていた貴族政治が、武家政治に変わろうとする激動の時代だったのです。
保元の乱人一一五六)・平治の乱(一一五九)は、宮廷・貴族間の対立によるものでしたが、その貴族社会の争いも、結局は武士の手を借りなくては解決することができなくなっていました。
聖人が誕生された一一七三年は、平治の乱によって平家が政権を握ってから十四年目に当たり、その勢力がもっとも盛んな時でした。しかし、その平家の栄華も長くは続きませんでした。民衆の間では、次第に平清盛の.専制政治に対する不満が渦巻きはじめ、一一八〇年、源頼政と後白河法皇の皇子・以仁王が、平家打倒の兵をあげたのをきっかけに、伊豆に流されていた源頼朝や、信濃の木曽谷に隠れていた源義仲をはじめ、各地の武士団が相次いでで挙兵しました。
一一八五年、頼朝の命を受けた源義経に攻められて、ついに、平家は、長門の壇の浦で滅亡ました。
この政権争奪にともなう数々の戦乱は、当時人々の心を動揺させずにおきませでした。
また、そういう世の中の混乱を一層深刻にしたのは、痛ましい天災地変の続発でした。地震や大風、大火なげ渉相次ぎ、さらに飢饉や疫病の沈めに、死者が都に溢れました。加茂川に捨てられた死骸はその流れをせきとめて、洛中に水が溢れたとも伝えられています。
このような世の中で、人々は、生きる意味を問わずには、おれなかったことでしょう。

養和元年(一一八一)から二年間にわたって、京都を中心に大飢饉が発生しました。この状況を鴨長明(一一五三〜一二一六)は、「方丈記」の中に、次のように述べています。「二年間、世間では食料が不足して飢え苦しみ、′何ともいいようのない(ひどい)事態が起こりました。ある年は春・夏のごとで日照り、ある年は秋のこと、大風・洪水などと、悪い現象が次々と連続して、五穀(米・麦・粟・黍・豆)はすべて実らなかった。(中略)土塀ゐかたわら、道のはたで、飢え死にしていく人々の数は、はかり知れない。その死体を処理するすべもわからないので、異様な臭気があたり一面に満ち溢れて、(死体の)腐り変形していく様子は、まともに見ることもできない状態がほとんどだった」(現代語訳)
出家(1)
聖人は1181年9歳の春、京都・青蓮院で得度されました。戒師は慈円僧正で、名を「範宴」と改められました。出家の理由はよくわかっていませんが、いくつか考えられます。
親鷲聖人は、1181年(義和元年)九歳の春、伯父・範綱に伴われてれて、京都の青蓮院で、慈円僧正を戒師として、出家(得度)されました。そして、名を範宴と改められました。
この時から聖人は、天台宗の僧侶として、仏道を歩む身となられたのでした。
聖人の出家した理由は、よくわかっていません。しかし、その理由として考えられることが、いくつかあります。
まず、外面的な理由として、「社会の不安」と「家庭の事情」があげられます。先に述べたように、聖人が幼少の頃は、貴族政治から武家政治への転換期であり、源氏と平家の争いが絶えない、戦乱の世でした。また、地震・大風などの天災地変、飢饉・疫病によって、多くの死者がでました。このような社会の不安は、当時の、出家の一般的動機でもあり、聖人の出家にも影響を与えたことでしょう。 しかし、それ以上に大きな理由として考えられるのは、「家庭の事情(有範一家の没落)」です。
出家する九歳の聖人に付き添ったのが、父・有範ではなく、伯父・範綱であったということば、父には付き添ってやれない何らかの理由があったと思われます。
また、父・有範と四人の弟がいずれも出家していることを考え合わせれば、有範一家に、ただならぬことが起こったと考えるのが自然でしよう。
1180年、聖人八歳の時、源頼政と後白河法皇の皇子・以仁王が、平家打倒の兵をあげました。しかし、平家の軍に敗れ、頼政は宇治の平等院で自害、以仁王も敗死しています。その以仁王の首実検に、以仁王の学問の師であった聖人の伯父・宗業が召し出されました。この戦いが、有範一家の没落の原因だと言い切れない面もありますが(有範の父・経尹の放埒によるという説もある)、いずれにせよ、聖人の出家は、自らの意思より前に、出家をうながす事情があったと考えられます。
ただ、だからといって、仕方なく出家したのかというと、そうとは言えないと思います。内面的な理由として、動乱の時代に生きる聖人が、世の無常を感じ、何のために生きているのか、何をより所に生きていったらいいのか、と真実を求めて生きたいという気持ちを、心の奥底に持っていたと考えられます。それは、後の聖人の求道の厳しさからわかります。もし、生き延びるためだけに仕方なく出家したのなら、真剣に道を求める必要は、ないからです。
つまり、聖人は、自らの選びに先立って与えられた厳しい事情を仏縁として、出家されたのでした。
「明日ありと思ふ心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは」お得度の時、9歳の聖人はこの和歌を詠まれたと伝えられています。幼いながらも、深く世の無常を感じておられたに違いありません。
親鸞聖人のお得度に関して、次のような話が伝わっています。
聖人は九歳の春、伯父・に範綱に連れられて、青蓮院に行かかれました。そして、慈円僧正のもとで得度の式を受けることを願われたのですが、その日は夕方遅かったので、慈円僧正は、「今日はもう遅いので、得度の式は明日にしましょう」と言われました。
その時、聖人は、「明日ありと思ふ心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」という和歌を詠まれました。
この和歌は、「明日があると思っていても、ちょうど、今は満開に咲いている桜も、夜中に嵐が吹いて散ってしまうかもしれないのと同じように、この私の身も心も、明日はどうなっているかわからない」という意味です。つまり、聖人は、この和歌によって、「明日はどうなるかわからない我が身だからこそ、今すぐ得度の式をしてほしい」ということを伝えられたのです。慈円僧正は、この和歌に感動し、すぐに得度の式をされたということです。
親鸞聖人は、移り変わりの激しい時代に、幼年期を過ごされましたから、幼いながらも、深く世の無常を感じておられたに違いあ軒ません。そして得度をきっかけとして、永遠に変わることのない真実を求めたいという強い願いを持たれていたと思われます。
この和歌は、そのような願いの切実さを表すものであり、また、自らの選びに先立って、何らかの事情によってうながされた出家の道を、自らの進むべき道として、きっぱりと受け止められたということを表すものでしよう。
慈円/慈円(一一五五〜一二二五)は諱(諡 おくりな)を慈鎮いい、慈円慈鎮和尚とも呼ばれます。また、慈円は、摂政白であった藤原忠通の子で、後に関白となる九条兼実(藤原兼実) の弟です。出身が摂関家でにちに、四度も天台座主に就いた高僧です。
出家の理由/聖人の出家の理由について、「御伝紗」(覚如上人著)では、「興法の因うちにきざし、利生の縁はかに催ししによりて」とあります。これによると、聖人の胸の内に、仏法を興隆したいという思いがきざし、また世の人々は、仏法による救いを求めていたという、内と外の因縁によって、聖人は出家したというのです。これは、覚如上人(聖人の曾孫)が、聖人の中に芽生えていたであろう仏道の願いを、このように仰いだと受け取るべきでしょう。  
学問修行
出家された聖人は天台宗の僧侶として学問修行に励まれました。聖人が比叡山でどのような修行をされたか定かでありませんが、恵信尼さまの手紙から「堂僧」であったことがわかります。
出家された親鸞聖人は、天台宗の僧侶として、比叡山において、学問修行に励まれました。その頃の比叡山は、天台宗の根本道場であったばかりでなく、日本における最高の仏教総合大学のような存在でした。
比叡山では、天台宗の開祖・伝教大師最澄(七六七〜八二二)が定めた「山家学生式」に従って、十二年間山に寵って、学問と修行に専念する厳しい龍山の制度がありました。また、少し後に、相応(八三一〜九一八)によって形成された、比叡山の峰々の諸堂で読経・礼拝をしながらいい山道を歩きまわる回峰行などの修行も行われていました。
聖人が学問惨行された頃の比叡山は、世俗と変わらぬ階級制度に縛られていたり、僧侶集団が互いに争うなど、俗化していたと言われていますが、心ある修行者ば、命がけで修行に励んでいたことは、間違いありません。
聖人が、比叡山でどのような修行をされたかは、定かではありませんが、後に聖人が書かれた書物から、天台宗の教えを深く学ばれていたことがわかります。また、九歳から二十九歳の二十年間、比叡山で仏道を歩まれたわけですから、さまざまな修行にも、懸命に取り組んだものと思われます。
ただ、「恵信尼消息(聖人の妻・恵信「恵信尼さまのお手紙)」に、「殿(聖人)の比叡の山に堂僧つとめておはしましけるが、山を出でて、六角堂に百日寵らせたまひて」とあることから、比叡山を去られる二十九歳の時点では、聖人は、堂僧であったことがわかります。
堂僧とは、常行堂で不断念仏(常行三昧)を行う修行僧のことです。
常行三昧/常行三昧とは、天台宗の修行である四種三昧(常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧)の一つで、堂内の阿弥陀仏像の周囲を、口に阿弥陀仏の名をとなえ、心に阿弥陀仏を念じながら、九十日の間、歩き続ける行のことです。常行とは、常に歩き続けることで、三昧とは、心をひとつに集中して乱さないことです。この行を続けると、目の前に仏さまが現れるといわれています。しかし、これは妄想ではなく、かといって、実体的な仏さまが現れるのでもありません。行者が、深い三昧の境地に入り、真理を確認していることを意味するものなのです。
後に、最澄の弟子・円仁(七九四〜八六四)によって、五会念仏が持ち込まれ、常行三昧が変化していきました。それが、不断念仏(山の念仏)と呼ばれていたようです。
求道の悩み
修行に励めば励むほど迷いの深さを知らされた聖人は、敬慕する聖徳太子ゆかりの六角堂に百日問こもられ、今後の自らの進むべき道を太子に求められました。
出家された親鸞聖人は、天台宗の僧侶として、比叡山において、学問修行に励まれました。聖人が、比叡山でどのような修行をされたかは、明らかではない面もありますが、天台宗は、聖道門の教えで、自らの力をたよりに修行して、煩悩を滅し、さとりに至ろうというものでした。
聖人は、厳しい学問修行によって、自らの心をみがき、仏のさとりを目指されました。しかし、励めば励むほど、煩悩が無くなるどころか、見えてきたのは、自分の心の醜さでした。
後に、聖人の玄孫(孫の孫)の存覚上人が、その時の心境を、「定水の凝らすといえども識浪しきりに動き、心月を観ずといえども妄雲なお覆う(心を一点に集中し、安定させるといっても、ちょうど、水面がすぐ波立ってしまうように、いろいろな想いが浮かんでしまう。清浄なる心(仏)を観るといっても、月がすぐに雲に覆われてしまうように、妄想や妄念に覆われて隠れてしまう)」(「嘆徳文」)と伝えています。
比叡山での修行に行き詰まりを感じた聖人は、六角堂(頂法寺)に百日間参籠することによって、自らの進むべき道を問うことにしました。
聖人が六角堂を選ばれたのは、聖徳太子ゆかりの寺だったからです。聖人は、聖徳太子のことを救世観音の化身と仰ぎ、「和国の教主」と讃え、また、在家仏教の先達として、深く尊敬されていました。
聖道門(聖道教)と浄土門(浄土教)/聖道門とは、自らの力(自力)をたよりに修行して、この世でさとりを得ようとする教えで、浄土門とは、仏の力(他力)によって、浄土に生まれ、さとりを得ようとする教えです。ただし、一般仏教では、100%自力か100%他力かではなく、聖道門でも他力の部分を認め、浄土門でも自力の部分を認めます。ただ、浄土真宗は、100%他力です。
叡山浄土教/天台宗は、基本的には、聖道門の教えですが、比叡山横川において、源信和尚が、浄土教を伝えており、聖人は、それを学んでいたと思われます。しかし、叡山浄土教は、自力の修行によって、浄土に往生しようとする自力の傾向の強いものでした。ただし、法然上人は、源信和尚の「往生要集」の中心は、他力の称名念仏を説くことにあると明らかにされました。
六角堂参籠
聖人が六角堂に参籠されて95日目の暁、聖徳太子の示現をうけられ、吉水の法然上人のもとへ。示現の文には諸説がありますが、代表的なものは2つです。
親鸞聖人が六角堂参籠を決意されたきっかけは、おそらく、法然上人の噂を聞かれたからだと考えられます。京都東山の吉水の地に法然上人という方がいて、出家・在家を問わず、念仏一つで、すべての人が救われる道を説いておられるという噂でした。この法然上人を慕い、多くの人々が集っていましたが、従来の仏教の教えを守っている人々は、出家の者も在家の者も、持戒の者も破戒の者も、平等に救われるなどありえないし、そのような教えは、世の中を乱す、とんでもない邪説であると、激しく批難していました。
しかし、比叡山での修行に行き詰まりを感じていた聖人は、法然上人の教えに強く引かれるものがありました。ただし、この比叡山を捨てて、法然上人の下に行くことは、とても大きな決心のいることでした。その最終判断を、六角堂参籠によって、聖徳太子の指示を仰ごうとされたのでした。
聖人が六角堂に参籠を始めから95日目の暁、聖徳太子の示現(夢告)にあずかったと伝えられています。示現の文については諸説ありますが、その内容は、阿弥陀仏への信仰・在家仏教の道、つまり、法然上人の教えに通じるものであったと考えられます。
この後、聖人は、法然上人の門をたたかれたのでした。
示現/示現とは、姿を示し現われるということで、具体的には、聖徳太子(または、そのの本地である救世観音)が夢で現われたということです。俗な言い方をすれば、夢のお告げを受けたということですが、一般的に言われるような、絶対者がお告げをするというものとは違います。夢は、普段意識していないもっと深い領域(深層心理)が現われたものであると考えられます。つまり、聖人は、夢によって、自分の心を確認されたと受け取るべきでしょう。
示現の文/示現の文については、はっきりわかっていませんが、次の二つの説が代表的なものです。
 ■行者宿報の偈
  行者宿報にてたとひ女犯すとも われ玉女の身となりて犯せられん
 一生の間よく荘厳して臨終に引導して極楽に生ぜしめん
 ■磯長の廟窟偈
  わが身は世を救くる観世音なり 定慧を契る女は大勢至なり
 わが身を生育する大悲の母は 西方教主の弥陀尊なり
 末世の諸の衆生を渡さんがため 父母血肉の身を所生し
 勝地たるこの廟窟に遺留する 三骨一廟は三尊の位なり
法然上人のもとへ
吉水に100日間通い、法然上人のお弟子となられた聖人は、このことを「数行信証」に「雑行を棄てて本願に帰す」と記されました。親鷺聖人29歳、法然上人69歳の時のことです。
親鸞聖人は、法然上人に会いに、吉水の草庵を訪ねられました。そこには、貴族や武士や農民など、さまざまな身分の人が集まっていました。それまでの仏教は、国家仏教であり、貴族と僧侶以外が、仏の教えを聞くことばほとんどありませんでした。そのような仏教をすべての人々に開放し、仏教を本来の姿にもどした人の一人が、法然上人だったのです。
それから百日のあいだ、雨の降る日も、日の照る日も、どんな支障があろうと、欠かさず法然上人のもとを訪ねました。そして、善人も悪人もすべての人が同じように救われていく念仏の道があることを、ただ一筋に仰せくださるのを聞き、これこそ、自らの歩むべき道であると聞き定められました。
聖人は、念仏の教えに遇い、煩悩から逃れられないこの自分の、生きる意味と方向を聞き定めることができたのでした。
聖人29歳、法然上人69歳の時のことでした。聖人は、その時のことを、「難行を棄てて本願に帰す」(「数行信証」)と述べられています。これは、聖人にとって、人生最大の精神的転換でした。
法然上人(1131〜1211)の生涯/法然上人は、長承二(1133)年4月7日に、美作(岡山)の久米の押領使(現在の警察署長に あたる)漆間時国の子として生まれ、幼名を勢至丸といいました。九歳の時、父・時国は、源内定明の夜襲を受け、瀕死の重傷を負いました。その時、敵討ちを誓う勢至丸に、時国は、「仇を討ってはならない。仇を討てば、また相手がこちらを仇として狙うだろう。それではいつまでたっても怨みは消えない。それよりも、仏門に入って、怨みを超える真実の道を求めてくれ」と遺言しました。それが、きっかけとなり、叔父・観覚の寺に入りました。その後、13歳で比叡山に登り、15歳で出家。そして、天台宗の教えを学び「智慧第一の法然房」と言われるようになりました。しかし、散り乱れる心は、どうすることもできず、生死の迷いを離れることばできませんでした。そして、長い間の学問の末、43歳の時、中国の善導大師の「一心に弥陀の名号を専念して行住坐臥、時節の久近を間はず、念々に捨てざりをこれを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに」という文に出遇い、浄土教に転向し、念仏の教えを学ばれました。
その後、比叡山を下って吉水に住み、民衆のために、ひたすら念仏の教えを説かれました。そして、八十歳で亡くなられました。
法然上人の教え
法然上人の教えをひと言で言えば「専修念仏」すなわち「ただ念仏して阿弥陀仏に救われる」教えです。上人は主著「選択集」で念仏一つを選び取られました。
法然上人の教えを一言で言えば、「専修念仏」、すなわち、「ただ念仏して、阿弥陀仏に救われていく教え」であると言えます。もう少し正確にいうと、阿弥陀仏が本願の中で、すべての人が救われる道として、念仏を選び取って下さったということから、「選択本願念仏」の教えであると言えます。
法然上人は、主著「選択本願念仏集」(「選択集」)において、さまざな修行の中で、念仏(称名)一つを選び取っておられます。
しかし、それは、法然上人の判断で選び取られたのではなく、念仏することが、阿弥陀仏の本願にかなった行為だからだというのです。阿弥陀仏が、すべての人を救うために、念仏を選び取って下さったのです。
では、なぜ念仏なのでしょう。それについて、法然上人は、念仏は、仏の救いのはたらきが収まった勝れた行であり、誰でも行うことのできる易しい行だからであると言われています。
ただし、「念仏は、勝れた易しい行だから、楽でいい」ということではなく、このような選びの根底には、阿弥陀仏の、すべての人を救わずにはおかないという、平等の大悲心があるということを、忘れてはならないでしょう。
ところで、この念仏は、たくさん称えて、その見返りとして救いが与えられるというものではありません。念仏を称えるということば、必ず救うという仏さまの願い(本願)を受け容れている姿であり、仏さまの救いのはたらきに包まれているということを意味するのです。
親鷲聖人は、法然上人から教えを受け、私が一生懸命修行をして、仏のさとりに近づくという「私から仏」という方向(自力)から、仏さまの救いのはたらきを受け容れるという「仏から私」の方向(他力) へと、一八〇度の転換がなされ、救われたのでした。
「選択本願念仏集」(三選の文)/「速やかに迷いの世界を離れようと思うなら、二種の勝れた法の中で、聖道門をさしおいて、浄土門に入れ。浄土門に入ろうと思うなら、正行と雑行の中で、雑行を捨てて、正行(阿弥陀仏に関する行のことで、具体的には、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五.正行)に帰せ。正行を修めようと思うなら、助業(読誦・観察・礼拝・讃嘆供養)を傍らにして、専ら正定業(称名)を修めなさい。正定業(正しくく浄土往生が決定する因となる行い)とは、仏の名を称えることである。称名するものは、必ず往生を得る。阿弥陀仏の本願に順ずる道だからである」(意訳)
承元の法難
法然門下での充実した生活は長くは続きませんでした。承元元(1207)年「承元の法難」で念仏が禁止され、法然上人は四国、親鷲聖人は越後に流罪となられました。
吉水において、法然上人のもとで過ごした日々は、大変充実したものであり、それからの親鷲聖人の一生を方向づける、かけがえのない日々でした。しかし、そのような平穏で充実した生活は、長くは続きませんでした。
法然上人のもとへ、多くの人々が集まる事を、快く思っていなかったのが、比叡山や奈良の伝統仏教教団でした。一二〇四(元久元)年、比叡山延暦寺の僧侶たちは、天台座主・真性に、専修念仏の停止を訴えました。それは、念仏の教えを正しく理解していなかったことと、人々が集まることに対しての妬み、そして、法然上人のもとに集まる人々の中に、念仏していれば悪を恐れることばないと、悪事を行ったり、戒律を守って修行する者を軽視したりする者がいたことが原因だったようです。
それに対して、法然上人は、門弟たちに、七箇条制誡を示されました。聖人は、僧綽空と嘗名されています。
これによって、専修念仏に対する批難は、ひとまずおさまったかに見えましたが、一二〇五(元久二)年、奈良・興福寺は、「興福寺奏状」(解脱上人貞慶)をつくり、法然教団の九箇条の過失をあげ、朝廷に専修念仏禁止を訴えました。
これは、従来の仏教教団から見れば当然の理由をあげての批判でしたが、朝廷の中にも、九条兼実をはじめ、法然上人の教えをよろこぶ人々が多くいたこともあってか、最初は、この訴えは、取り上げられませんでした。
しかし、時の権力者、後鳥羽上皇のかわいがっていた女官、鈴虫・松虫が、上皇の留守中に、法然上人の弟子、住蓮房・安楽房の行った念仏会に参加し、そのまま出家したことが、上皇の怒りにふれ、専修念仏禁止の命令が下されました。
そして、住蓮房・安楽房をはじめ、四名が死罪、八名が流罪になりました。法然上人は、藤井元彦という俗名を与えられ、四国「土佐(高知)に流される予定でしたが、実際は、讃岐(香川)」 へ、親鸞聖人は、藤井善信という俗名を与えられ、越後(新潟)に流されました。
この事件を、承元元(一二〇七)年に起こった、法に対する困難な出来事という意味で、「承元の法難」と呼んでいます。
法然上人七十五歳、聖人三十五歳の時のことでした。
非僧非俗
親鸞聖人は、無実の罪にもかかわらず、朝廷の怒りをかい、流罪となったことで、自らを「非僧非俗」といわれましたが、それは単に僧籍を剥奪されたということではありません。
親鸞聖人は、「承元の法難」で越後に流罪になったことをきっかけに、「すでに僧に非ず俗に非ず。このゆゑに禿の字をもって姓とす」(「教行信証」後序)と、自らのことを、「非僧非俗(僧に非ず俗に非ず)と言い、また、「愚禿」と名告られています。
聖人は、無実の罪にもかかわらず、朝廷物懲りをかい僧籍を剥奪されたので、すでに僧侶ではなくなりました。しかし、「非僧」とは、単に僧籍を剥奪されたという事実を述べているのではありません。
「非僧」とは、「国家権力によって認められた僧侶ではない」と、無道なことを行った国家権力に対する批判をも意味する言葉なのです。だからこそ、「非俗(俗に非ず)」(世俗の生活に終始するような俗人ではない)というのです。仏教の立場から言えば、僧侶でなければ俗人であるはずです。僧侶でもなく、俗人でもないということばありえません。
つまり、聖人の「非僧非俗」の言葉は、「国家権力によって定められた僧侶でもなく、かといって、世俗にどっぷりつかった俗人でもない。僧侶とか俗人とかいう立場を超えて、真に仏道を求めるもの(真の仏弟子) である」という宣言なのです。

「承元の法難」を聖人がどのように受け取ったかということに関して、二つの姿勢が見られます。「天皇も臣下のものも、法に背き道理に外れ、怒りと怨みの心をいだいた」と権力者に対して屈せず、おかしいものをおかしいと批判しています。
もう一つは、「もし私が配所へ行かなかったら、田舎の人びとをどうして教化することができただろう。これは全く師・法然上人のご恩のいたすところである」と、無実の罪で遠い越後に流されたという事実に対して、不平不満を言うのではなく、遠くの地にお念仏を伝えるご縁であると受け取っていかれています。そして、そのように、流された地を伝道の場であると見る目が与えられたのが、法然上人のご恩であると言われているのです。
愚禿
「愚禿」とは謙遜や卑下、自己反省ではなく、仏のひかり(教え)に照らされ明らかになった偽らざる自己の姿だったのです。
親鸞聖人は「承元の法難」で越後に流罪になったことをきっかけに、自らのことを「非僧非俗(僧に非ず俗に非ず)」と言い、また、「愚禿」と名告られています。
「愚禿」の「愚」とは、「愚か」ということですが、現在一般的に使われる愚かさではなく、「真実に対して無知である」という意味の愚かさのことをいいます。私たちは、自己中心の心から離れられず、自分にとって都合のいいいものを貪り求め(貪欲)、都合の悪いものを憎み怒っています(瞋恚)そのように、自己中心にしか物事が見れていない愚かさのことを「愚(愚痴)」といいます。
「禿」とは、「はげ頭」ということで、外見は僧侶の姿をしていながら、中身が伴わず、世俗とあまり変わらない生活をしている者のことを言います。
また、「禿」には、はげ頭とは逆に、「髪を短く切りそろえて垂れたもの」という意味もあり、聖人が罪人として流された時、ぼさぼさに髪をのばしていた状態を指すともいわれています。
しかし、いずれにせよ、「愚禿」とは、「僧侶でありながら、中身が伴っていない愚かな者」ということです。
この「愚禿」の名告りは、決して謙遜や卑下といったようなものではなく、また、自己反省の言葉でもありません。仏のひかり(教え)に照らされて、明らかになった、偽らざる自己の姿だったのです。
結婚/法然上人は、出家の者も在家の者も、すべての者が救われる、念仏の道を、示して下さいました。けれど、法然上人自身は、生涯結婚せず、ただ念仏の生涯を過ごされました。それに対して聖人は、公然と結婚し子どもも授かり、家庭を持つ生活の中で、念仏の道を歩まれました。つまり、身をもって在家仏教の道を歩まれたのです。法然上人は、結婚について、「結婚したほうが念仏しやすいのなら、結婚しなさい。一人のほうが念仏しやすいのなら、結婚しないでおきなさい」と言われています。これは、「結婚するかどうかが問題なのではない。念仏するかどうかが問題なのだ」ということを示されたものだといえるでしよう。聖人の結婚については、さまざまな説がありますが、「流罪者は、妻を同伴して配所におもむけ」という法律が古くからあったことがわかり、流罪前の京都で、恵信尼さまと結婚されたという説が有力です。
聖人より九歳年下で、越後のの豪族・三善為教の娘であるといわれています。
関東へ
流罪5年目、聖人39歳の時、流罪が許されましたが、すぐには京都に帰られませんでした。それは、子どもが生まれたばかりだったことと、法然上人が亡くなられたことによると考えられます。
越後での親鸞聖人の生活は、明らかではありませんが、その頃の罪人の生活は、一日に、わずかな米と塩が与えられ、翌年の春に種が支給されると、その年の秋から米と種ともに支給が無くなり、それ以降は自給自足の生活をしなければならなかったといわれています。
越後の冬は厳しく、深い雪に覆われます。聖人は、越後での厳しい生活の中で、念仏の教えを、ますます深く味わっていかれました。
流罪になって5年目、聖人39歳の時(1211年11月17日)、流罪が許されましたが、すぐには京都に帰られませんでした。それは、聖人の子・信蓮房が、その年の3月3日に生まれたばかりで、長旅は困難だったことと、「2ヶ月後(1212年1月25日)に法然上人が、京都において、80歳で亡くなられた」という知らせが届いたことによると考えられます。
京都に帰る望みを失った聖人ば、しばらく越後に留まられました。
そして、42歳の時(1214年)、妻子を伴って越後を旅立ち塩川を経て、関東の常陸(今の茨城県あたり) へと移られました。
なぜ関東へ移られたのかは、わかっていませんが、新しい土地で、念仏の教えを伝えようとされたのでしょう。
流罪赦免/法然上人は、一年足らずで流罪を許されました(後鳥羽上皇が建てた最勝光院の慶讃法要の恩赦)。しかし、京都に入組ることば許されず、箕面の勝尾寺ほ留まられました。そして、4年後、建暦元年(1211年)11月17十日に京都に帰ることを許されました。聖人の流罪が許されたのも、同じ日です。
関東移住の理由/一説によると、常陸を中心に、北関東で勢力を持っていた性信房の招きによるものだといわれています。性信房は、後に横曽根門徒の中心となった人で、関東の代表的な念仏聖でした。関東はいんもともと善光寺の勧進圏なので、善光寺聖(勧進聖) であったと考えられます。また、聖人も善光寺聖だったのではないかといわれています。聖人は、越後の地で、善光寺聖に出会っていたと思われ、それによって、善光寺に向かわれたと考えられます。そして、その後、常陸へ移られたのでしょう。 性信房に招かれたので、妻子を連れて関東へ向かうことができたと思われます。
関東での伝道
関東に移られた聖人は約20年間、ひたすら念仏の教えを伝えられ、多くの人々に弘められました。主著「数行信証」を執筆されたのも関東です。
関東に移られた親鸞聖人は、「小島(茨城県下妻市) の草庵」や「稲田(茨城県笠間市)の草庵」などに住んで、約20年間、伝道にはげまれました。
聖人は「親鸞は弟子一人も持たず侯ふ」 (「歎異抄」)と言われているように、人々に対して、師匠と弟子という態度ではなくか汚職「御同朋・御同行」 の精神で、接しておられます。「御同朋・御同行」とは、共に念仏の教えに生きる同じ朋(とも)であり、同じ行者であるということです。このような姿勢で伝道を続ける聖人を、関東の人々は、とても信頼し、尊敬するようになりました。
しかし、皆が聖人を歓迎したわけではありません。念仏の教えが弘まるのを快く思っていない人もあり、いのちを狙われたこともあったと伝えられています。
けれど、聖人は、ひたすらに念仏の教えを伝えていかれ、多くの人々の間に、弘まっていきました。
また、元仁元(1224一)年聖人52歳の時、稲田の草庵(現在の西念寺)で、「教行倍証」の執筆をされました。しかし、1年で完成されたのではなく、20年あまりの歳月を費やしておられます。75歳頃には、一応の完成をみたものの、生涯、改訂を行っておられます。聖人が、念仏の教えを正しく伝えるために、いのちをかけて書かれた書物が「教行倍証」だったのです。
ちなみに、後に真宗教団が成立してから、この元仁元年を、「浄土真宗」という教えが成立した「立教開宗」の年と定めました。
板敷山の弁円/聖人が、稲田の草庵を拠点に伝道をされていた頃、それを快く思わない人の中に、板敷山の山伏(修験道の行者)弁円がいました。祈祷を勧める弁円にとって、祈祷を行わない念仏の教えが弘まることは都合が悪かったのです。そこで、聖人を、祈祷で殺そうとしたり、板敷山で待ち伏せをしたりしましたが、うまくいきませんでした。
そこで、稲田の草庵に押しかけましたが、ことさらに警戒する様子もなく出てきた聖人の尊い姿に接した時、害を加えようとする心がたちまちに消滅し、後悔の涙が止まりませんでした。そして、その場で弟子になりました。それが、明法房です。
京都へ
聖人は62、3歳頃、関東を後にして京都に帰られました。その理由については、いろいろな説がありますが、「教行信証」を完成させるためであったと考えられます。
親鸞聖人は、62、3歳の頃、関東を後にして、京都に帰られました。なぜ、京都に帰られたのかという理由については、いろいろな説がありますが、「教行信証」を完成させるために、多くの資料が入手しやすい京都に帰る必要があったということが、一番大きな理由であったと考えられます。
京都での聖人は、五条西洞院や、三条富小路などを転々としながら、残り少ないと思われる人生の中で、念仏の教えを伝えるために、懸命に執筆活動に励まれました。
「教行信証」は、漢文で書かれた専門書ですが和語で書かれた「和讃」も多く創られました。「和讃」とは和語によって讃嘆する(ほめたたえる)詩という意味で、親鸞聖人が創られた「和讃」は五百首を超えます。特にその中で「浄土和讃」「高和讃」「正像末和讃」をまとめて「三帖和讃」と呼んでいます。現在、多くの法要で歌われている「恩徳讃」は、「正像末和讃」の中にあります。
また、関東の門弟に教えを伝えるためにやり取りした手紙も多く残されています。これらを「親鸞聖人御消息」(「末灯鈔」)と呼んでいます。
さて、聖人が京都に帰られてから年月が経つと、関東では、念仏の教えを誤解する人が出てきました。その代表的なものは、「阿弥陀如来さまは、どんな悪人でも救ってくださるのだから、どんな悪いことしても構わない(造悪無碍)」という異義と、「お念仏一つで救われるといっても、善い行いも積まなければならない専修賢善(賢善精進)」異義です。
聖人は、これらの異義を正すために、息子・善鸞を派遣されました。しかし、有力な弟子たちがいる関東で、善鸞が入りこんで、指導力を発揮することは、できませんでした。恐らく、思うようにならないことで、焦りがあったのでしょう。こともあろうに、善鸞は、「正しい教えは、自分だけが、父・親鸞から、夜中に密かに授かった」とうそをつきました。
しばらくして、善鸞の言動った聖人は、愕然とし、み教えを守ために、善鸞を義絶する事を決断されました。聖人84歳、善鸞50歳前後の時のことでした。どんなにつらかったことでしょう。この出来事の影響もあってか、その後、聖人の執筆活動は、ますます盛んになっていきました。
往生
聖人は弘長2年11月28日、新暦では1263年1月16日、子や弟子たちが見守る中、浄土に往生されました。そのご命日にあたりつとめる法要を「報恩講」といいます。
親鸞聖人は、京都へは、妻子を伴われましたが、約20年後(聖人82歳頃)、恵信尼さまは、聖人の身の回りの世話を、末娘の覚信尼にたのんで、数名の子や孫を連れて、越後に移られました。父・三善為教から譲られた土地を管理しながら、子どもや、親に先立たれた孫たちの生活を世話するためではなかったかといわれています。
そして、そのまま聖人の臨終にも死後にも、京都に帰られることはありませんでした。
京都での聖人は、一所に定住しないで、京都市内を転々とされたようですが、五条西洞院の辺りに、しばらく住んでおられました。
建長7(1255)年、聖人83歳の時、その住まいが火災によって焼け、弟・尋有が住んでいた三条富小路の善法坊に身を寄せました。
そして、弘長2(1262)年11月28二日(新暦では1263年1月16日)、聖人は、90歳で、浄土に往生されました。末娘の覚信尼や弟の尋有、越後から駆けつけた益方入道(聖人の子)、そして、数名の門弟たちに見守られる中でのことでした。
その後、東山の麓、鳥辺野の南、延仁寺で火葬され、遺骨は、東山大谷(現在の知恩院あたり)のお墓におさめられました。聖人の墓は、墓標に柵をめぐらした簡素なものだったと伝えられています。
10年後の文永9(1272)年、大谷の西、吉水の北にあった覚信尼の屋敷内に六角のお堂を建て、遺骨が移されました。このお堂は「大谷廟堂」と呼ばれ、後に、「本願寺」 へと発展していきました。また、「大谷廟堂」の守護(留守職)は、覚信尼があたり、以後もその子孫が門弟の承認を得て就任することになりましたが、これが、門主制へと発展していきました。
その後、本願寺は、多くの苦難にあい、さまざまな地を転々としましたが、多くの人々の支えによって、現在まで、本願寺と念仏の教えが護られているのです。
報恩講/聖人のご命日にあたり、聖人のご苦労を偲び、そのご恩に報謝する法要を「報恩講」といいます。浄土真宗で、最も大切な法要です。現在、本願寺では、1月9日から16日まで、8日間にわたって、「御正忌報恩講法要」がつとめられています。なお、お寺や家庭でつとめられる「報恩講」は、御正忌(祥月命日)より早く行われるので、「おとりこし」とも呼ばれています。
 
親鸞聖人の教え

 

仏教は、煩悩を滅して、さとることを目指す教えです。しかし、煩悩を滅することができない人はどうしたらいいでしょうか。それが、親鷲聖人が問題とされたところなのです。
釈尊は、王子という恵まれた境遇に生まれました。しかし、どんなに、お金や権力や地位・名誉があろうと、人間として生まれたからには、必ず、老い・病み・死んでいきます。その現実に直面した釈尊は、四苦(生老病死の苦)を解決しない限り、本当の幸せはない、空しい人生で終わってしまうと思い、出家をされました。
そして、すべての苦しみの原因は、煩悩にあると見抜かれたのです。いつまでも若くありたい、健康でいたい、死にたくないという思い、つまり、老病死を、私にとって都合の悪いもの、マイナスだと思う心が、それを苦しみにするのです。私たちは、常に自分を中心にものを見ており、「いい・悪い」「好き・嫌い」と自分勝手な判断をしています。その自己中心の心こそ、煩悩の根源なのです。
釈尊は真実をさとられたわけですが、その内容を一言でいえば、「縁起」であるといえます。「縁起」とは、「すべてのものは、さまざまな因縁に縁って、仮にそのような状態として起こっている」ということです。また、「すべてのものは、持ちつ持たれつの関係にあり、その関係の中で、はじめて存在している」ともいえます。
つまり、「私は、私以外のすべてのものによって、私である」「さまざまな関係の中で、はじめて私が私として存在する」ということです。
そして、それは、「私(自)と私以外のもの(他)は切り離せない」ということどもあり、これを「自他一如」といいます。
本当の意味で、「縁起」がわかった時、つまり、永遠に変わらない「私」という実体はないということがわかり、「私うへの執らわれ(我執)が無くなった時、自己中心の心を離れることができます。そして、ありのままに、ものを見ることができます。この「ありのままにものを見る力」を「智慧」といいます。「智慧」によって、「縁起」の世界が見えてきます。それは、「自他一如」の世界ですから、自分さえよければいいという心は無く、他と共感する心が生まれます。この、他の苦しみ悲しみを共感するところから出てくる、憐れみ慈しみの心を、「慈悲」といいます。「智慧」は必ず「慈悲」としてはたらき、「慈悲」は必ず「智慧」を伴います。
要するに、釈尊のさとりとは、「真実」「縁起」 「自他一如」「智慧と慈悲」といった言葉で表されるような世界なのです。
仏教は、仏の教えであると同時に、仏に成る教えですから、煩悩(自己中心の心)を滅して、さとる(真実を体得する)ことを目指すのですが、煩悩を滅することができない人は、どうしたらいいのでしょうか。それが、親鸞聖人が、問題とされたところなのです。  
真実の教
浄土真宗の所依(依りどころにする)の経典は、「大経」「観経」「阿弥陀経」の浄土三部経です。中でも聖人は「大経」こそ「真実の教」といわれます。
煩悩を滅して、さとりに至る(真実を体得する)のが、仏教の目的ですが、親鷲聖人は、求めれば求めるほど、真実から遠ざかる煩悩だらけの自分が、見えてきました。煩悩を滅することができない自分は、救われないのかと悩み、壁にぶち当たった時、法然上人から教えを受け、「真実を体得し、真実に生きる生き方」から、「真実に生かされる生き方」へ、転換されたのです。
真実を仰ぎ、真実に生かされる生き方なら、煩悩だらけの私たちにも可能です。そのような私たちのために、釈尊は、さとりの内容(真実)を、すべてのものを必ず救うという阿弥陀仏の願い(本願)として説いてくださいました。その阿弥陀仏による救いが説かれた経典が、「浄土三部経」(「仏説無量寿経(大経)」「仏説観無量寿経(観経)」「仏説阿弥陀経(小経)」)なのです。浄土真宗では、この「浄土三部経」を、所依(依りどころにする)の経典と呼んでいます。
他の経典がダメなのではありません。正しいかどうかで言えば、釈尊(仏陀)の教えですから、みな正しい教えです。ただ、お経の内容通りのことをさとることは、一部の勝れた人にしかできません。煩悩だらけの私が救われるかどうかを問題にした時、「浄土三部経」こそが、依りどころとすべき教えなのです。
聖人は、中でも、「大経」こそ、真実の教であると述べられています。そして、その理由とて、釈尊の出世本懐(この世に生まれてきた本来の目的)の経であるからだといわれています。
出世本懐/仏とは、自らがさとって終わりではなく、真実をさとったがゆえに、真実がわからず迷い苦しんでいるものを、真実に導かずにはおれない方です。真実をさとる「智慧」は、必ず、迷い苦しむものを救う「慈悲」としてはたらきます。つまり、「仏」とは、自らさとり、他をさとらせる方(自覚覚他)です。
このような仏さまの心からいえば、すべての人を必ず救うとはたらき続けてくださっている阿弥陀仏の救いを説くことこそ、釈尊の出世の本懐であるといわなければならないでしょう。
ちなみに、「大経」には、(釈尊が、いつもと様子が違い、喜びに満ちあふれた姿をされているのに気付いた阿難が、その理由を尋ねたところ、釈尊は、その問いを静め、「如来がこの世にお出ましになるわけは、仏の教えを説き述べて人々を救い、真実の利益を恵みたいとお考えになるからである」)とあります。「教行信証」では、この部分を根拠に、「大経」こそ、出世本懐の経であることを証明しています。
阿弥陀仏
真実は私の嘘を破るはたらきを持つものです。嘘は必ず真実によって破られます。その真実のはたらきこそ阿弥陀仏なのです。
釈尊は、今から約二千五百年前に、インドで生まれた歴史上の人物です。その釈尊が、三十五歳でさとりを開いて仏陀(真実に目覚めた者)、つまり、仏となったのです。
それに対して、阿弥陀仏は、歴史上の人物ではありません。とは言え、人間が創りだした単なる偶像でもありません。
「真実を象徴的に表した仏さま」というと理解できるかもしれませんが、それは、厳密に言えば、間違いです。真実を象徴的に表したのではなく、「真実の世界から、真実を知らせるために、人格的に現れてくださった仏さま」なのです。
「真実を象徴的に表した仏さま」というと、真実を人間が何かで表現し、頭で理解できる範囲に限定してしまうことになります。真実は、あくまで私の嘘(真実でないあり方)を破るはたらきを持つものであり、私の理解の枠組みの中に収まるものではありません。むしろ、その枠組みを破ってくれるものです。
つまり、阿弥陀仏は「真実の世界から真実を知らせるために、人格的に現れてくださった仏さま」としか表現できないのであり、それは、信仰上ではじめて成り立つ論理だといってよいでしょう。
真実について/真実には、嘘を破るはたらきがあります。嘘は、必ず真実によって、破られます。例えば、男の人が、「私は女である」と言っても、男であるという真実によって、その嘘は破られます。「私は、誰の世話にもならずに、一人で生きている」と言ったとしても、「あらゆるものと繋がりあい、生かされている」という真実によって、その嘘は破られます。
このように、真実は、どこかにあるものではなく、ありのままのあり方であり、真実でないものを真実に導くはたらきをするのです。真実には、そういう性質があるのです。
その真実のはたらきこそ、阿弥陀仏なのです。私を真実に導くはたらきを離れて、阿弥陀仏は存在しません。このような阿弥陀仏に救われていく教えが、浄土真宗です。
ここに、すべての人が平等に救われる道、煩悩だらけの凡夫(私)が救われる道が開かれるのです。
如来/「仏」のことを「如来」ともいいますが、これは、「真実の世界(真如)から、真実を知らせるために来た方」という意味で、人々をさとらせるということ(仏の利他の面)を中心に表す呼び名です。
「アミダ仏」とは「限りないひかりといのちの仏」限りない智慧ト慈悲の仏」という意味です。
阿弥陀仏は、「限りない智慧と慈悲の仏さま」 です。このことを、その語源からみていきぎすが、漢字の意味は、気にしないでください。なぜかというと、これらは、音写といって、インドの言葉を中国で翻訳する時、音を漢字に当てはめたもので、当て字だからです。
まず、「アミダ」とは、「ア+ミダ」 で、「ア」とは、否定の接頭語、「ミダ」とは、「量る」という意味です。ですから、「アミダ」とは、「量ることができない・量りきれない」という意味になります。そして、何が量りきれないかというと、この「アミダ」は、「アミターバ」「アミターユス」の二つの語の意味を含むといわれています。「アミターバ」とは、「限りないひかり」、「アミターユス」とは、「限りないいのち」という意味です。「ひかり」は、「智慧」を表し、「いのち」は、「慈悲」を表します。よって、「アミダブツ」とは、「限りないひかりといのちの仏」・「限りない智慧と慈悲の仏」という意味になります。
そして、「仏」とは、「さとった者・真実に目覚めた者」「自覚覚他(自ら覚り、他を覚らせる)の者」という意味ですから、阿弥陀仏とは、「限りない智慧と慈悲の世界に目覚め、他を目覚めさせずにおれない者」です。このことは、「仏」のことを「如来(真実の世界(真如)から真実を知らせるために来た方)」ということからもわかります。
空間的無限と時間的無限/「限りないひかり」は、「空間的無限」を表し、「限りないいのち」は、「時間的無限」を表すともいわれます。よって、「阿弥陀仏」は、「空間的にも時間的にも無限の仏」、つまり、「いつでも、どこでも、誰にでも、はたらき続けている仏」です。
ひかりといのち/ひかりは闇を破ります。仏の智慧のひかりは、私たちの心の闇を破ってくれます。自己中心の小さ
な殻に閉じこもって生きている私にひかりを与え、大きないのちの世界に目覚めさせてくれるのです。そこに、自己中心の心を離れた慈悲の心が、開かれてくるのです。
阿弥陀如来/「如来」は、仏の「利他」の面(「覚他」)を中心に表す呼び名で、「阿弥陀仏」のことを「阿弥陀如来」ともいいます。
「真実」と「智慧と慈悲」/阿弥陀仏は、「真実の世界から、真実を知らせるために人格的に現れてくださった仏さま」といいましたが、その真実のはたらきは、「智慧と慈悲」のはたらきであるともいえます。よって、阿弥陀仏は、「限りない智慧と慈悲の仏さま」なのです。  
「私の願い」は自己中心的で、欲望を満たす方向がほとんど。それに対し「仏の願い」は「智慧と慈悲」からの万人救済の願い。これを「本願」といいます。
釈尊は、さとりの内容(真実)を、「すべての人を必ず救う」という阿弥陀仏の願い(本願)として説いてくださいました。阿弥陀仏は、「すべての人を必ず救うという願いをたて、はたらき続けてくださっている仏さま」なのです。
「仏説無量寿経」には、次のように説かれています。
「昔、あるところに一人の国王がいました。国王は、世自在王仏の説法を聞いて感動し、自らもさとりを目指したいと思い、国王の位を捨て出家して、一人の修行者(菩薩)となりました。名を、法蔵菩薩といいました。そして、五劫という長い間、思惟して、四十八の誓願を建てました。それは、いずれも、「私が仏になるとき、OOできないようなら私はさとりを開きません」というものです。中でも、十八番目の願い(第十八願)には、「すべての人を必ず救う」と、万人の救済が誓われているので、根本的な願ということで、本願と呼ばています。その後、兆載永劫という長い間、修行して、ついに阿弥陀仏という仏になりました。それは、今からおよそ十劫も昔のことです」
以上が、「法蔵説話」と呼ばれているものですが、これは、作り話ではなく、真実の世界が、物語として表現されたものだと受け取ったらいいでしょう。人は理論では救われません。物語として説かれて、はじめてその人の心に響き、救いとなるのです。自己の願いをかなえることばかりを追い求め、自他ともに傷つけ、迷い苦しんでいる私たちが、阿弥陀仏め願い(本願)に出遇うことによって、正しい道に導かれ、育てられていくのです。
「第十八願文」(現代語訳)
「私が仏になるとき、すべての人々が、私の救いが真実で凍ると疑いなく受け容れ、私の国(浄土)に生まれると思って、わずか十回でも念仏してくれ。もし生まれることができないようなら私はさとりを開きません」
私の願いと仏の願い/「私の願い」は、自己中心的で、自己の欲望を満たす方向のものがほとんどです。それに対して、「仏の願い」は、自己中心の心を離れた「智慧と慈悲」の世界から出てきた願いであり、万人の救済を願う真実の願いです。これを本願といいます。そして、ただ願っているだけではなく、私たちを救うはたらきとしてはたらき続けているので、「本願力」といいます。
宗教的真実/歴史的事実からいえば、釈尊が本願を説いたのですが、宗教的真実からいえば、本願に応じて、釈尊が本願を説いた(本願が釈尊を生み出した)といえます。  
南無阿弥陀仏は、私がとなえていながら、私の言葉ではなく、阿弥陀仏のよび声であり、私を真実に導くはたらきそのものです。
阿弥陀仏は、「南無阿弥陀仏の言葉となって、私にはたらきかけて下さっている仏さま」です。「南無阿弥陀仏」とは、阿弥陀仏の名前であり、これを名号といいます。
「南無」とは、インドの「ナマス」という言葉が変化した「ナモ」の音写で、もともと、「尊敬する」とか「依りどころにする・たのみにする」という意味があります。よって、普通は、「南無・阿弥陀仏」とは、「阿弥陀仏を依りどころにします・たのみにします」という意味になります。ところが、親鸞聖人は、「南無」というのは、「たのみにします」という私からの言葉ではなく、「我をたのめ、必ず救う」という阿弥陀仏の「喚び声」だといわれているのです。なぜかというと、阿弥陀仏は、「限りないひかりといのちの世界(真実の世界)の、私を真実に導くはたらきそのもの」であり、私の方から、「限りないひかりといのちの世界」をたのみにしますといわなくても、私は、「限りないひかりといのちの世界」の中で生かされているからです。私が、阿弥陀仏をたのみにしますという前から、阿弥陀仏は、必ず救うと願いはたらき続けて下さっているのです。
私たちは、南無阿弥陀仏の言葉によって、限りないひかりといのちの世界へと導かれていくのです。つまり、南無阿弥陀仏は、私が称えていながら、私の言葉ではなく、阿弥陀仏の喚び声であり、私を真実に導くはたらきそのものなのです。
言葉となった仏/私と阿弥陀仏が存在し、その二つを南無阿弥陀仏という言葉で結びつけるのではありません。南無阿弥陀仏とは、言葉となった阿弥陀仏であり、私を必ず救うと願い、はたらき続けて下さっている阿弥陀仏そのものなのです。だからこそ、阿弥陀仏は、阿弥陀という名前の仏でありながら、その名前を南無阿弥陀仏であるといわれるのです。
真実の行/親鸞聖人は、南無阿弥陀仏と称えることが、真実の行だといわれていますが、それは、私の行いではありません。私の行いほどあてにならないものはありません。南無阿弥陀仏と称えているのは、私ですが、阿弥陀仏の救いのはたらきが、私に届き、南無阿弥陀仏の言葉となって現れているのです。私が称えているままが、阿弥陀仏がはたらいて下さっている姿なのです。つまり、阿弥陀仏のたはらきだからこそ、真実の行といえるのです。
原口針水氏は、「我称え 我聞くなれど南無阿弥陀 つれてゆくぞの 親の喚び声」という和歌を残しておられます。  
「もったいない」
「もったいない」を漢字で書くと「勿体ない」となります。「勿体」は「物体」のことで、物の本体を意味します。ですから、物の本体を失うという意味になります。
今、世界で注目されている日本語があります。それは、「もったいない」という言葉です。
2004年ノーベル平和賞受賞者で、ケニア共和国環境副大臣のワンガリ・マータイさんが、環境問題に取り組む中で掲げた合言葉が、「三つのR」でした。「三つのR」とは、「リデュース(ゴミの削減)」「リユース(再使用)」「リサイクル(再生利用)」の三つです。
ワンガリ・マ一夕イさんは、日本で、「もったいない」という言葉に出遇った時、この三つの言葉をたった一言で表しているすばらしい言葉だと感動したそうです。それがきっかけで、世界にこの言葉を広めようと、いろいろな所で紹介されているのです。
ただ、私は、もう少し前から、この言葉が気になっていました。それは、2002年ノーベル化学賞受賞者の田中耕一さんが、「ノーベル賞をいただくきっかけになった発見をすることができたのは、間違った薬品を混ぜた試料を「もったいない」と捨てずに使ったからです」ということを言われ、また、英露のスピーチをするために、「もったいない」を英訳しようとした時、ピッタリ当てはまる英語が見つからなかったと言われているのを聞いたからです。
「もったいない」を漢字で書くと、「勿体無い」となります。「勿体」とは「物体」のことで、物の本体を意味します。ですから、「勿体無い」とは、物の本体を失うという意味になります。「広辞苑」では、「そのものの値打ちが生かされず無駄になるのが惜しい」と解説してありました。
ご飯粒を残した時、「せっかくお金を出して買ったのにもったいない」というように、損得勘定から、「もったいない」と言うこともあります。しかし、「米という文字は、八十八と書きます。それは、八十八もの手がかかって、はじめてお米がとれるということをあらわしているのだと、昔の方は、教えてくださっています。そんな多くの人のおかげを無駄にするのは、もったいない」とも言います。
そして、もっと大切な視点から言えば、「お米のいのちそのものをいただいているのに、それを無駄にするのは、もったいない(申し訳ない)」のです。
このように、「もったいない」という言葉は、いろいろな側面から捉えることができますが、私は、生き方についても、もったいない生き方をしていないか振り返ってみることが大切だと思います。
「多くのものに支えられ、生かされていることに気がつかないのは、もったいない」
「いただいたいのち、本当に生かさないのは、もったいない」
「せっかく人間として生まれさせていただいたのに、真実(仏法)に出遇わないのは、もったいない」
信心
浄土真宗の「信心」とは、私が信じる心ではなく、「阿弥陀仏の救いのはたらきを、疑いなく受け容れた心」のことをいいます。
「信心」とは、一般的には、「神仏を信じること。また、その心」のことですが、浄土真宗の「信心」とは、私が仏を信じる心ではありません。また、「信じるものは救われる」とか、「救われないのは、信心が足りないからだ」とかいわれますが、浄土真宗では、私がどんなに一生懸命信じても救われません。なぜなら、私の心ほど当てにならないものは無いからです。どれほど一生懸命信じていても、自分の思いがかなわなかったら、「この世に神も仏もあるものか」となってしまいます。このように、私たちの心は、ころころ変わってしまいます。そのような当てにならないものを当てにしていては、迷いが深まるだけです。
浄土真宗の「信心」とは、私が信じる心ではなく、「阿弥陀仏の救いのはたらきを、疑い無く受け容れた心」のことをいいます。
例えば、赤ちゃんはお母さんを信じて抱かれているのでしょうか。信じるとか疑うとかいうことを超えて、まかせきっているのです。「お母さんですよ」という声を通して、「お母さんはここにいますよ。大丈夫だから安心してまかせなさいよ」という母親の心を受け容れた姿なのです。それと同じように、南無阿弥陀仏という言葉(喚び声)を通して、「我をたのめ、必ず救う」という阿弥陀仏の心(本願)を受け容れた心が「信心」なのです。 このように、浄土真宗の「信心」は、私が信じる心ではなく、阿弥陀仏のはたらきを疑い無く受け容れた心、つまり、阿弥陀仏からいただいた心であるということで、「他力回向の信(阿弥陀仏からいただいた信)」といわれています。「他力」とは、阿弥陀仏の力、「回向」とは、私の方へ回らし向わせるということです。
阿弥陀仏のはたらきを疑い無く受け容れるということは、私に、限りないひかりといのち(智慧と慈悲)が与えられるということであり、そのはたらきに包まれ、真実に導かれていく(お育てにあう)ということなのです。
二種深信/浄土真宗の信心のありようは、二種深信という二つの心で表されています。一つは、私は、罪深い凡夫であり、迷い続けている存在であると深く信じる(機の深信)。もう一つは、阿弥陀仏は、この私を必ず救って下さるということを深く信じる(法の深信)。二種深信といっても二つの信心があるわけではなく、信心をいただいた時の心のありようを二種に開いて示したものです。
また、「深く信じる」といっても、私が信じるのではなく、あくまで、信心をいただいた時の心のありようであることに注意が必要です。教えを聞くことによって、初めて私の真実の繋が明らかになると同時に、救いの法が明らかになるのです。
念仏
浄土真宗のお念仏は、私を真実に導く仏のよび声であると同時に、仏さまに対するありがとうの意味になるのです。
念仏とは、文字通り、もともとは、「仏を念ずること」、つまり、「仏を心に思い浮かべること」が中心でした。しかし、現在、念仏と言った揚合は「仏の名(名号)を称える」という称名念仏の意味で使われることが、ほとんどです。法然上人・親鸞聖人の伝えてくださった念仏も、称名念仏のことです。
浄土真宗において、念仏とは、称名(仏の名を称えること)、つまり、「南無阿弥陀仏と称えること」 です。
「南無阿弥陀仏」という言葉は、もともと、「私が、阿弥陀仏をたのみにします」という意味で、たくさんとなえることによって、救いを得ようというものでした。これを自力の念仏といいます。
しかし、親鸞聖人の説かれた念仏は、他力の念仏であり、たくさんとなえて、その見返りとして、救いが与えられるというものではありません。南無阿弥陀仏と称えることば、私の行いではあるけれど、それが、仏のはたらきが、私のうえに現れたような行いなのです。称えているままが、仏がはたらいている姿なのです。南無阿弥陀仏の言葉を通して、限りないひかりといのちの世界に触れるのです。それは、教えを聞くことと一緒であるといってもよいでしょう。
私が一生懸命念仏して、その私の行いの見返りとして、浄土というさとりの世界に、生まれさせていただくのではありません。仏のはたらきを疑いなく受け容れる信心によって、浄土に生まれさせていただくのです。これを「信心正因(信心が浄土に生まれる正しき因)」といいます。
では、念仏は何かといえば、仏さまに対して、ありがとうの報恩感謝の意味になるのです。これを「称名報恩」といいます。この「信心正因・称名報恩」は、浄土真宗の大切な教義の一つです。称名正因ではないことに、注意しましょう。
以上、念仏とは、私を真実に導く仏の喚び声であると同時に、私の側からいえば、ありがとうの報恩感謝の意味になるのです。
「唱」と「称」/「唱」は、となえる、うたうの意味があり、「称」は、はかる・はかり、ほめたたえる、となえる、つりあうなどの意味がありります。よって、「念仏を唱える」は、単に口にするという意味ですが、「念仏を称える」は、称えるということと、仏のはたらきが、つりあっており、同じ重さを持っているということを意味します。それは、仏のはたらきが現れたのが、お念仏だからです。
救い(往生浄土)
「往生」とは文字通り「往き生まれる」こと。「浄土」とは煩悩の汚れのない薄らかな世界。「往生浄土」とは「さとりの浄土に往き生まれる」こと。
浄土真宗の救いとは、金魚すくいみたいに、ひょいっとすくってもらって、いい世界に連れて行ってもらうようなものではありません。また、病気を治してもらったり、さまざまな自己の願いがかなうことでもありません。
浄土真宗の救いとは、生きる意味と方向が定まることです。自己中心の心から離れられず、迷いの人生を生きている私に、智慧と慈悲の世界が与えられることによって、人生のあらゆることに尊い意味を見いだすことができるのです。そして、浄土という真実の世界に向かって生きることが、本当の人間として生きる道であると、生きる方向が定まるのです。
このように、私中心の生き方から、仏中心の生き方へと転換され、念仏という生きる依りどころが定まった時、どんな苦難をも乗り超える智慧と力が与えられるのです。
救い/浄土真宗の究極的な救いは、この世のいのちが終わると同時に、浄土に往生し、成仏することです。しかし、このことば、決して未来の救いのみを説いているのではなく、信心をいただいた時に、往生成仏が定まり、救われるのです。これをを「現生正定聚」という言葉で表しています。「現生」とは、この世の「正定聚」とは、「正しく仏に成ることが定まったなかま」という意味です。
往生浄土/「往生」とは、「困ること、行き詰まること」ではなく、文字通り、「往き生まれる」ことです。「浄土」とはい「煩悩の汚れの無い浄(きよ)らかな世界・さとりの世界」のことです。つまり、「往生浄土」とは、「浄土に往き生まれる」ことで、それは、行き詰まることではなく、さとりという新しい世界が開けてくることなのです。
「浄土」は、「極楽」ともいいますが、単に楽しみが極まった世界ではなく、さとりの楽が極まった世界なのです。また、地獄や浄土(極楽)といっても、どこかにそういう空間があるのではありません。悪を犯した人の前に開かれてくる世界が地獄で、さとりを開いた人の前に開かれてくる世界が浄土なのです。
ただし、本来、色や形を超えた世界でありながら、色や形を通してしか受け取ることのできない私たちのために、浄土は西方にあり、金や銀などでできている等と、形のあるものとして説かれていることによって、感覚的に浄土にふれることができるのです。そこに、重要な意味があることも、忘れてはならないでしょう。
他力本願
「他力本願」は「自分は何も努力しない」こととは全く違います。「すべての人を必ず救う」という願いを完成された阿弥陀仏。その願いの通り、阿弥陀仏がすべての人を救うはたらきのことです。
「他力本願」「悪人正機」「往生浄土」は、浄土真宗の教えの三本柱ともいわれており、大変重要な教義ですが、多くの人々に、誤解されているのも事実です。
「他力本願ではダメだ。自力でなければ」と言った時、多くの場合は、「自分は何もしないで、他の力によって希望通りになることを願っているようではダメだ。自分で努力してつかみ取らなければ」ということを意味しているようです。ところが、これは「他力本願」の本来の意味とは、全く違います。
「他力本願」の「他力」とは、「阿弥陀仏のすべての人を救う力・はたらき」のことです。「本願」とは、「阿弥陀仏のすべての人を必ず救うという願い」のことです。ただし、ただ願っているだけではなく、願いを実現する力・はたらきを持っているので、「本願力」ともいいます。親鸞聖人は、「他力というは、如来(阿弥陀仏)の本願力なり」と示してくださっています。つまり、「他力本願」とは、「阿弥陀仏の力であり、それは、すべての人を必ず救うと願い、願い通りに救うはたらき」のことです。
ですから、「他力本願」の生き方とは、自分で何もせず他に頼る生き方ではなく、自己中心の心から離れられず、真実に背いた生き方をしている私が、阿弥陀仏のはたらきに出遇うことによって、真実の生き方へと方向転換されていくような生き方なのです。
自力と他力/浄土真宗で、自力・他力を語る時には、日常生活での人間の行いに関して、自力・他力といっているのではありません。仏のさとりを求める(真実を体得する)ということに関して、いっているのです。この場合、自力とは、「自分の力・行い」というより、「自分の力・行いに価値を認め、当てにすること」、他力とは、「阿弥陀仏の力・はたらき」 であり、「阿弥陀仏をたのみにすること、そのはたらきを受け容れること(信心)」です。さとりを求めるということに関して、私の行いは当てにならない、私の力ではどうしようもないということを見抜き、はたらき続けてくださっているのが阿弥陀仏であり、そのはたらきが他力なのです。
「絶対者の力?」
「他力」とは、「阿弥陀仏のすべての人を救う力」 であるといっても、阿弥陀仏という絶対者がいて、私を救ってくれるというようなもの(二元論)ではありません。
私を救うはたらきの他に、阿弥陀仏が存在するのではありません。真実のあり方から遠ざかっている愚かな私が、真実の方向へ導かれていく、そのはたらきそのものが阿弥陀仏であり、他力なのです。
悪人正機
悪人とは、自分の力で善行を積むことのできない人、煩悩が十分備わっている愚かな人のことです。その悪人とは、具体的には「私」のことなのです。
「悪人正機」の「機」とは、「仏に対して、救いの対象である人間」のことをいいます。よって、「悪人正機」とは、「悪人こそ、阿弥陀仏の正しき救いの対象である」ということです。これを聞いて、「悪人こそ救いの対象だというのなら、どんな悪いことをしても大丈夫だ」とか、「阿弥陀仏に救ってもらうために、すすんで悪いことをしよう」と考える人がいたとしたら、大きな間違いです。
「悪人正機」の悪人は、法律や道徳を基準にした悪人ではありません。宗教(仏教)を基準にした悪人です。
仏教では、仏のさとりに近づく行為が善で、遠ざかる行為が悪であり、それらの行為をする人を、それぞれ善人・悪人と呼んでいます。つまり、基本的な言葉の意味としては、善人とは、自分の力で善行を積み、往生成仏を目指す人、悪人とは、自分の力で善行を積むことのできない人、煩悩が十分備わっている愚かな人のことです。
しかし、厳密には、善人とは、善行が積める人というより、積めると思っている人、悪人とは、仏の教えによって、自分の煩悩・罪悪に気づかされている人のことです。
さらに、その悪人とは誰かと、具体的に問われれば、「私」のことなのです。仏の教えに出遇った時、自らの煩悩・罪悪が明らかになります。そして、悪人とは、この私のことであったと気づかされるのです。この私とは、私が見て悪人だと思った私ではなく、阿弥陀仏に知られている私、阿弥陀仏のひかりに照らされて明らかになった私のことなのです。
「悪人正機」の教えは、この私のためだったと受け取ることができなければ、本当の意味で正しく理解できないでしょう。そして、この教えが、心に響いてくることもないでしょう。
また、「悪人こそ救いの対象である」という言葉は、阿弥陀仏の救いの心を表す言葉であり、慈悲の方向性を示すものなのです。
「涅槃経」に次のような喩えがあります。
「たとえばあるものに、七人の子どもがいたとします。その七人の子どもの中で、一人が病気になれば、親の心は、平等でないわけではありませんが、ひとえにその子に向かいます」
これと同じように、阿弥陀仏の慈悲は、煩悩に苦悩している愚かな凡夫に、真っ先に向けられるのです。
仏(親)の立場に立てば、悪人(病人)こそ、救いの対象であるという言葉は、当然のことと言わねばならないでしょう。そして、ここに仏の慈悲の本質を見ることができます。
還相回向
私が浄土に往生することも、この世にかえって人々を救うはたらきも、すべて阿弥陀仏のはたらきによります。
なぜ、浄土に往生することを目指すのかというと、それは、決して自己満足のためではありません。浄土真宗では、浄土に往生して、仏のさとりを開いて終わりではなく、この世に還ってきて、迷っている人々を救うはたらきをするのです。仏のさとりは、智慧と慈悲の体得、自利利他の完成ですから、自分がさとって終わりだったら、それは、仏のさとりではありません。親鸞聖人はい将士からこの世(穢土)に還ってきて、人々を救うはたらきをすること還相回向(還ってくる相)」という言葉で示してくださっています。
また、それに対して、浄土に往生することを「往相(往く相)」といいます。
親鸞聖人は、私が浄土に往生すること(往相)も、この世に還ってきて、人々を救うはたらきをさせていただくこと(還相)も、すべて、阿弥陀仏のはたらきによるといわれています。これを、「往相え回向」「還相回向」といいます。「回向」とは、阿弥陀痴か私たちに回らし向かわされたという意味です。
いのち終わった後に、衆生救済のために、浄土から還ってくるということは、未来のことのみをいっているのではありません。自己中心の心から離れられない今の私には、本当の意味で他人のために何かをするということはできません。その悲しみを知らされるとともに、そんな私の生きる方向を明らかにしてくれているのです。
 
「正信偈」

 

「正信念仏偈」(しょうしんねんぶつげ・正信念佛偈〉は、親鸞の著書「教行信証」の「行巻」の末尾に所収の偈文。一般には略して「正信偈」(しょうしんげ)の名で親しまれている。真宗の要義大綱を七言60行120句の偈文にまとめたものである。 同じ親鸞撰述の「三帖和讃」とともに、本願寺第八世蓮如によって、僧俗の間で朝暮の勤行として読誦するよう制定され、現在も行われている。
大きく二つの部分によって構成されている。「総讃」の2句に続く前半は、「依教段」と言われ「仏説無量寿経」(大無量寿経)に依って明らかにされている、浄土往生の正因は信心であり、念仏は報恩行であることを説明し讃嘆している。後半の部分は「依釈段」と言われ、インド・中国・日本でこの教えを正しく伝えた七高僧の業績・徳を讃嘆している。
「総讃」・………「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
「依経段」
「弥陀章」…「法蔵菩薩因位時〜必至滅度願成就」
「釈迦章」…「如来所以興出世〜是人名分陀利華」
「結誡」……「弥陀仏本願念仏〜難中之難無過斯」
「依釈段」
「総讃」……「印度西天之論家〜明如来本誓応機」
「龍樹章」…「釈迦如来楞伽山〜応報大悲弘誓恩」
「天親章」…「天親菩薩造論説〜入生死薗示応化」
「曇鸞章」…「本師曇鸞梁天子〜諸有衆生皆普化」
「道綽章」…「道綽決聖道難証〜至安養界証妙果」
「善導章」…「善導独明仏正意〜即証法性之常楽」
「源信章」…「源信広開一代教〜大悲無倦常照我」
「源空章」…「本師源空明仏教〜必以信心為能入」
「結勧」……「弘経大士宗師等〜唯可信斯高僧説」
三帖和讃(さんじょうわさん)とは、親鸞著である「浄土和讃」「高僧和讃」「正像末和讃」の総称である。南北朝時代には、この総称が用いられるようになる。高田派では、「皇太子聖徳奉讃」75首を加えて「四帖和讃」と総称することも。
親鸞は、晩年まで加筆、再訂する。真跡本は、完全なものは発見されていない。専修寺蔵の「国宝本」に一部が真跡と認められる限りである。「文明本」など書写本が数多く残る。書写する際に加筆・再訂され、和讃数や順序などが写本により異なる。後に本願寺第八世 蓮如によって「正信念仏偈」とともに「三帖和讃」(文明本)が開版され、門徒の朝夕の勤行に用いられるようになる。  
偈前の文
爾者帰大聖真言閲大祖解釈信知
仏恩深遠作正信念仏偈曰
しかれば大聖〈だいしょう〉の真言〈しんごん〉に帰〈き〉し、大祖〈だいそ〉の解釈〈げしゃく〉に閲〈えつ〉して、
仏恩〈ぶっとん〉の深遠〈じんのん〉なるを信知〈しんち〉して、正信念仏偈〈しょうしんねんぶつげ〉を作りて曰〈い〉わく、
私たちは日ごろ、真宗の「勤行集」によって「正信偈」に接していますが、それはもともと、親鸞聖人が著された「教行信証」に収められているものです。「教行信証」というのは、親鸞聖人の代表的なご著作です。聖人は、このご著作によって、浄土の教えが「真実」であることを顕らかにされたのです。その意味で、真宗の教えの根本となる聖教〈しょうぎょう〉であるわけです。「教行信証」は六巻からなる大著ですが、その第二番目、「行〈ぎょう〉の巻」の末尾に「正信偈」が添えられているのです。 「正信偈」は、詳しくは「正信念仏偈」といいますが、それは、「念仏の教えを正しく信ずるための道理を述べた歌」というほどの意味です。漢文で書かれた詩で、七文字を一句とし、百二十句、六十行からなっています。 親鸞聖人は、「教行信証」に「正信偈」を掲げられるに先だって、まず「正信偈」をお作りになった、そのお気持ちを、 「しかれば大聖の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、正信念仏偈を作りて曰わく、」と述べておられます。 「大聖の真言に帰し」とあるのは、釈尊が説かれた真のお言葉を依り処とする、ということです。釈尊は、「大無量寿経〈だいむりょうじゅきょう〉」というお経をお説きになりました。そしてこのお経のなかで、阿弥陀如来がすべての人を救いたいと願われた、いわゆる弥陀の本願のことを教えられたのです。それが大聖の真言、つまり釈尊の真のお言葉ということなのです。親鸞聖人は、「正信偈」を作るにあたって、この「大無量寿経」の教えを依り処とされたというわけです。 次の「大祖の解釈に閲して」というのは、インド・中国・日本の三国に出られた七人の高僧が、「大無量寿経」の教えを正しく受けとめられた、そのご解釈を手がかりにする、ということです。親鸞聖人は、「大無量寿経」についてのご自分の見解を主張しようとされたのではなく、三国の七高僧のご教示を仰がれたのです。 親鸞聖人は、ご自身を見つめるのに大変厳しい眼をおもちでありました。ご自身を、愚かで罪深い凡夫であると見極めておられたのです。実は、そのような凡夫を何としても助けたいというのが、「大無量寿経」に説き示されている阿弥陀如来の本願なのです。親鸞聖人は、このような「大無量寿経」の教えを依り処とし、また、このお経の教えについての大先輩がたのご解釈によって、釈迦〈しゃか〉牟尼〈むに〉仏〈ぶつ〉(釈尊)と阿弥陀仏の恩徳〈おんどく〉がまことに深いことを信じさせていただき、知らせてもらったことを喜んでおられるのです。そのことを「仏恩の深遠なるを信知して」といっておられるのです。そして、自ら信ずるとともに、人にも教えて仏の恩の深いことを信じさせるために、「正信偈」をお作りになったのです。 「正信偈」は、全体を大きく二つの部分に分けて見られています。その一つは、「依経分〈えきょうぶん〉」といわれていますが、これが、先ほどの「大聖の真言」にあたる部分です。すなわち、仏の大悲が説かれている「大無量寿経」の要となる教えについて讃嘆〈さんだん〉してある部分です。いま一つは「依釈分〈えしゃくぶん〉」といわれますが、これは「大祖の解釈」にあたるところで、七高僧お一人お一人の教えを紹介し、それぞれの高僧の徳を讃えてある部分です。 私たちが、日々のお勤めのときに「正信偈」をあげ、またこうして「正信偈」の「こころ」に触れようとするのは、愚かで、なさけない生き方しかできていない者が、親鸞聖人のお勧めの通りに、「大聖の真言」と「大祖の解釈」を讃嘆し、その恩徳に感謝することになるのです。 
生きる依り処
帰命無量寿如来
南無不可思議光
無量寿如来〈むりょうじゅにょらい〉に帰命〈きみょう〉し、
不可思議光〈ふかしぎこう〉に南無〈なむ〉したてまつる。
「帰命無量寿如来〈きみょうむりょうじゅにょらい〉」。この句から「正信偈」は始まります。 この句と、次の「南無不可思議光〈なむふかしぎこう〉」の二句は、「帰敬〈ききょう〉」といわれているところです。阿弥陀如来に順い、阿弥陀如来を敬うという、親鸞聖人のお心が述べられている部分です。聖人は、「正信偈」を作って、仏の恩徳〈おんどく〉を讃嘆〈さんだん〉し、仏の教えを承け伝えられた七高僧の恩徳を讃えようとされるのですが、それに先だって、阿弥陀如来へのご自身の信仰を表明されているわけです。 「帰命」という言葉と、次の句の「南無」とは同じ意味です。「帰命」は、「ナマス」というインドの言葉を中国の言葉に訳したものです。ご承知の通り、仏教はインドに起こりましたので、お経はすべて、インドのサンスクリット語(梵語〈ぼんご〉ともいいます)という言葉によって中国に伝えられました。そしてこれが中国語に翻訳されたのですが、あるときは「ナマス」の意味を中国の言葉に置き換えて「帰命」と訳し、またあるときは、意味を訳さないで、インドの言葉の発音を漢字に写し換えて、「南無」という字を当てはめたのです。どちらも、「依り処として、敬い信じて順います」というほどの気持ちを表わしているのです。ここでは、一つの信順の思いを二つの言葉に分けて表現してあるわけです。 また、「無量寿如来」も「不可思議光」も、どちらも阿弥陀仏のことです。「如来」の「如」は「真実」という意味です。「真実」を覚られたのが仏ですが、仏は覚りに留まることなく、「真実」に気づかない「迷い」の状態にある私たちに、「真実」を知らせようと、はたらきかけて来てくださっているのです。その「はたらき」を「如」(真実)から「来」てくださった方というのです。言い方を換えると、姿や形のない「真実」は、いつでも、どこでも、はたらいていますが、私たちの日常の生活を包んでいる、その「はたらき」を、理屈にたよろうとする私たちにもわかるように「如来」という言い方で表わしてあるのです。 「無量寿」とは、量のない寿命ということです。つまり、数量と関係のない寿命、始めもなく、終わりもない寿命です。 「大無量寿経〈だいむりょうじゅきょう〉」というお経には、阿弥陀仏がまだ仏に成られる前のことが説かれています。そのときは、法蔵〈ほうぞう〉という名の菩薩であられたのですが、この菩薩は、仏に成る前に四十八の願いを起こされました。そしてその願いがすべて実現したので、阿弥陀仏に成られたと説かれているのです。その四十八願の第十三の願は「寿命無量の願」といわれるもので、「私が仏に成るとしても、寿命に限量があるならば、私は仏には成らない」という誓願〈せいがん〉であったのです。その誓願が成し遂げられて仏に成られた阿弥陀仏の寿命は無量なのです。過去と現在と未来にわたって、いつも悩み苦しむ人びとがいます。それらの人びとをすべて救いたいと願われる阿弥陀仏は、寿命が無量なのです。そのように時間を越えてはたらく阿弥陀仏の限りない慈悲が、いま私たちにはたらいていると教えられているわけです。 「不可思議光」の「光」は、阿弥陀仏の智慧〈ちえ〉のかがやき、何ものをも照らし出す智慧の「はたらき」をいいます。「思議」とは、心に思ったり、言葉で話したりすることですが、それが「不可」(できない)とされているのです。私たちがどのように思考を尽くそうとも、また言葉をどのように尽くそうとも、それによっては捉え切れない、それらを越えた智慧のはたらきが「不可思議光」といわれているわけです。「大無量寿経」の四十八願の第十二願が「光明〈こうみょう〉無量の願」といわれていますが、「私が仏に成るとしても、光明に限量があって、あらゆる世界を照らし出さないのであれば、私は仏には成らない」と誓われたのです。その誓いが実現したわけですが、それは、阿弥陀仏の智慧の「はたらき」が、空間の限度を越えたものであることを表わしているのです。 
いただいている名号
帰命無量寿如来
南無不可思議光
無量寿如来〈むりょうじゅにょらい〉に帰命〈きみょう〉し、
不可思議光〈ふかしぎこう〉に南無〈なむ〉したてまつる。
「帰命」と「南無」とは同じ意味で、ともに「敬い信じて順う」ということでありました。前回申し述べた通りです。また「無量寿如来」と「不可思議光」とは、いずれも「阿弥陀仏」のことであって、「無量寿如来」は阿弥陀仏の「慈悲」を、「不可思議光」は阿弥陀仏の「智慧〈ちえ〉」を、それぞれ表わしているということも申し述べました。 そうしますと、「帰命無量寿如来〈きみょうむりょうじゅにょらい〉」(無量寿如来に帰命し)ということ、そして「南無不可思議〈なむふかしぎ〉光〈こう〉」(不可思議光に南無したてまつる)ということは、結局、「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏に南無したてまつる)ということと同じことになるわけです。「阿弥陀仏を敬い信じて、その教えに順います」という念仏の心が、三つの言い方で表わされていることになります。 ところが、ここに一つ、大切なことがあります。「念仏」という場合、それは阿弥陀仏のお名前、つまり名号を称えることなのですが、その名号は、実は「阿弥陀仏」だけをいうのではないのです。「南無」を含めて、「南無阿弥陀仏」の全体が名号であると親鸞聖人は教えておられるのです。「南無阿弥陀仏」という名号を称えることが、称名の念仏となるのです。同様に、「無量寿如来」「不可思議光」だけを名号というのではなくて、「帰命無量寿如来」また「南無不可思議光」の全体が私たちに与えられている阿弥陀仏のお名前であるというわけです。 阿弥陀仏に帰命するといいますが、それは、自分が自分の思いで帰命するかどうかを決めるのではないのです。私どもの思いは決して純粋ではありません。清らかではないのです。常に「自分の都合」がつきまといます。「自分の都合」による念仏は、自分のことを念じているだけであって、仏を念じたことにはならないのです。 自我にこだわり続け、その結果として、悩み苦しむことになるのが、私たちの現実です。そのような、まともな念仏のできない者に代わって、阿弥陀仏の方が念仏してくださって、その清らかな念仏を、信心というかたちで、私たちに回向〈えこう〉されているのです。「回向」とは、「振り向ける」という意味です。阿弥陀仏の慈悲が原因となり、その原因によって起こるよい結果だけが、私たちに振り向けられていることになるのです。 そのような慈悲の「はたらき」に素直に感謝し、「南無阿弥陀仏」「帰命無量寿如来」「南無不可思議光」という名号を、私たちに差し向けられた信心として受けとめるというのが、親鸞聖人の念仏の教えなのです。よく「念仏をいただく」といわれますが、それは、この教えによるのです。 この教えによりますと、「帰命無量寿如来」という名号は、量り知れない私の「いのち」の源が、私自身の在り方を呼び覚まそうとしている、その「よびかけ」であることに気づかされるのです。また「南無不可思議光」という、思慮を越えた「智慧」の「はたらき」が、私の人生の道理を明らかにし、現に道理に包まれて生きている私自身を照らし出していることを思い知らせているのです。それらのことに気づかされ、思い知らされるとき、称える念仏は、苦悩する私を救おうとする「よびかけ」と「はたらき」に対する感謝の念仏となるのです。 「帰命無量寿如来」「南無不可思議光」が名号であると教えられていますが、そうすると、親鸞聖人が、「正信偈」の冒頭に、「無量寿如来に帰命し」「不可思議光に南無したてまつる」と述べておられるのは、一見、奇異に見えます。 しかしそれは、凡夫の代わりに念仏してくださる阿弥陀仏、そして「南無阿弥陀仏」という名号を差し向けてくださっている阿弥陀仏、すなわち無量寿如来・不可思議光を、心から敬い信じて、その慈悲に順うお気持ちを率直に表わしておられるのであると、私どもには拝察されるのです。 
法蔵菩薩
法蔵菩薩因位時
在世自在王仏所
法蔵菩薩〈ほうぞうぼさつ〉の因位〈いんに〉の時、
世自在王仏〈せじざいおうぶつ〉の所〈みもと〉にましまして、
この二句からあと、しばらく、阿弥陀仏が仏になられる前、法蔵という名の菩薩であられたときのことが述べられます。 少しわずらわしいですが、はじめに「正信偈」の段落についてふれておこうと思います。 「法蔵菩薩因位時〈ほうぞうぼさついんにじ〉」からの四十二句は、親鸞聖人が、お経にもとづいて阿弥陀如来の本願のことを讃えておられる部分で、「依経段〈えきょうだん〉」といわれています。そして、四十三句目の「印度西天之論家〈いんどさいてんしろんげ〉」からあとは、インド・中国・日本に出られた七人の高僧、お一人お一人がお示しになった本願についてのご解釈の要点を掲げて讃嘆しておられる部分で、「依釈段〈えしゃくだん〉」といわれているところです。 はじめの「依経段」のうち、「法蔵菩薩因位時」から「必至滅度願成就〈ひっしめつどがんじょうじゅ〉」までの十八句は「弥陀章」と呼ばれ、ここに阿弥陀如来の誓いと願いのことが述べられているのです。そして、次の「如来所以興出世〈にょらいしょいこうしゅっせ〉」から三十八句目の「是人名分陀利華〈ぜにんみょうふんだりけ〉」までを「釈迦章」といい、釈尊がこの世間に出られた意味が明らかにされているのです。そのあとの「弥陀〈みだ〉仏〈ぶつ〉本願念仏〈ほんがんねんぶつ〉」から四十二句目の「難中〈なんちゅう〉之難〈しなん〉無過斯〈むかし〉」までの四句は、「依経段」の結びとなる「結誡〈けっかい〉」といわれている部分です。 今回からしばらく、「依経段」の「弥陀章」について学ぶことになるわけです。 さて、「法蔵菩薩」についてですが、「菩薩」というのは、人びとを導き、救うために仏になろうとしておられる人のことです。つまり、仏になられる前の段階をいいます。世間の無数の人びとは、真実に気づかず、自我にこだわっています。そのために、迷いを重ね、誤った生き方をしながら、それが正しいと思い込んでいます。その結果、人びとは悩み苦しまなければならないのです。菩薩は、みずから早く覚りを得て仏になって、そのように悩み苦しまなければならない、すべての人びとを救いたいと願われるのです。 菩薩がこのような広大な願いをもって、仏になるための修行をしておられる段階を「因位〈いんに〉」といいます。そして、「因位」のときの菩薩の行〈ぎょう〉が完成し、願いがかなえられて仏になられた、その仏としての地位を「果位〈かい〉」というのです。 もともと、「菩薩」というのは、仏になられるまでの釈尊のことだったのです。釈尊の教導を受けた人びとは、釈尊がたまたま仏になられて、自分たちを導いてくださったのだとは、受けとめませんでした。そうではなくて、まず自分たちを導いてやりたいという願いを懐〈いだ〉いてくださって、その願いを実現させるために、途方もない辛苦の末に、仏になってくださったのだと受けとめたのです。そして、その恩徳に感謝の誠を尽くしたのです。やがて、そのような、人類を救いたいという願いが、仏教の根本精神として確かめられ、「菩薩」の思想は大きく発展して、釈尊お一人に限ることはなくなったのです。 「大無量寿経〈だいむりょうじゅきょう〉」によりますと、遠い遠い昔、阿弥陀仏が仏になられる前、法蔵という名の菩薩であられたとき、ひたすら、人びとを救いたいという願いから、「世自在王仏〈せじざいおうぶつ〉」という名の仏に仕えて教えをお受けになられた、と説かれています。法蔵菩薩も、たまたま阿弥陀仏になられたのではなくて、過去と現在と未来の人びとを救いたいと願われ、菩薩としての行を尽くして、阿弥陀仏になってくださったというわけです。 「歎異抄〈たんにしょう〉」に、「弥陀の五劫思惟〈ごこうしゆい〉の願〈がん〉をよくよく案〈あん〉ずれば、ひとえに親鸞一人〈しんらんいちにん〉がためなりけり」という親鸞聖人のお言葉が伝えられています。「阿弥陀仏が菩薩であられたとき、五劫という途方もなく永い時間をかけて考え抜いた末、おこしてくださった本願のことを、つらつら考えてみると、それは実は、私(親鸞)一人をたすけようとしてくださった願いとしか思えない」と、聖人はしみじみと述べておられるのです。 なお、「法蔵」は、仏法を蔵めているという意味、「世自在王」とは、智慧〈ちえ〉と慈悲をそなえた王のように世間を自由自在に救うという意味です。また、偈文〈げもん〉の「在〈ざい〉」を親鸞聖人は「在〈ましま〉して」と読んでおられるのです。 
法蔵菩薩の願い
法蔵菩薩因位時
在世自在王仏所
法蔵菩薩〈ほうぞうぼさつ〉の因位〈いんに〉の時、
世自在王仏〈せじざいおうぶつ〉の所〈みもと〉にましまして、
「大無量寿経〈だいむりょうじゅきょう〉」には、釈尊が、阿難〈あなん〉という仏弟子に語って聞かせるというかたちで、法蔵菩薩のことが詳しく紹介されています。そして広く人類を救いたいという願いを発〈おこ〉された菩薩の徳が讃えられるのです。そのあらましは、次の通りです。 ある日、阿難尊者〈そんじゃ〉がお見受けしたところ、釈尊は、いつになく、すがすがしいご様子で、歓びにあふれて、輝いておられるように思われたのです。そこで、阿難尊者は、そのわけをお尋ねしたのです。すると釈尊はお告げになりました。「きみは、とてもよいことを尋ねた。私がこの世に出現したのは、教えを説いて人びとを救い、真実の利益〈りやく〉を与えるためなのだ。私が歓びにあふれているのは、人びとに真実の利益を明らかにする時がきたからなのだ」と。そして、法蔵菩薩のことをお説きになられたのです。 遠い遠い昔の、そのまた遠い遠い昔、世自在王仏〈せじざいおうぶつ〉という仏がおられました。その時、一人の国王がおられました。王は、その仏の教えをお聞きして、心からの喜びを懐〈いだ〉かれたのです。そして、自分も仏になって、世の人びとを悩みや苦しみから救いたいと願うようになられたのです。王は、国を棄て、王位を捨て、世自在王仏のもとで出家して修行者となり、法蔵と名告〈なの〉られました。これが法蔵菩薩です。 法蔵菩薩は、諸仏の浄土がどのようにしてできたのか、それを教えていただきたいと、世自在王仏に願い出られました。そして、自分も、教えの通りに修行して浄土を建立〈こんりゅう〉したいという決意を述べられたのです。世自在王仏は、菩薩の熱心な願いに応じて、二百十億という、ありとあらゆる仏の浄土の成り立ちと、それらの浄土にいる人びとのありさまをつぶさにお示しになったのです。 法蔵菩薩は、それらの浄土のありさまを拝見された後、五劫〈ごこう〉という途方もなく永い期間にわたって思惟を重ねられ、この上にない優れた願いを発されたのです。すなわち、仏になって理想の浄土を実現するための願いを発されたのです。それが四十八項目からなる本願なのです。 この本願の第十八の願では、自分が仏に成るとしても、自分が実現する浄土に、一切の人びとが心から生まれたいと願って、もし人びとが往生できないのであれば、自分は仏には成らないと誓われたのです。 さらに、「大無量寿経」には、次のようなことも説かれています。阿難尊者は、釈尊にお尋ねするのです。「法蔵菩薩は、すでに仏に成っておられるのでしょうか、それとも、まだ仏に成っておられないのでしょうか」と。すると、釈尊はお答えになりました。「もうすでに仏に成っておられる。いま現に、西方の、ここから十万億の世界を越えた安楽浄土におられるのだ」と。つまり、法蔵菩薩の四十八願はすべて成就されて、阿弥陀仏に成られたということです。ついで、阿難尊者が「法蔵菩薩が阿弥陀仏になられてから、もうどれほどの時が過ぎたのでしょうか」とお尋ねすると、釈尊は、「おおよそ十劫の時が経過しているのだ」と、教えられたのです。 このお話のなかに、「五劫」「十劫」という言葉がありましたが、「劫」は、時間の長さです。これには諸説が伝えられていますが、有名なのは次のような話です。 横幅四十里、高さも四十里、奥行も四十里という大きな岩石があったとして(もちろん富士山よりも大きい)、その岩のそばを羽衣を身にまとった天女が百年(あるいは千年)に一度通りかかるのです。すると羽衣の袖がサッと岩にふれるのです。これを何度も何度も繰り返すと、岩が磨り減ります。この岩石が完全に摩滅してしまうのに要する時間よりも、さらに長い時間を一劫というのです。十劫はその十倍です。このような、とてつもなく長い時間のことが言われるのは、数量ではとらえきれない質の深さを表わそうとするからです。仏の慈悲の深さが、始まりと終わりを考える必要のないものであることを教えようとしていると思われるのです。 
諸仏の浄土
覩見諸仏浄土因
国土人天之善悪
諸仏〈しょぶつ〉の浄土〈じょうど〉の因〈いん〉、
国土人天〈こくどにんでん〉の善悪〈ぜんあく〉を覩見〈とけん〉して、
「正信偈」のこの句には、法蔵〈ほうぞう〉菩薩が、諸仏の浄土の成り立ち、そして、それぞれの浄土のありさまの違い、さらに、それらの浄土に生きる人びとの善し悪しの差をはっきりと見〈み〉究〈きわ〉められた、ということが詠われています。 「大無量寿経〈だいむりょうじゅきょう〉」によりますと、法蔵菩薩は世自在王仏〈せじざいおうぶつ〉の教化〈きょうけ〉に出遇われて、自らも仏に成ってすべての人びとを救いたいという大きな願いを発されたのでした。もと、一人の国王であった法蔵菩薩が、かけがえのない大切な出遇いを経験されたのです。真実に出遇われたのです。このことは、真実の教えとの出遇い、真実の教えを知らせてくださる人との出遇いの大切さを私たちに教えていると思われるのです。 法蔵菩薩は教えを請い求められました。「十方におられる仏さまがたは、それぞれどのようにして浄土を実現なさったのでしょうか。そのことをお教えください。わたくしはそれを承って、み教えの通りに修行いたします。そして、わたくしも浄土を実現して、悩み苦しむ人びとを救いたいと存じます」、と。世自在王仏は、法蔵菩薩のこの深い願いをお聞き入れになりました。そして、二百十億の諸仏の浄土のありさまと、それらの浄土に生きる人びとの様子をお示しになったのです。 浄土というのは、雑〈まじ〉りもののない清浄〈しょうじょう〉な国土ということで、仏によって浄められた世界です。私たちが常にこだわっているような、自分中心という愚かで穢れた思いが一切はたらかない世界なのです。 ところで、ここに「諸仏」という言葉が用いられています。「真実」に目覚めて仏に成られたお方といえば、私たちが人類の歴史の上で知っているのは、いまから二千五百年ほど前にインドに出られた釈尊お一人です。そのようにだけ考えることを「一仏」の思想といいます。 しかし、釈尊がお覚りになられた「真実」は、釈尊お一人のものではないのです。私たちにはわからないだけで、釈尊の他にも「真実」を覚られた方がおられるかもしれません。おられると考えたとしても、それは決して間違いとは言えないのです。「真実」という以上、それは、時間と空間を越えて、いつでも、どこでも、「真実」であるはずだからです。「真実」は、いつでも、どこにでも、行きわたっているはずです。むしろ「真実」が、たまたま釈尊というお姿をとってこの世界に現われ、はたらき出したと考えることもできるのです。そうすると、過去と現在と未来の三世〈さんぜ〉にわたって、また十方(あらゆる方角)に恒河沙〈ごうがしゃ〉(ガンジス河にある砂粒の数)ほどの多くの仏がおられるということにもなるのです。このように見ることを「多仏」の思想といいますが、これは「大乗」といわれる仏教の見方です。 私たちは、「大無量寿経」に説かれている釈尊の教えを通して、世自在王仏や阿弥陀仏のことを知らせていただいているわけです。そして、そのお経のなかに、世自在王仏が、阿弥陀仏に成られる前の法蔵菩薩に対して、無数におられる仏のうち、二百十億の仏の浄土の成り立ちと、それらの浄土のありさまとをお示しになったと説かれているのです。 法蔵菩薩は、世自在王仏がお示しになった多くの仏の浄土と、それらの浄土に生きる人びとのことについて、みなことごとく覩見されました。すなわち、それらをはっきりと見究められたのでした。そしてその上で、法蔵菩薩は、他の仏の浄土とは違った浄土を実現したいという、この上にない、殊〈こと〉のほか勝〈すぐ〉れた願いを発されたのです。殊のほか勝れた願いというのは、真実に無知でありながら、教えに背を向けている凡〈ぼん〉夫〈ぶ〉、いわば、どうにもならない凡夫をこそ、迎え入れる浄土を実現したいという願いであったのです。法蔵菩薩は早く仏に成ろうとしておられましたが、もし、その願いを成就させることができないのであれば、むしろ自分は仏には成らないとまで誓われたのです。 
この上にない勝れた願い
建立無上殊勝願
超発希有大弘誓
無上殊勝〈むじょうしゅしょう〉の願〈がん〉を建立〈こんりゅう〉し、
希有〈けう〉の大弘誓〈だいぐぜい〉を超発〈ちょうほつ〉せり。
この句には、法蔵〈ほうぞう〉菩薩が殊〈こと〉のほか勝れた願いを発〈おこ〉されたことが述べられています。その願いは、実は、私たちにとってとても大切な願いなのです。 「大無量寿経〈だいむりょうじゅきょう〉」によりますと、世自在王〈せじざいおう〉という名の仏が法蔵菩薩の願いを聞きいれられ、あらゆる方角におられる多くの仏さまがたの浄土の成り立ちをお示しになったと説かれています。菩薩は、示されたそれらの浄土の様子、そしてそれぞれの浄土の人びとのありさまをくまなく見届けられたのです。それについては、前回申し述べた通りです。 諸仏の浄土を見届けた上で、法蔵菩薩は、無上殊勝の願、つまり、この上にない、殊のほか勝れた願いを立てられました。それは、他の諸仏が浄土を建設しようとされたときのお気持ちとは違った、法蔵菩薩だけの志願であったのです。浄土に往生できていないすべての人びとを救いたいという願いでありました。 「大無量寿経」に「無上殊勝の願を超発せり」と説かれているところを、親鸞聖人は、「無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり」と詳しく言い換えておられます。希有というのは、希に有るということ、つまり希にしかないこと、という意味です。法蔵菩薩は、他に例のない大きく広い誓いを発されたということです。ここで誓いといわれているのは、「無上殊勝の願」を願いのままで終わらせることなく、その願いを必ず実現させることを誓われたということなのです。しかも、超発といわれているのは、他の仏より超えて勝れた誓願〈せいがん〉を発されたということです。この誓願が、実は「大無量寿経」に明らかにされている四十八願なのです。 四十八からなる法蔵菩薩の願いのなかで、もっとも注目されてきたのが、第十八の願です。その願文〈がんもん〉は、「たとい我〈われ〉、仏を得んに、十方〈じっぽう〉衆生〈しゅじょう〉、心を至〈いた〉し信楽〈しんぎょう〉して我が国に生まれんと欲〈おも〉うて、乃至〈ないし〉十念〈じゅうねん〉せん。もし生まれずは、正覚〈しょうがく〉を取らじ。唯〈ただ〉五逆〈ごぎゃく〉と正法〈しょうぼう〉を誹謗〈ひほう〉せんをば除〈のぞ〉く」というものです。これは「至心〈ししん〉信楽〈しんぎょう〉の願」、もしくは「念仏往生の願」といわれている本願です。 法蔵菩薩は、世自在王仏の前〈みまえ〉で願いを発され、そして誓いを述べられました。「たとえ私が仏に成ることができるとしましても、十方のあらゆる人びとが、心を尽くして、私の浄土に生まれることを信じて楽〈ねが〉い、念仏したとしまして、もしもその人びとが浄土に生まれることができないのであれば、私はむしろ仏の覚りを得ることはないでありましょう。ただ、五つの重い逆罪を犯す者と正しい教えを謗〈そし〉る者だけは別です」、と。心から念仏して浄土に往生することを楽う人ならば、誰でも往生させてあげたいというのが法蔵菩薩の願いなのです。 ここに、「唯…をば除く(唯除〈ゆいじょ〉)」とあります。法蔵菩薩が誰でも往生させたいと願いながら、そこから排除される者があるように見えて、奇異に感じられます。しかし、この文は「抑止〈おくし〉の文〈もん〉」といわれていますように、「唯除」というのは、往生から排除することが目的なのではなくて、このような罪を犯さないようにと、あらかじめ、いましめられている慈悲に満ちた教えなのです。 なお、五つの重い逆罪とは、一般には、父を殺すこと、母を殺すこと、阿羅漢〈あらかん〉(聖者)を殺すこと、仏のお身体を傷つけ血を流させること、サンガ(教団)の調和を破って分裂させることとされています。 これらの重罪を犯した人としてよく知られているのは、マガダ国の阿闍世〈あじゃせ〉王と、提婆達多〈だいばだった〉という仏弟子です。阿闍世王は、父の王の頻婆〈びんば〉娑羅〈しゃら〉王を死にいたらしめて王位を奪いました。そして頻婆娑羅王を助けようとした母の韋提希〈いだいけ〉夫人〈ぶにん〉をもう少しで殺すところでした。また、仏弟子でありながら釈尊に反逆した提婆達多は、釈尊を害そうとして傷を負わせ、それをたしなめた阿羅漢である比丘尼〈びくに〉を殺害し、仲間を引き連れてサンガから去って行ったと伝えられています。なお、この二人の救いは別のお経に説かれます。 
深い思い
五劫思惟之摂受
重誓名声聞十方
五劫〈ごこう〉、これを思惟〈しゆい〉して摂受〈しょうじゅ〉す。
重ねて誓〈ちか〉うらくは、名声〈みょうしょう〉十方〈じっぽう〉に聞こえんと。
「大無量寿経〈だいむりょうじゅきょう〉」によりますと、阿弥陀仏が仏に成られる前、法蔵〈ほうぞう〉という菩薩であられたとき、世自在王〈せじざいおう〉という仏のもとで教えを受けておられましたが、教えを受けるなかで、菩薩は、“浄土を建設して、悩み苦しむ人びとをすべて救いたい”と願うようになられたのでした。そのために、他の仏の浄土の成り立ちを教えていただきたいと、世自在王仏に懇願されたのです。世自在王仏は法蔵菩薩の願を聞き入れて、多くの仏の浄土をお示しになりました。菩薩は、諸仏の浄土とそれらの浄土に生きる人びとのありさまについて、みなことごとく見〈み〉究〈きわ〉められたのでした。 そしてその上で、法蔵菩薩は、他の仏の浄土とは違った浄土を実現したいという、殊〈こと〉のほか勝〈すぐ〉れた願いを発〈おこ〉されたのです。殊のほか勝れた願いというのは、真実に無知でありながらそれに気づかず、教えに背を向けているために悩み苦しむ凡〈ぼん〉夫〈ぶ〉、いわば、どうにもならない凡夫をこそ、迎え入れる浄土を実現したいという願いであったのです。法蔵菩薩は仏になろうと志しておられましたが、もし、その願いを成就させることができないのであれば、むしろ自分は仏には成らないとまで誓われたのです。 凡夫は、ものの道理がわかっていないのです。しかも、ものの道理がわかっていない、そのことも、実はわかっていないのです。それなのに、自分自身にこだわって、自分はわかっていると思い、わかっていると思っていることだけが道理だと思い込んでいます。このような凡夫が浄土に生まれるなどということは、通常はあり得ないことです。浄土というのは、自分にこだわって思い上がるなどという、そのような汚〈けが〉れがまったくない世界だからです。 法蔵菩薩は、そのように浄土に往生できるはずのない凡夫を、どのようにすれば自分が建設しようとしている浄土に導き入れることができるのか、それを深く深く思案されたのだと、「大無量寿経」に説かれています。そのことを親鸞聖人は「五劫〈ごこう〉思惟〈しゆい〉之〈し〉」(五劫、これを思惟して)と述べておられるのです。「劫」というのは、気が遠くなるような、途方もなく永い時間です(それについては、すでに簡単に解説を加えたことがあります。「正信偈の教え第5回」参照)。その一劫の五倍の時間をかけて法蔵菩薩は思案されたわけです。 私たちも、時には、真剣に思案することがあります。けれども、どんなに真剣に、誠実に思案したとしても、必ず、自分とか、自分の都合とかいうものが絡んでしまいます。そのような思案とはまるで違った、純粋な思案、どうにもならない凡夫を救うための思案を深く深く重ねられたのです。その思いの深さを「五劫」という時間の永さで言い表わしてあるのです。つまり質の深さを量の多さによって表わしてあると考えることができるのです。 それほどの深い思い、大きな願いが、私ども凡夫に差し向けられているわけです。 ここであらためて、親鸞聖人のお言葉が思い起こされます。「歎異抄〈たんにしょう〉」によりますと、聖人は、「弥陀の五劫思惟〈ごこうしゆい〉の願〈がん〉をよくよく案〈あん〉ずれば、ひとえに親鸞一人〈しんらんいちにん〉がためなりけり」と述べておられます。これほど深い願いがご自分に差し向けられていることに感動しておられるのです。「たすかるはずのない凡夫を何とかしてたすけたいというこの願いは、実は、自分に向けられているとしか思えない」と言っておられるのです。ここには、ご自分を救い難い凡夫であると、真っ正直に厳しく見据えておられる聖人の眼差しがうかがわれるのではないでしょうか。そして、その深い自覚から法蔵菩薩の願いに触れたときの喜びを表明しておられるのではないでしょうか。 法蔵菩薩は、深い思案のすえ、たすかるはずのない凡夫をたすける手立てはこれしかないと、思い当たられたのです。そして、四十八項目からなる誓願〈せいがん〉を選び取られたのです。そのことを「摂受〈しょうじゅ〉」(摂〈おさ〉め受ける)と説かれているのです。 
さらなる誓い
五劫思惟之摂受
重誓名声聞十方
五劫〈ごこう〉、これを思惟〈しゆい〉して摂受〈しょうじゅ〉す。
重ねて誓〈ちか〉うらくは、名声〈みょうしょう〉十方〈じっぽう〉に聞こえんと。
法蔵〈ほうぞう〉菩薩は、「たすかるはずのない凡〈ぼん〉夫〈ぶ〉を何とかしてたすけたい」という願いを発〈おこ〉されました。そして、その願いを実現する手立てについて深く深く思案されたのでした。それは五劫という途方もない時間の永さによって表わされる深さの思案だったのです。そのことが「五劫、これを思惟して」と詠われているわけです。このような思案の上で、凡夫を救いたいという願いを四十八項目の誓願〈せいがん〉として選ばれたのでした。それが「摂受」ということでありました。 「大無量寿経〈だいむりょうじゅきょう〉」によりますと、四十八の願いを立てられた法蔵菩薩は、その願いの一つ一つの内容を師の世自〈せじ〉在王仏〈ざいおうぶつ〉に向かって申し述べられたのです。そして、この願いを何としても実現させたいと誓われたのです。さらに菩薩は、この誓いを明確にするために、世自在王仏のみもとで、重ねて偈頌〈げじゅ〉を説いて誓いを立てられるのです。 これが「重誓偈〈じゅうせいげ〉」といわれている偈〈うた〉です。またこの偈文〈げもん〉は、はじめに三つの大切な誓いが述べられていますので、「三誓偈〈さんせいげ〉」とも呼ばれています。 その第一の誓いは、「私が発した願いがすべて成就しないのであれば、私は仏に成りません」という誓いでありました。ここには、一切の人びとをたすけたいという本願を必ず実現させようとする、法蔵菩薩の強い決意が表わされています。 そして第二の誓いは、「悩み苦しむあらゆる人びとを救えないのであれば、私は仏に成りません」という誓いです。これは、いつでも、どこでも、苦悩のない人はいないので、その人びとの悩み苦しみを取り除いて、ほんとうの安らぎを与えたいという誓いなのです。 第三の誓いは、「私の名声〈みょうしょう〉をあらゆる処〈ところ〉に行き渡らせたいが、もし私の名が聞かれないことがあるならば、私は仏に成りません」という誓いです。ここに述べられている「名声」とは、「名号〈みょうごう〉」のことです。すなわち「南無阿弥陀仏」のことをいうのです。すべての人びとに「南無阿弥陀仏」を届けたいという誓いなのです。そして、「南無阿弥陀仏」を受け取らせることによって、生きていることを心の底から喜べない私たちに、真の喜びを与えたいと願っておられるのです。 親鸞聖人は、この第三の誓いをとくに大切に受けとめられて、この「正信偈」に「重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと」と詠っておられるわけです。それは、この第三の誓いが、四十八願全体の中心となっていると受けとめられたからだと拝察されるのです。 さきほど、「名声」というのは「名号」のことだと申しましたが、「名号」は「お名前」ということですから、「阿弥陀仏」という四文字が名号だと考えてしまいます。しかし、実はそうではなくて、これに「南無」を加えて、「南無阿弥陀仏」の六文字が、私たちに届けられているお名前なのです。「南無」は「信順〈しんじゅん〉」(信じて順う)ということですから、「阿弥陀仏を信じて順います」というのが「名号」だということになります。 私たちには、いつも自分へのこだわりが付きまとっています。いつも自分の都合を優先させてしまいます。そのような私たちが信順するといっても、それは自分の都合のための信順ですから、まともな信順にはなりません。純粋な「南無」ではないわけです。いわば取り引きのようなものになってしまいます。そのために、そのような私を憐〈あわ〉れんで、阿弥陀仏が、この私の都合が含まれていない「南無阿弥陀仏」を用意してくださって、その「南無阿弥陀仏」を、私が聞信する名号として届けてくださっているのです。 こうして、親鸞聖人は、「大無量寿経」に説かれている釈尊の教えに基づいて、阿弥陀如来が「南無阿弥陀仏」という名号を私たちに施し与えてくださっていることを教えておられるのです。聖人は、「南無阿弥陀仏」がご自分のところに届けられていることを深く喜ばれ、届けられた「南無阿弥陀仏」を大切に受け取られたお方であると思うのです。 
如来の光明
普放無量無辺光無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光不断難思無称光
超日月光照塵刹一切群生蒙光照、
あまねく、無量〈むりょう〉・無辺光〈むへんこう〉、無碍〈むげ〉・無対〈むたい〉・光炎王〈こうえんのう〉、
清浄〈しょうじょう〉・歓喜〈かんぎ〉・智慧光〈ちえこう〉、不断〈ふだん〉・難思〈なんし〉・無称光〈むしょうこう〉、
超〈ちょう〉日月光〈にちがっこう〉を放って、塵刹〈じんせつ〉を照らす。一切の群生〈ぐんじょう〉、光照〈こうしょう〉を蒙〈かぶ〉る。 ここには、阿弥陀仏の智慧〈ちえ〉の徳が十二種の光として述べられています。これは、阿弥陀仏、すなわち無量寿仏の別の呼び名として「大無量寿経〈だいむりょうじゅきょう〉」に述べられているものです。 阿弥陀仏は、あらゆる方向にこの十二種の光を放って、塵のようにちらばっている無数の世界を照らしておられるというわけです。すなわち、阿弥陀仏の智慧には、人間のあらゆる状況を覆っている無知という闇を破って、すべてを光り輝かせる徳がそなわっているということです。 そして、一切の衆生〈しゅじょう〉は、この光の輝きを現に蒙〈こうむ〉っているのです。智慧のはたらきをいま受けていない衆生はいないのです。 阿弥陀仏が仏に成られる前、法蔵〈ほうぞう〉という名の菩薩であられた時、すべての人びとを例外なく救いたいと願われて、四十八項目からなる誓願〈せいがん〉を発〈おこ〉されたのでした。「大無量寿経」によりますと、法蔵菩薩は、この四十八の願いを実現するために、私どもの思慮の及ばない、はるかな時間をかけて、無量の徳行を積み重ねられたと説かれています。 そして、そのような徳行が実を結んで、法蔵菩薩は仏に成られたのです。それが阿弥陀仏なのです。法蔵菩薩が阿弥陀仏に成られてから、すでに十劫〈じっこう〉という途方もなく永い時間が経過していると、「大無量寿経」に説かれています。つまり私は、この私を救ってやりたいと願われた阿弥陀仏の願いが現にはたらいている状況のなかに生まれてきたのです。そして、その願いと、その願いによって放たれている智慧の光明〈こうみょう〉の輝きに包まれ、絶えず光に照らされながら、私はいま生きているのです。 さて、親鸞聖人は、「大無量寿経」によって、「正信偈」に、十二種の光の名を掲げておられるのですが、その最初は「無量光」です。これは、阿弥陀仏の四十八願の第十二願、すなわち「光明無量の願」によるものです。それは「たとえ、私が仏に成るとしても、私の光明の輝きに限量(かぎり)があるならば、私は仏にはならない」という誓願なのです。 これについて親鸞聖人は、「和讃〈わさん〉」に、「智慧の光明はかりなし有量〈うりょう〉の諸相〈しょそう〉ことごとく光暁〈こうきょう〉かぶらぬものはなし真実明〈しんじつみょう〉に帰命〈きみょう〉せよ」と詠っておられます。 阿弥陀仏の智慧の光明は、はかり知ることができないものであって、限りのある私たちの現実のありさまは、すべてこの光の輝きを蒙っているのだから、真実の光明である阿弥陀仏に帰命しなさいと、教えておられるのです。 第二は、「無辺光」です。阿弥陀仏の智慧の光明は、ここから先は行き届かないというような際はない、ということです。これを「和讃」には、「解脱〈げだつ〉の光輪〈こうりん〉きわもなし光触〈こうそく〉かぶるものはみな有無〈うむ〉をはなるとのべたまう平等覚〈びょうどうかく〉に帰命せよ」と詠われています。 私たちを悩み苦しみから解き放つ光明のはたらきには辺際がなく、この光に触れることができるものは、みな自分がこだわっている誤った考えから離れることができるといわれているので、平等普遍の智慧をそなえられた阿弥陀仏に帰命しなさいと、教えられているのです。 第三は、「無碍光」です。何ものにも、さえぎられることがないのが阿弥陀仏の智慧の光明です。「和讃」には、「光雲〈こううん〉無碍〈むげ〉如虚空〈にょこくう〉一切の有碍〈うげ〉にさわりなし光沢〈こうたく〉かぶらぬものぞなき難思議〈なんしぎ〉を帰命せよ」と詠われています。 光に満ちた雲のような阿弥陀仏の智慧は、ちょうど大空をさまたげるものがないように、何ものにもさまたげられることなく、障害と思われる、どのようなものであっても、阿弥陀仏の智慧のはたらきには、何の障害にもならないので、光に満ちた雲の潤いを蒙らないものはないのだから、われわれの思慮では推し量れない阿弥陀仏の徳をよりどころにせよと、親鸞聖人は教えておられるのです。 
最後の依り処
普放無量無辺光無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光不断難思無称光
超日月光照塵刹一切群生蒙光照、
あまねく、無量〈むりょう〉・無辺光〈むへんこう〉、無碍〈むげ〉・無対〈むたい〉・光炎王〈こうえんのう〉、
清浄〈しょうじょう〉・歓喜〈かんぎ〉・智慧光〈ちえこう〉、不断〈ふだん〉・難思〈なんし〉・無称光〈むしょうこう〉、
超日〈ちょうにち〉月光〈がっこう〉を放って、塵刹〈じんせつ〉を照らす。一切の群生〈ぐんじょう〉、光照〈こうしょう〉を蒙〈かぶ〉る。
前回に引き続き、十二種の光明〈こうみょう〉について申し述べることとします。この十二光は、「大無量寿経〈だいむりょうじゅきょう〉」に阿弥陀仏の別の呼び名として示されているものです。これらの光明の名前は、いずれも阿弥陀仏の勝〈すぐ〉れた徳を表わしています。 前回は三番目の「無碍光」までご紹介いたしました。第四の「無対光」ですが、これは、対比するものがない光ということです。阿弥陀仏は、他の何ものとも比較のしようがない、勝れた智慧〈ちえ〉の徳をそなえておられるのです。 この徳について、親鸞聖人はまた、「和讃」に次のように讃えられています。「清浄〈しょうじょう〉光明〈こうみょう〉ならびなし遇斯光〈ぐしこう〉のゆえなれば一切の業繋〈ごうけ〉ものぞこりぬ畢竟依〈ひっきょうえ〉を帰命〈きみょう〉せよ」と。 清らかな智慧の光のはたらきは、これに並ぶものはなく、この光に遇うことによって、身勝手な一切の行いから起こって自分自身を悩ませるこだわりの心が取り除かれるのだから、人生の最後の最後の依り処である阿弥陀仏を頼りにしなさいと教えられています。「畢」も「竟」も、終わりという意味です。私たちは目先の価値にとらわれて、あてにならない物事をあてにして、それを依り処にして生きています。本当に最後の最後に依り処になるものを確かめられたならば、これほど安らかで歓びに満ちた人生はないと教えられているのです。 第五の光は、「光炎王」(「大無量寿経」では「焔王光〈えんのうこう〉」)です。「炎」は、私たちの愚かさから起こるさまざまな迷いを焼き尽くすことをたとえたものです。阿弥陀仏の智慧の光明は、無知の暗闇を照らし、暗闇を暗闇でなくしてしまうはたらきがあるのです。「和讃」には、「仏光〈ぶっこう〉照曜〈しょうよう〉最第一〈さいだいいち〉光炎王仏〈こうえんのうぶつ〉となづけたり三塗〈さんず〉の黒闇〈こくあん〉ひらくなり大応供〈だいおうぐ〉を帰命〈きみょう〉せよ」と詠われています。 阿弥陀仏の智慧の光の輝きは最高であるので、阿弥陀仏を「光炎王仏」ともお呼びする。仏の智慧の光は、われらの迷いの暗闇を打ち開いてくださるのだから、供養するのに最もふさわしいお方として敬おうではないかと、述べられているのです。 第六は、「清浄光」です。貪りに支配される私どもの心の汚〈けが〉れに気づかせ、心が清らかになるように、はたらきかけてくださる智慧の光です。「和讃」には、「道光〈どうこう〉明朗〈みょうろう〉超絶〈ちょうぜつ〉せり清浄光仏ともうすなりひとたび光照〈こうしょう〉かぶるもの業垢〈ごうく〉をのぞき解脱〈げだつ〉をう」と詠われています。 本願の光は、他を超えて明るく輝いているので、阿弥陀仏を「清浄光仏」とも申し上げる。ひとたびこの光を身に受けたならば、心身の汚れは取り除かれ、あらゆるこだわりから解き放たれると、説いておられるのです。 第七は、「歓喜光」です。慈しみとしてはたらく阿弥陀仏の智慧の光は、怒りや憎しみの深い私どもの心を和らげてくださるので、私どもの心は喜びに変わるのです。「和讃」には、「慈光〈じこう〉はるかにかぶらしめひかりのいたるところには法喜〈ほうき〉をうとぞのべたまう大安慰〈だいあんに〉を帰命せよ」と詠ってあります。 阿弥陀仏の慈しみの光は、あらゆるところに向けられていて、この光のおよぶところでは、真実によって起こる喜びがあふれるといわれているので、最大の慰めとなる阿弥陀仏を頼みにしようと、呼びかけておられます。 第八は、「智慧光」です。私どもは、真実に暗く、愚かで無知そのものです。そのために悩まなければならないことが多いのです。しかも、自分が無知であることにも、実は無知なのです。阿弥陀仏の智慧の輝きは、私どもに無知を知らせ、無知の闇を破ってくださるのです。これを「和讃」には、「無明〈むみょう〉の闇〈あん〉を破〈は〉するゆえ智慧光仏となづけたり一切諸仏〈しょぶつ〉三乗衆〈さんじょうしゅ〉ともに嘆誉〈たんよ〉したまえり」と讃嘆してあります。 深い無知の闇を破ってくださるので、阿弥陀仏を「智慧光仏」ともお呼びする。一切の諸仏も諸菩薩も仏弟子も、こぞってこの智慧の光をほめ讃えておられると、述べてあるのです。 
光明に遇う
普放無量無辺光無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光不断難思無称光
超日月光照塵刹一切群生蒙光照、
あまねく、無量〈むりょう〉・無辺光〈むへんこう〉、無碍〈むげ〉・無対〈むたい〉・光炎王〈こうえんのう〉、
清浄〈しょうじょう〉・歓喜〈かんぎ〉・智慧光〈ちえこう〉、不断〈ふだん〉・難思〈なんし〉・無称光〈むしょうこう〉、
超日〈ちょうにち〉月光〈がっこう〉を放って、塵刹〈じんせつ〉を照らす。一切の群生〈ぐんじょう〉、光照〈こうしょう〉を蒙〈かぶ〉る。
引き続き、今回も十二種の光明〈こうみょう〉について申し述べたいと思います。「大無量寿経〈だいむりょうじゅきょう〉」には、阿弥陀仏の別の呼び名として、十二種の光の名が示されています。 これらの光明の名前は、いずれも阿弥陀仏の勝〈すぐ〉れた徳を表わしていますので、「正信偈」には、これらの光の名をあげて阿弥陀仏の徳が讃えられているのです。また親鸞聖人は、「和讃」にもこれらの徳を讃嘆しておられるのです。 今回は、第九の「不断光」からです。これは、一刻も途絶えることなく、私どもを照らし続けてくださる阿弥陀仏の智慧〈ちえ〉の光明のことをいいます。このような光明のことを「和讃」には、「光明てらしてたえざれば不断光仏となづけたり聞光力〈もんこうりき〉のゆえなれば心〈しん〉不断にて往生す」と詠ってあります。 阿弥陀仏の智慧の光明は常に輝いて絶えることがないので、阿弥陀仏のことを「不断光仏」ともお呼びする。この光を感じ取るために、絶えることのない信心によって往生するのだと、親鸞聖人は教えておられるのです。 第十の「難思光」は、凡夫〈ぼんぶ〉の思いによっては、到底量り知ることのできない阿弥陀仏の智慧の光明のことです。「和讃」には、「仏光〈ぶっこう〉測量〈しきりょう〉なきゆえに難思光仏となづけたり諸仏は往生嘆〈たん〉じつつ弥陀の功徳を称〈しょう〉せしむ」と詠われています。 阿弥陀仏の智慧〈ちえ〉の輝きは、誰も思い量ることができないので、阿弥陀仏を「難思光仏」とお呼びする。あらゆる仏が、凡夫の往生を讃嘆され、それを実現される阿弥陀仏の恩徳をほめ讃えておられると、説いてあるのです。 第十一は、「無称光」です。「称」は「はかる」という意味です。どのような方法によっても説明しきれない阿弥陀仏の智慧の輝きをいいます。これを「和讃」には、「神光〈じんこう〉の離相〈りそう〉をとかざれば無称光仏となづけたり因光〈いんこう〉成仏〈じょうぶつ〉のひかりをば諸仏の嘆ずるところなり」と讃えてあります。 阿弥陀仏の光明は、あらゆる迷いから離れたものであるが、凡夫にはとてもそのありさまは説明できないので、阿弥陀仏を「無称光仏」ともお呼びする。悩みの多い凡夫を救うために、阿弥陀仏ご自身も、その光明によって仏に成られたので、すべての仏がこの光明の徳をほめておられると、述べておられるのです。 最後の第十二は、「超日月光」です。阿弥陀仏の智慧の光明が、日月の光を超えた光にたとえられているわけです。太陽の光は昼間に輝き、夜は照らしません。月の光は、夜は照らすけれども昼は輝きません。光のはたらきにかたよりがあるのです。さらに、どちらの光も、光の届かない影を作ってしまいます。阿弥陀仏の光明は、かたよりがなく、しかも届かないところがないのです。 これを「和讃」には、「光明月日〈つきひ〉に勝過〈しょうが〉して超日月光となづけたり釈迦嘆じてなおつきず無等等〈むとうどう〉を帰命せよ」と讃嘆されています。阿弥陀仏の智慧の光明は、日月の光よりはるかに勝れているので、阿弥陀仏を「超日月光仏」とも申し上げる。釈尊ですらこの智慧の徳をほめ尽くしておられない。等しく並ぶもののない阿弥陀仏に帰命しようではないか、と勧めておられるのです。 阿弥陀仏の智慧には、塵のようにちらばっているすべての世界を照らし出し、人びとの迷妄を打ち破って、人びとを輝かせる徳がそなわっていると、親鸞聖人は言っておられるのです。そして、その輝きを蒙〈こうむ〉っていない者は一人もいないと言っておられるのです。 それなのに私は、そのことに気づこうともしていないようです。自分の思いにのみこだわって、しかも私は自分の思いを正当化し、あえて智慧の光明に背を向けているわけです。そのような私のことを悲しく思って、何とか私が目覚められるよう、親鸞聖人は、この偈〈うた〉によって教えてくださっていると思われるのです。 
本願のかたじけなさ
本願名号正定業
至心信楽願為因
本願〈ほんがん〉の名号〈みょうごう〉は正定〈しょうじょう〉の業〈ごう〉なり。
至心〈ししん〉信楽〈しんぎょう〉の願を因〈いん〉とす。
親鸞聖人は、「正信偈」をお作りになるに際して、まず、阿弥陀仏の徳を讃えられています。阿弥陀仏は、仏に成られる前、法蔵〈ほうぞう〉という名の菩薩であられましたが、菩薩は仏に成って一切の人びとを救いたいという、格別の願いを発〈おこ〉されたのでした。 それは、深く悩み苦しみながら生きなければならない私たちを救おうとされた願いなのです。目先の出来事に心を奪われて、苦悩している自分の事実すら見失っている私たちを救いたいという願いなのです。 法蔵菩薩がそのような願いを発され、その願いが実現したことによって、法蔵菩薩が阿弥陀仏に成られたのですが、そのことを讃えてあるのが、「正信偈」の「法蔵〈ほうぞう〉菩薩〈ぼさつ〉因〈いん〉位時〈にじ〉」という句からはじまる「依経段〈えきょうだん〉」といわれている部分です。「大無量寿経〈だいむりょうじゅきょう〉」というお経に依って述べてある段落ということです。そしてその「依経段」のはじめの十八句が「弥陀章」といわれている偈文ですが、今回の「本願〈ほんがん〉名号〈みょうごう〉正定〈しょうじょう〉業〈ごう〉」以下の四句は、その「弥陀章」の結びとなるもっとも大切な偈文です。 「本願の名号」といいますのは、「南無阿弥陀仏」のことです。法蔵菩薩は、どのような人もすべて救いたいと願われたのです。もし、すべての人びとを救うことができないのであれば、自分は仏には成らないと誓われたのでした。そして、法蔵菩薩のこの誓願〈せいがん〉は成就したのです。つまり、「南無阿弥陀仏」という名号〈みょうごう〉を私たちに与えることによって、私たちが苦悩から救いとられて、間違いなく浄土へ往生することが明確になったのです。それで、菩薩は阿弥陀仏に成られたわけです。 阿弥陀仏の本願は、私たちが生まれてくるよりも前から、もともと私たちのために立てられている願いなのです。そして、その本願は現に私たちに対してはたらき続けているのです。そのことに気づいていない私たちを目覚めさせるために、「南無阿弥陀仏」が私たちに施し与えられているのです。すがたのない本願が「南無阿弥陀仏」という、私たちがいつでも、どこでも称えられる名号として、私たちに差し向けられているというわけです。 そのような「南無阿弥陀仏」が、まさしく、私たちの往生を確定させるはたらきとなるのです。それが「正定の業」ということです。与えられている「南無阿弥陀仏」をありがたくいただいて称えることが、自分の力では悩み苦しみから脱け出せないでいる私たちの救いの原因となるということなのです。 この本願の名号が、私たちの救いをまさしく確定させるためのはたらきとなるのは、実は、法蔵菩薩が立てられた願いが原因となっているからです。すなわち、法蔵菩薩が立てられた四十八の誓願のうち、「至心〈ししん〉信楽〈しんぎょう〉の願」といわれる第十八願が、私たちの往生の直接の原因となっているのです。 すべての人びとが、法蔵菩薩の建立〈こんりゅう〉しようとされる浄土に生まれることを求め(欲生〈よくしょう〉)、心を尽くして(至心)、そこに生まれることを信じて願い(信楽)、そのことを念じたとして、もしも、その人びとが往生できないのであれば、自分は仏には成らないと、法蔵菩薩は誓われたのです。それが第十八の誓願です。 本願の名号、つまり「南無阿弥陀仏」によって、私たちが往生することが、まさしく確定しているのは、とりもなおさず、法蔵菩薩の第十八の願いが成就して、阿弥陀仏に成られたからなのです。 ありがたいことに、私たちは、何とかして助けたいという深い願いがはたらいている世界に生まれてきているのです。しかし、私たちは、そのような願いに応えようとしないのです。また、応えることができないのです。そのような私たちのために、さらにありがたいことに、「南無阿弥陀仏」が届けられているのです。それなのに私たちは、自分の都合にこだわって、「南無阿弥陀仏」を軽んじてしまいます。 何ともなさけない私たちに、親鸞聖人は、これらの偈文によって、「本願のかたじけなさ」を教えておられると思われるのです。 
往生の確定
成等覚証大涅槃
必至滅度願成就
等覚〈とうがく〉を成〈な〉り、大涅槃〈だいねはん〉を証することは、
必至滅度〈ひっしめつど〉の願〈がん〉成就〈じょうじゅ〉なり。
「正信偈」の「法蔵〈ほうぞう〉菩薩〈ぼさつ〉因〈いん〉位時〈にじ〉」という句からはじまる十八句は、「弥陀章」といわれる部分です。そこには、阿弥陀仏の前身である法蔵菩薩が、一切の人びとを浄土に往生させたいという誓願〈せいがん〉を発〈おこ〉されたことが詠われています。それは、親鸞聖人が、「大無量寿経〈だいむりょうじゅきょう〉」の教えの要点を偈文にしてととのえられたものです。 そして、その「弥陀章」の結びとなる部分が、「本願〈ほんがん〉名号〈みょうごう〉正定〈しょうじょう〉業〈ごう〉至心〈ししん〉信楽〈しんぎょう〉願為〈がんに〉因〈いん〉成等〈じょうとう〉覚証〈がくしょう〉大涅槃〈だいねはん〉必至滅度〈ひっしめつど〉願〈がん〉成就〈じょうじゅ〉」(本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願を因とす。等覚を成り、大涅槃を証することは、必至滅度の願成就なり)という四句なのです。この四句の前半の二句については、前号に申し述べました。今回はその後半の二句について学びたいと思います。 最初に「等覚を成り」とありますが、その「等覚」というのは、「無上〈むじょう〉正等〈しょうとう〉正覚〈しょうがく〉」という言葉を短くしたものと思われます。これは、仏になる覚りのことをいいます。「無上」ですから、その上がなく最高であるということです。 「正等」は、かたよりがなく等しいということですから、平等ということになります。ただし、平等といいましても、あれとこれが平等だというようなことではなくて、いつでも、どこでも等しいということで、「普遍」と言い換えてもよい言葉なのです。次の「正覚」は、仏の完全な覚りのことです。 釈尊が得られた覚りは、ご自身のための覚りというのではなくて、人類を導き、人類を救うことを目的とした、人類のための覚りだったのです。そのために、「この上にない、完全に平等な、すぐれた覚り」といわれるのです。この「無上正等正覚」というのは、インドの言葉を中国語に改めた言い方ですが、中国語に訳さないで、インドの言葉の発音を写し取って(「音写語」といいます)漢字に表記するときには、「阿〈あ〉耨〈のく〉多羅〈たら〉三藐〈さんみゃく〉三菩提〈さんぼだい〉」と書き表わされています。 「等覚を成り」という言葉について、これは、菩薩の五十二の階位のうちの第五十一番目の「等覚位」(ほとんど仏に近い境地)のことだと、多く解釈されていますが、ここでは、親鸞聖人が、「大無量寿経」とは別に訳された「無量寿如来会」にある第十一願の願文に依っておられるように思われますので、菩薩ではなくて、仏になることと理解することにいたしました。 「大涅槃」の「涅槃」は、もともとは、苦悩の原因である煩悩をすべて滅して、迷いから解放された状態を指す言葉です。また、菩薩たちが六〈ろく〉波羅〈はら〉蜜〈みつ〉という、気の遠くなるような厳しい修行によって到達される悟りの境地のことをいうようにもなりました。しかし、親鸞聖人の教えでは、「涅槃」は、私どもが、阿弥陀仏の本願によって遂げさせていただく「往生」を指しているのです。ですから、「成等覚証大涅槃」(等覚を成り、大涅槃を証することは)という句は、「仏になって、往生という大涅槃を身に受けるのは…」という意味になるわけです。 「等覚を成り、大涅槃を証する」ということ、つまり、私たちが、往生という大涅槃にいたるのは、それは、阿弥陀仏が、法蔵菩薩であられたときに発された本願のうちの、「必至滅度の願」といわれる第十一の願いが成就したからです。第十一願はまた「証大涅槃の願」ともいわれているものです。それを親鸞聖人は「必至滅度願成就」(必至滅度の願成就せり)と詠っておられるわけです。 「滅度」は「涅槃」のことですから、「必ず滅度に至る」ための願いというのは、「必ず涅槃に至る」願いということです。結局それは「必ず浄土に往生させる」という願いということになるのです。 阿弥陀仏の本願によって、私たちに差し向けられている名号、つまり「南無阿弥陀仏」こそが、私たちの往生をまさしく確定するはたらきをもつのです。それには第十八の「至心信楽の願」が成就していることが直接の原因となっているのです。そして、私たちが往生するということで仏に成るのは、第十一の「必至滅度の願」が成就しているからなのです。 
釈尊が世に出られたわけ
如来所以興出世
唯説弥陀本願海
如来〈にょらい〉、世に興出〈こうしゅつ〉したまうゆえは、
ただ弥陀〈みだ〉本願海〈ほんがんかい〉を説かんとなり。
「正信偈」の最初の部分、「弥陀章」についてのあらましの説明は、前回で終わりました。それは、親鸞聖人が「大無量寿経〈だいむりょうじゅきょう〉」にもとづいて阿弥陀仏の本願のことを教えておられる部分でありました。 阿弥陀仏の本願というのは、私たち一人一人を間違いなく救おうとしてくださっている、深く大きな願いのことでありました。そのような広大な願いが、私がこの世間に生まれてくる以前から、すでに私に差し向けられ、私のために用意されているということです。 その広大な願いがはたらいているところに、実は私が生まれてきていることに、私が気づくのかどうか、そのような願いが現にはたらいているという事実を私が喜ぶのかどうか、そのことだけが残っている問題なのです。私にとっての最大の用事なのです。 今回からは、釈尊について詠われている「釈迦章」といわれている部分に入ります。 まず、「如来〈にょらい〉所以〈しょい〉興出世〈こうしゅっせ〉」「如来、世に興出したまうゆえは」とあります。「如来」というのは、「如(真実)から来た人」という意味ですが、この場合は、釈迦〈しゃか〉牟尼〈むに〉如来、すなわち釈尊のことをいっておられます。 「世に興出したまうゆえ」というのは、「この世間にお出ましになられた理由」ということです。「所以」を「ゆえ」と読んでおられるのです。つまり、釈尊がこの世間にお出ましになられた目的は何であったのか、ということです。釈尊は、どのような目的があったために、この世に生まれてこられたのか、ということなのです。 それについて、親鸞聖人は、「唯説〈ゆいせ〉弥陀〈みだ〉本願海〈ほんがんかい〉」すなわち「ただ弥陀本願海を説かんとなり」と述べておられます。つまり、釈尊がこの世間にお生まれになって、仏に成られたのは、ただただ、われわれに、阿弥陀仏の本願のことを教えようとされたためであった、ということです。 「本願」という言葉に、親鸞聖人は「海」という字を添えておられます。それは、どのような人もすべて浄土に迎え入れたいとされる阿弥陀仏の本願が、海のように広く深い願いであることを印象深く表現されているのだと思われます。 親鸞聖人は、たとえば「一乗海〈いちじょうかい〉」とか、「功徳〈くどく〉大宝海〈だいほうかい〉」というように、仏教の大切な言葉のあとに、しばしば「海」という字を添えておられます。これはやはり教えの広さ深さを表わしておられるのでありましょう。 ところが、また一方では、「五濁〈ごじょく〉悪時〈あくじ〉の群生海〈ぐんじょうかい〉」とか、「一切苦悩の衆生海」などというように、さまざまな汚れのなかで、悩み苦しみに浮き沈みするわれわれ衆生の現実についても、「海」という字をつけ加えておられます。聖人は「願海は二乗雑善〈ぞうぜん〉の中下の屍骸〈しがい〉を宿さず」と教えておられますが、まことに、海は屍骸を岸辺に打ち上げてしまい、生きているものを住まわせるのです。阿弥陀仏の本願という海は、汚れた衆生、苦悩する衆生であっても、身をゆだねて喜ぶならば、生き生きと活かされるところなのです。 親鸞聖人は、師の法然上人のもとで、本願念仏の教えに出遇われましたが、ほどなく念仏への弾圧という法難〈ほうなん〉に遭われて、越後に流罪になられました。京都に生まれ育たれた聖人は、この時はじめて海を見られたのではないかと思います。あらゆる川の水をそのまま受け入れ、生きものであれば、すべてを生き生きと活かす力をそなえた、広く深い日本海を感慨深くご覧になったことが偲ばれます。 話をもとに戻します。釈尊がこの世間にお出ましになられた目的は何であったのか。釈尊は、たまたまこの世間にお生まれになり、たまたま仏になられて、人びとに教えを説かれた、ということではないのです。この世間にお出ましになられたのは、それは、ただただこの私を救ってやりたいという阿弥陀仏の本願が、私に差し向けられている、その事実を私に教えようとしてくださったためである、ということなのです。 
仏説無量寿経
如来所以興出世
唯説弥陀本願海
如来〈にょらい〉、世に興出〈こうしゅつ〉したまうゆえは、
ただ弥陀〈みだ〉本願海〈ほんがんかい〉を説かんとなり。
「如来、世に興出したまうゆえは、ただ弥陀本願海を説かんとなり」(如来〈にょらい〉所以〈しょい〉興出世〈こうしゅっせ〉唯説〈ゆいせ〉弥陀〈みだ〉本願海〈ほんがんかい〉)と、親鸞聖人は詠われました。それは、前号に詳しく申しましたように、釈尊が、この世間にお出ましになられた目的は、ただただ、阿弥陀仏の海のように広大な大悲の本願のことをお説きになるためであった、ということでありました。 親鸞聖人のこのお言葉は、「仏説無量寿経」すなわち「大無量寿経〈だいむりょうじゅきょう〉」によるものです。このお経のなかで、釈尊は、「如来、無蓋〈むがい〉の大悲をもって三界〈さんがい〉を矜哀〈こうあい〉したまう。世に出興〈しゅっこう〉したまう所以〈ゆえ〉は、道教を光闡〈こうせん〉して、群萌〈ぐんもう〉を拯〈すく〉い恵むに真実の利をもってせんと欲〈おぼ〉してなり」と説いておられるのです。 それは、「釈尊は、何ものにもおおわれることのない大悲によって、果てしない迷いの状態(三界)にある人びとを哀れんでおられるが、釈尊がこの世間に出られたわけは、教えを世に明らかにして、そのような人びとを救い、真実の利益を恵み与えたいと願われたからである」というほどの意味になります。 このようにお説きになったうえで、釈尊は、法蔵〈ほうぞう〉菩薩が四十八の誓願〈せいがん〉を発〈おこ〉されたこと、そしてそれらの誓願がすべて成就して、法蔵菩薩が阿弥陀仏に成られたことなどを説かれます。つまり、阿弥陀仏の本願のことを教えられるのです。先ほどの経文〈きょうもん〉に「真実の利」とありましたのは、阿弥陀仏の本願のことを釈尊がわれわれに教えてくださったということなのです。 このように、「大無量寿経」というお経は、釈尊が世に出られた理由を明らかに説いてあるために、「出世〈しゅっせ〉本懐〈ほんがい〉の経」といわれます。
釈尊が世に出られた本当のお気持ちを表わしてあるお経という意味です。 「出世本懐の経」といわれているお経が、もう一つあります。それは「法華〈ほけ〉経〈きょう〉」(「妙法〈みょうほう〉蓮華経〈れんげきょう〉」)というお経です。 このお経には、「一乗」ということが説かれているのです。それは、仏に成れる人と、仏に成れない人とがあるのだと、誤ってそのような理解にこだわる人びとが世の中にはいるだろうが、しかしそのような受け取り方は、仏教の真実ではないという教えです。誰もが仏に成るという、一つの乗り物、一つの教えしかないのだ、というのが「法華経」の教えなのです。 すべての人が仏に成るといわれるけれども、それはなぜであるのか、そのことについては、「法華経」には必ずしも明確に説き明かされていないのです。仏に成る根拠を示すことは「法華経」の目的ではなかったのです。 しかし「大無量寿経」には、仏に成るという言い方ではありませんが、すべての人びとが浄土に往生するのは、阿弥陀仏の本願によるのであると、明確に示されているのです。親鸞聖人はお若い時に、比叡山で「法華経」を深く学ばれたはずですが、阿弥陀仏の本願が説かれているために、「大無量寿経」を最も大切にしておられるのです。 ところで、阿弥陀仏の本願のことを私に教えるために、釈尊がこの世間にお出ましになられたのだということは、私どもの常識からしますと、理屈に合わないことです。歴史的な見方からしましても、筋の通らない話ということになります。釈尊はたまたまお生まれになったのであり、のちにようやく仏に成って教えを説かれたと見るからです。 釈尊がわざわざこの世間にお出ましになられたのは、ただ、阿弥陀仏の本願のことをお説きになるためだったのだと、親鸞聖人が「正信偈」に詠っておられるのは、常識や歴史的な見方ではなくて、それは心の奥深いところから湧き出てくる宗教心による見方なのです。聖人がお受け取りになられた信心による自覚の問題なのです。 阿弥陀仏の本願という大悲に出遇われた親鸞聖人にしてみれば、世間の常識がどうであろうと、また歴史がどうであろうと、それはそれとして、釈尊は、親鸞聖人ご自身のために「大無量寿経」を説いてくださり、阿弥陀仏のことを教えてくださったのだと、そのようにしか、お受け取りになれなかったのではないでしょうか。「正信偈」のこの二句を拝読しますと、心から感激しておられる聖人のお気持ちが何となく伝わってくるような気がするのです。
この世間に生きる私たち
五濁悪時群生海
応信如来如実言
五濁〈ごじょく〉悪時〈あくじ〉の群生海〈ぐんじょうかい〉、
如来如実〈にょらいにょじつ〉の言〈みこと〉を信ずべし。
親鸞聖人は、「如来、世に興出〈こうしゅつ〉したまうゆえは、ただ弥陀本願海〈ほんがんかい〉を説かんとなり」(如来〈にょらい〉所以〈しょい〉興出世〈こうしゅっせ〉唯説〈ゆいせ〉弥陀〈みだ〉本願海〈ほんがんかい〉)と詠われました。 釈尊がこの世間にお出ましになられたのは、たまたまのことではなくて、それはただただ阿弥陀仏の本願のことを世間の人びとに教えようとされたためであったと、このように親鸞聖人は受けとめられたのです。 釈尊がお出ましになられた世間というのは、どのような世間なのでしょうか。それは、とりもなおさず、私たちが生きているこの世間なのです。それでは、私たちが生きているこの世間とは、どのようなところなのでしょうか。 釈尊は、「阿弥陀〈あみだ〉経〈きょう〉」のなかで、この世間のことを五濁〈ごじょく〉の悪世〈あくせ〉であると教えておられます。すなわち、五つもの濁りがある、ひどい世の中ということです。私たちが生きているこの世間は「五濁悪世」であり、私たちが生きているこの時代は「五濁悪時」なのです。 私たちは、この世間が何の問題もない立派な世間だとは思っておりませんし、また、まことにいい時代だとも思ってはおりません。だからといって、「五濁」だとはっきり認識しているかというと、どうもそうではなくて、この世間にもこの時代にも愛着を感じているのではないでしょうか。そして、悪い世の中、悪い時代だと言いながら、誰かに何とかしてほしいと思い、もっといい時代になってほしいものだと、身勝手なことを考えているのです。まったく不確実な期待をいだいて、事実から目をそらせているのです。 私たちが愛着を感じているこの世間は、釈尊の澄みきった眼〈まなこ〉でご覧になると、実はひどく濁りきったところなのでしょう。また親鸞聖人は、ご自分を厳しく見つめられて、「罪悪〈ざいあく〉深重〈じんじゅう〉」と見きわめられましたが、ご自身が生きられたその日々を、どうしようもなく濁りきった毎日と受けとめられたのだと思われます。 「五濁悪時の群生〈ぐんじょう〉」といわれる「群生」は、「衆生〈しゅじょう〉」と同じ意味の言葉で、「あらゆる生きもの」ということです。インドの言葉が中国語に翻訳されるときに、翻訳者によって用いた訳語が異なったわけです。「群生」も「衆生」も、さしあたっては、私たちのことを指しているのです。 「五濁悪時の群生」、つまり五濁といわれる悪い時代に生きている私たちは、いったいどうすればよいのか。それについて、「正信偈」には「如来如実の言〈みこと〉を信ずべし」(応信〈おうしん〉如来〈にょらい〉如実言〈にょじつごん〉)と詠われています。すなわち、五濁の悪時に生きる私たちとしては、ありのままの事実(如実)をお説きになられた如来のお言葉を信ずるほかはないのだと、親鸞聖人は教えておられるのです。 この場合の「如来」は釈尊のことですから、「如実の言」というのは、「仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉」に説かれている釈尊のお言葉です。つまり、阿弥陀仏の本願について教えられた釈尊のお言葉なのです。 先ほどの「群生」という言葉に「海」の字が添えられていますが、これは、前の句の「本願海」という言葉と関連していると見てよろしいでしょう。阿弥陀仏の本願が海のように深く広いものであり、群生は海のなかの生きものほども数が多いことから、関連させておられると理解することもできると思います。 しかし、海はあらゆる生命の源です。生きるための依り処です。広大な本願の海が、そのまま、そこでなければ生きものが生きられない群生の海なのです。どう見ても、なさけない生きものとしか言いようのない私が、本当に「いのち」あるものとして生ききれるのは、阿弥陀仏の大きな願いのなかに包まれている自分自身に気づかされることによるのだと、聖人は教えておられると思うのです。 なお、「五濁」の内容については、紙幅の関係で今回は述べられませんでしたので、次回に少し詳しくふれることにしたいと思っています。
五濁の悪時
五濁悪時群生海
応信如来如実言
五濁〈ごじょく〉悪時〈あくじ〉の群生海〈ぐんじょうかい〉、
如来如実〈にょらいにょじつ〉の言〈みこと〉を信ずべし。
親鸞聖人は、「正信偈」に詠われておりますように、聖人が生きられた時代を「五濁の悪時」と見定められました。つまり「五つの濁りのある悪い時代」ととらえられたのです。また、聖人が生きられた世の中を、「阿弥陀〈あみだ〉経〈きょう〉」に説かれているように「五濁の悪〈あく〉世〈せ〉」と受け止めておられたことでしょう。 そこで、「五濁悪時の群生海、如来如実の言〈みこと〉を信ずべし」(五〈ご〉濁〈じょく〉悪〈あく〉時〈じ〉群生海〈ぐんじょうかい〉応信〈おうしん〉如来如実言〈にょらいにょじつごん〉)と詠われたのでした。すなわち、五濁の悪時に生きる人びとは、如来の事実の通りのお言葉、つまり釈尊が「大無量寿経〈だいむりょうじゅきょう〉」にお説きになられた真実、阿弥陀仏の本願の教えを信ずるべきであると、親鸞聖人は教えられたのでした。 しかし、「五濁」ということは、私たちの身近なところで言うならば、すでに釈尊の教説である「阿弥陀経」の中に説き示されていることですから、それは、親鸞聖人の時代と社会に限ることではないわけです。釈尊の時代も社会もやはり「五濁」だったのです。 そればかりか、「阿弥陀経」や「正信偈」の教えは、実は今の私どもに対して指し向けられている教えなのですから、それらの教えの中に説かれている「五濁」は、そのまま、現代という時代、現代の社会のことであると認識しなければならないのです。 「五濁」というのは、末の世において、人間が直面しなければならない五種類の濁り、汚れた状態を言います。それは「劫濁〈こうじょく〉」「見濁〈けんじょく〉」「煩悩濁〈ぼんのうじょく〉」「衆生濁〈しゅじょうじょく〉」「命濁〈みょうじょく〉」の五つです。 まず、「劫濁」ですが、「劫」は、「時代」という意味ですから、「劫濁」というのは、「時代の汚れ」ということになります。疫病や飢饉、動乱や戦争が続発するなど、時代そのものが汚れる状態なのです。 「見濁」の「見」は、「見解」ということで、人びとの考え方や思想を言います。したがって「見濁」とは、邪悪で汚れた考え方や思想が常識となってはびこる状態です。 「煩悩濁」は、煩悩による汚れということで、欲望や憎しみなど、煩悩によって起こされる悪徳が横行する状態です。 「衆生濁」は、衆生の汚れということで、人びとのあり方そのものが汚れることです。心身ともに、人びとの資質が衰えた状態になることです。 「命濁」は、命の汚れということですが、それは自他の生命が軽んじられる状態と考えられます。また生きていくことの意義が見失われ、生きていることのありがたさが実感できなくなり、人びとの生涯が充実しない虚しいものになってしまうことであると、今は解釈しておきたいと思います。もともとは、人間の寿命が短くなることであると解釈されてきましたが、それは命の年数が短くなるというよりも、精神の豊かさが薄らぐことを意味していると理解してよいように思われるのです。 私たちが暮らしている現代社会というのは、どのような時代社会なのでしょうか。身のまわりに起こっている、さまざまな出来事や事件を一つ一つ眺め返しますと、とても喜びにあふれた社会とは申せません。悲しいこと、悩むことが多すぎます。しかもおぞましいことに、そのような出来事があまりにも多いので、慣れっこになってしまって、驚きや悲しみの実感が薄らいでしまってさえいるのではないでしょうか。 現代の世相は、まさしく「五濁」というよりほかはありません。この悲しい「五濁の悪時」に生きる人類は、いったいどうすればよいのでしょうか。あらためて釈尊のお言葉を信じて生きるよりほかはない、と親鸞聖人は教えておられるのです。すなわち、釈尊が「大無量寿経」に示された、阿弥陀仏の本願を依り処にして生きるほかはないと教えておられるのです。 実は、釈尊がこの世間にお出ましになられたのは、ただただ、海のようにすべてを包み込む阿弥陀仏の本願のことを私たちに知らせようとされたためであったのです。親鸞聖人は、「如来、世に興出〈こうしゅつ〉したまうゆえは、ただ弥陀本願海〈ほんがんかい〉を説かんとなり」(如来〈にょらい〉所以〈しょい〉興出世〈こうしゅっせ〉唯説〈ゆいせ〉弥陀〈みだ〉本願海〈ほんがんかい〉)と教えておられるではありませんか。 
喜愛の心
能発一念喜愛心
不断煩悩得涅槃
よく一念〈いちねん〉喜愛〈きあい〉の心を発〈ほっ〉すれば、
煩悩〈ぼんのう〉を断〈だん〉ぜずして涅槃〈ねはん〉を得るなり。
「正信偈」には、これまで見てきましたところに、まず、阿弥陀仏の本願の徳が讃嘆してありました。本願というのは、一切の人びとを浄土に迎え入れたいという願いでありました。そしてその願いが、常に私どもに差し向けられていることが述べてありました。 次いで、釈尊がこの世間にお出ましになられた、そのわけが述べてありました。それはただ、「大無量寿経〈だいむりょうじゅきょう〉」をお説きになって、阿弥陀仏の本願のことを私どもに教えようとされたためであったのでした。 そして、五濁〈ごじょく〉という悪い時代社会に生きる私どもは、阿弥陀仏の本願を説かれた釈尊のお言葉を信ずるほかはないと、親鸞聖人は教えておられるのでした。 それでは、「大無量寿経」に示されている釈尊のお言葉に従うということは、どのようなことであるのか。また、釈尊のお言葉に素直に従うことによって、私どもはどうなってゆくのか。それらのことが、これからしばらく、八行十六句にわたって述べられるのです。 まず、「能発一念〈のうほついちねん〉喜〈き〉愛心〈あいしん〉不〈ふ〉断煩悩得〈だんぼんのうとく〉涅槃〈ねはん〉」(よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり)と詠われます。つまり、教えを信じて、ひと思いの喜びの心を起こすことができるならば、煩悩をなくさないまま、煩悩にまみれた身のままに、煩悩の支配を受けない涅槃という境地にいたることができる、と説かれているのです。 あとの「不断煩悩得涅槃」については、次回に少し詳しく考えることにして、今回は「能発一念喜愛心」の句に注目したいと思います。 この句の前に、「五濁〈ごじょく〉悪〈あく〉時〈じ〉群生海〈ぐんじょうかい〉応信如来如実言〈おうしんにょらいにょじつごん〉」(五濁悪時の群生海、如来如実の言〈みこと〉を信ずべし)とあります。五つの濁りのある悪い時代に生きる人びとは、釈迦如来が説かれた事実の通りのお言葉、つまり、釈尊が「大無量寿経」にお説きになられた阿弥陀仏の本願についての教え、それを信ずるべきであると、親鸞聖人は教えておられるのです。 そしてこれに、「能発一念喜愛心」(よく一念喜愛の心を発すれば)という句が続くわけです。 このような「正信偈」の偈文〈げもん〉の意味は、どのように受け取れるでしょうか。文脈からすると、それは、私どもが、釈尊のお言葉、つまり本願の教えを信じて、一念の喜びの心を起こすことができるならば、煩悩のままに、涅槃の境地を得ることができるという、そのような意味に受け取れることになります。 けれども、親鸞聖人は、もう少し大切な意味をこの句に込めておられると思われます。「能発」(よく発す)というのは、文字通りには、起こすことができるという意味ですが、私どもが自分で(喜愛の心を)起こすことができる、というのではないでしょう。それは、阿弥陀仏の願いによって、その願われた通りに、(喜愛の心が)私どもの心の中にわき起こるということを意味するのです。 さきに「応信如来如実言」(如来如実の言を信ずべし)と詠ってありました。この流れからしますと、「信」がもとになって「喜愛」があるわけです。しかも親鸞聖人が教えられる「信」は、私どもが自分の意志で起こすものではありません。「南無阿弥陀仏」としてはたらく、阿弥陀仏の本願の力によって起こるものと教えられています。 阿弥陀仏の願いによって私どもに信心が生じ、その信心によって歓喜〈かんぎ〉の心が起こされるのです。「大無量寿経」に、「あらゆる衆生〈しゅじょう〉、その名号〈みょうごう〉を聞きて、信心〈しんじん〉歓喜せんこと、乃至〈ないし〉一念せん」と説かれています。ここには、「南無阿弥陀仏」という名号によって「信心歓喜」があると教えられています。しかも「信心」と「歓喜」とが一つのこととして説かれているのです。 まことに、信心をたまわっていることに気づかされることは、うれしいことなのです。同時に、自分に願いが差し向けられていることを素直に喜ぶことが、実は信心をいただくということになるわけです。 
煩悩と涅槃
能発一念喜愛心
不断煩悩得涅槃
よく一念〈いちねん〉喜愛〈きあい〉の心を発〈ほっ〉すれば、
煩悩〈ぼんのう〉を断〈だん〉ぜずして涅槃〈ねはん〉を得るなり。
私どもは、自我のはからいを捨てることが、なかなかできません。けれども、はからいを少し横に置くことによって、阿弥陀仏の本願に素直になれると教えられています。そして、仏の願いに素直になる信心によって、喜愛の心が起こされるのだと諭されています。 さらに、喜愛の心が起こされることによって、煩悩をなくさないままで、煩悩の支配を離れた涅槃という境地にいたることができると詠われているのです。 「煩悩」というのは、私どもの身や心を煩わせ、悩ませる心のはたらきのことです。しかもそれは、自分自身が引き起こしている心の作用なのです。私どもの心には、いつも一〇八種類の煩悩がはたらいていると言われていますが、その代表的な煩悩、最も深刻な煩悩を「三毒〈さんどく〉煩悩」と言います。それは、貪欲〈とんよく〉(欲望をいだくこと)と、瞋恚〈しんに〉(憎み怒ること)と、愚癡〈ぐち〉(道理に無知であること)の三つです。 あらためて自分の心の中を静かにのぞいてみると、まさに教えられている通り、そのような煩悩がいつも心に付きまとっていて、絶えず自分を支配していることを認めざるを得ません。自分の利益のためになると思い込み、自分の思い通りにしようとしていること、それが実は煩悩であって、結局はそれが自分自身を苦しめ悩ませる原因になっていると、釈尊は教えられたのです。しかも、私どもは、自らが引き起こしている煩悩によって、自分自身が苦しんでいる、そのことにすら、なかなか気づけないでいるのです。まことに、道理に無知だといわなければなりません。 私どもが身に受けているさまざまな苦悩から解き放たれるために、釈尊は、その原因である煩悩を取り除く道を教えられたのでした。そして、すべての煩悩が取り除かれた、心穏やかな状態を「涅槃」と教えられたのです。 このように、「涅槃」は煩悩を滅した状態を意味するのでした。そしてさらに、完全に煩悩を滅した状態というのは、人の「死」であることから、「涅槃」は「死」と理解されるようにもなったのでした。人が亡くなることを「涅槃に入る」とか、「入滅」とか言われるようになったのです。 ところが、やがて「涅槃」についての理解はさらに深められ、「滅」というような消極的な見方ではなく、「悟り」という積極的な意味に「涅槃」は理解されるようになったのです。煩悩が滅することを「涅槃」というならば、「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」というのは、煩悩をなくさないままで、煩悩のなくなった状態になるということになりますから、矛盾した言葉になります。けれども「悟り」ということであれば、「悟り」は煩悩の有る無しをはるかに越えた境地ですから、煩悩を断ずるとか、断じないとかにかかわりなく、「悟り」としての「涅槃」に到達することがあるわけです。これが「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」という教えの一般的な理解です。 しかし、「悟り」ということであれば、悟れる人と、悟れない人とができてしまいます。悟る力のある人と、悟るほど力のない人との区別が出てくるわけです。 「正信偈」に示されている親鸞聖人のお心からすれば、「涅槃」は、ある個人の「悟り」というようなことではないでしょう。釈尊が教えられた通り、私どもは五濁の世に生きなければなりませんが、その自分の身に届けられている信心を喜ぶことによって、その人の煩悩ばかりではなく、すべての人びとの煩悩を飛び越えた「涅槃」が、その人に実現するということになるのではないでしょうか。 もう少し言葉を換えてみるならば、阿弥陀仏の本願によって往生すること、そのことが「涅槃」の意味であるということになるのです。煩悩を断ずることができなくても、いや、煩悩を断ずることのできない、愚かで情けない自分であるからこそ、「本願」ともいうべき「涅槃」、「往生」ともいうべき「涅槃」を、私どもは得させてもらうのであると、聖人は教えておられるように思うのです。 
凡夫も聖者も
凡聖逆謗斉回入
如衆水入海一味
凡聖〈ぼんしょう〉、逆謗〈ぎゃくほう〉、ひとしく回入〈えにゅう〉すれば、
衆水〈しゅうすい〉、海に入りて一味なるがごとし。
五濁〈ごじょく〉という悪い世に生きる私どもには、阿弥陀仏の本願について教えられた釈尊のお言葉を信ずるほかはないと、親鸞聖人は詠われました。 釈尊のお言葉、すなわち「大無量寿経〈だいむりょうじゅきょう〉」の教えに素直に従うということは、どのようなことであるのか。それについて聖人は、煩悩を断じないままでも、涅槃を得させてもらえるということであると教えられました。 さらに、親鸞聖人は続けられるのです。「凡聖〈ぼんしょう〉逆謗〈ぎゃくほう〉斉〈さい〉回〈え〉入〈にゅう〉如衆〈にょしゅう〉水入海〈すいにゅうかい〉一〈いち〉味〈み〉」(凡聖、逆謗、ひとしく回入すれば、衆水、海に入りて一味なるがごとし)と。 「凡聖」というのは、煩悩にまみれて迷っている「凡夫」と、煩悩をなくして清らかになられた「聖者」とです。「凡夫」と「聖者」とは、煩悩に支配され続けているか、それとも煩悩を滅し尽くしているか、そこに違いがあるわけです。 また「逆謗」というのは、「五〈ご〉逆〈ぎゃく〉」という重い罪を犯した人と、「謗法〈ほうぼう〉」の人、すなわち仏法を謗〈そし〉るという悪をはたらく人です。 五逆とは、@父を殺すこと(害父)A母を殺すこと(害母)B聖者を殺すこと(害〈がい〉阿羅〈あら〉漢〈かん〉)C仏のお体を傷つけて血を流させること(出〈しゅつ〉仏身血〈ぶつしんけつ〉)D教団を分裂させること(破和〈はわ〉合僧〈ごうそう〉)を言います。 「回〈え〉入〈にゅう〉」とは、回〈え〉心〈しん〉して帰〈き〉入〈にゅう〉することと言われます。つまり、自分の思いにこだわり続ける心をひるがえして、真実に目覚めることです。常に阿弥陀仏の願いが差し向けられている身であるのに、そのことに気づかないのは、仏の願われていることよりも自分の目先の判断を大切にしているからなのです。ですから、自分のはからいを捨てて、真実に背を向ける心をひるがえすことが必要なのです。大きな願いの中に生きている、本来の自分に立ち戻ることが必要なのです。 煩悩にまみれ続けている凡夫であろうと、煩悩を滅し尽くした浄〈きよ〉らかな聖者であろうと、また、たとえ五逆というような重い罪を犯す人であろうと、さらには、仏法を謗るような人であろうと、いずれも自分の力では「涅槃」といわれる勝〈すぐ〉れた境地にいたることはできないのです。誰も自力では「往生」することはできないのです。 しかし、凡夫であろうと、聖者であろうと、五逆であろうと、謗法であろうと、自分本位という思いを大きくひるがえして、真実に対して謙虚になり、本願を喜べるようになるならば、阿弥陀仏の願いによる救いにあずかることになると、親鸞聖人は教えておられるのです。 それはちょうど、どこから流れてきた川の水であろうと、海に注ぎ込めば、みな同じ塩味になるようなものだと教えておられるわけです。 海に流れ入る水には、どこから流れ出てくるか、それぞれ水源の違いがあります。また途中でどのような所を流れ下ってくるのか、そのたどってくる場所や状況が違っています。しかし、出発や経過がどうであれ、海に入れば同じ水になるわけです。 人はそれぞれ、いまの生き方の実状に違いがあります。善し悪しの違いもあります。またこれまでに生きてきた経過や経歴もさまざまです。 けれども、どのような状態にあろうと、またどのような経歴であろうと、阿弥陀仏の願いのもとでは何の違いも区別もないと教えられているのです。ただ問題は、私どもの今のあり方がどうであるかということです。私どもが、真実に背を向けたままの愚かな自分にこだわり続けるのか、それとも、そのような自分に阿弥陀仏の願いが向けられていることに気づかせてもらって喜ぶのか、というところに決定的な相違があります。 凡夫も聖者も五逆や謗法ですら、ひとしく心をひるがえすならば、さまざまな川の水が海に流れ入って一つの味になるようなものだ、と詠われていますが、この句の直前にあるように、一念の喜愛の心を起こすならば、自ら煩悩を断ち切ることができない者たちであろうとも、涅槃、すなわち往生を得させてもらえるのです。 ここには、本願に触れた一念の喜愛の心が、何にも先立って大切であることが教えられているわけです。 
常に照らされている私の事実
摂取心光常照護
已能雖破無明闇
摂取〈せっしゅ〉の心光〈しんこう〉、常に照〈しょう〉護〈ご〉したまう。
すでによく無〈む〉明〈みょう〉の闇〈あん〉を破〈は〉すといえども、
自分のはからいを頼りにする、そのような自力の心をひるがえすことが大切であると、親鸞聖人は教えられました。そのことを聖人は、「回〈え〉入〈にゅう〉」という言葉で示されたのです。 釈尊は、「仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉」をお説きになって、人類に、阿弥陀仏の本願のことを教え示されました。これについて、親鸞聖人は、凡夫〈ぼんぶ〉であろうと、聖者〈しょうじゃ〉であろうと、また、五〈ご〉逆〈ぎゃく〉という重い罪を犯した者であろうと、さらには、仏法を謗〈そし〉ってきた者であろうと、釈尊のこの教えにふれるならば、自分の身に阿弥陀仏の深い願いが差し向けられていることに気づかされるのであると、教えられました。そして、心がひるがえって、そのような釈尊の教えにふれ得たことを喜ぶことができると、教えられました。 さらに、親鸞聖人は、「摂取心光〈せっしゅしんこう〉常照〈じょうしょう〉護〈ご〉」(摂取の心光、常に照護したまう)と詠って喜んでおられます。「摂取」というのは、阿弥陀仏が私たちを摂〈おさ〉め取ってくださること、すなわち、救い取ろうとしてくださっていることです。そして、その「摂取」ということは、「心光」によることとされています。「心光」は、阿弥陀仏の大慈悲心の光です。 「光」は、多くの場合、仏の「智慧〈ちえ〉」のはたらきのことをいいます。私どもは、自分の思いにこだわり続けていますから、本当のことがわからず、ものの道理についてまったく「無知」なのです。しかも、道理がわかっていないのに、わかっていると思いこんでいるのです。つまり、わかっていないこと、そのこと自体が、実はわかっていないのです。 そのような心は真っ暗闇のようだと教えられています。暗闇を暗闇でなくするもの、それが「光」です。しかし、暗闇が、どこか他の所へ移動していって、そこが暗闇でなくなるのではありません。「光」のはたらきを受けて、同じ暗闇そのものが、そのまま暗闇でなくなるのです。私どもの心を照らし出し、その心の暗闇を破ってくださるのが仏の「智慧の光」なのです。 ところが、仏の「智慧」は、単に「智慧」としてだけはたらくのではありません。実は、「智慧」が完全にはたらくときには、それは「慈悲」となって私どもにはたらきかけているのです。言い換えれば、私どもに差し向けられている「慈悲」を身に感ぜしめられることによって、仏の深い「智慧」のはたらきを知らしめられるのです。そのような「智慧」にもとづいた「慈悲」の心のことを、「摂取の心光」と詠われているのです。 「摂取の心光」、すなわち阿弥陀仏の大慈悲心の光は、「常照護」(常に照護したまう)と言われています。いつも私たちの身と心を包んで照らし、私たちを護ろうとしてくださっているというわけです。 親鸞聖人は、「常照護」を「照護したまう」と読んでおられます。ここには、大慈悲心の光がいつでも照護してくださっているという、事実が述べられているのです。照護していただきたいという、希望を述べておられるのではありません。また、照護してもらっているだろうという、推測を述べておられるわけでもないのです。あくまでも、いま現に起こっている事実を聖人は教えておられるのです。 私たちは、自分の思いを最優先させて物事に接しています。そして、自分にわかることだけが事実であると思い込んでいるのではないでしょうか。親鸞聖人は、「仏説無量寿経」の教えを通して、阿弥陀仏の大慈悲心の光が、常に照護してくださっているという事実にお気づきになり、私どもの思い込みが、実は思い違いでしかないことを指摘しておられると思われるのです。 常に私どもを照らしている光によって、私たちの「無知」(無明)は破られているはずなのです。それもまた事実なのです。しかし、心を支配している「貪〈むさぼ〉り」(貪愛〈とんない〉)と「憎しみ」(瞋憎〈しんぞう〉)によって、私どもは、その事実に眼をそむけているのです。 
信心を覆うとも
摂取心光常照護已能雖破無明闇
貧愛瞋憎之雲霧常覆真実信心天
摂取〈せっしゅ〉の心光〈しんこう〉、常に照〈しょう〉護〈ご〉したまう。すでによく無〈む〉明〈みょう〉の闇〈あん〉を破〈は〉すといえども、
貧愛〈とんない〉・瞋憎〈しんぞう〉の雲霧〈うんむ〉、常に真実信心〈しんじん〉の天に覆〈おお〉えり。
親鸞聖人は、「摂取心光〈せっしゅしんこう〉常照〈じょうしょう〉護〈ご〉」(摂取の心光、常に照護したまう)と詠っておられます。これによれば、私たちは、すべてを摂〈おさ〉め取ろうとされる阿弥陀仏の大慈悲心の光に常に照らされ、常に護られているのです。 この光に照らされているという事実によって、「已〈い〉能雖〈のうすい〉破無〈はむ〉明〈みょう〉闇〈あん〉」(すでによく無明の闇を破すといえども)とありますように、私どもの心の「無明」の闇は、すでに破られているのです。 「無明」というのは、根元的な無知です。真実に暗く、真実を知見〈ちけん〉する智慧〈ちえ〉の明るさが欠けている状態です。それが凡夫〈ぼんぶ〉の迷いの根本となる煩悩なのです。「無明」は、私どもの心のなかでは「愚癡〈ぐち〉」というすがたをとってはたらきます。 「愚癡」は、どうしようもない愚かさです。何が真実であるのか、まったくわかっていないのです。真実がわかっていないだけではなく、そのわかっていないことすら、わかっていないのです。逆に、自分にわかっていること、それが真実だと思い込んでいるのです。まことに愚かというほかはありません。哀れで滑稽なすがたです。 このような「愚癡」となってはたらく「無明」の闇は、実は、阿弥陀仏の大慈悲心の光によってすでに破り尽くされているはずなのです。そして私どもは、真実に素直に向き合うことができているはずなのです。 ところが、「貪愛瞋憎〈とんないしんぞう〉之〈し〉雲〈うん〉霧〈む〉常〈じょう〉覆〈ふ〉真実信心天〈しんじつしんじんてん〉」(貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり)と詠われていますように、「貪愛」や「瞋憎」といわれる煩悩が、雲や霧のようにわき立ち、私どもの心に立ち込めて、「真実信心」を覆い隠してしまっているのです。 「貪愛」は「貪欲〈とんよく〉」とも言われますが、しがみつく愛着・欲望です。私どもは、しがみつくべきでないものにしがみついてしまいます。それは無知によって起こる心の動きです。無知ですから、しがみつけば必ず苦という結果をもたらすのに、それを知らずに、自分にとってこの上なく大切なものと錯覚して、愛着をいだくのです。 「瞋憎」は「瞋〈しん〉恚〈に〉」とも言われます。怒り憎む心です。怒りや憎しみは、自分の思い通りにならないときに起こります。私どもは、何ごとについても、自分の思い通りになることを期待します。ときには、思い通りになるはずのないことをも、思い通りにしようとこだわります。これも無知によって起こります。怒りや憎しみは、他の人びとを傷つけると同時に、自分自身をも傷つけることになります。そして心の平静さを失わせ、ますます間違った方向に自分を追いやってしまうのです。 せっかく阿弥陀仏の大慈悲心の光に照らされて、無知が除かれ、「真実信心」が受け止められるようにしてもらっているはずなのに、どこからともなくわき起こってくる「貪愛」や「瞋憎」によって、その「真実信心」を覆い隠して、それに気づかない自分になっているのです。わざわざ自分で自分をいっそう深刻な無知にしているのです。 「真実信心」という言葉には、少し注意が必要です。私どもの「信心」が、どうして「真実」であるのかということです。「信心」は、私どもの判断で、信じるか信じないかを決定する信心ではありません。愚かで間違いの多い私どもが決定する信心であるならば、どうして「真実」と言えるでしょうか。それは阿弥陀仏から振り向けられた信心なのです。自力によって引き起こす信心ではなくて、阿弥陀仏からいただく、他力の信心です。だから、その「信心」は「真実」なのです。 私どもは、自らが引き起こす「貪愛」や「瞋憎」によって、せっかく回〈え〉向〈こう〉されている「真実の信心」を覆い隠して、それを自分から遠ざけているのです。けれども、阿弥陀仏の大慈悲心の光は、そのようなことでは覆い尽くせるものではないと、親鸞聖人は、この次の句に詠われます。 
信心を覆うとも
譬如日光覆雲霧
雲霧之下明無闇
たとえば、日光の雲〈うん〉霧〈む〉に覆〈おお〉わるれども、
雲霧の下〈した〉、明らかにして闇〈くら〉きことなきがごとし。
今回の「譬〈ひ〉如日光〈にょにっこう〉覆〈ふ〉雲〈うん〉霧〈む〉雲〈うん〉霧之下〈むしげ〉明〈みょう〉無〈む〉闇〈あん〉」(たとえば、日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし)という二句は、前回の四句と内容が直接に連なっております。 まず、「摂取心光〈せっしゅしんこう〉常照〈じょうしょう〉護〈ご〉」(摂取の心光、常に照護したまう)とありました。私どもを摂〈おさ〉め取って、救おうとしてくださる阿弥陀仏の大慈悲心の光は、いつも、今もなお、私どもを照らし、護っていてくださっているということでありました。 ところが、本当に照護されているのかどうか、私どもの常識では確信がもてません。けれども、現に照護されていることは、まぎれもない事実であると、親鸞聖人は受けとめられたのです。それは、照護されていることを身をもって確信された人のお言葉です。敢えて言うならば、それが親鸞聖人の常識なのです。 阿弥陀仏の大慈悲心の光に照護されていますので、その光によって、私どもの心の闇はすでに破り尽くされているのです。「已〈い〉能雖〈のうすい〉破無〈はむ〉明〈みょう〉闇〈あん〉」(すでによく無〈む〉明〈みょう〉の闇〈あん〉を破〈は〉すといえども)と続けられている通りです。 にもかかわらず、私どもの心には、貪りや憎しみなどの煩悩が、雲や霧のように立ちこめてきています。そして、その雲や霧のために、阿弥陀仏の大慈悲心という天空を覆ってしまっているのです。阿弥陀仏の大慈悲心は、「真実信心〈しんじん〉」として、私どもの身に具体化されています。その「真実信心」を覆っていることになるのです。そのことが、「貪愛瞋憎〈とんないしんぞう〉之〈し〉雲〈うん〉霧〈む〉常〈じょう〉覆〈ふ〉真実信心天〈しんじつしんじんてん〉」(貪愛〈とんない〉・瞋憎〈しんぞう〉の雲霧、常に真実信心の天に覆えり)と詠われているのでありました。 阿弥陀仏は、大慈悲心によって、「真実信心」を私どもに差し向けて(回〈え〉向〈こう〉して)くださっています。煩悩の泥にまみれている私が、自分の考えや都合によって引き起こす信心であれば、それは「真実信心」ではありませんが、阿弥陀仏が私に施与〈せよ〉してくださっている信心ですから、それは「真実信心」なのです。そのような「真実信心」を私は見失っているわけです。 しかしながら、そのあと、「たとえば、日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし」と詠われています。日光が雲や霧に覆われてしまっているため、私どもには日光を見ることはできません。けれども日光は輝き続けているわけですから、その雲や霧の下は、決して暗闇ではなく、私どものところに明るさは届いているのです。太陽そのものが隠れた夜の暗闇とは、まったく異なっているのです。 私どもは、心に起こす貪りや憎しみなどの煩悩よって、せっかくの「真実信心」を覆ってしまっているわけです。しかし、「真実信心」を見失っているからといって、「真実信心」が私のところに届かなくなっているのかというと、そうではないと、親鸞聖人は教えておられます。雲や霧が覆っていても、雲や霧の下にも明るさは届いているのです。 私どもは、雲や霧がなくなったとき、初めて日光の恩恵を受けるかのように錯覚しますが、実はそうではないのです。雲や霧が立ちこめているときでも、日光の恩恵を受けているのです。煩悩がなくなったとき、大慈悲心、つまり「真実信心」に気づかされるのではありません。取り除き難い煩悩にまみれながら、「真実信心」に目覚めることがあるのです。煩悩が決して信心の妨げにはならないということでしょう。 むしろ、日光の輝きによって、雲や霧のありさまが、はっきりと確かめられます。ちょうどそのように、常に私を照護し続ける阿弥陀仏の大慈悲心によって、かえって、貪りや憎しみの心に支配されている自分の実態が、どのようなものであるかを思い知らされるのではないでしょうか。「真実信心」に背を向けている自分の姿が映し出されてくるのではないでしょうか。 そのようなことを、親鸞聖人は、私どもに教えようとなさっているように思うのです。 
大きな喜び
獲信見敬大慶喜
即横超截五悪趣
信を獲〈う〉れば見て敬〈うやま〉い大きに慶〈きょう〉喜〈き〉せん、
すなわち横に五悪趣〈しゅ〉を超截〈ちょうぜつ〉す。
まず「信を獲れば」といわれています。これは申すまでもなく、阿弥陀仏の本願を信ずる信〈しん〉心〈じん〉が得られたならば、ということです。 阿弥陀仏の本願は、多くの人びととともに、この私を悩み苦しみから救ってやりたいと願ってくださる願いです。哀れなことに、私は自分がそこまで悩み苦しんでいることにすら、気づいていないようです。眼の前の利害に心を奪われて、自分の思いに合致すれば満足し、そうでなければ、不平不満をいだいて、他を恨むのです。 ところが、そのような私を救いたいと願われる願いが、私の知らないうちに、すでにはたらいているのです。それが本願です。常にはたらき続けている本願のなかに、私はいま生活しているのです。 しかも、そのような本願を信ずるということは、私が自分で心に決めて信ずるのではないと教えられています。自分で自分の心に決めることは、「自力のはからい」でしかない、といわれます。私がどれほど誠実に、熱心に信ずるとしても、それは本願を信ずるというよりも、私の都合を信じているに過ぎないのです。まことの「信」は、私が起こすものではなくて、いただくものだと教えられています。 私という人間は何とも情けない生きものであるということ、そしてその私を何としても救ってやりたいという願いが現にはたらいているということ、そのような事実に、ふと気づかされ、しみじみと納得させられること、それが「信を獲る」ということではないでしょうか。 あくまでも誤魔化しでしかない私自身の実態と、そのような私だからこそ、願いが差し向けられているという事実に、心の底から頷かされれば、何かが見えてきて、何かを敬う心が私に起こるのだと諭されているのです。それが「信を獲れば見て敬い」というお言葉です。 それでは、何が見えてきて、何を敬うのかということですが、これについては、いくつかの受け止め方ができるように思われます。 第一に、阿弥陀仏と、阿弥陀仏が願われているその願いとを、素直な心の眼によって見届けるということです。そうなれば、それが本当にありがたく思われ、阿弥陀仏に心から敬服する以外、私には何もできない、という意味になります。 第二に、私を救いたいと願われる願いが現にはたらいていることに気づかされると、この本願に生きられた七高僧のように、まことの信心を得られた方々のお心がよくよく見えてくる、という意味に理解されます。そうなれば、その方々を敬愛する気持ちが深くなるということになります。 第三に、阿弥陀仏の本願に気づかされると、ますますはっきりと愚かで哀れな自分自身の姿が見えてくるという理解です。そして、このような自分を救うための信心がすでに用意されているという事実を、自分としては敬いの心をもって受け入れるしかない、というように理解されます。 これらの他にもいろいろな理解があるかと思います。正直なところ、親鸞聖人のお心をどのように汲み取ればよいのか私にはわかりませんが、いまさし当たっては、第三の理解のように受け止めておきたいと思います。 この私をどうしても導いて救ってやりたいと願ってくださる願いに、自分が包まれていることに気づかされるときに、あらためて見えてくるものは、やはり何もかも自分本位に考えて、どこまでも思い上がっている、何とも情けない自分の姿ではないでしょうか。そのような私であればこそ、私の思いを越えた願いが差し向けられているのです。私はその事実を心底から敬うこと以外には、何もできないのです。その事実におまかせするしかないのです。 そのように、自分の姿を見て本願を敬う身になるならば、それこそが私にとってこの上にない喜び、「大〈だい〉慶〈きょう〉喜〈き〉」となるのだと、親鸞聖人は教えておられると思うのです。そして、その喜びが起こると、深刻な苦悩の状態を一挙に超えていけると教えられています。 
苦悩を越える
獲信見敬大慶喜
即横超截五悪趣
信を獲〈う〉れば見て敬〈うやま〉い大きに慶〈きょう〉喜〈き〉せん、
すなわち横に五悪趣〈しゅ〉を超截〈ちょうぜつ〉す。
親鸞聖人は、まず「獲〈ぎゃく〉信見〈しんけん〉敬〈きょう〉大〈だい〉慶〈きょう〉喜〈き〉」(信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん)と詠われました。 前回学びましたように、「信を獲れば」というのは、まさに、この私を救ってやりたいと願われている、阿弥陀仏の本願が自分に対して差し向けられていることに気づかされて、信心を感得することでありました。そして信心とは、自分に向けられている願いに対して素直になることでありました。 そうすると、願いに気づかずに、自分の思いだけを頼りにしてきた愚かな自分の姿が、はっきりと「見えて」くるのです。そして、そのような自分には、心から本願を「敬う」こと以外に、何もすることがないのだと、聖人は教えておられるのです。 このように、愚かな自分の姿にあらためて気づかされ、本願を敬う身になるならば、それは、この上なく大きな喜びとなると教えておられます。「大きに慶喜せん」と言われるのです。 阿弥陀仏が願っておられる、その願いを敬い、願いを喜べる身になるならば、私どもは、たちまちにしてさまざまな迷いの状態を飛び越えていけると言われます。そのことを、次の句に「すなわち横に五悪趣を超截す」と詠われているのです。 「五悪趣」は、五道ともいいますが、凡夫が自分の為した心身の行いの結果として趣くところです。地獄・餓鬼〈がき〉・畜生〈ちくしょう〉・人〈にん〉・天〈てん〉の五趣をいいます。畜生と人との間に阿〈あ〉修〈しゅ〉羅〈ら〉を加えて、六趣とか六道とも言います。 生前中の行いによって、死後に地獄に落ちたり、天上界に生まれかわったりすると言われることがあります。それはもともと、仏教が興る以前の古代インドの宗教が教えていた考え方でありました。それが仏教の中にも取り入れられてきたものと思われます。 しかし仏教では、生まれかわりの主体と考えられるものを「我〈が〉」といい、釈尊は「無我」を教えられて、そのような主体の実在を否定されました。釈尊のこの教えからすれば、死後に地獄などに生まれかわるなどということはないわけです。そればかりか、私どもの日常生活の他に、どこか別のところに地獄のような場所などは実在しないことになります。 仏教の中で、地獄に落ちるとか、畜生に生まれるとか、そのようなことが言われてきましたのは、人が悪を行わず、善いことをするようにという、教訓的もしくは警告的な意味があったからだと考えられます。しかし、釈尊の教えの基本からすれば、この六道はいずれも、私どもが現在の生涯において、入れ替わり立ち替わり、次々と経験しなければならない苦悩の状態を教えたものであると理解しなければなりません。 それでは、六道の一つ一つをどのように受け止めればよいのでしょうか。試みに次のように理解してはいかがでしょうか。「地獄」とは、自分の行いの結果として生存中に経験しなければならなくなる耐え難い苦しみの状態です。「餓鬼」というのは、自分が引き起こす貪欲〈とんよく〉のために、自分自身が苦しまなければならなくなる状態です。「畜生」は、道理に対して無知であるために、互いに争い合い、殺し合って、結果として自分が苦しむことになる、そのような状態です。「阿修羅」というのは、古代のインドでは戦闘をつかさどる鬼神とされていたものでありましたが、いまは、自らが起こす怒り憎しみの心によって、かえって自分が傷つき苦しむことになる、その状態のことであると理解することができます。「人」は、人間らしい感情に支配されて思い悩む状態です。「天」は、精神作用の活発な状態で、六道の中では最も勝〈すぐ〉れた状態ではありますが、やはり迷いの状態であることには違いはないのです。 五悪趣といい、六趣といっても、それらは、実体としてどこかに存在するというものではなく、私どもが自分の行為の報いとして日常に経験している苦悩のことであるのです。阿弥陀仏の本願を敬い、本願を喜ぶならば、苦悩の状態を一挙に超えられるのだと親鸞聖人は言われるのです。 「横に超截する」ということについては、次回、少し考えたいと思います。 
横に超える
獲信見敬大慶喜
即横超截五悪趣
信を獲〈う〉れば見て敬〈うやま〉い大きに慶〈きょう〉喜〈き〉せん、
すなわち横に五悪趣〈しゅ〉を超截〈ちょうぜつ〉す。
私たちは、目の前の喜怒哀楽に気を奪われています。そのために、自分が一体どのような者として今生きているのか、その自分の根本を見失っているようです。そして、そのことによって、さらに喜怒哀楽の情に支配され続けているのです。 そのような私を何とか救ってやりたいと願われている、阿弥陀仏の本願が、現に私に対して差し向けられているのだと、釈尊は教えておられます。そして、釈尊の教えに接して、その願いにつくづくと気づかされるならば、願いに対して素直になれる「信」が得られると、親鸞聖人は教えておられます。 願いに素直になると、自分の思いだけを頼りにして、喜怒哀楽に支配されている自分の愚かさが、さらにはっきり「見えて」くると言っておられます。そうすると、私はどうなるのか。 心から、阿弥陀仏の本願を「敬える」ようになり、それはこの上ない大きな「喜び」となると言われます。それが「獲〈ぎゃく〉信見〈しんけん〉敬〈きょう〉大〈だい〉慶〈きょう〉喜〈き〉」(信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん)と詠われている意味でありました。 その願いを敬い、喜べるようになるならば、それは、私どもが日ごろ経験している「五悪趣」といわれる迷いと悩みの状態を一挙に超えることになるのです。そして「五悪趣」の迷妄〈めいもう〉を断ち切ることになります。そのことを、親鸞聖人は、「即横〈そくおう〉超截〈ちょうぜつ〉五〈ご〉悪趣〈あくしゅ〉」(すなわち横〈よこざま〉に五悪趣を超截す)と詠っておられるのです。 「五悪趣」の意味は、前号に申し述べた通りであります。「超截」は、それを飛び越えて、束縛を断ち切ることです。「即」は「すなわち」と読んでありますが、「即座に」という程の意味です。本願について「大きに慶喜」するならば、「たちどころに」「五悪趣を超截する」ことになるのです。念仏を心から喜ぶならば、たちどころに、一切の迷い、一切の悩みから解き放たれるということです。念仏を喜ぶことが、そのまま、悩みの解決であるということです。逆に言うと、悩みが解決しないのは、念仏を喜べないからだということになります。 ところで、「横に五悪趣を超截す」とありますが、この「横」と「超」とを合わせた「横超〈おうちょう〉」という言葉があります。これは親鸞聖人が独特の使い方をなさったお言葉です。「横超」というのは、順序や段階をまったく経ないで、一挙に横っ飛びをすることです。 たとえば、仏に成って一切の人びとを救いたいという志を固めた菩薩は、命がけの修道を延々と重ねて、一段一段と段階を経て、徐々に仏の境地に近づいていくというのが、インド以来の仏教の通常の見方でありました。また、浄土に往生したいと願う者は、そのような善い結果が生ずるための原因となる善業〈ぜんごう〉を、十分に積み重ねなければならないと見るのが、通常の理解なのです。そのような考え方を親鸞聖人は「竪超〈じゅちょう〉」と言われます。目標とされる到達点に向かって、順序よく、段階を竪〈たて〉に一つ一つ登りつめて行く方法です。 ところが「横超」は、それと違っています。一切の段階を飛び越えて、一挙に目的に達するという見方です。迷いの凡夫が、難題を一つ一つ解決して、徐々に仏の境地に近づくというのではないのです。凡夫が凡夫のままで、仏に成るのです。 本来は、仏でないのを凡夫といい、凡夫でないのを仏というのです。ところが、凡夫が一挙に仏に成るのです。浄土往生にふさわしくない者、往生できるはずのない者が、実は往生するのです。このような不思議なことがどうして起こるのでしょうか。 それは、常に私どもにはたらきかけている阿弥陀仏の本願の力によるのです。私どもの常識では説明のつかない、大慈悲のはたらきによるのです。 先の「竪超」は、自分の力を頼りにしています。自分の努力を信頼しています。しかし、自分の力が信頼できなくなれば、一体どうするのか。「いずれの行〈ぎょう〉もおよびがたき身」は、阿弥陀仏の願いという他力にお任せする以外に、なすすべはないのです。本願力にお任せするときに、「横超」ということが起こると教えておられるのです。 
聞信するということ
一切善悪凡夫人聞信如来弘誓願
仏言広大勝解者是人名分陀利華
一切善悪の凡〈ぼん〉夫〈ぶ〉人〈にん〉、如来〈にょらい〉の弘〈ぐ〉誓願〈ぜいがん〉を聞信〈もんしん〉すれば、
仏、広大勝〈しょう〉解〈げ〉の者〈ひと〉と言〈のたま〉えり。この人を分〈ふん〉陀利華〈だりけ〉と名づく。
ここではまず、親鸞聖人は、「一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、仏、広大勝解の者と言えり。」(一切善悪凡〈いっさいぜんあくぼん〉夫〈ぶ〉人〈にん〉聞信如来〈もんしんにょらい〉弘〈ぐ〉誓願〈ぜいがん〉仏言広大〈ぶつごんこうだい〉勝〈しょう〉解〈げ〉者〈しゃ〉)と詠っておられます。 「凡夫人」は短く「凡夫」とも言われますが、凡夫というのは、聖者〈しょうじゃ〉でない人のことで、普通の人のことを言います。私たちは、静かに自分自身の生き方を見つめ直してみると、どう見ても聖者とは言えないのです。だから私たちは凡夫なのです。さらに厳しく自分を見つめるときに、「愚〈ぐ〉悪〈あく〉の凡夫」という言い方がなされます。自分は愚かでよろしくない人間だという自覚です。 善人であろうと、悪人であろうと、一切の凡夫人が、その善悪に関係なく、「阿弥陀如来の弘〈ひろ〉い誓願〈せいがん〉を聞信するならば、」と続けられています。阿弥陀仏は、すべての人びとを救いたいと願っておられます。すべての人びとを救わなければならないと誓っておられるのです。それがここに言われる誓願です。しかもその誓願は、いつでも、どこでも、はたらき続けているのです。だから「弘い誓願」と言われているわけです。 その誓願は「仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉」の中に四十八願として説き示されています。中でもその中心となるのが、「念仏往生の願」と言われている第十八願です。私どもは、真実を知らないばかりに、迷い続け、悩み苦しみ、不平や不満をつのらせながら日々を過ごしています。そのような、なさけない愚かなわれわれを、念仏によって助けたいと願ってくださっているわけです。しかも、阿弥陀仏が私どもに代わって用意してくださった念仏、すなわち私どもに差し向けられている「南無阿弥陀仏」、それをそのまま素直に受け取ってほしいと願っておられるのです。 そのような願いが、この私に差し向けられているにもかかわらず、いや、そのような願いがはたらく真っ只中に私は生きているにもかかわらず、私は心からそのことに気づいていないのです。そのような願いに気づかせるのが「聞信」ということになります。親鸞聖人以来、ずっと「聞法〈もんぽう〉」ということが大切にされてきた意味がそこにあると思われます。 法を聞くということは、阿弥陀仏の願われたことについて説き示されるその場所に身を置くということです。気づかずに過ごしてきたことに気づかせてもらえる場所に足を運ぶということです。阿弥陀仏の誓願のことが説かれているのは、「仏説無量寿経」です。だから、阿弥陀仏がどのようなことを、どのように願っておられるのかを、私どもに教えておられるのは釈尊なのです。釈尊の教えについて語られることを聴聞〈ちょうもん〉すること、それはもちろん聞法であります。しかしそれだけではないでしょう。釈尊の教えを伝達することも、実は釈尊の教えを聴聞することになるのです。親鸞聖人が釈尊の説かれた念仏の教えをどれほど喜ばれたのか、それを互いに受け止め合い、確かめ合う場が、聞法の場なのです。 「聞信」は、聞法して信ずることですが、「信ずる」ということは、疑わないということです。そもそも疑いの心というのは、教えよりも、自分の思いや考えを大切にするときに起こります。だから「信ずる」ということは、何かのために信ずるとか、信ずれば自分はどうなるかとか、そういうことではなくて、「はからいを離れよ」と教えられているように、自分の思いを離れ、教えに対して自分を空しくして謙虚になることではないでしょうか。 そのように、阿弥陀仏の弘い誓願のことを聞信するならば、仏、つまり釈尊は、その人のことを「広大勝解の者」と言ってくださると教えられています。阿弥陀仏の誓願について聞信しなければならないのは、凡夫人であります。凡夫人であるには違いないのですが、聞いて信ずるということがあるならば、その凡夫人は広く偉大な、勝〈すぐ〉れた見解をもつ者であると、釈尊は言われるのです。そしてその人を「分〈ふん〉陀利華〈だりけ〉」(白い蓮の華)のように気高く清らかな人だと呼ばれると、親鸞聖人は詠っておられるのです。 
分陀利華
一切善悪凡夫人聞信如来弘誓願
仏言広大勝解者是人名分陀利華
一切善悪の凡夫人〈ぼんぶにん〉、如来〈にょらい〉の弘〈ぐ〉誓願〈ぜいがん〉を聞信〈もんしん〉すれば、
仏、広大勝〈しょう〉解〈げ〉の者〈ひと〉と言〈のたま〉えり。この人を分〈ふん〉陀利華〈だりけ〉と名づく。
まず、「一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、仏、広大勝解の者と言えり。」(一切善悪凡〈いっさいぜんあくぼん〉夫〈ぶ〉人〈にん〉聞信如来〈もんしんにょらい〉弘〈ぐ〉誓願〈ぜいがん〉仏言広大〈ぶつごんこうだい〉勝〈しょう〉解〈げ〉者〈しゃ〉)とあります。 善人であろうと、悪人であろうと、一切の凡夫が、阿弥陀如来の広大な誓願〈せいがん〉について聞信するならば、それぞれの善悪に関係なく、釈尊は、その人びとのことを広く偉大な、勝〈すぐ〉れた見解をもつ人であると言ってくださるのだと、親鸞聖人は教えておられるのです。 阿弥陀仏の誓願は、どのような人でも、例外なく救いたいと願われた願いでありました。しかも、およそ往生とは縁がないと思われるような人、自分の力ではとても往生できるはずのない人、そのような人をこそ救いたいと願っておられるのです。 したがって、阿弥陀仏の本願からすれば、世間で善とされる人も、悪とされる人も、まったく関係のないことなのです。有能な人も、無能な人も、区別がないのです。本願は、人の善悪や能力を越えていて、それらをすべてまとめて包み込むような、大きな力なのです。 ただ、誰にとっても、阿弥陀仏の本願について説かれた教えを聞信することが大切だと教えてあります。聞いて信ずるということは、どのようなかたちであろうと、教えに触れさせてもらって、触れ得た教えを疑わないことです。 阿弥陀仏の本願について教え示された釈尊のお心に触れて疑わないならば、善であろうと悪であろうと、その人は、釈尊が期待してくださった通りの、勝れた了解をもつ人になれるのです。そのような人はまた、「分〈ふん〉陀利華〈だりけ〉」と名づけると、親鸞聖人は詠っておられます。 「分陀利華」というのは、蓮の華のことです。蓮の華のなかでも、とくに白い蓮の華です。白い蓮の華は、インドではプンダリーカと呼ばれていました。中国語にはカタカナやひらがながありませんから、インドの言葉の発音を漢字で写し取って、「分陀利華」という文字があてはめられたのです。 インドには、たくさんの種類の美しい花があることでしょうが、それらの花のなかで、蓮の華がもっとも気高く尊い華とされてきたのです。お寺の本堂やご門徒のお内仏などの荘厳〈しょうごん〉に蓮がデザインされているのも、そのためだと思います。 ここでは、阿弥陀仏の本願の教えを聞信する人は、蓮の華のように尊ばれるという意味になります。「仏説観無量寿経〈ぶっせつかんむりょうじゅきょう〉」には、 「もし念仏する者は、当〈まさ〉に知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。」と説かれています。 蓮の華はもっとも気高く尊い華なのですが、それでは、その華はどのような所に生育するのかということについて、親鸞聖人は「教行信証」に、「維摩経〈ゆいまきょう〉」というお経から、次のような経文を引用なさっています。 「高原の陸〈ろく〉地〈じ〉には、蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥〈おでい〉に、いまし蓮華を生ず。」 もっとも尊ばれる蓮の華は、実は、誰もが理想とするような、明るくて風通しのよい、すがすがしい場所に育つのではないのです。そうではなくて、誰からも遠ざけられるような、汚らしくてジメジメとした泥沼にこそ、蓮の華は咲くのです。一切の汚れに汚されていない真っ白な蓮華は、ドロドロと濁りきった泥沼のなかにしか咲かないのです。何とも不思議な感じがします。 世間の泥にまみれている哀れな凡夫、煩悩にあふれた日常に埋没していて、そこから脱け出そうにも脱け出せない悲しい凡夫、何が人生の最後の依り処なのかがわからず、そのわかっていないことすら、わかっていない愚かな凡夫、そのように情けない凡夫であるからこそ、阿弥陀仏は救いたいと願っておられるのだと教えられています。 私たちの日常は、まさに「卑湿の淤泥」であります。釈尊と親鸞聖人の教えから、そのような我が身のありようをつくづくと思い知らされて、阿弥陀仏から私たちに差し向けられている願いのことをよくよく聞かせてもらい、疑うことなく素直になって信じるならば、その人こそ、泥のなかに咲く白い蓮華であると言われているのです。何ともありがたいことです。 
邪見・憍慢
弥陀仏本願念仏邪見憍慢悪衆生
信楽受持甚以難難中之難無過斯
弥陀〈みだ〉仏〈ぶつ〉の本願念仏〈ほんがんねんぶつ〉は、邪見憍慢〈じゃけんきょうまん〉の悪衆生〈あくしゅじょう〉
信楽受持〈しんぎょうじゅじ〉すること、はなはだもって難〈かた〉し難〈なん〉の中〈なか〉の難〈なん〉、これに過〈す〉ぎたるはなし
「正信偈」は、大きく三つの段落に分けられます。親鸞聖人ご自身がこれらの段落をお決めになられたのではなく、「正信偈」の教えを学びやすくするために、後の世に工夫されたものです。第一の段落は「総讃〈そうさん〉」、第二が「依〈え〉経段〈きょうだん〉」、第三が「依〈え〉釈段〈しゃくだん〉」といわれているものです。 第一の「総讃」は「帰〈き〉敬〈きょう〉」とも名づけられていますが、「正信偈」の冒頭の「帰〈き〉命〈みょう〉無〈む〉量〈りょう〉寿如来〈じゅにょらい〉南無不可思議〈なむふかしぎ〉光〈こう〉」という二行がその段落です。ここには、阿弥陀仏が願われていることをしっかりと受け止められた親鸞聖人のお心が簡明に述べられています。二行ともに同じ意味で、「心の底から阿弥陀仏を敬い、生きるための日々の拠りどころといたします」というお心が表明されているわけです。 順序を換えますが、第三の「依釈段」というのは、親鸞聖人から見られて、念仏の教えを正しく伝えてくださった大先輩が七人おられましたが、その七人の方々について讃えてある部分です。ここには、インド・中国・日本に出られた七高僧と、七高僧が教示してくださった本願念仏についての解釈の要点を掲げて、徳を讃嘆してあるのです。 第二の「依経段」は、「仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉」に依って述べてある段落ですが、この「依経段」は、さらに三つの段落に分けられています。最初の「法蔵〈ほうぞう〉菩〈ぼ〉薩因〈さついん〉位時〈にじ〉」という句から始まる部分が、阿弥陀仏の本願のことが述べられ、讃えられている「弥陀章」です。 次の「如来所〈にょらいしょ〉以〈い〉興出世〈こうしゅっせ〉」という句からが「釈迦章」です。ここには、「仏説無量寿経」というお経を説いて、阿弥陀仏の本願について教えてくださった釈尊のことが讃えてあるのです。 そしてその次の「弥陀〈みだ〉仏本願念仏〈ぶつほんがんねんぶつ〉」という句からの四行が「結誡〈けっかい〉」といわれていますが、これはいわば、「依経段」の結びに当たる部分です。 これまで、この連載では、「依経段」の「弥陀章」「釈迦章」について学んできましたが、前回でもって「釈迦章」が終わりましたので、今回から「結誡」の部分に示されている教えについて確かめることになるわけです。 ここには「弥陀仏本願念仏邪見〈じゃけん〉憍〈きょう〉慢〈まん〉悪衆生〈あくしゅじょう〉信楽受〈しんぎょうじゅ〉持〈じ〉甚〈じん〉以〈に〉難〈なん〉難中〈なんちゅう〉之〈し〉難〈なん〉無過斯〈むかし〉」(弥陀仏の本願念仏は、邪見憍慢の悪衆生、信楽受持すること、はなはだもって難し。難の中の難、これに過ぎたるはなし)と詠われています。 阿弥陀仏は、一切の衆生をもれなく救いたいという願いを発〈おこ〉されました。これが阿弥陀仏の本願です。そして衆生を救いとるために、阿弥陀仏は一切に等しく念仏を施し与えられました。つまり衆生は「南無阿弥陀仏」という名号をいただいているのです。 しかしながら、衆生には、「邪見」があり、「憍慢」の心が常にはたらいています。「邪見」とは、真実に背いたよこしまな考え方です。また「憍慢」は、自ら思い上がり、他を見下して満足する心のはたらきです。すなわち衆生は、邪見にとらわれ、自分を思い高めて、阿弥陀仏が願われている願いに背を向けているのです。罪悪深重〈ざいあくじんじゅう〉の凡夫なのです。 そのような悪衆生にとっては、阿弥陀仏の本願として施し与えられている念仏を素直な思いで受け取らせてもらい、「南無阿弥陀仏」を保ち続けることは、とてもとても困難なことであると、親鸞聖人は教えておられます。 悪衆生が、本願を喜び、念仏をいただくことは、困難なことの中でも、最も困難なことであって、それ以上の困難はないといっておられます。「邪見」や「憍慢」が妨げとなっているからです。 それはまた、同時に、阿弥陀仏が発された本願が、衆生にとっては容易には信じ難いほどの広い大慈心によるものであることを意味しています。そしてまた、衆生に差し向けられている「南無阿弥陀仏」が、衆生には受け止めきれないほどの深い大悲心によるものであることを意味しているのです。 
難の中の難
弥陀仏本願念仏邪見憍慢悪衆生
信楽受持甚以難難中之難無過斯
弥〈み〉陀〈だ〉仏〈ぶつ〉の本願念仏〈ほんがんねんぶつ〉は、邪見憍慢〈じゃけんきょうまん〉の悪衆生〈あくしゅじょう〉
信楽〈しんぎょう〉受持〈じゅじ〉すること、はなはだもって難〈がた〉し難〈なん〉の中〈なか〉の難〈なん〉、これに過〈す〉ぎたるはなし
私たちは道理を見失っていると、釈尊は教えておられます。そして、そのために私たちは、いま現に悩み苦しんでいるのだと、教えておられます。 私たちには、自分が道理に迷っているとか、いま悩み苦しんでいるとか、そのような実感は強くないかもしれません。しかし、道理に目覚めた人をブッダ(仏陀)といいますが、その仏陀であられる釈尊が、私たちのありさまを、そのように指摘しておられるのです。 どうやら私たちは、道理とは関係のない、自分の目先のことに、自分の思いを信用してかかわっているに過ぎないのです。また、たとい自分は悩み苦しんでいると感じているとしても、それは、あくまでも道理に気づいていない私たちが感じていることであって、釈尊が指摘しておられる悩み苦しみと同じ質のものであるとは限らないのです。実は、本当に悩み苦しまなければならないこと、現に悩み苦しんでいるはずのこと、それを知らずに迷い続けているわけです。 そのような自分の事実に深く目覚めて、迷いから離れることができればよいのですが、理屈ではそれがわかっていても、現実にはその事実から眼をそらせて暮らしています。それなのに、これでよいのだと思い込んでいます。あるいは、しかたがないのだと言いわけをしています。救い難い愚かさというよりほかはありません。 このような私たちを哀れんで、釈尊は「仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉」というお経を説いてくださったのです。このお経の題にある「仏」とは釈尊、「無量寿」とは、無量寿仏つまり阿弥陀仏のことですから、「仏説無量寿経」とは、釈尊が阿弥陀仏についてお説きになられたお経、ということになります。 「阿弥陀仏の本願念仏」といわれていますが、「仏説無量寿経」によれば、阿弥陀仏は、愚かで救い難い私たちを何とかして救いたいと願っておられます。そのような私たちだからこそ、救わなければならないと願っておられるのです。この願いが「阿弥陀仏の本願」なのです。 阿弥陀仏は、私たちを深刻な悩み苦しみから救いたいという願いから、私たちに「念仏」を施し与えておられます。私たちには「南無阿弥陀仏」が贈り届けられているわけです。 ところが、私たちは、道理に背いた邪悪な思い(邪見〈じゃけん〉)から離れられていません。そして思い上がって(憍慢〈きょうまん〉)、阿弥陀仏が願ってくださっていることよりも、自分の思いの方を信用して大切にしています。まさに私たちは「邪見憍慢の悪衆生〈あくしゅじょう〉」なのです。 悪衆生にとっては、阿弥陀仏の本願による念仏を「信楽〈しんぎょう〉し受持〈じゅじ〉する」ことは、甚だ困難なことであると、親鸞聖人は指摘しておられます。 「信楽」は、信じて楽うことです。本願によって念仏が私たちに差し向けられていることを疑わずに素直に信ずること、そして喜んで念仏を楽い求めることです。また「受持」は、受けとめて保つことです。施されている念仏をしっかりといただき、日に日にいただき続けることです。 邪見や憍慢にとりつかれている私たちにとって、本願の念仏を素直に信じて喜ぶことが甚だ困難であり、そればかりか、それは難の中の難であって、斯〈これ〉に過ぎた困難、つまりこれ以上の困難はないと、聖人は教えておられるのです。 そうすると、私たちには、念仏を信ずることは、まったく不可能だということになりますが、実はそうではないのです。そのために、この「依経段〈えきょうだん〉」の後に「依釈段〈えしゃくだん〉」が続きますが、そこには、このような私たちだけれども、むしろ、このような私たちだからこそ、私たちの自力によらない、阿弥陀仏の本願による他力の信心が、私たちに差し向けられているのだという、七高僧の教えを親鸞聖人は述べてゆかれるわけです。 ただ、「難の中の難、これに過ぎたるはなし」という句は、「仏説無量寿経」の経文によると思われますが、お経では、教えにはまれにしか遇えず、遇うことの困難さが説かれています。親鸞聖人は、あえて、経の趣旨とは少し違った文脈でこの句を用いておられるようです。 
七高僧
印度西天之論家中夏日域之高僧
顕大聖興世正意明如来本誓応機
印度〈いんど〉・西天〈さいてん〉の論〈ろん〉家〈げ〉、中夏〈ちゅうか〉・日域〈じちいき〉の高僧〈こうそう〉、
大聖〈だいしょう〉興世〈こうせ〉の正意〈しょうい〉を顕〈あらわ〉し、如来の本誓〈ほんぜい〉、機〈き〉に応ぜることを明かす。
「正信偈」は、大きく三つの段落に分けて見ることができます。前々回にも述べた通りです。 第一の段落は「総讃〈そうさん〉」といわれ、冒頭の「帰〈き〉命〈みょう〉無〈む〉量〈りょう〉寿如来〈じゅにょらい〉南無不可思議〈なむふかしぎ〉光〈こう〉」という二行がそれに当たります。 第二は、「依〈え〉経〈きょう〉段〈だん〉」です。「仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉」に依って述べてある段落です。この「依経段」には、まず「法蔵菩薩因〈ほうぞうぼさついん〉位時〈にじ〉」という句から始まる「弥陀章」があります。ここには、阿弥陀仏の本願のことが述べられています。次に「釈迦章」があります。「如来所以興出世〈にょらいしょいこうしゅっせ〉」という句から始まる段落です。ここには、「仏説無量寿経」をお説きになって、阿弥陀仏の本願のことを私たちに教えておられる釈尊を讃えてあります。そしてその次に「依経段」の結びに当たる「結誡〈けっかい〉」といわれる部分があります。それが、前回見ていただいた「弥陀〈みだ〉仏本願念仏〈ぶつほんがんねんぶつ〉」から始まる四行です。 この「結誡」の段落には、私たちのような邪見〈じゃけん〉・憍慢〈きょうまん〉の悪衆生〈あくしゅじょう〉にとっては、念仏を信じて受け入れることが、とても困難なことであると誡めてあります。「南無阿弥陀仏」という念仏は、阿弥陀仏の大いなる願いによって、私たちに施し与えられているのですが、自分本位の邪悪な考えや思い上がりの心の盛んな私たちには、せっかく与えられている念仏を素直に受け止めることが、非常に困難になっているということです。これ以上に困難なことはないと、親鸞聖人は言っておられます。 ここで「依経段」が終わり、第三の段落である「依〈え〉釈〈しゃく〉段〈だん〉」に入るわけです。この「依釈段」には、インド・中国・日本に出られた、七高僧が教えてくださった本願念仏についての解釈の要点を掲げて、七高僧の徳を讃嘆してあります。 邪見・憍慢の私たちには、本願による念仏を信じることは、この上なく困難なことです。そのような私たちだからこそ、何とかして導いてやりたいと、阿弥陀仏ははたらきかけておられるのですが、そのはたらきかけにも、私たちは背を向けているのです。やはり邪見・憍慢によるのです。 そこで、そのような私たちは、どうすればよいのか、それを七人の高僧が教えてくださっていると、親鸞聖人は述べておられるのです。それが「依釈段」なのです。 七高僧のお一人お一人の教えが述べられる前に、「総讃」といわれる四句があります。「印〈いん〉度〈ど〉西天〈さいてん〉之〈し〉論〈ろん〉家〈げ〉中〈ちゅう〉夏〈か〉日域〈じちいき〉之〈し〉高僧〈こうそう〉顕大聖興〈けんだいしょうこう〉世〈せ〉正〈しょう〉意〈い〉明如来本誓応〈みょうにょらいほんぜいおう〉機〈き〉」(印度・西天の論家、中夏・日域の高僧、大聖興世の正意を顕し、如来の本誓、機に応ぜることを明かす)という偈〈げ〉文〈もん〉です。 「印度」は、いうまでもなくインドのことです。また「西天」というのは、中国より西方にあたる天竺(インド)のことです。「論家」というのは、「論」といわれる著作を世に残しておられる人という意味です。 「中夏」は、中国のことで、「夏」は、この場合は大きくて盛んなありさまを表わす文字です。中国の人びとは、古くから、自分たちの国に誇りをもっていて、中国こそが世界の中心であり、盛んな国であると考えていました。そういうことから「中夏」という言い方がなされてきたわけです。「日域」は、私たちが住む日本のことです。 インドには、二人の高僧が出られました。龍〈りゅう〉樹大〈じゅだい〉士〈じ〉と天親〈てんじん〉菩薩です。中国には、曇鸞大〈どんらんだい〉師〈し〉・道綽禅〈どうしゃくぜん〉師〈じ〉・善導大〈ぜんどうだい〉師〈し〉という三人の高僧がおられました。そして日本には、源信僧〈げんしんそう〉都〈ず〉と源空〈げんくう〉(法然〈ほうねん〉)上人のお二人が出られたのです。 この方々の他にも、念仏の大切さを教えられた先人は何人もおられました。けれども親鸞聖人は、特にこの七人の方々が、「大聖」つまり釈尊が世にお出ましになられた本当のお心を顕らかにしてくださったのだと見ておられるのです。そしてまた、阿弥陀如来が起こされた誓願が、まさしく私たちのような邪見・憍慢の悪衆生を救うのにふさわしい誓願であることを、七高僧は明らかにしてくださっていると教えておられるのです。 
信心の伝統
印度西天之論家中夏日域之高僧
顕大聖興世正意明如来本誓応機
印度〈いんど〉・西天〈さいてん〉の論〈ろん〉家〈げ〉、中〈ちゅう〉夏〈か〉・日域〈じちいき〉の高僧、
大聖興〈だいしょうこう〉世〈せ〉の正〈しょう〉意〈い〉を顕〈あらわ〉し、如来の本誓〈ほんぜい〉、機〈き〉に応ぜることを明かす。
親鸞聖人は、インド・中国・日本に出られた七人の高僧の徳を讃えておられます。それは、「印度・西天の論家、中夏・日域の高僧」と言っておられる、これらの方々が、間違いのない信心を、後の世の凡〈ぼん〉夫〈ぶ〉のために、正しく伝えてくださっていると、聖人は見ておられるからです。 高僧というのは、徳の高い僧ということです。別に名僧という言葉がありますが、中国の仏教界では古くから、高僧と名僧とは厳しく区別されてきました。名僧は、よく名の知れた僧ということですが、名僧は必ずしも高僧であるとは限らないのです。世の人びとが生きてゆくのに、かけ替えのない指針を与えてくださっている方、それが高僧です。親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願によって与えられている念仏を素直にいただいて生きるしかないこと、そのことをつくづくと思い知らせてくださった高僧として、七人の大先輩を讃えておられるわけです。 「大聖興世の正意を顕し」とありますが、「大聖」とは釈尊のことです。釈尊が、この世間にお出ましになられた、その本当のお心、それが「興世の正意」ということです。釈尊が、この世間に出られた本当の目的は何であったのか、そのことを七人の高僧がたが顕かにしてくださっているのだと、親鸞聖人は述べておられるわけです。 この「正信偈」の少し前のところに、「如来所以興出世〈にょらいしょいこうしゅっせ〉唯〈ゆい〉説弥陀〈せみだ〉本願海〈ほんがんかい〉」(如来、世に興出したまうゆえは、ただ弥陀本願海を説かんとなり)と詠ってありました。「釈尊がこの世間にお出ましになられたのは、たまたまのことではなくて、ただただ、海のように広大な阿弥陀仏の本願のことをお説きになるためであった」と聖人は言っておられます。 釈尊は、「仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉」というお経をお説きになって、阿弥陀仏の本願のことを私たちに教えておられるわけです。釈尊が私たちに何を願って「仏説無量寿経」を説いてくださっているのか、まさにそのことを七高僧は私たちのために顕かにしておられるということです。 次に、「如来の本誓、機に応ぜることを明かす」とありますが、この「如来」は、阿弥陀如来です。「本誓」というのは、どうにもならない凡夫を何としても救いたいと願われた、阿弥陀仏の本願です。そしてその願いが成就しないのであれば、仏にはならないと誓われた誓願〈せいがん〉のことです。 「機」とは、一人一人の人間のあり方、また、その一人一人の人間の「はたらき」のことをいいます。私たちは、いわば「邪見〈じゃけん〉・憍慢〈きょうまん〉の悪衆生〈あくしゅじょう〉」というあり方をしております。そして「邪見・憍慢の悪衆生」という「はたらき」をもって生きているわけです。 そのようなあり方をしている者であるからこそ、また、そのような「はたらき」をしている者であるからこそ、それを救わねばならないと願われる阿弥陀仏の願いが差し向けられるに相応しい者なのです。つまり「機」とは、本願の対象となっているという、そのようなあり方をしている者であり、またそのような「はたらき」をしている者のことなのです。 さて、龍〈りゅう〉樹大〈じゅだい〉士〈じ〉・天親〈てんじん〉菩薩・曇鸞大〈どんらんだい〉師〈し〉・道綽禅〈どうしゃくぜん〉師〈じ〉・善導大〈ぜんどうだい〉師〈し〉・源信僧〈げんしんそう〉都〈ず〉・源空〈げんくう〉(法然〈ほうねん〉)上人という、七人の高僧がたは、釈尊が何のためにこの世間にお生まれになってくださったのか、まず、その意味を顕かにしてくださっている方々であるとして、その徳を親鸞聖人は讃えておられるわけです。 そして、親鸞聖人は、まさしくご自分こそが、阿弥陀仏の本願のお目当てであることを、七高僧が明らかにしてくださっていると、喜んでおられるのです。私たちも、他ならぬ、自分のような邪見・憍慢の人間こそが、阿弥陀仏の大悲の願いが向けられている者であることに気づかされて、そのことを親鸞聖人のように心から喜べる身になりたいという、そのような気持ちを確かめることが、「正信偈」に託された親鸞聖人のお心に沿うことになるのではないでしょうか。 
龍樹大士
釈迦如来楞伽山為衆告命南天竺
龍樹大士出於世悉能摧破有無見
釈〈しゃ〉迦〈か〉如来、楞〈りょう〉伽〈が〉山〈せん〉にして、衆〈しゅう〉のために告命〈ごうみょう〉したまわく、
南天竺〈なんてんじく〉に、龍〈りゅう〉樹大〈じゅだい〉士〈じ〉世に出〈い〉でて、ことごとく、よく有無〈うむ〉の見〈けん〉を摧〈ざい〉破〈は〉せん
今回から、「正信偈」「依〈え〉釈〈しゃく〉段〈だん〉」の「龍樹章」といわれているところに入ります。七高僧の最初の龍樹大士について述べてある部分です。 初めの「釈迦如来」は、申すまでもなく、釈尊のことです。真実に目覚められたお方を「仏〈ぶつ〉」といいますが、「如来」は、真実(如〈にょ〉)から来られたお方、という意味ですから、真実に目覚められた上で、真実でない私たちの世界に真実を伝えに来られたお方であるということになります。仏と如来とは、自ら真実に目覚めた人と、他に真実を伝えようとした人と、そのような言葉の上での意味の違いがあるわけです。 釈尊は、「楞〈りょう〉伽〈が〉経〈きょう〉」というお経をお説きになりました。それは、「楞〈りょう〉伽〈が〉山〈せん〉」という山の中でお説きになったお経とされているものです。伝えられているところによりますと、楞伽山という山は、セイロン島、今のスリランカにある山だということになっておりますが、くわしいことは明らかではありません。 「楞伽経」によりますと、釈尊は、その楞伽山におられて、そこで、大〈だい〉慧〈え〉という名の菩薩をはじめ、多くの人びとに向かって教えを説いておられましたが、その中で、重要な予告をされるのです。これを専門的には「楞伽懸〈けん〉記〈き〉」と言っています。 釈尊が語られた、その予告といいますのは、ずっと後の世に、南天竺〈なんてんじく〉、つまり南インドに、龍樹という名の菩薩が出生するであろうということ、そして、その龍樹菩薩は、人びとがこだわっている誤った考え方をことごとく打ち砕くであろうということ、そのような予告だったのです。人びとがこだわる誤った考え方というのは、ものごとを実体として肯定する考え方(有〈う〉の見〈けん〉)と、ものごとを虚無として否定する考え方(無〈む〉の見)とです。その両方の考え方を龍樹大士は一挙に粉砕されるであろうと予告されているわけです。 龍樹大士の「大士」というのは「菩薩」のことです。古代のインドの言葉に「ボーディ・サットヴァ・マハー・サットヴァ」という言葉があります。この言葉が中国に伝えられましたが、中国には、これに当たる言葉がなかったのです。そのために、インドの言葉を耳で聞いて、それにもっとも近い発音の漢字があてはめられたわけです。このような方法を音写といっています。中国には、片仮名や平仮名がありませんから、音写するほかはなかったのです。 それで、インドの言葉を「菩〈ぼ〉提薩〈だいさっ〉埵〈た〉摩訶〈まか〉薩〈さっ〉埵〈た〉」と音写したのです。ボーディ(菩提)は「仏の覚り」、サットヴァ(薩埵)は「生きもの」という意味で、さし当たっては「人」のことです。もとの言葉の前半の「菩提薩埵」は、「仏の覚りを求める人」いう意味になりますが、これを短く省略して「菩薩」という言葉にしているわけです。 後の半分の「摩訶薩埵」のマハー(摩訶)は「偉大」という意味で、サットヴァ(薩埵)は先ほどと同じで「人」という意味です。このマハー・サットヴァは、「偉大な人」ということですから、これを中国語にあらためて、「大士」としているのです。 したがって、「菩薩」は、もとのインドの言葉の前半を音写して短くしたもの、「大士」は、もとの言葉の後半を中国語に訳したもの、ということになるわけです。結局、菩薩も大士も、釈尊が教えられた真実を顕かにしようとしておられる立派な人という意味になるのです。 龍樹という人は、西暦一五〇年ごろから二五〇年ごろにかけて、南インドで活躍された人であるとされていますが、年代のくわしいことはわかっておりません。伝説では、この人は、龍に導かれて大乗の教えを体得された人であり、樹の根元で生まれられた人であったので、「龍樹」と呼ばれるようになったと伝えられています。 この人は、釈尊がお説きになられた「縁起」という道理を、「空〈くう〉」という思想によって解明され、また、形式化していた当時の仏教を「大乗」という思想によってよみがえらせた人でありましたので、「菩薩」と仰がれておられる人なのです。 
有無の見
釈迦如来楞伽山為衆告命南天竺
龍樹大士出於世悉能摧破有無見
釈〈しゃ〉迦〈か〉如来、楞〈りょう〉伽〈が〉山〈せん〉にして、衆〈しゅう〉のために告命〈ごうみょう〉したまわく、
南天竺〈なんてんじく〉に、龍〈りゅう〉樹大〈じゅだい〉士〈じ〉世に出〈い〉でて、ことごとく、よく有無〈うむ〉の見〈けん〉を摧〈ざい〉破〈は〉せん
釈尊は、楞〈りょう〉伽〈が〉山〈せん〉という山で説法をされたとき、聴衆に向かって、重要な予告をなさいました。後の世、インドの南の方に、龍樹〈りゅうじゅ〉という菩薩が出るであろうと。そして、ものごとを肯定する「有〈う〉」とか、否定する「無〈む〉」とか、そのような誤った考えにこだわる見方をことごとく砕き破るであろうと。 龍樹という人は、二世紀から三世紀にかけて活躍された人です。釈尊の教えを正しく受け継がれた人です。「中〈ちゅう〉論〈ろん〉」や「大〈だい〉智度〈ちど〉論〈ろん〉」など、貴重な著作を残しておられますが、これらの著作によって、どのような考え方をするのがもっともよく釈尊のお心にかなうのか、その根本を明らかにしておられるのです。 このため、後に中国や日本の仏教において、「八宗の祖師」と言って龍樹大〈だい〉士〈じ〉を崇めてきたのです。八宗というのは、八つの宗派ということではありません。仏教のあらゆる宗旨ということです。仏教全体ということです。釈尊以後に出られた最高の祖師ということなのです。 また龍樹大士は、「十住〈じゅうじゅう〉毘婆〈びば〉沙論〈しゃろん〉」という著作も著わされました。ここには、「難行道〈なんぎょうどう〉」と「易〈い〉行道〈ぎょうどう〉」という、念仏の教えにとても密接に関係する教えが述べられているのです。親鸞聖人は、このような龍樹大士の教えに出遇われたわけです。 釈尊の予告によりますと、その龍樹大士は、「悉能摧〈しつのうざい〉破有無〈はうむ〉見〈けん〉」(ことごとく、よく有無の見を摧破せん)とありますように、「有」「無」にこだわる邪見〈じゃけん〉を粉砕されるであろうということでした。「有の見」というのは、「常見〈じょうけん〉」とも言いますが、ものの実在に固執する見解です。一方の「無の見」というのは、「断見〈だんけん〉」とも言いますが、虚無にこだわる見方です。残されている著作によりますと、龍樹大士は、「有見」と「無見」と、この両方の考え方を一挙に払い除いて、事実を事実の通りに受け取ることが大切であると教えておられます。 たとえば、人間が死んでしまっても、霊魂のようなものが実在し続けると考えるのが、「有見」です。それは、凡〈ぼん〉夫〈ぶ〉がそのように思い描いているだけであって、事実としてそうなのかどうか、ということとは関係がないのです。 また、人が死ねば、まったく滅尽してしまって、無に帰するのだと考えるのが「無見」です。これも、凡夫がそのように勝手に思い込んでいるだけであって、事実とは関係がないことなのです。 いずれも、凡夫が自分の思いを語っているに過ぎません。事柄の事実そのものとは、まったく関係がないのです。 凡夫というのは、煩悩にまみれた愚かなあり方をしているのだと、釈尊は教えておられます。私たち凡夫は、浅はかな知識にたより、限られた経験にもとづいて、自分本位にものごとを判断します。そして、それがあたかも「事実」であるかのように錯覚してしまうのです。要するに、ほしいままに、自分が思いたいように思い込んでいるだけですから、それは「事実」ではないわけです。 実在するのか、実在しないのか、そのようなことよりも、「実在する」とか、「実在しない」とか、そのように自分勝手に思い込んでこだわる、そのような「思い」や「こだわり」から、まずは離れる必要があると、龍樹大士は教えておられるのです。そうでなければ、自分が迷いを深めて混乱するばかりか、他人をも混乱させて苦しませることになると教えられるのです。 釈尊は、「縁起」という教えをお説きになりました。縁起の法は難解ですが、あえて一言で言いますならば、一切のものごとは、互いに他のものごとと関係しつつ成り立つのであるから、それ自体で、単独に成り立つと思うのは誤りである、ということです。しかも、その関係も、縁(条件)次第で、どのようにも変化するということです。 釈尊が説かれた「縁起」の深い内容を、龍樹大士は「空〈くう〉」ということによって顕かにされました。それは、ものごとを固定的に考えたり、実体的にとらえたりして、それにこだわってはならないという教えなのです。ものごとの「事実」は、私たちの知識ではなくて、釈尊が教えられた智慧〈ちえ〉によって明らかになるということなのです。 
大乗無上の法
宣説大乗無上法
証歓喜地生安楽
大〈だい〉乗〈じょう〉無〈む〉上〈じょう〉の法〈ほう〉を宣説〈せんぜつ〉し、
歓〈かん〉喜地〈ぎじ〉を証〈しょう〉して、安楽〈あんらく〉に生〈しょう〉ぜん、と。
釈尊は、楞〈りょう〉伽〈が〉山〈せん〉という山で説法されたとき、重要な予告をされました。それは、ずっと後の世に、南インドに龍樹〈りゅうじゅ〉という名の菩薩が出るであろうということでした。そして、ものごとを認めることにこだわる「有〈う〉の見〈けん〉」と、ものごとを認めないことにこだわる「無〈む〉の見」と、その両方の誤った考え方を一挙に砕き破るであろうと告げられたのでした。 そのことを親鸞聖人は「正信偈」に「釈〈しゃ〉迦〈か〉如来〈にょらい〉楞〈りょう〉伽〈が〉山〈せん〉為〈い〉衆〈しゅう〉告命〈ごうみょう〉南天竺〈なんてんじく〉龍〈りゅう〉樹大〈じゅだい〉士〈じ〉出〈しゅっ〉於世〈とせ〉悉能摧〈しつのうざい〉破〈は〉有無〈うむ〉見〈けん〉」(釈迦如来、楞〈りょう〉伽〈が〉山〈せん〉にして、衆のために告命〈ごうみょう〉したまわく、南天竺〈なんてんじく〉に、龍樹〈りゅうじゅ〉大〈だい〉士〈じ〉世に出でて、ことごとく、よく有無〈うむ〉の見〈けん〉を摧〈ざい〉破〈は〉せん)と詠っておられるわけです。 釈尊は、さらに予告を続けられました。それが、今回の二行に詠われている予告です。すなわち、「宣説大〈せんぜつだい〉乗〈じょう〉無〈む〉上法〈じょうほう〉証〈しょう〉歓〈かん〉喜地〈ぎじ〉生安楽〈しょうあんらく〉」(大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して、安楽に生ぜん、と)というところです。 龍樹という菩薩は、後の世に、「大乗という、この上になくすぐれた法を述べ伝えるであろう」ということ、そして「歓喜地というさとりを得て、安楽国、すなわち阿弥陀仏の極楽浄土に生まれるであろう」ということ、このような予告だったのです。 龍樹大士は、「大乗」といわれる仏教を大成させた人でありました。そのため大乗仏教に属するあらゆる宗旨の祖と仰がれている人なのです。 「大乗」というのは、「大きな乗り物」ということです。それは「多くの人を誰でも、迷いの状態から、迷いのなくなった状態に導いて行ける教え」というほどの意味に理解することができます。「大乗」に対して、一方に「小乗」という言葉がありますが、それは適切な言い方ではありません。「大乗」という考え方を主張していない伝統的な仏教の考え方をおとしめた言い方だからです。 釈尊がお亡くなりになった後、釈尊が語り残された教えは、それぞれの世代を越えて、仏弟子の間で忠実に受け継がれました。そして、釈尊のお言葉を正確に受け止めようとする懸命の努力が何百年にもわたって積み重ねられてきたのです。 そういうなかで、「大乗」という考え方が起こったのです。それは、釈尊がお亡くなりになって三百年以上も後のこととされています。 釈尊は教えられました。人が生きるには、さまざまな悩み苦しみを経験しなければならないと。そして、そのような苦悩がなぜ起こるのかと言えば、それは、真実について無知であり、欲望のために、こだわるべきでない物事にこだわるからだと。だから、苦悩から逃れるためには、その原因である無知や欲望に代表されるさまざまな煩悩から離れなければならないと教えられたのです。 この教えを忠実に受けとめた伝統仏教の人びとは、無知や欲望などの煩悩をなくした阿羅〈あら〉漢〈かん〉という境地に到達することを目指しました。そして命がけの熱心な修行に励んだことでしょう。しかし、ここに重大な問題があります。 釈尊は、三五歳で仏になられ、八〇歳でお亡くなりになるまで、四五年間、休む間もなく、人びとに教えを説き続けられたのです。それは、すべての人が迷いから覚めて、真実に沿って安楽に生涯を尽くしてほしいと願われたからでした。釈尊のこのお心と、自分一人の解〈げ〉脱〈だつ〉を求める、伝統仏教の受けとめ方の間には、大きな隔たりがあるわけです。 そこで、釈尊のみあとを慕い、釈尊のお心に沿って生きようとする人びとが、「どのような人でも載せていただける大きな乗り物」つまり「大乗」として、釈尊の教えを受けとめ直そうとしたのです。それにともなって、自分一人の解脱を求める伝統仏教の考え方を「小乗」としておとしめたのです。 しかし、小乗との関係によって成り立つ大乗、小乗を排除するような大乗、そのような考え方は、真の「大乗」とは言えないのです。やはり、すべてを包み込めるような「大乗」でなければ、すべての人を救いたいと願われた釈尊のお心に沿わないことになるのです。 そのような「無上の大乗の法」を、龍樹大士は世間に宣説されたというわけです。 
歓喜地
宣説大乗無上法
証歓喜地生安楽
大〈だい〉乗〈じょう〉無〈む〉上〈じょう〉の法〈ほう〉を宣説〈せんぜつ〉し、
歓〈かん〉喜地〈ぎじ〉を証〈しょう〉して、安楽〈あんらく〉に生〈しょう〉ぜん、と。
釈尊は、「楞〈りょう〉伽〈が〉経〈きょう〉」というお経をお説きになりました。このお経のなかで、後の世に龍樹〈りゅうじゅ〉という名の菩薩が出て、世間の誤った考え方をただすであろうと、釈尊は予告されました。 さらに、この龍樹という菩薩が、「大乗というこの上になくすぐれた法を述べ伝えるであろう」ということ、また「歓喜地というさとりを得て、安楽国、すなわち阿弥陀仏の極楽浄土に生まれるであろう」ということ、このような予告をも釈尊はなさったのでした。 そのことが、「正信偈」に、「宣説大〈せんぜつだい〉乗〈じょう〉無〈む〉上〈じょう〉法〈ほう〉証〈しょう〉歓〈かん〉喜地〈ぎじ〉生〈しょう〉安楽〈あんらく〉」(大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して、安楽に生ぜん、と)と詠われているわけです。この二句の前半の「宣説大乗無上法」については、その大まかなところを前回見ていただきました。 後半の「証歓喜地生安楽」(歓喜地を証して、安楽に生ぜん)というところですが、「歓喜地」というのは、菩薩が到達されるさとりの境地のことです。 そもそも菩薩といいますのは、悩み苦しんでいるすべての人びとを救いたいと願い、そのために自分も仏に成りたいと願って、仏に成るための修行に励む人のことです。菩薩が仏に成るために実践する修行は、六〈ろく〉波羅〈はら〉蜜〈みつ〉といいます。布施〈ふせ〉波羅蜜(完全な施し)・持〈じ〉戒〈かい〉波羅蜜(決まりを完全に守ること)・忍辱〈にんにく〉波羅蜜(完全な忍耐)・精進〈しょうじん〉波羅蜜(完全な努力)・禅定〈ぜんじょう〉波羅蜜(心の完全な集中)・般若〈はんにゃ〉波羅蜜(完全な智慧〈ちえ〉)、これらを完成させる修行を六波羅蜜というのです。波羅蜜とは、完全とか完成とかと解釈される言葉です。 初めてこの志を立てた菩薩を初発心〈しょほっしん〉の菩薩といいます。初発心の菩薩が、六波羅蜜の行を開始してから、これが完成して仏の境地に達するまでには、多くのさとりの段階があるとされています。経典によって、この段階の数え方はさまざまですが、古くから、最も整ったものと見られてきたのが、「瓔珞本〈ようらくほん〉業経〈ぎょうきょう〉」というお経に説かれているものです。 このお経によりますと、初発心の菩薩が六波羅蜜の修行を完成させて仏に成るまでには、五十二の菩薩の階位を経なければならないとされています。十信位・十住位・十行位・十廻向位・十地位・等覚〈とうがく〉位・妙覚〈みょうがく〉位の五十二位です。これらの段階でそれぞれに六波羅蜜の行の中身を深めなければならないとされているのです。 「瓔珞本業経」に従いますならば、「歓喜地」といいますのは、十地の最初、第一地(初地位)のことです。つまり、下から数えて四十一番目の段階になります。この境地に到達しますと、何が真実であるかということが明確に体得され、間違いなく仏に成れるという確信が得られるといわれているのです。そして、この確信が得られますと、何にもたとえようのない喜びがわき起こってくるので、この境地を「歓喜地」と名づけているというわけです。 しかし、親鸞聖人の本願他力の教えからしますと、「歓喜地」というのは、自らの修行によって到達する境地ではありません。阿弥陀仏の願いによって、自分が間違いなく浄土に往生させてもらえること、そのことを身にしみて喜べるようになれるとき、それが「歓喜地を証する」ことになるのです。阿弥陀仏よりたまわっている信心を素直に受け取り、施し与えられている「南無阿弥陀仏」を、一切の迷いや疑い、はからいから離れて、虚心にいただけること、これが「歓喜地」であると聖人は教えておられるのです。 親鸞聖人が、龍樹菩薩について、「証歓喜地生安楽」(歓喜地を証して、安楽に生ぜん)と詠っておられますのは、龍樹菩薩が、本願の念仏を心から喜べる身になられたということ、そしてそのことによって、安楽国、すなわち阿弥陀仏の極楽浄土に往生されたのだということ、それを私たちに教えておられるのです。 「正信偈」には、「歓喜」とか「慶〈きょう〉喜〈き〉」とか、喜びの気持ちを表わすお言葉が随所に見られますが、それは念仏を喜ばれた親鸞聖人のお気持ちが率直に表明されているからだと思います。真実の教えに触れることは、本当にうれしいことなのだということを教えられているように思うのです。 
難行か易行か
顕示難行陸路苦
信楽易行水道楽
難行〈なんぎょう〉の陸〈ろく〉路〈ろ〉、苦しきことを顕〈けん〉示〈じ〉して、
易〈い〉行〈ぎょう〉の水〈しい〉道〈どう〉、楽〈たの〉しきことを信楽〈しんぎょう〉せしむ。
釈尊は、後の世に、龍樹〈りゅうじゅ〉という菩薩が出られるであろうと予告されました。龍樹大〈だい〉士〈じ〉は、この上なくすぐれた大乗の法を世間に説き明かされるであろうということ、そして、やがては阿弥陀仏の浄土に往生されるであろうということ、このような予告を釈尊はなさったのでした。それは「楞〈りょう〉伽〈が〉経〈きょう〉」というお経に説かれているものです。 このお経の所説にもとづいて、親鸞聖人は龍樹菩薩のことを「正信偈」に紹介しておられるのですが、これは、釈尊が六百年も後のことを予告なさったという、不思議なお話として述べておられるのではありません。親鸞聖人は、龍樹という人こそが、釈尊の教えを正しく継承され、その肝心かなめのところを広く世間に伝えてくださったお方であることを私たちに教えようとしておられるのです。 龍樹大士は、いくつかの著作を残しておられますが、その中に、「十住〈じゅうじゅう〉毘婆〈びば〉沙論〈しゃろん〉」というものがあります。これは「華〈け〉厳〈ごん〉経〈きょう〉」という大きなお経の「十〈じゅう〉地〈じ〉品〈ほん〉」という章の教えを解説した「論」なのです。なお、「十地品」を「華厳経」から独立させて、「十地経」として用いられる場合もあります。 「十住毘婆沙論」の「易〈い〉行〈ぎょう〉品〈ほん〉」というところに、「難行道」と「易行道」のことが述べられているわけです。つまり仏道を歩むのに、困難な道と、易しい道と、二つの道があると説かれているのです。「難行道」は、自分の歩く力をたよりにして、けわしい陸路を進もうとする「聖〈しょう〉道門〈どうもん〉」の修行をたとえたものです。一方の「易行道」は、阿弥陀仏の本願という船に乗せてもらって、安楽に浄土往生に導かれるとする「浄土門」の念仏の教えです。 そのことを親鸞聖人は、「顕〈けん〉示〈じ〉難行〈なんぎょう〉陸〈ろく〉路苦〈ろく〉信楽〈しんぎょう〉易〈い〉行〈ぎょう〉水道楽〈しいどうらく〉」(難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ)と詠っておられるのです。つまり、龍樹大士は、難行の陸路は苦しみでしかないことを明らかに教え示されて、水路を進むことは易行であって、それは楽しくてうれしいことであることを私たちに信じさせ、私たちにその易行の道を願わせようとしてくださっているのだということです。親鸞聖人は、そのような龍樹大士の徳を讃えて、大士の教えを大切に受け止めるよう私たちに教えておられるというわけです。 おそらく、龍樹大士は、自分の努力によって悟りを得るために、それこそ命がけの修行に励まれたことでしょう。目の前にちらつく世間の快楽と闘い、ややもすれば気力を失いがちな自分の心を奮い立たせながら、ひたすら道をきわめようとされたことであろうと思われます。 しかし、励まれれば励まれるほど、自分の力の限界、自分の弱さ、自力を尽くすことの空虚さ、それを痛切に思い知らされるようになられたのではないでしょうか。その時に、ハッと気づかれたのが、阿弥陀仏の大慈大悲によってはたらきかけてもらっている本願他力の教えのありがたさだったのだと思います。 ですから、難行と易行と、二つの道があって、そのどちらかを選びなさいという教えではないのです。自力難行の行き着く、その絶望の果てには、他力易行の教えしか残っていなかったということを教えておられるのだと思います。 私たちは、「五〈ご〉濁〈じょく〉の悪時」といわれる世の中に生きなければなりません。五濁の世においては、時代社会そのものが濁っているのだと教えられています。また五濁の世を生きる人びとの資質も濁りきっていると教えられています。 そのような現実のなかで、人びとは、自らの努力によって平和を実現しようと願いながら、そのために争いを続けています。自分の幸せを求めながら、そのことによって、不安や苛立ちを背負いこんでいます。豊かになろうと努力しているのに、そのために寒々とした心の貧しさに恐れおののいています。 このような時であるからこそ、愚かな凡〈ぼん〉夫〈ぶ〉の「はからい」をちょっと横に置いて、この私を何とかして安楽にしてやりたいと、願われている願いに謙虚に身をゆだねられるような自分になりたいと思うのです。 
如来大悲の恩徳
憶念弥陀仏本願自然即時入必定
唯能常称如来号応報大悲弘誓恩
弥陀〈みだ〉仏〈ぶつ〉の本願〈ほんがん〉を憶念〈おくねん〉すれば、自〈じ〉然〈ねん〉に即〈そく〉の時〈とき〉、必定〈ひつじょう〉に入〈い〉る。
ただよく、常に如来の号〈みな〉を称〈しょう〉して、大〈だい〉悲弘〈ひぐ〉誓〈ぜい〉の恩を報〈ほう〉ずべし、といえり。
前回見ていただきましたように、龍〈りゅう〉樹大〈じゅだい〉士〈じ〉は、仏道の歩みには、自力聖〈しょう〉道門〈どうもん〉の難行道〈なんぎょうどう〉と他力浄土門の易〈い〉行道〈ぎょうどう〉とがあることを教えられました。 自分の力をたよりにして、困難な修行に励む聖道門の教えは、苦しみに耐えながら険しい陸〈ろく〉路〈ろ〉を進むようなものだと教えられました。一方、ひたすら如来の願力におまかせしきって、阿弥陀仏の浄土に導いていただくとする浄土門の教えは、船に身をゆだねて水路を進むようなものだと教えられたのです。 厳しい自力の修行は、一見、真面目そうで、誠実そうに見えるでしょうが、それは、誰にもできる修行ではありません。できそうもないことをやり抜こうとするとき、そこには自己過信の心がはたらきます。つまり思い上がりです。自分を見失ったすがたです。 自分を正直に見つめるならば、そこには、よこしまで愚かな自分のすがた、間違いを犯してばかりいる自分自身が見出されるわけです。よこしまで愚かな者には、自分の力で悟りに近づくことはできません。間違いを犯す者には、自分の力で浄土に往生するための原因を作ることはできないのです。 しかし、実は、そのような者をこそ、何とか安楽浄土に迎え入れなければならないと願われた願いが、阿弥陀仏の本願なのです。自分なりに、険しい陸路を進もうとしたとしても、邪念を払いのけられない自分は、結局は、船に乗せてもらって水路を行くしかないからです。 そのような阿弥陀仏の本願について、「憶念〈おくねん〉弥陀〈みだ〉仏本願〈ぶつほんがん〉、自〈じ〉然即〈ねんそく〉時〈じ〉入必定〈にゅうひつじょう〉」(弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時、必定に入る)と、龍樹大士は教えておられます。 「本願」は「もとからあった願い」ということで、私たちには思いも及ばない遠い昔からはたらき続けている「願い」です。「憶念」というのは、いつも心にとどめて忘れないことです。本願のことを理解するというのではなくて、そのような願いがはたらいている事実に心を保ち続けていることです。 「自然」は「自〈おの〉ずから然〈しか〉る」とも読みますが、理屈では説明しきれないけれども、「なぜかそのようになる」ということです。ここでは、阿弥陀仏が願っておられる願いが、私たちにしてみれば、「なぜかそのようになる」としか受け止められないことを「自然」と言っているわけです。「即の時」とありますのは、「ただちに」とか「そのまま」などと理解される言葉です。「必定」は、「かならず浄土に往生して仏に成ることが確定する状態」ということで、「正定〈しょうじょう〉」(まさしく確定する)とも言われます。 この私を助けてやりたいと願っておられる阿弥陀仏の本願のことを、いつも心にとどめているならば、それがそのまま、私の浄土往生を決定することになると、龍樹大士は教えておられるのです。私には説明はできないけれども、私は間違いなく阿弥陀仏の浄土に往生させてもらえることになっていると、教えておられるのです。 それでは、私たちはどうすればよいのか。これについて、龍樹大士は「唯能〈ゆいのう〉常称〈じょうしょう〉如来号〈にょらいごう〉、応報大〈おうほうだい〉悲弘〈ひぐ〉誓恩〈ぜいおん〉」(ただよく、常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし)と教えておられます。 ただひたすら、阿弥陀仏のお名前を称えるほかはないということ、阿弥陀仏から贈り届けられている「南無阿弥陀仏」という号〈みな〉を虚心に受け取らせてもらうほかはないということです。 私たちは、そのように受け取るべき者としてここに生きているわけです。「南無阿弥陀仏」が素直に私たちの口から発せられること、そのことが、何とか助けたいと願われる如来の大悲のご恩に報謝することになるのだから、ぜひとも、そのように感謝の思いを保ちながら念仏しなさいと、龍樹大士はすすめてくださっているのです。 親鸞聖人は、「和讃」に、「如来大悲の恩徳は身を粉〈こ〉にしても報ずべし」と詠っておられます。たとい身を粉にしても、感謝しきれないものがあることに、心の底から目覚めなさい、ということです。人は、素直に感謝している時だけが、もっとも幸福な時なのではないでしょうか。 
天親菩薩
天親菩薩造論説
帰命無碍光如来
天親〈てんじん〉菩薩、論〈ろん〉を造りて説〈と〉かく、
無碍〈むげ〉光〈こう〉如来〈にょらい〉に帰〈き〉命〈みょう〉したてまつる。
親鸞聖人は、念仏の教えを正しく伝えられた七人の高僧の徳を讃えておられます。この方々の教えがあったからこそ、ご自分のところにまで、間違いのない念仏が伝えられたと喜んでおられるのです。 「正信偈」には、七高僧お一人お一人がどのようなお方であったのか、そして、どのような教えを後の世に伝えてくださっているのか、それを簡潔に述べてあります。その最初は、これまでに見ていただきましたように、龍樹〈りゅうじゅ〉菩薩でありました。そして第二祖として、今回からみていただく天親菩薩のことが述べられているのです。 天親菩薩は、龍樹大士からおおよそ二百年ほど後に、北インドに出られました。西暦四〇〇年ごろに生まれられて、四八〇年ごろに亡くなられたと推定されています。それは、釈尊の時代から数えて、おおよそ八〇〇年ほど後のことです。 「天親」という呼び名のほかに、「世〈せ〉親〈しん〉」という呼び方もされています。浄土の教えの伝統では、通常「天親」とお呼びしていますが、一般には、どちらかと云えば、「世親」という呼び方の方が多いように思われます。 釈尊がお亡くなりになって、一〇〇年ほどしますと、仏教は大きく二つの部派に分かれました。そして時代とともに、さらに分裂が進み、天親菩薩が出られたころには、いくつもの部派が林立していたのでした。それぞれの部派では、釈尊の教えを誤りなく、正しく伝承するために、教えの緻密な理論化がそれぞれに進められ、壮大な教義学が発達するようになりました。 天親菩薩は若くして出家され、当時、北インドのカシュミールという地域に栄えた部派に所属され、その部派の学問をきわめられたと伝えられています。教義の探求に大成功をおさめられ、伝統のあるその部派を代表する学僧になられたのでした。 ところが、伝統仏教をよりどころにしておられた天親菩薩は、実兄の無〈む〉著〈じゃく〉という人から手厳しく批判されたのでした。そしてお兄さんから説得されて、部派の仏教を捨てて大乗仏教に転向されたのです。 伝統仏教では、自分独りが煩悩から離れて阿羅〈あら〉漢〈かん〉という聖者〈しょうじゃ〉になることを理想にしておりました。それに対して、お兄さんの無著は、釈尊が願われた通り、すべての人びとと共に、釈尊のような仏(目覚めた人)になることを目標とする、大乗の精神をよりどころにしておられたのでした。 天親菩薩は、説得により自信を失い、これまでの非を痛感されたのです。そしてお兄さんから教えを受けて大乗を学ばれました。しかし、天才的な学僧であり、ご自分の実力で教義学の奥義をきわめて来られた天親菩薩にしてみれば、これまでとは根本的に異なる大乗の教えによって、釈尊が願われた、その願いをきちっと受け入れることは容易ではありませんでした。また、どれほど深く学んでも、大乗の精神を体現することの困難さを痛感されるばかりだったのです。 そのような挫折のなかで、天親菩薩は、「仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉」の教えに出遇われたのです。つまり、自分の実力で仏になろうとするのが大乗仏教だと思い込んでおられたのに、実はそうではなくて、阿弥陀仏が願いとされた、本願に素直に身をゆだねることこそが、釈尊が願われたことであり、それこそが大乗であることに気づかれたのでした。 そこで、天親菩薩は、「仏説無量寿経」の教えを自分はどのように受け止めたのか、その大切なところを「論」としてまとめられたのです。それが「浄土論」という著作になったのです。 「正信偈」には、「天親菩薩、論を造りて説かく」とありますが、それは、天親菩薩が浄土の教えに帰して「浄土論」を著わされたことを指しています。そして、次の句に「無碍光如来に帰命したてまつる」と詠われていますが、「無碍光如来」というのは「阿弥陀仏」のことですから、「仏説無量寿経」によって阿弥陀仏の本願に目覚められ、本願をよりどころにされた天親菩薩の信心の内実が表明されているのです。 
浄土論
天親菩薩造論説
帰命無碍光如来
天親〈てんじん〉菩〈ぼ〉薩〈さつ〉、論〈ろん〉を造〈つく〉りて説〈と〉かく、
無碍〈むげ〉光如来〈こうにょらい〉に帰〈き〉命〈みょう〉したてまつる。
「天親〈てんじん〉菩〈ぼ〉薩造論説〈さつぞうろんせつ〉」(天親菩薩、論を造りて説かく)とありますように、天親菩薩は、「浄土論」という「論」をお作りになりました。そして、阿弥陀仏の浄土のことについての教えを示されたのでした。 この「浄土論」は、「仏説〈ぶっせつ〉無〈む〉量〈りょう〉寿〈じゅ〉経〈きょう〉」にもとづいて説かれたものです。「仏説無量寿経」というときの「仏」は釈尊のことですから、それは「釈尊が無量寿についてお説きになられたお経」つまり「釈尊が阿弥陀仏について説いてくださったお経」ということになります。このお経に説かれた釈尊の教えについて、天親菩薩が独自の解説を加えられたもの、それが「浄土論」なのです。 「浄土論」は、くわしくは「無量寿経優婆〈うば〉提舎願生〈だいしゃがんしょう〉偈〈げ〉」といいます。「優婆提舎」は、インドの言葉「ウパデーシャ」の発音を漢字に写し取った言葉で、「論議」という意味です。「仏説無量寿経」の「論」ということになります。 さらに「願生偈」とありますが、この「浄土論」には、まず、天親菩薩が阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願われた、そのお心を「偈〈うた〉」にして述べてあり、その後に、「長行〈じょうごう〉」といわれる散文によって、その「偈」の意味するところを解説してあるのです。したがって往生を願われた「偈」と、その「偈」についての論議とを合わせたものが「無量寿経優婆提舎願生偈」ということになります。 「浄土論」は、私たちが依りどころにしております「真宗聖典」に収載されています。その最初のところに、「無量寿経優婆提舎願生偈」という標題があります。そしてその下に、「婆藪〈ばそ〉槃〈ばん〉頭菩〈ずぼ〉薩造〈さつぞう〉」とあります。これは、「天親菩薩が造られたもの」という意味です。「婆藪槃頭」は、「天親」のことですが、「ヴァスバンドゥ」というインドの言葉を「天親」とか「世親」とか、中国語に訳さないで、発音をそのまま漢字に写して表記したものです。 さて、「浄土論」によりますと、その冒頭に、「世〈せ〉尊〈そん〉我〈が〉一心〈いっしん〉帰〈き〉命〈みょう〉尽〈じん〉十方〈じっぽう〉無碍〈むげ〉光如来〈こうにょらい〉願〈がん〉生〈しょう〉安楽国〈あんらくこく〉」(世尊、我一心に、尽十方無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず)という四句があります。「尽十方無碍光如来」は、阿弥陀如来のことです。「帰命尽十方無碍光如来」は、十字の名号〈みょうごう〉とされていますように、「南無阿弥陀仏」のことなのです。「阿弥陀仏に南無したてまつります」ということです。 天親菩薩は「仏説無量寿経」の教えについて論議・解説を加えられるに先立って、まず、「帰〈き〉敬〈きょう〉」のお心を表明されたのです。つまり、どのような気持ちで今から論を進めるのかという、ご自身の基本的な姿勢を明らかにしておられるわけです。 天親菩薩は、まず「世尊」といって、釈尊に向かって呼びかけておられます。そして、「私は心を一つにして、阿弥陀如来に帰命したてまつります。そして私は(釈尊のみ教えにしたがって)阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいと願っております」という、帰依の気持ちを表しておられるのです。 このあたりのことを、親鸞聖人は「正信偈」に「天親菩薩造論説帰命無碍光如来」(天親菩薩、論を造りて説かく、無碍光如来に帰命したてまつる)と詠〈うた〉っておられるのです。 ここに、聖教〈しょうぎょう〉に対する私たちの接し方がはっきりと教示されていると思います。私たちは、ややもすれば、「帰命」の心を抜きにして聖典を扱うことがあります。聖教の客観的、論理的な読み方も必要だと思いますが、その大前提に「帰命」の心がなければならないと、天親菩薩も親鸞聖人も教えておられるのです。 迷いばかりの凡〈ぼん〉夫〈ぶ〉が勝手に作り出した論理や学説のなかに、仏や菩薩のお言葉を引っ張り込んで、都合よくつじつまを合わせたり、判断を加えたりするようなことでは、せっかくの教えをまともに学ぶことなど到底できないということではないでしょうか。 私が勤めております学校の教室で、学生が「真宗聖典」を開く前に、いつも聖典を軽く押し頂く様子を見て、本人は何気なくやっていることかもしれませんが、すがすがしく感じさせられるのです。 
真実を顕す
依修多羅顕真実
光闡横超大誓願
修〈しゅ〉多羅〈たら〉に依〈よ〉って真実を顕〈あらわ〉して、
横超〈おうちょう〉の大誓願〈だいせいがん〉を光闡〈こうせん〉す
天親〈てんじん〉菩薩は「浄土論」をお作りになりました。それは「仏説〈ぶっせつ〉無〈む〉量〈りょう〉寿〈じゅ〉経〈きょう〉」の教えにもとづいて述べられた「論」でありました。 阿弥陀仏の本願を教えてあるのが「仏説無量寿経」ですから、天親菩薩は、本願によって凡〈ぼん〉夫〈ぶ〉に施与されている念仏こそが真実であることを顕かにされたのです。お経に説かれた真実が、まさしくその通りの真実であることを天親菩薩が顕かにされたのです。そのことを親鸞聖人は「修多羅に依って真実を顕して」と述べておられるのです。 「修多羅」は、インドの「スートラ」という言葉の発音を漢字に写しとったものです。「スートラ」は、織物の縦糸を意味する言葉です。漢字の「経」も縦糸のことですので、「スートラ」は通常は「経」と訳されるのです。 織物の場合、縦糸が端から端までずっと貫かれていて、それに横糸がからんでさまざまな模様を作り出します。縦糸は表面には出ませんが、一貫して通っていて横糸を支えているわけです。 お経にも、いろいろな言葉があり、さまざまな表現がありますが、それは模様のようなものです。どの経典にも、釈尊が教えようとされた精神が変わることなく貫かれていることから、釈尊の教えを伝える聖典を「経」と呼ぶわけです。 天親菩薩は修多羅に依って真実を顕かにされたのだと、親鸞聖人は教えておられますが、天親菩薩が依られた修多羅、つまりお経とは、「仏説無量寿経」を指しています。したがって、このお経に依って真実を顕かにされたのが「浄土論」なのです。 そして、天親菩薩が顕かにされたその真実とは、この句の直前にありました「帰命無碍光如来〈きみょうむげこうにょらい〉」つまり「南無阿弥陀仏」なのです。「南無阿弥陀仏」という名〈みょう〉号〈ごう〉こそが阿弥陀仏から私たちに与えられている真実なのです。決して私が真実であるかどうかを判断するような真実ではないのです。 「浄土論」の冒頭に、天親菩薩は「我〈われ〉修多羅、真実功徳の相〈そう〉に依って」と述べておられます。「私は「仏説無量寿経」の真実功徳の相に依って、この「論」を作ります」というほどの意味になります。 「真実功徳の相」というのは、真実のすぐれた徳を具えたものということです。親鸞聖人は、「尊号真像銘文〈そんごうしんぞうめいもん〉」に「真実功徳相というは、真実功徳は誓願〈せいがん〉の尊号〈そんごう〉なり。相はかたちということばなり」と述べておられます。つまり「真実功徳」とは、阿弥陀仏の誓願による名号、「南無阿弥陀仏」のことであるとしておられるのです。 「真実功徳」は、真実のすぐれた徳を具えたものですから、誰にとってもなくてはならないものであり、生きてゆく上での究極的な依り所となるものです。その依り所が「南無阿弥陀仏」という名号なのです。その名号が私たちに施されているのですから、「南無阿弥陀仏」をありがたく受け止めて、それを素直にいただくこと、それだけが私たちに残されているわけです。 これに続いて「正信偈」には「光闡横超大誓願〈こうせんおうちょうだいせいがん〉」(横超の大誓願を光闡す)と詠ってあります。「光闡」というのは、光り輝かせて明らかにすることです。「横超」というのは、今は結論的な言い方をしておきますと、それは「他力」ということです。「他力」は阿弥陀仏の本願の力です。「大誓願」は阿弥陀仏の誓願ですから、「本願」ということになります。したがって、「横超の大誓願」は、「他力の本願」ということです。 「南無阿弥陀仏」は、私たちの自我の意志によって称える名号ではなくて、阿弥陀仏が阿弥陀仏の願いとして、私たちに差し向けられている「南無阿弥陀仏」なのです。「南無阿弥陀仏」という六文字の全体が名号として施されているのです。 「修多羅に依って真実を顕して、横超の大誓願を光闡す」とありますが、それは、天親菩薩が、「仏説無量寿経」に依って、「南無阿弥陀仏」が真実であることを顕かにされ、その真実である名号が、他力の本願によるのであることを明らかにされた、ということなのです。 
横超の大誓願
依修多羅顕真実
光闡横超大誓願
修〈しゅ〉多羅〈たら〉に依〈よ〉って真実を顕〈あらわ〉して、
横超〈おうちょう〉の大誓願〈だいせいがん〉を光闡〈こうせん〉す
「依〈え〉修〈しゅ〉多羅〈たら〉顕真実〈けんしんじつ〉」(修多羅に依って真実を顕して)とありますように、天親〈てんじん〉菩薩は、修多羅、つまり「仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉」によって真実を顕かにされました。 天親菩薩が顕かにされた真実とは何であるのかといえば、それは、「帰〈き〉命〈みょう〉無〈む〉碍〈げ〉光〈こう〉如来〈にょらい〉」(無碍光如来に帰命したてまつる)ということ、すなわち「南無阿弥陀仏」というお名号〈みょうごう〉でありました。如来よりいただいている「南無阿弥陀仏」だけが真実であることを顕かにされたのでありました。 そして親鸞聖人が「光闡横超大誓願〈こうせんおうちょうだいせいがん〉」(横超の大誓願を光闡す)と続けておられますように、天親菩薩は「横超の大誓願」を光り輝かせて明らかにされたのです。「横超」というのは他力のこと、「大誓願」は、一人ももらすことなく浄土へ迎え入れたいと誓い願われた阿弥陀仏の本願です。 親鸞聖人は「愚〈ぐ〉禿〈とく〉鈔〈しょう〉」という著作を残しておられますが、その著作の中に「横超」という教えが示されています。一口に仏教というけれども、その内容は四つに分けて見ることが必要であると教えておられるのです。 まず仏教の全体を「竪〈しゅ〉」と「横〈おう〉」の二種に分けられます。「竪」は、順序次第に従って段階的に一つの方向に進もうとする方法をいいます。つまり、自力・聖道門〈しょうどうもん〉の仏教です。「横」は、順序段階を経ずに一挙に最終目的を達成しようとする方法です。すなわち他力・浄土門の教えです。 そして「竪」と「横」に、それぞれ「出」と「超」の二種があるとされています。「出」は、迷いによって生ずる苦悩からの脱出をはかって、やがてさとりの安楽に到達しようとする教えです。一方の「超」は、迷いの身のままに、一挙にさとりの境地に達しようとする教えです。 この「竪」「横」と「出」「超」とをそれぞれに組み合わせますと、四つに分類できるわけです。その第一は「竪出〈しゅしゅつ〉」ですが、永い永い厳しい修行によって徐々に仏のさとりに近づくと教えられている自力・難行道〈なんぎょうどう〉のことです。 第二は「竪超〈しゅちょう〉」ですが、強靭な菩〈ぼ〉提心〈だいしん〉によって修行に励み、一挙に仏のさとりを体得するという教えです。これももう一つの自力・難行道です。 第三は「横出〈おうしゅつ〉」です。これは困難な修行によるのではなく、念仏によって一足飛びに浄土に往生して仏のさとりを得ようとする教えです。他力・易行道〈いぎょうどう〉です。往生は阿弥陀仏の本願力、すなわち他力によるのですが、この場合は、自力によって他力にすがろうとする教えなのです。つまり自力の念仏です。 第四が「横超」です。これは一切のはからいから離れ、ひたすら「仏説無量寿経」に説かれている阿弥陀仏の本願に帰依して、阿弥陀仏の浄土に往生させていただこうとする教えです。如来より賜っている信心、いただいている念仏です。 親鸞聖人は「尊号真像銘文〈そんごうしんぞうめいもん〉」に「横はよこさまという、如来の願力なり。他力をもうすなり。超はこえてという。生〈しょう〉死〈じ〉の大海をやすくよこさまにこえて、無上大涅槃のさとりをひらくなり」と述べておられます。 「横」は「よこさま」ということですが、理屈に合わないことを「横」といいます。煩悩具足の凡〈ぼん〉夫〈ぶ〉を一挙に往生させたいと願われる如来の本願は、私たちの理屈に合うものではありません。私たちの理屈からすれば、懸命の修行によってこそ浄土に近づくということになります。 しかし私たちの理屈とは無関係に、迷いの大海を一挙に超えさせて、最高のさとりを得させたいと願われる、それが「横超」ということなのです。そして横さまに一挙に往生させたいと願っておられる、この「横超の大誓願」の意味を天親菩薩が「浄土論」によって顕かにしてくださったのです。 親鸞聖人は、「邪見憍慢〈じゃけんきょうまん〉の悪衆生」である凡夫にとって、自分の力によっては何一つ良い結果は得られないと見きわめておられます。そのような凡夫であるからこそ、この「横超の大誓願」のことわりを顕かにしてくださった天親菩薩の教えを喜んでおられるのです。私たちも、何とか、この教えを心から喜べる身になりたいのです。 
本願による回向
広由本願力回向
為度群生彰一心
広く本願力〈りき〉の回〈え〉向〈こう〉に由〈よ〉って、
群生〈ぐんじょう〉を度せんがために、一心を彰〈あらわ〉す。
親鸞聖人は、天親〈てんじん〉菩薩の教えを讃えて感慨深く詠っておられます。 「仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉」によって、本願による「南無阿弥陀仏」の真実を顕かにしてくださったのが天親菩薩であると述べておられるのです。また、愚かで、しかも思い上がりが激しい凡〈ぼん〉夫〈ぶ〉、そのような凡夫だからこそ、一挙にすくい取ろうとしてくださるのが阿弥陀仏の大悲であり、その大悲の誓願〈せいがん〉のありがたさを、天親菩薩が私どものために顕かにしてくださったのだと、聖人は教えておられるのです。 さらに親鸞聖人は、天親菩薩を讃えられます。「広〈こう〉由〈ゆ〉本願力〈ほんがんりき〉回〈え〉向〈こう〉為度〈いど〉群生彰一心〈ぐんじょうしょういっしん〉」(広く本願力の回向に由って、群生を度せんがために、一心を彰す)と詠っておられるのです。 阿弥陀仏の本願の力は「回向」というすがたによって凡夫に及ぼされているのであって、天親菩薩は、その「回向」されている本願に信順しながら、人びとを救いに導くために、まことの信心〈しんじん〉(一心)の意味を明らかにしてお示しになられたのです。 阿弥陀仏が仏に成られる前、法蔵〈ほうぞう〉という名の菩薩であられたとき、悩み苦しむ人びとをもれなく救いたいという願いを発〈おこ〉されました。人びとは、深刻な悩み苦しみの状態にあるにもかかわらず、そのことにすら気づいていないのです。そのような凡夫を救おうとされる願い、それが「本願」です。 「回向」というのは、現代風にいうならば「振り向ける」ということになります。この「回向」の教えの根底には、「自業自得」という教えがあります。それは、自らの行い(自業)が原因となって、自らが結果を受け取る(自得)という教えです。「自業自得」という言葉は、失敗したり、病気になったりするような、悪い意味に使われることが多いように思われますが、それは本来の意味ではありません。たとえば、仕事が成功するのも「自業自得」なのです。 ところで「回向」は、自分がなした修行によって生ずるよい結果を自分のさとりのために「振り向ける」ことと解釈されることがあります。しかし浄土の教えでは、意味がまったく違っています。 私たち末世の凡夫にとっては、自分の力では浄土に往生する原因を作れないのです。原因を作れなければ、往生という結果は起こらないわけです。念仏が往生の正因〈しょういん〉であると教えられておりましても、私が私の思いで念仏することを決定するとしますと、どうしても、自我へのこだわり、自分の都合、場合によっては、打算がつきまとってしまいます。そうすると、本人としては、どれほど誠実なつもりであっても、結局は、阿弥陀仏を念じているのではなくて、自分の都合を念じているに過ぎないことになってしまうのです。そのようなものは念仏とは申せません。 そのようなことは、初めから明らかなので、それを哀れんで、阿弥陀仏は願いを発されたのです。原因を作れない私に代わって、私の往生の原因を阿弥陀仏が作ってくださり、その結果だけを私に振り向けてくださっているのです。それが本願によって「回向」されている念仏なのです。私には、私に振り向けられた「南無阿弥陀仏」をありがたくいただくことだけが残っているわけです。 よく「先祖に回向する」という言葉を耳にします。うっかり聞きますと、何か善いことのように聞こえますが、はたして、どうなのでしょうか。先祖は善い結果が生ずるような善い原因を作れないので、それを哀れんで、この私が先祖に代わって善い原因を作り、善い結果を先祖に振り向けてあげる、ということになるのではないでしょうか。すでに諸仏に成られたご先祖さまに対して、大変ご無礼な話になるのではないでしょうか。 さて、先ほどの「一心」は、結論的にいえば「信心」ということになります。そこで、天親菩薩は「本願」によって「回向」されている「信心」の意味を私どもに顕かにしてくださっていると、親鸞聖人は歓んでおられるのです。 聖人が、折にふれて「如来よりたまわりたる信心」ということを語っておられたことの意味をあらためて思い起こさせていただけるのではないでしょうか。 
一心
広由本願力回向
為度群生彰一心
広く本願力〈りき〉の回〈え〉向〈こう〉に由〈よ〉って、
群生〈ぐんじょう〉を度せんがために、一心を彰〈あらわ〉す。
親鸞聖人は、天親〈てんじん〉菩薩のことを「広由本願力回向〈こうゆほんがんりきえこう〉為度〈いど〉群生〈ぐんじょう〉彰一心〈しょういっしん〉」(広く本願力の回向に由って、群生を度せんがために、一心を彰す)と述べて讃嘆〈さんだん〉しておられます。 天親菩薩が、阿弥陀仏から凡〈ぼん〉夫〈ぶ〉に対して回向されている(差し向けられている)願い(本願)にもとづいて、群生を本願に目覚めさせるために、一心(信心〈しんじん〉)の意味を明らかにしてくださったのだと、親鸞聖人は教えておられるのです。 ここに言われている「群生」というのは、「衆〈しゅ〉生〈じょう〉」という言葉とインドの原語は同じで、中国語に翻訳されるときの訳し方に違いがあるだけです。「あらゆる生きもの」という意味ですが、差しあたっては人間のことを言います。つまり凡夫のことです。 次の「度する」というのは、「渡らせる」ということで、苦悩に満ちた状態から、苦悩が解消した状態へ導くことです。迷いの此〈し〉岸〈がん〉から、覚りの彼〈ひ〉岸〈がん〉へ渡らせることです。 天親菩薩は、苦悩する一切の凡夫を救いに導くために、「信心」の意味を明らかにしてくださっている、ということです。その「信心」を「一心」という言葉で言い表しておられるのです。 天親菩薩は、「浄土論」(「無量寿経〈むりょうじゅきょう〉優婆〈うば〉提舎願〈だいしゃがん〉生〈しょう〉偈〈げ〉」)をお造りになりました。「真宗聖典」には「婆藪〈ばそ〉槃〈ばん〉頭菩〈ずぼ〉薩造〈さつぞう〉」と標記されていますが、その婆藪槃頭は、ヴァスバンドゥの音写で、天親と訳されているものです。ですから「浄土論」は「天親菩薩がお造りになった」ということになります。 その「浄土論」の冒頭に、天親菩薩は「世尊我一心〈せそんがいっしん〉帰命尽十方〈きみょうじんじっぽう〉無碍光如来〈むげこうにょらい〉願生安楽国〈がんしょうあんらくこく〉」(世尊、我一心に、尽十方無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず)と述べて、心のうちに沸き立つ思いを表白〈ひょうびゃく〉しておられます。「世尊よ、私は心を一つにして、阿弥陀仏に帰命して、極楽浄土に生まれたいと願っております」という切なる願いを表明されたのです。 「世尊」は釈尊のことです。釈尊は「仏説〈ぶっせつ〉無〈む〉量〈りょう〉寿〈じゅ〉経〈きょう〉」をお説きになられて、阿弥陀仏の本願のことを教えておられるのです。「正信偈」に「如来所以興出〈にょらいしょいこうしゅっ〉世〈せ〉唯〈ゆい〉説弥陀〈せみだ〉本願〈ほんがん〉海〈かい〉」(如来、世に興出したまうゆえは、ただ弥陀本願海を説かんとなり)とありますが、これは、釈迦如来がこの世間にお出ましになられたのは理由があることであって、その理由とは何であるのかと言えば、それはただただ、阿弥陀仏の海のように広大な本願のことをお説きになるためであったのだ、ということです。 天親菩薩が「世尊よ」と呼びかけておられるのは、本願の真実をお説きになられた釈尊に対して、眼を逸らせることなく、真正面から仰ぎ見る姿勢を示しておられるのです。そして「我」と言っておられるのは、釈尊が顕かにしてくださった本願の真実に、きちっと向き合っておられる天親菩薩の自覚を示されたお言葉なのです。 さて「一心」でありますが、これについて、親鸞聖人は、「尊号真像銘文〈そんごうしんぞうめいもん〉」に「一心というは、教主世尊の御〈み〉ことのりをふたごころなくうたがいなしとなり。すなわちこれまことの信心なり」と説明しておられます。「一心」というのは、釈尊のお言葉に対して、二心なく、また疑わないことであって、それはまことの信心である、と教えておられるのです。親鸞聖人はまた、「一心の華〈か〉文〈もん〉」という表現によって、天親菩薩が述べられた「一心」という言葉を大切にしておられるのです。 「一心」は「まことの信心」ということであります。「真実信心」であります。その「信心」は凡夫が凡夫の意志で起こす信心でないことは明らかです。親鸞聖人は、これを「如来よりたまわりたる信心」と教えられました。如来の願いとして回向されている信心ですから、誰にとっても平等に及ぼされている信心です。 天親菩薩は、「群生を度せんがために、一心を彰す」と詠っておられる通り、一切の凡夫を導くために、そのような「一心」と言われる「信心」をいただいている意味を彰かにしてくださったと、親鸞聖人は喜ばれ、讃えておられるのです。 
大会衆の数に入る
帰入功徳大宝海
必獲入大会衆数
功〈く〉徳〈どく〉大宝海〈だいほうかい〉に帰〈き〉入〈にゅう〉すれば、
必ず大〈だい〉会〈え〉衆〈しゅ〉の数〈かず〉に入〈い〉ることを獲〈う〉。
前回見ていただきましたように、親鸞聖人は、天親〈てんじん〉菩薩のことを「為度〈いど〉群生彰一心〈ぐんじょうしょういっしん〉」(群生〈ぐんじょう〉を度せんがために、一心を彰〈あらわ〉す)と讃えられています。すべての人びとを救い導くために、天親菩薩が「一心」の意味を明らかにしてくださったと、親鸞聖人は讃えておられるのです。すなわち、如来よりたまわっている真実の信心〈しんじん〉の意味を「一心」という言葉で明らかにしてくださったからです。 そしてその天親菩薩は、次に「帰〈き〉入〈にゅう〉功〈く〉徳〈どく〉大宝海〈だいほうかい〉必獲入大〈ひつぎゃくにゅうだい〉会〈え〉衆数〈しゅしゅ〉」(功徳大宝海に帰入すれば、必ず大会衆の数に入ることを獲)と教えておられるのです。すなわち、私たちが功徳の大宝海に帰入するならば、必ず大会衆の数に入ることができると言われるのです。 「功徳」というのは、善い行いを原因として生ずる善い結果を意味します。一般には、自分が実行する修行によって、自分が覚りに近づくという功徳が得られる、と理解されています。つまり、自分が善い原因を作り、それによって生ずる善い結果を自分が受け取るのです。 しかし、本願他力の教えからしますと、意味がまったく異なります。私たちが自分で善い原因を作るのではないのです。私たちには作れないのです。善い原因は阿弥陀仏がお作りになっているのです。そして阿弥陀仏がお作りになっているその原因によって、善い結果が生じますが、その善い結果は、阿弥陀仏が受け取られるのではなくて、私たちがいただいているのです。 この私を何とか救ってやりたいと願われる阿弥陀仏の願いが原因となります。そして、その原因によって生ずる善い結果、つまり功徳が私に与えられているわけです。その功徳は「南無阿弥陀仏」という名号〈みょうごう〉として与えられているのです。 「功徳大宝海」というのは、天親菩薩の「浄土論」の偈〈げ〉文〈もん〉にあるお言葉です。功徳である名号は、私たちにとっては、この上ない偉大な宝物です。しかも、宝物である名号の功徳は、あふれるばかりの水をたたえた海のように、私たちの身に満ちあふれていますので、これを親鸞聖人は、「功徳大宝海」という天親菩薩のお言葉を掲げて喜んでおられるわけです。つまり、「帰入」しておられるのです。 「帰入」は「帰依〈きえ〉」と「回〈え〉入〈にゅう〉」とを一つにした言葉です。最も大切にするべきものを心から敬い、まかせきって、最後の依り所とすること、それを「帰依」と言います。自力のはからいから心を回らせて、本願という他力に心身をゆだねることを「回入」と言います。 さて、自我のはからいから離れて、私たちに与えられている功徳としての名号、「南無阿弥陀仏」にこの身をおまかせするならば、「必獲入大会衆数」とありますように、必ず大会衆の数に入ることができると教えられているのです。これも親鸞聖人は、天親菩薩の「浄土論」のお言葉を用いておられるわけです。 「大会」は、この場合、阿弥陀仏が、極楽浄土で、今、現に説法しておられる会座〈えざ〉を言います。「仏説阿弥陀経」に「今現在説法〈こんげんざいせっぽう〉」(いま現にましまして法を説きたまう)と説かれていますが、その法座のことです。 阿弥陀仏の浄土に往生して、その説法に参集している多数の菩薩を「衆」と言っています。つまり、私たちが「南無阿弥陀仏」を依り所にするならば、すでに浄土に往生して阿弥陀仏の説法を聴聞〈ちょうもん〉している人びとの数に必ず入ることになるということです。ということは、すでに往生している人びとの仲間に必ず入るということですから、今、この身のままに、功徳の名号によって往生が確定するということになるのです。 なぜ「必ず」なのか。それは、私たちが阿弥陀仏の極楽浄土にすでに往生している人びとと同じになることが、阿弥陀仏の願っておられることだからです。凡〈ぼん〉夫〈ぶ〉の願いやもくろみならば、条件次第でどうなるかわかりません。「必ず」などとは言えないのです。けれども、本願は唯一絶待の真実です。真実は、どのような条件にも左右されることがないのです。 
往生成仏
得至蓮華蔵世界
即証真如法性身
蓮〈れん〉華〈げ〉蔵〈ぞう〉世〈せ〉界〈かい〉に至ることを得〈う〉れば、
すなわち真如法性〈しんにょほっしょう〉の身〈しん〉を証〈しょう〉せしむと。
親鸞聖人は、天親〈てんじん〉菩薩の教えを讃えておられます。 その天親菩薩は、前回見ていただきましたように「功〈く〉徳〈どく〉大宝海〈だいほうかい〉に帰〈き〉入〈にゅう〉すれば、必ず大〈だい〉会〈え〉衆〈しゅ〉の数〈かず〉に入〈い〉ることを獲〈う〉」(帰〈き〉入〈にゅう〉功〈く〉徳大宝海〈どくだいほうかい〉必獲入大〈ひつぎゃくにゅうだい〉会〈え〉衆数〈しゅしゅ〉)と教えておられました。 阿弥陀仏は、どのような人であろうと、一切の人びとを救いたいと願ってくださっています。その願いによって生じている結果が「功徳」なのですが、その功徳が「南無阿弥陀仏」という名号〈みょうごう〉として、すべての人びとに施し与えられているわけです。また、その「南無阿弥陀仏」が、大いなる宝物を蓄えていて、私たちに本当の恵みをもたらす海に喩〈たと〉えられているのです。 あとは、私たちが、すでに与えられている「南無阿弥陀仏」に帰〈き〉順〈じゅん〉するのかどうか、宝の海に入ろうとしているのかどうか、そのことだけが私たちに残されている問題なのです。 浅はかな自分の思いへのこだわりから離れて、与えられている功徳としての名号、「南無阿弥陀仏」に、この身をおまかせするならば、すでに阿弥陀仏の浄土に往生している人びとの仲間に必ず入ることができると、天親菩薩は教えておられます。つまり、「南無阿弥陀仏」によって、今、この身のままに、浄土往生が確定するのだと教えておられるのです。 浄土に往生するということは、どのようなことであるのか、これについて、天親菩薩は、「得〈とく〉至〈し〉蓮〈れん〉華〈げ〉蔵〈ぞう〉世〈せ〉界〈かい〉即〈そく〉証〈しょう〉真如法性身〈しんにょほっしょうしん〉」(蓮華蔵世界に至ることを得れば、すなわち真如法性の身を証せしむと)と教えておられるのです。 「蓮華蔵世界」といいますのは、もとは「華〈け〉厳〈ごん〉経〈きょう〉」というお経に説かれている浄土のことなのですが、ここでは、親鸞聖人は、「阿弥陀経」に説かれる阿弥陀仏の極楽浄土のことをこのように呼んでおられるわけです。それは「蓮華」のような徳をそなえた阿弥陀仏の浄土ということです。 「維〈ゆい〉摩〈ま〉経〈きょう〉」というお経に、大変よく知られている一節があります。「高原の陸〈ろく〉地〈じ〉には、蓮華を生ぜず。卑〈ひ〉湿〈しつ〉の淤〈お〉泥〈でい〉に、いまし蓮華を生ず」というものです。これは、親鸞聖人の「教行信証〈きょうぎょうしんしょう〉」にも引用されている経文です。 白い蓮の華は、多くの華の中で最も尊ばれている華です。その蓮華は、誰もが理想とするような、すがすがしい高原には生じないというのです。そのような所ではなくて、誰もが避けたくなるような、卑しくてじめじめとした泥沼にこそ、この最も尊ばれる蓮華は生ずるのだ、ということです。 阿弥陀仏の浄土は浄〈きよ〉らかな世界なのですから、それは、私たちが住むこの穢土〈えど〉とは無関係な世界のように受け取れます。しかし、実はそうではないのです。この穢土において、さまざまな煩悩に汚されきっている私たちこそが迎え入れられる世界なのです。 このようにして、私たちが「蓮華蔵世界」つまり阿弥陀仏の浄土に往生すると、どのようなことになるのか。それについて、天親菩薩は、「すなわち真如法性の身を証せしむ」と教えられています。 「すなわち」は即座ということです。「真如」は「真実」、「法性」は「真実の本性」を言い表わす言葉です。「真実」というものがどこかにあるのではなく、この世界の本当のすがたが「真実」なのです。しかしそれは、自我の意識に曇らされている私たちの思慮ではとらえきれないのです。 言葉や文字で「真実」と表現してしまうと、それは私たちの思慮のなかに取り込んだ「真実」でしかなくなり、もはやそれは「真実そのもの」ではなくなるのです。この「真実そのもの」のことを、「真如」といい、また「法性」というのです。 その「真如」「法性」を「証する」というのは、「真実そのもの」に目覚めるということですから、それは仏の覚りを意味することになります。つまり「真如法性を証する」ということは、仏に成るということなのです。 阿弥陀仏の功徳として与えられている名号に帰依するならば、この身のままで、浄土に往生している人びとの仲間に入らせていただくことになり、そして浄土に往生すれば、直ちに仏になることができるのだと、天親菩薩は教えておられるのです。 
往生人のこころ
遊煩悩林現神通
入生死園示応化
煩悩〈ぼんのう〉の林に遊びて神通〈じんづう〉を現〈げん〉じ、
生〈しょう〉死〈じ〉の園〈その〉に入〈い〉りて応〈おう〉化〈げ〉を示す、といえり。
親鸞聖人は、天親〈てんじん〉菩薩の教えを深く讃嘆しておられます。 天親菩薩は、まず、一切の人びとに本当の安らぎをもたらすために、阿弥陀仏の願いとして私たちに差し向けられている「一心」の意味を明らかにされたのでした。「広〈こう〉由〈ゆ〉本願力〈ほんがんりき〉回〈え〉向〈こう〉為度〈いど〉群生彰一心〈ぐんじょうしょういっしん〉」(広く本願力〈りき〉の回〈え〉向〈こう〉に由〈よ〉って、群〈ぐん〉生〈じょう〉を度せんがために一心を彰〈あらわ〉す)と詠われているところです。 親鸞聖人は、この「一心」は「信心〈しんじん〉」のことであると教えておられます。何とかして私たちを助けたいと願われるために、阿弥陀仏は「信心」を私たちに与えてくださっているというわけです。 この「信心」によって、私たちがどうなるのか、それについての天親菩薩の教えを、親鸞聖人は、三つの点に要約しておられるのです。 第一は、「帰〈き〉入〈にゅう〉功〈く〉徳大宝海〈どくだいほうかい〉必獲入大〈ひつぎゃくにゅうだい〉会〈え〉衆数〈しゅしゅ〉」(功〈く〉徳大宝海〈どくだいほうかい〉に帰〈き〉入〈にゅう〉すれば、必ず大〈だい〉会〈え〉衆〈しゅ〉の数に入〈い〉ることを獲〈う〉)ということです。 与えられている「信心」によって、功徳としての名号〈みょうごう〉、すなわち「南無阿弥陀仏」にすべてをおまかせするならば、すでに浄土に往生し、現に阿弥陀仏のみもとで説法を聴聞している人びとの仲間に必ず入ることになるといわれるのです。 つまり「信心」によって、今、この身のままに必ず浄土に往生することが確定するのだと教えておられるのです。往生の確定は、死後のことでもなければ、遠い未来のことでもなくて、今のこの生涯のうちに起こることであるとされるのです。 第二には、「得〈とく〉至〈し〉蓮〈れん〉華〈げ〉蔵〈ぞう〉世〈せ〉界〈かい〉即証真如法性身〈そくしょうしんにょほっしょうしん〉」(蓮〈れん〉華〈げ〉蔵〈ぞう〉世〈せ〉界〈かい〉に至ることを得〈う〉れば、すなわち真如法性〈しんにょほっしょう〉の身〈しん〉を証〈しょう〉せしむ)という教えです。 蓮華蔵世界に至るというのは、阿弥陀仏の浄土に往生することです。また、真如法性の身を証するというのは、一言でいえば、仏に成るということです。したがって、「信心」によって、私たちは、間違いなく浄土に至ることができて、必ず仏に成るのだと教えられるのです。 往生にしても、成仏にしても、それは死後のことのようにも受け取れます。けれども、浄土往生ということは、私たちの自我へのこだわりによって汚されているこの世界(穢土〈えど〉)が、「信心」によって、浄化された世界になることなのです。つまり、往生とは、私が生まれるという意味でもありますが、同時に、私が住んでいる世界が、浄〈きよ〉らかな世界になるということでもあるのです。 「土」(世界)は私たちの生活の場です。そうすると、「信心」によって、穢土が浄化されて浄土になるということは、私たちの生活が、阿弥陀仏の願われている通りに浄化された生活になるということでもあるのです。 第三の教えが、今回の「遊煩悩林現神通〈ゆうぼんのうりんげんじんづう〉入生〈にゅうしょう〉死〈じ〉園〈おん〉示〈じ〉応〈おう〉化〈げ〉」(煩悩の林に遊びて神通を現じ、生死の園に入りて応化を示す)ということです。 「煩悩」は、私たちの身体を煩わせ、心を悩ませるものです。「神通」は、仏や菩薩が人びとを救うために用いられるすぐれた力です。「生死」は、道理から外れて限りなく迷いつづけている状態です。「応化」は、仏や菩薩が人びとの救いのために、それぞれの人の状況にふさわしいはたらきかけをされることです。 ここには、浄土に往生した人の在り方が示されています。浄土に往生した人は、浄土にとどまるだけではなく、あたかも密林のように煩悩がはびこる世界に自由に出入りし、迷いに満ちた園林〈おんりん〉にあえて入り込んで、そこで苦悩する人びとに応じたはたらきかけをすることになるというのです。他の人びとを導くことを含めて、それが実は往生した人にとっての往生とするのであると教えられているのです。 与えられている「信心」を私たちは素直に受け取るのです。そのことによって、私たちの生活は阿弥陀仏の願ってくださっている通りに浄化されます。しかし、浄化されるということは、他の誰にも阿弥陀仏の願いが向けられている事実を、ともに喜べるように、人びとにはたらきかけをすることを同時に含んでいるのだと、天親菩薩は教えておられるというわけです。 
曇鸞大師
本師曇鸞梁天子
常向鸞処菩薩礼
本〈ほん〉師〈じ〉、曇鸞〈どんらん〉は、梁〈りょう〉の天子
常〈つね〉に鸞〈らん〉のところに向こうて菩薩と礼したてまつる。
「正信偈」は、大きく三つの段落に分けて見ることができます。「総讃〈そうさん〉」と「依〈え〉経〈きょう〉段〈だん〉」と「依〈え〉釈〈しゃく〉段〈だん〉」です。 初めの「総讃」は、「帰〈き〉命〈みょう〉無〈む〉量〈りょう〉寿如来〈じゅにょらい〉南無不可思議〈なむふかしぎ〉光〈こう〉」(無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる)という二句です。「帰命無量寿如来」も「南無不可思議光」も、どちらも「南無阿弥陀仏」という名号〈みょうごう〉と同じ意味ですから、この二句は、無量寿如来、すなわち阿弥陀仏の願いによって、凡〈ぼん〉夫〈ぶ〉に与えてくださっている名号に対して、親鸞聖人が心から信順しておられるお心を表明された部分です。 次の「依経段」は、「仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉」というお経に依って述べてある段落です。これは「法蔵菩薩因〈ほうぞうぼさついん〉位時〈にじ〉」から始まる四二句で、ここには、阿弥陀仏による、本願他力の念仏の意味が詳しく表明されています。 最後の「依釈段」は、七人の高僧の解釈に依って述べてある段落です。ここには、親鸞聖人のところにまで、念仏の教えを正しく伝えられた七人の高僧の徳が讃えてあります。インドの二人、中国の三人、日本の二人です。そしてこれら七高僧の教えが讃えられてあるのです。 これまで、この「依釈段」のうちの、インドの龍〈りゅう〉樹大〈じゅだい〉士〈じ〉と天親〈てんじん〉菩薩、このお二人について述べてある部分を見ていただきました。今回から、中国の方々について見ていただくことになります。その最初が、曇鸞大師です。 曇鸞大〈どんらんだい〉師〈し〉(四七六―五四二)は、人生の深い悩みのなかで、若くして出家されました。大師は、広く仏教を学ばれましたが、仏教の聖典ばかりではなく、中国の儒教や道家の教えをも広く深く学ばれたのでした。曇鸞というお名前は、釈尊の家系の姓である瞿〈く〉曇〈どん〉(ゴータマ)から下の文字の「曇」をもらわれ、それに中国で古くからめでたい鳥とされてきた「鸞」をつけ加えたものであると伝えられています。 曇鸞大師が仏教を学び始められたころ、中国では、インドの龍樹大士の教えが盛んに研究されていました。その百年近く前に、龍樹大士が書き残された「中論」「十二門論」「大〈だい〉智度〈ちど〉論」と、龍樹大士の直弟子の聖提〈だい〉婆〈ば〉が書いた「百論」が中国語に翻訳されていたのでした。これら四つの論は、いずれも「大乗」の精神を高らかにかかげ、その精神の根幹となる「空〈くう〉」の思想を大成させたものです。 「大乗」というのは、「偉大な教え」ということで、一言でいうと、他の人びとが救われることが自らの救いとなるという教えです。また「空」というのは、あらゆるものごとへのこだわりから離れるということです。 もっぱらこの四つの論を依りどころとして仏教を学ぶ人びとの集まりを「四〈し〉論〈ろん〉宗〈しゅう〉」といいますが、曇鸞大師はこの四論宗に属して、大変すぐれた学僧として広く尊敬されておられたのです。この場合の「宗」は、今の「宗派」という意味ではなくて、「学派」というほどの意味に使われていた言葉です。 その当時の中国は、約一七〇年にわたって南北に分断されていました。北から侵入してきた異民族が北方を支配し、南に逃れた漢民族が南方に王朝をたてていたのです。 曇鸞大師は北方の北魏という国におられたのですが、その学僧としての名声は、遠く南の人びとにも知られていたのです。 そのころ、南には梁という国が栄えていました。文学や芸術など、文化の面では北方とは比べものにならないほど発展していたのです。梁の皇帝の武帝(五〇二―五四九在位)は、仏教を手厚く保護するとともに、自らも熱心に仏教を学んだ人だったのです。そして、遠く北魏におられる曇鸞大師を深く敬っていたのです。 このあたりのことを、親鸞聖人は、「正信偈」に「本〈ほん〉師〈じ〉曇鸞梁天子〈どんらんりょうてんし〉常向鸞処〈じょうこうらんしょ〉菩〈ぼ〉薩礼〈さつらい〉」(本師、曇鸞は、梁の天子、常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる)と述べておられるわけです。 すなわち「私たちの師である曇鸞大師の場合、南の梁の天子である武帝が、いつも、曇鸞大師がおられる北方に向かって、曇鸞大師を菩薩として敬って拝んでいた」ということです。 
浄土の教えに帰す
三蔵流支授浄教
焚焼仙経帰楽邦
三蔵〈さんぞう〉流支〈るし〉、浄教〈じょうきょう〉を授〈さず〉けしかば、
仙〈せん〉経〈ぎょう〉を焚焼〈ぼんしょう〉して楽邦〈らくほう〉に帰〈き〉したまいき。
曇鸞大〈どんらんだい〉師〈し〉は、四〈し〉論〈ろん〉宗〈しゅう〉のすぐれた学僧として、大乗仏教を深く学んでおられました。その名声は、中国の北方はもとより、南方にも広く響きわたっていたのでした。 大師は、中国の人びとに仏教の大切な教えを正しく伝えなければならないという使命を強く感じられたのです。このため、志を立てられて、「大集経〈だいじっきょう〉」という、六十巻もある大きな、そして難解なお経の註釈の作成に取りかかられたのでした。 ところが、あまりにも厳しく精を出して研究に打ち込まれたためか、病にかかられ、註釈の仕事を中断せざるを得なくなられたのです。この時、大師はすでに五十歳を越えておられました。大師は、仏法に対しても、また教えを学ぼうとしている中国の人びとに対しても、本当に申しわけない気持ちを強くもたれたのです。 そこで、広大な仏法をきわめ、また「大集経」の註釈を完成させるには、健康な心身と長寿を得なければならないと大師は痛感されたのです。このため、まず神仙の術を学ぼうと心に決められました。 当時、南方に、道教という宗教の指導者で、陶弘景〈とうこうけい〉という人がおりました。この人は、医学や薬学の大家でもあり、長寿の秘訣を教える仙人として有名だったのです。中国の北方におられた曇鸞大師は、はるばる南の陶弘景の所に趣いて、長生不老の術を学ばれたのでした。 やがて大師は、十巻からなる仙経、すなわち長生不老の術を説いてある道教の経典を陶弘景から授けてもらわれ、喜び勇んで北へ帰られたのです。 途中、都の洛陽に立ち寄られました。都には、ちょうどインドから三蔵法〈さんぞうほう〉師〈し〉の菩〈ぼ〉提〈だい〉流支〈るし〉という僧が来ていて、お経の翻訳をしながら、中国の僧侶を教導していたのです。 三蔵法師というのは、経蔵と律蔵と論蔵の三蔵を深く学び、それについて指導する僧のことです。「蔵」は「集めたもの」という意味で、経蔵はお経を集めたもの、律蔵は戒律についての文章を集めたもの、論蔵はインドで作られたお経の註釈を集めたものです。 曇鸞大師は、三蔵法師の菩提流支にお会いになりました。そして、誇らしげに、自分は長生不老の術を学んできたばかりであることを告げられたのです。そして、インドにこのような術はあるのかと尋ねられたのです。 すると、菩提流支三蔵は、唾を吐き捨てて「何という愚かなことだ」とばかりに、叱りつけたのです。そして、「観〈かん〉無〈む〉量寿経〈りょうじゅきょう〉」を授けて、阿弥陀仏と「無量寿」(長さに関係のないいのち)について教えたのでした。 曇鸞大師は、この教えに触れられて、長生不老などというものは、愚かな欲望に過ぎないことに気づかれたのです。そして「こんなものがあるから、人は愚かな迷いを繰り返すのだ」とばかりに、大切にしておられた仙経を惜しげもなく焼き捨ててしまわれたのです。 大師は、いのちを我がものと思い込んで、その安泰を願っていた愚かさに気づかれたのでしょう。たとい、百年や二百年の長寿を得たとしても、人はやがては死を迎えなければなりません。人は、不思議な縁によってこの世に生を享け、また、さまざまな縁に恵まれて生存するのです。そして、その縁が尽きれば、悲しいことではあっても、この世から去らなければならないのです。 曇鸞大師は、菩提流支三蔵から授けられた「観無量寿経」によって、無量寿ということ、量と関係のない「いのち」のはたらき、そのことに気づかれたのでした。そして、無量寿仏、すなわち阿弥陀仏を念ずる念仏によって浄土に往生する信心を得られたのでした。 そのあたりのことを親鸞聖人は「正信偈」に、「三蔵〈さんぞう〉流支〈るし〉授浄教〈じゅじょうきょう〉焚焼仙経〈ぼんしょうせんぎょう〉帰〈き〉楽邦〈らくほう〉」(三蔵流支、浄教を授けしかば、仙経を焚焼して楽邦に帰したまいき)と詠っておられるのです。すなわち、菩提流支三蔵が浄土の教えを授けられたので、曇鸞大師は、長生不老を教える仙経を焼き捨てて、楽邦、つまり阿弥陀仏の安楽浄土に往生する教えに帰依されることになられた、ということなのです。 
本願他力の伝統
天親菩薩論註解
報土因果顕誓願
天親〈てんじん〉菩薩の論、註〈ちゅう〉解〈げ〉して、
報〈ほう〉土〈ど〉の因〈いん〉果〈が〉、誓願〈せいがん〉に顕〈あらわ〉す。
曇鸞大〈どんらんだい〉師〈し〉は、長寿の秘訣を学ばれ、意気揚揚と自信にあふれておられました。しかし、インドから中国に来ておられた三蔵法〈さんぞうほう〉師〈し〉、菩〈ぼ〉提〈だい〉流支〈るし〉との劇的な出遇いによって、身体的な寿命にこだわるご自分の愚かさに気づかれたのでした。そして、心を大きくひるがえされて、無量寿(長さとは関係のないいのち)を教える浄土の教えに深く帰依されたのでした。 その菩提流支三蔵は、インドの天親〈てんじん〉菩薩が書かれた「浄土論」を中国語に翻訳されました。そして曇鸞大師が、その注釈をお作りになったのです。 「浄土論」というのは、実は「仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉」を註釈したものです。以前に見ていただきましたように(第40回)、天親菩薩は、自らの力によって悟りを得ようとするのは誤りであって、阿弥陀仏がすべての人を浄土に迎えいれたいと願われた、「本願」に率直に身をゆだねることこそが真実であることに気づかれたのでした。そのために、釈尊が阿弥陀仏の本願のことをお説きになった「仏説無量寿経」に対して註釈を施されたのでした。 その「浄土論」に対して、今度は、曇鸞大師が註釈をお作りになりました。これが「浄土論註」です。つまりそれは、「仏説無量寿経」の註釈の註釈ということになります。これについて、親鸞聖人は「天親菩薩の論、註解して」(天親〈てんじん〉菩〈ぼ〉薩〈さつ〉論註〈ろんちゅう〉解〈げ〉)と述べておられるわけです。 かつて龍〈りゅう〉樹大〈じゅだい〉士〈じ〉が、仏道には難行道〈なんぎょうどう〉(難しい方法)と易〈い〉行道〈ぎょうどう〉(やさしい方法)とがあると教えられましたが、天親菩薩の「浄土論」こそが、誰もが浄土に往生することができるとする、易行道を勧めたものと、曇鸞大師は讃えておられるのです。そして、阿弥陀仏の本願に随順する他力の信心〈しんじん〉を明らかにされたのが天親菩薩であると説いておられるのです。 人は、自らが起こす煩悩によって、自らを悩ませ、苦しめています。しかも、悩み苦しみの原因が、自らが起こす煩悩にあることすらわかっていないのです。さらにまた、自分が現にそれほどにまで悩み苦しむ状態にあることにも気づいていないのです。目先の快楽に眼を奪われているからです。 釈尊は、このような私たちを哀れんで「仏説無量寿経」をお説きになられました。そのような者こそを助けようとされているのが阿弥陀仏の本願であることを教えられたのです。 釈尊がお説きになられた阿弥陀仏の本願他力の教えをさらに明らかにされたのが天親菩薩でありました。そして本願についての天親菩薩の教えをさらに明確にされたのが、曇鸞大師だったのです。 親鸞聖人は、釈〈・〉尊と天親〈・〉菩薩と曇鸞〈・〉大師とが説き示された本願の伝統に、ご自分の位置を見定められて、自ら「釈親鸞」と名乗られたのです。 さて、親鸞聖人は、曇鸞大師のことを「報土の因果、誓願に顕す」(報〈ほう〉土〈ど〉因〈いん〉果〈が〉顕誓願〈けんせいがん〉)と讃えておられます。報土の因も果も、どちらも阿弥陀仏の誓願によることであることを、曇鸞大師が顕かにされた、といわれるのです。 報土とは、阿弥陀仏の浄土のことです。阿弥陀仏の浄土は、阿弥陀仏の本願が成就した世界です。願いが報いられた国土なのです。 阿弥陀仏の浄土が開設されることになった原因も、すでに開設されているという結果も、また、私たちが浄土に往生することになる原因も、また往生するという結果も、すべて阿弥陀仏の誓願によることなのです。 阿弥陀仏が仏になられる前は、法蔵〈ほうぞう〉という名の菩薩であられました。そのとき、法蔵菩薩は、自分の力では往生できるはずのない人が往生できる浄土を建立したいと願われました。そして、もしその願いが実現しないのであれば、自分は仏にはならないという誓いを立てられたのです。その法蔵菩薩が阿弥陀仏になられたのです。ということは、願いと誓いがすべて報いられていることを意味しています。 凡〈ぼん〉夫〈ぶ〉の往生は、他の理由によるのではなく、ひとえに阿弥陀仏の大慈悲心である誓願によることなのです。その本願のはたらきを「他力」として顕かにして下さったのが曇鸞大師なのです。 
往相の回向と還相の回向
往還回向由他力
正定之因唯信心
往〈おう〉・還〈げん〉の回〈え〉向〈こう〉は他〈た〉力〈りき〉に由〈よ〉る。
正定〈しょうじょう〉の因〈いん〉はただ信心〈しんじん〉なり。
曇鸞大〈どんらんだい〉師〈し〉は「浄土論註」という書物を著されました。インドの天親〈てんじん〉菩薩が「仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉」の註釈を作られて「浄土論」を著されましたが、その「浄土論」に対して、曇鸞大師がさらに註釈されたもの、それが「浄土論註」でありました。 親鸞聖人は、「正信偈」に、曇鸞大師のことを「報〈ほう〉土〈ど〉の因〈いん〉果〈が〉、誓願〈せいがん〉に顕〈あらわ〉す」(報〈ほう〉土〈ど〉因〈いん〉果〈が〉顕誓願〈けんせいがん〉)と詠って讃えておられますが、報土である阿弥陀仏の浄土が開設されることになった原因も、すでに開設されているという結果も、さらには、私たちが浄土に往生することになる原因も、また私たちが間違いなく往生するという結果も、これらはすべて阿弥陀仏の誓願によることであること、そのことを曇鸞大師が「浄土論註」の中で顕かにされたのでした。 また、曇鸞大師は、親鸞聖人が「往・還の回向は他力に由る」(往還〈おうげん〉回〈え〉向〈こう〉由他〈ゆた〉力〈りき〉)と詠っておられます通り、「往相〈おうそう〉の回〈え〉向〈こう〉」と「還相〈げんそう〉の回向」という、二種の回向についても教えておられるのです。 私たち凡夫が阿弥陀仏の浄土に往生することを「往相」といいます。そして浄土に往生した人が、迷いのこの世間に対してはたらきかけることを「還相」というのです。すなわち、「往相」は、穢土〈えど〉から浄土に往くすがたです。これに対して「還相」は、浄土から穢土に還るすがたなのです。 人が穢土から離れて浄土に往生するということは、「自利」(自ら利すること)の成就です。しかし「自利」の成就を果たすだけでは仏教とはいえないのです。「利他」(他を利すること)がなければならないからです。他の人びとが浄土に往生できるよう、穢土の人びとへのはたらきかけがなければならないのです。つまり、自分が受け取る利益と、他の人が受け取る利益とが一つになること、それが仏教の根本の精神なのです。 そもそも釈尊は、覚りを得て仏になられましたが、ご自分の覚りの境地に安住されることなく、世間の迷いの人びとのところに出向いて教えをお説きになり、人びとを覚りに導こうとされました。ここに「自利利他」が一つになった仏教の根本が示されているのです。 このようなことから、「往相」と「還相」とが一つのこととして大切であるとしても、私たち凡〈ぼん〉夫〈ぶ〉にしてみれば、自分の力では「往相」はもとより、「還相」も不可能なことです。私たちは、自分の往生の原因は自分では作れないのです。まして、自分の力でこの世間へのはたらきかけなどはとうてい不可能です。 「往・還の回向」といわれています通り、「往相」も「還相」も、ともに阿弥陀仏の「回向」によることなのです。「回向」というのは、「振り向ける」という意味で、原因を作れない私たちに代わって、阿弥陀仏が原因を作ってくださり、その原因によって生ずる結果だけを私たちに「振り向けて」くださっているのです。 曇鸞大師は、この「往相回向」も「還相回向」も、ともに私たちの自力によるのではなくて、「他力に由る」(由他力)と教えておられます。「他力」は、私たちが期待するとか、期待しないとか、そういうことにはまったくかかわりなく、一方的に私たち差し向けられている阿弥陀仏の願いによることなのです。「本願力〈ほんがんりき〉」といわれます。 本願力の回向に由って、私たちに「往相」と「還相」とが実現するということは、とりもなおさず、私たちが浄土に往生して仏に成るということを意味します。それでは「往相回向」と「還相回向」とは、どのようにして私たちに実現するのでしょうか。 それについて、曇鸞大師は、「正定の因はただ信心なり」(正定〈しょうじょう〉之〈し〉因唯信心〈いんゆいしんじん〉)と説き明かしておられます。すなわち、間違いなく浄土に往生して仏になることが確定するのは、それは、ただただ「信心〈しんじん〉」によることであると教えておられます。しかもその「信心」は、自力の信心ではなくて、阿弥陀仏の本願によって回向されている、他力の信心なのです。 つまり、阿弥陀仏の本願に素直に従っておまかせする心なのです。 
凡夫の信心
惑染凡夫信心発
証知生死即涅槃
惑染〈わくぜん〉の凡〈ぼん〉夫〈ぶ〉、信心発〈しんじんほっ〉すれば、
生〈しょう〉死〈じ〉即〈そく〉涅〈ね〉槃〈はん〉なりと証〈しょう〉知〈ち〉せしむ。
親鸞聖人は、曇鸞大〈どんらんだい〉師〈し〉の教えをほめたたえておられます。 親鸞聖人によりますと、曇鸞大師は「報〈ほう〉土〈ど〉の因〈いん〉果〈が〉、誓願〈せいがん〉に顕〈あらわ〉す」(報〈ほう〉土〈ど〉因〈いん〉果〈が〉顕誓願〈けんせいがん〉)と述べられて、阿弥陀仏の浄土が開かれることになった原因も、そして、すでに開かれているという結果も、さらには、私たちが浄土に往生することになる原因も、また往生するという結果も、すべて阿弥陀仏の誓願によることであると教えておられるのです。 そして、「往〈おう〉・還〈げん〉の回〈え〉向〈こう〉は他〈た〉力〈りき〉に由〈よ〉る」(往還〈おうげん〉回〈え〉向〈こう〉由他〈ゆた〉力〈りき〉)といわれていますように、私たち凡夫が阿弥陀仏の浄土に往生する「往相〈おうそう〉」も、浄土に往生した上で、迷いのこの世間に対してはたらきかける「還相〈げんそう〉」も、どちらも、阿弥陀仏の本願力によって回向されている(差し向けられている)ことであって、私たちの自力によるのではなくて、他力によることであると教えておられるのです。 それでは、本願による他力によって、私たちはどうなるのかということについて、曇鸞大師は、「正定〈しょうじょう〉の因〈いん〉はただ信心〈しんじん〉なり」(正定〈しょうじょう〉之〈し〉因唯信心〈いんゆいしんじん〉)と教えられます。すなわち、私たちが、間違いなく浄土に往生して仏になることが確定するのは、ただただ他力を信じる「信心」によることであると教えておられます。もちろん、その「信心」は、自力の信心ではなくて、阿弥陀仏の本願によって回向されている、他力の信心なのです。 その上で、「惑染の凡夫、信心発すれば」(惑染凡〈わくぜんぼん〉夫〈ぶ〉信心発〈しんじんほつ〉)といわれます。 「惑染」の惑も染も煩悩の別名です。迷惑といわれますように、私たちは、真実を見失っているために、道理に迷い惑っていて、またそのために、心が純粋でなく汚染されているのです。 そのような私たち「惑染の凡夫」にも「信心発すれば」と述べられております通り、信心が起こることがあるのです。ここで注意しておかなければならないことは、親鸞聖人が「信心を発する」(発信心)ではなくて、「信心が発する」(信心発)といっておられることです。「信心」は凡夫が起こすものではなくて、阿弥陀仏の大慈悲の本願力によって、凡夫の身の上に起こることなのです。 そこで、私たち「惑染の凡夫」に「信心が起これば」どうなるのかということですが、それについて、曇鸞大師は「生死即涅槃なりと証知せしむ」(証〈しょう〉知〈ち〉生〈しょう〉死〈じ〉即〈そく〉涅〈ね〉槃〈はん〉)と教えておられるわけです。 「生死」というのは、自分の煩悩によって引き起こされる迷いのために、自分が苦悩している状態です。そして「涅槃」とは、逆に、その迷いが解消したことによって苦悩が滅した状態のことです。この二つのことが「即」という言葉で結びつけられているわけです。 「即」は、「すなわち」と読みますが、「ただちに」とか「そのまま」という意味です。これは、仏典の中では少し注意して読まなければならない文字だと思います。 「生死即涅槃」は、生死がそのまま涅槃である、ということです。言い換えると、「迷いの状態」がそのまま「迷いのない状態」ということになりますから、互いに矛盾し合う二つのことが、そのまま一つになっているのです。 このような見方は大乗の経典にしばしば説かれている教えです。その場合「涅槃」は「悟り」という意味ですから、迷いのままに悟りが得られるということになります。これによく似た言葉が「正信偈」の別のところにあります。「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」(不〈ふ〉断煩悩得〈だんぼんのうとく〉涅〈ね〉槃〈はん〉)という言葉です。 「涅槃」は、親鸞聖人のお言葉使いからすれば、「悟り」という意味よりも、「往生」という程の意味に理解されると思います。そうすると、「生死即涅槃」は、「迷いの状態そのままで往生する」ということになります。 次の「証知」の「証」は、「あきらかにする」「はっきりさせる」という意味ですから、「正信偈」には、曇鸞大師の教えとして、「迷い続けている惑染の凡夫に、本願による信心が起こるならば、迷いのままに往生させていただくことが、はっきりと思い知らされる」と示されているのです。 
他力の回向
必至無量光明土
諸有衆生皆普化
必ず無量光明〈こうみょう〉土に至れば、
諸〈しょ〉有〈う〉の衆生〈しゅじょう〉、みなあまねく化〈け〉すといえり。
親鸞聖人は、中国の曇鸞大〈どんらんだい〉師〈し〉が教えられた、他力回〈え〉向〈こう〉の教えのことを感銘深く述べておられます。 曇鸞大師は、まず「惑染〈わくぜん〉の凡〈ぼん〉夫〈ぶ〉、信心発〈しんじんほっ〉すれば、生〈しょう〉死〈じ〉即〈そく〉涅〈ね〉槃〈はん〉なりと証〈しょう〉知〈ち〉せしむ」(惑染凡〈わくぜんぼん〉夫〈ぶ〉信心発〈しんじんほつ〉証〈しょう〉知〈ち〉生〈しょう〉死〈じ〉即〈そく〉涅〈ね〉槃〈はん〉)と教えられました。 私たちは、真実を見失っているために道理に惑い、そのために、心が汚染されています。このような惑染の私たちにも、信心〈しんじん〉が起こることがあると教えておられるのです。その信心は、阿弥陀仏の大慈悲の本願力によって起こるのです。 私たちに信心が起これば、私たちは、迷いの状態(生〈しょう〉死〈じ〉)のままに、迷いから解放された状態(涅槃)になることができる、と曇鸞大師は教えておられるわけです。 迷いから解放されるということは、往生するということですから、迷い続けている惑染の凡夫に、本願による信心が起こるならば、その迷いのままに浄土に往生させていただくことが確信できる、と教えておられるわけです。 惑染の凡夫が、阿弥陀仏の願いによって、間違いなく、浄土に往生するわけですが、そのことを「必ず無量光明土に至れば」(必〈ひっ〉至無〈しむ〉量〈りょう〉光〈こう〉明〈みょう〉土〈ど〉)といっておられます。 「無量光明土」は、限りのない光が輝いている国土、つまり阿弥陀仏の極楽浄土のことです。阿弥陀仏が仏に成られる前、法蔵という名の菩薩であられましたが、その法蔵菩薩は、四十八の願いと誓いをお立てになりました。その第十二の願が「光明無量の願」と呼ばれているのです。 「仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉」によりますと、第十二願は、「たとい我、仏を得んに、光明能〈よ〉く限〈げん〉量〈りょう〉ありて、下〈しも〉、百千億那由他〈なゆた〉の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ」という誓願です。ちなみに「那由他」は、インドの数の単位で、一千万とも、一千億ともいわれていて定かではありませんが、とても大きな数をいいます。 法蔵菩薩は、仏に成ろうとしておられましたが、たとい仏に成られるとしても、その浄土の光明の輝きに限りがあって、途方もなく多数の仏さまがたの国々をすべて照らさないのであれば、自分は仏には成らない、という誓いを立てられたのでした。 そしてその誓いが実り、願いが報いられたので、法蔵菩薩は阿弥陀仏に成られたのでした。このために、阿弥陀仏の浄土は「無量光明土」と呼ばれるのです。 さて、「必ず無量光明土に至れば、諸有の衆生、みなあまねく化すといえり」(必至無量光明土諸〈しょ〉有〈う〉衆〈しゅ〉生〈じょう〉皆〈かい〉普化〈ふけ〉)と述べられていますが、「諸有」は「あらゆる」と読みますから、「諸有の衆生」は「あらゆる人びと」という意味になります。 惑染の凡夫が、阿弥陀仏の本願によって、無量光明土、すなわち阿弥陀仏の浄土への往生を果たすならば、やはり阿弥陀仏の本願によって、迷いの世間に立ち戻り、あらゆる人びとを教化することになると、曇鸞大師は教えておられるのです。 先ほど見ましたように、阿弥陀仏の本願によって、惑染の凡夫に信心が起これば、迷いの状態のままに浄土に往生することが確実となる、ということが教えられていました。そして、すでに「往〈おう〉・還〈げん〉の回〈え〉向〈こう〉は他力に由〈よ〉る」(往還〈おうげん〉回〈え〉向〈こう〉由〈ゆ〉他〈た〉力〈りき〉)と述べてありました。 凡夫が往生するのは往相〈おうそう〉といい、それは阿弥陀仏から回向されている(振り向けられている)本願に由ることであるとされています。そして、浄土に往生できた人が穢土〈えど〉にはたらきかけるのを還相〈げんそう〉といい、これもやはり阿弥陀仏から回向されている本願に由ることであると教えられているわけです。 今の、惑染の凡夫に信心が起これば、迷いのままに浄土に往生するというのは、阿弥陀仏の往相の回向に由ることです。そして、無量光明土に至った人が、世間に戻ってあらゆる人びとを普〈あまね〉く教化することになるというのは、阿弥陀仏の還相の回向に由ることなのです。 曇鸞大師はこのようなことを私たちに教えてくださっていると、親鸞聖人は曇鸞大師を讃えておられるのです。 
道綽禅師
道綽決聖道難証
唯明浄土可通入
道〈どう〉綽〈しゃく〉、聖〈しょう〉道〈どう〉の証しがたきことを決して、
ただ浄〈じょう〉土〈ど〉の通入すべきことを明かす。
道〈どう〉綽〈しゃく〉禅〈ぜん〉師〈じ〉(五六二‐六四五)は、少年時代に出家されました。しかし程なく、北周の武帝が厳しい仏教弾圧の政策をとりましたので(五七四)、仏像や経典は焼き払われ、僧尼は殺されたり、強制的に還俗〈げんぞく〉させられたりしました。この時、若い道綽禅師も僧侶の身分を失われたのでした。 この過酷な廃仏は、武帝の死とともに終わり、仏教は復興したので(五七八)、道綽禅師は再び出家されました。そして厳しい実践修行に励まれたのです。また主として「涅〈ね〉槃〈はん〉経〈ぎょう〉」を深く学ばれ、やがて「涅槃経」研究の大家という名声を得られるようになられたのです。 「涅槃経」は大きなお経で、さまざまな教えが説かれていますが、その中心となる教えは、人間の本性を徹底して見きわめることです。そして、すべての人に例外なく「仏性〈ぶっしょう〉」(仏としての性質)が具〈そな〉わっているという教えが説かれているのです。 親鸞聖人が、七高僧として崇められた方々のうち、中国から出られたのは、曇鸞大〈どんらんだい〉師〈し〉と道綽禅師と善導〈ぜんどう〉大師でありました。そのうち、道綽禅師だけが「禅師」と呼ばれ、他のお二人は「大師」と呼ばれておられます。 当時の僧は、どなたも仏教の教理を探求し、戒律を厳しく守り、実践的な修行に励んでおられました。その中でも、教理の研究に特徴を発揮した人を「法〈ほっ〉師〈し〉」といい、戒律に特に厳格で、精通した人を「律〈りっ〉師〈し〉」といい、座禅など、実践修行を特徴とした人を「禅師」と呼んでいたのです。この場合の「禅師」は、後に禅宗の僧を「禅師」と呼ぶようになったのとは、意味が違っていました。そして、これらの特徴のいずれにも当てはまらない人を、敬愛の気持ちをもって呼ぶ場合に「大師」といっていたようです。 さて、道綽禅師は、伝えられているところによりますと、四十八歳の時、旅の途中で、かつて曇鸞大師がおられた玄〈げん〉中〈ちゅう〉寺〈じ〉にたまたま立ち寄られたのです。そこには、曇鸞大師の徳を讃えた石碑が建てられていました。道綽禅師は、その碑文を読まれて大変驚かれ、また深く感銘を受けられたのです。そして、これまでの思いを翻して、深く浄土の教えに帰依されたのです。それは曇鸞大師が亡くなられてから、七〇年ほど後のことでありました。 道綽禅師は、曇鸞大師の徳を慕って、そのまま玄中寺に住みつかれました。そして八十四歳で亡くなるまで、そこで、阿弥陀仏の名号〈みょうごう〉を称える念仏に専念され、また、さかんに「観無量寿経〈かんむりょうじゅきょう〉」の講説をしたり、「安楽集〈あんらくしゅう〉」を著すなどして、人びとに称名の念仏を勧められたのでした。 道綽禅師のご幼少のころ、インドから「大集月蔵経〈だいしゅうがつぞうきょう〉」(「大集経月蔵分〈だいじっきょうがつぞうぶん〉」ともいう)というお経が伝わって来ました。このお経には、仏教の教えは、釈尊が亡くなられた後、時代がへだたるにともなって世に正しく伝わらなくなり、やがて仏法は衰滅する時が来ると説かれているのです。いわゆる「末法」の到来が説かれているわけです。 道綽禅師が生まれられたのは、すでに末法の時代に入って十一年目のことであったとされています。その上に、武帝による過酷な廃仏がありましたから、まさに仏法は衰滅に向かいつつあるという、強い危機の意識が広まっていた時でした。 このような状況では、自分の力によって人生の苦悩を解決するとか、自分の努力を信じて修行して、覚りに近づくなどということは、もはや不可能になっているという自覚が、道綽禅師にはあったのです。 「道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす」(道綽決聖道難証〈どうしゃくけっしょうどうなんしょう〉唯明浄〈ゆいみょうじょう〉土可〈どか〉通入〈つうにゅう〉)とありますように、道綽禅師は、自力によって修行しようとする聖道門の教えでは覚りは得られないことを明らかにされました。そして、阿弥陀仏の願いとして凡〈ぼん〉夫〈ぶ〉に差し向けられている他力の念仏によって浄土に往生するという、浄土門の教えこそが私たちの通るべき道であることを明らかにされたのです。 
聖道門と浄土門
道綽決聖道難証
唯明浄土可通入
道綽〈どうしゃく〉、聖道〈しょうどう〉の証しがたきことを決して、
ただ浄〈じょう〉土〈ど〉の通入すべきことを明かす。
道綽禅〈どうしゃくぜん〉師〈じ〉のご幼少のころ、インドから「大集月蔵経〈だいしゅうがつぞうきょう〉」(「大集経月蔵分〈だいじっきょうがつぞうぶん〉」ともいう)というお経が伝わって来ました。このお経には、「末法〈まっぽう〉の到来」ということが説かれています。仏教の教えは、釈尊が亡くなられた後、時代がへだたるにともなって、世に正しく伝わらなくなり、やがて仏法は衰滅する時が来ると説かれているのです。 このお経によりますと、仏教は、正法〈しょうぼう〉・像法〈ぞうぼう〉・末法という三つの時期を経て、やがて滅尽してしまうというのです。 釈尊が亡くなられた後、はじめの五百年は「正法」の時代とされます。この時までは、教えが正しく伝わり、その教えによって正しい修行ができるので、正しい証〈さとり〉が得られるとされます。 この後「像法」となり、それが千年続きます。この時には、像〈かたち〉ばかりの教えが伝わり、その教えによって像ばかりの修行はできますが、教えも修行も像ばかりですから、証は得られない時代です。 そしてその後の一万年が「末法」です。かろうじて教えは伝わっているけれども、行も証もともなわない時代です。 このような末法の世では、教えの伝わり方も不十分であり、修行もできなくなっているわけですから、自分の信念や努力を頼りにして、厳しい修行を重ねても覚りに近づくことは不可能であるとされるのです。 道綽禅師がおられた当時、すでに末法の時代に入っていると受けとめられていました。道綽禅師がお生まれになったのは、末法に入って十一年目のことであったとされていたのです。 しかも、前回述べました通り、道綽禅師は、厳しい仏教弾圧の事件を身をもって経験されましたから、末法の世を生きて、そこで仏法を学び、仏教を守らなければならないという自覚が、私たちが想像する以上に強かったことでしょう。 末法という危機意識のほかに、「法華〈ほけ〉経〈きょう〉」や「仏説〈ぶっせつ〉阿弥陀〈あみだ〉経〈きょう〉」には、すでに「五〈ご〉濁〈じょく〉の悪〈あく〉世〈せ〉」ということが説かれていましたから、その自覚も高まっていたことと思われます。 「五濁」というのは、この連載の第18回目に説明したことですが、末の世において、人間が直面しなければならない五種類の濁り、汚れた状態を言います。それは、劫濁〈こうじょく〉・見濁〈けんじょく〉・煩悩濁〈ぼんのうじょく〉・衆生濁〈しゅじょうじょく〉・命濁〈みょうじょく〉の五つです。 「劫濁」の「劫」は、「時代」という意味ですから、それは、「時代の汚れ」ということになります。疫病や飢饉、動乱や戦争が続発するなど、時代そのものが汚れる状態です。 「見濁」の「見」は、「見解」ということで、人びとの考え方や思想です。したがって、邪悪で汚れた考え方や思想が常識となってはびこる状態です。 「煩悩濁」は、煩悩による汚れということで、欲望や憎しみなど、煩悩によって起こされる悪徳が横行する状態です。 「衆生濁」は、衆生の汚れということで、人びとのあり方そのものが汚れることです。心身ともに人間の質が低下する状態です。 「命濁」は、命の汚れということで、自他の生命が軽んじられる状態です。また生きることの意義が見失われ、生きていることのありがたさが実感できなくなり、人びとの生涯が充実しない虚しいものになってしまうことです。 さて、このような末法の時、しかも五濁の世にあっては、自力によって厳しい修行を重ね、覚りに近づこうとする聖道門の教えは、事実上、不可能な教えであるというのが道綽禅師の指摘なのです。 悪時・悪世に生きる凡〈ぼん〉夫〈ぶ〉であればこそ、すべての人を浄土に迎えたいと願われるのが阿弥陀仏の本願です。そしてこの本願の力によって私たちに与えられているのが「南無阿弥陀仏」という念仏です。自力を捨てて阿弥陀仏の本願に従うという他力の念仏の教え、それが浄土門です。 末法・五濁の世では、この浄土門の教えしか残されていないと、道綽禅師は教えておられるのです。そして、その教えを親鸞聖人は大切にして受け継がれ、念仏をありがたく受け取っておられるのです。 
他力の念仏
万善自力貶勤修
円満徳号勧専称
万善〈まんぜん〉の自〈じ〉力〈りき〉、勤修〈ごんしゅ〉を貶〈へん〉す。
円満〈えんまん〉の徳号〈とくごう〉、専称〈せんしょう〉を勧〈すす〉む。
釈尊は、すべての人がご自分と同じように、仏(目覚めた人)になってほしいと願われました。眼の前の利害得失から離れて、人生の真実に目覚めることによって、一切の悩み苦しみを解決し、心豊かに生涯を尽くしてほしいと願われたのです。 道綽禅〈どうしゃくぜん〉師〈じ〉は、釈尊のみ教えにしたがって、仏に成るための道を歩むのには、「聖道門〈しょうどうもん〉」と「浄土門」との、二つの道があることを教えられました。 「聖道門」は、覚りを妨げる煩悩を克服するために、自らの能力を信じて、厳しい修行に励む道です。この道を進むには、常に起こる怠け心をおさえ、また、さまざまな誘惑に打ち勝って、ひたすら努力を積み重ねて、努力の成果をあげなければなりません。つまり「難行道〈なんぎょうどう〉」です。 しかし、釈尊のご在世の時であればともかく、今や、時代が遠く隔たった末法〈まっぽう〉五〈ご〉濁〈じょく〉の世であると教えられています。このような世においては、邪悪な考え方がはびこり、欲望が深まります。何よりも、人間の資質が衰えてしまっているのです。 そのような状況のもとで、はたして、自分の努力の成果を期待することが適切なことであるのかどうか、それが問題なのです。できるはずがないと、お経に教えられていることを、できると信じて実行しようとすることは、かえって、教えに対する思い上がりとなり、また自分に対して不誠実であるということになります。 道綽禅師は、そのような厳しい眼を、ご自分の身に向けられたのです。そして、ややもすれば起こりがちな思い上がりを捨て、ご自分に誠実であろうとされたのです。力のない凡〈ぼん〉夫〈ぶ〉を何としても助けたいと願われる阿弥陀仏の本願に素直に従おうとされたのです。そのような自覚から開かれてくるのが「浄土門」であり、「易〈い〉行道〈ぎょうどう〉」であると、教えられたのです。 自分の力では仏に成ることができない凡夫を浄土に迎え、そこで仏に成らせようとされるのが阿弥陀仏の願っておられることです。しかも、煩悩に覆われて、自分の力では浄土に往生する原因を作れない凡夫をそのままで往生させるために、阿弥陀仏が施し与えておられる「南無阿弥陀仏」を、そのまま受け取って称えるように勧められているのです。 「万善の自力」というのは、仏道を成し遂げるために、自分の力を信じて実践しようとするさまざまな修行のことです。つまり「聖道門」のことです。道綽禅師は、そのような修行に勤め励もうとすることは誤りであるとして、それを退けられたのです。「貶する」というのは、退ける、という意味です。 こうして、善いとされるさまざまな自力の修行を退けられた道綽禅師は、「円満の徳号」を専〈もっぱ〉ら称えることを人びとにも勧められたのです。「円満の徳号」とは、すぐれた功徳が完璧にそなわった名号〈みょうごう〉、すなわち「南無阿弥陀仏」です。 いま「功徳」という言葉を使いましたが、それは、善い行いによって生ずる善い結果のことをいいます。浄土の教えでは、凡夫の善い行いによって生ずる善い結果ではなくて、阿弥陀仏が善い原因をお作りになって、それによって生ずる善い結果が私たちに振り向けられているとされています。 阿弥陀仏の功徳としての名号が、なぜ「円満」なのかということですが、それは、あくまでも、私たちの思いによって称える名号ではないからです。私たちの思いによって称える「南無阿弥陀仏」であれば、そこには、どうしても、私たち凡夫の都合が入り混じりますから、偏りがあって、欠けるところがあるのです。 「南無阿弥陀仏」という名号は、本願力という、私たちからすれば他力となるはたらきによって、私たちに回向されているものなのです。阿弥陀仏の願いとして、施されている名号ですから、円満なのです。他力にしたがう念仏だからです。 ご自身にとても厳しい眼を向けられた道綽禅師の教えを、同じようにご自分に厳しい眼を向けられた親鸞聖人は、感銘深く讃嘆しておられるのです。そしてその教えの通りに、愚かで誤った「はからい」から離れて、阿弥陀仏が願ってくださっていることに、素直にしたがうよう、教えておられるのです。 
三不三信の教え
三不三信誨慇懃
像末法滅同悲引
三〈さん〉不〈ぷ〉三信〈さんしん〉の誨〈おしえ〉、慇懃〈おんごん〉にして、
像末法滅〈ぞうまつほうめつ〉、同じく悲引す。
「三不三信の誨」とありますのは、道綽禅〈どうしゃくぜん〉師〈じ〉が、三不信と三信との区別をはっきりさせて、それを懇切丁寧に教えてくださった、ということです。「慇懃」というのは、懇切丁寧ということです。 天親〈てんじん〉菩薩は、「浄土論」の冒頭に、「世〈せ〉尊〈そん〉我〈が〉一心〈いっしん〉帰〈き〉命〈みょう〉尽十方〈じんじっぽう〉無碍〈むげ〉光如来〈こうにょらい〉願生〈がんしょう〉安楽国〈あんらくこく〉」(世〈せ〉尊〈そん〉、我〈われ〉一心に、尽十方〈じんじっぽう〉無碍〈むげ〉光如来〈こうにょらい〉に帰〈き〉命〈みょう〉して、安楽国に生まれんと願ず)と述べておられます。これは、天親菩薩が、遠い昔に亡くなっておられる釈尊に向かって、強い決意を表明されたものです。すなわち「私は、釈尊の教えにしたがって、一心に、阿弥陀仏に帰命して、極楽浄土に生まれることを願います」ということです。 ここに述べられた「一心に帰命する」というのは、他の何ものをも混じり合わせないで、ただひたすらに阿弥陀仏に帰依するという、深い信心〈しんじん〉を言い表されたお言葉です。 この「浄土論」に対して、曇鸞大〈どんらんだい〉師〈し〉が註釈をお作りになりました。それが「浄土論註」です。曇鸞大師は、天親菩薩の「一心」を解釈されるのに、その信心の純粋さに驚かれたのでしょうか。そして、それに比べて、ご自分の信心の頼りなさを痛感されたのでしょうか。 曇鸞大師は、「一心」でない凡〈ぼん〉夫〈ぶ〉の信心を三つに開いて、「不〈ふ〉淳〈じゅん〉の信心」「不〈ふ〉一〈いつ〉の信心」「不相続の信心」とされました。これが「三不信」です。「不淳」は、信心が純粋でなく、あるようにも見えるけれども、実はないに等しい信心です。だからその信心は「不一」なのです。自力のはからいが入り混じっていて、徹底していない信心です。したがって、そのような信心は、「不相続」なのです。徹底していないから、信心が持続しないのです。このような「三不信」でない「三信」が、天親菩薩の「一心」であると、曇鸞大師は教えられたのです。 曇鸞大師が述べられた「三不信」の反対側、つまり「三信」について、道綽禅師が「安楽集〈あんらくしゅう〉」のなかで、詳しく丁寧に説明なさっているのです。自力の信心が「三不信」であるのに対して、他力の信心は、純粋で混じりものがなく(淳心)、ふたごころがなくて散乱することもなく(一心)、一貫して持続する(相続心)と教えられるのです。 次の「像末法滅」は、「像法〈ぞうぼう〉」と「末法〈まっぽう〉」と「法滅〈ほうめつ〉」です。仏滅後の五百年は、教えが正しく伝わる「正法」の時代とされます。その後の一千年は像〈かたち〉ばかりの教えが残る「像法」です。この時は、教えも修行も像ばかりですから、証〈さとり〉が得られないのです。さらにその後の一万年が「末法」です。かろうじて教えは伝わっているけれども、行も証もともなわない時代です。その一万年が過ぎると、「法滅」となり、仏法は完全に衰滅するとされているのです。「法滅」の後は、やがて遠い未来に次の仏が世に出られて、また「正法」の時代に入るとされています。 道綽禅師は、ご自分が「末法」の世に生きていることを強く意識しておられました。そして、同じように、証が得られなくなっている「像法」と「末法」の世を悲しまれたのです。また仏法にまったく触れることができなくなる「法滅」の世についても、深く悲しまれたのです。 そのような時機には、凡夫の自力は、何の役にも立たないのですから、阿弥陀仏は、それを哀れんで、すべての人びとを救いたいという大きな願いを発〈おこ〉しておられたのです。阿弥陀仏は、無量寿如来ともお呼びしますが、無量寿をそなえておられる阿弥陀仏は、「像法」「末法」「法滅」の世の人びとを浄土に迎え入れて救いたいと願われ、「南無阿弥陀仏」という念仏を授け与えておられるのです。これが他力の念仏です。そして、この他力の念仏を素直にいただこうとする心が、他力の信心です。 他力の信心をいただくのに、道綽禅師は、曇鸞大師が述べられた「三不信」と「三信」との意味を明らかにされ、「三信」によらなければならないことを丁寧に教えられたのです。 親鸞聖人は「同じく非引す」と詠っておられるように、道綽禅師が、これらの時機の人びとを等しく哀れんで、他力の信心の教えに導き入れようとしてくださったと、讃えておられるのです。 
誓願に遇うということ
一生造悪値弘誓
至安養界証妙果
一生〈いっしょう〉悪を造れども、弘〈ぐ〉誓〈ぜい〉に値〈もうあ〉いぬれば、
安養界〈あんにょうかい〉に至りて妙〈みょう〉果〈か〉を証せしむと、いえり。
道綽禅〈どうしゃくぜん〉師〈じ〉は、仏教を学ぶ学び方に二つあることを教えられました。自力の聖道門〈しょうどうもん〉と他力の浄土門です。 自分の能力を信じて修行に励み、それによって仏のさとりに近づこうとするのが聖道門です。しかしこれは、釈尊ご在世の時から遠くへだたり、しかも、次第に資質が衰えてきている凡〈ぼん〉夫〈ぶ〉にとっては、まさに難行〈なんぎょう〉であるとして、道綽禅師はこれを退けられたのでした。 そして、末の世の劣悪な凡夫にとっては、一人ももらすことなく、すべてをすくい取りたいと願われる阿弥陀仏の本願の力の他に、何も頼るものはないことを明らかにされたのです。 さまざまな善に励んで、さとりに近づこうとするのは、自分というものを知らない人のなすことであって、完全な徳がそなわっている「南無阿弥陀仏」をいただいて、もっぱら称えることが、自分に正直な、そして末法〈まっぽう〉の世にふさわしい唯一の道であるとされたのです。 そのような教えについて、「一生造悪〈いっしょうぞうあく〉値弘〈ちぐ〉誓〈ぜい〉至〈し〉安養界証妙〈あんにょうかいしょうみょう〉果〈か〉」(一生悪を造れども、弘誓に値いぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむ)と道綽禅師が言っておられるとして、親鸞聖人は、道綽禅師の教えをしめくくっておられるのです。 たとえ、一生の間を通じて、さまざまな悪を作る者であっても、阿弥陀仏の広大な誓願に遇うことになれば、阿弥陀仏の極楽浄土に往生して、そこで仏のさとりを得るのであることを教えられた、ということです。 「弘誓」は阿弥陀仏の誓願です。阿弥陀仏は、仏になられる前、法蔵〈ほうぞう〉という名の菩薩であられましたが、法蔵菩薩は、心から浄土に生まれることを求める人びとを、すべて、ご自分の浄土に迎え入れようと願われました。そして、その願いが成就しないのであれば、ご自分は仏にはならないという誓いを立てられたのでした。そして、法蔵菩薩は阿弥陀仏になられたのでした。 「悪を造る」と言われていますが、その「悪」は、もちろん、法律上の罪を犯したり、世の道徳に反する行為をも言うのですが、それだけではありません。何よりも、釈尊が明らかにされた真実、人が生きる普遍の道理、それに背くのを「悪」というのです。 「安養界に至る」と言われる「安養界」は、心が安らかとなり、身が養われる世界ということで、阿弥陀仏の極楽浄土のことです。一生の間、悪をなし続ける者も、浄土に至る、つまり往生する、と教えられているわけです。 「妙果」とは、ことにすぐれた結果ということで、「仏のさとり」を意味します。したがって、一生の間、悪をなすものも、阿弥陀仏の誓願に遇うことになれば、阿弥陀仏の極楽浄土に往生して、そこで、仏になる、ということです。 ところで、一生、悪をなしてきた者が、どうして、浄土に往生し、そして仏になるのか、ということですが、それは、「弘誓に値いぬれば」ということによるのです。道理に逆らい、真実を疑う者が、往生して仏になれるのは、それは、それが阿弥陀仏の願っておられることであり、誓っておられることだからなのです。それ以外の理由ではないのです。 道綽禅師は「安楽集〈あんらくしゅう〉」という著作を残しておられますが、その中に述べられている一つの喩えが、親鸞聖人の「教行信証〈きょうぎょうしんしょう〉」に引用されています。 それによりますと、ひどい悪臭を放つ伊〈い〉蘭〈らん〉という樹が茂る林があって、その林の地中に、一株の芳ばしい香りを放つ栴檀〈せんだん〉の樹の根があり、栴檀が芽を出すまでは、耐え難いほどの悪臭が充満しているけれども、栴檀が芽を出し始めると、たちどころに、その伊蘭樹の林が、栴檀の芳ばしい香気に包まれた林に変わってしまう、というのです。 伊蘭樹の林は私たちの生涯です。栴檀の芽は、阿弥陀仏の誓願を歓び、信ずる心を喩えたものです。その芽が出始めると、私たちの生涯は、そのまま誓願のはたらく生涯となるのです。 悪をなす者が往生して仏になるということは、誓願によることであり、「誓願不可思議」と言われます通り、それは私たちの知性や論理でははかりきれない出来事なのです。 
善導大師
善導独明仏正意
善導〈ぜんどう〉独り、仏の正意〈しょうい〉を明かせり。
親鸞聖人は、「正信偈」に、七人の高僧がたのお名前をあげて、その方々の徳を讃えておられます。この七高僧が、間違いのない念仏の教えを、親鸞聖人のところにまで、正しく伝えてくださったことを歓んでおられるのです。 七高僧のうち、インドに出られた龍樹大士〈りゅうじゅだいじ〉と天親〈てんじん〉菩薩については、すでに見ていただきました。次に、中国の曇鸞〈どんらん〉大師と道綽禅師〈どうしゃくぜんじ〉のお二人についても、これまでに見ていただいたところです。 中国に出られた三人目の高僧が善導大師でありましたが、この善導大師について、親鸞聖人は、どのようなことを私たちに教えておられるのか、今回から、それをうかがって参りたいと思います。 善導大師(六一三―六八一)は、若くして出家され、はじめ「維摩経〈ゆいまきょう〉」や「法華経〈ほけきょう〉」などのお経を学ばれました。のちに、たまたま「観無量寿経〈かんむりょうじゅきょう〉」に出遇われ、このお経に説かれている念仏の教えを深く学ばれたのです。 しかし、念仏といっても、それは、古くから中国の仏教界で行われていた、修行としての念仏だったのです。心の雑念を払いのけて、心を純粋に保って集中させるという、三昧〈さんまい〉の行です。この行によって、阿弥陀仏のお姿と阿弥陀仏の極楽浄土のありさまを心に観察する「観想〈かんそう〉の念仏」だったのです。のちに善導大師が教えられた「称名〈しょうみょう〉の念仏」とは、まるで異なる念仏でありました。 善導大師は、このような「観想の念仏」の修行に懸命に励まれて、やがてある一定の境地を体験されたと伝えられています。しかし、この「観想の念仏」に強く疑問を感じ取られたようでした。 その頃、遠くの玄中寺〈げんちゅうじ〉というお寺に道綽禅師がおられました。道綽禅師は、主として「観無量寿経」によって、念仏の教えを広めておられたのですが、そのことを、善導大師は伝え聞かれたのでした。そこで大師は、さっそく、厳しい冬の難路をさまよいながら、玄中寺に向かわれたのでした。 玄中寺といえば、その昔、曇鸞大師が、本願他力の教えを説いておられたところでありました。曇鸞大師が亡くなられて七〇年ほどのちに、「涅槃経〈ねはんぎょう〉」の学僧であられた道綽禅師が、旅の途中でたまたま玄中寺に立ち寄られ、曇鸞大師の徳を讃えた石碑の文をお読みになり、曇鸞大師の教えに深く感銘を受けられたのでした。そして、これまでの思いを翻して、深く浄土の教えに帰依されたのでした。そして道綽禅師は、曇鸞大師の徳を慕って、そのまま玄中寺に住みついておられたのでした。 その玄中寺を訪ねられた善導大師は、道綽禅師から親しく「観無量寿経」の講説をお聞きになり、本願他力の念仏の教えに目覚められたのです。それは、道綽禅師が八十歳、善導大師の二十九歳のときであったと伝えられています。 その後、善導大師は、唐の都の長安に移られ、光明寺〈こうみょうじ〉というお寺を中心に、「称名の念仏」の教えをお説きになり、広く民衆を教化されたのでした。善導大師の教えは、自己の愚かさを厳しく自覚させ、それ故にこそ、阿弥陀仏から回向〈えこう〉されている他力の「称名の念仏」によって浄土に往生することを深く歓ぶという、とても情熱的な教えであったのです。 中国には、浄土の教えに三つの流れがありました。その第一は、廬山〈ろざん〉流といわれているもので、廬山の東林寺におられた慧遠〈えおん〉法師(三三四―四一六)が、多くの同志とともに、阿弥陀仏像の前で修行しておられた自力の「観想の念仏」の伝統でした。第二は善導流で、今の、曇鸞大師・道綽禅師・善導大師と次第して伝えられた他力の「称名の念仏」です。そして第三は慈愍〈じみん〉流の念仏で、慈愍慧日〈えにち〉(六八〇―七四八)という三蔵法師が唱えられた念仏と禅とを融合させた念仏禅でした。 このうち、日本に伝えられて栄えたのが、善導流の浄土教だったのです。日本の法然上人(一一三三―一二一二)が、「偏依善導一師〈へんねぜんどういっし〉」(偏〈ひとえ〉に善導一師に依る)と宣言され、それが親鸞聖人に受け継がれたのでした。 
独り仏の正意を明かす
善導独明仏正意
善導〈ぜんどう〉独り、仏の正意〈しょうい〉を明かせり。
前回から、「正信偈」の「善導章」を見ることになりました。親鸞聖人が、善導大師〈ぜんどうだいし〉の教えを簡潔に紹介され、善導大師の徳を讃えておられる部分です。 善導大師は、いくつもの著書を残しておられますが、その代表的な著作は、「観無量寿経疏〈かんむりょうじゅきょうしょ〉」(四巻)です。これは「仏説観無量寿経」(「観経」)の註釈で、略して「観経疏〈かんぎょうしょ〉」と言われています。また、「観経疏」は四巻からなりますので、「四帖疏〈しじょうしょ〉」とも呼ばれています。 「観経」は、古代インドのマガダという国で起こされた事件が題材になっているお経です。マガダ国の王子の阿闍世〈あじゃせ〉が、父の頻婆娑羅〈びんばしゃら〉王を幽閉して、食べ物も飲み物も与えずに、死に至らしめたという事件です。王妃の韋提希夫人〈いだいけぶにん〉は、夫である王を救おうとして、ひそかに食べ物や飲み物を牢獄に運んだのです。 しかし、それが発覚して、韋提希は、激怒した王子に刃を向けられ、今にも殺害されそうになったのです。その場に居合わせた大臣たちが王子を押しとどめたので、韋提希は殺されずに済みましたが、宮殿の奥深い部屋に閉じ込められたのです。頻婆娑羅王は間もなく亡くなりました。 韋提希にしてみれば、敬愛する夫が殺されたこと、しかも殺したのは自分が生み育てた王子であったこと、さらには、夫が殺されないように、息子が殺人者にならないように、二人を救おうとした自分が息子に刃を向けられたこと、このような深刻な苦悩の中に突然投げ込まれたのでした。 韋提希は、釈尊に救いを求めました。釈尊は韋提希のために、浄土に往生する教えをお説きになりました。教えを聞いた韋提希は、阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを願い、この教えによって、心に歓喜〈かんぎ〉をおぼえ、立ち直ることができたのです。 善導大師(六一三―六八一)よりも前に、「観経」の註釈はいくつも著されていました。地論宗〈じろんしゅう〉の慧遠〈えおん〉(五二三―五九二)、天台宗の智〈ちぎ〉(五三八〜五九七)、三論宗〈さんろんしゅう〉の吉蔵〈きちぞう〉(五四九〜六二三)などが、いずれもすぐれた註釈を著しておられたのです。 地論宗は、天親〈てんじん〉菩薩の「十地経論〈じゅうじきょうろん〉」をもっぱら依りどころにする宗派で、慧遠法師はその最高の学僧だったのです。天台宗は、「法華経〈ほけきょう〉」を依りどころにして、仏教の思想を大きく発展させた宗でした。その開祖が天台大師智だったのです。三論宗は、龍樹大士〈りゅうじゅだいじ〉などの著作を依りどころにして、「空〈くう〉」の思想を大成させた学派で、その指導者が吉蔵という学僧だったのです。 善導大師は、ご自分の「観経疏」のことを「古今楷定〈ここんかいじょう〉」と名づけておられます。これは、「古の人の解釈と今(ご自分)の解釈とを比べて、解釈を正しく確定した」という程の意味です。それでは、どのように解釈が違うのでしょうか。 諸師の間にも、それぞれに解釈の違いはありますが、共通していることは、諸師はいずれも、韋提希を「大権〈だいごん〉の聖者〈しょうじゃ〉」と見ておられるということです。「観経」には、韋提希は愚かな凡夫〈ぼんぶ〉として説かれていますが、それは、聖者が、大衆を導くための方便として、仮にそのような姿をとっているのだと解釈されたのです。このため、「観経」は、聖者が往生するためのお経ということになります。 これに対して、善導大師は、韋提希を「実業〈じつごう〉の凡夫」と解釈しておられます。韋提希は聖者などではなく、文字通りの愚かな凡夫であり、悩み苦しみをもって生きなければならない凡夫の一例であると見ておられるのです。ですから、「観経」は、凡夫のために、浄土往生の教えが説かれているお経ということになるのです。 また、諸師は、厳しい修行によって、浄土のありさまを心に念じ続ける「観想〈かんそう〉の念仏」によらなければならないとされました。これに対して、善導大師は、そのような、特定の人にしかできない修行を求めることは、釈尊の教えのご本意ではないとして、誰もが称えられる「称名〈しょうみょう〉の念仏」こそが往生の道であると説かれたのです。 このため、親鸞聖人は、「善導独り、仏の正意を明かせり」として、讃えておられるのです。 
悲しい凡夫を哀れむ
矜哀定散与逆悪
定散〈じょうさん〉と逆悪〈ぎゃくあく〉とを矜哀〈こうあい〉して、
善導大師〈ぜんどうだいし〉は、誰もが称えられる「称名〈しょうみょう〉の念仏」こそが往生の道であると教えられました。力のない愚かな凡夫が救いとられる教えこそが、釈尊のご本意であることを明らかにされたのでした。 永い仏教の歴史のなかで、インドにも、中国にも、多くのすぐれた仏教者、思想家が出られましたが、善導大師ただお一人だけが、私たち凡夫に対して、もっとも厳しくも、もっともやさしいまなざしを向けてくださっていることを、親鸞聖人は、感動をこめて讃えておられるわけです。 親鸞聖人は、その善導大師の徳を讃えて、「矜哀定散与逆悪〈こうあいじょうさんよぎゃくあく〉」(定散と逆悪とを矜哀して)と述べておられます。すなわち、定散の人びと、そして逆悪の凡夫は、悲しい生き方をせざるを得ない人びととして、これらを善導大師は、痛ましく、哀れに思っておられた、ということです。 「矜哀」の「矜」も「哀」も、どちらも「あわれむ」という意味です。また、「与」は、「…と…と」という意味を表す文字です。そして「定散」は、「定善〈じょうぜん〉」と「散善〈さんぜん〉」のことです。また「逆悪」は「五逆〈ごぎゃく〉」と「十悪〈じゅうあく〉」とを短く言い表した言葉です。 「観無量寿経〈かんむりょうじゅきょう〉」は、思いもかけない出来事によって、深い悩み苦しみを経験することになった、韋提希〈いだいけ〉という女性の悲しみが素材となっています。 古代インドのマガダ国の王子の阿闍世〈あじゃせ〉が、父の頻婆娑羅〈びんばしゃら〉王を牢獄に幽閉したのです。王子の母であり、王の妃である韋提希夫人〈ぶにん〉は、何とかして王を救おうとして、ひそかに食べ物などを牢獄に運んだのです。それが発覚して、王子の怒りをかい、韋提希自身も斬り殺されそうになったのでした。韋提希は殺されずに済みましたが、宮殿の一室に閉じ込められ、程なく頻婆娑羅王は亡くなったのでした。 絶望した韋提希は、釈尊に救いを求めます。そして、憂い悩みのない、阿弥陀仏の極楽世界に生まれたいと願ったのです。釈尊はその願いに応えて、極楽浄土へ往生する方法として、十六項目の教えをお説きになったのです。 そのうちの初めの十三項目は、阿弥陀仏の浄土のありさまや、阿弥陀仏のお姿を、心に想い浮かべる観察の方法(十三観)が説かれています。後の三項目には、人びとがそれぞれの性質や能力に応じた修行によって、浄土に往生する様子(三観)が述べてあるのです。 善導大師は、前の十三観を「定善」とされ、後の三観を「散善」と見ておられます。「定善」は、雑念を除き、精神を一点に集中する安定した修行によっておこなう善です。一方の「散善」は、日常の散乱した心のままで修める善なのです。 「定善」にしても、「散善」にしても、結局は、それは、自分の力を頼りにして修める自力の善なのです。ですから、善導大師は、これらの人びとを、自力という深い迷いにある者として哀れんでおられるのです。しかし善導大師は、定散の二善を、他力真実の念仏に出遇う「縁」になると見ておられるのです。 「五逆」は、@父を殺すこと、A母を殺すこと、B阿羅漢〈あらかん〉(聖者〈しょうじゃ〉)を殺すこと、C仏のお体を傷つけること、D僧伽〈サンガ〉(教団)の調和を破壊して分裂させることです。このうち、前の二つは、阿闍世が該当します(母を殺しませんでしたが、殺そうとしました)。後の三つは、釈尊に反逆した提婆達多〈だいばだった〉がおこなったことです。 「十悪」は、@生きものを殺すこと、A盗みをはたらくこと、Bよこしまな男女関係をもつこと、C嘘をつくこと、D二枚舌を使うこと、Eののしること、Fへつらうこと、G貪ること、H立腹すること、I愚かであることです。 善導大師は、「定善」と「散善」の善人も、「五逆」と「十悪」の悪人も、どちらも痛ましいことと悲しまれ、哀れんでおられるのです。悪人はもとより、自力に迷う善人も、阿弥陀仏から施し与えられている念仏、「南無阿弥陀仏」を素直に受け取ることこそが、本当の意味での救いになること、感謝のうちに自分の人生を見直すことになることを教えておられるのです。 親鸞聖人は、自力に迷い、時として悪を犯す私たちにとって、他力の称名念仏こそが救いになると述べておられるのです。 
光明と名号
矜哀定散与逆悪
光明名号顕因縁
定散〈じょうさん〉と逆悪〈ぎゃくあく〉とを矜哀〈こうあい〉して、
光明名号〈こうみょうみょうごう〉、因縁〈いんねん〉を顕〈あらわ〉す。
まず、「矜哀定散与逆悪〈こうあいじょうさんよぎゃくあく〉」(定散と逆悪とを矜哀して)と述べてあります。善導大師〈ぜんどうだいし〉は、定善〈じょうぜん〉と散善〈さんぜん〉の人びと、そして五逆〈ごぎゃく〉と十悪〈じゅうあく〉の凡夫〈ぼんぶ〉を哀れんでおられるのでありました。それは、前回、少し詳しく見ていただいた通りです。 「定善」にしろ、「散善」にしろ、これらは自力によることです。自力に頼るということは、自分を見誤ると同時に、阿弥陀仏の願いに背いていることに気づいていないことになります。それを、善導大師は悲しまれ、哀れんでおられるのです。 また、「五逆」とか「十悪」とか、重い罪を犯すという、そのような悲しい生き方をせざるを得ない人びとを、善導大師は、痛ましく、哀れんでおられるのです。 善導大師が哀れみをかけておられるのは、他の誰かのことではなくて、実は、今の私たちのことなのです。常に自力に迷い、また縁があればどのような罪悪をも犯す私たちのことです。親鸞聖人も、ご自身のことを、そのように、危うい、悲しい凡夫であると見ておられたのではないでしょうか。 「光明名号顕因縁〈こうみょうみょうごうけんいんねん〉」(光明名号、因縁を顕す)とありますが、その「光明」は阿弥陀仏の智慧〈ちえ〉のはたらきを意味します。光明は、暗闇を破ります。自力に迷い、道理について無知・無自覚である私たちの心の暗闇は仏の智慧の光によって破られるのです。 しかし、仏の智慧の光明が、どこからか射し込んで来るというのではないでしょう。それは、阿弥陀仏の本願が、この私に差し向けられていることに私が気づかされたとき、つまり、私は、深い願いに包まれて生きていることに気づかされたときに、私は私の心の誤りを思い知らされ、道理に目覚めさせられるのです。それが、無知の暗闇が破られるという、本願の光明のはたらきなのです。 「名号」とは「南無阿弥陀仏」です。これも、私のために起こされている阿弥陀仏の願いによって私に届けられているものです。「南無阿弥陀仏」は、「阿弥陀仏に帰命〈きみょう〉する」ということです。すなわち、「阿弥陀仏を心から敬います」ということなのです。 しかし、それを平たく言い換えるならば、「阿弥陀仏におまかせいたします」という意味になると思います。私は、どう考えても、自力では浄土に往生する原因は作れないのです。そんなことはわかりきっていることですから、阿弥陀仏は、「余計なことはしなくてよろしい。私にまかせなさい」と呼びかけておられるのです。その呼びかけに従って、「おまかせいたします」というのが、「南無阿弥陀仏」なのではないでしょうか。 次に「因縁」ですが、「因」は「原因」です。「縁」は、原因となるものに直接かかわる「条件」です。つまり、「原因」と、それをとりまく「条件」とを「因縁」というのです。「原因」と「条件」の組み合わせによって、一つの「結果」が生ずることを「因縁」というのです。 さて、「光明名号顕因縁」(光明名号、因縁を顕す)とあります。順序は逆ですが、善導大師が顕らかにされたのは、「名号」が「因」(原因)であり、「光明」が「縁」(条件)となっているということです。 本願によって私たちに与えられている「名号」が、「信心」の原因となります。その「名号」つまり「南無阿弥陀仏」が、私に与えられていることに気づかせていただく条件となるのが、本願による智慧の「光明」であると、善導大師は教えておられるわけです。 「信心〈しんじん〉」というのは、私が私の思いによって起こすものではなくて、阿弥陀仏の願いが原因で私に起こるものであり、その願いが私に向けられていることに気づかされることが「信心」の条件となっている、ということなのです。 阿弥陀仏が私たち一人一人に願っておられる、その願いに素直に従う心、それが「信心」でありますが、今こそ、その「信心」が私たちに不可欠であるとして、善導大師は、その「信心」の意味を顕らかにしてくださったのです。 
金剛の信心
開入本願大智海
行者正受金剛心
本願の大智海〈だいちかい〉に開入すれば、
行者〈ぎょうじゃ〉、正〈まさ〉しく金剛心〈こんごうしん〉を受けしめ、
親鸞聖人は、多くの方々が「観無量寿経〈かんむりょうじゅきょう〉」を学んでこられたけれども、善導大師〈ぜんどうだいし〉、ただお一人だけが、仏の正しいお心を明らかにされた(善導独明仏正意〈ぜんどうどくみょうぶっしょうい〉)と述べて、善導大師を讃えておられます。 その善導大師は、自分の努力によって心を静めて浄土を見つめようとする人(定善〈じょうぜん〉)も、散乱した心ながらも善を修めることによって浄土を求める人(散善〈さんぜん〉)も、さらに、五逆〈ごぎゃく〉とか十悪〈じゅうあく〉という罪悪を犯す人びとにも、等しく哀れみの心を向けられたのでした(矜哀定散与逆悪〈こうあいじょうさんよぎゃくあく〉)。 そして善導大師は、本願によってすべての人に与えられている「南無阿弥陀仏」という他力の名号〈みょうごう〉が、定善や散善、五逆や十悪などの人びとの信心〈しんじん〉の因となり、阿弥陀仏の智慧〈ちえ〉の光明が信心の縁となることを顕らかになさったのでした(光明名号顕因縁〈こうみょうみょうごうけんいんねん〉)。 これに続けて、親鸞聖人は、善導大師の教えについて、「開入本願大智海〈かいにゅうほんがんだいちかい〉行者正受金剛心〈ぎょうじゃしょうじゅこんごうしん〉」(本願の大智海に開入すれば、行者、正しく金剛心を受けしめ)と、詠っておられるわけです。 「本願の大智海」は、本願によってはたらく、海のように広く深い仏さまの智慧です。「正信偈」には、「本願海〈ほんがんかい〉」という言葉があります。「本願海」と「大智海」は、慈悲と智慧の関係です。 また、「群生海〈ぐんじょうかい〉」という言葉もあります(前掲に同じ)。本願の海、大智の海、それは同時に、五濁〈ごじょく〉の悪時に生きている私たち群生の海でもあるのです。私たちは、本願の海、大智の海でなければ、生きられない生きものなのです。 海は、どのような源から流れ出る川の水も、また、どのような所を流れて下ってきた水も、みな同じ塩味にしてしまうのです。そして、海は、生きものを養い育てるところなのです。生きているものでなければ、海にはとどまることができないのです。 親鸞聖人のご和讃に、「名号不思議の海水〈かいしい〉は逆謗〈ぎゃくぼう〉の屍骸〈しがい〉もとどまらず衆悪〈しゅあく〉の万川帰〈ばんせんき〉しぬれば功徳〈くどく〉のうしおに一味〈いちみ〉なり」という一節があります。不可思議な名号という海水は、五逆を犯す人や、仏法を謗る人のような死骸は留め置かないのだけれども、そのような悪であっても、すべての川の水が海に注いで一つの塩味になるように、すべて等しく、名号のすぐれたはたらきによって、信心をいただいて、活き活きと生きてゆけるようになると、教えておられるのです。 「開入」は、開示帰入〈かいじきにゅう〉の省略で、見失っているものが、開かれて示され、それに立ち戻らされて迎え入れられる、ということです。「定善や散善、五逆や十悪の人であっても、開き示された本願による大智に立ち戻らせられたならば」という意味になります。 そうすると、どうなるかということですが、この「行者」、すなわち、定善・散善・五逆・十悪などの人も、「正受金剛心」(正しく金剛心を受けしめ)とありますように、間違いなく、金剛のような堅い信心を受け取らせていただけるのです。 「金剛」は、ダイアモンドで、もっとも硬いものを喩えています。自分の思いによって起こす自力の信心は、もともと脆くて、壊れやすいものです。しかし、阿弥陀仏の本願の力によって施し与えられている他力の信心は、金剛のように硬く、壊れることがないのです。 「開入本願大智海」という句は、その前の句につなげて、「定散と逆悪とを矜哀す。光明・名号、因縁を顕して、本願の大智海に開入せしむ。行者、正しく金剛心を受けて、・・・」と読まれることがあります。これによりますと、「光明と名号が因縁となることを顕らかにする」ことによって、定散と逆悪とを「本願の大智海に開入させる」という意味になります。 いまは、親鸞聖人のご指示にしたがって、「定散と逆悪とを矜哀して、光明・名号、因縁を顕す。本願の大智海に開入すれば、行者、正しく金剛心を受けしめ」と読みました。「本願の大智海に開入するならば」「行者は金剛心を受けさせられることになる」という意味になります。 
慶喜の一念都
慶喜一念相応後
与韋提等獲三忍
即証法性之常楽
慶喜〈きょうき〉の一念相応して後〈のち〉、
韋提〈いだい〉と等しく三忍〈さんにん〉を獲〈え〉、
すなわち法性〈ほっしょう〉の常楽を証せしむ、といえり。
親鸞聖人は、さらに続けて善導大師〈ぜんどうだいし〉の教えを紹介しておられます。 人は、自分の力を頼りに、心を静める修行をして浄土を見つめようとする場合があります(定善〈じょうぜん〉)。また、散乱した心ながらも善を修めることによって浄土を求める場合があります(散善〈さんぜん〉)。さらにまた、五逆〈ごぎゃく〉とか十悪〈じゅうあく〉という悪を犯す場合があります。 しかし、どのような場合、どのような人であろうと、阿弥陀仏の智慧〈ちえ〉の光明の輝きが、それらの人びとにとって、真実の信心〈しんじん〉に目覚める「縁」となり、阿弥陀仏の大慈大悲によって誰にも等しく差し向けられている「南無阿弥陀仏」という名号が、真実の信心の「因」となると、善導大師は教えられるのです(光明名号顕因縁〈こうみょうみょうごうけんいんねん〉)。 そして、誤って、どのような方向に向かってしまった人であろうと、本願の智慧の輝きのなかに呼び戻されるのであるから(開入本願大智海〈かいにゅうほんがんだいちかい〉)、その人は、まさしく金剛のように硬い他力の信心を受け取らせてもらえるのである(行者正受金剛心〈ぎょうじゃしょうじゅこんごうしん〉)と、教えておられるのです。 親鸞聖人は、善導大師の教えについて、「慶喜一念相応後〈きょうきいちねんそうおうご〉与韋提等獲三忍〈よいだいとうぎゃくさんにん〉」(慶喜の一念相応して後、韋提と等しく三忍を獲)と続けておられます。 真実の信心に目覚めさせてもらった人の一念の喜びの心が、本願を発された阿弥陀仏のお心に合致(相応)するならば、その人は、韋提希夫人〈いだいけぶにん〉が得たのと同じ「三忍」を受け取ることになる、と教えられるのです。 「仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉」に、「あらゆる衆生〈しゅじょう〉、その名号を聞きて、信心歓喜〈しんじんかんき〉せんこと、乃至一念〈ないしいちねん〉せん」と説かれていますが、ここでは、それを「慶喜の一念」と述べてあるわけです。「南無阿弥陀仏」をいただき、本願に出遇った人の喜びです。 本願による名号、本願による信心を喜べる人は、どうなるのかということですが、それは、あの韋提希のようになる、と言われているのです。 韋提希夫人は、敬愛する夫である頻婆娑羅〈びんばしゃら〉王が、事もあろうに、自分が産み育ててきた王子の阿闍世〈あじゃせ〉によって死に至らしめられ、その上、それを助けようとした自分自身も宮殿の奥深くに幽閉されるという悲しみに遇ったのです。彼女は、苦悩の中から釈尊に教えを請うのでした。その求めに応じて説かれたのが「仏説観無量寿経〈かんむりょうじゅきょう〉」でありました。 「仏説観無量寿経」によりますと、韋提希は、釈尊のみ教えによって、阿弥陀仏と観音〈かんのん〉・勢至〈せいし〉の二菩薩を拝むことができて、歓喜の心を生じ、「無生法忍〈むしょうぼうにん〉」という悟りを得た、とされています。 ここに説かれる「無生法忍」(真理を確信する境地)を、善導大師は三つに分けて「三忍」とされたのです。「忍」は「認める心」というほどの意味です。 「三忍」は、喜忍〈きにん〉・悟忍〈ごにん〉・信忍〈しんにん〉の三つです。喜忍は、信心によって生ずる喜びの心、悟忍は、智慧の光明によって目覚めさせられた心、信忍は、本願を疑うことなく信ずる心です。そして、この「三忍」が、一念の信心のなかに同時にはたらくとされているのです。 阿弥陀仏の本願を心から喜べる人は、韋提希夫人がそうであったように、現在の生活のなかで、この「三忍」を得ることになると、善導大師は教えられるのです。 そして、そのことによって、「即証法性之常楽〈そくしょうほっしょうしじょうらく〉」(すなわち法性の常楽を証せしむ)と言われていますように、ただちに、真実(法性〈ほっしょう〉)こそが常に変わることのない、究極の安楽であることを会得することになる、と教えておられるのです。 「常」は、一定していて変わらないことです。「楽」は、苦に対する楽ではなくて、私たちが認識する苦と楽をともに超えた安楽のことを言っておられるのです。 
源信僧都
源信広開一代教
偏帰安養勧一切
源信〈げんしん〉、広く一代の教を開きて、
ひとえに安養〈あんにょう〉に帰して、一切を勧む。
これまでに、何度か申し述べてきました通り、親鸞聖人の「正信偈」は、古くから、大きく三つの段落に分けて学ばれてきました。 第一の段落は「総讃〈そうさん〉」といわれ、冒頭の「帰命無量寿如来〈きみょうむりょうじゅにょらい〉南無不可思議光〈なむふかしぎこう〉」という二行がそれに当たります。 第二は、「依経段〈えきょうだん〉」で「仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉」というお経に依って述べてある段落です。「依経段」には、まず「法蔵〈ほうぞう〉菩薩〈ぼさつ〉因〈いん〉位〈に〉時〈じ〉」という句から始まる「弥陀章」があります。ここには、阿弥陀仏の本願のいわれが述べられています。次に「釈迦章」があります。「如来〈にょらい〉所〈しょ〉以〈い〉興〈こう〉出世〈しゅっせ〉」という句から始まる段落です。ここには、「仏説無量寿経」をお説きになって、阿弥陀仏の本願のことを教えておられる釈尊の徳を讃えてあります。そしてその次に「依経段」の結びに当たる「結誡」といわれる部分があります。「弥陀仏本願念仏〈みだぶつほんがんねんぶつ〉」から始まる四行です。 第三の段落は、「依釈段〈えしゃくだん〉」です。これは、インド・中国・日本に出られた七人の高僧がたの、本願念仏についての教えの解釈にもとづいて述べてある部分です。ここに、親鸞聖人は、七高僧の教えの要点をかかげられ、七高僧の徳を讃嘆しておられるのです。 このうち、インドの龍樹大士〈りゅうじゅだいじ〉・天親〈てんじん〉菩薩、中国の曇鸞大師〈どんらんだいし〉・道綽禅師〈どうしゃくぜんじ〉・善導〈ぜんどう〉大師について述べられているところをすでに見てまいりました。今回からは、日本の源信〈げんしん〉・源空〈げんくう〉というお二人について、親鸞聖人が讃えておられるところに入るわけです。 その最初、六人目の高僧は、源信僧都〈そうず〉というお方です。源信僧都(九四二〜一〇一七)は、比叡山の恵心院〈えしんいん〉におられましたので、恵心僧都ともお呼びしています。 今の奈良県に誕生され、十三歳のときに出家して比叡山に上られ、そこで天台宗をはじめ、諸宗の教義を究〈きわ〉められたのでした。そして、並はずれた学識によって、広く名声を高められたのでした。 これによって、朝廷から、「僧都」という僧侶の高い位が授けられようとしたのですが、これを固辞して受けられませんでした。しかし、世の人びとは、このお方こそが「僧都」とお呼びするにふさわしい人であるとして、敬意をこめて、源信僧都とか、恵心僧都とか、そのように尊称するようになったのでした。 源信僧都は、世の名利を避けて、比叡山の奥深く、恵心院に隠棲されて、仏教の真髄を究められたのでした。ところが、諸教を広く深く学ばれるなかで、末世の凡夫〈ぼんぶ〉にふさわしい教えは、念仏往生の教え以外にはないことに気づかれ、浄土の教えに帰依されることになったのでした。それは、源信僧都の四十四歳のときでありました。 念仏の教えを教え広めるために、多くの著作をのこされましたが、中でも、「往生〈おうじょう〉要〈よう〉集〈しゅう〉」は、多くのお経の文などを集めて、仏教全体の帰するところは、結局は念仏往生の教えしかないことを明らかにされたのでした。これが、日本の浄土教の源流となり、のちに法然上人による浄土宗の開宗に大きな影響を与えたのです。 このような源信僧都について、親鸞聖人は、「広く一代の教を開きて」(広開一代教)と讃えておられるのです。「広く一代の教えを開かれた」というのは、釈尊がご生涯に説かれた教え、すなわち仏教の全体ですが、その真髄を広く世に公開されたということです。 そして、「ひとえに安養に帰して、一切を勧む」(偏帰安養勧一切〈へんきあんにょうかんいっさい〉)と言われていますのは、源信僧都が、釈尊の一代の教えを広く深く究められた上で、ひとえに、安養世界、つまり阿弥陀仏の浄土に往生する念仏の教えに帰依するようになられたことをいうのです。 これによって、「仏説無量寿経」に説かれている念仏往生の教えこそが、さまざまなすがたをとっている仏教全体の肝要の教えであることが示されているわけです。 さらに、源信僧都は、多くの著作によって、ご自分の信心を世の一切の人びとに盛んに勧められたのでした。世の一切の人びとが、釈尊のご本意に立ち戻り、念仏の教えに目覚めてほしいと願われたということなのです。 
報土と化土
専雑執心判浅深
報化二土正弁立
専雑〈せんぞう〉の執心〈しゅうしん〉、浅深〈せんじん〉を判〈はん〉じて、
報化二土〈ほうけにど〉、正〈まさ〉しく弁立〈べんりゅう〉せり。
親鸞聖人は、源信僧都〈げんしんそうず〉の徳を讃えて、「広く一代の教を開きて」(広開一代教〈こうかいいちだいきょう〉)と述べておられます。そして「ひとえに安養〈あんにょう〉に帰して、一切を勧む」(偏帰安養勧一切〈へんきあんにょうかんいっさい〉)と詠っておられます。 源信僧都は、釈尊がそのご生涯のうちにお説きになったみ教え(一代教)を、膨大な数にのぼるお経によって、くまなく学びとられたのでした。そして、仏教の真髄を世間に広く示されたのです。つまり、釈尊ご一代のみ教えの帰結するところは、「南無阿弥陀仏」をとなえる念仏の教えでしかないことを明らかにされたのです。そして、自ら念仏に深く帰依されるとともに、世間の一切の人びとに本願による念仏をいただくように勧められたのでした。 次に、親鸞聖人は、源信僧都について、「専雑の執心、浅深を判じて」(専雑執心判浅深〈せんぞうしゅうしんはんせんじん〉)と述べておられます。「専〈せん〉の執心」は深く、「雑〈ぞう〉の執心」が浅いことを、きっぱりと判別されたということです。「専」は、もっぱら阿弥陀仏の名号〈みょうごう〉を称える念仏(専修念仏〈せんじゅねんぶつ〉)です。もう一方の「雑」は、念仏のほかにさまざまな行を雑ぜ合わせて修める行(雑修〈ざっしゅ〉)のことです。 「執心」は、普通には、「執着心」ということで、「こだわりの心」という意味に解されることがあると思います。しかし、ここでは、「執持心〈しゅうじしん〉」ということで、「執〈と〉り入れて持〈たも〉つ心」という意味に用いられています。つまり、失わずに持〈たも〉ち続ける心をいうのです。 阿弥陀仏の本願に素直に従って、一途に「南無阿弥陀仏」を称える他力の信心〈しんじん〉は深く、本願よりも、自らの努力を信頼して、さまざまな修行に励んで往生を期待する信心は浅はかであること、その違いを、源信僧都は、はっきりと判別してくださったと、親鸞聖人は喜んでおられるのです。 「報化二土〈ほうけにど〉」は、「報土」と「化土」ということで、源信僧都は、この二つの浄土を正しく区別して明らかにされたのです。一切の人びとを迎え入れたいと願われた阿弥陀仏の本願が報いられて開かれている浄土を「報土」というのですが、その「報土」に、さらに「報土」と「化土」の二種の浄土があるとされています。 まず、阿弥陀仏の浄土は「真実報土」といわれます。他方、阿弥陀仏が、自力に執〈とら〉われている行者〈ぎょうじゃ〉に思い描かせておられる浄土を「方便化土」というのです。どちらも、阿弥陀仏の「報土」なのです。 「方便」は、凡夫〈ぼんぶ〉を「真実」に近づけるために仏が設けられた手段ということです。自力から離れられないでいる雑心の凡夫を、本願他力を信ずる専心によってしか往生できない真実の「報土」にやがて導くために、仮に方便として化現〈けげん〉されているのが「化土」です。 このように見てきますと、源信僧都は、浄土に二種あることを説明しておられるように思われます。しかし、源信僧都は、彼方に阿弥陀仏の浄土を想定して、その浄土について解説しておられるのではないのです。むしろ、専心と雑心という、信心に区別があることを言おうとされているのです。 専修念仏が与えられているにもかかわらず、思い上がって、その念仏に従わずに、雑修に心を向けてしまう愚かさを、源信僧都は誡めておられるのです。本来、「真実報土」に往生させてもらうはずの者が、本願よりも自我を優先させて、自分が思い描いている浄土に固執し、そして、それに満足しようとしている誤りを指摘しておられるのです。 しかも、源信僧都は、「信心」のあり方を説明しようとしておられるのではないと思います。本願の教えからすれば、「真実報土」に往生することが明らかな事実であるのに、容易に自我を捨てきれず、自我を確保しようとしているご自分のお心を厳しく誡めておられるのではないかと思われるのです。 ここには、阿弥陀仏の本願を深く喜ばれ、釈尊のみ教えを正しく受け取られながら、どうしても、我が心に閉じこもってしまうという、源信僧都の緊迫した慚愧のお心がうかがえるのではないでしょうか。 
報土と化土
極重悪人唯称仏
我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見
大悲無ケン常照我
極重の悪人は、ただ仏を称すべし。
我また、かの摂取〈せっしゅ〉の中にあれども、
煩悩、眼〈まなこ〉を障〈さ〉えて見たてまつらずといえども、
大悲ものうきことなく、常に我を照したまう、といえり。
親鸞聖人は、源信僧都〈げんしんそうず〉のお言葉を掲げておられます。源信僧都は、呼びかけておられるのです。「極重の悪人は、ただ仏を称すべし」(極重悪人唯称仏〈ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ〉)と。「極重の悪人は、ただただ阿弥陀仏のみ名を称〈とな〉えなさい」という呼びかけです。 「極重の悪人」とは、極めて重大な悪をはたらく人ですが、それは、どのような人なのでしょうか。法律に違反すること、それは悪です。また、法律には違反しなくても、世の道徳・倫理に反すること、それも悪です。しかし、それよりも、仏の教えに従えない人、真実に背く人、何とかして救ってやりたいと願っておられる仏の大慈悲心に逆らっている人、それが「極重の悪人」なのです。 前回の話に関連づけてみるならば、すでに、阿弥陀仏から専修〈せんじゅ〉念仏が与えられているにもかかわらず、それを無視して自分の思いを優先させ、あえて雑修〈ざっしゅ〉に心を向けてしまうのが「極重の悪人」なのです。 心静かに我が身を眺めてみると、阿弥陀仏の本願による信心〈しんじん〉をいただいていることを、繰り返し繰り返し、教えられていることに気づかされます。そして、その教えを十分に承知しているつもりになっています。にもかかわらず、どこまでも、自分自身にこだわって思い上がり、本願の教えを他人事のように感じ取っていることに気づきます。情けないことですが、これこそが「極重の悪人」なのではないでしょうか。 このような凡夫〈ぼんぶ〉は、早く自分へのこだわりから離れ、思い上がりを捨てて、ただ、素直に「南無阿弥陀仏」を称えるしかないと、源信僧都は言っておられます。 「極重の悪人は、ただ仏を称すべし」と呼びかけておられますが、しかし、それは、だれかれに教えておられるというよりも、源信僧都ご自身に向かって言っておられるお言葉であると、親鸞聖人は受け取っておられるのではないでしょうか。またそれと同時に、親鸞聖人は、素直に「南無阿弥陀仏」を称えるならば、阿弥陀仏は、そのような「極重の悪人」でも、むしろそのような「極重の悪人」だからこそ、必ず摂〈おさ〉め取ってくださるのだと、源信僧都が私たちを励ましてくださっていると見ておられるのではないでしょうか。 源信僧都は、ご自身のことを「我また、かの摂取の中にあれども」(我亦在彼摂取中〈がやくざいひせっしゅちゅう〉)と述べておられます。ご自分もまた、「かの摂取の中」、つまり、阿弥陀仏の本願の中にしっかりと摂め取られているという事実を述べておられます。 ところが、「かの摂取の中にあれども」と言っておられます通り、本願に摂め取られているという事実があるにもかかわらず、「煩悩、眼を障えて見たてまつらず」という、ご自身の現実を、源信僧都は率直に表明しておられるのです。つまり、絶え間なくはたらき出す煩悩、自我へのこだわりが、心の眼を覆いつくしていて、摂め取って捨てられることのない本願の事実を自分自身で見えなくしてしまっている、といっておられるのです。 ところが、「煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども」(煩悩障眼雖不見〈ぼんのうしょうげんすいふけん〉)と言われます。自分が引き起こしてしまっている煩悩によって、自分で見えなくしてしまっているのだけれども、それでもなお、「大悲ものうきことなく、常に我を照したまう」(大悲無ケン常照我〈だいひむけんじょうしょうが〉)と述べられて、阿弥陀仏の大悲の光明〈こうみょう〉、大いなる哀れみのお心は、あきらめることなく、常にご自分を照らして護ってくださっていることに、感激しておられるのです。 源信僧都は、摂取の中に身をおいているという事実と、その事実を見たてまつっていないという現実と、この食い違いを直視なさっているのです。そして、この食い違いを、凡夫の常識を越えたところで解消している不可思議なはたらきこそが、阿弥陀仏の大悲であると受けとめておられるのです。 そして、そこに、源信僧都の信心歓喜〈かんぎ〉のお気持ちが表明されているということで、親鸞聖人は、源信僧都のお言葉をここに掲げておられるのだと思われるのです。 
法然上人
本師源空明仏教
憐愍善悪凡夫人
本師〈ほんじ〉・源空〈げんくう〉は、仏教に明らかにして、
善悪の凡夫〈ぼんぶ〉人を憐愍〈れんみん〉せしむ。
「正信偈」の「依釈段〈えしゃくだん〉」といわれている段落に、親鸞聖人は、七人の高僧の名をあげて、その徳を讃えておられます。 これまで、六人の高僧がたについて述べられた部分を見てきましたが、今回からは、七高僧の最後、第七番目の、源空上人について述べられている部分を見ることになります。源空上人というのは、親鸞聖人の直接の師であられた法然上人のことです。 法然上人(一一三三〜一二一二)は、美作国〈みまさかのくに〉(今の岡山県)に、地方武士の子としてお生まれになりました。上人の九歳のとき、お父上は、抗争に巻き込まれ、夜討ちに遭われて亡くなられたのでした。 命終に際して、お父上は、幼い法然上人に、次のようなことを言い遺されたと伝えられています。「仇を恨んではならない。出家して、敵も味方も、ともどもに救われる道を求めよ」と。このような出来事が縁となって、法然上人は、十三歳のときに比叡山に上られ、十五歳のとき出家されたのでした。 上人は、はじめ源光〈げんこう〉という僧の弟子となられ、十八歳のとき、叡空〈えいくう〉という僧を師として天台宗の教えを学ばれたのでした。叡空師は、上人の非凡な才能を認め、「法然房」という房号を与えられ、また最初の師の「源光」と、ご自分の名の「叡空」とから、「源空」という名を授けられたのでした。 法然上人は、僧侶としての栄達をかなぐり捨てられ、一人の孤独な求道者として、人は、どのようにして悩みや悲しみから離れることができるのか、その道をひたむきに探し求められたのでした。しかし、その願いは、比叡山の伝統の教えによっては満たされることがなかったのです。 そこで、上人は、直接、仏の教えに正しい答えを求められました。厖大〈ぼうだい〉な数にのぼるお経と、それらのお経に対する先人たちの注釈書類を虚心に読みあさられたのでした。そのことを親鸞聖人は「本師源空明仏教〈ほんじげんくうみょうぶっきょう〉」(本師・源空は、仏教に明らかにして)と詠んでおられるのです。釈尊の教えであるお経によって道を明らかにされた、ということです。 そのような求道の中で出遇われたのが、源信僧都〈げんしんそうず〉による「往生要集〈おうじょうようしゅう〉」の言葉でした。「自分のような愚かな者にとっては、ただ阿弥陀仏の本願を信じて極楽浄土に往生させてもらうしか方法はない」という教えだったのです。自分の努力によって悟りに近づくための教えではなかったのです。 源信僧都のお言葉に導かれて、上人は、それまであまり深く関心を向けておられなかった善導大師〈ぜんどうだいし〉の教えに、衝撃的な出遇いをなさったのです。善導大師の「観経疏〈かんぎょうしょ〉」の「一心に弥陀の名号〈みょうごう〉を専念して」というお言葉に遇われたのです。それは、上人の四十三歳のことであったと伝えられています。 それが衝撃であったのは、「念仏でもよい」という自力聖道門〈しょうどうもん〉の伝統的な教えとは異なり、「ただ念仏しかない」という教えだったからです。しかも、「ただ念仏」によってのみ救われるということは、誰かがそのように理解したというのではなく、それが「かの仏願に順ずるがゆえに」(同前)と説かれていますように、阿弥陀仏の願われた願いに順う道理だからなのです。 法然上人は、やがて比叡山から下りられ、京都の吉水において、貧富・貴賎〈きせん〉を問わず、濁った世を生きなければならない人びと、真の仏教を求める人びとに、「専修〈せんじゅ〉念仏」(専ら念仏を修める)の教えを広められたのでした。この法然上人に出遇われ、その教えをまっすぐに受け取られたのが親鸞聖人だったのです。 専修念仏の教えが広まるにつれて、権威を失うことを恐れた比叡山や奈良の伝統仏教からの攻撃が強まり、同じく権威を守ろうとした朝廷によって念仏は弾圧されることになりました。法然上人の門人の四人は死罪に処せられ、法然上人は四国の土佐(高知県)に、親鸞聖人は越後(新潟県)に流罪となられたのでした。 法然上人は、四年あまり後に赦免〈しゃめん〉されて京都にもどられましたが、ほどなく、念仏のうちに八十年のご生涯を閉じられたのでした。 
善悪の凡夫人
本師源空明仏教
憐愍善悪凡夫人
本師〈ほんじ〉・源空〈げんくう〉は、仏教に明らかにして、
善悪の凡夫〈ぼんぶ〉人を憐愍〈れんみん〉せしむ。
法然〈ほうねん〉上人は、人が、次々に襲ってくる悩みや悲しみから、どのようにして解き放たれるのか、その道を真正面から学ぼうとされたのでした。 そのために、お若いころから、比叡山で、天台宗の修行や学問に励まれたのでした。そして、まれに見る逸材として、比叡山の誰からも一目も二目も置かれるようになっておられたのでした。比叡山ばかりではなく、南都(奈良)の法相宗〈ほっそうしゅう〉をはじめ、諸宗の宗義の研鑽〈けんさん〉にも努められたのでした。 これらの修養によって、法然上人は、当時、日本に伝わっていた仏教の教義の最も深いところを究〈きわ〉められたわけです。このことを、親鸞聖人は「正信偈」に「明仏教」(仏教に明らかにして)と詠っておられるのだと思います。つまり、当時の仏教の教義に精通しておられたということです。 しかし、それにもかかわらず、法然上人は、それらの学びからは、心から喜べる人生の答えを見出されなかったのです。そこで、諸宗の教義から離れて、直接、釈尊のみ教えの中に答えを探し求められたのでした。このため、上人は、釈尊の教説である厖大〈ぼうだい〉なお経と、それらのお経に対する先人たちの解釈〈げしゃく〉などを精力的に学ばれたのでした。この意味でも、親鸞聖人は、法然上人のことを「明仏教」(仏教に明らかにして)と讃えておられるのだと思います。諸宗教の一つである「仏教」ではなくして、釈迦牟尼〈むに〉仏の教えの全体を解明されたということです。 このような経過の中で、前回述べました通り、法然上人は、「仏説観無量寿経〈ぶっせつかんむりょうじゅきょう〉」と、善導大師〈ぜんどうだいし〉による、その注釈である「観経疏〈かんぎょうしょ〉」に出遇われたのです。善導大師が「仏説観無量寿経」の教説から受け取られた「ただ念仏して」という教えこそが、釈尊のご本意であることを、法然上人はお気づきになられたのです。 この劇的な出来事を契機に、上人は、ご自身が「専修〈せんじゅ〉念仏」の道を歩まれるとともに、世の貧富・貴賤・老若・男女・善悪の人びとに、一心に専ら阿弥陀仏の名号〈みょうごう〉を称〈とな〉える念仏を勧められたのです。その勧化〈かんげ〉を受けた多くの人びとの中に、実は、親鸞聖人がおられたのです。 「正信偈」には、「憐愍善悪凡夫人〈れんみんぜんまくぼんぶにん〉」(善悪の凡夫人を憐愍せしむ)と述べられていますが、「凡夫」とは、普通の人ということで、真実に目覚められた仏以外の、どこにでもいる人のことです。法然上人は、善悪にかかわらず、真実に目覚めることができていないすべの凡夫を憐れまれたのです。しかし上人は、ご自分以外の凡夫を憐れに思われたということではないでしょう。 阿弥陀仏の本願が、善悪にかかわらず、悩み多いすべての凡夫を憐〈あわ〉れんで発〈おこ〉されている慈愛であること、そして凡夫は、本願に素直に従うしかないことを説き示されたのが、釈尊の慈愛であることを、法然上人はまた明らかにされたのです。 ここには、悪の凡夫も、善の凡夫も、ともに区別なく見られていることに、注意を向ける必要があると思われます。悪の凡夫は、自分が起こす欲望に自分が支配されて、法律を犯し、道徳に背き、仏が説き示された真実をないがしろにしているのです。善とされる凡夫は、現実には、法律は犯していないかもしれません。また道徳に背く行いはしていないかもしれません。しかし、わずかばかりの自重の努力をもとにして、知らず知らずのうちに、その果報を要求します。また、他人を見下して自らの優越を誇っているのです。これも、仏の真実をないがしろにしているのです。 善であろうと、悪であろうと、どちらにしても、愚かで悲しい存在であるのが凡夫なのです。そのように愚かで悲しい存在である凡夫のあり方に、法然上人は、ご自身のすがたを見ておられたのではないでしょうか。 凡夫は、どこまでも憐れむべき存在であり、そのような凡夫であるからこそ、摂〈おさ〉め取って捨てられることがない阿弥陀仏の本願が一方的に差し向けられていることを、法然上人は強く受け止められたのです。自棄〈やけ〉になる他はないような絶望の中で思い知らされる歓喜〈かんぎ〉を、身をもって教えておられるのではないでしょうか。 
真宗
真宗教証興片州
選択本願弘悪世
真宗の教証、片州〈へんしゅう〉に興〈おこ〉す。
選択〈せんじゃく〉本願、悪世に弘〈ひろ〉む。
親鸞聖人は、法然〈ほうねん〉上人の徳を讃えておられます。 法然上人こそが、「真宗」の教えと、その教えによって得られる結果とを、この日本の国で、初めて誰にもわかるように明らかにしてくださった、と讃えておられるのです。 「真宗」という言い方は、たとえば「真宗大谷派」などというように、仏教の中の一つの宗派の名前として用いられることが多いと思います。それはそれで、間違いではないのですが、ここでは、宗派の名前のことではありません。 「真」は「まこと」と読みます。また「宗」は「むね」と読みます。したがって、「真宗」は「まことのむね」ということになるのです。私たちが日ごろ親しんでいる「真宗宗歌」に、「まことのみむねいただかん」という一節がありますが、その「まことのみむね」がここに詠われている「真宗」なのです。「真宗宗歌」は、「真宗をいただきましょう」と詠ってあるのです。 「真」は、真実ということです。「宗」は、もっとも中心になること、肝心要〈かなめ〉のことをいいます。したがって、「真宗」は、仏教、つまり釈尊の教えの全体の中で、たった一つの真実であり、肝心要である、ということを意味しているのです。 釈尊の教えの肝心要ということは、人が日常の生活をするときの肝心要であるということを意味します。なぜならば、釈尊は、「人はなぜ悩まなければならないのか」「人はどうして悲しまなければならないのか」と、人の日常のありさまを問い続けられ、その答えに目覚められ、そして、その答えを人類に教えられたからです。このため、「真宗」は、人類の日常にとって、もっとも重要な教えということになるのです。 親鸞聖人は、「浄土和讃」に、「念仏成仏これ真宗」と詠っておられます。「真宗」という言葉は、すでに中国の唐の時代の善導大師〈ぜんどうだいし〉や法照禅師〈ほっしょうぜんじ〉が用いておられる言葉でもあります。 「成仏」は、仏(目覚めた人)に成ることです。したがって、念仏によって真実に目覚めさせていただくこと、それが「真宗」である、ということです。もう少し言葉を補うならば、本願による念仏をいただくということが、人生の最重要課題である、という意味になると思います。 「教証」は、「教・行・証」を短く表したものです。「教」は、教法〈きょうぼう〉ということですが、ここでは、釈尊が「仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉」にお説きになられた「阿弥陀仏の本願」の教えです。一切の人びとを漏れなく救いたいと願っておられる阿弥陀仏の願いについての教えです。 「行」は、修行・実践ということですが、ここでは、一切を救うために阿弥陀仏が施し与えておられる「念仏」です。その他力の念仏を素直に受け取ること、それが、たった一つの「行」である、ということです。 そして「証」は、「教」にもとづく「行」によって生ずる結果です。もとは、厳しい修行によって得られる「さとり」を意味する言葉ですが、浄土の教えでは、他力の念仏による「往生」という意味に受け止められています。 「片州」は、片隅の国ということで、それは、この日本の国のことです。仏教が興ったインド、その仏教が大きく発展した中国、これらの国々からすれば、日本は、片隅の国なのです。 ところが、仏教の「まことのみむね」が明らかにされたのは、仏教の発祥の地でもなく、発展の地でもない、むしろ、世界の片隅である日本においてであった、というわけです。そして、それを明らかにしてくださったのが、他ならぬ、法然上人であったと言っておられるのです。 法然上人は、仏教の、そして私たちの生活の、「まことのみむね」、つまり「真宗」を、この片隅の国に興してくださったのだと、どうしてそれが言えるのかといえば、それは、法然上人に至って、ようやく、阿弥陀仏が選び取られた願い、すなわち、往生するはずのない人を往生させたいと願われた本願を、この悪い世に広めてくださったことによるのです。 
選択本願
真宗教証興片州
選択本願弘悪世
真宗の教証、片州〈へんしゅう〉に興〈おこ〉す。
選択〈せんじゃく〉本願、悪世に弘〈ひろ〉む。
親鸞聖人は、法然〈ほうねん〉上人のことを「真宗教証興片州〈しんしゅうきょうしょうこうへんしゅう〉」(真宗の教証、片州に興す)と述べられて、その徳を讃えておられます。 法然上人こそが、この世界の片隅である日本の国に、「真宗」の「教え」と、その教えの結果である「証」とを興隆させてくださった、と喜んでおられるのです。 「真宗」は、「まことのみむね」と読みます。それは、仏教の最も大切なところ、という意味です。仏教の最も大切なところということは、とりもなおさず、私たちの日々の生活のなかで最も大切なこと、ということになります。 それを、法然上人は、誰にもわかるように、教えてくださったというわけです。 それでは、その「真宗の教証」とは何であるかと言えば、それが、次の句にある「選択本願」ということなのです。つまり「阿弥陀仏が選び取られた願い」ということです。 浄土の教えの根本となるお経は「仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉」です。「仏が無量寿についてお説きになられたお経」です。「仏」は釈尊のこと、「無量寿」は阿弥陀仏のことですから、このお経は「釈尊が阿弥陀仏についてお説きになられたお経」なのです。 この「仏説無量寿経」に、「選択本願」のことが説かれています。 阿弥陀仏が仏になられる前、法蔵〈ほうぞう〉という名の菩薩であられたとき、世自在王仏〈せじざいおうぶつ〉という仏のみもとで教えを受けておられましたが、法蔵菩薩は、人類すべてを救うための浄土を開きたいという大きな願いを発されたのです。そして、そのような浄土を実現するための教えを師の世自在王仏に乞い求められたのです。 世自在王仏は、法蔵菩薩のこの深い願いにお応えになって、何と二百十億もの仏さまがたの浄土のありさまと、それらの浄土に生きる人びとの様子をお示しになったのです。法蔵菩薩は、これら二百十億の諸仏の浄土の様子を詳しく見せていただいた上で、「無上殊勝〈むじょうしゅしょう〉の願〈がん〉」と説かれていますように、この上にない、殊〈こと〉のほか勝〈すぐ〉れた願いを発〈おこ〉されたのです。他の仏さまがたの浄土とは違った、特別な浄土を実現したいという願いであったのです。これが、選び取られた願い、すなわち「選択本願」なのです。 殊のほか勝れた願いというのは、真実に無知であり、教えに背を向けている凡夫〈ぼんぶ〉、いわば、どうにもならない凡夫をこそ、迎え入れる浄土を実現したいという願いであったのです。 法蔵菩薩は、仏になろうとしておられましたが、もし、この願いが成就しないのであれば、自分は仏にはならないという誓いを立てられたのです。ところが、その法蔵菩薩が、阿弥陀仏になられたのです。ということは、どういうことになるでしょうか。法蔵菩薩の願われた願い、つまり、往生するはずのない人を往生させたいと願われた「本願」が、すでに実現しているということなのです。 助かるはずのない人を助けたいと願われた「本願」、それが「選択本願」なのです。そしてまた、それが、仏教の「真宗」(まことのみむね)なのです。 「選択本願弘悪世〈せんじゃくほんがんぐあくせ〉」(選択本願、悪世に弘む)と詠われていますように、法然上人は、この「選択本願」の教え、つまり「阿弥陀仏によって選び取られている願い」が現にはたらいていることを、この悪世に弘めてくださったのです。 「悪世」は、私たちが生きているこの世界のことです。「仏説阿弥陀経〈あみだきょう〉」には、これを「五濁〈ごじょく〉悪世」と教えられています。劫濁〈こうじょく〉・見濁〈けんじょく〉・煩悩濁〈ぼうのうじょく〉・衆生濁〈しゅじょうじょく〉・命濁〈みょうじょく〉という、五つもの濁〈にご〉りがある、ひどい世の中ということです。親鸞聖人は、「正信偈」では、「五濁悪時」としておられますが、私たちが生きているこの世間は「五濁悪世」であり、私たちが生きているこの時代は「五濁悪時」なのです。 法然上人は、「選択本願念仏集〈せんじょくほんがんねんぶつしゅう〉」という書物を著されました。そして、阿弥陀仏の本願という他力によって私たちに「念仏」が与えられていること、そしてこの「念仏」を、五濁悪世に生きる私たちが、率直に受け取ること、それが「選択本願」に従うことであることを教えておられるのです。 この教えを親鸞聖人は深く喜んでおられるのです。 
疑いの心
還来生死輪転家
決以疑情為所止
生死輪転〈しょうじりんでん〉の家に還来〈かえ〉ることは、
決〈けっ〉するに疑情〈ぎじょう〉をもって所止〈しょし〉とす。
親鸞聖人は、法然上人のお言葉に基づいて、その教えを讃えておられます。法然上人は、私たちの人生の重大な誤りは、何によって起こるかを教えておられるのです。 「生死〈しょうじ〉」は、生きることと死ぬこと、という意味ではありません。仏教用語の「生死」は、「迷っている状態」という意味です。人は、日ごろ、目先の出来事に気を取られて、かけがえのない人生の最も大切なことを見失っています。つまり、真実を見失っているのです。真実を見失ったまま生きているということは、迷っているということなのです。しかも、迷っていることにも気づかずに、迷ったまま生きていますから、さらに次々と迷いを重ねるのです。幾重にも重なる深い迷いの中を転がり回ることになりますが、これを「正信偈」では「生死輪転」と言っておられるのです。 まるで、人が故郷の家を懐かしむかのように、私たちは、「生死」(迷いの状態)が自分の帰るべき所であるかのように錯覚して、すぐに迷いに立ち戻ってしまうのです。「還来」は、「還〈かえ〉り来〈きた〉る」と読みます。もとの所に戻ることです。この二文字を親鸞聖人は「かえる」と読んでおられるのです。 「生死に輪転する」というのは、迷いの状態にあるということですから、真実を見失い、道理に従っていないのです。道理に従わず、道理に逆らっていますから、それが、悩み苦しみの原因になるのです。悩み苦しみからの本当の解放を教えるのが仏教なのですが、私たちは、目の前の快適さに気を奪われて、愚かにも「生死」を頼りにしてしまうのです。このため、表面的な、形ばかりの安楽に酔〈よ〉い痴〈し〉れて、結果として苦悩に苦悩を重ねることになるのです。 どうして、生死に輪転して苦悩を重ねることになるのか、それについて、親鸞聖人は、それは、「疑情〈ぎじょう〉」、つまり「疑う心」に止〈とど〉まっているからだと教えておられます。つまり、人が苦悩を背負うのは、よく修行に励んだかどうかの問題ではないのです。人の資質や能力の問題では決してないのです。その人の生い立ちや実績の問題でもないのです。人が「生死」から離れることができず、悩みに悩みを重ねなければならないのは、仏の教えを疑うからだと教えておられるのです。 釈尊は、私たちのために「仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉」をお説きになって、阿弥陀仏が、苦悩する人びとをすべて本当の安楽に導きたいと願っておられるのだから、その阿弥陀仏の本願にお任せしなさいと、教えておられます。ところが、私たちは、その教えを疑うのです。 それでは、どうして、疑う心が生ずるのでしょうか。それは、教えに触れるに先立って、自分が心に懐〈いだ〉いている思いを重視しているからです。仏の教えよりも、自分の考えを尊重しているからです。自分が思っていることと事実とは、まったく関係はないはずなのですが、自分はそれなりにわかっていると思っていますから、自分を信用するのです。実は、愚かであるのに、愚かだとは思っていないのです。それほどまでに凡夫は愚かなのです。 自分の考えを無条件に信用して、それを確保したままで教えに接しますと、教えを素直に受け取れなくなったり、また、自分の考えと、教えとの間に食い違いが起こったりします。食い違いが起こった時には、自分の方を信用しますから、教えは信用できなくなるのです。それが「疑い」なのです。「信」の反対語が「疑」なのです。 法然上人は、「選択本願念仏集〈せんじゃくほんがんねんぶつしゅう〉」に、「当〈まさ〉に知るべし。生死の家には疑いを以〈もっ〉て所止〈しょし〉と為〈な〉し、涅槃〈ねはん〉の城〈しろ〉には信〈しん〉を以て能入〈のうにゅう〉と為す」と述べておられます。このお言葉の前半の「生死の家には疑いを以て所止と為し」という部分を、親鸞聖人は、今回の二行にして述べておられるわけです。そして、後半の部分をこの次の二行で説明しておられるのです。 ただ、法然上人が「当に知るべし」(このことは知っておくべきだ)と言っておられますところを、親鸞聖人は「決するに」(間違いないことだ)と言っておられます。師の教えを大切に受け取られたお気持ちが伝わるように思われるのです。 
信ずる心
速入寂静無為楽
必以信心為能入
速〈すみ〉やかに寂静無為〈じゃくじょうむい〉の楽〈みやこ〉に入〈い〉ることは、
必〈かなら〉ず信心〈しんじん〉をもって能入〈のうにゅう〉とす、といえり。
親鸞聖人は、前回の二句に引き続いて、さらに、法然上人のお言葉を取り上げられて、その教えを讃えておられます。 前回の二句は、「還来生死輪転家〈げんらいしょうじりんでんげ〉決以疑情為所止〈けっちぎじょういしょし〉」(生死輪転〈しょうじりんでん〉の家に還来〈かえ〉ることは、決〈けっ〉するに疑情〈ぎじょう〉をもって所止〈しょし〉とす)ということでありました。これは、法然上人の「選択本願念仏集〈せんじゃくほんがんねんぶつしゅう〉」に述べられている「生死〈しょうじ〉の家には疑いを以〈もっ〉て所止〈しょし〉と為〈な〉し」というお言葉に基づくものでありました。 迷いによって生ずる苦悩(生死)に流転〈るてん〉するという状態に、私たちが、いつも止め置かれるのは、それは、私たちの心にはたらく疑いによることである、と教えておられるお言葉です。 それでは、どうすれば、生死に流転するという苦悩から離れて、本当の安楽に到ることができるのか、そのことを、今回の二句に示しておられるのです。「速入寂静無為楽〈そくにゅうじゃくじょうむいらく〉必以信心為能入〈ひっちしんじんいのうにゅう〉」(速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、といえり)と述べてあるのです。 「といえり」というのは、「法然上人が仰せになった」ということです。本当の安楽の境地には、疑いのない信心によって、必ず速やかに入ることができるのだ、と法然上人は教えておられる、ということです。 ここに言われています「寂静」も「無為」も、いずれも「涅槃〈ねはん〉」という言葉と同じ意味の言葉です。「涅槃」は、インドの「ニルヴァーナ」という言葉の発音を漢字に写し取って表記したものです。 人が悩んだり苦しんだりするのは、自我へのこだわりや、飽くことのない欲望など、さまざまな煩悩が原因であるとされています。その煩悩から離れて、もはや煩悩に乱されなくなった静寂な境地が「涅槃」なのです。このため「涅槃」は「寂静」と訳されるのです。また、煩悩を離れたまったく静かな「涅槃」の境地は、凡夫が日ごろ為していること、また為し得ることをはるかに越えた世界であることから、「無為」と訳されているのです。 「寂静無為の楽」といわれていますが、それは、自我へのこだわりなどを離れた、「寂静」であり「無為」である「涅槃」こそが、本当の安楽である、ということです。私たちは、「苦」の反対が「楽」であると思いがちですが、釈尊は、そのような「楽」は、次の「苦」の原因となるだけであって、本当の安楽は、私たちが感ずる「苦」と「楽」を越えた静けさであると教えておられるのです。私たちが思う「苦」も「楽」も、「一切は皆苦なり」と教えられ、その苦の解決を「涅槃は寂静なり」と教えられているのです。 親鸞聖人は、「寂静無為の楽(らく)」を「寂静無為の楽(みやこ)」と読んでおられますが、それは、法然上人が「選択本願念仏集」に「涅槃の城には信を以て能入と為す」と述べておられることによると思われます。「涅槃の城」に対して、「寂静無為の楽(みやこ)」つまり「涅槃の楽(みやこ)」としておられるのです。 また、中国では、古くから洛陽という都市が、永らく都城として栄えてきました。ところで、都である洛陽の「洛〈らく〉」と、涅槃である安楽の「楽〈らく〉」とは、発音が共通していますので、安楽と洛陽を重ね合わせて、「楽(みやこ)」と読んでおられるのであろうかと考えられるのです。 前の句では「疑情をもって所止とす」とありましたが、今の句では「信心をもって能入とす」となっています。この二句が対照となっているのです。「疑情」の反対が「信心」です。真実よりも、自我を優先させることによって、真実を疑う情〈こころ〉が生じますが、その疑いの情がないことが、信〈まこと〉の心なのです。 また、「所止」と「能入」が対照です。「所」は受身を表す文字で、「所止」は、止〈とど〉めさせられる、という意味になります。「能」は能動を表す文字でありまして、「能入」は、入って行くことができる、という意味になるのです。 「疑いの心によって、迷いの苦の繰り返しの中に止めさせられ、」「信心によって、本当の安楽に入ることができる」という関係が述べてあるわけです。 
七人の高僧がた
弘経大士宗師等
拯済無辺極濁悪
弘経〈ぐきょう〉の大士〈だいじ〉・宗師等〈しゅうしとう〉、
無辺〈むへん〉の極濁悪〈ごくじょくあく〉を拯済〈じょうさい〉したまう。
「正信偈」は、全部で百二十句からなる偈文(詩)です。古くから、この百二十句を三つの段落に分けて学ばれてきたのでありました。 まず第一の段落は、「帰命無量寿如来〈きみょうむりょうじゅにょらい〉南無不可思議光〈なむふかしぎこう〉」という二句で、「帰敬〈ききょう〉」と言われている部分です。この二句の初めの「帰命」と「南無」とは、もとのインドの言葉に戻せば同じ意味になります。次の「無量寿如来」は、阿弥陀仏のことです。そして「不可思議光」は、阿弥陀仏の智慧のはたらきのことを表す言葉です。ですから、最初のこの二句は、いずれも「南無阿弥陀仏」という六文字の名号〈みょうごう〉を、七文字にそろえて表してあるわけです。したがって、この二句は、親鸞聖人が阿弥陀仏の本願による念仏、「南無阿弥陀仏」をいただかれた、そのご信心を詠われたものなのです。 第二の段落は「依経段〈えきょうだん〉」で、「仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉」に依って述べてある部分です。第三句目の「法蔵菩薩因位時〈ほうぞうぼさついんにじ〉」からの四十二句がこれに当たります。ここには、阿弥陀仏の本願の由来と、釈尊が「仏説無量寿経」をお説きになられた意味が述べてあります。 第三の段落は「依釈段〈えしゃくだん〉」で、第四十五句目の「印度西天之論家〈いんどさいてんしろんげ〉」から最後までの七十六句です。ここには、七人の高僧がたによる、本願の教えについての解釈が述べてあります。 今回から、「依釈段」の最後の四句について学ぶことになりますが、この四句は、「依釈段」の「結び」になる部分であり、同時に、「正信偈」全体の「結び」でもあるわけです。 まず、「弘経大士宗師等〈ぐきょうだいじしゅうしとう〉拯済無辺極濁悪〈じょうさいむへんごくじょくあく〉」(弘経の大士・宗師等、無辺の極濁悪を拯済したまう)とあります。「弘経の大士・宗師等」というのは、「お経を世に弘めてくださった高僧がた」ということです。 そのお経とは、「仏説無量寿経」のことなのです。これは「釈尊が無量寿仏(阿弥陀仏)についてお説きになられたお経」ということです。 「大士」は、「菩薩」(ボーディ・サットヴァ、マハー・サットヴァ)というインドの言葉の中国語訳で、ここでは、龍樹〈りゅうじゅ〉大士と天親〈てんじん〉菩薩のお二人を指します。この二菩薩は、すべての人びとを救いたいと願われた釈尊のお心を最も深く汲み取られた方がたなのです。 「宗師」は、「真宗の祖師」ということで、中国の曇鸞大師〈どんらんだいし〉・道綽禅師〈どうしゃくぜんじ〉・善導大師〈ぜんどうだいし〉の三人の方がたと、日本の源信僧都〈げんしんそうず〉・源空〈げんくう〉(法然)上人のお二人のことを指しています。釈尊の教えの「真〈まこと〉の宗〈みむね〉」を誤りなく伝えてくださった祖師がたなのです。 この七人の高僧がたこそが、釈尊がお説きになられた、阿弥陀仏の本願の教えを世に弘められ、後の時代にまでそれを正しく伝えてくださったのであることを、親鸞聖人は讃えておられるのです。 そして、「無辺の極濁悪を拯済したまう」と述べておられます通り、これら七高僧のお一人お一人が、間違いのない本願の教えを伝えようとしてくださったのは、極めて濁りきった悪世に生きて苦しまなければならない、数限りない人びとを拯〈すく〉いとり、本当の安楽に済〈わた〉らせようとしてくださったためであると、聖人は感嘆しておられるのです。 そもそも、お経というものは、釈尊のお言葉を文字にしたものです。しかし、数あるお経から、釈尊が真に願われた、そのお心を、その通りに読み取ることは、容易なことではありません。人は、悲しいことに、自分に都合よく理解できる範囲のことしか、理解しないからです。 七高僧は、お経を弘められた方がたでありましたが、龍樹・天親の二菩薩は、釈尊のご真意を深く汲み取られたのでした。そして、曇鸞・道綽・善導・源信・源空の宗師がたは、二菩薩の教えに沿ってお経の本意を誤りなく読み解かれたのでした。 これを受けて、親鸞聖人は、「教行信証〈きょうぎょうしんしょう〉」「教巻〈きょうのまき〉」の冒頭に、「それ、真実の教〈きょう〉を顕〈あらわ〉さば、すなわち「大無量寿経〈だいむりょうじゅきょう〉」これなり」と述べておられます通り、「大無量寿経」、つまり「仏説無量寿経」こそが、釈尊の教えの真実を顕しているお経であると明言するにいたっておられるのです。 
共に心を同じくして
道俗時衆共同心
唯可信斯高僧説
道俗時衆〈どうぞくじしゅう〉、共〈とも〉に同心〈どうしん〉に、
ただこの高僧〈こうそう〉の説〈せつ〉を信〈しん〉ずべし、と。
親鸞聖人は、「正信偈」の「依経段〈えきょうだん〉」に、阿弥陀仏が本願を発された由来について述べておられました。それは、「仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉」に基づいて、本願が私たちに対して現にはたらき続けている事実を教えておられるのでありました。 さらに親鸞聖人は、釈尊が「仏説無量寿経」をお説きになって、阿弥陀仏の本願のことを私たちに知らせるために、わざわざこの世間にお出ましになられたことを、歓喜とともに述べておられたのでした。 次の「依釈段〈えしゃくだん〉」では、インド・中国・日本に出られた七人の高僧がたのお名前とその事績について教えておられました。そして、これら七高僧が出られて、本願念仏の教えを正しく伝え、本願のはたらきに目覚めるよう促してくださったからこそ、仏教の真髄の教えが親鸞聖人ご自身のところに誤りなく伝えられたことを、感銘深く述べておられるのでありました。 釈尊がお説きになられた「仏説無量寿経」の真実を、七高僧が誤りなく親鸞聖人のところに伝えられたということ、それは、何を意味するかと言いますと、釈尊と七高僧が、親鸞聖人を通して、「極濁悪〈ごくじょくあく〉」である私たちを阿弥陀仏の本願に目覚めさせようとしてくださったということなのです。 そのことを私たちは、前回学んだ「弘経〈ぐきょう〉の大士〈だいじ〉・宗師等〈しゅうしとう〉、無辺〈むへん〉の極濁悪〈ごくじょくあく〉を拯済〈じょうさい〉したまう」(弘経大士宗師等〈ぐきょうだいししゅうしとう〉拯済無辺極濁悪〈じょうさいむへんごくじょくあく〉)という二句からうかがうことができると思うのです。 そのために、親鸞聖人は、この句に続けて、「道俗時衆共同心〈どうぞくじしゅうぐどうしん〉唯可信斯高僧説〈ゆいかしんしこうそうせ〉」(道俗時衆、共に同心に、ただこの高僧の説を信ずべし)と述べておられるのです。 「道俗」は、「僧侶と僧侶でない人」ということです。つまり「僧侶であろうと、僧侶でなかろうと」ということです。阿弥陀仏の願いが向けられている人びとであり、共に本願による念仏をいただくすべての人びとのことです。親鸞聖人は、この「道俗」のことを別に「御同朋〈おんどうぼう〉」、「御同行〈おんどうぎょう〉」と呼んでおられます。次の「時衆」というのは、「その時々の人びと」ということですから、親鸞聖人の時代の人びとはもちろん、今の私たちをも含んでいるわけです。 「共同心〈ぐどうしん〉」(共に同心に)ということは、すべての人びとが、互いに、あれこれと思いをめぐらせるのではなく、心を一つにするということです。親鸞聖人は、ここで、互いに心を一つにするべきであると教えておられるのですが、それは、親鸞聖人ご自身と同じ心になってほしいと、私たちに願ってくださっているお言葉としてお聞きすることができると思うのです。 その親鸞聖人が私たちに「ただこの高僧の説を信ずべし」と教えておられます。これは、他の人びとの教えではなくて、ただただ七高僧の教えを信ずるべきであると教えておられるのです。しかしそれは、七高僧が、並外れて勝〈すぐ〉れた方々だからということだけではないと思います。何よりも、この高僧がたは、阿弥陀仏の本願の通りに生きられた方々だからなのです。 この高僧がたの教えによって、親鸞聖人は、ご自身が、本願の念仏に出遇うためにこの世に生まれて来られたことを身をもって体感されたのではないでしょうか。そして、他力の信心に生きる歓〈よろこ〉びを教えてもらわれたのではないでしょうか。そのようなご自分と同じようになってほしいと、親鸞聖人は私たちに願ってくださっているのではないでしょうか。 「高僧の説を信ずべし」と言われていますが、それは、七高僧の教えを鵜呑〈うの〉みにするということではないでしょう。親鸞聖人がそうであられたように、この私が、自分が邪見憍慢〈じゃけんきょうまん〉の悪衆生〈あくしゅじょう〉であることをつくづくと思い知らされるときに、何かが始まると思われるのです。 その私に対して、すでにして、何とかして救いたいという本願が向けられているという事実があります。そして、その事実に気づいた感動が、誤った方向に向かわないように教えてくださったのが七高僧ですから、七高僧の教えを素直に受け取られた親鸞聖人と同じようになってほしいと、私は願われているのだと思うのです。 
まとめ
「正信偈」は、詳しくは「正信念仏偈〈しょうしんねんぶっけ〉」(正しく念仏を信ずる偈〈うた〉)といわれます。全部で一二〇句からなる偈文〈げもん〉ですが、古くから、これを三つの段落に分けて学ばれてきました。 その第一の段落は、「総讃〈そうさん〉・帰敬〈ききょう〉」と呼ばれている段落で、「帰命無量寿如来〈きみょうむりょうじゅにょらい〉南無不可思議光〈なむふかしぎこう〉」の二句がこれにあたります。この二句は、どちらも「南無阿弥陀仏」というお名号〈みょうごう〉を別のお言葉で表されたもので、ここには、正しく念仏を信ずるということは、どのようなことであるのか、親鸞聖人が、その教えを述べられるに先立って、まず、阿弥陀如来への帰依信順〈きえしんじゅん〉のお心を表明しておられるのです。 第二の段落は「依経段〈えきょうだん〉」です。「仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉」(釈尊が阿弥陀仏についてお説きになられたお経)に依って述べてある段落です。この「依経段」は、さらに細かく三つの部分に分けて見られています。 最初の部分は「弥陀章〈みだしょう〉」といいまして、三句目の「法蔵菩薩因位時〈ほうぞうぼさいんにじ〉」から「必至滅度願成就〈ひっしめつどがんじょうじゅ〉」までの十八句です。ここには、お経にもとづいて、阿弥陀仏と、阿弥陀仏の本願のいわれについて述べておられるのです。 第二の部分は「釈迦〈しゃか〉章」といわれていますが、二十一句目の「如来所以興出世〈にょらいしょいこうしゅっせ〉」から「是人名分陀利華〈ぜにんみょうふんだりけ〉」までの二十句です。ここには、釈尊がこの世間にお出ましになられた意味と、「仏説無量寿経」に説かれてある釈尊のみ教えに接する私たちの心構えが教えてあります。 第三の部分は「結誡〈けっかい〉」で、「依経段」の結びにあたる部分です。四十一句目の「弥陀仏本願念仏〈みだぶほんがんねんぶ〉」から「難中之難無過斯〈なんちゅうしなんむかし〉」までの四句です。ここには、私のような邪見〈じゃけん〉・憍慢〈きょうまん〉の悪衆生〈あくしゅじょう〉にとっては、阿弥陀仏の本願によって与えられている念仏を、信じて持〈たもつ〉つことは、甚〈はなは〉だ困難なことであると誡〈いまし〉めておられるのです。世の中には、困難なことがさまざまあるけれども、念仏を正しく信じて持つことは、困難なことの中の困難で、これ以上の困難なことはないと、親鸞聖人は、言い切っておられるのです。まさに私にとっては、絶望するしかない誡めです。 ところが、その後が重要なのです。つまり、第三の段落の「依釈段〈えしゃくだん〉」です。 「依釈段」は、七人の高僧による、本願の念仏についての解釈が示されている段落です。ここには、インドの龍樹大士〈りゅうじゅだいじ〉、天親菩薩〈てんじんぼさつ〉、中国の曇鸞大師〈どんらんだいし〉、道綽禅師〈どうしゃくぜんじ〉、善導〈ぜんどう〉大師、日本の源信僧都〈げんしんそうず〉、源空〈げんくう〉(法然〈ほうねん〉)上人、この七人の高僧がたが、どのようなことを教えてくださっているのか、それを詳しく述べておられます。(この段落も、さらに細かく九つの部分に分けられますが、詳細は省略させていただきます)。 邪見・憍慢といわれますように、身勝手に自我を尊重して思い上がっている私にとっては、本願によって、私の思いを越えて、私に与えられている念仏を、素直に信じて持つことは、絶望的に困難なことであると、まず指摘されてありました。 だからこそ、そのような私のために、インド・中国・日本に、七人の高僧が出てきてくださって、「顕大聖興世正意〈けんだいしょうこうせしょうい〉」(大聖興世〈だいしょうこうせ〉の正意〈しょうい〉を顕〈あらわ〉し)とありますように、釈尊がこの世間にお出ましになられた正〈まさ〉しくそのお心を顕〈あきら〉かにしてくださっているのです。そして、「明如来本誓応機〈みょうにょらいほんぜいおうき〉」(如来の本誓〈ほんぜい〉、機〈き〉に応〈おう〉ぜることを明〈あ〉かす)とありますように、何としても救ってやりたいと願ってくださる阿弥陀如来の誓願が、そのような私だからこそ、私に相応〈ふさわ〉しく、私のためであることを、七高僧は明らかにしてくださっているのです。 最後のところに「弘経大士宗師等〈ぐきょうだいじしゅうしとう〉拯済無辺極濁悪〈じょうさいむへんごくじょくあく〉」(弘経〈ぐきょう〉の大士〈だいじ〉・宗師等〈しゅうしとう〉、無辺〈むへん〉の極濁悪〈ごくじょくあく〉を拯済〈じょうさい〉したまう)とありますが、釈尊が説かれたお経の教えを広められた龍樹・天親の二菩薩と、真〈まこと〉の宗〈みむね〉を明らかにしてくださった祖師がたは、どうしようもない極濁悪の私を救おうとしてくださっているのだから、「唯可信斯高僧説〈ゆいかしんしこうそうせ〉」(ただこの高僧の説を信ずべし)として、親鸞聖人は、ただただ、これら七高僧の教えに素直に従うしかないと、私に勧〈すす〉めてくださっているのです。
 
親鸞の流罪伝承

 

本日のテーマは親鸞の流罪についでです。親鸞は越後に流されたというのが定説で、私もそう考えていたのですが、それは間違いであったということを今年の初めに発見したのでご報告いたします。
その理由は非常に簡単明瞭でありまして、「教行信証」後序に親鸞が遠流(おんる)に処せられたと書いてある。 本人が書いているのですから、間違いありません。非常に信憑性が高い第一史料である。
親鸞の遠流は朝廷によってなされたのですが、朝廷における遠流の制度は「続日本紀」の神亀元年、聖武天皇の所に明記されております。
そこでの遠流は、伊豆、阿波、常陸、佐渡、隠岐、土佐の六国に限定されております。
しかもその中で北陸にあるのは佐渡だけで、越後は入っていない。
越後と佐渡とはもちろん別国ですから、越後は入っていない。それどこころか、越前などは中流にもなっておらず、近流なんですね。
ということですから、「越後に流されて遠流」とはとんでもない話である。
これが混乱したのは、承久の変というのがその後ありまして、流罪の原点が一変したからです。それまでは京都の朝廷が長く流罪の張本人だったわけですが、承久の乱からは鎌倉が張本人となって、しかも親鸞や法然たちを流した朝廷の権力者が流されるという、非常に歴史の皮肉という問題に当面したわけです。
だからここで遠流という概念が一変したわけです。
いまの「続日本紀」の記事にありますように、遠流の六国の中の伊豆、安房、常陸の三国は関東です。
しかし京都を原点としてこそ遠流ですが、鎌倉を原点としてこんなところが遠流であるはずはない。近流ですらあるはずがないですよね。ですから遠流という言葉が意味を失ったわけです。
それに代わって、有名な言葉ですが、「遠流一種」という言葉が出来て、ともかくも遠流、中流、近流のどこでもいい、流すこと自体を遠流と呼ぶ言葉が出来て、それまでからすれば大雑把な概念を鎌倉側が作っていくわけです。
とはいえ、親鸞は鎌倉によって流されたのではなく、京都朝廷によって流されたのです。
鎌倉の遠流一種で理解するものではないのです。当然です。「続日本紀」という、朝廷がちゃんと作った制度によって理解しなければいけないのです。
それによってみれば、親鸞は越後ではなく、佐渡に流されたと理解するほかないわけです。 
それは事実、地元の伝承とも符合することです。と言いますのは、現地で居多ヶ浜(ごたがはま)という所が上越市の直江津のそばにあります。伝承では親鸞聖人がそこへ舟で着かれたといういうことなっている。
ところが不思議なことにその前は、糸魚川市の姫川にも舟で上陸し、そこから舟で来られたという。それは、現地の親鸞研究をされている大場厚順さんも、不思議がっておられるわけです。
これは従来の考えでは理解できない。つまり京都からずっと行ったと考えると理解できないのです。
京都からずっと行ったと考えると、糸魚川の姫川から直江津まではすぐ近くで、わざわざ姫川で上陸する必要はない。
そこで私は、親鸞が佐渡から舟でまっすぐ行ったのではなくて、まず野積(のづみ)、つまり寺泊(てらどまり)へ舟で行ったと思いました。
そしてそこから海岸沿いに舟で国府のある直江津に来ようとしたのです。
ところが風が強い時期で---時期はだいたい分かります。海流はいつも四六時中西から東へ対馬海流は流れているのですが、ところが風が東から西へ流れる時期があるわけです。
これが今の10月、11月の頃です。だからその風に乗って東から西へ行く場合は、風も潮流も逆のところへ行こうというのは当時の船では無理です。
だからこれは季節も選ばないといけないし、そしてうまくどんつきの寺泊へ来て、そこから海岸沿いに風に押されながら行くというわけです。
ところがその場合、暴風雨だと、目的の直江津を越えて西の糸魚川(姫川)に着いてしまう。そういうケースもあるわけです。
わたしも今年(2007年)の一月七日、直江津に行ったとき、すさまじい暴風雨に遭いました。
おそらく今夜は汽車が来ないから今晩は早くお帰りなさいと大場さんや橘さんにお勧めいただいたのですが、その暴風雨のなかで居多ケ浜の海岸に立ちましたが、目も開けていられないすさまじい暴風雨でした。
汽車も止まるような暴風雨でした。私の場合は陸地だったからよかったものの、親鸞の場合は囚人船に乗せられて行ったから、通り過ぎてしまって、また元へ微調整して直江津に帰ってきた。こう考えると非常に現地伝承と合うのです。
それでは、なぜ越後に来たかというと、ここからは史料がないから私の想像ですが、結局は囚人労働のためですね。とにかく囚人というのは、何も働かさなかったら支配者が損をするわけです。食べられるだけになるから、当然、食べる量以上に働かせなかったら、支配者としては困るわけです。
縄文の越の国の頃でしたら五色の美しい石が出ているような土地です。また江戸時代前後は大判・小判のための黄金の採掘で囚人労働がさんざん使われたわけです。働きながらどんどん死んで行くわけですから、いくら囚人がいても足らないのです。
ところが親鸞の生きた鎌貪時代はどっちでもなかった。つまり佐渡ではたいした労働をさせられないわけです。
だから国府のある越後へ運ばれた。そこで農耕もあるでしょうし、また後で述べますが、高い身分の僧侶の輿を担いで坂を上がっていく労働。そういったものを被差別民、囚人たちがやらされていた。それに親鸞も使われるべく、今の上越地方へ連れてこられた。
現在の直江津に草庵と言われるものが二カ所ありますけれども、草庵と言えばいかにも風流な言葉で、月を見て歌を作っているかのような感じがしますけれども、事実はそんなものではなく、囚人労働ですね。被差別民と同じ過酷な労働をさせに連れてこられた。私はそう考えます。
だからこの点、ここで一言を挟みますと、かつて服部之總氏のように、プロレタリアート親鸞を「娘を売った」かのように描いて得意になっていた時期がありましたが、とんでもない誤読だと赤松俊秀さんが見事に指摘されましたよね。ところが最近では逆に、親鸞の流罪はたいしたことないのだと、身内や家族による庇護があったので、たいして苦しくはなかったという「上流流罪」、「恵まれ流罪」だったという捉え方が多いように感じるわけです。
こうした意見は大分前から出されているのを私もよく知っておりますが、最近その系列の意見が強くなっている気がします。松野純孝さんあたりの説を受けているのだと思います。
しかし、歴史に対する私の考え方は、右でも左でもイデオロギーはだめということです。イデオロギーで史料を解釈しても長続きは絶対にしない。これは敗戦を経てきた私は痛感をしています。
やはりイデオロギーではなく、事実に基づいて真実を追究する。それだけが私は歴史学であると考えております。 
そこで、いまのことの関連で、関山(せきやま)というところが直江津から長野へ行く途中、上越市の板倉にあり、その関山に洞窟がある。そこに親鸞聖人が住んでおられたという伝承が現地では根強くあります。
それを私は板倉出身の人から聞いたのですが、「自分の母親は朝起きてから寝るまで念仏なしでは生きておられないような人だったが、親鸞聖人はあの洞窟に住んでおられたといつも言っていた」と。これは、私も含めて、今までの親鸞研究からすればとんでもない話ですね。しかしさきほどの囚人労働という話でいえば、全然おかしくないのです。
この現地に行ってみましたら、今年の一月七日、ちょうど猛吹雪の日で、あっという間に2m、3mという雪が積もるのを初めて見ましたが、そこで関山の洞窟に行きましたが、その中は軽く10人位は入れるほどで、囚人を詰め込めば20〜30人は入れるかもしれない。そこに入れられていた中に親鸞がいた。ここは「ひじりのいわや」とも呼ばれていますが、聖(ひじり)とは親鸞のことだと私は思います。聖の解釈をしだすと長くなりますが、愚禿親鸞というのは聖のことですよね。
さて、そのことの証拠が、皆さんよくご存じの「正像末和讃愚禿悲歎述懐」にあります。
実はこの和讃は私が大変好きなもので、親鸞研究をしている時でも、絶えずこれを呟いておりました。呟いていながら、八〇歳になるまで本当の意味を知らずにいたという非常に恥ずかしい思いをしております。
この和讃の十三番に、「旡戒名字(むかいみょうじ)の比丘(びく)なれど」とあります。
戒が無くて藤井善信(ふじいよしざね)という世俗の名前を与えられた比丘であるけれども。---日本語だから主語を略すことがありますけれども、主語を補えば「私は旡戒名字の比丘であるけれども」とこう言っているのです。
つまり、社会評論を親鸞がやっているわけではなく、自分の経験を言っているのです。だから「私は」という主語を補うべきなのです。
そして同じ和讃の十五番には、「末法悪世(まっぽうあくせ)のかなしみは南都北嶺(なんとほくれい)の佛法者の輿(こし)かく僧達力者法師高位をもてなす名としたり」。
そして十六番には、「比丘比丘尼を奴婢として僕従(ぼくじゅう)ものの名としたり」というくだりがあります。ということは、つまり比丘や比丘尼を奴婢として扱っている。そして僕従として扱っているということです。
ところが先ほど申しましたように、自分は旡戒名字の比丘であると言っている。それは奴婢として生活をさせられていて、僕従として扱われており、高い位の僧の輿を担ぐ役に使われていたということを言っているのです。
もう非常にはっきりしているんですが、今までは全く気がつかなかった。というようなことですから、今のような状況を親鸞自身が完全に告白している。
それで一番の肝心なところはこの和讃の十四番、「罪業もとよりかたちなし妄想顛倒のなせるなり心性もとよりきよけれどこの世はまことのひとぞなき」。「罪業」というのは、変な難癖を付けられた。女色に乱れているとか大嘘っぱちのことを言われたが、それは全く意昧のないことだ。事実に反する。
「妄想顛倒のなせるなり」。上皇が男として、政治的な側面もあったろうけれども、同時に男であったわけです。だから宮中の女が念仏しているというので、嫉妬でムラムラと狂った。そういう男の嫉妬狂い。その妄想顛倒がなしたものである。
それが我々師弟に対する流罪である。
「心性もとよりきよけれど」。私の心は誠に清いものである。しかしこの世、この「世」は世の中ではなく、立身出世の世、つまり上級社会を意味しているのですが、この現代の上級社会に真の人はいない。上皇、天皇たち、みんな偽物だ。これだけはっきりと言われていることに八〇歳になるまで気がつかなかったのです。恥ずかしい次第です。
それでは、なぜ従来の説が一般化していたかといえば、「歎異抄」の流罪記録。私も散々論文で利用させてもらったものなのですが、これはしかし流罪問題に関して言えば、第一史料ではなく、第二史料。しかも承久の変以後の史料である。
だから流罪一種の史料である。遠流、近流もごちゃまぜで遠流と書いているんです。これはれっきたる承久の変以後の概念で書いている証拠なのです。
これでまず我々は理解したわけです。それで第一史料である「教行信証」に出てくる「遠流にされた」ということを、第二史料をもとに解釈してきたわけです。だから話がおかしくなってきた。現地伝承とも合わなかったわけです。以上のことを私は改めて知りました。
愚禿悲歎述懐
浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし
外儀のすがたはひとごとに 賢善精進現ぜしむ
 貪瞋邪偽おほきゆゑ 奸詐ももはし身にみてり
悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり
 修善も雑毒なるゆゑに 虚仮の行とぞなづけたる
無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども
 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ
小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ
 如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき
蛇蝎奸詐のこころにて 自力修善はかなふまじ
 如来の回向をたのまでは 無慚無愧にてはてぞせん
五濁増のしるしには この世の道俗ことごとく
 外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬せり
かなしきかなや道俗の 良時・吉日えらばしめ
 天神・地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす
僧ぞ法師のその御名は たふときこととききしかど
 提婆五邪の法ににて いやしきものになづけたり
外道・梵士・尼乾志に こころはかはらぬものとして
 如来の法衣をつねにきて 一切鬼神をあがむめり
かなしきかなやこのごろの 和国の道俗みなともに
 仏教の威儀をもととして 天地の鬼神を尊敬す
五濁邪悪のしるしには 僧ぞ法師といふ御名を
 奴婢僕使になづけてぞ いやしきものとさだめたる
無戒名字の比丘なれど 末法濁世の世となりて
 舎利弗・目連にひとしくて 供養恭敬をすすめしむ
罪業もとよりかたちなし 妄想顛倒のなせるなり
 心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき
末法悪世のかなしみは 南都北嶺の仏法者の
 輿かく僧達力者法師 高位をもてなす名としたり
仏法あなづるしるしには 比丘・比丘尼を奴婢として
 法師・僧徒のたふとさも 僕従ものの名としたり
以上十六首、これは愚禿がかなしみなげきにして述懐としたり。この世の本寺本山のいみじき僧とまうすも法師とまうすもうきことなり。
釈親鸞これを書く。

承元元年、大弾圧はくだった。親鸞は、師の法然とともに、流罪人とされた。
親鸞の心に、もっとも深い怒りを刻みつけたのは、同志、住連・安楽の死刑だ。
よこしまな腹立ちから、かれらを御所の庭にひきすえた後鳥羽上皇。その面前で、安楽は、不法の弾圧者は必ず滅びると、断言したという。
親鸞は、流罪中、この権力者の行為に、はげしく抗議した。
「主上・臣下、法にそむき、義にたがう」と、かれは、九〇歳の死にいたるまで、この思想的節操を変えることがなかったのである。 だから、親鸞の生涯をひと言でいえば、「生き残り、生き抜いた住連・安楽」としての一生だった。
その住連・安楽の墓は、いま、京都東山の法然院の隣に、ささやかに、存在している。 
さて、私がこういう問題、第二史料は第一史料に基づいて考えるべきだという、実に当たり前のことに、なぜ今になって気がついたのかには理由があります。
それは去年11月10日、八王子にある大学セミナーハウスで二日間にわたる講演をした際、その前の晩に「東日流外三郡誌」寛政原本にお目にかかったのです。
持ってきた人に見せていただいて寛政原本だと気がついたのです。
そして講演が終わった14日にタクシーでそこを出た。そしてタクシーの運転手が板倉出身の方で、自分の出身の関山には親鸞聖人が住んでおられた洞窟があると言われる。
私はそれでちょっかいを掛けまして、「親鸞聖人はその時佐渡から来られたことはありませんか」と尋ねてみたところ、「そうですよ。親鸞聖人は佐渡から来られたんです」と答えられてびっくりしたのです。
私はなぜそういうふっかけをやったかというと、「東日流外三郡誌」の「金光抄」に、金光上人が佐渡にいた親鸞と問答をしたことが書かれている。その問答が私の眼から見ると、あの時期の親鸞に非常にふさわしいんですね。関東や京都の親鸞ではありえないことですが、ふさわしい。
「東日流外三郡誌」がいかに貴重な本であるかがよくわかります。
ところが問題は、佐渡にいた、と書いてあることです。
これは単純な、浅い史料批判でいけば、これだけですでにおかしいとなるわけです。しかし親鸞が越後に流されていたのは常識中の常識でしょう。そんなことを間違えて書くはずがないのです。それでそこには何かあるんじゃないかというのが疑問として持っていたのです。
しかもそのことが載っている「東日流外三郡誌」は偽書説にさらされていたわけですが、江戸時代の寛政原本の原写本が出てきた。
その直後ですから、もしかしたら、と思って聞いてみたら、板倉の人の常識では、佐渡から来られた。そこで私は帰ってから「教行信証」を読み返してみたところ、なんだこれは佐渡に決まっているんじゃないかということになってきたわけです。 
さて、浄土宗が六年ほど前に出した「金光上人関係伝承資料」という立派な本には、金光上人に関する資料がまとめられています。この資料集を作る際には、金光上人に関係する文書が沢山収められている、和田家文書の「東日流外三郡誌」のなかで写真を一五九点でしたか、マイクロフィルムで撮ったと書いてある。
ところがそれを一切採用していない。
なぜかといえば、偽書説の嵐が吹いており、それに騙されてしまい、これらを資料として載せなかったのです。
それはやっぱり情けないですよ。
これが史料集である以上は、本物か偽物かという判断は見る人に委ねればいいわけで、編集者が偽書説の人の本を挙げて、この人たちが偽物だと言っているから、そしてその意見が本当だと思うから史料として載せないというのは、情けない態度を取られたと思います。
秋田孝季(たかすえ)という人は、自分が書いたものが嘘か本当かはわからない。意見も対立している。しかし後世の人に判断してもらうためにここに記録した、と何回も書かれている。 これが本当の学問精神である。
しかしこの資料集を作る際には学問精神が発揮されていない。法然上人という人は清濁併せのむ人柄で、非常に尊敬しているのですが、その末流がこれでは困るなと、悪く言うつもりはないんですが、そう思います。
幸いマイクロフィルムで一五九点も撮ったわけですから、新編資料集として改めてまた出されたら浄土宗のためにも大変名誉なことだと思います。この本の中にも私が見た以外にも親鸞との関わりが出てくる可能性があります。
なお、いま申しました寛政原本ですが、そのカラー写真を何点か載せた雑誌「なかった---真実の歴史学」の第三号がちょうど数日前に刊行されました。
また寛政原本全部のコロタイプ版は七月以降(2008年3月)に出ますから、ご関心のある方はこれらをご覧いただければ幸いです。 
最後になりますが、いま松本郁子さんという若い研究者が、西本願寺の太田覚眠という、昭和十九年に亡くなられた僧侶の研究をしておられる。その人は現在のウラジオストックに行き、モンゴルに行っているわけです。そうした太田覚眠の行動は、親鸞が佐渡に行ったのと何か関係があるのではないでしょうかと松本さんが言われたので、そんなことはないでしょうと、そのときは答えておりました。
しかし気がついてみたら、太田覚眠という人は終世西本願寺派の僧侶であったのに、坂東曲(ばんどうぶし)をいつもやっていたと言っている。坂東曲というのは御承知のように東本願寺だけでやるものですよね。西本願寺の僧侶なのに坂東曲をいつもやっていた。何か、海を越えて舟に揺られていくというイメージを、覚眠はもったのではないでしょうか。最初はそんなことは---と言っていたのですが、それは訂正しないといけないな、と現在は思っています。 
 
親鸞と浄土真宗

 

親鸞の誕生と比叡山延暦寺での修行
釈迦の死後1,000年間は正しい仏法がそのまま実施される『正法』の時代であり、その次の1,000年間は正法を筆写(表象)したような『像法』の時代となり、正法の時代よりも仏法の威光や効力が弱くなってしまうといいます。『大集経』を根拠にする仏教の末法思想では『像法』の時代が終結すると、仏法の正しい教えの効力が弱まる『末法』の長い時代が始まるとされています。親鸞(1173-1263)は、天変地異や政情不安、戦乱・略奪が渦巻く末法の時代の真っ只中である1173年(承安3年)に、下級公家の家系である日野家に生まれました。親鸞の父親は日野有範(ひの・ありのり)、母親は清和源氏・八幡太郎義家の孫娘・吉光女(きっこうにょ)と伝えられていますが、平安貴族の頂点(摂関家)に君臨する藤原家の流れの中では非常に不遇な立場にありました。日野家は、藤原家北家の傍流に位置する血筋で、日野有範は皇太后大進という皇太后の側近くに仕える閑職の地位に甘んじていましたが、日野家没落の原因を作ったのは親鸞の祖父・日野経尹(つねただ)であったといいます。日野経尹が、朝廷の不興を買ったことで日野家の栄華の道は閉ざされたといいますが、1180年(治承4年)に『以仁王の乱』が起きて日野有範の弟・日野宗業(むねなり)がその騒乱に巻き込まれることになります。
平安時代末期には、軍事力を背景にした平氏・源氏の武士勢力が伸張してきて、古代社会の主権者であった平安貴族の地位を脅かすようになってきますが、権勢を振るう平氏政権を打倒しようとした『以仁王(もちひとおう)の乱』も源平の戦乱の流れの中に位置づけられます。後白河天皇が崇徳上皇を打ち破った『保元の乱(1156)』で平家一門が台頭し、源義朝率いる源氏一門を平清盛の平氏一門が追い落とした『平治の乱(1159)』によって朝廷を圧倒する平氏政権が産声を上げました。その後、1177年に平氏政権を転覆しようとする後白河法皇(1127-1192)の『鹿ケ谷の陰謀(鹿ケ谷事件)』が起き、陰謀の実行に失敗した後白河法皇は1179年の『治承三年の政変(治承三年のクーデター)』によって院政の実権を剥奪されます。豪胆と才覚に恵まれていた皇族の以仁王(1151-1180)は、源頼政(1104-1180)と共謀して平清盛を首班とする平氏政権を打倒せよという令旨(りょうじ)を出しますが、事前に陰謀が露見して以仁王と源頼政は殺害されました。親鸞の叔父の日野宗僕が以仁王の学問の師であったことで、日野家も陰謀に加担していたのではないかという疑念をかけられ、朝廷における日野家の立身出世はいよいよ難しくなりました。
我が子を朝廷の権力闘争に勝ち抜かせることは無理と考えた日野有範は、親鸞を仏教(天台宗)の総本山である比叡山延暦寺に預けて、僧侶としての栄達(身分の上昇)を目指させようとします。源平の戦乱が激しさを増し、古代王朝(平安貴族)の権力が斜陽の過程にある末法の時代に、9歳の親鸞は比叡山延暦寺に入山して厳しい修行と学問の日々に励むことになります。古代の飛鳥時代や奈良時代の頃から、公家の貴族が生きる世界は大きく『朝廷の政界』と『寺社の宗教界』に分かれており、朝廷での栄誉や出世が望めない公家の中には、大寺社に所属する僧侶になるものが多くいました。ただし、世俗から離れた宗教界(仏教界)である『寺社の世界』においても、最高位の僧侶へと立身出世するためには『公家の世界』と同じように、皇族・摂関家・大臣を輩出した貴族などの『高い家柄や身分』が必要でした。
比叡山時代の親鸞は、天台宗の教学と奥義を極めて悟りを開く為に、懸命に過酷な学問や修行に励みましたが、延暦寺での僧侶の出世は『学識・修行・実績』などによって決まるのではなく、『生家の家柄や身分の高貴さ』によって決まるので、(生家の家柄が低い)親鸞が比叡山で高僧となる望みは殆どありませんでした。幾ら学術研究に専心して高い教養を得ても、どんなに苛烈で危険な修行をして煩悩を断ち切っても、『延暦寺での僧侶の評価』にまったくつながらないことに親鸞は疑問を抱きました。更に、親鸞に深い苦悩と絶望を与えたのは、学問を深く修得することや厳しい修行に耐え抜くことが『人間の苦悩や絶望の救済』に全く役立たないということであり、『民衆・俗世から離れた学問研究としての仏教』に原理的な誤りがあるのではないかと考えるようになりました。
つまり、学問や知識を勤勉に蓄積することで涅槃寂静の悟りの境地に達することが出来るという『声聞(しょうもん)の悟り=聖道門(しょうどうもん)』に親鸞は疑惑を抱いたわけです。自分一人さえ苦悩から救えないような『声聞の悟りの道=仏法の学術研究の道』では、『一切衆生を救済する』という壮大な仏教の目的を達成することなどは及びもつかないのではないかと親鸞は思いを巡らします。学鑽によって悟りを開く天台宗の教えに限界を感じ始めた親鸞は、救済宗教である仏教の本質に立ち返る必要があると思い直し、『不安・恐怖・絶望・憎悪が渦巻く末法の世(五濁悪世)』を救う真の仏法を探し始めるのです。
世の中のあらゆる人々、貴賎・貧富・賢愚を問わない一切衆生を救うという壮大な目的に向かう前に、親鸞には絶対にやり遂げなければならないことがありました。それは、末法の世の峻険な現実の前に打ち倒されようとする親鸞自身を救うことであり、親鸞自身の苦悩と迷いを克服することで『仏法には人間の苦を取り除く力がある』ということを証明することでもありました。『人間の抜苦与楽(ばっくよらく)』の道としての仏法を模索する親鸞は、末法思想が波及する中で力を持ち始めた『阿弥陀仏(あみだぶつ)の浄土信仰』に眼を向けていくことになります。末法が始まる1052年(永承7年)に、関白・藤原頼通(ふじわらのよりみち)が建立した京都宇治の平等院鳳凰堂の本尊は阿弥陀如来(阿弥陀仏)です。このように、末法が始まって以後の時代には、貴族の間でも民衆の間でも、人間を極楽浄土へと導いてくれる『阿弥陀如来の本願の慈悲』にすがる人が増えてきたのです。 
他力本願の念仏信仰へと向かう親鸞
生きる事に悩み悟りの道を歩むことに絶望した青年期の親鸞は、『比叡山延暦寺での学術研究・修行実践の道』では人間を究極的な絶望や苦悩から救済することは出来ないと感じるようになり、法然(1133-1212)の専修念仏(ただひたすら念仏を唱える)の仏教信仰に関心を寄せるようになります。法然も親鸞と同じように、元々は、比叡山延暦寺(天台宗)の敬虔で実直な僧侶でした。法然は比叡山で10年の修行をし、奈良仏教(南都仏教)で10年の学究生活を送り、更に比叡山に戻って10年の学問・修行の時間を過ごしましたが、『30年に及ぶ伝統仏教(古代仏教)との格闘』を通して天台宗や奈良仏教では自分と民衆を救済することは出来ないという結論に至りました。唐の僧侶・善導の『観経疏(かんぎょうしょ)』と阿弥陀仏への帰依を説く『浄土教』を読んで、専修念仏(念仏信仰)こそが万民の苦悩を解決する究極的な仏法であると考え、京都の吉水を拠点にして念仏の信仰を広めました。
熱心な学僧であった親鸞も、当時流行していた浄土教の念仏信仰について知識・情報として知っていたので、早速、比叡山の常行三昧堂で念仏の修行を始めましたが、親鸞の悩みや迷いが念仏によって消え去ることはありませんでした。『なぜ、こんなに必死に一生懸命に念仏修行をしているのに私は救われないのだ』という疑念が親鸞を襲いましたが、親鸞が念仏によって救われない理由は正に『念仏を修行(苦行)として捉えている』という一点にあったのです。つまり、親鸞が『南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)』という念仏を必死に唱える時、それが『一生懸命に修行や学問をした人の努力』に対してのみ、阿弥陀仏の救済が与えられるという『自力本願の修行』になってしまっていたのでした。念仏を唱える『称名念仏(しょうみょうねんぶつ)の信仰』の本質は、『阿弥陀如来(阿弥陀仏)の本願』に内在している「無限の慈悲」をただひたすら信じ抜くというところにあるのですが、生真面目な親鸞は『阿弥陀如来の慈悲よりも、自分自身の念仏の修行のほうを優先する』という根本的な間違いを犯していたのでした。
誰でも実施できる易行(簡単な修行)である『念仏』は、飽くまで、絶大な救済の力を持つ『阿弥陀仏の慈悲』を信じきることが重要なのであり、青年の親鸞のように『善行や努力を積み重ねる功徳』によって極楽浄土に行こうとする『修行の発想』では、親鸞が否定した『古代仏教(天台宗・南都仏教)の立場』と変わらないのです。比叡山の常行三昧堂で念仏修行をした親鸞が学んだ事は、『自力本願の善人正機の発想』では人間は救われないということでした。親鸞は、自分自身が煩悩具足(ぼんのうぐそく=煩悩を消尽できない凡人)の悪人であることを自覚して、阿弥陀仏の救済を信じきる『他力本願の悪人正機の発想』を持たなければならないと考えました。親鸞は、自分自身の『修行・学問・善行による功徳=自力本願』では真の極楽浄土に辿り着くことは出来ないと悟り、『善人正機=正しい努力や修行をした人だけが救われるの発想』そのものを捨て去ることでしか人は救われないと思うようになります。
しかし、『思うは易し、行うは難し』であり、阿弥陀仏を徹底的に信じる『絶対他力の念仏信仰』の正しさを思いながらも、親鸞はなかなか自力本願の念仏修行の日々を捨て切れずにいました。決定的な宗教的転回点が未だ親鸞には訪れていなかったのですが、29歳となった親鸞は『他力本願の念仏信仰』の正しさを日本仏教の父である聖徳太子(574-622)に問おうとすることになります。聖徳太子は既にこの世の人ではないので、聖徳太子に垂迹(化身)していたとされる救世観音(ぐぜかんのん)を本尊とする京都烏丸通の六角堂に親鸞は篭もって『他力本願の念仏信仰の真偽』を問いました。 
親鸞の悪人正機説と平等な救済
京都烏丸通の六角堂に篭もった親鸞は、100日間の間、聖徳太子の化身である救世観音に他力本願の念仏信仰について祈願を続けましたが、そうすると95日目の日に聖徳太子が親鸞のもとに示現して『法然のもとに向かって教えを聞け』というお告げを得ることが出来ました。早速、京都の吉水で念仏信仰を説く法然のもとに向かった親鸞は、念仏によって究極の悟りを得た法然に弟子入りをします。百日間の間、毎日法然の教えを受ける為に吉水へと足を運んだ親鸞に、突如、『宗教的な回心=阿弥陀仏への完全な帰依』の時が訪れます。親鸞は浄土教の開祖・法然との邂逅(出会い)によって、阿弥陀仏の本願を無条件に信じる『他力本願の念仏信仰』こそが、末法の世の唯一の救済であることを悟ることが出来たのです。20年間もの長きにわたって比叡山の伝統仏教を学んできた親鸞は、法然との出会いによって『他力本願の念仏者』へと決定的な回心をしたのでした。
この『宗教的な回心』について親鸞の事績・思想について書いた『歎異抄(たんにしょう)』では、『念仏が極楽浄土への種なのか、地獄に落ちる悪業なのかは分からないが、たとえ法然聖人に騙されていたとしても一切の後悔などない』という内容が記されており、親鸞の他力本願の念仏信仰に対する師・法然の決定的な影響力を読み取ることが出来ます。『歎異抄』自体は親鸞の著作ではなく、親鸞の弟子の唯円あるいは覚如の著作と考えられています。『歎異抄』に書かれた親鸞の教えによると、阿弥陀仏の広大無辺な本願(慈悲)を信じて念仏を唱える事が念仏信仰の本質であり、善悪や貴賎、貧富の別などは『救済の成否』に全く関係しないということになります。仏法は、『罪悪深重(ざいあくしんちょう)の罪深い人々』や『煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の欲望強い衆生』を救うために存在するのであり、極楽浄土を司る阿弥陀如来は『善悪・賢愚・貴賎の区別』などにこだわって救済する民衆を選ぶことなどはないということなのです。
阿弥陀仏の本願(慈悲)を超越するほどの善も悪も存在しないというのが親鸞の教えであり、一切衆生の救済は『阿弥陀仏の本願を心から信じて、念仏を唱えさえすれば良い』ということに行き着きます。阿弥陀仏の本願の慈悲を心から信じて、念仏称名をした瞬間に『往生決定(おうじょうけつじょう)』が起こり、いつも念仏を唱え続けなくても確実に極楽往生に行けることが決定するのです。『歎異抄』で念仏を信じる人のご利益について、『信心の行者には、天神地祇(てんしんちぎ)も敬服し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえなり』という風に記述されており、親鸞は念仏信者のことを『念仏者は無碍(むげ)の一道なり』と簡潔に表現しています。無碍とは『一切の障害や妨げがない』という意味であり、真の念仏信仰に目覚めればあらゆる障害や苦悩を越えた無碍の一道を歩むことが出来るというわけです。
親鸞の説いた悪人正機説(あくにんしょうきせつ)とは、念仏信仰へと信心決定(しんじんけつじょう)すれば、善人であっても悪人であってもあらゆる人々が救われるという教えであり、念仏は煩悩具足の衆生のためにこそあるという思想です。『歎異抄』に示された親鸞の思想は、『極楽往生するために念仏以外の何ものも必要ではない』という教えであり、阿弥陀仏の本願(救済)の慈悲の『信心』と『念仏称名』によって、衆生は仏と同等の存在になれるというものです。親鸞は、阿弥陀仏への信仰心が定まり念仏を唱えることを『信心決定(しんじんけつじょう)』と呼び、金剛(不退転)の信心が得られた時にあらゆる人々は諸仏と同等の位に就くとしています。特に、念仏者は、来世において仏陀となることが確実である『弥勒菩薩(みろくぼさつ)』と同等とされ、阿弥陀仏の誓願は念仏者に『摂取不捨(せっしゅふしゃ)』の利益(往生の確約)を与えるとしています。
摂取不捨というのは、阿弥陀仏の本願(慈悲)を信じる信心決定をすれば、阿弥陀仏は決してその人を見捨てることが無いということ、極楽往生の約束が破られることは絶対にないということです。つまり、信心決定した人が予期せぬ不徳を積んだり、悪事を働いたとしても、それによって極楽往生の権利が消滅したりすることはないのです。鎌倉仏教の中で親鸞を始祖とする浄土真宗がもっとも栄えた背景には、この『摂取不捨による極楽行きの絶対の保証』を考えることも出来ます。しかし、親鸞自身には独立した宗教宗派を打ち立てようという野心はなく、浄土真宗が本格的に巨大な権力を併せ持つ宗教教団になるのは、浄土真宗中興の祖と言われる蓮如(1415-1499)の時代からでした。蓮如は、衰退していた浄土真宗の本願寺を再興した人物であり、京都・山科本願寺を建設するだけでなく、大坂の石山に石山御坊(後の石山本願寺)を建立しました。
蓮如の時期に浄土真宗(一向宗)は一気に勢力を拡大して、強大な戦国大名に匹敵するだけの軍事力と経済力を誇るようになり『仏教国(仏国)』さながらの威光を示していました。細川晴元と結託した日蓮宗の焼き討ちを受けた『天文法華の乱(1532)』で山科本願寺は消失しますが、石山本願寺のほうは顕如の時代の1580年まで存続しており、『石山本願寺城』と呼ばれるほどの難攻不落の要塞となっていました。天下布武(天下一統)を目的とする織田信長と信仰拠点を保持したい石山本願寺門主の顕如(1543-1592)との間に、11年の長きにわたる『石山合戦(石山戦争, 1570-1580)』が起こり、最終的に織田信長が石山本願寺を下して門主である顕如を退去させます。浄土真宗の総本山である本願寺は顕如の時代に最盛期となり、最強の戦国大名であった織田信長を大いに苦しませるほどの軍事力と政治力を誇っていましたが、石山合戦に敗れて石山本願寺が炎上してからは、農民や土豪勢力を糾合した一向宗(浄土真宗)の勢力は徐々に衰退していきました。
時代が進みすぎましたが親鸞の悪人正機の話に戻ると、悪人正機説は『善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』という有名なフレーズで表されますが、その部分をもう少し長く『歎異抄』(Wikipediaの参考ページ)から引用すると以下のようになります。悪人正機の思想そのものは親鸞の独創ではありませんが、親鸞(浄土真宗)が『無知・無能・欲深(貪欲)・下賎・悪徳であっても救済される』という意味で悪人正機を広めたことで、農民層が幅広く念仏信仰に帰依することになりました。悪人正機については親鸞の師の法然も言及しており、大乗仏教の学説としてはかなり古くから言われていたようで、7世紀の朝鮮の学僧である元暁(がんぎょう)も『遊心安楽道』の中で悪人正機の衆生救済について触れています。
善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
そのゆゑは、自力作善の人(善人)は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれら(悪人)は、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。 
『歎異抄 第三章』
『阿弥陀仏の本願(慈悲)にすがる他力本願』に基づく悪人正機説の本意は、『悪人であってもどうせ極楽往生するのだから、どんな悪事を働いても構わない』というものではなく、『どんなに善行を積もうとしても、煩悩(欲望)を断ち切れない悪人である自分に気づき、そんな悪人である自分をも寛大に救済してくれる阿弥陀仏の慈悲に感謝(報謝)して生きる』というものです。親鸞の悪人正機説は『キリスト教の原罪』に近い部分があり、自己の内面や行動を反省(内省)することで、善人になろうとしてもなりきれるものではない『自己の原理的な悪性(煩悩)』を洞察することにその始まりがあります。そういった『煩悩具足の人(煩悩を消し去れない凡愚な人)』を確実に救済してくれるのが阿弥陀如来の広大無辺な誓願(慈悲)であり、念仏信仰者は『自己の救済(極楽往生)』のためだけに念仏を唱えるのではなく、『救済して頂いた阿弥陀如来への感謝(報恩)』のためにも念仏を唱えるのです。
悪人正機説を包括する他力本願の念仏信仰には、『阿弥陀仏への感謝・報恩の気持ち』が込められているのですから、『どうせ悪人でも極楽に行けるのだから、どんなに悪い事をしても構わない』という考え方をするような人は、念仏者には存在しないということになります。傲慢な思想を持って他人に害悪を与える浄土真宗の信者もいるかもしれませんが、それは親鸞から言わせれば、『阿弥陀仏に対する忘恩の徒』であり、真の念仏信仰者ではないということになるでしょう。『悪人』とは実際に悪事(犯罪)や乱暴を振るう人という意味合いよりも、『根本的な悪性や罪深さから逃れられない凡庸な人=一切衆生に当たる煩悩具足の人』といった意味合いが強く込められていると考えると分かりやすいと思います。念仏には『阿弥陀仏への感謝・報恩の気持ち』が込められていると書きましたが、親鸞は『無碍の一道』を歩める念仏者を増やすために『念仏の布教』を熱心に行い、一切衆生の救済につながる布教活動こそが阿弥陀仏への報恩(感謝)になると考えていました。末法の時代における究極の救いは、阿弥陀仏の本願(慈悲)にしかないという念仏信仰の教えを親鸞は必死に説き続け、まさに『念仏の布教』を自分の人生の使命としていたのです。
『阿弥陀経』には、『来世における極楽往生』だけでなく『現世における諸仏・諸神の加護』についても触れられており、親鸞は、阿弥陀仏の本願によって救われるとしても、他の諸仏や諸神を軽視したり否定して良いことにはならないと戒めました。日蓮が開いた日蓮宗では、法華経以外の経典(南無妙法蓮華経以外の称名)は全て邪教であるというような排他的な教えが説かれましたが、親鸞の念仏道場では、念仏信仰の直接の対象である阿弥陀仏以外の諸仏・諸神も『現世で生きる間の衆生』を守護してくれるので大切に取り扱うようにと教えていました。親鸞は、日蓮宗やキリスト教、イスラム教のような『一神教的な絶対性・排他性』を目指すことはなく、阿弥陀仏以外の仏たちや神々も『念仏信仰に衆生を導き、現世での安全や繁栄を守ってくれる』という重要な役割を果たしていると教えたのです。念仏信仰には、『南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)』と称名すれば現世利益がすぐに得られるという誤解もありましたが、親鸞が説いた念仏の効用は『阿弥陀仏による死後の極楽往生』と『輪廻の宿業からの解脱』であり、『お手軽な即時的な現世利益』に関しては否定しました。
親鸞は、阿弥陀仏へと信心決定して念仏を唱えれば、誰でも諸仏と同等の地位に立つ『妙好人(みょうこうにん)』になれると説きましたが、他力本願の念仏信仰は『無為なる現世の幸福(何もしなくても現世で財産や安楽を得られる)』を約束するわけでは当然なく、その意味では浄土真宗には奇跡的な現世利益はないと言えます。つまり、仏教の念仏信仰によって、重い病気を平癒させるとか、貧乏な人がお金持ちになるとか、下層階級の人が政治権力を手に入れるとか、人間関係の悩みをすぐに解決するとか、そういった『奇跡的な現世利益』を親鸞や鎌倉仏教の始祖たちは明確に否定しました。
浄土真宗をはじめとする鎌倉仏教の特徴は、平安仏教(古代仏教)に見られた『超能力的な加持祈祷(祈れば病気や問題が解決する)』を否定したところにあり、親鸞はお手軽な現世利益ではなく、『人生を堂々と生き抜く自信と覚悟』という現世利益を農民を主体とする衆生に与えたのです。親鸞が説いた阿弥陀仏への他力本願で得られるのは『死後の極楽往生(輪廻の苦悩の解脱)』と『現世における諸仏の加護』であり、念仏者と雖も『現世における幸福と栄光』は自分自身の努力と行動で掴み取っていかなければならないことになります。親鸞は、天変地異や戦乱の危機に喘ぐ民衆の無力感と絶望感を、阿弥陀仏の本願(救済)を信じさせることで打ち消し、自信と安心感を持って『現世における生活』を頑張れるように導いたのでした。善悪や賢愚、貴賎を区別せずに、あらゆる人に人生を生き抜く自信と安心を与えることが親鸞の宗教的使命であり、阿弥陀仏の誓願によって死後の極楽往生を確実に保証し、現世の生活に天神・地祇の保護を与えることで衆生の現世の生活をバックアップしたのでした。浄土真宗の念仏信仰の本質は、身分や知性、財力に左右されない『完全に平等な救済』にあり、念仏信仰によって一切衆生に『無碍の一道(一切の障害や迷いのない人生の道)』を力強く歩む勇気を与えたのです。  
   

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親鸞諸説

 

(未整理)  
親鸞聖人の仏教観  

親鸞聖人は、「本典」の「化巻」に、おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。と述べ、安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。 と述べられている。
「この界(此界)」というのは、欲界・色界・無色界の「三界」である。欲界よりも色界がすぐれ、色界よりも無色界がすぐれているが、いずれも迷いの世界にほかなく、この迷いの世界において迷悟不二の果を得ることを入聖得果とするのである。それは難行道であって、われわれにはついてゆけない。もっとも聖道門においても“浄土”ということをいわないのではない。
「三賢十聖果報に住す、唯仏一人浄土に居す」というのは、三賢と十聖に勝こ劣の差はあるが、それぞれに煩悩を伏し、あるいは断ずるから、それぞれの果報に住し、それぞれに浄土を実現するともいえる。今は完全に断惑証理した仏のみ浄土に居すというが、それらの浄土は、それらの人びとが自ら変現するとこころの「衆生自身変の浄土」にほかなく、此土入聖の廓を出ていない。ところが、ミダの浄土は、衆生の往生を全うしたミダの本願力から報いあらわれた純客観的な、願心荘厳の報仏報土である。それは界外(三界の外)の浄土(他土)であって、広略相入第一義諦妙境界相であるとたたえられる。では、その浄土にはいかなるものが往生するのかといえば、それはミダの願力廻向に依るものである。ミダの本願は機に約せば衆生の信心であるから、ただ“信仏の因縁”によってその浄土に往生する。それは衆生の虚妄の生ではなく、因縁生である。
さて、浄土に往生すれば、「真実報土の“ならひ”にて煩悩菩提一味である」、「極楽は無明のまどひをひるがへして無上覚をさとる“さかひ”」である。それは他力の信心(あるいは他力の念仏)によって「臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証する」場であるから、信方便の易行道といわれている。聖道門は陸路の歩行にたとえられ、浄土門は水路の乗船にたとえられている。
親鸞聖人は、仏教をこのように「聖浄二門」において解し、「相対絶待の二門」におてその意味を明らかにされたのである。
迷悟不二=迷いもさとりも、ともに無自性であって、本来同一のものでむじしょうあり、迷とか悟とかいってとらわれる必要はないということ。迷悟一如・迷悟一途などともいう。(無自性=それ自身で孤立的に存在する本体もしくは独立している実体を「自性」といい、それを否定したもの。あらゆるものは因縁によって生ずるので、このようにいう)
三賢=天台・華厳の教学では、菩薩の階位のうちの十住(第11位〜20さんげん位)・十行(第21位〜30位)・十回向(第31位〜第40位)をいう。
十聖=菩薩が修行すべき52の段階のうち、第41〜50地までをいう。じゅうしょう
願心=一切の衆生を浄土に生まれさせようという法蔵菩薩の願い。
広略相入=浄土の二十九種の荘厳としてあらわれた差別の相を「広」、真如の平等をしめす一法句を「略」とし、広と略が通じあっていること。いっぽっく方便として形相にあらわれた事象と、その成立根拠である究極的真理とは不一不異の関係にある。
第一義諦妙境界相=「浄土論」に「浄土は第一義諦妙境界相なり」とある。真如法性(第一義諦)がそのまま国 土の妙境の相(荘厳相)とあらわれたものであるということ。
本文中の「極楽は無明のまどひをひるがへして無上覚をさとる“さかひ”」は、「涅槃界といふは無明のまどひをひるがへして、無上涅槃のさとりをひらくなり。界はさかひといふ、さとりをひらくさかひなり」の取意と思われる。
信方便の易行=信心を方便(方途・手段)とする易行。 
通論家は浄土門を以って無得道の教とする
ところが世の中には、聖浄二門を「別時意趣」の説、すなわち無得道の教えとするものがある。たとえば、中国において無著菩薩の「摂大乗論」を弘通する通論家の学者は、「観無量寿経」の下々品に、下々品の悪人が臨終に、善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏ぜんぬ[の名]を称すべし〉と。みなというすすめを聞いて、かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごいのちこんにちりんとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。という十声称仏の説をもって、釈尊の別時の説としたのである。彼らは行者の十声念仏を“叶わぬときの神だのみ”程度に解し、これを一種の悲鳴として、「摂大乗論」の唯願無行の別時意とし、「観無量寿経」下品の往生をこれになぞらえたのである。当時この通論家の非難は、浄土教界に大きな打撃を与えたと伝えられている。しかしこの非難は、善導大師によって見事に打ちくだかれた。
善導大師の大意は次のようなものであった。下々品の行者が至心に十声「南無阿弥陀仏」と称えた。その南無を弥陀の大悲願心に帰依する即ち是行者の帰命とし、その帰命のこころに、自ら浄土を願う心を発し思いを廻らして道に向かう発願廻向の意味があるとうかがい、行者が阿弥陀仏の名を称えたのは、帰依と浄土を願う心から自然に発露した、即ち其の行であるとなし、意味の深い十願と十行とを具足するから、経説のごとく浄土に往生するのである。行者がたまたま十声の称名で終わったのは、臨終のためで、寿命が延びると自然と多念に及ぶことは当然である。
幸西・西山両上人は聖道門を無得道の教とする
仏教が日本に渡って、法然聖人門下の幸西上人や西山(証空)上人が、今度は逆に聖道門を別時意の方便説とし無得道の説とした。
幸西上人の教学は廃立に始終する。彼の著作「玄義分鈔」(「観経疏」の注釈書)の説偈分には、その意趣をあらわして、「観経に依て深心するものは仏心に相応するが、その他の衆願は帰せざるがごとし」と、聖道門のみでなく、一切の自力的な行願を批判している。彼は十聖と五乗(凡夫)とを報化二仏の所化(導かれる人)に配して、われわれ凡夫は「弥陀の別願に乗ずるより外に真如を証する道なし」としている。
くり返すと、幸西は「観無量寿経」「真身観」の「その光明と相好と、および化仏とは、つぶさに説くべからず」等の経文によって、いずこにも自力の修行に堪える「一実真如の機なし」と断じ、また、煩悩と菩提とを即せしめるが、それは煩悩みずからに菩提を創造する力があるというのではなく、さながら熱を与えなければ氷はいつまでも水にならないように、アミダ如来の無縁の慈によらない限り、煩悩はいつまでも煩悩であって、菩提とはならない。すなわち、我執がとれない限り、自力の修行は真実ではなく、それは仏になりたいという機の“あがき”に他ならないと評している。
かくて幸西上人は理よりも事を、定よりも散を、定散よりも乗願を勝れたりとなし、ここに聖道門ならびに衆行を別時意の方便説とし、無得道の教としたのである。
しかし幸西上人は、親鸞聖人のように「往生即成仏」を説かず、浄土へ往生して初地を証した後は、さらに修行して成仏するものとし、乗願以後は逆に事から理に入るとしたのである。
要するに、聖道の諸教は浄土の菩薩の修行内容、もしくは自覚内容を顕わすものであって、これを穢土の凡夫に説き示された理由は、浄土教に入らしめんがための調機弄引(誘引)に他ならない。したがってわれわれ凡夫としては、方便が説き示された意味を理解して「凡頓の一乗(一念義)」に入るようにと、幸西上人は浄土教を解したのである。
理=普遍的な絶対平等の真理、理法。
事=個別的具体的な事象・現象。
定=浄土往生のための善行。雑念を払い一つの対象に集中する心(定心)で仏の世界を念じる定善(三昧・禅定)のこと。
散=浄土往生のための善行。平生の散動する心(散心)のままで悪を捨て善を修する散善(道徳的善)のこと。
西山上人は幸西上人と同じく、聖道門を別時意、調機弄引(誘引)の方便説とし、その説明もまことにくわしい。上人は“ミダの成道”はそもそもいかに理解すべきかという問題を次のように領解されている。西山上人は、ミダ一仏を行門成の仏(身・口・意の戒行を完成した仏)とし、また、ミダを本師本仏として、他の諸仏は観門(観察の法門。定善観のこと)から弘願(広弘の誓願)に入って成仏するという。しかも、ここでは必ずしもミダと諸仏の前後を議論する必要はなく、ミダに依って真の宗教的客体が現れたのであるから、後仏はもとより過去仏も皆、ミダと同体のさとりをひらくのである(=正覚浄華の化生)。
ところがここに「なぜミダが独り行成して、他の衆生が行成せられないのか」という疑問が生じる。言い換えると、「ミダの行成は衆生の行成を証し、衆生の行の不成はミダの行の不成を意味しないか」ということである。しかし、ミダの行成は無始の行成と考えられる。ミダは、本より行成就する仏という意味である。
西山上人の「観経疏大意」に出てくる「観門のミダ」「弘願のミダ」は、親鸞聖人の「十劫のミダ」「久遠のミダ」を彷彿させる。西山上人は「観経疏大意」において「覚り」をミダ一仏に限定するような主張をしているが、これは独断のきらいを免れない。
証空(西山上人)は、善導「観経疏」「玄義分」の一代教法の法門分類について、「自筆鈔」で行門・観門・弘願という三の分類を設けている。
これは、調機の次第で言えば、自力行門の機が他力観門へと導かれ、最後は弘願に帰するとし、教法の次第で言えば、逆に一切の根源である弘願から観門が開かれ、さらに方便の行門が展開されるとするものである。
この点において親鸞聖人の説は実に穏健であって、聖人はこの覚りを仏々平等のものと解し、聖道門でも成仏し、浄土門でも成仏するようにうかがわれたのである。
では、釈尊や龍樹のような人はいかにして仏となられたかというと、それらの人びとはすでに西方の浄土に往生し、再び衆生済度のためにこの世へ還来した還相の菩薩であり、あるいは化現の聖者であって、これを真似たり自分に当てはめたりすることの間違いを注意されている。
かくて、幸西上人等は、阿弥陀仏を諸仏の本師本仏となし、ミダ他力の一道よる他に救われる道はないとされたのである。幸西上人はこうした点から本願成就の「乃至一念」等から「一念義」をたてて、これを「凡頓教」と称し、ここに釈尊出世本懐をうかがわれた。
西山上人は、行門・観門・弘願などの特殊名目をもって詳説されたのである。 
聖人の相対判と絶対判
親鸞聖人は、曇鸞大師によって、十方三世の無量慧、同じく一如に乗じて正覚と号す。二智円満して道平等なり。摂化すること縁に随ふ、まことに若干ならん。
二智=諸法の空理をさとる根本無分別智(実智)と、差別の事相を知る後得智(権智)のこと。
道平等=諸仏のさとりが平等で同一なこと。
若干=たくさん。
と仰せられている。このなかで前三句「十方三世無量慧、同乗一如、二智円満道平等」によると、十方三世の諸仏は、いずれも同じく一如に随って、自ら利する真諦の智も、他を利する娑婆の智も円満して、そのさとりは平等にしてかわるところがない、というのである。「一如」の理とは、事々物々に一貫するところの一如真如の理であって、仏知見からすると、その理には凡夫を救済する事があるというのである。しかも、理と事は無碍であって、華厳宗では理事無碍などの四無碍を説くのである。概して実大乗は皆同じである。それゆえに、諸仏は同じく一如に乗じて二智円満し、その道は理智不二であって仏々平等である。また、その智は悲ともいわれ、悲智不二であることはいうまでもない。諸仏はいずれも理・智・悲無碍の徳を具えておられるのである。
理事無碍=〈理〉は普遍的な絶対・平等の真理・理法を意味し、〈事〉は個別的具体的な事象・現象を指す。華厳宗では普遍的な〈理〉と個別的な〈事〉が一体不可分であることを強調する。〈理事〉もしくは〈事理〉の語は、中国華厳宗の教理を代表する言葉の一つとなった。
実大乗=真実の大乗教。天台・真言・禅宗などの教えをいう。ただし大乗の諸派では、互いに自らを真実とし、対立する立場を権大乗(方便としての権化の大乗)と称する。天台・真言の一乗家からは法相・三論の三乗家をさして権大乗といい、逆に三乗家からは一乗家をさして権大乗という。
第四句は、諸仏がおのおのその縁にしたがって衆生を済度されることが種々さまざまであるという、仏々差別することを示したのである。曇鸞大師は、諸仏菩薩について法性法身(理・智・悲)と方便法身(摂化随縁)との二面を分けて、二法身の関係と作用を述べておられる。
法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同ずべからず。このゆゑに広略相入して、統ぶるに法の名をもつてす。菩薩もし広略相入を知らざれば、すなはち自利利他することあたはざればなり。
広略相入=〈広〉は浄土の二十九種荘厳、〈略〉は一法句(真如法性)を指す。真如法性の略から浄土荘厳の広が生起し、また浄土荘厳の広により一法句の徳をあらわす。広略が相互に摂入するありさまを広略相入という。
さて、この平等門に即する差別門の相は3種におさまる。
@自力の教を求める者には、伏断の位を説き、漸進(少しずつ進む)して成仏すべきことをすすめる。あるいは、煩悩の空しいことや、煩悩と菩提の体不二なことをもって頓に成仏すべきことをすすめられるのである。このように仏が衆生にモーションをかけられるところに摂化(おさめとって教化すること)の意味がうかがわれる。
A他力中の自力の教えを求める者には、諸仏は@よりも比較的容易な三福業や仏の名を称える称名念仏の行をすすめ、真面目に修行する者には大悲を加え、仏の大悲と行者の修行と相待って浄土に往生し、ついに仏に成るものとしている。
B他力の教えを求める者に、アミダ仏は他力廻向、大悲廻向の法を説かれた。それは、加えるべき者に大悲を加えるというのではなく、すべてのものに、特に愚かなあさましい下々品の凡夫に大悲を廻らし向け、大悲を施し与えて成仏させるのである。親鸞聖人が「摂化随縁不思議なり」と仰せられたのは、他力教の不思議をたたえられたのであろう。
伏断=制伏と断絶。迷いを伏して一時的に起こらないようにするのを〈伏〉、断絶して永久に生じないようにするのを(断)とする。
三福業=「観経」に説かれた散善の行を3種に分類したもの。@世福(世俗の善)。父母に孝養を尽くし、師長(師や先輩)によく仕え、慈悲心をもち、善行を修めること。A戒福(小乗の善)。仏・法・僧の三宝に帰依し、すべての戒を守って威儀を正すこと。B行福(大乗の善)。菩提心を起こし、大乗経典を読誦して浄土往生を願うこと。
かくて、親鸞聖人は諸経によって一代仏教を「二双四重」に分類し、聖道自力の教を「竪」とし、浄土他力の教を「横」として一双とし、そのいずれをも「超」と「出」に分けて、「竪超」と「横超」、「竪出」と「横出」の二双四重とされたのである。「竪超」とは、自力をもって一足飛びに超えて如来地に入る「即身是仏・即身成仏等の証果」である。「竪出」とは、自力をもってまわりどおく迷いを出る教えであって、「聖道、歴劫修行の証」である。仏教の中には小乗教もあるが、彼らは回心して大乗教に向い、また、三乗教は一乗教に入るべく、はなはだまわりくどいから「出」というのである。「横超」とは、ミダの他力によって一足飛びに超えてミダの浄土に往生し成仏する「選択本願・真実報土・即得往生」である。
「横出」とは、ミダの他力によって浄土に往生するが、娑婆にいるときからミダの本願(第十八願)を疑っていた罪を悔い改めて、あるいは果遂の願功(第二十願)により本願(第十八願)に転入して仏となるのであるから、これまたまわり遠い。いわゆる「浄土、胎宮、辺地、懈慢の往生」である。
便宜上、親鸞聖人は「他力の中の自力教」を「横出」に組み入れられている。二双四重の教判は竪横の別はあるが、相対的にそれらに頓漸があり、共に成仏するので相対判といわれるのである。
即身是仏=この身そのままが仏である。
即身成仏=この世でこの身のまま仏に成る。
三乗教=衆生の能力に応じて声聞・縁覚・菩薩に固有のさとりの道があるという教え。
一乗教=すべてのものが仏になるという唯一絶対の教え。
されど、親鸞聖人は二双四重の教判を同一と見られたのではなく、「愚禿鈔」の終わりには次のように説いて、独り選択本願を推奨しておられる。ただ阿弥陀如来の選択本願(第十八願)を除きて以外の、大小・権実・顕密の諸教は、みなこれ難行道、聖道門なり。また易行道、浄土門の教は、これを浄土回向発願自力方便の仮門といふなりと、知るべし。
浄土回向発願自力方便の仮門=本願他力をただちに受けいれることのできない者のために、自力の諸善を積んで往生を願えば仮の浄土に往生させようと誓われた仮の法門。
また後には絶対的に本願一乗の徳をたたえておられる。
本願一乗は、頓極・頓速・円融・円満の教なれば、絶対不二の教、一実真如の道なりと、知るべし。専がなかの専なり、頓がなかの頓なり、真のなかの真なり、円のなかの円なり。一乗一実は大誓願海なり。第一希有の行なり。
頓極=本願一乗の法は、他の頓教も及ぶことがない法であること。
頓速=底下の凡愚を速やかに疾く往生せしめること。
第一希有の行=十地の菩薩が修める十波羅密の行。ここでは本願の大行を指す。
さらにこのことは「教行証文類」にくわしく述べられ、「行巻」では「本願一乗海」を絶讃し、「信巻」の2ヶ所と「化身土巻」の二双四重判には、「愚禿鈔」の原形式をかえて、絶対的にその意味を顕わにされている。 
聖人の絶待門
されど、上にのべた本願の一乗は、竪出竪超や横出の教をすべて選び捨てて廃してしまうのであろうか。それとも何らかの形で本願に組みこまれたものであろうか。本願一乗と余教との関係は、そもそもいかに見るべきであろうか。このことを今ひとつ明らかにしなくてはならない。普通、因果の道理は、因(自己)と縁(仏)が結びついて果(往生・成仏)を説くのであるが、絶対門の場合は、因が縁を奪って因の一乗で果を説く。あるいは、縁が因を奪って縁の一乗で果を説く。この点において、日本の仏教はおおむね因の一乗をもって絶対門を説いている。華厳宗、天台宗、真言宗、禅宗、日蓮宗、皆同様である。
しかし、親鸞聖人は特に「縁の一乗」を開顕されたのであって、この点は他宗とは大きく異なる。すなわち、聖道自力の教えは、因の一乗に立脚するから「煩悩の断未断、証智の極未極」という視点で、真実の教と方便の教に分けるのである。たとえば、天台宗では前三教(蔵教・通教・別教)を「果頭無人」と称して仏になることを許さず、円教(「法華経」)のみを成仏を説く真実教とする。
前三教=天台教学において化法四教のうち、第四の円教を除いた蔵教・通教・別教の三つをいう。
化法四教=釈尊の一生涯の説法を、説法の内容によって四種(蔵教・通教・別教・円教)に分類したもの。天台宗でいう。諸経の教えをその思想内容から価値的に配列したもの。智が説いた。
蔵教=天台宗で説く化法の四教の第一。小乗仏教のこと。経・律・論の三蔵教の意。仏教教理の初歩的段階のものとみなされ、特にまだ空の真義を把握していないことに強い批判が向けられる。
通教=天台宗で説く化法の四教の第二。三乗(声聞・縁覚・菩薩)に通ずる教え。大乗の初門。特に般若思想をさしていう。
別教=天台宗で説く化法の四教の第三。ひとり菩薩だけの教え。漸次に修行し、段階的なさとりを経て、仏となるに至る。四教のうち前後の三教と異なっている教え。前の蔵教・通教、後の円教とも別なるゆえに、別教となづける。教理としては、空から仮へと進み、現実の無量の相に対する的確・自在な対応を説く。そして、さらに中へおもむく。代表的なものは「華厳経」の教え。
円教=天台宗で説く化法の四教の第四。法華・涅槃の諸種の所説。特に「法華経」の教えをいう。
この「煩悩の断未断」は、宗旨ごとに表現が違うが、趣旨は同じといってよい。しかも、いずれの宗旨も「衆生無辺誓願度(数かぎりない人びとをさとりの彼岸に渡そう)」を旨とするから、衆生の摂化(=教化)がその宗その宗の骨目であることはいうまでもない。また、修行が進めば自然に自他のへだたりが薄らいで、「衆生の苦悩はわが苦悩、衆生の安楽はわが安楽」とさとるから、衆生の摂化(=教化)に燃えることももちろんである。しかし、聖道門は「われが行証したように、汝等も行証せよ」とすすめる教えであるから、行者は自らに理智悲を円具する仏を自己の理想とし、仏のさとりを目標とする。道元禅師が「仏道を習ふは自己を習ふなり」といい、「身心脱落脱落身心」として見性成仏されたのは、そのよい例である。
仏道を習ふは自己を習ふなり=「自己を習う」とは、たんに「自己とは何ぞや」と学ぶことではない。これは、現代人的性格の自己を「私」、本来の純粋な人間性を「わたくし」と置きかえてみるとはっきりする。
すると、「仏道をならうとは、わたくしをならうなり。わたくしをならうとは、私を忘るるなり、私を忘るるとは、万法に証せらるるなり」となる。万法とは有形無形を問わず、いっさいの客観的存在である。「万法に証せらるる」は「あらゆるものは相互に生かしあっている、あらゆるもののおかげで生かされている」と受けとることができる。“生きる”のではなく、“生かされて”生きているのである。生かされて生きるのが、万物の生の証である。この事実が体験できると、「自己の身心および他己の身心をして脱落せし」めずにはおかないのである。自己に対する他者を、道元独特の発想で「他己」と呼びかける。他己とは「他の己れ」であり、「他者もまた己れにほかならぬ」のである。さらに「他者という名の私とわたくし」と深めることができる。
身心脱落・脱落身心=「脱落」とは、解脱と洒落(執着のないこと)が集まってできた言葉。少しも自我に渋滞するところなく、身心ともにせいせいした、すかっとした境地。道元の禅の内容は、「身心脱落」の四字につきる。坐禅して身心が脱落するのではなく、坐禅することがそのまま身心脱落となる。
見性=本来存する自分の本性を見ること。真の自己に気がつくこと。
道元は不変の心性を認めないのが仏教であるとし、見性をまったく否定する禅を説く。
この点、われわれの他力教は、「縁の一乗」に立脚するのであって、曇鸞大師も「覈に其の本を求むるに、阿弥陀如来を増上縁(縁となって果を引き起こす強いはたらき)となす」と説き、前述の西山上人も「因を果に廻する廻向」や「自行の廻向や、自行を他に廻向する廻向」を説き、さらに親鸞聖人は「他力廻向の大法門」とし、大悲の摂化を宗とされたのである。さればミダの本願においては、証理(真理をさとること)の極未極、煩悩の断未断を問題とせず、煩悩を断ぜざるまま、菩提を証せざるまま、廻向を首として大悲心を成就し、煩悩を断ぜしめ菩提を証せしめる身となさしめられるのである。すなわち、他力浄土門においては、郡辺に仏の御恩召があるかという「仏意の在不在」をもって真実教と方便教を分けるのである。
聖道権仮の方便に衆生ひさしくとどまりて諸有に流転の身とぞなる悲願の一乗帰命せよ
諸有=もろもろの迷いの境界。
悲願の一乗=大悲の願によって成就された、万人を平等に成仏せしめる唯一絶対の教法。
と「和讃」にあるのも、天台宗のように煩悩の断未断という点で久しく生死に流転したというのではなく、煩悩を断ぜざるまま涅槃を得さしむるという諸仏出世の正意に通じないために久しく生死に流転したとするのである。すわなち、悲願の一乗をすすめるのは、それがミダの本願であるからである。それゆえ善導大師は、諸仏の所証は平等にしてこれ一なれども、もし願行をもつて来し収むるに因縁なきにあらず。といい、諸仏をミダに収めて、次のように述べておられる。
弥陀世尊、本深重の誓願を発して、光明・名号をもつて十方を摂化したまふ。ただ信心をもつて求念すれば、
摂化=おさめとって教化すること。 親鸞聖人も諸仏菩薩の二種法身をミダ一仏に約し、法性法身(理智悲)に即する方便法身(随縁摂化)を解釈して、次のように言われている。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。
さらに、その光明(形)は名号の義であるから、これを名号におさめて、その立場を明らかにされた。如来の本願を説くを経の宗致とす。すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。
宗致=最も肝要な法義。
体=本質。本体。
これを自然法爾の法語に論証を求めてみると、凡夫の現実を「業道の自然」とし、それに対してアミダ仏のさとりを「無為自然」とされる。この二つが無碍であることはすでに実大乗が説いている。しかしその所説は聖道難行道であり、われわれ凡夫はついていけない。されど親鸞聖人は、「無量寿経」を読んでその深意を顕し、無為自然に「願力自然」を拝んで、こう述べられている。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひけるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。ちかひのやうは、「無上仏にならしめん」と誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときは、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり。
れう=料。ため。手段。方法。
また、宋の宗暁も次のように看破している。それ自障は愛にしくなし、自蔽は疑にしくなし。ただ疑・愛の二心つひに障礙なからしむるは、すなはち浄土の一門なり。いまだはじめて間隔せず。弥陀の洪願つねにおのづから摂持したまふ。必然の理なり。
自障自蔽=みずからさとりの道をさえぎり、みずから正しい道を蔽いかくすこと。
愛=貪愛(=貪欲)のこころ。
洪願=大願
仏々平等の覚りの本意は、ミダの大悲摂化と具現した。されば、仏々平等は、ミダの本願の体となってよくこれを支え、ミダの本願は衆機をもらさず五乗(人びとを運んで理想の世界に到達させる五種類の教え。一般には声聞・縁覚・地前の菩薩の三乗に、人乗・天乗を加えたものをいう)すべてをおさめとり、悪人正機の教えに結実したのである。まことに道理成仏の自力の法があって、よく道理を超えた他力の妙法(正法)が知られるのである。
されば、ミダの覚りと本願は、離すに離せない直接の関係があるのである。それはちょうど、よく歩くことができる人が歩行の困難さを反省して、歩くことに悩むわれわれのために自動車を発明し、自ら自動車を運転してわれわれを迎えにくるようなものといえる。また、よく泳ぐ人が、泳ぐことの難しさに思いをいたし、泳げないわれわれのために大きな船をつくり、自らその船に乗ってわれわれを乗せてくれるようなものである。親鸞聖人はこう歌われている。弥陀・観音・大勢至大願のふねに乗じてぞ生死のうみにうかみつつ有情をよばうてのせたまふ
よばうて=呼びつづけて
観音と勢至は、ミダの脇士である。親鸞聖人からいえば、恩師・法然聖人は勢至菩薩の垂迹であり、内室の恵信尼公は観音菩薩の化身である。恵信尼公からすると、法然聖人は同じく勢至菩薩の垂迹であり、夫・親鸞聖人は観音菩薩の化身である。われわれからすると、広く家庭人社会人と受けとってもよいだろう。また、「乗は智なり」と訓じられるので、「乗はのるべしといふ。また智なり、智といふは願力にのせたまふと知るなり、願力にのせて安養浄刹に生まれしむるとなり」と解されている。本願の舟に乗るとは、本願の舟に乗せたもうと信知することである。 

まとめていうと、聖浄の二門は機の側からすると、自力教の人は他力教に依らず、他力教の人は自力教をたのまない。しかし、如来の施設(教説)の本意をうかがうと、自力教他力教は決して矛盾するものではなく、ミダは仏々平等のさとりから他力廻向の本願をおこし、道理成仏の法を完成して道理を超えた別意(個別の、いろいろな)の弘願を顕され、断証(心の障害を断ってさとりを得ること)を労せずして、しかも他力によってさとりを得せしめられたのである。それゆえに、浄土門において利益をうることは聖道門と同じである。聖道門は、初地を説き、補処の菩薩を説き、妙覚の涅槃を説き、また、初地等の現当の益を説くのである。もし聖道門の所同所超がなくて、いずれに浄土門の能同能超があるであろうか。ただし、聖道門は断証を理想とするから初地に入って不退を証し(分証)、浄土門は本願を信じる真心徹到において不断の断である不退の利益を得、自らに柔和忍辱の生活をもたらす。また聖道門は此土において入聖得果を目標とする。一方、浄土門は臨終一念の夕に浄土に往生し、浄土のならいとして往生即成仏するのである。
施設=南都では「せせつ」と読み、北嶺では「しせつ」と読む。経論・坐禅・公案などすべての手段のこと。 
龍樹菩薩の易行道と聖徳太子の一大乗教
かえりみると、インドの龍樹菩薩は「十住毘婆沙論」「讃阿弥陀仏偈」に、「阿含経」などに説かれている八道にアミダ仏の大悲を拝んで、次のように述べられている。
かの八道の船に乗じて、よく難度海を度したまふ。みづから度しまたかれを度したまふ。われ自在者を礼したてまつる。
八道の船=八道は八正道のこと。八正道をさとりの岸に到達するための船に喩えていう。
難度海=渡ることが難しい迷いの大海。
自在者=衆生を思いのままに救いとる自在力をそなえた者。阿弥陀仏を讃えていう。
諸仏無量劫に、その功徳を讃揚せんに、なほ尽すことあたはず。清浄人を帰命したてまつる。われいままたかくのごとく、無量の徳を称讃す。
清浄人=きよらかなさとりの徳をそなえた者。阿弥陀仏を讃えていう。
「八道」とはいうまでもなく、自力の修行者が修する代表的な徳目(八正道)であって、諸仏は八正道を修めて理智悲の覚りを得られるのである。ところが、八道成就の理智悲を円具した諸仏は大悲やむことなく、“まず”アミダ仏は深重の誓願をおこして、八道成就のさとりを得させたいと大悲廻向されたのである。かくて、龍樹菩薩は、この「自在人」(=あくまでみすてたまわぬ無碍人)を拝み、かの八道の舟に乗って渡りがたい生死の海を渡り、自ら渡り人々をも渡らせたのである。また、十方の諸仏はミダを礼拝の対象とし、自らその応化仏となってミダの功徳をほめられること限りないが、菩薩も諸仏と共に、自在無碍の「清浄人」「無量徳」をほめられるのである。前述の六句は広げると「十住毘婆沙論」、近くは「讃阿弥陀仏偈」をしめくくる言葉といってよく、親鸞聖人は「教行証文類」の冒頭にこれを伝統して次のように述懐されている。
ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船
ひそかにおもんみれば=心をひそめてよくよく思いをめぐらしてみると。
難思の弘誓=思いはかることができない広大な誓願。
さらに聖徳太子の「一大乗教」において、まことに適切に如来の本願を顕されたことを簡単に述べておきたい。
かえりみると、聖徳太子は「勝鬘経」を教化の中心とし、「涅槃経」「法華経」「維摩経」等の諸経を参考にして、経文を解説しつつ「帰依と行善」を内容とする「一大乗教」を解説され、それを短い「憲法十七条」にまとめられた。
「憲法十七条」第二条に「篤く三宝を敬ふ。三宝は仏・法・僧なり」とあるのは、直接には「住持の三宝(=仏像・経巻・出世の比丘)」をすすめられるのであり、ここに聖徳太子の寺院政策があらわれている。
聖徳太子は、自行門(=自らの修行・実践)として法隆寺を建立して、自ら夢殿にこもって自行につとめられた。そして化他門(他の者に教えを説く方面)として四天王寺等を建てて、各種の社会事業を経営し、広く一般大衆を寺院に参詣させて住持の三宝を篤く敬うことによって「枉れるを直さん」とされた。
荘厳なる寺院に参詣し、僧侶の読経の声を聞いて、当時の民衆はおのれを省み、心の塵を払ったのであろう。
しかし、参詣供養の意味を明らかにし、深く自らを培うためには住持の三宝よりも「真宗の三宝」に帰依しなければならない。聖徳太子は「三経義疏」のなかで「別体の三宝」の帰依から進んで「一体の三宝」に帰すべき理由を明らかにされた。太子は人天凡夫のありさまを看破し、すすむべき道を注意されている。
それで聖徳太子は、「憲法十七条」第二条の意味を一体の三宝帰依とし、第十条に次のように述べられて自他を警めておられる。親鸞聖人の浄土真宗でいえば、第二条は法の深信であり、第十条は機の深信であって、両者は一具のものである。
人みな心あり、心おのおの執ることあり。かれ是んずればすなはちわれは非んず、われ是みずればすなはちかれは非んず、われかならず聖なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず、ともにこれ凡夫ならくのみ。是く非しきの理、たれかよく定むべき。
執ること=我執。執着。
凡夫ならくのみ=凡夫にすぎないのである。
一体の三宝=「同体の三宝」ともいう。三宝の一つ一つにそれぞれ仏・法・僧の三宝の義があることをいう。
さて、いわゆる“昔の帰依”に対する究竟な“今の帰依”である「一大乗教」とはいかなる教えであろうか。聖徳太子は「勝鬘経義疏」にこう述べられている。「別体の三宝はすなわちその名・体おのおの異なり、理自ら別なるべし、ただし一体は何をもって別となすや。釈していわく、常住の法身を仏宝となす。
この法身はよく物の軌則となせば自ら法宝となす。また、この法身はすわなちよく理と和合す。また僧宝となす」
ここの「常住の法身」とは、「惑の中にあるときから己の依(帰依)となるもの」であって、一面からいえば「無尽の大悲」であり、他面からいえば「無限無碍の帰依」である。無尽の大悲とは「衆生はことごとく仏となりて、しかも衆生はことごとく仏となることなし。すなわち如来の常住なること明らかなり」で、ここに常住法身の無尽の大悲が拝まれる。
また、「無碍の帰依」とは、仏は善悪と是非とを簡ばず、いかなる者をも碍えらさわりなくおさめたすけすくう方であるから、無碍の大悲は、機に立場においては無碍の帰命である。
聖徳太子は「権智仏は四無碍の徳を具え、実智仏は無量の無碍の徳を備えたまう」とも釈されている。権智仏は常住法身の寿命無量の徳であり、実智仏は常住法身の光明無量の徳である。太子のいう常住法身は、まごうことなく親鸞聖人のアミダ如来である。そして、常住法身においては、法と僧は仏の持つ意味、徳をあらわすものにほかなく、仏は生死の問題を解決するについてわれわれ凡夫の軌(のり、わだち)となり、則(道理、基準)となる方であるから法宝という。また、仏は一乗の因果常住の理と和合された方であるから僧宝とも称するのであって、三宝は仏宝の一つにおさまる。かくて、聖徳太子は最後に「如来の境界の不可思議」なことをたたえて、「仰信」をすすめられている。
いうまでもなく、仰信とは常住の法身を篤く敬うことである。ここに凡夫らしく“行善”せられるのである。
親鸞聖人は、これらの先徳によって上記のように仏教をいただかれたようである。
一大乗教=聖徳太子によると「法華経」は仏教の究極の趣意を説いたもので、すべてを包括する教えであるという意。万善同帰教に同じ。 
解説
安井広度は、仏教のうちにおける浄土教の位置を考察し、浄土教はかつて通論家によって別時意無得道の教とされ、聖道門からは、機根の劣ったもののために説かれた方便の教とされ、それに対して、幸西・証空などが、逆に聖道門を無得道とし、阿弥陀仏の本願によらなければ証を得ることができないと主張したことを明らかにしている。
これに対して、親鸞は、聖浄二門の得道証果を等しいものとし、機の相応・不相応の立場から浄土教を真実教とする相対判釈をした。このように相対判を標榜するとはいえ、阿弥陀仏を無上仏とする立場から考えるならば、聖浄二門ことごとくが如来の本願に帰一するものと考えていたとしている。 
 
親鸞教学の思想史的研究

 

「教行信証」を根本聖典とする真宗学の教学的課題は、親鸞の仏教史観を通して、信仰による純粋主体を確立すると共に、その信心の自覚において「大経」によって開顕せられる仏教史観を自証し開顕してゆくことの上に求めなければならないであろう。そしてその教学的課題が、現代の歴史的状況における根本的な課題である人間性の回復という問題とのかかわりの中で不断に追求せられてゆく時、そこに真実の教法に立脚することによって、開かれる、宗教的実存による連帯的世界(=僧伽)の実現という、立教開宗の歴史的事業が果遂せられてゆく道もまた自ずから明らかにされてくるのではなかろうか。
ここでは、そのような観点から、「教行信証」の「信巻」や「愚禿鈔」等に展開せられている親鸞の菩提心論の考察を通して、真宗における教相判釈の意義を明らかにしてゆきたいと思う。 
[一]
菩提心とは、相対的な分別意識に執われ、懸命ではあるが、しかし空しい生の反覆を繰り返しつつ、そこになんらの究極的な方向性をも見出し得ないままに生き続けている、我々の日常性を、その根源から突き破って出てくる激しい否定的精神をいう。
また、それは人間をして、文化人といった態でもって平均化された世人としての立場から、孤独者として存在する自己の存在の根源に引き戻す心自立の精神でもある。そして、それはそこに初めて生死する身の実相に触れた驚きの中から、真に人間凝視の眼を開いた独立者として、新しく誕生することを命ずる無上命令でもある。
かかる自己否定の精神を通して、透明な認識能力と純粋な敬虔感情を具足した人間成就の道を開示しようとするのが仏教である。故に仏教においては、なによりもまず、菩提心を発すことが、仏道実践のため必須用件として要請され、そのような菩提心に生きる修道的人間を、あるべき理想像として標榜した大乗仏教において、菩提心の獲得が強調せられたことは、いうまでもない。しかしそれは同時に、発菩提心ということがいかに至難であるかを教える。
龍樹がそれについて、三千大千世界を挙げるよりも重い心であると語り、その実現は丈夫志幹によってのみ可能な道であると示した。その菩提心の重さが菩薩の死と呼ばれる二乗地に堕する危機、あるいは七地沈空の危機と直面することにより、不退転地の獲得に向けて、信方便易行の道を開いていった。それはしかし、菩提心による挫折ではあっても、けっして菩提心そのものの放棄を語るものではなく、むしろ菩提心の内面化を表すものであった。経典自ら、阿弥陀の光明の働きによる不退転地への入門を説くと明言する「大経」は、まさしくその問題に対して答えられたものにほかならない。
しかし菩提心の内面化による信方便易行の道は、龍樹自ら儜弱怯劣の凡夫の求めるところとしてきびしく苛責したところである。龍樹にとってその批判は、他者に向けて発せられたものではなく、なによりも自らに向けて発せられ問い質された徹底した自己批判にほかならなかったが、それが浄土教に対する客観的な一般価値評価として行われてきたのが、聖道門仏教を主流とするその後の仏教の歴史であった。
法然による浄土宗独立ということは、そのような歴史の流れを大きく転換せしめたものであるが、法然はその立教開宗の宣言書である「選択集」において、仏教の根本をなすものであり、それまでの仏教の歴史をその根底から支えてきた菩提心について、菩提心無用という、実に驚くべき発言を行っている。
なぜ、菩提心無用という大乗仏教そのものを否定し去るような、無謀とも思える提言をあえて行なったのは、それは、「選択集」の末尾にも明記されているごとく、善導の指摘によって見出された、阿弥陀の本願と釈尊の教説における廃立の立場に立脚するものであり、そこには、当時の社会的な危機意識を宗教的な危機意識として自己の内に内在化することにより、末法という時機の痛みを通して、正像末の三時を貫く永遠の真実が問われていたことを領解することができるのである。そしてそれは、法然自身における菩提心の挫折を通して語られた実験の告白であることは、醍醐本に記された、次の言葉がそれを物語っている。
実に菩提心無用ということは、徹底して菩提心に生きようとし、事実生きたが故に挫折せざるを得なかった法然にして、初めていい得た言葉であった。ただここで我々が注意しなければならないのは、聖道自力の菩提心の挫折であって、法然はけっして菩提心そのものの全面的否定を語っているのではないということである。そのことは、「発菩提心とは、諸宗の意不同なり、今浄土宗の菩提心はまづ浄土に往生して、一切の衆生を度し、一切の煩悩を断じ、一切の法門を悟り、無上の菩提を証せんと欲するの心なり」という法語によっても窺われる。すなわち法然にあって、菩提心は願生心へと否定的に内面化されていったのであり、願生心として働く菩提心そのものまでも否定したのではなかったというべきである。
しかし、法然が菩提心をも諸行として廃捨し、念仏一行を選択することによって浄土宗を独立せしめたことは、けっして容易に許されることではなかった。ことに戒律の実践によって、釈迦原始教団の再生を目指した明恵・解脱等の復古主義を標榜する聖道門の高僧碩学に対して与えた影響は頗る大きく、なかんずく、明恵からの反駁は実にはげしいものがあった。すなわち法然滅後、建暦二年九月「選択集」が開版せられるや、わずか二ヵ月半にして刊行せられた明恵の「摧邪輪」、そしてその後七ヶ月を経てさらに重ねて出された「摧邪輪荘厳記」は、法然が立論の根拠とした経論釈、ことに善導の疏文を引用して批判した。明恵はその両書において十六過を列挙しているが、その本意は「摧邪輪」の序に挙げた次の二大過を顕すことにあると述べている。
一、菩提心を撥去する過失
二、聖道門を以て、群賊に譬ふるの過失
明恵の基本的立場は、菩提心をもって一切仏道の体性とし、浄土往生の正因とするものであり、もし菩提心がなければ念仏の業も成就しないとするものである。これは明恵に限らず、聖道門の人々の依って立つ根本理念を明らかにするものであるが、そこでは菩提心そのものは、仏道の前提として自明なるものとして把えられ、菩提心についての、主体的な内省が徹底的になされてはいないのではなかろうか。そしてそのような菩提心論の根底にあるものは、おそらく大乗仏教の根本理念ともいうべき、一切衆生悉有仏性ということへの絶対の確信であったろうと思われる。しかし浄土教は、その確信がもはや末法五濁の凡夫においては、どこにも得られないという痛みを通して開かれたものであった。
一切衆生悉有仏性という絶対の確信に立ち得るものであるならば、そこにおいて見出される煩悩は、客塵煩悩として菩提心によって撤去され克服せらるべきものであり、そしてもしそこに仏力が問われるとしても、それもまたあくまで外縁に留まるものであって、けっして内因となるものではあり得ない。しかし、煩悩はけっして客塵としてあるのではなく、それこそ本来具足せるものであるとして自己を見出した者にとって、一切衆生悉有仏性ということは、如来の誓願に表された如来の確信としてしか領受し得ないものであり、衆生の側からすれば、現在的ないし現世的にはどこにも仏性無しと徹底して身の現実を痛むよりほかないであろう。そしてそこに立った時、聖道門仏教の立場は、たしかに崇高な精神でもって貫かれているとはいえ、そこになお自力への信頼に基づいた理想主義的な立場に留まっているのを見出すのであり、時機に対する深い洞察の欠落を指摘せざるを得ないのである。法然が聖道門仏教を群賊悪獣に譬えたのも、まさにその時機への洞察を欠いた聖道門仏教の立場は、末法五濁の世を生きる者にとって、むしろ出離の要道を阻害し迷惑する役割を果たしていることをきびしく告発するものであったといえよう。
かくて法然は、菩提心無くしては念仏業も成就しないとする聖道門仏教に対し、念仏なくしては菩提心も成就しないと主張したのである。そしてその法然が提起した課題―菩提心を発し得ない者に対し、願生心として菩提心を成就せしめる根源的な行としての念仏の開顕―を、自らの果たすべき使命として背負い、それを徹底してゆくことによって、真実の宗教にして仏教である浄土真宗を開いていったのが親鸞にほかならなかった。 
[二]
親鸞の菩提心論は、「教行信証」の「信巻」、および「化真土巻」を初めとして、その外、「愚禿鈔」、「高僧和讃」、「正像末和讃」等において見ることができる。その中、「愚禿鈔」は浄土真宗における教相と安心を明かしたものであるが、「教行信証」の「信巻」の本末二巻にわたって展開された横超の菩提心論ときわめて密接な対応性をもつものであり、相対教判と呼ばれる二双四重の教相判釈を通して、阿弥陀の選択本願によって廻向成就せられた、他力廻向の信心としての金剛心において、その絶対的意義を解明しようとするものである。すなはち、上巻は横超の意義を、下巻は菩提心の意義を明らかにしたものであり、「教行信証」の「信巻」と対応せしめて読まれるべきものであるが、今、「愚禿鈔」(上巻)によって二双四重の教相判釈を示すと、次のごとくである。
この二双四重の教相判釈は、「教行信証」においては、菩提心について立てられ、今の「愚禿鈔」では、頓漸二教の弁別について明かされているが、両者はけっして別のものではないことはいうまでもない。なぜならば、親鸞がそれによって問うているのは、速やかに生死を離れるという出離の要道であり、出離の強縁である。故にそれを可能ならしめる頓教を問うことと、それによって生死を離れる菩提心を問うことは、別のことではあり得ない。故に、善導の要弘二門判、および法然の聖浄二門判を承けて開かれた親鸞における二双四重の教相判釈は、けっして一代仏教の分類組織を目的とするものではなく、あくまでも宗教心の確立という実践的課題の上に成り立つものであることを注意すべきである。ではそれがどのように解明されているか、親鸞の解説に従って、その内容を窺ってゆきたいと思う。
釈迦一代の仏教を権化方便の要門と弥陀の弘願に大別することは、すでに道綽の二門判を承けた善導によって成し遂げられた偉業であった。そしてそれを継承した法然により、一代仏教は、すべて聖道門の中に統摂されることによって、浄土門の独立が開かれたことは、周知のことであろう。そのような善導・法然の仏教観が親鸞においても誤りなく承け伝えられている。このような一代仏教に対する、きわめて大胆な価値批判は、今の二双四重の教相判釈の上にも見出すことができるものである。すなわち、ここでは一応、聖道門について竪超と竪出の立場があることを区別しているが、聖道門仏教においては、むしろ究極の理念を明らかにしたものと見られる竪超の立場も、現実の問題としてそれが捉え直されてくる時、竪出の立場となんら異なるものでないことを指摘し、いずれも、「暦劫迂廻の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心」であることを免れるものではないと、きびしく批判している。
しかし、かかる親鸞の鋭い批判は、ただ単に外なる聖道門仏教に対して向けられたものではなく、むしろそれは浄土門自身の内部に向けて、よりいっそうきびしく展開せられていったことを知らなければならない。それは「信巻」の別序に示された、「定散の自心に迷うて金剛の真心に昏」い、当時の吉水門下の信心の不徹底性に対する歎異の心に促されてのものであったと共に、実に親鸞にとっては、あくまでも自己の内なる問題を照らし出し、きびしくも問いかけてくるものとして受け止められていたのである。
親鸞にとって横超他力とは、けっして固定的に捉えられるものではなく、常にそれは今念々に自力の心を離れしめてゆく働きとしてのみ見出されるものであり、その本願他力をまさしく説き明かした教えとして親鸞によって見出されたものが、「大経」、ことにその本願成就文の意義にほかならなかった。
そのことは、親鸞が「教行信証」の「信巻」において、「横超とは、即ち願成就一実円満の真教、真宗是れ也」と表し、「愚禿鈔」において、「横超とは、選択本願・真実報土・即得往生也」と示していることによっても知られる。それはすでに法然によって、「浄土に往生せんと願ずるを、浄土の菩提心といふ」と表されたものを、さらに徹底してゆこうとするものであるが、願生浄土の心が菩提心であるということは、どうしていい得るのか、またその願生道による菩提心の実践において不退転であることはいかにして可能となるのか、それこそまさしく親鸞が解きあてねばならなかった歴史的課題であったのであり、そのことを充分に解明し得た時、初めて明恵等の批判に対して、浄土真宗の立場からする応答がなされたことになるのである。
では、その問題が、親鸞によっていかに究明されていったか、さらに「教行信証」の「信巻」を中心に窺ってゆきたいと思う。 
[三]
すでに触れたごとく、「教行信証」の「信巻」は、別序に明かされた、当時の聖道門および浄土門における沈迷の二機のありさまを縁として、その問題をあくまでも自己の内面に深く問うてゆくことにより見出したものが、「常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じ難きにあらず」という、人間の側からの仏道の理念を、その根底から覆し転換せしめるような、不可思議の事実にほかならなかった。この言葉は、「歎異抄」第三条に示された、「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という、悪人正機の言葉と、まったく相対するものであるが、それが人間の分別意識をもって捉えられる時、単に逆説として受け止められるごとく、この言葉もまた、選ばれた修道的人間のもつ宗教的意識に立つ限り、逆説としてしか受け取ることのできないものであろう。なぜなら、無上の妙果である涅槃のさとりを証得することこそ、仏教の究極的課題であり、そのためにこそ、自力聖道の菩提心が必要とせられ必須要件とされたのである。そしてその自力聖道の菩提心に生きる菩薩にとってすら、「無上妙果の成じ難し」という事実は、いかんともし難い現前の事実にはほかならなかったのである。それが、菩提心を発し得ない「常没の凡愚、流転の群生」の上に、「無上妙果の成じ難きにあらず」という信心の自覚として成就せられるということは、断じて承認し難い、きわめて無謀な発言として受け取られるのが当然である。そのような常識を破ったいわば非常識なところに安んじて立つということは、けっして容易なことではない。親鸞はそのあり得べからざることが、法然との邂逅において自らの上に起こったという、不可思議の出来事を通して、その常識を破った非常識の世界こそは、真実なる宗教的自覚の世界であることを説き明かしていったのである。
では、その問題をどのような方法論に基づいて解決していったのであろうか。
親鸞はそれを、「教行信証」の「信巻」の別序において、次のごとく明確に提示している。
「爰に愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家釈家の宗義を披閲す、広く三経の光沢を蒙りて、特に一心の華文を開く、且く疑問を至して遂に明証を出だす」
すなわち親鸞が「常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じ難きにあらず」という、根本命題を解明するためにとった方法論は、すでに曇鸞において提示さられた、覈求其本の道にほかならなかったのである。曇鸞が「浄土論註」の下巻において提起した覈求其本という立場は、「何の因縁有ってか、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得と言ふや」という問題を解決するためにとられたものであり、それによって明らかにせられたものが、「阿弥陀如来を増上縁と為す」ということであった。故にそれが菩提心の成就という問題に関わるものであるということはいうまでもないが、親鸞はその曇鸞によって指教せられた立場を継承し、さらにその増上縁を本願力の廻向として解明していったのであり、それが法然の菩提心論を徹底してゆく上において、重要な意義を荷うものであったことを、注意しなければならないであろう。
すでに触れたごとく、法然の菩提心論は、浄土に往生して後に初めて成就するものであり、我々にとっての菩提心は、浄土往生を願う心のほかには求められないというものであった。しかしそれと共に、法然には、菩提心を法蔵菩薩の本願の上に見るという、今ひとつの見方があったことが、注意せられるのであり、それは次に引用する三部経釈の上に明らかにされているものである。
これによってみると、法然の説く浄土の菩提心は、本来法蔵菩薩がその兆載永劫の修行によって成就せられた功徳を、名号によって衆生に廻向せられたものであることを意味するものであったことが知られる。
親鸞の菩提心論が曇鸞によって提起された覈求其本の論理をもって、それをさらに展開していったものであることは、すでに触れたところであるが、その場合、きわめて重要な意義をもつものが、「教行信証」「信巻」の根本主題をなしている三一問答であろう。
周知のごとく三一問答は、世親の「浄土論」の劈頭に示された、純なる願生心としての一心帰命の信心が、我々愚鈍の衆生の上にいかにして成就せられるかを、本願の三信に深く立ち入って、徹底的に究明したものである。
親鸞が三一問答によって明らかにした問題は、愚鈍の衆生の上に開かれる一心帰命の願生心は疑蓋無雑の信楽を体とする如来至心の欲生心が、如来の行である名号を通して廻向成就せられた如来の心であり、「如来よりたまわりたる信心」が「往生の信心」としてそれ自体を自証する心であることを表すことにあったということができるであろう。そしてそれは、宿業の身の根源に誕生した法蔵菩薩が、衆生を自己の内なるものとして荷負し、その流転の人生を修行の場所として、そこに無限に阿弥陀の世界を開いてゆこうとする本願の名告りにほかならないということができるでもあろう。実に親鸞にとっての宗教的実存の確立とは、そのような、「如来我となりて我を救いたもう」というもっとも根源的な出来事を、称名念仏という言葉による宗教的実践を通して、現在の直下に証してゆく身となることを抜きにしてはなかった。曇鸞が「浄土論」の「世尊我一心」の語を解釈して、「天親菩薩自督の詞なり」といっているのも、教えを聞く身において、「如来我となりて我を救いたもう」というその根源的な出来事が、不断に確かめられてゆくことが一心の内景にほかならないことを表そうとするものであったのではなかろうか。
かくて三一問答において、一心帰命という純なる願生心の内面的意義を解明しおわった親鸞は、そこから菩提心論を展開してゆくのであり、そこに「横超とは、斯れ乃ち願力廻向の信楽、是れを願作仏心と曰ふ。願作仏心は即ち是れ横の大菩提心也」という領解が生まれてくるのである。ここに願力廻向の信楽とあるのは、度衆生心を先とする如来の願作仏心によって開かれた心が、度衆生心を内に包んだ願作仏心として衆生の上に発った心であることを表すものと領解することができるであろう。
そこに立って見るなら、三一問答は、菩提心論の前提となるものであり、その究極の課題は、願生心が浄土の大菩提心であることを明らかにすることにあったといっても、けっして誤りではなかろう。
前上、我々の上に発起せられる願生心は、浄土を存在の根源とすることによって開かれた心であり、それ故にまた浄土という真の宗教的世界をこの生死海に投射し反映してゆく心でもあることについて、その一端を考察してきた。実に願生心は、如来の願力によって成就せられた心であると共に、如来の本願そのものの成就を表すものにほかならない。そのことが、「教行信証」「信巻」末巻に、曇鸞の「浄土論」等の語を依用して展開せられた、願成就の転釈の上にも明かされている。
それは、曇鸞の「浄土論」においては、前者は衆生の願生心の意味を、後者は法蔵菩薩の本願の意を明らかにしたものであるが、それが今の親鸞の転釈においては、まったくひとつに統一せられているのである。それは、衆生の上に成就した大菩提心は、如来の大慈悲心を体とするものであり、大慈悲心の廻向成就せる心にほかならないことを表すものである。
かくて、親鸞はそこに、「観経」の第八像観に説かれた文に対する、曇鸞・善導の解釈を引用している。
親鸞がこの引用によって表さんとするものは他力廻向の信心として開かれた願生心の中にのみ、如来の浄土という宗教的世界は信心の内景として開かれるのであって、願生心を離れて如来の浄土が客観的ないしは実体的に捉えられるものではないということにあった。言い換えれば、願生心とは本願によって生じた心であり、本願を生命として本願の根源に向かって生きる心であることを表さんとしたものである。そして、それがあくまでも大行としての念仏によってのみ開かれるとするところに、浄土教の生命がある。 
[四]
前上、親鸞の菩提心論について考察してきたが、それは初めにも述べたごとく、いかにして速やかに生死の迷いを離れるかという、実存の根本問題にかかわるものであった。そして、親鸞がそこで求め見出したものは、聖道門においては、あくまでも生死の迷いを超え離れて生死に随って生きるということが徹底して求められてきたのに対し、むしろ生死の業縁に随いながらその底に生死を超えてゆくという道であり、それが本願力廻向として開かれる横超の菩提心にほかならなかった。故に横超とは、浄土の大菩提心によって開かれる人生観を表わすと理解することができるであろう。そのことを明らかにしたものが、「教行信証」「信巻」末巻の後半に説かれた、横超断四流釈以下の文であると考えられるから、ここではその点を中心に窺ってゆきたいと思う。
この横超釈の中心は、「願成就一実円満之真教、真宗是れ也」という一句を明らかにすることにあり、それはことに、「竪超とは、大乗真実之教也」という立場に対応するものである。すなわち親鸞にとって問題であったのは、大乗真実の教はいかにして真実の宗教となり得るかということであり、その真宗とは、「大願清浄の報土には、品位階次を云わず、一念須臾の頃、速かに疾く無上正真道を超証す」る道にほかならない。その問題に対しては、すでに菩提心論において触れたごとく、たとえ竪超を説く大乗真実の教であっても、それが自力聖道の菩提心を根本とする限り、究極的には竪出の立場となんらかわらないものとなって、真に速やかに生死を離れるという人生の根本問題を解決するものではあり得なかった。親鸞にとっては、この問題を解決するものが、「大経」およびそこに説かれた本願成就文にほかならなかったのであり、ここに我々は、「大経」に立脚する親鸞の仏教史観が、明確に提示せられているのを、見出すことができるであろう。すなわち親鸞にとって、「大経」とは、大乗真実の教を真宗として成就するものであり、本願成就文はそのことを明証する決定的な証言として領解されていたのである。
かくて親鸞は、横超の直道としての真宗を明らかにし終わった後、さらにその本願成就の一心の内景として開かれる人生観について次のごとく述べている。
親鸞によって語られたこれらの言葉はまったく驚くべき言葉であり、信ずるということはいかなることかという、宗教における根本問題に対して、実に端的に語り尽くした言葉であるといわなければならない。我々は、この親鸞によって確証せられた信心の内景を表す言葉の上に、釈尊のさとりの宣言である、「生はすでに尽きた、梵行はすでに終わった、なすべきことはなしおわった、更にこの〔輪廻の〕状態にいたることなし」「わが心の解脱は不動である、これが最後の生である、いまや再有があることがない」という、あの深い感動に充ちた言葉が、親鸞の言葉として見事に再現せられているのを見出すことができる。「涅槃の真因は唯信心を以てす」という、親鸞の根本的立場は、ある意味において原始仏教以来伝統せられてきた、仏教の基本的立場をあらわすものであるが、親鸞にとってそれは同時に、涅槃の証果は、すでにして信心の内面に開かれているということも意味するものであった。それは、信心がまったく願力廻向の信楽であるということの上に、初めて成り立つものである。
ただしかし、親鸞において、信心の正因と涅槃の証果は聖道門における自性唯心のごとく、即一的に結びつくものではなく、それはあくまで即非的に成就するものであった。すなわち、願力廻向の信楽は、内に限りなく自己の罪障性を見る機の深信として、我々の上に成就するものであり、それは往生浄土という自己否定の道を通して、それ自身の真実性を不断に証明してゆくものである。親鸞が、曇鸞や善導の教えに依って、願生心が得生者の情であること、あるいは往生浄土の本質的意味が無生の生にあることを明らかにしたのも、それを表すものにほかならないが、「正定聚に住するが故に、必ず滅度に至る」という、親鸞における不動の確信が、なによりもそれをよく物語っている。なぜなら、正定聚と滅度は、成仏について、それが確定した位と、まさしくそれが成就した位を表すものであって、位としてはただちに同一であるとはいい得ないものであるが、それが信心の自覚において、必至滅度は住正定聚の内容として現在的に見出されてくるのである。
そのことが「教行信証」を初めとする親鸞の数多くの著述に随所に釈明せられていることは、周知のことであろう。
親鸞が、先の「断四流」の釈を受けて、「弟子とは釈迦諸仏の弟子なり、金剛心の行人也。斯の信行に由りて、必ず大涅槃を超証す可きが故に、真の仏弟子と曰ふ」と真の仏弟子について明らかにし、経釈をもってそれを証明した後、さらに次のごとく、その金剛心の行人に開かれる信境を述べているものも、それをよく表している。
ここには、必定の菩薩ともいわれ金剛心の行人ともいわれる念仏者にとって、臨終はまさしく大涅槃を超証する境位として、現在のこの身にたしかに頷かれ、受け止められていくことが深い感動をもって示されている。信心が安心として表されているのも、信心はそのような安心感として成立するものであるからであり、生死を出離するということも、具体的にはかかる信境が現在の身の上に開かれることにほかならないのであろう。「愚禿鈔」においてしめされているのは、それを現在の一念の内景としてさらに明確化せられ徹底されたものであり、親鸞にとりて真の意味で問われるべき臨終とは、「信に死して願に生きる」、その端的のところに捉えられていたことを知らなければならない。
親鸞は、金剛の行人について、便同弥勒と韋提等同という二面から語っている。そこには当時の聖道門仏教に対する真宗の独自性が表明されていることを注意すべきであろう。すなわち堅固不動であり、もっとも明利であることにおいて菩薩の大心とも、また菩薩の最後心ともいわれる等覚の金剛心を窮めた弥勒は、自力聖道門の菩提心に生きる者にとっては、まさにそれが実現せられた理想像を表す象徴的な存在にほかならなかった。そして弥勒が将来釈尊に代わって出現するという信仰は、偉大なる人類の教主である釈尊を失った仏弟子達にとって、無仏の世という危機感の中で深められ、その出現が久しく待望されてきたことは、仏教の歴史がよく物語っているところである。親鸞の当時においても、明恵・解脱等は弥勒兜率信仰の熱烈な信奉者であり、そこに立脚して浄土教を批判したものであったことは周知のごとくである。故に今、親鸞が便同弥勒を語るところには、仏教において長い間、問われてきた歴史的課題に対して答えるという意味がはらまれていたことを、注意しなければならないであろう。しかもその答えは、単に聖道門仏教の理想像である弥勒と、愚者である念仏者とは同じ位置にあるものであることを語るだけに留まるものではなく、五六億七千万年の後、無上覚位を開く弥勒よりも、臨終一念の夕を限りとして大般涅槃を超証する念仏者の歓びがはるかに深いものであることを、暗に表明するものである。親鸞にとって、その自信の深さは、正定聚に住するが故に必ず滅度に至るとこを誓われた阿弥陀の本願の確かさに基づくものであるが、それはただ阿弥陀の本願に誓われてあるということでなく、それが信心の自覚において現証せられた事実であった。すなわちそれは、「横超の金剛心を窮むる」ことによって、そこに自ずから開かれてくる自信にほかならなかったのである。
親鸞はかくて、便同弥勒という立論をもって、聖道門仏教からの批判に対して応答すると共に、念仏者に対しても、人生の尊厳性に対する深い自覚を促し求めていることを知らなければならないであろう。そして親鸞は、その便同弥勒に引き続いて、韋提希と等しく三忍を得ることを示しているが、それは聖者の代表としての弥勒に対し、実業の凡夫としての韋提希の証りを示すことによって、誓願一仏乗としての真宗の立場を明らかにしようとせられたものであったといえよう。そしてそこには、生涯実業の凡夫として生き続ける、そこにそのまま大乗菩薩道が実現せられてゆく道のあることを表そうとする意図が内包せられていたと見るべきであろう。 
[五]
以上、親鸞教学において、きわめて重要な問題でありながら、またそれだけにきわめて難しい問題でもある菩提心論について、主として教相判釈の立場から考察してきた。そこにはなお、幾多の問題がのこされていることと思うが、「教行信証」の「信巻」や「愚禿鈔」において展開せられた親鸞の菩提心論はおそらく次の「高僧和讃」天親章の一首に要約し尽くされるものといってよいであろう。
信心すなはち一心なり一心すなはち金剛心
金剛心は菩提心この心すなはち他力なり
この一首の和讃には、「大経」(信心)、天親(一心)、曇鸞(菩提心)、善導(金剛心)という、他力真宗の伝統が窺われるが、親鸞はその伝統を踏まえながら、あくまでも自己自身の実存を通して、菩提心の問題を徹底的に解明していったのであり、法然から与えられ、聖道門のがわからも応答を促された仏教における歴史的課題に応えてゆく中で、「横超とは、即ち願成就一実円満之真教、真宗是れ也」という立場を、真に獲得することができたのである。それが法然による浄土宗独立という歴史的事業を継承し、さらにそれを展開せしめていった、親鸞による立教開宗の意義にほかならなかったのである。 
 
信の内景としての願生道

 

【一】
真実の宗教としての浄土真宗
真実の宗教としての浄土真宗は、我々の生存する業道の境界が、そのまま仏道としての意義をもつことを明らかにするものである。
「二河の譬喩」に二河の白道として象徴される道、即ち、衆生の流転の生を場として顕れる本願他力の大道。
本願とは、我々の自己の生の根源が、出離の縁なき宿業の自覚を機とすることによって、我々を真の生に喚びかえす「欲生心」の表現である。我々は、その本願の名告りを、歴史的事実として現行する仏道、即ち本願成就として釈迦の教えに聞くのである。ここに如実に機教相応する我々の自己に、機法一体としての行信道が成就するのである。
「直ちに来れ」=絶対無条件的至上命令としての勅命=如来の欲生心=我々の生の根源・・・この勅命が我々の自己に名告る「帰命」(帰の至訓と命の業と招引の二訓は共に「述文讃」によって、業報の必至・必然をあらわすもの)
これに対する応答が、一心帰命の内景として展開する「願生彼国」
我と汝の感応道交
世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。
ここに弥陀招喚の一心が、汝としての行者、即ち我の一心として成就することを示し、更にこの我一心を限定して本願力廻向の一心即ち乃至一念の信を開く鍵が帰命であることを顕し、さらにこの一心帰命の内容を願生安楽国と表白されたのである。しかも、・・・一心帰命願生の心を発起せしめる淵源としての法蔵菩薩因位の願行が、歴史としての仏道を開顕するものである故に、天親菩薩は、その一心帰命願生の心を「世尊」・東岸の釈迦に向かって表白された。
この我と汝の感応道交こそ、歴史の根源としての欲生と、仏道の歴史としての願生とが、願力の白道として顕現されるところに開かれる妙境であって、この我と汝の言によって、我と彼、我とそれとして認識される相対海(無明海)を包越する絶対界(光明海)が顕されるのである。
本願の招喚とは、我が汝として見出されるような我々の自己の内奥直接の声であって、それは我々の流転の自己が、自己を我と呼ぶよりも遙かに身近な我そのものの根源の声である。
「我」と申すは世親菩薩のわが身とのたまへるなり。
「自身は現に是れ」
「大悲倦きこと無くして、常に我身を照らしたまふ」
身とは、我々の生存する大地が、業道の境界であることを象徴するもので・・・これが即ち、宿業の身として自覚される我なのである。この宿業の身としての我が、仏道の根源の名告りに於いて汝と喚ばれ、仏道の歴史とされるところに、願生の宗教が、真実に現実と遊離せぬ宗教であることが明らかにされている。
本願成就の一念の信は、本来の現行としての大行名号を体とするものであるが、この大信が大行を体とするものであるということこそ、信の展開する願生道をして、所謂人間の祈願的・理想主義的・未来主義的な宗教とは本質的に異なるところの、現生不退の宗教たらしめるのである。即ち、真実の宗教としての浄土真宗は、我々の自己が不退を求めて願生する宗教でもなく、また自己の本来の生が直ちに現生のものとして開覚されることを求める宗教でもない。
願生浄土とは、宿業の身の自覚を信知することの、即ち念仏の信心の展開する信境であることによって、我々の現生が仏道に不退であるという意義を明らかにするものである。・・・故に却って我々は、本来の現実を当来の未来に期するところの窮極なき道に願生するのである。 
【二】
開~悦体
現生不退の心境を我々の心身に即して象徴的に表現したものが「開~悦体」という言葉
「たましひをひらき、みをよろこばしめて」
神心・たましい・この身をして宿業の身たらしめたもの、且つ又、宿業の身たらしめていくもの
体身・からだ・この流転の境遇に生存する宿業の身
浄土は衆生の神を開き体を悦ばしめるところ・・真に我々の心を安んじ、身を養う処(安養界)・・我々は開~悦体の世界としての浄土に願生するものであるということが知られよう。
即ち、開と悦とをもって願力自然を象徴しながら、衆生をして、この業道海に随順しつつ、しかもこの業道海を超えしめるものが、願力自然の用き・・願力自然の用きの体が、無為自然の浄土にあることを示す。
未開神の宗教(「観無量寿経」の韋提希の怨訴)
人間であることが求める宗教が、自己の幸福を求める心、即ち罪福心であることによって、その幸福を求める心が、やがて自己最大の不幸としての無宗教自己の露呈を結果するのである。
この願生道に生きる衆生は、与えられた境遇にいかなる知解をも加えることなく絶対に随順しながら、しかも、この転開された心境に於いて、無限に深く自己自身の内に超越するのである。このように業道に開顕された願生道こそ、我々の生きるべき唯一の道であり、真実の宗教としての仏道であるといわねばならない。 
【三】
この願生心を展開する如来廻向の真信を、親鸞聖人は、「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。
願力廻向の信心は、澄浄なる大般涅槃の心であり、浄土の心であって、それ自らには形がない。しかしながら、信心が浄土の心であり「如来よりたまはりたる」(「歎異抄」)心であることによって、信心は、如来の浄土に還帰し如去する心でもある。その如来の信心の如去する用きが、ここに「歓喜」と象徴され、「身心悦予」と形象されるのであろう。
しかも親鸞聖人はこの歓喜の文字を身心に配して
「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり。うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり。
歓喜とは、如来廻向の信心は宿業の身の自覚に成就するという信の自覚に成就するという信の自覚的表現であって、それによって已得の信の証果を未来の浄土に期し、真に開神悦体するときを浄土に期するという願生道の内景を示すのである。
親鸞聖人は、 真実浄信心は、内因なり。摂取不捨は、外縁なり。本願を信受するは、前念命終なり。
即得往生は、後念即生なり。「即の時必定に入る」「必定の菩薩と名づくるなり」
他力金剛心なりと、知るべし。
と述べ、已得と必得とを内孕する信の内景が、前念命終、後念即生として語られている。
この業道に死して願生の道に生きる必定の菩薩こそ、まさしく仏道の歴史観中に見出された信の人間の像である。即ち、「信に死し願に生きん」とする必定の菩薩は、行信道としての人生の成就が必ず願生道を転開するという、業道自然と願力自然の道理が開示する浄土真宗の人間像である。
「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。
必とは、我々の理知計度の破られた帰命によって、真に審らかになった金剛心が、願力自然、法爾自然の道理によるものであるが故に、現在の自己に開かれる絶対の自信であり、しかも、その信心の智慧が、涅槃と生死、如来と衆生との分極を審らかにすることによって、涅槃の極果を未来として願生するのである。
往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。
と述べ、正定聚に住するところの現生は未来の涅槃に必至するものであって、この現生の信の自覚に、既に未来の証果が必至として内孕されていることを示されているのである。 
【四】
善導大師は、天親菩薩の「我一心・・」の心を、「観無量寿経」の三心釈下に於ける深心釈に、機法二種の深信として明らかにし、親鸞聖人は「愚禿鈔」に、善導の指南によりながら、第一の機の深信に決定して〈自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし〉と深信す。
とあるのを、「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利の信心なり。といい、第二の法の深信に決定して〈かの阿弥陀仏、四十八願をもつて衆生を摂受したまふ、疑なく慮りなく、彼の願力に乗ずれば、さだめて往生を得〉と深信せよというのを「決定して乗彼願力を深信する」と、すなはちこれ利他の信海なり。と表されている。
機の深信・・・自己の非本来的側面の自覚を顕す
自身は現に非本来的な在り方に在り、故に是の出離なき身としての自身を深信する。
「自利の信心」宿業の身を自己として生き、宿業を尽くすべく生きる心境。
信の一念に開かれる命終の信境であり、願力の道への決断を契機として開かれる生きることへの絶対自身の境地。
法の深信・・・自己の本来的側面の自覚を表す。
我々が願力に乗托しようとするに先立って、既に久しく彼の願海中に摂取せられ、願力に乗托せしめられてあったことの深信である。
この乗彼願力を深信することが、利他の信海であるといわれるのは、いま願力の道に即生する願生心が、その根源としての欲生心の成就である故に、ここに展開する願生道が、自在無碍・絶対自由の境地であることを示すものであろう。
しかし、実は、浄土には、既に開くべき神もなく、悦ばしむべき体もない。
「そのもろもろの声聞・菩薩・天・人は、智慧高明にして神通洞達せり。ことごとく同じく一類にして、形に異状なし。ただ余方に因順するがゆゑに、天・人の名あり。顔貌端正にして超世希有なり。容色微妙にして、天にあらず人にあらず。みな自然虚無の身、無極の体を受けたり。」
したがって、願生道の心境として、開神悦体を彼岸の浄土に期するということの教示するものは、願生する我々の自己の現生に於いて、既に我々は開神悦体するものとされるということであって、それを利他の信海という言葉をもって、我々の自己の本来的側面、即ち真の自己の根源の廻向成就であることを明らかにされているのである。
曇鸞大師は、この開神悦体という、如来浄土の宝池荘厳を表す経文を「浄土論註」に引用して、「二十九種荘厳」の「荘厳水功徳成就」の教証とされている→無為自然の純粋本能海に自我業障を因とする理想主義の流入した時、我々衆生は、この業道流転の境界のものとなったのであった。
したがって、開神悦体の宗教は、諸有の衆生をして彼岸の浄土に願生せしめ、自然の浴地に於いて心垢を湯除し、真に開神し悦体せしめんとするものである。即ち、開神悦体とは、神体をもって表される業道の人生に即しつつ、業道を包越する願力を開神として表すことによって、業道を生きる我々の自己に願生道を展開するところの信の内景を、端的に、しかも的確に表現したものであるということができるのである。 
資料
二河譬
すなはちみづから思念す。「我いま回らばまた死せん。住まらばまた死せん。去かばまた死せん。一種として死を勉れずは、我むしろこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり。かならず度るべし」と。この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。「仁者、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん。もし住まらば、すなはち死せん」と。また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「汝一心正念にしてただちに来れ。我よくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。あるいは行くこと一分二分するに、東の岸に群賊等喚ばひていはく、「汝、回り来れ。この道嶮悪にして過ぐることを得ず。かならず死すること疑はず。われらすべて悪心をもつてあひ向かふことなし」と。この人喚ばふ声を聞くといへどもまた回顧せず。一心にただちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。善友あひ見えて慶楽すること已むことなし。これはこれ喩へなり。
すなはちみづから思念すらく、〈我いま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、我寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし〉と。この念をなす時、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈仁者ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈仁者回り来れ、この道嶮悪なり、過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、また回顧みず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。善友あひ見て慶楽すること已むことなからんがごとし。これはこれ、喩(喩の字、をしへなり)へなり。
大経
また講堂・精舎・宮殿・楼観、みな七宝荘厳して自然に化成す。また真珠・明月摩尼の衆宝をもつて、もつて交露としてその上に覆蓋せり。内外左右にもろもろの浴池あり。〔大きさ〕あるいは十由旬、あるいは二十・三十、乃至百千由旬なり。縦広深浅、おのおのみな一等なり。八功徳水、湛然として盈満せり。清浄香潔にして、味はひ甘露のごとし。黄金の池には、底に白銀の沙あり。白銀の池には、底に黄金の沙あり。水精の池には、底に瑠璃の沙あり。瑠璃の池には、底に水精の沙あり。珊瑚の池には、底に琥珀の沙あり。琥珀の池には、底に珊瑚の沙あり。シャコの池には、底に碼碯の沙あり。碼碯の池には、底にシャコの沙あり。白玉の池には、底に紫金の沙あり。紫金の池には、底に白玉の沙あり。あるいは二宝・三宝、乃至七宝、うたたともに合成せり。その池の岸の上に栴檀樹あり。華葉垂れ布きて、香気あまねく熏ず。天の優鉢羅華・鉢曇摩華・拘物頭華・分陀利華、雑色光茂にして、弥く水の上に覆へり。かの諸菩薩および声聞衆、もし宝池に入りて、意に水をして足を没さしめんと欲へば、水すなはち足を没す。膝に至らしめんと欲へば、すなはち膝に至る。腰に至らしめんと欲へば、水すなはち腰に至る。頸に至らしめんと欲へば、水すなはち頸に至る。身に灌がしめんと欲へば、自然に身に灌ぐ。還復せしめんと欲へば、水すなはち還復す。冷煖を調和するに、自然に意に随ふ。〔水浴せば〕神を開き、体を悦ばしめて、心垢を蕩除す。〔水は〕清明澄潔にして、浄きこと形なきがごとし。〔池底の〕宝沙、映徹して、深きをも照らさざることなし。微瀾回流してうたたあひ灌注す。安詳としてやうやく逝きて、遅からず、疾からず。波揚りて無量なり。自然の妙声、その所応に随ひて聞えざるものなし。あるいは仏声を聞き、あるいは法声を聞き、あるいは僧声を聞く。あるいは寂静の声、空無我の声、大慈悲の声、波羅蜜の声、あるいは十力・無畏・不共法の声、もろもろの通慧の声、無所作の声、不起滅の声、無生忍の声、乃至、甘露灌頂、もろもろの妙法の声、かくのごときらの声、その聞くところに称ひて、歓喜すること無量なり。〔聞くひとは〕清浄・離欲・寂滅・真実の義に随順し、三宝・〔十〕力・無所畏・不共の法に随順し、通慧、菩薩・声聞の所行の道に随順す。三塗苦難の名あることなく、ただ自然快楽の音のみあり。このゆゑに、その国を名づけて安楽といふ。
深心釈
「二には深心。深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。一には、決定して〈自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし〉と深信す。二には、決定して〈かの阿弥陀仏、四十八願をもつて衆生を摂受したまふ、疑なく慮りなく、彼の願力に乗ずれば、さだめて往生を得〉と深信せよ」となり。
「二には深心」と。「深心」といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。また二種あり。一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。
叢林集
慧空講師、姓は川那邊氏、正保元年五月十五日江州野洲郡金苗村善龍寺に生る。始め叡山に学び後圓智師に学び、二十八歳にして祖堂を称導し令名嘖々たり。三十七歳にして洛下西願寺(今押小路通)に住し、講筵甚だ盛んなり。是間に蔵経を周覧し、或はニ尊院につきて秘書を探り、(中略)四十九歳にして寺務を辞し、静かに鉛槧を事とす。享保六年冬十二月八日示寂、享年実に七十有八、師著述殆んど四十二種、就中叢林集を以て大部とす、師の宗学に功ある正に本派の法霖能化と相若くといふ。・・
[解題より抜粋]是書の刊本二種あり。一は単に叢林集と題し十巻あり、享保二年書肆等恣に刊行せるものにして、誤脱錯簡極めて多く之を眞本に照すに殆んど解すべらす。
二は白川慈摂氏が義集六巻を分ち、法門宗義に関する所を刊行せるものにて、眞本叢林集と名け六巻あり、明治十三年の刊行なり。是は名の示す如く慧空師の真筆本に依り、悉く訂正を加へたるものにして、更に同氏の錦密なる校訂を経たるものなり。但だ憾むらくは事集三巻を刊行せざることを。今幸に機縁純熟以て全容を刊行するを得たり。是書は白川氏の叙言詳叙せる如く籍を眞宗に置く者、必す知らざるべからざる事項を集め、義集と事集との二大項目を分ち、一々細目を設けて之を叙述せり。
丹山順芸じゅんげい1785‐1847江戸時代後期の僧。
天明5年生まれ。越前(えちぜん)(福井県)の真宗大谷派浄勝寺の住職。深励(じんれい)にまなぶ。文政10年(1827)京都建仁(けんにん)寺で同寺蔵の高麗版大蔵経により黄檗(おうばく)版大蔵経の校訂をはじめ、天保7年に完成(越前丹山文庫所蔵麗蔵校合黄檗版一切経)。「丹山臨写本」(板東本の臨写本で大谷大学に「真宗大学寮所蔵本」「禿庵文庫本(丹山文庫旧蔵本)」の2本が所蔵されるが、これらは坂東本の筆勢や朱書の再現など、その技術の高さと精緻さにおいて群を抜く)和歌をよくし、頼山陽と親交があった。弘化4年9月29日死去。63歳。越前出身。字(あざな)は志道。号は丹山、烏山など。著作に「称名信楽二願希決」など。
マルティン・ブーバー「我と汝・対話」 Martin Buber:1923
ブーバーはこういうことを考えた。世界は人間の二重の態度において二重なのである。人間の態度が二重であるのは、そもそも根元語が二つの対偶語から始まっているためである。その根元的な二つの対偶語とは、ドイツ語でいう“Ich-Du”(我−汝)と“Ich-Es”(我−それ)ではあるまいか。この二つの根元的対偶語があることによって、人間は「我」そのものが二重であることを知る。だから、我を語るには汝を語ればよく、「それ」が語られれば我は語られ、そこに汝を語ることが介在できるのなら、「それ」を語ることからも存在の開示はあるはずである。だいたいこういう前提で、ブーバーは我と汝の対話を始めた。そこにあるのはひたすら「関係」(Beziehung)だ。ブーバーは、その関係の世界に投げ出されている我と汝を、我と汝が同時に知るにはどうすればよいかを考察しつづける。
 
絶対自由の根源〜本願三心の背骨としての欲生心〜の一考察

 


第一章において、衆生について、「浄土論」「倶舎論」を用いて以下のように論じている。
この衆生ということについて、天親菩薩の「浄土論」に、浄土には器世間と衆生世間がある、といわれている。〜(中略)〜器世間(国土荘厳)と衆生世間の二種の世界があるが、その衆生世間について、更に仏荘厳と菩薩荘厳の二種類がある。そうすれば如来もまた衆生である。浄土の如来は阿弥陀如来であるから、阿弥陀如来も衆生である。
論理としては、「浄土論」の衆生世間に仏荘厳と菩薩荘厳が説かれているということは、仏も衆生世間の一員であり衆生といわねばならないというのである。次に「倶舎論」に関しての記述を見ていく。
「倶舎論」によって「衆多の生死を受くるが故に衆生という」というてあります。一度、生死を受けるというと、その生死が窮まるところを知らぬ。始めを求めれば始めがない。終わりを求めれば終わりがない。無始無終である。
この「倶舎論」説を「われわれの納得のできる定義」とした後、以下「往生論註」を取り上げて以下のように続けている。
「往生論註」をみると、衆多の生死を受くるが故に衆生というのは小乗仏教の解釈である、大乗仏教では、不生不滅を衆生という、とあります。
これを氏は「ちょっとみるとおかしいように思われます」とするものの、以下のように第一章を締めくくる。
大乗仏教というのは常識を超えた境地だというので、何でも逆のことをいうておる。不生不死を衆生だといわぬと「浄土論」の解釈ができない。それで「浄土論」を正しく解釈するために、曇鸞大師は、不生不死を衆生といわれるのであります。
この破天荒な説を、氏はなぜ論じねばならなかったのであろうか。その理由として、これが衆生と如来とを一体とするという、本稿において重要な役割を担う伏線となっていくのである。
第二章において、如来を一如より来生する、衆生を本能宿業の大地から出生し一如に向かっていくとして、双方の「生」という語義を中心に解釈している。そして以下のように展開する。
如来には大悲誓願という願いがある。われわれにも願生という願いがある。両方に願いがある。この願いによって衆生と如来とは必然的の関係をもっているのでありましょう。
この「必然的の関係」を裏付けるために、如来と衆生を第一章において関係付ける必要があったのであろう。ここで、氏は「如来の大悲誓願」と「衆生の願生」をベクトルの違いはあれど、願いという上で共通すると説くのである。如来と共通するほどの願いであるのなら、衆生は如来の救済を待たずして往生に向かっていくはずである。その上で衆生が迷う理由として、氏は、以下のように論じている。
衆生は迷いを翻そうという願いをもっている。願いをもっているけれども、しかし、その願いはどういう願いであるかということは、わたしどもにはわかりません。わたしどもにわかりませんから、したがって、その願いは成就しません。〜(中略)〜だから、わたしどもは生死を解脱することができない。
衆生が抱く願いの本質を衆生が理解していないために、その願いが成就しないというのである。そしてこの後に、宇治川の清流と淀川の汚水の譬えを用いて、衆生本来の性質が「本性清浄」であることを説いている。
に目覚めることを目的とする有名な論疏に「大乗起信論」がある。これは筆者の仮説であるが、こうした論理展開等から推測するに、本稿及び、清沢一流の思想的源流には「大乗起信論」があるのではないだろうか。本稿を考察する上で、この点にも注目して見ていきたい。 
三心における欲生
ここでは、第三章から第五章までを「三心における欲生」という側面から見ていく。まず、第三章、筆者の小題で言えば「願からの信」について見る。
氏はここで初めて清沢一流の発起であることを明かしている。
清沢先生は、別に如来の方からのことはいっておられないけれども、われわれ衆生には、如来がなければ信は成り立たぬといわれる。この信というものは、やはり願を内容としているものでしょう。
この論拠に「信は願より生ずれば」という「高僧和讃」の言葉を引いている。更に、信楽に偏る(おそらく本願寺派の)姿勢に批判を加えている。氏は清沢発言、「高僧和讃」などを通し、三心の中で願生に対応する欲生に重点を掛けるのであるが、ここで三願転入が問題となってくる。なぜなら、第十九願、第二十願にも欲生が共通するからである。ここを氏は「三願転入は、欲生我国というものが段々自分自身を掘り下げてゆく」として、以下のように論じている。
いま十九の願や二十願のことは別にして、第十八願についてみると、「至心信楽欲生」の欲生は、純粋の欲生である。この欲生というものが、純粋の自覚を示したものである。仏さまの自覚を示したものであると思うのであります。この欲生に阿弥陀如来の発願の正意というものをもっている。そしてまた釈迦出世の正意の拠り所である。またわれら一切衆生の出生の意義を顕すものである。
として、第十八願の欲生の重要性を論じている。氏はここにおいて信楽中心であると「一応は心得てもいい」としながらも、
しかし、われわれ人間の深い願いというものは、どういうものであるかということがなければ、阿弥陀如来の本願とわれら衆生とは、どういう深い関係とか因縁をもっているかということがわかりません。
と述べている。これを氏は如来とわれわれ衆生との「歴史的関係」であるとしている。それらが一つに摂まっていくのが「欲生」と論じるのである。ここで梅原真隆氏の「欲生中心より信楽中心へ」という文章に対して、こう述べている。
教えを受ける立場から考えると、ただ信楽中心なんていうところですましておるわけにゆかぬと思うのです。やはり仏に助けられた者は、転じて助ける立場に立つということがある。助ける仏の本当の思召しというもの、仏の願心というものを、わたくしどもは、もっともっとつきつめてゆかなければならぬと思います。
ここが、本稿に向かった氏の動機であり、突き動かされた原動力なのであろう。信楽中心ということを否定することはできないが、「更に信楽の立場をもう一つ徹底するためにはやはり欲生が中心となってくるのでしょう」とその重要性を主張している。
第四章を筆者は「欲生我国」と名付けた。ここから本稿両翼の一端である「心境と環境」についても論考されるが、今は敢えて傍らに置き、氏の説を見ていきたい。まず、第十八願の「説我得仏十方衆生の生、至心信楽欲生我国の生、若不生者不取正覚の生」と、三つの「生」の字に注目している。まず、「説我得仏十方衆生の生」は、生と死を固定化して、全く違った関係のように執着して迷う衆生を救う、という説示であるとしている。次に「至心信楽欲生我国の生」については「浄土和讃」を引き「至心信楽欲生は報土の正因である、これが不思議の誓願である」とし、これを「招喚ともいうし、勧告ともいう」としている。そして「若不生者不取正覚の生」は、往生の意であるが、往生というも成仏というも自然法爾であるとしている。更に、自然法爾として衆生の計らいを離れることから難思議往生と説かれるのだ、としている。
第五章では「一心」をめぐり論が展開される。氏は、「往生論註」の解釈をめぐり、「西本願寺の人」は、あるときは起行の一心、あるときは安心の一心と「一心の釈でも違うように解釈したのがある」とし、「浄土宗の人」には「安心・起行・作業、各々一心というものがある、一心といえば皆安心というわけではないという」とした上で、
一心というのは形容の詞、一心に無碍光如来に帰命する。帰命とか願生という方がむしろ行であって、帰命から離したら一心はないのでありましょう。帰命ということが重大なのであって、一心に帰命するのだ、というのでありましょう。
と、このような「西本願寺の人」や「浄土宗の人」を難詰しているのである。そして、次のように論じて自らの立場を明確にしている。
親鸞聖人は三心を合して一心とされた。それは疑蓋無雑であるというので、帰命とか願生より一心の方が重大な意味をもつ、こういうのが親鸞聖人の「信巻」のご解釈の意義であると思うのであります。
更に、われら機の上では疑蓋無雑の一心のほかないとした上で、以下のように論じている。
このように考えるというと、信楽のほかに、もう一つ欲生というものが出てくるということが、学問の上に、また安心の上に、いろいろ悩みの生ずる本となっているようであります。
自らの立場である、欲生を三心の中心に見ることへの問題点を浮き彫りにしている。けれども、第六章で明かされる内容を見ると、信巻の「欲生は即ち是れ廻向心なり」を論拠として、欲生の必要性を説いている。また、「歎異抄」の第一条から、
「信じて念仏申さんと思ひたつ心のおこるとき」ということがないと、摂取不捨が出てこないと思うのです。
と論じ、「欲生ということがなければ、如来の廻向にはあずかれぬと思います」と述べている。 
心境と環境
いよいよ、本稿の独自性の発揮たる問題について見ていく。第四章に至り、突如として心境と環境という問題についての論考が始まる。
わたくしどもが生きておるうちは、心境と環境は、どうしても一致しないものでありましょう。心境というものは、わたくしどもに必然的なものでありましょう。内面的必然性をもっているけれども、環境というものは、本当の意味において必然性をもたぬのでありましょう。深い絶対の心境というものが開けないものであるから、わたくしどもは、環境を必然のものとして執着する。われらは、如来の本願力の廻向によって自分自身を本当に自覚するならば、そこに純粋の意味の絶対の心境が始めて成就してくる。
この心境とは、第二章の最後に、
真宗学の学者の中には、本性は失うてしもうたと思っている人もあるし、またそのように講義している人もあるようだけれども、やはり本性は失わぬものでしょう。
と説かれる本性と同義ではないだろうか。「本性は失わぬ」と、「心境というものは、わたくしどもに必然的なものでありましょう」との表現から、氏が本性=心境を同義と看做していると考えられる。そして、第二章における「本性清浄」という点、また第四章において「一般涅槃の境というものは、われわれにあっては心境でしょう」という発言からも、本性また心境が、仏教的表現として仏性を想定していると考えられる。
第五章において、氏は以下のように論述している。
心境をいただけば、環境は偶然のもの、間接のものである。環境を心境によって照らして、環境を新しい立場から超越してゆくことができるというのが親鸞聖人の教えでありましょう。
こうした論述は、「親鸞聖人の教えである」ことを傍らに置けば、仏教学に触れた者として唯識を想起させる。阿頼耶識が唯識所変として対境をつくりだし、その対境が阿頼耶識に種子として薫習する、といった唯識の認識作用と似ている。しかし、この前文に「この心境、これをつまり信心の智慧というのです」といっていることから、ここで心境を阿頼耶識であると仮定したとしても、純粋な法相唯識思想が氏の中に内在しているとは考えられない。法相唯識では阿頼耶識はあくまで有覆無記であり、智慧とは捉えられないからである。
第六章において、こうした心境と環境の出自が明らかになる。
清沢先生がわれらに教えて下さるのは「エピクテタス」によって、心境と環境をはっきり区別して、要するに環境はどうすることもできない、環境は必然的のものだ。―清沢先生の言葉ではそうなっていますね、―それはどうすることもできない。どうすることもできないのは、どうしなくてもいい。われわれの自由というのは、心の中においてのみ自由がある。精神の自由である。 
欲生我国と心境
ここまでで論じてきたように、氏は欲生を如来の廻向心であるとしている。これを、絶対心境とし、環境を超越していくことが氏の目的である。第六章において「歎異抄」の第一条を中心に論じているので、「歎異抄」原文を以下に挙げる。
弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏まふさんとおもひたつこゝろのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすと知るべし。その故は、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへにと云々。
氏は、「信心を要とすと知るべし」を、「必然的な心境を開かしめる。それが弥陀の本願の趣旨である」として、その後の「その故は〜」を「問題は心の救いである。環境をどうするということは必要ない」とし、「しかれば〜」を「善と悪という環境をもって必然的のものとするけれども、そういうものは必然性をもたぬ」と論じている。つまりここで、「老少・善悪の人を選ばれず」とあるのは環境であるから捨て置かれるべき問題であり、ただ信心を要とすることで絶対自由の心境を開顕すると論じている。
ここから念仏一つという本当の信仰を起こすことで、絶対の心境として「本当に悪人であるということを知らしめられ」、善悪の環境を越えしめられるのだと説いている。
第七章では、「観経疏」「散善義」の二種深信について中心に論じているので、「観経疏」原文を以下に挙げる。
二には深心と。深心というは即ち是れ深く信ずるの心なり。また二種あり。
一には決定して深く、自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二には決定して深く、彼の阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまうこと、疑なく慮なく彼の願力に乗じて定めて往生を得と信ず。
ここには、深心を二つに分けて、一に機の深信、二に法の深信が説いてある。
氏は、ここの「無疑無慮乗彼願力」について、ここで、「無疑というは法を疑わぬ。無慮というのは機を疑わぬ。総じて法を疑わぬ、別して機を疑わぬ」と述べている。この「機を疑わぬ」というのは機の何を疑わぬのであろうか。ここに、「愚禿鈔」の法の深信の解釈から「決定して乗彼願力を深信する」を引用している。そこで、無疑無慮が法の深信と共に、機の深信も含むと氏は解釈するから、機の上でも「乗彼願力」を疑わないことであるとしているようである。氏は、意図的に原文における機の深信を無視し、法の深信に機の深信も包括されるかの如くに論じる。
更に、本願成就文の「至心に廻向したまへり。彼の国に生ぜんと願ずれば」を、次のように解釈している。廻向発願心をいただけば、彼の国を願う心、つまり本願においては「欲生我国」がなければ往生はできないと読むのである。これを二種深信に当て嵌めれば「乗彼願力」であり、これを疑えば往生は得られないというのである。つまり、本稿のいう「機を疑わぬ」とは機に欲生我国が内在していることを疑わないことである。
次に氏は、「乗彼願力」の「乗」に注目して以下のように論じている。
ただ願力を信ずるだけではなしに、彼の願力に乗ずるのである。願力は、ただわたくしどもを救うてくださるだけでなしに、願力に乗ぜしめてくださる。つまり「乗」の字は眼目でありましょう。彼の願力に無疑無慮に乗托する。清沢先生の「絶対他力の大道」には、「自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗托して」とある。〜(中略)〜そうすれば、もう自然法爾、だから「任運に法爾に、此の現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり」、現前の境遇というのは環境でありましょう。
願力に乗せるという眼目をもって救うとする本願他力に対して、欲生我国という信をもって、彼の願力に乗ずる、またそうした道理を信ずることに重きを置く。ここに乗託するということが、自然法爾、つまり本願他力の救いにあずかるということであり、環境も絶対心境の照らすものとして受け取ることができることになる、というのである。
更に第八章に乗彼願力とあるように「乗」の字があるからして、本願の一道という「道」があるのであって、「乗」がなければ願力の一道はありません。願力の一道というけれども、詳しくいえば、乗彼願力の一道でありましょう。この一道は何ぞやといえば、一無碍道である。一無碍道というのは、生死即涅槃と了知するのである。
と、述べている。この絶対心境たる乗彼願力の一道は、無碍の一道であり、その一道が生死即涅槃であるというのである。そして、最後にこう締めくくっている。
わたくしどもは、この人生が苦しいから人生を回避するということでもって、彼の国に生ぜんと願ずるならば、それは本当の「乗彼願力」ではありません。そういうことを明瞭にしてゆくことが大切であると思うのです。
これは、「人生が苦しい」という環境から回避する意味で願生彼国といってはならない。願生彼国から帰結される欲生我国という絶対心境において、生死即涅槃の大道を歩んでいる、という本稿の主張であろう。
 
親鸞教義の非呪術性

 

願生思想1
1 日本浄土教史における願生思想の深化の過程
日本浄土教は三層の深化の過程がある
奈良時代に発芽
貴族階級に受容、聖徳太子等特別を除けば、強い現実肯定「現世安穏、後世善処」「この世もあの世も幸せに」この願生の浄土は、精神的ではなく、物質的外面的であった。
平安時代に繁茂
奈良時代の現実肯定が崩れる時代の到来。願生思想に一大転機をもたらした。それは平安末期における貴族階級の没落。否応なく末法濁世の到来を実感。「厭離穢土欣求浄土」という願生思想が勃然として起こる。源信「往生要集」時代の思潮を如実に反映。
鎌倉時代に結実
武士により受容された浄土教によりさらに深化。武士は殺戮を事とするから、貴族の及びもつかぬ罪業深きもの。欲望が通らぬ現実社会に対する嘆き、から、自己の底知れぬ罪業に対する嘆き。それは漁猟を生業とする最下層の庶民のも共通。苦楽を超えた絶対的な世界としての浄土願生としてこの時代に結実。
2 願生思想の三種の形態
日本浄土教の三層の深化は、そのまま、願生心の三種の形態として考えられる。
第一形態
現実肯定の素朴なもの。人間の本能的欲望の変形としての願生心。この浄土はこの世の直線的延長線上。たとえ読経等行業が行われても、本質的には仏道とはいえないもの。
第二形態
現実の否定に立脚するもの。思念される浄土はこの世よりよい環境。その次元を異にする世界に至るためには、現世的欲望の制御と、熾烈は願生心が要請される。初めて浄土教と呼べる形態。第一が欲望的ならば、これは理性的願生精神と呼べる。第一に比べれば、一つの断層をもつが、人間の奥に潜む主我性利己性が否定されていないこの形態は、依然として一種の「為楽願生」と呼べる。平安期の浄土教願生者が、いかに真摯であっても、独山的厭世的になるのは自然。
第三形態
第二形態は眼前の悪をその時代社会性に帰せしめるもの。第三形態はその悪の根源を自己自身の人間性そのものの中に見る立場。人間の主我性利己性そのものを悪の根源とするもの。浄土願生の心すらない自分を発見する立場。しかし、ここには自己を否定する自己は残る、というジレンマ。まだこの浄土は彼岸的。真に自己全体が否定されるには、自己ならぬ他己によらねばならない。人間の側から願求して得られる浄土ではなく、人間を願生せしめようと働きかける浄土。人間の願生心により限定される浄土は、いまだ真実の浄土ではなく、人間の願生心を限定するような世界こそ真の浄土。
3 三願欲生の意味するもの
三願=十九願二十願十八願
第一形態は浄土教以前のもの。第二形態も本質的には為楽願生。
しかし、これらをはじめから全く否定したら人間は如何にして浄土への手がかりを持つことが出来るか?
「論註」、「安楽集」ともにこのような凡情を全く否定するものではない。
第二形態等の願生者は「修諸功徳」=要門の行、の行業を営む。此土入聖の聖道の行としては相応しいが、此土に絶望して浄土願生する人々にとっては、やがてこの行は放棄せられねばならない。そこに二十願建立の意義がある。
彼はやがて本来的な浄土の行たる念仏をその行として用いる=真門行者。自力称念により往生しようとする。これが二十願に誓われる「植諸徳本」。かくて彼はいよいよ念仏を実践することにより、なお彼自身が行じている念仏であるという意味に於いて、浄土の行を人間の行に堕としめていることを自覚せずにはおれなくなる。
第十九、二十願の欲生は、自力の欲生。人間の主観の投影である幻想的な浄土。己心の浄土ではなく方便化土。
第十八願の欲生心=他力の欲生心は、「信楽の義別」=信楽の体が至心、三心は信楽の一心に帰する。
十八願欲生=決定要期の心=未来において確実にあたえられる往生の果を期待する謝念。
三願中信楽があるのは十八願のみ。十九、二十願は行信次第、十八願は信行次第。
4 親鸞の願生思想と、為楽願生が再肯定される立場
三願転入の経路を体験した親鸞の往生思想が、利己的迷信的自力的、為楽願生でなかったことはいうまでもない。
親鸞は光明をもって仏土を表現。
苦楽を超えた大楽と示す。
極楽とうい表現をほとんど用いない。
しかし注意すべきは、ひとたび弘願の信に到達して後は、そのような人間的感情の有無を問題としないということ。換言すれば、為楽願生的な凡情をも許される面がある。=絶対の否定を通して再び甦った肯定。もし十八願欲生が、凡情を永久に遮断するものなら、信後に人間的心は許されないことになる。極楽を使わないのは、広門相の否定ではなく、真実報土が人間の感覚に応じて化現されたものに堕することを危惧したから(=林田への批判)
親鸞の願生思想は、人間の利己的な願生心を厳しく否定するものであったと同時に、如来回向の信楽を領受することにより、再び高次的にそれを肯定するところのものであった。それは平安期の現実逃避的浄土願生に対し、力強く現実を肯定する願生心。それは現生正定聚の思想に端的。 
願生思想2
1 還相廻向との関連について
これまでの願生論を、還相廻向と関連させてみたい。
親鸞は多くの還相廻向に関する論、論註からの、引文をしている。
このような親鸞の還相廻向への関心は一体どこからくるのか?
2 現世否定の二つの立場
親鸞ほど、自己に小慈小悲のないことを悲嘆された人は少ない。悲嘆述懐和讃等は、親鸞が如何に真剣に衆生利益を考え追求した人であったかを反映している。
恵信尼文書の三部経千回読誦→東国農民の貧しい暮らしを目撃した親鸞の堪え難い衆生利益の試みであった
歎異抄の父母孝養のため〜→親鸞がいかに父母を追慕し孝養を願われたかがその背後に感じられる。だから人間的愛の限界に突き当たらざるを得ない。
その限界を感じたとき、自利利他円満の浄土を願求せずにはおれない。そこに親鸞が、
「還相は、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしめたまうなり。もしは往・もしは還、みな衆生を抜きて生死海を渡せんがために、」
と還相をかたる意図がある。ここに親鸞の往生思想重要な一面がある。
一般的には往生浄土の信仰は、現実否定から出発。それに二種類ある。
第一は現実世界は自己の欲求を満たせない世界という意味での否定
第二は利他的願望が満たされない世界という意味での否定
第一は為楽願生となり、第二は利他大行が完遂される世界としての浄土現実と次元を異にした世界に生まれ真に自在の解脱者たらんとする願生。
親鸞の願生は第二の立場に立つ浄土観であった。それは下記の論註引文から伺える。
「正道の大道大慈悲は、出世の善根より生ず」というは、平等の大道なり。平等の道を名づけて正道とする所以は、平等はこれ諸法の体相なり。諸法平等なるをもってのゆえに発心等し。発心等しきがゆえに道等し。道等しきがゆえに大慈悲等し。大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆえに、「正道大慈悲」と言えり。慈悲に三縁あり。〜〜〜大悲はすなわちこれ出世の善なり。安楽浄土はこの大悲より生ぜるがゆえなればなり。かるがゆえにこの大悲を謂いて浄土の根とす。ゆえに出世善根生と曰うなり、と。
3 欲生心釈下の「浄土論」の引意について
以上述べてきたように、親鸞の願生思想は消して自利的欲望を満たすための願生浄土ではなく、かえって現実世界において果たすことのできない利他教化の益を彼土に求めんとしての願生であった。その論拠を、還相廻向の引文の多さと、小悲の身の悲嘆述懐に求めてきた。
さらにその証権として、信巻、欲生心釈下にある、浄土論引文。p.233(教行信証・信)
欲生心釈には、「大経」本願成就文、「如来会」、「論註」、「浄土論」「散善義」が引いてあるが、これらは
「利他真実の欲生心をもって諸有海に回施したまえり。欲生はすなわちこれ回向心なり。これすなわち大悲心なるがゆえに、疑蓋雑わることなし。」という大悲廻向心を証明するため。しかし「浄土論」の引文はそれを証明するためとは見えにくいし、突出している。
また「論」(浄土論)に曰わく、「出第五門」とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化の身を示して、生死の園、煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯し教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。これを「出第五門」と名づくとのたまえり、と。
この引文の意図はなんであろうか?先哲の間にも異論があり、一致していない。
思うに欲生心釈の下であるから、信楽に即一する本願の欲生心とは、浄土に生まれて還相摂化の力用を具するがごとき大果を要期する心である、という意図ではないか。そう見ることができるなら、不自然さはないし、親鸞の浄土願生思想は、自利満足の世界としての浄土ではなく、かえって利他摂化の場としての浄土であった、とみる良き証権ではないだろうか。 
 
宗祖の三心説管見

 

(管見/自分の見識や見解の謙称)
一 まえがき
善導によって唱えられた念仏教義の中核は三心。従って、三心は浄土に生まれたいと願う者にとってこの上もなく大切なものである。このことは観経「具三心者必生彼国」に基因する。善導大師は「往生礼讃」に「この三心をそなえれば必ずかの国に生ずることを得る。もし、三心の一心でも欠けたならば生ずることを得ず」と述べられ、善導を相承した法然上人も「選択集」に三心は行者の肝心のものであると述べられている。
「観経」における三心の説かれているところは散善三観を説かんとする最初である。なぜ、この箇所に説かれたかと言えば、上々品に出ていると言っても、上々品の機のみならず、九品の機に通じ、さらに上の定善の機にも通じる大切なものであることを示すためである。
「観経疏」に「その要門(十八願に転じ入る肝要な門戸)とはすなわちこの観経の定散二門これなり。定はすなわち思いをとどめて心をもっぱら一つの対象に注ぐ。散はすなわち悪を廃して善を修める。この二行を往生の因としてふりむけて往生を求願す」と客観的に要門行が与えられることによって主観的には、三心が開拓されて初めて要門行者は往生の資格を具することになる旨を述べてある。
若有衆生願生彼国者発三種心即便往生何等為三一者至誠心二者深心
三者回向発願心具三心者必生彼国
この文は観経の一部の縮図。観無量寿経の本文には、この三心について名目を列ねているだけであり、具体的に説き示されていないため、いろいろなとらえ方があるが、善導大師は凡夫の起こす心と明らかにされている。
三心は凡夫が願力によって浄土往生を遂げる信心なりと明らかにし、三心を具えるか否かこそ、凡夫や行者が往生を得るか得ないかを定める要となると明らかにしている。善導大師の三心義を承れた法然上人も念仏行者の用心をさらに明らかにされ、さらにこの三心は「大無量寿経」の第十八願の三心(至心・信楽・欲生我国)に相当する旨を述べ、至誠心は至心に、深心は信楽に、回向発願心は欲生我国に配せられてある。しかし、法然上人の見られたごとくこの観経の三心と大経の三心とは一致するものであろうか?もし、一致するものとすれば善導の三心釈はそのまま大経の三心釈と見なし得るものであろう。
しかしながら、親鸞聖人は両経の三心は一致する場合と差別する場合があると見られた。観経の隠された意は大経と一致し、文面に表れた義は大経と相違するものとする。また、両者の相違を示す場合には観経の三心は「三心」といい、大経の三心は「三信」と呼んでいる。
日本浄土教各派において、善導法然の釈を無視する方は一人もいないが、継承の中で念仏義に相違を来すことになった。そこで、念仏義を明らかにするため、その中核の三心にスポットをあて、親鸞聖人の三心説に私の見方を示すものである。 
二 三心得生と五念得生
定善十三観においては行自体が願生心に裏付けられたものであるから、願生心が直ちに問題とはならない。しかし、散善三福行においてはそれ自体は浄土行ではない。したがって、散善三福行をもって往生するとすれば、回向発願心が問題となる。真実なる至誠心、たよられる仏に対する疑いなき深心、待ち受ける土を求める回向発願心、この三心をそなえるか否かは、何ものにもまして重要となる。故に、定善のすぐ後に三心を説かれたのであろう。十一門科に三心をもって正因となし、三心はまた通じて定善の義を摂す、と釈された。
「往生礼讃」の釈によると、往生を得るか否かは「観経」では三心の具不であり、「浄土論」では五念の具不によると二重の説をあげて両者の関係を示された。三心の中、至誠心は身口意の三業において求められるもの故に、身業礼拝、口業讃嘆、意業観察に当たり、回向発願心は一切の善根をことごとく往生行に導く作願回向に当たるものとされている。「往生礼讃」では作願と観察とを入れ換えてあるが、これは上記の関係を明らかにする為である。また、止観の実践法に配当すれば、作願は止(心を特定の対象に注ぐ)に観察は観(それによって正しく対象を観る)に、三学に配当すると作願は定(雑念を払い思いが乱れないようにする)に、観察は慧(正しく真実の姿を見極める)に当たる。
深心に配当される行がないが、五門の行業によって成ぜられる浄土の智慧なることを意味する。
二つには深心、即ちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。今、弥陀の本弘誓願は名号を称すること、下十声一声等に及ぶまで、定めて往生を得と信知して、すなわち一念に至るまで疑心あることなし。故に深心と名く。と、その内容が二種深心により示され、前後の自力の至誠回向の二心によって開拓されるものは中間の深心であることを示す。すなわち、五念門をおいたことは他力の三心への導線であり、三心も一深心におさまるところを明らかにされたと伺える。したがって、五念門には真仮の扱いがあり、三心においても真仮の扱いがある。前後二心を仮に扱えば、中間の深心も仮を帯びて、自力心定散諸機各別の信となり、深心(二種深心)に収束して扱えば、三心ともに他力利他の真実信心となる。
以上のように「観経」における定散両門は自力の三心をひるがえし、弥陀他力回向の真実信海に誘導するための経として、三心も真仮に亘りて扱われたものとうかがえる。
親鸞聖人が本願の三心の本当の意味を明らかにされるに当たって、善導の三心釈を引用されたのは、この真仮の存在を明らかにして、その意を際立たせる狙いがあったのではなかろうか。 
三 宗祖の三心説
概観
自力の三心と他力の三心とを分別してある。そうして真宗の信仰の他力なることを明らかにし、それが浄土の菩提心であり、厭欣心なる旨を明にされている。
自力の三心
自力の三心は「観経」の顕説の三心。→定散諸機各別の三心自力の三心は他力の三心に帰するようすすめられたものと見る、これが宗祖の三心観の大要である。顕説の三心→第十九願の至心発願欲生のこころ。(発願とは欲生の願を発すことで欲生とひとそろえ)観経には至誠心、深心、回向発願心とあるが、ここでは
一、至誠一、礼拝
二、讃嘆 / 三心二、深心三、作願五念門 / 四 観察
三、回向発願心五、回向
深心が略されている。しかし、信は要であり、第十九願にも信のあることは必然。しかしながら、第十九願の信は第十八願に比べると浅い。
至誠心 / 真実心にして、まじめに身口意の三業において欣浄厭穢すること(愚禿抄) 名利を離れて真剣に修する心(A)
深心 / 建立自心の信心であって、定散諸行をして浄土往生を得るものと信ずる心(A)の為の確信(B))
回向発願心 / 自己の善根を回向して浄土に往生すると願う心(A)、(B)をもって往生を願う心
以上は、定散諸機各別の三心であり、すべてに平等な心ではない。
他力の三心
至心 / 如来の真実心が我らに届いて衆生の真実心となったもの
信楽 / 深く本願の勅命を信じる心=無疑心
欲生 / この信楽を未現前の浄土に望むとき、欲生の名を得る。
第十八願の欲生は決定要期(未来において確実にあたえられる往生の果を期待する)の心。第十八願には三心あれども信楽の一心に帰する(無疑の一心)その体は如来回向の真実心であり、欲生は一心信楽の差別。結局信相は信楽の一心であって、体は至心義別を欲生となす。このように、その信相は二種深信である。
三心一心
「他力の三心は無疑の一心である」(字訓釈、法義釈によって明かす) 至心は、真実正直の心なる故必ず如来回向の心の他にはない故、私は必ず往生を得られるという無疑心の他はない。
至心=真実誠種の心、信楽=真実誠満の心であり、種は充満を意味し満と同じ意味。欲生=願楽覚知の心、信楽=欲願愛悦の心、愛悦=覚知であるから、三心は信楽一心の他にはない。
法義釈にはいろいろ解釈あるが、浄土に往生するためには真実心がいる。しかし、我らは真実心を持たないため、如来機を救わんが為にこれを成就する。そうして、それを衆生にふり向けられた。故に、我らは無疑の一心でこれを領受するのみである。
すなわち、至心も信楽も欲生も如来より賜る故に一心となり、無疑の一心を成ずるのである。
三心本末
本とは如来、末は衆生。如来の三心とは、仏辺成就の三心であり、至心は智、欲生は悲、至心は行、欲生は願、この悲智願行により、衆生の往生に疑慮なき心を成就するを信楽という。
衆生の三心とは、衆生領受の三心であり、疑いなく救うという如来の無疑心が衆生に領受され必ず救われるという無疑の心となる。法徳より談ずれば、如来の信楽がもらわれているため、如来の悲智願行が領受されてある。機相につけば、仏の真実が衆生の信相に印現すること即ち至心と得生の想念即ち欲生がある。
どの場合も至心欲生が信楽におさまるとする(一心摂二)。機受の信楽のところに前後二心の徳を摂してもって衆生の三心となる。
都名・・・すべてのものに通じた名称別取家至心欲生が無疑の信楽となる都名家至心を与えられて無疑の信楽となる。信楽も欲生も与えられて無疑の信楽となる。故に信楽は三心の都名であるという。
菩提心
菩提心は一般仏教の談ずるところであって、仏果を求める心をいう。そもそも真宗においては一般仏教に談ずる菩提心は取りあげないが、真宗の信心には法徳として菩提心があると談ずる。では、どこに存在するか?願作仏心度衆生心として存在する。衆生の上には行い得ないとするも、法徳として存在する。名号の功徳を領受せる故に信心の中にその徳がある。宗祖は菩提心を聖道の菩提心と浄土の菩提心とに分別し、浄土の菩提心をさらに横超横出とに分かち、横超の菩提心を信楽一心と定めここに願作度生の心が法徳としてあると談ぜられてある。
尽十方の無碍光仏一心に帰命するこそを
天親論主のみことには願作仏心とのべたまへ
願作仏の心はこれ度衆生のこころなり
度衆生の心はこれ利他真実の信心なり
信心すなはち一心なり一心すなはち金剛心
金剛心は菩提心この心すなはち他力なり
浄土の大菩提心は願作仏心をすすめしむ
すなはち願作仏心を度衆生心となづけたり
度衆生心ということは弥陀智願の廻向なり
廻向の信楽うるひとは大般涅槃をさとるなり
如来の廻向に帰入して願作仏心をうるひとは
自力の廻向をすてはてて利益有情はきはもなし
願作仏心 / 自分が仏になりという自利の願心
度衆生のこころ / 一切衆生を救いたいと願う利他の願心(衆生を渡す)
厭欣心
厭欣心=迷界を厭うて悟界をねがう心である。しかし、厭離穢土欣求浄土の心と解釈すると浄土門のみに談ずる心となる。聖道門においては厭離を先とし、要門においては欣求を先とする。真宗においては我ら凡夫には厭欣心は起こし得ないとする。しかしながら、法の徳としてはある。信巻に「欣浄厭穢の妙術」、浄土文類聚鈔には「捨穢欣浄」と述べられている。これは衆生に現れるものではない。
凡夫には厭欣心を起こし得ないのであるが、弥陀が代わりて成就しこれを衆生に与えて浄土往生を可能とさせる。(御文章御正忌章) 
四 考察
この論文の主意は「第十八願には三心あれども信楽の一心に帰する」ということに集約されると思う。そして、その信相は二種深信「かかるあさましきものをたすけたもう」と思うすがたである。本文では法然上人の示された信偽の文意をさらに明らかにされた開顕の釈と結論づけてあるが、そのことについては残念ながら読み取ることができなかった。
 
消息から見た「教行信証」「信巻」の成立問題

 

一、即得往生・造悪無碍・必具名号の信心
「経言。至心回向。願生彼国、住不退転、唯除五逆誹 謗正法。」の文は宿紙でない。(坂東本に先行する初稿本にあったと推定)
「諸有衆生、聞其名号信心歓喜、乃至一念」の文につづくものであり、また後文に「能発一念浄信」という「無量寿如来会」の経文を引用して、この即得往生の立場をあとづけてあるから、即得往生の立場は信心歓喜乃至一念・一念浄信の立場、すなわち一念の信心即得往生の立場であったとおもわれる。ところでこの親鸞の一念信心往生のよってたつ乃至一念の立場は、承久三年八月十四日に成った聖覚の「唯信抄」によると、一念義のよってたつ立場でもあったのであり、それは(a)往生の業一念にたれりといふは、その理まことにしかるべしといふとも、(b)徧数をかさぬるは不振なりといふ、すこぶるそのことばすぎたり。
という得と失という二面をもっていた。承久三年は親鸞の在東時代に当り、したがって一念信心往生の立場は在東時代、すでに成立していたと見てよいのではないか。その上、親鸞の教説を受容した関東の門弟には、一念の往生に偏執した傾向が顕著に見られるので、親鸞は東国時代、一念の信心に重心をおいた信心往生=即得往生の立場を高調していたものではなかろうか。
(文中「一念にて往生たれり」という思想は一念義におけるラディカルな面とこの一念に偏重した結果、この思想は「一念のほかに念仏まふすまじ」とする傾向さえはらんでいたいう失の面をもっていた。それどころかこの傾向は一念信心往生を報土往生と執したあげく、念仏往生を辺地往生、とさえしていた。)
在東時代の親鸞は、かく彼の独創にみちた若々しい一念信心往生の教説を力説していたが、この教説はまた前述した一念義のもつ得と失との二面に容易に結びつくものを内包していたから、親鸞の信一念への力点のおき方が、彼の教義を受容した人達に一念至上の傾向をたどらせ、ここに一念信心往生→乃至一念の偏執→偏信→念仏軽視→念仏=辺地往生→一念義的異義へのコースをたどらしめるに至ったのであろう。
かく東国教団の異義を重要な転機として、名号の裏打ちのない信心の浅薄さを自省し、真実の信心は必ず名号を具さなくてはならないということを味到したのであろう。これが次の文(J)を書かしめるに至ったものではなかろうか。
「真実信心必具名号、名号必不具願力信心也。是故論主建言我一心。・・・・能滅智愚毒也」
それでは、親鸞が五逆謗法としてしりぞけたいわゆる造悪無碍の邪義(B)はどうして生じたものであろうか。
「くすりあり毒をこのめ」という造悪無碍の立場は、傍線した如く一種の形式論理にたち、造悪無碍者とは形式論理を駆使するし、「くすりあり毒をこのめ」という命題は次下の念仏の立場と対照されていることから、念仏不要論の側にたつ人達であったらしく、彼ら造悪無碍者は親鸞の一念往生のまことのそこを汲みとることなく、いわば生活の叡知としてではなく、それをただ形式的知的に受けとり、これを実践面(注13参照)に移していたのであろう。
ここに親鸞が真実信心の世界を唯是不可思議不可説不可称の信楽の世界とし、その真実の世界を知的理解の世界から絶し、もって真実信心を智愚毒を滅する阿伽陀薬にたとえた所以(J)であるまいか。この深い表現の発見によって、親鸞の一念往生の立場は、ここに分別の立場を断ち切る世界=無義為義=仏智の不思議を信じ、摂取不捨の利益にあずかる大慈大悲の世界、に包容されて再びよみがえらせられてゆくのである。そうした過程を次に見てみよう。 
二、諸仏護念・如来等同・一念往生
建長二年の一Eの信心即往生のきわめてロジカルな形式的解釈が、これから七年(異義の最高潮に達した期間)後の康元二年一月には明確に信心=住不退転の往生となり、信心と往生の即同化(一本調子な知的解釈)を、その間に住不退転の語を介在させることによって拒み、さらに二月には、无碍光仏の心光に摂取せられることにおいてはじめて一Eの信心即往生の立場が成立することが強調されるに至っていることがわかる。この摂取の立場こそ一Eの知解の立場が完全に粉砕された立場であり、在東時代の一念信心往生の立場は一度殺され、ここに大慈大悲の无碍の心光に照護されることによって再びよみがえらせられるに至ったといってよい。
ところで、一念往生の立場が摂取不捨の利益によって再生させられてゆくのに、信心の人が補処の弥勒におなじ位になるという思想が媒介となっている。
この思想は「信の人は如来と等し」という「如来等同思想」であり、法然・聖覚の順次往生の段階を質的にも超えた親鸞独歩の思想である。そして如来等同思想は消息にきまってといっていいほど無義為義のはからいを絶ちきる思想と並記されているのは、この思想がやがて、はからいの世界と断絶する如来大悲の摂取光明の世界につながっているものであることを示していよう。 
三、「誠知悲哉」・逆謗摂取
Eの臨終来迎の異義は建長三年にもすでにみられたが、その段階をこえてここでは、「ちからおよばぬ」事態にまでたち至り、建長七年頃よりこの段階は顕著になってゆく。かくて「ちからおよばぬ」悲嘆は「いまは人のうへもまふすべきにあらず」とし、従って「有情利益はおもふまじ」として、それにつけてもいままで「人のうへにまふした」有情利益の態度が、実は「名利に人師を好」んだ態度と深く懺悔され、ここにBの「迷惑於名利太山」の文をかきつづらしめるにいたったものではなかろうか。かかる破局に陥らせたのは、東国教団の異解であった。しかも彼等こそ親鸞が在関時代、往生決定と信じ、将来に大きな期待をかけていた若き同朋であった。ここに親鸞は「なれむつぶべからず」(一B)と破門した従来の態度に、小慈小悲もない自己が、いかに名利に人師を好むものであったかを痛く自責し、「涅槃経」「梵行品」に極悪の張本提婆達多や阿闍世王入信の経路をさぐり、もって謗大乗・五逆罪・一闡提の輩を必死不可治から可治に解放せんことを願い、一Aの唯除五逆謗法の立場を逆謗摂取の大慈大悲の智悲の立場に転ずるため、驚くべき紙数を費してかかる「涅槃経」を長々と引用したものであろう。これはまた二の立場の志向した立場でもあった。(一Aの唯除の文は「誠知悲哉」の悲嘆をとおして(1)方便抑止から(2)逆謗摂取の態度にまで深まった) 
まとめ
在東時代の親鸞は一念信心往生を彼の根本的立場としていたが、この一念信心の同朋の受容仕方をめぐって異義が発生するにいたり、造悪無碍・一念他念などの邪義続出の「ちからおよばぬ」破目に直面して、一念信心→必具名号の念仏往生→諸仏・現生護念→便同弥勒→如来等同→迷惑於名利太山の悲嘆→逆謗摂取、から一念往生(金剛不壊の信念)の立場の再生復帰、への過程を試みてみた。このような異義は在関時代にもあり、この有様は「当時はこの身どものやうにては、いかが候べかるらんとおぼえ候」(一B)ほどでもあったから、建長年間の異義は在東時代にも発生し、従ってかかる異義を契機として成った如上の思想も在東時代にすでに見られたとおもわれないことはない。しかし「ちからおよばぬ」局面は、親鸞の東国を去ってよりしばらくの時の経過を待たなくてはならなかったのではなかろうか。それはおよそ建長のはじめ頃からではなかったであろうか。従ってかかる異義を重要な契機の一つとして生みだされた一〜三の思想は、「ちからおよばぬ」建長年間の異義によって、いっそう明確なかたちで成立し、そこでこの頃、一〜三の文を書きこむ必要にせまられ、宿紙の追加増補となったものではなかろうか。
ところでこの試論が成立するとすれば、まだ法然・聖覚にみられない親鸞独自の宗教をうちにふくむ宿紙の部分を除いた「信巻」は思想の位置づけからは、いわば法然的「信巻」とはいえようが、親鸞的「信巻」にはまだ成っていないといわなければならず、従ってかかる意味における「信巻」別撰論には傾かざるを得ないことになる。 
 
「教行信証」の成立問題

 

一 問題の取り上げ方
「教行信証」の成立問題は近時東京大学結城教授の本誌《「印度学仏教学研究」を示す。以下同》初号への「信巻」別撰説提唱を契機として大江、花山諸教授(本誌一ノ二号等)等の反駁があり、頓みにその究明の度を深められていった観があるが、いずれにせよ、それが最初に「教行信証」の製作年時問題(元仁元年説か帰洛後製作説か等)と後世の真宗宗学者の内容理解の問題(能行派所行派に分れること等)に拘わって提示されてさたように、この課題が、現存「教行信証」の最も基本的な素材と思惟される坂東本「教行信証」等による、一面書誌学的な追求と、他面その思想内容構成の探求とに拘わる両面よりその究明を深められてゆかねばならぬ問題なることは云うまでもないことであろう。その意味で、最近の龍谷大学小川教授の本誌(二巻二号)への書誌学的な研究発表は可なり実証的に、この課題理解の度合をより深められていったものと、本論究への寄与多きを思わすものであるが、今は稍々視野を展開して、法然親鸞の関係、法然門下全体との関係、親鸞の著書全体についての考察といった全体的な視野より今一度この問題を広い範囲に於て追求してみようと思うのである。勿論、そのような企図は「教行信証」の思想内容面の理解に当っても、---それが、その後覚如、蓮如と伝承された理解を受けて、徳川時代に至り、能行派的見解、所行派的見解等とその所見を異にしてきておること、然も、それ等の見解は可なり非歴史的であること等をも批判的に顧慮し、---「教行信証」を今一度、より歴史的な、より客観的な場所に位置せしめて考察してみようと意図する試みに外ならないのである。それは、「教行信証」の内容をも、能行派的にみるべきか所行派的に理解すべきかと云った如きこと以前のより原始的な、然もそのような意味よりする、より客観的であると思惟される場に位置せしめて理解し、以て、書誌学的な客観的な探索と相俟ってその成立問題を考えてみようと意図するのである。然し、以下の叙述は極めて試論的なものであり、然も思想内容展開の一面を主とするものなることを断っておき度い。 
二 書誌学的解明への顧慮
我々が現在見得る「教行信証」否少くともその草稿本とも称せられる坂東本「教行信証」の構成は如何なる過程を以て形成されてきたのであろうか。この課題については、幸いに、現在坂東本は、何回にも亘って写されたものかと思われる諸経論釈文の類聚(集)の跡を示し、然も何回もの補筆浄書の跡があったことを推測せしめ、本文中にも一枚ばかりではあるが(「行巻」他力釈下)別筆の混在を注意せしむるのであって、然もなお、現存坂東本に比較的近い内容の写本とも見做される西本願寺文永古写本や、その他、それ(現型の坂本・西本)以前の形態を多少とも伝えるかと推測される寛元五年(1247)尊蓮書写の奥書をもつ存覚延書本、文明古写本(1)、大谷大学蔵室町中期古写本の存するあり、又高田専修寺古写本、常楽台存覚筆写本の現存するあって、この成立過程の問題についての書誌学的な研究の参加を期待される分野はかなり広いのである。かような意味で、現存坂東草稿本を通じての執筆形式、文字、紙質、調巻等についての忠実な最近の書誌学的な研究の指示は可なりその成立過程の解明に示唆する点が多い。従って、今は以下の叙述にもこれ等の成果を参考にしたいと考えるのである。
然しながら、このような書誌学的な研究の、成立問題への寄与は、現存坂東本、その他上述の諸本に具体的に残されてある限りの素材を通じての科学的実証的な究明の寄与であって、現存素材形成以前に拘わっての成立問題考察への寄与の度合は可なり弱められてくる。又それは内面的な思想構成面の展開傾向、その形成の環境一般についての考慮等をも十分顧みなくては書誌学的な実証の十分にして且つ正しい成果を期待し難いと思う。
そのような意味よりして、今の場合は特にその成立問題を、上述のように、法然親鸞の関係、法然門下一般の環境、親鸞の著作への全体的な俯瞰等の場より広範囲に取扱い、然も特に思想展開の傾向に特に注目することに於て考えてみたいのである。(1)山口県の拙寺明厳寺蔵の古写本で「正信偈」文に「見敬得大慶喜人」とあり、「行巻」や「化巻」最後の尾題に「顕浄土真実教行証文類」とある如き坂東本訂正以前の形態を示す。 
三 課題究明の出発根拠
右のような考方よりして---そこには勿論本誌二巻二号の小川教授の坂東本についての書誌学的な交渉の成果の如きも考慮の中に入ってくるのではあるが---、先ず第一に本問題究明への最初の出発拠点を得る意味に於て、現行の成立せしめられている坂東本の叙述形式思想構成の内容が基本的には如何様に構成されているかを---それはかの結城教授等(1)の主張(本誌一巻一号、二巻一号参照)の如く「信巻」別撰と考えるべきかどうか等の問題を考慮しつつ---注意してみると、「行」「信」両巻の内容が、「化巻」の「観経」十九願の行信、「小経」二十願の行信に応対せしめられる「大経」十八願の行信として示されていることは云うまでもないこととして、特にそこに於て、「信巻」の三一問答釈と「化巻」の大・観・小三経三心一心一異問答釈とが恒に密接不離の関係に置かれていることに注目せしめられるのである。従ってそれ等「信」についての思想内容の構成は、叙述の形式は暫く差置いても、その内容の成立は大体恒に相前後して形成され、余り時を隔てない否寧ろ同時的であると見ることが穏当であろうかとも理解せしめられることを先ず注意したいのである。
乃ち、その叙述の形式より見た場合、一面、かの結城教授の主張の如く(本誌二巻一号)、「行巻」にも、その最初に「有大行有大信」と明す如きを始めとして、六字釈下、列祖引釈の結文、両重因縁釈下、行一念釈下、一乗海釈下の二教対・二機対・偈前・「正信念仏偈」と、全篇行を明すと共に信にも言及することを否定し得ないのであって、然も、そこに明かされる選択本願即ち第十八願の行信は「化巻」に明される第十九願の行信、第二十願の行信に、「信巻」を除外して、直接応対せしめられていると云う辺の意味を一応顧慮せしめられざるを得ないのであるが、それにしても、他面、「信巻」に特に第十八願文を中心にその願名を詳に挙げ、善導の「観経疏」三心釈文等を詳引し、字訓釈、法義釈等を以って三心一心問答を展開し、機無・円成・廻施の三心即一心・信楽・信心義を明にされる辺の所見は、「行巻」に明される信内容を具体的に解明すると共に、「化巻」に第十九・二十願文を中心にその願名を詳にし、善導の「観経疏」三心釈文等に注目しつつ観・小二経の三心一心と「大経」第十八願の三心との一異問答を中心に要(十九願「観経」顕説)・真(二十願「小経」顕説)二門の行信義を詳論されることと、如何に密接な関係におかれているかに注目せしめられざるを得ないのである。「化巻」の問答下に、異なるが自利各別の三心、定散の雑心なることを明しつつ、同なる辺につき「利他通入の一心」、「金剛真心」、「釈迦善逝、宣説至心信楽之願心報土真因信楽為正故也、是以大経言信楽、如来誓願疑蓋無雑故言信也」、「真心是即大信心、大信心希有最勝真妙清浄、何以故、大信心海甚以難入従仏力発起故」等と示される如き所見は「信巻」の三一問答釈等の所見を予想せざるを得ないのである。
従って、現存坂東本等の成立形体につく限り、叙述形式よりも「信巻」を全く除外しての「行巻」のみの「化巻」への直接的応対論には稍々無理があるのでなかろうか。若し現形「行巻」のみに応対する「化巻」を予想し得るとすれば、今少し「化巻」は簡素で原始的であるべきでなかろうかと思われる。又「信巻」の「若行若信」等も、「証巻」の所見が「真宗教行信証」を承けての「若因若果」である場合、矢張智暹の理解の如く「行」「信」両巻に亘っての「若行若信」と見るが穏当でなかろうか。その詳細なる立証は今具述するに遑がないが(2)、いずれにせよ、かようにして、その「信巻」の三一問答の内容は「行巻」に明かされる所と密接に結ばれ両者相俟って、「化巻」所明の十九、二十願、観・小二経の行信の内容と応対せしめられ、そこに自ら信の真仮批判(「信」「化」両巻に亘る三経の三心一心一異問答)を所論の極点として、「行巻」に明かされる真実行の意義を解明されようとする意図が窺われることを注意したいのである。その辺、小川教授の如き書誌学的な反論(本誌二巻二号)を暫く差置くも、結城教授の「行巻」にも信の解明があって、現行の「教行信証」の「行巻」の内容のみにて「化巻」の行信への応対は大体可能で、現行の「教行信証」の「信巻」全体は別撰であるとされる説(本誌一巻一号、二巻一号参照)には俄に同意しがたいと思う。然も、現存坂東本の叙述形式についての書誌学的な究明に顧みる場合、益々その辺の確信を深めさされざるを得ないのである。然しながら、今の場合は勿論、下に記するように、坂東本の「信巻」の現形の全部がその執筆の最初期よりあらしめられたとは考えないもので、その三一問答部を中心とする如き素朴な原始形が少くとも最初期には「化巻」の問答部の素朴な原始形に即応して存在せしめられ、それが漸次拡充されて所謂現形の「信巻」なるものを形成していったかと推測する意味に於て、一応「信巻」全体別撰説に同意しがたいのである。従って、結城教授の「信巻」別撰説の考方には、「教行信証」の成立過程を広範囲に課題とする今の場合---それは教授のそれとは可なり異った「信巻」別撰の考方となるかと思うが---、一応頷かされる点がないのではないことを断っておきたい。結城教授のそれとは異った意味に於て、「信巻」別撰の如くにも見做される一面を示すに至っておる原因があることを考えたいものなのである。
いずれにせよ、上の様な現行坂東本の内容の如きについての理解は、更に広範囲には、その他の親鸞の著なる「浄土文類聚鈔」「愚禿鈔」等の内容にも注意の眼を運ばしめるのである。勿論親鸞のその外の小著法語にも注意を及ばしめるのであるが、特に比較的に組織的に「教行信証」に関係深くて然も近い内容を以て、その見解を具体的に示す上述の両著は今の場合注目せしめられるのであって、「浄土文類聚鈔」の後半部の「大経」「観経」「小経」三心一心一異問答、「愚禿鈔」下巻の善導「観経疏」三心釈の理解は、両著夫々の前半部、上巻の見解に相応じて、現行坂東本「教行信証」の上述の如き「信」「化」両巻に亘る大・観・小三経の三心一心一異問答との関連深さを了解せしめられるのである。即ち、「浄土文類聚鈔」がその前半部に於て教行証中心に教行信証の四法を明し、次に「念仏正信偈」をおき、後半部に大・観・小三経の三心一心一異問答を展開して極めて「教行信証」に近い内容を以て形成されていることが両著の内容の関係深いことを推測せしむることは今特に喋々するまでもないこととして、「愚禿鈔」の如きについてみるも、その上巻に、二双四重判、三経による選択本願諸撰択観、三往生観、仏土観、本願一乗機教、二教対二機対観、を表示し、「玄義分」無上心文・「浄土論」一心文・「大経」付属文・元照「小経疏」文を引証する如き所見、そこには教(二双判・三経)・行(選択本願一乗機教・二教対=行、二機対=信、「小経疏」文=行)・証(三往生観・仏土観)・中心の信(一乗機真実信心、二機対、引用経論釈文)を含む四法開顕の意が窺われ、それは下巻の善導「観経疏」三心釈による、大・観二経、要弘相対義中心の聖道・真門等にも言及する信(行にも及ぶ)の真仮批判観と相俟って、体系的には如何に「浄土文類聚鈔」や更に「教行信証」の所見と傾向的に関係深いかを意味深く理解せしめられ得るのである。
然も特に「愚禿鈔」下巻の「観経」三心釈部分、「文類聚鈔」後半部の大・観・小三経の三心一心一異問答部分の見解が注意される場合、それ等が「教行信証」の「信」「化」両巻相俟っての信中心の所見と如何に緊密な同一傾向線上に位置せしめられているかに注目せしめられるであろう。それは同一人の著作なる故、当然のことではあろうが、その辺、益々上述の如き「行」「信」両巻相俟っての「化巻」の行信に応対する三経の三心一心問答中心の論証の仕方が如何に親鸞の常に一貫した論証の態度であったかに、想察の注意をむけしめられるのである。
かようにしてか、今、それ等両著の構成内容が、現行坂東本の「教行信証」の構成内容と全体的に極めて関連性探きことを推測せしめられるのであるが、そのような観点よりしてそれ等三著の思想内容叙述形式が比較検討される場合、これ等諸著の既成の構造内容の相互比較検討よりして、所謂現行の「教行信証」の成立過程を逆に推測せしめられる端緒拠点を与えられるかとも考えさされることを注意しておきたいのである。勿論そこには、これ等諸著についての書誌学的な究明の可能な限りの参与を得なければならないのであり、又完成された内容と完成されようとする形式過程の内容との考察に混同が起らぬように厳密な注意を要するのであるが、これ等諸著の示す思想内容・叙述形式の本課題究明への示唆は少なからざるものがあると思惟されるのである。
(1)岩田氏論文(「高田学報」三四号)参照
(2)「日本浄土教の研究」結篇第一章第四節第二項、同第五節第一項等参照 
四 成立方向の考察
以上のような諸著の構成内容・論証の仕方を考慮しつつ、その最後的な完成作品---比較的だが---たるを思わす現行坂東本「教行信証」の後序の所見等に顧みる場合、上述諸著に漲る三経の三心一心一異問答中心の論証即ち「信」中心の論証傾向全体が、師法然の主張の帰結である「選択集」の第十八願念仏一行往生義---「行」---を明にしようとする意図に終始していることを偲ばしめるのである。即ち法然主張の「教(三経一致所明の)行(十八願念仏一行)証(往生浄土)」の意義を、その「行」---善導の「観経疏」三心釈の一心専念弥陀名号等を承けるものだが---に具す「信」内容(「選択集」二行章・三心章参照(1))の闡明によって解明しようとするものが親鸞の一貫した態度なることを推察せしめられるのである。法然の教行証三法義即ち念仏一行往生義を念仏に具する信(三心一心)内容の追求によって解明し依って以って、教行信証四法義に帰結せしめられると云うのが、法然より親鸞への主流的展開傾向であり、「選択集」より「教行信証」への中心的成立過程の道なることを推測せしめられるのである。
以上は勿論現在出来上っている上述の如き親鸞の諸著の完成面の内容及び最近のそれ等に対する書誌学的な研究の成果の一端をも考慮して、法然より親鸞へ、「選択集」より「教行信証」への展開内容を逆推した結論に外ならないのであるが、更にかような展開傾向の方向は、当時の法然門下一般の諸傾向(2)、特に親鸞の兄事した隆寛聖覚等の諸著に示される善導の「観経疏」等による「信」中心追究の示唆する所等に顧みるならば、益々その裏付けを得ることと思う。
親鸞が「教行信証」を書き始めた頃かといわれる元仁元年(1224)より三年後の年が、丁度法然(-1212)滅後十五年目なる嘉禄三年(1227)であって、念仏者の領袖としての隆寛・幸西等が流罪追放になり、「選択集」の初版の焼却・法然墓所の破棄、全国的な念仏の禁止といったことが行われた所謂嘉禄の大法難の年であるが、この頃前後以前が法然直弟の著作活動の最もめざましい時代で、法然滅直後著された高弁の「摧邪輪」の発菩提心論を中心にする「選択集」への仏教原理論的反論への反撃の意味もあってか、健保六年(1218)の著なる幸西の「玄義分抄」の一心念仏の主唱の如きを始めとして、承久三年(1221)より嘉禄二年(1226)頃に亘っての著作なる浄土宗西山派祖証空の「観経疏観門義」等に示される観門開会三心領解念仏の主張の如きに至るまで、いずれも善導の「観経疏」に直参して念仏の念即ち信念三心の内容の追究に於て称名念仏行の実践的意義を明にし、よって以て法然念仏義の徹底的な解明を意図したことが注目されるのである。然も特に、親鸞が「よきひとゝゝゝゝ」として尊敬した聖覚の承久三年(1221)の著なる「唯信鈔」が「選択集」を承けて善導の「観経疏」三心釈によって三心義を明にすることによって念仏義を解明し、なお十七願・十八願の関係に注目する如き、隆寛の健保四年(1216)の著なる「具三心義」承久二年(1220)の著なる「極楽浄土宗義」等が相俟って、曇鸞の「往生論註」等の他力義によりつつも、善導の疏に直参して、三心の具不によって報土往生・辺地往生を分ち、十八・十九・二十、三願の三心具念仏報土往生者のあることを説く如き、そこに如何に善導の疏に直接することによって信中心の追究によって法然の念仏義を解明してゆこうとする傾向に、当時あったかに注意せしめられるのである。
かような「信」追求が第十八願念仏一行往生の意義を明にし、念仏・諸行実践の内容を解明し、更に第十八願に関係する第十九・二十願等の関係意義をも明確にし、依って以て、法然によって正依と決定された大・観・小三経の法義を組識的に明にし、法然主唱の浄土門の教義を完成すると云う傾向に於て位置づけられることは云うまでもなかろう。
然もなお、視野を展開するならば、法然滅後の法然讃仰者なる真言の静遍の如きが健保六年「続選択文義要鈔」を著して、法然の選択本願念仏義を密教的に顕揚するのに注目せしめられるのであるが、師がなお健保三年(1215)にその密教教学理解を体系的に示す「秒宗文義要」五巻を著し「果」「理」「教」「行」「心」の組織を以て密教関係諸文類を類聚しその理解を体系的に明にされる如き著を出されていることにも注意せしめられるのである。それは秘密事相の心体験に重点をおき書かれたものと了解されるのであるが、その文類聚の形式によってその教学を体系的に示されることが如何にも親鸞の「教行信証」に先駆する如き形式のものであり、そのようなものが当然既に出されてくる一般的傾向にあったことと、更にそれは当時の中国宋代の「楽邦文類」(A.D.1200年刊行)等の傾向に関連し、そこには親鸞のよく用いる元照(--1116)の「観経疏」「阿弥陀経疏」又は遵式(-1032)の「往生浄土決疑行願二門」「西方略伝序」等に示される如き諸傾向にまでもつながってゆくものかとも思惟されてくる意味に於て、その辺一般的に広く当時の仏教著作の傾向が注目されてくるのである。
(1)親鸞の「選択集」への注意は「行巻」引証文「正信偈」、「化巻」末後序、「銘文」及び「源空和讃」に顧みれば推測されるが、選択本願の称名念仏と云うことと共にその三心章の信に向けられていることが注目されるであろう。
(2)「日本浄土教の研究」第二篇以下、「教行信証成立期の法然教団の動行」参照。 
五 成立過程の推測
以上のような諸考慮よりして、最後に、「教行信証」の成立過程を親鸞について考えてみるに、次のような経過が推測されてくる。勿論それは極めて試論的な憶測に堕するとも考えられる点が多いのではあるが。
先ず第一に、法然門下時代以後三十五歳(1207)流罪より四十歳過ぎに亘り念仏一行の実践に当っての信追究が深められ始めていることを推測したいのである。それは「恵信尼文書」に示される四十二歳頃の「三部経」千部読誦廃止の記事等---「教行信証」の後序「棄雑行兮帰本願」等参考---によるのであるが、そこには後に「教行信証」に確立されてくる真門法義簡別の内的な端緒を示されているかとも推測が運ばれる。この頃より以降所謂現存の「観経弥陀経集註」の如きものが写されたのであろうか。そこには、その四十五歳(1217)なる健保五年に仁和寺かと推測される或貴所より真言の静遍が見出したと云う「般舟讃」を善導の諸著(善導諸著はA.D.1213より1231年頃に亘り幸西門弟出版、「三部経」は1214に出版するが)の中では特に出さず、又「楽邦文類」(1200年刊行)を朱書し、元照の「小経疏」文を出し、「観経疏」の三心釈文等を詳引することが注意されるが、後の「教行信証」の材料蒐集(1)の一端に寄与したかとも推測される。
かような経過の中に次に第二にその四十五歳頃(「愚禿妙」に引かれる「般舟讃」の発見等に注意するものであるが)以降、現行、「愚禿鈔」(2)上下二巻に示される如き内容の原始形態が漸次成立せしめられてきたかと推察される。法然教義との関係に於て見出すと、その上巻には大体上述の如く「選択集」を承けて教行証(信も含むが)の法義を明し、下巻に至るや、かの三心章の如きを承け所謂善導の「観経疏」三心釈による「信」追求によっての要真弘三門法義の鮮明化よりする教行証の法義の積極的な解明への動向が注目されてくる。「愚禿鈔」は大体奥書によれば可なり後の製作の如くであるが、奥書よりして上下両巻同一年月日づけの書となって(常楽台存覚本参、高田顕智本には下巻奥書なし)おる如き、それがその製作の年月なるや疑われるのみならず、内容的に見て、要弘相対中心の綱格に立ち真門を僅に出してくると云った形態を採るもので、その辺、特にその原始形態とも推測されるものは、「教行信証」(要真弘三門相対の綱格)成立への一過渡期を示す一模型であるかとも思惟されるので、上述の如く推測したのであるが、そこに示される信追究の理解の仕方が、より始源的には、現存の法然の法語なる「三部経大意」(3)(金沢文庫蔵、高田専修寺親鸞真蹟蔵)の如きに関係深く溯って注意され、更にかような信追求による念仏義の解明の傾向が、時期を同じくしては、上に言及したように、当時の製作と見られる隆寛の「具三心義」(A.D.1211作)・「極楽浄土宗義」(A.D.1220作)、聖覚の「唯信鈔」(A.D.1221作)、幸西の「玄義分抄」(A.D.1218)、証空の「観門義」(A.D.1221-1224作)等に亘る全般的な諸傾向と軌を一にすることに於て極めて関係深く見出されることを注意しておきたい。
かようにして第三に位置せしめられてくるのが、その五十二歳(1224元仁元年)頃以降になるかと思われる「教行証文類」の綱格を中心とする諸経論釈文の「教」「行(信を含む)」「証」「真仏」「化身土(信を含む)」に分つ三経三願三門体系分類の極めて原始的な「教行信証」成立の第一歩であるかと推測されるのである。法然の教行証より親鸞の教行信証への展開過程上に於て、然も上の第一、二の立場を承けての所謂「教行信証」成立への一歩をかくみることは穏当を欠くものであろうか。追究される「信」の内容は「行」の内容を解明するものとして、特に最初は「行」に附して---勿論それは真仮に亘るが---組織化されていったのでなかろうか。現行坂東本にみる如く最後まで「教行証」の総題をもち、又坂東本・文明本等の「行巻」の尾題に「教行証文類」と題する痕跡を残す如き、その辺の消息を物語るものと思われるが如何であろうか(以上第三の[a])。
然るに、かような「教行証文類」綱格の原始的な分類は、---それは現行の「浄土文類聚鈔」の内容の如きとの関係より溯って推測されるのであるが---その後漸次、その各分類の私釈の拡充、「行」に附された「信」(真仮に亘るが)内容---三心一心問答部の如き内容---充実を計られるに至り、寛喜二年(1236)五十八歳頃以降の「唯信鈔」(十七・十八願の関係三心釈等注意)の書写、文暦二年(1235)六十三歳書写「唯信鈔」の反対面に見られる「五会法事讃」「涅槃経」要文の抄出書写等(高田専修寺蔵)は相俟って、経論釈文の補充、行信関係内容の整備をなすに至らしめ、その六十歳前後の頃までに、若し略抄するならば現行「浄土文類聚鈔」の原始型とでも見傲され得る如き「教行証文類」綱格のものを成立せしめられるに至ったのでなかろうか(以上第三の[b])。「浄土文類聚鈔」(4)は上述の「愚禿鈔」と同様建長七年八十三歳の書写であるが、その内容の文章用語等は全般的に現行坂東本の如きものとは以前の作であると見るが穏当でなかろうかと推測され、建長七年書写頃の多少の補筆等があるかも知れないが、その原始型は大体現行坂東本以前と考えたいのである。
然して、なお当時浄土教界一般としては嘉禄の大迫害後で、肥後にあった弁長が「末代念仏授手印」(A.D.1228)、「徹選択本願念仏集」A.D.1237)等を著して、当時京都にあった源智の「選択要決」(A.D.1235-1238頃)の如きと呼応して異義多きを歎いて多念専修を主張し、京都にて当時「観経疏他筆鈔」(-A.D.1235)等を講じつつあった証空の他力念仏義や信中心の一念義系の主張に対し、漸次その勢力を伸長しようとしており、長西(--1266)等又漸次諸行本願義的な主張を強調してくる如き状況下にあったことが注意される。然も亦更にこの頃前後親鸞の関東よりの帰洛等の問題も拘わって考えられてくるのであるが。
いずれにせよ、かようにして最後、第四に、六十歳過よりその七十歳頃までに至る間に、先ず最初頃には上の「教行信証文類」への諸経論釈文の補充改訂整理---現行坂東本の断片部等参照---「信」「化」両下相応じての三心一心一異問答部等の整備より始まり、その後「行巻」の六字釈より一乗海釈等の充実(以下本誌二巻二号小川教授研究参照(5))等が漸次なされてゆき(以上現行坂東本八行書部の大部分の成立を意味する)、その後期には「信」下の大信海釈より、菩提心釈真仏弟子釈等の大補充があって(現行坂東本の宿紙等を用いる八行書新形文字使用の部分への書変え補充)「信巻」の独立となり、それは七十三歳頃までに亘っての「教巻」、「行」「信」両巻初部の整備(現行坂東本七行書部分の浄書整備)「信巻」別序、総序の完成となり、寛元五年二月、その七十五歳の年に尊蓮が書写する頃までには大体現行坂東本の原型を形成するに至り、所謂「教行信証」の成立となったと推察されるのである。蓋し、現行坂東本が、それ自体の示す内容形式のみならず、更に高田本・西本願寺本・存覚延書本・常楽台存覚写本・文明本等の諸古写本に比較検討される場合(6)、その七十五歳頃以後なお改訂頭註浄書等が加えられつつあって、なおより完成を期待されていたものなることは容易に推測し得るであろう。
かようにして、要するに「教行信証」の成立は、「信」の追究を終始に亘る基本的な立場とする「行」の実践的意義の究明、「信」体験追究による「行」を中心とする「教行証」の意義の解明と云う展開の進展に於て、「教行証文類」より「教行信証文類」への成立を見るに至ったと推考されるのである。従って、現行坂東本以下に見出される如き「信巻」の完成独立は可なり最後期であると推測されるのであって、かような成立過程をもつ故、最後まで「教行証」の三法立題で以てその総題とし、然もその内容は教行信証の四法構成を以てされるに至ったものと思惟されるのである。かような意味よりして「信巻」別撰等の課題はその解明の為可なり複雑な究明の内容交渉を持たしめられなくてはその解明の十全を期しがたいのではないかと考えるものであるが、如何であろうか。
以上極めて杜撰な然も憶測的な叙述に終始したが、一応「教行信証」成立の動向を試論的に一考してみたものに外ならないのである。その辺諸賢の叱正を得んことを期待するものである。
(1)坂東本「教行信証」の「信巻」(現行「信巻」本末尾引用)引用の元照「小経疏」四文は大体「観経弥陀経集註」の「小経」文末尾に記する所より引きしものかと、その引用形態より特に推測される。
(2)村上氏「改訂愚禿鈔講義」、安井氏論文(「大谷学」十二巻一号)、土山氏論文(同上十四巻三号)、梅原氏論文(「真宗研究」九・十号)、禿氏氏の「行信の体系的研究」(p.137)等参照。
(3)「観経疏」「散善義」の三心観を総(自力)、別(他力)二意でもって理解すること等参照。
(4)「浄土文類聚鈔」と「教行信証」との比較では、前者の信下に「除疑獲得之神方、長生不死之妙術」とあり、後者に「長生不死之神方、忻浄厭穢之妙術」とある如きによるも、それは元照の「小経疏」序文に「除疑捨障之神方、長生不死之要術」とあるによると推測され、それは「文類聚鈔」を先きの撰述と見るべく考えしめること等参照。桐渓氏論文(「真宗学」九)、生桑・山口・岩田諸氏論文(「高田学報」六・八・三五号)等参照。
(5)(イ)早き時代の書写とされる「観小両経集註」に教授の指摘される新文字を使い「観経」本文中に「廻向」と記し、「小経」本文末尾で「」(旧)「惡」(新)の両者を同時に使用する如き如何に思惟すべきであろうか。(ロ)教授の指示による親鸞七十歳頃から七十何歳頃に亘る間の筆蹟変化の度合はその期間に比し余り激しすぎはしないであろうか。今は前後二十箇年以上に亘ると考えたのであるが。
(6)「行巻」(p.2右)「如来会」文下の「証」の字の註(坂本七行書の所)、「論註」文(同p.14-15)の「督」「命」「称」の註等(坂本八行書の所)は坂本、西本は頭註なるに、高田本、存覚本、文明本は共に欠く如き、その他「化巻」真門下(p.25左)の「礼讃」の「智昇法師」等の註は坂本西本頭註となり(坂本七行書)、高田本、文明本等欠き、現行諸版本位置を誤る如き、又「行巻」(p.5左)「悲華経」下「曇無讖三蔵訳」が高田本、文明本の示す所で、西本もそれに近いが、坂東(七行書部)に全くかかる送点がなき如き彼此考察のこと。 
 
浄土の大菩提心の意義

 


「教行信証」を根本聖典とする真宗学の教学的課題は、親鸞の仏教史観を通して、信仰による純粋主体を確立すると共に、その信心の自覚において「大経」によって開顕せられる仏教史観を自証し開顕してゆくことの上に求めなければならないであろう。そしてその教学的課題が、現代の歴史的状況における根本的な課題である人間性の回復という問題とのかかわりの中で不断に追求せられてゆく時、そこに真実の教法に立脚することによって、開かれる、宗教的実存による連帯的世界(=僧伽)の実現という、立教開宗の歴史的事業が果遂せられてゆく道もまた自ずから明らかにされてくるのではなかろうか。
ここでは、そのような観点から、「教行信証」の「信巻」や「愚禿鈔」等に展開せられている親鸞の菩提心論の考察を通して、真宗における教相判釈の意義を明らかにしてゆきたいと思う。 
[一]
菩提心とは、相対的な分別意識に執われ、懸命ではあるが、しかし空しい生の反覆を繰り返しつつ、そこになんらの究極的な方向性をも見出し得ないままに生き続けている、我々の日常性を、その根源から突き破って出てくる激しい否定的精神をいう。
また、それは人間をして、文化人といった態でもって平均化された世人としての立場から、孤独者として存在する自己の存在の根源に引き戻す心自立の精神でもある。そして、それはそこに初めて生死する身の実相に触れた驚きの中から、真に人間凝視の眼を開いた独立者として、新しく誕生することを命ずる無上命令でもある。
かかる自己否定の精神を通して、透明な認識能力と純粋な敬虔感情を具足した人間成就の道を開示しようとするのが仏教である。故に仏教においては、なによりもまず、菩提心を発すことが、仏道実践のため必須用件として要請され、そのような菩提心に生きる修道的人間を、あるべき理想像として標榜した大乗仏教において、菩提心の獲得が強調せられたことは、いうまでもない。しかしそれは同時に、発菩提心ということがいかに至難であるかを教える。
龍樹がそれについて、三千大千世界を挙げるよりも重い心であると語り、その実現は丈夫志幹によってのみ可能な道であると示した。その菩提心の重さが菩薩の死と呼ばれる二乗地に堕する危機、あるいは七地沈空の危機と直面することにより、不退転地の獲得に向けて、信方便易行の道を開いていった。それはしかし、菩提心による挫折ではあっても、けっして菩提心そのものの放棄を語るものではなく、むしろ菩提心の内面化を表すものであった。経典自ら、阿弥陀の光明の働きによる不退転地への入門を説くと明言する「大経」は、まさしくその問題に対して答えられたものにほかならない。
しかし菩提心の内面化による信方便易行の道は、龍樹自ら儜弱怯劣の凡夫の求めるところとしてきびしく苛責したところである。龍樹にとってその批判は、他者に向けて発せられたものではなく、なによりも自らに向けて発せられ問い質された徹底した自己批判にほかならなかったが、それが浄土教に対する客観的な一般価値評価として行われてきたのが、聖道門仏教を主流とするその後の仏教の歴史であった。
法然による浄土宗独立ということは、そのような歴史の流れを大きく転換せしめたものであるが、法然はその立教開宗の宣言書である「選択集」において、仏教の根本をなすものであり、それまでの仏教の歴史をその根底から支えてきた菩提心について、菩提心無用という、実に驚くべき発言を行っている。
なぜ、菩提心無用という大乗仏教そのものを否定し去るような、無謀とも思える提言をあえて行なったのは、それは、「選択集」の末尾にも明記されているごとく、善導の指摘によって見出された、阿弥陀の本願と釈尊の教説における廃立の立場に立脚するものであり、そこには、当時の社会的な危機意識を宗教的な危機意識として自己の内に内在化することにより、末法という時機の痛みを通して、正像末の三時を貫く永遠の真実が問われていたことを領解することができるのである。そしてそれは、法然自身における菩提心の挫折を通して語られた実験の告白であることは、醍醐本に記された、次の言葉がそれを物語っている。
実に菩提心無用ということは、徹底して菩提心に生きようとし、事実生きたが故に挫折せざるを得なかった法然にして、初めていい得た言葉であった。ただここで我々が注意しなければならないのは、聖道自力の菩提心の挫折であって、法然はけっして菩提心そのものの全面的否定を語っているのではないということである。そのことは、「発菩提心とは、諸宗の意不同なり、今浄土宗の菩提心はまづ浄土に往生して、一切の衆生を度し、一切の煩悩を断じ、一切の法門を悟り、無上の菩提を証せんと欲するの心なり」という法語によっても窺われる。すなわち法然にあって、菩提心は願生心へと否定的に内面化されていったのであり、願生心として働く菩提心そのものまでも否定したのではなかったというべきである。
しかし、法然が菩提心をも諸行として廃捨し、念仏一行を選択することによって浄土宗を独立せしめたことは、けっして容易に許されることではなかった。ことに戒律の実践によって、釈迦原始教団の再生を目指した明恵・解脱等の復古主義を標榜する聖道門の高僧碩学に対して与えた影響は頗る大きく、なかんずく、明恵からの反駁は実にはげしいものがあった。すなわち法然滅後、建暦二年九月「選択集」が開版せられるや、わずか二ヵ月半にして刊行せられた明恵の「摧邪輪」、そしてその後七ヶ月を経てさらに重ねて出された「摧邪輪荘厳記」は、法然が立論の根拠とした経論釈、ことに善導の疏文を引用して批判した。明恵はその両書において十六過を列挙しているが、その本意は「摧邪輪」の序に挙げた次の二大過を顕すことにあると述べている。
一、菩提心を撥去する過失
二、聖道門を以て、群賊に譬ふるの過失
明恵の基本的立場は、菩提心をもって一切仏道の体性とし、浄土往生の正因とするものであり、もし菩提心がなければ念仏の業も成就しないとするものである。これは明恵に限らず、聖道門の人々の依って立つ根本理念を明らかにするものであるが、そこでは菩提心そのものは、仏道の前提として自明なるものとして把えられ、菩提心についての、主体的な内省が徹底的になされてはいないのではなかろうか。そしてそのような菩提心論の根底にあるものは、おそらく大乗仏教の根本理念ともいうべき、一切衆生悉有仏性ということへの絶対の確信であったろうと思われる。しかし浄土教は、その確信がもはや末法五濁の凡夫においては、どこにも得られないという痛みを通して開かれたものであった。
一切衆生悉有仏性という絶対の確信に立ち得るものであるならば、そこにおいて見出される煩悩は、客塵煩悩として菩提心によって撤去され克服せらるべきものであり、そしてもしそこに仏力が問われるとしても、それもまたあくまで外縁に留まるものであって、けっして内因となるものではあり得ない。しかし、煩悩はけっして客塵としてあるのではなく、それこそ本来具足せるものであるとして自己を見出した者にとって、一切衆生悉有仏性ということは、如来の誓願に表された如来の確信としてしか領受し得ないものであり、衆生の側からすれば、現在的ないし現世的にはどこにも仏性無しと徹底して身の現実を痛むよりほかないであろう。そしてそこに立った時、聖道門仏教の立場は、たしかに崇高な精神でもって貫かれているとはいえ、そこになお自力への信頼に基づいた理想主義的な立場に留まっているのを見出すのであり、時機に対する深い洞察の欠落を指摘せざるを得ないのである。法然が聖道門仏教を群賊悪獣に譬えたのも、まさにその時機への洞察を欠いた聖道門仏教の立場は、末法五濁の世を生きる者にとって、むしろ出離の要道を阻害し迷惑する役割を果たしていることをきびしく告発するものであったといえよう。
かくて法然は、菩提心無くしては念仏業も成就しないとする聖道門仏教に対し、念仏なくしては菩提心も成就しないと主張したのである。そしてその法然が提起した課題―菩提心を発し得ない者に対し、願生心として菩提心を成就せしめる根源的な行としての念仏の開顕―を、自らの果たすべき使命として背負い、それを徹底してゆくことによって、真実の宗教にして仏教である浄土真宗を開いていったのが親鸞にほかならなかった。 
[二]
親鸞の菩提心論は、「教行信証」の「信巻」、および「化真土巻」を初めとして、その外、「愚禿鈔」、「高僧和讃」、「正像末和讃」等において見ることができる。その中、「愚禿鈔」は浄土真宗における教相と安心を明かしたものであるが、「教行信証」の「信巻」の本末二巻にわたって展開された横超の菩提心論ときわめて密接な対応性をもつものであり、相対教判と呼ばれる二双四重の教相判釈を通して、阿弥陀の選択本願によって廻向成就せられた、他力廻向の信心としての金剛心において、その絶対的意義を解明しようとするものである。すなはち、上巻は横超の意義を、下巻は菩提心の意義を明らかにしたものであり、「教行信証」の「信巻」と対応せしめて読まれるべきものであるが、今、「愚禿鈔」(上巻)によって二双四重の教相判釈を示すと、次のごとくである。
この二双四重の教相判釈は、「教行信証」においては、菩提心について立てられ、今の「愚禿鈔」では、頓漸二教の弁別について明かされているが、両者はけっして別のものではないことはいうまでもない。なぜならば、親鸞がそれによって問うているのは、速やかに生死を離れるという出離の要道であり、出離の強縁である。故にそれを可能ならしめる頓教を問うことと、それによって生死を離れる菩提心を問うことは、別のことではあり得ない。故に、善導の要弘二門判、および法然の聖浄二門判を承けて開かれた親鸞における二双四重の教相判釈は、けっして一代仏教の分類組織を目的とするものではなく、あくまでも宗教心の確立という実践的課題の上に成り立つものであることを注意すべきである。ではそれがどのように解明されているか、親鸞の解説に従って、その内容を窺ってゆきたいと思う。
釈迦一代の仏教を権化方便の要門と弥陀の弘願に大別することは、すでに道綽の二門判を承けた善導によって成し遂げられた偉業であった。そしてそれを継承した法然により、一代仏教は、すべて聖道門の中に統摂されることによって、浄土門の独立が開かれたことは、周知のことであろう。そのような善導・法然の仏教観が親鸞においても誤りなく承け伝えられている。このような一代仏教に対する、きわめて大胆な価値批判は、今の二双四重の教相判釈の上にも見出すことができるものである。すなわち、ここでは一応、聖道門について竪超と竪出の立場があることを区別しているが、聖道門仏教においては、むしろ究極の理念を明らかにしたものと見られる竪超の立場も、現実の問題としてそれが捉え直されてくる時、竪出の立場となんら異なるものでないことを指摘し、いずれも、「暦劫迂廻の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心」であることを免れるものではないと、きびしく批判している。
しかし、かかる親鸞の鋭い批判は、ただ単に外なる聖道門仏教に対して向けられたものではなく、むしろそれは浄土門自身の内部に向けて、よりいっそうきびしく展開せられていったことを知らなければならない。それは「信巻」の別序に示された、「定散の自心に迷うて金剛の真心に昏」い、当時の吉水門下の信心の不徹底性に対する歎異の心に促されてのものであったと共に、実に親鸞にとっては、あくまでも自己の内なる問題を照らし出し、きびしくも問いかけてくるものとして受け止められていたのである。
親鸞にとって横超他力とは、けっして固定的に捉えられるものではなく、常にそれは今念々に自力の心を離れしめてゆく働きとしてのみ見出されるものであり、その本願他力をまさしく説き明かした教えとして親鸞によって見出されたものが、「大経」、ことにその本願成就文の意義にほかならなかった。
そのことは、親鸞が「教行信証」の「信巻」において、「横超とは、即ち願成就一実円満の真教、真宗是れ也」と表し、「愚禿鈔」において、「横超とは、選択本願・真実報土・即得往生也」と示していることによっても知られる。それはすでに法然によって、「浄土に往生せんと願ずるを、浄土の菩提心といふ」と表されたものを、さらに徹底してゆこうとするものであるが、願生浄土の心が菩提心であるということは、どうしていい得るのか、またその願生道による菩提心の実践において不退転であることはいかにして可能となるのか、それこそまさしく親鸞が解きあてねばならなかった歴史的課題であったのであり、そのことを充分に解明し得た時、初めて明恵等の批判に対して、浄土真宗の立場からする応答がなされたことになるのである。
では、その問題が、親鸞によっていかに究明されていったか、さらに「教行信証」の「信巻」を中心に窺ってゆきたいと思う。 
[三]
すでに触れたごとく、「教行信証」の「信巻」は、別序に明かされた、当時の聖道門および浄土門における沈迷の二機のありさまを縁として、その問題をあくまでも自己の内面に深く問うてゆくことにより見出したものが、「常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じ難きにあらず」という、人間の側からの仏道の理念を、その根底から覆し転換せしめるような、不可思議の事実にほかならなかった。この言葉は、「歎異抄」第三条に示された、「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という、悪人正機の言葉と、まったく相対するものであるが、それが人間の分別意識をもって捉えられる時、単に逆説として受け止められるごとく、この言葉もまた、選ばれた修道的人間のもつ宗教的意識に立つ限り、逆説としてしか受け取ることのできないものであろう。なぜなら、無上の妙果である涅槃のさとりを証得することこそ、仏教の究極的課題であり、そのためにこそ、自力聖道の菩提心が必要とせられ必須要件とされたのである。そしてその自力聖道の菩提心に生きる菩薩にとってすら、「無上妙果の成じ難し」という事実は、いかんともし難い現前の事実にはほかならなかったのである。それが、菩提心を発し得ない「常没の凡愚、流転の群生」の上に、「無上妙果の成じ難きにあらず」という信心の自覚として成就せられるということは、断じて承認し難い、きわめて無謀な発言として受け取られるのが当然である。そのような常識を破ったいわば非常識なところに安んじて立つということは、けっして容易なことではない。親鸞はそのあり得べからざることが、法然との邂逅において自らの上に起こったという、不可思議の出来事を通して、その常識を破った非常識の世界こそは、真実なる宗教的自覚の世界であることを説き明かしていったのである。
では、その問題をどのような方法論に基づいて解決していったのであろうか。
親鸞はそれを、「教行信証」の「信巻」の別序において、次のごとく明確に提示している。
「爰に愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家釈家の宗義を披閲す、広く三経の光沢を蒙りて、特に一心の華文を開く、且く疑問を至して遂に明証を出だす」
すなわち親鸞が「常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じ難きにあらず」という、根本命題を解明するためにとった方法論は、すでに曇鸞において提示さられた、覈求其本の道にほかならなかったのである。曇鸞が「浄土論註」の下巻において提起した覈求其本という立場は、「何の因縁有ってか、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得と言ふや」という問題を解決するためにとられたものであり、それによって明らかにせられたものが、「阿弥陀如来を増上縁と為す」ということであった。故にそれが菩提心の成就という問題に関わるものであるということはいうまでもないが、親鸞はその曇鸞によって指教せられた立場を継承し、さらにその増上縁を本願力の廻向として解明していったのであり、それが法然の菩提心論を徹底してゆく上において、重要な意義を荷うものであったことを、注意しなければならないであろう。
すでに触れたごとく、法然の菩提心論は、浄土に往生して後に初めて成就するものであり、我々にとっての菩提心は、浄土往生を願う心のほかには求められないというものであった。しかしそれと共に、法然には、菩提心を法蔵菩薩の本願の上に見るという、今ひとつの見方があったことが、注意せられるのであり、それは次に引用する三部経釈の上に明らかにされているものである。
これによってみると、法然の説く浄土の菩提心は、本来法蔵菩薩がその兆載永劫の修行によって成就せられた功徳を、名号によって衆生に廻向せられたものであることを意味するものであったことが知られる。
親鸞の菩提心論が曇鸞によって提起された覈求其本の論理をもって、それをさらに展開していったものであることは、すでに触れたところであるが、その場合、きわめて重要な意義をもつものが、「教行信証」「信巻」の根本主題をなしている三一問答であろう。
周知のごとく三一問答は、世親の「浄土論」の劈頭に示された、純なる願生心としての一心帰命の信心が、我々愚鈍の衆生の上にいかにして成就せられるかを、本願の三信に深く立ち入って、徹底的に究明したものである。
親鸞が三一問答によって明らかにした問題は、愚鈍の衆生の上に開かれる一心帰命の願生心は疑蓋無雑の信楽を体とする如来至心の欲生心が、如来の行である名号を通して廻向成就せられた如来の心であり、「如来よりたまわりたる信心」が「往生の信心」としてそれ自体を自証する心であることを表すことにあったということができるであろう。そしてそれは、宿業の身の根源に誕生した法蔵菩薩が、衆生を自己の内なるものとして荷負し、その流転の人生を修行の場所として、そこに無限に阿弥陀の世界を開いてゆこうとする本願の名告りにほかならないということができるでもあろう。実に親鸞にとっての宗教的実存の確立とは、そのような、「如来我となりて我を救いたもう」というもっとも根源的な出来事を、称名念仏という言葉による宗教的実践を通して、現在の直下に証してゆく身となることを抜きにしてはなかった。曇鸞が「浄土論」の「世尊我一心」の語を解釈して、「天親菩薩自督の詞なり」といっているのも、教えを聞く身において、「如来我となりて我を救いたもう」というその根源的な出来事が、不断に確かめられてゆくことが一心の内景にほかならないことを表そうとするものであったのではなかろうか。
かくて三一問答において、一心帰命という純なる願生心の内面的意義を解明しおわった親鸞は、そこから菩提心論を展開してゆくのであり、そこに「横超とは、斯れ乃ち願力廻向の信楽、是れを願作仏心と曰ふ。願作仏心は即ち是れ横の大菩提心也」という領解が生まれてくるのである。ここに願力廻向の信楽とあるのは、度衆生心を先とする如来の願作仏心によって開かれた心が、度衆生心を内に包んだ願作仏心として衆生の上に発った心であることを表すものと領解することができるであろう。
そこに立って見るなら、三一問答は、菩提心論の前提となるものであり、その究極の課題は、願生心が浄土の大菩提心であることを明らかにすることにあったといっても、けっして誤りではなかろう。
前上、我々の上に発起せられる願生心は、浄土を存在の根源とすることによって開かれた心であり、それ故にまた浄土という真の宗教的世界をこの生死海に投射し反映してゆく心でもあることについて、その一端を考察してきた。実に願生心は、如来の願力によって成就せられた心であると共に、如来の本願そのものの成就を表すものにほかならない。そのことが、「教行信証」「信巻」末巻に、曇鸞の「浄土論」等の語を依用して展開せられた、願成就の転釈の上にも明かされている。
それは、曇鸞の「浄土論」においては、前者は衆生の願生心の意味を、後者は法蔵菩薩の本願の意を明らかにしたものであるが、それが今の親鸞の転釈においては、まったくひとつに統一せられているのである。それは、衆生の上に成就した大菩提心は、如来の大慈悲心を体とするものであり、大慈悲心の廻向成就せる心にほかならないことを表すものである。
かくて、親鸞はそこに、「観経」の第八像観に説かれた文に対する、曇鸞・善導の解釈を引用している。
親鸞がこの引用によって表さんとするものは他力廻向の信心として開かれた願生心の中にのみ、如来の浄土という宗教的世界は信心の内景として開かれるのであって、願生心を離れて如来の浄土が客観的ないしは実体的に捉えられるものではないということにあった。言い換えれば、願生心とは本願によって生じた心であり、本願を生命として本願の根源に向かって生きる心であることを表さんとしたものである。そして、それがあくまでも大行としての念仏によってのみ開かれるとするところに、浄土教の生命がある。 
[四]
前上、親鸞の菩提心論について考察してきたが、それは初めにも述べたごとく、いかにして速やかに生死の迷いを離れるかという、実存の根本問題にかかわるものであった。そして、親鸞がそこで求め見出したものは、聖道門においては、あくまでも生死の迷いを超え離れて生死に随って生きるということが徹底して求められてきたのに対し、むしろ生死の業縁に随いながらその底に生死を超えてゆくという道であり、それが本願力廻向として開かれる横超の菩提心にほかならなかった。故に横超とは、浄土の大菩提心によって開かれる人生観を表わすと理解することができるであろう。そのことを明らかにしたものが、「教行信証」「信巻」末巻の後半に説かれた、横超断四流釈以下の文であると考えられるから、ここではその点を中心に窺ってゆきたいと思う。
この横超釈の中心は、「願成就一実円満之真教、真宗是れ也」という一句を明らかにすることにあり、それはことに、「竪超とは、大乗真実之教也」という立場に対応するものである。すなわち親鸞にとって問題であったのは、大乗真実の教はいかにして真実の宗教となり得るかということであり、その真宗とは、「大願清浄の報土には、品位階次を云わず、一念須臾の頃、速かに疾く無上正真道を超証す」る道にほかならない。その問題に対しては、すでに菩提心論において触れたごとく、たとえ竪超を説く大乗真実の教であっても、それが自力聖道の菩提心を根本とする限り、究極的には竪出の立場となんらかわらないものとなって、真に速やかに生死を離れるという人生の根本問題を解決するものではあり得なかった。親鸞にとっては、この問題を解決するものが、「大経」およびそこに説かれた本願成就文にほかならなかったのであり、ここに我々は、「大経」に立脚する親鸞の仏教史観が、明確に提示せられているのを、見出すことができるであろう。すなわち親鸞にとって、「大経」とは、大乗真実の教を真宗として成就するものであり、本願成就文はそのことを明証する決定的な証言として領解されていたのである。
かくて親鸞は、横超の直道としての真宗を明らかにし終わった後、さらにその本願成就の一心の内景として開かれる人生観について次のごとく述べている。
親鸞によって語られたこれらの言葉はまったく驚くべき言葉であり、信ずるということはいかなることかという、宗教における根本問題に対して、実に端的に語り尽くした言葉であるといわなければならない。我々は、この親鸞によって確証せられた信心の内景を表す言葉の上に、釈尊のさとりの宣言である、「生はすでに尽きた、梵行はすでに終わった、なすべきことはなしおわった、更にこの〔輪廻の〕状態にいたることなし」「わが心の解脱は不動である、これが最後の生である、いまや再有があることがない」という、あの深い感動に充ちた言葉が、親鸞の言葉として見事に再現せられているのを見出すことができる。「涅槃の真因は唯信心を以てす」という、親鸞の根本的立場は、ある意味において原始仏教以来伝統せられてきた、仏教の基本的立場をあらわすものであるが、親鸞にとってそれは同時に、涅槃の証果は、すでにして信心の内面に開かれているということも意味するものであった。それは、信心がまったく願力廻向の信楽であるということの上に、初めて成り立つものである。
ただしかし、親鸞において、信心の正因と涅槃の証果は聖道門における自性唯心のごとく、即一的に結びつくものではなく、それはあくまで即非的に成就するものであった。すなわち、願力廻向の信楽は、内に限りなく自己の罪障性を見る機の深信として、我々の上に成就するものであり、それは往生浄土という自己否定の道を通して、それ自身の真実性を不断に証明してゆくものである。親鸞が、曇鸞や善導の教えに依って、願生心が得生者の情であること、あるいは往生浄土の本質的意味が無生の生にあることを明らかにしたのも、それを表すものにほかならないが、「正定聚に住するが故に、必ず滅度に至る」という、親鸞における不動の確信が、なによりもそれをよく物語っている。なぜなら、正定聚と滅度は、成仏について、それが確定した位と、まさしくそれが成就した位を表すものであって、位としてはただちに同一であるとはいい得ないものであるが、それが信心の自覚において、必至滅度は住正定聚の内容として現在的に見出されてくるのである。
そのことが「教行信証」を初めとする親鸞の数多くの著述に随所に釈明せられていることは、周知のことであろう。
親鸞が、先の「断四流」の釈を受けて、「弟子とは釈迦諸仏の弟子なり、金剛心の行人也。斯の信行に由りて、必ず大涅槃を超証す可きが故に、真の仏弟子と曰ふ」と真の仏弟子について明らかにし、経釈をもってそれを証明した後、さらに次のごとく、その金剛心の行人に開かれる信境を述べているものも、それをよく表している。
ここには、必定の菩薩ともいわれ金剛心の行人ともいわれる念仏者にとって、臨終はまさしく大涅槃を超証する境位として、現在のこの身にたしかに頷かれ、受け止められていくことが深い感動をもって示されている。信心が安心として表されているのも、信心はそのような安心感として成立するものであるからであり、生死を出離するということも、具体的にはかかる信境が現在の身の上に開かれることにほかならないのであろう。「愚禿鈔」においてしめされているのは、それを現在の一念の内景としてさらに明確化せられ徹底されたものであり、親鸞にとりて真の意味で問われるべき臨終とは、「信に死して願に生きる」、その端的のところに捉えられていたことを知らなければならない。
親鸞は、金剛の行人について、便同弥勒と韋提等同という二面から語っている。そこには当時の聖道門仏教に対する真宗の独自性が表明されていることを注意すべきであろう。すなわち堅固不動であり、もっとも明利であることにおいて菩薩の大心とも、また菩薩の最後心ともいわれる等覚の金剛心を窮めた弥勒は、自力聖道門の菩提心に生きる者にとっては、まさにそれが実現せられた理想像を表す象徴的な存在にほかならなかった。そして弥勒が将来釈尊に代わって出現するという信仰は、偉大なる人類の教主である釈尊を失った仏弟子達にとって、無仏の世という危機感の中で深められ、その出現が久しく待望されてきたことは、仏教の歴史がよく物語っているところである。親鸞の当時においても、明恵・解脱等は弥勒兜率信仰の熱烈な信奉者であり、そこに立脚して浄土教を批判したものであったことは周知のごとくである。故に今、親鸞が便同弥勒を語るところには、仏教において長い間、問われてきた歴史的課題に対して答えるという意味がはらまれていたことを、注意しなければならないであろう。しかもその答えは、単に聖道門仏教の理想像である弥勒と、愚者である念仏者とは同じ位置にあるものであることを語るだけに留まるものではなく、五六億七千万年の後、無上覚位を開く弥勒よりも、臨終一念の夕を限りとして大般涅槃を超証する念仏者の歓びがはるかに深いものであることを、暗に表明するものである。親鸞にとって、その自信の深さは、正定聚に住するが故に必ず滅度に至るとこを誓われた阿弥陀の本願の確かさに基づくものであるが、それはただ阿弥陀の本願に誓われてあるということでなく、それが信心の自覚において現証せられた事実であった。すなわちそれは、「横超の金剛心を窮むる」ことによって、そこに自ずから開かれてくる自信にほかならなかったのである。
親鸞はかくて、便同弥勒という立論をもって、聖道門仏教からの批判に対して応答すると共に、念仏者に対しても、人生の尊厳性に対する深い自覚を促し求めていることを知らなければならないであろう。そして親鸞は、その便同弥勒に引き続いて、韋提希と等しく三忍を得ることを示しているが、それは聖者の代表としての弥勒に対し、実業の凡夫としての韋提希の証りを示すことによって、誓願一仏乗としての真宗の立場を明らかにしようとせられたものであったといえよう。そしてそこには、生涯実業の凡夫として生き続ける、そこにそのまま大乗菩薩道が実現せられてゆく道のあることを表そうとする意図が内包せられていたと見るべきであろう。 
[五]
以上、親鸞教学において、きわめて重要な問題でありながら、またそれだけにきわめて難しい問題でもある菩提心論について、主として教相判釈の立場から考察してきた。そこにはなお、幾多の問題がのこされていることと思うが、「教行信証」の「信巻」や「愚禿鈔」において展開せられた親鸞の菩提心論はおそらく次の「高僧和讃」天親章の一首に要約し尽くされるものといってよいであろう。
信心すなはち一心なり一心すなはち金剛心
金剛心は菩提心この心すなはち他力なり
この一首の和讃には、「大経」(信心)、天親(一心)、曇鸞(菩提心)、善導(金剛心)という、他力真宗の伝統が窺われるが、親鸞はその伝統を踏まえながら、あくまでも自己自身の実存を通して、菩提心の問題を徹底的に解明していったのであり、法然から与えられ、聖道門のがわからも応答を促された仏教における歴史的課題に応えてゆく中で、「横超とは、即ち願成就一実円満之真教、真宗是れ也」という立場を、真に獲得することができたのである。それが法然による浄土宗独立という歴史的事業を継承し、さらにそれを展開せしめていった、親鸞による立教開宗の意義にほかならなかったのである。 
 
 
「方便」の義意

 

祖聖の教学における方便論
「真実に裏づけられ、また真実の世界へ導くてだて、衆生利益のための手段」といわれる「方便」が、自利利他の世界を開示する大乗仏教にあって、その中心的位義をもつことは、「論註」(下巻・名義摂対)の明文によっても窺うことができる【1】。それだけにまた具体的義意についても、その用例的側面から進趣・施為・集成の三種方便【2】をはじめ、多義にわたって説かれていることは周知である。 
「化身土の巻」にみられる「方便」の義意
主著「教行信証」「顕浄土方便化身土文類」冒頭の標挙が祖聖の「方便」の義意を的示する。
至心発願之願(邪定聚機双樹林下往生無量寿仏観経之意也)
至心廻向之願(不定聚機難思往生阿弥陀経之意也)
「化身土の巻」に明かす「方便」の根拠が本願―第十九・二十の二願【3】―にある
それは「方便」の内実が、衆生を如去せしめる如来の「御方便」(「末灯紗」【4】)であるということ
進趣方便ではなく如来の「御方便」
もちろん「教行信証」はその名のごとく衆生の行証道を開示するものであるけれども、それがあくまでも如来摂化の現働的内容として明かされるところに、本願力廻向成就の開顕書といわれる所以がある。したがってそこに説かれる「方便」も、構造的にはもとより衆生の行証道からの進趣方便の意味を含むけれども、それが方便としての成立性からは全く如来「御方便」のほかにはない。その意味でいま必然的に第十九・二十の二願がもつ意義が、そのまま「方便」の義意を決定しているといえる。
方便の願と「悲願」との関係性
然就二願海一有レ真有レ仮(「真仏土の巻」【5】)として、如来の四十八願を真仮分相の立場で領解開顕せられたことは、ひたすら恩師法然上人に聞思した第十八の一願該摂の真意への深き沈潜にほかならなかったことはいうまでもないが、第十八の真実之願に対する第十九・二十の「方便之願」(「化の巻」【6】)を按ぜられたことは、ひとえに・・・
「棄ニ雑行一兮帰二本願一」(同上・後序)せしめられた事実から、
→そこに働く「如来広大恩徳」(「真仏土の巻」【5】)へのかぎりなき回帰讃嘆を顕わすもの。
→ここに第十九・二十の二願を「既而有二悲願一」(「化の巻」【6】)と仰ぎ、「既以真仮皆是…大悲願海」(「真仏土の巻【5】)といわれる所以がある。
「悲願」の語は「摂機の慈悲から発された願」という意味であって、もとよりその点からは四十八願全体が「大悲願」(「念仏正信偈」)であるけれども、殊さらに真実五願と並んでこの二願を「悲願」と名づけられていることは【7】、第十九・二十の二願といっても、それを本願する心は如来の真実であり、そこにみる所願の事象―方便の教・行・信・証―はその具体的悲用として理解されねばならぬからである。
第十九・二十の二願が顕わす「方便」義の構造
能願の意辺からは「真実」そのものの自己表現…施造方便の義
所願の事辺からは能願の仏意に帰せしめる「引入」(「観経讃」【8】)相…権仮方便の義
この二義がもとより一方便の二相であるところに方便の立体的意義を思念すべき
施造方便・権仮方便の二義の関わり
初に指摘した進趣・施為・集成の三種方便義は、さらに四種方便に展開しているが、それは前者の第二「施為方便」―ここにいう「施造方便」(「大乗義章」大正蔵四四・七六六)―より「権巧方便」―ここにいう「権仮方便」―を開示して四種となすものであって、その開展的内景を次のごとく説いている。
四つに権巧方便とは、実にこの事なけれども、物に応じて権に現ずる故に方便という、いわく三業の方便をもって化とするなり、これ実智に対して名づけて方便となす、物を利するに則あるを方といい、時に随いて済うを便と名づく、この体すなわち施為の中に於いて出でたるものにて別義なきものなり。
といっているが、これは権仮方便の根拠を施造方便に見据えるものといえるであろう。したがって施造・権仮の二義は決して別なるものではなくて、施造方便がもつ歴史への具体的即応性を権仮方便と説くのであって、施造方便は常に権仮方便において成満するといっていい。
かくて第十九・二十の二願が顕わす「方便」が、施造方便―真実性―を体とした権仮方便―誘引性―であるところに、方便が真実界中のものとして常に真実に始発し、真実に帰着する、まさに真実の具体的悲用として理解されねばならぬ所以が明白である。 
如来自身の自己表現としての方便法身
およそ施造方便義は
施為方便というは、いわく方便善巧波羅蜜多にして、後得智の妙用、能く二利を行ずるに方便と名づく
とあるごとく、それは「无相故能无レ不レ相」(「論註」下・浄入願心【10】)き如来自身の自己表現として「方便」の根本的意義を示すものといえるが、「方便法身」の「方便」は、その義意を端的に語るものとして注目される。
周知のごとく「論註」下巻「浄入願心章」に説く法性・方便の二法身にみる方便の意味的構造は、二法身の関係を的示する「由生・由出」の論理のうえに見てとることができる【10】。
法性法身は「空・無相・無願之法」(「大経」勝行段【11】)として、もとより「いろもなし、かたちもましまさず、しかればこ主ろもおよばず、ことばもたえた」(「唯信文意」)本来在る如来
方便法身は「発ニ斯弘誓一建ニ此願一己一向専レ志荘ニ厳妙土一」(「大経」勝行段【11】)る、まさに「かたちをあらわし、御なをしめ」(「一多文意」【12】)す成る如来
在ることに由って成ることを生起し、成ることに由って在ることを顕出する、実に交互成就の構造をもつものである。 
本覚・始覚と法性法身・方便法身との関係性
この法身によって説いて本覚と名づく。何を以っての故に。本覚の義とは、始覚の義に対して説く。始覚とは即ち本覚に同ずるを以ってなり。本覚の義とは、始覚の義に対して説く。始覚とは即ち本覚に同ずるを以ってなり。
本覚が「本来具有の仏性」、本有性を示すに対し、
始覚は「発心修行によって本覚を開顕する」始成性をさす。
ゆえに本覚は常に始覚によって成就し、始覚はまた本覚によって始覚たりうる、まさに始本不二である。いま始成(有始)の方便法身によって本有(無始)の法性法身が顕在化し、本有の法性法身によって方便法身が成就する。
それゆえに法性・方便の二身は文字通り各法身に「由って」しかありえないあり方、つまり法性は方便に由ってしかありえず、方便また法性に由ってしか存在しえない、全く相依相成的であることによって、これを示すに「一」を用い、「不レ可レ分」という。しかしまた同時にそのあり方が「由って」と示されるかぎり、法性は法性として方便は方便として、おのおのがその存在的意義をもつことにおいては「異」であり、「不レ可レ同」なのである。【10】
真実自身の現実的作用としての「方便」
かくて翻って見るに、法性がそのように自己を表現せんとする契機は、もとより法性自体の智眼に映ずる一切衆生の無明性である。ゆえに「方便」が法性自身の自己否定によって、みずからを無明の「衆生にしらしめたまふ」(「一多文意」【12】)「巧みなはかりごとを設ける」施設造作の義に解される所以である。このことは方便の手段性を示すけれども、それが目的と相互排除的な意味での手段でないことは、次の「和讃」の一首(「曇鷲讃」第二十三首)が的示するところである。
安楽仏国に生ずるは 畢寛成仏の道路にて
无上の方便なりければ 諸仏浄土をすすめけり
もとよりこれは「論註」下巻「善巧摂化章」に「論」の「巧方便廻向」を釈する文の和讃であるが【13】、義を分てば往生は成仏の道路としての手段であり、成仏は目的である。しかしその二者が「若不生者のちかひ」(「讃弥陀偈和讃」【14】)の表現であるかぎり、共に本願海中の絶対的関係態として一にして二、二にして一である点に「无上の方便」と説かれる所以がある。
まことに「真実」は自己を不実の地平に表現しえてこそ真実である。常に不実なるものを「照摂」(「銘文」【15】)することにおいて真実たりうるからである。もしそうでなければ真実といっても単に抽象的概念に止まり、その現実性をもちえない。ゆえに真実の自己表現は、真実自身のかぎりなき現実への作用として、真実の動的あり方を示すものである。したがって最早方便は真実のほかにあるのでもなく、また真実より劣れるものとしてあるのでもなく、どこまでも真実自身の現実的作用として理解されねばならない。
権仮方便としての如来異方便
ここに至って注意すべきは、そのような真実自身の表現としての「方便」性は四十八の願海全体を貫ぬく如来性であって、その点からはもちろん本願に真仮を分つままに共にみな方便(=仮)である。しかしいま願海に真仮を分って「方便」と呼ぶ意味は、全四十八願を包む如来施造方便心の直射的同一的表現に対する屈折的異相的表現を指すのであって、換言すれば能願の仏意と所願の事との同一相に簡ぶ異相態といっていい。
ここに「如来異方便」【16】といわれる所以があるのであって、「異方便」とあるかぎり、それは「同方便」を前提としていることはいうまでもない。同方便とはそれこそいまいう四十八願を一貫する如来大悲の施造方便であって、具体的にはその総即別名の第十八願であることはいうまでもない。ゆえに第十九・二十の「異方便」願は、まさに第十八願(同方便)の具体的活動相として第十八願に裏づけられ、それゆえにまた常に第十八願への帰向性をそれ自体に含むことを顕わしているものである。
さきに「化身土の巻」が顕わす「方便」が、施造方便を体とする権仮方便であるといったのも、全くこの意味にほかならない。かくて「異方便」こそは真実の表現的尖端としてまさしく権仮方便であって、ここに改めてその義意を考察しなければならない。 
衆生の機に応じて変化する仏と土
権仮の意味内容については、「真仏土の巻」終りにみる真仮分判の一連の祖釈のうえに明瞭である。すなわちすでに願海に真仮を分つゆえに
是以復就二仏土一有レ真有レ仮【5】
といい、その
仮之仏土者在レ下応レ知【5】
として、次いで
良仮仏土業因千差土復応二千差一是名二方便化身化土一【5】
と指摘せられているごとく、明らかに「仮」が「化」を内容としてのあり方であることが理解せられる。しかもその「化」は化身土として
皆是酬二報大悲願海一故知報仏土【5】
であり、それは「報身兼レ化」(「真仏土の巻」【17】)る意において、報に対立的な化ではなく、「報中の化」つまり「報の意味内容の深さを示すものであり、仏徳の広大さを顕はすもの」の意味である。
思うに、前引の祖文のうえにも明らかなごとく、「化身土の巻」がその直接性において「真仏土の巻」に由来するということは、化身土(化)が真仏土(報)に根拠をもち、真仏土を体としてあることを顕わすものである。しかも真仏土が化身土への展開的必然性は、すでに一言したごとくどこまでも衆生の現実に応同せんがためであり、「化身土」の名義も「衆生の機に応じて変化する仏と土」と解せられる所以にほかならない。
法蔵菩薩
ここにおいて留意したいのは、方便法身のあり方を開示するものとしての「論註」下巻・讃嘆門釈下の実相・為物の二身である【18】。端的にいって
実相身は果上の阿弥陀仏
為物身は因位法蔵菩薩
といっていいにちがいない。したがって方便法身はその因果両位の相即的動態として、かぎりなく自己を一切衆生に廻向表現せんとする菩薩永劫の修行を措いてその現働相はありえない。その点から
或為ニ長者・居士・豪姓尊貴一或為二利利・国君・転輪聖帝一或為二六欲天主乃至党王一常以ニ四事一供二養恭三敬一切諸仏一如レ是功徳不レ可二称説一【11】
という因位法蔵の勝行中の果報を示す勝果の経説は、まさにいまの「化身」の内景を語るものとして、永劫修行の深層性を思わずにはいられない。その意味で第十九・二十の二願が顕わす弥陀化身の随類行は、第十八願・至心信楽欲生の三心行=永劫修行の徹底的展開として領解されねばならない。かくて法蔵菩薩行の無限の展開的「化」は、まさに「如来異方便」の変異の意味に帰せられる。
すでに「化」が変化であるということは、衆生の機類に随同する如来真実の変異の位相を意味している。しかもそれが「化身土の巻」の主要部分をなす方便の行信証(至心発願の心による修諸功徳の往生、至心廻向の心にもとづく植諸徳本の往生)の位相であることはいうまでもない。ゆえに「異」とはもとより第十八願所誓の真実の行信証(至心信楽の心に依止する乃至十念の往生)に異なる位相の意味であるけれども、それを誓約する願心からは真実の具体的展開として、全く真実中のものであることはもはやいうまでもない。ここに至ってそのように「化」であり、同時に「異」である事相が「仮」と表現せられることの必然的意義も確かめられるのではなかろうか。
仮の意義
思うに、仏教で「仮」といわれる場合、それが
衆因縁生法、我れ即ち是れ空と説く。何となれば、衆縁具足し、和合して而して物は生ず。是の物は衆因縁に属するが故に自性なし。自性なきが故に空なり。空も亦た復た空なり。但だ衆生を引導せんが為の故に、仮名をもって説く。
有と無との二辺を離るるが故に名づけて中道となす
という「中論」の所説からも窺知せられるごとく、現実認識の重要な概念として用いられるものであることは周知である。
したがってそれは「空」に違せざる「有」(空の現実態)として、所詮具体的な現実存在の仮有性を示すと共に、そこには常に仮に即して因縁所生の空に帰すべき不住性とを顕わすものといっていい。いまそれが如来の「仮」であることにおいて、真実の具体的表現としての仮有性と、それゆえに真実への転成性とを意味するものといえよう。
かかる「仮」がもつ意義を開示するものこそ祖聖の三願転入【19】の表白にほかならないが、第十九・二十の二願について
仮令誓願良有レ由哉(「化身土の巻」【19】)
果遂之誓良有レ由哉(同右)
と讃嘆せられていることのうえに、もっともよくそれを窺うことができる。
「仮令」の意義
いま「仮令誓願」と仰がれるのは、仮令臨終来迎の必然性において修諸功徳の願生が念仏往生に転成される必然性を内に顕わしているからである。思うに必定来迎を誓う第十九願は「万善諸行の自善を廻向して浄土を析慕」(「三経文類」【20】)せんとする人間的立場における修道的願生性に応同して、その非を悲とする如来深重の誓願である。ゆえにその非を知らしめる極限的契機として誓う臨終の必定来迎の位相を以って修諸功徳の願生の限界性を気づかしめ、第十八願の念仏往生に帰せしめんとする如来広大の施設である。
「果遂」の意義
一方「果遂」の語も願文の「不果遂者」によることはいうまでもないが、祖聖の第二十願に謝する焦点はまさに植諸徳本による浄土への係念の機に対する「果遂」の一語にあったことを明示している。
したがって古来、この語について浄土異流にみるいわゆる三生果遂の分別【20-2】を中心に種々細論せられてきているけれども、祖聖はこれを文字通り
「ついにはたすべしとなり」(「三経文類」広本・左訓)と訓じ、そこに「しりきのこころにて、みゃうかうを、となへたるをは、ついにはたしとけむとちかひたまふ」(「大経讃」第十六首・左訓【21】)転入の願意を領受して、「ほうしんのさとりを、ひらくみと、うつりい」(同上【21】)らしめる如来の悲心を感戴せられている。
思うに第二十願は修諸功徳の願生の破綻を通して念仏の一行に帰しながらも、無意識裡に「以二本願嘉号一為ニ己善根一」(「化の巻」【22】)という「以下信二罪福一心上願ニ求本願力一【6】」(同上)る自力念仏の自己矛盾性に即して、同じくその非を大悲する如来深重の誓願である。したがってそれは植諸徳本の念仏を誓うことを以って、遂に第十八願の念仏往生(至心信楽の往生)に帰入せしめんとする如来大悲の表現である。
ここに至ってもはや「仮」と表現せられることの必然性も、真実の具体的現働としての「化」=「異」自身の仮有性とそれゆえの真実への転成性とによることは明らかであり、ここに「仮」が「権仮」たる所以を確認せしめられる。
権仮方便の意義
「権」はもと権衡の意であって、そこから転じて権力・権勢・権利、乃至権変・権道の義を見るが、いま「権仮」と熟字することによって「仮」が常に廻向を首とする如来真実の悲用としての権威性・至重性と共に、それゆえの真実に適う「かり」のてだて(権変・権道)として「仮」の向下性・現実性とを詮顕するものといえるであろう。ここに至って
按ニ方便之願一有レ仮有レ真(「化身土の巻」【6】)
就二方便真門誓願一・・・有ニ真実一有二方便一(同右【6】)
といわれていることが、全く仮において真を顕わし、仮に即して真に帰せしめる如来権仮方便の義意的構造を的示するものとして理解される。
かくて
臨終現前の願により釈迦は諸善をことごとく 観経一部にあらはして定散諸機をすすめけり
果遂の願によりてこそ釈迦は善本徳本を 弥陀経にあらはして一乗の機をすすめける
という明快な和讃の語るごとく、かかる仮の願意に直参しえた釈尊の広説性に「観」「小」二経の意義があることはいうまでもない。したがって祖聖は前上の仮願を「真実方便之願」(「化の巻」【6】)といわれるに対し、これを「方便真実之教」(同上【6】)と巧みに次第表現せられている。
「真実方便之願」とは「真実に依る方便の願」の意味であって、既述の真実の具体的表現性にもとづく極めて自然の次第である。
かかる真実方便の悲願に応答する釈尊の教説は、それゆえに必然的に真実に帰せしめる方便真実の次第であって、「観経」に代表される「顕彰隠密」(同上【16】〉の祖霊の釈義はまさにその意を開顕するものにほかならない。 
ここに至って顧みるに「教行信証」を
如来摂化の視点(二廻向門)からすれば、四法真化悉くは本願力の現成態であって、そこに「化」は「至心発願之願・至心廻向之願」の「御方便」として、前述のごとく権仮方便に帰せられるのである。
如来摂化の内容をなす衆生趣入の視座(因果門)からすれば、それは真実の行信によって真実の証果を得しめられる行証道の内景を示すものであって、その場合「化」は「邪定聚機・双樹林下往生・無量寿仏観経之意、不定聚機・難思往生・阿弥陀経之意也」という真実の教行信証に異なる方便の教行信証となり、「真」を際立たせる否定的素材―「仮」「偽」―として徹底的に批判せられるものとなる。
ここに「教行信証」が真仮偽の三重批判の書とせられる所以がある。
真仮偽の三重批判
およそ真仮偽については「信の巻」「真仏弟子釈」に
真言対レ偽対レ仮【23】
として、真仏弟子の内容を明かすことは勿論、さらにその「仮」と「偽」について
言レ仮者即是聖道諸機浄土定散機也【24】
言レ偽者則六十二見九十五種之邪道是也【24】
とおさえられ、ぞれが「教行信証」全体の構造に対応せしめられる釈顕であることは容易に見てとることができる。
「教行信証」の構造
したがってこの点からは前五巻が明かす専修専心の弘願真実に対して、仮は「化身土」本巻に開明される雑修雑心・専修雑心の要・真二門と聖道の諸機を指し、偽は同・末巻に広説する「外教邪偽異執」を意味することはいうまでもない。かくて「教行信証」全六巻は…図という構造において、本願真実の念仏―正定緊之機―を徹底的に究明しているものといえる。したがってこの構造からは「仮」「偽」が「方便」の内容をなしているということであるが、ここに改めて真仮偽の批判の意味するところを推求して、衆生趣入の側面から前上の如来「方便」の具体的内景を確かめたい。
およそ「化身土の巻」において批判せられる「仮」「偽」のあり方は、それが真仮対・真偽対という釈顕の形式からいって、「真」に簡ぶ事象にちがいないけれども、「真」と対立的にどこかに在るものとしてではなく、却って前五巻に明かす能批判の真実の現働的内容性としてあるところに、その実践的意義がなければならない。
すでに先学もこの点「内外対」をめぐって、いわゆる「形内・心外」「形外・心内」「形内・心内」「形外・心外」の四句分別をだて、特に「形内・心外」に内外対の「外」の意味を注意せられていμけれども、何よりも「偽ノ仏弟子」の表現がこれを雄弁に物語っているのではなかろうか。すなわち「偽」が「六十二見九十五種之邪道」であるかぎり、それはどこまでも仏道にあらざる外道であって、それに帰するものは仏弟子ではない。
しかしいまそれが仏弟子視せられるのは、五濁増のしるしにはこの世の道俗ことごとく外儀は仏教のすがたにて内心外道を帰敬せり(「述懐讃」) の事実からにほかならない。
果してそうでなければ、「化身土」末巻に多くの経論釈(二十四部三十七文)を引証せられる意味は見出せなくなるであろう。なぜなら、単に外に「形外・心外」のものを指すのみならば、多くの内典の経論釈を引証せられることも何らそれらとの関係性は成り立たず、ましてやその批判の証権となりうる筈はないからである。しかしこれを引証して外執を批判せられることは、まさしくそれが「形内・心外」の「外」なるがゆえである。
ここに祖聖の批判的精神がどこまでも真実に照射せられた自己批判として、それは如来仏智の批判であることを顕わしている。したがってそこでは、外なる世界は浮き彫りされた自己の世界の投影であり、自己の世界は外なる世界の縮図として、自己への批判は外への批判の態となり、外への批判は自己への批判の厳しさとなる、まさに自他批判一如である。ゆえに真仮偽の問題はその相対批判性からは、真仮偽の三種の仏弟子批判にちがいないけれども、その実践的意義からはそれが真仏弟子の具体的あり方を詮明するものとしての三重批判であるところに、却って真仏弟子の自覚的内景をあらわすものといわねばならない。
ではそこにおける「仮ノ仏弟子・偽ノ仏弟子」の自覚とは何であろうか。ここにおいて留意せしめられるのは「化身土」本巻の要門論の冒頭に見える次の一文である。
然濁世群萌穢悪含識乃出ニ九十五種之邪道一雖レ入二半満権実之法門一真者甚以難実者甚以希偽者甚以多虚者甚以滋。【6】
ここに「虚ナル者」とは仮ノ仏弟子を意味し、「偽ナル者」とせられるのは偽ノ仏弟子を指すことは仮・偽を問う「化身土の巻」の所明性からして明らかであるが、「讃弥陀偈和讃」の「真実」(第二十三首【25】)に対する
まことみとなるみとなるしんはくゐならすけならすくゐはいつはる反へつらふ反しんはかりならすしちはこならずむなしからす
の明快な左訓、及び「行の巻」「愚禿紗」に見る同じく「二機対」下の「実虚対」「真偽対」の判釈は、この間の義をよく示すものとして注目されるであろう。
仮の仏弟子
仮ノ仏弟子の内実が「こ」であり「むなし」という―「唯信文意」にも「虚はむなしといふ」とある―空虚性
をもって指摘せられていることは、「聖道諸機浄土定散機」がもつ観念性を的示せられるものにちがいない。思うに「聖道諸機浄土定散機」とは、理性的存在としての人聞が避けえない理想主義的人間観に基立し、「わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひと」(「一多文意」【26】)として、「念仏をしながら他力をたのまぬ」(同上【26】)事実に、「善悪の宿業をこころえざる」(「歎異抄」第十三条)観念性が指摘されねばならぬのである。
偽ノ仏弟子
一方、偽ノ仏弟子とは「偽」が「いつはる・へつらふ」意味において、常に真を装う欺瞞性として全く似而非なる「形内・心外」のあり方を顕わすものにほかならない。したがってそれは「六十二見九十五種之邪道」に帰する非仏教的外教徒性を指すことにおいて、
所詮外道所有三味皆不レ離ニ見愛我慢之心一貧二著世間名利恭敬一故。
という因果撥無の功利的妄執性に帰せられるであろう。
思うに、仏道に入りつつも、否、帰依仏道においてはじめて浮き彫りされた自己の実相こそ仮・偽の仏弟子相にほかならない。ゆえに「真実」の機とは、どこまでも「虚・偽」なる機を簡非してゆく事実それ自体としてのみ現働する作用性であって、仮・偽の仏弟子の自覚を措いて真ノ仏弟子の誕生はない。
すでに仏道に帰しながら現実的にはいつしか外進化するか、逆にその克服化において観念化するかのいずれかである。すなわち凡夫的堕落化か、二乗的孤高化かである。凡夫は世俗を執して捨てず(偽=外道性)、二乗は世俗を捨てて顧りみず(虚=観念性)、この両極を簡ぴ非としてゆく事実こそ、世俗を捨ててしかも荷負する大乗の菩薩的人間=真ノ仏弟子のすがたでなくてはならない。
偽なる者とは、仏法を捉へ損ってゐるもの、勘違ひしてゐるもの、方向を誤ってゐるものであり、虚なるものとは、抽象的に考へてゐるもの、形式的に捉へてゐるもの、従ってその生命に到ってゐないものである。それは何処から来てゐるか。その人々が常識の立場、世間の立場、人間の立場を依然として持続け、そこから仏法を自分流儀に解してゐるからである。仏法は人道ではなく、正に仏道である。これをあく迄も人間の立場、現世に立脚して解しても、勘違ひ(偽)と、上は滑りの表面の見方(虚)であるより外は仕方がない。
ここに真ノ仏弟子道は、仮・偽なる機を唯一の否定的契機として成立する意味において、かぎりなく仮・偽の仏弟子相への批判を自己の内に展開してゆく道にほかならない。 
まとめ
前上、如来「方便」の具体的内景として真仮偽の三重批判の意義を窺ってきたが、ここに至って顧りみるとき、「方便」を意味する「仮」なる概念が一切の具体的事象の仮有性と、その認識的不住性とを詮顕するものであるということは、それが機においては常に課題的であるということである。
「虚仮」と「権仮」
この点すでに「仮」について、祖典のうえに「虚仮」と「権仮」の二義を見ることができることによって確かめられる。すなわち
「仮」が「虚」に連結すれば「虚仮不実」(「末讃」【27】)の意味と化し、
「権」に接続すれば「方便権仮」(「化の巻」【6】)の意味となる
ことは、「真」「偽」いずれにも転化しうるまさに課題的事象性を示すものである。その意味でここに注目すべきは、次の明快な「和讃」である。
念仏成弘これ真宗万行諸善これ仮門 権実真仮をわかずして自然の浄土をえぞしらぬ
聖道権仮の方便に衆生ひさしくとどまりて 諸有に流転の身とぞなる悲願の一乗帰命せよ
すなわち「諸有に流転の身」となるか、「念仏成仏これ真宗」に値遇するかは、ひとえに「万行諸善これ仮門」にとどまるか、逆にそこに「権実真仮をわかつ」かの一点である。ゆえにそこにあって「仮」を「真」と執取するならば「仮」は虚仮として流転化し、「仮」において「真」の働きを信知するならば「仮」は権仮として真宗に通入すべき要門と転成し、「如来広大恩徳」に永劫回帰せしめられる。ここに権実真仮をわかつ意味がなければならない。
「仮」において「真」の働きを信知するとは、「仮」において如来の無縁大悲の「化」意に触れることであり、それこそは前上の「虚者」(仮)・「偽者」(偽)としてのみずからの機実性の自覚にほかならない。仮・偽が如来「方便」の内容として説かれる所以も、全くここに集約せられるといえるであろう。
かくて「方便」(=仮)は基本的に「真実」の自己表現として「報」(=方便法身=施造方便)であり、それはより具体的な歴史への即応性として、まさに報中の「化」(=方便法身の変化の身=権仮方便)に極まるといわねばならない。ゆえに如来からは「仮=化」としての「方便」義が、衆生の機辺からは真実に転入せしめられる唯一の肝要性として作用する「仮=要」の義となることは、もはやいうまでもないであろう。 
【1】「論註・下巻」
名義摂対とは、向に説く智慧と慈悲と方便との三種の門は、般若を摂取し、般若は方便を摂取す、知るべし。
「般若」といふは、如に達する慧の名なり。「方便」といふは、権に通ずる智の称なり。如に達すればすなはち心行寂滅なり。権に通ずればすなはちつぶさに衆機を省みる。機を省みる智、つぶさに応じてしかも無知なり。寂滅の慧、また無知にしてつぶさに省みる。しかればすなはち智慧と方便とあひ縁じて動じ、あひ縁じて静なり。動の静を失せざることは智慧の功なり。静の動を廃せざることは方便の力なり。このゆゑに智慧と慈悲と方便とは般若を摂取し、般若は方便を摂取す。「知るべし」といふは、いはく、智慧と方便とはこれ菩薩の父母なり。もし智慧と方便とによらずは、菩薩の法、すなはち成就せずと知るべしとなり。なにをもつてのゆゑに。もし智慧なくして衆生のためにする時は、すなはち顛倒に堕す。もし方便なくして法性を観ずる時は、すなはち実際を証す。このゆゑに「知るべし」といふ。
実際 / 真実の際限の意で涅槃の異名。ここでは、声聞乗の究極目的であるところの身心ともに滅する無余涅槃のこと。
【2】進趣・施為・集成
慧遠の「無量寿経義疏」
一に進趣方便なり。見道前七方便等の如く進趣して果に向ふ、故に方便と名づく。
二に施造方便なり。十波羅蜜中、方便波羅蜜の如く、巧みに諸行を修するが故に方便と曰ふ。
三に権巧方便なり。二智中、方便智等の如く、権巧物を摂す、故に方便と名づく。
四に集成方便なり。諸法同体巧に相集成す、故に方便と曰ふ
進趣方便
施為方便(=施造方便)→(権巧方便=)権仮方便
集成方便
六波羅蜜…@布施波羅蜜A持戒波羅蜜(じかいはらみつ)B忍辱波羅蜜C精進波羅蜜D禅定波羅蜜E智慧波羅蜜
十波羅蜜(じゅうはらみつ)上記の6つにあと4項目を加えたもの
F方便波羅蜜(ほうべんはらみつ)人々を教え導くための方便をめぐらすことG願波羅蜜(がんはらみつ)人々を救う誓願を立てることH力波羅蜜(りきはらみつ)現実の是非、正邪を判断して修行を実践、継続することI智波羅蜜(ちはらみつ)ものごとをあるがままに知ること
【3】
設我得仏十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚唯除五逆誹謗正法
(18)たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
設我得仏十方衆生発菩提心修諸功徳至心発願欲生我国臨寿終時仮令不与大衆囲繞現其人前者不取正覚
(19)たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終る時に臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。
設我得仏十方衆生聞我名号係念我国植諸徳本至心廻向欲生我国不果遂者不取正覚
(20)たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ。
【4】「末灯紗」笠間の念仏者の疑ひとはれたる事
この信心をうることは、釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまはりたるとしるべし。しかれば、「諸仏の御をしへをそしることなし。余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしることあるべからず。あはれみをなし、かなしむこころをもつべし」とこそ、聖人(法然)は仰せごとありしか。あなかしこ、あなかしこ。
(以下、追伸として・・)仏恩のふかきことは、懈慢辺地に往生し、疑城胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。仏恩のふかきこと、そのきはもなし。いかにいはんや、真実の報土へ往生して大涅槃のさとりをひらかんこと、仏恩よくよく御案ども候ふべし。これさらに性信坊・親鸞がはからひまうすにはあらず候ふ。ゆめゆめ。
建長七歳乙卯十月三日愚禿親鸞八十三歳これを書く。
【5】「教行信証」「真仏土の巻」・真仮対弁
それ報を案ずれば、如来の願海によりて果成の土を酬報せり。ゆゑに報といふなり。しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。
選択本願の正因によりて、真仏土を成就せり。真仏といふは、「大経」(上)には「無辺光仏・無礙光仏」とのたまへり、また「諸仏中の王なり、光明中の極尊なり」(大阿弥陀経・上)とのたまへり。{以上}「論」(浄土論二九)には「帰命尽十方無礙光如来」といへり。真土といふは、「大経」には「無量光明土」(平等覚経・二)とのたまへり、あるいは「諸智土」(如来会・下)とのたまへり。{以上}「論」(浄土論二九)には「究竟して虚空のごとし、広大にして辺際なし」といふなり。往生といふは、「大経」(上)には「皆受自然虚無之身無極之体」とのたまへり。{以上}「論」(浄土論)には「如来浄華衆正覚華化生」といへり。また「同一念仏無別道故」(論註・下一二〇)といへり。{以上}また「難思議往生」(法事讃・上)といへるこれなり。
仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし、ことに奉持すべきなり。知るべしとなり。 
【6】「教行信証」「化身土の巻」
> つつしんで化身土を顕さば、仏は「無量寿仏観経」の説のごとし、真身観の仏これなり。土は「観経」の浄土これなり。また「菩薩処胎経」等の説のごとし、すなはち懈慢界これなり。また「大無量寿経」の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり。
しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。すでにして悲願います。修諸功徳の願(第十九願)と名づく、また臨終現前の願と名づく、また現前導生の願と名づく、また来迎引接の願と名づく、また至心発願の願と名づくべきなり。
> しかるにいま「大本」(大経)によるに、真実・方便の願を超発す。また「観経」には、方便・真実の教を顕彰す。「小本」(小経)には、ただ真門を開きて方便の善なし。ここをもつて三経の真実は、選択本願を宗とするなり。また三経の方便は、すなはちこれもろもろの善根を修するを要とするなり。これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。
> また問ふ。「大本」(大経)と「観経」の三心と、「小本」(小経)の一心と、一異いかんぞや。答ふ。いま方便真門の誓願について、行あり信あり。また真実あり方便あり。願とはすなはち植諸徳本の願これなり。行とはこれに二種あり。一つには善本、二つには徳本なり。信とはすなはち至心・回向・欲生の心これなり。[二十願なり]機について定あり散あり。往生とはこれ難思往生これなり。仏とはすなはち化身なり。土とはすなはち疑城胎宮これなり。
> それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。真門の方便につきて、善本あり徳本あり。また定専心あり、また散専心あり、また定散雑心あり。雑心とは、大小・凡聖・一切善悪、おのおの助正間雑の心をもつて名号を称念す。まことに教は頓にして根は漸機なり。行は専にして心は間雑す。ゆゑに雑心といふなり。定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。善本とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。ゆゑに善本といふなり。徳本とは如来の徳号なり。この徳号は一声称念するに、至徳成満し衆禍みな転ず、十方三世の徳号の本なり。ゆゑに徳本といふなり。しかればすなはち、釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまふ。阿弥陀如来はもと果遂の誓[この果遂の願とは二十願なり]を発して、諸有の群生海を悲引したまへり。すでにして悲願います。植諸徳本の願と名づく、また係念定生の願と名づく、また不果遂者の願と名づく、また至心回向の願と名づくべきなり。
【7】
教文類一大無量寿経[真実の教浄土真宗]
行文類二諸仏称名の願[浄土真実の行選択本願の行]…十七願…称名の悲願「三経往生文類」
信文類三至心信楽の願[正定聚の機]…十八願…信楽の悲願「三経往生文類」
証文類四必至滅度の願[難思議往生]…十一願…証果の悲願「三経往生文類」
真仏土文類五光明無量の願…十二願…大悲誓願「教行信証」
寿命無量の願…十三願…大悲誓願「教行信証」
化身土文類六至心発願之願[邪定聚機双樹林下往生無量寿仏観経之意也]…十九願
至心廻向之願[不定聚機難思往生阿弥陀経之意也]…二十願
「教行信証」の「悲願」の語は、「行巻」の一乗海釈〜二教二機対の後「悲願はたとへば太虚空のごとし、もろもろの妙功徳広無辺なるがゆゑに。」以外は「化巻」の十九・二十願「すでにして悲願います」の三カ所
「三経往生文類」には、もう一つ、二十二願を「一生補処の悲願」「この悲願は、如来の還相回向の御ちかひなり」と示されているが、その他は以上の8つの願以外に特定して「悲願」とあらわされているものはない
【8】大聖おのおのもろともに凡愚底下のつみひとを逆悪もらさぬ誓願に方便引入せしめけり
【10】「論註」下巻「浄入願心章」
また向に荘厳仏土功徳成就と荘厳仏功徳成就と荘厳菩薩功徳成就とを観察することを説けり。この三種の成就は、願心をもつて荘厳せり、知るべし。
「知るべし」とは、この三種の荘厳成就は、本四十八願等の清浄願心の荘厳したまへるところなるによりて、因浄なるがゆゑに果浄なり。無因と他因の有にはあらざるを知るべしとなり。
略して一法句に入ることを説くがゆゑなり。
上の国土の荘厳十七句と、如来の荘厳八句と、菩薩の荘厳四句とを広となす。一法句に入るを略となす。なんがゆゑぞ広略相入を示現するとなれば、諸仏・菩薩に二種の法身まします。一には法性法身、二には方便法身なり。法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由て法性法身を出す。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同ずべからず。このゆゑに広略相入して、統ぶるに法の名をもつてす。菩薩もし広略相入を知らざれば、すなはち自利利他することあたはざればなり。
一法句といふはいはく、清浄句なり。清浄句といふはいはく、真実智慧無為法身なるがゆゑなり。
この三句は展転して相入す。なんの義によりてか、これを名づけて法となす。清浄をもつてのゆゑなり。なんの義によりてか、名づけて清浄となす。真実智慧無為法身なるをもつてのゆゑなり。「真実智慧」とは、実相の智慧なり。実相は無相なるがゆゑに、真智は無知なり。「無為法身」とは法性身なり。法性は寂滅なるがゆゑに、法身は無相なり。無相のゆゑによく相ならざるはなし。このゆゑに相好荘厳はすなはち法身なり。無知のゆゑによく知らざるはなし。このゆゑに一切種智はすなはち真実の智慧なり。真実をもつて智慧に目くることは、智慧は作にあらず、非作にあらざることを明かすなり。無為をもつて法身を標すことは、法身は色にあらず、非色にあらざることを明かすなり。非を非するは、あに非を非するのよく是ならんや。けだし非を無みする、これを是といふ。みづから是にして待することなきも、また是にあらず。是にあらず、非にあらず、百非の喩へざるところなり。このゆゑに清浄句といふ。「清浄句」とは、真実智慧無為法身をいふなり。 
【11】
仏、阿難に告げたまはく、「法蔵比丘、この頌を説きをはるに、時に応じてあまねく地、六種に震動す。天より妙華を雨らして、もつてその上に散ず。自然の音楽、空中に讃めていはく、〈決定してかならず無上正覚を成るべし〉と。ここにおいて法蔵比丘、かくのごときの大願を具足し修満して、誠諦にして虚しからず。世間に超出して深く寂滅を楽ふ。阿難、時にかの比丘、その仏の所、諸天・魔・梵・竜神八部・大衆のなかにして、この弘誓を発す。この願を建てをはりて、一向に専志して妙土を荘厳す。所修の仏国、恢廓広大にして超勝独妙なり。建立〔せられし仏国は〕常然にして、衰なく変なし。不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植して、欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず。色・声・香・味・触・法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして染・恚・痴なし。三昧常寂にして智慧無礙なり。虚偽諂曲の心あることなし。和顔愛語にして、意を先にして承問す。勇猛精進にして志願倦むことなし。もつぱら清白の法を求めて、もつて群生を恵利す。三宝を恭敬し、師長に奉事す。大荘厳をもつて衆行を具足し、もろもろの衆生をして功徳を成就せしむ。空・無相・無願の法に住して、作なく起なく、法は化のごとしと観じて、粗言の自害と害彼と、彼此ともに害するを遠離し、善語の自利と利人と、人我兼ねて利するを修習す。国を棄て王を捐てて財色を絶ち去け、みづから六波羅蜜を行じ、人を教へて行ぜしむ。無央数劫に功を積み徳を累ぬるに、その生処に随ひて意の所欲にあり。無量の宝蔵、自然に発応し、無数の衆生を教化し安立して、無上正真の道に住せしむ。あるいは長者・居士・豪姓・尊貴となり、あるいは刹利国君・転輪聖帝となり、あるいは六欲天主乃至梵王となりて、つねに四事をもつて一切の諸仏を供養し恭敬したてまつる。かくのごときの功徳、称説すべからず。口気は香潔にして、優鉢羅華のごとし。身のもろもろの毛孔より栴檀香を出す。その香は、あまねく無量の世界に熏ず。容色端正にして相好殊妙なり。その手よりつねに無尽の宝・衣服・飲食・珍妙の華香・&M027888;蓋・幢幡、荘厳の具を出す。かくのごときらの事、もろもろの天人に超えたり。一切の法において自在を得たりき」と。
【12】
この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無礙のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。これを尽十方無礙光仏となづけたてまつれるなり。この如来を、南無不可思議光仏とも申すなり。この如来を、方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり。この如来は光明なり、光明は智慧なり、智慧はひかりのかたちなり。智慧またかたちなければ不可思議光仏と申すなり。この如来、十方微塵世界にみちみちたまへるがゆゑに、無辺光仏と申す。しかれば、世親菩薩(天親)は尽十方無礙光如来となづけたてまつりたまへり。
【13】「論註」下巻「善巧摂化章」
「巧方便」とは、いはく、菩薩願ずらく、おのが智慧の火をもつて一切衆生の煩悩の草木を焼かんに、もし一衆生として成仏せざることあらば、われ作仏せじと。しかるに、かの衆生いまだことごとく成仏せざるに、菩薩すでにみづから成仏す。たとへば火[木偏に添の旁](かてん・木の火ばし)をして一切の草木を摘みて焼きて尽さしめんと欲するに、草木いまだ尽きざるに、火てんすでに尽くるがごとし。その身を後にして、しかも身先だつをもつてのゆゑに巧方便と名づく。このなかに「方便」といふは、いはく、一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜんと作願す。かの仏国はすなはちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり。
【14】
若不生者のちかひゆゑ 信楽まことにときいたり
一念慶喜するひとは 往生かならずさだまりぬ
「讃弥陀仏偈」 / あらゆるもの、阿弥陀の徳号を聞きて、信心歓喜して聞くところを慶び、すなはち一念に曁ぶまで心を至すもの、回向して生ぜんと願ずればみな生ずることを得。ただ五逆と謗正法とを除く。ゆゑにわれ頂礼して往生を願ず。
「教行信証」「信巻」 / あらゆるもの、阿弥陀の徳号を聞きて、信心歓喜して聞くところを慶ばんこと、いまし一念におよぶまでせん。至心のひと、回向したまへり。生ぜんと願ずればみな往くことを得しむただ五逆と謗正法とを除く。ゆゑにわれ頂礼して往生を願ず。
【15】「銘文」
又曰「言護念増上縁者{乃至}但有専念阿弥陀仏衆生彼仏心光常照是人摂護不捨総不論照摂余雑業行者此亦是現生護念増上縁」
「言護念増上縁者」といふは、まことの心をえたる人を、この世にてつねにまもりたまふと申すことばなり。「但有専念阿弥陀仏衆生」といふは、ひとすぢにふたごころなく弥陀仏を念じたてまつると申すなり。「彼仏心光常照是人」といふは、「彼」はかのといふ。「仏心光」は無礙光仏の御こころと申すなり。「常照」はつねにてらすと申す。つねにといふは、ときをきらはず、日をへだてず、ところをわかず、まことの信心ある人をばつねにてらしたまふとなり。てらすといふは、かの仏心のをさめとりたまふとなり。「仏心光」は、
すなはち阿弥陀仏の御こころにをさめたまふとしるべし。「是人」は信心をえたる人なり。つねにまもりたまふと申すは、天魔波旬にやぶられず、悪鬼・悪神にみだられず、摂護不捨したまふゆゑなり。「摂護不捨」といふは、をさめまもりてすてずとなり。「総不論照摂余雑業行者」といふは、「総」はすべてといふ、みなといふ。雑行雑修の人をばすべてみなてらしをさめまもりたまはずとなり。てらしまもりたまはずと申すは、摂取不捨の利益にあづからずとなり。本願の行者にあらざるゆゑなりとしるべし。しかれば、摂護不捨と釈したまはず。「現生護念増上縁」といふは、この世にてまことの信ある人をまもりたまふと申すみことなり。「増上縁」はすぐれたる強縁となり。
「観念法門」 / また護念増上縁といふは、すなはち第十二の観(観経・意)のなかに説きてのたまふがごとし。「もし人ありて、一切の時処、日夜に心を至して弥陀の浄土の二報荘厳を観想し、もしは見、見ざるも、無量寿仏無数の化仏を化作し、観音・大勢至また無数の化身をなして、つねにこの行人の所に来至したまふ」と。またこれ現生護念増上縁なり。
また「観経」(意)の下の文のごとし。「もし人ありて、心を至してつねに阿弥陀仏および二菩薩を念ずれば、観音・勢至つねに行人のために勝友知識となりて随逐影護したまふ」と。これまたこれ現生護念増上縁なり。
また第九の真身観(同・意)に説きてのたまふがごとし。「弥陀仏は金色の身なり。毫相の光明あまねく十方の衆生を照らす。身の毛孔の光またあまねく衆生を照らす。円光またあまねく衆生を照らす。八万四千の相好等の光またあまねく衆生を照らす。また前のごとき身相等の光、一々にあまねく十方世界を照らすに、ただもつぱら阿弥陀仏を念ずる衆生のみありて、かの仏の心光つねにこの人を照らして、摂護して捨てたまはず」と。総じて余の雑業の行者を照摂することを論ぜず。これまたこれ現生護念増上縁なり。
「教行信証」には信巻・真仏弟子釈261と、化巻・三経隠顕〜三心一異の義262とに引用されているが、いずれも「照摂」の語は、「雑行雑修の人をばすべてみなてらしをさめまもりたまはずとなり。てらしまもりたまはずと申すは、摂取不捨の利益にあづからずとなり。本願の行者にあらざるゆゑなりとしるべし。しかれば、摂護不捨と釈したまはず。」の意味で用いられていると思われる。 
【16】「化巻」
問ふ。「大本」(大経)の三心と「観経」の三心と一異いかんぞや。
答ふ。釈家(善導)の意によりて「無量寿仏観経」を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は、自利各別にして利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの「経」(観経)の意なり。すなはちこれ顕の義なり。彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの「経」(観経)の隠彰の義なり。
またいはく(般舟讃七九一)、「定散ともに回して宝国に入れ。すなはちこれ如来の異の方便なり。韋提はすなはちこれ女人の相、貪瞋具足の凡夫の位なり」と。
【17】「真仏土の巻」
光明寺の和尚(善導)いはく(玄義分三二六)、「問うていはく、弥陀の浄国は、はたこれ報なりや、これ化なりとやせんと。答へていはく、これ報にして化にあらず。いかんが知ることを得る。「大乗同性経」に説くがごとし。〈西方の安楽阿弥陀仏は、これ報仏・報土なり〉と。また「無量寿経」(上)にのたまはく、〈法蔵比丘、世饒王仏の所にましまして、菩薩の道を行じたまひし時、四十八願を発して、一々の願にのたまはく、《もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称して、わが国に生ぜんと願ぜん。下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ》〉と。いますでに成仏したまへり、すなはちこれ酬因の身なり。また「観経」のなかに、上輩の三人、命終の時に臨んで、みな〈阿弥陀仏および化仏と与に、この人を来迎す〉とのたまへり。しかるに報身、化を兼ねてともに来りて手を授くと。ゆゑに名づけて〈与〉とす。この文証をもつてのゆゑに、知んぬ、これ報なりと。
【18】「教行信証」「信巻」
「論の註」(下一〇三)にいはく、「〈かの如来の名を称し、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく修行し相応せんと欲ふがゆゑに〉(浄土論)といへり。〈称彼如来名〉といふは、いはく無礙光如来の名を称するなり。〈如彼如来光明智相〉といふは、仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明、十方世界を照らすに障礙あることなし。よく十方衆生の無明の黒闇を除く。日・月・珠光のただ室穴のうちの闇を破するがごときにはあらざるなり。〈如彼名義欲如実修行相応〉といふは、かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。しかるに称名憶念することあれども、無明なほ存して所願を満てざるはいかんとならば、実のごとく修行せざると、名義と相応せざるによるがゆゑなり。いかんが不如実修行と名義と相応せざるとする。いはく、如来はこれ実相の身なり、これ物のための身なりと知らざるなり。
実相身実相(真如)をさとり、自利の徳をそなえた仏身
為物身物は衆生の意。衆生を救う利他の徳をそなえた仏身
【19】「化巻」三心一異問答
おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚(道綽)は「万行」(安楽集・下)といひ、導和尚(善導)は「雑行」(散善義)と称す。感禅師(懐感)は「諸行」(群疑論)といへり。信和尚(源信)は感師により、空聖人(源空)は導和尚によりたまふ。経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。
二経の三心、顕の義によれば異なり、彰の義によれば一なり。三心一異の義、答へをはんぬ。
「化巻」三願転入 / ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるにいまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を&M012624;うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。
【20】「三経往生文類」
観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して浄土を欣慕せしむるなり。しかれば、「無量寿仏観経」には、定善・散善、三福九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。これは他力のなかに自力を宗致としたまへり。このゆゑに観経往生と申すは、これみな方便化土の往生なり。これを双樹林下往生と申すなり。
【20-2】
「浄土宗要集」(第三祖良忠著)に過現門と現未門の二種三生果遂が説かれていますが、過現門とは、過去に植諸徳本し、現世で至心回向し、未来に往生することです。次に現未門とは、現世において植諸徳本し、未来に至心回向し、第三生に往生を遂げることで、過去、現在、未来、または、現在、未来、第三生を経て往生を遂げることが三生果遂なのです。この三生果遂を誓ったのが係念定生の願ということです。わかりやすくいえば、我々凡夫が輪廻転生する中で、遅くとも三回生まれ変わる打内に必ず往生をさせることを誓ったのが係念定生の願です。但し念仏の足りない者に対しては四生、五生もあります。念仏を信じ、称えることで、必ず極楽浄土に生まれることができるのです。 
【21】
定散自力の称名は果遂のちかひに帰してこそしりきのこころにて、みゃうかうを、となへたるをは、ついにはたしとけむとちかひたまふ
をしへざれども自然に真如の門に転入するほうしんのさとりを、ひらくみと、うつりいるとまうすなり。
【22】「化身土の巻」
まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。ゆゑに宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし。業行をなすといへども心に軽慢を生ず。つねに名利と相応するがゆゑに、人我おのづから覆ひて同行・善知識に親近せざるがゆゑに、楽みて雑縁に近づきて往生の正行を自障障他するがゆゑに」といへり。
悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人・一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。
【68】
ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるにいまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を&M012624;うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。
【23】「信巻」真仏弟子釈
「真の仏弟子」(散善義四五七)といふは、真の言は偽に対し仮に対するなり。弟子とは釈迦・諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。この信行によりてかならず大涅槃を超証すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ。
【24】「信巻」仮偽弁釈
仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。ゆゑに光明師(善導)のいはく(般舟讃七二二)、「仏教多門にして八万四なり。まさしく衆生の機、不同なるがためなり」と。またいはく(法事讃・下五四七)、「方便の仮門、等しくして殊なることなし」と。またいはく、「門々不同なるを漸教と名づく。万劫苦行して無生を証す」と。
偽といふは、すなはち六十二見・九十五種の邪道これなり。「涅槃経」(大衆所聞品)にのたまはく、「世尊つねに説きたまはく、〈一切の外は九十五種を学ひて、みな悪道に趣く〉」と。
光明師(善導)のいはく(法事讃・下五七五)、「九十五種みな世を汚す。ただ仏の一道のみ独り清閑なり」と。
【25】「讃弥陀偈和讃」
十方諸有の衆生は 阿弥陀至徳の御名をきき
真実信心いたりなば おほきに所聞を慶喜せん 
【26】
一念多念のあらそひをなすひとをば、異学・別解のひとと申すなり。異学といふは、聖道・外道におもむきて、余行を修し、余仏を念ず、吉日良辰をえらび、占相祭祀をこのむものなり。これは外道なり、これらはひとへに自力をたのむものなり。別解は、念仏をしながら他力をたのまぬなり。別といふは、ひとつなることをふたつにわかちなすことばなり。解はさとるといふ、とくといふことばなり。念仏をしながら自力にさとりなすなり。かるがゆゑに別解といふなり。また助業をこのむもの、これすなはち自力をはげむひとなり。自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。
【27】愚禿悲歎述懐
浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし
権の本字はことごとく擢であるとみて誤りない。手で衡に懸けた錘を左右に動かして、衡を平衡にして称ることである。撞の平衡力の強弱は、称る人の自由であるから、多くの場合強めに称って、それだけごまかして利益をかすめ取るが普通である。ここから擢力(擢の力)を握る意、撞勢(擢の勢い)を自由にする意が生じ、儲ける、利を得る権利(擢の利益)の意が生じた。それのみでなく撞変・権道の意、即ち権とは経に反して然る後善あるなりとあるのがそれである」(加藤常賢「漢字の起原」一一一四一|一一頁)という原意論は興味深い。 
 
親鸞における「時」の問題

 

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」
この有名な言葉には真宗学の門外漢にとっても問題を含んでいる。この論文では「時」という角度で理解を試みたい。その方法は、概念的、観念的会通の態度をさけ、実存的に理解すべき→親鸞自身がそうだから。 
「弥陀の五劫思惟の願」
予定論的解釈
法蔵菩薩が「若不生者不取正覚」云々という誓願を発し、成就された「その時」親鸞の救いが決定された=願成就の「その時」既に親鸞の救いが決定された、とするならば、それはキリスト教的予定論を意味するのか?
親鸞が信心を発したのは、
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。」
にある「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」であり、その時は親鸞自身の決断によって起こるが、その決断はまた、そのまま、仏側から賜った信心であり、本願力回向の信心である。
本願成就と本願力回向は一つであり同時であるから、本願成就のその時に親鸞の救いが決定したことになる。これは予定論とはならないか?
予定論ならば、一種の宗教的なお伽噺、通俗的な神話でしかない。
普遍主義的解釈
例えば「十方衆生至心信楽欲生我国」といわれる「十方衆生」とは、現在「人類」といわれる場合のように、漠然とした衆生全体として=一種の観念的な全体、として仏の眼にうつっていたのであり、親鸞もその人間全体という観念的全体に包含されてのみ見られていたのか?
仏が「国土人天を覩見し」た時、ただ大まかな全体だけを見たのだろうか?
もし仏による救いの決定を昔話とせず、仏が既に前もって決めていたという「予定論」を避けようとすると、ともすればこのような「普遍主義的見方」がでてくる。本願がおおまかな全体を対象にしているかのように考える考え方が支配的になってくる。

しかし歎異抄の言葉は、仏が親鸞を助けようとして願を立てたことを語る。その際の親鸞は鎌倉時代の歴史的現実在としての親鸞である。その親鸞が、仏願が発せられた、その時その場に「そくばくの業をもちける身」として仏の眼前に現在していたのである。
「十方衆生」とは、現実世界と時代のうちに実在する衆生の一人一人の総体である。その一人一人が仏眼に現在する時、「親鸞一人がため」というように唯一人となる。
「国土人天を覩見し」という場合も、現実のあらゆる時と場所に於ける人間一人一人が仏に見られ、それそれの業をもったそのままで仏眼の前に現在していること。それは「予め」「前もって」とかという時間的距たりはない。予定論ではない。また、仏眼に現在しているのは、一人一人の実存的な人間であり、しかもその一人一人が天地に唯一人あるような人間としてある。そこには普遍主義的な見方は全く排除されている。
五劫思惟の眼と成就は、この世の歴史的時間に於けるどの時点から見ても、さらにその時点に先立った出来事である。=本願成就はいかなる過去よりも過去である。
何時生存する衆生=どんな遠い近い過去、遠い近い未来に生存する衆生でも、本願力回向により「念仏もうさんと思い立つ心」が起こるという決断を通して、かの本願成就の時に現在する。弥陀の五劫思惟の願と成就は、衆生にとって、いつも過去なるものとして、何時も現在である。
しかもそれは、時から遊離した意味での「永遠の現在」ではない。むしろ、時におけるあらゆる前後の系列と相即した現在である。例えば親鸞の信心決定の「今」の時と、現在親鸞に導かれ誰かが信心決定した「今」の時には時間的前後がある。しかもその二つの時は同じく本願力回向の時であり、その時に鎌倉時代の親鸞と、現在の信心決定した誰かが同じく本願成就の時と場へ現在する。前後即非前後=時間的前後がが同時というのは逆説であるが、そういう「時」が宗教的実存上に「今」として成立する。

信心という宗教的実存に於いては、時間上先立つものと後のものとの区別が厳然と保たれながら、しかもその全ての時が「かの時」と(即ち何時も過去なるものとして何時も現在である本願成就の時)同時的。
同時性とは=「時と永遠の綜合」=時のうちに於ける「永遠性の原子」(キェルケゴール)=永遠なるものにふれた「時」
そういう同時性が成立するところが「今」=「瞬間」である。瞬間は時のうちにありつつしかも時のうちにない。しかも瞬間は時がそこから生み出される時であり、時の根源としての時である。永遠の切尖(きっさき)が時を破るところにおける時、ともいえるし、時の切尖が永遠を破るところにおける永遠ともいえる。
「この時」(信心決定の今)と「かの時」(本願成就の今)とは同時的。時間的前後においては限りなく距たりながら、しかも同じ「今」である。親鸞の信心が決定した今に、親鸞一人のための本願が成就する。逆に親鸞一人のための本願が成就した今に、親鸞の信心が決定する。その意味で、本願成就の時に、歴史的実在の親鸞の救いが決定した。
この同時性をもたないならば、「かの時」は「この時」ら分離し昔のこととなる。その場合は、神が誰を救済し誰を救済しないかを恣意的に予定した、という考えが生まれてくる。そして「この時」に救われる人間も、その神の予定意志に機械的=必然的に動かされたに過ぎないことになる。しかしそういう予定論においては、救済に於ける神の愛に裁きが雑ざる。しかもその裁きは恣意的であり無理由。それにより神に専制君主的威厳を添えることはできるかもしれないが、神の愛ということは本質的には語れなくなる。宗教的な愛の背景には、神的な恣意と機械的必然的帰結を超えるもの=自然法爾、がなければならない。
→予定論
またこの同時性をもたないならば、分離したまま平面的に結合されるならば、「かの時」は「この時」と結合して現在となる。しかも時を遊離した永遠の現在となる。それは時が単に無差別の相でのみ捉えられることになる。そこでは瞬間は無内容な刹那になる、時の前後連続は意味を失い、時や歴史は永遠の平面で影のような非現実となる。現実は実在性を失い、観念的になり、「この時」の実存に代わり、観想の立場が現れ、「法」とか「性」とかが、個々の生ける人間を離れて抽象的な普遍として見られてくる。
→普遍主義
セーレン・オービエ・キェルケゴール(SorenAabyeKierkegaard/1813-1855)はデンマークの哲学者であり、一般に実存主義の創始者、またはその先駆けと評価されている。
「人間は精神である。だが、精神とは何か。精神とは自己である。だが、自己とは何か。自己とは、自分自身に関係しているところのひとつの関係であり、いいかえれば、その関係における、その関係が自分自身に関係していることである。…人間は無限性と有限性との綜合、時間と永遠なものとの綜合、要するにひとつの綜合なのである。綜合とはふたつのもののあいだの関係である。このように見れば、人間はまだ自己ではない。」
「絶望である事を知らない絶望。言いかえれば、人が自己を、しかも永遠的な自己を持っているという事についての絶望的な無知。」
「絶望とは死にいたる病である。自己の内なるこの病は、永遠に死ぬことであり、死ぬべくして死ねないことである。それは死を死ぬことである。」 
「よくよく案ずればひとえに親鸞一人がためなり」
親鸞が五劫思惟の願について省察した時、彼は、歴史的現実としての現在に於ける自己の信心のうちに立っている。本願力回向において、過去が過去のままで現在の親鸞へ現在し、信心において、親鸞の現在は現在のままで過去へ現在する。本願力はこのような時の同時化の力である。
「よくよく案ずれば」という省察は、信心のうちで本願力に乗託しつつ、即ち同時性に立脚しつつ、本願力回向の源へさかのぼって行くこと。この省察における反省の力も、本願力を原動力とする。この反省は、その原動力によって本願力自身の源を照らし返すこと、その源へ照らし返ること。
「親鸞一人がためなりけり」=親鸞は「十方衆生」の一人。かれの存在は世界史のうちで、特定の時と場所に定位された存在。しかし、「親鸞一人がため」と言われるとき、彼の存在は、歴史的地域的な定位のままで、世界史とその全時間から引き抜かれている。多くの人間との共存の場を透脱し、乾坤唯一人(けんこんゆいつ=天と地。陰と陽。乾(いぬい)と坤(ひつじさる)の方角。に唯一)の場に立っている。その透脱は仏の招喚に応ずること。
親鸞がまず一人になっていて、そこへ既に成就された本願が向けられるのではない。そういう考えは、信心という出来事を世間一般の事件並みに扱うこと。むしろ、本願の成就と回向において、親鸞は「ひとり」というありかたの親鸞にされるのである。「親鸞一人がためなり」という省察は、「ひとり」にされたあり方=実存が、そのあり方自身を自覚して行くことに他ならない。
しかし、そういうあり方も、ある時代ある処で自分の業を担いつつ、煩悩に生きている人間の現実性を離れたものではない。「ひとり」なるあり方も、世界史の上の一つの出来事として、世界のうちに生きる人間において現成する。この世界時間は世俗的な存在の場としての世界と別ではない。
それ故、世間と出世間、真諦と俗諦とは、同時性という形で相即する。真俗二諦の相即は、実存としては、「この時」と「彼の時」との同時性。信心のうちで根源的「時」の現成ということ。弥陀の五劫思惟の願が親鸞一人のためであったという、親鸞の自覚にはそういう同時性としての真俗二諦の相即が実存化している。 
「たすけんとおぼしめしたちける本願」
浄土は、あらゆる時代の衆生にとっていつも未来である。如何なる未来よりも未来。如何なる過去よりも過去に、如何なる未来よりも未来の浄土が建立され、しかも信心決定においてその浄土への往生が決定される。信心決定において浄土は、あくまでも未来でありながら、しかも現在である。。未来と現在という時間的な前後を消すことなしに、未来は現在であり、現在は未来である。
正定聚の位といわれるものは、未来が現在であり、現在が未来であるという同時性の場として、信心決定の瞬間に開かれる。
例えば「心は浄土に遊ぶ」と言われる。現実遊離の観念ではない。如何なる過去よりも過去である本願成就の時に、如何なる未来よりも未来の浄土が建立されたとすれば、そこには過去という時と、未来という時とが、超越的に一つになっている。そのように、過去と現在と未来という三つの時が超越的に一つになる所が、弥陀の当体。親鸞の歴史的現実的現在は、そういう過去と、現在と、未来と、同時である。それが「心は浄土に遊ぶ」
「かたじけなさよ」という感慨で終わっている。それは、あらゆる過去の、未来の、現在の彼方、底から、光明に摂取されている彼の感慨であり、歴史的現実のうちに弥陀のもとにあり、弥陀のもとにあると同時に歴史的現実のうちにある親鸞の境位を表明している。
 
親鸞の教法観

 

一、序
親鸞は、釈尊の教経の中、法然を承けて浄土三経をもって所依の経典と定められたが、就中(なかんずく)「大無量寿経」をもって真実之教と定めた。(教巻)それ真実の教を顕さば、すなはち「大無量寿経」これなり。
ここにただ「大経」のみを挙げ、観・小二経は「化身土文類」の細註に示して、その教義大綱にこの三経を中心として三種の法門を施設せられたことは、恩師法然を伝統しつつ、さらに己証的展開を試みられたもの。
また、三経以外の経典を疎外せられたということではなく、寧ろ他の祖師のいずれよりも一切の経典を尊重せられてあるといえるが、それは常に、「大経」の法義を称揚する立場において諸経を受容せられており、換言すれば一切の大蔵経は「大無量寿経」に統摂せらるるものとして見られるのである。
日渓法林「今宗の学者、大蔵中の三部を学ぶ勿れ、三部中の大蔵を学ぶべし、三部は根本なり、大蔵は枝末なり」
一切大蔵中特に真実教として「大経」を選取し、この中に大蔵の真精神を発見せんとせられた理由はいずれにあるのか?
「教巻」の冒頭に二種の廻向あることを標示し、之を受けてその往相廻向に真実の教行信証あることを宣示せられてある
つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。
行信証が往相廻向のものがらなるのみならず「教」もまた往相廻向のものとせられたことである。蓋し「大経」を真実教とする所以の明証がこの上になされてあると思われる。 
二親鸞の教判論
二双四重の判(竪超・竪出・横超・横出)
一般仏教では、横は常理に合せぬことをいい、竪は常理に合することをいうが、親鸞は真宗独自の意義を開顕し、横とは仏力・他力に名づけられた。
「横」はよこさまといふ、よこさまといふは如来の願力を信ずるゆゑに行者のはからひにあらず、五悪趣を自然にたちすて、四生をはなるるを横といふ。他力とまふすなり、これを横超というふなり。
「即横超截五悪趣」といふは、信心をえつればすなはち横に五悪趣をきるなりとしるべしとなり。「即横超」は、「即」はすなはちといふ、信をうる人はときをへず日をへだてずして正定聚の位に定まるを即といふなり、「横」はよこさまといふ、如来の願力なり、他力を申すなり、「超」はこえてといふ、生死の大海をやすくよこさまに超えて無上大涅槃のさとりをひらくなり。
竪と申すはたたさまと申すことばなり。これは聖道自力の難行道の人なり。
超は超越の義であるが、「銘文」には「超は迂に対することばなり」とある如く、漸次趣入の迂廻の法に対し、速疾に仏果を頓証することを意味する。
出とは出離生死の出であるが、これに頓出と漸出があり、頓出は超のことであるから特にここに出というのは漸出の義である。
横超断四流といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。
この二双四重の教判は、ただに教のみにとどまらず、行(化土巻)・信(信巻本)・証(愚禿鈔)のそれぞれについても批判せられ、能詮の教と所詮の法とについて、二双四重に分判して、その教その法ともに最勝真実なることを明らかにせられた。
行 おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなはち真宗なり。すでに真実行のなかに顕しをはんぬ。
信 しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。また竪についてまた二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。竪超・竪出は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横についてまた二種あり。一つには横超、二つには横出なり。横出とは、正雑・定散、他力のなかの自力の菩提心なり。横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。
証(愚禿鈔) 聖道・浄土の教について、二教あり。一には大乗の教、二には小乗の教なり。大乗教について、二教あり。一には頓教、二には漸教なり。頓教について、また二教・二超あり。二教とは、一には難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。二には易行浄土本願真実の教、「大無量寿経」等なり。二超とは、一には竪超[即身是仏・即身成仏等の証果なり。]二には横超[選択本願・真実報土・即得往生なり。]漸教について、また二教・二出あり。二教とは、一には難行道聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。二には易行道浄土の要門、「無量寿仏観経」の意、定散・三福・九品の教なり。二出とは、一には竪出聖道、歴劫修行の証なり。二には横出浄土、胎宮・辺地・懈慢の往生なり。
とあるものは、その教判論における総論ともいうべく、「化巻本」の門余の釈はそれに対する結論ともいうべきものである。
「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。このことは晩年の撰述なる「愚禿鈔」には、二権二実各立の立場より進みて、横超の一を実とし、余の三を権とし、三権一実廃立して真実教たる弘願真宗のみを唯真実なりとする。
本願一乗は、頓極・頓速・円融・円満の教なれば、絶対不二の教、一実真如の道なりと、知るべし。専がなかの専なり、頓がなかの頓なり、真のなかの真なり、円のなかの円なり。一乗一実は大誓願海なり。[第一希有の行なり。]金剛の真心は、無碍の信海なりと、知るべし。
真仮偽の三重批判
「本典」において、「第六化身土巻」に聖道および定散二善の顕す仮の立場と、別に異端・邪偽の宗教の立場を述べてこの両者を簡非し、この邪偽と権仮の廃に対して前五巻所顕の法は真実法なることを顕すものである。
真の言は偽に対し仮に対するなり。(中略)仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。(中略)偽といふは、すなはち六十二見・九十五種の邪道これなり。
仏教内における教相判釈に止まらず、宗教全体に対する一大批判であるといえる。 
三、廻向法としての大経
「文類聚鈔」「三経往生文類」「如来二種廻向文」は、教を廻向法なりとせず、往相廻向の範囲外に置かれている。
(文類聚鈔)しかるに本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相について大行あり、また浄信あり。
なぜ「教巻」にあっては、「教」もまた往相廻向のものとせられるのか?
教はもと第十七願に誓う諸仏の讃嘆をその体とする、即ち第十七願海出現の法である。而してその所讃を名号行とする。かくの如く教もそのよって来るところを尋ぬれば、願海出現の法であるから、行信証とともに往相廻向に属せしめられたものと考えている。これは教主釈尊をもって第十七願海中の十方無量諸仏の随一なりと見るもので、釈尊の宣説たる教は、釈迦個人主観の投影、描出の類に非ずして、弥陀願海中より出現せるものと見るのであって、かかる見方よりして教をも往相廻向のものがらなりというのである。
「大無量寿経」の説法形式からも推考せられ、「大経」における釈尊は能説の教主たるとともに、一面においては同聞衆(対告衆)の一人でもある。これは教主としての釈尊の挙体、教主たる弥陀なることを現すものであり、いわゆる「融本の釈迦」なるものである。発起序における五徳瑞現、大寂定念仏三昧に入りて説かれたる釈尊の出世本懐などがこのことを物語り、ここに「大無量寿経」は弥陀の直説なりといわるる所以が存するのである。然るに弥陀の直説とは真理の自己名告である。
(教巻)弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。
真理の自己名告であるということが、教それ自体廻向法なることを示すものと窺われたのである。教自体廻向法なりとは、教自体において内面的必然として、外に向かって(一般大衆即ち十方衆生)自ら展開する契機を伏蔵することを物語る。このような見地に立つと、「大無量寿経」には到る所に他力廻向の原理ともいうべきものが説かれてある。「観経」「小経」には隠彰義はともかく顕説には説かれてない。
(発起序)恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり(重誓偈)衆のために法蔵を開きて、広く功徳の宝を施せん(勝行段)もろもろの衆生をして功徳を成就せしむ
(愚禿鈔)ただ阿弥陀如来の選択本願(第十八願)を除きて以外の、大小・権実・顕密の諸教は、みなこれ難行道、聖道門なり。また易行道、浄土門の教は、これを浄土回向発願自力方便の仮門といふなりと、知るべし。 
四、観経・小経との関係
三経差別門
大・観・小の三経を真実と方便との差別の面に据して、それぞれの立場と特殊性とを開顕して、相関関連において浄土真宗を形成する趣を示すもの。
六三法門
三経 / 観経・小経・大経
三願 / 19願・20願・18願
三門 / 要門・真門・弘願門
三蔵 / 福徳蔵・功徳蔵・福智蔵
三機 / 邪定聚の機・不定聚の機・正定聚の機
三往生 / 双樹林下往生・難思往生・難思議往生
(化身土巻・三願転入)ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要をひろうて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。
三経一致門
三経一意門
観・小両経の隠意をもって大経に対望すれば、三経の所明はいずれも本願他力真実なる念仏の一路を指教せる。
三経相成門
「教行信証」は主として三経差別門に立場を置いて法義を建立されたものであるが、その内面的な意義においてはもとより三経一致門の立場を排除するものではない。寧ろ三経一致の精神を背景として、三経差別門の基盤に樹立さられ体系化されたものこそ「顕浄土真実教行証文類」の組織に外ならぬ。
 
親鸞の『悪人正機』で悪人はなぜ救済されるのか

 

他力本願の“浄土門”と自力救済の“聖道門”
人間の行為の善悪を相対化する仏教思想として、最も有名なものが親鸞の『悪人正機(あくにんしょうき)』であるが、善人以上に悪人のほうが極楽往生する資格を持つという思想の本質は『徹底した他力本願の衆生救済』である。『阿弥陀信仰』は一神教の全知全能の神への信仰に近似した部分があり、阿弥陀仏(阿弥陀如来)は苦しみ悩むあらゆる衆生を救済しようと決意した『絶対的な本願』を持つと仮定されている。あらゆる衆生を浄土に導く阿弥陀仏の前では、人間的(法律的・道徳的)な善悪の分別などは意味を持たず、阿弥陀仏は自身の本願を信じて念仏を唱えるすべての衆生を分け隔てなく浄土へと導くとする。
生前の行為を審判して、善行に励んだ善人だから『天国』に行き、悪事を犯した悪人だから『地獄』に落ちるというような分かりやすい道徳規範を反映した教義ではないところに浄土真宗の独自性がある。自力本願(自助努力)で悟りや救済を求めようとする『善人』でさえも、煩悩具足の『悪人』に過ぎないと言うような解釈も成り立つが、人間の努力や善行のレベルによって『救済の可能性』が決まるとすれば、完全な阿弥陀仏の本願が不完全な人間の行為によって相対化してしまうという教義上の矛盾が生じる。
スイスのジャン・カルヴァンが唱導したプロテスタンティズムの『予定説』にも、人間の努力や善行によって神による最後の審判の結果は左右されることがないという考え方があり、天国か地獄かを決めるすべての権限は創造主の神にあるというわけである。阿弥陀仏は一神教的な神さまではないが、『衆生救済の本願』は絶対的なものであり、阿弥陀仏の力を信じる限りにおいて(念仏を唱える限りにおいて)、生前の善悪の行為を問わずに例外なくすべての衆生は浄土に行けるとしている。
また、世俗の誰もが見捨てて懲罰しようとするようなどうしようもない悪人を『仏教(宗教)』が無慈悲に見捨てるのであれば、浄土信仰の持つ『万人救済の固有の価値』は失われてしまうという問題も出てくる。つまり、『悪人・犯罪者は厳しく処罰すべし』ということで宗教世界と世俗社会の判断基準が完全に同一化してしまえば、宗教独自の存在価値はかなり落ちてしまうことになる。
こういった『普遍的な赦し・寛容の思想』はキリスト教の信徒に対する態度(告白・懺悔の受け容れ)にも見られるが、世俗の人間(社会)から憎悪され断罪されて居場所がなくなった悪人でも、“普遍的平等性・博愛性”を掲げる宗教信仰の中には『寛容な赦しや精神的な救済の可能性』が残されていると考えることができる。極悪人と社会から指弾される人間や圧倒的な絶望(苦痛)に打ちひしがれる人間も含めて、あらゆる人間の精神の『最後の拠り所』として機能しなければ世界宗教としての役割を果たすことは難しいし、信徒に対する『普遍的平等性』が無ければ多くの支持・信仰を集めることはできないだろう。
『善人』であろうとして善行に努めることは人間として尊いことであるが、人間の善悪の基準や煩悩の抑制は不完全なものであり、あらゆる『善行』はその根底に自我意識という『悪行』の素因を内在していると親鸞は考えた。自らが『善人』であると自覚した途端に『悪人』へ転落するという欲望否定(自我否定)の人間観は、キリスト教の『原罪』を抱えた人間像とも共通しているが、『浄土思想(阿弥陀信仰)』に見るような極端な他力本願は、釈迦(仏陀)の説いた教えとはかなり異なっているように思える。
無論、仏教の開祖である釈迦の教え・実践だけが『唯一の正しい教え』であるというわけではなく、釈迦以後の仏教の理論や実践の展開も重視する必要があるし、それぞれの宗派の考え方や実践法にも『釈迦の原理的な説法』にはないそれぞれの良さが付け加えられている。釈迦は確かに無闇に自分を痛めつけるだけの『難行苦行の功徳』は否定したが、自分を世俗の欲望や無明(無知)の境地から遠ざけるための自助努力(自己救済)や修行による解脱(悟り)のプロセスにはかなり肯定的だった。
釈迦は人間の存在や人生から『苦』を取り除くためにはどうすれば良いのかを、原理的に突き詰めて実践した人物であるが、釈迦の思想は『他力本願の救済』や『超越的な神への帰依』とはほとんど重なってこない。学問や修行を何もしなくても戒律を守らず煩悩のままに生きても、死後にはすべての人が極楽往生するというような考え方は見られないし、釈迦の説く『輪廻転生からの解脱』は『浄土信仰による阿弥陀仏の救済』とは似て非なるものである。釈迦は因果応報の業(カルマ)を説くので、『行為の善悪』を必ずしも相対化しておらず、業によって永遠に生まれ変わりを繰り返すという古代インドの輪廻転生(サンサーラ)の伝統思想も『行為の善悪』の大切さを示唆している。
阿弥陀信仰に代表される『浄土門』を通る衆生救済は、釈迦(仏陀)が実践した『聖道門(しょうどうもん)』の個人の悟りとは異なるものであり、戒律を無効化する天台宗の本覚思想・円戒というのも、人間の苦を滅却する『四諦・八正道』の認識・実践に反している。天台宗の円戒の設立は、『法律(法)』を『マナー』へと格下げしたようなもので、戒律(具足戒)の持っていた『強制的な拘束力・懲罰効果』を喪失させることで『仏教信仰の垣根』を何段階も低くしたのだが、釈迦は煩悩(欲求)を捨て去った涅槃(完全なる静寂)に仏陀としての境地を見出している。
釈迦がクシナガラで入滅した後に発展したアジア各地におけるさまざまな仏教宗派の思想・実践を考えると『仏教の本質』はかなり曖昧になってくるのだが、釈迦の教えは『解脱・悟り・涅槃(人間の生にまつわる苦の完全な消滅)』を目的とするかなりシンプルなものである。“悟り”とは縁起(因縁生起)と四諦に基づく諸行無常の真理に気づくこと、“解脱”とは煩悩(執着)と輪廻を抜け出して自由無碍の境地を得ること、“涅槃(ニルヴァーナ)”とはあらゆる煩悩(執着)の炎が吹き消された絶対静寂・完全な平静の境地のことである。 
 
親鸞の浄土真宗と悪人正機の思想

 

自力本願の功徳から他力本願の救済への転換
浄土真宗の祖である親鸞(1173-1263)は、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の作成(1243)によって真宗を立教開宗したとされますが、親鸞の時代には独立した宗教教団としての体制を十分に整えておらず、親鸞自身には旧仏教を否定する新宗派を開設する意志はなかったともいいます。しかし、数十万人以上の規模に信徒数を増やした浄土真宗は、親鸞の死後に親鸞の子孫(覚如)と高弟との間で利害対立が起きて、蓮如登場以前の真宗は分裂状態(仏光寺派・三門徒派・専修寺派など)にありました。
法然や親鸞、一遍、日蓮ら鎌倉仏教の開祖たちは日本の大乗仏教の特異的発展に大きな働きをしましたが、『仏教の一般大衆化』へもっとも大きな貢献をしたのは親鸞の悪人正機の教えでしょう。親鸞は、『学問・苦行・戒律・伽藍(建築)としての仏教』を批判的に乗り越えていく中で、古代仏教の悟り(解脱)のエッセンスであった『自力救済(自力本願)につながる善行の功徳』を否定しました。『仏教の善行』となる学問や修行、禁欲を自力で積み重ねた者のみが一切の苦悩を克服した『悟り』に至るというのは、伝統仏教が重視した『聖道門(しょうどうもん)の道』です。
しかし、法然や親鸞の浄土信仰が重視したのは、阿弥陀仏(阿弥陀如来)の無限の本願(慈悲)をただひたすら信じて称名念仏することで救われるという『浄土門の道』でした。浄土門の道で悟りを開く為には、『自力本願の修行』をするのではなく『他力本願の信仰』にただひたすら専心しなくてはならないと説きました。なぜなら、極楽往生への救いを実現する阿弥陀仏は、その人が賢明であるか愚鈍であるかなどは全く意に介さず、その人が修行や学問をし続けていようといまいと、阿弥陀仏の本願の慈悲を信じて念仏を唱えていさえすればすべての人を救済してくれると前提されていたからです。
親鸞は、阿弥陀仏の広大無辺な衆生救済の本願(慈悲)を本心から信じて『南無阿弥陀仏』という念仏を唱えることを『信心決定(しんじんけつじょう)』と呼び、信心決定した念仏者はそのまま弥勒菩薩など諸仏と同じ地位に立つと述べました。阿弥陀仏は末法の世における唯一の救済者ということで、全知全能の一神教の神になぞらえられることがありますが、浄土真宗の加入儀礼である『信心決定』も、キリスト教の洗礼やイスラム教の信仰告白(シャハーダ)に少し類似した部分が感じられて興味深いものがあります。
また、念仏信仰というと、いつも折りに触れて『南無阿弥陀仏』と称名しなければならないイメージがありますが、親鸞はいったん信心決定して念仏を一回唱えれば、その後に繰り返し阿弥陀仏の救いを願う念仏を唱える必要はないとしています。繰り返し何度も唱える念仏は『余った念仏』に過ぎず、念仏を多く唱えたからといって利益もなければ害悪もないのですが、親鸞は余った念仏は、『衆生への念仏布教(布教が阿弥陀仏への報恩になる)』に振り向けるように説いています。念仏布教が阿弥陀仏の慈悲に対する現実的な謝恩の形となり、浄土真宗は戦国時代末期に至るまで各宗派を凌ぐ圧倒的な大勢力を形成していくことになります。
親鸞は、『自力本願の善行の功徳』から『他力本願の阿弥陀仏の救済』へと仏教をパラダイムシフトして、唯円の『歎異抄』に記された「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の悪人正機説によって、阿弥陀仏の本願による救済対象が「善人・賢者」ではなく「悪人・愚者」であることを示しました。浄土真宗の他力本願や悪人正機は、『何も努力しない依存的な人や、進んで悪事を働く悪い人が優先して救済される』というような誤解をされることもありますが、他力本願とは厳しい学問や修行によって自力救済が不可能な一般人の解脱(悟り)の道筋を示したものであり、悪人正機は、煩悩(欲望)を消し去れない「人間の原罪的な部分」に自覚的な人を指して「悪人」と呼んでいるに過ぎません。
阿弥陀仏の寛容な本願が、善悪の区別なく衆生を悟りに導き、極楽往生を約束するというのは確かですが、親鸞は称名念仏には「自己の救済」だけでなく「阿弥陀仏への報恩(感謝)の心」も入っていると説きますから、信心決定した念仏者が、自分から進んで悪事を働いたり他人から奪い取るということは考えられないのです。無論、実際には、悪事や乱暴を働く真宗の信者も多かったですし、信仰擁護のための一向一揆や宗教戦争も多くありましたが、理論的な建前としては、浄土真宗の教義が『敢えて悪人になること(悪事を働いても、どうせ極楽往生できると開き直ること)』を勧めているわけではありません。
次で、親鸞の他力本願(仏性論)の信仰のあり方に内在する平等思想についてもう少し補足しようと思いますが、浄土三部教を根本に置く仏教思想は『阿弥陀仏の下の万民平等』を説くという意味で、一神教的な世俗階層(身分制度)を無効化する魅力を持っていました。つまり、阿弥陀信仰やキリスト信仰に通底する精神作用として、世俗の身分秩序による劣等コンプレックスの破壊があり、自尊心を高める『宗教的な自己規定(究極的に神仏が背後に居て自分個人を見守ってくれるという意識)』を下層階級に伝播するという力がありました。 
幸福追求の自助努力へとつなぐ専修念仏
善人とは、学問・修行・禁欲・利他的な行動などの『意図的な功徳(くどく)』を積んで阿弥陀仏の救済の本願(慈悲)をさらに確実にしようとする者のことです。親鸞は阿弥陀仏の本願は『至上・最大の効果』をもっており、自力本願の功徳によって救済の可能性を上げる必要性などはないと教えました。阿弥陀仏が衆生救済をする無限の慈悲の力は絶対不変であるから、一度、念仏信仰を信心決定すれば必ず救われるし例外はまったくないというわけです。親鸞は、自分も含む『煩悩具足(煩悩を克服できない人)の衆生=悪人』には善人(仏教的エリート)になることは元々不可能であるから、阿弥陀仏の本願を信じて念仏を唱えさえすれば、最終的に輪廻から解脱して極楽往生することが出来ると説いたのでした。
悪人とは、自ら進んで悪行を犯して恥じないというような人ではなく、『自らが煩悩(欲望)に打ち負かされて、道徳的・社会的に好ましくない行動をしてしまう可能性』に自覚的である人のことですから、よほど達観した禁欲主義を身に付けた善人でない限りは、悪人のカテゴリーに含まれることになります。他力本願にしても『自助努力を完全に放棄して、何もせずに幸福になることを祈る態度(他人や神仏に問題の成否を全面的に依存する態度)』というような誤解が現代では為されやすいですが、親鸞の語る他力本願というのは、『煩悩具足の衆生(煩悩を捨てられない大多数の人間)』の自己努力(善行の功徳)が到底及ばない問題に対してのみ『阿弥陀如来の本願の慈悲』の力を借りようというものです。
煩悩具足の凡夫(凡人たる一般人)がどんなに努力しても絶対に達成できないであろう課題というのは、『輪廻(宿業)からの解脱』や『死後の極楽往生』のことであり、阿弥陀仏の本願は『奇跡的な現世利益』は一切もたらしませんから、各人の日常生活においては自己責任を通して力強く生きていかなければならないと解釈できます。つまり、阿弥陀仏の本願(救済)に他力本願ですがりきるといっても、『何もせずに安楽で幸せな生活が手に入る(奇跡的な恩恵が突如もたらされる)』というような現世利益的な他力本願ではまったくなく、他力本願の念仏信仰とはそれとは反対に『幸福追求の自助努力』へと向かわせるための教えでした。
何故ならば、30年にもわたって伝統仏教の修行と学問に励んだ結果、『自分には何も為す力もなく、誰も自分を救うことは出来ない』という深い絶望と無力感に陥った親鸞自身が、『何もせずに望んだ結果が手に入るというような神仏のご利益』などは存在しないことを強く実感していたからでした。本当に人々が現世で幸福になりたいのであれば、個人個人が自分の人生に自信をもち、自分の行動に覚悟をもつしかないのであり、親鸞の浄土真宗はそれまで全く無力で柔順であった農民(被統治者)に『自信に満ち溢れた自意識(救済されることが決定した者のアイデンティティ)』を与えることに成功しました。
浄土真宗は、基本的に貧しい農民の大衆宗教であり、名主・地頭・領主といった武士階級(豪農を含む支配者階級)から度々弾圧されましたが、弾圧の大きな理由は、それまで無力で自虐的だった農民に『宗教的エリートとしての自意識』を与え、貧しい農民の集団結集力を強めて『大規模な一揆のリスク』を高めたからでした。武士や公家(領主)が農民を効率的に支配するためには農民を無力な状態に留め、農民同士の連帯や組織化を禁圧する必要がありましたが、浄土真宗の念仏信仰は正に『自意識に目覚めた農民の組織化(教団化)』を推し進めました。また、農民の浄土真宗教団への自主的な寄付によって、名主や地頭への納税が無視されるなどの事態も、支配階層の浄土真宗に対する敵意や警戒を強めることになりました。
浄土真宗の秘めていた可能性と危険性とは、西欧社会(キリスト教文明圏)における『市民階層の自意識の目覚め』にも通底する部分があったように感じますが、それは『絶対的な力を持つ神仏を前にすれば、人間個々人の身分や実力の差は無に等しいという平等意識』に根ざしたものでした。浄土真宗の巨大化以前には、政治権力に対して全く無力であると感じ、支配階層に搾取されるだけだった農民たちに、集団結社を組織して抵抗すれば武士勢力と対等に渡り合うことも出来るという自信と覚悟を与えたところに真宗の平等思想の影響がありました。
浄土真宗の教義から考えても、親鸞は『貴族・武士・富農・貧農・漁師のような身分の別』は宿業の結果であり、阿弥陀仏の本願によって宿業の輪廻は無効になると説いたのですから、そこには『封建主義社会の身分制度の根底』をひっくり返すラディカルな平等主義の思想が胚胎していたのです。西欧社会において、キリスト教の『神の下の万民の平等』が、市民意識の誕生や民主主義の理念に大きな影響を与えたように、浄土真宗の『阿弥陀仏の下の万民の平等』も、中世日本において時代を根本から変革する潜在的な可能性を秘めていたと解釈する事も出来ます。
もちろん、親鸞自身は、来世(極楽浄土)において『身分を規定する宿業』は無効化すると説いたのであり、現世における『身分制の宿業の転換(封建主義社会の転覆)』を支持するほどに先進的な思想を持っていたわけではありませんでした。15世紀以降に、石山本願寺において実力を蓄えた浄土真宗は、次第に戦国大名の軍事勢力と衝突するようになり、武力と経済力、信徒動員数が最大になった門主・本願寺顕如の時代に、戦国の英傑・織田信長と11年にも及ぶ全面戦争へと突入しました。顕如率いる本願寺の勢力は、織田信長との石山合戦(石山戦争, 1570-1580)に敗れて石山本願寺は炎上消失しました。
この敗戦以降、浄土真宗の勢力は縮小していき、身分の低い一般民衆(農民・町民)に政治的な野心や希望を抱かせるような宗教が日本で力を持つことはなくなり、封建的な身分制がより固定・強化される徳川家康の江戸幕府の時代が幕を開けることになったのでした。
日本は、近代化の過程において西欧諸国(イギリス・フランス)のような流血の惨禍となる『市民革命』を経験することがありませんでしたが、その遠因の一つとして、市民意識や平等思想の形成に寄与する宗教勢力(平等思想に根ざして階級闘争的な封建体制の転覆を図る勢力)が、織田信長・豊臣秀吉・徳川幕府によって再起できない(富や力を蓄積できない)ほどに激しく叩かれたということがあるかもしれません。それは、政治と宗教を厳しく分離するという意味で『日本の政教分離の近代化』に貢献し、現代日本における『宗教心の欠如(宗教規範によって行動が束縛されない自由)』が世界的にも極めて特異的な相対主義の日本文化を準備したとも言えます。
むろん、宗教に心や行動を縛られないことと、宗教そのものに無関心で無知であることとは違いますから、宗教を信仰しないからといってカルト宗教に騙され難いとは言えないことに注意が必要です。親鸞聖人の他力本願の思想を、現代的な非宗教的価値観にアレンジすると、『お手軽な現世利益の効果は宗教にはない』ということであり、『自分の意志や努力で解決できないものに執着しないのが良い(人事を尽くして天命を待つ)』ということでしょうか。何か一つの価値観や信念を信じることは人間を強くしますが、時に、生きている人間に対する残酷さ(融通の効かない原則主義者)をも生み出します。唯一無二の視点や価値基軸の奴隷になるのではなく、それを自己の心の支えや自信として柔軟さを忘れずに『自分にとって大切な何か』を信じていければいいなと感じました。 
 
限りない慈悲の約束 現代に生きる浄土真宗

 

第1章 私自身の見方
欧米人は、大抵禅仏教の事を聞いた事がありますが、これは、その研究に大きく貢献した鈴木大拙氏の著述によってアメリカで有名になったからです。 氏は、親鸞聖人(一一七三〜一二六二年)の教えに深い興味を持っておりましたが、聖人の浄土真宗を広めようとはされませんでした。その結果、浄土真宗(大乗仏教)は過去一世紀でアメリカで最も知られていない秘密になっていました。 
日本でよく知られている伝統のひとつである浄土真宗は、日本の鎌倉仏教の指導者の一人として、八百年前の日本の仏教に、新しい力と深さをもたらした親鸞聖人の教えに基いた仏教です。十九世紀の後半、浄土真宗は、日本の契約労働者の移住と共にかつてのハワイ王国にもたらされました。日本で、この宗教的運動が起こった中心地は、昔の京都と、近くの比叡山上の天台宗仏教寺院でした。
その教えによって大乗仏教を、はっきりとした形で新しく展開させられた親鸞聖人は、二九歳の時に、比叡山上の寺院での出家生活から抜け出し、京都の町へ下られました。寺院での二十年間の激しい実践および研鑚の日々を過ごされた後、当時まったく挫折感を味わられた聖人は、その生活を捨てられました。それで、早急に自身の人生に意味を見出し、生死について気持ちを整理しなければならないと感ぜられたのです。
ご自身の探求に基づいた著述が、相当な数残存していますが、その中で、親鸞聖人は、八世紀のへだたりを乗り越え、我々近代人に話しかけられています。自我の欲の為に起こる孤立感の問題及び自己欺瞞の壁のことに触れられ、私たちすべてに深い教えとなるように、ご自身の持つ恐れ、孤独感および悩み事について書かれています。善悪および私たち自身について、新しい見方から、話されていますので、この二一世紀において、私達は、聖人の真宗仏教の教えから、この人生の意味および精神性の深さについて新しい見方を学び続けます。
近代実存主義の予言者であるジャン・ポール・サルトルは、人生は不合理なものと見なして、絶望の中に果てましたが、親鸞聖人は絶望から始まっても、サルトルと異なり、ご自身の中に不合理な点、および自分が自分を騙し、悪を受け入れてしまう可能性があると認められたのです。仏教の浄土教伝統の阿弥陀仏陀の無限の慈悲を理解することで、聖人は、実の人生の意味と、その結果必然的に起こる精神的な幅と深さを見出されたのです。
阿弥陀仏(あるいは梵語のアミターバ=無量光仏、アミタユス=無量寿仏)は、無限の命と光の仏陀を表す浄土大乗仏教の伝統の象徴で、我々の精神を解放し、生命をありのままに(つまり、自己を騙す自我と言う障壁を乗り越えて)確かめさせて下さいます。そして、阿弥陀仏は、普く慈悲の心で生きとし生けるものをすべて抱き、総てを受け入れて下される教えとして実在しています。しかしながら、私たちが、ありのままの人間として、阿弥陀さまの条件をつけないお慈悲と知恵によって包まれていると、心から確信する時に始めて、阿弥陀仏は、私達一人一人の心の中に、現実におられることになるのです。
ヘルマン・ヘッセが、彼の有名な小説「シッダータ」の中で教えてくれた様に、結局、私たちはすべて、自分から人生の真実が何であるかを学ばなければなりません。私たちはそれを人から受け継いだり、借りたりすることができません。家族や友達はこの道を歩む私たちを助けて呉れるかも知れませんが、真実との出会いは、実際には、私たち一人一人が達成するものです。親鸞聖人は、自分が阿弥陀さまの慈悲に包まれているのを実感されてから、自分の人生で何が真実で本当であるかは、「面々の御はからいなり」(決定するのはあなた方ですよ。)と、質問した人たちに、はっきりと述べておられ、聖人は其の時、自分をさらけ出し、自分で実感した見方を明示されています。
仏教には、自分を教えてくれるよい友達を意味する、善知識(梵語。 カリアナミトラ)と言う理想的な考えがありますが、この本では、この考えで、親鸞聖人、浄土真宗および現代の生活および宗教の問題を解明します。筆者の役目は皆様のよいお友達として、私の考えや体験とこの勉強に関して一緒に味わえる読者の皆様のとを組み合わさせていきたいと思っています。以下の章の中で、皆さんと一緒に、現代の世界へ浄土真宗がどのように貢献していくか、またもっと具体的には、親鸞聖人の仏教の解釈が、たとえ、私たちと聖人の生活が何世紀も離れていても、どのようにしたら意味あるものになるかを考えて見たい思っています。
まず、私は他の宗教から仏教徒に改宗したので、親鸞聖人の教えを聞く態度が他の人と違います。読者のなかには、子供の時からずっと、日本、ハワイ、米国本土、あるいは南米で、本願寺(真宗仏教)の伝統の中で育てられきた人が居られるでしょう。今私のような転向者等は現在、真宗仏教グループを持って居り、このグループは、ロンドン、ベルリン、アントワープ、ザルツブルグ、ブダペスト、パリ、スイスの数箇所、ポーランド、オーストラリア、そしてケニアに及んでいます。現代のインターネット時代では、米国内に散在する多数の信者が、浄土真宗を受け入れる意向を示し、インターネット通じて学び、意見を交換しています。
私の場合では、全く偶然と言ってもよいきっかけで親鸞聖人に出会いましたが、それは、丁度私が深く傾倒していた根本主義・キリスト教徒であった時、日本で宣教師になるよう準備していた最中でした。それまでの自分の全生涯で、私はキリスト教だけが特有な、唯一の真実である宗教と考えて来ました。所が、そのような私の頭は、第二次世界大戦後の占有時代に東京で起きた偶然の出来事の結果、木っ端微塵に砕かれました。
私はそのとき、日本駐屯の青年兵で、暇な時間がある時は、日本の若い人々が英語を習い、占領軍に就職できるようお手伝いの意味で、教会で、お説教を通じて英語を教えていました。私がキリスト教の神の恵みの考えのことを話した時、宣教師の一人が、このことを通訳するのに、阿弥陀仏に触れ、「これは阿弥陀様そっくりです」と言いました。私は当時、阿弥陀仏の事を聞いたことがなく、また、私の日本語が不十分で、この驚くべき比較に関して問い質せませんでした。その宣教師の英語も充分でなく、阿弥陀さまの事をはっきりさせることも、考え方も説明出来ませんでした。私は茫然として、「他の宗教が一体どうキリスト教に似ているようなことがあり得るか」と、その人に尋ねました。しかし、私はこの問題の答えを得るのに数年待たなければなりませんでした。この疑問が後年私の真宗学の博士論文の元になり、「親鸞聖人の純粋な慈悲の福音」と言う題で1965年に出版されました。結局、親鸞聖人の教えについて尋ねたことが、私個人が深く関与する問題になり、そしてこの本を書く事にもなりました。
この1946年に起きた阿弥陀仏との最初の出会いは、私が持っていた私の個人的な人生の悩みにも関係していました。其の頃、自分の宗教的な生活で挫折感が度を増し、かなり偽善者的になっていました。私は公にクリスチャンで、しかもキリスト教の教義を学ぶ者として、後には宣教師として、体裁を繕わなければなりませんでしたが、益々これに嫌気が募っていたのです。
それは、私の子供の時からの複雑な生い立ちになりますが、要は、従来のキリスト教では、人は神によって救われ、受け入れられという確信が自分にあっても、様々なやり方で罪の意識を叩き込む傾向があります。信者は、自分が正しいのだと言う勝ち誇った者として生きていくのが当たり前で、脱落するのは、信仰が足りなかったと云う事になります。従って、人は宗教に打ち込めば打ち込む程、自分が嫌いになってしまいます。
私は、戦後の時代で、もっと幅広い教育を受けるに従って、日本語の知識を得る機会に恵まれ、親鸞聖人の書かれたものを、聖人の生の言葉で勉強し、また熱心な真宗信徒を多く知るようになりました。この経過を通じて、私は、以前よりもっと人生を明るい面から理解できるようになりました。このようにして、私は親鸞聖人の教えを信ずる改宗者になりました。このような事情の為に、私の態度や見方が、自分の家族に育まれ、自身の信心を受け継いだ浄土真宗の信徒とは、ある程度違う事がお判り戴けたでしょう。
一般に、伝統を受け継いだ信徒は、自分のお寺・教団を自分の生活にとって満足できる、意味のあるものとして受け入れています。このように自分が受け継いだ伝統は一足の履きなれた、履き心地の良い古靴のようなものです。宗教というものは、家族や住んでいる社会と複雑に絡み合っていますので、その結果として、信者は、自分に与えられた宗教について疑問を持ったり、ましてはその内容を理解しようとする傾向が少ないのです。
しかしながら、自分の意志で真宗に転向してきた者にとっては、この教えに自分自身が出会った時の生き生きとした体験がとても大切です。このような体験は、その個人のものであって、家族や地域社会とは無関係です。自分自身で決めた決定が正しものとして自分に言って聞かせるのは、本人だけでなければなりません。
従って、このような改宗者は、この教えを最初に開いた宗祖の生活と体験により深い関心を持っています。その為、お寺の教団組織が、この教えを伝えていくよう設立され、お陰で教えが持続出来たに関わらず、そのような組織に余り熱心になれないのかもしれません。
必ずしも組織に反対するわけではないのですが、転向して来た人達を組織に参加する気にさせる原動力は、飽く迄、その教えから受けた宗教的意味に感じて、個人として深く心に誓ったものから来ているのです。その結果、これらの人達の態度が生まれつきの檀家・門徒の方々とは大きく違ってくる事があります。それは、私自身のように新しい真実の教えを見出して信者になった者にとっては、古からあった教えを継承してきた信徒の方にぶつかった時に起きる根本的な違いです。
転向者は、信徒の人々が教えを理解し、教えに基づいて行動する筈だと思っています。しかし、従来からの信者は、教えがあることを認め、大切にはしていますが、もっと深く掘り下げて学ばねばならないとは、感じていないかも知れず、真宗仏教を自分自身で見出した私のような者が感動するような事項でも、そんな事は当たり前なことと見過ごし勝ちです。
一人の改宗者として、私は、人間、教師、また仏教徒としての親鸞聖人に重点を置いています。私は、教えを自分なりに学んで来ましたので、自分の胸の中で聖人にとても親しさを覚えます。聖人がどんな話し方や態度をとられただろうかと思い浮かべ様としたことさえ、何回かあります。私が親しみを覚えるのは、聖人がご自分で挫折感や困惑を体験されたように、私も自分なりに同じ敗北・挫折感に陥った体験があるからです。
聖人と同時代の唯円房(ゆいえんぼう)(浄土真宗の古典である、「歎異抄」の著者)に共鳴されたように、親鸞聖人は、同様に私のおかれた苦境にも全く共鳴されたことであろうと思っています。唯円房は、その歎異抄の第九章で、自分の信心に疑問を持ち、経典が信者に与える筈のお浄土に行きたいという喜びを持てないことに失望していると述べています。(歎異抄第9条から「念仏まふしさふらへども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこころおろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまひりたきこころのさふらはぬは、いかにとさふらうべきことにてさふらうやらんと、. . .」)これに対して、親鸞聖人は、彼がそのような板ばさみになった感を持つことこそ、尚更、唯円房が親鸞と同様に、阿弥陀仏に抱かれているわけだと指摘されて、唯円房の悩みを鎮められました。この章を通じて私も親鸞聖人を身近に感じられるようになりましたが、それは、聖人がご自分の弟子の悩みに共鳴され、自分も同じ板ばさみになった感じを持っていると確かめられたからです。本当に、親鸞聖人自身は、最も深い意味から見て一人の転向者であったと言えるでしょう。ご自身の人生で阿弥陀仏の慈悲に一人の人間として逢われた結果、自己の独特な見方で仏教を理解しようとされ、何代も経て来た従来の仏教と伝統的思想を捨てられたのです。
従来からの浄土真宗の信徒のなかには、親鸞聖人が、ただ、「法然の忠実な弟子」として浄土教の伝統を維持されて来たと言い、これが親鸞聖人の見解の本質であると信じている人々がおりますが、この点で、私の解釈とは食い違っています。信徒の方々は、日本の先祖の民間信仰(祈祷行事)に基づく、一連のお彼岸、花祭およびお盆のような従来の伝統行事に満足しているかもしれませんが、これらのことは、一般に、親鸞聖人の教えが持つ独自な意味と重点とは関係がありません。
親鸞聖人が浄土教の伝統に拠り所を見出し、師の法然上人を尊敬・賞賛したことは真実ですが、全くその伝統にそのまま盲従するだけではありませんでした。もっと正確に言えば、聖人は、伝統を新鮮で、独特な方法で活用され、初期の祖師達が開拓しなかった、より深い次元を目指されたのでした。宗教的な努力および修行・実践したご自身の経験に導かれ、法然上人の教えに従い、親鸞聖人は次に新しい伝統を作り上げることになりました。即ち、故二葉憲香教授が別の言い方で記したように、聖人は、仏教に新しい地平(領域)を開かれたのです。
革新的という事は物事の根本に到るということです。さらに考え方の方向転換も意味します。両方の面で、親鸞はその言葉のもつ最も深く、正しい意味で革新派でした。それにも拘らず、私は、真宗仏教信徒が「親鸞聖人について、何ら革新的ではない。」と主張するのを聞いたことがあります。お寺の行事や未来に関して決定しなければならない場合、このような意見は、宗教的生活が自分達にとって何を意味するかを理解する範囲を制限してしまいます。
数年前に、ハワイでは、「親鸞聖人にお尋ねしましょう」と言うお寺のスロ−ガンがありましたが、私の考えでは、従来通りの答えが返って来るのを期待して、従来通りの問題について尋ねていてはいけないと思います。私たちは、聖人自身の生活およびそれから成長した教えを、親鸞聖人が自ら述べて戴くのを妨げないようにしければなりません。聖人のお心に基づいて、私たちは、新しい地平を開くよう試みるべきです。スローガンは一般に陳腐になり、空々しくなり易いのですが、私たちは次の年には、このように言ったらどうでしょうか。将来、「この教えを土台に、新しい夢を」などと掲げるのは、過去のスローガンよりもっと現実に近くなるのではないでしょうか。これらのスローガンは、私達が、親鸞聖人は現代の我々に伝える大事な内容を持っておられると確信していることを示しています。また、これらは、我々が生活していく上でとる立場が正しいか、どうかを判断する時の拠り所乃至権威とすることで、私たちが聖人のお導きに従う覚悟でいることを示しています。
親鸞聖人が現代の私たちに訴える意味のあることをを持たれているとしても、私達が現在生きている時代、つまり聖人が生きた波乱の時代によく似た、現代にとって釣り合う見方を持たなければなりません。聖人は当時、末法、つまり仏法の末期と言う言葉を使われましたが、親鸞聖人の人生および教えについて、直ちにお話しを始める前に、私は、現代をどう見ているかについて述べたいと思います。聖人と私達の現代をよりよく理解できるように、私は、末法というイメージを使って、私達が生きている時代と二一世紀の宗教の実態について述べます。  
第2章 現代の宗教が抱える問題 

 

今日宗教が抱える問題点は何でしょうか?私達の時代は、精神性(宗教心)の「新時代」とか色々な信仰の道が開かれている等、表面上は生き生きとした時代のように見えます。お寺や教団で代表される宗教組織の代わりに、もっと自分自身の精神性を捜し求める動きが広がってきています。お寺に属しなくても、精神性(宗教心)を持つことで生活や現実をもっと広い目で見るのに役立ちそうです。此れ迄は邪教とか迷信と思われて来た信仰や実践も、そのうちに受け入れられるように成ってきています。色々な考え方や多様性があるのが、現代の特徴です。違いがあるのがいい事だと喜ぶ一方、宗教心が色々違った経路を取ると、どう言う事になるかに就いては判断しかねている状態です。何れにしても、宗教、信仰、精神性は、私達にとって依然として大切な問題です。
例えば、宗教は、知的な問題、社会的な問題、及び精神的な問題を提起します。宗教が知的に問題になるのは、人の信仰と理性との関係です。信仰と言うと単に盲信することでしょうか? 宗教上の信仰を築く際に、批判的な知性が果たす役割があるでしょうか?現代科学の教える所と宗教上の信仰は、どのようにしたら、一つにまとまるのでしょうか? 宗教が社会で問題となるのは、宗教での信仰が世間の現状解決にどの程度関与したらいいかです。現実に色々な宗教上の考えがあるのに、自分達の考え方を社会に主張するのに、どのような形の信仰を考えるべきでしょうか?どう見るべきか?信仰があるからと言って私達の社会観を他人に押し付けてもいいでしょうか? 宗教的の信仰を持てば起こって来る精神面の問題は、自分だけ良ければよいと思う考えをそれとなく起こさせてしまうのか、或いは広い範囲の本当に人の為になる努力をするように奮い立たせるだろうかということです。宗教的信仰は、人々をグループに分けてしまうのでしょうか、それとも皆の違いをお互いに認めて人々が纏まるように働くのでしょうか? 
宗教に関して知性の面からの課題は、西洋文化の発達に深く根ざしています。宗教信仰の知的面での基盤及び信仰と理性の一致ということから、ギリシャ哲学とユダヤ教・キリスト教の哲学―神学の伝統が生まれたのですが、これらの事は色々な面で、私達の歴史上起きた色々な影響の為、弱くなって来ました。生活が俗化し、人生の意味を考える際に宗教の持つ役割は、西洋では、急速に衰えて来ました。要するに、宗教は、神のお告げに基づくと言うより、色々な歴史、社会、個人の事情に影響され、形作られて来た人間の作り上げたものとして見られるようになったのです。二十世紀になり、アルバート・アインシュタイン(1879-1955)と所謂「新物理学」の出現で、総て、物事は時間、場所、観察する立場につれて変わるのだと言われて来ました。たった約一世紀、人の一生位の間に、これまでの信仰を支えてきたものが弱まったり、押し流されてしまいました。
宗教の社会的な問題は、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教など色々な宗教で起こった原理主義(伝統に固執)の勃興に、その姿が見られます。これらの動きは、科学知識の発達で起こった非宗教・世俗的考え方が迫って来るのに対向して出てきました。宗教熱は国家主義と自国や民族グループの神聖な伝統に戻ろうと言う呼びかけに結びついている事が多く、宗教は人々を別々に分割して、同じ仲間同士の団結を結集する手段になってしまいました。その良い例は、最近起こったセルビアでのイスラム教徒のボスニア人とキリスト教徒のセルビア人が戦った「民族浄化」運動です。殆ど終わりのないイスラエルとアラビア諸国間の戦いには、その底に宗教熱が流れています。イランとタリバンの宗教過激主義は、宗教的、社会的に相手を認めない頑な理由で戦って来ました。日本で起こったオーム真理教集団は、宗教が大きな破壊力になり得ることを示しました。いわゆる米国の文化闘争は、宗教がその根本にあり、社会に於いて宗教が社会を分裂する強力な力になり得ることを物語っています。
最早、中心となる、全体を統一する考え方がなくなったことです。世界の民族の間で分裂がおこり、そのため、皆が共通の運命を共にすると言う感覚が失われる危機に瀕しています。それでも、色々な宗教の伝統の歴史をもっと現実的に理解し、生活を宗教的に考えてみようと尋ねたり、興味を示す動きが復活して来ています。この為、仏教にとって、種々な形で今までの西洋の宗教的見方よりもっと現代人にぴったりで、現在の時代に求道する人達の精神的、知的なニーズに答える機会が出てきました。
この新時代は、仏教にとっても、また宗教一般にとってもチャレンジであると同時に、よい機会でもあります。マイナスの面では、現代に対する批評家は、宗教的信仰が合理的な見方の源や真実の探求にはならず、単に個人の感傷に浸っている点を強調して来ました。多くの人にとって、宗教は、自分や生活について気分をよくさせる一つの手段です。更に、宗教は、以前、主に共同社会と家族の問題であったのですが、いまでは、かなり個人一人のものとなってしまったのです。個人主義のいい所は、個人が思うままに多くの代わりの宗教を探求できることかも知れません。しかし、本当に考えて調べないと、社会には、自分達の隠れた目標を達成しようとする宗教指導者や運動があるので、彼らに利用されてしまうことがあります。
この60億の人口に達する、人間無視の、顔の見えない世の中で、個人に物や心理的な満足感を与え、自分がたいした者だと思わせるような場合に、宗教や擬似宗教運動が栄えるのです。多くの人々にとって、宗教の持つ主な役目は、ただ、現代生活での複雑なことや苦しみから逃れる幸せと安息の地を与えてくれるのに過ぎません。
日本や米国のような先進国でも、宗教指導者に考えなしに追随した場合どうなるか、お分かりでしょう。このような盲信によって、この非宗教・現世主義に立ち向かう破壊的な反対勢力が呼び起こされることがあります。その結果、この宗教無視の潮に巻き返しを図ろうとする努力が、暴力と社会の崩壊につながります。現代科学の理屈では、解決不能であるから当然であると、色々な社会で原理主義や独裁的宗教が起こっています。
このような色々な傾向を背景にして、現代を末法、或いは仏法の最後の時代と呼ぶことができます。従来の教義(真宗の教えで強調)では、末法は、仏法が段々衰え、消滅し、仏教精神の崩壊をしめす時代であると考えています。「末法」と言う言葉は、社会と個人の生活に混乱と大変動が起こる時代を示すのに使われています。これらの状態は、数多くの大乗仏教の経典に、釈尊入滅後どうなるかの予言と言う形で述べられています。仏法教義では,時代を正法、像法、末法つまり、仏法の最後の、或いは滅亡の時代という三つの時期に分類しています。
「末法」と言う考えは矛盾している所があります。それは、仏法の衰退を強調しながら、一方では、同時に仏教のより深い真実が最後の時代に表れると明言されているからです。この時代では、仏の教えは、総ての社会、宗教の区別を越えた形で表れ、その時代の人々の普遍的な精神面でのニーズと能力に答えるものになります。法然上人、親鸞聖人(1173〜1262)と日蓮上人(1222〜1282)は、日本での主要な仏教運動の宗祖として、夫々浄土教,或いは「法華経」の教えが、最後(末法)の時代に生きる人々にとって最終の真実となると、仏陀が意図されたと強調しました。
現代宗教の象徴として,「末法」は、歴史的に時代がどう変っていくか推測するものではなく、私達の精神状態を表しており、外の世界にそれが映しだされています。これが表している主要な意味は、宗教に携わった人々が精神性の価値と目標を高く維持して来なかった為、宗教が腐敗してしまったと言う事です。「末法」の教義は、私達が伝統と言うものを余りに後生大事に崇めてはならないと教えているのです。つまり、宗教は人間のすることなので、他の総ての人間活動がそうであるように、同じような「俺が、俺が」と言う問題を抱えています。
宗教が組織教団化し、社会に溶け込んで行くにつれて、社会の悪と組んで宗教の真実の持つ深遠な面をあいまいなものにしてしまいます。このような事情のために、宗教組織が社会で権力と威光を求めて競争するようになると、個人々々は、教団組織が主張する真実を越えて、自分達の生活のための真実の信仰を求めなければなりません。これを成し遂げるには,私達は宗祖が開かれた信仰の道に遡らなければならないのです。
宗教上の伝統は、私達の家庭に貯水池から水をもたらす配水管のようなものです。配管が錆びると、水は汚れるので、パイプに溜まったカスを除いて更新しなければなりません。同様に、宗祖を奮い立たせ、後に続く世代にとって精神の糧となった大切な真実を再び奉ずることで、教団を更新できるかもしれません。
私達の時代に末法が現存していることは、社会と個人の生活の中で、色々な特徴をもって現れています。例えば、不条理(ばかげたこと)、あいまい性、人間疎外感、心配事、孤独等です。私達の末法時代が不条理なのは、色々な型の偏見と言う不道徳行為のなかに出ています。 人種、性別、性的志向、或いは宗教の為に、排斥された集団の人々の権利が踏みにじられています。私達が社会、科学、技術の面や、また宗教の面から理解しようとしても、歴史的な、不合理な差別と、しばしばそれに伴う暴力を私達の社会生活から除去できないでいます。不条理なことは、平和を訴えながら戦争を仕掛ける手段・方法を育成している国粋主義の政治家たちにも表れていています。社会全体を通じて広い範囲で、ごまかしがまかり通っていますが、特に政治、政府、ビジネスの面に著しく表れています。私達は、誇大宣伝の世界に生きており、もったいぶった標語が本来の意図を隠しています。此れまで迫害者であった人達が今度は、逆差別問題で自分達が被害者だと主張し、正義が逆にとられ、言葉の意味が曲げて使われていることが多いのです。此れまでの制度による差別を精算するために、歴史的に正当化して来た福祉受給と差別解消策を廃止しようとする努力があり、その為に、今まで本当に迫害を受け、問題を個人では解決する程多くの場合十分な財政手段を持たない人々に正義を図ろうとすることが、現代社会では余計難しくなってきています。これは、正義は平等だとするアメリカの理想とは合いません。
妊娠中絶、生物学・医学上の開発、生態学、及び益々早くなる技術の変化の課題に関する価値観と倫理の問題は、近代生活の矛盾を浮き彫りにし、この時代では、自然保護と開発の争点が衝突し、科学の発見が生命に対する危険をはらんでいます。科学の発見は、偉大な利点をもたらす可能性がある一方、大きな害悪にもなる可能性があります。
私達の時代の多くの特徴の中で、最も明らかでよく判っているのは、人間同士が疎遠なっていることでしょう。これは、私達の「末法」の世界を強く表しているしるしですが、それは、国家間、社会的・経済的に異なる階級間、世代、男性/女性、人種、民族間、及び技術先進・後進国間の紛争にはっきり出ています。
しかし、最も奥が深く、最も著しい疎遠関係は、各人が真実の自分自身から疎遠になっている事です。これは切ない空白感・疎外感として表れ、それは、自分が今生きていることの不思議と深遠な意味、並びに自分が生きとし生けるものすべてと連帯していることを見抜き、認識できないことから来ています。私達は、近代的個人主義のために、間違った意識を持ち合わせていますが、それは、物質文化と経済論に基づき、競争することが人生で大事だと勧められた結果、モノをもっていることで自己主張の基とする間違った意識です。
近代社会は、地球全体の規模で、複雑な社会、政治、経済、および技術力で形づけられていますが、その力に直面し、世界中で多くの人が自分たちの無力感を味合っています。人々は、心の中の圧迫感を絶望、挫折、怒りや目的を失った感じで受け、それに答えて反発し、時には抵抗運動に走ってしまいます。併し、反発は、また受身の抵抗となって表れ、「自分のやりたいことをやる」事で、自分の個人的な満足に没頭して、その代わりもっと大きな世界の情勢には無頓着になってしまいます。
私達の時代では、物質的成功や快楽に惑わされて自分の内心を深く探求出来ないのです。
この様な誘惑の為、私達は間違った意味にとりつかれ、富とか物の所有による外見に囚われた内心の価値観に達し、私たちの生活の現実に目を背けてしまいます。絶望とか失望に逢ったり、不信感を持つと、人はしばしば麻薬や酒に逃避しようと図ります。
かなり多くの人々にとって現代は、間違いなく個人と社会にとって、不安の時代と言えるでしょう。何十年も私達は自分達の住む町に起こる犯罪や暴力を始めとして、社会の分裂、戦争とテロの脅威に絶えず悩まされて生きて来ました。永年の人種差別と技術革新のせいで、下層階級が生まれ、その為暴力と、経済的な落ちこぼれと貧困による、潜在する社会的結末が原因で社会平和が脅かされています。このような状態では、私達は、自分達が経済的に恵まれているのは申し訳ないなと思うか、社会で自分たちの身の安全について不安になるかどちらかになります。
友人達に囲まれていても孤独感を持つのは、多くの現代人が共通して経験することです。人生にポッカリ穴が空いている感じです。心では、願っていても人間関係で深入りしたり、約束事をするのを避けることが多いのです。私達が誇りに思う個人主義の為に、私達は、我欲の城に閉じ込められています。無関心が広く蔓延っています。自分達の寂しさを紛らわすために少人数の親しいグループに閉じこもる人もいます。しかし、私達の人間関係が我々の生存の根源をゆさぶることのないような、軽薄なものであれば、そのような関係は、自分自身の現実とその意味を納得しようとする本道からそれた回り道か、わき道に過ぎないでしょう。
私達は皆、自分達の一生の間の様々な時期に起こるこの様な不条理、曖昧さ、疎外感、不安、孤独感に陥る時の兆候について薄々判っています。私達自身の経験から自分達が生存してゆく希望と見込みがぐらつくことがあります。現代が曖昧な時代であるのは、宗教それ自身の面でもはっきり現れています。宗教が盛んであるように見え、普遍的な兄弟愛と平和を宣言していても、憎しみと暴力の潮を止めることが出来ません。宗教は、現代の人々の問題の解決にならないで、反ってその原因の一部ではないか?と言う疑問が出ます。
宗教が人間の生活にどんな意味があるかと問う時に始めて、宗教の精神面の問題が出て来ます。宗教は単に自己満足のためだけなのか? 或いは私達の生命と責任がもつ内容には、もっと広い意味があることを教えてくれるのか?しかし、知的、社会環境条件やそれらが変わっているとしても、かの著名なキリスト教神学者ハーベイ・コックスが言っています。
「. . . .儀式と宗教は廃れていくことは無いだろうが、それらが人間を解放するのに使われるの か、束縛する為に使われるかが、本当の問題である。」
この「末法」時代にある多くの特徴は、要するにフランシス・フクヤマ博士の言われた通りである。
「現代社会は永年にわたり、民主社会に向って成長して来たが、近代思想は行き詰まりに突き当たっているので、人間と人間独特の尊厳性がどのように成り立っているかについて同意できないでいる。従っ て、人間の権利が何であるかも決められないでいる。」
私は、宗教的信仰によって新しい自己を見出すことが出来、空しい生存から超越し得ると思っています。何らかの形で自分が誰であるかということと、精神的開放を求める声が広がっています。これは、このように道を求める人々にとって、従来の宗教関係の出版物やニユー・エイジ(新時代)の精神性を始めとして、多くの自己救済用テキストや教化課程といった広範囲の中から選べるようになっていることからも判ります。精神分析医のロバート・アサジオリ氏は、これに関して次のように述べてています。
「自我」が今、再登場して来た主な理由の一つは、人々が自分が誰であるかを盛んに捜し求めているからである。以前、人は、銘々言ってみれば、何の疑いもなく自分を当たり前の自分として受け止めてきた。 ありのままの自分個人としてだが、もっと多くの場合には、自分の所属する集団、例えば、家族、
種族、氏族、階級、国家との一員としてか、或いは、宗教心があれば絶対者か神と自分を結びつけて来た。しかし、全く危機に瀕しているといって良い現代では、このように帰属すべきものが廃れ、個人は、自分しか頼れない。この状況で困惑し、自分が誰であるか判らなくなったので、これが「実存する苦悶」が広まっている主な原因である。」
この実存する苦悶こそ、精神面での現実と私達の生活での根源を新規に理解するための突破口になる条件と言ってもよいでしょう。「真実を知れば、その真実であなたは、解放されるでしょう」と言う古い言葉が今日の宗教で求める基本的課題であることに変わりありません。私達を解放してくれるのは、心の平和や幸さではなくて、真実です。
2500年以上も前にその端を発した仏教は、真実を求めることでした。ゴータマ(釈尊)の目標は、人間性を盲目にしてしまう迷いの覆いを突き破り、あるがままの姿に達することでした。仏教は、悟りの宗教です。仏教は、自分の好みに黙従するとか、単なる習慣に順応することではないのです。2000年以上の伝統に於いて真実の基を求めて来たので、仏教は、その伝統を絶えず更新し、生気を与えてきました。
私達の現代で新しい自我を求める人にとって、仏教は教えるものが多々あります。大乗仏教思想での考えと言葉の批判内容はポスト・モダン時代と多くの共通点を持っています。教典の権威では、言葉とその意味する目的が直接結びついていると仮定しますが、両者共に、そのような言葉、表現、教典の持つ圧制から人間精神を解放してくれます。
しかし、近代的な取り組み方では懐疑主義に陥るのに反し、仏教では、真実の探求を他人に対する深い責任感と結びつけるところが違います。仏教では、生きとし生けるものすべてが持ちつ持たれていることを強調し、限りない慈悲の理想に重点を置いています。
このように現実を理解する結果、どんな真実でも、人と人との対話のなかで真実が判ってきます。真実の意味はお互いの相対関係の中にあるのです。単なる自己―他者と言う二つの対立関係はありません。むしろ、自己と他者・世界との間に、「他者の中の自己」と「自己の中の他者」と言う相対関係があり、これによって、この相互依存と相対関係に意味が出てきます。
私達がお互いに教えの中身を探求して始めて意味が出てくるのです。ここに概略を述べましたように、近代の生活条件は、宗教界に挑戦・要望するところがあります。それは、自己の宗教界の生活だけでなく、住んでいる社会にも今日的意義のあるような見方を、自分達の持っ精神性組織の中で、深く追求してもらいたいということです。
親鸞聖人は、比叡山での従来の出家制度に別れを告げられましたが、まさに此処で言う挑戦を示唆しています。聖人は真実を求めて、精神性の再建・再生の道を自分と当時の信者の為に開かれました。また、当時の人々に自分達が生活と現実をどう理解しているか再検討するように迫られました。親鸞聖人は、没後に明治政府(1861-1912)から見真(「真実を見る」)と言う諡号(おくりな)を下賜されましたが、聖人自身なら必ずや拒絶されたことでしょう。しかも、約800年も前に御自身の真実の探求の結果得られた、聖人が生活と信心を理解するのになされた貢献は、私達の21世紀の「末法」の世界での人生の意味と精神面での現実を照らして、今なお新鮮で明らかです。聖人の浄土教理の再解釈に発するこの教えは、この「末法」時代で多くの問題および文化と宗教の課題に直面して、精神的探求をする今日の私達を助けてくれるのです。
第3章 本願の土壌に根付いたもの 

 

親鸞聖人は、平家および源氏の武士階級が日本全国の支配をかけて動乱と闘争に明け暮れた、有名な源平戦の時代に、藤原氏の支流、日野家に生まれました。言い伝えでは、かなり幼い時に両親を失ったとされています。父の有範は傍系の皇太后に仕える、官位の低い朝廷の役人でした。親鸞の母親については知られておりませんが、源義親の娘、吉光女(きっこうにょ)であるとも伝えられています。
かつて、日本のしきたりでは、人の名前は生涯を通じて色々な段階を過ぎる度毎に変わりました。
親鸞聖人の幼名は松若丸でした。親鸞について書かれた最も初期の伝記では、聖人を神格化するために、聖人を藤原家の氏神である天児屋根尊の子孫として記載されています。日本の神話では、この神は、日本の国を設立するために地上に降りた初代の天皇家の祖先になった、天照大神(女性の太陽神)の孫に随行したとされています。
貴族であった親鸞聖人は朝廷で見込みのある将来性を持っていたかもしれませんが、聖人の宗教心の故に、九歳の時に出家されました。民間伝承によれば、親鸞聖人は、父母を若くして亡くしたことで、生命のはかなさに打たれたと言われています。唯、現代の研究では、聖人だけでなく、父親も兄弟達も比叡山の天台宗に入門したことが知られており、聖人が出家した理由については、謎に包まれています。ただ、親鸞聖人がほんの幼少だった頃に父の有範が尚生存していたことは、明らかです。隠居後、有範入道と呼ばれ、宗教的生活の道に入りました。親鸞聖人と家族が俗世間を捨てたのは、政治的、経済的理由から、或いは、家族や個人的事情によるものでしょうか、確かなことは知ることができません。
親鸞聖人ご自身は、剃髪し得度を受けた時に、名前、範宴を戴いた比叡山の高位の僧(天台座主、貫主)慈円(1155-1225)の弟子として見られていますが、その後、天台仏教を熱心に学び始めました。聖人は源信(浄土教を広めた)の教えを習得し、「天台宗の思想で、師の鋭い洞察を受けなかった事項は無かった等」と言われています。これらの伝承は厳密に評価するのが難しいのですが、親鸞聖人の著述から、聖人が浄土教の伝統についての広い知識、および人間性と宗教的信仰に突き詰めた鋭い洞察力を持っておられた事が分かります。聖人の解釈の鋭さおよび解釈の方法から、仏教の教えと御自分の人間関係に対して深く内省された事が拝察できます。
ある伝承によれば、親鸞聖人が比叡山で高位につかれ、お寺の貫(門)主にまでなられたとさえ述べられていますが、聖人は比叡山で20年間精進された後、その地位と決別して1201年に山を下り、仏教の真実の求道者として法然上人の門に入られたとされています。伝承とは反対に、聖人の妻恵信尼の手紙には、聖人が寺の一僧侶で常行堂の堂僧としてお勤めになられたこと以外、何もそのような高い地位であったことは、書かれてありません。当時、聖人がご自分の未来の救いについて懸念されていたとも書かれています。聖人は、天台宗の教義と仏教の理想を達成する望みを失ってしまったのです。初期の真宗聖典である嘆徳文には、「(止水に喩えた)瞑想に集中しようとしても聖人の意識の波は揺れ動き、心の月(悟りの象徴)を見ようとしても煩悩の雲に邪魔された。」と記されています。[原文:「定水を凝らすといえども識波しきりに動き心月を観ずといえども妄雲なお覆う」(心を静めようとしても煩悩の波が騒ぎ、法界を観念しようとしても、迷いの雲にかきみだされる。)]
御自分の運命に取り組まれ、聖人は京都の六角堂に百日間こもられました。九五日目に夢告の中で、法然上人を尋ねよとの示現を受けられた。恵信尼の書簡では、この示現は、そのお堂を建立されたと伝えられ、七世紀の日本で仏教を支持された事で有名な聖徳太子によるとされています。当時、法然上人は、既に浄土教の奥義とも言うべき「選択本願念仏集(選択集)(せんちゃくしゅう)」を著されていました。この書により、上人は浄土教がれっきとした独立の宗派であると宣言されましたが、それは、専ら阿弥陀仏の名号を称える(即ち、念仏で南無阿弥陀仏を称える)お勤めに基づき、さらに、阿弥陀仏の第十八願に遡るものです。法然上人は、仏法の最後の時代、つまり末法の時代では、悟りに達する、即ちお浄土で往生するには、僧侶でも一般の人でも念仏だけが唯一の道であると教えられました。
更に100日間、親鸞聖人は法然上人の許に教えを乞い、受けた教えに深く感銘され、ご自分の救いについてもたれていた懸念から解放されました。やがて、聖人は法然上人の書を筆写し、肖像を描くことを許されました。
法然上人が精神性の点で苦悩する人々を受け入れ、すべての人々を、人として短所や欠点があっても、慈悲の念を示された姿は、親鸞聖人にとって、ありのままの私たちを受け入れて下さる阿弥陀仏の限りない無条件のお慈悲を形に示されたものとなりました。法然上人の示されたお手本が親鸞聖人の生涯にわたって励ましとなり、聖人が会われた人なら誰とでもこの教えを分かち合ったのです。
歎異抄の中で、親鸞聖人は、阿弥陀仏の教えは、多くの浄土教伝統の偉大な師を通じて法然へ伝わり、次いで親鸞に届いたと宣言しています。たとえ、聖人は法然上人によって偽られていたかもしれないと言う非難も若干ありましたが、 聖人は法然に従うことに何等後悔せず、それは、聖人にとって究極の悟りと生死の輪廻の業から解脱出来ることを約束し得るような道は、他に無かったからだったと述べられています。念仏に関して批評を受けると、聖人の返答は次の通りでした。
「法然上人のおいでになる所は、他の人がなんと言おうと、例え、地獄へ落ちるだろうと言われても、お供をする。遠い過去から、いつも迷いの世界をさまよって来たこの身なのだから、そうなったとしても、もともとのことであったろうとさえ思っている私なのであるから」と。([恵信尼文書 第三通, 原文では、「上人のわたらせ給はんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世々生々(しょうじょう)にも迷ひければこそありけめとまで思ひまいらする身なればと、やうやうに人の申し候ひしときも仰せ候ひしなり。」教行信証のなかで、聖人は、次の様に述べられています。「もっぱら仏陀の慈悲の深さに気を取られているので、私は他の人からの愚弄を心に留めません。」   
これは重要な声明で、聖人の献身と、他の宗派とはっきり線を引き、迫害を受けることさえ辞さないとする程の意欲とを明確に表しています。世間に同調する主義と世間に受け入れて貰いたい気風の私達の時代に対して、親鸞聖人は、精神的な勇気および強さ、すなわち単に皆の後について行こうとする誘惑に打ち勝つべしというお手本を示されています。
自身が一体救われるかと深く失望されたことと、法然上人に会われたことで解放感を味われたことで、聖人の宗教的感受性が強くなられました。自身で深く阿弥陀様の本願に目覚められ、その結果、ご自身が誰かと言う観念が強められ、思想に生気を与えられたのです。聖人は、『弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ』と述懐されています。(歎異抄、後序)
現代語訳 / 阿弥陀さまが五劫というたいへん長い間一生懸命の思案をして考え出された本願をよくよく考えてみれば、ただ親鸞一人のためであった、思えば、私はあれこれの多くの業を持っている罪深い身でありますが、その罪深い私をたすけようとお思いになった阿弥陀さまの本願の素晴らしさ、もったいなさよ。
聖人が浄土教を根本から解釈し直されたのは、御自分の精神的解放と宗教の実体を強く感じられたからであるかも知れません。
その後、聖人は、唯法然上人の弟子であると主張されました。後に法然上人の正当な承継者であると名乗る浄土教宗派から認められませんでしたが、歎異抄第二章で、聖人のみ教えは、釈迦牟尼、善導、法然を通じて表されてきた本願に基づくものであることを示されています。聖人は「法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。」と結ばれています。親鸞聖人は、ご自分が法然上人の本願に関する御教えを本当に理解していると、しっかりと確信しておりました。この確信があったからこそ、弟子達が聖人の信仰に就いて問い質したときに毅然とした態度がとれたとのです。
聖人は、新しい名、綽空を戴き、喜ばれましたが、後に再び法然上人により改名され、善信となられた。宗教指導者は、弟子達の精神性の位づけを示すのにそのような名前を与えたのです。聖人は、流罪に処せられ、師法然から離別後に、親鸞と名乗られましたが、これは、法然上人の御教に対するご自分の解釈が何に由来しているかを示す為でした。これにより、親鸞聖人は、御教えについて師法然よりさらに深く探求され、天親菩薩と曇鸞大師をご自分の宗教上の師と仰がれたことを示し、二人の師の名前から一字ずつ取られ、親鸞とされたことが分かります。
法然上人に帰依されて以来六年目に、聖人は、辺地越後に流されました。比叡山及び奈良の興福寺の教団当局は、法然上人が奉ずる仏教の教えが国を乱すもので、邪宗であり腐敗したと決め付け、亦、多くの法然上人の弟子達がふしだらな行動をしたとして絶えず朝廷に訴えていました。法然上人の弟子達のなかには、伝統的な神々を軽んじ、神道の氏集団宗教に基づいて、仏教も参加するようになった人々の社会連帯感を覆した者もありました。親鸞聖人がその著書で神道に敬意を払いながらも否認し、仏教の迷信的な信念や慣習も否認されているのは、留意すべきです。
法然上人及び親鸞聖人のような高弟達の迫害のきっかけになった事件は、天皇が参詣(熊野詣)で留守の間に天皇の側室(女御)二人が法然教団の二人の僧との会合を持ったことであった。この二人の僧は打ち首になり、親鸞を含めて法然の高弟等は都から配流に処せられました。法然上人は四国の土佐に、親鸞聖人は越後の国府 (現在の新潟市地域) に流されました。僧侶等は還俗させられ、聖人は藤井善信という俗名を受けましたが、その名前を認めず、禿(とく)と言う姓を名乗り、(「はげ」を意味し、僧侶と非僧侶の中間的な髪で無戒の僧に対する蔑称)(聖人は、その上に愚をつけ、「愚禿」と称され)僧侶でも俗人でもない、非僧非俗であると宣言されました。
流罪先の過酷な環境で、流人はそこで死亡するものとされてきました。でも、政冶の中心からは離れていたので、そこの住民達から流人等は援助を受けることが多かったのです。いずれにしても、聖人は、恵信尼と結婚し、六人の子供をもうけました。恵信尼は、娘の覚信尼に宛てた書状を通じて最もよく知られています。これらの手紙で恵信尼は歴史上の出来事について語っており、聖人が比叡山に居られたこと、聖人の宗教的悩み、それから結局法然上人の弟子になられたことの裏付けになっています。恵信尼自身は献身的な伴侶であり、親鸞聖人を慈悲の菩薩である観世音菩薩の化身と思われていたようです。また、かなりの資産と教養を備えられた婦人で、学問もあり、使用人がいた土地を所有しておりました。
親鸞聖人の結婚に関しては、十七世紀ごろから聖人の伝記の中に真宗派内に広まっていた伝えの所為で色々な説があります。法然上人を信奉する関白九条兼実(かねざね)は、上人にお弟子を結婚させて、仏教徒の禁欲の戒律を破ることで、阿弥陀様の無条件な慈悲心を実際に示して下さいと懇願したと言われています。法然上人に選ばれた親鸞聖人は、師の命に従い兼実の娘、玉日姫を娶られたと伝えられています。姫は息子、範意をもうけられましたが、流罪になった親鸞聖人に随行しなかったとされています。さらに聖人の書簡に信者等に「いや女」の息子である、即生房を援助してくれるようにと依頼されています。この中で強く要請されていますので、この方を聖人のもう一人の息子かもしれないと考える学者もいます。
これらの伝承や学説の基になったものは、六角堂の中で聖人が瞑想された時に得られたと言われている親鸞聖人のビジョンです。最も初期の伝記でよれば、この夢のお告げを得たのは1203年で、救世観音が現われ、戒律を犯して、仏法を伝道する聖人の伴侶として女性の姿を取ると親鸞聖人に約束したとされています。特定の年代が引用されていますが、元の文書(親鸞聖人が書かれたこの夢のお告げについての記述の写し)は、日付がなく、聖人のご結婚について人々が推測するきっかけになっています。
親鸞聖人の結婚は、この夢告に関する伝記の見地あるいは恵信尼との結婚に関する話を採るにしても、聖人の行動理念に基づいたものでした。当時、妻帯したり、同棲したりする僧侶がいましたが、彼らの行動は規律を破るものでした。親鸞聖人は、阿弥陀仏陀の本願に対する完璧な信頼を示す事として結婚の教義上の根拠を与え、末法の最後の時代に戒律の理想が得がたく、したがって、不適当であったと言う事実を教えておられます。
越後に流されていた間、仏法を広げようとする聖人の努力については、記録がほとんどありません。一人だけ聖人の教えに帰依した人が記録に残っています。聖人の流罪がとかれた時、家族と共に、関東に向かわれ、鹿島(今の茨城県)地方の稲田の町に定住されました。そこで、聖人は、僧侶でも俗人でもないと言う生活様式を採られ、農民と一緒の普通の生活を送る傍ら、み教えを広めつつ、約20年を過ごされました。聖人は僧侶の地位が剥奪されていましたので、僧侶の特権を持っていませんでした。しかし、使命を持った人であったので、聖人は単に普通の俗人ではありませんでした。
以前関東に行かれた際に、聖人は、仏法の真実を切望する大衆に出会われました。聖人にとって、流罪が、政府の厳重な監視に影響されない地方でみ教えを共に戴くよい機会であると理解されていました。疫病や飢饉、干ばつなどの脅威にさらされている地方で生き伸びている人々が、命のはかなさをいやと言う程体験していたのです。従って、人々は、阿弥陀仏の本願の慈悲と希望の教えを率直に受け入れました。聖人は、あらゆる階級の人々、猟師、農民、商人や武士さえもひきつけました。
信心に基づく新しい集団(僧伽、さんが)の基礎を築き上げた聖人は、60歳の時、理由は不明ですが、京都に戻り、信者との文通や訪問を受けたりして静かに余生を送られた。手紙をやりとりすることで、聖人は、み教えについての多くの疑問や発展途上のさんがで起こる論争に対処されました。あらゆる困難の中で最も大きなな問題は、信者間の論争の解決に聖人の名代として親鸞聖人が派遣された長男の善鸞を勘当することでした。善鸞は、父親から特別な教えを受けと称し、父の息子として権威を主張しようとしたのです。聖人は、其れまでに聞かれた言い分および非難を整理された結果、信者の信頼および尊敬を維持するために、息子と縁を切らなければならないという結論に達されたのです。 
一見引退とも見られた京都居住の間に、聖人は、ご自分の思想の基礎と内容を表す多数の著述をされました。聖人の代表的著作は、顕(けん)浄土(じょうど)真実(しんじつ)教行證(きょうぎょうしょう)文類(もんるい)、略して教行信証です(以下、本典)。この書は、インド、中国、朝鮮および日本で信仰の伝統を育成してきた多彩な師の教えを引用され、親鸞聖人のみ教えの基本となる教義を概説したものです。聖人は、より広い範囲から種々の教典を利用されましたが、ご自分の思想形成の根源として、これらの師のうちから七高僧を選ばれました。即ち、印度の竜樹(りゅうじゅ)大士(西暦150-250)と天親(てんじん)菩薩(ぼさつ)(4,5世紀)、中国の曇鸞(どんらん)大師(476-542)と道綽(どうしゃく)禅師(562-645)および善導(ぜんどう)大師(613-681)、並びに日本の源信和尚(げんしんかしょう)(942-1017)と法然(ほうねん)上人(1133-1212)です。
この主要な著作は、実際には完成することはなく、絶えず手を入れておられた状態でありましたが、このほか親鸞聖人は、注釈の書物および師のみ教えを歌える形式にした、詩である和讃(和語、日本語による歌)を表されました。聖人の最も学術的著作である本典は、漢文で書かれていますが、他の著作および手紙は、教育のない者でも解るように日常使われている言葉で書かれました。これらの書は寄り合いなどでも読めましたが、教行信証は、指導者らが学べるものであったと言えるでしょう。これを使いやすくする為に、現代語訳もあります。
親鸞聖人は、新しい宗派や宗教を始めたりすることを望んだり、意図されなかったかもしれませんが、師のみ教えを正式に文書に残され、これらの著書は、成長の途中にあった宗教的伝統の礎になりました。聖人が(教団のような)組織を作る意図が無かったことは、ご自分の後継者を指定せず、どんなお勤めを実行すべきかに就いて詳しく示されなかったという事実から明らかです。唯、信心を持つ人は、阿弥陀様に抱かれ、必ず救われることに感謝する以外の動機を持たないで、念仏を称えなさいと言われただけです。
親鸞聖人は、九十歳のお年で、1262年の11月28日、京都において、舎弟尋有の宅で安らかに遷化(逝去)されました。息女覚信尼がお傍で看取られ、息男の益方入道と数人の信者達の見舞いを受けました。
親鸞聖人がどのような方であられたかについては、数多くの言い伝えが残っています。しかし、聖人が仏教の深い理解と悟りへの路を求められた最初の時期から、どのように歩まれたか、その手がかりをつかむのには、私達は、聖人がご自身について語られている文章から推察するのが一番良いと思います。
親鸞聖人は、当時の修行僧等とは違って、ご自身の精神性の不安の起こる根源に遡られ、そこから人間性と宗教に対して師自身が現実的に得られた理解に基づいて、仏のみ教えを解釈されました。聖人は、仏教が目指すものは、私達が我欲に振り回される衝動や執着心を克服して、無我に達することだと悟られました。しかし、これらの衝動や執着心は、単に宗教の実践と自己啓発による努力だけでは、どんなに真心を込め、心を捧げた、苦行であっても克服出来ませんでした。聖人のなされた深い洞察から、宗教自身には、実際には、私達が他の人達から自分が優れているとか区別の意識を感じて、反って自分達のわがままな自我を唆し、育成してしまう危険性があることを見抜かれました。自己反省を通じて、どれほど自己が敬虔であっても、所詮は煩悩に悩まされるご自分であるので、唯一の悟りに到達する希望は、阿弥陀様の本願にあると悟られたのです。
親鸞聖人を理解する鍵は、善導大師が始めて述べられた二種類ある深い信心の教えです。宗教的意識には、二つの次元があると見るのがこの教えです。一方では、私たちは、深い精神的なレベルでの不浄のために自分の努力で悟りを得ることは不可能であると観念します。他方、私たちの不浄と不完全さをより深く意識すればする程、私たちは、阿弥陀仏−その光は私たちの暗闇にいる心を照らします−のお慈悲に素直になれるのです。善導大師は宗教的意識のこの二つの相反する点について明言されましたが、親鸞聖人は、ご自分の体でこれらの教えを捉えられました。余りにも聖人の体験が強力でしたので、師は、仏教での宗教生活について新しい理解に到達され、今まで観念的であったみ教えに具体的な中身を与えられたのです。  
聖人には、比叡山での修行に行き詰まりを感じられた体験があり、またそこでご自分に課された義務を果そうと二十年間真摯な苦闘をされましたが、その御苦闘のためにみ教えの解釈に、深みと創意が加わりました。聖人の生活は、ご自身の悪(煩悩)に対する深い自己反省と仏の条件をつけない、一人として見捨てる事のない慈悲に抱かれることに気付くことの両方をあわせたものでした。親鸞聖人は、決してご自分を皆のお手本にしなさいと胸を張って言われるような方ではありませんでしたが、私達が精神性の面で成長し理解する際の案内役になって下さいます。
聖人の素晴らしい点は、ご自分のみ教えがどこまでも自身の精神的な体験をそのまま映し出されていることです。単に定説を慣例に従って言い換えだけのものではありませんでした。親鸞聖人は師のお考えを確立するに当たって広範囲の資料を参考にされましたが、このような各種の文献を私達が読んだだけでは、聖人の到達された結論に行きつくことはできません。ご自身の得られた体験があるので、これらの資料が更に意味深いものになったのです。
親鸞聖人の持たれた二つの相反する形の体験に就いて、ご自身のお言葉を通じて幾つかの例を挙げます。 聖人は、ご自身が不浄な心を持つ者であると、あからさまに告白されています。
浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし
浄土真宗に帰入するけれど、外面は真実らしく見せて、内心はうそいつわりのわが身であって、自分には真実の心はなく、清浄の心もさらにない。
外儀のすがたはひとごとに 賢善精進現ぜしむ 貪瞋邪偽おほきゆゑ 奸詐ももはし身にみてり
誰しも外面の姿は愚悪怠惰を隠して、賢善らしく見せてはいるが、内心には貪欲瞋恚とそれにもとづく邪偽が多く、人をたぶらかすような心が数多く身に満ちている。
親鸞聖人はご自分の邪悪の心について単に一般論からさらに深く追求され、つぎのように慨嘆されました。
是非しらず邪正もわかぬ このみなり 小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり
物事の是非も知らず邪正も解らない愚かなわが身である。小さい慈悲さえもないけれども、名聞利養のために人の師となることを好んでいる。
更に、
まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべし
しみじみと心から思い知らされる。なんと悲しいことであろうか。この愚禿釈の親鸞は はてしもない愛欲の海に沈み、名声と利得の高山に踏み迷いながら、浄土にうまれる人 のなかに数えられることを喜ぼうとせず、仏のさとりにちかづくことをうれしくともお もわないことを、本当に、恥じなくてはならない。心をいためなくてはならない。
親鸞聖人は、自身の人間としての能力と洞察力に限りがあることを認識された方でしたが、念仏が真実であることには、確信されていました。
善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。」(歎異抄・後序)
私は善悪の二つについては全く知りません、というのは、私が仏さまのような明晰な判断力を持ち、善悪をはっきり認識できるならば、善と悪について知っていることになりましょうが、実は私は煩悩をいっぱいもって持っている凡夫で、私の住む世界は不安に満ちた無常の世界。そういう私が、どうして善悪について確かな認識を持つことができましょうか。およそこの世界で人間がすることは、すべて空しいこと、ばかばかしいこと、真実のことは全くありません。ただ念仏のみが真実である。
ここで親鸞聖人ご自身が体験された信心について注目しなければ、聖人の全体像を示したことにならないと思います。聖人はご自分の能力や真実を見抜く力に就いて割り切っておられましたが、阿弥陀様のお慈悲を自身で体験されたことやご自身の生活にとって阿弥陀仏がどのような意味を持つかについては非常に明確でした。ご自分の体験に就いて親鸞聖人は、次のように言われています。
愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行(ぞうぎょう)を棄てて本願に帰す。(教行信証化身土巻 百十八)((現代語訳「愚禿釈の親鸞は建仁元年の歳、(千二百一年)「それまでの自力の雑行を棄てて本願に帰いました。」
そして法然上人の名だたる弟子の一人として、聖人は法然上人の著「撰択集(せんちゃくしゅう)」を写し、師の肖像を描くことを許されました。その際の喜びを次のように残されています。
慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、まことに師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。(教行信証化身土巻 百十八)
なんと喜ばしいことであろう。いまわたしは心を広大な本願の大地にうちたて、思いを不思議な真実の海にまかせている。深く如来の慈悲の広大を知り、師の教えのご恩に報いたい思いはますます重くなるのを覚える。
親鸞聖人は、先達の高僧等が書かれた書を学ばれ、み教えの深さに気付かれた時に、絶えず数々の感想を述べられています。この御感想が聖人の正信偈(しょうしんげ)(信心の歌)の基になりましたが、正信偈は、浄土真宗信心の概要をまとめたもので、多数の真宗信者が毎日称えています。師が本願を悟られ、阿弥陀仏のお慈悲にあって喜ばれたことが、聖人の勇気の源になりました。ご自身が不浄で、知識も不足していることは、はっきり解っておられましたが、阿弥陀様のお慈悲を信じて,師のみ教えに関しては,毅然とされ明解でした。聖人は、「親鸞におきては」とか「親鸞は」と前置きをされてから、御意見を述べられていますが、これは、「親鸞としては」とか「私の考えでは」と言う様に解釈できると思います。聖人は、今日の言葉で言えば、「(大胆に行動され)ずけずけ言う」ことを躊躇されませんでした。これらのご意見を拝察しても、必ずしも総ての人々が聖人に同意することはない事をご存知であったことが解ります。それでも、師は決してもったいぶった、独り善がりになることはなかったのです。自己中心にならず、しっかりとした自覚を持っておられました。
親鸞聖人は、聖人の教えが真実であることを確信されておりましたが、他の人が皆、師に従えとは要求致しませんでした。又、聖人と意見が違ってもそのような人達を非難するようなことはありませんでした。従って、師の教えについて問われると、聖人は、これは私の信ずる事であって、何を信ずるかは−「面々の御はからひなり」−あなた方めいめいが自分で決める事ですと答えられました。
親鸞聖人のもとを去った弟子との論争の時、聖人は「親鸞は弟子一人ももたず候ふ。」と宣言されました。師に忠実な弟子達に、聖人がかっての弟子に与えた本尊・経文を取り返えす事は出来ないと言われ、その訳は、親鸞聖人の信心もその弟子の信心も同じく阿弥陀仏から戴いているからであって、聖人の持ち物として取り戻す事はできないと説明されました。(歎異抄第六章・口伝鈔第六章)
親鸞聖人が宗教上の信仰と人間関係についてどのように取り組んで行かれたかは、私達が真宗の信仰とそれに基ずく生き方を理解する上から大変重要です。聖人にとっては、人が頭では、お浄土に参らせて戴くことを信じていても、死後の世界がどうであるかについて、自分が持つ曖昧な気持ちを表しても構わなかったのです。聖人が正直に、隠さず、御自分をさらけだされたので、他の人々は皆、自由になれたのです。人を教える身であって、果たして何人が自分は、名声と利益を求める我欲のために教えているのですと認めるでしょうか?聖人には、権威主義・教条主義や支配・優越感を持たれる傾向は全くありませんでした。聖人は、弟子達を平等な仲間として遇され、お話しされるお言葉にも表れていました。聖人にとって、弟子達は、仏の道を共に歩む御同朋・御同行(おんどうぼう;おんどうぎょう)であったし、私達も同様です。
親鸞聖人のご人格が最も明らかに表れているのは、歎異抄第九章で、師唯円房と出逢いです。ある時、唯円房が親鸞聖人に向かって、私は、念仏しても、信心を持つ者なら当然抱く筈の、早く浄土へ行きたいと言う喜びや望みを感じませんと訴えました。親鸞聖人のお答えは見事でした。聖人は、直ちに、私、親鸞も以前、同じ問題と疑いを抱えていたと言われ、唯円房に安心しなさいと答えられました。次いで、阿弥陀様は私たちがどういう人間であるかをご存知で、私たちのような者の為だけに仏の本願を建てられたのですと説明されました。(歎異抄第九章)
法然上人の伝記の中にも同じ様な場面があります。弟子の一人が法然上人のもとに来て本願についても、お浄土に参りたいと言う望みについても疑いを持ちませんが、「とくまいりたきこゝろの、あさゆうはしみじみともおぼへずと仰候」(「朝な夕なに急いでそこに参りたいとも思いませんが。」)と述べたのに対して、法然上人は次の様に答えられたと伝えられています。「まことによからぬ御ことにて候。浄土の法門をきけども、きかざるごとくなるは、このたび三悪道よりいでゝ、罪いまだつきざるもの也と、経にもとかれて候。又此世をいとふ御心のうすくわたらせ給にて候、. . . .」 (「それは、まことに良いことではありません。大経にも浄土の教えを聞いても、聞いていないのと同然になる者は、まだこの三悪(地獄・餓鬼・畜生道)に満ちた世の中から抜け出て、自分の罪から逃れ得ていない人であると説かれています。 また、この世をそんなに嫌っておられるわけでもないでしょう。」)(法然上人行状絵図 第二十三 御法語 巻三 一六二ページ)
私たちはこの両方の出来事を比べてみますと、浄土真宗の伝統外の人々を引き付けた親鸞聖人のお人柄の高さと、人間関係が判ります。聖人は、他人の問題をご自分のものとして親身になって見ることができたのです。決して人の上に立って、人々の誤りを指摘されるような方ではなっかったのです。聖人は、誰も見下したりせず、誰にもご自分の持つ表準に達するようにと要求されることはありませんでした。聖人は、ご自分の弱点や限界をためらいなく認められましたが、同時に師が自ら体験されたことについては、自信を示されました。
親鸞聖人にとっては、本願はすべてのものとの比較や区別を許さないものでした。その点、次のように、述べられています。
弘誓一乗海は、無礙無邊、最勝深妙、不可説不可稱不可思議の至徳を成就したまへり。
本願の誓い−すべての者を救って捨てない阿弥陀仏の誓いを説く教え−は、なにものにもさまたげられない、限りがなく最も勝れた、深遠な、説くことも言い表すことも思い計ることもできない、無上の徳を成就されました。
金剛石のような信心は、絶対的で他に比べようがありません。親鸞聖人が本願が至上であると理解されていた内容は、教行信証の中のお言葉にありますが、これは、聖人の著作や宗教全般に於いて、信心、つまり、真にお任せすることについて書かれた中で最も大切なものの一つです。
よそ大信海を按ずれば、貴賎緇素をえらばず、男女老少をいはず、造罪の多少をとはず、修行の久近を論ぜず。行にあらず。善にあらず。頓にあらず、漸にあらず。
定にあらず、散にあらず、正觀にあらず、邪觀にあらず、有念にあらず、無念にあらず尋常にあらず、臨終にあらず、多念にあらず、一念にあらず。たゞこれ不可思議、不可称、不可説の信楽なり。たとへば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬は、智愚の毒を滅するなり。
いったい、海のように広い大信について考えてみると、それには、身分の上下や,出家・在家のへだてなく、男女、老幼、の別なく、犯した罪の多少ともかかわりなく、 修行期間の長短も問題とならない。それは、自分が行う行でもないし、自分が行う善 でもなく、また自力ですみやかにさとる教えでもないし、漸次さとりに近づく教えでもない。心静かな観想によるものでも、普通の心で行なう善でもなく、正しい観想でも、まちがった観想でもなく、姿・形のあるものを 観想するものでも、姿・形のない ものを観想するものでもない。平生のきまった作法によるものでも、臨終の作法に よるものでもなく、数多く念仏するのでも、一遍とかぎったものでもない。それはた だ、思惟を超えた、口にも文字にもあらわせない信楽なのである。たとえば、不死の 薬が良く一切の毒を消すように、如来の薬はよく智者や愚者の自力の毒を消すのである。
私達は特に、最後の語句に注意すべきです。本願は私たちの持っている知恵や無知の害を無くしてしまいます。私たちは当然自分の無知を乗り越えようとしますが、知恵の持つ害に気がつき易くないのです。しかし、これこそ親鸞聖人が際立っておられることを示しています。聖人は、私たち自身がつくろう外見と見せかけを見破られ、私たちが他人に対して優位に立ち、権力を持ち、支配しようとする姿勢を見通されました。聖人は、阿弥陀さまの本願の教えに表された精神性の理想像に照らされ、さらされたときに、このような見せかけの姿勢を他人でなく、主にご自分の中に見られていたのです。 
第4章 浄土経のもつ全く新しい教え 

 

親鸞聖人が本当に歴史上、宗教上に果たした意味について、私たちは、仏教の史実の中で捉えることが出来ます。広い意味で言えば、聖人は、絶えず広く行き渡って行く仏の慈悲の規模と深さを代表する方です。当時の鎌倉時代(1175−1232)に、仏教は、それまで主に出家制度下で選ばれた特権階層の運動から、次第に、人生経験や知的・精神的な能力の如何に関わらず、すべての人々に希望を与える宗教へと変貌して行きました。大乗教の初期でさえ、より広い範囲の人々を受け入れるようになり始めたとき、苛烈ないざこざがあったと言う証拠があります。旧宗派の人々は、この新改革者の教えを自分たちの地位を脅かすものと見なし、偽の堕落した仏教であるとして非難しました。
親鸞聖人の時代にも、師である法然上人が広められた浄土経の教えに反対する当時のエリート教団権力者たちが同様な争いを起こしました。この新しい教えに反対する末法時代の人々のことを、聖人は、目も、耳も持たない人々のようだと記されています。実に、阿弥陀仏の限りない慈悲の本願(宣言)によって念仏を信ずる心さえ持てば、全ての人々が涅槃〔悟り〕に達する道が開かれたのです。これによって、特権階級の密教と顕教をあわせもつことで知られた、尊大な真言宗・天台宗寺院の教義、修行、儀式の込み入った体系が余り必要でなくなってしまったのです。
往々、宗教は、人々を善人・悪人、偉い人と劣った人、救われた人と救われない人達に分類する傾向があります。それに対して、人はみな実質的には平等で対等であると言う教えでは、人々の我欲や教団の地位が脅かされるのです。人々は、自分達が偉いと誤って思い込んで我欲を伸ばしたり、宗教教団は、何か特別な精神的な地位とか特権があると称して、人々を支配したり操ったりしたがります。仏教でも教団が制度化するにつれて、自分達は特権のある人間であると思う傾向が出てきました。
浄土経の伝統は、歴史上の型破りで、道を求める人々に易行道(より容易な道)があることを提案しました。中観学派の仏教哲学者であった竜樹大士は、著述のなかでこの点に留意せよと繰り返されたと伝えられています。後に、中国の高僧曇鸞大師が提唱した他力と自力の区別に見られるように、仏は、弱者や能力の低い者に手を差し伸べられたのが分かります。その後、仏の御名を唱える(念仏)ことが阿弥陀仏の第十八願の意図にぴったり合うお勤めになって行きました。道綽禅師は、本願が念仏を実践するお勤めのことを意味していると解釈されました。古代では、仏の徳は、御名前に宿っていると考えられていました。この説は、名前には、人の徳を表すとか代表すると広く信じられていたことに基づいていました。
名号を念仏するお勤めが定着するにつれて、出家制度が独り占めしていた宗教界にひびが入り始めたのが窺えます。中国の浄土教の先達である道綽禅師は、浄土道が特に末法(仏の教えがすたれ、教法だけが残る最後の時期で、中国では西暦552年に末法が到来したとされています。)の時代に向いていることを示されました。したがって、この時代では、この世での煩悩を取り除かなくても、救いが得られることになっています。罪を犯した者でも希望が持つことが出来ます。善導大師は、道綽禅師の教義を取り上げ、その基本となる原理を系統立てた観経疏(観無量寿経の注釈)によって浄土教の教えをさらに強化されました。師は、念仏を正しい、即ち真のお勤めであると確立されましたが、これは、そのお勤めが二通りの深い信心に基づいており、一つは自分の業の悪に気付くこと、およびこれに相当してその悪を受け入れて下さる阿弥陀仏の慈悲に気付く場合にそうでした。善導大師は、難しい出家の行に比較して、一般の人々も末世では仏の慈悲の対象であると言う原理を確立されました。
この教えは日本に伝えられました。仏教が日本に受け入れられ、順応するのには、永い時が掛りましたが、やがて一般の人々の生活に浸透していきました。この順応の過程で、仏教は少数の人たちにとっての学問的な、出家僧や貴族のカルト(新興宗教)から大衆に希望を与えるみなもとになるものに転換していきました。このことに気付かれた法然上人(1133-1212)は、独立した浄土宗を打ち建てようと決心されました。上人は危機と変動の時代に苦労されましたが、当時浄土教は、困窮した大衆に生気に満ち、はっきりとした生きる希望を与えました。鎌倉時代の日本では、混乱の時代であった為、人々は世のはかなさに打たれ、戦争と暴力によって生活の崩壊を体験するにつれて、自分達の生活についてもっと深く考えるようになったのです。この事情は、法然上人の父が殺害され、それで上人が出家されることになった例から判ります。父は、敵討ちよりも祈願してもらいたいと言い残されました。
このように仏教に転換がおこりましたが、これは、主として法然上人によって行われました。しかし、この以前にも時として空也(903-972)と良忍(1072-1132)のような僧が現れ、民衆の中に入り、一般の男女の人々に阿弥陀仏のお慈悲を授けられたことを忘れてはなりません。比叡山天台宗主で、著名な源信和尚(942-1017)も一般民衆を集め、阿弥陀仏に帰依するお勤めを行いました。和尚は、浄土の無上の喜びと地獄の恐ろしさを描写した、重要な手引きとなるものを「往生要素」に記述しました。しかし、注目すべき点は、この人達の活動から何ら主要な、或いは広範な運動へと発展しなかったことです。明らかに、この様な僧達の教えが一般民衆に対する慈悲の心から起こったのですが、天台宗に基づく考え方は、人々にとって理解するのが難しかったのです。 しかし既存の教団に挑戦しなかった為に、これらの僧は、迫害を受けませんでした。
しかし法然上人は、善導大師の教えに従い、自身の活動に教義上の裏づけを与えようとされました。当時の、古くからある教団がこれを知るところになったので、伝統を脅かす上人の教えを止めさせ、指導者たちを追放するよう、政府に要求しました。自分たちの人気が落ちるのを恐れて、この伝統教団は、法然上人の教えが仏教に混乱を招くだけでなく、社会に有害であると主張したのです。
何故、教団の人々がそのような厳しい努力をしてまで法然上人の浄土経の信徒の集まり(さんが)と教えを滅ぼしたり妨げようとしたのでしょうか?どうしてあの強力な精神的、政治的にも確立していた教団が上人を恐れたのでしょうか?浄土仏教の教えは、過去千五百年以上も存在していたのに、このような激しい反発が起こったことがありませんでした。
法然上人は念仏を唱えることに絞られましたが、善導大師の教えを全く根本的に新しく解釈し直されました。それは、お浄土に往生させて戴くことが出来ると心から信じて、仏の名号を称えさえすれば、それで良いというものでした。法然上人はご自分の考えをはっきり表す為に、選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)と言う書(阿弥陀仏が選択された本願の念仏についての要文を集めた書で、選択集と略)を著されました。上人の使われた選択(えらぶこと)と専修(称号のみを修める)のこの二つの主要な言葉は著名になりました。法蔵菩薩の本願を記した大無量寿経の伝えを基にして、上人は、この初期の菩薩(後に仏陀になられた)が理想的世界を作り上げようと努力されていたことに気付かれました。それは、生きとし生けるもの全てが悟りを達成できる世界であって、菩薩は、数多くの仏の世界にある色々な方法と理念の中から、浄土を作り上げる点で最も優れたものを絶えず選ばれていました。
法然上人は、このように仏教を宗教的信仰に達する重要で選び抜いた途であると考えられました。仏教の経文および高僧達は、仏教の教えとその実践は、本人の性格と時代に合ったものでなければならないと教えて来ました。したがって、善導大師が阿弥陀仏に専念・修行されたのに従い、法然上人は、仏の名号を称えることが佛の第十八願に示された、真実の行であると主唱されました。末世では、これだけが僧侶・在家を問わず浄土に往生できるもとでした。これ以外の形の行に従事したり、他の仏陀に帰依したりすることは、仏の本願に反することでした。一般に日本の仏教が普遍的な折衷主義であったのに比べて、法然上人は、浄土経の教えを、独特な教えであるとされたのです。
上人は、独特な教えであると言うことを、次のような「」で示した言葉使いで示されましたが、それは、選ぶこと「選択」、唯一のお勤め「専修」、一途に「一向」と言う言葉でした。又、念仏以外のお勤めでは、千人に一人でも浄土に生まれることは出来ないと、次のような言葉で主張されました、それは、拒否する「捨てる」、閉じる「閉める」無視する「差し置く」、却下する「投げ打つ」でした。
法然上人の教えは、暗に他宗の仏教をすべて捨てられましたが、それは、念仏によって聖人も俗人も一様に救済されることができたからです。唯エリートや精神修行の進んだ人々を救うだけであった伝統的な教えは、一方、念仏の教えを程度の低い路であると見なしていました。選択集には、法然上人が当時の仏教を批判し、それを劇的に述べられて読む人に感銘を与える一節があります。上人は、「若し阿弥陀仏が富、知恵、或いは徳の高いことが浄土に往生できる資格であるとされていたとするならば、それを成就できる人は少なかったであろう。」と言われています。どうしてかと言うと、大抵の人は、貧しく、学問が無く、徳も高くないのです。阿弥陀仏が求めたことは、簡単でも真心で佛の名号を称えることだけでした。称える人の人格ではなくて、名号のお陰で浄土に往生できるのです。上人の宣言文は、やや長いですが、それだけの価値があるので、下に引用しました。
「ゆゑに知りぬ、念仏は易きが故に一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。しかればすなわち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもって本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望を絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤の者ははなはだ多し。もし智慧高才をもって本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望を絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。もし多聞多見をもって本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望を絶たん。しかも多聞の者は少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもって本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望を絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒の者ははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。まさに知るべし、上の諸行等をもって本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざる者は多からん。しかればすなわち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんが為に、造像起塔等の諸行をもって、往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもって、その本願となしたまへり。」
このような理由で知ることができる。念仏は容易であるから、どんな人にもできるが、ほかの行為は行なうのに困難であるから、あらゆる人の能力に応ずることができない。それであるから、一切の生きとし生けるものを平等に往生させようとするためには、困難なものを捨て、容易な行為を取って、仏の本願とされたのであろうか。もしも、堂塔を建立し、仏像を造ることによって本願とされると、貧しく賎しい者たちは往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、裕福な者は少ないのに、貧しく賎しい者は非常に多い。もしも、智慧や才能のすぐれた者をもって、本願の対象とされるならば、愚かな智慧のない者は往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、智慧ある者は少なく、愚かな者は非常に多い。もしも、よく見、聞いて学問をしている者をもって、本願の対象とされるならば、わずかしか見聞きしないで、学問をあまりしていない者たちは、往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、よく聞いて学問している者は少なく、学問のない者は非常に多い。もしも、戒律を堅持している者をもって本願の対象とされるならば、破戒や無戒の人は往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、持戒の者は少たく、破戒の者は非常に多い。それ以外の行為をする者もこれに準じて理解することができよう。当然これで理解できたのであるが、以上の多くの行為をもって、本願とされるならば、往生できる者は少なく、往生しない者は多いことであろう。それであるから、阿弥陀如来が法蔵比丘であられたはるか昔に、あらゆる人びとに平等の慈悲をおこして、あまねく一切を摂(おさ)め入れるために、仏像を造り、堂塔を建立するなどの多くの行為をもって往生の本願とはされなかった。ただ称名念仏の一行のみをもって本願とされたのである。
この見方から導かれる上人の教えの内、上人の反対者等が痛く驚いた点が一つあります。それは、単純に信心をもって念仏を称えるだけで、仏教の哲学上の用語・意味やお勤めに必要な事項が判らなくても、浄土に往生できることが保証されていると、法然上人が言われた点です。これ等の事項は、信者が意識して理解しているか否かを問わず自然に自分のものになるとされました。 この点について、上人はかの有名な一枚起請文で次ぎのように言われています。
「唐土我朝(もろこしわがちょう)に、もろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。 また学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申してうたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず。ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。この外に奥ふかき事を存ぜば二尊のあはれみにはずれ、本願にもれ候うべし。念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。」一枚起請文(いちまいきしょうもん)
「私の説いてきたお念仏は、み仏の教えを深く学んだ中国や日本の高僧の方が理解して説かれてきた、静めた心でみ仏のお姿を想い描く観念の念仏ではありません。また、み仏の教えを学びとることによって、お念仏の意味合いを深く理解した上でとなえる念仏でもありません。阿弥陀仏の極楽浄土へ往生を遂げるためには、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」とおとなえするのです。一点の疑いもなく「必ず極楽浄土に往生するのだ」と思い定めておとなえするほかには、別にな にもありません。ただし、お念仏をとなえる上では、三つの心構えと四つの態度が必要とされますが、それらさえもみなことごとく、「『南無阿弥陀仏』とおとなえして必ず往生するのだ」と思い定める中に、おのずとそなわってくるのです。もし私が、このこと以外にお念仏の奥深い教えを知っていながら隠しているというのであれば、あらゆる衆生を救おうとするお釈迦さまや阿弥陀さまのお慈悲にそむくことになり、私自身、阿弥陀さまの本願の救いから漏れおちてしまうことになりましょう。お念仏の教えを信じる者たちは、たとえお釈迦さまが生涯をかけてお説きになったみ教えをしっかり学んだとしても、自分はその一節さえも知らない愚か者と自省し、出家とは名ばかりでただ髪を下ろしただけの人が、仏の教えを学んでいなくとも心の底からお念仏をとなえているように、決して智慧あるもののふりをせず、ただひたすらお念仏をとなえなさい。」建暦二年正月二十三日 
法然上人の考え方が知れ渡るにつれて、明恵(高弁 1173-1232)上人のような著名な僧がそれを痛烈に批判し、疑義を称え、摧邪輪(ざいじゃりん)[邪(悪な法の)輪を摧(くだ)く)を著しました。明恵は、法然上人が大乗仏教の主要な原理である空と矛盾し、仏教の戒律の基礎をなす菩提心の理想を捨てたと非難しました。親鸞聖人と鎌倉時代に同時代の日蓮上人は、人が念仏を信じ、お勤めすると、これは阿弥陀仏を称賛し、お釈迦様をないがしろにすることになるので、永久に地獄に落ちることになるぞと宣言しました。
私たちは、しかし法然上人の考えを当時の伝統を通じて見なければなりません。仏教では心を制することに重点をおいています。人は、努力して心から迷いを除き、悟りに達するよう心掛けます。伝統的には、仏教の行の前提は、人が悪を除こうとする努力こそ菩提心であり、悟りに達しようとするとする強い発願と決心でした。仏教の宗派によって、菩提心はその宗派のお勤めと関聯があります。菩提心が色々なかたちで表わせることを承知されていましたが、法然上人自身は、菩提心が現代には通用しないと撥ねつけられた出家・聖道の理想と同じであると、見なされました。ご自分の経験から菩提心と言う考えを捨て、念仏の易行道を強調されたと思います。上人は、弟子たちに、伝統的な出家・瞑想の伝統では重要であった、空、無我、全てのものとの連帯感あるいは一体感を通じて悟りに達せんとする発願心を起こせと強いることはありませんでした。法然上人が一途に力を注がれたのは、全ての人達が広く救われると言う希望を与えることでした。
結果として、上人を非難する人達は、「悟りに達し仏性を発願しようとする行を撥ね付けることによって、法然上人は、すべての仏教の行のなかで最も基本である考え方と意欲、つまり、悟りに達せんとする発願心を捨てしてしまった。」ととがめました。実際には、上人は、菩提心を利用することを拒否されたのです。
浄土経の伝統では、聖道行に関連する菩提心の考えは、観経の三心の教え、つまり、正当な仏教の行、或いは仏の名を唱えるのに欠かすことが出来ない教えにより拡充されました。これら三つの心は、至誠心・深心・回向によって浄土に往生しょうとする発願心です。観経に基づいて、浄土経の宗派が違っていても、善導大師は、帰依するあらゆる階級の人々がこの三心を持たなければならないと言われました。このままでは、この教えは聖道の考え方と同様困難であり、其のため、善導大師の教えは、法然上人の解釈とは違って、決定的な反応を受けませんでした。大師は、このような行をするのには心の準備が必要だと思われたのです。
法然上人は、正当に念仏を称えるのに三心が必要である点、善導大師と同じ意見でしたが、このことは、人が三心がどのような条件・理論に基づいているかを知らなければならないと言うことではないとされました。信者は、唯信心をもってお称名するだけで、その三心は、自然に其の行いに含まれていたのです。上人は、この三心が表わすそれぞれの名前を知らない人でも往生すると提唱されました。これ等のことを詳しく学び議論し得たとしても、このような知識が上っ面だけで、深みも現実性も無いことがあるといわれました。(法然上人「拾遺語燈録」真宗聖教全書 (京都:興教書院 1957.)IV 758頁)上人に反対する人達は、法然上人は仏教の行を単に言葉をつぶやくだけのものにしてしまったとみなしました。道元禅師は、法然上人の念仏に就いて、蛙の鳴き声みたいものだと言っています。しかし、明らかに上人は、浄土宗の教えが阿弥陀仏による救いとして最も下積みの罪深い大衆でさえ広く接することが出来ることを意味し意図されている点をよりどころにされていたことが判ります。
法然上人の教えは、明らかで判り易い道を求めていた当時のすべての人々の願を表しています。前述のように、上人はご自身の父が殺害された悲劇を通してこの道を求めるという気を起こされたのです。幼年で世間から隔離された出家の世界に入られましたが、上人は、不安に苛まされて日々の厳しい生活を強いられた民衆の苦境に同情され、戦乱で罪悪観に打ちひしがれ、自分達の究極の運命がどうなるか確かでなくなった状況について思い悩まれました。
法然上人の教えがどのような教義上の問題があったにせよ、上人は、念仏を唱えることを教えの中心の柱とされたことで、大胆に希望の門を広々と開けられました。上人のお考えが過激であったので,比叡山の僧侶達は上人の墓を暴いたりしましたが、親鸞聖人のお考えで明らかにされたように、一方で人々は、法然上人が自分たちの心の中では、阿弥陀仏の表れとして見ていたのです。法然上人の教えがあまり広く行き渡ったので、日蓮上人は怒りの余り逆上し、人々はそんなにだまされるのかと言ったくらいです。法然上人に反対する人々は上人の教えを邪教であり、非仏教・反社会であると批判しましたが、誰も法然上人がもたれた広い慈悲の心を疑えませんでした。
修行と言う点では、上人は、明らかに古くからある出家型の仏教団を否認され、京都市、吉水にご自分の集団を置かれました。上人は、過ちを起こした弟子の僧侶達に向かって、戒律に従い、秩序を保つようにと諭されましたが、あらゆる階層の人々を受け入れました。例え、泥棒、売春婦、男女を問わず、武士、農夫、商人であっても関係なく念仏を通して、阿弥陀仏の慈悲を差し伸べられました。上人はご自分の島流しを、他の人々に仏の教えを分かち合う機会が増えたと考えられました。
上人の没後、弟子たちは、法然上人がはっきり明言されなかった点について明確にする必要がありました。中には、批判に向かってより妥協的な人もいました。しかし、親鸞聖人は法然上人の改革を徹底的に受け継がれ、法然上人の教義的表現を深め、これまでの仏教の伝統との調和も図られました。
法然上人の教えを通して、親鸞聖人はご自身の心の中で阿弥陀仏の本願の慈悲の深さを体験されました。ご自身の心の内部での精神的悩みから、阿弥陀仏が人々を抱き、決して捨てたり放棄しないと言う全く慈悲の姿であると考えられるようになりました。親鸞聖人は、この信仰を基にして信心の本性の問題を取り上げ、善導大師の教えた、守らなければならない観経の三心から、大経の十八願の三心に注意を代えられました。このように変えられたのは、宗教のお勤めの意味を異なった位置から見ると言うことを表しています。親鸞聖人にとっては、念仏を称えることより、信心が重要な意味があったのです。必要な三心は、実際には本願の結果として、阿弥陀仏から私達に与えられるのです。三心は私達に阿弥陀仏のお心として与えられ、一心な信心の中に表れます。従ってこの信心が御名を称えさせているのです。信心を起こさせ、あるいは呼び出すのは、念仏を称えるからではないのです。信心が基本です。宗教を実践するのは、すべて阿弥陀仏の本願の真実に信を置き、確信として表される深い心の中の転換を示しているのです。
親鸞聖人が法然上人を深く尊敬し、上人が浄土教の真の意味を表されたと信じておられていた事は、明らかです。高僧和讃の中で次のように詠われています。
智慧光のちからより 本師源空あらはれて 浄土真宗をひらきつゝ 選択本願のべたまふ
弥陀の智慧を司る勢至菩薩の智慧力から源空聖人がこの世に現われて、浄土真宗を開いて、選択本願の念仏を宣布せられた。
善導・源信すゝむとも 本師源空ひろめずは  片州濁世のともがらは いかでか真宗をさとらまし
たとい善導大師や源信和尚の勧めがあっても、源空聖人の弘通がなかったならば、小国の末世に生まれた我々はどうして真宗の本願の念仏をさとろうか。さとることはできなかったであろう。
このような関係があったのですが、それにもかかわらず親鸞聖人は、法然上人が探求され残された問題点を深く掘り下げられました。大切な点は、浄土教に対して菩提心がどう関係しているかです。親鸞聖人はこの問題点を信心に関する教行信証の中で詳しく取り上げておられます。
聖人は、救いが誰にでも手に入れられることを強調された法然上人の教えを更に前進させました。しかし、親鸞聖人は、信心は自分で起こすのでも、念仏を唯称えさえすれば生ずるのではないと解釈されました。それは、阿弥陀仏の慈悲によって私たちの心の中にある仏性の働きとして与えられると解釈されました。私達の信心・信仰を偉大な菩提心と一体化させることで、法然上人のお考えの問題点を解決されたのです。
親鸞聖人は菩提心の意味を浄土仏教に取り戻されましたが、この構想の重要点を伝統的な自己志向から大きく転換させたことです。聖人にとっては、人間が自分で菩提心を起こそうとするのではなくて、私達を求める阿弥陀仏の持つ真の心と願望として私達の信心の中に明らかになるのです。親鸞聖人は、このようにして、菩提心の範囲をある宗派のお勤めに関係していた、限定され定義から、すべてに悟りをもたらそうとする普遍的な願いのビジョンに変えられました。信心とその基盤についての理解を成し遂げられたことで、親鸞聖人は法然上人のふさわしい後継者となるだけでなく、仏教の歴史全体からも聖人が重大な意義を持っていることを示しています。其のために聖人は新しい宗派、つまり、浄土教の真の宗派(浄土真宗)の宗祖として尊敬されるようになったのです。
浄土教の中心として菩提心の考えを再建することで、親鸞聖人は、信心の意味をより徹底的に他力の観点から解釈する道を開かれました。そして、法然上人の批判者が非難したように念仏が単にもぐもぐつぶやく言葉に終わることの無いようにされました。親鸞聖人にとってそのようなものではなくて、念仏は、人が仏の慈悲に抱かれており、決して捨てられのではないというあかしでした。それは、決してご利益を授かり救いを得るための道具ではなく、救いそのもののあかしでした。感謝することが信心の根本的な表現になりました。宗教が自己の利益を主張することから離れて、私達が頂いたものに気付き、頂いたものを他の人達と分け合う責任感になったのです。親鸞聖人はご自分の座右の銘として、自信教人信(自ら頂いた信心を他の人達と分け合いましょう)と言われました。
親鸞聖人がなされたことは、真宗仏教と仏教一般に使われている言葉や意味を新しく整理されただけよりさらに大きなことです。大事なことは、普通に理解されている宗教と言う言葉を新しく解釈されたことになります。念仏を称えることが救いを得る手段ではなくて、これは阿弥陀仏が本願を通して私達に与える救いに気付いて、それを言葉で表す手段であると、説かれました。親鸞聖人の思想の中では、宗教を実践することによってわがままな敵対心や支配力を助長するような余地はありません。感謝と慈悲が生活の本質であると言うことが、親鸞聖人の浄土真宗の教え、実に宗教それ自身の新しい、画期的な生き方の中心になっています。 
第5章 鎌倉仏教と親鸞聖人の自覚 

 

親鸞聖人や当時の日本の鎌倉時代の人々と同様に、私たちは目的を失った時代に生きています。仏教では、そのような時代を末法と呼びます。つまり、仏の教えが衰え、終末を迎える最後の時代を意味します。この場合、最早、以前に尊ばれた力強いシンボルが完全で意義があるものとして、多くの人の心を動かさなくなっています。このような時代では、人々の信念や決意をかき立て、全く心を動かすシンボルとか神話はあまりありません。鎌倉時代の仏教徒は、当時精神性に訪れた危機に瀕していろいろな解決策を模索していましたが、二十一世紀の今日、私たちは、当時の人たちが抱えていたと同じような問題に向かっています。
鎌倉仏教と親鸞聖人をよく理解するには、ここで一寸歴史について考えねばなりません。というは、歴史とそれが物語る人々の決意と誓約の例を通じて、現代の道を求める私たちは、自分たちの今後進むべき方向を決め、現代において決断する際の手引きを得るからです。親鸞聖人と同様に、私たちが住んでいる時代では、精神面を建て直し、現実の生活での意味と宗教面の遺産を解釈し直すことが必要です。
これを達成できる洞察を得ようとすれば、運動の起きた原点に戻り、当時の問題点を歴史と宗教の面から理解するしかありません。
日本の仏教で鎌倉時代は、独特な時代でした。この時代になって、以前仏教について認めた改革すべき重大な要素が、それぞれの性格と基盤を仏教の伝統に基づき、幅ひろく開花していきました。この時代とそれぞれの独自の人となりとの出会いで、各自が自分なりに自己を啓発し、仏教を、個性的に表しました。もっとも、これらは、最初余り広い範囲に影響を与えなかったのですが。
最近鎌倉仏教が、真に日本の仏教の改革であったかどうかという問題がかなり討論されていますが、ここではそういった論争に立ち入るわけにはいきません。しかし、これら宗祖たちの生涯および教えとそれらを代表すると主張する教団の発展との違いを考えると、それぞれ宗祖らの多様な考え方の中に、改革ないし更新の基盤がひそんでいました。
鎌倉時代に生まれた主な宗派の指導者は、法然、親鸞、および一遍(1239-1289)で、皆浄土教を代表していました。日蓮(1222-1282)は、法華経をたたえ、天台宗の教義を仏教の基盤としました。道元は、中国の曹洞禅を日本にもたらしました。当時のもう一人の高僧であった明恵(1173−1232)は、伝統的な教えに忠実に復帰しようと企てました。このような総ての努力の背景には、仏教の密教と顕教の組織がありました。これは、天台宗と真言宗の、当時の宗教界を支配していた寺院と荘園組織の念入りな行と華麗な儀式から成り立っていました。当時、宗祖・祖師であった人たちは、各々、改革者と見なされたか否かを問わず、独自の意義をもっていました。
鎌倉仏教の新しい宗派は長く続いた社会危機の時代に生まれました。この時代は、平安時代後期に始まり(おそらく十一世紀以降)、騒乱の波は首都の京都でも感じられ始めました。京都の北に聳える比叡山は平安時代の天台仏教の本山で中心地でした。西暦1052年は、日本仏教の歴史では、末法の始めと見なされるようになりました。この頃から首都京都の朝廷と多くの地方の豪族らと間のあつれきが激しくなりました。結局平家の一族が都の支配勢力となり、独裁政府を確立しました。平氏が自分たちの得た新しい勢力を当たり前と思い、驕りはじめると、源氏がやがて天下を取る兆しが出てきました。
源平合戦と言われた戦争は、壇ノ浦の悲しい合戦と幼い安徳天皇の入水による崩御で集結しました。この時点、1185年に鎌倉時代が始まったとされています。しかし、これで全て平穏になったわけではなく、朝廷は、勢力を取り戻そうと企み、これらの動きの結果、1221年に承久(じょうきゅう)の乱が起こりました。後に、十三世紀に至り、中国本土で得た勢力に乗じた蒙古の襲来が危ぶまれ、島国日本の混乱が高まりました。国内の政争と外敵(内憂外患)に加えて、疫病、飢饉、地震がしばしばあり、すべての人々がより悲惨になり、不安に陥れられました。主に上流階級で占められていた伝統宗教の教団も農民の労働に糧を仰いでいました。不安な状態のため、大衆は、その精神面での欲求を満たす新しい考えをもたらす、新らしい指導者が立ち上がることを望んでいました。 
既成の宗教が社会の支配階級による圧政やごまかしから解放されると、今度は、希望を呼び起こし人間の精神を自由に解放するものです。元々あった普遍的な本性と真実の探求心が現れてくるものです。私たちは、このような社会あるいは個人的生活に争乱の起きる時代を、決して喜んだり、望んだりすることはないでしょうが、人の精神面には良いことがあります。その訳は、悲しみの生活と世間に明け暮れる私たちを支えてくれる真実を求めて、私たちが自分の生活自体を深く洞察するようになるからです。
鎌倉時代は、日本にそのような現状打開に拍車をかけました。前にも述べた通り、仏教は様々な新しい精神性の道へと開花していきました。同時に仏教は、今までは出来なかった様式で、もっと大衆の手にたやすく届くようになりました。それまでの仏教は、世間から閉ざされていた貴族の占有物で、主に豪族か朝廷のためであったのです。
このような観点から、鎌倉仏教は、生き生きとした発展を遂げ、おそらく仏教の歴史上、最も人を鼓舞し、意義があった一つの出来事と見ることができます。 鎌倉仏教では、人々が銘々自分たちが長年親しんできた古くからの教えの中に意味を見出そうとしていたことが分かります。新しい型の仏教は、かって仏教を六世紀に朝廷の宗教として受け入れた国からの何ら補助を受けないで始まりました。新しく出てきたものは、あくまでも精神性の自由な表現でした。今日振り返って見ると、親鸞聖人および同時代の人々が決定した事柄、自分たちの命をかけた信仰、並びに此れまでの比叡山での快適な生活と自己満足を捨て、大衆の中で苦労し、難儀をする生活に飛び込んで行くように働いた心の中の力を理解するのは困難です。
法然、親鸞、および日蓮は弾圧を受け、首都から島流しの刑を蒙りましたが、一方道元は、自己に実質上の罰を与えました。歴史に向かって、鎌倉仏教の祖師たちは各々、当時の状勢に自分なりに対応していました。各々が自己の心境と理想に基づいた教えを発展させました。祖師らは、夫々、当時の仏教に不満でしたので、仏陀と同様に、自分達の快適な生活を捨て新しい生き方を探し求めるという個人的にはつらい苦難の道をとりました。主な祖師らが比叡山で天台僧として修行したために、今日でも天台宗は、鎌倉仏教の母であると称しているのは、興味ある点です。僧としての修行の傍ら、天台宗の精神的影響を吸収し、それにより自分達の到達した決断を強固なものにしました。しかし、天台宗が当時の政治と社会の悪と密着し過ぎて、真の精神的な導きとならず、人間として満たされないので、祖師らは、全て、そのような天台宗を教団としては受け入れないと感じました。
初期において、天台宗の教えは、仏教のすべての宗派を壮大に折衷総合されたかたちでまとめていましたので、主な仏教の伝統事項は、全部、比叡山で学べました。禅宗、浄土宗、真言宗(密教)および天台宗がありました。仏陀が生きとし生けるものを解放するためにもたらした色々な手段の一つとして、全ての教えに立派な意義があったのです。しかし、鎌倉仏教の師等は、このような折衷された仏教を打ち壊し、各自がそれぞれ自身にとって重要な唯一の真の悟りと思われた部分を選びました。
法然上人は、念仏に重点を置き、親鸞聖人は、この傾向を継ぎ、それにご自身の信心についての見解を加えました。一遍上人は浄土教の師でしたが、国内を巡回し、出会った人々皆に念仏の教えを施しました。道元は禅を選び、一方、日蓮は、天台宗を純粋な形で、法華経に一心に帰依することで復活させると主張しました。奈良の明恵(みょうえ)上人は、戒律と出家教団を復活しようとする保守的な意図を代表しました。
宗教で何時も出会う問題は、たとえ普遍の真実であっても、真実を探求していくと、人々はばらばらに分裂しがちです。一方、より実践的な宗教は、一般にもっと相対的で、他の教義に寛容な態度を採ります。天台宗を出て新宗派を建てた、鎌倉仏教の宗祖は皆、重要な共通する特徴をいくつか持っています。新しい宗派は、すべて人々の自由意志に基づいており、当時の伝統的な共同・氏族本位の宗教とは違って、信者は自分から決めて新宗派に加わりました。この新しい数々の宗派では、人々が一人一人解放される形をとりました。その際、平安時代の朝廷の仏教と違って、新宗派では、政治指導者に頼んでその教えを受け入れ、布教するのを支援してもらうよう働きかけませんでした。しかも、仏の道に従うことを第一とし、単に社会あるいは政治的問題を扱うのではなく、精神性に専念し、基礎的な問題点として仏教の真実に傾倒したのです。この方針は、是までの仏教の主な勤めは、災難を回避したり、天恵を獲得したりすることで日本(実際には、天皇)を守るという、当時の伝統的な仏教宗派の考えとは、鋭く異なっていました。以前には、病気を治したり雨を降らせたりすることが、国と貴族が仏教を支援した重要なわけでした。 とは言っても伝統的な教団に止まった真摯な求道者と学者が多数居たことを忘れてはなりません。
新鎌倉仏教は、全く単純にした、わかり易い教えで大衆に接しましたが、決して安易なものではなく、かつての出家宗派が使った学者的な教えと仏教語を止め、仏教の中心をなす教えを判りやすくし、仏の教えを世間のあらゆる階級の人に伝えようとしました。仏の教えを単純化しただけでなく、お勤めも単純にしましました。これらの教えは大部分、大衆のための宗教であって、大衆は生活のため懸命に働かなければなりませんでした。農夫、猟師、漁師、商人にとっては、従来の出家制度での複雑で骨の折れる修行の時間などありませんでした。法然上人は、念仏を唱えるだけでよいと主張しましたが、その一方で日蓮は、それ自身十分な勤めとして法華経典の題目を唱えることを教えました。道元が座禅(座って瞑想)を唯一の理想であるとしたのに対して、親鸞聖人は法然に従って念仏を唱えることを唯一のお勤めとしました。これらの師と教えの訴える内容は、いつどこでも通用する普遍的なものでした。救われると言う望みからは、誰も除外されることはありませんでした。偉大な人間愛および人間の福祉に対する関心がこれらのすべての運動の背後にありました。たとえどんな階級でも、どんなに裕福、貧困であっても、どんなに無知でも、弱者であっても、皆すべての人に仏の慈悲が届きました。
最後に、恐らくマイナス要因と見なされるかもしれませんが、新しい運動は、夫々宗派別に分かれる傾向がありました。大乗仏教の概念が末法の概念と合さり、師はそれぞれ自分の教えこそが当時の仏教では唯一の教えであると唱えました。更に、他の形式の教えを尊重しても良いが、それらは真の悟りおよび最終的な救済に必要な保証をもたらすのに無効であると考えました。
法然上人は武士の出で、教えは、より率直でより決定的な特徴を反映していますが、大げさでもなく、また、好戦的でもありません。急成長する運動の責任者として、上人は、より威厳を保たれ、外向性で敬虔な行動をとられました。そして、慈悲心を持った人として登場しました。平安時代の仏教では、貴族階級が優遇されましたが、それと対照的に、上人の教えることは、特に、人々の道徳的・社会的地位にかかわらず、すべての人達を確実に救うことを目標としました。また、上人の人となりについて、伝統的に、情に訴える面が伝えられてきましたが、法然上人は、数世紀に亘ってこの情の面を伝えてきた伝承とは裏腹に、芯の強さがありました。この強さによって、上人は、比叡山当局が加えた迫害に耐えることができ、またその強さ故、最後に上人が島流しされる結果になりました。ほかの諸点の中で、この強さが、特に親鸞聖人のような弟子を上人に引きつけたのです。
法然上人の浄土教は一見歴史を否定するように見えます。即ち、念仏を唱える功徳で、人は、この苦に満ちた不浄の世界(穢土)とは別な浄土に生まれるのです。平家物語で強調する浄土教は、特に幼少な安徳天皇の死と海底の浄土へ入水する物語の中に、この傾向が例証されています。法然上人の教えは、私たちが現在苦しんでいる、ひどい現実の代わりに、別の世界のビジョンを与えてくれます。世俗的な生活の厳しさは、来世への「ウパーヤ(方便、巧みな教育手段)」によって和らげられるのです。方便は、背負っている負担が最も重く、この負担がどんなものか、たやすく表現しない人たちへの慈悲の贈り物です。
親鸞聖人がどのような社会・階級の出であるかというと、藤原氏の血統を引いた人で、聖人の教えの趣旨から貴族出身であることが判ります。聖人は、他の教えと戦ったり、ひどく非難したりしませんでした。もっと正確に言えば、ご自分の和讃と自己告白の中で示されたように、親鸞聖人は感情が豊かな熱血にあふれるお方でした。しかも、内省的で、もっと内向性でご自分の心の世界を突き止められました。
自身の態度と感情を深く内省し、聖人は、運命の問題にたいする手掛かりあるいは解決策を見出すように努力されました。後に示しますが、聖人は、自分が完全ではないと言う気持ちに何年も苛まれ、世の衰退を心の中でご自身のものとして受け止められたようです。聖人は、自身の心の来歴を見つめられ、その結果自分が不完全な人間であると感じた気持ちを、阿弥陀仏を信ずることで、ご自分の意識の中で納得されたのです。自身の心中を巡礼された挙げ句に、親鸞聖人は新しい出発点に立ち、不安および歴史の束縛から解放され、聖人は、この世で建設的な、また意味のある生き方をされることができました。
その後、35歳位から、政治上の流人として日本の辺地に行き、親鸞聖人は、20年間通常の世俗的な生活を送りました。結婚後、家族を養い、大衆に混じって念仏を教えられ、修行されました。老齢に達してから京都へ引退され、そこで引き続き、教え、書き、そして生活され、後の信者のために世に残す学問的遺産および書き物を作成しました。
法然の教えが、大衆の手の届くところまで救いをもたらそうとした点に特徴があるとすれば、親鸞聖人の教えは、その救いをもたらすことが心の中で現実にどう出るかに関心をもっています。法然上人が、救いの現実すべてが歴史を超越するとしたのに対して、実存主義の親鸞聖人は、自身の煩悩と我欲の葛藤の最中でさえ、阿弥陀仏の慈悲が確実に約束されていることを体験されたことで、救いを自己の生活の中に見出そうとされています。
道元(鎌倉時代の曹洞禅の宗祖)は、相当な学問および哲学的な造詣を持った藤原家の一人だったようです。早くから両親を失ったことで、道元は、命の短いこととはかなさをひどく痛感された方です。このはかなさの意識から道元の教えの主なテーマが生まれ、毎日が私たちの最後の日であるかのように私たちは、実行するべきであると主張して、精神修行を緊急に行う必要性を強調しました。しかし、道元は、教義を深く追求し、親鸞聖人が内省的であったのとは違った意味で、主観的であり、内なる心に向けられていました。道元は、亦非常に厳格な人で、宗教に厳格さを求めました。中途半端なやりかたに満足せず、信者は仏教に全身全霊を尽くすことを主張しました。道元が中国で禅師の如浄から学んだ、基本とする言葉は、「身心脱落、脱落身心」でした。
禅宗では、空あるいは人の本性を直接理解することで歴史を超越せんと試みます。末法の教義が歴史上の衰退を若干認めたとしても、禅は、人々には、瞑想と洞察を通じて人々が本来持つ仏性を悟りうる可能性があると基本的に楽観しています。歴史を超越することでその束縛から解放されてこそ、人々は混乱した世の中に落ち着いて生きられるのです。
日蓮は、鎌倉仏教の祖師等の中で最後に現れ、当時最も新しい人であったのですが、師は、しがない漁師出身でした。それで、下層階級出身であることを誇りにし、何とかして、上流階級出の仏教徒に対して自分を見せつける必要がありました。従って、日蓮は、他のどの師より批判的でより好戦的で、考え方は、客観的で、字義通りで、経文に基盤を置きました。指導者たらんと熱烈に望んだ人でしたので、世の中に平和をもたらすために、仏教と世の中を統一する根拠を求めました。更に、愛国者で、当時の他の仏教徒より一般的な社会情勢について良く知っていました。
日蓮は、日本への蒙古襲来の危機を感じ、此の危機によって、国民に警告し、真の仏教国に変えようという使命感に打たれました。日蓮は、歴史と対決した代表者です。彼は、悪を心中で認識せよと要求したり、直接に超越せよとは主張していません。むしろ、日蓮は、「歴史と向かい合って、自分の判断を主張し、かつ、災難を避けるために真実に忠実に従うように。」と要請しています。使命感の為に、日蓮の信者に歴史の真実を見極めよと言っています。創価学会のような日蓮に基づいた今日の現代教団は、日蓮の闘争性および政治的・社会使命に関する感覚を持ち続けています。
鎌倉仏教のこれらの様々な伝統は、各々、私たちの現代とその問題に精神的な考え方を与える源点として有用ですが、親鸞聖人の見地、即ち、ご自身の中で歴史とどう取り組まれたか、宗教的生活を深く個人的に自身でどう理解されたかという点に焦点を絞ると、私たちの時代に役立つ見方が出てきます。聖人が教義を解釈し直し、生活様式を変え始められたことをよく知れば、親鸞の教えの特色が、ますますはっきり判ってきます。自己の意識の中で、歴史と遭遇し、取り組むことで現実の認識につながります。これは、自己の歴史的真実を認め、受け入れることを意味しますが、同時に、それがあくまでも私たちの本性と運命そのものではないと理解しなければなりません。歴史そのものが私たちの宿命ではないのです。その歴史の中でまだ生きている間でも、歴史(自意識としての)の束縛から解放されて、私たちは目的と決意を持って生活できます(自己認識)。
私たちが仏陀の慈悲に抱かれていると親鸞聖人が確信された以上、現代において、私たち人間は、歴史を超越し、またそれを包むなにものかの表れであると知って、歴史の中で行動し参加してもよいことが判ります。そのように自分で明確に認識すれば、自分自身が完全でないことからくる絶望感、或いは世の中で持つ自分達の期待はずれ感から守ってくれます。守るだけでなく、そのような認識は私たちの一生を通じて生きていくときに頼る基点であり、その基点から、歴史上、文化上、および個人的な束縛があっても、私たちは、なお自由であるという逆説についてもっともっとはっきりした、深い見方が得られるのです。 
第6章 親鸞聖人と仏教精神 

 

親鸞聖人の教えは、時代と様式こそ釈尊とは違っていても、仏教の真の精神の復興と見なすことが出来ます。聖人が理解し解釈された仏教は、その早期の伝統とつながっています。この大切なつながりは、真実の探求に重点を置き、迷いを立ちきる知恵の剣と、仏教的生き方を起こさせ、救いが普遍的なことを明らかに示す、限りない慈悲の条理とから成っています。
知恵の剣
親鸞聖人の宗教的信仰は、日本では、師の法然上人と中国浄土教の高僧、善導を通して釈尊に遡ります。聖人の弟子の唯円房が編さんした素晴らしい宗教古典である歎異抄の第二条に、この親鸞聖人の宗教的信仰上の系統が、詳細に引用されています。
「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず」。
「もしも阿弥陀さまの衆生救済の願いが真実であるとすれば、そのことをあの『三部経』という経典で説いたお釈迦さまがまちがっているはずがありません。
この一節は親鸞聖人の出発点を仏教の高僧毎に、筋道を立てて辿っており、そのとき聖人が言われたことは、
「仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言しまふべからず。善導の御釈まことならば、法然のおほせそらごとならんや。法然のおほせまことならば、親鸞がまふすむね、またもてむなしかるべからずさふらうか。」
もしも『三部経』におけるお釈迦さまの説法が間違っていなかったならば、それを正しく解釈した善導大師の注釈書が間違っているはずはありません。そして善導大師の注釈書が正しかったならば、その善導大師の注釈によって正しい念仏の教えを説かれた法然聖人の言葉が偽りであるということがありましょうか。もし法然聖人の教えが正しかったならば、私があなた方に申しました念仏往生の教えもどうして間違っていましょうか。
親鸞聖人は、ご自分が釈尊の教えの真髄とそれを成就することを代表していると信じておられました。
仏陀という呼び名は、「目覚めた人」を意味し、梵語のボーディ(菩提)からきていますが、仏教は、どの宗派でも、釈尊が求められた悟りの成果に達する道を教えると主張します。釈尊は、命と生の根本的な真実を発見すべく、努力して修行し、瞑想されました。インド北部の釈尊王国の王子として、釈尊は、世の中で得られる物質的恩恵をすべて所持されていましたが、真実を追求する困難な難問に立ち向かう道を選ばれ、折角相続した王子の身分を放棄されました。二九歳から、三五歳で悟りに到達するまで、六年の間、絶え間なく、修行に集中された釈尊は、精神性修行のお手本となられ、以後、仏教が普及した所ならどこでも、アジアの至る所でこのお手本が広まりました。
悟り或いは知恵とは、私たちが生活と生命について持っている妄想や欺瞞を見通す事を意味します。このことが、教えを改革し、聖像を破壊する(偶像破壊)特徴があるために、仏教が今、私達の末法時代に適切であるわけです。これらの特徴は、親鸞聖人が出家制度の伝統と決別する動機になりましたが、仏教のこれらの点はめったに学究的ないし一般の注目を浴びません。
仏教には、仏教の信心と行の目標である知恵の特性を表す多数のシンボルがあります。知恵を意味する梵語の「智慧」は(「プラジャナー、Prajna)は、時には、魔法の珠、つまり、泥だらけの水溜りを清澄にする魔法の宝石に例えられ、泥の中で成長しても清浄な花を咲かせる蓮の花に例えられます。それは、門、流れ、灯り、目、鏡、雲とも記されています。智慧は迷妄を切り捨てる剣です。
仏陀の教えと行が根本的に目指す目標は、永遠の命、快楽、および物の所有を追求する人々が抱く自己欺瞞を突き破り、世の中で私たちを攻撃的にさせる我欲と貪欲に対して、ありのままに打ちかって行くことでした。私たちは、周りから働きかける競争・相反する色々な外部の力に囲まれておりますが、それらに縛られている誤った自我意識に打ち勝つことが、仏陀の教えの目標です。したがって、じつに文字通り、仏教は、「意識を高める」教えとして登場したのです。教えによって、自己批判の根拠が得られ、そこで、煩悩に振り回されることから真に解放され、自由になれる道が生まれました。その教えによる聖像・因習の破壊は、大胆でしたが、いまだに其の通り大胆なことです。教条主義の足かせからは、これらの足かせもまた自己欺瞞であるという仏教の基礎的な見地を理解することで、常に解放されます。
大乗仏教の「空」の原理には、私たちの限られた心あるいは私たちの表面的な経験で完全に理解できる絶対原理は存在しません。この見方は、宗教と同様に世の中においても重要な意味を持っています。絶対原理があると仮定すると、更に自分がそれを具体的に表すとか、所有することができるというもうひとつの仮定につながり、同じ人間の上に立つ権威を得ることになります。
大乗仏教でいう空、「シャーニャータ(sunyata)」の原理は神のお告げや神権を信用したり支持したりしていません。しかし、この空の考えは、神々の力やそれと人間が得る達成感との間に関連が無いとはねつける根拠になります。仏教の改革あるいは偶像破壊が、現代、大切なのは、それが、自己を更新する原理であり、大切な宗教的信心を意味あるものとするからです。長い歴史で培われた頑固な心と自己満足から信心を解放する努力が続いますが、その中で、現存する宗教はすべて、信者を道案内する原理を持っていなければなりません。ポール・ティリヒ(Paul Tillich)は、神自身以外の絶対者を認めないイスラエルの予言者達に由来するプロテスタントの教義に注意を向けなさいと言いました。この原理が西洋のキリスト教の伝統を改革する基礎になりました。仏教では、自己を更新する原理は、空の教理であり、絶対的な存在ないし概念がないことを暗示します。絶対性があると、智慧が決まりきったもので、変えられないと決めてかかるので、智慧の進歩が妨げられることがあります。智慧は、ありのままでいるだけでいいです。未来は開かれています。
すべての概念が空、つまり、からであるので、それ自身の本性を持っているものは存在しません。従って、教団も宗教の伝統もみな空です。この見方は、宗教が教団的および形式的な面をもつのを排斥するわけではありませんが、これによって、コミュニティー(地域社会)は、なにを優先し強調するかをきちんときめることができ、また、自分のコミュニティーから自由に援助を受けて、人の精神性が育成します。事実、仏教は、偶像破壊の古代の形であって、固定した、永遠の我欲を表す偶像を打ち壊し、恐れおよび神々への依存を表す偶像を打ち壊しました。(ここで、仏陀は人と神を教える立場になったことに注意。)仏教は、魔術と迷信の偶像を打ち壊し、カーストと階級による差別(東南アジアで、仏教僧侶が社会主義に惹きつけられた尤もな理由の一つ)の偶像を打ち壊します。
初期の仏教の八正道は、知恵に向かって前進の第一歩を踏み出しました。それは、事物をありのままに見る、「正見」の原理です。この原理は、自己批判の原理を組み入れることで、人は、永遠性または虚無主義の異端的な見解にとらわれてはいけないと強調しました。したがって、自分自身の考えという偶像にすら私たちはすがってはいけないのです。!
初めは、知識と愛着心に対するこの自己批判は、直接得た体験および対象物の世界に集中して向けられました。私たちが生命の肉体的・社会的な面にたやすく愛着を持ち、あたかもそれらが永久に続き、私たちの価値の源であるかのように思うことを、初期の仏教が批判しました。苦しみは、仏教の言葉では、本質的に心理的な苦痛で、楽しさから別れ、不快なものと遭遇しなければならないこととして定義されています。私たちが生活していて、様々な肉体的・社会的な面で楽しく自分をごまかしていたことから決別し、不滅の生命と永遠への私たちの望みを捨てて、代わりに無常ではかない現実に向き合い、絶対的原理を受け付けないことなど、これらのことすべてが偶像破壊につながり、人々を解放しましたが、これは、現在でも続いています。
仏教の自己批判および偶像破壊の運動が何世紀にもわたって進化・展開するにつれて、その適用する範囲が広くなりました。大乗仏教が現れて、仏教による知識の批判は、思考課程そのものを問題にするようになり、更に、真の知恵に到達するつもりならば、私たちの概念および区別さえが空でからであって、廃棄しなければならないとしました。龍樹の弁証的な否定の仕方が仏教でのこの考えの発展を最も深く表わしています。龍樹は、すべての考えが本質的に自家矛盾しており、その結果論理的な言い方では、現実を表さないと唱えました。大乗仏教宗派では、それぞれ、龍樹の自己批判的見方を維持したかったので、これらの宗派がみな仏陀から龍樹までの系統をたどることは驚くことではありません。仏教は偶像破壊の教えですので、非二元論が単に二元論の反対と見なされるようになると、それさえも非難します。
大乗仏教は改革を宗とする伝統であり、仏陀の真の精神を様々な様式で再建しようと試みました。この傾向が特に法華経において著しく、このお経では、sravakas(声聞、弟子、古代の小乗の信者)およびpratyekabuddhas(縁覚、師の教えによらないで悟りを得た人)がもったいぶったり、うぬぼれているのに直面して、誰でも救われると宣言された仏陀の「第二転法輪」が記述されています。このような人たちは、仏教の真実をすべて会得したと自己満足していた当時の人々を代表していました。このような人たちは、他人を大事にする社会的な大乗とは対照的に、非常に個人的な立場で仏教に接していたことを表しています。
法華経の重要な観点の根拠を形成し、中国と日本で仏教の方向を定めた大原則が二つありますが、これらは、一乗の概念および誰でも救われるという教えでした。第一の原理である一乗は、仏教に様々な教えがあるように見えても、仏陀は、本質的には、究極の教えが一つであると、宣言されています。この原理は、火宅(燃えている家)から(逃げる気のない)自分の子どもたちを逃げ出させるように、「車が数台ありますよ。」と誘うことで救いだした、情け深い父親の話の中に生々しく描かれています。子供一人一人に好みの車を約束しましたが、外に出て来た時、父は、はじめに約束したものより性能の優れた、同一の車をそれぞれに与えました。一乗の原理は、仏教の真実であるというどんな主張でも吟味する優れたもので、仏教のより程度の低い教えすべてに取って代わります。
誰でも救われる、救済の普遍性の原理は、仏教の真実を主張する場合は、いつも、その試験台となる重要な原理でもありました。自分たちだけがそのような達成に必要な資格があったと確信していた人々とは逆に、唯一の真実は、生きとし生けるものがすべて仏性に到達するとするので、これと前記の原理とは相互に関連しています。しかし、仏教の宗派のなかには、邪悪で、下劣な人たちは、仏性の素質を持っていないと考えた宗派もありました。
法華経に示された批判と改革の精神によって、後に中国、韓国および日本で仏教が進展するよう促されました。中国では、ティエン-タイ(天台宗)は、厳密な意味では、改革が行われたようには見えませんが、仏教の教えを組織化し、その幾つかのテーマおよび原理を見出そうとする段階で、将来の進展の出発点を確立しました。
法華経とその精神は教の中心として最高の位置に置かれました。これは、最初智(538-597) (中国の天台宗祖師)によって始められ、最澄(767-822)により比叡山に導入の際、日本でさらに入念に仕上げられました。法然、親鸞、道元および日蓮のような鎌倉時代の主な仏教改革者たちが、最初は、天台で学び、その重大な原理を吸収したことは重要な点です。
中国の唐の時代に仏教が学術的、学問的、形式主義的に傾倒した時に、禅仏教が、改革勢力として出現しました。この間、偉大な中国の仏教宗派が設立され、多くの著名な僧が現われました。しかし、仏教の考え方が難解なため、一般大衆は困惑し、精神性が盛り上がることはありませんでした。著名な達磨大師が中国に来て、当時の粱の武帝と問答した時の物語から、禅宗が、宗教にたいする自己満足をどれだけ批判したかが判ります。武帝が大師に「朕は寺を建て、布施を施して仏教を支持したが、どれ程の功徳を受けるだろうか。」と尋ねた時、「無功徳」と答えて立ち去り、9年間、達磨大師は、壁に向かって黙想したのです。仏教の真実は計算づくや褒美の問題ではありません。この達磨大師の精神は継続し、臨済宗始祖である義玄禅師(867年滅)に至って、恐らく最も鋭い、次ぎのような宣言をされました。
道流、你、如法に見解せんと欲得すれば、但だ人惑を受くること莫れ。裏に向い、外に向って、逢著すれば便ち殺せ。仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得、物と拘わらず、透脱自在なり。
[諸君、まともな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。内においても外においても、逢ったものは、すぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢ったら羅漢を殺し、父母に逢ったら父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺し、そうして始めて解脱することができ、なにものにも束縛されず、自在に突き抜けた生き方ができるのだ。] 
祇だ是れ平等、著衣喫飯、無事にして時を過ごす。你、諸方より来たる者、皆な是れ有心のして、仏を求め法を求め、、、、、、痴人、你は、三界を出でていずれの処に去らんと要するや。仏祖は是れ賞繋底の名句なり。你、三界を識らんと欲するや。你が今の聴法底の心地を離れず。
[わしの見地からすれば、なにもくだくだしいことはない。ただふだん通りに、着物を着たり飯を食ったり、のほほんと時を過ごすだけだ。君たち諸方からやって来る者は、みんな下心があって仏を求め法を求め、...愚か者よ、いったい三界を出てどこへ行こうというのか。仏とか祖師というのは、奉っておくだけの(?)名称だ。君たちは三界がどんな処かしりたいか。今説法を聴いている君たちの心を離れては存在しないのだ。]
このような禅仏教の傾向は道元を擁した日本の禅宗にもあり、道元は、政治勢力のある地域の近くに