法然

(時宗・一遍>転載) 法然1法然2法然3法然の教え浄土宗1
浄土宗2ご法語1ご法語2御歌浄土宗3「安楽集」・・・
 

雑学の世界・補考   

一丈の堀を超えんと思わん人は、一丈五尺を超えんと励むべし。
一丈は約三メートルで、その幅の堀を跳び超えるには、一・五倍を跳べるように努力しなければならない。私たちは一丈の堀を跳ぶには、それだけの力があればよい、と思っている。しかし、一丈の堀を跳び超えるには、それ以上の力を持たなければ確実に跳び超えることはできない。法然は、この言葉に続けて、「往生を期(ご)せん人は、決定(けつじょう)の信(しん)をとりて相励(あいはげ)むべきなり」という。極楽往生を願う人は、確信した念仏の信仰をさらに深めることに励まなければいけない、と説いている。「勅修御伝」  



法然1

平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧侶で、浄土宗の開祖。「法然」は房号で、諱は源空(げんくう)。幼名を勢至丸。通称黒谷上人、吉水上人とも。大師号は、現在「円光(東山天皇1697年)・東漸(中御門天皇1711年)・慧成(桃園天皇1761年)・弘覚(光格天皇1811年)・慈教(孝明天皇1861年)・明照(明治天皇1911年)・和順(昭和天皇1961年)大師としており、50年ごとにときの天皇より諡号を賜る。真宗七高僧の第七祖。浄土真宗では、源空を元祖とする(親鸞は開祖もしくは宗祖と呼ばれる)。弟子である親鸞は、法然を「本師源空」や「源空聖人」と「正信偈」「高僧和讃」などにおいて称し、師事できたことを生涯の喜びとした。

美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使・漆間時国(うるまときくに)と、母・秦氏君との子として生まれる。「四十八巻伝」などによれば、9歳のとき、源内武者貞明の夜討によって父を失うが、その際の父の遺言によってあだ討ちを断念する。その後比叡山に登り、初め源光上人に師事。15歳の時(異説には13歳)に同じく比叡山の皇円の下で得度。比叡山黒谷の叡空に師事して「法然房源空」と名のる。
承安5年(1175)43歳、善導の「観無量寿経疏」(観経疏)によって専修念仏に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み、念仏の教えを広めた。この1175年が浄土宗の立教開宗の年とされる。
文治2年(1186)大原勝林院で聖浄二門を論じ(大原問答)、建久9年(1198)「選択本願念仏集」(選択集)を著した。
元久元年(1204)比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は「七箇条制誡」を草して門弟190名の署名を添え延暦寺に送った。しかし興福寺の奏状により念仏停止の断が下され、のち建永2年(承元元年・1207)法然は還俗され藤井元彦を名前として、土佐国(実際には讃岐国)に流罪となった。讃岐国でも布教足跡を残し、香川県高松市にも法然を偲ぶ法然寺(京都の法然寺とは別)がある。4年後の建暦元年(1211)赦免になり帰京し、翌年1月25日に死去、享年80(満78歳没)。
なお、建暦2年(1212)1月23日に源智の願いに応じて、遺言書「一枚起請文」を記している。
法然の門下には証空・親鸞・蓮生・弁長・源智・幸西・信空・隆寛・湛空・長西・道弁らがいる。また俗人の帰依者・庇護者としては、九条(藤原)兼実・宇都宮頼綱らが著名である。

法然の思想の根底には、「選択本願念仏集」「黒谷上人語灯録」などには、「罪悪深重の衆生」「妄想顛倒の凡夫」などという表記が数多く見られるように、まず自分を含めた衆生の愚かさや罪といったものへの深い絶望があり、そこから凡夫である衆生の救済への道を探り始めている。
一般に、法然は善導の「観経疏」によって称名念仏による専修念仏を説いたとされている。法然の著書「選択集」では、各章ごとに善導や善導の師である道綽のことばを引用してから自らの見解を述べている。
法然においては、道綽と善導の考えを受けて、浄土に往生するための行を称名念仏を指す「正」とそれ以外の行の「雑」に分けて正行を行うように説いている。著書内で、雑行を行う聖道門の行者を盗人に例えたりするなど正行である専修念仏を行うことを強調する文面が多くある。その根拠としては「仏説無量寿経」にある法蔵菩薩の誓願を引用して、称名すると往生がかなうということを示し、またその誓願を果たして仏となった阿弥陀仏を十方の諸仏も讃歎しているとある「仏説阿弥陀経」を示し、他の雑行は不要であるとしている。
加えて、仏教を専修念仏を行う浄土門とそれ以外の行を行う聖道門に分け、浄土門を娑婆世界を厭い極楽往生を願って専修念仏を行う門、聖道門を現世で修行を行い悟りを目指す門と規定している。また、称名念仏は末法の世でも有効な行であることを説いている。
法然の称名念仏の考えにおいて、よくみられるのが「三心」である。これは「選択集」においても「黒谷上人語灯録」おいても見られることばである。三心とは「至誠心(誠実な心)」「信心(深く信ずる心)」「廻向発願心」である。
至誠心 / 誠実に阿弥陀仏を想い浄土往生を願うこと。また、一つに自らが救われたいと思う心の真実、二つに人を悟りに向かわせたいと思う心の真実をさしている。
深信 / 疑いなく深く信じること。次の二つがあげられ、一つに自身が罪悪不善の身でいつから輪廻を繰り返してるかもわからず悟りを得る機会がなかったこと、二つに罪人である自分を阿弥陀仏が救ってくれること。
廻向発願心 / 一切の善行の功徳を浄土往生にふりむけてその浄土に生まれたいと願う心。
三心の中でも至誠心と信心が多く語られており、廻向発願心はあまり語られていない。三心を身につけることについては、「一枚起請文」にて、「ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり」と述べ、専修念仏を行うことで身に備わるものであるとしている。
また、法然は念仏を唱える数についても言及している。このことについては、一念義と多念義という考え方がある。一念義とは、一度でも念仏を唱えさえすれば極楽往生は決定するということである。多念義は逆に普段、常日頃繰り返し何度も念仏を行うべきであるという考え方である。法然は、多念義を説いており、門徒の中で一念義を説く者がいることを嘆いている。一念でも十念でも優劣は無いという記述があるが、これはあくまでも最後の時のこととしている(「黒谷上人語灯録」-念佛往生容義抄)。日頃の念仏と最後の時の念仏についても優劣はないとしており、最後のときに近づけば日頃の念仏が最後の念仏になるだけだと説いている。
他力と自力については、他力の念仏を勧めている。自力は聖人にしか行えないもので千人に一人、万人に一人二人救われかどうかだとし、対して他力の念仏は、名を称えた者を救うという阿弥陀仏の四十八願を根拠として必ず阿弥陀仏が救いとってくださるとし、三心を持って念仏を行うべきとしている。
このように法然の教えは、三心の信心にもあるとおり、民衆に凡夫であるということをまず認識させ、その上で浄土に往生するためには、専修念仏が一番の道であるから勧めるから選択するべきだというものとなっている。
 
法然2

 

平安の末、長承2年4月7日(1133)美作国(現在の岡山県)久米南条稲岡庄、押領使・漆間時国の長子として生れました。幼名を勢至丸といいました。勢至丸が9歳のとき、時国の館が夜襲され、不意討ちに倒れた時国は、枕辺で勢至丸に遺言を残します。「恨みをはらすのに恨みをもってするならば、人の世に恨みのなくなるときはない。恨みを超えた広い心を持って、すべての人が救われる仏の道を求めよ」という遺言でした。
この言葉に従い、勢至丸は菩提寺で修学し、その後13歳で比叡山に登って剃髪授戒。天台の学問を修めます。はじめ円明房善弘と名乗りますが、久安6年(1150)18歳の秋、黒谷の慈眼房叡空の弟子として法然房源空となり、叡空のもとで勉学に励み、「智恵第一の法然房」と評されるほどになりました。以後、法然上人は遁世の求道生活に入ります。
この時代は、政権を争う内乱が相次ぎ、飢餓や疫病がはびこるとともに地震など天災にも見舞われ、人々は不安と混乱の中にいました。ところが当時の仏教は貴族のための宗教と化し、不安におののく民衆を救う力を失っていました。学問をして経典を理解したり、厳しい修行をし、自己の煩悩を取り除くことが「さとり」であるとし、人々は仏教と無縁の状態に置かれていたのです。そうした仏教に疑問を抱いていた法然上人は、膨大な一切経の中から、阿弥陀仏のご本願を見いだします。それが、「南無阿弥陀仏」と声高くただ一心に称えることにより、すべての人々が救われるという専修念仏の道でした。承安5年(1175)上人43歳の春のこと、ここに浄土宗が開宗されたのです。
法然上人はこの専修念仏(せんじゅねんぶつ)に確信を持つと、比叡山を下り、やがて吉水の禅房、現在の知恩院御影堂の近くに移り住みました。そして、訪れる人を誰でも迎え入れ、念仏の教えを説くという生活を送りました。こうした法然上人の教えは、多くの人々の心をとらえ、時の摂政である九条兼実など貴族にも教えは広まっていきました。しかし、教えが世に広まるにつれ、法然上人の弟子と称して間違った教えを説く者も現れたり、また、旧仏教からの弾圧も大きくなりました。
加えて、上人の弟子である住蓮、安楽が後鳥羽上皇の怒りをかう事件を起こし、建永2年(1207)上人は責任をとらされ四国流罪の憂き目にあいます。5年後の建暦元年(1211)に帰京できましたが、吉水の旧房は荒れ果てており、今の知恩院勢至堂のある場所、大谷の禅房に住むことになりました。翌年、病床についた法然上人は、弟子の源智上人の願いを受け、念仏の肝要を一筆書きにしたためます。それが「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」と述べた「一枚起請文」です。そして建暦2年正月25日(1212)法然上人ついに入寂、80歳でした。
門弟たちは房の傍らに上人の墳墓をつくりましたが、その15年後、叡山の僧兵により墳墓が破却されそうになったため、弟子たちは亡骸を西山粟生野に移し、荼毘にふします。その後、文暦元年(1234)源智上人は、荒れるがままの墓所を修理し遺骨を納め、仏殿、御影堂、総門を建て、知恩院大谷寺と号し、法然上人を開山第一世と仰ぐようになりました。知恩院の名は、遺弟たちが上人報恩のために行った知恩講に由来します。
ところで、法然上人を祖師と仰ぐ浄土宗の総本山として、知恩院の地位が確立したのは、室町時代の後期とされており、また、知恩院の建物が拡充したのは、徳川時代になってからのことです。徳川家は古くから浄土宗に帰依しており、家康は生母伝通院が亡くなると知恩院で弔い、また亡母菩提のため寺域を拡張し、ほぼ現在の境内地にまで広げたのです。その後も火災に見舞われるなど、伽藍にいくたびかの盛衰はありましたが、多くの人々の支援によって乗り越え、こうして800年以上、念仏の教えはここに生き続けてきました。
月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人のこころにぞすむ
法然上人が詠まれた「月かげ」のお歌です。月の光はすべてのものを照らし、里人にくまなく降り注いでいるけれども、月を眺めるひと以外にはその月の美しさはわからない。阿弥陀仏のお慈悲のこころは、すべての人々に平等に注がれているけれども、手を合わせて「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えるひとのみが阿弥陀仏の救いをこうむることができるという意味です。法然上人は「月かげ」のお歌に、「観無量寿経」の一節「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」のこころを説き、私たちにお示しくださったのです。法然上人の教えは、厳しい修行を経た者や財力のあるものだけが救われるという教えが主流であった当時の仏教諸宗とは全く違ったものでした。「南無阿弥陀仏」と唱えればみな平等に救われる。法然上人のおしえは貴族や武士だけでなく、老若男女を問わずすべての人々から衝撃と感動をもって受け入れられ、800年を経た今日もそのおしえはひとびとの「心のよりどころ」となっているのです。
 
法然3  
長承2年-建暦2年(1133-1212)
現在の岡山県久米郡に生れる。8歳の時、土地の警備担当者だった父が夜討ちにあって非業の死を遂げる。父の遺言は息子に復讐を禁ずるものだった「私を襲った敵を恨むな。お前が敵を恨めば、将来また敵の子孫がお前を恨む。恨みがこの世で尽きることがない。お前は世俗を離れて出家し悟りを求めろ」。この後、叔父の寺に預けられた彼は14歳で比叡山に入り正式に出家、天台宗を学ぶ。ところが山の上では高僧までが権力争いに狂奔しており、失望した彼は師を変えていく。最終的に延暦寺中心から離れた場所に庵を結ぶ聖僧・慈眼房叡空(じげんぼうえいくう)に師事し、法名“法然房源空”を与えられる。ときに法然17歳。それからは人々を苦しみから救う方法を思索する日々が続くが、「智恵第一」の名で評されるほど学問を探求するも、なかなか満足する答えを見出せないでいた。
だがしかし!出家から28年目の1175年(42歳)、平安中期の僧侶・源信の「往生要集」を学んでいる時に、中国で5世紀に浄土教を大成した善導大師の思想と出合う。民衆が救済される道は専修念仏=ひたすら「南無阿弥陀仏」の念仏を唱える事=と悟った法然は、他の修行を一切やめ、師に別れを告げて比叡山を下りていく。※この1175年は「回心(えしん)の年」と呼ばれ浄土宗開宗の年とされている。
法然が説く「南無阿弥陀仏」の“南無”とは“お任せします”の意。つまり全身全霊で「阿弥陀仏」に身を委ねるということだ。他宗派まで名が轟くほど学問に長けていた法然が出した結論は、学んだ全ての知識を良い意味で捨て去ることだった。学問が阿弥陀仏を信じんが為にあるのなら、信じ抜いておれば何の仏教知識がいるのかと、教義の解釈論より「南無阿弥陀仏」と行動(念仏を唱える)で示すことが肝要と考えたのだ。
従来の仏教は貴族を対象にした貴族仏教で、教義が高遠で難解すぎるうえ、文字を読めない民衆からはかけ離れたものだった。しかし、度重なる戦で人心はすさんでおり、誰もが心の拠り所となる仏の存在を欲していた。そこに登場したのが「ただ一心に阿弥陀仏のお名前を称えれば、誰もが必ず極楽浄土に入れる」という単純で分かりやすい法然の教え。乾いた砂に水が沁み込んでいく様に、武士、農民関係なく爆発的に浄土宗が普及していった。
※なぜ阿弥陀仏なのか?…阿弥陀は仏になる為の修行の中で48個の誓い(願)をたてた。その中の18番目の願として“私の浄土に生まれたいと思って、わずかでも念仏を唱えた人を救えなければ仏にはならない”としており、仏になったいま、信徒はこの言葉を信じて阿弥陀仏に念仏を唱えている。
一方で、「悟りとは人々が修行や功徳を積んで得られるもの」(自力本願)と考えていた多くの学僧は、法然の念仏重視の思想に疑問を持っていた。そこで天台座主(延暦寺の長)は京都大原に法然を招き、学僧たちと論戦させる(1186年53歳、大原談義)。法然は「人々の修行には限界があり、念じていれば仏の方から助けに来て下さる」と阿弥陀の力を頼って往生する持論(他力本願※悪い意味ではない)を展開し、居合わせた者を感服させた。大問答を制した後は、ますます門徒が増えていく。後白河法皇や関白九条兼実というビッグネームの信仰も得て、彼が説法をする場には平敦盛を討ち取った熊谷直実や、鎌倉の北条政子の姿もあった。1198年(65歳)、九条兼実の薦めで生涯の主著となる「選択本願念仏集」を記す。1201年(68歳)には親鸞が入門してくるなど、有能な弟子も次々に増えていった。
やがて迫害の時代が訪れる。あらゆる階層、いかなる身分の者にも分け隔てなく救いの手を差し伸べる法然。浄土宗があまりに民衆にもてはやされ、浄土宗が宗教界の一大新興勢力になると、旧仏教界は警戒を強め大きく反感を持つようになっていく。法然が「念仏こそ民衆を往生に導く唯一絶対の行」と主張するにつれ、当初は寛容だった他宗派から邪教と呼ばれて激しく非難・弾圧された。人間というものは弱い生き物だ。法然の弟子の中には教えをはき違えたり、“悪事をしても念仏さえ唱えれば極楽に行ける”と都合よく曲解する者も出てきた。また、真面目に学問にいそしむ他宗派の学僧をあざ笑い馬鹿にする弟子もいた。教団はここを叩かれた。法然は一部の弟子の不品行を徹底的に攻撃される。
1204年(71歳)、比叡山の僧侶3千人が念仏禁止を求めて抗議運動を始めたので、法然は事態を深刻に受け止め、“他宗を攻撃してはならない”“悪事を為すべからず”と弟子たちを戒める「七箇条制誡」を起こし、主な門弟189名に署名させて延暦寺に送った。
だが浄土宗人気に危機感を持っていたのは京都の僧侶だけではなかった。翌年、今度は奈良興福寺の宗徒たちが、法然一派の罪科をあげて攻撃し、罪を問うべく朝廷に直訴したのだ。内容は、「阿弥陀仏の救いの光が浄土宗門徒のみに当たり他宗は救われぬとは許せない」「阿弥陀仏だけを供養し釈迦を供養しないのは仏教徒として本末転倒」「仏像や寺を造る善行を積む者をあざけり笑うとは言語道断」「法然は最澄や空海より偉いつもりか」「念仏は心の中で念じること。口で唱えるのは曲解だ」「妻帯、肉食など戒律を破壊している」「既に宗派が8つもありこれ以上必要なし」云々、最後に「全仏教徒が一丸となって訴訟するという前代未聞のことを致しますのは、事は極めて重大だからであります。どうか天皇の御威徳によって念仏を禁止し、この悪魔の集団を解散し法然と、その弟子達を処罰して頂きますよう興福寺の僧綱大法師などがおそれながら申し上げます」と結ばれていた。
そして翌年、後鳥羽上皇を激怒させる決定的な事件が起きる。弟子の住蓮と安楽に感化された宮廷の女官たちが、密かに宮廷から逃げて尼僧となったのだ。出家をそそのかした罪で2名の弟子は処刑、浄土宗は禁教とされ、1207年、法然は僧籍を剥奪されたうえ74歳という高齢にも関らず四国(讃岐)へ流されてしまう。
1年後に赦されて関西に戻ったが京都に入ることは禁じられ、3年後にようやく入洛を果たしたものの、体調を崩して床に伏し、2ヵ月後の正月明けに東山大谷で79歳の生涯を終えた(1212年)。死の2日前、念仏の核心について弟子に求められて記した「一枚起請文」は遺言書と成り、同時に浄土宗の聖典となった。
法然の没後も旧仏教からの迫害は続く。入滅から15年後の1227年、天台宗の高僧を法然の弟子が論破したことをきっかけに、逆上した延暦寺の僧侶らが現・知恩院に埋葬された法然の墓をあばこうと襲撃した。彼の遺骸を鴨川に流そうとしたのだ。これは六波羅探題が制止したものの、法然の弟子たちはその夜のうちに亡骸を嵯峨に避難させた。またいつこのような法難があるかも分からず、遺骸を一箇所に置いては危険ということで、17回忌の際に荼毘(火葬)に付し、分骨して各地に墓を造った。1234年、弟子の源智がかつての墓に遺骨を戻し、廟堂と勢至堂(入滅した大谷禅房跡)を造ったのが知恩院の始まりとなった。
以降も弾圧の過程で弟子たちは各地へ配流されることが多かったが、それが逆に地方で浄土宗が広がることにつながった。現在浄土宗は光明寺が本山の西山浄土宗、禅林寺(永観堂)が本山の西山禅林寺派、誓願寺が本山の西山深草派などに分かれている。あと数年で入滅から800年の2012年になる。
 
法然上人の教え

 

お念仏
唐土我朝に、もろもろの智者達の、沙汰し申さるる観念の念にもあらず。また学問をして、念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。
私の説いてきたお念仏は、み仏の教えを深く学んだ中国や日本の高僧の方が理解して説かれてきた、静めた心でみ仏のお姿を想い描く観念の念仏ではありません。また、み仏の教えを学びとることによって、お念仏の意味合いを深く理解した上でとなえる念仏でもありません。
阿弥陀さまの本願
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず。
阿弥陀仏の極楽浄土へ往生を遂げるためには、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」とおとなえするのです。一点の疑いもなく「必ず極楽浄土に往生するのだ」と思い定めておとなえするほかには、別になにもありません。
お念仏をとなえれば
ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。
ただし、お念仏をとなえる上では、三つの心構えと四つの態度が必要とされますが、それらさえもみなことごとく、「「南無阿弥陀仏」とおとなえして必ず往生するのだ」と思い定める中に、おのずとそなわってくるのです。
法然上人の誓い
この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし。
もし私が、このこと以外にお念仏の奥深い教えを知っていながら隠しているというのであれば、あらゆる衆生を救おうとするお釈迦さまや阿弥陀さまのお慈悲にそむくことになり、私自身、阿弥陀さまの本願の救いから漏れおちてしまうことになりましょう。
ただひたすらにお念仏をとなえる
念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。
お念仏の教えを信じる者たちは、たとえお釈迦さまが生涯をかけてお説きになったみ教えをしっかり学んだとしても、自分はその一節さえも知らない愚か者と自省し、出家とは名ばかりでただ髪を下ろしただけの人が、仏の教えを学んでいなくとも心の底からお念仏をとなえているように、決して智慧あるもののふりをせず、ただひたすらお念仏をとなえなさい。
教え
証のために両手印をもってす。浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。源空が所存、この外に全く別義を存ぜず、滅後の邪義をふせがんがために所存をしるし畢んぬ。建暦二年正月 二十三日 大師在御判
以上のことを証明し、み仏にお誓いするために私の両手を印としてこの一紙に判を押します。浄土宗における心の持ちようと行のありかたを、この一紙にすべて極めました。私、源空の胸の内には、これ以外に異なった理解は全くありません。私の滅後、間違った見解が出てくるのを防ぐために、考えているところを記し終えました。建暦2年1月23日(法然上人の御手印)

法然上人のご入滅は建暦2年正月25日(1212)です。つまりこの「一枚起請文」はその二日前に書かれたことになります。死期がせまるなか、しっかりとした筆跡でしかも簡潔明瞭に、念仏の心とその実践について、上人の本意を一枚の紙に凝縮されたのです。さらに、本文の上には両手の印が押してあり、ご自身の確認とともにその証明としておられます。
これは弟子の要請により書かれたものではありますが、上人が教え広められたお念仏が間違った方向に進まないようにと、そしてご自身の死後にその根源である称名念仏が脈々と受け継がれるための戒めとしてたくされているのです。
 
浄土宗1

 

法然上人(法然房・源空)を宗祖と仰いでいる宗旨です。
法然上人は、今から約860年前(1133)に現在の岡山県(当時の美作(みまさか)の国)にお誕生になりました。幼少にして父を失い、それを機会に父のおしえのままに出家して京都(滋賀)の比叡山(ひえいざん)にのぼって勉学し、当時の仏教・学問のすべてを修した後、ただひたすらに仏に帰依(きえ)すれば必ず救われる、すなわち南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を口に出して称(とな)えれば必ず仏の救済をうけて平和な毎日を送り、お浄土に生まれることができる、という他力のおしえをひろめられました。
当時の旧仏教の中でこの新しいおしえを打ち出されただけに、いろいろな苦難がつづきました。貴族だけの仏教を大衆のために、というこのおしえは、日本中にひろまり、皇室・貴族をはじめとして、広く一般民衆にいたるまで、このみちびきによって救われたのでした。
法然上人は、どこにいても、なにをしていても南無阿弥陀仏を称えよ、とすすめておられます。南無阿弥陀仏と口に称えて仕事をしなさい、その仏の御名(みな)のなかに生活しなさい、とおしえられています。
こうしたおしえがひろまるにつれて、その時代の新しい宗教であったため、いろいろなことで迫害をうけましたが、そのときでも、法然上人はこのおしえだけは絶対やめませんという固い決意をあらわしておられますし、また亡くなるときにも、わたしが死んでも墓を建てなくてもよろしい、南無阿弥陀仏を称えるところには必ずわたしがいるのですといって、その強い信念を示されました。
亡くなってから790余年になりますが、その遺言とは反対にお寺がたくさんできたということは、いかに法然上人のおしえがわれわれ民衆と共にあってそのおしえを慕わずにおられなかったか、という心のあらわれであります。
南無阿弥陀仏の仏の御名は、すぐ口に出して称えられます。できるだけたくさん口に出して称えるほど、私たちは仏の願いに近づくことになるのです。するとわたくしたちはすなおな心になり、今日の生活に必ず光がさし込んできて、生き生きとした、そして、平和なくらしができるようになります。それは明日の生活にもつづいて、日ぐらしの上に立派な花を咲かせてくれます。
極楽浄土
浄土のもともとの意味は、仏国土つまり仏さまの国、世界ということであり、そこは清らかな幸せに満ち、そこに生まれるとどんな苦しみもないところで、例えば薬師如来の東方浄瑠璃世界、大日如来の密厳浄土など、いろいろな仏さまがそれぞれに浄土を築き、そこで説法していると説かれている。その中で極楽浄土は、西方浄土ともいわれ、他に極楽界、安養界(あんにょうかい)(土)などともいわれている。阿弥陀仏が仏になる前の法蔵菩薩の時に、「命ある者すべてを救いたい」と願って四十八の本願(ねがい)をたて、その願いが成就されて築かれた世界である。すなわち、阿弥陀仏が人々を救うためにお建てになった世界。どんな人々であろうとも、念仏を唱えるならば、命終ののち生まれる(行きつく)ことができる永遠のやすらぎの世界。けがれや迷いが一切ない、真・善・美の極まった世界であるが、単に楽の極まった世界であると考えてはいけない。
われわれは浄土において、仏になるために菩薩行をつみ、やがて仏になることができるのである。四十八の本願の第十八番目が「念仏往生の本願」といい、南無阿弥陀仏を口にとなえるものは、皆極楽に往生できると説かれている。「阿弥陀経」には、西方十万億土の彼方にある国と記されている。
念仏
念仏とは仏を念ずることであり、その念には次の三つの義がある。
およそ経典に出てくる念仏の多くは仏を憶念することを意味する。とくに古い経典にでてくる三念、五念、十念などはこれに属する。
仏の相好等を見ることで見仏、観仏、観念という。
仏の名を称(とな)えること即ち称名で、浄土宗で念仏という場合は、この阿弥陀仏の名号を口に称(とな)えることと、法然上人はその著「選択本願念仏集」にお示しになった。
阿弥陀さまとお釈迦さま
阿弥陀さまも、お釈迦さまも共に仏さまであり、仏とは悟りを開いた方をさす。悟りの世界では物事の成り立ちが手に取るようにわかり、悩みも苦しみもない自由で平安な世界である。お釈迦さまは、今からおよそ2500年の昔、悟りを開いて仏となり、多くの人々を救うために教えを説かれた。その教えが仏教であり、その中でお釈迦さまは、遠い過去に悟りを開き、今も人々に救いの手をさしのべている仏さまの事を説き教えられた。その方こそが阿弥陀さまである。
一枚起請文
建暦2年(1212)法然上人が、お亡くなりになる直前に、その弟子の一人である源智上人の要請により、書かれたものです。浄土宗の教えの要であるお念仏(称名念仏)の意味、心構え、態度について、とても簡潔に説明されています。さらに、本文中に「両手印をもってす」とあるように、両手の判を押し、上人自身が証明していらっしゃいます。法然上人のお誓いの文章であることから「御誓言の書」とも呼ばれ、大本山金戒光明寺に大切に保存されています。
弥陀三尊
浄土宗寺院の本堂の正面真中におまつりされている仏さまが阿弥陀如来(仏)、向って右が観音菩薩、左が勢至菩薩である。菩薩とはもともとは仏になるために修行する人のことをいったが、観音菩薩や勢至菩薩の場合は阿弥陀仏の分身として、その働きを助ける者という考えである。阿弥陀さまはなにびとと雖も区別なくお救い下されるが、阿弥陀さまが、慈悲として働かれる時には観音菩薩をつかわし、智慧として働かれる時は勢至菩薩をつかわされるのである。
 
浄土宗2

 

「鎌倉六宗」の誕生
平安時代の末期から鎌倉時代の初期にかけての時代は、大きな社会の変動期でした。保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)から平氏政権の成立をへて、源平の争い、そして鎌倉幕府の成立と、戦乱の絶えない時代であった。この大きな時代の変化の中で、社会の新たな担い手として武士や農民たちが力をつけてきたが、うち続く戦乱やあいつぐ天災は、そんな彼らの心の中に、大きな不安を植えつけた。
「いよいよ末法の世がやってきたのか」という考えが頭をもたげ始めたのだ。このような人々の精神的な不安に対し、天台宗や真言宗などに代表される旧来の仏教はまったくといってよいほど無力だった。「旧仏教」は国家を安らかにする(鎮護国家)ため、あるいは上級貴族たちのこの世での利益(現世利益)のための加持祈祷は行っても、一般の人々のために仏に祈るということはなかった。
「旧仏教」の恩恵にあずかることのできない人々は、「末法の世」から逃れることを求め、新しい救いの教えを強く望んだ。「ふつうの人々」の切実な願いにこたえるため、歴史の舞台に登場したのが、「鎌倉六宗」とよばれる新しい六つの宗派だった。「法然の浄土宗」「親鸞の浄土真宗」「一遍の時宗」「日蓮の日蓮宗」「栄西の臨済宗」「道元の曹洞宗」である。
禅宗である「臨済宗」「曹洞宗」は別にすると、残りの四宗はすべて「末法の世」からの救いを目的としていた。
「浄土宗」「浄土真宗」「時宗」「日蓮宗」の四宗は、救われるために「きびしい修行」「むずかしい学問」は必要なく、その「救いの道」は誰にも理解できるやさしいものだった。誰にでも分かりやすく、実行もしやすかったこれらの教えは、武士や農民など旧仏教からでは救いの得られない人々に広く受け入れられ、発展していくこととなった。
鎌倉時代の旧仏教
鎌倉時代におこった「新しい仏教」のお話しを始める前に、旧仏教のようすについて簡単にふれておく。天台宗や真言宗に代表される旧仏教の現実は、まるで「朝廷の合わせ鏡」のような世界だった。
その頂点に立っていたのは、きびしい修行を積んだ高僧などではなく、皇族や摂関家の出身者で、彼らのまわりには上級貴族の子弟たちが、さらにそのまわりには中下級貴族の子弟が、僧侶として仕えている状況だった。彼らは不便な山中での生活を嫌って里に院家を設けた。そこでの生活は、衣服といい調度品といい、たいへんに贅沢なものだった。さらに院家は多くの荘園をもち、そこから入る収入が彼らの豊かな生活を支えていた。彼らの僧侶としての活動はといえば、国家の安泰を祈ること、高貴な人々の息災を祈ることに限られていた。
彼らは宗教活動というよりは儀式とよぶにふさわしい仏事をとり行うことには熱心だったが、一般の人々の救済などにはまったく関心を示さなかった。六人の教祖たちは、このような旧仏教のあり方に疑問をもち、「どうしたら広く一般の人々を救えるのか」ということを真剣に考え、次々に新しい教えを生み出していったわけだ。
法然と浄土宗
浄土教
平安時代の後期に浄土教が大流行した。浄土教の教えは、修行によって悟りをひらくことよりも、阿弥陀如来の本願を信じ、極楽浄土への往生、つまり生まれ変わることを目的とするものだ。極楽浄土への往生するには「念仏」が必要であるとされた。
念仏とは具体的に何を意味するのか、その解釈が大きな問題だった。浄土教の教えを広めた空也は、阿弥陀仏の名を唱えればよい、つまり「南無阿弥陀仏」と阿弥陀如来へ問いかければよいと念仏を解釈した。
「南無」とはサンスクリット語で「帰依」を意味する言葉だ。帰依というのは難しい言葉で、「教えを信じ、その教えに自分をまかせきる」ことを言う。
この空也の広めた「南無阿弥陀仏」と唱えるやり方は「称名念仏」とよばれ、多くの人々に受け入れられた。その後、源信が現れ、「往生要集」という書物を著す。源信はこの中で、極楽浄土に往生する方法を説いた。その中で、念仏の最もよい方法として、「観想念仏」という方法を勧めた。
「観想念仏」とは、阿弥陀如来や極楽浄土のありさまを、できるだけ具体的に思いうかべるという方法である。源信の勧めた「観想念仏」は、貴族たちの間に広く受け入れられていった。観想念仏の一番よい方法は、この世に極楽浄土を再現することだった。京都府宇治市にある平等院鳳凰堂は、この観想念仏のために建てられたものである。現在では残っていませんが、京の都に藤原道長が建立した法成寺も観想念仏のためのものであった。道長はその死に際し、法成寺の本堂に床をしき、本尊の阿弥陀如来と自分の手を五色の糸で結んで臨終をむかえたとされている。
源信は「往生要集」の中で、極楽浄土に生まれ変わるには日頃から「よい行い(これを善根と言う)」を積み、その上で念仏(観想念仏)をせよと述べた。源信のこの教えに対し、疑問をもったのが浄土宗の開祖である法然である。
法然の疑問とは次のようなものだ。
阿弥陀如来は本願の中で、「自分を念仏する者は極楽浄土に往生させる」とは言っているが、決して「善根を積め」とは言っていない。つまり、阿弥陀如来の言う「極楽往生の条件」はあくまでも念仏であって、善根を積むかどうかは関係ないということだ。ですから法然は、源信の言う「善根を積んで観想念仏」というあり方は本来の阿弥陀信仰ではないと疑問をもち、正しい阿弥陀信仰とは、ただ阿弥陀の本願を信じ、ひたすらに念仏だけを行えばよいという結論に達した。
法然が主張した念仏のあり方は、源信の説く観想念仏ではなく、「南無阿弥陀仏」と唱える称名念仏が正しいというものであった。
仏教の多くの教えの中から阿弥陀如来の本願だけを選び、ひたすらに念仏だけを行うというのが法然の教えである(「選択本願」「専修念仏」と言う)。この法然の教えを、それまでの浄土教と区別して浄土宗と言う。
言うまでもなく法然は人々が「善根を積む」ことを否定してはいない。法然は阿弥陀如来への信仰を「選択(せんちゃく)」し、修行を一切排除した。修行とは人が自らの意志で行う努力であり、「善根を積む」ことも一種の努力となる。法然はそうした自力で行う修行を一切すてさってしまい、ただただ阿弥陀如来の絶対的な力を信じ、それにすがって往生をとげようと考えたのである。
阿弥陀如来のもつ絶対的な力のことを他力と言い、それにすがって往生することを他力本願と言う。また他力本願のみに徹して、修行を一切排除することを絶対他力といい、これが法然の教えの根本となっている。
一枚起請文
法然の教えである絶対他力(自力での修行を排除する)とはどのような意味を持つか。そのことを物語るエピソードが吉田兼好の「徒然草」にある。
あるとき、熱心な念仏の信者が「念仏をしていると眠くなって仕方のないときがあります。どうしたらいいでしょうか。」と法然にたずねました。法然は「眠くなったら寝てもいいから、目が覚めたら、また念仏しなさい。」と答えました。
眠いのをがまんして念仏を唱えるという行為は、努力して行っていることになる。これは修行にあたり絶対他力の考え方とは相容れないが、法然の考え方だ。
もう一つ、法然の教えの神髄を知る有名な史料に「一枚起請文」がある。「一枚起請文」は、死をむかえようとする法然が弟子に求められて、自分の人生を300百字程度にまとめた文章で、次のような内容のものだ。
私の念仏とは唐や日本のさまざまな智者たちの言う観想念仏ではなく、学問をして念仏の意味を悟ったものでもない。ただただ極楽浄土へ往生するためには南無阿弥陀仏と唱えさえすればよいと固く信じている。念仏を信じる人は、たとえ一流の学者であっても、自分を何も知らない者と思い、知恵をふりかざしたりせず、ただひたすらに念仏するべきである。
法然の生涯
法然の出家と修行
法然は1133年、美作国は稲岡荘の押領使であった漆間時国(うるまときくに)の子として生まれた。美作国は現在の岡山県の北東部。押領使とは現在の警察官にあたる。
法然が9歳のとき、争いごとがおきて父が殺される。父は臨終時に幼い法然をよびよせ、「決して仇を討ってはいけない。仇は仇を生み、憎しみは絶えることがなくなってしまう。それならばどうか、すべての人が救われる道を探し、悩んでいる多くの人々を救って欲しい」という遺言を残し、息を引きとった。
法然は母方の叔父に引き取られ、その叔父によって仏教の手ほどきを受けた。15歳のとき、比叡山にのぼって正式に出家し、父の遺言にしたがって天台宗を懸命に学んだ。
法然の比叡山での修行と学問の日々は、実に28年の長きにわたった。その間、ふつうではとうてい不可能であると思われる膨大な量の経典を5度も読み返したと言われる。しかし、彼が求める父の遺言でもあった「すべての人が救われる道」を見つけ出すことはかなわず、法然の苦悩が晴れることはなかった。
「選択本願」「専修念仏」
やがて法然は、唐の善導(ぜんどう)が著した書物の中に「南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば、すべての人が漏れなく救われる。なぜならそれが阿弥陀如来の本願(誓い)だからである」という一文を発見した。
長い長い修行と仏典研究の歳月をへて、法然はようやく「阿弥陀の本願を信じ、南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば、誰でも極楽浄土に往生できる。」という悟りを得たのだ。このとき法然43歳で、浄土宗が誕生した。
悟りに達した法然は比叡山を下り、「選択本願」「専修念仏」の教えを説く。「阿弥陀の本願を信じ、南無阿弥陀仏と念仏を唱えさえすれば極楽浄土に往生できる。」「必要なことはそれだけであって、お金も学問もきびしい修行も、戒律も必要ではない。」とする法然の教えは、たいへん分かりやすく、また実行も容易で多くの人々が教えに耳を傾けた。
法然は求められれば身分の上下を問わず念仏の教えを説いた。その教えに関白であった九条兼実が帰依したこともあり、浄土宗は爆発的に流行した。あるとき法然は兼実から「念仏の教えは普段からうかがっているが、心得ないこともあるので、なにとぞ書物にして欲しい」との要請を受けた。求めに応じて、1部16章からなる「選択本願念仏集」を書き上げた(法然65歳)。
法難と死
法然の教えが広く人々に受け入れられるにつれ、法然の一部の弟子たちの中に、その教えを自分の都合のいいように拡大解釈する者が現れるようになった。
「善根を積む必要はない」というレベルであるならば、たいしたことはないのですが、中には「悪いことをしても、念仏さえすれば極楽往生」と思いこみ、進んで悪いことをする者が出ると、大きな問題となった。当然のことながら、浄土宗の広まりを心よく思っていなかった旧仏教勢力は、法然とその教えをはげしく攻撃した。
法然はこのような一部弟子たちの行動に大きな危機感をもち、1204年に7ケ条の戒を出し、弟子たちに示した。これを「七箇条制戒」と言う。
阿弥陀仏以外の仏や菩薩をないがしろにしてはならない。
別の教えを行う人と好んで論争してはならない。
別の教えを行う人にそれを棄てさせようとしてはならない。
戒律は必要ないとして、戒律を見下してはならない。
勝手に自分で教義を立てて、人と争ってはならない。
唱導で無智の人々を教化してはならない。
あやまった教えをいつわって師の説としてはならない。
一部弟子の無法なふるまいに弾圧された法然だが、「七箇条制戒」と信者であった関白九条兼実のはたらきかけもあり、何とか大事にはいたらずに済んだ(法然72歳)。
旧仏教勢力の法然と浄土宗への攻撃は止むことはなく、かえってはげしさを加えていった。奈良の興福寺をはじめとして、旧仏教の教団すべてから念仏を停止させるようにとの訴えが朝廷に出された。訴えが出されたとき、運の悪いことに、法然の二人の弟子のはたらきかけによって、後鳥羽上皇の女官であった二人の女性が出家してしまうという事件が明るみに出た。
事件を知った後鳥羽上皇は激怒し、法然の二人の弟子は死罪となった。師の法然も事件の責任をとらされ「専修念仏停止」を言い渡され、僧籍も奪われて俗人の身分で讃岐国へ流された。讃岐国(現在の香川県)への流罪が決まったとき、法然は75歳だった。また他の主だった弟子たちも各地へ配流となっ。この弟子たちの中には、後に浄土真宗を開くこととなる親鸞も含まれている。
讃岐国への流罪から5年後、許されて京へもどった法然だが、その2ヶ月後には京都は東山の大谷の地で亡くなった(80歳)。このとき弟子に請われて書き残したのが、「一枚起請文」だ。法然が亡くなった場所には、現在浄土宗の総本山である知恩院がある。
法然の死後
法然の死後、弟子たちは多くの流派に分かれ教えを広めた。隆寛(りゅうかん)の長楽寺派、覚明(かくみょう)の九品寺派(くほんじは)、証空(しょうくう)の西山派(せいざんは)などだ。
これまで、法然の教えを浄土宗と記してきたが、正しくは浄土宗とは法然の教えを引き継いだ各流派の総称である。
少し後の時代に、浄土宗から親鸞の浄土真宗と一遍の時宗が生まれる。
浄土宗・浄土真宗・時宗はすべて阿弥陀如来を信仰の対象とするという面では共通しているが、法然が「阿弥陀仏の本願を信じ、ひたすら念仏することで極楽往生ができる。」と主張したのに対し、その弟子の親鸞は「阿弥陀仏の本願を信じようとする心がおこったときに極楽往生は決定する。」と説いた。
親鸞よりも後の時代の一遍は、「念仏の有無や本願を信じる信じないにかかわらず、人々の極楽往生は、阿弥陀如来によってすでに約束されている。」と説き、踊念仏でその考えを広めた。
 
ご法語1

 

還来度生(げんらいどしょう)
左様に、そら言を、たくみて、申し候ふらん人をば、帰りて哀れむべきなり。左程の者の、申さんによりて、念仏に疑いなし、不信を、発さん者は、云うに足らぬ程の、事にてこそは候はぬ。大方彌陀に縁浅く、往生に、時到らぬ者は、聞けども信ぜず、行うを見ては、腹を立て、怒りを含みて、妨げんとする事にて候なり。その心を得て、いかに人申すとも、御心ばかり、動がせ給うべからず。強(あなが)ちに信ぜざらんは、佛なお力及び、給うまじ。如何に況や凡夫の力,及び候ふまじき事なり。かかる不信の衆生を、利益せんと、思うわんに、つけても、とく極楽へ、参りて、悟りを、開きて、生死に、返りて、誹謗不信の者をも、渡して、一切衆生、遍く利益せんと、思ふべき事にて候ふなり。
それですから、そのように偽りをたくらんでいう人をかえって哀れむペきものです。その程度の者のいうことですので、念仏するのになんの懸念もありません。疑いをおこす者は、いうに足りない程度のことでございます。だいたいが阿弥陀仏に縁が浅く、往生を願うよい磯会にめぐり合わない者は、聞いても信じないで、人が行なっているのを見ては腹を立て、怒りを含んで、さまたげようとするのです。そのことを心得て、どのように人がいおうとも、お心だけはいいかげんになさってはなりません。ましてや凡夫というものは力の及ぶものではありません。このような不信の人びとのために、慈悲をおこし、ためになるようにと思うにつけても、早く極楽へ参って、さとりを開いて、ふたたびこの迷いの世界に帰ってきて非難している不信の人を極楽に渡らせ、一切の生きとし生けるものをあまねく利益を持させようと思いなさることです。
回向(えこう)
当時日ごとの、お念仏をも、かつがつ回向し、まいらせられ候うべし。亡き人のために、念仏を回向し候へば、阿弥陀仏、光を放ちて、地獄、餓鬼、畜生を、照らし給い候へば、此の三悪道に、沈んで、苦を受ける者、その苦しみ、休まりて、命終わりて後、解脱すべきにて候。大経にもし三途勤苦の処に在りて、此の光明を見奉らば、皆休息を得て、又苦悩無し。寿終の後、皆解脱を蒙らんと云えり。
また現在、それぞれの日課念仏をも、少しずつ(懇ろに)亡くなった人のために振り向けられるがよいでしょう。亡き人のために念仏を振り向けられれば、阿弥陀仏は光を放って地獄・餓鬼・畜生の三悪道を照らされますから、その悪道に堕ちて苦しみを受けている者は、その苦しみが止んで、命終の後に苦しみの境界からすっかり解放されることになるのです。ですから、『無量寿経』巻上には、「もし三悪道の疲れ苦しまなければならない境界にある人が、この阿弥陀彿の光明を見ることができれば、すべて苦しみが止み安らいで、また苦しみ悩むこともなく、命終の後にすべて迷いの束縛から解放されるのだ」と説かれています。
一蓮托生(いちれんたくしょう)
会者定離は、常の習い、今始めたるに非ず。何ぞ深く嘆かんや。宿縁虚しからずば、同一蓮に座せん、浄土の再会甚だ近きに有り。今の別れは暫くの悲しみ、春の夜の夢の如し。誹謗共に縁として、先に生まれて、後を導かん、引接縁は、これ浄土の楽しみなり。それ現生すら、猶もて疎からず、同名号を唱え、同一光明の中にありて、同聖衆の御念をこうぶる、同法尤も親し。愚かに疎しと思し召すべからず。南無阿弥陀仏と唱え給えば、住所は隔つと雖も、源空に親しいとす。源空も、南無阿弥陀仏と唱え、奉るが故なり。念仏を縡(こと)とせざる人は、肩を並べ、膝を組むと雖も、源空に疎かるべし。三業に皆異なるが故なり。
会者定離はこの世の道理であって、今に始まることではありません。どうして深く欺く必要がありましょうか。ずっと以前からの縁が空しいものでないならば、行く末は同じ蓮台に坐ることになりましょう。浄土での再会も間もないものです。今のお別れは、ひと時の悲しみであつて、春の夜の夢のようなものです。念仏の教えが信順されようが誹謗されようが、それぞれを縁として先ずは自らが往生して、後の人たちを導くようにいたしましょう。引接縁というのは、極楽浄土の「楽」の一つでもあるのです。私どもはこの現世ですら疎遠な間柄ではなかったのですから、同じ名号を唱え、同じ光明の中に在って、同じ聖衆の護念を蒙るのです。信仰を同じくしている者は、最も親しい間柄であるのですから、思慮もなく、疎遠となってしまうと思われてはなりません。南無阿弥陀仏と唱えなされば、たとえ住所は隔たっていても、源空に親しいのです。というのも、源空もまた南無阿弥陀仏と唱え申し上げているからです。念仏を亊としない人は、たとえ源空と肩を並べ、膝を交えたとしても、源空には疎遠の人なのです。身・口・意の三業が皆、私とは異なっているからです。会者定離(えしゃじょうり)会うものはかならず別れる運命にあるということ。この世の無常をいう語。*平家「生者必滅、会者定離はうき世の習にて候也」遺教経「世は皆常無し、会えば必ず離るる有り」
立教開宗
おほよそ、仏教多しといえども、所詮、戒定恵の三学をば過ぎず。所謂小乗の戒定恵、大乗の戒定恵、顕教の戒定恵、密教の戒定恵なり。しかるに、我がこの身は、戒行において、一戒をも、保たず、禅定において、一つもこれを得ず。人師釈して、尸羅(しら)清浄ならざれば、三昧現前せずといへり。又凡夫の心は物に、従いて、移りりやすし。例えば猿猴の枝につたうがごとし。誠に散乱して動じやすく、一心鎮まり難し。無漏の正智、何によりてか、おこらんや。もし無漏の智剣なくば、何でか悪業煩悩の、絆を絶たんや。尸羅(しら)の、絆を断たずば、なんぞ生死繋縛(けばく)の身を、解脱する事をえんや。かなしきかな、かなしきかな、如何せん、如何せん。ここに我等如きは、既に戒定恵の三学の器(うつわもの)に非ず。この三学の他に、我が心に相応する法門ありや、我が身に堪えたる修行やあると、よろづの智者に、求め、諸々の学者に、とぶらいしに、教ふる人もなく、示すに輩もなし。しかる間、嘆き嘆き、経蔵に入り、悲しみ悲しみ、正教に向かい、手ずから、自ら、開き見しに、善導和尚の観経の、一心に専ら彌陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざる者、これを正定(しょうじょう)の業(ごう)と名ずく、彼の佛の願に順ずるが故に。見得て後、我らが如くの、無智の身は、偏にこの文を、あふぎ、もはら、この理(ことわり)を、頼みて、念々不捨の称名を修して、決定往生の業因にそなうべし。
凡そ仏の教えは多種多様に分れていても、結局は戒律と禅定と智慧との三学に納まらぬものはない。よくいわれている通り小乗の戒律があり、大乗の戒定慧があり、密教の戒定慧がある。ところが、わが身は戒律について一戒すら保っているわけでなく、禅定を修めても一度として瞑想の境地に達したことがない。ある高僧が説いていうには、戒律を保って身心を清浄にしなければ禅定の境地に入れないとしている。しかし、凡夫の心は見聞するに従って移り易く、決して静まることがない。例えば、猿が枝から枝に飛び移っているようなものである。まことに散乱して動揺し易い心では、静かに瞑想することができない。煩悩を断って正しい智慧を求めようとしても、どうして悪業や煩悩の絆を断ち切ることができるのであろうか。いかにしたならば救われるのであろうか。ここにわれ等ごときは、すでに戒定慧の三学を修める才覚がない者である。この三学の外にわが心に相応した法門があるというのであろうか。わが身に堪え得る修業がどこにあるのであろうか。多くの学僧に教えを乞い、あらゆる修行者を訪ねてみたが、教えてくれる者もなく、修業を示してくれる人もいなかった。仏法に見捨てられた身を嘆きながら経蔵に入り、わが身を悲しみながら経典に向かい合い、手を差し伸べて一書を取り出してみると、それは善導大師の観経疏であった。改めて読み進んでいくと次の一句が目にとまった。「一心に専ら南無阿彌陀佛と唱え、行住坐臥のいずれの時でも時の長短に関係なく、常に念仏を相続してゆけば、その者は、必ず極楽浄土に往生することができる。このように念仏を相続することを正定の業という。何故なら阿彌陀佛は念仏往生の本願を成就し給うているから、念仏を唱える者は仏の本願力に乗じて往生できるからである。この一文を読み終わって思ったことは、われ等のごとく愚かな者は偏にこの文を仰いで専らこの道理を頼みにして、念々に捨てることなき念仏を相続し、必ず極楽往生できる善根としたいということであった。
選択本願
本願と云うは、阿弥陀仏の、未だ佛に成らせ給はざりし昔、法蔵菩薩と、申ししいにしえ、佛の国土を、清め、衆生を成就せんがために、世自在王如来と御前にして、四十八願を、おこし給いしその内に、一切衆生の往生の為に、一つの願を、興し給えり。これを念仏往生の本願と申す也。すなわち無量寿経の上巻に云はく、もし我仏を得たらんに、十方の衆生至心に信楽して、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、若し生ぜずば正覚を取らじと。善導和尚、この願を釈して、宣はく、もし我成仏せんに、十方の衆生我が名号を称する事、下十声に至るまで、もし生ぜずば、正覚を取らじ。彼の仏、今現に世に在して成仏し給へり。當に知るし、本誓の重願虚しからざることを。衆生称念すれば、必ず往生を得ると念仏というは仏の法身を、臆念するにもあらず、仏の相好を観念するにも非ず、ただ心をいたして、もはら、阿弥陀仏の名号を、称念する、これを念仏とは申すなり。故に称我名号といふなり。念仏の他の、一切の行は、これ彌陀の本願に、あらざるがゆえに、たとひ目出度き、行なりといへども、念仏には、及ばざるなり。大方、その国に、生まれんと、おもはんものは、彌陀の誓願に、従うべきなり。
本願というのは阿彌陀佛がまだ仏とならずに法蔵菩薩として修行していた昔に、建立常然にして無衰無変の清浄な国土を建立し、すべての人々を救って成仏させるために世自在王如来という仏の前で四十八願をおこしたが、そのすべての人々を極楽往生させるために一つの願をたて給うたのである。これを念仏往生の本願という。即ち無量寿経の上巻に、次のように説かれている。「もし私が仏になったらならば、十方の世界にいるいかなる者でも真実の心から深く信心をおこし、わが浄土に往生したいと願い、念仏を相続して唱える者から十念を唱えた者に至るまで必ず往生させるでありう。もしこれができなければ、私は仏にはならない」善導大師はこの願文を次のように説明している。「もし私が仏になったならば、十方の世界にいるいかなる者でも南無阿彌陀佛と唱えるならば、たとえ臨終に十声の念仏を唱えた者に至るまでが、もし浄土に往生できなければ、私は仏にはならない。このように本願をたてた阿彌陀佛は現に極楽浄土にましまして仏になり給うている。仏になり給うたことは四十八願のすべてが成就されていることと十分に知らねばならぬ。もし人が念仏を唱えるならば、必ず極楽往生ができるのである。」念仏というのは仏の本体を念じ続ける修行でもなく、仏の勝れたお姿を観想する修行でもない。ただ真実の心で専ら阿彌陀佛の名号を唱えることを念仏というのである。だからこそ善導大師は念仏とは称我名号であるといっているのである。念仏の外の一切の修行は、阿彌陀佛の本願にない修行であるから、たとえどのように勝れた修行であっても念仏には及ばないのである。凡そある仏の国土に往生したいと願う者ならば、その仏の誓い給うた修行をなすべきである。従って阿彌陀佛の極楽浄土に往生したいと願う者ならば、阿彌陀佛の本願に従って修行すべきである。
安心
念仏の行者の、存じ候ふべき様は、後世を、畏れ、往生を、願いて、念仏すれば、終わるとき、必ず来迎せさせ給う由存じて、念仏申すより外の事候はず、三心と申し候ふも重ねて、申す時は、ただ一つの願心にて候なり。その願う心の、偽らず、飾らぬ方をば、至誠心と申し候。この心の実にて、念仏すれば臨終に来迎すという事、一念も、疑はぬ方を、深心とは申し候。この上、我が身も、彼の土へ、生まれんと、思い、行業をも、往生の為と、向くるを、廻向心とは申し候なり。この故に、願う心、偽らずして、げに往生せんと、思い候へば、自ずから、三心は具足する事にて候なり。
念仏の行者が心得ているべきことは来世に悪道におちることを恐れて極楽往生を願い、念仏を唱えれば命終わる時に仏が来迎し給うことを信じ、念仏を唱えることとの外には何もないのである。念仏を唱える時に具える三心ということを一言でいえば、往生したいと願う心一つになる。往生を願う心に偽りがなく人目を飾る心のないことを至誠心というのである。誠の心で往生を願って念仏を唱えれば、臨終に仏が来迎し給うことを疑わずに信ずる心を深心というのである。その上でわが身も極楽浄土に往生したいと願い、すべての善根功徳を往生のために振り向けることを廻向発願心というのである。従って往生を願う心に偽りがなく、本当に往生したいと願って念仏Tを唱えれば、自然に三心が具足される。
一紙小消息
末代の衆生を、往生極楽の機に、当ててみるに、行少なしとても、疑うべからず。一念十念に足りぬべし。罪人なりとても、疑うべからず、罪根深きをも、嫌うはじと宣えり。時下れりとても、疑うべからず。法滅以後の衆生、なお、もて往生すべし。況や近来をや。我が身悪しとても、疑うべからず。自信はこれ、煩悩具足せる凡夫也と宣えり。十方に浄土多けれど、西方を願うは、十悪五逆の衆生の、生る、故也。諸佛の中に彌陀に帰し、奉るは、三念五念に到るまで、自ら来迎し賜う故也。諸行の中に念仏を用ふるは、彼の仏の本願なる故也。今彌陀の本願に乗じて、往生しなんに、願として成ぜすという事有るべからず。本願に乗ずることは信心の、深きによるべし。受け難き、人身を受けて、遭いがたたき本願に遭いて、興し難き道心を興して、離れ難き、輪廻の里を離れて、生まれ難き淨土に、往生せん事、悦びの中の悦び也。罪は十悪五逆の者も生まると信じて、小罪をも、犯すさじと思うべし。罪人なお生る、況や善人をや。行は一念十念なお、虚しからずと信じて、無間に修すべし。一念なお生る、況や多念をや。阿弥陀仏は不取正覚の言葉を成就して、現に彼の国に、在せば、定めて命終の時は来迎し給はん。釈尊は善哉、我が教えに従いて、生死を離れると知見し給ひ、六方の諸佛は、悦ばしき哉、我が證誠を信じて、不退の浄土に、生ると悦び給ふらんと、天に仰ぎ、地に臥して、悦ぶべし、この度彌陀の本願に、遭うことを。行住坐臥にも、報ずべし、彼の仏の恩得を。頼みても頼むべきは、乃至十念の詞。信じても猶信ずべきは、必得往生の文なり。
また、上人は一枚の紙に記して、次のように教えている。極楽往生の機縁と修行を末世の人々に当てはめてみると、たとえ念仏を唱える行が少なくても往生を疑ってはならぬ。一念十念の念仏を唱えただけで往生できるからである。たとえ罪人であっても往生を疑ってはならぬ。仏はいかに罪深い者でも捨てないと説き給うているからである。時代が下がって末世となっても往生を疑ってはならぬ。釈尊は経法が滅し去った後でも念仏を唱えれば往生できると説き給うている。まして末法万年にならない今の世に往生できないわけがない。わが身に煩悩が多くとも往生を疑ってはならぬ。善導大師すら自身は煩悩具足の凡夫であるといい給うている。十方世界に仏の国土は多いけれども、西方極楽に往生したいと願うわけは、十悪五逆の人たちすらも往生できるからである。諸仏の中で阿彌陀佛び帰依し奉るわけは、三念五念の念仏を唱えた者に至るまで自ら来迎し給うからである。数多い修行の中で念仏を唱えるわけは、阿彌陀佛の本願の行であるからである。いま阿彌陀佛の本願に乗じて往生したいと願うのに、本願のすべてが成就されているからできるのである。仏の本願に乗じるためには、信心が深くなくてはならない。受け難い人の身をすでに受け、会い難い本願に今会って、起こし難い往生の心を起こし、離れ難い生死の世界を離れ、往生し難い極楽浄土に往生できることは喜びの中でも最も大きな喜びである。十悪五逆の極悪の罪を犯した者すらも往生できることを信じて、僅かな罪も犯さぬように心掛けねばならぬ。罪人すらも往生できるのであるから、まして、善人が往生できないわけがない。一念十念の念仏によって往生できることを信じて、絶え間なく念仏を相続しなければならぬ。一声の念仏でさえ往生できるのであるから、まして数多く念仏を唱えた者が往生できないわけがない。阿彌陀佛は誓いのお言葉の通りに本願を成就し給い、現に極楽浄土にましますのであるから、必ず命終の時に来迎し給うであろう。釈尊はよくぞわが教えに従って念仏を唱えたとして、生死の世界を離れることを照覧し給い、六方にまします仏たちは喜ばしいかなわが証明の言葉を信じて念仏を唱えたとして、再び退くことがない極楽浄土に往生することを喜び給うであろう。天を仰ぎ地に伏して喜ばねばならぬのは、この阿彌陀佛の本願に会い奉ったことである。行住坐臥に忘れずに報じなければならぬのは、阿彌陀佛がわれ等を救い給う恵みの徳である。頼む上にもなお頼むべきは、阿彌陀佛が誓い給うた乃至十念のお言葉である。信じる上にもなお信ずべきは、善導大師が説いた必得往生の文である。
深心
ただ心の善悪をもかえりみず、罪のかろきおもきをも沙汰せず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿彌陀佛ととなえては、聲につきて決定往生の思いえおなすべし。その決定心によりて、すなわち往生の業はさだまるなり。かく心えねば往生は不定なり。往生は不定とおもへばやがて不定なり。一定と思えば一定する事にて候ふなり。されば詮は、ふかく信ずる心と申し候は、南無阿彌陀佛と申せばその仏の誓いにていかなる身をもきらはず、一定むかへ給ふぞふかくたのみて、いかなるとがをもかえりみず、うたがふ心のすこしもなきを申し候ふなり。
専ら、心の煩悩や、罪の軽い思いを気にかけずに往生したいと願い南無阿彌陀佛と唱えれば、念仏の声によって必ず往生できることを知らなければなりません。必ず往生できると信じる心によって、往生の果報が決まります。この心得のない者は往生できると決まっていません。往生を不確かであると思っている者は、結局往生も不確かになります。必ず往生できると信じてこそ、必ず往生できるんものです。要するに深く信ずる心というのは南無阿彌陀佛と唱えらば仏の本願に乗じ、どのような凡夫でも差別することなく必ず来迎し給うことを深く頼み、どのような罪も気にかけずに深く信じ、少しも疑う心のないことです。
専修念仏
本願の念仏には、一人立ちを、せさせて、助をささぬなり。助というは、智恵をも、助にさし、持戒をも、助にさし、道心をも、助にさし、慈悲をも、助にさすなり。善人は、善人ながら、念仏し、悪人は、悪人ながら、念仏して、ただ生まれ付きの、ままにて、念仏する人を、念仏に、助ささぬと云うなり。さりながら、悪を改め、善人となりて、念仏せん人は、佛の御心に叶うべし。叶わぬ物故に、とあらん、かからんと思いて、決定心興らぬ人は、往生不定の人なるべし。
本願の念仏は、念仏を唱えるだけで往生できて、その他の善根功徳の助けをかりなくてもよいのである。助けというのは智慧の修行も助けであり、戒律を守るのも助けであり、悟りを求める心も助けであり、慈悲心を起こすのも助けである。善人は善人のままで念仏を唱え、悪人は悪人のままで念仏を唱え、ただ生まれつきの姿のままで念仏を唱える人を、念仏に助けをかりない人ちうのである。しかしながら、悪を改めて善人となって念仏を唱える人は、仏のみ心に叶った人である。仏のみ心に叶わないからといって、あれこれ迷った挙句に必ず往生できるという固い信心が起こらない者は、結局往生できない人である。
他力本願
念仏の数を、多く申す者をば、自力を、励むと云うこと、これ又、ものも覚えず、浅ましき、假事(ひがごと)なり。ただ一念二念を、称えるとも、自力の心ならん人は、自力の念仏とすべし。千遍萬遍を、称え、百日千日、夜昼、励み、勤めむとも、偏に、願力を頼み、他力を、他力を、仰ぎたらん人の念仏は、声々念々、、しかしながら、他力の念仏にて、あるべし。されば、三心を、興したる人の念仏は、日々夜々、時事刻々に、唱ふれども、しかしながら、願力を仰ぎ、他力を、頼みたる心にて、唱へ到れば、かけても、ふれても、自力の念仏とは、云うべからず。
念仏を数多く唱える者は自力の修行に励むのであるということは、これまた何んともいいようのない驚き入った誤りである。僅か一遍か二遍の念仏を唱えるしても、自力で往生すると考えている者ならば自力の念仏である。毎日千遍万遍の念仏を唱え、百日千日昼夜を分けずに励み努めたにしても、偏に仏の本願力を頼みにして他力を仰いでいる人の念仏は、その一声一声一念一念が即ち他力の念仏なのである。つまり真実の心から本願を信じ、極楽往生を遂げたいと願っている者が、毎日毎日時々刻々に念仏を唱えていてもすべて本願力を仰ぎ、阿彌陀佛の慈悲を頼みにする心で唱えるのであるから、些(いささ)かも自力の念仏とは考えてはならないのである。
易行往生
念仏を、申し候事は、ややうの義候へども、ただ六字を、唱ふる内に、一切の行は、収まり候なり。心には、本願を頼み、口には名号を称え、手には念珠を、取るばかりなり。常に心を、かくるが、極めたる決定往生の業にて候ふなり。念仏の行は、もとより行住座臥、寺所諸縁を、嫌わず、身口の不浄を、嫌わぬ行にて、易行往生と申し候なり。ただし、心を、浄くして申すを、第一の行と申し候なり、人をも、左様にお勧め候うべし、努々、この心は、いよいよ、強くならせ給い候うべし。
念仏を唱えるのに様々な教えがありますが、ただ南無阿彌陀佛と唱えれば、その中にすべての行が納まっています。心には仏の本願を頼み、口には六字の名号を唱え、手には念珠を持って礼拝するだけです。いつも極楽往生を心の掛けていることが、必ず往生できる行であります。念仏を唱えるのに行住坐臥の何れでもよく、時と場所と事情とを問うことなく、喩え身体や口が不浄であっても念仏を唱えれば極楽往生できるのであるから、易行往生というわけであります。ただし心だけは清く保っていて念仏を唱えることが一番大切であります。人にもこのような念仏を唱えるように勧めて頂きたい。まして自らも信心は増々強く持って頂きたいと存じます。
乗仏本願
他力本願に、乗ずるに二つ有り、乗ぜざるに二つ有り。乗ぜざるに、二つというは、一つには罪を作る時乗ぜず。その故は、是の如く、罪を作れば、念仏を申すとも、往生不定なりと、思うとき乗ぜず。二つには道心の起こるとき、乗ぜず。その故は同じく念仏申すとも、是の如く、道心有りて、申すさんずる念仏にてこそ、往生はせんずれ。無道心にては、念仏すとも、叶うべからずと、道心を、さきとして、本願を、次に、思うとき乗ぜざるなり。次に、本願に乗ずるに、二つの様と云うは一つには罪を作る時乗ずるなり。その故は、是の如く、罪を作れば、決定して地獄に墜つべし。しかるに、本願の名号を、唱ふれば、決定往生せん事の、うれしさよと、喜ぶときに乗ずるなり。二つには、道心起こるとき、乗ずるなり。その故は、この道心にて、往生すべからず。これ程の道心は、無始よりこのかた、起これども、未だ生死を、離れず。かるが故に、道心の有無を論ぜず、造罪の軽重を云わず、ただ本願の称名を、念々相続せん力によりてぞ、往生は遂ぐべきと、思う時に、他力本願に乗ずるなり。
他力本願に乗じて往生できる場合に二つがあり、乗じない場合に二つある。乗じない場合に二つあるというのは、一つには罪をつくった時に乗じない。そのわけはこのような罪をつくったのでは念仏を唱えても往生できるかどうか?判らぬと考えた時に他力本願に乗じないからである。二つには仏道修行に精励する心を起こした時に乗じない。そのわけは同じく念仏を唱えるにしても、このように仏道修行に精励する心があって唱える念仏だからこそ往生できるのであって、精励する気持ちがなくて念仏を唱えても往生できないであろうとして、精励する自分の心を第一に考え、仏の本願を二の次に考えた時に他力本願に乗じないからである。次に、乗じる場合に二つあるというのは、一つには罪をつくった時に乗じるのである。そのわけはこのような罪をつくったのでは必ず地獄におちるに相違ないのであるが、幸いにして本願の念仏を唱えれば必ず極楽往生ができるという嬉しさに喜ぶ時に他力本願に乗じるからである。二つには修行に精励する心を起こした時に乗じるのである。そのわけは、修行に精励したからといってそれだけでは往生できないと思うからである。この程度のことならば今までに何度起こしたかしれないのに、いまだに、生死の世界から離れずにいるのである。このように修行に努力する心の有るやなしや、罪の軽重を問題にせずにただ本願に念仏を念々に相続してゆけば、その功徳によって往生できるのであると思った時に他力本願に乗じるのである。
精進
或いは金谷の花を、弄びて、遅遅たる、春の日を、虚しく、暮らし、或いは南楼に月を、嘲りて、漫々たる、秋の夜を、いたづらに、明かす。或いは千里の雲に、馳せて、山の稼ぎを、とりて、歳を、おくり、或いは万里の波に、浮かびて、海の色くづを、とりて、日を重ね、或いは厳寒に、氷を凌ぎて、世路を、渡り、或いは炎天に、汗をのごいて、利養を、求め、或いは妻子眷属に、纏われて、恩愛の、絆、切り難し、或いは執敵怨類に、遭いて、瞋恚の炎、止むこと無し。惣じて、是の如くして、昼夜朝暮れ、行住座臥、時として、止むこと無し。ただ欲しきままに、あくまで、三途八難の業を重ぬ。然れば、或文には、一人一日の内に、八億四千の念有り、念々の内の所作皆これ三途の業といえり。是の如くして、昨日も、悪戯に、暮れぬ。今日もまた、虚しく開けぬ。今、幾たびか、暮らし、幾たびか、あかさんとする。
あるいは金谷園にも等しい花見の名所で桜を愛でながら長い春の日を虚しく暮らし、あるいは南楼で見る月と同じ名月を鑑賞しながら秋の夜長を徒に明かしてしまう。あるいは千里の雲の中にある谷間を馳せ巡って鹿を追いながら年を送り、あるいは波涛に舟を浮かべて魚をとって日を重ねている。あるいは厳寒に氷を割って世渡りとし、あるいは炎天に汗を拭って利得をはかる。あるいは妻子眷属に纒(まと)われて恩愛の絆を断ち難く、あるいは怨敵に会って怒りの炎消えることがない。すべて、このようにして昼夜朝暮を過ごし、行住座臥に止まることがない。ただ己れが欲するままに毎日を送り、あくまでの地獄、餓鬼、畜生の世界におちる行為を重ね、仏法を聞き得ない境遇におちることになる。だからこそ経文には1日に8億4千に思いが去来し、その一つ一つの振る舞いは地獄、餓鬼、畜生の世界におちる行いであると説いているのである。こうして昨日も徒に暮れてしまい、今日もまた虚しく朝を迎えた。これからも同じように1日を暮らし、幾日虚しく夜を明かして朝を迎えてゆくのであろうか?
難値得遇
それ流浪三界の内、いずれの境に、おもむきてか、釈尊の出世に、会わざりし。輪廻四生の、間、何れの生を、受けてか、如来の説法をきかざりし。華厳開講の、むしろにも、交わらず、般若演説の座にも、連ならず、鷲峰説法の、庭にも、望まず、鶴林涅槃の、みぎりにも、至らず。我舎衛の三億の家にや、やどりけん。知らず地獄八熱の底にや、すみけん。恥ずるべしゝ、悲しむべしゝ。まさに、今、多生廣劫を、経ても、生まれ難き、人界に生まれ、無量億劫を、おくりても、会い難き、仏教にあえり。釈尊の在世に、会わざる事は、悲しみなりと、いえども、教法流布に、会うことを得たるは、これ喜びなりと。たとえば目しいたる亀の、浮き木の、穴に会えるがごとし。我が朝に、仏法の、流布せし事も、欽明天皇、雨の下を、しろしめて十三年、みづのえ申の歳、冬十月一日初めて仏法渡り給いし。其れより先には、如来の教法も、流布せざりしかば、菩提の覚路、未だ聞かず。ここに我ら、いかなる宿縁にこたえ、いかなる善業によりてか、仏法流布の時に生まれて、生死解脱の道を、聞くことを得たる。しかるを今、会いがたくして、会うことを得たり。いたづらに、あかし、暮らして、やみなんこそ、悲しけれ。
迷いの世界で幾度となく生死を繰り返してきたのに、どこの世界にいたためにか釈尊の出世に会えなかったのであろうか?迷妄の世界にさ迷っていて、どんな生き物であったためにか仏の説法を聞かなかったのであろううか?釈尊の華厳開講の席にも参加出来なかったし、涅槃の演席にも連なることがなかった。説法の地である霊鷲山の法座にも臨まず、入涅槃の沙羅樹林に馳せ参じなかった。王舎城にいた9億の者の中で3億の人は釈尊の名前すら知らなかったというが、恐らくこの3億の人の仲間であったのであろう。それとも八熱地獄の底に沈んでいて仏法を聞かなかったのかも知れない。まことに恥ずかしいことであり、悲しみに耐えないことである。正しく限りない長い間を経てから、今や生まれ難い人界に生まれ、永遠に会えなかったかも知れない仏の教えに会うことができたのである。釈尊がまします時に会わなかったことは悲しみであったも、仏の教えが流布している時代に生まれたことは大きな喜びである。たとえば海底の盲亀が水面に浮かぶ木の穴に会ったように極めて稀にみる幸せである。わが国に仏法が流布したのは、欽明天皇が天の下を統治し給うた13年(552)10月1日に百済(くだら)の国から仏法が渡来してからのことである。それ以前にはわが国に仏の教法がなく、悟りを求める教えを聞いた者がなかった。いまここに迷いの世界から抜け出す教えを聞くことができたのであるから、日々虚しく明かし暮すようなことがあったとすれば、それこそ悲しい限りである。
出世本懐
念仏往生の誓願は、平等の慈悲に住して、発し給ひたる、事なれば、人を、嫌うことは、候はぬなり。佛の御心は、慈悲を、もて、体とすることにて候ふ也。されば観無量寿経には、仏心というは、大慈悲これなりと説かれて候。善導和尚この文を受けて、この平等の慈悲を、もては、普く一切を摂すと、釈し給へり。一切の言、広くして、もるる人候ふべからず。されば、念仏往生の願は、これ彌陀如来の、本地の誓願也。世の種々の行は本地の誓いに非ず。釈迦も、世に出で給ふ事は、彌陀の本願を、説かんと思し食す御心にて候へども、衆生の機縁に随ひ給ふ日は、これ随喜の法也。佛の、自らの、御心の底には候はず。されば、彌陀にも、利生の本願、釈迦にも、出世の本懐なり。世の種々の行には、似ず候也。
念仏往生の本願は阿彌陀佛が人を区別しない平等の慈悲の上に立っておこし給うた誓願であるから、どのような人であっても差別しないのである。仏のみ心は慈悲を本体となし給うているのである。だから、観無量寿経に、仏の御心は人々を救わずにはいられない大慈悲心であると説かれている。善導大師はこの一句を、仏は人々を区別しない平等の慈悲心によって遍く一切の人々を救い給うと説いている。大師が一切の人々といっているのは、広くすべての人々を含んでいて洩れる者は一人もいないということである。しかも、念仏往生の願は阿彌陀佛が仏となるい給うために成就した誓願である。その他のいろいろな修行は仏になってから説いた行である。釈尊はこの世に現れ給うたのは阿彌陀佛の本願を説いて、念仏の行を勧めようとするみ心からであった。しかし、人々の能力に従っていろいろな修行を説き給うたので、これを随喜の法といっている。決して釈尊ご自身の心底から説き給うた教えではない。このように念仏は阿彌陀佛がすべての人々を救うためにたて給うた本願の行であり、釈尊にとっては出世の本懐の教えである。その他の様々な修行とは比較にならないのである。
五劫思惟
酬因感果(しゅういんかんか)の、理を、大慈大悲の御心の、うちに思惟して、年序そらに、つもりて、星霜五劫に、およべり。しかるに善巧方便(ぜんぎょうほうべん)を、巡らして思惟委したまえり。しかも、我別願を、もて浄土に居(こ)して、薄地低下(はくじていげ)の、衆生を、引導すべし。その衆生の、業力によりて、埋まる、といわば、かたかるべし。我、須く、衆生のために、永劫(ようごう)の修行を、おくり、僧祇(そうぎ)の苦行を、巡らして、万行万善の果徳円満し、自覚覚他の覚行窮満(かくぎょうぐうまん)して、その成就せん所の、万徳無漏の、一切の功徳を、もて、我が名号として、衆生に、称えしめん。衆生もし、これにおいて、心をいたして、称念せば、我が願に、答えて、生まるる事を、得べし。
阿彌陀仏は修行によって果報を受ける道理の上にたって、しかも慈悲のみ心から凡夫往生の道を思惟し、年数を重ねて修行し、五劫という年月を経て仏となり給うた。しかも凡夫の誰でもが修行できる教法を思惟し給うた。そのために次のように誓い給うた。「われは本願を成就して極楽浄土に住し、どのように劣った凡夫でも導いて往生させるであろう。もし善根を積んだ果報によって往生できるとすれば、恐らく凡夫は往生し難いであろう。われはいかなる凡夫でも往生できるように期間がいかに長くとも修行を続け、どのような苦行でも励み勤め、一切の修行と一切の善行を完遂して功徳を得るであろう。菩薩としての自覚覚他の修行を成就し、それによって仏となって一切の完全無欠な徳を具え、一切の功徳をわが名号の中に具えた上で人々に念仏を唱えさせるであろう。もし人がわが願いを深く信じて念仏を唱えれば、その者はわが願いに応えて往生できるであろう。
二行得失
往生の行、多しと雖も、大いに分かちて、二つとし給えり。一つには専修、いわゆる念仏なり。二つには雑修、いわゆる一切の、諸々の行なり。上に云う所の定散等これなり。往生礼讃に曰く、若し能く上の如く、念々相続して、畢命を期とせば、十は即ち十生じ、百は即ち百生ず。専修と、雑行とは得失なり。得というは、往生すると云うことを得。曰く、念仏する者は、十は、即ち、十人ながら往生し、百は、即ち、百人ながら往生すという、これなり。失というは、曰く、往生の益を、失えるなり。雑行の者は、百人が中に、希に、一二人往生することを得て、そのほかは生ぜず。千人が中に、希に、三五人生まれて、その余は生まれず。専修の者は、皆、生まれることを得るは、何の故ぞ。阿弥陀仏の本願に、相応せるが故なり、釈迦如来の教えに、随順せるが故なり。雑業の者は、生まれること少なきは、何の故ぞ、彌陀の本願に、違える故なり、釈迦の教えに、従がわざる故なり。念仏して、浄土を、求める者は、二尊の御心に深く叶えり。雑修をして、浄土を、求むる者は、二佛の御心に、背けり。善導和尚、二行の得失を、判ぜる事、これのみにあらず。観経の疏と、申す文の内に、多く得失をあげたり。しげきが故に、出さず。これをもて知るべし。
善導大師は往生の行として数多くの修行があるが、これを大きく分けて二つとした。一つは極楽往生の直接要因を一心に励む専修であって、これが、念仏を唱える行である。二つには念仏以外の行を兼修する雑業であって、念仏以外のすべての諸行である。前に述べた定善散善とその他の行が雑修である。善導大師は往生礼賛偈の中で、次のように説いている。「もし上に述べた通りに三心を具足し、四修の法によって念仏を念々に相続して唱え、生涯を通してやまなかったならば、その者は十人が十人ながら、百人は百人ながら極楽往生できる。」この文は念仏を唱える専修と、その他の雑行との得失を説いた言葉である。得というのは必ず往生できる勝れた行のことである。この文に念仏を唱える者は十人が十人ながらおうじょうし、百人は百人ながら往生できると説いているのが得である。失というのは往生という利益を失った行のことである。大師は雑行を修めて往生したいと願っても、百人の中で稀に一人か二人が往生できるのであって、その他は往生できないといい、千人の中で稀に三人か五人が往生できても、その他は往生できないと説いている通りである。念仏を唱える者はすべて往生できるのは何故であろうか?それは念仏が阿彌陀佛の本願に一致しているからであり、釈尊が後世にまで遺し給うた教えに叶った行であるからである。雑行を修行しyて往生できるものは少ないのは、何故であるかといえば、雑行は阿彌陀佛の本願に相違しているからであり、釈尊が後世に弘通を命じた行でないからである。念仏を唱えて極楽往生を願う者は阿彌陀佛とのみ心に深く叶った者である。雑修によって極楽往生を願う者は釈尊と阿彌陀佛のみ心に背いている者である。善導大師が専修と雑修との得失を論じているのは、こればかりでない。観経疏という著書の中でも多くの得失を挙げているが、煩雑になるので挙げないことにする。
聖淨二門
ある人、上人の申させ給うお念仏は念々ごとに佛の御心に、叶い候らんなど申しけるを、いかなればと、上人返し、問われければ、智者にておわしませば、名号の功徳をも、詳しく、しろしめし、本願の様をも、明らかに、御心得ある故にと、申しけるとき、汝本願を信ずること、まだしかりけり。彌陀如来の、本願の名号は、木こり、草刈り、、菜摘み、見ず汲む、類如きのもの、内外ともに、かけて、一文不通なるが、称ふれば、必ず生まると信じて、真実に願い、常に念仏申すを、最上の機とす。もし智恵を、もちて、生死をはなるければ、源空いかでか、かの聖道門を捨てて、この浄土門に、趣くべきや。聖道門の修行、智恵を極めて、生死を、離れ、浄土門の修行は、愚痴に帰りて、極楽に、生まれると、知るべしとぞ、おうせられける。」
また、ある人が上人にいった。「上人が唱えているお念仏は、その一声一声が仏のみ心に叶っていることでありましょう」上人はそれはどういう意味であるか?と尋ねますとその人はいった。「上人は勝れた学僧ですから念仏の功徳を詳しく知っておられるでしょうし、本願の意味も十分に心得ておられるからです」すると、上人はいった。「貴房は阿彌陀佛の本願を信ずる心が浅いのである。本願の念仏は賤(いや)しい職業とされている木こり、草刈り、菜摘み、水汲みのような人でも、知識も乏しく暮らしが豊かでない者であっても、読み書きのできない者であっても念仏を唱えれば必ず極楽往生ができるのである。本願を信じて真実の心から往生を願い、常に念仏を唱える者こそ必ず往生できる最上の人である。もし智慧を極める修業によって迷いの世界から抜け出すことができるものであれば、何んで聖道門を捨てて浄土門を選ぶことがあったであろうか?聖道門の修業は智慧を究めることによって次第に生死の世界を離れようとするものであり、浄土門の修業は智慧や才覚を加えることをせずに、本願力に身をまかせて念仏を唱え、極楽往生して直ちに生死の世界から離れるのであると知るべきである。」といった。
自身安穏
現世を、すぐべきようは、念仏の申されんかたによりて、すぐべし。念仏の障りに、なりぬべきしからんことをば、いとい捨つるべし。一所にて、申されずば、修行して申すべし。修行して、申しされずば、一所に住して申すべし。聖て、申しされば、在家にて、申しされされずば、、遁世して申すべし。一人、籠もり居て、申さずば、同行と共行して申すされずば、一人籠もり居て申すべし。衣食適わずして、申されずば、他人に、助けられて、申すべし。他人の、助けにて申されずば、自力にて申すべし。妻子も、従類も、自身助けられて、念仏もうさん為なり、念仏の障りに、なるべくば、努々持つべからず。所知所領も、念仏の助業ならば大切なり。妨げにならば、持つべからず。」惣じて、これをいわば、自信安穏にして、念仏往生を、遂げんが為には、何事も、皆念仏の助業なり。三途さんずに帰るべき事をする身をだにも、捨て難ければ、顧み、はぐぐむぞかし。まして往生すべき、念仏申さん身をば、いかにも、育み、持てなすべし。念仏の助業ならずして、今生の為に、身を貪求するは、三悪道の業となる。往生極楽の為に、自信を貪求するは、往生の助業となるなり。
現世を過ごすには念仏が唱えられるように暮すのである。念仏の障りとなることがあれば厭い捨てなければならない。一つ所で唱えられなければ、托鉢や巡礼に出て唱えるがよい。托鉢や巡礼に出て唱えられなければ、一つ所にとどまって唱えるがよい。出家して唱えられなければ、在家になって唱えるがよい。在家で唱えられなければ、遁世して唱えるがよい。独り篭って唱えられなければ、同心の人と一緒に唱えのがよい。皆と一緒に唱えられなければ、独り篭って唱えるのがよい。生活が不自由で唱えられなければ、他人の助けられて唱えるのがよい。他人の助けを受けて唱えられなければ、自力の生活で唱えるのがよい。妻子や一族と一緒に暮すのも自分が助けられて念仏を唱えるためである。念仏の障りとなるならば決して持ってはならない。土地や財産も念仏を唱える助けとなるならば大切なものである。念仏の妨げになるならば持ってはならない。これを括めていえば、自らの心を安らかにして念仏を唱え、極楽往生を遂げるためであって、そのためならば何事も皆念仏の助業となるのである。来世に地獄、餓鬼、畜生の世界におちる悪事を行っているこのような身であても、見捨てることなく心にかけて大切にすることである。まして極楽往生できる念仏を唱えている身であるから、どのようにしてだも大切にしなければならない。念仏を唱える足しヶとならない暮らしをしていて、今生の楽しみのために命を貪ることは地獄、餓鬼、畜生におちてゆく暮らしである。極楽往生を願って念仏を唱え、そのために自身の命を大切にして長生きすることは、往生のために助けちなる。
光明摂取
観無量寿経に曰く、一々の光明、遍く十方の世界を照らして、念仏の衆生を、摂取して捨て給わず。これは光明、ただ念仏の衆生を照らして、余の一切の行人をば、照らさずという也。但し余の行をしても、極楽を願いわば。佛光照らして、摂取し給うべし。如何、只念仏の者ばかりを、選びて、照らし給得るや。善導和尚釈して、宣はく、彌陀の身色は金山の如し。相好の光明十方を照らす。唯念仏の者のみありて光摂を蒙る。当に知るべし本願最も強気を。念仏はこれ彌陀の本願の行なるが故に、成仏の光明、返りて、本地の誓願を、照らし給う也。余行は、これ本願にあらざるが故に、彌陀の光明、きらいて、照らし給わざる也。今極楽を、求めん人は、本願の念仏を行じて、摂取の光に、照らされんと思いしめすべし。これにつけても、念仏大切に候。よくよく申させ給うべし。
観無量寿経には次のように説かれている。「阿彌陀佛の光明の一つ一つが十方の世界をあまねく照らして、念仏を唱える人々をお救いになり、一人として洩らし給うことがない。」この経文の意味は仏の光明は念仏を唱える人々だけを照らし給い、その修行をしている者を照らさないということである。しかし、その他の修行をしていても極楽往生を願っている者ならば、仏の光明が照らして往生させてもよいと思うかも知れない。それなら何故念仏を唱えるだけを選んで照らし給うのであろうか。善導大師は次のように説いている。「阿彌陀佛のお姿は須弥山を巡って聳え立つ七重の金山のようである。お身体から放っている無量無辺の光明は十方の世界をくまなく照らし給うている。ただ念仏を唱える人々だけを照らして、一人も洩らすことなく光明に収めとり、救い給うている。このことによって知られることは、念仏往生の本願がわれらを救うために最も強い力を発揮していることである。念仏は阿彌陀仏がたてた念仏往生の本願の行であるから、仏となって放ち給う無量の光明は、自ら誓った本願の行を修める者を照らし給うわけである。その他の修行は本願でない行であるから、仏の光明の区別して照らし給わぬのである。今生において極楽往生を願う者は、本願の行である念仏を唱え、仏の光明に照らされるようにしなくてはならない。それにつけても念仏こそ大切な行である。よくよく念仏を唱えなくてはならない。
萬機普益
浄土一宗の、諸宗にこえ、念仏一行の、諸行に、勝れたりと、いうことは、萬機を攝する、かたをいうなり。理観、菩提心、読誦大乗、真言、止観等、いづれも、佛法の、愚かに、在すにはあらず。みな生死滅度の、法なれども、末代に、なりぬれば、力、及ばず。行者の、不法なるによりて、機が、及ばぬなり。時を云えば、末法万年の、後、人寿十歳に、つづまり、罪をいへば、十悪五逆の罪人なり。老少男女の、ともがら、一念十念の、類に、到るまで、皆これ摂取不捨の、誓いに、隠れるなり。この故に、諸宗に越え、諸行に、優れたりと申すなり。
浄土宗が諸宗よりも勝れ念仏の一行が諸宗より勝れているということは、どのような者でもすべて救われるということである。各宗の修行には心を静めて真理を観想したり、悟りを求める心を起こしたり、経典を読誦したり、真言陀羅尼を唱えたり、精神を統一したりする方法があるが、何れも勝れた仏法であって疎かにしてはならない。みなこの世で迷いの世界から抜け出して悟りを求める修行であるが、末法の世となったために修行者の力が及ばないのである。修行者が如法に修行できないのは、その者が能力が足らないからである。今の時代をみると末法万年の後に人の寿命が十歳に縮まったような時代であり、罪からいえば誰もが十悪五逆を犯した罪人にも等しいのである。しかし、このような時でも老若男女を問わず、念仏を唱えさえすれば一念十念の念仏しか唱えなかった者に至るまで、一人も漏れることなく仏の本願力によって往生できる。こうしたわけで浄土宗は諸宗より勝れているし、念仏の一行は諸行より勝れているというのである。
正雑二行
それ速やかに生死を、離れんと、思えば、二種の勝法の中に、暫く、聖道門を、さしおきて、選びて、淨土門に入れ。淨土門に、いらんと、思えば、正雑二行の内に、暫く、諸々の雑行を、投げ捨てて、選びて、正行に帰すべし。正行を修せんと。おもはば、正助二業の内に、なお助業を傍らにして、選びて、正定を、もはらにすべし。正定の業というは、即ち、これ佛の御名を称するなり。名を称すれば、必ず、生まれることを得。佛の本願に、依るが故に。
もしそれ迷いと苦悩の境地から脱して悟りの境地に至るために、永遠の世界である極楽浄土に往生したいと願うならば、仏法に二種の勝法がある中において、しばらく聖道門を差し置き、選んで浄土門に帰依しなければならぬ。浄土門に入ろうとするならば、修行に正行を雑行とがある中において、しばらく雑行をなげ捨てて、選んで正行を修めなくてはならぬ。正行を修めようとするならば、正行に正業と助業とがある中において、なお助業を傍らにおいて、選んで正定の業を専ら修めなくてはならぬ。正定の業とは念仏を相続して唱えることである。念仏を唱える者は必ず極楽浄土に往生することができる。何故なら念仏は阿彌陀佛の本願に合致した行であるからである。
別時念仏
時々別時の、念仏を修して、心をも、励まし、ととのへ、勧むべきなり。日々に六万遍七萬遍を唱へば、さても足りぬべき事にて有れども、人の心ざまは、いたく、目慣れ、耳慣れぬれば、いらいらと、勧む心少なく、あけくれは、そう々として、心閑かならぬ様にてのみ、疎略に成り行くなり。その心を、勧めん為には、時々の別時の、念仏を修すべき也。然れば善導和尚も、懇ろに、励まし、恵心の先徳も、詳しく、教えられたり。道場をも、引き繕い、花香をも、備えたてまつらん事、ただ力の、耐へたらんに、従うべし。又我が身をも、事に、浄めて道場に入りて、或いは三時、或いは六時なんどに、念仏すべし。もし同行など、数多あらん時は、代わる代わる、入りて、不断念仏にも修すべし。この様の事は、各々、様に従いて、計らうべし。
時には別時の念仏を修めて、心をも身をも励まし、不足になり勝ちな念仏を整え満たさなくてはならない。毎日6万遍、7万遍の念仏を唱えていれば、十分足りているのであるが、人の心は甚だ目に慣れ耳に慣れてくるものであるから、いそいそと唱える気持ちがなくなり、明け暮れの荒々しさにまぎれ、ついに念仏を疎略に唱え勝ちになる。この気持ちを直して念仏を唱えられるようにするためには、時々別時の念仏を修めなくてはならない。だからこそ善導大師は七日七夜の別時念仏を修めるように勧めているし、先徳の恵心僧都も修行の方式を詳しく説いている。道場を威儀正しく整え、仏前に花や香を供えることは各自の力に応じてできるだけのことをする。また自分の身体はとくに清めてから道場に入り、あるいは朝、お昼、夕方の三の時にお念仏をし、あるいは、晩、真夜中、早朝を加えて6つの時にお念仏を唱える。もし、同信同行の者がいたならば、組に分けて代わる代わる道場に入って不断念仏を修める。このようなことはその時々によって良いようにすらばよいのである。
無常迅速
それ、あしたに、開くる、栄花は、夕べの、風に、散り易く、夕べに結ぶ命露は、明日の日に、消え易し。これを、知らずして、常に、栄えんことを思い、これを、悟らずして、久しく、あらん事を、思う。しかる間、無常の風、一度吹きて、憂いの露長く、消えぬれば、これを広野にに捨て、これを、遠き山に送る。屍は、常に、苔の下に、埋もれ、魂は、一人旅の空に、迷う。妻子眷属は、家に有れども、伴わず、七珍萬宝は、くらに満てれども、益も無し。只身に従うものは、後悔の涙也。遂に閻魔の庁に、到りぬれば罪の浅深を定め、業の軽重を、考えらる。法王罪人に問いて曰く、汝佛法流布の、世に生まれて、なんぞ修行せずして、悪戯に、帰り来たるやと。その時には我ら、如何応えんとする。速やかに、出要を、求めて、虚しく、三途に帰る事なかれ。
朝に開いた花は美しくても、夕べの嵐に散り易く、夕べに宿る露の命は朝の日に消えてゆく。移り変りを知らずに常に栄えることを願い、儚い命を悟らずにいつも同じであると思っている。こうしている内に無常という風が一度吹き込めば、因縁和合の肉体は露のように消え去って、やがて広野に送られ、遠い山に葬られる。屍は苔の下に埋められ、魂は独り旅を彷徨い続ける。妻子眷属は家にいても伴う者がなく、七珍万宝が蔵に満ちていても役立つものは何もない。ただ身に従ってゆくものは後悔の涙だけである。やがて閻魔の庁に着けば罪業の深浅を問われ、罪の軽重に従って行き先がきまる。閻魔法王は罪人に問うていうのに、あなたは仏法がある世に生まれていながら、どうして修行もしないで、徒に帰ってきたのか?と。この時私たちは何とこたえるつもりでいるのであろうか?今こそ早く生死の世界から逃れる法門を求めて修行し、このまま空しく地獄、餓鬼、畜生の世界にもどることがあってはならない。
難修観法
近来の行人、観法を、なす事なかれ。仏像を観ずとも、運慶快慶が、作りたる、佛程だにも、観じ顕すべからず。極楽の荘厳を、観ずとも桜梅桃李の、花菓程も、感じあらわさん事、かたかるべし。彼の佛今現に世に在して成仏し給へり。まさに知るべし、本誓の重願虚しからざる事を。衆生称念すれば、必ず往生を得の、釈を信じて深く、本願を頼みて、一向名号を唱ふべし。名号を唱ふれば、三心自ずから具足する也。
近頃の修行者は瞑想にふける観方を修行しなくてもよい。たとえ仏の相好を観方したとしても、運慶や康慶という大仏師がつくり上げた仏像ほどに立派な姿を観じ現すことができない極楽浄土の荘厳を観想したにしても、この世の桜、梅、桃、李の花や果実ほどに美しく観じ現すことは難しいであろう。善導大師が「阿彌陀佛は現にとなって極楽浄土にまします。このことによって四十八願のすべてが成就されていることを知るのである。もし、人が念仏を唱えれば必ず極楽往生ができる」と説いている言葉を信じ、心から本願を頼んで一向に念仏を唱えなければならない。一向に念仏を唱えさえすれば、自然に三心が具わるのである。
信行双修
一念十念に、往生をすと、いへばとて、念仏を、疎想に申すは、信が行を、妨げるなり。念々不捨者と、云えばとて、一念を、不定に思うは、行が信を、妨げるなり。信をば、一念に、生まれると信じ、行をば、一形に、励むべし。又一念を、不定に思うは、念々の念仏毎に、不信の念仏になるなり。その故は、阿弥陀仏は、一念に一度の、往生をあておき給える願なれば、念ごとに、往生の業となるなり。
一念十念の念仏で往生できるからといって念仏を疎略に唱えるのは、信心が修行を妨げているのである。念々に捨てることなく念仏を相続するように説かれているからといって、一念の念仏では往生できないと考えるのは、修行が信心を妨げているのである。信心では一遍に念仏で往生できると固く信じ、行では生涯を通じて念仏の相続に励まなければいけない。もし一遍の念仏では往生できないと思っているとすれば、一つ一つの念仏がすべて往生を信じていない念仏となる。阿彌陀佛の本願は一遍に念仏を唱える毎に必ず往生させると誓い給うているのであるから、念仏の一声一声が必ず往生できる修行となるのである。
諸佛證誠
六方恆沙の諸佛、舌を述べて、三千世界に、おほひて、もはら、ただ彌陀の、名号を唱へて、往生すといふは、これ真実なりと、證誠したまふなり。これまた念仏は、彌陀の本願なるが故に、六方恆沙、これ證誠し給ふ。余の行は、本願にあらざるがゆえに、六方恆沙の諸佛、證誠し給はず。これにつけても、よくよくお念仏候うて、彌陀の本願、釈迦の付属、六方の諸佛の護念を、深く、かうぶらせ、給ふべし。彌陀の本願、、釈迦の付属、六方の諸佛の護念、いちいちに虚しからず。この故に、念仏の業は、諸行に優れたるなり。
六方の世界にまします無数の仏たちは、それぞれの世界において全世界を覆うような広くて長い舌を出し、仏の言葉に誤りがないことを示しながら、専ら念仏を唱えれば必ず往生できるという教えは真実であることを証明し給うている。これもまた念仏が阿彌陀佛の本願の行であるから、六方の無数の仏が異口同音に証明し給うたのである。その他の行は本願でないから六方の諸仏が証明給わぬのである。それにつけてもよくよく念仏を唱え阿彌陀佛の本願、釈尊の委嘱に応え。六方世界の仏たちの護念を被るようにしなくてはならない。念仏は阿彌陀佛の本願の行であり、釈尊が委嘱した法門であり、六方世界の諸仏が証明し護念し給う行であることは、みな経文に説かれている通りである。こうしたわけで念仏は諸行の中で最も勝れた行なのである。
導師嘆徳
しづかに、おもんみれば、善導の観経の疏は、これ西方の指南、行者の目足なり。しかれば、即ち、西方の行人、必ず、すべからく珍行すべし。就中毎夜の夢の中に、僧有りて、玄義を指授せり。僧というは、おそらくは、これ彌陀の応現なり。しからば云うべし、これ疏は彌陀の伝説なりと。いかに況や、大唐に相伝して曰く、善導は、これ彌陀の化身なりと。然からば云うべし、この文は、これ彌陀の直説なりと。すでに、うつさんと、おもわんものは、もはら、経法の如くせよといえり。此の言葉、誠なるかな。仰ぎて本地を、たづぬれば、四十八願の法王なり。十劫正覚のとなえ、念仏に頼み有り。ふして垂迹を、とぶらへば、専修念仏の導師なり。三昧正受の言葉、往生に疑いなし。本迹ことなりといえども、化導これ一つなり。ここに貧道、昔この典を披閲して、ほぼ素意を悟れり。たち所に余行を、とどめて、ここに念仏に帰す。其れよりこの方、今日に至るまで、自行、化他、ただ念仏を事とす。しかる間、まれに、津を問う者には、示すと、西方の通津をもてし、たまたま行をたづぬる者には、教えるに、念仏の別行を以てす。これを信ずる者は、多く、信ぜざる者は、少なし。念仏を事とし、往生を希わん人、あに此の書をゆるがせにすべけんや。
心静かにいろいろと思ってみるのに、善導大師の観経疏こそは、極楽浄土に往生するための手引書であり、行者にとっては座右に備えるべき肝要な書でる。西方往生を願う人ならば、必ず同書を心から尊重しなければならない。特に同書の末尾に記している霊験によると、毎夜の夢の中に1人の僧が現れて大師に直接、観経の奥義を授け給うたとある。僧とは恐らく阿彌陀佛が化現し給うたお姿であったであろう。もしそうならば、同書は阿彌陀佛が直接大師に伝授し給うた書であることになる。さらばかりでなく、仏祖以来の高祖伝によれば、善導大師は阿彌陀佛の化身であると伝えられている。高僧伝が伝えている通りであれば、本疏はまさしく阿彌陀佛が直接説き給うた書であることになる。同書は最後に「本疏を写そうとするには必ず写経と同じ法式に則って写すべきである。」との一句をもって終わっている。この一句によって大師自らが同書を経典と同じ取り扱っていたことが判る。仰いで大師の本地を伺えば、大師は四十八願を成就し給うているのであるから、念仏を唱えれば、疑いなく必ず極楽浄土に往生できる。伏して阿彌陀佛の垂迹を訪ねれば、専修念仏を主唱した善導大師なのである。大師だ仏が人々を救うために人身を借りて現れ給うた姿なのである。大師は宗教的最高の境地を体得しているから、大師の言葉に誤りがあろう道理がない。阿彌陀佛と大師は本地と垂迹との相違があっても、人々を教化する法門として同じ教説をたて給うたわけである。かつて観経四帖疏を繙いた時に大きな感銘を受け、更に繰り返して味読することによって、大師が説く念仏の法門の真意をさとることができた。立ち所に余行を捨てて念仏の一行に帰し、それ以来今日に至るまで自らは一向に専ら念仏を相続して暮らし、他の人に向かってはひたすら念仏の功徳を説いてきた。時によって煩悩に満ちた苦海から抜け出せる要門を尋ねる者があれば、その者に極楽浄土に往生できる法門を示してきた。往生するための修行について尋ねる者があれば、その者に余行を捨てて専ら念仏を相続して往生を願う本願の行を説いてきた。すると殆どの者が念仏の法門を信じ、直ちに念仏一行の信仰生活に入るにであった。稀には聞いても信じない者もあったが、数からいえば極めて僅かな人々にすぎなかった。念仏を唱えて極楽往生したいと願っている者にとっては、この選択集を決して疎略にしてはならないのである。
一期勧化
法蓮房申さく、古来の先徳、皆その遺跡有り。然るに、今精舎一宇も、建立無し。御入滅の後、いずくも、もてか、御遺跡とすべきやと。上人答え給はく、後を、一廟にしむれば、遺法普ねからず。予が遺跡は、諸州に遍満すべし。故如何となれば、念仏の興業は、愚老一期の勧化成り。されば念仏を、修せん所は、貴賤を論ぜず、海人魚人が、とまやまでも、皆これ、予が遺跡なるべしとぞ、応せられける。
法蓮房信空が尋ねていった。「古来の先徳にはすべて遺跡があります。ところが今もって堂宇一つお建てになったことがありません。もしご往生になった後には、どこをご遺跡としたらよいでしょうか?上人答えていった。「遺跡を一つの堂に決めるとすれば、念仏の法門が行き渡らぬことになる。自分の遺跡は全国津々浦々に行き渡るであろう。何故なら念仏の法門を広めることは愚老が生涯を通じて勧めてきたことである。されば、念仏を唱える者がいる所は貴賎を論ずることなく、海辺にある漁師の小屋にいたるまでがすべて自分の遺跡となるのである。
対治慢心
まことしく、念仏を行じて、げにげにしき、念仏者に、なりぬれば、よろずの人を見るに、皆、我が心には、おとりて、あさましく、わろければ、我が身の、良きままに、我はゆゆしき、念佛者にてあるものかな。誰々にも、優れたりと思う成り。此の心をば、よくよく、慎むべき事なり。世も広く、人も多ければ、山の奥林の中に籠もり居て、人にも知られぬ念仏者の、貴く目出度き、さすがに、多く有るを、我が聞かず知らぬにてこそあれ。されば、われ程の念仏者よもあらじと思う、假事(ひがごと)なり。此の思いは、大僑慢(きょうまん)にて有れば、即ち三心も、かくるなり。又其れを、頼りとして、魔縁の来たりて、往生を妨ぐるなり。これ我が身の、いみじくて、罪業をも滅し、極楽へも、まいることならばこそあらめ。偏に、阿弥陀仏の願力にて、煩悩をも、のぞき、罪業をも、消して、かたじけなく、手ずから自ら、極楽へ迎えとりて、帰らせましますす事也。我が力にて、往生することならばこそ、我賢しという、慢心をばおこさめ。僑慢の心だにも、起こりぬれば、心行必ず、誤る故に、たちどころに、阿弥陀仏の願に、背きぬる者にて、彌陀も諸佛も、護念し給はず。さるままには、悪鬼の、為にも、悩まさるる成り。返す返すも慎みて、驕慢の心を、興すべからず。あなかしこあなかしこ。
実直に念仏を唱えていても、もっともらしい念仏行者になると、他の人たちを見て人々の心が自分の心よりも劣った甚だ至らぬ人のように見えてくる。自分は真実に精進している立派な念仏者であると自負するようになり、誰れ誰らよりも勝れていると思うようになる。このように慢心すうrことは、よくよく慎まねばならない。世間は広いし人も多いのであるから、山の奥や林の中に篭って暮らしていて人に知られていない念仏行者の中には、尊く立派な人がやはり多いのである。ただ聞いたことがないために知られていないだけのことである。従って自分程に勝れた念仏行者は他にあるまいと思うのは間違いである。このように自分だけが勝れていると思うのは大僑慢であって凡夫という自覚がなく三心を欠いた人である。もし僑慢の心を起こすと、それに付け入って名聞利養を求める魔縁が近づいて、その人の往生妨げることになる。それはわが身の勝れた修行によって罪業が滅せられ、極楽往生ができるのであると考えるからである。そうではなくて念仏を唱えれば阿彌陀佛の慈光に浴し、煩悩を除いて罪業を消すことができるし、かたじけなくも来迎し給うた阿彌陀佛が手ずから行者を蓮華台に迎え、行者を導いて極楽浄土に帰り給うたのである。自分の力によって往生できると思うからこそ、己れの才知が勝れていると思う慢心を起こすのである。もし僑慢の心を起こしたとすると念仏の心も全く違ったものになり、そのまま阿彌陀佛の本願に背くことになって阿彌陀佛も諸仏も護念し給わぬのである。そうなれば悪鬼邪神が近づいて、悩まされることになる。返す返すも自ら慎んで僑慢の心を起こしてはならない。
来迎引接
法爾の道理と云うこと有り。炎は空に上り、水は、下り様になが流。菓子の内に、好き者有り、甘き者有り。これらは、皆法爾の道理なり。阿弥陀仏の本願は、名号をもて、罪悪の衆生を、導かんと誓い給れば、只一向に念仏だにも申せば、佛の来迎は、法爾の道理にて、疑いなし。
天然自然の道理というものがある。炎は空にのぼり、水は低い方に流れる。菓子には酸っぱい菓子があり、甘い菓子がある。これらは何れも天然自然の道理である。阿彌陀佛の本願は、罪深い悪人であっても念仏を称えれば、極楽浄土に往生させると誓い給うている。ただ一向に念仏さえ唱えてさえいれば、仏の来迎を蒙ることは、天然自然の道理であって疑いのないことである。
親縁
善導の三縁の中の、親縁を釈し給うに、衆生、佛を礼すれば、佛これを見給う。衆生、佛を称うれば、佛これを聞き給う。衆生、佛を念ずれば、佛も衆生を念じ給う。かるが故に、阿弥陀仏の三業と、行者の三業と、かれこれ、一つになりて、佛も衆生も、親子の如くなるが故に、親縁と名付けるくと候ひ濡れば、御手に数珠を、持たせたまひ候はば、佛これを御覧候うべし。御心に念仏申すぞかしと、思いし食し候はば、佛をも行者を、念じ給ふべし。されば佛に、見え参らせ、念ぜられ参らする、御身にて、わたらせ給い候はんずるなり。さは候へども、常に御下の、働くべきにて候ふなり。三業相応の為にて候ふべし。三業とは、身と、口と、意(心)とを申し候ふなり。しかも佛の本願の、称名なるが故に、声を、本体とは思し食すべきにて候。さて我が耳に、聞こえゆる程申し候ふは、高声の念仏の、内にて候ふなり。
善導大師は念仏を唱えれば、親縁、近縁、増上縁の三縁のよって阿彌陀佛と結びついていると説いているが、その中の親縁について次のように説いている。「人が阿彌陀佛を礼拝すれば、仏はこれを見給う。人が念仏を唱えれば、仏これを聞き給う。人が阿彌陀佛を念すれば、仏もまたその者を念じ給う。このように阿彌陀佛のお働きと念仏行者の身口意とが一つになって、仏と行者とはあたかも親子のような関係に結ばれているから、これを親縁という。」念仏行者ならば手に念珠を持っただけで、仏はこれを見給うし、心で念仏を唱えようと思っただけで、仏は行者を念じ給うであろう。そうはいっても常に声に出して念仏を唱えていなければならない。それは行者の三業を仏のお働きと一致させるためである。三業とは身体で仏を礼拝し、口で念仏を唱え、心で仏を念ずることである。しかし、仏の本願は念仏を唱えることであるから、声に出して念仏を唱えることが中心にならなくてはならない。同じく声に出すにしても、自分の声で唱えれば、高声念仏のうちに入るのである。
一枚起請文
唐土我が朝に、諸々の智者たちの、沙汰し申さるる、観念の念にも非ず。又学問をして、念の心を悟りて、申す念仏にも非ず。只往生極楽の為には、南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと、思いとりて、申す外には、別の仔細候わず。但し三心四修と申す事の候ふは、皆決定して南無阿弥陀仏にて、往生するぞと、思ううちに、こもり候也。この外に、奥深きことを存ぜば、二尊のあわれみに外れ、本願にもれ候うべし。念仏を信ぜん人は、例え一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者の振る舞いをせずして、只一向に念仏すべし。為証以両手印(しょうのために りょうしゅいんをもってす)浄土宗の安心起行、この一紙に至極せり。源空が所存、この外に全く別儀を存ぜず。滅後の邪義を防がんが為に、所存を記しおわんぬ。建暦二年正月二十三日
ここで説く念仏は、遠い中国やわが国で多くの高僧知識が説いてきたように、仏の相好や功徳を観想しながら唱える念仏ではない。また、学問をして仏の功徳や念仏の意味を悟る等した上で唱える念仏でもない。直ちに極楽往生をとげるたねには、南無阿彌陀佛と唱えれば疑いなく往生できると信じて唱えるだけであって、その外に別に詳しいわけがないのである。ただし三心四修ということがあって、心の持ち方が大切であるといわれていても、南無阿彌陀佛と唱えれば必ず往生できると疑うことなく信じてさえいれば、その心の内に自然に具わるのである。この外に奥深いわけがないといったとすれば、釈尊と阿弥陀仏の慈悲に背くこととなり、念仏往生の本願に洩れて、往生できなくなるであろう。念仏往生の教えを信じている人は、たとえ釈尊の一代の法門を十分に学んでいたにしても、一文字も知らない愚鈍な者と変わらない者であると思い、形だけの在家の尼僧のように何も知らない者と同じようにして、知者らしい振舞いをせずに、ただ一向に念仏を唱えなければならない。以上のことを証明し、み仏にお誓いするために私の両手を印としてこの一紙に判を押します。浄土宗における心の持ちようと行のありかたを、この一紙にすべて極めました。私、源空の胸の内には、これ以外に異なった理解は全くありません。私の滅後、間違った見解が出てくるのを防ぐために、考えているところを記し終えました。建暦2年正月23日
異解異学
念仏の行を、信ぜざらん人に会いて、御物語候はざれ。いかに況や、宗論候ふべからず。強ちに、異解異学の人を見て、これを、あなずり、そしる事候うべからず。いよいよ、重き罪人に、なさん事不便に候うべし。極楽を願い、念仏を申さん人をば、塵刹の外なりとも、父母の慈悲に、劣らず思し食すべき成り。今生の財宝ともしからん人をば、力を、加えさせ給うべし。もし少しも、念仏に心をかけ候はん人をば、いよいよ御勧め候うべし。これも彌陀如来の、本願の、宮使いと思し食し候べし。
念仏の行を信じていない人に会ったときには、念仏の教えを話し合わないで下さい。まして他宗の人々と法門の優劣を論じ合ってはなりません。自分と違う法門を信仰している人をみて、むやみに軽蔑してり謗ることがあってはなりません。相手を非難すれば、相手もまた念仏を悪くいうことになり、その人をますます重い罪人にすることは不便といわなくてはなりません。もし極楽往生を願って念仏を唱えている人があれば、どのような遠隔の人であっても、父母が子を思う慈悲に劣らぬ情けを掛けて助け合わなくてはなりません。もし現に財宝が乏しく困っている人があれば、何かと援助を与えてやって頂きたい。少しでも念仏に関心を持っている人があれば、ますます念仏に励むように勧めるのです。これも阿彌陀佛の本願に仕えている者のご奉公であると思って下さい。
 
ご法語2

 

浄土門(じょうどもん)と云うは、此の娑婆世界を、厭い捨てて、急ぎて、極楽にうまるる也。彼の国、生るる事は、阿弥陀仏の、誓いにて、人の善悪を、選ばず、只、佛の、誓いを、頼み、頼まざるによる也。此の故に、道綽(どうしゃく)は、浄土の一門のみありて、通入すべき、道なりと、宣(のたま)えり。されば、このごろ、生死を、離れんと、思うはん人は、證し難き、聖道を捨てて、行き易き、浄土を願うべき也。此の聖道浄土をば、難行道、易行道と、名付けたり。例えを、とりて、これを云うに、難行道は、険しき、道を、かちにて、ゆくが如し。易行道は、海路を、船に乗りて、行くが如しといえり。足萎(な)え、目しい、たらん人は、斯(か)かる、道には、向かうべからず。只船に、乗りてのみ、向かいの岸には、つく也。然(しかる)るに、このごろの、我らは、智恵の、眼、しひ、行法の、あしなえたる輩也。聖道難行の、険しき、道には、惣(そう)じて、望みを、絶つべし。ただ彌陀の本願の、船に乗りて、生死の海を渡り、極楽の岸に、着くべき也。「浄土門というのは、この穢れた婆婆世界を厭い捨てて、寿命を終ったならば直ちに極楽浄土に往生することを説く教えである。極楽浄土に往生することは阿弥陀仏の本願の力によってできることであって、その人の善し悪しを選んでできることでない。ただ仏が誓い給うた本願を頼みにするかしないことによって、往生できるかできないかが決まるのである。このように往生は人の力によるのでないので、道綽(どうしゃく)禅師は『浄土の一門だけが広く誰にも通じ、遠く将来にわたって悟りに入る教えである』といっている。こうしたわけで、この頃の人が迷いの世界から離れたいと願うならば、修行しても悟りを開くことが難かしい聖道門の教えを捨てて誰でも往生し易い浄土門の教えによって悟りを開くことを願わなくてはならない」このご法語を説いている浄土宗略抄は、鎌倉の二位の禅尼といわれていた源頼朝の妻政子の要請によって浄土宗の要義を詳しく説いたものである。まず仏道の修行を大きく分ければ聖道門と浄土門となるとし、聖道門については「釈尊が入滅し給うてから今日まで時代が遥かに経ち過ぎているために聖道門の教えを修行しても悟り難いということであり、教えを聞いても惑い易いということである。そのためにわれ等如き者にとっては特にこだわらないのである」と説き、続いてこのご法語が述べられているのである。「曇鸞(どんらん)大師によれば、聖道門は修行し難い教えであるから難行道といい、浄土門は修行し易い教えであるから易行道といっている。これを例えていうならば、難行道の修行は険しい坂道を徒歩で登るようなものであり、易行道の修行は海路(かじ)を舟に乗って渡るようなものであると説いている。まして足が萎(な)えて歩くのが不自由な人や、視力をなくして見ることができないような人は険しい坂道に向って行ってはならない。それよりは船に乗って苦海を渡ってゆけば、やがて悟りの向い岸に着くことができる」各宗ではそれぞれの教判をたてるために、一切の経典を分析して評価し、その中から最高深遠な教理を説き明かす経典を見極めようとしている。しかし浄土宗では教理の深浅を問題としているのでなく、修行の難易を論ずるのである。修行の段階と方法を工夫するのでなく、直ちに成仏できるかどうかを案ずるのである。聖道門がいかに深遠な教理を説いていても、私たちにとって修行し難い教えであれば無縁な法門である。それよりも念仏を唱えていれば誰でも極楽浄土に往生できて、やがて悟りの境地になれるのであるから、私たちにとってふさわしい法門である。「ところがこの頃のわれ等は智慧を学びたくても視力が衰えて見ることができないし、修行したくても足が委えて作法の一つもできないのである。そのために聖道門の難行道という険しい道を登る修行はすべて望みが断たれている。ただできることは阿弥陀仏の本願という船に乗って生死を繰り返している苦海を渡り、極楽浄土という向い岸に着くことだけである」

凡そ、生死をいづる行、一つに非ずと云えども、まず極楽に、往生せんと願え。彌陀を念ぜよ、云うこと、釈迦一代の教えに、遍く、勧め給えり。その故は、阿弥陀仏本願を、興して、我が名号を、念ぜん者、我が浄土に、生まれずば、正覚を、取らじと、誓いて、既に、正覚をなり給う故に、此の名号を、称える者は、必らず往生する也。臨終の時、諸々の聖衆と、共に、来たりて、必ず、迎接し給う故に、悪業として、さふるもの無く、魔縁として、妨げること無し。男女貴賤をも、選ばず、善人悪人をも、分かたず、指針に彌陀を念ずるに、生まれずと云うこと無し。例えば、重き石を、船に、乗せつれば、つづむ事無く、万里の海を、わたるが如し。罪業の、重きことは、石の如くなれども、本願の、船に、乗りぬれば、生死の、海に、つづむ事無く、必ず往生するなり。ゆめゆめ、我が身の、罪業によりて、本願の不思議を、疑はせ、給うべからず。これを他力の、往生とは申す也。

「凡そ生死を繰り返している迷いの世界から抜け出すための修行は一つだけでなく幾つもあるが、その中ではまず極楽浄土に往生したいと願うのがよいのである。往生するためには念仏を唱えよということは、釈尊ご一代の教えの中で広く勧め給うているところである」ある人が上人に問うていうのに「念仏を唱えていれば往生できるということは耳慣れた教えであるが、自分のように教えを十分に学んでいるわけでなく、煩悩をおこしている者が往生できるということはどうしてであろうか」というのであった。上人がこの間いに答えた言葉の初めに述べたのが、このご法語である。上人は続いていうのに、臨終には阿弥陀仏が多くの菩薩ととも来迎し給うので、どのような魔縁があっても妨げられずに往生できるのであると教えた。そして念仏を唱えていれば男女貴職、善人悪人を区別することなぐ往生できるというのは、例えば罪業が石のように重くても本願という船に乗せれば万里の海を渡って彼岸に届くのと同じであると教えた。「例えば重い石を船に乗せて運べば、沈むことなく万里の海を渡り、向い岸に届くようなものである。犯した罪が重いことは石のようであっても、阿弥陀仏の本願という船に乗れば迷いの世界という海に沈むことなく、必ず極楽浄土に往生することができる。わが身が犯した罪が重くても、それによって本願の不思議な力を疑うようなことは決してあってはならない。このように仏の本願の力によって往生することを、他力の往生というのである」ある人が問うていった。「念仏を唱えれば往生できるということほ、耳慣れた教えであっても、どうして往生できるかを知らない。わが身のように障りが多い身であっても捨てられないというならば、そのわけを詳しく教えて欲しい」と。この問いに対して上人が答えていうのに、念仏を唱えていれば臨終に際して阿弥陀仏が来迎し給うのであるから、どのように障りが多くても男女貴賎を選ぶことなく、善人でも悪人でも往生できるであると教えた。そしてその例として、このご法語を述べた。更にこのご法語に続いて説いていうのに「自力によって迷いの世界から抜け出すためには煩悩と罪業を断じ尽して往生しょうとするものであって、例えば徒歩で険しい坂道を登ってゆくようなものである」と教えた。

上人播磨の信寂房に、仰せられけるは、ここに、宣旨の二つ侍るを、摂り違いて、鎮西の宣旨を、板東へ、下し、板東の宣旨をば、鎮西へ、下したらんには、人用いてんやと宣うに。信寂房、暫く案じて、宣旨にても候へ、摂り換えたらんをば、如何、用い侍るべき。と申しければ。御房は道理を知れる人かな。やがてさぞ。帝王の宣旨とは、釈迦の遺教也。宣旨二つ有りというは、正像末の三時の教え也。聖道門の修行は、正像の時の、教え成るが故に、上根上智の、輩に、あらざれば、證し難し。例えば、西国の宣旨の如し。浄土門の修行は、末法濁乱の、時の教え成るが故に下根下智の、輩を、器者とす。これ奥州の宣旨の如し、然れば、三時相応の宣旨、これを摂り違ふまじき也。大原にして、聖道浄土の、論談有りしに、法門は、互角の論なりしかども、気根比べには、源空勝ちたりき。聖道門は深しといえども、時過ぎぬれば、今の期に、適わず。浄土門は、浅きに、似たれども、當根に、適い易しと、云いし時、末法万年、余経悉滅、弥陀一経、利物偏増の道理に、折れて、人皆、信伏しきとぞ、仰せられける。

双巻経の、奥に、三宝滅盡の、後の衆生、乃至一念に、往生すと、解かれたり。善導釈して曰く、万年に三宝滅して、此の経住まる事百年、爾の時聞きて一念すれば。皆当にかしこに生ずることを得べしといえり。此の二つの意をも持て、彌陀の本願の、広く攝し、遠く、及ぶ程をば、知るべき也。重きをあげて、軽きを納め、悪人を挙げて、善人を納め、遠きを挙げて、近きを納め、後を挙げて、前を納める成るべし。誠に、大悲誓願の、深廣成る事、容易く、言葉を持て、のぶべからず。心を留めて、思うべき也。抑も此の頃、、末法に、入りといえども、未だ百年に、みたず、我ら罪業、重しといえども、未だ五逆を作らず。然れば、遥かに、百年法滅の後を、救い給えり。況や此の頃をや。広く五逆極重の、罪を捨て給わず。況や。十悪の我らをや。ただ三心を具して、専ら、名号を称すべし。善根無ければ、此の念仏を修して、無常の功徳を、得んとす。余の善根、多くば、例え念仏せずとも、頼む方も、有るべし。然れば善導は、我が身をば、善根薄少なりと信じて、本願を頼み、念仏をせよと、勧め給ヘリ。経に、一度名号を、称えるに、大利を得とす。又即ち、無常の功徳を得と、とけり。いかに況や、念々相続せんをや。然れば善根無ければとて、念仏往生を、疑うべからず。

釈迦如来、此の経のうちに、定散の諸々の行を、説き終わりて後に、正しく、阿難に、付属し給う時には、上に説く所の、散善の三幅業、定散の十三観をば、付属せずして、只念仏の一行、付属し給ヘリ。経に曰く、佛阿難に告げ給わく、汝好く此の語を保て。此の語を保てとは、即ちこれ無量寿佛の名を保てとなり。善導和尚、この文を釈して宣わく、佛阿難に告げ給はく、汝好く此の語を保て依り已下(いげ)は、正しく弥陀の名号を付属して、遐代に流通し給うことを明かす。上来定散両門の益を、説くと云えども、佛の本願に臨むれば、意衆生をして、一向に専ら、弥陀佛の名を称せしむるに有り。上已此の定散の諸々の行は、弥陀の本願に、有らざる故に、釈迦如来の、往生の行を、付属せずして、念仏はこれ、弥陀の本願なるが故に、正しく、選びて、本願の行を、付属し給えるなり。今、釈迦の、教えに従いて、往生を、求むる者、付属の念仏を、修して、釈迦の御心に適うべし。これにつけても、又よくよく、御念仏候て、佛の付属に、適わせ給うべし。

浄土宗の已、善導の御釈には、往生の行に、大いに、わかちて、二つとす。一つには正行、二つには雑行なり。はじめに、正行というは、これに数多の行有り。はじめに、読誦正行というは、これは無量寿経、観経、阿弥陀経等の、三部経を、読誦するなり。次に観察正行というは、これは、彼の国の、依正二報の、有様を観ずるなり。次に、礼拝正行というは、これは、阿弥陀ほとけを、礼拝する也。次に、称名正行というは、南無阿弥陀仏と、称える也。次に、讃嘆供養正行というは、これは、阿弥陀仏を讃嘆し、奉る也。これを指して、五種の正行と名付ける。讃嘆と供養とを、二つの行と、する時は、六種の正行とも申す也。此の正行に付きて、ふさねて、二つとす。一つには一心に、専ら、弥陀の名号を、称えたて奉りて、立ち居、起き臥、昼夜に、忘れる事無く、念々に、捨てざる者を、これを、正定の業と名付ける。彼の佛の本願に、順ずるが故にと申して念仏を、持て、正しく、定めたる、往生の業と立て候。もし礼誦等に依るをば、名付けて、助業とすと申して、念仏の外の、礼拝、読誦、讃嘆供養などをば、彼の念仏を、助ける業と申して候也。さて此の正定業と、助業とを、除きて、その他の、諸々の業をば、皆雑行と名付く。

其れ浄土に、往生せんと、思はば心と行との、二つ相応すべき也。かるが故に、善導の釈に、但し、その行のみ有るは、行即ち、一人にして、又、至る所無し。只その願のみ有るは、願即ち、虚しくして、又到るところ無し。必ず、願と行と、相助けて、なすところ、皆剋すといへり。およそ、往生のみに限らず、聖道門の、得道を、求めんにも、心と行とを、具すべしといへり。発心修行と、名付けるこれなり。今此の浄土宗に、善導の如きは、安心起行を名付けたり。もし極楽浄土に往生したいと願うならば、願う心に相応しい修業がなくてはならない。そこでこのことを善導大師は観経玄義分(かんぎょうげんぎぶん)に中で説いていうのに、仏道を修めるためには心願と身行とが兼ね具っていなければならない。もし、心願を欠いた修業であれば、行き着く先が明確でないために修業が孤立してしまう。もし、身行がなければ、心願が成就されないために虚しい心願となってしまう。心願と身行とが両々相待って扶けあってゆくことによって、初めて一つの目的が達成できる。としている。願いと修業が兼ね具って初めて目的が達せられることは、往生についていっているばかりでない。聖道門にあって悟りを開きたいと願うにも、悟りを求めたいという願う心と修業とを兼ね具えていなければならないとさsれている。このことを聖道門では発心と修業いっている。いま浄土宗においていえば、善導大師が説いている通り、三心を具えて念仏を唱える安心起行と名づけている。

至誠心と云うは、大師釈して宣わく、至と云うは、眞也。誠と云うは、実なりといえり。ただ真実心を、至誠心と、善導は、仰せられたり。真実と云うは、諸々の、虚仮の心の、無きを云う也。虚仮と云うは、貪瞋等の、煩悩を、興して、正念を失うを、虚假心と釈する也。全て、諸々の、煩悩の、興る事は、源、貪瞋を、母として、出生する也。貪というについて、喜足小欲の貪有り、不喜足大欲の貪有り。今浄土宗に、制する所は、不喜足大欲の、貪煩悩也。まづ行者、かようの、道理を心得て、念仏すべき也。これが真実の念仏にて有る也。喜足小欲の貪は、苦しからず。瞋煩悩も、敬上慈下の心を、破らずして、道理を、心得ん程也。痴煩悩というは、愚かなる心也。此の心を、賢くなすべき也。まづ生死を、厭い、浄土を、願いて、往生を大事と、営みて、諸々の家業を、事とせざれば、痴煩悩無き也。少々の痴は、往生の障りにはならず。これほどに、心得つれば、貪瞋等の、虚仮の心は、失せて、真実心は、易く、興る也。これを浄土の菩提心という也。詮ずる所、生死の報いを、かろしめ、念仏の一行を、励むが故に、真実心とは云う也。

初めには、我が身の程を信じ、後には、佛の願を信ずる也。その故は、もし、はじめの、信心をあげずして、後の信心を釈し給はば、諸々の、往生を願はん人、たとひ、本願の名号をば、称ふとも、自ら心に、貪欲、瞋恚の煩悩を、興し、身に十悪破壊等の、罪悪をも、作り足ることあらば、妄りに、自信を、かろしめて、身の程を、省みて、本願を疑い、候まし。今、此の本願に、十聲一聲までに、往生すというは、朧気の、人には、あらじなぞと、覚え候はまし。しかるを、善導和尚、未来の衆生の、此の疑いを、おこさん事を、かがみて。此の二つの心をあげて、我らが未だ、煩悩をも断ぜず、罪業をも、作る、凡夫なれども、深く弥陀の、本願を信じて、念仏すれば、一聲に到るまで、決定して、往生する由を、釈し給得る、此の釈の、事に、心にそみて、いみじく、覚え候也。

回向発願心というは、過去、及び、今生の、身口意業に、修するところの、一切の善根を、真実の心を持て、極楽に回向して、往生を欣求する也。これを回向発願心と名付く。此の三心を、具しぬれば、必ず往生する也。

昔の太子は、万里の、なみを凌ぎて、龍王の、如意寶樹を、得給へリ、今の、我らは、二芽の水火を分けて、弥陀本願の、宝珠を得たり。彼は、龍神の、悔いしが為の、奪われ、これは異学異見の為に、奪はる。彼は、貝の殻を、もて、大海を、くみしかば、六欲四禅の、諸天来たりて、同じく、くみき。これは信の手を、もて、疑謗の難を、くまば、六方恆沙の諸佛、来たりて、くみし給ふべし。

一々の願の、終わりに、もし爾らずば、正覚を土らじと、誓い給へり。然るに、阿弥陀仏、、佛になり給いてより、この方、既に十劫を、へ給へり。当に知るべし、誓願虚しからず。然れば、衆生の稱念する者、一人も、虚しからず、往生することを得。もし、しからずば、たれか、佛になり給経ることを信ずべき。三寶滅盡の、時なりと、雖も、一念すれば、尚往生す。五逆深重の、人なりと、雖も、十念すれば、往生す。いかに況や、三宝の世に生まれて、五逆を、作らざる我ら、弥陀の名号を、称へんに、往生疑うべからず。今、此の願に、遭える事は、実に、これ、朧気の縁に非ず。よくよく、悦び、思し召すべし。例え又、遭うといえども、もし信ぜざれば、遭わざるが如し。今深く、此の願を信ぜさせ給へり。往生疑い思し召すべからず。必ず必ず、ふた心なく、よくよくお念仏候て、この度生死を、離れ、極楽に、生まれさせ給うべし。

門。信心のようは、承りぬ。行の次第、如何候べき。答。四修をこそ、本とすることにて候へ。一つには長時修、乃至,四つには無余修也。一つには長時修と云うは、善導は、命の終わるを、期として、誓いて中止せざれという。二つには恭敬修と云うは、極楽の、仏法僧宝に於いて、常に、臆念して、尊重をなす也。三つに無間修と云うは、要訣に曰く、常に念仏して、往生のこころをなせ。一切の時に於いて、心に常に臣、巧むべし。四つには無余修と云うは、要訣に曰く、専ら極楽を求めて、彌陀を臆念する也。ただ諸余の行業を、雑起せざれ。所作の業は、日別に念仏すべし。

毎日の所作に、六万十萬の数編を、念珠を繰りて、申し候はんと、二万三萬を、念珠を、確かに、一つづつ申し候はんと、何れか、よく候べき。答。凡夫の習い,二万三萬を,あつとも,如法には、適い,がたからん。只数編の、多からんには過ぐべからず。名号を相続せん為也。必ずしも、数を、要とするには非ず,只常に念仏せんが為也。数を定めぬは、懈怠の因縁なれば、数編を、勧めるにて候。

門。念仏せんには、必ず、持たずとも、苦しかるまじく候か。答。必ず念珠を、持つべき也。世間の、唄を、歌い、舞を、舞うすら、その拍子に、従う也。念珠を、博士にて、舌と手と、動かす也。但し無明を、断ぜざらん者、妄念、おこるべし。世間の客と、主との如し。念珠を手に取るときは、念佛の、数をとらんとは、約束せず。念仏の,数とらんとて,念仏の、主を、すえつる上は、念仏は主、妄念は客也。さればとて、心の妄念を、許されたるは、過分の恩也。それに、あまさえ、口に様々の、雑言をして、念珠を、繰り越しなどする事、ゆゆしき假事也。

百万遍の事。佛の願にて候はねども、小阿弥陀経に、もしは一日、もしは二日、乃至七日、念仏申す人、極楽に、生ずると、説かれて候へば、七日念仏申すべきにて候。その七日の、程の数は、百万遍に、当たり候ふ由、人師釈して候へば、百万遍は、七日申すべきにて候へども、他へ候ざらん人は、八日九日などにも,申され候へかし。さればとて、百万遍、申さざらん人の、生まれまじきにては候はず。一念十念にても生まれ候ふ也。一念十念にても、生まれ候ふほどの、念仏と思い候ふ嬉しさに、百万遍の、功徳を、重ねるにて候ふなり。

十重を保ちて、十念を唱えよ。四十八軽を、守りて、四十八願を頼むは、心に深く、希うところ也。おおよそ、何れの行を、専らにすとも,心に戒行を、保ちて、浮綯うを、守るが如くにして、身に威儀に、油鉢を、かたぶけずば、行として成就せずと、云うこと無し。願として、円満せずと、云うこと無し。しかるを。我ら、或いは四十を、犯し、十悪を行ず。彼も、犯し、これも、行ず。一人として、誠の戒行を、具したる者はなし。諸悪莫作,諸善奉行は,三世の諸佛の通戒也。善を修する者は、善趣の報を得、悪を行ずる者は、悪道の果を感ずという、此の因果の道理を聞けども、聞かざるが如し。初めて、云うに、能わず。然れども、分に従いて、悪業を、止めよ。縁にふれて、念仏を行じ、往生を期すべし。

孝養の心を持って、父母を、重くし、思もはん人は、まず阿弥陀ほとけに、預け、参らすべし。我が身の、人となりて、往生を願い、念仏すること、偏に我が父母の、養いたてればこそあれ。我が、念仏し候ふ功徳を哀れ見て、我が父母を、極楽へ、迎えさせ、おわしまして、罪をも滅し、在せと、思わば、必ず必ず迎え取らせ、おわしまさんずるなり。

ある時には、世間の無常なる事を、思いて、この世の、いく程無き事を知れ。ある時には、仏の本願を思いて、必ず、迎え給えと申せ。ある土岐には、人身の受け難き、理を、重いて、この度、空しく、止まん事を、悲しめ。六道を、巡るに、人身を、うることは、梵天より、糸を下して、大海の、底なる、針の穴を、通さんが、如しといえり。ある時は、会い難き、仏法に会えり。この度、出離の業、うえずば、いつをか、期すべきと、思うべき也。一度、悪道に、出しぬれば、阿僧祇園甲を、ふれども、三宝の、御名を聞かず。如何に、況や、深く、信ずる事をえんや。ある時には、我が身の、宿善を、喜ぶべし。賢いき、卑しきも、人、多しと、言えども、仏法を信じ、浄土を、願う者は、希なり。信ずるまでこそ、かたからめ、謗り、憎みて、悪道の因をのみ、作る、造るに、これを信じ、これを貴びて、仏を頼み、往生を志す、これ偏に宿善の、しからしむる也。只今生の、励みに有らず、往生すべき、期の至れる也と、頼もしく、喜ぶべし。斯様のことを、折に従い、事によりて、思うべき也。

念仏して、往生するに、不足無しと、いいて、悪業をも、憚らず、行ずべき、慈悲をも、行ぜず、念仏をも、励まさざらん事は、仏教の、掟に、相違する也。例えば、父母の慈悲は、良き子をも、悪しき子をも、育むめども、よき子をば、喜び、悪しき子をば、嘆くが如し。仏は一切衆生を、哀れみて、良きをも、悪しきをも、渡し給えども、善人を見ては、喜び、悪人を見ては、悲しみ給えるなり。良き地に、良き種を、まくかんが如し。構えて、善人にして、しかも、念仏を修すべし。これを真実に、仏教に、従うものという也。

往生せさせ、おわしますまじき、やうにのみ、申し聞かせ、まいらする人々の、候ふらんこそ、返す返す、浅ましく、心苦しく候へ。如何なる智者、目出度き人々、仰せられるるとも、それにな、驚かせ、おわしまし候。各々の道には、目出度く、貴き人なりとも、悟り、ことに、行、異なる人の、申し候ことは、往生浄土の、為には、中々ゆゆしき、退縁悪知識とも、申しぬべき、事どもにて候。只凡夫の、計らいをば、聞き入れさせ、おわしまさで、一筋に、仏の御誓い、頼み、参らせ、おわしますべく候。

まめやかに、往生の志し有りて、弥陀の本願を、疑わずして念仏を申さん人は、臨終の、悪ろき事は、大方は、候まじき也。その故は、仏の来甲し給うことは、もとより、行者の、臨終正念は、為にて候なり。それを、意得ぬ人は、皆、我が、臨終正念にして、念仏申したらん時に、仏は、迎え給うべきなりとのみ、意得て候ふは、仏の願をも信ぜず、経文をも、意得ぬ人にて候ふなり。その故は、称讃浄土経に曰く、仏、慈悲をも、加えたすけて、心をして、乱れしめ給うはずと、説かれて、候えば、只の時に、翌々申しおきたる、念仏によりて、臨終に、必ず仏は来迎し給うべし。仏の来迎し給うを、見奉りて、行者、正念に、住すと申す義にて候。然るに、先の念仏を、空しく思いなして、由無く、臨終正念をのみ、祈る、人などの候は、ゆゆしき、僻日が異夢に、入りたる事にて候なり。されば仏の本願を、信ぜん人は、兼ねて、臨終を疑う心、在るべからずこそ、憶え候へ。只当時申さん念仏をば、愈愈、至心に申すべきにて候。

五逆罪と申して、現身に父を殺し、母を殺し、悪心を持って、仏心を、損ない、諸宗を破り、斯くの如く、重き罪を作りて、一念懺悔の、心もなからん、その罪によりて、無間地獄に落ちて、多くの劫を、送りて、苦を受けるべからん者、終わりの時に、善智識の、勧めによりて、南無阿弥陀仏と、十声唱ふるに、一声に、各々八十億劫が間、生死に、めぐるべき、罪を滅して、往生すと、説かれて候ふめれば、さほどの、罪人だにも、只十声一声の念仏にて、往生は、し候へ。誠に、仏の本願の力ならでは、いかでか、さる事候ふべきと、覚え候。

問うて曰く、摂取の訳を、かうぶる事は、平生か、臨終か、如何。答えて曰く、平生の時なり。その故は、往生の心、誠にて、我が身を疑う事無くて、来迎を待つ人は、これ三心具足の、念仏申す人なり。この三心具足しぬれば、必ず極楽に、生まれるという事は、観経の説なり。かかる志ある日とを、阿弥陀仏は、八万四千の光明を、放ちて、照らし給えうなり。平生の時、照らしはじめて、最後まで、捨て給はぬなり。ゆえに不捨の誓約と申す也。

弥陀の本願を、深く信じて、念仏して、往生を願う人をば、見だ仏より、始め奉りて、十方の諸物菩薩、観音勢至、無数の菩薩、この人を圍繞して、行住坐臥、夜、昼をも、嫌わず、陰の如くに、添いて、諸々の横悩をなす、悪鬼悪神の、頼りを、払い、除き給いて、現世には、横さまなる、煩いなく、安穏にして、命柔の時は、極楽世界へ、迎え給うなり。されば念仏を信じて、往生を、願う人は、殊更に、悪魔を、はらわん為に、萬の仏、神に、祈りをもし、慎みをもする事は、なじかはあるべき。況や、仏に帰し、法に帰し、僧に帰する人には、一切の神王、恒沙の鬼神を、眷属として、常にこの人を、守り給うといえり。然れば、かくのごときの、諸佛諸神、圍繞して、守り給うはん上は、又何れの、佛神かありて、悩まし、妨げる事あらん。

宿業、限りありて、受くべからん病は,如何なる諸々の仏、神に、祈るとも、それに、るまじき事也。祈るによりて、病も止み、命も、延る事あらば、誰かは、一人として、止み、死ぬる、人あらん。況や、又仏の御力は、念仏を信ずる者をば、転重軽受といいて、宿業限り有りて、重く、浮くべき、病を、軽く、受けさせ給う。況や、非業を、払い給わん事、ましまさざらんや。されば、念仏を信ずる人は、例え如何なる、病を受くれども、皆これ宿業也。これよりも、重くこそ、受くべきに、仏の御力にて、これほども、受くる也とこそは、申す事なれ。我らが、悪業深重なるを滅して、極楽に往生する程の、大事をすら、遂げさせ給う。まして、この世に、いく程ならぬ、命を延べ、病を助けくる力、ましまあざらんやと申す事也。されば、後生を祈り、本願を、頼む心も薄き人は、かくの如く圍繞にも、護念にも、預かることなしこそ、善導は宣いたれ。同じく念仏すとも、深く信を起こして、穢土を厭い、極楽を願うべき事也。

この度輪廻の、絆を、離れる事、念仏に過ぎたることは、有るべからず。此のかきおきたる、物を見て、そしり謗ぜん輩も、必ず九品の、台に、縁を結び、互いに、順逆の縁、虚しからずして、一佛浄土の、友たらむ。抑も機をいへば、五逆重罪を、選ばず、女人闡提をも,捨てず。行を云えば、一念十念を、もてす。これによりて、五障三従を、恨むべからず、此の願を頼み、此の行を励むべきなり。念仏の力に非ずば、善人なお、生まれ難し。況や悪人をや。五念に五障を消し、三念に三従を滅して、一念に臨終の、来迎を、かうぶらんと、行住坐臥に、名号を、称うべし。時処諸縁に、此の願を頼むべし。あなかしこ
 
御歌

 

春 / さえられぬ、光も在るを、おしなべて、へだて顔なる、朝霞かな。
夏 / 我は唯、佛に何時か、あふひぐさ、心の妻に、かけぬ日ぞなき。
秋 / 阿弥陀仏に、染むる心の、色に出ば、秋の梢の、類ならまし。
冬 / 雪の内に、佛の御名を称うれば、積もれる罪ぞ、やがて消えぬる。
仏法に逢いて、身命を捨つといへる事 / 仮初(かりそ)めの、色の縁の、恋にだに、合うには、身をも、惜しみやわする。
勝尾寺にて / 柴の戸に、明け暮れかかる、白雲を、いつ紫の、色に見なさん。(玉葉集)
極楽往生の行業には、余の行を差し置きて、唯本願の念仏を、勤べしという事を、阿弥陀仏と、云うより外には、津の国の、浪速のことも、あしかりぬべし。
極楽へ、努めてはやく、出たたば、身の終わりには、参りつきなん。
阿弥陀仏と、心は西にうつせみの,もくけはてたる、声ぞすずしき。
光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨 の心を、月影の,至らぬ里は,無けれども、ながむる人の,心にぞすむ。(続千載集)
三心の中の至誠心の心を / 往生は,世に安けれど、皆人の,誠の心、無くてこそせね。 
睡眠の時、十念を唱ふべしと云うことを、阿弥陀仏と、十声唱へて、微睡ろまん、長き眠りに、なりもこそすれ。
上人、手ずから書き付け給へりける、千とせふる、小松の元を、住処にて、無量寿佛の、迎えをぞまつ。
おぼつかな、誰か云いけん、小松とは、雲を支ふる、高松の枝。
池の水、人の心に似たりけり、濁り澄むこと、定め無ければ。
生まれては、まず思ひいでん、故郷に、契りし友の、深き誠を。
阿弥陀仏と、申すばかりを、つとめにて、浄土の荘厳、見るぞ嬉しき。
露の身は、ここかしこにて、消えぬとも、心は同じ、花の台ぞ。
これを見ん、折々毎に、思いでて、南無阿弥陀仏と、常に唱えよ。
生けらば念仏の功積もり。死なば浄土に詣りなん。
とてもかくても、この身には、思い、煩う、事ぞなき。
 
法然と浄土宗3

 

無条件の救いを説く浄土信仰
貴族守護(国家鎮護)の古代仏教から衆生救済の鎌倉仏教への転換
老荘思想(道教)と儒教の原理的な考え方について書いた過去の記事で、『老荘の無為自然』と『仏教の悟り(解脱)』の類似性を指摘しました。仏教には、出家した僧侶が厳しい修行の中で悟りを目指す『上座部仏教(小乗仏教)』と在家の仏教信者である衆生(一般大衆)を仏法によって救済しようとする『大乗仏教』とがあります。日本仏教では、末法思想と政情不安定によって旧仏教(奈良・平安の仏教)が衰退した平安末期から鎌倉初期にかけて、大乗的な衆生救済の仏教が優勢となりました。
日本の仏教は、鎌倉時代の相次ぐ新宗教の成立によって様相を大きく変えますが、その変化の中核にあったのは、死後に阿弥陀如来が鎮座する西方極楽浄土に往生するという『浄土信仰』でした。そして、阿弥陀如来の『衆生救済の本願(慈悲)』にすがろうとする浄土信仰の大衆化に貢献したのは、学問や修行の経験などないあらゆる階層の人々を救済可能にする『念仏・題目という易行』の登場でした。釈迦の死後2,000年が経過すると釈迦の正法の教えの効力が失われていくという『末法思想』が、浄土信仰の普及を後押ししましたが、平安時代末期(11〜12世紀)には末法の到来を信じさせるような政情不安や社会混乱、天災による飢饉が多く起こっていました。
末法思想が広まった背景には、公家社会(貴族時代)から武家社会(封建時代)への転換に伴う源平の戦乱の恐怖があり、政権基盤の不安定化や相次ぐ天変地異(旱魃・洪水・地震)による民衆の耐えがたい飢餓と貧窮がありました。1,052年に関白・藤原頼通によって阿弥陀如来を本尊とする平等院鳳凰堂が建立されたように、摂関家(藤原家)のような上流貴族の間にも末法思想と浄土信仰が流行していましたが、『民衆の災厄や苦悩』を救済する力(意欲)を古代仏教(天台・真言の平安仏教,南都・北嶺の奈良仏教)は失っていました。天災による飢えと戦乱による被害に苦しむ一般大衆は、政権を担う朝廷(貴族)に訴えても、次期政権を窺う武家(源平の武装勢力)に請願しても、困窮する生活と不安は改善しませんでした。
公家も武家も大きな時代の変革の中で、自己の権力を保持し拡張することに必死であり、貧しい民衆を利用することはあれ積極的に助け出すような姿勢を持っていませんでした。政治の担い手である公家も武家も全く頼りにならないのであれば、比叡山の天台宗や金剛峰寺の真言宗、興福寺を代表とする南都六宗の奈良仏教に救済を求めることになりますが、釈迦が衆生救済を説いた仏教も貴族の既得権益の場と化していて、貧しい民衆の暮らしを顧みることはありませんでした。奈良時代や平安時代の寺院建立が公共事業であり、高僧のほとんどが朝廷の皇族や上流貴族であったことからも明らかなように、平安時代までの古代仏教は『貴族仏教・官製仏教』としての色彩が非常に濃厚でした。
その為、南都・北嶺(興福寺や延暦寺の旧仏教)における仏教経典の研究や密教の加持祈祷の実施などは、大乗仏教的な衆生救済(菩薩行)につながるようなものではなく、飽くまで貴族階級・僧侶階級の繁栄や保護を祈願するという目的のもとに行われていたのです。また、平安時代になると不殺生戒を持っているはずの僧侶が武装して、寺社の所領(荘園)を武力で防衛したり他人の田畑を略奪したりするようになり、大寺社は宗教信仰の場というよりは、軍事的・経済的な一大勢力の様相を呈し、その世俗化(強訴・権力欲・肉食・色欲・高利貸し・金銭欲)は留まるところを知りませんでした。一般大衆は、堕落・腐敗した古代仏教に失望し、寺社相互の権力争いや領土紛争に明け暮れる古代仏教による救済を諦めつつありました。世俗化して衆生救済の責務を放棄した古代仏教は『平安貴族の権力』に守られていましたが、朝廷の貴族勢力が源頼朝(武家の鎌倉幕府)に政権を委託したことで、古代仏教にとって代わる新仏教成立の余地が生まれました。
即ち、『支配者階級の救済を主眼とした伝統仏教』は政治体制(貴族政治)の転換によって急速に衰退し、『一切衆生の救済を説く鎌倉仏教』が台頭してくることになるのです。それは、『学問・教養・経済力・身分・地位・性別』などによって『救済される対象』を選別する古代仏教とは違い、無条件にあらゆる人々を平等に救済するという革新的な仏教、支配階層にとって脅威となる仏教でした。旧仏教(奈良仏教・平安仏教)は貴族仏教であると同時に、『学問仏教・伽藍仏教・祈祷仏教』と呼ばれるような『条件付きの救済』を約束するエリート(選良)のための仏教でした。
これは言い換えれば、難解な仏教経典を解読できるような知性(識字教育)が無い民衆は救われないということ(学問仏教)であり、巨大で豪華な寺社建築を寄贈できるような豊かな経済力が無い貧乏な民衆は救われないということ(伽藍仏教)でした。天台宗や真言宗の祈祷仏教も、高僧による病気平癒や大願成就の加持祈祷を受けられる人は、基本的に貴族階級の上位に属するものが殆どでした。旧仏教は国家仏教あるいは貴族仏教と言われるように、『何らかの身分や条件によって選抜された人間』を主要な救済対象とする宗教であり、貧しくて無知な衆生の生活や悲惨を救い出すような気概・意図をもともと余り持っていなかったのです。
末法の世を救う浄土信仰は、教学的には『仏説無量寿経・仏説観無量寿経・仏説阿弥陀経』という浄土三部経に支えられているわけですが、浄土宗の始祖・法然や浄土真宗の親鸞は、最終的にはこういった経典を研究することは全く不必要であるという結論に達します。専修念仏(せんじゅねんぶつ)の悟りに達する以前の法然は、主に『観無量寿経』に依拠して自己の学識を深め、親鸞のほうは主に『無量寿経』に依拠して自己の念仏称名の阿弥陀信仰を固めていったのですが、法然や親鸞は弟子や民衆に対して教説の学問は不要であり、それらの知識修得にこだわることは救済の妨げになると説きました。
念仏信仰の浄土宗や浄土真宗は『一般大衆(農民・平民)の仏教』であり、あらゆる階層に属する人々を解脱させ救済することを目的としますから、できるだけ救済に至る敷居(必要条件)を低くする必要がありました。その為には、『学識教養・階級身分・経済的富裕・禁欲的戒律』など救済のためのさまざまな条件をつける旧仏教を全否定する必要があり、浄土系の鎌倉仏教では『選択(阿弥陀仏の選択)・専修(一つの行のみに集中)・易行(誰でも可能な簡単な修行)』によって一切衆生を平等に救いだす『専修念仏』という仕掛けを作り出しました。
つまり、『南無阿弥陀仏』(浄土宗・浄土真宗・時宗)という念仏、あるいは、『南無妙法蓮華経』(日蓮宗)という題目を唱えるだけで、輪廻からの解脱と極楽浄土への確実な往生が約束されるという教義を確立したわけです。 
末法思想と鎌倉仏教の台頭
仏教渡来(538年)から長い時が流れた平安時代末期になると、天皇を中心とする貴族階級の権力に陰りが見え始め、武力と荘園(私有地)を権力基盤とする新興の武士階級(平氏・源氏)が勢力を増してきます。日本の古代仏教の総本山には、奈良時代の南都六宗(三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・律宗・華厳宗)があり、仏法によって国家や貴族を守り繁栄させようとする「鎮護国家の思想」が盛んでしたが、東大寺の大仏(盧舎那仏像)を建立した聖武天皇(701-756)の時代に奈良仏教の勢威は頂点に達しました。聖徳太子が17条憲法(604年)で仏教を保護したとされる飛鳥時代の仏教は、国家の平和と繁栄のための宗教と考えられており、仏教の僧侶(官僧)の身分は大和朝廷の律令制に組み込まれていました。
奈良時代には聖武天皇が国分寺や国分尼寺を日本各地に建立し、中国の学識高い高僧であった鑑真(688-763)を招聘して唐招提寺を建立しましたが、この頃から奈良仏教の寺社勢力が権力を増して朝廷の政治に口出しすることが増えてきます。寺社勢力の政治干渉の弊害を嫌った桓武天皇(737-806)は、政務を一新するために平安京遷都(794)を断行しますが、平安時代の仏教は遣唐使として派遣された二人の天才的な学僧・最澄と空海の密教を中心にして展開されます。伝教大師と呼ばれる最澄(767-822)が開祖となった比叡山延暦寺(天台宗)と弘法大師と呼ばれる空海(774-835)が始祖となった高野山金剛峰寺(真言宗)は、日本の密教の二大霊場となり、山岳仏教(鎌倉仏教以前の古代仏教)の中心拠点となりました。
平安時代までの古代仏教は良くも悪くも国家の管理体制が行き届いた「官製の宗教」であり、天皇を頂点とする貴族階級の安寧や祈祷のための仏教でした。平安時代中期くらいから末法思想が流行し始め、従来の古代仏教では対応できない社会不安と民衆の困苦が深刻化してきました。「大集経」に根拠を持つ末法思想(まっぽうしそう)というのは、釈迦の入滅後に長い時間が経過すると仏教の正統な教えが衰退していくという下降史観であり、具体的には「正法(1,000年)→像法(1,000年)→末法(10,000年)」というように仏法の正統な教義が失われていくとされていました。日本では平安時代中期の1052年から末法の世に突入すると伝えられていて、この頃から死後に西方極楽浄土に生まれ変わりたいとする浄土信仰が盛んになり始め、天台宗の僧侶であった源信(恵心僧都, 942-1017)が極楽浄土へ往生するためにはどうすれば良いのかを書いた「往生要集」を著述しました。国家管理方式の官僧になることを嫌って、浄土信仰の民間布教と橋梁など技術教授に尽力した空也(903-972)のような異才を放つ僧侶も平安中期頃から現れ始めました。
本来の末法思想には、末法の時代に天変地異(飢餓・飢饉・疫病)や社会不安(戦乱・略奪・宗教や政治の腐敗)が起こるという悲観的な終末思想は含まれていないのですが、平安末期に次々と起こった天変地異(大雨・旱魃・洪水・台風)による飢餓(飢饉)や疫病を民衆は末法思想と結びつけました。天災による飢饉の問題だけではなく、朝廷の政治権力の不安定化や武装した寺社勢力の世俗化(堕落腐敗)なども顕著になり始め、飢えや寒さ、戦乱に苦しんだ一般民衆たちは弱体化した政治以上に仏教(宗教)に救済を求めました。しかし、政治権力への接近と宗教界内部の派閥闘争によって世俗化が進んでいた奈良・平安時代の古代仏教には、天災の増加と社会不安によって悩み苦しむ民衆を救済するだけの意志と能力がありませんでした。僧兵を抱える奈良の南都・北嶺の寺院は相互に荘園や勢力を競って世俗的な争いを繰り返し、民衆を苦しめる強訴や武装蜂起を起こしたりもしました。密教の本山である延暦寺や金剛峰寺も、難解な学問や過酷な修行に明け暮れるばかりで、庶民の生活や安全を守る菩薩行の実践を優先する僧侶が現れませんでした。
日本が古代社会から封建社会へと転換する平安末期の末法の時代(混乱と困苦の時代)に、古代仏教は「民衆の心の支え」や「民衆救済への動力源」になれなかったことで衰退していくことになります。奈良仏教や天台宗・真言宗などの古代仏教に取って代わる形で、一般庶民を救済する大乗仏教の特色を前面に押し出した鎌倉仏教が台頭してくるのです。法然・親鸞・日蓮・一遍・栄西・道元に代表される鎌倉仏教の最大の特色は、貴族階級の保護と繁栄を祈願した古代仏教と違って、一切衆生(すべての人民)の安寧と往生を祈願する大乗仏教としての性格を色濃く打ち出している点であり、古代仏教にあった本地垂迹説的(神道と仏教の融合的)な多神教(八百万の神々=八万四千の仏)の要素を捨象しているところです。
鎌倉仏教のエッセンスは、「専修(唯一の信仰法の選択)」と「易行(特別な修行や学問が不要であること)」にあり、浄土宗(浄土真宗)の“南無阿弥陀仏”の念仏や法華宗(日蓮宗)の“南無妙法蓮華経”の題目に象徴されるように誰でも簡単に完全な救済と極楽浄土の誓願を得られるようになったのでした。武家政権の鎌倉幕府の時代に入って、仏教は一般大衆化の度合いを強め、貴族階級の鎮護国家の役割や特別に優れた学識を持つ僧侶の学問(修行)から少しずつ分離していくのです。鎌倉仏教の各宗派の開祖の登場によって、国家が律令制の範疇で管理運営する官製宗教であった仏教は、本来の大乗の誓願(利他行)を実践するための「民間信仰の宗教」へと変質を遂げたのです。  
天台宗の比叡山で学んだ法然
幼名を勢至丸(せいしまる)と言う法然(ほうねん, 1133-1212)は、美作国(岡山県)の久米南条稲岡荘という荘園の押領使(地方の軍事的な令外官)の子として生まれました。父は漆間時国(うるま・ときくに)、母は秦氏でしたが、勢至丸が9歳の時に、稲岡荘の領主・源内武者定明の不意の夜襲を受けて父を失います。父親が武力で仇討ちをするのではなく、僧侶となって自分の菩提(ぼだい)を弔って欲しいと遺言したため、勢至丸は母親の弟・智鏡房について学問をします。幼少期から法然は圧倒的な学習能力を有しており、後年には文殊菩薩の化身と賞されるほどの深遠な学識を誇ることになりますが、初めて法然に学問を教えた智鏡房は「一を聴いて十を悟る者」として法然の将来の大成を予見したといいます。
勢至丸の学問への優れた適性を惜しんだ智鏡房は、天台宗の総本山である比叡山で本格的な学問をするように勧め、勢至丸は母親との今生(こんじょう)の別れを覚悟して比叡山へと入山し、北谷の持法房・源光に師事しました。この時点ではまだ正式に得度しておらず勢至丸は垂れ髪のままでしたが、その二年後となる1147年(久安3年)に東塔・功徳院に居た皇円(1074-1169頃)の弟子になって剃髪し得度しました。当時の天台宗で座主を輩出する有力な門跡(もんぜき)は、青蓮院(青蓮院門跡)と三千院(梶井門跡)であり、法然が初めに弟子入りした源光と皇円は梶井門跡に属する僧侶であったと言われます。門跡というのは、皇室や有力貴族の子弟が出家して入る格式の高い寺院のことであり、青蓮院(しょうれんいん)や梶井(かじい)の門跡の門主には法親王が多くいたので由緒ある高貴な寺院として尊重されていました。
皇円の下で得度・受戒した15歳の勢至丸は、「菩提心論」の「心の源は空寂である」という言葉から法然房・源空と名づけられました。法然は、中観によって空や真如を体得しようとする比叡山延暦寺での高度な学問を行い、回峰行のような心身を疲弊させ衰弱させるような厳しい山岳修行に耐えました。しかし、高位の公家出身ではない地方武士の子に過ぎない法然は、幾ら学識と人格に優れていても天台宗の座主(ざす)の地位に就くことは出来ませんでした。法然自身、天台宗の比叡山で権勢を得ることには興味がなく、民衆を救済するための真の仏法と実践を求めていました。当時の比叡山は、藤原摂関家を背景にした青蓮院門跡と天台宗での地位を高めてきた梶井門跡が権力闘争を繰り返す「世俗化の弊害」が激しくなっており、真摯に学問と修行に励む法然が悟りを得る場としては適切ではないという問題もありました。
真の仏法の教えにもっと近づきたいと考えた法然は、比叡山の中でも最も世俗化の害が少なかった黒谷(くろたに)へと隠遁し、1150年9月、禁欲的に求道の生活を送っていた慈眼房・叡空(黒谷聖人)に師事します。法然は、黒谷で開かれていた二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)という「法華経」や「往生要集(おうじょうようしゅう)」を研究する講会に参加したことで、西方極楽浄土へ往生するという浄土思想や念仏信仰へ関心を向けていきます。「往生要集」を書いた源信は、難解な学問や議論を延々と行う奈良仏教(古代仏教)を非難して、念仏を唱えれば誰でも極楽浄土に行けるというような「易行」と「簡潔を極めた理論」の必要性を説きました。釈迦の正しい仏法の威光と恩恵が薄れていく「末法の時代」には、古代の貴族社会の秩序が崩れて、民衆を天災・飢餓・戦乱の苦しみが襲いました。法然はこういった末法の時代に、「貴賎・貧富・学識の違い」なく一切衆生を救うためにはどうすれば良いのかを考え、造像立塔(寺社・仏像の建築)や学識教養(経典の学問)では無知で貧窮している民衆を救うことは出来ないと結論せざるを得ませんでした。最澄の「山家学生式(さんけがくしょうしき)」で定められた比叡山の学修年限である12年を終えた法然は、比叡山を下山して「浄土教」や阿弥陀信仰(往生思想)を更に深く学ぶために南都仏教の寺院へと足を運びます。
仏教を学ぶ学僧の中では最高の知識水準に達していた法然は、教えを受けるために訪れた法相宗の碩学である蔵俊(ぞうしゅん)や華厳宗の英才である景雅(けいが)の知識を大きく上回っていたため、逆に師としての礼遇を受けたとも言われます。しかし、法然の浄土教理解に大きな影響を与えたのは、(法然よりも前の時代の仏僧である)東大寺別当にもなった永観(ようがん)と東大寺の禅那院に住居を定めていた珍海(ちんかい)です。永観は、阿弥陀仏信仰を説いた善導の「観経疏散善義(かんぎょうしょさんぜんぎ)」を引用して、阿弥陀仏の観念と称名の重要性を「往生拾因(おうじょうしゅういん)」という書物の中に書きました。
これを読んだ法然は、専修念仏(せんじゅねんぶつ)の教義の原点となる「観経疏(かんぎょうしょ)」を読むきっかけを得ました。珍海は、自身の「決定往生集(けっていおうじょうしゅう)」という書物の中で、阿弥陀仏の名前を呼ぶ「称名念仏(しょうみょうねんぶつ)」こそ「正中の正因(往生の正しい原因)」と述べています。しかし、珍海は八正道を基盤に置く観想的念仏(心を集中安定させた念仏)でないと有効ではないとしたので、念仏を唱えさえすれば誰でも極楽往生が約束されるとした法然の浄土宗とはまだ距離がありました。
永観や珍海の念仏称名信仰に決定的な影響を与えたのは、古代中国の僧侶・善導(ぜんどう)の「観経疏(かんぎょうしょ)」であり、法然もまた京都宇治にある平等院鳳凰堂の一切経蔵で観経疏を閲覧する機会を得て、無二無念の念仏信仰へと大きく突き動かされました。そして、観経疏の中に「百即百生(ひゃくそくひゃくしょう)の法」を発見した法然は、教義上の師となる善導こそが阿弥陀如来の化身であると信じるに至ります。煩悩を消し去ることが出来ない凡夫であっても、「称念(念仏を唱えること)」さえすれば全て阿弥陀如来(あみだにょらい)が救済してくれるということを法然は確信したのです。
法然は、ただ一心に念仏を唱える「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」に努めれば良いという「宗教的な回心(えしん)」に到達し、1175年に浄土宗が開祖されたと言われます。1175年の開祖については、その後に公家の九条兼実の病気平癒を祈祷したり受戒したりしているので、専修念仏者(純粋な浄土教信者)とは言えないという異説もありますが、仏教信仰上の念仏への回心が1175年に起こったことはほぼ間違いないとされています。九条兼実は、古代仏教界(延暦寺・興福寺)の圧力によって還俗した晩年の法然を保護・支援したパトロンのような存在でした。浄土教の根底にあるのは、どんなに煩悩や不安に塗れていても念仏を唱えさえすれば、必ず阿弥陀如来が救済して極楽往生させてくれるという「易行(いぎょう)による大衆の救い」なのです。  
専修念仏の浄土宗の開祖となった法然
念仏(「南無阿弥陀仏」)さえ唱えれば確実に阿弥陀如来が極楽往生させてくれるという「専修念仏(選択本願)」の教えへと回心した法然。その貴重な教えを民衆に伝えたいと思った法然は、1175年に、長年仏法を学んだ比叡山を下山して「西山の広谷」という気候風土の悪い場所に布教の拠点を構えました。1180年に平重衡(たいらのしげひら)の乱によって東大寺・興福寺(藤原氏の氏寺)・元興寺などの名刹が炎上しましたが、東大寺の復興がだいぶ進んできた1191年に、法然は東大寺大仏殿の近くで「浄土三部経」を元にした説法を行いました。この説法の中で、法然は「法相・三論・華厳」といった旧仏教だけでなく、「天台・真言」などの密教も批判し、仏の真の救済は浄土宗に窮まるといった話を展開しました。浄土宗には師から弟子へと連綿と語り継がれてきた相承血脈(そうしょうけつみゃく)や奥義口伝などは存在せず、ある意味で法然個人の「宗教的回心」と「浄土教の研究解釈」によって生み出された非正規的な宗教であると言えます。
つまり、法然は1191年の「浄土三部経」に基づく説法によって、古代仏教の骨格を為していた「聖道門(しょうどうもん)の教え=禁欲的な学問や修行によって悟りを開くという聖なる教え」を否定的に評価する教判(仏教教義の価値判断)を行ってみせたわけです。釈迦の正統な法の効果が薄まりつつある「末法の時代」には、従来の仏教の煩悩を消し去ろうとする方法論は有効性が乏しく、真に苦しみや迷いを取り除こうとすれば「弥陀の本願」に念仏で縋る(すがる)ほかはないという他力本願(たりきほんがん)が法然の教えです。法然は、浄土三部教を最高の教えとする教判(きょうはん)によって、念仏を唱えるだけで極楽に導かれる浄土教は「頓教中の頓(とんきょうちゅうのとん=最も迅速なご利益が得られる教え)」であると語りました。法然自身は、天台宗から独立した浄土宗を新たに開設する意志はなかったとされますが、法然は教養のある学僧や修行僧が悟りを開く「聖道門」とは別の、一般大衆が誰でも極楽往生できる「浄土門」を示すために民衆に布教を続けたのです。
法然は、浄土宗には師から弟子へと連綿と語り継がれてきた相承血脈(そうしょうけつみゃく)がないことを公言していました。しかし、天台宗や南都仏教など古代仏教の側から相承血脈(師資相承)がないことを非難された時、中国の僧・道綽(どうしゃく, 562-645)の「安楽集」を読めば、「菩提流支三蔵→恵寵→道場→曇鸞→法上→道綽→善導→懐感→少康」へと受け継がれてきた浄土宗の相承血脈を知ることが出来ると反論しました。民衆が飢餓・天災・戦乱などで絶望に打ちひしがれる末法の時代には、古代仏教(聖道門)の厳格な戒律、過酷な修行、煩雑な学問体系などは「一切衆生の救済」にまるで役に立ちませんでした。そういった社会不安が増大する平安末期の世に生きた法然は、苛烈で難解な「聖道門」に変わる万人を簡単に救済できる「浄土門」を開き、衆生に備わる仏性を具体的に開花させる「極楽往生の実践としての念仏称名(専修念仏)」を広めたと言えます。
法然は1186年に「選択集(せんぢゃくしゅう)」を著述し、1204年には浄土宗拡大を警戒する比叡山延暦寺の武装蜂起を受けて「七箇条制誡(ななかじょうせいかい)」を書いて、専修念仏に努める浄土宗信徒の破戒行為の増長や他宗派に対する挑発を戒めています。1212年に法然は大往生しますが、法然の弟子には證空、源智、聖光、幸西、長西などがいて、後に日本最大の宗教勢力へと拡大する浄土真宗(一向宗)を起こした親鸞も法然に師事していました。  
 
道綽「安楽集」

 

道綽 (どうしゃく、Dao-chuo)は、唐代の中国浄土教(中国浄土宗)の僧侶である。俗姓は衛氏。「西河禅師」とも。浄土宗では、「浄土五祖」の第二祖とされる。浄土真宗では、七高僧の第四祖とされ「道綽襌師」「道綽大師」と尊称される。
陳-天嘉3年/北周-保定2年(562)、并州汶水に生れる(生誕地は并州晋陽とも)。14歳のときに出家し、「涅槃経」に精通。30歳を過ぎて慧瓚(えさん)に師事し、戒律と禅定の実践に励む。大業5年(609)、48歳のとき玄中寺の曇鸞の碑文を見て感じ、自力修行の道を捨て、浄土教に帰依し同寺に滞在する。出家者、在家者のために「観無量寿経」を200回以上講義。亡くなるまで念仏を日々7万遍称えたといわれる。念仏を小豆で数えながら称える「小豆念仏」を勧める(称名念仏)。貞観19年4月27日(645)、85歳にて逝去。 
人物像
北齊武成帝の河清元年(562)並州の文水(一説に晋陽)に生まれ、唐太宗の貞観十九年(645)玄忠寺で示寂。寿八十四。誕生は曇鸞の滅後二十一年目に当たり、また、仏滅後千五百十一年(ただし仏滅を周の穆王五十一年とする説による)正法五百年像法千年説によれば末法に入って十一年)に当たる。十四歳出家、久しく「涅槃経」を愛読し、後には慧鑽に師事して般若空の思想を学び禅定を修したとも伝えるが、帰すべき所を見い出しえず煩悶多きところ、たまたま文水石壁谷の玄忠寺に詣で曇鸞大師の行跡を記した石碑を見て感激し、涅槃宗を捨てて浄土門に帰した。時に隋の煬帝の大業五年四十八歳であったという。
それより後、玄中寺に住して阿弥陀仏を専念すること日毎に七万遍、「観経」を講ずること二百回に及んだという。普く晋陽・太原・文水三県の道俗を教化し七才以上の者弥陀を称せざるはなかったと伝える。称名を勧励するに七称ごとに小豆一粒を取るを以てし、多きは八九十石、少なきものすら二十石を得たという「續高僧傳」には「無量寿観を講ずること将に二百遍」とあり、その教説の中心となったものが「観経」であったことが知られる。
時代背景
師は、南北朝から隋唐に至る諸王朝興亡の動乱期を生きられた。王朝存続が長くて六十年(宋・梁)、短いものは二十年(齊・陳)というありさまであった。
禅師生誕の年、北齊の武帝の河清元年(562)、北周武帝の立った年に当たる。南には陳があり、北には突厥が勢いを増していた。十六歳の時、北周は北齊を破って晋陽(太原)を陥れ、その北周も、二十歳の時には隋に滅ぼされた。隋が南北統一したのは二十八歳の時であり、隋が滅んだのは五十七歳の時である。
止む間もない戦火の中で、暴行略奪は日常茶飯事であり、人倫の荒廃は極に達するありさまであった。加えて覇王の圧政は庶民に過重の負担を強い、さらに廃仏の嵐が吹いた。北周の武帝は禅師の生国北齊を攻め、禅師十三歳の五月、国内の思想統一を目的に勅を下して釈道二教を廃し、経像を毀ち、沙門道士二百余万を還俗せしめた。三年後、北齊を滅ぼした勢いで、仏寺仏像を毀ち、僧尼三百余万を還俗せしめるという仏教弾圧を行ったのである。
僧尼の堕落ぶりも指摘される。税役を免れて安逸に暮らすための出家が横行し学も行も精進も戒も名ばかりで、尼は多く僧の愛妾であったといわれる。
このような社会状況は、禅師がしばしば引用される「大集経」に示された法滅尽の様相そのままであり、禅師の末法意識形成に大きな影響を与えたといわれている。
一方、仏教界の動きをみると、南北朝期に多くの翻訳三蔵が中国に来たり、求法沙門が印度入りが交流して、仏教についての研鑽は隆盛を究めていく。廃仏が反面の刺激となって、隋唐には中国仏教の建設時代を現出した。すなわち、多くの巨匠輩出して宗派仏教建設時代を形成したのである。
摂論の真諦三蔵・南岳慧思(末法思想の先駆者)・地論の浄影寺慧遠・禅の慧可・三階教の信行・天台の智ぎ・三論の吉蔵・玄奘・律の道宣・法相の窺基・華厳の法蔵・義浄等、みな同時代人である。
中国浄土教の系譜/「選択集」
@廬山慧遠(334-417)流/道俗を集めて白蓮社を結ぶ。(宋明代に復活して永続)/天台、禅と結びついて聖道門的理観を扶けるものとされた。
A慈愍三蔵流/念仏と戒律、念仏と禅定を結合させたもの。
B道綽・善導流/廃立の論理を有する独立した宗としての浄土教。
慧遠の師である道安によって提唱され流布された兜率願生(弥勒菩薩のおわす兜率天に往生し、弥勒が娑婆に下生して成道、転法輪するに会して覚りを目指そうとするもの。凡夫が次生に極楽に往生するは不可能とみる故、より易い兜率往生を目指す)が一大潮流をなして願生浄土の信仰と対抗した。
信行(540-594)の三階教との対照
魏郡に生まれ、出家して常に時機相応の法を求め、終に末法仏教として三階教を開創、文帝に召されて長安に入り、「対根起行」「三階集録」等四十巻を著した。五寺を領し、弟子継承して広く流伝した。毀誉褒貶激しく、前後五回の勅禁を受けた。「大集経」の五五百年説を根拠に、第一の五百年を第一階、第二の五百年を第二階、第三の五百年以降を第三階と考えた。基本的には聖道門的な一乗思想の徹底化をはかったものとみられる。唐代には浄土教徒と三階教徒との間に種々論難の往復が行われた。矢吹慶輝氏の「三階教の研究」によれば、三階教と浄土教の同異点として、六同四異を挙げる。
@両者共に末法仏教たること
A濁悪世界の得道を難事とすること
B甚深なる罪悪の自覚に立脚すること
C邪悪の下機には特殊な仏法を必須とすること
D浄土の因果を説いて往生浄土を勧むること
E去聖遙遠と理深解微とに由りて、別解別行と異学異見とを捨閉し、擱抛して、対根起行(機教相応)を主眼とせること
@三階教は普仏普法を説き、浄土教は専心弥陀を教え、A一は邪機の故に専念を否とし、他は悪機の故に普念を拒み、B一は此土入聖(直到成仏)を許し、他は彼土入聖を欣び、C一は求心に偏して只管円の中心に跼蹐、他は遠心に走りて専心に円の周囲に彷徨す。
山本仏骨氏の指摘によれば、三階教の浄土観は、一方即十方、浄土即穢土、諸仏不二の円融思想に立ち、指方立相の浄土観は異なる。仏陀観についても、すべては如来蔵仏性の外でないとして礼拝する汎神論的理解であって普遍的如来表現に帰依するという。その点で極端な排他主義の面を持ち、「認悪」といっても、自己自身の上に自力不成を深信するということとは異なり、批判的排他的なものである。その起行論において甚だ厳重な制法を設け、断悪修善の律を立てることなど、聖道門的性格が強い。道綽禅師の思想との類似性が言われてきたが、疑問があるという。
安楽集制作の趣旨
曇鸞教学に立脚して「観経」の要義を顕し、広く諸経を用して、念仏往生の道の時機相応の法としての正当性を明らかにせんとする。
論述の要は、末法悪世の凡夫が救われることと、凡夫が報土に生じて仏になるということである。これを証誠するための命題が「約時被機」と「聖浄二門」であり浄土門存立の根本理由を開示するものである。
第一大門
一 教興所由
約時被機勧帰浄土の意趣を顕し、第一大門の総意、かつは十二大門全体の総意とする。
・教興の所由/浄土教が興起せねばならなかった理由。「観経」の所顕末代悪世の凡夫の救い
時に約し機に被らしむ / 正法・像法・末法の時期的観点からとらえ、根機の優劣に対応するかどうかに照らして修行すべき教を選ぶ。本著の主旨たる称名念仏を選ぶことの論拠を示す。
・時と方便/時と修すべき教法=智
・第五の五百年/「末法第五の五百年この世の一切有情の如来の悲願を信ぜずは出離その期はなかるべし」「像法のときの智人も自力の諸教をさしおきて時機相応の法なれば念仏門にぞいりたまふ」 「像末五濁の世となりて釈迦の遺教かくれしむ弥陀の悲願ひろまりて念仏往生さかりなり」
・微しき善法/末法の末は微末の義とされる。ここでの引用の意は末法の世にもなお朽ちぬ念仏の法を指すとみるか。
・四種の法/仏の口業たる説法、身業たる光明・相好、意業たる神通徳用と仏の三業の全体を包摂する名号による済度。
仏の名号を称すべき時なり / 本著の主旨を顕す一文。
・一念阿弥陀仏を称すれば、すなはちよく八十億劫の生死の罪を除却す。「観経」下々品の意。
・聖を去ること、近ければ・遠ければ/正法の時機と像末法滅を対比
・諮開/仏よ開示したまえと諮問すること
・情をもって趣入す/さとりの世界は智慧をもってしか趣入できないはずのところ弥陀の浄土だけは真のさとりの世界(報土)でありながら煩悩具足の凡夫の願生の心情で趣入できること。
真言を採り集めて・・無辺の生死海を尽くさんがためのゆゑなり / 本著述作の意図を顕す一文。
「顕浄土真実教行証文類」末に引用。曇鸞は「知恩報徳」といい、善導は「自信教人信」と示した。/法は不変、しかし救済は時機相応
道綽禅師は末法思想を支点として、「時機相応」という新たな教学の枠組みを提示された。それは、それぞれの教相判釈によって立った宗派仏教にみられるような異国から伝来した精神文化としての仏教をどう理解するかという学問的、客観的、第三者的観点を破って、仏陀は我が身に対して畢竟どうせよと呼びかけられているのか、自らの救いの道をどこに見いだすかという、いわば苦悩の一衆生として、生活者的立場に立っての視点を示すものである。
真如法性は時空を超えて不変であり普遍的(平等)であるとはいっても、人間は歴史的社会的存在であって、その苦悩のありようもまた時代と社会を反映した様相をとるものである。それ故、仏陀の教法は随機差別・応病与薬といわれるように、真如法性に順じつつも言語化され、表現された段階においてはすでに相対性と時代性を免れるものではない。
特に抜苦与楽の救済宗教としての面からは、その教法が時機相応であるか否かが問われる。言語や形式を超えた真如が問われるのではなく、言語化のあり方、表現としての修行形態が、その救済機能を時機によって問われねばならないのである。
そのことは、かねて釈尊によって見通されていて、すでにして未来世の濁悪不善の衆生の為にと称名念仏の教法が「観経」に説かれていたと見られたのである。もちろん「論」「論註」の「無量寿経」解釈の伝統に立ってではあるが。
約時被機によって、唯称名念仏ひとつを見い出した。もとよりそれが仏意であった。「安楽集」の総意はここにあるといえよう。
二 説聴方軌
仏教は癒病抜苦の救済教であり、説法聴聞の宗教であることを示し、説人の目指すべきところと聴者のあるべき姿勢を明らかにする。特に聞法信受は宿善のしからしむるところと讃え、客観主義の疑いを戒め、信を勧める。/救済の法は聴聞の宗教
仏教は転迷開悟の宗教であり、戒定慧の三学を修行して正覚を証得する道であるとのみ見れば、浄土教の存在意義は見えなくなるかも知れない。しかし、行証得難くいのち終わるまで迷いと苦悩を離れられないものをどう救うかという問いに立てば聞信の宗教、救済教としての浄土教こそ釈尊出世の所以であるということは理の指すところである。
救済教としての浄土教は、同時に聴聞の宗教であること、聞法において、宿善が顕現し、久遠劫来の諸仏(弥陀)の救済の活動が顕現しているという観点から、説聴の原点を明らかにしようとする。「癒病」という比喩表現をもって、浄土教の本質を示そうとしてある。
三 発心久近
聞法者の宿善を明かして励ます。/今日聴聞として顕現する宿善の淵源は過去世の発心と供仏
聞法として顕現する宿善の体は宿世における発菩提心と供養諸仏であるという名目で「涅槃経」を引きながら、その内容とするところは聞法を中心としてある。聞法こそが如何なる功徳修行よりもまさることを示そうとするか。
四 宗旨不同
観経の本旨を示して、観仏三昧為宗を標しながらも、帰すべきは念仏三昧なることを示す。
・観仏三昧経/「観仏三昧海経」十巻東晋の仏駄跋陀羅訳
・三種の益/十二部経を説く/相好光明あって観察せしむ/念仏三昧を行ぜしむ(観察ではなく称名の念仏の意か)
観仏三昧を宗とする「観仏三昧経」に、観仏三昧の他に念仏三昧あるを示して、ついには念仏三昧に帰すべきを顕してあることを証す。
・凡夫所行の境界にあらざるが故に、念仏三昧を行ぜしむ。/空観を行じ、観仏を行ずることは凡夫には困難とみて、これに簡んで称名念仏を行ぜしむの意。
のちに善導が「観経疏」定善義の日想観・水想観に示した、観察を説くは「業障重きことを知らしめんがため」の意に通ずる。
・念仏の功/仏前に往生せしめ、生死濁悪のただ中に香気を生じて濁世を改変して香美ならしめ、大慈悲を成ぜしむ。念を積みて断えざれば業道成弁す。
のちに、善導が二河喩に示す意を顕す。
一念の力よく一切の諸障を断つこと、獅子の筋の弦のごとく、獅子の乳のごとく、翳身薬のごとし。念仏三昧は一切の三昧の中の王たり。
観経は、面には定善十三観を中心として観仏を説くとみせて、後の散善三観の九品段においては信心称名をの道を開示し、流通分にいたってはついにただ名号をたもてと結ぶ。のちに善導は、「観経四帖疏」を著して、凡夫が称名念仏ただ一つによって報土に往生を遂げることを説く経であると解釈した。宗祖はこれを隠彰顕密の二義ある経と名付けた。自力疑心の行者を誘引する方便として観仏を説きつつ、凡夫直入の称名念仏を開示せんとするが、仏の本意と見たのである。すでに道綽においてそのような観経解釈が胚胎していたことを知る一章である。
五 得名各異
総料簡の中で既に述べる。「観無量寿」は所説の法と能説の人に即して名付けた経名であることを、他の経典の例まちまちであることを挙げて確認する。
六 説人差別
総料簡の中で既に述べる。弟子の説・諸天の説・神仙の説・変化の説に簡んで、観経は仏の自説であることを確認する。
七 三身三土
阿弥陀仏の身土が諸師のいう応身応土ではなく報土であることを阿弥陀仏の三身三土を示しつつ、明らかにする。
・報仏・報土/法身・報身・応(化)身の三身のうち、報身の仏・土。
・化仏・化土/応身仏・応身土というに同じ。化土(応土)は未だ迷いを離れない土。
・法身/法身には個別の仏・土なし。
・釈迦如来の報身・報土/三身・三土は諸仏如来ともに具えることを示す。
・色/身相のこと。
・仏刹/ここでは浄土のこと。
・一質成ぜざる故/浄土と穢土とは一体ではないので、満ち欠けの違いあり。
・異質成ぜざる故/浄土と穢土とは別体でもないので、本源をたずぬれば冥合す。
・無質成ぜざる故/体がないわけではないので、因縁によって諸々の形を示現す。
慧遠・天台等の諸師は、凡夫たる韋提希が称名念仏ごときの少功徳を修したぐらいで往生が可能ならば、阿弥陀浄土は化身化土に過ぎぬはずであり、もし報仏報土であるなら逆に韋提希は実は凡夫ではなく高位の菩薩の化現でなくてはならぬとした。自力聖道門の論理で念仏往生の法を解釈したからである。今、道綽はまず、弥陀の浄土が報土であることを証明し、ついで凡夫通入の理由(信心=菩提心・念仏=他力の大功徳)を明らかにしょうとするのである。
八 凡聖通往
凡夫
・聖者ともに往生を得ることを明らかにする。
・該通/共通かねて通ず・ならびに通ず。
・凡夫の善/虚仮雑毒の善の意ではなく、他力の真実功徳たる念仏の善の意か。
・相土に該通/無相の土であると同時に有相の土でもある。
・縁の中に/因縁生・空の道理をわきまえつつ
・生・無生を知る/有相の浄土に生ずるままが、無相の浄土に生ずることであり、無相の浄土に生ずるからには、即ち無生であると知る。
・真実の慈悲を起こし、真実の慈悲を知り、真実の帰依を起こす/自らが真実の慈悲を起こすことによって仏の真実の大慈悲心を知り、真実の帰依を起こすの意か。
・二諦/無相の法性真如(真諦)と有相(方便)の相好荘厳(俗諦)が二而不二にして相入する道理。
弥陀の報土が凡聖ともに往生を得ることのできる土であるという道理は、その報土が無相の法性真如界でありつつ同時に有相の相好荘厳界でもあるという、広略相入・相即無相・生即無生の原理の上に立っていることを明らかにする。同時に無相・無生の理を知ってしかも願生するものがあるとすれば、それはよほど機根すぐれた上輩でなければならぬ理を示して、暗に有相の浄土を願生するものを見下す程の身であるかどうかを自問せよ、己が分を思量せよ勧告する。
九 三界摂不
弥陀の報土は凡夫得生の土でありながらまた、迷いの三界に摂するところではなく、勝過三界道の浄土たることを明らかにする。
第一大門の大意
一 教興所由/約時被機勧帰浄土の意趣を顕す
二 説聴方軌/仏教の救済教たるを明らかにする。
三 発心久近/聞法者の宿善を明かして励ます。
四 宗旨不同/観経の本旨を示して、帰すべきは念仏三昧たることを示す
五 得名各異/観・無量寿は法と人につけた経名であることを確認する。
六 説人差別/観経は仏の自説であることを確認する。
七 三身三土/阿弥陀仏の身土が応身応土ではなく報土であること明かす
八 凡聖通往/凡夫・聖者ともに往生を得ることを明らかにする。
九 三界摂不/凡夫得生の土でありながらまた、勝過三界道の浄土たることを明らかにする。
誰もが末法悪世の下根の凡愚たる今、なお有効な教法は往生浄土の門より他はない。大聖釈尊にならって此土開覚することこそ仏法の本道であるという見方は、一面観に過ぎない。聞法の宗教、救済教であることこそ仏陀説法の原点である。聞法の中に宿善があり、救いがあり、仏法興隆があるのである。往生浄土の道を具体的に説き開いた観経は観仏三昧を宗と説きつつ終には念仏三昧に帰せしめる経典である。ほかならぬ仏陀の自説であるから疑ってはならない。仏陀の自説を卑しめて阿弥陀仏の身土を応身応土とする説が流布しているが、これは誤りであって、報仏報土であることは種々の文証によって明らかである。その報土は末法悪世の凡夫を救うにふさわしく凡聖通往の土である。無相の真如の妙用として展開された有相の荘厳界であるからである。凡夫得生の土でありながらまた、勝過三界道の浄土なのである。
ここに、末法の世の救いの道が開かれてあったのである。末代下根の凡愚が分際もわきまえず正法・像法の時代の論理を借りて疑義をなすべきではない。 
第二大門
一 菩提心義
願生の信心こそが菩提心なることを明かす。第一大門の第四科において、宗旨の不同を弁じ、「観経」は観仏三昧を説きつつも念仏三昧を宗旨とすることを明かした下で、「菩提心のなかに念仏三昧を行ずれば」とあったことを承けて、願生の信心がすなわち菩提心なることを示す。
(1)菩提心の功用を出す/それ自身究極の真実であり、ついに仏果の因となる。
「大経」云「凡欲往生浄土要須発菩提心為源」云何菩提者乃是無上仏道之名也/往生浄土を願うことは、そのまま菩提心をおこすことであり、成仏道である
@広大遍周法界
A究竟等若虚空
B長遠尽未来際
C普備離二乗障
D傾無始生死有淪
E所有功徳回向菩提皆能遠詣仏果無有失滅
(2)菩提の名体を出す/仏身に法報化の三態あるがごとく、菩提にも三態あり。
@法身の菩提/真如実相第一義空自性清浄体無穢染理出天真不仮修成仏道体本名曰菩提
A報身の菩提/備修万行能感報仏之果果酬因名曰報身円通無礙名曰菩提
B化身の菩提/従報起用能趣万機名為化身益物円通名曰菩提
/菩提とは、思慮言語を越えたものであるに止まらず、具現化して衆生利益す
(3)発心異なることあることを顕す/菩提に三態あるに相応して発心にも三様あり。
修因発心具三種
能与大菩提相応
@要須識達有無従本已来自性清浄
A縁修万行八万四千諸波羅蜜門等
B大慈悲為本恆擬運度為懐
/発心また、迷界苦悩の衆生への慈悲たるを失わず
又拠「浄土論」今言発菩提心者即是願作仏心願作仏心者即是度衆生心度衆生心者即摂取衆生生有仏国土心今既願生浄土故先須発菩提心也/願生心は即ち願作仏心・度衆生心であって、そのまま仏果の因たる菩提心である。
(4)問答解釈
@修因感果の理を問う
問い「諸法無行経」に、菩提とて求むべき体なしと説く。如何。
答え菩提は無相にして求むべき理体なしといえども、なお仮名を壊せず。理体求むることなきを識知して、修してよく果を感ずることを得。
竜樹の「大智度論」釈によれば、縛は分別にあり。真諦につけば不行、俗諦につけば行、不行にして行なれば二諦の大道理に違せず。(真諦(第一義諦)にのみによらず、二諦の理にたてば疑難なし)天親の「浄土論」によれば、無上菩提に会する発心に二義あり。一に菩提門相違の法を離れ、二に順菩提門の法を知る。
菩提門相違の法を離れるに三種
@智慧門/自楽を求めず。自身に貪着することを遠離するが故に。
A慈悲門/衆生の苦を抜く。衆生を安んずることなき心を遠離するが故に。
B方便門/切衆生を憐念す。自身を恭敬供養する心を遠離するが故に。
菩提門相違の法を離れ、菩提門に随順する法に三種
@無染清浄心―自楽を求めず
A安清浄心―衆生の苦を抜く
B楽清浄心―一切衆生をして大菩提を得しむ。衆生をして畢竟常楽の処たる安楽仏国に生ぜしめんとす。(菩提の本質は自楽を求めぬ抜苦与楽の衆生利益にあり)
二 異見邪執
九種の異見を会釈しつつ仏教の根本意趣を開示し、別時意の妄説を論破して念仏往生の通路を開く。
@総生起―後代の学者をして明識是非去邪向正せしめんと欲す
A―広く繋情につきて正を顕してこれを破す
・大乗深蔵名義塵沙、「一名無量義・一義無量名」「涅槃経」
・小乗・俗書の文を案じては義おわらず
・浄土(の教)は幽廓にして隠顕あり
・凡情の図度当たることなし
・偏執無知、往生を妨礙す
(1)大乗の無相を妄計する異見邪執を破す−自らの迷いを置き去りにした観念的心得顔を批判する。
疑  ・大乗は無相、彼此を念ずることなかれ。
   ・願生浄土はこれ取相、うたた縛を増す。
答  ・諸仏説法は二縁を具す。一には法性の実理により、二には二諦に順ず。
   ・かの疑難は、大乗無念但依法性とのみ計して、縁求を謗り無みす。
   ・これ二諦に順ぜず、滅空の見に堕す。
   ・「無上依経」に、我見は未だ因果を壊せず、果報を失わざるも、空見は因果を破り喪ひ   
   て多く悪道に堕すと説く。
   ・無生の真諦に立ち、しかも縁求の俗諦に依る二諦の道理ある故に往生す。
   ・「維摩経」に、「国土衆生を空と観じ、しかも浄土を修して群生を教化す」「無作を行ずれ
   ど受身を現じ、無起を行ずれど善行を起こすが菩薩の行」
   ・大乗の無相を行じ、彼此を存ぜず、まったく戒相を護らぬ輩あり。これ無相の妄見のし
   からしむるところ、甚だ有害。
   ・「大方等経」に、「仏は優婆塞のために、出家に対してはなき制戒を与えたまふ。遮制
   約勒してはやく世間を出て涅槃を得しめんためなり」と。
(2)菩薩の愛見の大悲を会通す
疑  ・大乗の聖教には「愛見の大悲を起こさばすなわち捨離すべし」と説く。
   ・勧めて浄土に生ぜしむるは愛染取相にて、塵累をまぬがれざらん。
答  ・菩薩行の功用に二あり。 一には空慧般若を証る。六道生死に入れども塵染に繋がれ  
   ず。二には大悲を具す。衆生を念する故に涅槃に住せず。二諦に処すといえども妙に
   有無を捨て、取捨は中を得て大道理に違せず。
   ・空の理に立っては浄土を取らんと願ずるいわれなし。衆生を成就せんとの大悲の故に
   仏国を取らんと願ず。「維摩経」の意
愛見を離れることあたわざる衆生を導いて覚りを得しめんとの大悲故に、菩薩は二諦の道理に立ち有無を離れて、勧めて浄土に生ぜしむるのであって、愛見の大悲と難ずることは当たらないと明かす。
(3)心外に法なしと繋するを破す
@計情を破す
疑  ・心外に法なく、浄土なし。心浄ければすでに是なり。何ぞ必ずしも西方浄土を須いん。
答  ・この論、法性の理にのみ偏す。自らの分際を見謝るか。法性浄土は上地の菩薩のみ
   入るに堪えたり。
   ・未だ相を離ることあたわざる中・下の輩のために信仏の因縁によって浄土に生ぜんと
   求むる道あり。二諦の理によらば、浄土はこれ心外の法なることを妨げず。−「無字宝
   篋経」の意による
A問答解釈す
疑  ・上士と中・下輩の別を立てる根拠を問う。
答  ・「智度論」に、新発意の菩薩の機解軟弱なるは浄土を願生すべきことを説く
   ・浄土に至れば一切成就す。有相無相の深浅の理を論ずるいわれなし。
己心中に浄土ありという論は、凡夫においては自らの現実を見失った観念論でしかない。無生の生と示される法性の理に裏付けられつつも、具体的みちすじを示し勧められることで、育て護られねばならないのが我々の実態であると示す
(4)穢国に生ぜんと願じて、浄土に往生せんと願ぜざるを破す
疑  ・浄土に往生せんよりは、穢土に生じて衆生を教化せんこそ大乗の本意ならん
答  ・不退の上士はしからん。凡夫は衆生を救はんとするも相共に没しなん。
   ・「智度論」に、凡夫の衆生救済の試みを仏許したまはざる所以を説く。貪瞋に満ちた穢
   土に圧倒され、自ら煩悩を起こして、返って悪道に堕す故と。
浄土を願うは、穢土の現実からの逃避であり、あくまで現実との取り組みに邁進することこそが菩薩道だという論は、自分の能力の限界を見ようとしない空想であって、返って自他ともに絶望の淵に沈ませることになると示す。
(5)もし浄土に生ずれば、多く喜びて楽に着すといふを破す
疑  ・往生浄土は楽に執着して修道のさまたげとならん。
答  ・浄土には楽に着する貪愛の煩悩なし。すでに「大経」に示す所なり。
浄土を願うは、苦を逃れ楽を求める煩悩に過ぎず、往生を得たとしても新たな迷いの始まりではないかという疑難は、浄土の名義すら心得ぬ無知から出たものと示す。
(6)浄土に生ぜんと求むるは非なり、これ小乗なりといふを破す
疑  ・浄土を願うは小乗ならん。
答  ・小乗にはもとより往生浄土の教を説かず。
浄土を願うは小乗的利己主義ではないかという疑難があるが、利己主義的だからこそ小乗においては一切衆生を摂取する浄土など、はじめから説かれていないことを示し、個人的安心立命ではなく、共有の場としての浄土が説かれたことに含まれる大乗性を示唆する。
(7)兜率に生ぜんと求めて、浄土に帰せざれと勧むるを破す
疑  ・西方浄土よりは兜率天に生ぜんと願ずべし。
答  ・二種の願生、少分は似て体は大いに別なり
    @兜率天には楽に着するもの多く、なお三界のうち、位退処なり。
    A兜率の寿命四千歳も、命終の後は退落を免れず。
    B兜率天の荘厳はただ天人たちの欲楽の縁に過ぎず。弥陀の浄土は不退の地、位
    は無漏、輪廻の三界を出過す。寿命は弥陀と等しく限量なし。一々の荘厳よく法を説
    き、人を開覚せしむ。
    C弥陀浄土の独妙なること「讃阿弥陀仏偈」に音楽の比校を以て讃えるがごとし。
未来仏たる弥勒のまします兜率天に上生して、五十六億七千万年の後、弥勒とともに下生し、龍華樹の下で覚りを得た弥勒仏が三会の説法によって一切を度すに遇おうとする兜率天願生と浄土願生の違いを明らかにし、阿弥陀浄土の究極性を顕さんとす。
(8)もし十方の浄土に生ぜんと求めんよりは、西に帰するにしかずといふを会通す
疑  ・十方浄国に生ぜんと願じて、西方に帰せんと願ぜず
答  ・この義類せず。三義あり。
    @境寛ければ心眛く、境狭ければ意専らなり。「十方随願往生経」に「諸経にひとえに
    阿弥陀国を讃ずるは、衆生をして専志あらしめんため」と示す。
    A弥陀の浄国は浄土の初門なり。「華厳経」によって知る。
    B弥陀浄国は浄土の初門、娑婆世界は穢土の末処なり。「正法念処経」にいうふがご
    とし。境あひ接す。往生甚だ便なり。なんぞ去かざらんや。
三階教において、最劣の悪機に最劣の悪機ふさわしい道として説く、個別性没却の普仏普法思想との違いを明らかにし、その理由と典拠を示す。最劣の悪機には、帰すべき仏の個性も法の差異も無意味だとする普仏普法思想に対し、最劣の悪機には最適の仏と法こそが必要だという機教相応という見方を提示する。
(9)別時意を料簡す
疑  ・「観経」にいう「下品生の人現に重罪を造るも、命終の時に望みて善知識に遇ひて十
   念成就してすなはち往生を得」というは、「摂論」にいうによれば「仏の別時意の語な
   り」といふ。
   ・また古来通論の家多くこの文を判じて「臨終の十念はただ往生の因となることを得る
   も、いまだすなわち生ずることを得ず。「摂大乗論釈」の意によるに、一金銭をもって千  
   金銭をあがなうに、一日をもって得るにはあらざるがごとし」とす。これ別時意の語と名
   づく。
答  ・かくのごとき解はいまだしからずとなす。
   ・論を作り経を釈するは、仏意を扶けて聖意に契はんがため。論文、経に違することある
   べからず。
   ・経に十念往生をのみ説きて、過去の因の有無を論ぜざるは、造悪の徒をして臨終に悪
   を捨てて善に帰し、念に乗じて往生せしめんとなり。故に過去の因を隠して説かず、果
   のみを談ぜらるる。この没因談果こそ仏による別時意の語なり。
   ・「涅槃経」によれば、過去世の供養諸仏・発菩提心の因となりて、不謗法乃至愛楽の
   果を結ぶ。よって「観経」の十念成就は、すでに過去世の因あるによることを知る。過
   去の因なければ善知識にすら遇うべからず、いわんや十念して成就すべけんや。
   ・論の「一金銭をもって千金銭をあがなうに、一日をもって得るにはあらず」といふは、経
   文には過去世の因を説かざるに乗じて論ず。(経と矛盾なし)
   ・すなわちこれ経・論あひ扶けて往生の路通ず。また疑惑をなすなかれ。
「観経」下々品の十念往生の文を別時意の説だとして、念仏往生を貶める摂論学派からの論難に応えようとする一段。経文と論の説とは矛盾しないと批判をかわす。経の説の通りだとする論拠の中心は宿善あればこその「遇善知識」、宿善の果としての「如是至心具足十念称南無阿弥陀佛」、宿善の果なるが故の往生だとする点にある。宿善の背後にあるのは仏の不思議力であることを示し、あるいはその十念が信心すなわち菩提心を本とすることは、次段で述べようとするのである。
後、善導が「観経疏」玄義分の和会門の中で同じ問題を取り上げ、六字釈を施し、願行具足の名号、仏願力による往生と論ずるものの先蹤である。  
三 広施問答
十一の問答を通して念仏往生の義を明らかにし、三不三信の理を示して、如実の十念は信心を本とすることを示す。すなわち第一大門に示した菩提心と念仏三昧を詳説して往生の信行を開示したものである。 ・大智度論につきて広く問答を施す。
(1)・問久遠劫来造れる三界の繋業を断ぜずして、ただしばらく阿弥陀仏を念じて往生を得、三界を出ずといはば、この繋業の義またいかんせんと欲する。
・答
@法につきて来たし破す仏の不思議智自在なる故にさまたげなし。
A七喩を借りて顕す
・百年に集めたる薪も、豆ばかりの火をもって焼けば半日に尽くるがごとし。
・癖者も船に寄載すれば、風帆の勢ひによりて一日に千里に至るがごとし。
・下賤の貧人瑞物を獲て王に貢ぎ、王の重賞を得てしばらくのあひだに富貴望みを盈つるがごとし。
・劣夫も輪王の行に従えば、虚空に乗じて飛自在なるがごとし。
・十囲の索も童子剣を揮へばたちまち両断するがごとし。
・鴆鳥水に入れば魚蚌みな死し、犀角泥に触るれば死せるもの還りて活くるがごとし。
・黄鵠、子安子安と喚ぶに、子還りて活くるがごとし。
一切万法みな自力・他力、自摂・他摂ありて千開満閉無量無辺なり。有礙の識をもって、かの無礙の法を疑うことを得んや。また五の不思議のなかに仏法もっとも不可思議なり。三界の繋業をもって重しとなし、かの少時の念仏を疑ひて軽しとなして、安楽国に往生して正定聚に入ることを得ずといふは、この事しからず。
(第二大門広施問答)
(2)・問大乗経に「業道は秤のごとし、重き処先ず牽く」と、衆生今日まで、悪として造らざるはなし。いかんが臨終に善知識に遇ひて十念相続してすなはち往生を得ん。もししからば「先牽」の義なにをもってか信を取る。
・答
一形の悪業を重しとなして、下品の人の十念の善をもって軽しといはば、今まさに義をもって軽重の義を校量せん。まさしく心に在り、縁に在り、決定に在り、時節の久近多少には在らざることを明かす。
@「心に在る」とは、いはく、かの人罪を造る時は、みづから虚妄転倒の心に依止して生ず。この十念は、善知識の、方便安慰して実相の法を聞かしむるによりて生ず。一は実、一は虚、あに比ぶることを得んや。たとへば千載の闇室に光しばらくも至れば、即ち明朗なるがごとし。闇あに室にあること千載なるをもって、去らずといふことを得べけんや。このゆゑに「遺日摩尼宝経」にのたまはく、「仏、迦葉菩薩に告げたまはく、衆生また数千巨万劫、愛欲のなかにありて、罪に覆はるといへども、もし仏経を聞きてひとたび善を念ずれば、罪すなはち消尽す」と。これを心に在ると名づく。
A「縁に在る」とは、いはく、かの罪を造る時は、みづから妄想に依止し、煩悩果報の衆生によりて生ず。この十念は、無上の信心に依止し、阿弥陀如来の真実清浄無量功徳の名号によりて生ず。たとへば人ありて毒の箭を被るに、中るところ、筋を徹し骨を破る。もし滅除薬の鼓の声を聞けば、すなはち箭出で毒除こるがごとし。あにかの箭深く毒はげしくして鼓の音声を聞けども、箭を抜き毒を去ることあたはずといふことを得べけんや。これを「縁に在る」と名づく。
B「決定に在る」とは、かの人罪を造る時は、みづから有後心・有間心に依止して生ず。この十念は無後心無間心に依止して起る。これを決定となす。また「智度論」にいはく、「一切衆生臨終の時、刀風形を解き、死苦来り逼むるに、大怖畏を生ず。このゆゑに善知識に遇ひて大勇猛を発して、心々相続して十念すれば、すなはちこれ増上の善根なるをもってすなはち往生を得。また人ありて敵に対して陣を破るに、一形の力一時にことごとく用ゐるがごとし。その十念の善もまたかくのごとし。またもし人臨終の時、一念の邪見、増上の悪心を生ずれば、すなはちよく三界の福を傾けてすなはち悪道に入る」と。
「論註」の文に沿いつつ衆生の重ねる悪業よりも、十念念仏の功徳の方がより重いことを論証しようとする。内因の虚と実、外縁の妄と真、猶予心と決定心の差を示す。
(3)・問いくばくの時をか十念となすや。
・答
経に、百一の消滅、一刹那を成じ、六十の刹那、もって一念となすも、今は念を解するにこの時節を取らず。ただ阿弥陀仏の、もしは総相、もしは別相を憶念して、所縁に随ひて観じ、十念を経るに他の念想間雑することなし。これを十念と名づく。また十念相続といふは、これ聖者の一の数の名なるのみ。ただよく念を積み思を凝らして他事を縁ぜざれば、業道をして成弁せしめてすなはち罷みぬ。用ゐざれ。また労はしくこれが頭数を記せず。またいはく、もし久行の人の念は多くこれによるべし、もし始行の人の念は数を記するもまた好し。これまた聖教によるなり。
上の問いの関連。十念の「十」は純一・専一の義、十分・業成の義、「念」は憶念・観念・想念、積念凝思の義。必ずしも時間や遍数を指すものではない。
(4)・問いま勧めによりて念仏三昧を行ぜんと欲す。いまだ知らず、計念の相状はなににか似たる。
・答たとへば人ありて空曠のはるかなる処において、怨賊の刀を抜き勇を奮ひてただちに来たりて殺さんと欲するに値遇す。この人ただちに走るに、一の河を度らんとするを視る。いまだ河に到るに及ばざるにすなはちこの念をなす。「われ河の岸に至らば、衣を脱ぎて渡るとやせん。衣を着て浮ぶとやせん。もし衣を脱ぎて渡らば、ただおそらくは暇なからん。もし衣を着て浮かばば、またおそらくは首領全くしがたからん」と。その時、ただ一心に河を渡る方便をなすことのみありて、余の心想間雑することなきがごとし。行者もまたしかなり。阿弥陀仏を念ずる時、またかの人の渡ることのみを念じて、念々あひ次いで余の心想間雑することなきがごとし。あるいは仏の法身を念じ、あるいは仏の神力を念じ、あるいは仏の智慧を念じ、あるいは仏の毫相を念じ、あるいは仏の相好を念じ、あるいは仏の本願を念ず。名を称することもまたしかなり。ただよく専至に相続して断えざれば、さだめて仏前に生ず。
いま後代の学者を勧む。もしその二諦を会せんと欲せば、ただ念々不可得なりと知るはすなはちこれ智慧門にして、よく繋念相続して断えざるはすなはちこれ功徳門なり。このゆゑに「経」にのたまはく、「菩薩摩訶薩つねに功徳・智慧をもって、もってその心を修す」と。
もし始学のものは、いまだ相を破することあたはず、ただよく相によりて専至せば、往生せざるはなし。疑ふべからず。
これも上の問いの関連。十念の相状を比喩を以て示し、二諦の理を以て位置づける。念の相状を表す比喩は、後の善導の「観経疏」散善義、回向発願心釈に出る二河白道の比喩の先蹤とみられる。
(5)・問「無量寿大経」にのたまはく、「十方の衆生、心を至し信楽して我が国に生ぜんと欲して、すなはち十念に至るまでせん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」と。いま世人ありて、この聖教を聞きて現在の一形まつたく意をなさず、臨終の時に擬してまさに修念せんと欲す。この事いかん。
・答
この事類せず。なんとなれば、経に十念相続とのたまふは、難からざるに似若たり。しかれどももろもろの凡夫の心は野馬のごとく識は猿猴よりも劇し。六塵に馳騁してなんぞかつて停息せ。おのおのすべからくよろしく信心を発して、あらかじめみずから剋念し積習して性を成じ、善根をして堅固ならしむべし。仏、大王に告げたまふがごとし。人善行を積めば、死するとき悪念なし。樹の先より傾けるは倒るるに、かならず曲がれるに随ふがごとし」と。もし刀風一たび至れば、百苦身に湊まる。もし習先よりあらずは、懐念なんぞ弁ずべけんや。おのおのよろしく同志三五あらかじめ言要を結び、命終の時に臨みてたがひにあひ開暁して、ために弥陀の名号を称して安楽国に生ぜんと願じ、声々あひ次いで十念を成ぜしむべし。たとへば蝋印をもつて泥に印するに、印壊れて文成ずるがごとし。ここに命絶ゆる時は、すなはちこれ安楽国に生ずる時なり。一たび正定聚に入れば、さらになんの憂ふるところかあらん。おのおのよろしくこの大利を量るべし。なんぞあらかじめ剋念せざらんや。
これまた臨終十念に関する問い。臨終の十念は、既に信心を発し、心を安楽国にかけてきた積み重ねがなければ、凡夫の迷い多き心識にてはなし難い。まして死に臨んで百苦集まる時はなおさらである。三信十念の第十八願の文を聞いて、平素は何のこころがけもせず、臨終にのみ十念を修して往生しようとすることは往生の得否以前に、それ自体ありえないことであると指摘する。ついで、この故にこそ、あらかじめ同志契約して、臨終に願生十念を成ずるよう引導し合うことを勧め、凡夫の軟弱な心に刻した願生の十念(信心)は、命断によって壊れても蝋印は壊れても印文が残るごとく、命終わる時同時に安楽国に往生して正定聚に入ることは疑いないと励まし、平生からの懸念専志をすすめる。臨終の十念往生は平生の信心の上に成り立つものとの見方を示すともみえるが、一念発起入正定聚の義は未だ分明ではない。
(6)・問もろもろの大乗経論にみな、「一切衆生は畢竟無生にしてなほ虚空のごとし」といへり。いかんぞ天親・龍樹菩薩みな往生を願ずるや。
・答
「衆生は畢竟無生にしてなほ虚空のごとし」といふは、二種の義あり。一には凡夫人の所見のごときは、実の衆生、実の生死等なりもし菩薩によらば、往生は畢竟じて虚空のごとく兎角のごとし。二にはいま「生」といふはこれ因縁生なり。因縁生なるがゆゑにすなはちこれ仮名の生なり。仮名の生なるがゆゑにすなはちこれ無生なり。大道理に違せず。凡夫の実の衆生、実の生死ありと謂ふがごときにはあらず。
これは安楽国往生を願うことの意義を、空の理、真俗二諦の道理に照らして明らかにしようとする問いである。凡夫は衆生とその誕生と死を実体的に見るが、真諦に照らせば空にして無生であるとし、真諦を凡夫の妄見中に開示する俗諦によれば、因縁仮和合の義を仮に名づけて生とするの意で往生を談ずるのであって仮名の生であり、実は無生であるといい、真俗二諦の大道理に沿った象徴的表現であって、凡夫の考える実体的な生死の謂いではないことを示す。
(7)・問生は有の本たり、すなはちこれ衆累の元なり。もしこの咎を知りて生を捨て無生を求めば、脱るる期あるべし。いますでに浄土に生ずることを勧む。すなはちこれ生を棄てて生を求む。生なんぞ尽きべけんや。
・答かの浄土は、すなはちこれ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり三有の衆生愛染虚妄執着の生のごときにはあらず。なにをもつてのゆゑに。それ法性清浄にして畢竟無生なればなり。しかるに生といふは得生のものの情なるのみ。
これも願生ということに関する問いである。往生を願うこと自体、すでに凡夫の実体的妄見の範疇におさまるものであって、生死の迷いを離れえない発想ではないかという問いを起こした。これに対し、浄土は迷いを離れた世界、すなはち畢竟無生の清浄なる法性そのものであって、往生というのは、そこに至ることを得る凡夫の情に即した表現であるに過ぎないと示す。つまりは、往生という凡夫の情を遮ることなく、それを通路として無生の真如法性を証得せしめるものこそ阿弥陀如来の清浄本願によって建立された浄土のはたらきであるとするものである。真諦より俗諦を出し、俗諦によって真諦に至らせるという二諦の理を示す。
(8)・問上にいふところのごとく(二一二頁)、生は無生なりと知るは、まさに上品生のもの(上士)なるべし。もししからば下品生の人の十念に乗じて往生するは、あに実の生を取るにあらずや。もし実の生ならば、すなはち二疑に堕す。一にはおそらく往生を得ず。二にはいはく、この相善、無生のために因となることあたはず。
・答釈するに三番あり。
一,浄摩尼珠の濁水を澄清ならしむ如く、弥陀の無生清浄の名号は無量生死の罪濁の心に投ずれば、罪滅し心浄からしめて往生せしむ。
二,浄摩尼珠を玄黄の帛をもってつつみて水に投ずれば水すなはち玄黄となる如く、かの土の弥陀名号は無量功徳成就を備えて、往生するものの生見を転じて無生をさとる智慧となす。
三,氷上に火を燃くに、火猛ければ氷溶け、火滅する如く、かの下品往生の人は法性無生を知らざれども、称仏名の力の上において往生の意をなし、かの土に生ぜんと願じて、すでに無生界に至らば見生の火自然に滅す。
これまた願生に関する問いである。下品の人の実体的とらわれを離れられない往生観念では無相無生の土である浄土には往生できないか、往生できるとしても有相の善根では有相の土にしか往生しないのではないかという問いを掲げる。これに対して名号に備わる滅罪浄化の功徳、実の生ありという惑見を転じて無生の智慧を与える功徳の二由を挙げ、氷上燃火の一喩を示して、名号に具わる転成の徳が通念的には不可能な凡夫の法性真如界への証入を可能にしていることを明らかにする。煩悩を断じえぬ凡夫を無相無生の土に至らしめうる原動力は、結局のところ、弥陀の名号が持つ根源的なものに対する覚醒機能であることを示唆している。
(9)・問なにの身によるがゆゑに往生を説くや。
・答
この間の仮名人の中に於いて、諸々の行門を修すれば、前念は後念のために因となる。穢土の仮名人と浄土の仮名人と決定して一なることを得ず、決定して異なることを得ず。前心後心もまたかくの如し。何を以ての故に。もし決定して一ならばすなはち因果なからん。もし決定して異ならばすなはち相続にあらず。この義を以ての故に、横竪別なりといへども、始終これ一の行者なり。
往生するというとき、一体何が往生してどう変わるのかという、往生の主体についての問いを掲げた。
これに対し、前念後念、前心後心という語を出して、修行における前念と後念との間には因果関係がある、すなわち因と果は共通点があると同時に相違点があるのであって、往生以前の心念と往生後の心念もまたそうであると答える。往生するのは心であり念であることを示しつつ、迷悟の違いはあっても、往生人は穢土にある時との連続性をたもちながら浄土の人となるのであると示すのである。往生が仮名の生であって、実は無生の生であるというのなら、往生の主体である衆生の身もまた仮名の人身であるといわねばならない。それ故に、穢土の仮名人、浄土の仮名人という語を用いているものと見える。
(10)・問もし人ただよく仏の名号を称へて能く諸々の障を除かば、もししからば、たとへば人ありて指をもつて月を指さすがごとし。この指よく闇を破すべきや。
・答諸法万差なり。一概すべからず。何となれば、自ずから名の法に即するあり。自ずから名の法に異するあり。名の法に即するありとは、諸仏菩薩の名号、禁呪の音辞、修多羅の章句等のごときこれなり。(中略) 名の法に異するありとは、指をもつて月を指さすがごときこれなり。
ただ仏の名を称えるだけで罪障を除き仏果に至ることができるというのは旨すぎる話ではないか。元来、言語は伝達手段に過ぎず、月を指す指のようなものである。闇を破るのは月光の力であって、月を指す指には闇を破る力はない。月そのものと、月を指す指とは別物だからである。仏の名号に特別の力などあるはずがないではないか。これが問いである。
対する答えは、名にもいろいろあって、名とその指すものとが相即するものもあれば、別物である場合もある。仏菩薩の名号やまじないの文句や経典の章句などは前者の例であり、月を指す指に譬えられる一般の名称は後者の例であるという。前者の具体例として、「日出東方乍赤乍黄」や「虎来虎来」「木瓜木瓜」という呪文で患いが癒えることを述べる。
一見すると、称名念仏を呪文の一種としてとらえているようにも見えるが、要は弥陀の名号は阿弥陀如来の徳と相即しているのであって、単に阿弥陀如来を指す指なのではないと言おうとするのである。
元来、音声言語よりも文字を重んずる中国文化においては、「辞は達するのみ」という論語の言葉に代表されるような言語観が優勢であったようであるが、「老子」の「無名天地始、有名万物母」ということばに見られるように道教系の思想には存在を呼び起こすものとしての名称・言語に注目する面もあったようで、ここに示された呪文についての記述も、その観点から吟味すべきであろう。
すでに「論註」に見える名体不二、全徳施名の思想は中国においては少数派であったと思われる。
(11)・問もし人ただ弥陀の名号を称念すれば、よく十方の衆生の無明の黒闇を除きて往生を得といはば、しかるに衆生ありて名を称し憶念すれども、無明なほありて所願を満てざるは何の意ぞ。
・答
如実修行せず、名義と相応せざるによるが故なり。所以は如何。いはく、如来はこれ実相身、これ為物身なりと知らず。また三種の不相応あり。一には信心淳からず、存ぜるが如く亡ぜるがごとくなるが故なり。二には信心一ならず、いはく決定なきが故なり。三には信心相続せず、いはく、余念間つるが故なり。たがひにあひ収摂す。もしよく相続すればすなはちこれ一心なり。ただよく一心なれば、すなはちこれ淳心なり。この三心を具してもし生ぜずといはば、この処あることなからん。
名号には阿弥陀如来の徳が具わっているといい、ただこれを称念するだけで、無明の闇は除かれ往生を得ることができるというけれども、それでは、称名し憶念しても、相変わらず無明が残り往生決定の想いがないことがあるのはどういうわけかという問いを出した。「論註」を引き次いだものである。
答えもまた「論註」によっているが、前述の文脈の中に置くことで、より趣旨が明確化している点と、三不信という否定表現に重ねて相続心・一心・淳心という肯定表現を出して往生の正因たることを強調している点が注目される。宗祖が「三不三信誨慇懃」と讃えられたところである。
如実修行とは前に述べられてあったように、二諦の道理にかなっているということであり、名義と相応するとは、称えられる名と法が即しているのみでなく、称える衆生の信と名義(名と法)も相即していることを指すことが示されている。「論註」の問答が、他力回向の信ということを明らかにしようとするものであることを鮮明にするものである。
第二大門のまとめ
第一大門は浄土教興起の所由(約時被機勧帰浄土)を明かすことを主とし、阿弥陀仏の身土が諸師のいう応身応土ではなく報土であること、凡夫・聖者ともに往生を得ること、凡夫得生の土でありながらまた、勝過三界道の浄土たることを明らかにして、往生浄土ということをテーマとした一段であった。
続く第二大門は、まず、願生の信心こそが菩提心なること、すなわち、願生心は即ち願作仏心・度衆生心であって、そのまま仏果の因たる菩提心であり、菩提の本質は自楽を求めぬ抜苦与楽の衆生利益にあることを示す。念仏往生の道が仏法の根本義に立つものであることを開示するのである。
次いで九種の異見を会釈しつつ、己心中に浄土ありという、自らの迷いを置き去りにした観念的理解を批判し、自分の能力の限界を見ようとしない空想で返って自他ともに絶望に陥らせるものであることを指摘し、愛見を離れることあたわざる衆生を迎え取る共有の場としての浄土の大乗性と究極性を顕し、最劣の悪機には最適の仏と法こそが必要であるが、それが阿弥陀如来とその浄土、信心菩提心と念仏であることを示し、唯願別時意説を論破するに、宿善他力の義を顕し、十念念仏が、信心すなわち菩提心という往生の正因を具足していることを明らかにする。念仏往生が仏法の根本義に沿いつつも、時機相応の法であることを論証するのである。
さらに、十一の問答を通して念仏往生の要義を明らかにした。すなわち、安楽国往生を願うことは、真俗二諦の大道理に立つものであり、因縁の理を仮名をもって示すのであり、煩悩を断じえぬ凡夫を無相無生の土に往生せしめ覚りに至らせるのは阿弥陀如来の徳と相即する弥陀の名号の覚醒機能を原動力とするものであることを明らかにし、三不三信の理を解釈して、如実の十念は信心を本とすることを示す。
第一大門に示した菩提心と念仏三昧を詳説して往生の信行を開示し、信心正因義を明かす一段であると見ることができる。
第三大門
弁難行道易行道 明時劫大小不同
明輪廻無窮受生無数 以聖教証誠勧後代生信求往
一 難易二道
龍樹菩薩いはく、「阿毘跋致を求むるに二種の道あり。一には難行道、二には易行道なり。難行道といふは、いはく、五濁の世、無仏の時にありて阿毘跋致を求むるを難行道となす。この難に多途あり。略して述ぶるに五あり。・・・
阿毘跋致(不退転位)を求めるについて難易二道が語られる。「論註」には「菩薩、阿毘跋致を」とあるのを、菩薩を略したには道綽の別意があると見える。末法悪世の凡夫には、「菩薩が」という言い方は、手の届かぬ他人事と受けとられることを配慮したのであろう。そこには凡夫もまた菩薩道を歩むことを可能にした浄土門ということを知らせたいとの念が表れているとも見える。
「阿毘跋致を求める」ということは、願作仏心・度衆生心を示すものであって、単に自己一人の救いを求めるということではなく、あくまでも上求菩提・下化衆生の菩薩道であることを確認する言辞である。
「五濁の世」とは、「阿弥陀経」の意によれば、無上正遍道に至ること甚難の世ということである。無仏の時とは、釈尊の直接指導と励ましに遇えないということである。後に「他力の持つなし」と出るのに対応している。この観点に立てば、釈尊在世時の仏弟子たちの修道証果は、釈尊の持ちによるものであることになり、弥陀他力とは同一ではないにしても、仏力他力であることは共通しているといえる。
その意味で、他力こそが仏道の本来であって、自力は自己誤認の驕慢に過ぎないことになる。(因果の「因」@AB「果」C)
@外道の相善は菩薩の法を乱る。外道
A声聞は自利にして大慈悲を障ふ。声聞
B無雇の悪人は他の勝徳を破る。大乗自力
Cあらゆる人天の顛倒の善果は人の梵行を壊つ。
Dただ自力のみありて他力の持つなし。

・菩薩の法=大慈悲=他(力)の勝徳=梵行=他力の持ち
・無雇悪人=悪を顧みることなき人=自力作善の人、あるいは悪人を顧みることなき人=悪人救済の志願なき人の意か。
・あらゆる人天の/弥勒の兜卒浄土も含めての意/道綽の付加
・ただ自力のみありて/「論註」には「ただこれ自力にして」とあったところ「末法の世の現実は」という意を込めた表現か。
陸路の歩行はすなはち苦しきが如し。故に難行道といふ。易行道といふは、いはく、信仏の因縁をもって浄土に生ぜんと願じて、心を起こし徳を立て、もろもろの行業を修すれば、仏願力の故に即便往生す。仏力住持するをもってすなはち大乗正定聚に入る。正定聚とはすなはちこれ阿毘跋致不退の位なり。たとへば水路に船に乗ずればすなはち楽しきがごとし。故に易行道と名づく」と。
「心を起こし徳を立てもろもろの行業を修すれば」は「論註」の引文にさらに道綽が付加したもの。第一大門の宗旨不同の釈義中に三度「もし人菩提心の中に念仏三昧を行ずれば」とあるのに対応した押さえである。「信仏の因縁をもって浄土に生ぜんと願ずる」菩提心中に「心を起こし徳を立て、もろもろの行業を修すれば」の意を示す。
「船に乗ずれば」の船とは、「論註」に「風航」とある通り、帆かけ船のこと。
本願の船に乗り、名号の風を信心の帆に受ければ自然に至るという譬え。
・問 菩提はこれ一なり。修因また不二なるべし。なんがゆゑぞ、ここにありて因を修して仏果に向かふを名づけて難行となし、浄土に往生して大菩提を期するをすなはち易行道と名づくるや。
・答 一切の行法/自力・自摂生死を怖畏・発心出家・修定・仏果/ここにありて心を起こし行を立て浄土に生ぜんと願ず
他力他摂輪王に従って空に乗じて/臨命終時、阿弥陀迎接、終得往生
他力「大経」に「十方の人天、わが国に生ぜんと欲するものはみな阿弥陀如来の大願業力をもって増長縁とせざるはなし」と。もしかくのごとくならずは、四十八願すなはちこれ徒設ならん。
後学のものに語る。すでに他力の乗ずべきあり。自ら己が分を局り、徒らに火宅にあることを得ざれ。
難行=自力、易行=他力(弥陀願力増長縁)の義を示して、上述の念仏往生の道こそ、末代濁悪の衆生が得脱すべき易行他力の要路であること示唆し、後に聖道浄土二門判を出す伏線とする。
二 明劫大小
「智度論」にいふがごとし。
小劫/四十里立方の城に満てる芥子を三年に一粒ずつ取り去って尽きる・・
中劫/八十里立方の・・
大劫/百二十里立方の・・
中劫(別説)/八十里立方の石を三年に一度天衣をもって払い、石磨滅し尽きる
「観経」の「経歴劫数受苦無窮」の意を釈し、弥陀五劫の思惟、不可思議兆載永劫の修行を想起せしめ、以下に多劫輪廻の厭うべきを述べんとするに備える。
三 輪廻無窮
@無始劫より已来ここにありて輪廻無窮、受身無数なることを明かす。
「智度論」にいふが如し。張家に死して王家に生じ、王家に死して李家に生ず。かくのごとく閻浮提の界を尽くして、あるいは重ねて生じ、あるいは異家に生ず。あるいは南閻浮提に死して西拘耶尼に生ず。閻浮提の如く余の三天下もまたかくのごとし。
四天下に死して四天王天に生ずることもまたかくの如し。あるいは四天王天に死して朷利天に生ず。朷利天に死して余の上四天に生ずることもまたかくの如し。
色界に十八重天あり、無色界に四重天あり。ここに死してかしこに生ず。
一々みなあまねきことまたかくのごとし。あるいは色界に死して阿鼻地獄に生ず。
阿鼻地獄のなかに死して余の軽繋地獄に生ず。軽繋地獄のなかに死して畜生のなかに生ず。畜生のなかに死して餓鬼道のなかに生ず。餓鬼道のなかに死してあるいは人天のなかに生ず。
かくのごとく六道に輪廻して苦楽の二報を受け、生死窮まりなし。胎生すでにしかなり。余の三生もまたかくのごとしと。
このゆゑに「正法念経」にのたまはく、「菩薩化生してもろもろの天衆に告げていはく、〈おほよそ人この百千生を経て、楽に着し放逸にして道を修せず。往福やうやく已り尽き、還りて三塗に堕して衆苦を受くることを覚らず〉と。
このゆゑに「涅槃経」にのたまはく、「この身は苦の集まるところなり。一切みな不浄なり。扼縛癰瘡等の根本にして、義理あることなし。上諸天の身に至るまでみなまたかくの如し」と。
このゆゑにまたかの「経」にのたまはく、「勧めて不放逸を修せしむ。なにをもってのゆゑに。それ放逸はこれ衆悪の本なり。不放逸はすなはちこれ衆善の源なり・・・」と。
六道輪廻の厭うべきこと、苦の厭うべきは勿論のこと、楽もまた愛着すべきではなく、これに愛着すれば、放逸不修道故に輪廻果てることがないことを述べる。そして、まず、不放逸なれと勧める一段である。
A問ひていはく、一劫のうちにいくばくの身数を受くるを流転といふや。
答えていはく、「涅槃経」に説きたまふがごとし。
「一劫のうちに受くるところの身の父母の頭数を数へんに、なほ尽きず」
「一劫のうちに飲むところの母の乳は四大海水よりも多し)
「一劫のうちに積むところの身骨は毘富羅山のごとし」
かくのごとく遠劫よりこのかた、いたづらに生死を受くること今日に至りて、なほ凡夫の身となる。なんぞかつて思量して傷歎して已まざらんや。
わずか一劫の間にすら無数の生死を重ねて輪廻する。それを久遠劫来繰り返して来たのが我々であり、今日なお生死の凡夫であることを思えば、いよいよ悲歎厭離すべき道理であることを述べる。
B問ひていはく、受身無数といふは、総じて説きて、人をして厭を生ぜしむるや、はたまた経文ありて来し証するや。
答えていはく、みなこれ聖教の明文あり。「法華経」にのたまふがごとし。
「過去不可説の久遠大劫に仏の出世ましましす。大通智勝如来と号したまふ。十六の王子あり。おのおの法座に昇りて衆生を教化す。一々の王子おのおの六百万億那由他恒河沙の衆生を教化せり」
「総じて三千大千世界の大地を取りて、磨りてもつて墨となす。仏のたまはく、〈この人千の国土を過ぎてすなはち一点を下さん。大きさ微塵のごとし。かくの如く展転して、地種の墨をつくす〉と。仏のたまはく、〈この人の経るところの国土もし点ずると点ぜざると、ことごとく末きて塵となし、一塵を一劫とするに、かの仏の滅度よりこのかた、またこの数に過ぎたり〉と。今日の衆生は、すなはちこれかの時の十六王子の座下にして、かつて教法を受けたり」
「この本因縁をもつて、ために「法華経」を説きまふ」
「涅槃経」にまたのたまはく、「一はこれ王子、一はこれ貧人、かくのごとき二人たがひにあひ往反す」と。「王子」といふは今日の釈迦如来、すなはちこれかの時の第十六王子なり。「貧人」といふは今日の衆生等これなり。
「法華経」によって、大通智勝仏の時以来、塵點久遠劫の時が流れ、我々の輪廻受身はまことに無量無数であると知らればかりでなく、今日の衆生と釈迦如来の縁はその時以来の宿縁によるものであることも知ることができると示す。輪廻無窮のの中にも、釈迦諸仏の護持養育の縁に結ばれた身でもあることを示唆する。
C問ひていはく、これらの衆生はすでに流転多劫なりといふ。しかるに三界の中には、いづれの趣にか身を受くること多しとなす。
答へていはく、流転すといふといへども、しかも.三悪道の中において身を受くることひとへに多し。「経」に説きてのたまふがごとし。「虚空の中において方円八肘を量り取りて、地より色究竟天に至る。この量内おいてあらゆる可見の衆生はすなはち三千大千世界の人天の身よりも多し」と。ゆゑに知りぬ、悪道の身多し。何がゆゑぞかくのごとしとならば、ただ悪法は起こしやすく、善心は生じがたきがゆゑなり。今の時、ただ現在の衆生を看るに、もし富貴を得れば、ただ放逸・破戒を事とす。天の中にはすなはちまた楽に着するもの多し。このゆゑに「経」にのたまはく、「衆生は等しくこれ流転してつねに三悪道を常の家となす。人天にはしばらく来たりてすなはち去る。名づけて客舎となすがゆゑなり」と。
「大荘厳論」によるに、「一切衆生に勧む、つねにすべからく繋念現前すべし」と。偈にいはく、「盛年にして患なき時は、懈怠にして精進せず。諸々の事務を貪営して、施と戒と禅とを修せず。死のために呑まれんとするに臨みて、まさに悔いて善を修することを求む。智者は観察して、五欲の想を除断すべし。精勤習心のものは、終時に悔恨なし。心意すでに専至なれば、錯乱の念あることなし。智者はねんごろに心を投ずれば、臨終に意散ぜず。習心専志ならざれば、臨終にかならず散乱す。心もし散乱する時は、馬を調するに磑を用ゐるがごとくせよ。もしそれ闘戦の時には、回旋してただちに行かず」と。
三界六道を輪廻するということは、実はそのほとんどが三悪道に住して、人間界や天上界にあることは稀でしかも短いということであり、悪は行いやすく、善は修しがたいからであり、人天の善果は放逸と愛着を生みやすいからであると生死輪廻の因果を示す。そしてこの道理を見て、臨終の時を念頭に置き、道を修すべきことを経の偈を引いて述べる。
D問ひていはく、一切衆生みな仏性あり。遠劫よりこのかた多仏に値ひたてまつるべし。何によりてか今に至るまで、なお自ら生死輪廻して火宅を出でざる。
答へていはく、大乗の聖教によるに、まことに二種の勝法を得て、もつて生死を排はざるによる。ここをもつて火宅を出でず。何者をか二となす。一にはいはく聖道、二にはいはく往生浄土なり。その聖道の一種は、今の時証しがたし。一には大聖を去ること遙遠なるによる。二には理は深く解は微なるによる。
このゆゑに「大集月蔵経」にのたまはく、「わが末法の時のうちに、億々の衆生衆生、行を起こし道を修すれども、いまだ一人として得るものあらず」と。当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり。
このゆゑに「大経」にのたまはく、「もし衆生ありて、たとひ一生悪を造れども命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ」と。
また一切衆生すべて自ら量らず。もし大乗によらば、真如実相第一義空、かつていまだ心を措かず。もし小乗を論ぜば、見諦修道に修入し、すなはち那含・羅漢に至るまで、五下を断じ五上を除くこと、道俗を問ふことなく、いまだその分にあらず。たとひ人天の果報あれども、みな五戒・十善のためによくこの報を招く。しかるに持ち得るものは、はなはだ希なり。もし起悪造罪を論ぜば、なんぞ暴風駛雨に異ならんや。ここをもつて諸仏の大慈、勧めて浄土に帰せしめたまふ。たとひ一形悪を造れども、ただよく意を繋けて専精につねによく念仏すれば、一切の諸障自然に消除して、さだめて往生を得。なんぞ思量せずしてすべて去く心なきや。
・聖道/大聖の修道証果の意か。聖は大聖釈尊を、道は修道を指し、また証道を指すと思われる。要するに大聖釈尊と同じ道を歩もうとすること。釈尊をまねることを意味する。
・往生浄土/聖道に対しては往生が対語。後には聖道・浄土の二門と言い習わされるが、言語の対応性からみれば、聖道・往生というがふさわしいともいえる。
・去聖遙遠・理深解微/末法に覚りを得るものなしということの理由を明らかにし、往生浄土でなくてはならない道理を示す押さえの語。末法の「末」とは「微末」の義とされることに対応している。末とは去聖遙遠の末代を指し、微とは解微をいうとの示唆である。
・一生悪を造れども、命終の時に臨みて/第十八願文と観経下下品の文とを合揉して、願文の意としたもの。至心信楽欲生我国を略して示す。五濁悪世の衆生の通入すべき唯一の道を指し示すのが、第十八願文であり、下下品の文であるという見方を表す。
・起悪造罪暴風駛雨・専精念仏諸障消除/末法衆生の現実を指摘し、ひとえに念仏して浄土に帰すべしと勧める。
輪廻無窮にして痛焼なる衆生相を示し、聖浄二門判を出して、唯有浄土一門可通入路と断ずる一科。第一大門が問題提起の章なら、この第三大門は結論の章であり特にこの科は安楽集の中心をなす一段である。
龍樹の難易二道判を曇鸞の自力他力の釈をもって解明したのが、この第三大門の第一科、難易二道の段であった。本科は、第一大門第一科の教興所由に述べた約時被機、勧称仏名を承け、難行易行、自力他力の判釈に従いつつ、難行自力の道は聖道であって末法の時機には不可能な道と押さえ、往生浄土こそが、他力易行の道、末法相応の道であることを論定する一段である。
四 引証勧信
「観仏三昧経」によるにのたまはく・・・《王子、いま仏像を見て礼することあたはずば、まさに“南無仏”と称すべし》と。・・・前に塔に入りて仏を称する称する功徳によりて、すなはち九百億那由他の仏に値遇することを得、諸仏の所においてつねにねんごろに精進して、つねに甚深の念仏三昧を得たり。・・〉と。その時会中にすなはち十方のもろもろの大菩薩あり、その数無量なり。おのおの本縁を説くに、みな念仏によりて得たり。仏、阿難に告げたまはく、〈この観仏三昧はこれ一切衆生の犯罪のものの薬、破戒のものの護り、失道のものの導き、盲冥のものの眼、愚痴のものの慧、黒闇のものの灯、煩悩の賊の中の大勇猛将なり、諸仏世尊の遊戯したまふところの首楞厳等の諸大三昧のはじめて出生するところなり〉と。
・・〈三世の諸仏、みなかくのごとき念仏三昧を説きたまふ。われと十方の諸仏および賢劫の千仏とは、初発心よりみな念仏三昧の力によるがゆゑに一切種智を得たり〉」と。
また「目連所問経」のごとし。・・・《無量寿国は往きやすく取りやすし。しかるに人修行して往生することあたはず、かへりて九十五種の邪道に事ふ》と。われこの人を説きて.眼人と名づけ、無耳人と名づく〉」と。経教すでにしかなり。なんぞ難を捨てて易行道によらざらんや。
まず「観仏三昧経」を引いて称名の功徳を説き、念仏(観仏)三昧こそが一切諸仏を生み出す母胎であることを述べる。続いて「目連所問経」を引き、往きやすい弥陀仏国、修しやすい念仏三昧があるのに、これを行ぜず往生することあたわざるは眼なく耳なきがごとしと譬えて、難行道聖道門を離れて、易行道浄土門によるべきことを勧める。これを以て第三大門の結びとするのみならず、上巻の結びとするのである。逆上って、前段の聖浄二門の釈こそが一巻の結論であったことを確認する一段である。
第三大門のまとめ
第三大門は、第二大門に述べた念仏往生の道こそが、末代の悪機相応の易行他力の要路たることを示し、聖浄二門判を出して、唯有念仏一行・唯有浄土一門を論定して、第一大門に掲げた約時被機のテーマに対する結論とするのである。
すなわち、まず難行=自力、易行=他力(弥陀願力増長縁)の義を示して、上述の念仏往生の道こそ、末代濁悪の衆生が得脱すべき易行他力の要路であること示唆し、後に聖道浄土二門判を出す伏線とする。また、凡夫もまた菩薩道を歩むことを可能にした浄土門ということ、願作仏心は単に自己一人の救いを求めるということではなくあくまでも上求菩提・下化衆生の菩薩道であることを確認し、その原動力となっているのは仏力他力でありことをあきらかにする。
次に、劫の大小を明かして、「観経」の「経歴劫数受苦無窮」の意を釈す。
さらに、六道輪廻の厭うべきこと、久遠劫来輪廻を繰り返して来たのが我々であり、今日なお生死の凡夫であることを思えば、いよいよ悲歎厭離すべき道理であることを述べつつ、我々の輪廻受身はまことに無量無数であると知らればかりでなく、今日の衆生と釈迦如来の縁は遠劫以来の宿縁によるものであり、輪廻無窮の中にも、釈迦諸仏の護持養育の縁に結ばれた身でもあることが知られると示唆し、ついに聖浄二門判を出して、唯有浄土一門可通入路と断ずるのである。
結びに、教を引いて、難行道聖道門を離れて、易行道浄土門によるべきことを証し勧める。
第一大門が問題提起の章なら、第二大門は論点整理の章、この第三大門は結論の章である。
第四大門
念仏大徳/六人の先人、特に曇鸞の事跡讃仰して浄土教相承の系譜を示す
諸経所明/念仏三昧を宗とする諸経を挙ぐ/第一大門宗旨章を承けて典拠を示す
念仏利益/五番の問答を通じて念仏三昧の徳を示す/三昧中の王、現当二益
一 念仏大徳
流支三蔵/恵寵法師/道場法師/曇鸞法師/大海禅師/斉朝上統(法上)
・二諦の神鏡・仏法の綱維/真俗二諦の理を究めたお手本、仏法伝承の本流というべき人々
・無上の要門/浄土の法門は生死出離のための無上かつ肝要たる法門たること
問 これらの諸徳臨終の時、みな霊験ありやいなや
答 みなあり、虚しからず。
曇鸞/魏の君子「偏見の生にあらずや」と問うに、「凡夫、念力均しくすべけんや」と答う。一切道俗を勧めて信を生ぜしめ、浄国に帰せしむ。故に、臨終に、幡華の院に映じ、異香・音楽迎接して往生を遂ぐ。
余の大徳/命終の時に臨みて、みな徴祥あり。
自らは愚人なれど、往生浄土の法門には先哲大徳の相承ありと示して信ずべきを勧める。特に曇鸞の事跡を讃仰するは、「凡夫たるわが身にとって」という視点を明確に示したその教学を受け継がんとする意を示すもの。臨終の霊験を重視している点が着目される。
二 諸経所明
初めの二は一相三昧を明かし、後の六は縁につき相によりて念仏三昧を明かす。
@「華首経」/一相三昧と衆相三昧あり
一相三昧とは、もっぱら一仏を念じてこの縁を捨てず。
A「文殊般若」/一行三昧を明かす
一行三昧とは、心を一仏に繋けてもっぱら名字を称して念ずること休息なくは、功徳無量無辺にして、無量の諸仏の功徳と無二なり。
B「涅槃経」/心を至してつねに念仏三昧を修すれば、十方諸仏つねにこの人を見そなはすこと、現に前にましますがごとし。
C「観経」および諸部/万行ただよく回願すればみな生ぜざるはなし。しかるに念仏の一門、もって要路となす。始終の両益あればなり
観経に「念仏衆生摂取不捨、寿尽必生」と。これ始益なり。終益といふは、「観音授記経」に「阿弥陀仏滅後もただ一向にもっぱら阿弥陀仏を念じて往生するもののみありて、つねに弥陀現にましまして滅したまはざるを見る」と。
D「船舟経」/阿弥陀仏のたまはく「わが国に来生せんと欲せば、つねにわが名を念じて休息あることなかれ。かくのごとくして、わが国に来生することを得ん」
E「大智度論」/「仏は無上法王、菩薩は法臣。尊重すべきはただ仏世尊なり。・・・善知識によるに、われを教えて念仏三昧を行ぜしむ。すなはちよく諸障を併せ遣り、解脱を得たり」
F「華厳経」/「念仏三昧はかならず仏を見たてまつり、命終の後に仏前に生ず。かの臨終を見ては念仏を勧め、また尊像を示して瞻敬せしめよ」と。また〈われ世尊の智慧海の中においてただ一法を知る。いはく念仏三昧門なり・・・〉
G「海竜王経」/〈世尊、弟子、阿弥陀仏国に生ぜんと求む。まさにいかなる行を修してか、かの土に生ずることを得べき〉・・・四には一向に志をもっぱらにして念仏三昧を行ず。この四の行を具すれば、一切の生処つねに仏前にありて諸仏を離れず」と。
また「経」(大樹緊陀羅王経・意)にのたまはく、・・・つねによく念仏して浄土に往生するはこれ見仏の器なり」と。・・聖教すでにしかり。行者生ぜんと願ぜば、なんぞつねに念仏せざらんや。
また「月灯三昧経」によるにのたまはく・・・
諸経を引いて、念仏三昧とは何か、何故念仏三昧でなければならないかを証明する一段である。まず、専念一仏の一相三昧を示して念ずべき対象は弥陀一仏と明かし、専称一仏名の一行三昧を示して行ずべきは称名一行であることを明かし、以て念仏三昧とは何かを示した。
次には、念仏三昧を修すれば十方諸仏つねに見そなわすこと、念仏一門こそ万行中の要路にして利益衆生つねであることを示す。
さらに、その念仏三昧とは阿弥陀仏自ら、我が名を念ぜよ、来生することを得んと明示されてあることを示す。
加えて、念ずべきは無上法王たる仏のみであり、念仏三昧こそがよく諸障を除くこと、仏前に生ずる道はただ念仏三昧門の一法であり、念仏三昧は弥陀仏国に生ずる道であることを示す。
最後に、浄土に生ぜんと願わば、なんぞ常に念仏せざんやと結ぶ。
専称弥陀一仏名の念仏三昧が仏法の本道であることを文証によって証明しようとする一段である。
三 念仏利益
問答解釈して、念仏三昧に種々の利益あることを顕す。問答に五番あり。
@問 今、常に念仏三昧を修すといはば、なほ余の三昧を行ぜざるや。
答 今、常念といへども、また余の三昧を行ぜずとはいはず。ただ念仏三昧を行ずること多きがゆゑなり。ゆゑに常念といふ。まつたく余の三昧を行ぜずといふにはあらず。
A問 もしつねに念仏三昧を修することを勧めば、余の三昧とよく階降ありやいなや。
答 念仏三昧の勝相は不可思議なり。これいかんが知る。「摩訶衍」のなかに説きていふがごとし。「もろもろの余の三昧、三昧ならざるにはあらず。なにをもつてのゆゑに。あるいは三昧あり、ただよく貪を除きて瞋痴を除くことあたはず。あるいは三昧あり、ただよく痴を除きて貪瞋を除くことあたはず。あるいは三昧あり、ただよく現在の障を除きて過去・未来の一切諸障を除くことあたはず。もしよくつねに念仏三昧を修すれば、現在・過去・未来を問ふことなく一切諸障ことごとくみな除こる」と。
B問 念仏三昧すでによく障を除き福を得ること功利大ならば、いぶかし、またよく行者を資益して年を延べ寿を益せしむやいなや。
答 かならず得るなり。なんとなれば、「惟無三昧経」にのたまふがごとし。・・・死相すでに現じて七日を過ぐさじ。・・仏報へてのたまはく「一心に念仏し戒を修せば、あるいは難を度することを得ん」と。すなはち教によりて繋念す。時に六日に至りてすなはち二鬼あり、来りて耳にその念仏の声を聞きてつひによく前進むことなし。還りて閻羅王に告ぐ。閻羅王符を索む。符すでに注していはく「持戒・念仏の功徳によりて第三炎天に生ず」と。
また「譬喩経」のなかに、・・「・・意をもつぱらにして念仏し戒を持ち、香を焼き、灯を燃し、僧幡蓋を懸け、三宝を信向せばこの死を勉るべし」と。すなはちこの法によりて専心に信向す。殺鬼、門に到りて功徳を修するを見、つひに害することあたはず。鬼すなはち逃げ去れり。その人この功徳によりて寿百年を満てて、死して天に生ずることを得たり。・・・
C問 この念仏三昧はただよく諸障を対治し、ただ世報のみを招くや、またよく遠く出世の無上菩提を感ずやいなや。
答 得るなり。なんとなれば、「華厳経」の「十地品」にのたまふがごとし。・・・「このもろもろの菩薩余行を修すといへども、みな念仏・念法・念僧を離れず。上妙の楽具をもつて三宝を供養す」とこの文証をもつて知ることを得。もろもろの菩薩等、すなはち上地に至るまで、つねに念仏・念法・念僧を学して、まさによく無量の行願を成就して功徳海を満つ。いかにいはんや二乗・凡夫、浄土に浄土に生ぜんと求めて念仏を学せざらんや。なにをもつてのゆゑにこの念仏三昧はすなはち一切の四摂・六度を具する通の行、通の伴なるがゆゑなり。
D問 初地以上の菩薩は、仏と同じく真如の理を証するをもつて仏家に生ずと名づく。みづからよく仏と作りて衆生を済運す。なんぞさらに念仏三昧を学して仏を見たてまつらんと願ずるを須ゐんや。
答 その真如を論ずるに、広大無辺にして虚空と等し。その量知りがたし。たとへば一の大きなる闇室に、もし一灯・二灯を燃せば、その明あまねしいへども、なほ闇となすがごとし。やうやく多灯に至れば、大明と名づくといへども、あに日光に及ばんや。菩薩の所証の智は、地々あひ望むるにおのづから階降ありといへども、あに仏の日の明らかなるがごとくなるに比ぶることを得んや。
五番の問答を通して、念仏の利益の広大で他に比すべからざるを論定しようとする一段である。
第一問答において、常に念仏三昧を修することは、他の行をさまたげるものでないこと、すなわち、何をしながらでも常に行じ得るという徳、あらゆる修行生活を覆うべき行であることを示す。
第二問答において、余他の三昧に比し、三世の諸障ことごとくを自在に除く点ではるかにすぐれていることを示す。
第三問答において、延命長寿の世俗的利益の備わることを示す。
第四問答においては、無上菩提の出世間の益を得ること、それは諸善万行の徳全てを具備するのが念仏三昧であるからであることを示す。
第五問答において、真如の理を証すれば仏家に生じて仏となり、衆生を済度することができるのに、何故かならすしも念仏三昧を要するのかという、聖道門の基本的観点を示す問いを掲げ、これに答えて、真如は広大無辺であって、菩薩がこれを証するといっても、それは果てしない暗闇に小さな灯火を掲げるに似てほとんど効力がない。たとえその灯火がどれほど数多くなろうと、日光と比べれば問題にもならない。仏の徳にくらべれば、菩薩の智慧は未だ闇のうちというべきであって、念仏三昧の徳に及ぶような菩薩の智慧などありえないと示す。まして凡夫においておやの意であろう。
第五の問答が根本原理を示すものと見える。仏の全徳を具備する念仏三昧、仏から衆生への道ということが、衆生から仏へのアプローチという聖道門の限界を破ったものであることを示唆している。
第五大門
修道延促/聖道は歴劫迂回、浄土法は益速疾を顕し、難易二道を細説する。
禅観難易/聖道の退転しやすきと浄土の不退を対比して示す。
此彼浄穢/浄土念仏と穢土聖道の漏無漏を相対して勝劣を判ずる。
引証勧信/経を引いて証誠する。
一 修道延促
修道の延促を明かす
苦を厭いて楽を求め、縛を畏れて解を求め、早く無上菩提を証せんと欲せば、先ずすべからく菩提心を発すを首となすべし。
この心識りがたく起こしがたし。たとひこの心を発得すとも、経によるに、つひに、すべからく十種の行、いはゆる信・進・念・戒・定・慧・捨・護法・発願回向を修して、菩提に進詣すべし。しかるに修道の身相続して絶えずして、一万劫を経てはじめて不退を証す。
当今の凡夫は現に信想軽毛と名づけ、または仮名といひ、または不定聚と名づけ、または外の凡夫と名づく。いまだ火宅を出ず。
なにをもってか知ることを得る。「菩薩瓔珞経」によりてつぶさに入道行位を弁ずるに、法爾なるが故に難行道と名づ。またただおもんみれば一劫のうちの受身生死すらなほ数へ知るべからず。いはんや万劫のうちにいたづらに痛焼を受くるをや。もしよくあきらかに仏経を信じて浄土に生ぜんと願ずれば、寿の長短に随ひて、一形にすなはち至りて位不退に階ふ。この修道一万劫と功を斉しくす。
もろもろの仏子等、なんぞ思量せずして難を捨てて易を求めざらんや。「倶舎論」の中にまた難行・易行の二種の道を明かすがごとし。難行道とは、「論」に説きていふがごとし。「三阿僧祇劫において、一々の劫のうちに、みな福智の資糧六波羅蜜一切の諸行を具す。一々の行業にみな百万の難行の道ありて、はじめて一位に充つ」と。これ難行道なり。易行道とは、すなはちかの「論」にいはく「もし別に方便あるによりて解脱することあるを易行道と名づく」と。いますでに勧めて極楽に帰せしむ。一切の行業ことごとくかしこに回向して、ただよく専至なれば、寿尽きてかならず生ず。かの国に生ずるを得れば、すなはち究竟して清涼なり。あに易行の道と名づけざるべけんや。すべからくこの意を知るべし。
問答解釈す
問すでに往生せんと願ずれば、この寿尽くるに随ひてすなはち往生を得といふは、聖教の証ありやいなや。 答七番あり。みな経論を引きて証成せん。
@「大経」「今世において無量寿仏を見たてまつらんと欲せば、無上菩提の心を発し功徳を修行してかの国に生ぜんと願ずべし。すなはち往生を得るがゆゑなり」また「大経」の讃「もし阿弥陀の徳号を聞きて、歓喜讃仰し、心帰依すれば、下一念に至るまで大利を得。すなはち功徳の宝を具足するとなすたとひ大千世界に満てらん火をも、またただちに過ぎて仏のみ名を聞くべし阿弥陀を聞けば、また退かず。・・・」
A「観経」九品のうちにみなのたまはく、「臨終正念にしてすなはち往生を得」
B「起信論」「・・・意をもつぱらにして仏を念ずる因縁をもつて、願に随ひて往生す。・・・」
C「鼓音陀羅尼経」「・・・よくまさしくかの仏の名号を受持し、その心を堅固にして憶念して忘れざること十日十夜、散乱を除捨して精勤して念仏三昧を修習し、もしよく念々に絶えざらしむれば、十日のうちにかならずかの阿弥陀仏を見たてまつることを得て、みな往生を得」
D「法鼓経」「もし人臨終の時に念をなすことあたはざれども、ただかの方に仏ましますと知りて往生の意をなせば、また往生を得」
E「十方随願往生経」「もし終わりに望み死に及びて地獄に堕することあらんに、家のうちの眷属その亡者のために念仏しおよび転誦し斎福すれば、亡者すなはち地獄より出でて浄土に往生す。いはんやその現在にみづからよく修念せば、なにをもつてか往生することを得ざるものあらんや」「現在の眷属亡者のために追福すれば、遠人に餉するにさだめて食を得るがごとし」
F「大法鼓経」「もし善男子・善女人つねによく意を繋けて諸仏の名号を称念すれば、十方の諸仏、一切の賢聖つねにこの人を見ること目の前に現ずるがごとし。・・・この人は十方浄土に願に随ひて往生す」
「大悲経」「なにをか名づけて大悲となす。もしもつぱら念仏相続して断えざるものは、その命終に随ひてさだめて安楽に生ず。もしよく展転してあひ勧めて念仏を行ずるものは、まさに知るべし、これらをことごとく大悲を行ずる人と名づく」
「涅槃経」「たとひ大倉蔵を開きて一月のうちに一切衆生に布施すとも、所得の功徳、人ありて仏を称する一口の功徳にしかず。前に過ぎ足ること校量すべからず」
「増一阿含経」「もし衆生ありて善心相続して仏の名号を称すること、一たび牛乳を搆るあひだのごとくせんに、所得の功徳上に過ぎ足ること量るべからず。よく量るものあることなし」
「大品経」「もし人散心念仏すれば、すなはち苦を畢るに至るまでその福尽きず。もし人散華念仏すればすなはち苦を畢るに至るまでその福尽きず」
結ゆゑに知りぬ。念仏の利、大なること不可思議なり。「十往生経」、諸大乗経等、ならびに文証あり、つぶさに引くべからず。
二 禅観難易
この方は穢境にして、乱想ありて入りがたし。たとひ修得するも、ただ事定を獲て多く味染を喜ぶ。またただよく業報の生を伏し、上界の寿尽きぬれば多く退す。このゆゑに「智度論」にいはく、「多聞と持戒と禅とは、いまだ無漏法を得ざれば、この功徳ありといへども、この事いまだ信のべからず」と。
もし西に向かひて修習せんと欲せば、事境光浄にして、定観成じやすし。罪を除くこと多劫にして、永く定まりすみやかに進みて究竟して清涼なり。「大経」に広く説きたまふがごとし。
問 もし西方の境界勝にして禅定をなして感ずべくは、この界の色天は弱くして禅定をなして招くべからざるや。
答 もし修定の因を論ぜば、彼此に該通す。しかるにかの界は位これ不退にして、ならびに他力の持つあり。このゆゑに説きて勝となす。この所はまた定を修するに剋すといえども、ただ自分の因のみありて、闕けて他力の摂することなし。業尽くれば、退することを勉れず。これにつきてしかずと説く。
三 彼此浄穢
この処の境界を論ずれば、ただ三塗・丘坑・山澗・沙畄・蕀刺・水旱・暴風・悪触・雷電・霹靂・虎狼・毒獣・悪賊・悪子・荒乱・破散・三災・敗壊あり。正報を語り論ずれば、三毒・八倒・憂悲・嫉妬・多病・短命・飢渇・寒熱あり。つねに伺命害鬼の追逐するところとなる。深く穢悪すべし。つぶさに説くべからずゆゑに有漏と名づく。深く厭うべし。
かの国に往生するは勝なりといふは、「大経」によるにのたまはく、「十方の人天ただかの国に生ずれば、みな種々の利益を獲ざるはなし」と。
なんとなれば、一たびかの国に生ずれば、行けばすなはち金蓮足を捧げ、坐すればすなはち宝座躯を承け、出づればすなはち帝釈前にあり、入ればすなはち梵王後に従ふ。一切の聖衆はわれと親朋なり。阿弥陀はわが大師たり。宝樹・宝林の下には意に任せて皇翔し、八徳の池のなかには神を遊ばせ足を濯ぐ。形は身金色に同じく、寿はすなはち命仏と斉し。学すればすなはち衆門並び進み、止まればすなはち二諦虚融す。十方に済運すればすなはち大神通に乗じ、晏安すれば暫時にすなはち大涅槃に到る。一切衆生ただかの国に至れば、みなこの益を証す。なんぞ思量せずしてすみやかに去かざらんや。
四 引証勧信
「観仏三昧経経」によるにのたまはく、「・・・仏像を礼拝するに、一の宝像の厳顕にして観ずべきを見る。観じおはりて敬礼して、目にあきらかにこれを観ず。・・・・なんぢ仏語を持ちて、未来世の天・竜・大衆・四部の弟子のために観仏相好みよび念仏三昧を説くべし・・・」
第五大門のまとめ
第三大門に示した聖浄二門判の補説をなす一門であるとみられる。まず、聖道は歴劫迂回の難行道であって、遅延を避けられないが、浄土の法は易行にして利益速疾であり、命終即生して速やかに不退に至ることができることを示す。
次には、この世界における、禅定と浄土定善の難易優劣を示して、他力によって不退の位に至ることのできる、往生浄土の願うべきことを勧める。
さらに、この世界の穢土たる相を示し、浄土のすぐれた相を対比して、捨此往彼を勧める。
最後に、「観仏三昧経」の念仏三昧を勧める文を引いて、信と願生を促す。
注目されるのは、第三科の此土浄土の対比を述べて、「なんぞ思量せずしてすみやかに去かざらんや」と結んだ一段であって、道綽禅師の眼前にあった現実と、師の心に宿った願心が生々しく率直に述べられている。
第六大門
十方西方/西方偏勧の所以を示す。
義推偏勧/義を以て理を推し西方願生ゆえあるを示す。
経教住滅/大経によって経の住滅を論じ、聖浄の法義に三時の通塞あるを決し、浄土の一門のみ凡聖斉往なるを明かす。
一 十方西方
十方浄土ともに来たして比校すとは、その三番あり。
@「随願往生経」「十方仏国みなことごとく厳浄なり。・・・西方の無量寿国にはしかず。なんの意をもつてか、かくのごとくなる。ただ阿弥陀仏、観音勢至と先に発心したまひし時、この界より去りたまへり。この衆生においてひとへにこれ縁あり。このゆゑに釈迦処々に歎帰したまふ」
A「大経」「法蔵菩薩因中に世繞王仏の所において、つぶさに弘願を発してもろもろの浄土を取りたまふ。時に仏、ために二百一十億の諸仏刹土の天・人の善悪、国土の精粗を説きて、ことごとく現じてこれを与へたまふ。・・」
B「観経」「韋提夫人また浄土を請ふ。如来光台にために十方一切の浄土を現じたまふ。韋提夫人、仏にまうしてまうさく、この諸仏の土また清浄にしてみな光明ありといへども、われいま極楽世界の阿弥陀仏の所に生ぜんと楽ふと」結ゆゑに知りぬ、もろもろの浄土のなかに安楽世界は最勝なり。
二 義推偏勧
問なんがゆゑぞかならず面を西に向かへて坐して礼・念・観するを須ゐる。
答閻浮提には、日の出づる処を生と名づけ、没する処を死と名づくといふをもつて、死地による神明の趣入その相助便なり。このゆゑに法蔵菩薩願じて成仏し、西にありて衆生を悲接したまふ。・・・「智度論」に・・・一切の行業ただよく回向するに往かざるはなし。ゆゑに「須弥四域経」に・・・日月星辰みなことごとく心を傾けてかしこに向かふ。ゆゑに西に流ると。
三 経教住滅
いはく、「釈迦牟尼仏一代、正法五百年、像法一千年、末法一万年には、衆生減じ尽き、諸経ことごとく滅す。如来痛焼の衆生を悲哀して、ことにこの経を留めて止住すること百年ならん」と。この文をもつて証す。ゆゑに知りぬ。かの国はこれ浄土なりといへども、しかも体上下に通ず。相無相を知るはまさに上位に生ずべし凡夫は火宅にして一向に相に乗じて往生するなり。
第六大門のまとめ
西方浄土願生の所以を顕示せんとする一門である。まず、十方浄土に選んで特に西方阿弥陀浄土を願うべき理由として、「随願往生経」によって、弥陀・観音・勢至は、ほかならぬこの娑婆世界を出身地としておられるのであって、殊に縁深いから釈迦も特にこれを勧めたもうといい、次には「大経」によって、法蔵因位の昔、二百一十億の諸仏浄土から長所を選りすぐって建立された最勝の土であることを示し、さらに「観経」によって、光台現国の十方浄土中から韋提希夫人が選んだのもまた阿弥陀浄土であったことを挙げる。
次いでは、「西方」の意義をを、日の沈むになぞらえて命の帰するところ故に心を向けるに相応しいから、法蔵菩薩が選んで西にあって迎え取られるのであり、日月・星辰までもがみな西に流れるのも阿弥陀仏の手回しであると示す。
さらに、「大経」に依りつつ、正法五百年・像法千年・末法万年説を出して、聖道門には盛衰通塞があるが、浄土門にはなく、すべての教法が滅んだ後もなお留まって最劣の機をも救う凡聖斉往の法であることを示す。
正法五百年・像法千年・末法万年説は、これを直接説示した経典は存せず、末法思想の先駆者とされる慧思の説によったものといわれる。
第七大門
此彼取相/浄土の果相を顕して願生の意義を成じ、大乗無相の計を破し、浄土は相に乗じて無相にかない真解脱に入ることを明かす。
此彼修道/彼此の修道を比較し、大経によって横超の益を述べる。
一 此彼取相
此彼の取相に縛脱を料簡すとは。もし西方の浄相を取らば、疾く解脱を得、もっぱら極楽を受けて、智眼開けて朗らかなり。もしこの方の穢相を取らば、ただ妄業・痴盲・厄縛・憂怖のみあり。
問大乗の諸経によるに、みな「無相はすなはちこれ出離の要道なり、相に執し拘礙するは塵累を勉れず」といへり。いま衆生を勧めて穢を捨てて浄を欣はしむ、この義いかん。
答この義類せず。なんとなれば、おほよそ相に二種あり。一には五塵の欲境において妄愛貪染して境に随ひて執着す。これらのこの相、これを名づけて縛となす。二には仏の功徳を愛して浄土に生ぜんと願ず。これ相なりといふといへども、名づけて解脱となす。なにをもってか知ることを得る。「十地経」にのたまふがごとし。「初地の菩薩、なほみづから二諦を別観して心を励まして作意す。先には相によりて求め、終りにはすなはち無相なり。もつてやうやく増進して大菩提を体す。七地の終心を尽くして相心はじめて息む。
その八地に入りて相求を絶す。まさに無功用名づく」と。このゆゑに「論」にいはく、「七地以還は悪貪を障となし、善貪を治となす。八地以上は善貪を障となし、無貪を治となす」と。いはんやいま浄土に生ぜんと願ずるは現にこれ外凡なり。所修の善根みな仏の功徳を愛するより生ず。あにこれ縛ならんや。ゆゑに「涅槃経」にのたまはく、「一切衆生に二種の愛あり。一には善愛、二には不善愛なり。不善はただ愚のみこれを求め、善法愛は諸菩薩これを求む」と。ゆゑに「浄土論」にいはく、「観仏国土清浄味・摂受衆生大乗味・類事起行願取仏土味・畢竟住持不虚作味、かくのごとき等の無量の仏道の味あり」と。ゆゑにこれ相を取るといへども、執縛に当るにあらず。またかの浄土にいふところの相とは、すなはちこれ無漏の相、実相の相なり。
有相の浄土を願生するのは、形あるものへの執着であり煩悩であって迷いを離れることにはならないのではないか、無相こそが出離の要道であろうという問いを掲げて、この五欲の世界の相に愛着することと、仏の功徳を愛して浄土を願うというのとでは同じく有相とはいっても、一方は繋縛、一方は解脱であって全く異なると示す。
相を離れて無相を修しうるのは八地以上の高位の菩薩のみであって、現に外凡に過ぎない我々の適うところではない。相に対する愛着は煩悩に他ならないとしても、その相たるや無漏の相、実相の相であるから、凡分にも可能な解脱への道が浄土願生であることを説示する。
第二大門の第二科中の大乗の無相を妄計する邪執を破す段で既に論じたことの再説確認である。
二 此彼修道
此彼の修道に功を用ゐるに軽重ありて、報を獲るに真偽あることを明かすとは、もし発心して西に帰せんと欲するものは、ひとへに少時の礼・観・念等をもつて、寿の長短に随ひて、命終の時に臨めば光台迎接して、迅くかの方に至りて位不退に階ふ。このゆゑに「大経」にのたまはく、「十方の人天、わが国に来生して、もしつひに滅度に至らずしてさらに退転あらば、正覚を取らじ」と。この方は多時につぶさに施・戒・進・定・慧を修して、いまだ一万劫を満たざるよりこのかたは、つねにいまだ火宅を免れず。顛倒墜堕す。ゆゑに功を用ゐることは至りて重く、報を獲ることは偽なりと名づく。「大経」にまたのたまはく、「わが国に生ずるものは横に五悪趣を截る」と。いまこれは弥陀の浄刹に約対して、娑婆の五道を斉しく悪趣と名づく。地獄・餓鬼・畜生は純悪の所帰なれば、名づけて悪趣となす。娑婆の人天は雑業の所向なれば、また悪趣と名づく。もしこの方の修治断徐によらば、先づ見惑を断じて三塗の因を離れ、三塗の果を滅す。後に修惑を断じて人天の因を離れ、人天の果を絶つ。これみな漸次に断除すれば、横截と名づけず。もし弥陀の浄国に往生することを得れば、娑婆の五道一時にたちまちに捨つ。ゆゑに「横截五悪趣」と名づくるはその果を截るなり。「悪趣自然閉」とはその因を閉ずるなり。これ所離を明かす。「昇道無窮極」とはその所得を彰すなり。もしよく作意し回願して西に向かへば、上一形を尽し下十念に至るまで、みな往かざるはなし。一たびかの国に到ればすなはち正成聚に入りて、ここにして道を修する一万劫と功を斉しくす。
此の土における修道は長時に諸行欠けることなく勤めねばならず、労多くして功少なく、実の果報を得ることはできないのに対し、浄土は往きやすくしてしかも浄土に往生すれば速やかに滅度に至ることを得ると示す。
第七大門のまとめ
娑婆の貪愛五塵・有漏執縛、漸次断除五道因果に対し、浄土の土徳を、有相無漏願生解脱、横截悪趣・昇道無極と示す。
第八大門
経論勧説/経論を引いて厭穢欣浄は諸経の本意なるを示す。
二尊比校/釈迦自ら此土入証の教を捨てて、偏えに弥陀を讃ずる所以を述べる。
往生意趣/偏勧西方の意を詳説する。
一 経論勧説
第一に略してもろもろの大乗経を挙げて来たし証して、みな勧めてここを捨ててかしこをねがはしむとは、
@耆闍崛山の説、「大経」二巻
A「観経」一部、王宮・耆闍両会の正説
B「少巻無量寿経」舎衛の一説
C「十方随願往生経」の明証
D「無量清浄覚経」二巻一会の正説
E「十往生経」一巻
諸余の大乗経論に指讃する処多し。「請観音」「大品経」等のごとし。また龍樹・天親等の論のごとし。歎勧一にあらず。余方の浄土はみなかくのごとく丁寧ならず。
二 二尊比校
第二に弥陀・釈迦二仏比校すとは、いはく、この仏釈迦如来、八十年世に住まりてしばらく現じてすなはち去りたまひ、去りて返りたまはず。朷利の諸天に比するに、一日にも至らず。また釈迦の在時救縁また弱し。毘舎離国にして人の現患を救ひたまへる等のごとし。なんとなれば、時に毘舎離国の人民五種の悪病に遭へり。(中略) 良医の耆婆その道術を尽くすも、救ふことあたはざるところなり。時に月蓋長者あり。首となりて病人を部領し、みな来たりて仏に帰して頭を叩きて哀れみを求む。その時世尊無量の悲愍を起こして、病人に告げてのたまはく、「西方に阿弥陀仏・観世音・大勢至菩薩まします。なんぢら一心に合掌して見たてまつらんと求めよ」と。ここにおいて大衆みな仏の勧めに従ひて、合掌して哀れみを求む。その時かの仏、大光明を放ちて、観音大勢と一時にともに到りて大神呪を説きたまふに、一切の病苦みなことごとく消除して平復すること故のごとし。
しかるに二仏の神力また斉等なるべし。ただ釈迦如来おのが能を述べたまはずして、ことさらにかの長を顕して、一切衆生をして斉しく帰せざるはなからしめんと欲す。このゆゑに釈迦処々に歎じて帰せしめたまへり。すべからくこの意を知るべし。
このゆゑに曇鸞法師意を正して西に帰す。ゆゑに「大経」に傍へて奉讃していはく
安楽の声聞・菩薩衆人天、智慧ことごとく洞達せり
身相の荘厳、殊異なしただ他方に順ずるがゆゑに名を別つ
顔容端正にして比ぶべきなし精微妙躯にして人天にあらず
虚無の身無極の体なりこのゆゑに平等力を頂礼したてまつる
弥陀は釈迦の本仏であること、誤って釈迦を絶対視して弥陀を軽んずることのないよう、釈迦は自らの徳を隠してまでも、弥陀に帰せしめんとしたもうことを示唆する。
三 往生意趣
第三に往生の意を釈すとは、なかにつきて二あり。一には往生の意を釈し、二には問答解釈す。
第一に問ひていはく、いま浄土に生ぜんと願ず、いまだ知らず、なんの意をかなすや。答へていはく、ただ疾く自利利他を成じ、利物深広ならんと欲す。
十信・三賢より正法を摂受して、不二に契会し、仏性を見証し、あきらかに実相を暁る。観照の暉心、有無の二諦、因果の先後、十地の優劣、三忍、三道、金剛無礙、大涅槃を証す。大乗寛く運びて無限の時に住せんと欲す。無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり。
問に三番あり。
問 浄土に生ぜんと願ずるは、利物を欲するに擬すとは、もししからば、所抜の衆生はいま現にここにあり。すでによくこの心を発得すれば、ただここにありて苦の衆生を抜くべし。なにによりてかこの心を得をはりて、先づ浄土に生ぜんと願ずる。衆生を捨ててみづから菩提の楽を求むるに似如たり。

@「智度論」にいふがごとし。「たとへば二人ともに父母・眷属の深淵に没在するを見るに、一人はただちに往きて力を尽くしてこれを救ふ。力の及ばざるところなればあひともに没す。一人ははるかに走りて一の舟船に趣き、乗り来りて済接するに、ならびに難を出づることを得るがごとし。菩薩もまたしかなり。もしいまだ発心せざる時は、生死に流転すること衆生と無別なり。ただすでに菩提心を発す時は、先づ願じて浄土に往生し、大悲の船を取りて無礙の弁才に乗じて生死の海に入り、衆生を済運す」と。
A「大論」にまたいはく、「菩薩浄土に生じて大神通を具し、弁才無礙にして衆生を教化する時も、なほ衆生をして善を生じ悪を滅し、道を増し位を進めて、菩薩の意に称はしむることあたはず。もし穢土にありて抜済するものは、闕けてこの益なし。鶏を逼めて水に入るるがごとし。あによく湿はざらんや」と。
B「大経の讃」にいはく「安楽仏国のもろもろの菩薩、それ宣説すべきことは智慧に随ふ。おのが万物において我所を亡ず。浄きこと蓮華の塵を受けざるがごとし。往来進止汎べる舟のごとし。利安を務めとなして適莫を捨つ。かれもおのれも空のごとくして二相を断ず。智慧の炬を燃して長夜を照らす。三明六通みなすでに足れり。菩薩の万行心眼に観ず。かくのごとき功徳辺量なし。このゆゑに心を至してかしこに生ぜんと願ず」と。
第八大門のまとめ
此土自力の聖道門では自利利他の願いを果たしえない現実を踏まえて開かれた往生浄土の門こそが大乗菩薩道の本道であり、究極であることを説所論の多くは第二・第三大門に述べたところの再説であるとみることができる。
第九大門
苦楽善悪/此土の苦悪の相、浄土楽善の相を対比して示す。
寿命長短/此土五濁と浄土無濁の寿命を顕し捨此往彼の所以を示す。
一 苦楽善悪
初めに苦楽善悪相対すといふは、この娑婆世界にありては苦楽二報ありといへども、つねにもって楽と少なく苦は多し。重きはすなはち三塗にして痛焼し軽きはすなはち人天にして刀兵・疾病あひ続きて連なり注ぎ、遠劫よりこのかた断ゆる時あることなし。たとひ人天に少楽ありとも、なほ泡沫・電光のすみやかに起こりすみやかに滅するがごとし。このゆゑに名づけて唯苦唯悪となす弥陀の浄国は水・鳥・樹林つねに法音を吐きて、あきらかに道教を宣ぶ。清白を具足してよく悟入せしむ。
二に聖教を引きて証となすとは、「浄土論」にいはく、「十方の人天、かの国に生ずるものは、すなはち浄心の菩薩と無二なり。浄心の菩薩、すなはち上地の菩薩と畢竟じて同じく寂滅忍を得。ゆゑにさらに退転せず」と。また「大経」の四十八願を引くなかに五番の大益あり。
@「十方の人天、わが国に来生することあらんに悉く真金色ならずは、正覚を取らじ」
A「十方の人天、わが国に来生して、もし形色不同にして好醜あらば、正覚を取らじ」
B「十方の人天、わが国に来生して、宿命智を得ず、下百千億那由他の諸劫の事を知らざるに至らば、正覚を取らじ」
C「十方の人天、わが国に来生して、天耳通を得ず、下百千億那由他の諸仏の所説を聞かず、悉く受持せざるに至らば、正覚を取らじ」
D「十方の人天、わが国に来生して、他心智を得ず、下百千億那由他の諸仏国のうちの衆生の心念を知らざるに至らば、正覚を取らじ」
かの国の利益の事を論ぜんと欲するに、つぶさに陳ぶべきこと難し。ただまさに生ぜんと願ずべし。かならず不可思議なり。このゆゑにかの方は唯善唯楽にして、苦なく悪なし。
この娑婆世界は悪と苦の世界であり、対して、阿弥陀浄土は善と楽の世界であることを示して捨此往彼を勧める。
二 寿命長短
この方の寿命大期百年に過ぎず。百年のうち少しきは出づるも、多くは減ずあるいは生年に夭喪し、乃至童子にして身亡ず。あるいはまた胞胎にして傷堕す。なんの意かしかるとならば、まことに衆生因を作る時雑なるによる。ここをもつて報を受くることまた斉同なることを得ず。このゆゑに「涅槃経」にのたまはく、「作業の時黒なれば果報また黒なり。作業の時白なれば果報また白なり。浄雑またしかなり」と。
また「浄度菩薩経」によるにのたまはく、「人寿百歳なるも、夜その半ばを消す。すなはちこれ五十年を減却す。五十年のうちにつきて、十五以来はいまだ善悪をしらず、八十以去は昏耄虚劣なり、ゆゑに老苦を受く。おのずからこのほかはただ十五年あり。中にありて、外にはすなはち王官逼迫して長征・遠防し、あるいは繋がれて牢獄にあり、内にはすなはち門戸の吉凶の衆事に牽き纏はれ、煢々淞々としてつねに求むるに足らず。かくのごとく推計するに、あに哀しまざらんや。なんぞ厭はざることを得んや」と。
またかの「経」にのたまはく、「人世間に生じておぼよそ一日一夜を経るに、八億四千万の念あり。一念悪を起こせば一悪身を受け、十念悪を念へば十生の悪身を得、百念悪を念へば一百の悪身を受く。一衆生の一形のうちを計るに、百年悪を念へば、悪すなはち三千国土に遍満してその悪身を受く。悪法すでにしかり。善法もまたしかなり。一念善を起せば一善身を受け、百念善を念へば一百の善身を受く。一衆生の一形のうちを計るに、百年善を念へば、三千国土に善身また満つ。もし十年・五年阿弥陀仏を念じ、あるいは多年に至ることを得れば、後に無量寿国に生れ、すなはち浄土の法身を受くること恒沙無尽にして不可思議なり」と。
いますでに穢土は短促にして、命報遠からず。もし阿弥陀浄国に生ずれば、寿命長遠にして不可思議なり。
このゆゑに「無量寿経」にのたまはく、「仏、舎利弗に告げたまはく、かの仏をなんがゆゑぞ阿弥陀と号くる。舎利弗、十方の人天、かの国に往生するものは、寿命長遠にして億百千劫なり。仏と同等なるがゆゑに阿弥陀と号く」とおのおのよろしくこの利の大なることを量りて、みな往かんと願ずべし。
また「善王皇帝尊経」にのたまはく、「それ人ありて、道を学して西方阿弥陀仏国に往生せんと念欲するものは、憶念すること昼夜一日、もしは二日、あるいは三日、もしは四日、もしは五日、六日、七日に至るべし。もしまた中において還悔せんと欲するものは、われこの善王の功徳を説くを聞くべし。命尽きんと欲する時、八菩薩ありて、みなことごとく飛び来たりてこの人を迎へ取り、西方阿弥陀仏国のうちに到りて、つひに止まることを得ざらん」と。
これより以下、また「大経の偈」を引きて証となす。「讃」にいはく、「それ衆生ありて安楽に生ずれば、ことごとく三十有二相を具す。
智慧満足して深法に入る。道要を究暢して障礙なし。
根の利鈍に随ひて忍を成就す。三忍乃至不可説なり。
宿命五通つねに自在にして、仏に至るまで雑悪趣に更らず。
他方の五濁の世よ生じて、示現して同じく大牟尼のごとくなるを除く安楽国に生じて大利を成ず。このゆゑに心を至してかしこに生ぜんと願ず」
この娑婆世界が余りにも短命であるのに対して、彼の阿弥陀浄土は寿命無量の世界であることを示して、捨此往彼を勧める。
第九大門のまとめ
此の土は悪と苦に満ちてしかも短命であるに対し、阿弥陀浄土は善と楽に満ちた無量寿の世界であることを示して浄土願生を勧める。第三大門において、述べたところの再論詳説と見ることができる。
第十大門
引類証誠/諸仏の西方勧帰を経証し、十方来生の多きを明かす。
回向釈義/回向の義に六種あるを示し、二利菩提を成ぜんには西方にしかざるを明かし諸仏偏勧の由来を示す。
一 引類証誠
第一に「大経」によりて類を引きて証誠すとは、十方の諸仏西方に帰することを勧めたまはざるはなく、十方の菩薩同じく生ぜざるはなし。十方の人天意あるは斉しく帰す。ゆゑに知りぬ、不可思議の事なり。このゆゑに「大経の讃」にいはく、「神力無窮の阿弥陀は、十方無量の仏の讃じたまふところなり。東方恒沙の諸仏の国、菩薩無数にしてことごとく往覲す。また安楽国の菩薩・聲聞・もろもろの大衆を供養し、経法を聴受して道化を宣ぶ。自余の九方もまたかくのごとし」と。
二 回向釈義
第二に回向の義を釈すとは、ただ一切衆生すでに仏性あるをもつて、人人みな成仏を願ふ心あり。しかれども所修の行業いまだ一万劫に満たざるよりこのかたは、なほいまだ火界を出ざるによりて、輪廻を免れず。このゆゑに聖者この長苦を愍れみて西に回向するを勧むるは、大益を成ぜしめんがためなり。しかるに回向の功は六を越えず。なんらをか六となす。
一には所修の諸業をもつて弥陀に回向すれば、すでにかの国に至りて、還りて六通を得て衆生を済運す。これすなはち道に住せざるなり。
二には因を回して果に向かふ。
三には下を回して上に向かふ。
四には遅を回して速に向かふ。これすなはち世間に住せざるなり。
五には衆生に回施して、悲念して善に向かはしむ。
六には回入して分別の心を去却す。
回向の功ただこの六を成ず。
このゆゑに「大経」にのたまはく、「それ衆生ありて、わが国に生ずるものは自然に勝進して、常倫諸地の行に超出して、仏道を成ずるに至るまでさらに回復の難なし」と。ゆゑに「大経の讃」にいはく、「安楽の菩薩・聲聞の輩、この世界において比方なし。
釈迦無礙の大弁才をもつて、もろもろの仮令を設けて少分を示し、最賤の乞人を帝王に並べ、帝王をまた金輪王に比ぶ。
かくのごとく展転して六天に至る。次第してあひ類することみな始めのごとし。
天の色像をもつてかれに譬ふるに、千万憶倍すともその類にあらず。
みなこれ法蔵願力のなせるなり。大心力を頂礼したてまつる」と。
第十大門のまとめ
西方阿弥陀仏は十方諸仏中に最勝独尊であって、諸仏・菩薩・人天悉く帰するところであることを「大経」によって証し、さらに回向の義を釈して、成仏を願うならば一切の行業を方向転換して弥陀の浄土を願うべきことを示すのである。これまた第三大門の意の再説である。 
第十一大門
勧托知識/修道には知識を要とすることを示し、此土は違順多く浄土は修人の勝縁なることを決する。
受生勝劣/前述を二土の果相について明かす。
一 勧托知識
第一に勧めて善知識に託すとは、「法句経」によるに、衆生のために善知識となる。「宝明菩薩あり。仏にまうしてまうさく、善知識はよく深法を説く。いはく空と無相と無願となり。諸法平等にして業なく報なく、因なく果なし。究竟如如にして実際に住す。しかるに畢竟空のなかにおいて、熾燃として一切の諸法を建立す。これを善知識となす。
善知識はこれなんぢが父母なり、なんぢらが菩提の身を養育するがゆゑなり。
善知識はこれなんぢが眼目なり、よく一切の善悪の道を見るがゆゑなり。
善知識はこれなんぢが大船なり、なんぢらを運度して生死海を出すがゆゑなり。
善知識はこれなんぢが綱縄なり。よくなんぢらを挽き抜きて生死を出すがゆゑなり」と。
また勧む。衆生のために善知識となるといへども、かならずすべからく西に帰すべし。なにをもつてのゆゑに。この火界に住まれば、違順の境多々にして退没ありて出づること難ぎによるがゆゑなり。このゆゑに舎利弗ここにおいて発心して菩薩の行を修すること、すでに六十劫を経たり。悪知識の乞眼の因縁に逢ひて、つひにすなはち退転す。ゆゑに知りぬ。火界にして道を修することはなはだ難し。ゆゑに勧めて西方に帰せしむ。一たび往生を得れば、三学自然に勝進し、万行あまねく備はる。ゆゑに「大経」にのたまはく、「弥陀の浄国は造悪の地毛髪ばかりのごときもなし」と。
二 受生勝劣
第二に次の衆生の死後に受生の勝劣あることを弁ずとは、この界の衆生寿尽き命終りて、みな善悪の二業に乗ぜざるはなし。つねに伺命の獄卒と妄愛の煩悩のためにあひともに生を受く。すなはち無数劫よりこのかた、いまだ免離することあたはず。もしよく信を生じて浄土に帰向し意を策まして専精なれば、命終らんと欲する時、阿弥陀仏、観音聖衆と光台をもつて、行者を迎接したまふ。歓喜し随従し合掌して台に乗じ、須臾にすなはち到りて快楽ならざるはなく、すなはち成仏に至る。また一切衆生、業を造ること不同にして、その三種あり。いはく上・中・下なり。みな閻羅に詣りて判を取らざるはなし。もしよく信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願じて、所修の行業ならびにみな回向すれば、命終らんと欲する時、仏みづから来迎して死王に干されず。
第十一大門のまとめ
まず、修道には善知識の甚だ重要なことを示し、しかも善知識の真の役割は、浄土願生を勧める以外にはないことを明らかにする。次には、善知識の浄土願生を勧める所以を彼此二土の勝劣を提示して明らかにする。これまた第三大門の意を再説したものと見ることができよう。
第十二大門
一 総結勧信
正信の利益として二十五菩薩の擁護を説き、切に信順を勧めて結ぶ。
「十往生経」につきて証となして往生を勧む。仏阿弥陀仏国に生ずることを説くに、もろもろの大衆のために観身正念解脱を説きたまふがごとし。・・・
それ観身の法は・・・ただ無縁を観ず。・・・ただみづから身を観ずるに善力自然なり、正念自然なり、解脱自然なり。・・・解脱おのづから至る。・・・
世間の衆生解脱を得ず。なにをもつてのゆゑに。一切衆生みな虚多く実少なきによりて、一として正念なし。・・・たとへば人ありて、みづからの父母および師僧において、外には孝順を現じ内には不孝を懐くがごとく、外には精進を現じ内には不実を懐く。・・・十の往生の法ありて解脱を得べし。いかんが十となす。
一には観身正念にしてつねに歓喜を懐き、飲食・衣服をもつて仏および僧に施せば、阿弥陀仏国に往生す。
二には正念にして甘妙の良薬をもつて一の病比丘および一切衆生に施せば阿弥陀仏国に往生す。
三には正念にして一の生命をも害せずして一切を慈悲すれば、阿弥陀仏国に往生す。
四には正念にして師の所に従ひて戒を受け、浄慧をもつて梵行を修し、心につねに歓喜せば、阿弥陀仏国に往生す。
五には正念にして父母に孝順し、師長に敬奉して驕慢の心を起こさざれば、阿弥陀仏国に往生す。
六には正念にして僧房に往詣し、塔寺を恭敬し、法を聞きて一義を解れば、阿弥陀仏国に往生す。
七には正念にして、一日一夜のうちに八斎戒を受持して一をも破らざれば、阿弥陀仏国に往生す。
八には正念にしてもしよく斎月・斎日のうちに房舎を遠離してつねに善師に詣れば、阿弥陀仏国に往生す。
九には正念にしてつねによく浄戒を持ちて禅定を勤修し、法を護りて悪口せず。もしよくかくのごとく行ずれば、阿弥陀仏国に往生す。
十には正念にして、もし無上道において誹謗の心を起こさず、精進にして浄戒を持ち、また無智のものを教へてこの教法を流布し、無量の衆生を教化す。かくのごときらの人等は、ことごとくみな往生を得と。(中略) すなはち阿弥陀仏の国土のあらゆる荘厳妙好の事を見たてまつるに、みなことごとく七宝なり。・・・かの国には日々につねに法輪を転ず。かの国の人民外事を習はず。まさしく内事を習ふ。口に方等の語を説き、耳に方等の声を聞き、心に方等の義を解る。・・・もし善男子・善女人ありてこの経を正信し、この経を愛楽して衆生を勧導せば、説者も聴者もことごとくみな阿弥陀仏国に往生せん。もしかくのごとき等の人あらば、われ今日よりつねに二十五菩薩をしてこの人を護持せしめ、つねにこの人をして病なく悩なからしめん。(以下略)
撰集流通の徳、あまねく一切に施して先づ菩提心を発し、同じく浄国に帰向して、みなともに仏道を成ぜん。
第十二大門のまとめ
まず、正念(真実の信心)の上から諸善を奉行するものは自然に往生を遂げ、浄土の徳によって必ず解脱を得ることを示し、現生よりすでに二十五菩薩の護持養育を被ることを挙げ、信を勧めて結ぶのである。その正念(信)の真偽を判ずるに、内外不相応の相を以てする一段は、後の善導の「不得外現賢善之相内懐虚仮」の先蹤として注目される。信心をもって往生の正因となし、信心の利益として二十五菩薩の現生擁護を示して結ぶことは、往生浄土の門の終の肝要を示すかと思われる。 
 
親鸞と安楽集
親鸞聖人は正信偈に道綽禅師を次のようにを讃嘆されている。
道綽決聖道難証唯明浄土可通入万善自力貶勤修円満徳号勧専称三不三信誨慇懃像末法滅同悲引一生造悪値弘誓至安養界証妙果
すなはち「道綽禅師が《聖道門でどのように自力作善をしてもさとりを開くことは難しく、ただ念仏の教えのみがよく浄土に導き入れてくださるのであり、すべての徳が円満されている名号を専らに称名することをすすめられた。三信と三不信の教えを懇切に示し、正法・像法・末法・法滅いつの時代においても、本願念仏の法は変わらず、斉しく人々を救いつづけることを明らかにされ、たとえ一生涯悪を造りつづけても、阿弥陀仏の本願に値遇し信順するならば、浄土に往生しこの上ないさとりを開く》と示された」と述べておられる。
教行信証行文類には安楽集から次のような引文がある。
《観仏三昧経》を引かれ、
「釈尊が父の王(浄飯王)に念仏三昧を勧められたことについて、浄飯王が《仏のさとりの徳は真如実相第一義空ということであるがどうしてそれをわたしに教えてくださらないのか》と質されたのに対して釈尊は《仏の徳ははかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえられており、凡夫はとうてい修められるものではない。そこで念仏三昧を修めることを勧めたのです。》・・・《念仏の功徳は伊蘭の広大な林があって、伊蘭のそれはもう耐え切れぬいやな匂いが満ちているが、そこに一本の栴檀の種が生じ芽を出し、少しばかり木に成長しただけで、その伊蘭の林はかぐわしい香りを放ち、見るものに皆たぐい希なすぐれた思いを起こさせる。そのような功徳が念仏には具わっている》・・・《念仏の行を保ちつづけることができたなら、かならず阿弥陀仏のもとに生まれることができる。ひとたび往生することができたなら、すべての悪をあらためて大いなる慈悲の心を生じさせてくださることは、栴檀の木が伊蘭の林のいやなにおいを変えてしまうようなものです》とおおせになった」
《伊蘭の林》とは三毒や三障などの衆生の持つ数限りない重い罪のたとえであり、《栴檀》は衆生の念仏の心にたとえたものである。《少しばかり木に成長する》とはどのような人も絶えることなく念仏したならば、往生の要因が成就することをいうのである。
五会法事讃(唐法照)のなかで《凡夫には仏の智慧やさとりはとうてい修められるものではない》ことを次のように語られている。
釈尊は父の浄飯王仰せになった。
《王よ、今静かに座して念仏すべきであります。念を離れて無念を求め、生を離れて無生を求め、姿かたちを離れて法身を求め、言葉を離れて言葉の及ばない解脱を求めるというような難しいことが凡夫にどうしてできましょうか》
一声の念仏の功徳によってすべての罪障を断つことができるのだろうか。
答えていう。さまざまな大乗の経典によって、念仏三昧の功徳が思いはかることのできないすぐれたものであることを明かにしよう。
・もし人が菩提心をもって念仏三昧を修めたなら、すべての煩悩、すべての罪の障りはことごとく断たれ滅する。
・もし人が菩提心をもって念仏三昧を行じたなら、すべての悪魔や障害も妨げることができない。
・たとえば人が身体を見えなくする薬を用いてさまざまなところを歩き回っても、他の人々はこの人を見ることができない。もし人が菩提心をもって念仏三昧を行じたなら、すべての悪神や障りもこの人を見ることはできないし、さまたげれられることはない。なぜなら念仏三昧はすべての三昧の中の王だからである。
・《大智度論》に《他のさまざまな三昧には、たとえば貪欲だけを除いて瞋恚や愚痴を除くことができない三昧、瞋恚だけを除いて愚痴や貪欲を除けない三昧もあり、あるいは現在の罪障だけを除いて、過去や未来のすべての罪障を除くことができない三昧があるが、もし常に念仏三昧を修めたなら、現在・過去・未来を問わずすべての障りごとが除かれる。》と説かれている。
・《讃阿弥陀仏偈》には、「……たとえ三千大千世界に火が満ち満ちていても、その中をひるまずに進んでゆき、阿弥陀仏の名号を聞くがよい。仏の名号を聞けば、不退転の位に至る。だからこころをこめて礼拝したてまつる」とある。
また。目連所聞経も引かれた上、
「《お釈迦さまが目連に説かれた…・・無量寿仏の国は往生しやすくさとりやすいのに、人々は念仏の行を修めて往生するということができない。かえって九十五種の邪道につかえている。わたしはこのような人を目無し人といい、真実を聞く耳が無い人という。…・・》
経典には既にこのように説かれている。どうして難行道を捨てて易行道によらないのであろうか」
安楽集は、上下二巻、十二大門より構成され、上巻(第一大門〜第三大門)において《釈迦入滅後の第四の五百年にあたる今こそ仏の名号を称すべき時である。》と時機相応の教えは念仏三昧であるとされている。
親鸞聖人はこの要点を教行信証に引かれたのであり、そして正信偈に「唯明浄土可通入万善自力貶勤修円満徳号勧専称…・・」と讃嘆されたことである。
 
 

 

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