平家物語

平家物語 / 巻1・巻2巻3巻4巻5巻6巻7巻8巻9巻10巻11巻12灌頂巻
平徳子[建礼門院]
 

雑学の世界・補考

平家物語

鎌倉時代に成立したと思われる、平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。
保元の乱・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。平易で流麗な名文として知られ、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しをはじめとして、広く知られている。
成り立ち
平家物語という題名は後年の呼称であり、当初は『保元物語』や『平治物語』と同様に、合戦が本格化した治承(元号)年間より『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたと推測されているが、確証はない。正確な成立時期は分かっていないものの、仁治元年(1240年)に藤原定家によって書写された『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に「治承物語六巻号平家候間、書写候也」とあるため、それ以前に成立したと考えられている。しかし、「治承物語」が現存の平家物語にあたるかという問題も残り、確実ということはできない。少なくとも延慶本の本奥書、延慶2年(1309年)以前には成立していたものと考えられている。また文中にしばしば「方丈記」からの引用が見られるから方丈記執筆の建暦2年(1212)以後に成立したことも確実である。
作者
作者については古来多くの説がある。最古のものは鎌倉末期に成立した吉田兼好の『徒然草』で、信濃前司行長(しなののぜんじ ゆきなが)なる人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたとする記述がある。
「後鳥羽院の御時、信濃前司行長稽古の譽ありけるが(中略)この行長入道平家物語を作りて、生佛といひける盲目に教へて語らせけり。」(徒然草226段)
その他にも、生仏が東国出身であったので、武士のことや戦の話は生仏自身が直接武士に尋ねて記録したことや、更には生仏と後世の琵琶法師との関連まで述べているなど、その記述は実に詳細である。
この信濃前司行長なる人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫である下野守藤原行長ではないかと推定されている。また、『尊卑分脈』や『醍醐雑抄』『平家物語補闕剣巻』では、やはり顕時の孫にあたる葉室時長(はむろときなが、藤原氏)が作者であるとされている。尚、藤原行長とする説では「信濃前司は下野前司の誤り」としているが、徒然草では同人を「信濃入道」とも記している(信濃前司行長=信濃入道=行長入道)。
そのため信濃に縁のある人物として、親鸞の高弟で法然門下の西仏という僧とする説がある。この西仏は、大谷本願寺や康楽寺(長野県篠ノ井塩崎)の縁起によると、信濃国の名族滋野氏の流れを汲む海野小太郎幸親の息子で幸長(または通広)とされており、大夫坊覚明の名で木曾義仲の軍師として、この平家物語にも登場する人物である。ただし、海野幸長・覚明・西仏を同一人物とする説は伝承のみで、史料的な裏付けはない。
諸本
現存している諸本は、つぎの二系統に分けられる。
盲目の僧として知られる琵琶法師(当道座に属する盲人音楽家。検校など)が日本各地を巡って口承で伝承してきた語り本(語り系、当道系とも)の系統に属するもの
読み物として増補された読み本(増補系、非当道系とも)系統のもの
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
遠くの異朝をとぶらえば、普の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐の禄山、これらは皆、旧主先皇の政にも従はず、楽しみを極め、諫めをも思ひ入れず、天下の乱れんことを悟らずして、民間の愁ふるところを知らざつしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。
近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらはおごれる心もたけきことも、皆とりどりにこそありしかども、間近くは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人のありさま、伝え承るこそ、心も詞も及ばれね。  
語り本系
語り本系は八坂流系(城方本)と一方(都方)流系(覚一本)とに分けられる。八坂流系諸本は、平家四代の滅亡に終わる、いわゆる「断絶平家」十二巻本である。一方、一方流系諸本は壇ノ浦で海に身を投げながら助けられ、出家した建礼門院による念仏三昧の後日談や侍女の悲恋の物語である「灌頂巻」の付加に特徴がある。
平曲
語り本は当道座に属する盲目の琵琶法師によって琵琶を弾きながら語られた。これを「平曲」と呼ぶ。ここでいう「語る」とは、節を付けて歌うことであるが、内容が叙事的なので「歌う」と言わずに「語る」というのである。これに使われる琵琶を平家琵琶と呼び、構造は楽琵琶と同じで、小型のものが多く用いられる。なお、近世以降に成立した薩摩琵琶や筑前琵琶でも平家物語に取材した曲が多数作曲されているが、音楽的にはまったく別のもので、これらを平曲とは呼ばない。
平曲の流派としては当初は八坂流(伝承者は「城」の字を継承)と一方流(伝承者は「一」の字を継承)の2流が存したが、八坂流は早くに衰え、現在ではわずかに「訪月(つきみ)」の一句が伝えられているのみである。一方流は江戸時代に前田流と波多野流に分かれたが、波多野流は当初からふるわず、前田流のみ栄えた。安永5年(1776年)には名人と謳われた荻野検校(荻野知一検校)が前田流譜本を集大成して「平家正節(へいけまぶし)」を完成、以後同書が前田流の定本となった。
明治維新後は幕府の庇護を離れた当道座が解体したために伝承する者も激減し、昭和期には仙台に館山甲午(1894年生〜1989年没)、名古屋に荻野検校の流れを汲む井野川幸次・三品正保・土居崎正富の3検校だけだったが平成20年現在では三品検校の弟子今井某が生存しているだけである。しかも全段を語れるのは晴眼者であった館山のみとなっていた。平曲は国の選択無形文化財に選択されて保護の対象となっており、それぞれの弟子が師の芸を伝承している。
平曲の発生として、東大寺大仏殿の開眼供養の盲目僧まで遡ることが「日本芸能史」等で説かれているが、平曲の音階・譜割から、天台宗大原流の声明の影響下に発生したものと考える説が妥当と判断される。また、平曲は娯楽目的ではなく、鎮魂の目的で語られたということが本願寺の日記などで考証されている。 また後世の音楽、芸能に取り入れられていることも多く、ことに能(修羅物)には平家物語に取材した演目が多い。
読み本系
読み本系には、延慶本、長門本、源平盛衰記などの諸本がある。従来は、琵琶法師によって広められた語り本系を読み物として見せるために加筆されていったと解釈されてきたが、近年は読み本系(ことに延慶本)の方が語り本系よりも古態を存するという見解の方が有力となってきている。とはいえ、読み本系の方が語り本系に比べて事実を正確に伝えているかどうかは別の問題である。広本系と略本系の関係についても、先後関係は諸説あって不明のままであるが、読み本系の中では略本系が語り本と最も近い関係にあることは、源平闘諍録の本文中に平曲の曲節に相当する「中音」「初重」が記されていることからも確実視されている。  
 
平家物語 巻一

 

祇園精舎 (ぎをんしやうじや)
祇園精舎(ぎをんしやうじや)の鐘(かね)の声(こゑ)、諸行無常(しよぎやうむじやう)の響(ひびき)あり。娑羅双樹(しやらさうじゆ)の花(はな)の色(いろ)、盛者必衰(じやうしやひつすい)のことはり(ことわり)をあらはす。おごれる人(ひと)も久(ひさ)しからず。只(ただ)春(はる)の夜(よ)の夢(ゆめ)のごとし。たけき者(もの)も遂(つひ・つゐ)にはほろびぬ、偏(ひとへ)に風(かぜ)の前(まへ)の塵(ちり)に同(おな)じ。遠(とほ・とを)く異朝(いてう)をとぶらへば、秦(しん)の趙高(てうかう)、漢(かん)の王莽(わうまう)、梁(りやう)の周伊(しうい)、唐(たう)の禄山(ろくさん)、是等(これら)は皆(みな)旧主(きうしゆ)先皇(せんくわう)の政(まつりごと)にもしたがはず、楽(たのし)みをきはめ、諫(いさめ)をもおもひいれず、天下(てんが)のみだれむ事(こと)をさとらずして、民間(みんかん)の愁(うれふ)る所(ところ)をしらざ(ッ)しかば、久(ひさ)しからずして、亡(ばう)じにし者(もの)どもなり。
近(ちか)く本朝(ほんてう)をうかがふに、承平(しようへい・せうへい)の将門(まさかど)、天慶(てんぎやう)の純友(すみとも)、康和(かうわ)の義親(ぎしん)、平治(へいぢ)の信頼(しんらい)、おごれる心(こころ)もたけき事(こと)も、皆(みな)とりどりにこそありしかども、まぢかくは、六波羅(ろくはら)の入道(にふだう・にうだう)前太政大臣(さきのだいじやうだいじん)平(たひらの・たいらの)朝臣(あそん)清盛公(きよもりこう)と申(まうし)し人(ひと)のありさま、伝承(つたへうけたまは)るこそ心(こころ)も詞(ことば)も及(およ・をよ)ばれね。
其(その)先祖(せんぞ)を尋(たづ)ぬれば、桓武天皇(くわんむてんわう)第五(だいご)の皇子(わうじ)、一品式部卿(いつぽんしきぶきやう)葛原親王(かづらはらのしんわう)九代(くだい)の後胤(こういん・こうゐん)、讃岐守(さぬきのかみ)正盛(まさもり)が孫(まご)、刑部卿(ぎやうぶきやう)忠盛(ただもりの)朝臣(あそん)の嫡男(ちやくなん)なり。彼(かの)親王(しんわう)の御子(みこ)高視(たかみ)の王(わう)、無官(むくわん)無位(むゐ)にしてうせ給(たまひ)ぬ。其(その)御子(みこ)高望(たかもち)の王(わう)の時(とき)、始(はじめ)て平(たひら・たいら)の姓(しやう)を給(たまはつ)て、上総介(かづさのすけ)になり給(たまひ)しより、忽(たちまち)に王氏(わうし)を出(いで)て人臣(じんしん)につらなる。其(その)子(こ)鎮守府将軍(ちんじゆふのしやうぐん)義茂(よしもち)、後(のち)には国香(くにか)とあらたむ。国香(くにか)より正盛(まさもり)にいたるまで、六代(ろくだい)は諸国(しよこく)の受領(じゆりやう)たりしかども、殿上(てんじやう)の仙籍(せんせき・せんセキ)をばいまだゆるされず。
殿上闇討 (てんじやうのやみうち)

 

しかるを忠盛(ただもり)備前守(びぜんのかみ)たりし時(とき)、鳥羽院(とばのゐん・とばのいん)の御願(ごぐわん)得長寿院(とくぢやうじゆゐん・とくぢやうじゆいん)を造進(ざうしん)して、三十三間(さんじふさんげん)の御堂(みだう)をたて、一千一体(いつせんいつたい)の御仏(おんほとけ)をすへ(すゑ)奉(たてまつ)る。供養(くやう)は天承(てんしよう・てんせう)元年(ぐわんねん)三月(さんぐわつ)十三日(じふさんにち)なり。
勧賞(けんじやう)には闕国(けつこく)を給(たま)ふべき由(よし)仰下(おほせくだ)されける。
境節(をりふし・おりふし)但馬国(たじまのくに)のあきたりけるを給(たび)にけり。上皇(しやうくわう)御感(ぎよかん)のあまりに内(うち)の昇殿(しようでん・せうでん)をゆるさる。忠盛(ただもり)三十六(さんじふろく)にて始(はじめ)て昇殿(しようでん・せうでん)す。雲(くも)の上人(うへびと)是(これ)を猜(そね)み、同(おなじ)き年(とし)の十二月(じふにぐわつ)廿三日(にじふさんにち)、五節豊明(ごせつとよのあかり)の節会(せちゑ)の夜(よ)、忠盛(ただもり)を闇打(やみうち)にせむとぞ擬(ぎ)せられける。忠盛(ただもり)是(これ)を伝聞(つたへきき)て、「われ右筆(いうひつ・ゆうひつ)の身(み)にあらず、武勇(ぶよう)の家(いへ)にむまれて、今(いま)不慮(ふりよ)の恥(はぢ)にあはむ事(こと)、家(いへ)の為(ため)身(み)の為(ため)心(こころ)うかるべし。せむずる(せんずる)所(ところ)、身(み)を全(まつたう・ま(ツ)たふ)して君(きみ)に仕(つかふ)といふ本文(ほんもん)あり」とて、兼(かね)て用意(ようい)をいたす。
参内(さんだい)のはじめより、大(おほき)なる鞘巻(さやまき)を用意(ようい)して、束帯(そくたい)のしたにしどけなげにさし、火(ひ)のほのぐらき方(かた)にむか(ッ)て、やはら此(この)刀(かたな)をぬき出(いだ)し、鬢(びん)にひきあてられけるが氷(こほり)な(ン)どの様(やう)にぞみえける。諸人(しよにん)目(め)をすましけり。其上(そのうへ)忠盛(ただもり)の郎等(らうどう)、もとは一門(いちもん)たりし木工助(むくのすけ)平貞光(たひらのさだみつ・たいらのさだみつ)が孫(まご)、しんの三郎大夫(さぶらうだいふ・さぶらふだゆう)家房(いへふさ)が子(こ)、左兵衛尉(さひやうゑのじよう・さひやうゑのぜう)家貞(いへさだ)といふ者(もの)ありけり。薄青(うすあを)のかり衣(ぎぬ)のしたに萠黄威(もよぎをどし・もよぎおどし)の腹巻(はらまき)をき、弦袋(つるぶくろ)つけたる太刀(たち)脇(わき)ばさむ(ばさん)で、殿上(てんじやう)の小庭(こには)に畏(かしこまつ)てぞ候(さうらひ・さふらひ)ける。
貫首(くわんじゆ)以下(いげ)あやしみをなし、「うつほ柱(ばしら)よりうち、鈴(すず)の綱(つな)のへんに、布衣(ほうい)の者(もの)の候(さうらふ)はなに者(もの)ぞ。狼籍(らうぜき)なり。罷出(まかりいで)よ」と六位(ろくゐ)をも(ッ)ていはせければ、家貞(いへさだ)申(まうし)けるは、「相伝(さうでん)の主(しゆう・しう)、備前守殿(びぜんのかみのとの)、今夜(こよひ)闇打(やみうち)にせられ給(たまふ)べき由(よし)承(うけたまはり)候(さうらふ)あひだ、其(その)ならむ様(やう)をみむとて、かくて候(さうらふ・さふらふ)。えこそ罷出(まかりいづ)まじけれ」とて、畏(かしこまつ)て候(さうらひ)ければ、是等(これら)をよしなしとやおもはれけむ、其(その)夜(よ)の闇打(やみうち)なかりけり。
忠盛(ただもり)御前(ごぜん)のめしにまはれければ、人々(ひとびと)拍子(ひやうし)をかへて、「伊勢平氏(いせへいじ)はすがめなりけり」とぞはやされける。此(この)人々(ひとびと)はかけまくもかたじけなく、柏原天皇(かしはばらのてんわう)の御末(おんすゑ)とは申(まうし)ながら、中比(なかごろ)は都(みやこ)のすまゐ(すまひ)もうとうとしく、地下(ぢげ)にのみ振舞(ふるまひ・ふるまい)な(ッ)て、いせの国(くに)に住国(ぢゆうこく・ぢうこく)ふかかりしかば、其(その)国(くに)のうつはものに事(こと)よせて、伊勢平氏(いせへいじ)とぞ申(まうし)ける。其上(そのうへ)忠盛(ただもり)目(め)のすがまれたりければ、か様(やう)にははやされけり。いかにすべき様(やう)もなくして、御遊(ぎよいう・ぎよゆふ)もいまだをはらざるに、偸(ひそか)に罷出(まかりいで)らるるとて、よこだへさされたりける刀(かたな)をば、紫震殿(ししんでん)の御後(ごご)にして、かたえ(かたへ)の殿上人(てんじやうびと)のみられける所(ところ)に、主殿司(とのもづかさ)をめしてあづけをき(おき)てぞ出(いで)られける。
家貞(いへさだ)待(まち)うけたてま(ッ)て、「さていかが候(さうらひ・さふらひ)つる」と申(まうし)ければ、かくともいはまほしう思(おも)はれけれども、いひつるものならば、殿上(てんじやう)までもやがてきりのぼらむずる者(もの)にてある間(あひだ・あいだ)、別(べち)の事(こと)なし」とぞ答(こたへ)られける。五節(ごせち)には、「白薄様(しろうすやう)、こぜむじ(こぜんじ)の紙(かみ)、巻上(まきあげ)の筆(ふで)、鞆絵(ともゑ)かいたる筆(ふで)の軸(ぢく)」なむど、さまざま面白(おもしろき)事(こと)をのみこそうたひまはるるに、中比(なかごろ)太宰権帥(ださいのごんのそつ)季仲卿(すゑなかのきやう)といふ人(ひと)ありけり。あまりに色(いろ)の黒(くろ)かりければ、みる人(ひと)黒帥(こくそつ)とぞ申(まうし・もうし)ける。
其(その)人(ひと)いまだ蔵人頭(くらんどのとう)なりし時(とき)、五節(ごせち)にまはれければ、それも拍子(ひやうし)をかへて、「あなくろぐろ、くろき頭(とう)かな。いかなる人(ひと)のうるしぬりけむ」とぞはやされける。又(また)花山院(くわさんのゐんの)前太政大臣(さきのだいじやうだいじん)忠雅(ただまさ)公(こう)、いまだ十歳(じつさい)と申(まうし)し時(とき)、父(ちち)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)忠宗卿(ただむねのきやう)にをく(おく)れたてま(ッ)て、みなし子(ご)にておはしけるを、故中御門(こなかのみかどの)藤中納言(とうぢゆうなごん・とうぢうなごん)家成卿(いへなりのきやう)、いまだ播磨守(はりまのかみ)たりし時(とき)、聟(むこ)にとりて声花(はなやか)にもてなされければ、それも五節(ごせち)に、「播磨(はりま)よねはとくさか、むくの葉(は)か、人(ひと)のきらをみがくは」とぞはやされける。
「上古(しやうこ)にはか様(やう)にありしかども事(こと)いでこず、末代(まつだい)いかがあらむずらむ。おぼつかなし」とぞ人(ひと)申(まうし)ける。案(あん)のごとく、五節(ごせち)はてにしかば、殿上人(てんじやうびと)一同(いちどう)に申(まう)されけるは、「夫(それ)雄剣(ゆうけん)を帯(たい)して公宴(こうえん)に列(れつ)し、兵杖(ひやうぢやう)を給(たまはり)て宮中(きゆうちゆう・きうちう)を出入(しゆつにふ・しゆつにう)するは、みな格式(かくしき)の礼(れい)をまもる。綸命(りんめい)よしある先規(せんぎ)なり。然(しかる)を忠盛(ただもりの)朝臣(あそん)、或(あるい)は相伝(さうでん)の郎従(らうじゆう・らうじう)と号(かう)して、布衣(ほうい)の兵(つはもの)を殿上(てんじやう)の小庭(こには)にめしをき(おき)、或(あるい)は腰(こし)の刀(かたな)を横(よこだ)へさいて、節会(せちゑ)の座(ざ)につらなる。
両条(りやうでう)希代(きたい)いまだきかざる狼籍(らうぜき)なり。事(こと)既(すで)に重畳(ちようでふ・てうでう)せり、罪科(ざいくわ)尤(もつとも)のがれがたし。早(はや)く御札(みふだ)をけづ(ッ)て、闕官(けつくわん)停任(ちやうにん)ぜらるべき」由(よし)、をのをの(おのおの)訴(うつた)へ申(まう)されければ、上皇(しやうくわう)大(おほき)に驚(おどろき・をどろき)おぼしめし、忠盛(ただもり)をめして御尋(おんたづね)あり。陳(ちん)じ申(まうし)けるは、「まづ郎従(らうじゆう・らうじう)小庭(こには)に祗候(しこう)の由(よし)、全(まつた)く覚悟(かくご)仕(つかまつら)ず。
但(ただし)近日(きんじつ)人々(ひとびと)あひたくまるる子細(しさい)ある歟(か)の間(あひだ・あいだ)、年来(としごろ)の家人(けにん)事(こと)をつたへきく歟(か)によ(ッ)て、其(その)恥(はぢ)をたすけむが為(ため)に、忠盛(ただもり)にしられずして偸(ひそか)に参候(さんこう・さんかう)の条(でう)、力(ちから)及(およ・をよ)ばざる次第(しだい)也(なり)。若(もし)猶(なほ・なを)其(その)咎(とが)あるべくは、彼(かの)身(み)をめし進(しん)ずべき歟(か)。次(つぎ)に刀(かたな)の事(こと)、主殿司(とのもづかさ)にあづけをき(おき)をは(ン)ぬ(をはんぬ)。是(これ)をめし出(いだ)され、刀(かたな)の実否(じつぷ)について咎(とが)の左右(さう)あるべきか」と申(まうす)。
しかるべしとて、其(その)刀(かたな)を召(めし)出(いだ)して叡覧(えいらん・ゑいらん)あれば、うへは鞘巻(さやまき)の黒(くろ)くぬりたりけるが、なかは木刀(きがたな)に銀薄(ぎんぱく)をぞおしたりける。「当座(たうざ)の恥辱(ちじよく)をのがれむが為(ため)に、刀(かたな)を帯(たい)する由(よし)あらはすといへども後日(ごにち)の訴詔(そしよう・そせう)を存知(ぞんぢ・ぞんじ)して、木刀(きがたな)を帯(たい)しける用意(ようい)のほどこそ神妙(しんべう)なれ。
弓箭(きゆうせん・きうせん)に携(たづさは)らむ者(もの)のはかりことは、尤(もつとも)かうこそあらまほしけれ。兼(かねては)又(また)郎従(らうじゆう・らうじう)小庭(こには)に祇候(しこう・しかう)の条(でう)、且(かつ)は武士(ぶし)の郎等(らうどう)の習(ならひ)なり。忠盛(ただもり)が咎(とが)にあらず」とて、還(かへつ)て叡感(えいかん・ゑいかん)にあづか(ッ)しうへは、敢(あへ)て罪科(ざいくわ)の沙汰(さた)もなかりけり。  
鱸 (すずき) 

 

其(その)子(こ)ども、諸衛(しよゑ)の佐(すけ)になる。昇殿(しようでん・せうでん)せしに、殿上(てんじやう)のまじはりを人(ひと)きらふに及(およ・をよ)ばず。其比(そのころ)忠盛(ただもり)、備前国(びぜんのくに)より都(みやこ)へのぼりたりけるに、鳥羽院(とばのゐん)「明石浦(あかしのうら)はいかに」と、尋(たづね)ありければ、
あり明(あけ)の月(つき)も明石(あかし)の浦風(うらかぜ)に浪(なみ)ばかりこそよるとみえしか
と申(まうし)たりければ、御感(ぎよかん)ありけり。此(この)歌(うた)は金葉集(きんえふしふ・きんえうしう)にぞ入(いれ)られける。忠盛(ただもり)又(また)仙洞(せんとう)に最愛(さいあい)の女房(にようばう)をも(ッ)てかよはれけるが、ある時(とき)其(その)女房(にようばう)のつぼねに、妻(つま)に月(つき)出(いだ)したる扇(あふぎ)を忘(わすれ)て出(いで)られたりければ、かたえ(かたへ)の女房(にようばう)たち、「是(これ)はいづくよりの月影(つきかげ)ぞや。出(いで)どころおぼつかなし」とわらひあはれければ、彼(かの)女房(にようばう)、
雲井(くもゐ)よりただもりきたる月(つき)なればおぼろけにてはいはじとぞおもふ
とよみたりければ、いとどあさからずぞ思(おも)はれける。
薩摩守(さつまのかみ)忠教(ただのり)の母(はは)是(これ)なり。にるを友(とも)とかやの風情(ふぜい)に、忠盛(ただもり)もすいたりければ、彼(かの)女房(にようばう)もゆう(いう)なりけり。かくて忠盛(ただもり)刑部卿(ぎやうぶのきやう)にな(ッ)て、仁平(にんぺい)三年(さんねん)正月(しやうぐわつ)十五日(じふごにち)、歳(とし)五十八(ごじふはち)にてうせにき。清盛(きよもり)嫡男(ちやくなん)たるによ(ッ)て、其(その)跡(あと)をつぐ。保元(ほうげん)元年(ぐわんねん・ぐはんねん)七月(しちぐわつ)に宇治(うぢ)の左府(さふ)代(よ)をみだり給(たまひ)し時(とき)、安芸守(あきのかみ)とて御方(みかた)にて勲功(くんこう)ありしかば、播磨守(はりまのかみ)にうつ(ッ)て、同(おなじき)三年(さんねん)太宰大弐(ださいのだいに)になる。次(つぎ)に平治(へいぢ)元年(ぐわんねん)十二月(じふにぐわつ)、信頼卿(のぶよりのきやう)が謀叛(むほん)の時(とき)、御方(みかた)にて賊徒(ぞくと)をうちたいら(たひら)げ、勲功(くんこう)一(ひとつ)にあらず、恩賞(おんしやう)是(これ)おもかるべしとて、次(つぎ)の年(とし)正三位(じやうざんみ)に叙(じよ)せられ、うちつづき宰相(さいしやう)、衛府督(ゑふのかみ)、検非違使別当(けんびゐしのべつたう・けんびいしのべつたう)、中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)、大納言(だいなごん)に経(へ)あが(ッ)て、剰(あまつさ)へ烝相(しようじやう・せうじやう)の位(くらゐ)にいたる。
左右(さう)を経(へ)ずして内大臣(ないだいじん)より太政大臣(だいじやうだいじん)従一位(じゆいちゐ)にあがる。大将(だいしやう)にあらねども、兵杖(ひやうぢやう)を給(たまはつ)て随身(ずいじん)をめし具(ぐ)す。牛車(ぎつしや)輦車(れんじや)の宣旨(せんじ)を蒙(かうぶつ)て、のりながら宮中(きゆうちゆう・きうちう)を出入(しゆつにふ・しゆつにう)す。偏(ひとへ)に執政(しつせい)の臣(しん)のごとし。「太政大臣(だいじやうだいじん)は一人(いちじん)に師範(しはん)として、四海(しかい)に儀(ぎ)けいせり。国(くに)ををさめ道(みち)を論(ろん)じ、陰陽(いんやう・ゐんやう)をやはらげおさむ(をさむ)。其(その)人(ひと)にあらずは則(すなはち)かけよ」といへり。されば即闕(そくけつ)の官(くわん)とも名付(なづけ)たり。其(その)人(ひと)ならではけがすべき官(くわん・くはん)ならねども、一天(いつてん)四海(しかい)を掌(たなごころ)の内(うち)ににぎられしうへは、子細(しさい)に及(およ・をよ)ばず。
平家(へいけ)か様(やう)に繁昌(はんじやう)せられけるも、熊野権現(くまののごんげん)の御利生(ごりしやう)とぞきこえし。其(その)故(ゆゑ・ゆへ)は、古(いにし)へ清盛公(きよもりこう・きよもりかう)いまだ安芸守(あきのかみ)たりし時(とき)、伊勢(いせ)の海(うみ)より船(ふね)にて熊野(くまの)へまい(まゐ)られけるに、おほきなる鱸(すずき)の船(ふね)に踊入(をどりいり・おどりいり)たりけるを、先達(せんだち)申(まうし)けるは、「是(これ)は権現(ごんげん)の御利生(ごりしやう)也(なり)。いそぎまい(まゐ)るべし」と申(まうし)ければ、清盛(きよもり)のたまひけるは、「昔(むかし)、周(しう)の武王(ぶわう)の船(ふね)にこそ白魚(はくぎよ)は躍入(をどりいり・おどりいり)たりけるなれ。是(これ)吉事(きちじ)なり」とて、さばかり十戒(じつかい)をたもち、精進潔斎(しやうじんけつさい)の道(みち)なれども、調味(てうみ)して家子侍共(いへのこさぶらひども)にくはせられけり。其(その)故(ゆゑ・ゆへ)にや、吉事(きちじ)のみうちつづいて、太政大臣(だいじやうだいじん)まできはめ給(たま)へり。子孫(しそん)の官途(くわんど・くはんど)も竜(りよう・れう)の雲(くも)に昇(のぼ)るよりは猶(なほ・なを)すみやかなり。九代(くだい)の先蹤(せんじよう・せんじやう)をこえ給(たま)ふこそ目出(めでた)けれ。 
禿髪 (かぶろ) 

 

かくて清盛(きよもり)公(こう)、仁安(にんあん)三年(さんねん)十一月(じふいちぐわつ)十一日(じふいちにち)、年(とし)五十一(ごじふいち)にてやまひにをかされ、存命(ぞんめい)の為(ため)に忽(たちまち)に出家入道(しゆつけにふだう・しゆつけにうだう)す。法名(ほふみやう・ほうめい)は浄海(じやうかい)とこそ名(な)のられけれ。其(その)しるしにや、宿病(しゆくびやう)たちどころにいへ(いえ)て、天命(てんめい)を全(まつたう)す。人(ひと)のしたがひつく事(こと)、吹(ふく)風(かぜ)の草木(さうもく)をなびかすが如(ごと)し。世(よ)のあまねく仰(あふ)げる事(こと)、ふる雨(あめ)の国土(こくど)をうるほすに同(おな)じ。
六波羅殿(ろくはらどの)の御一家(ごいつか)の君達(きんだち)といひて(ン)しかば、花族(くわそく)も栄耀(えいゆう・ゑいゆう)も面(おもて)をむかへ肩(かた)をならぶる人(ひと)なし。されば入道相国(にふだうしやうこく・にうだうしやうこく)のこじうと、平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)ののたまひけるは、「此(この)一門(いちもん)にあらざらむ人(ひと)は皆(みな)人非人(にんぴにん)なるべし」とぞのたまひける。かかりしかば、いかなる人(ひと)も相構(あひかまへ)て其(その)ゆかりにむすぼほれむとぞしける。衣文(えもん・ゑもん)のかきやう、鳥帽子(えぼし・ゑぼし)のためやうよりはじめて、何事(なにごと)も六波羅様(ろくはらやう)といひて(ン)げれば、一天四海(いつてんしかい)の人(ひと)皆(みな)是(これ)をまなぶ。又(また)いかなる賢王(けんわう)賢主(けんじゆ)の御政(おんまつりごと)も、摂政(せつしやう)関白(くわんばく・くはんばく)の御成敗(ごせいばい)も、世(よ)にあまされたるいたづら者(もの)な(ン)どの、人(ひと)のきかぬ所(ところ)にて、なにとなうそしり傾(かたぶ)け申(まうす)事(こと)はつねの習(ならひ)なれども、此(この)禅門(ぜんもん)世(よ)ざかりのほどは、聊(いささか)いるかせにも申(まうす)者(もの)なし。
其(その)故(ゆゑ・ゆへ)は、入道相国(にふだうしやうこく・にうだうしやうこく)のはかりことに、十四五六(じふしごろく)の童部(わらはべ)を三百人(さんびやくにん)揃(そろへ)て、髪(かみ)を禿(かぶろ)にきりまはし、あかき直垂(ひたたれ)をきせて、めしつかはれけるが、京中(きやうぢゆう・きやうぢう)にみちみちて往反(わうへん)しけり。をのづから(おのづから)平家(へいけ)の事(こと)あしざまに申(まうす)者(もの)あれば、一人(いちにん)きき出(いだ)さぬほどこそありけれ、余党(よたう)に触廻(ふれまは)して其(その)家(いへ)に乱入(らんにふ・らんにう)し、資財(しざい)雑具(ざふぐ・ざうぐ)を追捕(ついほ)し、其(その)奴(やつご)を搦(からめ)と(ッ)て、六波羅(ろくはら)へゐてまい(まゐ)る。されば目(め)にみ、心(こころ)にしるといへども、詞(ことば)にあらはれて申(まうす)者(もの)なし。六波羅殿(ろくはらどの)の禿(かぶろ)といひて(ン)しかば、道(みち)をすぐる馬(むま)・車(くるま)もよぎてぞとほりける。
禁門(きんもん)を出入(しゆつにふ・しゆつにう)すといへども姓名(せいめい)を尋(たづね)らるるに及(およ・をよ)ばず京師(けいし・ケイシ)の長吏(ちやうり)是(これ)が為(ため)に目(め)を側(そばむ・ソバム)とみえたり。 
吾身栄花 (わがみのえいぐわ) 

 

吾身(わがみ)の栄花(えいぐわ・ゑいぐわ)を極(きはむ)るのみならず、一門(いちもん)共(とも)に繁昌(はんじやう)して、嫡子(ちやくし)重盛(しげもり)、内大臣(ないだいじん)の左大将(さだいしやう)、次男(じなん)宗盛(むねもり)、中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)の右大将(うだいしやう)、三男(さんなん)具盛(とももり)、三位中将(さんみのちゆうじやう・さんみのちうじやう)、嫡孫(ちやくそん)維盛(これもり)、四位少将(しゐのせうしやう)、惣(そう)じて一門(いちもん)の公卿(くぎやう)十六人(じふろくにん)、殿上人(てんじやうびと)卅(さんじふ)余人(よにん)、諸国(しよこく)の受領(じゆりやう・じゆれう)、衛府(ゑふ)、諸司(しよし)、都合(つがふ・つがう)六十(ろくじふ)余人(よにん)なり。世(よ)には又(また)人(ひと)なくぞみえられける。昔(むかし)奈良御門(ならのみかど)の御時(おんとき)、神亀(じんき)五年(ごねん)、朝家(てうか)に中衛(ちゆうゑ・ちうゑ)の大将(だいしやう)をはじめをか(おか)れ、大同(だいどう)四年(しねん)に中衛(ちゆうゑ・ちうゑ)を近衛(こんゑ)と改(あらため)られしより以降(このかた)、兄弟(けいてい)左右(さう)に相並(あひならぶ)事(こと)纔(わづか)に三四箇度(さんしかど)なり。
文徳天皇(もんどくてんわう)の御時(おんとき)は、左(ひだり)に良房(よしふさ)、右大臣(うだいじん)の左大将(さだいしやう)、右(みぎ)に良相(よしすけ)、大納言(だいなごん)の右大将(うだいしやう)、是(これ)は閑院(かんゐん)の左大臣(さだいじん)冬嗣(ふゆつぎ)の御子(おんこ)なり。朱雀院(しゆしやくゐん)の御宇(ぎよう)には、左(ひだり)に実頼(さねより)小野宮殿(をののみやどの)、右(みぎ)に師資(もろすけ)九条殿(くでうどの)、貞仁(ていじん)公(こう)の御子(おんこ)なり。後冷泉院(ごれんぜいのゐん)の御時(おんとき)は、左(ひだり)に教通(のりみち)大二条殿(おほにでうどの)、右(みぎ)に頼宗(よりむね)堀河殿(ほりかはどの)、御堂(みだう)の関白(くわんばく・くはんばく)の御子(おんこ)なり。二条院(にでうのゐんの)御宇(ぎよう)には、左(ひだり)に基房(もとふさ)松殿(まつどの)、右(みぎ)に兼実(かねざね)月輪殿(つきのわどの)、法性寺殿(ほふしやうじどの・ほうしやうじどの)の御子(おんこ)なり。是(これ)皆(みな)摂禄(せつろく)の臣(しん)の御子息(ごしそく)、凡人(ぼんにん)にとりては其(その)例(れい)なし。殿上(てんじやう)の交(まじはり)をだにきらはれし人(ひと)の子孫(しそん)にて、禁色雑袍(きんじきざつぱう)をゆり、綾羅錦繍(りようらきんしう・れうらきんしう)を身(み)にまとひ、大臣(だいじん)の大将(だいしやう)にな(ッ)て兄弟(けいてい)左右(さう)に相並(あひならぶ)事(こと)、末代(まつだい)とはいひながら不思議(ふしぎ)なりし事(こと)どもなり。其(その)外(ほか)御娘(おんむすめ)八人(はちにん)おはしき。
皆(みな)とりどりに、幸(さいはひ)給(たま)へり。一人(いちにん)は桜町(さくらまち)の中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)重教卿(しげのりのきやう)の北(きた)の方(かた)にておはすべかりしが、八歳(はつさい)の時(とき)約束(やくそく)斗(ばかり)にて、平治(へいぢ・へいじ)のみだれ以後(いご)引(ひき)ちがへられ、花山院(くわさんのゐん)の左大臣殿(さだいじんどの)の御台盤所(みたいはんどころ)にならせ給(たまひ)て、君達(きんだち)あまたましましけり。抑(そもそも)此(この)重教卿(しげのりのきやう)を桜町(さくらまち)の中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)と申(まうし)ける事(こと)は、すぐれて心(こころ)数奇(すき)給(たま)へる人(ひと)にて、つねは吉野山(よしのやま)をこひ、町(まち)に桜(さくら)をうへ(うゑ)ならべ、其(その)内(うち)に屋(や)をたててすみ給(たまひ)しかば、来(く)る年(とし)の春(はる)毎(ごと)にみる人(ひと)桜町(さくらまち)とぞ申(まうし)ける。桜(さくら)はさいて七箇日(しちかにち)にちるを、余波(なごり)を惜(をし・おし)み、あまてる御神(おんがみ)に祈(いの)り申(まう)されければ、三七(さんしち)日(にち)まで余波(なごり)ありけり。
君(きみ)も賢王(けんわう)にてましませば、神(かみ)も神徳(しんとく)を耀(かかや)かし、花(はな)も心(こころ)ありければ、廿日(はつか)の齢(よはひ)をたもちけり。一人(いちにん)は后(きさき)にたたせ給(たま)ふ。王子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)ありて皇太子(くわうたいし)にたち、位(くらゐ)につかせ給(たまひ)しかば、院号(ゐんがう)かうぶらせ給(たまひ)て建礼門院(けんれいもんゐん)とぞ申(まうし)ける。入道相国(にふだうしやうこく・にうだうしやうこく)の御娘(おんむすめ)なるうへ、天下(てんが)の国母(こくも)にてましましければ、とかう申(まうす)に及(およ・をよ)ばず。一人(いちにん)は六条(ろくでう)の摂政殿(せつしやうどの)の北政所(きたのまんどころ)にならせ給(たま)ふ。
高倉院(たかくらのゐん)御在位(ございゐ)の時(とき)、御母代(おんぱはしろ・おんハハシロ)とて准三后(じゆんさんごう)の宣旨(せんじ)をかうぶり、白河殿(しらかはどの)とておもき人(ひと)にてましましけり。一人(いちにん)は普賢寺殿(ふげんじどの)の北政所(きたのまんどころ)にならせ給(たま)ふ。一人(いちにん)は冷泉大納言(れんぜいのだいなごん)隆房卿(たかふさのきやう)の北方(きたのかた)、一人(いちにん)は七条修理大夫(しつでうのしゆりのだいぶ)信隆卿(のぶたかのきやう)に相具(あひぐ)し給(たま)へり。又(また)安芸国(あきのくに)厳島(いつくしま)の内侍(ないし)が腹(はら)に一人(いちにん)おはせしは、後白河法皇(ごしらかはのほふわう・ごしらかはのほうわう)へまい(まゐ)らせ給(たまひ)て、女御(にようご)のやうでましましける。
其(その)外(ほか)九条院(くでうのゐん)の雑仕(ざふし・ざうし)常葉(ときは)が腹(はら)に一人(いちにん)、是(これ)は花山院殿(くわさんのゐんどの)に上臈女房(じやうらうにようばう)にて、廊(らう)の御方(おんかた)とぞ申(まうし)ける。
日本秋津島(につぽんあきつしま)は纔(わづか)に六十六箇国(ろくじふろくかこく)、平家知行(へいけちぎやう)の国(くに)卅(さんじふ)余箇国(よかこく)、既(すで)に半国(はんごく)にこえたり。其(その)外(ほか)庄園(しやうゑん・しやうえん)田畠(でんばく)いくらといふ数(かず)を知(しら)ず。綺羅(きら)充満(じゆうまん・じうまん)して、堂上(たうしやう)花(はな)の如(ごと)し。軒騎(けんき)群集(くんじゆ)して、門前(もんぜん)市(いち)をなす。楊州(やうしう)の金(こがね)、荊州(けいしう)の珠(たま)、呉郡(ごきん)の綾(あや)、蜀江(しよくかう・しよくこう)の錦(にしき)、七珍万宝(しつちんまんぼう)一(ひとつ)として闕(かけ)たる事(こと)なし。歌堂舞閣(かたうぶかく)の基(もとゐ・もとひ)、魚竜爵馬(ぎよりようしやくば・ぎよれうしやくば)の翫(もてあそび)もの、恐(おそら)くは帝闕(ていけつ)も仙洞(せんとう)も是(これ)にはすぎじとぞみえし。 
二代后 (にだいのきさき) 

 

昔(むかし)より今(いま)に至(いた)るまで、源平(げんぺい)両氏(りやうし)朝家(てうか)に召(めし)つかはれて、王化(わうくわ・わうクワ)にしたがはず、をのづから(おのづから)朝権(てうけん)をかろむずる(かろんずる)者(もの)には、互(たがひ)にいましめをくはへしかば、代(よ)のみだれもなかりしに、保元(ほうげん)に為義(ためよし)きられ、平治(へいぢ・へいじ)に義朝(よしとも)誅(ちゆう・ちう)せられて後(のち)は、すゑずゑの源氏(げんじ)ども或(あるい・あるひ)は流(なが)され、或(あるい・あるひ)はうしなはれ、今(いま)は平家(へいけ)の一類(いちるい)のみ繁昌(はんじやう)して、頭(かしら)をさし出(いだ)す者(もの)なし。いかならむ末(すゑ)の代(よ)までも何事(なにごと)かあらむとぞみえし。されども、鳥羽院(とばのゐん)御晏駕(ごあんか)の後(のち)は、兵革(へいがく・へいカク)うちつづき、死罪(しざい)・流刑(るけい)・闕官(けつくわん)・停任(ちやうにん)つねにおこなはれて、海内(かいだい・かいタイ)もしづかならず、世間(せけん)もいまだ落居(らくきよ)せず。
就中(なかんづく)に永暦(えいりやく・ゑいりやく)応保(おうほう)の比(ころ)よりして、院(ゐん)の近習者(きんじゆしや)をば内(うち)より御(おん)いましめあり、内(うち)の近習者(きんじゆしや)をば院(ゐん)よりいましめらるる間(あひだ・あいだ)、上下(じやうげ)おそれをののいてやすい心(こころ)もなし。ただ深淵(しんゑん・しんえん)にのぞむ(のぞん)で薄氷(はくひやう)をふむに同(おな)じ。主上(しゆしやう)上皇(しやうくわう・しやうくはう)、父子(ふし)の御(おん)あひだには、何事(なにごと)の御(おん)へだてかあるべきなれども、思(おもひ)のほかの事(こと)どもありけり。是(これ)も世(よ)澆季(げうき)に及(およん・をよん)で、人(ひと)梟悪(けうあく)をさきとする故(ゆゑ・ゆへ)也(なり)。主上(しゆしやう)、院(ゐん)の仰(おほせ)をつねに申(まうし)かへさせおはしましけるなかにも、人(ひと)耳目(じぼく)を驚(おどろ・をどろ)かし、世(よ)も(ッ)て大(おほひ)にかたぶけ申(まうす)事(こと)ありけり。
故近衛院(ここんゑのゐん)の后(きさき)、太皇太后宮(たいくわうたいこうくう・たいくはうたいこうくう)と申(まうし)しは、大炊御門(おほいのみかど)の右大臣(うだいじん)公能公(きんよしこう)の御娘(おんむすめ)也(なり)。先帝(せんてい)にをく(おく)れたてまつらせ給(たまひ)て後(のち)は、九重(ここのへ・ここのえ)の外(ほか)、近衛河原(こんゑかはら)の御所(ごしよ)にぞうつりすませ給(たまひ)ける。さきのきさいの宮(みや)にて、幽(かすか)なる御(おん)ありさまにてわたらせ給(たまひ)しかば、永暦(えいりやく・ゑいりやく)のころほひは、御年(おんとし)廿二三(にじふにさん)にもやならせ給(たまひ)けむ、御(おん)さかりもすこしすぎさせおはしますほどなり。しケれども、天下(てんが)第一(だいいち)の美人(びじん)のきこえましましければ、主上(しゆしやう)色(いろ)にのみそめる御心(おんこころ)にて、偸(ひそか)に行力使(かうりよくし・カウリヨクシ)に詔(ぜう)じて、外宮(ぐわいきゆう・ぐわいきう)にひき求(もと)めしむるに及(およん・をよん)で、此(この)大宮(おほみや)へ御艶書(ごえんしよ)あり。大宮(おほみや)敢(あへ)てきこしめしもいれず。さればひたすらはやほにあらはれて、后(きさき)御入内(ごじゆだい)あるべき由(よし)、右大臣家(うだいじんげ)に宣旨(せんじ)を下(くだ)さる。
此(この)事(こと)天下(てんが)にをいて(おいて)ことなる勝事(せうし)なれば、公卿僉議(くぎやうせんぎ)あり。をのをの(おのおの)意見(いけん)をいふ。「先(まづ)異朝(いてう)の先蹤(せんじよう・せんぜう)をとぶらふに、震旦(しんだん)の則天皇后(そくてんくわうこう)は唐(たう)の太宗(たいそう)のきさき、高宗皇帝(かうそうくわうてい・かうそうくはうてい)の継母(けいぼ)なり。太宗(たいそう)崩御(ほうぎよ)の後(のち)、高宗(かうそう)の后(きさき)にたち給(たま)へる事(こと)あり。是(これ)は異朝(いてう)の先規(せんぎ)たるうへ、別段(べちだん)の事(こと)なり。しかれども吾(わが)朝(てう)には、神武天皇(じんむてんわう)より以降(このかた)人皇(にんわう)七十(しちじふ)余代(よだい)に及(およぶ・をよぶ)まで、いまだ二代(にだい)の后(きさき)にたたせ給(たま)へる例(れい)をきかず」と、諸卿(しよきやう)一同(いちどう)に申(まう)されけり。
上皇(しやうくわう)もしかるべからざる由(よし)、こしらへ申(まう)させ給(たま)へば、主上(しゆしやう)仰(おほせ)なりけるは、「天子(てんし)に父母(ぶも)なし。吾(われ)十善(じふぜん・ぢうぜん)の戒功(かいこう)によ(ッ)て、万乗(ばんじよう・ばんぜう)の宝位(ほうゐ)をたもつ。是(これ)ほどの事(こと)、などか叡慮(えいりよ・ゑいりよ)にまかせざるべき」とて、やがて御入内(ごじゆだい)の日(ひ)、宣下(せんげ)せられけるうへは、力(ちから)及(およ・をよ)ばせ給(たま)はず。大宮(おほみや)かくときこしめされけるより、御涙(おんなみだ)にしづませおはします。先帝(せんてい)にをく(おく)れまい(まゐ)らせにし久寿(きうじゆ)の秋(あき)のはじめ、同(おな)じ野(の)の露(つゆ)ともきえ、家(いへ)をもいで世(よ)をものがれたりせば、かかるうき耳(みみ)をばきかざらましとぞ、御歎(おんなげき)ありける。
父(ちち)のおとどこしらへ申(まう)させ給(たまひ)けるは、「「世(よ)にしたがはざるをも(ッ)て狂人(きやうじん)とす」とみえたり。既(すで)に詔命(ぜうめい)を下(くだ)さる。子細(しさい)を申(まうす)にところなし。ただすみやかにまい(まゐ)らせ給(たまふ)べきなり。もし王子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)ありて、君(きみ)も国母(こくも)といはれ、愚老(ぐらう)も外祖(ぐわいそ)とあふがるべき瑞相(ずいさう)にてもや候(さうらふ)らむ。是(これ)偏(ひとへ)に愚老(ぐらう)をたすけさせおはします御孝行(ごかうかう)の御(おん)いたりなるべし」と申(まう)させ給(たま)へども、御返事(おんぺんじ)もなかりけり。大宮(おほみや)其比(そのころ)なにとなき御手習(おんてならひ)の次(ついで・つゐで)に、
うきふしにしづみもやらでかは竹(たけ)の世(よ)にためしなき名(な)をやながさむ
世(よ)にはいかにしてもれけるやらむ、哀(あはれ)にやさしきためしにぞ、人々(ひとびと)申(まうし)あへりける。既(すで)に御入内(ごじゆだい)の日(ひ)になりしかば、父(ちち)のおとど、供奉(ぐぶ)のかんだちめ、出車(しゆつしや)の儀式(ぎしき)な(ン)ど心(こころ)ことにだしたてまい(まゐ)らせ給(たまひ)けり。大宮(おほみや)ものうき御(おん)いでたちなれば、とみにもたてまつらず。はるかに夜(よ)もふけ、さ夜(よ)もなかばにな(ッ)て後(のち)、御車(おんくるま)にたすけのせられ給(たまひ)けり。御入内(ごじゆだい)の後(のち)は麗景殿(れいけいでん)にぞましましける。ひたすらあさまつりごとをすすめ申(まう)させ給(たま)ふ御(おん)ありさまなり。彼(かの)紫震殿(ししんでん)の皇居(くわうきよ)には、賢聖(げんじやう)の障子(しやうじ)をたてられたり。
伊尹(いいん)・鄭伍倫(ていごりん)・虞世南(ぐせいなん)、太公望(たいこうばう)・角里先生(ろくりせんせい)・李勣(りせき)・司馬(しば)、手(て)なが足(あし)なが・馬形(むまがた)の障子(しやうじ)、鬼(おに)の間(ま)、季将軍(りしやうくん)がすがたをさながらうつせる障子(しやうじ)也(なり)。尾張守(をはりのかみ)小野道風(をののみちかぜ)が、七廻賢聖(しつくわいげんじやう)の障子(しやうじ)とかけるもことはり(ことわり)とぞみえし。彼(かの)清凉殿(せいりやうでん)の画図(ぐわと・ぐはと)の御障子(みしやうじ)には、昔(むかし)金岡(かなをか)がかきたりし遠山(ゑんざん)のあり明(あけ)の月(つき)もありとかや。故院(こゐん)のいまだ幼主(えうしゆ・ようしゆ)ましましけるそのかみ、なにとなき御手(おんて)まさぐりの次(ついで・つゐで)に、かきくもらかさせ給(たまひ)しが、ありしながらにすこしもたがはぬを御(ご)らむ(らん)じて、先帝(せんてい)の昔(むかし)もや御恋(おんこひ)しくおぼしめされけん、
おもひきやうき身(み)ながらにめぐりきておなじ雲井(くもゐ)の月(つき)をみむとは
其(その)間(あひだ・あいだ)の御(おん)なからへ、いひしらず哀(あはれ)にやさしかりし御事(おんこと)也(なり)。 
額打論 (がくうちろん) 

 

さるほどに、永万(えいまん・ゑいまん)元年(ぐわんねん・ぐはんねん)の春(はる)の比(ころ)より、主上(しゆしやう)御不予(ごふよ)の御事(おんこと)ときこえさせ給(たまひ)しかば、夏(なつ)のはじめになりしかば、事(こと)のほかにおもらせ給(たま)ふ。是(これ)によ(ッ)て、大蔵大輔(おほくらのたいふ・ほくらのたゆふ)伊吉兼盛(いきのかねもり)が娘(むすめ)の腹(はら)に、今上(きんじやう)一宮(いちのみや)の二歳(にさい)にならせ給(たま)ふがましましけるを、太子(たいし)にたてまい(まゐ)らせ給(たま)ふべしときこえし程(ほど)に、同(おなじき)六月(ろくぐわつ)廿五日(にじふごにち)、俄(にはか)に親王(しんわう)の宣旨(せんじ)くだされて、やがて其(その)夜(よ)受禅(じゆぜん)ありしかば、天下(てんが)なにとなうあはて(あわて)たるさまなり。其(その)時(とき)の有職(いうしよく・ゆうしよく)の人々(ひとびと)申(まうし)あはれけるは、本朝(ほんてう)に童体(とうてい)の例(れい)を尋(たづぬ)れば、清和天皇(せいわてんわう)九歳(くさい)にして文徳天皇(もんどくてんわう)の御禅(ごぜん)をうけさせ給(たま)ふ。
是(これ)は彼(かの)周旦(しうたん)の成王(せいわう)にかはり、南面(なんめん)にして一日(いちじつ)万機(ばんき)の政(まつりごと)ををさめ給(たまひ)しに准(なぞら)へて、外祖(ぐわいそ・ぐはいそ)忠仁公(ちゆうじんこう・ちうじんこう)幼主(えうしゆ・ようしゆ)を扶持(ふち)し給(たま)へり。是(これ)ぞ摂政(せつしやう)のはじめなる。
鳥羽院(とばのゐん)五歳(ごさい)、近衛院(こんゑのゐん)三歳(さんざい)にて践祚(せんそ)あり。かれをこそいつしかなりと申(まうし)しに、是(これ)は二歳(にさい)にならせ給(たま)ふ。先例(せんれい)なし。物(もの)さは(さわ)がしともおろかなり。さるほどに、同(おなじき)七月(しちぐわつ)廿七日(にじふしちにち)、上皇(しやうくわう)つゐに(つひに)崩御(ほうぎよ)なりぬ。御歳(おんとし)廿三(にじふさん)、つぼめる花(はな)のちれるがごとし。玉(たま)の簾(すだれ)、錦(にしき)の帳(ちやう)のうち、皆(みな)御涙(おんなみだ)にむせばせ給(たま)ふ。やがて其(その)夜(よ)、香隆寺(かうりゆうじ・かうりうじ)のうしとら、蓮台野(れんだいの)の奥(おく)、船岡山(ふなをかやま)におさめ(をさめ)奉(たてまつ)る。御葬送(ごさうそう)の時(とき)、延暦(えんりやく)・興福(こうぶく)両寺(りやうじ)の大衆(だいしゆ)、額(がく)うち論(ろん)と云(いふ)事(こと)しいだして、互(たがひ)に狼籍(らうぜき)に及(およ・をよ)ぶ。一天(いつてん)の君(きみ)崩御(ほうぎよ)な(ッ)て後(のち)、御墓所(みはかどころ)へわたし奉(たてまつ)る時(とき)の作法(さほう)は、南北(なんぼく)二京(にけい)の大衆(だいしゆ)悉(ことごと)く供奉(ぐぶ)して、御墓所(みはかどころ)のめぐりにわが寺々(てらでら)の額(がく)をうつ事(こと)あり。
まづ聖武天皇(しやうむてんわう)の御願(ごぐわん)、あらそふべき寺(てら)なければ、東大寺(とうだいじ)の額(がく)をうつ。次(つぎ)に淡海公(たんかいこう)の御願(ごぐわん)とて、興福寺(こうぶくじ)の額(がく)をうつ。北京(ほつきやう)には、興福寺(こうぶくじ)にむかへて延暦寺(えんりやくじ)の額(がく)をうつ。次(つぎ)に天武天皇(てんむてんわう)の御願(ごぐわん)、教大和尚(けうだいくわしやう)・智証大師(ちしようだいし)の草創(さうさう)とて、園城寺(をんじやうじ)の額(がく)をうつ。しかるを、山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)いかがおもひけむ、先例(せんれい)を背(そむき)て、東大寺(とうだいじ)の次(つぎ)、興福寺(こうぶくじ)のうへに、延暦寺(えんりやくじ)の額(がく)をうつあひだ、南都(なんと)の大衆(だいしゆ)、とやせまし、かうやせましと僉議(せんぎ)する所(ところ)に、興福寺(こうぶくじ)の西金堂衆(さいこんだうじゆ)、観音房(くわんおんばう・くはんをんばう)・勢至房(せいしばう)とてきこえたる大悪僧(だいあくそう)二人(ににん)ありけり。
観音房(くわんおんばう・くはんをんばう)は黒糸威(くろいとをどし・くろいとおどし)の腹巻(はらまき)に、しら柄(え)の長刀(なぎなた)くきみじかにとり、勢至房(せいしばう)は萠黄威(もえぎをどし・もえぎおどし)の腹巻(はらまき)に、黒漆(こくしつ)の大太刀(おほだち)も(ッ)て、二人(ににん)つ(ッ)と走出(はしりいで)、延暦寺(えんりやくじ)の額(がく)をき(ッ)ておとし、散々(さんざん)に打(うち)わり、「うれしや水(みづ)、なるは滝(たき)の水(みづ)、日(ひ)はてるともたえずとうたへ」とはやしつつ、南都(なんと)の衆徒(しゆと)のなかへぞ入(いり)にける。 
清水寺炎上 (きよみづでらえんしやう) 

 

山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)、狼籍(らうぜき)をいたさば手(て)むかへすべき所(ところ)に、ふかうねらう(ねらふ)方(かた)もやありけむ、ひと詞(ことば)もいださず。御門(みかど)かくれさせ給(たまひ)ては、心(こころ)なき草木(さうもく)までも愁(うれい)たる色(いろ)にてこそあるべきに、此(この)騒動(さうどう)のあさましさに、高(たかき)も賎(いやしき)も、肝(きも)魂(たましひ・たましゐ)をうしな(ッ)て、四方(しはう)へ皆(みな)退散(たいさん)す。同(おなじき)廿九日(にじふくにち)の午剋(むまのこく)斗(ばかり)、山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)緩(おびたたし)う下洛(げらく)すときこえしかば、武士(ぶし)検非違使(けんびゐし・けんびいし)、西坂下(にしざかもと)に、馳向(はせむかつ)て防(ふせき)けれども、事(こと)ともせず、をし(おし)やぶ(ッ)て乱入(らんにふ・らんにう)す。
何者(なにもの)の申出(まうしいだ)したりけるやらむ、「一院(いちゐん)山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)に仰(おほせ)て、平家(へいけ)を追討(ついたう)せらるべし」ときこえしほどに、軍兵(ぐんびやう)内裏(だいり)に参(さん)じて、四方(しはう)の陣頭(ぢんどう)を警固(けいご)す。平氏(へいじ)の一類(いちるい)、皆(みな)六波羅(ろくはら)へ馳集(はせあつま)る。
一院(いちゐん)もいそぎ六波羅(ろくはら)へ御幸(ごかう)なる。清盛公(きよもりこう)其比(そのころ)いまだ大納言(だいなごん)にておはしけるが、大(おほき)に恐(おそ)れさは(さわ)がれけり。小松殿(こまつどの)「なにによ(ッ)てか只今(ただいま)さる事(こと)あるべき」としづめられけれども、上下(じやうげ)ののしりさは(さわ)ぐ事(こと)緩(おびたた)し。山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)、六波羅(ろくはら)へはよせずして、すぞろなる清水寺(せいすいじ)におしよせて、仏閣(ぶつかく)僧坊(そうばう)一宇(いちう)ものこさず焼(やき)はらふ。是(これ)はさんぬる御葬送(ごさうそう)の夜(よ)の会稽(くわいけい)の恥(はぢ)を雪(きよ)めむが為(ため)とぞきこえし。
清水寺(せいすいじ)は興福寺(こうぶくじ)の末寺(まつじ)なるによ(ッ)てなり。清水寺(せいすいじ)やけたりける朝(あした)、「や(ッ)、観音(くわんおん・くはんをん)火坑(くわけう)変成池(へんじやうち)はいかに」と札(ふだ)を書(かき)て、大門(だいもん)の前(まへ)にたてたりければ、次日(つぎのひ)又(また)、「歴劫(りやくこふ・りやくこう)不思議(ふしぎ)力(ちから)及(およ・をよ)ばず」と、かへしの札(ふだ)をぞう(ッ)たりける。衆徒(しゆと)かへりのぼりにければ、一院(いちゐん)六波羅(ろくはら)より還御(くわんぎよ)なる。重盛卿(しげもりのきやう)斗(ばかり)ぞ御(おん)ともにはまい(まゐ)られける。父(ちち)の卿(きやう)はまい(まゐ)られず。
猶(なほ・なを)用心(ようじん)の為(ため)かとぞきこえし。重盛(しげもりの)卿(きやう)御送(おんおくり・おんをくり)よりかへられたりければ、父(ちち)の大納言(だいなごん)のたまひけるは、「一院(いちゐん)の御幸(ごかう)こそ大(おほき)に恐(おそ)れおぼゆれ。かけても思食(おぼしめし)より仰(おほせ)らるる旨(むね)のあればこそ、かうはきこゆらめ。それにもうちとけ給(たまふ)まじ」とのたまへば、重盛卿(しげもりのきやう)申(まう)されける、「此(この)事(こと)ゆめゆめ御(おん)けしきにも、御詞(おんことば)にも出(いだ)させ給(たまふ)べからず。人(ひと)に心(こころ)づけがほに、中々(なかなか)あしき御事(おんこと)也(なり)。それにつけても、叡慮(えいりよ・ゑいりよ)に背(そむき)給(たま)はで、人(ひと)の為(ため)に御情(おんなさけ)をほどこさせましまさば、神明(しんめい)三宝(さんぼう)加護(かご)あるべし。さらむにと(ッ)ては、御身(おんみ)の恐(おそ)れ候(さうらふ)まじ」とてたたれければ、「重盛卿(しげもりのきやう)はゆゆしく大様(おほやう)なるものかな」とぞ、父(ちち)の卿(きやう)ものたまひける。
一院(いちゐん)還御(くわんぎよ・くはんぎよ)の後(のち)、御前(ごぜん)にうとからぬ近習者達(きんじゆしやたち)あまた候(さうら)はれけるに、「さてもふし議(ぎ)の事(こと)を申出(まうしいだ)したるものかな。露(つゆ)も思食(おぼしめし)よらぬものを」と仰(おほせ)ければ、院中(ゐんぢゆう・ゐんぢう)のきりものに西光法師(さいくわうほふし・さいくわうほうし)といふ者(もの)あり。境節(をりふし・おりふし)御前(ごぜん)ちかう候(さうらひ)けるが、「天(てん)に口(くち)なし、にん(人)をも(ッ)ていはせよと申(まうす)。平家(へいけ)以外(もつてのほか)に過分(くわぶん)に候(さうらふ)あひだ、天(てん)の御(おん)ぱからひにや」とぞ申(まうし)ける。人々(ひとびと)「此(この)事(こと)よしなし。壁(かべ)に耳(みみ)あり。おそろしおそろし」とぞ、申(まうし)あはれける。 
東宮立 (とうぐうだち) 

 

さるほどに、其(その)年(とし)は諒闇(りやうあん)なりければ、御禊(ごけい)大嘗会(だいじやうゑ)もおこなはれず。同(おなじき)十二月(じふにぐわつ)廿四日(にじふしにち)、建春門院(けんしゆんもんゐん)、其比(そのころ)はいまだ東宮(とうぐう)の御方(おかた)と申(まうし)ける、御腹(おんぱら)に一院(いちゐん)の宮(みや)のましましけるが、親王(しんわう)の宣旨(せんじ)下(くだ)され給(たま)ふ。あくれば改元(かいげん)あ(ッ)て仁安(にんあん)と号(かう)す。同年(どうねん)の十月(じふぐわつ)八日(やうかのひ)、去年(きよねん)親王(しんわう)の宣旨(せんじ)蒙(かうぶ)らせ給(たまひ)し皇子(わうじ)、東三条(とうさんでう)にて春宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ふ。春宮(とうぐう)は御伯父(おんをぢ・おんおぢ)六歳(ろくさい)、主上(しゆしやう)は御甥(おんをひ・おんおい)三歳(さんざい)、詔目(ぜうもく)にあひかなはず。但(ただし)寛和(くわんわ)二年(にねん)に一条院(いちでうのゐん)七歳(しちさい)にて御即位(ごそくゐ)、三条院(さんでうのゐん)十一(じふいつ)歳(さい)にて春宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ふ。先例(せんれい)なきにあらず。主上(しゆしやう)は二歳(にさい)にて御禅(おんゆづり)をうけさせ給(たま)ひ、纔(わづか)に五歳(ごさい)と、申(まうし)二月(にぐわつ)十九日(じふくにち)、東宮(とうぐう)践祚(せんそ)ありしかば、位(くらゐ)をすべらせ給(たまひ)て、新院(しんゐん)とぞ申(まうし)ける。
いまだ御元服(ごげんぶく)もなくして、太上天皇(だいじやうてんわう)の尊号(そんがう)あり。漢家(かんか)本朝(ほんてう)是(これ)やはじめならむ。仁安(にんあん)三年(さんねん)三月(さんぐわつ)廿日(はつかのひ)、新帝(しんてい)大極殿(だいこくでん)にして御即位(ごそくゐ)あり。此(この)君(きみ)の位(くらゐ)につかせ給(たまひ)ぬるは、いよいよ平家(へいけ)の栄花(えいぐわ・ゑいぐわ)とぞみえし。御母儀(おぼぎ)建春門院(けんしゆんもんゐん)と申(まうす)は、平家(へいけ)の一門(いちもん)にてましますうへ、とりわき入道相国(にふだうしやうこく・にうだうしやうこく)の北方(きたのかた)、二位殿(にゐどの)の御妹(おんいもうと・おんいもふと)也(なり)。平大納言(へいだいなごん)時忠卿(ときただのきやう)と申(まうす)も女院(にようゐん)の御(おん)せうとなれば、内(うち)の御外戚(ごぐわいせき)なり。内外(ないげ)につけたる執権(しつけん)の臣(しん)とぞみえし。叙位(じよゐ)除目(ぢもく・じもく)と申(まうす)も偏(ひとへ)に此(この)時忠卿(ときただのきやう)のままなり。楊貴妃(やうきひ)が幸(さいはひ・さいわひ)し時(とき)、楊国忠(やうこくちゆう・やうこくちう)がさかへ(さかえ)しが如(ごと)し。世(よ)のおぼえ、時(とき)のきら、めでたかりき。入道相国(にふだうしやうこく・にうだうしやうこく)天下(てんが)の大小事(だいせうじ)をのたまひあはせられければ、時(とき)の人(ひと)平関白(へいくわんばく)とぞ申(まうし)ける。 
殿下乗合 (てんがののりあひ) 

 

さるほどに、嘉応(かおう)元年(ぐわんねん)七月(しちぐわつ)十六日(じふろくにち)、一院(いちゐん)御出家(ごしゆつけ)あり。御出家(ごしゆつけ)の後(のち)も万機(ばんき)の政(まつりごと)をきこしめされしあひだ、院(ゐん)内(うち)わく方(かた)なし。院中(ゐんぢゆう・ゐんぢう)にちかくめしつかはるる公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、上下(じやうげ)の北面(ほくめん)にいたるまで、官位(くわんゐ・くはんゐ)捧禄(ほうろく)皆(みな)身(み)にあまる斗(ばかり)なり。されども人(ひと)の心(こころ)のならひなれば、猶(なほ・なを)あきだらで、「あ(ッ)ぱれ、其(その)人(ひと)のほろびたらば其(その)国(くに)はあきなむ。其(その)人(ひと)うせたらば其(その)官(くわん)にはなりなむ」な(ン)ど、うとからぬどちはよりあひよりあひささやきあへり。法皇(ほふわう・ほうわう)も内々(ないない)仰(おほせ)なりけるは、「昔(むかし)より代々(だいだい)の朝敵(てうてき)をたいら(たひら)ぐる者(もの)おほしといへども、いまだ加様(かやう)の事(こと)なし。貞盛(さだもり)・秀里(ひでさと)が将門(まさかど)をうち、頼義(よりよし)が貞任(さだたふ・さだたう)・宗任(むねたふ・むねたう)をほろぼし、義家(よしいへ)が武平(たけひら)・家平(いへひら)をせめたりしも、勧賞(けんじやう)おこなはれし事(こと)、受領(じゆりやう)にはすぎざりき。清盛(きよもり)がかく心(こころ)のままにふるまう(ふるまふ)こそしかるべからね。是(これ)も世(よ)末(すゑ)にな(ッ)て王法(わうぼふ・わうぼう)のつきぬる故(ゆゑ・ゆへ)なり」と仰(おほせ)なりけれども、つゐで(ついで)なければ御(おん)いましめなし。
平家(へいけ)も又(また)別(べつ)して、朝家(てうか)を恨(うらみ)奉(たてまつ)る事(こと)もなかりしほどに、世(よ)のみだれそめける根本(こんぼん)は、去(いん)じ嘉応(かおう)二年(にねん)十月(じふぐわつ)十六日(じふろくにち)、小松殿(こまつどの)の次男(じなん)新三位(しんざんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)資盛卿(すけもりのきやう)、其(その)時(とき)はいまだ越前守(ゑちぜんのかみ)とて十三(じふさん)になられけるが、雪(ゆき)ははだれにふ(ッ)たりけり、枯野(かれの)のけしき誠(まこと)に面白(おもしろ)かりければ、わかき侍(さぶらひ)ども卅(さんじつ)騎(き)斗(ばかり)めし具(ぐ)して、蓮台野(れんだいの)や紫野(むらさきの)、右近馬場(うこんのばば)にうち出(いで)て、鷹(たか)どもあまたすへ(すゑ)させ、鶉(うづら)雲雀(ひばり)をお(ッ)たてお(ッ)たて、終日(ひねもすに)かり暮(くら)し、薄暮(はくぼ)に及(および・をよび)て六波羅(ろくはら)へこそ帰(かへ)られけれ。其時(そのとき)の御摂禄(ごせつろく)は松殿(まつどの)にてましましけるが、中御門(なかのみかど)東洞院(ひがしのとうゐん)の御所(ごしよ)より御参内(ごさんだい)ありけり。郁芳門(いうはうもん・ゆうはうもん)より入御(じゆぎよ)あるべきにて、東洞院(ひがしのとうゐん)を南(みなみ)へ、大炊御門(おほいのみかど)を西(にし)へ御出(ぎよしゆつ)なる。資盛朝臣(すけもりのあそん)、大炊御門猪熊(おほいみかどのゐのくま)にて、殿下(てんが)の御出(ぎよしゆつ)にはなづきにまい(まゐ)りあふ。御(お)ともの人々(ひとびと)「なに者(もの)ぞ、狼籍(らうぜき)なり。
御出(ぎよしゆつ)のなるに、のりものよりおり候(さうら)へおり候(さうら)へ」といら(ッ)てけれども、余(あま)りにほこりいさみ、世(よ)を世(よ)ともせざりけりうへ、めし具(ぐ)したる侍(さぶらひ)ども、皆(みな)廿(にじふ)より内(うち)のわか者(もの)どもなり。礼儀(れいぎ)骨法(こつぽふ)弁(わきま)へたる者(もの)一人(いちにん)もなし。殿下(てんが)の御出(ぎよしゆつ)ともいはず、一切(いつせつ)下馬(げば)の礼儀(れいぎ)にも及(およ・をよ)ばず、かけやぶ(ッ)てとほらむとする間(あひだ)、くらさは闇(くら)し、つやつや入道(にふだう・にうだう)の孫(まご)ともしらず、又(また)少々(せうせう)は知(しり)たれどもそらしらずして、資盛朝臣(すけもりのあそん)をはじめとして、侍(さぶらひ)ども皆(みな)馬(むま)よりと(ッ)て引(ひき)おとし、頗(すこぶ)る恥辱(ちじよく)に及(および・をよび)けり。資盛朝臣(すけもりのあそん)はうはう(はふはふ)六波羅(ろくはら)へおはして、おほぢの相国禅門(しやうこくぜんもん)に此(この)由(よし)う(ッ)たへ申(まう)されければ、入道(にふだう・にうだう)大(おほき)にいか(ッ)て、「たとひ殿下(てんが)なりとも、浄海(じやうかい)があたりをばはばかり給(たまふ)べきに、おさなき(をさなき)者(もの)に左右(さう)なく恥辱(ちじよく)をあたへられけるこそ遺恨(ゐこん・いこん)の次第(しだい)なれ。かかる事(こと)よりして、人(ひと)にはあざむかるるぞ。
此(この)事(こと)おもひしらせたてまつらでは、えこそあるまじけれ。殿下(てんが)を恨(うらみ)奉(たてまつ)らばや」とのたまへば、重盛卿(しげもりのきやう)申(まう)されけるは、「是(これ)はすこしもくるしう候(さうらふ)まじ。頼政(よりまさ)・光基(みつもと)な(ン)ど申(まうす)源氏(げんじ)どもにあざむかれて候(さうら)はんは、誠(まこと)に一門(いちもん)の恥辱(ちじよく)でも候(さうらふ)べし。重盛(しげもり)が子(こ)どもとて候(さうら)はんずる者(もの)の、殿(との)の御出(ぎよしゆつ)にまい(まゐ)り逢(あう・あふ)て、のりものよりおり候(さうら)はぬこそ尾籠(びろう)に候(さうら)へ」とて、其(その)時(とき)事(こと)にあふ(あう)たる侍(さぶらひ)どもめしよせ、「自今以後(じごんいご)も、汝等(なんぢら)能々(よくよく)心(こころ)うべし。あやま(ッ)て殿下(てんが)へ無礼(ぶれい)の由(よし)を申(まう)さばやとこそおもへ」とて帰(かへ)られけり。
其後(そののち)入道相国(にふだうしやうこく・にうだうしやうこく)、小松殿(こまつどの)には仰(おほせ)られもあはせず、片田舎(かたゐなか)の侍(さぶらひ)どもの、こはらかにて入道殿(にふだうどの・にうだうどの)の仰(おほせ)より外(ほか)は、又(また)おそろしき事(こと)なしと思(おも)ふ者(もの)ども、難波(なんば)・瀬尾(せのを・せのお)をはじめとして、都合(つがふ・つがう)六十(ろくじふ)余人(よにん)召(めし)よせ、「来(きたる)廿一日(にじふいちにち)、主上(しゆしやう)御元服(ごげんぶく)のさだめの為(ため)に、殿下(てんが)御出(ぎよしゆつ)あるべかむなり。いづくにても待(まち)うけ奉(たてまつ)り、前駆(せんぐ)御随身(みずいじん)どもがもとどりき(ッ)て、資盛(すけもり)が恥(はぢ)すすげ」とぞのたまひける。殿下(てんが)是(これ)を夢(ゆめ)にもしろしめさず、主上(しゆしやう)明年(みやうねん・めうねん)御元服(ごげんぶく)、御加冠(ごかくわん)拝官(はいくわん)の御(おん)さだめの為(ため)に、御直盧(ごちよくろ)に暫(しばら)く御座(ござ)あるべきにて、常(つね)の御出(ぎよしゆつ)よりもひきつくろはせ給(たま)ひ、今度(こんど)は待賢門(たいけんもん)より入御(じゆぎよ)あるべきにて、中御門(なかのみかど)を西(にし)へ御出(ぎよしゆつ)なる。
猪熊堀河(ゐのくまほりかは)のへんに、六波羅(ろくはら)の兵(つはもの)ども、ひた甲(かぶと)三百余騎(さんびやくよき)待(まち)うけ奉(たてまつ)り、殿下(てんが)をなかにとり籠(こめ)まい(まゐ)らせて、前後(ぜんご)より一度(いちど)に、時(とき)をど(ッ)とぞつくりける。前駆(せんぐ)御随身(みずいじん)どもがけふをはれとしやうぞひ(しやうぞい)たるを、あそこに追(おひ・をひ)かけここに追(おつ・をつ)つめ、馬(むま)よりと(ッ)て引(ひき)おとし、さむざむ(さんざん)に陵礫(りようりやく・れうりやく)して、一々(いちいち)にもとどりをきる。随身(ずいじん)十人(じふにん)がうち、右(みぎ)の府生(ふしやう)武基(たけもと)がもとどりもきられにけり。其(その)中(なか)に、藤蔵人大夫(とうくらんどのたいふ・とうくらんどのたゆう)隆教(たかのり)がもとどりをきるとて、「是(これ)は汝(なんぢ)がもとどりと思(おも)ふべからず。主(しゆう・しう)のもとどりと思(おも)ふべし」といひふくめてき(ッ)て(ン)げり。其後(そののち)は、御車(おんくるま)の内(うち)へも弓(ゆみ)のはずつきいれな(ン)どして、簾(すだれ)かなぐりおとし、御牛(おうし)の鞦(しりがい)・胸懸(むながい)きりはなち、かく散々(さんざん)にしちらして、悦(よろこび)の時(とき)をつくり、六波羅(ろくはら)へこそまい(まゐ)りけれ。入道(にふだう・にうだう)「神妙(しんべう)なり」とぞのたまひける。御車(おんくるま)ぞひには、因幡(いなば)のさい使(つかひ)、鳥羽(とば)の国久丸(くにひさまる)と云(いふ)おのこ(をのこ)、下臈(げらう)なれどもなさけある者(もの)にて、泣々(なくなく)御車(おんくるま)つかま(ッ)て、中御門(なかのみかど)の御所(ごしよ)へ還御(くわんぎよ)なし奉(たてまつ)る。
束帯(そくたい)の御袖(おんそで)にて御涙(おんなみだ)ををさへ(おさへ)つつ、還御(くわんぎよ)の儀式(ぎしき)あさましさ、申(まうす)も中々(なかなか)おろかなり。大織冠(たいしよくくわん・たいしよくくはん)・淡海公(たんかいこう)の御事(おんこと)はあげて申(まうす)に及(およば・をよば)ず、忠仁公(ちゆうじんこう・ちうじんこう)・昭宣公(しやうぜんこう)より以降(このかた)、摂政(せつしやう)関白(くわんばく・くはんばく)のかかる御目(おんめ)にあはせ給(たま)ふ事(こと)、いまだ承及(うけたまはりおよば・うけたまはりをよば)ず。是(これ)こそ平家(へいけ)の悪行(あくぎやう)のはじめなれ。小松殿(こまつどの)こそ大(おほき)にさは(さわ)がれけれ。ゆきむかひたる侍(さぶらひ)ども皆(みな)勘当(かんだう)せらる。「たとひ入道(にふだう・にうだう)いかなるふし議(ぎ)を下地(げぢ)し給(たま)ふとも、など重盛(しげもり)に夢(ゆめ)をばみせざりけるぞ。
凡(およそ・をよそ)は資盛(すけもり)奇怪(きくわい)なり。栴檀(せんだん)は二葉(ふたば)よりかうばしとこそみえたれ。既(すで)に十二三(じふにさん)にならむずる者(もの)が、今(いま)は礼儀(れいぎ)を存知(ぞんぢ・ぞんち)してこそふるまう(ふるまふ)べきに、か様(やう)に尾籠(びろう)を現(げん)じて、入道(にふだう・にうだう)の悪名(あくみやう)をたつ。不孝(ふかう)のいたり、汝(なんぢ)独(ひと)りにあり」とて、暫(しばら)くいせの国(くに)にを(ッ・おつ)くださる。されば此(この)大将(だいしやう)をば、君(きみ)も臣(しん)も御感(ぎよかん)ありけるとぞきこえし。 
鹿谷 (ししのたに) 

 

是(これ)によ(ッ)て、主上(しゆしやう)御元服(ごげんぶく)の御(おん)さだめ、其(その)日(ひ)はのびさせ給(たまひ)ぬ。同(おなじき)廿五日(にじふごにち)、院(ゐん)の殿上(てんじやう)にてぞ御元服(ごげんぶく)のさだめはありける。摂政殿(せつしやうどの)さてもわたらせ給(たまふ)べきならねば、同(おなじき)十一月(じふいちぐわつ)九日(ここのかのひ)、兼宣旨(けんせんじ)をかうぶり、十四日(じふしにち)太政大臣(だいじやうだいじん)にあがらせ給(たま)ふ。やがて同(おなじき)十七日(じふしちにち)、慶申(よろこびまうし)ありしかども、世中(よのなか)にがにがしうぞみえし。さるほどにことしも暮(くれ)ぬ。あくれば嘉応(かおう)三年(さんねん)正月(しやうぐわつ)五日(いつかのひ)、主上(しゆしやう)御元服(ごげんぶく)あッて、同(おなじき)十三日(じふさんにち)、朝覲(てうきん)の行幸(ぎやうがう)ありけり。
法皇(ほふわう・ほうわう)・女院(にようゐん)待(まち)うけまい(まゐ)らせ給(たまひ)て、叙爵(うひかうぶり・うゐかうぶり)の御粧(おんよそほひ)もいか斗(ばかり)らうたくおぼしめされけむ。
入道相国(にふだうしやうこく・にうだうしやうこく)の御娘(おんむすめ)、女御(にようご)にまい(まゐ)らせ給(たま)ひけり。御年(おんとし)十五歳(じふごさい)、法皇(ほふわう・ほうわう)御猶子(ごゆうし)の儀(ぎ)なり。其比(そのころ)、妙音院(めうおんゐん・めうをんゐん)殿(どの)の太政(だいじやう)のおほいどの、内大臣(ないだいじん)の左大将(さだいしやう)にてましましけるが、大将(だいしやう)を辞(じ)し申(まう)させ給(たま)ふ事(こと)ありけり。
時(とき)に徳大寺(とくだいじ)の大納言(だいなごん)実定卿(しつていのきやう)、其(その)仁(にん)にあたり給(たま)ふ由(よし)きこゆ。又(また)花山院(くわさんのゐん)の中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)兼雅卿(かねまさのきやう)も所望(しよまう)あり。其(その)外(ほか)、故中御門(こなかのみかど)の藤(とうの)大納言(だいなごん)家成卿(かせいのきやう)の三男(さんなん)、新大納言(しんだいなごん)成親卿(なりちかのきやう)もひらに申(まう)されけり。院(ゐん)の御気色(ごきしよく)よかりければ、さまざまの祈(いのり)をぞはじめられける。八幡(やはた)に百人(ひやくにん)の僧(そう)をこめて、信読(しんどく)の大般若(だいはんにや)を七日(しちにち)よませられける最中(さいちゆう・さいちう)に、甲良(かうら・かはら)の大明神(だいみやうじん・だいめうじん)の御(おん)まへなる橘(たちばな)の木(き)に、男山(をとこやま・おとこやま)の方(かた)より山鳩(やまばと)三(みつ)飛来(とびきたつ)て、くひあひてぞ死(しに)にける。
鳩(はと)は八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の第一(だいいち)の仕者(ししや)なり。宮寺(みやてら)にかかるふしぎなしとて、時(とき)の検校(けんげう)、匡清法印(きやうせいほふいん・きやうせいほうゐん)奏聞(そうもん)す。神祇官(じんぎくわん)にして御占(みうら)あり。天下(てんが)のさは(さわ)ぎとうらなひ申(まうす)。但(ただし)、君(きみ)のつつしみに非(あら)ず、臣下(しんか)のつつしみとぞ申(まうし)ける。新大納言(しんだいなごん)是(これ)におそれをもいたさず、昼(ひる)は人目(ひとめ)のしげければ、夜(よ)なよな歩行(ほかう)にて、中御門烏丸(なかのみかどからすまる)の宿所(しゆくしよ)より賀茂(かも)の上(かみ)の社(やしろ)へ、なな夜(よ)つづけてまい(まゐ)られけり。なな夜(よ)に満(まん)ずる夜(よ)、宿所(しゆくしよ)に下向(げかう)して、くるしさにうちふし、ち(ッ)とまどろみ給(たま)へる夢(ゆめ)に、賀茂(かも)の上(かみ)の社(やしろ)へまい(まゐ)りたるとおぼしくて、御宝殿(ごほうでん)の御戸(みと)おしひらき、ゆゆしくけだかげなる御声(みこゑ)にて、
さくら花(ばな)かもの河風(かはかぜ)うらむなよちるをばえこそとどめざりけれ
新大納言(しんだいなごん)猶(なほ・なを)おそろれをもいたさず、かもの上(かみ)の社(やしろ)に、ある聖(ひじり)をこめて、御宝殿(ごほうでん)の御(おん)うしろなる杉(すぎ)の洞(ほら)に壇(だん)をたてて、拏吉尼(だぎに)の法(ほふ・ほう)を百日(ひやくにち)おこなはせられけるほどに、彼(かの)大椙(おほすぎ)に雷(いかづち)おちかかり、雷火(らいくわ)緩(おびたたし)うもえあが(ッ)て、宮中(きゆうちゆう・きうちう)既(すで)にあやうく(あやふく)みえけるを、宮人(みやびと)どもおほく走(はしり)あつま(ッ)て、是(これ)をうちけつ。さて彼(かの)外法(げほう)おこなひける聖(ひじり)を追出(ついしゆつ)せむとしければ、「われ当社(たうしや)に百日(ひやくにち)参籠(さんろう)の大願(だいぐわん)あり。けふは七十五日(しちじふごにち)になる。ま(ッ)たくいづまじ」とてはたらかず。此(この)由(よし)を社家(しやけ)より内裏(だいり)へ奏聞(そうもん)しければ、「只(ただ)法(ほふ・ほう)にまかせて追出(ついしゆつ)せよ」と宣旨(せんじ)を下(くだ)さる。
其(その)時(とき)神人(じんにん)しら杖(つゑ・つえ)をも(ッ)て、彼(かの)聖(ひじり)がうなじをしらげ、一条(いちでう)の大路(おほち)より南(みなみ)へおひだして(ン)げり。神(かみ)非礼(ひれい)を享(うけ)給(たま)はずと申(まうす)に、此(この)大納言(だいなごん)非分(ひぶん)の大将(だいしやう)を祈(いのり)申(まう)されければにや、かかるふしぎもいできにけり。其比(そのころ)の叙位(じよゐ)除目(ぢもく)と申(まうす)は、院(ゐん)内(うち)の御(おん)ぱからひにも非(あら)ず、摂政(せつしやう)関白(くわんばく・くはんばく)の御成敗(ごせいばい)にも及(およ・をよ)ばず。只(ただ)一向(いつかう)平家(へいけ)のままにてありしかば、徳大寺(とくだいじ)・花山院(くわさんのゐん・くはさんのゐん)もなり給(たま)はず。入道相国(にふだうしやうこく・にうだうしやうこく)の嫡男(ちやくなん)小松殿(こまつどの)、大納言(だいなごん)の右大将(うだいしやう)にておはしけるが、左(さ)にうつりて、次男(じなん)宗盛(むねもり)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)にておはせしが、数輩(すはい)の上臈(じやうらう)を超越(てうをつ・てうおつ)して、右(みぎ)にくははられけるこそ、申(まうす)斗(はかり)もなかりしか。
中(なか)にも徳大寺殿(とくだいじどの)は一(いち)の大納言(だいなごん)にて、花族(くわそく・くはソク)栄耀(えいゆう・ゑいゆう)、才学(さいかく)雄長(ゆうちやう)、家嫡(けちやく・ケちやく)にてましましけるが、超(こえ)られ給(たまひ)けるこそ遺恨(ゐこん・いこん)なれ。「さだめて御出家(ごしゆつけ)な(ン)どやあらむずらむ」と、人々(ひとびと)内々(ないない)は申(まうし)あへりしかども、暫(しばらく)世(よ)のならむ様(やう)をもみむとて、大納言(だいなごん)を辞(じ)し申(まうし)て、籠居(ろうきよ)とぞきこえし。新大納言(しんだいなごん)成親卿(なりちかのきやう)のたまひけるは、「徳大寺(とくだいじ)・花山院(くわさんのゐん・くはさんのゐん)に超(こえ)られたらむはいかがせむ。平家(へいけ)の次男(じなん)に超(こえ)らるるこそやすからね。是(これ)も万ツ(よろづ)おもふさまなるがいたす所(ところ)なり。いかにもして平家(へいけ)をほろぼし、本望(ほんまう)をとげむ」とのたまひけるこそおそろしけれ。父(ちち)の卿(きやう)は中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)までこそいたられしか、其(その)末子(ばつし)にて位(くらゐ)正二位(じやうにゐ)、官(くわん)大納言(だいなごん)にあがり、大国(だいこく)あまた給(たま)は(ッ)て、子息(しそく)所従(しよじゆう・しよじう)朝恩(てうおん・てうをん)にほこれり。何(なに)の不足(ふそく)にかかる心(こころ)つかれけむ。是(これ)偏(ひとへ)に天魔(てんま)の所為(しよゐ)とぞみえし。平治(へいぢ)には越後中将(ゑちごのちゆうじやう・ゑちごのちうじやう)とて、信頼卿(のぶよりのきやう)に同心(どうしん)のあひだ、既(すで)に誅(ちゆう・ちう)せらるべかりしを、小松殿(こまつどの)やうやうに申(まうし)て頸(くび)をつぎ給(たま)へり。
しかるに其(その)恩(おん・をん)をわすれて、外人(ぐわいじん)もなき所(ところ)に兵具(ひやうぐ)をととのへ、軍兵(ぐんびやう)をかたらひをき(おき)、其(その)営(いとな)みの外(ほか)は他事(たじ)なし。東山(ひがしやま)のふもと鹿(しし)の谷(たに)と云(いふ)所(ところ)は、うしろは三井寺(みゐでら)につづいてゆゆしき城郭(じやうくわく)にてぞありける。俊寛僧都(しゆんくわんそうづ・しゆんくはんそうづ)の山庄(さんざう)あり。かれにつねはよりあひよりあひ、平家(へいけ)ほろぼさむずるはかりことをぞ廻(めぐ)らしける。或時(あるとき)法皇(ほふわう・ほうわう)も御幸(ごかう)なる。故少納言入道(こせうなごんにふだう・こせうなごんにうだう)信西(しんせい)が子息(しそく)、浄憲法印(じやうけんほふいん・じやうけんほうゐん)御供(おんとも)仕(つかまつ)る。
其(その)夜(よ)の酒宴(しゆえん)に、此(この)由(よし)を浄憲法印(じやうけんほふいん・じやうけんほうゐん)に仰(おほせ)あはせられければ、「あなあさまし。人(ひと)あまた承(うけたまはり)候(さうらひ)ぬ。只今(ただいま)もれきこえて、天下(てんが)の大事(だいじ)に及(および・をよび)候(さうらひ)なむず」と、大(おほき)にさは(さわ)ぎ申(まうし)ければ、新大納言(しんだいなごん)けしきかはりて、さ(ッ)とたたれけるが、御前(ごぜん)に候(さうらひ)ける瓶子(へいじ)をかり衣(ぎぬ)の袖(そで)にかけて引(ひき)たう(たふ)されたりけるを、法皇(ほふわう・ほうわう)「あれはいかに」と仰(おほせ)ければ、大納言(だいなごん)立(たち)かへりて、「平氏(へいじ)たはれ候(さうらひ)ぬ」とぞ申(まう)されける。法皇(ほふわう・ほうわう)ゑつぼにいらせおはして、「者(もの)どもまい(まゐ)(ッ)て猿楽(さるがく)つかまつれ」と仰(おほせ)ければ、平判官(へいはんぐわん・へいはんぐはん)康頼(やすより)まい(まゐ)りて、「ああ、あまりに平氏(へいじ)のおほう候(さうらふ)に、もて酔(ゑひ・えひ)て候(さうらふ)」と申(まうす)。
俊寛僧都(しゆんくわんそうづ)「さてそれをばいかが仕(つかまつ)らむずる」と申(まう)されければ、西光法師(さいくわうほふし・さいくわうほうし)「頸(くび)をとるにはしかず」とて、瓶子(へいじ)のくびをと(ッ)てぞ入(いり)にける。浄憲法印(じやうけんほふいん・じやうけんほうゐん)あまりのあさましさに、つやつや物(もの)を申(まう)されず。返々(かへすがへす)もおそろしかりし事(こと)どもなり。与力(よりき)の輩(ともがら)誰々(たれたれ)ぞ。近江中将(あふみのちゆうじやう・あふみのちうじやう)入道(にふだう・にうだう)蓮浄(れんじやう)俗名(ぞくみやう)成正(なりまさ)、法勝寺執行(ほつしようじのしゆぎやう・ほつせうじのしゆぎやう)俊寛僧都(しゆんくわんそうづ)、山城守(やましろのかみ)基兼(もとかぬ)、式部大輔(しきぶのたいふ)雅綱(まさつな)、平判官(へいはんぐわん)康頼(やすより)、宗判官(むねはんぐわん)信房(のぶふさ)、新平判官(しんぺいはんぐわん)資行(すけゆき)、摂津国(つのくにの)源氏(げんじ)多田蔵人(ただのくらんど)行綱(ゆきつな)を始(はじめ)として、北面(ほくめん)の輩(ともがら)おほく与力(よりき)したりけり。 
俊寛沙汰鵜川軍 (しゆんくわんのさたうかはいくさ) 

 

此(この)法勝寺(ほつしようじ・ほつせうじ)の執行(しゆぎやう)と申(まうす)は、京極(きやうごく)の源(げん)大納言(だいなごん)雅俊(がしゆん)の卿(きやう)の孫(まご)、木寺(こでら)の法印(ほふいん・ほうゐん)寛雅(くわんが・くはんが)には子(こ)なりけり。祖父(そぶ)大納言(だいなごん)させる弓箭(きゆうせん・きうせん)をとる家(いへ)にはあらねども、余(あまり)に腹(はら)あしき人(ひと)にて、三条坊門京極(さんでうばうもんきやうごく)の宿所(しゆくしよ)のまへをば、人(ひと)をもやすくとほさず、つねは中門(ちゆうもん・ちうもん)にたたずみ、歯(は)をくひしばり、いか(ッ)てぞおはしける。かかる人(ひと)の孫(まご)なればにや、此(この)俊寛(しゆんくわん)も僧(そう)なれども、心(こころ)もたけく、おごれる人(ひと)にて、よしなき謀叛(むほん)にもくみしけるにこそ。
新大納言(しんだいなごん)成親卿(なりちかのきやう)は、多田蔵人(ただのくらんど)行綱(ゆきつな)をようで、「御(ご)へんをば一方(いつぱう・いつぽう)の大将(たいしやう)に憑(たのむ)なり。此(この)事(こと)しおほせつるものならば、国(くに)をも庄(しやう)をも所望(しよまう)によるべし。まづ弓袋(ゆぶくろ)の料(れう)に」とて、白布(しろぬの)五十(ごじつ)端(たん)送(おく・をく)られけり。安元(あんげん)三年(さんねん)三月(さんぐわつ)五日(いつかのひ)、妙音院殿(めうおんゐんどの・めうをんゐんどの)、太政(だいじやう)大臣(だいじん)に転(てん)じ給(たま)へるかはりに、大納言(だいなごん)定房卿(さだふさのきやう)をこえて、小松殿(こまつどの)、内大臣(ないだいじん)になり給(たま)ふ。大臣(だいじん)の大将(だいしやう)めでたかりき。
やがて大饗(たいきやう)おこなはる。尊者(そんじや)には、大炊御門右大臣(おほいのみかどのうだいじん)経宗公(つねむねこう)とぞきこえし。一(いち)のかみこそ先達(せんだち)なれども、父(ちち)宇治(うぢ)の悪左府(あくさふ)の御例(ごれい)其(その)憚(はばかり)あり。北面(ほくめん)は上古(しやうこ)にはなかりけり。白河院(しらかはのゐん)の御時(おんとき)はじめをか(おか)れてより以降(このかた)、衛府(ゑふ)どもあまた候(さうらひ)けり。為俊(ためとし)・重盛(しげもり)童(わらは)より千手丸(せんじゆまる)・今犬丸(いまいぬまる)とて、是等(これら)は左右(さう)なききりものにてぞありける。鳥羽院(とばのゐん)の御時(おんとき)も、季教(すゑのり)・季頼(すゑより)父子(ふし)ともに朝家(てうか)にめしつかはれ、伝奏(てんそう)するおり(をり)もありな(ン)どきこえしかども、皆(みな)身(み)のほどをばふるまうてこそありしに、此(この)御時(おんとき)の北面(ほくめん)の輩(ともがら)は、以外(もつてのほか)に過分(くわぶん)にて、公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)をも者(もの)ともせず、礼儀(れいぎ)礼節(れいせつ)もなし。
下北面(げほくめん)より上北面(じやうほくめん)にあがり、上北面(じやうほくめん)より殿上(てんじやう)のまじはりをゆるさるる者(もの)もあり。かくのみおこなはるるあひだ、おごれる心(こころ)どもも出(いで)きて、よしなき謀叛(むほん)にもくみしけるにこそ。中(なか)にも故少納言(こせうなごん)信西(しんせい)がもとにめしつかひける師光(もろみつ)・成景(なりかげ)と云(いふ)者(もの)あり。師光(もろみつ)は阿波国(あはのくに)の在庁、(ざいちやう)、成景(なりかげ)は京(きやう)の者(もの)、熟根(じゆつこん)いやしき下臈(げらう)なり。健児童(こんでいわらは)もしは格勤者(かくごしや)な(ン)どにて召(めし)つかはれけるが、さかざかしかりしによ(ッ)て、師光(もろみつ)は左衛門尉(さゑもんのじよう・さゑもんのぜう)、成景(なりかげ)は右衛門尉(うゑもんのじよう・うゑもんのぜう)とて、二人(ににん)一度(いちど)に靭負尉(ゆぎへのじよう・ゆぎえのぜう)になりぬ。
信西(しんせい)が事(こと)にあひし時(とき)、二人(ににん)ともに出家(しゆつけ)して、左衛門入道(さゑもんにふだう・さゑもんにうだう)西光(さいくわう)・右衛門入道(うゑもんにふだう・うゑもんにうだう)西敬(さいけい)とて、是(これ)は出家(しゆつけ)の後(のち)も院(ゐん)の御倉(みくら)あづかりにてぞありける。彼(かの)西光(さいくわう)が子(こ)に師高(もろたか)と云(いふ)者(もの)あり。是(これ)もきり者(もの)にて、検非違使(けんびゐし・けんびいし)五位尉(ごゐのじよう・ごゐのぜう)に経(へ)あが(ッ)て、安元(あんげん)元年(ぐわんねん・ぐはんねん)十二月(じふにぐわつ・じふにンぐわつ)二十九日(にじふくにち)、追儺(ついな・つゐな)の除目(ぢもく)に加賀守(かがのかみ)にぞなされける。国務(こくむ)ををこなふ(おこなふ)間(あひだ・あいだ)、非法(ひほふ・ひほう)非例(ひれい)を張行(ちやうぎやう)し、神社(じんじや)仏寺(ぶつじ)、権門(けんもん)勢家(せいか)の庄領(しやうりやう)を没倒(もつたう)し、散々(さんざん)の事(こと)どもにてぞありける。
縦(たとひ)せうこうがあとをへだつと云(いふ)とも、穏便(をんびん)の政(まつりごと)おこなふべかりしが、心(こころ)のままにふるまひしほどに、同(おなじき)二年(にねん)夏(なつ)の比(ころ)、国司(こくし)師高(もろたか)が弟(おとと)、近藤判官(こんどうのはんぐわん)師経(もろつね)、加賀(かが)の目代(もくだい)に補(ふ)せらる。目代(もくだい)下着(げちやく)の始(はじめ)、国府(こくふ)のへんに鵜河(うかは)と云(いふ)山寺(やまでら)あり。寺僧(じそう)どもが境節(をりふし・おりふし)湯(ゆ)をわかひ(わかい)てあびけるを、乱入(らんにふ・らんにう)しておいあげ、わが身(み)あび、雑人(ざふにん・ざうにん)どもおろし、馬(むま)あらはせな(ン)どしけり。寺僧(じそう)いかりをなして、「昔(むかし)より、此(この)所(ところ)は国方(くにがた)の者(もの)入部(にふぶ・にうぶ)する事(こと)なし。すみやかに先例(せんれい)にまかせて、入部(にふぶ・にうぶ)の押妨(あふはう)をとどめよ」とぞ申(まうし)ける。「先々(さきざき)の目代(もくだい)は不覚(ふかく)でこそいやしまれたれ。当目代(たうもくだい)は、其(その)儀(ぎ)あるまじ。只(ただ)法(ほふ・ほう)に任(まかせ)よ」と云(いふ)ほどこそありけれ、寺僧(じそう)どもは国(くに)がたの者(もの)を追出(ついしゆつ・つゐしゆつ)せむとす、国(くに)がたの者(もの)どもは次(ついで・つゐで)をも(ッ)て乱入(らんにふ・らんにう)せむとす、うちあひはりあひしけるほどに、目代(もくだい)師経(もろつね)が秘蔵(ひさう)しける馬(むま)の足(あし)をぞうちおり(をり)ける。
其後(そののち)は互(たがひ)に弓箭(きゆうせん・きうせん)兵杖(ひやうぢやう)を帯(たい)して、射(い・ゐ)あひきりあひ数剋(すこく)たたかふ。目代(もくだい)かなはじとや思(おもひ)けん、夜(よ)に入(いり)て引退(ひきしりぞ)く。其後(そののち)当国(たうごく)の在庁(ざいちやう)ども催(もよほ)しあつめ、其(その)勢(せい)一千余騎(いつせんよき)、鵜河(うかは)におしよせて、坊舎(ばうじや)一宇(いちう)ものこさず焼(やき)はらふ。鵜河(うかは)と云(いふ)は白山(しらやま)の末寺(まつじ)なり。此(この)事(こと)う(ッ)たへんとてすすむ老僧(らうそう)誰々(たれたれ)ぞ。智釈(ちしやく)・学明(がくめい)・宝台坊(ほうだいばう)、正智(しやうち)・学音(がくおん・がくをん)・土佐阿闍梨(とさのあじやり)ぞすすみける。白山(しらやま)三社(さんじや)八院(はちゐん)の大衆(だいしゆ)悉(ことごと)く起(おこ)りあひ、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)二千余(にせんよ)人(にん)、七月(しちぐわつ)九日(ここのかのひ)の暮方(くれがた)に、目代(もくだい)師経(もろつね)が館(たち)ちかう〔こ〕そおしよせたれ。
けふは日(ひ)暮(くれ)ぬ、あすのいくさとさだめて、其(その)日(ひ)はよせでゆらへたり。露(つゆ)ふきむすぶ秋風(あきかぜ)は、ゐ(い)むけの袖(そで)を翻(ひるがへ)し、雲井(くもゐ)をてらすいなづまは、甲(かぶと)の星(ほし)をかかやかす。目代(もくだい)かなはじとや思(おもひ)けむ、夜(よ)にげにして京(きやう)へのぼる。あくる卯剋(うのこく)におしよせて、時(とき)をど(ッ)とつくる。城(しろ)のうちには音(おと)もせず。人(ひと)をいれてみせければ、「皆(みな)落(おち)て候(さうらふ)」と申(まうす)。大衆(だいしゆ)力(ちから)及(およ・をよ)ばで引退(ひきしりぞ)く。さらば山門(さんもん)へう(ッ)たへんとて、白山中宮(しらやまちゆうぐう・しらやまちうぐう)の神輿(しんよ)を賁(かざ)り奉(たてまつ)り、比叡山(ひえいさん)へふりあげ奉(たてまつ)る。同(おなじき)八月(はちぐわつ)十二日(じふににち)の午剋(むまのこく)斗(ばかり)、白山(しらやま)の神輿(しんよ)既(すで)に比叡山(ひえいさん)東坂本(ひがしざかもと)につかせ給(たま)ふと云(いふ)ほどこそありけれ、北国(ほつこく)の方(かた)より雷(いかづち)緩(おびたたし)う鳴(なつ)て、都(みやこ)をさしてなりのぼる。白雪(はくせつ)くだりて地(ち)をうづみ、山上(さんじやう)洛中(らくちゆう・らくちう)おしなべて、常葉(ときは)の山(やま)の梢(こずゑ)まで皆(みな)白妙(しろたへ・しろたえ)に成(なり)にけり。 
願立 (ぐわんだて) 

 

神輿(しんよ)をば客人(まらうと・まらふと)の宮(みや)へいれたてまつる。客人(まらうと・まらふと)と申(まうす)は白山妙利権現(しらやまめうりごんげん)にておはします。申(まう)せば父子(ふし)の御中(おんなか)なり。先(まづ)沙汰(さた)の成否(じやうふ)はしらず、生前(しやうぜん)の御悦(おんよろこび)、只(ただ)此(この)事(こと)にあり。浦島(うらしま)が子(こ)の七世(しつせ)の孫(まご)にあへりしにもすぎ、胎内(たいない)の者(もの)の霊山(りやうぜん)の父(ちち)をみしにもこえたり。三千(さんぜん)の衆徒(しゆと)踵(くびす)を継(つ)ぎ、七社(しちしや)の神人(じんにん)袖(そで)をつらぬ。時々剋々(じじこくこく)の法施(ほつせ)祈念(きねん)、言語道断(ごんごだうだん)の事(こと)どもなり。山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)、国司(こくし)加賀守(かがのかみ)師高(もろたか)を流罪(るざい)に処(しよ)せられ、目代(もくだい)近藤(こんどうの)判官(はんぐわん・はんぐはん)師経(もろつね)を禁獄(きんごく)せらるべき由(よし)奏聞(そうもん)す。
御十二裁断(ごさいだん)おそかりければ、さも然(しか)るべき公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)は、「あはれとく御裁許(ごさいきよ)あるべきものを。昔(むかし)より山門(さんもん)の訴詔(そしよう・そせう)は他(た)に異(こと)なり。大蔵卿(おほくらのきやう)為房(ためふさ)・太宰権帥(ださいのごんのそつ)季仲(すゑなか)は、さしも朝家(てうか)の重臣(てうしん)なりしかども、山門(さんもん)の訴詔(そしよう・そせう)によ(ッ)て流罪(るざい)せられにき。况(いはん)や師高(もろたか)な(ン)どは事(こと)の数(かず)にやはあるべきに、子細(しさい)にや及(およぶ・をよぶ)べき」と申(まうし)あはれけれども、「大臣(たいしん)は禄(ろく)を重(おもん)じて諫(いさ)めず、小臣(せうしん)は罪(つみ)に恐(おそ)れて申(まう)さず」と云(いふ)事(こと)なれば、をのをの(おのおの)口(くち)をとぢ給(たま)へり。「賀茂河(かもがは)の水(みづ)、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師(やまぼふし・やまぼうし)、是(これ)ぞわが心(こころ)にかなはぬもの」と、白河院(しらかはのゐん)も仰(おほせ)なりけり。
鳥羽院(とばのゐんの)御時(おんとき)、越前(ゑちぜん)の平泉寺(へいせんじ)を山門(さんもん)へつけられけるには、当山(たうざん)を帰依(きえ・きゑ)あさからざるによ(ッ)て、「非(ひ)をも(ッ)て理(り)とす」とこそ宣下(せんげ)せられて、院宣(ゐんぜん)をば下(くだ)されけり。江帥(がうぞつ)匡房卿(きやうばうのきやう)の申(まう)されし様(やう)に、「神輿(しんよ)を陣頭(ぢんどう)へふり奉(たてまつり)てう(ッ)たへ申(まう)さむには、君(きみ)いかが御(おん)ぱからひ候(さうらふ)べき」と申(まう)されければ、「げにも山門(さんもん)の訴詔(そしよう・そせう)はもだしがたし」とぞ仰(おほせ)ける。去(いん)じ嘉保(かほう)二年(にねん)三月(さんぐわつ)二日(ふつかのひ)、美濃守(みののかみ)源義綱朝臣(みなもとのよしつなのあそん)、当国(たうごく)新立(しんりふ・しんりう)の庄(しやう)をたを(たふ)すあひだ、山(やま)の久住者(くぢゆうしや・くぢうしや)円応(ゑんおう・えんおう)を殺害(せつがい)す。是(これ)によ(ッ)て日吉(ひよしの)の社司(しやじ)、延暦寺(えんりやくじの)の寺官(じくわん)、都合(つがふ・つがう)卅(さんじふ)余(よ)人(にん)、申文(まうしぶみ)をささげて陣頭(ぢんどう)へ参(さん)じけるを、後二条関白殿(ごにでうのくわんばくどの)、大和源氏(やまとげんじ)中務権少輔(なかづかさのごんのせう)頼春(よりはる)に仰(おほせ)てふせかせらる。頼春(よりはる)が郎等(らうどう・らうだう)箭(や)をはなつ。
やにはにゐころ(いころ)さるる者(もの)八人(はちにん)、疵(きず)を蒙(かうぶ)る者(もの)十(じふ)余人(よにん)、社司(しやし)諸司(しよし)四方(しはう)へちりぬ。山門(さんもん)の上綱等(じやうかうら)、子細(しさい)を奏聞(そうもん)の為(ため)に下洛(げらく)すときこえしかば、武士(ぶし)検非違使(けんびゐし・けんびいし)、西坂本(にしざかもと)に馳向(はせむかつ)て、皆(みな)お(ッ)かへす。山門(さんもん)には御裁断(ごさいだん)遅々(ちち)のあひだ、七社(しちしや)の神輿(しんよ)を根本中堂(こんぼんちゆうだう・こんぼんちうだう)にふりあげ奉(たてまつ)り、其(その)御前(おんまへ)にて信読(しんどく)の大般若(だいはんにや)を七日(しちにち)ようで、関白殿(くわんばくどの)を呪咀(しゆそ)し奉(たてまつ)る。結願(けちぐわん)の導師(だうし)には仲胤法印(ちゆういんほふいん・ちうゐんほうゐん)、其比(そのころ)はいまだ仲胤供奉(ちゆういんぐぶ・ちうゐんぐぶ)と申(まうし)しが、高座(かうざ)にのぼりかねうちならし、表白(へうひやく)の詞(ことば)にいはく、「我等(われら)なたねの二葉(ふたば)よりおほしたて給(たま)ふ神(かみ)だち、後二条(ごにでう)の関白殿(くわんばくどの)に鏑箭(かぶらや)一(ひとつ)はなちあて給(たま)へ。大八王子権現(だいはちわうじごんげん)」と、た〔か〕らかにぞ祈誓(きせい)したりける。
やがて其(その)夜(よ)ふしぎの事(こと)あり。八王子(はちわうじ)の御殿(ごてん)より鏑箭(かぶらや)の声(こゑ)いでて、王城(わうじやう)をさして、な(ッ)て行(ゆく)とぞ、人(ひと)の夢(ゆめ)にはみたりける。其(その)朝(あした)、関白殿(くわんばくどの)の御所(ごしよ)の御格子(みかうし)をあけけるに、只今(ただいま)山(やま)よりと(ッ)てきたるやうに、露(つゆ)にぬれたる樒(しきみ)一枝(ひとえだ)、た(ッ)たりけるこそおそろしけれ。やがて山王(さんわう)の御(おん)とがめとて、後二条(ごにでう)の関白殿(くわんばくどの)、おもき御病(おんやまふ)をうけさせ給(たまひ)しかば、母(はは)うへ、大殿(おほとの)の北(きた)の政所(まんどころ)、大(おほき)になげかせ給(たまひ)つつ、御(おん)さまをやつし、いやしき下臈(げらう)のまねをして、日吉社(ひよしのやしろ)に御参籠(ごさんろう)あ(ッ)て、七日七夜(なぬかななよ)が間(あひだ・あいだ)祈(いのり)申(まう)させ給(たまひ)けり。あらはれての御祈(おんいのり)には、百番(ひやくばん)の芝田楽(しばでんがく)、百番(ひやくばん)のひとつもの、競馬(けいば)・流鏑馬(やぶさめ)・相撲(すまふ)をのをの(おのおの)百番(ひやくばん)、百座(ひやくざ)の仁王講(にんわうかう)、百座(ひやくざ)の薬師講(やくしかう)、一手半(いつちやくしゆはん)の薬師(やくし)百体(ひやくたい)、等身(とうじん)の薬師(やくし)一体(いつたい)、並(ならび)に釈迦(しやか)阿弥陀(あみだ)の像(ざう)、をのをの(おのおの)造立供養(ざうりふくやう・ざうりうくやう)せられけり。
又(また)御心中(ごしんぢゆう・ごしんぢう)に三(みつ)の御立願(ごりふぐわん・ごりうぐわん)あり。御心(おんこころ)のうちの事(こと)なれば、人(ひと)いかでかしり奉(たてまつ)るべき。それにふしぎなりし事(こと)は、七日(なぬか)に満(まん)ずる夜(よ)、八王子(はちわうじ)の御社(おんやしろ)にいくらもありけるまいりうど(まゐりうど)共(ども)のなかに、陸奥(みちのく)よりはるばるとのぼりたりける童神子(わらはみこ)、夜半(やはん)斗(ばかり)にはかにたえ入(いり)にけり。はるかにかき出(いだ)して祈(いのり)ければ、程(ほど)なくいきいでて、やがて立(た・ッ)てまひかなづ。人(ひと)奇特(きどく)のおもひをなして是(これ)をみる。
半時(はんじ)斗(ばかり)舞(まう・まふ)て後(のち)、山王(さんわう)おりさせ給(たまひ)て、やうやう御詫宣(ごたくせん)こそおそろしけれ。「衆生等(しゆじやうら)慥(たしか)にうけ給(たま)はれ。大殿(おほとの)の北(きた)の政所(まんどころ)、けふ七日(なぬか)わが御前(おんまへ)に籠(こも)らせ給(たまひ)たり。御立願(ごりふぐわん・ごりうぐわん)三(みつ)あり。一(ひとつ)には、今度(こんど)殿下(てんが)の寿命(じゆみやう)をたすけてたべ。さも候(さぶら)はば、したどのに候(さぶらふ)もろもろのかたは人(うど)にまじは(ッ)て、一千日(いつせんにち)が間(あひだ・あいだ)朝夕(あさゆふ)みやづかひ申(まう)さむとなり。
大殿(おほとの)の北(きた)の政所(まんどころ)にて、世(よ)を世(よ)ともおぼしめさですごさせ給(たま)ふ御心(おんこころ)に、子(こ)を思(おも)ふ道(みち)にまよひぬれば、いぶせき事(こと)もわすられて、あさましげなるかたはうどにまじは(ッ)て、一千日(いつせんにち)が間(あひだ・あいだ)、朝夕(あさゆふ)みやづかひ申(まう)さむと仰(おほせ)らるるこそ、誠(まこと)に哀(あはれ)におぼしめせ。二(ふたつ)には、大宮(おほみや)の橋(はし)づめより八王子(はちわうじ)の御社(おんやしろ)まで、廻廊(くわいらう)つく(ッ)てまい(まゐ)らせむとなり。三千(さんぜん)人(にん)の大衆(だいしゆ)、ふるにもてるにも、社参(しやさん)の時(とき)いたはしうおぼゆるに、廻廊(くわいらう)つくられたらば、いかにめでたからむ。三(みつ)には、今度(こんど)の殿下(てんが)の寿命(じゆみやう)をたすけさせ給(たま)はば、八王子(はちわうじ)の御社(おんやしろ)にて、法花問答講(ほつけもんだふかう・ほつけもんだうかう)毎日(まいにち)退転(たいてん)なくおこなはすべしとなり。いづれもおろかならねども、かみ二(ふたつ)はさなくともありなむ。
毎日(まいにち)法花問答講(ほつけもんだふかう・ほつけもんだうかう)は、誠(まこと)にあらまほしうこそおぼしめせ。但(ただし)、今度(こんど)の訴詔(そしよう・そせう)は無下(むげ)にやすかりぬべき事(こと)にてありつるを、御裁許(ごさいきよ)なくして、神人(じんにん)宮仕(みやじ)射(い・ゐ)ころされ、疵(きず)を蒙(かうぶ)り、泣々(なくなく)まい(まゐ)(ッ)て訴(うつた)へ申(まうす)事(こと)の余(あまり)に心(こころ)うくて、いかならむ世(よ)までも忘(わす)るべしともおぼえず。其上(そのうへ)かれ等(ら)があたる所(ところ)の箭(や)は、しかしながら和光垂跡(わくわうすいしやく)の御膚(おんはだへ)にた(ッ)たるなり。まことそらごとは是(これ)をみよ」とて、肩(かた)ぬいだるをみれば、左(ひだり)の脇(わき)のした、大(おほき)なるかはらけの口(くち)斗(ばかり)うげのいてぞみえたりける。「是(これ)が余(あまり)に心(こころ)うければ、いかに申(まうす)とも始終(しじゆう・しぢう)の事(こと)はかなふまじ。法花問答講(ほつけもんだふかう・ほつけもんだうかう)一定(いちぢやう)あるべくは、三(み)とせが命(いのち)をのべてたてまつらむ。
それを不足(ふそく)におぼしめさば力(ちから)及(およ・をよ)ばず」とて、山王(さんわう)あがらせ給(たまひ)けり。母(はは)うへは御立願(ごりふぐわん・ごりうぐわん)の事(こと)人(ひと)にもかたらせ給(たま)はねば、誰(たれ)もらしつらむと、すこしもうたがう(うたがふ)方(かた)もましまさず。御心(おんこころ)の内(うち)の事共(ことども)をありのままに御詫宣(ごたくせん)ありければ、心肝(しんかん)にそうて、ことにた(ッ)とくおぼしめし、泣々(なくなく)申(まう)させ給(たまひ)けるは、「縦(たとひ)ひと日(ひ)かた時(とき)にてさぶらふとも、ありがたうこそさぶらふべきに、まして三(み)とせが命(いのち)をのべて給(たまは)らむ事(こと)、しかるべうさぶらふ」とて、泣々(なくなく)御下向(おんげかう)あり。いそぎ都(みやこ)へいらせ給(たまひ)て、殿下(てんが)の御領(ごりやう)紀伊国(きのくに)に田中庄(たなかのしやう)と云(いふ)所(ところ)を、八王子(はちわうじ)の御社(おんやしろ)へ寄進(きしん)ぜらる。それよりして法花問答講(ほつけもんだふかう・ほつけもんだうかう)、今(いま)の世(よ)にいたるまで、毎日(まいにち)退転(たいてん)なしとぞ承(うけたまは)る。かかりしほどに、後二条関白殿(ごにでうのくわんばくどの)御病(おんやまふ)かろませ給(たまひ)て、もとの如(ごと)くにならせ給(たま)ふ。
上下(じやうげ)悦(よろこび)あはれしほどに、みとせのすぐるは夢(ゆめ)なれや、永長(えいちやう・ゑいちやう)二年(にねん)になりにけり。六月(ろくぐわつ)廿一日(にじふいちにち)、又(また)後二条関白殿(ごにでうのくわんばくどの)、御(おん)ぐしのきはにあしき御瘡(おんかさ)いでさせ給(たまひ)て、うちふさせ給(たま)ひしが、同(おなじき)廿七日(にじふしちにち)、御年(おんとし)卅八(さんじふはち)にて遂(つひ・つゐ)にかくれさせ給(たまひ)ぬ。
御心(おんこころ)のたけさ、理(り)のつよさ、さしもゆゆしき人人(ひとびと)にてましましけれども、まめやかに事(こと)のきう(きふ)になりしかば、御命(おんいのち)を惜(をし・おし)ませ給(たまひ)ける也(なり)。誠(まこと)に惜(をし・おし)かるべし。四十(しじふ)にだにもみたせ給(たま)はで、大殿(おほとの)に先立(さきだち)まい(まゐ)らせ給(たま)ふこそ悲(かな)しけれ。必(かならず)しも父(ちち)を先立(さきだつ)べしと云(いふ)事(こと)はなけれども、生死(しやうじ)のをきて(おきて)にしたがふならひ、万徳円満(まんどくゑんまん)の世尊(せそん)、十地究竟(じふぢくきやう・ぢうぢくきやう)の大士(だいじ)たちも、力(ちから)及(およ・をよ)び給(たま)はぬ事(こと)ども也(なり)。
慈悲具足(じひぐそく)の山王(さんわう)、利物(りもつ)の方便(はうべん)にてましませば、御(おん)とがめなかるべしとも覚(おぼえ)ず。 
御輿振 (みこしぶり)

 

さるほどに、山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)、国司(こくし)加賀守(かがのかみ)師高(もろたか)を流罪(るざい)に処(しよ)せられ、目代(もくだい)近藤(こんどうの)判官(はんぐわん)師経(もろつね)を禁獄(きんごく)せらるべき由(よし)、奏聞(そうもん)度々(どど)に及(およぶ・をよぶ)といへども、御裁許(ごさいきよ)なかりければ、日吉(ひよし)の祭礼(さいれい)をうちとどめて、安元(あんげん)三年(さんねん)四月(しぐわつ)十三日(じふさんにち)辰(たつ)の一点(いつてん)に、十禅師(じふぜんじ・じうぜんじ)・客人(まらうと・まらふと)・八王子(はちわうじ)三社(さんじや)の神輿(しんよ)賁(かざ)り奉(たてまつ)て、陣頭(ぢんどう)へふり奉(たてまつ)る。さがり松(まつ)・きれ堤(づつみ)・賀茂(かも)の河原(かはら)、糾(ただす)・梅(むめ)ただ・柳原(やなぎはら)・東福院(とうぶくゐん)のへんに、しら大衆(だいしゆ)・神人(じんにん)・宮仕(みやじ)・専当(せんだう)みちみちて、いくらと云(いふ)数(かず)をしらず。
神輿(しんよ)は一条(いちでう)を西(にし)へいらせ給(たま)ふ。御神宝(ごじんぼう)天(てん)にかかやいて、日月(じつげつ)地(ち)に落(おち)給(たま)ふかとおどろかる。
是(これ)によ(ッ)て、源平(げんぺい)両家(りやうか)の大将軍(たいしやうぐん)、四方(しはう)の陣頭(ぢんどう)をかためて、大衆(だいしゆ)ふせくべき由(よし)仰下(おほせくだ)さる。平家(へいけ)には、小松(こまつ)の内大臣(ないだいじん)の左大将(さだいしやう)重盛公(しげもりこう)、其(その)勢(せい)三千余騎(さんぜんよき)にて大宮面(おほみやおもて)の陽明(やうめい)・待賢(たいけん)・郁芳(いうはう・ゆうはう)三(みつ)の門(もん)をかため給(たま)ふ。弟(おとと)宗盛(むねもり)・具盛(とももり)・重衡(しげひら)、伯父(をぢ・おぢ)頼盛(よりもり)・教盛(のりもり)・経盛(つねもり)な(ン)どは、にし南(みなみ)の陣(ぢん)をかためられけり。源氏(げんじ)には、大内守護(たいだいしゆご)の源三位(げんざんみ)頼政卿(よりまさのきやう)、渡辺(わたなべ)のはぶく・さづくをむねとして、其(その)勢(せい)纔(わづか)に三百余騎(さんびやくよき)、北(きた)の門(もん)、縫殿(ぬいどの)の陣(ぢん)をかため給(たま)ふ。所(ところ)はひろし勢(せい)は少(すくな)し、まばらにこそみえたりけれ。大衆(だいしゆ)無勢(ぶせい)たるによ(ッ)て、北(きた)の門(もん)、縫殿(ぬいどの)の陣(ぢん)より神輿(しんよ)を入(いれ)奉(たてまつ)らんとす。
頼政卿(よりまさのきやう)さる人(ひと)にて、馬(むま)よりおり、甲(かぶと)をぬいで、神輿(しんよ)を拝(はい)し奉(たてまつ)る。兵(つはもの)ども皆(みな)かくのごとし。衆徒(しゆと)の中(なか)へ使者(ししや)をたてて、申(まうし)送(おく・をく)る旨(むね)あり。其(その)使(つかひ)は渡辺(わたなべ)の長七(ちやうじつ)唱(となふ)と云(いふ)者(もの)なり。唱(となふ)、其(その)日(ひ)はきちんの直垂(ひたたれ)に、小桜(こざくら)を黄(き)にかへいたる鎧(よろひ・よろい)きて、赤銅(しやくどう)づくりの太刀(たち)をはき、白羽(しらは)の矢(や)おひ、しげどうの弓(ゆみ)脇(わき)にはさみ、甲(かぶと)をばぬぎ、たかひもにかけ、神輿(しんよ)の御前(みまへ)に畏(かしこまつ)て申(まうし)けるは、「衆徒(しゆと)の御中(おんなか)へ源三位殿(げんざんみどの)の申(まう)せと候(ざうらふ)。今度(こんど)山門(さんもん)の御訴詔(ごそしよう・ごそせう)、理運(りうん)の条(でう)勿論(もちろん)に候(さうらふ)。御成敗(ごせいばい)遅々(ちち)こそ、よそにても遺恨(ゐこん・いこん)に覚(おぼえ)候(さうら)へ。さては神輿(しんよ)入(いれ)奉(たてまつ)らむ事(こと)、子細(しさい)に及(および・をよび)候(さうら)はず。但(ただし)頼政(よりまさ)無勢(ぶせい)候(ざうらふ)。
其上(そのうへ)あけて入(いれ)奉(たてまつ)る陣(ぢん)よりいらせ給(たまひ)て候(さうら)はば、山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)は目(め)だりがほしけりな(ン)ど、京童部(きやうわらべ)が申(まうし)候(さうら)はむ事(こと)、後日(ごにち)の難(なん)にや候(さうら)はんずらむ。神輿(しんよ)を入(いれ)奉(たてまつ)らば、宣旨(せんじ)を背(そむ)くに似(に)たり。又(また)ふせき奉(たてまつ)らば、年来(としごろ)医王山王(いわうさんわう)に首(かうべ)をかたぶけ奉(たてまつ)て候(さうらふ)身(み)が、けふより後(のち)弓箭(きゆうせん・きうせん)の道(みち)にわかれ候(さうらひ)なむず。かれといひ是(これ)といひ、かたがた難治(なんぢ)の様(やう)に候(さうらふ)。東(ひがし)の陣(ぢん)は小松殿(こまつどの)大勢(おほぜい)でかためられて候(さうらふ)。其(その)陣(ぢん)よりいらせ給(たまふ)べうや候(さうらふ)らむ」といひ送(おく・をく)りたりければ、唱(となふ)がかく申(まうす)にふせかれて、神人(じんにん)宮仕(みやじ)しばらくゆらへたり。若大衆(わかだいしゆ)どもは、「何条(なんでう)其(その)儀(ぎ)あるべき。ただ此(この)門(もん)より神輿(しんよ)を入(いれ)奉(たてまつ)れ」と云(いふ)族(やから)おほかりけれども、老僧(らうそう)のなかに三塔(さんたふ・さんたう)一(いち)の僉議者(せんぎしや)ときこえし摂津(せつつの)竪者(りつしや)豪運(がううん)、進(すす)み出(いで)て申(まうし)けるは、「尤(もつと)もさいはれたり。
神輿(しんよ)をさきだてまい(まゐ)らせて訴詔(そしよう・そせう)を致(いた)さば、大勢(おほぜい)の中(なか)をうち破(やぶつ)てこそ後代(こうたい)のきこえもあらんずれ。就中(なかんづく)に此(この)頼政卿(よりまさのきやう)は、六孫王(ろくそんわう)より以降(このかた)、源氏(げんじ)嫡々(ちやくちやく)の正棟(しやうとう)、弓箭(きゆうせん・きうせん)をと(ッ)ていまだ其(その)不覚(ふかく)をきかず。凡(およそ・をよそ)武芸(ぶげい)にもかぎらず、歌道(かだう)にもすぐれたり。
近衛院(こんゑのゐん)御在位(ございゐ)の時(とき)、当座(たうざ)の御会(ごくわい)ありしに、「深山花(しんざんのはな)」と云(いふ)題(だい)を出(いだ)されたりけるを、人々(ひとびと)よみわづらひたりしに、此(この)頼政卿(よりまさのきやう)、
深山木(みやまぎ)のそのこずゑともみえざりしさくらは花(はな)にあらはれにけり
と云(いふ)名歌(めいか)仕(つかまつ)て御感(ぎよかん)にあづかるほどのやさ男(をとこ・おとこ)に、時(とき)に臨(のぞん)で、いかがなさけなう恥辱(ちじよく)をばあたふべき。此(この)神輿(しんよ)かきかへし奉(たてまつれ)や」と僉議(せんぎ)しければ、数千人(すせんにん)の大衆(だいしゆ)先陣(せんぢん)より後陣(ごぢん)まで、皆(みな)尤々(もつとももつとも)とぞ同(どう)じける。さて神輿(しんよ)を先立(さきだて)まい(まゐ)らせて、東(ひがし)の陣頭(ぢんどう)、待賢門(たいけんもん)より入(いれ)奉(たてまつ)らむとしければ、狼籍(らうぜき)忽(たちまち)に出来(いでき)て、武士(ぶし)ども散々(さんざん)に射(い・ゐ)奉(たてまつ)る。十禅師(じふぜんじ・ぢうぜんじ)の御輿(みこし)にも箭(や)どもあまた射(い・ゐ)たてたり。神人(じんにん)宮仕(みやじ)射(い・ゐ)ころされ、衆徒(しゆと)おほく疵(きず)を蒙(かうぶ)る。おめき(をめき)さけぶ声(こゑ)梵天(ぼんでん)までもきこえ、堅牢地神(けんらうぢじん)も驚(おどろく・をどろく)らむとぞおぼえける。
大衆(だいしゆ)神輿(しんよ)をば陣頭(ぢんどう)にふりすて奉(たてまつ)り、泣々(なくなく)本山(ほんざん)へかへりのぼる。  
内裏炎上 (だいりえんしやう)

 

蔵人左少弁(くらんどのさせうべん)兼光(かねみつ)に仰(おほせ)て、殿上(てんじやう)にて俄(にはか)に公卿僉議(くぎやうせんぎ)あり。保安(ほうあん)四年(しねん)七月(しちぐわつ)に神輿(しんよ)入洛(じゆらく)の時(とき)は、座主(ざす)に仰(おほせ)て赤山(せきさん)の社(やしろ)へ入(いれ)奉(たてまつ)る。又(また)保延(ほうえん)四年(しねん)四月(しぐわつ)に神輿(しんよ)入洛(じゆらく)の時(とき)は、祇園別当(ぎをんのべつたう)に仰(おほせ)て祇園社(ぎをんのやしろ)へ入(いれ)奉(たてまつ)る。今度(こんど)は保延(ほうえん)の例(れい)たるべしとて、祇園(ぎをん)の別当(べつたう)権大僧都(ごんのだいそうづ)澄兼(ちようけん・てうけん)に仰(おほせ)て、秉燭(へいしよく)に及(およん・をよん)で祇園(ぎをん)の社(やしろ)へ入(いれ)奉(たてまつ)る。
神輿(しんよ)にたつ所(ところ)の箭(や)をば、神人(じんにん)して是(これ)をぬかせらる。山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)、日吉(ひよし)の神輿(しんよ)を陣頭(ぢんどう)へふり奉(たてまつ)る事(こと)、永久(えいきう・ゑいきう)より以降(このかた)、治承(ぢしよう・ぢせう)までは六箇度(ろくかど)なり。毎度(まいど)に武士(ぶし)を召(めし)てこそふせかるれども、神輿(しんよ)射(い・ゐ)奉(たてまつ)る事(こと)是(これ)始(はじめ)とぞ承(うけたまは)る。
「霊神(れいしん)怒(いかり)をなせば、災害(さいがい)岐(ちまた)にみつといへり。おそろしおそろし」とぞ人々(ひとびと)申(まうし)あはれける。同(おなじき)十四日(じふしにち)夜半(やはん)斗(ばかり)、山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)又(また)下洛(げらく)すときこえしかば、夜中(やちゆう・やちう)に主上(しゆしやう)要輿(えうよ・ようよ)にめして、院御所(ゐんのごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの・ほうぢうじどの)へ行幸(ぎやうがう)なる。中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)は御車(おんくるま)にたてまつて行啓(ぎやうげい)あり。小松(こまつ)のおとど、直衣(なほし・なをし)に箭(や)おうて供奉(ぐぶ)せらる。嫡子(ちやくし)権亮少将(ごんのすけぜうしやう)維盛(これもり)、束帯(そくたい)にひらやなぐひおうてまい(まゐ)られけり。関白殿(くわんばくどの)を始(はじめ)奉(たてまつ)て、太政大臣(だいじやうだいじん)以下(いげ)の公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、我(われ)も我(われ)もとはせまい(まゐ)る。凡(およそ・をよそ)京中(きやうぢゆう・きやうぢう)の貴賎(きせん)、禁中(きんちゆう・きんちう)の上下(じやうげ)、さは(さわ)ぎののしる事(こと)緩(おびたた)し。
山門(さんもん)には、神輿(しんよ)に箭(や)たち、神人(じんにん・じむにん)宮仕(みやじ)射(い・ゐ)ころされ、衆徒(しゆと)おほく疵(きず)をかうぶりしかば、大宮(おほみや)二宮(にのみや)以下(いげ)、講堂(かうだう)中堂(ちゆうだう・ちうだう)すべて諸堂(しよだう)一宇(いちう)ものこさず焼払(やきはらつ)て、山野(さんや)にまじはるべき由(よし)、三千(さんぜん)一同(いちどう)に僉議(せんぎ)しけり。是(これ)によ(ッ)て大衆(だいしゆ)の申(まうす)所(ところ)、御(おん)ぱからひあるべしときこえしかば、山門(さんもん)の上綱等(じやうかうら)、子細(しさい)を衆徒(しゆと)にふれんとて登山(とうざん)しけるを、大衆(だいしゆ)おこ(ッ)て西坂本(にしざかもと)より皆(みな)お(ッ)かへす。平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)、其(その)時(とき)はいまだ左衛門督(さゑもんのかみ)にておはしけるが、上卿(しやうけい)にたつ。大講堂(だいかうだう)の庭(には)に三塔(さんたふ・さんたう)会合(くわいがふ・くわいがう)して、上卿(しやうけい)をと(ッ)てひ(ッ)ぱらむとす。
「しや冠(かぶり)うちおとせ。其(その)身(み)を搦(からめ)て湖(みづうみ)にしづめよ」な(ン)どぞ僉議(せんぎ)しける。既(すで)にかうとみえられけるに、時忠卿(ときただのきやう)「暫(しばらく)しづまられ候(さうら)へ。衆徒(しゆと)の御中(おんなか)へ申(まうす)べき事(こと)あり」とて、懐(ふところ)より小硯(こすずり)たたうがみをとり出(いだ)し、一筆(ひとふで)かいて大衆(だいしゆ)の中(なか)へつかはす。是(これ)を披(ひらい)てみれば、「衆徒(しゆと)の濫悪(らんあく)を致(いた)すは魔縁(まえん)の所行(しよぎやう)なり。明王(めうわう)の制止(せいし)を加(くはふ)るは善政(ぜんぜい)の加護(かご)也(なり)」とこそかかれたれ。是(これ)をみてひ(ッ)ぱるに及(およ・をよ)ばず。大衆(だいしゆ)皆(みな)尤々(もつとももつとも)と同(どう)じて、谷々(たにだに)へおり、坊(ばう)々へぞ入(いり)にける。一紙(いつし)一句(いつく)をも(ッ)て三塔(さんたふ・さんたう)三千(さんぜん)の憤(いきどほり・いきどをり)をやすめ、公私(こうし)の恥(はぢ)をのがれ給(たま)へる時忠卿(ときただのきやう)こそゆゆしけれ。人々(ひとびと)も、山門(さんもん)の衆徒(しゆと)は発向(はつかう)のかまびすしき斗(ばかり)かとおもひたれば、ことはり(ことわり)も存知(ぞんぢ)したりけりとぞ、感(かん)ぜられける。
同(おなじき)廿日(はつかのひ)、花山院権中納言(くわさんのゐんのごんちゆうなごん・くわさんのゐんのごんちうなごん)忠親卿(ただちかのきやう)を上卿(しやうけい)にて、国司(こくし)加賀守(かがのかみ)師高(もろたか)遂(つひ・つゐ)に闕官(けつくわん)ぜられて、尾張(をはり・おはり)の井戸田(ゐどた)へながされけり。目代(もくだい)近藤(こんどうの)判官(はんぐわん・はんぐはん)師経(もろつね)禁獄(きんごく)せらる。又(また)去(さんぬ)る十三日(じふさんにち)、神輿(しんよ)射(い・ゐ)奉(たてまつり)し武士(ぶし)六人(ろくにん)獄定(ごくぢやう)ぜらる。左衛門尉(さゑもんのじよう・さゑもんのぜう)藤原正純(ふぢはらのまさずみ)、右衛門尉(うゑもんのじよう・うゑもんのぜう)正季(まさすゑ)、左衛門尉(さゑもんのじよう・さゑもんのぜう)大江家兼(おほえのいへかね)、右衛門尉(うゑもんのじよう・うゑもんのぜう)同(おなじく)家国(いへくに)、左兵衛尉(さひやうゑのじよう・さひやうゑのぜう)清原康家(きよはらのやすいへ)、右兵衛尉(うひやうゑのじよう・うひやうゑのぜう)同(おなじく)康友(やすとも)、是等(これら)は皆(みな)小松殿(こまつどの)の侍(さぶらひ・さぶらい)なり。
同(おなじき)四月(しぐわつ)廿八日(にじふはちにち)亥剋(ゐのこく)斗(ばかり)、樋口富少路(ひぐちとみのこうぢ)より火(ひ)出来(いでき)て、辰巳(たつみ)の風はげしう吹(ふき)ければ、京中(きやうぢゆう・きやうぢう)おほく焼(やけ)にけり。大(おほき)なる車輪(しやりん)の如(ごと)くなるほむらが、三町(さんぢやう)五町(ごちやう)へだてて戌亥(いぬゐ)のかたへすぢかへに、とびこえとびこえやけゆけば、おそろしな(ン)どもおろかなり。或(あるい)は具平親王(ぐへいしんわう)の千種殿(ちくさどの)、或(あるい)は北野(きたの)の天神(てんじん)の紅梅殿(こうばいどの)、橘逸成(きついつせい)のはひ松殿(まつどの)、鬼殿(おにどの)・高松殿(たかまつどの)・鴨居殿(かもゐどの)・東三条(とうさんでう)、冬嗣(ふゆつぎ)のおとどの閑院殿(かんゐんどの)、昭宣公(せうぜんこう)の堀川殿(ほりかはどの)、是(これ)を始(はじめ)て、昔(むかし)今(いま)の名所(めいしよ)卅(さんじふ)余箇所(よかしよ)、公卿(くぎやう)の家(いへ)だにも十六(じふろく)箇所(かしよ)まで焼(やけ)にけり。
其(その)外(ほか)、殿上人(てんじやうびと)諸大夫(しよだいぶ)の家々(いへいへ)はしるすに及(およ・をよ)ばず。はては大内(おほうち)にふきつけて、朱雀門(しゆしやくもん)より始(はじめ)て、応田門(おうでんもん)・会昌門(くわいしやうもん)、大極殿(だいこくでん)・豊楽院(ぶらくゐん)、諸司(しよし)八省(はつしやう・はつせう)・朝所(あいだんどころ)、一時(いちじ)が内(うち)に灰燼(くわいじん)の地(ち)とぞなりにける。家々(いへいへ)の日記(につき)、代々(だいだい)の文書(もんじよ)、七珍万宝(しつちんまんぼう)さながら麈灰(ぢんくわい)となりぬ。其(その)間(あひだ・あいだ)の費(つゐ)へ(つひえ)いか斗(ばかり)ぞ。人(ひと)のやけしぬる事(こと)数百人(すひやくにん)、牛馬(ぎうば)のたぐひは数(かず)を知(しら)ず。
是(これ)ただ事(こと)に非(あら)ず、山王(さんわう)の御(おん)とがめとて、比叡山(ひえいさん・ひゑいさん)より大(おほき)なる猿(さる)どもが二三千(にさんぜん)おりくだり、手々(てんで)に松火(まつび)をともひ(ともい)て京中(きやうぢゆう・きやうぢう)をやくとぞ、人(ひと)の夢(ゆめ)にはみえたりける。大極殿(だいこくでん)は清和天皇(せいわてんわう)の御宇(ぎよう)、貞観(ぢやうぐわん)十八年(じふはちねん)に始(はじめ)てやけたりければ、同(おなじき)十九(じふく)年(ねん)正月(しやうぐわつ)三日(みつかのひ)、陽成院(やうぜいのゐん)の御即位(ごそくゐ)は豊楽院(ぶらくゐん)にてぞありける。元慶(ぐわんきやう・ぐはんきやう)元年(ぐわんねん・ぐはんねん)四月(しぐわつ)九日(ここのかのひ)、事始(ことはじめ)あ(ッ)て、同(おなじき)二年(にねん)十月(じふぐわつ)八日(やうかのひ)にぞつくり出(いだ)されたりける。
後冷泉院(ごれんぜいのゐん)の御宇(ぎよう)、天喜(てんき)五年(ごねん)二月(にぐわつ)廿六日(にじふろくにち)、又(また)やけにけり。治暦(ぢりやく)四年(しねん)八月(はちぐわつ)十四日(じふしにち)、事始(ことはじめ)ありしかども、造(つく)り出(いだ)されずして、後冷泉院(ごれんぜいのゐん)崩御(ほうぎよ)なりぬ。後三条(ごさんでう)の院(ゐん)の御宇(ぎよう)、延久(えんきう)四年(しねん)四月(しぐわつ)十五日(じふごにち)作(つく)り出(いだ)して、文人(ぶんじん)詩(し)を奉(たてまつ)り、伶人(れいじん)楽(がく)を奏(そう)して遷幸(せんかう)なし奉(たてまつ)る。今(いま)は世(よ)末(すゑ)にな(ッ)て、国(くに)の力(ちから)も衰(おとろ)へたれば、其後(そののち)は遂(つひ・つゐ)につくられず。  
 
平家物語 巻二

 

座主流 (ざすながし) 
治承(ぢしよう・ぢせう)元年(ぐわんねん)五月(ごぐわつ)五日(いつかのひ)、天台座主(てんだいざす)明雲大僧正(めいうんだいそうじやう)、公請(くじやう)を停止(ちやうじ)せらるるうへ、蔵人(くらんど)を御使(おつかひ)にて、如意輪(によいりん)の御本尊(ごほんぞん)をめしかへひ(めしかへい)て、御持僧(ごぢそう)を改易(かいえき・かいゑき)せらる。則(すなはち)使庁(しちやう)の使(つかひ)をつけて、今度(こんど)神輿(しんよ)内裏(だいり)へ振(ふり)たてまつる衆徒(しゆと)の張本(ちやうぼん)をめされけり。加賀国(かがのくに)に座主(ざす)の御房領(ごばうりやう)あり。国司(こくし)師高(もろたか)是(これ)を停廃(ちやうはい)の間(あひだ・あいだ)、その宿意(しゆくい)によ(ッ)て大衆(だいしゆ)をかたらひ、訴詔(そしよう・そせう)をいたさる。すでに朝家(てうか)の御大事(おんだいじ)に及(およぶ・をよぶ)よし、西光法師(さいくわうほふし・さいくわうほうし)父子(ふし)が讒奏(ざんそう)によ(ッ)て、法皇(ほふわう・ほうわう)大(おほき)に逆鱗(げきりん)ありけり。
ことに重科(ぢゆうくわ・ぢうくわ)におこなはるべしときこゆ。明雲(めいうん)は法皇(ほふわう・ほうわう)の御気色(ごきしよく)あしかりければ、印鑰(いんやく・ゐんやく)をかへしたてまつて、座主(ざす)を辞(じ)し申(まう)さる。同(おなじき)十一日(じふいちにち)、鳥羽院(とばのゐん)の第七(だいしち)の宮(みや)、覚快(かくくわい)法親王(ほふしんわう・ほうしんわう)天台座主(てんだいざす)にならせ給(たま)ふ。
是(これ)は青連院(しやうれんゐん・せうれんゐん)の大僧正(だいそうじやう)、行玄(ぎやうげん)の御弟子(おんでし)也(なり)。同(おなじき)十一日(じふいちにち)、前座主(せんざす)所職(しよしよく)をとどめらるるうへ、検非違使(けんびゐし・けんびいし)二人(ににん)をつけて、井(ゐ)にふたをし、火(ひ)に水(みづ)をかけ、水火(すいくわ)のせめにをよぶ(およぶ)。
これによ(ッ)て、大衆(だいしゆ)猶(なほ)参洛(さんらく)すべき由(よし)聞(きこ)えしかば、京中(きやうぢゆう・きやうぢう)又(また)さはぎ(さわぎ)あへり。同(おなじき)十八日(じふはちにち)、太政大臣(だいじやうだいじん)以下(いげ)の公卿(くぎやう)十三人(じふさんにん)参内(さんだい)して、陣(ぢん)の座(ざ)につきて、前(さき)の座主(ざす)罪科(ざいくわ)の事(こと)儀定(ぎぢやう)あり。八条中納言(はつでうのちゆうなごん・はつでうのちうなごん)長方卿(ながかたのきやう)、其(その)時(とき)はいまだ左大絅宰相(さだいべんさいしやう)にて、末座(ばつざ)に候(さうらひ)けるが、申(まう)されけるは、「法家(ほつけ)の勘状(かんじやう)にまかせて、死罪(しざい)一等(いつとう)を減(げん)じて遠流(をんる)せらるべしと見(み)えてて候(さうら)へども、前座主(さきのざす)明雲大僧正(めいうんだいそうじやう)は顕密(けんみつ)兼学(けんがく)して、浄行持律(じやうぎやうぢりつ・ぢやうぎやうぢりつ)のうへ、大乗妙経(だいじようめうきやう・だいぜうめうきやう)を公家(くげ)にさづけ奉(たてまつ)り、菩薩浄戒(ぼさつじやうかい)を法皇(ほふわう・ほうわう)にたもたせ奉(たてまつ)る。
御経(おんきやう)の師(し)、御戒(ごかい)の師(し)、重科(ぢゆうくわ・ぢうくわ)におこなはれん事(こと)、冥(みやう)の照覧(せうらん)はかりがたし。還俗遠流(げんぞくをんる)をなだめらるべきか」と、はばかる所(ところ)もなう申(まう)されければ、当座(たうざ)の公卿(くぎやう)みな長方(ながかた)の義(ぎ)に同(どう)ずと申(まうし)あはれけれども、法皇(ほふわう・ほうわう)の御(おん)いきどをり(いきどほり)ふかかりしかば、猶(なほ・なを)遠流(をんる)に定(さだめ)らる。太政入道(だいじやうにふだう・だいじやうにうだう)も此(この)事(こと)申(まう)さむとて、院参(ゐんざん)せられけれ共(ども)、法皇(ほふわう・ほうわう)御風(おんかぜ)のけとて御前(ごぜん)へもめされ給(たま)はねば、ほいなげにて退出(たいしゆつ)せらる。僧(そう)を罪(つみ)するならひとて、度縁(どえん・とゑん)をめしかへし、還俗(げんぞく)せさせ奉(たてまつ)り、大納言大輔(だいなごんのたいふ・だいなごんのたゆふ)藤井松枝(ふぢゐのまつえだ・ふぢゐのまつゑだ)と俗名(ぞくみやう)をぞつけられける。
此(この)明雲(めいうん)と申(まうす)は、村上天皇(むらかみてんわう)第七(だいしち)の皇子(わうじ)、具平親王(ぐへいしんわう)より六代(ろくだい)の御末(おんすゑ)、久我大納言(こがのだいなごん)顕通卿(あきみちのきやう)の御子(おんこ)也(なり)。誠(まこと)に無双(ぶさう)の硯徳(せきとく)、天下(てんが)第一(だいいち)の高僧(かうそう)にておはしければ、君(きみ)も臣(しん)もた(ッ)とみ、〔天〕王寺(〔てん〕わうじ)・六勝寺(ろくしようじ・ろくせうじ)の別当(べつたう)をもかけ給(たま)へり。されども陰陽頭(おんやうのかみ・をんやうのかみ)安陪泰親(あべのやすちか)が申(まうし)けるは、「さばかりの智者(ちしや)の明雲(めいうん)と名(な)のり給(たまふ)こそ心(こころ)えね。うへに日月(じつげつ)の光(ひかり)をならべて、下(した)に雲(くも)あり」とぞ難(なん)じける。仁安(にんあん)元年(ぐわんねん)二月(にぐわつ・に(ン)ぐわつ)廿日(はつかのひ)、天台座主(てんだいざす)にならせ給(たまふ)。同(おなじき)三月(さんぐわつ)十五日(じふごにち)、御拝堂(ごはいたう)あり。中堂(ちゆうだう・ちうだう)の宝蔵(ほうざう)をひらかれけるに、種々(しゆじゆ)の重宝共(ちようほうども・てうほうども)の中(なか)に、方(はう)一尺(いつしやく)の箱(はこ)あり。しろい布(ぬの)にてつつまれたり。
一生不犯(いつしやうふぼん)の座主(ざす)、彼(かの)箱(はこ)をあけて見(み)給(たまふ)に、黄紙(わうし)にかけるふみ一巻(いつくわん・いちくはん)あり。伝教大師(でんげうだいし)未来(みらい)の座主(ざす)の名字(みやうじ)を兼(かね)てしるしをか(おか)れたり。我(わが)名(な)のある所(ところ)までみて、それより奥(おく)をば、見(み)ず、もとのごとくにまき返(かへ)してをか(おか)るるならひ也(なり)。されば此(この)僧正(そうじやう)もさこそおはしけめ。かかるた(ッ)とき人(ひと)なれども、前世(ぜんぜ)の宿業(しゆくごふ・しゆくごう)をばまぬかれ給(たま)はず。あはれなりし事共(ことども)也(なり)。同(おなじき)廿一日(にじふいちにち)、配所(はいしよ)伊豆国(いづのくに)と定(さだめ)らる。人々(ひとびと)様々(さまざま)に申(まうし)あはれけれども、西光法師(さいくわうほふし・さいくわうほうし)父子(ふし)が讒奏(ざんそう)によ(ッ)て、かやうにおこなはれけり。
やがてけふ都(みやこ)の内(うち)を追出(おひいだ)さるべしとて、追立(おつたて・をつたて)の官人(くわんにん)白河(しらかは)の御房(ごばう)にむかひ、をひ(おひ)奉(たてまつ)る。僧正(そうじやう)なくなく御坊(ごばう)を出(いで)て、粟田口(あはたぐち)のほとり、一切経(いつさいきやう)の別所(べつしよ)へいらせ給(たま)ふ。山門(さんもん)には、せんずる所(ところ)、我等(われら)が敵(かたき)は西光(さいくわう・さいくはう)父子(ふし)に過(すぎ)たる者(もの)なしとて、彼等(かれら)親子(おやこ)が名字(みやうじ)をかいて、根本中堂(こんぼんちゆうだう・こんぼんちうだう)におはします十二(じふに)神将(じんじやう)の内(うち)、金毘羅大将(こんびらだいじやう)の左(ひだり)の御足(おんあし)の下(した)にふませ奉(たてまつ)り、「十二(じふに)神将(じんじやう)・七千夜叉(しちせんやしや)、時刻(じこく)をめぐらさず西光(さいくわう)父子(ふし)が命(いのち)をめしとり給(たま)へや」と、おめき(をめき)さけんで呪咀(しゆそ)しけるこそ聞(きく)もおそろしけれ。同(おなじき)廿三日(にじふさんにち)、一切経(いつさいきやう)の別所(べつしよ)より配所(はいしよ)へおもむき給(たまひ)けり。
さばかんの法務(ほふむ・ほうむ)の大僧正(だいそうじやう)ほどの人(ひと)を、追立(おつたて・をつたて)の鬱使(うつし)がさきにけたてさせ、今日(けふ)をかぎりに都(みやこ)を出(いで)て、関(せき)の東(ひがし・ひ(ン)がし)へおもむかれけん心(こころ)のうち、をし(おし)はかられてあはれ也(なり)。大津(おほつ)の打出(うちで)の浜(はま)にも成(なり)しかば、文殊楼(もんじゆろう)の軒端(のきば)のしろじろとしてみえけるを、ふた目(め)とも見(み)給(たま)はず、袖(そで)をかほにをし(おし)あてて、涙(なみだ)にむせび給(たまひ)けり。山門(さんもん)には、宿老(しゆくらう)碩徳(せきとく)おほしといへども、澄憲法印(ちようけんほふいん・てうけんほうゐん)、其(その)時(とき)はいまだ僧都(そうづ)にておはしけるが、余(あまり)に名残(なごり)をおしみ(をしみ)奉(たてまつ)り、粟津(あはづ)まで送(おく・をく)りまいらせ(まゐらせ)、さても有(ある)べきならねば、それよりいとま申(まうし)てかへられけるに、僧正(そうじやう)心(こころ)ざしの切(せつ)なる事(こと)を感(かん)じて、年来(としごろ)御心中(ごしんぢゆう・ごしんぢう)に秘(ひ)せられたりし一心(いつしん)三観(さんぐわん)の血脈相承(けつみやくさうじよう・けつみやくさうぜう)をさづけらる。
此(この)法(ほふ・ほう)は釈尊(しやくそん)の附属(ふぞく)、波羅奈国(はらないこく)の馬鳴比丘(めみやうびく・めめうびく)、南天竺(なんてんぢく)の竜樹菩薩(りゆうじゆぼさつ・りうじゆぼさつ)より次第(しだい)に相伝(さうでん)しきたれる、けふのなさけにさづけらる。
さすが我(わが)朝(てう)は粟散辺地(そくさんへんぢ)の境(さかい)、濁世末代(じよくせまつだい)といひながら、、澄憲(ちようけん・てうけん)これを附属(ふぞく)して、法衣(ほふえ・ほうゑ)の袂(たもと)をしぼりつつ、都(みやこ)へ帰(かへり)のぼられける心(こころ)のうちこそた(ッ)とけれ。山門(さんもん)には大衆(だいしゆ)おこ(ッ)て僉議(せんぎ)す。「義真和尚(ぎしんくわしやう)よりこのかた、天台座主(てんだいざす)はじま(ッ)て五十五代(ごじふごだい)に至(いた)るまで、いまだるざいの例(れい)をきかず。倩(つらつら)事(こと)の心(こころ)をあむずる(あんずる)に、延暦(えんりやく)の比(ころ)ほひ、皇帝(くわうてい)は帝都(ていと)をたて、大師(だいし)は当山(たうざん)によぢのぼ(ッ)て四明(しめい)の教法(けうぼふ・けうぼう)を此(この)所(ところ)にひろめ給(たまひ)しよりこのかた、五障(ごしやう)の女人(によにん)跡(あと)たえて、三千(さんぜん)の浄侶(じやうりよ)居(きよ)をしめたり。
嶺(みね)には一乗読誦(いちじようどくじゆ・いちぜうどくじゆ)年(とし)ふりて、麓(ふもと)には七社(しちしや)の霊験(れいげん)日(ひ)新(あらた)なり。彼(かの)月氏(ぐわつし・ぐはつし)の霊山(りやうぜん)は王城(わうじやう)の東北(とうぼく)、大聖(だいしやう)の幽崛(ゆうくつ)也(なり)。此(この)日域(じちいき)の叡岳(えいがく)も帝都(ていと)の鬼門(きもん)に峙(そばたち)て、護国(ごこく)の霊地(れいち)也(なり)。代々(だいだい)の賢王(けんわう)智臣(ちしん)、此(この)所(ところ)に壇場(だんぢやう)をしむ。末代(まつだい)ならむがらに、いかんが当山(たうざん)に瑕(きず)をばつくべき。心(こころ)うし」とて、おめき(をめき)さけぶといふ程(ほど)こそありけれ、満山(まんざん)の大衆(だいしゆ)みな東坂本(ひがしざかもと・ひ(ン)がしざかもと)へおり下(くだ)る。 
一行阿闍梨之沙汰 (いちぎやうあじやりのさた) 

 

「抑(そもそも)我等(われら)粟津(あはづ)にゆきむかひて、貫首(くわんじゆ)をうばひとどめ奉(たてまつ)るべし。但(ただし)追立(おつたて・をつたて)の鬱使(うつし)・令送使(りやうそうし)あんなれば、事故(ことゆゑ)なくとりえたてまつらん事(こと)ありがたし。山王大師(さんわうだいし)の御力(おんちから)の外(ほか)はたのむかたなし。誠(まこと)に別(べち)の子細(しさい)なくとりえ奉(たてまつ)るべくは、爰(ここ)にてまづ瑞相(ずいさう)を見(み)せしめ給(たま)へ」と、老僧(らうそう)ども肝胆(かんたん)をくだいて祈念(きねん)しけり。ここに無動寺法師(むどうじぼふし・むどうじぼうし)乗円律師(じようゑんりつし・ぜうえんりつし)がわらは、鶴丸(つるまる)とて、生年(しやうねん)十八歳(じふはつさい)になるが、身心(しんじん)をくるしめ五体(ごたい)に汗(あせ)をながひ(ながい)て、俄(にはか)にくるひ出(いで)たり。
「われに十禅師権現(じふぜんじごんげん)のりゐさせ給(たま)へり。末代(まつだい)といふ共(とも)、いかでか我山(わがやま)の貫首(くわんじゆ)をば、他国(たこく)へはうつさるべき。生々世々(しやうじやうせせ)に心(こころ)うし。さらむにと(ッ)ては、われ此(この)ふもとに跡(あと)をとどめても何(なに)かはせむ」とて、左右(さう)の袖(そで)をかほにをし(おし)あてて、涙(なみだ)をはらはらとながす。大衆(だいしゆ)これをあやしみて、「誠(まこと)に十禅師権現(じふぜんじごんげん)の御詫宣(ごたくせん)にてましまさば、我等(われら)しるしをまいらせ(まゐらせ)む。
すこしもたがへずもとのぬしに返(かへ)したべ」とて、老僧(らうそう)ども四五百人(しごひやくにん)、手々(てんで・て(ン)で)にも(ッ)たる数珠共(じゆずども)を、十禅師(じふぜんじ)の大床(おほゆか)のうへへぞなげあげたる。此(この)物(もの)ぐるひはしりまは(ッ)てひろひあつめ、すこしもたがへず一々(いちいち)にもとのぬしにぞくばりける。大衆(だいしゆ)神明(しんめい)の霊験(れいげん)あらたなる事(こと)のた(ッ)とさに、みなたな心(ごころ)を合(あはせ)て随喜(ずいき)の涙(なみだ)をぞもよほしける。「其(その)儀(ぎ)ならば、ゆきむか(ッ)てうばひとどめ奉(たてまつ)れ」といふ程(ほど)こそありけれ、雲霞(うんか)の如(ごと)くに発向(はつかう)す。或(あるい・あるひ)は志賀(しが)辛崎(からさき)のはま路(ぢ)にあゆみつづける大衆(だいしゆ)もあり、或(あるい・あるひ)は山田(やまだ)矢(や)ばせの湖上(こしやう)に舟(ふね)をしいだす衆徒(しゆと)もあり。是(これ)を見(み)て、さしもきびしげなりつる追立(おつたて・をつたて)の鬱使(うつし)・令送使(りやうそうし)、四方(しはう)へ皆(みな)逃(にげ)さりぬ。
大衆(だいしゆ)国分寺(こくぶんじ)へ参(まゐ)り向(むかふ)。前座主(さきのざす)大(おほき)におどろひ(おどろい)て、「勅勘(ちよくかん)の者(もの)は月日(つきひ)の光(ひかり)にだにもあたらずとこそ申(まう)せ。何(なんぞ)况(いはん)や、いそぎ都(みやこ)の内(うち)を追出(おひいだ・をひいだ)さるべしと、院宣(ゐんぜん)・宣旨(せんじ)の成(なり)たるに、しばしもやすらふべからず。衆徒(しゆと)とうとう帰(かへ)りのぼり給(たま)へ」とて、はしぢかうゐ出(いで)ての給(たま)ひけるは、「三台槐門(さんたいくわいもん・さんだいくわいもん)の家(いへ)を出(いで)て、四明幽渓(しめいいうけい・しめいゆうけい)の窓(まど)に入(いり)しよりこのかた、ひろく円宗(ゑんしゆう・えんしう)の教法(けうぼふ・けうぼう)を学(がく)して、顕密(けんみつ)両宗(りやうしう)をまなびき。ただ吾山(わがやま)の興隆(こうりゆう・こうりう)をのみ思(おも)へり。又(また)国家(こくか)を祈(いのり)奉(たてまつ)る事(こと)おろそかならず。衆徒(しゆと)をはぐくむ志(こころざし)もふかかりき。
両所山王(りやうしよさんわう・りやうじよさんわう)さだめて照覧(せうらん)し給(たま)ふらん。身(み)にあやまつことなし。無実(むじつ)の罪(つみ)によ(ッ)て遠流(をんる)の重科(ぢゆうくわ・ぢうくわ)をかうぶれば、世(よ)をも人(ひと)をも神(かみ)をも仏(ほとけ)をも恨(うら)み奉(たてまつ)る事(こと)なし。これまでとぶらひ来(きた)り給(たま)ふ衆徒(しゆと)の芳志(はうし)こそ報(ほう)じ申(まうし)がたけれ」とて、香染(かうぞめ)の御衣(おんころも)の袖(そで)しぼりもあへ給(たま)はねば、大衆(だいしゆ)もみな涙(なみだ)をぞながしける。御輿(おんこし)さしよせて、「とうとうめさるべう候(さうらふ)」と申(まうし)ければ、「昔(むかし)こそ三千(さんぜん)の衆徒(しゆと)の貫首(くわんじゆ)たりしか、いまはかかる流人(るにん)の身(み)と成(な・ッ)て、いかむが(いかんが)や(ン)ごとなき修学者(しゆがくしや)、智恵(ちゑ)ふかき大衆(だいしゆ)たちには、かきささげられてのぼるべき。縦(たとひ)のぼるべきなり共(とも)、わらむづ(わらんづ)な(ン)ど(など)いふ物(もの)しばりはき、おなじ様(やう)にあゆみつづひ(つづい)てこそのぼらめ」とてのり給(たま)はず。
ここに西塔(さいたう)の住侶(ぢゆうりよ・ぢうりよ)、戒浄房(かいじやうばう)の阿闍梨(あじやり)祐慶(いうけい・ゆうけい)といふ悪僧(あくそう)あり。たけ七尺(しちしやく)ばかり有(あり)けるが、黒革威(くろかはをどし・くろかはおどし)の鎧(よろひ・よろい)の大荒目(おほあらめ)にかねまぜたるを、草摺長(くさずりなが)にきなして、甲(かぶと)をばぬぎ、法師原(ほふしばら・ほうしばら)にもたせつつ、白柄(しらえ)の大長刀(おほなぎなた)杖(つゑ・つえ)につき、「あけられ候(さうら)へ」とて、大衆(だいしゆ)の中(なか)ををし(おし)分(わけ)をし(おし)分(わけ)、前座主(せんざす)のおはしける所(ところ)へつ(ッ)と参(まゐ)り、大(だい)の眼(まなこ)をいからかし、し(ン)ばしにらまへ奉(たてまつ)り、「その御心(おんこころ)でこそかかる御目(おんめ)にもあはせ給(たま)へ。
とうとうめさるべう候(さうらふ)」と申(まうし)ければ、おそろしさにいそぎのり給(たまふ)。大衆(だいしゆ)とり得(え)奉(たてまつ)るうれしさに、いやしき法師原(ほふしばら・ほうしばら)にはあらで、や(ン)ごとなき修学者(しゆがくしや)どもかきささげ奉(たてまつ)り、おめき(をめき)さけ(ン・さけん)でのぼりけるに、人(ひと)はかはれども祐慶(いうけい・ゆうけい)はかはらず、さき輿(ごし)かいて、長刀(なぎなた)の柄(え)もこしの轅(ながえ)もくだけよととるままに、さしもさがしき東坂(ひがしざか・ひ(ン)がしざか)、平地(へいぢ)を行(ゆく)が如(ごと)く也(なり)。大講堂(だいかうだう)の庭(には)にこしかきすへ(すゑ)て、僉議(せんぎ)しけるは、「抑(そもそも)我等(われら)粟つ(あはづ)に行向(ゆきむかつ)て、貫首(くわんじゆ)をばうばひとどめ奉(たてまつ)りぬ。既(すで)に勅勘(ちよくかん)を蒙(かうぶり)て流罪(るざい)せられ給(たま)ふ人(ひと)を、とりとどめ奉(たてまつり)て貫首(くわんじゆ)に用ひ(もちゐ)申(まう)さむ事(こと)、いかが有(ある)べからむ」と僉議(せんぎ)す。
戒浄房(かいじやうばう)の阿闍梨(あじやり)、又(また)先(さき)の如(ごと)くにすすみ出(いで)て僉議(せんぎ)しけるは、「夫(それ)当山(たうざん)は日本無双(につぽんぶさう)の霊地(れいち)、鎮護国家(ちんごこくか)の道場(だうぢやう)、山王(さんわう)の御威光(ごいくわう・ごいくはう)盛(さかん)にして、仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)王法(わうぼふ・わうぼう)牛角(ごかく)也(なり)。されば衆徒(しゆと)の意趣(いしゆ)に至(いた)るまでならびなく、いやしき法師原(ほふしばら・ほうしばら)までも世(よ)も(ッ)てかろしめず。况(いはん)や智恵(ちゑ)高貴(かうき)にして三千(さんぜん)の貫首(くわんじゆ)たり。いま は徳行(とくぎやう)をもう(おもう)して一山(いつさん)の和尚(わじやう)たり。罪(つみ)なくしてつみをかうぶる、是(これ)山上(さんじやう)洛中(らくちゆう・らくちう)のいきどをり(いきどほり)、興福(こうぶく)・園城(をんじやう)の嘲(あざけり)にあらずや。此(この)時(とき)顕密(けんみつ)のあるじを失(うしな・ッ)て、数輩(すはい)の学侶(がくりよ)、蛍雪(けいせつ)のつとめおこたらむ事(こと)心(こころ)うかるべし。詮(せん)ずる所(ところ)、祐慶(いうけい・ゆうけい)張本(ちやうぼん)に処(しよ)せられて、禁獄(きんごく)流罪(るざい)もせられ、かうべを刎(はね)られん事(こと)、今生(こんじやう)の面目(めんぼく)、冥途(めいど)の思出(おもひで)なるべし」とて、双眼(さうがん)より涙(なみだ)をはらはらとながす。大衆(だいしゆ)尤々(もつとももつとも)とぞ同(どう)じける。
それよりしてこそ、祐慶(いうけい・ゆうけい)はいか目房(めばう)とはいはれけれ。其(その)弟子(でし)に恵慶法師(ゑけいほふし)をば、時(とき)の人(ひと)こいかめ房(ばう)とぞ申(まうし)ける。大衆(だいしゆ)、前座主(せんざす)をば東塔(とうだふ・とうだう)の南谷(みなみだに)妙光坊(めうくわうばう・めうくはうばう)へ入(いれ)奉(たてまつ)る。時(とき)の横災(わうざい)をば権化(ごんげ)の人(ひと)ものがれ給(たま)はざるやらん。昔(むかし)大唐(だいたう)の一行阿闍梨(いちぎやうあじやり)は、玄宗皇帝(げんそうくわうてい・げんそうくはうてい)の御持僧(ごぢそう)にておはしけるが、玄宗(げんそう)の后(きさき)楊貴妃(やうきひ)に名(な)を立(たち)給(たま)へり。昔(むかし)もいまも、大国(だいこく)も小国(せうこく)も、人(ひと)の口(くち)のさがなさは、跡(あと)かたなき事(こと)なりしか共(ども)、其(その)疑(うたがひ)によ(ッ)て果羅国(くわらこく・くはらこく)へながされ給(たまふ)。件(くだん)の国(くに)へは三(みつ)の道(みち)あり。林池道(りんちだう)とて御幸(ごかう)みち、幽地道(いうちだう・ゆうちだう)とて雑人(ざふにん・ざうにん)のかよふ道(みち)、暗穴道(あんけつだう)とて重科(ぢゆうくわ・ぢうくわ)の者(もの)をつかはす道(みち)也(なり)。
されば彼(かの)一行阿闍梨(いちぎやうあじやり)は大犯(だいぼん)の人(ひと)なればとて、暗穴道(あんけつだう)へぞつかはしける。七日七夜(なぬかななよ)が間(あひだ・あいだ)、月日(つきひ)の光(ひかり)を見(み)ずして行(ゆく)道(みち)也(なり)。冥々(みやうみやう)として人(ひと)もなく、行歩(かうほ)に前途(せんど)まよひ、深々(しんしん)として山(やま)ふかし。只(ただ)澗谷(かんこく)に鳥(とり)の一声(ひとこゑ)ばかりにて、苔(こけ)のぬれ衣(ぎぬ)ほしあへず。無実(むじつ)の罪(つみ)によ(ッ)て遠流(をんる)の重科(ぢゆうくわ・ぢうくわ)をかうぶる事(こと)を、天道(てんたう・てんだう)あはれみ給(たまひ)て、九曜(くえう・くよう)のかたちを現(げん)じつつ、一行阿闍梨(いちぎやうあじやり)をまもり給(たまふ)。時(とき)に一行(いちぎやう)右(みぎ)の指(ゆび)をくひき(ッ)て、左(ひだり)の袂(たもと)に九曜(くえう・くよう)のかたちを写(うつさ)れけり。和漢(わかん)両朝(りやうてう)に真言(しんごん)の本尊(ほんぞん)たる九曜(くえう・くよう)の曼陀羅(まんだら)是(これ)也(なり)。 
西光被斬 (さいくわうがきられ) 

 

大衆(だいしゆ)、前座主(せんざす)を取(とり)とどむる由(よし)、法皇(ほふわう・はうわう)きこしめして、いとどやすからずぞ覚(おぼ)しめされける。西光法師(さいくわうほふし・さいくはうほうし)申(まうし)けるは、「山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)みだりがはしきう(ッ)たへ(うつたへ)仕(つかまつる)事(こと)、今(いま)にはじめずと申(まうし)ながら、今度(こんど)は以外(もつてのほか・も(ツ)てのほか)に覚(おぼえ)候(さうらふ)。是(これ)ほどの狼籍(らうぜき)いまだ承(うけたまは)り及(および・をよび)候(さうら)はず。よくよく御(おん)いましめ候(さうら)へ」とぞ申(まうし)ける。身(み)の只今(ただいま)亡(ほろ)びんずるをもかへりみず、山王大師(さんわうだいし)の神慮(しんりよ)にもはばからず、かやうに申(まうし)て宸襟(しんきん)をなやまし奉(たてまつ)る。讒臣(ざんしん)は国(くに)をみだるといへり。実(まこと)なる哉(かな)。叢蘭(さうらん)茂(しげ)からむとすれども、秋風(あきのかぜ)是(これ)をやぶり、王者(わうしや)明(あきら)かならむとすれば、讒臣(ざんしん)これをくらうす共(とも)、かやうの事(こと)をや申(まうす)べき。
此(この)事(こと)、新大納言(しんだいなごん)成親卿(なりちかのきやう)已下(いげ)近習(きんじゆ)の人々(ひとびと)に仰合(おほせあはせ)られて、山(やま)せめらるべしと聞(きこ)えしかば、山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)、「さのみ王地(わうぢ)にはらまれて、詔命(ぜうめい)をそむくべきにあらず」とて、内々(ないない)院宣(ゐんぜん)にしたがひ奉(たてまつ)る衆徒(しゆと)も有(あり)な(ン)ど(など)聞(きこ)えしかば、前座主(せんざす)明雲大僧正(めいうんだいそうじやう)は妙光房(めうくわうばう・めうくはうばう)におはしけるが、大衆(だいしゆ)二心(ふたごころ)ありときいて、「つゐに(つひに)いかなるめにかあはんずらむ」と、心(こころ)ぼそ気(げ)にぞの給(たま)ひける。され共(ども)流罪(るざい)の沙汰(さた)はなかりけり。新大納言(しんだいなごん)成親卿(なりちかのきやう)は、山門(さんもん)の騒動(さうどう)によ(ッ)て、私(わたくし)の宿意(しゆくい)をばしばらくをさへ(おさへ)られけり。そも内義(ないぎ)支度(したく)はさまざまなりしかども、義勢(ぎせい)ばかりでは此(この)謀反(むほん)かなふべうもみえざりしかば、さしもたのまれたりける多田蔵人(ただのくらんど)行綱(ゆきつな)、此(この)事(こと)無益(むやく)也(なり)と思(おもふ)心(こころ)つきにけり。
弓袋(ゆぶくろ)の料(れう)にをくら(おくら)れたりける布共(ぬのども)をば、直垂(ひたたれ)かたびらに裁(たち)ぬはせて、家子(いへのこ)郎等(らうどう)どもにさせつつ、めうちしばだたいてゐたりけるが、倩(つらつら)平家(へいけ)の繁昌(はんじやう)する有(あり)さまをみるに、当時(たうじ)たやすくかたぶけがたし。由(よし)なき事(こと)にくみして(ン)げり。もし此(この)事(こと)もれぬるものならば、行綱(ゆきつな)まづ失(うしな)はれなんず。他人(たにん)の口(くち)よりもれぬ先(さき)にかへり忠(ちゆう・ちう)して、命(いのち)いかうど思(おもふ)心(こころ)ぞつきにける。同(おなじき)五月(ごぐわつ)廿九日(にじふくにち)のさ夜(よ)ふけがたに、多田蔵人(ただのくらんど)行綱(ゆきつな)、入道相国(にふだうしやうこく・にうだうしやうこく)の西八条(にしはつでう)の亭(てい)に参(まゐり・まいり)て、「行綱(ゆきつな)こそ申(まうす)べき事(こと)候(さうらふ)間(あひだ・あいだ)、まい(ッ・まゐつ)て候(さうら)へ」といはせければ、入道(にふだう・にうだう)「つねにもまいら(まゐら)ぬものが参(さん)じたるは何事(なにごと・なにこと)ぞ。
あれきけ」とて、主馬判官(しゆめのはんぐわん)盛国(もりくに)を出(いだ)されたり。「人伝(ひとづて)には申(まうす)まじき事(こと)なり」といふ間(あひだ・あいだ)、さらばとて、入道(にふだう・にうだう)みづから中門(ちゆうもん・ちうもん)の廊(らう)へ出(いで)られたり。「夜(よ)ははるかにふけぬらむと。只今(ただいま)いかに、何事(なにごと)ぞや」とのたまへば、「ひるは人(ひと)めのしげう候(さうらふ)間(あひだ・あいだ)、夜(よ)にまぎれてまい(ッ・まゐつ)て候(さうらふ)。此程(このほど)院中(ゐんぢゆう・ゐんぢう)の人々(ひとびと)の兵具(ひやうぐ)をととのへ、軍兵(ぐんびやう)をめされ候(さうらふ)をば、何(なに)とかきこしめされ候(さうらふ)」。「夫(それ)は山(やま)攻(せめ)らるべしとこそきけ」と、いと事(こと)もなげにぞの給(たま)ひける。行綱(ゆきつな)ちかうより、小声(こごゑ)にな(ッ)て申(まうし)けるは、「其(その)儀(ぎ)では候(さうら)はず。
一向(いつかう)御一家(ごいつか)の御(おん)うへとこそ承(うけたまはり)候(さうら)へ」。「さて夫(それ)をば法皇(ほふわう・ほうわう)もしろしめされたるか」。「子細(しさい)にや及(およ)び候(さうらふ)。成親卿(なりちかのきやう)の軍兵(ぐんびやう)めされ候(さうらふ)も、院宣(ゐんぜん)とてこそめされ候(さうら)へ。俊寛(しゆんくわん)がとふるまうて、康頼(やすより)がかう申(まうし)て、西光(さいくわう・さいくはう)がと申(まうし)て」な(ン)ど(など)いふ事共(ことども)、始(はじめ)よりありのままにはさし過(すぎ)ていひちらし、「いとま申(まうし)て」とて出(いで)にけり。入道(にふだう・にうだう)大(おほき)におどろき、大声(おほごゑ)をも(ッ)て侍(さぶらひ)どもよびののしり給(たま)ふ。聞(きく)もおびたたし。行綱(ゆきつな)なまじひなる事(こと)申出(まうしいだ)して、証人(しようにん・せうにん)にやひかれんずらむとおそろしさに、大野(おほの)に火(ひ)をはな(ッ)たる心地(ここち)して、人(ひと)もおはぬにとり袴(ばかま)して、いそぎ門外(もんぐわい)へぞ逃出(にげいで)ける。
入道(にふだう・にうだう)、先(まづ)貞能(さだよし)をめして、「当家(たうけ)かたぶけうする謀反(むほん)の輩(ともがら)、京中(きやうぢゆう・きやうぢう)にみちみちたん也(なり)。一門(いちもん)の人々(ひとびと)にもふれ申(まう)せ。侍共(さぶらひども)もよほせ」との給(たま)へば、馳(はせ)まい(ッ・まゐつ)てもよほす。右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)、三位中将(さんみのちゆうじやう・さんみのちうじやう)知盛(とももり)、頭(とうの)中将(ちゆうじやう)重衡(しげひら)、左馬頭(さまのかみ)行盛(ゆきもり)以下(いげ)の人々(ひとびと)、甲胃(かつちう)をよろひ、弓箭(きゆうせん・きうせん)を帯(たい)し馳集(はせあつま)る。其(その)ほか軍兵(ぐんびやう)雲霞(うんか)のごとくに馳(はせ)つどふ。其(その)夜(よ)のうちに西八条(にしはつでう)には、兵共(つはものども)六七千騎(ろくしちせんぎ)もあるらむとこそみえたりけれ。あくれば六月(ろくぐわつ)一日(ついたち)也(なり)。まだくらかりけるに、入道(にふだう・にうだう)、検非違使(けんびゐし・けんびいし)安陪資成(あべのすけなり)をめして、「き(ッ)と院(ゐん)の御所(ごしよ)へ参(まゐ)れ。
信成(のぶなり)をまねひ(まねい)て申(まう)さうずるやうはよな、「近習(きんじゆ)の人々(ひとびと)、此(この)一門(いちもん)をほろぼして天下(てんが)をみだらんとする企(くはたて)あり。一々(いちいち)に召(めし)と(ッ)てたづね沙汰(さた)仕(つかまつ)るべし。それをば君(きみ)もしろしめさるまじう候(さうらふ)」と申(まう)せ」とこその給(たま)ひけれ。資成(すけなり)いそぎ御所(ごしよ)へはせ参(まゐ)り、大膳大夫(だいぜんのだいぶ)信成(のぶなり)よびいだいて此(この)由(よし)申(まうす)に、色(いろ)を失(うしな)ふ。御前(ごぜん)へまい(ッ・まゐつ)て此(この)由(よし)奏問(そうもん)しければ、法皇(ほふわう・ほうわう)「あは、これらが内々(ないない)はかりし事(こと)のもれにけるよ」と覚(おぼ)しめすにあさまし。さるにても、「こは何事(なにごと)ぞ」とばかり仰(おほせ)られて、分明(ふんみやう)の御返事(おんペんじ)もなかりけり。
資成(すけなり)いそぎ馳帰(はせかへつ)て、入道相国(にふだうしやうこく・にうだうしやうこく)に此(この)由(よし)申(まう)せば、「さればこそ。行綱(ゆきつな)はまことをいひけり。この事(こと)行綱(ゆきつな)しらせずは、浄海(じやうかい)安穏(あんをん)に有(ある)べしや」とて、飛騨守(ひだのかみ)景家(かげいへ)・筑後守(ちくごのかみ)貞能(さだよし)に仰(おほせ)て、謀反(むほん)の輩(ともがら)からめとるべき由(よし)下知(げぢ)せらる。仍(よつて)二百余(にひやくよ)き、三百余騎(さんびやくよき)、あそこここにをし(おし)よせをし(おし)よせからめとる。
太政入道(だいじやうにふだう・だいじやうにうだう)まづ雑色(ざつしき)をも(ッ)て、中御門(なかのみかど)烏丸(からすまる)の新大納言(しんだいなごん)成親卿(なりちかのきやう)の許(もと)へ、「申合(まうしあはす)べき事(こと)あり。き(ッ)と立(たち)より給(たま)へ」との給(たま)ひつかはされたりければ、大納言(だいなごん)我(わが)身(み)の上(うへ)とは露(つゆ)しらず、「あはれ、是(これ)は法皇(ほふわう・ほうわう)の山(やま)攻(せめ)らるべき事(こと)御結構(ごけつこう)あるを、申(まうし)とどめられんずるにこそ。御(おん)いきどをり(いきどほり)ふかげ也(なり)。いかにもかなふまじきものを」とて、ないきよげなる布衣(ほうい)たをやかにきなし、あざやかなる車(くるま)にのり、侍(さぶらひ)三四人(さんしにん)めしぐして、雑色(ざつしき)牛飼(うしかひ)に至(いた)るまで、つねよりも引(ひき)つくろはれたり。
そも最後(さいご)とは後(のち)にこそおもひしられけれ。西八条(にしはつでう)ちかうな(ッ)てみ給(たま)へば、、四五町(しごちやう)に軍兵(ぐんびやう)みちみちたり。「あなおびたたし。何事(なにごと・なきごと)やらん」と、むねうちさはぎ(さわぎ)、車(くるま)よりおり、門(もん)の内(うち)にさし入(い・ッ)て見(み)給(たま)へば、内(うち)にも兵(つはもの)どもひまはざまもなうぞみちみちたる。中門(ちゆうもん・ちうもん)の口(くち)におそろしげなる武士共(ぶしども)あまた待(まち)うけて、大納言(だいなごん)の左右(さう)の手(て)をと(ッ)てひ(ッ・ひつ)ぱり、「いましむべう候(さうらふ)やらむ」と申(まうす)。入道相国(にふだうしやうこく・にうだうしやうこく)簾中(れんちゆう・れんちう)より見出(みいだ)して、「有(ある)べうもなし」との給(たま)へば、武士共(ぶしども)十四五人(じふしごにん)、前後左右(ぜんごさう)に立(たち)かこみ、縁(えん・ゑん)の上(うへ)にひきのぼせて、ひとま〔なる〕所(ところ)にをし(おし)こめて(ン)げり。
大納言(だいなごん)夢(ゆめ)の心(ここ)ちして、つやつやものも覚(おぼ)え給(たま)はず。供(とも)なりつる侍共(さぶらひども)をし(おし)へだてられて、ちりぢりに成(なり)ぬ。雑色(ざつしき)・牛飼(うしかひ)色(いろ)をうしなひ、牛(うし)・車(くるま)をすてて逃(にげ)さりぬ。さる程(ほど)に、近江中将(あふみのちゆうじやう・あふみのちうじやう)入道(にふだう・にうだう)蓮浄(れんじやう)、法勝寺執行(ほつしようじのしゆぎやう・ほつせうじのしゆぎやう)俊寛僧都(しゆんくわんそうづ・しゆんくはんそうづ)、山城守(やましろのかみ)基兼(もとかぬ)、式部大輔(しきぶのたいふ・しきぶのたゆふ)正綱(まさつな)、平(へい)判官(はんぐわん)康頼(やすより)、宗(むね)判官(はんぐわん)信房(のぶふさ)、新平(しんぺい)判官(はんぐわん)資行(すけゆき)もとらはれて出来(いでき)たり。西光法師(さいくわうほつし・さいくはうほつし)此(この)事(こと)きいて、我(わが)身(み)のうへとや思(おもひ)けむ、鞭(むち)をあげ、院(ゐん)の御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの・ほうぢうじどの)へ馳参(はせまゐ)る。
平家(へいけ)の侍共(さぶらひども)道(みち)にて馳(はせ)むかひ、「西八条(にしはつでう)へめさるるぞ。き(ッ)とまいれ」といひければ、「奏(そう)すべき事(こと)があ(ッ)て法住寺殿(ほふぢゆうじどの・ほうぢうじどの)へ参(まゐ)る。やがてこそ参(まゐ)らめ」といひけれ共(ども)、「に(ッ)くひ(につくい)入道(にふだう・にうだう)かな、何事(なにごと)をか奏(そう)すべき。さないはせそ」とて、馬(むま)よりと(ッ)て引(ひき)おとし、ちうにくく(ッ)て西八条(にしはつでう)へさげて参(まゐ)る。日(ひ)のはじめより根元(こんげん)与力(よりき)の者(もの)なりければ、殊(こと)につよういましめて、坪(つぼ)の内(うち)にぞひ(ッ)すへ(ひつすゑ)たる。入道相国(にふだうしやうこく・にうだうしやうこく)大床(おほゆか)にた(ッ)て、「入道(にふだう・にうだう)かたぶけうどするやつがなれるすがたよ。
しやつここへ引(ひき)よせよ」とて、縁(えん・ゑん)のきはに引(ひき)よせさせ、物(もの)はきながらしや(ッ)つらをむずむずとぞふまれける。「もとよりをのれら(おのれら)がやうなる下臈(げらう)のはてを、君(きみ)のめしつかはせ給(たま)ひて、なさるまじき官職(くわんしよく)をなしたび、父子(ふし)共(とも)に過分(くわぶん)のふるまひするとみしにあはせて、あやまたぬ天台座主(てんだいざす)流罪(るざい)に申(まうし)おこなひ、天下(てんが)の大事(だいじ)引(ひき)出(いだ)いて、剰(あまつさへ・あま(ツ)さへ)此(この)一門(いちもん)亡(ほろ)ぼすべき謀反(むほん)にくみして(ン)げるやつ也(なり)。有(あり)のままに申(まう)せ」とこその給(たま)ひけれ。西光(さいくわう・さいくはう)もとよりすぐれたる大剛(だいかう)の者(もの)なりければ、ち(ッ)とも色(いろ)も変(へん)ぜす、わろびれたるけひき(けいき)もなし。居(ゐ)なをり(なほり)あざわら(ッ・わらつ)て申(まうし)けるは、「さもさうず。入道殿(にふだうどの・にうだうどの)こそ過分(くわぶん)の事(こと)をばの給(たま)へ。他人(たにん)の前(まへ)はしらず、西光(さいくわう・さいくはう)がきかん所(ところ)にさやうの事(こと)をば、えこその給(たま)ふまじけれ。院中(ゐんぢゆう・ゐんぢう)につかはるる身(み)なれば、執事(しつし)の別当(べつたう)成親卿(なりちかのきやう)の院宣(ゐんぜん)とて催(もよほ・もよお)されし事(こと)に、くみせずとは申(まうす)べき様(やう)なし。それはくみしたり。但(ただし)、耳(みみ)にとまる事(こと)をもの給(たま)ふものかな。
御辺(ごへん)は故刑部卿(こぎやうぶきやう)忠盛(ただもり)の子(こ)でおはせしかども、十四五(じふしご)までは出仕(しゆつし)もし給(たま)はず。故中御門(こなかのみかどの)藤中納言(とうぢゆうなごん・とうぢうなごん)家成卿(かせいのきやう)の辺(へん)に立入(たちいり)給(たまひ)しをば、京(きやう)わらはべは高平太(たかへいだ)とこそいひしか。保延(ほうえん)の比(ころ)、大将軍(たいしやうぐん)承(うけたまは)り、海賊(かいぞく)の張本(ちやうぼん)卅(さんじふ)余人(よにん)からめ進(しん)ぜられし賞(しやう)に、四品(しほん)して四位(しゐ)の兵衛佐(ひやうゑのすけ)と申(まう)ししをだに、過分(くわぶん)とこそ時(とき)の人々(ひとびと)は申(まうし)あはれしか。殿上(てんじやう)のまじはりをだにきらはれし人(ひと)の子(こ)で、太政大臣(だいじやうだいじん)まで成(なり)あが(ッ)たるや過分(くわぶん)なるらん。侍品(さぶらひほん)の者(もの)の受領(じゆりやう)検非違使(けんびゐし・けんびいし)になる事(こと)、先例(せんれい)傍例(ほうれい)なきにあらず。なじかは過分(くわぶん)なるべき」と、はばかる所(ところ)もなう申(まうし)ければ、入道(にふだう・にうだう)あまりにいか(ッ)て物(もの)もの給(たま)はず。
しばしあ(ッ)て「しやつが頸(くび)左右(さう)なうきるな。よくよくいましめよ」とぞの給(たま)ひけ。松浦太郎重俊(まつらのたらうしげとし)承(うけたまはつ)て、足手(あして)をはさみ、さまざまにいためとふ。もとよりあらがひ申(まう)さぬうへ、糾問(きうもん)はきびしかりけり、残(のこり)なうこそ申(まうし)けれ。白状(はくじやう)四五枚(しごまい)に記(き)せられ、やがて、「しやつが口(くち)をさけ」とて口(くち)をさかれ、五条西朱雀(ごでうにしのしゆしやか)にしてきられにけり。嫡子(ちやくし)前加賀守(さきのかがのかみ)師高(もろたか)、尾張(をはり・おはり)の井戸田(ゐどた)へながされたりけるを、同(おなじ)国(くに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)小胡麻郡司(をぐまのぐんじ)維季(これすゑ)に仰(おほせ)てうたれぬ。次男(じなん)近藤(こんどう)判官(はんぐわん)師経(もろつね)禁獄(きんごく)せられたりけるを、獄(ごく)より引(ひき)出(いだ)され、六条河原(ろくでうがはら)にて誅(ちゆう・ちう)せらる。その弟(おとと)左衛門尉(さゑもんのじよう・さゑもんのぜう)師平(もろひら)、郎等(らうどう)三人(さんにん)、同(おなじ)く首(くび)をはねられけり。是等(これら)はいふかひなき物(もの)の秀(ひいで)て、いろう(いろふ)まじき事(こと)にいろひ、あやまたぬ天台座主(てんだいざす)流罪(るざい)に申(まうし)おこなひ、果報(くわほう)やつきにけむ、山王大師(さんわうだいし)の神罰(しんばつ)冥罰(みやうばつ)をたちどころにかうぶ(ッ)て、かかる目(め)にあへりけり。 
小教訓 (こげうくん) 

 

新大納言(しんだいなごん)、ひとまなる所(ところ)にをし(おし)こめられ、あせ水(みづ)になりつつ、「あはれ、これは日来(ひごろ)のあらまし事(ごと)のもれきこえけるにこそ。誰(たれ)もらしつらむ。定(さだめ)て北面(ほくめん)の者共(ものども)が中(なか)にこそ有(ある)らむ」な(ン)ど(など)、思(おも)はじ事(こと)なう案(あん)じつづけておはしけるに、うしろのかたより足(あし)をと(おと)のたからかにしければ、すは只今(ただいま)わが命(いのち)をうしなはんとて、もののふ共(ども)が参(まゐ)るにこそとまち給(たま)ふに、入道(にふだう・にうだう)みづからいたじきたからかにふみならし、大納言(だいなごん)のおはしけるうしろの障子(しやうじ)をさ(ッ)とあけられたり。素絹(そけん)の衣(ころも)のみじからかなるに、白(しろ)き大口(おほくち)ふみくくみ、ひじりづかの刀(かたな)をし(おし)くつろげてさすままに、以外(もつてのほか・も(ツ)てのほか)いかれるけしきにて、大納言(だいなごん)をしばしにらまへ、「抑(そもそも)御辺(ごへん)は平治(へいぢ)にもすでに誅(ちゆう・ちう)せらるべかりしを、内府(だいふ)が身(み)にかへて申(まうし)なだめ、頸(くび)をつぎたてま(ッ)しはいかに。
何(なに)の遺恨(ゐこん・いこん)をも(ッ)て、此(この)一門(いちもん)ほろぼすべき由(よし)御結構(ごけつこう)は候(さうらひ)けるやらん。恩(おん)をしるを人(ひと)とはいふぞ。恩(おん)をしらぬをちく生(しやう)とこそいへ。然共(しかれども)当家(たうけ)の運命(うんめい・うむめい)つきぬによ(ッ)て、むかへ奉(たて)ま(ッ)たり。日来(ひごろ)の御結構(ごけつこう)の次第(しだい)、直(ぢき)に承(うけたまは)らむ」とぞの給(たま)ひける。大納言(だいなごん)「ま(ッ)たくさる事(こと)候(さうら)はず。人(ひと)の讒言(ざんげん)にてぞ候(さうらふ)らん。よくよく御尋(おんたづね)候(さうら)へ」と申(まう)されければ、入道(にふだう・にうだう)いはせもはてず、「人(ひと)やある、人(ひと)やある」とめされければ、貞能(さだよし)参(まゐ)りたり。「西光(さいくわう・さいくはう)めが白状(はくじやう)まいらせよ(まゐらせよ)」と仰(おほせ)られければ、も(ッ)てまいり(まゐり)たり。これをと(ッ)て二三返(にさんべん)をし(おし)返(かへし)をし(おし)返(かへし)よみきかせ、「あなにくや。此(この)うへをば何(なに)と陳(ちん)ずべき」とて、大納言(だいなごん)のかほにさ(ッ)となげかけ、障子(しやうじ)をちやうどたててぞ出(いで)られける。
入道(にふだう・にうだう)、猶(なほ)腹(はら)をすへ(すゑ)かねて、「経遠(つねとほ・つねとを)・兼康(かねやす)」とめせば、瀬尾太郎(せのをのたらう・せのおのたらう)・難波二郎(なんばのじらう)、まいり(まゐり)たり。「あの男(をとこ・おとこ)と(ッ)て庭(には)へ引(ひき)おとせ」との給(たま)へば、これらはさうなうもしたてまつらず、畏(かしこまつ)て、「小松殿(こまつどの)の御気色(ごきしよく)いかが候(さうら)はんずん」と申(まうし)ければ、入道相国(にふだうしやうこく・にうだうしやうこく)大(おほき)にいか(ッ)て、「よしよし、をのれら(おのれら)は内府(だいふ)が命(めい)をばをもう(おもう)して、入道(にふだう・にうだう)が仰(おほせ)をばかろうしけるごさんなれ。其上(そのうへ)は力(ちから)及(およ)はず」との給(たま)へば、此(この)事(こと)あしかりなんとやおもひけん、二人(ににん)のもの共(ども)立(たち)あがり、大納言(だいなごん)を庭(には)へ引(ひき)おとし奉(たてまつ)る。其(その)時(とき)入道(にふだう・にうだう)心(ここ)ちよげにて、「と(ッ)てふせておめか(をめか)せよ」とぞの給(たま)ひける。二人(ににん)の者共(ものども)、大納言(だいなごん)の左右(さう)の耳(みみ)に口(くち)をあてて、「いかさまにも御声(おんこゑ)のいづべう候(さうらふ)」とささやいてひきふせ奉(たてまつ)れば、二(ふた)こゑ三声(みこゑ)ぞおめか(をめか)れける。
其(その)体(てい)冥途(めいど)にて、娑婆世界(しやばせかい)の罪人(ざいにん)を、或(あるい・あるひ)は業(ごふ・ごう)のはかりにかけ、或(あるい・あるひ)は浄頗梨(じやうはり)のかがみにひきむけて、罪(つみ)の軽重(きやうぢゆう・きやうぢう)に任(まかせ)つつ、阿防羅刹(あはうらせつ)が呵嘖(かしやく)すらんも、これには過(すぎ)じとぞみえし。蕭樊(せうはん)とらはれとらはれて、韓彭(かんぽう)にらきすされたり。兆錯(てうそ)戮(りく)をうけて、周儀(しうぎ)つみせらる。たとへば、蕭何(せうが)・樊噌(はんくわい)・韓信(かんしん)・彭越(はうゑつ・ほうゑつ)、是等(これら)は高祖(かうそ)の忠臣(ちうしん)なりしか共(ども)、小人(せうじん)の讒(ざん)によ(ッ)て過敗(くわはい)の恥(はぢ)をうく共(とも)、かやうの事(こと)をや申(まうす)べき。新大納言(しんだいなごん)は我(わが)身(み)のかくなるにつけても、子息(しそく)丹波少将(たんばのせうしやう)成経(なりつね)以下(いげ)、おさなき(をさなき)人々(ひとびと)、いかなるめにかあふらむと、おもひやるにもおぼつかなく、さばかりあつき六月(ろくぐわつ)に、装束(しやうぞく)だにもくつろげず、あつさもたへがたければ、むねせきあぐる心(ここ)ちして、あせも涙(なみだ)もあらそひてぞながれける。
「さり共(とも)小松殿(こまつどの)は思食(おぼしめし)はなたじ物(もの)を」との給(たま)へども、誰(たれ)して申(まうす)べし共(とも)覚(おぼ)え給(たま)はず。小松(こまつ)のおとどは、其(その)後(のち)遥(はるか)に程(ほど)へて、嫡子(ちやくし)権亮少将(ごんのすけせうしやう)車(くるま)のしりにのせつつ、衛府(ゑふ)四五人(しごにん)、随身(ずいじん)二三人(にさんにん)召(めし)具(ぐ)して、兵(つはもの)一人(いちにん)もめしぐせられず、殊(こと)に大様(おほやう)げでおはしたり。入道(にふだう・にうだう)をはじめ奉(たてまつ)て、人々(ひとびと)皆(みな)おもはずげにぞ見(み)給(たま)ひける。車(くるま)よりおり給(たまふ)所(ところ)に、貞能(さだよし)つ(ッ)と参(まゐ・ッ)て、「などこれ程(ほど)の御大事(おんだいじ)に、軍兵共(ぐんびやうども)をばめしぐせられ候(さうら)はぬぞ」と申(まう)せば、「大事(だいじ)とは天下(てんが)の大事(だいじ)をこそいへ。かやうの私(わたくし)ごとを大事(だいじ)と云(いふ)様(やう)やある」との給(たま)へば、兵杖(ひやうぢやう)を帯(たい)したる者共(ものども)も、皆(みな)そぞろいてぞみえける。
「そも大納言(だいなごん)をばいづくにをか(おか)れたるやらん」とて、ここかしこの障子(しやうじ)引(ひき)あけ引(ひき)あけ見(み)給(たま)へば、ある障子(しやうじ)のうへに、蜘手(くもで)ゆふ(ゆう)たる所(ところ)あり。ここやらむとてあけられたれば、大納言(だいなごん)おはしけり。涙(なみだ)にむせびうつぶして、めも見(み)あはせ給(たま)はず。「いかにや」との給(たま)へば、其(その)時(とき)みつけ奉(たてまつ)り、うれしげに思(おも)はれたるけしき、地獄(ぢごく)にて罪人(ざいにん)どもが地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)を見(み)奉(たてまつる)らむも、かくやとおぼえてあはれ也(なり)。「何事(なにごと)にて候(さうらふ)やらん、かかるめにあひ候(さうらふ)。さてわたらせ給(たま)へば、さり共(とも)とこそたのみまいらせ(まゐらせ)候(さうら)へ。平治(へいぢ)にも既(すでに)誅(ちゆう・ちう)せらるべきで候(さうらひ)しが、御恩(ごおん)をも(ッ)て頸(くび)をつがれまいらせ(まゐらせ)、正二位(じやうにゐ)の大納言(だいなごん)にあが(ッ)て、歳(とし)すでに四十(しじふ)にあまり候(さうらふ)。御恩(ごおん)こそ生々世々(しやうじやうせせ)にも報(ほう)じつくしがたう候(さうら)へ。今度(こんど)も同(おなじく)はかひなき命(いのち)をたすけさせおはしませ。命(いのち)だにいきて候(さうら)はば、出家入道(しゆつけにふだう・しゆつけにうだう)して高野(かうや)粉川(こかは)に閉籠(とぢこも)り、一向(ひたすら)後世菩提(ごせぼだい)のつとめをいとなみ候(さうら)はむ」と申(まう)されければ、「さは候(さうらふ)共(とも)、よも御命(おんいのち)失(うしな)ひ奉(たてまつ)るまではよも候(さうら)はじ。縦(たとひ)さは候(さうらふ)とも、重盛(しげもり)かうで候(さうら)へば、御命(おんいのち)にもかはり奉(たてまつ)るべし」とて出(いで)られけり。
父(ちち)の禅門(ぜんもん)の御(おん)まへにおはして、「あの成親卿(なりちかのきやう)うしなはれん事(こと)、よくよく御(おん)ぱからひ候(さうらふ)べし。先祖(せんぞ)修理大夫(しゆりのだいぶ)顕季(あきすゑ)、白川院(しらかはのゐん)にめしつかはれてよりこのかた、家(いへ)に其(その)例(れい)なき正二位(じやうにゐ)の大納言(だいなごん)にあが(ッ)て、当時(たうじ)君(きみ)無双(ぶさう)の御(おん)いとおしみ(いとほしみ)なり。やがて首(くび)をはねられん事(こと)、いかが候(さうらふ)べからむ。都(みやこ)の外(ほか)へ出(いだ)されたらむに事(こと)たり候(さうらひ)なん。北野天神(きたののてんじん)は時平(しへい)のおとどの讒奏(ざんそう)にてうき名(な)を西海(さいかい)の浪(なみ)にながし、西宮(にしのみや)の大臣(おとど)は多田(ただ)の満仲(まんぢゆう・まんぢう)が讒言(ざんげん)にて恨(うらみ)を山陽(せんやう・せんよう)の雲(くも)によす。これ皆(みな)延喜(えんぎ)の聖代(せいたい)、安和(あんわ)の御門(みかど)の御(おん)ひが事(こと)とぞ申(まうし)つたへたる。上古(しやうこ)猶(なほ・なを)かくのごとし、况(いはん)や末代(まつだい)にをいて(おいて)をや。賢王(けんわう)猶(なほ・なを)御(おん)あやまりあり、况(いはん)や凡人(ぼんにん)にをいて(おいて)をや。既(すで)に召(めし)をか(おか)れぬるうへは、いそぎうしなはれずとも、なんのくるしみか候(さうらふ)べき。
「刑(けい)の疑(うたが)はしきをばかろんぜよ。功(こう)のうたがはしきをばをもんぜよ(おもんぜよ)」とこそみえて候(さうら)へ。事(こと)あたらしく候(さうら)へども、重盛(しげもり)彼(かの)大納言(だいなごん)が妹(いもうと)に相(あひ)ぐして候(さうらふ)。維盛(これもり)又(また)聟(むこ)なり。かやうにしたしく成(な・ッ)て候(さうら)へば申(まうす)とや、おぼしめされ候(さうらふ)らん。其(その)儀(ぎ)では候(さうら)はず。世(よ)のため、君(きみ)のため、家(いへ)のための事(こと)をも(ッ)て申(まうし)候(さうらふ)。一(ひと)とせ、故少納言(こせうなごんの)入道(にふだう・にうだう)信西(しんせい)が執権(しつけん)の時(とき)に相(あひ)あた(ッ)て、我(わが)朝(てう)には嵯峨皇帝(さがのくわうてい)の御時(おんとき)、右兵衛督(うひやうゑのかみ)藤原仲成(ふぢはらのなかなり)を誅(ちゆう・ちう)せられてよりこのかた、保元(ほうげん)までは君(きみ)廿五代(にじふごだい)の間(あひだ・あいだ)おこなはれざりし死罪(しざい)をはじめてとりおこなひ、宇治(うぢ)の悪左府(あくさふ)の死骸(しがい)をほりおこいて実験(じつけん)せられし事(こと)な(ン)ど(など)は、あまりなる御政(おんまつりごと)とこそ覚(おぼ)え候(さうらひ)しか。
さればいにしへの人々(ひとびと)も、「死罪(しざい)をおこなへば海内(かいだい)に謀反(むほん)の輩(ともがら)たえず」とこそ申伝(まうしつたへ)て候(さうら)へ。此(この)詞(ことば)について、中(なか)二年(にねん)あ(ッ)て、平治(へいぢ)に又(また)信西(しんせい)がうづまれたりしをほり出(いだ)し、首(くび)を刎(はね)て大路(おほち)をわたされ候(さうらひ)にき。保元(ほうげん)に申行(まうしおこな)ひし事(こと)、いくほどもなく身(み)の上(うへ)にむかはりにきと思(おも)へば、おそろしうこそ候(さうらひ)しか。是(これ)はさせる朝敵(てうてき)にもあらず。かたがたおそれ有(ある)べし。御栄花(ごえいぐわ)残(のこ)る所(ところ)なければ、覚(おぼ)しめす事(こと)有(ある)まじければ、子々孫々(ししそんぞん)までも繁昌(はんじやう)こそあらまほしう候(さうら)へ。父祖(ふそ)の善悪(ぜんあく)は必(かならず)子孫(しそん)に及(およ・をよ)ぶとみえて候(さうらふ)。積善(しやくぜん)の家(いへ)に余慶(よけい)あり、積悪(しやくあく)の門(かど)に余殃(よわう)とどまるとこそ承(うけたま)はれ。いかさまにも今夜(こよひ)首(くび)を刎(はね)られん事(こと)、然(しかる)べうも候(さうら)はず」と申(まう)されければ、入道相国(にふだうしやうこく・にうだうしやうこく)げにもとや思(おも)はれけむ、死罪(しざい)は思(おも)ひとどまり給(たま)ひぬ。
其(その)後(のち)おとど中門(ちゆうもん・ちうもん)に出(いで)て、侍共(さぶらひども)にの給(たま)ひけるは、「仰(おほせ)なればとて、大納言(だいなごん)左右(さう)なう失(うしな)ふ事(こと)有(ある)べからず。入道(にふだう・にうだう)腹(はら)のたちのままに、物(もの)さはがしき(さわがしき)事(こと)し給(たま)ひては、後(のち)に必(かならず)くやみ給(たま)ふべし。僻事(ひがこと)してわれうらむな」との給(たま)へば、兵共(つはものども)皆(みな)舌(した)をふ(ッ)ておそれをののく。「さても経遠(つねとほ・つねとを)・兼康(かねやす)がけさ大納言(だいなごん)に情(なさけ)なうあたりける事(こと)、返々(かへすがへす)も奇怪(きくわい・き(ツ)くわい)也(なり)。重盛(しげもり)がかへり聞(きか)ん所(ところ)をば、などかははばからざるべき。かた田舎(いなか)のもの共(ども)はかかるぞよ」との給(たま)へば、難波(なんば)も瀬尾(せのを・せのお)もともにおそれ入(いり)たりけり。おとどはかやうにの給(たま)ひて、小松殿(こまつどの)へぞ帰(かへ)られける。
さる程(ほど)に、大納言(だいなごん)の供(とも)なりつる侍共(さぶらひども)、中御門(なかのみかど)烏丸(からすまる)の宿所(しゆくしよ)へはしり帰(かへり)て、此(この)由(よし)申(まう)せば、北方(きたのかた)以下(いげ)の女房達(にようばうたち)、声(こゑ)もおしま(をしま)ずなきさけぶ。「既(すでに)武士(ぶし)のむかひ候(さうらふ)。少将殿(せうしやうどの)を始(はじめ)まいらせ(まゐらせ)て、君達(きんだち)も皆(みな)とらせさせ給(たま)ふべしとこそ聞(きこ)え候(さうら)へ。急(いそ)ぎいづ方(かた)へもしのばせ給(たま)へ」と申(まうし)ければ、「今(いま)はこれほどの身(み)に成(な・ッ)て、残(のこ)りとどまるとても、安穏(あんをん)にて何(なに)にかはせむ。只(ただ)同(おな)じ一夜(ひとよ)の露(つゆ)ともきえん事(こと)こそ本意(ほんい)なれ。さてもけさはかぎりとしらざりけるかなしさよ」とて、ふしまろびてぞなかれける。既(すでに)武士共(ぶしども)のちかづく由(よし)聞(きこ)えしかば、かくて又(また)はぢがましく、うたてきめをみむもさすがなればとて、十(とを)に成(なり)給(たま)ふ女子(によし)、八歳(はつさい)の男子(なんし)、車(くるま)に取(とり)のせ、いづくをさすともなくやり出(いだ)す。さても有(ある)べきならねば、大宮(おほみや)をのぼりに、北山(きたやま)の辺(へん)雲林院(うんりんゐん)へぞおはしける。
其(その)辺(へん)なる僧坊(そうばう)におろしをき(おき)奉(たてまつ)り、をくり(おくり)のもの共(ども)も、身々(みみ)のすてがたさにいとま申(まうし)て帰(かへり)けり。今(いま)はいとけなきおさなき(をさなき)人々(ひとびと)ばかり残(のこ)りゐて、み事(こと)とふ人(ひと)もなくしておはしけん北方(きたのかた)の心(こころ)のうち、をし(おし)はかられて哀(あはれ)也(なり)。暮行(くれゆく)かげを見(み)給(たま)ふにつけては、大納言(だいなごん)の露(つゆ)の命(いのち)、此(この)夕(ゆふべ)をかぎりなりと思(おも)ひやるにも、きえぬべし。女房(にようばう)侍(さぶらひ)おほかりけれ共(ども)、物(もの)をだにとりしたためず、門(かど)をだにもをし(おし)も立(たて)ず。馬(むま)どもは厩(むまや)になみたちたれども、草(くさ)かふもの一人(いちにん)もなし。夜(よ)明(あく)れば、馬(むま)・車(くるま)門(かど)にたちなみ、賓客(ひんかく)座(ざ)につらな(ッ)て、あそびたはぶれ、まひおどり(まひをどり)、世(よ)を世(よ)とも思(おもひ)給(たま)はず、近(ちか)きあたりの人(ひと)は物(もの)をだにたかくいはず、おぢをそれ(おそれ)てこそ昨日(きのふ)までも有(あり)しに、夜(よ)の間(ま)にかはるありさま、盛者必衰(じやうしやひつすい)の理(ことわり・ことはり)は目(めの)前(まへ)にこそ顕(あらは)れけれ。楽(たのしみ)つきて悲(かなしみ)来(きた)るとかかれたる江相公(がうしやうこう)の筆(ふで)のあと、今(いま)こそ思(おもひ)しられけれ。 
少将乞請 (せうしやうこひうけ) 

 

丹波少将(たんばのせうしよう)成経(なりつね)は、其(その)夜(よ)しも院御所(ゐんのごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの・ほうぢうじどの)にうへ臥(ぶし)して、いまだ出(いで)られざりけるに、大納言(だいなごん)の侍共(さぶらひども)、いそぎ御所(ごしよ)へはせ参(まゐ・ッ)て、少将殿(せうしやうどの)よび出(いだ)し奉(たてまつ)り、此(この)由(よし)申(まうす)に、「などや宰相(さいしやう)のもとより、今(いま)までしらせざるらむ」との給(たま)ひもはてねば、宰相殿(さいしやうどの)よりとて使(つかひ)あり。此(この)宰相(さいしやう)と申(まうす)は、入道相国(にふだうしやうこく・にうだうしやうこく)の弟(おとと)也(なり)。宿所(しゆくしよ)は六波羅(ろくはら)の惣門(そうもん)の内(うち)なれば、門脇(かどわき)の宰相(さいしやう)とぞ申(まうし)ける。丹波(たんば)の少将(せうしやう)にはしうと也(なり)。
「何事(なにごと)にて候(さうらふ)やらん、入道相国(にふだうしやうこく・にうだうしやうこく)のき(ッ)と西八条(にしはつでう)へ具(ぐ)し奉(たてまつ)れと候(さうらふ)」といはせられたりければ、少将(せうしやう)此(この)事(こと)心得(こころえ)て、近習(きんじゆ)の女房達(にようばうたち)よび出(いだ)し奉(たてまつ)り、「よべ何(なに)となう世(よ)の物(もの)さはがしう(さわがしう)候(さうらひ)しを、例(れい)の山法師(やまぼふし・やまぼうし)の下(くだ)るかな(ン)ど(など)、よそに思(おも)ひて候(さうら)へば、はや成経(なりつね)が身(み)のうへにて候(さうらひ)けり。大納言(だいなごん)よさりきらるべう候(さうらふ)なれば、成経(なりつね)も同座(どうざ)にてこそ候(さうら)はむずらめ。
いま一度(ひとたび)御前(ごぜん)へまい(ッ・まゐつ)て、君(きみ)をも見(み)まいらせ(まゐらせ)たう候(さうら)へ共(ども)、既(すで)にかかる身(み)に罷(まかり)成(な・ッ)て候(さうら)へば、憚存(はばかりぞんじ)候(さうらふ)」とぞ申(まう)されける。女房達(にようばうたち)御前(ごぜん)ヘまい(ッ・まゐつ)て、此(この)由(よし)奏(そう)せられければ、法皇(ほふわう・ほうわう)大(おほき)におどろかせ給(たま)ひて、「さればこそ。けさの入道相国(にふだうしやうこく・にうだうしやうこく)が使(つかひ)にはや御心得(おんこころえ)あり。あは、これらが内々(ないない)はかりしことのもれけるよ」と覚(おぼ)しめすにあさまし。「さるにてもこれへ」と御気色(ごきしよく)有(あり)ければ、参(まゐ)られたり。法皇(ほふわう・ほうわう)も御涙(おんなみだ)をながさせ給(たま)ひて、仰下(おほせくだ)さるる旨(むね)もなし。少将(せうしやう)も涙(なみだ)に咽(むせん)で、申(まうし)あぐる旨(むね)もなし。良(やや)ありて、さても有(ある)べきならねば、少将(せうしやう)袖(そで)をかほにあてて、泣々(なくなく)罷出(まかりいで)られけり。
法皇(ほふわう・ほうわう)はうしろを遥(はるか)に御覧(ごらん)じをくら(おくら)せ給(たま)ひて、「末代(まつだい)こそ心(こころ)うけれ。これかぎりで又(また)御覧(ごらん)ぜぬ事(こと)もやあらむずらん」とて、御涙(おんなみだ)をながさせ給(たま)ふぞかたじけなき。院中(ゐんぢゆう・ゐんぢう)の人々(ひとびと)、少将(せうしやう)の袖(そで)をひかへ、袂(たもと)にすが(ッ)て名残(なごり)をおしみ(をしみ)、涙(なみだ)をながさぬはなかりけり。しうとの宰相(さいしやう)のもとへ出(いで)られたれば、北方(きたのかた)はちかう産(さん)すべき人(ひと)にておはしけるが、今朝(けさ)より此(この)歎(なげき)をうちそへては、既(すでに)命(いのち)もたえ入(いる)心(ここ)ちぞせられける。少将(せうしやう)御所(ごしよ)を罷(まかり)いづるより、ながるる涙(なみだ)つきせぬに、北方(きたのかた)のありさまをみたまひては、いとどせんかたなげにぞみえられける。少将(せうしやう)のめのとに、六条(ろくでう)といふ女房(にようばう)あり。
「御(おん)ちに参(まゐ)りはじめさぶらひて、君(きみ)をちのなかよりいだきあげまいらせ(まゐらせ)、月日(つきひ)のかさなるにしたがひて、我(わが)身(み)の年(とし)のゆく事(こと)をば歎(なげか)ずして、君(きみ)のおとなしうならせ給(たま)ふ事(こと)をのみうれしう思(おも)ひ奉(たてまつ)り、あからさまとはおもへ共(ども)、既(すでに)廿一(にじふいち)年(ねん)ははなれまいらせ(まゐらせ)ず。院(ゐん)内(うち)へまいら(まゐら)せ給(たま)ひて、をそう(おそう)出(いで)させ給(たまふ)だにも、おぼつかなう思(おも)ひまいらする(まゐらする)に、いかなる御目(おんめ)にかあはせ給(たま)はむずらむ」となく。少将(せうしやう)「いたうな歎(なげ)ひ(なげい)そ。宰相(さいしやう)さておはすれば、命(いのち)ばかりはさり共(とも)こいうけ(こひうけ)給(たま)はむずらむ」となぐさめ給(たま)へ共(ども)、人(ひと)めもしらずなきもだへ(もだえ)けり。西八条(にしはつでう)より使(つかひ)しきなみに有(あり)ければ、宰相(さいしやう)「ゆきむかふ(むかう)てこそ、ともかうもならめ」とて出給(いでたま)へば、少将(せうしやう)も宰相(さいしやう)の車(くるま)のしりにのりてぞ出(いで)られける。保元(ほうげん)平治(へいぢ)よりこのかた、平家(へいけ)の人々(ひとびと)たのしみさかへ(さかえ)のみあ(ッ)て、愁歎(うれへなげき)はなかりしに、此(この)宰相(さいしやう)ばかりこそ、よしなき聟(むこ)故(ゆゑ)にかかる歎(なげ)きをばせられけれ。
西八条(にしはつでう)ちかうな(ッ)て車(くるま)をとどめ、まづ案内(あんない)を申入(まうしいれ)られければ、太政入道(だいじやうにふだう・だいじやうにうだう)「丹波少将(たんばのせうしやう)をば、此(この)内(うち)へはいれらるべからず」との給(たま)ふ間(あひだ・あいだ)、其(その)辺(へん)ちかき侍(さぶらひ)の家(いへ)におろしをき(おき)つつ、宰相(さいしやう)ばかりぞ門(かど)の内(うち)へは入(いり)給(たま)ふ。少将(せうしやう)をば、いつしか兵共(つはものども)打(うち)かこんで、守護(しゆご)し奉(たてまつ)る。たのまれたりつる宰相殿(さいしやうどの)にははなれ給(たま)ひぬ。少将(せうしやう)の心(こころ)のうち、さこそは便(たより)なかりけめ。宰相(さいしやう)中門(ちゆうもん・ちうもん)に居(ゐ)給(たま)ひたれば、入道(にふだう・にうだう)対面(たいめん)もし給(たま)はず、源(げん)大夫(だいふ・だゆふ)判官(はんぐわん・はんぐはん)季貞(すゑさだ)をも(ッ)て申入(まうしいれ)られけるは、「由(よし)なきものにしたしう成(な・ッ)て、返々(かへすがへす)くやしう候(さうら)へ共(ども)、かひも候(さうら)はず。相具(あひぐ)しさせて候(さうらふ)ものが、此(この)ほどなやむ事(こと)の候(さうらふ)なるが、けさより此(この)歎(なげき)をうちそへては、既(すでに)命(いのち)もたえなんず。何(なに)かはくるしう候(さうらふ)べき。少将(せうしやう)をばしばらく教盛(のりもり)にあづけさせおはしませ。教盛(のりもり)かうで候(さうら)へば、なじかはひが事(こと)せさせ候(さうらふ)べき」と申(まう)されければ、季貞(すゑさだ)まい(ッ・まゐつ)て此(この)由(よし)申(まう)す。
「あはれ、例(れい)の宰相(さいしやう)が、物(もの)に心(こころ)えぬ」とて、とみに返事(へんじ)もし給(たま)はず。ややありて、入道(にふだう・にうだう)の給(たま)ひけるは、「新大納言(しんだいなごん)成親(なりちか)、この一門(いちもん)をほろぼして、天下(てんが)を乱(みだ)らむとする企(くはたて)あり。此(この)少将(せうしやう)は既(すでに)彼(かの)大納言(だいなごん)が嫡子(ちやくし)也(なり)。うとふもあれしたし〔う〕もあれ、えこそ申宥(まうしなだ)むまじけれ。若(もし)此(この)謀反(むほん)とげましかば、御辺(ごへん)とてもおだしうやおはすべきと申(まう)せ」とこその給(たま)ひけれ。季貞(すゑさだ)かへりまい(ッ・まゐつ)て、此(この)由(よし)宰相(さいしやう)に申(まうし)ければ、誠(まことに)ほいなげで、重(かさね)て申(まう)されけるは、「保元(ほうげん)平治(へいぢ)よりこのかた、度々(どど)の合戦(かつせん)にも、御命(おんいのち)にかはりまいらせ(まゐらせ)むとこそ存(ぞんじ)候(さうら)へ。
此(この)後(のち)もあらき風(かぜ)をばまづふせき参(まゐ)らせ候(さうら)はんずるに、たとひ教盛(のりもり)こそ年老(としおい)て候(さうらふ)とも、わかき子共(こども)あまた候(さうら)へば、一方(いつぱう)の御固(おんかため)にはなどかならで候(さうらふ)べき。それに成経(なりつね)しばらくあづからうど申(まう)すを御(おん)ゆるされなきは、教盛(のりもり)を一向(いつかう)二心(ふたごころ)ある者(もの)とおぼしめすにこそ。是(これ)ほどうしろめたう思(おも)はれまいらせ(まゐらせ)ては、世(よ)にあ(ッ)ても何(なに)にかはし候(さうらふ)べき。今(いま)はただ身(み)のいとまをたまは(ッ)て、出家入道(しゆつけにふだう・しゆつけにうだう)し、かた山里(やまざと)にこもり居(ゐ)て、一(ひと)すぢに後世菩提(ごせぼだい)のつとめをいとなみ候(さうら)はん。由(よし)なき浮世(うきよ)のまじはり也(なり)。世(よ)にあればこそ望(のぞみ)もあれ、望(のぞみ)のかなはねばこそ恨(うらみ)もあれ。しかじ、うき世(よ)をいとひ、実(まこと)の道(みち)に入(いり)なんには」とぞの給(たま)ひける。
季貞(すゑさだ)まい(ッ・まゐつ)て、「宰相殿(さいしやうどの)ははや覚(おぼ)しめしき(ッ)て候(さうらふ)。ともかうもよき様(やう)に御(おん)ぱからひ候(さうら)へ」と申(まうし)ければ、其(その)時(とき)入道(にふだう)大(おほき)におどろいて、「さればとて出家入道(しゆつけにふだう・しゆつけにうだう)まではあまりにけしからず。其(その)儀(ぎ)ならば、少将(せうしやう)をばしばらく御辺(ごへん)に預(あづけ)奉(たてまつ)ると云(いふ)べし」とこその給(たま)ひけれ。季貞(すゑさだ)帰(かへり)まい(ッ・まゐつ)て、宰相(さいしやう)に此(この)由(よし)申(まう)せば、「あはれ、人(ひと)の子(こ)をばもつまじかりける物かな。我(わが)子(こ)の縁(えん)にむすぼほれざらむには、是(これ)ほど心(こころ)をばくだかじ物(もの)を」とて出(いで)られけり。少将(せうしやう)待(まち)うけ奉(たてまつり)て、「さていかが候(さうらひ)つる」と申(まう)されければ、「入道(にふだう・にうだう)あまりに腹(はら)をたてて、教盛(のりもり)にはつゐに(つひに)対面(たいめん)もし給(たま)はず。
かなふまじき由(よし)頻(しきり)にの給(たま)ひけれ共(ども)、出家入道(しゆつけにふだう・しゆつけにうだう)まで申(まうし)たればにやらん、しばらく宿所(しゆくしよ)にをき(おき)奉(たてまつ)れとの給(たま)ひつれども、始終(しじゆう・しじう)よかるべしともおぼえず」。少将(せうしやう)「さ候(さうら)へばこそ、成経(なりつね)は御恩(ごおん・ごをん)をも(ッ)てしばしの命(いのち)ものび候(さうら)はんずるにこそ。夫(それ)につき候(さうらひ)ては、大納言(だいなごん)が事(こと)をばいかがきこしめされ候(さうらふ)」。「それまでは思(おも)ひもよらず」との給(たま)へば、其(その)時(とき)涙(なみだ)をはらはらとながいて、「誠(まこと)に御恩(ごおん)をも(ッ)てしばしの命(いのち)いき候(さうら)はんずる事(こと)は、然(しかる)べう候(さうら)へ共(ども)、命(いのち)のおしう(をしう)候(さうらふ)も、父(ちち)を今(いま)一度(ひとたび)見(み)ばやと思(おも)ふ為(ため)也(なり)。大納言(だいなごん)がきられ候(さうら)はんにおいては、成経(なりつね)とてもかひなき命(いのち)をいきて何(なに)にかはし候(さうらふ)べき。ただ一所(いつしよ)でいかにもなるやうに申(まうし)てたばせ給(たま)ふべうや候(さうらふ)らん」と申(まう)されければ、宰相(さいしやう)よにも心(こころ)くるしげにて、「いさとよ。御辺(ごへん)の事(こと)をこそとかう申(まうし)つれ。
それまではおもひもよらね共(ども)、大納言殿(だいなごんどの)の御事(おんこと)をば、今朝(けさ)〔内(うち)〕のおとどやうやうに申(まう)されければ、それもしばしは心安(こころやす)いやうにこそ承(うけたま)はれ」との給(たま)へば、少将(せうしやう)泣々(なくなく)手(て)を合(あはせ)てぞ悦(よろこ)ばれける。子(こ)ならざらむ者(もの)は、誰(たれ)か只今(ただいま)我(わが)身(み)のうへをさしをひ(おい)て、是(これ)ほどまでは悦(よろこぶ)べき。誠(まこと)の契(ちぎり)はおやこの中(なか)にぞありける。子(こ)をば人(ひと)のもつべかりける物(もの)かなとぞ、やがて思(おも)ひかへされける。さて今朝(けさ)のごとくに同車(どうしや)して帰(かへ)られけり。宿所(しゆくしよ)には女房達(にようばうたち)、しんだる人(ひと)のいきかへりたる心(ここ)ちして、さしつどひて皆(みな)悦泣共(よろこびなきども)せられけり。 
教訓状 (けうくんじやう) 

 

太政入道(だいじやうのにふだう・だいじやうのにうだう)は、かやうに人々(ひとびと)あまたいましめをい(おい)ても、猶(なほ・なほ)心(こころ)ゆかずや思(おも)はれけん、既(すでに)赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、黒糸威(くろいとをどし・くろいとおどし)の腹巻(はらまき)の白(しろ)がな物(もの)う(ッ)たるむな板(いた)せめて、先年(せんねん)安芸守(あきのかみ)たりし時(とき)、神拝(じんばい)の次(ついで・つゐで)に、霊夢(れいむ)を蒙(かうぶり)て、厳島(いつくしま)の大明神(だいみやうじん)よりうつつに給(たま)はられたりし銀(しろかね)のひる巻(まき)したる小長刀(こなぎなた)、常(つね)の枕(まくら)をはなたず立(たて)られたりしを脇(わき)にはさみ、中門(ちゆうもん・ちうもん)の廊(らう)へぞ出(いで)られける。そのきそくおほかたゆかしうぞみえし。貞能(さだよし)をめす。筑後守貞能(ちくごのかみさだよし)、木蘭地(むくらんぢ)の直垂(ひたたれ)にひおどし(をどし)の鎧(よろひ)きて、御前(おんまへ)に畏(かしこま・ッ)て候(さうらふ)。ややあ(ッ)て入道(にふだう・にうだう)の給(たま)ひけるは、「貞能(さだよし)、此(この)事(こと)いかがおもふ。保元(ほうげん)に平(へい)〔右〕馬助(むまのすけ)をはじめとして、一門(いちもん)半(なかば)過(すぎ)の新院(しんゐん)のみかたへまいり(まゐり)にき。一宮(いちのみや)の御事(おんこと)は、故刑部卿殿(こぎやうぶきやうのとの)の養君(やうくん)にてましまいしかば、かたがた見(み)はなちまいらせ(まゐらせ)がたか(ッ)し〔か〕ども、故院(こゐん)の御遺誡(ごゆいかい)に任(まかせ)て、みかたにてさきをかけたりき。是(これ)一(ひとつ)の奉公(はうこう)なり。
次(つぎに)平治(へいぢ)元年(ぐわんねん)十二月(じふにぐわつ)、信頼(のぶより)・義朝(よしとも)が院(ゐん)内(うち)をとり奉(たてまつ)て、大内(おほうち)にたてごも(ッ)て、天下(てんが)くらやみと成(な・ッ)たりしに、入道(にふだう・にうだう)身(み)を捨(すて)て凶徒(けうど)を追落(おひおと)し、経宗(つねむね)・惟方(これかた)をめし警(いましめ)しに至(いた)るまで、既(すで)に君(きみ)の御為(おんため)に命(いのち)をうしなはんとする事(こと)、度々(どど)にをよぶ(およぶ)。縦(たとひ)人(ひと)なんと申(まうす)共(とも)、七代(しちだい)までは此(この)一門(いちもん)をば争(いかで)か捨(すて)させ給(たま)ふべき。それに、成親(なりちか)と云(いふ)無用(むよう)のいたづら者(もの)、西光(さいくわう・さいくはう)と云(いふ)下賎(げせん)の不当人(ふたうじん)めが申(まうす)事(こと)につかせ給(たまひ)て、此(この)一門(いちもん)亡(ほろぼ)すべき由(よし)、法皇(ほふわう・ほうわう)の御結構(ごけつこう)こそ遺恨(ゐこん・いこん)の次第(しだい)なれ。此(この)後(のち)も讒奏(ざんそう)する者(もの)あらば、当家(たうけ)追討(ついたう)の院宣(ゐんぜん)下(くだ)されつとおぼゆるぞ。朝敵(てうてき)と成(な・ッ)てはいかにくゆ共(とも)益(えき・ゑき)有(ある)まじ。
世(よ)をしづめん程(ほど)、法皇(ほふわう・ほうわう)を鳥羽(とば)の北殿(きたどの)へうつし奉(たてまつ)るか、然(しから)ずは、是(これ)へまれ御幸(ごかう)をなしまいらせ(まゐらせ)むと思(おも)ふはいかに。其(その)儀(ぎ)ならば、北面(ほくめん)の輩(ともがら)、矢(や)をも一(ひとつ)いんずらん。侍共(さぶらひども)に其(その)用意(ようい)せよと触(ふる)べし。大方(おほかた)は入道(にふだう・にうだう)、院(ゐん)がたの奉公(ほうこう)おもひき(ッ)たり。馬(むま)にくらをか(おか)せよ。きせなが取出(とりいだ)せ」とぞの給(たま)ひける。主馬判官(しゆめのはんぐわん・しゆめのはんぐはん)盛国(もりくに)、いそぎ小松殿(こまつどの)へ馳(はせ)まい(ッ・まゐつ)て、「世(よ)は既(すでに)かう候(ざうらふ)」と申(まうし)ければ、おとど聞(きき)もあへず、「あははや、成親卿(なりちかのきやう)が首(くび)を刎(はね)られたるな」との給(たま)へば、「さは候(さうら)はね共(ども)、入道殿(にふだうどの・にうだうどの)きせながめされ候(さうらふ)。侍共(さぶらひども)皆(みな)う(ッ)た(ッ・うつたつ)て、ただ今(いま)法住寺殿(ほふぢゆうじどの・ほうぢうじどの)へよせんと出(いで)たち候(さうらふ)。法皇(ほふわう・ほうわう)をば鳥羽殿(とばどの)へをし(おし)こめまいらせ(まゐらせ)うど候(さうらふ)が、内々(ないない)は鎮西(ちんぜい)の方(かた)へながしまいらせ(まゐらせ)うど議(ぎ)せられ候(さうらふ)」と申(まうし)ければ、おとど争(いかで)かさる事(こと)有(ある)べきと思(おも)へ共(ども)、今朝(けさ)の禅門(ぜんもん)のきそく、さる物(もの)ぐるはしき事(こと)も有(ある)らんとて、車(くるま)をとばして西八条(にしはつでう)へぞおはしたる。
門前(もんぜん)にて車(くるま)よりおり、門(もん)の内(うち)へさし入(いり)て見(み)給(たま・みたま)へば、入道(にふだう・にうだう)腹巻(はらまき)をき給(たま)ふ上(うへ)は、一門(いちもん)の卿相雲客(けいしやううんかく)数十人(すじふにん・すじうにん)、各(おのおの)色々(いろいろ)の直垂(ひたたれ)に思(おも)ひ思(おも)ひの鎧(よろひ)きて、中門(ちゆうもん・ちうもん)の廊(らう)に二行(にぎやう)に着座(ちやくざ)せられたり。其(その)外(ほか)諸国(しよこく)の受領(じゆりやう)・衛府(ゑふ)・諸司(しよし)な(ン)ど(など)は、縁(えん)にゐこぼれ、庭(には)にもひしとなみゐたり。旗(はた)ざほ(ざを)共(ども)ひきそばめひきそばめ、馬(むま)の腹帯(はるび)をかため、甲(かぶと)の緒(を・お)をしめ、只今(ただいま)皆(みな)う(ッ)たた(うつたた)むずるけしきどもなるに、小松殿(こまつどの)烏帽子(えぼし・ゑぼし)直衣(なほし・なをし)に、大文(だいもん)の指貫(さしぬき)そばと(ッ)て、ざやめき入給(いりたま)へば、事外(ことのほか)にぞ見(み)えられける。
入道(にふだう・にうだう)ふしめにな(ッ)て、あはれ、れいの内府(だいふ)が世(よ)をへうする様(やう)にふるまふ、大(おほい)に諫(いさめ)ばやとこそ思(おも)はれけめども、さすが子(こ)ながらも、内(うち)には五戒(ごかい)をたも(ッ)て慈悲(じひ)を先(さき)とし、外(ほか)には五常(ごじやう)をみださず、礼義(れいぎ)をただしうし給(たま)ふ人(ひと)なれば、あのすがたに腹巻(はらまき)をきて向(むか)はん事(こと)、おもばゆうはづかしうや思(おも)はれけん、障子(しやうじ)をすこし引(ひき)たてて、素絹(そけん)の衣(ころも)を腹巻(はらまき)の上(うへ)にあはてぎ(あわてぎ)にき給(たま)ひけるが、むないたの金物(かなもの)のすこしはづれてみえけるを、かくさうど、頻(しきり)に衣(ころも)のむねを引(ひき)ちがへ引(ひき)ちがへぞし給(たま)ひける。おとどは舎弟(しやてい)宗盛卿(むねもりのきやう)の座上(ざしやう)につき給(たま)ふ。入道(にふだう・にうだう)もの給(たま)ひ出(いだ)す旨(むね)もなし。おとども申(まうし)出(いだ)さるる事(こと)もなし。
良(やや)あ(ッ)て入道(にふだう・にうだう)の給(たま)ひけるは、「成親卿(なりちかのきやう)が謀反(むほん)は事(こと)の数(かず)にもあらず。一向(いつかう)法皇(ほふわう・ほうわう)の御結構(ごけつこう)にて有(あり)けるぞや。世(よ)をしづめん程(ほど)、法皇(ほふわう・ほうわう)を鳥羽(とば)の北殿(きたどの)へうつし奉(たてまつ)るか、然(しから)ずは是(これ)へまれ御幸(ごかう)をなしまいらせ(まゐらせ)んと思(おも)ふはいかに」との給(たま)へば、おとど聞(きき)もあへずはらはらとぞなかれける。入道(にふだう・にうだう)「いかにいかに」とあきれ給(たま)ふ。おとど涙(なみだ)をおさへて申(まう)されけるは、「此(この)仰(おほせ)承(うけたまはり)候(さうらふ)に、御運(ごうん)ははや末(すゑ)に成(なり)ぬと覚(おぼえ)候(さうらふ)。人(ひと)の運命(うんめい)の傾(かたぶ)かんとては、必(かならず)悪事(あくじ)を思(おも)ひ立(たち)候(さうらふ)也(なり)。又(また)御(おん)ありさま、更(さら)にうつつ共(とも)覚(おぼ)え候(さうら)はず。さすが我(わが)朝(てう)は辺地粟散(へんぢそくさん)の境(さかひ)と申(まうし)ながら、天照大神(てんせうだいじん)の御子孫(ごしそん)、国(くに)のあるじとして、天児屋根尊(あまのこやねのみこと)の御末(おんすゑ)、朝(てう)の政(まつりごと)をつかさどり給(たま)ひしより以来(このかた)、太政大臣(だいじやうだいじん)の官(くわん・くはん)に至(いた)る人(ひと)の甲冑(かつちう)をよろふ事(こと)、礼義(れいぎ)を背(そむく)にあらずや。就中(なかんづく)御出家(ごしゆつけ)の御身(おんみ)也(なり)。
夫(それ)三世(さんぜ)の諸仏(しよぶつ)、解脱幢相(げだつどうさう)の法衣(ほふえ・ほうえ)をぬぎ捨(すて)て、忽(たちまち)に甲冑(かつちう)をよろひ、弓箭(きゆうせん・きうせん)を帯(たい)しましまさん事(こと)、内(うち)には既(すでに)破戒無慙(はかいむざん)の罪(つみ)をまねくのみならずや、外(ほか)には又(また)仁義礼智信(じんぎれいちしん)の法(ほふ・ほう)にもそむき候(さうらひ)なんず。かたがた恐(おそれ)ある申事(まうしごと)にて候(さうら)へ共(ども)、心(こころ)の底(そこ)に旨趣(ししゆ・し(イ)しゆ)を残(のこ)すべきにあらず。まづ世(よ)に四恩(しおん)候(さうらふ)。天地(てんち)の恩(おん)、国王(こくわう)の恩(おん)、父母(ぶも)の恩(おん)、衆生(しゆじやう)の恩(おん)是(これ)也(なり)。其(その)中(なか)に尤(もつとも)おもきは朝恩(てうおん)也(なり)。普天(ふてん)の下(した)、王地(わうぢ)にあらずといふ事(こと)なし。されば彼(かの)潁川(えいせん・ゑいせん)の水(みづ)に耳(みみ)をあらひ、首陽山(しゆやうざん)に薇(わらび)をお(ッ・をつ)し賢人(けんじん)も、勅命(ちよくめい)そむきがたき礼義(れいぎ)をば存知(ぞんぢ)すとこそ承(うけたま)はれ。何(なんぞ)况哉(いはんや)先祖(せんぞ)にもいまだきかざ(ッ)し太政大臣(だいじやうだいじん)をきはめさせ給(たま)ふ。
いはゆる重盛(しげもり)が無才愚闇(むさいぐあん)の身(み)をも(ッ)て、蓮府槐門(れんぷくわいもん)の位(くらゐ)に至(いた)る。しかのみならず、国郡(こくぐん)半(なかば)過(すぎ)て一門(いちもん)の所領(しよりやう)となり、田園(でんゑん・でんえん)悉(ことごとく)一家(いつか)の進止(しんじ)たり。是(これ)希代(きたい)の朝恩(てうおん)にあらずや。今(いま)これらの莫大(ばくたい)の御恩(ごおん・ごをん)を忘(わすれ)て、みだりがはしく法皇(ほふわう・ほうわう)を傾(かたぶ)け奉(たてまつ)らせ給(たま)はん事(こと)、天照大神(てんせうだいじん)・正八幡宮(しやうはちまんぐう)の神慮(しんりよ)にも背(そむき)候(さうらひ)なんず。日本(につぽん)は是(これ)神国(しんこく)也(なり)。神(かみ)は非礼(ひれい)を享(うけ)給(たま)はず。然(しかれ)ば君(きみ)のおぼしめし立(たつ)ところ、道理(だうり)なかばなきにあらず。中(なか)にも此(この)一門(いちもん)は、朝敵(てうてき)を平(たひら・たいら)げて四海(しかい)の逆浪(げきらう)をしづむる事(こと)は無双(ぶさう)の忠(ちゆう・ちう)なれば、その賞(しやう)に誇(ほこ)る事(こと)は傍若無人(ばうじやくぶじん)共(とも)申(まうし)つべし。聖徳太子(しやうとくたいし)十七(じふしち)ケ条(かでう)の御憲法(ごけんぼう)に、「人(ひと)皆(みな)心(こころ)あり。心(こころ)各(おのおの)執(しゆ)あり。
彼(かれ)を是(ぜ)し我(われ)を非(ひ)し、我(われ)を是(ぜ)し彼(かれ)を非(ひ)す、是非(ぜひ)の理(り)誰(たれ)かよく定(さだ)むべき。相共(あひとも)に賢愚(けんぐ)なり。環(たまき)の如(ごと)くして端(はし)なし。ここをも(ッ)て設(たとひ)人(ひと)いかると云(いふ)共(とも)、かへ(ッ)て我(わが)とがをおそれよ」とこそみえて候(さうら)へ。しかれ共(ども)、御運(ごうん)つきぬによ(ッ)て、謀反(むほん)既(すでに)あらはれぬ。其上(そのうへ)仰合(おほせあはせ)らるる成親卿(なりちかのきやう)めしをか(おか)れぬる上(うへ)は、設(たとひ)君(きみ)いかなるふしぎをおぼしめしたたせ給(たま)ふとも、なんのおそれか候(さうらふ)べき。所当(しよたう)の罪科(ざいくわ)おこなはれん上(うへ)は、退(しりぞ)いて事(こと)の由(よし)を陳(ちん)じ申(まう)させ給(たま)ひて、君(きみ)の御(おん)ためには弥(いよいよ)奉公(ほうこう)の忠勤(ちゆうきん・ちうきん)をつくし、民(たみ)のためにはますます撫育(ぶいく)の哀憐(あいれん)をいたさせ給(たま)はば、神明(しんめい)の加護(かご)にあづかり、仏陀(ぶつだ)の冥慮(みやうりよ)にそむくべからず。神明仏陀(じんめいぶつだ)感応(かんおう)あらば、君(きみ)もおぼしめしなをす(なほす)事(こと)、などか候(さうら)はざるべき。君(きみ)と臣(しん)とならぶるに親疎(しんそ)わくかたなし。道理(だうり)と僻事(ひがこと)をならべんに、争(いかで)か道理(だうり)につかざるべき」。 
烽火之沙汰 (ほうくわのさた) 

 

「是(これ)は君(きみ)の御(おん)ことはり(ことわり)にて候(さうら)へば、かなはざらむまでも、院御所(ゐんのごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの・ほうぢうじどの)を守護(しゆご)しまいらせ(まゐらせ)候(さうらふ)べし。其(その)故(ゆゑ・ゆへ)は、重盛(しげもり)叙爵(じよしやく)より今(いま)大臣(だいじん)の大将(だいしやう)にいたるまで、しかしながら君(きみ)の御恩(ごおん・ごをん)ならずと云(いふ)事(こと)なし。其(その)恩(おん・をん)の重(おも)き事(こと)をおもへば、千顆万顆(せんくわばんくわ)の玉(たま)にもこえ、其(その)恩(おん・をん)のふかき事(こと)を案(あん)ずれは、一入再入(いちじふさいじふ・いちじうさいじう)の紅(くれなゐ)にも過(すぎ)たらん。しかれば、院中(ゐんぢゆう・ゐんぢう)にまいり(まゐり)こもり候(さうらふ)べし。其(その)儀(ぎ)にて候(さうら)はば、重盛(しげもり)が身(み)にかはり、命(いのち)にかはらんと契(ちぎり)たる侍共(さぶらひども)少々(せうせう)候(さうらふ)らん。
これらをめしぐして、院御所(ゐんのごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの・ほうぢうじどの)を守護(しゆご)しまいらせ(まゐらせ)候(さうら)はば、さすが以外(もつてのほか・も(ツ)てのほか)の御大事(おんだいじ)でこそ候(さうら)はんずらめ。悲(かなしき)哉(かな)、君(きみ)の御(おん)ために奉公(ほうこう)の忠(ちゆう・ちう)をいたさんとすれば、迷慮(めいろ)八万(はちまん)の頂(いただき)より猶(なほ・なを)たかき父(ちち)の恩(おん・をん)、忽(たちまち)にわすれんとす。痛(いたましき)哉(かな)、不孝(ふかう)の罪(つみ)をのがれんとおもへば、君(きみ)の御(おん)ために既(すでに)不忠(ふちゆう・ふちう)の逆臣(ぎやくしん)となりぬべし。進退(しんだい)惟(これ)きはまれり、是非(ぜひ)いかにも弁(わきまへ)がたし。申(まうし)うくるところ〔の〕詮(せん)は、ただ重盛(しげもり)が頸(くび)をめされ候(さうら)へ。院中(ゐんぢゆう・ゐんぢう)をも守護(しゆご)しまいらす(まゐらす)べからず、院参(ゐんざん)の御供(おんとも)をも仕(つかまつ)るべからず。
かの蕭何(せうが)は大功(たいこう)かたへにこえたるによ(ッ)て、官(くわん・くはん)大相国(たいしやうこく)に至(いた)り、剣(けん)を帯(たい)し沓(くつ)をはきながら殿上(てんじやう)にのぼる事(こと)をゆるされしか共(ども)、叡慮(えいりよ・ゑいりよ)にそむく事(こと)あれば、高祖(かうそ)おもう警(いましめ)てふかう罪(つみ)せられにき。かやうの先蹤(せんじよう・せんぜう)をおもふにも、富貴(ふうき)といひ栄花(えいぐわ)といひ、朝恩(てうおん・てうをん)といひ重職(ちようじよく・てうじよく)といひ、旁(かたがた)きはめさせ給(たま)ひぬれば、御運(ごうん)のつきむこともかたかるべきにあらず。富貴(ふうき)の家(いへ)には禄位(ろくゐ)重畳(ちようでふ・てうでう)せり、ふたたび実(み)なる木(き)は其(その)根(ね)必(かならず)いたむとみえて候(さうらふ)。心(こころ)ぼそうこそおぼえ候(さうら)へ。いつまでか命(いのち)いきて、みだれむ世(よ)をも見(み)候(さうらふ)べき。只(ただ)末代(まつだい)に生(しやう)をうけて、かかるうき目(め)にあひ候(さうらふ)重盛(しげもり)が果報(くわほう)の程(ほど)こそつたなう候(さうら)へ。ただ今(いま)侍(さぶらひ)一人(いちにん)に仰付(おほせつけ)て、御坪(おつぼ)のうちに引出(ひきいだ)されて、重盛(しげもり)が首(かうべ)のはねられん事(こと)は、安(やす)いほどの事(こと)で〔こそ〕候(さうら)へ。是(これ)をおのおの聞(きき)給(たま)へ」とて、直衣(なほし・なをし)の袖(そで)もしぼるばかりに涙(なみだ)をながしかきくどかれければ、一門(いちもん)の人々(ひとびと)、心(こころ)あるも心(こころ)なきも、みな鎧(よろひ)の袖(そで)をぞぬらされける。
太政入道(だいじやうにふだう・だいじやうにうだう)も、たのみき(ッ)たる内府(だいふ)はかやうにの給(たま)ふ、力(ちから)もなげにて、「いやいや、これまでは思(おもひ)もよりさうず。悪党共(あくたうども)が申(まうす)事(こと)につかせ給(たま)ひて、ひが事(こと)な(ン)どやいでこむずらんと思(おも)ふばかりでこそ候(さうら)へ」との給(たま)へば、「縦(たとひ)いかなるひが事(こと)出(いで)き候(さうらふ)とも、君(きみ)をば何(なに)とかしまいらせ(まゐらせ)給(たま)ふべき」とて、ついた(ッ)て中門(ちゆうもん・ちうもん)に出(いで)て、侍共(さぶらひども)に仰(おほせ)られけるは、「只今(ただいま)重盛(しげもり)が申(まうし)つる事共(ことども)をば、汝等(なんぢら)承(うけたま)はらずや。今朝(けさ)よりこれに候(さうら)うて、かやうの事共(ことども)申(まうし)しづめむと存(ぞん)じつれ共(ども)、あまりにひたさはぎ(さわぎ)にみえつる間(あひだ・あいだ)、帰(かへ)りたりつるなり。院参(ゐんざん)の御供(おんとも)にをいて(おいて)は、重盛(しげもり)が頸(くび)のめされむを見(み)て仕(つかまつ)れ。さらば人(ひと)まいれ(まゐれ)」とて、小松殿(こまつどの)へぞ帰(かへ)られける。
主馬判官(しゆめのはんぐわん・しゆめのはんぐはん)盛国(もりくに)をめして、「重盛(しげもり)こそ天下(てんが)の大事(だいじ)を別(べつ)して聞出(ききいだ)したれ。「我(われ)を我(われ)とおもはん者共(ものども)は、皆(みな)物(ものの)ぐして馳(はせ)まいれ(まゐれ)」と披露(ひろう)せよ」との給(たま)へば、此(この)由(よし)ひろうす。おぼろけにてはさはが(さわが)せ給(たま)はぬ人(ひと)の、かかる披露(ひろう)のあるは別(べち)の子細(しさい)のあるにこそとて、皆(みな)物具(もののぐ)して我(われ)も我(われ)もと馳(はせ)まいる(まゐる)。淀(よど)・はづかし・宇治(うぢ)・岡(をか)の屋(や)、日野(ひの)・勧条寺(くわんじゆじ)・醍醐(だいご)・小黒栖(おぐるす)、梅津(むめず)・桂(かつら)・大原(おほはら)・しづ原(はら)、せれうの里(さと)と、あぶれゐたる兵共(つはものども)、或(あるい・あるひ)はよろい(よろひ)きていまだ甲(かぶと)をきぬもあり、或(あるい)は矢(や)おうていまだ弓(ゆみ)をもたぬもあり。片鐙(かたあぶみ)ふむやふまずにて、あはて(あわて)さはい(さわい)で馳(はせ)まいる(まゐる)。
小松殿(こまつどの)にさはぐ(さわぐ)事(こと)ありと聞(きこ)えしかば、西八条(にしはつでう)に数千騎(すせんぎ)ありける兵共(つはものども)、入道(にふだう・にうだう)にかうとも申(まうし)も入(いれ)ず、ざざめきつれて、皆(みな)小松殿(こまつどの)へぞ馳(はせ)たりける。すこしも弓箭(きうせん)にたづさはる程(ほど)の者(もの)、一人(いちにん)も残(のこ)らず。其(その)時(とき)入道(にふだう・にうだう)大(おほき)に驚(おどろ・をどろ)き、貞能(さだよし)をめして、「内府(だいふ)は何(なに)とおもひて、これらをばよびとるやらん。是(これ)でいひつる様(やう)に、入道(にふだう・にうだう)が許(もと)へ射手(いて・ゐて)な(ン)ど(など)やむかへんずらん」との給(たま)へば、貞能(さだよし)涙(なみだ)をはらはらとながいて、「人(ひと)も人(ひと)にこそよらせ給(たま)ひ候(さうら)へ。争(いかで)かさる御事(おんこと)候(さうらふ)べき。
申(まう)させ給(たま)ひつる事共(ことども)も、みな御後悔(ごこうくわい)ぞ候(さうらふ)らん」と申(まうし)ければ、入道(にふだう・にうだう)内府(だいふ)に中(なか)たがふ(たがう)てはあしかりなんとやおもはれけむ、法皇(ほふわう・ほうわう)むかへまいらせ(まゐらせ)んずる事(こと)もはや思(おもひ)とどまり、腹巻(はらまき)ぬぎをき(おき)、素絹(そけん)の衣(ころも)にけさうちかけて、いと心(こころ)にもおこらぬ念珠(ねんじゆ)してこそおはしけれ。小松殿(こまつどの)には、盛国(もりくに)承(うけたまは・ッ)て着到(ちやくたう)つけけり。馳参(はせさんじ)たる勢(せい)ども、一万余騎(いちまんよき)とぞしるいたる。着到披見(ちやくたうひけん)の後(のち)、おとど中門(ちゆうもん・ちうもん)に出(いで)て、侍共(さぶらひども)にの給(たま)ひけるは、「日来(ひごろ)の契約(けいやく)をたがへず、まいり(まゐり)たるこそ神妙(しんべう)なれ。異国(いこく)にさるためしあり。周(しゆうの)幽王(いうわう・ゆうわう)、褒女+以(ほうじ)と云(いふ)最愛(さいあい)の后(きさき)をもち給(たま)へり。天下(てんが)第一(だいいち)の美人(びじん)也(なり)。
されども幽王(いうわう・ゆうわう)の心(こころ)にかなはざりける事(こと)は、褒女+以(ほうじ)咲(ゑみ)をふくまずとて、すべて此(この)后(きさき)わらう(わらふ)事(こと)をし給(たま)はず。異国(いこく)の習(ならひ)には、天下(てんが)に兵革(へいがく)おこる時(とき)、所(しよ)々に火(ひ)をあげ、大鼓(たいこ)をう(ッ)て兵(つはもの)をめすはかり事(こと)あり。是(これ)を烽火(ほうくわ)と名(な)づけたり。或(ある)時(とき)天下(てんが)に兵乱(ひやうらん)おこ(ッ)て、烽火(ほうくわ)をあげたりければ、后(きさき)これを見(み)給(たま)ひて、「あなふしぎ、火(ひ)もあれ程(ほど)おほかりけるな」とて、其(その)時(とき)初(はじめ)てわらひ給(たま)へり。この后(きさき)一(ひと)たびゑめば百(もも)の媚(こび)ありけり。幽王(いうわう・ゆうわう)うれしき事(こと)にして、其(その)事(こと)となうつねに烽火(ほうくわ)をあげ給(たま)ふ。
諸(しよ)こう来(きた)るにあた(寇)なし。あたなければ則(すなはち)さんぬ。かやうにする事(こと)度々(たびたび)に及(およ・をよ)べば、まいる(まゐる)ものもなかりけり。或(ある)時(とき)隣国(りんごく)より凶賊(けうぞく)おこ(ッ)て、幽王(いうわう・ゆうわう)の都(みやこ)をせめけるに、烽火(ほうくわ)をあぐれども、例(れい)の后(きさき)の火(ひ)になら(ッ)て兵(つはもの)もまいら(まゐら)ず。其(その)時(とき)都(みやこ)かたむいて、幽王(いうわう・ゆうわう)終(つひ・つゐ)にほろびにき。さてこの后(きさき)は野干(やかん)とな(ッ)てはしりうせけるぞおそろしき。か様(やう)の事(こと)がある時(とき)は、自今(じごん)以後(いご)もこれよりめさむには、かくのごとくまいる(まゐる)べし。重盛(しげもり)不思議(ふしぎ)の事(こと)を聞出(ききいだ)してめしつるなり。されども其(その)事(こと)聞(きき)なをし(なほし)つ。僻事(ひがこと)にてありけり。とうとう帰(かへ)れ」とて皆(みな)帰(かへ)されけり。実(まこと)にはさせる事(こと)をも聞出(ききいだ)されざりけれども、父(ちち)をいさめ申(まう)されつる詞(ことば)にしたがひ、我(わが)身(み)に勢(せい)のつくかつかぬかの程(ほど)をもしり、又(また)父子(ふし)戦(たたかひ)をせんとにはあらねども、かうして入道相国(にふだうしやうこく・にうだうしやうこく)の謀反(むほん)の心(こころ)をもや、やはらげ給(たま)ふとの策(はかりこと)也(なり)。君(きみ)君(きみ)たらずと云(いふ)とも、臣(しん)も(ッ)て臣(しん)たらず(ン)ば有(ある)べからず。
父(ちち)父(ちち)たらずと云(いふ)共(とも)、子(こ)も(ッ)て子(こ)たらず(ン)ば有(ある)べからず。君(きみ)のためには忠(ちゆう・ちう)あ(ッ)て、父(ちち)のためには孝(かう)あり。文宣王(ぶんせんわう)のの給(たま)ひけるにたがはず。君(きみ)も此(この)よしきこしめして、「今(いま)にはじめぬ事(こと)なれ共(ども)、内府(だいふ)が心(こころ)のうちこそはづかしけれ。怨(あた)をば恩(おん・をん)をも(ッ)て報(ほう)ぜられたり」とぞ仰(おほせ)ける。「果報(くわほう)こそめでたうて、大臣(だいじん)の大将(だいしやう)に至(いた)らめ、容儀体(ようぎたい)はい人(ひと)に勝(すぐ)れ、才智(さいち)才覚(さいかく)さへ世(よ)にこえたるべしやは」とぞ、時(とき)の人々(ひとびと)感(かん)じあはれける。「国(くに)に諫(いさめ)る臣(しん)あれば其(その)国(くに)必(かならず)やすく、家(いへ)に諫(いさめ)る子(こ)あれば其(その)家(いへ)必(かならず)ただし」といへり。上古(しやうこ)にも末代(まつだい)にもありがたかりし大臣(おとど)也(なり)。 
大納言流罪 (だいなごんるざい) 

 

同(おなじき)六月(ろくぐわつ)二日(ふつかのひ)、新大納言(しんだいなごん)成親卿(なりちかのきやう)をば公卿(くぎやう)の座(ざ)へ出(いだ)し奉(たてまつ)り、御物(おんもの)まいらせ(まゐらせ)たりけれども、むねせきふさが(ッ)て御(お)はしをだにもたてられず。御車(おんくるま)をよせて、とうとうと申(まう)せば、心(こころ)ならずのり給(たま)ふ。軍兵(ぐんびやう)ども前後左右(ぜんごさう)にうちかこみたり。我(わが)方(かた)の者(もの)は一人(いちにん)もなし。「今(いま)一度(いちど)小松殿(こまつどの)にみえ奉(たてまつ)らばや」との給(たま)へ共(ども)、それもかなはず。「縦(たとひ)重科(ぢゆうくわ・ぢうくわ)を蒙(かうぶつ)て遠国(をんごく)へゆく者(もの)も、人(ひと)一人(いちにん)身(み)にそへぬ者(もの)やある」と、車(くるま)のうちにてかきくどかれければ、守護(しゆご)の武士共(ぶしども)も皆(みな)鎧(よろひ)の袖(そで)をぞぬらしける。
西(にし)の朱雀(しゆしやか)を南(みなみ)へゆけば、大内山(おほうちやま)も今(いま)はよそにぞ見(み)給(たまひ)ける。とし比(ごろ)見(み)奉(たてまつ)りし雑色(ざつしき)牛飼(うしかひ)に至(いた)るまで、涙(なみだ)をながし袖(そで)をしぼらぬはなかりけり。まして都(みやこ)に残(のこ)りとどまり給(たま)ふ北方(きたのかた)、おさなき(をさなき)人々(ひとびと)の心(こころ)のうち、おしはかられて哀(あはれ)也(なり)。鳥羽殿(とばどの)をすぎ給(たま)ふにも、此(この)御所(ごしよ)へ御幸(ごかう)なりしには、一度(いちど)も御供(おんとも)にははづれざりし物(もの)をとて、わが山庄(さんざう)すはま殿(どの)とて有(あり)しをも、よそにみてこそとおら(とほら)れけれ。南(みなみ)の門(もん)に出(いで)て、舟(ふね)をそし(おそし)とぞいそがせける。「こはいづちへやらむ。おなじううしなはるべくは、都(みやこ)ちかき此(この)辺(へん)にてもあれかし」との給(たま)ひけるぞせめての事(こと)なる。ちかうそひたる武士(ぶし)を「たそ」ととひ給(たま)へば、「難波次郎(なんばのじらう)経遠(つねとほ・つねとを)」と申(まうす)。
「若(もし)此(この)辺(へん)に我(わが)方(かた)さまのものやある。舟(ふね)にのらぬ先(さき)にいひをく(おく)べき事(こと)あり。尋(たづね)てまいらせよ(まゐらせよ)」との給(たま)ひければ、其(その)辺(へん)をはしりまは(ッ)て尋(たづね)けれ共(ども)、我(われ)こそ大納言殿(だいなごんどの)の方(かた)と云(いふ)者(もの)一人(いちにん)もなし。「我(われ)世(よ)なりし時(とき)は、したがひついたりし者共(ものども)、一二千人(いちにせんにん)もありつらん。いまはよそにてだにも、此(この)有(あり)さまを見(み)をくる(おくる)者(もの)のなかりけるかなしさよ」とてなかれければ、たけきもののふ共(ども)もみな袖(そで)をぞぬらしける。身(み)にそふものとては、ただつきせぬ涙(なみだ)ばかり也(なり)。熊野(くまの)まうで、天王寺詣(てんわうじまうで)な(ン)ど(など)には、ふたつがはらの、三棟(みつむね)につく(ッ)たる舟(ふね)にのり、次(つぎ)の舟(ふね)二三十艘(にさんじつそう)漕(こぎ)つづけてこそありしに、今(いま)はけしかるかきすゑ屋形舟(やかたぶね)に大幕(おほまく)ひかせ、見(み)もなれぬ兵共(つはものども)にぐせられて、けふをかぎりに都(みやこ)を出(いで)て、浪路(なみぢ)はるかにおもむかれけむ心(こころ)のうち、おしはかられて哀(あはれ)也(なり)。
其(その)日(ひ)は摂津国(つのくに)大(だい)もつの浦(うら)に着(つき)給(たま)ふ。新大納言(しんだいなごん)、既(すでに)死罪(しざい)に行(おこな)はるべかりし人(ひと)の、流罪(るざい)に宥(なだめ)られけることは、小松殿(こまつどの)のやうやうに申(まう)されけるによ(ッ)て也(なり)。此(この)人(ひと)いまだ中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)にておはしける時(とき)、美濃国(みののくに)を知行(ちぎやう)し給(たま)ひしに、嘉応(かおう)元年(ぐわんねん)の冬(ふゆ)、目代(もくだい)右衛門尉(うゑもんのじよう・うゑもんのぜう)正友(まさとも)がもとへ、山門(さんもん)の領(りやう)、平野庄(ひらののしやう)の神人(じんにん)が葛(くず)を売(うり)てきたりけるに、目代(もくだい)酒(さけ)に飲酔(のみゑひ・のみえひ)て、くずに墨(すみ)をぞ付(つけ)たりける。神人(じんにん)悪口(あつこう)に及(およ・をよ)ぶ間(あひだ・あいだ)、さないはせそとてさんざんにれうりやく(りようりやく)す。さる程(ほど)に神人共(じんにんども)数百人(すひやくにん)、目代(もくだい)が許(もと)へ乱入(らんにふ・らんにう)す。
目代(もくだい)法(ほふ・ほう)にまかせて防(ふせき)ければ、神人等(じんにんら)十余人(じふよにん・じうよにん)うちころされ、是(これ)によ(ッ)て同(おなじき)年(とし)の十一月(じふいちぐわつ)三日(みつかのひ)、山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)飫(おびたた)しう蜂起(ほうき)して、国司(こくし)成親卿(なりちかのきやう)を流罪(るざい)に処(しよ)せられ、目代(もくだい)右衛門尉(うゑもんのじよう・うゑもんのぜう)正友(まさとも)を禁獄(きんごく)せらるべき由(よし)奏聞(そうもん)す。既(すでに)成親卿(なりちかのきやう)備中国(びつちゆうのくに・びつちうのくに)へながさるべきにて、西(にし)の七条(しつでう)までいだされたりしを、君(きみ)いかがおぼしめされけん、中(なか)五日(いつか)あ(ッ)てめしかへさる。山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)飫(おびたた)しう呪咀(しゆそ)すと聞(きこ)えしか共(ども)、同(おなじき)二年(にねん)正月(しやうぐわつ)五日(いつかのひ)、右衛門督(うゑもんのかみ)を兼(けん)して、検非違使(けんびゐし・けんびいし)の別当(べつたう)になり給(たま)ふ。其(その)時(とき)姿方(すけかた)・兼雅卿(かねまさのきやう)こえられ給(たま)へり。資方卿(すけかたのきやう)はふるい人(ひと)、おとなにておはしき。兼雅卿(かねまさのきやう)は栄花(えいぐわ)の人(ひと)也(なり)。家嫡(けちやく)にてこえられ給(たま)ひけるこそ遺恨(いこん)なれ。是(これ)は三条殿(さんでうどの)造進(ざうしん)の賞(しやう)也(なり)。
同(おなじき)三年(さんねん)四月(しぐわつ)十三日(じふさんにち)、正(じやう)二位(にゐ)に叙(じよ)せらる。その時(とき)は中御門(なかのみかど)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)宗家卿(むねいへのきやう)こえられ給(たま)へり。安元(あんげん)元年(ぐわんねん)十月(じふぐわつ)廿七日(にじふしちにち)、前中納言(さきのちうなごん)より権大納言(ごんだいなごん)にあがり給(たま)ふ。人(ひと)あざけ(ッ)て、「山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)には、のろはるべかりける物(もの)を」とぞ申(まうし)ける。されども今(いま)はそのゆへ(ゆゑ)にや、かかるうき目(め)にあひ給(たま)へり。凡(およそ・をよそ)は神明(しんめい)の罰(ばつ)も人(ひと)の呪咀(しゆそ)も、ときもあり遅(おそき)もあり、不同(ふどう)なる事共(ことども)也(なり)。同(おなじき)三日(みつかのひ)、大(だい)もつの浦(うら)へ京(きやう)より御使(おつかひ)ありとてひしめきけり。
新大納言(しんだいなごん)「是(これ)にり失(うしな)へとにや」と聞(きき)給(たま)へば、さはなくして、備前(びぜん)の児島(こじま)へながすべしとの御使(おんつかひ)なり。小松殿(こまつどの)より御(おん)ふみあり。「いかにもして、みやこちかき片山里(かたやまざと)にをき(おき)奉(たてまつ)らばやと、さしも申(まうし)つれどもかなはぬ事(こと)こそ、世(よ)にあるかひも候(さうら)はね。さりながらも、御命(おんいのち)ばかりは申(まうし)うけて候(さうらふ)」とて、難波(なんば)がもとへも「かまへてよくよく宮仕(みやづか)へ御心(おんこころ)にたがう(たがふ)な」と仰(おほせ)られつかはし、旅(たび)のよそほい(よそほひ)こまごまと沙汰(さた)しをくら(おくら)れたり。新大納言(しんだいなごん)はさしも忝(かたじけな)うおぼしめされける君(きみ)にもはなれまいらせ(まゐらせ)、つかのまもさりがたうおもはれける北方(きたのかた)おさなき(をさなき)人々(ひとびと)にも別(わかれ)はてて、「こはいづちへとて行(ゆく)やらん。
二度(ふたたび)こきやうに帰(かへり)て、さひし(さいし)を相(あひ)みん事(こと)も有(あり)がたし。一(ひと)とせ山門(さんもん)の訴詔(そしよう・そせう)によ(ッ)てながされしを、君(きみ)おしま(をしま)せ給(たま)ひて、西(にし)の七条(しつでう)よりめし帰(かへ)されぬ。これはされば君(きみ)の御警(おんいましめ)にもあらず。こはいかにしつる事(こと)ぞや」と、天(てん)にあふぎ地(ち)にふして、泣(なき)かなしめ共(ども)かひぞなき。明(あけ)ぬれば既(すでに)舟(ふね)おしいだいて下(くだ)り給(たま)ふに、みちすがらもただ涙(なみだ)に咽(むせん)で、ながらふべしとはおぼえねど、さすが露(つゆ)の命(いのち)はきえやらず、跡(あと)のしら波(なみ)へだつれば、都(みやこ)は次第(しだい)に遠(とほ・とを)ざかり、日数(ひかず)やうやう重(かさな)れば、遠国(をんごく)は既(すでに)近付(ちかづき)けり。備前(びぜん)の児島(こじま)に漕(こぎ)よせて、民(たみ)の家(いへ)のあさましげなる柴(しば)の庵(いほり)にをき(おき)奉(たてまつ)る。島(しま)のならひ、うしろは山(やま)、前(まへ)はうみ、磯(いそ)の松風(まつかぜ)浪(なみ)の音(おと・をと)、いづれも哀(あはれ)はつきせず。 
阿古屋之松 (あこやのまつ) 

 

大納言(だいなごん)一人(いちにん)にもかぎらず、警(いましめ)を蒙(かうぶ)る輩(ともがら)おほかりけり。近江中将(あふみのちゆうじやう・あふみのちうじやう)入道(にふだう)蓮浄(れんじやう)佐渡国(さどのくに)、山城守(やましろのかみ)基兼(もとかぬ)伯耆国(はうきのくに)、式部大輔(しきぶのたいふ・しきぶのたゆう)正綱(まさつな)播磨国(はりまのくに)、宗(むね)判官(はんぐわん)信房(のぶふさ)阿波国(あはのくに)、新平判官(しんぺいはんぐわん)資行(すけゆき)は美作国(みまさかのくに)とぞ聞(きこ)えし。其(その)比(ころ)入道相国(にふだうしやうこく・にうだうしやうこく)、福原(ふくはら)の別業(べつげふ・べつげう)におはしけるが、同(おなじき)廿日(はつかのひ)、摂津左衛門(せつつのさゑもん)盛澄(もりずみ)を使者(ししや)で、門脇(かどわき)の宰相(さいしやう)の許(もと)へ、「存(ぞんず)る旨(むね)あり。
丹波少将(たんばのせうしやう)いそぎ是(これ)へたべ」との給(たま)ひつかはされたりければ、宰相(さいしやう)「さらば、只(ただ)ありし時(とき)ともかくもなりたりせばいかがせむ。今更(いまさら)物(もの)をおもはせんこそかなしけれ」とて、福原(ふくはら)へ下(くだ)り給(たま)ふべき由(よし)の給(たま)へば、少将(せうしやう)なくなく出立(いでたち)給(たま)ひけり。女房達(にようばうたち)は、「かなはぬ物(もの)ゆへ(ゆゑ)、なを(なほ)もただ宰相(さいしやう)の申(まう)されよかし」とぞ歎(なげか)れける。宰相(さいしやう)「存(ぞんず)る程(ほど)の事(こと)は申(まうし)つ。世(よ)を捨(すつ)るより外(ほか)は、今(いま)は何事(なにごと)をか申(まうす)べき。され共(ども)、縦(たとひ)いづくの浦(うら)におはす共(とも)、我(わが)命(いのち)のあらむかぎりはとぶらひ奉(たてまつ)るべし」とぞの給(たま)ひける。
少将(せうしやう)は今年(ことし)三(みつ)になり給(たま)ふおさなき(をさなき)人(ひと)を持(もち)給(たま)へり。日(ひ)ごろはわかき人(ひと)にて、君達(きんだち)な(ン)ど(など)の事(こと)も、さしもこまやかにもおはせざりしか共(ども)、今(いま)はの時(とき)になりしかば、さすが心(こころ)にやかかられけん、「此(この)おさなき(をさなき)者(もの)を今(いま)一度(ひとたび)見(み)ばや」とこその給(たま)ひけれ。めのといだいてまいり(まゐり)たり。少将(せうしやう)ひざのうへにをき(おき)、かみかきなで、涙(なみだ)をはらはらとながいて、「あはれ、汝(なんぢ)七歳(しちさい)にならば男(をとこ・おとこ)になして、君(きみ)へまいらせ(まゐらせ)んとこそおもひつれ。され共(ども)、今(いま)は云(いふ)かひなし。若(もし)命(いのち)いきておひたちたらば、法師(ほふし・ほうし)になり、我(わが)後(のち)の世(よ)とぶらへよ」との給(たま)へば、いまだいとけなき心(こころ)に何事(なにごと)をか聞(きき)わき給(たま)ふべきなれ共(ども)、うちうなづき給(たま)へば、少将(せうしやう)をはじめ奉(たてまつ)て、母(はは)へめのとの女房(にようばう)、其(その)座(そのざ)になみゐたる人々(ひとびと)、心(こころ)あるも心(こころ)なきも、皆(みな)袖(そで)をぞぬらしける。
福原(ふくはら)の御使(おつかひ)、やがて今夜(こよひ)鳥羽(とば)まで出(いで)させ給(たま)ふべきよし申(まうし)ければ、「幾程(いくほど)ものびざらむ物(もの)ゆへ(ゆゑ)に、こよひばかりは都(みやこ)のうちにてあかさばや」との給(たま)へ共(ども)、頻(しきり)に申(まう)せば、其(その)夜(よ)鳥羽(とば)へ出(いで)られける。宰相(さいしやう)あまりにうらめしさに、今度(こんど)はのりも具(ぐ)し給(たま)はず。おなじき廿二日(にじふににち)、福原(ふくはら)へ下(くだ)りつき給(たま)ひたりければ、太政入道(だいじやうにふだう・だいじやうにうだう)、瀬尾太郎(せのをのたらう・せのおのたらう)兼康(かねやす)に仰(おほせ)て、備中国(びつちゆうのくに・びつちうのくに)へぞ下(くだ)されける。兼康(かねやす)は宰相(さいしやう)のかへり聞(きき)給(たま)はん所(ところ)をおそれて、道(みち)すがらもやうやうにいたはりなぐさめ奉(たてまつ)る。され共(ども)少将(せうしやう)なぐさみ給(たま)ふ事(こと)もなし。よるひるただ仏(ほとけ)の御名(みな)をのみ唱(となへ)て、父(ちち)の事(こと)をぞ歎(なげか)れける。
新大納言(しんだいなごん)は備前(びぜん)の児島(こじま)におはしけるを、あづかりの武士(ぶし)難波次郎(なんばのじらう)経遠(つねとほ・つねとを)「これは猶(なほ・なを)舟津(ふなつ)近(ちか)うてあしかりなん」とて地(ち)へわたし奉(たてまつ)り、備前(びぜん)・備中(びつちゆう・びつちう)両国(りやうごく)の堺(さかひ)、にはせて郷(がう)有木(ありき)の別所(べつしよ)と云(いふ)山寺(やまでら)にをき(おき)奉(たてまつ)る。備中(びつちゆう・びつちう)の瀬尾(せのを・せのお)と備前(びぜん)の有木(ありき)の別所(べつしよ)の間(あひだ・あいだ)は、纔(わづか)五十町(ごじつちやう)にたらぬ所(ところ)なれば、丹波少将(たんばのせうしやう)、そなたの風(かぜ)もさすがなつかしうやおもはれけむ。或(ある)時(とき)兼康(かねやす)をめして、「是(これ)より大納言殿(だいなごんどの)の御渡(おわたり)あむ(あん)なる備前(びぜん)の有木(ありき)の別所(べつしよ)へは、いか程(ほど)の道(みち)ぞ」ととひ給(たま)へば、すぐにしらせ奉(たてまつ)てはあしかりなんとやおもひけむ、「かたみち十二三日(じふにさんにち)で候(さうらふ)」と申(まうす)。其(その)時(とき)少将(せうしやう)涙(なみだ)をはらはらとながいて、「日本(につぽん)は昔(むかし)三十三(さんじふさん)ケ国(かこく)にてありけるを、中比(なかごろ)六十六(ろくじふろく)ケ国(かこく)に分(わけ)られたんなり。さ云(いふ)備前(びぜん)・備中(びつちゆう・びつちう)・備後(びんご)も、もとは一国(いつこく)にてありける也(なり)。又(また)あづまに聞(きこ)ゆる出羽(では)・陸奥(みちのく)両国(りやうごく)も、昔(むかし)は六十六(ろくじふろく)郡(ぐん)が一国(いつこく)にてありけるを、其(その)時(とき)十三郡(じふさんぐん)をさきわか(ッ)て、出羽国(ではのくに)とはたてられたり。
されば実方中将(さねかたのちゆうじやう・さねかたのちうじやう)、奥州(あうしう・あふしう)へながされたりける時(とき)、此(この)国(くに)の名所(めいしよ)にあこやの松(まつ)と云(いふ)所(ところ)を見(み)ばやとて、国(くに)のうちを尋(たづね)ありきけるが、尋(たづね)かねて帰(かへ)りける道(みち)に、老翁(らうおう)の一人(いちにん)逢(あひ)たりければ、「やや、御辺(ごへん)はふるい人(ひと)とこそ見(み)奉(たてまつ)れ。当国(たうごく)の名所(めいしよ)にあこやの松(まつ)と云(いふ)所(ところ)やしりたる」ととふに、「ま(ッ)たく当国(たうごく)のうちには候(さうら)はず。出羽国(ではのくに)にや候(さうらふ)らん」。
「さては御辺(ごへん)しらざりけり。世(よ)はすゑにな(ッ)て、名所(めいしよ)をもはやよびうしなひたるにこそ」とて、むなしく過(すぎ)んとしければ、老翁(らうおう)、中将(ちゆうじやう・ちうじやう)の袖(そで)をひかへて、「あはれ君(きみ)は
みちのくのあこ屋(や)の松(まつ)に木(こ)がくれていづべき月(つき)のいでもやらぬか
といふ歌(うた)の心(こころ)をも(ッ)て、当国(たうごく)の名所(めいしよ)あこ屋(や)の松(まつ)とは仰(おほせ)られ候(さうらふ)か、それは両国(りやうごく)が一国(いつこく)なりし時(とき)読(よみ)侍(はべ)る歌(うた)也(なり)。十二郡(じふにぐん)をさきわか(ッ)て後(のち)は、出羽国(ではのくに)にや候(さうらふ)らん」と申(まうし)ければ、さらばとて、実方中将(さねかたのちゆうじやう・さねかたのちうじやう)も出羽国(ではのくに)にこえてこそ、あこ屋(や)の松(まつ)をば見(み)たりけれ。筑紫(つくし)の太宰府(ださいふ)より都(みやこ)へ魚+宣(はらか)の使(つかひ)ののぼるこそ、かた路(ぢ)十五日(じふごにち)とはさだめたれ。既(すでに)十二三日(じふにさんにち)と云(いふ)は、これより殆(ほとんど)鎮西(ちんぜい)へ下向(げかう)ごさむなれ(ごさんなれ)。
遠(とほ・とを)しと云(いふ)とも、備前(びぜん)・備中(びつちゆう・びつちう)の間(あひだ・あいだ)、両(りやう)三日(さんにち)にはよも過(すぎ)じ。近(ちか)きをとをう(とほう)申(まうす)は、大納言殿(だいなごんどの)の御渡(おわたり)あんなる所(ところ)を、成経(なりつね)にしらせじとてこそ申(まうす)らめ」とて、其(その)後(のち)は恋(こひ)しけれ共(ども)とひ給(たま)はず。 
大納言死去 (だいなごんのしきよ) 

 

さる程(ほど)に、法勝寺(ほつしようじ・ほつせうじ)の執行(しゆぎやう)俊寛僧都(しゆんくわんそうづ・しゆんくはんそうづ)、平(へい)判官(はんぐわん・はんぐはん)康頼(やすより)、この少将(せうしやう)相(あひ・あい)ぐして、三人(さんにん)薩摩潟(さつまがた)鬼界(きかい)が島(しま)へぞながされける。彼(かの)島(しま)は、都(みやこ)を出(いで)てはるばると浪路(なみぢ)をしのいで行(ゆく)所(ところ)也(なり)。
おぼろけにては舟(ふね)もかよはず。島(しま)にも人(ひと)まれなり。をのづから(おのづから)人(ひと)はあれども、此(この)土(ど)の人(ひと)にも似(に)ず。色(いろ)黒(くろ)うして牛(うし)の如(ごと)し。身(み)には頻(しきり)に毛(け)おひつつ、云(いふ)詞(ことば)も聞(きき)しらず。男(をとこ・おとこ)は鳥帽子(えぼし・ゑぼし)もせず、女(をうな)は髪(かみ)もさげざりけり。衣裳(いしやう)なければ人(ひと)にも似(に)ず。食(しよく)する物(もの)もなければ、只(ただ)殺生(せつしやう)をのみ先(さき)とす。しづが山田(やまだ)を返(かへ)さねば、米穀(べいこく)のるいもなく、園(その)の桑(くは)をとらざれば、絹帛(けんぱく)のたぐひもなかりけり。島(しま)のなかにはたかき山(やま)あり。鎮(とこしなへ)に火(ひ)もゆ。
硫黄(いわう)と云(いふ)物(もの)みちみてり。かるがゆへに(かるがゆゑに)硫黄(いわう)が島(しま)とも名付(なづけ)たり。いかづちつねになりあがり、なりくだり、麓(ふもと)には雨(あめ)山せし。一日(いちにち)片時(へんし)、人(ひと)の命(いのち)たえてあるべき様(やう)もなし。さる程(ほど)に、新大納言(しんだいなごん)はすこしくつろぐ事(こと)もやと思(おも)はれけるに、子息(しそく)丹波少将(たんばのせうしやう)成経(なりつね)も、はや鬼界(きかい)が島(しま)へながされ給(たま)ひぬときいて、今(いま)はさのみつれなく何事(なにごと)をか期(ご)すべきとて、出家(しゆつけ)の志(こころざし)の候(さうらふ)よし、便(たより)に付(つけ)て小松殿(こまつどの)へ申(まう)されければ、此(この)由(よし)法皇(ほふわう・ほうわう)へ伺(うかがひ)申(まうし)て御免(ごめん)ありけり。
やがて出家(しゆつけ)し給(たま)ひぬ。栄花(えいぐわ)の袂(たもと)を引(ひき)かへて、うき世(よ)をよそのすみぞめの袖(そで)にぞやつれ給(たま)ふ。大納言(だいなごん)の北方(きたのかた)は、都(みやこ)の北山(きたやま)雲林院(うんりんゐん)の辺(へん)にしのびてぞおはしける。さらぬだに住(すみ)なれぬ所(ところ)は物(もの)うきに、いとどしのばれければ、過行(すぎゆく)月日(つきひ)もあかしかね、くらしわづらふさまなりけり。女房(にようばう)侍(さぶらひ)おほかりけれども、或(あるいは・あるひは)世(よ)をおそれ、或(あるいは・あるひは)人(ひと)目(め)をつつむほどに、とひとぶらふ者(もの)一人(いちにん)もなし。
され共(ども)その中(なか)に、源(げん)左衛門尉(ざゑもんのじよう・ざゑもんのぜう)信俊(のぶとし)と云(いふ)侍(さぶらひ)一人(いちにん)、情(なさけ)ことにふかかりければ、つねはとぶらひたてまつる。或(ある)時(とき)北方(きたのかた)、信俊(のぶとし)をめして、「まことや、これには備前(びぜん)のこじまにと聞(きこ)えしが、此(この)程(ほど)きけば有木(ありき)の別所(べつしよ)とかやにおはす也(なり)。いかにもして今(いま)一度(いちど)、はかなき筆(ふで)の跡(あと)をも奉(たてまつ)り、御(おん)をとづれ(おとづれ)をもきかばや」とこその給(たま)ひけれ。信俊(のぶとし)涙(なみだ)をおさへ申(まうし)けるは、「幼少(えうせう・ようせう)より御憐(おんあはれみ)を蒙(かうぶつ)て、かた時(とき)もはなれまいらせ(まゐらせ)候(さうら)はず。
御下(おんくだ)りの時(とき)も、何共(なにとも)して御供(おんとも)仕(つかまつら)うと申(まうし)候(さうらひ)しか共(ども)、六波羅(ろくはら)よりゆるされねば力(ちから)及(および・をよび)候(さうら)はず。めされ候(さうらひ)し御声(おんこゑ)も耳(みみ)にとどまり、諫(いさめ)られまいらせ(まゐらせ)し御詞(おんことば)も肝(きも)に銘(めい)じて、かた時(とき)も忘(わすれ)まいらせ(まゐらせ)候(さうら)はず。縦(たとひ)此(この)身(み)はいかなる目(め)にもあひ候(さうら)へ、とうとう御(おん)ふみ給(たま)は(ッ)てまいり(まゐり)候(さうら)はん」とぞ申(まうし)ける。北方(きたのかた)なのめならず悦(よろこび)て、やがてかいてぞたうだりける。おさなき(をさなき)人々(ひとびと)も面々(めんめん)に御(おん)ふみあり。信俊(のぶとし)これを給(たま)は(ッ)て、はるばると備前国(びぜんのくに)有木(ありき)の別所(べつしよ)へ尋下(たづねくだ)る。あづかりの武士(ぶし)難波次郎(なんばのじらう)経遠(つねとほ・つねとを)に案内(あんない)をいひければ、心(こころ)ざしの程(ほど)を感(かん)じて、やがて見参(げんざん)にいれたりけり。
大納言(だいなごん)入道殿(にふだうどの・にうだうどの)は、只今(ただいま)も都(みやこ)の事(こと)をの給(たま)ひだし、歎(なげ)きしづんでおはしける処(ところ)に、「京(きやう)より信俊(のぶとし)がまい(ッ・まゐつ)て候(さうらふ)」と申入(まうしいれ)たりければ、「ゆめかや」とて、ききもあへずおきなをり(なほり)、「是(これ)へ是(これ)へ」とめされければ、信俊(のぶとし)まい(ッ・まゐつ)て見(み)奉(たてまつ)るに、まづ御(おん)すまひの心(こころ)うさもさる事(こと)にて、墨染(すみぞめ)の御袂(おんたもと)を見(み)奉(たてまつ)るにぞ、信俊(のぶとし)目(め)もくれ心(こころ)もきえて覚(おぼ)ゆる。北方(きたのかた)の仰(おほせ)かうむ(ッ)し次第(しだい)、こまごまと申(まうし)て、文(ふみ)とりいだいて奉(たてまつ)る。是(これ)をあけて見(み)給(たま)へば、水(みづ)ぐきの跡(あと)は涙(なみだ)にかきくれて、そこはかとはみえねども、「おさなき(をさなき)人々(ひとびと)のあまりに恋(こひ)かなしみ給(たま)ふありさま、我(わが)身(み)もつきせぬもの思(おもひ)にたへしのぶべうもなし」な(ン)ど(など)かかれたれば、日来(ひごろ)の恋(こひ)しさは事(こと)の数(かず)ならずとぞかなしみ給(たま)ふ。
かくて四五日(しごにち)過(すぎ)ければ、信俊(のぶとし)「これに候(さうらひ)て、最後(さいご)の御有様(おんありさま)見(み)まいらせ(まゐらせ)ん」と申(まうし)ければ、あづかりの武士(ぶし)難波次郎(なんばのじらう)経遠(つねとほ・つねとを)、かなう(かなふ)まじき由(よし)頻(しきり)に申(まう)せば、力(ちから)及(およ・をよ)ばで、「さらば上(のぼ)れ」とこその給(たま)ひけれ。「我(われ)は近(ちか)ううしなはれんずらむ。此(この)世(よ)になき者(もの)ときかば、相構(あひかまへ)て我(わが)後世(ごせ)とぶらへ」とぞの給(たま)ひける。御返事(おんぺんじ)かいてたうだりければ、信俊(のぶとし)これを給(たまは・ッ)て、「又(また)こそ参(まゐ)り候(さうら)はめ」とて、いとま申(まうし)て出(いで)ければ、「汝(なんぢ)がまたこんたびを待(まち)つくべしともおぼえぬぞ。
あまりにしたはしくおぼゆるに、しばししばし」との給(たま)ひて、たびたびよびぞかへされける。さてもあるべきならねば、信俊(のぶとし)涙(なみだ)をおさへつつ、都(みやこ)へ帰(かへり)上(のぼ)りけり。北方(きたのかた)に御(おん)ふみまいらせ(まゐらせ)たりければ、是(これ)をあけて御覧(ごらん)ずるに、はや出家(しゆつけ)し給(たま)ひたるとおぼしくて、御(おん)ぐしの一(ひと)ふさ、ふみのおくにありけるを、ふた目(め)とも見(み)給(たま)はず。かたみこそ中々(なかなか)今(いま)はあだなれとて、ふしまろびてぞなかれける。おさなき(をさなき)人々(ひとびと)も、声々(こゑごゑ)になきかなしみ給(たま)ひけり。さるほどに、大納言(だいなごん)入道殿(にふだうどの・にうだうどの)をば、同(おなじき)八月(はちぐわつ)十九日(じふくにち)、備前(びぜん)・備中(びつちゆう・びつちう)両国(りやうごく)の堺(さかひ)、にはせ(庭瀬)の郷(がう)吉備(きび)の中山(なかやま)と云(いふ)所(ところ)にて、つゐに(つひに)うしなひ奉(たてまつ)る。
其(その)さひご(さいご)の有(あり)さま、やうやうに聞(きこ)えけり。酒(さけ)に毒(どく)を入(いれ)てすすめたりければ、かなはざりければ、岸(きし)の二丈(にぢやう)ばかりありける下(した)にひしをうへ(うゑ)て、うへよりつきおとし奉(たてまつ)れば、ひしにつらぬか(ッ)てうせ給(たま)ひぬ。無下(むげ)にうたてき事共(ことども)也(なり)。ためしすくなうぞおぼえける。大納言(だいなごん)北方(きたのかた)は、此(この)世(よ)になき人(ひと)と聞(きき)たまひて、「いかにもして今(いま)一度(いちど)、かはらぬすがたを見(み)もし、みえんとてこそ、けふまでさまをもかへざりつれ。今(いま)は何(なに)にかはせん」とて、菩提院(ぼだいゐん)と云(いふ)寺(てら)におはし、さまをかへ、かたのごとく仏事(ぶつじ)をいとなみ、後世(ごせ)をぞとぶらひ給(たま)ひける。
此(この)北方(きたのかた)と申(まうす)は、山城守(やましろのかみ)敦方(あつかた)の娘(むすめ)なり。勝(すぐれ)たる美人(びじん)にて、後白河法皇(ごしらかはのほふわう・ごしらかはのほうわう)の御最愛(ごさいあい)ならびなき御(おん)おもひ人(びと)にておはしけるを、成親卿(なりちかのきやう)ありがたき寵愛(ちようあい・てうあい)の人(ひと)にて、給(たま)はられたりけるとぞ聞(きこ)えし。おさなき(をさなき)人々(ひとびと)も花(はな)を手折(たをり・たおり)、閼伽(あか)の水(みづ)を結む(むすん)で、父(ちち)の後世(ごせ)をとぶらひ給(たま)ふぞ哀(あはれ)なる。さる程(ほど)に時(とき)うつり事(こと)さ(ッ)て、世(よ)のかはりゆくありさまは、ただ天人(てんにん)の五衰(ごすい)にことならず。 
徳大寺之沙汰 (とくだいじのさた) 

 

ここに徳大寺(とくだいじ)の大納言(だいなごん)実定卿(しつていのきやう)は、平家(へいけ)の次男(じなん)宗盛卿(むねもりのきやう)に大将(だいしやう)をこえられて、しばらく寵居(ろうきよ)し給(たま)へり。出家(しゆつけ)せんとの給(たま)へば、諸大夫(しよだいぶ)侍共(さぶらひども)、いかがせんと歎(なげき)あへり。其(その)中(なか)に藤(とう)蔵人(くらんど)重兼(しげかね)と云(いふ)諸大夫(しよだいぶ)あり。諸事(しよじ)に心(こころ)えたる人(ひと)にて、ある月(つき)の夜(よ)、実定卿(しつていのきやう)南面(なんめん)の御格子(みかうし)あげさせ、只(ただ)ひとり月(つき)に嘯(うそぶひ)ておはしける処(ところ)に、なぐさめまいらせ(まゐらせ)んとやおもひけん、藤蔵人(とうくらんど)まいり(まゐり)たり。「たそ」。「重兼(しげかね)候(ざうらふ)」。「いかに何事(なにごと・なにこと)ぞ」との給(たま)へば、「今夜(こよひ)は殊(こと)に月(つき)さえて、よろづ心(こころ)のすみ候(さうらふ)ままにまい(ッ)て候(さうらふ)」とぞ申(まうし)ける。大納言(だいなごん)「神妙(しんべう)にまい(ッ・まゐつ)たり。余(よ)に何(なに)とやらん心(こころ)ぼそうて徒然(とぜん)なるに」とぞ仰(おほせ)られける。
其(その)後(のち)何(なに)となひ(ない)事共(ことども)申(まうし)てなぐさめ奉(たてまつ)る。大納言(だいなごん)の給(たま)ひけるは、「倩(つらつら)此(この)世(よ)の中(なか)のありさまをみるに、平家(へいけ)の世(よ)はいよいよさかんなり。入道相国(にふだうしやうこく・にうだうしやうこく)の嫡子(ちやくし)次男(じなん)、左右(さう)の大将(だいしやう)にてあり。やがて三男(さんなん)知盛(とももり)、嫡孫(ちやくそん)維盛(これもり)も有(ある)ぞかし。かれも是(これ)も次第(しだい)にならば、他家(たけ)の人々(ひとびと)、大将(だいしやう)をいつあたりつぐべし共(とも)覚(おぼ)えず。さればつゐ(つひ)の事(こと)也(なり)。
出家(しゆつけ)せん」とぞの給(たま)ひける。重兼(しげかね)涙(なみだ)をはらはらとながひ(ながい)て申(まうし)けるは、「君(きみ)の御出家(ごしゆつけ)候(さうらひ)なば、御内(みうち)の上下(じやうげ)皆(みな)まどひ者(もの)になりなんず。重兼(しげかね)めづらしい事(こと)をこそ案(あん)じ出(いだ)して候(さうら)へ。喩(たとへ)ば安芸(あき)の厳島(いつくしま)をば、平家(へいけ)なのめならずあがめ敬(うやまは)れ候(さうらふ)に、何(なに)かはくるしう候(さうらふ)べき、彼(かの)社(やしろ)へ御(おん)まいり(まゐり)あ(ッ)て、御祈誓(ごきせい)候(さうら)へかし。七日(なぬか)斗(ばか)り御参籠(ごさんろう)候(さうら)はば、彼(かの)社(やしろ)には内侍(ないし)とて、ゆう(いう)なる舞姫共(まひびめども)おほく候(さうらふ)。めづらしう思(おも)ひまいらせ(まゐらせ)て、もてなしまいらせ(まゐらせ)候(さうら)はんずらむ。何事(なにごと)の御祈誓(ごきせい)に御参籠(ごさんろう)候(さうらふ)やらんと申(まうし)候(さうら)はば、ありのままに仰(おほせ)候(さうら)へ。
さて御(おん)のぼりの時(とき)、御名残(おんなごり)おしみ(をしみ)まいらせ(まゐらせ)候(さうら)はんずらむ。むねとの内侍共(ないしども)をめし具(ぐ)して、都(みやこ)まで御(おん)のぼり候(さうら)へ。都(みやこ)へのぼり候(さうらひ)なば、西八条(にしはつでう)へぞ参(まゐり・まいり)候(さうら)はんずらん。徳大寺殿(とくだいじどの)は何事(なにごと)の御祈誓(ごきせい)に厳島(いつくしま)へはまいら(まゐら)せ給(たま)ひたりけるやらんと尋(たづね)られ候(さうら)はば、内侍(ないし)どもありのままにぞ申(まうし)候(さうら)はむずらん。入道相国(にふだうしやうこく・にうだうしやうこく)はことに物(もの)めでし給(たま)ふ人(ひと)にて、わが崇(あがめ)給(たま)ふ御神(おんがみ・おんかみ)へまい(ッ・まゐつ)て、祈(いのり)申(まう)されけるこそうれしけれとて、よきやうなるはからひもあんぬと覚(おぼ)え候(さうらふ)」と申(まうし)ければ、徳大寺殿(とくだいじどの)「これこそ思(おも)ひもよらざりつれ。ありがたき策(はかりこと)かな。やがてまいら(まゐら)む」とて、俄(にはか)に精進(しやうじん)はじめつつ、厳島(いつくしま)へぞ参(まゐ)られける。誠(まこと)に彼(かの)社(やしろ)には内侍(ないし)とてゆう(いう)なる女(をんな・おんな)どもおほかりけり。七日(なぬか)参籠(さんろう)せられけるに、よるひるつきそひ奉(たてまつ)り、もてなす事(こと)かぎりなし。七日(なぬか)七夜(ななよ)の間(あひだ・あいだ)に、舞楽(ぶがく)も三度(さんど)までありけり。
琵琶(びわ)琴(こと)ひき、神楽(かぐら)うたひな(ン)ど(など)遊(あそび)ければ、実定卿(しつていのきやう)も面白(おもしろき)事(こと)に覚(おぼ)しめし、神明(しんめい)法楽(ほふらく・ほうらく)のために、いまやう朗詠(らうえい・らうゑい)うたい(うたひ)、風俗催馬楽(ふうぞくさいばら)な(ン)ど(など)、ありがたき郢曲(えいきよく)どもありけり。内侍共(ないしども)「当社(たうしや)へは平家(へいけ)の公達(きんだち)こそ御(おん)まいり(まゐり)さぶらふに、この御(おん)まいり(まゐり)こそめづらしうさぶらへ。何事(なにごと)の御祈誓(ごきせい)に御参籠(ごさんろう)さぶらふやらん」と申(まうし)ければ、「大将(だいしやう)を人(ひと)にこえられたる間(あひだ・あいだ)、その祈(いのり)のため也(なり)」とぞおほせられける。さて七日(なぬか)参籠(さんろう)おは(ッ・をはつ)て、大明神(だいみやうじん)に暇(いとま)申(まうし)て都(みやこ)へのぼらせ給(たま)ふに、名残(なごり)ををしみ奉(たてまつ)り、むねとのわかき内侍(ないし)十余人(じふよにん・じうよにん)、舟(ふね)をしたてて一日路(ひとひぢ)をくり(おくり)奉(たてまつ)る。いとま申(まうし)けれ共(ども)、さりとてはあまりに名(な)ごりのおしき(をしき)に、今(いま)一日路(ひとひぢ)、今(いま)二日路(ふつかぢ)と仰(おほせ)られて、みやこまでこそ具(ぐ)せられけれ。徳大寺殿(とくだいじどの)の亭(てい)へいれさせ給(たま)ひて、やうやうにもてなし、さまざまの御引出物共(おんひきでものども)たうでかへされけり。
内侍共(ないしども)「これまでのぼる程(ほど)では、我等(われら)がしう(しゆう)の太政入道殿(だいじやうにふだうどの・だいじやうにうだうどの)へ、いかでまいら(まゐら)で有(ある)べき」とて、西八条(にしはつでう)へぞ参(さん)じたる。入道相国(にふだうしやうこく・にうだうしやうこく)いそぎ出(いで)あひ給(たま)ひて、「いかに内侍共(ないしども)は何事(なにごと)の列参(れつさん)ぞ」。「徳大寺殿(とくだいじどの)の御(おん)まいり(まゐり)さぶらふ(さぶらう)て、七日(なぬか)こもらせ給(たま)ひて御(おん)のぼりさぶらふを、一日路(ひとひぢ)をくり(おくり)まいらせ(まゐらせ)てさぶらへば、さりとてはあまりに名(な)ごりのおしき(をしき)に、今(いま)一日路(ひとひぢ)二日路(ふつかぢ)と仰(おほせ)られて、是(これ)までめしぐせられてさぶらふ」。「徳大寺(とくだいじ)は何事(なにごと)の祈誓(きせい)に厳島(いつくしま)まではまいら(まゐら)れたりけるやらん」との給(たま)へば、「大将(だいしやう)の御祈(おんいのり)のためとこそ仰(おほせ)られさぶらひしか」。
其(その)時(とき)入道(にふだう・にうだう)うちうなづいて、「あないとをし(いとほし)。王城(わうじやう)にさしもた(ッ)とき霊仏(れいぶつ)霊社(れいしや)のいくらもましますをさしをい(おい)て、我(わが)崇(あがめ)奉(たてまつ)る御神(おんがみ)へまい(ッ・まゐつ)て、祈(いのり)申(まう)されけるこそ有(あり)がたけれ。是(これ)ほど心(こころ)ざし切(せつ)ならむ上(うへ)は」とて、嫡子(ちやくし)小松殿内大臣(こまつどのないだいじん)の左大将(さだいしやう)にてましましけるを辞(じ)せさせ奉(たてまつ)り、次男(じなん)宗盛(むねもり)大納言(だいなごん)の右大将(うだいしやう)にておはしけるをこえさせて、徳大寺(とくだいじ)を左大将(さだいしやう)にぞなされける。あはれ、めでたかりけるはかりことかな。新大納言(しんだいなごん)も、かやうに賢(かしこ)きはからひをばし給(たま)はで、よしなき謀反(むほん)おこいて、我(わが)身(み)も亡(ほろび)、子息(しそく)所従(しよじゆう・しよじう)に至(いた)るまで、かかるうき目(め)をみせ給(たま)ふこそうたてけれ。 
山門滅亡堂衆合戦 (さんもんめつばうだうしゆかつせん) 

 

さる程(ほど)に、法皇(ほふわう・ほうわう)は三井寺(みゐでら)の公顕僧正(こうけんそうじやう)を御師範(ごしはん)として、真言(しんごん)の秘法(ひほふ・ひほう)を伝受(でんじゆ)せさせましましけるが、大日経(だいにちきやう)・金剛頂経(こんがうちやうきやう)・蘇悉地経(そしつぢきやう)、此(この)三部(さんぶ)の秘法(ひほふ・ひほう)をうけさせ給(たま)ひて、九月(くぐわつ)四日(しにち)三井寺(みゐでら)にて御潅頂(ごくわんぢやう・ごくはんぢやう)あるべしとぞ聞(きこ)えける。山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)憤(いきどほり・いきどをり)申(まうし)、「むかしより御潅頂(ごくわんぢやう・ごくはんぢやう)御受戒(ごじゆかい)、みな当山(たうざん)にしてとげさせまします事(こと)先規(せんぎ)也(なり)。就中(なかんづく)に山王(さんわう)の化導(けだう)は受戒(じゆかい)潅頂(くわんぢやう・くはんぢやう)のためなり。しかるを今(いま)三井寺(みゐでら)にてとげ〔させましまさば、寺(てら)を一向(いつかう)焼払(やきはら)ふべし」とぞ〕申(まうし)ける。「是(これ)無益(むやく)なり」とて、御加行(ごかぎやう)を結願(けつぐわん)して、おぼしめしとどまらせ給(たま)ひぬ。さりながらも猶(なほ・なを)御本意(ごほんい)なればとて、三井寺(みゐでら)の公顕僧正(こうけんそうじやう)をめし具(ぐ)して、天王寺(てんわうじ)へ御幸(ごかう)な(ッ)て、五智光院(ごちくわうゐん・ごちくはうゐん)をたて、亀井(かめゐ)の水(みづ)を五瓶(ごへい)の智水(ちすい)として、仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)最初(さいしよ)の霊地(れいち)にてぞ、伝法(でんぼふ・でんぼう)潅頂(くわんぢやう・くはんぢやう)はとげさせましましける。
山門(さんもん)の騒動(さうどう)をしづめられんがために、三井寺(みゐでら)にて御潅頂(ごくわんぢやう・ごくはんぢやう)はなかりしか共(ども)、山上(さんじやう)には、堂衆(だうじゆ)学生(がくしやう)不快(ふくわい)の事(こと)いできて、かつせん(合戦)度々(どど)に及(およぶ・をよぶ)。毎度(まいど)に学侶(がくりよ・かくりよ)うちおとされて、山門(さんもん)の滅亡(めつばう)、朝家(てうか)の御大事(おんだいじ)とぞ見(み)えし。堂衆(だうじゆ)と申(まうす)は、学生(がくしやう)の所従(しよじゆう・しよじう)也(なり)ける童部(わらはべ)が法師(ほふし・ほうし)にな(ッ)たるや、若(もし)は中間法師原(ちゆうげんほふしばら・ちうげんほうしばら)にてありけるが、金剛寿院(こんがうじゆゐん)の座主(ざす)覚尋権僧正(がくしんごんのそうじやう)治山(ぢさん)の時(とき)より、三塔(さんたふ・さんたう)に結番(けつばん)して、夏衆(げしゆ)と号(かう)して、仏(ほとけ)に花(はな)まいらせ(まゐらせ)し者共(ものども)也(なり)。近年(きんねん)行人(ぎやうにん)とて、大衆(だいしゆ)をも事(こと)共(とも)せざりしが、かく度々(どど)の戦(たたかひ)にうちかちぬ。堂衆等(だうじゆら)師主(ししゆ)の命(めい)をそむいて合戦(かつせん)を企(くはたて)、すみやかに誅罰(ちゆうばつ・ちうばつ)せらるべきよし、大衆(だいしゆ)公家(くげ)に奏聞(そうもん)し、武家(ぶけ)に触(ふれ)う(ッ)たう(うつたふ)。これによ(ッ)て太政入道(だいじやうにふだう・だいじやうにうだう)院宣(ゐんぜん)を承(うけたまは)り、紀伊国(きいのくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)湯浅権守(ゆあさのごんのかみ)宗重(むねしげ)以下(いげ)、畿内(きない)の兵(つはもの)二千余騎(にせんよき)、大衆(だいしゆ)にさしそへて堂衆(だうじゆ)を攻(せめ)らる。
堂衆(だうじゆ)日(ひ)ごろは東陽坊(とうやうばう)にありしが、近江国(あふみのくに)三ケ(さんが)の庄(しやう)に下向(げかう)して、数多(すた)の勢(せい)を率(そつ)し、又(また)登山(とうざん)して、さう井坂(ゐざか)に城(じやう)をしてたてごもり。同(おなじき)九月(くぐわつ)廿日(はつかのひ)辰(たつ)の一点(いつてん)に、大衆(だいしゆ)三千人(さんぜんにん)、官軍(くわんぐん・くはんぐん)二千余騎(にせんよき)、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)五千余(ごせんよ)人(にん)、さう井坂(ゐざか)におしよせたり。今度(こんど)はさり共(とも)とおもひけるに、大衆(だいしゆ)は官軍(くわんぐん・くはんぐん)をさきだてむとし、官軍(くわんぐん・くはんぐん)は又(また)大衆(だいしゆ)をさきだてんとあらそふ程(ほど)に、心々(こころごころ)にてはかばかしうもたたかはず。城(じやう)の内(うち)より石弓(いしゆみ)はづしかけたりければ、大衆(だいしゆ)官軍(くわんぐん・くはんぐん)かずをつくいてうたれにけり。堂衆(だうじゆ)に語(かた)らふ悪党(あくたう)と云(いふ)は、諸国(しよこく)の窃盜(せつたう)・強盜(がうだう)・山賊(さんぞく)・海賊等(かいぞくとう)也(なり)。欲心熾盛(よくしんしじやう)にして、死生不知(ししやうふち)の奴原(やつばら)なれば、我(われ)一人(いちにん)と思(おもひ)き(ッ)てたたかふ程(ほど)に、今度(こんど)も又(また)学生(がくしやう)いくさにまけにけり。 
山門滅亡 (さんもんめつばう) 

 

其(その)後(のち)は山門(さんもん)いよいよ荒(あれ)はてて、十二禅衆(じふにぜんじゆ)のほかは、止住(しぢゆう・しぢう)の僧侶(そうりよ)もまれ也(なり)。谷々(たにだに)の講演(こうえん・かうゑん)磨滅(まめつ)して、堂々(だうだう)の行法(ぎやうぼふ・ぎやうぼう)も退転(たいてん)す。修学(しゆがく)の窓(まど)を閉(とぢ)、坐禅(ざぜん)の床(ゆか)をむなしうせり。四教(しけう)五時(ごじ)の春(はる)の花(はな)もにほはず、三諦即是(さんだいそくぜ)の秋(あき)の月(つき)もくもれり。三百余歳(さんびやくよさい)の法燈(ほふとう・ほうとう)を挑(かかぐ)る人(ひと)もなく、六時不断(ろくじふだん)の香(かう)の煙(けぶり)もたえやしぬらん。堂舎(たうじや)高(たか)くそびへ(そびえ)て、三重(さんぢゆう・さんぢう)の構(かまへ)を青漢(せいかん)の内(うち)に挿(さしはさ)み、棟梁(とうりやう)遥(はるか)に秀(ひいで)て、四面(しめん)の椽(たるき)を白霧(はくむ)の間(あひだ・あいだ)にかけたりき。され共(ども)、今(いま)は供仏(くぶつ)を嶺(みね)の嵐(あらし)にまかせ、金容(きんよう)を紅瀝(こうれき)にうるほす。夜(よる)の月(つき)灯(ともしび)をかかげて、簷(のき)のひまよりもり、暁(あかつき)の露(つゆ)珠(たま)を垂(たれ)て、蓮座(れんざ)の粧(よそほひ)をそふとかや。夫(それ)末代(まつだい)の俗(ぞく)に至(いたつ)ては、三国(さんごく)の仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)も次第(しだい)に衰微(すいび)せり。
遠(とほ・とを)く天竺(てんぢく)に仏跡(ぶつせき)をとぶらへば、昔(むかし)仏(ほとけ)の法(のり)を説給(ときたま)ひし竹林精舎(ちくりんしやうじや)・給孤独園(ぎつこどくゑん・ぎつこどくえん)も、此比(このごろ)は狐狼(こらう)野干(やかん)の栖(すみか)とな(ッ)て、礎(いしずゑ)のみや残(のこる)らん。白鷺池(はくろち)には水(みづ)たえて、草(くさ)のみふかくしげれり。退梵(たいぼん)下乗(げじよう・げぜう)の卒都婆(そとば)も苔(こけ)のみむして傾(かたぶき)ぬ。震旦(しんだん)にも天台山(てんだいさん)・五台山(ごだいさん)・白馬寺(はくばじ)・玉泉寺(ぎよくせんじ)も、今(いま)は住侶(ぢゆうりよ・ぢうりよ)なきさまに荒(あれ)はてて、大小乗(だいせうじよう・だいせうぜう)の法門(ほふもん・ほうもん)も箱(はこ)の底(そこ)にや朽(くち)ぬらん。我(わが)朝(てう)にも、南都(なんと)の七大寺(しちだいじ)荒(あれ)はてて、八宗(はつしゆう・はつしう)九宗(くしゆう・くしう)も跡(あと)たえ、愛宕護(あたご)・高雄(たかを・たかお)も、昔(むかし)は堂塔(だうたふ・だうたう)軒(のき)をならべたりしか共(ども)、一夜(ひとよ)のうちに荒(あれ)にしかば、天狗(てんぐ)の棲(すみか)となりはてぬ。
さればにや、さしもや(ン)ごとなかりつる天台(てんだい)の仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)も、治承(ぢしよう・ぢせう)の今(いま)に及(およん・をよん)で、亡(ほろび)はてぬるにや。心(こころ)ある人(ひと)嘆(なげき)かなしまずと云(いふ)事(こと)なし。離山(りさん)しける僧(そう)の坊(ばう)の柱(はしら)に、歌(うた)をぞ一首(いつしゆ)書(かい)たりける。
いのりこし我(わが)たつ杣(そま)の引(ひき)かへて人(ひと)なきみねとなりやはてなむ
是(これ)は、伝教大師(でんげうだいし)当山(たうざん)草創(さうさう)の昔(むかし)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)の仏(ほとけ)たちにいのり申(まう)されける事(こと)をおもひ出(いで)て、読(よみ)たりけるにや。いとやさしうぞ聞(きこ)えし。八日(やうか)は薬師(やくし)の日(ひ)なれども、南無(なむ)と唱(となふ)るこゑもせず、卯月(うづき)は垂跡(すいしやく)の月(つき)なれ共(ども)、幣帛(へいはく)を捧(ささぐ)る人(ひと)もなし。
あけの玉墻(たまがき)かみさびて、しめなはのみや残(のこる)らん。 
善光寺炎上 (ぜんくわうじえんしやう) 

 

其(その)比(ころ)善光寺(ぜんくわうじ・ぜんくはうじ)炎上(えんしやう)の由(よし)其(その)聞(きこえ)あり。彼(かの)如来(によらい)と申(まうす)は、昔(むかし)中天竺(ちゆうてんぢく・ちうてんぢく)舎衛国(しやゑこく)に五種(ごしゆ)の悪病(あくびやう)おこ(ッ)て人庶(にんそう)おほく亡(ほろび)しに、月蓋長者(ぐわつかいちやうじや)が致請(ちじやう)によ(ッ)て、竜宮城(りゆうぐうじやう・りうぐうじやう)より閻浮檀金(えんぶだごん)をえて、釈尊(しやくそん)、目蓮長者(もくれんちやうじや)、心(こころ)をひとつにして鋳(ゐ)あらはし給(たま)へる一(いつ)ちやく手半(しゆはん)の弥陀(みだ)の三尊(さんぞん)、閻浮提(えんぶだい)第一(だいいち)の霊像(れいざう)也(なり)。仏滅度(ぶつめつど)の後(のち)、天竺(てんぢく)にとどまらせ給(たまふ)事(こと)五百余歳(ごひやくよさい)、仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)東漸(とうぜん)の理(ことわり・ことはり)にて、百済国(はくさいこく)にうつらせ給(たま)ひて、一千歳(いつせんざい)の後(のち)、百済(はくさい)の御門(みかど)斉明王(せいめいわう)、吾(わが)朝(てう)の御門(みかど)欽明天皇(きんめいてんわう)の御宇(ぎよう)に及(および・をよび)て、彼(かの)国(くに)より此(この)国(くに)へうつらせ給(たま)ひて、摂津国(せつつのくに)難波(なには)の浦(うら)にして星霜(せいざう)ををくら(おくら)せ給(たま)ひけり。
つねは金色(こんじき)の光(ひかり)をはなたせましましければ、これによ(ッ)て年号(ねんがう)を金光(こんくわう・こんくはう)と号(かう)す。同(おなじき)三年(さんねん)三月(さんぐわつ)上旬(じやうじゆん)に、信濃国(しなののくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)おうみの本太善光(ほんだよしみつ)と云(いふ)者(もの)、都(みやこ)へのぼりたりけるが、彼(かの)如来(によらい)に逢(あひ)奉(たてまつ)りたりけるに、やがていざなひまいらせ(まゐらせ)て、ひるは善光(よしみつ)、如来(によらい)ををい(おひ)奉(たてまつ)り、夜(よる)は善光(よしみつ)、如来(によらい)におはれたてま(ッ)て、信濃国(しなののくに)へ下(くだ)り、みのちの郡(こほり)に安置(あんぢ)したてま(ッ)しよりこのかた、星霜(せいざう)既(すで)に五百(ごひやく)八十(はちじふ)余歳(よさい)、炎上(えんしやう)の例(れい)はこれはじめとぞ承(うけたまは)る。「王法(わうぼふ・わうぼう)つきんとては仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)まづ亡(ばう)ず」といへり。さればにや、「さしもや(ン)ごとなかりつる霊寺霊山(れいじれいさん)のおほくほろびうせぬるは、平家(へいけ)の末(すゑ)になりぬる先表(ぜんべう)やらん」とぞ申(まうし)ける。 
康頼祝言 (やすよりのつと) 

 

さるほどに、鬼界(きかい)が島(しま)の流人共(るにんども)、つゆの命(いのち)草葉(くさば)のすゑにかか(ッ)て、おしむ(をしむ)べきとにはあらねども、丹波少将(たんばのせうしやう)のしうと平宰相(へいざいしやう)の領(りやう)、肥前国(ひぜんのくに)鹿瀬庄(かせのしやう)より、衣食(いしよく)を常(つね)にをくら(おくら)れければ、それにてぞ俊寛僧都(しゆんくわんそうづ・しゆんくはんそうづ)も康瀬(やすより)も、命(いのち)をいきて過(すご)しける。康瀬(やすより)はながされける時(とき)、周防(すはうの)室(むろ)づみにて出家(しゆつけ)して(ン)をれは、法名(ほふみやう・ほうみやう)は性照(しやうせう)とこそついたりけれ。
出家(しゆつけ)はもとよりの望(のぞみ)なりければ、つゐに(つひに)かくそむきはてける世間(よのなか)をとく捨(すて)ざりしことぞくやしき丹波少将(たんばのせうしやう)・康頼入道(やすよりにふだう・やすよりにうだう)は、もとより〔熊野信(くまのしん)じの人々(ひとびと)なれば、「いかにもして此(この)島(しま)のうちに〕熊野(くまの)の三所権現(さんじよごんげん)を勧請(くわんじやう・くはんじやう)し奉(たてまつ)て、帰洛(きらく)の事(こと)をいのり申(まう)さばや」と云(いふ)に、俊寛僧都(しゆんくわんそうづ・しゆんくはんそうづ)は天姓(てんぜい)不信(ふしん)第一(だいいち)の人(ひと)にて、是(これ)をもちい(もちゐ)ず。二人(ににん)はおなじ心(こころ)に、もし熊野(くまの)に似(に)たる所(ところ)やあると、島(しま)のうちを尋(たづね)まいるに、或(あるは)林塘(りんたう)の妙(たへ)なるあり、紅錦繍(こうきんしう)の粧(よそほひ)しなじなに。或(あるは)雲嶺(うんれい)のあやしきあり、碧羅綾(へきられう)の色(いろ)一(ひとつ)にあらず。山(やま)のけしき、木(き)のこだちに至(いた)るまで、外(ほか)よりもなを(なほ)勝(すぐれ)たり。
南(みなみ)を望(のぞ)めば、海(かい)漫々(まんまん)として、雲(くも)の波(なみ)煙(けぶり)の浪(なみ)ふかく、北(きた)をかへりみれば、又(また)山岳(さんがく)の峨々(がが)たるより、百尺(はくせき)の滝水(りゆうすい・りうすい)漲落(みなぎりおち)たり。滝(たき)の音(おと・をと)ことにすさまじく、松風(まつかぜ)神(かみ)さびたるすまひ、飛滝(ひりゆう・ひりう)権現(ごんげん)のおはします那智(なち)のお山(やま)にさにたりけり。さてこそやがてそこをば、那智(なち)のお山(やま)とは名(な)づけけれ。此(この)峯(みね)は本宮(ほんぐう)、かれは新宮(しんぐう)、是(これ)はそむぢやう(そんぢやう)其(その)王子(わうじ)、彼(かの)王子(わうじ)な(ン)ど(など)、王子(わうじ)々々(わうじ)の名(な)を申(まうし)て、康頼入道(やすよりにふだう・やすよりにうだう)先達(せんだち)にて、丹波少将(たんばのせうしやう)相(あひ)ぐしつつ、日(ひ)ごとに熊野(くまの)まうでのまねをして、帰洛(きらく)の事(こと)をぞ祈(いのり)ける。「南無権現(なむごんげん)金剛童子(こんがうどうじ)、ねがはくは憐(あはれ)みをたれさせおはしまして、古郷(こきやう)へかへし入(いれ)させ給(たま)へ。妻子(さいし)どもをば今(いま)一度(いちど)みせ給(たま)へ」とぞ祈(いのり)ける。
日数(ひかず)つもりてたちかふべき浄衣(じやうえ・じやうゑ)もなければ、麻(あさ)の衣(ころも)を身(み)にまとひ、沢辺(さはべ)の水(みづ)をこりにかいては、岩田河(いはだがは)のきよきながれと思(おも)ひやり、高(たか)き所(ところ)にのぼ(ッ)ては、発心門(ほつしんもん)とぞ観(くわん・くはん)じける。まいる(まゐる)たびごとには、康頼入道(やすよりにふだう・やすよりにうだう)の(ッ)とを申(まうす)に、御幣紙(おんぺいし)もなかれば、花(はな)を手折(たをり・たおり)てささげつつ、維(ゐ・い)あたれる歳次(さいし)、治承(ぢしよう・ぢせう)元年(ぐわんねん)丁酉(ひのとのとり)、月(つき)のならび十月(とつき)二月(ふたつき)、日(ひ)の数(かず)三百五十(さんびやくごじふ・さんびやくごじう)余ケ日(よかにち)、吉日(きちじつ)良辰(りやうしん)を択(えらん)で、かけまくも忝(かたじけな)く、日本(につぽん)第一(だいいち)大領験(だいりやうげん)、熊野(ゆや)三所権現(さんじよごんげん)、飛滝(ひりゆう・ひりう)大薩(だいさつた)の教(けう)りやう、宇豆(うづ)の広前(ひろまへ)にして、信心(しんじん)の大施主(だいせしゆ)、羽林(うりん)藤原成経(ふぢはらのなりつね)、並(ならび)に沙弥性照(しやみしやうせう)、一心(いつしん)清浄(しやうじやう)の誠(まこと)を致(いた)し、三業(さんごふ・さんごう)相応(さうおう)の志(こころざし)を抽(ぬきんで)て、謹(つつしん)でも(ッ)て敬(うやまつて)白(まうす・まふす)。
夫(それ)証城大菩薩(しようじやうだいぼさつ・せうじやうだいぼさつ)は、済度苦海(さいどくかい)の教主(けうしゆ)、三身(さんじん)円満(ゑんまん・えんまん)の覚王(かくわう)也(なり)。或(あるいは・あるひは)東方浄瑠璃医王(とうばうじやうるりいわう)の主(しゆ)、衆病悉除(しゆびやうしつじよ)の如来(によらい)也(なり)。或(あるいは・あるひは)南方補堕落能化(なんばうふだらくのうけ・なんばうふだらくのふけ)の主(しゆ)、入重玄門(にふぢゆうげんもん・にうぢうげんもん)の大士(だいじ)。
若王子(にやくわうじ)は娑婆世界(しやばせかい)の本主(ほんじゆ)、施無畏者(せむいしや)の大士(だいじ)、頂上(ちやうじやう)の仏面(ぶつめん)を現(げん)じて、衆生(しゆじやう)の所願(しよぐわん・しよぐはん)をみて給(たま)へり。是(これ)によ(ッ)て、かみ一人(いちにん)よりしも万民(ばんみん)に至(いた)るまで、或(あるいは・あるひは)現世安穏(げんぜあんをん)のため、或(あるいは・あるひは)後生(ごしやう)ぜんしよのために、朝(あした)には浄水(じやうすい)を結(むすん)でぼんなうのあかをすすぎ、夕(ゆふべ)には深山(しんざん)に向(むかつ)てほうがうを唱(となふ)るに、感応(かんおう)おこたる事(こと)なし。峨々(がが)たる嶺(みね)のたかきをば、神徳(しんとく)のたかきに喩(たと)へ、嶮々(けんけん)たる谷(たに)のふかきをば、弘誓(ぐぜい)のふかきに准(なぞら)へて、雲(くも)を分(わけ)てのぼり、露(つゆ)をしのいで下(くだ)る。爰(ここ)に利益(りやく)の地(ち)をたのまずむ(ずん)ば、いかんが歩(あゆみ)を嶮難(けんなん)の路(みち)にはこばん。権現(ごんげん)の徳(とく)をあふがずんば、何(なんぞ)かならずしも幽遠(いうをん・ゆうをん)の境(さかひ)にましまさむ。仍(よつて)証城大権現(しようじやうだいごんげん・せうじやうだいごんげん)、飛滝(ひりゆう・ひりう)大薩(だいさつた)、青蓮慈悲(しやうれんじひ・せうれんじひ)の眸(まなじり)を相(あひ)ならべ、さをしかの御耳(おんみみ)をふりたてて、我等(われら)が無二(むに)の丹誠(たんぜい)を知見(ちけん)して、一々(いちいち)の懇志(こんし)を納受(なふじゆ・なうじゆ)し給(たま)へ。
然(しかれ)ば則(すなはち)、むすぶ・はや玉(たま)の両所権現(りやうじよごんげん)、おのおの機(き)に随(したがつ)て、有縁(うえん)の衆生(しゆじやう)をみちびき、無縁(むえん)の群類(ぐんるい)をすくはむがために、七宝荘厳(しつぼうしやうごん)のすみかをすてて、八万四千(はちまんしせん)の光(ひかり)を和(やはら)げ、六道三有(ろくだうさんう)の塵(ちり)に同(どう)じ給(たま)へり。故(かるがゆへゆゑ)に定業(ぢやうごふ・ぢやうごう)亦能転(やくのうてん)、求長寿得長寿(ぐぢやうじゆとくぢやうじゆ)の礼拝(らいはい)、袖(そで)をつらね、幣帛礼奠(へいはくれいてん)を捧(ささぐ)る事(こと)ひまなし。忍辱(にんにく)の衣(ころも)を重(かさね)、覚道(かくだう)の花(はな)を捧(ささげ)て、神殿(じんでん)の床(ゆか)を動(どう)じ、信心(しんじん)の水(みづ)をすまして、利生(りしやう)の池(いけ)を湛(たたへ)たり。神明(しんめい)納受(なふじゆ・なうじゆ)し給(たま)はば、所願(しよぐわん・しよぐはん)なんぞ成就(じやうじゆ)せざらむ。仰願(あふぎねがはく)は、十二所権現(じふにしよごんげん・じうにしよごんげん)、利生(りしやう)の翅(つばさ)を並(ならべ)て、遥(はるか)に苦海(くかい)の空(そら)にかけり、左遷(させん)の愁(うれへ)をやすめて、帰洛(きらく)の本懐(ほんぐわい)をとげしめ給(たま)へ。再拝(さいはい)。とぞ、康頼(やすより)の(ッ)とをば申(まうし)ける。 
卒都婆流 (そとばながし) 

 

丹波少将(たんばのせうしやう)・康頼入道(やすよりにふだう・やすよりにうだう)、つねは三所権現(さんじよごんげん)の御前(おんまへ)にまい(ッ・まゐつ)て、通夜(つや)するおり(をり)もありけり。或(ある)時(とき)二人(ににん)通夜(つや)して、夜(よ)もすがらいまやうをぞうたひける。暁(あかつき)がたに、康頼入道(やすよりにふだう・やすよりにうだう)ち(ッ)とまどろみたる夢(ゆめ)に、おきより白(しろ)い帆(ほ)かけたる小船(こぶね)を一艘(いつさう・いつそう)こぎよせて、舟(ふね)のうちより紅(くれなゐ)の袴(はかま)きたる女房達(にようばうたち)二三十人(にさんじふにん)あがり、皷(つづみ)をうち、こゑを調(ととのへ)て、よろづの仏(ほとけ)の願(ぐわん・ぐはん)よりも千手(せんじゆ)の誓(ちかひ)ぞたのもしき枯(かれ)たる草木も忽(たちまち)に花(はな)さき実(み)なるとこそきけと、三(さん)べんうたひすまして、かきけつやうにぞうせにける。夢(ゆめ)さめて後(のち)、奇異(きい)の思(おもひ)をなし、康頼入道(やすよりにふだう・やすよりにうだう)申(まうし)けるは、「是(これ)は竜神(りゆうじん・りうじん)の化現(けげん)とおぼえたり。
三所権現(さんじよごんげん)のうちに、西(にし)の御前(ごぜん・ご(ン)ぜん)と申(まうす)は、本地(ほんぢ)千手観音(せんじゆくわんおん・せんじゆくはんをん)にておはします。竜神(りゆうじん・りうじん)は則(すなはち)千手(せんじゆ)の廿八(にじふはち)部衆(ぶしゆ)の其(その)一(ひとつ)なれば、も(ッ)て御納受(ごなふじゆ・ごなふじゆ)こそたのもしけれ」。又(また)或(ある)夜(よ)二人(ににん)通夜(つや)して、おなじうまどろみたりける夢(ゆめ)に、おきより吹(ふき)くる風(かぜ)の、二人(ににん)が袂(たもと)に木(こ)の葉(は)をふたつふきかけたりけるを、何(なに)となうと(ッ)て見(み)ければ、御熊野(みくまの)の南木(なぎ)の葉(は)にてぞ有(あり)ける。彼(かの)二(ふたつ)の南木(なぎ)の葉(は)に、一首(いつしゆ)の歌(うた)を虫(むし)ぐひにこそしたりけれ。
千(ち)はやぶる神(かみ)にいのりのしげければなどか都(みやこ)へ帰(かへ)らざるべき
康頼入道(やすよりにふだう・やすよりにうだう)、古郷(こきやう)の恋(こひ)しきままに、せめてのはかりことに、千本(せんぼん)の卒都婆(そとば)を作(つく)り、字(あじ)の梵字(ぼじ)・年号(ねんがう)・月日(つきひ)、仮名(けみやう)実名(じうみやう)、二首(にしゆ)の歌(うた)をぞかいたりけり。
さつまがたおきのこじまに我(われ)ありとおやにはつげよやへのしほかぜ
おもひやれしばしとおもふ旅(たび)だにもなを(なほ)ふるさとはこひしきものを
是(これ)に浦(うら)にも(ッ)て出(いで)て、「南無帰命頂礼(なむきみやうちやうらい)、梵天帝尺(ぼんでんたいしやく)、四大天王(しだいてんわう)、けんらふ(けんらう)地神(ぢじん)、鎮守諸大明神(ちんじゆしよだいみやうじん)、殊(こと)には熊野権現(くまのごんげん)、厳島大明神(いつくしまだいみやうじん)、せめては一本(いつぽん)成(なり)共(とも)都(みやこ)へ伝(つたへ)てたべ」とて、奥津(おきつ)しら波(なみ)のよせてはかへるたびごとに、卒都婆(そとば)を海(うみ)にぞ浮(うか)べける。卒都婆(そとば)を作(つく)り出(いだ)すに随(したがつ)て、海(うみ)に入(いれ)ければ、日数(ひかず)つもれば卒都婆(そとば)のかずもつもり、そのおもふ心(こころ)や便(たより)の風(かぜ)ともなりたりけむ、又(また)神明仏陀(しんめいぶつだ)もやをくら(おくら)せ給(たま)ひけむ、千本(せんぼん)の卒都婆(そとば)のなかに一本(いつぽん)、安芸国(あきのくに)厳島(いつくしま)の大明神(だいみやうじん)の御(おん)まへの渚(なぎさ)にうちあげたり。康頼(やすより)がゆかりありける僧(そう)、しかるべき便(たより)もあらば、いかにもして彼(かの)島(しま)へわた(ッ)て、其(その)行衛(ゆくへ)をきかむとて、西国修行(さいこくしゆぎやう)に出(いで)たりけるが、先(まづ)厳島(いつくしま)へぞまいり(まゐり)ける。
爰(ここ)に宮人(みやびと)とおぼしくて、狩(かり)ぎぬ装束(しやうぞく)なる俗(ぞく)一人(いちにん)出(いで)きたり。此(この)僧(そう)何(なに)となき物語(ものがたり)しけるに、「夫(それ)、和光同塵(わくわうどうぢん・わくはうどうぢん)の利生(りしやう)さまざまなりと申(まう)せども、いかなりける因縁(いんえん・ゐんえん)をも(ッ)て、此(この)御神(おんがみ)は海漫(かいまん)の鱗(うろくづ)に縁(えん)をむすばせ給(たま)ふらん」ととひ奉(たてまつ)る。宮人(みやびと)答(こたへ)けるは、「是(これ)はよな、娑竭羅竜王(しやかつらりゆうわう・しやかつらりうわう)の第三(だいさん)の姫宮(ひめみや)、胎蔵界(たいざうかい)の垂跡(すいしやく)也(なり)」。此(この)島(しま)に御影向(ごやうがう)ありし初(はじめ)より、済度利生(さいどりしやう)の今(いま)に至(いた)るまで、甚深(じんじん)〔の〕奇特(きどく)の事共(ことども)をぞかたりける。さればにや、八社(はつしや)の御殿(ごてん)甍(いらか)をならべ、社(やしろ)はわだづみのほとりなれば、塩(しほ)のみちひに月(つき)こそすむ。しほみちくれば、大鳥居(おほどりゐ)あけの玉墻(たまがき)瑠璃(るり)の如(ごと)し。
塩(しほ)引(ひき)ぬれば、夏(なつ)の夜(よ)なれど、御(おん)まへのしら州(す)に霜(しも)ぞをく(おく)。いよいよた(ッ)とく覚(おぼ)えて、法施(ほつせ)まいらせ(まゐらせ)て居(ゐ)たりけるに、やうやう日(ひ)くれ、月(つき)さし出(いで)て、塩(しほ)のみちけるが、そこはかとなき藻(も)くづ共(ども)のゆられよりけるなかに、卒都婆(そとば)のかたのみえけるを、何(なに)となうと(ッ)て見(み)ければ、奥(おき)のこじまに我(われ)ありと、かきながせることのは也(なり)。文字(もじ)をばゑり入(いれ)きざみ付(つけ)たりければ、浪(なみ)にもあらはれず、あざあざとしてぞみえたりける。「あなふしぎ」とて、これを取(とり)て笈(おひ)のかたにさし、都(みやこ)へのぼり、康頼(やすより)が老母(らうぼ)の尼公(にこう)妻子共(さいしども)が、一条(いちでう)の北(きた)、紫野(むらさきの)と云(いふ)所(ところ)に忍(しのび)つつすみけるに、見(み)せたりければ、「さらば、此(この)卒都婆(そとば)がもろこしのかたへもゆられゆかで、なにしにこれまでつたひ来(き)て、今更(いまさら)物(もの)をおもはすらん」とぞかなしみける。遥(はるか)の叡聞(えいぶん・ゑいぶん)に及(および・をよび)て、法皇(ほふわう・ほうわう)これを御覧(ごらん)じて、「あなむざんや。さればいままで此(この)者共(ものども)は、命(いのち)のいきてあるにこそ」とて、御涙(おんなみだ)をながさせ給(たま)ふぞ忝(かたじけな)き。
小松(こまつ)のおとどのもとへをくら(おくら)せ給(たま)ひたりければ、是(これ)を父(ちち)の入道相国(にふだうしやうこく・にうだうしやうこく)にみせ奉(たてまつ)り給(たま)ふ。柿本(かきのもとの)人丸(ひとまろ)は島(しま)がくれゆく船(ふね)を思(おも)ひ、山辺(やまのべ)の赤人(あかひと)はあしべのたづをながめ給(たま)ふ。住吉(すみよし)の明神(みやうじん)はかたそぎの思(おもひ)をなし、三輪(みわ)の明神(みやうじん)は杉(すぎ)たてる門(かど)をさす。昔(むかし)素盞烏尊(そさのをのみこと)、三十一字(さんじふいちじ)のやまとうたをはじめをき(おき)給(たま)ひしよりこのかた、もろもろの神明仏陀(しんめいぶつだ)も、彼(かの)詠吟(えいぎん・ゑいぎん)をも(ッ)て百千万端(ひやくせんばんたん)の思(おも)ひをのべ給(たま)ふ。入道(にふだう・にうだう)も石木(いはき)ならねば、さすが哀(あはれ)げにぞの給(たま)ひける。 
蘇武 (そぶ) 

 

入道相国(にふだうしやうこく・にうだうしやうこく)のあはれみたまふうへは、京中(きやうぢゆう・きやうぢう)の上下(じやうげ)、老(おい)たるもわかきも、鬼界(きかい)がの島(しま)の流人(るにん)の歌(うた)とて、口(くち)ずさまぬはなかりけり。さても千本(せんぼん)まで作(つく)りたりける卒都婆(そとば)なれば、〔さ〕こそはちいさう(ちひさう)もありけめ、薩摩潟(さつまがた)よりはるばると都(みやこ)までつたはりけるこそふしぎなれ。あまりにおもふ事(こと)はかくしるしあるにや。いにしへ漢王(かんわう)胡国(ここく)を攻(せめ)られけるに、はじめは李少卿(りせうけい)を大将軍(たいしやうぐん)にて、三十万騎(さんじふまんぎ・さんじうまんぎ)むけられたりけるが、漢王(かんわう)のいくさよはく(よわく)、胡国(ここく)のたたかひこはくして、官軍(くわんぐん・くはんぐん)みなうちほろぼさる。剰(あまつさへ・あま(ツ)さへ)大将軍(たいしやうぐん)李少卿(りせうけい)、胡王(こわう)のためにいけどらる。次(つぎ)に蘇武(そぶ)を大将軍(たいしやうぐん)にて、五十万騎(ごじふまんぎ・ごじうまんぎ)をむけらる。
猶(なほ・なを)漢(かん)のいくさよはく(よわく)、えびすのたたかひこはくして、官軍(くわんぐん・くはんぐん)皆(みな)亡(ほろび)にけり。兵(つはもの)六十余人(ろくじふよにん)いけどらる。其(その)中(なか)に、大将軍(たいしやうぐん)蘇武(そぶ)をはじめとして、宗(むね)との兵(つはもの)六百三十(ろつぴやくさんじふ・ろつひやくさんじう)余人(よにん)すぐり出(いだ)して、一々(いちいち)にかた足(あし)をき(ッ)てお(ッ)ぱなつ。則(すなはち)死(し)する者(もの)もあり、ほどへて死(し)ぬる者(もの)もあり。其(その)なかにされ共(ども)蘇武(そぶ)はしなざりけり。かた足(あし)なき身(み)とな(ッ)て、山(やま)にのぼ(ッ)ては木(こ)の実(み)をひろひ、春(はる)は沢(さは)の根芹(ねぜり)を摘(つみ)、秋(あき)は田(た)づらのおち穂(ぼ)ひろひな(ン)ど(など)してぞ、露(つゆ)の命(いのち)を過(すご)しける。田(た)にいくらもありける鴈(かり)ども、蘇武(そぶ)に見(み)なれておそれざりければ、これはみな我(わが)古郷(ふるさと)へかよふものぞかしとなつかしさに、おもふ事(こと)を一筆(ひとふで)かいて、「相(あひ)かまへて是(これ)漢王(かんわう)に奉(たてまつ)れ」と云(いひ)ふくめ、鴈(かり)の翅(つばさ)にむすび付(つけ)てぞはなちける。
かひがひしくもたのむの鴈(かり)、秋(あき)は必(かならず)こし地(ぢ)より都(みやこ)へ来(きた)るものなれば、漢(かんの)昭帝(せうてい)上林苑(しやうりんえん)に御遊(ぎよいう・ぎよゆふ)ありしに、夕(ゆふ)ざれの空(そら)薄(うす)ぐもり、何(なに)となう物哀(ものあはれ)なりけるおりふし(をりふし)、一行(ひとつら)の鴈(かり)とびわたる。その中(なか)に鴈一(かりひとつ)とびさが(ッ)て、をの(おの)が翅(つばさ)を結付(むすびつけ)たる玉童(たまづさ)をくひき(ッ)てぞおとしける。官人(くわんにん・くはんにん)是(これ)をと(ッ)て、御門(みかど)に奉(たてまつ)る。披(ひらい)て叡覧(えいらん・ゑいらん)あれば、「昔(むかし)は巌崛(がんくつ)の洞(ほら)にこめられて、三春(さんしゆん)の愁歎(しうたん)ををくり(おくり)、今(いま)は曠田(くわうでん)の畝(うね)に捨(すて)られて、胡敵(こてき)の一足(いつそく)となれり。設(たとひ)かばねは胡(こ)の地(ち)にさらすと云(いふ)共(とも)、魂(たましひ・たましゐ)は二(ふた)たび君辺(くんべん)につかへん」とぞかいたりける。それよりしてぞ、ふみをば鴈書(がんしよ)ともいひ、鴈札(がんさつ)とも名付(なづけ)たり。
「あなむざんや、蘇武(そぶ)がほまれの跡(あと)なりけり。いまだ胡国(ここく)にあるにこそ」とて、今度(こんど)は李広(りくわう・りくはう)と云(いふ)将軍(しやうぐん)に仰(おほせ)て、百万騎(ひやくまんぎ)をさしつかはす。今度(こんど)は漢(かん)の戦(たたかひ)こはくして、胡国(ここく)のいくさ破(やぶれ)にけり。御方(みかた)たたかひかちぬと聞(きこ)えしかば、蘇武(そぶ)は曠野(くわうや)のなかよりはい(はひ)出(いで)て、「是(これ)こそいにしへの蘇武(そぶ)よ」とぞなのる。十九年(じふくねん・じうくねん)の星霜(せいざう)を送(おくり・をくり)て、かた足(あし)はきられながら、輿(こし)にかかれて古郷(こきやう)へぞ帰(かへ)りける。蘇武(そぶ)は十六(じふろく・じうろく)の歳(とし)、胡国(ここく)へむけられけるに、御門(みかど)より給(たまは)りたりける旗(はた)を、何(なに)としてかかくしたりけん、身(み)をはなたずも(ッ)たりけり。
今(いま)取出(とりいだ)して御門(みかど)のげむざん(げんざん)にいれたりければ、きみも臣(しん)も感嘆(かんたん)なのめならず。君(きみ)のため大功(たいこう)ならびなかりしかば、大国(だいこく)あまた給(たま)はり、其上(そのうへ)天俗国(てんしよくこく)と云(いふ)司(つかさ)を下(くだ)されけるとぞ聞(きこ)えし。李少卿(りせうけい)は胡国(ここく)にとどま(ッ)て終(つひ)に帰(かへ)らず。いかにもして、漢朝(かんてう)へ帰(かへ)らむとのみなげけども、胡王(こわう)ゆるさねばかなはず。漢王(かんわう)これをしり給(たま)はず。君(きみ)のため不忠(ふちゆう・ふちう)のものなりとて、はかなくなれる二親(にしん)が死骸(しかばね)をほりおこいてうたせらる。其(その)外(ほか)六親(りくしん)をみなつみせらる。
李少卿(りせうけい)是(これ)を伝(つたへ)きいて、恨(うらみ)ふかうぞなりにける。さりながらも猶(なほ・なを)古郷(ふるさと)を恋(こひ)つつ、君(きみ)に不忠(ふちゆう・ふちう)なき様(やう)を一巻(いつくわん・いちくはん)の書(しよ)に作(つくり)てまいらせ(まゐらせ)たりければ、「さては不便(ふびん)の事(こと)ごさんなれ」とて、父母(ふぼ)がかばねを堀(ほり)いだいてうたせられたる事(こと)をぞ、くやしみ給(たま)ひける。漢家(かんか)の蘇武(そぶ)は書(しよ)を鴈(かり)の翅(つばさ)に付(つけ)て旧里(きうり)へ送(おく)り、本朝(ほんてう)の康頼(やすより)は浪(なみ)のたよりに歌(うた)を故郷(こきやう)に伝(つた)ふ。かれは一筆(ひとふで)のすさみ、〔これは二首(にしゆ)の歌(うた)、かれは上代(じやうだい)、これは末代(まつだい)、胡国(ここく)〕鬼界(きかい)が島(しま)、さかひをへだて、世々(よよ)はかはれども、風情(ふぜい)はおなじふぜい、ありがたかりし事(こと)ども也(なり)。 
 
平家物語 巻三

 

赦文 (ゆるしぶみ) 
治承(ぢしよう・ぢせう)二年(にねん)正月(しやうぐわつ)一日(ひとひのひ)、院(ゐんの)御所(ごしよ)には拝礼(はいれい)をこなは(おこなは)れて、四日(よつかのひ)朝覲(てうきん)の行幸(ぎやうがう)有(あり)ける。例(れい)にかはりたる事(こと)はなけれ共(ども)、去年(こぞ)の夏(なつ)新大納言(しんだいなごん)成親卿(なりちかのきやう)以下(いげ)、近習(きんじゆ)の人々(ひとびと)多(おほ)くうしなはれし事(こと)、法皇(ほふわう・ほうわう)御憤(おんいきどほり・おんいきどをり)いまだやまず、世(よ)の政(まつりごと)も物(もの)うくおぼしめされて、御心(おんこころ)よからぬことにてぞありける。太政(だいじやう)入道(にふだう)も、多田蔵人(ただのくらんど)行綱(ゆきつな)が告(つげ)しらせて後(のち)は、君(きみ)をも御(おん)うしろめたき事(こと)に思(おも)ひ奉(たてまつり)て、うへには事(こと)なき様(やう)なれ共(ども)、下(した)には用心(ようじん)して、にがわらひてのみぞありける。
同(おなじき)正月(しやうぐわつ)七日(なぬかのひ)、彗星(せいせい・セイセイ)東方(とうばう)にいづ。蚩尤気(しゆうき)とも申(まうす)。又(また)赤気(せきき)共(とも)申(まうす)。十八日(じふはちにち)光(ひかり)をます。去程(さるほど)に、入道(にふだう)相国(しやうこく)の御(おん)むすめ建礼門院(けんれいもんゐん)、其(その)比(ころ)は未(いまだ)中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)と聞(きこ)えさせ給(たまひ)しが、御悩(ごなう)とて、雲(くも)のうへ天(あめ)が下(した)の歎(なげ)きにてぞありける。諸寺(しよじ)に御読経(みどくきやう)始(はじ)まり、諸社(しよしや)へ官幣(くわんべい・くはんべい)を立(たて)らる。医家(いけ)薬(くすり)をつくし、陰陽術(おんやうじゆつ・をんやうじゆつ)をきはめ、大法(だいほふ・だいほう)秘法(ひほふ・ひほう)一(ひとつ)として残(のこ)る処(ところ)なう修(しゆ)せられけり。
され共(ども)、御悩(ごなう)ただにも渡(わた)らせ給(たま)はず、御懐姙(ごくわいにん)とぞ聞(きこ)えし。主上(しゆしやう)は今年(ことし)十八(じふはち)、中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)は廿二(にじふに)にならせ給(たま)ふ。しかれ共(ども)、いまだ皇子(わうじ)も姫宮(ひめみや)も出(いで)きさせ給(たま)はず。もし皇子(わうじ)にてわたらせ給(たま)はばいかに目出(めでた)からんとて、平家(へいけ)の人々(ひとびと)はただ今(いま)皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)のある様(やう)に、いさみ悦(よろこ)びあはれけり。他家(たけ)の人々(ひとびと)も、「平氏(へいじ)の繁昌(はんじやう)おり(をり)をえたり。皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)疑(うたがひ)なし」とぞ申(まうし)あはれける。御懐姙(ごくわいにん)さだまらせ給(たまひ)しかば、有験(うげん)の高僧(かうそう)貴僧(きそう)に仰(おほ)せて、大法(だいほふ・だいぼう)秘法(ひほふ・ひほう)を修(しゆ)し、星宿仏菩薩(しやうしゆくぶつぼさつ)につげて、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)と祈誓(きせい)せらる。六月(ろくぐわつ)一日(ひとひのひ)、中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)御着帯(ごちやくたい)ありけり。
仁和寺(にんわじ)の御室(おむろ)守覚(しゆうかく)法親王(ほふしんわう・ほうしんわう)、御参内(ごさんだい)あ(ッ)て、孔雀経(くじやくきやう)の法(ほふ・ほう)をも(ッ)て御加持(おんかぢ)あり。天台座主(てんだいざす)覚快(かくくわい)法親王(ほふしんわう・ほうしんわう)、おなじうまいら(まゐら)せ給(たまひ)て、変成男子(へんじやうなんし)の法(ほふ・ほう)を修(しゆ)せらる。かかりし程(ほど)に、中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)は月(つき)のかさなるに随(したがひ)て、御身(おんみ)をくるしうせさせ給(たま)ふ。一(ひと)たびゑめば百(もも)の媚(こび)ありけむ漢(かん)の李夫人(りふじん)の、承陽殿(せうやうでん)の病(やまふ)のゆかもかくやとおぼえ、唐(たう)の楊貴姫(やうきひ)、李花(りか)一枝(いつし)春(はる)の雨(あめ)ををび(おび)、芙蓉(ふよう)の風(かぜ)にしほれ(しをれ)、女郎花(をみなへし)の露(つゆ)おもげなるよりも、猶(なほ・なを)いたはしき御(おん)さまなり。かかる御悩(ごなう)の折節(をりふし・おりふし)にあはせて、こはき御物気共(おんもののけども)、取(とり)いり奉(たてまつ)る。よりまし明王(みやうわう)の縛(ばく)にかけて、霊(れい)あらはれたり。
殊(こと)には讃岐院(さぬきのゐん)の御霊(ごれい)、宇治悪左府(うぢあくさふ)の憶念(おくねん)、新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)の死霊(しりやう)、西光(さいくわう)法師(ほふし・ほうし)が悪霊(あくりやう)、鬼界(きかい)の島(しま)の流人共(るにんども)が生霊(しやうりやう)な(ン)ど(など)ぞ申(まうし)ける。是(これ)によ(ッ)て、太政(だいじやう)入道(にふだう)生霊(しやうりやう)も死霊(しりやう)もなだめらるべしとして、其(その)比(ころ)やがて讃岐院(さぬきのゐん)御追号(ごついがう)あ(ッ)て、崇徳天皇(しゆとくてんわう)と号(かう)す。宇治悪左府(うぢのあくさふ)、贈官(ぞうくわん)贈位(ぞうゐ)をこなは(おこなは)れて、太政(だいじやう)大臣(だいじん)正(じやう)一位(いちゐ)ををくら(おくら)る。勅使(ちよくし)は少内記(せうないき)維基(これもと)とて聞(きこ)えし。件(くだん)の墓所(むしよ)は大和国(やまとのくに)そうのかんの郡(こほり)、川上(かはかみ)の村(むら)、般若野(はんにやの)の五三昧(ごさんまい)也(なり)。保元(ほうげん)の秋(あき)ほりをこし(おこし)て捨(すて)られし後(のち)は、死骸(しがい)路(みち)の辺(ほとり)の土(つち)とな(ッ)て、年々(ねんねん)にただ春(はる)の草(くさ)のみ茂(しげ)れり。今(いま)勅使(ちよくし)尋来(たづねきたり)て宣命(せんみやう)を読(よみ)けるに、亡魂(ばうこん)いかにうれしとおぼしけむ。
怨霊(をんりやう)は昔(むかし)もかくおそろしきこと也(なり)。されば早良(さはらの・サラノ)廃太子(はいたいし)をば崇道天皇(しゆだうてんわう)と号(かう)し、井上(ゐがみ)の内親王(ないしんわう)をば皇后(くわうこう)の職位(しきゐ)にふくす。是(これ)みな怨霊(をんりやう)を寛められしはかりこと也(なり)。冷泉院(れいぜんのゐん)の御物(おんもの)ぐるはしうましまし、花山(くわさん)の法皇(ほふわう・ほうわう)の十禅(じふぜん)万乗(ばんじよう・ばんじやう)の帝位(ていゐ)をすべらせ給(たまひ)しは、基方民部卿(もとかたのみんぶきやう)が霊(れい)とかや。三条院(さんでうのゐん)の御目(おんめ)も御覧(ごらん)ぜざりしは、観算供奉(くわんざんぐぶ)が霊(れい)也(なり)。門脇宰相(かどわきのさいしやう)か様(やう)の事共(ことども)伝(つた)へきいて、小松殿(こまつどの)に申(まう)されけるは、「中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)御産(ごさん)の御祈(おんいのり)さまざまに候(さうらふ)也(なり)。なにと申(まうし)候(さうらふ)共(とも)、非常(ひじやう)の赦(しや)に過(すぎ)たる事(こと)あるべしともおぼえ候(さうら)はず。
中(なか)にも、鬼界(きかい)の島(しま)の流人共(るにんども)めしかへされたらむほどの功徳善根(くどくぜんこん)、争(いかで)か候(さうらふ)べき」と申(まう)されければ、小松殿(こまつどの)父(ちち)の禅門(ぜんもん)の御(おん)まへにおはして、「あの丹波少将(たんばのせうしやう)が事(こと)を、宰相(さいしやう)のあながちに歎(なげき)申(まうし)候(さうらふ)が不便(ふびん)候(ざうらふ)。中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)御悩(ごなう)の御(おん)こと、承(うけたまはり)及(およぶ・をよぶ)ごとくんば、殊更(ことさら)成親卿(なりちかのきやう)が死霊(しりやう)な(ン)ど(など)聞(きこ)え候(さうらふ)。大納言(だいなごん)が死霊(しりやう)な(ン)ど(など)聞(きこ)え候(さうらふ)。大納言(だいなごん)が死霊(しりやう)をなだめむとおぼしめさんにつけても、生(いき)て候(さうらふ)少将(せうしやう)をこそめしかへされ候(さうら)はめ。人(ひと)のおもひをやめさせ給(たま)はば、おぼしめす事(こと)もかなひ、人(ひと)の願(ねが)ひをかなへさせ給(たま)はば、御願(ごぐわん)もすなはち成就(じやうじゆ)して、中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)やがて皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)あ(ッ)て、家門(かもん)の栄花(えいぐわ・ゑいぐわ)弥(いよいよ)さかむ(さかん)に候(さうらふ)べし」な(ン)ど(など)申(まう)されければ、入道(にふだう)相国(しやうこく)、日比(ひごろ)にもにず事(こと)の外(ほか)にやはらひ(やはらい)で、「さてさて、俊寛(しゆんくわん・しゆんくはん)と康頼法師(やすよりぼふし・やすよりばうし)が事(こと)はいかに」。
「それもおなじうめしこそかへされ候(さうら)はめ。若(もし)一人(いちにん)も留(とど)められんは、中々(なかなか)罪業(ざいごふ・ざいごう)たるべう候(さうらふ)」と申(まう)されければ、「康頼(やすより)法師(ぼふし・ぼうし)が事(こと)はさる事(こと)なれ共(ども)、俊寛(しゆんくわん)は随分(ずいぶん)入道(にふだう)が口入(こうじゆ)をも(ッ)て人(ひと)とな(ッ)たる物(もの)ぞかし。それに所(ところ)しもこそ多(おほ)けれ、わが山荘(さんざう)鹿(しし)の谷(たに)に城郭(じやうくわく・じやうくはく)をかまへて、事(こと)にふれて奇恠(きくわい)のふるまひ共(ども)が有(あり)けんなれば、俊寛(しゆんくわん)をば思(おも)ひもよらず」と〔ぞ〕の給(たまひ)ける。
小松殿(こまつどの)かへ(ッ・かへつ)て、叔父(をぢ)の宰相殿(さいしやうどの)よび奉(たてまつ)り、「少将(せうしやう)はすでに赦免(しやめん)候(さうら)はんずるぞ。御心(おんこころ)やすう思食(おぼしめ)され候(さうら)へ」との〔た〕まへば、宰相(さいしやう)手(て)をあはせてぞ悦(よろこば)れける。「下(くだ)りし時(とき)も、などか申(まうし)うけざらむとおもひたりげにて、教盛(のりもり)を見(み)候(さうらふ)度(たび)ごとには涙(なみだ)をながし候(さうらひ)しが不便(ふびん)候(ざうらふ)」と申(まう)されければ、小松殿(こまつどの)「まことにさこそおぼしめされ候(さうらふ)らめ。子(こ)は誰(たれ)とてもかなしければ、能々(よくよく)申(まうし)候(さうら)はん」とて入(いり)給(たまひ)ぬ。去程(さるほど)に、鬼界(きかい)が島(しま)の流人共(るにんども)めしかへさるべき事(こと)さだめられて、入道(にふだう)相国(しやうこく)ゆるしぶみ下(くだ)されけり。御使(おんつかひ・おつかひ)すでに都(みやこ)をたつ。宰相(さいしやう)あまりのうれしさに、御使(おんつかひ・おつかひ)に私(わたくし)の吏をそへてぞ下(くだ)されける。よるを昼(ひる)にしていそぎ下(くだつ)たりしか共(ども)、心(こころ)にまかせぬ海路(かいろ)なれば、浪風(なみかぜ)をしのいで行(ゆく)程(ほど)に、都(みやこ)をば七月(しちぐわつ)下旬(じゆん)に出(いで)たれ共(ども)、長月(ながつき)廿日(はつか)比(ごろ)にぞ、鬼界(きかい)の島(しま)には着(つき)にける。 
足摺 (あしずり) 

 

御使(おんつかひ・おつかひ)は丹左衛門尉(たんざゑもんのじよう・たんざゑもんのぜう)基康(もとやす)といふ者(もの)也(なり)。船(ふね)よりあが(ッ)て、「是(これ)に都(みやこ)よりながされ給(たまひ)し丹波少将殿(たんばのせうしやうどの)、法勝寺(ほつしようじ・ほつしやうじ)執行(しゆぎやう)御房(ごばう)、平判官(へいはんぐわん)入道殿(にふだうどの)やおはする」と、声々(こゑごゑ)にぞ尋(たづね)ける。二人(ににん)の人々(ひとびと)は、例(れい)の熊野(くまの)まうでしてなかりけり。俊寛(しゆんくわん)僧都(そうづ)一人(いちにん)のこ(ッ)たりけるが、是(これ)をきき、「あまりに思(おも)へば夢(ゆめ)やらん。
又(また)天魔波旬(てんまはじゆん)の我(わが)心(こころ)をたぶらかさむとていふやらむ。うつつ共(とも)覚(おぼ)えぬ物(もの)かな」とて、あはて(あわて)ふためき、はしるともなく、たをるる(たふるる)共(とも)なく、いそぎ御使(おんつかひ)のまへに走(はし)りむかひ、「何事(なにごと)ぞ。是(これ)こそ京(きやう)よりながされたる俊寛(しゆんくわん)よ」と名乗(なの)り給(たま)へば、雑色(ざふしき・ざうしき)が頸(くび)にかけさせたる小袋(こぶくろ)より、入道(にふだう)相国(しやうこく)のゆるしぶみ取(とり)出(いだ)いて奉(たてまつ)る。ひらいてみれば、「重科(ぢゆうくわ・ぢうくわ)は遠流(をんる)にめんず。はやく帰洛(きらく)の思(おも)ひをなすべし。
中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)御産(ごさん)の御祈(おんいのり)によ(ッ)て、非常(ひじやう)の赦(しや)をこなは(おこなは)る。然(しかる)間(あひだ・あいだ)鬼界(きかい)の島(しま)の流人(るにん)、少将成経(せうしやうなりつね)、康頼(やすより)法師(ぼふし・ぼうし)赦免(しやめん)」とばかり書(かか)〔れ〕て、俊寛(しゆんくわん)と云(いふ)文字(もじ)はなし。
らいしにぞあるらむとて、礼紙(らいし)をみるにもみえず。奥(おく)よりはしへよみ、端(はし)より奥(おく)へ読(よみ)けれ共(ども)、二人(ににん)とばかりかかれて、三人(さんにん)とはかかれず。さる程(ほど)に、少将(せうしやう)や判官(はんぐわん)入道(にふだう)も出(いで)きたり。少将(せうしやう)のと(ッ)てよむにも、康頼(やすより)入道(にふだう)が読(よみ)けるにも、二人(ににん)とばかり書(かか)れて三人(さんにん)とはかかれざりけり。夢(ゆめ)にこそかかる事(こと)はあれ、夢(ゆめ)かと思(おも)ひなさんとすればうつつ也(なり)。うつつかと思(おも)へば又(また)夢(ゆめ)の如(ごと)し。其(その)うへ二人(ににん)の人々(ひとびと)のもとへは、都(みやこ)よりことづけぶみ共(ども)いくらもありけれ共(ども)、俊寛(しゆんくわん)僧都(そうづ)のもとへは、事(こと)とふ文(ふみ)一(ひとつ)もなし。
「抑(そもそも)われら三人(さんにん)は罪(つみ)もおなじ罪(つみ)、配所(はいしよ)も一所(ひとつところ)也(なり)。いかなれば赦免(しやめん)の時(とき)、二人(ににん)はめしかへされて、一人(いちにん)ここに残(のこ)るべき。平家(へいけ)の思(おも)ひわすれかや、執筆(しゆひつ)のあやまりか。こはいかにしつる事(こと)共(ども)ぞや」と、天(てん)にあふぎ地(ち)に臥(ふし)て、泣(なき)かなしめ共(ども)かひぞなき。少将(せうしやう)の袂(たもと)にすが(ッ)て、「俊寛(しゆんくわん)がかく成(なる)といふも、御(ご)へんの父(ちち)、故(こ)大納言殿(だいなごんどの)のよしなき謀反(むほん)ゆへ(ゆゑ)也(なり)。さればされば、よその事(こと)とおぼすべからず。
ゆるされなければ、都(みやこ)までこそかなはずと云(いふ)共(とも)、此(この)船(ふね)にのせて、九国(くこく)の地(ち)へつけ給(たま)へ。をのをの(おのおの)の是(これ)におはしつる程(ほど)こそ、春(はる)はつばくらめ、秋(あき)は田(た)のむの鴈(かり)の音(おと・をと)づるる様(やう)に、をのづから(おのづから)古郷(こきやう)の事(こと)をも伝(つた)へきいつれ。今(いま)より後(のち)、何(なに)としてかは聞(きく)べき」とて、もだえこがれ給(たま)ひけり。少将(せうしやう)「まことにさこそはおぼしめされ候(さうらふ)らめ。我等(われら)がめしかへさるるうれしさは、さる事(こと)なれ共(ども)、御(おん)あり様(さま)を見(み)をき(おき)奉(たてまつ)るに、行(ゆく)べき空(そら)も覚(おぼ)えず。うちのせたてま(ッ)ても上(のぼ)りたう候(さうらふ)が、都(みやこ)の御使(おんつかひ)もかなふまじき由(よし)申(まうす)うへ、ゆるされもないに、三人(さんにん)ながら島(しま)を出(いで)たりな(ン)ど(など)聞(きこ)えば、中々(なかなか)あしう候(さうらひ)なん。成経(なりつね)まづ罷(まか)りのぼ(ッ)て、人々(ひとびと)にも申(まうし)あはせ、入道(にふだう)相国(しやうこく)の気色(きしよく)をもうかがふ(うかがう)て、むかへに人(ひと)を奉(たてまつ)らむ。其(その)間(あひだ・あいだ)は、此(この)日比(ひごろ)おはしつる様(やう)におもひなして待(まち)給(たま)へ。
何(なに)と〔しても〕命(いのち)は大切(たいせつ)の事(こと)なれば、今(この)度(たび)こそもれさせ給(たま)ふ共(とも)、つゐに(つひに)はなどか赦免(しやめん)なうて候(さうらふ)べき」となぐさめたまへ共(ども)、人目(ひとめ)もしらず泣(なき)もだえけり。既(すで)に船(ふね)出(いだ)すべしとてひしめきあへば、僧都(そうづ)の(ッ)てはおりつ、おりてはの(ッ)つ、あらまし事(ごと)をぞし給(たま)ひける。少将(せうしやう)の形見(かたみ)にはよるの衾(ふすま)、康頼(やすより)入道(にふだう)が形見(かたみ)には一部(いちぶ)の法花経(ほけきやう)をぞとどめける。
ともづなといておし出(いだ)せば、僧都(そうづ)綱(つな)に取(とり)つき、腰(こし)になり、脇(わき)になり、たけの立(たつ)まではひかれて出(いで)、たけも及(およ・をよ)ばず成(なり)ければ、船(ふね)に取(とり)つき、「さていかにをのをの(おのおの)、俊寛(しゆんくわん)をば遂(つひ・つゐ)に捨(すて)はて給(たま)ふか。是(これ)程(ほど)とこそおもはざりつれ。日比(ひごろ)の情(なさけ)も今(いま)は何(なに)ならず。ただ理(り)をまげてのせ給(たま)へ。せめては九国(くこく)の地(ち)まで」とくどかれけれ共(ども)、都(みやこ)の御使(おんつかひ)「いかにもかなひ候(さうらふ)まじ」とて、取(とり)つき給(たま)へる手(て)を引(ひき)のけて、船(ふね)をばつゐに(つひに)漕出(こぎいだ)す。僧都(そうづ)せん方(かた)なさに、渚(なぎさ)にあがりたふれふし、おさなき(をさなき)者(もの)のめのとや母(はは)な(ン)ど(など)をしたふやうに、足(あし)ずりをして、「是(これ)のせてゆけ、ぐしてゆけ」と、おめき(をめき)さけべ共(ども)、漕行(こぎゆく)船(ふね)の習(ならひ)にて、跡(あと)はしら浪(なみ)ばかり也(なり)。いまだ遠(とほ・とを)からぬふねなれ共(ども)、涙(なみだ)に暮(くれ)てみえざりければ、僧都(そうづ)たかき所(ところ)に走(はしり)あがり、澳(おき)の方(かた)をぞまねきける。
彼(かの)松浦(まつら)さよ姫(ひめ)がもろこし船(ぶね)をしたひつつ、ひれふりけむも、是(これ)には過(すぎ)じとぞみえし。船(ふね)も漕(こぎ)かくれ、日(ひ)もくるれ共(ども)、あやしの臥(ふし)どへも帰(かへ)らず。浪(なみ)に足(あし)うちあらはせて、露(つゆ)にしほれ(しをれ)て、其(その)夜(よ)はそこにぞあかされける。さり共(とも)少将(せうしやう)はなさけふかき人(ひと)なれば、よき様(やう)に申(まうす)事(こと)もあらんずらむと憑(たのみ)をかけ、その瀬(せ)に身(み)をもなげざりける心(こころ)の程(ほど)こそはかなけれ。昔(むかし)壮里(さうり・サウリ)・息里(そくり・ソクり)が海岳山(かいがくせん)へはなたれけむかなしみも、いまこそ思(おも)ひしられけれ。 
御産 (ごさん) 

 

去程(さるほど)に、此(この)人々(ひとびと)は鬼界(きかい)の島(しま)を出(いで)て、平宰相(へいざいしやう)の領(りやう)、肥前国(ひぜんのくに)鹿瀬庄(かせのしやう)に着(つき)給(たま)ふ。宰相(さいしやう)、京(きやう)より人(ひと)を下(くだ)して、「年(とし)の内(うち)は浪風(なみかぜ)はげしう、道(みち)の間(あひだ・あいだ)もおぼつかなう候(さうらふ)に、それにて能々(よくよく)身(み)いたは(ッ)て、春(はる)には(ッ)て上(のぼ)りたまへ」とありければ、少将(せうしやう)鹿瀬庄(かせのしやう)にて、年(とし)を暮(くら)す。さる程(ほど)に、同(おなじき)年(とし)の十一月(じふいちぐわつ)十二日(じふににち)ノ寅ノ剋(とらのこく)より、中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)御産(ごさん)の気(け)ましますとて、京中(きやうぢゆう・きやうぢう)六波羅(ろくはら)ひしめきあへり。
御産所(ごさんじよ)は六波羅(ろくはら)池殿(いけどの)にてありけるに、法皇(ほふわう・ほうわう)も御幸(ごかう)なる。関白殿(くわんばくどの・くはんばくどの)を始(はじ)め奉(たてまつり)て、太政大臣(だいじやうだいじん)以下(いげ)の公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、すべて世(よ)に人(ひと)とかぞへられ、官(くわん)加階(かかい)にのぞみをかけ、所帯(しよたい)・所職(しよしよく)を帯(たい)する程(ほど)の人(ひと)の、一人(いちにん)ももるるはなかりけり。先例(せんれい)、女御(にょうご)后(きさき)御産(ごさん)の時(とき)にのぞんで、大赦(だいしや)をこなは(おこなは)るる事(こと)あり。大治(だいぢ)二年(にねん)九月(くぐわつ)十一日(じふいちにち)、待賢門院(たいけんもんゐん)御産(ごさん)の時(とき)、大赦(だいしや)ありき。其(その)例(れい)とて、今度(こんど)も重科(ぢゆうくわ・ぢうくわ)の輩(ともがら)おほくゆるされける中(なか)に、俊寛(しゆんくわん)僧都(そうづ)一人(いちにん)、赦免(しやめん)なかりけるこそうたてけれ。
御産(ごさん)平安(ペいあん)にあるならば、八幡(やはた)・平野(ひらの)・大原野(おほはらの)などへ行啓(ぎやうげい)なるべしと、御立願(ごりふぐわん・ごりうぐわん)ありけり。仙源(せんげん)法印(ほふいん・ほうゐん)是(これ)を敬白(けいひやく)す。神社(じんじや)は太神宮(だいじんぐう)を始(はじ)め奉(たてまつり)て廿(にじふ)余ケ所(よかしよ)、仏寺(ぶつじ)は東大寺(とうだいじ)・興福寺(こうぶくじ)以下(いげ)十六ケ所(じふろくかしよ)に御誦経(みじゆぎやう)あり。御誦経(みじゆぎやう)の御使(おんつかひ・おつかひ)は、宮(みや)の侍(さぶらひ)の中(なか)に有官(うくわん・うくはん)の輩(ともがら)是(これ)をつとむ。ひやうもんの狩衣(かりぎぬ)に帯剣(たいけん)したる者共(ものども)が、色々(いろいろ)の御誦経(みじゆぎやう)もつ、御剣(ぎよけん)御衣(ぎよい)を持(もち)つづいて、東(ひがし)の台(たい)より南庭(なんてい)をわた(ッ)て、西(にし)の中門(ちゆうもん・ちうもん)にいづ。
目出(めで)たか(ッ)し見物(けんぶつ)也(なり)。小松(こまつ)のおとどは、例(れい)の善悪(ぜんあく)にさはが(さわが)ぬ人(ひと)にておはしければ、其(その)後(のち)遥(はるか)に程(ほど)へて、嫡子(ちやくし)権亮少将(ごんのすけぜうしやう)以下(いげ)公達(きんだち)の車共(くるまども)みなやりつづけさせ、色々(いろいろ)の絹(きぬ)四十(しじふ)領(りやう)、銀剣(ぎんけん)七(ななつ)、広(ひろ)ぶたにをか(おか)せ、御馬(おんむま)十二疋(じふにひき)ひかせてまいり(まゐり)給(たま)ふ。寛弘(くわんこう)に上東門院(しやうとうもんゐん)御産(ごさん)の時(とき)、御堂殿(みだうどの)御馬(おんむま)をまいらせ(まゐらせ)られし其(その)例(れい)とぞ聞(きこ)えし。このおとどは、中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)の御(おん)せうとにておはしけるうへ、父子(ふし)の御契(おんちぎり)なれば、御馬(おんむま)まいらせ(まゐらせ)給(たま)ふもことはり(ことわり)也(なり)。
五条(ごでうの)大納言(だいなごん)国綱卿(くにつなのきやう)、御馬(おんむま)二疋(にひき)進(まゐら・まいら)せらる。「心(こころ)ざしのいたりか、徳(とく)のあまりか」とぞ人(ひと)申(まうし)ける。なを(なほ)伊勢(いせ)より始(はじめ)て、安芸(あき)の厳島(いつくしま)にいたるまで、七十(しちじふ)余ケ所(よかしよ)へ神馬(じんめ)を、立(たて)らる。大内(おほうち)にも、竜(れう・りやう)の御馬(おんむま)に四手(しで)つけて、数十疋(すじつぴき)ひ(ッ・ひつ)たてたり。
仁和寺(にんわじ)の御室(おむろ)は孔雀経(くじやくきやう)の法(ほふ・ほう)、天台座主(てんだいざす)覚快(かくくわい)法親王(ほふしんわう・ほうしんわう)は七仏薬師(しちぶつやくし)の法(ほふ・ほう)、寺(てら)の長吏(ちやうり)円慶(ゑんけい)法親王(ほふしんわう・ほうしんわう)は金剛童子(こんがうどうじ)の法(ほふ・ほう)、其(その)外(ほか)五大虚空蔵(ごだいこくうざう)・六観音(ろくくわんおん・ろくくはんおん)、一字金輪(いちじきんりん)・五壇法(ごだんのほふ・ごだんのほう)、六字加輪(ろくじかりん)・八字文殊(はちじもんじゆ)、普賢延命(ふげんえんめい)にいたるまで、残(のこ)る処(ところ)なう修(しゆ)せられけり。護摩(ごま)の煙(けぶり)御所中(ごしよぢゆう・ごしよぢう)にみち、鈴(れい)の音(おと・をと)雲(くも)をひびかし、修法(しゆほふ・しゆほう)の声(こゑ)身(み)の毛(け)よだ(ッ)て、いかなる御物(おんもの)の気(け)なり共(とも)、面(おもて)をむかふべしともみえざりけり。猶(なほ・なを)仏所(ぶつしよ)の法印(ほふいん・ほうゐん)に仰(おほせ)て、御身(ごじん)等身(とうじん)の七仏薬師(しちぶつやくし)、並(ならび)に五大尊(ごだいそん)の像(ざう)をつくり始(はじ)めらる。
かかりしか共(ども)、中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)はひまなくしきらせ給(たま)ふばかりにて、御産(ごさん)もとみに成(なり)やらず。入道(にふだう)相国(しやうこく)・二位殿(にゐどの)、胸(むね)に手(て)ををい(おい)て、「こはいかにせん、いかにせむ」とぞあきれ給(たま)ふ。人(ひと)の物(もの)申(まうし)けれ共(ども)、ただ「ともかうも能(よき)様(やう)に、よきやうに」とぞの給(たまひ)ける。「さり共(とも)いくさの陣(ぢん)ならば、是(これ)程(ほど)浄海(じやうかい)は臆(おく)せじ物(もの)を」とぞ、後(のち)には仰(おほせ)られける。御験者(おんげんじや)は、房覚(ばうかく)・性運(しやううん)両僧正(りやうそうじやう)、春堯(しゆんげう)法印(ほふいん・ほうゐん)、豪禅(がうぜん)・実専(じつぜん)両僧都(りやうそうづ)、をのをの(おのおの)僧加(そうが)の句共(くども)あげ、本山(ほんざん)の三実(さんぼう)、年来(ねんらい)所持(しよぢ)の本尊達(ほんぞんたち)、〔責(せめ)〕ふせ〔責(せめ)〕ふせもまれけり。
誠(まこと)にさこそはと覚(おぼえ)てた(ッ)とかりける中(なか)に、法皇(ほふわう・ほうわう)は折(をり・おり)しも、新熊野(いまぐまの)へ御幸(ごかう)なるべきにて、御精進(ごしやうじん)の次(つい・つゐ)でなりける間(あひだ)、錦帳(きんちやう)ちかく御座(ござ)あ(ッ)て、千手経(せんじゆきやう)をうちあげうちあげあそばされけるにこそ、今(いま)一(ひと)きは事(こと)かは(ッ)て、さしも踊(をど)りくるふ御(おん)よりまし共(ども)が縛(ばく)も、しばらくうちしづめけれ。法皇(ほふわう・ほうわう)仰(おほせ)なりけるは、「いかなる物気(もののけ)なり共(とも)、この老法師(おいぼふし・おいぼうし)がかくて候(さうら)はんには、争(いかで)かちかづき奉(たてまつ)るべき。就中(なかんづく)にいまあらはるる処(ところ)の怨霊共(をんりやうども)は、みなわが朝恩(てうおん)によ(ッ)て人(ひと)とな(ッ)し物共(ものども)ぞかし。たとひ報謝(ほうしや)の心(こころ)をこそ存(ぞん)ぜず共(とも)、豈(あに)障碍(しやうげ)をなすべきや。速(すみやか)にまかり退(しりぞ)き候(さうら)へ」とて「女人(によにん)生産(しやうさん)しがたからむ時(とき)にのぞんで、邪魔遮生(じやましやしやう)し、苦(く)忍(しのび)がたからむにも、心(こころ)をいたして大悲呪(だいひしゆ)を称誦(せうじゆ)せば、鬼神(きじん)退散(たいさん)して、安楽(あんらく)に生(しやう)ぜん」とあそばいて、皆(みな)水精(ずいしやう)の御数珠(おんじゆず)おしもませ給(たま)へば、御産(ごさん)平安(ぺいあん)のみならず、皇子(わうじ)にてこそましましけれ。
頭(とうの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)重衡(しげひら)、其(その)時(とき)はいまだ中宮亮(ちゆうぐうのすけ・ちうぐうのすけ)にておはしけるが、御簾(ぎよれん)の内(うち)よりつ(ッ)と出(いで)て、「御産(ごさん)平安(ぺいあん)、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)候(さうらふ)ぞ」と、たからかに申(まう)されければ、法皇(ほふわう・ほうわう)を始(はじめ)まいらせ(まゐらせ)て、関白殿(くわんばくどの・くはんばくどの)以下(いげ)の大臣(だいじん)、公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、をのをの(おのおの)の助修(じよじゆ)、数輩(すはい)の御験者(ごげんじや)、陰陽頭(おんやうのかみ・をんやうのかみ)・典薬頭(てんやくのかみ)、すべて堂上(たうしやう)堂下(たうか)一同(いちどう)にあ(ッ)と悦(よろこび)あへる声(こゑ)、門外(もんぐわい・もんぐはい)までどよみて、しばしはしづまりやらざりけり。入道(にふだう)相国(しやうこく)あまりのうれしさに、声(こゑ)をあげてぞなかれける。悦(よろこび)なきとは是(これ)をいふべきにや。
小松殿(こまつどの)、中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)の御方(おかた)にまいらせ(まゐらせ)給(たま)ひて、金銭(きんせん)九十九文(くじふくもん)、皇子(わうじ)の御枕(おんまくら)にをき(おき)、「天(てん)をも(ッ)て父(ちち)とし、地(ち)をも(ッ)て母(はは)とさだめ給(たま)へ。御命(おんいのち)は方士(はうじ)東方朔(とうばうさく)が齢(よはひ)をたもち、御心(おんこころ)には天照大神(てんせうだいじん)入(いり)かはらせ給(たま)へ」とて、桑(くは)の弓(ゆみ)・蓬(よもぎ)の矢(や)にて、天地(てんち)四方(しはう)を射(い・ゐ)させらる。 
公卿揃 (くぎやうぞろへ) 

 

御乳(おんち)には、前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)の北方(きたのかた)と定(さだめ)られたりしが、去(さんぬる)七月(しちぐわつ・しつぐわつ)に難産(なんざん)をしてうせ給(たまひ)しかば、御(おん)めのと平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)の北方(きたのかた)、御乳(おんち)にまいら(まゐら)せ給(たま)ひけり。後(のち)には帥(そつ)の典侍(すけ)とぞ申(まうし)ける。法皇(ほふわう・ほうわう)やがて還御(くわんぎよ・くはんぎよ)、御車(おんくるま)を門前(もんぜん)に立(たて)られたり。入道(にふだう)相国(しやうこく)うれしさのあまりに、砂金(しやきん)一千両(いつせんりやう)、富士(ふじ)の綿(わた)二千両(にせんりやう)、法皇(ほふわう・ほうわう)へ進上(しんじやう)ぜらる。しかるべからずとぞ人々(ひとびと)内々(ないない)ささやきあはれける。今度(こんど)の御産(ごさん)に勝事(しようし・しやうし)あまたあり。
まづ法皇(ほふわう・ほうわう)の御験者(ごげんじや)。次(つぎ)に后(きさき)御産(ごさん)の時(とき)、御殿(ごてん)の棟(むね)より甑(こしき)をまろばかす事(こと)あり。皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)には南(みなみ)へおとし、皇女(くわうじよ・くはうじよ)誕生(たんじやう)には北(きた)へおとすを、是(これ)は北(きた)へおとしたりければ、「こはいかに」とさはが(さわが)れて、取(とり)あげ落(おと)しなをし(なほし)たりけれ共(ども)、あしき御事(おんこと)に人々(ひとびと)申(まうし)あへり。おかしかり(をかしかり)しは入道(にふだう)相国(しやうこく)のあきれざま、目出(めで)たかりしは小松(こまつ)のおとどのふるまひ。ほいなかりしは右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)の最愛(さいあい)の北方(きたのかた)にをくれ(おくれ)奉(たてまつり)て、大納言(だいなごん)大将(だいしやう)両職(りやうしよく)を辞(じ)して籠居(ろうきよ)せられたりし事(こと)。兄弟(きやうだい)共(とも)に出仕(しゆつし)あらば、いかにめ出(で)たからむ。次(つぎ)には、七人(しちにん)の陰陽師(おんやうじ・をんやうじ)のめされて、千度(せんど)の御祓(おはらひ)仕(つかまつ)るに、其(その)中(なか)に掃部頭(かもんのかみ)時晴(ときはる)といふ老者(らうしや)あり。
所従(しよじゆう・しよじう)な(ン)ど(など)も乏少(ぼくせう)なりけり。余(あまり)に人(ひと)まいり(まゐり)つどひて、たかんなをこみ、稲麻竹葦(たうまちくい)のごとし。「役人(やくにん)ぞ。あけられよ」とて、おし分(わけ)てまいる(まゐる)程(ほど)に、右(みぎ)の沓(くつ)をふみぬかれぬ。そこにてち(ッ)と立(たち)やすらふが、冠(かぶり)をさへつきおとされぬ。さばかりの砌(みぎり)に、束帯(そくたい)ただしき老者(らうしや)が、もとどりはなへ(ッ・はなつ)てねり出(いで)たりければ、わかき公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)こらへずして、一同(いちどう)には(ッ)とわらひあへり。陰陽師(おんやうじ・をんやうじ)な(ン)ど(など)いふは、反陪(へんばい)とて足(あし)をもあだにふまずとこそ承(うけたまは)れ。それにかかる不思議(ふしぎ)の有(あり)ける、其(その)時(とき)はなにとも覚(おぼ)えざりしか共(ども)、後(のち)にこそ思(おも)ひあはする事共(ことども)も多(おほ)かりけれ。
御産(ごさん)によ(ッ)て六波羅(ろくはら)へまいら(まゐら)せ給(たま)ふ人々(ひとびと)、関白(くわんばく・くはんばく)松殿(まつどの)、太政大臣(だいじやうだいじん)妙音院(めうおんゐん・めうをんゐん)、左大臣(さだいじん)大炊御門(おほいみかど)、右大臣(うだいじん)月輪殿(つきのわどの)、内大臣(ないだいじん)小松殿(こまつどの)、左大将(さだいしやう)実定(さねさだ)、源(みなもとの)大納言(だいなごん)定房(さだふさ)、三条(さんでうの)大納言(だいなごん)実房(さねふさ)、五条(ごでうの)大納言(だいなごん)国綱(くにつな)、藤(とう)大納言(だいなごん)実国(さねくに)、按察使(あぜつし)資方(すけかた)、中御門(なかのみかどの)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)宗家(むねいへ)、花山院(くわさんのゐんの)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)兼雅(かねまさ)、源(げん)中納言(ぢゆうなごん・ちうなごん)雅頼(がらい)、権中納言(ごんぢゆうなごん)実綱(さねつな)、藤(とう)中納言(ぢゆうなごん)資長(すけなが)、池(いけの)中納言(ちゆうなごん)頼盛(よりもり)、左衛門督(さゑもんのかみ)時忠(ときただ)、別当(べつたう)忠親(ただちか)、左(さ)の宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)実家(さねいへ)、右(みぎ)の宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)実宗(さねむね)。
新宰相(しんさいしやうの・しんざいしやうの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)通親(みちちか)、平(へい)宰相(ざいしやう)教盛(のりもり)、六角(ろくかくの)宰相(さいしやう)家通(いへみち)、堀河宰相(ほりかはのさいしやう)頼定(よりさだ)、左大弁宰相(さだいべんのさいしやう)長方(ながかた)、右大弁(うだいべんの)三位(さんみ)俊経(としつね)、左兵衛督(さひやうゑのかみ)重教(しげのり)、右兵衛督(うひやうゑのかみ)光能(みつよし)、皇太后宮(くわうだいこうくうの・くはうだいこうくうの)大夫(だいぶ)朝方(ともかた)、左京大夫(さきやうのだいぶ)長教(ながのり)、太宰相大弐(ださいのだいに)親宣(ちかのぶ)、新三位(しんざんみ)実清(さねきよ)、已〔上〕(いじやう)三十三人(さんじふさんにん)、右大弁(うだいべん)の外(ほか)は直衣(ちよくい)也(なり)。不参(ふさん)の人々(ひとびと)、花山院(くわさんのゐんの)前(さきの)太政大臣(だいじやうだいじん)忠雅公(ただまさこう)、大宮(おほみやの)大納言(だいなごん)隆季卿(たかすゑのきやう)以下(いげ)十(じふ)余人(よにん)、後日(ごにち)に布衣(ほうい)着(ちやく)して、入道(にふだう)相国(しやうこく)の西八条(にしはつでうの)亭(てい)へむかはれけるとぞ聞(きこ)えし。 
大塔建立 (だいたふこんりふ) 

 

御修法(みしほ)の結願(けちぐわん・けちぐはん)に勧賞共(けんじやうども)をこなは(おこなは)る。仁和寺(にんわじの)御室(おむろ)は東寺(とうじ)修造(しゆざう)せらるべし、並(ならび)に後七日(ごしちにち)の御修法(みしほ)、大眼(たいげん)の法(ほふ・ほう)の、潅頂(くわんぢやう・くはんぢやう)興行(こうぎやう)せらるべき由(よし)仰下(おほせくだ)さる。御弟子(おんでし)覚誓(かくせい・かくセイ)僧都(そうづ)、法印(ほふいん・ほうゐん)に挙(きよ)せらる。座主宮(ざすのみや)は、二品(にほん)並(ならび)に牛車(ぎつしや・ギツしや)の宣旨(せんじ)を申(まう)させ給(たま)ふ。仁和寺(にんわじの)御室(おむろ)ささへ申(まう)させ給(たま)ふによ(ッ)て、法眼(ほふげん・ほうげん)円良(ゑんりやう・えんりやう)、法印(ほふいん・ほうゐん)になさる。其(その)外(ほか)の勧賞共(けんじやうども)毛挙(もうきよ)にいとまあらずとぞきこえし。中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)は日数(ひかず)へにければ、六波羅(ろくはら)より内裏(だいり)へまいら(まゐら)せ給(たま)ひけり。此(この)御(おん)むすめ后(きさき)にたたせ給(たまひ)しかば、入道(にふだう)相国(しやうこく)夫婦(ふうふ)共(とも)に、「あはれ、いかにもして皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)あれかし。位(くらゐ)につけ奉(たてまつ)り、外祖父(ぐわいそぶ)、外祖母(ぐわいそぼ)とあふがれん」とぞねがはれける。
わがあがめ奉(たてまつ)る安芸(あき)の厳島(いつくしま)に申(まう)さんとて、月(つき)まうでを始(はじめ)て、祈(いの)り申(まう)されければ、中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)やがて御懐姙(ごくわいにん・ごくはいにん)あ(ッ)て、思(おも)ひのごとく皇子(わうじ)にてましましけるこそ目出(めで)たけれ。抑(そもそも)平家(へいけ)の安芸(あき)の厳島(いつくしま)を信(しん)じ始(はじめ)られける事(こと)はいかにといふに、鳥羽院(とばのゐん)の御宇(ぎよう)に、清盛公(きよもりこう)いまだ安芸守(あきのかみ)たりし時(とき)、安芸国(あきのくに)をも(ッ)て、高野(かうや)の大塔(だいたふ・だいとう)を修理(しゆり)せよとて、渡辺(わたなべ)の遠藤(ゑんどう)六郎(ろくらう)頼方(よりかた)を雑掌(ざつしやう)に付(つけ)られ、六年(ろくねん)に修理(しゆり)をは(ン)ぬ。修理(しゆり)をは(ッ)て後(のち)、清盛(きよもり)高野(かうや)へのぼり、大塔(だいたふ・だいとう)をがみ、奥院(おくのゐん)へまいら(まゐら)れたりければ、いづくより来(きた)る共(とも)なき老僧(らうそう)の、眉(まゆ)には霜(しも)をたれ、額(ひたい)に浪(なみ)をたたみ、かせ杖(づゑ・づえ)のふたまたなるにすが(ッ)ていでき給(たま)へり。
良(やや)久(ひさ)しう御物語(おんものがたり)せさせ給(たま)ふ。「昔(むかし)よりいまにいたるまで、此(この)山(やま)は密宗(みつしゆう・みつしう)をひかへて退転(たいてん)なし。天下(てんが)に又(また)も候(さうら)はず。大塔(だいたふ・だいとう)すでに修理(しゆり)をはり候(さうらひ)たり。さては安芸(あき)の厳島(いつくしま)、越前(ゑちぜん)の気比(けい)の宮(みや)は、両界(りやうがい)の垂跡(すいしやく)で候(さうらふ)が、気比(けい)の宮(みや)はさかへ(さかえ)たれ共(ども)、厳島(いつくしま)はなきが如(ごとく)て荒(あれ)はてて候(さうらふ)。此(この)次て(ついで・つゐで)に奏聞(そうもん)して修理(しゆり)せさせ給(たま)へ。さだにも候(さうら)はば、官(くわん・くはん)加階(かかい)は肩(かた)をならぶる人(ひと)もあるまじきぞ」とて立(たた)れけり。此(この)老僧(らうそう)の居(ゐ)給(たま)へる所(ところ)に異香(いきやう)すなはち薫(くん)じたり。
人(ひと)を付(つけ)てみせ給(たま)へば、三町(さんぢやう)ばかりはみえ給(たまひ)て、其(その)後(のち)はかきけつやうに失(うせ)給(たまひ)ぬ。ただ人(びと)にあらず、大師(だいし)にてましましけりと、弥(いよいよ)た(ッ)とくおぼしめし、娑婆世界(しやばせかい)の思出(おもひで)にとて、高野(かうや)の金堂(こんだう)に曼陀羅(まんだら)をかかれけるが、西曼陀羅(さいまんだら)をば常明(じやうみやう)法印(ほふいん・ほうゐん)といふ絵師(ゑし)に書(かか)せらる。東曼陀羅(とうまんだら)をば清盛(きよもり)かかむとて、自筆(じひつ)に書(かか)〔れ〕けるが、何(なに)とかおもはれけん、八葉(はちえふ・はちえう)の中尊(ちゆうぞん・ちうぞん)を宝冠(ほうくわん・ほうくはん)をばわが首(かうべ)の血(ち)をいだいてかかれけるとぞ聞(きこ)えし。さて都(みやこ)へのぼり、院参(ゐんざん)して此(この)由(よし)奏聞(そうもん)せられければ、君(きみ)もなのめならず御感(ぎよかん)あ(ッ)て、猶(なほ・なを)任(にん)をのべられ、厳島(いつくしま)を修理(しゆり)せらる。
鳥居(とりゐ)を立(たて)かへ、社々(やしろやしろ)を作(つく)りかへ、百八十(ひやくはちじつ)間(けん)の廻廊(くわいらう)をぞ造(つく)られける。修理(しゆり)をは(ッ)て、清盛(きよもり)厳島(いつくしま)へまいり(まゐり)、通夜(つや)せられたりける夢(ゆめ)に、御宝殿(ごほうでん)の内(うち)より鬟(びんづら)ゆふ(ゆう)たる天童(てんどう)の出(いで)て、「これは大明神(だいみやうじん)の御使(おんつかひ)也(なり)。汝(なんぢ)この剣(けん)をも(ッ)て一天四海(いつてんしかい)をしづめ、朝家(てうか)の御(おん)まぼりたるべし」とて、銀(ぎん)のひるまきしたる小長刀(こなぎなた)を給(たま)はるといふ夢(ゆめ)をみて、覚(さめ)て後(のち)見(み)給(たま)へば、うつつに枕(まくら)がみにぞた(ッ)たりける。大明神(だいみやうじん)御詫宣(ごたくせん)あ(ッ)て、「汝(なんぢ)しれりや、忘(わす)れりや、ある聖(ひじり)をも(ッ)ていはせし事(こと)は。但(ただし)悪行(あくぎやう)あらば、子孫(しそん)まではかなふまじきぞ」とて、大明神(だいみやうじん)あがらせ給(たまひ)ぬ。目出(めで)たかりし御事(おんこと)也(なり)。 
頼豪 (らいがう) 

 

白河院(しらかはのゐん)御在位(ございゐ)の御時(おんとき)、京極大殿(きやうごくのおほとの)の御(おん)むすめ后(きさき)にたたせ給(たまひ)て、兼子(けんし)の中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)とて、御最愛(ごさいあい・ごさいあひ)有(あり)けり。主上(しゆしやう)此(この)御腹(おんぱら)に皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)あらまほしうおぼしめし、其(その)比(ころ)有験(うげん)の僧(そう)と聞(きこ)えし三井寺(みゐでら)の頼豪阿闍梨(らいがうあじやり)をめして、「汝(なんぢ)此(この)后(きさき)の腹(はら)に、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)祈(いのり)申(まう)せ。御願(ごぐわん)成就(じやうじゆ)せば、勧賞(けんじやう)はこふによるべし」とぞ仰(おほせ)ける。
「やすう候(さうらふ)」とて三井寺(みゐでら)にかへり、百日(ひやくにち)肝胆(かんたん)を摧(くだい)て祈(いのり)申(まうし)ければ、中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)やがて百日(ひやくにち)のうちに御懐姙(ごくわいにん)あ(ッ)て、承保(しようほう・せうほう)元年(ぐわんねん)十二月(じふにぐわつ・じふに(ン)ぐわつ)十六日(じふろくにち)、御産(ごさん)平安(ぺいあん)、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)有(あり)けり。君(きみ)なのめならず御感(ぎよかん)あ(ッ)て、三井寺(みゐでら)の頼豪阿闍梨(らいがうあじやり)をめして、「汝(なんぢ)が所望(しよまう)の事(こと)はいかに」と仰下(おほせくだ)されければ、三井寺(みゐでら)に戒壇(かいだん)建立(こんりふ・こんりう)の事(こと)を奏(そう)す。主上(しゆしやう)「これこそ存(ぞん)の外(ほか)の所望(しよまう)なれ。一階僧正(いつかいそうじやう)な(ン)ど(など)をも申(まうす)べきかとこそおぼしめしつれ。凡(およそ・をよそ)は皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)あ(ッ)て、祚(そ)をつがしめん事(こと)も、海内(かいだい)無為(ぶい)を思(おも)ふため也(なり)。
今(いま)汝(なんぢ)が所望(しよまう)達(たつ)せば、山門(さんもん)いきどほ(ッ)て世上(せじやう)しづかなるべからず。両門(りやうもん)合戦(かつせん)して、天台(てんだい)の仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)ほろびなんず」とて、御(おん)ゆるされもなかりけり。頼豪(らいがう)口(くち)おしい(をしい)事(こと)也(なり)とて、三井寺(みゐでら)にかへ(ッ・かへつ)て、ひ死(じに)にせんとす。主上(しゆしやう)大(おほき)におどろかせ給(たまひ)て、江帥(がうぞつ・ごうぞつ)匡房卿(きやうばうのきやう)、其(その)比(ころ)は未(いまだ)美作守(みまさかのかみ)と聞(きこ)えしを召(めし)て、「汝(なんぢ)は頼豪(らいがう)と師壇(しだん)の契(ちぎり)あんなり。ゆいてこしらへて見(み)よ」と仰(おほせ)ければ、美作守(みまさかのかみ)綸言(りんげん)を蒙(かうぶり)て頼豪(らいがう)が宿坊(しゆくばう)に行(ゆき)むかひ、勅定(ちよくぢやう)の趣(おもむき)を仰含(おほせふく)めんとするに、以外(もつてのほか・も(ツ)てのほか)にふすぼ(ッ)たる持仏堂(ぢぶつだう)にたてごもり、おそろしげなるこゑして、「天子(てんし)には戯(たはぶれ)の詞(ことば)なし、綸言(りんげん)汗(あせ)の如(ごと)しとこそ承(うけたまは)れ。是(これ)程(ほど)の所望(しよまう)かなはざらむにをいて(おいて)〔は〕、わが祈(いの)りだしたる皇子(わうじ)なれば、取(とり)奉(たてまつり)て魔道(まだう)へこそゆかんずらめ」とて、遂(つひ・つゐ)に対面(たいめん)もせざりけり。
美作守(みまさかのかみ)帰(かへ)りまい(ッ・まゐつ)て、此(この)由(よし)を奏聞(そうもん)す。頼豪(らいがう)はやがてひ死(じに)に死(しに)にけり。君(きみ)いかがせんずると、叡慮(えいりよ・ゑいりよ)をおどろからせおはします。皇子(わうじ)やがて御悩(ごなう)つかせ給(たまひ)て、さまざまの御祈共(おんいのりども)有(あり)しか共(ども)、かなう(かなふ)べしともみえさせ給(たま)はず。白髪(はくはつ)なりける老僧(らうそう)の、錫杖(しやくぢやう)も(ッ)て皇子(わうじ)の御枕(おんまくら)にたたずみ、人々(ひとびと)の夢(ゆめ)にもみえ、まぼろしにも立(たち)けり。おそろしな(ン)ど(など)もおろかなり。去程(さるほど)に、承暦(しようりやく・せうりやく)元年(ぐわんねん・ぐはんねん)八月(はちぐわつ)六日(むゆかのひ)、皇子(わうじ)御年(おんとし)四歳(しさい)にて遂(つひ・つゐ)にかくれさせ給(たまひ)ぬ。敦文(あつふん)の親王(しんわう)是(これ)なり。主上(しゆしやう)なのめならず御歎(おんなげき)ありけり。
山門(さんもん)に又(また)西京(さいきやう)の座主(ざす)、良信(りやうしん)大僧都(だいそうじやう)、其(その)比(ころ)は円融房(ゑんゆうばう)の僧都(そうづ)とて、有験(うげん)の僧(そう)と聞(きこ)えしを、内裏(だいり)へめして、「こはいかがせんずる」と仰(おほせ)ければ、「いつも我(わが)山(やま)の力(ちから)にてこそか様(やう)の御願(ごぐわん)は成就(じやうじゆ)する事(こと)候(ざうら)へ。九条(くでうの)右丞相(うしようじやう・うせうじやう)、慈恵大僧正(じゑだいそうじやう)に契(ちぎり)申(まう)させ給(たまひ)しによ(ッ)てこそ、冷泉院(れんぜいのゐん)の皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)は候(さうらひ)しか。やすい程(ほど)の御事(おんこと)候(ざうらふ)」とて、比叡山(ひえいさん・ひゑいさん)にかへりのぼり、山王大師(さんわうだいし)に百日(ひやくにち)肝胆(かんたん)を摧(くだい・くだひ)て祈(いのり)申(まうし)ければ、中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)やがて百日(ひやくにち)の内(うち)に御懐姙(ごくわいにん)あ(ッ)て、承暦(しようりやく・せうりやく)三年(さんねん)七月(しちぐわつ)九日(ここのかのひ)、御産(ごさん)平安(ぺいあん)、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)有(あり)けり。堀河天皇(ほりかはのてんわう)是(これ)也(なり)。怨霊(をんりやう)は昔(むかし)もおそろしき事(こと)也(なり)。今度(こんど)さしも目出(めで)たき御産(ごさん)に、大赦(だいしや)はをこなは(おこなは)れたりといへ共(ども)、俊寛(しゆんくわん)僧都(そうづ)一人(いちにん)、赦免(しやめん)なかりけるこそうたてけれ。同(おなじき)十二月(じふにぐわつ)八日(やうかのひ)、皇子(わうじ)東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ふ。傅(ふ)には、小松内大臣(こまつのないだいじん)、大夫(だいぶ)には池(いけ)の中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)頼盛卿(よりもりのきやう)とぞ聞(きこ)えし。 
少将都帰 (せうしやうみやこがへり) 

 

明(あく)れば治承(ぢしよう・ぢせう)三年(さんねん)正月(しやうぐわつ)下旬(げじゆん)に、丹羽少将(たんばのせうしやう)成経(なりつね)、肥前国(ひぜんのくに)鹿瀬庄(かせのしやう)をた(ッ)て、都(みやこ)へといそがれけれ共(ども)、余寒(よかん)猶(なほ・なを)はげしく、海上(かいしやう)もいたく荒(あれ)ければ、浦(うら)づたひ島(しま)づたひして、きさらぎ十日比(とをかごろ)にぞ備前ノ(びぜんの)児島(こじま・コじま)に着(つき)給(たま)ふ。それより父(ちち)大納言殿(だいなごんどの)のすみ給(たまひ)ける所(ところ)を尋(たづね)いりてみ給(たま)ふに、竹(たけ)の柱(はしら)、ふりたる障子(しやうじ)なんど(など)にかきをか(おか)れたる筆(ふで)のすさみをみ給(たまひ)て、「人(ひと)の形見(かたみ)には手跡(しゆせき)に過(すぎ)たる物(もの)ぞなき。書(かき)をき(おき)給(たま)はずは、いかでかこれをみるべき」とて、康頼(やすより)入道(にふだう・にうだう)と二人(ににん)、ようではなき、ないてはよむ。「安元(あんげん)三年(さんねん)七月(しちぐわつ)廿日(はつかのひ)出家(しゆつけ)、同(おなじき)廿六日(にじふろくにち)信俊(のぶとし)下向(げかう)」と書(かか)れたり。
さてこそ源(げん)左衛門尉(ざゑもんのじよう・ざゑもんのぜう)信俊(のぶとし)がまいり(まゐり)たりけるも知(しら)れけれ。そばなる壁(かべ)には、「三尊(さんぞん)来迎(らいかう)有便(たよりあり・タヨリアリ)。九品(くほん)往生(わうじやう)無疑(うたがひなし)」とも書(かか)れたり。此(この)形見(かたみ)を見(み)給(たまひ)てこそ、さすが欣求浄土(ごんぐじやうど)ののぞみもおはしけりと、限(かぎ)りなき歎(なげき)の中(なか)にも、いささかたのもしげにはの給(たまひ)けれ。其(その)墓(はか)を尋(たづね)て見(み)給(たま)へば、松(まつ)の一(ひと)むらある中(なか)に、かひがひしう壇(だん)をついたる事(こと)もなし。
土(つち)のすこしたかき所(ところ)に少将(せうしやう)袖(そで)かきあはせ、いきたる人(ひと)に物(もの)を申(まうす)やうに、泣々(なくなく)申(まう)されけるは、「遠(とほ・とを)き御(おん)まもりとならせおはしまして候(さうらふ)事(こと)をば、島(しま)にてかすかに伝(つた)へ承(うけたまは)りしか共(ども)、心(こころ)にまかせぬうき身(み)なれば、いそぎまいる(まゐる)事(こと)も候(さうら)はず。成経(なりつね)彼(かの)島(しま)へながされて、露(つゆ)の命(いのち)消(きえ)やらずして、二(ふた)とせををく(ッ・おくつ)てめしかへさるるうれしさは、さる事(こと)にて候(さうら)へ共(ども)、この世(よ)にわたらせ給(たま)ふをも見(み)まいらせ(まゐらせ)て候(さうらは)ばこそ、命(いのち)のながきかひもあらめ。是(これ)まではいそがれつれ共(ども)、いまより後(のち)はいそぐべし共(とも)おぼえず」と、かきくどゐ(くどい)てぞなかれける。誠(まこと)に存生(ぞんじやう)の時(とき)ならば、大納言(だいなごん)入道殿(にふだうどの・にうだうどの)こそ、いかに共(とも)の給(たま)ふべきに、生(しやう)をへたて(へだて)たる習(なら)ひ程(ほど)うらめしかりける物(もの)はなし。苔(こけ)の下(した)には誰(たれ)かこたふべき。
ただ嵐(あらし)にさはぐ(さわぐ)松(まつ)の響(ひびき)ばかりなり。其(その)夜(よ)は夜(よ)もすがら、康頼(やすより)入道(にふだう・にうだう)と二人(ににん)、墓(はか)のまはりを行道(ぎやうだう)して念仏(ねんぶつ)申(まうし)、明(あけ)ぬればあたらしう壇(だん)つき、くぎぬき〔せ〕させ、まへに仮屋(かりや)つくり、七日(しちにち)七夜(しちや)念仏(ねんぶつ)申(まうし)経(きやう)書(かき)て、結願(けちぐわん)には大(おほき)なる卒兜婆(そとば)をたて、「過去聖霊(くわこしやうりやう)、出離生死(しゆつりしやうじ)、証大菩提(しようだいぼだい・しやうだいぼだい)」とかいて、年号(ねんがう)月日(つきひ)の下(した)には、「孝子(かうし)成経(なりつね)」と書(かか)れたれば、しづ山(やま)がつの心(こころ)なきも、子(こ)に過(すぎ)たる宝(たから)なしとて、泪(なみだ)をながし袖(そで)をしぼらぬはなかりけり。年(とし)去(さり・さリ)年(とし)来(きた)れ共(ども)、忘(わすれ)がたきは撫育(ぶいく)の昔(むかし)の恩(おん・をん)、夢(ゆめ)の如(ごと)く幻(まぼろし)のごとし。尽(つき)がたきは恋慕(れんぼ)のいまの涙(なみだ)也(なり)。
三世(さんぜ)十方(じつぱう・じつばう)の仏陀(ぶつだ)の聖衆(しやうじゆ)もあはれみ給(たま)ひ、亡魂(ばうこん)尊霊(そんれい)もいかにうれしとおぼしけむ。「いましばらく念仏(ねんぶつ)の功(こう)をもつむべう候(さうら)へ共(ども)、都(みやこ)に待(まつ)人共(ひとども)も心(こころ)もとなう候(さうらふ)らん。又(また)こそまいり(まゐり)候(さうら)はめ」とて、亡者(まうじや)にいとま申(まうし)つつ、泣々(なくなく)そこをぞ立(たた)れける。草(くさ)の陰(かげ)にても余波(なごり)おしう(をしう)やおもはれけむ。
三月(さんぐわつ)十八日(じふはちにち)、少将(せうしやう)鳥羽(とば)へあかうぞ付(つき)給(たま)ふ。故(こ)大納言(だいなごん)の山荘(さんざう)、すはま殿(どの)とて鳥羽(とば)にあり。住(すみ)あらして年(とし)へにければ、築地(ついぢ)はあれどもおほい(おほひ)もなく、門(もん)はあれ共(ども)扉(とびら)もなし。庭(には)に立入(たちいり)見(み)給(たま)へば、人跡(じんせき)たえて苔(こけ)ふかし。池(いけ)の辺(ほとり)を見(み)まはせば、秋山(あきやま)の春風(はるかぜ)に白波(しらなみ)しきりにおりかけて、紫鴛(しゑん・しえん)白鴎(はくおう・はくわう)逍遥(せうよう)す。興(けう)ぜし人(ひと)の恋(こひ)しさに、尽(つき)せぬ物(もの)は涙(なみだ)也(なり)。家(いへ)はあれ共(ども)、らんもむ(らんもん)破(やぶれ)て、蔀(しとみ)やり戸(ど)もたえてなし。「爰(ここ)には大納言(だいなごん)のとこそおはせしか、此(この)妻戸(つまど)をばかうこそ出入(いでいり)給(たまひ)しか。あの木(き)をば、みづからこそうへ(うゑ)給(たまひ)しか」な(ン)ど(など)いひて、ことの葉(は)につけて、ちちの事(こと)を恋(こひ)しげにこその給(たま)ひけれ。弥生(やよひ)なかの六日(むゆか)なれば、花(はな)はいまだ名残(なごり)あり。
楊梅(やうばい)桃李(たうり)の梢(こずゑ)こそ、折(をり・おり)しりがほに色々(いろいろ)なれ。昔(むかし)のあるじはなけれ共(ども)、春(はる)を忘(わす)れぬ花(はな)なれや。少将(せうしやう)花(はな)のもとに立(たち)よ(ッ)て、桃李(たうり)不言(ものいはず)春(はる)幾暮(いくばくくれぬる)煙霞(えんか・ゑんか)無跡(あとなし)昔(むかし)誰栖(たれかすんじ)シ
ふる里(さと)の花(はな)の物(もの)いふ世(よ)なりせばいかにむかしのことをとはまし
この古(ふる)き詩歌(しいか・し(イ)か)を口(くち)ずさみ給(たま)へば、康頼(やすより)入道(にふだう・にうだう)も折節(をりふし・おりふし)あはれに覚(おぼ)えて、墨染(すみぞめ)の袖(そで)をぞぬらしける。暮(くる)る程(ほど)とは待(また)れけれ共(ども)、あまりに名残(なごり)おしく(をしく)て、夜(よ)ふくるまでこそおはしけれ。深行(ふけゆく)ままには、荒(あれ)たる宿(やど)のならひとて、ふるき軒(のき)の板間(いたま)より、もる月影(つきかげ)ぞくまもなき。鶏籠(けいろう)の山(やま)明(あけ)なんとすれ共(ども)、家路(いへぢ)はさらにいそがれず。
さてもあるべきならねば、むかへに乗物共(のりものども)つかはして待(まつ)らんも心(こころ)なしとて、泣々(なくなく)すはま殿(どの)を出(いで)つつ、都(みやこ)へかへり入(いり)けむ心(こころ)の内共(うちども)、さこそはあはれにもうれしうも有(あり)けめ。康頼(やすより)入道(にふだう・にうだう)がむかへにも乗物(のりもの)ありけれ共(ども)、それにはのらで、「いまさら名残(なごり)の惜(をし・おし)きに」とて、少将(せうしやう)の車(くるま)の尻(しり)にの(ッ)て、七条河原(しつでうかはら)まではゆく。其(それ)より行別(ゆきわかれ)けるに、猶(なほ・なを)行(ゆき)もやらざりけり。花(はな)の下(もと)の半日(はんじつ)の客(かく)、月(つきの)前(まへ)の一夜(いちや)の友(とも)、旅人(りよじん)が一村雨(ひとむらさめ)の過行(すぎゆく)に、一樹(いちじゆ)の陰(かげ)に立(たち)よ(ッ)て、わかるる余波(なごり)もおしき(をしき)ぞかし。况(いはん)や是(これ)はうかりし島(しま)のすまひ、船(ふね)のうち、浪(なみ)のうへ、一業所感(いちごふしよかん・いちごうしよかん)の身(み)なれば、先世(ぜんぜ)の芳縁(はうえん)も浅(あさ)からずや思(おも)ひしられけん。
少将(せうしやう)は舅(しうと)平宰相(へいざいしやう)の宿所(しゆくしよ)へ立入(たちいり)給(たま)ふ。少将(せうしやう)の母(はは)うへは霊山(りやうぜん)におはしけるが、昨日(きのふ)より宰相(さいしやう)の宿所(しゆくしよ)におはして待(また)れけり。少将(せうしやう)の立入(たちいり)給(たま)ふ姿(すがた)を一目(ひとめ)みて、「命(いのち)あれば」とばかりぞの給(たまひ)ける。引(ひき)かづいてぞ臥(ふし)給(たま)ふ。宰相(さいしやう)の内(うち)の〔女〕房(にようばう)、侍共(さぶらひども)さしつどい(つどひ)て、みな悦(よろこび)なき共(ども)しけり。まして少将(せうしやう)の北方(きたのかた)、めのとの六条(ろくでう)が心(こころ)のうち、さこそはうれしかりけめ。
六条(ろくでう)は尽(つき)せぬ物(もの)おもひに、黒(くろ)かりし髪(かみ)もみなしろくなり、北方(きたのかた)さしも花(はな)やかにうつくしうおはせしか共(ども)、いつしかやせおとろへて、其(その)人(ひと)共(とも)みえ給(たま)はず。
ながされ給(たまひ)し時(とき)、三歳(さんざい)にて別(わかれ)しおさなき(をさなき)人(ひと)、おとなしうな(ッ)て、髪(かみ)ゆふ程(ほど)也(なり)。又(また)其(その)御(おん)そばに、三(みつ)ばかりなるおさなき(をさなき)人(ひと)のおはしけるを、少将(せうしやう)「あれはいかに」との給(たま)へば、六条(ろくでう)「是(これ)こそ」とばかり申(まうし)て、袖(そで)をかほにおしあてて涙(なみだ)をながしけるにこそ、さては下(くだ)りし時(とき)、心苦(こころぐる)しげなる有(あり)さまを見(み)をき(おき)しが、事(こと)ゆへ(ゆゑ)なくそ立(だち)けるよと、思(おも)ひ出(いで)てもかなしかりけり。少将(せうしやう)はもとのごとく院(ゐん)にめしつかはれて、宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)にあがり給(たま)ふ。康瀬(やすより)入道(にふだう・にうだう)は、東山(ひがしやま・ひ(ン)がしやま)双林寺(さうりんじ)にわが山荘(さんざう)のありければ、それに落(おち)つゐ(つい)て、先(まづ)おもひつづけけり。
ふる里(さと)の軒(のき)のいたまに苔(こけ)むしておもひしほどはもらぬ月(つき)かな
やがてそこに籠居(ろうきよ)して、うかりし昔(むかし)を思(おも)ひつづけ、宝物集(ほうぶつしふ・ほうぶつしう)といふ物語(ものがたり)を書(かき)けるとぞ聞(きこ)えし。 
有王 (ありわう) 

 

去程(さるほど)に、鬼界(きかい)が島(しま)へ三人(さんにん)ながされたりし流人(るにん)、二人(ににん)はめしかへされて都(みやこ)へのぼりぬ。俊寛(しゆんくわん・しゆんくはん)僧都(そうづ)一人(いちにん)、うかりし島(しま)の島守(しまもり)に成(なり)にけるこそうたてけれ。僧都(そうづ)のおさなう(をさなう)より不便(ふびん)にして、めしつかはれける童(わらは)あり。名(な)をば有王(ありわう)とぞ申(まうし)ける。
鬼界(きかい)が島(しま)の流人(るにん)、今日(けふ)すでに都(みやこ)へ入(いる)と聞(きこ)えしかば、鳥羽(とば)まで行(ゆき)むかふ(むかう)て見(み)けれ共(ども)、わがしう(しゆう)はみえ給(たま)はず。いかにと問(とへ)ば、「それはなを(なほ)つみふかしとて、島(しま)にのこされ給(たまひ)ぬ」ときいて、心(こころ)うしな(ン)ど(など)もおろか也(なり)。常(つね)は六波羅辺(ろくはらへん)にたたずみありいて聞(きき)けれ共(ども)、赦免(しやめん)あるべし共(とも)聞(きき)いださず。僧都(そうづ)の御(おん)むすめのしのびておはしける所(ところ)へまい(ッ・まゐつ)て、「このせにももれさせ給(たまひ)て、御(おん)のぼりも候(さうら)はず。いかにもして彼(かの)島(しま)へわた(ッ)て、御(おん)行(ゆく)え(ゆくへ)を尋(たずね)まいらせ(まゐらせ)むとこそ思(おも)ひな(ッ)て候(さうら)へ。御(おん)ふみ給(たま)はらん」と申(まうし)ければ、泣々(なくなく)かいてたうだりけり。
いとまをこふ共(とも)、よもゆるさじとて、父(ちち)にも母(はは)にもしらせず、もろこし船(ぶね)のともづなは、卯月(うづき)さ月(つき)にとくなれば、夏衣(なつごろも)たつを遅(おそ・をそ)くや思(おもひ)けむ、やよひの末(すゑ)に都(みやこ)を出(いで)て、多(おほ)くの浪路(なみじ)を凌(しの)ぎ過(す)ぎ、薩摩潟(さつまがた)へぞ下(くだ)りける。薩摩(さつま)より彼(かの)島(しま)へわたる船津(ふなつ)にて、人(ひと)あやしみ、きたる物(もの)をはぎとりな(ン)ど(など)しけれ共(ども)、すこしも後悔(こうくわい)せず。姫御前(ひめごぜん)の御文(おんふみ)ばかりぞ人(ひと)に見(み)せじとて、もとゆひの中(なか)に隠(かく)したりける。
さて商人船(あきんどぶね)にの(ッ)て、件(くだん)の島(しま)へわた(ッ)てみるに、都(みやこ)にてかすかにつたへ聞(きき)しは事(こと)のかずにもあらず。田(た)もなし、畠(はた)もなし。村(むら)もなし、里(さと)もなし。をのづから(おのづから)人(ひと)はあれ共(ども)、いふ詞(ことば)も聞(きき)しらず。もしか様(やう)の者共(ものども)の中(なか)に、わがしう(しゆう)の行(ゆく)え(ゆくへ)やしりたるものやあらんと、「物(もの)まうさう」どいへば、「何事(なにごと)」とこたふ。「是(これ)に都(みやこ)よりながされ給(たまひ)し、法勝寺(ほつしようじの・ほつしやうじの)執行(しゆぎやう)御房(ごばう)と申(まうす)人(ひと)の御(おん)行(ゆく)え(ゆくへ)やしりたる」と問(とふ)に、法勝寺(ほつしようじ)共(とも)、執行(しゆぎやう)共(とも)し(ッ)たらばこそ返事(へんじ)もせめ。頸(くび)をふ(ッ)て知(しら)ずといふ。其(その)中(なか)にある者(もの)が心得(こころえ)て、「いさとよ、さ様(やう)の人(ひと)は三人(さんにん)是(これ)に有(あり)しが、二人(ににん)はめしかへされて都(みやこ)へのぼりぬ。いま一人(いちにん)はのこされて、あそこ爰(ここ)にまどひありけ共(ども)、行(ゆく)え(ゆくへ)もしらず」とぞいひける。山(やま)のかたのおぼつかなさに、はるかに分入(わけいり)、峯(みね)によぢ登(のぼり)、谷(たに)に下(くだ)れ共(ども)、白雲(はくうん)跡(あと)を埋(うづん)で、ゆき来(き)の道(みち)もさだかならず。青嵐(せいらん)夢(ゆめ)を破(やぶつ)て、その面影(おもかげ)もみえざりけり。
山(やま)にては遂(つひ・つゐ)に尋(たづね)もあはず。海(うみ)の辺(ほとり)について尋(たづぬ)るに、沙頭(さとう)に印(いん・ゐん)を刻(きざ)む鴎(かもめ)、澳(おき)のしら州(す)にすだく浜千鳥(はまちどり)の外(ほか)は、跡(あと)とふ物(もの)もなかりけり。ある朝(あした)、いその方(かた)よりかげろふな(ン)ど(など)のやうにやせおとろへたる者(もの)よろぼひ出(いで)きたり。もとは法師(ほふし・ほうし)にて有(あり)けると覚(おぼ)えて、髪(かみ)は空(そら)さまへおひあがり、よろづの藻(も)くづとりつゐ(つい)て、をどろ(おどろ)をいただいたるが如(ごと)し。つぎ目(め)あらはれて皮(かは)ゆたひ、身(み)にきたる物(もの)は絹(きぬ)布(ぬの)のわきも見(み)えず。片手(かたて)にはあらめをひろい(ひろひ)もち、片手(かたて)には網(あみ)うどに魚(うを・うほ)をもらふてもち、歩(あゆ)むやうにはしけれ共(ども)、はかもゆかず、よろよろとして出(いで)きたり。
「都(みやこ)にて多(おほ)くの乞丐人(こつがいにん・コツカイにん)みしか共(ども)、かかる者(もの)をばいまだみず。「諸阿修羅等居在大海辺(しよあしゆらとうこざいだいかいへん)」とて、修羅(しゆら)の三悪四趣(さんあくししゆ)は深山大海(しんざんだいかい)のほとりにありと、仏(ほとけ)の解(とき)をき(おき)給(たま)ひたれば、しらず、われ餓鬼道(がきだう)に尋来(たづねきた)るか」と思(おも)ふ程(ほど)に、かれも是(これ)も次第(しだい)にあゆみちかづく。もしか様(やう)のものも、しう(しゆう)の御(おん)ゆくえ(ゆくへ)知(しり)たる事(こと)やあらんと、「物(もの)まうさう」どいへば、「何(なに)ごと」とこたふ。是(これ)は都(みやこ)よりながされ給(たまひ)し、法勝寺(ほつしようじの・ほつしやうじの)執行(しゆぎやう)御房(ごばう)と申(まうす)人(ひと)の、御(おん)行(ゆく)え(ゆくへ)や知(しり)たる」と問(とふ)に、童(わらは)は見忘(みわすれ)たれ共(ども)、僧都(そうづ)は何(なに)とてか忘(わする)べきなれば、「是(これ)こそそよ」といひもあへず、手(て)にもてる物(もの)をなげ捨(すて)て、すなごの上(うへ)にたふれふす。
さてこそわがしう(しゆう)の行(ゆく)え(ゆくへ)もしりて(ン)げれ。やがてきえ入(いり)給(たま)ふを、ひざの上(うへ)にかきふせ奉(たてまつ)り、「有王(ありわう)がまい(ッ・まゐつ)て候(さうらふ)。多(おほ)くの浪(なみ)ぢをしのいで、是(これ)まで尋(たづね)まいり(まゐり)たるかひもなく、いかにやがてうき目(め)をば見(み)せさせ給(たま)ふぞ」と泣々(なくなく)申(まうし)ければ、ややあ(ッ)て、すこし人(ひと)心地(ごこち)出(いで)き、たすけおこされて、「誠(まこと)に汝(なんぢ)が是(これ)まで尋来(たづねき)たる心(こころ)ざしの程(ほど)こそ神妙(しんべう)なれ。明(あけ)ても暮(くれ)ても、都(みやこ)の事(こと)のみ思(おも)ひ居(ゐ)たれば、恋(こひ)しき者共(ものども)が面(おも)かげは、夢(ゆめ)にみるおり(をり)もあり、まぼろしにたつ時(とき)もあり。身(み)もいたくつかれよは(ッ・よわつ)て後(のち)は、夢(ゆめ)もうつつもおもひわかず。
されば汝(なんぢ)が来(き)たれるも、ただ夢(ゆめ)とのみこそおぼゆれ。もし此(この)事(こと)の夢(ゆめ)ならば、さめての後(のち)はいかがせん」。有王(ありわう)「うつつにて候(さうらふ)也(なり)。此(この)御(おん)ありさまにて、今(いま)まで御命(おんいのち)ののびさせ給(たま)ひて候(さうらふ)こそ、不思議(ふしぎ)に覚(おぼ)え候(さうら)へ」と申(まう)せば、「さればこそ。去年(こぞ・コぞ)少将(せうしやう)や判官(はんぐわん・はんぐはん)入道(にふだう・にうだう)に捨(すて)られて後(のち)のたよりなさ、心(こころ)の内(うち)をばただおしはかるべし。そのせに身(み)をもなげむとせしを、よしなき少将(せうしやう)の「今(いま)一度(いちど)都(みやこ)の音(おと・をと)づれをもまてかし」な(ン)ど(など)、なぐさめをき(おき)しを、をろか(おろか)にもしやとたのみつつ、ながらへんとはせしか共(ども)、此(この)島(しま)には人(ひと)のくい(くひ)物(もの)たえてなき所(ところ)なれば、身(み)に力(ちから)のありし程(ほど)は、山(やま)にのぼ(ッ)て湯黄(いわう)と云(いふ)物(もの)をほり、九国(くこく)よりかよふ商人(あきびと)にあひ、くい(くひ)物(もの)にかへな(ン)ど(など)せしか共(ども)、日(ひ)にそへてよはり(よわり)ゆけば、いまはその態(わざ)もせず。
かやうに日(ひ)ののどかなる時(とき)は、磯(いそ)に出(いで)て網人(あみうど)に釣人(つりうど)に、手(て)をすりひざをかがめて、魚(うを・うほ)をもらい(もらひ)、塩干(しほひ)のときは貝(かい)をひろひ、あらめをとり、磯(いそ)の苔(こけ)に露(つゆ)の命(いのち)をかけてこそ、けふまでもながらへたれ。さらでは浮世(うきよ)を渡(わた)るよすがをば、いかにしつらんとか思(おも)ふらむ。爰(ここ)にて何事(なにごと)もいはばやとはおもへ共(ども)、いざわが家(いへ)へ」とのたまへば、この御(おん)ありさまにても家(いへ)をもち給(たま)へるふしぎさよと思(おもひ)て行(ゆく)程(ほど)に、松(まつ)の一(ひと)むらある中(なか)により竹(たけ)を柱(はしら)にして、葦(あし)をゆひ、けたはりにわたし、上(うへ)にもしたにも、松(まつ)の葉(は)をひしと取(とり)かけたり。雨風(あめかぜ)たまるべうもなし。昔(むかし)は、法勝寺(ほつしようじ・ほつしやうじ)の寺務職(じむしよく)にて、八十(はちじふ)余ケ所(よかしよ)の庄務(しやうむ)をつかさどられしかば、棟門(むねかど)平門(ひらかど)の内(うち)に、四五百人(しごひやくにん)の所従(しよじゆう・しよじう)眷属(けんぞく)に囲饒(ゐねう)せられてこそおはせしか。まのあたりかかるうきめを見(み)給(たま)ひけるこそふしぎなれ。業(ごふ・ごう)にさまざまあり。順現(じゆんげん)・順生(じゆんしやう)・順後業(じゆんごごふ・じゆんごごう)といへり。僧都(そうづ)一期(いちご)の間(あひだ・あいだ)、身(み)にもちゐる処(ところ)、大伽藍(だいがらん)の寺物(じもつ)仏物(ぶつもつ)にあらずと云(いふ)事(こと)なし。さればかの信施無慙(しんぜむざん)の罪(つみ)によ(ッ)て、今生(こんじやう)に感(かん)ぜられけりとぞみえたりける。 
僧都死去 (そうづしきよ) 

 

僧都(そうづ)うつつにてありとおもひ定(さだめ)て、「抑(そもそも)去年(こぞ)少将(せうしやう)や判官(はんぐわん・はんぐはん)入道(にふだう・にうだう)がむかへにも、是等(これら)がふみといふ事(こと)もなし。いま汝(なんぢ)がたよりにも音(おと・をと)づれのなきは、かう共(とも)いはざりけるか」。有王(ありわう)なみだにむせびうつぶして、しばしはものも申(まう)さず。
ややありておきあがり、泪(なみだ)をおさへて申(まうし)けるは、「君(きみ)の西八条(にしはつでう)へ出(いで)させ給(たまひ)しかば、やがて追捕(ついほ)の官人(くわんにん)まい(ッ・まゐつ)て、御内(みうち)の人々(ひとびと)搦取(からめと)り、御謀反(ごむほん)の次第(しだい)を尋(たづね)て、うしなひはて候(さうらひ)ぬ。北方(きたのかた)はおさなき(をさなき)人(ひと)を隠(かく)しかねまいら(まゐら)させ給(たまひ)て、鞍馬(くらま)の奥(おく)にしのばせ給(たまひ)て候(さうらひ)しに、此(この)童(わらは)ばかりこそ時々(ときどき)まい(ッ・まゐつ)て宮仕(みやづかへ)つかまつり候(さうらひ)しか。いづれも御歎(おんなげき)のをろか(おろか)なる事(こと)は候(さうら)はざ(ッ)しか共(ども)、おさなき(をさなき)人(ひと)はあまりに恋(こひ)まいら(まゐら)させ給(たまひ)て、まいり(まゐり)候(さうらふ)たび毎(ごと)に、「有王(ありわう)よ、鬼界(きかい)の島(しま)とかやへわれぐしてまいれ(まゐれ)」とむつからせ給(たまひ)候(さうらひ)しが、過(すぎ)候(さうらひ)し二月(きさらぎ)に、もがさと申(まうす)事(こと)に失(うせ)させ給(たまひ)候(さうらひ)ぬ。
北方(きたのかた)は其(その)御歎(おんなげき)と申(まうし)、是(これ)の御事(おんこと)と申(まうし)、一(ひと)かたならぬ御思(おんおもひ)にしづませ給(たま)ひ、日(ひ)にそへてよはら(よわら)せ給(たまひ)候(さうらひ)しが、同(おなじき)三月(さんぐわつ)二日(ふつかのひ)、つゐに(つひに)はかなくならせ給(たまひ)ぬ。いま姫御前(ひめごぜん)ばかり、奈良(なら)の姑御前(をばごぜん・をばご(ン)ぜん)の御(おん)もとに御(おん)わたり候(さうらふ)。是(これ)に御(おん)ふみ給(たまはり)てまい(ッ・まゐつ)て候(さうらふ)」とて、取(とり)いだいて奉(たてまつ)る。
あけて見(み)給(たま)へば、有王(ありわう)が申(まうす)にたがはず書(かか)れたり。奥(おく)には、「などや、三人(さんにん)ながされたる人(ひと)の、二人(ににん)はめしかへされてさぶらふに、いままで御(おん)のぼりさぶらはぬぞ。あはれ、高(たかき)もいやしきも、女(をんな)の身(み)ばかり心(こころ)うかりける物(もの)はなし。おのこご(をのこご)の身(み)にてさぶらはば、わたらせ給(たま)ふ島(しま)へも、などかまいら(まゐら)でさぶらふべき。このあり王(わう)御供(おとも)にて、いそぎのぼらせ給(たま)へ」とぞ書(かか)れたる。
「是(これ)みよ有王(ありわう)、この子(こ)が文(ふみ)の書(かき)やうのはかなさよ。をのれ(おのれ)を供(とも)にて、いそぎのぼれと書(かき)たる事(こと)こそうらめしけれ。心(こころ)にまかせたる俊寛(しゆんくわん・しゆんくはん)が身(み)ならば、何(なに)とてか三(み)とせの春秋(はるあき)をば送(おく・をく)るべき。今年(ことし)は十二(じふに)になるとこそ思(おも)ふに、是(これ)程(ほど)はかなくては、人(ひと)にもみえ、宮仕(みやづかへ)をもして、身(み)をもたすくべきか」とて泣(なか)れけるにぞ、人(ひと)の親(おや)の心(こころ)は闇(やみ)にあらね共(ども)、子(こ)をおもふ道(みち)にまよふ程(ほど)もしられける。「此(この)島(しま)へながされて後(のち)は、暦(こよみ)もなければ、月日(つきひ)のかはり行(ゆく)をもしらず。ただをのづから(おのづから)花(はな)のちり葉(は)の落(おつ)るを見(み)て春秋(はるあき)をわきまへ、蝉(せみ)の馨(こゑ)麦秋(ばくしう)を送(おく・をく)れば夏(なつ)とおもひ、雪(ゆき)のつもるを冬(ふゆ)としる。
白月(びやくげつ)黒月(こくげつ)のかはり行(ゆく)をみて、卅日(さんじふにち)をわきまへ、指(ゆび)をお(ッ・をつ)てかぞふれば、今年(ことし)は六(むつ)になるとおもひつるおさなき(をさなき)者(もの)も、はや先立(さきだち)けるごさんなれは。
西八条(にしはつでう)へ出(いで)し時(とき)、この子(こ)が、「我(われ)もゆかう」どしたひしを、やがて帰(かへ)らふずる(うずる)ぞとこしらへをき(おき)しが、いまの様(やう)におぼゆるぞや。其(それ)を限(かぎ)りと思(おも)はましかば、いましばしもなどか見(み)ざらん。親(おや)となり、子(こ)となり、夫婦(ふうふ)の縁(えん)をむすぶも、みな此(この)世(よ)ひとつにかぎらぬ契(ちぎり)ぞかし。などさらば、それらがさ様(やう)に先立(さきだち)けるを、いままで夢(ゆめ)まぼろしにもしらざりけるぞ。人目(ひとめ)も恥(はぢ)ず、いかにもして命(いのち)いかうど思(おも・ッ)しも、これらをいま一度(いちど)見(み)ばやと思(おも)ふためなり。
姫(ひめ)が事(こと)こそ心苦(こころぐる)しけれ共(ども)、それもいき身(み)なれば、歎(なげ)きながらもすごさむずらん。さのみながらへて、をのれ(おのれ)にうきめを見(み)せんも、我(わが)身(み)ながらつれなかるべし」とて、をのづから(おのづから)の食事(しよくじ)をもとどめ、偏(ひとへ)に弥陀(みだ)の名号(みやうがう)をとなへて、臨終(りんじゆう・りんじう)正念(しやうねん)をぞ祈(いの)られける。有王(ありわう)わた(ッ)て廿三日(にじふさんにち)と云(いふ)に、其(その)庵(いほ)りのうちにて遂(つひ・つゐ)にをはり給(たまひ)ぬ。年(とし)卅七(さんじふしち)とぞ聞(きこ)えし。有王(ありわう)むなしき姿(すがた)に取(とり)つき、天(てん)に仰(あふぎ)地(ち)に伏(ふし)て、泣(なき)かなしめ共(ども)かひぞなき。心(こころ)の行(ゆく)程(ほど)泣(なき)あきて、「やがて後世(ごせ)の御供(おんとも)仕(つかまつる)べう候(さうら)へ共(ども)、此(この)世(よ)には姫御前(ひめごぜん)ばかりこそ御渡(おんわたり)候(さうら)へ、後世(ごせ)訪(とぶら)ひまいらす(まゐらす)べき人(ひと)も候(さうら)はず。
しばしながらへて後世(ごせ)とぶらひまいらせ(まゐらせ)候(さうら)はん」とて、ふしどをあらためず、庵(いほり)をきりかけ、松(まつ)のかれ枝(えだ)、蘆(あし)のかれはを取(とり)おほひ、藻(も)しほのけぶりとなし奉(たてまつ)り、荼[田+比]事(だびごと)をへにければ、白骨(はくこつ)をひろひ、頸(くび)にかけ、又(また)商人船(あきんどぶね)のたよりに九国(くこく)の地(ち)へぞ着(つき)にける。僧都(そうづ)の御(おん)むすめのおはしける所(ところ)にまい(ッ・まゐつ)て、有(あり)し様(やう)、始(はじめ)よりこまごまと申(まうす)。「中々(なかなか)御文(おんふみ)を御覧(ごらん)じてこそ、いとど御(おん)思(おも)ひはまさらせ給(たまひ)て候(さうらひ)しか。
硯(すずり)も紙(かみ)も候(さうら)はねば、御返事(おんぺんじ)にも及(およ・をよ)ばず。おぼしめされ候(さうらひ)し御心(おんこころ)の内(うち)、さながらむなしうてやみ候(さうらひ)にき。今(いま)は生々世々(しやうじやうせせ)を送(おく・をく)り、他生曠劫(たしやうくわうごふ・たしやうくわうごう)をへだつ共(とも)、いかでか御声(おんこゑ)をもきき、御姿(おんすがた)をも見(み)まいら(まゐら)させ給(たま)ふべき」と申(まうし)ければ、ふしまろび、こゑも惜(をしま・おしま)ずなかれけり。やがて十二(じふに)の年(とし)尼(あま)になり、奈良(なら)の法華寺(ほつけじ)に勤(つとめ)すまして、父母(ぶも)の後世(ごせ)を訪(とぶら)ひ給(たま)ふぞ哀(あはれ)なる。有王(ありわう)は俊寛(しゆんくわん・しゆんくはん)僧都(そうづ)の遺骨(ゆいこつ)を頸(くび)にかけ、高野(かうや)へのぼり、奥院(おくのゐん)に納(をさ・おさ)めつつ、蓮花谷(れんげだに)にて法師(ほふし・ほうし)になり、諸国(しよこく)七道(しちだう)修行(しゆぎやう)して、しう(しゆう)の後世(ごせ)をぞとぶらひける。か様(やう)に人(ひと)の思歎(おもひなげ)きのつもりぬる平家(へいけ)の末(すゑ)こそおそろしけれ。 
飆 (つぢかぜ) 

 

同(おなじき)五月(ごぐわつ)十二日(じふににち)午剋(むまのこく)ばかり、京中(きやうぢゆう・きやうぢう)には辻風(つぢかぜ)おびたたしう吹(ふい)て、人屋(じんをく・じんおく)おほく顛到(てんだう)す。風(かぜ)は中御門(なかのみかど)京極(きやうごく)よりをこ(ッ・おこつ)て、末申(ひつじさる)の方(かた)へ吹(ふい)て行(ゆく)に、棟門(むねかど)平門(ひらかど)を吹(ふき)ぬきて、四五町(しごちやう)十町(じつちやう)吹(ふき)もてゆき、けた・なげし・柱(はしら)な(ン)ど(など)は虚空(こくう)に散在(さんざい)す。桧皮(ひはだ・ひわだ)ふき板(いた)の〔た〕ぐひ、冬(ふゆ)の木葉(このは)の風(かぜ)にみだるるが如(ごと)し。おびたたしうなりどよむ事(こと)、彼(かの)地獄(ぢごく)〔の〕業風(ごふふう・ごうふう)なり共(とも)、これには過(すぎ)じとぞみえし。ただ舎屋(しやをく)の破損(はそん)ずるのみならず、命(いのち)を失(うし)なふ人(ひと)も多(おほ)し。牛(うし)馬(むま)のたぐひ数(かず)を尽(つく)して打(うち)ころさる。是(これ)ただ事(こと)にあらず、御占(みうら・ミうら)あるべしとて、神祇官(じんぎくわん)にして御占(みうら)あり。
「いま百日(ひやくにち)のうちに、禄(ろく)ををもんずる(おもんずる)大臣(おとど)の慎(つつし)み、別(べつ)しては天下(てんが)の大事(だいじ)、並(ならび)に仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)王法(わうぼふ・わうばう)共(とも)に傾(かたぶき)て、兵革(へいがく)相続(さうぞく)すべし」とぞ、神祇官(じんぎくわん・じんぎくはん)陰陽寮(おんやうれう・をんやうりやう)共(とも)にうらなひ申(まうし)ける。 
医師問答 (いしもんだふ) 

 

小松(こまつ)のおとど、か様(やう)の事共(ことども)を聞(きき)給(たまひ)て、よろづ御心(おんこころ)ぼそうやおもはれけむ、其(その)比(ころ)熊野参詣(くまのさんけい)の事(こと)有(あり)けり。本官証誠殿(しようじやうでん・しやうじやうでん)の御(おん)まへにて、夜(よ)もすがら敬白(けいひやく)せられけるは、「親父(しんぶ)入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)の体(てい)をみるに、悪逆無道(あくぎやくぶたう)にして、ややもすれば君(きみ)をなやまし奉(たてまつ)る。
重盛(しげもり)長子(ちやうし)として、頻(しきり)に諫(いさめ)をいたすといへども、身(み)不肖(ふせう)の間(あひだ・あいだ)、かれも(ッ)て服膺(ふくよう)せず。そのふるまひをみるに、一期(いちご)の栄花(えいぐわ・ゑいぐわ)猶(なほ・なを)あやうし(あやふし)。枝葉(しえふ・しよう)連続(れんぞく)して、親(しん)を顕(あらは)し名(な)を揚(あ)げむ事(こと)かたし。
此(この)時(とき)に当(あたつ)て、重盛(しげもり)いやしうも思(おも)へり。なまじい(なまじひ)に列(れつ)して世(よ)に浮沈(ふちん)せむ事(こと)、敢(あへ)て良臣(りやうしん)孝子(かうし)の法(ほふ・ほう)にあらず。しかじ、名(な)を逃(のが)れ身(み)を退(しりぞき)て、今生(こんじやう)の名望(めいまう)を抛(なげうつ)て、来世(らいせ)の菩提(ぼだい)を求(もと)めむには。但(ただし)凡夫(ぼんぶ)薄地(はくぢ)、是非(ぜひ)にまどへるが故(ゆゑ・ゆへ)に、猶(なほ・なを)心(こころ)ざしを恣(ほしいまま・ほしゐまま)にせず。南無権現(なむごんげん)金剛童子(こんがうどうじ)、願(ねがは)くは子孫(しそん)繁栄(はんえい・はんゑい)たえずして、仕(つかへ)て朝廷(てうてい)にまじはるべくは、入道(にふだう・にうだう)の悪心(あくしん)を和(やはら)げて、天下(てんが)の安全(あんせん)を得(え)しめ給(たま)へ。栄耀(えいえう・ゑいよう)又(また)一期(いちご)を限(かぎ・ッ)て、後混(こうこん)の恥(はぢ)におよぶべく(ン)ば、重盛(しげもり)が運命(うんめい)をつづめて、来世(らいせ)の苦輪(くりん)を助(たす)け給(たま)へ。両ケ(りやうか)の求願(ぐぐわん・ぐぐはん)、ひとへに冥助(みやうじよ)を仰(あふ)ぐ」と肝胆(かんたん)を摧(くだい・くだひ)て祈念(きねん)せられけるに、燈籠(とうろう)の火(ひ)のやうなる物(もの)の、おとどの御身(おんみ)より出(いで)て、ば(ッ)と消(きゆ)るが如(ごと)くして失(うせ)にけり。
人(ひと)あまたみ奉(たてまつ)りけれ共(ども)、恐(おそ・をそ)れて是(これ)を申(まう)さず。又(また)下向(げかう)の時(とき)、岩田川(いはだがは)を渡(わた)られけるに、嫡子(ちやくし)権亮少将(ごんのすけぜうしやう)維盛(これもり)以下(いげ)の公達(きんだち)、浄衣(じやうえ・じやうゑ)のしたに薄色(うすいろ)のきぬを着(き)て、夏(なつ)の事(こと)なれば、なにとなう河(かは)の水(みづ)に戯(たはぶれ)給(たま)ふ程(ほど)に、浄衣(じやうえ・じやうゑ)のぬれ、きぬにうつ(ッ)たるが、偏(ひとへ)に色(いろ)のごとくにみえければ、筑後守(ちくごのかみ)貞能(さだよし)これを見(み)とがめて、「何(なに)と候(さうらふ)やらむ、あの御浄衣(おんじやうえ・おんじやうゑ)のよにいまはしきやうに見(み)えさせおはしまし候(さうらふ)。めしかへらるべうや候(さうらふ)らん」と申(まうし)ければ、おとど、「わが所願(しよぐわん)既(すで)に成就(じやうじゆ)しにけり。
其(その)浄衣(じやうえ・じやうゑ)敢(あへ)てあらたむべからず」とて、別(べつ)して岩田川(いはだがは)より、熊野(くまの)へ悦(よろこび)の奉幣(ほうへい)をぞ立(たて)られける。人(ひと)あやしと思(おも)ひけれ共(ども)、其(その)心(こころ)をえず。
しかるに此(この)公達(きんだち)、程(ほど)なくまことの色(いろ)をき給(たまひ)けるこそふしぎなれ。下向(げかう)の後(のち)、いくばくの日数(ひかず)を経(へ)ずして、病付(やまひつき)給(たま)ふ。権現(ごんげん)すでに御納受(ごなふじゆ・ごなうじゆ)あるにこそとて、療治(れうぢ・りやうぢ)もし給(たま)はず、祈祷(きたう)をもいたされず。其(その)比(ころ)宋朝(そうてう)よりすぐれたる名医(めいい)わた(ッ)て、本朝(ほんてう)にやすらふことあり。境節(をりふし・おりふし)入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)、福原(ふくはら)の別業(べつげふ・べつげう)におはしけるが、越中守(ゑつちゆうのかみ・ゑつちうのかみ)盛俊(もりとし)を使者(ししや)で、小松殿(こまつどの)へ仰(おほせ)られけるは、「所労(しよらう)弥(いよいよ)大事(だいじ)なる由(よし)其(その)聞(きこ)えあり。兼(かねては)又(また)宋朝(そうてう)より勝(すぐれ)たる名医(めいい)わたれり。
折節(をりふし・おりふし)悦(よろこび)とす。是(これ)をめし請(しやう)じて医療(いれう・いりやう)をくわへ(くはへ)しめ給(たま)へと、の給(たま)ひつかはされたりければ、小松殿(こまつどの)たすけおこされ、盛俊(もりとし)を御前(おんまへ)へめして、「まづ「医療(いれう・いりやう)の事(こと)、畏(かしこまつ)て承(うけたまはり)候(さうらひ)ぬ」と申(まうす)べし。但(ただし)汝(なんぢ)も承(うけたまは)れ。延喜御門(えんぎのみかど)はさばか(ン)の賢王(けんわう)にてましましけれ共(ども)、異国(いこく)の相人(さうにん)を都(みやこ)のうちへ入(いれ)させ給(たまひ)たりけるをば、末代(まつだい)までも賢王(けんわう)の御誤(おんあやまり)、本朝(ほんてう)の恥(はぢ)とこそみえけれ。
况(いはん)や重盛(しげもり)ほどの凡人(ぼんにん)が、異国(いこく)の医師(いし)を王城(わうじやう)へいれむ事(こと)、国(くに)の辱(はぢ)にあらずや。漢高祖(かんのかうそ)は三尺(さんじやく)の剣(けん)を提(ひつさげ)て天下(てんが)を治(をさめ・おさめ)しかども、淮南(わいなん)の黥布(げいふ)を討(うち)し時(とき)、流矢(ながれや)にあた(ッ)て疵(きず)を蒙(かうぶ)る。后(きさき)呂太后(りよたいこう)、良医(りやうい)をむかへて見(み)せしむるに、医(くすし)のいはく、「此(この)疵(きず)治(ぢ)しつべし。但(ただし)五十(ごじつ)斤(こん)の金(こがね)をあたへば治(ぢ)せん」といふ。高祖(かうそ)の給(たま)はく、「われまもりのつよか(ッ)し程(ほど)は、多(おほ)くのたたかひにあひて疵(きず)を蒙(かうぶ)りしか共(ども)、そのいたみなし。運(うん)すでに尽(つき)ぬ。命(めい)はすなはち天(てん)にあり。縦(たとひ)偏鵲(へんじやく)といふ共(とも)、なんのゑき(えき)かあらむ。しからば又(また)かねを惜(をし・おし)むににたり」とて、五十(ごじつ)こむ(こん)の金(こがね)を医師(いし)にあたへながら、つゐに(つひに)治(ぢ)せざりき。
先言(せんげん)耳(みみ)にあり、いまも(ッ)て甘心(かんじん)す。重盛(しげもり)いやしくも九卿(きうけい)に列(れつ)して三台(さんたい)にのぼる。其(その)運命(うんめい)をはかるに、も(ッ)て天心(てんしん)にあり。なんぞ天心(てんしん)を察(さつせ)ずして、をろか(おろか)に医療(いれう・いりやう)をいたはしうせむや。
所労(しよらう)もし定業(ぢやうごふ・ぢやうごう)たらば、れう治(ぢ)をくわう(くはふ)もゑき(えき)なからむか。又(また)非業(ひごふ・ひごう)たらば、療治(れうぢ・りやうぢ)をくわへ(くはへ)ずともたすかる事(こと)をうべし。彼(かの)耆婆(ぎば)が医術(いじゆつ)及(およ・をよ)ばずして、大覚世尊(だいかくせそん)、滅度(めつど)を抜提河(ばつだいが)の辺(ほとり)に唱(とな)ふ。是(これ)則(すなはち)、定業(ぢやうごふ・ぢやうごう)の病(やまひ)いやさざる事(こと)をしめさむが為(ため)也(なり)。定業(ぢやうごふ・ぢやうごう)猶(なほ・なを)医療(いれう・いりやう)にかかはるべう候(さうらは)ば、豈(あに)尺尊(しやくそん)入滅(にふめつ・にうめつ)あらむや。定業(ぢやうごふ・ぢやうごう)又(また)治(ぢ)するに堪(たへ)ざる旨(むね)あきらけし。治(ぢ)するは仏体(ぶつたい)也(なり)、療(れう・りやう)ずるは耆婆(ぎば)也(なり)。しかれば重盛(しげもり)が身(み)仏体(ぶつたい)にあらず、名医(めいい)又(また)耆婆(ぎば)に及(およぶ・をよぶ)べからず。たとひ四部(しぶ)の書(しよ)をかがみて、百療(はくれう・はくりやう)に長(ちやう)ずといふ共(とも)、いかでか有待(うだい)の穢身(えしん)を救療(くれう・くりやう)せん。たとひ五経(ごきやう)の説(せつ)を詳(つまびらか)にして、衆病(しゆびやう)をいやすと云(いふ)共(とも)、豈(あに)先世(ぜんぜ)の業病(ごふびやう・ごうびやう)を治(ぢ)せむや。もしかの医術(いじゆつ)によ(ッ)て存命(ぞんめい)せば、本朝(ほんてう)の医道(いだう)なきに似(に)たり。
医術(いじゆつ)効験(かうげん)なくむ(なくん)ば、面謁(めんゑつ)所詮(しよせん)なし。就中(なかんづく)本朝(ほんてう)鼎臣(ていしん)の外相(げさう)をも(ッ)て、異朝(いてう)富有(ふゆう)の来客(らいかく)にまみえむ事(こと)、且(かつ・かつ(ウ))は国(くに)の恥(はぢ)、且(かつ・かつ(ウ))は道(みち)の陵遅(れうち)なり。たとひ重盛(しげもり)命(いのち)は亡(ばう)ずといふ共(とも)、いかでか国(くに)の恥(はぢ)をおもふ心(こころ)の存(ぞん)ぜざらむ。此(この)由(よし)を申(まう)せ」とこその給(たま)ひけれ。盛俊(もりとし)福原(ふくはら)に帰(かへ)りまい(ッ・まゐつ)て、此(この)由(よし)を泣々(なくなく)申(まうし)ければ、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)「是(これ)程(ほど)国(くに)の恥(はぢ)をおもふ大臣(だいじん)、上古(しやうこ)にもいまだきかず。〔ま〕して末代(まつだい)にあるべし共(とも)覚(おぼ)えず。日本(につぽん)に相応(さうおう)せぬ大臣(だいじん)なれば、いかさまにも今度(こんど)うせなんず」とて、なくなく急(いそ)ぎ都(みやこ)へ上(のぼ)られけり。
同(おなじき)七月(しちぐわつ)廿八日(にじふはちにち)、小松殿(こまつどの)出家(しゆつけ)し給(たまひ)ぬ。法名(ほふみやう・ほうみやう)は浄蓮(じやうれん)とこそつき給(たま)へ。やがて八月(はちぐわつ)一日(ひとひのひ)、臨終(りんじゆう・りんじう)正念(しやうねん)に住(ぢゆう・ぢう)して遂(つひ・つゐ)に失(うせ)給(たまひ)ぬ。御年(おんとし)四十三(しじふさん)、世(よ)はさかりとみえつるに、哀(あはれ)なりし事共(ことども)也(なり)。「入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)のさしもよこ紙(がみ)をやられつるも、この人(ひと)のなをし(なほし)なだめられつればこそ、世(よ)もおだしかりつれ。此(この)後(のち)天下(てんが)にいかなる事(こと)か出(いで)こむずらむ」とて、京中(きやうぢゆう・きやうぢう)の上下(じやうげ)歎(なげ)きあへり。
前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)のかた様(さま)の人(ひと)は、「世(よ)は只今(ただいま)大将殿(だいしやうどの)へまいり(まゐり)なんず」とぞ悦(よろこび)ける。人(ひと)の親(おや)の子(こ)をおもふならひはをろか(おろか)なるが、先立(さきだつ)だにもかなしきぞかし。いはむや是(これ)は当家(たうけ)の棟梁(とうりやう)、当世(たうせい)の賢人(けんじん)にておはしければ、恩愛(おんあい・をんあい)の別(わかれ)、家(いへ)の衰微(すいび)、悲(かなしみ)ても猶(なほ・なを)余(あまり)あり。されば世(よ)には良臣(りやうしん)をうしなへる事(こと)を歎(なげ)き、家(いへ)には武略(ぶりやく)のすたれぬることをかなしむ。凡(およそ・をよそ)はこのおとど文章(ぶんしやう)うるはしうして、心(こころ)に忠(ちゆう・ちう)を存(ぞん)じ、才芸(さいげい)すぐれて、詞(ことば)に徳(とく)を兼(かね)給(たま)へり。
無文 (むもん) 

 

天性(てんぜい)このおとどは不思議(ふしぎ)の人(ひと)にて、未来(みらい)の事(こと)をもかねてさとり給(たまひ)けるにや。去(さんぬる)四月(しぐわつ・し(ン)ぐわつ)七日(しちにち)の夢(ゆめ)に、み給(たまひ)けるこそふしぎなれ。たとへば、いづく共(とも)しらぬ浜路(はまぢ)を遥々(はるばる)とあゆみ行(ゆき)給(たま)ふ程(ほど)に、道(みち)の傍(かたはら)に大(おほき)なる鳥居(とりゐ)のありけるを、「あれはいかなる鳥居(とりゐ)やらむ」と、問給(とひたま)へば、「春日大明神(かすがだいみやうじん)の御鳥(おんとり)ゐ也(なり)」と申(まうす)。人(ひと)多(おほ)く群集(くんじゆ)したり。其(その)中(なか)に法師(ほふし・ほうし)の頸(くび)を一(ひとつ)さしあげたり。「さてあのくびはいかに」と問給(とひたま)へば、「是(これ)は平家(へいけ)太政入道殿(だいじやうのにふだうどの・だいじやうのにうだうどの)の御頸(おんくび)を、悪行(あくぎやう)超過(てうくわ)し給(たま)へるによ(ッ)て、当社(たうしや)大明神(だいみやうじん)のめしとらせ給(たまひ)て候(さうらふ)」と申(まうす)と覚(おぼ)えて、夢(ゆめ)うちさめ、当家(たうけ)は保元(ほうげん)平治(へいぢ)よりこのかた、度々(どど)の朝敵(てうてき)をたひらげて、勧賞(けんじやう)身(み)にあまり、かたじけなく一天(いつてん)の君(きみ)の御外戚(ごぐわいせき)として、一族(いちぞく)の昇進(しようじん・せうじん)六十(ろくじふ)余人(よにん)。
廿(にじふ)余年(よねん)のこのかたは、たのしみさかへ(さかえ)、申(まうす)はかりもなかりつるに、入道(にふだう・にうだう)の悪行(あくぎやう)超過(てうくわ)せるによ(ッ)て、一門(いちもん)の運命(うんめい)すでにつきんずるにこそと、こし方(かた)行(ゆく)すゑの事共(ことども)、おぼしめしつづけて、御涙(おんなみだ)にむせばせ給(たま)ふ。折節(をりふし・おりふし)妻戸(つまど)をほとほとと打(うち)たたく。「たそ。あれきけ」との給(たま)へば、「灘尾(せのをの・セノおの)太郎(たらう)兼康(かねやす)がまい(ッ・まゐつ)て候(さうらふ)」と申(まうす)。「いかに、何事(なにごと)ぞ」との給(たま)へば、「只(ただ)いま不思議(ふしぎ)の事(こと)候(さうらひ)て、夜(よ)の明(あけ)候(さうら)はんがをそう(おそう)覚(おぼえ)候(さうらふ)間(あひだ・あいだ)、申(まう)さむが為(ため)にまい(ッ・まゐつ)て候(さうらふ)。御(おん)まへの人(ひと)をのけられ候(さうら)へ」と申(まうし)ければ、おとど人(ひと)を遥(はるか)にのけて御対面(ごたいめん)あり。さて兼康(かねやす)見(み)たりける夢(ゆめ)のやうを、始(はじめ)より終(をはり・おはり)までくはしう語(かた)り申(まうし)けるが、おとどの御覧(ごらん)じたりける御夢(おんゆめ)にすこしもたがはず。さてこそ、瀬尾(せのをの・せのおの)太郎(たらう)兼康(かねやす)をば、「神(しん)にも通(つう)じたる物(もの)にてありけり」と、おとども感(かん)じ給(たま)ひけれ。
其(その)朝(あした)嫡子(ちやくし)権亮少将(ごんのすけぜうしやう)維盛(これもり)、院(ゐんの)御所(ごしよ)へまいら(まゐら)むとて出(いで)させ給(たまひ)たりけるを、おとどよび奉(たてまつり)て、「人(ひと)の親(おや)の身(み)としてか様(やう)の事(こと)を申(まう)せば、きはめておこがましけれ(をこがましけれ)共(ども)、御辺(ごへん)は人(ひと)の子共(こども)の中(なか)には勝(すぐれ)てみえ給(たま)ふ也(なり)。但(ただし)此(この)世(よ)の中(なか)の有様(ありさま)、いかがあらむずらむと、心(こころ)ぼそうこそ覚(おぼゆ)れ。貞能(さだよし)はないか。少将(せうしやう)に酒(さけ)すすめよ」との給(たま)へば、貞能(さだよし)御酌(おんしやく)にまいり(まゐり)たり。「この盃(さかづき)をば、先(まづ)少将(せうしやう)にこそとらせたけれども、親(おや)より先(さき)にはよものみ給(たま)はじなれば、重盛(しげもり)まづ取(とり)あげて、少将(せうしやう)にささむ」とて、三度(さんど)うけて、少将(せうしやう)にぞさされける。
少将(せうしやう)又(また)三度(さんど)うけ給(たま)ふ時(とき)、「いかに貞能(さだよし)、引出物(ひきでもの)せよ」との給(たま)へば、畏(かしこまり)て承(うけたまは)り、錦(にしき)の袋(ふくろ)にいれたる御太刀(おんたち)を取出(とりいだ)す。「あはれ、是(これ)は家(いへ)に伝(つた)はれる小烏(こがらす)といふ太刀(たち)やらむ」な(ン)ど(など)、よにうれしげに思(おも)ひて見(み)給(たま)ふ処(ところ)に、さはなくして、大臣葬(だいじんさう)の時(とき)もちゐる無文(むもん)の太刀(たち)にてぞ有(あり)ける。
其(その)時(とき)少将(せうしやう)けしきは(ッ)とかは(ッ)て、よにいまはしげに見(み)給(たまひ)ければ、おとど涙(なみだ)をはらはらとながいて、「いかに少将(せうしやう)、それは貞能(さだよし)がとがにもあらず。其(その)故(ゆゑ・ゆへ)は如何(いか)にといふに、此(この)太刀(たち)は大臣葬(だいじんさう)のときもちゐる無文(むもん)の太刀(たち)也(なり)。入道(にふだう・にうだう)いかにもおはせむ時(とき)、重盛(しげもり)がはいて供(とも)せむとて持(もち)たりつれ共(ども)、いまは重盛(しげもり)、入道殿(にふだうどの・にうだうどの)に先立(さきだち)奉(たてまつ)らむずれば、御辺(ごへん)に奉(たてまつ)るなり」とぞの給(たま)ひける。少将(せうしやう)是(これ)を聞(きき)給(たまひ)て、とかうの返事(へんじ)にも及(およ・をよ)ばず。涙(なみだ)にむせびうつぶして、其(その)日(ひ)は出仕(しゆつし)もし給(たま)はず、引(ひき)かづきてぞふし給(たま)ふ。其(その)後(のち)おとど熊野(くまの)へまいり(まゐり)、下向(げかう)して病(やまひ)つき、幾程(いくほど)もなく遂(つひ・つゐ)に失(うせ)給(たま)ひけるにこそ、げにもと思(おも)ひしられけれ。  
燈炉之沙汰 (とうろうのさた) 

 

すべて此(この)大臣(おとど)は、滅罪生善(めつざいしやうぜん)の御心(おんこころ)ざしふかうおはしければ、当来(たうらい)の浮沈(ふちん)をなげいて、東山(ひがしやま・ひ(ン)がしやま)の麓(ふもと)に、六八弘誓(ろくはつぐせい)の願(ぐわん)になぞらへて、四十八(しじふはつ)間(けん)の精舎(しやうじや)をたて、一間(いつけん)にひとつづつ、四十八(しじふはつ)間(けん)に四十八(しじふはち)の燈籠(とうろう)をかけられたりければ、九品(くほん)の台(うてな)、目(ま)の前(まへ)にかかやき、光耀(くわうえう)鸞鏡(らんけい)をみがいて、浄土(じやうど)の砌(みぎり)にのぞめるがごとし。毎月(まいげつ)十四五(じふしご)を点(てん)じて、当家(たうけ)他家(たけ)の人々(ひとびと)の御方(おんかた)より、みめようわかうさかむ(さかん)なる女房達(にようばうたち)を多(おほ)く請(しやう)じ集(あつ)め、一間(いつけん)に六人(ろくにん)づつ、四十八(じふはつ)間(けん)に二百八十八人(にひやくはちじふはちにん)、時衆(じしゆ)にさだめ、彼(かの)両日(りやうにち)が間(あひだ・あいだ)は一心(いつしん)称名(せうめうの)声(こゑ)絶(たえ)ず。
誠(まこと)に来迎(らいかう)引摂(いんぜふ・ゐんぜう)の願(ぐわん)もこの所(ところ)に影向(やうがう)をたれ、摂取不捨(せつしゆふしや)の光(ひかり)も此(この)大臣(おとど)を照(てら)し給(たま)ふらむとぞみえし。十五日(じふごにち)の日中(につちゆう・につちう)を結願(けちぐわん)として大念仏(だいねんぶつ)ありしに、大臣(おとど)みづから彼(かの)行道(ぎやうだう)の中(なか)にまじは(ッ)て、西方(さいはう)にむかひ、「南無安養教主弥陀善逝(なむあんやうけうしゆみだぜんぜい)、三界(さんがい)六道(ろくだう)の衆生(しゆじやう)を普(あまね)く済度(さいど)し給(たま)へ」と、廻向発願(ゑかうほつぐわん)せられければ、みる人(ひと)慈悲(じひ)をおこし、きく物(もの)感涙(かんるい)をもよほしけり。かかりしかば、此(この)大臣(おとど)をば燈籠大臣(とうろうのだいじん)とぞ人(ひと)申(まうし)ける。  
金渡 (かねわたし) 

 

又(また)おとど、「我(わが)朝(てう)にはいかなる大善根(だいぜんごん)をしをい(おい)たり共(とも)、子孫(しそん)あひついでとぶらはう事(こと)ありがたし。他国(たこく)にいかなる善根(ぜんごん)をもして、後世(のちのよ)を訪(とぶら)はればや」とて、安元(あんげん)の此(ころ)ほひ、鎮西(ちんぜい)より妙典(めうでん)といふ船頭(せんどう)をめしのぼせ、人(ひと)を遥(はるか)にのけて御対面(ごたいめん)あり。金(こがね)を三千(さんぜん)五百両(ごひやくりやう)めしよせて、「汝(なんぢ)は大正直(だいしやうぢき)の者(もの)であんなれば、五百両(ごひやくりやう)をば汝(なんぢ)にたぶ。三千両(さんぜんりやう)を宋朝(そうてう)へ渡(わた)し、育王山(いわうさん)へまいらせ(まゐらせ)て、千両(せんりやう)を僧(そう)にひき、二千両(にせんりやう)をば御門(みかど)へまいらせ(まゐらせ)、田代(たしろ)を育王山(いわうさん)へ申(まうし)よせて、我(わが)後世(ごせ)とぶらはせよ」とぞの給(たまひ)ける。
妙典(めうでん)是(これ)を給(たま)は(ッ)て、万里(ばんり)の煙浪(えんらう・ゑんらう)を凌(しの)ぎつつ、大宋国(たいそうこく)へぞ渡(わた)りける。育王山(いわうさん)の方丈(はうぢやう・はうじやう)仏照禅師(ぶつせうぜんじ)徳光(とくくわう)にあひ奉(たてまつ)り、此(この)由(よし)申(まうし)たりければ、随喜(ずいき)感嘆(かんたん)して、千両(せんりやう)を僧(そう)にひき、二千両(にせんりやう)をば御門(みかど)へまいらせ(まゐらせ)、おとどの申(まう)されける旨(むね)を具(つぶさ)に奏聞(そうもん)せられたりければ、御門(みかど)大(おほき)に感(かん)じおぼしめして、五百町(ごひやくちやう)の田代(たしろ)を育王山(いわうさん)へぞよせられける。されば日本(につぽん)の大臣(だいじん)平(たひらの)朝臣(あそん・あ(ツ)そん)重盛公(しげもりこう)の後生善処(ごしやうぜんしよ)と祈(いの)る事(こと)、いまに絶(たえ)ずとぞ承(うけたまは)る。  
法印問答 (ほふいんもんだふ) 

 

入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)、小松殿(こまつどの)にをくれ(おくれ)給(たまひ)て、よろづ心(こころ)ぼそうや思(おも)はれけむ、福原(ふくはら)へ馳下(はせくだ)り、閉門(へいもん)してこそおはしけれ。同(おなじき)十一月(じふいちぐわつ)七日(なぬか)の夜(よ)戌剋(いぬのこく)ばかり、大地(だいぢ)おびたたしう動(うごい・うごひ)てやや久(ひさ)し。陰陽頭(おんやうのかみ・をんやうのかみ)安倍泰親(あべのやすちか)、いそぎ内裏(だいり)へ馳(はせ)まい(ッ・まゐつ)て、「今度(こんど)の地震(ぢしん)、占文(せんもん)のさす所(ところ)、其(その)慎(つつし)みかろからず。当道(たうだう)三経(さんきやう)の中(なか)に、根器経(こんききやう)の説(せつ)を見(み)候(さうらふ)に、「年(とし)をえては年(とし)を出(いで)ず、月(つき)をえては月(つき)を出(いで)ず、日(ひ)をえては日(ひ)を出(いで)ず」とみえて候(さうらふ)。以外(もつてのほか・も(ツ)てのほか)に火急(くわきふ・くわきう)候(ざうらふ)」とて、はらはらとぞ泣(なき)ける。伝奏(てんそう)の人(ひと)も色(いろ)をうしなひ、君(きみ)も叡慮(えいりよ・ゑいりよ)をおどろかさせおはします。
わかき公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)は、「けしからぬ泰親(やすちか)が今(いま)の泣(なき)やうや。何事(なにごと)のあるべき」とて、わらひあはれけり。され共(ども)、此(この)泰親(やすちか)は晴明(せいめい)五代(ごだい)の苗裔(べうえい)をうけて、天文(てんもん)は淵源(ゑんげん)をきはめ、推条(すいでう)掌(たなごころ)をさすが如(ごと)し。一事(いちじ)もたがはざりければ、さすの神子(みこ)とぞ申(まうし)ける。
いかづちの落(おち)かかりたりしか共(ども)、雷火(らいくわ)の為(ため)に狩衣(かりぎぬ)の袖(そで)は焼(やけ)ながら、其(その)身(み)はつつがもなかりけり。上代(じやうだい)にも末代(まつだい)にも、有(あり)がたかりし泰親(やすちか)也(なり)。同(おなじき)十四日(じふしにち)、相国禅門(しやうこくぜんもん)、此(この)日(ひ)ごろ福原(ふくはら)におはしけるが、何(なに)とかおもひなられたりけむ、数千騎(すせんぎ)の軍兵(ぐんびやう)をたなびいて、都(みやこ)へ入(いり)給(たま)ふ由(よし)聞(きこ)えしかば、京中(きやうぢゆう・きやうぢう)何(なに)と聞(きき)わきたる事(こと)はなけれ共(ども)、上下(じやうげ)恐(おそ)れおののく(をののく)。
何(なに)ものの申出(まうしいだ)したりけるやらん、「入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)、朝家(てうか)を恨(うら)み奉(たてまつ)るべし」と披露(ひろう)をなす。関白殿(くわんばくどの)も内々(ないない)きこしめさるる旨(むね)や有(あり)けむ、急(いそ)ぎ御参内(ごさんだい)あ(ッ)て、「今度(こんど)相国禅門(しやうこくぜんもん)入洛(じゆらく)の事(こと)は、ひとへに基房(もとふさ)亡(ほろぼ)すべき結構(けつこう)にて候(さうらふ)也(なり)。いかなる目(め)に逢(あふ)べきにて候(さうらふ)やらむ」と奏(そう)せさせ給(たま)へば、主上(しゆしやう)大(おほき)におどろかせ給(たまひ)て、「そこにいかなる目(め)にもあはむは、ひとへにただわがあふにてこそあらむずらめ」とて、御涙(おんなみだ)をながさせ給(たま)ふぞ忝(かたじけな)き。誠(まこと)に天下(てんが)の御政(おんまつりごと)は、主上(しゆしやう)摂録(せつろく)の御(おん)ぱからひにてこそあるに、こはいかにしつる事共(ことども)ぞや。天照大神(てんせうだいじん)・春日(かすがの)大明神(だいみやうじん)の神慮(しんりよ)の程(ほど)も計(はかり)がたし。
同(おなじき)十五日(じふごにち)、入道(にふだう)相国(しやうこく)朝家(てうか)を恨(うら)み奉(たてまつ)るべき事(こと)必定(ひつぢやう)と聞(きこ)えしかば、法皇(ほふわう・ほうわう)大(おほき)におどろかせ給(たまひ)て、故少納言(こせうなごん)入道(にふだう・にうだう)信西(しんせい)の子息(しそく)、静憲法印(じやうけんほふいん・じやうけんほうゐん)を御使(おんつかひ)にて、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)のもとへつかはす。「近年(きんねん)、朝廷(てうてい)しづかならずして、人(ひと)の心(こころ)もととのほらず。世間(せけん)も落居(らつきよ)せぬさまに成行(なりゆく)事(こと)、惣別(そうべつ)につけて歎(なげ)きおぼしめせ共(ども)、さてそこにあれば、万事(ばんじ)はたのみおぼしめしてこそあるに、天下(てんが)をしづむるまでこそなからめ、嗷々(がうがう)なる体(てい)にて、あま(ッ)さへ朝家(てうか)を恨(うら)むべしな(ン)ど(など)きこしめすは、何事(なにごと)ぞ」と仰(おほせ)つかはさる。
静憲法印(じやうけんほふいん・じやうけんほうゐん)、御使(おんつかひ)に西八条(にしはつでう)の亭(てい)へむかふ。朝(あさ)より夕(ゆふべ)に及(およ・をよ)ぶまで待(また)れけれ共(ども)、無音(ぶいん・ぶゐん)也(なり)ければ、さればこそと無益(むやく)に覚(おぼ)えて、源(げん)大夫判官(たいふはんぐわん)季貞(すゑさだ)をも(ッ)て、勅定(ちよくぢやう)の趣(おもむ)きいひ入(いれ)させ、「いとま申(まうし)て」とて出(いで)られければ、其(その)時(とき)入道(にふだう・にうだう)「法印(ほふいん・ほうゐん)よべ」とて出(いで)られたり。
喚(よび)かへいて、「やや法印(ほふいん・ほうゐん)御房(ごばう・ご(ン)ばう)、浄海(じやうかい)が申(まうす)処(ところ)は僻事(ひがこと)か。まづ内府(だいふ)が身(み)まかり候(さうらひ)ぬる事(こと)、当家(たうけ)の運命(うんめい)をはかるにも、入道(にふだう・にうだう)随分(ずいぶん)悲涙(ひるい)をおさへてこそ罷過(まかりすぎ)候(さうら)へ。御辺(ごへん)の心(こころ)にも推察(すいさつ)し給(たま)へ。保元(ほうげん)以後(いご)は、乱逆(らんげき)打(うち)つづいて、君(きみ)やすい御心(おんこころ)もわたらせ給(たま)はざりしに、入道(にふだう・にうだう)はただ大方(おほかた)を取(とり)をこなふ(おこなふ)ばかりでこそ候(さうら)へ、内府(だいふ)こそ手(て)をおろし、身(み)を摧(くだい・くだひ)て、度々(どど)の逆鱗(げきりん)をばやすめまいらせ(まゐらせ)て候(さうら)へ。
其(その)外(ほか)臨時(りんじ)の御大事(おんだいじ)、朝夕(あさふゆ)の政務(せいむ)、内府(だいふ)程(ほど)の功臣(こうしん)有(あり)がたうこそ候(さうらふ)らめ。爰(ここ)をも(ッ)て古(いにしへ)をおもふに、唐(たう)の太宗(たいそう)は魏徴(ぎてう)にをくれ(おくれ)て、かなしみのあまりに、「昔(むかし)の殷宗(いんそう・ゐんそう)は夢(ゆめ)のうちに良弼(りやうひつ)をえ、今(いま)の朕(ちん)はさめ〔て〕の後(のち)賢臣(けんしん)を失(うしな)ふ」といふ碑(ひ)の文(もん)をみづから書(かき)て、廟(べう)に立(たて)てだにこそかなしみ給(たま)ひけるなれ。我(わが)朝(てう)にも、ま近(ぢか)く見(み)候(さうらひ)し事(こと)ぞかし。
顕頼民部卿(あきよりのみんぶきやう)が逝去(せいきよ)したりしをば、故院(こゐん)殊(こと)に御歎(おんなげき)あ(ッ)て、八幡行幸(やはたのぎやうがう)延引(えんいん)し、御遊(ぎよいう・ぎよゆう)なかりき。
惣(すべ)て臣下(しんか)の卒(そつ)するをば、代々(だいだい)〔の〕御門(みかど)みな御歎(おんなげき)ある事(こと)〔で〕こそ候(さうら)へ。さればこそ、親(おや)よりもなつかしう、子(こ)よりもむつまじきは、君(きみ)と臣(しん)との中(なか)とは申(まうす)事(こと)にて候(さうらふ)らめ。され共(ども)、内府(だいふ)が中陰(ちゆういん・ちうゐん)に八幡(やはた)の御幸(ごかう)あ(ッ)て御遊(ぎよいう・ぎよゆう)ありき。御歎(おんなげき)の色(いろ)、一事(いちじ)も是(これ)をみず。たとひ入道(にふだう・にうだう)がかなしみを御(おん)あはれみなく共(とも)、などか内府(だいふ)が忠(ちゆう・ちう)をおぼしめし忘(わす)れさせ給(たま)ふべき。たとひ内府(だいふ)が忠(ちゆう・ちう)をおぼしめし忘(わす)れさせ給(たま)ふ共(とも)、争(いかで)か入道(にふだう・にうだう)が歎(なげき)を御(おん)あはれみなからむ。
父子(ふし)共(とも)叡慮(えいりよ・ゑいりよ)に背(そむき)候(さうらひ)ぬる事(こと)、今(いま)にをいて(おいて)面目(めんぼく)を失(うしな)ふ、是(これ)一(ひとつ)。次(つぎ)に、越前国(ゑちぜんのくに)をば子々孫々(ししそんぞん)まで御変改(ごへんがい)あるまじき由(よし)、御約束(おんやくそく)あ(ッ)て給(たま)は(ッ)て候(さうらひ)しを、内府(だいふ)にをくれ(おくれ)て後(のち)、やがてめされ候(さうらふ)事(こと)は、なむ(なん)の過怠(くわたい)にて候(さうらふ)やらむ、是(これ)一(ひとつ)。次(つぎ)に、中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)闕(けつ)の候(さうらひ)し時(とき)、二位(にゐの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)の所望(しよまう)候(さうらひ)しを、入道(にふだう・にうだう)随分(ずいぶん)執(と)り申(まうし)しか共(ども)、遂(つひ・つゐ)に御承引(ごしよういん・ごせうゐん)なくして、関白(くわんばく)の息(そく)をなさるる事(こと)はいかに。
たとひ入道(にふだう・にうだう)非拠(ひきよ)を申(まうし)をこなふ(おこなふ)共(とも)、一度(いちど)はなどかきこしめし入(いれ)ざるべき。申(まうし)候(さうら)は〔ん〕や、家嫡(けちやく)といひ、位階(ゐかい)といひ、理運(りうん)左右(さう)に及(およ・をよ)ばぬ事(こと)を引(ひき)ちがへさせ給(たま)ふは、ほいなき御(おん)ぱからひとこそ存(ぞんじ)候(さうら)へ、是(これ)一(ひとつ)。次(つぎ)に、新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)以下(いげ)、鹿谷(ししのたに)によりあひて、謀反(むほん)の企(くはたて)候(さうらひ)し事(こと)、ま(ッ)たく私(わたくし)の計略(けいりやく)にあらず。併(しかしながら)君(きみ)御許容(ごきよよう)あるによ(ッ)て也(なり)。いまめかしき申事(まうしごと)にて候(さうら)へ共(ども)、七代(しちだい)までは此(この)一門(いちもん)をば、いかでか捨(すて)させ給(たま)ふべき。
それに入道(にふだう・にうだう)七旬(しつしゆん)に及(および・をよび)て、余命(よめい)いくばくならぬ一期(いちご)の内(うち)にだにも、ややもすれば、亡(ほろぼ)すべき由(よし)御(おん)ぱからひあり。申(まうし)候(さうら)はんや、子孫(しそん)あひついで朝家(てうか)にめしつかはれん事(こと)有(あり)がたし。凡(およそ・をよそ)老(おい)て子(こ)を失(うしなふ)は、枯木(こぼく)の枝(えだ)なきにことならず。今(いま)は程(ほど)なき浮世(うきよ)に、心(こころ)を費(つひや・つゐや)しても何(なに)かはせんなれば、いかでも有(あり)なんとこそ思(おも)ひな(ッ)て候(さうら)へ」とて、且(かつ・かつ(ウ))は腹立(ふくりふ・ふくりう)し、且(かつ・かつ(ウ))は落涙(らくるい)し給(たま)へば、法印(ほふいん・ほうゐん)おそろしうも又(また)哀(あはれ)にも覚(おぼ)えて、汗水(あせみづ)になり給(たまひ)ぬ。
此(この)時(とき)はいかなる人(ひと)も、一言(いちげん・いちゲン)の返事(へんじ)に及(および・をよび)がたき事(こと)ぞかし。其上(そのうへ)我(わが)身(み)も近習(きんじゆ)の仁(じん)也(なり)、鹿谷(ししのたに)によりあひたりし事(こと)は、まさしう見(み)きかれしかば、其(その)人数(にんじゆ)とて、只今(ただいま)もめしや籠(こめ)られんずらんと思(おも)ふに、竜(りよう・れう)の鬚(ひげ)をなで、虎(とら)の尾(を・お)をふむ心地(ここち)はせられけれ共(ども)、法印(ほふいん・ほうゐん)もさるおそろしい人(ひと)で、ち(ッ)ともさはが(さわが)ず。申(まう)されけるは、「誠(まこと)に度々(どど)の御奉公(ごほうこう)浅(あさ)からず。
一旦(いつたん)恨(うら)み申(まう)させまします旨(むね)、其(その)謂(いはれ)候(さうらふ)。但(ただし)、官位(くわんゐ)といひ俸禄(ほうろく)といひ、御身(おんみ)にと(ッ)ては悉(ことごと)く満足(まんぞく)す。しかれば功(こう)の莫大(ばくだい)なるを、君(きみ)御感(ぎよかん)あるでこそ候(さうら)へ。しかるを近臣(きんしん)事(こと)をみだり、君(きみ)御許容(ごきよよう)ありといふ事(こと)は、謀臣(ぼうしん)の凶害(けうがい)にてぞ候(さうらふ)らん。耳(みみ)を信(しん)じて目(め)を疑(うたが)ふは、俗(しよく)の常(つね)のへい也(なり)。少人(せうじん)の浮言(ふげん)を重(おも)うして、朝恩(てうおん・てうをん)の他(た)にことなるに、君(きみ)を背(そむ)きまいら(まゐら)させ給(たま)はん事(こと)、冥顕(みやうけん)につけて其(その)恐(おそれ)すくなからず候(さうらふ)。凡(およそ・をよそ)は天心(てんしん)は蒼々(さうさう)としてはかりがたし。
叡慮(えいりよ・ゑいりよ)さだめて其(その)儀(ぎ)でぞ候(さうらふ)らん。下(しも)として上(かみ)にさかふる事(こと)、豈(あに)人臣(じんしん)の礼(れい)たらんや。能々(よくよく)御思惟(ごしゆい)候(さうらふ)べし。詮(せん)ずるところ、此(この)趣(おもむき)をこそ披露(ひろう)仕(つかまつり)候(さうら)はめ」とて出(いで)られければ、いくらもなみ居(ゐ)たる人々(ひとびと)、「あなおそろし。入道(にふだう・にうだう)のあれ程(ほど)いかり給(たま)へるに、ち(ッ)とも恐(おそ)れず、返事(へんじ)うちしてたたるる事(こと)よ」とて、法印(ほふいん・ほうゐん)をほめぬ人(ひと)こそなかりけれ。 
大臣流罪 (だいじんるざい) 

 

法印(ほふいん・ほうゐん)御所(ごしよ)へまい(ッ・まゐつ)て、此(この)由(よし)奏聞(そうもん)しければ、法皇(ほふわう・ほうわう)も道理至極(だうりしごく)して、仰下(おほせくだ)さるる方(かた)もなし。同(おなじき)十六日(じふろくにち)、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)此(この)日比(ひごろ)思立(おもひたち)給(たま)へる事(こと)なれば、関白殿(くわんばくどの)を始(はじ)め奉(たてまつり)て、太政大臣(だいじやうだいじん)已下(いげ)の公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、四十三人(しじふさんにん)が官職(くわんしよく)をとどめて、追籠(おつこめ・をつこめ)らる。関白殿(くわんばくどの)をば大宰帥(ださいのそつ)にうつして、鎮西(ちんぜい)へながし奉(たてまつ)る。
「かからむ世(よ)には、とてもかくてもありなん」とて、鳥羽(とば)の辺(へん)ふる川(かは)といふ所(ところ)にて御出家(ごしゆつけ)あり。御年(おんとし)卅五(さんじふご)。「礼儀(れいぎ)よくしろしめし、くもりなき鏡(かがみ)にてわたらせ給(たまひ)つる物(もの)を」とて、世(よ)の惜(をし・おし)み奉(たてまつ)る事(こと)なのめならず。遠流(をんる)の人(ひと)の道(みち)にて出家(しゆつけ)しつるをば、約束(やくそく)の国(くに)へはつかはさぬ事(こと)である間(あひだ・あいだ)、始(はじめ)は日向国(ひうがのくに)へと定(さだめ)られたりしか共(ども)、御出家(ごしゆつけ)の間(あひだ・あいだ)、備前(びぜんの)国府(こふ)の辺(へん)、井(ゐ)ばさまといふ所(ところ)に留(とど)め奉(たてまつ)る。大臣(だいじん)流罪(るざい)の例(れい)は、左大臣(さだいじん)曾我(そが)のあかえ、右大臣(うだいじん)豊成(とよなり)、左〔大〕臣(さだいじん)魚名(うをな・うほな)、右大臣(うだいじん)菅原(すがはら)、左大臣(さだいじん)高明公(かうめいこう)、内大臣(ないだいじん)藤原伊周公(ふぢはらのいしうこう)に至(いた)るまで、既(すで)に六人(ろくにん)。され共(ども)摂政(せつしやう)関白(くわんばく)流罪(るざい)の例(れい)は是(これ)始(はじ)めとぞ承(うけたまは)る。
故中殿御子(こなかどののおんこ)二位(にゐの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)基通(もとみち)は、入道(にふだう・にうだう)の聟(むこ)にておはしければ、大臣(だいじん)関白(くわんばく)になし奉(たてまつ)る。去(さんぬる)円融院(ゑんゆうのゐん)の御宇(ぎよう)、天禄(てんろく)三年(さんねん)十一月(じふいちぐわつ)一日(ひとひのひ)、一条摂政(いちでうのせつしやう)謙徳公(けんとくこう)うせ給(たまひ)しかば、御弟(おんおとと)堀川(ほりかはの)関白(くわんばく)仲義公(ちゆうぎこう・ちうぎこう)、其(その)時(とき)は未(いまだ)従(じゆ)二位(にゐ)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)にてましましけり。其(その)御弟(おんおとと)ほご院(ゐん)の大入道殿(おほにふだうどの・おほにうだうどの)、其(その)比(ころ)は大納言(だいなごん)の右大将(うだいしやう)にておはしける間(あひだ・あいだ)、仲義公(ちゆうぎこう・ちうぎこう)は御弟(おんおとと)に越(こえ)られ給(たま)ひしか共(ども)、今(いま)又(また)越(こへ)かへし奉(たてまつ)り、内大臣(ないだいじん)正〔二〕位(じやうにゐ)にあが(ッ)て、内覧(らん)〔の〕宣旨(せんじ)蒙(かうぶら)せ給(たま)ひたりしをこそ、人(ひと)耳目(じぼく)をおどろかしたる御昇進(ごしようじん・ごせうじん)とは申(まうし)しに、是(これ)はそれには猶(なほ・なを)超過(てうくわ)せり。
非参儀(ひさんぎ)二位(にゐの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)より大中納言(だいちゆうなごん・だいちうなごん)を経(へ)ずして、大臣(だいじん)関白(くわんばく)になり給(たま)ふ事(こと)、いまだ承(うけたまは)り及(およ・をよ)ばず。普賢寺殿(ふげんじどの)の御事(おんこと)也(なり)。上卿(しやうけい)の宰相(さいしやう)・大外記(だいげき)・大夫史(だいぶのし)にいたるまで、みなあきれたるさまにぞみえたりける。
太政大臣(だいじやうだいじん)師長(もろなが)は、つかさをとどめて、あづまの方(かた)へながされ給(たま)ふ。去(さんぬる)保元(ほうげん)に父(ちち)悪左(あくさの)おほい殿(どの)の縁座(えんざ)によ(ッ)て、兄弟(けいてい)四人(しにん)流罪(るざい)せられ給(たまひ)しが、御兄(おんあに)右大将(うだいしやう)兼長(かねなが)、御弟(おんおとと)左(さ)の中将(ちゆうじやう・ちうじやう)隆長(たかなが)、範長禅師(はんちやうぜんじ)三人(さんにん)は帰路(きらく)を待(また)ず、配所(はいしよ)にてうせ給(たまひ)ぬ。是(これ)は土佐(とさ)の畑(はた)にて九(ここの)かへりの春秋(はるあき)を送(おく・をく)りむかへ、長寛(ちやうぐわん)二年(にねん)八月(はちぐわつ)にめしかへされて、本位(ほんゐ)に復(ぶく)し、次(つぎ)の年(とし)正二位(じやうにゐ)して、仁安(にんあん)元年(ぐわんねん)十月(じふぐわつ)に前(さきの)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)より権大納言(ごんだいなごん)にあがり給(たま)ふ。
折節(をりふし・おりふし)大納言(だいなごん)あかざりければ、員(かず)の外(ほか)にてくわわら(くははら)れける。大納言(だいなごん)六人(ろくにん)になること是(これ)始(はじめ)也(なり)。又(また)前(さきの)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)より〔権(ごん)〕大納言(だいなごん)になる事(こと)も、後山階大臣(ごやましなのだいじん)躬守公(みもりこう)、宇治大納言(うぢのだいなごん)隆国卿(たかくにのきよう)の外(ほか)は未(いまだ)承(うけたまは)り及(およ・をよ)ばず。管絃(くわんげん)の道(みち)に達(たつ)し、才芸(さいげい)勝(すぐ)れてましましければ、次第(しだい)の昇進(しようじん・せうじん)とどこほらず、太政大臣(だいじやうだいじん)まできはめさせ給(たまひ)て、又(また)いかなる罪(つみ)の報(むくひ)にや、かさねてながされ給(たま)ふらん。保元(ほうげん)の昔(むかし)は南海(なんかい)土佐(とさ)へうつされ、治承(ぢしよう・ぢせう)の今(いま)は東関(とうくわん)尾張国(をはりのくに・おはりのくに)とかや。
もとよりつみなくして配所(はいしよ)の月(つき)をみむといふ事(こと)は、心(こころ)あるきはの人(ひと)の願(ねが)ふ事(こと)なれば、おとどあへて事(こと)共(とも)し給(たま)はず。彼(かの)唐太子賓客(たうのたいしのひんかく)白楽天(はくらくてん)、潯陽江(しんやうのえ)の辺(ほとり)にやすらひ給(たまひ)けむ其(その)古(いにしへ)を思遣(おもひや)り、鳴海潟(なるみがた)、塩路(しほぢ)遥(はるか)に遠見(ゑんけん)して、常(つね)は朗月(らうげつ)を望(のぞ)み、浦風(うらかぜ)に嘯(うそぶ)き、琵琶(びは・びわ)を弾(だん)じ、和歌(わか)を詠(ゑい)じて、なをさり(なほさり)がてらに月日(つきひ)を送(おくら・をくら)せ給(たま)ひけり。ある時(とき)、当国(たうごく)第三(だいさん)の宮(みや)熱田明神(あつたのみやうじん)に参詣(さんけい)あり。その夜(よ)神明(しんめい)法楽(ほふらく・ほうらく)のために、琵琶(びわ)引(ひき)、朗詠(らうえい・らうゑい)し給(たま)ふに、所(ところ)もとより無智(むち)の境(さかい)なれば、情(なさけ)をしれるものなし。
邑老(ゆうらう)・村女(そんぢよ)・漁人(ぎよじん)・野叟(やそう)、首(かうべ)をうなだれ、耳(みみ)を峙(そばだつ)といへ共(ども)、更(さら)に清濁(せいだく)をわかち、呂律(りよりつ)をしる事(こと)なし。され共(ども)、胡巴(こは)琴(きん)を弾(だん)ぜしかば、魚鱗(ぎよりん)躍(をど)りほどばしる。虞公(ぐこう)歌(うた)を発(はつ)せしかば、梁麈(りやうちん)うごきうごく。物(もの)の妙(めう)を究(きはむ)る時(とき)には、自然(しぜん)に感(かん)を催(もよほ)す物(もの)なれば、諸人(しよにん)身(み)の毛(け)よだ(ッ)て、満座(まんざ)奇異(きい)の思(おもひ)をなす。やうやう深更(しんかう)に及(およん・をよん)で、ふがうでうの内(うち)には、花(はな)芬馥(ふんぷく)の気(き)を含(ふく)み、流泉(りうせん)の曲(きよく)の間(あひだ・あいだ)には、月(つき)清明(せいめい)の光(ひかり)をあらそふ。
「願(ねがは)くは今生(こんじやう)世俗文字(せぞくもんじ)の業(ごふ・ごう)、狂言綺語(きやうげんきぎよの)誤(あやまり)をも(ッ)て」といふ朗詠(らうえい・らうゑい)をして、秘曲(ひきよく)を引(ひき)給(たま)へば、神明(しんめい)感応(かんおう)に堪(た)へずして、宝殿(ほうでん)大(おほき)に震動(しんどう)す。「平家(へいけ)の悪行(あくぎやう)なかりせば、今(いま)此(この)瑞相(ずいさう)をいかでか拝(をが・おが)むべき」とて、おとど感涙(かんるい)をぞながされける。按察大納言(あぜちのだいなごん)資方卿(すけかたのきやう)、子息(しそく)右近衛少将(うこんゑのせうしやう)兼(けん)讃岐守(さぬきのかみ)源資時(みなもとのすけとき)、両(ふた)つの官(くわん)を留(とど)めらる。参議(さんぎ)皇太后宮(くわうだいこうくうの・くはうだいこうくうの)大夫(だいぶ)兼(けん)右兵衛督(うひやうゑのかみ)藤原光能(ふぢはらのみつよし)、大蔵卿(おほくらのきやう)右京大夫(うきやうのだいぶ)兼(けん)伊予守(いよのかみ)高階康経(たかしなのやすつね)、蔵人左少弁(くらんどのさせうべん)兼(けん)中宮(ちゆうぐうの・ちうぐうの)権大進(ごんのだいしん)藤原基親(ふぢはらのもとちか)、三官(さんくわん)共(とも)に〔留(とどめ)らる〕。
「按察大納言(あぜちのだいなごん)資方卿(すけかたのきやう)、子息(しそく)右近衛少将(うこんゑのせうしやう)、雅方(まさかた)、是(これ)三人(さんにん)をばやがて都(みやこ)の内(うち)を追出(おひいだ・おいいだ)さるべし」とて、上卿(しやうけい)藤(とう)大納言(だいなごん)実国(さねくに)、博士判官(はかせのはんぐわん)中原範貞(なかはらののりさだ)に仰(おほせ)て、やがて其(その)日(ひ)都(みやこ)のうちを追出(おひいだ)さる。大納言(だいなごん)の給(たまひ)けるは、「三界(さんがい)広(ひろ)しといへ共(ども)、五尺(ごしやく)の身(み)をき(おき)所(どころ)なし。一生(いつしやう)程(ほど)なしといへ共(ども)、一日(いちにち)暮(くら)しがたし」とて、夜中(やちゆう・やちう)に九重(ここのへ・ここのえ)の内(うち)をまぎれ出(いで)て、八重(やへ・やえ)たつ雲(くも)の外(ほか)へぞおもむかれける。彼(かの)大江山(おほえやま)や、いく野(の)の道(みち)にかかりつつ、丹波国(たんばのくに)村雲(むらくも)と云(いふ)所(ところ)にぞ、しばしはやすらひ給(たまひ)ける。其(それ)より遂(つひ・つゐ)には尋出(たづねいだ)されて、信濃国(しなののくに)とぞ聞(きこ)えし。 
行隆之沙汰 (ゆきたかのさた) 

 

前(さきの)関白(くわんばく)松殿(まつどの)の侍(さぶらひ)に江(がう・ごう)大夫(たいふの・だいふの)判官(はんぐわん)遠成(とほなり・とをなり)といふものあり。是(これ)も平家(へいけ)心(こころ)よからざりければ、既(すで)に六波羅(ろくはら)より押寄(おしよせ・をしよせ)て搦取(からめと)らるべしと聞(きこ)えし間(あひだ・あいだ)、子息(しそく)江(がう・ごう)左衛門尉(さゑもんのじよう・さゑもんのぜう)家成(いへなり)打具(うちぐ)して、いづち共(とも)なく落行(おちゆき)けるが、稲荷山(いなりやま)にうちあがり、馬(むま)より下(おり)て、親子(おやこ)いひ合(あは)せけるは、「東国(とうごく)の方(かた)へ落(おち)くだり、伊豆国(いづのくに)の流罪人(るざいにん)、前兵衛佐(さきのひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)をたのまばやとは思(おも)へ共(ども)、それも当時(たうじ)は勅勘(ちよくかん)の人(ひと)で、身(み)ひとつだにもかなひがたうおはす也(なり)。日本国(につぽんごく)に、平家(へいけ)の庄園(しやうゑん)ならぬ所(ところ)やある。とてものがれざらむ物(もの)ゆへ(ゆゑ)に、年来(ねんらい)住(すみ)なれたる所(ところ)を人(ひと)にみせむも恥(はぢ)がましかるべし。ただ是(これ)よりかへ(ッ)て、六波羅(ろくはら)よりめし使(つかひ)あらば、腹(はら)かき切(きり)て死(し)なんにはしかじ」とて、川原坂(かはらざか)の宿所(しゆくしよ)へとて取(と・ッ)て返(かへ)す。
あんのごとく、六波羅(ろくはら)より源(げん)大夫(だいふの・だゆうの)判官(はんぐわん)季定(すゑさだ)、摂津判官(つのはんぐわん)盛澄(もりずみ)、ひた甲(かぶと)三百余騎(さんびやくよき)、河原坂(かはらざか)の宿所(しゆくしよ)へ押寄(おしよせ・をしよせ)て、時(とき)をど(ッ)とぞつくりける。江(がう・ごう)大夫(たいふの)判官(はんぐわん)えんに立出(たちいで)て、「是(これ)御覧(ごらん)ぜよ、をのをの(おのおの)。六波羅(ろくはら)ではこの様(やう)申(まう)させ給(たま)へ」とて、館(たち)に火(ひ)かけ、父子(ふし)共(とも)に腹(はら)かききり、ほのほの中(なか)にて焼死(やけしに)ぬ。抑(そもそも)か様(やう)に上下(じやうげ)多(おほ)く亡損(ほろびそん)ずる事(こと)をいかにといふに、当時(そのかみ)関白(くわんばく)にならせ給(たま)へる二位(にゐの)中将殿(ちゆうじやうどの・ちうじやうどの)と、前(さき)の殿(との)の御子(おんこ)三位(さんみの)中将殿(ちゆうじやうどの・ちうじやうどの)と、中納言(ちゆうなごん)御相論(ごさうろん)の故(ゆゑ・ゆへ)と申(まう)す。さらば関白殿(くわんばくどの)御一所(ごいつしよ)こそ、いかなる御目(おんめ)にもあはせ給(たま)はめ、四十(しじふ)余人(よにん)まで、人々(ひとびと)の事(こと)にあふべしやは。去年(こぞ)讃岐院(さぬきのゐん)の御追号(ごついがう)、宇治(うぢ)の悪左府(あくさふ)の贈官(ぞうくわん)有(あり)しか共(ども)、世間(せけん)はなを(なほ)しづかならず。凡(およそ・をよそ)是(これ)にも限(かぎ)るまじかむ(ん)なり。
「入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)の心(こころ)に天魔(てんま)入(いり)かは(ッ)て、腹(はら)をすへ(すゑ)かね給(たま)へり」と聞(きこ)えしかば、「又(また)天下(てんが)いかなる事(こと)か出(いで)こむずらむ」とて、京中(きやうぢゆう・きやうぢう)上下(じやうげ)おそれおののく(をののく)。其(その)比(ころ)前左少弁(さきのさせうべん)行高(ゆきたか)と聞(きこ)えしは、故中山(こなかやまの)中納言(ちゆうなごん)顕時卿(あきときのきやう)の長男(ちやうなん)也(なり)。二条院(にでうのゐん)の御世(おんよ)には、弁官(べんくわん)にくはは(ッ)てゆゆしかりしか共(ども)、此(この)十余年(じふよねん)は官(くわん)を留(とど)められて、夏冬(なつふゆ)の衣(ころも)がへにも及(およ・をよ)ばず、朝暮(てうぼ)の(さん)も心(こころ)にまかせず。
有(ある)かなきかの体(てい)にておはしけるを、太政入道(だいじやうにふだう・だいじやうにうだう)「申(まうす・もうす)べき事(こと)あり。き(ッ)と立(たち)より給(たま)へ」との給(たまひ)つかはしたりければ、行高(ゆきたか)「此(この)十余年(じふよねん)は何事(なにごと)にもまじはらざりつる物(もの)を。人(ひと)の讒言(ざんげん)したる旨(むね)あるにこそ」とて、大(おほき)におそれさはが(さわが)れけり。北方(きたのかた)公達(きんだち)も「いかなる目(め)にかあはんずらむ」と泣(なき)かなしみ給(たま)ふに、西八条(にしはつでう)より使(つかひ)しきなみに有(あり)ければ、力(ちから)及(およ・をよ)ばで、人(ひと)に車(くるま)か(ッ)て西八条(にしはつでう)へ出(いで)られたり。思(おも)ふにはにず、入道(にふだう・にうだう)やがて出(いで)むかふ(むかう)て対面(たいめん)あり。「御辺(ごへん)の父(ちち)の卿(きやう)は、大小事(だいせうじ)申(まうし)あはせし人(ひと)なれば、をろか(おろか)に思(おも)ひ奉(たてまつ)らず。年来(としごろ)籠居(ろうきよ)の事(こと)も、いとをしう(いとほしう)おもひたてま(ッ)しか共(ども)、法皇(ほふわう・ほうわう)御政務(ごせいむ)のうへは力(ちから)及(およ・をよ)ばず。今(いま)は出仕(しゆつし)し給(たま)へ。
官途(くわんど)の事(こと)も申(まうし)沙汰(さた)仕(つかまつ)るべし。さらばとう帰(かへ)られよ」とて、入(いり)給(たまひ)ぬ。帰(かへ)られたれば、宿所(しゆくしよ)には女房達(にようばうたち)、しんだる人(ひと)の生(いき)かへりたる心地(ここち)して、さしつどひてみな悦泣(よろこびなき)共(ども)せられけり。太政(だいじやう)入道(にふだう)、源(げん)大夫(だいふの・たいふの)判官(はんぐわん)季貞(すゑさだ)をも(ッ)て、知行(ちぎやう)し給(たまふ)べき庄園状共(しやうゑんじやうども)あまた遣(つか)はす。
まづさこそあるらめとて、百疋(ひやつぴき・ひやつひき)百両(ひやくりやう)に米(こめ)をつむ(つん)でぞ送(おくら・をくら)れける。出仕(しゆつし)の料(れう)にとて、雑色(ざふしき・ざうしき)・牛飼(うしかひ)・牛(うし)・車(くるま)まで沙汰(さた)しつかはさる。行高(ゆきたか)手(て)の舞(まひ)足(あし)の踏(ふむ)ところも覚(おぼ)えず。「是(これ)はされば夢(ゆめ)かや、夢(ゆめ)か」とぞ驚(おどろ・をどろ)かれける。同(おなじき)十七日(じふしちにち)、五位(ごゐ)の侍中(じちゆう・じちう)に補(ふ)せられて、左少弁(させうべん)になり帰(かへ)り給(たま)ふ。今年(ことし)五十一(ごじふいち)、今更(いまさら)わかやぎ給(たま)ひけり。ただ片時(へんし)の栄花(えいぐわ・ゑいぐわ)とぞみえし。 
法皇被流 (ほふわうながされ) 

 

同(おなじき)廿日(はつかのひ)、院(ゐんの)御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの・ほうぢうじどの)には、軍兵(ぐんびやう)四面(しめん)を打(うち)かこむ。「平治(へいぢ)に信頼(のぶより)が三条殿(さんでうどの)をしたりし様(やう)に、火(ひ)をかけて人(ひと)をばみな焼殺(やきころ)さるべし」と聞(きこ)えし間(あひだ・あいだ)、上下(じやうげ)の女房(にようばう)めのわらは、物(もの)をだにうちかすか(かづか)ず、あはて(あわて)騒(さわい・さはひ)で走(はし)りいづ。法皇(ほふわう・ほうわう)も大(おほき)におどろかせおはします。前(さきの)〔右〕大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)御車(おんくるま)をよせて、「とうとうめさるべう候(さうらふ)」と奏(そう)せられければ、法皇(ほふわう・ほうわう)「こはされば何事(なにごと・なにこと)ぞや。御(おん)かとあるべし共(とも)おぼしめさず。成親(なりちか)・俊寛(しゆんくわん)が様(やう)に、遠(とほ・とを)き国(くに)遥(はる)かの島(しま)へもうつしやら〔ん〕ずるにこそ。主上(しゆしやう)さて渡(わたら)せ給(たま)へば、政務(せいむ)に口入(こうじゆ)する計(ばかり)也(なり)。
それもさるべからずは、自今(じごん)以後(いご)さらでこそあらめ」と仰(おほせ)ければ、宗盛卿(むねもりのきやう)「其(その)儀(ぎ)では候(さうら)はず。世(よ)をしづめん程(ほど)、鳥羽殿(とばどの)へ御幸(ごかう)なしまいらせ(まゐらせ)んと、父(ちち)の入道(にふだう・にうだう)申(まうし)候(さうらふ)」。「さらば宗盛(むねもり)やがて御供(おんとも)にまいれ(まゐれ)」と仰(おほせ)けれ共(ども)、父(ちち)の禅門(ぜんもん)の気色(きしよく)に恐(おそ)れをなしてまいら(まゐら)れず。「あはれ、是(これ)につけても兄(あに)の内府(だいふ)には事(こと)の外(ほか)におとりたりける物(もの)哉(かな)。一年(ひととせ)もかかる御(おん)めにあふべかりしを、内府(だいふ)が身(み)にかへて制(せい)しとどめてこそ、今日(けふ)までも心安(こころやす)かりつれ。いさむる者(もの)もなしとて、かやうにするにこそ。行末(ゆくすゑ)とてもたのもからず」とて、御涙(おんなみだ)をながさせ給(たま)ふぞ忝(かたじけ)なき。さて御車(おんくるま)にめされけり。公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、一人(いちにん)も供奉(ぐぶ)せられず。
ただ北面(ほくめん)の下臈(げらう)、さては金行(こんぎやう・コンぎやう)といふ御力者(おんりきしや)ばかりぞまいり(まゐり)ける。御車(おんくるま)の尻(しり)には、あまぜ一人(いちにん)まいら(まゐら)れたり。この尼(あま)ぜと申(まう)せば、やがて法皇(ほふわう・ほうわう)の御乳(おんち)の人(ひと)、紀伊ノ二位(きのにゐ)の事(こと)也(なり)。七条(しつでう)を西(にし)へ、朱雀(しゆしやく)を南(みなみ・み(ン)なみ)へ御幸(ごかう)なる。あやしのしづのを賎女(しづのめ)にいたるまで、「あはや法皇(ほふわう・ほうわう)のながされさせましますぞや」とて、泪(なみだ)をながし、袖(そで)をしぼらぬはなかりけり。「去(さんぬる)七日(なぬか)の夜(よ)の大地震(だいぢしん)も、かかるべかりける先表(ぜんべう)にて、十六(じふろく)洛叉(らくしや)の底(そこ)までもこたへ、乾牢地神(けんらうぢじん)の驚(おどろ)きさはぎ(さわぎ)給(たま)ひけんも理(ことわり・ことはリ)かな」とぞ、人(ひと)申(まうし)ける。
さて鳥羽殿(とばどの)へ入(いら)させ給(たまひ)たるに、大膳大夫(だいぜんのだいぶ)信成(のぶなり)が、何(なに)としてまぎれまいり(まゐり)たりけるやらむ、御前(ごぜん)ちかう候(さうらひ)けるをめして、「いかさまにも今夜(こよひ)うしなはれなんずとおぼしめすぞ。御行水(おんぎやうずい)をめさばやとおぼしめすはいかがせんずる」と仰(おほせ)ければ、さらぬだに信成(のぶなり)、けさより肝(きも)たましい(たましひ)も身(み)にそはず、あきれたるさまにて有(あり)けるが、此(この)仰(おほせ)承(うけたまは)る忝(かたじけ)なさに、狩衣(かりぎぬ)に玉(たま)だすきあげ、小柴墻(こしばがき)壊(こぼち・こぼチ)、大床(おほゆか)のつか柱(ばしら)わりなどして、水(みづ)くみ入(いれ)、かたのごとく御湯(おんゆ・おゆ)しだいてまいらせ(まゐらせ)たり。
又(また)静憲法印(じやうけんほふいん・じやうけんほうゐん)、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)の西八条(にしはつでう)の亭(てい)にゆいて、「法皇(ほふわう・ほうわう)の鳥羽殿(とばどの)へ御幸(ごかう)な(ッ)て候(さうらふ)なるに、御前(ごぜん)に人(ひと)一人(いちにん)も候(さうら)はぬ由(よし)承(うけたまは)るが、余(あまり)にあさましう覚(おぼ)え候(さうらふ)。何(なに)かは苦(くる)しう候(さうらふ)べき。静憲(じやうけん)ばかりは御(おん)ゆるされ候(さうら)へかし。まいり(まゐり)候(さうら)はん」と申(まう)されければ、「とうとう。御房(ごばう)は事(こと)あやまつまじき人(ひと)なれば」とてゆるされけり。
法印(ほふいん・ほうゐん)鳥羽殿(とばどの)へまい(ッ・まゐつ)て、門前(もんぜん)にて車(くるま)よりおり、門(もん)の内(うち)へさし入(いり)給(たま)へば、折(をり・おり)しも法皇(ほふわう・ほうわう)、御経(おんきやう)をうちあげうちあげあそばされける。御声(おんこゑ)もことにすごう〔ぞ〕聞(きこ)えさせ給(たまひ)ける。法印(ほふいん・ほうゐん)のつ(ッ)とまいら(まゐら)れたれば、あそばされける御経(おんきやう)に御涙(おんなみだ)のはらはらとかからせ給(たま)ふを見(み)まいらせ(まゐらせ)て、法印(ほふいん・ほうゐん)あまりのかなしさに、旧苔(きうたい)の袖(そで)をかほにおしあてて、泣々(なくなく)御前(ごぜん)へぞまいら(まゐら)れける。御前(ごぜん)にはあまぜばかり候(さうら)はれけり。
「いかにや法印(ほふいん・ほうゐん)御房(ごばう・ご(ン)ばう)、君(きみ)は昨日(きのふ)のあした、法住寺(ほふぢゆうじ・ほうぢうじ)にて供御(ぐご)きこしめされて後(のち)は、よべも今朝(けさ)もきこしめしも入(いれ)ず。長(ながき)夜(よ)すがら御寝(ぎよしん)もならず。
御命(おんいのち)も既(すで)にあやうく(あやふく)こそ見(み)えさせおはしませ」との給(たま)へば、法印(ほふいん・ほうゐん)涙(なみだ)をおさへて申(まう)されけるは、「何事(なにごと)も限(かぎ)りある事(こと)で候(さうら)へば、平家(へいけ)たのしみさかへ(さかえ)て廿(にじふ)余年(よねん)、され共(ども)悪行(あくぎやう)法(ほふ・ほう)に過(すぎ)て、既(すで)に亡(ほろ)び候(さうらひ)なんず。天照大神(てんせうだいじん)・正八幡宮(しやうはちまんぐう)いかでか捨(すて)まいら(まゐら)させ給(たまふ)べき。中(なか)にも君(きみ)の御憑(おんたの)みある日吉山王(ひよしさんわう)七社(しちしや)、一乗(いちじよう・いちぜう)守護(しゆご)の御(おん)ちかひあらたまらずは、彼(かの)法華(ほつけ)八軸(はちぢく)に立(たち)かけてこそ、君(きみ)をばまもりまいら(まゐら)させ給(たま)ふらめ。しかれば政務(せいむ)は君(きみ)の御代(おんよ)となり、凶徒(けうど)は水(みづ)の泡(あは)ときえうせ候(さうらふ)べし」な(ン)ど(など)申(まう)されければ、此(この)詞(ことば)にすこしなぐさませおはします。
主上(しゆしやう)は関白(くわんばく)のながされ給(たま)ひ、臣下(しんか)の多(おほ)く亡(ほろび)ぬる事(こと)をこそ御歎(おんなげき)ありけるに、剰(あまつさへ・あま(ツ)さへ)法皇(ほふわう・ほうわう)鳥羽殿(とばどの)におし籠(こめ)られさせ給(たま)ふときこしめされて後(のち)は、つやつや供御(ぐご)もきこしめされず。
御悩(ごなう)とて常(つね)はよるのおとどにのみぞいらせ給(たまひ)ける。法皇(ほふわう・ほうわう)鳥羽殿(とばどの)に押籠(おしこめ・をしこめ)られさせ給(たまひ)て後(のち)は、内裏(だいり)には臨時(りんじ)の御神事(ごじんじ)とて、主上(しゆしやう)夜(よ)ごとに清凉殿(せいりやうでん)の石灰壇(いしばいのだん)にて、伊勢大神宮(いせのだいじんぐう)をぞ御拝(ごはい)ありける。是(これ)はただ一向(いつかう)法皇(ほふわう・ほうわう)の御祈(おんいのり)也(なり)。二条院(にでうのゐん)は賢王(けんわう)にて渡(わたら)せ給(たまひ)しか共(ども)、天子(てんし)に父母(ぶも)なしとて、常(つね)は法皇(ほふわう・ほうわう)の仰(おほせ)をも申(まうし)かへさせましましける故(ゆゑ・ゆへ)にや、継体(けいてい)の君(きみ)にてもましまさず。されば御譲(おんゆづり)をうけさせ給(たま)ひたりし六条院(ろくでうのゐん)も、安元(あんげん)二年(にねん)七月(しちぐわつ)十四日(じふしにち)、御年(おんとし)十三(じふさん)にて崩御(ほうぎよ)なりぬ。あさましかりし御事(おんこと)也(なり)。 
城南之離宮 (せいなんのりきゆう) 

 

「百行(はつかう・ハクカウ)の中には孝行(かうかう)をも(ッ)て先(さき)とす。明王(めいわう)は孝(かう)をも(ッ)て天下(てんが)を治(をさむ・おさむ)」といへり。
されば唐堯(たうげう)は老衰(おいおとろ)へたる父(ちち)をた(ッ)とび、虞舜(ぐしゆん)はかたくななる母(はは)をうやまふとみえたり。彼(かの)賢王(けんわう)聖主(せいしゆ)の先規(せんぎ)を追(お)はせましましけむ叡慮(えいりよ・ゑいりよ)の程(ほど)こそ日出(めでた)けれ。其(その)比(ころ)、内裏(だいり)よりひそかに鳥羽殿(とばどの)へ御書(ごしよ)あり。「かからむ世(よ)には、雲井(くもゐ)に跡(あと)をとどめても何(なに)かはし候(さうらふ)べき。寛平(くわんぺい)の昔(むかし)をもとぶらひ、花山(くわさん)の古(いにしへ)をも尋(たづね)て、家(いへ)を出(いで)、世(よ)をのがれ、山林流浪(さんりんるらう)の行者(ぎやうじや)共(とも)なりぬべうこそ候(さうら)へ」とあそばされたりければ、法皇(ほふわう・ほうわう)の御返事(おんぺんじ)には、「さなおぼしめされ候(さうらひ)そ。さて渡(わた)らせ給(たま)ふこそ、ひとつのたのみにても候(さうら)へ。
跡(あと)なくおぼしめしならせ給(たま)ひなん後(のち)は、なんのたのみか候(さうらふ)べき。ただ愚老(ぐらう)が共かうもならむやうをきこしめしはてさせ給(たま)ふべし」とあそばされたりければ、主上(しゆしやう)此(この)御返事(おんぺんじ)を竜顔(りようがん・れうがん)におしあてて、いとど御涙(おんなみだ)にしづませ給(たま)ふ。君(きみ)は舟(ふね)、臣(しん)は水(みづ)、水(みづ)よく船(ふね)をうかべ、水(みづ)又(また)船(ふね)をくつがへす。臣(しん)よく君(きみ)をたもち、臣(しん)又(また)君(きみ)を覆(くつがへ)す。保元(ほうげん)平治(へいぢ)の比(ころ)は、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)君(きみ)をたもち奉(たてまつ)るといへ共(ども)、安元(あんげん)治承(ぢしよう・ぢせう)のいまは又(また)君(きみ)をなみしたてまつる。史書(ししよ)の文(もん)にたがはず。
大宮大相国(おほみやのたいしやうこく)、三条(さんでうの)内大臣(ないだいじん)、葉室(はむろの)大納言(だいなごん)、中山(なかやまの)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)も失(うせ)られぬ。今(いま)はふるき人(ひと)とては成頼(なりより)・親範(ちかのり)ばかり也(なり)。この人々(ひとびと)も、「かからむ世(よ)には、朝(てう)につかへ身(み)をたて、大中納言(だいちゆうなごん・だいちうなごん)を経(へ)ても何(なに)かはせん」とて、いまださかむ(さかん)な(ッ)し人々(ひとびと)の、家(いへ)を出(いで)、よをのがれ、民部卿(みんぶきやう)入道(にふだう・にうだう)親範(ちかのり)は大原(おはら)の霜(しも)にともなひ、宰相(さいしやう)入道(にふだう・にうだう)成頼(なりより)は高野(かうや)の霧(きり)にまじはり、一向(いつかう)後世(ごせ)菩提(ぼだい)のいとなみの外(ほか)は他事(たじ)なしとぞ聞(きこ)えし。昔(むかし)も商山(しやうざん・せうざん)の雲(くも)にかくれ、潁川(えいせん・ゑいせん)の月(つき)に心(こころ)をすます人(ひと)もありければ、これ豈(あに)博覧清潔(はくらんせいけつ)にして世(よ)を遁(のがれ)たるにあらずや。
中(なか)にも高野(かうや)におはしける宰相(さいしやう)入道(にふだう・にうだう)成頼(なりより)、か様(やう)の事(こと)共(ども)を伝(つた)へきいて、「あはれ、心(こころ)どうも世(よ)をばのがれたる物(もの)かな。かくて聞(きく)も同(おなじ)事(こと)なれ共(ども)、まのあたり立(たち)まじは(ッ)て見(み)ましかば、いかにも心(こころ)うからむ。保元(ほうげん)平治(へいぢ・へいじ)のみだれをこそ浅(あさ)ましと思(おもひ)しに、世(よ)すゑになればかかる事(こと)もありけり。此(この)後(のち)猶(なほ・なを)いか斗(ばかり)の事(こと)か出(いで)こんずらむ。雲(くも)をわけてものぼり、山(やま)を隔(へだて)ても入(いり)なばや」とぞの給(たまひ)ける。げに心(こころ)あらむ程(ほど)の人(ひと)の、跡(あと)をとどむべき世(よ)共(とも)みえず。
同(おなじき)廿三日(にじふさんにち)、天台座主(てんだいざす)覚快(かくくわい)法親王(ほふしんわう・ほうしんわう)、頻(しきり)に御辞退(ごじたい)あるによ(ッ)て、前座主(さきのざす)明雲(めいうん)大僧正(そうじやう)還着(くわんぢやく・くわんちやく)せらる。
入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)はかくさむざむ(さんざん)にし散(ちら)されたれ共(ども)、御女(おんむすめ)中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)にてまします、関白殿(くわんばくどの)と申(まうす)も聟(むこ)也(なり)。よろづ心(こころ)やすうや思(おも)はれけむ、「政務(せいむ)はただ一向(いつかう)主上(しゆしやう)の御(おん)ぱからひたるべし」とて、福原(ふくはら)へ下(くだ)られけり。前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)、いそぎ参内(さんだい)して此(この)由(よし)奏聞(そうもん)せられければ、主上(しゆしやう)は「法皇(ほふわう・ほうわう)のゆづりましましたる世(よ)ならばこそ。ただとうとう執柄(しつぺい)にいひあはせて、宗盛(むねもり)ともかうもはからへ」とて、きこしめしも入(いれ)ざりけり。
法皇(ほふわう・ほうわう)は城南(せいなん)の離宮(りきゆう・りきう)にして、冬(ふゆ)もなかばすごさせ給(たま)へば、野山(やさん)の嵐(あらし)の音(おと・をと)のみはげしくて、寒庭(かんてい)の月(つき)のひかりぞさやけき。庭(には)には雪(ゆき)のみ降(ふり)つもれ共(ども)、跡(あと)ふみつくる人(ひと)もなく、池(いけ)にはつららとぢかさねて、むれゐし鳥(とり)もみえざりけり。おほ寺(でら)のかねの声(こゑ)、遺愛寺(いあいじ)のききを驚(おどろ)かし、西山(にしやま)の雪(ゆき)の色(いろ)、香炉峯(かうろほう)の望(のぞみ)をもよをす(もよほす)。よる霜(しも)に寒(さむ)き砧(きぬた)のひびき、かすかに御枕(おんまくら)につたひ、暁(あかつき)氷(こほり)をきしる車(くるま)のあと、遥(はるか)に門前(もんぜん)によこだはれり。巷(ちまた)を過(すぐ)る行人征馬(かうじんせいば)のいそがはしげなる気色(けしき)、浮世(うきよ)を渡(わた)る有様(ありさま)もおぼしめししられて哀(あはれ)也(なり)。
「宮門(きゆうもん・きうもん)をまもる蛮夷(ばんい)のよるひる警衛(けいゑい)をつとむるも、先(さき)の世(よ)のいかなる契(ちぎり)にて今(いま)縁(えん)をむすぶらむ」と仰(おほせ)の有(あり)けるぞ忝(かたじけ)なき。凡(およそ・をよそ)物(もの)にふれ事(こと)にしたが(ッ)て、御心(おんこころ)をいたましめずといふ事(こと)なし。
さるままにはかの折々(をりをり・おりおり)の御遊覧(ごいうらん・ごゆうらん)、ところどころの御参詣(ごさんけい)、御賀(おんが)のめでたかりし事共(ことども)、おぼしめしつづけて、懐旧(くわいきう)の御泪(なみだ)をさへ(おさへ)がたし。年(とし)さり年(とし)来(きたつ)て、治承(ぢしよう・ぢせう)も四年(しねん)に也(なり)にけり。 
 
平家物語 巻四

 

厳島御幸 (いつくしまごかう) 
治承(ぢしよう・ぢせう)四年(しねん)正月(しやうぐわつ)一日(ひとひのひ)、鳥羽殿(とばどの)には相国(しやうこく)もゆるさず、法皇(ほふわう・ほうわう)もおそれさせ在(まし)ましければ、元日(ぐわんにち)元三(ぐわんざん)の間(あひだ・あいだ)、参入(さんにふ・さんにう)する人(ひと)もなし。され共(ども)故少納言(こせうなごん)入道(にふだう・にうだう)信西(しんせい)の子息(しそく)、桜町(さくらまち)の中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)重教卿(しげのりのきやう)、其(その)弟(おとと)左京大夫(さきやうのだいぶ)長教(ながのり)ばかりぞゆるされてまいら(まゐら)れける。同(おなじき)正月(しやうぐわつ)廿日(はつかのひ)、東宮(とうぐう)御袴着(おんはかまぎ)ならびに御(おん)まなはじめとて、めでたき事共(ことども)ありしかども、法皇(ほふわう・ほうわう)は鳥羽殿(とばどの)にて御耳(おんみみ)のよそにぞきこしめす。二月(にぐわつ)廿一日(にじふいちにち)、主上(しゆしやう)ことなる御(おん)つつがもわたらせ給(たま)はぬを、をし(おし)おろしたてまつり、春宮(とうぐう)践祚(せんそ)あり。
これは入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)よろづおもふさまなるが致(いた)すところなり。時(とき)よくなりぬとてひしめきあへり。内侍所(ないしどころ)・神璽(しんじ)・宝剣(ほうけん)わたしたてまつる。上達部(かんだちめ)陣(ぢん)にあつま(ッ)て、ふるき事共(ことども)先例(せんれい)にまかせておこなひしに、弁内侍(べんのないし)御剣(ぎよけん)と(ッ)てあゆみいづ。清凉殿(せいりやうでん)の西(にし)おもてにて、泰道(やすみち)の中将(ちゆうじやう・ちうじやう)うけとる。備中(びつちゆう・びつちう)の内侍(ないし)しるしの御箱(みはこ)とりいづ。隆房(たかふさ)の少将(せうしやう)うけとる。内侍所(ないしどころ)しるしの御箱(みはこ)、こよひばかりや手(て)をもかけんとおもひあへりけん内侍(ないし)の心(こころ)のうち共(ども)、さこそはとおぼえてあはれおほかりけるなかに、しるしの御箱(みはこ)をば少納言(せうなごん)の内侍(ないし)とりいづべかりしを、こよひこれに手(て)をもかけては、ながくあたらしき内侍(ないし)にはなるまじきよし、人(ひと)の申(まうし)けるをきいて、其(その)期(ご)に辞(じ)し申(まうし)てとりいでざりけり。
年(とし)すでにたけたり、二(ふた)たびさかりを期(ご)すべきにもあらずとて、人々(ひとびと)にくみあへりしに、備中(びつちゆう・びつちう)の内侍(ないし)とて生年(しやうねん)十六歳(じふろくさい)、いまだいとけなき身(み)ながら、其(その)期(ご)にわざとのぞみ申(まうし)てとりいでける、やさしかりしためしなり。つたはれる御物共(おんものども)、しなじなつかさづかさうけと(ッ)て、新帝(しんてい)の皇居(くわうきよ)五条内裏(ごでうだいり)へわたしたてまつる。閑院殿(かんゐんどの)には、火(ひ)の影(かげ)もかすかに、鶏人(けいじん)の声(こゑ)もとどまり、滝口(たきぐち)の文爵(もんじやく)もたえにければ、ふるき人々(ひとびと)心(こころ)ぼそくおぼえて、めでたきいわい(いはひ)のなかに涙(なみだ)をながし、心(こころ)をいたましむ。
左大臣(さだいじん)陣(ぢん)にいでて、御位(おんくらゐ)ゆづりの事(こと)ども仰(おほ)せしをきいて、心(こころ)ある人々(ひとびと)は涙(なみだ)をながし袖(そで)をうるほす。われと御位(おんくらゐ)を儲(まうけ)の君(きみ)にゆづりたてまつり、麻姑射(はこや)の山(やま)のうちも閑(しづか)にな(ン)ど(など)おぼしめすさきざきだにも、哀(あはれ)はおほき習(ならひ)ぞかし。况(いはん)やこれは、御心(おんこころ)ならずおしをろさ(おろさ)れさせ給(たま)ひけんあはれさ、申(まうす)もなかなかおろか也(なり)。新帝(しんてい)今年(ことし)三歳(さんざい)、あはれ、いつしかなる譲位(じやうゐ)かなと、時(とき)の人々(ひとびと)申(まうし)あはれけり。平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)は、内(うち)の御(おん)めのと帥(そつ)のすけの夫(おつと)たるによ(ッ)て、「今度(こんど)の譲位(じやうゐ)いつしかなりと、誰(たれ)かかたむけ申(まうす)べき。
異国(いこく)には、周成王(しうのせいわう)三歳(さんざい)、晋穆帝(しんのぼくてい)二歳(にさい)、我(わが)朝(てう)には、近衛院(こんゑのゐん)三歳(さんざい)、六条院(ろくでうのゐん)二歳(にさい)、これみな襁褓(きやうほう)のなかにつつまれて、衣帯(いたい)をただしうせざ(ッ)しか共(ども)、或(あるい・あるひ)は摂政(せつしやう)おふ(おう)て位(くらゐ)につけ、或(あるい・あるひ)は母后(ぼこう)いだいて朝(てう)にのぞむと見(み)えたり。後漢(ごかん)の高上皇帝(かうしやうくわうてい)は、むまれて百日(ひやくにち)といふに践祚(せんそ)あり。天子(てんし)位(くらゐ)をふむ先蹤(せんじよう・せんぜう)、和漢(わかん)かくのごとし」と申(まう)されければ、其(その)時(とき)の有識(いうしよく・ゆうしよく)の人々(ひとびと)、「あなをそろし(おそろし)、物(もの)な申(まう)されそ。さればそれはよき例(れい)どもかや」とぞつぶやきあはれける。
春宮(とうぐう)位(くらゐ)につかせ給(たま)ひしかば、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)夫婦(ふうふ)ともに外祖父(ぐわいそぶ)外祖母(ぐわいそぼ)とて、准三后(じゆんさんごう)の宣旨(せんじ)をかうぶり、年元(ねんぐわん)年爵(ねんじやく)を給(たま)は(ッ)て、上日(じやうにち)のものをめしつかふ。絵(ゑ)かき花(はな)つけたる侍(さぶらひ)共(ども)いで入(いり)て、ひとへに院宮(ゐんぐう)のごとくにてぞ有(あり)ける。出家入道(しゆつけにふだう・しゆつけにうだう)の後(のち)も栄雄(えいえう・ゑいゆう)はつきせずとぞみえし。出家(しゆつけ)の人(ひと)の准三后(じゆんさんごう)の宣旨(せんじ)を蒙(かうぶ)る事(こと)は、保護院(ほごゐん)のおほ入道殿(にふだうどの・にうだうどの)兼家公(かねいへこう)の御例(ごれい)也(なり)。同(おなじき)三月(さんぐわつ)上旬(じやうじゆん)に、上皇(しやうくわう)安芸国(あきのくに)厳島(いつくしま)へ御幸(ごかう)なるべしときこえけり。帝王(ていわう)位(くらゐ)をすべらせ給(たま)ひて、諸社(しよしや)の御幸(ごかう)のはじめには、八幡(やはた)・賀茂(かも)・春日(かすが)な(ン)ど(など)へこそならせ給(たま)ふに、安芸国(あきのくに)までの御幸(ごかう)はいかにと、人(ひと)不審(ふしん)をなす。
或(ある)人(ひと)の申(まうし)けるは、「白河院(しらかはのゐん)は熊野(くまの)へ御幸(ごかう)、後白河(ごしらかは)は日吉社(ひよしのやしろ)へ御幸(ごかう)なる。既(すで)に知(しん)ぬ、叡慮(えいりよ・ゑいりよ)にありといふ事(こと)を。御心中(ごしんぢゆう・ごしんぢう)にふかき御立願(ごりふぐわん・ごりうぐわん)あり。其上(そのうへ)此(この)厳島(いつくしま)をば平家(へいけ)なのめならずあがめうやまひ給(たま)ふあいだ(あひだ)、うへには平家(へいけ)に御同心(ごどうしん)、したには法皇(ほふわう・ほうわう)のいつとなう鳥羽殿(とばどの)にをし(おし)こめられてわたらせ給(たま)ふ、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)の謀反(むほん)の心(こころ)をもやわらげ(やはらげ)給(たま)へとの御祈念(ごきねん)のため」とぞきこえし。山門大衆(さんもんだいしゆ)いきどおり(いきどほり)申(まうす)。
「石清水(いはしみづ)・賀茂(かも)・春日(かすが)へならずは、我(わが)山(やま)の山王(さんわう)へこそ御幸(ごかう)はなるべけれ。安芸国(あきのくに)への御幸(ごかう)はいつの習(ならひ)ぞや。其(その)儀(ぎ)ならば、神輿(しんよ)をふりくだし奉(たてまつり)て、御幸(ごかう)をとどめたてまつれ」と僉議(せんぎ)しければ、これによ(ッ)てしばらく御延引(ごえんいん・ごえんゐん)ありけり。太政入道(だいじやうにふだう・だいじやうにうだう)やうやうになだめ給(たま)へば、山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)しづまりぬ。同(おなじき)十八日(じふはちにち)、厳島御幸(いつくしまごかう)の御門出(おんかどいで)とて、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)の西八条(にしはつでう)の亭(てい)へいらせ給(たま)ふ。其(その)日(ひ)の暮方(くれがた)に、前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)をめして、「明日(みやうにち)御幸(ごかう)の次(ついで・つゐで)に鳥羽殿(とばどの)へまい(ッ・まゐつ)て、法皇(ほふわう・ほうわう)の見参(げんざん)に入(いら)ばやとおぼしめすはいかに。
相国禅門(しやうこくぜんもん)にしらせずしてはあしかりなんや」と仰(おほせ)ければ、宗盛卿(むねもりのきやう)涙(なみだ)をはらはらとながいて、「何条(なんでう)事(こと)か候(さうらふ)べき」と申(まう)されければ、「さらば宗盛(むねもり)、其(その)様(やう)をやがて今夜(こよひ)鳥羽殿(とばどの)へ申(まう)せかし」とぞ仰(おほせ)ける。前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)、いそぎ鳥羽殿(とばどの)へまい(ッ・まゐつ)て、此(この)よし奏聞(そうもん)せられければ、法皇(ほふわう・ほうわう)はあまりにおぼしめす御事(おんこと)にて、「夢(ゆめ)やらん」とぞ仰(おほせ)ける。同(おなじき)十九日(じふくにち)、大宮(おほみやの)大納言(だいなごん)高季卿(たかすゑのきやう)、いまだ夜(よ)ふかうまい(ッ・まゐつ)て、御幸(ごかう)もよほされけり。此(この)日(ひ)ごろきこえさせ給(たま)ひつる厳島(いつくしま)の御幸(ごかう)、西八条(にしはつでう)よりすでにとげさせをはします(おはします)。
やよひもなか半(ば)すぎぬれど、霞(かすみ)にくもる在明(ありあけ)の月(つき)は猶(なほ・なを)おぼろ也(なり)。こしぢをさしてかへる鴈(かり)の、雲井(くもゐ)におとづれ行(ゆく)も、おりふし(をりふし)あはれにきこしめす。いまだ夜(よ)のうちに鳥羽殿(とばどの)へ御幸(ごかう)なる。門前(もんぜん)にて御車(おんくるま)よりおりさせ給(たま)ひ、門(もん)のうちへさしいらせ給(たま)ふに、人(ひと)まれにして木(こ)ぐらく、物(もの)さびしげなる御(おん)すまひ、まづあはれにぞおぼしめす。春(はる)すでにくれなんとす、夏木立(なつこだち)にも成(なり)にけり。梢(こずゑ)の花色(はないろ)をとろえ(おとろへ)て、宮(みや)の鴬(うぐひす)声(こゑ)老(おい)たり。去年(こぞ)の正月(しやうぐわつ)六日(むゆかのひ)、朝覲(てうきん)のために法住寺殿(ほふぢゆうじどの・ほうぢうじどの)へ行幸(ぎやうがう)ありしには、楽屋(がくや)に乱声(らんじやう)を奏(そう)し、諸卿(しよきやう)列(れつ)に立(た・ッ)て、諸衛(しよゑ)陣(ぢん)をひき、院司(ゐんじ)の公卿(くぎやう)まいり(まゐり)むか(ッ)て、幔門(まんもん)をひらき、掃部寮(かもんれう・かもんりやう)縁道(えんだう・ゑんだう)をしき、ただしかりし儀式(ぎしき)一事(いちじ)もなし。
けふはただ夢(ゆめ)とのみぞおぼしめす。重教(しげのり)の中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)、御気色(ごきしよく)申(まう)されたりければ、法皇(ほふわう・ほうわう)寝殿(しんでん)の橋(はし)がくしの間(ま)へ御幸(ごかう)な(ッ)て、待(まち)まいら(ッ・まゐらつ)させ給(たま)ひけり。上皇(しやうくわう)は今年(ことし)御年(おんとし)廿(はたち)、あけがたの月(つき)の光(ひかり)にはへ(はえ)させ給(たま)ひて、玉体(ぎよくたい)もいとどうつくしうぞみえさせをはしまし(おはしまし)ける。御母儀(おぼぎ)建春門院(けんしゆんもんゐん)にいたくにまいら(ッ・まゐらつ)させ給(たまひ)たりければ、法皇(ほふわう・ほうわう)まづ故女院(こにようゐん)の御事(おんこと)おぼしめしいでて、御涙(おんなみだ)せきあへさせ給(たま)はず。両院(りやうゐん)の御座(ござ)ちかくしつらはれたり。御問答(ごもんだふ・ごもんだう)は人(ひと)うけ給(たま)はるに及(およ・をよ)ばず。御前(ごぜん)には尼(あま)ぜばかりぞ候(さふら)はれける。やや久(ひさ)しう御物語(おんものがたり)せさせ給(たま)ふ。
はるかに日(ひ)たけて御暇(おんいとま)申(まう)させ給(たま)ひ、鳥羽(とば)の草津(くさづ)より御舟(おんふね)にめされけり。上皇(しやうくわう)は法皇(ほふわう・ほうわう)の離宮(りきゆう・りきう)、故亭(こていの)幽閑(いうかん・ゆうかん)寂寞(せきばく)の御(おん)すまひ、御心(おんこころ)ぐるしく御(ご)らむ(らん)じをかせ給(たま)へば、法皇(ほふわう・ほうわう)は又(また)上皇(しやうくわう)の旅泊(りよはく)の行宮(かうきゆう・かうきう)の浪(なみ)の上(うへ)、舟(ふね)の中(うち)の御(おん)ありさま、おぼつかなくぞおぼしめす。まことに宗廟(そうべう)・八(や)わた(やはた)・賀茂(かも)な(ン)ど(など)をさしをい(おい)て、はるばると安芸国(あきのくに)までの御幸(ごかう)をば、神明(しんめい)もなどか御納受(ごなふじゆ・ごなうじゆ)なかるべき。御願(ごぐわん)成就(じやうじゆ)うたがひなしとぞみえたりける。 
還御 (くわんぎよ) 

 

同(おなじき)廿六日(にじふろくにち)、厳島(いつくしま)へ御参着(ごさんちやく)、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)の最愛(さいあい)の内侍(ないし)が宿所(しゆくしよ)、御所(ごしよ)になる。なか二(に)にちをん(おん)逗留(とうりう)あ(ッ)て、経会舞楽(きやうゑぶがく)おこなはれけり。導師(だうし)には三井寺(みゐでら)の公兼僧正(こうけんそうじやう)とぞきこえし。高座(かうざ)にのぼり、鐘(かね)うちならし、表白(へうはく)の詞(ことば)にいはく、「九(ここの)え(ここのへ)の宮(みや)こをいでて、八(や)え(やへ)の塩路(しほぢ)をわきも(ッ)てまいら(まゐら)せ給(たま)ふ御心(おんこころ)ざしのかたじけなさ」と、たからかに申(まう)されたりければ、君(きみ)も臣(しん)も感涙(かんるい)をもよほされけり。大宮(おほみや)・客人(まらうと・まろうと)をはじめまいらせ(まゐらせ)て、社々(やしろやしろ)所々(ところどころ)へみな御幸(ごかう)なる。大宮(おほみや)より五町(ごちやう)ばかり、山(やま)をまは(ッ)て、滝(たき)の宮(みや)へまいら(まゐら)せ給(たま)ふ。公兼僧正(こうけんそうじやう)一首(いつしゆ)の歌(うた)ようで、拝殿(はいでん)の柱(はしら)に書(かき)つけられたり。
雲井(くもゐ)よりおちくる滝(たき)のしらいとにちぎりをむすぶことぞうれしき
神主(かんぬし)佐伯(さいき)の景広(かげひろ)、加階(かかい)従上(じゆうじやう・じうじやう)の五位(ごゐ)、国司(こくし)藤原(ふぢはらの)有綱(ありつな)、しなあげられて加階(かかい)、従下(じゆうげ・じうげ)の四品(しほん)、院(ゐん)の殿上(てんじやう)ゆるさる。座主(ざす)尊永(そんゑい)、法印(ほふいん・ほうゐん)になさる。神慮(しんりよ)もうごき、太政(だいじやう)入道(にふだう・にうだう)の心(こころ)もはたらきぬらんとぞみえし。同(おなじき)廿九日(にじふくにち)、上皇(しやうくわう)御舟(みふね)かざ(ッ)て還御(くわんぎよ)なる。風(かぜ)はげしかりければ、御舟(みふね)こぎもどし、厳島(いつくしま)のうち、ありの浦(うら)にとどまらせ給(たま)ふ。上皇(しやうくわう)「大明神(だいみやうじん)の御名残(おんなごり)をしみに、歌(うた)つかまつれ」と仰(おほせ)ければ、隆房(たかふさ)の少将(せうしやう)
たちかへるなごりもありの浦(うら)なれば神(かみ)もめぐみをかくるしら浪(なみ)
夜半(やはん)ばかりより浪(なみ)もしづかに、風(かぜ)もしづまりければ、御舟(みふね)こぎいだし、其(その)日(ひ)は備後国(びんごのくに)しき名(な)の泊(とまり)につかせ給(たま)ふ。
このところはさんぬる応保(おうほう)のころおひ(ころほひ)、一院(いちゐん)御幸(ごかう)の時(とき)、国司(こくし)藤原(ふぢはら)の為成(ためなり)がつく(ッ)たる御所(ごしよ)のありけるを、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)、御(おん)まうけにしつらはれたりしか共(ども)、上皇(しやうくわう)それへはあがらせ給(たま)はず。「けふは卯月(うづき)一日(ひとひ)、衣(ころも)がへといふ事(こと)のあるぞかし」とて、おのおの宮(みや)この方(かた)をおもひやりあそび給(たま)ふに、岸(きし)に色(いろ)ふかき藤(ふぢ)の松(まつ)にさきかかりけるを、上皇(しやうくわう)叡覧(えいらん・ゑいらん)あ(ッ)て、隆季(たかすゑ)の大納言(だいなごん)をめして、「あの花(はな)おり(をり)につかはせ」と仰(おほせ)ければ、左史生(さししやう)中原康定(なかはらのやすさだ)がはし舟(ふね)にの(ッ)て、御前(ごぜん)をこぎとほりけるをめして、おり(をり)につかはす。藤(ふぢ)の花(はな)をたおり(たをり)、松(まつ)の枝(えだ)につけながらも(ッ)てまいり(まゐり)たり。「心(こころ)ばせあり」な(ン)ど(など)仰(おほせ)られて、御感(ぎよかん)ありけり。「此(この)花(はな)にて歌(うた)あるべし」と仰(おほせ)ければ、隆季(たかすゑ)ノ大納言(だいなごん)
千(ち)とせへん君(きみ)がよはひに藤浪(ふじなみ)の松(まつ)の枝(えだ)にもかかりぬるかな
其(その)後(のち)御前(ごぜん)に人々(ひとびと)あまた候(さうら・さふら)はせ給(たま)ひて、御(おん)たはぶれごとのありしに、上皇(しやうくわう)しろききぬきたる内侍(ないし)が、国綱卿(くにつなのきやう)に心(こころ)をかけたるな」とて、わらはせをはしまし(おはしまし)ければ、大納言(だいなごん)大(おほき)にあらがい(あらがひ)申(まう)さるるところに、ふみも(ッ)たる便女(びんぢよ)がまい(ッ・まゐつ)て、「五条(ごでうの)大納言(だいなごん)どのへ」とて、さしあげたり。
「さればこそ」とて満座(まんざ)興(きよう・けふ)ある事(こと)に申(まうし)あはれけり。大納言(だいなごん)これをと(ッ)てみ給(たま)へば、
しらなみの衣(ころも)の袖(そで)をしぼりつつ君(きみ)ゆへ(ゆゑ)にこそ立(たち)もまはれね
上皇(しやうくわう)「やさしうこそおぼしめせ。この返事(へんじ)はあるべきぞ」とて、やがて御硯(おんすずり)をくださせ給(たま)ふ。大納言(だいなごん)返事(へんじ)には、
おもひやれ君(きみ)が面(おも)かげたつ浪(なみ)のよせくるたびにぬるるたもとを
それより備前国(びぜんのくに)小島(こじま)の泊(とまり)につかせ給(たま)ふ。五日(いつかのひ)、天(てん)晴(はれ)風(かぜ)しづかに、海上(かいしやう)ものどけかりければ、御所(ごしよ)の御舟(みふね)をはじめまいらせ(まゐらせ)て、人々(ひとびと)の舟(ふね)どもみないだしつつ、雲(くも)の波(なみ)煙(けぶり)の浪(なみ)をわけすぎさせ給(たま)ひて、其(その)日(ひ)の酉剋(とりのこく)に、播摩国(はりまのくに)やまとの浦(うら)につかせ給(たま)ふ。それより御輿(みこし)にめして福原(ふくはら)へいらせおはします。六日(むゆかのひ)は供奉(ぐぶ)の人々(ひとびと)、いま一日(いちにち)も宮(みや)こへとくといそがれけれ共(ども)、新院(しんゐん)御逗留(おんとうりう)あ(ッ)て、福原(ふくはら)のところどころ歴覧(れきらん)ありけり。
池(いけ)の中納言(ちゆうなごん)頼盛卿(よりもりのきやう)の山庄(さんざう)、あら田(た)まで御(ご)らんぜらる。七日(しちにち・なぬかのひ)、福原(ふくはら)をいでさせ給(たま)ふに、隆季(たかすゑ)の大納言(だいなごん)勅定(ちよくぢやう)をうけ給(たま)は(ッ)て、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)の家(いへ)の賞(しやう)をこなは(おこなは)る。入道(にふだう・にうだう)の養子(やうじ)丹波守(たんばのかみ)清門(きよくに)、正下(じやうげ)の五位(ごゐ)、同(おなじう)入道(にふだう)の孫(まご)越前少将(ゑちぜんのせうしやう)資盛(すけもり)、四位(しゐ)の従上(じゆうじやう・じうじやう)とぞきこえし。
其(その)日(ひ)てら井(ゐ)につかせ給(たま)ふ。八日(やうかのひ)都(みやこ)へいらせ給(たま)ふに、御(おん)むかへの公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、鳥羽(とば)の草津(くさづ)へぞまいら(まゐら)れける。還御(くわんぎよ)の時(とき)は鳥羽殿(とばどの)へは御幸(ごかう)もならず、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)の西八条(にしはつでう)の亭(てい)へいらせ給(たま)ふ。同(おなじき)四月(しぐわつ)廿二日(にじふににち)、新帝(しんてい)の御即位(ごそくゐ)あり。
大極殿(だいこくでん)にてあるべかりしか共(ども)、一(ひと)とせ炎上(えんしやう)の後(のち)は、いまだつくりもいだされず。太政官(だいじやうぐわん)の庁(ちやう)にておこなはるべしとさだめられたりけるを、其(その)時(とき)の九条殿(くでうどの)申(まう)させ給(たまひ)けるは、「太政官(だいじやうぐわん)の庁(ちやう)は凡人(ぼんにんの)家(いへ)にとらば公文所(くもんじよ)ていのところ也(なり)。大極殿(だいこくでん)なからん上者(うへは)、紫震殿(ししんでん)にてこそ御即位(ごそくゐ)はあるべけれ」と申(まう)させ給(たま)ひければ、紫震殿(ししんでん)にてぞ御即位(ごそくゐ)はありける。
「去(いん)じ康保(かうほう)四年(しねん)十一月(じふいちぐわつ)一日(ひとひのひ)、冷泉院(れいぜいのゐん)の御即位(ごそくゐ)紫震殿(ししんでん)にてありしは、主上(しゆしやう)御邪気(ごじやけ)によ(ッ)て、大極殿(だいこくでん)へ行幸(ぎやうがう)かなはざりし故(ゆゑ・ゆへ)也(なり)。其(その)例(れい)いかがあるべからん。ただ後三条(ごさんでう)の院(ゐん)の延久(えんきうの)佳例(かれい)にまかせ、太政官(だいじやうぐわん)の庁(ちやう)にておこなはるべき物(もの)を」と、人々(ひとびと)申(まうし)あはれけれ共(ども)、九条殿(くでうどの)の御(おん)ぱからひのうへは、左右(さう)に及(およ・をよ)ばず。中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)弘徽殿(こうきでん)より仁寿殿(にんじゆでん)へうつらせ給(たま)ひて、たかみくらへまいら(まゐら)せ給(たま)ひける御(おん)ありさまめでたかりけり。平家(へいけ)の人々(ひとびと)みな出仕(しゆつし)せられけるなかに、小松殿(こまつどの)の公達(きんだち)はこぞおとどうせ給(たま)ひしあひだ、いろにて籠居(ろうきよ)せられたり。 
源氏揃 (げんじぞろへ) 

 

蔵人衛門権佐(くらんどのゑもんのごんのすけ)定長(さだなが)、今度(こんど)の御即位(ごそくゐ)に違乱(いらん)なくめでたき様(やう)を厚紙(こうし・かうし)十枚(じふまい)ばかりにこまごまとしるいて、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)の北方(きたのかた)八条(はつでう)の二位殿(にゐどの)へまいらせ(まゐらせ)たりければ、ゑみをふくんでぞよろこばれける。かやうに花(はな)やかにめでたき事共(ことども)ありしかども、世間(せけん)は猶(なほ)しづかならず。其(その)比(ころ)一院(いちゐん)第二(だいに)の皇子(わうじ)茂仁(もちひと)の王(わう)と申(まうし)しは、御母(おんぱは)加賀(かがの)大納言(だいなごん)季成卿(すゑなりのきやう)の御娘(おんむすめ)也(なり)。三条高倉(さんでうたかくら)にましましければ、高倉(たかくら)の宮(みや)とぞ申(まうし)ける。
去(いん)じ永万(えいまん・ゑいまん)元年(ぐわんねん)十二月(じふにぐわつ)十六日(じふろくにち)、御年(おんとし)十五(じふご)にて、忍(しのび)つつ近衛河原(このゑかはら)の大宮(おほみや)の御所(ごしよ)にて御元服(ごげんぶく)ありけり。御手跡(おんしゆせき)うつくしうあそばし、御才学(おんさいかく)すぐれて在(まし)ましければ、位(くらゐ)にもつかせ給(たま)ふべきに、故建春門院(こけんしゆんもんゐん)の御(おん)そねみにて、おしこめられさせ給(たま)ひつつ、花(はな)のもとの春(はる)の遊(あそび)には、紫毫(しがう)をふる(ッ)て手(て)づから御作(ごさく)をかき、月(つき)の前(まへ)の秋(あき)の宴(えん)には、玉笛(ぎよくてき)をふいて身(み)づから雅音(がいん)をあやつり給(たま)ふ。
かくしてあかしくらし給(たま)ふほどに、治承(ぢしよう・ぢせう)四年(しねん)には、御年(おんとし)卅(さんじふ)にぞならせ在(まし)ましける。其(その)比(ころ)近衛河原(このゑかはら)に候(さうらひ)ける源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう・にうだう)頼政(よりまさ)、或(ある)夜(よ)ひそかに此(この)宮(みや)の御所(ごしよ)にまい(ッ・まゐつ)て、申(まうし)ける事(こと)こそおそろしけれ。「君(きみ)は天照大神(てんせうだいじん)四十八(しじふはつ)世(せ)の御末(おんすゑ)、神武天皇(じんむてんわう)より七十八(しちじふはち)代(だい)にあたらせ給(たま)ふ。
太子(たいし)にもたち、位(くらゐ)にもつかせ給(たま)ふべきに、卅(さんじふ)まで宮(みや)にてわたらせ給(たま)ふ御事(おんこと)をば、心(こころ)うしとはおぼしめさずや。当世(たうせい)のていを見(み)候(さうらふ)に、うへにはしたがい(したがひ)たるやうなれども、内々(ないない)は平家(へいけ)をそねまぬ物(もの)や候(さうらふ)。御謀反(ごむほん)おこさせ給(たま)ひて、平家(へいけ)をほろぼし、法皇(ほふわう・ほうわう)のいつとなく鳥羽殿(とばどの)におしこめられてわたらせ給(たま)ふ御心(おんこころ)をも、やすめまいらせ(まゐらせ)、君(きみ)も位(くらゐ)につかせ給(たま)ふべし。
これ御孝行(ごかうかう)のいたりにてこそ候(さうら)はんずれ。もしおぼしめしたたせ給(たま)ひて、令旨(りやうじ・れうじ)をくださせ給(たま)ふ物(もの)ならば、悦(よろこび)をなしてまいら(まゐら)むずる源氏(げんじ)どもこそおほう候(さうら)へ」とて、申(まうし)つづく。「まづ京都(きやうと)には、出羽前司(ではのせんじ)光信(みつのぶ)が子共(こども)、伊賀守(いがのかみ)光基(みつもと)、出羽判官(ではのはんぐわん)光長(みつなが)、出羽蔵人(ではのくらんど)光重(みつしげ)、出羽冠者(ではのくわんじや)光能(みつよし)、熊野(くまの)には、故(こ)六条判官(ろくでうのはんぐわん)為義(ためよし)が末子(ばつし)十郎(じふらう)義盛(よしもり)とてかくれて候(さうらふ)。
摂津国(つのくに)には多田蔵人(ただのくらんど)行綱(ゆきつな)こそ候(さうら)へ共(ども)、新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)の謀反(むほん)の時(とき)、同心(どうしん)しながらかゑり忠(ちう・かへりちゆう)したる不当人(ふたうにん)で候(さうら)へば、申(まうす)に及(およ・をよ)ばず。さりながら、其(その)弟(おとと)多田(ただの)二郎(じらう)朝実(ともざね)、手島(てしま)の冠者(くわんじや)高頼(たかより)、太田太郎頼基(おほだのたらうよりもと)、河内国(かはちのくに)には、武蔵権守(むさしのごんのかみ)入道(にふだう・にうだう)義基(よしもと)、子息(しそく)石河(いしかはの)判官代(はんぐわんだい)義兼(よしかね)、大和国(やまとのくに)には、宇野(うのの)七郎(しちらう)親治(ちかはる)が子共(こども)、太郎(たらう)有治(ありはる)・二郎(じらう)清治(きよはる)、三郎(さぶらう)成治(なりはる)・四郎(しらう)義治(よしはる)・近江国(あふみのくに)には、山本(やまもと)・柏木(かしはぎ)・錦古里(にしごり)、美乃(みの)尾張(をはり・おはり)には、山田次郎重広(やまだのじらうしげひろ)、河辺(かはべの)太郎(たらう)重直(しげなほ・しげなを)、泉(いずみの)太郎(たらう)重光(しげみつ)、浦野ノ(うらのの)四郎(しらう)重遠(しげとほ・しげとを)、安食次郎重頼(あじきのじらうしげより)、其(その)子ノ(この)太郎(たらう)重資(しげすけ)、木太ノ(きだの)三郎(さぶらう)重長(しげなが)、開田ノ(かいでんの)判官代(はんぐわんだい)重国(しげくに)、矢島先生(やしまのせんじやう)重高(しげたか)、其(その)子ノ(この)太郎(たらう)重行(しげゆき)、甲斐国(かひのくに・かいのくに)には、逸見冠者(へんみのくわんじや)義清(よしきよ)、其(その)子(この)太郎(たらう)清光(きよみつ)、武田(たけたの)太郎(たらう)信義(のぶよし)、加賀見ノ(かがみの)二郎(じらう)遠光(とほみつ・とをみつ)・同(おなじく)小次郎長清(こじらうながきよ)、一条ノ(いちでうの)次郎(じらう)忠頼(ただより)、板垣(いたがきの)三郎(さぶらう)兼信(かねのぶ)、逸見ノ兵衛(へんみのひやうゑ)有義(ありよし)、武田(たけたの)五郎(ごらう)信光(のぶみつ)、安田(やすだの)三郎(さぶらう)義定(よしさだ)、信乃(しなの)の国(くに)には、大内(おほうちの)太郎(たらう)維義(これよし)、岡田冠者(をかだのくわんじや)親義(ちかよし)、平賀冠者(ひらかのくわんじや)盛義(もりよし)、其(その)子ノ(この)四郎(しらう)義信(よしのぶ)、帯刀ノ(たてはきの・たてわきの)先生(せんじやう)義方(よしかた)が次男(じなん)木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)、伊豆国(いづのくに)には、流人(るにん)前右兵衛佐(さきのうひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)、常陸国(ひたちのくに)には、信太(しだの)三郎(さぶらう)先生(せんじやう)義教(よしのり)、佐竹ノ冠者(さたけのくわんじや)正義(まさよし)、其(その)子(この)太郎(たらう)忠義(ただよし)、同(おなじく)三郎(さぶらう)義宗(よしむね)、四郎(しらう)高義(たかよし)、五郎(ごらう)義季(よしすゑ)、陸奥国(みちのくに)には、故左馬頭(こさまのかみ)義朝(よしとも)が末子(ばつし)九郎(くらう)冠者(くわんじや)義経(よしつね)、これみな六孫王(ろくそんわう)の苗裔(べうえい・べうゑい)、多田(ただの)新発(しんぼち・しんぼ(ツ)ち)満仲(まんぢゆう・まんぢう)が後胤(こういん・こうゐん)なり。
朝敵(てうてき)をもたいら(たひら)げ、宿望(しゆくまう)をとげし事(こと)は、源平(げんぺい)いづれ勝劣(せうれつ)なかりしか共(ども)、今(いま)は雲泥(うんでい)まじはりをへだてて、主従(しゆうじゆう・しうじう)の礼(れい)にも猶(なほ・なを)おとれり。国(くに)には国司(こくし)にしたがひ、庄(しやう)には領所(あづかりどころ)につかはれ、公事(くじ)雑事(ざふじ・ざうじ)にかりたてられて、やすひ(やすい)おもひも候(さうら)はず。いかばかりか心(こころ)うく候(さうらふ)らん。
君(きみ)もしおぼしめしたたせ給(たまひ)て、令旨(りやうじ・れうじ)をたうづる物(もの)ならば、夜(よ)を日(ひ)についで馳(はせ)のぼり、平家(へいけ)をほろぼさん事(こと)、時日(じじつ)をめぐらすべからず。入道(にふだう・にうだう)も年(とし)こそよ(ッ)て候(さうらへ)ども、子共(こども)ひきぐしてまいり(まゐり)候(さうらふ)べし」とぞ申(まうし)たる。宮(みや)はこの事(こと)いかがあるべからんとて、しばしは御承引(ごしよういん・ごせうゐん)もなかりけるが、阿古丸(あこまる)大納言(だいなごん)宗通卿(むねみちのきやう)の孫(まご)、備後前司(びんごのせんじ)季通(すゑみち)が子(こ)、少納言(せうなごん)維長(これなが)と申(まう)し候(さうらふ)〔は〕勝(すぐれ)たる相人(さうにん)也(なり)ければ、時(とき)の人(ひと)相少納言(さうせうなごん)とぞ申(まうし)ける。
其(その)人(ひと)がこの宮(みや)をみまいらせ(まゐらせ)て、「位(くらゐ)に即(つか)せ給(たまふ)べき相(さう)在(まし)ます。天下(てんが)の事(こと)思召(おぼしめし)はなたせ給(たま)ふべからず」と申(まうし)けるうへ、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう・にうだう)もか様(やう)に申(まう)されければ、「さてはしかるべき天照大神(てんせうだいじん)の御告(おんつげ)やらん」とて、ひしひしとおぼしめしたたせ給(たま)ひけり。熊野(くまの)に候(さうらふ)十郎(じふらう)義盛(よしもり)をめして、蔵人(くらんど)になさる。行家(ゆきいへ)と改名(かいみやう)して、令旨(りやうじ・れうじ)の御使(おんつかひ)に東国(とうごく)へぞ下(くだり)ける。同(おなじき)四月(しぐわつ・し(ン)ぐわつ)廿八日(にじふはちにち)、宮(みや)こをた(ッ)て、近江国(あふみのくに)よりはじめて、美乃(みの)尾張(をはり・おはり)の源氏共(げんじども)に次第(しだい)にふれてゆく程(ほど)に、五月(ごぐわつ)十日(とをかのひ)、伊豆(いづ)の北条(ほうでう)にくだりつき、流人(るにん)前兵衛佐殿(さきのひやうゑのすけどの)に令旨(りやうじ・れうじ)たてまつり、信太ノ(しだの)三郎(さぶらう)先生(せんじやう)義教(よしのり)は兄(あに)なればとらせんとて、常陸国(ひたちのくに)信太ノ(しだの)浮島(うきしま)へくだる。
木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)は甥(をひ・をい)なればたばんとて、山道(せんだう)へぞおもむきける。其(その)比(ころ)の熊野(くまの)の別当(べつたう)湛増(たんぞう)は、平家(へいけ)に心(こころ)ざしふか〔か〕りけるが、なにとしてかもれきいたりけん、「新宮(しんぐうの)十郎(じふらう)義盛(よしもり)こそ高倉宮(たかくらのみや)の令旨(りやうじ・れうじ)給(たま)は(ッ)て、美乃(みの)尾張(をはり・おはり)の源氏(げんじ)どもふれもよほし、既(すで)に謀反(むほん)ををこす(おこす)なれ。那智(なち)新宮(しんぐう)の物共(ものども)は、さだめて源氏(げんじ)の方(かた)うどをぞせんずらん。湛増(たんぞう)は平家(へいけ)の御恩(ごおん・ごをん)を雨(あめ)やまとかうむ(ッ)たれば、いかでか背(そむき)たてまつるべき。那知(なち)新宮(しんぐう)の物共(ものども)に矢(や)一(ひとつ)いかけて、平家(へいけ)へ子細(しさい)を申(まう)さん」とて、ひた甲(かぶと)一千(いつせん)人(にん)、新宮(しんぐう)の湊(みなと)へ発向(はつかう)す。
新宮(しんぐう)には鳥井(とりゐ)の法眼(ほふげん・ほうげん)・高坊(たかばう)の法眼(ほふげん・ほうげん)、侍(さぶらひ)には宇(う)ゐ・すずき・水屋(みづや)・かめのこう(かめのかふ)、那知(なち)には執行(しゆぎやう)法眼(ほふげん・ほうげん)以下(いげ)、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)二千余(にせんよ)人(にん)なり。時(とき)つくり、矢合(やあはせ)して、源氏(げんじ)の方(かた)にはとこそいれ、平家(へいけ)の方(かた)にはかうこそいれとて、矢(や)さけびの声(こゑ)の退転(たいてん)もなく、かぶらのなりやむひまもなく、三日(みつか)がほどこそたたかふ(たたかう)たれ。熊野別当(くまのべつたう)湛増(たんぞう)、家子(いへのこ)郎等(らうどう)おほくうたせ、我(わが)身(み)手(て)おひ、からき命(いのち)をいきつつ、本宮(ほんぐう)へこそにげのぼりけれ。 
鼬之沙汰 (いたちのさた) 

 

さるほどに、法皇(ほふわう・ほうわう)は、「とをき(とほき)国(くに)へもながされ、はるかの島(しま)へもうつされんずるにや」と仰(おほ)せけれども、城南(せいなん)の離宮(りきゆう・りきう)にして、ことしは二年(ふたとせ)にならせ給(たま)ふ。同(おなじき)五月(ごぐわつ)十二日(じふににち)午剋(むまのこく)計(ばかり)、御所中(ごしよぢゆう・ごしよぢう)にはゐたち(いたち)おびたたしうはしりさはぐ(さわぐ)。法皇(ほふわう・ほうわう)大(おほき)に驚(おどろ・をどろ)きおぼしめし、御占形(おんうらかた)をあそばいて、近江守(あふみのかみ)仲兼(なかかぬ)、其(その)比(ころ)はいまだ鶴蔵人(つるくらんど)とめされけるをめして、「この占形(うらかた)も(ッ)て、泰親(やすちか)がもとへゆけ。き(ッ)と勘(かん)がへさせて、勘状(かんじやう)をと(ッ)てまいれ(まゐれ)」とぞ仰(おほせ)ける。
仲兼(なかかぬ)これを給(たま)は(ッ)て、陰陽頭(おんやうのかみ・をんやうのかみ)安陪泰親(あべのやすちか)がもとへ行(ゆく)。おりふし(をりふし)宿所(しゆくしよ)にはなかりけり。「白河(しらかは)なるところへ」といひければ、それへたづねゆき、泰親(やすちか)にあふ(あう)て勅定(ちよくぢやう)のおもむき仰(おほ)すれば、やがて勘状(かんじやう)をまいらせ(まゐらせ)けり。仲兼(なかかぬ)鳥羽殿(とばどの)にかへりまい(ッ・まゐつ)て、門(もん)よりまいら(まゐら)うどすれば、守護(しゆご)の武士共(ぶしども)ゆるさず。案内(あんない)はし(ッ)たり、築地(ついぢ・つゐぢ)をこへ(こえ)、大床(おほゆか)のしたをはうて、きり板(いた)より泰親(やすちか)が勘状(かんじやう)をこそまいらせ(まゐらせ)たれ。
法皇(ほふわう・ほうわう)これをあけて御(ご)らんずれば、「いま三日(みつか)がうち御悦(おんよろこび)、ならびに御(おん)なげき」とぞ申(まうし)たる。法皇(ほふわう・ほうわう)「御(おん)よろこびはしかるべし。これほどの御身(おんみ)にな(ッ)て、又(また)いかなる御難(なげき)のあらんずるやらん」とぞ仰(おほせ)ける。さるほどに、前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)、法皇(ほふわう・ほうわう)の御事(おんこと)をたりふし申(まう)されければ、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)やうやうおもひなお(ッ・なほつ)て、同(おなじき)十三日(じふさんにち)鳥羽殿(とばどの)をいだしたてまつり、八条烏丸(はつでうからすまる)の美福門院(びふくもんゐんの)御所(ごしよ)へ御幸(ごかう)なしたてまつる。
いま三日(みつか)がうちの御悦(おんよろこび)とは、泰親(やすちか)これをぞ申(まうし)ける。かかりけるところに、熊野別当(くまののべつたう)湛増(たんぞう)飛脚(ひきやく)をも(ッ)て、高倉宮(たかくらのみや)の御謀反(ごむほん)のよし宮(みや)こへ申(まうし)たりければ、前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)大(おほき)にさはい(さわい)で、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)おりふし(をりふし)福原(ふくはら)におはしけるに、此(この)よし申(まう)されたりければ、ききもあへず、やがて宮(みや)こへはせのぼり、「是非(ぜひ)に及(およぶ・をよぶ)べからず。高倉宮(たかくらのみや)からめと(ッ)て、土佐(とさ)の畑(はた)へながせ」とこその給(たま)ひけれ。
上卿(しやうけい)は三条(さんでうの)大納言(だいなごん)実房(さねふさ)、識事(しきじ)は頭弁(とうのべん)光雅(みつまさ)とぞきこえし。源(げん)大夫(だいふの)判官(はんぐわん)兼綱(かねつな)、出羽判官(ではのはんぐわん)光長(みつなが)うけ給(たま)は(ッ)て、宮(みや)の御所(ごしよ)へぞむかひける。この源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)と申(まうす)は、三位(さんみ)入道(にふだう・にうだう)の次男(じなん)也(なり)。しかるをこの人数(にんじゆ)にいれられけるは、高倉(たかくら)の宮(みや)の御謀反(ごむほん)を三位(さんみ)入道(にふだう・にうだう)すすめ申(まうし)たりと、平家(へいけ)いまだしらざりけるによ(ッ)て也(なり)。 
信連 (のぶつら) 

 

宮(みや)はさ月(つき)十五(じふご)夜(や)の雲間(くもま)の月(つき)をながめさせ給(たま)ひ、なんのゆくゑ(ゆくへ)もおぼしめしよらざりけるに、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう・にうだう)の使者(ししや)とて、ふみも(ッ)ていそがしげでいできたり。宮(みや)の御(おん)めのと子(ご)、六条(ろくでう)のすけの大夫(たいふ)宗信(むねのぶ)、これをと(ッ)て御前(ごぜん)へまいり(まゐり)、ひらいてみるに、「君(きみ)の御謀反(ごむほん)すでにあらはれさせ給(たま)ひて、土左(とさ)の畑(はた)へなかし(ながし)まいらす(まゐらす)べしとて、官人共(くわんにんども)御(おん)むかへにまいり(まゐり)候(さうらふ)。いそぎ御所(ごしよ)をいでさせ給(たまひ)て、三井寺(みゐでら)へいらせをはしませ(おはしませ)。入道(にふだう・にうだう)もやがてまいり(まゐり)候(さうらふ)べし」とぞかいたりける。
「こはいかがせん」とて、さはが(さわが)せおはしますところに、宮(みや)の侍(さぶらひ)長兵衛(ちやうひやうゑの)尉(じよう・ぜう)信連(のぶつら)といふ物(もの)あり。「ただ別(べち)の様(やう)候(さうらふ)まじ。女房装束(にようばうしやうぞく)にていでさせ給(たま)へ」と申(まうし)ければ、「しかるべし」とて、御(おん)ぐしをみだし、かさねたるぎよ衣(い)に一(いち)めがさをぞめされける。六条(ろくでう)ノ助(すけ)の大夫(たいふ)宗信(むねのぶ)、唐笠(からかさ)も(ッ)て御(おん)ともつかまつる。鶴丸(つるまる)といふ童(わらは)、袋(ふくろ)に物(もの)いれていただいたり。青侍(せいし)の女(ぢよ・じよ)をむかへてゆくやうにいでたたせ給(たま)ひて、高倉(たかくら)を北(きた)ゑ(へ)おちさせ給(たま)ふに、溝(みぞ)のありけるを、いと物(もの)がるうこえさせ給(たま)へば、みちゆき人(びと)がたちとどま(ッ)て、「はしたなの女房(にようばう)の溝(みぞ)のこえやうや」とて、あやしげにみまいらせ(まゐらせ)ければ、いとどあしばやにすぎさせ給(たま)ふ。
長兵衛(ちやうひやうゑの)尉(じよう)信連(のぶつら)は、御所(ごしよ)の留守(るす)にぞおかれたる。女房達(にようばうたち)の少々(せうせう)おはしけるを、かしこここへたちしのばせて、見(み)ぐるしき物(もの)あらばとりしたためんとてみる程(ほど)に、宮(みや)のさしも御秘蔵(ごひさう)ありける小枝(こえだ)ときこえし御笛(おんふえ)を、只今(ただいま)しもつねの御所(ごしよ)の御枕(おんまくら)にとりわすれさせ給(たまひ)たりけるぞ、立(たち)かへ(ッ・かへつ)てもとらまほしうおぼしめす、信連(のぶつら)これをみつけて、「あなあさまし。君(きみ)のさしも御秘蔵(ごひさう)ある御笛(おんふえ)を」と申(まうし)て、五町(ごちやう)がうちにお(ッ)ついてまいらせ(まゐらせ)たり。宮(みや)なのめならず御感(ぎよかん)あ(ッ)て、「われしなば、此(この)笛(ふえ)をば御棺(みくわん)にいれよ」とぞ仰(おほせ)ける。
「やがて御(おん)ともに候(さうら)へ」と仰(おほせ)ければ、信連(のぶつら)申(まうし)けるは、「只今(ただいま)御所(ごしよ)へ官人共(くわんにんども)が御(おん)むかへにまいり(まゐり)候(さうらふ)なるに、御前(ごぜん)に人(ひと)一人(いちにん)も候(さうら)はざらんが、無下(むげ)にうたてしう覚(おぼえ)候(さうらふ)。信連(のぶつら)が此(この)御所(ごしよ)に候(さうらふ)とは、上下(かみしも)みなしられたる事(こと)にて候(さうらふ)に、今夜(こんや)候(さうら)はざらんは、それも其(その)夜(よ)はにげたりけりな(ン)ど(など)いはれん事(こと)、弓矢(ゆみや)とる身(み)は、かりにも名(な)こそおしう(をしう)候(さうら)へ。官人共(くわんにんども)しばらくあいしらい(あひしらひ)て、打破(うちやぶり)て、やがてまいり(まゐり)候(さうら)はん」とて、はしりかへる。長兵衛(ちやうひやうゑ)が其(その)日(ひの)装束(しやうぞく)には、うすあをの狩衣(かりぎぬ)のしたに、萠黄威(もえぎをどし・もえぎおどし)の腹巻(はらまき)をきて、衛府(ゑふ)の太刀(たち)をぞはいたりける。
三条面(さんでうおもて)の惣門(そうもん)をも、高倉面(たかくらおもて)の小門(こもん)をも、ともにひらいて待(まち)かけたり。源(げん)大夫(だいふの)判官(はんぐわん)兼綱(かねつな)、出羽判官(ではのはんぐわん)光長(みつなが)、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)三百余騎(さんびやくよき)、十五日(じふごにち)の夜(よ)の子(ね)の剋(こく)に、宮(みや)の御所(ごしよ)へぞ押寄(おしよせ・をしよせ)たる。源(げん)大夫(だいふの)判官(はんぐわん)は、存(ぞん)ずる旨(むね)ありとおぼえて、はるかの門前(もんぜん)にひかへたり。出羽判官(ではのはんぐわん)光長(みつなが)は、馬(むま)に乗(のり)ながら門(もん)のうちに打入(うちい)り、庭(には)にひかへて大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて申(まうし)けるは、「御謀反(ごむほん)のきこえ候(さうらふ)によ(ッ)て、官人共(くわんにんども)別当宣(べつたうせん)を承(うけたま)はり、御(おん)むかへにまい(ッ・まゐつ)て候(さうらふ)。
いそぎ御出(おんいで)候(さうら)へ」と申(まうし)ければ、長兵衛(ちやうひやうゑの)尉(じよう・ぜう)大床(おほゆか)に立(ッ)て、「これは当時(たうじ)は御所(ごしよ)でも候(さうら)はず。御物(おんもの)まうでで候(さうらふ)ぞ。何事(なにごと)ぞ、事(こと)の子細(しさい)を申(まう)されよ」といひければ、「何条(なんでう)、此(この)御所(ごしよ)ならではいづくへかわたらせ給(たまふ)べかんなる。さないはせそ。
下部共(しもべども)まい(ッ・まゐつ)て、さがしたてまつれ」とぞ申(まうし)ける。長兵衛(ちやうひやうゑの)尉(じよう)これをきいて、「物(もの)もおぼえぬ官人共(くわんにんども)が申(まうし)様(やう)かな。馬(むま)に乗(のり)ながら門(もん)のうちへまいる(まゐる)だにも奇怪(きくわい・き(ツ)くわい)なるに、下部共(しもべども)まい(ッ・まゐつ)てさがしまいらせよ(まゐらせよ)とは、いかで申(まうす)ぞ。左兵衛尉(さひやうゑのじよう・さひやうゑのぜう)長谷部信連(はせべののぶつら)が候(さうらふ)ぞ。ちかうよ(ッ)てあやまちすな」とぞ申(まうし)ける。庁(ちやう)の下部(しもべ)のなかに、金武(かねたけ)といふ大(だい)ぢからのかうの物(もの)、長兵衛(ちやうひやうゑ)に目(め)をかけて、大床(おほゆか)のうゑ(うへ)ゑ(へ)とびのぼる。これをみて、どうれいども十四五人(じふしごにん)ぞつづいたる。長兵衛(ちやうひやうゑ)は狩衣(かりぎぬ)の帯紐(おびひも)ひ(ッ・ひつ)き(ッ)てすつるままに、衛府(ゑふ)の太刀(たち)なれ共(ども)、身(み)をば心(こころ)えてつくらせたるをぬきあはせて、さんざんにこそき(ッ)たりけれ。
かたきは大太刀(おほだち)・大長刀(おほなぎなた)でふるまへ共(ども)、信連(のぶつら)が衛府(ゑふ)の太刀(たち)に切(きり)たてられて、嵐(あらし)に木(こ)の葉(は)のちるやうに、庭(には)へさ(ッ)とぞおりたりける。さ月(つき)十五(じふご)夜(や)の雲間(くもま)の月(つき)のあらはれいでて、あかかりけるに、かたきは無案内(ぶあんない)なり、信連(のぶつら)は案内者(あんないしや)也(なり)。あそこの面道(めんだう)にお(ッ)かけては、はたときり。ここのつまりにお(ッ)つめては、ちやうどきる。「いかに宜旨(せんじ)の御使(おんつかひ・おつかひ)をばかうはするぞ」といひければ、「宜旨(せんじ)とはなんぞ」とて、太刀(たち)ゆがめばおどり(をどり)のき、おしなをし(なほし)、ふみなをし(なほし)、たちどころによき物共(ものども)十四五人(じふしごにん)こそきりふせたれ。太刀(たち)のさき三寸(さんずん)ばかりうちを(ッ)て、腹(はら)をきらんと腰(こし)をさぐれば、さやまきおちてなかりけり。
ちからおよばず、大手(おほで)をひろげて、高倉面(たかくらおもて)の小門(こもん)よりはしりいでんとするところに、大長刀(おほなぎなた)も(ッ)たる男(をとこ・おとこ)一人(いちにん)よりあひたり。信連(のぶつら)長刀(なぎなた)にのらんととんでかかるが、のりそんじてももをぬいざま(ぬひざま)につらぬかれて、心(こころ)はたけくおもへども、大勢(おほぜい)のなかにとりこめられて、いけどりにこそせられけれ。其(その)後(のち)御所(ごしよ)をさがせども、宮(みや)わたらせ給(たま)はず。信連(のぶつら)ばかりからめて、六波羅(ろくはら)へい(ゐ)てまいる(まゐる)。入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)は簾中(れんちゆう・れんちう)にゐ給(たま)へり。前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)大床(おほゆか)にた(ッ)て、信連(のぶつら)を大庭(おほには)にひ(ッ・ひつ)すへ(すゑ)させ、「まことにわ男(をとこ・おとこ)は、「宣旨(せんじ)とはなむ(なん)ぞ」とてき(ッ)たりけるか。おほくの庁(ちやう)の下部(しもべ)を刃傷殺害(にんじやうせつがい)したん也(なり)。せむずる(せんずる)ところ、糾問(きうもん)してよくよく事(こと)の子細(しさい)をたずねとひ、其(その)後(のち)河原(かはら)にひきいだいて、かうべをはね候(さうら)へ」とぞの給(たま)ひける。
信連(のぶつら)すこしもさはが(さわが)ず、あざわら(ッ・わらつ)て申(まうし)けるは、「このほどよなよなあの御所(ごしよ)を、物(もの)がうかがい(うかがひ)候(さうらふ)時(とき)に、なに事(ごと)のあるべきと存(ぞんじ)て、用心(ようじん)も仕(つかまつり)候(さうら)はぬところに、よろうたる物共(ものども)がうち入(いり)て候(さうらふ)を、「なに物(もの)ぞ」ととひ候(さうら)へば、「宜旨(せんじ)の御使(おんつかひ)」となのり候(さうらふ)。山賊(さんぞく)・海賊(かいぞく)・強盜(がうたう)な(ン)ど(など)申(まうす)やつ原(ばら)は、或(あるい・あるひ)は「公達(きんだち)のいらせ給(たま)ふぞ」或(あるい・あるひ)は「宜旨(せんじ)の御使(おんつかひ)」な(ン)ど(など)なのり候(さうらふ)と、かねがねうけ給(たまは・ッ)て候(さうら)へば、「宜旨(せんじ)とはなんぞ」とて、き(ッ)た候(ざうらふ)。
凡(およそ・をよそ)者(は)物(もの)の具(ぐ)をもおもふさまにつかまつり、かねよき太刀(たち)をもも(ッ)て候(さうらは)ば、官人共(くわんにんども)をよも一人(いちにん)も安穏(あんをん)ではかへし候(さうら)はじ。又(また)宮(みや)の御在所(ございしよ)は、いづくにかわたらせ給(たま)ふらむ、しりまいらせ(まゐらせ)候(さうら)はず。たとひしりまいらせ(まゐらせ)て候(さうらふ)とも、さぶらひほんの物(もの)の、申(まう)さじとおもひき(ッ)てん事(こと)、糾問(きうもん)におよ(ン)で申(まうす)べしや」とて、其(その)後(のち)は物(もの)も申(まう)さず。いくらもなみゐたりける平家(へいけ)のさぶらい共(ども)、「あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)かうの物(もの)かな。あ(ッ)たらおのこ(をのこ)をきられんずらんむざんさよ」と申(まうし)あへり。其(その)なかにある人(ひと)の申(まうし)けるは、「あれは先年(せんねん)ところにありし時(とき)も、大番衆(おほばんじゆ)がとどめかねたりし強盜(がうだう)六人(ろくにん)、只(ただ)一人(いちにん)お(ッ)かか(ッ)て、四人(しにん)きりふせ、二人(ににん)いけどりにして、其(その)時(とき)なされたる左兵衛尉(さひやうゑのじよう・さひやうゑのぜう)ぞかし。
これをこそ一人(いちにん)当千(たうぜん)のつは物(もの)ともいふべけれ」とて、口々(くちぐち)におしみ(をしみ)あへりければ、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)いかがおもはれけん、伯耆(はうき)のひ野(の)へぞながされける。源氏(げんじ)の世(よ)にな(ッ)て、東国(とうごく)へくだり、梶原平三景時(かぢはらへいざうかげとき)について、事(こと)の根元(こんげん)一々(いちいち)次第(しだい)に申(まうし)ければ、鎌倉殿、(かまくらどの)、神妙(しんべう)也(なり)と感(かん)じおぼしめして、能登国(のとのくに)に御恩(ごおん・ごをん)かうぶりけるとぞきこえし。 
競 (きほふ) 

 

宮(みや)は高倉(たかくら)を北(きた)へ、近衛(こんゑ)を東(ひがし)へ、賀茂河(かもがは)をわたらせ給(たまひ)て、如意山(によいやま)へいらせおはします。昔(むかし)清見原(きよみばら)の天皇(てんわう)のいまだ東宮(とうぐう)の御時(おんとき)、賊徒(ぞくと)におそはれさせ給(たま)ひて、吉野山(よしのやま)へいらせ給(たま)ひけるにこそ、をとめのすがたをばからせ給(たま)ひけるなれ。いま此(この)君(きみ)の御(おん)ありさまも、それにはたがはせ給(たま)はず。しらぬ山路(さんろ)を夜(よ)もすがらわけいらせ給(たま)ふに、いつならはしの御事(おんこと)なれば、御(おん)あしよりいづる血(ち)は、いさごをそめて紅(くれなゐ)の如(ごと)し。夏草(なつくさ)のしげみがなかの露(つゆ)けさも、さこそはところせうおぼしめされけめ。
かくして暁方(あかつきがた)に三井寺(みゐでら)へいらせおはします。「かひなき命(いのち)のおしさ(をしさ)よ、衆徒(しゆと)をたのんで入御(じゆぎよ)あり」と仰(おほせ)ければ、大衆(だいしゆ)畏悦(かしこまりよろこび)て、法輪院(ほふりんゐん・ほうりんゐん)に御所(ごしよ)をしつらい(しつらひ)、それにいれたてま(ッ)て、供御(ぐご)したててまいらせ(まゐらせ)けり。
あくれば十六日(じふろくにち)、高倉(たかくら)の宮(みや)の御謀叛(ごむほん)おこさせ給(たまひ)て、うせさせ給(たまひ)ぬと申(まうす)ほどこそありけれ、京中(きやうぢゆう・きやうぢう)の騒動(さうどう)なのめならず。法皇(ほふわう・ほうわう)これをきこしめて、「鳥羽殿(とばどの)を御(おん)いであるは御悦(おんよろこび)なり。ならびに御歎(おんなげき)と泰親(やすちか)が勘状(かんじやう)をまいらせ(まゐらせ)たるは、これを申(まうし)けり」とぞ仰(おほせ)ける。
抑(そもそも)源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう・にうだう)、年(とし)ごろ日比(ひごろ)もあればこそありけめ、ことしいかなる心(こころ)にて謀叛(むほん)をばおこしけるぞといふに、平家(へいけ)の次男(じなん)前ノ(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)、すまじき事(こと)をし給(たま)へり。されば、人(ひと)の世(よ)にあればとて、すぞろにすまじき事(こと)をもし、いふまじき事(こと)をもいふは、よくよく思慮(しりよ)あるべき物(もの)也(なり)。たとへば、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう・にうだう)の嫡子(ちやくし)仲綱(なかつな)のもとに、九重(ここのへ・ここのえ)にきこえたる名馬(めいば)あり。鹿毛(かげ)なる馬(むま)のならびなき逸物(いちもつ)、のりはしり、心(こころ)むき、又(また)あるべしとも覚(おぼ)えず。名(な)をば木(こ)のしたとぞいはれける。前(さきの)右大将(うだいしやう)これをつたへきき、仲綱(なかつな)のもとへ使者(ししや)たて、「きこえ候(さうらふ)名馬(めいば)をみ候(さうらは)ばや」との給(たま)ひつかはされたりければ、伊豆守(いづのかみ)の返事(へんじ)には、「さる馬(むま)はも(ッ)て候(さうらひ)つれども、此(この)ほどあまりにのり損(そん)じて候(さうらひ)つるあひだ、しばらくいたはらせ候(さうら)はんとて、田舎(ゐなか・いなか)へつかはして候(さうらふ)」。
「さらんには、ちからなし」とて、其(その)後(のち)沙汰(さた)もなかりしを、おほくなみなみい(ゐ)たりける平家(へいけ)の侍共(さぶらひども)、「あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)、其(その)馬(むま)はおととひ(をととひ)までは候(さうらひ)し物(もの)を。昨日(きのふ)も候(さうらひ)し、けさも庭(には)のりし候(さうらひ)つる」な(ン)ど(など)申(まうし)ければ、「さてはおしむ(をしむ)ごさんなれ。にくし。こへ」とて、侍(さぶらひ)してはせさせ、ふみな(ン)ど(など)しても、一日(いちにち)がうちに五六度(ごろくど)七八度(しちはちど)な(ン)ど(など)こはれければ、三位(さんみ)入道(にふだう)これをきき、伊豆守(いづのかみ)よびよせ、「たとひこがねをまろめたる馬(むま)なり共(とも)、それほどに人(ひと)のこわ(こは)う物をおしむ(をしむ)べき様(やう)やある。すみやかにその馬(むま)六波羅(ろくはら)へつかはせ」とこその給(たま)ひけれ。伊豆守(いづのかみ)力(ちから)およばで、一首(いつしゆ)の歌(うた)をかきそへて六波羅(ろくはら)へつかはす。
恋(こひ)しくはきてもみよかし身(み)にそへるかげをばいかがはなちやるべき
宗盛卿(むねもりのきやう)歌(うた)の返事(へんじ)をばし給(たま)はで、「あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)馬(むま)や。馬(むま)はまことによい馬(むま)でありけり。されどもあまりに主(ぬし)がおしみ(をしみ)つるがにくきに、やがて主(ぬし)が名(な)のりをかなやきにせよ」とて、仲綱(なかつな)といふかなやきをして、むまやにたてられけり。客人(まらうと・まろうと)来(きたり)て、「きこえ候(さうらふ)名馬(めいば)をみ候(さうらは)ばや」と申(まうし)ければ、「その仲綱(なかつな)めに鞍(くら)おいてひきだせ、仲綱(なかつな)めのれ、仲綱(なかつな)めうて、はれ」な(ン)ど(など)の給(たま)ひければ、伊豆守(いづのかみ)これをつたへきき、「身(み)にかへておもふ馬(むま)なれども、権威(けんゐ)につゐ(つい)てとらるるだにもあるに、馬(むま)ゆへ(ゆゑ)仲綱(なかつな)が天下(てんが)のわらはれぐさとならんずるこそやすからね」とて、大(おほき)にいきどをら(いきどほら)れければ、三位(さんみ)入道(にふだう・にうだう)これをきき、伊豆守(いづのかみ)にむか(ッ)て、「何事(なにごと)のあるべきとおもひあなづ(ッ)て、平家(へいけ)の人(ひと)共(ども)が、さやうのしれ事(ごと)をいふにこそあんなれ。其(その)儀(ぎ)ならば、いのちいきてもなにかせん。便宜(びんぎ)をうかがふ(うかがう)てこそあらめ」とて、わたくしにはおもひもたたず、宮(みや)をすすめ申(まうし)たりけるとぞ、後(のち)にはきこえし。
これにつけても、天下(てんが)の人(ひと)、小松(こまつ)のおとどの御事(おんこと)をぞしのび申(まうし)ける。或(ある)時(とき)、小松殿(こまつどの)参内(さんだい)の次(ついで・つゐで)に、中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)の御方(おかた)へまいら(まゐら)せ給(たま)ひたりけるに、八尺(はつしやく)ばかりありけるくちなはが、おとどのさしぬきの左(ひだり)のりんをはひまはりけるを、重盛(しげもり)さはが(さわが)ば、女房達(にようばうたち)もさはぎ(さわぎ)、中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)もおどろかせ給(たまひ)なんずとおぼしめし、左(ひだり)の手(て)でくちなはのををさへ(おさへ)、右(みぎ)の手(て)でかしらをとり、直衣(なほし・なをし)の袖(そで)のうちにひきいれ、ち(ッ)ともさはが(さわが)ず、つゐ(つい)立(た・ッ)て、「六位(ろくゐ)や候(さうらふ)六位(ろくゐ)や候(さうらふ)」とめされければ、伊豆守(いづのかみ)、其(その)比(ころ)はいまだ衛府蔵人(ゑふのくらんど)でをはし(おはし)けるが、「仲綱(なかつな)」となの(ッ)てまいら(まゐら)れたりけるに、此(この)くちなはをたぶ。
給(たまはつ)て弓場殿(ゆばどの)をへて、殿上(てんじやう)の小庭(こには)にいでつつ、御倉(みくら)の小舎人(こどねり)をめして、「これ給(たま)はれ」といはれければ、大(おほき)にかしらをふ(ッ)てにげさりぬ。ちからをよば(およば)で、わが郎等(らうどう)競(きほふ・きをほ)の滝口(たきぐち)をめして、これをたぶ。給(たま)は(ッ)てすてて(ン)げり。そのあした小松殿(こまつどの)よい馬(むま)に鞍(くら)おいて、伊豆守(いづのかみ)のもとへつかはすとて、「さても昨日(きのふ)のふるまい(ふるまひ)こそ、ゆう(いう)に候(さうらひ)しか。是(これ)はのり一(いち)の馬(むま)で候(さうらふ)。夜陰(やいん・やゐん)に及(およん・をよん)で、陣外(ぢんぐわい)より傾城(けいせい)のもとへかよはれん時(とき)、もちゐらるべし」とてつかはさる。
伊豆守(いづのかみ)、大臣(おとど)の御返事(おんペんじ)なれば、「御馬(おんむま)かしこま(ッ)て給(たま)はり候(さうらひ)ぬ。昨日(きのふ)のふるまい(ふるまひ)は、還城楽(げんじやうらく)にこそにて候(さうらひ)しか」とぞ申(まう)されける。いかなれば、小松(こまつ)おとどはかうこそゆゆしうおはせしに、宗盛卿(むねもりのきやう)はさこそなからめ、あま(ッ)さへ(あまつさへ)人(ひと)のおしむ(をしむ)馬(むま)こひと(ッ)て、天下(てんが)の大事(だいじ)に及(および・をよび)ぬるこそうたてけれ。同(おなじき)十六日(じふろくにち)の夜(よ)に入(い・ッ)て、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう・にうだう)頼政(よりまさ)、嫡子(ちやくし)伊豆守(いづのかみ)仲綱(なかつな)、次男(じなん)源(げん)大夫判官(だいふのはんぐわん)兼綱(かねつな)、六条ノ蔵人(ろくでうのくらんど)仲家(なかいへ)、其(その)子(こ)蔵人(くらんど)太郎(たらう)仲光(なかみつ)以下(いげ)、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)三百余騎(さんびやくよき)館(たち)に火(ひ)かけやきあげて、三井寺(みゐでら)へこそまいら(まゐら)れけれ。
三位(さんみ)入道(にふだう・にうだう)の侍(さぶらひ)に、源三(げんざう)滝口(たきぐちの)競(きほふ・きをほ)といふ物(もの)あり。はせおくれてとどま(ッ)たりけるを、前(さきの)右大将(うだいしやう)、競(きほふ・きをほ)をめして、「いかになんぢは三位(さんみ)入道(にふだう・にうだう)のともをばせでとどま(ッ)たるぞ」との給(たまひ)ければ、競(きほふ・きをほ)畏(かしこまり)て申(まうし)ける、「自然(しぜん)の事(こと)候(さうら)はば、ま(ッ)さきかけて命(いのち)をたてまつらんとこそ、日来(ひごろ)は存(ぞんじ)て、候(さうらひ)つれども、何(なに)とおもはれ候(さうらひ)けるやらん、かうともおほせられ候(さうら)はず」。「抑(そもそも)朝敵(てうてき)頼政(よりまさ)法師(ぼふし・ぼうし)に同心(どうしん)せむとやおもふ。又(また)これにも兼参(けんざん)の物(もの)ぞかし。先途(せんど)後栄(こうえい・こうゑい)を存(ぞん)じて、当家(たうけ)に奉公(ほうこう)いたさんとやおもふ。ありのままに申(まう)せ」とこその給(たま)ひければ、競(きほふ・きをほ)涙(なみだ)をはらはらとながいて、「相伝(さうでん)のよしみはさる事(こと)にて候(さうら)へども、いかが朝敵(てうてき)となれる人(ひと)に同心(どうしん)をばし候(さうらふ)べき。
殿中(てんちゆう・てんちう)に奉公(ほうこう)仕(つかまつら)うずる候(ざうらふ)」と申(まうし)ければ、「さらば奉公(ほうこう)せよ。頼政(よりまさ)法師(ぼふし・ぼうし)がしけん恩(おん・をん)には、ち(ッ)ともおとるまじきぞ」とて、入(いり)給(たま)ひぬ。さぶらひには、「競(きほふ・きをほ)はあるか」。「候(さうらふ)」。「競(きほふ)はあるか」。「候(さうらふ)」とて、あしたより夕(ゆふべ)に及(およぶ・をよぶ)まで祗候(しこう・しかう)す。やうやう日(ひ)もくれければ、大将(だいしやう)いでられたり。競(きほふ)かしこま(ッ)て申(まうし)けるは、「三位(さんみ)入道殿(にふだうどの・にうだうどの)三井寺(みゐでら)にときこえ候(さうらふ)。さだめて打手(うつて)むけられ候(さうら)はんずらん。心(こころ)にくうも候(さうら)はず。
三井寺(みゐでら・みいでら)法師(ぼふし・ぼうし)、さては渡辺(わたなべ)のしたしいやつ原(ばら)こそ候(さうらふ)らめ。ゑりうち(えりうち)な(ン)ど(など)もし候(さうらふ)べきに、の(ッ)て事(こと)にあふべき馬(むま)の候(さうらひ)つる〔を〕、したしいやつめにぬすまれて候(さうらふ)。御馬(おんむま)一疋(いつぴき)くだしあづかるべうや候(さうらふ)らん」と申(まうし)ければ、大将(だいしやう)「も(ッ)ともさるべし」とて、白葦毛(しらあしげ)なる馬(むま)の煖廷(なんれう)とて秘蔵(ひさう)せられたりけるに、よい鞍(くら)おいてぞたうだりける。競(きほふ)やかたにかへ(ッ・かへつ)て、「はや日(ひ)のくれよかし。此(この)馬(むま)に打乗(うちのり)て三井寺(みゐでら)へはせまいり(まゐり)、三位(さんみ)入道(にふだう・にうだう)殿(どの)のま(ッ)さきかけて打死(うちじに)せん」とぞ申(まうし)ける。
日(ひ)もやうやうくれければ、妻子共(さいしども)かしこここへたちしのばせて、三井寺(みゐでら)へ出立(いでたち)ける心(こころ)のうちこそむざんなれ。ひやうもんの狩衣(かりぎぬ)の菊(きく)とぢおほきらかにしたるに、重代(ぢゆうだい・ぢうだい)のきせなが、ひおどし(ひをどし)のよろひに星(ほし)じろの甲(かぶと)の緒(を・お)をしめ、いか物(もの)づくりの大太刀(おほだち)はき、廿四(にじふし)さいたる大(おほ)なかぐろの矢(や)おひ、滝口(たきぐち)の骨法(こつぽふ・こつぽう)わすれじとや、鷹(たか)の羽(は)にてはいだりける的矢(まとや)一手(ひとて)ぞさしそへたる。しげどうの弓(ゆみ)も(ッ)て、煖廷(なんれう)にうちのり、のりかへ一騎(いつき)うちぐし、とねり男(をとこ・おとこ)にもたてわきばさませ、屋形(やかた)に火(ひ)かけやきあげて、三井寺(みゐでら)へこそ馳(はせ)たりけれ。
六波羅(ろくはら)には、競(きほふ・きをほ)が宿所(しゆくしよ)より火(ひ)いできたりとて、ひしめきけり。大将(だいしやう)いそぎいでて、「競(きほふ)はあるか」とたづね給(たま)ふに、「候(さうら)はず」と申(まう)す。「すわ、きやつを手(て)のべにして、たばかられぬるは。お(ッ)かけてうて」との給(たま)へども、競(きほふ)はもとよりすぐれたるつよ弓(ゆみ)せい兵(びやう)、矢(や)つぎばやの手(て)きき、大(だい)ぢからの甲(かう)の物(もの)、「廿四(にじふし)さいたる矢(や)でまづ廿四人(にじふしにん)は射(い・ゐ)ころされなんず。おとなせそ」とて、むかふ物(もの)こそなかりけれ。三井寺(みゐでら)にはおりふし(をりふし)競(きほふ)が沙汰(さた)ありけり。渡辺党(わたなべたう)「競(きほふ・きをほ)をばめしぐすべう候(さうらひ)つる物(もの)を。六波羅(ろくはら)にのこりとどま(ッ)て、いかなるうき目(め)にかあひ候(さうらふ)らん」と申(まうし)ければ、三位(さんみ)入道(にふだう・にうだう)心(こころ)をし(ッ)て、「よもその物(もの)、無台(むたい)にとらへからめられはせじ。入道(にふだう)に心(こころ)ざしふかい物(もの)也(なり)。いまみよ、只今(ただいま)まいら(まゐら)(ン)ずるぞ」との給(たま)ひもはてねば、競(きほふ)つ(ッ)といできたり。
「さればこそ」とぞの給(たま)ひける。競(きほふ)かしこま(ッ)て申(まうし)けるは、「伊豆守殿(いづのかみどの)の木(こ)のしたがかはりに、六波羅(ろくはら)の煖廷(なんれう)こそと(ッ)てまい(ッ・まゐつ)て候(さうら)へ。まいらせ(まゐらせ)候(さうら)はん」とて、伊豆守(いづのかみ)にたてまつる。伊豆守(いづのかみ)なのめならず悦(よろこび)て、やがて尾髪(をかみ・おかみ)をきり、かなやきして、次(つぎ)の夜(よ)六波羅(ろくはら)へつかはし、夜半(やはん)ばかり門(もん)のうちへぞおひいれたる。馬(むま)やにい(ッ)て馬(むま)どもにくひあひければ、とねりおどろきあひ、「煖廷(なんれう)がまい(ッ・まゐつ)て候(さうらふ)」と申(まう)す。大将(だいしやう)いそぎいでて見(み)給(たま)へば、「昔(むかし)は煖廷(なんれう)、今(いま)は平(たひら・たいら)の宗盛(むねもり)入道(にふだう・にうだう)」といふかなやきをぞしたりける。大将(だいしやう)「やすからぬ競(きほふ)めを、手(て)のびにしてたばかられぬる事(こと)こそ遺恨(ゐこん・いこん)なれ。今度(こんど)三井寺(みゐでら)へよせたらんには、いかにもしてまづ競(きほふ)めをいけどりにせよ。のこぎりで頸(くび)きらん」とて、おどり(をどり)あがりおどり(をどり)あがりいかられけれども、南丁(なんちやう)が尾(を)かみもおい(おひ)ず、かなやきも又(また)うせざりけり。 
山門牒状 (さんもんへのてふじやう) 

 

三井寺(みゐでら)には貝鐘(かいかね)ならいて、大衆(だいしゆ)僉議(せんぎ)す。「近日(きんじつ)世上(せじやう)の体(てい)を案(あん)ずるに、仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)の衰微(すいび)、王法(わうぼふ・わうぼう)の牢籠(らうろう)、まさに此(この)時(とき)にあたれり。今度(こんど)清盛(きよもり)入道(にふだう・にうだう)が暴悪(ぼうあく)をいましめず(ン)ば、何日(いづれのひ)をか期(ご)すべき。宮(みや)ここに入御(じゆぎよ)の御事(おんこと)、正八幡宮(しやうはちまんぐう)の衛護(ゑご)、新羅大明神(しんらだいみやうじん)の冥助(みやうじよ)にあらずや。
天衆地類(てんじゆぢるい)も影向(やうがう)をたれ、仏力神力(ぶつりきじんりき)も降伏(がうぶく)をくはへまします事(こと)などかなかるべき。抑(そもそも)北嶺(ほくれい)は円宗(ゑんしゆう・ゑんしう)一味(いちみ)の学地(がくぢ)、南都(なんと)は夏臈得度(げらうとくど)の戒定(かいぢやう)也(なり)。
牒奏(てふそう・てうそう)のところに、などかくみせざるべき」と、一味(いちみ)同心(どうしん)に僉議(せんぎ)して、山(やま)へも奈良(なら)へも牒状(てふじやう・てうじやう)をこそおくりけれ。山門(さんもん)への状云(じやうにいはく)、園城寺(をんじやうじ)牒(てふ・てう)す、延暦寺(えんりやくじ)の衙(が)殊(こと)に合力(かふりよく・かうりよく)をいたして、当寺(たうじ)の破滅(はめつ)を助(たすけ)られんとおもふ状(じやう)右(みぎ)入道(にふだう・にうだう)浄海(じやうかい)、ほしいままに王法(わうぼふ・わうぼう)をうしなひ、仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)をほろぼさんとす。愁歎(しうたん)無極(きはまりなき)ところに、去(さんぬ)る十五日(じふごにち)の夜(よ)、一院(いちゐん)第二(だいに)の王子(わうじ)、ひそかに入寺(にふじ・にうじ)せしめ給(たま)ふ。爰(ここに)院宣(ゐんぜん)と号(かう)していだしたてまつるべきよし、せめありといへ共(ども)、出(いだ)したてまつるにあたはず。
仍(よつ)て官軍(くわんぐん)をはなちつかはすべきむね、聞(きこ)へ(きこえ)あり。当寺(たうじ)の破滅(はめつ)、まさに此(この)時(とき)にあたれり。諸衆(しよしゆう・しよしう)何(なん)ぞ愁歎(しうたん)せざらんや。就中(なかんづく)に延暦(えんりやく)・園城(をんじやう)両寺(りやうじ)は、門跡(もんぜき)二(ふたつ)に相分(あひわか)るといへども、学(がく)するところは是(これ)円頓(ゑんどん)一味(いちみ)の教門(けうもん)におなじ。たとへば鳥(とり)の左右(さいう・さゆう)の翅(つばさ)の如(ごと)し。
又(また)車(くるま)の二(ふたつ)の輪(わ)に似(に)たり。一方(いつぱう)闕(か)けんにおいては、いかでかそのなげきなからんや。者(てへれば)ことに合力(かふりよく・かうりよく)いたして、当寺(たうじ)の破滅(はめつ)を助(たすけ)られば、早(はや)く年来(ねんらい)の遺恨(ゐこん・いこん)を忘(わすれ)て、住山(ぢゆうさん・ぢうさん)の昔(むかし)に復(ふく)せん。衆徒(しゆと)の僉議(せんぎ)かくの如(ごと)し。仍(よつて)牒奏(てふそう・てうそう)件(くだん)の如(ごと)し。治承(ぢしよう・ぢせう)四年(しねん)五月(ごぐわつ)十八日(じふはちにち)大衆等(だいしゆら)とぞかいたりける。 
南都牒状 (なんとてふじやう) 

 

山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)此(この)状(じやう)を披見(ひけん)して、「こはいかに、当山(たうざん)の末寺(まつじ)でありながら、鳥(とり)の左右(さいう・さゆう)の翅(つばさ)の如(ごと)し、又(また)車(くるま)の二(ふたつ)の輪(わ)に似(に)たりと、おさへて書(かく)でう奇怪(きくわい)也(なり)」とて、返牒(へんでふ・へんでう)ををくら(おくら)ず。其上(そのうへ)入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)、天台座主(てんだいざす)明雲大僧正(めいうんだいそうじやう)に衆徒(しゆと)をしずめらるべきよしの給(たま)ひければ、座主(ざす)いそぎ登山(とうざん)して大衆(だいしゆ)をしづめ給(たま)ふ。かかりし間(あひだ・あいだ)、宮(みや)の御方(おんかた)へは不定(ふぢやう)のよしをぞ申(まうし)ける。又(また)入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)、近江米(あふみごめ)二万石(にまんごく)、北国(ほつこく)のおりのべぎぬ三千疋(さんぜんびき)、往来(わうらい)によせらる。これをたにだに峯々(みねみね)にひかれけるに、俄(にはか)の事(こと)ではあり、一人(いちにん)してあまたをとる大衆(だいしゆ)もあり、又(また)手(て)をむなしうして一(ひとつ)もとらぬ衆徒(しゆと)もあり。なに物(もの)のしわざにや有(あり)けん、落書(らくしよ)をぞしたりける。
山法師(やまぼふし・やまぼうし)おりのべ衣(ごろも)うすくして恥(はぢ)をばえこそかくさざりけれ
又(また)きぬにもあたらぬ大衆(だいしゆ)のよみたりけるやらん、
おりのべを一(ひと)きれもえぬわれらさへうすはぢをかくかずに入(いる)かな
又(また)南都(なんと)への状(じやう)に云(いはく)、園城寺(をんじやうじ)牒(てふ・てう)す、興福寺ノ(こうぶくじの)衙(が)殊(こと)に合力(かふりよく・かうりよく)をいたして、当寺(たうじ)の破滅(はめつ)を助(たすけ)られんと乞(こふ・こう)状(じやう)右(みぎ)仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)の殊勝(しゆせう)なる事(こと)は、王法(わうぼふ・わうぼう)をまぼらんがため、王法(わうぼふ・わうぼう)又(また)長久(ちやうきう)なる事(こと)は、すなはち仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)による。
爰(ここ)に入道(にふだう・にうだう)前太政大臣(さきのだいじやうだいじん)平(たひらの)朝臣(あそん・あ(ツ)そん)清盛公(きよもりこう)、法名(ほふみやう・ほうみやう)浄海(じやうかい)、ほしいままに国威(こくゐ)をひそかにし、朝政(てうせい)をみだり、内(うち)につけ外(ほか)につけ、恨(うらみ)をなし歎(なげき)をなす間(あひだ・あいだ)、今月(こんげつ)十五日ノ(じふごにちの)夜(よ)、一院(いちゐん)第二(だいに)の王子(わうじ)、不慮(ふりよ)の難(なん)をのがれんがために、にはかに入寺(にふじ・にうじ)せしめ給(たま)ふ。ここに院宣(ゐんぜん)と号(かう)して出(いだ)したてまつるべきむね、せめありといへども、衆徒(しゆと)一向(いつかう)これををしみ奉(たてまつ)る。仍(よつて)彼(かの)禅門(ぜんもん)、武士(ぶし)を当寺(たうじ)にいれんとす。仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)と云(いひ)王法(わうぼふ・わうぼう)〔と〕云(いひ)、一時(いちじ)にまさに破滅(はめつ)せんとす。昔(むかし)唐(たう)の恵正天子(ゑしやうてんし)、軍兵(ぐんびやう)をも(ッ)て仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)をほろぼさしめし時(とき)、清凉山(せいりやうざん)の衆(しゆ)、合戦(かつせん)をいたしてこれをふせく。王権(わうけん)猶(なほ・なを)かくの如(ごと)し。何(なんぞ)况(いはん)や謀叛(むほん)八逆(はちぎやく)の輩(ともがら)においてをや。
就中(なかんづく)に南京(なんきやう)は例(れい)なくて罪(つみ)なき長者(ちやうじや)を配流(はいる)せらる。今度(こんど)にあらずは、何日(いづれのひ)か会稽(くわいけい)をとげん。
ねがはくは、衆徒(しゆと)、内(うち)には仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)の破滅(はめつ)をたすけ、外(ほか)には悪逆(あくぎやく)の伴類(はんるい)を退(しりぞ)けば、同心(どうしん)のいたり本懐(ほんぐわい)に足(たん)ぬべし。衆徒(しゆと)の僉議(せんぎ)かくの如(ごと)し。仍(よつて)牒奏(てふそう・てうそう)如件(くだんのごとし)。治承(ぢしよう・ぢせう)四年(しねん)五月(ごぐわつ)十八日(じふはちにち)大衆等(だいしゆら)とぞかいたりける。南都(なんと)の大衆(だいしゆ)、此(この)状(じやう)を披見(ひけん)して、やがて返牒(へんでふ・へんじやう)ををくる(おくる)。
其(その)返牒(へんでふ・へんじやう)に云(いはく)、興福寺(こうぶくじ)牒(てふ・てう)す、園城寺(をんじやうじ)の衙(が)来牒(らいてふ・らいてう)一紙(いつし)に載(のせ)られたり。右(みぎ)入道(にふだう・にうだう)浄海(じやうかい)が為(ため)に、貴寺(きじ)の仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)をほろぼさんとするよしの事(こと)。牒(てふ・てう)す、玉泉(ぎよくせん)玉花(ぎよくくわ)、両家(りやうか)の宗義(しゆうぎ・しうぎ)を立(たつ)といへども、金章金句(きんしやうきんく)おなじく一代(いちだい)教文(けうもん)より出(いで)たり。南京北京(なんきやうほくきやう)ともにも(ッ)て如来(によらい)の弟子(でし)たり。
自寺他寺(じじたじ)互(たがひ)に調達(てうだつ)が魔障(ましやう)を伏(ふく)すべし。抑(そもそも)清盛(きよもり)入道(にふだう・にうだう)は平氏(へいじ)の糟糠(さうかう)、武家(ぶけ)の塵芥(ちんがい)なり。祖父(そぶ)正盛(まさもり)蔵人(くらんど)五位(ごゐ)の家(いへ)に仕(つか)へて、諸国受領(しよこくじゆりやう)の鞭(むち)をとる。大蔵卿(おほくらのきやう)為房(ためふさ)賀州(かしう)刺史(しし)のいにしへ、検非所(けんびしよ)に補(ふ)し、修理大夫(しゆりのだいぶ)顕季(あきすゑ)播磨ノ大守(はりまのたいしゆ)た(ッ)し昔(むかし)、厩ノ(むまやの)別当職(べつたうしよく)に任(にん)ず。しかるを親父(しんぶ)忠盛(ただもり)昇殿(しようでん・せうでん)をゆるされし時(とき)、都鄙(とひ)の老少(らうせう)みな蓬戸(ほうこの)瑕瑾(かきん)ををしみ、内外(ないげ)の栄幸(えいかう・ゑいかう)をのをの(おのおの)馬台(ばたい)の辰門(しんもん)に啼(な)く。忠盛(ただもり)青雲(せいうん)の翅(つばさ)を刷(かいつくろう)といへども、世(よ)の民(たみ)なを(なほ)白屋(はくをく)の種(たね)をかろんず。名(な)ををしむ青侍(せいし)、其(その)家(いへ)にのぞむ事(こと)なし。
しかるを去(さんぬ)る平治(へいぢ)元年(ぐわんねん)十二月(じふにぐわつ)、太上天皇(だいじやうてんわう)一戦(いつせん)の功(こう)を感(かん)じて、不次(ふし)の賞(しやう)を授(さづけ)給(たま)ひしよりこのかた、たかく相国(しやうこく)にのぼり、兼(かね)て兵杖(ひやうぢやう)を給(たま)はる。男子(なんし)或(あるい・あるひ)は台階(たいかい)をかたじけなうし、或(あるい・あるひ)は羽林(うりん)につらなる。女子(によし)或(ある)は中官職(ちゆうぐうしき・ちうぐうしき)にそなはり、或(ある)は准后(じゆんごう)の宣(せん)を蒙(かうぶ)る。群弟庶子(くんていそし)みな棘路(きよくろ)にあゆみ、其(その)孫(まご)彼(かの)甥(をひ・おい)ことごとく竹符(ちくふ)をさく。
しかのみならず、九州(きうしう)を統領(とうりやう)し、百司(はくし)を進退(しんだい)して、奴婢(ぬび)みな僕従(ぼくじゆう)となす。一毛(いちもう)心(こころ)にたがへば、王侯(わうこう)といへどもこれをとらへ、片言(へんげん)耳(みみ)にさかふれば、公卿(くぎやう)といへ共(ども)これをからむ。これによ(ッ)て或(あるい・あるひ)は一旦(いつたん)の身命(しんみやう)をのべんがため、或(あるい・あるひ)は片時(へんし)の凌蹂(りようじう・れうじう)をのがれんとおも(ッ)て万乗(ばんじよう・ばんぜう)の聖主(せいしゆ)猶(なほ・なを)緬転(めんてん)の媚(こび)をなし、重代(ぢゆうだい・ぢうだい)の家君(かくん)かへ(ッ)て(かへつて)膝行(しつかう)の礼(れい)をいたす。
代々(だいだい)相伝(さうでん)の家領(けりやう・けれう)を奪(うば)ふといへども、しやうさいもおそれて舌(した)をまき、みやみや相承(さうじよう・さうぜう)の庄園(しやうゑん)をとるといへ共(ども)、権威(けんゐ)にはばか(ッ)て物(もの)いふ事(こと)なし。勝(かつ)にのるあまり、去年(こぞ)の冬(ふゆ)十一月(じふいちぐわつ)、太上皇(たいしやうくわう)のすみかを追補(ついふ)し、博陸公(はくりくこう)の身(み)ををし(おし)ながす。反逆(ほんぎやく)の甚(はなはだ)しい事(こと)、誠(まこと)に古今(ここん)に絶(たへ)たり。其(その)時(とき)我等(われら)、すべからく賊衆(ぞくしゆ)にゆき向(むかふ)て其(その)罪(つみ)を問(とふ)べしといへ共(ども)、或(あるい・あるひ)は神慮(しんりよ)にあひはばかり、或(あるい)は綸言(りんげん)と称(せう)するによ(ッ)て、鬱陶(うつたう)をおさへ光陰(くわういん・くわうゐん)を送(おく・をく)るあひだ、かさねて軍兵(ぐんびやう)ををこし(おこし)て、一院(いちゐん)第二(だいに)の親王宮(しんわうぐう)をうちかこむところに、八幡(はちまん)三所(さんじよ)・春日(かすが)の大明神(だいみやうじん)、ひそかに影向(やうがう)をたれ、仙蹕(せんひつ)をささげたてまつり、貴寺(きじ)におくりつけて、新羅(しんら)のとぼそにあづけたてまつる。
王法(わうぼふ・わうぼう)つくべからざるむねあきらけし。随(したが・ッ)て又(また)貴寺(きじ)身命(しんみやう)をすてて守護(しゆご)し奉(たてまつ)る条(でう)、含識(がんじき)のたぐひ、誰(たれ)か随喜(ずいき)せざらん。我等(われら)遠拭(ゑんゐき)にあ(ッ)て、そのなさけを感(かん)ずるところに、清盛(きよもり)入道(にふだう・にうだう)尚(なほ・なを)胸気(きようき・けうき)ををこし(おこし)て、貴寺(きじ)に入(い)らんとするよし、ほのかに承(うけたまはり)及(およぶ・をよぶ)をも(ッ)て、兼(かね)て用意(ようい)をいたす。十八日(じふはちにち)辰(たつの)一点(いつてん)に大衆(だいしゆ)ををこし(おこし)、諸寺(しよじ)に牒奏(てふそう・てうそう)し、末寺(まつじ)に下知(げぢ)し、軍士(ぐんし)をゑ(え)て後(のち)、案内(あんない)を達(たつ)せんとするところに、青鳥(せいてう)飛来(とびきたり)てはうかんをなげたり。数日(すじつ)の鬱念(うつねん)一時(いつし)に解散(げさん)す。彼(か)の唐家(たうか)清凉(せいりやう)一山(いつさん)の蒭(ひつしゆ・ひ(ツ)しゆ)、猶(なほ)ぶそうの官兵(くわんびやう)を帰(か)へす。况(いはん)や和国(わこく)南北(なんぼく)両門(りやうもん)の衆徒(しゆと)、なんぞ謀臣(ぼうしん)の邪類(じやるい)をはらはざらむや。よくりやうゑん左右(さう)の陣(ぢん)をかためて、よろしく我等(われら)が近発(きんぽつ)のつげを待(まつ)べし。状(じやう)を察(さつ)して疑貽(ぎたい)をなす事(こと)なかれ。も(ッ)て牒(てふ・てう)す。治承(ぢしよう・ぢせう)四年(しねん)五月(ごぐわつ)廿一日(にじふいちにち)大衆等(だいしゆら)とぞかいたりける。 
永僉議 (ながのせんぎ) 

 

三井寺(みゐでら)には又(また)大衆(だいしゆ)おこ(ッ)て僉議(せんぎ)す。「山門(さんもん)は心(こころ)がはりしつ。南都(なんと)はいまだまいら(まゐら)ず。此(この)事(こと)のびてはあしかりなん。いざや六波羅(ろくはら)におしよせて、夜打(ようち)にせん。其(その)儀(ぎ)ならば、老少(らうせう)二手(ふたて)にわか(ッ)て老僧(らうそう)どもは如意(によい)が峯(みね)より搦手(からめで)にむかふべし。足(あし)がる共(ども)四五百人(しごひやくにん)さきだて、白河(しらかは)の在家(ざいけ)に火(ひ)をかけてやきあげば、在京人(ざいきやうにん)六波羅(ろくはら)の武士(ぶし)、「あはや事(こと)いできたり」とて、はせむかはんずらん。其(その)時(とき)岩坂(いはさか)・桜本(さくらもと)にひ(ッ・ひつ)かけひ(ッ・ひつ)かけ、し(ン)ばし(しばし)ささへてたたかはんまに、大手(おほて)は伊豆守(いづのかみ)を大将軍(たいしやうぐん)にて、悪僧共(あくそうども)六波羅(ろくはら)におしよせ、風(かぜ)うへに火(ひ)かけ、一(ひと)もみもうでせめんに、などか太政入道(だいじやうにふだう・だいじやうにうだう)やきいだいてうたざるべき」とぞ僉議(せんぎ)しける。
其(その)なかに、平家(へいけ)のいのりしける一如房(いちによばう)の阿闍梨(あじやり)真海(しんかい)、弟子(でし)同宿(どうじゆく)数十人(すじふにん)ひきぐし、僉議(せんぎ)の庭(には)にすすみいでて申(まうし)けるは、「かう申(まう)せば平家(へいけ)のかたうどとやおぼしめされ候(さうらふ)らん。たとひさも候(さうら)へ、いかが衆徒(しゆと)の儀(ぎ)をもやぶり、我(わが)寺(てら)の名(な)をもおしま(をしま)で候(さうらふ)べき。昔(むかし)は源平(げんぺい)左右(さう)にあらそひて、朝家(てうか)の御(おん)まぼりたりしかども、ちかごろは源氏(げんじ)の運(うん)かたぶき、平家(へいけ)世(よ)をと(ッ)て廿(にじふ)余(よ)年(ねん)、天下(てんが)になびかぬ草木(くさき)も候(さうら)はず。内々(ないない)のたちのありさまも、小勢(こぜい)にてはたやすうせめおとしがたし。
さればよくよく外(ほか)にはかり事(こと)をめぐらして、勢(せい)をもよほし、後日(ごにち)によせさせ給(たま)ふべうや候(さうらふ)らん」と、程(ほど)をのばさんがために、ながながとぞ僉議(せんぎ)したる。ここに乗円房(じようゑんばう・ぜうゑんばう)の阿闍梨(あじやり)慶秀(けいしう)といふ老僧(らうそう)あり。衣(ころも)のしたに腹巻(はらまき)をき、大(おほき)なるうちがたなまへだれにさし、ほうし(ほふし)がしらつつむ(つつん)で、白柄(しらゑ)の大長刀(なぎなた)杖(つゑ・つえ)につき、僉議(せんぎ)の庭(には)にすすみいでて申(まうし)けるは、「証拠(しようこ)を外(ほか)にひくべからず。我等(われら)の本願(ほんぐわん)天武天皇(てんむてんわう)は、いまだ東宮(とうぐう)の御時(おんとき)、大友(おほとも)の皇子(わうじ)にはばからせ給(たま)ひて、よし野(の)のおくをいでさせ給(たま)ひ、大和国(やまとのくに)宇多郡(うだのこほり)をすぎさせ給(たま)ひけるには、其(その)勢(せい)はつかに十七(じふしち)騎(き)、されども伊賀(いが)伊勢(いせ)にうちこへ(こえ)、美乃(みの)尾張(をはり・おはり)の勢(せい)をも(ッ)て、大友(おほとも)の皇子(わうじ)をほろぼして、つゐに(つひに)位(くらゐ)につかせ給(たま)ひき。
「窮鳥(きうてう)懐(ふところ)に入(いる)。人輪(じんりん)これをあはれむ」といふ本文(ほんもん)あり。自余(じよ)はしらず、慶秀(けいしう)が門徒(もんと)においては、今夜(こよひ)六波羅(ろくはら)におしよせて、打死(うちじに)せよや」とぞ僉議(せんぎ)しける。円満院(ゑんまんゐんの)大輔(たいふ・たゆう)源覚(げんかく)、すすみいでて申(まうし)けるは、「僉議(せんぎ)はしおほし。夜(よ)のふくるに、いそげやすすめ」とぞ申(まうし)ける。 
大衆揃 (だいしゆぞろへ) 

 

搦手(からめで)にむかふ老僧(らうそう)ども、大将軍(たいしやうぐん)には、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう・にうだう)頼政(よりまさ)、乗円房ノ(じようゑんばうの・ぜうゑんばうの)阿闍梨(あじやり)慶秀(けいしう)、律成房ノ阿闍梨(りつじやうばうのあじやり)日胤(にちゐん)、帥(そつの)法印(ほふいん・ほうゐん)禅智(ぜんち)、禅智(ぜんち)が弟子(でし)義宝(ぎほう)・禅永(ぜんやう・ぜんえう)をはじめとして、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)一千(いつせん)人(にん)、手々(てんで・て(ン)で)にたい松(まつ)も(ッ)て如意(によい)が峯(みね)へぞむかひける。大手(おほて)の大将軍(たいしやうぐん)には嫡子(ちやくし)伊豆守(いづのかみ)仲綱(なかつな)、次男(じなん)源(げん)大夫(だいふの)判官(はんぐわん)兼綱(かねつな)、六条蔵人(ろくでうのくらんど)仲家(なかいへ)、其(その)子(こ)蔵人(くらんど)太郎(たらう)仲光(なかみつ)、大衆(だいしゆ)には円満院(ゑんまんゐん)の大輔(たいふ・たゆう)源覚(げんかく)、成喜院(じやうきゐん)の荒土佐(あらどさ)、律成房ノ伊賀公(りつじやうばうのいがこう)、法輪院(ほふりんゐん・ほうりんゐん)の鬼佐渡(おにさど)、これらはちからのつよさ、うち物(もの)も(ッ)ては鬼(おに)にも神(かみ)にもあはふ(う)どいふ、一人当千(いちにんたうぜん・いちにんとうぜん)のつは物(もの)也(なり)。
平等院(びやうどうゐん)には因幡(いなばの)堅者(りつしや)荒大夫(あらだいふ)、角ノ(すみの)六郎房(ろくらうばう)、島(しま)の阿闍梨(あじやり)、つつ井(ゐ)法師(ぼふし・ぼうし)に卿ノ阿闍梨(きやうのあじやり)、悪少納言(あくせうなごん)、北ノ院(きたのゐん)には金光院(こんくわうゐん)の六天狗(ろくてんぐ)、式部(しきぶ)・大輔(たいふ・たゆう)・能登(のと)・加賀(かが)・佐渡(さど)・備後等(びんごとう)也(なり)。松井(まつゐ)の肥後(ひご・ひ(ン)ご)、証南院(しやうなんゐん)の筑後(ちくご)、賀屋ノ筑前(がやのちくぜん)、大矢(おほや)の俊長(しゆんちやう)、五智院(ごちゐん)の但馬(たじま)、乗円房ノ(じようゑんばうの・ぜうゑんばうの)阿闍梨(あじやり)慶秀(けいしう)が房人(ばうにん)六十人(ろくじふにん)の内(うち)、加賀光乗(かがくわうぜう)、刑部春秀(ぎやうぶしゆんしう)、法師原(ほふしばら・ほうしばら)には一来(いちらい)法師(ほふし・ほうし)にしかざりけり。
堂衆(たうじゆ)にはつつ井(ゐ)の浄妙明秀(じやうめうめいしう)、小蔵ノ尊月(をぐらのそんぐわつ)、尊永(そんゑい)・慈慶(じけい)・楽住(らくぢゆう・らくぢう)、かなこぶしの玄永(げんやう・げんゑう)、武士(ぶし)には渡辺ノ省(わたなべのはぶく)、播磨ノ次郎授(はりまのじらうさづく)、薩摩ノ兵衛(さつまのひやうゑ)、長七唱(ちやうじつとなふ)、競ノ(きほふの・きをほの)滝口(たきぐち)、与ノ(あたふの)右馬允(むまのじよう・むまのぜう)、続源太(つづくのげんた)、清(きよし)・勧(すすむ)を先(さき)として、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)一千五百(いつせんごひやく)余人(よにん)、三井寺(みゐでら)をこそう(ッ)たち(うつたち)けれ。宮(みや)いらせ給(たま)ひて後(のち)は、大関小関(おほぜきこぜき)ほりき(ッ)て、堀(ほり)ほりさかも木(ぎ)ひいたれば、堀(ほり)に橋(はし)わたし、さかも木(ぎ)ひきのくるな(ン)ど(など)しける程(ほど)に、時剋(じこく)おしうつ(ッ)て、関地(せきぢ)のには鳥(とり)なきあへり。
伊豆守(いづのかみ)の給(たま)ひけるは、「ここで鳥(とり)ないては、六波羅(ろくはら)は白昼(はくちう)にこそよせんずれ。いかがせん」との給(たま)へば、円満院(ゑんまんゐんの)大輔(たいふ・たゆう)源覚(げんかく)、又(また)さきのごとくすすみいでて僉議(せんぎ)しけるは、「昔(むかし)秦(しん)の昭王(せうわう)のとき、孟嘗君(まうしやうくん)めしいましめられたりしに、きさきの御(おん)たすけによ(ッ)て、兵物(つはもの)三千人(さんぜんにん)をひきぐして、にげまぬかれけるに、凾谷関(かんこくのせき)にいたれり。鶏(にはとり)なかぬかぎりは関(せき)の戸(と)をひらく事(こと)なし。孟嘗君(まうしやうくん)が三千(さんぜん)の客(かく)のなかに、てんかつといふ兵物(つはもの)あり。鶏(にはとり)のなくまねをありがたくしければ、鶏鳴(けいめい)ともいはれけり。彼(かの)鶏鳴(けいめい)たかきところにはしりあがり、にはとりのなくまねをしたりければ、関路(せきぢ)のにはとりききつたへてみななきぬ。
其(その)時(とき)関(せき)もり鳥(とり)のそらねにばかされて、関(せき)の戸(と)あけてぞとをし(とほし)ける。これもかたきのはかり事(こと)にやなかすらん。ただよせよ」とぞ申(まうし)ける。かかりし程(ほど)に五月(さつき)のみじか夜(よ)、ほのぼのとこそあけにけれ。伊豆守(いづのかみ)の給(たま)ひけるは、「夜(よ)うちにこそさりともとおもひつれども、ひるいくさにはかなふまじ。あれよびかへせや」とて、搦手(からめで)、如意(によい)が峯(みね)よりよびかへす。大手(おほて)は松坂(まつざか)よりと(ッ)てかへす。若大衆(わかだいしゆ)ども「これは一如房(いちによばう)阿闍梨(あじやり)がなが僉議(せんぎ)にこそ夜(よ)はあけたれ。おしよせて其(その)坊(ばう)きれ」とて、坊(ばう)をさんざんにきる。ふせくところの弟子(でし)、同宿(どうじゆく)数十人(すじふにん)うたれぬ。
一如坊阿(いちによばう)闍梨(あじやり)、はうはう(はふはふ)六波羅(ろくはら)にまい(ッ・まゐつ)て、老眼(らうがん)より涙(なみだ)をながいて此(この)由(よし)う(ッ)たへ(うつたへ)申(まうし)けれ共(ども)、六波羅(ろくはら)には軍兵(ぐんびやう)数万騎(すまんぎ)馳(はせ)あつま(ッ)て、さはぐ(さわぐ)事(こと)もなかりけり。同(おなじき)廿三日(にじふさんにち)の暁(あかつき)、宮(みや)は「この寺(てら)ばかりではかなう(かなふ)まじ。山門(さんもん)は心(こころ)がはりしつ。南都(なんと)はいまだまいら(まゐら)ず。後日(ごにち)にな(ッ)てはあしかりなん」とて、三井寺(みゐでら)をいでさせ給(たま)ひて、南都(なんと)へいらせおはします。此(この)宮(みや)は蝉(せみ)をれ・小枝(こえだ)ときこえし漢竹(かんちく)の笛(ふえ・ふゑ)をふたつもたせ給(たま)へり。
かのせみおれ(せみをれ)と申(まうす)は、昔(むかし)鳥羽院(とばのゐん)の御時(おんとき)、こがねを千両(せんりやう)宋朝(そうてう)の御門(みかど)へおくらせ給(たまひ)たりければ、返報(へんぽう)とおぼしくて、いきたる蝉(せみ)のごとくにふしのついたる笛竹(ふえたけ・ふゑたけ)をひとよおくらせ給(たま)ふ。「いかがこれ程(ほど)の重宝(ちようほう・てうほう)をさうなうはゑらすべき」とて、三井寺(みゐでら)の大進僧正(だいしんそうじやう)覚宗(かくしゆう・かくしう)に仰(おほせ)て、壇上(だんじやう)にた(ッ)て、七日(しちにち)加持(かぢ)してゑらせ給(たま)へる御笛(おんふえ・おんふゑ)也(なり)。或(ある)時(とき)、高松(たかまつ)の中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)実平卿(さねひらのきやう)まい(ッ・まゐつ)て、この御笛(おんふえ・おんふゑ)をふかれけるが、よのつねの笛(ふえ・ふゑ)のやうにおもひはすれ(わすれ)て、ひざよりしもにおかれたりければ、笛(ふえ・ふゑ)やとがめけん、其(その)時(とき)蝉(せみ)をれにけり。
さてこそ蝉(せみ)をれとはつけられたれ。笛(ふえ・ふゑ)のおん器量(きりやう)たるによ(ッ)て、此(この)宮(みや)御相伝(ごさうでん)ありけり。されども、いまをかぎりとやおぼしめされけん、金堂(こんだう)の弥勒(みろく)にまいら(まゐら)させおはします。竜花(りゆうげ・りうげ)の暁(あかつき)、値遇(ちぐ)の御(おん)ためかとおぼえて、あはれな(ッ)し事共(ことども)也(なり)。老僧(らうそう)どもにはみないとまたうで、とどめさせおはします。しかるべき若大衆(わかだいしゆ)悪僧(あくそう)どもはまいり(まゐり)けり。源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう・にうだう)の一類(いちるい)ひきぐして、其(その)勢(せい)一千人(いつせんにん)とぞきこえし。乗円房ノ(じようゑんばうの・ぜうゑんばうの)阿闍梨(あじやり)慶秀(けいしう)、鳩(はと)の杖(つゑ・つえ)にすが(ッ)て宮(みや)の御(おん)まへにまいり(まゐり)、老眼(らうがん)より涙(なみだ)をはらはらとながいて申(まうし)けるは、「いづくまでも御(おん)とも仕(つかまつる)べう候(さうら)へども、齢(よはひ)すでに八旬(はつしゆん)にたけて、行歩(ぎやうぶ)にかない(かなひ)がたう候(さうらふ)。弟子(でし)で候(さうらふ)刑部房(ぎやうぶばう)俊秀(しゆんしう)をまいらせ(まゐらせ)候(さうらふ)。
是(これ)は一(ひと)とせ平治(へいぢ)の合戦(かつせん)の時(とき)、故左馬頭(こさまのかみ)義朝(よしとも)が手(て)に候(さうら)ひて、六条河原(ろくでうかはら)で打死(うちじに)仕(つかまつり)候(さうらひ)し相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)、山内(やまのうち)須藤(すどう)刑部(ぎやうぶの)丞(じよう・ぜう)俊通(としみち)が子(こ)で候(さうらふ)。いささかゆかり候(さうらふ)あひだ、跡(あと)ふところでおうし(おほし)たてて、心(こころ)のそこまでよくよくし(ッ)て候(さうらふ)。いづくまでもめしぐせられ候(さうらふ)べし」とて、涙(なみだ)ををさへ(おさへ)てとどまりぬ。宮(みや)もあはれにおぼしめし、「いつのよしみにかうは申(まうす)らん」とて、御涙(おんなみだ)せきあへさせ給(たま)はず。 
橋合戦 (はしがつせん) 

 

宮(みや)は宇治(うぢ)と寺(てら)とのあひだにて、六度(ろくど)までをん(おん)落馬(らくば)ありけり。これはさんぬる夜(よ)、御寝(ぎよしん)のならざりしゆへ(ゆゑ)なりとて、宇治橋(うぢはし)三間(さんげん)ひきはづし、平等院(びやうどうゐん)にいれたてま(ッ)て、しばらく御休息(ごきうそく)ありけり。六波羅(ろくはら)には、「すはや、宮(みや)こそ南都(なんと)へおちさせ給(たま)ふなれ。お(ッ)かけてうちたてまつれ」とて、大将軍(たいしやうぐん)には、左兵衛督(さひやうゑのかみ)知盛(とももり)、頭(とうの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)重衡(しげひら)、左馬頭(さまのかみ)行盛(ゆきもり)、薩摩守(さつまのかみ)忠教(ただのり)、さぶらひ大将(だいしやう)には、上総守(かづさのかみ)忠清(ただきよ)、其(その)子(こ)上総(かづさの)太郎(たらう)判官(はんぐわん)忠綱(ただつな)、飛騨守(ひだのかみ)景家(かげいへ)、其(その)子(こ)飛騨(ひだの)太郎(たらう)判官(はんぐわん)景高(かげたか)、高橋判官(たかはしのはんぐわん)長綱(ながつな)、河内判官(かはちのはんぐわん)秀国(ひでくに)、武蔵(むさしの)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)有国(ありくに)、越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)次郎兵衛(じらうひやうゑの)尉(じよう・ぜう)盛継(もりつぎ)、上総五郎兵衛(かづさのごらうびやうゑ)忠光(ただみつ)、悪七兵衛(あくしちびやうゑ)景清(かげきよ)を先(さき)として、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)二万八千余騎(にまんぱつせんよき)、木幡山(こはたやま)うちこえて、宇治橋(うぢはし)のつめにぞおしよせたる。
かたき平等院(びやうどうゐん)にとみてんげれば、時(とき)をつくる事(こと)三ケ度(さんがど)、宮(みや)の御方(おんかた)にも時(とき)の声(こゑ)をぞあはせたる。先陣(せんぢん)が、「橋(はし)をひいたぞ、あやまちすな。橋(はし)をひいたぞ、あやまちすな」と、どよみけれ共(ども)、後陣(ごぢん)はこれをききつけず、われさきにとすすむほどに、先陣(せんぢん)二百余騎(にひやくよき)おしをとさ(おとさ)れ、水(みづ)におぼれてながれけり。橋(はし)の両方(りやうばう)のつめにう(ッ)た(ッ・うつたつ)て矢合(やあはせ)す。宮(みや)の御方(おんかた)には、大矢(おほや)の俊長(しゆんちやう)、五智院(ごちゐん)の但馬(たじま)、渡辺(わたなべ)の省(はぶく)・授(さづく)・続(つづく)の源太(げんた)がゐ(い)ける矢(や)ぞ、鎧(よろひ)もかけず、楯(たて)もたまらずとほりける。源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう・にうだう)は、長絹(ちやうけん)のよろひ直垂(びたたれ)にしながはおどし(しながはをどし)の鎧(よろひ)也(なり)。
其(その)日(ひ)を最後(さいご)とやおもはれけん、わざと甲(かぶと)はき給(たま)はず。嫡子(ちやくし)伊豆守(いづのかみ)仲綱(なかつな)は、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、黒糸威(くろいとをどし・くろいとおどし)の鎧(よろひ)也(なり)。弓(ゆみ)をつようひかんとて、これも甲(かぶと)はきざりけり。ここに五智院(ごちゐん)の但馬(たじま)、大長刀(おほなぎなた)のさやをはづいて、只(ただ)一人(いちにん)橋(はし)の上(うへ)にぞすすんだる。平家(へいけ)の方(かた)にはこれをみて、「あれゐ(い)とれや物共(ものども)」とて、究竟(くつきやう)の弓(ゆみ)の上手(じやうず)どもが矢(や)さきをそろへて、さしつめひきつめさんざんにゐ(い)る。但馬(たじま)すこしもさはが(さわが)ず、あがる矢(や)をばつゐ(つい)くぐり、さがる矢(や)をばおどり(をどり)こへ(こえ)、むか(ッ)てくるをば長刀(なぎなた)でき(ッ)ておとす。かたきもみかたも見物(けんぶつ)す。それよりしてこそ、矢(や)きりの但馬(たじま)とはいはれけれ。堂衆(だうじゆ)のなかに、つつ井(ゐ)の浄妙明秀(じやうめうめいしう)は、かち(ン・かち)の直垂(ひたたれ)に黒皮威(くろかはをどし・くろかはおどし)の鎧(よろひ)きて、五枚甲(ごまいかぶと)の緒(を・お)をしめ、黒漆(こくしつ)〔の〕太刀(たち)をはき、廿四(にじふし)さいたるくろぼろ〔の〕矢(や)おひ、ぬりこめどうの弓(ゆみ)に、このむ白柄(しらえ)の大長刀(おほなぎなた)とりそへて、橋(はし)のうへにぞすすんだる。
大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて名(な)のりけるは、「日(ひ)ごろはをと(おと)にもききつらん、いまは目(め)にもみ給(たま)へ。三井寺(みゐでら)にはそのかくれなし。堂衆(だうじゆ)のなかにつつ井(ゐ)の浄妙明秀(じやうめうめいしう)といふ一人(いちにん)当千(たうぜん)の兵物(つはもの)ぞや。われとおもわん人々(ひとびと)はよりあへや。げ(ン)ざん(げんざん)せん」とて、廿四(にじふし)さいたる矢(や)をさしつめひきつめさんざんにゐ(い)る。やにはに十二(じふに)人(にん)ゐころ(いころ)して、十一人に手(て)おほせたれば、ゑびらに一(ひとつ)ぞのこ(ッ)たる。弓(ゆみ)をばからとなげすて、ゑびらもといてすてて(ン)げり。つらぬきぬいではだしになり、橋(はし)のゆきげたをさらさらさらとはしりわたる。人(ひと)はおそれてわたらねども、浄妙房(じやうめうばう)が心地(ここち)には、一条(いちでう)二条(にでう)の大路(おほち)とこそふるまうたれ。長刀(なぎなた)でむかふかたき五人(ごにん)なぎふせ、六人(ろくにん)にあたるかたきにあふ(あう)て、長刀(なぎなた)なかよりうちを(ッ)てすてて(ン)げり。
その後(のち)太刀(たち)をぬいてたたかふに、かたきは大勢(おほぜい)なり、くもで・かくなは(かくなわ)・十文字(じふもんじ)、と(ン)ばうかへり・水車(みづくるま)、八方(はつばう)すかさずき(ッ)たりけり。やにはに八人(はちにん)きりふせ、九人(くにん)にあたるかたきが甲(かぶと)の鉢(はち)にあまりにつよう打(うち)あてて、めぬきのもとよりちやうどをれ、く(ッ)とぬけて、河(かは)へざ(ン)ぶと入(いり)にけり。たのむところは腰刀(こしがたな)、ひとへに死(し)なんとぞくるい(くるひ)ける。ここに乗円房(じようゑんばう・ぜうゑんばう)の阿闍梨(あじやり)慶秀(けいしう)がめしつかい(つかひ)ける。一来(いちらい)法師(ほふし・ほうし)といふ大(だい)ぢからのはやわざありけり。つづいてうしろにたたかふが、ゆきげたはせばし、そばとほるべきやうはなし。浄妙房(じやうめうばう)が甲(かぶと)の手(て)さきに手(て)ををい(おい)て、「あしう候(さうらふ)、浄妙房(じやうめうばう)」とて、肩(かた)をづんどおどり(をどり)こへ(こえ)てぞたたかい(たたかひ)ける。一来(いちらい)法師(ほふし・ほうし)打死(うちじに)してんげり。
浄妙房(じやうめうばう)はうはう(はふはふ)かへ(ッ・かへつ)て、平等院(びやうどうゐん)の門(もん)のまへなる芝ノ(しばの)うへに、物(ものの)ぐぬぎすて、鎧(よろひ)にた(ッ)たる矢(や)めをかぞへたりければ六十三(ろくじふさん)、うらかく矢(や)五所(いつところ)、されども大事(だいじ)の手(て)ならねば、ところどころに灸治(きうぢ)して、かしらからげ、浄衣(じやうえ・じやうゑ)きて、弓(ゆみ)うちきり杖(つゑ・つえ)につき、ひらあしだはき、阿弥陀仏(あみだぶつ)申(まうし)て、奈良(なら)の方(かた)へぞまかりける。浄妙房(じやうめうばう)がわたるを手本(てほん)にして、三井寺(みゐでら)の大衆(だいしゆ)・渡辺党(わたなべたう)、はしりつづきはしりつづき、われもわれもとゆきげたをこそわたりけれ。或(あるい・あるひ)は分(ぶん)どりしてかへる物(もの)もあり、或(あるい・あるひ)はいた手(で)おうて腹(はら)かききり、河(かは)へ飛入(とびいる)物(もの)もあり。橋(はし)のうへのいくさ、火(ひ)いづる程(ほど)ぞたたかい(たたかひ)ける。これをみて平家(へいけ)の方(かた)の侍大将(さぶらひだいしやう)上総守(かづさのかみ)忠清(ただきよ)、大将軍(たいしやうぐん)の御(おん)まへにまい(ッ・まゐつ)て、「あれ御(ご)らん候(さうら)へ。橋(はし)のうへのいくさ手(て)いたう候(さうらふ)。
いまは河(かは)をわたすべきで候(さうらふ)が、おりふし(をりふし)五月雨(さみだれ)のころで、水(みづ)まさ(ッ)て候(さうらふ)。わたさば馬(むま)人(ひと)おほくうせ候(さうらひ)なんず。淀(よど)・いもあらい(いもあらひ)へやむかひ候(さうらふ)べき。河内路(かはちぢ)へやまはり候(さうらふ)べき」と申(まうす)ところに、下野国ノ(しもつけのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)足利ノ又太郎忠綱(あしかがのまたたらうただつな)、すすみいでて申(まうし)けるは、「淀(よど)・いもあらい(いもあらひ)・河内路(かはちぢ)をば、天竺(てんぢく)、震旦(しんだん)の武士(ぶし)をめしてむけられ候(さうら)はんずるか。それも我等(われら)こそむかひ候(さうら)はんずれ。目(め)にかけたるかたきをうたずして、南都(なんと)へいれまいらせ(まゐらせ)候(さうらひ)なば、吉野(よしの)・とつかはの勢(せい)ども馳集(はせあつまり)て、いよいよ御大事(おんだいじ)でこそ候(さうら)はんずらめ。
武蔵(むさし)と上野(かうづけ)のさかゐ(さかひ)にとね河(がは)と申(まうし)候(さうらふ)大河(だいがの)候(さうらふ)。秩父(ちちぶ)・足利(あしかが)なかをたがひ、つねは合戦(かつせん)をし候(さうらひ)しに、大手(おほて)は長井(ながゐ)〔の〕わたり、搦手(からめで)は故我杉(こがすぎ)のわたりよりよせ候(さうらひ)しに、上野国(かうづけのくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)新田ノ(につたの)入道(にふだう・にうだう)、足利(あしかが)にかたらはれて、杉(すぎ)の渡(わたし)よりよせんとてまうけたる舟共(ふねども)を、秩父(ちちぶ)が方(かた)よりみなわられて申(まうし)候(さうらひ)しは、「ただいまここをわたさずは、ながき弓矢(ゆみや)の疵(きず)なるべし。水(みづ)におぼれてしなばしね。いざわたさん」とて、馬筏(むまいかだ)をつく(ッ)てわたせばこそわたしけめ。坂東武者(ばんどうむしや)の習(ならひ)として、かたきを目(め)にかけ、河(かは)をへだつるいくさに、淵瀬(ふちせ)きらふ様(やう)やある。此(この)河(かは)のふかさはやさ、とね河(がは)にいくほどのおとりまさりはよもあらじ。つづけや殿原(とのばら)」とて、ま(ッ)さきにこそ打入(うちい)れたれ。
つづく人共(ひとども)、大胡(おほご)・大室(おほむろ)・深須(ふかず)・山上(やまがみ)、那波ノ太郎(なばのたらう)、佐貫ノ広綱(さぬきのひろつな)四郎(しらう)大夫(だいふ)、小野寺ノ禅師太郎(をのでらのぜんじたらう)、辺屋(へや)この四郎(しらう)、郎等(らうどう)には、宇夫方次郎(うぶかたのじらう)、切生(きりふ)の六郎(ろくらう)、田中(たなか)の宗太(むねだ)をはじめとして、三百余騎(さんびやくよき)ぞつづきける。足利(あしかが)大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて、「つよき馬(むま)をばうは手(て)にたてよ、よはき(よわき)馬(むま)をばした手(で)になせ。馬(むま)の足(あし)のおよばうほどは、手綱(たづな)をくれてあゆませよ。はづまばかいく(ッ)ておよがせよ。さがらう物(もの)をば、弓(ゆみ)のはずにとりつかせよ。手(て)をとりくみ、肩(かた)をならべてわたすべし。鞍(くら)つぼによくのりさだま(ッ)て、あぶみをつようふめ。馬(むま)のかしらしづまばひきあげよ。いたうひいてひ(ッ・ひつ)かづくな。水(みづ)しとまば、さんづのうへにのりかかれ。馬(むま)にはよはう(よわう)、水(みづ)にはつようあたるべし。河(かは)なかで弓(ゆみ)ひくな。かたきゐ(い)るともあひびきすな。つねにしころをかたぶけよ。いたうかたむけて手(て)へんいさすな。かねにわたいておしをとさ(おとさ)るな。水(みづ)にしなうてわたせやわたせ」とおきてて、三百余騎(さんびやくよき)、一騎(いつき)もながさず、むかへの岸(きし)へざ(ッ)とわたす。 
宮御最期 (みやのごさいご) 

 

足利(あしかが)は朽葉(くちば)の綾(あや)の直垂(ひたたれ)に、赤皮威(あかがはをどし・あかがはおどし)の鎧(よろひ)きて、たか角(づの)う(ッ)たる甲(かぶと)のをしめ、こがねづくりの太刀(たち)をはき、きりう(きりふ)の矢(や)おひ、しげどう(の)弓(ゆみ)も(ッ)て、連銭葦毛(れんぜんあしげ)なる馬(むま)に、柏木(かしはぎ)に耳(みみ)づくう(ッ)たる黄覆輪(きぶくりん)の鞍(くら)おひ(おい)てぞの(ッ)たりける。あぶみふ(ン)ばりたちあがり、大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)あげてなのりけるは、「とをく(とほく)は音(おと)にもきき、ちかくは目(め)にもみ給(たま)へ。
昔(むかし)朝敵(てうてき)将門(まさかど)をほろぼし、勧賞(けんじやう)かうぶ(ッ)し俵藤太秀里(たはらとうだひでさと)に十代(じふだい)、足利ノ(あしかがの)太郎(たらう)俊綱(としつな)が子(こ)、又太郎(またたらう)忠綱(ただつな)、生年(しやうねん)十七(じふしち)歳(さい)、か様(やう)に無官(むくわん)無位(むゐ)なる物(もの)の、宮(みや)にむかい(むかひ)まいらせ(まゐらせ)て、弓(ゆみ)をひき矢(や)を放(はなつ)事(こと)、天(てん)のおそれすくなからず候(さうら)へ共(ども)、弓(ゆみ)も矢(や)も冥(みやう)がのほども、平家(へいけ)の御身(おんみ)のうへにこそ候(さうらふ)らめ。三位(さんみ)入道殿(にふだうどの・にうだうどの)の御(おん)かたに、われとおもはん人々(ひとびと)はよりあへや、げ(ン)ざん(げんざん)せん」とて、平等院(びやうどうゐん)の門(かど)のうちへ、せめ入(いり)せめ入(いり)たたかい(たたかひ)けり。
これをみて、大将軍(たいしやうぐん)左兵衛督(さひやうゑのかみ)知盛(とももり)、「わたせやわたせ」と下知(けぢ)せられければ、二万八千余騎(にまんばつせんよき)、みなうちいれてわたしけり。馬(むま)や人(ひと)にせかれて、さばかり早(はや)き宇治河(うぢがは)の水(みづ)は、かみにぞたたへたる。おのづからもはづるる水(みづ)には、なにもたまらずながれけり。雑人(ざふにん・ざうにん)どもは馬(むま)のした手(で)にとりつきとりつきわたりければ、ひざよりかみをばぬらさぬ物(もの)もおほかりけり。いかがしたりけん、伊賀(いが)・伊勢(いせ)両国(りやうごく)の官兵(くわんべい)、馬(むま)いかだおしやぶられ、水(みづ)におぼれて六百(ろつぴやく)余騎(よき)ぞながれける。
萌黄(もえぎ)・火威(ひをどし・ひおどし)・赤威(あかをどし・あかおどし)、いろいろの鎧(よろひ)のうきぬしづみぬゆられけるは、神(かみ)なび山(やま)の紅葉(もみぢ)ばの、嶺(みね)の嵐(あらし)にさそはれて、竜田河(たつたがは)の秋(あき)の暮(くれ)、いせき(ゐせき)にかか(ッ)てながれもやらぬにことならず。其(その)中(なか)にひをどしの鎧(よろひ)きたる武者(むしや)が三人(さんにん)、あじろにながれかか(ッ)てゆられけるを、伊豆守(いづのかみ)み給(たま)ひて、
伊勢武者(いせむしや)はみなひをどしのよろひきて宇治(うぢ)の網代(あじろ)にかかりぬるかな
これは三人(さんにん)ながら伊勢国(いせのくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)也(なり)。黒田ノ(くろだの)後平(ごへい)四郎(しらう)、日野ノ(ひのの)十郎(じふらう)、乙部ノ(をとべの)弥七(やしち)といふ物(もの)なり。
其(その)なかに日野(ひの)の十郎(じふらう)はふる物(もの)にてありければ、弓(ゆみ)のはずを岩(いは)のはざまにねぢたててかきあがり、二人(ににん)の物共(ものども)をもひきあげて、たすけたりけるとぞきこえし。おほぜいみなわたして、平等院(びやうどうゐん)の門(もん)のうちへいれかゑ(いれかへ)いれかゑ(いれかへ)たたかい(たたかひ)けり。此(この)まぎれに、宮(みや)をば南都(なんと)へさきだてまいらせ(まゐらせ)、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう・にうだう)の一類(いちるい)のこ(ッ)て、ふせき矢(や)ゐ(い)給(たま)ふ。三位(さんみ)入道(にふだう・にうだう)七十(しちじふ)にあま(ッ)ていくさして、弓手(ゆんで)のひざ口(ぐち)をゐ(い)させ、いたでなれば、心(こころ)しづかに自害(じがい)せんとて、平等院(びやうどうゐん)の門(もん)の内(うち)へひき退(しりぞき)て、かたきおそい(おそひ)かかりければ、次男(じなん)源(げん)大夫(だいふの)判官(はんぐわん)兼綱(かねつな)、紺地(こんぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、唐綾威(からあやをどし・からあやおどし)の鎧(よろひ)きて、白葦毛(しらあしげ)なる馬(むま)にのり、父(ちち)をのばさんと、かへしあはせかへしあはせふせきたたかふ。
上総(かづさの)太郎(たらう)判官(はんぐわん)がゐ(い)ける矢(や)に、兼綱(かねつな)うち甲(かぶと)をゐ(い)させてひるむところに、上総守(かづさのかみ)が童(わらは)次郎丸(じらうまる)といふしたたか物(もの)、おしならべひ(ッ・ひつ)く(ン)で、どうどおつ。源(げん)大夫(だいふの)判官(はんぐわん)はうち甲(かぶと)もいた手(で)なれ共(ども)、きこゆる大(だい)ぢからなりければ、童(わらは)をと(ッ)ておさへて頸(くび)をかき、たちあがらんとするところに、平家(へいけ)の兵物(つはもの)ども十四五(じふしご)騎(き)、ひしひしとおちかさな(ッ)て、つゐに(つひに)兼綱(かねつな)をばう(ッ)て(ン)げり。伊豆守(いづのかみ)仲綱(なかつな)もいた手(で)あまたおひ、平等院(びやうどうゐん)の釣殿(つりどの)にて自害(じがい)す。その頸(くび)をば、しも河辺(かはべ)の藤(とう)三郎(さぶらう)清親(きよちか)と(ッ)て、大床(おほゆか)のしたへぞなげ入(いれ)ける。六条蔵人(ろくでうのくらんど)仲家(なかいへ)、其(その)子(こ)蔵人(くらんどの)太郎(たらう)仲光(なかみつ)も、さんざんにたたかひ、分(ぶん)どりあまたして、遂(つひ・つゐ)に打死(うちじに)して(ン)げり。
この仲家(なかいへ)と申(まうす)は、帯刀ノ(たてはきの・たてわきの)先生(せんじやう)義方(よしかた)が嫡子(ちやくし)也(なり)。みなし子(ご)にてありしを、三位(さんみ)入道(にふだう・にうだう)養子(やうじ)にして不便(ふびん)にし給(たま)ひしが、日来(ひごろ)の契(ちぎり)を変(へん)ぜず、一所(いつしよ)にて死(し)ににけるこそむざんなれ。三位(さんみ)入道(にふだう・にうだう)は、渡辺長七唱(わたなべちやうじつとなふ)〔を〕めして、「わが頸(くび)うて」との給(たま)ひければ、主(しゆ)のいけくびうたん事(こと)のかなし(ッ)さに、涙(なみだ)をはらはらとながいて、「仕(つかまつ)ともおぼえ候(さうら)はず。御自害(ごじがい)候(さうら)はば、其(その)後(のち)こそ給(たま)はり候(さうら)はめ」と申(まうし)ければ、「まことにも」とて、西(にし)にむかひ、高声(かうしやう)に十念(じふねん)となへ、最後(さいご)の詞(ことば)ぞあはれなる。
埋木(むもれぎ)の花(はな)さく事(こと)もなかりしに身(み)のなるはてぞかなしかりける
これを最後(さいご)の詞(ことば)にて、太刀(たち)のさきを腹(はら)につきたて、うつぶさまにつらぬか(ッ)てぞうせられける。其(その)時(とき)に歌(うた)よむべうはなかりしかども、わかうよりあながちにすいたる道(みち)なれば、最後(さいご)の時(とき)もわすれ給(たま)はず。その頸(くび)をば唱(となふ)取(ッ)て、なくなく石(いし)にくくりあはせ、かたきのなかをまぎれいでて、宇治河(うぢがは)のふかきところにしづめけり。競(きほふ・きをほ)の滝口(たきぐち)をば、平家(へいけ)の侍共(さぶらひども)、いかにもしていけどりにせんとうかがひけれども、競(きほふ・きをほ)もさきに心(こころ)えて、さんざんにたたかひ、大事(だいじ)の手(て)おひ、腹(はら)かきき(ッ)てぞ死(しに)にける。
円満院ノ(ゑんまんゐんの)大輔(たいふ・たゆう)源覚(げんかく)、いまは宮(みや)もはるかにのびさせ給(たまひ)ぬらんとやおもひけん、大太刀(おほだち)大長刀(おほなぎなた)左右(さいう・さゆう)にも(ッ)て、敵(かたき)のなかうちやぶり、宇治河(うぢがは)へとんでいり。物(もの)の具(ぐ)一(ひとつ)もすてず、水(みづ)の底(そこ)をくぐ(ッ)て、むかへの岸(きし)にわたりつき、たかきところにのぼりあがり、大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて、「いかに平家(へいけ)の君達(きんだち)、これまでは御大事(おんだいじ)かよう」とて、三井寺(みゐでら)へこそかゑり(かへり)けれ。飛騨守(ひだのかみ)景家(かげいへ)はふる兵物(つはもの)にてありければ、このまぎれに、宮(みや)は南都(なんと)へやさきだたせ給(たま)ふらんとて、いくさをばせず、其(その)勢(せい)五百余騎(ごひやくよき)、鞭(むち)あぶみをあはせてお(ッ)かけたてまつる。
案(あん)のごとく、宮(みや)は卅騎(さんじつき)ばかりで落(おち)させ給(たま)ひけるを、光明山(くわうみやうざん)の鳥居(とりゐ)のまへにてお(ッ)つきたてまつり、雨(あめ)のふる様(やう)にゐ(い)まいらせ(まゐらせ)ければ、いづれが矢(や)とはおぼえねど、宮(みや)の左(ひだり)の御(おん)そば腹(はら)に矢(や)一(ひと)すぢたちければ、御馬(おんむま)より落(おち)させ給(たまひ)て、御頸(おんくび)とられさせ給(たま)ひけり。
これをみて御共(おんとも)に候(さうらひ)ける鬼佐渡(おにさど)・荒土左(あらどさ)・あら大夫(だいぶ)、理智城房(りちじやうばう)の伊賀公(いがこう)、刑部俊秀(ぎやうぶしゆんしう)・金光院(こんくわうゐん・こんくわゐん)の六天狗(ろくてんぐ)、いつのために命(いのち)をばおしむ(をしむ)べきとて、おめき(をめき)さけんで打死(うちじに)す。その中(なか)に宮(みや)の御(おん)めのと子(ご)、六条ノ大夫(ろくでうのたいふ)宗信(むねのぶ)、かたきはつづく、馬(むま)はよはし(よわし)、に井(ゐ)のの池(いけ)へ飛(とん)でいり、うき草(くさ)かほにとりおほひ、ふるゐ(ふるひ)ゐたれば、かたきはまへをうちすぎぬ。しばしあ(ッ)て兵物共(つはものども)の四五百騎(しごひやくき)、ざざめいてうちかへりける中(なか)に、浄衣(じやうえ・じやうゑ)きたる死人(しにん)の頸(くび)もないを、しとみのもとにかいていできたりけるを、たれやらんとみたてまつれば、宮(みや)にてぞ在(まし)ましける。
「われしなば、この笛(ふえ・ふゑ)をば御棺(みくわん)にいれよ」と仰(おほせ)ける、小枝(こえだ)ときこえし御笛(おんふえ)も、いまだ御腰(おんこし)にさされたり。はしりいでてとりもつきまいらせ(まゐらせ)ばやとおもへども、おそろしければそれもかなはず、かたきみなかへ(ッ・かへつ)て後(のち)、池(いけ)よりあがり、ぬれたる物(もの)どもしぼりきて、なくなく京(きやう)へのぼりたれば、にくまぬ物(もの)こそなかりけれ。さる程(ほど)に、南都(なんと)の大衆(だいしゆ)ひた甲(かぶと)七千余人(しちせんよにん)、宮(みや)の御(おん)むかへにまいる(まゐる)。先陣(せんぢん)は粉津(こづ)にすすみ、後陣(ごぢん)はいまだ興福寺(こうぶくじ)の南大門(なんだいもん)にゆらへたり。宮(みや)ははや光明山(くわうみやうざん)の鳥居(とりゐ)のまへにてうたれさせ給(たまひ)ぬときこえしかば、大衆(だいしゆ)みな力(ちから)及(およ・をよ)ばず、涙(なみだ)ををさへ(おさへ)てとどまりぬ。いま五十町(ごじつちやう)ばかりまちつけ給(たま)はで、うたれさせ給(たまひ)けん宮(みや)の御運(ごうん)のほどこそうたてけれ。 
若宮出家 (わかみやしゆつけ) 

 

平家(へいけ)の人々(ひとびと)は、宮(みや)並(ならび)に三位(さんみ)入道(にふだう・にうだう)の一族(いちぞく)、三井寺(みゐでら)の衆徒(しゆと)、都合(つがふ・つがう)五百余(ごひやくよ)人(にん)が頸(くび)、太刀(たち)長刀(なぎなた)のさきにつらぬき、たかくさしあげ、夕(ゆふべ)に及(および・をよび)て六波羅(ろくはら)へかゑり(かへり)いる。兵物(つはもの)どもいさみののしる事(こと)、おそろしな(ン)ど(など)もおろか也(なり)。
其(その)なかに源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう・にうだう)の頸(くび)は、長七唱(ちやうじつとなふ)がと(ッ)て宇治河(うぢがは)のふかきところにしづめて(ン)げれば、それは見(み)えざりけり。子共(こども)の頸(くび)はあそこここよりみな尋(たづね)いだされたり。中(なか)に宮(みや)の御頸(おんくび)は、年来(としごろ)まいり(まゐり)よる人(ひと)もなければ、見(み)しりまいらせ(まゐらせ)たる人(ひと)もなし。先年(せんねん)典薬頭(てんやくのかみ)定成(さだなり)こそ、御療治(ごりやうぢ)のためにめされたりしかば、それぞ見(み)しりまいらせ(まゐらせ)たるらんとて、めされけれ共(ども)、現所労(げんじよらう)とてまいら(まゐら)ず。宮(みや)のつねにめされける女房(にようばう)とて、六波羅(ろくはら)へたづねいだされたり。さしもあさからずおぼしめされて、御子(おんこ)をうみまいらせ(まゐらせ)、最愛(さいあい)ありしかば、いかでか見(み)そんじたてまつるべき。只(ただ)一目(ひとめ)見(み)まいらせ(まゐらせ)て、袖(そで)をかほにおしあてて、涙(なみだ)をながされけるにこそ、宮(みや)の御頸(おんくび)とはしりて(ン)げれ。此(この)宮(みや)ははうばうに御子(おんこ)の宮(みや)たちあまたわたらせ給(たま)ひけり。
八条女院(はつでうのにようゐん)に、伊与守(いよのかみ)盛教(もりのり)がむすめ、三位(さんみの)局(つぼね)とて候(さうら)はれける女房(にようばう)の腹(はら)に、七歳(しちさい)の若宮(わかみや)、五歳(ごさい)の姫宮(ひめみや)在(まし)ましけり。入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこくの)おとと、池(いけ)の中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)頼盛卿(よりもりのきやう)をも(ッ)て、八条ノ女院(はつでうのにようゐん)へ申(まう)されけるは、「高倉(たかくら)の宮(みや)の御子(おんこ)の宮達(みやたち)のあまたわたらせ給(たまひ)候(さうらふ)なる、姫宮(ひめみや)の御事(おんこと)は申(まうす)に及(およ・をよ)ばず、若宮(わかみや)をばとうとういだしまいら(まゐら)させ給(たま)へ」と申(まう)されたりければ、女院(にようゐん)御返事(おんぺんじ)には、「かかるきこえのありし暁(あかつき)、御(お)ちの人(ひと)な(ン)ど(など)が心(こころ)おさなう(をさなう)ぐしたてま(ッ)てうせにけるにや、ま(ッ)たく此(この)御所(ごしよ)にはわたらせ給(たま)はず」と仰(おほせ)ければ、頼盛卿(よりもりのきやう)力(ちから)及(およ・をよ)ばでこのよしを入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)に申(まう)されけり。
「何条(なんでう)其(その)御所(ごしよ)ならでは、いづくへかわたらせ給(たまふ)べかんなる。其(その)儀(ぎ)ならば武士(ぶし)どもまい(ッ・まゐつ)てさがし奉(たてまつ)れ」とぞの給(たま)ひける。この中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)は、女院(にようゐん)の御(おん)めのと子(ご)宰相殿(さいしやうどの)と申(まうす)女房(にようばう)にあひぐして、つねにまいり(まゐり)かよはれければ、日来(ひごろ)はなつかしうこそおぼしめされけるに、此(この)宮(みや)の御事(おんこと)申(まう)しにまいら(まゐら)れたれば、いまはあらぬ人(ひと)の様(やう)にうとましう〔ぞ〕おぼしめされける。
若宮(わかみや)、女院(にようゐん)に申(まう)させ給(たま)ひけるは、「これほどの御大事(おんだいじ)に及(および・をよび)候(さうらふ)うへは、つゐに(つひに)のがれ候(さうらふ)まじ。とうとういださせをはしませ(おはしませ)」と申(まう)させ給(たまひ)ければ、女院(にようゐん)御涙(おんなみだ)をはらはらとながさせ給(たま)ひて、「人(ひと)の七(ななつ)八(やつ)は、何事(なにごと)をもいまだおもひわかぬ程(ほど)ぞかし。それにわれゆへ(ゆゑ)大事(だいじ)のいできたる事(こと)を、かたはらいたくおもひて、かやうにの給(たま)ふいとおしさ(いとほしさ)よ。よしなかりける人(ひと)を此(この)六七年(ろくしちねん)手(て)ならして、かかるうき目(め)をみるよ」とて、御涙(おんなみだ)せきあへさせ給(たま)はず。頼盛卿(よりもりのきやう)、宮(みや)いだしまいら(まゐら)させ給(たま)ふべきよし、かさねて申(まう)されければ、女院(にようゐん)ちからおよばせ給(たま)はで、つゐに(つひに)宮(みや)をいだしまいら(まゐら)させ給(たま)ひけり。
御母(おんぱは)三位(さんみ)の局(つぼね)、今(いま)をかぎりの別(わかれ)なれば、さこそは御名残(おんなごり)おしう(をしう)おもはれけめ。なくなく御衣(おんきぬ)きせ奉(たてまつ)り、御(おん)ぐしかきなで、いだしまいらせ(まゐらせ)給(たま)ふも、ただ夢(ゆめ)とのみぞおもはれける。女院(にようゐん)をはじめまいらせ(まゐらせ)て、局(つぼね)の女房(にようばう)、めの童(わらは)にいたるまで、涙(なみだ)をながし袖(そで)をしぼらぬはなかりけり。頼盛卿(よりもりのきやう)宮(みや)うけとりまいらせ(まゐらせ)、御車(おんくるま)にのせ奉(たてまつ)て、六波羅(ろくはら)へわたし奉(たてまつ)る。
前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)、此(この)宮(みや)をみまいらせ(まゐらせ)て、父(ちち)の相国禅門(しやうこくぜんもん)の御(おん)まへにおはして、「なにと候(さうらふ)やらん、此(この)宮(みや)を見(み)たてまつるがあまりにいとをしう(いとほしう)おもひまいらせ(まゐらせ)候(さうらふ)。りをまげて此(この)宮(みや)の御命(おんいのち)をば宗盛(むねもり)にたび候(さうら)へ」と申(まう)されければ、入道(にふだう・にうだう)「さらばとうとう出家(しゆつけ)をせさせ奉(たてまつ)れ」とぞの給(たま)ひける。宗盛卿(むねもりのきやう)此(この)よしを八条ノ女院(はつでうのにようゐん)に申(まう)されければ、女院(にようゐん)「なにのやうもあるべからず。只(ただ)とうとう」とて、法師(ほふし・ほうし)になし奉(たてまつ)り、尺子(しやくし)にさだまらせ給(たま)ひて、仁和寺(にんわじ)の御室(おむろ)の御弟子(おんでし)になしまいらせ(まゐらせ)給(たま)ひけり。後(のち)には東寺(とうじ)の一(いち)の長者(ちやうじや)、安井(やすゐ)の宮(みや)の僧正(そうじやう)道尊(だうそん)と申(まうし)しは、此(この)宮(みや)の御事(おんこと)也(なり)。 
通乗之沙汰 (とうじようのさた) 

 

又(また)奈良(なら)にも一所(いつしよ)在(まし)ましけり。御(おん)めのと讃岐守(さぬきのかみ)重秀(しげひで)が御出家(ごしゆつけ)せさせ奉(たてまつ)り、ぐしまいらせ(まゐらせ)て北国(ほつこく)へ落(おち)くだりたりしを、木曾義仲(きそよしなか)上洛(しやうらく)の時(とき)、主(しゆ)にしまいらせ(まゐらせ)んとてぐし奉(たてまつり)て宮(みや)こへのぼり、御元服(ごげんぶく)せさせまいらせ(まゐらせ)たりしかば、木曾(きそ)が宮(みや)とも申(まうし)けり。又(また)還俗(げんぞく)の宮(みや)とも申(まうし)けり。後(のち)には嵯峨(さが)のへん野依(のより)にわたらせ給(たまひ)しかば、野依(のより)の宮(みや)とも申(まうし)けり。昔(むかし)通乗(とうじよう・とうぜう)といふ相人(さうにん)あり。
宇治殿(うぢどの)・二条殿(にでうどの)をば、「君(きみ)三代(さんだい)の関白(くわんぱく)、ともに御年(おんとし)八十(はちじふ)と申(まうし)たりしもたがはず。帥(そつ)のうちのおとどをば、「流罪(るざい)の相(さう)まします」と申(まうし)たりしもたがはず。聖徳太子(しやうとくたいし)の崇峻天皇(すじゆんてんわう)を「横死(わうし)の相(さう)在(まし)ます」と申(まう)させ給(たま)ひたりしが、馬子(むまこ)の大臣(だいじん)にころされ給(たま)ひにき。さもしかるべき人々(ひとびと)は、かならず相人(さうにん)としもにあらねども、かうこそめでたかりしか、これは相少納言(さうせうなごん)が不覚(ふかく)にはあらずや。中比(なかごろ)兼明親王(げんめいしんわう)・具平親王(ぐへいしんわう)と申(まうし)しは、前(さきの)中書王(ちゆうしよわう・ちうしよわう)・後中書王(ごちゆうしよわう・ごちうしよわう)とて、ともに賢王(けんわう)聖主(せいしゆ)の王子(わうじ)にてわたらせ給(たまひ)しかども、位(くらゐ)にもつかせ給(たま)はず。されどもいつかは謀叛(むほん)ををこさ(おこさ)せ給(たま)ひし。
又(また)後三条院(ごさんでうのゐん)の第三(だいさん)の王子(わうじ)、資仁(すけひと)の親王(しんわう)も御才学(おんさいかく)すぐれてましましければ白河院(しらかはのゐん)いまだ東宮(とうぐう)にてましまいし時(とき)、「御位(おんくらゐ)の後(のち)は、この宮(みや)を位(くらゐ)にはつけまいら(まゐら)させ給(たま)へ」と、後三条ノ院(ごさんでうのゐん)御遺詔(ごゆいぜう)ありしか共(ども)、白河院(しらかはのゐん)いかがおぼしめされけん、つゐに(つひに)位(くらゐ)にもつけまいら(まゐら)させ給(たま)はず。せめての御事(おんこと)には、資仁ノ親王(すけひとのしんわう)の御子(おんこ)に源氏(げんじ)の姓(しやう)をさづけまいら(ッ・まゐらつ)させ給(たま)ひて、無位(むゐ)より一度(いちど)に三位(さんみ)に叙(じよ)して、やがて中将(ちゆうじやう・ちうじやう)になしまいら(まゐら)させ給(たま)ひけり。
一世(いつせ)の源氏(げんじ)、無位(むゐ)より三位(さんみ)する事(こと)、嵯峨(さが)の皇帝(くわうてい)の御子(みこ)、陽院(やうゐん)の大納言(だいなごん)定卿(さだむのきやう)の外(ほか)は、これはじめとぞうけ給(たま)はる。花園ノ左大臣(はなぞののさだいじん)有仁公(ありひとこう)の御事(おんこと)也(なり)。高倉(たかくら)の宮(みや)御謀叛(ごむほん)の間(あひだ・あいだ)、調伏(てうふく)の法(ほふ・ほう)うけ給(たま)は(ッ)て修(しゆ)せられける高僧達(かうそうたち)に、勧賞(けんじやう)をこなは(おこなは)る。前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)の子息(しそく)侍従(じじゆう)清宗(きよむね)、三位(さんみ)して三位ノ(さんみの)侍従(じじゆう)とぞ申(まうし)ける。今年(ことし)纔(わづか)に十二歳(じふにさい)。父(ちち)の卿(きやう)もこのよはひでは兵衛佐(ひやうゑのすけ)にてこそをはせしか。忽(たちまち)に上達(かんだち)めにあがり給(たま)ふ事(こと)、一(いち)の人(ひと)の公達(きんだち)の外(ほか)はいまだ承(うけたまはり)及(およ・をよ)ばず。源ノ(みなもとの)茂仁(もちひと)・頼政(よりまさ)法師(ぼふし・ぼうし)父子(ふし)追討(ついたう)の賞(しやう)とぞ除書(ききがき)にはありける。源ノ(みなもとの)茂仁(もちひと)とは高倉宮(たかくらのみや)を申(まうし)けり。まさしゐ(まさしい)太政(だいじやう)法皇(ほふわう・ほうわう)の王子(わうじ)をうちたてまつるだにあるに、凡人(ぼんにん)にさへなしたてまつるぞあさましき。 
鵺 (ぬえ) 

 

抑(そもそも)源(みなもとの)三位(さんみ)入道(にふだう・にうだう)と申(まうす)は、摂津守(せつつのかみ)頼光(らいくわう)に五代(ごだい)、三川守(みかはのかみ)頼綱(よりつな)が孫(まご)、兵庫頭(ひやうごのかみ)仲政(なかまさ)が子(こ)也(なり)。
保元(ほうげん)の合戦(かつせん)の時(とき)、御方(みかた)にて先(さき)をかけたりしかども、させる賞(しやう)にもあづからず。又(また)平治(へいぢ)の逆乱(げきらん)にも、親類(しんるい)をすてて参(さん)じたりしか共(ども)、恩賞(おんしやう・をんじやう)これおろそか也(なり)き。大内守護(おおうちしゆご)にて年(とし)ひさしうありしか共(ども)、昇殿(しようでん・せうでん)をばゆるされず。年(とし)たけよはひ傾(かたぶき)て後(のち)、述懐(しゆつくわい)の和歌(わか)一首(いつしゆ)ようでこそ、昇殿(しようでん・せうでん)をばゆるされけれ。
人(ひと)しれず大内山(おほうちやま)のやまもりは木(こ)がくれてのみ月(つき)をみるかな
この歌(うた)によ(ッ)て昇殿(しようでん・せうでん)ゆるされ、正下ノ(じやうげの)四位(しゐ)にてしばらくありしが、三位(さんみ)を心(こころ)にかけつつ、
のぼるべきたよりなき身(み)は木(こ)のもとにしゐをひろひて世(よ)をわたるかな
さてこそ三位(さんみ)はしたりけれ。やがて出家(しゆつけ)して、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう・にうだう)とて、今年(ことし)は七十五(しちじふご)にぞなられける。此(この)人(ひと)一期(いちご)の高名(かうみよう)とおぼえし事(こと)は、近衛院(こんゑのゐん)御在位(ございゐ)の時(とき)、仁平(にんぺい)のころほひ、主上(しゆしやう)よなよなおびへ(おびえ)たまぎらせ給(たま)ふ事(こと)ありけり。有験(うげん)の高僧(かうそう)貴僧(きそう)に仰(おほせ)て、大法(だいほふ・だいほう)秘法(ひほふ・ひほう)を修(しゆ)せられけれども、其(その)しるしなし。御悩(ごなう)は丑(うし)の剋(こく)ばかりでありけるに、東三条(とうさんでう)の森(もり)の方(かた)より、黒雲(こくうん)一村(ひとむら)立来(たちき)て御殿(ごてん)の上(うへ)におほへば、かならずおびへ(おびえ)させ給(たま)ひけり。
これによ(ッ)て公卿僉義(くぎやうせんぎ)あり。去(さんぬ)る寛治(くわんぢ)の比(ころ)ほひ、堀河天皇(ほりかはてんわう)御在位(ございゐ)の時(とき)、しかのごとく主上(しゆしやう)よなよなおびへ(おびえ)させ給(たま)ふ事(こと)ありけり。其(その)時(とき)の将軍(しやうぐん)義家(ぎかの)朝臣(あそん・あ(ツ)そん)、南殿(なんでん)の大床(おおゆか)に候(さうら)はれけるが、御悩(ごなう)の剋限(こくげん)に及(およん・をよん)で、鳴絃(めいげん)する事(こと)三度(さんど)の後(のち)、高声(かうしやう)に「前陸奥守(さきのむつのかみ)源義家(みなもとのよしいへ)」と名(な)の(ッ)たりければ、人々(ひとびと)皆(みな)身(み)の毛(け)よだ(ッ)て、御悩(ごなう)おこたらせ給(たま)ひけり。しかればすなはち先例(せんれい)にまかせて、武士(ぶし)に仰(おほ)せて警固(けいご)あるべしとて、源平(げんぺい)両家(りやうか)の兵物共(つはものども)のなかを撰(えらま)せられけるに、頼政(よりまさ)をゑらび(えらび)いだされたりけるとぞきこえし。
其(その)時(とき)はいまだ兵庫頭(ひやうごのかみ)とぞ申(まうし)ける。頼政(よりまさ)申(まうし)けるは、「昔(むかし)より朝家(てうか)に武士(ぶし)をおかるる事(こと)は、逆反(ぎやくほん)の物(もの)をしりぞけ違勅(いちよく)の物(もの)をほろぼさんが為(ため)也(なり)。目(め)にもみえぬ変化(へんげ)の物(もの)つかまつれと仰下(おほせくだ)さるる事(こと)、いまだ承(うけたまはり)及(およ・をよ)ばず」と申(まうし)ながら、勅定(ちよくぢやう)なればめしに応(おう)じて参内(さんだい)す。頼政(よりまさ)はたのみき(ッ)たる郎等(らうどう)遠江国ノ(とほたふみのくにの・とをとをみのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)井ノ早太(ゐのはやた)に、ほろのかざぎりはいだる矢(や)おはせて、ただ一人(いちにん)ぞぐしたりける。
我(わが)身(み)はふたへの狩衣(かりぎぬ)に、山鳥(やまどり)の尾(を・お)をも(ッ)てはいだるとがり矢(や)二(ふた)すじ、しげどうの弓(ゆみ)にとりそへて、南殿(なんでん)の大床(おほゆか)に祗候(しこう)〔す〕。頼政(よりまさ)矢(や)をふたつたばさみける事(こと)は、雅頼卿(まさよりのきやう)其(その)時(とき)はいまだ左少弁(させうべん)にておはしけるが、「変化(へんげ)の物(もの)つかまつらんずる仁(じん)は頼政(よりまさ)ぞ候(さうらふ)」とゑらび(えらび)申(まう)されたるあひだ、一ノ(いちの)矢(や)に変化(へんげ)の物(もの)をゐそんずる(いそんずる)物(もの)ならば、二ノ(にの)矢(や)には雅頼(がらい)の弁(べん)のしや頸(くび)の骨(ほね)をゐ(い)んとなり。日(ひ)ごろ人(ひと)の申(まうす)にたがはず、御悩(ごなう)の剋限(こくげん)に及(およん・をよん)で、東三条(とうさんでう)の森(もり)の方(かた)より、黒雲(こくうん)一村(ひとむら)立来(たちき)て、御殿(ごてん)の上(うへ)にたなびいたり。
頼政(よりまさ)き(ッ)とみあげたれば、雲(くも)のなかにあやしき物(もの)の姿(すがた)あり。これをゐそんずる(いそんずる)物(もの)ならば、世(よ)にあるべしとはおもはざりけり。さりながらも矢(や)と(ッ)てつがひ、南無(なむ)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と、心(こころ)のうちに祈念(きねん)して、よ(ッ)ぴいてひやうどゐる。手(て)ごたへしてはたとあたる。「ゑ(え)たりをう(おう)」と矢(や)さけびをこそしたりけれ。井(ゐ)の早田(はやた)つ(ッ)とより、おつるところをと(ッ)ておさへて、つづけさまに九(ここの)かたなぞさいたりける。其(その)時(とき)上下(じやうげ)手々(てんで・て(ン)で)に火(ひ)をともいて、これを御(ご)らんじみ給(たま)ふに、かしらは猿(さる)、むくろは狸(たぬき)、尾(を・お)はくちなは、手足(てあし)は虎(とら)の姿(すがた)なり。なく声(こゑ)鵺(ぬえ)にぞにたりける。おそろしな(ン)ど(など)もをろか(おろか)也(なり)。
主上(しゆしやう)御感(ぎよかん)のあまりに、師子王(ししわう)といふ御剣(ぎよけん)をくだされけり。宇治(うぢ)の左大臣殿(さだいじんどの)是(これ)を給(たま)はりついで、頼政(よりまさ)にたばんとて、御前(おんまえ)〔の〕きざはしをなからばかりおりさせ給(たま)へるところに、比(ころ)は卯月(うづき)十日(とをか)あまりの事(こと)なれば、雲井(くもゐ)に郭公(くわつこう)二声(ふたこゑ)三(み)こゑ音(おと・をと)づれてぞとほりける。其(その)時(とき)左大臣殿(さだいじんどの)
ほととぎす名(な)をも雲井(くもゐ)にあぐるかな
とおほせられかけたりければ、頼政(よりまさ)右(みぎ)の膝(ひざ)をつき、左(ひだり)の袖(そで)をひろげ、月(つき)をすこしそばめにかけつつ、
弓(ゆみ)はり月(づき)のゐる(いる)にまかせて
と仕(つかまつ)り、御剣(ぎよけん)を給(たまは・ッ)てまかりいづ。「弓矢(ゆみや)をと(ッ)てならびなきのみならず、歌道(かだう)もすぐれたりけり」とぞ、君(きみ)も臣(しん)も御感(ぎよかん)ありける。さてかの変化(へんげ)の物(もの)をば、うつほ舟(ぶね)にいれてながされけるとぞきこえし。去(さんぬ)る応保(おうほう)のころほひ、二条院(にでうのゐん)御在位(ございゐ)の時(とき)、鵺(ぬえ)といふ化鳥(けてう)禁中(きんちゆう・きんちう)にないて、しばしば震襟(しんきん)をなやます事(こと)ありき。先例(せんれい)をも(ッ)て頼政(よりまさ)をめされけり。
ころはさ月(つき)廿日(はつか)あまりの、まだよひの事(こと)なるに、鵺(ぬえ)ただ一声(ひとこゑ)おとづれて、二声(ふたこゑ)ともなかざりけり。目(め)さす共(とも)しらぬやみではあり、すがたかたちもみえざれば、矢(や)つぼをいづくともさだめがたし。
頼政(よりまさ)はかりことに、まづおほかぶらをと(ッ)てつがひ、鵺(ぬえ)の声(こゑ)しつる内裏(だいり)のうへへぞいあげたる。鵺(ぬえ)かぶらのをと(おと)におどろいて、虚空(こくう)にしばしひらめいたり。二(に)の矢(や)に小鏑(こかぶら)と(ッ)てつがひ、ひ(イ)ふつとゐき(ッ・いきつ)て、鵺(ぬえ)とかぶらとならべて前(まえ)にぞおとしたる。禁中(きんちゆう・きんちう)ざざめきあひ、御感(ぎよかん)なのめならず。御衣(ぎよい)をかづけさせ給(たま)ひけるに、其(その)時(とき)は大炊御門(おほいのみかど)の右大臣(うだいじん)公能公(きんよしこう)これを給(たま)はりつゐで(ついで)、頼政(よりまさ)にかづけ給(たま)ふとて、「昔(むかし)の養由(やうゆう)は雲(くも)の外(ほか)の鴈(かり)をいき。今(いま)の頼政(よりまさ)は雨(あめ)のうちに鵺(ぬえ)をゐ(い)たり」とぞ感(かん)ぜられける。
五月(さつき)やみ名(な)をあらはせるこよひかな
と仰(おほせ)られかけたりければ、頼政(よりまさ)
たそかれ時(どき)もすぎぬとおもふに
と仕(つかまつ)り、御衣(ぎよい)を肩(かた)にかけて退出(たいしゆつ)す。其(その)後(のち)伊豆国(いづのくに)給(たま)はり、子息(しそく)仲綱(なかつな)受領(じゆりやう)になし、我(わが)身(み)三位(さんみ)して、丹波(たんば)の五ケノ庄(ごかのしやう)、若狭(わかさ)のとう宮河(みやがは)知行(ちぎやう)して、さておはすべかりし人(ひと)の、よしなき謀叛(むほん)おこいて、宮(みや)をもうしなひまいらせ(まゐらせ)、我(わが)身(み)もほろびぬるこそうたてけれ。 
三井寺炎上 (みゐでらえんしよう) 

 

日(ひ)ごろは山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)こそ、みだりがはしきう(ッ)たへ(うつたへ)つかまるに、今度(こんど)は穏便(をんびん)を存(ぞん)じてをと(おと)もせず。「南都(なんと)・三井寺(みゐでら)、或(あるい・あるひ)は宮(みや)うけとり奉(たてまつ)り、或(あるい・あるひ)は宮(みや)の御(おん)むかへにまいる(まゐる)、これも(ッ)て朝敵(てうてき)なり。
されば三井寺(みゐでら)をも南都(なんと)をもせめらるべし」とて、同(おなじき)五月(ごぐわつ)廿七日(にじふしちにち)、大将軍(たいしやうぐん)には入道(にふだう・にうだう)〔の〕四男(しなん)頭(とうの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)重衡(しげひら)、副将軍(ふくしやうぐん)には薩摩守(さつまのかみ)忠教(ただのり)、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)一万余騎(いちまんよき)で、園城寺(をんじやうじ)へ発向(はつかう)す。寺(てら)にも堀(ほり)ほり、かいだてかき、さかも木(ぎ)ひいてまちかけたり。
卯剋(うのこく)に矢合(やあはせ)して、一日(いちにち)たたかひくらす。ふせくところ大衆(だいしゆ)以下(いげ)の法師原(ほつしばら)、三百余人(さんびやくよにん)までうたれにけり。夜(よ)いくさにな(ッ)て、くらさはくらし、官軍(くわんぐん)寺(てら)にせめ入(いり)て、火(ひ)をはなつ。やくるところ、本覚院(ほんがくゐん)、成喜院(じやうきゐん)・真如院(しんによゐん)・花園院(くわをんゐん)、普賢堂(ふげんだう)・大宝院(だいほうゐん)・清滝院(りやうりうゐん)、教大和尚ノ(けうだいくわしやうの)本坊(ほんばう)ならびに本尊等(ほんぞんとう)、八間(はちけん)四面(しめん)の大講堂(だいかうだう)、鐘楼(しゆろう)・経蔵(きやうざう)・潅頂堂(くわんぢやうだう)、護法善神(ごほうぜんじん)の社壇(しやだん)、新熊野(いまぐまの)の御宝殿(ごほうでん)、惣(すべ)て堂舎(たうじや)塔廟(たふべう・たうべう)六百三十七宇(ろつぴやくさんじふしちう)、大津(おほつ)の在家(ざいけ)一千八百五十三宇(いつせんはつぴやくごじふさんう)、智証(ちしやう)のわたし給(たま)へる一切経(いつさいきやう)七千余巻(しちせんよくわん)、仏像(ぶつざう)二千余体(にせんよたい)、忽(たちまち)に煙(けぶり)となるこそかなしけれ。
諸天五妙(しよてんごめう)のたのしみも此(この)時(とき)ながくつき、竜神(りゆうじん・りうじん)三熱(さんねつ)のくるしみもいよいよさかんなるらんとぞみえし。それ三井寺(みゐでら)は、近江(あふみ)の義大領(ぎだいりよう)が私(わたくし)の寺(てら)たりしを、天武天皇(てんむてんわう)によせ奉(たてまつり)て、御願(ごぐわん)となす。本仏(ほんぶつ)もかの御門(みかど)の御本尊(ごほんぞん)、しかるを生身弥勒(しやうじんみろく)ときこえ給(たま)ひし教大和尚(けうだいくわしやう)百六十(ひやくろくじふ)年(ねん)おこなふ(おこなう)て、大師(だいし)に附属(ふぞく)し給(たま)へり。都士多天上摩尼宝殿(としたてんじやうまにほうでん)よりあまくだり、はるかに竜花下生(りゆうげげしやう・りうげげしやう)の暁(あかつき)をまたせ給(たま)ふとこそききつるに、こはいかにしつる事共(ことども)ぞや。大師(だいし)このところを伝法(でんぼふ・でんぽう)潅頂(くわんぢやう)の霊跡(れいせき)として、ゐけすいの三(みつ)をむすび給(たまひ)しゆへ(ゆゑ)にこそ、三井寺(みゐでら)とは名(な)づけたれ。
かかるめでたき聖跡(せいぜき)なれ共(ども)、今(いま)はなにならず。顕密(けんみつ)須臾(しゆゆ)にほろびて、伽藍(がらん)さらに跡(あと)もなし。三密(さんみつ)道場(だうぢやう)もなければ、鈴(れい)の声(こゑ)もきこえず。一夏(いちげ)の花(はな)もなければ、阿伽(あか)のをと(おと)もせざりけり。宿老(しゆくらう)磧徳(せきとく)の名師(めいし)は行学(ぎやうがく)におこたり、受法(じゆほふ・じゆほう)相承(さうじよう・さうぜう)の弟子(でし)は又(また)経教(きやうげう)にわかれんだり。寺(てら)の長吏(ちやうり)円慶(ゑんけい)法親王(ほふしんわう・ほうしんわう)、天王寺(てんわうじの)別当(べつたう)をとどめらる。其(その)外(ほか)僧綱(そうがう)十三人(じふさんにん)闕官(けつくわん)ぜられて、みな検非違使(けんびゐし・けんびいし)にあづけらる。
悪僧(あくそう)はつつ井(ゐ)の浄妙明秀(じやうめうめいしう)にいたるまで三十(さんじふ)余人(よにん)ながされけり。「かかる天下(てんが)のみだれ、国土(こくど)のさはぎ(さわぎ)、ただ事(こと)ともおぼえず。平家(へいけ)の世(よ)の末(すゑ)になりぬる先表(ぜんべう)やらん」とぞ、人(ひと)申(まうし)ける。 
 
平家物語 巻五

 

都遷 (みやこうつり) 
治承(ぢしよう・ぢせう)四年(しねん)六月(ろくぐわつ)三日(みつかのひ)、福原(ふくはら)へ行幸(ぎやうがう)有(ある)べしとて、京中(きやうぢゆう・きやうぢう)ひしめきあへり。此(この)日(ひ)ごろ都(みやこ)うつりあるべしときこえしかども、忽(たちまち)に今明(こんみやう)の程(ほど)とは思(おもは)ざりつるに、こはいかにとて上下(じやうげ)さはぎ(さわぎ)あへり。あま(ッ・あまつ)さへ三日(みつかのひ)とさだめられたりしが、いま一日(ひとひ)ひきあげて、二日(ふつかのひ)になりにけり。二日(ふつかのひ)の卯剋(うのこく)に、すでに行幸(ぎやうがう)の御輿(みこし)をよせたりければ、主上(しゆしやう)は今年(ことし)三歳(さんざい)、いまだいとけなう在(まし)ましければ、なに心(ごころ)もなうめされけり。主上(しゆしやう)おさなう(をさなう)わたらせ給(たまふ)時(とき)の御同輿(ごとうよ)には、母后(ぼこう)こそまいら(まゐら)せ給(たま)ふに、是(これ)は其(その)儀(ぎ)なし。御(おん)めのと、平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)の北(きた)の方(かた)帥(そつ)のすけ殿(どの)ぞ、ひとつ御輿(おんこし)にはまいら(まゐら)れける。中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)・一院(いちゐん)上皇(しやうくわう)御幸(ごかう)なる。摂政殿(せつしやうどの)をはじめたてま(ッ)て、太政大臣(だいじやうだいじん)以下(いげ)の公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、我(われ)も我(われ)もと供奉(ぐぶ)せらる。
三日(みつかのひ)福原(ふくはら)へいらせ給(たま)ふ。池(いけ)の中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)頼盛卿(よりもりのきやう)の宿所(しゆくしよ)、皇居(くわうきよ)になる。同(おなじき)四日(よつかのひ)、頼盛(よりもり)家(いへ)の賞(しやう)とて正二位(じようにゐ)し給(たま)ふ。九条殿(くでうどの)の御子(おんこ)、右大将(うだいしやう)能通卿(よしみちのきやう)、こえられ給(たま)ひけり。摂禄(せつろく)の臣(しん)の御子息(ごしそく)、凡人(ぼんにん)の次男(じなん)に加階(かかい)こえられ給(たま)ふ事(こと)、是(これ)はじめとぞきこえし。さる程(ほど)に、法皇(ほふわう・ほうわう)を入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)やうやう思(おも)ひなを(ッ・なほつ)て、鳥羽殿(とばどの)をいだしたてまつり、都(みやこ)へいれまいらせ(まゐらせ)られたりしが、高倉宮(たかくらのみや)御謀反(ごむほん)によ(ッ)て、又(また)大(おほき)にいきどをり(いきどほり)、福原(ふくはら)へ御幸(ごかう)なしたてまつり、四面(しめん)にはた板(いた)して、口(くち)ひとつあけたるうちに、三間(さんげん)の板屋(いたや)をつく(ッ)ておしこめまいらせ(まゐらせ)、守護(しゆご)の武士(ぶし)には、原田(はらだ)の大夫(だいふ)種直(たねなほ・たねなを)ぞ候(さうらひ)ける。
たやすう人(ひと)のまいり(まゐり)かよふ事(こと)もなければ、童部(わらはべ)は籠(ろう)の御所(ごしよ)とぞ申(まうし)ける。きくもいまいましうおそろしかりし事共(ことども)也(なり)。法皇(ほふわう・ほうわう)「今(いま)は世(よ)の政(まつりごと)きこしめさばやとは、露(つゆ)もおぼしめしよらず。ただ山々(やまやま)寺々(てらでら)修行(しゆぎやう)して、御心(おんこころ)のままになぐさまばや」とぞおほせける。凡(およそ・をよそ)平家(へいけ)の悪行(あくぎやう)においてはきはまりぬ。「去(さんぬ)る安元(あんげん)よりこのかた、おほくの卿相(けいしやう)雲客(うんかく)、或(あるい・あるひ)はながし、或(あるい)はうしなひ、関白(くわんばく)ながし奉(たてまつ)り、わが聟(むこ)を関白(くわんばく)になし、法王(ほうわう)を城南(せいなん)の離宮(りきゆう・りきう)にうつし奉(たてまつ)り、第二(だいに)の皇子(わうじ)高倉(たかくら)の宮(みや)をうちたてまつり、いまのこるところ都(みやこ)うつりなれば、か様(やう)にし給(たま)ふにや」とぞ人(ひと)申(まうし)ける。みやこうつりは是(これ)先蹤(せんじよう・せんぜう)なきにあらず。神武天皇(じんむてんわう)と申(まうす)は地神(ぢじん)五代(ごだい)の帝(みかど)、彦波激武■■草不葺合尊(ひこなぎさたけうがやふきあはせずのみこと)の第四(だいし)の王子(わうじ)、御母(おんぱは)は玉(たま)より姫(ひめ)、海人(かいじん)のむすめなり。
神(かみ)の代(よ)十二(じふに)代(だい)の跡(あと)をうけ、人代百王(にんだいはくわう)の帝祖(ていそ)なり。辛酉歳(かのとのとりのとし)、日向国(ひうがのくに)宮崎(みやざき)の郡(こほり)にして皇王(くわうわう)の宝祚(ほうそ)をつぎ、五十九(ごじふく)年(ねん)とい(ッ)し己未歳(つちのとのひつじのとし)十月(じふぐわつ)に東征(とうせい)して、豊葦原中津国(とよあしはらなかつくに)にとどまり、このごろ大和国(やまとのくに)となづけたるうねびの山(やま)を点(てん)じて帝都(ていと)をたて、柏原(かしはら)の地(ち)をきりはら(ッ)て宮室(きゆうしつ・きうしつ)をつくり給(たま)へり。これをかし原(はら)の宮(みや)となづけたり。
それよりこのかた、代々(だいだい)の帝王(ていわう)、都(みやこ)を他国(たこく)他所(たしよ)へうつさるる事(こと)卅(さんじふ)度(ど)にあまり、四十(しじふ)度(ど)にをよべ(およべ)り。神武天皇(じんむてんわう)より景行天皇(けいかうてんわう)まで十二(じふに)代(だい)は、大和国(やまとのくに)こほりごほりにみやこをたて、他国(たこく)へはつゐに(つひに)うつされず。しかるを、成務天皇(せいむてんわう)元年(ぐわんねん)に近江国(あふみのくに)にうつ(ッ)て、志賀(しが)の郡(こほり)に都(みやこ)をたつ。仲哀天皇(ちゆうあいてんわう・ちうあいてんわう)二年(にねん)に長門国(ながとのくに)にうつ(ッ)て、豊良郡(とよらのこほり)に都(みやこ)をたつ。其(その)国(くに)の彼(かの)みやこにて、御門(みかど)かくれさせ給(たまひ)しかば、きさき神宮皇后(じんぐうくわうこう)御世(おんよ)をうけとらせ給(たま)ひ、女体(によてい)として、鬼界(きかい)・高麗(かうらい)・荊旦(けいたん)までせめしたがへさせ給(たま)ひけり。
異国(いこく)のいくさをしづめさせ給(たま)ひて後(のち)、筑前国(ちくぜんのくに)三笠ノ郡(みかさのこほり)にして皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)、其(その)所(ところ)をばうみの宮(みや)とぞ申(まうし)たる。かけまくもかたじけなくやわたの御事(おんこと)これ也(なり)。位(くらゐ)につかせ給(たま)ひては、応神天皇(おうじんてんわう)とぞ申(まうす)。其(その)後(のち)、神宮皇后(じんぐうくわうこう)は大和国(やまとのくに)にうつ(ッ)て、岩根稚桜(いはねわかざくら)のみやにをはします(おはします)。応神天皇(おうじんてんわう)は同国(どうこく)軽島(かるしま)明(あかり)の宮(みや)にすませ給(たま)ふ。仁徳天皇(にんどくてんわう)元年(ぐわんねん)に津国(つのくに)難波(なには)にうつ(ッ)て、高津(たかつ)の宮(みや)にをはします(おはします)。履中天皇(りちゆうてんわう・りちうてんわう)二年(にねん)に大和国(やまとのくに)にうつ(ッ)て、とうち(とをち)の郡(こほり)にみやこをたつ。
反正天皇(はんせいてんわう)元年(ぐわんねん)に河内国(かはちのくに)にうつ(ッ)て、柴垣(しばがき)の宮(みや)にすませ給(たま)ふ。允恭天皇(いんげうてんわう・ゐんげうてんわう)四十二年(しじふにねん)に又(また)大和国(やまとのくに)にうつ(ッ)て、飛鳥(とぶとり)のあすかの宮(みや)におはします。雄略天皇(ゆうりやくてんわう)廿一年(にじふいちねん)に同国(どうこく)泊瀬(はつせ)あさくらに宮(みや)ゐし給(たま)ふ。継体天皇(けいたいてんわう)五年(ごねん)に山城国(やましろのくに)つづきにうつ(ッ)て十二年(じふにねん)、其(その)後(のち)乙訓(をとぐん)に宮(みや)ゐし給(たま)ふ。
宣化天皇(せんくわてんわう)元年(ぐわんねん)に又(また)大和国(やまとのくに)にかへ(ッ・かへつ)て、桧隈(ひのくま)の入ル野(いるの)の宮(みや)にをはします(おはします)。孝徳天皇(かうとくてんわう)大化(たいくわ)元年(ぐわんねん)に摂津国(せつつのくに)長良(ながら)にうつ(ッ)て、豊崎(とよざき)の宮(みや)にすませ給(たま)ふ。斉明天皇(せいめいてんわう)二年(にねん)、又(また)大和国(やまとのくに)にかへ(ッ・かへつ)て、岡本(をかもと)の宮(みや)におはします。天智天皇(てんちてんわう)六年(ろくねん)に近江国(あふみのくに)にうつ(ッ)て、大津宮(おほつのみや)にすませ給(たま)ふ。天武天皇(てんむてんわう)元年(ぐわんねん)に猶(なほ・なを)大和国(やまとのくに)にかへ(ッ・かへつ)て、岡本(おかもと)の南(みなみ)の宮(みや)にすませ給(たま)ふ。これを清見原(きよみばら)の御門(みかど)と申(まうし)き。持統(ぢどう)・文武(もんむ)二代(にだい)の聖朝(せいてう)は、同国(どうこく)藤原(ふぢはら)の宮(みや)におはします。
元明天皇(げんめいてんわう)より光仁天皇(くわうにんてんわう)まで七代(しちだい)は、奈良(なら)の都(みやこ)にすませ給(たま)ふ。しかるを桓武天皇(くわんむてんわう)延暦(えんりやく)三年(さんねん)十月(じふぐわつ)二日(ふつかのひ)、奈良(なら)の京(きやう)春日(かすが)の里(さと)より山城国(やましろのくに)長岡(ながをか)にうつ(ッ)て、十年(じふねん)とい(ッ)し正月(しやうぐわつ)に、大納言(だいなごん)藤原小黒丸(ふぢはらのをぐるまる)、参議(さんぎ)左大弁(さだいべん)紀(き)のこさみ、大僧都(だいそうづ)玄慶等(げんけいら)をつかはして、当国(たうごく)賀殿郡(かどののこほり)宇多(うだ)の村(むら)をみせらるるに、両人(りやうにん)共(とも)に奏(そう)して云(いはく)、「此(この)地(ち)の体(てい)を見(み)るに、左青竜(さしやうりう)、右白虎(うはくこ)、前朱雀(ぜんしゆじやく)、後玄武(ごげんむ)、四神(しじん)相応(さうおう)の地(ち)也(なり)。尤(もつとも)帝都(ていと)をさだむるにたれり」と申(まうす)。
仍(よつて)乙城都(をたぎのこほり・おたぎのこほり)にをはします(おはします)賀茂大明神(かものだいみやうじん)に告(つげ)申(まう)させ給(たま)ひて、延暦(えんりやく)十三年(じふさんねん)十一月(じふいちぐわつ)廿一日(にじふいちにち)、長岡(ながをか)の京(きやう)より此(この)京(きやう)へうつされて後(のち)、帝王(ていわう)卅二代(さんじふにだい)、星霜(せいざう)は三百八十(さんびやくはちじふ)余歳(よさい)の春秋(しゆんしう)ををくり(おくり)むかふ。「昔(むかし)より代々(よよ)の帝王(ていわう)、国々(くにぐに)ところどころにおほくの都(みやこ)をたてられしかども、かくのごとくの勝地(せうち)はなし」とて、桓武天皇(くわんむてんわう)ことに執(しつ)しおぼしめし、大臣公卿(だいじんくぎやう)諸道(しよだう)の才人等(さいじんら)に仰(おほせ)あはせ、長久(ちやうきう)なるべき様(やう)とて、土(つち)にて八尺(はつしやく)の人形(にんぎやう)をつくり、くろがねの鎧甲(よろひかぶと)をきせ、おなじうくろがねの弓矢(ゆみや)をもたせて、東山(ひがしやまの・ひ(ン)がしやまの)嶺(みね)に、西(にし)むきにたててうづまれけり。
「末代(まつだい)に此(この)都(みやこ)を他国(たこく)へうつす事(こと)あらば、守護神(しゆごじん)となるべし」とぞ、御約束(おんやくそく)ありける。されば天下(てんが)に事(こと)いでこんとては、この塚(つか)必(かなら)ず鳴動(めいどう)す。将軍(しやうぐん)が塚(つか)とて今(いま)にあり。桓武天皇(くわんむてんわう)と申(まうす)は、平家(へいけ)の農祖(のうそ)にておはします。なかにも此(この)京(きやう)をば平安城(へいあんじやう)と名(な)づけて、たひらかにやすきみやことかけり。尤(もつとも)平家(へいけ)のあがむべきみやこなり。先祖(せんぞ)の御門(みかど)のさしも執(しつ)しおぼしめされたる都(みやこ)を、させるゆへ(ゆゑ)なく、他国(たこく)他所(たしよ)へうつさるるこそあさましけれ。嵯峨(さが)の皇帝(くわうてい)の御時(おんとき)、平城(へいぜい)の先帝(せんてい)、内侍ノ(ないしの)かみのすすめによ(ッ)て、世(よ)をみだり給(たま)ひし時(とき)、すでにこの京(きやう)を他国(たこく)へうつさんとせさせ給(たま)ひしを、大臣公卿(だいじんくぎやう)、諸国(しよこく)の人民(じんみん)そむき申(まうし)しかば、うつされずしてやみにき。一天(いつてん)の君(きみ)、万乗(ばんじよう・ばんぜう)のあるじだにもうつしえ給(たま)はぬ都(みやこ)を、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)、人臣(じんしん)の身(み)としてうつされけるぞおそろしき。旧都(きうと)はあはれめでたかりつる都(みやこ)ぞかし。王城守護(わうじやうしゆご)の鎮守(ちんじゆ)は四方(よも)に光(ひかり)をやはらげ、霊験殊勝(れいげんしゆせう)の寺々(てらでら)は、上下(じやうげ)に甍(いらか)をならべ賜(たま)ひ、百姓万民(ひやくしやうばんみん)わづらひなく、五畿(ごき)七道(しちだう)もたよりあり。されども、今(いま)は辻々(つぢつぢ)をみな堀(ほり)き(ッ)て、車(くるま)な(ン)ど(など)のたやすうゆきかふ事(こと)もなし。
たまさかにゆく人(ひと)もこ車(ぐるま)にのり、路(みち)をへてこそとをり(とほり)けれ。軒(のき)をあらそひし人(ひと)のすまひ、日をへつつあれゆく。家々(いへいへ)は賀茂河(かもがは)・桂河(かつらがは)にこぼちいれ、筏(いかだ)にくみうかべ、資財(しざい)雑具(ざふぐ・ざうぐ)舟(ふね)につみ、福原(ふくはら)へとはこび下(くだ)す。ただなりに花(はな)の都(みやこ)ゐ中(なか)になるこそかなしけれ。なに物(もの)のしわざにやありけん、ふるき都(みやこ)の内裏(だいり)の柱(はしら)に、二首(にしゆ)の歌(うた)をぞかいたりける。
ももとせを四(よ)かへりまでにすぎきにし乙城(をたぎ・おたぎ)の里(さと)のあれやはてなむ
さきいづる花(はな)の都(みやこ)をふりすててかぜふく原(はら)のすゑぞあやうき(あやふき)
同(おなじき)六月(ろくぐわつ)九日(ここのかのひ)、新都(しんと)の事(こと)はじめあるべしとて、上卿(しやうけい)〔には〕徳大寺左大将(とくだいじのさだいしやう)実定(しつてい)の卿(きやう)、土御門(つちみかど)の宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)通信(とうしん)の卿(きやう)、奉行(ぶぎやう)の弁(べん)には蔵人左少弁(くらんどさせうべん)行高(ゆきたか)、官人共(くわんにんども)めしぐして、和田(わだ)の松原(まつばら)の西(にし)の野(の)を点(てん)じて、九城(きうじやう)の地(ち)をわられけるに、一条(いちでう)よりしも五条(ごでう)までは其(その)所(ところ)あ(ッ)て、五条(ごでう)よりしもはなかりけり。
行事官(ぎやうじくわん)かへりまい(ッ・まゐつ)てこのよしを奏聞(そうもん)す。さらば播磨(はりま)のいなみ野(の)か、なを(なほ)摂津国(せつつのくに)の児屋野(こやの)かな(ン)ど(など)いふ公卿僉議(くぎやうせんぎ)ありしかども、事(こと)ゆくべしともみえざりけり。旧都(きうと)をばすでにうかれぬ、新都(しんと)はいまだ事(こと)ゆかず。ありとしある人(ひと)は、身(み)をうき雲(ぐも)のおもひをなす。もと〔こ〕のところにすむ物(もの)は、地(ち)をうしな(ッ)てうれへ、いまうつる人々(ひとびと)は土木(とぼく)のわづらひをなげきあへり。すべてただ夢(ゆめ)のやうなりし事(こと)どもなり。土御門(つちみかどの)宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)通信卿(とうしんのきやう)申(まう)されけるは、異国(いこく)には、三条(さんでう)の広路(くわうぢ)をひらいて十二(じふに)の洞門(とうもん)をたつと見(み)えたり。况ヤ(いはんや)五条(ごでう)まであらん都(みやこ)に、などか内裏(だいり)をたてざるべき。かつがつさと内裏(だいり)つくるべきよし議定(ぎぢやう)あ(ッ)て、五条大納言(ごでうのだいなごん)国綱卿(くにつなのきやう)、臨時(りんじ)に周防国(すはうのくに)を給(たまは・ッ)て、造進(ざうしん)せられるべきよし、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)はからひ申(まう)されけり。
この国綱卿(くにつなのきやう)は大福長者(だいふくちやうじや)にてをはすれ(おはすれ)ば、つくりいだされん事(こと)、左右(さう)に及(およ・をよ)ばねども、いかが国(くに)の費(つゐ)へ(つひえ)、民(たみ)のわづらひなかるべき。まことにさしあた(ッ)たる大事(だいじ)、大嘗会(だいじやうゑ)な(ン)ど(など)のおこなはるべきをさしをい(おい)て、かかる世(よ)のみだれに遷都(せんと)造内裏(ざうだいり)、すこしも相応(さうおう・さうわう)せず。「いにしへのかしこき御代(みよ)には、すなはち内裏(だいり)に茨(かや)をふき、軒(のき)をだにもととのへず。煙(けぶり)のともしきを見(み)給(たま)ふ時(とき)は、かぎりある御(み)つぎ物(もの)をもゆるされき。これすなはち民(たみ)をめぐみ、国(くに)をたすけ給(たま)ふによ(ッ)てなり。楚(そ)帝花(しやうくわ)の台(たい)をたてて、黎民(れいみん)あらげ、秦(しん)阿房(あはう)の殿(てん)ををこし(おこし)て、天下(てんが)みだるといへり。茅茨(ばうじ)きらず、采椽(さいてん)けづらず、周車(しうしや)かざらず、衣服(いふく)あやなかりける世(よ)もありけん物(もの)を。されば唐(たう)の大宗(たいそう)は、離宮山(りさんきゆう・りさんきう)をつく(ッ)て、民(たみ)の費(つひえ・ついへ)をやはばからせ給(たまひ)けん、遂(つひ・つゐ)に臨幸(りんかう)なくして、瓦(かはら)に松(まつ)をひ(おひ)、墻(かき)に蔦(つた)しげ(ッ)て止(やみ)にけるには相違(さうい)かな」とぞ人(ひと)申(まうし)ける。 
月見 (つきみ) 

 

六月(ろくぐわつ)九日(ここのかのひ)、新都(しんと)の事(こと)はじめ、八月(はちぐわつ)十日(とをか)上棟(じやうとう)、十一月(じふいちぐわつ)十三日(じふさんにち)遷幸(せんかう)とさだめらる。ふるき都(みやこ)はあれゆけば、いまの都(みやこ)は繁昌(はんじやう)す。あさましかりける夏(なつ)もすぎ、秋(あき)にも已(すで)になりにけり。やうやう秋(あき)もなかばになりゆけば、福原(ふくはら)の新都(しんと)に在(まし)ます人々(ひとびと)、名所(めいしよ)の月(つき)をみんとて、或(あるい・あるひ)は源氏(げんじ)の大将(だいしやう)の昔(むかし)の跡(あと)をしのびつつ須間(すま)より明石(あかし)の浦(うら)づたひ、淡路(あはぢ)のせとをおしわたり、絵島(ゑしま)が磯(いそ)の月(つき)をみる。
或(あるい・あるひ)はしらら・吹上(ふきあげ)・和歌(わか)の浦(うら)、住吉(すみよし)・難波(なには)・高沙(たかさご)・尾上(をのへ・おのへ)の月(つき)のあけぼのをながめてかへる人(ひと)もあり。旧都(きうと)にのこる人々(ひとびと)は、伏見(ふしみ)・広沢(ひろさは)の月(つき)を見(み)る。其(その)なかにも徳大寺(とくだいじ)の左大将(さだいしやう)実定(しつてい)の卿(きやう)は、ふるき都(みやこ)の月(つき)を恋(こひ)て、八月(はちぐわつ)十日(とをか)あまりに、福原(ふくはら)よりぞのぼり給(たま)ふ。何事(なにごと)も皆(みな)かはりはてて、まれにのこる家(いへ)は、門前(もんぜん)草(くさ)ふかくして庭上(ていしやう)露(つゆ)しげし。蓬(よもぎ)が杣(そま)、浅茅(あさぢ)が原(はら)、鳥(とり)のふしどと荒(あれ)はてて、虫(むし)の声々(こゑごゑ)うらみつつ、黄菊紫蘭(くわうきくしらん)の野辺(のべ)とぞなりにける。故郷(こきやう)の名残(なごり)とては、近衛河原(このゑかはら)の大宮(おほみや)ばかりぞ在(まし)ましける。
大将(だいしやう)その御所(ごしよ)にまい(ッ・まゐつ)て、まづ随身(ずいじん)に惣門(そうもん・さうもん)をたたかせらるるに、うちより女(をんな)の声(こゑ)して、「たそや、蓬生(よもぎふ)の露(つゆ)うちはらう人(ひと)もなき所(ところ)に」ととがむれば、「福原(ふくはら)より大将殿(だいしやうどの)の御(おん)まいり(まゐり)候(さうらふ)」と申(まうす)。「惣門(そうもん・さうもん)はじやうのさされてさぶらうぞ。東面(ひがしおもて・ひ(ン)がしおもて)の小門(こもん)よりいらせ給(たま)へ」と申(まうし)ければ、大将(だいしやう)さらばとて、東(ひがし・ひ(ン)がし)の門(もん)よりまいら(まゐら)れけり。大宮(おほみや)は御(おん)つれづれに、昔(むかし)をやおぼしめしいでさせ給(たま)ひけん。南面(みなみおもて・み(ン)なみおもて)の御格子(みかうし)あげさせて、御琵琶(おんびは・おんびわ)あそばされけるところに、大将(だいしやう)まいら(まゐら)れたりければ、「いかに、夢(ゆめ)かやうつつか、これへこれへ」とぞ仰(おほせ)ける。
源氏(げんじ)の宇治(うぢ)の巻(まき)には、うばそくの宮(みや)の御(おん)むすめ、秋(あき)の名残(なごり)ををしみ、琵琶(びは・びわ)をしらめて夜(よ)もすがら心(こころ)をすまし給(たま)ひしに、在明(ありあけ)の月(つき)のいでけるを、猶(なほ・なを)たえ(たへ)ずやおぼしけん、撥(ばち)にてまねき給(たま)ひけんも、いまこそおもひしられけれ。待(まつ)よひの小侍従(こじじゆう)といふ女房(にようぼう)も、此(この)御所(ごしよ)にぞ候(さうらひ)ける。この女房(にようぼう)を待(まつ)よひと申(まうし)ける事(こと)は、或(ある)時(とき)御所(ごしよ)にて「まつよひ、かへるあした、いづれかあはれはまされる」と御尋(おんたづね)ありければ、
待(まつ)よひのふけゆく鐘(かね)の声(こゑ)きけばかへるあしたの鳥(とり)はものかは
とよみたりけるによ(ッ)てこそ待(まつ)よひとはめされけれ。大将(だいしやう)かの女房(にようばう)よびいだし、昔(むかし)いまの物語(ものがたり)して、さ夜(よ)もやうやうふけ行(ゆけ)ば、ふるきみやこのあれゆくを、いま様(やう)にこそうたはれけれ。
ふるき都(みやこ)をきて見(み)ればあさぢが原(はら)とぞあれにける月(つき)の光(ひかり)はくまなくて秋風(あきかぜ)のみぞ身(み)にはしむ
と、三反(さんべん)うたひすまされければ、大宮(おほみや)をはじめまいらせ(まゐらせ)て、御所(ごしよ)ぢう(ぢゆう)の女房達(にようばうたち)、みな袖(そで)をぞぬらされける。さる程(ほど)に夜(よ)もあけければ、大将(だいしやう)いとま申(まうし)て、福原(ふくはら)へこそかへられけれ。御(おん)ともに候(さうらふ)蔵人(くらんど)をめして、「侍従(じじゆう)があまりなごりおしげ(をしげ)におもひたるに、なんぢかへ(ッ・かへつ)てなにともいひてこよ」と仰(おほせ)ければ、蔵人(くらんど)はしりかへ(ッ・かへつ)て、「畏(かしこま)り申(まう)せ」と候(さうらふ)」とて、
物(もの)かはと君(きみ)がいひけん鳥(とり)のねのけさしもなどかかなしかるらむ
女房(にようばう)涙(なみだ)ををさへ(おさへ)て、
またばこそふけゆくかねも物(もの)ならめあかぬわかれの鳥(とり)の音(ね)ぞうき
蔵人(くらんど)かへりまい(ッ・まゐつ)てこのよし申(まうし)たりければ、「さればこそなんぢをばつかはしつれ」とて、大将(だいしやう)おほきに感(かん)ぜられけり。それよりしてこそ物(もの)かはの蔵人(くらんど)とはいはれけれ。 
物怪之沙汰 (もつけのさた) 

 

福原(ふくはら)へ都(みやこ)をうつされて後(のち)、平家(へいけ)の人々(ひとびと)夢(ゆめ)見(み)もあしう、つねは心(こころ)さはぎ(さわぎ)のみして、変化(へんげ)の物(もの)どもおほかりけり。或(ある)夜(よ)入道(にふだう・にうだう)のふし給(たま)へるところに、ひと間(ま)にはばかる程(ほど)の物(もの)の面(おもて)いできて、のぞきたてまつる。入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)ち(ッ)ともさはが(さわが)ず、ちやうどにらまへてをはし(おはし)ければ、ただぎえにきえうせぬ。岡(をか)の御所(ごしよ)と申(まう)すはあたらしうつくられたれば、しかるべき大木(たいぼく)もなかりけるに、或(ある)夜(よ)おほ木(ぎ)のたふるる音(おと・をと)して、人(ひと)ならば二卅人(にさんじふにん)が声(こゑ)して、ど(ッ)とわらふことありけり。
これはいかさまにも天狗(てんぐ)の所為(しよい)といふ沙汰(さた)にて、ひきめの当番(たうばん)となづけて、よる百人(ひやくにん)ひる五十人(ごじふにん)の番衆(ばんしゆ)をそろへて、ひきめをゐ(い)させらるるに、天狗(てんぐ)のある方(かた)へむいてゐ(い)たる時(とき)は音(おと・をと)もせず。
ない方(かた)へむいてゐ(い)たる時(とき)は、は(ッ)とわらひな(ン)ど(など)しけり。又(また)あるあした、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)帳台(ちやうだい)よりいでて、つま戸(ど)ををし(おし)ひらき、坪(つぼ)のうちを見(み)給(たま)へば、死人(しにん)のしやれかうべどもが、いくらといふかずもしらず庭(には)にみちみちて、うへになりしたになり、ころびあひころびのき、はしなるはなかへまろびいり中(なか)なるははしへいづ。おびたたしうがらめきあひければ、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)「人(ひと)やある、人(ひと)やある」とめされけれども、おりふし(をりふし)人(ひと)もまいら(まゐら)ず。かくしておほくのどくろどもがひとつにかたまりあひ、つぼのうちにはばかる程(ほど)にな(ッ)て、たかさは十四五(じふしご)丈(ぢやう)もあるらんとおぼゆる山(やま)のごとくになりにけり。
かのひとつの大(おほ)がしらに、いきたる人(ひと)のまなこの様(やう)に大(だい)のまなこどもが千万(せんまん)いできて、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)をちやうどにらまへて、まだたきもせず。入道(にふだう・にうだう)すこしもさはが(さわが)ず、はたとにらまへてしばらくたたれたり。かの大(おほ)がしらあまりにつよくにらまれたてまつり霜露(しもつゆ)な(ン)ど(など)の日にあた(ッ)てきゆるやうに、跡(あと)かたもなくなりにけり。其(その)外(ほか)に、一(いち)の厩(むまや)にたててとねりあまたつけられ、あさゆふひまなくなでかはれける馬(むま)の尾(を・お)に、一夜(いちや)のうちにねずみ巣(す)をくひ、子(こ)をぞうんだりける。「これただ事(こと)にあらず」とて、七人(しちにん)の陰陽師(おんやうじ・をんやうじ)にうらなはせられければ、「おもき御(おん)つつしみ」とぞ申(まうし)ける。
この御馬(おんむま)は、相模国(さがみのくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)大庭(おほばの)三郎(さぶらう)景親(かげちか)が、東(とう)八ケ国一(はつかこくいち)の馬(むま)とて、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)にまいらせ(まゐらせ)たり。くろき馬(むま)の額(ひたひ・ひたい)しろかりけり。名(な)をば望月(もちづき)とぞつけられたる。陰陽頭(おんやうのかみ・をんやうのかみ)安陪(あべ)の泰親(やすちか)給(たま)はりけり。昔(むかし)天智天皇(てんちてんわう)の御時(おんとき)、竜(れう・りやう)の御馬(おんむま)の尾(を・お)に鼠(ねずみ)すをくひ、子(こ)をうんだりけるには、異国(いこく)の凶賊(けうぞく)蜂起(ほうき)したりけるとぞ、日本記(につぽんぎ・に(ツ)ぽんぎ)にはみえたる。
又(また)、源(げん)中納言(ぢゆうなごん・ぢうなごん)雅頼卿(がらいのきやう)のもとに候(さうらひ)ける青侍(せいし)がみたりける夢も、おそろしかりけり。たとへば、大内(おほうち)の神祇官(じんぎくわん)とおぼしきところに、束帯(そくたい)ただしき上臈(じやうらふ・じやうらう)たちあまたおはして、儀定(ぎぢやう)の様(やう)なる事(こと)のありしに、末座(ばつざ)なる人(ひと)の、平家(へいけ)のかたうどするとおぼしきを、その中(なか)よりお(ッ)たてらる。かの青侍(せいし)夢(ゆめ)の心(こころ)に、「あれはいかなる上臈(じやうらふ・じやうらう)にて在(まし)ますやらん」と、或(ある)老翁(らうおう・らうをう)にとひたてまつれば、「厳島(いつくしま)の大明神(だいみやうじん)」とこたへ給(たま)ふ。其(その)後(のち)座上(ざしやう)にけだかげなる宿老(しゆくらう)の在(まし)ましけるが、「この日来(ひごろ)平家(へいけ)のあづかりたりつる節斗(せつと)をば、今(いま)者(は)伊豆国(いづのくに)の流人(るにん)頼朝(よりとも)にたばうずる也(なり)」と仰(おほせ)られければ、其(その)御(おん)そばに猶(なほ・なを)宿老(しゆくらう)の在(まし)ましけるが、「其(その)後(のち)者(は)わが孫(まご)にもたび候(さうら)へ」と仰(おほせ)らるるといふ夢(ゆめ)をみて、是(これ)を次第(しだい)にとひたてまつる。
「節斗(せつと)を頼朝(よりとも)にたばうとおほせられつるは八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、其(その)後(のち)わが孫(まご)にもたび候(さうら)へと仰(おほせ)られつるは春日(かすがの)大明神(だいみやうじん)、かう申(まうす)老翁(らうおう・らうをう)は武内(たけうち)の大明神(だいみやうじん)」と仰(おほせ)らるるといふ夢(ゆめ)を見(み)て、これを人(ひと)にかたる程(ほど)に、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)もれきいて、源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)季貞(すゑさだ)をも(ッ)て雅頼卿(がらいのきやう)のもとへ、「夢(ゆめ)みの青侍(せいし)、いそぎこれへたべ」と、の給(たま)ひつかはされたりければ、かの夢(ゆめ)見(み)たる青侍(せいし)やがて逐電(ちくてん)してんげり。雅頼卿(がらいのきやう)いそぎ入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)のもとへゆきむか(ッ)て、「ま(ッ)たくさること候(さうら)はず」と陳(ちん)じ申(まう)されければ、其(その)後(のち)沙汰(さた)もなかりけり。
平家(へいけ)日(ひ)ごろは朝家(てうか)の御(おん)かためにて、天下(てんが)を守護(しゆご)せしかども、今(いま)者(は)勅命(ちよくめい)にそむけば、節斗(せつと)をもめしかへさるるにや、心(こころ)ぼそうぞきこえし。なかにも高野(かうや)におはしける宰相(さいしやう)入道(にふだう・にうだう)成頼(なりより)、か様(やう)の事(こと)どもをつたへきいて、「すは平家(へいけ)の代(よ)はやうやう末(すゑ)になりぬるは。いつくしまの大明神(だいみやうじん)の平家(へいけ)の方(かた)うどをし給(たま)ひけるといふは、そのいはれあり。ただしそれは沙羯羅竜王(しやかつらりゆうわう・しやかつらりうわう)の第三(だいさん)の姫宮(ひめみや)なれば、女神(によしん)とこそうけ給(たま)はれ。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の、せつとを頼朝(よりとも)にたばうど仰(おほせ)られけるはことはり(ことわり)也(なり)。春日(かすがの)大明神(だいみやうじん)の、其(その)後(のち)はわが孫(まご)にもたび候(さうら)へと仰(おほせ)られけるこそ心(こころ)えね。
それも平家(へいけ)ほろび、源氏(げんじ)の世(よ)つきなん後(のち)、大織冠(たいしよくくくわん)の御末(おんすゑ)、執柄家(しつぺいけ)の君達(きんだち)の天下(てんが)の将軍(しやうぐん)になり給(たま)ふべきか」な(ン)ど(など)ぞの給(たま)ひける。又(また)或(ある)僧(そう)のおりふし(をりふし)来(き)たりけるが申(まうし)けるは、「夫(それ)神明(しんめい)は和光垂跡(わくわうすいしやく)の方便(はうべん)まちまちに在(まし)ませば、或(ある)時(とき)は俗体(ぞくたい)とも現(げん)じ、或(ある)時(とき)は女神(によしん)ともなり給(たま)ふ。誠(まこと)に厳島(いつくしま)の大明神(だいみやうじん)は、女神(によしん)とは申(まうし)ながら、三明(さんみやう)六通(ろくつう)の霊神(れいしん)にて在(まし)ませば、俗体(ぞくたい)に現(げん)じ給(たま)はんもかたかるべきにあらず」とぞ申(まうし)ける。うき世(よ)をいとひ実(まこと)の道(みち)に入(いり)ぬれば、ひとへに後世(ごせ)菩提(ぼだい)の外(ほか)は世(よ)のいとなみあるまじき事(こと)なれども、善政(ぜんせい)をきいてはかんじ、愁(うれひ・うれい)をきいてはなげく、これみな人間(にんげん)の習(ならひ)なり。 
早馬 (はやむま) 

 

同(おなじき)九月(くぐわつ)二日(ふつかのひ)、相模国(さがみのくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)大庭(おほばの)三郎(さぶらう)景親(かげちか)、福原(ふくはら)へ早馬(はやむま)をも(ッ)て申(まうし)けるは、「去(さんぬる)八月(はちぐわつ)十七日(じふしちにち)、伊豆国(いづのくにの)流人(るにん)前右兵衛佐(さきのうひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)、しうと北条(ほうでうの)四郎(しらう)時政(ときまさ)をつかはして、伊豆(いづ)の目代(もくだい)、和泉判官(いづみのはんぐわん)兼高(かねたか)をやまきの館(たち)で夜(よ)うちにうち候(さうらひ)ぬ。其(その)後(のち)土肥(とひ・とい)・土屋(つちや)・岡崎(をかざき)をはじめとして三百余騎(さんびやくよき)、石橋山(いしばしやま)に立籠(たてごもつ)て候(さうらふ)ところに、景親(かげちか)御方(みかた)に心(こころ)ざしを存(ぞん)ずるものども一千余騎(いつせんよき)を引率(いんぞつ・ゐんぞつ)して、おしよせせめ候(さうらふ)程(ほど)に、兵衛佐(ひやうゑのすけ)七八騎(しちはつき)にうちなされ、おほ童(わらは)にたたかい(たたかひ)な(ッ)て、土肥(とひ・とい)の椙山(すぎやま)へにげこもり候(さうらひ)ぬ。
其(その)後(のち)畠山(はたけやま)五百余騎(ごひやくよき)で御方(みかた)をつかまつり、三浦大介義明(みうらのおほすけよしあき)が子共(こども)、三百余騎(さんびやくよき)で源氏方(げんじがた)をして、湯井(ゆゐ)・小坪(こつぼ)の浦(うら)でたたかふに、畠山(はたけやま)いくさまけて武蔵国(むさしのくに)へひきしりぞく。その後(のち)畠山(はたけやま)が一族(いちぞく)、河越(かはごへ)・稲毛(いなげ)・小山田(こやまだ)・江戸(ゑど)・笠井(かさい・かさゐ)、其(その)外(ほか)七党(ななたう)の兵(つはもの)ども三千余騎(さんぜんよき)をあひぐして、三浦(みうら)衣笠(きぬがさ)の城(じやう)にをし(おし)よせてせめたたかふ。
大介義明(おおすけよしあき)うたれ候(さうらひ)ぬ。子共(こども)は、くり浜(はま)の浦(うら)より船(ふね)にのり、安房(あは)・上総(かづさ)へわたり候(さうらひ)ぬ」とこそ申(まうし)たれ。平家(へいけ)の人々(ひとびと)都(みやこ)うつりもはやけふ(きよう)さめぬ。わかき公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)は、「あはれ、とく事(こと)のいでこよかし。打手(うつて)にむかはう」な(ン)ど(など)いふぞはかなき。畠山(はたけやま)の庄司重能(しやうじしげよし)、小山田(こやまだ)の別当(べつたう)有重(ありしげ)、宇都宮左衛門(うつのみやのさゑもん)朝綱(ともつな)、大番役(おほばんやく)にて、おりふし(をりふし)在京(ざいきやう)したりけり。畠山(はたけやま)申(まうし)けるは、「僻事(ひがごと)にてぞ候(さうらふ)らん。したしうな(ッ)て候(さうらふ)なれば、北条(ほうでう)はしり候(さうら)はず、自余(じよ)の輩(ともがら)は、よも朝敵(てうてき)が方人(かたうど)をば仕(つかまつり)候(さうら)はじ。いまきこしめしなをさ(なほさ)んずる物(もの)を」と申(まうし)ければ、げにもといふ人(ひと)もあり。
「いやいや只今(ただいま)天下(てんが)の大事(だいじ)に及(および)なんず」とささやく物(もの)どもおほかりけり。入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)、いかられける様(やう)なのめならず。「頼朝(よりとも)をばすでに死罪(しざい)におこなはるべかりしを、故池殿(こいけどの)のあながちなげきの給(たま)ひし間(あひだ)、流罪(るざい)に申(まうし)なだめたり。しかるに其(その)恩(おん・をん)忘(わすれ)て、当家(たうけ)にむか(ッ)て弓(ゆみ)をひくにこそあんなれ。神明三宝(しんめいさんぼう)もいかでかゆるさせ給(たま)ふべき。只今(ただいま・た(ン)だいま)天(てん)のせめかうむらんずる頼朝(よりとも)なり」とぞの給(たま)ひける。 
朝敵揃 (てうてきぞろへ) 

 

夫(それ)我(わが)朝(てう)に朝敵(てうてき)のはじめを尋(たづぬ)れば、やまといはれみことの御宇(ぎよう)四年(しねん)、紀州(きしう)なぐさの郡(こほり)高雄村(たかをのむら・たかおのむら)に一(ひとつ)の蜘蛛(ちちゆう・ちちう)あり。身(み)みじかく、足手(あして)ながくて、ちから人(ひと)にすぐれたり。人民(にんみん)をおほく損害(そんがい)せしかば、官軍(くわんぐん)発向(はつかう)して、宣旨(せんじ)をよみかけ、葛(かづら)の網(あみ)をむすんで、つゐに(つひに)これをおほひころす。それよりこのかた、野心(やしん)をさしはさんで朝威(てうゐ)をほろぼさんとする輩(ともがら)、大石ノ山丸(おほいしのやままる)、大山王子(おほやまのわうじ)、守屋(もりや)の大臣(だいじん)、山田ノ石河(やまだのいしかは)、曾我ノ(そがの)いるか、大友(おほとも)のまとり、文屋ノ宮田(ふんやのみやだ)、橘逸成(きついつせい)、ひかみの河次(かはつぎ)、伊与(いよ)の親王(しんわう)、太宰少弐(だざいのせうに)藤原広嗣(ふぢはらのひろつぎ)、ゑみの押勝(おしかつ・をしかつ)、佐(さ)あらの太子(たいし)、井上(ゐがみ)の広公(くわうこう)、藤原仲成(ふぢはらのなかなり)、平将門(たひらのまさかど・たいらのまさかど)、藤原純友(ふぢはらのすみとも)、安陪(あべの)貞任(さだたふ・さだとう)・宗任(むねたふ・むねとう)、対馬守(つしまのかみ)源義親(みなもとのよしちか)、悪左府(あくさふ)・悪衛門督(あくゑもんのかみ)にいたるまで、すべて廿(にじふ)余人(よにん)、されども一人(いちにん)として素懐(そくわい)をとぐる物(もの)なし。
かばねを山野(さんや)にさらし、かうべを獄門(ごくもん)にかけられる。此(この)世(よ)にこそ王位(わうゐ)も無下(むげ)にかるけれ、昔(むかし)は宣旨(せんじ)をむか(ッ)てよみければ、枯(かれ)たる草木(さうもく)も花(はな)さき実(み)なり、とぶ鳥(とり)もしたがひけり。中比(なかごろ)の事(こと)ぞかし。延喜御門(えんぎのみかど)神泉苑(しんぜんえん)に行幸(ぎやうがう)あ(ッ)て、池(いけ)のみぎはに鷺(さぎ)のゐたりけるを、六位(ろくゐ)をめして、「あの鷺(さぎ)と(ッ)てまいらせよ(まゐらせよ)」と仰(おほせ)ければ、争(いかで)かとらんとおもひけれども、綸言(りんげん)なればあゆみむかふ。鷺(さぎ)はねづくろひしてたたんとす。「宣旨(せんじ)ぞ」と仰(おほ)すれば、ひらんで飛(とび)さらず。これをと(ッ)てまいり(まゐり)たり。「なんぢが宣旨(せんじ)にしたが(ッ)てまいり(まゐり)たるこそ神妙(しんべう)なれ。やがて五位(ごゐ)になせ」とて、鷺(さぎ)を五位(ごゐ)にぞなされける。「今日(けふ)より後(のち)は鷺(さぎ)のなかの王(わう)たるべし」といふ札(ふだ)をあそばひ(あそばい)て、頸(くび)にかけてはなたせ給(たまふ)。ま(ッ)たく鷺(さぎ)の御(おん)れうにはあらず、只(ただ)王威(わうゐ)の程(ほど)をしろしめさんがためなり。 
感陽宮 (かんやうきゆう) 

 

又(また)先蹤(せんじよう・せんぜう)を異国(いこく)に尋(たづぬる)に、燕(えん・ゑん)の太子丹(たいしたん)といふも、秦始皇(しんのしくわう)にとらはれて、いましめをかうぶる事(こと)十二年(じふにねん)、太子丹(たいしたん)涙(なみだ)をながひ(ながい)て申(まうし)けるは、「われ本国(ほんごく)に老母(らうぼ)あり。いとまを給(たま)は(ッ)てかれをみん」と申(まう)せば、始皇帝(しくわうてい)あざわら(ッ・わらつ)て、「なんぢにいとまをたばん事(こと)は、馬(むま)に角(つの)おひ、烏(からす)の頭(かしら)の白(しろ)くならん時(とき)を待(まつ)べし」。燕丹(えんたん・ゑんたん)天(てん)にあふぎ地(ち)に臥(ふし)て、「願(ねがはく)は、馬(むま)に角(つの)をひ(おひ)、烏(からす)の頭(かしら)しろくなしたべ。故郷(こきやう)にかへ(ッ・かへつ)て今(いま)一度(いちど)母(はは)をみん」とぞ祈(いのり)ける。かの妙音菩薩(めうおんぼさつ・めうをんぼさつ)は霊山浄土(りやうぜんじやうど)に詣(けい)して、不孝(ふかう)の輩(ともがら)をいましめ、孔子(こうし)・顔囘(がんくわい)はしな震旦(しんだん)に出(いで)て忠孝(ちゆうかう・ちうかう)の道(みち)をはじめ給(たま)ふ。
冥顕(みやうけん)の三宝(さんぼう)孝行(かうかう)〔の〕心(こころ)ざしをあはれみ給(たま)ふ事(こと)なれば、馬(むま)に角(つの)をひ(おひ)て宮中(きゆうちゆう・きうちう)に来(きた)り、烏(からす)の頭(かしら)白(しろ)くな(ッ)て庭前(ていぜん)の木(き)にすめりけり。始皇帝(しくわうてい)、烏頭(うとう)馬角(ばかく)の変(へん)におどろき、綸言(りんげん)かへらざる事(こと)を信(しん)じて、太子丹(たんしたん)をなだめつつ、本国(ほんごく)へこそかへされけれ。始皇(しくわう)なを(なほ)くやしみて、秦(しん)の国(くに)と燕(えん・ゑん)の国(くに)のさか井(ひ)に楚国(そこく)といふ国(くに)あり。大(おほき)なる河(かは)ながれたり。かの河(かは)にわたせる橋(はし)をば楚国(そこく)の橋(はし)といへり。始皇(しくわう)官軍(くわんぐん)をつかはして、燕丹(えんたん・ゑんたん)がわたる時(とき)、河(かは)なかの橋(はし)をふまばおつる様(やう)にしたためて、燕丹(えんたん・ゑんたん)をわたらせけるに、なじかはおちいらざるべき。河(かは)なかへおち入(いり)ぬ。されどもち(ッ)とも水(みづ)にもおぼれず、平地(へいぢ)を行(ゆく)ごとくして、むかへの岸(きし)へ付(つき)にけり。こはいかにとおもひてうしろをかへり見(み)ければ、亀(かめ)どもがいくらといふかずもしらず、水(みづ)の上(うえ)にうかれ来(き)て、こう(かふ)をならべてあゆませたりける。
これも孝行(かうかう)のこころざしを冥顕(みやうけん)あはれみ給(たま)ふによ(ッ)てなり。太子丹(たいしたん)うらみをふくむ(ふくん)で又(また)始皇帝(しくわうてい)にしたがはず。始皇(しくわう)官軍(くわんぐん)をつかはして燕丹(えんたん・ゑんたん)をうたんとし給(たま)ふに、燕丹(えんたん・ゑんたん)おそれをののき、荊訶(けいか)といふ兵(つはもの)をかたらふ(かたらう)て大臣(だいじん)になす。荊訶(けいか)又(また)田光先生(てんくわうせんじやう)といふ兵(つはもの)をかたらふ。かの先生(せんじやう)申(まうし)けるは、「君(きみ)はこの身(み)がわかうさかんな(ッ)し事(こと)をしろしめされてたのみ仰(おほせ)らるるか。騏(きりん)は千里(せんり)を飛(とべ)ども、老(おい)ぬれば奴馬(どば)にもおとれり。いまはいかにもかなひ候(さうらふ)まじ。兵(つはもの)をこそかたらふ(かたらう)てまいらせ(まゐらせ)め」とて、かへらむとするところに、荊訶(けいか)「この事(こと)あなかしこ、人(ひと)にひろふ(ひろう)すな」といふ。先生(せんじやう)申(まうし)けるは、「人(ひと)にうたがはれぬるにすぎたる恥(はぢ)こそなけれ。
此(この)事(こと)もれぬる物(もの)ならば、われうたがはれなんず」とて、門前(もんぜん)なる李(すもも)の木(き)にかしらをつきあて、うちくだいてぞ死(しに)にける。又(また)范予期(はんよき)といふ兵(つはもの)あり。これは、秦(しん)の国(くに)のものなり。始皇(しんわう)のためにおや・おぢ(をぢ)・兄弟(けいてい)をほろぼされて、燕(えん・ゑん)の国(くに)ににげこもれり。秦皇(しんくわう)四海(しかい)に宣旨(せんじ)をくだいて、「范予期(はんよき)がかうべはねてまいらせ(まゐらせ)たらん物(もの)には、五百斤(ごひやくきん)の金(こがね)をあたへん」とひろふ(ひろう)せらる。荊訶(けいか)これをきき、范予期(はんよき)がもとにゆひ(ゆい)て、「われきく。なんぢがかうべ五百斤(ごひやくきん)の金(こがね)にほうぜらる。なんぢが首(くび)われにかせ。取(とり)て始皇帝(しくわうてい)にたてまつらん。よろこ(ン)で叡覧(えいらん・ゑいらん)へられん時(とき)、つるぎをぬき、胸(むね)をささんにやすかりなん」といひければ、
范予期(はんよき)おどり(をどり)あがり、大(おほ)いきついて申(まうし)けるは、「われおや・おぢ(をぢ)・兄弟(けいてい)を始皇(しくわう)のためにほろぼされて、よるひる是(これ)をおもふに、骨髄(こつずい)にとを(ッ・とほつ)て忍(しのび)がたし。げにも始皇帝(しくわうてい)をほろぼすべくは、首(くび)をあたへんこと、塵(ちり)あくたよりもなを(なほ)やすし」とて、手(て)づから首(くび)を切(きり)てぞ死(しに)にける。又(また)秦巫陽(しんぶやう)といふ兵(つはもの)あり。これも秦(しん)の国(くに)の物(もの)なり。十三(じふさん)の歳(とし)かたきをう(ッ)て、燕(えん・ゑん)の国(くに)ににげこもれり。ならびなき兵(つはもの)なり。かれが嗔(いかつ)てむかふ時(とき)は、大(だい)の男(をとこ・おとこ)も絶入(せつじゆ)す。又(また)笑(わらひ)てむかふ時(とき)は、みどり子(こ)もいだかれけり。これを秦(しん)の都(みやこ)の案内者(あんないしや)にかたらうて、ぐしてゆく程(ほど)に、ある片山(かたやま)のほとりに宿(しゆく)したりける夜(よ)、其(その)辺(ほとり)ちかき里(さと)に管絃(くわんげん)をするをきいて、調子(てうし)をも(ッ)て本意(ほんい)の事(こと)をうらなふに、かたきの方(かた)は水(みづ)なり、我(わが)方(かた)は火(ひ)なり。さる程(ほど)に天(てん)もあけぬ。白虹(はつかう)日(ひ)をつらぬいてとほらず。
「我等(われら)が本意(ほんい)とげん事(こと)ありがたし」とぞ申(まうし)ける。さりながら帰(かへる)べきにもあらねば、始皇(しくわう)の都(みやこ)咸陽宮(かんやうきゆう・かんやうきう)にいたりぬ。燕(えん・ゑん)の指図(さしづ)ならびに范予期(はんよき)が首(くび)も(ッ)てまいり(まゐり)たるよし奏(そう)しければ、臣下(しんか)をも(ッ)てうけとらんとし給(たま)ふ。「ま(ッ)たく人(ひと)してはまいらせ(まゐらせ)じ。直(ぢき)にたてまつらん」と奏(そう)する間(あひだ・あいだ)、さらばとて、節会(せちゑ)の儀(ぎ)をととのへて、燕(えん・ゑん)の使(つかひ)をめされけり。
咸陽宮(かんやうきゆう・かんやうきう)はみやこのめぐり一万八千三百八十(いちまんぱつせんさんびやくはちじふ・いちまんばつせんさんびやくはちじふ)里(り)につもれり。内裏(だいり)をば地(ち)より三里(さんり)たかく築(つき)あげて、其(その)上(うへ)にたてたり。長生殿(ちやうせいでん)・不老門(ふらうもん)あり、金(こがね)をも(ッ)て日(ひ)をつくり、銀(しろかね)をも(ッ)て月(つき)をつくれり。真珠(しんじゆ)のいさご、瑠璃(るり)の砂(いさご)、金(きん)の砂(いさご)をしきみてり。四方(しはう)にはたかさ四十丈(しじふぢやう)の鉄(くろがね)の築地(ついぢ・つゐぢ)をつき、殿(てん)の上(うへ)にも同(おなじく)鉄(くろがね)の網(あみ)をぞ張(はり)たりける。これは冥途(めいど)の使(つかひ)をいれじとなり。秋(あき)の田(た)のもの鴈(かり)、春(はる)はこしぢへ帰(かへる)も、飛行自在(ひぎやうじざい)のさはりあれば、築地(ついぢ・つゐぢ)には鴈門(がんもん)となづけて、鉄(くろがね)の門(もん)をあけてぞとをし(とほし)ける。
そのなかにも阿房殿(あはうてん)とて、始皇(しくわう)のつねは行幸(ぎやうがう)な(ッ)て、政道(せいたう)おこなはせ給(たま)ふ殿(てん)あり。たかさは卅六(さんじふろく)丈(ぢやう)東西(とうざい)へ九町(くちやう)、南北(なんぼく)へ五町(ごちやう)、大床(おほゆか)のしたは五丈(ごぢやう)のはたぼこをたてたるが、猶(なほ・なを)及(およ・をよ)ばぬ程(ほど)也(なり)。
上(かみ)は瑠璃(るり)の瓦(かはら・カワラ)をも(ッ)てふき、したは金銀(きんぎん)にてみがけり。荊訶(けいか)は燕(えん・ゑん)の指図(さしづ)をもち、秦巫陽(しんぶやう)は范予期(はんよき)が首(くび)をも(ッ)て、珠(たま)のきざ橋(はし)をのぼりあがる。あまりに内裏(だいり)のおびたたしきを見(み)て秦巫陽(しんぶやう)わなわなとふるひければ、臣下(しんか)あやしみて、「巫陽(ぶやう)謀反(むほん)の心(こころ)あり。刑人(けいじん)をば君(きみ)のかたはらにをか(おか)ず、君子(くんし)は刑人(けいじん)にちかづかず、刑人(けいじん)にちかづくはすなはち死(し)をかろんずる道(みち)なり」といへり。荊訶(けいか)たち帰(かへ・ッ)て、「巫陽(ぶやう)ま(ッ)たく謀反(むほん)の心(こころ)なし。
ただ田舎(ゐなか・いなか)のいやしきにのみなら(ッ)て、皇居(くわうきよ)になれざるが故(ゆゑ・ゆへ)に心(こころ)迷惑(めいわく)す」と申(まうし)ければ、臣下(しんか)みなしづまりぬ。仍(よつて)王(わう)にちかづきたてまつる。燕(えん・ゑん)の指図(さしづ)ならびに范予期(はんよき)が首(くび)げ(ン)ざん(げんざん)にいるるところに、指図(さしづ)の入(い・ッ)たる櫃(ひつ)のそこに、氷(こほり)の様(やう)なるつるぎの見(み)えければ、始皇帝(しくわうてい)これをみて、やがてにげんとし給(たま)ふ。荊訶(けいか)王(わう)の御袖(おんそで)をむずとひかへて、つるぎをむねにさしあてたり。いまはかうとぞ見(み)えたりける。数万(すまん)の兵(つはもの)庭上(ていしやう)に袖(そで)をつらぬといへども、すくはんとするに力(ちから)なし。
ただ君(きみ)逆臣(げきしん)にをかされ給(たま)はん事(こと)をのみかなしみあへり。始皇(しくわう)の給(たまは)く、「われに暫時(しばらく)のいとまをえさせよ。わが最愛(さいあい)の后(きさき)の琴(こと)の音(ね)を今(いま)一度(いちど)きかん」との給(たま)へば、荊訶(けいか)しばしをかしたてまつらず。始皇(しくわう)は三千人(さんぜんにん)のきさきをもち給(たま)へり。其(その)なかに花陽夫人(くわやうぶにん)とて、すぐれたる琴(こと)の上手(じやうず)おはしけり。凡(およそ・をよそ)この后(きさき)の琴(こと)のねをきいては、武(たけ)きもののふのいかれるもやはらぎ、飛鳥(とぶとり)もおち、草木(くさき)もゆるぐ程(ほど)なり。况哉(いはんや)いまをかぎりの叡聞(えいぶん・ゑいぶん)にそなへんと、なくなくひき給(たま)ひけん、さこそはおもしろかりけめ。荊訶(けいか)も頭(かうべ)をうなだれ、耳(みみ)をそばだて、殆(ほとんど)謀臣(ぼうしん)のおもひもたゆみにけり。后(きさき)はじめてさらに一曲(いつきよく)を奏(そう)す。
「七尺(しつせきの)屏風(へいふう)はたかくとも、おどら(をどら)ばなどかこへ(こえ)ざらん。一条(いちでう)の羅(らこく)はつよくとも、ひかばなどかはたえざらん」とぞひき給(たま)ふ。荊訶(けいか)はこれをききしらず、始皇(しくわう)はきき知(しり)て、御袖(おんそで)をひ(ッ・ひつ)きり、七尺(しつせき)の屏風(へいふう)を飛(とび)こえて、あかがねの柱(はしら)のかげににげかくれさせ給(たま)ひぬ。荊訶(けいか)いか(ッ)て、つるぎをなげかけたてまつる。おりふし(をりふし)御前(ごぜん)に番(ばん)の医師(いし)の候(さうらひ)けるが、薬(くすり)の袋(ふくろ)を荊訶(けいか)がつるぎになげあはせたり。
つるぎ薬(くすり)の袋(ふくろ)をかけられながら、口(くち)六尺(ろくしやく)の銅(あかがね)の柱(はしら)をなからまでこそき(ッ)たりけれ。荊訶(けいか)又(また)剣(つるぎ)ももたねばつづいてもなげず。王(わう)たちかへ(ッ)てわがつるぎをめしよせて、荊訶(けいか)を八ツ(やつ)ざきにこそし給(たま)ひけれ。
秦巫陽(しんぶよう)もうたれにけり。官軍(くわんぐん)をつかはして、燕丹(えんたん・ゑんたん)をほろぼさる。蒼天(さうてん)ゆるし給(たま)はねば、白虹(はつこう)日(ひ)をつらぬいてとほらず。秦(しん)の始皇(しくわう)はのがれて、燕丹(えんたん・ゑんたん)つゐに(つひに)ほろびにき。「されば今(いま)の頼朝(よりとも)もさこそはあらんずらめ」と、色代(しきだい)する人々(ひとびと)もありけるとかや。 
文学荒行 (もんがくのあらぎやう) 

 

抑(そもそも)かの頼朝(よりとも)とは、去(さんぬ)る平治(へいぢ)元年(ぐわんねん)十二月(じふにぐわつ)、ちち左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)が謀反(むほん)によ(ッ)て、年(とし)十四歳(じふしさい)と申(まうし・まうせ)し永暦(えいりやく)元年(ぐわんねん)三月(さんぐわつ)廿日(はつかのひ)、伊豆国(いづのくに)蛭島(ひるがしま)へながされて、廿(にじふ)余年(よねん)の春秋(はるあき)ををくり(おくり)むかふ。年(とし)ごろもあればこそありけめ、ことしいかなる心(こころ)にて謀反(むはん)をばおこされけるぞといふに、高雄(たかを・たかお)の文覚上人(もんがくしやうにん)の申(まうし)すすめられたりけるとかや。
彼(かの)文覚(もんがく)と申(まうす)は、もとは渡辺(わたなべ)の遠藤(ゑんどう)佐近将監(さこんのしやうげん)茂遠(もちとほ・もちとを)が子(こ)、遠藤武者(ゑんどうむしや)盛遠(もりとほ・もりとを)とて、上西門院(しやうさいもんゐん)の衆(しゆ)也(なり)。十九(じふく)の歳(とし)道心(だうしん)をこし(おこし)出家(しゆつけ)して、修行(しゆぎやう)にいでんとしけるが、「修行(しゆぎやう)といふはいか程(ほど)の大事(だいじ)やらん、ためいて見(み)ん」とて、六月(ろくぐわつ)の日(ひ)の草(くさ)もゆるがずて(ッ)たるに、片山(かたやま)のやぶのなかにはいり、あをのけ(あふのけ)にふし、あぶぞ、蚊(か)ぞ、蜂蟻(はちあり)な(ン)ど(など)いふ毒虫(どくちゆう・どくちう)どもが身(み)にひしととりつゐ(つい)て、さしくひな(ン)ど(など)しけれども、ち(ッ)とも身(み)をもはたらかさず。七日(しちにち)まではおきあがらず、八日(やうか)といふにおきあが(ッ)て、
「修行(しゆぎやう)といふはこれ程(ほど)の大事(だいじ)か」と人(ひと)にとへば、「それ程(ほど)ならんには、いかでか命(いのち)もいくべき」といふあひだ、「さてはあんべいごさんなれ」とて、修行(しゆぎやう)にぞいでにける。熊野(くまの)へまいり(まゐり)、那智(なち)ごもりせんとしけるが、行(ぎやう)の心(こころ)みに、きこゆる滝(たき)にしばらくうたれてみんとて、滝(たき)もとへぞまいり(まゐり)ける。比(ころ)は十二月(じふにぐわつ・じふに(ン)ぐわつ)十日(とをか)あまりの事(こと)なれば、雪(ゆき)ふりつもりつららゐて、谷(たに)の小河(をがは)も音(おと・をと)もせず、嶺(みね)の嵐(あらし)ふきこほり、滝(たき)のしら糸(いと)垂氷(たるひ)となり、みな白妙(しろたへ)にをし(おし)なべて、よもの梢(こずゑ)も見(み)えわかず。しかるに、文覚(もんがく)滝(たき)つぼにおりひたり、頸(くび)きはつか(ッ)て、慈救(じく)の呪(しゆ)をみて(ン)げるが、二三日(にさんにち)こそありけれ、四五日(しごにち)にもなりければ、こらへずして文覚(もんがく)うきあがりにけり。
数千丈(すうせんぢやう)みなぎりおつる滝(たき)なれば、なじかはたまるべき。ざ(ッ)とをし(おし)おとされて、かたなのはのごとくに、さしもきびしき岩(いは)かどのなかを、うきぬしづみぬ五六町(ごろくちやう)こそながれたれ。時(とき)にうつくしげなる童子(どうじ)一人(いちにん)来(きた・ッ)て、文覚(もんがく)が左右(さう)の手(て)をと(ッ)てひきあげ給(たま)ふ。人(ひと)奇特(きどく)のおもひをなし、火(ひ)をたきあぶりな(ン)ど(など)しければ、定業(ぢやうごふ・ぢやうごう)ならぬ命(いのち)ではあり、ほどなくいきいでにけり。文覚(もんがく)すこし人心地(ひとごこち)いできて、大(だい)のまなこを見(み)いからかし、「われこの滝(たき)に三七日(さんしちにち)うたれて、慈救(じく)の三洛叉(さんらくしや)をみてうどおもふ大願(だいぐわん)あり。けふはわずかに五日(ごにち)になる。
七日(しちにち)だにもすぎざるに、なに物(もの)かここへはと(ッ)てきたるぞ」といひければ、みる人(ひと)身(み)のけよだ(ッ)てものいはず。又(また)滝(たき)つぼにかへりた(ッ)てうたれけり。第二日(だいににち)といふに、八人(はちにん)の童子(どうじ)来(きた・ッ)て、ひきあげんとし給(たま)へども、さんざんにつかみあふ(あう)てあがらず。三日(さんにち)といふに、文覚(もんがく)つゐに(つひに)はかなくなりにけり。滝(たき)つぼをけがさじとや、みずらゆうたる天童(てんどう)二人(ににん)、滝(たき)のうへよりおりくだり、文覚(もんがく)が頂上(ちやうじやう)より手足(てあし)のつまさき・たなうらにいたるまで、よにあたたかにかうばしき御手(おんて)をも(ッ)て、なでくだし給(たま)ふとおぼえければ、夢(ゆめ)の心地(ここち)していきいでぬ。
「抑(そもそも)いかなる人(ひと)にてましませば、かうはあはれみ給(たま)ふらん」ととひたてまつる。「われは是(これ)大聖不動明王(だいしやうふどうみやうわう)の御使(おんつかひ)に、こんがら・せいたかといふ二童子(にどうじ)なり。「文覚(もんがく)無上(むじやう)の願(ぐわん)ををこし(おこし)て、勇猛(ゆうみやう)の行(ぎやう)をくはたつ。ゆいてちからをあはすべし」と明王(みやうわう)の勅(ちよく)によ(ッ)て来(きた)れる也(なり)」とこたへ給(たま)ふ。文覚(もんがく)声(こゑ)をいからかして、「さて明王(みやうわう)はいづくに在(まし)ますぞ」。「都率天(とそつてん)に」とこたへて、雲居(くもゐ)はるかにあがり給(たま)ひぬ。たな心(ごころ)をあはせてこれを拝(はい)したてまつる。「されば、わが行(ぎやう)をば大聖不動明王(だいしやうふどうみやうわう)までもしろしめされたるにこそ」とたのもしうおぼえて、猶(なほ・なを)滝(たき)つぼにかへりた(ッ)てうたれけり。まことにめでたき瑞相(ずいさう)どもありければ、吹(ふき)くる風(かぜ)も身(み)にしまず、落(おち)くる水(みづ)も湯(ゆ)のごとし。かくて三七日(さんしちにち)の大願(だいぐわん)つゐに(つひに)とげにければ、那智(なち)に千日(せんにち)こもり、大峯(おほみね)三度(さんど)、葛城(かづらぎ)二度(にど)、高野(かうや)・粉河(こかは)・金峯山(きんぶうぜん・きんぶ(ウ)ぜん)、白山(しらやま)・立山(たてやま)・富士(ふじ)の嵩(たけ)、信乃(しなのの)戸隠(とがくし)、出羽(ではの)羽黒(はぐろ)、すべて日本国(につぽんごく)のこる所(ところ)なくおこなひまは(ッ)て、さすが尚(なほ・なを)ふる里(さと)や恋(こひ)しかりけん、宮(みや)こへのぼりたりければ、凡(およそ・をよそ)とぶ鳥(とり)も祈(いのり)おとす程(ほど)のやいばの検者(げんじや)とぞきこえし。 
勧進張 (くわんじんちやう) 

 

後(のち)には高雄(たかを・たかお)といふ山(やま)の奥(おく)におこなひすましてぞゐたりける。かのたかをに神護寺(じんごじ)といふ山寺(やまでら)あり。昔(むかし)称徳天王(せうどくてんわう)の御時(おんとき)、和気(わけ)の清丸(きよまろ)がたてたりし伽藍(がらん)也(なり)。久(ひさ)しく修造(しゆざう)なかりしかば、春(はる)は霞(かすみ)にたちこめられ、秋(あき)は霧(きり)にまじはり、扉(とびら)は風(かぜ)にたふれて落葉(らくえふ)のしたにくち、薨(いらか)は雨露(うろ)にをかされて、仏壇(ぶつだん)さらにあらはなり。住持(ぢゆうぢ・ぢうじ)の僧(そう)もなければ、まれにさし入(いる)物(もの)とては、月日(つきひ)の光(ひかり)ばかりなり。文覚(もんがく)これをいかにもして修造(しゆざう)せんといふ大願(だいぐわん)をおこし、勧進帳(くわんじんちやう)をささげて、十方(じつぱう・じつばう)檀那(だんな)をすすめありきける程(ほど)に、或(ある)時(とき)院(ゐんの)御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの・ほうぢうじどの)へぞまいり(まゐり)たりける。
御奉加(ごほうが)あるべき由(よし)奏聞(そうもん)しけれども、御遊(ぎよいう・ぎよゆう)のおりふし(をりふし)できこしめしも入(いれ)られず、文覚(もんがく)は天性(てんぜい)不敵(ふてき)第一(だいいち)のあらひじりなり、御前(ごぜん)の骨(こつ)ない様(やう)をばしらず、ただ申入(まうしいれ)ぬぞと心(こころ)えて、是非(ぜひ)なく御坪(おつぼ)のうちへやぶりいり、大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて申(まうし)けるは、「大慈(だいじ)大悲(だいひ)の君(きみ)にてをはします(おはします)。などかきこしめし入(いれ)ざるべき」とて、勧進帳(くわんじんちやう)をひきひろげ、たからかにこそようだりけれ。沙弥文覚(しやみもんがく)敬(うやまつて・うやま(ツ)て)白(まう)す。殊(こと)に貴賎道俗(きせんだうぞく)助成(じよじやう)を蒙(かうぶり)て、高雄山(たかをやま・たかおやま)の霊地(れいち)に、一院(いちゐん)を建立(こんりふ・こんりう)し、二世(にせ)安楽(あんらく)の大利(だいり)を勤行(ごんぎやう)せんと乞(こふ)勧進ノ(くわんじんの)状(じやう・でう)。夫(それ)以(おもんみれ)ば、真如(しんによ)広大(くわうだい)なり。
生仏(しやうぶつ)の仮名(けみやう)をたつといへども、法性(ほつしやう)随妄(ずいまう)の雲(くも)あつく覆(おほつ)て、十二(じふに)因縁(いんえん・ゐんゑん)の峯(みね)にたなびいしよりこのかた、本有心蓮(ほんうしんれん)の月(つき)の光(ひかり)かすかにして、いまだ三毒(さんどく)四慢(しまん)の大虚(たいきよ)にあらはれず。悲(かなしい)哉(かなや)、仏日(ぶつにち)早(はや)く没(もつ)して、生死流転(しやうじるてん)の衢(ちまた)冥々(みやうみやう)たり。只(ただ)色(いろ)に耽(ふけ)り、酒(さけ)にふける、誰(たれ)か狂象重淵(きやうざうてうゑん)の迷(まどひ)を謝(しや)せん。いたづらに人(ひと)を謗(はう)じ法(ほふ・ほう)を謗(はう)ず、あに閻羅獄卒(えんらごくそつ)の責(せめ)をまぬかれんや。爰(ここ)に文覚(もんがく)たまたま俗塵(ぞくぢん)をうちはら(ッ)て法衣(ほふえ・ほうゑ)をかざるといへども、悪行(あくぎやう)猶(なほ・なを)心(こころ)にたくましうして日夜(にちや)に造(つく)り、善苗(せんべう)又(また)耳(みみ)に逆(さか・ッ)て朝暮(てうぼ)にすたる。痛(いたましき)哉(かな)、再度(さいど)三途(さんづ)の火(くわけう)にかへ(ッ・かへつ)て、ながく四生(ししやう)苦輪(くりん)にめぐらん事(こと)を。此(この)故(ゆゑ・ゆへ)に無二(むに)の顕章(けんしやう)千万軸(せんまんぢく)、軸々(ぢくぢく)に仏種(ぶつしゆ)の因(いん・ゐん)をあかす。
随縁至誠(ずいえんしじやう)の法(ほふ・ほう)一(ひと)ツとして菩提(ぼだい)の彼岸(ひがん)にいたらずといふ事(こと)なし。かるがゆへに(かるがゆゑに)、文覚(もんがく)無常(むじやう)の観門(くわんもん)に涙(なみだ)をおとし、上下(じやうげ)の親俗(しんぞく)をすすめて上品蓮台(じやうぼんれんだい)にあゆみをはこび、等妙覚王(とうめうかくわう)の霊場(れいぢやう)をたてんと也(なり)。抑(そもそも)高雄(たかを・たかお)は、山(やま)うづたかくして鷲峯山(じゆぶせん・じゆぶ(ウ)せん)の梢(こずゑ)を、表(へう)し、谷(たに)閑(しづか)にして商山洞(しやうざんとう)の苔(こけ)をしけり。巌泉(がんぜん)咽(むせん)で布(ぬの)をひき、嶺猿(れいゑん)叫(さけん)で枝(えだ)にあそぶ。人里(ひとざと)とをう(とほう)して囂塵(けうちん)なし。咫尺(しせき)好(ことな)うして信心(しんじん)のみあり。
地形(ぢぎやう)すぐれたり、尤(もつと)も仏天(ぶつてん)をあがむべし。奉加(ほうが)すこしきなり、誰(たれ)か助成(じよじやう)せざらん。風(ほのかに)聞(きく)、聚沙為(じゆしやゐ)仏塔(ぶつたふ・ぶつたう)功徳(くどく)、忽(たちまち)に仏因(ぶついん・ぶつゐん)を感(かん)ず。况哉(いはんや)一紙半銭(いつしはんせん)の宝財(ほうざい)においてをや。願(ねがはく)は建立(こんりふ・こんりう)成就(じやうじゆ)して、金闕(きんけつ)鳳暦(ほうれき)御願(ごぐわん)円満(ゑんまん)、乃至(ないし)都鄙遠近(とひゑんきん)隣民親疎(りんみんしんそ)、舜(げうしゆん)無為(むゐ)の化(くわ)をうたひ、椿葉(ちんえふ・ちんよう)再会(さいくわい)の咲(ゑみ)をひらかん。殊(こと)には、聖霊(しやうりやう)幽儀(いうぎ・ゆうぎ)先後(ぜんご)大小(だいせう)、すみやかに一仏(いちぶつ)真門(しんもん)の台(うてな)にい〔た〕り、必(かならず)三身(さんじん)万徳(まんどく)の月(つき)をもてあそばん。仍(よつて)勧進修行(くわんじんしゆぎやう)の趣(おもむき)、蓋(けだし)以(もつて・も(ツ)て)如斯(かくのごとし)治承(ぢしよう・ぢせう)三年(さんねん)三月(さんぐわつの)日(ひ)文覚(もんがく)とこそよみあげたれ。 
文学被流 (もんがくながされ) 

 

おりふし(をりふし)、御前(ごぜん)には太政大臣(だいじやうだいじん)妙音院(めうおんゐん・めうをんゐん)、琵琶(びは・びわ)かきららし朗詠(らうえい・らうゑい)めでたうせさせ給(たま)ふ。按察大納言(あぜちのだいなごん)資方卿(すけかたのきやう)拍子(ひやうし)と(ッ)て、風俗(ふうぞく)催馬楽(さいばら)うたはれけり。右馬頭(うまのかみ)資時(すけとき)・四位(しゐの)侍従(じじゆう・じじう)盛定(もりさだ)和琴(わごん)かきならし、いま様(やう)とりどりにうたひ、玉(たま)の簾(すだれ)、錦(にしき)の帳(ちやう)ざざめきあひ、まことに面白(おもしろ)かりければ、法皇(ほふわう・ほうわう)もつけ歌(うた)せさせおはします。それに文覚(もんがく)が大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)いできて、調子(てうし)もたがい(たがひ)、拍子(ひやうし)もみなみだれにけり。
「なに物(もの)ぞ。そくびつけ」と仰下(おほせくだ)さるる程(ほど)こそありけれ、はやりをの若者共(わかものども)、われもわれもとすすみけるなかに、資行判官(すけゆきはんぐわん)といふものはしりいでて、「何条事(なんでうこと)申(まうす)ぞ。まかりいでよ」といひければ、「高雄(たかを・たかお)の神護寺(じんごじ)に庄(しやう)一所(いつしよ)よせられざらん程(ほど)は、ま(ッ)たく文覚(もんがく)いづまじ」とてはたらかず。よ(ッ)てそくびをつかうどしければ、勧進帳(くわんじんちやう)をとりなをし(なほし)、資行判官(すけゆきはんぐわん)が烏帽子(えぼし・ゑぼし)をはたとう(ッ)てうちおとし、こぶしをにぎ(ッ)てしやむねをつゐ(つい)て、のけにつきたをす(たふす)。資行判官(すけゆきはんぐわん)もとどりはな(ッ)て、おめおめと大床(おほゆか)のうへへにげのぼる。
其(その)後(のち)文覚(もんがく)ふところより馬(むま)の尾(を・お)でつかまいたる刀(かたな)の、こほりのやうなるをぬきいだひ(いだい)て、よりこん物(もの)をつかうどこそまちかけたれ。左(ひだり)の手(て)には勧進帳(くわんじんちやう)、右(みぎ)の手(て)には刀(かたな)をぬいてはしりまはるあいだ(あひだ)、おもひまうけぬにはか事(ごと)ではあり、左右(さう)の手(て)に刀(かたな)をも(ッ)たる様(やう)にぞ見(み)えたりける。公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)も、「こはいかにこはいかに」とさはが(さわが)れければ、御遊(ぎよいう・ぎよゆう)もはや荒(あれ)にけり。
院中(ゐんぢゆう・ゐんぢう)のさうどうなのめならず。信乃国(しなののくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)安藤武者右宗(あんどうむしやみぎむね)、其(その)比(ころ)当職(たうしよく)の武者所(むしやどころ)で有(あり)けるが、「何事(なにごと)ぞ」とて、太刀(たち)をぬいてはしりいでたり。文覚(もんがく)よろこ(ン)でかかる所(ところ)を、き(ッ)てはあしかりなんとやおもひけん、太刀(たち)のみねをとりなをし(なほし)、文覚(もんがく)がかたなも(ッ)たるかいな(かひな)をしたたかにうつ。うたれてち(ッ)とひるむところに、太刀(たち)をすてて、「えたりをう(おう)」とてくむ(くん)だりけり。くまれながら文覚(もんがく)、安藤武者(あんどうむしや)が右(みぎ)のかいな(かひな)をつく。つかれながらしめたりけり。
互(たがい)におとらぬ大(だい)ぢからなりければ、うへになりしたになり、ころびあふところに、かしこがほに上下(じやうげ)よ(ッ)て、文覚(もんがく)がはたらくところのぢやうをがうして(ン)げり。されどもこれを事(こと)ともせず、いよいよ悪口放言(あつこうほうげん)す。門外(もんぐわい)へひきいだひ(いだい)て、庁(ちやう)の下部(しもべ)にひ(ッ)ぱられて、立(たち)ながら御所(ごしよ)の方(かた)をにらまへ、大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて、「奉加(ほうが)をこそし給(たま)はざらめ、これ程(ほど)文覚(もんがく)にからい目(め)を見(み)せ給(たま)ひつれば、おもひしらせ申(まう)さんずる物(もの)を。三界(さんがい)は皆(みな)火宅(くわたく)なり。王宮(わうぐう)といふとも、其(その)難(なん)をのがるべからず。十善(じふぜん)の帝位(ていゐ)にほこ(ッ)たうとも、黄泉(くわうせん)の旅(たび)にいでなん後(のち)者(は)、牛頭(ごづ)・馬頭(めづ)のせめをばまぬかれ給(たま)はじ物(もの)を」と、おどり(をどり)あがりおどり(をどり)あがりぞ申(まうし)ける。
「此(この)法師(ほふし・ほうし)奇怪(きくわい・き(ツ)くわい)なり」とて、やがて獄定(ごくぢやう)せられけり。資行判官(すけゆきはんぐわん)は、烏帽子(えぼし・ゑぼし)打(うち)おとされて恥(はぢ)がましさに、しばしは出仕(しゆつし)もせず。安藤武者(あんどうむしや)、文覚(もんがく)くんだる勧賞(けんじやう)に、当座(たうざ)に一廊(いちらふ・いちらう)をへずして、右馬允(うまのじよう・うまのぜう)にぞなされける。さる程(ほど)に、其(その)比(ころ)美福門院(びふくもんゐん)かくれさせ給(たま)ひて、大赦(だいしや)ありしかば、文覚(もんがく)程(ほど)なくゆるされけり。しばらくはどこにもおこなふべかりしが、さはなくして、又(また)勧進帳(くわんじんちやう)をささげてすすめけるが、さらばただもなくして、「あつぱれ、この世ノ中(よのなか)は只今(ただいま)みだれ、君(きみ)も臣(しん)も皆(みな)ほろびうせんずる物(もの)を」な(ン)ど(など)、おそろしきことをのみ申(まうし)ありくあいだ(あひだ)、「この法師(ほふし・ほうし)都(みやこ)にをい(おい)てかなう(かなふ)まじ。遠流(をんる)せよ」とて、伊豆国(いづのくに)へぞながされける。
源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう・にうだう)の嫡子(ちやくし)仲綱(なかつな)の、其(その)比(ころ)伊豆守(いづのかみ)にておはしければ、その沙汰(さた)として、東海道(とうかいだう)より船(ふね)にてくだすべしとて、伊勢国(いせのくに)へゐてまかりけるに、法便(はうべん・ほうべん)両(りやう)三人(さんにん)ぞつけられたる。これらが申(まうし)けるは、「庁(ちやう)の下部(しもべ)のならひ、かやうの事(こと)につゐ(つい)てこそ、をのづから(おのづから)依怙(ゑこ)も候(さうら)へ。いかに聖(ひじり)の御房(ごばう・ご(ン)ばう)、これ程(ほど)の事(こと)に逢(あふ)て遠国(をんごく)へながされ給(たま)ふに、しりうとはもち給(たま)はぬか。
土産(とさん)粮料(らうれう)ごときの物(もの)をもこひ給(たま)へかし」といひければ、文覚(もんがく)は「さ様(やう)の要事(ようじ)いふべきとくゐ(とくい)ももたず。東山(ひがしやま・ひ(ン)がしやま)の辺(ほとり)にぞとくゐ(とくい)はある。いでさらばふみをやらう」どいひければ、けしかる紙(かみ)をたづねてえさせたり。「かやうの紙(かみ)で物(もの)かくやうなし」とて、なげかへす。さらばとて、厚紙(こうし)をたづねてえさせたり。文覚(もんがく)わら(ッ・わらつ)て、「法師(ほふし・ほうし)は物(もの)をえかかぬぞ。さらばおれらかけ」とて、かかするやう、「文覚(もんがく)こそ高雄(たかを・たかお)の神護寺(じんごじ)造立(ざうりふ・ざうりう)供養(くやう)のこころざしあ(ッ)て、すすめ候(さうらひ)つる程(ほど)に、かかる君(きみ)の代(よ)にしも逢(あふ)て、所願(しよぐわん)をこそ成就(じやうじゆ)せざらめ、禁獄(きんごく)せられて、あま(ッ)さへ(あまつさへ)伊豆国(いづのくに)へ流罪(るざい)せらる。遠路(ゑんろ)の間(あひだ・あいだ)で候(さうらふ)。
土産(とさん)粮料(らうれう・ろうれう)ごときの物(もの)も大切(たいせつ)に候(さうらふ)。此(この)使(つかひ)にたぶべしとかけ」といひければ、いふままにかいて、「さてたれどのへとかき候(さうら)はうぞ」。「清水(きよみず)の観音房(くわんおんばう・くわんをんばう)へとかけ」。「これは庁(ちやう)の下部(しもべ)をあざむくにこそ」と申(まう)せば、「さりとては、文覚(もんがく)は観音(くわんおん・くわんをん)をこそふかうたのみたてまつたれ。さらでは誰(たれ)に〔か〕は用事(ようじ)をばいふべき」とぞ申(まうし)ける。伊勢国(いせのくに)阿野(あの)の津(つ)より船(ふね)にの(ッ)てくだりけるが、遠江(とほたふみ・とをとをみ)の天竜難(てんりゆうな)だにて、俄(にはか)に大風(おほかぜ)ふき、大(おほ)なみた(ッ)て、すでに此(この)船(ふね)をうちかへさんとす。水手(すいしゆ)梶取(かんどり)ども、いかにもしてたすからむとしけれども、波風(なみかぜ)いよいよあれければ、或(あるい・あるひ)は観音(くわんおん・くわんをん)の名号(みやうごう)をとなへ、或(あるい・あるひ)は最後(さいご)の十念(じふねん)にをよぶ(およぶ)。されども文覚(もんがく)これを事(こと)ともせず、たかいびきかいてふしたりけるが、なにとかおもひけん、いまはかうとおぼえける時、か(ッ)ぱとおき、舟(ふね)のへにた(ッ)て奥(おき)の方(かた)をにらまへ、大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて、「竜王(りゆうわう・りうわう)やある、竜王(りゆうわう)やある」とぞようだりける。
「いかにこれほどの大願(だいぐわん)おこいたる聖(ひじり)がの(ッ)たる船(ふね)をば、あやまたうどはするぞ。ただいま天(てん)の責(せめ)かうむらんずる竜神(りゆうじん・りうじん)どもかな」とぞ申(まうし)ける。
そのゆへ(ゆゑ)にや、浪風(なみかぜ)ほどなくしづま(ッ)て、伊豆国(いづのくに)へつきにけり。文覚(もんがく)京(きやう)をいでける日(ひ)より、祈誓(きせい)する事(こと)あり。「われ都(みやこ)にかへ(ッ・かへつ)て、高雄(たかを・たかお)の神護寺(じんごじ)造立(ざうりふ・ざうりう)供養(くやう)すべくは、死(し)ぬべからず。其(その)願(ぐわん)むなしかるべくは、道(みち)にて死(し)ぬべし」とて、京(きやう)より伊豆(いづ)へつきけるまで、折節(をりふし・おりふし)順風(じゆんぷう)なかりければ、浦(うら)づたひ島(しま)づたひして、卅一日(さんじふいちにち)が間(あひだ)は一向(いつかう)断食(だんじき)にてぞありける。されども気力(きりよく)すこしもおとらず、おこなひうちしてゐたり。まことにただ人(びと)ともおぼえぬ事(こと)どもおほかりけり。 
福原院宣 (ふくはらゐんぜん) 

 

近藤(こんどう)四郎(しらう)国高(くにたか)といふものにあづけられて、伊豆国(いづのくに)奈古屋(なごや)がおくにぞすみける。さる程(ほど)に、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)へつねはまい(ッ・まゐつ)て、昔(むかし)今(いま)の物(もの)がたりども申(まうし)てなぐさむ程(ほど)に、或(ある)時(とき)文覚(もんがく)申(まうし)けるは、「平家(へいけ)には小松(こまつ)のおほいどのこそ、心(こころ)もがうに、はかり事(こと)もすぐれておはせしか、平家(へいけ)の運命(うんめい)が末(すゑ)になるやらん、こぞの八月(はちぐわつ)薨(こう)ぜられぬ。いまは源平(げんぺい)のなかに、わどの程(ほど)将軍(しやうぐん)の相(さう)も(ッ)たる人(ひと)はなし。はやはや謀反(むほん)おこして、日本国(につぽんこく)したがへ給(たま)へ」。
兵衛佐(ひやうゑのすけ)「おもひもよらぬ事(こと)の給(たま)ふ聖(ひじりの)御房(ごばう・ご(ン)ばう)かな。われは故池(こいけ)の尼御前(あまごぜん)にかい(かひ)なき命(いのち)をたすけられたてま(ッ)て候(さうら)へば、その後世(ごせ)をとぶらはんために、毎日(まいにち)に法花経(ほけきやう)一部(いちぶ)転読(てんどく)する外(ほか)は他事(たじ)なし」とこその給(たま)ひけれ。文覚(もんがく)かさねて申(まうし)けるは、「天(てん)のあたふるをとらざれば、かへ(ッ)て(かへつて)其(その)とがをうく。時(とき)いた(ッ)ておこなはざれば、かへ(ッ)て(かへつて)其(その)殃(わざわひ・わざはひ)をうくといふ本文(ほんもん)あり。かう申(まう)せば、御辺(ごへん)の心(こころ)をみんとて申(まうす)な(ン)ど(など)おもひ給(たまふ)か。御辺(ごへん)に心(こころ)ざしふかい色(いろ)を見(み)給(たま)へかし」とて、ふところよりしろいぬのにつつむ(つつん)だる髑(どくろ)をひとつとりいだす。
兵衛佐(ひやうゑのすけ)「あれはいかに」との給(たま)へば、「これこそわどのの父(ちち)、故左馬頭殿(こさまのかみどの)のかうべよ。平治(へいぢ)の後(のち)、獄舎(ごくしや)のまへなる苔(こけ)のしたにうづもれて、後世(ごせ)とぶらふ人(ひと)もなかりしを、文覚(もんがく)存(ぞん)ずる旨(むね)あ(ッ)て、獄(ごく)もりにこふ(こう)て、この十余年(じふよねん)頸(くび)にかけ、山々(やまやま)寺々(てらでら)おがみ(をがみ)まはり、とぶらひたてまつれば、いまは一劫(いちごう)もたすかり給(たまひ)ぬらん。されば、文覚(もんがく)は故守殿(こかうのとの)の御(おん)ためにも奉公(ほうこう)のものでこそ候(さうら)へ」と申(まうし)ければ、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)、一定(いちぢやう)とはおぼえねども、父(ちち)のかうべときくなつかしさに、まづ涙(なみだ)をぞながされける。
其(その)後(のち)はうちとけて物(もの)がたりし給(たま)ふ。「抑(そもそも)頼朝(よりとも)勅勘(ちよくかん)をゆりずしては、争(いかで)か謀反(むほん)をばおこすべき」との給(たま)へば、「それやすい事(こと)、やがてのぼ(ッ)て申(まうし)ゆるいてたてまつらん」。「さもさうず、御房(ごばう)も勅勘(ちよくかん)の身(み)で人(ひと)を申(まうし)ゆるさうどの給(たま)ふあてがい(あてがひ)やうこそ、おほきにまことしからね」。「わが身(み)の勅勘(ちよくかん)をゆりうど申(まう)さばこそひがことならめ。わどのの事(こと)申(まう)さうは、なにかくるしかるべき。いまの都(みやこ)福原(ふくはら)の新都(しんと)へのぼらうに、三日(みつか)にすぐまじ。院宣(ゐんぜん)うかがはうに一日(いちにち・いチにチ)がとうりうぞあらんずる。都合(つがふ・つがう)七日(しちにち・なぬか)八日(やうか)にはすぐべからず」とて、つきいでぬ。奈古屋(なごや)にかへ(ッ・かへつ)て、弟子共(でしども)には、伊豆(いづ)の御山(おやま)に人(ひと)にしのんで七日(しちにち)参籠(さんろう)の心(こころ)ざしありとて、いでにけり。
げにも三日(みつか)といふに、福原(ふくはら)の新都(しんと)へのぼりつつ前右兵衛督(さきのうひやうゑのかみ)光能卿(みつよしのきやう)のもとに、いささかゆかりありければ、それにゆいて、「伊豆国(いづのくにの)流人(るにん)、前(さきの)兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)こそ勅勘(ちよくかん)をゆるされて院宣(ゐんぜん)をだにも給(たま)はらば、八ケ国(はつかこく)の家人(けにん)ども催(もよほ)しあつめて、平家(へいけ)をほろぼし、天下(てんが)をしづめんと申(まうし)候(さうら)へ」。兵衛督(ひやうゑのかみ)「いさとよ、わが身(み)も当時(たうじ)は三官(さんくわん)ともにとどめられて、心(こころ)ぐるしいおりふし(をりふし)なり。法皇(ほふわう・ほうわう)もおしこめられてわたらせ給(たま)へば、いかがあらんずらん。さりながらもうかがうてこそみめ」とて、此(この)由(よし)ひそかに奏(そう)せられければ、法皇(ほふわう・ほうわう)やがて院宣(ゐんぜん)をこそくだされけれ。聖(ひじり)これをくびにかけ、又(また)三日(みつか)といふに、伊豆国(いづのくに)へくだりつく。
兵衛佐(ひやうゑのすけ)「あつぱれ、この聖(ひじり)御房(ごばう・ご(ン)ばう)は、なまじゐ(なまじひ)によしなき事(こと)申(まうし)いだして、頼朝(よりとも)又(また)いかなるうき目(め)にかあはんずらん」と、おもはじ事(こと)なうあんじつづけておはしけるところに、八日(やうか)といふ午剋(むまのこく)ばかりくだりついて、「すは院宣(ゐんぜん)よ」とてたてまつる。
兵衛佐(ひやうゑのすけ)、院宣(ゐんぜん)ときくかたじけなさに、手水(てうづ)うがひをし、あたらしき烏帽子(えぼし・ゑぼし)・浄衣(じやうえ・じやうゑ)きて、院宣(ゐんぜん)を三度(さんど)拝(はい)してひらかれたり。項年(しきりのとし・シキリノトシ)より以来(このかた)、平氏(へいじ)王皇(わうくわう)蔑如(べつじよ)して、政道(せいたう)にはばかる事(こと)なし。仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)を破滅(はめつ)して、朝威(てうゐ)をほろぼさんとす。夫(それ)我(わが)朝(てう)は神国(しんこく)也(なり)。宗(そうべう)あひならんで、神徳(しんとく)是(これ)あらたなり。故(かるがゆゑに・かるがゆへに)朝廷(てうてい)開基(かいき)の後(のち)、数千余歳(すせんよさい)のあひだ、帝猷(ていいう・ていゆう)をかたぶけ、国家(こくか)をあやぶめむとする物(もの)、みなも(ッ)て敗北(はいほく)せずといふ事(こと)なし。然(しかれば)則(すなはち)且(かつ・かつ(ウ))は神道(しんたう)の冥助(めいじよ)にまかせ、且(かつ・かつ(ウ))は勅宣(ちよくせん)の旨趣(しいしゆ・し(イ)しゆ)をまも(ッ)て、はやく平氏(へいじ)の一類(いちるい)を誅(ちゆう・ちう)して、朝家(てうか)の怨敵(をんてき)をしりぞけよ。譜代(ふだい)弓箭(きゆうせん・きうせん)の兵略(へいりやく)を継(つぎ)、累祖(るいそ)奉公(ほうこう)の忠勤(ちゆうきん・ちうきん)を抽(ぬきん)で、身(み)をたて、家(いへ)をおこすべし。ていれば、院宣(ゐんぜん)かくのごとし。仍(よつて)執達(しつたつ)如件(くだんのごとし)。治承(ぢしよう・ぢせう)四年(しねん)七月(しちぐわつ)十四日(じふしにち)前右兵衛督(さきのうひやうゑのかみ)光能(みつよし)が奉(うけたまは)り謹上(きんじやう)前右兵衛佐殿(さきのうひやうゑのすけどの)へとぞかかれたる。此(この)院宣(ゐんぜん)をば錦(にしき)の袋(ふくろ)にいれて、石橋〔山〕(いしばしやま)の合戦(かつせん)の時(とき)も、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)頸(くび)にかけられたりけるとかや。 
富士川 (ふじがは) 

 

さる程(ほど)に、福原(ふくはら)には、勢(せい)のつかぬ先(さき)にいそぎ打手(うつて)をくだすべしと、公卿僉議(くぎやうせんぎ)あ(ッ)て、大将軍(たいしやうぐん)には小松権亮少将(こまつのごんのすけぜうしやう)維盛(これもり)、副将軍(ふくしやうぐん)には薩摩守(さつまのかみ)忠教(ただのり)、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)三万余騎(さんまんよき)、九月(くぐわつ)十八日(じふはちにち)に都(みやこ)をた(ッ)て、十九日(じふくにち)には旧都(きうと)につき、やがて廿日(はつかのひ)、東国(とうごく)へこそう(ッ)たた(うつたた)れけれ。
大将軍(たいしやうぐん)権亮少将(ごんのすけぜうしやう)維盛(これもり)は、生年(しやうねん)廿三(にじふさん)、容儀(ようぎ)体拝(たいはい)絵(ゑ)にかくとも筆(ふで)も及(および・をよび)がたし。重代(ぢゆうだい・ぢうたい)の鎧(よろひ)唐皮(からかは)といふきせながをば、唐櫃(からびつ)にいれてかかせらる。路打(みちうち)には、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、萠黄威(もえぎにほひ)のよろひきて、連銭葦毛(れんぜんあしげ)なる馬(むま)に、黄輪(きぶくりん・きぷくりん)の鞍(くら)おいてのり給(たま)へり。副将軍(ふくしやうぐん)薩摩守(さつまのかみ)忠教(ただのり)は、紺地(こんぢ)の錦(にしき)のひたたれに、ひおどし(ひをどし)の鎧(よろひ)きて、黒(くろ)き馬(むま)のふとうたくましゐ(たくましい)に、い(ッ)かけ地(ぢ)の鞍(くら)をい(おい)てのり給(たま)へり。馬(むま)・鞍(くら)・鎧(よろひ)・甲(かぶと)・弓矢(ゆみや)・太刀(たち)・刀(かたな)にいたるまで、てりかかやく程(ほど)にいでたたれたりしかば、めでたかりし見物(けんぶつ)也(なり)。
薩摩守(さつまのかみ)忠教(ただのり)は、年来(としごろ)ある宮腹(みやばら)の女房(にようばう)のもとへかよはれけるが、或(ある)時(とき)おはしたりけるに、其(その)女房(にようばう)のもとへ、や(ン)ごとなき女房(にようばう)まらうときた(ッ)て、やや久(ひさ)しう物語(ものがたり)し給(たま)ふ。さよもはるかにふけゆくまでに、まらうとかへり給(たま)はず。忠教(ただのり)軒(のき)ばにしばしやすらひて、扇(あふぎ)をあらくつかはれければ、宮腹(みらばら)の女房(にようばう)、「野(の)もせにすだく虫(むし)の音(ね)よ」と、ゆふ(いう)にやさしう口(くち)ずさみ給(たま)へば、薩摩守(さつまのかみ)やがて扇(あふぎ)をつかひやみてかへられけり。其(その)後(のち)又(また)おはしたりけるに、宮腹(みやばら)の女房(にようばう)「さても一日(ひとひ)、なにとて扇(あふぎ)をばつかひやみしぞや」ととはれければ、「いさ、かしがましな(ン)ど(など)きこえ候(さうらひ)しかば、さてこそつかひやみ候(さうらひ)しか」とぞの給(たま)ひける。かの女房(にようばう)のもとより忠教(ただのり)のもとへ、小袖(こそで)を一(ひと)かさねつかはすとて、ち里(さと)のなごりのかなし(ツ)さに、一首(いつしゆ)の歌(うた)をぞ送(おく)られける。
あづま路(ぢ)の草葉(くさば)をわけん袖(そで)よりもたえぬたもとの露(つゆ)ぞこぼるる
薩摩守(さつまのかみ)返事(へんじ)には
わかれ路(ぢ)をなにかなげかんこえて行(ゆく)関(せき)もむかしの跡(あと)とおもへば
「関(せき)も昔(むかし)の跡(あと)」とよめる事(こと)は、平(たひらの・たいらの)将軍(しやうぐん)貞盛(さだもり)、将門(まさかど)追討(ついたう)のために、東国(とうごく)へ下向(げかう)せし事(こと)をおもひいでてよみたりけるにや、いとやさしうぞきこえし。昔(むかし)は朝敵(てうてき)をたいらげ(たひらげ)に外土(ぐわいと)へむかふ将軍(しやうぐん)は、まづ参内(さんだい)して切刀(せつたう)を給(たま)はる。
震儀(しんぎ)南殿(なんでん)に出御(しゆつぎよ)し、近衛(こんゑ)階下(かいか)に陣(ぢん)をひき、内弁(ないべん)外弁(げべん)の公卿(くぎやう)参列(さんれつ)して、誅儀(ちゆうぎ・ちうぎ)の節会(せちゑ)おこなはる。大将軍(たいしやうぐん)副将軍(ふくしやうぐん)、おのおの礼儀(れいぎ)をただしうしてこれを給(たま)はる。承平(しようへい・せうへい)天慶(てんぎやう)の蹤跡(しようせき・ぜうせき)も、年(とし)久(ひさ)しうな(ッ)て准(なぞら)へがたしとて、今度(こんど)は讃岐守(さぬきのかみ)正盛(まさもり)が前対馬守(さきのつしまのかみ)源義親(みなもとのよしちか)追討(ついたう)のために出雲国(いづものくに)へ下向(げかう)せし例(れい)とて、鈴(すず)ばかり給(たま)は(ッ)て、皮(かは・カワ)の袋(ふくろ)にいれて、雑色(ざつしき)が頸(くび)にかけさせてぞくだられける。いにしへ、朝敵(てうてき)をほろぼさんとて都(みやこ)をいづる将軍(しやうぐん)は、三(みつ)の存知(ぞんぢ・ぞんじ)あり。切刀(せつたう)を給(たま)はる日(ひ)家(いへ)をわすれ、家(いへ)をいづるとて妻子(さいし)をわすれ、戦場(せんぢやう)にして敵(てき)にたたかふ時(とき)、身(み)をわする。されば、今(いま)の平氏(へいじ)の大将(だいしやう)維盛(これもり)・忠教(ただのり)も、定(さだめ)てかやうの事(こと)をば存知(ぞんぢ・ぞんじ)せられたりけん。あはれなりし事共(ことども)也(なり)。
同(おなじき)廿二日(にじふににち)新院(しんゐん)又(また)安芸国(あきのくに)厳島(いつくしま)へ御幸(ごかう)なる。去(さんぬ)る三月(さんぐわつ)にも御幸(ごかう)ありき。そのゆへ(ゆゑ)にや、なか一両月(いちりやうげつ)世(よ)もめでたくおさま(ッ・をさまつ)て、民(たみ)のわづらひもなかりしが、高倉宮(たかくらのみや)の御謀反(ごむほん)によ(ッ)て、又(また)天下(てんが)みだれて、世上(せじやう)もしづかならず。これによ(ッ)て、且(かつ・かつ(ウ))は天下(てんが)静謐(せいひつ)のため、且(かつ・かつ(ウ))は聖代(せいたい)不予(ふよ)の御祈念(ごきねん)のためとぞきこえし。今度(こんど)は福原(ふくはら)よりの御幸(ごかう)なれば、斗薮(とそう)のわづらひもなかりけり。手(て)づからみづから御願文(ごぐわんもん)をあそばひ(あそばい)て、清書(せいしよ)をば摂政殿(せつしやうどの)せさせをはします(おはします)。
蓋(けだし)聞ク(きく)。法性(ほつしやうの)雲(くも)閑(しづか)也(なり)、十四(じふし)十五(じふご)の月(つき)高(たかく)晴レ(はれ)、権化(ごんげの)智(ち)深(ふか)し、一陰(いちいん・いちゐん)一陽(いちやう)の風(かぜ)旁(かたはらに)扇(あふ)ぐ。夫(それ)厳島(いつくしま)の社(やしろ)は称名(せうみやう)あまねくきこゆるには、効験無双(こうげんぶそう)の砌(みぎり)也(なり)。遥(はるかの)嶺(みね)の社壇(しやだん)をめぐる、おのづから大慈(だいじ)の高(たか)く峙(そばだ)てるを彰(あらは)し、巨海(こかい)の詞宇(しう)にをよぶ(およぶ)、空(くう)に弘誓(ぐぜい)の深広(しんくはう)なることを表(へう)す。夫(それ)以(おもんみれば)、初(はじめ)庸昧(ようまい)の身(み)をも(ッ)て、忝(かたじけなく)皇王(くわうわう)の位(くらゐ)を践(ふ)む。今(いま)賢猷(けんいう・けんゆう)を霊境(れいきやう)の群(ぐん)に翫(もてあそん)で、閑坊(かんばう)〔を〕射山(やさん)の居(きよ)にたのしむ。
しかるに、ひそかに一心(いつしん)の精誠(せいぜい)を抽(ぬきん)で、孤島(こたう)の幽祠(ゆうし)に詣(まうで)、瑞籬(ずいり)の下(もと・モト)に明恩(めいおん・めいをん)を仰(あふ)ぎ、懇念(こんねん)を凝(ぎ)して汗(あせ)をながし、宝宮(ほうきゆう・ほうきう)のうちに霊託(れいたく)を垂(たる)。そのつげの心(こころ)に銘(めい)ずるあり。就中(なかんづく)にことに怖畏(ふゐ・ふい)謹慎(きんしん)の期(ご)をさすに、もはら季夏初秋(きかしよしう)の候(こう)にあたる。病痾(へいあ)忽(たちまち)に侵(をか)し、猶(なほ・なを)医術(いじゆつ)の験(げん)を施(ほどこ)す事(こと)なし。平計(へいけい)頻(しきり)に転(てん)ず、弥(いよいよ)神感(しんかん)の空(むな)しからざることを知(しん)ぬ。祈祷(きたう)を求(もとむ)といへども、霧露(むろ)散(さん)じがたし。しかじ、心符(しんぶ)のこころざしを抽(ぬきん)でて、かさねて斗薮(とそう)の行(ぎやう)をくはたてんとおもふ。漠々(ばくばく)たる寒嵐(かんらん)の底(もと)、旅泊(りよはく)に臥(ふし)て夢(ゆめ)をやぶり、せいせいたる微陽(びやう)のまへ、遠路(えんろ)に臨(のぞん)で眼(まなこ)をきはむ。
遂(つひ・つゐ)に枌楡(ふんゆ)の砌(みぎり)について、敬(うやま・ッ)て、清浄(しやうじやう)の席(せき)を展(のべ)、書写(しよしや)したてまつる色紙墨字(しきしぼくじ)の妙法蓮花経(めうほふれんげきやう・めうほうれんげきやう)一部(いちぶ)、開結(かいけつ)二経(にきやう)、阿弥陀(あみだ)・般若心等(はんにやしんとう)の経(きやう)各(おのおの)一巻(いつくわん)。手(てづ)から自(みづ)から書写(しよしや)したてまつる金泥(こんでい)の提婆品(だいばほん)一巻(いつくわん)。
時(とき)に蒼松(さうしやう)蒼栢(さうはく)の陰(かげ)、共(とも)に善理(ぜんり)の種(たね)をそへ、潮去潮来(てうきよてうらいの)響(ひびき)、空(そら)に梵唄(ぼんばい)の声(こゑ)に和(くわ)す。弟子(ていし)北闕(ほつけつ)の雲(くも)を辞(じ)して八実(はつじつ)、凉燠(りやうあう)のおほく廻(めぐ)る事(こと)なしといへども、西海(さいかい)の浪(なみ)を凌事(しのぐこと)二(ふた)たび、深(ふか)く機縁(きえん)のあさからざる事(こと)を知(しん)ぬ。朝(あした)に祈(いの)る客(かく)一(いつ)にあらず、夕(ゆふべ)に賽(かへりまうし・カヘリ申)するもの且千(ちぢばかり・チヂバカリ)也(なり)。但(ただ)し、尊貴(そんき)の帰仰(ききやう)おほしといへども、院宮(ゐんみや)の往詣(わうけい)いまだきかず。禅定(ぜんぢやう)法皇(ほふわう・ほうわう)初(はじめ)て其(その)儀(ぎ)をのこい給(たま)ふ。
彼(かの)嵩高山(すうかうざん)の月(つき)の前(まへ)には漢武(かんぶ)いまだ和光(わくわう)のかげ弁(べん)ぜず。蓬莱洞(ほうらいどう)の雲(くも)の底(そこ)にも、天仙(てんせん)むなしく垂跡(すいしやく)の塵(ちり)をへだつ。仰願(あふぎねがは)くは大明神(だいみやうじん)、伏(ふして)乞(こふ)らくは〔一〕乗経(いちぜうきやう)、新(あらた)に丹祈(たんき)をてらして唯一(ゆいいつ)の玄応(げんおう)を垂(たれ)給(たま)へ。治承(ぢしよう・ぢせう)四年(しねん)九月(くぐわつ)廿八日(にじふはちにち)太上天皇(だいじやうてんわう・たいじやうてんわう)とぞあそばされたる。さる程(ほど)に、此(この)人々(ひとびと)は九重(ここのへ・ここのえ)の都(みやこ)をた(ッ)て、千里(せんり)の東海(とうかい)におもむき給(たま)ふ。たいら(たひら)かにかへりのぼらむ事(こと)もまことにあやうき(あやふき)有(あり)さまどもにて、或(あるい・あるひ)は野原(のばら)の露(つゆ)にやどをかり、或(あるい・あるひ)はたかねの苔(こけ)に旅(たび)ねをし、山(やま)をこえ河(かは)をかさね、日(ひ)かずふれば、十月(じふぐわつ)十六日(じふろくにち)には、するがの国(くに)清見(きよみ)が関(せき)にぞつき給(たま)ふ。都(みやこ)をば三万余騎(さんまんよき)でいでしかど、路次(ろし)の兵(つはもの)めしぐして、七万余騎(しちまんよき)とぞきこえし。
先陣(せんぢん)はかん原(ばら)・富士河(ふじがは)にすすみ、後陣(ごぢん)はいまだ手越(てごし)・宇津ノ屋(うつのや)にささへたり。大将軍(たいしやうぐん)権亮少将(ごんのすけぜうしやう)維盛(これもり)、侍大将(さぶらひだいしやう)上総守(かづさのかみ)忠清(ただきよ)をめして、「ただ維盛(これもり)が存知(ぞんぢ)には、足柄(あしがら)をうちこえて坂東(ばんどう)にていくさをせん」とはやられけるを、上総守(かづさのかみ)申(まうし)けるは、「福原(ふくはら)をたたせ給(たまひ)し時(とき)、入道殿(にふだうどの・にうだうどの)の御定(ごぢやう)には、いくさをば忠清(ただきよ)にまかせさせ給(たま)へと仰(おほせ)候(さうらひ)しぞかし。八ケ国(はつかこく)の兵共(つはものども)みな兵衛佐(ひやうゑのすけ)にしたがひついて候(さうらふ)なれば、なん十万騎(じふまんぎ)か候(さうらふ)らん。御方(みかた)の御勢(おんせい)は七万余騎(しちまんよき)とは申(まう)せども、国々(くにぐに)のかり武者共(むしやども)なり。馬(むま)も人(ひと)もせめふせて候(さうらふ)。伊豆(いづ)・駿河(するが)の勢(せい)のまいる(まゐる)べきだにもいまだみえ候(さうら)はず。
ただ富士河(ふじがは)をまへにあてて、みかたの御勢(おんせい)をまたせ給(たま)ふべうや候(さうらふ)らん」と申(まうし)ければ、力(ちから)及(およ・をよ)ばでゆらへたり。さる程(ほど)に、兵衛佐(ひやうゑのすけ)は足柄(あしがら)の山(やま)を打(うち)こえて、駿河国(するがのくに)きせ河(がは)にこそつき給(たま)へ。甲斐(かひ・かい)・信濃(しなの)の源氏(げんじ)ども馳来(はせき)てひとつになる。浮島(うきしま)が原(はら)にて勢(せい)ぞろへあり。廿万騎(にじふまんぎ)とぞしるいたる。常陸源氏(ひたちげんじ)佐竹(さたけの)太郎(たらう)が雑色(ざつしき)、主(しゆう・しう)の使(つかひ)にふみも(ッ)て京(きやう)へのぼるを、平家(へいけ)の先陣(せんぢん)上総守(かづさのかみ)忠清(ただきよ)これをとどめて、も(ッ)たる文(ふみ)をばひとり、あけて見(み)れば、女房(にようばう)のもとへの文(ふみ)なり。くるしかるまじとて、とらせて(ン)げり。「抑(そもそも)兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)の勢(せい)、いかほどあるぞ」ととへば、「凡(およそ・をよそ)八日(やうか)九日(ここのか)の道(みち)にはたとつづいて、野(の)も山(やま)も海(うみ)も河(かは)も武者(むしや)で候(さうらふ)。
下臈(げらふ・げらう)は四五百千(しごひやくせん)までこそ物(もの)のかずをば知(しり)て候(さうら)へども、それよりうへはしらぬ候(ざうらふ)。おほいやらう、すくないやらうをばしり候(さうら)はず。昨日(きのふ)きせ河(がは)で人(ひと)の申(まうし)候(さうらひ)つるは、源氏(げんじ)の御勢(おんせい)廿万騎(にじふまんぎ)とこそ申(まうし)候(さうらひ)つれ」。上総守(かづさのかみ)これをきいて、「あはれ、大将軍(だいしやうぐん)の御心(おんこころ)ののびさせ給(たまひ)たる程(ほど)口(くち)おしい(をしい)事(こと)候(さうら)はず。いま一日(いちにち)も先(さき)に打手(うつて)をくださせ給(たまひ)たらば、足柄(あしがら)の山(やま)打(うち)こへて、八ケ国(はつかこく)へ御出(おんいで)候(さうらは)ば、畠山(はたけやま)が一族(いちぞく)、大庭兄弟(おほばきやうだい)などかまいら(まゐら)で候(さうらふ)べき。
これらだにもまいり(まゐり)なば、坂東(ばんどう)にはなびかぬ草木(くさき)も候(さうらふ)まじ」と、後悔(こうくわい)すれどもかい(かひ)ぞなき。又(また)大将軍(たいしやうぐん)権亮少将(ごんのすけぜうしやう)維盛(これもり)、東国(とうごく)の案内者(あんないしや)とて、長井(ながゐ)の斎藤(さいとう)別当(べつたう)実盛(さねもり)をめして、「やや実盛(さねもり)、なんぢ程(ほど)のつよ弓(ゆみ)勢兵(せいびやう)、八〔ケ〕国(はつかこく)にいか程(ほど)あるぞ」ととひ給(たま)へば、斎藤別当(さいとうべつたう)あざわら(ッ・わらつ)て申(まうし)けるは、「さ候(さうら)へば、君(きみ)は実盛(さねもり)を大矢(おほや)とおぼしめし候(さうらふ)歟(か)。わづかに十三(じふさん)束(ぞく)こそ仕(つかまつり)候(さうら)へ。実盛程(さねもりほど)ゐ(い)候(さうらふ)物(もの)は、八ケ国(はつかこく)にいくらも候(さうらふ)。大矢(おほや)と申(まうす)ぢやうの物(もの)の、十五(じふご)束(そく)におと(ッ)てひくは候(さうら)はず。弓(ゆみ)のつよさもしたたかなる物(もの)五六人(ごろくにん)してはり候(さうらふ)。かかるせい兵(びやう)どもがゐ(い)候(さうら)へ者(ば)、鎧(よろひ)の二三両(にさんりやう)をもかさねて、たやすうゐとをし(いとほし)候(さうらふ)也(なり)。
大名(だいみやう)一人(いちにん)と申(まうす)は、せいのすくないぢやう、五百騎(ごひやくき)におとるは候(さうら)はず。馬(むま)にの(ッ)つればおつる道(みち)をしらず、悪所(あくしよ)をはすれども馬(むま)をたをさ(たふさ)ず。いくさは又(また)おやもうたれよ、子(こ)もうたれよ、死(し)ぬればのりこへのりこへたたかふ候(ざうらふ)。西国(さいこく)のいくさと申(まうす)は、おやうたれぬれば孝養(けうやう)し、いみあけてよせ、子(こ)うたれぬれば、そのおもひなげきによせ候(さうら)はず。兵粮米(ひやうらうまい)つきぬれば、田(た)つくり、かりおさめ(をさめ)てよせ、夏(なつ)はあつしといひ、冬(ふゆ)はさむしときらひ候(さうらふ)。東国(とうごく)にはすべて其(その)儀(ぎ)候(さうら)はず。甲斐(かひ・かい)・信乃(しなの)の源氏(げんじ)ども、案内(あんない)はし(ッ)て候(さうらふ)。
富士(ふじ)のこしより搦手(からめで)にやまはり候(さうらふ)らん。かう申(まう)せば君(きみ)をおくせさせまいらせ(まゐらせ)んとて申(まうす)には候(さうら)はず。いくさはせいにはよらず、はかり事(こと)によるとこそ申(まうし)つたへて候(さうら)へ。実盛(さねもり)今度(こんど)のいくさに、命(いのち)いきてふたたびみやこへまいる(まゐる)べしとも覚(おぼえ)候(さうら)はず」と申(まうし)ければ、平家(へいけ)の兵共(つはものども)これきいて、みなふるい(ふるひ)わななきあへり。さる程(ほど)に、十月(じふぐわつ)廿三日(にじふさんにち)にもなりぬ。あすは源平(げんぺい)富士河(ふじがは)にて矢合(やあはせ)とさだめたりけるに、夜(よ)に入(いり)て、平家(へいけ)の方(かた)より源氏(げんじ)の陣(ぢん)を見(み)わたせば、伊豆(いづ)・駿河(するが)〔の〕人民(にんみん)・百姓(ひやくしやう)等がいくさにおそれて、或(あるい・あるひ)は野(の)にいり、山(やま)にかくれ、或(あるい・あるひ)は船(ふね)にとりの(ッ)て海河(うみかは)にうかび、いとなみの火(ひ)のみえけるを、平家(へいけ)の兵(つはもの)ども、「あなおびたたしの源氏(げんじ)の陣(ぢん)のとを(とほ)火(び)のおほさよ。
げにもまことに野(の)も山(やま)も海(うみ)も河(かは)もみなかたきでありけり。いかがせん」とぞあはて(あわて)ける。其(その)夜(よ)の夜半(やはん)ばかり、富士(ふじ)の沼(ぬま)にいくらもむれゐたりける水鳥(みづとり)どもが、なににかおどろきたりけん、ただ一(いち)どにば(ッ)と立(たち)ける羽音(はおと・はをと)の、大風(おほかぜ)いかづちな(ン)ど(など)の様(やう)にきこえければ、平家(へいけ)の兵共(つはものども)、「すはや源氏(げんじ)の大(おほ)ぜいのよするは。斎藤別当(さいとうべつたう)が申(まうし)つる様(やう)に、定(さだめ)て搦手(からめで)もまはるらん。
とりこめられてはかなう(かなふ)まじ。ここをばひいて尾張河(をはりがは・おはりがは)州俣(すのまた)をふせけや」とて、とる物(もの)もとりあへず、我(われ)さきにとぞ落(おち)ゆきける。あまりにあはて(あわて)さはい(さわい)で、弓(ゆみ)とる物(もの)は矢(や)をしらず、矢(や)とるものは弓(ゆみ)をしらず、人(ひと)の馬(むま)にはわれのり、わが馬(むま)をば人(ひと)にのらる。或(あるい・あるひ)はつないだる馬(むま)にの(ッ)てくゐ(くひ)をめぐる事(こと)かぎりなし。ちかき宿々(しゆくじゆく)よりむかへと(ッ)てあそびける遊君(いうくん・ゆうくん)遊女(いうぢよ・ゆうぢよ)ども、或(あるい・あるひ)はかしらけわられ、腰(こし)ふみおら(をら)れて、おめき(をめき)さけぶ物(もの)おほかりけり。あくる廿四日(にじふしにち)卯刻(うのこく)に、源氏(げんじ)大勢(おほぜい)廿万騎(にじふまんぎ)、ふじ河(がは)にをし(おし)よせて、天(てん)もひびき、大地(だいぢ)もゆるぐ程(ほど)に、時(とき)をぞ三ケ度(さんがど・さんかど)つくりける。 
五節之沙汰 (ごせつのさた) 

 

平家(へいけ)の方(かた)には音(おと・をと)もせず、人(ひと)をつかはして見(み)せければ、「皆(みな)おちて候(さうらふ)」と申(まうす)。或(あるい・あるひ)は敵(てき)のわすれたる鎧(よろひ)と(ッ)てまいり(まゐり)たる物(もの)もあり、或(あるい・あるひ)はかたきのすてたる大幕(おほまく)と(ッ)てまいり(まゐり)たるものもあり。「敵(てき)の陣(ぢん)には蝿(はい)だにもかけり候(さうら)はず」と申(まうす)。兵衛佐(ひやうゑのすけ)、馬(むま)よりおり、甲(かぶと)をぬぎ、手水(てうづ)うがい(うがひ)をして、王城(わうじやう)の方(かた)をふしをがみ、「これはま(ッ)たく頼朝(よりとも)がわたくしの高名(かうみやう)にあらず。
八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の御(おん)ぱからひなり」とぞの給(たま)ひける。やがてう(ッ)とり所(どころ)なればとて、駿河国(するがのくに)をば一条次郎忠頼(いちでうのじらうただより)、遠江(とほたふみ・とをたうみ)をば安田(やすだの)三郎(さぶらう)義定(よしさだ)にあづけらる。平家(へいけ)をばつづゐ(つづい)てもせむべけれども、うしろもさすがおぼつかなしとて、浮島(うきしま)が原(はら)よりひきしりぞき、相模国(さがみのくに)へぞかへられける。
海道宿々(かいだうしゆくじゆく)の遊君(いうくん・ゆうくん)遊女(いうぢよ・ゆうぢよ)ども「あないまいまし。打手(うつて)の大将軍(たいしやうぐん)の矢(や)ひとつだにもゐ(い)ずして、にげのぼり給(たま)ふうたてしさよ。いくさには見(み)にげといふ事(こと)をだに、心(こころ)うき事(こと)にこそするに、是(これ)はききにげし給(たま)ひたり」とわらひあへり。落書(らくしよ)どもおほかりけり。都(みやこ)の大将軍(たいしやうぐん)をば宗盛(むねもり)といひ、討手(うつて)の大将(たいしやう)をば権亮(ごんのすけ)といふ間(あひだ・あいだ)、平家(へいけ)をひらやによみなして、
ひらやなるむねもりいかにさはぐ(さわぐ)らむはしらとたのむすけををとし(おとし)て
富士河(ふじがは)のせぜの岩(いは)こす水(みづ)よりもはやくもおつる伊勢平氏(いせへいじ)かな
上総守(かづさのかみ)が富士河(ふじがは)に鎧(よろひ)をすてたりけるをよめり。
富士河(ふじがは)によろひはすてつ墨染(すみぞめ)のころもただきよ後(のち)の世(よ)のため
ただきよはにげの馬(むま)にぞのりにける上総(かづさ)しりがいかけてかひなし
同(おなじき)十一月(じふいちぐわつ)八日(やうかのひ)、大将軍(たいしやうぐん)権亮少将(ごんのすけぜうしやう)維盛(これもり)、福原(ふくはら)の新都(しんと)へのぼりつく。入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)大(おほき)にいか(ッ)て、「大将軍(たいしやうぐん)権亮少将(ごんのすけぜうしやう)維盛(これもり)をば、鬼界(きかい)が島(しま)へながすべし。侍大将(さぶらひだいしやう)上総守(かづさのかみ)忠清(ただきよ)をば、死罪(しざい)におこなへ」とぞの給(たま)ひける。同(おなじき)九日(ここのかのひ)、平家(へいけ)の侍(さぶらひ)ども老少(らうせう)参会(さんくわい)して、忠清(ただきよ)が死罪(しざい)の事(こと)いかがあらんと評定(ひやうぢやう)す。なかに主馬判官(しゆめのはんぐわん)盛国(もりくに)すすみいでて申(まうし)けるは、「忠清(ただきよ)は昔(むかし)よりふかく人(じん)とはうけ給(たまはり)及(および・をよび)候(さうら)はず。
あれが十八(じふはち)の歳(とし)と覚(おぼえ)候(さうらふ)。鳥羽殿(とばどの)の宝蔵(ほうざう)に五畿内(ごきない)一(いち)の悪党(あくたう)二人(ににん)、にげ籠(こもり)て候(さうらひ)しを、よ(ッ)てからめうど申(まうす)物(もの)も候(さうら)はざりしに、この忠清(ただきよ)、白昼(はくちう)唯(ただ)一人(いちにん)、築地(ついぢ)をこへ(こえ)はね入(いり)て、一人(いちにん)をばうちとり、一人(いちにん)をばいけど(ッ)て、後代(こうたい)に名(な)をあげたりし物(もの)にて候(さうらふ)。今度(こんど)の不覚(ふかく)はただことともおぼえ候(さうら)はず。これにつけてもよくよく兵乱(ひやうらん)の御(おん)つつしみ候(さうらふ)べし」とぞ申(まうし)ける。同(おなじき)十日(とをか)、大将軍(たいしやうぐん)権亮少将(ごんのすけぜうしやう)維盛(これもり)、右近衛(うこんゑの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)になり給(たま)ふ。打手(うつて)の大将(たいしやう)ときこえしかども、させるしいだしたる事(こと)もおはせず、「これは何事(なにごと)の勧賞(けんじやう)ぞや」と、人々(ひとびと)ささやきあへり。
昔(むかし)将門(まさかど)追討(ついたう)のために、平(たひらの・たいらの)将軍(しやうぐん)貞盛(さだもり)、田原藤太(たはらとうだ)秀里(ひでさと)うけ給(たまはつ)て、坂東(ばんどう)へ発向(はつかう)したりしかども、将門(まさかど)たやすうほろびがたかりしかば、重(かさね)て打手(うつて)をくだすべしと公卿僉議(くぎやうせんぎ)あ(ッ)て、宇治(うぢ)の民部卿(みんぶきやう)忠文(ただふん)、清原(きよはらの)重藤(しげふぢ)、軍監(ぐんけん)といふ官(くわん)を給(たま)は(ッ)てくだられけり。駿河国(するがのくに)清見(きよみ)が関(せき)に宿(しゆく)したりける夜(よ)、かの重藤(しげふぢ)漫々(まんまん)たる海上(かいしやう)を遠見(ゑんけん)して、「漁舟(ぎよしうの)火(ひの)影(かげ)寒(さむうして・さむふして)焼浪(なみをやき)、駅路(えきろの・ゑきろの)鈴(すずの)声(こゑ)夜(よる)過山(やまをすぐ)」といふから歌(うた)をたからかに口(くち)ずさみ給(たま)へば、忠文(ただふん)いふ(いう)におぼえて感涙(かんるい)をぞながされける。さる程(ほど)に将門(まさかど)をば、貞盛(さだもり)・秀里(ひでさと)つゐに(つひに)打(うち)と(ッ)て(ン)げり。
其(その)かうべをもたせてのぼる程(ほど)に、清見(きよみ)が関(せき)にてゆきあふ(あう)たり。其(それ)より先後(ぜんご)の大将軍(たいしやうぐん)うちつれて上洛(しやうらく)す。貞盛(さだもり)・秀里(ひでさと)に勧賞(けんじやう)おこなはれける時(とき)、忠文(ただふん)・重藤(しげふぢ)にも勧賞(けんじやう)あるべきかと公卿僉議(くぎやうせんぎ)あり。九条ノ(くでうの)右丞相(うしようじやう・うせうじやう)師資公(もろすけこう)の申(まう)させ給(たま)ひけるは、「坂東(ばんどう)へ打手(うつて)はむかふ(むかう)たりといへども、将門(まさかど)たやすうほろびがたきところに、この人(ひと)共(ども)仰(おほせ)をかうむ(ッ)て関(せき)の東(ひがし・ひ(ン)がし)へおもむく時(とき)、朝敵(てうてき)すでにほろびたり。さればなどか勧賞(けんじやう)なかるべき」と申(まう)させ給(たま)へども、其(その)時(とき)の執柄(しつぺい)小野宮殿(おののみやどの)、「「うたがはしきをばなすことなかれ」と礼記(らいき)の文(もん)に候(さうら)へば」とて、つゐに(つひに)なさせ給(たま)はず。
忠文(ただふん)これを口惜キ(くちをしき・くちおしき)事(こと)にして「小野宮殿(をののみやどの)の御末(おんすゑ)をばやつ子(ご)に見(み)なさん。九条殿(くでうどの)の御末(おんすゑ)にはいづれの世(よ)までも守護神(しゆごじん)とならん」とちかひつつひじににこそし給(たま)ひけれ。されば九条殿(くでうどの)の御末(おんすゑ)はめでたうさかへ(さかえ)させ給(たま)へども、小野宮殿(をののみやどの)の御末(おんすゑ)にはしかるべき人(ひと)もましまさず、いまはたえはて給(たま)ひけるにこそ。さる程(ほど)に、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)の四男(しなん)頭(とうの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)重衡(しげひら)、左近衛(さこんゑの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)になり給(たま)ふ。同(おなじき)十一月(じふいちぐわつ)十三日(じふさんにち)、福原(ふくはら)には内裏(だいり)つくりいだして、主上(しゆしやう)御遷幸(ごせんかう)あり。
大嘗会(だいじやうゑ)あるべかりしかども、大嘗会(だいじやうゑ)は十月(じふぐわつ)のすゑ、東河(とうか)に御(み)ゆきして御禊(ごけい)あり。大内(おほうち)の北(きた)の野(の)に斎場所(さいぢやうしよ)をつく(ッ)て、神服神具(じんぶくじんぐ)をととのふ。大極殿(だいこくでん)のまへ、竜尾道(りようびだう・れうびだう)の壇下(だんか・だんカ)に廻竜殿(くわいりふてん・くわいりうてん)をたてて、御湯(みゆ)をめす。同(おなじき)壇(だん)のならびに太政宮(だいじやうぐう)をつく(ッ)て、神膳(しんぜん)をそなふ。震宴(しんえん)あり、御遊(ぎよいう・ぎよゆう)あり、大極殿(だいこくでん)にて大礼(たいれい)あり、清暑堂(せいしよだう)にて御神楽(みかぐら)あり、豊楽院(ぶらくゐん)にて宴会(えんくわい)あり。
しかるを、この福原(ふくはら)の新都(しんと)には大極殿(だいこくでん)もなければ、大礼(たいれい)おこなふべきところもなし。清暑堂(せいしよだう)もなければ、御神楽(みかぐら)奏(そう)すべき様(やう)もなし。豊楽院(ぶらくゐん)もなければ、宴会(えんくわい)もおこなはれず。今年(ことし)はただ新嘗会(しんじやうゑ)・五節(ごせつ)ばかりあるべきよし公卿僉議(くぎやうせんぎ)あ(ッ)て、なを(なほ)新嘗(しんじやう)のまつりをば、旧都(きうと)の神祇官(じんぎくわん)にしてとげられけり。五節(ごせつ)はこれ清御原(きよみばら)のそのかみ、吉野(よしの)の宮(みや)にして、月(つき)しろく嵐(あらし)はげしかりし夜(よ)、御心(おんこころ)をすましつつ、琴(こと)をひき給(たま)ひしに、神女(しんぢよ)あまくだり、五(いつ)たび袖(そで)をひるがへす。これぞ五節(ごせつ)のはじめなる。 
都帰 (みやこがへり) 

 

今度(こんど)の都遷(みやこうつり)をば、君(きみ)も臣(しん)も御(おん)なげきあり。山(やま)・奈良(なら)をはじめて、諸寺諸社(しよじしよしや)にいたるまで、しかるべからざる由(よし)一同(いちどう)にう(ッ)たへ(うつたへ)申(まうす)あひだ、さしもよこ紙(がみ)をやらるる太政入道(だいじやうにふだう・だいじやうにうだう)も、「さらば都(みやこ)がへりあるべし」とて、京中(きやうぢゆう・きやうぢう)ひしめきあへり。同(おなじき)十二月(じふにぐわつ)二日(ふつかのひ)、にはかに都(みやこ)がへりありけり。新都(しんと)は北(きた)は山(やま)にそひてたかく、南(みなみ)は海(うみ)ちかくしてくだれり。浪(なみ)の音(おと・をと)つねはかまびすしく、塩風(しほかぜ)はげしき所(ところ)也(なり)。
されば、新院(しんゐん)いつとなく御悩(ごなう)のみしげかりければ、いそぎ福原(ふくはら)をいでさせ給(たま)ふ。摂政殿(せつしやうどの)をはじめたてま(ッ)て、太政大臣(だいじやうだいじん)以下(いげ)の公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、われもわれもと供奉(ぐぶ)せらる。入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)をはじめとして、平家(へいけの)一門(いちもん)の公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、われさきにとぞのぼられける。誰(たれ)か心(こころ)うかりつる新都(しんと)に片時(かたとき・かたトキ)ものこるべき。去(さんぬる)六月(ろくぐわつ)より屋(や)共(ども)こぼちよせ、資材(しざい)雑具(ざふぐ・ざうぐ)はこびくだし、形(かた)のごとくとりたてたりつるに、又(また)物(もの)ぐるはしう都(みやこ)がへりありければ、なんの沙汰(さた)にも及(およ・をよ)ばず、うちすて打(うち)すてのぼられけり。おのおのすみかもなくして、やわた・賀茂(かも)・嵯峨(さが)・うづまさ・西山(にしやま)・東山(ひがしやま・ひ(ン)がしやま)のかたほとりにつゐ(つい)て、御堂(みだう)の廻廊(くわいらう)、社(やしろ)の拝殿(はいでん)な(ン)ど(など)にたちやど(ッ)てぞ、しかるべき人々(ひとびと)も在(まし)ましける。
今度(こんど)の都(みやこ)うつりの本意(ほんい)をいかにといふに、旧都(きうと)は南都(なんと)・北嶺(ほくれい)ちかくして、いささかの事(こと)にも春日(かすが)の神木(しんぼく)、日吉(ひよし)の神輿(しんよ)な(ン)ど(など)いひて、みだりがはし。福原(ふくはら)は山(やま)へだたり江(え)かさな(ッ)て、程(ほど)もさすがとをけれ(とほけれ)ば、さ様(やう)のことたやすからじとて、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)のはからひいだされたりけるとかや。同(おなじき)十二月(じふにぐわつ)廿三日(にじふさんにち)、近江源氏(あふみげんじ)のそむきしをせめむとて、大将軍(たいしやうぐん)には左兵衛督(さひやうゑのかみ)知盛(とももり)、薩摩守(さつまのかみ)忠教(ただのり)、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)二万余騎(にまんよき)で近江国(あふみのくに)へ発向(はつかう)して、山本(やまもと)・柏木(かしはぎ)・錦古里(にしごり)な(ン)ど(など)いふあぶれ源氏共(げんじども)、一々(いちいち)にみなせめおとし、やがて美乃(みの)・尾張(をはり・おはり)へこえ給(たま)ふ。 
奈良炎上 (ならえんしやう) 

 

都(みやこ)には又(また)「高倉宮(たかくらのみや)園城寺(をんじやうじ)へ入御(じゆぎよの)時(とき)、南都(なんと)の大衆(だいしゆ)同心(どうしん)して、あま(ッ)さへ(あまつさへ)御(おん)むかへにまいる(まゐる)条(でう)、これも(ッ)て朝敵(てうてき)なり。されば南都(なんと)をも三井寺(みゐでら)をもせめらるべし」といふ程(ほど)こそありけれ、奈良(なら)の大衆(だいしゆ)おびたたしく蜂起(ほうき)す。摂政殿(せつしやうどの)より「存知(ぞんぢ)の旨(むね)あらば、いくたびも奏聞(そうもん)にこそ及(およ・をよ)ばめ」と仰下(おほせくだ)されけれども、一切(いつせつ)もちゐたてまつらず。右官(うくわん)の別当(べつたう)忠成(ただなり)を御使(おんつかひ)にくだされたりければ、「しやのり物(もの)よりと(ッ)てひきおとせ。もとどりきれ」と騒動(さうどう)する間(あひだ・あいだ)、忠成(ただなり)色(いろ)をうしな(ッ)てにげのぼる。つぎに右衛門佐(うゑもんのすけ)親雅(ちかまさ)をくださる。是(これ)をも「もとどりきれ」と大衆(だいしゆ)ひしめきければ、とるものもとりあへずにげのぼる。
其(その)時(とき)は勧学院(くわんがくゐん)の雑色(ざつしき)二人(ににん)がもとどりきられにけり。又(また)南都(なんと)には大(おほき)なる球丁(ぎつちやう)の玉(たま)をつく(ッ)て、これは平相国(へいしやうこく)のかうべとなづけて、「うて、ふめ」な(ン)ど(など)ぞ申(まうし)ける。「詞(ことば)のもらしやすきは、わざはひ(わざわひ)をまねく媒(なかだち)なり。詞(ことば)のつつしまざるは、やぶれをとる道(みち)なり」といへり。この入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)と申(まう)すは、かけまくもかたじけなく当今(たうぎん)の外祖(ぐわいそ)にておはします。それをかやうに申(まうし)ける南都(なんと)の大衆(だいしゆ)、凡(およそ・をよそ)は天魔(てんま)の所為(しよゐ)とぞ見(み)えたりける。入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)かやうの事(こと)どもつたへきき給(たま)ひて、いかでかよしとおもはるべき。かつがつ南都(なんと)の狼籍(らうぜき)をしづめんとて、備中国(びつちゆうのくにの・びつちうのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)瀬尾(せのをの・せのおの)太郎(たらう)兼康(かねやす)、大和国(やまとのくに)の検非所(けんびしよ)に補(ふ)せらる。
兼康(かねやす)五百余騎(ごひやくよき)で南都(なんと)へ発向(はつかう)す。「相構(あひかまへ)て、衆徒(しゆと)は狼籍(らうぜき)をいたすとも、汝等(なんぢら)はいたすべからず。物(もの)の具(ぐ)なせそ。弓箭(きゆうせん・きうせん)な帯(たい)しそ」とてむけられたりけるに、大衆(だいしゆ)かかる内儀(ないぎ)をばしらず、兼康(かねやす)がよせい六十(ろくじふ)余人(よにん)からめと(ッ)て、一々(いちいち)にみな頸(くび)をき(ッ)て、猿沢(さるさは)の池(いけ)のはたにぞかけならべたる。入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)大(おほき)にいか(ッ)て、「さらば南都(なんと)をせめよや」とて、大将軍(たいしやうぐん)には頭(とうの)中将(ちゆうじやう・ちうぢやう)重衡(しげひら)、副将軍(ふくしやうぐん)には中宮亮(ちゆうぐうのすけ・ちうぐうのすけ)通盛(みちもり)、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)四万余騎(しまんよき)で、南都(なんと)へ発向(はつかう)す。大衆(だいしゆ)も老少(らうせう)きらはず、七千(しちせん)余人(よにん)、甲(かぶと)の緒(を・お)をしめ、奈良坂(ならざか)・般若寺(はんにやじ)二ケ所(にかしよ)、路(みち)をほりき(ッ)て、堀(ほり)ほり、かいだてかき、さかもぎひいて待(まち)かけたり。
平家(へいけ)は四万余騎(しまんよき)を二手(ふたて)にわか(ッ)て、奈良坂(ならざか)・般若寺(はんにやじ)二ケ所(にかしよ)の城郭(じやうくわく)におしよせて、時(とき)をど(ッ)とつくる。大衆(だいしゆ)はみなかち立(だち)うち物(もの)也(なり)。官軍(くわんぐん)は馬(むま)にてかけまはしかけまはし、あそこここにお(ッ)かけお(ッ)かけ、さしつめひきつめさんざんにゐ(い)ければ、ふせくところの大衆(だいしゆ)、かずをつくゐ(つくい)てうたれにけり。卯剋(うのこく)に矢合(やあはせ)して、一日(いちにち)たたかう(たたかふ)ひくらす。夜(よ)に入(いり)て奈良坂(ならざか)・般若寺(はんにやじ)二ケ所(にかしよ)の城郭(じやうくわく)ともにやぶれぬ。おちゆく衆徒(しゆと)のなかに、坂四郎永覚(さかのしらうやうかく)といふ悪僧(あくそう)あり。打物(うちもの)も(ッ)ても、弓矢(ゆみや)をと(ッ)ても、力(ちから)のつよさも、七大寺(しちだいじ)・十五大寺(じふごだいじ)にすぐれたり。もえぎ威(をどし・おどし)の腹巻(はらまき)のうへに、黒糸威(くろいとをどし・くろいとおどし)の鎧(よろひ)をかさねてぞきたりける。
帽子甲(ぼうしかぶと)に五枚甲(ごまいかぶと)の緒(を・お)をしめて、左右(さう)の手(て)には、茅(ち)の葉(は)のやうにそ(ッ)たる白柄(しらえ)の大長刀(おほなぎなた)、黒漆(こくしつ)の大太刀(おほだち)もつままに、同宿(どうじゆく)十余人(じふよにん)、前後(ぜんご)にた(ッ)て、てがいの門(もん)よりう(ッ)ていでたり。これぞしばらくささへたる。おほくの官兵(くわんべい)、馬(むま)の足(あし)ながれてうたれにけり。されども官軍(くわんぐん)は大勢(おほぜい)にて、いれかへいれかへせめければ、永覚(やうかく)が前後(ぜんご)左右(さゆう)にふせく所(ところ)の同宿(どうじゆく)みなうたれぬ。永覚(やうかく)ただひとりたけけれど、うしろあらはになりければ、南(みなみ)をさいておちぞゆく。夜(よ)いくさにな(ッ)て、くらさはくらし、大将軍(たいしやうぐん)頭(とうの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)、般若寺(はんにやじ)の門(もん)の前(まへ)にう(ッ)た(ッ)て、「火(ひ)をいだせ」との給(たま)ふほどこそありけれ、平家(へいけ)のせいのなかに、播摩国(はりまのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)福井庄(ふくゐのしやうの)下司(げし)、二郎(じらう)大夫(たいふ)友方(ともかた)といふもの、たてをわりたい松(まつ)にして、在家(ざいけ)に火(ひ)をぞかけたりける。
十二月(じふにぐわつ)廿八日(にじふはちにち)の夜(よ)なりければ、風(かぜ)ははげしし、ほもとはひとつなりけれ共(ども)、ふきまよふ風(かぜ)に、おほくの伽藍(がらん)に吹(ふき)かけたり。恥(はぢ)をもおもひ、名(な)をもおしむ(をしむ)程(ほど)のものは、奈良坂(ならざか)にてうちじにし、般若寺(はんにやじ)にしてうたれにけり。行歩(ぎやうぶ)にかなへる物(もの)は、吉野(よしの)十津河(とつかは)の〔方(かた)へ〕落(おち)ゆく。あゆみもえぬ老僧(らうそう)や、尋常(よのつね)なる修学者(しゆがくしや)児共(ちごども)、おんな(をんな)童部(わらんべ)は、大仏殿(だいぶつでん)・やましな寺(でら)のうちへ、われさきにとぞにげゆきける。大仏殿(だいぶつでん)の二階(にかい)の上(うへ)には千余人(せんよにん)のぼりあがり、かたきのつづくをのぼせじと、橋(はし)をばひいて(ン)げり。猛火(みやうくわ)はまさしうおしかけたり。
おめき(をめき)さけぶ声(こゑ)、焦熱(せうねつ)・大焦熱(だいせうねつ)・無間阿毘(むけんあび)のほのを(ほのほ)の底(そこ)の罪人(ざいにん)も、これにはすぎじとぞみえし。興福寺(こうぶくじ)は淡海公(たんかいこう)の御願(ごぐわん)、藤氏(とうじ)累代(るいだい)の寺(てら)也(なり)。東金堂(とうこんだう)におはします仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)最初(さいしよ)の釈迦(しやか)の像(ざう)、西金堂(さいこんだう)にをはします(おはします)自然涌出(じねんゆじゆつ)の勧世音(くわんぜおん・くわんぜをん)、瑠璃(るり)をならべし四面(しめん)の廊(らう)、朱丹(しゆたん)をまじへし二階(にかい)の楼(ろう)、九輪(くりん)そらにかかやきし二基(にき)の塔(たふ・たう)、たちまちに煙(けぶり)となるこそかなしけれ。東大寺(とうだいじ)は、常在不滅(じやうざいふめつ)、実報寂光(じつぽうじやくくわう)の生身(しやうじん)の御仏(おんほとけ)とおぼしめしなぞらへて、聖武皇帝(しやうむくわうてい)、手(て)づからみづからみがきたて給(たま)ひし金銅(こんどう)十六(じふろく)丈(じやう)の廬遮那仏(るしやなぶつ)、烏瑟(うしつ)たかくあらはれて半天(なかぞら)の雲(くも)にかくれ、白毫(びやくがう)新(あらた)におがま(をがま)れ給(たま)ひし満月(まんげつ)の尊容(そんよう)も、御(み)くしはやけおちて大地(だいぢ)にあり、御身(おんみ)はわきあひて山(やま)の如(ごと)し。
八万四千(はちまんしせん)の相好(さうがう)は、秋(あき)の月(つき)はやく五重(ごぢゆう・ごじう)の雲(くも)におぼれ、四十一地(しじふいちぢ)の瓔珞(やうらく)は、夜(よる)の星(ほし)むなしく十悪(じふあく)の風(かぜ)にただよふ。煙(けぶり)は中天(ちゆうてん・ちうてん)にみちみち、ほのを(ほのほ)は虚空(こくう)にひまもなし。まのあたりに見(み)たてまつる物(もの)、さらにまなこをあてず。はるかにつたへきく人(ひと)は、肝(きも)たましゐ(たましひ)をうしなへり。法相(ほつさう)・三輪(さんろん)の法門(ほふもん・ほうもん)聖教(しやうげう)、すべて一巻(いつくわん)のこらず。我(わが)朝(てう)はいふに及(およば・をよば)ず、天竺震旦(てんぢくしんだん)にも是(これ)程(ほど)の法滅(ほふめつ・ほうめつ)あるべしともおぼえず。
うでん大王(だいわう)の紫磨金(しまごん)をみがき、毘須羯磨(びすかつま)が赤栴檀(しやくせんだん)をきざんじも、わづかに等身(とうじん)の御仏(おんほとけ)也(なり)。况哉(いはんや)これは南閻浮提(なんゑんぶだい)のうちには唯一(ゆいいつ)無双(ぶさう)の御仏(おんほとけ)、ながく朽損(きうそん)の期(ご)あるべしともおぼえざりしに、いま毒縁(どくえん)の塵(ちり)にまじは(ッ)て、ひさしくかなしみをのこし給(たま)へり。梵尺四王(ぼんじやくしわう)、竜神(りゆうじん・りうじん)八部(はちぶ)、冥官冥衆(みやうくわんみやうしゆ)も驚(おどろ・をどろ)きさはぎ(さわぎ)給(たま)ふらんとぞみえし。法相擁護(ほつさうおうご)の春日(かすが)の大明神(だいみやうじん)、いかなる事(こと)をかおぼしけん。されば春日野(かすがの)の露(つゆ)も色(いろ)かはり、三笠山(みかさやま)の嵐(あらし)の音(おと・をと)うらむるさまにぞきこえける。
ほのを(ほのほ)のなかにてやけしぬる人(ひと)数(かず)をしるいたりければ、大仏殿(だいぶつでん)の二階(にかい)の上(うへ)には一千七百余人(いつせんしちひやくよにん)、山階寺(やましなでら)には八百(はつぴやく)余人(よにん)、或(ある)御堂(みだう)には五百余人(ごひやくよにん)、或(ある)御堂(みだう)には三百(さんびやく)余人(よにん)、つぶさにしるいたりければ、三千五百(さんぜんごひやく・さんぜんごびやく)余人(よにん)なり。戦場(せんぢやう)にしてうたるる大衆(だいしゆ)千余(せんよ)人(にん)、少々(せうせう)は般若寺(はんにやじ)の門(もん)の前(まへ)にきりかけ、少々(せうせう)はもたせて都(みやこ)へのぼり給(たま)ふ。
廿九日(にじふくにち)、頭(とうの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)、南都(なんと)ほろぼして北京(ほくきやう)へ帰(かへ)りいらる。入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)ばかりぞ、いきどほりはれてよろこばれける。中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)・一院(いちゐん)・上皇(しやうくわう)・摂政殿(せつしやうどの)以下(いげ)の人々(ひとびと)は、「悪僧(あくそう)をこそほろぼすとも、伽藍(がらん)を破滅(はめつ)すべしや」とぞ御歎(おんなげき)ありける。衆徒(しゆと)の頸共(くびども)、もとは大路(おほち)をわたして獄門(ごくもん)の木(き)に懸(かけ)らるべしときこえしかども、東大寺(とうだいじ)・興福寺(こうぶくじ)のほろびぬるあさましさに、沙汰(さた)にも及(およば・をよば)ず。あそこここの溝(みぞ)や堀(ほり)にぞすてをき(おき)ける。聖武皇帝(しやうむくわうてい)震筆(しんぴつ)の御記文(おんきもん)には、「我(わが)寺(てら)興福(こうぶく)せば、天下(てんが)も興福(こうぶく)し、吾(わが)寺(てら)衰微(すいび)せば、天下(てんが)も衰微(すいび)すべし」とあそばされたり。されば天下(てんが)の衰微(すいび)せん事(こと)も疑(うたがひ)なしとぞ見(み)えたりける。あさましかりつる年(とし)もくれ、治承(ぢしよう・ぢせう)も五年(ごねん)に成(なり)にけり。 
 
平家物語 巻六

 

新院崩御 (しんゐんほうぎよ) 
治承(ぢしよう・ぢせう)五年(ごねん)正月(しやうぐわつ)一日(ひとひのひ)、内裏(だいり)には、東国(とうごく)の兵革(へいがく)、南都(なんと)の火災(くわさい)によ(ッ)て朝拝(てうはい)とどめられ、主上(しゆしやう)出御(しゆつぎよ)もなし。物(もの)の音(ね)もふきならさず、舞楽(ぶがく)も、奏(そう)せず、吉野(よしの)のくずもまいら(まゐら)ず、藤氏(とうじ)の公卿(くぎやう)一人(いちにん)も参(さん)ぜられず。氏寺(うぢてら)焼失(ぜうしつ)によ(ッ)てなり。
二日(ふつかのひ)、殿上(てんじやう)の宴酔(ゑんすい)もなし。男女(なんによ)うちひそめて、禁中(きんちゆう・きんちう)いまいましうぞ見(み)えける。仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)王法(わうぼふ・わうぼう)ともにつきぬる事(こと)ぞあさましき。一院(いちゐん)仰(おほせ)なりけるは、「われ十善(じふぜん)の余薫(よくん)によ(ッ)て万乗(ばんじよう・ばんぜう)の宝位(ほうゐ)をたもつ。四代(しだい)の帝王(ていわう)をおもへば子(こ)なり、孫(まご)なり。
いかなれば万機(ばんき)の政務(せいむ)をとどめられて、年月(としつき)ををくる(おくる)らん」とぞ御歎(おんなげき)ありける。同(おなじき)五日(いつかのひ)、南都(なんと)の僧綱等(そうがうら)闕官(けつくわん)ぜられ、公請(くじやう)を停止(ちやうじ)し、所職(しよしよく)を没収(もつしゆ)せらる。衆徒(しゆと)は老(おい)たるもわかきも、或(あるい・あるひ)はゐ(い)ころされきりころされ、或(あるい・あるひ)は煙(けぶり)の内(うち)をいでず、炎(ほのほ)にむせんでおほくほろびにしかば、わづかにのこる輩(ともがら)は山林(さんりん)にまじはり、跡(あと)をとどむるもの一人(いちにん)もなし。興福寺(こうぶくじの)別当(べつたう)花林院(けりんゐんの)僧正(そうじやう)永円(やうゑん)は、仏像(ぶつざう)経巻(きやうぐわん)のけぶりとのぼりけるを見(み)て、あなあさましとむねうちさはぎ(さわぎ)、心(こころ)をくだかれけるより病(やまひ)ついて、いくほどもなくつゐに(つひに)うせ給(たまひ)ぬ。この僧正(そうじやう)はゆふ(いう)になさけふかき人(ひと)なり。或(ある)時(とき)郭公(ほととぎす)のなくをきひ(きい)て、
きくたびにめづらしければほととぎすいつもはつ音(ね)の心(ここ)ちこそすれ
といふ歌(うた)をようで、初音(はつね)の僧正(そうじやう)とぞいはれ給(たまひ)ける。ただし、かたのやうにても御斎会(ごさいゑ)はあるべきにて、僧名(そうみやう)の沙汰(さた)有(あり)しに、南都(なんと)の僧綱(そうがう)は闕官(けつくわん)ぜられぬ。北京(ほつきやう)の僧綱(そうがう)をも(ッ)ておこなはるべき歟(か)と、公卿僉議(くぎやうせんぎ)あり。さればとて、南都(なんと)をも捨(すて)はてさせ給(たま)ふべきならねば、三論宗(さんろんじゆう・さんろんじう)の学生(がくしやう)成法(じやうほう)已講(いかう)が、勧修寺(くわんじゆじ)に忍(しのび)つつかくれゐたりけるを、めしいだされて、御斎会(ごさいゑ)かたのごとくおこなはる。上皇(しやうくわう)は、おとどし(をとどし)法王(ほふわう・ほうわう)の鳥羽殿(とばどの)におしこめられさせ給(たまひ)し御事(おんこと)、去年(こぞ)高倉(たかくら)の宮(みや)のうたれさせ給(たま)ひし御有様(おんありさま)、宮(みや)こうつりとてあさましかりし天下(てんが)のみだれ、かやうの事(こと)ども御心(おんこころ)ぐるしうおぼしめされけるより、御悩(ごなう)つかせ給(たま)ひて、つねはわづらはしうきこえさせ給(たまひ)しが、東大寺(とうだいじ)・興福寺(こうぶくじ)のほろびぬるよしきこしめされて、御悩(ごなう)いよいよおもらせ給(たま)ふ。
法王(ほふわう・ほうわう)なのめならず御歎(おんなげき)ありし程(ほど)に、同(おなじき)正月(しやうぐわつ)十四日(じふしにち)、六波羅(ろくはら)池殿(いけどの)にて、上皇(しやうくわう)遂(つひ・つゐ)に崩御(ほうぎよ)なりぬ。御宇(ぎよう)十二年(じふにねん)、徳政(とくせい)千万端(せんまんたん)詩書(ししよ)仁義(じんぎ)の廃(すたれ)たる道(みち)ををこし(おこし)、理世安楽(りせいあんらく)の絶(たえ)たる跡継(あとをつぎ)給(たま)ふ。三明(さんみやう)六通(ろくつう)の羅漢(らかん)もまぬかれ給(たま)はず、現術変化(げんじゆつへんげ)の権者(ごんじや)ものがれぬ道(みち)なれば、有為(うゐ)無常(むじやう)のならひなれども、ことはり(ことわり)過(すぎ)てぞおぼえける。やがて其(その)夜(よ)東山(ひがしやま・ひ(ン)がしやま)の麓(ふもと)、清閑寺(せいがんじ)へうつしたてまつり、ゆふべのけぶりとたぐへ、春(はる)の霞(かすみ)とのぼらせ給(たま)ひぬ。澄憲(ちようけん・てうけん)法印(ほふいん・ほうゐん)、御葬送(ごさうそう)にまいり(まゐり)あはんと、いそぎ山(やま)よりくだられけるが、はやむなしきけぶりとならせ給(たま)ふを見(み)まいらせ(まゐらせ)て、
つねに見(み)し君(きみ)が御幸(みゆき)を今日(けふ)とへばかへらぬ旅ときくぞかなしき
又(また)ある女房(にようばう)、君(きみ)かくれさせ給(たま)ひぬと承(うけたま)は(ッ)て、かうぞおもひつづけける。
雲(くも)の上(うへ)に行末(ゆくすゑ)とをく(とほく)みし月(つき)の光(ひかり)きえぬときくぞかなしき
御年(おんとし)廿一(にじふいち)、内(うち)には十戒(じつかい)をたもち、外(ほか)には五常(ごじやう)をみだらず、礼儀(れいぎ)をただしうせさせ給(たま)ひけり。末代(まつだい)の賢王(けんわう)にて在(まし)ましければ、世(よ)のおしみ(をしみ)たてまつる事(こと)、月日(つきひ)の光(ひかり)をうしなへるがごとし。かやうに人(ひと)のねがひもかなはず、民(たみ)の果報(くわほう)もつたなき人間(にんげん)のさかひこそかなしけれ。 
紅葉 (こうえふ) 

 

ゆふ(いう)にやさしう人(ひと)のおもひつきまいらする(まゐらする)かたも、おそらくは延喜(えんぎ)・天暦(てんりやく)の御門(みかど)と申(まうす)共(とも)、争(いかで)か是(これ)にまさるべきとぞ人(ひと)申(まうし)ける。大(おほ)かたは賢王(けんわう)の名(な)をあげ、仁徳(にんとく)の孝(かう)をほどこさせ在(まし)ます事(こと)も、君(きみ)御成人(ごせいじん)の後(のち)、清濁(せいだく)をわかたせ給(たま)ひてのうへの事(こと)にてこそあるに、此(この)君(きみ)は無下(むげ)に幼主(えうしゆ・ようしゆ)の時(とき)より性(せい)を柔和(にうわ)にうけさせ給(たま)へり。去(さんぬ)る承安(しようあん・せうあん)の比(ころ)おひ(ころほひ)、御在位(ございゐ)のはじめつかた、御年(おんとし)十歳(じつさい)ばかりにもならせ給(たま)ひけん、あまりに紅葉(こうえふ・こうえう)をあひせ(あいせ)させ給(たま)ひて、北(きた)の陣(ぢん)に小山(こやま)をつかせ、はじ・かへでの色(いろ)うつくしうもみぢたるをうへ(うゑ)させて、紅葉(もみぢ)の山(やま)となづけて、終日(ひねもす)に叡覧(えいらん・ゑいらん)あるに、なを(なほ)あきだらはせ給(たま)はず。
しかるをある夜(よ)、野分(のわき)はしたなうふひ(ふい)て、紅葉(こうえふ・こうえう)みな吹(ふき)ちらし、落葉(らくえふ・らくえう)頗(すこぶ)る狼籍(らうぜき)なり。殿守(とのもり)のとものみやづ子(こ)朝(あさ)ぎよめすとて、是(これ)をことごとくはきすてて(ン)げり。のこれる枝(えだ)、ちれる木葉(このは)をかきあつめて、風(かぜ)すさまじかりける朝(あさ)なれば、縫殿(ぬいどの)の陣(ぢん)にて、酒(さけ)あたためてたべける薪(たきぎ)にこそしてんげれ。奉行(ぶぎやう)の蔵人(くらんど)、行幸(ぎやうがう)より先(さき)にといそぎゆひ(ゆい)て見(み)るに、跡(あと)かたなし。いかにととへばしかじかといふ。蔵人(くらんど)大(おほき)におどろき、「あなあさまし。君(きみ)のさしも執(しゆ)しおぼしめされつる紅葉(こうえふ・こうえう)を、か様(やう)にしけるあさましさよ。しらず、なんぢ等(ら)只今(ただいま)禁獄(きんごく)流罪(るざい)にも及(およ・をよ)び、わが身(み)もいかなる逆鱗(げきりん)にかあづからんずらん」となげくところに、主上(しゆしやう)いとどしくよるのおとどを出(いで)させ給(たま)ひもあへず、かしこへ行幸(ぎやうがう)な(ッ)て紅葉(もみぢ)を叡覧(えいらん・ゑいらん)なるに、なかりければ、「いかに」と御(おん)たづね有(ある)に、蔵人(くらんど)奏(そう)すべき方(かた)はなし。
ありのままに奏聞(そうもん)す。天気(てんき)ことに御心(おんこころ)よげにうちゑませ給(たまひ)て、「「林間(りんかんに)煖酒(さけをあたためて)焼紅葉(こうえふをたく)」といふ詩(し)の心(こころ)をば、それらにはたがおしへ(をしへ)けるぞや。やさしうも仕(つかまつり)ける物(もの)かな」とて、かへ(ッ)て(かへつて)御感(ぎよかん)に預(あづかり)しうへは、あへて勅勘(ちよくかん)なかりけり。又(また)安元(あんげん)の比(ころ)おひ(ころほひ)、御方違(おんかたたがひ)の行幸(ぎやうがう)有(あり)しに、さらでだに鶏人(けいじん)暁(あかつき)唱(となふ)こゑ、明王(めいわう)の眠(ねぶり)ををどろかす(おどろかす)程(ほど)にもなりしかば、いつも御(おん)ねざめがちにて、つやつや御寝(ぎよしん)もならざりけり。况(いはん)やさゆる霜夜(しもよ)のはげしきに、延喜(えんぎ)の聖代(せいたい)、国土(こくど)の民(たみ)どもいかにさむかるらんとて、夜(よ)るのおとどにして御衣(ぎよい)をぬがせ給(たまひ)ける事(こと)な(ン)ど(など)までも、おぼしめし出(いだ)して、わが帝徳(ていとく)のいたらぬ事(こと)をぞ御歎(おんなげき)有(あり)ける。
やや深更(しんかう)に及(およん・をよん)で、程(ほど)とをく(とほく)人(ひと)のさけぶ声(こゑ)しけり。供奉(ぐぶ)の人々(ひとびと)はききつけられざりけれども、主上(しゆしやう)きこしめして、「今(いま)さけぶものは何(なに)ものぞ。き(ッ)と見(み)てまいれ(まゐれ)」と仰(おほせ)ければ、うへぶししたる殿上人(てんじやうびと)、上日(じやうにち)のものに仰(おほ)す。はしりち(ッ)て尋(たづ)ぬれば、ある辻(つじ)にあやしのめのわらはの、ながもちのふたさげてなくにてぞありける。「いかに」ととへば、「しう(しゆう)の女房(にようばう)の、院(ゐん)の御所(ごしよ)にさぶらはせ給(たま)ふが、此(この)程(ほど)やうやうにしてしたてられたる御装束(おんしやうぞく)、も(ッ)てまいる(まゐる)程(ほど)に、只今(ただいま)男(をとこ・おとこ)の二三人(にさんにん)まうできて、うばひと(ッ)てまかりぬるぞや。今(いま)は御装束(おんしやうぞく)があらばこそ、御所(ごしよ)にもさぶらはせ給(たま)はめ。
又(また)はかばかしうたちやどらせ給(たま)ふべきしたしい御方(おんかた)もましまさず。此(この)事(こと)おもひつづくるになくなり」とぞ申(まうし)ける。さてかのめのわらはをぐしてまいり(まゐり)、このよし奏聞(そうもん)しければ、主上(しゆしやう)きこしめして、「あなむざん。いかなるもののしわざにてかあるらん。(げう)の代(よ)の民(たみ)は、(げう)の心(こころ)のすなを(すなほ)なるをも(ッ)て心(こころ)とするがゆへ(ゆゑ)に、みなすなを(すなほ)なり。今(いま)の代(よ)の民(たみ)は、朕(ちん)が心(こころ)をも(ッ)て心(こころ)とするが故(ゆゑ・ゆへ)に、かだましきもの朝(てう)にあ(ッ)て罪(つみ)ををかす。是(これ)わが恥(はぢ)にあらずや」とぞ仰(おほせ)ける。「さてとられつらんきぬは何(なに)いろぞ」と御(おん)たづねあれば、しかじかのいろと奏(そう)す。建礼門院(けんれいもんゐん)のいまだ中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)にて在(まし)ましける時(とき)なり。其(その)御方(おんかた)へ、「さ様(やう)のいろしたる御衣(ぎよい)や候(さうらふ)」と仰(おほせ)ければ、
さきのよりはるかにうつくしきがまいり(まゐり)たりけるを、くだんのめのわらはにぞたまはせける。「いまだ夜(よ)ふかし。又(また)さるめにもやあふ」とて、上日(じやうにち)のものをつけて、しう(しゆう)の女房(にようばう)のつぼねまでをくら(おくら)せましましけるぞかたじけなき。されば、あやしのしづのお(しづのを)しづのめにいたるまで、ただ此(この)君(きみ)千秋万歳(せんしうばんぜい)の宝算(ほうさん)をぞ祈(いのり)たてまつる。 
葵前 (あふひのまへ) 

 

なかにもあはれなりし御事(おんこと)は、中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)の御方(おんかた)に候(さうら)はせ給(たま)ふ女房(にようばう)のめしつかひける上童(しやうとう)、おもはざる外(ほか)、竜顔(りようがん・れうがん)に咫尺(しせき)する事(こと)有(あり)けり。ただよのつねのあからさまにてもなくして、主上(しゆしやう)つねはめされけり。まめやかに御心(おんこころ)ざしふかかりければ、しう(しゆう)の女房(にようばう)もめしつかはず、かへ(ッ)て(かへつて)主(しゆう)の如(ごと)くにぞいつきもてなしける。そのかみ、謡詠(えうえい・やうゑい)にいへる事(こと)あり。
「女(をんな)をうんでもひいさんする事(こと)なかれ。男(をとこ・おとこ)をうんでも喜歓(きくわん)する事(こと)なかれ。男(をとこ・おとこ)は功(こう)にだも報(ほう)ぜられず。女(をんな)は妃(ひ)たり」とて、后(きさき)にたつといへり。「この人(ひと)、女御(にようご)后(きさき)とももてなされ、国母仙院(こくぼせんゐん)ともあふがれなんず。めでたかりけるさひわゐ(さいはひ)かな」とて、其(その)名(な)をば葵(あふひ)のまへといひければ、内々(ないない)葵女御(あふひにようご)な(ン)ど(など)ぞささやきける。主上(しゆしやう)是(これ)をきこしめして、其(その)後(のち)はめされざりけり。御心(おんこころ)ざしのつきぬるにはあらず。ただ世(よ)のそしりをはばからせ給(たま)ふによ(ッ)てなり。
されば御(おん)ながめがちにて、よるのおとどにのみぞいらせ給(たま)ふ。其(その)時(とき)の関白(くわんばく)松殿(まつどの)、「御心(おんこころ)ぐるしき事(こと)にこそあむ(あん)なれ。申(まうし)なぐさめまいらせ(まゐらせ)ん」とて、いそぎ御参内(ごさんだい)あ(ッ)て、「さ様(やう)に叡虜(えいりよ・ゑいりよ)にかからせましまさん事(こと)、何条(なんでふ・なんでう)事(こと)か候(さうらふ)べき。件(くだん)の女房(にようばう)とくとくめさるべしと覚(おぼえ)候(さうらふ)。しなたづねらるるに及(およ・をよ)ばず。基房(もとふさ)やがて猶子(ゆうし)に仕(つかまつり)候(さうら)はん」と奏(そう)せさせ給(たま)へば、主上(しゆしやう)「いさとよ。そこに申(まうす)事(こと)はさる事(こと)なれども、位(くらゐ)を退(しりぞい)て後(のち)はままさるためしもあんなり。まさしう在位(ざいゐ)の時(とき)、さ様(やう)の事(こと)は後代(こうたい)のそしりなるべし」とて、きこしめしもいれざりけり。関白殿(くわんばくどの)ちからをよば(およば)せ給(たま)はず、御涙(おんなみだ)をおさへて御退出(ごたいしゆつ)あり。其(その)後(のち)主上(しゆしやう)、緑(みどり)の薄様(うすやう)のことに匂(にほひ)ふかかりけるに、古(ふる)きことなれ共(ども)おぼしめしいでて、あそばされけり。
しのぶれどいろに出(で)にけりわが恋(こひ)はものやおもふと人(ひと)のとふまで
此(この)御手習(おんてならひ)を、冷泉少将(れんぜいのせうしやう)隆房(たかふさ)給(たま)はりつゐ(つい)で、件(くだん)の葵(あふひ)の前(まへ)に給(たま)はせたれば、かほうちあかめ、「例(れい)ならぬ心(ここ)ち出(いで)きたり」とて、里(さと)へ帰(かへ)り、うちふす事(こと)五六日(ごろくにち)して、ついにはかなくなりにけり。「君(きみ)が一日(いちにち)の恩(おん・をん)のために、妾(せう)が百年(ももとせ)の身(み)をあやまつ」ともかやうの事(こと)をや申(まうす)べき。昔(むかし)唐(たう)の太宗(たいそう)、貞仁機(ていじんき)が娘(むすめ)を元観殿(げんくわんでん)にいれんとし給(たまひ)しを、魏徴(ぎてう)「かのむすめ已(すでに)陸士(りくし)が約(やく)せり」といさめ申(まうし)しかば、殿(てん)にいるる事(こと)をやめられけるには、すこしもたがはせ給(たま)はぬ御心(おんこころ)ばせなり。 
小督 (こがう) 

 

主上(しゆしやう)恋慕(れんぼ)の御(おん)おもひにしづませをはします(おはします)。申(まうし)なぐさめまいらせ(まゐらせ)んとて、中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)の御方(おんかた・おかた)より小督殿(こがうのとの)と申(まうす)女房(にようばう)をまいらせ(まゐらせ)らる。此(この)女房(にようばう)は桜町(さくらまちの)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)成範卿(しげのりのきやう)の御(おん)むすめ、宮中(きゆうちゆう・きうちう)一(いち)の美人(びじん)、琴(こと)の上手(じやうず)にてをはし(おはし)ける。冷泉大納言(れんぜいのだいなごん)隆房卿(たかふさのきやう)、いまだ少将(せうしやう)なりし時(とき)、見(み)そめたりし女房(にようばう)なり。
少将(せうしやう)はじめは歌(うた)をよみ、文(ふみ)をつくし、恋(こひ)かなしみ給(たま)へ共(ども)、なびく気色(けしき)もなかりしが、さすがなさけによはる(よわる)心(こころ)にや、遂(つひ・つゐ)にはなびき給(たま)ひけり。され共(ども)今(いま)は君(きみ)にめされまいらせ(まゐらせ)て、せんかたもなくかなし(ツ)さに、あかぬ別(わかれ)の涙(なみだ)には、袖(そで)しほたれてほしあへず。少将(せうしやう)よそながらも小督殿(こがうのとの)見(み)たてまつる事(こと)もやと、つねは参内(さんだい)せられけり。をはし(おはし)ける局(つぼね)のへん、御簾(みす)のあたりを、あなたこなたへ行(ゆき)とをり(とほり)、たたずみありき給(たま)へども、小督殿(こがうのとの)「われ君(きみ)にめされんうへは、少将(せうしやう)いかにいふ共(とも)、詞(ことば)をもかはし、文(ふみ)を見(み)るべきにもあらず」とて、つてのなさけをだにもかけられず。少将(せうしやう)もしやと一首(いつしゆ)の歌(うた)をようで、小督殿(こがうのとの)のをはし(おはし)ける御簾(みす)の内(うち)へなげいれたる。
おもひかねこころは空(そら)にみちのくのちかのしほがまちかきかひなし
小督殿(こがうのとの)やがて返事(へんじ)もせばやとおもはれけめども、君(きみ)の御(おん)ため、御(おん)うしろめたうやおもはれけん、手(て)にだにと(ッ)ても見(み)給(たま)はず。上童(うへわらは)にとらせて、坪(つぼ)のうちへぞなげいだす。少将(せうしやう)なさけなう恨(うらめ)しけれ共(ども)、人(ひと)もこそ見(み)れと空(そら)おそろしうおもはれければ、いそぎ是(これ)と(ッ)てふところに入(いれ)てぞ出(いで)られける。なを(なほ)たちかへ(ッ)て、
たまづさを今(いま)は手(て)にだにとらじとやさこそ心(こころ)におもひすつとも
今(いま)は此(この)世(よ)にてあひみん事(こと)もかたければ、いきてものをおもはんより、しなんとのみぞねがはれける。
入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)これをきき、中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)と申(まうす)も御(おん)むすめなり、冷泉少将(れんぜいのせうしやう)聟(むこ)なり。小督殿(こがうのとの)にふたりの聟(むこ)をとられて、「いやいや、小督(こがう)があらんかぎりは世中(よのなか)よかるまじ。めしいだしてうしなはん」とぞの給(たま)ひける。小督殿(こがうのとの)もれきひ(きい)て、「我(わが)身(み)の事(こと)はいかでもありなん。君(きみ)の御(おん)ため御心(おんこころ)ぐるし」とて、ある暮(くれ)がたに内裏(だいり)を出(いで)て、行(ゆく)ゑ(ゆくへ)もしらずうせ給(たま)ひぬ。主上(しゆしやう)御歎(おんなげき)なのめならず。ひるはよるのおとどにいらせ給(たま)ひて、御涙(おんなみだ)にのみむせび、夜(よ)るは南殿(なんでん)に出御(しゆつぎよ)な(ッ)て、月(つき)の光(ひかり)を御覧(ごらん)じてぞなぐさませ給(たま)ひける。
入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)是(これ)をきき、「君(きみ)は小督(こがう)ゆへ(ゆゑ)におぼしめししづませ給(たま)ひたんなり。さらんにと(ッ)ては」とて、御(おん)かひしやく(かいしやく)の女房達(にようばうたち)をもまいらせ(まゐらせ)ず、参内(さんだい)し給(たま)ふ臣下(しんか)をもそねみ給(たま)へば、入道(にふだう・にうだう)の権威(けんゐ)にはばか(ッ)て、かよふ人(ひと)もなし。禁中(きんちゆう・きんちう)いまいましうぞ見(み)えける。かくて八月(はちぐわつ)十日(とをか)あまりになりにけり。さしもくまなき空(そら)なれど、主上(しゆしやう)は御涙(おんなみだ)にくもりつつ、月(つき)の光(ひかり)もおぼろにぞ御覧(ごらん)ぜられける。やや深更(しんかう)に及(およん・をよん)で、「人(ひと)やある、人(ひと)やある」とめされけれ共(ども)、御(おん)いらへ申(まうす)ものもなし。弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)仲国(なかくに)、其(その)夜(よ)しもまい(ッ・まゐつ)て、はるかにとをう(とほう)候(さうらふ)が、「仲国(なかくに)」と御(おん)いらへ申(まうし)たれば、「ちかうまいれ(まゐれ)。仰下(おほせくだ)さるべき事(こと)あり」。
何事(なにごと)やらんとて、御前(ごぜん)ちかう参(さん)じたれば、「なんぢもし小督(こがう)が行(ゆく)ゑ(ゆくへ)やしりたる」。仲国(なかくに)「いかでかしりまいらせ(まゐらせ)候(さうらふ)べき。ゆめゆめしりまいらせ(まゐらせ)ず候(さうらふ)」。「まことやらん、小督(こがう)は嵯峨(さが)のへんに、かた折戸(をりど・おりど)とかやしたる内(うち)にありと申(まうす)もののあるぞとよ。あるじが名(な)をばしらずとも、尋(たづね)てまいらせ(まゐらせ)なんや」と仰(おほせ)ければ、「あるじが名(な)をしり候(さうら)はでは、争(いかで)か尋(たづね)まいらせ(まゐらせ)候(さうらふ)べき」と申(まう)せば、「まことにも」とて、竜顔(りようがん・れうがん)より御涙(おんなみだ)をながさせ給(たま)ふ。仲国(なかくに)つくづくと物(もの)をあんずるに、まことや、小督殿(こがうのとの)は琴(こと)ひき給(たま)ひしぞかし。此(この)月(つき)のあかさに、君(きみ)の御事(おんこと)おもひいでまいらせ(まゐらせ)て、琴(こと)ひき給(たま)はぬ事(こと)はよもあらじ。
御所(ごしよ)にてひき給(たまひ)しには、仲国(なかくに)笛(ふえ)の役(やく)にめされしかば、其(その)琴(こと)の音(ね)はいづくなりともききしらんずるものを。又(また)嵯峨(さが)の在家(ざいけ)いく程(ほど)かあるべき。うちまは(ッ)てたづねんに、などか聞出(ききいだ)さざるべきとおもひければ、「さ候(さうら)はば、あるじが名(な)はしらず共(とも)、若(もし)やとたづねまいらせ(まゐらせ)て見(み)候(さうら)はん。ただし尋(たづね)あひまいらせ(まゐらせ)て候(さうらふ)共(とも)、御書(ごしよ)を給(たま)はらで申(まう)さむには、うはの空(そら)にやおぼしめされ候(さうら)はんずらむ。御書(ごしよ)を給(たま)は(ッ)てむかひ候(さうら)はん」と申(まうし)ければ、「まことにも」とて、御書(ごしよ)をあそばひ(あそばい)てたうだりけり。「竜(れう)の御馬(おんむま)にの(ッ)てゆけ」とぞ仰(おほせ)ける。
仲国(なかくに)竜(れう)の御馬(おんむま)給(たま)は(ッ)て、名月(めいげつ)にむちをあげ、そこともしらずあこがれ行(ゆく)。をしかなく此(この)山里(やまざと)と詠(えい・ゑい)じけん、嵯峨(さが)のあたりの秋(あき)の比(ころ)、さこそはあはれにもおぼえけめ。片折戸(かたをりど・かたおりど)したる屋(や)を見(み)つけては、「此(この)内(うち)にやおはすらん」と、ひかへひかへききけれ共(ども)、琴(こと)ひく所(ところ)もなかりけり。御堂(みだう)な(ン)ど(など)へまいり(まゐり)給(たま)へることもやと、釈迦堂(しやかだう)をはじめて、堂々(だうだう)見(み)まはれ共(ども)小督殿(こがうのとの)に似(に)たる女房(にようばう)だに見(み)え給(たま)はず。「むなしう帰(かへ)りまいり(まゐり)たらんは、中々(なかなか)まいら(まゐら)ざらんよりあしかるべし。是(これ)よりもいづちへもまよひゆかばや」とおもへども、いづくか王地(わうぢ)ならぬ、身(み)をかくすべき宿(やど)もなし。
いかがせんとおもひわづらう(わづらふ)。「まことや、法輪(ほふりん・ほうりん)は程(ほど)ちかければ、月(つき)の光(ひかり)にさそはれて、まいり(まゐり)給(たま)へることもや」と、そなたにむかひてぞあゆませける。亀山(かめやま)のあたりちかく、松(まつ)の一(ひと)むらある方(かた)に、かすかに琴(こと)ぞきこえける。峯(みね)の嵐(あらし)か、松風(まつかぜ)か、たづぬる人(ひと)のことの音(ね)か、おぼつかなくはおもへども、駒(こま)をはやめて行(ゆく)程(ほど)に、片折戸(かたをりど・かたおりど)したる内(うち)に、琴(こと)をぞひきすまされたる。ひかへて是(これ)をききければ、すこし〔も〕まがふべうもなき小督殿(こがうのとの)の爪音(つまおと)なり。楽(がく)はなんぞとききければ、夫(おつと)をおもふ(おもう)てこふとよむ想夫恋(さうふれん)といふ楽(がく)なり。さればこそ、君(きみ)の御事(おんこと)おもひ出(いで)まいらせ(まゐらせ)て、楽(がく)こそおほけれ、此(この)楽(がく)をひき給(たまひ)けるやさし(ッ)さよ。
ありがたふ(ありがたう)おぼえて、腰(こし)よりやうでうぬき出(いだ)し、ち(ッ)とならひ(ならい)て、門(かど)をほとほととたたけば、やがてひきやみ給(たま)ひぬ。高声(かうしやう)に、「是(これ)は内裏(だいり)より仲国(なかくに)が御使(おんつかひ)にまい(ッ・まゐつ)て候(さうらふ)。あけさせ給(たま)へ」とて、たたけ共(ども)たたけ共(ども)とがむる人(ひと)もなかりけり。ややあ(ッ)て、内(うち)より人(ひと)の出(いづ)る音(おと・をと)のしければ、うれしうおもひて待(まつ)ところに、じやうをはづし、門(かど)をほそめにあけ、いたひけ(いたいけ)したる小女房(こにようばう)、かほばかりさしいだひ(いだい)て、「門(かど)たがへてぞさぶらう(さぶらふ)らん。是(これ)には内裏(だいり)より御使(おんつかひ)な(ン)ど(など)給(たま)はるべき所(ところ)にてもさぶらはず」と申(まう)せば、中々(なかなか)返事(へんじ)して、門(かど)たてられ、じやうさされてはあしかりなんとおもひて、おしあけてぞ入(いり)にける。妻戸(つまど)のきはのゑん(えん)にゐて、「いかに、かやうの所(ところ)には御(おん)わたり候(さうらふ)やらん。
君(きみ)は御(ご)ゆへ(ゆゑ)におぼしめししづませ給(たま)ひて、御命(おんいのち)もすでにあやう(あやふ)にこそ見(み)えさせをはしまし(おはしまし)候(さうら)へ。ただうはの空(そら)に申(まうす)とやおぼしめされ候(さうら)はん。御書(ごしよ)を給(たま)は(ッ)てまい(ッ・まゐつ)て候(さうらふ)」とて、御書(ごしよ)とりいだひ(とりいだい)てたてまつる。ありつる女房(にようばう)とりついで、小督殿(こがうのとの)にまいらせ(まゐらせ)たり。あけて見(み)給(たま)へば、まことに君(きみ)の御書(ごしよ)なりけり。やがて〔御(おん)〕返事(ぺんじ)かき、ひきむすび、女房(にやうばう)の装束(しやうぞく)一(ひと)かさねそへて出(いだ)されたり。仲国(なかくに)、女房(にようばう)の装束(しやうぞく)をば肩(かた)にうちかけ、申(まうし)けるは、「余(よ)の御使(おんつかひ)で候(さうら)はば、御返事(おんぺんじ)のうへは、とかう申(まうす)には候(さうら)はねども、日(ひ)ごろ内裏(だいり)にて御琴(おんこと)あそば(ッ)し時(とき)、仲国(なかくに)笛(ふえ)の役(やく)にめされ候(さうらひ)し奉公(ほうこう)をば、いかでか御(おん)わすれ候(さうらふ)べき。
ぢきの御返事(おんぺんじ)を承(うけたま)はらで帰(かへり)まいら(まゐら)ん事(こと)こそ、よに口(くち)おしう(をしう)候(さうら)へ」と申(まうし)ければ、小督殿(こがうのとの)げにもとやおもはれけん、身(み)づから返事(へんじ)し給(たま)ひけり。「それにもきかせ給(たま)ひつらん、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)のあまりにおそろしき事(こと)をのみ申(まうす)とききしかば、あさましさに、内裏(だいり)をばにげ出(いで)て、此(この)程(ほど)はかかるすまひなれば、琴(こと)な(ン)ど(など)ひく事(こと)もなかりつれ共(ども)、さてもあるべきならねば、あすより大原(おおはら)のおくにおもひたつ事(こと)のさぶらへば、あるじの女房(にようばう)の、こよひばかりの名残(なごり)をおしう(をしう)で、「今(いま)は夜(よ)もふけぬ。たちきく人(ひと)もあらじ」な(ン)ど(など)すすむれば、さぞなむかしの名残(なごり)もさすがゆかしくて、手(て)なれし琴(こと)をひく程(ほど)に、やすうもきき出(いだ)されけりな」とて、涙(なみだ)もせきあへ給(たま)はねば、仲国(なかくに)も袖(そで)をぞぬらしける。
ややあ(ッ)て、仲国(なかくに)涙(なみだ)をおさへて申(まうし)けるは、「あすより大原(おほはら)のおくにおぼしめし立(たつ)事(こと)と候(さうらふ)は、御(おん)さまな(ン)ど(など)をかへさせ給(たま)ふべきにこそ。ゆめゆめあるべうも候(さうら)はず。さて君(きみ)の御歎(おんなげき)をば、何(なに)とかしまいらせ(まゐらせ)給(たま)ふべき。是(これ)ばし出(いだ)しまいらす(まゐらす)な」とて、ともにめしぐしたるめぶ、きつじやうな(ン)ど(など)とどめをき(おき)、其(その)屋(や)を守護(しゆご)せさせ、竜(れう)の御馬(おんむま)にうちの(ッ)て、内裏(だいり)へかへりまいり(まゐり)たれば、ほのぼのとあけにけり。「今(いま)は入御(じゆぎよ)もなりぬらん、誰(たれ)して申入(まうしいる)べき」とて、竜(れう)の御馬(おんむま)つながせ、ありつる女房(にようばう)の装束(しやうぞく)をばはね馬(むま)の障子(しやうじ)になげかけ、南殿(なんでん)の方(かた)へまいれ(まゐれ)ば、主上(しゆしやう)はいまだ夜部(よべ)の御座(ござ)にぞ在(まし)ましける。
「南(みなみ・み(ン)なみ)に翔(かけり)北(きた)に嚮(むかふ)、寒雲(かんうん)を秋(あき)の鴈(かり)に付(つけ)難(がた)し。東(ひがし・ひ(ン)がし)に〔出(いで)〕西(にし)に流(ながる)、只(ただ)瞻望(せんばう)を暁(あかつき)の月(つき)に寄(よ)す」と、うちながめさせ給(たま)ふ所(ところ)に、仲国(なかくに)つ(ッ)とまいり(まゐり)たり。小督殿(こがうのとの)の御返事(おんぺんじ)をぞまいらせ(まゐらせ)たる。君(きみ)なのめならず御感(ぎよかん)な(ッ)て、「なんぢやがてよさり具(ぐ)してまいれ(まゐれ)」と仰(おほせ)ければ、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)のかへりきき給(たま)はんところはおそろしけれ共(ども)、これ又(また)倫言(りんげん)なれば、雑色(ざつしき)・牛(うし)・車(くるま)きよげに沙汰(さた)して、さがへ行(ゆき)むかひ、まいる(まゐる)まじきよしやうやうにの給(たま)へども、さまざまにこしらへて、車(くるま)にとりのせたてまつり、内裏(だいり)へまいり(まゐり)たりければ、幽(かすか)なる所(ところ)にしのばせて、よなよなめされける程(ほど)に、姫宮(ひめみや)一所(いつしよ)出来(いでき)させ給(たま)ひけり。此(この)姫宮(ひめみや)と申(まうす)は、坊門(ばうもん)の女院(にようゐん)の御事(おんこと)なり。
入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)、何(なに)としてかもれきひ(きい)たりけん、「小督(こがう)がうせたりといふ事(こと)、あとかたなき空事(そらごと)なりけり」とて、小督殿(こがうのとの)をとらへつつ、尼(あま)になしてぞはなつ〔たる〕。小督殿(こがうのとの)出家(しゆつけ)はもとよりの望(のぞみ)なりけれ共(ども)、心(こころ)ならず尼(あま)になされて、年(とし)廿三(にじふさん)、こき墨染(すみぞめ)にやつれはてて、嵯峨(さが)のへんにぞすまれける。うたてかりし事共(ことども)なり。か様(やう)の事共(ことども)に御悩(ごなう)はつかせ給(たま)ひて、遂(つひ・つゐ)に御(おん)かくれありけるとぞきこえし。法皇(ほふわう・ほうわう)はうちつづき御歎(おんなげき)のみぞしげかりける。
去(さんぬ)る永万(えいまん・ゑいまん)には、第一(だいいち)の御子(みこ)二条院(にでうのゐん)崩御(ほうぎよ)なりぬ。安元(あんげん)二年(にねん)の七月(しちぐわつ)には、御孫(おんむまご)六条院(ろくでうのゐん)かくれさせ給(たま)ひぬ。天(てん)にすまば比翼(ひよく)の鳥(とり)、地(ち)にすまば連理(れんり)の枝(えだ)とならんと、漢河(あまのがは)の星(ほし)をさして、御契(ちぎり)あさからざりし建春門院(けんしゆんもんゐん)、秋(あき)の霧(きり)にをかされて、朝(あした)の露(つゆ)ときえさせ給(たまひ)ぬ。年月(としつき)はかさなれ共(ども)、昨日(きのふ)今日(けふ)の御別(おんわかれ)のやうにおぼしめして、御涙(おんなみだ)もいまだつきせぬに、治承(ぢしよう・ぢせう)四年(しねん)五月(ごぐわつ)には第二(だいに)の皇子(わうじ)高倉宮(たかくらのみや)うたれさせ給(たま)ひぬ。
現世(げんぜ)後生(ごしやう)たのみおぼしめされつる新院(しんゐん)さへさきだたせ給(たま)ひぬれば、とにかくにかこつかたなき御涙(おんなみだ)のみぞすすみける。「悲(かなしみ)の至(いたつ)て悲(かな)しきは、老(おい)て後(のち)子(こ)にをくれ(おくれ)たるよりも悲(かな)しきはなし。恨(うらみ)の至(いたつ)て恨(うらめ)しきは、若(わかう)して親(おや)に先立(さきだつ)よりもうらめしきはなし」と、彼(かの)朝綱(ともつな)の相公(しやうこう)の子息(しそく)澄明(すみあきら)にをくれ(おくれ)て書(かき)たりけん筆(ふで)のあと、今(いま)こそおぼしめし知(し)られけれ。さるままには、彼(かの)一乗妙典(いちじようめうでん・いちぜうめうでん)の御読誦(ごどくじゆ)もおこたらせ給(たま)はず、三密(さんみつ)行法(ぎやうぼふ・ぎやうぼう)の御薫修(ごくんじゆ)もつもらせ給(たまひ)けり。天下(てんが)諒闇(りやうあん)になりしかば、大宮人(おほみやびと)もおしなべて、花(はな)のたもとややつれけん。  
廻文 (めぐらしぶみ) 

 

入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)かやうにいたくなさけなうふるまひをか(おか)れし事(こと)を、さすがおそろしとやおもはれけん、法皇(ほふわう・ほうわう)なぐさめまいらせ(まゐらせ)んとて、安芸(あき)の厳島(いつくしま)の内侍(ないし)が腹(はら)の御(おん)むすめ、生年(しやうねん)十八(じふはち)になり給(たま)ふが、ゆう(いう)に花(はな)やかにをはし(おはし)けるを、法皇(ほふわう・ほうわう)へまいらせ(まゐらせ)らる。上臈(じやうらふ・じやうらう)女房達(にようぼうたち)あまたゑらば(えらば)れてまいら(まゐら)れけり。公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)おほく供奉(ぐぶ)して、ひとへに女御(にようご)まいり(まゐり)の如(ごと)くにてぞ有(あり)ける。
上皇(しやうくわう)かくれさせ給(たまひ)て後(のち)、わづかに二七日(にしちにち)だにも過(すぎ)ざるに、しかるべからずとぞ、人々(ひとびと)内々(ないない)はささやきあはれける。さる程(ほど)に、其(その)比(ころ)信濃国(しなののくに)に、木曾(きその)冠者(くわんじや)義仲(よしなか)といふ源氏(げんじ)ありときこえけり。故(こ)六条判官(ろくでうのはんぐわん)為義(ためよし)が次男(じなん)、帯刀(たてわき)の先生(せんじやう)義方(よしかた)が子(こ)なり。父(ちち)義方(よしかた)は久寿(きうじゆ)二年(にねん)八月(はちぐわつ)十六日(じふろくにち)、鎌倉(かまくら)〔の〕悪源太義平(あくげんだよしひら)が為(ため)に誅(ちゆう・ちう)せらる。其(その)時(とき)義仲(よしなか)二歳(にさい)なりしを、母(はは)なくなくかかへて信乃(しなの)へこえ、木曾(きその)中三(ちゆうざう・ちうざう)兼遠(かねとほ・かねとを)がもとにゆき、「是(これ)いかにもしてそだてて、人(ひと)になして見(み)せ給(たま)へ」といひければ、兼遠(かねとほ・かねとを)うけと(ッ)て、かひがひしう廿(にじふ)余年(よねん)養育(やういく)す。やうやう長大(ちやうだい)するままに、ちからも世(よ)にすぐれてつよく、心(こころ)もならびなく甲(かう)なりけり。
「ありがたきつよ弓(ゆみ)、勢兵(せいびやう)、馬(むま)の上(うへ)、かちだち、すべて上古(しやうこ)の田村(たむら)・利仁(としひと)・与五将軍(よごしやうぐん)、知頼(ちらい)・保昌(ほうしやう)・先祖(せんぞ)頼光(らいくわう)、義家(よしいへの)朝臣(あそん・あ(ツ)そん)といふとも、争(いかで)か是(これ)にはまさるべき」とぞ、人(ひと)申(まうし)ける。或(ある)時(とき)めのとの兼遠(かねとほ・かねとを)をめしての給(たま)ひけるは、「兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)既(すで)に謀叛(むほん)をおこし、東(とう)八ケ国(はつかこく)をうちしたがへて、東海道(とうかいだう)よりのぼり、平家(へいけ)をおひおとさんとすなり。義仲(よしなか)も東山(とうさん)・北陸(ほくろく)両道(りやうだう)をしたがへて、今(いま)一日(いちにち)も先(さき)に平家(へいけ)をせめおとし、たとへば、日本国(にほんごく)ふたりの将軍(しやうぐん)といはればや」とほのめかしければ、中三(ちゆうざう・ちうざう)兼遠(かねとほ・かねとを)大(おほき)にかしこまり悦(よろこび)て、「其(それ)にこそ君(きみ)をば今(いま)まで養育(やういく)し奉(たてまつ)れ。かう仰(おほせ)らるるこそ、誠(まこと)に八幡殿(はちまんどの)の御末(おんすゑ)ともおぼえさせ給(たま)へ」とて、やがて謀叛(むほん)をくはたてけり。
兼遠(かねとほ・かねとを)にぐせられて、つねは都(みやこ)へのぼり、平家(へいけ)の人々(ひとびと)の振舞(ふるまひ・ふるまい)、ありさまをも見(み)うかがひけり。十三(じふさん)で元服(げんぶく)しけるも、八幡(はちまん)へまいり(まゐり)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の御(おん)まへにて、「わが四代(しだい)の祖父(そぶ)義家(よしいへの)朝臣(あそん・あ(ツ)そん)は、此(この)御神(おんがみ)の御子(おんこ)とな(ッ)て、名(な)をば八幡太郎(はちまんたらう)と号(かう)しき。かつ(ウ)は其(その)跡(あと)ををう(おふ)べし」とて、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の御宝前(ごほうぜん)にてもとどりとりあげ、木曾次郎(きそのじらう)義仲(よしなか)とこそつゐ(つい)たりけれ。兼遠(かねとほ・かねとを)「まづめぐらし文(ぶみ)候(さうらふ)べし」とて、信濃国(しなののくに)には、、ねの井の小野太(こやた)、海野(うんの)の行親(ゆきちか)をかたらう(かたらふ)に、そむく事(こと)なし。
是(これ)をはじめて、信乃(しなの)一国(いつこく)の兵(つは)もの共(ども)、なびかぬ草木(くさき)もなかりけり。上野国(かうづけのくに)に故帯刀先生(こたてわきのせんじやう)義方(よしかた)がよしみにて、田子(たご)の郡(こほり)の兵(つはもの)共(ども)、皆(みな)したがひつきにけり。平家(へいけ)末(すゑ)になる折(をり・おり)を得(え)て、源氏(げんじ)の年来(としごろ)の素懐(そくわい)をとげんとす。 
飛脚到来 (ひきやくたうらい) 

 

木曾(きそ)といふ所(ところ)は、信乃(しなの)にと(ッ)ても南(みなみ)のはし、美乃(みの)ざかひなりければ、都(みやこ)も無下(むげ)に程(ほど)ちかし。平家(へいけ)の人々(ひとびと)もれきひ(きい)て、「東国(とうごく)のそむくだにあるに、こはいかに」とぞさはが(さわが)れける。入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)仰(おほせ)られけるは、「其(その)もの心(こころ)にくからず。おもへば信乃(しなの)一国(いつこく)の兵共(つはものども)こそしたがひつくといふ共(とも)、越後国(ゑちごのくに)には与五将軍(よごしやうぐん)の末葉(ばつえふ・ばつえう)、城(じやうの)太郎(たらう)助長(すけなが)、同(おなじく)四郎助茂(しらうすけしげ)、これらは兄弟(きやうだい)ともに多勢(たぜい)のもの共(ども)なり。
仰(おほせ)くだしたらんずるに、やすう打(うつ)てまいらせ(まゐらせ)んず」との給(たまひ)ければ、「いかがあらんずらむ」と、内々(ないない)はささやくものもおほかりけり。二月(にぐわつ)一日(ひとひのひ)、越後国(ゑちごのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)城(じやうの)太郎(たらう)助長(すけなが)、越後守(ゑちごのかみ)〔に〕任(にん)ず。是(これ)は木曾(きそ)追討(ついたう)せられんずるはかり事(こと)とぞきこえし。同(おなじき)七日(なぬかのひ)、大臣(だいじん)以下(いげ)、家々(いへいへ)にて尊勝(そんじよう・そんぜう)陀羅尼(だらに)、不動明王(ふどうみやうわう)かき供養(くやう)ぜらる。是(これ)は又(また)兵乱(ひやうらん)つつしみのためなり。
同(おなじき)九日(ここのかのひ)、河内国(かはちのくに)石河郡(いしかはのこほり)に居住(きよぢゆう・きよぢう)したりける武蔵権守(むさしのごんのかみ)入道(にふだう・にうだう)義基(よしもと)、子息(しそく)石河判官代(いしかはのはんぐわんだい)義兼(よしかぬ)、平家(へいけ)をそむひ(そむい)て兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)に心(こころ)をかよはかし、已(すでに)東国(とうごく)へ落行(おちゆく)べきよしきこえしかば、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)やがて打手(うつて)をさしつかはす。打手(うつて)の大将(たいしやう)には、源(げん)太夫(だいふの・だいうの)判官(はんぐわん)季定(すゑさだ)、摂津判官(せつつのはんぐわん)盛澄(もりずみ)、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)三千余騎(さんぜんよき)で発向(はつかう)す。
城内(じやうのうち)には武蔵権守(むさしのごんのかみ)入道(にふだう・にうだう)義基(よしもと)、子息(しそく)判官代(はんぐわんだい)義兼(よしかぬ)を先(さき)として、其(その)勢(せい)百騎(ひやくき)ばかりには過(すぎ)ざりけり。時(とき)つくり矢合(やあはせ)して、いれかへいれかへ数剋(すこく)たたかふ。城内(じやうない)の兵共(つはものども)、手(て)のきはたたかひ打死(うちじに)するものおほかりけり。武蔵権守(むさしのごんのかみ)入道(にふだう・にうだう)義基(よしもと)打死(うちじに)す。子息(しそく)石河判官代(いしかはのはんぐわんだい)義兼(よしかぬ)はいた手(て)負(おう)て生(いけ)どりにせらる。同(おなじき)十一日(じふいちにち)、義基(よしもと)法師(ぼふし・ぼうし)が頸(くび)都(みやこ)へ入(いつ)て、大路(おほち)をわたさる。諒闇(りやうあん)に賊衆(ぞくしゆ)をわたさるる事(こと)は、堀川天皇(ほりかはてんわう)崩御(ほうぎよ)の時(とき)、前対馬守(さきのつしまのかみ)源義親(みなもとのよしちか)が首(くび)をわたされし例(れい)とぞきこえし。
同(おなじき)十二日(じふににち)、鎮西(ちんぜい)より飛脚(ひきやく)到来(たうらい)、宇佐大宮司(うさのだいぐうじ)公通(きんみち)が申(まうし)けるは、「九州(きうしう)のもの共(ども)、緒方(をかたの・おかたの)三郎(さぶらう)をはじめとして、臼杵(うすき)・戸次(へつぎ)・松浦党(まつらたう)にいたるまで、一向(いつかう)平家(へいけ)をそむひ(そむい)て源氏(げんじ)に同心(どうしん)」のよし申(まうし)たりければ、「東国(とうごく)北国(ほつこく)のそむくだにあるに、こはいかに」とて、手(て)をう(ッ)てあさみあへり。同(おなじき)十六日(じふろくにち)、伊与国(いよのくに)より飛脚(ひきやく)到来(たうらい)す。去年(こぞの)冬比(ふゆのころ)より、河野(かうのの)四郎(しらう)道清(みちきよ)をはじめとして、四国(しこく)の物共(ものども)みな平家(へいけ)をそむひ(そむい)て、源氏(げんじ)に同心(どうしん)のあひだ、備後国(びんごのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)、ぬかの入道(にふだう・にうだう)西寂(さいじやく)、平家(へいけ)に心(こころ)ざしふかかりければ、伊与(いよ)の国(くに)へおしわたり、道前(だうぜん)・道後(だうご)のさかひ、高直(たかなほの・たかなふの)城(しろ)にて、河野(かうのの)四郎(しらう)道請(みちきよ)をうち候(さうらひ)ぬ。子息(しそく)河野(かうのの)四郎(しらう)道信(みちのぶ)は、父(ちち)がうたれける時(とき)、安芸国(あきのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)奴田次郎(ぬたのじらう)は母方(ははかた)の伯父(をぢ)なりければ、其(それ)へこえて有(あり)あはず。河野(かうのの)道信(みちのぶ)ちちをうたせて、「やすからぬものなり。いかにしても西寂(さいじやく)を打(うち)とらん」とぞうかがひける。
額(ぬかの・ヌカノ)入道(にふだう・にうだう)西寂(さいじやく)、河野(かうのの)四郎(しらう)道清(みちきよ)をう(ッ)て後(のち)、四国(しこく)の狼籍(らうぜき)をしづめ、今年(ことし)正月(しやうぐわつ)十五日(じふごにち)に備後(びんご)のともへおしわたり、遊君(いうくん・ゆうくん)遊女(いうぢよ・ゆうぢよ)共(ども)めしあつめて、あそびたはぶれさかもりけるが、先後(ぜんご)もしらず酔(ゑひ・えい)ふしたる処(ところ)に、河野(かうのの)四郎(しらう)おもひき(ッ)たるもの共(ども)百余人(ひやくよにん)あひ語(かたらひ)て、ば(ッ)とおしよす。西寂(さいじやく)が方(かた)にも三百(さんびやく)余人(よにん)ありける物共(ものども)、にはかの事(こと)なれば、おもひもまうけずあはて(あわて)ふためきけるを、た(ッ)てあふものをばゐ(い)ふせ、きりふせ、まづ西寂(さいじやく)を生(いけ)どりにして、伊与国(いよのくに)へおしわたり、父(ちち)がうたれたる高直(たかなほの・たかなふの)城(しろ)へさげもてゆき、のこぎりで頸(くび)をき(ッ)たりともきこえけり。又(また)は(ッ)つけにしたりともきこえけり。 
入道死去 (にふだうしきよ) 

 

其(その)後(のち)四国(しこく)の兵共(つはものども)、みな河野(かうのの)四郎(しらう)にしたがひつく。熊野別当(くまののべつたう)湛増(たんぞう)も、平家(へいけ)重恩(ぢゆうおん・ぢうをん)の身(み)なりしが、其(それ)もそむひ(そむい)て、源氏(げんじ)に同心(どうしん)のよし聞(きこ)えけり。凡(およそ・をよそ)東国(とうごく)北国(ほつこく)ことごとくそむきぬ。南海(なんかい)西海(さいかい)かくの如(ごと)し。夷狄(いてき)の蜂起(ほうき)耳(みみ)を驚(おどろか・をどろか)し、逆乱(げきらん)の先表(ぜんべう)頻(しきり)に奏(そう)す。四夷(しい)忽(たちまち)に起(おこ)れり。世(よ)は只今(ただいま)うせなんずとて、必(かならず)平家(へいけ)の一門(いちもん)ならね共(ども)、心(こころ)ある人々(ひとびと)のなげきかなしまぬはなかりけり。同(おなじき)廿三日(にじふさんにち)、公卿僉議(くぎやうせんぎ)あり。前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)申(まう)されけるは、坂東(ばんどう)へ打手(うつて)はむかうたりといへ共(ども)、させるしいだしたる事(こと)も候(さうら)はず。
今度(こんど)宗盛(むねもり)、大将軍(たいしやうぐん)を承(うけたま)は(ッ)て向(むかふ)べきよし申(まう)されければ、諸卿(しよきやう)色代(しきだい)して、「ゆゆしう候(さうらひ)なん」と申(まう)されけり。\公卿(くぎやう-)殿上人(てんじやうびと)も武官(ぶくわん)〔に〕備(そな)はり、弓箭(きゆうせん・きうせん)に携(たづさは)らん人々(ひとびと)は、宗盛卿(むねもりのきやう)を大将軍(たいしやうぐん)にて、東国(とうごく)北国(ほつこく)の凶徒等(きようどら・けうどら)追討(ついたう)すべきよし仰下(おほせくだ)さる。
同(おなじき)廿七日(にじふしちにち)、前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)、源氏(げんじ)追討(ついたう)の為(ため)に、、東国(とうごく)へ既(すで)に門出(かどいで)ときこえしが、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)違例(いれい)の御心(おんここ)ちとてとどまり給(たま)ひぬ。明(あく)る廿八日(にじふはちにち)より、重病(ぢゆうびやう・ぢうびやう)をうけ給(たま)へりとて、京中(きやうぢゆう・きやうぢう)・六波羅(ろくはら)「すは、しつる事(こと)を」とぞささやきける。
入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)、やまひつき給(たま)ひし日(ひ)よりして、水(みづ)をだにのどへも入(いれ)給(たま)はず。身(み)の内(うち)のあつき事(こと)火(ひ)をたくが如(ごと)し。ふし給(たま)へる所(ところ)四五間(しごけん)が内(うち)へ入(いる)ものは、あつさたへがたし。ただの給(たま)ふ事(こと)とては、「あたあた」とばかりなり。すこしもただ事(こと)とは見(み)えざりけり。比叡山(ひえいさん・ひゑいさん)より千手井(せんじゆゐ)の水(みづ)をくみくだし、石(いし)の船(ふね)にたたへて、それにおりてひへ(ひえ)給(たま)へば、水(みづ)おびたたしくわきあが(ッ)て、程(ほど)なく湯(ゆ)にぞなりにける。
もしやたすかり給(たま)ふと、筧(かけひ)の水(みづ)をまかせたれば、石(いし)やくろがねな(ン)ど(など)のやけたるやうに、水ほどばし(ッ)てよりつかず。をのづから(おのづから)あたる水(みづ)はほむらとな(ッ)てもえければ、くろけぶり殿中(てんちゆう・てんちう)にみちみちて、炎(ほのほ)うづまひ(うづまい)てあがりけり。是(これ)や昔(むかし)法蔵(ほふざう・ほうざう)僧都(そうづ)とい(ッ)し人(ひと)、閻王(ゑんわう)の請(しやう)におもむひ(おもむい)て、母(はは)の生前(しやうぜん)を尋(たずね)しに、閻王(ゑんわう)あはれみ給(たま)ひて、獄卒(ごくそつ)をあひそへて焦熱地獄(せうねつぢごく)へつかはさる。くろがねの門(もん)の内(うち)へさし入(いれ)ば、流星(りうせい)な(ン)ど(など)の如(ごと)くに、ほのを(ほのほ)空(そら)へたちあがり、多百由旬(たひやくゆじゆん)に及(および・をよび)けんも、今(いま)こそおもひしられけれ。入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)の北(きた)の方(かた)、二位殿(にゐどの)の夢(ゆめ)に見(み)給(たまひ)ける事(こと)こそおそろしけれ。猛火(みやうくわ)のおびたたしくもえたる車(くるま)を、門(かど)の内(うち)へやり入(いれ)たり。
前後(ぜんご)に立(たち)たるものは、或(あるい・あるひ)は馬(むま)の面(おもて)のやうなるものもあり、或(あるい・あるひ)は牛(うし)の面(おもて)のやうなるものもあり。車(くるま)のまへには、無(む)といふ文字(もんじ)ばかり見(み)えたる鉄(くろがね)の札(ふだ)をぞ立(たて)たりける。二位殿(にゐどの)夢(ゆめ)の心(こころ)に、「あれはいづくよりぞ」と御(おん)たづねあれば、「閻魔(ゑんま)の庁(ちやう)より、平家(へいけ)太政(だいじやうの)入道殿(にふだうどの・にうだうどの)の御迎(おんむかひ)にまい(ッ・まゐつ)て候(さうらふ)」と申(まうす)。「さて其(その)札(ふだ)は何(なに)といふ札(ふだ)ぞ」ととはせ給(たま)へば、「南閻浮提金銅(なんゑんぶだいこんどう)十六(じふろく)丈(じやう)の盧遮那仏(るしやなぶつ)、焼(やき)ほろぼし給(たま)へる罪(つみ)によ(ッ)て、無間(むけん)の底(そこ)に堕(だし)給(たま)ふべきよし、閻魔(ゑんま)の庁(ちやう)に御(おん)さだめ候(さうらふ)が、無間(むけん)の無(む)をかかれて、間(けん)の字(じ)をばいまだかかれぬなり」とぞ申(まうし)ける。二位殿(にゐどの)うちおどろき、あせ水(みづ)になり、是(これ)を人々(ひとびと)にかたり給(たま)へば、きく人(ひと)みな身(み)の毛(け)よだちけり。
霊仏(れいぶつ)霊社(れいしや)に金銀七宝(こんごんしつぽう)をなげ、馬鞍(むまくら)・鎧甲(よろひかぶと)・弓矢(ゆみや)・太刀(たち)、刀(かたな)にいたるまで、とりいではこび出(いだ)しいのられけれ共(ども)、其(その)しるしもなかりけり。男女(なんによ)の君達(きんだち)あと枕(まくら)にさしつどひて、いかにせんとなげきかなしみ給(たま)へども、かなう(かなふ)べしとも見(み)えざりけり。同(おなじき)閏(うるふ)二月(にぐわつ・に(ン)ぐわつ)二日(ふつかのひ)、二位殿(にゐどの)あつうたへがたけれ共(ども)、御枕(おんまくら)の上(うへ)によ(ッ)て、泣々(なくなく)の給(たま)ひけるは、「御(おん)ありさま見(み)たてまつるに、日(ひ)にそへてたのみずくなうこそ見(み)えさせ給(たま)へ。此(この)世(よ)におぼしめしをく(おく)事(こと)あらば、すこしもののおぼえさせ給(たま)ふ時(とき)、仰(おほせ)をけ(おけ)」とぞの給(たま)ひける。
入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)、さしも日来(ひごろ)はゆゆし気(げ)におはせしかども、まことにくるし気(げ)にて、いきの下(した)にの給(たま)ひけるは、「われ保元(ほうげん)・平治(へいぢ)より此(この)かた、度々(どど)の朝敵(てうてき)をたいらげ(たひらげ)、勧賞(けんじやう)身(み)にあまり、かたじけなくも帝祖(ていそ)太政大臣(だいじやうだいじん)にいたり、栄花(えいぐわ・ゑいぐわ)子孫(しそん)に及(およ・をよ)ぶ。今生(こんじやう)の望(のぞみ)一事(いちじ)ものこる処(ところ)なし。ただしおもひをく(おく)事(こと)とては、伊豆国(いづのくに)の流人(るにん)、前兵衛佐(さきのひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)が頸(くび)を見(み)ざりつるこそやすからね。われいかにもなりなん後(のち)は、堂塔(だうたふ・だうとう)をもたて、孝養(けうやう)をもすべからず。やがて打手(うつて)をつかはし、頼朝(よりとも)が首(くび)をはねて、わがはかのまへにかくべし。それぞ孝養(けうやう)にてあらんずる」との給(たま)ひけるこそ罪(つみ)ふかけれ。同(おなじき)四日(よつかのひ)、やまひにせめられ、せめての事(こと)に板(いた)に水(みづ)をゐ(い)て、それにふしまろび給(たま)へ共(ども)、たすかる心地(ここち)もし給(たま)はず、悶絶地(もんぜつびやくち)して、遂(つひ・つゐ)にあつち死(じ)にぞし給(たまひ)ける。
馬車(むまくるま)のはせちがう(はせちがふ)音(おと・をと)、天(てん)もひびき大地(だいぢ)もゆるぐ程(ほど)なり。一天(いつてん)の君(きみ)、万乗(ばんじよう・ばんぜう)のあるじの、いかなる御事(おんこと)在(まし)ます共(とも)、是(これ)には過(すぎ)じとぞ見(み)えし。今年(ことし)は六十四(ろくじふし)にぞなり給(たま)ふ。老(おい)じにといふべきにはあらねども、宿運(しゆくうん)忽(たちまち)につき給(たま)へば、大法(だいほふ・だいほう)秘法(ひほふ・ひほう)の効験(かうげん)もなく、神明(しんめい)三宝(さんぼう)の威光(ゐくわう)もきえ、諸天(しよてん)も、擁護(おうご)し給(たま)はず。况(いはん)や凡慮(ぼんりよ)におひ(おい)てをや。命(いのち)にかはり身(み)にかはらんと忠(ちゆう・ちう)を存(ぞん)ぜし数万(すまん)の軍旅(ぐんりよ)は、堂上(たうしやう)堂下(たうか)に次居(なみゐ)たれ共(ども)、是(これ)は目(め)にも見(み)えず、力(ちから)にもかかはらぬ無常(むじやう)の殺鬼(せつき)をば、暫時(ざんじ)もたたかひかへさず。
又(また)かへりこぬ四手(で)の山(やま)、みつ瀬川(せがは)、黄泉(くわうせん)中有(ちゆうう・ちうう)の旅(たび)の空(そら)に、ただ一所(いつしよ)こそおもむき給(たま)ひけめ。日(ひ)ごろ作(つく)りをか(おか)れし罪業(ざいごふ・ざいごう)ばかりや獄卒(ごくそつ)とな(ッ)てむかへに来(きた)りけん、あはれなりし事共(ことども)なり。さてもあるべきならねば、同(おなじき)七日(なぬかのひ)、をたぎにて煙(けぶり)になしたてまつり、骨(こつ)をば円実(ゑんじつ)法眼(ほふげん・ほうげん)頸(くび)にかけ、摂津国(せつつのくに)へくだり、経(きやう)の島(しま)にぞおさめ(をさめ)ける。さしも日本(につぽん)一州(いつしう)に名(な)をあげ、威(ゐ)をふる(ッ)し人(ひと)なれ共(ども)、身(み)はひとときの煙(けぶり)とな(ッ)て都(みやこ)の空(そら)に立(たち)のぼり、かばねはしばしやすらひて、浜(はま)の砂(まさご)にたはぶれつつ、むなしき土(つち)とぞなり給(たま)ふ。 
築島 (つきしま) 

 

やがて葬送(さうそう)の夜(よ)、ふしぎの事(こと)あまたあり。玉(たま)をみがき金銀(きんぎん)をちりばめて作(つく)られたりし西八条殿(にしはつでうどの)、其(その)夜(よ)にはかにやけぬ。人(ひと)の家(いへ)のやくるは、つねのならひなれども、あさましかりし事(こと)どもなり。何(なに)もののしわざにや有(あり)けん、放火(はうくわ)とぞ聞(きこ)えし。又(また)其(その)夜(よ)六波羅(ろくはら)の南(みなみ)にあた(ッ)て、人(ひと)ならば二三十人(にさんじふにん)が声(こゑ)して、「うれしや水(みづ)、なるは滝(たき)の水(みづ)」といふ拍子(ひやうし)を出(いだ)してまひおどり(をどり)、ど(ッ)とわらう(わらふ)声(こゑ)しけり。去(さんぬ)る正月(しやうぐわつ)には上皇(しやうくわう)かくれさせ給(たま)ひて、天下(てんが)諒闇(りようあん)になりぬ。わづかに中(なか)一両月(いちりやうげつ)をへだてて、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)薨(こう)ぜられぬ。あやしのしづのお(しづのを)、しづのめにいたるまでも、いかがうれへざるべき。是(これ)はいかさまにも天狗(てんぐ)の所為(しよゐ)といふさたにて、平家(へいけ)の侍(さぶらひ)のなかに、はやりをの若(わか)もの共(ども)百余人(ひやくよにん)、わらう(わらふ)声(こゑ)についてたづねゆいて見(み)れば、院(ゐん)の御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの・ほうぢうじどの)に、この二三年(にさんねん)院(ゐん)もわたらせ給(たま)はず、御所(ごしよ)あづかり備前前司(びぜんのせんじ)基宗(もとむね)といふものあり、彼(かの)基宗(もとむね)があひ知(しり)たる物共(ものども)二三十人(にさんじふにん)、夜(よ)にまぎれて来(きた)り集(あつま)り、酒(さけ)をのみけるが、はじめはかかる折(をり・おり)ふしにをと(おと)なせそとてのむ程(ほど)に、次第(しだい)にのみ酔(ゑひ・えひ)て、か様(やう)に舞(まひ)おどり(をどり)けるなり。
ば(ッ)とをし(おし)よせて、酒(さけ)に酔(ゑひ・えひ)ども、一人(いちにん)ももらさず卅人(さんじふにん)ばかりからめて、六波羅(ろくはら)へい(ゐ)てまいり(まゐり)、前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)のをわし(おはし)たる坪(つぼ)の内(うち)にぞひ(ッ)すへ(すゑ)たる。事(こと)の子細(しさい)をよくよく尋(たづね)きき給(たま)ひて、「げにもそれほどに酔(ゑひ・えひ)たらんものをば、きるべきにもあらず」とて、みなゆるされけり。人(ひと)のうせぬるあとには、あやしのものも朝夕(てうせき)にかねうちならし、例時(れいじ)懺法(せんぼふ・せんぼう)よむ事(こと)はつねのならひなれ共(ども)、此(この)禅門(ぜんもん)薨(こう)ぜられぬる後(のち)は、供仏施僧(くぶつせそう)のいとなみといふ事(こと)もなし。朝夕(てうせき)はただいくさ合戦(かつせん)のはかり事(こと)より外(ほか)は他事(たじ)なし。
凡(およそ・をよそ)はさい後(ご)の所労(しよらう)のありさまこそうたてけれ共(ども)、まことにはただ人(びと)ともおぼえぬ事共(ことども)おほかりけり。日吉社(ひよしのやしろ)へまいり(まゐり)給(たまひ)しにも、当家(たうけ)他家(たけ)の公卿(くぎやう)おほく供奉(ぐぶ)して、「摂禄(せつろく)の臣(しん)の春日御参宮(かすがのごさんぐう)、宇治(うぢ)いりな(ン)ど(など)いふとも、是(これ)には争(いかで)かまさるべき」とぞ人(ひと)申(まうし)ける。又(また)何事(なにごと)よりも、福原(ふくはら)の経(きやう)の島(しま)つゐ(つい)て、今(いま)の世(よ)にいたるまで、上下往来(じやうげわうらい)の船(ふね)のわづらひなきこそ目出(めでた)けれ。彼(かの)島(しま)は去(さんぬ)る応保(おうほう)元年(ぐわんねん)二月(にぐわつ・に(ン)ぐわつ)上旬(じやうじゆん)に築(つき)はじめられたりけるが、同(おなじ)年(とし)の八月(はちぐわつ)に、にはかに大風(おほかぜ)吹(ふき)大(おほ)なみたち、みなゆりうしなひてき。又(また)同(おなじき)三年(さんねん)三月(さんぐわつ)下旬(げじゆん)に、阿波(あはの)民部(みんぶ)重能(しげよし)を奉行(ぶぎやう)にてつかせられけるが、人柱(ひとばしら)たてらるべしな(ン)ど(など)、公卿(くぎやう)御僉議(ごせんぎ)有(あり)しか共(ども)、それは罪業(ざいごふ・ざいごう)なりとて、石(いし)の面(おもて)に一切経(いつさいきやう)をかひ(かい)てつかれたりけるゆへ(ゆゑ)にこそ、経(きやう)の島(しま)とは名(な)づけたれ。 
慈心房 (じしんばう) 

 

ふるひ(ふるい)人(ひと)の申(まう)されけるは、清盛公(きよもりこう)は悪人(あくにん)とこそおもへ共(ども)、まことは慈恵僧正(じゑそうじやう)の再誕(さいたん)也(なり)。其(その)故(ゆゑ・ゆへ)は、摂津国(せつつのくに)清澄寺(せいちようじ・せいてうじ)といふ山寺(やまでら)あり。彼(かの)寺(てら)の住僧(ぢゆうそう・ぢうそう)慈心房尊恵(じしんばうそんゑ)と申(まうし)けるは、本(もと)は叡山(えいさん・ゑいざん)の学侶(がくりよ)多年(たねん)法花(ほつけ)の持者(ぢしや)也(なり)。しかるに、道心(だうしん)ををこし(おこし)離山(りさん)して、此(この)寺(てら)に年月(としつき)ををくり(おくり)ければ、みな人(ひと)是(これ)を帰依(きえ・きゑ)しけり。去(さんぬ)る承安(しようあん・せうあん)二年(にねん)十二月(じふにぐわつ・じふに(ン)ぐわつ)廿二日(にじふににち)の夜(よ)、脇息(けうそく)によりかかり、法花経(ほけきやう)よみたてまつりけるに、丑剋(うしのこく)ばかり、夢(ゆめ)ともなくうつつ共(とも)なく、年(とし)五十(ごじふ)斗(ばかり)なる男(をとこ・おとこ)の、浄衣(じやうえ・じやうゑ)に立烏帽子(たてえぼし・たてゑぼし)きて、わら(ン)づはばきしたるが、立文(たてぶみ)をも(ッ)て来(きた)れり。尊恵(そんゑ)「あれはいづくよりの人(ひと)ぞ」ととひければ、「閻魔王宮(ゑんまわうぐう)よりの御使(おんつかひ)なり。宣旨(せんじ)候(さうらふ)」とて、立文(たてぶみ)を尊恵(そんゑ)にわたす。
尊恵(そんゑ)是(これ)をひらひ(ひらい)てみれば、[口+屈]請(くつしやう)、閻浮提(ゑんぶだい)大日本国(だいにつぽんごく)摂津国(せつつのくに)清澄寺(せいちようじ・せいてうじ)の慈心房尊恵(じしんばうそんゑ)、来(きたる)廿六日(にじふろくにち)閻魔(ゑんま)羅城(らじやう)大極殿(だいこくでん)にして、十万人(じふまんにん)の持経者(ぢきやうじや)をも(ッ)て、十万部(じふまんぶ)の法花経(ほけきやう)を転読(てんどく)せらるべきなり。仍(よつて)参勤(さんぎん)せらるべし。閻王宣(ゑんわうせん)によ(ッ)て、[口+屈]請(くつしやう)如件(くだんのごとし)。承安(しようあん・せうあん)二年(にねん)十二月(じふにぐわつ・じふに(ン)ぐわつ)廿二日(にじふににち)閻魔(ゑんま)の庁(ちやう)とぞかかれたる。尊恵(そんゑ)いなみ申(まうす)べき事(こと)ならねば、左右(さう)なう領状(りやうじやう)の請文(うけぶみ)をかひ(かい)てたてまつるとおぼえてさめにけり。
ひとへに死去(しきよ)のおもひをなして、院主(ゐんじゆ)の光影房(くわうやうばう)に此(この)事(こと)をかたる。皆(みな)人(ひと)奇特(きどく)のおもひをなす。尊恵(そんゑ)くちには弥陀(みだ)の名号(みやうがう)をとなへ、心(こころ)には引摂(いんぜふ・ゐんぜう)の悲願(ひぐわん)を念(ねん)ず。やうやう廿五日(にじふごにち)の夜陰(やいん・やゐん)に及(およん・をよん)で、常住(じやうぢゆう・じやうぢう)の仏前(ぶつぜん)にいたり、例(れい)のごとく脇息(けうそく)によりかか(ッ)て念仏(ねんぶつ)読経(どくきやう)す。子剋(ねのこく)に及(およん・をよん)で眠(ねぶり)切(せつ)なるが故(ゆゑ・ゆへ)に、住房(ぢゆうばう・ぢうばう)にかへ(ッ)てうちふす。丑剋(うしのこく)ばかりに、又(また)先(さき)のごとくに浄衣(じやうえ・じやうゑ)装束(しやうぞく)なる男(をとこ・おとこ)二人(ににん)来(きたつ)て、「はやはやまいら(まゐら)るべし」とすすむるあひだ、閻王宣(ゑんわうせん)を辞(じ)せんとすれば甚(はなはだ)其(その)恐(おそれ)あり、参詣(さんけい)せんとすれば更(さら)に衣鉢(ゑはち)なし。
此(この)おもひをなす時(とき)、法衣(ほふえ・ほうい)自然(しぜん)に身(み)にまと(ッ)て肩(かた)にかかり、天(てん)より金(こがね)の鉢(はち)くだる。二人(ににん)の童子(どうじ)、二人(ににん)の従僧(じゆうぞう・じうぞう)、十人(じふにん)の下僧(げそう)、七宝(しつぽう)の大車(だいしや)、寺坊(じばう)の前(まへ)に現(げん)ずる。尊恵(そんゑ)なのめならず悦(よろこび)て、即時(そくじ)に車(くるま)にのる。従僧等(じゆうぞうら・じうぞうら)西北(さいほく)の方(かた)にむか(ッ)て空(そら)をかけ(ッ)て、程(ほど)なく閻魔王宮(ゑんまわうぐう)にいたりぬ。王宮(わうぐう)の体(てい)を見(み)るに、外郭(ぐわいくわく)渺々(べうべう)として、其(その)内(うち)曠々(くわうくわう)たり。
其(その)内(うち)に七宝(しつぽう)所成(しよじやう)の大極殿(だいこくでん)あり。高広金色(かうくわうきんじき)にして、凡夫(ぼんぶ)のほむるところにあらず。其(その)日(ひ)の法会(ほふゑ・ほうゑ)をは(ッ)て後(のち)、請僧(しやうそう)みなかへる時(とき)、尊恵(そんゑ)南方(なんばう)の中門(ちゆうもん・ちうもん)に立(た・ッ)て、はるかに大極殿(だいこくでん)を見(み)わたせば、冥官(みやうくわん)冥衆(みやうしゆ)みな閻魔法王(ゑんまほふわう・ゑんまほうわう)の御前(ごぜん)にかしこまる。尊恵(そんゑ)「ありがたき参詣(さんけい)なり。此(この)次(ついで)に後生(ごしやう)の事(こと)尋(たづね)申(まう)さん」とて、大極殿(だいこくでん)へまいる(まゐる)。其(その)間(あひだ・あいだ)に二人(ににん)の童子(どうじ)蓋(かい)をさし、二人(ににん)の従僧(じゆうぞう・じゆぞう)箱(はこ)をもち、十人(じふにん)の下僧(げそう)列(れつ)をひいて、やうやうあゆみちかづく時(とき)、閻魔法王(ゑんまほふわう・ゑんまほうわう)、冥官(みやうくわん)冥衆(みやうしゆ)みなことごとくおりむかふ。
多聞(たもん)・持国(ぢこく)二人(ににん)〔の〕童子(どうじ)に現(げん)じ、薬王菩薩(やくわうぼさつ)・勇施菩薩(ゆぜぼさつ)二人(ににん)の従僧(じゆうぞう・じうぞう)に変(へん)ず。十羅刹女(じふらせつによ)十人(じふにん)の下僧(げそう)に現(げん)じて、随逐(ずいちく)給仕(きふじ・きうじ)し給(たま)へり。閻王(ゑんわう)問(とふ)ての給(たま)はく、「余僧(よそう)みな帰(かへ)りさんぬ。御房(ごぼう)来(きたる)事(こと)いかん」。「御生(ごしやう)の在所(ざいしよ)承(うけたま)はらん為(ため)なり」。「但(ただし)往生(わうじやう)不往生(ふわうじやう)は、人(ひと)の信不信(しんぷしん)にあり」と云々(うんぬん・うんうん)。閻王(ゑんわう)又(また)冥官(みやうくわん)に勅(ちよくし)ての給(たま)はく、「此(この)御房(ごばう)の作善(さぜん)のふばこ、南方(なんばう)の宝蔵(ほうざう)にあり。とり出(いだ)して一生(いつしやう)の行(ぎやう)、化他(けた)の碑文(ひもん)見(み)せ奉(たてま)つれ」。
冥官(みやうくわん)承(うけたま)は(ッ)て、南方(なんばう)の宝蔵(ほうざう)にゆいて、一(ひとつ)の文箱(ふばこ)をと(ッ)てまいり(まゐり)たり。良(やや)蓋(ふた)をひらいて是(これ)をことごとくよみきかす。尊恵(そんゑ)悲歎啼泣(ひたんていきう)して、「ただ願(ねがは)くは我(われ)を哀愍(あいみん)して出離生死(しゆつりしやうじ)の方法(はうぼふ・はうぼう)をおしへ(をしへ)、証大菩提(しようだいぼだい・しやうだいぼだい)の直道(ぢきだう)をしめし給(たま)へ」。其(その)時(とき)閻王(ゑんわう)哀愍教化(あいみんけうけ)して、種々(しゆじゆ)の偈(げ)を誦(じゆ)ず。冥官(みやうくわん)筆(ふで)を染(そめ)て一々(いちいち)に是(これ)をかく。
妻子王位財眷属(さいしわうゐざいけんぞく)死去無一来相親(しこむいちらいさうしん)常随業鬼繋縛我(じやうずいごふきけいばくが・じやうずいごうきけばくが)受苦叫喚無辺際(じゆくけうくわんむへんざい)
閻王(ゑんわう)此(この)偈(げ)を誦(じゆ)じをは(ッ)て、すなはち彼(かの)文(もん)を尊恵(そんゑ)に属(ぞく)す。尊恵(そんゑ)なのめならず悦(よろこび)て、「日本(につぽん)の平大相国(へいたいしやうこく)と申(まうす)人(ひと)、摂津国(せつつのくに)和多(わだ)の御崎(みさき)を点(てん)じて、四面(しめん)十(じふ)余町(よちやう)に屋(や)を作(つく)り、けふの十万僧会(じふまんそうゑ)のごとく、持経者(ぢきやうじや)をおほく[口+屈]請(くつしやう)じて、坊(ばう)ごとに一面(いちめん)に座(ざ)につき説法(せつぽふ・せつぽう)読経(どくきやう)丁寧(ていねい)に勤行(ごんぎやう)をいたされ候(さうらふ)」と申(まうし)ければ、閻王(ゑんわう)随喜感嘆(ずいきかんたん)して、「件(くだん)の入道(にふだう・にうだう)はただ人(びと)にあらず。慈恵僧正(じゑそうじやう)の化身(けしん)なり。天台(てんだい)の仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)護持(ごぢ)のために日本(につぽん)に再誕(さいたん)す。かるがゆへに(かるがゆゑに)、われ毎日(まいにち)に三度(さんど)彼(かの)人(ひと)を礼(らい)する文(もん)あり。すなはちこの文(ふみ)をも(ッ)て彼(かの)人(ひと)にたてまつるべし」とて、
敬礼慈恵大僧正(きやうらいじゑだいそうじやう)天台仏法擁護者(てんだいぶつぽふをうごしや・てんだいぶつぽうおうごしや)示現最初将軍身(じげんさいしよしやうぐんじん)悪業衆生同利益(あくごふしゆうじやうどうりやく・あくごうしゆじやうどうりやく)
尊恵(そんゑ)是(これ)を給(たま)は(ッ)て、大極殿(だいこくでん)の南方(なんばう)の中門(ちゆうもん・ちうもん)をいづる時(とき)、官士等(くわんじら)十人(じふにん)門外(もんぐわい)に立(た・ッ)て車(くるま)にのせ、前後(ぜんご)にしたがふ。又(また)空(そら)をかけ(ッ)て帰来(かへりきた)る。夢(ゆめ)の心(ここ)ちしていき出(いで)にけり。尊恵(そんゑ)是(これ)をも(ッ)て西八条(にしはつでう)へまいり(まゐり)、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)にまいらせ(まゐらせ)たりければ、なのめならず悦(よろこび)てやうやうにもてなし、さまざまの引出物共(ひきでものども)たうで、その勧賞(けんじやう)に律師(りつし)になされけるとぞきこえし。さてこそ清盛公(きよもりこう)をば慈恵僧正(じゑそうじやう)の再誕(さいたん)なりと、人(ひと)し(ッ)て(ン)げれ。 
祇園女御 (ぎをんにようご) 

 

又(また)ある人(ひと)の申(まうし)けるは、清盛(きよもり)者(は)忠盛(ただもり)が子(こ)にはあらず、まことには白河院(しらかはのゐん)の皇子(わうじ)なり。其(その)故(ゆゑ・ゆへ)は、去(さんぬ)る永久(えいきう・ゑいきう)の比(ころ)ほひ、祇園女御(ぎをんにようご)と聞(きこ)えしさいはひ人(びと)をはし(おはし)ける。件(くだん)の女房(にようばう)のすまひ所(どころ)は、東山(ひがしやま・ひ(ン)がしやま)のふもと、祇園(ぎをん)のほとりにてぞありける。白河院(しらかはのゐん)つねは御幸(ごかう)なりけり。ある時(とき)殿上人(てんじやうびと)一両人(いちりやうにん)、北面(ほくめん)少々(せうせう)めしぐして、しのびの御幸(ごかう)有(あり)しに、比(ころ)はさ月(つき)廿日(はつか)あまりのまだよひの事(こと)なれば、目(め)ざすともしらぬやみではあり、五月雨(さみだれ)さへかきくらし、まことにいぶせかりけるに、件(くだん)の女房(にようばう)の宿所(しゆくしよ)ちかく御堂(みだう)あり。
御堂(みだう)のかたはらにひかり物(もの)いできたり。かしらはしろかねのはりをみがきたてたるやうにきらめき、左右(さう)の手(て)とおぼしきをさしあげたるが、片手(かたて)にはつちのやうなるものをもち、片手(かたて)にはひかる物(もの)をぞも(ッ)たりける。君(きみ)も臣(しん)も「あなおそろし。是(これ)はまことの鬼(おに)とおぼゆる。手(て)にもてる物(もの)はきこゆるうちでのこづちなるべし。いかがせん」とさはが(さわが)せをはします(おはします)ところに、忠盛(ただもり)其(その)比(ころ)はいまだ北面(ほくめん)の下臈(げらふ・げらう)で供奉(ぐぶ)したりけるをめして、「此(この)中(うち)にはなんぢぞあるらん。あの物(もの)ゐ(い)もとどめ、きりもとどめなんや」と仰(おほせ)ければ、忠盛(ただもり)かしこまり承(うけたま)は(ッ)て行(ゆき)むかう(むかふ)。内々(ないない)おもひけるは、「此(この)もの、さしもたけき物(もの)とは見(み)ず。きつねたぬきな(ン)ど(など)にてぞ有(ある)らん。是(これ)をゐ(い)もころし、きりもころしたらんは、無下(むげ)に念(ねん)なかるべし。いけどりにせん」とおも(ッ)てあゆみよる。
とばかりあ(ッ)てはさ(ッ)とひかり、とばかりあ(ッ)てはさ(ッ)とひかり、二三度(にさんど)しけるを、忠盛(ただもり)はしりよ(ッ)て、むずとくむ。くまれて、「こはいかに」とさはぐ(さわぐ)。変化(へんげ)の物(もの)にてはなかりけり。はや人(ひと)にてぞ有(あり)ける。其(その)時(とき)上下(じやうげ)手々(てんで・て(ン)で)に火をともひ(ともい)て、是(これ)を御(ご)らんじ見(み)給(たまふ)に、六十(ろくじふ)ばかりの法師(ほふし・ほうし)なり。たとへば、御堂(みだう)の承仕(じようじ・ぜうじ)法師(ぼふし・ぼうし)でありけるが、御(み)あかしまいらせ(まゐらせ)んとて、手瓶(てがめ)といふ物(もの)に油(あぶら)を入(いれ)てもち、片手(かたて)にはかはらけに火(ひ)を入(いれ)てぞも(ッ)たりける。
雨(あめ)はゐ(い)にいてふる。ぬれじとて、かしらにはこむぎのわらを笠(かさ)のやうにひきむすふ(むすう)でかづひ(かづい)たり。かはらけの火(ひ)にこむぎのわらかかやいて、銀(ぎん)の針(はり)のやうには見(み)えけるなり。事(こと)の体(てい)一々(いちいち)にあらはれぬ。「これをゐ(い)もころし、きりもころしたらんは、いかに念(ねん)なからん。忠盛(ただもり)がふるまひやうにこそ思慮(しりよ)ふかけれ。弓矢(ゆみや)とる身(み)はやさしかりけり」とて、その勧賞(けんじやう)にさしも御最愛(ごさいあい)と聞(きこ)えし祇園女御(ぎをんにようご)を、忠盛(ただもり)にこそたうだりけれ。
さてかの女房(にようばう)、院(ゐん)の御子(みこ)をはらみたてまつりしかば、「うめらん子(こ)、女子(によし)ならば朕(ちん)が子(こ)にせん、男子(なんし)ならば忠盛(ただもり)が子(こ)にして弓矢(ゆみや)とる身(み)にしたてよ」と仰(おほせ)けるに、すなはち男(をとこ・おとこ)をうめり。此(この)事(こと)奏聞(そうもん)せんとうかがひけれ共(ども)、しかるべき便宜(びんぎ)もなかりけるに、ある時(とき)白河院(しらかはのゐん)、熊野(くまの)へ御幸(ごかう)なりけるが、紀伊国(きのくに)いとが坂(ざか)といふ所(ところ)に御輿(おんこし)かきすゑさせ、しばらく御休息(ごきうそく)有(あり)けり。やぶにぬか子(ご)のいくらも有(あり)けるを、忠盛(ただもり)袖(そで)にもりいれて、御前(ごぜん)へまいり(まゐり)、いもが子(こ)ははふ程(ほど)にこそなりにけれと申(まうし)たりければ、院(ゐん)やがて御心得(おんこころえ)あ(ッ)て、ただもりとりてやしなひにせよとぞつけさせましましける。
それよりしてこそ我(わが)子(こ)とはもてなしけれ。此(この)若君(わかぎみ)あまりに夜(よ)なきをし給(たま)ひければ、院(ゐん)きこしめされて、一首(いつしゆ)の御詠(ぎよえい・ぎよゑい)をあそばしてくだされけり。
よなきすとただもりたてよ末(すゑ)の代(よ)にきよくさかふることもこそあれ
さてこそ、清盛(きよもり)とはなのられけれ。十二(じふに)の歳(とし)兵衛佐(ひやうゑのすけ)になる。十八(じふはち)の年(とし)四品(しほん)して四位(しゐ)の兵衛佐(ひやうゑのすけ)と申(まうし)しを、子細(しさい)存知(ぞんぢ)せぬ人(ひと)は、「花族(くわそく)の人(ひと)こそかふ(かう)は」と申(まう)せば、鳥羽院(とばのゐん)しろしめされて、「清盛(きよもり)が花族(くわそく)は、人(ひと)におとらじ」とぞ仰(おほせ)ける。昔(むかし)も天智天皇(てんちてんわう)はらみ給(たま)へる女御(にようご)を大織冠(たいしよくくわん)にたまふとて、「此(この)女御(にようご)のうめらん子(こ)、女子(によし)ならば朕(ちん)が子(こ)にせん、男子(なんし)ならば臣(しん)が子(こ)にせよ」と仰(おほせ)けるに、すなはち男(をとこ・おとこ)をうみ給(たま)へり。
多武峯(たふのみね)の本願(ほんぐわん)定恵(ぢやうゑ)和尚(くわしやう・くはしやう)是(これ)なり。上代(じやうだい)にもかかるためしありければ、末代(まつだい)にも平大相国(へいたいしやうこく)、まことに白河院(しらかはのゐん)の御子(みこ)にてをはし(おはし)ければにや、さばかりの天下(てんが)の大事(だいじ)、都(みやこ)うつりな(ン)ど(など)いふたやすからぬことどもおもひたたれけるにこそ。同(おなじき)閏(うるふ)二月(にぐわつ・に(ン)ぐわつ)廿日(はつかのひ)、五条大納言(ごでうのだいなごん)国綱卿(くにつなのきやう)うせ給(たま)ひぬ。平大相国(へいたいしやうこく)とさしも契(ちぎり)ふかう、心(こころ)ざしあさからざりし人(ひと)なり。
せめての契(ちぎり)のふかさにや、同日(どうにち)に病(やまひ)つゐ(つい)て、同(おなじ)月(つき)にぞうせられける。此(この)大納言(だいなごん)と申(まうす)は、兼資(かねすけ)の中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)より八代(はちだい)の末葉(ばつえふ・ばつえう)、前右馬助(さきのうまのすけ)守国(もりくに)が子(こ)なり。蔵人(くらんど)にだにならず、進士(しんじ)雑色(ざつしき)とて候(さうら)はれしが、近衛院(こんゑのゐん)御在位(ございゐ)の時(とき)、仁平(にんぺい)の比(ころ)ほひ、内裏(だいり)に俄(にはかに)焼亡(ぜうまう)出(いで)きたり。主上(しゆしやう)南殿(なんでん)に出御(しゆつぎよ)有(あり)しか共(ども)、近衛司(こんゑづかさ)一人(いちにん)も参(さん)ぜられず。あきれてたたせをはしまし(おはしまし)たるところに、此(この)国綱(くにつな)要輿(えうよ・ようよ)をかかせてまいり(まゐり)、「か様(やう)の時(とき)は、かかる御輿(みこし)にこそめされ候(さうら)へ」と奏(そう)しければ、主上(しゆしやう)是(これ)にめして出御(しゆつぎよ)あり。
「何(なに)ものぞ」と御尋(おんたづね)ありければ、「進士(しんじ)の雑色(ざつしき)藤原国綱(ふぢはらのくにつな)」となのり申(まうす)。「かかるさかざかしき物(もの)こそあれ、めしつかはるべし」と、其(その)時(とき)の殿下(てんが)、法性寺殿(ほつしやうじどの)へ仰合(おほせあはせ)られければ、御領(ごりやう)あまたたびな(ン)ど(など)して、めしつかはれける程(ほど)に、おなじ御門(みかど)の御代(みよ)にやわた(やはた)へ行幸(ぎやうがう)ありしに、人丁(にんちやう)が酒(さけ)に酔(ゑひ・えひ)て水(みづ)にたふれ入(いり)、装束(しやうぞく)をぬらし、御神楽(みかぐら)に遅々(ちち)したりけるに、此(この)国綱(くにつな)「神妙(しんべう)にこそ候(さうら)はね共(ども)、人丁(にんちやう)が装束(しやうぞく)はもたせて候(さうらふ)」とて、一(いち)ぐとりいだされたりければ、是(これ)をきて御神楽(みかぐら)ととのへ奏(そう)しけり。程(ほど)こそすこしおしうつりたりけれども、歌(うた)の声(こゑ)もすみのぼり、舞(まひ)の袖(そで)、拍子(ひやうし)にあふ(あう)ておもしろかりけり。物(もの)の身(み)にしみて面白(おもしろき)事(こと)は、神(かみ)も人(ひと)もおなじ心(こころ)なり。
むかし天(あま)の岩戸(いはと)をおしひらかれけん神代(かみよ)のことわざまでも、今(いま)こそおぼしめししられけれ。やがてこの国綱(くにつな)の先祖(せんぞ)に、山陰(やまかげの)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)といふ人(ひと)をはし(おはし)き。其(その)子(こ)に助務僧都(じよむそうづ)とて、智恵才学(ちゑさいかく)身(み)にあまり、浄行持律(じやうぎやうぢりつ)の僧(そう)をはし(おはし)けり。昌泰(しやうたい)の比(ころ)ほひ、寛平(くわんぺいの)法皇(ほふわう・ほうわう)大井河(おほゐがは)へ御幸(ごかう)ありしに、勧修寺(くわんじゆじ)の内大臣(ないだいじん)高藤公(たかふじこう)の御子(おんこ)、泉(いづみ)の大将(だいしやう)貞国(さだくに)、小蔵山(をぐらやま)の嵐(あらし)に烏帽子(えぼし・ゑぼし)を河(かは)へ吹入(ふきいれ)られ、袖(そで)にてもとどりをおさへ、せんかたなうてた(ッ)たりけるに、此(この)助務僧都(じよむそうづ)、三衣箱(さんゑばこ)の中(なか)より烏帽子(えぼし・ゑぼし)ひとつとり出(いだ)されたりけるとかや。
かの僧都(そうづ)は、父(ちち)山陰(やまかげの)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)、太宰大弐(ださいのたいに)にな(ッ)て鎮西(ちんぜい)へくだられける時(とき)、二歳(にさい)なりしを、継母(けいぼ)にくんで、あからさまにいだくやうにして海(うみ)におとし入(いれ)、ころさんとしけるを、しににけるまことの母(はは)、存生(ぞんじやう)の時(とき)、かつらのうがひが鵜(う)の餌(ゑ)にせんとて、亀(かめ)をと(ッ)てころさんとしけるを、き給(たま)へる小袖(こそで)をぬぎ、亀(かめ)にかへ、はなされたりしが、其(その)恩(おん・をん)を報(ほう)ぜんと、此(この)きみおとし入(いれ)ける水(みづ)のうへにうかれ来(き)て、甲(かふ・かう)にのせてぞたすけたりける。それは上代(じやうだい)の事(こと)なればいかがありけん、末代(まつだい)に国綱卿(くにつなのきやう)の高名(かうみやう)ありがたかりし事共(ことども)也(なり)。法性寺殿(ほつしやうじどの)の御世(みよ)に中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)になる。
法性寺殿(ほつしやうじどの)かくれさせ給(たまひ)て後(のち)、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)存(ぞん)ずる旨(むね)ありとて、此(この)人(ひと)にかたらひより給(たま)へり。大福長者(だいふくちやうじや)にておはしければ、何(なに)にてもかならず毎日(まいにち)に一種(いつしゆ)をば、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)のもとへをくら(おくら)れけり。「現世(げんぜ)のとくひ(とくい)、この人(ひと)に過(すぐ)べからず」とて、子息(しそく)一人(いちにん)養子(やうじ)にして、清国(きよくに)となのらせ、又(また)入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)の四男(しなん)頭(とうの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)重衡(しげひら)は、かの大納言(だいなごん)の聟(むこ)になる。治承(ぢしよう・ぢせう)四年(しねん)の五節(ごせつ)は福原(ふくはら)にておこなはれけるに、殿上人(てんじやうびと)、中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)の御方(おんかた)へ推参(すいさん)あ(ッ)しが、或(ある)雲客(うんかく)の「竹(たけ)湘浦(しやうほ)に斑(まだら)なり」といふ朗詠(らうえい・らうゑい)をせられたりければ、此(この)大納言(だいなごん)立聞(たちぎき)して、「あなあさまし、是(これ)は禁忌(きんき)とこそ承(うけたま)はれ。
かかる事(こと)きくともきかじ」とて、ぬきあししてにげ出(いで・いだ)られぬ。たとへば、此(この)朗詠(らうえい・らうゑい)の心(こころ)は、昔(むかし)(げう)の御門(みかど)に二人(ににん)の姫宮(ひめみや)ましましき。姉(あね)をば娥黄(がくわう)といひ、妹(いもうと)をば女英(じよゑい)といふ。ともに舜(しゆん)の御門(みかど)の后(きさき)なり。舜(しゆん)の御門(みかど)かくれ給(たま)ひて、彼(かの)蒼梧(さうご)の野(の)べへをくり(おくり)たてまつり、煙(けぶり)となし奉(たてまつ)る時(とき)、二人(ににん)のきさき名残(なごり)をおしみ(をしみ)奉(たてまつ)り、湘浦(しやうほ)といふ所(ところ)までしたひつつなきかなしみ給(たま)ひしに、その涙(なみだ)岸(きし)の竹(たけ)にかか(ッ)て、まだらにぞそみたりける。
其(その)後(のち)もつねは彼(かの)所(ところ)にをはし(おはし)て、瑟(こと)をひいてなぐさみ給(たま)へり。今(いま)かの所(ところ)を見(み)るなれば、岸(きし)の竹(たけ)は斑(まだら)にてたてり。琴(こと)を調(しら)べし跡(あと)には雲(くも)たなびいて、物(もの)あはれなる心(こころ)を、橘相公(きつしやうこう)の賦(ふ)に作(つく)れるなり。此(この)大納言(だいなごん)は、させる文才(もんざい)詩歌(しいか・し(イ)か)うるはしうはをはせ(おはせ)ざりしか共(ども)、かかるさかざかしき人(ひと)にて、かやうの事(こと)までも聞(きき)とがめられけるにこそ。此(この)人(ひと)大納言(だいなごん)まではおもひもよらざりしを、母(はは)うへ賀茂大明神(かものだいみやうじん)に歩(あゆみ)をはこび、「ねがはくは我(わが)子(こ)の国綱(くにつな)一日(いちにち)でもさぶらへ、蔵人頭(くらんどのとう)へさせ給(たま)へ」と、百日(ひやくにち)肝胆(かんたん)をくだいて祈(いのり)申(まう)されけるが、ある夜(よ)の夢(ゆめ)に、びりやうの車(くるま)をゐて来(き)て、我(わが)家(いへ)の車(くるま)よせにたつといふ夢(ゆめ)を見(み)て、是(これ)人(ひと)にかたり給(たま)へば、「それは公卿(くぎやう)の北方(きたのかた)にならせ給(たま)ふべきにこそ」とあはせたりければ、「我(わが)年(とし)すでに闌(たけ)たり。
今更(いまさら)さ様(やう)のふるまひあるべし共(とも)おぼえず」との給(たま)ひけるが、御子(おんこ)の国綱(くにつな)、蔵人頭(くらんどのとう)は事(こと)もよろし、正(じやう)二位(にゐ)大納言(だいなごん)にあがり給(たま)ふこそ目出(めでた)けれ。同(おなじき)廿二日(にじふににち)、法皇(ほふわう・ほうわう)は院(ゐん)の御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの・ほうぢうじどの)へ御幸(ごかう)なる。かの御所(ごしよ)は去(さんぬ)る応保(おうほう)三年(さんねん)四月(しぐわつ)十五日(じふごにち)につくり出(いだ)されて、新比叡(いまびえ・いまびゑ)・新熊野(いまぐまの)な(ン)ど(など)もまぢかう勧請(くわんじやう)し奉(たてまつ)り、山水(せんずい)木立(こだち)にいたるまでおぼしめすさまなりしが、此(この)二三年(にさんねん)は平家(へいけ)の悪行(あくぎやう)によ(ッ)て御幸(ごかう)もならず。御所(ごしよ)の破壊(はゑ)したるを修理(しゆり)して、御幸(ごかう)なし奉(たてまつる)べきよし、前右大将(さきのうだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)奏(そう)せられたりければ、「なんのやうもあるべからず。ただとうとう」とて御幸(ごかう)なる。
まづ故建春門院(こけんしゆんもんゐん)の御方(おんかた)を御(ご)らんずれば、岸(きし)の松(まつ)、汀(みぎは)の柳(やなぎ)、年(とし)へにけりとおぼえて、木(こ)だかくなれるにつけても、太腋(たいゑき)の芙蓉(ふよう)、未央(びやう・びえう)の柳(やなぎ)、これにむかふにいかんがなんだすすまざらん。彼(かの)南内西宮(なんだいせいくう)のむかしの跡(あと)、今(いま)こそおぼしめししられけれ。三月(さんぐわつ)一日(ひとひのひ)、南都(なんと)の僧綱等(そうがうら)本官(ほんぐわん)に覆(ふく)して、末寺庄園(まつじしやうゑん)もとの如(ごと)く知行(ちぎやう)すべきよし仰下(おほせくだ)さる。同(おなじき)三日(みつかのひ)、大仏殿(だいぶつでん)作(つく)りはじめらる。事始(ことはじめ)の奉行(ぶぎやう)には、蔵人(くらんど)左少弁(させうべん)行隆(ゆきたか)とぞきこえし。此(この)行隆(ゆきたか)、先年(せんねん)やわた(やはた)へまいり(まゐり)、通夜(つや)せられたりける夢(ゆめ)に、御宝殿(ごほうでん)の内(うち)よりびんづらゆうたる天童(てんどう)のいでて、「是(これ)は大菩薩(だいぼさつ・だいばさつ)の使(つかひ)なり。
大仏殿(だいぶつでん)奉行(ぶぎやう)の時(とき)は、是(これ)をもつべし」とて、笏(しやく)を給(たま)はるといふ夢(ゆめ)を見(み)て、さめて後(のち)見(み)給(たま)へば、うつつにありけり。「あなふしぎ、当時(たうじ)何事(なにごと)あ(ッ)てか大仏殿(だいぶつでん)奉行(ぶぎやう)にまいる(まゐる)べき」とて、懐中(くわいちゆう・くわいちう)して宿所(しゆくしよ)へ帰(かへ)り、ふかうおさめ(をさめ)てをか(おか)れたりけるが、平家(へいけ)の悪行(あくぎやう)によ(ッ)て南都炎上(なんとえんしやう)の間(あひだ・あいだ)、此(この)行隆(ゆきたか)、弁(べん)のなかにゑらば(えらば)れて、事始(ことはじめ)の奉行(ぶぎやう)にまいら(まゐら)れける宿縁(しゆくえん)の程(ほど)こそ目出(めでた)けれ。同(おなじき)三月(さんぐわつ)十日(とをかのひ)、美乃国(みののくに)の目代(もくだい)、都(みやこ)へ早馬(はやむま)をも(ッ)て申(まうし)けるは、東国(とうごくの)源氏共(げんじども)すでに尾張国(をはりのくに・おはりのくに)までせめのぼり、道(みち)をふさぎ、人(ひと)をとをさ(とほさ)ぬよし申(まうし)たりければ、やがて打手(うつて)をさしつかはす。
大将軍(たいしやうぐん)には、左兵衛督(さひやうゑのかみ)知盛(とももり)、左中将(さちゆうじやう・さちうじやう)清経(きよつね)、小松少将(こまつのせうしやう)有盛(ありもり)、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)三万余騎(さんまんよき)で発向(はつかう)す。入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)うせ給(たまひ)て後(のち)、わづかに五旬(ごしゆん)をだにも過(すぎ)ざるに、さこそみだれたる世(よ)といひながら、あさましかりし事(こと)どもなり。源氏(げんじ)の方(かた)には、大将軍(たいしやうぐん)十郎(じふらうの)蔵人(くらんど)行家(ゆきいへ)、兵衛佐(ひやうゑのすけ)のおとと卿公(きやうのきみ)義円(ぎゑん)、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)六千余騎(ろくせんよき)、〔尾〕張川(をはりがは・おはりがは)をなかにへだてて、源平(げんぺい)両方(りやうばう)に陣(ぢん)をとる。同(おなじき)十六日(じふろくにち)の夜半(やはん)ばかり、源氏(げんじ)の勢(せい)六千余騎(ろくせんよき)川(かは)をわたいて、平家(へいけ)三万余騎(さんまんよき)が中(なか)へおめひ(をめい)てかけ入(いり)、明(あく)れば十七日(じふしちにち)、寅(とら)の剋(こく)より矢合(やあはせ)して、夜(よ)の明(あくる)までたたかう(たたかふ)に、平家(へいけ)のかたにはち(ッ)ともさはが(さわが)ず。「敵(てき)は川(かは)をわたひ(わたい)たれば、馬(むま)もののぐもみなぬれたるぞ。
それをしるしでうてや」とて、大勢(おほぜい)のなかにとりこめて、「あますな、もらすな」とてせめ給(たま)へば、源氏(げんじ)の勢(せい)のこりずくなに打(うち)なされ、大将軍(たいしやうぐん)行家(ゆきいへ)、からき命(いのち)いきて、川(かは)よりひ(ン)がしへひきしりぞく。卿公(きやうのきみ)義円(ぎゑん)はふか入(いり)してうたれにけり。平家(へいけ)やがて川(かは)をわたひ(わたい)て、源氏(げんじ)を追物射(おいものい・おいものゐ)にゐ(い)てゆく。源氏(げんじ)あそこここでかへしあはせかへし合(あは)せふせきけれ共(ども)、敵(てき)は大勢(おほぜい)、みかたは無勢(ぶせい)なり。かなふべしとも見(み)えざりけり。「水駅(すいゑき)をうしろにする事(こと)なかれとこそいふに、今度(こんど)の源氏(げんじ)のはかりことおろかなり」とぞ人(ひと)申(まうし)ける。さる程(ほど)に、大将軍(たいしやうぐん)十郎(じふらうの)蔵人(くらんど)行家(ゆきいへ)、参河国(みかはのくに)にうちこえて、やはぎ川(がは)の橋(はし)をひき、かひだて(かいだて)かひ(かい)て待(まち)かけたり。
平家(へいけ)やがて押寄(おしよせ・をしよせ)せめ給(たま)へば、こらへずして、そこをも又(また)せめおとされぬ。平家(へいけ)やがてつづいてせめ給(たま)はば、参川(みかは)・遠江(とほたふみ・とをとうみ)の勢(せい)は随(したがひ)つくべかりしに、大将軍(たいしやうぐん)左兵衛督(さひやうゑのかみ)知盛(とももり)いたはりあ(ッ)て、参河国(みかはのくに)より帰(かへ)りのぼらる。今度(こんど)もわづかに一陣(いちぢん)を破(やぶ)るといへ共(ども)、残党(ざんたう・ざんとう)をせめねば、しいだしたる事(こと)なきが如(ごと)し。
平家(へいけ)は、去々年(きよきよねん)小松(こまつ)のおとど薨(こう)ぜられぬ。今年(ことし)又(また)入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)うせ給(たま)ひぬ。運命(うんめい)の末(すゑ)になる事(こと)あらはなりしかば、年来(としごろ)恩顧(おんこ・をんこ)の輩(ともがら)の外(ほか)は、随(したが)ひ〔つ〕く物(もの)なかりけり。東国(とうごく)には草(くさ)も木(き)もみな源氏(げんじ)にぞなびきける。 
嗄声 (しはがれごゑ) 

 

さる程(ほど)に、越後国(ゑちごのくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)、城(じやうの)太郎(たらう)助長(すけなが)、越後守(ゑちごのかみ)に任(にん)ずる朝恩(てうおん・てうをん)のかたじけなさに、木曾(きそ)追討(ついたう)のために、都合(つがふ・つがう)三万余騎(さんまんよき)、同(おなじき)六月(ろくぐわつ)十五日(じふごにち)門出(かどいで・かどで)して、あくる十六日(じふろくにち)の卯剋(うのこく)にすでにう(ッ)たたんとしけるに、夜半(やはん)ばかり、俄(にはか)に大風(おほかぜ)吹(ふき)、大雨(おほあめ)くだり、雷(いかづち)おびたたしうな(ッ)て、天(てん)霽(はれ)て後(のち)、雲井(くもゐ)に大(おほき)なる声(こゑ)のしはがれたるをも(ッ)て、「南閻浮提(なんゑんぶだい)金銅(こんどう)十六(じふろく)丈(じやう)の盧遮那仏(るしやなぶつ)、やきほろぼしたてまつる平家(へいけ)のかたうどする物(もの)ここにあり。
めしとれや」と、三声(みこゑ)さけんでぞとをり(とほり)ける。城太郎(じやうのたらう)をはじめとして、是(これ)をきく物(もの)みな身(み)の毛(け)よだちけり。郎等(らうどう)ども「是(これ)程(ほど)おそろしひ(おそろしい)天(てん)の告(つげ)の候(さうらふ)に、ただ理(り)をまげてとどまらせ給(たま)へ」と申(まうし)けれ共(ども)、「弓矢(ゆみや)とる物(もの)の、それによるべき様(やう)なし」とて、あくる十六日(じふろくにち)卯剋(うのこく)に城(しろ)をいでて、わづかに十(じふ)余町(よちやう)ぞゆいたりける。黒雲(くろくも)一(ひと)むら立来(たちき)て、助長(すけなが)がうへにおほふとこそ見(み)えけれ、俄(にはか)に身(み)すくみ心(こころ)ほれて落馬(らくば)して(ン)げり。
輿(こし)にかきのせ、館(たち)へ帰(かへ)り、うちふす事(こと)三時(みとき)ばかりして遂(つひ・つい)に死(しに)にけり。飛脚(ひきやく)をも(ッ)て此(この)由(よし)都(みやこ)へ申(まうし)たりければ、平家(へいけ)の人々(ひとびと)大(おほき)にさはが(さわが)れけり。同(おなじき)七月(しちぐわつ)十四日(じふしにち)、改元(かいげん)あ(ッ)て養和(やうわ)と号(かう)す。其(その)日(ひ)筑後守(ちくごのかみ)貞能(さだよし)、筑前(ちくぜん)・〔肥〕後(ひご)両国(りやうごく)を給(たま)は(ッ)て、鎮西(ちんぜい)の謀叛(むほん)たひらげに西国(さいこく)へ発向(はつかう)す。其(その)日(ひ)又(また)非常(ひじやう)〔の〕大赦(だいしや)おこなはれて、去(さんぬ)る治承(ぢしよう・ぢせう)三年(さんねん)にながされ給(たま)ひし人々(ひとびと)みなめしかへさる。
松殿(まつどの)入道(にふだう・にうだう)殿下(てんが)、備前国(びぜんのくに)より御上洛(ごしやうらく)、太政大臣(だいじやうだいじん)妙音院(めうおんゐん・めうをんゐん)、尾張国(をはりのくに・おはりのくに)よりのぼらせ給(たまふ)。按察(あぜつの)大納言(だいなごん)資方卿(すけかたのきやう)、信乃国(しなののくに)より帰洛(きらく)とぞ聞(きこ)えし。同(おなじき)廿八日(にじふはちにち)、妙音院殿(めうおんゐんどの・めうをんゐんどの)御院参(ごゐんざん)。去(さんぬ)る長寛(ちやうぐわん)の帰洛(きらく)には、御前(ごぜん)の簀子(すのこ)にして、賀王恩(がわうおん)・還城楽(げんじやうらく)をひかせ給(たまひ)しに、養和(やうわ)の今(いま)の帰京(ききやう)には、仙洞(せんとう)にして秋風楽(しうふうらく)をぞあそばしける。いづれもいづれも風情(ふぜい)おり(をり)をおぼしめしよらせ給(たまひ)けん、御心(おんこころ)の程(ほど)こそめでたけれ。
按察(あぜつの)大納言(だいなごん)資方卿(すけかたのきやう)も其(その)日(ひ)院参(ゐんざん)せらる。法皇(ほふわう・ほうわう)「いかにや、夢(ゆめ)の様(やう)にこそおぼしめせ。ならはぬひなのすまひして、詠曲(えいきよく・ゑいきよく)な(ン)ど(など)も今(いま)はあとかたあらじとおぼしめせ共(ども)、今様(いまやう)一(ひとつ)あらばや」と仰(おほせ)ければ、大納言(だいなごん)拍子(ひやうし)と(ッ)て、「信乃(しなの)にあんなる木曾路河(きそぢがは)」といふ今様(いまやう)を、是(これ)は見(み)給(たま)ひたりしあひだ、「信乃(しなの)に有(あり)し木曾路河(きそぢがは)」とうたはれけるぞ、時(とき)にと(ッ)ての高名(かうめい)なる。 
横田河原合戦 (よこたがはらのかつせん) 

 

八月(はちぐわつ)七日(なぬかのひ)、官(くわん)の庁(ちやう)にて大仁王会(だいにんわうゑ)おこなはる。これは将門(まさかど)追討(ついたう)の例(れい)とぞ聞(きこ)えし。九月(くぐわつ)一日(ひとひのひ)、純友(すみとも)追討(ついたう)の例(れい)とて、くろがねの鎧甲(よろひかぶと)を伊勢大神宮(いせだいじんぐう)へまいらせ(まゐらせ)らる。勅使(ちよくし)は祭主神祇(さいしゆじんぎ)の権大副(ごんのたいふ)大中臣定高(おほなかとみのさだたか)、都(みやこ)をた(ッ)て近江国(あふみのくに)甲賀(かうが)の駅(ゑき)よりやまひつき、伊勢(いせ)の離宮(りきゆう・りきう)にして死(しに)にけり。謀叛(むほん)の輩(ともがら)調伏(てうぶく)の為(ため)に、五壇法(ごだんのほふ・ごだんのほう)承(うけたま)は(ッ)ておこなはれける降三世(がうざんぜ)の大阿闍梨(だいあじやり)、大行事(だいぎやうじ)の彼岸所(ひがんじよ)にしてね死(じに)にし(ン)ぬ。
神明(しんめい)も三宝(さんぽう)も御納受(ごなふじゆ・ごなうじゆ)なしといふ事(こと)いちじるし。又(また)大元(たいげんの)法(ほふ・ほう)承(うけたま)は(ッ)て修(しゆ)せられける安祥寺(あんじやうじ)の実玄阿闍梨(じつげんあじやり)が御巻数(ごくわんじゆ)を進(まゐらせ・まいらせ)たりけるを、披見(ひけん)せられければ、平氏(へいじ)調伏(てうぶく)のよし注進(ちうしん)したりけるぞおそろしき。「こはいかに」と仰(おほせ)ければ、「朝敵(てうてき)調伏(てうぶく)せよと仰下(おほせくだ)さる。当世(たうせい)の体(てい)を見(み)候(さうらふ)に、平家(へいけ)も(ッ)ぱら朝敵(てうてき)と見(み)え給(たま)へり。仍(よつて)是(これ)を調伏(てうぶく)す。何(なに)のとがや候(さうらふ)べき」とぞ申(まうし)ける。
「此(この)法師(ほふし・ほうし)奇怪(きくわい・き(ツ)くわい)也(なり)。死罪(しざい)か流罪(るざい)か」と有(あり)しが、大小事(たいせうじ)の怱劇(そうげき)にうちまぎれて、其(その)後(のち)沙汰(さた)もなかりけり。源氏(げんじ)の代(よ)とな(ッ)て後(のち)、鎌倉殿(かまくらどの)「神妙(しんべう)なり」と感(かん)じおぼしめして、その勧賞(けんじやう)に大僧正(だいそうじやう)になされけるとぞ聞(きこ)えし。同(おなじき)十二月(じふにぐわつ・じふに(ン)ぐわつ)廿四日(にじふしにち)、中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)院号(ゐんがう)かうぶらせ給(たま)ひて、建礼門院(けいれいもんゐん)とぞ申(まうし)ける。いまだ幼主(えうしゆ・ようしゆ)の御時(おんとき)、母后(ぼこう)の院号(ゐんがう)是(これ)はじめとぞ承(うけたま)はる。さる程(ほど)に、養和(ようわ)も二年(にねん)になりにけり。二月(にぐわつ・に(ン)ぐわつ)廿一日(にじふいちにち)、太白(たいはく)昴星(ばうせい)ををかす。天文要録(てんもんえうろく・てんもんようろく)に云(いはく)、「太白(たいはく)昴星(ばうせい)を侵(をか・おか)せば、四夷(しい)おこる」といへり。
又(また)「将軍(しやうぐん)勅命(ちよくめい)を蒙(かうぶり)て、国(くに)のさかひをいづ」共(とも)みえたり。三月(さんぐわつ)十日(とをかのひ)、除目(ぢもく)おこなはれて、平家(へいけ)の人々(ひとびと)大略(たいりやく)官(くわん)加階(かかい)し給(たま)ふ。四月(しぐわつ・し(ン)ぐわつ)十日(とをかのひ)、前権少僧都(さきのごんせうそうづ)顕真(けんしん)、日吉社(ひよしのやしろ)にして如法(によほふ・によほう)に法花経(ほけきやう)一万部(いちまんぶ)転読(てんどく)する事(こと)有(あり)けり。御結縁(ごけちえん)の為(ため)に法皇(ほふわう・ほうわう)も御幸(ごかう)なる。何(なに)ものの申出(まうしいだ)したりけるやらん、一院(いちゐん)山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)に仰(おほせ)て、平家(へいけ)を追討(ついたう)せらるべしときこえし程(ほど)に、軍兵(ぐんびやう)内裏(だいり)へ参(まゐり・まいり)て四方(しはう)の陣頭(ぢんどう)を警固(けいご)す。
平氏(へいじ)の一類(いちるい)みな六波羅(ろくはら)へ馳集(はせあつま)る。本三位(ほんざんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)、法皇(ほふわう・ほうわう)の御(おん)むかへに、其(その)勢(せい)三千余騎(さんぜんよき)で、日吉(ひよし)の社(やしろ)へ参向(さんがう)す。山門(さんもん)に又(また)聞(きこ)えけるは、平家(へいけ)山(やま)せめんとて、数百騎(すひやくき)の勢(せい)を卒(そつ)して登山(とうざん)すと聞(きこ)えしかば、大衆(だいしゆ)みな東坂本(ひがしざかもと・ひ(ン)がしざかもと)におり下(くだ・ッ)て、「こはいかに」と僉議(せんぎ)す。山上(さんじやう)洛中(らくちゆう・らくちう)の騒動(さうどう・さうだう)なのめならず。供奉(ぐぶ)の公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)色(いろ)をうしなひ、北面(ほくめん)のもののなかにはあまりにあはて(あわて)さはひ(さわい)で、黄水(わうずい)つく物(もの)おほかりけり。
本三位(ほんざんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)、穴太(あなふ)の辺(へん)にて法皇(ほふわう・ほうわう)むかへとりまいらせ(まゐらせ)て、還御(くわんぎよ)なし奉(たてまつ)る。「かくのみあらんには、御物(おんもの)まうでな(ン)ど(など)も、今(いま)は御心(おんこころ)にまかすまじき事(こと)やらん」とぞ仰(おほせ)ける。まことには、山門大衆(さんもんだいしゆ)平家(へいけ)を追討(ついたう)せんといふ事(こと)もなし。平家(へいけ)山(やま)せめんといふ事(こと)もなし。是(これ)跡形(あとかた)なき事共(ことども)なり。「天魔(てんま)のよくあれたるにこそ」とぞ人(ひと)申(まうし)ける。同(おなじき)四月(しぐわつ)廿日(はつかのひ)、臨時(りんじ)に廿二(にじふに)社(しや)に官幣(くわんべい)あり。是(これ)は飢饉(ききん)疾疫(しつやく)によ(ッ)てなり。五月(ごぐわつ)廿四日(にじふしにち)、改元(かいげん)あ(ッ)て寿永(じゆえい・じゆゑい)と号(かう)す。
其(その)日(ひ)又(また)越後国(ゑちごのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)城(じやう)の四郎(しらう)助茂(すけしげ)、越後守(ゑちごのかみ)に任(にん)ず。兄(あに)助長(すけなが)逝去(せいきよ)の間(あひだ・あいだ)、不吉(ふきつ)なりとて頻(しきり)に辞(じ)し申(まうし)けれ共(ども)、勅命(ちよくめい)なればちから不及(およばず・をよばず)。助茂(すけしげ)を長茂(ながしげ)と改名(かいみやう)す。同(おなじき)九月(くぐわつ)二日(ふつかのひ)、城(じやうの)四郎(しらう)長茂(ながしげ)、木曾(きそ)追討(ついたう)の為(ため)に、越後(ゑちご)・出羽(では)、相津(あひづ)四郡(しぐん)の兵共(つはものども)を引卒(いんぞつ・ゐんぞつ)して、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)四万余騎(しまんよき)、木曾(きそ)追討(ついたう)の為(ため)に信乃国(しなののくに)へ発向(はつかう)す。同(おなじき)九日(ここのかのひ)、当国(たうごく)横田河原(よこたがはら)に陣(ぢん)をとる。木曾(きそ)は依田城(よだのじやう)に有(あり)けるが、是(これ)をきひ(きい)て依田城(よだのじやう)をいでて、三千余騎(さんぜんよき)で馳向(はせむかふ)。
信乃源氏(しなのげんじ)、井上(ゐのうへの)九郎(くらう)光盛(みつもり)がはかり事(こと)〔に〕、にはかに赤旗(あかはた)を七(なな)ながれつくり、三千余騎(さんぜんよき)を七手(ななて)にわかち、あそこの峯(みね)、ここの洞(ほら)より、あかはたども手々(てんで・て(ン)で)にさしあげてよせければ、城(じやう)の四郎(しらう)是(これ)を見(み)て、「あはや、此(この)国(くに)にも平家(へいけ)のかたうどする人(ひと)ありけりと、ちからつきぬ」とて、いさみののしるところに、次第(しだい)〔に〕ちかうなりければ、あひ図(づ)をさだめて、七手(ななて)がひとつになり、一度(いちど)に時(とき)をど(ッ)とぞ作(つくり)ける。用意(ようい)したる白旗(しらはた)ざ(ッ)とさしあげたり。越後(ゑちご)の勢共(せいども)是(これ)を見(み)て、「敵(てき)なん十万騎(じふまんぎ)有(ある)らん。いかがせん」といろをうしなひ、あはて(あわて)ふためき、或(あるい・ある)は川(かは)にお(ッ)ぱめられ、或(あるい・あるひ)は悪所(あくしよ)におとされて、たすかるものはすくなう、うたるるものぞおほかりける。城(じやうの)四郎(しらう)がたのみき(ッ)たる越後(ゑちご)の山(やま)の太郎(たらう)、相津(あひづ・あいづ)の乗丹房(じようたんばう・ぜうたんばう)な(ン)ど(など)いふきこゆる兵共(つはものども)、そこにてみなうたれぬ。
我(わが)身(み)手(て)おひ、からき命(いのち)いきつつ、川(かは)につたうて越後国(ゑちごのくに)へ引(ひき)しりぞく。同(おなじき)十六日(じふろくにち)、都(みやこ)には平家(へいけ)是(これ)をば事(こと)共(とも)し給(たま)はず、前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)、大納言(だいなごん)に還着(くわんぢやく・くわんちやく)して、十月(じふぐわつ)三日(みつかのひ)内大臣(ないだいじん)になり給(たま)ふ。同(おなじき)七日(なぬかのひ)悦申(よろこびまうし)あり。当家(たうけ)の公卿(くぎやう)十二人(じふににん)扈従(こしよう・こせう)せらる。蔵人頭(くらんどのとう)以下(いげ)の殿上人(てんじやうびと)十六人(じふろくにん)前駆(せんぐ)す。東国(とうごく)北国(ほつこく)の源氏共(げんじども)蜂(はち)のごとくに起(おこり・をこり)あひ、ただいま都(みやこ)へせめのぼらんとするに、か様(やう)に浪(なみ)のたつやらん、風(かぜ)の吹(ふく)やらんもしらぬ体(てい)にて、花(はな)やかなりし事共(ことども)、中々(なかなか)いふかひなうぞ見(み)えたりける。さる程(ほど)に、寿永(じゆえい・じゆゑい)二年(にねん)になりけり。節会(せちゑ)以下(いげ)常(つね)のごとし。
内弁(ないべん)をば平家(へいけ)の内大臣(ないだいじん)宗盛公(むねもりこう)つとめらる。正月(しやうぐわつ)六日(むゆかのひ)、主上(しゆしやう)朝覲(てうきん)の為(ため)に、院(ゑんの)御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの・ほうぢうじどの)へ行幸(ぎやうがう)なる。鳥羽院(とばのゐん)六歳(ろくさい)にて、朝覲(てうきん)行幸(ぎやうがう)、其(その)例(れい)とぞきこえし。二月(にぐわつ)廿二日(にじふににち)、宗盛公(むねもりこう)従(じゆ)一位(いちゐ)し給(たま)ふ。やがて其(その)日(ひ)内大臣(ないだいじん)をば上表(じやうへう)せらる。兵乱(ひやうらん)つつしみのゆへ(ゆゑ)とぞきこえし。南都(なんと)北嶺(ほくれい)の大衆(だいしゆ)、熊野(くまの)金峯山(きんぶうぜん・きんぶ(ウ)ぜん)の僧徒(そうと)、伊勢大神宮(いせだいじんぐう)の祭主(さいしゆ)神官(じんぐわん)にいたるまで、一向(いつかう)平家(へいけ)をそむひ(そむい)て、源氏(げんじ)に心(こころ)をかよはしける。四方(しはう)に宣旨(せんじ)をなしくだし、諸国(しよこく)に院宣(ゐんぜん)をつかはせども、院宣(ゐんぜん)宣旨(せんじ)もみな平家(へいけ)の下知(げぢ)とのみ心得(こころえ)て、したがひつくものなかりけり。 
 
平家物語 巻七

 

清水冠者 (しみづのくわんじや) 
寿永(じゆえい・じゆゑい)二年(にねん)三月(さんぐわつ)上旬(じやうじゆん)に、兵衛佐(ひやうゑのすけ)と木曾(きその)冠者(くわんじや)義仲(よしなか)不快(ふくわい)の事(こと)ありけり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)木曾(きそ)追討(ついたう)のために、其(その)勢(せい)十万余騎(じふまんよき)で信濃国(しなののくに)へ発向(はつかう)す。木曾(きそ)は依田(よだ)の城(じやう)にありけるが、是(これ)をきいて依田(よだ)の城(じやう)を出(いで)て、信濃(しなの)と越後(ゑちご)の境(さかひ)、熊坂山(くまさかやま)に陣(ぢん)をとる。兵衛佐(ひやうゑのすけ)は同(おなじ)き国(くに)善光寺(ぜんくわうじ)に着(つき)給(たま)ふ。木曾(きそ)乳母子(めのとご)の今井(いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)を使者(ししや)で、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の許(もと)へつかはす。「いかなる子細(しさい)のあれば、義仲(よしなか)うたんとはの給(たま)ふなるぞ。御辺(ごへん)は東八ケ国(とうはつかこく)をうちしたがへて、東海道(とうかいだう)より攻(せめ)のぼり、平家(へいけ)を追(おひ)おとさんとし給(たま)ふなり。
義仲(よしなか)も東山(とうせん)・北陸(ほくろく)両道(りやうだう)をしたがへて、今(いま)一日(いちにち)もさきに、平家(へいけ)を攻(せめ)おとさんとする事(こと)でこそあれ。なんのゆへ(ゆゑ)に御辺(ごへん)と義仲(よしなか)と中(なか)をたがふ(たがう)て、平家(へいけ)にわらはれんとは思(おも)ふべき。但(ただし)十郎(じふらう)蔵人殿(くらんどどの)こそ御辺(ごへん)をうらむる事(こと)ありとて、義仲(よしなか)が許(もと)へおはしたるを、義仲(よしなか)さへすげなうもてなし申(まう)さん事(こと)、いかんぞや候(さうら)へば、うちつれ申(まうし)たり。ま(ッ)たく義仲(よしなか)にをいて(おいて)は、御辺(ごへん)に意趣(いしゆ)おもひ奉(たてまつ)らず」といひつかはす。兵衛佐(ひやうゑのすけ)の返事(へんじ)には、「今(いま)こそさ様(やう)にはの給(たま)へども、慥(たしか)に頼朝(よりとも)討(うつ)べきよし、謀反(むほん)のくはたてありと申(まうす)者(もの)あり。
それにはよるべからず」とて、土肥(とひ・とい)・梶原(かぢはら)をさきとして、既(すで)に討手(うつて)をさしむけらるる由(よし)聞(きこ)えしかば、木曾(きそ)真実(しんじつ)意趣(いしゆ)なきよしをあらはさんがために、嫡子(ちやくし)清水(しみづ)の冠者(くわんじや)義重(よししげ)とて、生年(しやうねん)十一(じふいつ)歳(さい)になる小冠者(こくわんじや)に、海野(うんの)・望月(もちづき)・諏方(すは)・藤沢(ふぢさは)な(ン)ど(など)いふ、聞(きこ)ゆる兵共(つはものども)をつけて、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の許(もと)へつかはす。兵衛佐(ひやうゑのすけ)「此(この)上(うへ)はまことに意趣(いしゆ)なかりけり。頼朝(よりとも)いまだ成人(せいじん)の子(こ)をもたず。よしよし、さらば子(こ)にし申(まう)さん」とて、清水冠者(しみづのくわんじや)を相具(あひぐ)して、鎌倉(かまくら)へこそ帰(かへ)られけれ。 
北国下向 (ほつこくげかう) 

 

さる程(ほど)に、木曾(きそ)、東山(とうせん)・北陸(ほくろく)両道(りやうだう)をしたがへて、五万余騎(ごまんよき)の勢(せい)にて、既(すで)に京(きやう)へせめのぼるよし聞(きこ)えしかば、平家(へいけ)はこぞよりして、「明年(みやうねん)は馬(むま)の草(くさ)がひについて、いくさあるべし」と披露(ひろう)せられたりければ、山陰(さんおん・さんをん)・山陽(せんやう)・南海(なんかい)・西海(さいかい)の兵共(つはものども)、雲霞(うんか)のごとくに馳(はせ)まいる(まゐる)。東山道(とうせんだう)は近江(あふみ)・美濃(みの)・飛騨(ひだ)の兵共(つはものども)はまいり(まゐり)たれ共(ども)、東海道(とうかいだう)は遠江(とほたふみ・とをたうみ)より東(ひがし)はまいら(まゐら)ず、西(にし)は皆(みな)まいり(まゐり)たり。
北陸道(ほくろくだう)は若狭(わかさ)より北(きた)の兵共(つはものども)一人(いちにん)もまいら(まゐら)ず。まづ木曾(きその)冠者(くわんじや)義仲(よしなか)を追討(ついたう・つゐたう)して、其(その)後(のち)兵衛佐(ひやうゑのすけ)を討(うた)んとて、北陸道(ほくろくだう)へ討手(うつて)をつかはす。
大将軍(たいしやうぐん)には小松(こまつの)三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)維盛(これもり)・越前(ゑちぜんの)三位(さんみ)通盛(みちもり)・但馬守(たじまのかみ)経正(つねまさ)・薩摩守(さつまのかみ)忠教(ただのり)・三河守(みかはのかみ)知教(とものり)・淡路守(あはぢのかみ)清房(きよふさ)、侍大将(さぶらひだいしやう)には越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)前司(せんじ)盛俊(もりとし)・上総(かづさの)大夫(たいふの・たゆふの)判官(はんぐわん)忠綱(ただつな)・飛騨(ひだの)大夫(たいふの・たゆふの)判官(はんぐわん)景高(かげたか)・高橋(たかはしの)判官(はんぐわん)長綱(ながつな)・河内(かはちの)判官(はんぐわん)秀国(ひでくに)・武蔵(むさしの)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)有国(ありくに)・越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)盛嗣(もりつぎ)・上総(かづさの)五郎兵衛(ごらうびやうゑ)忠光(ただみつ)・悪(あく)七兵衛(しつびやうゑ)景清(かげきよ)を先(さき)として、以上(いじやう)大将軍(たいしやうぐん)六人(ろくにん)、しかるべき侍(さぶらひ)三百四十(さんびやくしじふ)余人(よにん)、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)十万余騎(じふまんよき)、寿永(じゆえい・じゆゑい)二年(にねん)四月(しぐわつ)十七日(じふしちにち)辰(たつの)一点(いつてん)に都(みやこ)を立(たち)て、北国(ほつこく)へこそおもむきけれ。
かた道(みち)を給(たま)は(ッ)て(ン)げれば、逢坂(あふさか)の関(せき)よりはじめて、路子(ろし)にも(ッ)てあふ権門(けんもん)勢家(せいか)の正税(しやうぜい)、官物(くわんもつ)をもおそれず、一々(いちいち)にみなうばひとり、志賀(しが)・辛崎(からさき)・三ツ河尻(みつかはじり)・真野(まの)・高島(たかしま)・塩津(しほつ)・貝津(かひづ・かいづ)の道(みち)のほとりを次第(しだい)に追補(ついふく)してとおり(とほり)ければ、人民(にんみん)こらへずして、山野(さんや)にみな逃散(でうさん)す。 
竹生島詣 (ちくぶしままふで) 

 

大将軍(たいしやうぐん)維盛(これもり)・通盛(みちもり)はすすみ給(たま)へ共(ども)、副将軍(ふくしやうぐん)経正(つねまさ)・知教(とものり)・清房(きよふさ)な(ン)ど(など)は、いまだ近江国(あふみのくに)塩津(しほつ)・貝津(かひづ・かいづ)にひかへたり。其(その)なかにも、経正(つねまさ)は詩歌(しいか)管絃(くわんげん・くわ(ン)げん)に長(ちやう)じ給(たま)へる人(ひと)なれば、かかるみだれのなかにも心(こころ)をすまし、湖(みづうみ)のはたに打出(うちいで)て、遥(はるか)に奥(おき)なる島(しま)をみわたし、供(とも)に具(ぐ)せられたる藤兵衛(とうびやうゑ)有教(ありのり)をめして、「あれをばいづくといふぞ」ととはれければ、「あれこそ聞(きこ)え候(さうらふ)竹生島(ちくぶしま)にて候(さうら)へ」と申(まうす)。
「げにさる事(こと)あり。いざやまいら(まゐら)ん」とて、藤兵衛(とうびやうゑ)有教(ありのり)、安衛門(あんゑもん)守教(もりのり)以下(いげ)、侍(さぶらひ)五六人(ごろくにん)めし具(ぐ)して、小船(こぶね)にのり、竹生島(ちくぶしま)へぞわたられける。比(ころ)は卯月(うづき)中(なか)の八日(やうか)の事(こと)なれば、緑(みどり)にみゆる梢(こずゑ)には春(はる)のなさけをのこすかとおぼえ、澗谷(かんこく)の鴬舌(あうぜつ・わうぜつ)声(こゑ)老(おい・おひ)て、初音(はつね)ゆかしき郭公(ほととぎす)、おりしりがほ(をりしりがほ)につげわたる。まことにおもしろかりければ、いそぎ船(ふね)よりおり、岸(きし)にあが(ッ)て、此(この)島(しま)の景気(けいき)を見(み)給(たま)ふに、心(こころ)も詞(ことば)もをよば(およば)れず。彼(かの)秦皇(しんくわう)、漢武(かんぶ・かんぷ)、或(あるいは・あるひは)童男(どうなん)丱女(くわぢよ)をつかはし、或(あるいは・あるひは)方士(はうじ)をして不死(ふし)の薬(くすり)を尋(たづね)給(たま)ひしに、「蓬莱(ほうらい)をみずは、いなや帰(かへ)らじ」とい(ッ)て、徒(いたづら)に船(ふね)のうちにて老(おい)、天水(てんすい)茫々(ばうばう)として求(もとむる)事(こと)をえざりけん蓬莱洞(ほうらいどう)の有様(ありさま)も、かくやありけんとぞみえし。
或(ある)経(きやう)の中(なか)に、「閻浮提(えんぶだい)のうちに湖(みづうみ)あり、其(その)なかに金輪際(こんりんざい)よりおひ出(いで)たる水精輪(すいしやうりん)の山(やま)あり。天女(てんによ)すむ所(ところ)」といへり。則(すなはち)此(この)島(しま)の事(こと)也(なり)。経正(つねまさ)明神(みやうじん)の御(おん)まへについゐ給(たま)ひつつ、「夫(それ)大弁功徳天(だいべんくどくてん)は往古(わうご)の如来(によらい)、法身(ほつしん)の大士(だいじ)也(なり)。弁才(べんざい)妙音(めうおん・めうをん)二天(にてん)の名(な)は各別(かくべつ)なりといへ共(ども)、本地(ほんぢ)一体(いつたい)にして衆生(しゆじやう)を済度(さいど)し給(たま)ふ。一度(いちど)参詣(さんけい)の輩(ともがら)は、所願(しよぐわん)成就(じやうじゆ)円満(ゑんまん)すと承(うけたま)はる。
たのもしうこそ候(さうら)へ」とて、しばらく法施(ほつせ)まいらせ(まゐらせ)給(たま)ふに、やうやう日(ひ)暮(くれ)、ゐ待(まち)の月(つき)さし出(いで)て、海上(かいしやう)も照(てり)わたり、社壇(しやだん)も弥(いよいよ)かかやきて、まことにおもしろかりければ、常住(じやうぢゆう・じやうぢう)の僧共(そうども)「きこゆる御事(おんこと)也(なり)」とて、御琵琶(おんびは・おんびわ)をまいらせ(まゐらせ)たりければ、経正(つねまさ)是(これ)をひき給(たま)ふに、上玄(しやうげん)石上(せきしやう)の秘曲(ひきよく)には、宮(みや)のうちもすみわたり、明神(みやうじん)感応(かんおう)にたへずして、経正(つねまさ)の袖(そで)のうへに白竜(びやくりゆう・びやくりう)現(げん)じてみえ給(たま)へり。忝(かたじけな)くうれしさのあまりに、なくなくかうぞ思(おも)ひつづけ給(たま)ふ。
千(ち)はやふる神(かみ)にいのりのかなへばやしるくも色(いろ)のあらはれにける
されば怨敵(をんでき)を目前(めのまへ)にたひらげ、凶徒(きようど・けうど)を只今(ただいま)せめおとさん事(こと)の、疑(うたがひ)なしと悦(よろこん)で、又(また)船(ふね)にとりの(ッ)て、竹生島(ちくぶしま)をぞ出(いで)られける。 
火打合戦 (ひうちがつせん) 

 

木曾義仲(きそよしなか)身(み)がらは信濃(しなの)にありながら、越前国(ゑちぜんのくに)火打(ひうち)が城(じやう)をぞかまへける。彼(かの)城郭(じやうくわく・じやうくはく)にこもる勢(せい)、平泉寺(へいせんじの)長吏(ちやうり)斎明(さいめい)威儀師(ゐぎし)・稲津(いなづの)新介(しんすけ)・斎藤太(さいとうだ)・林(はやしの)六郎(ろくらう)光明(みつあきら)・富樫(とがし)入道(にふだう・にうだう)仏誓(ぶつせい)・土田(つちだ)・武部(たけべ)・宮崎(みやざき)・石黒(いしぐろ)・入善(にふぜん・にうぜん)・佐美(さみ)を初(はじめ)として、六千余騎(ろくせんよき)こそこもりけれ。もとより究竟(くつきやう)の城郭(じやうくわく)也(なり)。盤石(ばんじやく)峙(そばだ)ちめぐ(ッ)て四方(しはう)に峯(みね)をつらねたり。山(やま)をうしろにし、山(やま)をまへにあつ。城郭(じやうくわく)の前(まへ)には能美河(のうみがは)・新道河(しんだうがは)とて流(ながれ)たり。
二(ふたつ)の河(かは)の落(おち)あひにおほ木(ぎ)をき(ッ)てさかもぎにひき、しがらみををびたたしう(おびたたしう)かきあげたれば、東西(とうざい)の山(やま)の根(ね)に水(みづ)さしこうで、水海(みづうみ)にむかへるが如(ごと)し。影(かげ)南山(なんざん)を浸(ひた)して青(あをく)して晃漾(くわうやう)たり。浪(なみ)西日(せいじつ)をしづめて紅(くれなゐ)にして隠淪(いんりん・ゐんりん)たり。彼(かの)無熱池(むねつち)の底(そこ)には金銀(こんごん)〔の砂(いさご)〕をしき、昆明池(こんめいち)の渚(なぎさ)にはとくせいの船(ふね)を浮(うか)べたり。此(この)火打(ひうち)が城(じやう)のつき池(いけ)には、堤(つつみ)をつき、水(みづ)をにごして、人(ひと)の心(こころ)をたぶらかす。船(ふね)なくして輙(たやす)うわたすべき様(やう)なかりければ、平家(へいけ)の大勢(おほぜい)むかへの山(やま)に宿(しゆく)して、徒(いたづら)に日数(ひかず)ををくる(おくる)。城(じやう)の内(うち)にありける平泉寺(へいせんじ)の長吏(ちやうり)斎明(さいめい)威儀師(ゐぎし)、平家(へいけ)に志(こころざし)ふかかりければ、山(やま)の根(ね)をまは(ッ)て、消息(せうそく)をかき、ひき目(め)のなかに入(いれ)て、忍(しのび)やかに平家(へいけ)の陣(ぢん)へぞ射(い・ゐ)入(いれ)たる。「彼(かの)水(みづ)うみは往古(わうご)の淵(ふち)にあらず。
一旦(いつたん)山河(やまがは)をせきあげて候(さうらふ)。夜(よ)に入(いり)足(あし)がろ共(ども)をつかはして、しがらみをきりおとさせ給(たま)へ。水(みづ)は程(ほど)なくおつべし。馬(むま)の足(あし)ききよい所(ところ)で候(さうら)へば、いそぎわたさせ給(たま)へ。うしろ矢(や)は射(い・ゐ)てまいらせ(まゐらせ)ん。是(これ)は平泉寺(へいせんじ)の長吏(ちやうり)斎明(さいめい)威儀師(ゐぎし)が申状(まうしじやう・まうしでう)」とぞかひ(かい)たりける。
大将軍(たいしやうぐん)大(おほき)に悦(よろこび)、やがて足(あし)がる共(ども)をつかはして柵(しがらみ)をきりおとす。飫(おびたたし)うみえつれ共(ども)、げにも山川(やまがは)なれば水(みづ)は程(ほど)なく落(おち)にけり。平家(へいけ)の大勢(おほぜい)、しばしの遅々(ちち)にも及(およ・をよ)ばず、ざ(ッ)とわたす。城(じやう)の内(うち)の兵共(つはものども)、し(ン)ばし(しばし)ささへてふせきけれ共(ども)、敵(てき)は大勢(おほぜい)也(なり)、み方(かた)は無勢(ぶせい)也(なり)ければ、かなう(かなふ)べしともみえざりけり。
平泉寺(へいせんじの)長吏(ちやうり)斎明(さいめい)威儀師(ゐぎし)、平家(へいけ)について忠(ちゆう・ちう)をいたす。稲津(いなづの)新介(しんすけ)・斎藤太(さいとうだ)・林(はやしの)六郎(ろくらう)光明(みつあきら)・富樫(とがし)入道(にふだう・にうだう)仏誓(ぶつせい)、ここをば落(おち)て、猶(なほ・なを)平家(へいけ)をそむき、加賀国(かがのくに)へ引退(ひきしりぞ)き、白山(しらやま)・河内(かはち)にひ(ッ)こもる。平家(へいけ)やがて加賀(かが)に打越(うちこえ)て、林(はやし)・富樫(とがし)が城郭(じやうくわく)二ケ所(にかしよ)焼(やき)はらふ。なに面(おもて)をむかふべしとも見(み)えざりけり。ちかき宿々(しゆくじゆく)より飛脚(ひきやく)をたてて、此(この)由(よし)都(みやこ)へ申(まうし)たりければ、大臣殿(おほいとの)以下(いげ)残(のこ)りとどまり給(たま)ふ一門(いちもん)の人々(ひとびと)いさみ悦(よろこぶ)事(こと)なのめならず。同(おなじき)五月(ごぐわつ)八日(やうか)、加賀国(かがのくに)しの原(はら)にて勢(せい)ぞろへあり。
軍兵(ぐんびやう)十万余騎(じふまんよき)を二手(ふたて)にわか(ッ)て、大手(おほて)搦手(からめで)へむかはれけり。大手(おほて)の大将軍(たいしやうぐん)は小松(こまつの)三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)維盛(これもり)・越前(ゑちぜんの)三位(さんみ)通盛(みちもり)、侍大将(さぶらひだいしやう)には越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)前司(せんじ)盛俊(もりとし)をはじめとして、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)七万余騎(しちまんよき)、加賀(かが)と越中(ゑつちゆう・ゑつちう)の境(さかひ)なる砥浪山(となみやま)へぞむかはれける。搦手(からめで)の大将軍(たいしやうぐん)は薩摩守(さつまのかみ)忠教(ただのり)・参河守(みかはのかみ)知教(とものり)、侍大将(さぶらひだいしやう)には武蔵(むさしの)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)を先(さき)として、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)三万余騎(さんまんよき)、能登(のと)越中(ゑつちゆう・ゑつちう)の境(さかひ)なるしほの山(やま)へぞかかられける。
木曾(きそ)は越後(ゑちご)の国府(こふ)にありけるが、是(これ)をきいて五万余騎(ごまんよき)で馳向(はせむか)ふ。わがいくさの吉例(きちれい)なればとて七手(ななて)に作(つく)る。まづ伯父(をぢ・おぢ)の十郎(じふらう)蔵人(くらんど)行家(ゆきいへ)、一万騎(いちまんぎ)でしほの手(て)へぞ向(むかひ)ける。仁科(にしな)・高梨(たかなし)・山田(やまだの)次郎(じらう)、七千余騎(しちせんよき)で北黒坂(きたぐろさか)へ搦手(からめで)にさしつかはす。樋口(ひぐちの)次郎(じらう)兼光(かねみつ)・落合(おちあひの)五郎(ごらう)兼行(かねゆき)、七千余騎(しちせんよき)で南黒坂(みなみぐろさか)へつかはしけり。一万余騎(いちまんよき)をば砥浪山(となみやま)の口(くち)、黒坂(くろさか)のすそ、松長(まつなが)の柳原(やなぎはら)、ぐみの木林(きばやし・き(ン)ばやし)にひきかくす。
今井(いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)六千余騎(ろくせんよき)で鷲(わし)の瀬(せ)を打(うち)わたし、ひの宮林(みやばやし)に陣(ぢん)をとる。木曾(きそ)我(わが)身(み)は一万余騎(いちまんよき)でおやべのわたりをして、砥浪山(となみやま)の北(きた)のはづれはにう(はにふ)に陣(ぢん)をぞと(ッ)たりける。 
願書 (ぐわんじよ) 

 

木曾(きそ)の給(たま)ひけるは、「平家(へいけ)は定(さだめ)て大勢(おほぜい)なれば、砥浪山(となみやま)打越(うちこ)え、ひろみへ出(いで)て、かけあひのいくさにてぞあらんずらん。但(ただし)かけあひのいくさは勢(せい)の多少(たせう)による事(こと)也(なり)。大勢(おほぜい)かさにかけてはあしかりなん。まづ旗(はた)さしを先(さき)だてて白旗(しらはた)をさしあげたらば、平家(へいけ)是(これ)を見(み)て、「あはや源氏(げんじ)の先陣(せんぢん)はむかふ(むかう)たるは。定(さだめ)て大勢(おほぜい)にてぞあるらむ。左右(さう)なう広(ひろ)みへうち出(いで)て、敵(てき)は案内者(あんないしや)、我等(われら)は無案内(ぶあんない)也(なり)、とりこめられては叶(かなふ)まじ。此(この)山(やま)は四方(しはう)巌石(がんぜき)であんなれば、搦手(からめで)よもまはらじ。しばしおりゐて馬(むま)休(やすめ)ん」とて、山中(さんちゆう・さんちう)にぞおりゐんずらん。其(その)時(とき)義仲(よしなか)しばしあひしらふやうにもてなして、日をまちくらし、平家(へいけ)の大勢(おほぜい)をくりからが谷(たに)へ追(おひ)おとさうど思(おも)ふなり」とて、まづ白旗(しらはた)三十(さんじふ)ながれ先(さき)だてて、黒坂(くろさか)のうへにぞう(ッ)たてたる。
案(あん)のごとく、平家(へいけ)是(これ)をみて、「あはや、源氏(げんじ)の先陣(せんぢん)はむかふ(むかう)たるは。定(さだめ)て大勢(おほぜい)なるらん。左右(さう)なう広(ひろ)みへ打出(うちいで)なば、敵(てき)は案内者(あんないしや)、我等(われら)は無案内(ぶあんない)也(なり)、とりこめられてはあしかりなん。此(この)山(やま)は四方(しはう)巌石(がんぜき)であん也(なり)。搦手(からめで)よもまはらじ。馬(むま)の草(くさ)がい(くさがひ)水便(すいびん)共(とも)によげなり。しばしおりゐて馬(むま)やすめん」とて、砥浪山(となみやま)の山中(やまなか)、猿(さる)の馬場(ばば)といふ所(ところ)にぞおりゐたる。木曾(きそ)は羽丹生(はにふ)に陣(ぢん)と(ッ)て、四方(しはう)をき(ッ)とみまはせば、夏山(なつやま)の嶺(みね)のみどりの木(こ)の間(ま)より、あけの玉墻(たまがき)ほの見(み)えて、かたそぎ作(づく)りの社(やしろ)あり。
前(まへ)に鳥居(とりゐ)ぞた(ッ)たりける。木曾殿(きそどの)国(くに)の案内者(あんないしや)をめして、「あれはいづれの宮(みや)と申(まうす)ぞ。いかなる神(かみ)を崇(あがめ)奉(たてまつ)るぞ」。「八幡(やはた)でましまし候(さうらふ)。やがて此(この)所(ところ)は八幡(やはた)の御領(ごりやう)で候(さうらふ)」と申(まうす)。木曾(きそ)大(おほき)に悦(よろこび)て、手書(てかき)に具(ぐ)せられたる大夫房(たいふばう)覚明(かくめい)をめして、「義仲(よしなか)こそ幸(さいはひ)に新(いま)やはたの御宝殿(ごほうでん)に近付(ちかづき)奉(たてまつり)て、合戦(かつせん)をとげんとすれ。いかさまにも今度(こんど)のいくさには相違(さうい)なく勝(かち)ぬとおぼゆるぞ。さらんにと(ッ)ては、且(かつ・かつ(ウ))は後代(こうたい)のため、且(かつ・かつ(ウ))は当時(たうじ)の祈祷(きたう)にも、願書(ぐわんじよ)を一筆(ひとふで)かいてまいらせ(まゐらせ)ばやと思(おも)ふはいかに」。
覚明(かくめい)「尤(もつと)もしかるべう候(さうらふ)」とて、馬(むま)よりおりてかかんとす。覚明(かくめい)が体(てい)たらく、かちの直垂(ひたたれ)に黒革威(くろかはをどし・くろかはおどし)の鎧(よろひ)きて、黒漆(こくしつ)の太刀(たち)をはき、廿四(にじふし)さいたるくろぼろの矢(や)おい(おひ)、ぬりごめ藤(どう)の弓(ゆみ)、脇(わき)にはさみ、甲(かぶと)をばぬぎ、たかひもにかけ、えびらより小硯(こすずり)たたう紙(がみ)とり出(いだ)し、木曾殿(きそどの)の御前(おんまへ)に畏(かしこまつ)て願書(ぐわんじよ)をかく。あ(ッ)ぱれ文武(ぶんぷ)二道(じだう)の達者(たつしや)かなとぞみえたりける。此(この)覚明(かくめい)はもと儒家(じゆけ)の者(もの)也(なり)。蔵人(くらんど)道広(みちひろ)とて、勧学院(くわんがくゐん)にありけるが、出家(しゆつけ)して最乗房(さいじようばう・さいぜうばう)信救(しんぎう)とぞ名(な)のりける。
つねは南都(なんと)へも通(かよ)ひけり。高倉宮(たかくらのみや)の園城寺(をんじやうじ)にいらせ給(たま)ひし時(とき)、牒状(てふじやう・てうでう)を山(やま)・奈良(なら)へつかはしたりけるに、南都(なんと)の大衆(だいしゆ)返牒(へんでふ・へんでう)をば此(この)信救(しんぎう)にぞかかせたりける。「清盛(きよもり)は平氏(へいじ)の糟糠(さうかう)、武家(ぶけ)の塵芥(ちんがい)」とかいたりしを、太政(だいじやう)入道(にふだう・にうだう)大(おほき)にいか(ッ)て、「其(その)信救法師(しんぎうほつし)めが、浄海(じやうかい)を平氏(へいじ)のぬかかす、武家(ぶけ)のちりあくたとかくべき様(やう)はいかに。其(その)法師(ほつし)めからめと(ッ)て死罪(しざい)におこなへ」との給(たま)ふ間(あひだ・あいだ)、南都(なんと)をば逃(にげ)て、北国(ほつこく)へ落下(おちくだり)、木曾殿(きそどの)の手書(てかき)して、大夫房(たいふばう)覚明(かくめい)とぞ名(な)のりける。
其(その)願書(ぐわんじよ)に云(いはく)、帰命頂礼(きみやうちやうらい)、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)は日域(じちいき)朝廷(てうてい)の本主(ほんじゆ)、累世明君(るいせいめいくん)の曩祖(なうそ・のうそ)也(なり)。宝祚(ほうそ)を守(まも)らんがため、蒼生(さうせい)を利(り)せんがために、三身(さんじん)の金容(きんよう)をあらはし、三所(さんじよ)の権扉(けんぴ)をおしひらき給(たま)へり。爰(ここ)に頃ノ(しきんの)年(とし)よりこのかた、平相国(へいしやうこく)といふ者(もの)あり。四海(しかい)を管領(くわんりやう)して万民(ばんみん)を悩乱(なうらん)せしむ。是(これ)既(すでに)仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)の怨(あた)、王法(わうぼふ・わうぼう)の敵(てき)也(なり)。義仲(よしなか)いやしくも弓馬(きゆうば・きうば)の家(いへ)に生(むまれ)て、纔(わづか)に箕裘(ききう)の塵(ちり)をつぐ。彼(かの)暴悪(ぼうあく)を案(あん)ずるに、思慮(しりよ)を顧(かへりみる・カエリミル)にあたはず。運(うん)天道(てんたう)にまかせて、身(み)を国家(こつか)になぐ。
試(こころみ)に義兵(ぎへい)をおこして、凶器(きようき・けうき)を退(しりぞけ)んとす。しかるを闘戦(たうせん)両家(りやうけ)の陣(ぢん)をあはすといへ共(ども)、士卒(しそつ)いまだ一致(いつち)の勇(いさみ)をえざる間(あひだ・あいだ)、区(まちまち)の心(こころ)おそれたる処(ところ)に、今(いま)一陣(いちぢん)旗(はた)をあぐる戦場(せんぢやう)にして、忽(たちまち)に三所(さんじよ)和光(わくわう)の社壇(しやだん)を拝(はい)す。機感(きかん)の純熟(じゆんじゆく)明(あきら)かなり。凶徒(きようど・けうど)誅戮(ちゆうりく・ちうりく)疑(うたがひ)なし。歓喜(くわんぎ)涙(なんだ)こぼれて、渇仰(かつがう)肝(きも)にそむ。就中(なかんづく)、曾祖父(ぞうそぶ)前(さきの)陸奥守(むつのかみ)義家(ぎかの)朝臣(あそん・あ(ツ)そん)、身(み)を宗廟(そうべう)の氏族(しぞく)に帰附(きふ)して、名(な)を八幡太郎(はちまんたらう)と号(かう)せしよりこのかた、門葉(もんえふ・もんよう)たる者(もの)帰敬(ききやう)せずといふ事(こと)なし。
義仲(よしなか)其(その)後胤(こういん・こうゐん)として首(かうべ)を傾(かたぶけ)て年(とし)久(ひさ)し。今(いま)此(この)大功(たいこう)を発(おこ)す事(こと)、たとへば嬰児(えいじ・ゑいじ)の貝(かい)をも(ッ)て巨海(きよかい)を量(はか)り、蟷螂(たうらう)の斧(をの)をいからかして隆車(りゆうしや・りうしや)に向(むかふ)が如(ごと)し。然(しか)れども国(くに)のため、君(きみ)のためにしてこれを発(おこ・をこ)す。家(いへ)のため、身(み)のためにしてこれををこさ(おこさ)ず。心(こころ)ざしの至(いたり)、神感(しんかん)そらにあり。憑(たのもしき)哉(かな)、悦(よろこばしき)哉(かな)。伏(ふして)願(ねがは)くは、冥顕(みやうけん)威(ゐ)をくはへ、霊神(れいしん)力(ちから)をあはせて、勝(かつ)事(こと)を一時(いつし)に決(けつ)し、怨(あた)を四方(しはう)に退(しりぞけ)給(たま)へ。然(しかれば)則(すなはち)、丹祈(たんき)冥慮(みやうりよ)にかなひ、見鑒(けんかん)加護(かご)をなすべく(ン)ば、先(まづ)一(ひとつ)の瑞相(ずいざう)を見(み)せしめ給(たま)へ。寿永(じゆえい・じゆゑい)二年(にねん)五月(ごぐわつ)十一日(じふいちにち)源(みなもとの)義仲(よしなか)敬(うやまつて)白(まうす)とかいて、我(わが)身(み)をはじめて十三人(じふさんにん)が、うは矢(や)をぬき、願書(ぐわんじよ)にとり具(ぐ)して、大菩薩(だいぼさつ)の御宝殿(ごほうでん)にこそおさめ(をさめ)けれ。
たのもしきかな、大菩薩(だいぼさつ)真実(しんじつ)の志(こころざし)ふたつなきをや遥(はるか)に照覧(せうらん)し給(たま)ひけん。雲(くも)のなかより山鳩(やまばと)三(みつ)飛来(とびきたつ)て、源氏(げんじ)の白旗(しらはた)の上(うへ)に翩翻(へんばん)す。昔(むかし)神宮皇后(じんぐうくわうこう)新羅(しんら)を攻(せめ)させ給(たま)ひしに、御方(みかた)のたたかひよはく(よわく)、異国(いこく)のいくさこはくして、既(すで)にかうとみえし時(とき)、皇后(くわうごう)天(てん)に御祈誓(ごきせい)ありしかば、霊鳩(れいきう)三(みつ)飛来(とびきたつ)て楯(たて)の面(おも)にあらはれて、異国(いこく)のいくさ破(やぶれ)にけり。又(また)此(この)人々(ひとびと)の先祖(せんぞ)、頼義(らいぎの)朝臣(あそん・あつそん)、貞任(さだたふ・さだたう)・宗任(むねたふ・むねたう)を攻(せめ)給(たま)ひしにも、御方(みかた)のたたかひよはく(よわく)して、凶徒(きようど・けうど)のいくさこはかりしかば、頼義(らいぎの)朝臣(あそん・あつそん)敵(てき)の陣(ぢん)にむか(ッ)て、「是(これ)はま(ッ)たく私(わたくし)の火(ひ)にはあらず、神火(しんくわ)なり」とて、火(ひ)を放(はな)つ。風(かぜ)忽(たちまち)に異賊(いぞく)の方(かた)へ吹(ふき)おほひ、貞任(さだたふ・さだたう)が館(たち)栗屋河(くりやがは)の城(じやう)焼(やけ)ぬ。其(その)後(のち)いくさ破(やぶれ)て、貞任(さだたふ・さだたう)・宗任(むねたふ・むねたう)ほろびにき。木曾殿(きそどの)か様(やう)の先蹤(せんじよう・せんぜう)を忘(わす)れ給(たま)はず、馬(むま)よりおり、甲(かぶと)をぬぎ、手水(てうづ・てうず)うがひをして、いま霊鳩(れいきう)を拝(はい)し給(たま)ひけん心(こころ)のうちこそたのもしけれ。 
倶利迦羅落 (くりからおとし) 

 

さる程(ほど)に、源平(げんぺい)両方(りやうばう)陣(ぢん)をあはす。陣(ぢん)のあはひわづかに三町(さんぢやう)ばかりによせあはせたり。源氏(げんじ)もすすまず、平家(へいけ)もすすまず。勢兵(せいびやう)十五騎(じふごき)、楯(たて)の面(おも)にすすませて、十五騎(じふごき)がうは矢(や)の鏑(かぶら)を平家(へいけ)の陣(ぢん)へぞ射(い・ゐ)入(いれ)たる。平家(へいけ)又(また)はかり事(こと)共(とも)しらず、十五騎(じふごき)を出(いだ)いて、十五(じふご)の鏑(かぶら)を射(い・ゐ)かへす。源氏(げんじ)卅騎(さんじつき)を出(いだ)いて射(い・ゐ)さすれば、平家(へいけ)卅騎(さんじつき)を出(いだ)いて卅(さんじふ)の鏑(かぶら)を射(い)かへす。
五十騎(ごじつき)を出(いだ)せば五十騎(ごじつき)を出(いだ)しあはせ、百騎(ひやくき)を出(いだ)せば百騎(ひやくき)を出(いだ)しあはせ、両方(りやうばう)百騎(ひやくき)づつ陣(ぢん)の面(おもて)にすすんだり。互(たがひ)に勝負(しようぶ・せうぶ)をせんとはやりけれども、源氏(げんじ)の方(かた)よりせいして勝負(しようぶ・せうぶ)をせさせず。源氏(げんじ)は加様(かやう)にして日(ひ)をくらし、平家(へいけ)の大勢(おほぜい)をくりからが谷(たに)へ追(おひ)おとさうどたばかりけるを、すこしもさとらずして、ともにあひしらひ日(ひ)をくらすこそはかなけれ。
次第(しだい)にくらうなりければ、北南(きたみなみ)よりまは(ッ)つる搦手(からめで)の勢(せい)一万余騎(いちまんよき)、くりからの堂(だう)の辺(へん)にまはりあひ、えびらのほうだて打(うち)たたき、時(とき)をど(ッ)とぞつくりける。平家(へいけ)うしろをかへり見(み)ければ、白旗(しらはた)雲(くも)のごとくさしあげたり。「此(この)山(やま)は四方(しはう)巌石(がんぜき)であんなれば、搦手(からめで)よもまはらじと思(おも)ひつるに、こはいかに」とてさはぎ(さわぎ)あへり。さる程(ほど)に、木曾殿(きそどの)大手(おほて)より時(とき)の声(こゑ)をぞ合(あは)せ給(たま)ふ。松長(まつなが)の柳原(やなぎはら)、ぐみの木林(きばやし・き(ン)ばやし)に一万余騎(いちまんよき)ひかへたりける勢(せい)も、今井(いまゐの)四郎(しらう)が六千余(ろくせんよ)〔騎(き)〕でひの宮林(みやばやし)にありけるも、同(おなじ)く時(とき)をぞつくりける。
前後(ぜんご)四万騎(しまんき)がおめく(をめく)声(こゑ)、山(やま)も河(かは)もただ一度(いちど)にくづるるとこそ聞(きこ)えけれ。案(あん)のごとく、平家(へいけ)、次第(しだい)にくらうはなる、前後(ぜんご)より敵(てき)はせめ来(く)る、「きたなしや、かへせかへせ」といふやからおほかりけれ共(ども)、大勢(おほぜい)の傾(かたぶき)たちぬるは、左右(さう)なうと(ッ)てかへす事(こと)かたければ、倶梨迦羅(くりから)が谷(たに)へわれ先(さき)にとぞおとしける。ま(ッ)さきにすすんだる者(もの)が見(み)えねば、「此(この)谷(たに)の底(そこ)に道(みち)のあるにこそ」とて、親(おや)おとせば子(こ)もおとし、兄(あに)おとせば弟(おとと)もつづく。主(しゆう)おとせば家子(いへのこ)郎等(らうどう)おとしけり。馬(むま)には人(ひと)、人(ひと)には馬(むま)、落(おち)かさなり落(おち)かさなり、さばかり深(ふか)き谷(たに)一ツ(ひとつ)を平家(へいけ)の勢(せい)七万余騎(しちまんよき)でぞうめたりける。巌泉(がんせん)血(ち)をながし、死骸(しがい)岳(をか)をなせり。さればその谷(たにの)ほとりには、矢(や)の穴(あな)刀(かたな)の疵(きず)残(のこり)て今(いま)にありとぞ承(うけたま)はる。
平家(へいけ)の方(かた)にはむねとたのまれたりける上総(かづさの)大夫(たいふの)判官(はんぐわん)忠綱(ただつな)・飛弾(ひだの)大夫(たいふの)判官(はんぐわん)景高(かげたか)・河内(かはちの)判官(はんぐわん)秀国(ひでくに)も此(この)谷(たに)にうづもれてうせにけり。備中国(びつちゆうのくにの・びつちうのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)瀬尾(せのをの)太郎(たらう)兼康(かねやす)といふ聞(きこ)ゆる大力(だいりき)も、そこにて加賀国(かがのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)蔵光(くらみつの)次郎(じらう)成澄(なりずみ)が手(て)にかか(ッ)て、いけどりにせらる。越前国(ゑちぜんのくに)火打(ひうち)が城(じやう)にてかへり忠(ちゆう・ちう)したりける平泉寺(へいせんじ)の長吏(ちやうり)斎明(さいめい)威儀師(ゐぎし・いぎし)もとらはれぬ。
木曾殿(きそどの)、「あまりにくきに、其(その)法師(ほふし・ほうし)をばまづきれ」とてきられにけり。平氏(へいじの)大将(たいしやう)維盛(これもり)・通盛(みちもり)、けうの命(いのち)生(いき)て加賀国(かがのくに)へ引退(ひきしりぞ)く。七万余騎(しちまんよき)がなかよりわづかに二千余騎(にせんよき)ぞのがれたりける。明(あく)る十二日(じふににち)、奥(おく)の秀衡(ひでひら)がもとより木曾殿(きそどの)へ竜蹄(りようてい・れうてい)二疋(にひき)奉(たてまつ)る。やがて是(これ)に鏡鞍(かがみくら)をい(おい)て、白山(はくさん)の社(やしろ)へ神馬(じんめ)にたてられけり。木曾殿(きそどの)の給(たま)ひけるは、「今(いま)は思(おも)ふ事(こと)なし。
ただし十郎(じふらう)蔵人殿(くらんどどの)の志保(しほ)のいくさこそおぼつかなけれ。いざゆひ(ゆい)てみん」とて、四万余騎(しまんよき)〔が中(なか)より〕馬(むま)や人(ひと)をすぐ(ッ)て、二万余騎(にまんよき)で馳向(はせむか)ふ。ひびの湊(みなと)をわたさんとするに、折節(をりふし・おりふし)塩(しほ)みちて、ふかさあささをしらざりければ、鞍(くら)をき馬(むま・くらおきむま)十疋(じつぴき)ばかりおひ入(いれ)たり。鞍爪(くらづめ)ひたる程(ほど)に、相違(さうい)なくむかひの岸(きし)へ着(つき)にけり。「浅(あさ)かりけるぞや、わたせや」とて、二万余騎(にまんよき)の大勢(おほぜい)皆(みな)打入(うちいり)てわたしけり。案(あん)のごとく十郎(じふらう)蔵人(くらんど)行家(ゆきいへ)、さんざんにかけなされ、ひき退(しりぞ)いて馬(むま)の息(いき)休(やすむ)る処(ところ)に、木曾殿(きそどの)「さればこそ」とて、荒手(あらて)二万余騎(にまんよき)入(いれ)かへて、平家(へいけ)三万余騎(さんまんよき)が中(なか)へおめい(をめい)てかけ入(いり)、もみにもうで火(ひ)出(いづ)る程(ほど)にぞ攻(せめ)たりける。
平家(へいけ)の兵共(つはものども)しばしささへて防(ふせ)きけれ共(ども)、こらへずしてそこをも遂(つひ・つゐ)に攻(せめ)おとさる。平家(へいけ)の方(かた)には、大将軍(たいしやうぐん)三河守(みかはのかみ)知教(とものり)うたれ給(たま)ひぬ。是(これ)は入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)の末子(ばつし)也(なり)。侍共(さぶらひども)おほくほろびにけり。木曾殿(きそどの)は志保(しほ)の山(やま)打(うち)こえて、能登(のと)の小田中(をだなか)、新王(しんわう)の塚(つか)の前(まへ)に陣(ぢん)をとる。 
篠原合戦 (しのはらがつせん) 

 

そこにて諸社(しよしや)へ神領(じんりやう)をよせられけり。白山(はくさん)へは横江(よこえ)・宮丸(みやまる)、すがう(すがふ)の社(やしろ)へはのみの庄(しやう)、多田(ただ)の八幡(はちまん)へはてうや(てふや)の庄(しやう)、気比(けひ・けい)の社(やしろ)へははん原(ばら)の庄(しやう)を寄進(きしん)す。
平泉寺(へいせんじ)へは藤島(ふぢしま)七郷(しちがう)をよせられけり。一(ひと)とせ石橋(いしばし)の合戦(かつせん)の時(とき)、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)射(い・ゐ)たてま(ッ)し者共(ものども)都(みやこ)へにげのぼ(ッ)て、平家(へいけ)の方(かた)にぞ候(さうらひ)ける。むねとの者(もの)には俣野(またのの)五郎(ごらう)景久(かげひさ)・長井(ながゐの)斎藤(さいとう)別当(べつたう)実守(さねもり)・伊藤(いとうの)九郎(くらう)助氏(すけうぢ)・浮巣(うきすの)三郎(さぶらう)重親(しげちか)・ましもの四郎(しらう)重直(しげなほ・しげなを)、是等(これら)はしばらくいくさのあらんまでやすまんとて、日(ひ)ごとによりあひよりあひ、巡酒(じゆんしゆ)をしてぞなぐさみける。
まづ実守(さねもり)が許(もと)によりあひたりける時(とき)、斎藤(さいとう)別当(べつたう)申(まうし)けるは、「倩(つらつら)此(この)世中(よのなか)の有様(ありさま)を見(み)るに、源氏(げんじ)の御方(みかた)はつよく、平家(へいけ)の御方(みかた)はまけ色(いろ)にみえさせ給(たま)ひたり。いざをのをの(おのおの)木曾殿(きそどの)へまいら(まゐら)ふ(う)」ど申(まうし)ければ、みな「さ(ン)なう」と同(どう)じけり。次(つぎの)日(ひ)又(また)浮巣(うきすの)三郎(さぶらう)がもとによりあひたりける時(とき)、斎藤(さいとう)別当(べつたう)「さても昨日(きのふ)申(まうし)し事(こと)はいかに、をのをの(おのおの)」。そのなかに俣野(またのの)五郎(ごらう)すすみ出(いで)て申(まうし)けるは、「我等(われら)はさすが東国(とうごく)では皆(みな)、人(ひと)にしられて名(な)ある者(もの)でこそあれ、吉(きち)についてあなたへまいり(まゐり)、こなたへまいら(まゐら)ふ(う)事(こと)も見(み)ぐるしかるべし。人(ひと)をばしりまいらせ(まゐらせ)ず、景久(かげひさ)にをいて(おいて)は平家(へいけ)の御方(みかた)にていかにもならう」ど申(まうし)ければ、斎藤(さいとう)別当(べつたう)あざわら(ッ)て、「まことには、をのをの(おのおの)の御心(おんこころ)どもをかなびき奉(たてまつ)らんとてこそ申(まうし)たれ。
そのうへ実守(さねもり)は今(この)度(たび)のいくさに討死(うちじに)せうど思(おも)ひき(ッ)て候(さうらふ)ぞ。二度(ふたたび)都(みやこ)へまいる(まゐる)まじきよし人々(ひとびと)にも申(まうし)をい(おい)たり。大臣殿(おほいとの)へも此(この)やうを申(まうし)あげて候(さうらふ)ぞ」といひければ、みな人(ひと)此(この)儀(ぎ)にぞ同(どう)じける。さればその約束(やくそく)をたがへじとや、当座(たうざ)にありし者共(ものども)、一人(いちにん)も残(のこ)らず北国(ほつこく)にて皆(みな)死(しに)にけるこそむざんなれ。さる程に、平家(へいけ)は人馬(じんば)のいきをやすめて、加賀国(かがのくに)しの原(はら)に陣(ぢん)をとる。同(おなじき)五月(ごぐわつ)廿一日(にじふいちにち)の辰(たつ)の一点(いつてん)に、木曾(きそ)しの原(はら)にをし(おし)よせて時(とき)をど(ッ)とつくる。平家(へいけ)の方(かた)には畠山(はたけやまの)庄司(しやうじ)重能(しげよし)・小山田(をやまだ)の別当(べつたう)有重(ありしげ)、去(さんぬ)る治承(ぢしよう・ぢせう)より今(いま)までめしこめられたりしを、「汝等(なんぢら)はふるひ(ふるい)者共(ものども)也(なり)。いくさの様(やう)をもをきてよ(おきてよ)」とて、北国(ほつこく)へむけられたり。是等(これら)兄弟(きやうだい)三百余騎(さんびやくよき)で陣(ぢん)のおもてにすすんだり。
源氏(げんじ)の方(かた)より今井(いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)三百余騎(さんびやくよき)でうちむかふ。畠山(はたけやま)、今井(いまゐの)四郎(しらう)、はじめは互(たがひ)に五騎(ごき)十騎(じつき)づつ出(いだ)しあはせて勝負(しようぶ・せうぶ)をせさせ、後(のち)には両方(りやうばう)乱(みだれ)あふ(あう)てぞたたかひける。五月(ごぐわつ)廿一日(にじふいちにち)の午(むま)の剋(こく)、草(くさ)もゆるがず照(てら)す日(ひ)に、我(われ)おとらじとたたかへば、遍身(へんしん)より汗(あせ)出(いで)て水(みづ)をながすに異(こと)ならず。今井(いまゐ)が方(かた)にも兵(つはもの)おほくほろびにけり。畠山(はたけやまの)家子(いへのこ)郎等(らうどう)残(のこり)ずくなに討(うち)なされ、力(ちから)およばでひき退(しりぞ)く。次(つぎに)平家(へいけ)の方(かた)より高橋(たかはしの)判官(はんぐわん)長綱(ながつな)、五百余騎(ごひやくよき)ですすんだり。
木曾殿(きそどの)の方(かた)より樋口(ひぐちの)次郎(じらう)兼光(かねみつ)・おちあひの五郎(ごらう)兼行(かねゆき)、三百余騎(さんびやくよき)で馳向(はせむか)ふ。し(ン)ばし(しばし)ささへてたたかひけるが、高橋(たかはし)が勢(せい)は国々(くにぐに)のかり武者(むしや)なれば、一騎(いつき)もおちあはず、われ先(さき)にとこそ落行(おちゆき)けれ。高橋(たかはし)心(こころ)はたけくおもへども、うしろあばらになりければ、力(ちから)及(およ・をよ)ばで引退(ひきしりぞ)く。ただ一騎(いつき)落(おち)て行(ゆく)ところに、越中国(ゑつちゆうのくに・ゑつちうのくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)入善(にふぜん・にうぜん)の小太郎(こたらう)行重(ゆきしげ)、よい敵(かたき)と目(め)をかけ、鞭(むち)あぶみをあはせて馳来(はせきた)り、おしならべてむずとくむ。高橋(たかはし)、入善(にふぜん・にうぜん)をつかうで、鞍(くら)の前輪(まへわ)におしつけ、「わ君(ぎみ)はなにものぞ、名(な)のれきかう」どいひければ、「越中国(ゑつちゆうのくに・ゑつちうのくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)、入善(にふぜんの・にうぜんの)小太郎(こたらう)行重(ゆきしげ)、生年(しやうねん)十八歳(じふはつさい)」となのる。
「あなむざん、去年(こぞ)をくれ(おくれ)し長綱(ながつな)が子(こ)も、ことしはあらば十八歳(じふはつさい)ぞかし。わ君(ぎみ)ねぢき(ッ)てすつべけれ共(ども)、たすけん」とてゆるしけり。わが身(み)も馬(むま)よりおり、「しばらくみ方(かた)の勢(せい)またん」とてやすみゐたり。入善(にふぜん・にうぜん)「われをばたすけたれ共(ども)、あ(ッ)ぱれ敵(かたき)や、いかにもしてうたばや」と思(おも)ひ居(ゐ)たる処(ところ)に、高橋(たかはし)うちとけて物語(ものがたり)しけり。入善(にふぜん・にうぜん)勝レ(すぐれ)たるはやわざのおのこ(をのこ)で、刀(かたな)をぬき、とんでかかり、高橋(たかはし)がうちかぶとを二刀(ふたかたな)さす。さる程(ほど)に、入善(にふぜん・にうぜん)が郎等(らうどう)三騎(さんぎ)、をくれ(おくれ)ばせに来(きたつ)ておちあふ(あう)たり。高橋(たかはし)心(こころ)はたけくおもへども、運(うん)やつきにけん、敵(かたき)はあまたあり、いた手(で)はおうつ、そこにて遂(つひ・つゐ)にうたれにけり。又(また)平家(へいけ)のかたより武蔵(むさしの)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)有国(ありくに)、三百(さんびやく)騎(き)ばかりでおめい(をめい)てかく。
源氏(げんじ)の方(かた)より仁科(にしな)・高梨(たかなし)・山田(やまだの)次郎(じらう)、五百余騎(ごひやくよき)で馳(はせ)むかふ。し(ン)ばし(しばし)ささへてたたかひけるが、有国(ありくに)が方(かた)の勢(せい)おほくうたれぬ。有国(ありくに)ふか入(いり)してたたかふ程(ほど)に、矢(や)だね皆(みな)いつくして、馬(むま)をもいさせ、かちだちになり、うち物(もの)ぬいてたたかひけるが、敵(かたき)あまたうちとり、矢(や)七(なな)つ八(やつ)いたてられて、立(たち)じににこそ死(しに)にけれ。大将軍(たいしやうぐん)か様(やう)に成(なり)しかば、其(その)勢(せい)皆(みな)おち行(ゆき)ぬ。 
真盛 (さねもり) 

 

又(また)武蔵国(むさしのくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)長井(ながゐの)斎藤(さいとう)別当(べつたう)実守(さねもり)、みかたは皆(みな)おちゆけ共(ども)、ただ一騎(いつき)かへしあはせ返(かへ)しあはせ防(ふせき)たたかふ。存(ぞん)ずるむねありければ、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、もよぎおどし(をどし)の鎧(よろひ)きて、くはがたう(ッ)たる甲(かぶと)の緒(を・お)をしめ、金作(こがねづく)りの太刀(たち)をはき、きりう(きりふ)の矢(や)おひ、滋藤(しげどう)の弓(ゆみ)も(ッ)て、連銭葦毛(れんぜんあしげ)なる馬(むま)にきぶくりんの鞍(くら)おひ(おい)てぞの(ッ)たりける。木曾殿(きそどの)の方(かた)より手塚(てづか)の太郎(たらう)光盛(みつもり)、よい敵(かたき)と目(め)をかけ、「あなやさし、いかなる人(ひと)にて在(ましま)せば、み方(かた)の御勢(おんせい)は皆(みな)落(おち)候(さうらふ)に、ただ一騎(いつき)のこらせ給(たま)ひたるこそゆう(いう)なれ。なのらせ給(たま)へ」と詞(ことば)をかけければ、「かういふわどのはたそ」。
「信濃国(しなののくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)手塚(てづかの)太郎(たらう)金刺(かねざしの)光盛(みつもり)」とこそなの(ッ)たれ。「さてはたがひによい敵(かたき)ぞ。但(ただし)わどのをさぐるにはあらず、存(ぞん)ずるむねがあれば名(な)のるまじいぞ。よれくまう手塚(てづか)」とておしならぶるところに、手塚(てづか)が郎等(らうどう)をくれ(おくれ)馳(ばせ)にはせ来(きたつ)て、主(しゆう・しう)をうたせじとなかにへだたり、斎藤(さいとう)別当(べつたう)にむずとくむ。「あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)、をのれ(おのれ)は日本(につぽん)一(いち)の剛(かう)の者(もの)にぐんでうずな、うれ」とて、と(ッ)て引(ひき)よせ、鞍(くら)のまへわにおしつけ、頸(くび)かきき(ッ)て捨(すて)て(ン)げり。手塚(てづかの)太郎(たらう)、郎等(らうどう)がうたるるをみて、弓手(ゆんで)にまはりあひ、鎧(よろひ)の草摺(くさずり)ひきあげて二刀(ふたかたな)さし、よはる(よわる)処(ところ)にくんでおつ。斎藤(さいとう)別当(べつたう)心(こころ)はたけくおもへども、いくさにはしつかれぬ、其上(そのうへ)老武者(らうむしや)ではあり、手塚(てづか)が下(した)になりにけり。又(また)手塚(てづか)が郎等(らうどう)をくれ(おくれ)馳(ばせ)にいできたるに頸(くび)とらせ、木曾殿(きそどの)の御(おん)まへに馳(はせ)まい(ッ・まゐつ)て、「光盛(みつもり)こそ奇異(きい)のくせ者(もの)くんでう(ッ)て候(さうら)へ。
侍(さぶらひ)かとみ候(さうら)へば錦(にしき)の直垂(ひたたれ)をきて候(さうらふ)。大将軍(たいしやうぐん)かとみ候(さうら)へばつづく勢(せい)も候(さうら)はず。名(な)のれ名(な)のれとせめ候(さうらひ・さふらひ)つれ共(ども)、つゐに(つひに)なのり候(さうら)はず。声(こゑ)は坂東声(ばんどうごゑ)で候(さうらひ)つる」と申(まう)せば、木曾殿(きそどの)「あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)、是(これ)は斎藤(さいとう)別当(べつたう)であるごさんめれ。
それならば義仲(よしなか)が上野(かうづけ)へこえたりし時(とき)、おさな目(め・をさなめ)に見(み)しかば、しらがのかすをなりしぞ。いまは定(さだめ)て白髪(はくはつ)にこそなりぬらんに、びんぴげのくろいこそあやしけれ。樋口(ひぐちの)次郎(じらう)はなれあそ(ン)で見(み)〔し(ッ)〕たるらん。樋口(ひぐち)めせ」とてめされけり。樋口(ひぐちの)次郎(じらう)ただ一目(ひとめ)みて、「あなむざんや、斎藤(さいとう)別当(べつたう)で候(さうらひ)けり」。木曾殿(きそどの)「それならば今(いま)は七十(しちじふ)にもあまり、白髪(はくはつ)にこそなりぬらんに、びんぴげのくろいはいかに」との給(たま)へば、樋口(ひぐちの)次郎(じらう)涙をはらはらとながいて、「さ候(さうら)へばそのやうを申(まうし)あげうど仕(つかまつり)候(さうらふ)が、あまり哀(あはれ)で不覚(ふかく)の涙(なんだ)のこぼれ候(さうらふ)ぞや。弓矢(ゆみや)とりはいささかの所(ところ)でも思(おも)ひでの詞(ことば)をば、かねてつがゐ(つがひ)をく(おく)べきで候(さうらひ)ける物(もの)かな。
斎藤(さいとう)別当(べつたう)、兼光(かねみつ)にあふ(あう)て、つねは物語(ものがたり)に仕(つかまつり)候(さうらひ)し。「六十(ろくじふ)にあま(ッ)ていくさの陣(ぢん)へむかはん時(とき)は、びんぴげをくろう染(そめ)てわかやがうどおもふなり。そのゆへ(ゆゑ)は、わか殿原(とのばら)にあらそひてさきをかけんもおとなげなし、又(また)老武者(らうむしや)とて人(ひと)のあなどらんも口惜(くちをし・くちおし)かるべし」と申(まうし)候(さうらひ)しが、まことに染(そめ)て候(さうらひ)けるぞや。あらはせて御(ご)らん候(さうら)へ」と申(まうし)ければ、「さもあるらん」とて、あらはせて見(み)給(たま)へば、白髪(はくはつ)にこそ成(なり)にけれ。錦(にしき)の直垂(ひたたれ)をきたりける事(こと)は、斎藤(さいとう)別当(べつたう)、最後(さいご)のいとま申(まうし)に大臣殿(おほいとの)へまい(ッ・まゐつ)て申(まうし)けるは、「実守(さねもり)が身(み)ひとつの事(こと)では候(さうら)はね共(ども)、一年(ひととせ)東国(とうごく)へむかひ候(さうらひ)し時(とき)、水鳥(みづとり)の羽音(はおと)におどろいて、矢(や)ひとつだにもいずして、駿河(するが)のかん原(ばら)よりにげのぼ(ッ)て候(さうらひ)し事(こと)、老後(らうご)の恥辱(ちじよく)ただ此(この)事(こと)候(ざうらふ)。今度(こんど)北国(ほつこく)へむかひては、討死(うちじに)仕(つかまつり)候(さうらふ)べし。
さらんにと(ッ)ては、実守(さねもり)もと越前国(ゑちぜんのくに)の者(もの)で候(さうらひ)しか共(ども)、近年(きんねん)御領(ごりやう)につゐ(つい)て武蔵(むさし)の長井(ながゐ)に居住(きよぢゆう・きよぢう)せしめ候(さうらひ)き。事(こと)の喩(たとへ)候(さうらふ)ぞかし。古郷(こきやう)へは錦(にしき)をきて帰(かへ)れといふ事(こと)の候(さうらふ)。錦(にしき)の直垂(ひたたれ)御(おん)ゆるし候(さうら)へ」と申(まうし)ければ、大臣殿(おほいとの)「やさしう申(まうし)たる物(もの)かな」とて、錦(にしき)の直垂(ひたたれ)を御免(ごめん)ありけるとぞきこえし。昔(むかし)の朱買臣(しゆばいしん)は錦(にしき)の袂(たもと)を会稽山(くわいけいざん)に翻(ひるがへ)し、今(いま)の斎藤(さいとう)別当(べつたう)は其(その)名(な)を北国(ほつこく)の巷(ちまた)にあぐとかや。朽(くち)もせぬむなしき名(な)のみとどめをき(おき)て、かばねは越路(こしぢ)の末(すゑ)の塵(ちり)となるこそかなしけれ。去(さんぬる)四月(しぐわつ)十七日(じふしちにち)、十万余騎(じふまんよき)にて都(みやこ)を立(たち)し事(こと)がらは、なに面(おもて)をむかふべしともみえざりしに、今(いま)五月(ごぐわつ)下旬(げじゆん)に帰(かへ)りのぼるには、其(その)勢(せい)わづかに二万余騎(にまんよき)、「流(ながれ)をつくしてすなどる時(とき)は、おほくのうををうといへども、明年(みやうねん)に魚(うを・うほ)なし。林(はやし)をやいてかる時(とき)は、おほくのけだものをうといへども、明年(みやうねん)に獣(けだもの)なし。後(のち)を存(ぞん)じて少々(せうせう)はのこさるべかりける物(もの)を」と申(まうす)人々(ひとびと)もありけるとかや。 
還亡 (げんばう) 

 

これをはじめておやは子(こ)におくれ、婦(ふ)は夫(おつと)にわかれ、凡(およそ・をよそ)遠国(をんごく)近国(きんごく)もさこそありけめ、京中(きやうぢゆう・きやうぢう)には家々(いへいへ)に門戸(もんこ)を閉(とぢ)て、声々(こゑごゑ)に念仏(ねんぶつ)申(まうし)おめき(をめき)さけぶ事(こと)おびたたし。六月(ろくぐわつ)一日(ひとひのひ)、蔵人(くらんど)右衛門権佐(うゑもんごんのすけ)定長(さだなが)、神祇(じんぎの)権少副(ごんのせう)大中臣(おほなかとみの)親俊(ちかとし)を殿上(てんじやう)の下口(しもぐち)へめして、兵革(へいがく)しづまらば、大神宮(だいじんぐう)へ行幸(ぎやうがう)なるべきよし仰下(おほせくだ)さる。
大神宮(だいじんぐう)は高間原(たかまがはら)より天(あま)くだらせ給(たま)ひしを、崇神天皇(すじんてんわう)の御宇(ぎよう)廿五年(にじふごねん)三月(さんぐわつ)に、大和国(やまとのくに)笠縫(かさぬひ)の里(さと)より伊勢国(いせのくに)わたらゐの郡(こほり)五十鈴(いすず)の河上(かはかみ)、したつ石根(いはね)に大宮柱(おほみやばしら)をふとしきたて、祝(いはひ)そめたてま(ッ)てよりこのかた、日本(につぽん)六十(ろくじふ)余州(よしう)、三千(さんぜん)七百(しちひやく)五十(ごじふ)余社(よしや)の、大小(だいせう)の神祇(じんぎ)冥道(みやうだう)のなかには無双(ぶそう)也(なり)。されども代々(よよ)の御門(みかど)臨幸(りんかう)はなかりしに、奈良御門(ならのみかど)の御時(おんとき)、左大臣(さだいじん)不比等(ふひとう)の孫(まご)、参議(さんぎ)式部卿(しきぶきやう)宇合(うがふ・うがう)の子(こ)、右近衛(うこんゑ)権少将(ごんのせうしやう)兼(けん)太宰少弐(ださいのせうに)藤原広嗣(ふじはらのひろつぎ)といふ人(ひと)ありけり。
天平(てんびやう)十五年(じふごねん)十月(じふぐわつ)、肥前国(ひぜんのくに)松浦郡(まつらのこほり)にして、数万(すまん)の凶賊(きようぞく・けうぞく)をかたら(ッ)て国家(こくか)を既(すで)にあやぶめんとす。これによ(ッ)て大野(おほの)のあづま人(うど)を大将軍(たいしやうぐん)にて、広嗣(ひろつぎ)追討(ついたう)せられし時(とき)、はじめて大神宮(だいじんぐう)へ行幸(ぎやうがう)なりけるとかや。其(その)例(れい)とぞ聞(きこ)えし。彼(かの)広嗣(ひろつぎ)は肥前(ひぜん)の松浦(まつら)より都(みやこ)へ一日(いちにち)におりのぼる馬(むま)をもちたりけり。追討(ついたう)せられし時(とき)も、みかたの凶賊(きようぞく・けうぞく)おちゆき、皆(みな)亡(ほろび)て後(のち)、件(くだん)の馬(むま)にうちの(ッ)て、海中(かいちゆう・かいちう)へ馳入(はせいり)けるとぞ聞(きこ)えし。その亡霊(ばうれい)あれて、おそろしき事共(ことども)おほかりけるなかに、天平(てんびやう)十六年(じふろくねん)六月(ろくぐわつ)十八日(じふはちにち)、筑前国(ちくぜんのくに)見(み)かさの郡(こほり)太宰府(ださいふの)観世音寺(くわんぜおんじ・くわんぜをんじ)、供養(くやう)ぜられける導師(だうし)には、玄房僧正(げんばうそうじやう)とぞ聞(きこ)えし。
高座(かうざ)にのぼり、敬白(けいひやく)の鐘(かね)うちならす時(とき)、俄(にはか)に空(そら)かきくもり、雷(いかづ)ちおびたたしう鳴(なつ)て、玄房(げんばう)の上(うへ)におちかかり、その首(くび)をと(ッ)て雲(くも)のなかへぞ入(いり)にける。〔広嗣(ひろつぎ)〕調伏(てうぶく)したりけるゆへ(ゆゑ)とぞ聞(きこ)えし。彼(かの)僧正(そうじやう)は、吉備大臣(きびのだいじん)入唐(につたう)の時(とき)あい(あひ)ともな(ッ)て、法相宗(ほつさうじゆう・ほつさうしう)わたしたりし人(ひと)也(なり)。唐人(たうじん)が玄房(げんばう)といふ名(な)をわら(ッ)て、「玄房(げんばう)とはかへ(ッ)てほろぶといふ音(こゑ)あり。いかさまにも帰朝(きてう)の後(のち)事(こと)にあふべき人(ひと)也(なり)」と相(さう)したりけるとかや。同(おなじき)天平(てんびやう)十九年(じふくねん)六月(ろくぐわつ)十八日(じふはちにち)、しやれかうべに玄房(げんばう)といふ銘(めい)をかいて、興福寺(こうぶくじ)の庭(には)におとし、虚空(こくう)に人(ひと)ならば千人(せんにん)ばかりが声(こゑ)で、ど(ッ)とわらふ事(こと)ありけり。
興福寺(こうぶくじ)は法相宗(ほつさうじゆう・ほつさうしう)の寺(てら)たるによ(ッ)て也(なり)。彼(かの)僧正(そうじやう)の弟子共(でしども)是(これ)をと(ッ)てつかをつき、其(その)首(くび)をおさめ(をさめ)て頭墓(づはか)と名付(なづけ)て今(いま)にあり。是(これ)則(すなはち)広嗣(ひろつぎ)が霊(れい)の致(いた)すところ也(なり)。是(これ)によ(ッ)て彼(かの)亡霊(ばうれい)を崇(あがめ)られて、今(いま)松浦(まつら)の鏡(かがみ)の宮(みや)と号(かう)す。嵯峨(さがの)皇帝(くわうてい・くはうてい)の御時(おんとき)は、平城(へいぜい)の先帝(せんてい)、内侍(ないし)のかみのすすめによ(ッ)て世(よ)をみだり給(たま)ひし時(とき)、その御祈(おんいのり)のために、御門(みかど)第三(だいさん)の皇女(くわうぢよ・くはうぢよ)ゆうち(いうち)内親王(ないしんわう)を賀茂(かも)の斎院(さいゐん)に奉(たてまい)らせ(たてまゐらせ)給(たま)ひけり。是(これ)斎院(さいゐん)のはじめ也(なり)。朱雀院(しゆしやくゐん)の御宇(ぎよう)には、将門(まさかど)・純友(すみとも)が兵乱(ひやうらん)によ(ッ)て、八幡(やはた)の臨時(りんじ)の祭(まつり)をはじめらる。今度(こんど)も加様(かやう)の例(れい)をも(ッ)てさまざまの御祈共(おんいのりども)はじめられけり。 
木曾山門牒状 (きそさんもんてふじやう) 

 

木曾(きそ)、越前(ゑちぜん)の国府(こふ)について、家子(いへのこ)郎等(らうどう)めしあつめて評定(ひやうぢやう)す。「抑(そもそも)義仲(よしなか)近江国(あふみのくに)をへてこそ都(みやこ)へはいらむずるに、例(れい)の山僧(さんぞう)どもは防(ふせく)事(こと)もやあらんずらん。かけ破(やぶつ)てとをら(とほら)ん事(こと)はやすけれども、平家(へいけ)こそ当時(たうじ)は仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)共(とも)いはず、寺(てら)をほろぼし、僧(そう)をうしなひ、悪行(あくぎやう)をばいたせ、それを守護(しゆご)のために上洛(しやうらく)せんものが、平家(へいけ)とひとつなればとて、山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)にむか(ッ)ていくさせん事(こと)、すこしもたがはぬ二(に)の舞(まひ)なるべし。是(これ)こそさすがやす大事(だいじ)よ。いかがせん」との給(たま)へば、手書(てかき)にぐせられたる大夫房(たいふばう)覚明(かくめい)申(まうし)けるは、「山門(さんもん)の衆徒(しゆと)は三千人(さんぜんにん)候(さうらふ)。必(かなら)ず一味(いちみ)同心(どうしん)なる事(こと)は候(さうら)はず、皆(みな)思々(おもひおもひ)心々(こころごころ)に候(さうらふ)也(なり)。
或(あるい・あるひ)は源氏(げんじ)につかんといふ衆徒(しゆと)も候(さうらふ)らん、或(あるい・あるひ)は又(また)平家(へいけ)に同心(どうしん)せんといふ大衆(だいしゆ)も候(さうらふ)らん。牒状(てふじやう・てうでう)をつかはして御(ご)らん候(さうら)へ。事(こと)のやう返牒(へんでふ・へんでう)にみえ候(さうら)はんずらん」と申(まうし)ければ、「此(この)儀(ぎ)尤(もつと)もしかるべし。さらばかけ」とて、覚明(かくめい)に牒状(てふじやう・てうでう)かかせて、山門(さんもん)へをくる(おくる)。
其(その)状(じやう・でう)に云(いはく)、義仲(よしなか)倩(つらつら)平家(へいけ)の悪逆(あくぎやく)を見(み)るに、保元(ほうげん)平治(へいぢ)よりこのかた、ながく人臣(じんしん)の礼(れい)をうしなう(うしなふ)。雖然(しかりといへども)、貴賎(きせん)手(て)をつかね、緇素(しそ)足(あし)をいただく。恣(ほしいまま)に帝位(ていゐ)を進退(しんだい)し、あくまで国郡(こくぐん)をりよ領(りやう)ず。道理(だうり)非理(ひり)を論(ろん)ぜず、権門(けんもん)勢家(せいか)を追補(ついふく)し、有財(うざい)無財(むざい)をいはず、卿相(けいしやう)侍臣(ししん)を損亡(そんばう)す。其(その)資財(しざい)を奪取(うばひとつ)て悉(ことごとく)郎従(らうじゆう・らうじう)にあたへ、彼(かの)庄園(しやうゑん)を没取(もつしゆ)して、みだりがはしく子孫(しそん)にはぶく。就中(なかんづく)に去(さんぬる)治承(ぢしよう・ぢせう)三年(さんねん)十一月(じふいちぐわつ)、法皇(ほふわう・ほうわう)を城南(せいなん)の離宮(りきゆう・りきう)に移(うつ)し奉(たてまつ)り、博陸(はくりく)を海城(かいせい)の絶域(ぜついき)に流(なが)し奉(たてまつ)る。
衆庶(しゆそ)物(もの)いはず、道路(だうろ)目(め)をも(ッ)てす。しかのみならず、同(おなじき)四年(しねん)五月(ごぐわつ)、二(に)の宮(みや)の朱閣(しゆかく)をかこみ奉(たてまつ)り、九重(ここのへ・ここのえ)の垢塵(くぢん)をおどろかさしむ。爰(ここ)に帝子(ていし)非分(ひぶん)の害(がい)をのがれむがために、ひそかに園城寺(をんじやうじ)へ入御(じゆぎよ)の時(とき)、義仲(よしなか)先日(さきのひ)に令旨(りやうじ・れうじ)を給(たまは)るによ(ッ)て、鞭(むち)をあげんとほ(ッ)する処(ところ)に、怨敵(をんでき)巷(ちまた)にみちて予参(よさん)道(みち)をうしなふ。近境(きんけい)の源氏(げんじ)猶(なほ・なを)参候(さんこう)せず、况(いはん)や遠境(ゑんきやう)においてをや。しかるを園城(をんじやう)者(は)分限(ぶんげん)なきによ(ッ)て南都(なんと)へをもむか(おもむか)しめ給(たま)ふ間(あひだ・あいだ)、宇治橋(うぢはし)にて合戦(かつせん)す。
大将(たいしやう)三位(さんみ)入道(にふだう・にうだう)頼政(よりまさ)父子(ふし)、命(いのち)をかろんじ、義(ぎ)をおもんじて、一戦(いつせん)の功(こう)をはげますといへ共(ども)、多勢(たせい)のせめをまぬかれず、形骸(けいがい)を古岸(こがん)の苔(こけ)にさらし、性命(せいめい)を長河(ちやうか)の浪(なみ)にながす。令旨(りやうじ・れうじ)の趣(おもむき)肝(きも)に銘(めい)じ、同類(どうるい)のかなしみ魂(たましひ・たましゐ)をけつ。是(これ)によ(ッ)て東国(とうごく)北国(ほつこく)の源氏等(げんじら)をのをの(おのおの)参洛(さんらく)を企(くはた)て、平家(へいけ)をほろぼさんとほ(ッ)す。義仲(よしなか)去(いん)じ年(とし)の秋(あき)、宿意(しゆくい)を達(たつ)せんがために、旗(はた)をあげ剣(けん)をと(ッ)て信州(しんしう)を出(いで)し日(ひ)、越後国(ゑちごのくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)城(じやうの)四郎(しらう)長茂(ながしげ)、数万(すまん)の軍兵(ぐんびやう)を率(そつ)して発向(はつかう)せしむる間(あひだ・あいだ)、当国(たうごく)横田河〔原〕(よこたがはら)にして合戦(かつせん)す。義仲(よしなか)わづかに三千余騎(さんぜんよき)をも(ッ)て、彼(かの)兵(つはもの)を破(やぶ)りおは(ン・をはん)ぬ。
風聞(ふうぶん)ひろきに及(およん・をよん)で、平氏(へいじ)の大将(たいしやう)十万(じふまん)の軍士(ぐんし)を率(そつ)して北陸(ほくろく)に発向(はつかう)す。越州(ゑつしう)・賀州(かしう)・砥浪(となみ)・黒坂(くろさか)・塩坂(しほさか)・篠原(しのはら)以下(いげ)の城郭(じやうくわく)にして数ケ度(すかど)合戦(かつせん・か(ツ)せん)す。策(はかりこと)を惟幕(いばく)の内(うち)にめぐらして、勝(かつ)事(こと)を咫尺(しせき)のもとにえたり。しかるをうてば必(かなら)ず伏(ふく)し、せむれば必(かなら)ずくだる。秋(あき)の風(かぜ)の芭蕉(ばせう・ばせを)を破(やぶる)に異(こと)ならず、冬(ふゆ)の霜(しも)の群(くん)ゆう(くんいう)をからすに同(おな)じ。是(これ)ひとへに神明(しんめい)仏陀(ぶつだ)のたすけ也(なり)。
更(さら)に義仲(よしなか)が武略(ぶりやく)にあらず。平氏(へいじ)敗北(はいほく)のうへは参洛(さんらく)を企(くはたつ)る者(もの)也(なり)。今(いま)叡岳(えいがく・ゑいがく)の麓(ふもと)を過(すぎ)て洛陽(らくやう)の衢(ちまた)に入(いる)べし。此(この)時(とき)にあた(ッ)てひそかに疑貽(ぎたい)あり。抑(そもそも)天台衆徒(てんだいしゆと)平家(へいけ)に同心(どうしん)歟(か)、源氏(げんじ)に与力(よりき)歟(か)。若(もし)彼(かの)悪徒(あくと)をたすけらるべくは、衆徒(しゆと)にむか(ッ)て合戦(かつせん)すべし。若(もし)合戦(かつせん)をいたさば叡岳(えいがく・ゑいがく)の滅亡(めつばう)踵(くびす)をめぐらすべからず。悲(かなしき)哉(かな)、平氏(へいじ)震襟(しんきん)を悩(なやま)し、仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)をほろぼす間(あひだ・あいだ)、悪逆(あくぎやく)をしづめんがために義兵(ぎへい)を発(おこ・をこ)す処(ところ)に、忽(たちまち)に三千(さんぜん)の衆徒(しゆと)に向(むかつ)て不慮(ふりよ)の合戦(かつせん)を致(いたさ)ん事(こと)を。
痛(いたましき)哉(かな)、医王(いわう)山〔王〕(さんわう)に憚(はばかり)奉(たてまつ)て、行程(かうてい)に遅留(ちりう)せしめば、朝廷(てうてい)緩怠(くわんたい)の臣(しん)として武略(ぶりやく)瑕瑾(かきん)のそしりをのこさん事(こと)を。みだりがはしく進退(しんだい)に迷(まよふ)て案内(あんない)を啓(けい)する所(ところ)也(なり)。乞願(こひねがはく・こいねがはく)は三千(さんぜん)の衆徒(しゆと)、神(かみ)のため、仏(ほとけ)のため、国(くに)のため、君(きみ)のために、源氏(げんじ)に同心(どうしん)して凶徒(きようど・けうど)を誅(ちゆう・ちう)し、鴻化(こうくわ)に浴(よく)せん。懇丹(こんたん)の至(いたり)に堪(たへ・たえ)ず。義仲(よしなか)恐惶(きようくわう)謹言(きんげん)。寿永(じゆえい・じゆゑい)二年(にねん)六月(ろくぐわつ)十日(とをかのひ)源(みなもとの)義仲(よしなか)進上(しんじやう)恵光坊(ゑくわうばう・ゑくはうばう)律師(りつしの)御房(ごばう)とぞかいたりける。 
返牒 (へんでふ) 

 

案(あん)のごとく、山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)此(この)状(じやう・でう)を披見(ひけん)して、僉議(せんぎ)まちまち也(なり)。或(あるい・あるひ)は源氏(げんじ)につかんといふ衆徒(しゆと)もあり、或(あるい・あるひ)は又(また)平家(へいけ)に同心(どうしん)せんといふ大衆(だいしゆ)もあり。おもひおもひ異儀(いぎ)まちまち也(なり)。老僧共(らうそうども)の僉議(せんぎ)しけるは、「詮(せんず)る所(ところ)、我等(われら)も(ッ)ぱら金輪聖主(きんりんせいしゆ)天長地久(てんちやうちきう)と祈(いのり)奉(たてまつ)る。平家(へいけ)は当代(とうだい)の御外戚(ごぐわいせき)、山門(さんもん)にをいて(おいて)帰敬(ききやう)をいたさる。
されば今(いま)に至(いた)るまで彼(かの)繁昌(はんじやう)を祈誓(きせい)す。しかりといへども、悪行(あくぎやう)法(ほふ・ほう)に過(すぎ)て万人(ばんにん)是(これ)をそむく。討手(うつて)を国々(くにぐに)へつかはすといへども、かへ(ッ)て異賊(いぞく)のためにおとされぬ。源氏(げんじ)は近年(きんねん)よりこのかた、度々(どど)のいくさに討勝(うちかつ)て運命(うんめい)ひらけんとす。なんぞ当山(たうざん)ひとり宿運(しゆくうん)つきぬる平家(へいけ)に同心(どうしん)して、運命(うんめい)ひらくる源氏(げんじ)をそむかんや。すべからく平家(へいけ)値遇(ちぐ)の儀(ぎ)を翻(ひるがへ)して、源氏(げんじ)合力(かふりよく・かうりよく)の心(こころ)に住(ぢゆう・ぢう)すべき」よし、一味(いちみ)同心(どうしん)に僉議(せんぎ)して、返牒(へんでふ・へんでう)ををくる(おくる)。
木曾殿(きそどの)又(また)家子(いへのこ)郎等(らうどう)めしあつめて、覚明(かくめい)に此(この)返牒(へんでふ・へんでう)をひらかせらる。六月(ろくぐわつ)十日(とをか)の牒状(てふじやう・てうでう)、同(おなじき)十六日(じふろくにち)到来(たうらい)、披閲(ひえつ・ひゑつ)のところ数日(すじつ)の鬱念(うつねん)一時(いつし)に解散(げさん)す。凡(およそ・をよそ)平家(へいけ)の悪逆(あくぎやく)累年(るいねん)に及(およん・をよん)で、朝廷(てうてい)の騒動(さうどう)やむ時(とき)なし。事(こと)人口(じんこう)にあり、異失(いしつ)するにあたはず。夫(それ)叡岳(えいがく・ゑいがく)にいた(ッ)ては、帝都(ていと)東北(とうぼく)の仁祠(じんし)として、国家(こくか)静謐(せいひつ)の精祈(せいき)をいたす。
しかるを一天(いつてん)久(ひさ)しく彼(かの)夭逆(えうげき・ようげき)にをかされて、四海(しかい)鎮(とこしなへ)に其(その)安全(あんせん)をえず。顕密(けんみつ)の法輪(ほふりん・ほうりん)なきが如(ごと)く、擁護(おうご)の神感(しんかん)しばしばすたる。爰(ここに)貴下(くいか)適(たまたま)累代(るいたい)武備(ぶび)の家(いへ)に生(むまれ)て、幸(さいはひ)に当時(たうじ)政善(せいぜん)の仁(じん)たり。予(あらかじめ)奇謀(きぼう)をめぐらして忽(たちまち)に義兵(ぎへい)をおこす。万死(ばんし)の命(めい)を忘(わすれ)て一戦(いつせん)の功(こう)をたつ。其(その)勢(せい)いまだ両年(りやうねん)をすぎざるに其(その)名(な)既(すで)に四海(しかい)にながる。我(わが)山(やま)の衆徒(しゆと)、かつがつ以(もつて・も(ツ)て)承悦(しようえつ・せうゑつ)す。国家(こつか)のため、累家(るいか)のため、武功(ぶこう)を感(かん)じ、武略(ぶりやく)を感(かん)ず。
かくの如(ごと)くならば則(すなはち)山上(さんじやう)の精祈(せいき)むなしからざる事(こと)を悦(よろこ)び、海内(かいだい)の恵護(ゑご)おこたりなき事(こと)をしんぬ。自寺他寺(じじたじ)、常住(じやうぢゆう・じやうぢう)の仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)、本社(ほんじや)末社(まつしや)、祭奠(さいてん)の神明(しんめい)、定(さだめ)て教法(けうぼふ・けうぼう)の二(ふた)たびさかへ(さかえ)ん事(こと)を悦(よろこ)び、崇敬(そうきやう)のふるきに服(ぶく)せん事(こと)を随喜(ずいき)し給(たま)ふらん。衆徒等(しゆとら)が心中(しんぢゆう・しんぢう)、只(ただ)賢察(けんさつ)をたれよ。然(しかれば)則(すなはち)、冥(みやう)には十二(じふに)神将(じんじやう)、忝(かたじけな)く医王(いわう)善逝(ぜんぜい)の使者(ししや)として凶賊(きようぞく・けうぞく)追討(ついたう)の勇士(ようし)にあひくははり、顕(けん)には三千(さんぜん)の衆徒(しゆと)しばらく修学(しゆがく)讃仰(さんぎやう・さんげう)の勤節(きんせつ)を止(やめ)て、悪侶(あくりよ)治罰(ぢばつ)の官軍(くわんぐん)をたすけしめん。
止観(しくわん)十乗(じふじよう・じふぜう)の梵風(ぼんぷう)は奸侶(かんりよ)を和朝(わてう)の外(ほか)に払(はら)ひ、瑜伽(ゆが)三蜜(さんみつ)の法雨(ほふう・ほうう)は時俗(しぞく)を年(げうねん)の昔(むかし)にかへさん。衆儀(しゆぎ)かくの如(ごと)し。倩(つらつら)これを察(さつせ)よ。寿永(じゆえい・じゆゑい)二年(にねん)七月(しちぐわつ)二日(ふつかのひ)大衆等(だいしゆら・たいしゆら)とぞかいたりける。 
平家山門連署 (へいけさんもんへのれんじよ) 

 

平家(へいけ)はこれをしらずして、「興福(こうぶく)園城(をんじやう)両寺(りやうじ)は鬱憤(うつぷん)をふくめる折節(をりふし・おりふし)なれば、かたらふ共(とも)よもなびかじ。当家(たうけ)はいまだ山門(さんもん)のためにあたをむすばず、山門(さんもん)又(また)当家(たうけ)のために不忠(ふちゆう・ふちう)を存(ぞん)ぜず。山王大師(さんわうだいし)に祈誓(きせい)して、三千(さんぜん)の衆徒(しゆと)をかたらはばや」とて、一門(いちもん)の公卿(くぎやう)十人(じふにん)、同心(どうしん)連署(れんじよ)の願書(ぐわんじよ・ぐはんじよ)をかいて山門(さんもん)へをくる(おくる)。其(その)状(じやう・でう)に云(いはく)、敬(うやまつて)白(まうす)、延暦寺(えんりやくじ)をも(ッ)て氏寺(うぢてら)に准(じゆん)じ、日吉(ひよし)の社(やしろ)をも(ッ)て氏社(うじやしろ)として、一向(いつかう)天台(てんだい)の仏法(ぶつぽふ・ぶつぱう)を仰(あふぐ)べき事(こと)。
右(みぎ)当家(たうけ)一族(いちぞく)の輩(ともがら)、殊(こと)に祈誓(きせい)する事(こと)あり。旨趣(しいしゆ・し(イ)しゆ)如何者(いかんとなれば)、叡山(えいさん・ゑいさん)は是(これ)桓武天皇(くわんむてんわう・くはんむてんわう)の御宇(ぎよう)、伝教大師(でんげうだいし)入唐(につたう)帰朝(きてう)の後(のち)、天台(てんだい)の仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)を此(この)所(ところ)にひろめ、遮那(しやな)の大戒(だいかい)を其(その)内(うち)に伝(つたへ)てよりこのかた、専(もつぱら)仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)繁昌(はんじやう)の霊崛(れいくつ)として、鎮護(ちんご)国家(こつか)の道場(だうぢやう)にそなふ。方(まさ)に今(いま)、伊豆国(いづのくに)の流人(るにん)源(みなもとの)頼朝(よりとも)、其(その)咎(とが)を悔(くい)ず、かへ(ッ)て朝憲(てうけん)を嘲(あざけ)る。
しかのみならず奸謀(かんぼう)にくみして同心(どうしん)をいたす源氏等(げんぢら)、義仲(よしなか)行家(ゆきいへ)以下(いげ)党(たう)を結(むすび)て数(かず)あり。隣境(りんきやう)遠境(ゑんきやう)数国(すこく)を掠領(りやうりやう)して、土宜(とぎ)土貢(とこう)万物(ばんもつ)を押領(あふりやう・おうりやう)す。これによ(ッ)て或(あるい・あるひ)は累代(るいたい)勲功(くんこう)の跡(あと)をおひ、或(あるい・あるひ)は当時(たうじ)弓馬(きゆうば・きうば)の芸(げい)にまかせて、速(すみやか)に賊徒(ぞくと)を追討(ついたう・つゐたう)し、凶党(きようたう・けうたう)を降伏(がうぶく)すべきよし、いやしくも勅命(ちよくめい)をふくんで、頻(しきり)に征罰(せいばつ)を企(くはた)つ。爰(ここ)に魚鱗(ぎよりん)鶴翼(くわくよく)の陣(ぢん)、官軍(くわんぐん)利(り)をえず、聖謀(せいぼう)てん戟(げき)の威(ゐ)、逆類(ぎやくるい)勝(かつ)に乗(のる)に似(に)たり。
若(もし)神明(しんめい)仏陀(ぶつだ)の加備(かび)にあらずは、争(いかで)か反逆(ほんぎやく)の凶乱(きようらん・けうらん)をしづめん耳(のみ)。何(なんぞ)况(いはん)や、忝(かたじけな)く臣等(しんら)が曩祖(なうそ・のうそ)をおもへば、本願(ほんぐわん・ほんぐはん)の余裔(よえい・よゑい)とい(ッ)つべし。弥(いよいよ)崇重(そうちよう・そうてう)すべし、弥(いよいよ)恭敬(くぎやう)すべし。自今(じごん)以後(いご)山門(さんもん)に悦(よろこび)あらば一門(いちもん)の悦(よろこび)とし、社家(しやけ)に憤(いきどほり・いきどをり)あらば一家(いつか)の憤(いきどほり・いきどをり)とせん、をのをの(おのおの)子孫(しそん)に伝(つたへ)てながく失堕(しつだ)せじ。藤氏(とうじ)は春日社(かすがのやしろ)興福寺(こうぶくじ)をも(ッ)て氏社(うぢやしろ)氏寺(うぢてら)として、久(ひさ)しく法相(ほつさう)大乗(だいじよう・だいぜう)の宗(しゆう・しう)を帰(き)す。
平氏(へいじ)は日吉社(ひよしのやしろ)延暦寺(えんりやくじ)をも(ッ)て氏社(うぢやしろ)氏寺(うぢてら)として、まのあたり円実(ゑんじつ)頓悟(とんご)の教(けう)に値遇(ちぐ)せん。かれはむかしのゆい跡(せき)也(なり)、家(いへ)のため、栄幸(えいかう・ゑいかう)をおもふ。これは今(いま)の精祈(せいき)也(なり)、君(きみ)のため、追罰(ついばつ・つゐばつ)をこふ。仰(あふぎ)願(ねがはく)は、山王(さんわう)七社(しちしや)王子(わうじ)眷属(けんぞく)、東西(とうざい)満山(まんざん)護法(ごほふ・ごほう)聖衆(しやうじゆ)、十二(じふに)上願(じやうぐわん)日光(につくわう)月光(ぐわつくわう)、医王(いわう)善逝(ぜんぜい)、無二(むに)の丹誠(たんぜい)を照(てら)して唯一(ゆいいつ)の玄応(けんおう)を垂(たれ)給(たま)へ。
然(しかれば)則(すなはち)逆臣(げきしん)の賊(ぞく)、手(て)を君門(くんもん)につかね、暴逆(ほうぎやく)残害(さんがい)の輩(ともがら)、首(くび)を京土(けいと)に伝(つたへ)ん。仍(よつて)当家(たうけ)の公卿等(くぎやうら)、異口(いく)同〔音〕(どうおん・どうをん)に雷(らい)をなして祈誓(きせい)如件(くだんのごとし)。
従(じゆ)三位(さんみ・さんゐ)行(ぎやう)兼(けん)越前守(ゑちぜんのかみ)平(たひらの)朝臣(あそん・あつそん)通盛(みちもり)従(じゆ)三位(さんみ)行(ぎやう)兼(けん)右近衛(うこんゑの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)平(たひらの)朝臣(あそん)資盛(すけもり)正(じやう)三位(ざんみ・ざんゐ)行(ぎやう)左近衛(さこんゑの)権(ごんの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)兼(けん)伊与守(いよのかみ)平(たひらの)朝臣(あそん)維盛(これもり)正(じやう)三位(ざんみ)行(ぎやう)左近衛(さこんゑの)中将(ちゆうじやう)兼(けん)幡摩守(はりまのかみ)平(たひらの)朝臣(あそん)重衡(しげひら)正(じやう)三位(ざんみ)行(ぎよう)右衛門督(うゑもんのかみ)兼(けん)近江(あふみ)遠江守(とほたふみのかみ・とをたうみのかみ)平(たひらの)朝臣(あそん)清宗(きよむね)参議(さんぎ)正(じやう)三位(ざんみ)皇大后宮(くわうだいこうくう)大夫(だいぶ)兼(けん)修理大夫(しゆりのだいぶ)加賀(かが)越中守(ゑつちゆうのかみ・ゑつちうのかみ)平(たひらの)朝臣(あそん)経盛(つねもり)従(じゆ)二位(にゐ)行(ぎやう)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)兼(けん)左兵衛督(さひやうゑのかみ)征夷(せいゐ)大将軍(たいしやうぐん)平(たひらの)朝臣(あそん)知盛(とももり)従(じゆ)二位(にゐ)行(ぎやう)権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)兼(けん)肥前守(ひぜんのかみ)平(たひらの)朝臣(あそん)教盛(のりもり)正(じやう)二位(にゐ)行(ぎやう)権(ごん)大納言(だいなごん)兼(けん)出羽(では)陸奥(みちのく)按察使(あぜつし)平(たひらの)朝臣(あそん)頼盛(よりもり)従(じゆ)一位(いちゐ)平(たひらの)朝臣(あそん)宗盛(むねもり)寿永(じゆえい・じゆゑい)二年(にねん)七月(しちぐわつ)五日(いつかのひ)敬(うやまつて)白(まうす)とぞかかれたる。
貫首(くわんじゆ)是(これ)を憐(あはれ)み給(たま)ひて、左右(さう)なうも披露(ひろう)せられず、十禅師(じふぜんじ)の御殿(ごてん)にこめて、三日(さんにち)加持(かぢ)して、其(その)後(のち)衆徒(しゆと)に披露(ひろう)せらる。はじめはありともみえざりし一首(いつしゆ)の歌(うた)、願書(ぐわんじよ)のうは巻(まき)にできたり。
たいらか(たひらか)に花(はな)さくやども年(とし)ふれば西(にし)へかたぶく月(つき)とこそなれ
山王大師(さんわうだいし)あはれみをたれ給(たま)ひ、三千(さんぜん)の衆徒(しゆと)力(ちから)を合(あは)せよと也(なり)。されども年(とし)ごろ日(ひ)ごろのふるまひ、神慮(しんりよ)にもたがい(たがひ)、人望(じんばう)にもそむきにければ、いのれ共(ども)かなはず、かたらへ共(ども)なびかざりけり。大衆(だいしゆ)まことに事(こと)の体(てい)をば憐(あはれ)みけれ共(ども)、「既(すで)に源氏(げんじ)に同心(どうしん)の返牒(へんでふ・へんでう)ををくる(おくる)。今(いま)又(また)かろがろ敷(しく)其(その)儀(ぎ)をあらたむるにあたはず」とて、是(これ)を許容(きよよう)する衆徒(しゆと)もなし。 
主上都落 (しゆしやうのみやこおち) 

 

同(おなじき)七月(しちぐわつ)十四日(じふしにち)、肥後守(ひごのかみ・ひ(ン)ごのかみ)貞能(さだよし)、鎮西(ちんぜい)の謀反(むほん)たいらげ(たひらげ)て、菊池(きくち)・原田(はらだ)・松浦党(まつらたう)以下(いげ)三千余騎(さんぜんよき)をめし具(ぐ)して上洛(しやうらく)す。鎮西(ちんぜい)は纔(わづか)にたいらげ(たひらげ)ども、東国(とうごく)北国(ほつこく)のいくさいかにもしづまらず。同(おなじき)廿二日(にじふににち)の夜半(やはん)ばかり、六波羅(ろくはら)の辺(へん)おびたたしう騒動(さうどう)す。馬(むま)に鞍(くら)をき(おき)腹帯(はるび)しめ、物共(ものども)東西南北(とうざいなんぼく)へはこびかくす。ただ今(いま)敵(かたき)のうち入(いる)さま也(なり)。あけて後(のち)聞(きこ)えしは、美濃源氏(みのげんじ)佐渡(さどの)衛門尉(ゑもんのじよう・ゑもんのぜう)重貞(しげさだ)といふ者(もの)あり、一(ひと)とせ保元(ほうげん)の合戦(かつせん)の時(とき)、鎮西(ちんぜい)の八郎(はちらう)為朝(ためとも)がかたのいくさにまけて、おちうとにな(ッ)たりしを、からめていだしたりし勧賞(けんじやう)に、もとは兵衛尉(ひやうゑのじよう・ひやうゑのぜう)たりしが右衛門尉(うゑもんのじよう・うゑもんのぜう)になりぬ。
是(これ)によ(ッ)て一門(いちもん)にはあたまれて平家(へいけ)にへつらひけるが、其(その)夜(よ)の夜半(やはん)ばかり、六波羅(ろくはら)に馳(はせ)まい(ッ・まゐつ)て申(まうし)けるは、「木曾(きそ)既(すで)に北国(ほつこく)より五万(ごまん)余騎(よき)でせめのぼり、比叡山(ひえいさん・ひゑいさん)東坂本(ひがしざかもと・ひ(ン)がしざかもと)にみちみちて候(さうらふ)。郎等(らうどう)に楯(たて)の六郎(ろくらう)親忠(ちかただ)、手書(てかき)に大夫房(たいふばう)覚明(かくめい)、六千余騎(ろくせんよき)で天台山(てんだいさん)にきをひ(きほひ)のぼり、三千(さんぜん)の衆徒(しゆと)皆(みな)同心(どうしん)して只今(ただいま)都(みやこ)へ攻入(せめいる)」よし申(まうし)たりける故(ゆゑ・ゆへ)也(なり)。
平家(へいけ)の人々(ひとびと)大(おほき)にさはい(さわい)で、方々(はうばう)へ討手(うつて)をむけられけり。大将軍(たいしやうぐん)には、新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)知盛卿(とももりのきやう)、本三位(ほんざんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)三千余騎(さんぜんよき)、都(みやこ)を立(たつ)てまづ山階(やましな)に宿(しゆく)せらる。越前(ゑちぜんの)三位(さんみ)通盛(みちもり)、能登守(のとのかみ)教経(のりつね)、二千余騎(にせんよき)で宇治橋(うぢはし)をかためらる。左馬頭(さまのかみ)行盛(ゆきもり)、薩摩守(さつまのかみ)忠教(ただのり)、一千余騎(いつせんよき)で淀路(よどぢ)を守護(しゆご)せられけり。
源氏(げんじ)の方(かた)には十郎(じふらう)蔵人(くらんど)行家(ゆきいへ)、数千騎(すせんぎ)で宇治橋(うぢはし)より入(いる)とも聞(きこ)えけり。陸奥(みちのくの)新判官(しんはんぐわん)義康(よしやす)が〔子(こ)〕、矢田(やたの・やだの)判官代(はんぐわんだい)義清(よしきよ)、大江山(おほえやま)をへて上洛(しやうらく)すとも申(まうし)あへり。摂津国(せつつのくに)河内(かはち)の源氏等(げんじら)、雲霞(うんか)の如(ごと)くに同(おなじく)都(みやこ)へみだれ入(いる)よし聞(きこ)えしかば、平家(へいけ)の人々(ひとびと)「此(この)上(うへ)はただ一所(いつしよ)でいかにもなり給(たま)へ」とて、方々(はうばう)へむけられたる討手共(うつてども)、都(みやこ)へ皆(みな)よびかへされけり。帝都(ていと)名利地(みやうりのち)、鶏(にはとり)鳴(ない)て安(やす)き事(こと)なし。
おさまれ(をさまれ)る世(よ)だにもかくの如(ごと)し。况(いはん)や乱(みだれ)たる世(よ)にをいて(おいて)をや。吉野山(よしのやま)の奥(おく)のおくへも入(いり)なばやとはおぼしけれ共(ども)、諸国(しよこく)七道(しちだう)悉(ことごとく)そむきぬ。いづれの浦(うら)かおだしかるべき。三界(さんがい)無安(むあん)猶如(ゆによ)火宅(くわたく・くはたく)とて、如来(によらい)の金言(きんげん)一乗(いちじよう・いちぜう)の妙文(めうもん)なれば、なじかはすこしもたがふべき。同(おなじき)七月(しちぐわつ)廿四日(にじふしにち)のさ夜(よ)ふけがたに、前(さきの)内大臣(ないだいじん)宗盛公(むねもりこう)、建礼門院(けんれいもんゐん)のわたらせ給(たま)ふ六波羅殿(ろくはらどの)へまい(ッ・まゐつ)て申(まう)されけるは、「此(この)世(よ)の中(なか)のあり様(さま)、さりともと存(ぞんじ)候(さうらひ)つるに、いまはかうにこそ候(さうらふ)めれ。ただ都(みやこ)のうちでいかにもならんと、人々(ひとびと)は申(まうし)あはれ候(さうら)へども、まのあたりうき目(め)を見(み)せまいらせ(まゐらせ)んも口惜(くちをしく・くちおしく)候(さうら)へば、院(ゐん)をも内(うち)をもとり奉(たつまつり)て、西国(さいこく)の方(かた)へ御幸(ごかう)行幸(ぎやうがう)をもなしまいらせ(まゐらせ)てみばやとこそ思(おも)ひな(ッ)て候(さうら)へ」と申(まう)されければ、女院(にようゐん)「今(いま)はただともかうも、そこのはからひにてあらんずらめ」とて、御衣(ぎよい)の御袂(おんたもと)にあまる御涙(おんなみだ)せきあへさせ給(たま)はず。
大臣殿(おほいとの)も直衣(なほし・なをし)の袖(そで)しぼる斗(ばかり)にみえられけり。其(その)夜(よ)法皇(ほふわう・ほうわう)をば内々(ないない)平家(へいけ)のとり奉(たてまつり)て、都(みやこ)の外(ほか)へ落行(おちゆく)べしといふ事(こと)をきこしめされてやありけん、按察大納言(あぜちのだいなごん)資方卿(すけかたのきやう)の子息(しそく)、右馬頭(むまのかみ)資時(すけとき)斗(ばかり)御供(おんとも・おとも)にて、ひそかに御所(ごしよ)を出(いで)させ給(たま)ひ、鞍馬(くらま)へ御幸(ごかう)なる。人(ひと)是(これ)をしらざりけり。平家(へいけ)の侍(さぶらひ)橘(きち)内左衛門(ないざゑもんの)尉(じよう・ぜう)季康(すゑやす)といふ者(もの)あり。さかざかしきおのこ(をのこ)にて、院(ゐん)にもめしつかはれけり。其(その)夜(よ)しも法住寺殿(ほふぢゆうじどの・ほうぢうじどの)に御(お)とのゐして候(さうらひ)けるに、つねの御所(ごしよ)のかた、よにさはがしう(さわがしう)ざざめきあひて、女房達(にようばうたち)しのびねになきな(ン)ど(など)し給(たま)へば、何事(なにごと)やらんと聞(きく)程(ほど)に、「法皇(ほふわう・ほうわう)の俄(にはか)にみえさせ給(たま)はぬは。いづ方(かた)へ御幸(ごかう)やらん」といふ声(こゑ)にききなしつ。「あなあさまし」とて、やがて六波羅(ろくはら)へ馳(はせ)まいり(まゐり)、大臣殿(おほいとの)に此(この)由(よし)申(まうし)ければ、「いで、ひが事(こと)でぞあるらん」との給(たま)ひながら、ききもあへず、いそぎ法住寺殿(ほふぢゆうじどの・ほうぢうじどの)へ馳(はせ)まい(ッ・まゐつ)て見(み)まいらせ(まゐらせ)給(たま)へば、げにみえさせ給(たま)はず。
御前(ごぜん)に候(さふら)はせ給(たま)ふ女房達(にようばうたち)、二位殿(にゐどの)丹後殿(たんごどの)以下(いげ)一人(いちにん)もはたらき給(たま)はず。「いかにやいかに」と申(まう)されけれ共(ども)、「われこそ御(おん)ゆくゑ(ゆくへ)しりまいらせ(まゐらせ)たれ」と申(まう)さるる人(ひと)一人(いちにん)もおはせず、皆(みな)あきれたるやう也(なり)けり。さる程(ほど)に、法皇(ほふわう・ほうわう)都(みやこ)の内(うち)にもわたらせ給(たま)はずと申(まうす)程(ほど)こそありけれ、京中(きやうぢゆう・きやうぢう)の騒動(さうどう)なのめならず。况(いはん)や平家(へいけ)の人々(ひとびと)のあはて(あわて)さはが(さわが)れけるありさま、家々(いへいへ)に敵(かたき)の打入(うちいり)たり共(とも)、かぎりあれば、是(これ)には過(すぎ)じとぞ見(み)えし。日(ひ)ごろは平家(へいけ)院(ゐん)をも内(うち)をもとりまいらせ(まゐらせ)て、西国(さいこく)の方(かた)へ御幸(ごかう)行幸(ぎやうがう)をもなし奉(たてまつ)らんと支度(したく)せられたりしに、かく打(うち)すてさせ給(たま)ひぬれば、たのむ木(こ)のもとに雨(あめ)のたまらぬ心地(ここち)ぞせられける。
「さりとては行幸(ぎやうがう)ばかりなり共(とも)なしまいらせよ(まゐらせよ)」とて、卯剋(うのこく)ばかりに既(すで)に行幸(ぎやうがう)の御(み)こしよせたりければ、主上(しゆしやう)は今年(ことし)六歳(ろくさい)、いまだいとけなうましませば、なに心(ごころ)もなうめされけり。国母(こくぼ)建礼門院(けんれいもんゐん)御同輿(ごどうよ)にまいら(まゐら)せ給(たま)ふ。内侍所(ないしどころ)、神璽(しんし)、宝剣(ほうけん)わたし奉(たてまつ)る。「印鑰(いんやく・ゐんやく)、時札(ときのふだ)、玄上(けんじやう)、鈴(すず)かな(ン)ど(など)もとりぐせよ」と平大納言(へいだいなごん)下知(げぢ)せられけれ共(ども)、あまりにあはて(あわて)さはい(さわい)でとりおとす物(もの)ぞおほかりける。
日(ひ)の御座(ござの)御剣(ぎよけん)な(ン)ど(など)もとりわすれさせ給(たま)ひけり。やがて此(この)時忠卿(ときただのきやう)、内蔵頭(くらのかみ)信基(のぶもと)、讃岐(さぬきの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)時実(ときざね)三人(さんにん)ばかりぞ、衣冠(いくわん)にて供奉(ぐぶ)せられける。近衛(こんゑ)づかさ、御綱(みつな)のすけ、甲冑(かつちう)をよろい(よろひ)弓箭(きゆうせん・きうせん)を帯(たい)して供奉(ぐぶ)せらる。七条(しつでう)を西(にし)へ、朱雀(しゆしやか)を南(みなみ・み(ン)なみ)へ行幸(ぎやうがう)なる。明(あく)れば七月(しちぐわつ)廿五日(にじふごにち)也(なり)。漢天(かんてん)既(すで)にひらきて、雲(くも)東嶺(とうれい)にたなびき、あけがたの月(つき)しろくさえて、鶏鳴(けいめい)又(また)いそがはし。夢(ゆめ)にだにかかる事(こと)はみず。一(ひと)とせ都(みやこ)うつりとて俄(にはか)にあはたたしかり(あわたたしかり)しは、かかるべかりける先表(ぜんべう)共(とも)今(いま)こそおもひしられけれ。
摂政殿(せつしやうどの)も行幸(ぎやうがう)に供奉(ぐぶ)して御出(ぎよしゆつ)なりけるが、七条大宮(しつでうおほみや)にてびんづらゆひたる童子(どうじ)の御車(おんくるま)の前(まへ)をつ(ッ)と走(はし)りとおる(とほる)を御覧(ごらん)ずれば、彼(かの)童子(どうじ)の左(ひだり)の袂(たもと)に、春(はる)の日(ひ)といふ文字(もんじ)ぞあらはれたる。春(はる)の日(ひ)とかいてはかすがとよめば、法相(ほつさう)擁護(おうご)の春日大明神(かすがだいみやうじん)、大織冠(たいしよくくわん・たいしよくはん)の御末(おんすゑ)をまもらせ給(たま)ひけりと、たのもしうおぼしめすところに、件(くだん)の童子(どうじ)の声(こゑ)とおぼしくて、
いかにせん藤(ふぢ)のすゑ葉(ば)のかれゆくをただ春(はる)の日(ひ)にまかせたらなむ
御供(おんとも)に候(さうらふ)進藤(しんどう)左衛門尉(さゑもんのじよう・さゑもんのぜう)高直(たかなほ・たかなふ)ちかうめして、「倩(つらつら)事(こと)のていを案(あん)ずるに、行幸(ぎやうがう)はなれ共(ども)御幸(ごかう)もならず。ゆく末(すゑ)たのもからずおぼしめすはいかに」と仰(おほせ)ければ、御牛飼(おんうしかひ)に目(め)を見(み)あはせたり。やがて心得(こころえ)て御車(おんくるま)をやりかへし、大宮(おほみや)をのぼりに、とぶが如(ごと)くにつかまつる。北山(きたやま)の辺(へん)知足院(ちそくゐん)へいらせ給(たま)ふ。 
維盛都落 (これもりのみやこおち) 

 

平家(へいけ)の侍(さぶらひ)越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ・じらうびやうへ)盛次(もりつぎ)、是(これ)を承(うけたま)は(ッ)ておひとどめまいらせ(まゐらせ)んと頻(しきり)にすすみけるが、人々(ひとびと)にせいせられてとどまりけり。小松(こまつの)三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)維盛(これもり)は、日(ひ)ごろよりおぼしめしまうけられたりけれ共(ども)、さしあた(ッ)てはかなしかりけり。北(きた)の方(かた)と申(まうす)は、故中御門(こなかのみかど)新大納言(しんだいなごん)成親卿(なりちかのきやう)の御(おん)むすめ也(なり)。桃顔(たうがん)露(つゆ)にほころび、紅粉(こうふん)眼(まなこ)に媚(こび)をなし、柳髪(りうはつ)風(かぜ)にみだるるよそほひ、又(また)人(ひと)あるべしとも見(み)え給(たま)はず。六代御前(ろくだいごぜん)とて、生年(しやうねん)十(とを)になり給(たま)ふ若公(わかぎみ)、その妹(いもと)八歳(はつさい)の姫君(ひめぎみ)おはしけり。此(この)人々(ひとびと)皆(みな)をくれ(おくれ)じとしたひ給(たま)へば、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)の給(たま)ひけるは、「日(ひ)ごろ申(まうし)し様(やう)に、われは一門(いちもん)に具(ぐ)して西国(さいこく)の方(かた)へ落行(おちゆく)也(なり)。いづくまでも具(ぐ)し奉(たてまつ)るべけれ共(ども)、道(みち)にも敵(かたき)待(まつ)なれば、心(こころ)やすうとおら(とほら)ん事(こと)も有(あり)がたし。たとい(たとひ)われうたれたりと聞(きき)給(たま)ふ共(とも)、さまな(ン)ど(など)かへ給(たま)ふ事(こと)はゆめゆめあるべからず。そのゆへ(ゆゑ)は、いかならん人(ひと)にも見(み)えて、身(み)をもたすけ、おさなき(をさなき)者共(ものども)をもはぐくみ給(たま)ふべし。
情(なさけ)をかくる人(ひと)もなど〔か〕なかるべき」と、やうやうになぐさめ給(たま)へ共(ども)、北方(きたのかた)とかうの返事(へんじ)もし給(たま)はず、ひきかづきてぞふし給(たま)ふ。すでにたたんとし給(たま)へば、袖(そで)にすが(ッ)て、「都(みやこ)には父(ちち)もなし、母(はは)もなし。捨(すて)られまいらせ(まゐらせ)て後(のち)、又(また)誰(たれ)にかはみゆべきに、いかならん人(ひと)にも見(み)えよな(ン)ど(など)承(うけたま)はるこそうらめしけれ。前世(ぜんぜ)の契(ちぎり)ありければ、人(ひと)こそ憐(あはれ)み給(たま)ふ共(とも)、又(また)人(ひと)ごとにしもや情(なさけ)をかくべき。いづくまでもともなひ奉(たてまつ)り、同(おな)じ野原(のばら)の露(つゆ)ともきえ、ひとつ底(そこ)のみくづともならんとこそ契(ちぎり)しに、さればさ夜(よ)のね覚(ざめ)のむつごとは、皆(みな)偽(いつはり)になりにけり。せめては身(み)ひとつならばいかがせん、すてられ奉(たてまつ)る身(み)のうさをおもひし(ッ)てもとどまりなん、おさなき(をさなき)者共(ものども)をば、誰(たれ)にみゆづり、いかにせよとかおぼしめす。うらめしうもとどめ給(たま)ふ物哉(ものかな)」と、且(かつ・かつ(ウ))はうらみ且(かつ・かつ(ウ))はしたひ給(たま)へば、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)の給(たま)ひけるは、「誠(まこと)に人(ひと)は十三(じふさん)、われは十五(じふご)より見(み)そめ奉(たてまつ)り、火(ひ)のなか水(みづ)の底(そこ)へもともにいり、ともにしづみ、限(かぎり)ある別路(わかれぢ)までも、をくれ(おくれ)先(さき)だたじとこそ申(まうし)しか共(ども)、かく心(こころ)うきありさまにていくさの陣(ぢん)へおもむけば、具足(ぐそく)し奉(たてまつ)り、ゆくゑ(ゆくへ)もしらぬ旅(たび)の空(そら)にてうき目(め)をみせ奉(たてまつ)らんもうたてかるべし。
其上(そのうへ)今度(こんど)は用意(ようい)も候(さうら)はず。いづくの浦(うら)にも心(こころ)やすう落(おち)ついたらば、それよりしてこそむかへに人(ひと)をもたてまつらめ」とて、おもひき(ッ)てぞたたれける。中門(ちゆうもん・ちうもん)の廊(らう)に出(いで)て、鎧(よろひ)と(ッ)てき、馬(むま)ひきよせさせ、既(すで)にのらんとし給(たま)へば、若公(わかぎみ)姫君(ひめぎみ)はしりいでて、父(ちち)の鎧(よろひ)の袖(そで)、草摺(くさずり)に取(とり)つき、「是(これ)はさればいづちへとて、わたらせ給(たま)ふぞ。我(われ)もまいら(まゐら)ん、われもゆかん」とめんめんにしたひなき給(たま)ふにぞ、うき世(よ)のきづなとおぼえて、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)いとどせんかたなげには見(み)えられける。さる程(ほど)に、御弟(おんおとと)新三位(しんざんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)資盛卿(すけもりのきやう)・左中将(さちゆうじやう・さちうじやう)清経(きよつね)・同(おなじく)少将(せうしやう)有盛(ありもり)・丹後(たんごの)侍従(じじゆう・じじう)忠房(ただふさ)・備中守(びつちゆうのかみ・びつちうのかみ)師盛(もろもり)兄弟(きやうだい)五騎(ごき)、乗(のり)ながら門(もん)のうちへ打入(うちい)り、庭(には)にひかへて、「行幸(ぎやうがう)は遥(はるか)にのびさせ給(たま)ひぬらん。いかにや今(いま)まで」と声々(こゑごゑ)に申(まう)されければ、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)馬(むま)にうちの(ッ)ていで給(たま)ふが、猶(なほ・なを)ひ(ッ)かへし、(えん)のきはへうちよせて、弓(ゆみ)のはずで御簾(みす)をざ(ッ)とかきあげ、「是(これ)御覧(ごらん)ぜよ、おのおの。
おさなき(をさなき)者共(ものども)があまりにしたひ候(さうらふ)を、とかうこしらへをか(おか)んと仕(つかまつ)る程(ほど)に、存(ぞん)の外(ほか)の遅参(ちさん)」との給(たま)ひもあへずなかれければ、庭(には)にひかへ給(たま)へる人々(ひとびと)皆(みな)鎧(よろひ)の袖(そで)をぞぬらされける。ここに斎藤五(さいとうご)、斎藤六(さいとうろく)とて、兄(あに)は十九(じふく)、弟(おとと)は十七(じふしち)になる侍(さぶらひ)あり。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)の御馬(おんむま)の左右(さう)のみづつきにとりつき、いづくまでも御供(おんとも)仕(つかまつ)るべき由(よし)申(まう)せば、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)の給(たま)ひけるは、「をのれら(おのれら)が父(ちち)斎藤(さいとう)別当(べつたう)北国(ほつこく)へくだ(ッ)し時(とき)、汝等(なんぢら)が頻(しきり)に供(とも)せうどいひしか共(ども)、「存(ぞんず)るむねがあるぞ」とて、汝等(なんぢら)をとどめをき(おき)、北国(ほつこく)へくだ(ッ)て遂(つひ・つい)に討死(うちじに)したりけるは、かかるべかりける事(こと)を、ふるい者(もの)でかねて知(しり)たりけるにこそ。あの六代(ろくだい)をとどめて行(ゆく)に、心(こころ)やすうふちすべき者(もの)のなきぞ。ただ理(り)をまげてとどまれ」との給(たま)へば、力(ちから)をよば(およば)ず、涙(なみだ)ををさへ(おさへ)てとどまりぬ。
北方(きたのかた)は、「としごろ日比(ひごろ)是(これ)程(ほど)情(なさけ)なかりける人(ひと)とこそ兼(かね)てもおもはざりしか」とて、ふしまろびてぞなかれける。若公(わかぎみ)姫君(ひめぎみ)女房達(にようばうたち)は、御簾(みす)の外(ほか)までまろび出(いで)て、人(ひと)の聞(きく)をもはばからず、声(こゑ)をはかりにぞおめき(をめき)さけび給(たま)ひける。此(この)声々(こゑごゑ)耳(みみ)の底(そこ)にとどま(ッ)て、西海(さいかい)のたつ浪(なみ)のうへ、吹(ふく)風(かぜ)の音(おと・をと)までも聞(きく)様(やう)にこそおもはれけめ。平家(へいけ)都(みやこ)を落行(おちゆく)に、六波羅(ろくはら)・池殿(いけどの)・小松殿(こまつどの)、八条(はつでう)・西八条(にしはつでう)以下(いげ)、一門(いちもん)の卿相(けいしやう)雲客(うんかく)の家々(いへいへ)廿(にじふ)余ケ所(よかしよ)、付々(つぎつぎ)の輩(ともがら)の宿所(しゆくしよ)々々(しゆくしよ)、京(きやう)白河(しらかは)に四五万間(しごまんげん)の在家(ざいけ)、一度(いちど)に火(ひ)をかけて皆(みな)焼払(やきはら)ふ。 
聖主臨幸 (せいしゆりんかう) 

 

或(あるい・あるひ)は聖主臨幸(せいしゆりんかう)の地(ち)也(なり)、鳳闕(ほうけつ)むなしく礎(いしずゑ)をのこし、鸞輿(らんよ)ただ跡(あと)をとどむ。或(あるいは・あるひは)后妃(こうひ)遊宴(いうえん・ゆうゑん)の砌(みぎり)也(なり)、椒房(せうはう)の嵐声(らんせい)かなしみ、腋庭(えきてい・ゑきてい)の露(つゆ)色(いろ)愁(うれ)ふ。荘香(さうきやう)翠帳(すいちやう)のもとゐ、戈林(くわりん・くはりん)釣渚(てうしよ)の館(たち)、槐棘(くわいきよく)の座(ざ)、燕鸞(えんらん・ゑんらん)のすみか、多日(たじつ)の経営(けいえい・けいゑい)をむなしうして、片時(へんし)の灰燼(くわいしん)となりはてぬ。况(いはん)や郎従(らうじゆう・らうじう)の蓬(ほうひつ)にをいて(おいて)をや。况(いはん)や雑人(ざふにん・ざうにん)の屋舎(をくしや・おくしや)にをいて(おいて)をや。余炎(よえん)の及(およぶ・をよぶ)ところ、在々所々(ざいざいしよしよ)数十町(すじつちやう・す(ウ)じつちやう)也(なり)。
強呉(きやうご)忽(たちまち)にほろびて、姑蘇台(こそたい)の露(つゆ)荊棘(けいきよく)にうつり、暴秦(ぼうしん)すでに衰(おとろへ)て、咸陽宮(かんやうきゆう・かんやうきう)の煙(けぶり)へいけいをかくしけんも、かくやとおぼえて哀(あはれ)也(なり)。日(ひ)ごろは函谷(かんごく)二(じかう)のさがしきをかたうせしか共(ども)、北狄(ほくてき)のために是(これ)を破(やぶ)られ、今(いま)は洪河(こうか)渭(けいゐ)のふかきをたのんじか共(ども)、東夷(とうい)のために是(これ)をとられたり。豈(あに)図(はかり)きや、忽(たちまち)に礼儀(れいぎ)の郷(きやう)を責(せめ)いだされて、泣々(なくなく)無智(むち)の境(さかひ)に身(み)をよせんと。昨日(きのふ)は雲(くも)の上(うへ)に雨(あめ)をくだす神竜(しんりよう・しんれう)たりき。今日(けふ)は、肆(いちぐら)の辺(へん)に水(みづ)をうしなう(うしなふ)枯魚(こぎよ)の如(ごと)し。
禍福(くわふく)道(みち)を同(おなじ)うし、盛衰(せいすい)掌(たなごころ)をかへす、いま目(め)の前(まへ)にあり。誰(たれ)か是(これ)をかなしまざらん。保元(ほうげん)のむかしは春(はる)の花(はな)と栄(さかえ・さかへ)しか共(ども)、寿永(じゆえい・じゆゑい)の今(いま)は秋(あき)の紅葉(もみぢ)と落(おち)はてぬ。去(さんぬる)治承(ぢしよう・ぢせう)四年(しねん)七月(しちぐわつ)、大番(おほばん)のために上洛(しやうらく)したりける畠山(はたけやまの)庄司(しやうじ)重能(しげよし)・小山田(をやまだの)別当(べつたう)有重(ありしげ)・宇津宮左衛門(うつのみやのさゑもん)朝綱(ともつな)、寿永(じゆえい・じゆゑい)までめしこめられたりしが、其(その)時(とき)既(すで)にきらるべかりしを、新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)知盛卿(とももりのきやう)申(まう)されけるは、「御運(ごうん)だにつきさせ給(たま)ひなば、これら百人(ひやくにん)千人(せんにん)が頸(くび)をきらせ給(たま)ひたり共(とも)、世(よ)をとらせ給(たま)はん事(こと)難(かた)かるべし。
古郷(こきやう)には妻子(さいし)所従等(しよじゆうら・しよじうら)いかに歎(なげき)かなしみ候(さうらふ)らん。若(もし)不思議(ふしぎ)に運命(うんめい)ひらけて、又(また)都(みやこ)へたちかへらせ給(たま)はん時(とき)は、ありがたき御情(おんなさけ)でこそ候(さうら)はんずれ。ただ理(り)をまげて本国(ほんごく)へ返(かへ)し遣(つかは)さるべうや候(さうらふ)らん」と申(まう)されければ、大臣殿(おほいとの)「此(この)儀(ぎ)尤(もつとも)しかるべし」とて、いとまをたぶ。これらかうべを地(ち)につけ、涙(なみだ)をながいて申(まうし)けるは、「去(さんぬる)治承(ぢしよう・ぢせう)より今(いま)まで、かひなき命(いのち)をたすけられまいらせ(まゐらせ)て候(さうら)へば、いづくまでも御供(おんとも)に候(さうらひ)て、行幸(ぎやうがう)の御(おん)ゆくゑ(ゆくへ)をみまいらせ(まゐらせ)ん」と頻(しきり)に申(まうし)けれ共(ども)、大臣殿(おほいとの)「汝等(なんぢら)が魂(たましひ・たましゐ)は皆(みな)東国(とうごく)にこそあるらんに、ぬけがら斗(ばかり)西国(さいこく)へめしぐすべき様(やう)なし。いそぎ下(くだ)れ」と仰(おほせ)られければ、力(ちから)なく涙(なみだ)ををさへ(おさへ)て下(くだ)りけり。これらも廿(にじふ)余年(よねん)のしう(しゆう)なれば、別(わかれ)の涙(なみだ)おさへがたし。 
忠教都落 (ただのりのみやこおち) 

 

薩摩守(さつまのかみ)忠教(ただのり)は、いづくよりやかへられたりけん、侍(さぶらひ・さぶらい)五騎(ごき)、童(わらは)一人(いちにん)、わが身(み)共(とも)に七騎(しちき)取(とつ)て返(かへ)し、五条(ごでうの)三位(さんみ)俊成卿(しゆんぜいのきやう)の宿所(しゆくしよ)におはしてみ給(たま)へば、門戸(もんこ)をとぢて開(ひら)かず。「忠教(ただのり)」と名(な)のり給(たま)へば、「おちうと帰(かへ)りきたり」とて、その内(うち)さはぎ(さわぎ)あへり。薩摩守(さつまのかみ)馬(むま)よりおり、みづからたからかにの給(たま)ひけるは、「別(べち)の子細(しさい)候(さうら)はず。三位殿(さんみどの)に申(まうす)べき事(こと)あ(ッ)て、忠教(ただのり)がかへりまい(ッ・まゐつ)て候(さうらふ)。門(もん)をひらかれず共(とも)、此(この)きはまで立(たち)よらせ給(たま)へ」との給(たま)へば、俊成卿(しゆんぜいのきやう)「さる事(こと)あるらん。其(その)人(ひと)ならばくるしかるまじ。いれ申(まう)せ」とて、門(かど)をあけて対面(たいめん)あり。
事(こと)の体(てい)何(なに)となう哀(あはれ)也(なり)。薩摩守(さつまのかみ)の給(たま)ひけるは、「年来(としごろ)申(まうし)承(うけたま)は(ッ)て後(のち)、をろか(おろか)ならぬ御事(おんこと)におもひまいらせ(まゐらせ)候(さうら)へども、この二三年(にさんねん)は、京都(きやうと)のさはぎ(さわぎ)、国々(くにぐに)のみだれ、併(しかしながら)当家(たうけ)の身(み)の上(うへ)の事(こと)に候(さうらふ)間(あひだ・あいだ)、そらくを存(ぞん)ぜずといへ共(ども)、つねにまいり(まゐり)よる事(こと)も候(さうら)はず。君(きみ)既(すで)に都(みやこ)を出(いで)させ給(たま)ひぬ。一門(いちもん)の運命(うんめい)はやつき候(さうらひ)ぬ。撰集(せんじふ・せんじう)のあるべき由(よし)承(うけたまはり)候(さうらひ)しかば、生涯(しやうがい)の面目(めんぼく)に、一首(いつしゆ)なり共(とも)御恩(ごおん・ごをん)をかうぶらうど存(ぞん)じて候(さうらひ)しに、やがて世(よ)のみだれいできて、其(その)沙汰(さた)なく候(さうらふ)条(でう)、ただ一身(いつしん)の歎(なげき)と存(ぞんじ)候(さうらふ)。世(よ)しづまり候(さうらひ)なば、勅撰(ちよくせん)の御沙汰(ごさた)候(さうら)はんずらん。
是(これ)に候(さうらふ)巻物(まきもの)のうちに、さりぬべきもの候(さうら)はば、一首(いつしゆ)なり共(とも)御恩(ごおん・ごをん)を蒙(かうぶり)て、草(くさ)の陰(かげ)にてもうれしと存(ぞんじ)候(さうら)はば、遠(とほ・とを)き御(おん)まもりでこそ候(さうら)はんずれ」とて、日(ひ)ごろ読(よみ)をか(おか)れたる歌共(うたども)のなかに、秀歌(しうか)とおぼしきを百余首(ひやくよしゆ)書(かき)あつめられたる巻物(まきもの)を、今(いま)はとてう(ッ)たたれける時(とき)、是(これ)をと(ッ)てもたれたりしが、鎧(よろひ)のひきあはせより取(とり)いでて、俊成卿(しゆんぜいのきやう)に奉(たてまつ)る。三位(さんみ)是(これ)をあけてみて、「かかるわすれがたみを給(たまは)りをき(おき)候(さうらひ)ぬる上(うへ)は、ゆめゆめそらくを存(ぞん)ずまじう候(さうらふ)。
御疑(おんうたがひ)あるべからず。さても只今(ただいま)の御(おん)わたりこそ、情(なさけ)もすぐれてふかう、哀(あはれ)も殊(こと)におもひしられて、感涙(かんるい)おさへがたう候(さうら)へ」との給(たま)へば、薩摩守(さつまのかみ)悦(よろこび)て、「今(いま)は西海(さいかい)の浪(なみ)の底(そこ)にしづまば沈(しづ)め、山野(さんや)にかばねをさらさばさらせ、浮世(うきよ)におもひをく(おく)事(こと)候(さうら)はず。さらばいとま申(まうし)て」とて、馬(むま)にうちのり甲(かぶと)の緒(を・お)をしめ、西(にし)をさいてぞあゆませ給(たま)ふ。三位(さんみ)うしろを遥(はるか)にみをく(ッ・おくつ)てたたれたれば、忠教(ただのり)の声(こゑ)とおぼしくて、「前途(せんど)程(ほど)遠(とほ・とを)し、思(おもひ)を鴈山(がんさん)の夕(ゆふべ)の雲(くも)に馳(はす)」と、たからかに口(くち)ずさみ給(たま)へば、俊成卿(しゆんぜいのきやう)いとど名残(なごり)おしう(をしう)おぼえて、涙(なみだ)ををさへ(おさへ)てぞ入(いり)給(たま)ふ。
其(その)後(のち)世(よ)しづま(ッ)て、千載集(せんざいしふ・せんざいしう)を撰(せん)ぜられけるに、忠教(ただのり)の有(あり)しあり様(さま)、いひをき(おき)しことの葉(は)、今更(いまさら)おもひ出(いで)て哀(あはれ)也(なり)ければ、彼(かの)巻物(まきもの)のうちにさりぬべき歌(うた)いくらもありけれ共(ども)、勅勘(ちよくかん)の人(ひと)なれば、名字(みやうじ)をばあらはされず、故郷花(こきやうのはな)といふ題(だい)にてよまれたりける歌(うた)一首(いつしゆ)ぞ、読人(よみひと)しらずと入(いれ)られける。
さざなみや志賀(しが)の都(みやこ)はあれにしをむかしながらの山(やま)ざくらかな
其(その)身(み)朝敵(てうてき)となりにし上(うへ)は、子細(しさい)にをよば(およば)ずといひながら、うらめしかりし事共(ことども)也(なり)。 
経正都落 (つねまさのみやこおち) 

 

修理大夫(しゆりのだいぶ)経盛(つねもり)の子息(しそく)、皇后宮(くわうごうぐう)の亮(すけ)経正(つねまさ)、幼少(えうせう・ようせう)にては仁和寺(にんわじ)の御室(おむろ)の御所(ごしよ)に、童形(とうぎやう)にて候(さうら)はれしかば、かかる怱劇(そうげき)の中(なか)にも其(その)御名残(おんなごり)き(ッ)とおもひ出(いで)て、侍(さぶらひ)五六騎(ごろくき)めし具(ぐ)して、仁和寺殿(にんわじどの)へ馳(はせ)まいり(まゐり)、門前(もんぜん)にて馬(むま)よりおり、申入(まうしいれ)られけるは、「一門(いちもん)運(うん)尽(つき)てけふ既(すで)に帝都(ていと)を罷出(まかりいで)候(さうらふ)。うき世(よ)におもひのこす事(こと)とては、ただ君(きみ)の御名残(おんなごり)ばかり也(なり)。八歳(はつさい)の時(とき)まいり(まゐり)はじめ候(さうらひ)て、十三(じふさん)で元服(げんぶく)仕(つかまつり)候(さうらふ)までは、あひいたはる事(こと)の候(さうら)はん外(ほか)は、あからさまにも御前(おんまへ)を立(たち)さる事(こと)も候(さうら)はざりしに、けふより後(のち)、西海(さいかい)千里(せんり)の浪(なみ)におもむいて、又(また)いづれの日(ひ)いづれの時(とき)帰(かへ)りまいる(まゐる)べしともおぼえぬこそ、口惜(くちをし・くちおし)く候(さうら)へ。今(いま)一度(いちど)御前(おんまへ)へまい(ッ・まゐつ)て、君(きみ)をもみまいらせ(まゐらせ)たう候(さうら)へ共(ども)、既(すで)に甲冑(かつちう)をよろい(よろひ)、弓箭(きゆうせん・きうせん)を帯(たい)し、あらぬさまなるよそおひ(よそほひ)に罷成(まかりなり)て候(さうら)へば、憚(はばかり)存(ぞんじ)候(さうらふ)」とぞ申(まう)されける。御室(おむろ)哀(あはれ)におぼしめし、「ただ其(その)すがたを改(あらた)めずしてまいれ(まゐれ)」とこそ仰(おほせ)けれ。
経正(つねまさ)、其(その)日(ひ)は紫地(むらさきぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、萌黄(もえぎ)の匂(にほひ)の鎧(よろひ)きて、長覆輪(ながぶくりん)の太刀(たち)をはき、きりう(きりふ)の矢(や)おひ、滋藤(しげどう)の弓(ゆみ)わきにはさみ、甲(かぶと)をばぬぎたかひもにかけ、御前(おまへ)の御坪(おつぼ)に畏(かしこま)る。御室(おむろ)やがて御出(おんいで)あ(ッ)て、御簾(みす)たかくあげさせ、「是(これ)へこれへ」とめされければ、大床(おほゆか)へこそまいら(まゐら)れけれ。供(とも)に具(ぐ)せられたる藤兵衛(とうびやうゑ)有教(ありのり)をめす。
赤地(あかぢ)の錦(にしき)の袋(ふくろ)に入(いれ)たる御琵琶(おんびは・おんびわ)も(ッ)てまいり(まゐり)たり。経正(つねまさ)是(これ)をとりついで、御前(おんまへ)にさしをき(おき)、申(まう)されけるは、「先年(せんねん)下(くだ)しあづか(ッ)て候(さうらひ)し青山(せいざん)もたせてまい(ッ・まゐつ)て候(さうらふ)。あまりに名残(なごり)はおしう(をしう)候(さうら)へ共(ども)、さしもの名物(めいぶつ)を田舎(でんじや)の塵(ちり)になさん事(こと)、口惜(くちをし・くちおし)う候(さうらふ)。若(もし)不思儀(ふしぎ)に運命(うんめい)ひらけて、又(また)都(みやこ)へ立帰(たちかへ)る事(こと)候(さうら)はば、其(その)時(とき)こそ猶(なほ・なを)下(くだ)しあづかり候(さうら)はめ」と泣々(なくなく)申(まう)されければ、御室(おむろ)哀(あはれ)におぼしめし、一首(いつしゆ)の御詠(ぎよえい・ぎよゑい)をあそばひ(あそばい)てくだされけり。
あかずしてわかるる君(きみ)が名残(なごり)をばのちのかたみにつつみてぞをく(おく)
経正(つねまさ)御硯(おんすずり)くだされて、
くれ竹(たけ)のかけひの水(みづ)はかはれどもなを(なほ)すみあかぬみやの中(うち)かな
さていとま申(まうし)て出(いで)られけるに、数輩(すはい)の童形(とうぎやう)・出世者(しゆつせしや)・坊官(ばうくわん)・侍(さぶらひ)僧(そう)に至(いた)るまで、経正(つねまさ)の袂(たもと)にすがり、袖(そで)をひかへて、名残(なごり)ををしみ涙(なみだ)をながさぬはなかりけり。其(その)中(なか)にも、経正(つねまさ)の幼少(えうせう・ようせう)の時(とき)、小師(こじ)でおはせし大納言(だいなごんの)法印(ほふいん・ほうゐん)行慶(ぎやうけい)と申(まうしし・まうせし)は、葉室大納言(はむろのだいなごん)光頼卿(くわうらいのきやう)の御子(おんこ)也(なり)。あまりに名残(なごり)をおしみ(をしみ)て、桂河(かつらがは)のはたまでうちをくり(おくり)、さてもあるべきならねば、其(それ)よりいとまこうて泣々(なくなく)わかれ給(たま)ふに、法印(ほふいん・ほうゐん)かうぞおもひつづけ給(たま)ふ。
あはれなり老木(おいき)わか木(ぎ)の山(やま)ざくらをくれ(おくれ)さきだち花(はな)はのこらじ
経正(つねまさ)の返事(へんじ)には、
旅(たび)ごろも夜(よ)な夜(よ)な袖(そで)をかたしきておもへばわれはとをく(とほく)ゆきなん
さてまいてもたせられたる赤旗(あかはた)ざ(ッ)とさしあげたり。あそこここにひかへて待(まち)奉(たてまつ)る侍共(さぶらひども)、あはやとて馳(はせ)あつまり、その勢(せい)百騎(ひやくき)ばかり、鞭(むち)をあげ駒(こま)をはやめて、程(ほど)なく行幸(ぎやうがう)にお(ッ)つき奉(たてまつ)る。 
青山之沙汰 (せいざんのさた) 

 

此(この)経正(つねまさ)十七(じふしち)の年(とし)、宇佐(うさ)の勅使(ちよくし)を承(うけたま)は(ッ)てくだられけるに、其(その)時(とき)青山(せいざん)を給(たま)は(ッ)て、宇佐(うさ)へまいり(まゐり)、御殿(ごてん)にむかひ奉(たてまつ)り秘曲(ひきよく)をひき給(たま)ひしかば、いつ聞(きき)なれたる事(こと)はなけれ共(ども)、ともの宮人(みやびと)をしなべて(おしなべて)、緑衣(りよくい)の袖(そで)をぞしぼりける。
聞(きき)しらぬやつごまでも村雨(むらさめ)とはまがはじな。目出(めでた)かりし事共(ことども)也(なり)。彼(かの)青山(せいざん)と申(まうす)御琵琶(おんびは・おんびわ)は、昔(むかし)仁明天皇(にんみやうてんわうの)御宇(ぎよう)、嘉祥(かしやう)三年(さんねん)の春(はる)、掃部頭(かもんのかみ)貞敏(ていびん)渡唐(とたう)の時(とき)、大唐(たいたう)の琵琶(びは・びわ)の博士(はかせ)廉妾夫(れんせうぶ)にあひ、三曲(さんきよく)を伝(つたへ)て帰朝(きてう)せしに、玄象(けんじやう)・師子丸(ししまる)・青山(せいざん)、三面(さんめん)の琵琶(びは・びわ)を相伝(さうでん)してわたりけるが、竜神(りゆうじん・りうじん)やおしみ(をしみ)給(たま)ひけん、浪風(なみかぜ)あらく立(たち)ければ、師子丸(ししまる)をば海底(かいてい)にしづめ、いま二面(にめん)の琵琶(びは・びわ)をわたして、吾(わが)朝(てう)の御門(みかど)の御(おん)たからとす。
村上(むらかみ)の聖代(せいたい)応和(おうわ)のころおひ(ころほひ)、三五夜中(さんごやちゆう・さんごやちう)新月(しんげつ)白(しろ)くさえ、凉風(りやうふう)颯々(さつさつ)たりし夜(よ)なか半(ば)に、御門(みかど)清凉殿(せいりやうでん)にして玄象(けんじやう)をぞあそばされける時(とき)に、影(かげ)の如(ごと)くなるもの御前(おんまへ)に参(さん)じて、ゆう(いう)にけだかき声(こゑ)にてしやうがをめでたう仕(つかまつ)る。御門(みかど)御琵琶(おんびは・おんびわ)をさしをか(おか)せ給(たま)ひて、「抑(そもそも)汝(なんぢ)はいかなる者(もの)ぞ。いづくより来(きた)れるぞ」と御尋(おんたづね)あれば、「是(これ)は昔(むかし)貞敏(ていびん)に三曲(さんきよく)をつたへ候(さうらひ)し大唐(たいたう)の琵琶(びは・びわ)のはかせ廉妾夫(れんせうぶ)と申(まうす)者(もの)で候(さうらふ)が、三曲(さんきよく)のうち秘曲(ひきよく)を一曲(いつきよく)のこせるによ(ッ)て、魔道(まだう)へ沈淪(ちんりん)仕(つかまつり)て候(さうらふ)。今(いま)御琵琶(おんびは・おんびわ)の御撥音(おんばちおと・おんばちをと)たへにきこえ侍(はべ)る間(あひだ・あいだ)、参入(さんにふ・さんにう)仕(つかまつる)ところ也(なり)。
ねがはくは此(この)曲(きよく)を君(きみ)にさづけ奉(たてまつ)り、仏果(ぶつくわ)菩提(ぼだい)を証(しよう・せう)ずべき」由(よし)申(まうし)て、御前(おんまへ)に立(たて)られたる青山(せいざん)をとり、てんじゆをねぢて秘曲(ひきよく)を君(きみ)にさづけ奉(たてまつ)る。三曲(さんきよく)のうちに上玄(しやうげん)石上(せきしやう)是(これ)也(なり)。其(その)後(のち)は君(きみ)も臣(しん)もおそれさせ給(たま)ひて、此(この)御琵琶(おんびは・おんびわ)をあそばしひく事(こと)もせさせ給(たま)はず。御室(おむろ)へまいらせ(まゐらせ)られたりけるを、経正(つねまさ)の幼少(えうせう・ようせう)の時、御最愛(ごさいあい)の童形(とうぎやう)たるによ(ッ)て下(くだ)しあづかりたりけるとかや。こう(かふ)は紫藤(しとう)のこう(かふ)、夏山(なつやま)の峯(みね)のみどりの木(こ)の間(ま)より、有明(ありあけ)の月(つき)の出(いづ)るを撥面(ばちめん)にかかれたりけるゆへ(ゆゑ)にこそ、青山(せいざん)とは付(つけ)られたれ。玄象(けんじやう)にもあひおとらぬ希代(きたい)の名物(めいぶつ)なりけり。  
一門都落 (いちもんのみやこおち) 

 

池(いけ)の大納言(だいなごん)頼盛卿(よりもりのきやう)も池殿(いけどの)に火(ひ)をかけて出(いで)られけるが、鳥羽(とば)の南(みなみ)の門(もん)にひかへつつ、「わすれたる事(こと)あり」とて、赤(あか)じるし切捨(きりすて)て、其(その)勢(せい)三百余騎(さんびやくよき)、都(みやこ)へと(ッ)てかへされけり。平家(へいけ)の侍(さぶらひ)越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ・じらうびやうへ)盛次(もりつぎ)、大臣殿(おほいとの)の御(おん)まへに馳(はせ)まい(ッ・まゐつ)て、「あれ御覧(ごらん)候(さうら)へ。池殿(いけどの)の御(おん)とどまり候(さうらふ)に、おほうの侍共(さぶらひども)のつきまいらせ(まゐらせ)て罷(まかり)とどまるが奇怪(きくわい・き(ツ)くわい)におぼえ候(さうらふ)。
大納言殿(だいなごんどの)まではおそれも候(さうらふ)。侍(さぶらひ)共(ども)に矢(や)一(ひとつ)いかけ候(さうら)はん」と申(まうし)ければ、「年来(ねんらい)の重恩(ちようおん・てうをん)を忘(わすれ)て、今(いま)此(この)ありさまを見(み)はてぬ不当人(ふたうじん)をば、さなく共(とも)ありなん」との給(たま)へば、力(ちから)をよば(およば)でとどまりけり。「さて小松殿(こまつどの)の君達(きんだち)はいかに」との給(たま)へば、「いまだ御一所(いつしよ)もみえさせ給(たま)ひ候(さうら)はず」と申(まう)す。其(その)時(とき)新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)涙(なみだ)をはらはらとながいて、「都(みやこ)を出(いで)ていまだ一日(いちにち)だにも過(すぎ)ざるに、いつしか人(ひと)の心(こころ)どものかはりゆくうたてさよ。まして行(ゆく)すゑとてもさこそはあらんずらめとおもひしかば、都(みやこ)のうちでいかにもならむと申(まうし)つる物(もの)を」とて、大臣殿(おほいとの)の御(おん)かたをうらめしげにこそ見(み)給(たま)ひけれ。
抑(そもそも)池殿(いけどの)のとどまり給(たま)ふ事(こと)をいかにといふに、兵衛佐(ひやうゑのすけ)つねは頼盛(よりもり)に情(なさけ)をかけて、「御(おん)かたをばま(ッ)たくをろか(おろか)におもひまいらせ(まゐらせ)候(さうら)はず。ただ故池殿(こいけどの)のわたらせ給(たま)ふとこそ存(ぞんじ)候(さうら)へ。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)も御照罰(ごせうばつ)候(さうら)へ」な(ン)ど(など)、度々(どど)誓状(せいじやう・せいでう)をも(ッ)て申(まう)されける上(うへ)、平家(へいけ)追討(ついたう・つゐたう)のために討手(うつて)の使(つかひ)ののぼる度(たび)ごとに、「相構(あひかまへ)て池殿(いけどの)の侍共(さぶらひども)にむか(ッ)て弓(ゆみ)ひくな」な(ン)ど(など)情(なさけ)をかくれば、「一門(いちもん)の平家(へいけ)は運(うん)つき、既(すで)に都(みやこ)を落(おち)ぬ。今(いま)は兵衛佐(ひやうゑのすけ)にたすけられんずるにこそ」とのたまひて、都(みやこ)へかへられけるとぞ聞(きこ)えし。
八条(はつでうの)女院(にようゐん)の仁和寺(にんわじ)の常葉(ときは)どのにわたらせ給(たま)ふにまいり(まゐり)こもられけり。女院(にようゐん)の御(おん)めのとご、宰相殿(さいしやうどの)と申(まうす)女房(にようばう)にあひ具(ぐ)し給(たま)へるによ(ッ)てなり。「自然(しぜん)の事(こと)候(さふらは)者(ば)、頼盛(よりもり)かまへてたすけさせ給(たま)へ」と申(まう)されけれ共(ども)、女院(にようゐん)「今(いま)は世(よ)の世(よ)にてもあらばこそ」とて、たのもし気(げ)もなうぞ仰(おほせ)ける。凡(およそ・をよそ)は兵衛佐(ひやうゑのすけ)ばかりこそ芳心(はうじん)は存(ぞん)ぜらるるとも、自余(じよ)の源氏共(げんじども)はいかがあらんずらん。なまじい(なまじひ)に一門(いちもん)にははなれ給(たま)ひぬ、波(なみ)にも磯(いそ)にもつかぬ心地(ここち)ぞせられける。さる程(ほど)に、小松殿(こまつどの)の君達(きんだち)は、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)維盛卿(これもりのきやう)をはじめ奉(たてまつ)て、兄弟(きやうだい)六人(ろくにん)、其(その)勢(せい)千騎(せんぎ)ばかりにて、淀(よど)のむつ田河原(だがはら)にて行幸(ぎやうがう・きやうがう)にお(ッ)つき奉(たてまつ)る。
大臣殿(おほいとの)待(まち)うけ奉(たてまつ)り、うれし気(げ)にて、「いかにや今(いま)まで」との給(たま)へば、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)「おさなき(をさなき)もの共(ども)があまりにしたひ候(さうらふ)を、とかうこしらへをか(おか)んと遅参(ちさん)仕(つかまつり)候(さうらひ)ぬ」と申(まう)されければ、大臣殿(おほいとの)「などや心(こころ)づよう六代(ろくだい)どのをば具(ぐ)し奉(たてまつ)り給(たま)はぬぞ」と仰(おほせ)られければ、維盛卿(これもりのきやう)「行(ゆく)すゑとてもたのもしうも候(さうら)はず」とて、とふにつらさの涙(なみだ)をながされけるこそかなしけれ。
落行(おちゆく)平家(へいけ)は誰々(たれたれ)ぞ。前(さきの)内大臣(ないだいじん)宗盛公(むねもりこう)・平(へい)大納言(だいなごん)時忠(ときただ)・平(へい)中納言(ぢゆうなごん・ぢうなごん)教盛(のりもり)・新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)知盛(とももり)・修理大夫(しゆりのだいぶ)経盛(つねもり)・右衛門督(うゑもんのかみ)清宗(きよむね)・本三位(ほんざんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)重衡(しげひら)・小松(こまつの)三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)維盛(これもり)・新三位(しんざんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)資盛(すけもり)・越前(ゑちぜんの)三位(さんみ)通盛(みちもり)、殿上人(てんじやうびと)には内蔵頭(くらのかみ)信基(のぶもと)・讃岐(さぬきの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)時実(ときざね)・左中将(さちゆうじやう・さちうじやう)清経(きよつね)・小松(こまつの)少将(せうしやう)有盛(ありもり)・丹後(たんごの)侍従(じじゆう・じじう)忠房(ただふさ)・皇后宮亮(くわうごうぐうのすけ・くはうごうぐうのすけ)経正(つねまさ)・左馬頭(さまのかみ)行盛(ゆきもり)・薩摩守(さつまのかみ)忠教(ただのり)・能登守(のとのかみ)教経(のりつね)・武蔵守(むさしのかみ)知明(ともあきら)・備中守(びつちゆうのかみ・びつちうのかみ)師盛(もろもり)・淡路守(あはぢのかみ)清房(きよふさ)・尾張守(をはりのかみ・おはりのかみ)清定(きよさだ)・若狭守(わかさのかみ)経俊(つねとし)・蔵人大夫(くらんどのたいふ)成盛(なりもり)・大夫(たいふ)敦盛(あつもり)、僧(そう)には二位(にゐの)僧都(そうづ)専親(せんしん)・法勝寺(ほつしようじの・ほつせうじの)執行(しゆぎやう)能円(のうゑん)・中納言(ちゆうなごんの・ちうなごんの)律師(りつし)仲快(ちゆうくわい・ちうくわい)、経誦坊(きやうじゆばうの)阿闍梨(あじやり)祐円(いうゑん・ゆうゑん)、侍(さぶらひ)には受領(じゆりやう)・検非違使(けんびゐし・けんびいし)・衛府(ゑふ)・諸司(しよし)百六十人(ひやくろくじふにん)、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)七千余騎(しちせんよき)、是(これ)は東国(とうごく)北国(ほつこく)度々(どど)のいくさに、此(この)二三ケ年(にさんがねん)が間(あひだ・あいだ)討(うち)もらされて、纔(わづか)に残(のこ)るところ也(なり)。
山崎(やまざき)関戸(せきど)の院(ゐん)に玉(たま)の御輿(みこし)をかきすへ(すゑ)て、男山(をとこやま)をふし拝(をが・おが)み、平大納言(へいだいなごん)時忠卿(ときただのきやう)「南無(なむ)帰命(きみやう)頂礼(ちやうらい・てうらい)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、君(きみ)をはじめまいらせ(まゐらせ)て、我等(われら)都(みやこ)へ帰(かへ)し入(いれ)させ給(たま)へ」と、祈(いの)られけるこそかなしけれ。おのおのうしろをかへりみ給(たま)へば、かすめる空(そら)の心地(ここち)して、煙(けぶり)のみこころぼそく立(たち)のぼる。
平(へい)中納言(ぢゆうなごん・ぢうなごん)教盛卿(のりもりのきやう)
はかなしなぬしは雲井(くもゐ)にわかるれば跡(あと)はけぶりとたちのぼるかな
修理大夫(しゆりのだいぶ)経盛(つねもり)
ふるさとをやけ野(の)の原(はら)にかへりみてすゑもけぶりのなみぢをぞ行(ゆく)
まことに古郷(こきやう)をば一片(いつぺん)の煙塵(えんぢん)と隔(へだて)つつ、前途(せんど)万里(ばんり)の雲路(くもぢ)におもむかれけん人々(ひとびと)の心(こころ)のうち、おしはかられて哀(あはれ)也(なり)。肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)は、河尻(かはじり)に源氏(げんじ)まつときいて、けちらさむとて五百余騎(ごひやくよき)で発向(はつかう)したりけるが、僻事(ひがこと)なれば帰(かへ)りのぼる程(ほど)に、うどのの辺(へん)にて行幸(ぎやうがう)にまいり(まゐり)あふ。貞能(さだよし)馬(むま)よりとびおり、弓(ゆみ)わきにはさみ、大臣殿(おほいとの)の御前(おんまへ)に畏(かしこまつ)て申(まうし)けるは、「是(これ)は抑(そもそも)いづちへとておちさせ給(たまひ)候(さうらふ)やらん。
西国(さいこく)へくだらせ給(たま)ひたらば、おち人(うと)とてあそこここにてうちちらされ、うき名(な)をながさせ給(たま)はん事(こと)こそ口惜(くちをしう・くちおしう)候(さうら)へ。ただ都(みやこ)のうちでこそいかにもならせ給(たま)はめ」と申(まうし)ければ、大臣殿(おほいとの)「貞能(さだよし)はしらぬか。木曾(きそ)既(すで)に北国(ほつこく)より五万余騎(ごまんよき)で攻(せめ)のぼり、比叡山(ひえいさん・ひゑいさん)東坂本(ひがしざかもと・ひ(ン)がしざかもと)にみちみちたむ(たん)なり。此(この)夜半(やはん)ばかり、法皇(ほふわう・ほうわう)もわたらせ給(たま)はず。おのおのが身(み)ばかりならばいかがせん、女院(にようゐん)二位殿(にゐどの)に、まのあたりうき目(め)をみせまいらせ(まゐらせ)んも心(こころ)ぐるしければ、行幸(ぎやうがう)をもなしまいらせ(まゐらせ)、人々(ひとびと)をもひき具(ぐ)し奉(たてまつり)て、一(ひと)まどもやとおもふぞかし」と仰(おほせ)られければ、「さ候(さうら)はば、貞能(さだよし)はいとま給(たま)は(ッ)て、都(みやこ)でいかにもなり候(さうら)はん」とて、めし具(ぐ)したる五百余騎(ごひやくよき)の勢(せい)をば、小松殿(こまつどの)の君達(きんだち)につけ奉(たてまつ)り、手勢(てぜい)卅(さんじつ)騎(き)ばかりで都(みやこ)へひ(ッ)かへす。京中(きやうぢゆう・きやうぢう)にのこりとどまる平家(へいけ)の余党(よたう)をうたんとて、貞能(さだよし)が帰(かへ)り入(いる)よし聞(きこ)えしかば、池(いけの)大納言(だいなごん)「頼盛(よりもり)がうへでぞあるらん」とて、大(おほき)におそれさはが(さわが)れけり。
貞能(さだよし)は西八条(にしはつでう)のやけ跡(あと)に大幕(おほまく)ひかせ、一夜(いちや)宿(しゆく)したりけれ共(ども)、帰(かへ)り入(いり)給(たま)ふ平家(へいけ)の君達(きんだち)一所(いつしよ)もおはせねば、さすが心(こころ)ぼそうや思(おも)ひけん、源氏(げんじ)の馬(むま)のひづめにかけじとて、小松殿(こまつどの)の御(おん)はかほらせ、御骨(ごこつ)にむかひ奉(たてまつ)て泣々(なくなく)申(まうし)けるは、「あなあさまし、御一門(ごいちもん)の御(ご)らん候(さうら)へ。「生(しやう)ある物(もの)は必(かなら)ず滅(めつ)す。楽(たのしみ)尽(つき)て悲(かなしみ)来(きた)る」といにしへより書(かき)をき(おき)たる事(こと)にて候(さうら)へ共(ども)、まのあたりかかるうき事(こと)候(さうら)はず。
君(きみ)はかやうの事(こと)をまづさとらせ給(たま)ひて、兼(かね)て仏神(ぶつじん)三宝(さんぼう)に御祈誓(ごきせい)あ(ッ)て、御世(おんよ)をはやうさせましましけるにこそ。ありがたうこそおぼえ候(さうら)へ。其(その)時(とき)貞能(さだよし)も最後(さいご)の御供(おんとも)仕(つかまつ)るべう候(さうらひ)ける物(もの)を、かひなき命(いのち)をいきて、今(いま)はかかるうき目(め)にあひ候(さうらふ)。死期(しご)の時(とき)は必(かなら)ず一仏土(いちぶつど)へむかへさせ給(たま)へ」と、泣々(なくなく)遥(はるか)にかきくどき、骨(こつ)をば高野(かうや)へ送(おく・をく)り、あたりの土(つち)を賀茂河(かもがは)にながさせ、世(よ)の有様(ありさま)たのもからずやおもひけん、しう(しゆう)とうしろあはせに東国(とうごく)へこそおち行(ゆき)けれ。宇都宮(うつのみや)をば貞能(さだよし)申(まうし)あづか(ッ)て、情(なさけ)ありければ、そのよしみにや、貞能(さだよし)又(また)宇都宮(うつのみや)をたのんで下(くだ)りければ、芳心(はうじん)しけるとぞ聞(きこ)えし。 
福原落 (ふくはらおち) 

 

平家(へいけ)は小松(こまつの)三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)維盛卿(これもりのきやう)の外(ほか)は、大臣殿(おほいとの)以下(いげ)妻子(さいし)を具(ぐ)せられけれ共(ども)、つぎざまの人共(ひとども)はさのみひきしろふに及(およ・をよ)ばねば、後会(こうくわい)其(その)期(ご)をしらず、皆(みな)うち捨(すて)てぞ落行(おちゆき)ける。人(ひと)はいづれの日(ひ)、いづれの時(とき)、必(かなら)ず立帰(たちかへ)るべしと、其(その)期(ご)を定(さだめ)をく(おく)だにも久(ひさ)しきぞかし。况(いはん)や是(これ)はけふを最後(さいご)、只今(ただいま)かぎりの別(わかれ)なれば、ゆくもとどまるも、たがゐ(たがひ)に袖(そで)をぞぬらしける。相伝(さうでん)譜代(ふだい)のよしみ、年(とし)ごろ日(ひ)ごろ、重恩(ぢゆうおん・ぢうをん)争(いかで)かわするべきなれば、老(おい)たるもわかきもうしろのみかへりみて、さきへはすすみもやらざりけり。
或(あるいは・あるひは)磯(いそ)べの浪枕(なみまくら)、やえ(やへ)の塩路(しほぢ)に日(ひ)をくらし、或(あるいは・あるひは)遠(とほ・とを)きをわけ、けはしきをしのぎつつ、駒(こま)に鞭(むち)うつ人(ひと)もあり、舟(ふね)に棹(さを・さほ)さす者(もの)もあり、思(おも)ひ思(おも)ひ心々(こころごころ)におち行(ゆき)けり。福原(ふくはら)の旧都(きうと)について、大臣殿(おほいとの)、しかるべき侍共(さぶらひども)、老少(らうせう)数百人(すひやくにん)めして仰(おほせ)られけるは、「積善(しやくぜん)の余慶(よけい)家(いへ)につき、積悪(しやくあく)の余殃(よわう)身(み)に及(およ・をよ)ぶゆへ(ゆゑ)に、神明(しんめい)にもはなたれ奉(たてまつ)り、君(きみ)にも捨(すて)られまいらせ(まゐらせ)て、帝都(ていと)をいで旅泊(りよはく)にただよふ上(うへ)は、なんのたのみかあるべきなれ共(ども)、一樹(いちじゆ)の陰(かげ)にやどるも先世(ぜんぜ・せんぜ)の契(ちぎり)あさからず。
同(おな)じ流(ながれ)をむすぶも、多生(たしやう)の縁(えん)猶(なほ・なを)ふかし。いかに况(いはん)や、汝等(なんぢら)は一旦(いつたん)したがひつく門客(もんかく)にあらず、累祖(るいそ)相伝(さうでん)の家人(けにん)也(なり)。或(あるいは・あるひは)近親(きんしん)のよしみ他(た)に異(こと)なるもあり、或(あるいは・あるひは)重代(ぢゆうだい・ぢうだい)芳恩(はうおん・はうをん)是(これ)ふかきもあり、家門(かもん)繁昌(はんじやう)の古(いにしへ)は恩波(おんぱ・をんぱ)によ(ッ)て私(わたくし)をかへりみき。今(いま)なんぞ芳恩(はうおん・はうをん)をむくひざらんや。
且(かつ・かつ(ウ))は十善帝王(じふぜんていわう)、三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)を帯(たい)してわたらせ給(たま)へば、いかならん野(の)の末(すゑ)、山(やま)の奥(おく)までも、行幸(ぎやうがう)の御供(おんとも)仕(つかまつ)らんとは思(おも)はずや」と仰(おほせ)られければ、老少(らうせう)みな涙(なみだ)をながいて申(まうし)けるは、「あやしの鳥(とり)けだ物(もの)も、恩(おん・をん)を報(ほう)じ、徳(とく)をむくふ心(こころ)は候(さうらふ)なり。申(まうし)候(さうら)はむや、人倫(じんりん)の身(み)として、いかがそのことはり(ことわり)を存知(ぞんぢ)仕(つかまつり)候(さうら)はでは候(さうらふ)べき。廿(にじふ)余年(よねん)の間(あひだ・あいだ)妻子(さいし)をはぐくみ所従(しよじゆう・しよじう)をかへりみる事(こと)、しかしながら君(きみ)の御恩(ごおん・ごをん)ならずといふ事(こと)なし。就中(なかんづく)に、弓箭(きゆうせん・きうせん)馬上(ばしやう)に携(たづさは)るならひ、ふた心(ごころ)あるをも(ッ)て恥(はぢ)とす。
然者(しかれば)則(すなはち)日本(につぽん)の外(ほか)、新羅(しんら)・百済(はくさい)・高麗(かうらい)・荊旦(けいたん)、雲(くも)のはて、海(うみ)のはてまでも、行幸(ぎやうがう)の御供(おんとも)仕(つかまつ)て、いかにもなり候(さうら)はん」と、異口(いく)同音(どうおん・どうをん)に申(まうし)ければ、人々(ひとびと)皆(みな)たのもし気(げ)にぞみえられける。福原(ふくはら)の旧里(きうり)に一夜(いちや)をこそあかされけれ。折節(をりふし・おりふし)秋(あき)の始(はじめ)の月(つき)は、しもの弓(ゆみ)はりなり。深更(しんかう)空夜(くうや)閑(しづか)にして、旅(たび)ねの床(とこ)の草枕(くさまくら)、露(つゆ)も涙(なみだ)もあらそひて、ただ物(もの)のみぞかなしき。
いつ帰(かへ)るべし共(とも)おぼえねば、故(こ)入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)の作(つく)りをき(おき)給(たま)ひし所々(しよしよ)を見(み)給(たま)ふに、春(はる)は花(はな)みの岡(をか・おか)の御所(ごしよ)、秋(あき)は月見(つきみ)の浜(はま)の御所(ごしよ)、泉殿(いづみどの)・松陰殿(まつかげどの)・馬場殿(ばばどの)、二階(にかい)の桟敷殿(さんじきどの)、雪見(ゆきみ)の御所(ごしよ)、萱(かや)の御所(ごしよ)、人々(ひとびと)の館共(たちども)、五条(ごでうの)大納言(だいなごん)国綱卿(くにつなのきやう)の承(うけたま)は(ッ)て造進(ざうしん)せられし里内裏(さとだいり)、鴦(をし)の瓦(かはら)、玉(たま)の石(いし)だたみ、いづれもいづれも三(み)とせが程(ほど)に荒(あれ)はてて、旧苔(きうたい)道(みち)をふさぎ、秋(あき)の草(くさ)門(かど)をとづ。瓦(かはら)に松(まつ)おひ、墻(かき)に蔦(つた)しげれり。
台(うてな)傾(かたぶき)て苔(こけ)むせり、松風(まつかぜ)ばかりや通(かよふ)らん。簾(すだれ)たえて閨(ねや)あらはなり、月影(つきかげ)のみぞさし入(いり)ける。あけぬれば、福原(ふくはら)の内裏(だいり)に火(ひ)をかけて、主上(しゆしやう)をはじめ奉(たてまつり)て、人々(ひとびと)みな御舟(おんふね)にめす。都(みやこ)を立(たち)し程(ほど)こそなけれ共(ども)、是(これ)も名残(なごり)はおしかり(をしかり)けり。海人(あま)のたく藻(も)の夕煙(ゆふけぶり)、尾上(をのへ・おのへ)の鹿(しか)の暁(あかつき)のこゑ、渚々(なぎさなぎさ)によする浪(なみ)の音(おと・をと)、袖(そで)に宿(やど)かる月(つき)の影(かげ)、千草(ちくさ)にすだく蟋蟀(しつそつ)のきりぎりす、すべて目(め)に見(み)え耳(みみ)にふるる事(こと)、一(ひとつ)として哀(あはれ)をもよほし、心(こころ)をいたましめずといふ事(こと)なし。
昨日(きのふ)は東関(とうくわん)の麓(ふもと)にくつばみをならべて十万余騎(じふまんよき)、今日(けふ)は西海(さいかい)の浪(なみ)に纜(ともづな)をといて七千余(しちせん)余人(よにん)、雲海(うんかい)沈々(ちんちん)として、青天(せいでん)既(すで)にくれなんとす。孤島(こたう)に夕霧(せきむ)隔(へだ)て、月(つき)海上(かいしやう)にうかべり。極浦(きよくほ)の浪(なみ)をわけ、塩(しほ)にひかれて行(ゆく)舟(ふね)は、半天(なかぞら)の雲(くも)にさかのぼる。日(ひ)かずふれば、都(みやこ)は既(すで)に山川(さんせん)程(ほど)を隔(へだて)て、雲居(くもゐ)のよそにぞなりにける。はるばるきぬとおもふにも、ただつきせぬ物(もの)は涙(なみだ)也(なり)。浪(なみ)の上(うへ)に白(しろ)き鳥(とり)のむれゐるをみ給(たま)ひては、かれならん、在原(ありはら)のなにがしの、すみ田川(だがは)にてこととひけん、名(な)もむつまじき都鳥(みやこどり)にやと哀(あはれ)也(なり)。寿永(じゆえい)二年(にねん)七月(しちぐわつ)廿五日(にじふごにち)に平家(へいけ)都(みやこ)を落(おち)はてぬ。 
 
平家物語 巻八

 

山門御幸 (さんもんごかう) 
寿永(じゆえい・じゆゑい)二年(にねん)七月(しちぐわつ)廿四日(にじふしにち)夜半(やはん)ばかり、法皇(ほふわう・ほうわう)は按察(あぜちの)大納言(だいなごん)資方卿(すけかたのきやう)の子息(しそく)、右馬頭(むまのかみ)資時(すけとき)ばかり御供(おんとも・おとも)にて、ひそかに御所(ごしよ)を出(いで)させ給(たま)ひ、鞍馬(くらま)へ御幸(ごかう)なる。鞍馬(くらま)寺僧(じそう)ども「是(これ)は猶(なほ・なを)都(みやこ)ちかくてあしう候(さうらひ)なむ」と申(まうす)あひだ、篠(ささ)の峯(みね)・薬王坂(やくわうざか)な(ン)ど(など)申(まうす)さがしき嶮難(けんなん)を凌(しの)がせ給(たま)ひて、横河(よかは)の解脱谷(げだつだに)寂場坊(じやくぢやうばう)、御所(ごしよ)になる。大衆(だいしゆ)おこ(ッ)て、「東塔(とうだふ・とうだう)へこそ御幸(ごかう)あるべけれ」と申(まうし)ければ、東塔(とうだふ)の南谷(みなみだに)円融坊(えんゆうばう)御所(ごしよ)になる。かかりければ、衆徒(しゆと)も武士(ぶし)も、円融房(えんゆうばう)を守護(しゆご)し奉(たてまつ)る。法皇(ほふわう・ほうわう)は仙洞(せんとう)をいでて天台山(てんだいさん)に、主上(しゆしやう)は鳳闕(ほうけつ)をさ(ッ)て西海(さいかい)へ、摂政殿(せつしやうどの)は吉野(よしの)の奥(おく)とかや。女院(にようゐん)・宮々(みやみや)は八幡(やはた)・賀茂(かも)・嵯峨(さが)・うづまさ・西山(にしやま)・東山(ひがしやま・ひ(ン)がしやま)のかたほとりにつゐ(つい)て、にげかくれさせ給(たま)へり。
平家(へいけ)はおちぬれど、源氏(げんじ)はいまだ入(いり)かはらず。既(すで)に此(この)京(きやう)はぬしなき里(さと)にぞなりにける。開闢(かいひやく)よりこのかた、かかる事(こと)あるべしともおぼえず。聖徳太子(しやうとくたいし)の未来記(みらいき)にも、けふのことこそゆかしけれ。法皇(ほふわう・ほうわう)天台山(てんだいさん)にわたらせ給(たま)ふときこえさせ給(たま)ひしかば、馳(はせ)まいら(まゐら)せ給(たま)ふ人々(ひとびと)、其(その)比(ころ)の入道殿(にふだうどの・にうだうどの)とは前(さきの)関白(くわんばく)松殿(まつどの)、当殿(たうとの)とは近衛(こんゑどの)、太政(だいじやう)大臣(だいじん)・左右大臣(さうのだいじん)・内大臣(ないだいじん)・大納言(だいなごん)・中納言(ちゆうなごん)・宰相(さいしやう)・三位(さんみ・さんゐ)・四位(しゐ)・五位(ごゐ)の殿上人(てんじやうびと)、すべて世(よ)に人(ひと)とかぞへられ、官(くわん)加階(かかい)に望(のぞみ)をかけ、所帯(しよたい)・所職(しよしよく)を帯(たい)する程(ほど)の人(ひと)、一人(いちにん)ももるるはなかりけり。円融坊(ゑんゆうばう)には、あまりに人(ひと)まいり(まゐり)つどひて、堂上(たうしやう)・堂下(たうか)・門外(もんぐわい)・門内(もんない)、ひまはざまもなうぞみちみちたる。山門(さんもんの)繁昌(はんじやう)・門跡(もんぜき)の面目(めんぼく)とこそ見(み)えたりけれ。同(おなじき)廿八日(にじふはちにち)に、法皇(ほふわう・ほうわう)宮(みや)こへ還御(くわんぎよ)なる。木曾(きそ)五万余騎(ごまんよき)にて守護(しゆご)し奉(たてまつ)る。
近江源氏(あふみげんじ)山本(やまもと)の冠者(くわんじや・くはんじや)義高(よしたか)、白旗(しらはた)さひ(さい)て先陣(せんぢん)に候(さうらふ)。この廿(にじふ)余年(よねん)見(み)えざりつる白旗(しらはた)の、けふはじめて宮(みや)こへいる、めづらしかりし事(こと)どもなり。さる程(ほど)に十郎(じふらう)蔵人(くらんど)行家(ゆきいへ)、宇治橋(うぢはし)をわた(ッ)て都(みやこ)へいる。陸奥(みちのくの)新判官(しんはんぐわん)義康(よしやす)が子(こ)、矢田(やたの)判官代(はんぐわんだい)義清(よしきよ)、大江山(おほえやま)をへて上洛(しやうらく)す。摂津国(つのくに)・河内(かはち)の源氏(げんじ)ども、雲霞(うんか)のごとくにおなじく宮(みや)こへみだれいる。凡(およそ・をよそ)京中(きやうぢゆう・きやうぢう)には源氏(げんじ)の勢(せい)みちみちたり。
勘解由小路(かでのこうぢの)中納言(ちゆうなごん)経房卿(つねふさのきやう)・検非違使(けんびゐしの・けんびいしの)別当(べつたう)左衛門督(さゑもんのかみ)実家(さねいへ)、院(ゐん)の殿上(てんじやう)の簀子(すのこ)に候(さうらひ)て、義仲(よしなか)・行家(ゆきいへ)をめす。木曾(きそ)は赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、唐綾威(からあやをどし・からあやおどし)の鎧(よろひ)きて、いか物(もの)づくりの太刀(たち)をはき、きりふの矢(や)をひ(おひ)、しげ藤(どう)の弓(ゆみ)脇(わき)にはさみ、甲(かぶと)をばぬぎたかひもにかけて候(さうらふ)。十郎(じふらう)蔵人(くらんど)は、紺地(こんぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、火(ひ)おどし(をどし)の鎧(よろひ)きて、こがねづくりの太刀(たち)をはき、大(おほ)なか黒(ぐろ)の矢(や)をひ(おひ)、ぬりごめどうの弓(ゆみ)脇(わき)にはさみ、是(これ)も甲(かぶと)をばぬぎたかひもにかけ、ひざまづゐ(ひざまづい)て候(さうらひ)けり。前(さきの)内大臣(ないだいじん)宗盛公(むねもりこう)以下(いげ)、平家(へいけ)の一族(いちぞく)追討(ついたう)すべきよし仰下(おほせくだ)さる。両人(りやうにん)庭上(ていしやう)に畏(かしこま・ッ)て承(うけたまは)る。
をのをの(おのおの)宿所(しゆくしよ)のなきよしを申(まう)す。木曾(きそ)は大膳(だいぜんの)大夫(だいぶ)成忠(なりただ)が宿所(しゆくしよ)、六条(ろくでう)西洞院(にしのとうゐん)を給(たま)はる。十郎(じふらう)蔵人(くらんど)は法住寺殿(ほふぢゆうじどの・ほうぢうじどの)の南殿(みなみどの)と申(まうす)、萓(かや)の御所(ごしよ)をぞ給(たまは)りける。
法皇(ほふわう・ほうわう)は主上(しゆしやう)外戚(ぐわいせき)の平家(へいけ)にとらはれさせ給(たまひ)て、西海(さいかい)の浪(なみ)の上(うへ)にただよはせ給(たま)ふことを、御歎(おんなげ)きあ(ッ)て、主上(しゆしやう)并(ならび)に三種(さんじゆの)神器(しんぎ)宮(みや)こへ返(かへ)し入(いれ)奉(たてまつ)るべきよし、西国(さいこく)へ院宣(ゐんぜん)を下(くだ)されたりけれ共(ども)、平家(へいけ)もちゐたてまつらず。高倉院(たかくらのゐん)の皇子(わうじ)は、主上(しゆしやう)の外(ほか)三所(さんじよ)ましましき。二宮(にのみや)をば儲君(まうけのきみ)にしたてまつらんとて、平家(へいけ)いざなひまいらせ(まゐらせ)て、西国(さいこく)へ落(おち)給(たまひ)ぬ。三(さん)四(し)は宮(みや)こにましましけり。
同(おなじき)八月(はちぐわつ)五日(いつかのひ)、法皇(ほふわう・ほうわう)この宮(みや)たちをむかへよせまいらせ(まゐらせ)給(たま)ひて、まづ三(さん)の宮(みや)の五歳(ごさい)にならせ給(たま)ふを、「是(これ)へ是(これ)へ」と仰(おほせ)ければ、法皇(ほふわう・ほうわう)を見(み)まいら(ッ・まゐらつ)させ給(たま)ひて、大(おほき)にむつからせ給(たま)ふ〔あひだ〕、「とうとう」とて出(いだ)しまいら(ッ・まゐらつ)させ給(たまひ)ぬ。其(その)後(のち)四(し)の宮(みや)の四歳(しさい)にならせ給(たま)ふを、「是(これ)へ」と仰(おほせ)ければ、すこしもはばからせ給(たま)はず、やがて法皇(ほふわう・ほうわう)の御(おん)ひざのうへにまいら(まゐら)せ給(たま)ひて、よにもなつかしげにてぞましましける。
法皇(ほふわう・ほうわう)御涙(おんなみだ)をはらはらとながさせ給(たま)ひて、「げにもすぞろならむものは、かやうの老法師(おいぼふし・おいぼうし)を見(み)て、なにとてかなつかしげには思(おも)ふべき。是(これ)ぞ我(わが)まことの孫(まご)にてましましける。故院(こゐん)のおさな(をさな)をひ(おひ)にすこしもたがはせ給(たま)はぬものかな。かかるわすれがたみを今(いま)まで見(み)ざりけることよ」とて、御涙(おんなみだ)せきあへさせ給(たま)はず。浄土寺(じやうどじ)の二位殿(にゐどの)、其(その)時(とき)はいまだ丹後殿(たんごどの)とて、御前(ごぜん)に候(さうら)はせ給(たま)ふが、「さて御(おん)ゆづりは、此(この)宮(みや)にてこそわたらせおはしましさぶらはめ」と申(まう)させ給(たま)へば、法皇(ほふわう・ほうわう)「子細(しさい)にや」とぞ仰(おほせ)ける。内々(ないない)御占(みうら)ありしにも、「四(し)の宮(みや)位(くらゐ)につかせ給(たま)ひては、百王(はくわう)まで日本国(につぽんごく)の御(おん)ぬしたるべし」とぞかんがへ申(まうし)ける。
御母儀(おぼぎ)は七条(しつでうの)修理(しゆりの)大夫(だいぶ)信隆卿(のぶたかのきやう)の御娘(おんむすめ)なり。建礼門院(けんれいもんゐん)のいまだ中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)にてましましける時(とき)、その御方(おんかた・おかた)に宮(みや)づかひ給(たま)ひしを、主上(しゆしやう)つねはめされける程(ほど)に、うちつづき宮(みや)あまたいできさせ給(たま)へり。信隆卿(のぶたかのきやう)御娘(おんむすめ)あまたおはしければ、いかにもして女御(にようご)后(きさき)にもなしたてまつらばやとねがはれけるに、人(ひと)のしろい鶏(にはとり)を千(せん)かうつれば、其(その)家(いへ)に必(かならず)后(きさき)いできたるといふ事(こと)ありとて、鶏(にはとり)の白(しろ)いを千(せん)そろへてかはれたりける故(ゆゑ・ゆへ)にや、此(この)御娘(おんむすめ)皇子(わうじ)あまたうみまいらせ(まゐらせ)給(たま)へり。
信隆卿(のぶたかのきやう)内々(ないない)うれしう思(おも)はれけれども、平家(へいけ)にもはばかり、中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)にもおそれまいらせ(まゐらせ)て、もてなし奉(たてまつ)る事(こと)もおはせざりしを、入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)の北(きた)の方(かた)、八条(はつでう)の二位殿(にゐどの)「くるしかるまじ。われそだてまいらせ(まゐらせ)て、まうけの君(きみ)にしたてまつらん」とて、御(おん)めのとどもあまたつけて、そだてまいらせ(まゐらせ)給(たま)ひけり。
中(なか)にも四(し)の宮(みや)は、二位殿(にゐどの)のせうと、法勝寺(ほつしようじの・ほつしやうじの)執行(しゆぎやう)能円(のうゑん)法印(ほふいん・ほうゐん)のやしなひ君(ぎみ)にてぞ在(まし)ましける。法印(ほふいん・ほうゐん)平家(へいけ)に具(ぐ)せられて、西国(さいこく)へ落(おち)し時(とき)、あまりにあはて(あわて)さはひ(さわい)で、北方(きたのかた)をも宮(みや)をも京都(きやうと)にすてをき(おき)まいらせ(まゐらせ)て、下(くだ)られたりしが、西国(さいこく)よりいそぎ人(ひと)をのぼせて、「女房(にようばう)・宮(みや)具(ぐ)しまいらせ(まゐらせ)て、とくとくくだり給(たまふ)べし」と申(まう)されたりければ、北方(きたのかた)なのめならず悦(よろこび)、宮(みや)いざなひまいらせ(まゐらせ)て、西(にしの)七条(しつでう)なる所(ところ)まで出(いで)られたりしを、女房(にようばう)のせうと紀伊守(きのかみ)教光(のりみつ)、「是(これ)は物(もの)のつゐ(つい)てくるひ給(たま)ふか。此(この)宮(みや)の御運(ごうん)は只今(ただいま)ひらけさせ給(たま)はんずる物(もの)を」とて、とりとどめまいらせ(まゐらせ)たりける次(つぎ)の日(ひ)ぞ、法皇(ほふわう・ほうわう)より御(おん)むかへの車(くるま)はまいり(まゐり)たりける。
何事(なにごと)もしかるべき事(こと)と申(まうし)ながら、四(し)の宮(みや)の御(おん)ためには、紀伊守(きのかみ)教光(のりみつ)奉公(ほうこう)の人(ひと)とぞ見(み)えたりける。されども四(し)の宮(みや)位(くらゐ)につかせ給(たま)ひて後(のち)、そのなさけをもおぼしめしいでさせ給(たま)はず、朝恩(てうおん・てうをん)もなくして歳月(としつき)を送(おく)りけるが、せめての思(おも)ひのあまりにや、二首(にしゆ)の歌(うた)をようで、禁中(きんちゆう・きんちう)に落書(らくしよ)をぞしたりける。
一声(ひとこゑ)はおもひ出(で)てなけほととぎすおいその森(もり)の夜半(よは)のむかしを
籠(かご)のうちもなを(なほ)うらやまし山(やま)がらの身(み)のほどかくすゆふがほのやど
主上(しゆしやう)是(これ)を叡覧(えいらん・ゑいらん)あ(ッ)て、「あなむざんや、さればいまだ世(よ)にながらへてありけるな。けふまで是(これ)をおぼしめしよらざりけるこそをろか(おろか)なれ」とて、朝恩(てうおん・てうをん)かうぶり、正(じよう)三位(ざんみ)に叙(じよ)せられけるとぞきこえし。 
名虎 (なとら) 

 

同(おなじき)八月(はちぐわつ)十日(とをかのひ)、院(ゐん)の殿上(てんじやう)にて除目(ぢもく)おこなはる。木曾(きそ)は左馬頭(さまのかみ)にな(ッ)て、越後国(ゑちごのくに)を給(たま)はる。其上(そのうへ)朝日(あさひ)の将軍(しやうぐん)といふ院宣(ゐんぜん)を下(くだ)されけり。十郎(じふらう)蔵人(くらんど)は備後守(びんごのかみ)になる。木曾(きそ)は越後(ゑちご)きらへば、伊与(いよ)をたぶ。十郎(じふらう)蔵人(くらんど)備後(びんご)をきらへば、備前(びぜん)をたぶ。
其(その)外(ほか)源氏(げんじ)十余人(じふよにん)、受領(じゆりやう)・検非違使(けんびゐし・けんびいし)・靭負尉(ゆぎへのじよう・ゆぎえのぜう)・兵衛尉(ひやうゑのじよう・ひやうゑのぜう)になされけり。同(おなじき)十六日(じふろくにち)、平家(へいけ)の一門(いちもん)百六十余人(ひやくろくじふよにん)が官職(くわんしよく)をとどめて、殿上(てんじやう)のみふだをけづらる。
其(その)中(なか)に平(へい)大納言(だいなごん)時忠(ときただの)〔卿(きやう)〕・内蔵頭(くらのかみ)信基(のぶもと)・讃岐(さぬきの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)時実(ときざね)、これ三人(さんにん)はけづられず。それは主上(しゆしやう)并(ならび)に三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)、都(みやこ)へ帰(かへ)しいれ奉(たてまつ)るべきよし、彼(かの)時忠(ときただ)の卿(きやう)のもとへ、度々(たびたび)院宣(ゐんぜん)を下(くだ)されけるによ(ッ)て也(なり)。同(おなじき)八月(はちぐわつ)十七日(じふしちにち)、平家(へいけ)は筑前国(ちくぜんのくに)三(み)かさの郡(こほり)太宰府(ださいふ)にこそ着(つき)給(たま)へ。
菊池(きくちの)二郎(じらう)高直(たかなほ・たかなを)は都(みやこ)より平家(へいけ)の御供(おんとも)に候(さうらひ)けるが、「大津山(おほつやま)の関(せき)あけてまいらせ(まゐらせ)ん」とて、肥後国(ひごのくに)にうちこえて、をのれ(おのれ)が城(じやう)にひ(ッ)こもり、めせどもめせどもまいら(まゐら)ず。当時(たうじ)は岩戸(いはど)の諸境(せうきやう・しよきやう)大蔵(おほくらの)種直(たねなほ・たねなふ)ばかりぞ候(さうらひ)ける。九国(きうこく)二島(じたう)の兵(つはもの)どもやがてまいる(まゐる)べきよし領状(りやうじやう・りやうでう)をば申(まうし)ながら、いまだまいら(まゐら)ず。平家(へいけ)安楽寺(あんらくじ)へまい(ッ・まゐつ)て、歌(うた)よみ連歌(れんが)して宮(みや)づかひ給(たま)ひしに、本三位(ほんざんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)、
すみなれしふるき宮(みや)この恋(こひ)しさは神(かみ)もむかしにおもひしるらむ
人々(ひとびと)是(これ)をきいてみな涙(なみだ)をながされけり。同(おなじき)廿日(はつかのひ)法皇(ほふわう・ほうわう)の宣命(せんみやう)にて、四宮(しのみや)閑院殿(かんゐんどの)にて位(くらゐ)につかせ給(たま)ふ。摂政(せつしやう)はもとの摂政(せつしやう)近衛殿(こんゑどの)かはらせ給(たま)はず。頭(とう)や蔵人(くらんど)なしをき(おき)て、人々(ひとびと)退出(たいしゆつ)せられけり。三宮(さんのみや)の御(おん)めのとなきかなしみ、後悔(こうくわい)すれども甲斐(かひ・かい)ぞなき。「天(てん)に二(ふたつ)の日なし、国(くに)にふたりの王(わう)なし」と申(まう)せども、平家(へいけ)の悪行(あくぎやう)によ(ッ)てこそ、京(きやう)・田舎(ゐなか・いなか)にふたりの王(わう)は在(まし)ましけれ。
昔(むかし)文徳天皇(もんどくてんわう)は、天安(てんあん)二年(にねん)八月(はちぐわつ)廿三日(にじふさんにち)にかくれさせ給(たま)ひぬ。御子(おんこ)の宮達(みやたち)あまた位(くらゐ)に望(のぞみ)をかけて在(まし)ますは、内々(ないない)御祈(おんいのり)どもありけり。一(いち)の御子(みこ)惟高親王(これたかのしんわう)をば小原(こばら)の王子(わうじ)とも申(まうし)き。王者(わうしや)の財領(ざいりやう)を御心(おんこころ)にかけ、四海(しかい)の安危(あんき)は掌(たなごころ)の中(うち)に照(てら)し、百王(はくわう)の理乱(りらん)は心(こころ)のうちにかけ給(たま)へり。されば賢聖(けんせい)の名(な)をもとらせましましぬべき君(きみ)なりと見(み)え給(たま)へり。二宮(にのみや)惟仁親王(これひとのしんわう)は、其(その)比(ころ)の執柄(しつぺい)忠仁公(ちゆうじんこう・ちうじんこう)の御娘(おんむすめ)、染殿(そめどの)の后(きさき)の御腹(おんぱら)也(なり)。
一門(いちもん)公卿(くぎやう)列(れつ)してもてなし奉(たてまつ)り給(たま)ひしかば、是(これ)も又(また)さしをき(おき)がたき御事(おんこと)也(なり)。かれは守文継体(しゆぶんけいてい)の器量(きりやう)あり、是(これ)は万機輔佐(ばんきふさ)の心操(しんさう)あり。かれもこれもいたはしくて、いづれもおぼしめしわづらはれき。一宮(いちのみや)惟高親王(これたかのしんわう)の御祈(おんいのり)は、柿下(かきのもと)の紀(き)僧正(そうじやう)信済(しんぜい)とて、東寺(とうじ)の一(いち)の長者(ちやうじや)、弘法大師(こうぼふだいし・こうぼうだいし)の御弟子(おんでし)也(なり)。二宮(にのみや)惟仁(これひと)の親王(しんわう)の御祈(おんいのり)は、外祖(ぐわいそ)忠仁公(ちゆうじんこう・ちうじんこう)の御持僧(ごじそう)比叡山(ひえいさん・ひゑいさん)の恵良(ゑりやう)和尚(くわしやう)ぞうけ給(たま)はられける。
「互(たがひ)におとらぬ高僧達(かうそうたち)也(なり)。とみに事(こと)ゆきがたうやあらんずらん」と、人々(ひとびと)ささやきあへり。御門(みかど)かくれさせ給(たま)ひしかば、公卿僉議(くぎやうせんぎ)あり。「抑(そもそも)臣等(しんら)がおもむぱかり(おもんぱかり)をも(ッ)てゑらび(えらび)て位(くらゐ)につけ奉(たてまつ)らん事(こと)、用捨(ようしや)私(わたくし)あるににたり。万人(ばんにん)脣(くちびる)をかへすべし。しらず、競馬(けいば)相撲(すまふ・すまう)の節(せち)をとげて、其(その)運(うん)をしり、雌雄(しゆう)によ(ッ)て宝祚(ほうそ)をさづけたてまつるべし」と儀定(ぎぢやう)畢(をはん・おはん)ぬ。
同(おなじき)年(とし)の九月(くぐわつ)二日(ふつかのひ)、二人(ににん)の宮達(みやたち)右近馬場(うこんのばば)へ行(ぎやう)げいあり。ここに王公(わうこう)卿相(けいしやう)、花(はな)の袂(たもと)をよそほひ、玉(たま)のくつばみをならべ、雲(くも)のごとくにかさなり、星(ほし)のごとくにつらなり給(たま)ひしかば、此(この)事(こと)希代(きたい)の勝事(しようし・せうし)、天下(てんが)の荘(さかんなる)観(みもの)、日来(ひごろ)心(こころ)をよせ奉(たてまつり)し月卿(げつけい)雲客(うんかく)両方(りやうばう)に引(ひき)わか(ッ)て、手(て)をにぎり心(こころ)をくだき給(たま)へり。御祈(おんいのり)の高僧達(かうそうたち)、いづれかそらくあらむや。信済(しんぜい)は東寺(とうじ)に壇(だん)をたて、恵良(ゑりやう)は大内(おほうち)の真言院(しんごんゐん)に壇(だん)をたてておこなはれけるに、恵良(ゑりやう・ゑリヤウ)和尚(くわしやう)うせたりといふ披露(ひろう)をなす。信済僧正(しんぜいそうじやう)たゆむ心(こころ)もやありけん。
恵良(ゑりやう)はうせたりといふ披露(ひろう)をなし、肝胆(かんたん)をくだひ(くだい)て祈(いの)られけり。既(すで)に十番(じふばん)競馬(けいば)はじまる。はじめ四番(しばん)、一(いちの)宮(みや)惟高親王(これたかのしんわう)かたせ給(たま)ふ。後(のち)六番(ろくばん)は二宮(にのみや)惟仁親王(これひとのしんわう)かたせ給(たま)ふ。やがて相撲(すまふ・すまう)の節(せち)あるべしとて、惟高(これたか)の御方(おんかた)よりは名虎(なとら)の右兵衛督(うひやうゑのかみ)とて、六十人(ろくじふにん)がちからあらはしたるゆゆしき人(ひと)をぞいだされたる。惟仁親王家(これひとのしんわうげ)よりは能雄(よしを)の少将(せうしやう)とて、せいちいさうたえ(たへ)にして、片手(かたて)にあふべしとも見(み)えぬ人(ひと)、御夢想(ごむさう)の御告(おんつげ)ありとて申(まうし)うけてぞいでられたる。
名虎(なとら)・能雄(よしを)よりあふ(あう)て、ひしひしとつまどりしてのきにけり。しばしあ(ッ)て名虎(なとら)能雄(よしを)の少将(せうしやう)をと(ッ)てささげて、二丈(にぢやう)ばかりぞなげたりける。ただなを(ッ・なほつ)てたをれ(たふれ)ず。能雄(よしを)又(また)つとより、ゑい声(ごゑ・えいごゑ)をあげて、名虎(なとら)をと(ッ)てふせむとす。名虎(なとら)もともに声(こゑ)いだして、能雄(よしを)をと(ッ)てふせむとす。いづれおとれりとも見(み)えず。されども、名虎(なとら)だいの男(をのこ・おのこ)、かさにまはる。能雄(よしを)はあぶなう見(み)えければ、二宮(にのみや)惟仁家(これひとけ)の御母儀(おぼぎ)染殿(そめどの)の后(きさき)より、御使(おんつかひ・おつかひ)櫛(くし)のはのごとくはしりかさな(ッ)て、「御方(みかた)すでにまけ色(いろ)にみゆ。いかがせむ」と仰(おほせ)ければ、恵良(ゑりやう)和尚(くわしやう)大威徳(だいゐとく)の法(ほふ・ほう)を修(しゆ)せられけるが、「こは心(こころ)うき事(こと)にこそ」とて独古(とつこ)をも(ッ)てなづきをつきくだき、乳和(にうわ)して護摩(ごま)にたき、黒煙(くろけぶり)をたててひともみもまれたりければ、能雄(よしを)すまう(すまふ)にかちにけり。親王(しんわう)位(くらゐ)につかせ給(たま)ふ。清和(せいわ)の御門(みかど)是(これ)也(なり)。後(のち)には水尾(みづのをの)天皇(てんわう)とぞ申(まうし)ける。
それよりしてこそ山門(さんもん)には、いささかの事(こと)にも、恵良(ゑりやう)脳(なづき)をくだきしかば、二帝(じてい)位(くらゐ)につき給(たま)ひ、尊意(そんい)智剣(ちけん)を振(ふり)しかば、菅丞(かんせう)納受(なふじゆ・なうじゆ)し給(たま)ふとも伝(つた)へたれ。是(これ)のみや法力(ほふりき・ほうりき)にてもありけむ。其(その)外(ほか)はみな天照大神(てんせうだいじん)の御(おん)ぱからひとぞ承(うけたま)はる。平家(へいけ)は西国(さいこく)にて是(これ)をつたへきき、「やすからぬ。三(さん)の宮(みや)をも四(し)の宮(みや)をもとりまいらせ(まゐらせ)て、落(おち)くだるべかりし物(もの)を」と後悔(こうくわい)せられければ、平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)、「さらむには、木曾(きそ)が主(しゆう・しゆ)にしたてま(ッ)たる高倉宮(たかくらのみやの)御子(みこ)を、御(おん)めのと讃岐守(さぬきのかみ)重秀(しげひで)が御出家(ごしゆつけ)せさせ奉(たてまつ)り、具(ぐ)しまいらせ(まゐらせ)て北国(ほつこく)へ落(おち)くだりしこそ、位(くらゐ)にはつかせ給(たま)はんずらめ」との給(たま)へば、又(また)或(ある)人々(ひとびと)の申(まう)されけるは、「それは、出家(しゆつけ)の宮(みや)をばいかが位(くらゐ)にはつけたてまつるべき」。
時忠(ときただ)「さもさうず。還俗(げんぞく)の国王(こくわう)のためし、異国(いこく)にも先蹤(せんじよう・せんぜう)あるらむ。我(わが)朝(てう)には、まづ天武天皇(てんむてんわう)いまだ東宮(とうぐう)の御時(おんとき)、大伴(おほとも)の皇子(わうじ)にはばからせ給(たま)ひて、鬢髪(びんぱつ)をそり、芳野(よしの)の奥(おく)にしのばせ給(たま)ひたりしかども、大伴(おほとも)の皇子(わうじ)をほろぼして、つゐに(つひに)は位(くらゐ)につかせ給(たま)ひき。孝謙天皇(かうげんてんわう)も、大菩提心(だいぼだいしん)をおこし、御(おん)かざりをおろさせ給(たま)ひ、御名(みな)をば法幾尓(ほうきに)と申(まうし)しかども、ふたたび位(くらゐ)につゐ(つい)て称徳(しようどく・せうどく)天皇(てんわう)と申(まうし)しぞかし。まして木曾(きそ)が主(しゆう・しゆ)にしたてまつりたる還俗(げんぞく)の宮(みや)、子細(しさい)あるまじ」とぞの給(たま)ひける。同(おなじき)九月(くぐわつ)二日(ふつかのひ)、法皇(ほふわう・ほうわう)より伊勢(いせ)へ公卿(くぎやう)の勅使(ちよくし)をたてらる。勅使(ちよくし)は参議(さんぎ)長教(ながのり)とぞ聞(きこ)えし。太政天皇(だいじやうてんわう)の、伊勢(いせ)へ公卿(くぎやう)の勅使(ちよくし)をたてらるる事(こと)は、朱雀(しゆしやく)・白河(しらかは)・鳥羽(とば)三代(さんだい)の蹤跡(しようせき・せうせき)ありといへども、是(これ)みな御出家(ごしゆつけ)以前(いぜん)なり。御出家(ごしゆつけ)以後(いご)の例(れい)は是(これ)はじめとぞ承(うけたまは)る。 
緒環 (をだまき) 

 

さる程(ほど)に、筑紫(つくし)には内裏(だいり)つくるべきよし沙汰(さた)ありしかども、いまだ宮(みや)こも定(さだ)められず。主上(しゆしやう)は岩戸(いはど)の諸境(せうきやう・しよきやう)大蔵(おほくら)の種直(たねなほ・たねなふ)が宿所(しゆくしよ)にわたらせ給(たま)ふ。人々(ひとびと)の家々(いへいへ)は野中(のなか)田(た)なかなりければ、あさの衣(ころも)はうたねども、とをちの里(さと)ともい(ッ)つべし。内裏(だいり)は山(やま)のなかなれば、かの木(き)の丸殿(まるどの)もかくやとおぼえて、中々(なかなか)ゆう(いう)なる方(かた)もありけり。
まづ宇佐宮(うさのみや)へ行幸(ぎやうがう)なる。大郡司(だいぐんじ)公道(きんみち)が宿所(しゆくしよ)皇居(くわうきよ)になる。社頭(しやとう)は月卿(げつけい)雲客(うんかく)の居所(きよしよ)になる。庭上(ていしやう)には四国(しこく)鎮西(ちんぜい)の兵(つはもの)ども、甲冑(かつちう)弓箭(きゆうせん・きうせん)を帯(たい)して雲霞(うんか)のごとくになみゐたり。ふりにしあけの玉垣(たまがき)、ふたたびかざるとぞ見(み)えし。七日(しちにち)参籠(さんろう)のあけがたに、大臣殿(おほいとの)の御(おん)ために夢想(むさう)の告(つげ)ぞありける。御宝殿(ごほうでん)の御戸(みと)をし(おし)ひらきゆゆしくけだかげなる御(み)こゑにて、
世(よ)のなかのうさには神(かみ)もなきものをなにいのるらん心(こころ)づくしに
大臣殿(おほいとの)うちおどろき、むねうちさはぎ(さわぎ)、
さりともとおもふ心(こころ)もむしのねもよはり(よわり)はてぬる秋(あき)の暮(くれ)かな
といふふる歌(うた)をぞ心(こころ)ぼそげに口(くち)ずさみ給(たまひ)ける。さる程(ほど)に九月(くぐわつ)も十日(とをか)あまりになりにけり。荻(をぎ・おぎ)の葉(は)むけの夕嵐(ゆふあらし・ゆうあらし)、ひとりまろねの床(とこ)のうへ、かたしく袖(そで)もしほれ(しをれ)つつ、ふけゆく秋(あき)のあはれさは、いづくもとはいひながら、旅(たび)の空(そら)こそ忍(しのび)がたけれ。九月(くぐわつ)十三(じふさん)夜(や)は名(な)をえたる月(つき)なれども、其(その)夜(よ)は宮(みや)こを思(おも)ひいづる涙(なみだ)に、我(われ)からくもりてさやかならず。九重(ここのへ・ここのえ)の雲(くも)のうへ、久方(ひさかた)の月(つき)におもひをのべしたぐひも、今(いま)の様(やう)におぼえて、薩摩守(さつまのかみ)忠教(ただのり)
月(つき)を見(み)しこぞのこよひの友(とも)のみや宮(みや)こにわれをおもひいづらむ
修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛(つねもり)
恋(こひ)しとよこぞのこよひの夜(よ)もすがらちぎりし人(ひと)のおもひ出(で)られて
皇后宮亮(くわうごうぐうのすけ)経正(つねまさ)
わけてこし野辺(のべ)の露(つゆ)ともきえずしておもはぬ里(さと)の月(つき)を見(み)るかな
豊後国(ぶんごのくに)は刑部卿(ぎやうぶきやう)三位(ざんみ・ざんゐ)頼資卿(よりすけのきやう)の国(くに)なりけり。子息(しそく)頼経(よりつねの)朝臣(あそん・あつそん)を代官(だいくわん)にをか(おか)れたり。京(きやう)より頼経(よりつね)のもとへ、平家(へいけ)は神明(しんめい)にもはなたれたてまつり、君(きみ)にも捨(すて)られまいらせ(まゐらせ)て、帝都(ていと)をいで、浪(なみ)の上(うへ)にただよふおち人(うと)となれり。しかるを、鎮西(ちんぜい)の者共(ものども)がうけと(ッ)て、もてなすなるこそ奇怪(きくわい・き(ツ)くわい)なれ、当国(たうごく)においてはしたがふべからず。一味(いちみ)同心(どうしん)して追出(ついしゆつ)すべきよし、の給(たま)ひつかはされたりければ、頼経(よりつねの)朝臣(あそん・あつそん)是(これ)を当国(たうごく)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)、緒方(をかたの・おかたの)三郎(さぶらう)維義(これよし)に下知(げぢ)す。彼(かの)維義(これよし)はおそろしきものの末(すゑ)なりけり。
たとへば、豊後国(ぶんごのくに)の片山里(かたやまざと)に昔(むかし)をんなありけり。或(ある)人(ひと)のひとりむすめ、夫(おつと)もなかりけるがもとへ、母(はは)にもしらせず、男(をとこ・おとこ)よなよなかよふ程(ほど)に、とし月(つき)もかさなる程(ほど)に、身(み)もただならずなりぬ。母(はは)是(これ)をあやしむ(あやしん)で、「汝(なんぢ)がもとへかよふ者(もの)は何者(なにもの)ぞ」ととへば、「くるをば見(み)れども、帰(かへ)るをばしらず」とぞいひける。「さらば男(をとこ・おとこ)の帰(かへ)らむとき、しるしを付(つけ)て、ゆかむ方(かた)をつなひ(つない)で見(み)よ」とをしへければ、むすめ母(はは)のをしへにしたが(ッ)て、朝帰(あさがへり)する男(をとこ・おとこ)の、水色(みづいろ)の狩衣(かりぎぬ)をきたりけるに、狩衣(かりぎぬ)の頸(くび)かみに針(はり)をさし、しづのをだまきといふものを付(つけ)て、へてゆくかたをつなひ(つない)でゆけば、豊後国(ぶんごのくに)にと(ッ)ても日向(ひうが)ざかひ、うばだけといふ嵩(だけ)のすそ、大(おほき)なる岩屋(いはや)のうちへぞつなぎいれたる。
をんな岩屋(いはや)のくちにたたずんできけば、おほきなるこゑしてによびけり。「わらはこそ是(これ)まで尋(たづね)まいり(まゐり)たれ。見参(げんざん)せむ」といひければ、「我(われ)は是(これ)人(ひと)のすがたにはあらず。汝(なんぢ)すがたを見(み)ては肝(きも)たましゐ(たましひ)も身(み)にそふまじきなり。とうとう帰(かへ)れ。汝(なんぢ)がはらめる子(こ)は男子(なんし)なるべし。弓矢(ゆみや)打物(うちもの)と(ッ)て九州(きうしう)二島(じたう)にならぶ者(もの)もあるまじきぞ」と〔ぞ〕いひける。女(をんな・をうな)重(かさね)て申(まうし)けるは、「たとひいかなるすがたにてもあれ、此(この)日来(ひごろ)のよしみ何(なに)とてかわするべき。互(たがひ)にすがたをも見(み)もし見(み)えむ」といはれて、さらばとて、岩屋(いはや)の内(うち)より、臥(ふし)だけは五六尺(ごろくしやく)、跡枕(あとまくら)べは十四五(じふしご)丈(ぢやう)もあるらむとおぼゆる大蛇(だいじや)にて、動揺(どうよう)してこそはひ出(いで)たれ。
狩衣(かりぎぬ)のくびかみにさすとおもひつる針(はり)は、すなはち大蛇(だいじや)のの(ウ)ぶゑ(のどぶえ)にこそさいたりけれ。女(をんな・をうな)是(これ)を見(み)て肝(きも)たましゐ(たましひ)も身(み)にそはず、ひき具(ぐ)したりける所従(しよじゆう・しよじう)十(じふ)余人(よにん)たふれふためき、おめき(をめき)さけむ(さけん)でにげさりぬ。女(をんな・をうな)帰(かへり)て程(ほど)なく産(さん)をしたれば、男子(なんし)にてぞありける。母方(ははかた)の祖父(おほぢ)太大夫(だいたいふ・だいたゆう)そだてて見(み)むとてそだてたれば、いまだ十歳(じつさい)にもみたざるに、せいおほきにかほながく、たけたかかりけり。七歳(しちさい)にて元服(げんぶく)せさせ、母方(ははかた)の祖父(おほぢ)を太大夫(だいたいふ・だいたゆう)といふ間(あひだ・あいだ)、是(これ)をば大太(だいた)とこそつけたりけれ。夏(なつ)も冬(ふゆ)も手足(てあし)におほきなるあかがりひまなくわれければ、あかがり大太(だいた)とぞいはれける。件(くだん)の大蛇(だいじや)は日向国(ひうがのくに)にあがめられ給(たま)へる高知尾(たかちを・たかちお)の明神(みやうじん)の神体(しんたい)也(なり)。此(この)緒方(をかた・おかた)の三郎(さぶらう)はあかがり大太(だいた)には五代(ごだい)の孫(そん)なり。かかるおそろしきものの末(すゑ)なりければ、国司(こくし)の仰(おほせ)を院宣(ゐんぜん)と号(かう)して、九州(きうしう)二島(じたう)にめぐらしぶみをしければ、しかるべき兵(つはもの)ども維義(これよし)に随(したが)ひつく。 
太宰府落 (ださいふおち) 

 

平家(へいけ)いまは宮(みや)こをさだめ、内裏(だいり)つくるべきよし沙汰(さた)ありしに、維義(これよし)が謀叛(むほん)と聞(きこ)えしかば、いかにとさはが(さわが)れけり。平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)申(まう)されけるは、「彼(かの)維義(これよし)は小松殿(こまつどの)の御家人(ごけにん)也(なり)。
小松殿(こまつどの)の君達(きんだち)一所(いつしよ)むかはせ給(たま)ひて、こしらへて御(ご)らんぜらるべうや候(さうらふ)らん」と申(まう)されければ、「まことにも」とて、小松(こまつ)の新(しん)三位(ざんみの・ざんゐの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)資盛卿(すけもりのきやう)、五百余騎(ごひやくよき)で豊後国(ぶんごのくに)にうちこえて、やうやうにこしらへ給(たま)へども、維義(これよし)したがひたてまつらず。あま(ッ)さへ(あまつさへ)「君達(きんだち)をも只今(ただいま)ここでとりこめまいらす(まゐらす)べう候(さうら)へども、「大事(だいじ)のなかに小事(せうじ)なし」とてとりこめまいらせ(まゐらせ)ず候(さうらふ)。なに程(ほど)の事(こと)かわたらせ給(たま)ふべき。とうとう太宰府(ださいふ)へ帰(かへ)らせ給(たま)ひて、ただ御一所(ごいつしよ)でいかにもならせ給(たま)へ」とて、追帰(おひかへ・をひかへ)し奉(たてまつ)る。
維義(これよし)が次男(じなん)野尻(のじり)の二郎(じらう)維村(これむら)を使者(ししや)で、太宰府(ださいふ)へ申(まうし)けるは、「平家(へいけ)は重恩(ぢゆうおん・ぢうをん)の君(きみ)にてましませば、甲(かぶと)をぬぎ弓(ゆみ)をはづゐ(はづい)てまいる(まゐる)べう候(さうら)へども、一院(いちゐん)の御定(ごぢやう)に速(すみやか)に追出(ついしゆつ)しまいらせよ(まゐらせよ)と候(さうらふ)。いそぎ出(いで)させ給(たま)ふべうや候(さうらふ)らん」と申(まうし)をく(ッ・おくつ)たりければ、平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)、ひをぐくりの直垂(ひたたれ)に糸(いと)くずの袴(はかま)立烏帽子(たてえぼし・たてゑぼし)で、維村(これむら)にいでむか(ッ)ての給(たま)ひけるは、「それ我(わが)君(きみ)は天孫(てんそん)四十九(ししじふく)世(せ)の正統(しやうとう)、仁王(にんわう)八十一(はちじふいち)代(だい)の御門(みかど)なり。天照大神(てんせうだいじん)・正八幡宮(しやうはちまんぐう)も我(わが)君(きみ)をこそまもりまいら(まゐら)させ給(たま)ふらめ。
就中(なかんづく)に、故(こ)太政(だいじやう)大臣(だいじん)入道殿(にふだうどの・にうどうどの)は、保元(ほうげん)・平治(へいぢ)両度(りやうど)の逆乱(げきらん)をしづめ、其上(そのうへ)鎮西(ちんぜい)の者(もの)どもをばうち様(さま)にこそめされしか。東国(とうごく)・北国(ほつこく)の凶徒等(きようどら・けうどら)が頼朝(よりとも)・義仲等(よしなから)にかたらはされて、しおほせたらば国(くに)をあづけう、庄(しやう)をたばんといふをまこととおもひて、其(その)鼻(はな)豊後(ぶんご)が下知(げぢ)にしたがはむ事(こと)しかるべからず」とぞの給(たま)ひける。豊後(ぶんご)の国司(こくし)刑部卿(ぎやうぶきやう)三位(ざんみ・ざんゐ)頼資卿(よりすけのきやう)はきはめて鼻(はな)の大(おほき)におはしければ、かうはの給(たま)ひけり。維村(これむら)帰(かへり)て父(ちち)に此(この)よしいひければ、「こはいかに、昔(むかし)はむかし今(いま)は今(いま)、其(その)義(ぎ)ならば速(すみや)かに追出(ついしゆつ)したてまつれ」とて、勢(せい)そろふるな(ン)ど(など)聞(きこ)えしかば、平家(へいけ)の侍(さぶらひ)源(げん)大夫(だいふの・たゆふの)判官(はんぐわん)季定(すゑさだ)・摂津(せつつの)判官(はんぐわん)守澄(もりずみ)「向後(きやうこう)傍輩(はうばい)のため奇怪(きくわい・き(ツ)くわい)に候(さうらふ)。
めしとり候(さうら)はん」とて、其(その)勢(せい)三千余騎(さんぜんよき)で筑後国(ちくごのくに)高野本庄(たかののほんじやう)に発向(はつかう)して、一日(いちにち)一夜(いちや)せめたたかふ。されども維義(これよし)が勢(せい)雲霞(うんか)のごとくにかさなりければ、ちからをよば(およば)で引(ひき)しりぞく。平家(へいけ)は緒方(をかたの・おかたの)三郎(さぶらう)維義(これよし)が三万余騎(さんまんよき)の勢(せい)にて既(すで)によすと聞(きこ)えしかば、とる物(もの)もとりあへず太宰府(ださいふ)をこそ落(おち)給(たま)へ。さしもたのもしかりつる天満天神(てんまんてんじん)のしめのほとりを、心(こころ)ぼそくもたちはなれ、駕輿丁(かよちやう)もなければ、そう花(か)・宝輦(ほうれん)はただ名(な)のみききて、主上(しゆしやう)要輿(えうよ・ようよ)にめされけり。国母(こくも)をはじめ奉(たてまつり)て、やごとなき女房達(にようばうたち)、袴(はかま)のそばをとり、大臣殿(おほいとの)以下(いげ)の卿相(けいしやう)・雲客(うんかく)、指貫(さしぬき)のそばをはさみ、水(みづ)きの戸(と)を出(いで)て、かちはだしにて我(われ)さきに前(さき)にと箱崎(はこざき)の津(つ)へこそ落(おち)給(たま)へ。
おりふし(をりふし)くだる雨(あめ)車軸(しやぢく)のごとし。吹(ふく)風(かぜ)砂(いさご)をあぐとかや。おつる涙(なみだ)、ふる雨(あめ)、わきていづれも見(み)えざりけり。住吉(すみよし)・筥崎(はこざき)・香椎(かしい)・宗像(むなかた)ふしをがみ、ただ主上(しゆしやう)旧都(きうと)の還幸(くわんかう)とのみぞ祈(いの)られける。たるみ山(やま)・鶉浜(うづらばま)な(ン)ど(など)いふ峨々(がが)たる嶮難(けんなん)をしのぎ、渺々(びやうびやう)たる平沙(へいさ)へぞおもむき給(たま)ふ。いつならはしの御事(おんこと)なれば、御足(おんあし)よりいづる血(ち)は沙(いさご)をそめ、紅(くれなゐ)の袴(はかま)は色(いろ)をまし、白袴(しろばかま)はすそ紅(ぐれなゐ)にぞなりにける。彼(かの)玄弉(げんじやう)三蔵(さんざう)の流砂(りうさ)・葱嶺(そうれい)を凌(しの)がれけんくるしみも、是(これ)にはいかでかまさるべき。
されどもそれは求法(ぐほふ・ぐほう)のためなれば、自他(じた)の利益(りやく)もありけむ、是(これ)は怨敵(をんでき)のゆへ(ゆゑ)なれば、後世(ごせ)のくるしみかつおもふこそかなしけれ。新羅(しんら)・百済(はくさい)・高麗(かうらい)・荊旦(けいたん)、雲(くも)のはて海(うみ)のはてまでも落(おち)ゆかばやとはおぼしけれども、浪風(なみかぜ)むかふ(むかう)てかなはねば、兵藤次(ひやうどうじ)秀遠(ひでとほ・ひでとを)に具(ぐ)せられて、山賀(やまが)の城(じやう)にこもり給(たま)ふ。山賀(やまが)へも敵(かたき)よすと聞(きこ)えしかば、小舟(こぶね)どもにめして、夜(よ)もすがら豊前国(ぶぜんのくに)柳(やなぎ)が浦(うら)へぞわたり給(たま)ふ。ここに内裏(だいり)つくるべきよし汰汰(さた)ありしかども、分限(ぶんげん)なかりければつくられず、又(また)長門(ながと)より源氏(げんじ)よすと聞(きこ)えしかば、海士(あま)のを舟(ぶね)にとりのりて、海(うみ)にぞうかび給(たま)ひける。
小松殿(こまつどの)の三男(さんなん)左(ひだん)の中将(ちゆうじやう・ちうじやう)清経(きよつね)は、もとより何事(なにごと)もおもひいれたる人(ひと)なれば、「宮(みや)こをば源氏(げんじ)がためにせめおとされ、鎮西(ちんぜい)をば維義(これよし)がために追出(ついしゆつ)さる。網(あみ)にかかれる魚(うを・うほ)のごとし。いづくへゆかばのがるべきかは。ながらへはつべき身(み)にもあらず」とて、月(つき)の夜(よ)心(こころ)をすまし、舟(ふね)の屋形(やかた)に立出(たちい)でて、やうでうねとり朗詠(らうえい・らうゑい)してあそばれけるが、閑(しづ)かに経(きやう)よみ念仏(ねんぶつ)して、海(うみ)にぞしづみ給(たま)ひける。男女(なんによ)なきかなしめども甲斐(かひ)ぞなき。
長門国(ながとのくに)は新(しん)中納言(ぢゆうなごん・ぢうなごん)知盛卿(とももりのきやう)の国(くに)なりけり。目代(もくだい)は紀伊(きの)刑部(ぎやうぶの)大夫(たいふ・たゆふ)道資(みちすけ)といふものなり。平家(へいけ)の小舟(こぶね)どもにのり給(たま)へる由(よし)承(うけたまは・ッ)て、大舟(たいせん)百(ひやく)余艘(よさう・よそう)点(てん)じて奉(たてまつ)る。平家(へいけ)これに乗(のり)うつり四国(しこく)の地(ち)へぞわたられける。重能(しげよし)が沙汰(さた)として、四国(しこく)の内(うち)をもよほして、讃岐(さぬき)の八島(やしま)にかたのやうなるいた屋(や)の内裏(だいり)や御所(ごしよ)をぞつくらせける。其(その)程(ほど)はあやしの民屋(みんをく)を皇居(くわうきよ)とするに及(およ・をよ)ばねば、舟(ふね)を御所(ごしよ)とぞ定(さだ)めける。大臣殿(おほいとの)以下(いげ)の卿相(けいしやう)・雲客(うんかく・うむかく)、海士(あま)の篷屋(とまや)に日(ひ)ををくり(おくり)、しづがふしどに夜(よ)をかさね、竜頭(りようどう・れうどう)鷁首(げきしゆ)を海中(かいちゆう・かいちう)にうかべ、浪(なみ)のうへの行宮(かうきゆう・かうきう)はしづかなる時(とき)なし。
月(つき)をひたせる潮(うしほ)のふかき愁(うれひ・うれい)にしづみ、霜(しも)をおほへる蘆(あし)の葉(は)のもろき命(いのち)をあやぶむ。州崎(すざき)にさはぐ(さわぐ)千鳥(ちどり)の声(こゑ)は、暁(あかつき)恨(うらみ)をまし、そはゐ(そはひ)にかかる梶(かぢ)の音(おと・をと)、夜半(よは)に心(こころ)をいたましむ。遠松(えんせう)に白鷺(はくろ)のむれゐるを見(み)ては、源氏(げんじ)の旗(はた)をあぐるかとうたがひ、野鴈(やがん)の遼海(れうかい)になくを聞(きき)ては、兵(つはもの)どもの夜(よ)もすがら舟(ふね)をこぐかとおどろかる。清嵐(せいらん)はだえ(はだへ)ををかし、翠黛(すいたい)紅顔(こうがん)の色(いろ)やうやうおとろへ、蒼波(さうは)眼(まなこ)穿(うがち)て、外都(ぐわいと)望郷(ばうきやう)の涙(なんだ)をさへ(おさへ)がたし。翠帳(すいちやう)紅閨(こうけい)にかはれるは、土生(はにふ)の小屋(こや)のあしすだれ、薫炉(くんろ)の煙(けぶり)にことなるは、蘆火(あしび)たく屋(や)のいやしきにつけても、女房達(にようばうたち)つきせぬ物(もの)おもひに紅(くれなゐ)の涙(なみだ)せきあへねば、翠(みどり)の黛(まゆずみ)みだれつつ、其(その)人(ひと)とも見(み)え給(たま)はず。 
征夷将軍院宣 (せいいしやうぐんのゐんぜん) 

 

さる程(ほど)に鎌倉(かまくら)の前(さきの)右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)、ゐながら征夷将軍(せいいしやうぐん)の院宣(ゐんぜん)を蒙(かうぶ)る。御使(おんつかひ・おつかひ)は左史生(さししやう)中原泰定(なかはらのやすさだ)とぞ聞(きこ)えし。十月(じふぐわつ)十四日(じふしにち)関東(くわんとう)へ下着(げちやく)。兵衛佐(ひやうゑのすけ)の給(たまひ)けるは、「頼朝(よりとも)年来(としごろ)勅勘(ちよくかん)を蒙(かうぶり)たりし〔か〕ども、今(いま)武勇(ぶゆう)の名誉(めいよ)長(ちやう)ぜるによ(ッ)て、ゐながら征夷将軍(せいいしやうぐん)の院宣(ゐんぜん)を蒙(かうぶ)る。いかんが私(わたくし)でうけとり奉(たてまつ)るべき。若宮(わかみや)の社(やしろ)にて給(たま)はらん」とて、若宮(わかみや)へまいり(まゐり)むかはれけり。
八幡(はちまん)は鶴(つる)が岡(をか)にたたせ給(たま)へり。地形(ちけい)石清水(いはしみづ)にたがはず。廻廊(くわいらう)あり、楼門(ろうもん)あり、つくり道(みち)十(じふ)余町(よちやう)見(み)くだしたり。「抑(そもそも)院宣(ゐんぜん)をばたれしてかうけとり奉(たてまつ)るべき」と評定(ひやうぢやう)あり。「三浦介(みうらのすけ)義澄(よしずみ)してうけとり奉(たてまつ)るべし。其(その)故(ゆゑ・ゆへ)は、八ケ国(はつかこく・はちかこく)に聞(きこ)えたりし弓矢(ゆみや)とり、三浦(みうらの)平太郎(へいたらう)為嗣(ためつぎ)が末葉(ばつえふ・ばつよう)也(なり)。其上(そのうへ)父(ちち)大介(おほすけ)は、君(きみ)の御(おん)ために命(いのち)をすてたる兵(つはもの)なれば、彼(かの)義明(よしあき)が黄泉(くわうせん)の迷暗(めいあん・めいあむ)をてらさむがため」とぞ聞(きこ)えし。
院宣(ゐんぜん)の御使(おんつかひ・おつかひ)泰定(やすさだ)は、家子(いへのこ)二人(ににん)、郎等(らうどう)十人(じふにん)具(ぐ)したり。院宣(ゐんぜん)をばふぶくろにいれて、雑色(ざつしき)が頸(くび)にぞかけさせたりける。三浦介(みうらのすけ)義澄(よしずみ)も家子(いへのこ)二人(ににん)、郎等(らうどう)十人(じふにん)具(ぐ)したり。二人(ににん)の家子(いへのこ)は、和田(わだの)三郎(さぶらう)宗実(むねざね)・比木(ひき)の藤四郎(とうしらう)能員(よしかず)なり。十人(じふにん)の郎等(らうどう)をば大名(だいみやう)十人(じふにん)して、俄(にはか)に一人(いちにん)づつしたてけり。三浦(みうら)の介(すけ)が其(その)日(ひ)の装束(しやうぞく)には、かちの直垂(ひたたれ)に、黒糸威(くろいとをどし・くろいとおどし)の鎧(よろひ)きて、いか物(もの)づくりの大太刀(おほだち)はき、廿四(にじふし)さいたる大中黒(おほなかぐろ)の矢(や)をひ(おひ)、しげどうの弓(ゆみ)脇(わき)にはさみ、甲(かぶと)をぬぎ高(たか)ひもにかけ、腰(こし)をかがめて院宣(ゐんぜん)をうけとる。
泰定(やすさだ)「院宣(ゐんぜん)うけとり奉(たてまつ)る人(ひと)はいかなる人(ひと)ぞ、名(な)のれや」といひければ、三浦介(みうらのすけ)とは名(な)のらで、本名(ほんみやう)を三浦(みうら)の荒次郎(あらじらう)義澄(よしずみ)とこそなの(ッ)たれ。院宣(ゐんぜん)をば、らん箱(ばこ)にいれられたり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)に奉(たてまつ)る。ややあ(ッ)て、らんばこをば返(かへ)されけり。おもかりければ、泰定(やすさだ)是(これ)をあけて見(み)るに、沙金(しやきん)百両(ひやくりやう)いれられたり。若宮(わかみや)の拝殿(はいでん)にして、泰定(やすさだ)に酒(しゆ)をすすめらる。斎院次官(さいゐんのしくわん)親義(ちかよし)陪膳(はいぜん)す。五位(ごゐ)一人(いちにん)役送(やくそう)をつとむ。馬(むま)三疋(さんびき)ひかる。一疋(いつぴき)に鞍(くら)をい(おい)たり。大宮(おほみや)のさぶらひた(ッ)し工藤(くどう)一臈(いちらふ・いちらう)資経(すけつね)是(これ)をひく。ふるき萱屋(かやや)をしつらうて、いれられたり。
あつ綿(わた)のきぬ二両(にりやう)、小袖(こそで)十重(とかさね)、長持(ながもち)にいれてまうけたり。紺藍摺(こんあいずり)白布(しろぬの)千端(せんだん)をつめり。盃飯(はいはん)ゆたかにして美麗(びれい)なり。次(つぎの)日(ひ)兵衛佐(ひやうゑのすけ)の館(たち)へむかふ。内外(うちと)に侍(さぶらひ)あり、ともに十六(じふろく)間(けん)なり。外侍(とさぶらひ)には家子(いへのこ)郎等(らうどう)肩(かた)をならべ、膝(ひざ)を組(くみ)てなみゐたり。内侍(うちさぶらひ)には一門(いちもんの)源氏(げんじ)上座(しやうざ)して、末座(ばつざ)に大名(だいみやう)小名(せうみやう)なみゐたり。源氏(げんじ)の座上(ざしやう)に泰定(やすさだ)をすへ(すゑ)らる。
良(やや)あ(ッ)て寝殿(しんでん)へ向(むか)ふ。ひろ廂(びさし)に紫縁(むらさきべり)の畳(たたみ)をしひ(しい)て、泰定(やすさだ)をすへ(すゑ)らる。うへには高麗縁(かうらいべり)の畳(たたみ)をしき、御簾(みす)たかくあげさせ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)どの出(いで)られたり。布衣(ほうい)に立烏帽子(たてえぼし)也(なり)。(かほ)大(おほき)に、せいひきかりけり。容(ようばう)悠美(いうび・ゆうび)にして、言語(げんぎよ)分明(ふんみやう)也(なり)。
「平家(へいけ)頼朝(よりとも)が威勢(ゐせい)におそれて宮(みや)こをおち、その跡(あと)に木曾(きそ)の冠者(くわんじや)、十郎(じふらう)蔵人(くらんど)うちいりて、わが高名(かうみやう)がほに官(くわん)加階(かかい)をおもふ様(やう)になり、おもふさまに国(くに)をきらひ申(まうす)条(でう)、奇怪(きくわい・き(ツ)くわい)也(なり)。奥(おく)の秀衡(ひでひら)が陸奥守(むつのかみ)になり、佐竹(さたけの)四郎(しらう)高義(たかよし)が常陸介(ひたちのすけ)にな(ッ)て候(さうらふ)とて、頼朝(よりとも)が命(めい)にしたがはず。いそぎ追討(ついたう)すべきよしの院宣(ゐんぜん)を給(たま)はるべう候(さうらふ)」。左史生(さししやう)申(まうし)けるは、「今度(こんど)泰定(やすさだ)も名符(みやうぶ)まいらす(まゐらす)べう候(さうらふ)が、御使(おんつかひ)で候(さうら)へば、先(まづ)罷上(まかりのぼり)て、やがてしたためてまいらす(まゐらす)べう候(さうらふ)。おととで候(さうらふ)史(し)の大夫(たいふ・たゆふ)重能(しげよし)も其(その)義(ぎ)を申(まうし)候(さうらふ)」。兵衛佐(ひやうゑのすけ)わら(ッ)て、「当時(たうじ)頼朝(よりとも)が身(み)として、各(おのおの)の名符(みやうぶ)おもひもよらず。さりながら、げにも申(まう)されば、さこそ存(ぞん)ぜめ」とぞの給(たま)ひける。軈(やがて)今日(こんにち)上洛(しやうらく)すべきよし申(まうし)ければ、けふばかりは、逗留(とうりう)あるべしとてとどめらる。次(つぎの)日(ひ)兵衛佐(ひやうゑのすけ)の館(たち)へむかふ。
萌黄(もえぎ)の糸威(いとをどし・いとおどし)の腹巻(はらまき)一両(いちりやう)、しろうつく(ッ)たる太刀(たち)一振(ひとふり)、しげどうの弓(ゆみ)、野矢(のや)そへてたぶ。馬(むま)十三(じふさん)疋(びき)ひかる。三疋(さんびき)に鞍(くら)をひ(おい)たり。家子(いへのこ)郎等(らうどう)十二人(じふににん)に、直垂(ひたたれ)・小袖(こそで)・大口(おほくち)・馬鞍(むまくら)にをよび(および)、荷懸駄(にかけだ)卅(さんじつ)疋(ぴき)ありけり。鎌倉出(かまくらいで)の宿(しゆく)より鏡(かがみ)の宿(しゆく)にいたるまで、宿々(しゆくじゆく)に十石(じつこく)づつの米(よね)ををか(おか)る。たくさんなるによ(ッ)て、施行(せぎやう)にひきけるとぞ聞(きこ)えし。 
猫間 (ねこま) 

 

泰定(やすさだ)都(みやこ)へのぼり院参(ゐんざん)して、御坪(おつぼ)の内(うち)にして、関東(くわんとう)のやうつぶさに奏聞(そうもん)しければ、法皇(ほふわう・ほうわう)も御感(ぎよかん)ありけり。公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)も皆(みな)ゑつぼにいり給(たま)へり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)はかうこそゆゆしくおはしけるに、木曾(きそ)の左馬頭(さまのかみ)、都(みやこ)の守護(しゆご)してありけるが、たちゐの振舞(ふるまひ)の無骨(ぶこつ)さ、物(もの)いふ詞(ことば)つづきのかたくななることかぎりなし。
ことはり(ことわり)かな、二歳(にさい)より信濃(しなのの)国(くに)木曾(きそ)といふ山里(やまざと)に、三十(さんじふ)まですみなれたりしかば、争(いかで)かしるべき。或(ある)時(とき)猫間(ねこまの)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)光高卿(みつたかのきやう)といふ人(ひと)、木曾(きそ)にの給(たま)ひあはすべきことあ(ッ)ておはしたりけり。郎等(らうどう)ども「猫間殿(ねこまどの)の見参(げんざん)にいり申(まうす)べき事(こと)ありとて、いらせ給(たま)ひて候(さうらふ)」と申(まうし)ければ、木曾(きそ)大(おほき)にわら(ッ)て、「猫(ねこ)は人(ひと)にげんざうするか」。「是(これ)は猫間(ねこま)の中納言殿(ちゆうなごんどの・ちうなごんどの)と申(まうす)公卿(くぎやう)でわたらせ給(たま)ふ。御宿所(ごしゆくしよ)の名(な)とおぼええ候(さうらふ)」と申(まうし)ければ、木曾(きそ)「さらば」とて対面(たいめん)す。猶(なほ・なを)も猫間殿(ねこまどの)とはえいはで、「猫殿(ねこどの)のまれまれおはゐ(おはい)たるに、物(もの)よそへ」とぞの給(たま)ひける。中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)是(これ)をきいて、「ただいまあるべうもなし」との給(たま)へば、「いかが、けどきにおはゐ(おはい)たるに、さてはあるべき」。何(なに)もあたらしき物(もの)を無塩(ぶゑん)といふと心(こころ)えて、「ここにぶゑんのひらたけあり、とうとう」といそがす。祢(ね)のゐ〔の〕小野太(こやた)陪膳(はいぜん)す。
田舎(ゐなか・いなか)合子(がふし・がうし)のきはめて大(おほき)に、くぼかりけるに、飯(はん)うづだかくよそゐ(よそひ)、御菜(ごさい)三種(さんじゆ)して、ひらたけのしるでまいらせ(まゐらせ)たり。木曾(きそ)がまへにもおなじ体(てい)にてすへ(すゑ)たりけり。木曾(きそ)箸(はし)と(ッ)て食(しよく)す。猫間殿(ねこまどの)は、合子(がふし・がうし)のいぶせさにめさざりければ、「それは義仲(よしなか)が精進(しやうじん)合子(がふし・がうし)ぞ」。中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)めさでもさすがあしかるべければ、箸(はし)と(ッ)てめすよししけり。木曾(きそ)是(これ)を見(み)て、「猫殿(ねこどの)は小食(せうじき)におはしけるや。きこゆる猫(ねこ)おろしし給(たま)ひたり。かい給(たま)へ」とぞせめたりける。中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)かやうの事(こと)に興(きよう・けう)さめて、のたまひあはすべきことも一言(いちごん)もいださず、軈(やがて)いそぎ帰(かへ)られけり。木曾(きそ)は、官(くわん)加階(かかい)したるものの、直垂(ひたたれ)で出仕(しゆつし)せん事(こと)あるべうもなかりけりとて、はじめて布衣(ほうい)とり、装束(しやうぞく)烏帽子(えぼし)ぎはより指貫(さしぬき)のすそまで、まことにかたくななり。されども車(くるま)にこがみのんぬ。鎧(よろひ)と(ッ)てき、矢(や)かきをひ(おひ)、弓(ゆみ)も(ッ)て、馬(むま)にの(ッ)たるにはにもにずわろかりけり。牛車(うしくるま)は八島(やしま)の大臣殿(おほいとの)の牛車(うしくるま)也(なり)。
牛飼(うしかひ)もそなりけり。世(よ)にしたがふ習(なら)ひなれば、とらはれてつかはれけれ共(ども)、あまりの目(め)ざましさに、すゑかうたる牛(うし)の逸物(いちもつ)なるが、門(かど)いづる時(とき)、ひとずはへ(ひとずはゑ)あてたらうに、なじかはよかるべき、飛(とん)でいづるに、木曾(きそ)、車(くるま)のうちにてのけにたふれぬ。蝶(てふ・てう)のはねをひろげたるやうに、左右(さう)の袖(そで)をひろげて、おきんおきんとすれども、なじかはおきらるべき。
木曾(きそ)牛飼(うしかひ)とはえいはで、「やれ子牛(こうし)こでい、やれこうしこでい」といひければ、車(くるま)をやれといふと心(こころ)えて、五六町(ごろくちやう)こそあがかせたれ。今井(いまゐ)の四郎(しらう)兼平(かねひら)、鞭(むち)あぶみをあはせて、お(ッ)つゐ(つい)て、「いかに御車(おんくるま)をばかうはつかまつるぞ」としかりければ、「御牛(おうし)の鼻(はな)がこはう候(さうらふ)」とぞのべたりける。牛飼(うしかひ)なかなをり(なかなほり)せんとや思(おもひ)けん、「それに候(さうらふ)手(て)がたにとりつかせ給(たま)へ」と申(まうし)ければ、木曾(きそ)手(て)がたにむずととりつゐ(つい)て、「あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)支度(したく)や、是(これ)は牛(うし)こでいがはからひか、殿(との)のやうか」とぞとふ(とう)たりける。
さて院(ゐんの)御所(ごしよ)にまいり(まゐり)つゐ(つい)て、車(くるま)かけはづさせ、うしろよりをり(おり)むとしければ、京(きやうの)者(もの)の雑色(ざつしき)につかはれけるが、「車(くるま)には、めされ候(さうらふ)時(とき)こそうしろよりめされ候(さうら)へ。をり(おり)させ給(たま)ふには、まへよりこそをり(おり)させ給(たま)へ」と申(まうし)けれども、「いかで車(くるま)であらむがらに、すどをり(すどほり)をばすべき」とて、つゐに(つひに)うしろよりをり(おり)て(ン)げり。其(その)外(ほか)おかしき(をかしき)こと共(ども)おほかりけれども、おそれて是(これ)を申(まう)さず。 
水島合戦 (みづしまがつせん) 

 

平家(へいけ)は讃岐(さぬき)の八島(やしま)にありながら、山陽道(せんやうだう)八ケ国(はつかこく・はちかこく)、南海(なんかい)〔道(だう)〕六ケ国(ろくかこく)、都合(つがふ・つがう)十四(じふし)箇国(かこく)をぞうちとりける。木曾(きその・きそ)左馬頭(さまのかみ)是(これ)をきき、やすからぬ事(こと)なりとて、やがてうつてをさしつかはす。うつての大将(たいしやう)には矢田(やたの・やだの)判官代(はんぐわんだい)義清(よしきよ)、侍大将(さぶらひだいしやう)には信濃国(しなののくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)海野(うんの)の弥平(やへい)四郎(しらう)行広(ゆきひろ)、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)七千(しちせん)余騎(よき)、山陽道(せんやうだう)へ馳下(はせくだ)り、備中国(びつちゆうのくに・びつちうのくに)水島(みづしま)がとに舟(ふね)をうかべて、八島(やしま)へ既(すで)によせむとす。同(おなじき)閏(うるふ)十月(じふぐわつ)一日(ひとひのひ)、水島(みづしま)がとに小船(せうせん)一艘(いつさう・いつそう)いできたり。あま舟(ぶね)釣舟(つりぶね)かと見(み)るほどに、さはなくして、平家方(へいけがた)より朝(てう)の使舟(つかひぶね)なりけり。
是(これ)を見(み)て源氏(げんじ)の舟(ふね)五百(ごひやく)余艘(よさう・よそう)ほしあげたるを、おめき(をめき)さけむ(さけん)でおろしけり。平家(へいけ)は千(せん)余艘(よさう・よそう)でおしよせたり。平家(へいけ)の方(かた)の大手(おほて)の大将軍(たいしやうぐん)には新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)知盛卿(とももりのきやう)、搦手(からめで)の大将軍(たいしやうぐん)には能登守(のとのかみ)教経(のりつね)なり。能登殿(のとどの)のたまひけるは、「いかに者共(ものども)、いくさをばゆるに仕(つかまつ)るぞ。
北国(ほつこく)のやつばらにいけどられむをば、心(こころ)うしとはおもはずや。御方(みかた)の舟(ふね)をばくめや」とて、千(せん)余艘(よさう・よそう)がとも綱(づな)・へづなをくみあはせ、中(なか)にむやゐ(むやひ)をいれ、あゆみの板(いた)をひきならべひきならべわたひ(わたい)たれば、舟(ふね)のうへはへいへいたり。源平(げんぺい)両方(りやうばう)時(とき)つくり、矢合(やあはせ)して、互(たがひ)に舟(ふね)どもおしあはせてせめたたかふ。遠(とほ・とを)きをば弓(ゆみ)でゐ(い)、近(ちか)きをば、太刀(たち)できり、熊手(くまで)にかけてとるもあり、とらるるもあり、引組(ひつくん)で海(うみ)にいるもあり、さしちがへて死(し)ぬるもあり。思(おも)ひ思(おも)ひ心々(こころごころ)に勝負(しようぶ・せうぶ)をす。
源氏(げんじ)の方(かた)の侍大将(さぶらひだいしやう)海野(うんの・うむの)の弥平(やへい)四郎(しらう)うたれにけり。是(これ)を見(み)て大将軍(たいしやうぐん)矢田(やた)の判官代(はんぐわんだい)義清(よしきよ)主従(しゆうじゆう・しうじう)七人(しちにん)小舟(せうせん)に乗(のり)て、真前(まつさき・ま(ツ)さき)にすす(ン)で戦(たたか)ふ程(ほど)に、いかがしたりけむ、船(ふね)ふみしづめて皆(みな)死(し)にぬ。平家(へいけ)は鞍(くら)をき馬(むま・くらおきむま)を舟(ふね)のうちにたてられたりければ、舟(ふね)さしよせ、馬(むま)どもひきおろし、うちのりうちのりおめい(をめい)てかけければ、源氏(げんじ)の勢(せい)、大将軍(たいしやうぐん)はうたれぬ、われさきにとぞ落行(おちゆき)ける。平家(へいけ)は水島(みづしま)のいくさに勝(かち)てこそ、会稽(くわいけい)の恥(はぢ)をば雪(きよ)めけれ。 
瀬尾最期 (せのをさいご) 

 

木曾(きそ)の左馬頭(さまのかみ)是(これ)をきき、やすからぬ事(こと)也(なり)とて、一万騎(いちまんぎ)で山陽道(せんやうだう)へ馳下(はせくだ)る。平家(へいけ)の侍(さぶらひ)備中国(びつちゆうのくに・びつちうのくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)妹尾(せのをの)太郎(たらう)兼康(かねやす)は、北国(ほつこく)の戦(たたか)ひに、加賀国(かがのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)倉光(くらみつ)の次郎(じらう)成澄(なりずみ)が手(て)にかか(ッ)て、いけどりにせられたりしを、成澄(なりずみ)が舎弟(しやてい)倉光(くらみつ)の三郎(さぶらう)成氏(なりうじ)にあづけられたり。きこゆる甲(かう)の者(もの)、大(だい)ぢから也(なり)ければ、木曾殿(きそどの)「あ(ッ)たらおのこ(をのこ)をうしなふべきか」とて、きらず。
人(ひと)あひ心(こころ)ざまゆう(いう)に情(なさけ)ありければ、倉光(くらみつ)もねんごろにもてなしけり。蘇子荊(そしけい)が胡国(ここく)にとらはれ、李少卿(りせうけい)が漢朝(かんてう)へ帰(かへ)らざりしが如(ごと)し。とをく(とほく)異国(いこく)に付(つけ)る事(こと)は、昔(むかし)の人(ひと)のかなしめりし処(ところ)也(なり)といへり。韋(をしかはの・おしかはの)環(たまき)・鴨(かも)の膜(ばく)も(ッ)て風雨(ふうう)をふせき、腥(なまぐさき)肉(しし)・駱(らく)のつくり水(みづ)も(ッ)て飢渇(きかつ)にあつ。夜(よ)るはいぬる事(こと)なく、昼(ひる)は終日(ひねもす)につかへ、木(き)をきり草(くさ)をからずといふばかりに随(したが)ひつつ、いかにもして敵(かたき)をうかがひ打(うつ)て、いま一度(いちど)旧主(きうしゆ)を見(み)たて奉(たてまつ)らんと思(おも)ひける兼康(かねやす)が心(こころ)の程(ほど)こそおそろしけれ。
或(ある)時(とき)妹尾(せのをの)太郎(たらう)、倉光(くらみつ)の三郎(さぶらう)にあふ(あう)て、いひけるは、「去(さんぬる)五月(ごぐわつ)より、甲斐(かひ・かい)なき命(いのち)をたすけられまいらせ(まゐらせ)て候(さうら)へば、誰(たれ)をたれとかおもひまいらせ(まゐらせ)候(さうらふ)べき。自今(じごん)以後(いご)御(おん)いくさ候(さうらは)ば、真前(まつさき・ま(ツ)さき)かけて木曾殿(きそどの)に命(いのち)をまいらせ(まゐらせ)候(さうら)はん。兼康(かねやす)が知行(ちぎやう)仕(つかまつり)候(さうらひ)し備中(びつちゆう・びつちう)の妹尾(せのを)は、馬(むま)の草飼(くさがひ)よい所(ところ)で候(さうらふ)。御辺(ごへん)申(まうし)て給(たま)はらせ候(さうら)へ」といひければ、倉光(くらみつ)此(この)様(やう)を申(まう)す。
木曾殿(きそどの)「神妙(しんべう)の事(こと)申(まうす)ごさんなれ。さらば汝(なんぢ)妹尾(せのを)を案内者(あんないしや)にして、先(まづ)くだれ。誠(まこと)に御馬(おんむま)の草(くさ)なんど(など)をもかまへさせよ」との給(たま)へば、倉光(くらみつの)三郎(さぶらう)かしこまり悦(よろこび)て、其(その)勢(せい)卅騎(さんじつき)ばかり、妹尾(せのをの)太郎(たらう)をさきとして、備中(びつちゆう・びつちう)へぞ下(くだり)ける。妹尾(せのを)が嫡子(ちやくし)小太郎(こたらう)宗康(むねやす)は、平家(へいけ)の御方(みかた)に候(さうらひ)けるが、父(ちち)が木曾殿(きそどの)よりゆるされて下(くだ)るときこえしかば、年来(としごろ)の郎等(らうどう)どももよほしあつめ、其(その)勢(せい)五十騎(ごじつき)ばかりでむかへにのぼる程(ほど)に、播磨(はりま)の国府(こふ)でゆきあふ(あう)て、つれて下(くだ)る。備前国(びぜんのくに)みつ石(いし)の宿(しゆく)にとどま(ッ)たりければ、妹尾(せのを)がしたしき者共(ものども)、酒(さけ)をもたせて出(いで)きたり。
其(その)夜(よ)もすがら悦(よろこび)のさかもりしけるに、あづかりの武士(ぶし)倉光(くらみつ)の三郎(さぶらう)、所従(しよじゆう・しよぢう)ともに卅(さんじふ)余人(よにん)、しゐ(しひ)ふせておこしもたてず、一々(いちいち)に皆(みな)さしころして(ン)げり。備前国(びぜんのくに)は十郎(じふらう)蔵人(くらんど)の国(くに)なり。其(その)代官(だいくわん)の国府(こふ)にありけるをも、をし(おし)よせてう(ッ)て(ン)げり。「兼康(かねやす)こそいとま給(たまは・ッ)て罷下(まかりくだ)れ、平家(へいけ)に心(こころ)ざし思(おも)ひまいらせ(まゐらせ)む人々(ひとびと)は、兼康(かねやす)を先(さき)として、木曾殿(きそどの)の下(くだり)給(たま)ふに、矢(や)ひとつゐ(い)かけ奉(たてまつ)れ」と披露(ひろう)しければ、備前(びぜん)・備中(びつちゆう・びつちう)・備後(びんご)三箇国(さんかこく)の兵(つはもの)ども、馬(むま)・物具(もののぐ)しかるべき所従(しよじゆう・しよじう)をば、平家(へいけ)の御方(おんかた)へまいらせ(まゐらせ)て、やすみける老者共(らうしやども)、或(あるい・ある)は柿(かき)の直垂(ひたたれ)につめひもし、或(あるい・ある)は布(ぬの)の小袖(こそで)にあづまおり(あづまをり)し、くさり腹巻(ばらまき)つづりきて、山(やま)うつぼ・たかゑびら(たかえびら)に矢(や)ども少々(せうせう)さし、かきをひ(おひ)かきをひ(おひ)妹尾(せのを)が許(もと)へ馳集(はせあつま)る。
都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)二千余人(にせんよにん)、妹尾(せのをの)太郎(たらう)を先(さき)として、備前国(びぜんのくに)福(ふく)りうじ(ふくりゆうじ)縄手(なはて)、ささのせまりを城郭(じやうくわく)にかまへ、口(くち)二丈(にぢやう)ふかさ二丈(にぢやう)に堀(ほり)をほり、逆(さか)もぎ引(ひき)、高矢倉(たかやぐら)かき、矢(や)さきをそろへて、いまやいまやと待(まち)かけたり。備前国(びぜんのくに)に十郎(じふらう)蔵人(くらんど)のをか(おか)れたりし代官(だいくわん)、妹尾(せのを)にうたれて、其(その)下人共(げにんども)がにげて京(きやう)へ上(のぼ)る程(ほど)に、播磨(はりま)と備前(びぜん)のさかひふなさかといふ所(ところ)にて、木曾殿(きそどの)にまいり(まゐり)あふ。此(この)由(よし)申(まうし)ければ、「やすからぬ。き(ッ)て捨(すつ)べかりつる物(もの)を」と後悔(こうくわい)せられければ、今井(いまゐ)の四郎(しらう)申(まうし)けるは、「さ候(さうら)へばこそ、きやつがつらだましゐ(つらだましひ)ただものとは見(み)候(さうら)はず。ちたびきらうど申(まうし)候(さうらひ)つる物(もの)を、助(たす)けさせ給(たまひ)て」と申(まうす)。
「思(おも)ふに何程(なにほど)の事(こと)かあるべき。追懸(おつかけ・をつかけ)てうて」とぞの給(たま)ひける。今井(いまゐの)四郎(しらう)「まづ下(くだ・ッ)て見(み)候(さうら)はん」とて、三千余騎(さんぜんよき)で馳下(はせくだ)る。ふくりう寺(じ・ふくりゆうじ)縄手(なはて)は、はたばり弓杖(ゆんづゑ・ゆんづえ)一(ひと)たけばかりにて、とをさ(とほさ)は西国(さいこく)一里(いちり)也(なり)。左右(さう)は深田(ふかた)にて、馬(むま)の足(あし)もをよば(およば)ねば、三千余騎(さんぜんよき)が心(こころ)はさきにすすめども、馬(むま)次第(しだい)にぞあゆませける。押(おし・をし)よせてみければ、妹尾(せのをの)太郎(たらう)矢倉(やぐら)に立出(たちいで)て、大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて、「去(さんぬる)五月(ごぐわつ)より今(いま)まで、甲斐(かひ・かい)なき命(いのち)を助(たすけ)られまいらせ(まゐらせ)て候(さうらふ)をのをの(おのおの)〔の〕御芳志(ごはうし)には、是(これ)をこそ用意(ようい)仕(つかまつり)て候(さうら)へ」とて、究竟(くつきやう・く(ツ)きやう)のつよ弓(ゆみ)勢兵(せいびやう)数百人(すひやくにん)すぐりあつめ、矢前(やさき)をそろへてさしつめひきつめさんざんにゐる(いる)。おもてを向(むく)べき様(やう)もなし。今井(いまゐの)四郎(しらう)をはじめとして、楯(たて)・祢ノ井(ねのゐ)・宮崎(みやざきの)三郎(さぶらう)・諏方(すは)・藤沢(ふぢさは)な(ン)ど(など)いふはやりをの兵(つはもの)ども、甲(かぶと)のしころをかたぶけて、射(い・ゐ)ころさるる人(ひと)馬(むま)をとりいれひきいれ、堀(ほり)をうめ、おめき(をめき)さけむ(さけん)でせめたたかふ。
或(あるい・ある)は左右(さう)の深田(ふかた)に打(うち)いれて、馬(むま)のくさわき・むながいづくし・ふと腹(はら)な(ン)ど(など)にたつ所(ところ)を事(こと)ともせず、むらめかいてよせ、或(あるい・ある)は谷(たに)ふけをも嫌(きら)はず、懸(かけ)いり懸(かけ)いり一日(いちにち)戦暮(たたかひくら)しけり。夜(よ)にいりて妹尾(せのを)が催(もよほ)しあつめたるかり武者共(むしやども)、皆(みな)せめおとされて、たすかる者(もの)はすくなう、うたるる者(もの)ぞおほかりける。妹尾(せのをの)太郎(たらう)篠(ささ)のせまりの城郭(じやうくわく)を破(やぶ)られて、引退(ひきしりぞ)き、備中国(びつちゆうのくに・びつちうのくに)板倉川(いたくらがは)のはたに、かいだてかいて待懸(まちかけ)たり。
今井(いまゐの)四郎(しらう)軈(やがて)をし(おし)よせ責(せめ)ければ、山(やま)うつぼ・たかゑびら(たかえびら)に矢種(やだね)のある程(ほど)こそふせきけれ、みな射(い・ゐ)つくして(ン)げれば、われさきにとぞ落行(おちゆき)ける。妹尾(せのをの)太郎(たらう)ただ主従(しゆうじゆう・しうじう)三騎(さんぎ・さんき)にうちなされ、板倉川(いたくらがは)のはたにつゐ(つい)て、みどろ山(やま)のかたへ落行(おちゆく)程(ほど)に、北国(ほつこく)で妹尾(せのを)いけどりにしたりし倉光ノ(くらみつの)次郎(じらう)成澄(なりずみ)、おととはうたれぬ、「やすからぬ事(こと)なり。妹尾(せのを)においては又(また)いけどりに仕(つかまつり)候(さうら)はん」とて、群(ぐん)にぬけてをう(おう)てゆく。あはひ一町(いつちやう)ばかりに追付(おひつき・をひつき)て、「いかに妹尾殿(せのをどの)、まさなう〔も〕敵(かたき)にうしろをば見(み)する物(もの)かな。返(かへ)せやかへせ」といはれて、板倉川(いたくらがは)を西(にし)へわたす河中(かはなか)に、ひかへて待懸(まちかけ)たり。
倉光(くらみつ)馳来(はせきたつ)て、おしならべむずと組(くん)で、どうどおつ。互(たがひ・たがい)におとらぬ大力(だいぢから)なれば、うへになり、したになり、ころびあふ程(ほど)に、川岸(かはぎし)に淵(ふち)のありけるにころびいりて、倉光(くらみつ)は無水練(ぶすいれん)なり、妹尾(せのを)はすぐれたる水練(すいれん)なりければ、水(みづ)の底(そこ)で倉光(くらみつ)をと(ッ)てをさへ(おさへ)、鎧(よろひ)の草摺(くさずり)ひきあげ、つかもこぶしもとをれ(とほれ)とをれ(とほれ)と三刀(みがたな)さいて頸(くび)をとる。我(わが)馬(むま)は乗損(のりそん)じたれば、敵(かたき)倉光(くらみつ)が馬(むま)に乗(のり)て落行(おちゆく)程(ほど)に、妹尾(せのを)が嫡子(ちやくし)小太郎(こたらう)宗康(むねやす)、馬(むま)にはのらず、歩行(かち)にて郎等(らうどう)とつれて落行(おちゆく)程(ほど)に、いまだ廿二三(にじふにさん)の男(をのこ・おのこ)なれども、あまりにふと(ッ)て一町(いつちやう)ともえはしらず、物具(もののぐ)ぬぎすててあゆめどもかなはざりけり。
父(ちち)は是(これ)をうち捨(すて)て、十(じふ)余町(よちやう)こそ逃(にげ)のびたれ。郎等(らうどう)にあふ(あう)ていひけるは、「兼康(かねやす)は千万(せんまん)の敵(かたき)にむか(ッ)て軍(いくさ)するは、四方(よも)はれておぼゆるが、今度(こんど)は小太郎(こたらう)をすててゆけばにや、一向(いつかう)前(まへ)がくらうて見(み)えぬぞ。たとひ兼康(かねやす)命(いのち)いきて、ふたたび平家(へいけ)の御方(おんかた)へまいり(まゐり)たりとも、どうれいども「兼康(かねやす)いまは六十(ろくじふ)にあまりたる者(もの)の、いく程(ほど)の命(いのち)をおしう(をしう)で、ただひとりある子(こ)を捨(すて)ておちけるやらん」といはれん事(こと)こそはづかしけれ」。
郎等(らうどう)申(まうし)けるは、「さ候(さうら)へばこそ、御一所(ごいつしよ)でいかにもならせ給(たま)へと申(まうし)つるはここ候(ざうらふ)。かへさせ給(たま)へ」といひければ、「さらば」とて取(と・ッ)てかへす。小太郎(こたらう)は足(あし)か(ン)ばかりはれてふせり。「なむぢ(なんぢ)がえお(ッ)つかねば、一所(いつしよ)で打死(うちじに)せうどて帰(かへり)たるは、いかに」といへば、小太郎(こたらう)涙(なみだ)をはらはらとながいて、「此(この)身(み)こそ無器量(ぶきりやう)の者(もの)で候(さうら)へば、自害(じがい)をも仕(つかまつり)候(さうらふ)べきに、我(われ)ゆへ(ゆゑ)に御命(おんいのち)をうしなひまいらせ(まゐらせ)む事(こと)、五逆罪(ごぎやくざい)にや候(さうら)はんずらん。ただとうとうのびさせ給(たま)へ」と申(まう)せども、「思(おも)ひき(ッ)たるうへは」とて、やすむ処(ところ)に、今井(いまゐ)の四郎(しらう)ま(ッ)さきかけて、其(その)勢(せい)五十騎(ごじつき)ばかりおめい(をめい)て追(おつ・をつ)かけたり。
妹尾(せのをの)太郎(たらう)矢(や)七ツ(ななつ)八ツ(やつ)射(い・ゐ)のこしたるを、さしつめひきつめさんざんに射(い・ゐ)る。死生(ししやう)はしらず、やにはに敵(かたき)五六騎(ごろくき)射(い・ゐ)おとす。其(その)後(のち)打物(うちもの)ぬいて、先(まづ)小太郎(こたらう)が頸(くび)打(うち)おとし、敵(かたき)の中(なか)へわ(ッ)ていり、さんざんに戦(たたか)ひ、敵(かたき)あまたうちと(ッ)て、つゐに(つひに)打死(うちじに)して(ン)げり。郎等(らうどう)も主(しゆう・しう)にち(ッ)ともおとらず戦(たたか)ひけるが、大事(だいじ)の手(て)あまたをひ(おひ)、たたかひつかれて自害(じがい)〔せんと〕しけるが、いけどりにこそせられけれ。中(なか)一日(いちにち)あ(ッ)てしににけり。是等(これら)主従(しゆうじゆう・しうじう)三人(さんにん)が頸(くび)をば、備中国(びつちゆうのくに・びつちうのくに)鷺(さぎ)が森(もり)にぞかけたりける。
木曾殿(きそどの)是(これ)を見(み)給(たま)ひて、「あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)剛(かう)の者(もの)かな。是(これ)をこそ一人当千(いちにんたうぜん)の兵(つはもの)ともいふべけれ。あ(ッ)たら者(もの)どもを助(たすけ)て見(み)で」とぞのたまひける。 
室山 (むろやま) 

 

さる程(ほど)に、木曾殿(きそどの)は備中国(びつちゆうのくに・びつちうのくに)万寿(まんじゆ)の庄(しやう)にて勢(せい)ぞろへして、八島(やしま)へ既(すで)によせむとす。其(その)間(あひだ・あいだ)の都(みやこ)の留守(るす)にをか(おか)れたる樋口(ひぐちの)次郎(じらう)兼光(かねみつ)、使者(ししや)をたてて、「十郎(じふらう)蔵人殿(くらんどどの)こそ殿(との)のましまさぬ間(ま)に、院(ゐん)のきり人(うと)して、やうやうに讒奏(ざんそう)せられ候(さうらふ)なれ。西国(さいこく)の軍(いくさ)をば暫(しばらく)さしをか(おか)せ給(たま)ひて、いそぎのぼらせ給(たま)へ」と申(まうし)ければ、木曾(きそ)「さらば」とて、夜(よ)を日(ひ)につゐ(つい)で馳上(はせのぼ)る。
十郎(じふらう)蔵人(くらんど)あしかりなんとやおもひけむ、木曾(きそ)にちがはむと丹波路(たんばぢ)にさしかか(ッ)て、播磨国(はりまのくに)へ下(くだ)る。木曾(きそ)は摂津国(つのくに)をへて、宮(みや)こへいる。平家(へいけ)は又(また)木曾(きそ)うたんとて、大将軍(たいしやうぐん)には新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)知盛卿(とももりのきやう)・本三位(ほんざんみの・ほんざんゐの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)重衡(しげひら)、侍大将(さぶらひだいしやう)には、越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)盛次(もりつぎ)・上総(かづさの)五郎兵衛(ごらうびやうゑ)忠光(ただみつ)・悪(あく)七兵衛(しつびやうゑ)景清(かげきよ)・都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)二万(にまん)余人(よにん)、千余艘(せんよさう)の舟(ふね)に乗(のり)、播磨(はりま)の地(ち)へおしわたりて、室山(むろやま)に陣(ぢん)をとる。
十郎(じふらう)蔵人(くらんど)、平家(へいけ)と軍(いくさ)して木曾(きそ)と中(なか)なをり(なかなほり)せんとやおもひけむ、其(その)勢(せい)五百余騎(ごひやくよき)で室山(むろやま)へこそをし(おし)よせたれ。平家(へいけ)は陣(ぢん)を五ツ(いつつ)にはる。一陣(いちぢん)越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)盛次(もりつぎ)二千余騎(にせんよき)、二陣(にぢん)伊賀(いがの)平(へい)内左衛門(ないざゑもん・ないざへもん)家長(いへなが)二千余騎(にせんよき)、三陣(さんぢん)上総(かづさの)五郎兵衛(ごらうびやうゑ)・悪(あく)七兵衛(しつびやうゑ)三千余騎(さんぜんよき)、四陣(しぢん)本三位(ほんざんみの・ほんざんゐの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)重衡(しげひら)三千余騎(さんぜんよき)、五陣(ごぢん)新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)知盛卿(とももりのきやう)一万余騎(いちまんよき)でかためらる。
十郎(じふらう)蔵人(くらんど)行家(ゆきいへ)五百余騎(ごひやくよき)でおめい(をめい)てかく。一陣(いちぢん)越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)盛次(もりつぎ)、しばらくあひしらう(しらふ)様(やう)にもてなひ(もてない)て、中(なか)をさ(ッ)とあけてとをす(とほす)。二陣(にぢん)伊賀(いがの・いが)平(へい)内左衛門(ないざゑもん)家長(いへなが)、おなじうあけてとをし(とほし)けり。三陣(さんぢん)上総(かづさの)五郎兵衛(ごらうびやうゑ)・悪(あく)七兵衛(しつびやうゑ)、ともにあけてとをし(とほし)けり。四陣(しぢん)本三位(ほんざんみの・ほんざんゐの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)、是(これ)もあけていれられけり。
一陣(いちぢん)より五陣(ごぢん)まで兼(かね)て約束(やくそく)したりければ、敵(かたき)を中(なか)にとりこめて、一度(いちど)に時(とき)をど(ッ)とぞつくりける。十郎(じふらう)蔵人(くらんど)今(いま)は遁(のが)るべき方(かた)もなかりければ、たばかられぬとおもひて、おもてもふらず、命(いのち)もおしま(をしま)ず、ここを最後(さいご)とせめたたかふ。平家(へいけ)の侍(さぶらひ)ども、「源氏(げんじ)の大将(たいしやう)にくめや」とて、我(われ)さきにとすすめども、さすが十郎(じふらう)蔵人(くらんど)にをし(おし)ならべてくむ武者(むしや)一騎(いつき)もなかりけり。新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)のむねとたのまれたりける紀(きの)七左衛門(しちざゑもん)・紀(きの)八衛門(はちゑもん)・紀(きの)九郎(くらう)な(ン)ど(など)いふ兵(つはもの)ども、そこにて皆(みな)十郎(じふらう)蔵人(くらんど)にうちとられぬ。
かくして十郎(じふらう)蔵人(くらんど)、五百余騎(ごひやくよき)が纔(わづか)に卅騎(さんじつき)ばかりにうちなされ、四方(しはう)はみな敵(かたき)なり、御方(みかた)は無勢(ぶせい)なり、いかにしてのがるべしとは覚(おぼ)えねど、おもひき(ッ)て雲霞(うんか)の如(ごとく)なる敵(かたき)のなかをわ(ッ)てとをる(とほる)。されども我(わが)身(み)は手(て)ををは(おは)ず、家子(いへのこ)郎等(らうどう)廿(にじふ)余騎(よき)大略(たいりやく)手負(ておひ・てをひ)て、播磨国(はりまのくに)高砂(たかさご)より舟(ふね)に乗(のり)、をし(おし)いだひ(いだい)て和泉国(いづみのくに)にぞ付(つき)にける。それより河内(かはち)へうちこえて、長野城(ながののじやう)にひ(ッ)こもる。平家(へいけ)は室山(むろやま)・水島(みづしま)二ケ度(にかど)のいくさに勝(かち)てこそ、弥(いよいよ)勢(せい)はつきにけれ。 
皷判官 (つづみはうぐわん) 

 

凡(およそ・をよそ)京中(きやうぢゆう・きやうぢう)には源氏(げんじ)みちみちて、在々所々(ざいざいしよしよ)にいりどりおほし。賀茂(かも)・八幡(やはた)の御領(ごりやう)ともいはず、青田(あをた)を苅(かり)てま草(ぐさ)にす。人(ひと)の倉(くら)をうちあけて物(もの)をとり、持(もち)てとをる(とほる)物(もの)をうばひとり、衣裳(いしやう)をはぎとる。「平家(へいけ)の都(みやこ)におはせし時(とき)は、六波羅殿(ろくはらどの)とて、ただおほかたおそろしかりしばかり也(なり)。衣裳(いしやう)をはぐまではなかりし物(もの)を、平家(へいけ)に源氏(げんじ)かへおとりしたり」とぞ人(ひと)申(まうし)ける。木曾ノ(きその)左馬頭(さまのかみ)のもとへ、法皇(ほふわう・ほうわう)より御使(おんつかひ・おつかひ)あり。
狼籍(らうぜき)しづめよと仰下(おほせくだ)さる。御使(おんつかひ)は壱岐守(いきのかみ)朝親(ともちか)が子(こ)に、壱岐判官(いきのはんぐわん)朝泰(ともやす)といふ者(もの)也(なり)。天下(てんが)にすぐれたる皷(つづみ)の上手(じやうず)でありければ、時(とき)の人(ひと)皷判官(つづみはんぐわん)とぞ申(まうし)ける。木曾(きそ)対面(たいめん)して、先(まづ)御返事(おんぺんじ)を申(まう)さで、「抑(そもそも)わどのを皷判官(つづみはんぐわん)といふは、よろづの人(ひと)にうたれたうか、はられたうか」とぞとふ(とう)たりける。
朝泰(ともやす)返事(へんじ)にをよば(およば)ず、院(ゐんの)御所(ごしよ)に帰(かへ)りまい(ッ・まゐつ)て、「義仲(よしなか)おこ(をこ)の者(もの)で候(さうらふ)。只今(ただいま・た(ン)だいま)朝敵(てうてき)になり候(さうらひ)なんず。いそぎ追討(ついたう・つゐたう)せさせ給(たま)へ」と申(まうし)ければ、法皇(ほふわう・ほうわう)さらばしかるべき武士(ぶし)には仰(おほ)せで、山(やま)の座主(ざす)・寺(てら)の長吏(ちやうり)に仰(おほせ)られて、山(やま)・三井寺(みゐでら)の悪僧(あくそう)どもをめされけり。公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)のめされける勢(せい)と申(まうす)は、むかへつぶて・いんぢ、いふかひなき辻冠者原(つじくわんじやばら)・乞食(こつじき)法師(ほふし・ほうし)どもなりけり。
木曾(きその・きそ)左馬頭(さまのかみ)、院(ゐん)の御気色(ごきしよく)あしうなると聞(きこ)えしかば、はじめは木曾(きそ)にしたがふ(したがう)たりける五畿内(ごきない)の兵(つはもの)ども、皆(みな)そむゐ(そむい)て院方(ゐんがた)へまいる(まゐる)。信濃源氏(しなのげんじ)村上(むらかみ)の三郎(さぶらう)判官代(はんぐわんだい)、是(これ)も木曾(きそ)をそむゐ(そむい)て法皇(ほふわう・ほうわう)へまいり(まゐり)けり。今井(いまゐの)四郎(しらう)申(まうし)けるは、「是(これ)こそ以外(もてのほか)の御大事(おんだいじ)で候(さうら)へ。さればとて十善帝王(じふぜんていわう)にむかい(むかひ)まいらせ(まゐらせ)て、争(いかで)か御合戦(ごかつせん)候(さうらふ)べき。甲(かぶと)をぬぎ弓(ゆみ)をはづゐ(はづい)て、降人(かうにん)にまいら(まゐら)せ給(たま)へ」と申(まう)せば、木曾(きそ)大(おほき)にいか(ッ)て、「われ信濃(しなの)を出(いで)し時(とき)、をみ・あひだのいくさよりはじめて、北国(ほつこく)には、砥浪山(となみやま)・黒坂(くろさか)・塩坂(しほさか)・篠原(しのはら)、西国(さいこく)には福隆寺(ふくりゆうじ・ふくりうじ)縄手(なはて)・ささのせまり・板倉(いたくら)が城(じやう)を責(せめ)しかども、いまだ敵(かたき)にうしろを見(み)せず、たとひたとひ十善帝王(じふぜんていわう)にてましますとも、甲(かぶと)をぬぎ、弓(ゆみ)をはづいて降人(かうにん)にはえこそまいる(まゐる)まじけれ。
たとへば都(みやこ)の守護(しゆご)してあらんものが、馬(むま)一疋(いつぴき)づつかうてのらざるべきか。いくらもある田(た)どもからせて、ま草(くさ)にせんを、あながちに法皇(ほふわう・ほうわう)のとがめ給(たま)ふべき様(やう)やある。兵粮米(ひやうらうまい)もなければ、冠者原共(くわんじやばらども・くわじやばらども)がかたほとりにつゐ(つい)て、時々(ときどき)いりどりせんは何(なに)かあながちひが事(こと)ならむ。大臣家(だいじんげ)や宮々(みやみや)の御所(ごしよ)へもまいら(まゐら)ばこそ僻事(ひがこと)ならめ。是(これ)は皷判官(つづみはんぐわん)が凶害(きようがい・けうがい)とおぼゆるぞ。其(その)皷(つづみ)め打破(うちやぶ・ッ)て捨(すて)よ。今度(こんど)は義仲(よしなか)が最後(さいご)の軍(いくさ)にてあらむずるぞ。頼朝(よりとも)が帰(かへり)きかむ処(ところ)もあり、軍(いくさ)ようせよ。者(もの)ども」とてう(ッ)たちけり。
北国(ほつこく)の勢(せい)ども皆(みな)落下(おちくだ・ッ)て、纔(わづか)に六七千騎(ろくしちせんぎ)ぞありける。我(わが)軍(いくさ)の吉例(きちれい)なればとて、七手(ななて)につくる。先(まづ)今井(いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)二千騎(にせんぎ)で、新熊野(いまぐまの)のかたへ搦手(からめで)にさしつかはす。のこり六手(むて)は、をのをの(おのおの)がゐたらむ条里小路(でうりこうぢ)より川原(かはら)へいでて、七条河原(しつでうかはら)にてひとつになれと、あひづをさだめて出立(いでたち)けり。軍(いくさ)は十一月(じふいちぐわつ)十九日(じふくにち)の朝(あさ)なり。院(ゐんの)御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの・ほうぢうじどの)にも、軍兵(ぐんびやう)二万(にまん)余人(よにん)まいり(まゐり)こもりたるよし聞(きこ)えけり。御方(みかた)のかさじるしには、松(まつ)の葉(は)をぞ付(つけ)たりたる。木曾(きそ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの・ほうぢうじどの)の西門(にしのもん)にをし(おし)よせて見(み)れば、皷判官(つづみはんぐわん)朝泰(ともやす)軍(いくさ)の行事(ぎやうじ)うけ給(たまは・ッ)て、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、鎧(よろひ)はわざときざりけり。
甲(かぶと)斗(ばかり)ぞきたりける。甲(かぶと)には四天(してん)をかいて、をし(おし)たりけり。御所(ごしよ)の西(にし)の築墻(ついがき)の上(うへ)にのぼ(ッ)て立(たち)たりけるが、片手(かたて)にはほこをもち、片手(かたて)には金剛鈴(こんがうれい)をも(ッ)て、金剛鈴(こんがうれい)を打振(うちふり)打振(うちふり)、時々(ときどき)は舞(まふ)おり(をり)もありけり。若(わか)き公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)「風情(ふぜい)なし。朝泰(ともやす)には天狗(てんぐ)ついたり」とぞわらはれける。大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて、「むかしは宣旨(せんじ)をむか(ッ)てよみければ、枯(かれ)たる草木(そうもく)も花(はな)さきみなり、悪鬼(あつき)悪神(あくじん)も随(したが)ひけり。
末代(まつだい)ならむがらに、いかんが十善帝王(じふぜんていわう)にむかひまいらせ(まゐらせ)て弓(ゆみ)をばひくべき。汝等(なんぢら)がはなたん矢(や)は、返(かへ・ッ)て身(み)にあたるべし、ぬかむ太刀(たち)は身(み)をきるべし」な(ン)ど(など)とののしりければ、木曾(きそ)「さないはせそ」とて、時(とき)をど(ッ)とつくる。さる程(ほど)に、搦手(からめで)にさしつかはしたる樋口(ひぐちの)次郎(じらう)兼光(かねみつ)、新熊野(いまぐまの)の方(かた)より時(とき)のこゑをぞあはせたる。鏑(かぶら)のなかに火(ひ)を入(いれ)て、法住寺殿(ほふぢゆうじどの・ほうぢうじどの)の御所(ごしよ)に射(い・ゐ)たてたりければ、おりふし(をりふし)風(かぜ)ははげしし、猛火(みやうくわ)天(てん)にもえあが(ッ)て、ほのを(ほのほ)は虚空(こくう)にひまもなし。
いくさの行事(ぎやうじ)朝泰(ともやす)は、人(ひと)よりさきに落(おち)にけり。行事(ぎやうじ)がおつるうへは、二万(にまん)余人(よにん)の官軍(くわんぐん)ども、我(われ)さきにとぞ落(おち)ゆきける。あまりにあはて(あわて)さはい(さわい)で、弓(ゆみ)とる者(もの)は矢(や)をしらず、矢(や)とる者(もの)は弓(ゆみ)をしらず、或(あるい・ある)は長刀(なぎなた)さかさまについて、我(わが)足(あし)つきつらぬく者(もの)もあり、或(あるい・ある)は弓(ゆみ)のはず物(もの)にかけて、えはづさで捨(すて)てにぐる者(もの)もあり。七条(しつでう)がすゑは摂津国(つのくに)源氏(げんじ)のかためたりけるが、七条(しつでう)を西(にし)へおちて行(ゆく)。
かねて軍(いくさ)いぜんより、「落人(おちうと)のあらむずるをば、用意(ようい)してうちころせ」と、御所(ごしよ)より披露(ひろう)せられたりければ、在路(ざいぢ)の者共(ものども)、やねいに楯(たて)をつき、おそへの石(いし)をとりあつめて、待懸(まちかけ)たるところに、摂津国(つのくに)源氏(げんじ)のおちけるを、「あはや落人(おちうと)よ」とて、石(いし)をひろい(ひろひ)かけ、さんざんに打(うち)ければ、「これは院(ゐん)がたぞ、あやまち仕(つかまつ)るな」といへども、「さないはせそ。院宣(ゐんぜん)であるに、ただ打(うち)ころせ打(うち)ころせ」とて打(うつ)間(あひだ・あいだ)、或(あるい・ある)は馬(むま)をすてて、はうはう(はふはふ)にぐる者(もの)もあり、或(あるい・ある)はうちころさるるもありけり。
八条(はつでう)がすゑは山僧(さんぞう)かためたりけるが、恥(はぢ)あるものはうち死(じに)し、つれなきものはおちぞゆく。主水正(もんどのかみ)親〔成〕(ちかなり)薄青(うすあを)の狩衣(かりぎぬ)のしたに、萌黄(もえぎ)の腹巻(はらまき)をきて、白葦毛(しらあしげ)なる馬(むま)にのり、河原(かはら)をのぼりに落(おち)てゆく。今井(いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)を(ッ・おつ)かけて、しや頸(くび)の骨(ほね)を射(い・ゐ)てゐ(い)おとす。清大外記(せいだいげき)頼成(よりなり)が子(こ)なりけり。「明経道(みやうぎやうだう)の博士(はかせ)、甲冑(かつちう)をよろふ事(こと)しかるべからず」とぞ人(ひと)申(まうし)ける。木曾(きそ)を背(そむい)て院方(ゐんがた)へまい(ッ・まゐつ)たる信濃源氏(しなのげんじ)、村上(むらかみの)三郎(さぶらう)判官代(はんぐわんだい)もうたれけり。是(これ)をはじめて院方(ゐんがた)には、近江(あふみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)為清(ためきよ)・越前守(ゑちぜんのかみ)信行(のぶゆき)も射(い・ゐ)ころされて頸(くび)とられぬ。
伯耆守(はうきのかみ)光長(みつなが)・子息(しそく)判官(はんぐわん)光経(みつつね)、父子(ふし)共(とも)にうたれぬ。按察(あぜつの)大納言(だいなごん)資方卿(すけかたのきやう)の孫(まご)播磨(はりまの)少将(せうしやう)雅方(まさかた)も、鎧(よろひ)に立烏帽子(たてえぼし)で軍(いくさ)の陣(ぢん)へいでられたりけるが、樋口(ひぐちの)次郎(じらう)に生(いけ)どりにせられ給(たま)ひぬ。
天台座主(てんだいざす)明雲(めいうん)大僧正(だいそうじやう)、寺(てら)の長吏(ちやうり)円慶(ゑんけい)法親王(ほふしんわう・ほうしんわう)も、御所(ごしよ)にまいり(まゐり)こもらせ給(たま)ひたりけるが、黒煙(くろけぶり)既(すで)にをし(おし)かけければ、御馬(おんむま)にめして、いそぎ川原(かはら)へいでさせ給(たま)ふ。武士(ぶし)どもさんざんに射(い・ゐ)たてまつる。
明雲(めいうん)大僧正(だいそうじやう)、円慶(ゑんけい)法親王(ほふしんわう・ほうしんわう)も、御馬(おんむま)よりゐ(い)おとされて、御頸(おんくび)とられさせ給(たま)ひけり。豊後(ぶんごの)国司(こくし)刑部卿(ぎやうぶきやうの)三位(さんみ)頼資卿(よりすけのきやう)も、御所(ごしよ)にまいり(まゐり)こもられたりけるが、火(ひ)は既(すで)にをし(おし)かけたり、いそぎ川原(かはら)へ逃出(にげいで)給(たまふ)。武士(ぶし)の下部共(しもべども)に衣裳(いしやう)皆(みな)はぎとられ、ま(ッ)ぱだかでたたれたり。十一月(じふいちぐわつ)十九日(じふくにち)のあしたなれば、河原(かはら)の風(かぜ)さこそすさまじかりけめ。
三位(さんみ)〔の〕こじうとに越前(ゑちぜんの)法眼(ほふげん・ほうげん)性意(しやうい)といふ僧(そう)あり。其(その)中間(ちゆうげん・ちうげん)法師(ぼふし・ぼうし)軍(いくさ)見(み)んとて河原(かはら)へいでたりけるが、三位(さんみ)のはだかでたたれたるに見(み)あふ(あう)て、「あなあさまし」とてはしりより、此(この)法師(ほふし・ほうし)は白(しろき)小袖(こそで)二ツ(ふたつ)に衣(ころも)きたりけるが、さらば小袖(こそで)をもぬいできせたてまつれかし、さはなくて、衣(ころも)をひ(ン)ぬいでなげかけたり。短(みじか)き衣(ころも)うつほにほうかぶ(ッ)て、帯(おび)もせず。うしろさこそ見(み)ぐるしかりけめ。白衣(びやくえ)なる法師(ほふし・ほうし)どもに具(ぐ)しておはしけるが、さらばいそぎもあゆみ給(たま)はで、あそこ爰(ここ)に立(たち)とどまり、「あれはたが家(いへ)ぞ、是(これ)は何者(なにもの)が宿所(しゆくしよ)ぞ、ここはいづくぞ」と、道(みち)すがらとはれければ、見(み)る人(ひと)みな手(て)をたたゐ(たたい)てわらひあへり。法皇(ほふわう・ほうわう)は御輿(おんこし)にめして他所(たしよ)へ御幸(ごかう)なる。
武士(ぶし)どもさむざむ(さんざん)に射(い・ゐ)たてまつる。豊後(ぶんごの)少将(せうしやう)宗長(むねなが)、木蘭地(もくらんぢ)の直垂(ひたたれ)に折烏帽子(をりえぼし・おりえぼし)で供奉(ぐぶ)せられたりけるが、「是(これ)は法皇(ほふわう・ほうわう)の御幸(ごかう)ぞ。あやまちつかまつるな」との給(たま)へば、兵(つはもの)ども皆(みな)馬(むま)よりをり(おり)てかしこまる。「何者(なにもの)ぞ」と御尋(おんたづね)ありければ、「信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)矢島(やしま)の四郎(しらう)行綱(ゆきつな)」となのり申(まうす)。軈(やがて)御輿(おんこし)に手(て)かけまいらせ(まゐらせ)、五条内裏(ごでうのだいり)にをし(おし)こめたてま(ッ)て、きびしう守護(しゆご)し奉(たてまつ)る。主上(しゆしやう)は池(いけ)に船(ふね)をうかべてめされけり。武士(ぶし)どもしきりに矢(や)をまいらせ(まゐらせ)ければ、七条(しつでうの)侍従(じじゆう・じじう)信清(のぶきよ)・紀伊守(きのかみ)教光(のりみつ)御舟(おんふね)に候(さうら)はれけるが、「是(これ)はうちのわたらせ給(たま)ふぞ、あやまち仕(つかまつ)るな」とのたまへば、兵(つはもの)ども皆(みな)馬(むま)よりをり(おり)てかしこまる。閑院殿(かんゐんどの)へ行幸(ぎやうがう)なし奉(たてまつ)る。行幸(ぎやうがう)の儀式(ぎしき)のあさましさ、申(まうす)も中々(なかなか)をろか(おろか)なり。 
法住寺合戦 (ほふぢゆうじかつせん) 

 

院方(ゐんがた)に候(さうらひ)ける近江守(あふみのかみ)仲兼(なかかぬ)、其(その)勢(せい)五十騎(ごじつき)ばかりで、法住寺殿(ほふぢゆうじどの・ほうぢうじどの)の西(にし)の門(もん)をかためてふせく処(ところ)に、近江源氏(あふみげんじ)山本(やまもとの)冠者(くわんじや)義高(よしたか)馳来(はせき)たり、「いかにをのをの(おのおの)は、誰(たれ)をかばはんとて軍(いくさ)をばし給(たま)ふぞ。御幸(ごかう)も行幸(ぎやうがう)も他所(たしよ)へなりぬとこそ承(うけたま)はれ」と申(まう)せば、「さらば」とて、敵(かたき)の大勢(おほぜい)の中(なか)へおめい(をめい)てかけいり、さむざむ(さんざん)に、戦(たた)かひ、かけやぶ(ッ)てぞとをり(とほり)ける。
主従(しゆうじゆう・しうじう)八騎(はちき)にうちなさる。八騎(はちき)がうちに、河内(かはち)のくさか党(たう)、加賀房(かがばう)といふ法師武者(ほふしむしや・ほうしむしや)ありけり。白葦毛(しらあしげ)なる馬(むま)の、きはめて口(くち)こはきにぞの(ッ)たりける。「此(この)馬(むま)があまりひあひ(ひあい)で、乗(のり)たまるべしともおぼえ候(さうら)はず」と申(まうし)ければ、蔵人(くらんど)、「いでさらばわが馬(むま)に乗(のり)かへよ」とて、栗毛(くりげ)なる馬(むま)のしたお(したを)しろいに乗(のり)かへて、祢のゐの小野太(こやた)が二百騎(にひやくき)ばかりでささへたる川原坂(かはらざか)の勢(せい)の中(なか)へ、おめい(をめい)て懸(かけ)いり、そこにて八騎(はちき)が五騎(ごき)はうたれぬ。ただ主従(しゆうじゆう・しうじう)三騎(さんぎ・さんき)にぞなりにける。
加賀房(かがばう)はわが馬(むま)のひあいなりとて、主(しゆう・しゆ)の馬(むま)に乗(のり)かへたれども、そこにてつゐに(つひに)うたれにけり。源(みなもとの)蔵人(くらんど)の家(いへ)の子(こ)に、信濃(しなのの)次郎(じらう)蔵人(くらんど)仲頼(なかより)といふ者(もの)あり。敵(かたき)にをし(おし)へだてられて、蔵人(くらんど)のゆくゑ(ゆくへ)をしらず、栗毛(くりげ)なる馬(むま)のしたお(したを)しろいがはしりいでたるを見(み)て、下人(げにん)をよび、「ここなる馬(むま)は源(みなもとの)蔵人(くらんど)の馬(むま)とこそみれ。はやうたれけるにこそ。死(し)なば一所(いつしよ)で死(し)なんとこそ契(ちぎり)しに、所々(しよしよ)でうたれむことこそかなしけれ。どの勢(せい)の中(なか)へかいると見(み)つる」。「川原坂(かはらざか)の勢(せい)のなかへこそ懸(かけ)いらせ給(たま)ひ候(さうらひ)つるなれ。やがてあの勢(せい)の中(なか)より御馬(おんむま)も出(いで)きて候(さうらふ)」と申(まうし)ければ、「さらば汝(なんぢ)はとうとう是(これ)より帰(かへ)れ」とて、最後(さいご)のありさま故郷(こきやう)へいひつかはし、只(ただ)一騎(いつき)敵(かたき)のなかへ懸(かけ)いり、大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)あげて名(な)のりけるは、「敦実親王(あつみのしんわう)より九代(くだい)の後胤(こういん・こうゐん)、信濃守(しなののかみ)仲重(なかしげ)が次男(じなん)、信濃(しなのの)次郎(じらう)蔵人(くらんど)仲頼(なかより)、生年(しやうねん)廿七(にじふしち)歳(さい)。我(われ)とおもはむ人々(ひとびと)はよりあへや、見参(げんざん)せん」とて、竪様(たてさま)・横様(よこさま)・くも手(で)・十文字(じふもんじ)に懸(かけ)わり懸(かけ)まはり戦(たたか)ひけるが、敵(かたき)あまた打(うち)と(ッ)て、つゐに(つひに)うち死(じに)して(ン)げり。
蔵人(くらんど)是(これ)をば夢(ゆめ)にもしらず、兄ノ(あにの)河内守(かはちのかみ)・郎等(らうどう)一騎(いつき)打(うち)具(ぐ)して、主従(しゆうじゆう・しうじう)三騎(さんぎ)、南(みなみ)をさして落行(おちゆく)程(ほど)に、摂政殿(せつしやうどの)の都(みやこ)をば軍(いくさ)におそれて、宇治(うぢ)へ御出(ぎよしゆつ)なりけるに、木幡山(こはたやま)にて追付(おひつき・をひつき)たてまつる。木曾(きそ)が余党(よたう)かとおぼしめし、御車(おんくるま)をとどめて「何者(なにもの)ぞ」と御尋(おんたづね)あれば、「仲兼(なかかぬ)、仲信(なかのぶ)」となのり申(まうす)。「こはいかに、北国(ほつこく)凶徒(きようど・けうど)かなとおぼしめしたれば、神妙(しんべう)にまいり(まゐり)たり。ちかう候(さうらひ)て守護(しゆご)つかまつれ」と仰(おほせ)ければ、畏(かしこまり)て承(うけたまは)り、宇治(うぢ)のふけ殿(どの)までをくり(おくり)まいらせ(まゐらせ)て、軈(やがて)此(この)人(ひと)どもは、河内(かはち)へぞ落(おち)ゆきける。あくる廿日(はつかのひ)、木曾(きその・きそ)左馬頭(さまのかみ)六条川原(ろくでうかはら)にう(ッ)た(ッ)て、昨日(きのふ)きるところの頸(くび)ども、かけならべてしるひ(しるい)たりければ、六百卅(ろつぴやくさんじふ)余人(よにん)也(なり)。
其(その)中(なか)に明雲(めいうん)大僧正(だいそうじやう)・寺(てら)の長吏(ちやうり)円慶(ゑんけい)法親王(ほふしんわう・ほうしんわう)の御頸(おんくび)もかからせ給(たま)ひたり。是(これ)を見(み)る人(ひと)涙(なみだ)をながさずといふことなし。木曾(きそ)其(その)勢(せい)七千余騎(しちせんよき)、馬(むま)の鼻(はな)を東(ひがし・ひ(ン)がし)へむけ、天(てん)も響(ひび)き大地(だいぢ)もゆるぐ程(ほど)に、時(とき)をぞ三ケ度(さんがど)つくりける。京中(きやうぢゆう・きやうぢう)又(また)さはぎ(さわぎ)あへり。但(ただし)是(これ)は悦(よろこび)の時(とき)とぞ聞(きこ)えし。故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう・にうだう)信西(しんせい)の子息(しそく)宰相(さいしやう)長教(ながのり)、法皇(ほふわう・ほうわう)のわたらせ給(たまふ)五条(ごでう)の内裏(だいり)にまい(ッ・まゐつ)て、「是(これ)は君(きみ)に奏(そう)すべき事(こと)があるぞ。あけてとをせ(とほせ)」とのたまへども、武士共(ぶしども)ゆるしたてまつらず。
力(ちから)をよば(およば)である小屋(せうをく・せうヲク)に立(たち)いり、俄(にはか)に髪(かみ)そりおろし法師(ほふし・ほうし)になり、墨染(すみぞめ)の衣(ころも)袴(はかま)きて、「此(この)上(うへ)は何(なに)かくるしかるべき、いれよ」との給(たま)へば、其(その)時(とき)ゆるし奉(たてまつ)る。御前(ごぜん)へまい(ッ・まゐつ)て、今度(こんど)うたれ給(たま)へるむねとの人々(ひとびと)の事(こと)どもつぶさに奏聞(そうもん)しければ、法皇(ほふわう・ほうわう)御涙(おんなみだ)をはらはらとながさせ給(たま)ひて、「明雲(めいうん)は非業(ひごふ・ひごう)の死(し)にすべきものとはおぼしめさざりつる物(もの)を。今度(こんど)はただわがいかにもなるべかりける御命(おんいのち)にかはりけるにこそ」とて、御涙(おんなみだ)せきあへさせ給(たま)はず。
木曾(きそ)、家子(いへのこ)郎等(らうどう)召(めし)あつめて評定(ひやうぢやう)す。「抑(そもそも)義仲(よしなか)、一天(いつてん)の君(きみ)にむかひ奉(たてまつり)て軍(いくさ)には勝(かち)ぬ。主上(しゆしやう)にやならまし、法皇(ほふわう・ほうわう)にやならまし。主上(しゆしやう)にならうどおもへども、童(わらは)にならむもしかるべからず。法皇(ほふわう・ほうわう)にならうど思(おも)へ共(ども)、法師(ほふし・ほうし)にならむもをかしかるべし。よしよしさらば関白(くわんばく)にならう」ど申(まう)せば、手(て)かきに具(ぐ)せられたる大夫房(たいふばう)覚明(かくめい)申(まうし)けるは、「関白(くわんばく)は大織冠(たいしよくくわん・たいしよくわん)の御末(おんすゑ)、藤原氏(ふじはらうじ)こそならせ給(たま)へ。殿(との)は源氏(げんじ)でわたらせ給(たま)ふに、それこそ叶(かな)ひ候(さうらふ)まじけれ」。
「其上(そのうへ)は力(ちから)をよば(およば)ず」とて、院(ゐん)の御厩(みむまや)の別当(べつたう)にをし(おし)な(ッ)て、丹波国(たんばのくに)をぞ知行(ちぎやう)しける。院(ゐん)の御出家(ごしゆつけ)あれば法皇(ほふわう・ほうわう)と申(まうし)、主上(しゆしやう)のいまだ御元服(ごげんぶく)もなき程(ほど)は、御童形(ごとうぎやう)にてわたらせ給(たま)ふをしらざりけるこそうたてけれ。前(さきの)関白(くわんばく)松殿(まつどの)の姫君(ひめぎみ)とりたてま(ッ)て、軈(やがて)松殿(まつどの)の聟(むこ)にをし(おし)なる。同(おなじき)十一月(じふいちぐわつ)廿三日(にじふさんにち)、三条(さんでうの)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)朝方卿(ともかたのきやう)をはじめとして、卿相(けいしやう)雲客(うんかく)四十九人(しじふくにん)が官職(くわんしよく)をとどめてお(ッ)こめ奉(たてまつ)る。
平家(へいけ)の時(とき)は四十三人(しじふさんにん)をこそとどめたりしに、是(これ)は四十九人(しじふくにん)なれば、平家(へいけ)の悪行(あくぎやう)には超過(てうくわ)せり。さる程(ほど)に、木曾(きそ)が狼籍(らうぜき)しづめむとて、鎌倉(かまくら)の前(さきの)兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)、舎弟(しやてい)蒲(がま)の冠者(くわんじや)範頼(のりより)・九郎(くらう)冠者(くわんじや)義経(よしつね)をさしのぼせられけるが、既(すで)に法住寺殿(ほふぢゆうじどの・ほうぢうじどの)焼(やき)はらひ、院(ゐん)うちとり奉(たてまつり)て天下(てんが)くらやみにな(ッ)たるよし聞(きこ)えしかば、左右(さう)なうのぼ(ッ)て軍(いくさ)すべき様(やう)もなし。
是(これ)より関東(くわんとう)へ子細(しさい)を申(まう)さむとて、尾張国(をはりのくに・おはりのくに)熱田(あつたの)大郡司(だいぐんじ)が許(もと)におはしけるに、此(この)事(こと)う(ッ)たへ(うつたへ)んとて、北面(ほくめん)に候(さうらひ)ける宮内(くない)判官(はんぐわん)公朝(きんとも)・藤(とう)内左衛門(ないざゑもん)時成(ときなり)、尾張国(をはりのくに・おはりのくに)に馳下(はせくだ)り、此(この)由(よし)一々(いちいち)次第(しだい)にう(ッ)たへ(うつたへ)ければ、九郎(くらう)御曹司(おんざうし)「是(これ)は宮内(くない)判官(はんぐわん)の関東(くわんとう)へ下(くだ)らるべきにて候(さうらふ)ぞ。子細(しさい)しらぬ使(つかひ)はかへしとはるるとき不審(ふしん)の残(のこ)るに」との給(たま)へば、公朝(きんとも)鎌倉(かまくら)へ馳下(はせくだ)る。軍(いくさ)におそれて下人(げにん)ども皆(みな)落(おち)うせたれば、嫡子(ちやくし)の宮内(くない)どころ公茂(きんもち)が十五(じふご)になるをぞ具(ぐ)したりける。
関東(くわんとう)にまひ(ッ・まゐつ)て此(この)よし申(まうし)ければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)大(おほき)におどろき、「まづ皷判官(つづみはんぐわん)知泰(ともやす)が不思議(ふしぎ)〔の〕事(こと)申(まうし)いだして、御所(ごしよ)をもやかせ、高〔僧〕(かうそう)貴僧(きそう)をもほろぼしたてま(ッ)たるこそ奇怪(きくわい・き(ツ)くわい)なれ。知泰(ともやす)においては既(すで)に違勅(いちよく)の者(もの)なり。めしつかはせ給(たま)はば、かさねて御大事(おんだいじ)いでき候(さうらひ)なむず」と、宮(みや)こへ早馬(はやむま)をも(ッ)て申(まう)されければ、皷判官(つづみはんぐわん)陳(ちん)ぜんとて、夜(よ)を日(ひ)についで、馳下(はせくだ)る。兵衛佐(ひやうゑのすけ)「しやつにめな見(み)せそ、あひしらゐ(あひしらひ)なせそ」との給(たま)へども、日(ひ)ごとに兵衛佐(ひやうゑのすけ)の館(たち)へむかふ。終(つひ)に面目(めんぼく)なくして、宮(みや)こへ帰(かへ)りのぼりけり。後(のち)には稲荷(いなり)の辺(へん)なる所(しよ)に、命(いのち)ばかりいきてすごしけるとぞ聞(きこ)えし。木曾ノ(きその)左馬頭(さまのかみ)、平家(へいけ)の方(かた)へ使者(ししや)を奉(たてまつり)て、「宮(みや)こへ御(おん)のぼり候(さうら)へ。
ひとつにな(ッ)て東国(とうごく)せめむ」と申(まうし)たれば、大臣殿(おほいとの)はよろこばれけれども、平(へい)大納言(だいなごん)・新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)「さこそ世(よ)すゑにて候(さうらふ)とも、義仲(よしなか)にかたらはれて宮(みや)こへ帰(かへ)りいらせ給(たま)はむこと、しかるべうも候(さうら)はず。十善帝王(じふぜんていわう)三種ノ(さんじゆの)神器(しんぎ)を帯(たい)してわたらせ給(たま)へば、「甲(かぶと)をぬぎ、弓(ゆみ)をはづいて降人(かうにん)に是(これ)へまいれ(まゐれ)」とは仰(おほせ)候(さうらふ)べし」と申(まう)されければ、此(この)様(やう)を御返事(おんぺんじ)ありしかども、木曾(きそ)もちゐ奉(たてまつ)らず。
松殿(まつどの)入道殿(にふだうどのの・にうだうどのの)許(もと)へ木曾(きそ)をめして「清盛公(きよもりこう)はさばかりの悪行人(あくぎやうにん)たりしかども、希代(きたい)の大善根(だいぜんごん)をせしかば、世(よ)をもをだしう(おだしう)廿(にじふ)余年(よねん)たも(ッ)たりしなり。悪行(あくぎやう)ばかりで世(よ)をたもつ事(こと)はなき物(もの)を。させるゆへ(ゆゑ)なくとどめたる人々(ひとびと)の官(くわん)ども、皆(みな)ゆるすべき」よし仰(おほせ)られければ、ひたすらのあらゑびす(あらえびす)のやうなれども、したがひ奉(たてまつり)て、解官(げくわん)したる人々(ひとびと)の官(くわん)どもゆるしたてまつる。松殿(まつどの)の御子(おんこ)師家(もろいへ)のとのの、其(その)時(とき)はいまだ中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)にてましましけるを、木曾(きそ)がはからひに、大臣(だいじん)摂政(せつしやう)になし奉(たてまつ)る。
おりふし(をりふし)大臣(だいじん)あかざりければ、徳大寺(とくだいじ)左大将(さだいしやう)実定公(しつていこう)の、其(その)比(ころ)内大臣(ないだいじん)でおはしけるをかりたてま(ッ)て、内大臣(ないだいじん)になし奉(たてまつ)る。いつしか人(ひと)の口(くち)なれば、新摂政殿(しんせつしやうどの)をばかるの大臣(だいじん)とぞ申(まうし)ける。同(おなじき)十二月(じふにぐわつ)十日(とをかのひ)、法皇(ほふわう・ほうわう)は五条内裏(ごでうだいり)をいでさせ給(たま)ひて、大膳(だいぜんの)大夫(だいぶ)成忠(なりただ)が宿所(しゆくしよ)六条(ろくでう)西洞院(にしのとうゐん)へ御幸(ごかう)なる。同(おなじき)十三日(じふさんにち)歳末(さいまつ)の御修法(みしほ)ありけり。
其(その)次(ついで)に叙位(じよゐ)除目(ぢもく)おこなはれて、木曾(きそ)がはからひに、人々(ひとびと)の官(くわん)どもおもふさまになしをき(おき)けり。平家(へいけ)は西国(さいこく)に、兵衛佐(ひやうゑのすけ)は東国(とうごく)に、木曾(きそ)は宮(みや)こにはりおこなふ。前漢(ぜんかん)・後漢(ごかん)の間(あひだ・あいだ)、王(わう)まうが世(よ)をうちと(ッ)て、十八(じふはち)年(ねん)おさめ(をさめ)たりしがごとし。四方(しはう)の関々(せきぜき)皆(みな)とぢたれば、おほやけの御調物(みつぎもの)をもたてまつらず。私(わたくし)の年貢(ねんぐ)ものぼらねば、京中(きやうぢゆう・きやうぢう)の上下(じやうげ)の諸人(しよにん)、ただ少水(せうすい)の魚(うを・うほ)にことならず。あぶなながら年(とし)暮(くれ)て、寿永(じゆえい・じゆゑい)も三(み)とせになりにけり。 
 
平家物語 巻九

 

生ずきの沙汰 (いけずきのさた) 
寿永(じゆえい・じゆゑい)三年(さんねん)正月(しやうぐわつ)一日(ひとひのひ)、院(ゐん)の御所(ごしよ)は大膳(だいぜんの)大夫(だいぶ)成忠(なりただ)が宿所(しゆくしよ)、六条(ろくでう)西洞院(にしのとうゐん)なれば、御所(ごしよ)のていしかるべからずとて、礼儀(れいぎ)おこなはるべきにあらねば、拝礼(はいれい)もなし。院(ゐん)の拝礼(はいれい)なかりければ、内裏(だいり)の小朝拝(こでうはい)もおこなはれず。平家(へいけ)は讃岐国(さぬきのくに)八島(やしま)の磯(いそ)におくりむかへて、元日(ぐわんにち)元三(ぐわんざん)の儀式(ぎしき)事(こと)よろしからず。主上(しゆしやう)わたらせ給(たま)へども、節会(せちゑ)もおこなはれず、四方拝(しはうばい)もなし。
魚(はらか)も奏(そう)せず。吉野(よしの)のくずもまいらせ(まゐらせ)ず。「世(よ)みだれたりしかども、都(みやこ)にてはさすがかくはなかりし物(もの)を」とぞ、おのおののたまひあはれける。青陽(せいやう)の春(はる)も来(きた)り、浦(うら)吹(ふく)風(かぜ)もやはらかに、日影(ひかげ)も長閑(のどか)になりゆけど、ただ平家(へいけ)の人々(ひとびと)は、いつも氷(こほり)にとぢこめられたる心地(ここち)して、寒苦鳥(かんくてう)にことならず。東岸(とうがん)西岸(せいがん)の柳(やなぎ)遅速(ちそく)をまじへ、南枝(なんし)北枝(ほくしの)梅(むめ)開落(かいらく)已(すで)に異(こと)にして、花(はな)の朝(あした)月(つき)の夜(よ)、詩歌(しいか)・管絃(くわんげん)・鞠(まり)・小弓(こゆみ)・扇合(あふぎあはせ)・絵合(ゑあはせ)・草(くさ)づくし・虫(むし)づくし、さまざま興(きよう・けう)ありし事(こと)ども、おもひいでかたりつづけて、永日(えいじつ・ゑいじつ)をくらしかね給(たま)ふぞ哀(あはれ)なる。同(おなじき)正月(しやうぐわつ)十一日(じふいちにち)、木曾ノ(きその)左馬頭(さまのかみ)義仲(よしなか)院参(ゐんざん)して、平家(へいけ)追討(ついたう・つゐたう)のために西国(さいこく)へ発向(はつかう)すべきよし奏聞(そうもん)す。
同(おなじき)十三日(じふさんにち)、すでに門(かど)いでときこえし程(ほど)に、東国(とうごく)より前(さきの)兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)、木曾(きそ)が狼籍(らうぜき)しづめんとて、数万騎(すまんぎ)の軍兵(ぐんびやう)をさしのぼせられけるが、すでに美濃国(みののくに)・伊勢国(いせのくに)につくと聞(きこ)えしかば、木曾(きそ)大(おほき)におどろき、宇治(うじ)・勢田(せた)の橋(はし)をひいて、軍兵共(ぐんびやうども)をわかちつかはす。折(をり)ふしせいもなかりけり。勢田(せた)の橋(はし)へは大手(おほて)なればとて、今井ノ(いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)八百(はつぴやく)余騎(よき)でさしつかはす。宇治橋(うぢはし)へは、仁科(にしな)・たかなし・山田ノ(やまだの)次郎(じらう)・五百余騎(ごひやくよき)でつかはす。
いもあらい(いもあらひ)へは伯父(をぢ・おぢ)の志太ノ(しだの)三郎(さぶらう)先生(せんじやう)義教(よしのり)三百(さんびやく)余騎(よき)でむかひけり。東国(とうごく)よりせめのぼる大手(おほて)の大将軍(たいしやうぐん)は、蒲ノ(がまの)御曹司(おんざうし)範頼(のりより)、搦手(からめで)の大将軍(たいしやうぐん)は九郎(くらう)御曹司(おんざうし)義経(よしつね)、むねとの大名(だいみやう)卅(さんじふ)余人(よにん)、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)六万余騎(ろくまんよき)とぞ聞(きこ)えし。其(その)比(ころ)鎌倉殿(かまくらどの)にいけずき・する墨(すみ)といふ名馬(めいば)あり。いけずきをば梶原(かぢはら)源太(げんだ)景季(かげすゑ)しきりに望(のぞ)み申(まうし)けれども、鎌倉殿(かまくらどの)「自然(しぜん)の事(こと)のあらん時(とき)、物(もの)の具(ぐ)して頼朝(よりとも)がのるべき馬(むま)なり。する墨(すみ)もおとらぬ名馬(めいば)ぞ」とて梶原(かぢはら)にはする墨(すみ)をこそたうだりけれ。
佐々木(ささき)四郎(しらう)高綱(たかつな)がいとま申(まうし)にまい(ッ・まゐつ)たりけるに、鎌倉殿(かまくらどの)いかがおぼしめされけん、「所望(しよまう)の物(もの)はいくらもあれども、存知(ぞんぢ)せよ」とて、いけずきを佐々木(ささき)にたぶ。佐々木(ささき)畏(かしこまり)て申(まうし)けるは、「高綱(たかつな)、この御馬(おんむま・おむま)で宇治河(うぢがは)のま(ッ)さきわたし候(さうらふ)べし。宇治河(うぢがは)で死(しに)て候(さうらふ)ときこしめし候(さうら)はば、人(ひと)にさきをせられて(ン)げりとおぼしめし候(さうら)へ。いまだいきて候(さうらふ)ときこしめされ候(さうら)はば、定(さだめ)て先陣(せんぢん)はしつらん物(もの)をとおぼしめされ候(さうら)へ」とて、御(おん)まへをまかりたつ。参会(さんくわい)したる大名(だいみやう)小名(せうみやう)みな「荒凉(くわうりやう)の申様(まうしやう)かな」とささやきあへり。
おのおの鎌倉(かまくら)をた(ッ)て、足柄(あしがら)をへて行(ゆく)もあり、箱根(はこね)にかかる人(ひと)もあり、思(おも)ひ思(おも)ひにのぼるほどに、駿河国(するがのくに)浮島(うきしま)が原(はら)にて、梶原(かぢはら)源太(げんだ)景季(かげすゑ)たかき所(ところ)にうちあがり、し(ン)ばし(しばし)ひかへておほくの馬共(むまども)を見(み)ければ、おもひおもひの鞍(くら)をい(おい)て、色々(いろいろ)の鞦(しりがい)かけ、或(あるい・ある)はのり口(くち)にひかせ、或(あるい・ある)はもろ口(くち)にひかせ、いく千万(せんばん)といふかずをしらず。引(ひき)とほし引(ひき)とほししける中(なか)にも、景季(かげすゑ)〔が〕給(たまは・ッ)たるする墨(すみ)にまさる馬(むま)こそなかりけれと、うれしうおもひてみるところに、いけずきとおぼしき馬(むま)こそいできたれ。黄覆輪(きぶくりん・き(ン)ぶくりん)の鞍(くら)をい(おい)て、小総(こぶさ)の鞦(しりがい)かけ、しらあは(しらあわ)かませ、とねりあまたつゐ(つい)たりけれども、なを(なほ)ひきもためず、おどら(をどら)せて出(いで)きたり。梶原(かぢはら)源太(げんだ)うちよ(ッ)て、「それはたが御馬(おんむま)ぞ」。
「佐々木殿(ささきどの)の御馬(おんむま)候(ざうらふ)」。其(その)時(とき)梶原(かぢはら)「やすからぬ物(もの)也(なり)。都(みやこ)へのぼ(ッ)て、木曾殿(きそどの)の御内(みうち)に四天王(してんわう)ときこゆる今井(いまゐ)・樋口(ひぐち)・楯(たて)・祢ノ井(ねのゐ)にくんで死(し)ぬるか、しからずは西国(さいこく)へむかうて、一人当千(いちにんたうぜん)ときこゆる平家(へいけ)の侍(さぶらひ)どもといくさして死(し)なんとこそおもひつれ共(ども)、此(この)御(ご)きそくではそれもせんなし。ここで佐々木(ささき)にひ(ッ)くみさしちがへ、よい侍(さぶらひ)二人(ににん)死(しん)で、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に損(そん)とらせたてまつらん」とつぶやいてこそまちかけたれ。佐々木(ささき)四郎(しらう)は何心(なにごころ)もなくあゆませて出(いで)きたり。
梶原(かぢはら)、おしならべてやくむ、むかふさま(むかうさま)にやあておとすと思(おも)ひけるが、まづ詞(ことば)をかけけり。「いかに佐々木殿(ささきどの)、いけずき給(たま)はらせ給(たまひ)てさうな」といひければ、佐々木(ささき)、「あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)、此(この)仁(じん)も内々(ないない)所望(しよまう)するとききし物(もの)を」と、き(ッ)とおもひいだして、「さ候(さうら)へばこそ。此(この)御大事(おんだいじ)にのぼりさうが、定(さだめ)て宇治(うぢ)・勢田(せた)の橋(はし)をばひいて候(さうらふ)らん、乗(のつ)て河(かは)わたすべき馬(むま)はなし、いけずきを申(まう)さばやとはおもへども、梶原殿(かぢはらどの)の申(まう)されけるにも、御(おん)ゆるされないとうけ給(たまは)る間(あひだ・あいだ)、まして高綱(たかつな)が申(まうす)ともよも給(たま)はらじとおもひつつ、後日(ごにち)にはいかなる御勘当(ごかんだう)もあらばあれと存(ぞんじ)て、暁(あかつき)たたんとての夜(よ)、とねりに心(こころ)をあはせて、さしも御秘蔵(ごひさう)候(さうらふ)いけずきをぬすみすまいてのぼりさうはいかに」といひければ、梶原(かぢはら)この詞(ことば)に腹(はら)がゐて、「ね(ッ)たい、さらば景季(かげすゑ)もぬすむべかりける物(もの)を」とて、ど(ッ)とわら(ッ)てのきにけり。 
宇治川先陣 (うぢがはのせんぢん) 

 

佐々木(ささき)四郎(しらう)が給(たま)は(ッ)たる御馬(おんむま)は、黒栗毛(くろくりげ)なる馬(むま)の、きはめてふとうたくましゐ(たくましい)が、馬(むま)をも人(ひと)をもあたりをはら(ッ)てくひければ、いけずきとつけられたり。八寸(はつすん)の馬(むま)とぞきこえし。梶原(かぢはら)が給(たま)は(ッ)たるする墨(すみ)も、きはめてふとうたくましきが、まことに黒(くろ)かりければ、する墨(すみ)とつけられたり。いづれもおとらぬ名馬(めいば)也(なり)。尾張国(をはりのくに・おはりのくに)より大手(おほて)・搦手(からめで)二手(ふたて)にわか(ッ)てせめのぼる。大手(おほて)の大将軍(たいしやうぐん)、蒲ノ(がまの)御曹司(おんざうし)範頼(のりより)、あい(あひ)ともなふ人々(ひとびと)、武田ノ(たけたの)太郎(たらう)・鏡美ノ(かがみの)次郎(じらう)・一条ノ(いちでうの)次郎(じらう)・板垣(いたがき)の三郎(さぶらう)・稲毛ノ(いなげの)三郎(さぶらう)・楾谷ノ(はんがへの)四郎(しらう)・熊谷ノ(くまがへの)次郎(じらう)・猪俣ノ(いのまたの)小平六(こへいろく)を先(さき)として、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)三万五千(さんまんごせん)余騎(よき)、近江国(あふみのくに)野路(のぢ)・篠原(しのはら)にぞつきにける。
搦手ノ(からめでの)大将軍(たいしやうぐん)は九郎(くらう)御曹司(おんざうし)義経(よしつね)、おなじくともなふ人々(ひとびと)、安田ノ(やすだの)三郎(さぶらう)・大内ノ(おほうちの)太郎(たらう)・畠山ノ(はたけやまの)庄司(しやうじ)次郎(じらう)・梶原(かぢはら)源太(げんだ)・佐々木(ささき)四郎(しらう)・糟屋ノ(かすやの)藤太(とうだ)・渋谷(しぶやの)右馬允(むまのじよう・むまのぜう)・平山ノ(ひらやまの)武者(むしや)どころをはじめとして、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)二万五千(にまんごせん)余騎(よき)、伊賀国(いがのくに)をへて宇治橋(うぢはし)のつめにぞをし(おし)よせたる。宇治(うぢ)も勢田(せた)も橋(はし)をひき、水(みづ)のそこには乱(らん)ぐゐ(らんぐい)う(ッ)て、大綱(おほづな)はり、さかも木(ぎ)つないでながしかけたり。比(ころ)はむ月(つき)廿日(はつか)あまりの事(こと)なれば、比良(ひら)のたかね、志賀(しが)の山(やま)、むかしながらの雪(ゆき)もきえ、谷々(たにだに)の氷(こほり)うちとけて、水(みづ)は折(をり)ふしまさりたり。白浪(しらなみ)おびたたしうみなぎりおち、瀬(せ)まくらおほきに滝(たき)な(ッ)て、さかまく水(みづ)もはやかりけり。夜(よ)はすでにほのぼのとあけゆけど、河霧(かはぎり)ふかく立(たち)こめて、馬(むま)の毛(け)も鎧(よろひ)の毛(け)もさだかならず。
ここに大将軍(たいしやうぐん)九郎(くらう)御曹司(おんざうし)、河(かは)のはたにすすみ出(いで)、水(みづ)のおもてをみわたして、人々(ひとびと)の心(こころ)をみんとやおもはれけん、「いかがせん、淀(よど)・いもあらゐ(いもあらひ)へやまはるべき、水(みづ)のおち足(あし)をやまつべき」との給(たま)へば、畠山(はたけやま)、其(その)比(ころ)はいまだ生年(しやうねん)廿一(にじふいち)になりけるが、すすみいでて申(まうし)けるは、「鎌倉(かまくら)にてよくよく此(この)河(かは)の御沙汰(ごさた)は、候(さうらひ)しぞかし。しろしめさぬ海河(うみかは)の、俄(にはか)にできても候(さうら)はばこそ。此(この)河(かは)は近江(あふみ)の水海(みづうみ)の末(すゑ)なれば、まつともまつとも水(みづ)ひまじ。橋(はし)をば又(また)誰(たれ)かわたいてまいらす(まゐらす)べき。治承(ぢしよう・ぢせう)の合戦(かつせん)に、足利(あしかがの)又太郎(またたらう)忠綱(ただつな)は、鬼神(おにかみ)でわたしけるか、重忠(しげただ)瀬(せ)ぶみ仕(つかまつ)らん」とて、丹ノ(たんの)党(たう)をむねとして、五百余騎(ごひやくよき)ひしひしとくつばみをならぶるところに、平等院(びやうどうゐん)の丑寅(うしとら)、橘(たちばな)の小島(こじま)が崎(さき)より武者(むしや)二騎(にき)ひ(ッ)かけひ(ッ)かけいできたり。
一騎(いつき)は梶原(かぢはら)源太(げんだ)景季(かげすゑ)、一騎(いつき)は佐々木(ささき)四郎(しらう)高綱(たかつな)也(なり)。人目(ひとめ)には何(なに)ともみえざりけれども、内々(ないない)は先(さき)に心(こころ)をかけたりければ、梶原(かぢはら)は佐々木(ささき)に一段(いつたん)ばかりぞすすんだる。佐々木(ささき)四郎(しらう)「此(この)河(かは)は西国(さいこく)一(いち)の大河(たいが)ぞや。腹帯(はるび)ののびてみえさうぞ。しめ給(たま)へ」といはれて、梶原(かぢはら)さもあるらんとや思(おも)ひけん、左右(さう)のあぶみを〔ふみ〕すかし、手綱(たづな)を馬(むま)のゆがみにすて、腹帯(はるび)をといてぞしめたりける。そのまに佐々木(ささき)はつとはせぬいて、河(かは)へざ(ッ)とぞうちいれたる。梶原(かぢはら)たばかられぬとやおもひけん、やがてつづゐ(つづい)てうちいれたり。
「いかに佐々木殿(ささきどの)、高名(かうみやう)せうどて不覚(ふかく)し給(たま)ふな。水(みづ)の底(そこ)には大綱(おほづな)あるらん」といひければ、佐々木(ささき)太刀(たち)をぬき、馬(むま)の足(あし)にかかりける大綱(おほづな)どもをばふつふつとうちきりうちきり、いけずきといふ世一(よいち)の馬(むま)にはの(ッ)たりけり、宇治河(うぢがは)はやしといへども、一文字(いちもんじ)にざ(ッ)とわたいてむかへの岸(きし)にうちあがる。梶原(かぢはら)がの(ッ)たりけるする墨(すみ)は、河(かは)なかよりのためがたにおしなされて、はるかのしもよりうちあげたり。佐々木(ささき)あぶみふ(ン)ばりたちあがり、大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて名(な)のりけるは、「宇多ノ天皇(うだのてんわう)より九代(くだい)の後胤(こういん・こうゐん)、佐々木(ささき)三郎(さぶらう)秀義(ひでよし)が四男(しなん)、佐々木(ささき)四郎(しらう)高綱(たかつな)、宇治河(うぢがは)の先陣(せんぢん)ぞや。われとおもはん人々(ひとびと)は高綱(たかつな)にくめや」とて、おめい(をめい)てかく。畠山(はたけやま)五百余騎(ごひやくよき)でやがてわたす。
むかへの岸(きし)より山田(やまだの)次郎(じらう)がはなつ矢(や)に、畠山(はたけやま)馬(むま)の額(ひたひ・ひたい)をのぶかにゐ(い)させて、よはれ(よわれ)ば、河中(かはなか)より弓杖(ゆんづゑ・ゆんづえ)をつゐ(つい)ておりた(ッ)たり。岩浪(いはなみ)甲(かぶと)の手(て)さきへざ(ッ)とおしあげけれども、事(こと)ともせず、水(みづ)のそこをくぐ(ッ)て、むかへの岸(きし)へぞつきにける。あがらんとすれば、うしろに物(もの)こそむずとひかへたれ。「たそ」ととへば、「重親(しげちか)」とこたふ。「いかに大串(おほくし)か」。「さ(ン)候(ざうらふ)」。大串(おほくし)次郎(じらう)は畠山(はたけやま)には烏帽子子(えぼしご・ゑぼしご)にてぞありける。「あまりに水(みづ)がはやうて、馬(うま)はおしながされ候(さうらひ)ぬ。力(ちから)およばで、つきまいらせ(まゐらせ)て候(さうらふ)」といひければ、「いつもわ殿原(とのばら)は、重忠(しげただ)が様(やう)なるものにこそたすけられんずれ」といふままに、大串(おほくし)をひ(ッ)さげて、岸(きし)のうへへぞなげあげたる。なげあげられ、ただなを(ッ・なほつ)て、「武蔵国(むさしのくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)、大串ノ(おほくしの)次郎(じらう)重親(しげちか)、宇治河(うぢがは)〔かちたち〕の先陣(せんぢん)ぞや」とぞ名(な)の(ッ)たる。敵(かたき)も御方(みかた)もこれをきいて、一度(いちど)にど(ッ)とぞわらひける。其(その)後(のち)畠山(はたけやま)のりかへにの(ッ)てうちあがる。
魚綾(ぎよりよう・ぎよれう)の直垂(ひたたれ)に火(ひ)おどし(をどし)の鎧(よろひ)きて、連銭葦毛(れんぜんあしげ)なる馬(むま)に黄覆輪(きぶくりん・き(ン)ぶくりん)の鞍(くら)をい(おい)ての(ッ)たる敵(かたき)の、ま(ッ)さきにすすんだるを、「ここにかくるはいかなる人(ひと)ぞ。なのれや」といひければ、「木曾殿(きそどの)の家(いへ)の子(こ)に、長瀬(ながせの)判官代(はんぐわんだい)重綱(しげつな)」となのる。畠山(はたけやま)「けふのいくさ神(がみ)いははん」とて、をし(おし)ならべてむずとと(ッ)て引(ひき)おとし、頸(くび)ねぢき(ッ)て、本田ノ(ほんだの)次郎(じらう)が鞍(くら)のと(ッ)つけにこそつけさせけれ。これをはじめて、木曾殿(きそどの)の方(かた)より宇治橋(うぢはし)かためたるせいども、し(ン)ばし(しばし)ささへてふせきけれ共(ども)、東国(とうごく)の大勢(おほぜい)みなわたいてせめければ、散々(さんざん)にかけなされ、木幡山(こはたやま)・伏見(ふしみ)をさいてぞ落行(おちゆき)ける。勢田(せた)をば稲毛ノ(いなげの)三郎(さぶらう)重成(しげなり)がはからひにて、田上(たながみ)供御(くご)の瀬(せ)をこそわたしけれ。 
河原合戦 (かはらがつせん) 

 

いくさやぶれにければ、鎌倉殿(かまくらどの)へ飛脚(ひきやく)をも(ッ)て、合戦(かつせん)の次第(しだい)をしるし申(まう)されけるに、鎌倉殿(かまくらどの)まづ御使(おんつかひ)に、「佐々木(ささき)はいかに」と御尋(おんたづね)ありければ、「宇治河(うぢがは)のま(ッ)さき候(ざうらふ)」と申(まう)す。日記(につき)をひらいて御(ご)らんずれば、「宇治河(うぢがは)の先陣(せんぢん)、佐々木(ささき)四郎(しらう)高綱(たかつな)、二陣(にぢん)梶原(かぢはら)源太(げんだ)景季(かげすゑ)」とこそかかれたれ。宇治(うぢ)・勢田(せた)やぶれぬと聞(きこ)えしかば、木曾(きその)左馬頭(さまのかみ)、最後(さいご)のいとま申(まう)さんとて、院(ゐん)の御所(ごしよ)六条殿(ろくでうどの)へはせまいる(まゐる)。御所(ごしよ)には法皇(ほふわう・ほうわう)をはじめまいらせ(まゐらせ)て、公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、「世(よ)は只今(ただいま)うせなんず。いかがせん」とて、手(て)をにぎり、たてぬ願(ぐわん)もましまさず。
木曾(きそ)門前(もんぜん)までまいり(まゐり)たれども、東国(とうごく)の勢(せい)すでに河原(かはら)までせめ入(いり)たるよし聞(きこ)えしかば、さいて奏(そう)する旨(むね)もなくてと(ッ)てかへす。六条高倉(ろくでうたかくら)なるところに、はじめて見(み)そめたる女房(にようばう)のおはしければ、それへうちいり最後(さいご)の名(な)ごりおしま(をしま)んとて、とみにいでもやらざりけり。いままいり(いままゐり)したりける越後ノ(ゑちごの)中太(ちゆうだ・ちうだ)家光(いへみつ)といふものあり。
「いかにかうはうちとけてわたらせ給(たま)ひ候(さうらふ)ぞ。御敵(おんてき)すでに河原(かはら)までせめ入(いり)て候(さうらふ)に、犬死(いぬじ)にせさせ給(たまひ)なんず」と申(まうし)けれども、なを(なほ)出(いで)もやらざりければ、「さ候(さうらは)ばまづさきだちまいらせ(まゐらせ)て、四手(しで)の山(やま)でこそ待(まち)まいらせ(まゐらせ)候(さうら)はめ」とて、腹(はら)かきき(ッ)てぞ死(しに)にける。木曾殿(きそどの)「われをすすむる自害(じがい)にこそ」とて、やがてう(ッ)たちけり。上野国(かうづけのくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)那波ノ(なはの)太郎(たらう)広純(ひろずみ)を先(さき)として、其(その)勢(せい)百騎(ひやくき)ばかりにはすぎざりけり。
六条河原(ろくでうかはら)にうちいでてみれば、東国(とうごく)のせいとおぼしくて、まづ卅騎(さんじつき)ばかり出(いで)きたり。そのなかに武者(むしや)二騎(にき)すすんだり。一騎(いつき)は塩屋ノ(しほのやの)五郎(ごらう)維広(これひろ)、一騎(いつき)は勅使河原(てしがはら)の五三郎(ごさぶらう)有直(ありなほ・ありなを)なり。塩屋(しほのや)が申(まうし)けるは、「後陣(ごぢん)の勢(せい)をや待(まつ)べき」。勅使河原(てしがはら)が申(まうし)けるは、「一陣(いちぢん)やぶれぬれば残党(ざんたう)ま(ッ)たからず。ただかけよ」とておめい(をめい)てかく。木曾(きそ)はけふをかぎりとたたかへば、東国(とうごく)のせいはわれう(ッ)とらんとぞすすみける。
大将軍(たいしやうぐん)九郎(くらう)義経(よしつね)、軍兵共(ぐんびやうども)にいくさをばせさせ、院(ゐんの)御所(ごしよ)のおぼつかなきに、守護(しゆご)し奉(たてまつ)らんとて、まづ我(わが)身(み)ともにひた甲(かぶと)五六騎(ごろくき)、六条殿(ろくでうどの)へはせまいる(まゐる)。御所(ごしよ)には大膳(だいぜんの)大夫(だいぶ)成忠(なりただ)、御所(ごしよ)の東(ひがし・ひんがし)のつい垣(がき)のうへにのぼ(ッ)て、わななくわななくみまはせば、しら旗(はた)ざ(ッ)とさしあげ、武士(ぶし)ども五六騎(ごろくき)のけかぶとにたたかい(たたかひ)な(ッ)て、ゐむけ(いむけ)の袖(そで)ふきなびかせ、くろ煙(けぶり)けたててはせまいる(まゐる)。成忠(なりただ)「又(また)木曾(きそ)がまいり(まゐり)候(さうらふ)。あなあさまし」と申(まうし)ければ、今度(こんど)ぞ世(よ)のうせはてとて、君(きみ)も臣(しん)もさはが(さわが)せ給(たま)ふ。
成忠(なりただ)かさねて申(まうし)けるは、「只今(ただいま)はせまいる(まゐる)武士(ぶし)どもは、かさじるしのかは(ッ)て候(さうらふ)。今日(けふ)都(みやこ)へ入(いる)東国(とうごく)のせいと覚(おぼえ)候(さうらふ)」と、申(まうし)もはてねば、九郎(くらう)義経(よしつね)門前(もんぜん)へ馳(はせ)まい(ッ・まゐつ)て、馬(むま)よりおり、門(もん)をたたかせ、大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて、「東国(とうごく)より前(さきの)兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)が舎弟(しやてい)、九郎(くらう)義経(よしつね)こそまい(ッ・まゐつ)て候(さうら)へ。あけさせ給(たま)へ」と申(まうし)ければ、成忠(なりただ)あまりのうれしさに、つゐ垣(がき・ついがき)よりいそぎおどり(をどり)おるるとて、腰(こし)をつき損(そん)じたりけれども、いたさはうれしさにまぎれておぼえず、はうはう(はふはふ)まい(ッ・まゐつ)て此(この)由(よし)奏聞(そうもん)しければ、法皇(ほふわう・ほうわう)大(おほき)に御感(ぎよかん)あ(ッ)て、やがて門(もん)をひらかせて入(いれ)られけり。
九郎(くらう)義経(よしつね)其(その)日(ひ)の装束(しやうぞく)には、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、紫(むらさき)すそごの鎧(よろひ)きて、くわがたう(ッ)たる甲(かぶと)の緒(を・お)しめ、こがねづくりの太刀(たち)をはき、きりう(きりふ)の矢(や)おひ、しげ藤(どう)の弓(ゆみ)のとりうちを、紙(かみ)をひろさ一寸(いつすん)ばかりにき(ッ)て、左(ひだり)まきにぞまいたりける。今日(けふ)の大将軍(たいしやうぐん)のしるしとぞみえし。法皇(ほふわう・ほうわう)は中門(ちゆうもん・ちうもん)のれんじより叡覧(えいらん・ゑいらん)あ(ッ)て、「ゆゆしげなるもの共(ども)哉(かな)。
みな名(な)のらせよ」と仰(おほせ)ければ、まづ大将軍(たいしやうぐん)九郎(くらう)義経(よしつね)、次(つぎ)に安田(やすだの)三郎(さぶらう)義定(よしさだ)、畠山(はたけやまの)庄司(しやうじ)次郎(じらう)重忠(しげただ)、梶原(かぢはら)源太(げんだ)景季(かげすゑ)、佐々木(ささき)四郎(しらう)高綱(たかつな)、渋谷(しぶやの)馬允(むまのじよう・むまのぜう)重資(しげすけ)とこそ名(な)の(ッ)たれ。義経(よしつね)ぐして、武士(ぶし)は六人(ろくにん)、鎧(よろひ)はいろいろなりけれども、つらだましゐ(つらだましひ)事(こと)がらいづれもおとらず。大膳(だいぜんの)大夫(だいぶ)成忠(なりただ)仰(おほせ)を承(うけたまはつ)て、九郎(くらう)義経(よしつね)を大床(おほゆか)のきはへめして、合戦ノ(かつせんの)次第(しだい)をくはしく御尋(おんたづね)あれば、義経(よしつね)かしこま(ッ)て申(まうし)けるは、「義仲(よしなか)が謀叛(むほん)の事(こと)、頼朝(よりとも)大(おほき)におどろき、範頼(のりより)・義経(よしつね)をはじめとして、むねとの兵物(つはもの)卅(さんじふ)余人(よにん)、其(その)勢(せい)六万余騎(ろくまんよき)をまいらせ(まゐらせ)候(さうらふ)。範頼(のりより)は勢田(せた)よりまはり候(さうらふ)が、いまだまいり(まゐり)候(さうら)はず。義経(よしつね)は宇治(うぢ)の手(て)をせめおといて、まづ此(この)御所(ごしよ)守護(しゆご)のためにはせ参(さん)じて候(さうらふ)。義仲(よしなか)は河原(かはら)をのぼりにおち候(さうらひ)つるを、兵物共(つはものども)におはせ候(さうらひ)つれば、今(いま)は定(さだめ)てう(ッ)とり候(さうらひ)ぬらん」と、いと事(こと)もなげにぞ申(まうし)たる。
法皇(ほふわう・ほうわう)大(おほき)に御感(ぎよかん)あ(ッ)て、「神妙也(しんべうなり)。義仲(よしなか)が余党(よたう)な(ン)ど(など)まい(ッ・まゐつ)て、狼籍(らうぜき)もぞ仕(つかまつ)る。なんぢら此(この)御所(ごしよ)よくよく守護(しゆご)せよ」と仰(おほせ)ければ、義経(よしつね)かしこまりうけ給(たま)は(ッ)て、四方(しはう)の門(もん)をかためてまつほどに、兵物共(つはものども)馳集(はせあつま・ッ)て、程(ほど)なく一万騎(いちまんぎ)ばかりになりにけり。木曾(きそ)はもしの事(こと)あらば、法皇(ほふわう・ほうわう)をとりまいらせ(まゐらせ)て西国(さいこく)へ落(おち)くだり、平家(へいけ)とひとつにならんとて、力者(りきしや)廿人(にじふにん)そろへても(ッ)たりけれども、御所(ごしよ)には九郎(くらう)義経(よしつね)はせまい(ッ・まゐつ)て守護(しゆご)したてまつる由(よし)聞(きこ)えしかば、さらばとて、数万騎(すまんぎ)の大勢(おほぜい)のなかへおめい(をめい)てかけいる。
すでにうたれんとする事(こと)度々(どど)に及(およぶ・をよぶ)といへども、かけやぶりかけやぶりとほりけり。木曾(きそ)涙(なみだ)をながいて、「かかるべしとだ〔に〕知(し)りたりせば、今井(いまゐ)を勢田(せた)へはやらざらまし。幼少(えうせう・ようせう)竹馬(ちくば)の昔(むかし)より、死(し)なば一所(いつしよ)で死(し)なんとこそ契(ちぎり)しに、ところどころでうたれん事(こと)こそかなしけれ。今井(いまゐ)がゆくゑ(ゆくへ)をきかばや」とて、河原(かはら)のぼりにかくるほどに、六条河原(ろくでうかはら)と三条河原(さんでうかはら)の間(あひだ)に、敵(かたき)おそ(ッ)てかかればと(ッ)てかへしと(ッ)てかへし、わづかなる小勢(せうせい)にて、雲霞(うんか)の如(ごとく)なる敵(かたき)の大勢(おほぜい)を、五六度(ごろくど)までぞお(ッ)かへす。
鴨河(かもがは)ざ(ッ)とうちわたし、粟田口(あはたぐち)・松坂(まつざか)にもかかりけり。去年(こぞ)信濃(しなの)を出(いで)しには五万余騎(ごまんよき)と聞(きこ)えしに、けふ四(し)の宮河原(みやがはら)をすぐるには、主従(しゆじゆう・しゆじう)七騎(しちき)になりにけり。まして中有(ちゆうう・ちうう)の旅(たび)の空(そら)、おもひやられて哀(あはれ)也(なり)。 
木曾最期 (きそのさいご) 

 

木曾殿(きそどの)は信濃(しなの)より、ともゑ・山吹(やまぶき)とて、二人(ににん)の便女(びんぢよ)を具(ぐ)せられたり。山吹(やまぶき)はいたはりあ(ッ)て、都(みやこ)にとどまりぬ。中(なか)にもともゑはいろしろく髪(かみ)ながく、容顔(ようがん)まことにすぐれたり。ありがたきつよ弓(ゆみ)、せい兵(びやう)、馬(むま)のうへ、かちだち、うち物(もの)も(ッ)ては鬼(おに)にも神(かみ)にもあはふ(う)どいふ一人当千(いちにんたうぜん)の兵(つはもの)也(なり)。究竟(くつきやう・く(ツ)きやう)のあら馬(むま)のり、悪所(あくしよ)おとし、いくさといへば、さねよき鎧(よろひ)きせ、おほ太刀(だち)・つよ弓(ゆみ)もたせて、まづ一方(いつぱう)の大将(たいしやう)にはむけられけり。度々(どど)の高名(かうみやう)、肩(かた)をならぶるものなし。されば今(この)度(たび)も、おほくのものどもおちゆきうたれける中(なか)に、七騎(しちき)が内(うち)までともゑはうたれざりけり。
木曾(きそ)は長坂(ながさか)をへて丹波路(たんばぢ)へおもむくとも聞(きこ)えけり。又(また)竜花(りうげ)ごへ(りゆうげごえ)にかか(ッ)て北国(ほつこく)へともきこえけり。かかりしかども、今井(いまゐ)が行(ゆく)ゑ(ゆくへ)をきかばやとて、勢田(せた)の方(かた)へおちゆくほどに、今井(いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)も、八百余騎(はつぴやくよき)で勢田(せた)をかためたりけるが、わづかに五十騎(ごじつき)ばかりにうちなされ、旗(はた)をばまかせて、主(しゆう・しゆ)のおぼつかなきに、宮(みや)こへと(ッ)てかへすほどに、大津(おほつ)のうちでの浜(はま)にて、木曾殿(きそどの)にゆきあひたてまつる。互(たがひ)になか一町(いつちやう)ばかりよりそれとみし(ッ)て、主従(しゆじゆう・しゆじう)駒(こま)をはやめてよりあふ(あう)たり。
木曾殿(きそどの)今井(いまゐ)が手(て)をと(ッ)ての給(たま)ひけるは、「義仲(よしなか)六条河原(ろくでうかはら)でいかにもなるべかりつれども、なんぢがゆくえ(ゆくへ)の恋(こひ)しさに、おほくの敵(かたき)の中(なか)をかけわ(ッ)て、是(これ)まではのがれたる也(なり)」。今井(いまゐの)四郎(しらう)、「御(ご)ぢやうまことに忝(かたじけ)なう候(さうらふ)。兼平(かねひら)も勢田(せた)で打死(うちじに)つかまつるべう候(さうらひ)つれども、御(おん)行(ゆく)え(ゆくへ)のおぼつかなさに、これまでまい(ッ・まゐつ)て候(さうらふ)」とぞ申(まうし)ける。
木曾殿(きそどの)「契(ちぎり)はいまだくちせざりけり。義仲(よしなか)がせいは敵(かたき)にをし(おし)へだてられ、山林(さんりん)にはせち(ッ)て、此(この)辺(へん)にもあるらんぞ。汝(なんぢ)がまかせてもた〔せた〕る旗(はた)あげさせよ」との給(たま)へば、今井(いまゐ)が旗(はた)をさしあげたり。京(きやう)よりおつる勢(せい)ともなく、勢田(せた)よりおつるものともなく、今井(いまゐ)が旗(はた)を見(み)つけて三百(さんびやく)余騎(よき)ぞはせ集(あつま)る。木曾(きそ)大(おほき)に悦(よろこび)て、「此(この)勢(せい)あらばなどか最後(さいご)のいくさせざるべき。ここにしぐらうで見(み)ゆるはたが手(て)やらん」。「甲斐(かひ・かい)の一条(いちでうの)次郎殿(じらうどの)とこそ承(うけたまはり)候(さうら)へ」。「せいはいくらほどあるやらん」。「六千余騎(ろくせんよき)とこそ聞(きこ)え候(さうら)へ」。「さてはよい敵(かたき)ごさんなれ。おなじう死(し)なば、よからう敵(かたき)にかけあふ(あう)て、大勢(おほぜい)の中(なか)でこそ打死(うちじに)をもせめ」とて、ま(ッ)さきにこそすすみけれ。
木曾(きその)左馬頭(さまのかみ)、其(その)日(ひ)の装束(しやうぞく)には、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、唐綾(からあや)おどし(をどし)の鎧(よろひ)きて、くわがたう(ッ)たる甲(かぶと)の緒(を・お)しめ、いか物(もの)づくりのおほ太刀(だち)はき、石(いし)うちの矢(や)の、其(その)日(ひ)のいくさにいて少々(せうせう)のこ(ッ)たるを、かしらだかにおい(おひ)なし、しげどうの弓(ゆみ)も(ッ)て、きこゆる木曾(きそ)の鬼葦毛(おにあしげ)といふ馬(むま)の、きはめてふとうたくましゐ(たくましい)に、黄覆輪(きぶくりん・き(ン)ぶくりん)の鞍(くら)をい(おい)てぞの(ッ)たりける。あぶみふ(ン)ばりたちあがり、大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて名(な)のりけるは、「昔(むかし)はききけん物(もの)を、木曾(きそ)の冠者(くわんじや)、今(いま)はみるらん、左馬頭(さまのかみ)兼(けん)伊与守(いよのかみ)、朝日(あさひ)の将軍(しやうぐん)源(みなもとの)義仲(よしなか)ぞや。甲斐ノ(かひの・かいの)一条(いちでうの)次郎(じらう)とこそきけ。たがい(たがひ)によい敵(かたき)ぞ。義仲(よしなか)う(ッ)て兵衛佐(ひやうゑのすけ)に見(み)せよや」とて、おめい(をめい)てかく。一条(いちでうの)二郎(じらう)、「只今(ただいま)なのるは大将軍(たいしやうぐん)ぞ。あますなもの共(ども)、もらすな若党(わかたう)、うてや」とて、大(おほ)ぜいの中(なか)にとりこめて、我(われ)う(ッ)とらんとぞすすみける。木曾(きそ)三百(さんびやく)余騎(よき)、六千余騎(ろくせんよき)が中(なか)をたてさま・よこさま・蜘手(くもで)・十文字(じふもんじ)にかけわ(ッ)て、うしろへつ(ッ)といでたれば、五十騎(ごじつき)ばかりになりにけり。
そこをやぶ(ッ)てゆくほどに、土肥ノ(とひの・といの)次郎(じらう)実平(さねひら)二千(にせん)余騎(よき)でささへたり。其(それ)をもやぶ(ッ)て行(ゆく)ほどに、あそこでは四五百騎(しごひやくき)、ここでは二三百(にさんびやく)騎(き)、百四五十騎(ひやくしごじつき)、百騎(ひやくき)ばかりが中(なか)をかけわりかけわりゆくほどに、主従(しゆじゆう・しゆじう)五騎(ごき)にぞなりにける。五騎(ごき)が内(うち)までともゑはうたれざりけり。木曾殿(きそどの)「おのれはとうとう、おんな(をんな)なれば、いづちへもゆけ。我(われ)は打死(うちじに)せんと思(おも)ふなり。もし人手(ひとで)にかからば自害(じがい)をせんずれば、木曾殿(きそどの)の最後(さいご)のいくさに、女(をんな)をぐせられたりけりな(ン)ど(など)いはれん事(こと)もしかるべからず」との給(たま)ひけれ共(ども)、猶(なほ・なを)おちもゆかざりけるが、あまりにいはれ奉(たてまつり)て、「あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)、よからうかたきがな。
最後(さいご)のいくさしてみせ奉(たてまつ)らん」とて、ひかへたるところに、武蔵国(むさしのくに)に、聞(きこ)えたる大(だい)ぢから、をん田(だ)の(おんだの)八郎(はちらう)師重(もろしげ)、卅騎(さんじつき)ばかりで出(いで)きたり。ともゑそのなかへかけ入(いり)、をん田(だ)の(おんだの)八郎(はちらう)におしならべ、むずとと(ッ)てひきおとし、わがの(ッ)たる鞍(くら)のまへわにをし(おし)つけて、ち(ッ)ともはたらかさず、頸(くび)ねぢき(ッ)てすてて(ン)げり。其(その)後(のち)物具(もののぐ)ぬぎすて、東国(とうごく)の方(かた)へ落(おち)ぞゆく。手塚(てづかの)太郎(たらう)打死(うちじに)す。手塚(てづか)の別当(べつたう)落(おち)にけり。今井ノ(いまゐの)四郎(しらう)、木曾殿(きそどの)、只(ただ)主従(しゆじゆう・しゆじう)二騎(にき)にな(ッ)ての給(たま)ひけるは、「日来(ごろ)はなにともおぼえぬ鎧(よろひ)が、けふはおもうな(ッ)たるぞや」。今井(いまゐの)四郎(しらう)申(まうし)けるは、「御身(おんみ)も未(いまだ)つかれさせ給(たま)はず、御馬(おんむま・おむま)もよはり(よわり)候(さうら)はず。なにによ(ッ)てか一両(いちりやう)の御(おん)きせながをおもうはおぼしめし候(さうらふ)べき。それは御方(みかた)に御(おん)せいが候(さうら)はねば、おく病(びやう)でこそさはおぼしめし候(さうら)へ。
兼平(かねひら)一人(いちにん)候(さうらふ)とも、余(よ)の武者(むしや)千騎(せんぎ)とおぼしめせ。矢(や)七(ななつ)八(やつ)候(さうら)へば、しばらくふせき矢(や)仕(つかまつ)らん。あれに見(み)え候(さうらふ)、粟津(あはづ)の松原(まつばら)と申(まうす)。あの松(まつ)の中(なか)で御自害(おんじがい)候(さうら)へ」とて、う(ッ)て行(ゆく)程(ほど)に、又(また)あら手(て)の武者(むしや)五十騎(ごじつき)ばかり出(いで)きたり。「君(きみ)はあの松原(まつばら)へいらせ給(たま)へ。兼平(かねひら)は此(この)敵(かたき)ふせき候(さうら)はん」と申(まうし)ければ、木曾殿(きそどの)の給(たま)ひけるは、「義仲(よしなか)宮(みや)こにていかにもなるべかりつるが、これまでのがれくるは、汝(なんぢ)と一所(いつしよ)で死(し)なんとおもふため也(なり)。ところどころでうたれんよりも、ひとところでこそ打死(うちじに)をもせめ」とて、馬(むま)の鼻(はな)をならべてかけんとし給(たま)へば、今井(いまゐの)四郎(しらう)馬(むま)よりとびおり、主(しゆう・しゆ)の馬(むま)の口(くち)にとりつゐ(つい)て申(まうし)けるは、「弓矢(ゆみや)とりは年来(としごろ)日来(ひごろ)いかなる高名(かうみやう)候(さうら)へども、最後(さいご)の時(とき)不覚(ふかく)しつればながき疵(きず)にて候(さうらふ)也(なり)。
御身(おんみ)はつかれさせ給(たまひ)て候(さうらふ)。つづくせいは候(さうら)はず。敵(かたき)にをし(おし)へだてられ、いふかひなき人(ひと)〔の〕郎等(らうどう)にくみおとされさせ給(たまひ)て、うたれさせ給(たまひ)なば、「さばかり日本国(につぽんごく)にきこえさせ給(たま)ひつる木曾殿(きそどの)をば、それがしが郎等(らうどう)のうちたてま(ッ)たる」な(ン)ど(など)申(まう)さん事(こと)こそ口惜(くちをし・くちおし)う候(さうら)へ。ただあの松原(まつばら)へいらせ給(たま)へ」と申(まうし)ければ、木曾(きそ)さらばとて、粟津(あはづ)の松原(まつばら)へぞかけ給(たま)ふ。今井(いまゐの)四郎(しらう)只(ただ)一騎(いつき)、五十騎(ごじつき)ばかりが中(なか)へかけ入(いり)、あぶみふ(ン)ばりたちあがり、大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)あげてなのりけるは、「日来(ひごろ)は音(おと・をと)にもききつらん、今(いま)は目(め)にも見(み)給(たま)へ、木曾殿(きそどの)の御(おん)めのと子(ご)、今井(いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)、生年(しやうねん)卅三(さんじふさん)にまかりなる。
さるものありとは鎌倉殿(かまくらどの)までもしろしめされたるらんぞ。兼平(かねひら)う(ッ)て見参(げんざん)にいれよ」とて、ゐ(い)のこしたる八すぢの矢(や)を、さしつめ引(ひき)つめさんざんにゐる(いる)。死生(ししやう)はしらず、やにわ(やには)にかたき八騎(はちき)ゐ(い)おとす。其(その)後(のち)打物(うちもの)ぬいてあれにはせあひ、これに馳(はせ)あひ、き(ッ)てまはるに、面(おもて)をあはするものぞなき。分(ぶん)どりあまたしたりけり。只(ただ)「ゐ(い)とれや」とて、中(なか)にとりこめ、雨(あめ)のふる様(やう)にゐ(い)けれども、鎧(よろひ)よければうらかかず、あき間(ま)をゐ(い)ねば手(て)もおはず。
木曾殿(きそどの)は只(ただ)一騎(いつき)、粟津(あはづ)の松原(まつばら)へかけ給(たま)ふが、正月(しやうぐわつ)廿一日(にじふいちにち)入(いり)あひばかりの事(こと)なるに、うす氷(ごほり)はは(ッ)たりけり、ふか田(た)ありともしらずして、馬(むま)をざ(ッ)とうち入(いれ)たれば、馬(むま)のかしらも見(み)えざりけり。あおれ(あふれ)どもあおれ(あふれ)ども、うてどもうてどもはたらかず。今井(いまゐ)が行(ゆく)え(ゆくへ)のおぼつかなさに、ふりあふぎ給(たま)へるうち甲(かぶと)を、三浦(みうら)ノの石田(いしだの)次郎(じらう)為久(ためひさ)、お(ッ)かか(ッ)てよ(ッ)ぴゐ(よつぴい)てひやうふつとゐる(いる)。いた手(で)なれば、ま(ッ)かうを馬(むま)のかしらにあててうつぶし給(たま)へる処(ところ)に、石田(いしだ)が郎等(らうどう)二人(ににん)落(おち)あふ(あう)て、つゐに(つひに)木曾殿(きそどの)の頸(くび)をばと(ッ)て(ン)げり。
太刀(たち)のさきにつらぬき、たかくさしあげ、大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて、「この日来(ひごろ)日本国(につぽんごく)に聞(きこ)えさせ給(たまひ)つる木曾殿(きそどの)を、三浦ノ(みうらの)石田ノ(いしだの)次郎(じらう)為久(ためひさ)がうち奉(たてまつり)たるぞや」となのりければ、今井(いまゐの)四郎(しらう)いくさしけるが、是(これ)をきき、「いまはたれをかばはんとてかいくさをばすべき。是(これ)を見(み)給(たま)へ、東国(とうごく)の殿原(とのばら)、日本(につぽん)一(いち)の甲(かう)の者(もの)の自害(じがい)する手本(てほん)」とて、太刀(たち)のさきを口(くち)に含(ふく)み、馬(むま)よりさかさまにとび落(おち)、つらぬか(ッ)てぞうせにける。さてこそ粟津(あはづ)のいくさはなかりけれ。 
樋口被討罰 (ひぐちのきられ) 

 

今井(いまゐ)が兄(あに)、樋口(ひぐちの)次郎(じらう)兼光(かねみつ)は、十郎(じふらう)蔵人(くらんど)うたんとて、河内国(かはちのくに)長野(ながの)の城(じやう)へこえたりけるが、そこにてはうちもらしぬ。紀伊国(きのくに)名草(なぐさ)にありと聞(きこ)えしかば、やがてつづゐ(つづい)てこえたりけるが、都(みやこ)にいくさありときいて馳(はせ)のぼる。淀(よど)の大渡(おほわたり)の橋(はし)で、今井(いまゐ)が下人(げにん)ゆきあふ(あう)たり。「あな心(こころ)う、是(これ)はいづちへとてわたらせ給(たま)ひ候(さうらふ)ぞ。君(きみ)うたれさせ給(たま)ひぬ。
今井殿(いまゐどの)は自害(じがい)」と申(まうし)ければ、樋口ノ(ひぐちの)次郎(じらう)涙(なみだ)をはらはらとながいて、「是(これ)を聞(きき)給(たま)へ殿原(とのばら)、君(きみ)に御心(おんこころ)ざしおもひまいらせ(まゐらせ)給(たま)はん人々(ひとびと)は、これよりいづちへもおち行(ゆき)、出家(しゆつけ)入道(にふだう・にうだう)して乞食(こつじき)頭陀(づだ)の行(ぎやう)をもたて、後世(ごせ)をとぶらひまいらせ(まゐらせ)給(たま)へ。兼光(かねみつ)は宮(みや)こへのぼり打死(うちじに)して、冥途(めいど)にても君(きみ)の見参(げんざん)に入(いり)、今井(いまゐの)四郎(しらう)をいま一度(いちど)みんと思(おも)ふぞ」といひければ、五百余騎(ごひやくよき)のせい、あそこにひかへここにひかへ落行(おちゆく)ほどに、鳥羽(とば)の南(みなみ)の門(もん)をいでけるには、其(その)勢(せい)わづかに廿(にじふ)余騎(よき)にぞなりにける。
樋口(ひぐちの)次郎(じらう)けふすでに宮(みや)こへ入(いる)と聞(きこ)えしかば、党(たう)も豪家(かうけ)も七条(しつでう)・朱雀(しゆしやか)・四塚(よつづか)さまへ馳向(はせむかふ)。樋口(ひぐち)が手に茅野ノ(ちのの)太郎(たらう)と云(いふ)ものあり。四塚(よつづか)にいくらも馳(はせ)むかふ(むかう)たる敵(かたき)の中(なか)へかけ入(いり)、大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて、「此(この)御中(おんうち)に、甲斐(かひ・かい)の一条(いちでうの)次郎殿(じらうどの)の御手(おんて)の人(ひと)や在(まし)ます」ととひければ、「あながち一条ノ(いちでうの)二郎殿(じらうどの)の手(て)でいくさをばするか。誰(たれ)にもあへかし」とて、ど(ッ)とわらふ。
わらはれてなのりけるは、「かう申(まうす)は信濃国(しなののくに)諏方(すはの)上宮(かみのみや)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)、茅野ノ(ちのの)大夫(たいふ・たゆふ)光家(みついへ)が子(こ)に、茅野(ちのの)太郎(たらう)光広(みつひろ)、必(かならず)一条ノ(いちでうの)次郎殿(じらうどの)の御手(おんて)をたづぬるにはあらず。おととの茅野ノ(ちのの)七郎(しちらう)それにあり。光広(みつひろ)が子共(こども)二人(ににん)、信濃国(しなののくに)に候(さうらふ)が、「あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)わが父(ちち)はようてや死(し)にたるらん、あしうてや死(し)にたるらん」となげかん処(ところ)に、おととの七郎(しちらう)がまへで打死(うちじに)して、子共(こども)にたしかにきかせんと思(おもふ)ため也(なり)。敵(かたき)をばきらふまじ」とて、あれに馳(はせ)あひ是(これ)にはせあひ、敵(かたき)三騎(さんぎ・さんき)ゐ(い)おとし、四人(しにん)にあたる敵(かたき)にをし(おし)ならべ、ひ(ッ)く(ン)でどうどおち、さしちがへてぞ死(しに)にける。
樋口(ひぐちの)次郎(じらう)は児玉(こだま)にむすぼほれたりければ、児玉(こだま)の人共(ひとども)寄合(よりあひ)て、「弓矢(ゆみや)とるならひ、我(われ)も人(ひと)もひろい中(なか)へ入(い)らんとするは、自然(しぜん)の事(こと)のあらん時(とき)、ひとまどのいきをもやすめ、しばしの命(いのち)をもつがんとおもふため也(なり)。されば樋口(ひぐちの)次郎(じらう)が我等(われら)にむすぼほれけんも、さこそはおもひけめ。今度(こんど)の我等(われら)が勲功(くんこう)には、樋口(ひぐち)が命(いのち)を申(まうし)うけん」とて、使者(ししや)をたてて、「日来(ひごろ)は木曾殿(きそどの)の御内(みうち)に今井(いまゐ)・樋口(ひぐち)とて聞(きこ)え給(たま)ひしかども、今(いま)は木曾殿(きそどの)うたれさせ給(たま)ひぬ。なにかくるしかるべき。我等(われら)が中(なか)へ降人(かうにん)になり給(たま)へ。勲功(くんこう)の賞(しやう)に申(まうし)かへて、命(いのち)ばかりたすけ奉(たてまつ)らん。出家(しゆつけ)入道(にふだう・にうだう)をもして、後世(ごせ)をとぶらひまいらせ(まゐらせ)給(たま)へ」といひければ、樋口(ひぐちの)次郎(じらう)、きこゆるつはものなれども、運(うん)やつきにけん、児玉党(こだまたう)のなかへ降人(かうにん)にこそなりにけれ。
是(これ)を九郎(くらう)御曹司(おんざうし)に申(まうす)。院(ゐんの)御所(ごしよ)へ奏聞(そうもん)してなだめられたりしを、かたはらの公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、つぼねの女房達(にようばうたち)、「木曾(きそ)が法住寺殿(ほふぢゆうじどの・ほうぢうじどの)へよせて時(とき)をつくり、君(きみ)をもなやましまいらせ(まゐらせ)、火(ひ)をかけておほくの人々(ひとびと)をほろぼしうしなひしには、あそこにもここにも、今井(いまゐ)・樋口(ひぐち)といふこゑのみこそありしか。是(これ)らをなだめられんはくちおしかる(をしかる)べし」と、面々(めんめん)に申(まう)されければ、又(また)死罪(しざい)にさだめらる。同(おなじき)廿二日(にじふににち)、新摂政殿(しんせつしやうどの)とどめられ給(たま)ひて、本(もと)の摂政(せつしやう)還着(げんぢやく)し給(たま)ふ。纔(わづか)に六十日(ろくじふにち)のうちに替(かへ)られ給(たま)へば、いまだ見(み)はてぬ夢(ゆめ)のごとし。
昔(むかし)粟田(あはた)の関白(くわんばく)は、悦申(よろこびまうし)の後(のち)只(ただ)七ケ日(しちかにち)だにこそおはせしか、これは六十日(ろくじふにち)とはいへども、その内(うち)に節会(せちゑ)も除目(ぢもく)もおこなはれしかば、思出(おもひで)なきにもあらず。同(おなじき)廿四日(にじふしにち)、木曾(きその)左馬頭(さまのかみ)并(ならびに)余党(よたう)五人(ごにん)が頸(くび)、大路(おほち)をわたさる。樋口(ひぐちの)次郎(じらう)は降人(かうにん)なりしが、頻(しきり)に頸(くび)のともせんと申(まうし)ければ、藍摺(あいずり)の水干(すいかん)、立烏帽子(たてえぼし・たてゑぼし)でわたされけり。同(おなじき)廿五日(にじふごにち)、樋口(ひぐちの)次郎(じらう)遂(つひ・つゐ)に切(きら)れぬ。範頼(のりより)・義経(よしつね)やうやうに申(まう)されけれども、「今井(いまゐ)・樋口(ひぐち)・楯(たて)・祢ノ井(ねのゐ)とて、木曾(きそ)が四天王(してんわう)のそのひとつ也(なり)。
是(これ)らをなだめられんは、養虎(やうこ)の愁(うれへ)あるべし」とて、殊(こと)に沙汰(さた)あ(ッ)て誅(ちゆうせ・ちうせ)られけるとぞきこえし。つてにきく、虎狼(こらう)の国(くに)衰(をとろ・おとろ)へて、諸侯(しよこう)蜂(はち)のごとく起(おこり・をこり)し時(とき)、沛公(はいこう)先(さき)に咸陽宮(かんやうきゆう・かんやうきう)に入(いる)といへども、項羽(こうう)が後(のち)に来(きた)らん事(こと)を恐(おそれ)て、妻(つま)は美人(びじん)をもおかさ(をかさ)ず、金銀(きんぎん)珠玉(しゆぎよく)をも掠(かす)めず、徒(いたづら)に凾谷(かんこく)の関(せき)を守(まも・ッ)て、漸々(やうやう)にかたきをほろぼして、天下(てんが・てんか)を治(ぢ)する事(こと)を得(え)たりき。されば木曾ノ(きその)左馬頭(さまのかみ)、まづ都(みやこ)へ入(い)ると云(いふ)とも、頼朝(よりとも)朝臣(あそん・あつそん)の命(めい)にしたがはましかば、彼(か)の沛公(はいこう)がはかり事(こと)にはおとらざらまし。
平家(へいけ)はこぞの冬(ふゆ)の比(ころ)より、讃岐国(さぬきのくに)八島(やしま)の磯(いそ)をいでて、摂津国(せつつのくに)難波潟(なにはがた)へをし(おし)わたり、福原(ふくはら)の旧都(きうと)に居住(きよぢゆう・きよぢう)して、西(にし)は一ノ谷(いちのたに)を城郭(じやうくわく)に構(かま)へ、東(ひがし・ひんがし)は生田ノ(いくたの)森(もり)を大手(おほて)の木戸口(きどぐち)とぞさだめける。其(その)内(うち)福原(ふくはら)・兵庫(ひやうご)・板屋(いたや)ど・須磨(すま)にこもる勢(せい)、これは山陽道(せんやうだう)八ケ国(はつかこく・はちかこく)、南海道(なんかいだう)六ケ国(ろくかこく)、都合(つがふ・つがう)十四(じふし)ケ国(かこく)をうちしたがへてめさるるところの軍兵(ぐんびやう)也(なり)。十万余騎(じふまんよき)とぞ聞(きこ)えし。一谷(いちのたに)は北(きた)は山(やま)、南(みなみ)は海(うみ)、口(くち)はせばくて奥(おく)ひろし。岸(きし)たかくして屏風(びやうぶ)をたてたるにことならず。
北(きた)の山(やま)ぎはより南(みなみ)の海(うみ)のとをあさ(とほあさ)まで、大石(たいせき)をかさねあげ、おほ木(ぎ)をき(ッ)てさかも木(ぎ)にひき、ふかきところには大船(たいせん)どもをそばだてて、かいだてにかき、城(じやう)の面(おもて)の高矢倉(たかやぐら)には、一人当千(いちにんたうぜん)ときこゆる四国(しこく)鎮西(ちんぜい)の兵共(つはものども)、甲冑(かつちう)弓箭(きゆうせん・きうせん)を帯(たい)して、雲霞(うんか)の如(ごと)くになみ居(ゐ)たり。矢倉(やぐら)のしたには、鞍置馬(くらおきむま・くらをきむま)共(ども)十重(とへ)廿重(はたへ)にひ(ッ)たてたり。つねに大皷(たいこ)をう(ッ)て乱声(らんじやう)をす。一張(いつちやう)の弓(ゆみ)のいきおひ(いきほひ)は半月(はんげつ)胸(むね)のまへにかかり、三尺(さんじやく)の剣(けん)の光(ひかり)は秋(あき)の霜(しも)腰(こし)の間(あひだ・あいだ)に横(よこ)だへたり。たかきところには赤旗(あかはた)おほくうちたてたれば、春風(はるかぜ)にふかれて天(てん)に翻(ひるがへ)るは、火炎(くわえん)のもえあがるにことならず。 
六ケ度軍 (ろくかどのいくさ) 

 

平家(へいけ)福原(ふくはら)へわたり給(たまひ)て後(のち)は、四国(しこく)の兵(つはもの)したがい(したがひ)奉(たてまつ)らず。中(なか)にも阿波(あは)讃岐(さぬき)の在庁(ざいちやう)ども、平家(へいけ)をそむいて源氏(げんじ)につかんとしけるが、「抑(そもそも)我等(われら)は、昨日(きのふ)今日(けふ)まで平家(へいけ)にしたがうたるものの、今(いま)はじめて源氏(げんじ)の方(かた)へまいり(まゐり)たりとも、よももちゐられじ。いざや平家(へいけ)に矢(や)ひとつゐ(い)かけて、それを面(おもて)にしてまいら(まゐら)ん」とて、門脇(かどわきの)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)、子息(しそく)越前(ゑちぜんの)三位(さんみ・さんゐ)、能登守(のとのかみ)、父子(ふし)三人(さんにん)、備前国(びぜんのくに)下津井(しもつゐ・シモつゐ)に在(まし)ますと聞(きこ)えしかば、討(うち)たてまつらんとて、兵船(ひやうせん)十余艘(じふよさう)でよせたりけり。能登守(のとのかみ)是(これ)をきき「にくゐ(にくい)やつ原(ばら)かな。
昨日(きのふ)今日(けふ)まで我等(われら)が馬(むま)の草(くさ)き(ッ)たる奴原(やつばら)が、すでに契(ちぎり)を変(へん)ずるにこそあんなれ。其(その)義(ぎ)ならば一人(いちにん)ももらさずうてや」とて、小舟(こぶね)どもにとりの(ッ)て、「あますな、もらすな」とてせめ給(たま)へば、四国(しこく)の兵物共(つはものども)、人目(ひとめ)ばかりに矢(や)一(ひとつ)射(い・ゐ)て、のかんとこそ思(おも)ひけるに、手(て)いたうせめられたてま(ッ)て、かなはじとやおもひけん、とをまけ(とほまけ)にして引退(ひきしりぞ)き、宮(みや)この方(かた)へにげのぼるが、淡路国(あはぢのくに)ふく良(ら)の泊(とまり)につきにけり。
其(その)国(くに)に源氏(げんじ)二人(ににん)あり。故(こ)六条(ろくでうの)判官(はんぐわん)為義(ためよし)が末子(すゑのこ)、賀茂(かもの)冠者(くわんじや)義嗣(よしつぎ)・淡路(あはぢの)冠者(くわんじや)義久(よしひさ)と聞(きこ)えしを、四国(しこく)の兵共(つはものども)、大将(たいしやう)にたのんで、城郭(じやうくわく)を構(かまへ)て待(まつ)ところに、能登殿(のとどの)やがてをし(おし)よせ責(せめ)給(たま)へば、一日(いちにち)たたかひ、賀茂(かもの)冠者(くわんじや)打死(うちじに)す。淡路(あはぢの)冠者(くわんじや)はいた手(で)負(おう・をふ)て自害(じがい)して(ン)げり。能登殿(のとどの)防矢(ふせきや)ゐ(い)ける兵(つは)ものども、百卅余人(ひやくさんじふよにん)が頸(くび)切(き・ッ)て、討手(うちて)の交名(けうみやう)しるいて、福原(ふくはら)へまいらせ(まゐらせ)らる。門脇(かどわきの)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)、其(それ)より福原(ふくはら)へのぼり給(たま)ふ。
子息達(しそくたち)は、伊与ノ(いよの)河野(かはのの)四郎(しらう)がめせどもまいら(まゐら)ぬをせめんとて、四国(しこく)へぞ渡(わた)られける。先(まづ)兄(あに)の越前(ゑちぜんの)三位(さんみ)通盛卿(みちもりのきやう)、阿波国(あはのくに)花園(はなぞの)の城(じやう)につき給(たまふ)。能登守(のとのかみ)讃岐(さぬき)の八島(やしま)へ渡(わた)り給(たま)ふと聞(きこ)えしかば、河野(かはのの)四郎(しらう)道信(たうしん)、安芸国(あきのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)沼田(ぬたの)次郎(じらう)は母方(ははかた)の伯父(をぢ・おぢ)なりければ、ひとつにならんとて、安芸国(あきのくに)へをし(おし)わたる。能登守(のとのかみ)是(これ)をきき、やがて讃岐(さぬきの)八島(やしま)をいでておはれけるが、すでに備後国(びんごのくに)蓑島(みのしま)にかか(ッ)て、次(つぎの)日(ひ)、沼田ノ城(ぬたのじやう)へよせ給(たま)ふ。沼田(ぬたの)次郎(じらう)・河野(かはのの)四郎(しらう)ひとつにな(ッ)てふせきたたかふ。
能登殿(のとどの)やがて押寄(おしよせ・をしよせ)責(せめ)給(たま)へば、一日(いちにち)一夜(いちや)ふせきたたかひ、沼田(ぬたの)次郎(じらう)かなはじとや思(おも)ひけん、甲(かぶと)をぬいで降人(かうにん)にまいる(まゐる)。河野(かはのの)四郎(しらう)は猶(なほ)したがひ奉(たてまつ)らず。其(その)勢(せい)五百余騎(ごひやくよき)ありけるが、わづかに五十騎(ごじつき)ばかりにうちなされ、城(じやう)をいでて行(ゆく)ほどに、能登殿(のとどの)の侍(さぶらひ)平八兵衛(へいはちびやうゑ)為員(ためかず)、二百騎(にひやくき)ばかりが中(なか)にとりこめられて、主従(しゆじゆう・しゆうじう)七騎(しちき)にうちなされ、たすけ船(ぶね)にのらんとほそ道(みち)にかか(ッ)て、みぎはの方(かた)へおちゆく程(ほど)に、平八兵衛(へいはちびやうゑ)が子息(しそく)讃岐(さぬきの)七郎(しちらう)義範(よしのり)、究竟(くつきやう・く(ツ)きやう)の弓(ゆみ)の上手(じやうず)ではあり、お(ッ)かか(ッ)て、七騎(しちき)をやにわ(やには)に五騎(ごき)ゐ(い)おとす。
河野(かはのの)四郎(しらう)、ただ主従(しゆじゆう・しゆうじう)二騎(にき)になりにけり。河野(かはの)が身(み)にかへて思(おも)ひける郎等(らうどう)を、讃岐(さぬきの)七郎(しちらう)をし(おし)ならべてく(ン)でおち、と(ッ)ておさへて頸(くび)をかかんとする処(ところ)に、河野(かはのの)四郎(しらう)と(ッ)てかへし、郎等(らうどう)がうへなる讃岐(さぬきの)七郎(しちらう)が頸(くび)かき切(きつ)て、ふか田(た)へなげいれ、大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて、「河野(かはのの)四郎(しらう)越智ノ(をちの)道信(みちのぶ)、生年(しやうねん)廿一(にじふいち)、かうこそいくさをばすれ。われとおもはん人々(ひとびと)はとどめよや」とて、郎等(らうどう)をかたにひ(ッ)かけ、そこをつ(ッ)とのがれて小舟(こぶね)にのり、伊与国(いよのくに)へぞわたりける。能登殿(のとどの)、河野(かはの)をもうちもらされたれども、沼田(ぬたの)次郎(じらう)が降人(かうにん)たるをめしぐして、福原(ふくはら)へぞまいら(まゐら)れける。
又(また)淡路国(あはぢのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)安摩(あまの)六郎(ろくらう)忠景(ただかげ)、平家(へいけ)をそむいて源氏(げんじ)に心(こころ)をかよはしけるが、大船(おほぶね)二艘(にさう)に兵粮米(ひやうらうまい)・物具(もののぐ)つうで、宮(みや)この方(かた)へのぼる程(ほど)に、能登殿(のとどの)福原(ふくはら)にて是(これ)をきき、小舟(こぶね)十艘(じつさう)ばかりおしうかべておはれけり。安摩(あま)の六郎(ろくらう)、西宮(にしのみや)の奥(おき)にて、かへしあはせふせきたたかふ。手(て)いたうせめられたてま(ッ)て、かなはじとや思(おも)ひけん、引退(ひきしりぞき)て和泉国(いづみのくに)吹井ノ(ふけゐの)浦(うら)につきにけり。紀伊国(きのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)園辺(そのべの・ソノヘノ)兵衛(ひやうゑ)忠康(ただやす)、是(これ)も平家(へいけ)をそむいて源氏(げんじ)につかんとしけるが、あまの六郎(ろくらう)が能登殿(のとどの)に責(せめ)られたてま(ッ)て、吹井(ふけゐ)にありと聞(きこ)えしかば、其(その)勢(せい)百騎(ひやくき)ばかりで馳来(はせき)てひとつになる。
能登殿(のとどの)やがてつづゐ(つづい)て責(せめ)給(たま)へば、一日(いちにち)一夜(いちや)ふせきたたかい(たたかひ)、あまの六郎(ろくらう)・そのべの兵衛(ひやうゑ)、かなはじとや思(おも)ひけん、家子(いへのこ)郎等(らうどう)に防矢(ふせきや)ゐ(い)させ、身(み)がらはにげて京(きやう)へのぼる。
能登殿(のとどの)、防矢(ふせきや)ゐ(い)ける兵物共(つはものども)二百(にひやく)余人(よにん)が頸(くび)きりかけて、福原(ふくはら)へこそまいら(まゐら)れけれ。又(また)伊与国(いよのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)河野(かはのの)四郎(しらう)道信(みちのぶ)、豊後国(ぶんごのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)臼杵(うすきの)二郎(じらう)維高(これたか)・緒方(をかたの・おかたの)三郎(さぶらう)維義(これよし)同心(どうしん)して、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)二千(にせん)余人(よにん)、備前国(びぜんのくに)へをし(おし)渡(わた)り、いまぎの城(じやう)にぞ籠(こもり)ける。能登守(のとのかみ)是(これ)をきき、福原(ふくはら)より三千余騎(さんぜんよき)で馳(はせ)くだり、いまぎの城(じやう)をせめ給(たま)ふ。
能登殿(のとどの)「奴原(きやつばら)はこはい御敵(おんかたき)で候(さうらふ)。かさねて勢(せい)を給(たま)はらん」と申(まう)されければ、福原(ふくはら)より数万騎(すまんぎ)の大勢(おほぜい)をむけらるるよしきこえし程(ほど)に、城(じやう)のうちの兵物共(つはものども)、手(て)のきはたたかひ、分捕(ぶんどり)高名(かうみやう)しきはめて、「平家(へいけ)は大勢(おほぜい)でまします也(なり)。我等(われら)は無勢(ぶせい)也(なり)。いかにもかなふまじ。ここをばおちてしばらくいきをつがん」とて、臼杵(うすきの)次郎(じらう)・緒方(をかたの・おかたの)三郎(さぶらう)舟(ふね)にとりのり、鎮西(ちんぜい)へおしわたる。河野(かはの)は伊与(いよ)へぞ渡(わた)りける。能登殿(のとどの)「いまはうつべき敵(かたき)なし」とて、福原(ふくはら)へこそまいら(まゐら)れけれ。大臣殿(おほいとの)をはじめたてま(ッ)て、平家(へいけ)一門(いちもん)の公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)よりあひ給(たま)ひて、能登殿(のとどの)の毎度(まいど)の高名(かうみやう)をぞ一同(いちどう)に感(かん)じあはれける。 
三草勢揃 (みくさせいぞろへ) 

 

正月(しやうぐわつ)廿九日(にじふくにち)、範頼(のりより)・義経(よしつね)院参(ゐんざん)して、平家(へいけ)追討(ついたう)のために西国(さいこく)へ発向(はつかう)すべきよし奏聞(そうもん)しけるに、「本朝(ほんてう)には神代(かみよ)よりつたはれる三(みつ)の御宝(おんたから)あり。内侍所(ないしどころ)・神璽(しんし)・宝剣(ほうけん)これ也(なり)。相構(あひかまへ・あいかまへ)て事(こと)ゆへ(ゆゑ)なくかへしいれたてまつれ」と仰下(おほせくだ)さる。両人(りやうにん)かしこまりうけ給(たま)は(ッ)てまかり出(いで)ぬ。同(おなじき)二月(にぐわつ)四日(よつかのひ)、福原(ふくはら)には、故(こ)入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)の忌日(きにち)とて、仏事(ぶつじ)形(かた)の如(ごと)くおこなはる。あさゆふのいくさだちに、過(すぎ)ゆく月日(つきひ)はしらねども、こぞ】はことしにめぐりきて、うかりし春(はる)にも成(なり)にけり。
世(よ)の世(よ)にてあらましかば、いかなる起立(きりふ・きりう)塔婆(たふば・たうば)のくはたて、供仏(くぶつ)施僧(せそう)のいとなみもあるべかりしか共(ども)、ただ男女(なんによ)の君達(きんだち)さしつどひて、なくより外(ほか)の事(こと)ぞなき。其(その)次(つい)でに叙位(じよゐ)除目(ぢもく)おこなはれて、僧(そう)も俗(ぞく)もみなつかさなされけり。門脇(かどわきの)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)、正(じやう)二位(にゐ)大納言(だいなごん)に成(なり)給(たま)ふべきよし、大臣殿(おほいとの)より仰(おほせ)られければ、教盛卿(のりもりのきやう)、
けふまでもあればあるかのわが身(み)かは夢(ゆめ)のうちにも夢(ゆめ)をみるかな
と御返事(おんぺんじ)申(まう)させ給(たま)ひて、遂(つひ)に大納言(だいなごん)にもなり給(たま)はず。大外記(だいげき)中原(なかはらの)師直(もろなほ・もろなを)が子(こ)、周防介(すはうのすけ)師純(もろずみ)、大外記(だいげき)になる。兵部少輔(ひやうぶのせう)正明(まさあきら)、五位(ごゐの)蔵人(くらんど)になされて蔵人(くらんどの)少輔(せう)とぞいはれける。昔(むかし)将門(まさかど)が東(とう)八ケ国(はつかこく)をうちしたがへて、下総国(しもつふさのくに)相馬郡(さうまのこほり)に都(みやこ)をたて、我(わが)身(み)を平親王(へいしんわう)と称(せう)して、百官(ひやくくわん)をなしたりしには、暦博士(れきはかせ)ぞなかりける。是(これ)はそれにはにるべからず。旧都(きうと)をこそ落(おち)給(たま)ふといへども、主上(しゆしやう)三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)を帯(たい)して、万乗(ばんじよう・ばんぜう)の位(くらゐ)にそなはり給(たま)へり。
叙位(じよゐ)除目(ぢもく)おこなはれんも僻事(ひがこと)にはあらず。平氏(へいじ)すでに福原(ふくはら)までせめのぼ(ッ)て、都(みやこ)へかへり入(いる)べきよしきこえしかば、故郷(こきやう)にのこりとどまる人々(ひとびと)いさみよろこぶ事(こと)なのめならず。二位(にゐの)僧都(そうづ)専親(せんしん)は、梶井宮(かぢゐのみや)の年来(としごろ)の御同宿(ごどうじゆく)なりければ、風(かぜ)のたよりには申(まう)されけり。宮(みや)よりも又(また)つねは御(おん)音(をと)づれ(おとづれ)ありけり。「旅(たび)の空(そら)のありさまおぼしめしやるこそ心(こころ)ぐるしけれ。都(みやこ)もいまだしづまらず」な(ン)ど(など)あそばひ(あそばい)て、おくには一首(いつしゆ)の歌(うた)ぞありける。
人(ひと)しれずそなたをしのぶこころをばかたぶく月(つき)にたぐへてぞやる
僧都(そうづ)これをかほにをし(おし)あてて、かなしみの泪(なみだ)せきあえ(あへ)ず。さるほどに、小松(こまつ)の三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)維盛卿(これもりのきやう)は年(とし)へだたり日(ひ)かさなるに随(したが)ひて、ふるさとにとどめをき(おき)給(たまひ)し北方(きたのかた)、おさなき(をさなき)人々(ひとびと)の事(こと)をのみなげきかなしみ給(たま)ひけり。商人(あきうど)のたよりに、をのづから(おのづから)文(ふみ)な(ン)ど(など)のかよふにも、北方(きたのかた)の宮(みや)この御(おん)ありさま、心(こころ)ぐるしうきき給(たま)ふに、さらばむかへと(ッ)て一(ひと)ところでいかにもならばやとは思(おも)へども、わが身(み)こそあらめ、人(ひと)のためいたはしくてな(ン)ど(など)おぼしめし、しのびてあかしくらし給(たま)ふにこそ、せめての心(こころ)ざしのふかさの程(ほど)もあらはれけれ。さる程(ほど)に、源氏(げんじ)は四日(よつかのひ)よすべかりしが、故(こ)入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)の忌日(きにち)ときいて、仏事(ぶつじ)をとげさせんがためによせず。五日(いつかのひ)は西(にし)ふさがり、六日(むゆか)は道忌日(だうきにち)、七日(なぬかのひ)の卯剋(うのこく)に、一谷(いちのたに)の東西(とうざい)の木戸口(きどぐち)にて源平(げんぺい)矢合(やあはせ)とこそさだめけれ。さりながらも、四日(よつかのひ)は吉日(きちにち)なればとて、大手(おほて)搦手(からめで)の大将軍(たいしやうぐん)、軍兵(ぐんびやう)二手(ふたて)にわか(ッ)て都(みやこ)をたつ。
大手(おほて)の大将軍(たいしやうぐん)は蒲(がまの)御曹司(おんざうし)範頼(のりより)、相伴(あひともなふ)人々(ひとびと)、武田(たけたの)太郎(たらう)信義(のぶよし)・鏡美(かがみの)次郎(じらう)遠光(とほみつ・とをみつ)・同(おなじく)小次郎(こじらう)長清(ながきよ)・山名(やまなの)次郎(じらう)教義(のりよし)・同(おなじく)三郎(さぶらう)義行(よしゆき)、侍大将(さぶらひだいしやう)には梶原(かぢはら)平三(へいざう)景時(かげとき)・嫡子(ちやくしの)源太(げんだ)景季(かげすゑ)・次男(じなん)平次(へいじ)景高(かげたか)・同(おなじく)三郎(さぶらう)景家(かげいへ)・稲毛(いなげの)三郎(さぶらう)重成(しげなり)・楾谷(はんがへの)四郎(しらう)重朝(しげとも)、同(おなじく)五郎(ごらう)行重(ゆきしげ)・小山(をやまの・おやまの)小四郎(こしらう)朝政(ともまさ)・同(おなじく)中沼(なかぬまの)五郎(ごらう)宗政(むねまさ)・結城(ゆふきの)七郎(しちらう)朝光(ともみつ)・佐貫(さぬきの)四郎(しらう)大夫(だいふ)広綱(ひろつな)・小野寺ノ(をのでらの・おのでらの)禅師(ぜんじ)太郎(たらう)道綱(みちつな)・曾我(そがの)太郎(たらう)資信(すけのぶ)・中村(なかむら)太郎(たらう)時経(ときつね)・江戸(えどの・ゑどの)四郎(しらう)重春(しげはる)・玉ノ井ノ(たまのゐの)四郎(しらう)資景(すけかげ)・大河津(おほかはづの)太郎(たらう)広行(ひろゆき)・庄(しやうの)三郎(さぶらう)忠家(ただいへ)・同(おなじく)四郎(しらう)高家(たかいへ)・勝大ノ(せうだいの・セウだいの)八郎(はちらう)行平(ゆきひら)・久下(くげの)二郎(じらう)重光(しげみつ)・河原(かはら)太郎(たらう)高直(たかなほ・たかなを)・同(おなじく)次郎(じらう)盛直(もりなほ・もりなを)・藤田(ふぢたの)三郎(さぶらう)大夫(だいふ)行泰(ゆきやす)を先(さき)として、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)五万余騎(ごまんよき)、四日(よつかのひ)の辰(たつ)の一点(いつてん)に都(みやこ)をた(ッ)て、其(その)日(ひの)申酉ノ(さるとりの)剋(こく)に摂津国(つのくに)陽野(こやの)に陣(ぢん)をとる。
搦手(からめで)の大将軍(たいしやうぐん)は九郎(くらう)御曹司(おんざうし)義経(よしつね)、同(おなじ)く伴(ともな)ふ人々(ひとびと)、安田(やすだの)三郎(さぶらう)義貞(よしさだ)・太内(おほうちの)太郎(たらう)維義(これよし)・村上(むらかみの)判官代(はんぐわんだい)康国(やすくに)・田代(たしろの)冠者(くわんじや)信綱(のぶつな)、侍大将(さぶらひだいしやう)には土肥(とひの・といの)次郎(じらう)実平(さねひら)・子息ノ(しそくの)弥太郎(やたらう)遠平(とほひら・とをひら)・三浦介(みうらのすけ)義澄(よしずみ)・子息ノ(しそくの)平六(へいろく)義村(よしむら)・畠山(はたけやまの)庄司(しやうじ)次郎(じらう)重忠(しげただ)・同(おなじく)長野(ながのの)三郎(さぶらう)重清(しげきよ)・三浦(みうらの)佐原(さはらの)十郎(じふらう)義連(よしつら)・和田(わだの)小太郎(こたらう)義盛(よしもり)・同(おなじく)次郎(じらう)義茂(よしもち)・同(おなじく)三郎(さぶらう)宗実(むねざね)・佐々木(ささき)四郎(しらう)高綱(たかつな)・同(おなじく)五郎(ごらう)義清(よしきよ)・熊谷(くまがへの)次郎(じらう)直実(なほざね・なをざね)・子息(しそくの)小次郎(こじらう)直家(なほいへ・なをいへ)・平山(ひらやまの)武者所(むしやどころ)季重(すゑしげ)・天野(あまのの)次郎(じらう)直経(なほつね・なをつね)・小河(をがはの)次郎(じらう)資能(すけよし)・原(はらの)三郎(さぶらう)清益(きよます)・金子(かねこの)十郎(じふらう)家忠(いへただ)・同(おなじく)与一(よいち)親範(ちかのり)・渡柳(わたりやなぎの)弥五郎(やごらう)清忠(きよただ)・別府(べつぷの)小太郎(こたらう)清重(きよしげ)・多々羅(たたらの)五郎(ごらう)義春(よしはる)・其(その)子(こ)の太郎(たらう)光義(みつよし)・片岡(かたをかの)五郎(ごらう)経春(つねはる)・源八(げんぱち)広綱(ひろつな)・伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)・奥州ノ(あうしうの)佐藤(さとう)三郎(さぶらう)嗣信(つぎのぶ)・同(おなじく)四郎(しらう)忠信(ただのぶ)・江田ノ(えだの)源三(げんざう)・熊井(くまゐ)太郎(たらう)・武蔵房(むさしばう)弁慶(べんけい)を先(さき)として、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)一万余騎(いちまんよき)、同(おなじ)日(ひ)の同(おなじ)時(とき)に都(みやこ)をた(ッ)て丹波路(たんばぢ)にかかり、二日路(ふつかぢ)を一日(ひとひ)にう(ッ)て、播磨(はりま)と丹波(たんば)のさかひなる三草(みくさ)の山(やま)の東(ひがし・ひんがし)の山口(やまぐち)に、小野原(をのばら)にこそつきにけれ。 
三草合戦 (みくさがつせん) 

 

平家(へいけ)の方(かた)には大将軍(たいしやうぐん)小松(こまつの)新三位(しんざんみの・しんざんゐの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)資盛(すけもり)・同(おなじく)少将(せうしやう)有盛(ありもり)・丹後(たんごの)侍従(じじゆう・じじう)忠房(ただふさ)・備中守(びつちゆうのかみ・びつちうのかみ)師盛(もろもり)、侍大将(さぶらひだいしやう)には、平内兵衛(へいないびやうゑ)清家(きよいへ)・海老(えみの)次郎(じらう)盛方(もりかた)を初(はじめ)として、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)三千余騎(さんぜんよき)、小野原(をのばら)より三里(さんり)へだてて、三草(みくさ)の山(やま)の西(にし)の山口(やまぐち)に陣(ぢん)をとる。其(その)夜(よ)の戌(いぬ)の剋(こく)ばかり、九郎(くらう)御曹司(おんざうし)、土肥(とひの)次郎(じらう)をめして、「平家(へいけ)は是(これ)より三里(さんり)へだてて、三草(みくさ)の山(やま)の西(にし)の山口(やまぐち)に大勢(おほぜい)でひかへたんなるは。今夜(こよひ)夜討(ようち)によすべきか、あすのいくさか」との給(たま)へば、田代(たしろの)冠者(くわんじや)すすみいでて申(まうし)けるは、「あすのいくさとのべられなば、平家(へいけ)勢(せい)つき候(さうらひ)なんず。平家(へいけ)は三千余騎(さんぜんよき)、御方(みかた)の御(おん)勢(せい)は一万余騎(いちまんよき)、はるかの理(り)に候(さうらふ)。夜(よ)うちよかんぬと覚(おぼえ)候(さうらふ)」と申(まうし)ければ、土肥(とひの・といの)次郎(じらう)「いしう申(まう)させ給(たま)ふ田代殿(たしろどの)かな。さらばやがてよせさせ給(たま)へ」とてう(ッ)たちけり。
つはもの共(ども)「くらさはくらし、いかがせんずる」と口々(くちぐち)に申(まうし)ければ、九郎(くらう)御曹司(おんざうし)「例(れい)の大(おほ)だい松(まつ)はいかに」。土肥(とひの・といの)次郎(じらう)「さる事(こと)候(さうらふ)」とて、小野原(をのばら)の在家(ざいけ)に火(ひ)をぞかけたりける。是(これ)をはじめて、野(の)にも山(やま)にも、草(くさ)にも木(き)にも、火(ひ)をつけたれば、ひるにはち(ッ)ともおとらずして、三里(さんり)の山(やま)を越行(こえゆき)けり。此(この)田代(たしろ)冠者(くわんじや)と申(まう)すは、伊豆国(いづのくに)のさきの国司(こくし)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)為綱(ためつな)の末葉(ばつえふ・ばつえう)也(なり)。母(はは)は狩野介(かののすけ)茂光(もちみつ)がむすめをおもふ(おもう)てまうけたりしを、母方(ははかた)の祖父(そぶ)にあづけて、弓矢(ゆみや)とりにはしたてたり。
俗姓(ぞくしやう)を尋(たづ)ぬれば、後三条院(ごさんでうのゐんの)第三(だいさんの)王子(わうじ)、資仁親王(すけひとのしんわう)より五代(ごだい)の孫(そん)也(なり)。俗姓(ぞくしやう)もよきうへ、弓矢(ゆみや)と(ッ)てもよかりけり。平家(へいけ)の方(かた)には其(その)夜(よ)夜(よ)うちによせんずるをばしらずして、「いくさはさだめてあすのいくさでぞあらんずらん。いくさにもねぶたいは大事(だいじ)のことぞ。ようねていくさせよ」とて、先陣(せんぢん)はをのづから(おのづから)用心(ようじん)するもありけれども、後陣(ごぢん)のもの共(ども)、或(あるい・ある)は甲(かぶと)を枕(まくら)にし、或(あるい・ある)は鎧(よろひ)の袖(そで)・ゑびら(えびら)などを枕(まくら)にして、先後(ぜんご)もしらずぞふしたりける。
夜半(やはん)ばかり、源氏(げんじ)一万騎(いちまんぎ)おしよせて、時(とき)をど(ッ)とつくる。平家(へいけ)の方(かた)にはあまりにあはて(あわて)さはい(さわい)で、弓(ゆみ)とるものは矢(や)をしらず、矢(や)とるものは弓(ゆみ)をしらず、馬(むま)にあてられじと、なかをあけてぞとほしける。源氏(げんじ)はおち行(ゆく)かたきをあそこにお(ッ)かけ、ここにお(ッ)つめせめければ、平氏(へいじ)の軍兵(ぐんびやう)やにわ(やには)に五百余騎(ごひやくよき)うたれぬ。手(て)おふものどもおほかりけり。大将軍(たいしやうぐん)小松(こまつ)の新三位(しんざんみの・しんざんゐの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)・同(おなじく)少将(せうしやう)・丹後(たんごの)侍従(じじゆう・じじう)、面目(めんぼく)なうやおもはれけん、播磨国(はりまのくに)高砂(たかさご)より船(ふね)にの(ッ)て、讃岐ノ(さぬきの)八島(やしま)へ渡(わたり)給(たま)ひぬ。備中守(びつちゆうのかみ・びつちうのかみ)は平内兵衛(へいないびやうゑ)・海老(えみの)次郎(じらう)をめしぐして、一谷(いちのたに)へぞまいら(まゐら)れける。 
老馬 (らうば) 

 

大臣殿(おほいとの)は安芸(あきの)右馬助(むまのすけ)能行(よしゆき)を使者(ししや)で、平家(へいけ)の君達(きんだち)のかたがたへ、「九郎(くらう)義経(よしつね)こそ三草(みくさ)の手(て)を責(せめ)おとひ(おとい)て、すでにみだれ入(いり)候(さうらふ)なれ。山(やま)の手(て)は大事(だいじ)に候(さうらふ)。おのおのむかはれ候(さうら)へ」との給(たま)ひければ、みな辞(じ)し申(まう)されけり。能登殿(のとどの)のもとへ「たびたびの事(こと)で候(さうら)へども、御(ご)へんむかはれ候(さうらひ)なんや」との給(たま)ひつかはされたりければ、能登殿(のとどの)の返事(へんじ)には、「いくさをばわが身(み)ひとつの大事(だいじ)ぞとおもふ(おもう)てこそよう候(さうら)へ。かりすなどりな(ン)ど(など)のやうに、足(あし)だちのよからう方(かた)へはむかはん、あしからう方(かた)へはむかはじな(ン)ど(など)候(さうら)はんには、いくさに勝(かつ)事(こと)よも候(さうら)はじ。いくたびでも候(さうら)へ、こはからう方(かた)へは教経(のりつね)うけ給(たま)は(ッ)てむかひ候(さうら)はん。一方(いつぱう)ばかりはうちやぶり候(さうらふ)べし。御心(おんこころ)やすうおぼしめされ候(さうら)へ」と、たのもしげにぞ申(まう)されける。
大臣殿(おほいとの)なのめならず悦(よろこび)て、越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)前司(せんじ)盛俊(もりとし)を先(さき)として、能登殿(のとどの)に一万余騎(いちまんよき)をぞつけられける。兄(あに)の越前(ゑちぜんの)三位(さんみ・さんゐ)道盛卿(みちもりのきやう)あひぐして山(やま)の手(て)をぞかため給(たま)ふ。山(やま)の手(て)と申(まうす)は鵯越(ひよどりごえ・ひよどりごゑ)のふもとなり。通盛卿(みちもりのきやう)は能登殿(のとどの)のかり屋(や)に北(きた)の方(かた)むかへたてま(ッ)て、最後(さいご)のなごりおしま(をしま)れけり。能登殿(のとどの)大(おほき)にいか(ッ)て、「此(この)手(て)はこはひ(こはい)方(かた)とて教経(のりつね)をむけられて候(さうらふ)也(なり)。誠(まこと)にこはう候(さうらふ)べし。只今(ただいま)もうへの山(やま)より源氏(げんじ)ざ(ッ)とおとし候(さうらひ)なば、とる物(もの)もとりあへ候(さうら)はじ。たとひ弓(ゆみ)をも(ッ)たりとも、矢(や)をはげずはかなひがたし。たとひ矢(や)をはげたりとも、ひかずはなを(なほ)あしかるべし。ましてさ様(やう)にうちとけさせ給(たまひ)ては、なんの用(よう)にかたたせ給(たま)ふべき」といさめられて、げにもとや思(おも)はれけん、いそぎ物(もの)の具(ぐ)して、人(ひと)をばかへし給(たま)ひけり。
五日(いつかのひ)の暮(くれ)がたに、源氏(げんじ)陽野(こやの)をた(ッ)て、やうやう生田ノ(いくたの)森(もり)に責(せめ)ちかづく。雀(すずめ)の松原(まつばら)・御影(みかげ)の松(まつ)・陽野(こやの)の方(かた)をみわたせば、源氏(げんじ)手々(てんで・て(ン)で)に陣(ぢん)をと(ッ)て、とを火(び・とほび)をたく。ふけゆくままにながむれば、晴(はれ)たる空(そら)の星(ほし)の如(ごと)し。平家(へいけ)もとを火(び・とほび)たけやとて、生田森(いくたのもり)にもかたのごとくぞたいたりける。明行(あけゆく)ままに見(み)わたせば、山(やま)のはいづる月(つき)の如(ごと)し。これやむかし沢辺(さはべ)の蛍(ほたる)と詠(えい・ゑい)じ給(たま)ひけんも、今(いま)こそ思(おも)ひしられけれ。
源氏(げんじ)はあそこに陣(ぢん)と(ッ)て馬(むま)やすめ、ここに陣(ぢん)と(ッ)て馬(むま)かひなどしけるほどにいそがず。平家(へいけ)の方(かた)には今(いま)やよするいまやよすると、やすい心(こころ)もなかりけり。
六日(むゆか)の明(あけ)ぼのに、九郎(くらう)御曹司(おんざうし)、一万余騎(いちまんよき)を二手(ふたて)にわか(ッ)て、まづ土肥(とひの・といの)次郎(じらう)実平(さねひら)をば七千余騎(しちせんよき)で一(いち)の谷(たに)の西(にし)の手(て)へさしつかはす。わが身(み)は三千余騎(さんぜんよき)で一谷(いちのたに)のうしろ、鵯越(ひよどりごえ・ひよどりごゑ)ををとさ(おとさ)むと、丹波路(たんばぢ)より搦手(からめで)にこそまはられけれ。兵物共(つはものども)「これはきこゆる悪所(あくしよ)であ(ン)なり。
敵(かたき)にあふ(あう)てこそ死(し)にたけれ、悪所(あくしよ)におちては死(しに)たからず。あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)この山(やま)の案内者(あんないしや)やあるらん」と、めんめんに申(まうし)ければ、武蔵国(むさしのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)平山(ひらやまの)武者所(むしやどころ)すすみ出(いで)て申(まうし)けるは、「季重(すゑしげ)こそ案内(あんない)は知(しり)て候(さうら)へ」。御曹司(おんざうし)「わどのは東国(とうごく)そだちのものの、けふはじめてみる西国(さいこく)の山(やま)の案内者(あんないしや・あ(ン)ないしや)、大(おほき)にまことしからず」との給(たま)へば、平山(ひらやま)かさねて申(まうし)けるは、「御(ご)ぢやうともおぼえ候(さうら)はぬものかな。
吉野(よしの)・泊瀬(はつせ)の花(はな)をば歌人(かじん)がしり、敵(かたき)のこも(ッ)たる城(じやう)のうしろの案内(あんない・あ(ン)ない)をば、かうのものがしる候(ざうらふ)」と申(まうし)ければ、是(これ)又(また)傍若無人(ばうじやくぶじん)にぞ聞(きこ)えける。又(また)武蔵国(むさしのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)別府ノ(べつぷの)小太郎(こたらう)とて、生年(しやうねん)十八歳(じふはつさい)になる小冠〔者〕(こくわんじや)すすみ出(いで)て申(まうし)けるは、「父(ちち)で候(さうらひ)し義重(よししげ)法師(ぼふし・ぼうし)がおしへ(をしへ)候(さうらひ)しは、「敵(かたき)にもおそはれよ、山越(やまごえ)の狩(かり)をもせよ、深山(しんざん)にまよひたらん時(とき)は、老馬(らうば)に手綱(たづな)をうちかけて、さきにお(ッ)たててゆけ。かならず道(みち)へいづるぞ」とこそおしへ(をしへ)候(さうらひ)しか」。御曹司(おんざうし)「やさしうも申(まうし)たる物(もの)かな。
「雪(ゆき)は野原(のばら)をうづめども、老(おい)たる馬(むま)ぞ道(みち)はしる」と云(いふ)ためしあり」とて、白葦毛(しらあしげ)なる老馬(らうば)にかがみ鞍(ぐら)をき(おき)、しろぐつは(しろぐつわ)はげ、手綱(たづな)むす(ン)でうちかけ、さきにお(ッ)たてて、いまだしらぬ深山(みやま)へこそいり給(たま)へ。比(ころ)はきさらぎはじめの事(こと)なれば、嶺(みね)の雪(ゆき)むらぎえて、花(はな)かとみゆる所(ところ)もあり。谷(たに)の鴬(うぐひす)をとづれ(おとづれ)て、霞(かすみ)にまよふところもあり。のぼれば白雲(はくうん)皓々(かうかう)として聳(そび)へ(そびえ)、くだれば青山(せいざん)峨々(がが)として岸(きし)高(たか)し。松(まつ)の雪(ゆき)だにきえやらで、苔(こけ)のほそ道(みち)かすかなり。嵐(あらし)にたぐふおりおり(をりをり)は、梅花(ばいくわ)とも又(また)うたが〔は〕る。東西(とうざい)に鞭(むち)をあげ、駒(こま)をはやめて行(ゆく)程(ほど)に、山路(やまぢ)に日(ひ)くれぬれば、みなおりゐて陣(ぢん)をとる。武蔵房(むさしばう)弁慶(べんけい)老翁(らうおう)を一人(いちにん)ぐしてまいり(まゐり)たり。
御曹司(おんざうし)「あれはなにものぞ」ととはれければ、「此(この)山(やま)の猟師(れうし)で候(さうらふ)」と申(まう)す。「さては案内(あんない)し(ッ)たるらん、ありのままに申(まう)せ」とこその給(たま)ひけれ。「争(いかで)か存知(ぞんぢ・ぞんじ)仕(つかまつ)らで候(さうらふ)べき」。「是(これ)より平家(へいけ)の城郭(じやうくわく)一谷(いちのたに)へおとさんと思(おも)ふはいかに」。「ゆめゆめかなひ候(さうらふ)まじ。卅(さんじふ)丈(ぢやう)の谷(たに)、十五(じふご)丈(ぢやう)の岩(いは)さきな(ン)ど(など)申ところは、人(ひと)のかよふべき様(やう)候(さうら)はず。まして御馬(おんむま)な(ン)ど(など)は思(おも)ひもより候(さうら)はず」。「さてさ様(やう)の所(ところ)は鹿(しか)はかよふか」。「鹿(しか)はかよひ候(さうらふ)。世間(せけん)だにもあたたかになり候(さうら)へば、草(くさ)のふかいにふさうどて、播磨(はりま)の鹿(しか)は丹波(たんば)へこえ、世間(せけん)だにさむうなり候(さうら)へば、雪(ゆき)のあさきにはまうどて、丹波(たんば)の鹿(しか)は播磨(はりま)のゐなみ野(の・いなみの)へかよひ候(さうらふ)」と申(まうす)。御曹司(おんざうし)「さては馬場(ばば)ごさむなれ(ごさんなれ)。鹿(しか)のかよはう所(ところ)を馬(むま)のかよはぬ様(やう)やある。やがてなんぢ案内者(あんないしや・あ(ン)ないしや)仕(つかま)つれ」とぞの給(たまひ)ける。此(この)身(み)は年(とし)老(おい)てかなう(かなふ)まじゐ(まじい)よしを申(まう)す。
「汝(なんぢ)が子(こ)はないか」。「候(さうらふ)」とて、熊王(くまわう)といふ童(わらは)の、生年(しやうねん)十八歳(じふはつさい)になるをたてまつる。やがてもとどりとりあげ、父(ちち)をば鷲尾(わしのをの・わしのおの)庄司(しやうじ)武久(たけひさ)といふ間(あひだ・あいだ)、是(これ)をば鷲尾ノ(わしのをの・わしのおの)三郎(さぶらう)義久(よしひさ)と名(な)のらせ、さきうちせさせて案内者(あんないしや・あ(ン)ないしや)にこそ具(ぐ)せられけれ。平家(へいけ)追討(ついたう)の後(のち)、鎌倉殿(かまくらどの)に中(なか)たがうて、奥州(あうしう)でうたれ給(たま)ひし時(とき)、鷲尾(わしのをの・わしのおの)三郎(さぶらう)義久(よしひさ)とて、一所(いつしよ)で死(し)にける兵物(つはもの)也(なり)。 
一二之懸 (いちにのかけ) 

 

六日(むゆか)の夜半(やはん)ばかりまでは、熊谷(くまがへ)・平山(ひらやま)搦手(からめで)にぞ候(さうらひ)ける。熊谷(くまがへの)次郎(じらう)、子息(しそく)の小次郎(こじらう)をようでいひけるは、「此(この)手(て)は、悪所(あくしよ)をおとさんずる時(とき)に、誰(たれ)さきといふ事(こと)もあるまじ。
いざうれ、是(これ)より土肥(とひ・とい)がうけ給(たまはつ)てむかうたる播磨路(はりまぢ)へむかうて、一(いち)の谷(たに)のま(ッ)さきかけう」どいひければ、小次郎(こじらう)「しかるべう候(さうらふ)。直家(なほいへ・なをいへ)もかうこそ申(まうし)たう候(さうらひ)つれ。さらばやがてよせさせ給(たま)へ」と申(まう)す。熊谷(くまがへ)「まことや平山(ひらやま)も此(この)手(て)にあるぞかし。うちこみのいくさこのまぬ物(もの)也(なり)。平山(ひらやま)がやう見(み)てまいれ(まゐれ)」とて、下人(げにん)をつかはす。案(あん)のごとく平山(ひらやま)は熊谷(くまがへ)よりさきに出立(いでたち)て、「人(ひと)をばしらず、季重(すゑしげ)にをいて(おいて)はひとひきもひくまじゐ(まじい)物(もの)を、ひくまじゐ(まじい)物(もの)を」とひとり言(ごと)をぞし居(ゐ)たりける。下人(げにん)が馬(むま)をかう(かふ)とて、「に(ッ)くい馬(むま)のながぐらゐ(ながぐらひ)かな」とて、うちければ、「かうなせそ、其(その)馬(むま)の名(な)ごりもこよひばかりぞ」とて、う(ッ)たちけり。下人(げにん)はしりかへ(ッ)て、いそぎ此(この)よし告(つげ)たりければ、「さればこそ」とて、やがて是(これ)もうち出(いで)けり。熊谷(くまがへ)はかちのひたたれに、あか皮(がは)おどし(をどし)の鎧(よろひ)きて、紅(くれなゐ)のほろをかけ、ごんだ栗毛(くりげ)といふきこゆる名馬(めいば)にぞの(ッ)たりける。
小次郎(こじらう)はおもだかを一(ひと)しほす(ッ)たる直垂(ひたたれ)に、ふしなはめの鎧(よろひ)きて、西楼(せいろう)といふ白月毛(しらつきげ)なる馬(むま)にの(ッ)たりけり。旗(はた)さしはきぢんの直垂(ひたたれ)に、小桜(こざくら)を黄(き)にかへいたる鎧(よろひ)きて、黄河原毛(きがはらげ)なる馬(むま)にぞの(ッ)たりける。おとさんずる谷(たに)をば弓手(ゆんで)にみなし、馬手(めて)へあゆませゆく程(ほど)に、としごろ人(ひと)もかよはぬ田井(たゐ)の畑(はた)といふふる道(みち)をへて、一(いち)の谷(たに)の浪(なみ)うちぎはへぞ出(いで)たりける。一谷(いちのたに)ちかく塩屋(しほや)といふ所(ところ)に、いまだ夜(よ)ふかかりければ、土肥(とひの・といの)次郎(じらう)実平(さねひら)、七千余騎(しちせんよき)でひかへたり。
熊谷(くまがへ)は浪(なみ)うちきはより、夜(よ)にまぎれて、そこをつ(ッ)とうちとほり、一谷(いちのたに)の西(にし)の木戸口(きどぐち)にぞおしよせたる。その時(とき)はいまだ敵(かたき)の方(かた)にもしづまりかへ(ッ)てをと(おと)もせず。御方(みかた)一騎(いつき)もつづかず。熊谷(くまがへの)次郎(じらう)子息(しそくの)小次郎(こじらう)をようでいひけるは、「我(われ)も我(われ)もと、先(さき)に心(こころ)をかけたる人々(ひとびと)はおほかるらん。心(こころ)せばう直実(なほざね・なをざね)ばかりとは思(おも)ふべからず。すでによせたれども、いまだ夜(よ)のあくるを相待(あひまち・あいまち)て、此(この)辺(へん)にもひかへたるらん、いざなのらう」どて、かいだてのきはにあゆませより、大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて、「武蔵国(むさしのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)、熊谷(くまがへの)次郎(じらう)直実(なほざね・なをざね)、子息ノ(しそくの)小次郎(こじらう)直家(なほいへ・なをいへ)、一谷(いちのたに)先陣(せんぢん)ぞや」とぞ名(な)の(ッ)たる。平家(へいけ)の方(かた)には「よし、音(おと)なせそ。敵(かたき)に馬(むま)の足(あし)をつからかさせよ。矢(や)だねをゐ(い)つくさせよ」とて、あひしらふものもなかりけり。さる程(ほど)に、又(また)うしろに武者(むしや)こそ一騎(いつき)つづいたれ。「たそ」ととへば「季重(すゑしげ)」とこたふ。
「とふはたそ」。「直実(なほざね・なをざね)ぞかし」。「いかに熊谷殿(くまがへどの)はいつよりぞ」。「直実(なほざね・なをざね)は宵(よひ)よりよ」とぞこたへける。「季重(すゑしげ)もやがてつづゐ(つづい)てよすべかりつるを、成田(なりだ)五郎(ごらう)にたばかられて、今(いま)まで遅々(ちち)したる也(なり)。成田(なりだ)が「死(し)なば一所(いつしよ)で死(し)なう」どちぎるあひだ、「さらば」とて、うちつれよする間(あひだ)、「いたう、平山殿(ひらやまどの)、さきがけばやりなし給(たま)ひそ。先(さき)をかくるといふは、御方(みかた)の勢(せい)をうしろにおいてかけたればこそ、高名(かうみやう)不覚(ふかく)も人(ひと)にしらるれ。只(ただ)一騎(いつき)大勢(おほぜい)の中(なか)にかけい(ッ)て、うたれたらんは、なんの詮(せん)かあらんずるぞ」とせいするあひだ、げにもと思(おも)ひ、小坂(こざか)のあるをさきにうちのぼせ、馬(むま)のかしらをくだりさまにひ(ッ)たてて、御方(みかた)の勢(せい)をまつところに、成田(なりだ)もつづゐ(つづい)て出(いで)きたり。
うちならべていくさの様(やう)をもいひあはせんずるかとおもひたれば、さはなくて、季重(すゑしげ)をばすげなげにうちみて、やがてつ(ッ)とはせぬいてとほる間(あひだ)、「あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)、此(この)ものはたばか(ッ)て、先(さき)がけうどしけるよ」とおもひ、五六段(ごろくたん)ばかりさきだ(ッ)たるを、あれが馬(むま)はわが馬(むま)よりはよはげ(よわげ)なるものをと目(め)をかけ、一(ひと)もみもうでお(ッ)ついて、「まさなうも季重(すゑしげ)ほどの物(もの)をばたばかり給(たま)ふ物(もの)かな」といひかけ、うちすててよせつれば、はるかにさがりぬらん。よもうしろかげをも見(み)たらじ」とぞいひける。熊谷(くまがへ)・平山(ひらやま)、かれこれ五騎(ごき)でひかへたり。
さる程(ほど)に、しののめやうやうあけ行(ゆけ)ば、熊谷(くまがへ)は先(さき)になの(ッ)たれ共(ども)、平山(ひらやま)がきくになのらんとやおもひけん、又(また)かいだてのきはにあゆませより、大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて、「以前(いぜん)になの(ッ)つる武蔵国(むさしのくに)〔の〕住人(ぢゆうにん・ぢうにん)、熊谷(くまがへの)次郎(じらう)直実(なほざね・なをざね)、子息(しそくの)小次郎(こじらう)直家(なほいへ・なをいへ)、一(いち)の谷(たに)の先陣(せんぢん)ぞや、われとおもはん平家(へいけ)のさぶらひどもは直実(なほざね・なをざね)におちあへや、おちあへ」とぞののし(ッ)たる。是(これ)をきいて、「いざや、夜(よ)もすがらなのる熊谷(くまがへ)おや子(こ)ひ(ッ)さげてこん」とて、すすむ平家(へいけ)の侍(さぶらひ)たれたれぞ、越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)盛嗣(もりつぎ)・上総(かづさの)五郎兵衛(ごらうびやうゑ)忠光(ただみつ)・悪(あく)七兵衛(しつびやうゑ)景清(かげきよ)・〔後〕藤内(ごとうない)定経(さだつね)、これをはじめてむねとの兵(つは)もの廿(にじふ)余騎(よき)、木戸(きど)をひらいてかけ出(いで)たり。
ここに平山(ひらやま)、しげ目(め)ゆひの直垂(ひたたれ)にひおどし(をどし)の鎧(よろひ)きて、二(ふたつ)びきりやうのほろをかけ、目糟毛(めかすげ)といふきこゆる名馬(めいば)にぞの(ッ)たりける。旗(はた)さしは黒(くろ)かは威(をどし・おどし)の鎧(よろひ)に、甲(かぶと)ゐくびにきないて、さび月毛(つきげ)なる馬(むま)にぞの(ッ)たりける。「保元(ほうげん)・平治(へいぢ)両度(りやうど)の合戦(かつせん)に先(さき)がけたりし武蔵国(むさしのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)、平山(ひらやまの)武者所(むしやどころ)季重(すゑしげ)」となの(ッ)て、旗(はた)さしと二騎(にき)馬(むま)のはなをならべておめい(をめい)てかく。熊谷(くまがへ)かくれば平山(ひらやま)つづき、平山(ひらやま)かくれば熊谷(くまがへ)つづく。たがひにわれをとら(おとら)じといれかへいれかへ、もみにもうで、火(ひ)いづる程(ほど)ぞ責(せめ)たりける。
平家(へいけ)の侍共(さぶらひども)手(て)いたうかけられて、かなはじとやおもひけん、城(じやう)のうちへざ(ッ)とひき、敵(かたき)をとざまにないてぞふせきける。熊谷(くまがへ)は馬(むま)のふと腹(はら)ゐ(い)させて、はぬれば足(あし)をこいており立(たち)たり。子息(しそく)の小次郎(こじらう)直家(なほいへ・なをいへ)も、「生年(しやうねん)十六歳(じふろくさい)」となの(ッ)て、かいだてのきはに馬(むま)の鼻(はな)をつかする程(ほど)に、責寄(せめよせ)てたたかい(たたかひ)けるが、弓手(ゆんで)のかいな(かひな)をゐ(い)させて馬(むま)よりとびおり、父(ちち)となら(ン)でた(ッ)たりけり。「いかに小次郎(こじらう)、手(て)おふ(おう)たか」。「さ(ン)候(ざうらふ)」。「つねに鎧(よろひ)づきせよ、うらかかすな。しころをかたぶけよ、うちかぶとゐ(い)さすな」とぞおしへ(をしへ)ける。熊谷(くまがへ)は鎧(よろひ)にた(ッ)たる矢共(やども)かなぐりすてて、城(じやう)のうちをにらまへ、大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて、「こぞの冬(ふゆ)の比(ころ)鎌倉(かまくら)をいでしより、命(いのち)をば兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)にたてまつり、かばねをば一谷(いちのたに)でさらさんとおもひき(ッ)たる直実(なほざね・なをざね)ぞや。「室山(むろやま)・水島(みづしま)二ケ度ノ(にかどの)合戦(かつせん)に高名(かうみやう)したり」となのる越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)はないか、上総(かづさの)五郎兵衛(ごらうびやうゑ)、悪(あく)七兵衛(しつびやうゑ)はないか、能登殿(のとどの)はましまさぬか。高名(かうみやう)も敵(かたき)によ(ッ)てこそすれ。人(ひと)ごとにあふ(あう)てはえせじものを。直実(なほざね・なをざね)におちあへやおちあへ」とののし(ッ)たり。
是(これ)をきいて、越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)、このむ装束(しやうぞく)なれば、こむらごの直垂(ひたたれ)にあか皮おどし(をどし)の鎧(よろひ)きて、白葦毛(しらあしげ)なる馬(むま)にのり、熊谷(くまがへ)に目(め)をかけてあゆませよる。熊谷(くまがへ)おや子(こ)は、中(なか)をわられじと立(たち)ならんで、太刀(たち)をひたひにあて、うしろへはひとひきもひかず、いよいよまへへぞすすみける。
越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)かなはじとやおもひけん、と(ッ)てかへす。熊谷(くまがへ)是(これ)をみて、「いかに、あれは越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)とこそ見(み)れ。敵(かたき)にはどこをきらはふぞ。直実(なほざね・なをざね)におしならべてくめやくめ」といひけれども、「さもさうず」とてひ(ッ)かへす。悪(あく)七兵衛(しつびやうゑ)是(これ)をみて、「きたない殿原(とのばら)のふるまい(ふるまひ)やうかな」とて、すでにくまむとかけ出(いで)けるを、鎧(よろひ)の袖(そで)をひかへて「君(きみ)の御大事(おんだいじ)これにかぎるまじ。あるべうもなし」とせいせられてくまざりけり。
其(その)後(のち)熊谷(くまがへ)はのりかへにの(ッ)ておめい(をめい)てかく。平山(ひらやま)も熊谷(くまがへ)親子(おやこ)がたたかふまぎれに、馬(むま)のいきやすめて、是(これ)も又(また)つづいたり。平家(へいけ)の方(かた)には馬(むま)にの(ッ)たる武者(むしや)はすくなし、矢倉(やぐら)のうへの兵共(つはものども)、矢(や)さきをそろへて、雨(あめ)のふる様(やう)にゐ(い)けれども、敵(かたき)はすくなし、みかたはおほし、勢(せい)にまぎれて矢(や)にもあたらず、「ただおしならべてくめやくめ」と下知(げぢ)しけれ共(ども)、平家(へいけ)の馬(むま)はのる事(こと)はしげく、かう(かふ)事(こと)はまれなり、船(ふね)にはひさしうたてたり、よりき(ッ)たる様(やう)なりけり。熊谷(くまがへ)・平山(ひらやま)が馬(むま)は、かい(かひ)にかうたる大(だい)の馬共(むまども)なり、ひとあてあてば、みなけたおさ(たふさ)れぬべき間(あひだ)、おしならべてくむ武者(むしや)一騎(いつき)もなかりけり。平山(ひらやま)は身(み)にかへて思(おもひ)ける旗(はた)さしをゐ(い)させて、敵(かたき)の中(なか)へわ(ッ)ていり、やがて其(その)敵(かたき)をと(ッ)てぞ出(いで)たりける。熊谷(くまがへ)も分捕(ぶんどり)あまたしたりけり。熊谷(くまがへ)さきによせたれど、木戸(きど)をひらかねばかけいらず、平山(ひらやま)後(のち)によせたれど、木戸(きど)をあけたればかけ入(いり)ぬ。さてこそ熊谷(くまがへ)・平山(ひらやま)が一二(いちに)のかけをばあらそひけれ。 
二度之懸 (にどのかけ) 

 

さるほどに、成田(なりだ)五郎(ごらう)も出(いで)きたり。土肥(とひの・といの)次郎(じらう)ま(ッ)さきかけ、其(その)勢(せい)七千余騎(しちせんよき)、色々(いろいろ)の旗(はた)さしあげ、おめき(をめき)さけ(ン)で責(せめ)たたかふ。大手(おほて)生田(いくた)の森(もり)にも源氏(げんじ)五万余騎(ごまんよき)でかためたりけるが、其(その)勢(せい)の中(なか)に武蔵国(むさしのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)、河原(かはら)太郎(たらう)・河原(かはら)次郎(じらう)といふものあり。
河原(かはら)太郎(たらう)弟(おとと)の次郎(じらう)をようでいひけるは、「大名(だいみやう)はわれと手(て)をおろさね共(ども)、家人(けにん)の高名(かうみやう)をも(ッ)て名誉(めいよ)す。われらはみづから手(て)をおろさずはかなひがたし。敵(かたき)をまへにをき(おき)ながら、矢(や)ひとつだにもゐ(い)ずして、まちゐたるがあまりに心(こころ)もとなう覚(おぼ)ゆるに、高直(たかなほ・たかなふ)はまづ城(じやう)のうちへまぎれ入(いり)て、ひと矢(や)ゐ(い)んと思(おも)ふ也(なり)。されば千万(せんまん)が一(ひとつ)もいきてかへらん事(こと)ありがたし。わ殿(どの)はのこりとどま(ッ)て、後(のち)の証人(しようにん・しやうにん)にたて」といひければ、河原(かはら)次郎(じらう)泪(なみだ)をはらはらとながいて、「口惜(くちをし・くちおし)い事(こと)をものたまふ物(もの)かな。ただ兄弟(きやうだい)二人(ににん)あるものが、兄(あに)をうたせておととが一人(いちにん)のこりとどま(ッ)たらば、いく程(ほど)の栄花(えいぐわ・ゑいぐわ)をかたもつべき。所々(ところどころ)でうたれんよりも、ひとところでこそいかにもならめ」とて、下人(げにん)どもよびよせ、最後(さいご)のありさま妻子(さいし)のもとへいひつかはし、馬(むま)にものらずげげをはき、弓杖(ゆんづゑ・ゆんづえ)をつゐ(つい)て、生田森(いくたのもり)のさかも木(ぎ)をのぼりこえ、城(じやう)のうちへぞ入(いり)たりける。
星(ほし)あかりに鎧(よろひ)の毛(け)もさだかならず。河原(かはら)太郎(たらう)大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて、「武蔵国(むさしのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)、河原(かはら)太郎(たらう)私〔市〕ノ(きさいちの)高直(たかなほ・たかなふ)、同(おなじく)次郎(じらう)盛直(もりなほ・もりなふ)、源氏(げんじ)の大手(おほて)生田森(いくたのもり)の先陣(せんぢん)ぞや」とぞなの(ッ)たる。平家(へいけ)の方(かた)には是(これ)をきいて、「東国(とうごく)の武士(ぶし)ほどおそろしかりけるものはなし。是(これ)程(ほど)の大勢(おほぜい)の中(なか)へただ二人(ににん)い(ッ)たらば、何程(なにほど)の事(こと)をかしいだすべき。よしよししばしあひせよ(あいせよ)」とて、うたんといふものなかりけり。
是等(これら)おととい究竟(くつきやう・く(ツ)きやう)の弓(ゆみ)の上手(じやうず)なれば、さしつめひきつめさんざんにゐる(いる)間(あひだ)、「にくし、うてや」といふ程(ほど)こそありけれ、西国(さいこく)に聞(きこ)えたるつよ弓(ゆみ)せい兵(びやう)、備中国(びつちゆうのくにの・びつちうのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)、真名辺ノ(まなべの)四郎(しらう)・真名辺(まなべの)五郎(ごらう)とておとといあり。四郎(しらう)は一ノ谷(いちのたに)にをか(おか)れたり。五郎(ごらう)は生田森(いくたのもり)にありけるが、是(これ)をみてよ(ッ)ぴいてひやうふつとゐる(いる)。河原(かはら)太郎(たらう)が鎧(よろひ)のむないたうしろへつ(ッ)とゐ(い)ぬかれて、弓杖(ゆんづゑ・ゆんづえ)にすがり、すくむところを、弟(おとと)の次郎(じらう)はしりよ(ッ)て是(これ)をかたにひ(ッ)かけ、さかも木(ぎ)をのぼりこえんとしけるが、真名辺(まなべ)が二(に)の矢(や)に鎧(よろひ)の草摺(くさずり)のはづれをゐ(い)させて、おなじ枕(まくら)にふしにけり。
真名辺(まなべ)が下人(げにん)落(おち)あふ(あう)て、河原(かはら)兄弟(きやうだい)が頸(くび)をとる。是(これ)を新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)の見参(げんざん)に入(いれ)たりければ、「あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)剛(かう)の者(もの)かな。是(これ)をこそ一人当千(いちにんたうぜん)の兵(つはもの)ともいふべけれ。あ(ッ)たら者(もの)どもをたすけてみで」とぞの給(たま)ひける。其(その)時(とき)下人共(げにんども)、「河原殿(かはらどの)おととい、只今(ただいま)城(じやう)のうちへま(ッ)さきかけてうたれ給(たま)ひぬるぞや」とよばはりければ、梶原(かぢはら)是(これ)をきき、「私(し)の党(たう)の殿原(とのばら)の不覚(ふかく)でこそ、河原(かはら)兄弟(きやうだい)をばうたせたれ。今(いま)はときよく成(なり)ぬ。よせよや」とて、時(とき)をど(ッ)とつくる。やがてつづいて五万余騎(ごまんよき)一度(いちど)に時(とき)をぞつくりける。足(あし)がるどもにさかも木(ぎ)取(とり)のけさせ、梶原(かぢはら)五百余騎(ごひやくよき)おめい(をめい)てかく。次男(じなん)平次(へいじ)景高(かげたか)、余(あまり)にさきをかけんとすすみければ、父(ちち)の平三(へいざう)使者(ししや)をたてて、「後陣(ごぢん)の勢(せい)のつづかざらんに、さきかけたらん者(もの)は、勧賞(けんじやう)あるまじき由(よし)、大将軍(たいしやうぐん)のおほせぞ」といひければ、平次(へいじ)しばしひかへて
「もののふのとりつたへたるあづさ弓(ゆみ)ひいては人(ひと)のかへるものかは
と申(まう)させ給(たま)へ」とて、おめい(をめい)てかく。「平次(へいじ)うたすな、つづけやもの共(ども)、景高(かげたか)うたすな、つづけや者共(ものども)」とて、父(ちち)の平三(へいざう)、兄(あに)の源太(げんだ)、同(おなじく)三郎(さぶらう)つづいたり。梶原(かぢはら)五百余騎(ごひやくよき)、大勢(おほぜい)のなかへかけいり、さんざんにたたかひ、わづかに五十騎(ごじつき)ばかりにうちなされ、ざ(ッ)とひいてぞ出(いで)たりける。いかがしたりけん、其(その)なかに景季(かげすゑ)は見(み)えざりけり。「いかに源太(げんだ)は、郎等共(らうどうども)」ととひければ、「ふか入(いり)してうたれさせ給(たまひ)て候(さうらふ)ごさ(ン)めれ」と申(まうす)。
梶原(かぢはら)平三(へいざう)これをきき、「世(よ)にあらむと思(おも)ふも子共(こども)がため、源太(げんだ)うたせて命(いのち)いきても何(なに)かせん、かへせや」とてと(ッ)てかへす。梶原(かぢはら)大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげてなのりけるは、「昔(むかし)八幡殿(はちまんどの)、後(ご)三年(さんねん)の御(おん)たたかい(たたかひ)に、出羽国(ではのくに)千福(せんぶく)金沢(かなざは)の城(じやう)を攻(せめ)させ給(たま)ひける時(とき)、生年(しやうねん)十六歳(じふろくさい)でま(ッ)さきかけ、弓手(ゆんで)の眼(まなこ)を甲(かぶと)の鉢付(はちつけ)の板(いた)にゐ(い)つけられながら、当(たう)の矢(や)をゐ(い)て其(その)敵(かたき)をゐ(い)おとし、後代(こうたい)に名(な)をあげたりし鎌倉(かまくらの)権五郎(ごんごらう)景正(かげまさ)が末葉(ばつえふ・ばつえう)、梶原(かぢはら)平三(へいざう)景時(かげとき)、一人当千(いちにんたうぜん)の兵(つはもの)ぞや。我(われ)とおもはん人々(ひとびと)は、景時(かげとき)う(ッ)て見参(げんざん)にいれよや」とて、おめい(をめい)てかく。
新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)「梶原(かぢはら)は東国(とうごく)にきこえたる兵(つはもの)ぞ。あますな、もらすな、うてや」とて、大勢(おほぜい)のなかにとりこめて責(せめ)給(たま)へば、梶原(かぢはら)まづわが身(み)のうへをばしらずして、「源太(げんだ)はいづくにあるやらん」とて、数万騎(すまんぎ)の大勢(おほぜい)のなかを、たてさま・よこさま・蛛手(くもで)・十文字(じふもんじ)にかけわりかけまはりたづぬるほどに、源太(げんだ)はのけ甲(かぶと)にたたかい(たたかひ)な(ッ)て、馬(むま)をもゐ(い)させ、かち立(だち)になり、二丈(にぢやう)ばかり有(あり)ける岸(きし)をうしろにあて、敵(かたき)五人(ごにん)が中(なか)に取籠(とりこめ)られ、郎等(らうどう)二人(ににん)左右(さう)に立(たて)て、面(おもて)もふらず、命(いのち)もおしま(をしま)ず、ここを最後(さいご)とふせきたたかふ。梶原(かぢはら)これを見(み)つけて、「いまだうたれざりけり」と、いそぎ馬(むま)よりとんでおり、「景時(かげとき)ここにあり。いかに源太(げんだ)、しぬるとも敵(かたき)にうしろをみすな」とて、親子(おやこ)して五人(ごにん)のかたきを三人(さんにん)う(ッ)とり、二人(ににん)に手(て)おほせ、「弓矢(ゆみや)とりはかくるもひくも折(をり)にこそよれ、いざうれ、源太(げんだ)」とて、かい具(ぐ)してこそ出(いで)きたれ。梶原(かぢはら)が二度(にど)のかけとは是(これ)也(なり)。 
坂落 (さかおとし) 

 

是(これ)を初(はじめ)て、秩父(ちちぶ)・足利(あしかが)・三浦(みうら)・鎌倉(かまくら)、党(たう)には猪俣(ゐのまた)・児玉(こだま)・野井与(のゐよ)・横山(よこやま)・にし党(たう)・都筑党(つづきたう)・私ノ(しの)党(たう)の兵共(つはものども)、惣(そう)じて源平(げんぺい)乱(みだれ)あひ、入(いれ)かへ入(いれ)かへ、名(な)のりかへ名(な)のりかへおめき(をめき)さけぶ声(こゑ)、山(やま)をひびかし、馬(むま)の馳(はせ)ちがふ音(おと)はいかづちの如(ごと)し。ゐ(い)ちがふる矢(や)は雨(あめ)のふるにことならず。手負(ておひ・てをひ)をば肩(かた)にかけ、うしろへひきしりぞくもあり。うすでおふ(おう)てたたかふもあり。
いた手(で)負(おう・をふ)て討死(うちじに)するものもあり。或(あるい・ある)はおしならべてくんでおち、さしちがへて死(し)ぬるもあり、或(あるい・ある)はと(ッ)ておさへて頸(くび)をかくもあり、かかるるもあり、いづれひまありとも見(み)えざりけり。かかりしか共(ども)、源氏(げんじ)大手(おほて)ばかりではかなふべしとも見(み)えざりしに、九郎(くらう)御曹司(おんざうし)搦手(からめで)にまは(ッ)て七日(なぬか)の明(あけ)ぼのに、一谷(いちのたに)のうしろ鵯越(ひよどりごえ・ひよどりごゑ)にうちあがり、すでにおとさんとし給(たま)ふに、其(その)勢(せい)にや驚(おどろい・をどろい)たりけん、大鹿(おほじか)二(ふたつ)妻鹿(めじか)一(ひとつ)、平家(へいけ)の城郭(じやうくわく)一谷(いちのたに)へぞ落(おち)たりける。城(じやう)のうちの兵(つはもの)ども是(これ)をみて、「里(さと)ちかからん鹿(しか)だにも、我等(われら)におそれては山(やま)ふかうこそ入(いる)べきに、是(これ)程(ほど)の大勢(おほぜい)のなかへ、鹿(しか)のおちやうこそあやしけれ。
いかさまにもうへの山(やま)より源氏(げんじ)おとすにこそ」とさはぐ(さわぐ)ところに、伊予国(いよのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)、武知(たけち)の武者所(むしやどころ)清教(きよのり)、すすみ出(いで)て、「なんでまれ、敵(かたき)の方(かた)より出(いで)きたらん物(もの)をのがすべき様(やう)なし」とて、大鹿(おほじか)二ツ(ふたつ)いとどめて、妻鹿(めじか)をばゐ(い)でぞとをし(とほし)ける。越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)前司(せんじ)「せんない殿原(とのばら)の鹿(しか)のゐやう(いやう)かな。只今(ただいま)の矢(や)一(ひとつ)では敵(かたき)十人(じふにん)はふせかんずるものを。罪(つみ)つくりに、矢(や)だうなに」とぞせいしける。御曹司(おんざうし)城郭(じやうくわく)遥(はるか)に見(み)わたいておはしけるが、「馬共(むまども)おといてみん」とて、鞍(くら)をき馬(むま・くらおきむま)をおい(おひ)おとす。或(あるい・ある)は足(あし)をうちお(ッ・をつ)て、ころんでおつ、或(あるい・ある)はさうゐなく落(おち)て行(ゆく)もあり。鞍(くら)をき馬(むま・くらおきむま)三疋(さんびき)、越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)前司(せんじ)が屋形(やかた)のうへに落(おち)つゐ(つい)て、身(み)ぶるい(みぶるひ)してぞ立(たち)たりける。御曹司(おんざうし)是(これ)をみて「馬共(むまども)はぬしぬしが心得(こころえ)ておとさうにはそんずまじゐ(まじい)ぞ。くはおとせ、義経(よしつね)を手本(てほん)にせよ」とて、まづ卅騎(さんじつき)ばかり、ま(ッ)さきかけておとされけり。大勢(おほぜい)みなつづゐ(つづい)ておとす。後陣(ごぢん)におとす人々(ひとびと)のあぶみのはなは、先陣(せんぢん)の鎧甲(よろひかぶと)にあたるほどなり。
小石(こいし)まじりのすなごなれば、ながれおとしに二町(にちやう)ばかりざ(ッ)とおといて、壇(だん)なるところにひかへたり。それよりしもをみくだせば、大盤石(だいばんじやく)の苔(こけ)むしたるが、つるべおとしに十四五(じふしご)丈(ぢやう)ぞくだ(ッ)たる。兵共(つはものども)ここぞ最後(さいご)と申(まうし)てあきれてひかへたるところに、佐原(さはらの)十郎(じふらう)義連(よしつら)すすみ出(いで)て申(まうし)けるは、「三浦(みうら)の方(かた)で我等(われら)は鳥(とり)ひとつたてても、朝(あさ)ゆふかやうの所(ところ)をこそはせありけ。三浦(みうら)の方(かた)の馬場(ばば)や」とて、ま(ッ)さきかけておとしければ、兵共(つはものども)みなつづゐ(つづい)ておとす。ゑいゑい声(ごゑ・えいえいごゑ)をしのびにして、馬(むま)にちからをつけておとす。余(あま)りのいぶせさに、目(め)をふさいでぞおとしける。大方(おほかた)人(ひと)のしわざとは見(み)えず。ただ鬼神(きじん)の所(しよ)ゐとぞみえたりける。
おとしもはてねば、時(とき)をど(ッ)とつくる。三千余騎(さんぜんよき)が声(こゑ)なれど、山(やま)びここたへて十万余騎(じふまんよき)とぞ聞(きこ)えける。村上(むらかみ)の判官代(はんぐわんだい)康国(やすくに)が手(て)より火(ひ)を出(いだ)し、平家(へいけ)の屋形(やかた)、かり屋(や)をみな焼払(やきはら)ふ。おりふし(をりふし)風(かぜ)ははげしし、くろ煙(けぶり)おしかくれば、平氏(へいじ)の軍兵共(ぐんびやうども)余(あまり)にあはて(あわて)さはい(さわい)で、若(もし)やたすかると前(まへ)の海(うみ)へぞおほく馳(はせ)いりける。汀(みぎは)にはまうけ船(ぶね)いくらもありけれども、われさきにのらうど、舟(ふね)一艘(いつさう)には物具(もののぐ)したる者共(ものども)が四五百人(しごひやくにん)、千人(せんにん)ばかりこみのらうに、なじかはよかるべき。汀(みぎは)よりわづかに三町(さんぢやう・さんちやう)ばかりおしいだひ(いだい)て、目(め)のまへに大船(おほぶね)三艘(さんざう・さんぞう)しづみにけり。其(その)後(のち)は「よき人(ひと)をばのす共(とも)、雑人共(ざふにんども・ざうにんども)をばのすべからず」とて、太刀(たち)長刀(なぎなた)でながせけり。かくする事(こと)とはしりながら、のせじとする船(ふね)にとりつき、つかみつき、或(あるい・ある)はうでうちきられ、或(あるい・ある)はひぢうちおとされて、一谷(いちのたに)の汀(みぎは)にあけにな(ッ)てぞなみふしたる。能登守(のとのかみ)教経(のりつね)は、度々(どど)のいくさに一度(いちど)もふかくせぬ人(ひと)の、今度(こんど)はいかがおもはれけん、うす黒(ぐろ)といふ馬(むま)にのり、西(にし)をさいてぞ落(おち)給(たま)ふ。播磨国(はりまのくに)明石浦(あかしのうら)より船(ふね)に乗(のつ)て、讃岐(さぬき)の八島(やしま)へわたり給(たま)ひぬ。 
越中前司最期 (ゑつちゆうのせんじさいご) 

 

大手(おほて)にも浜(はま)の手(て)にも、武蔵(むさし)・相模(さがみ)の兵共(つはものども)、命(いのち)もおしま(をしま)ずせめたたかふ。新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)は東(ひがし・ひんがし)にむか(ッ)てたたかい(たたかひ)給(たま)ふところに、山(やま)のそはよりよせける児玉党(こだまたう)使者(ししや)をたてま(ッ)て、「君(きみ)は武蔵(むさしの)国司(こくし)でましまし候(さうらひ)し間(あひだ)、是(これ)は児玉(こだま)の者共(ものども)が申(まうし)候(さうらふ)。御(おん)うしろをば御(ご)らん候(さうら)はぬやらん」と申(まうす)。新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)以下(いげ)の人々(ひとびと)、うしろをかへりみ給(たま)へば、くろ煙(けぶり)おしかけたり。
「あはや、西(にし)の手(て)はやぶれにけるは」といふ程(ほど)こそ久(ひさ)しけれ、とる物(もの)もとりあへず我(われ)さきにとぞ落行(おちゆき)ける。越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)前司(せんじ)盛俊(もりとし)は、山(やま)の手(て)の侍大将(さぶらひだいしやう)にて有(あり)けるが、今(いま)はおつともかなはじとや思(おも)ひけん、ひかへて敵(かたき)を待(まつ)ところに、猪俣(ゐのまたの)小平六(こへいろく)則綱(のりつな)、よい敵(かたき)と目(め)をかけ、鞭(むち)あぶみをあはせて馳(はせ)来(きた)り、おしならべむずとくうでどうどおつ。猪俣(ゐのまた)は八ケ国(はつかこく・はちかこく)にきこえたるしたたか者(もの)也(なり)。かの角(つの)の一二ノ(いちにの)くさかりをばたやすうひ(ッ)さきけるとぞ聞(きこ)えし。越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)前司(せんじ)は二三十人(にさんじふにん)が力(ちから)わざをするよし人(ひと)めには見(み)えけれ共(ども)、内々(ないない)は六七十人(ろくしちじふにん)してあげおろす船(ふね)を、只(ただ)一人(いちにん)しておしあげおしおろす程(ほど)の大力(だいぢから)也(なり)。
されば猪俣(ゐのまた)をと(ッ)ておさへてはたらかさず。猪俣(ゐのまた)したにふしながら、刀(かたな)をぬかうどすれども、ゆびはだか(ッ)て刀(かたな)のつかにぎるにも及(およ・をよ)ばず。物(もの)をいはうどすれ共(ども)、あまりにつようおさへられてこゑも出(いで)ず。すでに頸(くび)をかかれんとしけるが、ちからはおと(ッ)たれ共(ども)、心(こころ)はかうなりければ、猪俣(ゐのまた)すこしもさはが(さわが)ず、しばらくいきをやすめ、さらぬていにもてなして申(まうし)けるは、「抑(そもそも)なの(ッ)つるをばきき給(たま)ひて〔か〕。敵(かたき)をうつといふは、われもなの(ッ)てきかせ、敵(かたき)にもなのらせて頸(くび)をと(ッ)たればこそ大功(たいこう)なれ。名(な)もしらぬ頸(くび)と(ッ)ては、何(なに)にかし給(たま)ふべき」といはれて、げにもとや思(おも)ひけん、「是(これ)はもと平家(へいけ)の一門(いちもん)たりしが、身(み)不肖(ふせう)なるによ(ッ)て当時(たうじ)は侍(さぶらひ)にな(ッ)たる越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)前司(せんじ)盛俊(もりとし)といふ者(もの)也(なり)。
わ君(ぎみ)はなにものぞ、なのれ、きかう」どいひければ、「武蔵国(むさしのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)、猪俣(ゐのまたの)小平六(こへいろく)則綱(のりつな)」となのる。「倩(つらつら)此(この)世間(よのなか)のありさまをみるに、源氏(げんじ)の御方(おんかた)はつよく、平家(へいけ)の御方(おんかた)はまけいろにみえさせ給(たま)ひたり。今(いま)は主(しゆう)の世(よ)にましまさばこそ、敵(かたき)のくびと(ッ)てまいらせ(まゐらせ)て、勲功(くんこう)勧賞(けんじやう)にもあづかり給(たま)はめ。理(り)をまげて則綱(のりつな)たすけ給(たま)へ。御(ご)へんの一門(いちもん)なん十人(じふにん)もおはせよ、則綱(のりつな)が勲功(くんこう)の賞(しやう)に申(まうし)かへてたすけ奉(たてまつ)らん」といひければ、越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)前司(せんじ)大(おほき)にいか(ッ)て、「盛俊(もりとし)身(み)こそ不肖(ふせう)なれ共(ども)、さすが平家(へいけ)の一門(いちもん)也(なり)。源氏(げんじ)たのまうどは思(おも)はず。
源氏(げんじ)又(また)盛俊(もりとし)にたのまれうどもよもおもはじ。に(ッ)くい君(きみ)が(まうしやう)哉(かな)」とて、やがて頸(くび)をかかんとしければ、猪俣(ゐのまた)「まさなや、降人(かうにん)の頸(くび)かくやうや候(さうらふ)」。越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)前司(せんじ)「さらばたすけむ」とてひきおこす。まへは畠(はた)のやうにひあが(ッ)て、きはめてかたかりけるが、うしろは水田(みづた)のごみふかかりけるくろのうへに、二人(ににん)の者共(ものども)腰(こし)うちかけていきづきゐたり。しばしあ(ッ)て、黒革威(くろかはをどし・くろかはおどし)の鎧(よろひ)きて月毛(つきげ)なる馬(むま)にの(ッ)たる武者(むしや)一騎(いつき)はせ来(きた)る。
越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)前司(せんじ)あやしげにみければ、「あれは則綱(のりつな)がしたしう候(さうらふ)人見(ひとみの)四郎(しらう)と申(まうす)者(もの)で候(さうらふ)。則綱(のりつな)が候(さうらふ)をみてまうでくると覚(おぼえ)候(さうらふ)。くるしう候(さうらふ)まじ」といひながら、あれがちかづいたらん時(とき)に、越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)前司(せんじ)にくんだらば、さり共(とも)おちあはんずらんと思(おも)ひて待(まつ)ところに、一段(いつたん)ばかり近(ちか)づいたり。
越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)前司(せんじ)初(はじ)めはふたりを一目(ひとめ)づつ見(み)けるが、次第(しだい)にちかうなりければ、馳来(はせく)る敵(かたき)をはたとまも(ッ)て、猪俣(ゐのまた)をみぬひまに、ちから足(あし)をふんでつゐ(つい)立(たち)あがり、ゑい(えい)といひてもろ手(て)をも(ッ)て、越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)前司(せんじ)が鎧(よろひ)のむないたをばぐ(ッ)とつゐ(つい)て、うしろの水田(みづた)へのけにつきたをす(たふす)。おきあがらんとする所(ところ)に、猪俣(ゐのまた)うへにむずとのりかかり、やがて越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)前司(せんじ)が腰(こし)の刀(かたな)をぬき、鎧(よろひ)の草摺(くさずり)ひきあげて、つかもこぶしもとおれ(とほれ)とおれ(とほれ)と三刀(みがたな・みかたな)さいて頸(くび)をとる。さる程(ほど)に人見ノ(ひとみの)四郎(しらう)おちあふ(あう)たり。か様(やう)の時(とき)は論(ろん)ずる事(こと)もありとおもひ、太刀(たち)のさきにつらぬき、たかくさしあげ、大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて、「此(この)日来(ひごろ)鬼神(おにかみ)と聞(きこ)えつる平家(へいけ)の侍(さぶらひ)越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)前司(せんじ)盛俊(もりとし)をば、猪俣ノ(ゐのまたの)小平六(こへいろく)則綱(のりつな)がう(ッ)たるぞや」となの(ッ)て、其(その)日(ひ)の高名(かうみやう)の一(いち)の筆(ふで)にぞ付(つき)〔に〕ける。 
忠教最期 (ただのりのさいご) 

 

薩摩守(さつまのかみ)忠教(ただのり)は、一谷(いちのたに)の西手(にしのて)の大将軍(たいしやうぐん)にておはしけるが、紺地ノ(こんぢの)錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に黒糸(くろいと)おどし(をどし)の鎧(よろひ)きて、黒(くろき)馬(むま)のふとうたくましきに、ゐかけ地(ぢ・いかけぢ)の鞍(くら)をい(おい)て乗(のり)給(たま)へり。其(その)勢(せい)百騎(ひやくき)ばかりが中(なか)にうちかこまれていとさはが(さわが)ず、ひかへひかへ落(おち)給(たま)ふを、猪俣党(ゐのまたたう)に岡辺(をかべの)六野太(ろくやた)忠純(ただずみ)、大将軍(たいしやうぐん)とめをかけ、鞭(むち)あぶみをあはせて追(おつ・をつ)つき奉(たてまつ)り、「抑(そもそも)いかなる人(ひと)で在(まし)まし候(さうらふ)ぞ、名(な)のらせ給(たま)へ」と申(まうし)ければ、「是(これ)はみかたぞ」とてふりあふぎ給(たま)へるうちかぶとより見(み)いれたれば、かねぐろ也(なり)。あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)みかたにはかねつけたる人(ひと)はない物(もの)を、平家(へいけ)の君達(きんだち)でおはするにこそと思(おも)ひ、おしならべてむずとくむ。
是(これ)をみて百騎(ひやくき)ばかりある兵共(つはものども)、国々(くにぐに)のかり武者(むしや)なれば、一騎(いつき)も落(おち)あはず、われさきにとぞ落行(おちゆき)ける。薩摩守(さつまのかみ)「に(ッ)くいやつかな。みかたぞといはばいはせよかし」とて、熊野(くまの)そだち大(だい)ぢからのはやわざにておはしければ、やがて刀(かたな)をぬき、六野太(ろくやた)を馬(むま)の上(うへ)で二刀(ふたかたな)、おちつく所(ところ)で一刀(ひとかたな)、三刀(みがたな・みかたな)までぞつかれたる。二刀(ふたかたな)は鎧(よろひ)のうへなればとをら(とほら)ず、一刀(ひとかたな)はうち甲(かぶと)へつき入(いれ)られたれ共(ども)、うす手(で)なればしなざりけるをと(ッ)ておさへて、頸(くび)をかかんとし給(たま)ふところに、六野太(ろくやた)が童(わらは)をくれ(おくれ)ばせに馳来(はせきた・ッ)て、打刀(うちがたな)をぬき、薩摩守(さつまのかみ)の右(みぎ)のかいな(かひな)を、ひぢのもとよりふつときりおとす。
今(いま)はかうとやおもはれけん、「しばしのけ、十念(じふねん)となへん」とて、六野太(ろくやた)をつかうで弓(ゆん)だけばかりなげのけられたり。其(その)後(のち)西(にし)にむかひ、高声(かうしやう)に十念(じふねん)となへ、「光明(くわうみやう)遍照(へんぜう)十方(じつぱう・じつばう)世界(せかい)、念仏衆生摂取不捨(ねんぶつしゆじやうせつしゆふしや)」との給(たまひ)もはてねば、六野太(ろくやた)うしろよりよ(ッ)て薩摩守(さつまのかみ)の頸(くび)をうつ。よい大将軍(たいしやうぐん)う(ッ)たりと思(おも)ひけれ共(ども)、名(な)をば誰(たれ)ともしらざりけるに、ゑびら(えびら)にむすびつけられたるふみをといて見(み)れば、「旅宿花(りよしゆくのはな)」と云(いふ)題(だい)にて、一首(いつしゆ)の歌(うた)をぞよまれたる。
行(ゆき)くれて木(こ)の下(した)かげをやどとせば花(はな)やこよひのあるじならまし
忠教(ただのり)とかかれたりけるにこそ、薩摩守(さつまのかみ)とはしりて(ン)げれ。太刀(たち)のさきにつらぬき、たかくさしあげ、大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて、「此(この)日来(ひごろ)平家(へいけ)の御方(おんかた)にきこえさせ給(たま)ひつる薩摩守殿(さつまのかみどの)をば、岡辺(をかべの)六野太(ろくやた)忠純(ただずみ)がうちたてま(ッ)たるぞや」と名(な)のりければ、敵(かたき)もみかたも是(これ)をきいて、「あないとおし(いとほし)、武芸(ぶげい)にも謌道(かだう)にも達者(たつしや)にておはしつる人(ひと)を、あ(ッ)たら大将軍(たいしやうぐん)を」とて、涙(なみだ)をながし袖(そで)をぬらさぬはなかりけり。 
重衡生捕 (しげひらいけどり) 

 

本三位(ほんざんみの・ほんざんゐの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)は、生田森(いくたのもり)の副将軍(ふくしやうぐん)にておはしけるが、其(その)勢(せい)みな落(おち)うせて、只(ただ)主従(しゆうじゆう・しゆうじう)二騎(にき)になり給(たま)ふ。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)其(その)日(ひ)の装束(しやうぞく)には、かちにしろう黄(き)なる糸(いと)をも(ッ)て、むら千鳥(ちどり)ぬうたる直垂(ひたたれ)に、紫(むらさき)すそごの鎧(よろひ)きて、童子鹿毛(どうじかげ)といふきこゆる名馬(めいば)にのり給(たま)へり。めのと子(ご)の後藤兵衛(ごとうびやうゑ)盛長(もりなが)は、しげ目(め)ゆい(しげめゆひ)の直垂(ひたたれ)に、ひおどし(をどし)の鎧(よろひ)きて、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)の秘蔵(ひさう)せられたりける夜目(よめ)なし月毛(つきげ)にのせられたり。
梶原(かぢはら)源太(げんだ)景季(かげすゑ)・庄(しやうの)四郎(しらう)高家(たかいへ)、大将軍(たいしやうぐん)と目(め)をかけ、鞭(むち)あぶみをあはせてお(ッ)かけたてまつる。汀(みぎは)にはたすけ舟(ぶね)いくらもありけれども、うしろより敵(かたき)はお(ッ)かけたり、のがるべきひまもなかりければ、湊河(みなとがは)・かるも河(がは)をもうちわたり、蓮(はす)の池(いけ)をば馬手(めて)にみて、駒(こま)の林(はやし)を弓手(ゆんで)になし、板屋(いたや)ど・須磨(すま)をもうちすぎて、西(にし)をさいてぞ落(おち)たまふ。究竟(くつきやう・く(ツ)きやう)の名馬(めいば)にはのり給(たま)へり、もみふせたる馬共(むまども)お(ッ)つくべしともおぼえず、ただのびにのびければ、梶原(かぢはら)源太(げんだ)景季(かげすゑ)、あぶみふ(ン)ばり立(たち)あがり、もしやと遠矢(とほや・とをや)によ(ッ)ぴいてゐ(い)たりけるに、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)馬(むま)のさうづをのぶかにゐ(い)させて、よはる(よわる)ところに、後藤兵衛(ごとうびやうゑ)盛長(もりなが)、わが馬(むま)めされなんずとや思(おも)ひけん、鞭(むち)をあげてぞ落行(おちゆき)ける。
三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)是(これ)をみて、「いかに盛長(もりなが)、年来(としごろ)日(ひ)ごろさはちぎらざりしものを。我(われ)を捨(すて)ていづくへゆくぞ」との給(たま)へ共(ども)、空(そら)きかずして、鎧(よろひ)につけたるあかじるしかなぐりすて、ただにげにこそ逃(にげ)たりけれ。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)敵(かたき)は近(ちか)づく、馬(むま)はよはし(よわし)、海(うみ)へうちいれ給(たま)ひたりけれ共(ども)、そこしもとをあさ(とほあさ)にてしづむべきやうもなかりければ、馬(むま)よりおり、鎧(よろひ)のうは帯(おび)きり、たかひもはづし、物具(もののぐ)ぬぎすて、腹(はら)をきらんとし給(たま)ふところに、梶原(かぢはら)よりさきに庄(しやうの)四郎(しらう)高家(たかいへ)、鞭(むち)あぶみをあはせて馳来(はせきた)り、いそぎ馬(むま)より飛(とび)おり、「まさなう候(さうらふ)、いづくまでも御共(おんとも)仕(つかまつ)らん」とて、我(わが)馬(むま)にかきのせたてまつり、鞍(くら)のまへわにしめつけ、わが身(み)はのりかへに乗(ッ)てぞかへりける。
後藤兵衛(ごとうびやうゑ)はいきながき究竟(くつきやう・く(ツ)きやう)の馬(むま)にはの(ッ)たりけり、そこをばなく逃(にげ)のびて、後(のち)には熊野(くまの)法師(ぼふし・ぼうし)、尾中ノ(をなかの・おなかの)法橋(ほつけう・ほつきやう)をたのんでゐたりけるが、法橋(ほつけう・ほつきやう)死(しし)て後(のち)、後家(ごけ)の尼公(にこう)訴訟(そしよう・そせう)のために京(きやう)へのぼりたりけるに、盛長(もりなが)ともしてのぼ(ッ)たりければ、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)のめのと子(ご)にて、上下(じやうげ)にはおほく見(み)しられたり。「あなむざんの盛長(もりなが)や、さしも不便(ふびん)にし給(たま)ひしに、一所(いつしよ)でいかにもならずして、思(おも)ひもかけぬ尼公(にこう)の共(とも)したるにくさよ」とて、つまはじきをしければ、盛長(もりなが)もさすがはづかしげにて、扇(あふぎ)をかほにかざしけるとぞ聞(きこ)えし。 
敦盛最期 (あつもりのさいご) 

 

いくさやぶれにければ、熊谷(くまがへの)次郎(じらう)直実(なほざね・なをざね)、「平家ノ(へいけの)君達(きんだち)たすけ船(ぶね)にのらんと、汀(みぎは)の方(かた)へぞおち給(たまふ)らん。あはれ、よからう大将軍(たいしやうぐん)にくまばや」とて、磯(いそ)の方(かた)へあゆまするところに、ねりぬきに鶴(つる)ぬうたる直垂(ひたたれ)に、萌黄(もえぎ)の匂(にほひ)の鎧(よろひ)きて、くはがたう(ッ)たる甲(かぶと)の緒(を・お)しめ、こがねづくりの太刀(たち)をはき、きりう(きりふ)の矢(や)おひ、しげ藤(どう)の弓(ゆみ)も(ッ)て、連銭葺毛(れんぜんあしげ)なる馬(むま)に黄覆輪(きぶくりん・き(ン)ぶくりん)の鞍(くら)をい(おい)ての(ッ)たる武者(むしや)一騎(いつき)、沖(おき)なる舟(ふね)にめをかけて、海(うみ)へざ(ッ)とうちいれ、五六段(ごろくたん)ばかりおよがせたるを、熊谷(くまがへ)「あれは大将軍(たいしやうぐん)とこそ見(み)まいらせ(まゐらせ)候(さうら)へ。まさなうも敵(かたき)にうしろをみせさせ給(たま)ふものかな。かへさせ給(たま)へ」と扇(あふぎ)をあげてまねきければ、招(まね)かれてと(ッ)てかへす。
汀(みぎは)にうちあがらむとするところに、おしならべてむずとくんでどうどおち、と(ッ)ておさへて頸(くび)をかかんと甲(かぶと)をおしあふのけて見(み)ければ、年(とし)十六七(じふろくしち)ばかりなるが、うすげしやうしてかねぐろ也(なり)。我(わが)子(こ)の小次郎(こじらう)がよはひ程(ほど)にて容顔(ようがん)まことに美麗(びれい)也(なり)ければ、いづくに刀(かたな)を立(たつ)べしともおぼえず。「抑(そもそも)いかなる人(ひと)にてましまし候(さうらふ)ぞ。なのらせ給(たま)へ、たすけまいらせ(まゐらせ)ん」と申(まう)せば、「汝(なんぢ)はたそ」ととひ給(たま)ふ。「物(もの)そのもので候(さうら)はね共(ども)、武蔵国(むさしのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)、熊谷(くまがへの)次郎(じらう)直実(なほざね・なをざね)」と名(な)のり申(まうす)。「さては、なんぢにあふ(あう)てはなのるまじゐ(まじい)ぞ、なんぢがためにはよい敵(かたき)ぞ。名(な)のらずとも頸(くび)をと(ッ)て人(ひと)にとへ。みしらふずる(うずる)ぞ」とぞの給(たま)ひける。熊谷(くまがへ)「あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)大将軍(たいしやうぐん)や、此(この)人(ひと)一人(いちにん)うちたてま(ッ)たり共(とも)、まくべきいくさに勝(かつ)べき様(やう)もなし。
又(また)うちたてまつらず共(とも)、勝(かつ)べきいくさにまくることよもあらじ。小次郎(こじらう)がうす手(で)負(おひ・をひ)たるをだに、直実(なほざね・なをざね)は心(こころ)ぐるしうこそおもふに、此(この)殿(との)の父(ちち)、うたれぬときいて、いかばかりかなげき給(たま)はんずらん、あはれ、たすけたてまつらばや」と思(おも)ひて、うしろをき(ッ)とみければ、土肥(とひ・とい)・梶原(かぢはら)五十騎(ごじつき)ばかりでつづいたり。熊谷(くまがへ)涙(なみだ)をおさへて申(まうし)けるは、「たすけまいらせ(まゐらせ)んとは存(ぞんじ)候(さうら)へ共(ども)、御方(みかた)の軍兵(ぐんびやう)雲霞(うんか)の如(ごと)く候(さうらふ)。よものがれさせ給(たま)はじ。人手(ひとで)にかけまいらせ(まゐらせ)んより、同(おなじ)くは直実(なほざね・なをざね)が手(て)にかけまいらせ(まゐらせ)て、後(のち)の御孝養(おんけうやう)をこそ仕(つかまつり)候(さうら)はめ」と申(まうし)ければ、「ただとくとく頸(くび)をとれ」とぞの給(たま)ひける。
熊谷(くまがへ)あまりにいとおしく(いとほしく)て、いづくに刀(かたな)をたつべしともおぼえず、めもくれ心(こころ)もきえはてて、前後(ぜんご)不覚(ふかく)におぼえけれども、さてしもあるべき事(こと)ならねば、泣々(なくなく)頸(くび)をぞかいて(ン)げる。「あはれ、弓矢(ゆみや)とる身(み)ほど口惜(くちをし・くちおし)かりけるものはなし。武芸(ぶげい)の家(いへ)に生(むま)れずは、何(なに)とてかかるうき目(め)をばみるべき。なさけなうもうちたてまつる物(もの)かな」とかきくどき、袖(そで)をかほにおしあててさめざめとぞ泣(なき)ゐたる。良(やや)久(ひさし)うあ(ッ)て、さてもあるべきならねば、よろい(よろひ)直垂(びたたれ)をと(ッ)て、頸(くび)をつつまんとしけるに、錦(にしき)の袋(ふくろ)にいれたる笛(ふえ)をぞ腰(こし)にさされたる。「あないとおし(いとほし)、この暁(あかつき)城(じやう)のうちにて管絃(くわんげん)し給(たま)ひつるは、この人々(ひとびと)にておはしけり。当時(たうじ)みかたに東国(とうごく)の勢(せい)なん万騎(まんぎ)かあるらめども、いくさの陣(ぢん)へ笛(ふえ)もつ人(ひと)はよもあらじ。
上臈(じやうらふ・じやうらう)は猶(なほ・なを)もやさしかりけり」とて、九郎(くらう)御曹司ノ(おんざうしの)見参(げんざん)に入(いれ)たりければ、是(これ)をみる人(ひと)涙(なみだ)をながさずといふ事(こと)なし。後(のち)にきけば、修理(しゆりの)大夫(だいぶ・だゆう)経盛(つねもり)の子息(しそく)に大夫(たいふ・たゆふ)篤盛(あつもり)とて、生年(しやうねん)十七(じふしち)にぞなられける。それよりしてこそ熊谷(くまがへ)が発心(ほつしん)のおもひはすすみけれ。件(くだん)の笛(ふえ)はおほぢ忠盛(ただもり)笛(ふえ)の上手(じやうず)にて、鳥羽院(とばのゐん)より給(たま)はられたりけるとぞ聞(きこ)えし。経盛(つねもり)相伝(さうでん)せられたりしを、篤盛(あつもり)器量(きりやう)たるによ(ッ)て、もたれたりけるとかや。名(な)をばさ枝(えだ)とぞ申(まうし)ける。狂言(きやうげん)綺語(きぎよ)のことはり(ことわり)といひながら、遂(つひ・つゐ)に讃仏乗(さんぶつじよう・さんぶつぜう)の因(いん・ゐん)となるこそ哀(あはれ)なれ。 
知章最期 (ともあきらのさいご) 

 

門脇(かどわきの)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)教盛卿(のりもりのきやう)の末子(ばつし)蔵人(くらんどの)大夫(たいふ)成盛(なりもり)は、常陸国(ひたちのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)土屋(つちやの)五郎(ごらう)重行(しげゆき)にくんでうたれ給(たま)ひぬ。修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛(つねもり)の嫡子(ちやくし)、皇后宮亮(くわうごうぐうのすけ)経正(つねまさ)は、たすけ船(ぶね)にのらんと汀(みぎは)の方(かた)へ落(おち)給(たま)ひけるが、河越(かはごえの・かはごゑの)小太郎(こたらう)重房(しげふさ)が手(て)に取籠(とりこめ)られてうたれ給(たま)ひぬ。
其(その)弟(おとと)若狭守(わかさのかみ)経俊(つねとし)・淡路守(あはぢのかみ)清房(きよふさ)・尾張守(をはりのかみ・おはりのかみ)清定(きよさだ)、三騎(さんぎ)つれて敵(かたき)のなかへかけ入(いり)、さんざんにたたかひ、分捕(ぶんどり)あまたして、一所(いつしよ)で討死(うちじに)して(ン)げり。新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)知盛卿(とももりのきやう)は、生田森(いくたのもりの)大将軍(たいしやうぐん)にておはしけるが、其(その)勢(せい)みな落(おち)うせて、今(いま)は御子(おんこ)武蔵守(むさしのかみ)知明(ともあきら)、侍(さぶらひ)に監物(けんもつ)太郎(たらう)頼方(よりかた)、ただ主従(しゆうじゆう・しゆうじう)三騎(さんぎ)にな(ッ)て、たすけ船(ぶね)にのらんと汀(みぎは)の方(かた)へ落(おち)給(たま)ふ。ここに児玉党(こだまたう)とおぼしくて、うちわ(うちは)の旗(はた)さいたる者共(ものども)十騎(じつき)ばかり、おめい(をめい)てお(ッ)かけ奉(たてまつ)る。監物(けんもつ)太郎(たらう)は究竟(くつきやう・く(ツ)きやう)の弓(ゆみ)の上手(じやうず)ではあり、ま(ッ)さきにすすんだる旗(はた)さしがしや頸(くび)のほねをひやうふつとゐ(い)て、馬(むま)よりさかさまにゐ(い)おとす。
そのなかの大将(たいしやう)とおぼしきもの、新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)にくみ奉(たてまつ)らんと馳(はせ)ならべけるを、御子(おんこ)武蔵守(むさしのかみ)知明(ともあきら)中(なか)にへだたり、おしならべてむずとくんでどうどおち、と(ッ)ておさへて頸(くび)をかき、たちあがらんとし給(たま)ふところに、敵(かたき)が童(わらは)おちあふ(あう)て、武蔵守(むさしのかみ)の頸(くび)をうつ。監物(けんもつ)太郎(たらう)おちかさな(ッ)て、武蔵守(むさしのかみ)うちたてま(ッ)たる敵(かたき)が童(わらは)をもう(ッ)て(ン)げり。其(その)後(のち)矢(や)だねのある程(ほど)ゐ(い)つくして、うち物(もの)ぬいてたたかひけるが、敵(かたき)あまたうちとり、弓手(ゆんで)のひざのくちをゐ(い)させて、たちもあがらず、ゐながら討死(うちじに)して(ン)げり。このまぎれに新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)は、究竟(くつきやう・く(ツ)きやう)の名馬(めいば)には乗(のり)給(たま)へり。海(うみ)のおもて廿(にじふ)余町(よちやう)およがせて、大臣殿(おほいとの)の御船(おんふね)につき給(たま)ひぬ。御舟(おんふね)には人(ひと)おほくこみの(ッ)て、馬(むま)たつべき様(やう)もなかりければ、汀(みぎは)へお(ッ)かへす。
阿波(あはの)民部(みんぶ)重能(しげよし)「御馬(おんむま)敵(かたき)のものになり候(さうらひ)なんず。ゐ(い)ころし候(さうら)はん」とて、かた手矢(てや)はげて出(いで)けるを、新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)「何(なに)の物(もの)にもならばなれ。わが命(いのち)をたすけたらん物(もの)を。あるべうもなし」との給(たま)へば、ちから及(およ・をよ)ばでゐ(い)ざりけり。この馬(むま)ぬしの別(わかれ)をしたひつつ、しばしは船(ふね)をもはなれやらず、沖(おき)の方(かた)へおよぎけるが、次第(しだい)に遠(とほ)くなりければ、むなしき汀(みぎは)におよぎかへる。足(あし)たつ程(ほど)にもなりしかば、猶(なほ・なを)船(ふね)の方(かた)をかへりみて、二三度(にさんど)までこそいななきけれ。其(その)後(のち)くがにあが(ッ)てやすみけるを、河越(かはごえの・かはごへの)小太郎(こたらう)重房(しげふさ)と(ッ)て、院(ゐん)へまいらせ(まゐらせ)たりければ、やがて院(ゐん)の御厩(みむまや)にたてられけり。
も(ッ)とも院(ゐん)の御秘蔵(ごひさう)の御馬(おんむま)にて、一(いち)の御厩(みむまや)にたてられたりしを、宗盛公(むねもりこう)内大臣(ないだいじん)にな(ッ)て悦申(よろこびまうし)の時(とき)給(たま)はられたりけるとぞ聞(きこ)えし。新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)にあづけられたりしを、中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)あまりに此(この)馬(むま)を秘蔵(ひさう)して、馬(むま)の祈(いのり)のためにとて、毎月(まいぐわつ)つゐたち(ついたち)ごとに、泰山府君(たいざんぶくん)をぞまつられける。其(その)故(ゆゑ)にや、馬(むま)の命(いのち)ものび、ぬしのいのちもたすけけるこそめでたけれ。此(この)馬(むま)は信乃国(しなののくに)井ノ上(ゐのうへ)だちにてありければ、井上黒(ゐのうへぐろ)とぞ申(まうし)ける。後(のち)には河越(かはごえ・かはごへ)がと(ッ)てまいらせ(まゐらせ)たりければ、河越黒(かはごえぐろ・かはごへぐろ)とも申(まうし)けり。新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)、大臣殿(おほいとの)の御(おん)まへにまい(ッ・まゐつ)て申(まう)されけるは、「武蔵守(むさしのかみ)におくれ候(さうらひ)ぬ。監物(けんもつ)太郎(たらう)うたせ候(さうらひ)ぬ。今(いま)は心(こころ)ぼそうこそまかりな(ッ)て候(さうら)へ。
いかなる子(こ)はあ(ッ)て、親(おや)をたすけんと敵(かたき)にくむをみながら、いかなるおやなれば、子(こ)のうたるるをたすけずして、かやうにのがれまい(ッ・まゐつ)て候(さうらふ)らんと、人(ひと)のうへで候(さうら)はばいかばかりもどかしう存(ぞんじ)候(さうらふ)べきに、よう命(いのち)はおしゐ(をしい)物(もの)で候(さうらひ)けると今(いま)こそ思(おも)ひしられて候(さうら)へ。人々(ひとびと)の思(おも)はれん心(こころ)のうち共(ども)こそはづかしう候(さうら)へ」とて、袖(そで)をかほにおしあててさめざめと泣(なき)給(たま)へば、大臣殿(おほいとの)是(これ)をきき給(たま)ひて、「武蔵守(むさしのかみ)の父(ちち)の命(いのち)にかはられけるこそありがたけれ。手(て)もきき心(こころ)もかうに、よき大将軍(たいしやうぐん)にておはしつる人(ひと)を。清宗(きよむね)と同年(どうねん)にて、ことしは十六(じふろく)な」とて、御子(おんこ)衛門督(ゑもんのかみ)のおはしける方(かた)を御(ご)らんじて涙(なみだ)ぐみ給(たま)へば、いくらもなみゐたりける平家(へいけ)の侍共(さぶらひども)、心(こころ)あるも心(こころ)なきも、皆(みな)鎧(よろひ)の袖(そで)をぞぬらしける。 
落足 (おちあし) 

 

小松殿(こまつどの)の末子(ばつし)、備中守(びつちゆうのかみ・びつちうのかみ)師盛(もろもり)は、主従(しゆうじゆう・しゆうじう)七人(しちにん)小舟(せうせん)にの(ッ)ておち給(たま)ふ所(ところ)に、新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)の侍(さぶらひ)清衛門(せいゑもん)公長(きんなが)といふ者(もの)馳来(はせきた・ッ)て、「あれは備中守殿(びつちゆうのかみどの・びつちうのかみどの)の御舟(おんふね)とこそみまいらせ(まゐらせ)候(さうら)へ。まいり(まゐり)候(さうら)はん」と申(まうし)ければ、船(ふね)を汀(みぎは)にさしよせたり。大(だい)の男(をのこ・おのこ)の鎧(よろひ)きながら、馬(むま)より舟(ふね)へがはと飛(とび)のらうに、なじかはよかるべき。舟(ふね)はちゐさし(ちひさし)、くるりとふみかへして(ン)げり。備中守(びつちゆうのかみ・びつちうのかみ)うきぬしづみぬし給(たま)ひけるを、畠山(はたけやま)が郎等(らうどう)本田(ほんだの)次郎(じらう)、十四五(じふしご)騎(き)で馳来(はせきた)り、熊手(くまで)にかけてひきあげ奉(たてまつ)り、遂(つひ・つゐ)に頸(くび)をぞかいてかいて(ン)げる。
生年(しやうねん)十四(じふし)歳(さい)とぞ聞(きこ)えし。越前(ゑちぜんの)三位(さんみ・さんゐ)通盛卿(みちもりのきやう)は山手(やまのて)の大将軍(たいしやうぐん)にておはしけるが、其(その)日(ひ)の装束(しやうぞく)には、あか地(ぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、唐綾(からあや)おどし(をどし)の鎧(よろひ)きて、黄河原毛(きがはらげ)なる馬(むま)に白覆輪(しろぶくりん)の鞍(くら)をい(おい)て乗(のり)給(たま)へり。うち甲(かぶと)をゐ(い)させて、敵(かたき)におしへだてられ、おとと能登殿(のとどの)にははなたれ給(たま)ひぬ、しづかならん所(ところ)にて自害(じがい)せんとて、東(ひがし・ひんがし)にむか(ッ)て落(おち)給(たま)ふ程(ほど)に、近江国(あふみのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)佐々木(ささきの)木村(きむらの)三郎(さぶらう)成綱(なりつな)、武蔵国(むさしのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)玉井(たまのゐの)四郎(しらう)資景(すけかげ)、かれこれ七騎(しちき)が中(なか)にとりこめられて、遂(つひ)にうたれ給(たま)ひぬ。其(その)ときまでは侍(さぶらひ)一人(いちにん)つき奉(たてまつり)たりけれ共(ども)、それも最後(さいご)の時(とき)はおちあはず。
凡(をよ)そ(およそ)東西(とうざい)の木戸口(きどぐち)、時(とき)をうつす程(ほど)也(なり)ければ、源平(げんぺい)かずをつくゐ(つくい)てうたれにけり。矢倉(やぐら)のまへ、逆(さか)も木(ぎ)のしたには、人馬(じんば)のししむら山(やま)のごとし。一谷(いちのたに)の小篠原(をざさはら)、緑(みどり)のいろをひきかへて、うす紅(ぐれなゐ)にぞ成(なり)にける。
一谷(いちのたに)・生田森(いくたのもり)、山(やま)のそは、海(うみ)の汀(みぎは)にてゐ(い)られきられて死(し)ぬるはしらず、源氏(げんじ)の方(かた)にきりかけらるる頸共(くびども)二千(にせん)余人(よにん)也(なり)。今度(こんど)うたれ給(たま)へるむねとの人々(ひとびと)には、越前(ゑちぜんの)三位(さんみ)通盛(みちもり)・弟(おとと)蔵人(くらんどの)大夫(たいふ)成盛(なりもり)・薩摩守(さつまのかみ)忠教(ただのり)・武蔵守(むさしのかみ)知明(ともあきら)・備中守(びつちゆうのかみ・びつちうのかみ)師盛(もろもり)・尾張守(をはりのかみ・おはりのかみ)清定(きよさだ)・淡路守(あはぢのかみ)清房(きよふさ)・修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛(つねもりの)嫡子(ちやくし)皇后宮亮(くわうごうぐうのすけ)経正(つねまさ)・弟(おとと)若狭守(わかさのかみ)経俊(つねとし)・其(その)弟(おとと)大夫(たいふ)篤盛(あつもり)、以上(いじやう)十人(じふにん)とぞ聞(きこ)えし。いくさやぶれにければ、主上(しゆしやう)をはじめたてま(ッ)て、人々(ひとびと)みな御船(おふね)にめして出(いで)給(たま)ふ心(こころ)のうちこそ悲(かな)しけれ。塩(しほ)にひかれ、風(かぜ)に随(したがひ)て、紀伊路(きのぢ)へおもむく船(ふね)もあり。
葦屋(あしや)の沖(おき)に漕(こぎ)いでて、浪(なみ)にゆらるる船(ふね)もあり。或(あるい・ある)は須磨(すま)より明石(あかし)の浦(うら)づたひ、泊(とまり)さだめぬ梶枕(かぢまくら)、かたしく袖(そで)もしほれ(しをれ)つつ、朧(おぼろ)にかすむ春(はる)の月(つき)、心(こころ)をくだかぬ人(ひと)ぞなき。或(あるい・ある)は淡路(あはぢ)のせとを漕(こぎ)とをり(とほり)、絵島(ゑしま)が磯(いそ)にただよへば、波路(なみぢ)かすかに鳴(なき)わたり、友(とも)まよはせるさ夜千鳥(よちどり)、是(これ)もわが身(み)のたぐひかな。行(ゆく)さき未(いまだ)いづくとも思(おも)ひ定(さだ)めぬかとおぼしくて、一谷(いちのたに)の奥(おき)にやすらふ舟(ふね)もあり。か様(やう)に風(かぜ)にまかせ、浪(なみ)に随(したがひ)て、浦々(うらうら)島々(しまじま)にただよへば、互(たがひ・たがい)に死生(ししやう)もしりがたし。国(くに)をしたがふる事(こと)も十四(じふし)ケ国(かこく)、勢(せい)のつくことも十万余騎(じふまんよき)、都(みやこ)へちかづく事(こと)も纔(わづか)に一日(いちにち)の道(みち)なれば、今度(こんど)はさり共(とも)とたのもしう思(おも)はれけるに、一谷(いちのたに)をも責(せめ)おとされて、人々(ひとびと)みな心(こころ)ぼそうぞなられける。 
 
平家物語 巻十

 

首渡 (くびわたし) 
寿永(じゆえい・じゆゑい)三年(さんねん)二月(にぐわつ・にんぐわつ)七日(なぬかのひ)、摂津国(つのくに)一(いち)の谷(たに)にてうたれし平氏(へいじ)の頸(くび)ども、十二日(じふににち)に宮(みや)こへいる。平家(へいけ)にむすぼほれたる人々(ひとびと)は、我(わが)方(かた)ざまにいかなるうき目(め)をかみんずらんと、なげきあひかなしみあへり。なかにも大覚寺(だいかくじ)にかくれゐ給(たま)へる小松(こまつの)三位(さんみの・さんゐの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)維盛卿(これもりのきやう)の北(きた)の方(かた)、ことさらおぼつかなく思(おも)はれける。
「今度(こんど)一谷(いちのたに)にて一門(いちもん)の人々(ひとびと)のこりすくなううたれ給(たま)ひ、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)といふ公卿(くぎやう)一人(いちにん)、いけどりにせられてのぼるなり」ときき給(たま)ひ、「この人(ひと)はなれじ物(もの)を」とて、ひきかづきてぞふし給(たま)ふ。或(ある)女房(にようばう)のいできて申(まうし)けるは、「三位(さんみの)中将殿(ちゆうじやうどの・ちうじやうどの)と申(まうす)は、これの御事(おんこと)にてはさぶらはず。本三位(ほんざんみの・ほんざんゐの)中将殿(ちゆうじやうどの・ちうじやうどの)の御事(おんこと)なり」と申(まうし)ければ、「さては頸(くび)どものなかにこそあるらめ」とて、なを(なほ)心(こころ)やすうもおもひ給(たま)はず。同(おなじき)十三日(じふさんにち)、大夫(たいふの)判官(はんぐわん)仲頼(なかより)、六条河原(ろくでうかはら)にいでむか(ッ)て、頸(くび)どもうけとる。
東洞院(ひがしのとうゐん・ひ(ン)がしのとうゐん)の大路(おほち)を北(きた)へわたして獄門(ごくもん)の木(き)にかけらるべきよし、蒲(がまの)冠者(くわんじや)範頼(のりより)・九郎(くらう)冠者(くわんじや)義経(よしつね)奏聞(そうもん)す。法皇(ほふわう・ほうわう)、此(この)条(でう)いかがあるべからんとおぼしめしわづらひて、太政(だいじやう)大臣(だいじん)・左右(さう)の大臣(だいじん)・内大臣(ないだいじん)・堀河(ほりかはの)大納言(だいなごん)忠親卿(ただちかのきやう)に仰(おほせ)あはせらる。五人(ごにん)の公卿(くぎやう)申(まう)されけるは、「昔(むかし)より卿相(けいしやう)の位(くらゐ)にのぼる物(もの)の頸(くび)、大路(おほち)をわたさるる事(こと)先例(せんれい)なし。
就中(なかんづく)此(この)輩(ともがら)は、先帝(せんてい)の御時(おんとき)、戚里(せきり)の臣(しん)として久(ひさ)しく朝家(てうか)につかうまつる。範頼(のりより)・義経(よしつね)が申状(まうしじやう・まうしでう)、あながち御許容(ごきよよう)あるべからず」と、おのおの一同(いちどう)に申(まう)されければ、渡(わた)さるまじきにてありけるを、範頼(のりより)・義経(よしつね)かさねて奏聞(そうもん)しけるは、「保元(ほうげん)の昔(むかし)をおもへば、祖父(そぶ)為義(ためよし)があた、平治(へいぢ・へいじ)のいにしへを案(あん)ずれば、ちち義朝(よしとも)がかたき也(なり)。君(きみ)の御(おん)いきどをり(いきどほり)をやすめたてまつり、父祖(ふそ)の恥(はぢ)をきよめんがために、命(いのち)をすてて朝敵(てうてき)をほろぼす。
今度(こんど)平氏(へいじ)の頸(くび)ども大路(おほち)をわたされずは、自今(じごん)以後(いご)なんのいさみあ(ッ)てか凶賊(きようぞく・けうぞく)をしりぞけんや」と、両人(りやうにん)頻(しきり)にう(ッ)たへ(うつたへ)申(まうす)あひだ、法皇(ほふわう・ほうわう)ちからおよばせ給(たま)はで、つゐに(つひに)わたされけり。みる人(ひと)いくらといふかずをしらず。帝闕(ていけつ)に袖(そで)をつらねしいにしへは、おぢをそるる(おそるる)輩(ともがら)おほかりき。巷(ちまた・チマタ)にかうべをわたさるる今(いま)は、あはれみかなしまずといふ事(こと)なし。小松(こまつ)の三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)維盛卿(これもりのきやう)の若君(わかぎみ)、六代御前(ろくだいごぜん)につきたてま(ッ)たる斎藤五(さいとうご)、斎藤六(さいとうろく)、あまりのおぼつかなさに、さまをやつしてみければ、頸(くび)どもは見(み)しりたてま(ッ)たれども、三位(さんみの)中将殿(ちゆうじやうどの・ちうじやうどの)の御頸(おんくび)は見(み)え給(たま)はず。
されどもあまりにかなしくて、つつむにたへぬ涙(なみだ)のみしげかりければ、よその人目(ひとめ)もおそろしさに、いそぎ大覚寺(だいかくじ)へぞまひり(まゐり)ける。北方(きたのかた)「さて、いかにやいかに」ととひ給(たま)へば、「小松殿(こまつどの)の君達(きんだち)には、備中(びつちゆうの・びつちうの)守殿(かみどの)の御頸(おんくび)ばかりこそみえさせ給(たま)ひ候(さうらひ)つれ。其(その)外(ほか)はそんぢやうその頸(くび)、その御頸(おんくび)」と申(まうし)ければ、「いづれも人(ひと)のうへともおぼえず」とて、涙(なみだ)にむせび給(たま)ひけり。ややあ(ッ)て、斎藤五(さいとうご)涙(なみだ)ををさへ(おさへ)て申(まうし)けるは、「この一両年(いちりやうねん)はかくれゐ候(さうらひ)て、人(ひと)にもいたくみしられ候(さうら)はず。いましばらくも見(み)まいらす(まゐらす)べう候(さうらひ)つれども、よにくはしう案内(あんない)しりまいらせ(まゐらせ)たる物(もの)の申(まうし)候(さうらひ)つるは、「小松殿(こまつどの)の君達(きんだち)は、今度(こんど)の合戦(かつせん)には、播磨(はりま)と丹波(たんば)のさかゐ(さかひ)で候(さうらふ)なるみくさの山(やま)をかためさせ給(たまひ)て候(さうらひ)けるが、九郎(くらう)義経(よしつね)にやぶられて、新三位(しんざんみの・しんざんゐの)中将殿(ちゆうじやうどの・ちうじやうどの)・小松(こまつの)少将殿(せうしやうどの)・丹後(たんごの)侍従殿(じじゆうどの・じじうどの)は播磨(はりま)の高砂(たかさご)より御舟(おふね)にめして、讃岐(さぬき)の八島(やしま)へわたらせ給(たまひ)て候(さうらふ)也(なり)。
何(なに)としてはなれさせ給(たまひ)て候(さうらひ)けるやらん、御兄弟(ごきやうだい)の御(おん)なかには、備中(びつちゆうの・びつちうの)守殿(かみどの)ばかり一谷(いちのたに)にてうたれさせ給(たまひ)て候(さうらふ)」と申(まうす)ものにこそあひて候(さうらひ)つれ。「さて小松(こまつの)三位(さんみの)中将殿(ちゆうじやうどの・ちうじやうどの)の御事(おんこと)はいかに」ととひ候(さうらひ)つれば、「それはいくさ以前(いぜん)より大事(だいじ)の御(おん)いたはりとて、八島(やしま)に御渡(おんわたり)候(さうらふ)あひだ、このたびはむかはせ給(たまひ)候(さうら)はず」と、こまごまとこそ申(まうし)候(さうらひ)つれ」と申(まうし)ければ、「それもわれらが事(こと)をあまりにおもひなげき給(たま)ふが、病(やまひ)となりたるにこそ。風(かぜ)のふく日(ひ)は、けふもや舟(ふね)にのり給(たまふ)らんと肝(きも)をけし、いくさといふ時(とき)は、ただいまもやうたれ給(たまふ)らんと心(こころ)をつくす。ましてさやうのいたはりなんど(など)をも、たれか心(こころ)やすうもあつかひたてまつるべき。くはしうきかばや」との給(たま)へば、
若君(わかぎみ)・姫君(ひめぎみ)、「など、なんの御(おん)いたはりとはとはざりけるぞ」とのたまひけるこそ哀(あはれ)なれ。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)もかよふ心(こころ)なれば、「宮(みや)こにいかにおぼつかなくおもふらん。頸(くび)どものなかにはなくとも、水(みづ)におぼれてもしに、矢(や)にあた(ッ)てもうせぬらん。この世(よ)にある物(もの)とはよもおもはじ。露(つゆ)の命(いのち)のいまだながらへたるとしらせたてまつらばや」とて、侍(さぶらひ)一人(いちにん)したてて宮(みや)こへのぼせられけり。三(みつ)の文(ふみ)をぞかかれける。まづ北方(きたのかた)への御(おん)ふみには、「宮(みや)こにはかたきみちみちて、御身(おんみ)ひとつのおきどころだにあらじに、おさなき(をさなき)物(もの)どもひきぐして、いかにかなしうおぼすらん。これへむかへたてま(ッ)て、ひとところでいかにもならばやとはおもへども、我(わが)身(み)こそあらめ、御(おん)ため心(こころ)ぐるしくて」な(ン)ど(など)こまごまとかきつづけ、おくに一首(いつしゆ)の歌(うた)ぞありける。
いづくともしらぬ逢(あふ)せのもしほ草(ぐさ)かきをく(おく)跡(あと)をかたみとも見(み)よ
おさなき(をさなき)人々(ひとびと)の御(おん)もとへは、「つれづれをばいかにしてかなぐさみ給(たまふ)らん。いそぎむかへとらんずるぞ」と、こと葉(ば)もかはらずかいてのぼせられけり。この御(おん)ふみどもを給(たま)は(ッ)て、つかひ宮(みや)こへのぼり、北方(きたのかた)に御文(おんふみ)まいらせ(まゐらせ)たりければ、今(いま)さら又(また)なげきかなしみ給(たま)ひけり。つかひ四五日(しごにち)候(さうらひ)て、いとま申(まうす)。北方(きたのかた)なくなく御返事(おんぺんじ)かき給(たま)ふ。若公(わかぎみ)姫君(ひめぎみ)筆(ふで)をそめて、「さてちち御(ご)ぜんの御返事(おんぺんじ)はなにと申(まうす)べきやらん」ととひ給(たま)へば、「ただともかうも、わ御(ご)ぜんたちのおもはんやうに申(まうす)べし」とこその給(たま)ひけれ。
「などやいままでむかへさせ給(たま)はぬぞ。あまりに恋(こひ)しく思(おも)ひまいらせ(まゐらせ)候(さうらふ)。とくとくむかへさせ給(たま)へ」と、おなじこと葉(ば)にぞかかれたる。この御(おん)ふみどもを給(たま)は(ッ)て、つかひ八島(やしま)にかへりまいる(まゐる)。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)、まづおさなき(をさなき)人々(ひとびと)の御文(おんふみ)を御(ご)らんじてこそ、いよいよせんかたなげにはみえられけれ。「抑(そもそも)これより穢土(ゑど)を厭(いとふ)にいさみなし。閻浮愛執(えんぶあいしふ・ゑんぶあいしう)の綱(つな)つよければ、浄土(じやうど)をねがふも物(もの)うし。ただこれよりやまづたひに宮(みや)こへのぼ(ッ)て、恋(こひ)しきものどもをいま一度(いちど)みもし、見(み)えての後(のち)、自害(じがい)をせんにはしかじ」とぞ、なくなくかたり給(たま)ひける。 
内裏女房 (だいりにようばう) 

 

同(おなじき)十四日(じふしにち)、いけどり本三位(ほんざんみの・ほんざんゐの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)、六条(ろくでう)を東(ひがし・ひ(ン)がし)へわたされけり。小(こ)八葉(はちえふ・はちよう)の車(くるま)に先後(ぜんご)の簾(すだれ)をあげ、左右(さう)の物見(ものみ)をひらく。
土肥(とひの・といの)次郎(じらう)実平(さねひら)、木蘭地(むくらんぢ)の直垂(ひたたれ)に小具足(こぐそく)ばかりして、随兵(ずいびやう)卅余騎(さんじふよき)、車(くるま)の先後(ぜんご)にうちかこ(ン)で守護(しゆご)したてまつる。京中(きやうぢゆう・きやうぢう)の貴賎(きせん)これをみて、「あないとをし(いとほし)、いかなる罪(つみ)のむくひぞや。いくらもまします君達(きんだち)のなかに、かくなり給(たま)ふ事(こと)よ。入道殿(にふだうどの・にうだうどの)にも二位殿(にゐどの)にも、おぼえの御子(おんこ)にてましまひ(ましまい)しかば、御一家(ごいつか)の人々(ひとびと)もおもき事(こと)におもひたてまつり給(たま)ひしぞかし。
院(ゐん)へも内(うち)へもまひり(まゐり)給(たま)ひし時(とき)は、老(おい)たるも若(わかき)も、ところををき(おき)、もてなしたてまつり給(たま)ひし物(もの)を。これは南都(なんと)をほろぼし給(たま)へる伽藍(がらん)の罰(ばち)にこそ」と申(まうし)あへり。河原(かはら)までわたされて、かへ(ッ)て、故(こ)中御門(なかのみかど)藤(とうの)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)家成卿(かせいのきやう)の八条堀川(はつでうほりかは)の御(み)だうにすゑたてま(ッ)て、土肥(とひの・といの)二郎(じらう)守護(しゆご)したてまつる。院(ゐんの)御所(ごしよ)より御使(おんつかひ)に蔵人(くらんどの)左衛門(さゑもんの)権佐(ごんのすけ)定長(さだなが)、八条堀河(はつでうほりかは)へむかはれけり。
赤衣(せきい)にて剣笏(けんしやく)をぞ帯(たい)したりける。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)は紺村滋(こむらご)の直垂(ひたたれ)に、立烏帽子(たてえぼし・たてゑぼし)ひきたてておはします。日(ひ)ごろは何(なに)ともおもはれざりし定長(さだなが)を、いまは冥途(めいど)にて罪人共(ざいにんども)が冥官(みやうくわん)に逢(あ)へる心地(ここち)ぞせられける。仰下(おほせくだ)されけるは、「八島(やしま)へかへりたくは、一門(いちもん)のなかへいひおく(ッ)て、三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)を宮(みや)こへ返(かへ)しいれたてまつれ。しからば八島(やしま)へかへさるべしとの御気色(ごきしよく)で候(さうらふ)」と申(まうす)。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)申(まう)されけるは、「重衡(しげひら)千人(せんにん)万人(まんにん)が命(いのち)にも、三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)をかへまいらせ(まゐらせ)んとは、内府(だいふ)以下(いげ)一門(いちもん)の物共(ものども)、一人(いちにん)もよも申(まうし)候(さうら)はじ。もし女性(によしやう)にて候(さうら)へば、母儀(ぼぎ)の二品(にほん)なんど(など)やさも申(まうし)候(さうら)はんずらん。さは候(さうら)へども、居(ゐ)ながら院宣(ゐんぜん)をかへしまいらせ(まゐらせ)ん事(こと)、其(その)おそれも候(さうら)へば、申(まうし)おく(ッ)てこそみ候(さうら)はめ」とぞ申(まう)されける。
御使(おんつかひ)は平三左衛門(へいざうざゑもん)重国(しげくに)、御坪(おつぼ)の召次(めしつぎ)花方(はなかた)とぞきこえし。私(わたくし)のふみはゆるされねば、人々(ひとびと)のもとへも詞(ことば)にて事(こと)づけ給(たま)ふ。北方(きたのかた)大納言佐殿(だいなごんのすけどの)へも御詞(おんことば)にて申(まう)されけり。「旅(たび)のそらにても、人(ひと)はわれになぐさみ、我(われ)は人(ひと)になぐさみたてまつりしに、ひき別(わかれ)て後(のち)、いかにかなしうおぼすらん。「契(ちぎり)はくちせぬ物(もの)」と申(まう)せば、後(のち)の世(よ)にはかならずむまれ逢(あひ)たてまつらん」と、なくなくことづけ給(たま)へば、重国(しげくに)も涙(なみだ)ををさへ(おさへ)てたちにけり。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)の年(とし)ごろめしつかはれける侍(さぶらひ)に、木工(もくの)右馬允(むまのじよう・むまのぜう)知時(ともとき)といふものあり。
八条ノ(はつでうの)女院(にようゐん)に候(さうらひ)けるが、土肥(とひの・といの)次郎(じらう)がもとにゆきむか(ッ)て、「これは中将殿(ちゆうじやうどの・ちうじやうどの)に先年(せんねん)めしつかはれ候(さうらひ)しそれがしと申(まうす)物(もの)にて候(さうらふ)が、西国(さいこく)へも御共(おんとも)仕(つかまつる)べきよし存(ぞんじ)候(さうらひ)しかども、八条ノ(はつでうの)女院(にようゐん)に兼参(けんざん)の物(もの)にて候(さうらふ)あひだ、ちからおよばでまかりとどま(ッ)て候(さうらふ)が、けふ大路(おほち)でみまいらせ(まゐらせ)候(さうら)へば、目(め)もあてられず、いとをしう(いとほしう)おもひたてまつり候(さうらふ)。しかるべう候者(さうらはば)、御(おん)ゆるされを蒙(かうぶり)て、ちかづきまひり(まゐり)候(さうらひ)て、今(いま)一度(いちど)見参(げんざん)にいり、昔(むかし)がたりをも申(まうし)て、なぐさめまいらせ(まゐらせ)ばやと存(ぞんじ)候(さうらふ)。させる弓矢(ゆみや)とる身(み)で候(さうら)はねば、いくさ合戦(かつせん)の御供(おんとも)を仕(つかまつり)たる事(こと)も候(さうら)はず、ただあさゆふ祗候(しこう)せしばかりで候(さうらひ)き。さりながら、猶(なほ・なを)おぼつかなうおぼしめし候者(さうらはば)、腰(こし)の刀(かたな)をめしおかれて、まげて御(おん)ゆるされを蒙(かうぶり)候(さうらは)ばや」と申(まう)せば、土肥(とひの・といの)次郎(じらう)なさけあるおのこ(をのこ)にて、「御一身(ごいつしん)ばかりは何事(なにごと)か候(さうらふ)べき。さりながらも」とて、腰(こし)の刀(かたな)をこひと(ッ)ていれて(ン)げり。
右馬允(むまのじよう・むまのぜう)なのめならず悦(よろこび)て、いそぎまい(ッ・まゐつ)てみたてまつれば、誠(まこと)に思(おも)ひいれ給(たま)へるとおぼしくて、御(おん)すがたもいたくしほれ(しをれ)かへ(ッ)てゐたまへる御(おん)ありさまをみたてまつるに、知時(ともとき)涙(なみだ)もさらにおさへがたし。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)もこれを御(ご)らんじて、夢(ゆめ)に夢(ゆめ)みる心地(ここち)して、とかうの事(こと)ものたまはず。ただなくより外(ほか)の事(こと)ぞなき。やや久(ひさ)しうあ(ッ)て、昔(むかし)いまの物語(ものがたり)どもし給(たま)ひて後(のち)、「さてもなんぢして物(もの)いひし人(ひと)は、いまだ内裏(だいり)にとやきく」。「さこそうけ給(たまはり)候(さうら)へ」。「西国(さいこく)へくだりし時(とき)、ふみをもやらず、いひおく事(こと)だになかりしを、世々(よよ)の契(ちぎり)はみないつはりにてありけりとおもふらんこそはづかしけれ。
ふみをやらばやと思(おもふ)は。たづねてゆきてんや」との給(たま)へば、「御(おん)ふみを給(たま)は(ッ)てまいり(まゐり)候(さうら)はん」と申(まうす)。中将(ちゆうじやう・ちうじやう)なのめならず悦(よろこび)て、やがてかいてぞたうだりける。守護(しゆご)の武士(ぶし)ども「いかなる御(おん)ふみにて候(さうらふ)やらん。いだしまいらせ(まゐらせ)じ」と申(まうす)。中将(ちゆうじやう)「みせよ」との給(たま)へば、みせて(ン)げり。「くるしう候(さうらふ)まじ」とてとらせけり。知時(ともとき)も(ッ)て内裏(だいり)へまいり(まゐり)たりけれども、ひるは人(ひと)めのしげければ、そのへんちかき小屋(せうをく・せうおく)に立入(たちいり)て日(ひ)をくらし、局(つぼね)の下口(しもぐち)へんにたたず(ン)できけば、この人(ひと)のこゑとおぼしくて、「いくらもある人(ひと)のなかに、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)しもいけどりにせられて、大路(おほち)をわたさるる事(こと)よ。人(ひと)はみな奈良(なら)をやきたる罪(つみ)のむくひといひあへり。
中将(ちゆうじやう)もさぞいひし。「わが心(こころ)におこ(ッ)てはやかねども、悪党(あくたう)おほかりしかば、手々(てんで・て(ン)で)に火(ひ)をはな(ッ)て、おほくの堂塔(だうたふ・だうたう)をやきはらふ。末(すゑ)の露(つゆ)本(もと)のしづくとなるなれば、われ一人(いちにん)が罪(つみ)にこそならんずらめ」といひしが、げにさとおぼゆる」とかきくどき、さめざめとぞなかれける。右馬允(むまのじよう・むまのぜう)「これにもおもはれけるものを」といとをしう(いとほしう)おぼえて、「物(もの)申(ものまう)さう」どいへば、「いづくより」ととひ給(たま)ふ。「三位(さんみの)中将殿(ちゆうじやうどの・ちうじやうどの)より御文(おんふみ)の候(さうらふ)」と申(まう)せば、年(とし)ごろははぢてみえ給(たま)はぬ女房(にようばう)の、せめての思(おも)ひのあまりにや、「いづらやいづら」とてはしりいでて、手(て)づからふみをと(ッ)てみ給(たま)へば、西国(さいこく)よりとられてありしありさま、けふあすともしらぬ身(み)のゆくゑ(ゆくへ)な(ン)ど(など)こまごまとかきつづけ、おくには一首(いつしゆ)の歌(うた)ぞありける。
涙河(なみだがは)うき名(な)をながす身(み)なりともいま一(ひと)たびの逢(あふ)せともがな
女房(にようばう)これをみ給(たま)ひて、とかうの事(こと)もの給(たま)はず、ふみをふところにひき入(いれ)て、ただなくより外(ほか)の事(こと)ぞなき。やや久(ひさ)しうあ(ッ)て、さてもあるべきならねば、御(おん)かへり事(ごと)あり。心(こころ)ぐるしういぶせくて、二(ふた)とせををくり(おくり)つる心(こころ)のうちをかき給(たま)ひて、
君(きみ)ゆへ(ゆゑ)にわれもうき名(な)をながすともそこのみくづとともになりなん
知時(ともとき)も(ッ)てまいり(まゐり)たり。守護(しゆご)の武士(ぶし)ども、又(また)「見(み)まいらせ(まゐらせ)候(さうら)はん」と申(まう)せば、みせて(ン)げり。「くるしう候(さうらふ)まじ」とてたてまつる。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)これをみて、いよいよ思(おも)ひやまさり給(たま)ひけん、土肥(とひの・といの)二郎(じらう)にの給(たま)ひけるは、「年来(としごろ)あひぐしたりし女房(にようばう)に、今(いま)一度(いちど)対〔面〕(たいめん)して、申(まうし)たき事(こと)のあるはいかがすべき」との給(たま)へば、実平(さねひら)なさけあるおのこ(をのこ)にて、「まことに女房(にようばう)な(ン)ど(など)の御事(おんこと)にてわたらせ給(たまひ)候(さうら)はんは、なじかはくるしう候(さうらふ)べき」とてゆるしたてまつる。中将(ちゆうじやう・ちうじやう)なのめならず悦(よろこび)て、人(ひと)に車(くるま)か(ッ)てむかへにつかはしたりければ、女房(にようばう)とりもあへずこれにの(ッ)てぞおはしたる。ゑん(えん)に車(くるま)をやりよせて、かくと申(まう)せば、中将(ちゆうじやう)車(くるま)よせにいでむかひ給(たま)ひ、「武士(ぶし)どものみたてまつるに、おりさせ給(たまふ)べからず」とて、車(くるま)の簾(すだれ)をうちかづき、手(て)に手(て)をとりくみ、かほにかほをおしあてて、しばしは物(もの)もの給(たま)はず、ただなくより外(ほか)の事(こと)ぞなき。
やや久(ひさ)しうあ(ッ)て中将(ちゆうじやう・ちうじやう)の給(たま)ひけるは、「西国(さいこく)へくだりし時(とき)、今(いま)一度(いちど)みまいらせ(まゐらせ)たう候(さうらひ)しかども、おほかたの世(よ)のさはがしさ(さわがしさ)に、申(まうす)べきたよりもなくてまかりくだり候(さうらひ)ぬ。其(その)後(のち)はいかにもして御(おん)ふみをもまいらせ(まゐらせ)、御(おん)かへり事(ごと)をもうけ給(たま)はりたう候(さうらひ)しかども、心(こころ)にまかせぬ旅(たび)のならひ、あけくれのいくさにひまなくて、むなしくとし月(つき)をおくり候(さうらひ)き。いま又(また)人(ひと)しれぬありさまをみ候(さうらふ)は、ふたたびあひみたてまつるべきで候(さうらひ)けり」とて、袖(そで)をかほにおしあてて、うつぶしにぞなられける。たがひの心(こころ)のうち、おしはかられてあはれ也(なり)。かくてさ夜(よ)もなか半(ば)になりければ、「この比(ごろ)は大路(おほち)の狼籍(らうぜき)に候(さうらふ)に、とうとう」とてかへしたてまつる。車(くるま)やりいだせば、中将(ちゆうじやう)別(わかれ)の涙(なみだ)ををさへ(おさへ)て、なくなく袖(そで)をひかへつつ、
逢(あふ)ことも露(つゆ)の命(いのち)ももろともにこよひばかりやかぎりなるらん
女房(にようばう)なみだををさへ(おさへ)つつ、
かぎりとてたちわかるれば露(つゆ)の身(み)の君(きみ)よりさきにきえぬべきかな
さて女房(にようばう)は内裏(だいり)へまいり(まゐり)給(たま)ひぬ。其(その)後(のち)は守護(しゆご)の武士(ぶし)どもゆるさねば、ちからおよばず、時々(ときどき)御文(おんふみ)ばかりぞかよひける。この女房(にようばう)と申(まう)すは、民部卿(みんぶきやうの)入道(にふだう・にうだう)親範(ちかのり)のむすめ也(なり)。みめかたち世(よ)にすぐれ、なさけふかき人(ひと)也(なり)。されば中将(ちゆうじやう・ちうじやう)、南都(なんと)へわたされてきられ給(たまひ)ぬときこえしかば、やがてさまをかへ、こき墨染(すみぞめ)にやつれはて、彼(かの)後世菩提(ごせぼだい)をとぶらはれけるこそ哀(あはれ)なれ。 
八島院宣 (やしまゐんぜん) 

 

さるほどに、平三左衛門(へいざうざゑもん)重国(しげくに)、御坪(おつぼ)のめしつぎ花方(はなかた)、八島(やしま)にまい(ッ・まゐつ)て院宣(ゐんぜん)をたてまつる。おほいとの以下(いげ)一門(いちもん)の月卿(げつけい)雲客(うんかく)よりあひ給(たま)ひて、院宣(ゐんぜん)をひらかれけり。一人(いちじん)聖体(せいてい)、北闕(ほつけつ)の宮禁(きゆうきん・きうきん)をいでて、諸州(しよしう)に幸(かう)じ、三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)、南海(なんかい)・四国(しこく)にうづもれて数年(すねん)をふ、尤(もつと)も朝家(てうか)のなげき、亡国(ばうこく)の基(もとゐ・もとい)也(なり)。抑(そもそも)彼(かの)重衡卿(しげひらのきやう)は、東大寺(とうだいじ)焼失(ぜうしつ)の逆臣(げきしん)也(なり)。
すべからく頼朝(よりともの)朝臣(あそん・あつそん)申請(まうしうく)る旨(むね)にまかせて、死罪(しざい)におこなはるべしといへども、独(ひと)り親族(しんぞく)にわかれて、已(すで)にいけどりとなる。籠鳥(ろうてう)雲(くも)を恋(こふ)るおもひ、遥(はるか)に千里(せんり)の南海(なんかい)にうかび、帰雁(きがん)友(とも)を失(うしな)ふ心(こころ)、さだめて九重(きうちよう・きうてう)の中途(ちゆうと・ちうと)に通(とう)ぜんか。しかれば則(すなはち)三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)をかへし入(いれ)たてまつらんにおひて(おいて)は、彼(かの)卿(きやう)を寛宥(くわんいう・くわんゆう)せらるべき也(なり)。者(てへれば)院宣(ゐんぜん)かくのごとし。仍(よつて)執達(しつたつ)如件(くだんのごとし)。寿永(じゆえい・じゆゑい)三年(さんねん)二月(にぐわつ・にんぐわつ)十四日(じふしにち)大膳(だいぜんの)大夫(だいぶ)成忠(なりただ)がうけ給(たま)はり進上(しんじやう)平(へい)大納言殿(だいなごんどの)へとぞかかれたる。 
請文 (うけぶみ) 

 

大臣殿(おほいとの)・平(へい)大納言(だいなごん)のもとへは院宣(ゐんぜん)のおもむきを申(まうし)給(たま)ふ。二位殿(にゐどの)へは御(おん)ふみこまごまとかいてまいらせ(まゐらせ)られたり。「いま一度(いちど)御(ご)らんぜんとおぼしめし候(さうら)はば、内侍所(ないしどころ)の御事(おんこと)を大臣殿(おほいとの)によくよく申(まう)させをはしませ(おはしませ)。さ候(さうら)はでは、この世(よ)にてげんざんに入(いる)べしとも覚(おぼえ)候(さうら)はず」な(ン)ど(など)ぞかかれたる。二位殿(にゐどの)はこれをみ給(たま)ひて、とかうの事(こと)もの給(たま)はず、ふみをふところにひきいれて、うつぶしにぞなられける。
まことに心(こころ)のうち、さこそはをはし(おはし)けめとおしはかられて哀(あはれ)なり。さる程(ほど)に、平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)をはじめとして、平家(へいけ)一門(いちもん)の公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)よりあひ給(たま)ひて、御請文(おんうけぶみ・おんうけふみ)のおもむき僉議(せんぎ)せらる。
二位殿(にゐどの)は中将(ちゆうじやう・ちうじやう)のふみをかほにおしあてて、人々(ひとびと)のなみゐたまへるうしろの障子(しやうじ)をひきあけて、大臣殿(おほいとの)の御(おん)まへにたをれ(たふれ)ふし、なくなくの給(たま)ひけるは、「あの中将(ちゆうじやう・ちうじやう)が京(きやう)よりいひをこし(おこし)たる事(こと)のむざんさよ。げにも心(こころ)のうちにいかばかりの事(こと)を思(おも)ひゐたるらん。ただわれにおもひゆるして、内侍所(ないしどころ)を宮(みや)こへかへしいれたてまつれ」との給(たま)へば、大臣殿(おほいとの)「誠(まこと)に宗盛(むねもり)もさこそは存(ぞんじ)候(さうら)へども、さすが世(よ)のきこへ(きこえ)もいふかい(かひ)なう候(さうらふ)。且(かつ・かつ(ウ))は頼朝(よりとも)がおもはん事(こと)もはづかしう候(さうら)へば、左右(さう)なう内侍所(ないしどころ)をかへし入(いれ)たてまつる事(こと)はかなひ候(さうらふ)まじ。
其(その)うへ、帝王(ていわう)の世(よ)をたもたせ給(たま)ふ御事(おんこと)は、ひとへに内侍所(ないしどころ)の御(おん)ゆへ(ゆゑ)也(なり)。子(こ)のかなしいも様(やう)にこそより候(さうら)へ。且(かつ・かつ(ウ))は中将(ちゆうじやう・ちうじやう)一人(いちにん)に、余(よ)の子(こ)ども、したしゐ(したしい)人々(ひとびと)をば、さておぼしめしかへさせ給(たまふ)べき歟(か)」と申(まう)されければ、二位殿(にゐどの)かさねてのたまひけるは、「故(こ)入道(にふだう・にうだう)におくれて後(のち)は、かた時(とき)も命(いのち)いきてあるべしともおもはざりしかども、主上(しゆしやう)かやうにいつとなく旅(たび)だたせ給(たま)ひたる御事(おんこと)の御心(おんこころ)ぐるしさ、又(また)君(きみ)をも御代(みよ)にあらせまいらせ(まゐらせ)ばやな(ン)ど(など)おもふゆへ(ゆゑ)にこそ、いままでもながらへてありつれ。中将(ちゆうじやう)一(いち)の谷(たに)で生(いけ)どりにせられぬとききし後(のち)は、肝(きも)たましゐ(たましひ)も身(み)にそはず。いかにしてこの世(よ)にていま一度(いちど)あひみるべきとおもへども、夢(ゆめ)にだにみえねば、いとどむねせきて、ゆみづものどへ入(いれ)られず。いまこのふみをみて後(のち)は、いよいよ思(おも)ひやりたる方(かた)もなし。
中将(ちゆうじやう・ちうじやう)世(よ)になき物(もの)ときかば、われも同(おなじ)みちにおもむかんと思(おも)ふ也(なり)。ふたたび物(もの)をおもはぬさきに、ただわれをうしなひ給(たま)へ」とて、おめき(をめき)さけび給(たま)へば、まことにさこそはおもひ給(たま)ふらめと哀(あはれ)におぼえて、人々(ひとびと)涙(なみだ)をながしつつ、みなふしめにぞなられける。新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)知盛(とももり)の意見(いけん)に申(まう)されけるは、「三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)を都(みやこ)へかへし入(いれ)たてま(ッ)たりとも、重衡(しげひら)をかへし給(たま)はらん事(こと)ありがたし。ただはばかりなくその様(やう)を御請文(おんうけぶみ)に申(まう)さるべうや候(さうらふ)らん」と申(まう)されければ、大臣殿(おほいとの)「此(この)儀(ぎ)尤(もつと)もしかるべし」とて、御請文(おんうけぶみ)申(まう)されけり。二位殿(にゐどの)はなくなく中将(ちゆうじやう・ちうじやう)の御(おん)かへり事(ごと)かき給(たま)ひけるが、涙(なみだ)にくれて筆(ふで)のたてどもおぼえねども、心(こころ)ざしをしるべにて、御文(おんふみ)こまごまとかいて、重国(しげくに)にたびにけり。
北方(きたのかた)大納言佐殿(だいなごんのすけどの)は、ただなくより外(ほか)の事(こと)なくて、つやつや御(おん)かへり事(ごと)もしたまはず。誠(まこと)に御心(おんこころ)のうちさこそは思(おも)ひ給(たま)ふらめと、おしはかられて哀(あはれ)也(なり)。重国(しげくに)も狩衣(かりぎぬ)の袖(そで)をしぼりつつ、なくなく御(おん)まへをまかりたつ。平(へい)大納言(だいなごん)時忠(ときただ)は、御坪(おつぼ)のめし次(つぎ)花方(はなかた)をめして、「なんぢは花方(はなかた)歟(か)」。「さん候(ざうらふ)」。「法皇(ほふわう・ほうわう)の御使(おんつかひ)におほくの浪路(なみぢ)をしのいでこれまでまひり(まゐり)たるに、一期(いちご)が間(あひだ・あいだ)のおもひでひとつあるべし」とて、花方(はなかた)がつらに「浪方(なみかた)」といふやいじるしお(を)ぞせられける。宮(みや)こへのぼりたりければ、法皇(ほふわう・ほうわう)これを御(ご)らんじて、「よしよしちからおよばず。浪方(なみかた)ともめせかし」とて、わらはせおはします。今月(こんぐわつ・こんぐわち)十四日(じふしにち)の院宣(ゐんぜん)、同(おなじき)廿八日(にじふはちにち)讃岐国(さぬきのくに)八島(やしま)の磯(いそ)に致来(たうらい)。謹(つつしんで)以(もつて・も(ツ)て)承(うけたまは)るところ如件(くだんのごとし)。
ただしこれにつゐ(つい)てかれを案(あん)ずるに、通盛卿(みちもりのきやう)以下(いげ)当家(たうけ)数輩(すはい)、摂州(せつしう)一谷(いちのたに)にして既(すで)に誅(ちゆう・ちう)せられおは(ン・をはん)ぬ。何(なん)ぞ重衡(しげひら)一人(いちにん)の寛宥(くわんいう・くわんゆう)を悦(よろこぶ)べきや。夫(それ)我(わが)君(きみ)は、故(こ)高倉院(たかくらのゐん)の御譲(おんゆづり)をうけさせ給(たま)ひて、御在位(ございゐ)すでに四ケ年(しかねん)、政(まつりご)と堯舜(げうしゆん)の古風(こふう)をとぶらふところに、東夷(とうい)北狄(ほくてき)党(たう)をむすび、群(くん)をなして入洛(じゆらく)のあひだ、且(かつ・かつ(ウ))は幼帝(えうてい・ようてい)母后(ぼこう)の御(おん)なげき尤(もつと)もふかく、且(かつ・かつ(ウ))は外戚(ぐわいせき)近臣(きんしん)のいきどをり(いきどほり)あさからざるによ(ッ)て、しばらく九国(くこく)に幸(かう)ず。還幸(くわんかう)なからんにおいては、三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)いかでか玉体(ぎよくたい)をはなちたてまつるべきや。それ臣(しん)は君(きみ)をも(ッ)てこころとし、君(きみ)は臣(しん)をも(ッ)て体(たい)とす。
君(きみ)やすければすなはち臣(しん)やすく、臣(しん)やすければすなはち国(くに)やすし。君(きみ)かみにうれふれば臣(しん)しもにたのしまず。心中(しんぢゆう・しんぢう)に愁(うれへ)あれば体外(ていぐわい)によろこびなし。曩祖(なうそ)平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)、相馬(さうまの)小次郎(こじらう)将門(まさかど)を追討(ついたう)せしよりこのかた、東八ケ国(とうはつかこく)をしづめて子々孫々(ししそんぞん)につたへ、朝敵(てうてき)の謀臣(ぼうしん)を誅罰(ちゆうばつ・ちうばつ)して、代々世々(だいだいせせ)にいたるまで朝家(てうか)の聖運(せいうん)をまもりたてまつる。しかれば則(すなはち)亡父(ばうぶ)故(こ)太政(だいじやう)大臣(だいじん)、保元(ほうげん)・平治(へいぢ)両度(りやうど)の合戦(かつせん)の時(とき)、勅命(ちよくめい)ををもう(おもう)して、私(わたくし)の命(めい)をかろうす。ひとへに君(きみ)の為(ため)にして、身(み)のためにせず。就中(なかんづく)彼(かの)頼朝(よりとも)は、去(さんぬる)平治(へいぢ・へいじ)元年(ぐわんねん)十二月(じふにぐわつ)、父(ちち)左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)が謀反(むほん)によ(ッ)て、頻(しきり)に誅罰(ちゆうばつ・ちうばつ)せらるべきよし仰下(おほせくだ)さるといへども、故(こ)入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)慈悲(じひ)のあまり申(まうし)なだめられしところ也(なり)。
しかるに昔(むかし)の洪恩(こうおん・こうをん)をわすれ、芳意(はうい)を存(ぞん)ぜず、たちまちに狼羸(らうるい)の身(み)をも(ッ)て猥(みだり)に蜂起(ほうき)の乱(らん)をなす。至愚(しぐ)のはなはだしき事(こと)申(まうし)てあまりあり。早(はや)く神明(しんめい)の天罰(てんばつ)をまねき、ひそかに敗跡(はいせき)の損滅(そんめつ)を期(ご)する者(もの)歟(か)。夫(それ)日月(じつげつ)は一物(いちもつ)の為(ため)にそのあきらかなることをくらうせず。明王(めいわう)は一人(いちにん)がためにその法(ほふ・ほう)をまげず。一悪(いちあく)をも(ッ)て其(その)善(ぜん)ををすてず、小瑕(せうか)をも(ッ)て其(その)功(こう)をおおふ(おほふ)事(こと)なかれ。且(かつ・かつ(ウ))は当家(たうけ)数代(すだい)の奉公(ほうこう)、且(かつ・かつ(ウ))は亡父(ばうぶ)数度(すど)の忠節(ちゆうせつ・ちうせつ)、思食忘(おぼしめしわすれ)ずは君(きみ)かたじけなく四国(しこく)の御幸(ごかう)あるべき歟(か)。時(とき)に臣等(しんら)院宣(ゐんぜん)をうけ給(たま)はり、ふたたび旧都(きうと)にかへ(ッ)て会稽(くわいけい)の恥(はぢ)をすすがん。
若(もし)然(しか)らずは、鬼界(きかい)・高麗(かうらい)・天竺(てんぢく)・震旦(しんだん)にいたるべし。悲(かなしき)哉(かな)、人王(にんわう)八十一(はちじふいち)代(だい)の御宇(ぎよう)にあた(ッ)て、我(わが)朝(てう)神代(じんだい)の霊宝(れいほう)、つゐに(つひに)むなしく異国(いこく)のたからとなさん歟(か)。よろしくこれらのおもむきをも(ッ)て、しかるべき様(やう)に洩(もらし)奏聞(そうもん)せしめ給(たま)へ。宗盛(むねもり)誠恐(せいきやう)頓首(とんじゆ)謹言(きんげん)寿永(じゆえい・じゆゑい)三年(さんねん)二月(にぐわつ・にんぐわつ)廿八日(にじふはちにち)従(じゆ)一位(いちゐ)平(たひらの)朝臣(あそん・あつそん)宗盛(むねもり)が請文(うけぶみ)とこそかかれたれ。 
戒文 (かいもん) 

 

三位(さんみの・さんゐの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)これをきいて、「さこそはあらんずれ。いかに一門(いちもん)の人々(ひとびと)わるくおもひけん」と後悔(こうくわい)すれどもかひぞなき。げにも重衡卿(しげひらのきやう)一人(いちにん)ををしみて、さしもの我(わが)朝(てう)の重宝(ちようほう・てうほう)三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)をかへしいれたてまつるべしともおぼえねば、この御請文(おんうけぶみ・おんうけふみ)のおもむきは、兼(かね)てよりおもひまうけられたりしかども、いまだ左右(さう)を申(まう)されざりつる程(ほど)は、なにとなういぶせくおもはれけるに、請文(うけぶみ)すでに到来(たうらい)して、関東(くわんとう)〔へ〕下向(げかう)せらるべきにさだまりしかば、なんのたのみもよはり(よわり)はてて、よろづ心(こころ)ぼそう、宮(みや)この名残(なごり)も今更(いまさら)おしう(をしう)〔ぞ〕おもはれける。
三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)、土肥(とひの・といの)二郎(じらう)をめして、「出家(しゆつけ)をせばやと思(おも)ふはいかがあるべき」との給(たま)へば、実平(さねひら)このよしを九郎(くらう)御曹司(おんざうし)に申(まう)す。院(ゐんの)御所(ごしよ)へ奏聞(そうもん)せられたりければ、「頼朝(よりとも)に見(み)せて後(のち)こそ、ともかうもはからはめ。只今(ただいま)は争(いかで)かゆるすべき」と仰(おほせ)ければ、此(この)よしを申(まう)す。「さらば年(とし)ごろ契(ちぎり)たりし聖(ひじり)に、今(いま)一度(いちど)対面(たいめん)して、後生(ごしやう)の事(こと)を申(まうし)談(だん)ぜばやとおもふはいかがすべき」との給(たま)へば、「聖(ひじり)をば誰(たれ)と申(まうし)候(さうらふ)やらん」。「黒谷(くろだに)の法然房(ほふねんばう・ほうねんばう)と申(まうす)人(ひと)なり」。
「さてはくるしう候(さうらふ)まじ」とて、ゆるしたてまつる。中将(ちゆうじやう・ちうじやう)なのめならず悦(よろこび)て、聖(ひじり)を請(しやう)じたてま(ッ)て、なくなく申(まう)されけるは、「今(この)度(たび)いきながらとらはれて候(さうらひ)けるは、ふたたび上人(しやうにん)の見参(げんざん)にまかり入(い)るべきで候(さうらひ)けり。さても重衡(しげひら)が後生(ごしやう)、いかがし候(さうらふ)べき。身(み)の身(み)にて候(さうらひ)し程(ほど)は、出仕(しゆつし)にまぎれ、政務(せいむ)にほだされ、慢(けうまん)の心(こころ)のみふかくして、かつて当来(たうらい)の昇沈(しようちん・せうちん)をかへりみず。況(いはん)や運(うん・うむ)つき、世(よ)みだれてよりこのかたは、ここにたたかひ、かしこにあらそひ、人(ひと)をほろぼし、身(み)をたすからんとおもふ悪心(あくしん)のみ遮(さへぎり)て、善心(ぜんしん)はかつて発(おこ・をこ)らず。就中(なかんづく)に南都(なんと)炎上(えんしやう)の事(こと)、王命(わうめい)といひ、武命(ぶめい)といひ、君(きみ)につかへ、世(よ)にしたがふはう(ほふ)のがれがたくして、衆徒(しゆと)の悪行(あくぎやう)をしづめんがためにまかりむか(ッ)て候(さうらひ)し程(ほど)に、不慮(ふりよ)に伽藍(がらん)の滅亡(めつぼう)に及(および・をよび)候(さうらひ)し事(こと)、力(ちから)及(およ)ばぬ次第(しだい)にて候(さうら)へども、時(とき)の大将軍(たいしやうぐん)にて候(さうらひ)し上(うへ)は、せめ一人(いちにん)に帰(き)すとかや申(まうし)候(さうらふ)なれば、重衡(しげひら)一人(いちにん)が罪業(ざいごふ・ざいごう)にこそなり候(さうらひ)ぬらめと覚(おぼ)え候(さうらふ)。
かつうはか様(やう)に人(ひと)しれずかれこれ恥(はぢ)をさらし候(さうらふ)も、しかしながらそのむくひとのみこそおもひしられて候(さうら)へ。いまはかしらをそり、戒(かい)をたもちなんとして、ひとへに仏道(ぶつだう)修行(しゆぎやう)したう候(さうら)へども、かかる身(み)にまかりな(ッ)て候(さうら)へば、心(こころ)に心(こころ)をもまかせ候(さうら)はず、けふあすともしらぬ身(み)のゆくゑ(ゆくへ)にて候(さうら)へば、いかなる行(ぎやう)を修(じゆ)して、一業(いちごふ・いちごう)たすかるべしともおぼえぬこそくちをしう候(さうら)へ。倩(つらつ)ら一生(いつしやう)の化行(けぎやう)をおもふに、罪業(ざいごふ・ざいごう)は須弥(しゆみ)よりもたかく、善業(ぜんごふ・ぜんごう)は微塵(みぢん)ばかりも蓄(たくは)へなし。かくてむなしく命(いのち)おはり(をはり)なば、火穴湯(くわけつたう)の苦果(くくわ)、あへて疑(うたがひ・うたがい)なし。ねがはくは、上人(しやうにん)慈悲(じひ)ををこし(おこし)あはれみを垂(たれ)て、かかる悪人(あくにん)のたすかりぬべき方法(はうぼふ・はうぼう)候者(さうらはば)、しめし給(たま)へ」。其(その)時(とき)上人(しやうにん)涙(なみだ)に咽(むせん)で、しばしは物(もの)ものたまはず。
良(やや)久(ひさ)しうあ(ッ)て、「誠(まこと)に受難(うけがた)き人身(にんじん)を受(うけ)ながら、むなしう三途(さんづ)にかへり給(たま)はん事(こと)、かなしんでも猶(なほ・なを)あまりあり。しかるをいま穢土(ゑど)をいとひ、浄土(じやうど)をねがはんに、悪心(あくしん)をすてて善心(ぜんしん)を発(おこ・をこ)しまさん事(こと)、三世(さんぜ)の諸仏(しよぶつ)もさだめて随喜(ずいき)し給(たま)ふべし。それについて、出離(しゆつり)のみちまちまちなりといへども、末法(まつぽふ・まつぽう)濁乱(じよくらん)の機(き)には、称名(しようみやう・せうみやう)をも(ッ)てすぐれたりとす。心(こころ)ざしを九品(くほん)にわかち、行(ぎやう)を六字(ろくじ)につづめて、いかなる愚智(ぐち)闇鈍(あんどん)の物(もの)も唱(とな)ふるに便(たよ)りあり。罪(つみ)ふかければとて、卑下(ひげ)し給(たま)ふべからず、十悪(じふあく・じうあく)五逆(ごぎやく)廻心(ゑしん)すれば往生(わうじやう)をとぐ。
功徳(くどく)すくなければとて望(のぞみ)をたつべからず、一念(いちねん)十念(じふねん・じうねん)の心(こころ)を致(いた)せば来迎(らいかう)す。「専称(せんしよう・せんせう)名号(みやうがう)至(し)西方(さいはう)」と尺(しやく)して、専(もつぱ)ら名号(みやうがう)を称(しよう・せう)すれば、西方(さいはう)にいたる。
「念々(ねんねん)称名(しようみやう・せうみやう)常懺悔(じやうさんげ)」とのべて、念々(ねんねん)に弥陀(みだ)を唱(とな)ふれば、懺悔(さんげ)する也(なり)とおしへ(をしへ)たり。「利剣(りけん)即是(そくぜ)弥陀号(みだがう)」をたのめば、魔閻(まえん)ちかづかず。「一声(いつしやう)称念(しようねん・せうねん)罪(ざい)皆除(かいじよ)」と念(ねん)ずれば、罪(つみ)みなのぞけりと見(み)えたり。浄土宗(じやうどしゆう・じやうどしう)の至極(しごく)、おのおの略(りやく)を存(ぞん)じて、大略(たいりやく)これを肝心(かんじん)とす。
ただし往生(わうじやう)の得否(とくふ)は信心(しんじん)の有無(うむ)によるべし。ただふかく信(しん)じてゆめゆめ疑(うたがひ)をなし給(たま)ふべからず。若(もし)このおしへ(をしへ)をふかく信(しん)じて、行住(ぎやうぢゆう・ぎやうぢう)坐臥(ざぐわ)時処(じしよ)諸縁(しよえん)をきらはず、三業(さんごふ・さんごう)四威儀(しゐぎ)において、心念(しんねん)口称(くしよう・くせう)をわすれ給(たま)はずは、畢命(ひつみやう)を期(ご)として、この苦域(くいき)の界(かい)をいでて、彼(かの)不退(ふたい)の土(ど)に往生(わうじやう)し給(たま)はん事(こと)、何(なん)の疑(うたがひ)かあらんや」と教化(けうげ)し給(たま)ひければ、中将(ちゆうじやう・ちうじやう)なのめならず悦(よろこび)て、「このつゐで(ついで)に戒(かい)をたもたばやと存(ぞんじ)候(さうらふ)は、出家(しゆつけ)仕(つかまつ)り候(さうら)はではかなひ候(さうらふ)まじや」と申(まう)されければ、「出家(しゆつけ)せぬ人(ひと)も、戒(かい)をたもつ事(こと)は世(よ)のつねのならひ也(なり)」とて、額(ひたひ・ひたい)にかうぞりをあてて、そるまねをして、十戒(じつかい)をさづけられければ、中将(ちゆうじやう・ちうじやう)随喜(ずいき)の涙(なみだ)をながひ(ながい)て、これをうけたもち給(たま)ふ。
上人(しやうにん)もよろづ物(もの)あはれにおぼえて、かきくらす心地(ここち)して、なくなく戒(かい)をぞとかれける。御布施(おんふせ)とおぼしくて、年(とし)ごろつねにおはしてあそばれけるさぶらひのもとにあづけをか(おか)れたりける御硯(おんすずり)を、知時(ともとき)してめしよせて、上人(しやうにん)にたてまつり、「これをば人(ひと)にたび候(さうら)はで、つねに御目(おんめ)のかかり候(さうら)はんところにおかれ候(さうらひ)て、それがしが物(もの)ぞかしと御(ご)らんぜられ候(さうら)はんたびごとに、おぼしめしなずらへて、御念仏(おんねんぶつ)候(さうらふ)べし。御(おん)ひまには、経(きやう)をも一巻(いつくわん)御廻向(ごゑかう)候者(さうらはば)、しかるべう候(さうらふ)べし」な(ン)ど(など)、なくなく申(まう)されければ、上人(しやうにん)とかうの返事(へんじ)にも及(およ・をよ)ばず、これをと(ッ)てふところにいれ、墨染(すみぞめ)の袖(そで)をしぼりつつ、なくなくかへり給(たま)ひけり。この硯(すずり)は、親父(しんぶ)入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)砂金(しやきん)をおほく宋朝(そうてう)の御門(みかど)へたてまつり給(たま)ひたりければ、返報(へんぱう・へんぽう)とおぼしくて、日本(につぽん)和田(わだ)の平(へい)大相国(たいしやうこく)のもとへとて、おくられたりけるとかや。名(な)をば松蔭(まつかげ)とぞ申(まうし)ける。 
海道下 (かいだうくだり) 

 

さる程(ほど)に、本三位(ほんざんみの・ほんざんゐの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)をば、鎌倉(かまくら)の前(さきの)兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)、しきりに申(まう)されければ、「さらばくださるべし」とて、土肥(とひの・といの)二郎(じらう)実平(さねひら)が手(て)より、まづ九郎(くらう)御曹司(おんざうし)の宿所(しゆくしよ)へわたしたてまつる。同(おなじき)三月(さんぐわつ)十日(とをかのひ)、梶原(かぢはら)平三(へいざう)景時(かげとき)にぐせられて、鎌倉(かまくら)へこそくだられけれ。西国(さいこく)よりいけどりにせられて、宮(みや)こへかへるだに口(くち)おしき(をしき)に、いつしか又(また)関(せき)の東(ひがし・ひ(ン)がし)へおもむかれけん心(こころ)のうち、をしはから(おしはから)れて哀(あはれ)也(なり)。
四宮河原(しのみやがはら)になりぬれば、ここはむかし、延喜(えんぎ)第四(だいし)の王子(わうじ)蝉丸(せみまる)の関(せき)の嵐(あらし)に心(こころ)をすまし、琵琶(びは・びわ)をひき給(たま)ひしに、伯雅(はくが)の三位(さんみ・さんゐ)と云(いひ)し人(ひと)、風(かぜ)のふく日(ひ)もふかぬ日(ひ)も、雨(あめ)のふる夜(よ)もふらぬ夜も、三(み)とせがあひだ、あゆみをはこび、たちききて、彼(か)の三曲(さんきよく)をつたへけんわら屋(や)のとこのいにしへも、おもひやられてあはれ也(なり)。合坂山(あふさかやま)をうちこえて、勢田(せた)の唐橋(からはし)駒(こま)もとどろにふみならし、ひばりあがれる野路(のぢ)のさと、志賀(しが)の浦浪(うらなみ)春(はる)かけて、霞(かすみ)にくもる鏡山(かがみやま)、比良(ひら)の高根(たかね)を北(きた)にして、伊吹(いぶき)の嵩(だけ)も近(ちか)づきぬ。
心(こころ)をとむとしなけれども、あれて中々(なかなか)やさしきは、不破(ふは)の関屋(せきや)の板(いた)びさし、いかに鳴海(なるみ)の塩(しほ)ひがた、涙(なみだ)に袖(そで)はしほれ(しをれ)つつ、彼(かの)在原(ありはら)のなにがしの、唐衣(からごろも)きつつなれにしとながめけん、参川(みかは)の国(くに)八橋(やつはし)にもなりぬれば、蛛手(くもで)に物(もの)をと哀(あはれ)也(なり)。浜名(はまな)の橋(はし)をわたり給(たま)へば、松(まつ)の梢(こずゑ)に風(かぜ)さえて、入江(いりえ)にさはぐ(さわぐ)浪(なみ)の音(おと・をと)、さらでも旅(たび)は物(もの)うきに、心(こころ)をつくす夕(ゆふ)まぐれ、池田(いけだ)の宿(しゆく)にもつき給(たま)ひぬ。彼(かの)宿(しゆく)の長者(ちやうじや)ゆやがむすめ、侍従(じじゆう・じじう)がもとに其(その)夜(よ)は宿(しゆく)せられけり。
侍従(じじゆう・じじう)、三位(さんみの・さんゐの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)を見(み)たてま(ッ)て、「昔(むかし)はつてにだにおもひよらざりしに、けふはかかるところにいらせ給(たま)ふふしぎさよ」とて、一首(いつしゆ)の歌(うた)をたてまつる。
旅(たび)のそらはにふのこやのいぶせさにふるさといかにこひしかるらん
三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)返事(へんじ)には、
故郷(ふるさと)も恋(こひ)しくもなしたびの空(そら)宮(みや)こもつゐ(つひ)のすみかならねば
中将(ちゆうじやう)「やさしうもつかま(ッ)たる物(もの)かな。この歌(うた)のぬしはいかなる物(もの)やらん」と御尋(おんたづね)ありければ、景時(かげとき)畏(かしこま・ッ)て申(まうし)けるは、「君(きみ)はいまだしろしめされ候(さうら)はずや。あれこそ八島(やしま)の大臣殿(おほいとの)、当国(たうごく)のかみでわたらせ給(たま)ひし時(とき)、めされまいらせ(まゐらせ)て、御最愛(ごさいあい)にて候(さうらひ)しが、老母(らうぼ)をこれにとどめをき(おき)、しきりにいとまを申(まう)せども、給(たま)はらざりければ、比(ころ)はやよひのはじめなりけるに、
いかにせん宮(みや)この春(はる)もおしけれ(をしけれ)どなれし吾妻(あづま)の花(はな)やちるらん
と仕(つかまつり)て、いとまを給(たまは・ッ)てくだりて候(さうらひ)し、海道一(かいだういち)の名人(めいじん)にて候(さうら)へ」とぞ申(まうし)ける。宮(みや)こをいでて日(ひ)数(かず)ふれば、やよひもなか半(ば)すぎ、春(はる)もすでにくれなんとす。遠山(ゑんざん)の花(はな)は残(のこん)の雪(ゆき)かとみえて、浦々(うらうら)島々(しまじま)かすみわたり、こし方(かた)行末(ゆくすゑ)の事(こと)どもおもひつづけ給(たま)ふに、「さればこれはいかなる宿業(しゆくごふ・しゆくごう)のうたてさぞ」との給(たま)ひて、ただつきせぬ物(もの)は涙(なみだ)なり。御子(おんこ)の一人(いちにん)もおはせぬ事(こと)を、母(はは)の二位殿(にゐどの)もなげき、北方(きたのかた)大納言佐殿(だいなごんのすけどの)もほいなきことにして、よろづの神(かみ)ほとけにいのり申(まう)されけれども、そのしるしなし。「かしこうぞなかりける。子(こ)だにあらましかば、いかに心(こころ)ぐるしからん」との給(たま)ひけるこそせめての事(こと)なれ。さやの中山(なかやま)にかかり給(たま)ふにも、又(また)こゆべしともおぼえねば、いとどあはれのかずそひて、たもとぞいたくぬれまさる。宇都(うつ)の山辺(やまべ)の蔦(つた)の道(みち)、心(こころ)ぼそくもうちこえて、手(て)ごしをすぎてゆけば、北(きた)にとをざか(ッ・とほざかつ)て、雪(ゆき)しろき山(やま)あり。とへば甲斐(かひ・かい)のしら根(ね)といふ。其(その)時(とき)三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)おつる涙(なみだ)ををさへ(おさへ)て、かうぞおもひつづけ給(たま)ふ。
おしから(をしから)ぬ命(いのち)なれどもけふまでぞつれなきかひのしらねをもみつ
清見(きよみ)が関(せき)うちすぎて、富士(ふじ)のすそ野(の)になりぬれば、北(きた)には青山(せいざん)峨々(がが)として、松(まつ)吹(ふく)風(かぜ)索々(さくさく)たり。南(みなみ)には蒼海(さうかい)漫々(まんまん)として、岸(きし)うつ浪(なみ)も茫々(ばうばう)たり。「恋(こひ)せばやせぬべし、恋(こひ)せずもありけり」と、明神(みやうじん)のうたひはじめ給(たま)ひける足柄(あしがら)の山(やま)をもうちこえて、こゆるぎの森(もり)、まりこ河(がは)、小磯(こいそ)、大井そ(おほいそ)の浦々(うらうら)、やつまと、とがみが原(はら)、御輿(みこし)が崎(さき)をもうちすぎて、いそがぬ旅(たび)とおもへども、日数(ひかず)やうやうかさなれば、鎌倉(かまくら)へこそいり給(たま)へ。 
千手前 (せんじゆのまへ) 

 

兵衛佐(ひやうゑのすけ)いそぎ見参(げんざん)して、申(まう)されけるは、「抑(そもそも)君(きみ)の御(おん)いきどをり(いきどほり)をやすめたてまつり、父(ちち)の恥(はぢ)をきよめんとおもひたちしうへは、平家(へいけ)をほろぼさんの案(あん)のうちに候(さうら)へども、まさしくげんざんにいるべしとは存(ぞん)ぜず候(さうらひ)き。このぢやうでは、八島(やしま)の大臣殿(おほいとの)の見参(げんざん)にも入(いり)ぬと覚(おぼえ)候(さうらふ)。抑(そもそも)南都(なんと)をほろぼさせ給(たま)ひける事(こと)は、故(こ)太政(だいじやう)入道殿(にふだうどの・にうだうどの)の仰(おほせ)にて候(さうらひ)しか、又(また)時(とき)にと(ッ)ての御(おん)ぱからひにて候(さうらひ)けるか。も(ッ)ての外(ほか)の罪業(ざいごふ・ざいごう)にてこそ候(さうらふ)なれ」と申(まう)されければ、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうぢやう)の給(たま)ひけるは、「まづ南都(なんと)炎上(えんしやう)の事(こと)、故(こ)入道(にふだう・にうだう)の成敗(せいばい)にもあらず、重衡(しげひら)が愚意(ぐい)の発起(ほつき)にもあらず。
衆徒(しゆと)の悪行(あくぎやう)をしづめんが為(ため)にまかりむか(ッ)て候(さうらひ)し程(ほど)に、不慮(ふりよ)に伽藍(がらん)滅亡(めつばう)に及(および・をよび)候(さうらひ)し事(こと)、力(ちから)及(およ・をよ)ばぬ次第(しだい)也(なり)。昔(むかし)は源平(げんぺい)左右(さう)にあらそひて、朝家(てうか)の御(おん)まもりたりしかども、近比(ちかごろ)源氏(げんじ)の運(うん)かたぶきたりし事(こと)は、事(こと)あたらしう初(はじ)めて申(まうす)べきにあらず。当家(たうけ)は保元(ほうげん)・平治(へいぢ)よりこのかた、度々(どど)の朝敵(てうてき)をたいらげ(たひらげ)、勧賞(けんじやう)身(み)にあまり、かたじけなく一天(いつてん)の君(きみ)の御外戚(ごぐわいせき)として、一族(いちぞく)の昇進(しようじん・せうじん)六十(ろくじふ)余人(よにん)、廿余年(にじふよねん)のこのかたは、たのしみさかへ(さかえ)申(まうす)はかりなし。
今(いま)又(また)運(うん)つきぬれば、重衡(しげひら)とらはれてこれまでくだり候(さうらひ)ぬ。それについて、帝王(ていわう)の御(おん)かたきをう(ッ)たるものは、七代(しちだい)まで朝恩(てうおん・てうをん)うせずと申(まうす)事(こと)は、きはめたるひが事(こと)にて候(さうらひ)けり。まのあたり故(こ)入道(にふだう・にうだう)は、君(きみ)の御(おん)ためにすでに命(いのち)をうしなはんとする事(こと)度々(どど)に及(およ・をよ)ぶ。されども纔(わづか)に其(その)身(み)一代(いちだい)のさいはひにて、子孫(しそん)かやうにまかりなるべしや。されば、運(うん)つきて宮(みや)こを出(いで)し後(のち)は、かばねを山野(さんや)にさらし、名(な)を西海(さいかい)の浪(なみ)にながすべしとこそ存(ぞん)ぜしか。これまでくだるべしとは、かけてもおもはざりき。ただ先世(ぜんぜ)の宿業(しゆくごふ・しゆくごう)こそ口惜(くちをしく・くちおしく)候(さうら)へ。
ただし「陰道(いんとう・ゐんとう)はかたいにとらはれ、文王(ぶんわう)はゆうりにとらはる」といふ文(もん)あり。上古(しやうこ・しようこ)猶(なほ・なを)かくのごとし。况(いはん)や末代(まつだい)においてをや。弓矢(ゆみや)をとるならひ、敵(かたき)の手(て)にかか(ッ)て命(いのち)をうしなふ事(こと)、ま(ッ)たく恥(はぢ)にて恥(はぢ)ならず、ただ芳恩(はうおん・はうをん)には、とくとくかうべをはねらるべし」とて、其(その)後(のち)は物(もの)もの給(たま)はず。景時(かげとき)これをうけ給(たま)は(ッ)て、「あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)大将軍(たいしやうぐん)や」とて涙(なみだ)をながす。其(その)座(ざ)になみ居(ゐ)たる人々(ひとびと)みな袖(そで)をぞぬらしける。兵衛佐(ひやうゑのすけ)も、「平家(へいけ)を別(べつ)して私(わたくし)のかたきとおもひたてまつる事(こと)、ゆめゆめ候(さうら)はず。ただ帝王(ていわう)の仰(おほせ)こそおもう候(さうら)へ」とぞの給(たま)ひける。
「南都(なんと)をほろぼしたる伽藍(がらん)のかたきなれば、大衆(だいしゆ)さだめて申(まうす)旨(むね)あらんずらん」とて、伊豆国(いづのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)、狩野介(かののすけ)宗茂(むねもち)にあづけらる。そのてい、冥途(めいど)にて娑婆世界(しやばせかい)の罪人(ざいにん)を、なぬかなぬかに十王(じふわう)の手(て)にわたさるらんも、かくやとおぼえてあはれ也(なり)。
されども狩野介(かののすけ)、なさけある物(もの)にて、いたくきびしうもあたりたてまつらず。やうやうにいたはり、ゆどのしつらひな(ン)ど(など)して、御(おん・お)ゆひかせたてまつる。みち〔す〕がらのあせいぶせかりつれば、身(み)をきよめてうしなはんずるにこそと思(おも)はれけるに、よはひ廿(はたち)ばかりなる女房(にようばう)の、色(いろ)しろうきよげにて、まことにゆう(いう)にうつくしきが、めゆいのかたびらにそめつけのゆまきして、ゆどののとをおしあけてまいり(まゐり)たり。又(また)しばしあ(ッ)て、十四五(じふしご)ばかりなるめのわらはの、こむらごのかたびらきて、かみはあこめだけなるが、はんざうたらい(はんざふたらひ)にくしいれて、も(ッ)てまひり(まゐり)たり。この女房(にようばう)かいしやくして、やや久(ひさ)しうあみ、かみあらい(あらひ)な(ン)ど(など)してあがり給(たま)ひぬ。さてかの女房(にようばう)いとま申(まうし)てかへりけるが、「おとこ(をとこ)な(ン)ど(など)はこちなうもぞおぼしめす。中々(なかなか)おんな(をんな)はくるしからじとて、まいらせ(まゐらせ)られてさぶらふ。
「なに事(ごと・こと)でもおぼしめさん御事(おんこと)をばうけ給(たま)は(ッ)て申(まう)せ」とこそ兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は仰(おほせ)られ候(さうらひ)つれ」。中将(ちゆうじやう)「いまは是(これ)程(ほど)の身(み)にな(ッ)て、何事(なにごと)をか申(まう)すべき。ただおもふ事(こと)とては出家(しゆつけ)ぞしたき」との給(たま)ひければ、かへりまい(ッ・まゐつ)てこのよしを申(まう)す。兵衛佐(ひやうゑのすけ)「それ思(おも)ひもよらず。頼朝(よりとも)が私(わたくし)のかたきならばこそ。朝敵(てうてき)としてあづかりたてま(ッ)たる人(ひと)なり。ゆめゆめあるべうもなし」とぞの給(たま)ひける。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)守護(しゆご)の武士(ぶし)にの給(たま)ひけるは、「さても只今(ただいま)の女房(にようばう)は、ゆう(いう)なりつるものかな。名(な)をば何(なに)といふやらん」ととはれければ、「あれは手(て)ごしの長者(ちやうじや)がむすめで候(さうらふ)を、みめかたち心(こころ)ざま、ゆう(いう)にわりなきもので候(さうらふ)とて、この二三(にさん)ねんめしつかはれ候(さうらふ)が、名(な)をば千手(せんじゆ)の前(まへ)と申(まうし)候(さうらふ)」とぞ申(まうし)ける。その夕(ゆふべ・ゆうべ)雨(あめ)すこしふ(ッ)て、よろづ物(もの)さびしかりけるに、件(くだん)の女房(にようばう)、琵琶(びは・びわ)・琴(こと)もたせてまいり(まゐり)たり。狩野介(かののすけ)酒(しゆ)をすすめたてまつる。
我(わが)身(み)も家子(いへのこ)郎等(らうどう)十余人(じふよにん)ひき具(ぐ)してまいり(まゐり)、御(おん)まへちかう候(さうらひ)けり。千手(せんじゆ)の前(まへ)酌(しやく)をとる。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)すこしうけて、いと興(きよう・けふ)なげにてをはし(おはし)けるを、狩野介(かののすけ)申(まうし)けるは、「かつきこしめされてもや候(さうらふ)らん。鎌倉殿(かまくらどの)の「相構(あひかまへ)てよくよくなぐさめまいらせよ(まゐらせよ)。懈怠(けだい)にて頼朝(よりとも)うらむな」と仰(おほせ・あふせ)られ候(さうらふ)。
宗茂(むねもち)はもと伊豆国(いづのくに)のものにて候(さうらふ)あひだ、鎌倉(かまくら)では旅(たび)に候(さうら)へども、心(こころ)の及(および・をよび)候(さうら)はんほどは、奉公(ほうこう)仕(つかまつり)候(さうらふ)べし。何事(なにごと)でも申(まうし)てすすめまいら(まゐら)させ給(たま)へ」と申(まうし)ければ、千手(せんじゆ)酌(しやく)をさしおいて、「羅綺(らき)の重衣(ちようい・てうい)たる、情(なさけ)ない事(こと)を奇婦(きふ)に妬(ねたむ)」といふ朗詠(らうえい・らうゑい)を一両反(いちりやうへん)したりければ、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)の給(たま)ひけるは、「この朗詠(らうえい・らうゑい)せん人(ひと)をば、北野(きたの)の天神(てんじん)一日(いちにち)に三度(さんど)かけ(ッ)てまぼらんとちかはせ給(たま)ふ也(なり)。
されども重衡(しげひら)は、此(この)生(しやう)ではすてられ給(たま)ひぬ。助音(じよいん・じよゐん)してもなにかせん。罪障(ざいしやう)かろみぬべき事(こと)ならばしたがふべし」との給(たま)ひければ、千手前(せんじゆのまへ)やがて、「十悪(じふあく)といへども引摂(いんぜふ・いんぜう)す」といふ朗詠(らうえい・らうゑい)をして、「極楽(ごくらく)ねがはん人(ひと)はみな、弥陀(みだ)の名号(みやうがう)となふべし」といふ今様(いまやう)を四五反(しごへん)うたひすましたりければ、其(その)時(とき)坏(さかづき)をかたぶけらる。
千手前(せんじゆのまへ)給(たま)は(ッ)て狩野介(かののすけ)にさす。宗茂(むねもち)がのむ時(とき)に、琴(こと)をぞひきすましたる。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)の給(たま)ひけるは、「この楽(がく)をば普通(ふつう)には五常楽(ごしやうらく)といへども、重衡(しげひら)がためには後生楽(ごしやうらく)とこそ観(くわん)ずべけれ。やがて往生(わうじやう)の急(きう)をひかん」とたはぶれて、琵琶(びは・びわ)をとり、てんじゆをねぢて、皇(わうじやう)〔の〕急(きう)をぞひかれける。夜(よ)やうやうふけて、よろづ心(こころ)のすむままに、「あら、おもはずや、あづまにもこれほどゆう(いう)なる人(ひと)のありけるよ。何事(なにごと)にても今(いま)ひと声(こゑ)」との給(たま)ひければ、千手前(せんじゆのまへ)又(また)「一樹(いちじゆ)のかげにやどりあひ、おなじながれをむすぶも、みなこれ先世(ぜんぜ)の契(ちぎり)」といふ白拍子(しらびやうし)を、まことにおもしろくかぞへすましたりければ、中将(ちゆうじやう・ちうじやう)も「燈(ともしび)闇(くらう・くらふ)しては、数行(すかう)虞氏(ぐし)の涙(なんだ)」といふ郎詠(らうえい・らうゑい)をぞせられける。
たとへばこの郎詠(らうえい・らうゑい)の心(こころ)は、昔(むかし)もろこしに、漢(かんの)高祖(かうそ)と楚(その)項羽(かうう)と位(くらゐ)をあらそひて、合戦(かつせん)する事(こと)七十二度(しちじふにど)、たたかい(たたかひ)ごとに項羽(かうう)かちにけり。されどもつゐに(つひに)は項羽(かうう)たたかい(たたかひ)まけてほろびける時(とき)、すいといふ馬(むま)の、一日(いちにち)に千里(せんり)をとぶに乗(のつ)て、虞氏(ぐし)といふ后(きさき)とともににげさらんとしけるに、馬(むま)いかがおもひけん、足(あし)をととのへてはたらかず。項羽(かうう)涙(なみだ)をながいて、「わが威勢(ゐせい・いせい)すでにすたれたり。
いまはのがるべきかたなし。敵(かたき)のおそふは事(こと)のかずならず、この后(きさき)に別(わかれ)なん事(こと)のかなしさよ」とて、夜(よ)もすがらなげきかなしみ給(たま)ひけり。燈(ともしび)くらうなりければ、心(こころ)ぼそうて虞氏(ぐし)涙(なみだ)をながす。夜(よ)ふくるままに軍兵(ぐんびやう)四面(しめん)に時(とき)をつくる。この心(こころ)を橘相公(きつしやうこう)の賦(ふ)につくれるを、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)思(おも)ひいでられたりしにや、いとやさしうぞきこえける。さる程(ほど)に夜(よ)もあけければ、武士(ぶし)どもいとま申(まうし)てまかりいづ。千手前(せんじゆのまへ)もかへりにけり。
其(その)朝(あした)兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)、境節(をりふし・おりふし)持仏堂(ぢぶつだう)に法花経(ほけきやう)ようでをはし(おはし)けるところへ、千手前(せんじゆのまへ)まいり(まゐり)たり。佐殿(すけどの)うちゑみ給(たま)ひて、千手(せんじゆ)に「中人(なかうど)は面白(おもしろ)うしたる物(もの)を」との給(たま)へば、斎院(さいゐんの)次官(しくわん)親義(ちかよし)、おりふし(をりふし)御前(ごぜん)に物(もの)かいて候(さうらひ)けるが、「何事(なにごと)で候(さうらひ)けるやらん」と申(まうす)。「あの平家(へいけ)の人々(ひとびと)は、弓箭(きゆうせん・きうせん)の外(ほか)は他事(たじ)なしとこそ日(ひ)ごろはおもひたれば、この三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)の琵琶(びは・びわ)のばちをと(ばちおと)、口(くち)ずさみ、夜(よ)もすがらたちきいて候(さうらふ)に、ゆう(いう)にわりなき人(ひと)にてをはし(おはし)けり」。
親義(ちかよし)申(まうし)けるは、「たれも夜部(よべ)うけ給(たま)はるべう候(さうらひ)しが、おりふし(をりふし)いたはる事(こと)候(さうらひ)て、うけ給(たま)はらず候(さうらふ)。此(この)後(のち)は常(つね)にたちきき候(さうらふ)べし。平家(へいけ)はもとより代々(だいだい)の歌人(かじん)才人達(さいじんたち)で候(さうらふ)也(なり)。先年(せんねん)此(この)人々(ひとびと)を花(はな)にたとへ候(さうらひ)しに、この三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)をば牡丹(ぼたん)の花(はな)にたとへて候(さうらひ)しぞかし」と申(まう)されければ、「誠(まこと)にゆう(いう)なる人(ひと)にてありけり」とて、琵琶(びは・びわ)の撥音(ばちおと・ばちをと)、朗詠(らうえい・らうゑい)のやう、後(のち)までも、有難(ありがた)き事(こと)にぞの給(たま)ひける。千手前(せんじゆのまへ)はなかなかに物思(ものおも)ひのたねとやなりにけん。されば中将(ちゆうじやう・ちうじやう)南都(なんと)へわたされて、きられ給(たま)ひぬときこえしかば、やがてさまをかへ、こき墨染(すみぞめ)にやつれはて、信濃国(しなののくに)善光寺(ぜんくわうじ)におこなひすまして、彼(かの)後世菩提(ごせぼだい)をとぶらひ、わが身(み)も往生(わうじやう)の素懐(そくわい)をとげけるとぞきこえし。 
横笛 (よこぶえ) 

 

さる程(ほど)に、小松(こまつ)の三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)維盛卿(これもりのきやう)は、身(み)がらは八島(やしま)にありながら、心(こころ)は都(みやこ)へかよはれけり。ふるさとにとどめおき給(たま)ひし北方(きたのかた)おさなき(をさなき)人々(ひとびと)の面影(おもかげ)のみ、身(み)に立(たち)そひて、わするるひまもなかりければ、「あるにかひなき我(わが)身(み)かな」とて、元暦(げんりやく)元年(ぐわんねん)三月(さんぐわつ)十五日(じふごにち)の暁(あかつき)、しのびつつ八島(やしま)のたちをまぎれ出(いで)て、与三兵衛(よさうびやうゑ)重景(しげかげ)・石童丸(いしだうまる)といふわらは、舟(ふね)に心(こころ)えたればとて武里(たけさと)と申(まうす)とねり、これら三人(さんにん)をめしぐして、阿波国(あはのくに)結城(ゆふき)の浦(うら)より小舟(こぶね)にのり、鳴戸浦(なるとのうら)をこぎとほり、紀伊路(きのぢ)へおもむき給(たま)ひけり。
和歌(わか)・吹上(ふきあげ)・衣通姫(そとほりびめ・そとをりびめ)の神(かみ)とあらはれ給(たま)へる玉津島(たまつしま)の明神(みやうじん)、日前(にちぜん)・国懸(こくけん)の御前(ごぜん)をすぎて、紀伊(き)の湊(みなと)にこそつき給(たま)へ。「これより山(やま)づたひに宮(みや)こへのぼ(ッ)て、恋(こひ)しき人々(ひとびと)をいま一度(ひとたび)みもしみえばやとはおもへども、本三位(ほんざんみの・ほんざんゐの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)のいけどりにせられて、大路(おほち)をわたされ、京(きやう)・鎌倉(かまくら)、恥(はぢ)をさらすだに口(くち)おしき(をしき)に、この身(み)さへとらはれて、父(ちち)のかばねに血(ち)をあやさん事(こと)も心(こころ)うし」とて、千(ち)たび心(こころ)はすすめども、心(こころ)に心(こころ)をからかひて、高野(かうや)の御山(おやま)にまいら(まゐら)れけり。高野(かうや)にとしごろしり給(たま)へる聖(ひじり)あり。三条(さんでう)の斎藤(さいとう)左衛門(さゑもん)大夫(だいふ)茂頼(もちより)が子(こ)に、斎藤(さいとう)滝口(たきぐち)時頼(ときより)といひしもの也(なり)。
もとは小松殿(こまつどの)の侍(さぶらひ)也(なり)。十三(じふさん)のとし本所(ほんじよ)へまいり(まゐり)たりけるが、建礼門院(けんれいもんゐん)の雑仕(ざふし・ざうし)横笛(よこぶえ)といふおんな(をんな)あり、滝口(たきぐち)これを最愛(さいあい)す。ちちこれをつたへきいて、「世(よ)にあらんもののむこ子(こ)になして、出仕(しゆつし)なんど(など)をも心(こころ)やすうせさせんとすれば、世(よ)になき物(もの)を思(おも)ひそめて」と、あながちにいさめければ、滝口(たきぐち)申(まうし)けるは、「西王母(せいわうぼ)ときこえし人(ひと)、昔(むかし)はあ(ッ)て今(いま)はなし。東方朔(とうばうさく)とい(ッ)しものも、名(な)をのみききて目(め)にはみず。老少(らうせう)不定(ふぢやう)の世(よ)のなかは、石火(せきくわ)の光(ひかり)にことならず。たとひ人(ひと)長命(ちやうめい)といへども、七十(しちじふ)八十(はちじふ)をば過(すぎ)ず。そのうちに身(み)のさかんなる事(こと)はわづかに廿余年(にじふよねん)也(なり)。
夢(ゆめ)まぼろしの世(よ)のなかに、みにくきものをかた時(とき)もみてなにかせん。おもはしき物(もの)をみんとすれば、父(ちち)の命(めい)をそむくに似(に)たり。これ善知識(ぜんぢしき)也(なり)。しかじ、うき世(よ)をいとひ、まことの道(みち)に入(いり)なん」とて、十九(じふく)の年(とし)もとどりき(ッ)て、嵯峨(さが)の往生院(わうじやうゐん)におこなひすましてぞゐたりける。横笛(よこぶえ)これをつたへきいて、「われをこそすてめ、さまをさへかへけん事(こと)のうらめしさよ。たとひ世(よ)をばそむくとも、などかかくとしらせざらん。人(ひと)こそ心(こころ)つよくとも、尋(たづね)てうらみん」とおもひつつ、あるくれがたに宮(みや)こをいでて、嵯峨(さが)の方(かた)へぞあくがれゆく。ころはきさらぎ十日(とをか)あまりの事(こと)なれば、梅津(むめづ)の里(さと)の春風(はるかぜ)に、よそのにほひもなつかしく、大井河(おほゐがは)の月影(つきかげ)も、霞(かすみ)にこめておぼろ也(なり)。一(ひと)かたならぬあはれさも、たれゆへ(ゆゑ)とこそおもひけめ。往生院(わうじやうゐん)とはききたれども、さだかにいづれの房(ばう)ともしらざれば、ここにやすらひかしこにたたずみ、たづねかぬるぞむざんなる。すみあらしたる僧坊(そうばう)に、念誦(ねんじゆ)の声(こゑ)しけり。
滝口(たきぐち)入道(にふだう・にうだう)が声(こゑ)とききなして、「わらはこそこれまで尋(たづね)まひり(まゐり)たれ。さまのかはりてをはす(おはす)らんをも、今(いま)一度(いちど)みたてまつらばや」と、具(ぐ)したりける女(をんな)をも(ッ)ていはせければ、滝口(たきぐち)入道(にふだう・にうだう)むねうちさはぎ(さわぎ)、障子(しやうじ)のひまよりのぞひ(のぞい)てみれば、まことにたづねかねたるけしきいたはしうおぼえて、いかなる道心者(だうしんじや)も心(こころ)よはく(よわく)なりぬべし。やがて人(ひと)をいだして、「ま(ッ)たくこれにさる人(ひと)なし。門(かど)たがへてぞあるらん」とて、つゐに(つひに)あはでぞかへしける。横笛(よこぶえ)なさけなううらめしけれども、ちからなう涙(なみだ)をおさへてかへりけり。滝口(たきぐち)入道(にふだう・にうだう)、同宿(どうじゆく)の僧(そう)にあふ(あう)て申(まうし)けるは、「これもよにしづかにて、念仏(ねんぶつ)の障碍(しやうげ)は候(さうら)はねども、あかで別(わかれ)し女(をんな)に此(この)すまひをみえて候(さうら)へば、たとひ一度(ひとたび)は心(こころ)つよくとも、又(また)もしたふ事(こと)あらば、心(こころ)もはたらき候(さうらひ)ぬべし。いとま申(まうし)て」とて、嵯峨(さが)をば出(いで)て、高野(かうや)へのぼり、清浄心院(しやうじやうしんゐん)にぞゐたりける。横笛(よこぶえ)もさまをかへたるよしきこえしかば、滝口(たきぐち)入道(にふだう・にうだう)一首(いつしゆ)のうたをおくりけり。
そるまではうらみしかどもあづさ弓(ゆみ)まことの道(みち)に入(いる)ぞうれしき
横笛(よこぶえ)がかへり事(ごと)には、
そるとてもなにかうらみんあづさ弓(ゆみ)ひきとどむべき心(こころ)ならねば
よこぶゑはそのおもひのつもりにや、奈良(なら)の法花寺(ほつけじ)にありけるが、いく程(ほど)もなくて、つゐに(つひに)はかなくなりにけり。滝口(たきぐち)入道(にふだう・にうだう)、か様(やう)の事(こと)をつたへきき、いよいよふかくおこなひすましてゐたりければ、父(ちち)も不孝(ふけう)をゆるしけり。したしき物(もの)どもみなもちゐて、高野(かうや)の聖(ひじり)とぞ申(まうし)ける。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)これに尋(たづね)あひてみ給(たま)へば、都(みやこ)に候(さうらひ)し時(とき)は、布衣(ほうい・ほい)に立烏帽子(たてえぼし・たてゑぼし)、衣文(えもん・ゑもん)をつくろひ、鬢(びん)をなで、花(はな)やかなりしおのこ(をのこ)也(なり)。出家(しゆつけ)の後(のち)はけふはじめてみ給(たま)ふに、いまだ卅(さんじふ)にもならぬが、老僧姿(らうそうすがた)にやせ衰(をとろ・おとろ)へ、こき墨染(すみぞめ)におなじ袈裟(けさ)、おもひいれたる道心者(だうしんじや)、浦山(うらやま)しくやおもはれけん。晉(しん)の七賢(しちけん)、漢(かん)の四皓(しかう)がすみけん商山(しやうざん)・竹林(ちくりん)のありさまも、これにはすぎじとぞ見(み)えし。 
高野巻 (かうやのまき) 

 

滝口(たきぐち)入道(にふだう・にうだう)、三位(さんみの・さんゐの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)をみたてま(ッ)て、「こはうつつともおぼえ候(さうら)はぬ物(もの)かな。八島(やしま)よりこれまでは、なにとしてのがれさせ給(たまひ)て候(さうらふ)やらん」と申(まうし)ければ、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)の給(たま)ひけるは、「さればこそ。人(ひと)なみなみに宮(みや)こをいでて、西国(さいこく)へおちくだりたりしかども、ふるさとにとどめをき(おき)しおさなき(をさなき)物共(ものども)の恋(こひ)しさ、いつ忘(わす)るべしともおぼえねば、その物(もの)おもふけしきのいはぬにしるくやみえけん、おほい殿(との)も二位殿(にゐどの)も、「この人(ひと)は池(いけ)の大納言(だいなごん)のやうにふた心(ごころ)あり」な(ン)ど(など)とて思(おも)ひへだて給(たまひ)しかば、あるにかひなき我(わが)身(み)かなと、いとど心(こころ)もとどまらで、あくがれいでて、これまではのがれたる也(なり)。
いかにもして山(やま)づたひに都(みやこ)へのぼ(ッ)て、恋(こひ)しき物(もの)どもを今(いま)一度(ひとたび)見(み)もしみえばやとはおもへども、本三位(ほんざんみの・ほんざんゐの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)の事(こと)口惜(くちをし・くちおし)ければ、それもかなはず。おなじくはこれにて出家(しゆつけ)して、火(ひ)のなか水(みづ)の底(そこ)へもいらばやとおもふ也(なり)。ただし熊野(くまの)へまいら(まゐら)んとおもふ宿願(しゆくぐわん)あり」との給(たま)へば、「夢(ゆめ)まぼろしの世(よ)の中(なか)は、とてもかくても候(さうらひ)なん。ながき世(よ)のやみこそ心(こころ)うかるべう候(さうら)へ」とぞ申(まうし)ける。やがて滝口(たきぐち)入道(にふだう・にうだう)先達(せんだち)にて、堂々(だうだう)巡礼(じゆんれい)して、奥(おく)の院(ゐん)へまいり(まゐり)給(たま)ふ。高野山(かうやさん)は帝城(ていせい)を避(さつ)て二百里(じはくり)、京里(きやうり)をはなれて無人声(むにんじやう)、清嵐(せいらん)梢(こずゑ)をならして、夕日(せきじつ)の影(かげ)しづかなり。八葉(はちえふ・はちよう)の嶺(みね)、八(やつ)の谷(たに)、まことに心(こころ)もすみぬべし。花(はな)の色(いろ)は林霧(りんむ)のそこにほころび、鈴(れい)のをと(おと)は尾上(をのへ)の雲(くも)にひびけり。
瓦(かはら)に松(まつ)おひ、墻(かき)に苔(こけ)むして、星霜(せいざう)久(ひさ)しくおぼえたり。抑(そもそも)延喜(えんぎ)の御門(みかど)の御時(おんとき)、御夢想(ごむさう)の御告(おんつげ)あ(ッ)て、ひわだ(ひはだ)色(いろ)の御衣(おんころも)をまいらせ(まゐらせ)られしに、勅使(ちよくし)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)資隆卿(すけたかのきやう)、般若寺(はんにやじ)の僧正(そうじやう)観賢(くわんげん)をあひぐして、此(この)御山(おやま)にまいり(まゐり)、御廟(ごべう・ごびやう)の扉(とびら)をひらいて、御衣(ぎよい)をきせたてまつらんとしけるに、霧(きり)あつくへだた(ッ)て、大師(だいし)をがまれさせ給(たま)はず。ここに観賢(くわんげん)ふかく愁涙(しうるい)して、「われ悲母(ひも)の胎内(たいない)を出(いで)て、師匠(ししやう)の室(しつ)に入(いり)しよりこのかた、いまだ禁戒(きんかい)を犯(ぼん)ぜず。さればなどかおがみ(をがみ)たてまつらざらん」とて、五体(ごたい)を地(ち)に投(な)げ、発露(ほつろ)啼泣(ていきう)し給(たま)ひしかば、やうやう霧(きり)はれて、月(つき)の出(いづ)るが如(ごと)くして、大師(だいし)をがまれ給(たま)ひけり。
時(とき)に観賢(くわんげん)随喜(ずいき)の涙(なみだ)をながひ(ながい)て、御衣(おんころも)をきせたてまつる。御(おん)ぐしのながくおひさせ給(たま)ひたりしかば、そりたてまつるこそ目出(めで)たけれ。勅使(ちよくし)と僧正(そうじやう)とはおがみ(をがみ)たてまつり給(たま)へども、僧正(そうじやう)の弟子(でし)石山(いしやま)の内供(ないく)淳祐(じゆんいう・じゆんゆう)、其(その)時(とき)はいまだ童形(とうぎやう)にて供奉(ぐぶ)せられたりけるが、大師(だいし)ををがみたてまつらずしてなげきしづんでをはし(おはし)けるが、僧正(そうじやう)手(て)をと(ッ)て、大師(だいし)の御(おん)ひざにおしあてられたりければ、其(その)手(て)一期(いちご)があひだかうばしかりけるとかや。そのうつり香(が)は、石山(いしやま)の聖教(しやうげう)にうつ(ッ)て、いまにありとぞうけ給(たま)はる。大師(だいし)、御門(みかど)の御返事(おんぺんじ)に申(まう)させ給(たま)ひけるは、「われ昔(むかし)薩(さつた)にあひて、まのあたりことごとく印明(いんみやう・ゐんみやう)をつたふ。
無比(むび)の誓願(せいぐわん)ををこし(おこし)て、辺地(へんぢ)の異域(いゐき・いいき)に侍(は・ン)べり。昼夜(ちうや)に万民(ばんみん)をあはれんで、普賢(ふげん)の悲願(ひぐわん)に住(ぢゆう・ぢう)す。肉身(にくしん)に三昧(さんまい)を証(しよう・せう)じて、慈氏(じし)の下生(げしやう)をまつ」とぞ申(まう)させ給(たま)ひける。彼(かの)摩訶迦葉(まかかせふ・まかかせう)の足(けいそく)の洞(ほら)に籠(こもり)て、しづの春風(はるかぜ)を期(ご)し給(たま)ふらんも、かくやとぞおぼえける。御入定(ごにふぢやう・ごにうぢやう)は承和(しようわ・せうわ)二年(にねん)三月(さんぐわつ)廿一日(にじふいちにち)、寅(とら)の一点(いつてん)の事(こと)なれば、すぎにし方(かた)も三百(さんびやく)余歳(よさい)、行末(ゆくすゑ)も猶(なほ・なを)五十六億七千万歳(ごじふろくおくしちせんまんざい)の後(のち)、慈尊(じそん)出世(しゆつせ)三会(さんゑ)の暁(あかつき)をまたせ給(たまふ)らんこそ久(ひさ)しけれ。 
維盛出家 (これもりのしゆつけ) 

 

「維盛(これもり)が身(み)のいつとなく、雪山(せつせん)の鳥(とり)のなくらんやうに、けふよあすよとおもふ物(もの)を」とて、涙(なみだ)ぐみ給(たま)ふぞ哀(あはれ)なる。塩風(しほかぜ)にくろみ、つきせぬ物思(ものおも)ひにやせおとろへて、その人(ひと)とはみえ給(たま)はねども、猶(なほ・なを)よの人(ひと)にはすぐれ給(たま)へり。其(その)夜(よ)は滝口(たきぐち)入道(にふだう・にうだう)が庵室(あんじつ)にかへ(ッ)て、よもすがら昔(むかし)今(いま)の物(もの)がたりをぞし給(たま)ひける。聖(ひじり)が行儀(ぎやうぎ)をみ給(たま)へば、至極(しごく)甚深(じんじん・ぢんじん)の床(ゆか)の上(うへ)には、真理(しんり)の玉(たま)をみがくらんとみえて、後夜(ごや)晨朝(じんでう)の鐘(かね)の声(こゑ)には、生死(しやうじ)の眠(ねぶり)をさますらんとも覚(おぼえ)たり。
のがれぬべくはかくてもあらまほしうや思(おも)はれけん。あけぬれば東禅院(とうぜんゐん)の智覚上人(ちかくしやうにん)と申(まうし)ける聖(ひじり)を請(しやう)じたてま(ッ)て、出家(しゆつけ)せんとし給(たま)ひけるが、与三兵衛(よさうびやうゑ)・石童丸(いしどうまる)をめしての給(たま)ひけるは、「維盛(これもり)こそ人(ひと)しれぬおもひを身(み)にそへながら、みちせばうのがれがたき身(み)なれば、むなしうなるとも、このごろは世(よ)にある人(ひと)こそおほけれ、なんぢらはいかなるありさまをしても、などかすぎざるべき。われいかにもならんやうを見(み)はてて、いそぎ宮(みや)こへのぼり、おのおのが身(み)をもたすけ、かつうは妻子(さいし)をもはぐくみ、かつうは又(また)維盛(これもり)が後生(ごしよう)をもとぶらへかし」との給(たま)へば、二人(ににん)の物(もの)どもさめざめとないて、しばしは御返事(おんぺんじ)にも及(およ・をよ)ばず。ややあ(ッ)て、与三兵衛(よさうびやうゑ)涙(なみだ)ををさへ(おさへ)て申(まうし)けるは、「重景(しげかげ)が父(ちち)、与三左衛門(よさうざゑもん・よさうざへもん)景康(かげやす)は、平治(へいぢ)の逆乱(げきらん)の時(とき)、故殿(ことの)の御共(おんとも)に候(さうらひ)けるが、二条堀河(にでうほりかは)のへんにて、鎌田兵衛(かまだびやうゑ)にくんで、悪源太(あくげんだ)にうたれ候(さうらひ)ぬ。
重景(しげかげ)もなじかはおとり候(さうらふ)べき。其(その)時(とき)は二歳(にさい)にまかりなり候(さうらひ)ければ、すこしもおぼえ候(さうら)はず。母(はは)には七歳(しちさい)でおくれ候(さうらひ)ぬ。あはれをかくべきしたしい物(もの)一人(いちにん)も候(さうら)はざりしかども、故(こ)大臣殿(おほいとの)、「あれはわが命(いのち)にかはりたりし物(もの)の子(こ)なれば」とて、御(おん)まへにてそだてられまいらせ(まゐらせ)、生年(しやうねん)九(ここのつ)と申(まうし)し時(とき)、君(きみ)の御元服(ごげんぶく)候(さうらひ)し夜(よ)、かしらをとりあげられまいらせ(まゐらせ)て、かたじけなく、「盛(もり)の字(じ)は家(いへの)字(じ)なれば五代(ごだい)につく。重(しげ)の字(じ)を松王(まつわう)に」と仰(おほせ)候(さうらひ)て、重景(しげかげ)とはつけられまいらせ(まゐらせ)て候(さうらふ)也(なり)。父(ちち)のようで死(しに)候(さうらひ)けるも、我(わが)身(み)の冥加(みやうが)と覚(おぼえ)候(さうらふ)。随分(ずいぶん)同齢(どうれい)どもにも芳心(はうじん)せられてこそまかりすぎ候(さうらひ)しか。
されば御臨終(りんじゆう・ごりんじう)の御時(おんとき)も、此(この)世(よ)の事(こと)をばおぼしめしすてて、一事(ひとこと)も仰(おほせ)候(さうら)はざりしかども、重景(しげかげ)御(おん)まへちかうめされて、「あなむざんや。なんぢは重盛(しげもり)を父(ちち)がかたみとおもひ、重盛(しげもり)は汝(なんぢ)を景康(かげやす)が形見(かたみ)とおもひてこそすごしつれ。今度(こんど)の除目(ぢもく・じもく)に靭負尉(ゆぎへのじよう・ゆぎえのぜう)になして、おのれが父(ちち)景康(かげやす)をよびし様(やう)にめさばやとこそおもひつるに、むなしうなるこそかなしけれ。相構(あひかまへ・あいかまへ)て少将殿(せうしやうどの)の心(こころ)にたがふな」とこそ仰(おほせ)候(さうらひ)しか。さればこの日(ひ)ごろは、いかなる御事(おんこと)も候(さうら)はんには、みすてまいらせ(まゐらせ)て落(おつ)べき物(もの)とおぼしめし候(さうらひ)けるか。御心(おんこころ)のうちこそはづかしう候(さうら)へ。「このごろは世(よ)にある人(ひと)こそおほけれ」と仰(おほせ)かうぶり候(さうらふ)は、当時(たうじ)のごとくは源氏(げんじ)の郎等(らうどう)どもこそ候(さうらふ)なれ。
君(きみ)の神(かみ)にも仏(ほとけ)にもならせ給(たま)ひ候(さうらひ)なん後(のち)、たのしみさかへ(さかえ)候(さうらふ)とも、千年(せんねん)の齢(よはひ)をふるべきか。たとひ万年(まんねん)をたもつとも、つゐに(つひに)はおはり(をはり)のなかるべきか。これにすぎたる善知識(ぜんぢしき)、なに事(ごと)か候(さうらふ)べき」とて、手(て)づからもとどりき(ッ)て、なくなく滝口(たきぐち)入道(にふだう・にうだう)にそらせけり。石童丸(いしどうまる)もこれをみて、もとゆい(もとゆひ)ぎはよりかみをきる。これも八(やつ)よりつきたてま(ッ)て、重景(しげかげ)にもおとらず不便(ふびん)にし給(たま)ひければ、おなじく滝口(たきぐち)入道(にふだう・にうだう)にそらせけり。これらがか様(やう)に先達(さきだち)てなるをみ給(たま)ふにつけても、いとど心(こころ)ぼそうぞおぼしめす。さてもあるべきならねば、「流転(るてん)三界(さんがい)中(ちゆう・ちう)、恩愛(おんあい・をんあい)不能断(ふのうだん・ふのふだん)、棄恩入無為(きおんにふむゐ・きをんにうむい)、真実(しんじつ)報恩者(はうおんしや・ほうをんしや)」と三反(さんべん)唱(とな)へ給(たま)ひて、つゐに(つひに)そりおろし給(たまひ)て(ン)げり。
「あはれ、かはらぬすがたを恋(こひ)しき物(もの)どもに今(いま)一度(ひとたび)みえもし、見(み)て後(のち)かくもならば、おもふ事(こと)あらじ」との給(たま)ひけるこそ罪(つみ)ふかけれ。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)も兵衛(ひやうゑ)入道(にふだう・にうだう)も同年(どうねん)にて、ことしは廿七(にじふしち)歳(さい)也(なり)。石童丸(いしどうまる)は十八(じふはち)にぞなりける。とねり武里(たけさと)をめして、「おのれはとうとうこれより八島(やしま)へかへれ。宮(みや)こへはのぼるべからず。そのゆへ(ゆゑ)は、つゐに(つひに)はかくれあるまじけれども、まさしうこのありさまをきいては、やがてさまをもかへんずらんとおぼゆるぞ。八島(やしま)へまい(ッ・まゐつ)て人々(ひとびと)に申(まう)さんずるやうはよな、「かつ御(ご)らん候(さうらひ)しやうに、大方(おほかた)の世間(せけん)も物(もの)うきやうにまかりなり候(さうらひ)き。
よろづあぢきなさもかずそひてみえ候(さうらひ)しかば、おのおのにもしられまいらせ(まゐらせ)候(さうら)はで、かくなり候(さうらひ)ぬ。西国(さいこく)で左(ひだん)の中将(ちゆうじやう・ちうじやう)うせ候(さうらひ)ぬ。一谷(いちのたに)で備中守(びつちゆうのかみ・びつちうのかみ)うたれ候(さうらひ)ぬ。われさへかくなり候(さうらひ)ぬれば、いかにをのをの(おのおの)たよりなうおぼしめされ候(さうら)はんずらんと、それのみこそ心(こころ)ぐるしう思(おも)ひまいらせ(まゐらせ)候(さうら)へ。抑(そもそも)唐皮(からかは)といふ鎧(よろひ)、小烏(こがらす)といふ太刀(たち)は、平(へい)将軍(しやうぐん)貞盛(さだもり)より当家(たうけ)につたへて、維盛(これもり)までは嫡々(ちやくちやく)九代(くだい)にあひあたる。
もし不思議(ふしぎ)にて世(よ)もたちなをら(なほら)ば、六代(ろくだい)にたぶべし」と申(まう)せ」とこその給(たま)ひけれ。とねり武里(たけさと)「君(きみ)のいかにもならせをはし(おはし)まさんやうを見(み)まいらせ(まゐらせ)て後(のち)こそ、八島(やしま)へもまいり(まゐり)候(さうら)はめ」と申(まうし)ければ、「さらば」とてめしぐせらる。滝口(たきぐち)入道(にふだう・にうだう)をも善知識(ぜんぢしき)のために具(ぐ)せられけり。山伏(やまぶし)修行者(しゆぎやうじや)のやうにて高野(かうや)をばいで、同国(どうこく)のうち山東(さんどう)へこそ出(いで)られけれ。藤代(ふぢしろ)の王子(わうじ)を初(はじめ)として、王子(わうじ)王子(わうじ)ふしをがみ、まいり(まゐり)給(たま)ふ程(ほど)に、千里(せんり)の浜(はま)の北(きた)、岩代(いはしろ)の王子(わうじ)の御前(おんまへ)にて、狩装束(かりしやうぞく)したる物(もの)七八騎(しちはつき)が程(ほど)ゆきあひたてまつる。
すでにからめとられなんずとおぼして、おのおの腰(こし)の刀(かたな)に手(て)をかけて、腹(はら)をきらんとし給(たま)ひけるが、ちかづきけれども、あやまつべき気(け)しきもなくて、いそぎ馬(むま)よりおり、ふかうかしこま(ッ)てとほりければ、「みしりたる物(もの)にこそ。たれなるらん」とあやしくて、いとど足(あし)ばやにさし給(たま)ふ程(ほど)に、これは当国(たうごく)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)、湯浅(ゆあさの)権守(ごんのかみ)宗重(むねしげ)が子(こ)に、湯浅(ゆあさの)七郎兵衛(しちらうびやうゑ)宗光(むねみつ)といふもの也(なり)。郎等(らうどう)ども「これはいかなる人(ひと)にて候(さうらふ)やらん」と申(まうし)ければ、七郎兵衛(しちらうびやうゑ)涙(なみだ)をはらはらとながいて、「あら、事(こと)もかたじけなや。あれこそ小松(こまつの)大臣殿(おとどどの)の御嫡子(おんちやくし)、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)殿(どの)よ。八島(やしま)よりこれまでは、なにとしてのがれさせ給(たま)ひたりけるぞや。はや御(おん)さまをかへさせ給(たまひ)て(ン)げり。与三兵衛(よさうびやうゑ)、石童丸(いしどうまる)も同(おな)じく出家(しゆつけ)して御共(おんとも)申(まうし)たり。ちかうまい(ッ・まゐつ)てげ(ン)ざん(げんざん)にも入(いり)たかりつれども、はばかりもぞおぼしめすとてとほりぬ。あなあはれの御(おん)ありさまや」とて、袖(そで)をかほにおしあてて、さめざめとなきければ、郎等(らうどう)どももみな涙(なみだ)をぞながしける。 
熊野参詣 (くまのさんけい) 

 

やうやうさし給(たま)ふ程(ほど)に、日数(ひかず)ふれば、岩田河(いはだがは)にもかかり給(たま)ひけり。「この河(かは)のながれを一度(ひとたび)もわたるものは、悪業(あくごふ・あくごう)煩悩(ぼんなう)無始(むし)の罪障(ざいしやう)きゆなる物(もの)を」と、たのもしうぞおぼしける。本宮(ほんぐう)にまいり(まゐり)つき、証誠殿(しようじやうでん・せうじやうでん)の御(おん)まへにつゐ(つい)ゐ給(たま)ひつつ、しばらく法施(ほつせ)まいらせ(まゐらせ)て、御山(おんやま)のやうををがみ給(たま)ふに、心(こころ)も詞(ことば)もおよばれず。大悲(だいひ)擁護(をうご・おうご)の霞(かすみ)は、熊野山(ゆやさん)にたなびき、霊験無双(れいげんぶさう)の神明(しんめい)は、おとなし河(がは)に跡(あと)をたる。
一乗(いちじよう・いちぜう)修行(しゆぎやう)の岸(きし)には、感応(かんおう)の月(つき)くまもなく、六根懺悔(ろくこんさんげ)の庭(には)には、妄想(まうざう)の露(つゆ)もむすばず。いづれもいづれもたのもしからずといふ事(こと)なし。夜(よ)ふけ人(ひと)しづま(ッ)て、啓白(けいひやく)し給(たま)ふに、父(ちち)のおとどのこの御前(おんまへ)にて、「命(いのち)をめして後世(のちのよ)をたすけ給(たま)へ」と申(まう)されける事(こと)までも、おぼしめしいでて哀(あはれ)也(なり)。「本地(ほんぢ)阿弥陀如来(あみだによらい)にてまします。摂取(せつしゆ)不捨(ふしや)の本願(ほんぐわん)あやまたず、浄土(じやうど)へみちびき給(たま)へ」と申(まう)されける。なかにも「ふるさとにとどめおきし妻子(さいし)安穏(あんおん)に」といのられけるこそかなしけれ。うき世(よ)をいとひ、まことの道(みち)に入(いり)給(たま)へども、妄執(まうじう)は猶(なほ・なを)つきずとおぼえて哀(あはれ)なりし事共(ことども)也(なり)。
あけぬれば、本宮(ほんぐう)より舟(ふね)にのり、新宮(しんぐう)へぞまいら(まゐら)れける。かんのくらをおがみ(をがみ)給(たま)ふに、巌松(がんしやう)たかくそびへ(そびえ)て、嵐(あらし)妄想(まうざう)の夢(ゆめ)を破(やぶ)り、流水(りうすい)きよくながれて、浪(なみ)塵埃(ぢんあい)の垢(あか)をすすぐらんとも覚(おぼ)へ(おぼえ)たり。明日(あすか)の社(やしろ)ふしをがみ、佐野(さの)の松原(まつばら)さしすぎて、那智(なち)の御山(みやま)にまいり(まゐり)給(たま)ふ。三重(さんぢゆう・さんぢう)に漲(みなぎ)りおつる滝(たき)の水(みづ)、数千丈(すせんぢやう)までよぢのぼり、観音(くわんおん・くわんをん)の霊像(れいざう)は岩(いは)の上(うへ)にあらはれて、補陀落山(ふだらくせん)ともい(ッ)つべし。霞(かすみ)の底(そこ)には法花(ほつけ)読誦(どくじゆ)の声(こゑ)きこゆ、霊鷲山(りやうじゆせん)とも申(まうし)つべし。抑(そもそも)権現(ごんげん)当山(たうざん)に跡(あと)を垂(たれ)させましましてよりこのかた、我(わが)朝(てう)の貴賎(きせん)上下(じやうげ)歩(あゆみ)をはこび、かうべをかたむけ、たな心(ごころ)をあはせて、利生(りしやう)にあづからずといふ事(こと)なし。
僧侶(そうりよ)されば甍(いらか)をならべ、道俗(だうぞく)袖(そで)をつらねたり。寛和(くわんわの)夏(なつ)の比(ころ)、花山(くわさん)の法皇(ほふわう・ほうわう)十善(じふぜん)の帝位(ていゐ)をのがれさせ給(たま)ひて、九品(くほん)の浄刹(じやうせつ)ををこなは(おこなは)せ給(たま)ひけん、御庵室(ごあんじつ)の旧跡(きうせき)には、昔(むかし)をしのぶとおぼしくて、老木(おいき)の桜(さくら)ぞさきにける。那智(なち)ごもりの僧共(そうども)のなかに、この三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)をよくよく見(み)しりたてま(ッ)たるとおぼしくて、同行(どうぎやう)にかたりけるは、「ここなる修行者(しゆぎやうじや)をいかなる人(ひと)やらんとおもひたれば、小松(こまつ)のおほいとのの御嫡子(おんちやくし)、三位(さんみの)中将殿(ちゆうじやうどの・ちうじやうどの)にておはしけるぞや。あの殿(との)のいまだ四位(しゐの)少将(せうしやう)ときこえ給(たま)ひし安元(あんげん)の春(はるの)比(ころ)、法住寺殿(ほふぢゆうじどの・ほうぢうじどの)にて五十(ごじふの)御賀(おんが)のありしに、父(ちち)小松殿(こまつどの)は内大臣(ないだいじん)の左大将(さだいしやう)にてまします、伯父(をぢ・おぢ)宗盛卿(むねもりのきやう)は大納言(だいなごん)の右大将(うだいしやう)にて、階下(かいか)に着座(ちやくざ)せられたり。
其(その)外(ほか)三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)知盛(とももり)・頭(とうの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)重衡(しげひら)以下(いげ)一門(いちもん)の人々(ひとびと)、けふを晴(はれ)とときめき給(たま)ひて、垣代(かいしろ)に立(たち)給(たま)ひしなかより、此(この)三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)、桜(さくら)の花(はな)をかざして青海波(せいがいは)をまうて出(いで)られたりしかば、露(つゆ)に媚(こび)たる花(はな)の御姿(おんすがた)、風(かぜ)に翻(ひるがへ)る舞(まひ)の袖(そで).地(ち)をてらし天(てん)もかかやくばかり也(なり)。女院(にようゐん)より関白殿(くわんばくどの)を御使(おんつかひ)にて御衣(ぎよい)をかけられしかば、父(ちち)の大臣(おとど)座(ざ)をたち、これを給(たま)は(ッ)て右(みぎ)の肩(かた)にかけ、院(ゐん)を拝(はい)したてまつり給(たま)ふ。面目(めんぼく)たぐひすくなうぞみえし。かたえ(かたへ)の殿上人(てんじやうびと)、いかばかり浦山(うらやま)しうおもはれけん。内裏(だいり)の女房達(にようばうたち)のなかには、「深山木(みやまぎ)のなかの桜梅(さくらむめ)とこそおぼゆれ」な(ン)ど(など)いはれ給(たまひ)し人(ひと)ぞかし。只今(ただいま)大臣(おとど)の大将(だいしやう)待(まち)かけ給(たま)へる人(ひと)とこそ見(み)たてまつりしに、けふはかくやつれはて給(たま)へる御(おん)ありさま、かねてはおもひよらざ(ッ)しをや。うつればかはる世(よ)のならひとはいひながら、哀(あはれ)なる御事(おんこと)かな」とて、袖(そで)をかほにおしあててさめざめとなきければ、いくらもなみゐたりける那知(なち)ごもりの僧(そう)どもも、みなうち衣(ごろも)の袖(そで)をぞぬらしける。 
維盛入水 (これもりのじゆすい) 

 

三(みつ)の山(やま)の参詣(さんけい)事(こと)ゆへ(ゆゑ)なくとげ給(たま)ひしかば、浜(はま)の宮(みや)と申(まうす)王子(わうじ)の御(おん)まへより、一葉(いちえふ・いちよう)の舟(ふね)に棹(さを・さほ)さして、万里(ばんり)の蒼海(さうかい)にうかび給(たま)ふ。はるかのおきに山(やま)なりの島(しま)といふ所(ところ)あり。それに舟(ふね)をこぎよせさせ、岸(きし)にあがり、大(おほき)なる松(まつ)の木(き)をけづ(ッ)て、中将(ちゆうじやう・ちうじやう)銘跡(めいせき)をかきつけらる。「祖父(そぶ)太政(だいじやう)大臣(だいじん)平(たひらの・たいらの)朝臣(あそん・あ(ツ)そん)清盛公(きよもりこう)、法名(ほふみやう・ほうみやう)浄海(じやうかい)、親父(しんぶ)内大臣(ないだいじん)左大将(さだいしやう)重盛公(しげもりこう)、法名(ほふみやう・ほうみやう)浄蓮(じやうれん)、三位(さんみの・さんゐの)中将(ちゆうじやう)維盛(これもり)、法名(ほふみやう・ほうみやう)浄円(じやうゑん)、生年(しやうねん)廿七歳(にじふしちさい)、寿永(じゆえい・じゆゑい)三年(さんねん)三月(さんぐわつ)廿八日(にじふはちにち)、那智ノ(なちの)奥(おき)にて入水(じゆすい)す」とかきつけて、又(また)奥(おき)へぞこぎいで給(たま)ふ。
思(おもひ)きりたる道(みち)なれども、今(いま)はの時(とき)になりぬれば、心(こころ)ぼそうかなしからずといふ事(こと)なし。比(ころ)は三月(さんぐわつ)廿八日(にじふはちにち)の事(こと)なれば、海路(かいろ)はるかにかすみわたり、あはれをもよほすたぐひ也(なり)。ただ大方(おほかた)の春(はる)だにも、くれ行(ゆく)空(そら)は物(もの)うきに、况(いはん)やけふをかぎりの事(こと)なれば、さこそは心(こころ)ぼそかりけめ。奥(おき)の釣舟(つりぶね)の浪(なみ)にきえ入(いる)やうにおぼゆるが、さすがしづみもはてぬをみ給(たま)ふにも、我(わが)身(み)のうへとやおぼしけん。おのが一(ひと)つらひきつれて、今(いま)はとかへる雁(かり)が音(ね)の、越路(こしぢ)をさしてなきゆくも、ふるさとへことづけせまほしく、蘇武(そぶ)が胡国(ここく)の恨(うらみ)まで、おもひのこせるくまもなし。
「さればこは何事(なにごと)ぞ。猶(なほ・なを)妄執(まうじう)のつきぬにこそ」とおぼしめしかへして、西(にし)にむかひ手(て)をあはせ、念仏(ねんぶつ)し給(たま)ふ心(こころ)のうちにも、「すでに只今(ただいま)をかぎりとは、都(みやこ)にはいかでかしるべきなれば、風(かぜ)のたよりのことつても、いまやいまやとこそまたんずらめ。
つゐに(つひに)はかくれあるまじければ、此(この)世(よ)になきものときいて、いかばかりかなげかんずらん」な(ン)ど(など)思(おもひ)つづけられ給(たま)へば、念仏(ねんぶつ)をとどめて、合掌(がつしやう)をみだり、聖(ひじり)にむか(ッ)ての給(たま)ひけるは、「あはれ人(ひと)の身(み)に妻子(さいし)といふ物(もの)をばもつまじかりける物(もの)かな。此(この)世(よ)にて物(もの)をおもはするのみならず、後世(ごせ)菩提(ぼだい)のさまたげとなりけるくちおしさ(くちをしさ)よ。只今(ただいま)もおもひいづるぞや。かやうの事(こと)を心中(しんぢゆう・しんぢう)にのこせば、罪(つみ)ふかからんなるあひだ、懺悔(さんげ)する也(なり)」とぞのたまひける。聖(ひじり)もあはれにおぼえけれども、われさへ心(こころ)よはく(よわく)てはかなはじとおもひ、涙(なみだ)をし(おし)のごひ、さらぬていにもてないて申(まうし)けるは、「まことにさこそはおぼしめされ候(さうらふ)らめ。たかきもいやしきも、恩愛(おんあい・をんあひ)の道(みち)はちからおよばぬ事(こと)也(なり)。
なかにも夫妻(ふさい)は一夜(いちや)の枕(まくら)をならぶるも、五百生(ごひやくしやう)の宿縁(しゆくえん)と申(まうし)候(さうら)へば、先世(ぜんぜ)の契(ちぎり)あさからず。生者(しやうじや)必滅(ひつめつ)、会者(ゑしや)定離(ぢやうり)はうき世(よ)の習(ならひ)にて候(さうらふ)也(なり)。末(すゑ)の露(つゆ)もとのしづくのためしあれば、たとひ遅速(ちそく)の不同(ふどう)はありとも、おくれさきだつ御別(おんわかれ)、つゐに(つひに)なくてしもや候(さうらふ)べき。彼(かの)離山宮(りさんきゆう・りさんきう)の秋(あき)の夕(ゆふべ)の契(ちぎり)も、つゐに(つひに)は、心(こころ)をくだくはしとなり、甘泉殿(かんせんでん)の生前(しやうぜん)の恩(おん・をん)も、をはりなきにしもあらず。松子(しやうし)・梅生(ばいせい)、生涯(しやうがい)の恨(うらみ)あり。等覚(とうがく)・十地(じふぢ)、なを(なほ)生死(しやうじ)のおきてにしたがふ。たとひ君(きみ)長生(ちやうせい)のたのしみにほこり給(たま)ふとも、この御(おん)なげきはのがれさせ給(たま)ふべからず。たとひ又(また)百年(はくねん)のよわひ(よはひ)をたもち給(たま)ふとも、この御恨(おんうらみ)はただおなじ事(こと)とおぼしめさるべし。
第六天(だいろくてん)の魔王(まわう)といふ外道(げだう)は、欲界(よくかい)の六天(ろくてん)をわがものと領(りやう)じて、なかにも此(この)界(かい)の衆生(しゆじやう)の生死(しやうじ)をはなるる事(こと)をおしみ(をしみ)、或(あるい・ある)は妻(つま)となり、或(あるい・ある)は夫(おつと)とな(ッ)て、これをさまたぐるに、三世(さんぜ)の諸仏(しよぶつ)は、一切(いつさい)衆生(しゆじやう)を一子(いつし)の如(ごとく)におぼしめして、極楽浄土(ごくらくじやうど)の不退(ふたい)の土(ど)にすすめいれんとし給(たま)ふに、妻子(さいし)といふものが、無始(むし)曠劫(くわうごふ・くわうごう)よりこのかた生死(しやうじ)に流転(るてん)するきづななるがゆへ(ゆゑ)に、仏(ほとけ)はおもういましめ給(たま)ふ也(なり)。さればとて御心(おんこころ)よわうおぼしめすべからず。源氏ノ(げんじの)先祖(せんぞ)伊与(いよの)入道(にふだう・にうだう)頼義(らいぎ)は、勅命(ちよくめい)によ(ッ)て奥州(あうしう)のゑびす(えびす)貞任(さだたふ・さだたう)・宗任(むねたふ・むねたう)をせめんとて、十二年(じふにねん)があひだに人(ひと)の頸(くび)をきる事(こと)一万六千人(いちまんろくせんにん)、山野(さんや)の獣(けだもの)、江河(がうが)の鱗(うろくづ)、其(その)いのちをたつ事(こと)いく千万(せんまん)といふかずをしらず。
されども、終焉(しゆうえん・しうゑん)の時(とき)、一念(いちねん)の菩提心(ぼだいしん)ををこし(おこし)しによ(ッ)て、往生(わうじやう)の素懐(そくわい)をとげたりとこそうけ給(たま)はれ。就中(なかんづく)に、出家(しゆつけ)の功徳(くどく)莫大(ばくだい)なれば、先世(ぜんぜ)の罪障(ざいしやう)みなほろび給(たま)ひぬらん。たとひ人(ひと)あ(ッ)て七宝(しつぽう)の塔(たふ・たう)をたてん事(こと)、たかさ卅三(さんじふさん)天(てん)にいたるとも、一日(いちにち)の出家(しゆつけ)の功徳(くどく)には及(およぶ・をよぶ)ベからず。たとひ又(また)百千歳(ひやくせんざい)の間(あひだ・あいだ)百羅漢(ひやくらかん)を供養(くやう)したらん功徳(くどく)も、一日(いちにち)の出家(しゆつけ)の功徳(くどく)には及(およぶ・をよぶ)べからずととかれたり。つみふかかりし頼義(らいぎ)、心(こころ)のたけきゆへ(ゆゑ)に往生(わうじやう)とぐ。させる御罪業(ございごふ・ございごう)ましまさざらんに、などか浄土(じやうど)へまいり(まゐり)給(たま)はざるべき。其上(そのうへ)当山(たうざん)権現(ごんげん)は本地(ほんぢ)阿弥陀如来(あみだによらい)にてまします。はじめ無三悪趣(むさんあくしゆ)の願(ぐわん)より、おはり(をはり)得三宝忍(とくさんぼうにん)の願(ぐわん)にいたるまで、一々(いちいち)の誓願(せいぐわん)、衆生(しゆうじやう)化度(けど)の願(ぐわん)ならずといふ事(こと)なし。なかにも第(だい)十八(じふはち)の願(ぐわん)には「設我得仏(せつがとくぶつ)、十方(じつぱう)衆生(しゆじやう)、至心信楽(ししんしんげう)、欲生我国(よくしやうがこく)、乃至(ないし)十念(じふねん)、若不生者(にやくふしやうじや)、不取正覚(ふしゆしやうがく)」ととかれたれば、一念(いちねん)十念(じふねん)のたのみあり。
ただふかく信(しん)じて、ゆめゆめ疑(うたが)ひをなし給(たま)ふべからず。無二(むに)の懇念(こんねん)をいたして、若(もし)は十反(じつぺん)、若(もし)は一反(いつぺん)も唱(となへ)給(たま)ふ物(もの)ならば、弥陀如来(みだによらい)、六十万億那由多恒河沙(ろくじふまんおくなゆたがうがしや)の御身(おんみ)をつづめ、丈六八尺(ぢやうろくはつしやく)の御(おん)かたちにて、観音(くわんおん・くわんをん)勢至(せいし)無数(むしゆ)の聖衆(しやうじゆ)、化仏菩薩(けぶつぼさつ)、百重(ひやくぢゆう・ひやくぢう)千重(せんぢゆう・せんぢう)に囲繞(ゐねう)し、伎楽歌(ぎがくか)詠(えい・ゑい)じて、只今(ただいま)極楽(ごくらく)の東門(とうもん)をいでて来迎(らいかう)し給(たま)はんずれば、御身(おんみ)こそ蒼海(さうかい)の底(そこ)に沈(しづむ)とおぼしめさるとも、紫雲(しうん)のうへにのぼり給(たま)ふべし。成仏(じやうぶつ)得脱(とくだつ)してさとりをひらき給(たま)ひなば、娑婆(しやば)の故郷(こきやう)にたちかへ(ッ)て妻子(さいし)を道(みち)びき給(たま)はん事(こと)、還来(げんらい)穢国(ゑこく)度人天(どにんでん)、すこしも疑(うたがひ)あるべからず」とて、かねうちならしてすすめたてまつる。中将(ちゆうじやう・ちうじやう)しかるべき善知識(ぜんぢしき)かなとおぼしめし、忽(たちまち)に妄念(まうねん)をひるがへして、高声(かうしやう)〔に〕念仏(ねんぶつ)百反(ひやつぺん)ばかりとなへつつ、「南無(なむ)」と唱(となふ)る声(こゑ)とともに、海(うみ)へぞ入(いり)給(たま)ひける。兵衛(ひやうゑ)入道(にふだう・にうだう)も石童丸(いしどうまる)も、同(おな)じく御名(みな)をとなへつつ、つづゐ(つづい)て海(うみ)へぞ入(いり)にける。 
三日平氏 (みつかへいじ) 

 

とねり武里(たけさと)もおなじく入(い)らんとしけるを、聖(ひじり)とりとどめければ、ちからおよばず。「いかにうたてくも、御遺言(ごゆいごん)をばたがへたてまつらんとするぞ。下臈(げらふ・げらう)こそ猶(なほ・なを)もうたてけれ。今(いま)はただ後世(ごせ)をとぶらひたてまつれ」と、なくなく教訓(けうくん)しけれども、おくれたてまつるかなしさに、後(のち)の御孝養(ごけうやう)の事(こと)もおぼえず、ふなぞこにふしまろび、おめき(をめき)さけびけるありさまは、むかし悉太太子(しつだたいし)の檀徳山(だんどくせん)に入(いら)せ給(たま)ひし時(とき)、しやのくとねりがこんでい駒(こま)を給(たま)は(ッ)て、王宮(わうくう)にかへりしかなしみも、これにはすぎじとぞみえし。しばしは舟(ふね)ををし(おし)まはして、うきもやあがり給(たま)ふとみけれども、三人(さんにん)ともにふかくしづんでみえ給(たま)はず。いつしか経(きやう)よみ念仏(ねんぶつ)して、「過去(くわこ)聖霊(しやうりやう)一仏(いちぶつ)浄土(じやうど)へ」と廻向(ゑかう)しけるこそ哀(あはれ)なれ。さる程(ほど)に、夕陽(せきやう)西(にし)に傾(かたぶ)き、海上(かいしやう)もくらくなりければ、名残(なごり)はつきせずおもへども、むなしき舟(ふね)をこぎかへる。とわたる舟(ふね)のかゐ(かい)のしづく、聖(ひじり)が袖(そで)よりつたふ涙(なみだ)、わきていづれもみえざりけり。聖(ひじり)は高野(かうや)へかへりのぼる。
武里(たけさと)はなくなく八島(やしま)へまいり(まゐり)けり。御弟(おんおとと)新三位(しんざんみの・しんざんゐの)中将殿(ちゆうじやうどの・ちうじやうどの)に御(おん)ふみとりいだしてまいらせ(まゐらせ)たりければ、「あな心(こころ)う、わがたのみたてまつる程(ほど)は、人(ひと)は思(おも)ひ給(たま)はざりける口惜(くちをし・くちおし)さよ。池ノ(いけの)大納言(だいなごん)のやうに頼朝(よりとも)に心(こころ)をかよはして、都(みやこ)へこそおはしたるらめとて、大臣殿(おほいとの)も二位殿(にゐどの)も、我等(われら)にも心(こころ)をおき給(たま)ひつるに、されば那知(なち)の奥(おき)にて身(み)をなげてましますごさんなれ。さらばひきぐして一所(いつしよ)にも沈(しづ)み給(たま)はで、ところどころにふさん事(こと)こそかなしけれ。御詞(おんことば)にて仰(おほせ)らるる事(こと)はなかりしか」ととひ給(たま)へば、「申(まう)せと候(さうらひ)しは「西国(さいこく)にて左(ひだん)の中将殿(ちゆうじやうどの・ちうじやうどの)うせさせ給(たまひ)候(さうらひ)ぬ。一谷(いちのたに)で備中(びつちゆうの・びつちうの)守殿(かみどの)うせ給(たまひ)候(さうらひ)ぬ。我(われ)さへかくなり候(さうらひ)ぬれば、いかにたよりなうおぼしめされ候(さうら)はんずらんと、それのみこそ心(こころ)ぐるしう思(おもひ)まいらせ(まゐらせ)候(さうら)へ」。唐皮(からかは)・小烏(こがらす)の事(こと)までもこまごまと申(まうし)たりければ、「今(いま)は我(われ)とてもながらふべしとも不覚(おぼえず)」とて、袖(そで)をかほにをし(おし)あててさめざめとなき給(たま)ふぞ、まことに事(こと)はり(ことわり)とおぼえて哀(あはれ)なる。故(こ)三位(さんみの・さんゐの)中将殿(ちゆうじやうどの・ちうじやうどの)にゆゆしくにたまひたりければ、みる人(ひと)涙(なみだ)をながしけり。
さぶらひどもはさしつどひて、只(ただ)なくより外(ほか)の事(こと)ぞなき。大臣殿(おほいとの)も二位殿(にゐどの)も、「この人(ひと)は池(いけ)の大納言(だいなごん)のやうに、頼朝(よりとも)に心(こころ)をかよはして、都(みやこ)へとこそおもひたれば、さはおはせざりける物(もの)を」とて、今更(いまさら)又(また)なげきかなしみ給(たま)ひけり。四月(しぐわつ・しんぐわつ)一日(ひとひのひ)、鎌倉(かまくらの)前(さきの)兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)、正下(じやうげ)の四位(しゐ)し給(たま)ふ。もとは従下(じゆげ)の五位(ごゐ)にてありしに、五階(ごかい)をこえ給(たま)ふこそゆゆしけれ。これは木曾(きその・きそ)左馬頭(さまのかみ)義仲(よしなか)追討(ついたう)の賞(しやう)とぞきこえし。同(おなじき)三日(みつかのひ)、崇徳院(しゆとくゐん)を神(かみ)とあがめたてまつるべしとて、むかし御合戦(ごかつせん)ありし大炊御門(おほいのみかど)が末(すゑ)に社(やしろ)をたてて、宮(みや)うつしあり。院(ゐん)の御沙汰(ごさた)にて、内裏(だいり)にはしろしめされずとぞきこえし。
五月(ごぐわつ)四日(よつかのひ)、池ノ(いけの)大納言(だいなごん)関東(くわんとう)へ下向(げかう)。兵衛佐(ひやうゑのすけ)「御(おん)かたをばま(ッ)たくおろかに思(おもひ)まいらせ(まゐらせ)候(さうら)はず。ただ故(こ)池殿(いけどの)のわたらせ給(たま)ふとこそ存(ぞんじ)候(さうら)へ。故(こ)尼御前(あまごぜん)の御恩(ごおん・ごをん)をば大納言殿(だいなごんどの)に報(ほう)じたてまつらん」とたびたび誓状(せいじやう・せいでう)をも(ッ)て申(まう)されければ、一門(いちもん)をもひきわかれておちとどまり給(たま)ひたりけるが、「兵衛佐(ひやうゑのすけ)ばかりこそかうはおもはれけれども、自余(じよ)の源氏(げんじ)どもはいかがあらんずらん」と、肝(きも)たましひをけすより外(ほか)の事(こと)なくておはしけるが、鎌倉(かまくら)より「故(こ)尼御前(あまごぜん)をみたてまつると存(ぞんじ)て、とくとくげ(ン)ざん(げんざん)に入(いり)候(さうら)はん」と申(まう)されたりければ、大納言(だいなごん)くだり給(たま)ひけり。
弥平兵衛(やへいびやうゑ)宗清(むねきよ)といふさぶらい(さぶらひ)あり。相伝(さうでん)専一(せんいつ)のものなりけるが、あひぐしてもくだらず。「いかに」ととひ給(たま)へば、「今度(こんど)の御(おん)ともはつかまつらじと存(ぞんじ)候(さうらふ)。其(その)ゆへ(ゆゑ)は、君(きみ)こそかくてわたらせ給(たま)へども、御一家(ごいつか)の君達(きんだち)の、西海(さいかい)の浪(なみ)のうへにただよはせ給(たま)ふ御事(おんこと)の心(こころ)うくおぼえて、いまだ安堵(あんど)しても存(ぞんじ)候(さうら)はねば、心(こころ)すこしおとしすゑて、お(ッ)さまにまいり(まゐり)候(さうらふ)べし」とぞ申(まうし)ける。大納言(だいなごん)にがにがしうはづかしうおもひ給(たま)ひて、「一門(いちもん)をひきわかれてのこりとどま(ッ)たる事(こと)は、我(わが)身(み)ながらいみじとはおもはねども、さすが身(み)もすてがたう、命(いのち)もをしければ、なまじゐ(なまじひ)にとどまりにき。そのうへは又(また)くだらざるべきにもあらず。はるかの旅(たび)におもむくに、いかでか見(み)おくらであるべき。うけず思(おも)はば、おちとどま(ッ)し時(とき)はなどさはいはざ(ッ)しぞ。大小事(だいせうじ)一向(いつかう)なんぢにこそいひあはせしか」との給(たま)へば、宗清(むねきよ)居(ゐ)なおり(なほり)畏(かしこま・ッ)て申(まうし)けるは、「たかきもいやしきも、人(ひと)の身(み)に命(いのち)ばかりおしき(をしき)物(もの)や候(さうらふ)。
又(また)世(よ)をばすつれども、身(み)をばすてずと申(まうし)候(さうらふ)めり。御(おん)とどまりをあしとには候(さうら)はず。兵衛佐(ひやうゑのすけ)もかゐ(かひ)なき命(いのち)をたすけられまいらせ(まゐらせ)て候(さうら)へばこそ、けふはかかる幸(さいはひ)にもあひ候(さうら)へ。流罪(るざい)せられ候(さうらひ)しときは、故(こ)尼御前(あまごぜん)の仰(おほせ)にて、しの原(はら)の宿(しゆく)までうちおく(ッ)て候(さうらひ)き。「其(その)事(こと)な(ン)ど(など)今(いま)にわすれず」とうけ給(たまはり)候(さうら)へば、さだめて御(おん)ともにまかり下(くだつ)て候者(さうらはば)、ひきで物(もの)、饗応(きやうおう)な(ン)ど(など)もし候(さうら)はんずらん。それにつけても心(こころ)うかるべう候(さうらふ)。西国(さいこく)にわたらせ給(たま)ふ君達(きんだち)、もしは侍(さぶらひ)どものかへりきかん事(こと)、返々(かへすがへす)はづかしう候(さうら)へば、まげて今度(こんど)ばかりはまかりとどまるべう候(さうらふ)。
君(きみ)はおちとどまらせ給(たまひ)て、かくてわたらせ給(たま)ふ程(ほど)では、などか御(おん)くだりなうても候(さうらふ)べき。はるかの旅(たび)におもむかせ給(たま)ふ事(こと)は、まことにおぼつかなうおもひまいらせ(まゐらせ)候(さうら)へども、敵(かたき)をもせめに御(おん)くだり候者(さうらはば)、一陣(いちぢん)にこそ候(さうらふ)べけれども、これはまいら(まゐら)ずとも、更(さら)に御事(おんこと)かけ候(さうらふ)まじ。兵衛佐(ひやうゑのすけ)たづね申(まう)され候者(さうらはば)、「あひ労(いたは)る事(こと)あ(ッ)て」と仰(おほせ)候(さうらふ)べし」と申(まうし)ければ、心(こころ)ある侍(さぶらひ)どもはこれをきいて、みな涙(なみだ)をぞながしける。大納言(だいなごん)もさすがはづかしうはおもはれけれども、さればとてとどまるべきにもあらねば、やがてたち給(たま)ひぬ。同(おなじき)十六日(じふろくにち)、鎌倉(かまくら)へくだりつき給(たま)ふ。
兵衛佐(ひやうゑのすけ)いそぎ見参(げんざん)して、まづ「宗清(むねきよ)は御(おん)ともして候(さうらふ)か」と申(まう)されければ、「おりふし(をりふし)労(いた)はる事(こと)候(さうらひ)て、くだり候(さうら)はず」との給(たま)へば、「いかに、なにをいたはり候(さうらひ)けるやらん。意趣(いしゆ)を存(ぞんじ)候(さうらふ)にこそ。むかし宗清(むねきよ)がもとに候(さうらひ)しに、事(こと)にふれてありがたうあたり候(さうらひ)し事(こと)、今(いま)にわすれ候(さうら)はねば、さだめて御(おん)ともに罷下(まかりくだり)候(さうら)はんずらん、とく見参(げんざん)せばやな(ン)ど(など)恋(こひ)しう存(ぞんじ)て候(さうらふ)に、うらめしうもくだり候(さうら)はぬ物(もの)かな」とて、下文(くだしぶみ)あまたなしまうけ、馬鞍(むまくら・うまくら)・物具(もののぐ)以下(いげ)、やうやうの物(もの)どもたばんとせられければ、しかるべき大みやうども、われもわれもとひきでものども用意(ようい)したりけるに、くだらざりければ、上下(じやうげ)ほひ(ほい)なき事(こと)におもひてぞありける。
六月(ろくぐわつ)九日(ここのかのひ)、池(いけ)の大納言(だいなごん)関東(くわんとう)より上洛(しやうらく)し給(たま)ふ。兵衛佐(ひやうゑのすけ)「しばらくかくておはしませ」と申(まう)されけれども、「宮(みや)こにおぼつかなくおもふらん」とて、いそぎのぼり給(たま)ひければ、庄園(しやうゑん・しやうえん)私領(しりやう)一所(いつしよ)も相違(さうい)あるべからず、并(ならび)に大納言(だいなごん)になしかへさるべきよし、法皇(ほふわう・ほうわう)へ申(まう)されけり。鞍置馬(くらおきむま・くらをきむま)卅疋(さんじつぴき)、はだか馬(むま)卅疋(さんじつぴき)、長持(ながもち)卅(さんじふ)枝(えだ)に、葉金(はこがね)・染物(そめもの)・巻絹(まきぎぬ)風情(ふぜい)の物(もの)をいれてたてまつり給(たま)ふ。
兵衛佐(ひやうゑのすけ)かやうにもてなし給(たま)へば、大名(だいみやう)小名(せうみやう)われもわれもと引出物(ひきでもの)をたてまつる。馬(むま)だにも三百疋(さんびやつぴき)に及(およ・をよ)べり。命(いのち)いき給(たま)ふのみならず、徳(とく)ついてぞかへりのぼられける。同(おなじき)十八日(じふはちにち)、肥後守(ひごのかみ)定能(さだよし)が伯父(をぢ・おぢ)、平太(へいだ)入道(にふだう・にうだう)定次(さだつぐ)〔を〕大将(たいしやう)として、伊賀(いが)・伊勢(いせ)両国(りやうごく)の住人等(ぢゆうにんら・ぢうにんら)、近江国(あふみのくに)へうち出(いで)たりければ、源氏ノ(げんじの)末葉等(ばつえふら・ばつようら)発向(はつかう)して合戦(かつせん)をいたす。両国ノ(りやうごくの)住人等(ぢゆうにんら・ぢうにんら)一人(いちにん)ものこらずうちおとさる。平家(へいけ)重代(ぢゆうだい・ぢうだい)相伝(さうでん)の家人(けにん)にて、昔(むかし)のよしみをわすれぬ事(こと)はあはれなれども、おもひたつこそおほけなけれ。三日平氏(みつかへいじ)とは是(これ)也(なり)。
さる程(ほど)に、小松(こまつ)の三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)維盛卿(これもりのきやう)の北方(きたのかた)は、風(かぜ)のたよりの事(こと)つても、たえて久(ひさ)しくなりければ、なにとなりぬる事(こと)やらんと、心(こころ)ぐるしうぞおもはれける。月(つき)に一度(いちど)な(ン)ど(など)は必(かなら)ずをとづるる(おとづるる)物(もの)をとまち給(たま)へども、春(はる)すぎ夏(なつ)もたけぬ。「三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)、いまは八島(やしま)にもおはせぬ物(もの)をと申(まうす)人(ひと)あり」ときき給(たま)ひて、あまりのおぼつかなさに、とかくして八島(やしま)へ人(ひと)をたてまつり給(たま)ひたりければ、いそぎもたちかへらず。夏(なつ)すぎ秋(あき)にもなりぬ。
七月(しちぐわつ)の末(すゑ)に、かの使(つかひ)かへりきたれり。北方(きたのかた)「さていかにやいかに」ととひ給(たま)へば、「「すぎ候(さうらひ)し三月(さんぐわつ)十五日(じふごにち)の暁(あかつき)、八島(やしま)を御(おん)いで候(さうらひ)て、高野(かうや)へまいら(まゐら)せ給(たま)ひて候(さうらひ)けるが、高野(かうや)にて御(おん)ぐしおろし、それより熊野(くまの)へまいら(まゐら)せをはしまし(おはしまし)、後世(ごせ)の事(こと)をよくよく申(まう)させ給(たま)ひ、那知(なち)の奥(おき)にて御身(おんみ)をなげさせ給(たま)ひて候(さうらふ)」とこそ、御(おん)とも申(まうし)たりけるとねり武里(たけさと)はかたり申(まうし)候(さうらひ)つれ」と申(まうし)ければ、北方(きたのかた)「さればこそ。あやしとおもひつる物(もの)を」とて、ひきかづいてぞふし給(たま)ふ。若君(わかぎみ)姫君(ひめぎみ)も声々(こゑごゑ)になきかなしみ給(たま)ひけり。
若君(わかぎみ)の御(おん)めのとの女房(にようばう)、なくなく申(まうし)けるは、「これはいまさらおどろかせ給(たま)ふべからず。日(ひ)ごろよりおぼしめしまうけたる御事(おんこと)也(なり)。本三位(ほんざんみの・ほんざんゐの)中将殿(ちゆうじやうどの・ちうじやうどの)のやうにいけどりにせられて、宮(みや)こへかへらせ給(たま)ひたらば、いかばかり心(こころ)うかるべきに、高野(かうや)にて御(おん)ぐしおろし、熊野(くまの)へまいら(まゐら)せ給(たま)ひ、後世(ごせ)の事(こと)よくよく申(まう)させおはしまし、臨終(りんじゆう・りんじう)正念(しやうねん)にてうせさせ給(たま)ひける御事(おんこと)、なげきのなかの御(おん)よろこび也(なり)。されば御心(おんこころ)やすき事(こと)にこそおぼしめすべけれ。いまはいかなる岩木(いはき)のはざまにても、おさなき(をさなき)人々(ひとびと)をおおし(おほし)たてまいらせ(まゐらせ)んとおぼしめせ」と、やうやうになぐさめ申(まうし)けれども、おぼしめししのびて、ながらふべしともみえ給(たま)はず。やがてさまをかへ、かたのごとくの仏事(ぶつじ)をいとなみ、後世(ごせ)をぞとぶらひ給(たま)ひける。 
藤戸 (ふぢと) 

 

これを鎌倉(かまくら)の兵衛佐(ひやうゑのすけ)かへりきき給(たま)ひて、「あはれ、へだてなくうちむかひておはしたらば、命(いのち)ばかりはたすけたてま(ッ)てまし。小松(こまつ)の内府(だいふ)の事(こと)は、おろかにおもひたてまつらず。池(いけ)の禅尼(ぜんに)の使(つかひ)として、頼朝(よりとも)を流罪(るざい)に申(まうし)なだめられしは、ひとへに彼ノ(かの)内府(だいふ)の芳恩(はうおん・ほうをん)なり。
其(その)恩(おん・をん)争(いかで)かわするべきなれば、子息(しそく)たちもおろかにおもはず。まして出家(しゆつけ)な(ン)ど(など)せられなんうへは、子細(しさい)にや及(およぶ・をよぶ)べき」とぞの給(たま)ひける。さる程(ほど)に、平家(へいけ)は讃岐(さねき)の八島(やしま)へかへり給(たま)ひて後(のち)も、東国(とうごく)よりあら手(て)の軍兵(ぐんびやう)数万騎(すまんぎ)、宮(みや)こにつゐ(つい)てせめくだるともきこゆ。鎮西(ちんぜい)より臼杵(うすき)・戸次(へつき)・松浦党(まつらたう)同心(どうしん)しておしわたるとも申(まうし)あへり。かれをきき是(これ)をきくにも、ただ耳(みみ)ををどろかし(おどろかし)、きも魂(たましひ・たましゐ)をけすより外(ほか)の事(こと)ぞなき。今度(こんど)一(いち)の谷(たに)にて一門(いちもん)の人々(ひとびと)のこりすくなくうたれ給(たま)ひ、むねとの侍(さぶらひ)どもなか半(ば)すぎてほろびぬ。
いまはちからつきはてて、阿波(あはの)民部(みんぶ)大夫(だいふ・だゆふ)重能(しげよし)が兄弟(きやうだい)、四国(しこく)の物(もの)どもかたら(ッ)て、さりともと申(まうし)けるをぞ、たかき山(やま)ふかき海(うみ)ともたのみ給(たま)ひける。女房達(にようばうたち)はさしつどひて、ただなくより外(ほか)の事(こと)ぞなき。かくて七月(しちぐわつ)廿五日(にじふごにち)にもなりぬ。「こぞのけふは宮(みや)こをいでしぞかし。程(ほど)なくめぐりきにけり」とて、あさましうあはたたしかり(あわたたしかり)し事(こと)どもの給(たま)ひいだして、なきぬわらひぬぞし給(たま)ひける。同(おなじき)廿八日(にじふはちにち)、新帝(しんてい)の御即位(ごそくゐ)あり。内侍所(ないしどころ)・神璽(しんし)・宝剣(ほうけん)もなくして御即位(ごそくゐ)の例(れい)、神武天皇(じんむてんわう)よりこのかた八十二(はちじふに)代(だい)、これはじめとぞうけ給(たま)はる。
八月(はちぐわつ)六日(むゆかのひ)、蒲(がまの)冠者(くわんじや)範頼(のりより)参川守(みかはのかみ)になる。九郎(くらう)冠者(くわんじや)義経(よしつね)、左衛門尉(さゑもんのじよう・さゑもんのぜう)になさる。すなはち使(つかひ)の宣旨(せんじ)を蒙(かうぶり)て、九郎(くらう)判官(はうぐわん)とぞ申(まうし)ける。さる程(ほど)に、荻(をぎ・おぎ)のうは風(かぜ)もやうやう身(み)にしみ、萩(はぎ)のした露(つゆ)もいよいよしげく、うらむる虫(むし)の声々(こゑごゑ)に、稲葉(いなば)うちそよぎ、〔木(こ)の葉(は)かつちるけしき〕物(もの)おもはざらんだにも、ふけゆく秋(あき)の旅(たび)の空(そら)はかなしかるべし。まして平家(へいけ)の人々(ひとびと)の心(こころ)のうち、さこそはおはしけめとをしはから(おしはから)れて哀(あはれ)也(なり)。むかしは九(ここの)え(ここのへ)のうちにて、春(はる)の花(はな)をもてあそび、今者(いまは)八島(やしま)の浦(うら)にして、秋(あき)の月(つき)にかなしむ。凡(およ・をよ)そさやけき月(つき)を詠(えい・ゑい)じても、都(みやこ)のこよひいかなるらんとおもひやり、心(こころ)をすまし、涙(なみだ)をながしてぞあかしくらし給(たま)ひける。左馬頭(さまのかみ)行盛(ゆきもり)かうぞおもひつづけ給(たま)ふ。
君(きみ)すめばこれも雲井(くもゐ)の月(つき)なれど猶(なほ・なを)恋(こひ)しきは都(みやこ)なりけり
同(おなじき)九月(くぐわつ)十二日(じふににち)、参川守(みかはのかみ)範頼(のりより)、平家(へいけ)追討(ついたう)のために西国(さいこく)へ発向(はつかう)す。相(あ)ひ伴(ともな)ふ人々(ひとびと)、足利(あしかがの)蔵人(くらんど)義兼(よしかぬ)・鏡美(かがみの)小次郎(こじらう)長清(ながきよ)・北条(ほうでうの)小四郎(こしらう)義時(よしとき)・斎院(さいゐんの)次官(しくわん)親義(ちかよし)、侍大将(さぶらひだいしやう)には、土肥(とひの・とゐの)次郎(じらう)実平(さねひら)・子息(しそく)弥太郎(やたらう)遠平(とほひら・とをひら)・三浦介(みうらのすけ)義澄(よしずみ)・子息(しそく)平六(へいろく)義村(よしむら)・畠山(はたけやまの)庄司(しやうじ)次郎(じらう)重忠(しげただ)・同(おなじく)長野(ながのの)三郎(さぶらう)重清(しげきよ)・稲毛(いなげの)三郎(さぶらう)重成(しげなり)・榛谷(はんがへの)四郎(しらう)重朝(しげとも)・同(おなじく)五郎(ごらう)行重(ゆきしげ)・小山(をやまの)小四郎(こしらう)朝政(ともまさ)・同(おなじく)長沼(ながぬまの)五郎(ごらう)宗政(むねまさ)・土屋(つちやの)三郎(さぶらう)宗遠(むねとほ・むねとを)・佐々木(ささき)三郎(さぶらう)守綱(もりつな)・八田(はつたの)四郎(しらう)武者(むしや)朝家(ともいへ)・安西(あんざいの)三郎(さぶらう)秋益(あきます)・大胡(おほごの)三郎(さぶらう)実秀(さねひで)・天野(あまのの)藤内(とうない)遠景(とほかげ・とをかげ)・比気(ひきの)藤内(とうない)朝宗(ともむね)・同(おなじく)藤四郎(とうしらう)義員(よしかず)・中条(ちゆうでうの・ちうでうの)藤次(とうじ)家長(いへなが)・一品房(いつぽんばう)章玄(しやうげん)・土佐房(とさばう)正俊(しやうしゆん)、此等(これら)を初(はじめ)として都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)三万余騎(さんまんよき)、宮(みや)こをた(ッ)て播磨(はりま)の室(むろ)にぞつきにける。
平家(へいけ)の方(かた)には、大将軍(たいしやうぐん)小松ノ(こまつの)新三位(しんざんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)資盛(すけもり)・同(おなじく)小将(せうしやう)有盛(ありもり)・丹後(たんごの)侍従(じじゆう・じじう)忠房(ただふさ)、侍大将(さぶらひだいしやう)には、飛騨(ひだの)三郎左衛門(さぶらうざゑもん・さぶらうざへもん)景経(かげつね)・越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)盛次(もりつぎ)・上総(かづさの)五郎兵衛(ごらうびやうゑ)忠光(ただみつ)・悪(あく)七兵衛(しつびやうゑ)景清(かげきよ)をさきとして、五百余艘(ごひやくよさう)の兵船(ひやうせん)にとりの(ッ)て、備前ノ(びぜんの)小島(こじま)につくときこえしかば、源氏(げんじ)室(むろ)をた(ッ)て、これも備前国(びぜんのくに)西河尻(にしかはじり)、藤戸(ふぢと)に陣(ぢん)をぞと(ッ)たりける。源平(げんぺい)の陣(ぢん)のあはひ、海(うみ)のおもて五町(ごちやう)ばかりをへだてたり。舟(ふね)なくしてはたやすうわたすべき様(やう)なかりければ、源氏(げんじ)の大勢(おほぜい)むかひの山(やま)に宿(しゆく)して、いたづらに日数(ひかず)ををくる(おくる)。
平家(へいけ)のかたよりはやりお(はやりを)のわか物(もの)ども、小舟(こぶね)にの(ッ)てこぎいださせ、扇(あふぎ)をあげて「ここわたせ」とぞまねきける。源氏(げんじ)「やすからぬ事(こと)也(なり)。いかがせん」といふところに、同(おなじき)廿五日(にじふごにち)の夜(よ)に入(いり)て、佐々木(ささき)三郎(さぶらう)盛綱(もりつな)、浦(うら)の男(をとこ・おとこ)をひとりかたら(ッ)て、しろい小袖(こそで)・大口(おほくち)・しろざやまきな(ン)ど(など)とらせ、すかしおほせて、「この海(うみ)に馬(むま)にてわたしぬべきところやある」ととひければ、男(をとこ・おとこ)申(まうし)けるは、「浦(うら)の物(もの)どもおほう候(さうら)へども、案内(あんない)し(ッ)たるはまれに候(さうらふ)。このおとこ(をとこ)こそよく存知(ぞんぢ)して候(さうら)へ。たとへば河(かは)の瀬(せ)のやうなるところの候(さうらふ)が、月(つき)がしらには東(ひがし・ひ(ン)がし)に候(さうらふ)、月(つき)じりには西(にし)に候(さうらふ)。両方(りやうばう)の瀬(せ)のあはひ、海(うみ)のをもて(おもて)十町(じつちやう)ばかりは候(さうらふ)らん。この瀬(せ)は御馬(おんむま)にてはたやすうわたさせ給(たま)ふべし」と申(まうし)ければ、佐々木(ささき)なのめならず悦(よろこう・よろこふ)で、わが家子(いへのこ)郎等(らうどう)にもしらせず、かの男(をとこ・おとこ)とただ二人(ににん)まぎれいで、はだかになり、件(くだん)の瀬(せ)のやうなるところをわた(ッ)てみるに、げにもいたくふかうはなかりけり。ひざ・こし、肩(かた)にたつところもあり。
鬢(びん)のぬるるところもあり。ふかきところをばおよいで、あさきところにおよぎつく。男(をとこ・おとこ)申(まうし)けるは、「これ〔より〕南(みなみ・み(ン)なみ)は北(きた)よりはるかにあさう候(さうらふ)。敵(てき)、矢(や)さきをそろへて待(まつ)ところに、はだかにてはかなはせ給(たまふ)まじ。かへらせ給(たま)へ」と申(まうし)ければ、佐々木(ささき)げにもとてかへりけるが、「下臈(げらふ・げらう)はどこともなき物(もの)なれば、又(また)人(ひと)にかたらはれて案内(あんない)をもおしへ(をしへ)んずらん。我(われ)ばかりこそしらめ」とおもひて、かの男(をとこ・おとこ)をさしころし、頸(くび)かき切(ッ)てすてて(ン)げり。同(おなじき)廿六日(にじふろくにち)の辰刻(たつのこく)ばかり、平家(へいけ)又(また)小舟(こぶね)にの(ッ)てこぎいださせ、「ここをわたせ」とぞまねきける。佐々木(ささき)三郎(さぶらう)、案内(あんない)はかねてし(ッ)たり、しげめゆい(しげめゆひ)の直垂(ひたたれ)に黒糸威(くろいとをどし・くろいとおどし)の鎧(よろひ・よろい)きて、しら葦毛(あしげ)なる馬(むま)にのり、家子(いへのこ)郎等(らうどう)七騎(しちき)、ざ(ッ)とうちいれてわたしけり。大将軍(たいしやうぐん)参川守(みかはのかみ)、「あれせいせよ、とどめよ」との給(たま)へば、土肥(とひの・とゐの)次郎(じらう)実平(さねひら)むちあぶみをあはせてお(ッ)ついて、「いかに佐々木殿(ささきどの)、物(もの)のついてくるい(くるひ)給(たま)ふか。
大将軍(たいしやうぐん)のゆるされもなきに、狼籍(らうぜき)也(なり)。とどまり給(たま)へ」といひけれども、耳(みみ)にもききいれずわたしければ、土肥(とひの・とゐの)次郎(じらう)もせいしかねて、やがてつれてぞわたいたる。馬(むま)のくさわき、むながいづくし、ふと腹(ばら)につくところもあり、鞍(くら)つぼこす所(ところ)もあり。ふかきところはおよがせ、あさきところにうちあがる。
大将軍(たいしやうぐん)参川守(みかはのかみ)これをみて、「佐々木(ささき)にたばかられにけり。あさかりけるぞや。わたせやわたせ」と下知(げぢ)せられければ、三万余騎(さんまんよき)の大勢(おほぜい)みなうち入(い)れてわたしけり。平家(へいけ)の方(かた)には「あはや」とて、舟(ふね)どもおしうかべ、矢(や)さきをそろへてさしつめひきつめさんざんにいる。源氏(げんじ)のつは物(もの)どもこれを事(こと)ともせず、甲(かぶと)のしころをかたむけ、平家(へいけ)の舟(ふね)にのりうつりのりうつり、おめき(をめき)さけんでせめたたかふ。源平(げんぺい)みだれあひ、或(あるい・ある)は舟(ふね)ふみしづめて死(し)ぬる物(もの)もあり、或(あるい・ある)は舟(ふね)ひきかへされてあはて(あわて)ふためくものもあり。
一日チ(いちにち)たたかひくらして夜(よる)に入(いり)ければ、平家(へいけ)の舟(ふね)はおきにうかぶ。源氏(げんじ)は小島(こじま)にうちあが(ッ)て、人馬(にんば)のいきをぞやすめける。平家(へいけ)は八島(やしま)へこぎしりぞく。源氏(げんじ)心(こころ)はたけく思(おも)へども、舟(ふね)なかりければ、おうてもせめたたかはず。「昔(むかし)より今(いま)にいたるまで、馬(むま)にて河(かは)をわたすつは物(もの)はありといへども、馬(むま)にて海(うみ)をわたす事(こと)、天竺(てんぢく)・震旦(しんだん)はしらず、我(わが)朝(てう)には希代(きたい)のためしなり」とて、備前ノ(びぜんの)小島(こじま)を佐々木(ささき)に給(たま)はりける。
鎌倉殿(かまくらどの)の御教書(みげうしよ)にものせられけり。同(おなじき)廿七日(にじふしちにち)、宮(みや)こには九郎(くらう)判官(はうぐわん)義経(よしつね)、検非違使(けんびゐし・けんびいし)五位尉(ごゐのじよう・ごゐのぜう)になされて、九郎(くらう)大夫(たいふの・たゆふの)判官(はうぐわん)とぞ申(まうし)ける。さる程(ほど)に十月(じふぐわつ)にもなりぬ。八島(やしま)には浦(うら)吹(ふく)風(かぜ)もはげしく、磯(いそ)うつ浪(なみ)もたかかりければ、つは物(もの)もせめ来(きた)らず、商客(しやうかく)のゆきかう(かふ)もまれなれば、宮(みや)このつてもきかまほしく、いつしか空(そら)かきくもり、霰(あられ)うち散(ちり)、いとどきえ入(いる)心地(ここち)ぞし給(たま)ひける。都(みやこ)には太嘗会(だいじやうゑ)あるべしとて、御禊(ごけい)の行幸(ぎやうがう)ありけり。
節下(せつげ)は徳大寺(とくだいじの)左大将(さだいしやう)実定公(さねさだこう)、其(その)比(ころ)内大臣(ないだいじん)にておはしけるが、つとめられけり。おとどし(をとどし)先帝(せんてい)の御禊(ごけい)の行幸(ぎやうがう)には、平家(へいけ)の内大臣(ないだいじん)宗盛公(むねもりこう)節下(せつげ)にてをはせ(おはせ)しが、節下(せつげ)のあく屋(や)につき、前(まへ)に竜(りよう・れう)の旗(はた)たててゐ給(たま)ひたりし景気(けいき)、冠(かふり)ぎは、袖(そで)のかかり、表ノ(うへの)袴(はかま)のすそまでもことにすぐれてみえ給(たま)へり。其(その)外(ほか)一門(いちもん)の人々(ひとびと)三位(さんみの・さんゐの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)知盛(とももり)・頭(とう)の中将(ちゆうじやう)重衡(しげひら)以下(いげ)近衛(こんゑ)づかさみつなに候(さうら)はれしには、又(また)立(たち)ならぶ人(ひと)もなかりしぞかし。けふ〔は〕九郎(くらう)判官(はうぐわん)先陣(せんぢん)に供奉(ぐぶ)す。木曾(きそ)な(ン)ど(など)にはにず、以外(もつてのほか・もてのほか)に京(みやこ)なれてはありしかども、平家(へいけ)のなかのゑりくづ(えりくづ)よりも猶(なほ・なを)おとれり。
同(おなじき)十一月(じふいちぐわつ)十八日(じふはちにち)、大嘗会(だいじやうゑ)とげをこなは(おこなは)る。去(さんぬ)る治承(ぢしよう・ぢせう)養和(やうわ・ようわ)のころより、諸国(しよこく)七道(しちだう)の人民(にんみん)百姓等(ひやくしやうら)、源氏(げんじ)のためになやまされ、平家(へいけ)のためにほろぼされ、家(いへ)かまどをすてて、春(はる)〔は〕東作(とうさく)のおもひをわすれ、秋(あき)は西収(さいしゆ)のいとなみにも及(およ・をよ)ばず。いかにしてか様(やう)の大礼(たいれい)もおこなはるべきなれども、さてしもあるべき事(こと)ならねば、かたのごとくぞとげられける。参川守(みかはのかみ)範頼(のりより)、やがてつづゐ(つづい)てせめ給(たま)はば、平家(へいけ)はほろぶべかりしに、室(むろ)・高砂(たかさご)にやすらひて、遊君(いうくん・ゆうくん)遊女(いうぢよ・ゆうぢよ)どもめしあつめ、あそびたはぶれてのみ月日(つきひ)ををくら(おくら)れけり。東国(とうごく)の大名(だいみやう)小名(せうみやう)おほしといへども、大将軍(たいしやうぐん)の下知(げぢ)にしたがふ事(こと)なれば力(ちから)及(およ・をよ)ばず。ただ国(くに)のついへ(つひえ)、民(たみ)のわづらひのみあ(ッ)て、ことしも既(すで)にくれにけり。 
 
平家物語 巻十一

 

逆櫓 (さかろ) 
元暦(げんりやく)二年(にねん)正月(しやうぐわつ)十日(とをか)、九郎(くらう)大夫(たいふの・たゆふの)判官(はうぐわん)義経(よしつね)、院(ゐん)の御所(ごしよ)へまい(ッ・まゐつ)て大蔵卿(おほくらのきやう)泰経(やすつね)朝臣(あそん・あ(ツ)そん)をも(ッ)て奏聞(そうもん)しけるは、「平家(へいけ)は神明(しんめい)にもはなたれ奉(たてまつ)り、君(きみ)にもすてられまいらせ(まゐらせ)て、帝都(ていと)をいで、浪(なみ)のうへにただよふおちうととなれり。しかるを此(この)三箇年(さんがねん)があひだ、せめおとさずして、おほくの国々(くにぐに)をふさげらるる事(こと)、口惜(くちをしく・くちおしく)候(さうら)へば、今度(こんど)義経(よしつね)にをいて(おいて)は、鬼界(きかい)・高麗(かうらい)・天竺(てんぢく)・震旦(しんだん)までも、平家(へいけ)をせめおとさざらんかぎりは、王城(わうじやう)へかへるべからず」とたのもしげに申(まうし)ければ、法皇(ほふわう・ほうわう)おほきに御感(ぎよかん)あ(ッ)て、「相構(あひかまへ)て、夜(よ)を日(ひ)につぎて勝負(しようぶ・せうぶ)を決(けつ)すべし」と仰下(おほせくだ)さる。
判官(はうぐわん)宿所(しゆくしよ)に帰(かへ・ッ)て、東国(とうごく)の軍兵(ぐんびやう)どもにの給(たま)ひけるは、「義経(よしつね)、鎌倉殿(かまくらどの)の御代官(ごだいくわん)として院宣(ゐんぜん)をうけ給(たま)は(ッ)て、平家(へいけ)を追討(ついたう)す。陸(くが)は駒(こま)の足(あし)のおよばんをかぎり、海(うみ)はろかいのとづかん程(ほど)せめゆくべし。すこしもふた心(ごころ)あらん人々(ひとびと)は、とうとうこれよりかへらるべし」とぞの給(たまひ)ける。
さる程(ほど)に、八島(やしま)にはひまゆく駒(こま)の足(あし)はやくして、正月(しやうぐわつ)もたち、二月(にぐわつ・にんぐわつ)にもなりぬ。春(はる)の草(くさ)くれて、秋(あき)の風(かぜ)におどろき、秋(あき)の風(かぜ)やんで、春(はる)の草(くさ)になれり。
をくり(おくり)むかへてすでに三(み)とせになりにけり。都(みやこ)には東国(とうごく)よりあら手(て)の軍兵(ぐんびやう)数万騎(すまんぎ)ついてせめ下(くだ)るともきこゆ。鎮西(ちんぜい)より臼杵(うすき)・戸次(へつき)・松浦党(まつらたう)同心(どうしん)してをし(おし)わたるとも申(まうし)あへり。かれをきき、是(これ)を聞(きく)にも、ただ耳(みみ)を驚(おどろ・をどろ)かし、きも魂(たましひ・たましゐ)をけすより外(ほか)の事(こと)ぞなき。女房達(にようばうたち)は女院(にようゐん)・二位殿(にゐどの)をはじめまいらせ(まゐらせ)て、さしつどい(つどひ)て、「又(また)いかなるうきめをか見(み)んずらん。いかなるうき事(こと)をかきかんずらん」となげきあひ、かなしみあへり。新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)知盛卿(とももりのきやう)の給(たま)ひけるは、「東国(とうごく)北国(ほつこく)の物(もの)どもも随分(ずいぶん)重恩(ちようおん・てうをん)をかうむ(ッ)たりしかども、恩(おん・をん)をわすれ契(ちぎり)を変(へん)じて、頼朝(よりとも)・義仲等(よしなから)にしたがひき。まして西国(さいこく)とても、さこそはあらんずらめと思(おも)ひしかば、都(みやこ)にていかにもならむとおもひし物(もの)を、わが身(み)ひとつの事(こと)ならねば、心(こころ)よはう(よわう)あくがれ出(いで)て、けふはかかるうき目(め)を見(み)る口惜(くちをし・くちおし)さよ」とぞの給(たまひ)ける。
誠(まこと)にことはり(ことわり)とおぼえて哀(あはれ)なり。同(おなじき)二月(にぐわつ)三日(みつかのひ)、九郎(くらう)大夫(たいふの・たゆふの)判官(はうぐわん)義経(よしつね)、都(みやこ)をた(ッ)て、摂津国(つのくに)渡辺(わたなべ)よりふなぞろへして、八島(やしま)へすでによせんとす。参川守(みかはのかみ)範頼(のりより)も同(おなじき)日(ひ)に都(みやこ)をた(ッ)て、摂津国(つのくに)神崎(かんざき)より兵船(ひやうせん)をそろへて、山陽道(せんやうだう)へおもむかんとす。同(おなじき)十三日(じふさんにち)、伊勢大神宮(いせだいじんぐう)・石清水(いはしみづ)・賀茂(かも)・春日(かすが)へ官幣使(くわんべいし)をたてらる。「主上(しゆしやう)并(ならびに)三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)、ことゆへ(ゆゑ)なうかへりいらせ給(たま)へ」と、神祇官(じんぎくわん)の官人(くわんにん)、もろもろの社司(しやし)、本宮(ほんぐう)本社(ほんじや)にて祈誓(きせい)申(まうす)べきよし仰下(おほせくだ)さる。
同(おなじき)十六日(じふろくにち)、渡辺(わたなべ)・神崎(かんざき)両所(りやうしよ)にて、この日(ひ)ごろそろへける舟(ふね)ども、ともづなすでにとかんとす。おりふし(をりふし)北風(ほくふう)木(き)をを(ッ)てはげしう吹(ふき)ければ、大浪(おほなみ)に舟(ふね)どもさんざんにうちそんぜられて、いだすに及(およ・をよ)ばず。修理(しゆり)のために其(その)日(ひ)はとどまる。渡辺(わたなべ)には大名(だいみやう)小名(せうみやう)よりあひて、「抑(そもそも)ふないくさの様(やう)はいまだ調練(てうれん)せず。いかがあるべき」と評定(ひやうぢやう)す。梶原(かぢはら)申(まうし)けるは、「今度(こんど)の合戦(かつせん)には、舟(ふね)に逆櫓(さかろ)をたて候(さうらは)ばや」。判官(はうぐわん)「さかろとはなんぞ」。梶原(かぢはら)「馬(むま)はかけんとおもへば弓手(ゆんで)へも馬手(めて)へもまはしやすし。
舟(ふね)はき(ッ)とをし(おし)もどすが大事(だいじ)に候(さうらふ)。ともへに櫓(ろ)をたてちがへ、わいかぢをいれて、どなたへもやすうをす(おす)やうにし候(さうらは)ばや」と申(まうし)ければ、判官(はうぐわん)の給(たまひ)けるは、「いくさといふ物(もの)はひとひきもひかじとおもふだにも、あはひあしければひくはつねの習(ならひ)なり。もとよりにげまうけしてはなんのよからうぞ。まづ門(かど)でのあしさよ。さかろをたてうとも、かへさまろをたてうとも、殿原(とのばら)の船(ふね)には百(ひやく)ちやう千(せん)ぢやうもたて給(たま)へ。義経(よしつね)はもとのろで候(さうら)はん」との給(たま)へば、梶原(かぢはら)申(まうし)けるは、「よき大将軍(たいしやうぐん)と申(まうす)は、かくべき所(ところ)をばかけ、ひくべき処(ところ)をばひいて、身(み)をま(ッ)たう(まつたう)して敵(かたき)をほろぼすをも(ッ)てよき大将軍(たいしやうぐん)とはする候(ざうらふ)。かたおもむきなるをば、猪(ゐ)のしし武者(むしや)とてよきにはせず」と申(まう)せば、
判官(はうぐわん)「猪(ゐ)のしし鹿(か)のししはしらず、いくさはただひらぜめにせめてか(ッ)たるぞ心地(ここち)はよき」との給(たま)へば、侍(さぶらひ)ども梶原(かぢはら)におそれてたかくはわらはねども、目(め)ひきはなひききらめきあへり。判官(はうぐわん)と梶原(かぢはら)と、すでにどしいくさあるべしとざざめきあへり。やうやう日(ひ)くれ夜(よ)に入(いり)ければ、判官(はうぐわん)の給(たま)ひけるは、「舟(ふね)の修理(しゆり)してあたらしうな(ッ)たるに、をのをの(おのおの)一種(いつしゆ)一瓶(いつぺい)していはひ給(たま)へ、殿原(とのばら)」とて、いとなむ様(やう)にて舟(ふね)に物(もの)の具(ぐ)いれ、兵粮米(ひやうらうまい)つみ、馬(むま)どもたてさせて、「とくとくつかまつれ」との給(たま)ひければ、水手(すいしゆ)梶取(かんどり)申(まうし)けるは、「此(この)風(かぜ)はおい手(て・おひて)にて候(さうら)へども、普通(ふつう)にすぎたる風(かぜ)で候(さうらふ)。奥(おき)はさぞふいて候(さうらふ)らん。争(いかで)か仕(つかまつり)候(さうらふ)べき」と申(まう)せば、
判官(はうぐわん)おほきにいか(ッ)ての給(たま)ひけるは、「むかひ風(かぜ)にわたらんといはばこそひが事(こと)ならめ、順風(じゆんぷう)なるがすこしすぎたればとて、是(これ)程(ほど)の御大事(おんだいじ)にいかでわたらじとは申(まうす)ぞ。舟(ふね)つかまつらずは、一々(いちいち)にしやつばら射(い・ゐ)ころせ」と下知(げぢ)せらる。奥州(あうしう・あふしう)の佐藤(さとう)三郎兵衛(さとうさぶらうびやうゑ)嗣信(つぎのぶ)・伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)、片手矢(かたてや)はげ、すすみ出(いで)て、「何条(なんでふ・なんでう)子細(しさい)を申(まうす)ぞ。御(ご)ぢやうであるにとくとく仕(つかまつ)れ。舟(ふね)仕(つかまつ)らずは一々(いちいち)に射(い・ゐ)ころさんずるぞ」といひければ、水手(すいしゆ)梶取(かんどり)是(これ)をきき、「射(い・ゐ)ころされんもおなじ事(こと)、風(かぜ)こはくは、ただはせじににしねや、物共(ものども)」とて、二百(にひやく)余艘(よさう・よそう)の舟(ふね)のなかに、ただ五艘(ごさう・ごそう)いでてぞはしりける。のこりの船(ふね)は風(かぜ)におそるるか、梶原(かぢはら)におづるかして、みなとどまりぬ。
判官(はうぐわん)の給(たま)ひけるは、「人(ひと)のいでねばとてとどまるべきにあらず。ただの時(とき)はかたきも用心(ようじん)すらん。かかる大風(おほかぜ)大浪(おほなみ)に、おもひもよらぬ時(とき)にをし(おし)よせて〔こそ〕、おもふかたきをばうたんずれ」とぞの給(たま)ひける。
五艘(ごさう・ごそう)の船(ふね)と申(まうす)は、まづ判官(はうぐわん)の船(ふね)、田代(たしろの)冠者(くわんじや)、後藤兵衛(ごとうびやうゑ)父子(ふし)、金子(かねこ)兄弟(きやうだい)、淀(よど)の江内(がうない)忠俊(ただとし)とてふな奉行(ぶぎやう)のの(ッ)たる舟(ふね)也(なり)。判官(はうぐわん)の給(たま)ひけるは、「をのをの(おのおの)の船(ふね)には篝(かがり)なともひ(ともい)そ。義経(よしつね)が舟(ふね)をほん舟(ぶね)として、ともへのかがりをまもれ。火(ひ)かずおほく見(み)えば、かたきおそれて用心(ようじん)してんず」とて、夜(よ)もすがらはしる程(ほど)に、三日(みつか)にわたる処(ところ)をただ三時(みとき)ばかりにわたりけり。二月(にぐわつ)十六日(じふろくにち)の丑(うし)の剋(こく)に、渡辺(わたなべ)・福島(ふくしま)をいでて、あくる卯(う)の時(とき)に阿波(あは)の地(ち)へこそふきつけたれ。 
勝浦付大坂越 (かつうらつけたりおほざかごえ) 

 

夜(よ)すでにあけければ、なぎさに赤旗(あかはた)少々(せうせう)ひらめいたり。判官(はうぐわん)是(これ)を見(み)て「あはや我等(われら)がまうけはしたりけるは。船(ふね)ひらづけにつけ、ふみかたぶけて馬(むま)おろさんとせば、敵(かたき)の的(まと)にな(ッ)てゐ(い)られんず。なぎさにつかぬさきに、馬(むま)どもをひ(おひ)おろしをひ(おひ)おろし、舟(ふね)にひきつけひきつけおよがせよ。馬(むま)の足(あし)だち、鞍(くら)づめひたる程(ほど)にならば、ひたひたとの(ッ)てかけよ、物(もの)ども」とぞ下知(げぢ)せられける。五艘(ごさう)の船(ふね)に物(もの)の具(ぐ)いれ、兵粮米(ひやうらうまい)つんだりければ、馬(むま)ただ五十疋(ごじつぴき・ごじふひき)ぞたてたりける。
なぎさちかくなりしかば、ひたひたとうちの(ッ)て、おめい(をめい)てかくれば、なぎさに百騎(ひやくき)ばかりありける物(もの)ども、しばしもこらへず、二町(にちやう)ばかりざ(ッ)とひいてぞのきにける。判官(はうぐわん)みぎはにう(ッ)た(ッ)て、馬(むま)のいきやすめておはしけるが、伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)をめして、「あの勢(せい)のなかにしかるべい物(もの)やある。一人(いちにん)めしてまいれ(まゐれ)。たづぬべき事(こと)あり」との給(たま)へば、義盛(よしもり)畏(かしこま・ッ)てうけ給(たま)はり、只(ただ)一騎(いつき)かたきのなかへかけいり、なにとかいひたりけん、とし四十(しじふ)ばかりなる男(をのこ・おのこ)の、黒皮威(くろかはをどし・くろかはおどし)の鎧(よろひ・よろい)きたるを、甲(かぶと)をぬがせ、弓(ゆみ)の弦(つる)はづさせて、具(ぐ)してまいり(まゐり)たり。判官(はうぐわん)「なに物(もの)ぞ」との給(たま)へば、「当国(たうごく)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)、坂西(ばんざい)の近藤六(こんどうろく)親家(ちかいへ)」と申(まうす)。「なに家(いへ)でもあらばあれ、物(もの)の具(ぐ)なぬがせそ。
やがて八島(やしま)の案内者(あんないしや・あんないじや)に具(ぐ)せんずるぞ。其(その)男(をとこ・おとこ)に目(め)はなつな。にげてゆかば射(い)ころせ、物共(ものども)」とぞ下知(げぢ)せられける。「ここをばいづくといふぞ」ととはれければ、「かつ浦(うら)と申(まうし)候(さうらふ)」。判官(はうぐわん)わら(ッ)て「色代(しきたい)な」との給(たま)へば、「一定(いちぢやう)勝浦(かつうら)候(ざうらふ)。下臈(げらふ・げらう)の申(まうし)やすひ(やすい)について、かつらと申(まうし)候(さうら)へども、文字(もじ)には勝浦(かつうら)と書(かき)て候(さうらふ)」と申(まう)す。判官(はうぐわん)「是(これ)きき給(たま)へ、殿原(とのばら)。いくさしにむかふ義経(よしつね)が、かつ浦(うら)につく目出(めで)たさよ。此(この)程(ほど)に平家(へいけ)のうしろ矢(や)ゐ(い)つべい物(もの)はないか」。
「阿波(あはの)民部(みんぶ)重能(しげよし)がおとと、桜間(さくらば)の介(すけ)能遠(よしとほ・よしとを)とて候(さうらふ)」。「いざ、さらばけちらしてとをら(とほら)ん」とて、近藤六(こんどうろく)が勢(せい)百騎(ひやくき)ばかりがなかより、卅騎(さんじつき)ばかりすぐりいだいて、我(わが)勢(せい)にぞ具(ぐ)せられける。能遠(よしとほ・よしとを)が城(じやう)にをし(おし)よせて見(み)れば、三方(さんばう)は沼(ぬま)、一方(いつぱう)は堀(ほり)なり。堀(ほり)のかたよりをし(おし)よせて、時(とき)をど(ッ)とつくる。城(じやう)の内(うち)のつは物(もの)ども、矢(や)さきをそろへてさしつめひきつめさんざんにゐる(いる)。源氏(げんじ)〔の〕兵(つはもの)是(これ)を事(こと)ともせず、甲(かぶと)のしころをかたぶけ、おめき(をめき)さけんでせめ入(いり)ければ、桜間(さくらば)の介(すけ)かなはじとやおもひけん、家子(いへのこ)郎等(らうどう・らうとう)にふせき矢(や)ゐ(い)させ、我(わが)身(み)は究竟(くつきやう)の馬(むま)をも(ッ)たりければ、うちの(ッ)て希有(けう)にして落(おち)にけり。
判官(はうぐわん)ふせき矢(や)ゐ(い)ける兵共(つはものども)廿(にじふ)余人(よにん)が頸(くび)きりかけて、いくさ神(がみ)にまつり、悦(よろこび)の時(とき)をつくり、「門(かど)でよし」とぞの給(たま)ひける。判官(はうぐわん)近藤六(こんどうろく)親家(ちかいへ)をめして、「八島(やしま)には平家(へいけ)のせいいか程(ほど)あるぞ」。「千騎(せんぎ)にはよもすぎ候(さうら)はじ」。「などすくなひ(すくない)ぞ」。「かくのごとく四国(しこく)の浦々(うらうら)島々(しまじま)に五十騎(ごじつき)、百騎(ひやくき)づつさしをか(おか)れて候(さうらふ)。其(その)うへ阿波(あはの)民部(みんぶ)重能(しげよし)が嫡子(ちやくし)田内左衛門(でんないざゑもん)教能(のりよし)は、河野(かはのの)四郎(しらう)がめせどもまいら(まゐら)ぬをせめんとて、三千(さんぜん)余騎(よき)で伊与(いよ)へこえて候(さうらふ)」。「さてはよいひまごさんなれ。是(これ)より八島(やしま)へはいか程(ほど)の道(みち)ぞ」。
「二日路(ふつかぢ)で候(さうらふ)」。「さらば敵(かたき)のきかぬさきによせよや」とて、かけ足(あし)にな(ッ)つ、あゆませつ、はせつ、ひかへつ、阿波(あは)と讃岐(さぬき)とのさかゐ(さかひ)なる大坂(おほざか)ごえといふ山(やま)を、夜(よ)もすがらこそ越(こえ)られけれ。夜半(やはん)ばかり、判官(はうぐわん)たてぶみも(ッ)たる男(をとこ・おとこ)にゆきつれて、物語(ものがたり)し給(たま)ふ。この男(をとこ・おとこ)よるの事(こと)ではあり、かたきとは夢(ゆめ)にもしらず、みかたの兵共(つはものども)八島(やしま)へまいる(まゐる)とおもひけるやらん、うちとけてこまごまと物語(ものがたり)をぞ申(まうし)ける。
「そのふみはいづくへぞ」。「八島(やしま)のおほい殿(との)へまいり(まゐり)候(さうらふ)」。「たがまいらせ(まゐらせ)らるるぞ」。「京(きやう)より女房(にようばう)のまいらせ(まゐらせ)られ候(さうらふ)」。「なに事(ごと)なるらん」との給(たま)へば、「別(べち)の事(こと)はよも候(さうら)はじ。源氏(げんじ)すでに淀河尻(よどかはじり)にいでうかうで候(さうら)へば、それをこそつげ申(まう)され候(さうらふ)らめ」。げにさぞあるらん。是(これ)も八島(やしま)へまいる(まゐる)が、いまだ案内(あんない)をしらぬに、じんじよせよ」との給(たま)へば、「是(これ)はたびたびまい(ッ・まゐつ)て候(さうらふ)間(あひだ・あいだ)、案内(あんない)は存知(ぞんぢ)して候(さうらふ)。御共(おんとも)仕(つかまつ)らん」と申(まう)せば、判官(はうぐわん)「そのふみとれ」とて文(ふみ)ばい(ばひ)とらせ、「しやつからめよ。罪(つみ)つくりに頸(くび)なき(ッ)そ」とて、山(やま)なかの木(き)にしばりつけてぞとをら(とほら)れける。
さてふみをあけて見(み)給(たま)へば、げにも女房(にようばう)のふみとおぼしくて、「九郎(くらう)はすすどきおのこ(をのこ)にてさぶらふなれば、大風(おほかぜ)大浪(おほなみ)をもきらはず、よせさぶらふらんとおぼえさぶらふ。勢(せい)どもちらさで用心(ようじん)せさせ給(たま)へ」とぞかかれたる。判官(はうぐわん)「是(これ)は義経(よしつね)に天(てん)のあたへ給(たま)ふ文(ふみ)なり。鎌倉殿(かまくらどの)に見(み)せ申(まう)さん」とて、ふかうおさめ(をさめ)てをか(おか)れけり。あくる十八日(じふはちにち)の寅(とら)の剋(こく)に、讃岐国(さぬきのくに)ひけ田(た)といふ所(ところ)にうちおりて、人馬(にんば)のいきをぞやすめける。それより丹生屋(にふのや)・白鳥(しろとり)、うちすぎうちすぎ、八島(やしま)の城(じやう)へよせ給(たま)ふ。又(また)近藤六(こんどうろく)親家(ちかいへ)をめして、「八島(やしま)の館(たち)の様(やう)はいかに」ととひ給(たま)へば、「しろしめさねばこそ候(さうら)へ、無下(むげ)にあさまに候(さうらふ)。塩(しほ)のひて候(さうらふ)時(とき)は、陸(くが)と島(しま)の間(あひだ・あいだ)は馬(むま)の腹(はら)もつかり候(さうら)はず」と申(まう)せば、「さらばやがてよせよや」とて、高松(たかまつ)の在家(ざいけ)に火(ひ)をかけて、八島(やしま)の城(ぢやう)へよせ給(たま)ふ。
八島(やしま)には、阿波(あはの)民部(みんぶ)重能(しげよし)が嫡子(ちやくし)田内左衛門(でんないざゑもん)教能(のりよし)、河野(かはのの)四郎(しらう)がめせどもまいら(まゐら)ぬをせめんとて、三千(さんぜん)余騎(よき)で伊与(いよ)へこえたりけるが、河野(かはの)をばうちもらして、家子(いへのこ)郎等(らうどう)〔百〕五十(ひやくごじふ)余人(よにん)が頸(くび)き(ッ)て、八島(やしま)の内裏(だいり)へまいらせ(まゐらせ)たり。「内裏(だいり)にて賊首(ぞくしゆ)の実検(じつけん)せ〔ら〕れん事(こと)然(しか)るべからず」とて、大臣殿(おほいとの)の宿所(しゆくしよ)にて実検(じつけん)せらる。百五十六人(ひやくごじふろくにん)が首(くび)也(なり)。頸(くび)ども実検(じつけん)しける処(ところ)に、物共(ものども)、「高松(たかまつ)のかたに火(ひ)いできたり」とてひしめきあへり。「ひるで候(さうら)へば、手(て)あやまちではよも候(さうら)はじ。
敵(かたき)のよせて火(ひ)をかけたると覚(おぼえ)候(さうらふ)。定(さだ)めて大勢(おほぜい)でぞ候(さうらふ)らん。とりこめられてはかなう(かなふ)まじ。とうとうめされ候(さうら)へ」とて、惣門(そうもん)の前(まへ)のなぎさに船(ふね)どもつけならべたりければ、我(われ)も我(われ)もとのり給(たま)ふ。御所(ごしよ)の御舟(みふね)には、女院(にようゐん)・北(きた)の政所(まんどころ)・二位殿(にゐどの)以下(いげ)の女房達(にようばうたち)めされけり。大臣殿(おほいとの)父子(ふし)は、ひとつ船(ふね)にのり給(たま)ふ。其(その)外(ほか)の人々(ひとびと)おもひおもひにとりの(ッ)て、或(あるい・ある)は一町(いつちやう)ばかり、或(あるい・ある)は七八段(しちはつたん)、五六段(ごろくたん)な(ン)ど(など)こぎいだしたる処(ところ)に、源氏(げんじ)の兵物(つはもの)ども、ひた甲(かぶと)七八十(しちはちじつ)騎(き)、惣門(そうもん)のまへのなぎさにつ(ッ)といできたり。塩干(しほひ)がたの、おりふし(をりふし)塩(しほ)ひるさかりなれば、馬(むま)のからすがしら、ふと腹(ばら)にたつ処(ところ)もあり。それよりあさき処(ところ)もあり。けあぐる塩(しほ)のかすみとともにしぐらふ(しぐらう)だるなかより、白旗(しらはた)ざ(ッ)とさしあげたれば、平家(へいけ)は運(うん)つきて、大勢(おほぜい)とこそ見(み)てんげれ。判官(はうぐわん)かたきに小勢(こぜい)と見(み)せじと、五六騎(ごろくき)、七八騎(しちはつき)、十騎(じつき)ばかりうちむれうちむれいできたり。 
嗣信最期 (つぎのぶさいご) 

 

九郎(くらう)大夫(たいふの・たゆふの)判官(はうぐわん)、其(その)日(ひ)の装束(しやうぞく)には、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、紫(むらさき)すそごの鎧(よろひ・よろい)きて、こがねづくりの太刀(たち)をはき、きりふの矢(や)をひ(おひ)、しげどうの弓(ゆみ)のま(ン)なか(まんなか)と(ッ)て、舟(ふね)のかたをにらまへ、大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて、「一院(いちゐん)の御使(おんつかひ)、検非違使(けんびゐし・けんびいし)五位尉(ごゐのじよう・ごゐのぜう)源(みなもとの)義経(よしつね)」となのる。其(その)次(つぎ)に、伊豆国(いづのくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)田代(たしろの)冠者(くわんじや)信綱(のぶつな)、武蔵国(むさしのくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)金子(かねこの)十郎(じふらう)家忠(いへただ)、同(おなじく)与一(よいち)親範(ちかのり)、伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)とぞなの(ッ)たる。
つづゐ(つづい)て名(な)のるは、後藤兵衛(ごとうびやうゑ)実基(さねもと)、子息(しそく)の新兵衛(しんびやうゑ・しんびやうへ)基清(もときよ)、奥州(あうしう・あふしう)の佐藤(さとう)三郎兵衛(さぶらうびやうゑ)嗣信(つぎのぶ)、同(おなじく)四郎兵衛(しらうびやうゑ・しらうびやうへ)忠信(ただのぶ)、江田(えだ・ゑだ)の源三(げんざう)、熊井(くまゐ)太郎(たらう)、武蔵房(むさしばう)弁慶(べんけい)と、声々(こゑごゑ)に名(な)の(ッ)て馳来(はせきた)る。平家(へいけ)の方(かた)には「あれゐ(い)とれや」とて、或(あるい・ある)はとを矢(や・とほや)に射(いる)舟(ふね)もあり、或(あるい・ある)はさし矢(や)にゐる(いる)船(ふね)もあり、源氏(げんじ)の兵(つはもの)ども、弓手(ゆんで)になしてはゐ(い)てとをり(とほり)、馬手(めて)になしてはゐ(い)てとをり(とほり)、あげをい(おい)たる舟(ふね)の陰(かげ)を、馬(むま)やすめ処(どころ)にして、おめき(をめき)さけんでせめたたかふ。後藤兵衛(ごとうびやうゑ)実基(さねもと)は、ふる兵(づはもの・ふるつはもの)にてありければ、いくさはせず、まづ内裏(だいり)にみだれいり、手々(てんで・て(ン)で)に火(ひ)をはな(ッ)て片時(へんし)の煙(けぶり)とやきはらふ。
大臣殿(おほいとの)、侍(さぶらひ)どもをめして、「抑(そもそも)源氏(げんじ)が勢(せい)いか程(ほど)あるぞ」。「当時(たうじ)わづかに七八十(しちはちじつ)騎(き)こそ候(さうらふ)らめ」と申(まうす)。「あな心(こころ)うや。髪(かみ)のすぢを一(ひと)すぢづつわけてとるとも、此(この)勢(せい)にはたるまじかりける物(もの)を。なかにとりこめてうたずして、あはて(あわて)て船(ふね)にの(ッ)て、内裏(だいり)をやかせつる事(こと)こそやすからね。能登殿(のとどの)はおはせぬか。陸(くが)へあが(ッ)てひといくさし給(たま)へ」。「さうけ給(たまはり)候(さうらひ)ぬ」とて、越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)盛次(もりつぎ)を相具(あひぐ)して、小船(せうせん)どもにとりの(ッ)て、やきはらひたる惣門(そうもん)の前(まへ)のなぎさに陣(ぢん)をとる。判官(はうぐわん)八十(はちじふ)余騎(よき)、矢(や)ごろによせてひかへたり。越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)盛次(もりつぎ)、船(ふね)のおもてに立(たち)いで、大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて申(まうし)けるは、「名(な)のられつるとは聞(きき)つれども、海上(かいしやう)はるかにへだた(ッ)て、其(その)仮名(けみやう)実名(じつみやう)分明(ふんみやう)ならず。けふの源氏(げんじ)の大将軍(たいしやうぐん)は誰人(たれびと)でおはしますぞ」。伊勢(いせ)の三郎(さぶらう)義盛(よしもり)あゆませいでて申(まうし)けるは、「こともおろかや、清和天皇(せいわてんわう)十代(じふだい)の御末(おんすゑ)、鎌倉殿(かまくらどの)の御弟(おんおとと)、九郎(くらう)大夫(たいふの・たゆふの)判官殿(はうぐわんどの)ぞかし」。
盛次(もりつぎ)「さる事(こと)あり。一(ひと)とせ平治(へいぢ)の合戦(かつせん)に、父(ちち)うたれてみなし子(ご)にてありしが、鞍馬(くらま)の児(ちご)して、後(のち)にはこがね商人(あきんど)の所従(しよじゆう・しよじう)になり、粮料(らうれう)せをう(せおう)て奥州(あうしう・あふしう)へおちまどひし小冠者(せうくわんじや)が事(こと)か」とぞ申(まうし)たる。義盛(よしもり)「舌(した)のやはらかなるままに、君(きみ)の御事(おんこと)な申(まうし)そ。さてわ人(ひと)どもは砥浪山(となみやま)のいくさにをい(おひ)おとされ、からき命(いのち)いきて北陸道(ほくろくだう)にさまよひ、乞食(こつじき)してなくなく京(きやう)へのぼ(ッ)たりし物(もの)か」とぞ申(まうし)ける。盛次(もりつぎ)かさねて申(まうし)けるは、「君(きみ)の御恩(ごおん・ごをん)にあきみちて、なんの不足(ふそく)にか乞食(こつじき)をばすべき。さいふわ人(ひと)どもこそ、伊勢(いせ)の鈴鹿山(すずかやま)にてやまだちして、妻子(さいし)をもやしなひ、我(わが)身(み)もすぐるとはききしか」といひければ、
金子(かねこ)の十郎(じふらう)家忠(いへただ・いへだだ)「無益(むやく)の殿原(とのばら)の雑言(ざふごん・ざうごん)かな。われも人(ひと)も虚言(そらごと)いひつけて雑言(ざふごん・ざうごん)せんには、誰(たれ)かはおとるべき。去年(こぞ)の春(はる)、一(いち)の谷(たに)で、武蔵(むさし)・相模(さがみ)の若殿原(わかとのばら)の手(て)なみの程(ほど)は見(み)てん物(もの)を」と申(まうす)処(ところ)〔に〕おととの与一(よいち)そばにありけるが、いはせもはてず、十二束(じふにそく)二(ふたつ)ぶせ、よ(ッ)ぴいてひやうどはなつ。盛次(もりつぎ)が鎧(よろひ)のむないたに、うらかく程(ほど)にぞた(ッ)たりける。
其(その)後(のち)は互(たがひ・たがい)に詞(ことば)だたかい(ことばだたかひ)とまりにけり。能登守(のとのかみ)教経(のりつね)「ふないくさは様(やう)ある物(もの)ぞ」とて、鎧直垂(よろひびたたれ)はき給(たま)はず、唐巻染(からまきぞめ)の小袖(こそで)に唐綾威(からあやをどし・からあやおどし)の鎧(よろひ・よろい)きて、いか物(もの)づくりの大太刀(おほだち)はき、廿四(にじふし)さいたるたかうすべうの矢(や)をひ(おひ)、しげどうの弓(ゆみ)をもち給(たま)へり。王城一(わうじやういち)のつよ弓(ゆみ)せい兵(びやう)にておはせしかば、矢(や)さきにまはる物(もの)、いとをさ(とほさ)れずといふ事(こと)なし。なかにも九郎(くらう)大夫(たいふの・たゆふの)判官(はうぐわん)をゐ(い)おとさんとねらはれけれども、源氏(げんじ)の方(かた)にも心得(こころえ)て、奥州(あうしう・あふしう)の佐藤(さとう)三郎兵衛(さぶらうびやうゑ)嗣信(つぎのぶ)・同(おなじく)四郎兵衛(しらうびやうゑ)忠信(ただのぶ)・伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)・源八(げんぱち)広綱(ひろつな)・江田(えだの)源三(げんざう)・熊井(くまゐ)太郎(たらう)・武蔵房(むさしばう)弁慶(べんけい)な(ン)ど(など)いふ一人当千(いちにんたうぜん)の兵(つはもの)ども、我(われ)も我(われ)もと、馬(むま)のかしらをたてならべて大将軍(たいしやうぐん)の矢(や)おもてにふさがりければ、ちからおよび給(たま)はず、「矢(や)おもての雑人原(ざふにんばら・ざうにんばら)そこのき候(さうら)へ」とて、さしつめひきつめさんざんにゐ(い)給(たま)へば、やにはに鎧武者(よろひむしや・よろいむしや)十(じふ)余騎(よき)ばかりゐ(い)おとさる。
なかにもま(ッ)さきにすすむ(すすん)だる奥州(あふしう)の佐藤(さとう)三郎兵衛(さぶらうびやうゑ)が、弓手(ゆんで)の肩(かた)を馬手(めて)の脇(わき)へつ(ッ)とゐ(い)ぬかれて、しばしもたまらず、馬(むま)よりさかさまにどうどおつ。能登殿(のとどの)の童(わらは)に菊王(きくわう)といふ大(だい)ぢからのかうの物(もの)あり。萌黄(もよぎ)おどし(もよぎをどし)の腹巻(はらまき)に、三枚甲(まいかぶと)の緒(を・お)をしめて、白柄(しらえの)長刀(なぎなた)のさやをはづし、三郎兵衛(さぶらうびやうゑ)が頸(くび)をとらんとはしりかかる。佐藤(さとう)四郎兵衛(しらうびやうゑ)、兄(あに)が頸(くび)をとらせじとよ(ッ)ぴいてひやうどゐる(いる)。童(わらは)が腹巻(はらまき)のひきあはせをあなたへつ(ッ)とゐ(い)ぬかれて、犬居(いぬゐ)にたふれぬ。能登守(のとのかみ)是(これ)を見(み)て、いそぎ舟(ふね)よりとんでおり、左(ひだり)の手(て)に弓(ゆみ)をもちながら、右(みぎ)の手(て)で菊王丸(きくわうまる)をひ(ッ)さげて、舟(ふね)へからりとなげられたれば、敵(かたき)に頸(くび)はとられねども、いた手(で)なればしににけり。
是(これ)はもと越前(ゑちぜん)の三位(さんみ・さんゐ)の童(わらは)なりしが、三位(さんみ)うたれて後(のち)、おととの能登守(のとのかみ)につかはれけり。生年(しやうねん)十八歳(じふはつさい)にぞなりける。この童(わらは)をうたせてあまりにあはれにおもはれければ、其(その)後(のち)はいくさもし給(たま)はず。判官(はうぐわん)は佐藤(さとう)三郎兵衛(さぶらうびやうゑ)を陣(ぢん)のうしろへかきいれさせ、馬(むま)よりおり、手(て)をとらへて、「三郎兵衛(さぶらうびやうゑ)、いかがおぼゆる」との給(たま)へば、いきのしたに申(まうし)けるは、「いまはかうと存(ぞんじ)候(さうらふ)」。
「おもひをく(おく)事(こと)はなきか」との給(たま)へば、「なに事(ごと)をかおもひをき(おき)候(さうらふ)べき。君(きみ)の御世(おんよ)にわたらせ給(たま)はんを見(み)まいらせ(まゐらせ)で、死(し)に候(さうら)はん事(こと)こそ口惜(くちをしく・くちおしく)覚(おぼえ)候(さうら)へ。さ候(さうら)はでは、弓矢(ゆみや)とる物(もの)の、敵(かたき)の矢(や)にあた(ッ)てしなん事(こと)、もとより期(ご)する処(ところ)で候(さうらふ)也(なり)。就中(なかんづく)に「源平(げんぺい)の御合戦(ごかつせん)に、奥州(あうしう・あふしう)の佐藤(さとう)三郎兵衛(さぶらうびやうゑ)嗣信(つぎのぶ)といひける物(もの)、讃岐国(さぬきのくに)八島(やしま)のいそにて、しう(しゆう)の御命(おんいのち)にかはりたてま(ッ)てうたれにけり」と、末代(まつだい)の物語(ものがたり)に申(まう)されん事(こと)こそ、弓矢(ゆみや)とる身(み)は今生(こんじやう)の面目(めんぼく)、冥途(めいど)の思出(おもひで)にて候(さうら)へ」と申(まうし)もあへず、ただよはり(よわり)によはり(よわり)にければ、判官(はうぐわん)涙(なみだ)をはらはらとながし、「此(この)辺(へん)にた(ッ)とき僧(そう)やある」とて、たづねいだし、「手負(ておひ・ておい)のただいまおちいるに、一日経(いちにちぎやう)かいてとぶらへ」とて、黒(くろ)き馬(むま)のふとうたくましゐ(たくましい)に、き(ン)ぶくりん(きぶくりん)の鞍(くら)をい(おい)て、かの僧(そう)にたびにけり。
判官(はうぐわん)五位尉(ごゐのじよう・ごゐのぜう)になられし時(とき)、五位(ごゐ)になして、大夫黒(たいふぐろ・たゆふぐろ)とよばれし馬(むま)也(なり)。一(いち)の谷(たに)ひへ鳥(どり)ごえ(ひえどりごえ)をもこの馬(むま)にてぞおとされたりける。弟(おとと)の四郎兵衛(しらうびやうゑ)をはじめとして、是(これ)を見(み)る兵(つはもの)ども皆(みな)涙(なみだ)をながし、「此(この)君(きみ)の御(おん)ために命(いのち)をうしなはん事(こと)、ま(ッ)たく露塵(つゆちり)程(ほど)もおしから(をしから)ず」とぞ申(まうし)ける。 
那須与一 (なすのよいち) 

 

さる程(ほど)に、阿波(あは)・讃岐(さぬき)に平家(へいけ)をそむいて、源氏(げんじ)を待(まち)ける物(もの)ども、あそこの峯(みね)、ここの洞(ほら)より、十四五騎(じふしごき)、廿騎(にじつき)、うちつれうちつれまいり(まゐり)ければ、判官(はうぐわん)程(ほど)なく三百(さんびやく)余騎(よき)にぞなりにける。「けふは日(ひ)くれぬ、勝負(しようぶ・せうぶ)を決(けつ)すべからず」とて引退(ひきしりぞ)く処(ところ)に、おきの方(かた)より尋常(じんじやう)にかざ(ッ)たる小舟(せうしう)一艘(いつさう)、みぎはへむいてこぎよせけり。磯(いそ)へ七八段(しちはつたん)ばかりになりしかば、舟(ふね)をよこさまになす。「あれはいかに」と見(み)る程(ほど)に、船(ふね)のうちよりよはひ十八九(じふはつく)ばかりなる女房(にようばう)の、まことにゆう(いう)にうつくしきが、柳(やなぎ)のいつつぎぬに、紅(くれなゐ)のはかまきて、みな紅(ぐれなゐ)の扇(あふぎ)の日(ひ)いだしたるを、舟(ふね)のせがいにはさみたてて、陸(くが)へむいてぞまねひ(まねい)たる。判官(はうぐわん)、後藤兵衛(ごとうびやうゑ)実基(さねもと)をめして、「あれはいかに」との給(たま)へば、「ゐよ(いよ)とにこそ候(さうらふ)めれ。但(ただし)大将軍(たいしやうぐん)矢(や)おもてにすすんで、傾城(けいせい)を御(ご)らんぜば、手(て)だれにねらうてゐ(い)おとせとのはかりこととおぼえ候(さうらふ)。さも候(さうら)へ、扇(あふぎ)をばゐ(い)させらるべうや候(さうらふ)らん」と申(まうす)。
「ゐ(い)つべき仁(じん)はみかたに誰(たれ)かある」との給(たま)へば、「上手(じやうず)どもいくらも候(さうらふ)なかに、下野国(しもつけのくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)、那須(なすの)太郎(たらう)資高(すけたか)が子(こ)に、与一(よいち)宗高(むねたか)こそ小兵(こひやう)で候(さうら)へども、手(て)ききで候(さうら)へ」。
「証拠(しようこ・しやうこ)はいかに」との給(たま)へば、「かけ鳥(どり)な(ン)ど(など)あらがうて、三(みつ)に二(ふたつ)は必(かなら)ずゐ(い)おとす物(もの)で候(さうらふ)」。「さらばめせ」とてめされたり。与一(よいち)其(その)比(ころ)は廿(にじふ)ばかりのおの子(こ・をのこ)也(なり)。かちに、あか地(ぢ)の錦(にしき)をも(ッ)ておほくびはた袖(そで)いろえ(いろへ)たる直垂(ひたたれ)に、萌黄(もよぎ)おどし(をどし)の鎧(よろひ)きて、足(あし)じろの太刀(たち)をはき、きりふの矢(や)の、其(その)日(ひ)のいくさにゐ(い)て少々(せうせう)のこ(ッ)たりけるを、かしらだかにおひなし、うすぎりふに鷹(たか)の羽(は)はぎまぜたるぬた目(め)のかぶらをぞさしそへたる。しげどうの弓(ゆみ)脇(わき)にはさみ、甲(かぶと)をばぬぎたかひもにかけ、判官(はうぐわん)の前(まへ)に畏(かしこま)る。「いかに宗高(むねたか)、あの扇(あふぎ)のま(ン)なか(まんなか)ゐ(い)て、平家(へいけ)に見物(けんぶつ)せさせよかし」。
与一(よいち)畏(かしこまつ)て申(まうし)けるは、「ゐ(い)おほせ候(さうら)はん事(こと)は不定(ふぢやう)に候(さうらふ)。射(い)損(そん)じ候(さうらひ)なば、ながきみかたの御(おん)きずにて候(さうらふ)べし。一定(いちぢやう)つかまつらんずる仁(じん)に仰付(おほせつけ)らるべうや候(さうらふ)らん」と申(まうす)。判官(はうぐわん)大(おほき)にいか(ッ)て、「鎌倉(かまくら)をた(ッ)て西国(さいこく)へおもむかん殿原(とのばら)は、義経(よしつね)が命(めい)をそむくべからず。すこしも子細(しさい)を存(ぞん)ぜん人(ひと)は、とうとう是(これ)よりかへらるべし」とぞの給(たま)ひける。与一(よいち)かさねて辞(じ)せばあしかりなんとや思(おも)ひけん、「はづれんはしり候(さうら)はず、御定(ごぢやう)で候(さうら)へばつかま(ッ)てこそみ候(さうら)はめ」とて、御(おん)まへを罷立(まかりたち)、黒(くろ)き馬(むま)のふとうたくましゐ(たくましい)に、小(こ)ぶさの鞦(しりがい)かけ、まろぼやす(ッ)たる鞍(くら)をい(おい)てぞの(ッ)たりける。
弓(ゆみ)とりなをし(なほし)、手綱(たづな)かいくり、みぎはへむひ(むい)てあゆませければ、みかたの兵(つはもの)どもうしろをはるかに見(み)をく(ッ・おくつ)て、「此(この)わか物(もの)一定(いちぢやう)つかまつり候(さうらひ)ぬと覚(おぼえ)候(さうらふ)」と申(まうし)ければ、判官(はうぐわん)もたのもしげにぞ見(み)給(たま)ひける。矢(や)ごろすこし遠(とほ)かりければ、海(うみ)へ一段(いつたん)ばかりうちいれたれども、猶(なほ・なを)扇(あふぎ)のあはひ七段(しちたん)ばかりはあるらんとこそ見(み)えたりけれ。比(ころ)は二月(にぐわつ・にんぐわつ)十八日(じふはちにち)の酉(とり)の剋(こく)ばかりの事(こと)なるに、おりふし(をりふし)北風(ほくふう)はげしくて、磯(いそ)うつ浪(なみ)もたかかりけり。船(ふね)はゆりあげゆりすゑただよへば、扇(あふぎ)もくしにさだまらずひらめいたり。
おきには平家(へいけ)船(ふね)を一面(いちめん)にならべて見物(けんぶつ)す。陸(くが)には源氏(げんじ)くつばみをならべて是(これ)を見(み)る。いづれもいづれも晴(はれ)ならずといふ事(こと)ぞなき。与一(よいち)目(め)をふさいで、「南無(なむ)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、我(わが)国(くに)の神明(しんめい)、日光(につくわうの・につくはうの)権現(ごんげん)宇都宮(うつのみや)、那須(なす)のゆぜん大明神(だいみやうじん)、願(ねがは)くはあの扇(あふぎ)のま(ン)なか(まんなか)ゐ(い)させてたばせ給(たま)へ。是(これ)をゐ(い)そんずる物(もの)ならば、弓(ゆみ)きりおり(をり)自害(じがい)して、人(ひと)に二(ふた)たび面(おもて)をむかふべからず。
いま一度(いちど)本国(ほんごく)へむかへんとおぼしめさば、この矢(や)はづさせ給(たま)ふな」と、心(こころ)のうちに祈念(きねん)して、目(め)を見(み)ひらひ(ひらい)たれば、風(かぜ)もすこし吹(ふき)よはり(よわり)、扇(あふぎ)もゐ(い)よげにぞな(ッ)たりける。与一(よいち)鏑(かぶら)をと(ッ)てつがひ、よ(ッ)ぴいてひやうどはなつ。小兵(こひやう)といふぢやう十二束(じふにそく)三(みつ)ぶせ、弓(ゆみ)はつよし、浦(うら)ひびく程(ほど)ながなりして、あやまたず扇(あふぎ)のかなめぎは一寸(いつすん)ばかりをい(おい)て、ひ(イ)ふつとぞゐ(い)き(ッ)たる。鏑(かぶら)は海(うみ)へ入(いり)ければ、扇(あふぎ)は空(そら)へぞあがりける。しばしは虚空(こくう)にひらめきけるが、春風(はるかぜ)に一(ひと)もみ二(ふた)もみもまれて、海(うみ)へさ(ッ)とぞち(ッ)たりける。夕日(せきじつ)のかかやいたるに、みな紅(ぐれなゐ)の扇(あふぎ)の日(ひ)いだしたるが、しら波(なみ)のうへにただよひ、うきぬしづみぬゆられければ、奥(おき)には平家(へいけ)ふなばたをたたいて感(かん)じたり、陸(くが)には源氏(げんじ)ゑびら(えびら)をたたいてどよめきけり。 
弓流 (ゆみながし) 

 

あまりの面白(おもしろ)さに、感(かん)にたへざるにやとおぼしくて、舟(ふね)のうちよりとし五十(ごじふ)ばかりなる男(をのこ・おのこ)の、黒革(くろかは)おどし(をどし)の鎧(よろひ・よろい)きて、白柄(しらえ)の長刀(なぎなた)も(ッ)たるが、扇(あふぎ)たてたりける処(ところ)にた(ッ)て舞(まひ)しめたり。伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)、与一(よいち)がうしろへあゆませよ(ッ)て、「御定(ごぢやう)ぞ、つかまつれ」といひければ、今度(こんど)はなかざしと(ッ)てうちくはせ、よ(ッ)ぴいてしや頸(くび)の骨(ほね)をひやうふつとゐ(い)て、ふなぞこへさかさまにゐ(い)たをす(たふす)。平家(へいけ)の方(かた)には音(おと・をと)もせず、源氏(げんじ)の方(かた)には又(また)ゑびら(えびら)をたたいてどよめきけり。「あ、ゐ(い)たり」といふ人(ひと)もあり、又(また)「なさけなし」といふものもあり。平家(へいけ)これをほいなしとやおもひけん、楯(たて)ついて一人(いちにん)、弓(ゆみ)も(ッ)て一人(いちにん)、長刀(なぎなた)も(ッ)て一人(いちにん)、武者(むしや)三人(さんにん)なぎさにあがり、楯(たて)をついて「かたきよせよ」とぞまねひ(まねい)たる。
判官(はうぐわん)「あれ、馬(むま)づよならん若党(わかたう)ども、はせよせてけちらせ」との給(たま)へば、武蔵国(むさしのくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)、みをの屋(や)の(みほのやの)四郎(しらう)・同(おなじく)藤七(とうしち)・同(おなじく)十郎(じふらう)、上野国(かうづけのくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)丹生(にふ)の四郎(しらう)、信濃国(しなののくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)木曾(きそ)の中次(ちゆうじ・ちうじ)、五騎(ごき)つれておめい(をめい)てかく。
楯(たて)のかげよりぬりのにくろぼろはいだる大(だい)の矢(や)をも(ッ)て、ま(ッ)さきにすすんだるみをのやの(みほのやの)十郎(じふらう)が馬(むま)の左(ひだり)のむながいづくしを、ひやうづばとゐ(い)て、はずのかくるる程(ほど)ぞゐ(い)こうだる。屏風(びやうぶ)をかへす様(やう)に馬(むま)はどうどたふるれば、主(ぬし)は馬手(めて)の足(あし)をこいておりた(ッ)て、やがて太刀(たち)をぞぬいたりける。たてのかげより大長刀(おほなぎなた)うちふ(ッ)てかかりければ、みをの屋(や)の(みほのやの)十郎(じふらう)、小太刀(こだち)長刀(なぎなた)にかなはじとや思(おもひ)けむ、かいふいてにげければ、軈(やがて)つづいてお(ッ)かけたり。長刀(なぎなた)でながんずるかと見(み)る処(ところ)に、さはなくして、長刀(なぎなた)をば左(ひだり)の脇(わき)にかいばさみ、右(みぎ)の手(て)をさしのべて、みをの屋(や)の(みほのやの)十郎(じふらう)が甲(かぶと)のしころをつかまんとす。つかまれじとはしる。三度(さんど)つかみはづいて、四度(しど)のたびむ(ン)ずとつかむ。しばしぞたま(ッ)て見(み)えし、鉢(はち)つけのいたよりふつとひ(ッ)き(ッ)てぞにげたりける。
のこり四騎(しき)は、馬(むま)ををしうでかけず、見物(けんぶつ)してこそゐたりけれ。みをの屋(や)の(みほのやの)十郎(じふらう)は、みかたの馬(むま)のかげににげ入(いり)て、いきづきゐたり。敵(かたき)はおうてもこで、長刀(なぎなた)杖(つゑ・つえ)につき、甲(かぶと)のしころをさしあげ、大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて、「日(ひ)ごろは音(おと・をと)にもききつらん、いまは目(め)にも見(み)給(たま)へ。是(これ)こそ京(きやう)わらんべのよぶなる上総(かづさ)の悪(あく)七兵衛(しつびやうゑ)景清(かげきよ)よ」となのり捨(すて)てぞかへりける。平家(へいけ)是(これ)に心地(ここち)なをし(なほし)て、「悪(あく)七兵衛(しつびやうゑ)うたすな。つづけや物(もの)ども」とて、又(また)二百(にひやく)余人(よにん)なぎさにあがり、楯(たて)をめん鳥羽(どりば)につきならべて、「敵(かたき)よせよ」とぞまねひ(まねい)たる。判官(はうぐわん)是(これ)を見(み)て、「やすからぬ事(こと)なり」とて、後藤兵衛(ごとうびやうゑ)父子(ふし)、金子(かねこ)兄弟(きやうだい)をさきにたて、奥州(あうしう・あふしう)の佐藤(さとう)四郎兵衛(しらうびやうゑ)・伊勢(いせの)三郎(さぶらう)を〔弓手(ゆんで)〕馬手(めて)にたて、田代(たしろの)冠者(くわんじや)をうしろにたてて、八十(はちじふ)余騎(よき)おめい(をめい)てかけ給(たま)へば、平家(へいけ)の兵(つはもの)ども馬(むま)にはのらず、大略(たいりやく)かち武者(むしや)にてありければ、馬(むま)にあてられじとひきしりぞひ(しりぞい)て、みな船(ふね)へぞのりにける。
楯(たて)は算(さん)をちらしたる様(やう)にさんざんにけちらさる。源氏(げんじ)のつは物(もの)ども、勝(かつ)にの(ッ)て、馬(むま)のふと腹(ばら)ひたる程(ほど)にうちいれてせめたたかふ。判官(はうぐわん)ふか入(いり)してたたかふ程(ほど)に、舟(ふね)のうちより熊手(くまで)をも(ッ)て、判官(はうぐわん)の甲(かぶと)のしころにからりからりと二三度(にさんど)までうちかけけるを、みかたの兵(つはもの)ども、太刀(たち)長刀(なぎなた)でうちのけうちのけしける程(ほど)に、いかがしたりけん、判官(はうぐわん)弓(ゆみ)をかけおとされぬ。うつぶしで、鞭(むち)をも(ッ)てかきよせて、とらうとらうどし給(たま)へば、兵(つはもの)ども「ただすてさせ給(たま)へ」と申(まうし)けれども、つゐに(つひに)と(ッ)て、わらうてぞかへられける。
おとなどもつまはじきをして、「口惜(くちをし・くちおし)き御事(おんこと)候(ざうらふ)かな、たとひ千疋(せんびき)万疋(まんびき)にかへさせ給(たまふ)べき御(おん)たらしなりとも、争(いかで)か御命(おんいのち)にかへさせ給(たまふ)べき」と申(まう)せば、判官(はうぐわん)「弓(ゆみ)のおしさ(をしさ)にとらばこそ。義経(よしつね)が弓(ゆみ)といはば、二人(ににん)してもはり、若(もし)は三人(さんにん)してもはり、おぢ(をぢ)の為朝(ためとも)が弓(ゆみ)の様(やう)ならば、わざともおとしてとらすべし。弱(わうじやく)たる弓(ゆみ)をかたきのとりも(ッ)て、「是(これ)こそ源氏(げんじ)の大将(たいしやう)九郎(くらう)義経(よしつね)が弓(ゆみ)よ」とて、嘲哢(てうろう)せんずるが口惜(くちをし・くちおし)ければ、命(いのち)にかへてとるぞかし」との給(たま)へば、みな人(ひと)是(これ)を感(かん)じける。
さる程(ほど)に日(ひ)くれければ、ひきしりぞひ(しりぞい)て、むれ高松(たかまつ)のなかなる野山(のやま)に陣(ぢん)をぞと(ッ)たりける。源氏(げんじ)のつは物(もの)どもこの三日(みつか)が間(あひだ・あいだ)はふさざりけり。おととひ(をととひ)渡辺(わたなべ)・福島(ふくしま)をいづるとて、其(その)夜(よ)大浪(おほなみ)にゆられてまどろまず。昨日(きのふ)阿波国(あはのくに)勝浦(かつうら)にていくさして、夜(よ)もすがらなか山(やま)こえ、けふ又(また)一日(いちにち)たたかひくらしたりければ、みなつかれはてて、或(あるい・ある)は甲(かぶと)を枕(まくら)にし、或(あるい・ある)は鎧(よろひ・よろい)の袖(そで)、ゑびら(えびら)な(ン)ど(など)枕(まくら)にして、前後(ぜんご)もしらずぞふしたりける。其(その)なかに、判官(はうぐわん)と伊勢(いせの)三郎(さぶらう)はねざりけり。判官(はうぐわん)はたかきところにのぼりあが(ッ)て、敵(かたき)やよすると遠見(とほみ)し給(たま)へば、伊勢(いせの)三郎(さぶらう)はくぼき処(ところ)にかくれゐて、かたきよせば、まづ馬(むま)の腹(はら)ゐ(い)んとてまちかけたり。平家(へいけ)の方(かた)には、能登守(のとのかみ)を大将(たいしやう)にて、其(その)勢(せい)五百(ごひやく)余騎(よき)、夜討(ようち)にせんとしたくしたりけれども、越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)盛次(もりつぎ)と海老(えみの・ゑみの)次郎(じらう)守方(もりかた)と先陣(せんぢん)をあらそふ程(ほど)に、其(その)夜(よ)はむなしうあけにけり。夜討(ようち)にだにもしたらば、源氏(げんじ)なにかあらまし。よせざりけるこそせめての運(うん)のきはめなれ。 
志渡合戦 (しどかつせん) 

 

あけければ、平家(へいけ)船(ふね)にとりの(ッ)て、当国(たうごく)志度(しど)の浦(うら)へこぎしりぞく。判官(はうぐわん)三百(さんびやく)余騎(よき)がなかより馬(むま)や人(ひと)をすぐ(ッ)て、八十(はちじふ)余騎(よき)追(おう・をう)てぞかかりける。平家(へいけ)是(これ)を見(み)て、「かたきは小勢(こぜい)なり。なかにとりこめてうてや」とて、又(また)千余人(せんよにん)なぎさにあがり、おめき(をめき)さけむ(さけん)でせめたたかふ。さる程(ほど)に、八島(やしま)にのこりとどま(ッ)たりける二百(にひやく)余騎(よき)の兵(つはもの)ども、おくればせに馳来(はせきた)る。平家(へいけ)是(これ)を見(み)て、「すはや、源氏(げんじ)の大勢(おほぜい)のつづくは。なん十万騎(じふまんぎ)かあるらん。とりこめられてはかなふまじ」とて、又(また)舟(ふね)にとりの(ッ)て、塩(しほ)にひかれ、風(かぜ)にしたが(ッ)て、いづくをさすともなくおちゆきぬ。
四国(しこく)はみな大夫(たいふ・たゆふ)判官(はうぐわん)におい(おひ)おとされぬ。九国(くこく)へは入(いれ)られず。ただ中有(ちゆうう・ちうう)の衆生(しゆじやう)とぞ見(み)えし。判官(はうぐわん)志度(しど)の浦(うら)におりゐて、頸(くび)ども実検(じつけん)しておはしけるが、伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)をめしての給(たま)ひけるは、「阿波(あはの)民部(みんぶ)重能(しげよし)が嫡子(ちやくし)田内左衛門(でんないざゑもん)教能(のりよし)は、河野(かはのの)四郎(しらう)道信(みちのぶ)がめせどもまいら(まゐら)ぬをせめんとて、三千(さんぜん)余騎(よき)にて伊与(いよ)へこえたりけるが、河野(かはの)をばうちもらして、家子(いへのこ)郎等(らうどう)百五十人(ひやくごじふにん)が頸(くび)き(ッ)て、昨日(きのふ)八島(やしま)の内裏(だいり)へまいらせ(まゐらせ)たりけるが、けふ是(これ)へつくときく。汝(なんぢ)ゆきむか(ッ)て、ともかうもこしらへて具(ぐ)してまいれ(まゐれ)かし」との給(たま)ひければ、畏(かしこま・ッ)てうけ給(たま)はり、旗(はた)一流(ひとながれ)給(たまは・ッ)てさすままに、其(その)勢(せい)わづかに十六騎(じふろくき)、みなしら装束(しやうぞく)にて馳(はせ)むかふ。
義盛(よしもり)、教能(のりよし)にゆきあふ(あう)たり。白旗(しらはた)、赤旗(あかはた)、二町(にちやう)ばかりをへだててゆらへたり。伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)、使者(ししや)をたてて申(まうし)けるは、「是(これ)は源氏(げんじ)〔の〕大将軍(たいしやうぐん)九郎(くらう)大夫(たいふの・たゆふの)判官殿(はうぐわんどの)の御内(みうち)に、伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)と申(まうす)物(もの)で候(さうらふ)が、大将(たいしやう)に申(まうす)べき事(こと)あ(ッ)て、是(これ)までまかりむか(ッ)て候(さうらふ)。させるいくさ合戦(かつせん)のれうでも候(さうら)はねば、物(もの)の具(ぐ)もし候(さうら)はず。弓矢(ゆみや)ももたせ候(さうら)はず。あけていれさせ給(たま)へ」と申(まうし)ければ、三千(さんぜん)余騎(よき)の兵(つはもの)どもなかをあけてぞとをし(とほし)ける。義盛(よしもり)、教能(のりよし)にうちならべて、「かつきき給(たまひ)てもあるらん。
鎌倉(かまくら)どのの御(おん)おとと九郎(くらう)大夫(たいふの・たゆふの)判官殿(はうぐわんどの)、院宣(ゐんぜん)をうけ給(たま)は(ッ)て西国(さいこく)へむかはせ給(たまひ)て候(さうらふ)が、一昨日(をととひ・おととひ)阿波国(あはのくに)勝浦(かつうら)にて、御辺(ごへん)の伯父(をぢ・おぢ)、桜間ノ介(さくらばのすけ)うたれ給(たま)ひぬ。昨日(きのふ)八島(やしま)によせて、御所(ごしよ)内裏(だいり)みなやきはらひ、おほいとの父子(ふし)いけどりにしたてまつり、能登殿(のとどの)は自害(じがい)し給(たま)ひぬ。その外(ほか)のきんだち、或(あるい・ある)はうちじに、或(あるい・ある)は海(うみ)に入(いり)給(たま)ひぬ。余党(よたう)のわづかにありつるは、志度(しど)の浦(うら)にてみなうたれぬ。御辺(ごへん)のちち、阿波ノ(あはの)民部殿(みんぶどの)は降人(かうにん)にまいらせ(まゐらせ)給(たま)ひて候(さうらふ)を、義盛(よしもり)があづかりたてま(ッ)て候(さうらふ)が、「あはれ、田内左衛門(でんないざゑもん)が是(これ)をば夢(ゆめ)にもしらで、あすはいくさしてうたれまいらせ(まゐらせ)んずるむざんさよ」と、夜(よ)もすがらなげき給(たま)ふがあまりにいとをしく(いとほしく)て、此(この)事(こと)しらせたてまつらむとて、是(これ)までまかりむか(ッ)て候(さうらふ)。
そのうへは、いくさしてうちじにせんとも、降人(かうにん)にまい(ッ・まゐつ)て父(ちち)をいま一度(いちど)見(み)たてまつらんとも、ともかうも御(ご)へんがはからひぞ」といひければ、田内左衛門(でんないざゑもん・でんないざへもん)きこゆる兵(つはもの)なれども、運(うん)やつきにけむ、「かつきく事(こと)にすこしもたがはず」とて、甲(かぶと)をぬぎ弓(ゆみ)の弦(つる)をはづいて、郎等(らうどう)にもたす。大将(たいしやう)が加様(かやう)にするうへは、三千(さんぜん)余騎(よき)の兵(つはもの)どもみなかくのごとし。纔(わづか)に十六(じふろく)騎(き)に具(ぐ)せられて、おめおめと降人(かうにん)にこそまいり(まゐり)けれ。「義盛(よしもり)がはかりことまことにゆゆしかりけり」と、判官(はうぐわん)も感(かん)じ給(たま)ひけり。やがて田内左衛門(でんないざゑもん・でんないざへもん)をば、物具(もののぐ)めされて、伊勢(いせの)三郎(さぶらう)にあづけらる。
「さてあの勢(せい)どもはいかに」との給(たま)へば、「遠国(をんごく)の物(もの)どもは、誰(たれ)をたれとかおもひまいらせ(まゐらせ)候(さうらふ)べき。ただ世(よ)のみだれをしづめて、国(くに)をしろしめさんを君(きみ)とせん」と申(まうし)ければ、「尤(もつとも)しかるべし」とて、三千(さんぜん)余騎(よき)をみな我(わが)勢(せい)にぞ具(ぐ)せられける。同(おなじき)廿二日(にじふににち)〔の〕辰剋(たつのこく)ばかり、渡辺(わたなべ)にのこりとどま(ッ)たりける二百(にひやく)余艘(よさう・よそう)の船(ふね)ども、梶原(かぢはら)をさきとして、八島(やしま)の磯(いそ)にぞつきにける。
「西国(さいこく)はみな九郎(くらう)大夫(たいふの・たゆふの)判官(はうぐわん)にせめおとされぬ。今(いま)はなんのようにか逢(あふ)べき。会(ゑ)にあはぬ花(はな)、六日(むゆか)の菖蒲(しやうぶ)、いさかい(いさかひ)はててのちぎりきかな」とぞわらひける。判官(はうぐわん)都(みやこ)をたち給(たま)ひて後(のち)、住吉(すみよし)の神主(かんぬし)長盛(ながもり)、院(ゐん)の御所(ごしよ)へまい(ッ・まゐつ)て、大蔵卿(おほくらきやう)康経(やすつねの)朝臣(あそん・あ(ツ)そん)をも(ッ)て奏聞(そうもん)しけるは、「去(さんぬる)十六日(じふろくにち)丑剋(うしのこく)に、当社(たうしや)第三(だいさん)の神殿(じんでん)より鏑矢(かぶらや)の声(こゑ)いでて、西(にし)をさして罷(まかり)候(さうらひ)ぬ」と申(まうし)ければ、法皇(ほふわう・ほうわう)大(おほき)に御感(ぎよかん)あ(ッ)て、御剣(ぎよけん)以下(いげ)、種々(しゆじゆ)の神宝(じんぼう)等(ら)を長盛(ながもり)して大明神(だいみやうじん)へまいらせ(まゐらせ)らる。
むかし神宮皇后(じんごうくわうこう)、新羅(しんら)をせめ給(たま)ひし時(とき)、伊勢大神宮(いせだいじんぐう)より二神(にじん)のあらみさきをさしそへさせ給(たま)ひけり。二神(にじん)御船(みふね)のともへに立(た・ッ)て、新羅(しんら)をやすくせめおとされぬ。帰朝(きてう)の後(のち)、一神(いちじん)は摂津国(つのくに)住吉(すみよし)のこほりにとどまり給(たま)ふ。住吉(すみよし)の大明神(だいみやうじん)の御事(おんこと)也(なり)。いま一神(いちじん)は信濃国(しなののくに)諏方(すは)のこほりに跡(あと)を垂(た)る。諏方(すは)の大明神(だいみやうじん)是(これ)也(なり)。昔(むかし)の征戎(せいじう)の事(こと)をおぼしめしわすれず、いまも朝(てう)の怨敵(をんでき)をほろぼし給(たまふ)べきにやと、君(きみ)も臣(しん)もたのもしうぞおぼしめされける。 
鶏合壇浦合戦 (とりあはせだんのうらかつせん) 

 

さる程(ほど)に、九郎(くらう)大夫(たいふの・たゆふの)判官(はうぐわん)義経(よしつね)、周防(すはう)の地(ち)におしわた(ッ)て、兄(あに)の参川守(みかはのかみ)とひとつになる。平家(へいけ)は長門国(ながとのくに)ひく島(しま)にぞつきにける。源氏(げんじ)阿波国(あはのくに)勝浦(かつうら)について、八島(やしま)のいくさにうちかちぬ。平家(へいけ)ひく島(しま)につくときこえしかば、源氏(げんじ)は同国(どうごく)のうち、おい津(つ・おひつ)につくこそ不思議(ふしぎ)なれ。熊野(くまのの)別当(べつたう)湛増(たんぞう)は、平家(へいけ)へやまいる(まゐる)べき、源氏(げんじ)へやまいる(まゐる)べきとて、田(た)なべの新熊野(いまぐまの)にて御神楽(みかぐら)奏(そう)して、権現(ごんげん)に祈誓(きせい)したてまつる。白旗(しらはた)につけと仰(おほせ)けるを、猶(なほ・なを)うたがひをなして、白(しろ)い鶏(にはとり)七(なな)つ赤(あか)き鶏(にはとり)七(なな)つ、是(これ)をも(ッ)て権現(ごんげん)の御(おん)まへにて勝負(しようぶ・せうぶ)をせさす。
赤(あか)きとり一(ひとつ)もかたず。みなまけてにげにけり。さてこそ源氏(げんじ)へまいら(まゐら)んとおもひさだめけれ。一門(いちもん)の物(もの)どもあひもよをし(もよほし)、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)二千(にせん)余人(よにん)、二百(にひやく)余艘(よさう・よそう)の舟(ふね)にのりつれて、若王子(にやくわうじ)の御正体(ごしやうたい)を船(ふね)にのせまいらせ(まゐらせ)、旗(はた)のよこがみには、金剛童子(こんがうどうじ)をかきたてま(ッ)て、檀(だん)の浦(うら)へよするを見(み)て、源氏(げんじ)も平家(へいけ)もともにおがむ(をがむ)。されども源氏(げんじ)の方(かた)へつきければ、平家(へいけ)はけう(きよう)さめてぞおもはれける。又(また)伊与国(いよのくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)、河野(かはのの)四郎(しらう)道信(みちのぶ)、百五十艘(ひやくごじつさう)の兵船(ひやうせん)にのりつれてこぎ来(き)たり、源氏(げんじ)とひとつになりにけり。判官(はうぐわん)かたがたたのもしうちからついてぞおもはれける。
源氏(げんじ)の船(ふね)は三千(さんぜん)〔余(よ)〕艘(さう・そう)、平家(へいけ)の舟(ふね)は千(せん)余艘(よさう・よそう)、唐船(たうせん)少々(せうせう)あひまじれり。源氏(げんじ)の勢(せい)はかさなれば、平家(へいけ)のせいは落(おち)ぞゆく。元暦(げんりやく)二年(にねん)三月(さんぐわつ)廿四日(にじふしにち)の卯剋(うのこく)に、門司(もじ)赤間(あかま)の関(せき)にて源平(げんぺい)矢合(やあはせ)とぞさだめける。
其(その)日(ひ)判官(はうぐわん)と梶原(かぢはら)とすでにどしいくさせんとする事(こと)あり。梶原(かぢはら)申(まうし)けるは、「けふの先陣(せんぢん)をば景時(かげとき)にたび候(さうら)へ」。判官(はうぐわん)「義経(よしつね)がなくばこそ」。「まさなう候(さうらふ)。殿(との)は大将軍(たいしやうぐん)にてこそましまし候(さうら)へ」。判官(はうぐわん)「おもひもよらず。
鎌倉殿(かまくらどの)こそ大将軍(たいしやうぐん)よ。義経(よしつね)は奉行(ぶぎやう)をうけ給(たまはつ)たる身(み)なれば、ただ殿原(とのばら)とおなじ事(こと)ぞ」との給(たま)へば、梶原(かぢはら)、先陣(せんぢん)を所望(しよまう)しかねて、「天性(てんぜい)この殿(との)は侍(さぶらひ)の主(しゆう・しゆ)にはなり難(がた)し」とぞつぶやきける。判官(はうぐわん)これをきいて、「日本一(につぽんいち)のおこ(をこ)の物(もの)かな」とて、太刀(たち)のつかに手(て)をかけ給(たま)ふ。梶原(かぢはら)「鎌倉殿(かまくらどの)の外(ほか)に主(しゆう・しゆ)をもたぬ物(もの)を」とて、是(これ)も太刀(たち)のつかに手(て)をかけけり。
さる程(ほど)に嫡子(ちやくし)の源太(げんだ)景季(かげすゑ)、次男(じなん)平次(へいじ)景高(かげたか)、同(おなじく)三郎(さぶらう)景家(かげいへ)、ちちと一所(いつしよ)によりあふ(あう)たり。判官(はうぐわん)の景気(けいき)を見(み)て、奥州(あうしうの)佐藤(さとう)四郎兵衛(しらうびやうゑ)忠信(ただのぶ)・伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)・源八(げんぱち)広綱(ひろつな)・江田ノ(えだの)源三(げんざう)・熊井(くまゐ)太郎(たらう)・武蔵房(むさしばう)弁慶(べんけい)な(ン)ど(など)いふ一人当千(いちにんたうぜん)のつは物(もの)ども、梶原(かぢはら)をなかにとりこめて、われう(ッ)とらんとぞすすみける。されども判官(はうぐわん)には三浦介(みうらのすけ)とりつきたてまつる。
梶原(かぢはら)には土肥(とひの・といの)次郎(じらう)つかみつき、両人(りやうにん)手(て)をす(ッ)て申(まうし)けるは、「是(これ)程(ほど)の大事(だいじ)をまへにかかへながら、どしいくさ候者(さうらはば)、平家(へいけ)ちからつき候(さうらひ)なんず。就中(なかんづく)鎌倉殿(かまくらどの)のかへりきかせ給(たま)はん処(ところ)こそ穏便(をんびん)ならず候(さうら)へ」と申(まう)せば、判官(はうぐわん)しづまり給(たま)ひぬ。梶原(かぢはら)すすむに及(およ・をよ)ばず。それよりして梶原(かぢはら)、判官(はうぐわん)をにくみそめて、つゐに(つひに)讒言(ざんげん)してうしなひけるとぞきこえし。さる程(ほど)に、源平(げんぺい)の陣(ぢん)のあはひ、海(うみ)のおもて卅余町(さんじふよちやう)をぞへだてたる。
門司(もじ)・赤間(あかま)・檀(だん)の浦(うら)はたぎ(ッ)ておつる塩(しほ)なれば、源氏(げんじ)の舟(ふね)は塩(しほ)にむかふ(むかう)て、心(こころ)ならずをし(おし)おとさる。平家(へいけ)の船(ふね)は塩(しほ)におう(あう)てぞいできたる。おきは塩(しほ)のはやければ、みぎはについて、梶原(かぢはら)敵(かたき)の舟(ふね)のゆきちがふ処(ところ)に熊手(くまで)をうちかけて、おや子(こ)主従(しゆうじゆう・しゆうじう)十四五人(じふしごにん)のりうつり、うち物(もの)ぬいて、ともへにさんざんにないでまはる。分(ぶん)どりあまたして、其(その)日(ひ)の高名(かうみやう)の一(いち)の筆(ふで)にぞつきにける。すでに源平(げんぺい)両方(りやうばう)陣(ぢん)をあはせて時(とき)をつくる。
上(かみ)は梵天(ぼんでん)までもきこえ、下(しも)は海竜神(かいりゆうじん・かいりうじん)もおどろくらんとぞおぼえける。新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)知盛卿(とももりのきやう)舟(ふね)の屋形(やかた)にたちいで、大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげての給(たま)ひけるは、「いくさはけふぞかぎり、物(もの)ども、すこしもしりぞく心(こころ)あるべからず。天竺(てんぢく)・震旦(しんだん)にも日本(につぽん)我(わが)朝(てう)にもならびなき名将(めいしやう)勇士(ゆうし)といへども、運命(うんめい)つきぬれば力(ちから)及(およ・をよ)ばず。されども名(な)こそおしけれ(をしけれ)。東国(とうごく)の物共(ものども)によはげ(よわげ)見(み)ゆな。いつのために命(いのち)をばおしむ(をしむ)べき。是(これ)のみぞおもふ事(こと)」との給(たま)へば、飛騨ノ(ひだの)三郎左衛門(さぶらうざゑもん・さぶらうさへもん)景経(かげつね)御(おん)まへに候(さうらひ)けるが、「是(これ)うけ給(たま)はれ、侍(さぶらひ)ども」とぞ下知(げぢ)しける。
上総(かづさの)悪(あく)七兵衛(しつびやうゑ)すすみ出(いで)て申(まうし)けるは、「坂東武者(ばんどうむしや)は馬(むま)のうへでこそ口(くち)はきき候(さうらふ)とも、ふないくさにはいつ調練(てうれん)し候(さうらふ)べき。うをの木(き)にのぼ(ッ)たるでこそ候(さうら)はんずれ。一々(いちいち)にと(ッ)て海(うみ)につけ候(さうら)はん」とぞ申(まうし)たる。越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)申(まうし)けるは、「おなじくは大将軍(たいしやうぐん)の源九郎(げんくらう)にくん給(だま)へ。九郎(くらう)は色(いろ)しろうせいちいさき(ちひさき)が、むかばのことにさしいでてしるかんなるぞ。ただし直垂(ひたたれ)と鎧(よろひ)をつねにきかふなれば、き(ッ)と見(み)わけがたかん也(なり)」とぞ申(まうし)ける。
上総(かづさの)悪(あく)七兵衛(しつびやうゑ)申(まうし)けるは、「心(こころ)こそたけくとも、其(その)小冠者(こくわんじや)、なに程(ほど)の事(こと)あるべき。片脇(かたわき)にはさんで、海(うみ)へいれなむ物(もの)を」とぞ申(まうし)たる。新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)は加様(かやう)に下知(げぢ)し給(たま)ひ、大臣殿(おほいとの)の御(おん)まへにまい(ッ・まゐつ)て、「けふは侍(さぶらひ)どもけしきよう見(み)え候(さうらふ)。ただし阿波(あはの)民部(みんぶ)重能(しげよし)は心(こころ)がはりしたるとおぼえ候(さうらふ)。かうべをはね候(さうらは)ばや」と申(まう)されければ、大臣殿(おほいとの)「見(み)えたる事(こと)もなうて、いかが頸(くび)をばきるべき。さしも奉公(ほうこう)の物(もの)であるものを。重能(しげよし)まいれ(まゐれ)」とめしければ、木蘭地(むくらんぢ)の直垂(ひたたれ)にあらいかは(あらひかは)の鎧(よろひ)きて、御(おん)まへに畏(かしこま・ッ)て候(さうらふ)。「いかに、重能(しげよし)は心(こころ)がはりしたるか、けふこそわるう見(み)ゆれ。四国(しこく)の物(もの)どもに、いくさようせよと下知(げぢ)せよかし。おくしたるな」との給(たま)へば、「なじかはおくし候(さうらふ)べき」とて、御(おん)まへをまかりたつ。新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)、あはれきやつが頸(くび)をうちおとさばやとおぼしめし、太刀(たち)のつかくだけよとにぎ(ッ)て、大臣殿(おほいとの)の御(おん)かたをしきりに見(み)給(たま)ひけれども、御(おん)ゆるされなければ、力(ちから)及(およ・をよ)ばず。平家(へいけ)は千(せん)余艘(よさう・よそう)を三手(みて)につくる。
山賀(やまが)の兵藤次(ひやうどうじ)秀遠(ひでとほ・ひでとを)、五百(ごひやく)余艘(よさう・よそう)で先陣(せんぢん)にこぎむかふ。松浦党(まつらたう)、三百(さんびやく)余艘(よさう・よそう)で二陣(にぢん)につづく。平家(へいけ)の君達(きんだち)、二百(にひやく)余艘(よさう・よそう)で三陣(さんぢん)につづき給(たま)ふ。兵藤次(ひやうどうじ)秀遠(ひでとほ・ひでとを)は、九国(くこく)一番(いちばん)の勢兵(せいびやう)にてありけるが、我(われ)程(ほど)こそなけれども、普通(ふつう)ざまの勢兵(せいびやう)ども五百人(ごひやくにん)をすぐ(ッ)て、船々(ふねぶね)のともへにたて、肩(かた)を一面(いちめん)にならべて、五百(ごひやく)の矢(や)を一度(いちど)にはなつ。源氏(げんじ)は三千(さんぜん)余艘(よさう・よそう)の船(ふね)なれば、せいのかずさこそおほかりけめども、処々(ところどころ)よりゐ(い)ければ、いづくに勢兵(せいびやう)ありともおぼえず。大将軍(たいしやうぐん)九郎(くらう)大夫(たいふの・たゆふの)判官(はうぐわん)、ま(ッ)さきにすす(ン)でたたかふが、楯(たて)も鎧(よろひ)もこらへずして、さんざんにゐ(い)しらまさる。平家(へいけ)みかた勝(かち)ぬとて、しきりにせめ皷(つづみ)う(ッ)て、よろこびの時(とき)をぞつくりける。 
遠矢 (とほや) 

 

源氏(げんじ)の方(かた)にも、和田(わだの)小太郎(こたらう)義盛(よしもり)、船(ふね)にはのらず、馬(むま)にうちの(ッ)てなぎさにひかへ、甲(かぶと)をばぬいで人(ひと)にもたせ、鐙(あぶみ)のはなふみそらし、よ(ッ)ぴいてゐ(い)ければ、三町(さんぢやう・さんちやう)がうちとの物(もの)ははづさずつようゐ(い)けり。そのなかに、ことに遠(とほ)うゐ(い)たるとおぼしきを、「其(その)矢(や)給(たま)はらん」とぞまねひ(まねい)たる。新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)是(これ)をめしよせて見(み)給(たま)へば、しらのに鶴(つる)のもとじろ、こうの羽(は)をわりあはせてはいだる矢(や)の、十三束(じふさんぞく)ふたつぶせあるに、くつまきより一束(そく)ばかりをい(おい)て、和田(わだの)小太郎(こたらう)平(たひらの・たいらの)義盛(よしもり)とうるしにてぞかきつけたる。
平家(へいけ)の方(かた)に勢兵(せいびやう)おほしといへども、さすが〔とを矢(や・とほや)ゐる(いる)物(もの)は〕すくなかりけるやらん、良(やや)久(ひさ)しうあ(ッ)て、伊与国(いよのくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)仁井(にゐ)の紀四郎(きしらう)親清(ちかきよ)めしいだされ、この矢(や)を給(たま)は(ッ)てゐ(い)返(かへ)す。是(これ)も奥(おき)よりなぎさへ三町(さんぢやう・さんちやう)余(よ)をつ(ッ)とゐ(い)わたして、和田(わだの)小太郎(こたらう)がうしろ一段(いつたん)あまりにひかへたる三浦(みうら)の石左近(いしざこん)の太郎(たらう)が弓手(ゆんで)のかいな(かひな)に、したたかにこそた(ッ)たりけれ。
三浦(みうら)の人共(ひとども)これを見(み)て、「和田(わだの)小太郎(こたらう)がわれにすぎて遠矢(とほや)ゐる(いる)ものなしとおもひて、恥(はぢ)かいたるにくさよ。あれを見(み)よ」とぞわらひける。和田(わだの)小太郎(こたらう)是(これ)をきき、「やすからぬ事(こと)也(なり)」とて、小船(せうせん)にの(ッ)てこぎいださせ、平家(へいけ)のせいのなかをさしつめひきつめさんざんにゐ(い)ければ、おほくの物(もの)どもゐ(い)ころされ、手負(ておひ・てをひ)にけり。又(また)判官(はうぐわん)ののり給(たま)へる船(ふね)に、奥(おき)よりしらののおほ矢(や)をひとつゐ(い)たてて、和田(わだ)がやうに「こなたへ給(たま)はらん」とぞまねいたる。
判官(はうぐわん)是(これ)をぬかせて見(み)給(たま)へば、しらのに山鳥(やまどり)の尾(を・お)をも(ッ)てはいだりける矢(や)の、十四(じふし)束(そく)三(みつ)ぶせあるに、伊与国(いよのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)、仁井ノ(にゐの)紀四郎(きしらう)親清(ちかきよ)とぞかきつけたる。判官(はうぐわん)、後藤兵衛(ごとうびやうゑ・ごとうびやうへ)実基(さねもと)をめして、「この矢(や)ゐ(い)つべきもの、みかたに誰(たれ)かある」との給(たま)へば、「甲斐(かひ・かい)源氏(げんじ)に阿佐里ノ(あさりの)与一殿(よいちどの)こそ、勢兵(せいびやう)にて在(まし)まし候(さうら)へ」。
「さらばよべ」とてよばれければ、阿佐里ノ(あさりの)与一(よいち)いできたり。判官(はうぐわん)の給(たま)ひけるは、「奥(おき)よりこの矢(や)をゐ(い)て候(さうらふ)が、ゐ(い)かへせとまねき候(さうらふ)。御(ご)へんあそばし候(さうらひ)なむや」。「給(たまはつ)て見(み)候(さうら)はん」とて、つまよ(ッ)て、「是(これ)はすこしよはう(よわう)候(さうらふ)。矢(や)づかもち(ッ)とみじかう候(さうらふ)。おなじうは義成(よしなり)が具足(ぐそく)にてつかまつり候(さうら)はん」とて、ぬりごめ藤(どう)の弓(ゆみ)の九尺(くしやく)ばかりあるに、ぬりのにくろぼろはいだる矢(や)の、わが大手(おほで)にをし(おし)にぎ(ッ)て、十五(じふご)束(そく)ありけるをうちくはせ、よ(ッ)ぴいてひやうどはなつ。四町余(しちやうよ)をつ(ッ)とゐ(い)わたして、大船(たいせん)のへにた(ッ)たる仁井ノ(にゐの)紀四郎(きしらう)親清(ちかきよ)がま(ッ)ただなかをひやうふつとゐ(い)て、ふなぞこへさかさまにゐ(い)たうす(たふす)。生死(しやうし)をばしらず。阿佐里ノ(あさりの)与一(よいち)はもとより勢兵(せいびやう)の手(て)ききなり。
二町(にちやう)にはしる鹿(しか)をば、はづさずゐ(い)けるとぞきこえし。其(その)後(のち)源平(げんぺい)たがひに命(いのち)をおしま(をしま)ず、おめき(をめき)さけんでせめたたかふ。いづれおとれりとも見(み)えず。されども、平家(へいけ)の方(かた)には、十善(じふぜん)帝王(ていわう)、三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)を帯(たい)してわたらせ給(たま)へば、源氏(げんじ)いかがあらんずらんとあぶなうおもひけるに、しばしは白雲(はくうん)かとおぼしくて、虚空(こくう)にただよひけるが、雲(くも)にてはなかりけり、主(ぬし)もなき白旗(しらはた)ひとながれまい(まひ)さが(ッ)て、源氏(げんじ)の船(ふね)のへに棹(さを・さほ)づけのお(を)のさはる程(ほど)にぞ見(み)えたりける。
判官(はうぐわん)、「是(これ)は八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の現(げん)じ給(たま)へるにこそ」とよろこ(ン)で、手水(てうづ)うがひをして、是(これ)を拝(はい)し奉(たてまつ)る。兵(つはもの)どもみなかくのごとし。又(また)源氏(げんじ)の方(かた)よりいるかといふ魚(うを)一二千(いちにせん)はうて、平家(へいけ)の方(かた)へむかひける。大臣殿(おほいとの)これを御(ご)らんじて、小博士(こはかせ)晴信(はれのぶ)をめして、「いるかはつねにおほけれども、いまだかやうの事(こと)なし。いかがあるべきとかんがへ申(まう)せ」と仰(おほせ)られければ、「このいるかはみかへり候(さうら)はば、源氏(げんじ)ほろび候(さうらふ)べし。はうてとをり(とほり)候(さうら)はば、みかたの御(おん)いくさあやうう(あやふう)候(さうらふ)」と申(まうし)もはてねば、平家(へいけ)の船(ふね)のしたをすぐにはうてとをり(とほり)けり。「世(よ)の中(なか)はいまはかう」とぞ申(まうし)たる。
阿波(あはの)民部(みんぶ)重能(しげよし)は、この三(さん)が年(ねん)があひだ、平家(へいけ)によくよく忠(ちゆう・ちう)をつくし、度々(どど)の合戦(かつせん)に命(いのち)をおしま(をしま)ずふせきたたかひけるが、子息(しそく)田内左衛門(でんないざゑもん・でんないざへもん)をいけどりにせられて、いかにもかなはじとやおもひけん、たちまちに心(こころ)がはりして、源氏(げんじ)に同心(どうしん)してんげり。平家(へいけ)の方(かた)にははかりことに、よき人(ひと)をば兵船(ひやうせん)にのせ、雑人(ざふにん・ざうにん)どもをば唐船(たうせん)にのせて、源氏(げんじ)心(こころ)にくさに唐船(たうせん)をせめば、なかにとりこめてうたんとしたくせられたりけれども、阿波(あはの)民部(みんぶ)がかへりちう(かへりちゆう)のうへは、唐船(たうせん)には目(め)もかけず、大将軍(たいしやうぐん)のやつしのり給(たま)へる兵船(ひやうせん)をぞせめたりける。
新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)「やすからぬ。重能(しげよし)めをき(ッ)てすつべかりつる物(もの)を」と、ちたび後悔(こうくわい)せられけれどもかなはず。さる程(ほど)に、四国(しこく)・鎮西(ちんぜい)の兵(つはもの)ども、みな平家(へいけ)をそむいて源氏(げんじ)につく。いままでしたがひついたりし物(もの)どもも、君(きみ)にむか(ッ)て弓(ゆみ)をひき、主(しゆう・しう)に対(たい)して太刀(たち)をぬく。かの岸(きし)につかむとすれば、浪(なみ)たかくしてかなひがたし。このみぎはによらんとすれば、敵(かたき)矢(や)さきをそろへてまちかけたり。源平(げんぺい)の国(くに)あらそひ、けふをかぎりとぞ見(み)えたりける。 
先帝身投 (せんていみなげ) 

 

源氏(げんじ)の兵(つはもの)ども、すでに平家(へいけ)の舟(ふね)にのりうつりければ、水手(すいしゆ)梶取(かんどり)ども、ゐ(い)ころされ、きりころされて、船(ふね)をなをす(なほす)に及(およ・をよ)ばず、舟(ふな)ぞこにたはれふしにけり。新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)知盛卿(とももりのきやう)小船(こぶね)にの(ッ)て御所(ごしよ)の御舟(おんふね)にまいり(まゐり)、「世(よ)のなかいまはかうと見(み)えて候(さうらふ)。見(み)ぐるしからん物(もの)どもみな海(うみ)へいれさせ給(たま)へ」とて、ともへにはしりまはり、はいたり、のごうたり、塵(ちり)ひろい(ひろひ)、手(て)づから掃除(さうぢ)せられけり。女房達(にようばうたち)「中納言殿(ちゆうなごんどの・ちうなごんどの)、いくさはいかにやいかに」と口々(くちぐち)にとひ給(たま)へば、「めづらしきあづま男(をとこ・おとこ)をこそ御(ご)らんぜられ候(さうら)はんずらめ」とて、からからとわらひ給(たま)へば、「なんでうのただいまのたはぶれぞや」とて、声々(こゑごゑ)におめき(をめき)さけび給(たま)ひけり。二位殿(にゐどの)はこの有様(ありさま)を御(ご)らんじて、日(ひ)ごろおぼしめしまうけたる事(こと)なれば、にぶ色のふたつぎぬうちかづき、ねりばかまのそばたかくはさみ、神璽(しんし)をわきにはさみ、宝剣(ほうけん)を腰(こし)にさし、主上(しゆしやう)をいだきたてま(ッ)て、「わが身(み)は女(をんな・をうな)なりとも、かたきの手(て)にはかかるまじ。君(きみ)の御(おん)ともにまいる(まゐる)なり。
御心(おんこころ)ざしおもひまいらせ(まゐらせ)給(たま)はん人々(ひとびと)は、いそぎつづき給(たま)へ」とて、ふなばたへあゆみいでられけり。主上(しゆしやう)ことしは八歳(はつさい)にならせ給(たま)へども、御年(おんとし)の程(ほど)よりはるかにねびさせ給(たま)ひて、御(おん)かたちうつくしく、あたりもてりかかやくばかり也(なり)。御(おん)ぐしくろうゆらゆらとして、御(おん)せなかすぎさせ給(たま)へり。あきれたる御(おん)さまにて、「尼(あま)ぜ、われをばいづちへぐしてゆかんとするぞ」と仰(おほせ)ければ、いとけなき君(きみ)にむかい(むかひ)たてまつり、涙(なみだ)ををさへ(おさへ)申(まう)されけるは、「君(きみ)はいまだしろしめされさぶらはずや。先世(ぜんぜ)の十善(じふぜん)戒行(かいぎやう)の御(おん)ちからによ(ッ)て、今(いま)万乗(ばんじよう・ばんぜう)のあるじと生(うま)れさせ給(たま)へども、悪縁(あくえん)にひかれて、御運(ごうん)既(すで)につきさせ給(たま)ひぬ。
まづ東(ひがし・ひ(ン)がし)にむかはせ給(たまひ)て、伊勢大神宮(いせだいじんぐう)に御(おん)いとま申(まう)させ給(たま)ひ、其(その)後(のち)西方(さいはう)浄土(じやうど)の来迎(らいかう)にあづからんとおぼしめし、西(にし)にむかはせ給(たま)ひて、御念仏(おんねんぶつ)さぶらふべし。この国(くに)は心(こころ)うきさかゐ(さかひ)にてさぶらへば、極楽(ごくらく)浄土(じやうど)とてめでたき処(ところ)へぐしまいらせ(まゐらせ)さぶらふぞ」と、なくなく申(まう)させ給(たま)ひければ、山鳩色(やまばといろ)の御衣(ぎよい)にびんづらゆはせ給(たまひ)て、御涙(おんなみだ)におぼれ、ちいさく(ちひさく)うつくしき御手(おんて)をあはせ、まづ東(ひがし・ひ(ン)がし)をふしをがみ、伊勢大神宮(いせだいじんぐう)に御(おん)いとま申(まう)させ給(たま)ひ、其(その)後(のち)西(にし)にむかはせ給(たま)ひて、御念仏(おんねんぶつ)ありしかば、二位殿(にゐどの)やがていだき奉(たてまつ)り、「浪(なみ)のしたにも都(みやこ)のさぶらう(さぶらふ)ぞ」となぐさめたてま(ッ)て、ちいろ(ちひろ)の底(そこ)へぞいり給(たま)ふ。
悲(かなしき)哉(かな)、無常(むじやう)の春(はる)の風(かぜ)、忽(たちまち)に花(はな)の御(おん)すがたをちらし、なさけなきかな、分段(ぶんだん)のあらき浪(なみ)、玉体(ぎよくたい)をしづめたてまつる。殿(てん)をば長生(ちやうせい)と名(な)づけてながきすみかとさだめ、門(もん)をば不老(ふらう)と号(かう)して、老(おい)せぬとざしとときたれども、いまだ十歳(じつさい)のうちにして、底(そこ)のみくづとならせ給(たま)ふ。十善(じふぜん)帝位(ていゐ)の御果報(ごくわほう)、申(まう)すもなかなかをろか(おろか)なり。雲上(うんしやう)の竜(りよう・れう)くだ(ッ)て海底(かいてい)の魚(うを)となり給(たま)ふ。大梵(だいぼん)高台(かうだい)の閣(かく)のうへ、釈提(しやくだい)喜見(きけん)の宮(みや)の内(うち)、いにしへは槐門(くわいもん)棘路(きよくろ)のあひだに九族(きうぞく)をなびかし、今(いま)は船(ふね)のうち、浪(なみ)のしたに御命(おんいのち)を一時(いつし)にほろぼし給(たま)ふこそ悲(かな)しけれ。 
能登殿最期 (のとどのさいご) 

 

女院(にようゐん)はこの御有様(おんありさま)を御(ご)らんじて、御(おん)やき石(いし)、御硯(おんすずり)、左右(さう)の御(おん)ふところにいれて、海(うみ)へいらせ給(たま)ひたりけるを、渡辺党(わたなべたう)に源五(げんご)馬允(むまのじよう・むまのぜう)むつる、たれとはしりたてまつらねども、御(おん)ぐしを熊手(くまで)にかけてひきあげ奉(たてまつ)る。女房達(にようばうたち)「あなあさまし。あれは女院(にようゐん)にてわたらせ給(たまふ)ぞ」と、声々(こゑごゑ)口々(くちぐち)に申(まう)されければ、判官(はうぐわん)に申(まうし)て、いそぎ御所(ごしよ)の御船(おんふね)へわたしたてまつる。大納言(だいなごん)の佐殿(すけどの)は、内侍所(ないしどころ)の御(おん)からうとをも(ッ)て、海(うみ)へいらんとし給(たま)ひけるが、袴(はかま)のすそをふなばたにゐ(い)つけられ、けまとい(まとひ)てたふれ給(たまひ)たりけるを、兵(つはもの)どもとりとどめ奉(たてまつ)る。さて武士(ぶし)ども内侍所(ないしどころ)のじやうねぢき(ッ)て、既(すで)に御(おん)ふたをひらかんとすれば、忽(たちまち)に目(め)くれ、鼻血(はなぢ)たる。平(へい)大納言(だいなごん)いけどりにせられておはしけるが、「あれは内侍所(ないしどころ)のわたらせ給(たま)ふぞ。凡夫(ぼんぶ)は見(み)たてまつらぬ事(こと)ぞ」との給(たま)へば、兵(つはもの)どもみなのきにけり。其(その)後(のち)判官(はうぐわん)、平(へい)大納言(だいなごん)に申(まうし)あはせて、もとのごとくにからげおさめ(をさめ)奉(たてまつ)る。
さる程(ほど)に、平(へい)中納言(ぢゆうなごん・ぢうなごん)教盛(のりもり)、修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛(つねもり)兄弟(きやうだい)、鎧(よろひ)のうへにいかりををひ(おひ)、手(て)を取組(とりくみ)て、海(うみ)へぞ入(いり)給(たま)ひける。小松ノ(こまつの)新三位(しんざんみの・しんざんゐの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)資盛(すけもり)、同(おなじく)少将(せうしやう)有盛(ありもり)、いとこの左馬頭(さまのかみ)行盛(ゆきもり)、手(て)に手(て)をとりくんで一所(いつしよ)にしづみ給(たま)ひけり。人々(ひとびと)は加様(かやう)にし給(たま)へども、大臣殿(おほいとの)おや子(こ)は海(うみ)に入(い)らんずる気色(けしき)もおはせず、ふなばたに立(たち)いでて四方(しはう)みめぐらし、あきれたる様(さま)にておはしけるを、侍(さぶらひ)どもあまりの心(こころ)うさに、とほるやうにて、大臣殿(おほいとの)を海(うみ)へつき入(いれ)奉(たてまつ)る。右衛門督(うゑもんのかみ)是(これ)を見(み)て、やがてとび入(いり)給(たま)ひけり。みな人(ひと)はおもき鎧(よろひ・よろい)のうへに、おもき物(もの)をおうたりいだひ(いだい)たりしていればこそしづめ、この人(ひと)おやこはさもし給(たま)はぬうへ、なまじゐ(なまじひ)に究竟(くつきやう)の水練(すいれん)にておはしければ、しづみもやり給(たま)はず。大臣殿(おほいとの)は右衛門督(うゑもんのかみ)しづまばわれもしづまん、たすかり給(たま)はばわれもたすからんとおもひ給(たま)ふ。
右衛門(うゑもんの)督(かみ)も、父(ちち)しづみ給(たま)はばわれもしづまん、たすかり給(たま)はば我(われ)もたすからんとおもひて、たがひに目(め)を見(み)かはしておよぎありき給(たま)ふ程(ほど)に、伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)、小船(こぶね)をつ(ッ)とこぎよせ、まづ右衛門督(うゑもんのかみ)を熊手(くまで)にかけてひきあげたてまつる。大臣殿(おほいとの)是(これ)を見(み)ていよいよしづみもやり給(たま)はねば、おなじうとりたてまつりけり。大臣殿(おほいとの)の御(おん)めのと子(ご)飛弾ノ(ひだの)三郎左衛門(さぶらうざゑもん・さぶらうざへもん)景経(かげつね)、小船(こぶね)にの(ッ)て義盛(よしもり)が舟(ふね)にのりうつり、「我(わが)君(きみ)とり奉(たてまつ)るは何物(なにもの)ぞ」とて、太刀(たち)をぬいてはしりかかる。義盛(よしもり)すでにあぶなう見(み)えけるを、義盛(よしもり)が童(わらは)、しう(しゆう)をうたせじとなかにへだたる。景経(かげつね)がうつ太刀(たち)〔に〕甲(かぶと)のま(ッ)かううちわられ、二(に)の太刀(たち)に頸(くび)うちおとされぬ。義盛(よしもり)なを(なほ)あぶなう見(み)えけるを、ならびの舟(ふね)より堀(ほり)の弥太郎(やたらう)親経(ちかつね)、よ(ッ)ぴゐ(よつぴい)てひやうどゐる(いる)。景経(かげつね)うち甲(かぶと)をゐ(い)させてひるむ処(ところ)に、堀(ほりの)弥太郎(やたらう)のりうつ(ッ)て、三郎左衛門(さぶらうざゑもん・さぶらうざへもん)にくんでふす。
堀(ほり)が郎等(らうどう)、主(しゆう・しう)につづゐ(つづい)てのりうつり、景経(かげつね)が鎧(よろひ・よろい)の草摺(くさずり)ひきあげて、二刀(ふたかたな)さす。飛弾ノ(ひだの)三郎左衛門(さぶらうざゑもん・さぶらうざへもん)景経(かげつね)、きこゆる大力(だいぢから)のかうのものなれども、運(うん)やつきにけん、いた手(で)はをう(おう)つ、敵(かたき)はあまたあり、そこにてつゐに(つひに)うたれにけり。大臣殿(おほいとの)は生(いき)ながらとりあげられ、目(め)の前(まへ)でめのと子(ご)がうたるるを見(み)給(たま)ふに、いかなる心地(ここち)かせられけん。凡(およ・をよ)そ能登守(のとのかみ)教経(のりつね)の矢(や)さきにまはる物(もの)こそなかりけれ。矢(や)だねのある程(ほど)ゐ(い)つくして、けふを最後(さいご)とやおもはれけん、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、唐綾(からあや)おどし(をどし)の鎧(よろひ・よろい)きて、いかものづくりの大太刀(おほだち)ぬき、白柄(しらえ)の大長刀(おほなぎなた)のさやをはづし、左右(さう)にも(ッ)てなぎまはり給(たま)ふに、おもてをあはする物(もの)ぞなき。おほくの物(もの)どもうたれにけり。
新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)使者(ししや)をたてて、「能登殿(のとどの)、いたう罪(つみ)なつくり給(たま)ひそ。さりとてよき敵(かたき)か」との給(たま)ひければ、「さては大将軍(たいしやうぐん)にくめごさんなれ」と心(こころ)えて、うち物(もの)くきみじかにと(ッ)て、源氏(げんじ)の船(ふね)にのりうつりのりうつり、おめき(をめき)さけむ(さけん)でせめたたかふ。判官(はうぐわん)を見(み)しり給(たま)はねば、物(もの)の具(ぐ)のよき武者(むしや)をば判官(はうぐわん)かとめをかけて、はせまはる。判官(はうぐわん)もさきに心(こころ)えて、おもてにたつ様(やう)にはしけれども、とかくちがひて能登殿(のとどの)にはくまれず。されどもいかがしたりけん、判官(はうぐわん)の船(ふね)にのりあた(ッ)て、あはやとめをかけてとんでかかるに、判官(はうぐわん)かなはじとやおもはれけん、長刀(なぎなた)脇(わき)にかいばさみ、みかたの船(ふね)の二丈(にぢやう)ばかりのいたりけるに、ゆらりととびのり給(たま)ひぬ。能登殿(のとどの)ははやわざやおとられたりけん、やがてつづいてもとび給(たま)はず。いまはかうとおもはれければ、太刀(たち)長刀(なぎなた)海(うみ)へなげいれ、甲(かぶと)もぬいですてられけり。鎧(よろひ・よろい)の草摺(くさずり)かなぐりすて、どうばかりきて、おほ童(わらは)になり、おほ手(で)をひろげてたたれたり。
凡(およそ・をよそ)あたりをはら(ッ)てぞ見(み)えたりける。おそろしな(ン)ど(など)もをろか(おろか)也(なり)。能登殿(のとどの)大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて、「われとおもはん物(もの)どもは、よ(ッ)て教経(のりつね)に組(くん)でいけどりにせよ。鎌倉(かまくら)へくだ(ッ)て、頼朝(よりとも)にあふ(あう)て、物(もの)ひと詞(こと)いはんとおもふぞ。よれやよれ」との給(たま)へども、よる物(もの)一人(いちにん)もなかりけり。ここに土佐国(とさのくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)安芸郷(あきがう)を知行(ちぎやう)しける安芸(あき)の大領(だいりやう)実康(さねやす)が子(こ)に、安芸(あきの)太郎(たらう)実光(さねみつ)とて、卅人(さんじふにん)が力(ちから)も(ッ)たる大(だい)ぢからのかうの物(もの)あり。
われにち(ッ)ともおとらぬ郎等(らうどう)一人(いちにん)、おととの次郎(じらう)も普通(ふつう)にはすぐれたるしたたか物(もの)なり。安芸(あき)の太郎(たらう)、能登殿(のとどの)を見(み)たてま(ッ)て申(まうし)けるは、「いかにたけうましますとも、我等(われら)三人(さんにん)とりついたらんに、たとひたけ十丈(じふぢやう)の鬼(おに)なりとも、などかしたがへざるべき」とて、主従(しゆうじゆう・しうじう)三人(さんにん)小船(こぶね)にの(ッ)て、能登殿(のとどの)の舟(ふね)にをし(おし)ならべ、ゑい(えい)といひてのりうつり、甲(かぶと)のしころをかたぶけ、太刀(たち)をぬいて一面(いちめん)にう(ッ)てかかる。能登殿(のとどの)ち(ッ)ともさはぎ(さわぎ)給(たま)はず、ま(ッ)さきにすすんだる安芸(あきの)太郎(たらう)が郎等(らうどう)をすそをあはせて、海(うみ)へどうどけいれ給(たま)ふ。つづいてよる安芸(あきの)太郎(たらう)を弓手(ゆんで)の脇(わき)にと(ッ)てはさみ、弟(おとと)の次郎(じらう)をば馬手(めて)のわきにかいばさみ、ひとしめしめて、「いざうれ、さらばおれら死途(しで)の山(やま)のともせよ」とて、生年(しやうねん)廿六(にじふろく)にて海(うみ)へつ(ッ)とぞいり給(たま)ふ。 
内侍所都入 (ないしどころのみやこいり) 

 

新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)「見(み)るべき程(ほど)の事(こと)は見(み)つ、いまは自害(じがい)せん」とて、めのと子(ご)の伊賀(いがの)平(へい)内左衛門(ないざゑもん・ないざへもん)家長(いへなが)をめして、「いかに、約束(やくそく)はたがう(たがふ)まじきか」との給(たま)へば、「子細(しさい)にや及(および・をよび)候(さうらふ)」と、中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)に鎧(よろひ・よろい)二領(にりやう)きせ奉(たてまつ)り、我(わが)身(み)も鎧(よろひ・よろい)二領(にりやう)きて、手(て)をとりく(ン)で海(うみ)へぞ入(いり)にける。是(これ)を見(み)て侍(さぶらひ)ども廿(にじふ)余人(よにん)をくれ(おくれ)たてまつらじと、手(て)に手(て)をとりくんで、一所(いつしよ)にしづみけり。其(その)中(なか)に、越中(ゑつちゆうの・ゑちちうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ・じらうびやうへ)・上総(かづさの)五郎兵衛(ごらうびやうゑ・ごらうびやうへ)・悪(あく)七兵衛(しつびやうゑ・しつびやうへ)・飛弾(ひだの)四郎兵衛(しらうびやうゑ・しらうびやうへ)はなにとしてかのがれたりけん、そこをも又(また)落(おち)にけり。
海上(かいしやう)には赤旗(あかはた)あかじるしなげすて、かなぐりすてたりければ、竜田川(たつたがは)の紅葉(もみぢ)ばを嵐(あらし)の吹(ふき)ちらしたるがごとし。汀(みぎは)によする白浪(しらなみ)もうすぐれなゐにぞなりにける。主(ぬし)もなきむなしき船(ふね)は、塩(しほ)にひかれ風(かぜ)にしたが(ッ)て、いづくをさすともなくゆられゆくこそ悲(かな)しけれ。生(いけ)どりには、前(さき)の内大臣(ないだいじん)宗盛公(むねもりこう)、平(へい)大納言(だいなごん)時忠(ときただ)、右衛門督(うゑもんのかみ)清宗(きよむね)、内蔵頭(くらのかみ)信基(のぶもと)、讃岐(さぬきの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)時実(ときざね)、兵部少輔(ひやうぶのせう)雅明(まさあきら)、大臣殿(おほいとの)の八歳(はつさい)になり給(たま)ふ若公(わかぎみ)、僧(そう)には二位(にゐの)僧都(そうづ)宣真(せんしん)・法勝寺(ほつしようじの・ほつせうじの)執行(しゆぎやう)能円(のうゑん・のうえん)・中納言(ちゆうなごんの・ちうなごんの)律師(りつし)仲快(ちゆうくわい・ちうくわい)・経誦房(きやうじゆばうの)阿闍梨(あじやり)融円(ゆうゑん)、侍(さぶらひ)には源(げん)大夫(だいふの・だゆふの)判官(はんぐわん)季貞(すゑさだ)・摂津(つの)判官(はんぐわん)盛澄(もりずみ)・橘(きつ)内左衛門(ないざゑもん・ないざへもん)季康(すゑやす)・藤(とう)内左衛門(ないざゑもん・ないざへもん)信康(のぶやす)・阿波(あはの)民部(みんぶ)重能(しげよし)父子(ふし)、已上(いじやう)卅八人(さんじふはちにん)也(なり)。菊地(きくちの)次郎(じらう)高直(たかなほ・たかなを)・原田(はらだの)大夫(たいふ・たゆふ)種直(たねなほ・たねなを)は、いくさ已前(いぜん)より郎等(らうどう)どもあい(あひ)ぐして降人(かうにん)にまいる(まゐる)。
女房(にようばう)には、女院(にようゐん)、北(きた)の政所(まんどころ)、廊(らう)の御方(おんかた)、大納言佐殿(だいなごんのすけどの)、帥(そつ)のすけどの、治部卿局(ぢぶきやうのつぼね)已下(いげ)四十三人(しじふさんにん)とぞきこえし。元暦(げんりやく)二年(にねん)の春(はる)のくれ、いかなる年月(としつき)にて一人(いちじん)海底(かいてい)にしづみ、百官(ひやくくわん・ひやつくわん)波(なみ)の上(うへ)にうかぶらん。国母(こくぼ)官女(くわんぢよ)は東夷(とうい・とうゐ)西戎(せいじゆう・せいじう)の手(て)にしたがひ、臣下(しんか)卿相(けいしやう)は数万(すまん)の軍侶(ぐんりよ)にとらはされて、旧里(きうり)に帰(かへ)り給(たま)ひしに、或(あるい・ある)は朱買臣(しゆばいしん)が錦(にしき)をきざる事(こと)をなげき、或(あるい・ある)は王照君(わうせうくん)が胡国(ここく)におもむきし恨(うらみ)もかくやとぞかなしみ給(たま)ひける。
同(おなじき)四月(しぐわつ・しんぐわつ)三日(みつかのひ)、九郎(くらう)大夫(たいふの・たゆふの)判官(はうぐわん)義経(よしつね)、源八(げんぱち・げんばつ)広綱(ひろつな)をも(ッ)て、院(ゐんの)御所(ごしよ)へ奏聞(そうもん)しけるは、去(さんぬる)三月(さんぐわつ)廿四日(にじふしにち)、豊前国(ぶせんのくに)田(た)の浦(うら)、門司関(もじがせき)、長門国(ながとのくに)檀ノ浦(だんのうら)、赤間ノ関(あかまのせき・あかまがせき)にて平家(へいけ)をせめおとし、三種(さんじゆの)神器(しんぎ)事(こと)ゆへ(ゆゑ)なく返(かへ)し入(いれ)奉(たてまつ)るよし申(まうし)たりければ、院中(ゐんぢゆう・ゐんぢう)の上下(じやうげ)騒動(さうどう)す。広綱(ひろつな)を御坪(おつぼ)のうちへめし、合戦(かつせん)の次第(しだい)をくはしう御尋(おんたづね)ありて、御感(ぎよかん)のあまりに左兵衛尉(さひやうゑのじよう・さひやうへのぜう)になされけり。「一定(いちぢやう)かへりいらせ給(たま)ふか見(み)てまいれ(まゐれ)」とて、五日(いつかのひ)、北面(ほくめん)に候(さうらひ)ける藤判官(とうはんぐわん)信盛(のぶもり)を西国(さいこく)へさしつかはさる。宿所(しゆくしよ)へもかへらず、やがて院(ゐん)の御馬(おんむま)を給(たまはつ)て、鞭(むち)をあげ、西(にし)をさいて馳(はせ)くだる。
同(おなじき)十六日(じふろくにち)、九郎(くらう)大夫(たいふの・たゆふの)判官(はうぐわん)義経(よしつね)、平氏(へいじ)男女(なんによ)のいけどりども、あひぐしてのぼりけるが、播磨国(はりまのくに)明石浦(あかしのうら)にぞつきにける。名(な)をえたる浦(うら)なれば、ふけゆくままに月(つき)さえ(さへ)のぼり、秋(あき)の空(そら)にもおとらず。女房達(にようばうたち)さしつどひて、「一(ひと)とせ是(これ)をとをり(とほり)しには、かかるべしとはおもはざりき」な(ン)ど(など)いひて、しのびねになきあはれけり。帥(そつ)のすけ殿(どの)つくづく月(つき)をながめ給(たま)ひ、いとおもひのこすこともおはせざりければ、涙(なみだ)にとこもうくばかりにて、かうぞおもひつづけ給(たま)ふ。
ながむればぬるるたもとにやどりけり月(つき)よ雲井(くもゐ)のものがたりせよ
雲(くも)のうへに見(み)しにかはらぬ月影(つきかげ)のすむにつけてもものぞかなしき
大納言佐殿(だいなごんのすけどの)
わが身(み)こそあかしの浦(うら)に旅(たび)ねせめおなじ浪(なみ)にもやどる月(つき)かな
「さこそ物(もの)がなしう、昔(むかし)恋(こひ)しうもおはしけめ」と、判官(はうぐわん)物(もの)のふなれどもなさけあるおのこ(をのこ)なれば、身(み)にしみてあはれにぞおもはれける。同(おなじき)廿五日(にじふごにち)、内侍所(ないしどころ)しるしの御箱(みはこ)、鳥羽(とば)につかせ給(たま)ふときこえしかば、内裏(だいり)より御(おん)むかへにまいら(まゐら)せ給(たま)ふ人々(ひとびと)、勘解由小路(かでのこうぢの)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)経房卿(つねふさのきやう)・高倉(たかくらの)宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)泰通(やすみち)・権(ごんの)右中弁(うちゆうべん・うちうべん)兼忠(かねただ)・左衛門(さゑもんの・さへもんの)権佐(ごんのすけ)親雅(ちかまさ)・江浪ノ(えなみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)公時(きんとき)・但馬(たじまの)少将(せうしやう)教能(のりよし)、武士(ぶし)には伊豆(いづの)蔵人(くらんど)大夫(たいふ・たゆふ)頼兼(よりかね)・石川(いしかはの)判官代(はんぐわんだい)能兼(よしかぬ)・左衛門尉(さゑもんのじよう・さへもんのぜう)有綱(ありつな)とぞきこえし。其(その)夜(よ)の子(ね)の剋(こく)に、内侍所(ないしどころ)しるしの御箱(みはこ)太政官(だいじやうぐわん)の庁(ちやう)へいらせ給(たま)ふ。宝剣(ほうけん)はうせにけり。神璽(しんし)は海上(かいしやう)にうかびたりけるを、片岡(かたをかの)太郎(たらう)経春(つねはる)〔が〕とりあげたてま(ッ)たりけるとぞきこえし。 
剣 (けん) 

 

吾(わが)朝(てう)には神代(じんだい)よりつたはれる霊剣(れいけん)三(みつ)あり。十(と)づかの剣(けん)、あまのはやきりの剣(けん)、草(くさ)なぎの剣(けん)是(これ)也(なり)。十(と)づかの剣(けん)は、大和国(やまとのくに)いそのかみ布留ノ(ふるの)社(やしろ)におさめ(をさめ)らる。あまのはやきりの剣(けん)は、尾張国(をはりのくに・おはりのくに)熱田(あつた)の宮(みや)にありとかや。草(くさ)なぎの剣(けん)は内裏(だいり)にあり。今(いま)の宝剣(ほうけん)是(これ)也(なり)。この剣(けん)の由来(ゆらい)を申(まう)せば、昔(むかし)素戔ノ烏(そさのを)の尊(みこと)、出雲国(いづものくに)曾我(そが)のさとに宮(みや)づくりし給(たま)ひしに、そのところに八(や)いろの雲(くも)常(つね)にたちければ、尊(みこと)これを御(ご)らんじて、かくぞ詠(えい・ゑい)じ給(たま)ひける。
八雲(やぐも)たつ出雲(いづも)八(や)へがきつまごめにやへがきつくるその八重(やへ)がきを
是(これ)を三十一字(さんじふいちじ)のはじめとす。国(くに)を出雲(いづも)となづくる事(こと)も、すなはちこのゆへ(ゆゑ)とぞうけ給(たま)はる。むかし、みこと、出雲国(いづものくに)ひの川上(かはかみ)にくだり給(たま)ひしとき、国津神(くにつのかみ)に足(あし)なづち手(て)なづちとて夫神(をがみ)婦神(めがみ)おはします。其(その)子(こ)に端正(たんじやう)のむすめあり。ゐなだ姫(ひめ・いなだひめ)と号(かう)す。おや子(こ)三人(さんにん)なきゐたり。みこと「いかに」ととひ給(たま)へば、こたへ申(まうし)ていはく、「われにむすめ八人(はちにん)ありき。みな大蛇(だいじや)のためにのまれぬ。いま一人(いちにん)のこるところの少女(せうぢよ)、又(また)のまれんとす。件(くだん)の大蛇(だいじや)は尾(を・お)かしらともに八(やつ)あり。をのをの(おのおの)〔八(やつ)のみね〕八(やつ)の谷(たに)にはい(はひ)はびこれり。
霊樹(れいじゆ)異木(いぼく)せなかにおひたり。いく千年(せんねん)をへたりといふ事(こと)をしらず。まなこは日月(じつげつ)の光(ひかり)のごとし。年々(ねんねん)に人(ひと)をのむ。おやのまるる物(もの)は子(こ)かなしみ、子(こ)のまるる物(もの)はおやかなしみ、村南(そんなん)村北(そんぼく)に哭(こく)する声(こゑ)たえず」とぞ申(まうし)ける。みことあはれにおぼしめし、この少女(せうぢよ)をゆつつまぐしにとりなし、御(おん)ぐしにさしかくさせ給(たま)ひ、八(やつ)の船(ふね)に酒(さけ)をいれ、美女(びぢよ)のすがたをつく(ッ)てたかきをかにたつ。其(その)影(かげ)酒(さけ)にうつれり。大蛇(だいじや)人(ひと)とおも(ッ)て其(その)かげをあくまでの(ン)で、酔(ゑひ・えひ)臥(ふし)たりけるを、尊(みこと)はき給(たま)へる十(と)づかの剣(けん)をぬいて、大蛇(だいじや)をくだくだにきり給(たま)ふ。其(その)なかに一(ひとつ)の尾(を・お)にいた(ッ)てきれず。尊(みこと)あやしとおぼしめし、たてさまにわ(ッ)て御(ご)らんずれば、一(ひとつ)の霊剣(れいけん)あり。是(これ)をと(ッ)て天照大神(てんせうだいじん)にたてまつり給(たま)ふ。
「これはむかし、高間(たかま)の原(はら)にてわがおとしたりし剣(けん)なり」とぞのたまひける。大蛇(だいじや)の尾(を・お)のなかにありける時(とき)は、村雲(むらくも)つねにおほひければ、あまのむら雲(くも)の剣(けん)とぞ申(まうし)ける。おほん神(がみ)これをえて、あめの宮(みや)の御(み)たからとし給(たま)ふ。豊葦原中津国(とよあしはらなかつくに)のあるじとして、天孫(あめみま)をくだし奉(たてまつ)り給(たま)ひし時(とき)、この剣(けん)をも御鏡(みかがみ)にそへてたてまつらせ給(たま)ひけり。第九代(だいくだい)の御門(みかど)開化天皇(かいくわてんわう)の御時(おほんとき)までは、ひとつ殿(てん)におはしましけるを、第十代(だいじふだい)の御門(みかど)崇神天皇ノ(すじんてんわうの)御宇(ぎよう)に及(およん・をよん)で、霊威(れいゐ)におそれて、天照大神(てんせうだいじん)を大和国(やまとのくに)笠(かさ)ぬい(かさぬひ)の里(さと)、磯(いそ)がきひろきにうつしたてまつり給(たま)ひし時(とき)、この剣(けん)をも天照大神(てんせうだいじん)の社檀(しやだん)にこめたてまつらせ給(たま)ひけり。
其(その)時(とき)剣(けん)を作(つく)りかへて、御(おん)まもりとし給(たま)ふ。御霊威(ごれいゐ)もとの剣(けん)にあひおとらず。あまの村雲(むらくも)の剣(けん)は、崇神天皇(すじんてんわう)より景行天皇(けいかうてんわう)まで三代(さんだい)は、天照大神(てんせうだいじん)の社檀(しやだん)にあがめをか(おか)れたりけるを、景行天皇(けいかうてんわう)の御宇(ぎよう)四十年(しじふねん)六月(ろくぐわつ)に、東夷(とうい)反逆(ほんぎやく)のあひだ、御子(みこ)日本武尊(やまとたけるのみこと・ヤマトタケノみこと)御心(みこころ)もかうに、御力(おんちから)も人(ひと)にすぐれておはしければ、精撰(せいせん)にあた(ッ)てあづまへくだり給(たま)ひし時(とき)、天照大神(てんせうだいじん)へまい(ッ・まゐつ)て御(おん)いとま申(まう)させ給(たま)ひけるに、御(おん)いもうといつきの尊(みこと)をも(ッ)て、「謹(つつしん)でおこたる事(こと)なかれ」とて、霊剣(れいけん)を尊(みこと)にさづけ申(まうし)給(たま)ふ。さて駿河国(するがのくに)にくだり給(たま)ひたりしかば、其(その)ところの賊徒等(ぞくとら)「この国(くに)は鹿(しか)のおほう候(さうらふ)。狩(かり)してあそばせ給(たま)へ」とて、たばかりいだしたてまつり、野(の)に火(ひ)をはな(ッ)て既(すで)にやきころしたてまつらんとしけるに、尊(みこと)はき給(たま)へる霊剣(れいけん)をぬいて草(くさ)をなぎ給(たま)へば、はむけ一里(いちり)がうちは草(くさ)みなながれぬ。みこと又(また)火(ひ)をいだされたりければ、風(かぜ)たちまちに異賊(いぞく)の方(かた)へ吹(ふき)おほひ、凶徒(きようど・けうど)ことごとくやけ死(じ)にぬ。それよりしてこそ、あまの村雲(むらくも)の剣(けん)をば草(くさ)なぎの剣(けん)とも名(な)づけけれ。
尊(みこと)猶(なほ・なを)奥(おく)へい(ッ)て、三箇年(さんがねん)があひだところどころの賊徒(ぞくと)をうちたいらげ(たひらげ)、国々(くにぐに)の凶党(きようたう・けうたう)をせめしたがへてのぼらせ給(たま)ひけるが、道(みち)より御悩(ごなう)つかせ給(たま)ひて、御年(おんとし)卅(さんじふ)と申(まうす)七月(しちぐわつ)に、尾張国(をはりのくに・おはりのくに)熱田(あつた)のへんにてつゐに(つひに)かくれさせ給(たま)ひぬ。其(その)たましゐ(たましひ)はしろき鳥(とり)とな(ッ)て天(てん)にあがりけるこそふしぎなれ。いけどりのゑびす(えびす)どもをば、御子(みこ)たけひこのみことをも(ッ)て、御門(みかど)へたてまつらせ給(たま)ふ。草(くさ)なぎの剣(けん)をば熱田(あつた)の社(やしろ)におさめ(をさめ)らる。あめの御門(みかどの)御宇(ぎよう)七年(しちねん)に、新羅(しんら)の沙門(しやもん)道慶(だうぎやう)、この剣(けん)をぬすんで吾(わが)国(くに)の宝(たから)とせむとおも(ッ)て、ひそかに船(ふね)にかくしてゆく程(ほど)に、風波(ふうは)巨動(きよどう)して忽(たちまち)に海底(かいてい)にしづまんとす。すなはち霊剣(れいけん)のたたりなりとして、罪(つみ)を謝(しや)して先途(せんど)をとげず、もとのごとくかへしおさめ(をさめ)たてまつる。しかるを天武天皇(てんむてんわう)朱鳥(しゆてう)元年(ぐわんねん)に、是(これ)をめして内裏(だいり)にをか(おか)る。いまの宝剣(ほうけん)是(これ)也(なり)。御霊威(ごれいゐ)いちはやうまします。陽成院(やうぜいゐん)長病(ちやうびやう)にをかされましまして、霊剣(れいけん)をぬかせ給(たま)ひければ、夜(よ)るのおとどひらひらとして電光(でんくわう)にことならず。恐怖(くぶ)のあまりになげすてさせ給(たま)ひければ、みづからはたとな(ッ)てさやにさされにけり。
上古(しやうこ)にはかうこそめでたかりしか。たとひ二位殿(にゐどの)腰(こし)にさして海(うみ)にしづみ給(たま)ふとも、たやすううすべからずとて、すぐれたるあまうど共(ども)をめして、かづきもとめられけるうへ、霊仏(れいぶつ)霊社(れいしや)にた(ッ)とき僧(そう)をこめ、種々(しゆじゆ)の神宝(じんぼう)をささげていのり申(まう)されけれども、つゐに(つひに)うせにけり。その時(とき)の有識(いうしよく・ゆうしき)の人々(ひとびと)申(まうし)あはれけるは、「昔(むかし)天照大神(てんせうだいじん)、百王(はくわう)をまもらんと御(おん)ちかひありける、其(その)御(おん)ちかひいまだあらたまらずして、石清水(いはしみづ)の御(おん)ながれいまだつきざるうへに、天照大神(てんせうだいじん)の日輪(にちりん)の光(ひかり)いまだ地(ち)におちさせ給(たま)はず。末代(まつだい)澆季(げうき)なりとも、帝運(ていうん)のきはまる程(ほど)の御事(おんこと)はあらじかし」と申(まう)されければ、其(その)中(なか)にある博士(はかせ)のかんがへ申(まうし)けるは、「むかし出雲国(いづものくに)ひの川上(かはかみ)にて、素戔烏(そさのを)の尊(みこと)にきりころされたてまつ(ッ)し大蛇(だいじや)、霊剣(れいけん)をおしむ(をしむ)心(こころ)ざしふかくして、八(やつ)のかしら八(やつ)の尾(を・お)を表事(へうじ)として、人王(にんわう)八十代(はちじふだい)の後(のち)、八歳(はつさい)の帝(てい)とな(ッ)て霊剣(れいけん)をとりかへして、海底(かいてい)に沈(しづ)み給(たま)ふにこそ」と申(まう)す。千(ち)いろ(ちひろ)の海(うみ)の底(そこ)、神竜(しんりよう・しんりう)のたからとなりしかば、ふたたび人間(にんげん)にかへらざるもことはり(ことわり)とこそおぼえけれ。 
一門大路渡 (いちもんおほちわたし) 

 

さる程(ほど)に、二(に)の宮(みや)かへりいらせ給(たま)ふとて、法皇(ほふわう・ほうわう)より御(おん)むかへに御車(おんくるま)をまいらせ(まゐらせ)らる。御心(おんこころ)ならず平家(へいけ)にとられさせ給(たま)ひて、西海(さいかい)の浪(なみ)の上(うへ)にただよはせ給(たま)ひ、三(み)とせをすごさせ給(たま)ひしかば、御母儀(おぼぎ)も御(おん)めのと持明院(ぢみやうゐん)の宰相(さいしやう)も御心(おんこころ)ぐるしき事(こと)におもはれけるに、別(べち)の御事(おんこと)なくかへりのぼらせ給(たま)ひたりしかば、さしつどひてみな悦(よろこ)びなきどもせられけり。おなじき廿六日(にじふろくにち)、平氏(へいじ)のいけどりども京(きやう)へいる。みな八葉(はちえふ・はちえう)の車(くるま)にてぞありける。前後(ぜんご)のすだれをあげ、左右(さう)の物見(ものみ)をひらく。大臣殿(おほいとの)は浄衣(じやうえ・じやうゑ)をきたまへり。右衛門督(うゑもんのかみ)はしろき直垂(ひたたれ)にて、車(くるま)のしりにぞのられたる。平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)の車(くるま)、おなじくやりつづく。子息(しそく)讃岐(さぬきの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)時実(ときざね)も、同車(どうしや)にてわたるべかりしが、現所労(げんじよらう)とてわたされず。内蔵頭(くらのかみ)信基(のぶもと)は疵(きず)をかうぶ(ッ)たりしかば、閑道(かんだう)より入(いり)にけり。
大臣殿(おほいとの)、さしも花(はな)やかにきよげにおはせし人(ひと)の、あらぬさまにやせおとろへ給(たま)へり。されども、四方(しはう)見(み)めぐらして、いとおもひしづめる気色(けしき)もおはせず。右衛門督(うゑもんのかみ)はうつぶして目(め)も見(み)あげ給(たま)はず。誠(まこと)におもひいれたるけしき也(なり)。土肥(とひの・といの)次郎(じらう)実平(さねひら)、木蘭地(むくらんぢ)の直垂(ひたたれ)に小具足(こぐそく)ばかりして、随兵(ずいびやう)卅(さんじふ)余騎(よき)、車(くるま)の先後(ぜんご)にうちかこ(ン)で守護(しゆご)し奉(たてまつ)る。見(み)る人(ひと)都(みやこ)のうちにもかぎらず、凡(およそ・をよそ)遠国(をんごく)近国(きんごく)、山々(やまやま)寺々(てらでら)より、老(おい)たるも若(わか)きも、来(き)たりあつまれり。鳥羽(とば)の南(みなみ)の門(もん)・つくり道(みち)・四基(よつづか)までひしとつづいて、いく千万(せんまん)といふかずをしらず。人(ひと)は顧(かへりみ)る事(こと)をえず。車(くるま)は輪(わ)をめぐらす事(こと)あたはず。治承(ぢしよう・ぢせう)・養和(やうわ)の飢饉(ききん)、東国(とうごく)・西国(さいこく)のいくさに、人(ひと)だねほろびうせたりといへども、猶(なほ・なを)のこりはおほかりけりとぞ見(み)えし。都(みやこ)をいでて中(なか)一年(いちねん)、無下(むげ)にまぢかき程(ほど)なれば、めでたかりし事(こと)もわすれず。さしもおそれおののき(をののき)し人(ひと)のけふのありさま、夢(ゆめ)うつつともわきかねたり。心(こころ)なきあやしのしづのお(しづのを)、しづのめにいたるまで、涙(なみだ)をながし袖(そで)をしぼらぬはなかりけり。ましてなれちかづきける人々(ひとびと)の、いかばかりの事(こと)をかおもひけん。
年来(としごろ)重恩(ぢゆうおん・ぢうをん)をかうぶり、父祖(ふそ)のときより祗侯(しこう)したりし輩(ともがら)の、さすが身(み)のすてがたさに、おほくは源氏(げんじ)につゐ(つい)たりしかども、昔(むかし)のよしみ忽(たちまち)にわするべきにもあらねば、さこそはかなしくおもひけめ。されば袖(そで)を(かほ)にをし(おし)あてて、目(め)を見(み)あげぬ物(もの)もおほかりけり。大臣殿(おほいとの)の御牛飼(おんうしかひ)は、木曾(きそ)が院参(ゐんざん)の時(とき)、車(くるま)やりそんじてきられにける次郎丸(じらうまる)がおとと、三郎丸(さぶらうまる)なり。西国(さいこく)にてはかり男(をのこ・おのこ)にな(ッ)たりしが、今(いま)一度(いちど)大臣殿(おほいとの)の御車(おんくるま)をつかまつらんとおもふ心(こころ)ざしふかかりければ、鳥羽(とば)にて判官(はうぐわん)に申(まうし)けるは、「とねり牛飼(うしかひ)な(ン)ど(など)申(まうす)物(もの)は、いふかひなき下臈(げらふ・げらう)のはてにて候(さうら)へば、心(こころ)あるべきでは候(さうら)はねども、年(とし)ごろめしつかはれまいらせ(まゐらせ)て候(さうらふ)御心(おんこころ)ざしあさからず。しかるべう候者(さうらはば)、御(おん)ゆるされをかうぶ(ッ)て、大臣殿(おほいとの)の最後(さいご)の御車(おんくるま)をつかまつり候(さうらは)ばや」とあながちに申(まうし)ければ、判官(はうぐわん)「子細(しさい)あるまじ。とうとう」とてゆるされける。
なのめならず悦(よろこび)て、尋常(じんじやう)にしやうぞき、ふところよりやり縄(なは)とりいだしつけかへ、涙(なみだ)にくれてゆくさきも見(み)えねども、袖(そで)をかほにをし(おし)あてて、牛(うし)のゆくにまかせつつ、なくなくや(ッ)てぞまかりける。法皇(ほふわう・ほうわう)は六条(ろくでう)東洞院(ひがしのとうゐん・ひ(ン)がしのとうゐん)に御車(おんくるま)をたてて叡覧(えいらん・ゑいらん)あり。公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)の車(くるま)ども、同(おなじ)うたてならべたり。さしも御身(おんみ)ちかうめしつかはれしかば、法皇(ほふわう・ほうわう)もさすが御心(おんこころ)よはう(よわう)、哀(あはれ)にぞおぼしめされける。供奉(ぐぶ)の人々(ひとびと)はただ夢(ゆめ)とのみこそ思(おも)はれけれ。「いかにもしてあの人(ひと)にめをもかけられ、詞(ことば)の末(すゑ)にもかからばやとこそおもひしかば、かかるべしとは誰(たれ)かおもひし」とて、上下(じやうげ)涙(なみだ)をながしけり。
ひととせ内大臣(ないだいじん)にな(ッ)て悦(よろこび)申(まうし)給(たま)ひし時(とき)は、公卿(くぎやう)には花山院(くわさんのゐん)の大納言(だいなごん)をはじめとして、十二人(じふににん)扈従(こしよう)してやりつづけ給(たま)へり。殿上人(てんじやうびと)には蔵人頭(くらんどのとう)親宗(ちかむね)以下(いげ)十六人(じふろくにん)前駆(せんぐ)す。公卿(くぎやう)も殿上人(てんじやうびと)もけふを晴(はれ)ときらめいてこそありしか。中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)四人(しにん)、三位(さんみの・さんゐの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)も三人(さんにん)までおはしき。やがてこの平(へい)大納言(だいなごん)も其(その)時(とき)は左衛門督(さゑもんのかみ・さへもんのかみ)にておはしき。御前(ごぜん)へめされまいらせ(まゐらせ)て、御引出物(おんひきでもの)給(たま)は(ッ)て、もてなされ給(たま)ひしありさま、めでたかりし儀式(ぎしき)ぞかし。けふは月卿(げつけい)雲客(うんかく)一人(いちにん)もしたがはず。おなじく檀(だん)の浦(うら)にていけどりにせられたりし侍(さぶらひ)ども廿(にじふ)余人(よにん)、しろき直垂(ひたたれ)きて、馬(むま)のうへにしめつけてぞわたされける。川原(かはら)までわたされて、かへ(ッ)て、大臣殿(おほいとの)父子(ふし)は九郎(くらうの)判官(はうぐわん)の宿所(しゆくしよ)、六条堀川(ろくでうほりかは)にぞおはしける。
御物(おんもの)まいらせ(まゐらせ)たりしかども、むねせきふさが(ッ)て、御(お)はしをだにもたてられず。たがひに物(もの)はの給(たま)はねども、目(め)を見(み)あはせて、ひまなく涙(なみだ)をながされけり。よるになれども装束(しやうぞく)もくつろげ給(たま)はず、袖(そで)をかたしゐ(かたしい)てふし給(たま)ひたりけるが、御子(おんこ)右衛門督(うゑもんのかみ・うへもんのかみ)に御袖(おんそで)をうちきせ給(たま)ふをまもりたてまつる源八(げんぱつ)兵衛(ひやうゑ・ひやうへ)・江田(えだの)源三(げんざう)・熊井(くまゐ)太郎(たらう)これをみて、「あはれたかきもいやしきも、恩愛(おんあい・をんあい)の道(みち)程(ほど)かなしかりける事(こと)はなし。御袖(おんそで)をきせ奉(たてまつ)りたらば、いく程(ほど)の事(こと)あるべきぞ。せめての御心(おんこころ)ざしのふかさかな」とて、たけき物(もの)のふどももみな涙(なみだ)をぞながしける。 
鏡 (かがみ) 

 

同(おなじき)廿八日(にじふはちにち)、鎌倉(かまくら)の前(さきの)兵衛佐(ひやうゑのすけ・ひやうへのすけ)頼朝(よりともの)朝臣(あそん・あつそん)、従二位(じゆにゐ)し給(たま)ふ。越階(をつかい)とて二階(にかい)をするこそありがたき朝恩(てうおん・てうをん)なるに、是(これ)はすでに三階(さんがい)なり。三位(さんみ・さんゐ)をこそし給(たま)ふべかりしかども、平家(へいけ)のし給(たま)ひたりしをいまうてなり。其(その)夜(よ)の子剋(ねのこく)に、内侍所(ないしどころ)、太政官(だいじやうぐわん)の庁(ちやう)より温明殿(うんめいでん)へいらせ給(たま)ふ。主上(しゆしやう)行幸(ぎやうがう)な(ッ)て、三(さん)か夜(よ)臨時(りんじ)の御神楽(みかぐら)あり。
右近将監(うこんのしやうげん)小家(をふ・ヲフ)の能方(よしかた)、別勅(べつちよく)をうけ給(たま)は(ッ)て、家(いへ)につたはれる弓立宮人(ゆだちみやうど・ユタチみやうど)といふ神楽(かぐら)の秘曲(ひきよく)をつかま(ッ)て、勧賞(けんじやう)かうぶりけるこそ目出(めでた)けれ。この歌(うた)〔は〕、祖父(そぶ)八条(はつでうの)判官(はうぐわん)資忠(すけただ)とい(ッ)し伶人(れいじん)の外(ほか)は、しれるものなし。あまりに秘(ひ)して子(こ)の親方(ちかかた)にはをしへずして、堀川天皇(ほりかはてんわう)御在位(ございゐ)の時(とき)つたへまいらせ(まゐらせ)て死去(しきよ)したりしを、君(きみ)親方(ちかかた)にをしへさせ給(たま)ひけり。道(みち)をうしなはじとおぼしめす御心(おんこころ)ざし、感涙(かんるい)おさへ難(がた)し。抑(そもそも)内侍所(ないしどころ)と申(まうす)は、昔(むかし)天照大神(てんせうだいじん)、天(あま)の岩戸(いはと)に閉(とぢ)こもらんとせさせ給(たま)ひし時(とき)、いかにもして我(わが)御(おん)かたちをうつしをき(おき)て、御子孫(ごしそん)に見(み)せ奉(たてまつ)らんとて、御鏡(みかがみ)をゐ(い)給(たま)へり。
是(これ)なを(なほ)御心(みこころ)にあはずとて、又(また)鋳(い)かへさせ給(たま)ひけり。さきの御鏡(みかがみ)は紀伊国(きいのくに)日前(にちぜん)国懸(こくけん)の社(やしろ)是(これ)也(なり)。後(のち)の御鏡(みかがみ)は御子(みこ)あまのにいほみの尊(みこと)にさづけまいらせ(まゐらせ)させ給(たま)ひて、「殿(てん)をおなじうしてすみ給(たま)へ」とぞ仰(おほせ)ける。さて天照大神(てんせうだいじん)、天(あま)の岩戸(いはと)にとぢこもらせ給(たま)ひて、天下(てんが)くらやみとな(ッ)たりしに、八百万代(やほよろづよ)の神(かみ)たち神(かみ)あつまりにあつま(ッ)て、岩戸(いはと)の口(くち)にて御神楽(みかぐら)をし給(たま)ひければ、天照大神(てんせうだいじん)感(かん)にたえ(たへ)させ給(たま)はず、岩戸(いはと)をほそめにひらき見(み)給(たま)ふに、互(たがひ)にかほのしろく見(み)えけるより面白(おもしろ)といふ詞(ことば)ははじまりけるとぞうけ給(たま)はる。その時(とき)こやねたぢからをといふ大(だい)ぢからの神(かみ)よ(ッ)て、ゑい(えい)といひてあけ給(たま)ひしよりしてたてられずといへり。
さて内侍所(ないしどころ)は、第九代(だいくだい)の御門(みかど)開化天皇(かいくわてんわう)の御時(おんとき)まではひとつ殿(てん)におはしましけるを、第十代(だいじふだい)の御門(みかど)崇神天皇(すじんてんわう)の御宇(ぎよう)に及(およん・をよん)で、霊威(れいゐ)におそれて、別(べつ)の殿(てん)へうつしたてまつらせ給(たま)ふ。近来(ちかごろ)は温明殿(うんめいでん)におはします。遷都(せんと)・遷幸(せんがう)の後(のち)百六十年(ひやくろくじふねん)をへて、村上天皇(むらかみてんわう)の御宇(ぎよう)、天徳(てんとく)四年(しねん)九月(くぐわつ)廿三日(にじふさんにち)の子剋(ねのこく)に、内裏(だいり)なかのへにはじめて焼亡(ぜうまう)ありき。火(ひ)は左衛門(さゑもん・さへもん)の陣(ぢん)よりいできたりければ、内侍所(ないしどころ)のおはします温明殿(うんめいでん)も程(ほど)ちかし。如法(によほふ・によほう)夜半(やはん)の事(こと)なれば、内侍(ないし)も女官(によくわん)もまいり(まゐり)あはずして、かしこ所(どころ)をいだし奉(たてまつ)るにも及(およ・をよ)ばず。小野宮殿(をののみやどの)いそぎまいら(まゐら)せ給(たま)ひて、「内侍所(ないしどころ)すでにやけさせ給(たま)ひぬ。世(よ)はいまはかうごさんなれ」とて御涙(おんなみだ)をながさせ給(たま)ふ程(ほど)に、内侍所(ないしどころ)はみづから炎(ほのほ・ほのを)の中(なか)をとびいでさせ給(たま)ひ、南殿(なんでん)の桜(さくら)の梢(こずゑ)にかからせおはしまし、光明(くわうみやう)かくやくとして、朝(あさ)の日(ひ)の山(やま)の端(は)をいづるにことならず。
其(その)時(とき)小野宮殿(をののみやどの)「世(よ)はいまだうせざりけり」とおぼしめすに、よろこびの御涙(おんなみだ)せきあへさせ給(たま)はず、右(みぎ)の御(おん)ひざをつき、左(ひだり)の御袖(おんそで)をひろげて、泣々(なくなく)申(まう)させ給(たま)ひけるは、「昔(むかし)天照大神(てんせうだいじん)百王(はくわう)をまもらんと御(おん)ちかひありける、其(その)御誓(おんちかひ・ごちかひ)いまだあらたまらずは、神鏡(しんきやう)実頼(さねより)が袖(そで)にやどらせ給(たま)へ」と申(まう)させ給(たま)ふ御詞(おんことば)のいまだをはらざるさきに、飛(とび)うつらせ給(たま)ひけり。すなはち御袖(おんそで)につつんで、太政官(だいじやうぐわん)の朝所(あいだんどころ・アイタントコロ)へわたしたてまつらせ給(たま)ふ。近来(ちかごろ)は温明殿(うんめいでん)におはします。この世(よ)にはうけとり奉(たてまつ)らんとおもひよる人(ひと)も誰(たれ)かはあるべき。神鏡(しんきやう)も又(また)やどらせ給(たま)ふべからず。上代(じやうだい)こそ猶(なほ・なを)も目出(めでた)けれ。 
文之沙汰 (ふみのさた) 

 

平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)父子(ふし)も、九郎(くらう)判官(はうぐわん)の宿所(しゆくしよ)ちかうぞおはしける。世(よ)の中(なか)のかくなりぬるうへは、とてもかうてもとこそおもはるべきに、大納言(だいなごん)猶(なほ・なを)命(いのち)おしう(をしう)やおもはれけん、子息(しそく)讃岐(さぬきの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)をまねひ(まねい)て、「ちらすまじきふみどもを一合(いちがふ・いちがう)、判官(はうぐわん)にとられてあるぞとよ。是(これ)を鎌倉(かまくら)の源二位(げんにゐ)に見(み)えなば、人(ひと)もおほく損(そん)じ、我(わが)身(み)も命(いのち)いけらるまじ。いかがせんずる」との給(たま)へば、中将(ちゆうじやう・ちうじやう)申(まう)されけるは、「判官(はうぐわん)はおほ方(かた)もなさけある物(もの)にて候(さうらふ)なるうへ、女房(にようばう)な(ン)ど(など)のうちたへ(うちたえ)なげく事(こと)をば、いかなる大事(だいじ)をももてはなれぬとうけ給(たまはり)候(さうらふ)。
何(なに)かくるしう候(さうらふ)べき。姫君達(ひめぎみたち)あまたましまし候(さうら)へば、一人(いちにん)見(み)せさせ給(たま)ひ、したしうならせおはしまして後(のち)、仰(おほせ)らるべうや候(さうらふ)らん」。大納言(だいなごん)涙(なみだ)をはらはらとながいて、「我(われ)世(よ)にありし時(とき)は、むすめどもをば女御(にようご)きさきとこそおもひしか。なみなみの人(ひと)に見(み)せんとはかけてもおもはざりし物(もの)を」とてなかれければ、中将(ちゆうじやう・ちうじやう)「今(いま)は其(その)事(こと)ゆめゆめおぼしめしよらせ給(たま)ふべからず。たうほくの姫君(ひめぎみ)の十八(じふはち)になり給(たま)ふを」と申(まう)されけれども、大納言(だいなごん)それをば猶(なほ・なを)かなしき事(こと)におぼして、さきの腹(はら)の姫君(ひめぎみ)の廿三(にじふさん)になり給(たま)ふをぞ、判官(はうぐわん)には見(み)せられける。
是(これ)も年(とし)こそすこしおとなしうおはしけれども、みめかたちうつくしう、心様(こころざま)ゆう(いう)におはしければ、判官(はうぐわん)さりがたうおもひたてま(ッ)て、もとのうへ川越(かはごえの)太郎(たらう)重頼(しげより)がむすめもありしかども、是(これ)をば別(べち)の方(かた)尋常(よのつね)にしつらうてもてなしけり。さて女房(にようばう)件(くだん)のふみの事(こと)をの給(たま)ひいだしたりければ、判官(はうぐわん)あま(ッ)さへ(あまつさへ)封(ふう)をもとかず、いそぎ時忠卿(ときただのきやう)のもとへをくら(おくら)れけり。大納言(だいなごん)なのめならず悦(よろこび)て、やがてやきぞすてられける。いかなるふみどもにてかありけん、をぼつかなう(おぼつかなう)ぞきこえし。平家(へいけ)ほろびて、いつしか国々(くにぐに)しづまり、人(ひと)のかよふも煩(わづらひ)なし。都(みやこ)もおだしかりければ、「ただ九郎(くらう)判官(はうぐわん)程(ほど)の人(ひと)はなし。鎌倉(かまくら)の源二位(げんにゐ)何事(なにごと)をかしいだしたる。
世(よ)は一向(いつかう)判官(はうぐわん)のままにてあらばや」な(ン)ど(など)いふ事(こと)を、源二位(げんにゐ)もれきいて、「こはいかに、頼朝(よりとも)がよくはからひて兵(つはもの)をさしのぼすればこそ、平家(へいけ)はたやすうほろびたれ。九郎(くらう)ばかりしては争(いかで)か世(よ)をしづむべき。
人(ひと)のかくいふにおご(ッ)ていつしか世(よ)を我(わが)ままにしたるにこそ。人(ひと)こそおほけれ、平(へい)大納言(だいなごん)の聟(むこ)にな(ッ)て、大納言(だいなごん)も(ッ)てあつかう(あつかふ)なるもうけられず。又(また)世(よ)にもはばからず、大納言(だいなごん)の聟(むこ)どりいはれなし。くだ(ッ)ても定(さだめ)て過分(くわぶん)の振舞(ふるまひ)せんずらん」とぞの給(たま)ひける。 
副将被斬 (ふくしやうきられ) 

 

同(おなじき)五月(ごぐわつ)七日(なぬかのひ)、九郎(くらう)大夫(たいふの・たゆふの)判官(はうぐわん)、平氏(へいじ)のいけどりどもあひぐして、関東(くわんとう)へ下向(げかう)ときこえしかば、大臣殿(おほいとの)判官(はうぐわん)のもとへ使者(ししや)をたてて、「明日(みやうにち)関東(くわんとう)へ下向(げかう)とうけ給(たまはり)候(さうらふ)。恩愛(おんあい・をんあい)の道(みち)はおもひきられぬ事(こと)にて候(さうらふ)也(なり)。いけどりのうちに八歳(はつさい)の童(わらは)とつけられて候(さうらひ)しものは、いまだ此(この)世(よ)に候(さうらふ)やらん。今(いま)一度(いちど)見(み)候(さうらは)ばや」とのたまひつかはされたりければ、判官(はうぐわん)の返事(へんじ)には、「誰(たれ)も恩愛(おんあい・をんあい)はおもひきられぬ事(こと)にて候(さうら)へば、誠(まこと)にさこそおぼしめされ候(さうらふ)らめ」とて、河越(かはごえの)小太郎(こたらう)重房(しげふさ)があづかりたてま(ッ)たりけるを、大臣殿(おほいとの)の〔許(もと)へ〕若君(わかぎみ)いれたてまつるべきよしの給(たま)ひければ、人(ひと)に車(くるま)か(ッ)てのせたてまつり、女房(にようばう)二人(ににん)つきたてまつりしも、ひとつ車(くるま)にのりぐして、大臣殿(おほいとの)へぞまいら(まゐら)れける。わか公(ぎみ)ははるかに父(ちち)を見(み)奉(たてまつ)り給(たまひ)て、よにうれしげにおぼしたり。
「いかに是(これ)へ」との給(たま)へば、やがて御(おん)ひざのうへにまいり(まゐり)給(たま)ふ。大臣殿(おほいとの)、若公(わかぎみ)の御(おん)ぐしをかきなで、涙(なみだ)をはらはらとながひ(ながい)て、守護(しゆご)の武士(ぶし)どもにのたまひけるは、「是(これ)はをのをの(おのおの)きき給(たま)へ。母(はは)もなき物(もの)にてあるぞとよ。此(この)子(こ)がははは是(これ)をうむとて、産(さん)をばたいらか(たひらか)にしたりしかども、やがてうちふしてなやみしが、「いかなる人(ひと)の腹(はら)に公達(きんだち)をまうけ給(たま)ふとも、おもひかへずしてそだてて、わらはが形見(かたみ)に御(ご)らんぜよ。さしはな(ッ)て、めのとな(ン)ど(など)のもとへつかはすな」といひしことが不便(ふびん)さに、あの右衛門督(うゑもんのかみ・うへもんのかみ)をば、朝敵(てうてき)をたいらげ(たひらげ)ん時(とき)は大将軍(たいしやうぐん)せさせ、これをば副将軍(ふくしやうぐん)せさせんずればとて、名(な)を副将(ふくしやう)とつけたりしかば、なのめならずうれしげにおもひて、すでにかぎりの時(とき)までも名(な)をよびな(ン)ど(など)してあひせ(あいせ)しが、なぬかといふにはかなくなりてあるぞとよ。
此(この)子(こ)を見(み)るたびごとには、その事(こと)がわすれがたくおぼゆるなり」とて涙(なみだ)もせきあへ給(たま)はねば、守護(しゆご)の武士(ぶし)どももみな袖(そで)をぞしぼりける。右衛門督(うゑもんのかみ・うへもんのかみ)も泣(なき)給(たま)へば、めのとも袖(そで)をしぼりけり。良(やや)久(ひさ)しうあ(ッ)て大臣殿(おほいとの)「さらば副将(ふくしやう)、とくかへれ、うれしうも見(み)つ」との給(たま)へども、若公(わかぎみ)かへり給(たま)はず。右衛門(うゑもんの)督(かみ)これを見(み)て、涙(なみだ)ををさへ(おさへ)ての給(たま)ひけるは、「やや副将(ふくしやう)御(ご)ぜ、こよひはとくとく帰(かへ)れ。
ただいまま〔ら〕う人(と)のこうずるぞ。あしたはいそぎまいれ(まゐれ)」との給(たま)へども、父(ちち)の御浄衣(おんじやうえ・おんじやうゑ)の袖(そで)にひしととりついて、「いなや、かへらじ」とこそなき給(たま)へ。かくてはるかに程(ほど)ふれば、日(ひ)もやうやう暮(くれ)にけり。さてしもあるべき事(こと)ならねば、めのとの女房(にようばう)いだきと(ッ)て、御車(おんくるま)にのせ奉(たてまつ)り、二人(ににん)の女房(にようばう)どもも袖(そで)を(かほ)にをし(おし)あてて、泣々(なくなく)いとま申(まうし)つつ、ともにの(ッ)てぞいでにける。
大臣殿(おほいとの)はうしろをはるかに御覧(ごらん)じをく(ッ・おくつ)て、「日来(ひごろ)の恋(こひ)しさは事(こと)のかずならず」とぞかなしみ給(たま)ふ。「このわか公(ぎみ)は、母(はは)のゆひごん(ゆいごん)がむざんなれば」とて、めのとのもとへもつかはさず、あさゆふ御(おん)まへにてそだて給(たま)ふ。三歳(さんざい)にてうゐかぶり(うひかうぶり)きせて、義宗(よしむね)とぞなのらせける。やうやうおい(おひ)たち給(たま)ふままに、みめかたちうつくしく、心(こころ)ざまゆう(いう)におはしければ、大臣殿(おほいとの)もかなしういとをしき(いとほしき)事(こと)におぼして、西海(さいかい)の旅(たび)の空(そら)、浪(なみ)のうへ、船(ふね)のうちのすまひにも、かた時(とき)もはなれ給(たま)はず。しかるをいくさやぶれて後(のち)は、けふぞたがひにみ給(たま)ひける。
河越(かはごえの)小太郎(こたらう)、判官(はうぐわん)の御(おん)まへにまい(ッ・まゐつ)て、「さてわか公(ぎみ)の御事(おんこと)をばなにと御(おん)ぱからひ候(さうらふ)やらん」と申(まうし)ければ、「鎌倉(かまくら)までぐしたてまつるに及(およ・をよ)ばず。なんぢともかうも是(これ)であひはからへ」とぞの給(たま)ひける。河越(かはごえの)小太郎(こたらう)二人(ににん)の女房(にようばう)どもに申(まうし)けるは、「大臣殿(おほいとの)は鎌倉(かまくら)へ御(おん)くだり候(さうらふ)が、わか公(ぎみ)は京(きやう)に御(おん)とどまりあるべきにて候(さうらふ)。重房(しげふさ)もまかり下(くだり)候(さうらふ)あひだ、おかた(をかた)の三郎(さぶらう)惟義(これよし)が手(て)へわたし奉(たてまつ)るべきにて候(さうらふ)。とうとうめされ候(さうら)へ」とて、御車(おんくるま)よせたりければ、わか公(ぎみ)なに心(ごころ)もなうのり給(たま)ひぬ。
「又(また)昨日(きのふ)のやうに父(ちち)御前(ごぜん)の御(おん)もとへか」とてよろこばれけるこそはかなけれ。六条(ろくでう)を東(ひがし・ひ(ン)がし)へや(ッ)てゆく。この女房(にようばう)ども「あはやあやしき物(もの)かな」と、きも魂(たましひ・たましゐ)をけちて思(おもひ)ける程(ほど)に、すこしひきさが(ッ)て、兵(つはもの)五六十騎(ごろくじつき)が程(ほど)河原(かはら)へうちいでたり。やがて車(くるま)をやりとどめて敷皮(しきがは)しき、「おりさせ給(たま)へ」と申(まうし)ければ、わか公(ぎみ)車(くるま)よりおり給(たま)ひぬ。よにあやしげにおぼして、「我(われ)をばいづちへぐしてゆかんとするぞ」ととひ給(たま)へば、二人(ににん)の女房(にようばう)どもとかうの返事(へんじ)にも及(およ・をよ)ばず。重房(しげふさ)が郎等(らうどう)太刀(たち)をひきそばめて、左(ひだり)の方(かた)より御(おん)うしろに立(たち)まはり、すでにきりたてまつらんとしけるを、わか公(ぎみ)見(み)つけ給(たまひ)て、いく程(ほど)のがるべき事(こと)のやうに、いそぎめのとのふところのうちへぞ入(いり)給(たま)ふ。
さすが心(こころ)づようとりいだし奉(たてまつ)るにも及(およ・をよ)ばねば、わか公(ぎみ)をかかへたてまつり、人(ひと)のきくをもはばからず、天(てん)にあふぎ地(ち)にふしておめき(をめき)さけみける心(こころ)のうち、をしはから(おしはから)れて哀(あはれ)也(なり)。かくて時剋(じこく)はるかにをし(おし)うつりければ、川越(かはごえの)小太郎(こたらう)重房(しげふさ)涙(なみだ)ををさへ(おさへ)て、「いまはいかにおぼしめされ〔候(さうらふ)〕とも、かなはせ給(たまひ)候(さうらふ)まじ。とうとう」と申(まうし)ければ、其(その)時(とき)めのとのふところのうちよりひきいだし奉(たてまつ)り、腰(こし)の刀(かたな)にてをし(おし)ふせて、つゐに(つひに)頸(くび)をぞかいて(ン)げる。たけき物(もの)のふどももさすが岩木(いはき)ならねば、みな涙(なみだ)をながしけり。頸(くび)をば判官(はうぐわん)のげ(ン)ざん(げんざん)にいれんとて取(とり)てゆく。めのとの女房(にようばう)かちはだしにてを(ッ・おつ)つゐ(つい)て、「なにかくるしう候(さうらふ)べき。御頸(おんくび)ばかりをば給(たま)は(ッ)て、後世(ごせ)をとぶらひまいらせ(まゐらせ)ん」と申(まう)せば、判官(はうぐわん)よにあはれげにおもひ、涙(なみだ)をはらはらとながいて、「まことにさこそはおもひ給(たま)ふらめ。も(ッ)ともさるべし。とうとう」とてたびにけり。
是(これ)をと(ッ)てふところにいれて、なくなく京(きやう)の方(かた)へ帰(かへ)るとぞ見(み)えし。其(その)後(のち)五六日(ごろくにち)して、桂川(かつらがは)に女房(にようばう)二人(ににん)身(み)をなげたる事(こと)ありけり。一人(いちにん)おさなき(をさなき)人(ひと)の頸(くび)をふところにいだひ(いだい)てしづみたりけるは、此(この)わか公(ぎみ)のめのとの女房(にようばう)にてぞありける。いま一人(いちにん)むくろをいだひ(いだい)たりけるは、介惜(かいしやく)の女房(にようばう)なり。めのとがおもひきるはせめていかがせん、かいしやくの女房(にようばう)さへ身(み)をなげけるこそありがたけれ。 
腰越 (こしごえ) 

 

さる程(ほど)に、大臣殿(おほいとの)は九郎(くらう)大夫ノ(たいふの・たゆふの)判官(はうぐわん)にぐせられて、七日(なぬか)のあかつき、粟田口(あはたぐち)をすぎ給(たま)へば、大内山(おほうちやま)、雲井(くもゐ)のよそにへだたりぬ。関(せき)の清水(しみづ)を見(み)給(たまひ)ても、なくなくかうぞ詠(えい・ゑい)じ給(たま)ひける。
都(みやこ)をばけふをかぎりの関水(せきみづ)に又(また)あふ坂(さか)のかげやうつさむ
道(みち)すがらもあまりに心(こころ)ぼそげにおぼしければ、判官(はうぐわん)なさけある人(ひと)にて、やうやうになぐさめ奉(たてまつ)る。「あひかまへて今度(こんど)の命(いのち)をたすけてたべ」との給(たま)ひければ、「遠(とほ)き国(くに)、はるかの島(しま)へもうつしぞまいらせ(まゐらせ)候(さうら)はんずらん。御命(おんいのち)うしなひ奉(たてまつ)るまではよも候(さうら)はじ。たとひさるとも、義経(よしつね)が勲功(くんこう)の賞(しやう)に申(まうし)かへて、御命(おんいのち)ばかりはたすけまいらせ(まゐらせ)候(さうらふ)べし。御心(おんこころ)やすくおぼしめされ候(さうら)へ」と、たのもしげに申(まう)され〔けれ〕ば、「たとひゑぞ(えぞ)が千島(ちしま)なりとも、甲斐(かひ)なき命(いのち)だにあらば」との給(たま)ひけるこそ口惜(くちをし・くちおし)けれ。日数(ひかず)ふれば、同(おなじき)廿四日(にじふしにち・にじふよつか)、鎌倉(かまくら)へくだりつき給(たま)ふ。梶原(かぢはら)さきだ(ッ)て鎌倉殿(かまくらどの)に申(まうし)けるは、「日本国(につぽんごく)は今(いま)はのこるところなうしたがひたてまつり候(さうらふ)。ただし御弟(おんおとと)九郎(くらう)大夫(たいふの・たゆふの)判官殿(はうぐわんどの)こそ、つゐ(つひ)の御敵(おんかたき)とは見(み)えさせ給(たまひ)候(さうら)へ。そのゆへ(ゆゑ)は、「一(いち)の谷(たに)をうへの山(やま)よりおとさずは、東西(とうざい)の木戸口(きどぐち)やぶれがたし。いけどりも死(し)にどりも義経(よしつね)にこそ見(み)すべきに、物(もの)のようにもあひ給(たま)はぬ蒲殿(かばどの)の方(かた)へ見参(げんざん)に入(いる)べき様(やう)やある。
本三位(ほんざんみの・ほんざんゐの)中将殿(ちゆうじやうどの・ちうじやうどの)こなたへたばじと候(さうらは)ば、まい(ッ・まゐつ)て給(たま)はるべし」とて、すでにいくさいでき候(さうら)はんとし候(さうらひ)しを、景時(かげとき)が土肥(とひ・とい)に心(こころ)をあはせて、三位(さんみの・さんゐの)中将殿(ちゆうじやうどの・ちうじやうどの)を土肥(とひの・といの)次郎(じらう)にあづけて後(のち)こそしづまり給(たまひ)て候(さうらひ)しか」とかたり申(まうし)ければ、鎌倉殿(かまくらどの)うちうなづいて、「けふ九郎(くらう)が鎌倉(かまくら)へいるなるに、おのおの用意(ようい)し給(たま)へ」と仰(おほせ)られければ、大名(だいみやう)小名(せうみやう)馳(はせ)あつま(ッ)て、程(ほど)なく数千騎(すせんぎ)になりにけり。
金洗沢(かねあらひざは)に関(せき)すへ(すゑ)て、大臣殿(おほいとの)父子(ふし)うけとりたてま(ッ)て、判官(はうぐわん)をば腰(こし)ごえへお(ッ)かへさる。鎌倉殿(かまくらどの)は随兵(ずいびやう)七重(ななへ・ななえ)八重(やへ・やえ)にすへ(すゑ)をい(おい)て、我(わが)身(み)は其(その)中(うち)におはしましながら「九郎(くらう)はこのたたみのしたよりはひいでんずるものなり。ただし頼朝(よりとも)はせらるまじ」とぞの給(たまひ)ける。判官(はうぐわん)おもはれけるは、「こぞの正月(しやうぐわつ)、木曾(きそ)義仲(よしなか)を追討(ついたう・つゐたう)せしよりこのかた、一(いち)の谷(たに)・檀(だん)の浦(うら)にいたるまで、命(いのち)をすてて平家(へいけ)をせめおとし、内侍所(ないしどころ)しるしの御箱(みはこ)事(こと)ゆへ(ゆゑ)なく返(かへ)しいれたてまつり、大将軍(たいしやうぐん)父子(ふし)いけどりにして、ぐして是(これ)まで下(くだ)りたらんには、たとひいかなるふしぎありとも、一度(いちど)はなどか対面(たいめん)なかるべき。凡(およそ・をよそ)は九国(くこく)の惣追補使(そうづいぶし・そうづゐぶし)にもなされ、山陰(せんいん・せんゐん)・山陽(せんやう)・南海道(なんかいだう)、いづれにてもあづけ、一方(いつぱう)のかためともなされんずるとこそおもひつるに、わづかに伊与国(いよのくに)ばかりを知行(ちぎやう)すべきよし仰(おほせ)られて、鎌倉(かまくら)へだにも入(いれ)られぬこそほいなけれ。さればこは何事(なにごと)ぞ。日本国(につぽんごく)をしづむる事(こと)、義仲(よしなか)・義経(よしつね)がしわざにあらずや。
たとへばおなじ父(ちち)が子(こ)で、先(さき)にむまるるを兄(あに)とし、後(のち)にむまるるを弟(おとと)とするばかり也(なり)。誰(たれ)か天下(てんが)をしらんにしらざるべき。あま(ッ)さへ(あまつさへ)今度(こんど)見参(げんざん・げ(ン)ざん)をだにもとげずして、をい(おひ)のぼせらるるこそ遺恨(ゐこん・いこん)の次第(しだい)なれ。謝(しや)するところをしらず」とつぶやかれけれども、ちからなし。ま(ッ)たく不忠(ふちゆう・ふちう)なきよし、たびたび起請文(きしやうもん)をも(ッ)て申(まう)されけれども、景時(かげとき)が讒言(ざんげん)によ(ッ)て、鎌倉殿(かまくらどの)もちゐ給(たま)はねば、判官(はうぐわん)泣々(なくなく)一通(いつつう)の状(じやう・でう)をかいて、広基(ひろもと)のもとへつかはす。
源(みなもとの)義経(よしつね)恐(おそれ)ながら申上(まうしあげ)候(さうらふ)意趣(いしゆ)者(は)、御代官(おんだいくわん)の其(その)一(ひとつ)に撰(えら)ばれ、勅宣(ちよくせん)の御使(おんつかひ)として、朝敵(てうてき)をかたむけ、会稽(くわいけい)の恥辱(ちじよく)をすすぐ。勲賞(くんしやう)おこなはるべき処(ところ)に、虎口(ここう)の讒言(ざんげん)によ(ッ)てむなしく紅涙(こうるい)にしづむ。讒者(ざんしや)の実否(じつぷ)をただされず、鎌倉中(かまくらぢゆう・かまくらぢう)へ入(いれ)られざる間(あひだ・あいだ)、素意(そい)をのぶるにあたはず、いたづらに数日(すじつ)ををくる(おくる)。此(この)時(とき)にあた(ッ)てながく恩顔(おんがん・をんがん)を拝(はい)したてまつらず(ン)〔ば〕、骨肉(こつにく)同胞(どうはう・どうほう)の義(ぎ)すでにたえ、宿運(しゆくうん)きはめてむなしきににたるか、将又(はたまた)先世(ぜんぜ)の業因(ごふいん・ごうゐん)の感(かん)ずる歟(か)。
悲(かなしき)哉(かな)、此(この)条(でう)、故(こ)亡父(ばうぶ)尊霊(そんれい)再誕(さいたん)し給(たま)はずは、誰(たれ)の人(ひと)か愚意(ぐい)の悲歎(ひたん)を申(まうし)ひらかん、いづれの人(ひと)か哀憐(あいれん)をたれられんや。事(こと)あたらしき申状(まうしじやう・まうしでう)、述懐(しゆつくわい)に似(に)たりといへども、義経(よしつね)身体(しんだい)髪膚(はつぷ)を父母(ふぼ)にうけて、いくばくの時節(じせつ)をへず故(こ)守殿(かうのとの)御他界(ごたかい)の間(あひだ・あいだ)、みなし子(ご)となり、母(はは)の懐(ふところ)のうちにいだかれて、大和国(やまとのくに)宇多郡(うだのこほり)におもむきしよりこのかた、いまだ一日(いちにち)片時(へんし)安堵(あんど)のおもひに住(ぢゆう・ぢう)せず。甲斐(かひ・かい)なき命(いのち)は存(そん)すといへども、京都(きやうと)の経廻(けいくわい)難治(なんぢ)の間(あひだ・あいだ)、身(み)を在々(ざいざい)所々(しよしよ)にかくし、辺土(へんど)遠国(をんごく)をすみかとして、土民(どみん)百姓等(ひやくしやうら)〔に〕服仕(ぶくじ)せらる。
しかれども高慶(かうけい)忽(たちまち)に純熟(じゆんじゆく)して、平家(へいけ)の一族(いちぞく)追討(ついたう)のために上洛(しやうらく)せしむる手(て)あはせに、木曾(きそ)義仲(よしなか)を誅戮(ちゆうりく・ちうりく)の後(のち)、平氏(へいじ)をかたむけんがために、或(ある)時(とき)は峨々(がが)たる巌石(がんぜき)に駿馬(しゆんめ)に鞭(むち)う(ッ)て、敵(てき)のために命(いのち)をほろぼさん事(こと)を顧(かへりみ)ず、或(ある)時(とき)は漫々(まんまん)たる大海(だいかい)に風波(ふうは)の難(なん)をしのぎ、海底(かいてい)にしづまん事(こと)をいたまずして、かばねを鯨鯢(けいげい・ケイケイ)の鰓(あぎと・アキト)にかく。しかのみならず、甲冑(かつちう)を枕(まくら)とし弓箭(きゆうせん・きうせん)を業(わざ)とする本意(ほい)、しかしながら亡魂(ばうこん)のいきどほりをやすめたてまつり、年来(ねんらい)の宿望(しゆくまう)をとげんと欲(ほつ)する外(ほか)他事(たじ)なし。あま(ッ)さへ(あまつさへ)義経(よしつね)五位尉(ごゐのじよう・ごゐのぜう)に補任(ふにん)の条(でう)、当家(たうけ)の重職(ちようじよく・てうじよく)何事(なにごと)か是(これ)にしかん。しかりといへども今(いま)愁(うれへ)ふかく歎(なげき)切(せつ)也(なり)。
仏神(ぶつじん)の御(おん)たすけにあらずより外(ほか)は、争(いかで)か愁訴(しうそ)を達(たつ)せん。これによ(ッ)て諸神(しよじん)諸社(しよしや)の牛王(ごわう)宝印(ほういん・ほうゐん)のうらをも(ッ)て、野心(やしん)を挿(さしはさ)まざるむね、日本国中(につぽんごくぢゆう・につぽんごくぢう)の神祇(じんぎ)冥道(みやうだう)を請(しやう)じ驚(おどろ・をどろ)かし奉(たてまつ)て、数通(すつう)の起請文(きしやうもん)をかき進(しん)ずといへども、猶(なほ・なを)以(もつて・も(ツ)て)御宥免(ごいうめん・ごゆうめん)なし。我(わが)国(くには)神国(しんこく)也(なり)。神(かみは)非礼(ひれい)を享(うけ)給(たまふ)べからず。(たのむ)処(ところ)他(た)にあらず。ひとへに貴殿(きでん)広大(くわうだい)の慈悲(じひ)を仰(あふ)ぐ。便宜(びんぎ)をうかがひ高聞(かうぶん)に達(たつ)せしめ、秘計(ひけい)をめぐらし、あやまりなきよしをゆうぜ(いうぜ)られ、放免(はうめん)にあづからば、積善(しやくぜん)の余慶(よけい)家門(かもん)に及(およ・をよ)び、栄花(えいぐわ・ゑいぐわ)をながく子孫(しそん)につたへむ。仍(よつて)年来(ねんらい)の愁眉(しうび)を開(ひら)き、一期(いちご)の安寧(あんねい)を得(え)ん。書紙(しよし)につくさず。併(しかしながら)令省略(せいりやくせしめ)候(さうらひ)畢(をはんぬ)。義経(よしつね)恐惶(きようくわう・けうくわう)謹言(つつしんでまうす)。元暦(げんりやく)二年(にねん)六月(ろくぐわつ)五日(いつかのひ)源(みなもとの)義経(よしつね)進上(しんじやう)因幡守殿(いなばのかみどの)へとぞかかれたる。 
大臣殿被斬 (おほいとのきられ) 

 

さる程(ほど)に、鎌倉殿(かまくらどの)大臣殿(おほいとの)に対面(たいめん)あり。おはしける〔所(ところ)〕、庭(には)をひとつへだててむかへなる屋(や)にすへ(すゑ)たてまつり、簾(みす)のうちより見(み)いだし、比気ノ(ひきの)藤四郎(とうしらう)義員(よしかず)を使者(ししや)で申(まう)されけるは、「平家(へいけ)の人々(ひとびと)に別(べち)の意趣(いしゆ)おもひたてまつる事(こと)、努々(ゆめゆめ)候(さうら)はず。其上(そのうへ)池殿(いけどの)の尼御前(あまごぜん)いかに申(まうし)給(たまふ)とも、故(こ)入道殿(にふだうどの・にうだうどの)の御(おん)ゆるされ候(さうら)はずは、頼朝(よりとも)いかでかたすかり候(さうらふ)べき。流罪(るざい)になだめられし事(こと)、ひとへに入道殿(にふだうどの・にうだうどの)の御恩(ごおん・ごをん)也(なり)。されば廿余年(にじふよねん)までさてこそ罷過(まかりすぎ)候(さうらひ)しかども、朝敵(てうてき)となり給(たま)ひて追討(ついたう)すべき由(よし)院宣(ゐんぜん)を給(たま)はる間(あひだ・あいだ)、さのみ王地(わうぢ)にはらまれて、詔命(ぜうめい)をそむくべきにあらねば、力(ちから)不及(およばず・をよばず)。
か様(やう)に見参(げんざん)に入(いり)候(さうらひ)ぬるこそ本意(ほんい)に候(さうら)へ」と申(まう)されければ、義員(よしかず)このよし申(まう)さんとて、御(おん)まへにまいり(まゐり)たりければ、ゐなをり(なほり)畏(かしこま)り給(たま)ひけるこそうたてけれ。国々(くにぐに)の大名(だいみやう)小名(せうみやう)なみゐたる其(その)中(なか)に、京(きやう)の物(もの)どもいくらもあり、平家(へいけ)の家人(けにん)たりし物(もの)もあり、みなつまはじきをして申(まうし)けるは、「ゐなをり(なほり)畏(かしこまり)給(たま)ひたらば、御命(おんいのち)のたすかり給(たまふ)べきか。西国(さいこく)でいかにもなり給(たまふ)べき人(ひと)の、いきながらとらはれて、是(これ)までくだり給(たま)ふこそことはり(ことわり)なれ」とぞ申(まうし)ける。或(あるい・ある)は涙(なみだ)をながす人(ひと)もあり。其(その)中(なか)にある人(ひと)の申(まうし)けるは、「猛虎(まうこ)深山(しんざん)にある時(とき)は、百獣(はくじう)ふるひおづ。
檻井(かんせい)のうちにあるに及(およん・をよん)で、尾(を・お)を動(うご)かして食(しよく)をもとむとて、たけひ(たけい)虎(とら)のふかい山(やま)にある時(とき)は、もものけだ物(もの)おぢをそる(おそる)といへども、と(ッ)ており(をり)の中(なか)にこめられぬる時(とき)は、尾(を・お)をふ(ッ)て人(ひと)にむかふらんやうに、いかにたけき大将軍(たいしやうぐん)なれども、加様(かやう)にな(ッ)て後(のち)は心(こころ)かはる事(こと)なれば、大臣殿(おほいとの)もかくおはするにこそ」と申(まうし)ける人(ひと)もありけるとかや。さる程(ほど)に、九郎(くらう)大夫(たいふの・たゆふの)判官(はうぐわん)やうやうに陳(ちん)じ申(まう)されけれども、景時(かげとき)が讒言(ざんげん)によ(ッ)て鎌倉殿(かまくらどの)さらに分明(ふんみやう)の御返事(おんぺんじ・おんへんじ)もなし。「いそぎのぼらるべし」と仰(おほせ)られければ、同(おなじき)六月(ろくぐわつ)九日(ここのかのひ)、大臣殿(おほいとの)父子(ふし)具(ぐ)し奉(たてまつ)て都(みやこ)へぞ帰(かへ)りのぼられける。大臣殿(おほいとの)はいますこしも日数(ひかず)ののぶるをうれしき事(こと)におもはれけり。
道(みち)すがらも「ここにてやここにてや」とおぼしけれども、国々(くにぐに)宿々(しゆくじゆく)うちすぎうちすぎとほりぬ。尾張国(をはりのくに・おはりのくに)うつみといふ処(ところ)あり。ここは故(こ)左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)が誅(ちゆう・ちう)せられし所(ところ)なれば、これにてぞ一定(いちぢやう)とおもはれけれども、それをもすぎしかば、大臣殿(おほいとの)すこしたのもしき心(こころ)いできて、「さては命(いのち)のいきんずるやらん」との給(たま)ひけるこそはかなけれ。右衛門督(うゑもんのかみ・うへもんのかみ)は「なじかは命(いのち)をいくべき。か様(やう)にあつき比(ころ)なれば、頸(くび)の損(そん)ぜぬ様(やう)にはからひ、京(きやう)ちかうな(ッ)てきらんずるにこそ」とおもはれけれども、大臣殿(おほいとの)のいたく心(こころ)ぼそげにおぼしたるが心(こころ)ぐるしさに、さは申(まう)されず。
ただ念仏(ねんぶつ)をのみぞ申(まうし)給(たま)ふ。日数(ひかず)ふれば都(みやこ)もちかづきて、近江国(あふみのくに)しの原(はら)の宿(しゆく)につき給(たま)ひぬ。判官(はうぐわん)なさけふかき人(ひと)なれば、三日路(みつかぢ)より人(ひと)を先(さき)だてて、善知識(ぜんぢしき)のために、大原(おほはら)の本性房(ほんしやうばう・ほんせうばう)湛豪(たんがう)といふ聖(ひじり)を請(しやう)じ下(くだ)されたり。昨日(きのふ)まではおや子(こ)一所(いつしよ)におはしけるを、けさよりひきはな(ッ)て、別(べち)の所(ところ)にすへ(すゑ)たてまつりければ、「さてはけふを最後(さいご)にてあるやらん」と、いとど心(こころ)ぼそうぞおもはれける。大臣殿(おほいとの)涙(なみだ)をはらはらとながひ(ながい)て、「抑(そもそも)右衛門督(うゑもんのかみ)はいづくに候(さうらふ)やらん。手(て)をとりくんでもをはり、たとひ頸(くび)はおつとも、むくろはひとつ席(むしろ)にふさんとこそおもひつるに、いきながらわかれぬる事(こと)こそかなしけれ。十七年(じふしちねん)が間(あひだ・あいだ)、一日(いちにち)片時(へんし)もはなるる事(こと)なし。
海底(かいてい)にしづまでうき名(な)をながすも、あれゆへ(ゆゑ)なり」とてなかれければ、聖(ひじり)もあはれにおもひけれども、我(われ)さへ心(こころ)よはく(よわく)てはかなはじとおもひて、涙(なみだ)をし(おし)のごひ、さらぬていにもてないて申(まうし)けるは、「いまはとかくおぼしめすべからず。最後(さいご)の御有様(おんありさま)を御(ご)らんぜんにつけても、たがひの御心(おんこころ)のうちかなしかるべし。生(しやう)をうけさせ給(たまひ)てよりこのかた、たのしみさかへ(さかえ)、昔(むかし)もたぐひすくなし。御門(みかど)の御外戚(ごぐわいせき)にて丞相(しようじやう・せうじやう)の位(くらゐ)にいたらせ給(たま)へり。
今生(こんじやう)の御栄花(ごえいぐわ・ごゑいくわ)一事(いちじ)ものこるところなし。いま又(また)かかる御目(おんめ)にあはせ給(たま)ふも、先世(ぜんぜ)の宿業(しゆくごふ・しゆくごう)なり。世(よ)をも人(ひと)をも恨(うら)みおぼしめすべからず。大梵(だいぼん)王宮(わうぐう)の深禅定(しんぜんぢやう)のたのしみ、おもへば程(ほど)なし。いはんや電光(でんくわう)朝露(てうろ)の下界(げかい)の命(いのち)にをいて(おいて)をや。利天(たうりてん)の億千歳(おくせんざい)、ただ夢(ゆめ)のごとし。卅九年(さんじふくねん)のすぐさせ給(たま)ひけんも、わづかに一時(いつし)の間(あひだ・あいだ)なり。たれか甞(なめ)たりし不老(ふらう)不死(ふし)の薬(くすり)、誰(たれ)かたもちたりし東父(とうぶ)西母(せいぼ)が命(いのち)、秦(しん)の始皇(しくわう)の奢(おごり)をきはめしも、遂(つひ・つゐ)には麗山(りさん)の墓(つか)にうづもれ、漢(かん)の武帝(ぶてい)の命(いのち)をおしみ(をしみ)給(たま)ひしも、むなしく杜陵(とりよう・とりやう)の苔(こけ)にくちにき。
「生(しやう)あるものは必(かならず)滅(めつ)す。釈尊(しやくそん)いまだ栴檀(せんだん)の煙(けぶり)をまぬかれ給(たま)はず。楽(たのしみ)尽(つき)て悲(かなしみ)来(きた)る。天人(てんにん)尚(なほ・なを)五衰(ごすい)の日(ひ)にあへり」とこそうけ給(たま)はれ。されば仏(ほとけ)も「我心自空(がしんじくう)、罪福無主(ざいふくむしゆ)、観心無心(くわんじんむしん)、法不住〔法〕(ほふふぢゆうほふ・ほうふぢうほう)」〔とて〕、善(ぜん)も悪(あく)も空(くう)なりと観(くわん)ずるが、まさしく仏(ほとけ)の御心(おんこころ)にあひかなふ事(こと)にて候(さうらふ)也(なり)。いかなれば弥陀如来(みだによらい)は、五劫(ごこふ・ごこう)が間(あひだ・あいだ)思惟(しゆい)して、発(おこし)がたき願(ぐわん)を発(おこ)しましますに、いかなる我等(われら)なれば、億々万(おくおくまん)劫(ごふ・ごう)が間(あひだ・あいだ)生死(しやうじ)に輪廻(りんゑ)して、宝(たから)の山(やま)に入(いり)て手(て)を空(むなし)うせん事(こと)、恨(うらみ)のなかの恨(うらみ)、愚(おろか・をろか)なるなかの口惜(くちをし・くちおし)い事(こと)に候(さうら)はずや。
ゆめゆめ余念(よねん)をおぼしめすべからず」とて、戒(かい)たもたせたてまつり、念仏(ねんぶつ)すすめ申(まうす)。大臣殿(おほいとの)しかるべき善知識(ぜんぢしき)かなとおぼしめし、忽(たちまち)に妄念(まうねん)ひるがへして、西(にし)にむかひ手(て)をあはせ、高声(かうしやう)に念仏(ねんぶつ)し給(たま)ふ処(ところ)に、橘(きつ)右馬允(むまのじよう・むまのぜう)公長(きんなが)、太刀(たち)をひきそばめて、左(ひだり)の方(かた)より御(おん)うしろにたちまはり、すでにきりたてまつらんとしければ、大臣殿(おほいとの)念仏(ねんぶつ)をとどめて、「右衛門督(うゑもんのかみ)もすでにか」との給(たま)ひけるこそ哀(あはれ)なれ。公長(きんなが)うしろへよるかと見(み)えしかば、頸(くび)はまへにぞ落(おち)にける。善知識(ぜんぢしき)の聖(ひじり)も涙(なみだ)に咽(むせ)び給(たま)ひけり。たけきもののふも争(いかで)かあはれとおもはざるべき。ましてかの公長(きんなが)は、平家(へいけ)重代(ぢゆうだい・ぢうだい)の家人(けにん)、新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)のもとに朝夕(てうせき)祗候(しこう)の侍(さぶらひ)也(なり)。「さこそ世(よ)をわづらう(わづらふ)といひながら、無下(むげ)になさけなかりける物(もの)かな」とぞみな人(ひと)慚愧(ざんぎ)しける。其(その)後(のち)右衛門督(うゑもんのかみ)をも、聖(ひじり)前(まへ)のごとくに戒(かい)たもたせ奉(たてまつ)り、念仏(ねんぶつ)すすめ申(まうす)。「大臣殿(おほいとの)の最後(さいご)いかがおはしましつる」ととはれけるこそいとをしけれ(いとほしけれ)。「目出(めで)たうましまし候(さうらひ)つるなり。
御心(おんこころ)やすうおぼしめされ候(さうら)へ」と申(まう)されければ、涙(なみだ)をながし悦(よろこび)て、「今(いま)はおもふ事(こと)なし。さらばとう」とぞの給(たま)ひける。今度(こんど)は堀ノ(ほりの)弥太郎(やたらう)き(ッ)て(ン)げり。頸(くび)をば判官(はうぐわん)もたせて都(みやこ)へいる。むくろをば公長(きんなが)が沙汰(さた)として、おや子(こ)ひとつ穴(あな)にぞうづみける。さしも罪(つみ)ふかくはなれがたくの給(たま)ひければ、かやうにしてんげり。同(おなじき)廿三日(にじふさんにち)、大臣殿(おほいとの)父子(ふし)のかうべ都(みやこ)へいる。検非違使(けんびゐし・けんびいし)ども、三条河原(さんでうかはら)にいで向(むかひ)て是(これ)をうけとり、大路(おほち)をわたして左(ひだり)の獄門(ごくもん)の樗(あふち)の木(き)にぞかけたりける。三位(さんみ・さんゐ)以上(いじやう)の人(ひと)の頸(くび)、大路(おほち)をわたして獄門(ごくもん)にかけらるる事(こと)、異国(いこく)には其(その)例(れい)もやあるらん、吾(わが)朝(てう)にはいまだ先蹤(せんじよう・せんぜう)をきかず。されば平治(へいぢ)に信頼(のぶより)は悪行人(あくぎやうにん)たりしかば、かうべをばはねられたりしかども、獄門(ごくもん)にはかけられず。平家(へいけ)にと(ッ)てぞかけられける。西国(さいこく)よりのぼ(ッ)てはいきて六条(ろくでう)を東(ひがし・ひ(ン)がし)へわたされ、東国(とうごく)よりかへ(ッ)てはしんで三条(さんでう)を西(にし)へわたされ給(たま)ふ。いきての恥(はぢ)、しんでの恥(はぢ)、いづれもおとらざりけり。 
重衡被斬 (しげひらのきられ) 

 

本三位(ほんざんみの・ほんざんゐの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)者(は)、狩野介(かののすけ)宗茂(むねもち)にあづけられて、去年(こぞ)より伊豆国(いづのくに)におはしけるを、南都(なんとの)大衆(だいしゆ)頻(しきり)に申(まうし)ければ、「さらばわたせ」とて、源(げん)三位(ざんみの・ざんゐの)入道(にふだう・にうだう)頼政(よりまさ)の孫(まご)、伊豆(いづの)蔵人(くらんど)大夫(たいふ・たゆふ)頼兼(よりかぬ)に仰(おほせ)て、遂(つひ・つゐ)に奈良(なら)へぞつかはしける。都(みやこ)へは入(いれ)られずして、大津(おほつ)より山(やま)しなどをり(やましなどほり)に、醍醐路(だいごぢ)をへてゆけば、日野(ひの)はちかかりけり。此(この)重衡卿(しげひらのきやう)の北方(きたのかた)と申(まうす)は、鳥飼(とりかひ)の中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)惟実(これざね)のむすめ、五条(ごでうの)大納言(だいなごん)国綱卿(くにつなのきやう)の養子(やうじ)、先帝(せんてい)の御(おん)めのと大納言佐殿(だいなごんのすけどの)とぞ申(まうし)ける。
三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)一谷(いちのたに)でいけどりにせられ給(たま)ひし後(のち)も、先帝(せんてい)につきまいらせ(まゐらせ)ておはせしが、檀(だん)の浦(うら)にて海(うみ)にいらせ給(たま)ひしかば、もののふのあらけなきにとらはれて、旧里(きうり)に帰(かへ)り、姉(あね)の大夫(だいぶ)三位(ざんみ・ざんゐ)に同宿(どうじゆく)して、日野(ひの)といふ所(ところ)におはしけり。中将(ちゆうじやう)の露(つゆ)の命(いのち)、草葉(くさば)の末(すゑ)にかか(ッ)てきえやらぬときき給(たま)へば、夢(ゆめ)ならずして今(いま)一度(いちど)見(み)もし見(み)えもする事(こと)もやとおもはれけれども、それもかなはねば、なくより外(ほか)のなぐさめなくて、あかしくらし給(たま)ひけり。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)守護(しゆご)の武士(ぶし)にの給(たま)ひけるは、「此(この)程(ほど)事(こと)にふれてなさけふかう芳心(はうじん)おはしつるこそありがたううれしけれ。同(おなじ)くは最後(さいご)に芳恩(はうおん・はうをん)か(ウ)ぶりたき事(こと)あり。我(われ)は一人(いちにん)の子(こ)なければ、この世(よ)におもひをく(おく)事(こと)なきに、年来(としごろ)あひぐしたりし女房(にようばう)の、日野(ひの)といふところにありときく。
いま一度(いちど)対面(たいめん)して、後生(ごしやう)の事(こと)を申(まうし)をか(おか)ばやとおもふなり」とて、片時(へんし)のいとまをこはれけり。武士(ぶし)どもさすが岩木(いはき)ならねば、おのおの涙(なみだ)をながしつつ「なにかはくるしう候(さうらふ)べき」とて、ゆるしたてまつる。中将(ちゆうじやう・ちうじやう)なのめならず悦(よろこび)て、「大納言佐殿(だいなごんのすけどの)の御局(おんつぼね)はこれにわたらせ給(たまひ)候(さうらふ)やらん。本(ほん)三位(ざんみの)中将殿(ちゆうじやうどの・ちうじやうどの)の只今(ただいま)奈良(なら)へ御(おん)とをり(とほり)候(さうらふ)が、立(たち)ながら見参(げんざん)に入(いら)ばやと仰(おほせ)候(さうらふ)」と、人(ひと)をいれていはせければ、北方(きたのかた)聞(きき)もあへず「いづらやいづら」とてはしりいでて見(み)給(たま)へば、藍摺(あいずり)の直垂(ひたたれ)に折烏帽子(をりえぼし・おりゑぼし)きたる男(をのこ・おのこ)の、やせくろみたるが、縁(えん)によりゐたるぞそなりける。
北方(きたのかた)みすのきはちかくよ(ッ)て、「いかに夢(ゆめ)かやうつつか。これへいり給(たま)へ」との給(たま)ひける御声(おんこゑ)をきき給(たま)ふに、いつしか先立(さきだつ)ものは涙(なみだ)也(なり)。大納言佐殿(だいなごんのすけどの)目(め)もくれ心(こころ)もきえはてて、しばしは物(もの)もの給(たま)はず。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)御簾(みす)うちかづいて、なくなくの給(たま)ひけるは、「こぞの春(はる)、一(いち)の谷(たに)でいかにもなるべかりし身(み)の、せめての罪(つみ)のむくひにや、いきながらとらはれて大路(おほち)をわたされ、京(きやう)鎌倉(かまくら)恥(はぢ)をさらすだに口惜(くちをし・くちおし)きに、はては奈良(なら)の大衆(だいしゆ)の手(て)へわたされてきらるべしとて罷(まかり)候(さうらふ)。
いかにもして今(いま)一度(いちど)御(おん)すがたをみたてまつらばやとおもひつるに、いまは露(つゆ)ばかりもおもひをく(おく)事(こと)なし。出家(しゆつけ)して形見(かたみ)にかみをもたてまつらばやとおもへども、ゆるされなければ力(ちから)及(およ・をよ)ばず」とて、ひたゐ(ひたひ)のかみをすこしひきわけて、口(くち)のをよぶ(およぶ)ところをくひき(ッ)て、「是(これ)を形見(かたみ)に御(ご)らんぜよ」とてたてまつり給(たま)ふ。北方(きたのかた)は、日来(ひごろ)おぼつかなくおぼしけるより、いま一(ひと)しほかなしみの色(いろ)をぞまし給(たま)ふ。
「まことに別(わかれ)たてまつりし後(のち)は、越前(ゑちぜんの)三位(さんみ・さんゐ)のうへの様(やう)に、水(みづ)の底(そこ)にもしづむべかりしが、まさしうこの世(よ)におはせぬ人(ひと)ともきかざりしかば、もし不思議(ふしぎ)にて今(いま)一度(いちど)、かはらぬすがたをみもし見(み)えもやするとおもひてこそ、うきながら今(いま)までもながらへてありつるに、けふをかぎりにておはせんずらんかなしさよ。いままでのびつるは、「もしや」とおもふたのみもありつる物(もの)を」とて、昔(むかし)いまの事(こと)どもの給(たま)ひかはすにつけても、ただつきせぬ物(もの)は涙(なみだ)也(なり)。「あまりに御(おん)すがたのしほれ(しをれ)てさぶらふに、たてまつりかへよ」とて、あはせの小袖(こそで)に浄衣(じやうえ・じやうゑ)をいだされたりければ、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)是(これ)をきかへて、もとき給(たま)へる物(もの)どもをば、「形見(かたみ)に御(ご)らんぜよ」とてをか(おか)れけり。北方(きたのかた)「それもさる事(こと)にてさぶらへども、はかなき筆(ふで)の跡(あと)こそながき世(よ)のかたみにてさぶらへ」とて、御硯(おんすずり)をいだされたりければ、中将(ちゆうじやう・ちうじやう)なくなく一首(いつしゆ)の歌(うた)をぞかかれける。
せきかねて涙(なみだ)のかかるからごろものちのかたみにぬぎぞかへぬる
女房(にようばう)ききもあへず
ぬぎかふるころももいまはなにかせんけふをかぎりのかたみとおもへば
「契(ちぎり)あらば後(のちの)世(よ)にてはかならずむまれあひたてまつらん。ひとつはちすにといのり給(たま)へ。日(ひ)もたけぬ。奈良(なら)へも遠(とほ)う候(さうらふ)。武士(ぶし)どものまつも心(こころ)なし」とて、出(いで)給(たま)へば、北方(きたのかた)袖(そで)にすが(ッ)て「いかにやいかに、しばし」とてひきとどめ給(たま)ふに、中将(ちゆうじやう・ちうじやう)「心(こころ)のうちをばただをしはかり(おしはかり)給(たまふ)べし。されどもつゐに(つひに)のがれはつべき身(み)にもあらず。又(また)こん世(よ)にてこそ見(み)たてまつらめ」とていで給(たま)へども、まことに此(この)世(よ)にてあひ見(み)ん事(こと)は、是(これ)ぞかぎりとおもはれければ、今(いま)一度(いちど)たちかへりたくおぼしけれども、心(こころ)よはく(よわく)てはかなはじと、おもひき(ッ)てぞいでられける。北方(きたのかた)御簾(みす)のきはちかくふしまろび、おめき(をめき)さけび給(たま)ふ御声(おんこゑ)の、門(かど)の外(ほか)まではるかにきこえければ、駒(こま)をもさらにはやめ給(たま)はず。涙(なみだ)にくれてゆくさきも見(み)えねば、中々(なかなか)なりける見参(げんざん)かなと、今(いま)はくやしうぞおもはれける。
大納言佐殿(だいなごんのすけどの)やがてはしりついてもおはしぬべくはおぼしけれども、それもさすがなれば、ひきかづいてぞふし給(たま)ふ。南都ノ(なんとの)大衆(だいしゆ)うけと(ッ)て僉議(せんぎ)す。「抑(そもそも)此(この)重衡卿(しげひらのきやう)者(は)大犯(だいぼん)の悪人(あくにん)たるうへ、三千五刑(さんぜんごけい)のうちにもれ、修因(しゆいん・しゆゐん)感果(かんくわ)の道理(だうり)極上(ごくじやう)せり。仏敵(ぶつてき)法敵(ほふてき・ほうてき)の逆臣(げきしん)なれば、東大寺(とうだいじ)・興福寺(こうぶくじ)の大垣(おほがき)をめぐらして、のこぎりにてやきるべき、堀頸(ほりくび)にやすべき」と僉議(せんぎ)す。老僧(らうそう)どもの申(まう)されけるは、「それも僧徒(そうと)の法(ほふ・ほう)に穏便(をんびん)ならず。ただ守護(しゆご)の武士(ぶし)にたうで、粉津(こつ)の辺(へん)にてきらすべし」とて、武士(ぶし)の手(て)へぞかへしける。
武士(ぶし)是(これ)をうけと(ッ)て、粉津川(こつがは)のはたにてきらんとするに、数千人(すせんにん)の大衆(だいしゆ)、見(み)る人(ひと)いくらといふかずをしらず。三位(さんみの・さんゐの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)のとしごろめしつかはれける侍(さぶらひ)に、木工(もく)右馬允(むまのじよう・むまのぜう)知時(ともとき)といふ物(もの)あり。八条(はつでうの)女院(にようゐん)に候(さうらひ)けるが、最後(さいご)をみたてまつらんとて、鞭(むち)をう(ッ)てぞ馳(はせ)たりける。すでに只今(ただいま)きりたてまつらんとする処(ところ)にはせつゐ(つい)て、千万(せんまん)立(たち)かこうだる人(ひと)の中(なか)をかきわけかきわけ、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)のおはしける御(おん)そばちかうまいり(まゐり)たり。
「知時(ともとき)こそただいま最後(さいご)の御有様(おんありさま)みまいらせ(まゐらせ)候(さうら)はんとて、是(これ)までまいり(まゐり)てこそ候(さうら)へ」となくなく申(まうし)ければ、中将(ちゆうじやう・ちうじやう)「まことに心(こころ)ざしの程(ほど)神妙(しんべう)也(なり)。仏(ほとけ)ををがみたてま(ッ)てきらればやとおもふはいかがせんずる。あまりに罪(つみ)ふかうおぼゆるに」との給(たま)へば、知時(ともとき)「やすい御事(おんこと)候(ざうらふ)や」とて、守護(しゆご)の武士(ぶし)に申(まうし)あはせ、そのへんにおはしける仏(ほとけ)を一体(いつたい)むかへたてま(ッ)て出(いで)きたり。
幸(さいはひ)に阿弥陀(あみだ)にてぞましましける。川原(かはら)のいさごのうへに立(たて)まいらせ(まゐらせ)、やがて知時(ともとき)が狩衣(かりぎぬ)の袖(そで)のくくりをといて、仏(ほとけ)の御手(みて)にかけ、中将(ちゆうじやう・ちうじやう)にひかへさせ奉(たてまつ)る。是(これ)をひかへ奉(たてまつ)り、仏(ほとけ)にむかひたてま(ッ)て申(まう)されけるは、「つたへきく、調達(でうだつ)が三逆(さんぎやく)をつくり、八万蔵(はちまんざう)の聖教(しやうげう)をほろぼしたりしも、遂(つひ・つい)には天王如来(てんわうによらい)の記(きべつ)にあづかり、所作(しよさ)の罪業(ざいごふ・ざいごう)まことにふかしといへども、聖教(しやうげう)に値遇(ちぐう)せし逆縁(ぎやくえん)くちずして、かへ(ッ)て得道(とくだう)の因(いん・ゐん)と〔も〕なる。いま重衡(しげひら)が逆罪(ぎやくざい)をおかす(をかす)事(こと)、ま(ッ)たく愚意(ぐい)の発起(ほつき)にあらず、只(ただ)世(よ)に随(したが)ふことはり(ことわり)を存(ぞんずる)斗(ばかり)也(なり)。
命(いのち)をたもつ物(もの)誰(たれ)か王命(わうめい)を蔑如(べつじよ・べつぢよ)する、生(しやう)をうくる物(もの)誰(たれ)か父(ちち)の命(めい)をそむかん。かれといひ、是(これ)といひ、辞(じ)するに所(ところ)なし。理非(りひ)仏陀(ぶつだ)の照覧(せうらん)にあり。抑(そもそも)罪報(ざいはう・ざいほう)たちどころにむくひ、運命(うんめい)只今(ただいま)をかぎりとす。後悔(こうくわい)千万(せんばん)かなしんでもあまりあり。ただし三宝(さんぼう)の境界(きやうがい)は慈悲(じひ)を心(こころ)として、済度(さいど)の良縁(りやうえん)まちまちなり。唯縁楽意(ゆいえんらくい)、逆即是順(ぎやくそくぜじゆん)、此(この)文(もん)肝(きも)に銘(めい)ず。一念(いちねん)弥陀仏(みだぶつ)、即滅無量罪(そくめつむりやうざい)、願(ねがは)くは逆縁(ぎやくえん)をも(ッ)て順縁(じゆんえん)とし、只今(ただいま)の最後(さいご)の念仏(ねんぶつ)によ(ッ)て九品(くほん)託生(たくしやう)をとぐべし」とて、高声(かうしやう)に十念(じふねん・じうねん)唱(とな)へつつ、頸(くび)をのべてぞきらせられける。
日来(ひごろ)の悪行(あくぎやう)はさる事(こと)なれども、いまのありさまを見(み)たてまつるに、数千人(すせんにん)の大衆(だいしゆ)も守護(しゆご)の武士(ぶし)も、みな涙(なみだ)をぞながしける。其(その)頸(くび)をば、般若寺(はんにやじ)大鳥井(おほどりゐ)のまへに釘(くぎ)づけにこそかけたりけれ。治承(ぢしよう・じせう)の合戦(かつせん)の時(とき)、ここにう(ッ)た(ッ)て伽藍(がらん)をほろぼし給(たま)へるゆへ(ゆゑ)なり。北方(きたのかた)大納言佐殿(だいなごんのすけどの)、かうべをこそはねられたりとも、むくろをばとりよせて孝養(けうやう)せんとて、輿(こし)をむかへにつかはす。げにもむくろをばすてをき(おき)たりければ、と(ッ)て輿(こし)にいれ、日野(ひの)へかいてぞかへりける。是(これ)をまちうけ見(み)給(たま)ひける北方(きたのかた)の心(こころ)のうち、をしはから(おしはから)れて哀(あはれ)也(なり)。昨日(きのふ)まではゆゆしげにおはせしかども、あつきころなれば、いつしかあらぬさまになり給(たま)ひぬ。さてもあるべきならねば、其(その)辺(へん)に法界寺(ほふかいじ・ほうかいじ)といふ処(ところ)にて、さるべき僧(そう)どもあまたかたらひて孝養(けうやう)あり。頸(くび)をば大仏(だいぶつ)のひじり俊乗房(しゆんじようばう・しゆんぜうばう)にとかくの給(たま)へば、大衆(だいしゆ)にこうて日野(ひの)へぞつかはしける。頸(くび)もむくろも煙(けぶり)になし、骨(こつ)をば高野(かうや)へをくり(おくり)、墓(はか)をば日野(ひの)にぞせられける。北方(きたのかた)もさまをかへ、かの後生(ごせ)菩提(ぼだい)をとぶらはれけるこそ哀(あはれ)なれ。 
 
平家物語 巻十二

 

大地震 (だいぢしん) 
平家(へいけ)みなほろびはてて、西国(さいこく)もしづまりぬ。国(くに)は国司(こくし)にしたがひ、庄(しやう)は領家(りやうけ)のままなり。上下(じやうげ)安堵(あんど)しておぼえし程(ほど)に、同(おなじき)七月(しちぐわつ)九日(ここのかのひ)の午刻(むまのこく)ばかりに、大地(だいぢ)おびたたしくうごいて良(やや)久(ひさ)し。赤県(せきけん)のうち、白河(しらかは)のほとり、六勝寺(ろくしようじ・ろくせうじ)皆(みな)やぶれくづる。九重(くぢゆう・くぢう)の塔(たふ・とう)もうへ六重(ろくぢゆう・ろくぢう)ふりおとす。
得長寿院(とくぢやうじゆゐん)も三十三間(さんじふさんげん)の御堂(みだう)を十七(じふしち)間(けん)までふりたうす(たふす)。皇居(くわうきよ・くはうきよ)をはじめて人々(ひとびと)の家々(いへいへ)、すべて在々所々(ざいざいしよしよ)の神社(じんじや)仏閣(ぶつかく)、あやしの民屋(みんをく)、さながらやぶれくづる。くづるる音(おと・をと)はいかづちのごとく、あがる塵(ちり)は煙(けぶり)のごとし。天(てん)暗(くら)うして日(ひ)の光(ひかり)も見(み)えず。老少(らうせう)ともに魂(たましひ・たましゐ)をけし、朝衆(てうしゆ)悉(ことごと)く心(こころ)をつくす。又(また)遠国(をんごく)近国(きんごく)もかくのごとし。大地(だいぢ)さけて水(みづ)わきいで、磐石(ばんじやく)われて谷(たに)へまろぶ。山(やま)くづれて河(かは)をうづみ、海(うみ)ただよひて浜(はま)をひたす。汀(みぎは)こぐ船(ふね)はなみにゆられ、陸(くが)ゆく駒(こま)は足(あし)のたてどをうしなへり。洪水(こうずい)みなぎり来(きた)らば、岳(をか)にのぼ(ッ)てもなどかたすからざらむ、猛火(みやうくわ)もえ来(きた)らば、河(かは)をへだててもしばしもさんぬべし。
ただかなしかりけるは大地振(だいぢしん)なり。鳥(とり)にあらざれば空(そら)をもかけりがたく、竜(りよう・れう)にあらざれば雲(くも)にも又(また)のぼりがたし。白河(しらかは)・六波羅(ろくはら)、京中(きやうぢゆう・きやうぢう)にうちうづまれてしぬるものいくらといふかずをしらず。
四大衆(しだいしゆ)の中(なか)に水(すい・すゐ)火(くわ)風(ふう)は常(つね)に害(がい)をなせども、大地(だいぢ)にをいて(おいて)はことなる変(へん)をなさず。こはいかにしつる事(こと)ぞやとて、上下(じやうげ)遣戸(やりど)障子(しやうじ)をたて、天(てん)のなり地(ち)のうごくたびごとには、只今(ただいま)ぞしぬるとて、こゑごゑに念仏(ねんぶつ)申(まうし)おめき(をめき)さけぶ事(こと)おびたたし。七八十(しちはちじふ)・九十(くじふ)の者(もの)も世(よ)の滅(めつ)するな(ン)ど(など)いふ事(こと)は、さすがけふあすとはおもはずとて、大(おほき)に驚(おどろき・をどろき)さはぎ(さわぎ)ければ、おさなき(をさなき)もの共(ども)も是(これ)をきいて、泣(なき)かなしむ事(こと)限(かぎ)りなし。法皇(ほふわう・ほうわう)はそのおり(をり)しも新熊野(いまぐまの)へ御幸(ごかう)な(ッ)て、人(ひと)多(おほ)くうちころされ、触穢(しよくゑ)いできにければ、いそぎ六波羅殿(ろくはらどの)へ還御(くわんぎよ)なる。
道(みち)すがら君(きみ)も臣(しん)もいかばかり御心(みこころ)をくだかせ給(たま)ひけん。主上(しゆしやう)は鳳輦(ほうれん)にめして池(いけ)の汀(みぎは)へ行幸(ぎやうがう)なる。法皇(ほふわう・ほうわう)は南庭(なんてい)にあく屋(や)をたててぞましましける。女院(にようゐん)・宮々(みやみや)は御所共(ごしよども)皆(みな)ふりたおし(たふし)ければ、或(あるいは・あるは)御輿(おんこし)にめし、或(あるいは・あるは)御車(おんくるま)にめして出(いで)させ給(たま)ふ。天文博士(てんもんはかせ)ども馳(はせ)まい(ッ・まゐつ)て、「よさりの亥子(いね)の刻(こく)にはかならず大地(だいぢ)うち返(かへ)すべし」と申(まう)せば、おそろしな(ン)ど(など)もをろか(おろか)なり。
昔(むかし)文徳天皇(もんどくてんわう)の御宇(ぎよう)、斉衡(さいかう)三年(さんねん)三月(さんぐわつ)八日(やうかのひ)の大地振(だいぢしん)には、東大寺(とうだいじ)の仏(ほとけ)の御(み)くしをふりおとしたりけるとかや。又(また)天慶(てんぎやう)二年(にねん)四月(しぐわつ・しんぐわつ)五日(いつかのひ)の大地振(だいぢしん)には、主上(しゆしやう)御殿(ごてん)をさ(ッ)て常寧殿(じやうねいでん)の前(まへ)に五丈(ごぢやう)のあく屋(や)をたててましましけるとぞうけ給(たま)はる。其(それ)は上代(じやうだい)の事(こと)なれば申(まうす)にをよば(およば)ず。今度(こんど)の事(こと)は是(これ)より後(のち)もたぐひあるべしともおぼえず。十善(じふぜん・じうぜん)帝王(ていわう)都(みやこ)を出(いで)させ給(たまひ)て、御身(おんみ)を海底(かいてい)にしづめ、大臣(だいじん)公卿(くぎやう)大路(おほち)をわたしてその頸(くび)を獄門(ごくもん)にかけらる。昔(むかし)より今(いま)に至(いた)るまで、怨霊(をんりやう)はおそろしき事(こと)なれば、世(よ)もいかがあらんずらむとて、心(こころ)ある人(ひと)の歎(なげき)かなしまぬはなかりけり。 
紺掻之沙汰 (こんがきのさた) 

 

同(おなじき)八月(はちぐわつ)廿二日(にじふににち)、鎌倉(かまくら)の源二位(げんにゐ)頼朝卿(よりとものきやう)の父(ちち)、故(こ)左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)のうるはしきかうべとて、高雄(たかを・たかお)の文覚上人(もんがくしやうにん)頸(くび)にかけ、鎌田兵衛(かまだびやうゑ・かまだびやうへ)が頸(くび)をば弟子(でし)が頸(くび)にかけさせて、鎌倉(かまくら)へぞ下(くだ)られける。去(さんぬる)治承(ぢしよう・ぢせう)四年(しねん)のころとりいだしてたてま(ッ)たりけるは、まことの左馬頭(さまのかみ)のかうべにはあらず、謀反(むほん)をすすめ奉(たてまつ)らんためのはかり事(こと)に、そぞろなるふるいかうべをしろい布(ぬの)につつんでたてま(ッ)たりけるに、謀反(むほん)をおこし世(よ)をうちと(ッ)て、一向(いつかう)父(ちち)の頸(くび)と信(しん)ぜられけるところへ、又(また)尋出(たづねいだ)してくだりけり。
是(これ)は年(とし)ごろ義朝(よしとも)の不便(ふびん)にしてめしつかはれける紺(こん)かきの男(をのこ・おのこ)、年来(ねんらい)獄門(ごくもん)にかけられて、後世(ごせ)とぶらふ人(ひと)もなかりし事(こと)をかなしんで、時(とき)の大理(だいり)にあひ奉(たてまつ)り、申(まうし)給(たま)はりとりおろして、「兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの・ひやうへのすけどの)流人(るにん)でおはすれども、すゑたのもしき人(ひと)なり、もし世(よ)に出(いで)てたづねらるる事(こと)もこそあれ」とて、東山(ひがしやま・ひ(ン)がしやま)円覚寺(ゑんがくじ)といふところにふかうおさめ(をさめ)てをき(おき)たりけるを、文覚(もんがく)聞出(ききいだ)して、かの紺(こん)かき男(をのこ・おのこ)ともにあひ具(ぐ)して下(くだ)りけるとかや。
けふ既(すで)に鎌倉(かまくら)へつくと聞(きこ)えしかば、源二位(げんにゐ)片瀬河(かたせがは)まで迎(むかひ)におはしけり。それより色(いろ)の姿(すがた)になりて、泣々(なくなく)鎌倉(かまくら)へ入(いり)給(たま)ふ。聖(ひじり)をば大床(おほゆか)にたて、我(わが)身(み)は庭(には)に立(た・ッ)て、父(ちち)のかうべをうけとり給(たま)ふぞ哀(あはれ)なる。是(これ)を見(み)る大名(だいみやう)小名(せうみやう)、みな涙(なみだ)をながさずといふ事(こと)なし。石巌(せきがん)のさがしきをきりはら(ッ)て、新(あらた)なる道場(だうぢやう)を造(つく)り、父(ちち)の御為(おんため)と供養(くやう)じて、勝長寿院(しようぢやうじゆゐん・せうぢやうじゆゐん)と号(かう)せらる。公家(くげ)にもかやうの事(こと)をあはれと思食(おぼしめし)て、故(こ)左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)の墓(はか)へ内大臣(ないだいじん)正二位(じやうにゐ)を贈(ぞうせ)らる。勅使(ちよくし)は左大弁(さだいべん)兼忠(かねただ)とぞきこえし。頼朝卿(よりとものきやう)武勇(ぶゆう)の名誉(めいよ)長(ちやう)ぜるによ(ッ)て、身(み)をたて家(いへ)をおこすのみならず、亡父(ばうぶ)聖霊(しやうりやう)贈官(ぞうくわん)贈位(ぞうゐ)に及(および・をよび)けるこそ目出(めでた)けれ。 
平大納言被流 (へいだいなごんながされ) 

 

同(おなじき)九月(くぐわつ)廿三日(にじふさんにち)、平家(へいけ)の余党(よたう)の都(みやこ)にあるを、国々(くにぐに)へつかはさるべきよし、鎌倉殿(かまくらどの)より公家(くげ)へ申(まう)されたりければ、平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)能登国(のとのくに)、子息(しそく)讃岐(さぬきの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)時実(ときざね)上総国(かづさのくに)、内蔵頭(くらのかみ)信基(のぶもと)安芸国(あきのくに)、兵部少輔(ひやうぶのせう)正明(まさあきら)隠岐国(おきのくに・をきのくに)、二位(にゐの)僧都(そうづ)専信(せんしん)阿波国(あはのくに)、法勝寺(ほつしようじの・ほつせうじの)執行(しゆぎやう)能円(のうゑん・のうえん)備後国(びんごのくに)、中納言(ちゆうなごんの・ちうなごんの)律師(りつし)忠快(ちゆうくわい・ちうくわい)武蔵国(むさしのくに)とぞきこえし。或(あるいは・あるは)西海(さいかい)の波(なみ)の上(うへ)、或(あるいは・あるは)東関(とうくわん)の雲(くも)のはて、先途(せんど)いづくを期(ご)せず、後会(こうくわい)其(その)期(ご)をしらず。別(わかれ)の涙(なみだ)ををさへ(おさへ)て面々(めんめん)におもむかれけん心(こころ)のうち、おしはかられて哀(あはれ)なり。
そのなかに、平(へい)大納言(だいなごん)は建礼門院(けんれいもんゐん)の吉田(よしだ)にわたらせ給(たま)ふところにまい(ッ・まゐつ)て、「時忠(ときただ)こそせめおもうして、けふ既(すで)に配所(はいしよ)へおもむき候(さうら)へ。おなじみやこの内(うち)に候(さうらひ)て、御(おん)あたりの御事共(おんことども)うけ給(たま)はらまほしう候(さうらひ)つるに、つゐに(つひに)いかなる御(おん)ありさまにてわたらせ給(たまひ)候(さうら)はんずらむと思(おもひ)をき(おき)まいらせ(まゐらせ)候(さうらふ)にこそ、ゆく空(そら)もおぼゆまじう候(さうら)へ」と、なくなく申(まう)されければ、女院(にようゐん)、「げにもむかしの名残(なごり)とては、そこばかりこそおはしつれ。今(いま)は哀(あはれ)をもかけ、とぶらふ人(ひと)も誰(たれ)かはあるべき」とて、御涙(おんなみだ)せきあへさせ給(たま)はず。此(この)大納言(だいなごん)と申(まうす)は、出羽(ではの)前司(せんじ)具信(とものぶ)が孫(まご)、兵部(ひやうぶ)権(ごんの)大輔(たいふ・たゆふ)贈(ぞう)左大臣(さだいじん)時信(ときのぶ)が子(こ)なり。
故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)の御(おん)せうど(せうと)にて、高倉(たかくら)の上皇(しやうくわう・しやうくはう)の御外戚(ごぐわいせき)なり。世(よ)のおぼえときのきら目出(めで)たかりき。入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)の北方(きたのかた)八条(はつでう)の二位殿(にゐどの)も姉(あね)にておはせしかば、兼官(けんぐわん)兼職(けんじよく)、おもひのごとく心(こころ)のごとし。されば程(ほど)なくあが(ッ)て正二位(じやうにゐ)の大納言(だいなごん)にいたれり。検非違使(けんびゐしの・けんびいし)別当(べつたう)にも三ケ度(さんがど)までなり給(たま)ふ。此(この)人(ひと)の庁務(ちやうむ)のときは、窃盜(せつたう)強盗(がうだう)をばめしと(ッ)て、様(やう)もなく右(みぎ)のかいな(かひな)をば、うでなかより打(うち)おとし打(うち)おとしおい(おひ)すてらる。されば、悪別当(あくべつたう)とぞ申(まうし)ける。主上(しゆしよう)并(ならびに)三種(さんじゆの)神器(しんぎ)みやこへ返(かへ)し入(いれ)奉(たてまつ)るべきよし、西国(さいこく)へ院宣(ゐんぜん)をくだされたりけるに、院宣(ゐんぜん)の御使(おんつかひ・おつかひ)花形(はながた)がつらに、浪(なみ)がたといふやいじるしをせられけるも、此(この)大納言(だいなごん)のしわざなり。法皇(ほふわう・ほうわう)も故(こ)女院(にようゐん)の御(おん)せうど(せうと)なれば、御(おん)かたみに御覧(ごらん)ぜまほしうおぼしめしけれども、か様(やう)の悪行(あくぎやう)によ(ッ)て御憤(おんいきどほり・おんいきどをり)あさからず。九郎(くらう)判官(はうぐわん)もしたしうなられたりしかば、いかにもして申(まうし)なだめばやと思(おも)はれけれどもかなはず。
子息(しそく)侍従(じじゆう・じじう)時家(ときいへ)とて、十六(じふろく)になられけるが、流罪(るざい)にももれて、伯父(をぢ・おぢ)の時光卿(ときみつのきやう)のもとにおはしけり。母(はは)うへ帥(そつ)のすけどのともに大納言(だいなごん)の袂(たもと)にすがり、袖(そで)をひかへて、今(いま)を限(かぎり)の名残(なごり)をぞおしみ(をしみ)ける。大納言(だいなごん)、「つゐに(つひに)すまじき別(わかれ)かは」とこころづようはの給(たま)へども、さこそは悲(かなし)うおもはれけめ。年(とし)闌(たけ)齢(よはひ)傾(かたぶき)て後(のち)、さしもむつまじかりし妻子(さいし)にも別(わかれ)はて、すみなれし都(みやこ)をも雲(くも)ゐのよそにかへりみて、いにしへは名(な)にのみ聞(きき)し越路(こしぢ)の旅(たび)におもむき、はるばると下(くだ)り給(たま)ふに、「かれは志賀(しが)唐崎(からさき)、これは真野(まの)の入江(いりえ)、交田(かただ)の浦(うら)」と申(まうし)ければ、大納言(だいなごん)泣々(なくなく)詠(えい・ゑい)じ給(たま)ひけり。
かへりこむことはかた田(だ)にひくあみの目(め)にもたまらぬわがなみだかな
昨日(きのふ)は西海(さいかい)の波(なみ)の上(うへ)にただよひて、怨憎懐苦(をんぞうゑく)の恨(うらみ)を扁舟(へんしう)の内(うち)につみ、けふは北国(ほつこく)の雪(ゆき)のしたに埋(うづも)れて、愛別離苦(あいべつりく)のかなしみを故郷(こきやう)の雲(くも)にかさねたり。 
土佐房被斬 (とさばうきられ) 

 

さる程(ほど)に、九郎(くらう)判官(はうぐわん)には、鎌倉殿(かまくらどの)より大名(だいみやう)十人(じふにん)つけられたりけれども、内々(ないない)御不審(ごふしん)を蒙(かうぶ)り給(たま)ふよし聞(きこえ)しかば、心(こころ)をあはせて一人(いちにん)づつ皆(みな)下(くだ)りはてにけり。兄弟(きやうだい)なるうへ、殊(こと)に父子(ふし)の契(ちぎり)をして、去年(きよねん)の正月(しやうぐわつ)木曾(きそ)義仲(よしなか)を追討(ついたう)せしよりこのかた、度々(どど)平家(へいけ)を攻(せめ)おとし、ことしの春(はる)ほろぼしはてて、一天(いつてん)をしづめ、四海(しかい)をすます。勧賞(けんじやう)おこなはるべき処(ところ)に、いかなる子細(しさい)あ(ッ)てかかかる聞(きこ)えあるらむと、かみ一人(いちじん)をはじめ奉(たてまつ)り、しも万民(ばんみん)に至(いた)るまで、不審(ふしん)をなす。此(この)事(こと)は、去(さんぬる)春(はる)、摂津国(つのくに)渡辺(わたなべ)よりふなぞろへして八島(やしま)へわたり給(たま)ひしとき、逆櫓(さかろ)たてうたてじの論(ろん)をして、大(おほ)きにあざむかれたりしを、梶原(かぢはら)遺恨(ゐこん・いこん)におもひて常(つね)は讒言(ざんげん)しけるによ(ッ)てなり。
定(さだめて)謀反(むほん)の心(こころ)もあるらん、大名共(だいみやうども)さしのぼせば、宇治(うぢ)・勢田(せた)の橋(はし)をもひき、京中(きやうぢゆう・きやうぢう)のさはぎ(さわぎ)とな(ッ)て、中々(なかなか)あしかりなんとて、土佐房(とさばう)正俊(しやうしゆん)をめして、「和僧(わそう)のぼ(ッ)て物詣(ぶつけい)するやうにて、たばか(ッ)てうて」との給(たま)ひければ、正俊(しやうしゆん)畏(かしこま・ッ)てうけ給(たまは)り、宿所(しゆくしよ)へも帰(かへ)らず、御前(ごぜん)をた(ッ)てやがて京(きやう)へぞ上(のぼ)りける。同(おなじき)九月(くぐわつ)廿九日(にじふくにち)、土佐房(とさばう)都(みやこ)へついたりけれども、次(つぎの)日(ひ)まで判官殿(はうぐわんどの)へもまいら(まゐら)ず。正俊(しやうしゆん)がのぼりたるよし聞(きき)給(たま)ひ、武蔵房(むさしばう)弁慶(べんけい)をも(ッ)てめされければ、やがてつれてまいり(まゐり)たり。判官(はうぐわん)の給(たま)ひけるは、「いかに鎌倉殿(かまくらどの)より御文(おんふみ)はなきか」。「さしたる御事(おんこと)候(さうら)はぬ間(あひだ・あいだ)、御文(おんふみ)はまいらせ(まゐらせ)られず候(さうらふ)。御詞(おんことば)にて申(まう)せと候(さうらひ)しは、『「当時(たうじ)まで都(みやこ)に別(べち)の子細(しさい)なく候(さうらふ)事(こと)、さて御渡(おんわたり)候(さうらふ)ゆへ(ゆゑ)とおぼえ候(さうらふ)。相構(あひかまへ・あいかまへ)てよく守護(しゆご)せさせ給(たま)へ」と申(まう)せ』とこそ仰(おほ)せられ候(さうらひ)つれ」。判官(はうぐわん)「よもさはあらじ。義経(よしつね)討(うち)にのぼる御使(おんつかひ)なり。
「大名(だいみやう)どもさし上(のぼ)せば、宇治(うぢ)・勢田(せた)の橋(はし)をもひき、都鄙(とひ)のさはぎ(さわぎ)ともな(ッ)て、中々(なかなか)あしかりなん。和僧(わそう)のぼせて物詣(ものまうで)する様(やう)にてたばか(ッ)てうて」とぞ仰付(おほせつけ)られたるらんな」との給(たま)へば、正俊(しやうしゆん)大(おほき)に驚(おどろき・をどろき)て、「何(なに)によ(ッ)てか只今(ただいま)さる事(こと)の候(さうらふ)べき。いささか宿願(しゆくぐわん)によ(ッ)て、熊野参詣(くまのさんけい)のために罷上(まかりのぼり)て候(さうらふ)」。そのとき判官(はうぐわん)の給(たま)ひけるは、「景時(かげとき)が讒言(ざんげん)によ(ッ)て、義経(よしつね)鎌倉(かまくら)へも入(いれ)られず。見参(げんざん)をだにし給(たま)はで、おひのぼせらるる事(こと)はいかに」。正俊(しやうしゆん)「其(その)事(こと)はいかが候(さうらふ)らん、身(み)にをいて(おいて)はま(ッ)たく御腹(おんぱら)ぐろ候(さうら)はず。起請文(きしやうもん)をかき進(しんず)べき」よし申(まう)せば、判官(はうぐわん)「とてもかうても鎌倉殿(かまくらどの)によしとおもはれたてま(ッ)たらばこそ」とて、以外(もつてのほか・もてのほか)気(け)しきあしげになり給(たま)ふ。
正俊(しやうしゆん)一旦(いつたん)の害(がい)をのがれんがために、居(ゐ)ながら七枚(しちまい)の起請文(きしやうもん)をかいて、或(あるいは・あるは)やいてのみ、或(あるいは・あるは)社(やしろ)に納(をさめ・おさめ)な(ン)ど(など)して、ゆりてかへり、大番衆(おほばんじゆ)にふれめぐらして其(その)夜(よ)やがてよせんとす。判官(はうぐわん)は磯禅師(いそのぜんじ)といふ白拍子(しらびやうし)のむすめ、しづかといふ女(をんな・をうな)を最愛(さいあい)せられけり。しづかもかたはらを立(たち)さる事(こと)なし。しづか申(まうし)けるは、「大路(おほち)はみな武者(むしや)でさぶらふなる。是(これ)より催(もよほ)しのなからむに、大番衆(おほばんじゆ)の者(もの)どもこれほどさはぐ(さわぐ)べき様(やう)やさぶらふ。あはれ是(これ)はひるの起請(きしやう)法師(ぼふし・ぼうし)のしわざとおぼえ候(さうらふ)。人(ひと)をつかはしてみせさぶらはばや」とて、六波羅(ろくはら)の故(こ)入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)のめしつかはれけるかぶろを三四人(さんしにん)つかはれけるを、二人(ににん)つかはしたりけるが、程(ほど)ふるまで帰(かへ)らず。「中々(なかなか)女(をんな・をうな)はくるしからじ」とて、はしたものを一人(いちにん)見(み)せにつかはす。
程(ほど)なくはしり帰(かへり)て申(まうし)けるは、「かぶろとおぼしきものはふたりながら、土佐房(とさばう)の門(もん)にきりふせられてさぶらふ。宿所(しゆくしよ)には鞍(くら)をき馬(むま・くらおきむま)どもひしとひ(ッ)たてて、大幕(おほまく)のうちには、矢(や)おひ弓(ゆみ)はり、者(もの)ども皆(みな)具足(ぐそく)して、只今(ただいま)よせんといで立(たち)さぶらふ。すこしも物(もの)まうでのけしきとは見(み)えさぶらはず」と申(まうし)ければ、判官(はうぐわん)是(これ)をきいて、やがてう(ッ)たち給(たま)ふ。しづかきせながと(ッ)てなげかけ奉(たてまつ)る。たかひもばかりして、太刀(たち)と(ッ)て出(いで)給(たま)へば、中門(ちゆうもん・ちうもん)の前(まへ)に馬(むま)に鞍(くら)をい(おい)てひ(ッ)たてたり。是(これ)に打乗(うちのつ)て、「門(もん)をあけよ」とて門(もん)あけさせ、今(いま)や今(いま)やと待(まち)給(たま)ふ処(ところ)に、しばしあ(ッ)てひた甲(かぶと)四五十騎(しごじつき)門(もん)の前(まへ)におしよせて、時(とき)をど(ッ)とぞつくりける。判官(はうぐわん)鐙(あぶみ)ふ(ン)ばり立(たち)あがり、大音声(だいおんじやう・だいをんじやう)をあげて、「夜討(ようち)にも昼戦(ひるだたかひ)にも、義経(よしつね)たやすう討(うつ)べきものは、日本国(につぽんごく)におぼえぬものを」とて、只(ただ)一騎(いつき)おめい(をめい)てかけ給(たま)へば、五十騎(ごじつき)ばかりのもの共(ども)、中(なか)をあけてぞ通(とほ・とを)しける。
さる程(ほど)に、江田(えだの)源三(げんざう)・熊井(くまゐ)太郎(たらう)・武蔵房(むさしばう)弁慶(べんけい)な(ン)ど(など)いふ一人当千(いちにんたうぜん)の兵共(つはものども)、やがてつづゐ(つづい)て攻戦(せめたたかふ)。其(その)後(のち)侍共(さぶらひども)「御内(みうち)に夜討(ようち)い(ッ)たり」とて、あそこのやかたここの宿所(しゆくしよ)より馳来(はせきた)る。程(ほど)なく六七十騎(ろくしちじつき)集(あつまり)ければ、土佐房(とさばう)たけくよせたりけれ共(ども)たたかふにをよば(およば)ず。散々(さんざん)にかけちらされて、たすかるものはすくなう、うたるるものぞおほかりける。
正俊(しやうしゆん)希有(けう)にしてそこをばのがれて、鞍馬(くらま)の奥(おく)ににげ籠(こも)りたりけるが、鞍馬(くらま)は判官(はうぐわん)の故山(こさん)なりければ、彼(かの)法師(ほふし・ほうし)土佐房(とさばう)をからめて、次(つぎの)日(ひ)判官(はうぐわん)の許(もと)へ送(おく・をく)りけり。僧正(そうじやう)が谷(たに)といふ所(ところ)にかくれゐたりけるとかや。正俊(しやうしゆん)を大庭(おほには)にひ(ッ)すへ(すゑ)たり。かちの直垂(ひたたれ)にす(ッ)ちやう頭巾(づきん)をぞしたりける。判官(はうぐわん)わら(ッ)ての給(たま)ひけるは、「いかに和僧(わそう)、起請(きしやう)にはうてたるぞ」。土佐房(とさばう)すこしもさはが(さわが)ず、居(ゐ)なをり(なほり)、あざわら(ッ)て申(まうし)けるは、「ある事(こと)にかいて候(さうら)へば、うてて候(さうらふ)ぞかし」と申(まうす)。「主君(しゆくん)の命(めい)をおもんじて、私(わたくし)の命(いのち)をかろんず。こころざしの程(ほど)、尤(もつとも)神妙(しんべう)なり。和僧(わそう)いのちおしく(をしく)は鎌倉(かまくら)へ返(かへ)しつかはさんはいかに」。土佐房(とさばう)、「まさなうも御諚(ごぢやう)候(さうらふ)ものかな。おし(をし)と申(まう)さば殿(との)はたすけ給(たま)はんずるか。鎌倉殿(かまくらどの)の「法師(ほふし・ほうし)なれども、をのれ(おのれ)ぞねらはんずる者(もの)」とて仰(おほ)せかうぶ(ッ)しより、命(いのち)をば鎌倉殿(かまくらどの)に奉(たてまつ)りぬ。なじかはとり返(かへ)し奉(たてまつ)るべき。ただ御恩(ごおん・ごをん)にはとくとく頸(くび)をめされ候(さうら)へ」と申(まうし)ければ、「さらばきれ」とて、六条川原(ろくでうかはら)にひきいだいてき(ッ)て(ン)げり。ほめぬ人(ひと)こそなかりけれ。 
判官都落 (はうぐわんのみやこおち) 

 

ここに足立(あだち)新三郎(しんざぶらう)といふ雑色(ざふしき・ざうしき)は、「きやつは下臈(げらふ・げらう)なれども以外(もつてのほか・もてのほか)さかざかしいやつで候(さうらふ)。めしつかい(つかひ)給(たま)へ」とて、判官(はうぐわん)にまいらせ(まゐらせ)られたりけるが、内々(ないない)「九郎(くらう)がふるまひみてわれにしらせよ」とぞの給(たま)ひける。正俊(しやうしゆん)がきらるるをみて、新三郎(しんざぶらう)夜(よ)を日(ひ)についで馳下(はせくだ)り、鎌倉殿(かまくらどの)に此(この)由(よし)申(まうし)ければ、舎弟(しやてい)参河守(みかはのかみ)範頼(のりより)を討手(うつて)にのぼせ給(たま)ふべきよし仰(おほせ)られけり。頻(しきり)に辞(じし)申(まう)されけれ共(ども)、重(かさね)ておほせられける間(あひだ・あいだ)、力(ちから)をよば(およば)で、物具(もののぐ)していとま申(まうし)にまいら(まゐら)れたり。
「わとのも九郎(くらう)がまねし給(たま)ふなよ」と仰(おほせ)られければ、此(この)御詞(おんことば)におそれて、物具(もののぐ)ぬぎをき(おき)て京上(きやうのぼり)はとどまり給(たまひ)ぬ。全(まつたく)不忠(ふちゆう・ふちう)なきよし、一日(いちにち)に十枚(じふまい)づつの起請(きしやう)を、昼(ひる)はかき、夜(よる)は御坪(おつぼ)の内(うち)にて読(よみ)あげ読(よみ)あげ、百日(ひやくにち)に千枚(せんまい)の起請(きしやう)を書(かき)てまいらせ(まゐらせ)られたりけれども、かなはずして終(つひ・つゐ)にうたれ給(たま)ひけり。其(その)後(のち)北条(ほうでうの)四郎(しらう)時政(ときまさ)を大将(たいしやう)として、討手(うつて)のぼると聞(きこ)えしかば、判官殿(はうぐわんどの)鎮西(ちんぜい)のかたへ落(おち)ばやとおもひたち給(たま)ふ処(ところ)に、緒方(をかたの・おかたの)三郎(さぶらう)維義(これよし)は、平家(へいけ)を九国(くこく)の内(うち)へも入(いれ)奉(たてまつ)らず、追出(おひいだ・をひいだ)すほどの威勢(ゐせい)のものなりければ、判官(はうぐわん)「我(われ)にたのまれよ」とぞの給(たま)ひける。「さ候(さうらは)ば、御内(みうちに)候(さうらふ)菊地(きくちの)二郎(じらう)高直(たかなほ・たかなを)は、年(とし)ごろの敵(かたき)で候(さうらふ)。給(たま)は(ッ)て頸(くび)をき(ッ)てたのまれまいらせ(まゐらせ)ん」と申(まうす)。左右(さう)なうたうだりければ、六条川原(ろくでうかはら)に引(ひき)いだしてき(ッ)て(ン)げり。
其(その)後(のち)維義(これよし)かひがひしう領状(りやうじやう・りやうでう)す。同(おなじき)十一月(じふいちぐわつ)二日(ふつかのひ)、九郎(くらう)大夫(たいふの・たゆふの)判官(はうぐわん)院(ゐんの)御所(ごしよ)へまい(ッ・まゐつ)て、大蔵卿(おほくらのきやう)泰経(やすつね)朝臣(あそん・あつそん)をも(ッ)て奏聞(そうもん)しけるは、「義経(よしつね)君(きみ)の御為(おんため)に奉公(ほうこう)の忠(ちゆう・ちう)を致(いたす)事(こと)、ことあたらしう初(はじめ)て申上(まうしあぐる)にをよび(および)候(さうら)はず。しかるを頼朝(よりとも)、郎等共(らうどうども)が讒言(ざんげん)によ(ッ)て、義経(よしつね)をうたんと仕(つかまつり)候(さうらふ)間(あひだ・あいだ)、しばらく鎮西(ちんぜい)の方(かた)へ罷下(まかりくだ)らばやと存(ぞんじ)候(さうらふ)。
院庁(ゐんのちやう)の御下文(みくだしぶみ)を一通(いつつう)下(くだし)預(あづかり)候(さうらは)ばや」と申(まうし)ければ、法皇(ほふわう・ほうわう)「此(この)条(でう)頼朝(よりとも)がかへりきかん事(こと)いかがあるべからむ」とて、諸卿(しよきやう)に仰合(おほせあはせ)られければ、「義経(よしつね)都(みやこ)に候(さうらひ)て、関東(くわんとう)の大勢(おほぜい)みだれ入(いり)候(さうらは)ば、京都(きやうと)〔の〕狼籍(らうぜき)たえ候(さうらふ)べからず。遠国(をんごく)へ下(くだり)候(さうらひ)なば、暫(しばらく)其(その)恐(おそれ)あらじ」と、をのをの(おのおの)一同(いちどう)に申(まう)されければ、緒方(をかたの・おかたの)三郎(さぶらう)をめして、臼杵(うすき)・戸次(へつき)・松浦党(まつらたう)、惣(そう)じて鎮西(ちんぜい)のもの、義経(よしつね)を大将(たいしやう)として其(その)下知(げぢ)にしたがふべきよし、庁(ちやう)の御下文(みくだしぶみ)を給(たま)は(ッ)て(ン)げれば、其(その)勢(せい)五百(ごひやく)余騎(よき)、あくる三日(みつかのひ)卯刻(うのこく)に京都(きやうと)にいささかのわづらひもなさず、浪風(なみかぜ)もたてずして下(くだ)りにけり。
摂津国(つのくに)源氏(げんじ)、太田(おほだの)太郎(たらう)頼基(よりもと)「わが門(もん)の前(まへ)をとをし(とほし)ながら、矢(や)一(ひとつ)射(い・ゐ)かけであるべきか」とて、川原津(かはらづ)といふ所(ところ)にお(ッ)ついてせめたたかふ。判官(はうぐわん)は五百(ごひやく)余騎(よき)、太田(おほだの)太郎(たらう)は六十(ろくじふ)余騎(よき)にてありければ、なかにとりこめ、「あますなもらすな」とて、散々(さんざん)に攻(せめ)給(たま)へば、太田(おほだの)太郎(たらう)我(わが)身(み)手(て)おひ、家子(いへのこ)郎等(らうどう)おほくうたせ、馬(むま)の腹(はら)いさせて引退(ひきしりぞ)く。判官(はうぐわん)頸(くび)どもきりかけて、戦神(いくさがみ)にまつり、「門出(かどいで・かどで)よし」と悦(よろこん)で、だいもつの浦(うら)より船(ふね)にの(ッ)て下(くだ)られけるが、折節(をりふし・おりふし)西(にし)のかぜはげしくふき、住吉(すみよし)の浦(うら)にうちあげられて、吉野(よしの)のおくにぞこもりける。吉野(よしの)法師(ぼふし・ぼうし)にせめられて、奈良(なら)へおつ。奈良(なら)法師(ぼふし・ぼうし)に攻(せめ)られて、又(また)都(みやこ)へ帰(かへ)り入(いり)、北国(ほつこく)にかか(ッ)て、終(つひ・つゐ)に奥(おく)へぞ下(くだ)られける。
都(みやこ)よりあひ具(ぐ)したりける女房達(にようばうたち)十余人(じふよにん)、住吉(すみよし)の浦(うら)に捨(すて)をき(おき)たりければ、松(まつ)の下(した)、まさごのうへに袴(はかま)ふみしだき、袖(そで)をかたしいて泣(なき)ふしたりけるを、住吉(すみよしの)神官共(じんぐわんども)憐(あはれ)んで、みな京(きやう)へぞ送(おく・をく)りける。凡(およそ・をよそ)判官(はうぐわん)のたのまれたりける伯父(をぢ・おぢ)信太(しだの)三郎(さぶらう)先生(せんじやう)義教(よしのり)・十郎(じふらう)蔵人(くらんど)行家(ゆきいへ)・緒方(をかたの・おかたの)三郎(さぶらう)維義(これよし)が船共(ふねども)、浦々(うらうら)島々(しまじま)に打(うち)よせられて、互(たがひ・たがい)にその行(ゆく)ゑ(ゆくへ)をしらず。忽(たちまち)に西(にし)のかぜふきける事(こと)も、平家(へいけ)の怨霊(をんりやう)のゆへ(ゆゑ)とぞおぼえける。
同(おなじき)十一月(じふいちぐわつ)七日(なぬかのひ)、鎌倉(かまくら)の源二位(げんにゐ)頼朝卿(よりとものきやう)の代官(だいくわん)として、北条(ほうでうの)四郎(しらう)時政(ときまさ)、六万(ろくまん)余騎(よき)を相具(あひぐ)して都(みやこ)へ入(いり)、伊与守(いよのかみ)源(みなもとの)義経(よしつね)・備前守(びぜんのかみ)同(おなじく)行家(ゆきいへ)・信太(しだの)三郎(さぶらう)先生(せんじやう)同(おなじく)義教(よしのり)追討(ついたう)すべきよし奏聞(そうもん)しければ、やがて院宣(ゐんぜん)をくだされけり。去(さんぬる)二日(ふつかのひ)は義経(よしつね)が申(まうし)うくる旨(むね)にまかせて、頼朝(よりとも)をそむくべきよし庁(ちやう)の御下文(みくだしぶみ)をなされ、同(おなじき)八日(やうかのひ)は頼朝卿(よりとものきやう)申状(まうしじやう・まうしでう)によ(ッ)て、義経(よしつね)追討(ついたう)の院宣(ゐんぜん)を下(くだ)さる。朝(あした)にかはり夕(ゆふべ)に変(へん)ずる世間(よのなか)の不定(ふぢよう)こそ哀(あはれ)なれ。 
吉田大納言沙汰 (よしだのだいなごんのさた) 

 

さる程(ほど)に、鎌倉殿(かまくらどの)日本国(につぽんごく)の惣追補使(そうづいぶし)を給(たま)は(ッ)て、反別(たんべつ)に兵粮米(ひやうらうまい)を宛行(あておこなふ)べきよし申(まう)されけり。朝(てう)の怨敵(をんでき)をほろぼしたるものは、半国(はんごく)を給(たま)はるといふ事(こと)、無量義経(むりやうぎきやう)に見(み)えたり。され共(ども)我(わが)朝(てう)にはいまだ其(その)例(れい)なし。
「是(これ)は過分(くわぶん)の申状(まうしじやう・まうしでう)なり」と、法皇(ほふわう・ほうわう)仰(おほせ)なりけれ共(ども)、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)あ(ッ)て、「頼朝卿(よりとものきやう)の申(まう)さるる所(ところ)、道理(だうり)なかばなり」とて、御(おん)ゆるされありけるとかや。諸国(しよこく)に守護(しゆご)ををき(おき)、庄園(しやうゑん・しやうえん)に地頭(ぢとう)を補(ふ)せらる。一毛(いちもう)ばかりもかくるべき様(やう)なかりけり。鎌倉殿(かまくらどの)かやうの事(こと)人(ひと)おほしといへ共(ども)、吉田(よしだの)大納言(だいなごん)経房卿(つねふさのきやう)をも(ッ)て奏聞(そうもん)せられけり。この大納言(だいなごん)はうるはしい人(ひと)と聞(きこ)え給(たま)へり。
平家(へいけ)にむすぼほれたりし人々(ひとびと)も、源氏(げんじ)の世(よ)のつよりし後(のち)は、或(あるいは・あるは)ふみをくだし、或(あるいは・あるは)使者(ししや)をつかはし、さまざまにへつらひ給(たま)ひしか共(ども)、この人(ひと)はさもし給(たま)はず。されば平家(へいけ)の時(とき)も、法皇(ほふわう・ほうわう)を鳥羽殿(とばどの)におしこめまいらせ(まゐらせ)て、後院(ごゐん)の別当(べつたう)ををか(おか)れしには、勘解由小路(かでのこうぢの)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)此(この)経房卿(つねふさのきやう)二人(ににん)をぞ後院(ごゐん)の別当(べつたう)にはなされたりける。権(ごんの)右中弁(うちゆうべん・うちうべん)光房(みつふさの)朝臣(あそん・あつそん)の子(こ)也(なり)。十二(じふに)の年(とし)父(ちち)の朝臣(あそん・あつそん)うせ給(たま)ひしかば、みなし子(ご)にておはせしか共(ども)、次第(しだい)の昇進(しようじん・せうじん)とどこほらず、三事(さんし)の顕要(けんえう・けんよう)を兼帯(けんたい)して、夕郎(せきらう)の貫首(くわんじゆ)をへ、参議(さんぎ)・大弁(だいべん)・中納言(ちゆうなごん)・太宰帥(ださいのそつ)、遂(つひ・つい)に正二位(じやうにゐ)大納言(だいなごん)に至(いた)れり。人(ひと)をばこえ給(たま)へども、人(ひと)にはこえられ給(たま)はず。されば人(ひと)の善悪(ぜんあく)は錐(きり)袋(ふくろ)をとおす(とほす)とてかくれなし。ありがたかりし人(ひと)なり。 
六代 (ろくだい) 

 

北条(ほうでうの)四郎(しらう)策(はかりこと・はかりコト)に「平家(へいけ)の子孫(しそん)といはん人(ひと)尋出(たづねいだ)したらん輩(ともがら)にをいて(おいて)は、所望(しよまう)こふによるべし」と披露(ひろう)せらる。京中(きやうぢゆう・きやうぢう)のものども、案内(あんない)はし(ッ)たり、勧賞(けんじやう)蒙(かうぶ)らんとて、尋(たづね)もとむるぞうたてき。かかりければ、いくらも尋(たづね)いだしたりけり。下臈(げらふ・げらう)の子(こ)なれども、いろしろう見(み)めよきをばめしいだいて、「是(これ)はなんの中将殿(ちゆうじやうどの・ちうじやうどの)の若君(わかぎみ)、彼(かの)少将殿(せうしやうどの)の君達(きんだち)」と申(まう)せば、父母(ぶも)なきかなしめども、「あれは介惜(かいしやく)が申(まうし)候(さうらふ)」。「あれはめのとが申(まうす)」なんど(など)いふ間(あひだ・あいだ)、無下(むげ)におさなき(をさなき)をば水(みづ)に入(いれ)、土(つち)に埋(うづ)み、少(ちと)おとなしきをばおしころし、さしころす。母(はは)がかなしみ、めのとがなげき、たとへんかたぞなかりける。
北条(ほうでう)も子孫(しそん)さすが多(おほ)ければ、是(これ)をいみじとは思(おも)はねど、世(よ)にしたがふならひなれば、力(ちから)をよば(およば)ず。中(なか)にも小松(こまつの)三位(さんみの・さんゐの)中将殿(ちゆうじやうどのの・ちうじやうどのの)若君(わかぎみ)、六代(ろくだい)御前(ごぜん)とておはすなり。平家(へいけ)の嫡々(ちやくちやく)なるうへ、としもおとなしうましますなり。いかにもしてとり奉(たてまつ)らむとて、手(て)をわけてもとめられけれども、尋(たづね)かねて、既(すで)に下(くだ)らんとせられける処(ところ)に、ある女房(にようばう)の六波羅(ろくはら)に出(いで)て申(まうし)けるは、「是(これ)より西(にし)、遍照寺(へんぜうじ)のおく、大覚寺(だいかくじ)と申(まうす)山寺(やまでら)の北(きた)のかた、菖蒲谷(しやうぶだに)と申(まうす)所(ところ)にこそ、小松(こまつの)三位(さんみの)中将殿(ちゆうじやうどの・ちうじやうどの)の北方(きたのかた)・若君(わかぎみ)・姫公(ひめぎみ)おはしませ」と申(まう)せば、時政(ときまさ)頓(やが)て人(ひと)をつけて、そのあたりをうかがはせける程(ほど)に、或(ある)坊(ばう)に、女房達(にようばうたち)おさなき(をさなき)人(ひと)あまた、ゆゆしくしのびたるていにてすまゐ(すまひ)けり。
籬(まがき)のひまよりのぞきければ、白(しろ)いゑのこの走出(はしりいで)たるをとらんとて、うつくしげなる若公(わかぎみ)の出(いで)給(たま)へば、めのとの女房(にようばう)とおぼしくて、「あなあさまし。人(ひと)もこそ見(み)まいらすれ(まゐらすれ)」とて、いそぎひき入(いれ)奉(たてまつ)る。是(これ)ぞ一定(いちぢやう)そにておはしますらむとおもひ、いそぎ走帰(はしりかへ・ッ)てかくと申(まう)せば、次(つぎ)の日(ひ)北条(ほうでう)かしこに打(うち)むかひ、四方(しはう)を打(うち)かこみ、人(ひと)をいれていはせけるは、「平家(へいけ)小松(こまつの)三位(さんみの)中将殿(ちゆうじやうどの・ちうじやうどの)の若君(わかぎみ)六代(ろくだい)御前(ごぜん)、是(これ)におはしますと承(うけたま)は(ッ)て、鎌倉殿(かまくらどの)の御代官(ごだいくわん)に北条(ほうでうの)四郎(しらう)時政(ときまさ)と申(まうす)ものが御(おん)むかへにまい(ッ・まゐつ)て候(さうらふ)。はやはや出(いだ)しまいら(ッ・まゐらつ)させ給(たま)へ」と申(まうし)ければ、母(はは)うへ是(これ)を聞(きき)給(たま)ふに、つやつや物(もの)もおぼえ給(たま)はず。
斎藤五(さいとうご)・斎藤六(さいとうろく)はしりまは(ッ)て見(み)けれども、武士(ぶし)ども四方(しはう)を打(うち)かこみ、いづかたより出(いだ)し奉(たてまつ)るべしともおぼえず。めのとの女房(にようばう)も御(おん)まへにたふれふし、こゑもおしま(をしま)ずおめき(をめき)さけぶ。日(ひ)ごろはものをだにもたかくいはず、しのびつつかくれゐたりつれども、今(いま)は家(いへ)の中(うち)にありとあるもの、こゑを調(そろ)へて泣(なき)かなしむ。北条(ほうでう)も是(これ)をきいて、よに心(こころ)くるしげにおもひ、なみだおしのごい(のごひ)、つくづくとぞま(ッ)たりける。ややあ(ッ)てかさねて申(まう)されけるは、「世(よ)もいまだしづまり候(さうら)はねば、しどけなき事(こと)もぞ候(さうらふ)とて、御(おん)むかへにまい(ッ・まゐつ)て候(さうらふ)。別(べち)の御事(おんこと)は候(さうらふ)まじ。はやはや出(いだ)しまいら(ッ・まゐらつ)させ給(たま)へ」と申(まうし)ければ、若君(わかぎみ)母(はは)うへに申(まう)されけるは、「つゐに(つひに)のがるまじう候(さうら)へば、とくとくいださせおはしませ。
武士共(ぶしども)うち入(いり)てさがすものならば、うたてげなる御(おん)ありさまどもを見(み)えさせ給(たま)ひなんず。たとひまかり出(いで)候(さうらふ)とも、しばしも候(さうら)はば、いとまこうてかへりまいり(まゐり)候(さうら)はん。いたくな歎(なげ)かせ給(たま)ひ候(さうらひ)そ」と、なぐさめ給(たま)ふこそいとおしけれ(いとほしけれ)。さてもあるべきならねば、母(はは)うへなくなく御(おん)ぐしかきなで、ものきせ奉(たてまつ)り、既(すで)に出(いだ)し奉(たてまつ)らむとしたまひけるが、黒木(くろき)のずずのちいさう(ちひさう)うつくしいをとりいだして、「是(これ)にていかにもならんまで、念仏(ねんぶつ)申(まうし)て極楽(ごくらく)へまいれ(まゐれ)よ」とて奉(たてまつ)り給(たま)へば、若君(わかぎみ)是(これ)をと(ッ)て、「母御前(ははごぜん)にけふ既(すで)にはなれまいらせ(まゐらせ)なんず。
今(いま)はいかにもして、父(ちち)のおはしまさん所(ところ)へぞまいり(まゐり)たき」との給(たま)ひけるこそ哀(あは)れなれ。是(これ)をきいて、御妹(おんいもうと)の姫君(ひめぎみ)の十(とを)になり給(たま)ふが、「われもちち御前(ごぜん)の御(おん)もとへまいら(まゐら)む」とて、はしり出(いで)給(たま)ふを、めのとの女房(にようばう)とりとどめ奉(たてまつ)る。六代(ろくだい)御前(ごぜん)ことしはわづかに十二(じふに)にこそなり給(たま)へども、よのつねの十四五(じふしご)よりはおとなしく、みめかたちゆう(いう)におはしければ、敵(かたき)によはげ(よわげ)をみえじと、おさふる袖(そで)のひまよりも、あまりて涙(なみだ)ぞこぼれける。さて御輿(おんこし)にのり給(たま)ふ。武士(ぶし)ども前後(ぜんご)左右(さう)に打(うち)かこ(ン)で出(いで)にけり。斎藤五(さいとうご)・斎藤六(さいとうろく)御輿(おんこし)の左右(さう)についてぞまいり(まゐり)ける。北条(ほうでう)のりがへ共(ども)おろしてのすれどものらず。大覚寺(だいかくじ)より六波羅(ろくはら)までかちはだしにてぞ走(はしり)ける。母(はは)うへ・めのとの女房(にようばう)、天(てん)にあふぎ地(ち)にふしてもだえこがれ給(たま)ひけり。
「此(この)日(ひ)ごろ平家(へいけ)の子(こ)どもとりあつめて、水(みづ)にいるるもあり、土(つち)にうづむもあり、おしころし、さしころし、さまざまにすときこゆれば、我(わが)子(こ)は何(なに)としてかうしなはんずらん。すこしおとなしければ、頸(くび)をこそきらんずらめ。人(ひと)の子(こ)はめのとな(ン)ど(など)のもとにをき(おき)て、時々(ときどき)見(み)る事(こと)もあり。それだにも恩愛(おんあい・をんあひ)はかなしき習(ならひ)ぞかし。况(いはん)や是(これ)はうみおとして後(のち)、ひとひかたときも身(み)をはなたず、人(ひと)のもたぬものをもちたるやうにおもひて、朝(あさ)ゆふふたりの中(なか)にてそだてしものを、たのみをかけし人(ひと)にもあかで別(わかれ)しそののちは、ふたりをうらうへにをき(おき)てこそなぐさみつるに、ひとりはあれどもひとりはなし。けふより後(のち)はいかがせん。此(この)三(み)とせが間(あひだ・あいだ)、よるひるきも心(こころ)をけしつつ、おもひまうけつる事(こと)なれども、さすが昨日(きのふ)今日(けふ)とはおもひよらず。年(とし)ごろは長谷(はせ)の観音(くわんおん・くわんをん)をこそふかうたのみ奉(たてまつ)りつるに、終(つひ・つゐ)にとられぬる事(こと)のかなしさよ。
只今(ただいま)もやうしなひつらん」とかきくどき、泣(なく)より外(ほか)の事(こと)ぞなき。さ夜(よ)もふけけれどむねせきあぐる心(ここ)ちして、露(つゆ)もまどろみ給(たま)はぬが、めのとの女房(にようばう)にの給(たま)ひけるは、「ただいまちとうちまどろみたりつる夢(ゆめ)に、此(この)子(こ)がしろい馬(むま)にのりて来(きた)りつるが、「あまりに恋(こひ)しうおもひまいらせ(まゐらせ)候(さうら)へば、しばしのいとまこうてまいり(まゐり)て候(さうらふ)」とて、そばについゐて、何(なに)とやらん、よにうらめしげに思(おも)ひて、さめざめと泣(なき)つるが、程(ほど)なくうちおどろかれて、もしやとかたはらをさぐれども人(ひと)もなし。夢(ゆめ)なり共(とも)しばしもあらで、さめぬる事(こと)のかなしさよ」とぞかたり給(たま)ふ。
めのとの女房(にようばう)もなきけり。長(ながき)夜(よ)もいとど明(あか)しかねて、涙(なみだ)に床(とこ)も浮(うく)ばかり也(なり)。限(かぎり)あれば、鶏人(けいじん)暁(あかつき)をとなへて夜(よ)も明(あけ)ぬ。斎藤六(さいとうろく)帰(かへ)りまいり(まゐり)たり。「さていかにやいかに」と問(と)ひ給(たま)へば、「只今(ただいま)まではべちの御事(おんこと)も候(さうら)はず。御文(おんふみ)の候(さうらふ)」とて、とりいだいて奉(たてまつ)る。あけて御(ご)らんずれば、「いかに御心(おんこころ)ぐるしうおぼしめされ候(さうらふ)らむ。只今(ただいま)までは別(べち)の事(こと)も候(さうら)はず。いつしかたれだれも御恋(おんこひ)しうこそ候(さうら)へ」と、よにおとなしやかにかき給(たま)へり。母(はは)うへ是(これ)を見(み)給(たま)ひて、とかうの事(こと)もの給(たまは)ず。ふみをふところに引入(ひきいれ)て、うつぶしにぞなられける。
誠(まこと)に心(こころ)の内(うち)さこそはおはしけめとおしはかられて哀(あはれ)なり。かくて遥(はるか)に時刻(じこく)おしうつりければ、「時(とき)の程(ほど)もおぼつかなう候(さうらふ)に、帰(かへり)まいら(まゐら)ん」と申(まう)せば、母(はは)うへ泣々(なくなく)御返事(おんぺんじ)かいてたうでけり。斎藤六(さいとうろく)いとま申(まうし)て罷出(まかりいづ)。めのとの女房(にようばう)せめても心(こころ)のあられずさに、はしり出(いで)て、いづくをさすともなく、その辺(へん)を足(あし)にまかせてなきありく程(ほど)に、ある人(ひと)の申(まうし)けるは、「此(この)おくに高雄(たかを・たかお)といふ山寺(やまでら)あり。その聖(ひじり)文覚房(もんがくばう)と申(まうす)人(ひと)こそ、鎌倉殿(かまくらどの)にゆゆしき大事(だいじ)の人(ひと)におもはれまいらせ(まゐらせ)ておはしますが、上臈(じやうらふ・じやうらう)の御子(おんこ)を御弟子(おんでし)にせんとてほしがらるなれ」と申(まうし)ければ、うれしき事(こと)をききぬと思(おも)ひて、母(はは)うへにかく共(とも)申(まう)さず、ただ一人(いちにん)高雄(たかを・たかお)に尋入(たづねい)り、聖(ひじり)にむかひ奉(たてまつ)て、「ちのなかよりおほしたてまいらせ(まゐらせ)て、ことし十二(じふに)にならせ給(たま)ひつる若君(わかぎみ)を、昨日(きのふ)武士(ぶし)にとられてさぶらふ。御命(おんいのち)こい(こひ)うけまいらせ(まゐらせ)給(たま)ひて、御弟子(おんでし)にせさせ給(たま)ひなんや」とて、聖(ひじり)のまへにたふれふし、こゑもおしま(をしま)ずなきさけぶ。まことにせんかたなげにぞ見(み)えたりける。
聖(ひじり)むざんにおぼえければ事(こと)の子細(しさい)をとひ給(たま)ふ。おきあが(ッ)て泣々(なくなく)申(まうし)けるは、「平家(へいけ)小松(こまつの)三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)の北方(きたのかた)の、したしうまします人(ひと)の御子(おんこ)をやしなひ奉(たてまつ)るを、もし中将(ちゆうじやう・ちうじやう)の君達(きんだち)とや人(ひと)の申(まうし)さぶらひけん、昨日(きのふ)武士(ぶし)のとりまいらせ(まゐらせ)てまかりさぶらひぬるなり」と申(まうす)。「さて武士(ぶし)をば誰(たれ)といひつる」。
「北条(ほうでう)とこそ申(まうし)さぶらひつれ」。「いでいでさらば行(ゆき)むかひて尋(たづね)む」とて、つきいでぬ。此(この)詞(ことば)をたのむべきにはあらね共(ども)、聖(ひじり)のかくいへば、今(いま)すこし人(ひと)の心(ここ)ちいできて、大覚寺(だいかくじ)へかへりまいり(まゐり)、母(はは)うへにかくと申(まう)せば、「身(み)をなげに出(いで)ぬるやらんとおもひて、我(われ)もいかならん淵河(ふちかは)にも身(み)をなげんと思(おも)ひたれば」とて、事(こと)の子細(しさい)をとひ給(たま)ふ。聖(ひじり)の申(まうし)つる様(やう)をありのままに語(かた)りければ、「あはれこい(こひ)うけて、今(いま)一度(ひとたび)見(み)せよかし」とて、手(て)をあはせてぞなかれける。聖(ひじり)六波羅(ろくはら)にゆきむか(ッ)て、事(こと)の子細(しさい)をとひ給(たま)ふ。北条(ほうでう)申(まうし)けるは、「鎌倉殿(かまくらどの)のおほせに、「平家(へいけ)の子孫(しそん)京中(きやうぢゆう・きやうぢう)に多(おほ)くしのんでありときく。中(なか)にも小松(こまつの)三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)の子息(しそく)、中御門(なかのみかど)の新(しん)大納言(だいなごん)のむすめの腹(はら)にありときく。
平家(へいけ)の嫡々(ちやくちやく)なるうへ、年(とし)もおとなしかんなり。いかにも尋(たづね)いだして失(うしな)ふべし」と仰(おほ)せを蒙(かうぶり)て候(さうらひ)しが、此(この)程(ほど)すゑずゑのおさなき(をさなき)人々(ひとびと)をば少々(せうせう)取(とり)奉(たてまつり)て候(さうらひ)つれ共(ども)、此(この)若公(わかぎみ)は在所(ありどころ)をしり奉(たてまつ)らで、尋(たづね)かねて既(すでに)むなしう罷下(まかりくだ)らむとし候(さうらひ)つるが、おもはざる外(ほか)、一昨日(をととひ・おととひ)聞出(ききいだ)して、昨日(きのふ)むかへ奉(たてまつり)て候(さうら)へども、なのめならずうつくしうおはする間(あひだ・あいだ)、あまりにいとおしく(いとほしく)て、いまだともかうもし奉(たてまつ)らでをき(おき)まいらせ(まゐらせ)て候(さうらふ)」と申(まう)せば、聖(ひじり)、「いでさらば見(み)奉(たてまつ)らむ」とて、若公(わかぎみ)のおはしける所(ところ)へまい(ッ・まゐつ)て見(み)まいらせ(まゐらせ)給(たま)へば、ふたへおりものの直垂(ひたたれ)に、黒木(くろき)の数珠(じゆず)手(て)にぬき入(いれ)ておはします。
髪(かみ)のかかり、すがた、事(こと)がら、誠(まこと)にあてにうつくしく、此(この)世(よ)の人(ひと)とも見(み)え給(たま)はず。こよひうちとけてね給(たま)はぬとおぼしくて、すこしおもやせ給(たま)へるにつけて、いとど心(こころ)ぐるしうらうたくぞおぼえける。聖(ひじり)を御(ご)らんじて何(なに)とかおぼしけん、涙(なみだ)ぐみ給(たま)へば、聖(ひじり)も是(これ)を見(み)奉(たてまつ)てすぞろに墨染(すみぞめ)の袖(そで)をぞしぼりける。たとひ末(すゑ)の世(よ)に、いかなるあた敵(かたき)になるともいかが是(これ)を失(うしな)ひ奉(たてまつ)るべきとかなしうおぼえければ、北条(ほうでう)にの給(たま)ひけるは、「此(この)若君(わかぎみ)を見(み)奉(たてまつ)るに、先世(ぜんぜ)の事(こと)にや候(さうらふ)らん、あまりにいとおしう(いとほしう)おもひ奉(たてまつ)り候(さうらふ)。廿日(はつか)が命(いのち)をのべてたべ。
鎌倉殿(かまくらどの)へまい(ッ・まゐつ)て申(まうし)あづかり候(さうら)はん。聖(ひじり)鎌倉殿(かまくらどの)を世(よ)にあらせ奉(たてまつ)らむとて、我(わが)身(み)も流人(るにん)でありながら、院宣(ゐんぜん)うかがふ(うかがう)て奉(たてまつ)らんとて、京(きやう)へ上(のぼ)るに、案内(あんない)もしらぬ富士川(ふじがは)の尻(すそ)によるわたりかか(ッ)て、既(すで)におしながされんとしたりし事(こと)、高市(たかいち)の山(やま)にてひ(ッ)ぱぎにあひ、手(て)をす(ッ)て命(いのち)ばかりいき、福原(ふくはら)の籠(ろう)の御所(ごしよ)へまいり(まゐり)、前(さきの)右兵衛督(うひやうゑのかみ・うひやうへのかみ)光能卿(みつよしのきやう)につき奉(たてまつ)て、院宣(ゐんぜん)申(まうし)いだいて奉(たてまつり)しときのやくそくには、「いかなる大事(だいじ)をも申(まう)せ。
聖(ひじり)が申(まう)さむ事(こと)をば、頼朝(よりとも)が一期(いちご)の間(あひだ・あいだ)はかなへん」とこその給(たま)ひしか。其(その)後(のち)もたびたびの奉公(ほうこう)、かつは見(み)給(たま)ひし事(こと)なれば、事(こと)あたらしうはじめて申(まうす)べきにあらず。契(ちぎり)をおもうして命(いのち)をかろうず。鎌倉殿(かまくらどの)に受領神(じゆりやうがみ)つき給(たま)はずは、よもわすれ給(たま)はじ」とて、その暁(あかつき)立(たち)にけり。
斎藤五(さいとうご)・斎藤六(さいとうろく)是(これ)をきき、聖(ひじり)を生身(しやうじん)の仏(ほとけ)の如(ごと)くおもひて、手(て)を合(あはせ)て涙(なみだ)をながす。いそぎ大覚寺(だいかくじ)へまい(ッ・まゐつ)て此(この)由(よし)申(まうし)ければ、是(これ)をきき給(たま)ひける母(はは)うへの心(こころ)のうち、いか斗(ばかり)かはうれしかりけん。されども鎌倉(かまくら)のはからひなれば、いかがあらむずらんとおぼつかなけれども、当時(たうじ)聖(ひじり)のたのもしげに申(まうし)て下(くだ)りぬるうへ、廿日(はつか)の命(いのち)ののび給(たま)ふに、母(はは)うへ・めのとの女房(にようばう)すこし心(こころ)もとりのべて、ひとへに観音(くわんおん・くわんをん)の御(おん)たすけなればたのもしうぞおもはれける。
かくて明(あか)し暮(くら)し給(たま)ふ程(ほど)に、廿日(はつか)のすぐるは夢(ゆめ)なれや、聖(ひじり)はいまだ見(み)えざりけり。「何(なに)となりぬる事(こと)やらん」と、なかなか心(こころ)ぐるしうて、今更(いまさら)またもだえこがれ給(たま)ひけり。北条(ほうでう)も、「文学房(もんがくばう)のやくそくの日数(ひかず)もすぎぬ。さのみ在京(ざいきやう)して年(とし)を暮(くら)すべきにもあらず。今(いま)は下(くだ)らむ」とてひしめきければ、斎藤五(さいとうご)・斎藤六(さいとうろく)手(て)をにぎり肝(きも)魂(たましひ・たましゐ)をくだけ共(ども)、聖(ひじり)もいまだ見(み)えず、使者(ししや)をだにも上(のぼ)せねば、おもふはかりぞなかりける。
是等(これら)大覚寺(だいかくじ)へ帰(かへ)りまい(ッ・まゐつ)て、「聖(ひじり)もいまだのぼり候(さうら)はず。北条(ほうでう)も暁(あかつき)下向(げかう)仕(つかまつり)候(さうらふ)」とて、左右(さう)の袖(そで)をかほにおしあてて、涙(なみだ)をはらはらとながす。是(これ)をきき給(たま)ひける母(はは)うへの心(こころ)のうち、いかばかりかはかなしかりけむ。「あはれおとなしやかならむものの、聖(ひじり)の行(ゆき)あはん所(ところ)まで六代(ろくだい)をぐせよといへかし。もしこひうけてものぼらむに、さきにきりたらんかなしさをば、いかがせむずる。さてとくうしなひげなるか」とのたまへば、「やがて此(この)暁(あかつき)の程(ほど)とこそ見(み)えさせ給(たまひ)候(さうら)へ。そのゆへ(ゆゑ)は、此(この)程(ほど)御(おん)とのゐ仕(つかまつり)候(さうらひ)つる北条(ほうでう)の家子(いへのこ)郎等(らうどう)ども、よに名残(なごり)おしげ(をしげ)におもひまいらせ(まゐらせ)て、或(あるいは・あるは)念仏(ねんぶつ)申(まうす)者(もの)も候(さうらふ)、或(あるいは・あるは)涙(なみだ)をながす者(もの)も候(さうらふ)」。
「さて此(この)子(こ)は何(なに)としてあるぞ」との給(たま)へば、「人(ひと)の見(み)まいらせ(まゐらせ)候(さうらふ)ときはさらぬやうにもてないて、御数珠(おんじゆず)をくらせおはしまし候(さうらふ)が、人(ひと)の候(さうら)はぬときは、御袖(おんそで)を御(おん)かほにおしあてて、御涙(おんなみだ)にむせばせ給(たま)ひ候(さうらふ)」と申(まうす)。「さこそあるらめ。おさなけれ(をさなけれ)ども心(こころ)おとなしやかなるものなり。こよひかぎりの命(いのち)とおもひて、いかに心(こころ)ぼそかるらん。しばしもあらば、いとまこうてまいら(まゐら)むといひしか共(ども)、廿日(はつか)にあまるに、あれへもゆかず、是(これ)へも見(み)えず。けふより後(のち)又(また)何(いつ)の日(ひ)何(いつ)の時(とき)あひ見(み)るべしともおぼえず。さて汝等(なんぢら)はいかがはからふ」との給(たま)へば、「これはいづくまでも御供(おんとも)仕(つかまつ)り、むなしうならせ給(たま)ひて候(さうら)はば、御骨(おんこつ)をとり奉(たてまつ)り、高野(かうや)の御山(おやま)におさめ(をさめ)奉(たてまつ)り、出家(しゆつけ)入道(にふだう・にうだう)して、後世(ごせ)をとぶらひまいらせ(まゐらせ)むとこそおもひな(ッ)て候(さうら)へ」と申(まうす)。
「さらば、あまりにおぼつかなうおぼゆるに、とうかへれ」との給(たま)へば、二人(ににん)の者(もの)泣々(なくなく)いとま申(まうし)て罷出(まかりいで)つ。さる程(ほど)に、同(おなじき)十二月(じふにぐわつ)十六日(じふろくにち)、北条(ほうでうの)四郎(しらう)若公(わかぎみ)具(ぐ)し奉(たてまつり)て、既(すでに)都(みやこ)を立(たち)にけり。斎藤五(さいとうご)・斎藤六(さいとうろく)涙(なみだ)にくれてゆくさきも見(み)えね共(ども)、最後(さいご)の所(ところ)までとおもひつつ、泣々(なくなく)御供(おんとも)にまいり(まゐり)けり。北条(ほうでう)「馬(むま)にのれ」といへどものらず、「最後(さいご)の供(とも)で候(さうら)へば、くるしう候(さうらふ)まじ」とて、血(ち)の涙(なみだ)をながしつつ、足(あし)にまかせてぞ下(くだり)ける。六代(ろくだい)御前(ごぜん)はさしもはなれがたくおぼしける母(はは)うへ・めのとの女房(にようばう)にもわかれはて、住(すみ)なれし都(みやこ)をも、雲井(くもゐ)のよそにかへりみて、けふをかぎりの東路(あづまぢ)におもむかれけん心(こころ)のうち、おしはかられて哀(あはれ)なり。
駒(こま)をはやむる武士(ぶし)あれば、我(わが)頸(くび)うたんずるかと肝(きも)をけし、物(もの)いひかはす人(ひと)あれば、既(すで)に今(いま)やと心(こころ)をつくす。四(し)の宮河原(みやがはら)とおもへども、関山(せきやま)をもうち越(こえ)て、大津(おほつ)の浦(うら)になりにけり。粟津(あはづ)の原(はら)かとうかがへども、けふもはや暮(くれ)にけり。国々(くにぐに)宿々(しゆくじゆく)打過(うちすぎ)々々(うちすぎ)行(ゆく)程(ほど)に、駿河国(するがのくに)にもつき給(たま)ひぬ。若公(わかぎみ)の露(つゆ)の御命(おんいのち)、けふをかぎりとぞきこへ(きこえ)ける。千本(せんぼん)の松原(まつばら)に武士(ぶし)どもみなおりゐて、御輿(おんこし)かきすゑさせ、しきがはしいて、若公(わかぎみ)すへ(すゑ)奉(たてまつ)る。
北条(ほうでうの)四郎(しらう)若公(わかぎみ)の御(おん)まゑ(まへ)ちかうまい(ッ・まゐつ)て申(まうし)けるは、「是(これ)まで具(ぐ)しまいらせ(まゐらせ)候(さうらひ)つるは、別(べち)の事(こと)候(ざうら)はず。もしみちにて聖(ひじり)にもや行(ゆき)あひ候(さうらふ)と、まちすぐしまいらせ(まゐらせ)候(さうらひ)つるなり。
御心(おんこころ)ざしの程(ほど)は見(み)えまいらせ(まゐらせ)候(さうらひ)ぬ。山(やま)のあなたまでは鎌倉殿(かまくらどの)の御心中(ごしんぢゆう・ごしんぢう)をもしりがたう候(さうら)へば、近江国(あふみのくに)にてうしなひまいらせ(まゐらせ)て候(さうらふ)よし、披露(ひろう)仕(つかまつり)候(さうらふ)べし。誰(たれ)申(まうし)候(さうらふ)共(とも)、一業(いちごふ・いちごう)所感(しよかん)の御事(おんこと)なれば、よも叶(かなひ)候(さうら)はじ」と泣々(なくなく)申(まうし)ければ、若君(わかぎみ)ともかうもその御返事(おんぺんじ)をばしたまはず、斎藤五(さいとうご)・斎藤六(さいとうろく)を近(ちか)うめして、「我(われ)いかにもなりなん後(のち)、汝等(なんぢら)都(みやこ)に帰(かへ・ッ)て、穴賢(あなかしこ)道(みち)にてきられたりとは申(まうす)べからず。そのゆへ(ゆゑ)は、終(つひ・つい)にはかくれあるまじけれども、まさしう此(この)有様(ありさま)きいて、あまりに歎(なげき)給(たま)はば、草(くさ)の陰(かげ)にてもこころぐるしうおぼえて、後世(ごせ)のさはりともならむずるぞ。
鎌倉(かまくら)まで送(おく・をく)りつけてまい(ッ・まゐつ)て候(さうらふ)と申(まうす)べし」との給(たま)へば、二人(ににん)の者共(ものども)肝(きも)魂(たましひ・たましゐ)も消(き)えはてて、しばしは御返事(おんぺんじ)にもをよば(およば)ず。良(やや)あ(ッ)て斎藤五(さいとうご)「君(きみ)にをくれ(おくれ)まいらせ(まゐらせ)て後(のち)、命(いのち)いきて安穏(あんをん)に都(みやこ)まで上(のぼ)りつくべしともおぼえ候(さうら)はず」とて、涙(なみだ)ををさへ(おさへ)てふしにけり。既(すで)に今(いま)はの時(とき)になりしかば、若公(わかぎみ)西(にし)にむかひ手(て)を合(あはせ)て、静(しづか)に念仏(ねんぶつ)唱(となへ)つつ、頸(くび)をのべてぞ待(まち)給(たま)ふ。狩野(かのの)工藤三(くどうざう)親俊(ちかとし)切手(きりて)にえらばれ、太刀(たち)をひ(ッ)そばめて、右のかたより御(おん)うしろに立(たち)まはり、既(すで)にきり奉(たてまつ)らむとしけるが、目(め)もくれ心(こころ)も消(きえ)はてて、いづくに太刀(たち)を打(うち)あつべしともおぼえず。前後(ぜんご)不覚(ふかく)になりしかば、「つかまつとも覚(おぼえ)候(さうら)はず。他人(たにん)に仰付(おほせつけ)られ候(さうら)へ」とて、太刀(たち)を捨(すて)てのきにけり。
「さらばあれきれ、これきれ」とて、切手(きりて)をえらぶ処(ところ)に、墨染(すみぞめ)の衣(ころも)袴(はかま)きて月毛(つきげ)なる馬(むま)にの(ッ)たる僧(そう)一人(いちにん)、鞭(むち)をあげてぞ馳(はせ)たりける。既(すで)に只今(ただいま)切(き)り奉(たてまつ)らむとする処(ところ)に馳(はせ)ついて、いそぎ馬(むま)より飛(とび)おり、しばらくいきを休(やすめ)て、「若公(わかぎみ)ゆるさせ給(たま)ひて候(さうらふ)。鎌倉殿(かまくらどの)の御教書(みげうしよ)是(これ)に候(さうらふ)」とてとり出(いだ)して奉(たてまつ)る。披(ひらい)て見(み)給(たま)へば、まことや小松(こまつの)三位(さんみの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)維盛卿(これもりのきやう)の子息(しそく)尋出(たづねいだ)されて候(さうらふ)なる、高雄(たかを・たかお)の聖御房(ひじりごばう)申(まうし)うけんと候(さうらふ)。疑(うたがひ)をなさずあづけ奉(たてまつ)るべし。北条(ほうでうの)四郎殿(しらうどの)へ頼朝(よりとも)とて御判(ごはん)あり。二三遍(にさんべん)おしかへしおしかへしようで後(のち)、「神妙(しんべう)々々(しんべう)」とて打(うち)をか(おか)れければ、「斎藤五(さいとうご)・斎藤六(さいとうろく)はいふにをよば(およば)ず、北条(ほうでう)の家子(いへのこ)郎等共(らうどうども)も皆(みな)悦(よろこび)の涙(なみだ)をぞ流(なが)しける。 
泊瀬六代 (はせろくだい) 

 

さる程(ほど)に、文覚(もんがく)つと出(いで)きたり、若公(わかぎみ)こい(こひ)うけたりとて、きそく誠(まこと)にゆゆしげなり。「「此(この)若公(わかぎみ)の父(ちち)三位(さんみの・さんゐの)中将殿(ちゆうじやうどの・ちうじやうどの)は、初度(しよど)の戦(たたかひ)の大将(たいしやう)也(なり)。誰(たれ)申(まうす)共(とも)叶(かなふ)まじ」との給(たま)ひつれば、「文覚(もんがく)が心(こころ)をやぶつては、争(いかで)か冥加(みやうが)もおはすべき」な(ン)ど(など)、悪口(あつこう・あつかう)申(まうし)つれ共(ども)、猶(なほ・なを)「叶(かなふ)まじ」とて、那須野(なすの)の狩(かり)に下(くだ)り給(たま)ひし間(あひだ・あいだ)、剰(あまつさへ・あま(ツ)さへ)文覚(もんがく)も狩庭(かりば)の供(とも)して、やうやうに申(まうし)てこい(こひ)うけたり。
いかに、遅(おそ)ふ(おそう)おぼしつらん」と申(まう)されければ、北条(ほうでう)「廿日(はつか)と仰(おほせ)られ候(さうらひ)し御約束(おんやくそく)の日(ひ)かずも過(すぎ)候(さうらひ)ぬ。鎌倉殿(かまくらどの)の御(おん)ゆるされなきよと存(ぞん)じて、具(ぐ)し奉(たてまつり)て下(くだ)る程(ほど)に、かしこうぞ。爰(ここ)にてあやまち仕(つかまつ)るらむに」とて、鞍(くら)をい(おい)てひかせたる馬共(むまども)に、斎藤五(さいとうご)・斎藤六(さいとうろく)をのせてのぼせらる。「我(わが)身(み)も遥(はるか)に打(うち)送(おく・をく)り奉(たてまつり)て、しばらく御供(おんとも)申(まうし)たう候(さうら)へ共(ども)、鎌倉殿(かまくらどの)にさして申(まうす)べき大事共(だいじども)候(さうらふ)。暇(いとま)申(まうし)て」とてうちわかれてぞ下(くだ)られける。誠(まこと)に情(なさけ)ふかかりけり。聖(ひじり)若公(わかぎみ)を請(うけ)とり奉(たてまつり)て、夜(よ)を日(ひ)についで馳(はせ)のぼる程(ほど)に、尾張国(をはりのくに・おはりのくに)熱田(あつた)の辺(へん)にて、今年(ことし)も既(すで)に暮(くれ)ぬ。明(あく)る正月(しやうぐわつ)五日(いつか)の夜(よ)に入(いり)て、都(みやこ)へのぼりつく。二条(にでう)猪熊(ゐのくま)なる所(ところ)に文覚房(もんがくばう)の宿所(しゆくしよ)ありければ、それに入(いれ)奉(たてまつり)て、しばらくやすめ奉(たてまつ)り、夜半(やはん)ばかり大覚寺(だいかくじ)へぞおはしける。
門(かど)をたたけ共(ども)人(ひと)なければ音(おと・をと)もせず。築地(ついぢ)のくづれより若公(わかぎみ)のかひ給(たま)ひけるしろいゑのこのはしり出(いで)て、尾(を・お)をふ(ッ)てむかひけるに、「母(はは)うへはいづくにましますぞ」ととはれけるこそせめての事(こと)なれ。斎藤六(さいとうろく)、築地(ついぢ)をこえ、門(かど)をあけていれ奉(たてまつ)る。ちかう人(ひと)の住(すみ)たる所(ところ)とも見(み)えず。「いかにもしてかひなき命(いのち)をいかばやと思(おも)ひしも、恋(こひ)しき人々(ひとびと)を今(いま)一度(いちど)見(み)ばやとおもふため也(なり)。こはされば何(なに)となり給(たま)ひけるぞや」とて、夜(よ)もすがら泣(なき)かなしみ給(たま)ふぞまことにことはり(ことわり)と覚(おぼえ)て哀(あはれ)なる。夜(よ)を待(まち)あかして近里(ちかきさと)の者(もの)に尋(たづね)給(たま)へば、「年(とし)のうちに大仏(だいぶつ)まいり(まゐり)とこそうけ給(たまはり)候(さうらひ)しか。
正月(しやうぐわつ)の程(ほど)は長谷寺(はせでら)に御(おん)こもりと聞(きこ)え候(さうらひ)しが、其(その)後(のち)は御宿所(おんしゆくしよ)へ人(ひと)の通(かよ)ふとも見(みえ)候(さうら)はず」と申(まうし)ければ、斎藤五(さいとうご)いそぎ馳(はせ)まい(ッ・まゐつ)て尋(たづね)あひ奉(たてまつ)り、此(この)よし申(まうし)ければ、母(はは)うへ・めのとの女房(にようばう)つやつやうつつともおぼえ給(たま)はず、「是(これ)はされば夢(ゆめ)かや。夢(ゆめ)か」とぞの給(たま)ひける。
いそぎ大覚寺(だいかくじ)へ出(いで)させ給(たま)ひ、若公(わかぎみ)を御覧(ごらん)じてうれしさにも、ただ先立(さきだつ)ものは涙(なみだ)なり。「早々(はやはや)出家(しゆつけ)し給(たま)へ」と仰(おほせ)られけれども、聖(ひじり)おしみ(をしみ)奉(たてまつ)て出家(しゆつけ)もせさせ奉(たてまつ)らず。やがてむかへと(ッ)て高雄(たかを・たかお)に置(おき・をき)奉(たてまつ)り、北(きた)の方(かた)のかすかなる御有様(おんありさま)をもとぶらひけるとこそ聞(きこ)えし。観音(くわんおん・くわんをん)の大慈(だいじ)大悲(だいひ)は、つみあるもつみなきをもたすけ給(たま)へば、昔(むかし)もかかるためし多(おほ)しといへども、ありがたかりし事共(ことども)なり。
さる程(ほど)に、北条(ほうでうの)四郎(しらう)六代(ろくだい)御前(ごぜん)具(ぐ)し奉(たてまつ)て下(くだ)りけるに、鎌倉殿(かまくらどの)御使(おんつかひ・おつかひ)鏡(かがみ)の宿(しゆく)にて行逢(ゆきあひ)たり。「いかに」ととへば、「十郎(じふらう・ぢうらう)蔵人殿(くらんどどの)、信太(しだの)三郎(さぶらう)先生殿(せんじやうどの)、九郎(くらう)判官殿(はうぐわんどの)に同心(どうしん)のよし聞(きこ)え候(さうらふ)。討(うち)奉(たてまつ)れとの御気色(ごきしよく)で候(さうらふ)」と申(まうす)。北条(ほうでう)「我(わが)身(み)は大事(だいじ)のめしうど具(ぐ)したれば」とて、甥(をひ・おい)の北条(ほうでうの)平六(へいろく)時貞(ときさだ)が送(おく・をく)りに下(くだ)りけるを、おいその森(もり)より「とうわとのは帰(かへ・ッ)て此(この)人々(ひとびと)〔の〕おはし所(どころ)聞出(ききいだ)して討(うつ)てまいらせよ(まゐらせよ)」とてとどめらる。
平六(へいろく)都(みやこ)に帰(かへ・ッ)て尋(たづぬ)る程(ほど)に、十郎(じふらう)蔵人殿(くらんどどの)の在所(ありどころ)知(しり)たりといふ寺(てら)法師(ほふし・ほうし)いできたり。彼(かの)僧(そう)に尋(たづぬ)れば、「我(われ)はくはしうはしらず。しりたりといふ僧(そう)こそあれ」といひければ、おしよせてかの僧(そう)をからめとる。「是(これ)はなんのゆへ(ゆゑ)にからむるぞ」。「十郎(じふらう・じうらう)蔵人殿(くらんどどの)の在所(ざいしよ)し(ッ)た(ン)なればからむる也(なり)」。「さらば「おしへよ(をしへよ)」とこそいはめ。さう(左右)なうからむる事(こと)はいかに。天王寺(てんわうじ)にとこそきけ」。「さらばじんじよせよ」とて、平六(へいろく)が聟(むこ)の笠原(かさはら)の十郎(じふらう・じうらう)国久(くにひさ)、殖原(うゑはら・うへはら)の九郎(くらう)、桑原(くはばらの・くわばらの)次郎(じらう)、服部(はつとり)の平六(へいろく)をさきとして其(その)勢(せい)卅(さんじふ)余騎(よき)、天王寺(てんわうじ)へ発向(はつかう)す。
十郎(じふらう)蔵人(くらんど)の宿(しゆく)は二所(ふたところ)あり。谷(たに)の学頭(がくとう)伶人(れいじん)兼春(かねはる)、秦六(しんろく)秦七(しんしち)と云(いふ)者(もの)のもとなり。ふた手(て)につく(ッ)て押(おし・をし)よせたり。十郎(じふらう)蔵人(くらんど)は兼春(かねはる)がもとにおはしけるが、物具(もののぐ)したるもの共(ども)の打入(うちいる)を見(み)て、うしろより落(おち)にけり。学頭(がくとう)がむすめ二人(ににん)あり。ともに蔵人(くらんど)のおもひものなり。是等(これら)をとらへて蔵人(くらんど)のゆくゑ(ゆくへ)を尋(たづぬ)れば、姉(あね)は「妹(いもうと・いまうと)にとへ」といふ、妹(いもうと・いまうと)は「姉(あね)にとへ」といふ。俄(にはか)に落(おち)ぬる事(こと)なれば、たれにもよもしらせじなれども、具(ぐ)して京(きやう)へぞのぼりける。
蔵人(くらんど)は熊野(くまの)の方(かた)へ落(おち)けるが、只(ただ)一人(いちにん)ついたりける侍(さぶらひ)、足(あし)をやみければ、和泉国(いづみのくに)八木郷(やぎのがう)といふ所(ところ)に逗留(とうりう)してこそゐたりけれ。彼(かの)家主(いへぬし)の男(をとこ・おとこ)、蔵人(くらんど)を見(み)し(ッ)て夜(よ)もすがら京(きやう)へ馳(はせ)のぼり、北条(ほうでう)平六(へいろく)につげたりければ、「天王寺(てんわうじ)の手(て)の者(もの)はいまだのぼらず。誰(たれ)をかやるべき」とて、大源次(おほげんじ)宗春(むねはる)といふ郎等(らうどう)をようで、「汝(なんぢ)が宮(みや)たてたりし山僧(さんぞう)はいまだあるか」。「さ(ン)候(ざうらふ)」。「さらばよべ」とてよばれければ、件(くだんの)法師(ほふし・ほうし)いできたり。「十郎(じふらう)蔵人(くらんど)のおはします、討(うつ)て鎌倉殿(かまくらどの)にまいらせ(まゐらせ)て御恩(ごおん・ごをん)蒙(かうぶ)り給(たま)へ」。「さうけ給(たまはり)候(さうらひ)ぬ。人(ひと)をたび候(さうら)へ」と申(まうす)。「やがて大源次(おほげんじ)くだれ、人(ひと)もなきに」とて、舎人(とねり)雑色(ざふしき・ざうしき)人数(にんじゆ)わづかに十四五人(じふしごにん)相(あひ)そへてつかはす。常陸房(ひたちばう)正明(しやうめい)といふものなり。
和泉国(いづみのくに)に下(くだり)つき、彼(かの)家(いへ)にはしり入(いり)て見(み)れ共(ども)なし。板(いた)じきうちやぶ(ッ)てさがし、ぬりごめのうちを見(み)れどもなし。常陸房(ひたちばう)大路(おほち)にた(ッ)てみれば、百姓(ひやくしやう)の妻(つま)とおぼしくて、おとなしき女(をんな・をうな)のとをり(とほり)けるをとらへて、「此(この)辺(へん)にあやしばうだる旅人(たびびと)のとどま(ッ)たる所(ところ)やある。いはずはき(ッ)て捨(すて)む」といへば、「ただいまさがされさぶらふ(さぶらう)つる家(いへ)にこそ、夜部(よべ)までよに尋常(じんじやう)なる旅人(たびびと)の二人(ににん)とどま(ッ)てさぶらひつるが、けさな(ン)ど(など)いでてさぶらふやらむ。
あれに見(み)えさぶらふおほやにこそいまはさぶらふなれ」といひければ、常陸房(ひたちばう)黒革威(くろかはをどし・くろかはおどし)の腹巻(はらまき)の袖(そで)つけたるに、大(おほ)だちはいて彼(かの)家(いへ)に走入(はしりいり)てみれば、歳(とし)五十(ごじふ)ばかりなる男(をのこ・おのこ)の、かちの直垂(ひたたれ)におり烏帽子(ゑぼし・をりゑぼし)きて、唐瓶子(からへいじ)菓子(くわし)な(ン)ど(など)とりさばくり、銚子(てうし)どもも(ッ)て酒(さけ)すすめむとする処(ところ)に、物具(もののぐ)したる法師(ほふし・ほうし)のうち入(いる)をみて、かいふいてにげければ、やがてつづいてお(ッ)かけたり。蔵人(くらんど)「あの僧(そう)。
や、それはあらぬぞ。行家(ゆきいへ)はここにあり」との給(たま)へば、はしり帰(かへ・ッ)て見(み)るに、白(しろ)い小袖(こそで)に大口(おほくち)ばかりきて、左(ひだり)の手(て)には金作(こがねづくり)の小太刀(こだち)をもち、右(みぎ)の手(て)には野太刀(のだち)のおほきなるをもたれたり。常陸房(ひたちばう)「太刀(たち)なげさせ給(たま)へ」と申(まう)せば、蔵人(くらんど)大(おほき)にわらはれけり。
常陸房(ひたちばう)走(はしり)よ(ッ)てむずときる。ちやうどあはせておどり(をどり)のく。又(また)よ(ッ)てきる。ちやうどあはせておどり(をどり)のく。よりあひよりのき一時(ひととき)ばかりぞたたかふ(たたかう)たる。蔵人(くらんど)うしろなるぬりごめの内(うち)へしざりいらむとし給(たま)へば、常陸房(ひたちばう)「まさなう候(さうらふ)。ないらせ給(たま)ひ候(さうらひ)そ」と申(まう)せば、「行家(ゆきいへ)もさこそおもへ」とて又(また)おどり(をどり)出(いで)てたたかふ。常陸房(ひたちばう)太刀(たち)を捨(すて)てむずとくむ(くん)でどうどふす。うへになり下(した)になり、ころびあふ処(ところ)に、大源次(おほげんじ)つ(ッ)といできたり。あまりにあはて(あわて)てはいたる太刀(たち)をばぬかず、石(いし)をにぎ(ッ)て蔵人(くらんど)のひたい(ひたひ)をはたとう(ッ)て打(うち)わる。
蔵人(くらんど)大(おほき)にわら(ッ)て、「をのれ(おのれ)は下臈(げらふ・げらう)なれば、太刀(たち)長刀(なぎなた)でこそ敵(かたき)をばうて、つぶてにて敵(かたき)うつ様(やう)やある」。常陸房(ひたちばう)「足(あし)をゆへ」とぞ下知(げぢ)しける。常陸房(ひたちばう)は敵(かたき)が足(あし)をゆへとこそ申(まうし)けるに、あまりにあはて(あわて)て四(よつ)の足(あし)をぞゆうたりける。其(その)後(のち)蔵人(くらんど)の頸(くび)に縄(なは)をかけてからめ、ひきおこしておしすへ(すゑ)たり。「水(みづ)まいらせよ(まゐらせよ)」との給(たま)へば、ほしい(ほしひ)をあらふ(あらう)てまいらせ(まゐらせ)たり。水(みづ)をばめして糒(ほしひ・ほしいひ)をばめさず。さしをき(おき)給(たま)へば、常陸房(ひたちばう)と(ッ)てくうて(ン)げり。「わ僧(そう)は山法師(やまぼふし・やまほうし)か」。「山法師(やまぼふし・やまほうし)で候(さうらふ)」。「誰(たれ)といふぞ」。「西塔(さいたふの・さいとうの)北谷(きただに)法師(ぼふし・ぼうし)常陸房(ひたちばう)正明(しやうめい)と申(まうす)者(もの)で候(さうらふ)」。「さては行家(ゆきいへ)につかはれんといひし僧(そう)か」。「さ(ン)候(ざうらふ)」。「頼朝(よりとも)が使(つかひ)か、平六(へいろく)が使(つかひ)か」。「鎌倉殿(かまくらどの)の御使(おんつかひ・おつかひ)候(ざうらふ)。
誠(まこと)に鎌倉殿(かまくらどの)をば討(うち)まいらせ(まゐらせ)むとおぼしめし候(さうらひ)しか」。「是(これ)程(ほど)の身(み)にな(ッ)て後(のち)おもはざりしといはばいかに。おもひしといはばいかに。手(て)なみの程(ほど)はいかがおもひつる」との給(たま)へば、「山上(さんじやう)にておほくの事(こと)にあふ(あう)て候(さうらふ)に、いまだ是(これ)ほど手(て)ごはき事(こと)にあひ候(さうら)はず。よき敵(かたき)三人(さんにん)に逢(あひ)たる心地(ここち)こそし候(さうらひ)つれ」と申(まうす)。「さて正明(しやうめい)をばいかが思食(おぼしめ)され候(さうらひ)つる」と申(まう)せば、「それはとられなんうへは」とぞの給(たま)ひける。
「その太刀(たち)とりよせよ」とて見(み)給(たま)へば、蔵人(くらんど)の太刀(たち)は一所(いつしよ)もきれず、常陸房(ひたちばう)が太刀(たち)は四十二所(しじふにところ)きれたりけり。やがて伝馬(てんま)たてさせ、のせ奉(たてまつり)てのぼる程(ほど)に、其(その)夜(よ)は江口(えぐち)の長者(ちやうじや)がもとにとどま(ッ)て、夜(よ)もすがら使(つかひ)をはしらかす。明(あく)る日(ひ)の午刻(むまのこく)斗(ばかり)、北条(ほうでう)平六(へいろく)其(その)勢(せい)百騎(ひやくき)ばかり旗(はた)ささせて下(くだ)る程(ほど)に、淀(よど)のあかゐ河原(がはら)でゆき逢(あう・あふ)たり。「都(みやこ)へはいれ奉(たてまつ)るべからずといふ院宣(ゐんぜん)で候(さうらふ)。鎌倉殿(かまくらどの)の御気色(ごきしよく)も其(その)儀(ぎ)でこそ候(さうら)へ。はやはや御頸(おんくび)を給(たま)は(ッ)て、鎌倉殿(かまくらどの)の見参(げんざん)にいれて御恩(ごおん・ごをん)蒙(かうぶ)り給(たま)へ」といへば、さらばとてあかゐ河原(がはら)で十郎(じふらう・じうらう)蔵人(くらんど)の頸(くび)をきる。信太(しだの)三郎(さぶらう)先生(せんじやう)義教(よしのり)は醍醐(だいご)の山(やま)にこもりたるよしきこえしかば、おしよせてさがせどもなし。伊賀(いが)の方(かた)へ落(おち)ぬと聞(きこ)えしかば、服部(はつとり)平六(へいろく)先(さき)として、伊賀国(いがのくに)へ発向(はつかう)す。千度(せんど)の山寺(やまでら)にありと聞(きこ)えし間(あひだ・あいだ)、おしよせてからめむとするに、あはせの小袖(こそで)に大口(おほくち)ばかりきて、金(こがね)にてうちくくんだる腰(こし)の刀(かたな)にて腹(はら)かききつてぞふしたりける。
頸(くび)をば服部(はつとり)平六(へいろく)と(ッ)て(ン)げり。やがてもたせて京(きやう)へのぼり、北条(ほうでう)平六(へいろく)に見(み)せたりければ、「軈(やが)てもたせて下(くだ)り、鎌倉殿(かまくらどの)の見参(げんざん)に入(いれ)て御恩(ごおん・ごをん)蒙(かうぶ)り給(たま)へ」といひければ、常陸房(ひたちばう)・服部(はつとり)平六(へいろく)、おのおの頸共(くびども)もたせて鎌倉(かまくら)へくだり、見参(げんざん)にいれたりければ、「神妙(しんべう)也(なり)」とて、常陸房(ひたちばう)は笠井(かさゐ)へながさる。「下(くだ)りはてば勧賞(けんじやう)蒙(かうぶ)らむとこそおもひつるに、さこそなからめ、剰(あまつさへ・あま(ツ)さへ)流罪(るざい)に処(しよ)せらるる条(でう)存外(ぞんのほか)の次第(しだい)なり。かかるべしとしりたりせば、なにしか身命(しんみやう)を捨(すて)けん」と後悔(こうくわい)すれ共(ども)かひぞなき。されども中二年(なかにねん)といふにめしかへされ、「大将軍(たいしやうぐん)討(うち)たるものは冥加(みやうが)のなければ一旦(いつたん)いましめつるぞ」とて、但馬国(たじまのくに)に多田庄(ただのしやう)、摂津国(つのくに)に葉室(はむろ)二ケ所(にかしよ)給(たま)は(ッ)て帰(かへ)り上(のぼ)る。服部(はつとり)平六(へいろく)平家(へいけ)の祗候人(しこうにん)たりしかば、没官(もつくわん)せられたりける服部(はつとり)返(かへ)し給(たま)は(ッ)て(ン)げり。 
六代被斬 (ろくだいきられ) 

 

さる程(ほど)に、六代(ろくだい)御前(ごぜん)はやうやう十四五(じふしご)にもなり給(たま)へば、みめかたちいよいようつくしく、あたりもてりかかやくばかりなり。母(はは)うへ是(これ)を御覧(ごらん)じて、「あはれ世(よ)の世(よ)にてあらましかば、当時(たうじ)は近衛司(こんゑづかさ・このゑづかさ)にてあらんずるものを」との給(たま)ひけるこそあまりの事(こと)なれ。鎌倉殿(かまくらどの)常(つね)はおぼつかなげにおぼして、高雄(たかを・たかお)の聖(ひじり)のもとへ便宜(びんぎ)ごとに、「さても維盛卿(これもりのきやう)の子息(しそく)は何(なに)と候(さうらふ)やらむ。昔(むかし)頼朝(よりとも)を相(さう)し給(たま)ひしやうに、朝(てう)の怨敵(をんでき)をもほろぼし、会稽(くわいけい)の恥(はぢ)をも雪(きよ)むべきものにて候(さうらふ)か」と尋(たづね)申(まう)されければ、聖(ひじり)の御返事(おんぺんじ)には、「是(これ)は底(そこ)もなき不覚仁(ふかくじん)にて候(さうらふ)ぞ。御心(おんこころ)やすうおぼしめし候(さうら)へ」と申(まう)されけれ共(ども)、鎌倉殿(かまくらどの)猶(なほ・なを)も御心(おんこころ)ゆかずげにて、「謀反(むほん)おこさばやがてかたうどせうずる聖(ひじり)の御房(ごばう・ご(ン)ばう)也(なり)。但(ただし)頼朝(よりとも)一期(いちご)の程(ほど)は誰(たれ)か傾(かたぶく)べき。
子孫(しそん)のすゑぞしらぬ」との給(たま)ひけるこそおそろしけれ。母(はは)うへ是(これ)をきき給(たま)ひて、「いかにも叶(かなふ)まじ。はやはや出家(しゆつけ)し給(たま)へ」と仰(おほせ)ければ、六代(ろくだい)御前(ごぜん)十六(じふろく)と申(まうし)し文治(ぶんぢ)五年(ごねん)の春(はる)の比(ころ)、うつくしげなる髪(かみ)をかたのまはりにはさみおろし、かきの衣(ころも)、袴(はかま)に笈(おひ・をひ)な(ン)ど(など)こしらへ、聖(ひじり)にいとまこうて修行(しゆぎやう)にいでられけり。斎藤五(さいとうご)・斎藤六(さいとうろく)もおなじさまに出立(いでたち)て、御供(おんとも)申(まうし)けり。
まづ高野(かうや)へまいり(まゐり)、父(ちち)の善知識(ぜんぢしき)したりける滝口(たきぐち)入道(にふだう・にうだう)に尋(たづね)あひ、御出家(ごしゆつけ)の次第(しだい)、臨終(りんじゆう・りんじう)のあり様(さま)くはしうきき給(たま)ひて、「かつはその御跡(おんあと)もゆかし」とて、熊野(くまの)へまいり(まゐり)給(たま)ひけり。浜(はま)の宮(みや)の御前(ごぜん)にて父(ちち)のわたり給(たま)ひける山(やま)なりの島(しま)を見渡(みわた)して、渡(わた)らまほしくおぼしけれども、浪(なみ)かぜむかうてかなはねば、力(ちから)をよば(およば)でながめやり給(たま)ふにも、「我(わが)父(ちち)はいづくに沈(しづみ)給(たま)ひけむ」と、沖(おき)よりよするしら波(なみ)にもとはまほしくぞおもはれける。汀(みぎは)の砂(いさご)も父(ちち)の御骨(ごこつ)やらんとなつかしうおぼしければ、涙(なみだ)に袖(そで)はしほれ(しをれ)つつ、塩(しほ)くむあまの衣(ころも)ならねども、かはく(かわく)まなくぞ見(み)え給(たま)ふ。
渚(なぎさ)に一夜(ひとよ)とうりうして、念仏(ねんぶつ)申(まうし)経(きやう)よみ、ゆびのさきにて砂(いさご)に仏(ほとけ)のかたちをかきあらはして、あけければ貴(たつと・た(ツ)と)き僧(そう)を請(しやう)じて、父(ちち)の御(おん)ためと供養(くやう)じて、作善(さぜん)の功徳(くどく)さながら聖霊(しやうりやう)に廻向(ゑかう)して、亡者(まうじや)にいとま申(まうし)つつ、泣々(なくなく)都(みやこ)へ上(のぼ)られけり。小松殿(こまつどの)の御子(おんこ)丹後(たんごの)侍従(じじゆう・じじう)忠房(ただふさ)は、八島(やしま)のいくさより落(おち)てゆくゑ(ゆくへ)もしらずおはせしが、紀伊国(きいのくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)湯浅(ゆあさの)権守(ごんのかみ)宗重(むねしげ)をたのんで、湯浅(ゆあさ)の城(じやう)にぞこもられける。
是(これ)をきいて平家(へいけ)に心(こころ)ざしおもひける越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ・じらうびやうへ)・上総(かづさの)五郎兵衛(ごらうびやうゑ・ごらうびやうへ)・悪(あく)七兵衛(しつびやうゑ・しつびやうへ)・飛弾(ひだの)四郎兵衛(しらうびやうゑ・しらうびやうへ)以下(いげ)の兵共(つはものども)、つき奉(たてまつ)るよし聞(きこ)えしかば、伊賀(いが)伊勢(いせ)両国(りやうごく)の住人等(ぢゆうにんら・ぢうにんら)、われもわれもと馳集(はせあつま)る。究竟(くつきやう)の者共(ものども)〔数(す)〕百騎(ひやくき・ひやつき)たてこもるよし聞(きこ)えしかば、熊野(くまのの)別当(べつたう)、鎌倉殿(かまくらどの)より仰(おほせ)を蒙(かうぶり)て、両三月(りやうさんぐわつ)が間(あひだ・あいだ)八ケ度(はちかど)よせて攻戦(せめたたかふ)。城(じやう)の内(うち)の兵(つはもの)ども、命(いのち)をおしま(をしま)ずふせきければ、毎度(まいど)にみかたおい(おひ)ちらされ、熊野(くまの)法師(ぼふし・ぼうし)数(かず)をつくひ(つくい)てうたれにけり。
熊野(くまのの)別当(べつたう)、鎌倉殿(かまくらどの)へ飛脚(ひきやく)を奉(たてまつ)て、「当国(たうごく)湯浅(ゆあさ)の合戦(かつせん)の事(こと)、両三月(りやうさんぐわつ)が間(あひだ・あいだ)に八ケ度(はちかど)よせて攻戦(せめたたかふ)。され共(ども)城(じやう)の内(うち)の兵(つはもの)ども命(いのち)をおしま(をしま)ずふせく間(あひだ・あいだ)、毎度(まいど)に御方(みかた)おい(おひ)おとされて、敵(かたき)を寃(しえたぐる)に及(およば・をよば)ず。近国(きんごく)二三ケ国(にさんがこく)をも給(たま)は(ッ)て攻(せめ)おとすべき」よし申(まうし)たりければ、鎌倉殿(かまくらどの)「其(その)条(でう)、国(くに)の費(つひえ)人(ひと)の煩(わづらひ)なるべし。たてごもる所(ところ)の凶徒(きようど・けうど)は定(さだめ)て海山(うみやま)の盜人(ぬすびと)にてぞあるらん。山賊(さんぞく)海賊(かいぞく)きびしう守護(しゆご)して城(じやう)の口(くち)をかためてまぼるべし」とぞの給(たま)ひける。
其(その)定(ぢやう)にしたりければ、げにも後(のち)には人(ひと)一人(いちにん)もなかりけり。鎌倉殿(かまくらどの)はかりことに、「小松殿(こまつどの)の君達(きんだち)の、一人(いちにん)も二人(ににん)もいきのこり給(たま)ひたらむをば、たすけ奉(たてまつ)るべし。其(その)ゆへ(ゆゑ)は、池(いけ)の禅尼(ぜんに)の使(つかひ)として、頼朝(よりとも)を流罪(るざい)に申(まうし)なだめられしは、ひとへに彼(かの)内府(だいふ)の芳恩(はうおん・はうをん)なり」との給(たま)ひければ、丹後(たんごの)侍従(じじゆう・じじう)六波羅(ろくはら)へ出(いで)てなのられけり。やがて関東(くわんとう)へ下(くだ)し奉(たてまつ)る。鎌倉殿(かまくらどの)対面(たいめん)して「都(みやこ)へ御上(おんのぼり)候(さうら)へ。かたほとりにおもひあてまいらする(まゐらする)事(こと)候(さうらふ)」とて、すかし上(のぼ)せ奉(たてまつ)り、お(ッ)さまに人(ひと)をのぼせて勢田(せた)の橋(はし)の辺(へん)にて切(きつ)て(ン)げり。小松殿(こまつどの)の君達(きんだち)六人(ろくにん)の外(ほか)に、土佐守(とさのかみ)宗実(むねざね)とておはしけり。
三歳(さんざい)より大炊御門(おほいのみかど・おほいみかど)の左大臣(さだいじん)経宗卿(つねむねのきやう)の養子(やうじ)にして、異姓(いしやう)他人(たにん)になり、武芸(ぶげい)の道(みち)をばうち捨(すて)て、文筆(ぶんひつ)をのみたしな(ン)で、今年(ことし)は十八(じふはち)になり給(たま)ふを、鎌倉殿(かまくらどの)より尋(たづね)はなかりけれ共(ども)世(よ)に憚(はばか・ッ)ておい(おひ)出(いだ)されたりければ、先途(せんど)をうしなひ、大仏(だいぶつ)の聖(ひじり)俊乗房(しゆんじようばう・しゆんぜうばう)のもとにおはして、「我(われ)は是(これ)小松(こまつ)の内府(だいふ)の末(すゑ)の子(こ)に、土佐守(とさのかみ)宗実(むねざね)と申(まうす)者(もの)にて候(さうらふ)。三歳(さんざい)より大炊御門(おほいのみかどの)左大臣(さだいじん)経宗公(つねむねこう)養子(やうじ)にして、異姓(いしやう)他人(たにん)になり、武芸(ぶげい)のみちを打捨(うちすて)て、文筆(ぶんひつ)をのみたしなんで、生年(しやうねん)十八歳(じふはつさい)に罷成(まかりなる)。鎌倉殿(かまくらどの)より尋(たづね)らるる事(こと)は候(さうら)はね共(ども)、世(よ)におそれておい(おひ)出(いだ)されて候(さうらふ)。聖(ひじり)の御房(ごばう・ごんぼう)御弟子(おんでし)にせさせ給(たま)へ」とて、もとどりおしきり給(たまひ)ぬ。
「それもなを(なほ)おそろしうおぼしめさば、鎌倉(かまくら)へ申(まうし)て、げにもつみふかかるべくはいづくへもつかはせ」との給(たま)ひければ、聖(ひじり)いとおしく(いとほしく)おもひ奉(たてまつ)て、出家(しゆつけ)せさせ奉(たてまつ)り、東大寺(とうだいじ)の油倉(ゆくら)といふ所(ところ)にしばらくをき(おき)奉(たてまつ)て、関東(くわんとう)へ此(この)よし申(まう)されけり。「何(なに)さまにも見参(げんざん)してこそともかうもはからはめ。まづ下(くだ)し奉(たてまつ)れ」との給(たま)ひければ、聖(ひじり)力(ちから)をよば(およば)で関東(くわんとう)へ下(くだ)し奉(たてまつ)る。此(この)人(ひと)奈良(なら)を立(たち)給(たま)ひし日(ひ)よりして、飲食(いんしよく・ゐんしよく)の名字(みやうじ)をた(ッ)て、湯水(ゆみづ)をものどへいれず。
足柄(あしがら)こえて関本(せきもと)と云(いふ)所(ところ)にてつゐに(つひに)うせ給(たま)ひぬ。「いかにも叶(かなふ)まじき道(みち)なれば」とておもひきられけるこそおそろしけれ。さる程(ほど)に、建久(けんきう)元年(ぐわんねん)十一月(じふいちぐわつ)七日(なぬかのひ)鎌倉殿(かまくらどの)上洛(しやうらく)して、同(おなじき)九日(ここのかのひ)、正二位(じやうにゐ)大納言(だいなごん)になり給(たま)ふ。
同(おなじき)十一日(じふいちにち)、大納言(だいなごん)右大将(うだいしやう)を兼(けん)じ給(たま)へり。やがて両職(りやうしよく)を辞(じし)て、十二月(じふにぐわつ)四日(よつかのひ)関東(くわんとう)へ下向(げかう)。建久(けんきう)三年(さんねん)三月(さんぐわつ)十三日(じふさんにち)、法皇(ほふわう・ほうわう)崩御(ほうぎよ)なりにけり。御歳(おんとし)六十六(ろくじふろく)、偸伽(ゆが)振鈴(しんれい)の響(ひびき)は其(その)夜(よ)をかぎり、一乗(いちじよう・いちぜう)案誦(あんじゆ)の御声(みこゑ)は其(その)暁(あかつき)におはり(をはり)ぬ。同(おなじき)六年(ろくねん)三月(さんぐわつ)十三日(じふさんにち)、大仏供養(だいぶつくやう)あるべしとて、二月中(にぐわつちゆう・にんぐわつぢう)に鎌倉殿(かまくらどの)又(また)御上洛(ごしやうらく)あり。同(おなじき)十二日(じふににち)、大仏殿(だいぶつでん)へまいら(まゐら)せ給(たま)ひたりけるが、梶原(かぢはら)を召(めし)て、「て(ン)がいの門(もん)の南(みなみ)のかたに大衆(だいしゆ)なん十人(じふにん)をへだてて、あやしばうだるものの見(み)えつる。めしと(ッ)てまいらせよ(まゐらせよ)」との給(たま)ひければ、梶原(かぢはら)承(うけたま)は(ッ)てやがて具(ぐ)してまいり(まゐり)たり。ひげをばそ(ッ)てもとどりをばきらぬ男(をのこ・おのこ)也(なり)。「何者(なにもの)ぞ」ととひ給(たま)へば、「是(これ)程(ほど)運命(うんめい)尽(つき)はて候(さうらひ)ぬるうへは、とかう申(まうす)にをよば(およば)ず。是(これ)は平家(へいけ)の侍(さぶらひ)薩摩(さつまの)中務(なかつかさ)家資(いへすけ)と申(まうす)ものにて候(さうらふ)」。「それは何(なに)とおもひてかくはなりたるぞ」。
「もしやとねらひ申(まうし)候(さうらひ)つるなり」。「心(こころ)ざしの程(ほど)はゆゆしかり」とて、供養(くやう)はてて都(みやこ)へいらせ給(たま)ひて、六条河原(ろくでうかはら)にてきられにけり。平家(へいけ)の子孫(しそん)は去(さんぬる)文治(ぶんぢ)元年(ぐわんねん)の冬(ふゆ)の比(ころ)、ひとつ子(ご)ふたつ子(ご)をのこさず、腹(はら)の内(うち)をあけて見(み)ずといふばかりに尋(たづね)と(ッ)て失(うしな)て(ン)ぎ。今(いま)は一人(いちにん)もあらじとおもひしに、新中納言(しんぢゆうなごん・しんぢうなごん)の末(すゑ)の子(こ)に、伊賀(いがの)大夫(たいふ・たゆふ)知忠(ともただ)とておはしき。平家(へいけ)都(みやこ)を落(おち)しとき、三歳(さんざい)にてすてをか(おか)れたりしを、めのとの紀伊(きいの)次郎兵衛(じらうびやうゑ・じらうびやうへ)為教(ためのり)やしない(やしなひ)奉(たてまつ)て、ここかしこにかくれありきけるが、備後国(びんごのくに)太田(おほた)といふ所(ところ)にしのびつつゐたりけり。
やうやう成人(せいじん)し給(たま)へば、郡郷(ぐんがう)の地頭(ぢとう)守護(しゆご)あやしみける程(ほど)に、都(みやこ)へのぼり法性寺(ほつしやうじ)の一(いち)の橋(はし)なる所(ところ)にしのんでおはしけり。爰(ここ)は祖父(そぶ)入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)「自然(しぜん)の事(こと)のあらん時(とき)城郭(じやうくわく)にもせむ」とて堀(ほり)をふたへにほ(ッ)て、四方(しはう)に竹(たけ)をうへ(うゑ)られたり。さかも木(ぎ)ひいて、昼(ひる)は人音(ひとおと・ひとをと)もせず、よるになれば尋常(じんじやう)なるともがらおほく集(あつま・ッ)て、詩(し)作(つく)り歌(うた)よみ、管絃(くわんげん)な(ン)ど(など)して遊(あそび)ける程(ほど)に、何(なに)としてかもれ聞(きこ)えたりけむ。その比(ころ)人(ひと)のおぢをそれ(おそれ)けるは、一条(いちでう)の二位(にゐの)入道(にふだう・にうだう)義泰(よしやす)といふ人(ひと)なり。その侍(さぶらひ)に後藤兵衛(ごとうびやうゑ・ごとうびやうへ)基清(もときよ)が子(こ)に、新兵衛(しんびやうゑ)基綱(もとつな)「一(いち)の橋(はし)に違勅(いちよく)の者(もの)あり」と聞出(ききいだ)して、建久(けんきう)七年(しちねん)十月(じふぐわつ)七日(なぬかのひ)の辰(たつ)の一点(いつてん)に、其(その)勢(せい)百四五十騎(ひやくしごじつき)、一(いち)の橋(はし)へはせむかひ、おめき(をめき)さけんで攻戦(せめたたかふ)。
城(じやう)の内(うち)にも卅余人(さんじふよにん)ありける者共(ものども)、大肩(おほかた)ぬぎに肩(かた)ぬいで、竹(たけ)の影(かげ)よりさしつめひきつめ散々(さんざん)にいれば、馬(むま)人(ひと)おほく射(い・ゐ)ころされて、おもてをむかふべき様(やう)もなし。さる程(ほど)に、一(いち)の橋(はし)に違勅(いちよく)の者(もの)ありとききつたへ、在京(ざいきやう)の武士(ぶし)どもわれもわれもと馳(はせ)つどふ。程(ほど)なく一二千騎(いちにせんぎ)になりしかば、近辺(きんべん)の小(こ)いゑ(いへ)をこぼちよせ、堀(ほり)をうめ、おめき(をめき)さけんで攻入(せめいり)けり。城(じやう)のうちの兵共(つはものども)、うち物(もの)ぬいて走出(はしりいで)て、或(あるいは・あるは)討死(うちじ)にするものもあり、或(あるいは・あるは)いたでおうて自害(じがい)する者(もの)もあり。
伊賀(いがの)大夫(たいふ・たゆふ)知忠(ともただ)は生年(しやうねん)十六歳(じふろくさい)になられけるが、いた手(で)負(おう・をふ)て自害(じがい)し給(たま)ひたるを、めのとの紀伊(きいの)次郎兵衛(じらうびやうゑ・じらうびやうへ)入道(にふだう・にうだう)ひざの上(うへ)にかきのせ、涙(なみだ)をはらはらとながいて高声(かうしやう)に十念(じふねん・じうねん)となへつつ、腹(はら)かき切(きつ)てぞ死(しに)にける。其(その)子(こ)の兵衛(ひやうゑ・ひやうへ)太郎(たらう)・兵衛(ひやうゑ・ひやうへ)次郎(じらう)ともに討死(うちじに)してんげり。城(じやう)の内(うち)に卅(さんじふ)余人(よにん)ありける者共(ものども)、大略(たいりやく)討死(うちじに)自害(じがい)して、館(たち)には火(ひ)をかけたりけるを、武士(ぶし)ども馳入(はせいり)て手々(てんで・て(ン)で)に討(うち)ける頸共(くびども)と(ッ)て、太刀(たち)長刀(なぎなた)のさきにつらぬき、二位(にゐの)入道殿(にふだうどの・にうだうどの)へ馳(はせ)まいる(まゐる)。
一条(いちでう)の大路(おほち)へ車(くるま)やり出(いだ)して、頸(くび)ども実検(じつけん)せらる。紀伊(きいの)次郎兵衛(じらうびやうゑ・じらうびやうへ)入道(にふだう・にうだう)の頸(くび)は見(み)し(ッ)たるものも少々(せうせう)ありけり。伊賀(いがの)大夫(たいふ・たゆふ)の頸(くび)、人(ひと)争(いかで)かみしり奉(たてまつ)るべき。此(この)人(ひと)の母(はは)うへは治部卿局(ぢぶきやうのつぼね)とて、八条(はつでう)の女院(にようゐん)に候(さうら)はれけるを、むかへよせ奉(たてまつ)り見(み)せ奉(たてまつ)り給(たま)ふ。「三歳(さんざい)と申(まうし)し時(とき)、故(こ)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)にぐせられて西国(さいこく)へ下(くだ・ッ)し後(のち)は、いきたり共(とも)死(しし)たり共(とも)、そのゆくゑ(ゆくへ)をしらず。但(ただし)故(こ)中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)のおもひいづるところどころのあるは、さにこそ」とてなかれけるにこそ、伊賀(いがの)大夫(たいふ・たゆふ)の頸(くび)共(とも)人(ひと)し(ッ)て(ン)げれ。
平家(へいけ)の侍(さぶらひ)越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ・じらうびやうへ)盛次(もりつぎ)は但馬国(たじまのくに)へ落行(おちゆき)て気比(けひの)四郎(しらう)道弘(だうこう)が聟(むこ)にな(ッ)てぞゐたりける。道弘(だうこう)、越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ・じらうびやうへ)とはしらざりけり。され共(ども)錐(きりの)袋(ふくろ)にたまらぬ風情(ふぜい)にて、よるになればしうとが馬(むま)ひきいだいてはせひきしたり、海(うみ)の底(そこ)十四五町(じふしごちやう)、廿町(にじつちやう)くぐりな(ン)ど(など)しければ、地頭(ぢとう)守護(しゆご)あやしみける程(ほど)に、何(なに)としてかもれ聞(きこ)えたりけん、鎌倉殿(かまくらどの)御教書(みげうしよ)を下(くだ)されけり。
「但馬国(たじまのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)朝倉(あさくらの)太郎(たらう)大夫(たいふ・たゆふ)高清(たかきよ)、平家(へいけ)の侍(さぶらひ)越中(ゑつちゆうの・ゑつちうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ・じらうびやうへ)盛次(もりつぎ)、当国(たうごく)に居住(きよぢゆう・きよぢう)のよしきこしめす。めし進(まゐら・まいら)せよ」と仰下(おほせくだ)さる。気比ノ(けひの)四郎(しらう)は朝倉ノ(あさくらの)大夫(たいふ・たゆふ)が聟(むこ)なりければ、よびよせて、いかがしてからめむずると儀(ぎ)するに、「湯屋(ゆや)にてからむべし」とて、湯(ゆ)にいれて、したたかなるもの五六人(ごろくにん)おろしあはせてからめむとするに、とりつけばなげたおさ(たふさ)れ、をき(おき)あがればけたおさ(たふさ)る。互(たがひ・たがい)に身(み)はぬれたり、とりもためず。され共(ども)衆力(しゆりき)に強力(がうりき)かなはぬ事(こと)なれば、二三十人(にさんじふにん)ば(ッ)とよ(ッ)て、太刀(たち)のみね長刀(なぎなた)のゑ(え)にてうちなやしてからめとり、やがて関東(くわんとう)へまいらせ(まゐらせ)たりければ、御(おん)まへにひ(ッ)すゑさせて、事(こと)の子細(しさい)をめしとはる。
「いかに汝(なんぢ)は同(おなじ)平家(へいけ)の侍(さぶらひ)といひながら、故親(こしん)にてあんなるに、しなざりけるぞ」。「それはあまりに平家(へいけ)のもろくほろびてましまし候(さうらふ)間(あひだ・あいだ)、もしやとねらひまいらせ(まゐらせ)候(さうらひ)つるなり。太刀(たち)のみのよきをも、征矢(そや)の尻(しり)のかねよきをも、鎌倉殿(かまくらどの)の御(おん)ためとこそこしらへも(ッ)て候(さうらひ)つれ共(ども)、是(これ)程(ほど)に運命(うんめい)つきはて候(さうらひ)ぬるうへは、とかう申(まうす)にをよび(および)候(さうら)はず」。「心(こころ)ざしの程(ほど)はゆゆしかりけり。頼朝(よりとも)をたのまばたすけてつかはんは、いかに」。「勇士(ゆうじ)二主(じしゆ)に仕(つか)へず、盛次(もりつぎ)程(ほど)の者(もの)に御心(おんこころ)ゆるしし給(たま)ひては、かならず御後悔(ごこうくわい)候(さうらふ)べし。ただ御恩(ごおん・ごをん)にはとくとく頸(くび)をめされ候(さうら)へ」と申(まうし)ければ、「さらばきれ」とて、由井(ゆゐ)の浜(はま)にひきいだひ(いだい)て、き(ッ)て(ン)げり。ほめぬものこそなかりけれ。
其(その)比(ころ)の主上(しゆしやう)は御遊(ぎよいう・ぎよゆう)をむねとせさせ給(たま)ひて、政道(せいたう)は一向(いつかう)卿(きやう)の局(つぼね)のままなりければ、人(ひと)の愁(うれへ)なげきもやまず。呉王(ごわう)剣角(けんかく)をこのんじかば天下(てんが)に疵(きず)を蒙(かうぶ)るものたえず。楚王(そわう)細腰(さいえう・さいよう)を愛(あいせ・あひせ)しかば、宮中(きゆうちゆう・きうちう)に飢(うゑ・うへ)て死(し)するをんなおほかりき。上(かみ)の好(このみ)に下(しも)は随(したが)ふ間(あひだ・あいだ)、世(よ)のあやうき(あやふき)事(こと)をかなしんで、心(こころ)ある人々(ひとびと)は歎(なげき)あへり。ここに文覚(もんがく)もとよりおそろしき聖(ひじり)にて、いろう(いろふ)まじき事(こと)にいろい(いろひ)けり。二(に)の宮(みや)は御学問(ごがくもん)おこたらせ給(たま)はず、正理(しやうり)を先(さき)とせさせ給(たま)ひしかば、いかにもして此(この)宮(みや)を位(くらゐ)に即(つけ・ツケ)奉(たてまつ)らむとはからひけれども、前(さきの)右大将(うだいしやう)頼朝卿(よりとものきやう)のおはせし程(ほど)にかなはざりけるが、建久(けんきう)十年(じふねん)正月(しやうぐわつ)十三日(じふさんにち)、頼朝卿(よりとものきやう)うせ給(たま)ひしかば、やがて謀反(むほん)をおこさんとしける程(ほど)に、忽(たちまち)にもれきこえて、二条猪熊(にでうゐのくま)の宿所(しゆくしよ)に官人共(くわんにんども)つけられ、めしと(ッ)て八十(はちじふ)にあま(ッ)て後(のち)、隠岐国(おきのくに・をきのくに)へぞながされける。
文覚(もんがく)京(きやう)を出(いづ)るとて、「是(これ)程(ほど)老(おい)の波(なみ)に望(のぞん)で、けふあすともしらぬ身(み)をたとひ勅勘(ちよくかん)なりとも、都(みやこ)のかたほとりにはをき(おき)給(たま)はで、隠岐国(おきのくに・をきのくに)までながさるる及丁(ぎつちやう)冠者(くわんじや)こそやすからね。つゐに(つひに)は文覚(もんがく)がながさるる国(くに)へむかへ申(まう)さんずる物(もの)を」と申(まうし)けるこそおそろしけれ。されば、承久(じようきう・ぜうきう)に御謀反(ごむほん)おこさせ給(たま)ひて、国(くに)こそおほけれ、隠岐国(おきのくに・をきのくに)へうつされ給(たま)ひけるこそふしぎなれ。彼(かの)国(くに)にも文覚(もんがく)が亡霊(ばうれい)あれて、つねは御物語(おんものがたり)申(まうし)けるとぞ聞(きこ)えし。さる程(ほど)に六代(ろくだい)御前(ごぜん)は三位(さんみの・さんゐの)禅師(ぜんじ)とて、高雄(たかを・たかお)におこなひすましておはしけるを、「さる人(ひと)の子(こ)なり、さる人(ひと)の弟子(でし)なり。
かしらをばそ(ッ)たりとも、心(こころ)をばよもそらじ」とて鎌倉殿(かまくらどの)より頻(しきり)に申(まう)されければ、安(あん)判官(はんぐわん)資兼(すけかぬ)に仰(おほせ)て召(めし)捕(と・ッ)て関東(くわんとう)へぞ下(くだ)されける。駿河国(するがのくにの)住人(ぢゆうにん・ぢうにん)岡辺(をかべの)権守(ごんのかみ)泰綱(やすつな)に仰(おほせ)て、田越河(たごしがは)にて切ラ(きら)れて(ン)げり。十二(じふに)の歳(とし)より卅(さんじふ)にあまるまでたもちけるは、ひとへに長谷(はせ)の観音(くわんおん・くわんをん)の御利生(ごりしやう)とぞ聞(きこ)えし。それよりしてこそ平家(へいけ)の子孫(しそん)はながくたえにけれ。
応安三年(さんねん)十一月(じふいちぐわつ)廿九日(にじふくにち)仏子有阿書 
 
平家物語 灌頂巻

 

女院出家 (にようゐんしゆつけ) 
建礼門院(けんれいもんゐん)は、東山(ひがしやま)の麓(ふもと)、吉田(よしだ)の辺(へん)なる所(ところ)にぞ立(たち)いらせ給(たま)ひける。中納言(ちゆうなごんの・ちうなごんの)法印(ほふいん・ほうゐん)慶恵(きやうゑ)と申(まうし)ける奈良(なら)法師(ぼふし・ぼうし)の坊(ばう)なりけり。住(すみ)あらして年(とし)久(ひさ)しうなりにければ、庭(には)には草(くさ)ふかく、簷(のき)にはしのぶ茂(しげ)れり。
簾(すだれ)たえ閨(ねや)あらはにて、雨風(あめかぜ)たまるやうもなし。花(はな)は色々(いろいろ)にほへども、あるじとたのむ人(ひと)もなく、月(つき)はよなよなさしいれど、ながめてあかすぬしもなし。
昔(むかし)は玉(たま)の台(うてな)をみがき、錦(にしき)の帳(ちやう)にまとはれて、あかし暮(くら)し給(たま)ひしに、いまはありとしある人(ひと)にはみな別(わかれ)はてて、あさましげなるくち坊(ばう)にいらせ給(たま)ひける御心(おんこころ)の内(うち)、おしはかられて哀(あはれ)なり。魚(うを・うほ)のくがにあがれるがごとく、鳥(とり)の巣(す)をはなれたるがごとし。さるままには、うかりし浪(なみ)の上(うへ)、船(ふね)の中(うち)の御(おん)すまゐ(すまひ)も、今(いま)は恋(こひ)しうぞおぼしめす。蒼波(さうは)路(みち)遠(とほ・とを)し、思(おもひ)を西海(さいかい)千里(せんり)の雲(くも)によせ、白屋(はくをく)苔(こけ)ふかくして、涙(なんだ)東山(とうざん)一庭(いつてい)の月(つき)におつ。かなしともいふはかりなし。かくて女院(にようゐん)は文治(ぶんぢ)元年(ぐわんねん)五月(ごぐわつ)一日(ついたちのひ)、御(おん)ぐしおろさせ給(たま)ひけり。御戒(おんかい)の師(し)には長楽寺(ちやうらくじ)の阿証房(あしようばう・あしやうばう)の上人(しやうにん)印誓(いんぜい・ゐんぜい)とぞきこえし。
御布施(おんふせ)には、先帝(せんてい)の御直衣(おんなほし・おんなをし)なり。今(いま)はの時(とき)までめされたりければ、その御(おん)うつり香(が)もいまだうせず。御(おん)かたみに御(ご)らむ(らん)ぜんとて、西国(さいこく)よりはるばると都(みやこ)までもたせ給(たま)ひたりければ、いかならん世(よ)までも御身(おんみ)をはなたじとこそおぼしめされけれども、御布施(おんふせ)になりぬべき物(もの)のなきうへ、かつうは彼(かの)御菩提(ごぼだい)のためとて、泣々(なくなく)とりいださせ給(たま)ひけり。上人(しやうにん)是(これ)を給(たま)は(ッ)て、何(なに)と奏(そう)するむねもなくして、墨染(すみぞめ)の袖(そで)をしぼりつつ、泣々(なくなく)罷出(まかりいで)られけり。此(この)御衣(ぎよい)をば幡(はた)にぬうて、長楽寺(ちやうらくじ)の仏前(ぶつぜん)にかけられけるとぞ聞(きこ)えし。女院(にようゐん)は十五(じふご)にて女御(にようご)の宣旨(せんじ)をくだされ、十六(じふろく)にて后妃(こうひ)の位(くらゐ)に備(そなは)り、君王(くんわう)の傍(かたはら)に候(さうら)はせ給(たま)ひて、朝(あした)には朝政(あさまつりごと)をすすめ、よるは夜(よ)を専(もつぱら)にし給(たま)へり。廿二(にじふに)にて皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)、皇太子(くわうたいし・くはうたいし)にたち、位(くらゐ)につかせ給(たま)ひしかば、院号(ゐんがう)蒙(かうぶ)らせ給(たま)ひて、建礼門院(けんれいもんゐん)とぞ申(まうし)ける。入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)の御娘(おんむすめ)なるうへ、天下(てんが)の国母(こくぼ)にてましましければ、世(よ)のおもうし奉(たてまつ)る事(こと)なのめならず。
今年(ことし)は廿九(にじふく)にぞならせ給(たま)ふ。桃李(たうり)の御粧(おんよそほひ)猶(なほ)こまやかに、芙蓉(ふよう)の御(おん)かたちいまだ衰(おとろへ・をとろへ)させ給(たま)はね共(ども)、翡翠(ひすい)の御(おん)かざしつけても何(なに)にかはせさせ給(たま)ふべきなれば、遂(つひ・つゐ)に御(おん)さまをかへさせ給(たま)ふ。浮世(うきよ)をいとひ、まことの道(みち)にいらせ給(たま)へども、御歎(おんなげき)は更(さら)につきせず。人々(ひとびと)いまはかくとて海(うみ)にしづみし有様(ありさま)、先帝(せんてい)・二位殿(にゐどの)の御面影(おんおもかげ)、いかならん世(よ)までも忘(わすれ)がたくおぼしめすに、露(つゆ)の御命(おんいのち)なにしに今(いま)までながらへて、かかるうき目(め)を見(み)るらんとおぼしめしつづけて、御涙(おんなみだ)せきあへさせ給(たま)はず。五月(ごぐわつ)の短夜(みじかよ)なれども、あかしかねさせ給(たま)ひつつ、をのづから(おのづから)もうちまどろませ給(たま)はねば、昔(むかし)の事(こと)は夢(ゆめ)にだにも御(ご)らんぜず。壁(かべ)にそむける残(のこん)の燈(ともしび)の影(かげ)かすかに、夜(よ)もすがら窓(まど)うつくらき雨(あめ)の音(おと・をと)ぞさびしかりける。
上陽人(しやうやうじん)が上陽宮(しやうやうきゆう・しやうやうきう)に閉(とぢ)られけむかなしみも、是(これ)には過(すぎ)じとぞ見(み)えし。昔(むかし)をしのぶつまとなれとてや、もとのあるじのうつしうへ(うゑ)たりけむはな橘(たちばな)の、簷(のき)ちかく風(かぜ)なつかしうかほりけるに、郭公(ほととぎす)二(ふた)こゑ三(み)こゑをとづれ(おとづれ)ければ、女院(にようゐん)ふるき事(こと)なれ共(ども)おぼしめし出(いで)て、御硯(おんすずり)のふたにかうぞあそばされける。
郭公(ほととぎす)花(はな)たちばなの香(か)をとめてなくはむかしの人(ひと)や恋(こひ)しき
女房達(にようばうたち)さのみたけく、二位殿(にゐどの)・越前(ゑちぜん)の三位(さんみ・さんゐ)のうへのやうに、水(みづ)の底(そこ)にも沈(しづ)み給(たま)はねば、武(もののふ)のあらけなきにとらはれて、旧里(きうり)にかへり、わかきもおいたるもさまをかへ、かたちをやつし、あるにもあらぬありさまにてぞ、おもひもかけぬ谷(たに)の底(そこ)、岩(いは)のはざまにあかし暮(くら)し給(たま)ひける。
すまゐ(すまひ)し宿(やど)は皆(みな)煙(けぶり)とのぼりにしかば、むなしき跡(あと)のみ残(のこ)りて、しげき野(の)べとなりつつ、みなれし人(ひと)のとひくるもなし。仙家(せんか)より帰(かへ・ッ)て七世(しちせ)の孫(まご)にあひけんも、かくやとおぼえて哀(あはれ)なり。さる程(ほど)に、七月(しちぐわつ)九日(ここのかのひ)の大地震(だいぢしん)に築地(ついぢ)もくづれ、荒(あれ)たる御所(ごしよ)もかたぶきやぶれて、いとどすませ給(たま)ふべき御(おん)たよりもなし。
緑衣(りよくい)の監使(かんし)宮門(きゆうもん・きうもん)をまぼるだにもなし。心(こころ)のままに荒(あれ)たる籬(まがき)は、しげき野辺(のべ)よりも露(つゆ)けく、おりしりがほ(をりしりがほ)にいつしか虫(むし)のこゑごゑうらむるも、哀(あはれ)なり。
夜(よ)もやうやうながくなれば、いとど御(おん)ね覚(ざめ)がちにて明(あか)しかねさせ給(たま)ひけり。つきせぬ御(おん)ものおもひに、秋(あき)のあはれさへうちそひて、しのびがたくぞおぼしめされける。何事(なにごと)もかはりはてぬる浮世(うきよ)なれば、をのづから(おのづから)あはれをかけ奉(たてまつ)るべき草(くさ)のたよりさへかれはてて、誰(たれ)はぐくみ奉(たてまつ)るべしとも見(み)え給(たま)はず。 
大原入 (おほはらいり) 

 

されども冷泉(れいぜいの)大納言(だいなごん)隆房卿(たかふさのきやう)・七条(しつでう)修理大夫(しゆりのだいぶ)信隆卿(のぶたかのきやう)の北方(きたのかた)、しのびつつやうやうにとぶらひ申(まう)させ給(たま)ひけり。「あの人々(ひとびと)どものはぐくみにてあるべしとこそ昔(むかし)はおもはざりしか」とて、女院(にようゐん)御涙(おんなみだ)をながさせ給(たま)へば、つきまいらせ(まゐらせ)たる女房達(にようばうたち)もみな袖(そで)をぞしぼられける。
此(この)御(おん)すまゐ(すまひ)も都(みやこ)猶(なほ)ちかく、玉(たま)ぼこの道(みち)ゆき人(びと)の人目(ひとめ)もしげくて、露(つゆ)の御命(おんいのち)風(かぜ)を待(また)ん程(ほど)は、うき事(こと)きかぬふかき山(やま)の奥(おく)のおくへも入(いり)なばやとはおぼしけれども、さるべきたよりもましまさず。ある女房(にようばう)のまい(ッ・まゐつ)て申(まうし)けるは、「大原山(おほはらやま)のおく、寂光院(じやくくわうゐん)と申(まうす)所(ところ)こそ閑(しづか)にさぶらへ」と申(まうし)ければ、「山里(やまざと)は物(もの)のさびしき事(こと)こそあるなれども、世(よ)のうきよりはすみよかんなる物(もの)を」とて、おぼしめしたたせ給(たま)ひけり。
御輿(おんこし)な(ン)ど(など)は隆房卿(たかふさのきやう)の北方(きたのかた)の御沙汰(ごさた)ありけるとかや。文治(ぶんぢ)元年(ぐわんねん)長月(ながつき)の末(すゑ)に、彼(かの)寂光院(じやくくわうゐん)へいらせ給(たま)ふ。道(みち)すがら四方(よも)の梢(こずゑ)の色々(いろいろ)なるを御覧(ごらん)じすぎさせ給(たま)ふ程(ほど)に、山(やま)かげなればにや、日(ひ)も既(すでに)くれかかりぬ。野寺(のでら)の鐘(かね)の入(いり)あひの音(おと・をと)すごく、わくる草葉(くさば)の露(つゆ)しげみ、いとど御袖(おんそで)ぬれまさり、嵐(あらし)はげしく木(こ)の葉(は)みだりがはし。空(そら)かきくもり、いつしかうちしぐれつつ、鹿(しか)の音(ね)かすかに音信(おとづれ・をとづれ)て、虫(むし)の恨(うらみ)もたえだえなり。とにかくにとりあつめたる御心(おんこころ)ぼそさ、たとへやるべきかたもなし。浦(うら)づたひ島(しま)づたひせし時(とき)も、さすがかくはなかりしものをと、おぼしめすこそかなしけれ。
岩(いは)に苔(こけ)むしてさびたる所(ところ)なりければ、すままほしうぞおぼしめす。露(つゆ)結(むす)ぶ庭(には)の萩原(はぎはら)霜(しも)がれて、籬(まがき)の菊(きく)のかれがれにうつろふ色(いろ)を御(ご)らんじても、御身(おんみ)の上(うへ)とやおぼしけん。仏(ほとけ)の御前(おんまへ)にまいら(まゐら)せ給(たま)ひて、「天子(てんし)聖霊(しやうりやう)成等(じやうどう)正覚(しやうがく)、頓証菩提(とんしようぼだい・とんしやうぼだい)」といのり申(まう)させ給(たま)ふにつけても、先帝(せんてい)の御面影(おんおもかげ)ひしと御身(おんみ)にそひて、いかならん世(よ)にかおぼしめしわすれさせ給(たま)ふべき。
さて寂光院(じやくくわうゐん)のかたはらに方丈(はうぢやう・はうじやう)なる御庵室(ごあんじつ)をむすんで、一間(いつけん)を御寝所(ごしんじよ)にしつらひ、一間(いつけん)をば仏所(ぶつしよ)に定(さだめ)、昼夜(ちうや)朝夕(あさゆふ)の御(おん)つとめ、長時(ちやうじ)不断(ふだん)の御念仏(おんねんぶつ)、おこたる事(こと)なくて月日(つきひ)を送(おく・をく)らせ給(たま)ひけり。かくて神無月(かみなづき)中(なか)の五日(いつか)の暮(くれ)がたに、庭(には)に散(ちり)しく楢(なら)の葉(は)をふみならして聞(きこ)えければ、女院(にようゐん)「世(よ)をいとふところになにもののとひくるやらむ。あれ見(み)よや、忍(しの)ぶべきものならばいそぎしのばん」とて、みせらるるに、をしかのとおる(とほる)にてぞありける。女院(にようゐん)いかにと御尋(おんたづね)あれば、大納言佐殿(だいなごんのすけどの)なみだをおさへて、
岩根(いはね)ふみたれかはとはむならの葉(は)のそよぐはしかのわたるなりけり
女院(にようゐん)哀(あはれ)におぼしめし、窓(まど)の小障子(こしやうじ)に此(この)歌(うた)をあそばしとどめさせ給(たま)ひけり。かかる御(おん)つれづれのなかにおぼしめしなぞらふる事共(ことども)は、つらき中(なか)にもあまたあり。軒(のき)にならべるうへ木(き・うゑき)をば、七重(しちぢゆう・しちぢう)宝樹(ほうじゆ)とかたどれり。岩間(いはま)につもる水(みづ)をば、八功徳水(はつくどくすい)とおぼしめす。
無常(むじやう)は春(はる)の花(はな)、風(かぜ)に随(したがひ)て散(ちり)やすく、有涯(うがい)は秋(あき)の月(つき)、雲(くも)に伴(ともな・ッ)て隠(かく)れやすし。承陽殿(しようやうでん・せうやうでん)に花(はな)を翫(もてあそび)し朝(あした)には、風(かぜ)来(きたつ)て匂(にほひ)を散(ちら)し、長秋宮(ちやうしうきゆう・ちやうしうきう)に月(つき)を詠(えい・ゑい)ぜし夕(ゆふべ)には、雲(くも)おほ(ッ)て光(ひかり)をかくす。昔(むかし)は玉楼(ぎよくろう)金殿(きんでん)に錦(にしき)の褥(しとね・シトネ)をしき、たへなりし御(おん)すまゐ(すまひ)なりしか共(ども)、今(いま)は柴(しば)引(ひき)むすぶ草(くさ)の庵(いほ)、よそのたもともしほれ(しをれ)けり。 
大原御幸 (おほはらごかう) 

 

かかりし程(ほど)に、文治(ぶんぢ)二年(にねん)の春(はる)の比(ころ)、法皇(ほふわう・ほうわう)、建礼門院(けんれいもんゐん)大原(おほはら)の閑居(かんきよ)の御(おん)すまゐ(すまひ)、御覧(ごらん)ぜまほしうおぼしめされけれども、きさらぎやよひの程(ほど)は風(かぜ)はげしく、余寒(よかん)もいまだつきせず。峯(みね)の白雪(しらゆき)消(き)えやらで、谷(たに)のつららもうちとけず。春(はる)すぎ夏(なつ)きた(ッ)て北(きた)まつりも過(すぎ)しかば、法皇(ほふわう・ほうわう)夜(よ)をこめて大原(おほはら)の奥(おく)へぞ御幸(ごかう)なる。しのびの御幸(ごかう)なりけれども、供奉(ぐぶ)の人々(ひとびと)、徳大寺(とくだいじ)・花山院(くわさんのゐん)・土御門(つちみかど)以下(いげ)、公卿(くぎやう)六人(ろくにん)、殿上人(てんじやうびと)八人(はちにん)、北面(ほくめん)少々(せうせう)候(さうらひ)けり。
鞍馬(くらま)どおり(くらまどほり)の御幸(ごかう)なれば、清原ノ(きよはらの)深養父(ふかやぶ)が補堕落寺(ふだらくじ)、小野(をの)の皇太后宮(くわうだいこうぐう)の旧跡(きうせき)〔を〕叡覧(えいらん)あ(ッ)て、それより御輿(おんこし)にめされけり。遠山(とほやま・とをやま)にかかる白雲(しらくも)は、散(ちり)にし花(はな)のかたみなり。青葉(あをば)に見(み)ゆる梢(こずゑ)には、春(はる)の名残(なごり)ぞおしま(をしま)るる。比(ころ)は卯月(うづき)廿日(はつか)あまりの事(こと)なれば、夏草(なつぐさ)のしげみが末(すゑ)を分(わけ)いらせ給(たま)ふに、はじめたる御幸(ごかう)なれば、御覧(ごらん)じなれたるかたもなし。人跡(じんせき)たえたる程(ほど)もおぼしめししられて哀(あはれ)なり。西(にし)の山(やま)の[ふ]もとに一宇(いちう)の御堂(みだう)あり。即(すなはち)寂光院(じやくくわうゐん)是(これ)也(なり)。
ふるう作(つく)りなせる前水(せんずい)木(こ)だち、よしあるさまの所(ところ)なり。「甍(いらか)やぶれては霧(きり)不断(ふだん)の香(かう)をたき、枢(とぼそ)おちては月(つき)常住(じやうぢゆう・ぢやうぢう)の燈(ともしび)をかかぐ」とも、かやうの所(ところ)をや申(まうす)べき。庭(には)の若草(わかくさ)しげりあひ、青柳(あをやぎ)の糸(いと)をみだりつつ、池(いけ)の蘋(うきくさ)浪(なみ)にただよひ、錦(にしき)をさらすかとあやまたる。中島(なかじま)の松(まつ)にかかれる藤(ふぢ)なみの、うら紫(むらさき)にさける色(いろ)、青葉(あをば)まじりのをそ桜(ざくら・おそざくら)、初花(はつはな)よりもめづらしく、岸(きし)のやまぶきさきみだれ、八重(やへ・やえ)たつ雲(くも)のたえ間(ま)より、山郭公(やまほととぎす)の一声(ひとこゑ)も、君(きみ)の御幸(ごかう)をまちがほなり。法皇(ほふわう・ほうわう)是(これ)を叡覧(えいらん・ゑいらん)あ(ッ)て、かうぞおぼしめしつづけける。
池水(いけみづ)にみぎはのさくら散(ちり)しきてなみの花(はな)こそさかりなりけれ
ふりにける岩(いは)のたえ間(ま)より、おちくる水(みづ)の音(おと・をと)さへ、ゆへび(ゆゑび)よしある所(ところ)なり。緑蘿ノ(りよくらの)牆(かき)、翠黛ノ(すいたいの)山(やま)、画(ゑ・え)にかくとも筆(ふで)もをよび(および)がたし。女院(にようゐん)の御庵室(ごあんじつ)を御覧(ごらん)ずれば、軒(のき)には蔦槿(つたあさがほ)はひかかり、信夫(しのぶ)まじりの忘草(わすれぐさ)、瓢箪(へうたん・ひようたん)しばしばむなし、草(くさ)顔淵(がんゑん・がんえん)が巷(ちまた)にしげし。
藜(れい)でうふかくさせり、雨(あめ)原憲(げんけん)が枢(とぼそ)をうるほすともい(ッ)つべし。杉(すぎ)の葺目(ふきめ)もまばらにて、時雨(しぐれ)も霜(しも)もをく(おく)露(つゆ)も、もる月影(つきかげ)にあらそひて、たまるべしとも見(み)えざりけり。うしろは山(やま)、前(まへ)は野辺(のべ)、いささをざさに風(かぜ)さはぎ(さわぎ)、世(よ)にたたぬ身(み)のならひとて、うきふししげき竹柱(たけばしら)、都(みやこ)の方(かた)のことづては、まどを(まどほ)にゆへるませ垣(がき)や、わづかにこととふものとては、峯(みね)に木(こ)づたふ猿(さる)のこゑ、しづがつま木(ぎ)のおの(をの)の音(おと・をと)、これらが音信(おとづれ・をとづれ)ならでは、まさ木(き)のかづら青(あを)つづら、くる人(ひと)まれなる所(ところ)なり。法皇(ほふわう・ほうわう)「人(ひと)やある、人(ひと)やある」とめされけれども、お(ン・おん)いらへ申(まうす)ものもなし。はるかにあ(ッ)て、老衰(おいおとろへ・おいをとろへ)たる尼(あま)一人(いちにん)まいり(まゐり)たり。
「女院(にようゐん)はいづくへ御幸(ごかう)なりぬるぞ」と仰(おほせ)ければ、「此(この)うへの山(やま)へ花(はな)つみにいらせ給(たま)ひてさぶらふ」と申(まうす)。「さやうの事(こと)につかへ奉(たてまつ)るべき人(ひと)もなきにや。さこそ世(よ)を捨(すつ)る御身(おんみ)といひながら、御(おん)いたはしうこそ」と仰(おほせ)ければ、此(この)尼(あま)申(まうし)けるは、「五戒(ごかい)十善(じふぜん・じうぜん)の御果報(ごくわはう・ごくわほう)つきさせ給(たま)ふによ(ッ)て、今(いま)かかる御目(おんめ)を御覧(ごらん)ずるにこそさぶらへ。捨身(しやしん)の行(ぎやう)になじかは御身(おんみ)ををしませ給(たま)ふべき。因果経(いんぐわきやう・ゐんぐわきやう)には「欲知過去因(よくちくわこいん・よくちくわこゐん)、見其現在果(けんごげんざいくわ)、欲知未来果(よくちみらいくわ)、見其現在因(けんごげんざいいん・けんごげんざいゐん)」ととかれたり。過去(くわこ)未来(みらい)の因果(いんぐわ・ゐんぐわ)をさとらせ給(たま)ひなば、つやつや御歎(おんなげき)あるべからず。悉達太子(しつだたいし)は十九(じふく)にて伽耶城(がやじやう)をいで、檀徳山(だんどくせん)のふもとにて、木葉(このは)をつらねてはだえ(はだへ)をかくし、嶺(みね)にのぼりて薪(たきぎ)をとり、谷(たに)にくだりて水(みづ)をむすび、難行(なんぎやう)苦行(くぎやう)の功(こう)によ(ッ)て、遂(つひ・つい)に成等(じやうどう)正覚(しやうがく)し給(たま)ひき」とぞ申(まうし)ける。
此(この)尼(あま)のあり様(さま)を御覧(ごらん)ずれば、きぬ布(ぬの)のわきも見(み)えぬ物(もの)を結(むす)びあつめてぞきたりける。「あのあり様(さま)にてもかやうの事(こと)申(まう)すふしぎさよ」とおぼしめし、「抑(そもそも)汝(なんぢ)はいかなるものぞ」と仰(おほせ)ければ、さめざめとないて、しばしは御返事(おんぺんじ)にも及(およ・をよ)ばず。良(やや)あ(ッ)て涙(なみだ)ををさへ(おさへ)て申(まうし)けるは、「申(まうす)につけても憚(はばかり)おぼえさぶらへども、故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう・にうだう)信西(しんせい)がむすめ、阿波(あは)の内侍(ないし)と申(まうし)しものにてさぶらふ也(なり)。
母(はは)は紀伊(きい)の二位(にゐ)、さしも御(おん)いとおしみ(いとほしみ)ふかうこそさぶらひしに、御覧(ごらん)じ忘(わすれ)させ給(たま)ふにつけても、身(み)のおとろへぬる程(ほど)も思(おも)ひしられて、今更(いまさら)せむかたなうこそおぼえさぶらへ」とて、袖(そで)をかほにおしあてて、しのびあへぬさま、目(め)もあてられず。法皇(ほふわう・ほうわう)も「されば汝(なんぢ)は阿波(あは)の内侍(ないし)にこそあんなれ。今更(いまさら)御覧(ごらん)じわすれける。
ただ夢(ゆめ)とのみこそおぼしめせ」とて、御涙(おんなみだ)せきあへさせ給(たま)はず。供奉(ぐぶ)の公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)も、「ふしぎの尼(あま)かなと思(おも)ひたれば、理(ことわり・ことはり)にてありけり」とぞ、をのをの(おのおの)申(まうし)あはれける。
あなたこなたを叡覧(えいらん・ゑいらん)あれば、庭(には)の千種(ちくさ)露(つゆ)おもく、籬(まがき)にたおれ(たふれ)かかりつつ、そとものを田(だ)も水(みづ)こえて、鴫(しぎ)たつひまも見(み)えわかず。御庵室(ごあんじつ)にいらせ給(たま)ひて、障子(しやうじ)を引(ひき)あけて御覧(ごらん)ずれば、一間(ひとま)には来迎(らいかう)〔の〕三尊(さんぞん)おはします。中尊(ちゆうぞん・ちうぞん)の御手(みて)には五色(ごしき)の糸(いと)をかけられたり。
左(ひだり)には普賢(ふげん)の画像(ゑざう・えざう)、右(みぎ)には善導和尚(ぜんだうくわしやう)并(ならび)に先帝(せんてい)の御影(みえい・みゑい)をかけ、八軸(はちぢく)の妙文(めうもん)・九帖(くでう)の御書(ごしよ)もをか(おか)れたり。蘭麝(らんじや)の匂(にほひ)に引(ひき)かへて、香(かう)の煙(けぶり)ぞ立(たち)のぼる。彼(かの)浄名居士(じやうみやうこじ)の方丈(はうぢやう・はうじやう)の室(しつ)の内(うち)に三万二千(さんまんにせん)の床(ゆか)をならべ、十方(じつぱう)の諸仏(しよぶつ)を請(しやう)じ奉(たてまつ)り給(たま)ひけむも、かくやとぞおぼえける。障子(しやうじ)には諸経(しよきやう)の要文共(えうもんども・ようもんども)、色紙(しきし)にかいて所々(しよしよ)におされたり。そのなかに大江(おほえ)の貞基(さだもと)法師(ぼふし・ぼうし)が清凉山(せいりやうざん)にして詠(えい・ゑい)じたりけむ「笙歌(せいが)遥(はるかに)聞(きこゆ)孤雲ノ(こうんの)上(うへ)、聖衆(しやうじゆ)来迎ス(らいかうす)落日(らくじつの)前(まへ)」ともかかれたり。すこし引(ひき)のけて女院(にようゐん)の御製(ぎよせい)とおぼしくて、
おもひきやみ山(やま)のおくにすまゐ(すまひ)して雲(くも)ゐの月(つき)をよそに見(み)むとは
さてかたはらを御覧(ごらん)ずれば、御寝所(ぎよしんじよ)とおぼしくて、竹(たけ)の御(おん)さほ(さを)にあさの御衣(おんころも)、紙(かみ)の御衾(おんふすま)な(ン)ど(など)かけられたり。
さしも本朝(ほんてう)漢土(かんど)のたへなるたぐひ数(かず)をつくして、綾羅(りようら・れうら)錦繍(きんしう)の粧(よそほひ)もさながら夢(ゆめ)になりにけり。供奉(ぐぶ)の公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)もをのをの(おのおの)見(み)まいらせ(まゐらせ)し事(こと)なれば、今(いま)のやうに覚(おぼえ)て、皆(みな)袖(そで)をぞしぼられける。さる程(ほど)に、うへの山(やま)より、こき墨染(すみぞめ)の衣(ころも)きたる尼(あま)二人(ににん)、岩(いは)のかけ路(みち)をつたひつつ、おりわづらひ給(たま)ひけり。法皇(ほふわう・ほうわう)是(これ)を御覧(ごらん)じて、「あれは何(なに)ものぞ」と御尋(おんたづね)あれば、老尼(らうに)涙(なみだ)ををさへ(おさへ)て申(まうし)けるは、「花(はな)がたみひぢにかけ、岩(いは)つつじとり具(ぐ)してもたせ給(たま)ひたるは、女院(にようゐん)にて渡(わた)らせ給(たま)ひさぶらふなり。爪木(つまぎ)に蕨(わらび)折具(をりぐ・おりぐ)してさぶらふは、鳥飼(とりかひ)の中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)維実(これざね)のむすめ、五条(ごでうの)大納言(だいなごん)国綱卿(くにつなのきやう)の養子(やうじ)、先帝(せんてい)の御(おん)めのと、大納言佐(だいなごんのすけ)」と申(まうし)もあへずなきけり。
法皇(ほふわう・ほうわう)もよに哀(あはれ)げにおぼしめして、御涙(おんなみだ)せきあへさせ給(たま)はず。女院(にようゐん)は「さこそ世(よ)を捨(すつ)る御身(おんみ)といひながら、いまかかる御(おん)ありさまを見(み)えまいらせ(まゐらせ)むずらんはづかしさよ。消(きえ)もうせばや」とおぼしめせどもかひぞなき。よひよひごとのあかの水(みづ)、結(むす)ぶたもともしほるる(しをるる)に、暁(あかつき)をき(おき)の袖(そで)の上(うへ)、山路(やまぢ)の露(つゆ)もしげくして、しぼりやかねさせ給(たま)ひけん、山(やま)へも帰(かへ)らせ給(たま)はず、御庵室(ごあんじつ)へもいらせ給(たま)はず、御涙(おんなみだ)にむせばせ給(たま)ひ、あきれてたたせましましたる所(ところ)に、内侍(ないし)の尼(あま)まいり(まゐり)つつ、花(はな)がたみをば給(たま)はりけり。 
六道之沙汰 (ろくだうのさた) 

 

「世(よ)をいとふならひ、なにかはくるしうさぶらふべき。はやはや御(ご)たいめんさぶらふ(さぶらう)て、還御(くわんぎよ)なしまいら(ッ・まゐらつ)させ給(たま)へ」と申(まうし)ければ、女院(にようゐん)御庵室(ごあんじつ)にいらせ給(たま)ふ。「一念(いちねん)の窓(まど)の前(まへ)には摂取(せつしゆ)の光明(くわうみやう)を期(ご)し、十念(じふねん・じうねん)の柴(しば)の枢(とぼそ)には、聖衆(しやうじゆ)の来迎(らいかう)をこそ待(まち)つるに、思外(おもひのほか)に御幸(ごかう)なりけるふしぎさよ」とて、なくなく御(ご)げんざんありけり。法皇(ほふわう・ほうわう)此(この)御(おん)ありさまを見(み)まいら(ッ・まゐらつ)させ給(たま)ひて、「非想(ひさう)の八万劫(はちまんごふ・はちまんごう)、猶(なほ・なを)必滅(ひつめつ)の愁(うれへ)に逢(あふ)。欲界(よくかい)の六天(ろくてん)、いまだ五衰(ごすい)のかなしみをまぬかれず。善見城(ぜんげんじやう)の勝妙(せうめう)の楽(らく)、中間禅(ちゆうげんぜん・ちうげんぜん)の高台(かうだい)の閣(かく)、又(また)夢(ゆめ)の裏(うち)の果報(くわはう・くわほう)、幻(まぼろし)の間(あひだ・あいだ)のたのしみ、既(すで)に流転(るてん)無窮(むきゆう・むきう)也(なり)。
車輪(しやりん)のめぐるがごとし。天人(てんにん)の五衰(ごすい)の悲(かなしみ)は、人間(にんげん)にも候(さうらひ)ける物(もの)を」とぞ仰(おほせ)ける。「さるにてもたれか事(こと)とひまいらせ(まゐらせ)候(さうらふ)。何事(なにごと)につけてもさこそ古(いにしへ)おぼしめしいで候(さうらふ)らめ」と仰(おほせ)ければ、「いづかたよりをとづるる(おとづるる)事(こと)もさぶらはず。隆房(たかふさ)・信隆(のぶたか)の北方(きたのかた)より、たえだえ申(まうし)送(おく・をく)る事(こと)こそさぶらへ。その昔(むかし)あの人(ひと)どものはぐくみにてあるべしとは露(つゆ)も思(おもひ)より候(さぶら)はず」とて、御涙(おんなみだ)をながさせ給(たま)へば、つきまいらせ(まゐらせ)たる女房達(にようばうたち)もみな袖(そで)をぞぬらされける。
女院(にようゐん)御涙(おんなみだ)ををさへ(おさへ)て申(まう)させ給(たま)ひけるは、「かかる身(み)になる事(こと)は一旦(いつたん)の歎(なげき)申(まうす)にをよび(および)候(さぶら)はねども、後生(ごしやう)菩提(ぼだい)の為(ため)には、悦(よろこび)とおぼえさぶらふなり。忽(たちまち)に釈迦(しやか)の遺弟(ゆいてい)につらなり、忝(かたじけな)く弥陀(みだ)の本願(ほんぐわん)に乗(じよう・ぜう)じて、五障(ごしやう)三従(さんじゆう・さんじう)のくるしみをのがれ、三時(さんじ)に六根(ろつこん)をきよめ、一(ひと)すぢに九品(くほん)の浄刹(じやうせつ)をねがふ。専(もつぱら)一門(いちもん)の菩提(ぼだい)をいのり、つねは三尊(さんぞん)の来迎(らいかう)を期(ご)す。
いつの世(よ)にも忘(わすれ)がたきは、先帝(せんてい)の御面影(おんおもかげ)、忘(わす)れんとすれども忘(わす)られず、しのばんとすれどもしのばれず。ただ恩愛(おんあい・をんあい)の道(みち)ほどかなしかりける事(こと)はなし。されば彼(かの)菩提(ぼだい)のために、あさゆふのつとめおこたる事(こと)さぶらはず。是(これ)もしかるべき善知識(ぜんぢしき)とこそ覚(おぼ)へ(おぼえ)さぶらへ」と申(まう)させ給(たま)ひければ、法皇(ほふわう・ほうわう)仰(おほせ)なりけるは、「此(この)国(くに)は粟散(そくさん)辺土(へんど)なりといへども、忝(かたじけな)く十善(じふぜん・じうぜん)の余薫(よくん)に答(こた)へて、万乗(ばんじよう・ばんぜう)のあるじとなり、随分(ずいぶん)一(いつ)として心(こころ)にかなはずといふ事(こと)なし。就中(なかんづく)仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)流布(るふ)の世(よ)にむまれて、仏道(ぶつだう)修行(しゆぎやう)の心(こころ)ざしあれば、後生(ごしやう)善所(ぜんしよ)疑(うたがひ)あるべからず。人間(にんげん)のあだなるならひは、今更(いまさら)おどろくべきにはあらねども、御(おん)ありさま見(み)奉(たてまつ)るに、あまりにせむかたなうこそ候(さうら)へ」と仰(おほせ)ければ、女院(にようゐん)重(かさね)て申(まう)させ給(たま)ひけるは、「我(われ)平相国(へいしやうこく)のむすめとして天子(てんし)の国母(こくぼ)となりしかば、一天四海(いつてんしかい)みなたなごころのままなり。
拝礼(はいれい)の春(はる)の始(はじめ)より、色々(いろいろ)の衣(ころも)がへ、仏名(ぶつみやう)の年(とし)のくれ、摂禄(せつろく)以下(いげ)の大臣(だいじん)公卿(くぎやう)にもてなされしありさま、六欲(ろくよく)四禅(しぜん)の雲(くも)の上(うへ)にて八万(はちまん)の諸天(しよてん)に囲繞(ゐねう)せられさぶらふらむ様(やう)に、百官(ひやくくわん)悉(ことごとく)あふがぬものやさぶらひし。清凉(せいりやう)紫宸(ししん)の床(ゆか)の上(うへ)、玉(たま)の簾(すだれ)のうちにてもてなされ、春(はる)は南殿(なんでん)の桜(さくら)に心(こころ)をとめて日(ひ)をくらし、九夏(きうか)三伏(さんぷく)のあつき日は、泉(いづみ)をむすびて心(こころ)をなぐさめ、秋(あき)は雲(くも)の上(うへ)の月(つき)をひとり見(み)む事(こと)をゆるされず。玄冬(けんとう)素雪(そせつ)のさむき夜(よ)は、妻(つま)を重(かさね)てあたたかにす。長生(ちやうせい)不老(ふらう)の術(じゆつ)をねがひ、蓬莱(ほうらい)不死(ふし)の薬(くすり)を尋(たづね)ても、ただ久(ひさ)しからむ事(こと)をのみおもへり。
あけてもくれても楽(たのしみ)さかへ(さかえ)し事(こと)、天上(てんじやう)の果報(くわはう・くわほう)も是(これ)には過(すぎ)じとこそおぼえさぶらひしか。それに寿永(じゆえい・じゆゑい)の秋(あき)のはじめ、木曾(きそ)義仲(よしなか)とかやにおそれて、一門(いちもん)の人々(ひとびと)住(すみ)なれし都(みやこ)をば雲井(くもゐ)のよそに顧(かへりみ)て、ふる里(さと)を焼野(やけの)の原(はら)とうちながめ、古(いにしへ)は名(な)をのみききし須磨(すま)より明石(あかし)の浦(うら)づたひ、さすが哀(あはれ)に覚(おぼえ)て、昼(ひる)は漫々(まんまん)たる浪路(なみぢ)を分(わけ)て袖(そで)をぬらし、夜(よる)は州崎(すざき)の千鳥(ちどり)と共(とも)になきあかし、浦々(うらうら)島々(しまじま)よしある所(ところ)を見(み)しかども、ふる里(さと)の事(こと)はわすれず。かくてよる方(かた)なかりしは、五衰(ごすい)必滅(ひつめつ)のかなしみとこそおぼえさぶらひしか。人間(にんげん)の事(こと)は愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(をんぞうゑく)、共(とも)に我(わが)身(み)にしられて侍(さぶ)らふ。
四苦(しく)八苦(はつく)一(ひとつ)として残(のこ)る所(ところ)さぶらはず。さても筑前国(ちくぜんのくに)太宰府(ださいふ)といふ所(ところ)にて、維義(これよし)とかやに九国(くこく)の内(うち)をも追出(おひいだ・をひいだ)され、山野(さんや)広(ひろし)といへども、立(たち)よりやすむべき所(ところ)もなし。同(おな)じ秋(あき)の末(すゑ)にもなりしかば、むかしは九重(ここのへ・ここのえ)の雲(くも)の上(うへ)にて見(み)し月(つき)を、いまは八重(やへ・やえ)の塩路(しほぢ)にながめつつ、あかしくらしさぶらひし程(ほど)に、神無月(かみなづき)の比(ころ)ほひ、清経(きよつね)の中将(ちゆうじやう・ちうじやう)が、「都(みやこ)のうちをば源氏(げんじ)がためにせめおとされ、鎮西(ちんぜい)をば維義(これよし)がために追出(おひいだ・をひいだ)さる。網(あみ)にかかれる魚(うを・うほ)の如(ごと)し。
いづくへゆかばのがるべきかは。ながらへはつべき身(み)にもあらず」とて、海(うみ)にしづみ侍(さぶら)ひしぞ、心(こころ)うき事(こと)のはじめにてさぶらひし。浪(なみ)の上(うへ)にて日(ひ)をくらし、船(ふね)の内(うち)にて夜(よ)をあかし、みつぎものもなかりしかば、供御(ぐご)を備(そな)ふる人(ひと)もなし。たまたま供御(ぐご)はそなへむとすれども、水(みづ)なければまいら(まゐら)ず。大海(だいかい)にうかぶといへども、うしほなればのむ事(こと)もなし。是(これ)又(また)餓鬼道(がきだう)の苦(く)とこそおぼえさぶらひしか。かくて室山(むろやま)・水島(みづしま)、ところどころのたたかひに勝(かち)しかば、人々(ひとびと)すこし色(いろ)なを(ッ・なほつ)て見(み)えさぶらひし程(ほど)に、一(いち)の谷(たに)といふ所(ところ)にて一門(いちもん)おほくほろびし後(のち)は、直衣(なほし・なをし)束帯(そくたい)をひきかへて、くろがねをのべて身(み)にまとひ、明(あけ)ても暮(くれ)てもいくさよばひのこゑたえざりし事(こと)、修羅(しゆら)の闘諍(とうじやう・たうじやう)、帝釈(たいしやく)の諍(あらそひ)も、かくやとこそおぼえさぶらひしか。「一谷(いちのたに)を攻(せめ)おとされて後(のち)、おやは子(こ)にをくれ(おくれ)、妻(つま)は夫(おつと・をつと)にわかれ、沖(おき)につりする船(ふね)をば敵(かたき)の船(ふね)かと肝(きも)をけし、遠(とほ・とを)き松(まつ)にむれゐる鷺(さぎ)をば、源氏(げんじ)の旗(はた)かと心(こころ)をつくす。
さても門司(もじ)・赤間(あかま)の関(せき)にて、いくさはけふを限(かぎり)と見(み)えしかば、二位(にゐ)の尼(あま)申(まうし)をく(おく)事(こと)さぶらひき。「男(をとこ・おとこ)のいき残(のこら)む事(こと)は千万(せんまん)が一(ひとつ)もありがたし。設(たとひ)又(また)遠(とほ・とを)きゆかりはをのづから(おのづから)いきのこりたりといふとも、我等(われら)が後世(ごせ)をとぶらはむ事(こと)もありがたし。昔(むかし)より女(をんな・をうな)はころさぬならひなれば、いかにもしてながらへて主上(しゆしやう)の後世(ごせ)をもとぶらひまいらせ(まゐらせ)、我等(われら)が後生(ごしやう)をもたすけ給(たま)へ」とかきくどき申(まうし)さぶらひしが、夢(ゆめ)の心地(ここち)しておぼえさぶらひし程(ほど)に、風(かぜ)にはかにふき、浮雲(うきぐも)あつくたなびいて、兵(つはもの)心(こころ)をまどはし、天運(てんうん)つきて人(ひと)の力(ちから)にをよび(および)がたし。
既(すで)に今(いま)はかうと見(み)えしかば、二位(にゐ)の尼(あま)先帝(せんてい)をいだき奉(たてまつり)て、ふなばたへ出(いで)し時(とき)、あきれたる御様(おんさま・をんさま)にて、「尼(あま)ぜわれをばいづちへ具(ぐ)してゆかむとするぞ」と仰(おほせ)さぶらひしかば、いとけなき君(きみ)にむかひ奉(たてまつ)り、涙(なみだ)をおさへて申(まうし)さぶらひしは、「君(きみ)はいまだしろしめされさぶらはずや。先世(ぜんぜ)の十善(じふぜん・じうぜん)戒行(かいぎやう)の御力(おんちから)によ(ッ)て、今(いま)万乗(ばんじよう・ばんぜう)のあるじとはむまれさせ給(たま)へども、悪縁(あくえん)にひかれて御運(ごうん)既(すで)につき給(たま)ひぬ。まづ東(ひがし・ひ(ン)がし)にむかはせ給(たま)ひて、伊勢大神宮(いせだいじんぐう)に御(おん)いとま申(まう)させ給(たま)ひ、其(その)後(のち)西方(さいはう)浄土(じやうど)の来迎(らいかう)にあづからむとおぼしめし、西(にし)にむかはせ給(たま)ひて御念仏(おんねんぶつ)侍(さぶ)らふべし。
此(この)国(くに)は心(こころ)うき堺(さかひ)にてさぶらへば、極楽(ごくらく)浄土(じやうど)とてめでたき所(ところ)へ具(ぐ)しまいらせ(まゐらせ)侍(さぶ)らふぞ」と泣々(なくなく)申(まうし)さぶらひしかば、山鳩色(やまばといろ)の御衣(ぎよい)にび(ン)づら(びんづら)いはせ給(たま)ひて、御涙(おんなみだ)におぼれ、ちいさう(ちひさう)うつくしい御手(おんて)をあはせ、まづ東(ひがし・ひ(ン)がし)をふしおがみ(をがみ)、伊勢大神宮(いせだいじんぐう)に御(おん)いとま申(まう)させ給(たま)ひ、其(その)後(のち)西(にし)にむかはせ給(たま)ひて、御念仏(おんねんぶつ)ありしかば、二〔位(にゐの−)尼(あま)やがて〕いだき奉(たてまつり)て、海(うみ)に沈(しづみ)し御面影(おんおもかげ)、目(め)もくれ、〔心(こころ)〕も消(き)〔えは〕てて、わすれんとすれども忘(わす)られず、忍(しの)ばむとすれどもしのばれず、残(のこり)とどまる人々(ひとびと)のおめき(をめき)さけびし声(こゑ)、叫喚(けうくわん)大叫喚(だいけうくわん)のほのお(ほのほ)の底(そこ)の罪人(ざいにん)も、これには過(すぎ)じとこそおぼえさぶらひしか。
さて武共(もののふども)にとらはれてのぼりさぶらひし時(とき)、播磨国(はりまのくに)明石浦(あかしのうら)について、ち(ッ)とうちまどろみてさぶらひし夢(ゆめ)に、昔(むかし)の内裏(だいり)にははるかにまさりたる所(ところ)に、先帝(せんてい)をはじめ奉(たてまつり)て、一門(いちもん)の公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)みなゆゆしげなる礼儀(れいぎ)にて侍(さぶら)ひしを、都(みやこ)を出(いで)て後(のち)かかる所(ところ)はいまだ見(み)ざりつるに、「是(これ)はいづくぞ」ととひ侍(さぶら)ひしかば、二位(にゐ)の尼(あま)と覚(おぼえ)て、「竜宮城(りゆうぐうじやう・りうぐうじやう)」と答(こたへ・こたえ)侍(さぶら)ひし時(とき)、「めでたかりける所(ところ)かな。是(これ)には苦(く)はなきか」ととひさぶらひしかば、「竜畜経(りゆうちくきやう・りうちくきやう)のなかに見(み)えて侍(さぶ)らふ。よくよく後世(ごせ)をとぶらひ給(たま)へ」と申(まう)すと覚(おぼ)えて夢(ゆめ)さめぬ。其(その)後(のち)はいよいよ経(きやう)をよみ念仏(ねんぶつ)して、彼(かの)御菩提(ごぼだい)をとぶらひ奉(たてまつ)る。
是(これ)皆(みな)六道(ろくだう)にたがはじとこそおぼえ侍(さぶら)へ」と申(まう)させ給(たま)へば、法皇(ほふわう・ほうわう)仰(おほせ)なりけるは、「異国(いこく)の玄弉(げんじやう)三蔵(さんざう)は、悟(さとり)の前(まへ)に六道(ろくだう)を見(み)、吾(わが)朝(てう)の日蔵(にちざう)上人(しやうにん)は、蔵王(ざわう)権現(ごんげん)の御力(おんちから・おちから)にて六道(ろくだう)を見(み)たりとこそうけ給(たま)はれ。是(これ)程(ほど)まのあたりに御覧(ごらん)ぜられける御事(おんこと)、誠(まこと)にありがたうこそ候(さうら)へ」とて、御涙(おんなみだ)にむせばせ給(たま)へば、供奉(ぐぶ)の公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)もみな袖(そで)をぞしぼられける。女院(にようゐん)も御涙(おんなみだ)をながさせ給(たま)へば、つきまいらせ(まゐらせ)たる女房達(にようばうたち)もみな袖(そで)をぞぬらされける。 
女院死去 (にようゐんしきよ) 

 

さる程(ほど)に寂光院(じやくくわうゐん)の鐘(かね)のこゑ、けふもくれぬとうちしられ、夕陽(せきやう)西(にし)にかたむけば、御名残(おんなごり)おしう(をしう)はおぼしけれども、御涙(おんなみだ)ををさへ(おさへ)て還御(くわんぎよ)ならせ給(たま)ひけり。女院(にようゐん)は今更(いまさら)いにしへをおぼしめし出(いだ)させ給(たま)ひて、忍(しのび)あへぬ御涙(おんなみだ)に、袖(そで)のしがらみせきあへさせ給(たま)はず。はるかに御覧(ごらん)じをくら(おくら)せ給(たま)ひて、還御(くわんぎよ)もやうやうのびさせ給(たま)ひければ、御本尊(ごほんぞん)にむかひ奉(たてまつ)り、「先帝(せんてい)聖霊(しやうりやう)、一門(いちもん)亡魂(ばうこん)、成等(じやうどう)正覚(しやうがく)、頓証菩提(とんしようぼだい・とんしやうぼだい)」と泣々(なくなく)いのらせ給(たま)ひけり。むかしは東(ひがし・ひ(ン)がし)にむかはせ給(たま)ひて、「伊勢大神宮(いせだいじんぐう)、正八幡大菩薩(しやうはちまんだいぼさつ)、天子(てんし)宝算(ほうさん)、千秋(せんしう)万歳(ばんぜい)」と申(まう)させ給(たま)ひしに、今(いま)はひきかへて西(にし)にむかひ、手(て)をあはせ、「過去(くわこ)聖霊(しやうりやう)、一仏(いちぶつ)浄土(じやうど)へ」といのらせ給(たま)ふこそ悲(かな)しけれ。御寝所(ぎよしんじよ)の障子(しやうじ)にかうぞあそばされける。
このごろはいつならひてかわがこころ大(おほ)みや人(びと)のこひしかるらむ
いにしへも夢(ゆめ)になりにし事(こと)なれば柴(しば)のあみ戸(ど)もひさしからじな
御幸(ごかう)の御供(おんとも)に候(さうら)はれける徳大寺(とくだいじの)左大臣(さだいじん)実定公(さねさだこう)、御庵室(ごあんじつ)の柱(はしら)にかきつけられけるとかや。
いにしへは月(つき)にたとへし君(きみ)なれどそのひかりなきみ山辺(やまべ)のさと
こしかた行末(ゆくすゑ)の事共(ことども)おぼしめしつづけて、御涙(おんなみだ・おなみだ)にむせばせ給(たま)ふ折(をり・おり)しも、山郭公(やまほととぎす)音信(おとづれ・をとづれ)ければ、女院(にようゐん)
いざさらばなみだくらべむ郭公(ほととぎす)われもうき世(よ)にねをのみぞなく
抑(そもそも)壇浦(だんのうら)にていきながらとられし人々(ひとびと)は、大路(おほち)をわたして、かうべをはねられ、妻子(さいし)にはなれて、遠流(をんる)せらる。池(いけ)の大納言(だいなごん)の外(ほか)は一人(いちにん)も命(いのち)をいけられず、都(みやこ)にをか(おか)れず。されども四十余人(しじふよにん)の女房達(にようばうたち)の御事(おんこと)、沙汰(さた)にもをよば(およば)ざりしかば、親類(しんるい)にしたがひ、所縁(しよえん)についてぞおはしける。上(かみ)は玉(たま)の簾(すだれ)の内(うち)までも、風(かぜ)しづかなる家(いへ)もなく、下(しも)は柴(しば)の枢(とぼそ)のもとまでも、塵(ちり)おさまれ(をさまれ)る宿(やど)もなし。枕(まくら)をならべしいもせも、雲(くも)ゐのよそにぞなりはつる。やしなひたてしおや子(こ)も、ゆきがたしらず別(わかれ)けり。
しのぶおもひはつきせねども、歎(なげき)ながらさてこそすごされけれ。是(これ)はただ入道(にふだう・にうだう)相国(しやうこく)、一天四海(いつてんしかい)を掌(たなごころ・たなこころ)ににぎ(ッ)て、上(かみ)は一人(いちにん)をもおそれず、下(しも)は万民(ばんみん)をも顧(かへりみ)ず、死罪(しざい)流刑(るけい)、おもふさまに行(おこな)ひ、世(よ)をも人(ひと)をも憚(はば)かられざりしがいたす所(ところ)なり。父祖(ふそ)の罪業(ざいごふ・ざいごう)は子孫(しそん)にむくふといふ事(こと)疑(うたがひ)なしとぞ見(み)えたりける。かくて年月(としつき)をすごさせ給(たま)ふ程(ほど)に、女院(にようゐん)御心地(おんここち・おここち)例(れい)ならずわたらせ給(たま)ひしかば、中尊(ちゆうぞん・ちうぞん)の御手(みて)の五色(ごしき)の糸(いと)をひかへつつ、「南無(なむ)西方極楽世界教主(さいはうごくらくせかいけうしゆ)弥陀如来(みだによらい)、かならず引摂(いんぜふ・ゐんぜう)し給(たま)へ」とて、御念仏(おんねんぶつ)ありしかば、大納言佐(だいなごんのすけ)の局(つぼね)・阿波(あはの)内侍(ないし)、左右(さう)によ(ッ)て、いまをかぎりのかなしさに、こゑもおしま(をしま)ずなきさけぶ。
御念仏(おんねんぶつ)のこゑやうやうよはら(よわら)せましましければ、西(にし)に紫雲(しうん)たなびき、異香(いきやう)室(しつ)にみち、音楽(おんがく・をんがく)そらにきこゆ。かぎりある御事(おんこと)なれば、建久(けんきう)二年(にねん)きさらぎの中旬(ちゆうじゆん・ちうじゆん)に、一期(いちご)遂(つひ・つい)におはら(をはら)せ給(たま)ひぬ。きさいの宮(みや)の御位(おんくらゐ)よりかた時(とき)もはなれまいらせ(まゐらせ)ずして候(さうらひ)なれ給(たまひ)しかば、御臨終(ごりんじゆう・ごりんじう)の御時(おんとき)、別路(わかれぢ)にまよひしもやるかたなくぞおぼえける。此(この)女房達(にようばうたち)は昔(むかし)の草(くさ)のゆかりもかれはてて、よるかたもなき身(み)なれ共(ども)、おりおり(をりをり)の御仏事(おんぶつじ)営(いとなみ)給(たま)ふぞ哀(あはれ)なる。
遂(つひ・つい)に彼(かの)人々(ひとびと)は、竜女(りゆうによ・りうによ)が正覚(しやうがく)の跡(あと)をおひ、韋提希夫人(ゐだいけぶにん・いだいけぶにん)の如(ごとく)に、みな往生(わうじやう)の素懐(そくわい)をとげけるとぞ聞(きこ)えし。
平家(へいけ)灌頂巻(くわんぢやうのまき)
于時応安四年亥辛三月十五日、平家物語一部十二巻付灌頂、当流之師説、伝受之秘决、一字不闕以口筆令書写之、譲与定一検校訖。抑愚質余算既過七旬、浮命難期後年、而一期之後、弟子等中雖為一句、若有廃忘輩者、定及諍論歟。仍為備後証、〔所令〕書留之也。此本努々不可出他所、又不可〔及〕他人之披見、附属弟子之外者、雖〔為〕同朋并弟子、更莫令書取之。凡此〔等〕条々〔背〕炳誡之者、仏神三宝冥罰可蒙厥躬而已。沙門覚一 
 
平徳子 [建礼門院]

 

(たいらのとくし/とくこ/のりこ、久寿2年-建保元年 / 1155-1214 )は、高倉天皇の中宮。安徳天皇の国母。父は平清盛、母は平時子。異母兄に重盛、基盛。同母兄弟に宗盛、知盛、重衡がいる。院号は建礼門院(けんれいもんいん)。
清盛と後白河法皇の政治的協調のため、高倉天皇に入内して第一皇子・言仁親王(後の安徳天皇)を産む。安徳天皇の即位後は国母となるが、高倉上皇と清盛が相次いで没し、木曾義仲の攻撃により都を追われ、壇ノ浦の戦いで安徳天皇・時子は入水、平氏一門は滅亡する。徳子は生き残り京へ送還されて出家、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔った。
『平家物語』「灌頂巻」では大原を訪れた後白河法皇に自らの人生を語り、全巻の幕引き役となっている。
入内
久寿2年(1155年)、平清盛と正室(継室)・時子との間に生まれる。 父の清盛は保元の乱・平治の乱に勝利して武士として初めて公卿となり、軍事・警察権を掌握して朝廷内に大きな勢力を築きつつあった。仁安元年(1166年)10月10日、後白河上皇は清盛の支援により憲仁親王(後の高倉天皇)の立太子を実現し、院政を開始する。清盛は大将を経ずに内大臣に任じられるという破格の待遇を受けた。しかし、後白河院政は内部に院近臣・堂上平氏・武門平氏・摂関家などといった互いに利害の異なる諸勢力を包摂していたため、常に分裂の危機を孕んでいた。高倉天皇の即位後も、嘉応の強訴において後白河院と平氏の政治路線の違いが表面化し、殿下乗合事件では平氏と摂関家が衝突するなど、政局の動揺が続いた。
承安元年(1171年)、高倉天皇が元服すると徳子入内の話が持ち上がる。『愚管抄』によると清盛が「帝ノ外祖ニテ世ヲ皆思フサマニトリテント」という望みを抱いたとする。後白河院も政治基盤の強化のためには清盛の協力が不可欠であり、入内を認めた。実現の背景には両者の対立を回避し、高倉天皇の治世安定を願う建春門院の意向が大きく反映したと思われる。
12月2日、院殿上において入内定が行われ、徳子は従三位に叙せられる(『玉葉』『兵範記』同日条)。 待賢門院の例が用いられ、徳子は後白河法皇と重盛の猶子となったが「かの例頗る相叶はざる由、世以てこれを傾く」(『玉葉』11月28日条)と周囲からは疑問の声が上がった。12月14日、徳子は法住寺殿に参上して、建春門院の手により着裳の儀を行ってから大内裏へ向かった。後白河法皇と建春門院は七条殿の桟敷から行列を見送ったが、その夜は「明月の光朗らかにして、白沙は昼の如し」(『兵範記』同日条)であったという。16日、徳子は女御となり、翌承安2年(1172年)2月10日、立后して中宮となった(『玉葉』同日条)。
中宮
徳子には子がすぐには生まれず、高倉天皇は乳母との間に功子内親王、小督局との間に範子内親王を儲けた。この時、清盛が激怒して小督局を追放したという話が『平家物語』にあるが事実かどうか疑わしい。 高倉天皇と徳子の関係が冷たいものだったという見方もあるが、天皇が側室を持つこと自体は珍しいことではなく『建礼門院右京大夫集』を見る限り仲睦まじい関係にあったと思われる。安元3年(1177年)の安元の強訴では、徳子は高倉天皇とともに内裏から法住寺殿に避難している(『玉葉』4月14日条)。
治承2年(1178年)5月24日、徳子の懐妊が明らかとなり、朝廷は出産のための祈祷に明け暮れた。その様子は中宮権大夫・中山忠親の『山槐記』に詳しい。後白河院も安産祈願に駆けつけている。11月12日、徳子は皇子を出産し、翌12月には「言仁」の名が定められ、立太子する。なお、翌治承3年(1179年)2月28日には藤原殖子所生の第二皇子(守貞親王、後の後高倉院)が誕生しているが『山槐記』の記述は極めて簡略であり、中宮所生の皇子と女房所生の皇子との格差を表している。
国母
治承3年(1179年)11月14日、清盛はクーデターを断行して後白河法皇を鳥羽殿に幽閉した(治承三年の政変)。翌治承4年(1180年)2月21日、高倉天皇は3歳の言仁親王に譲位して院政を開始、高倉院庁の別当は平氏一門と親平氏貴族で固められた。安徳帝の践祚に伴い、徳子も政治の案件について諮問を受けたり、指示を与えることが多くなる。 4月22日の即位式において、徳子は安徳天皇を抱いて高御座に登っている(『玉葉』『山槐記』同日条)。
しかし成立したばかりの高倉院政は、5月の以仁王の挙兵によって大きく揺さぶられた。挙兵は早期に鎮圧されたが園城寺・興福寺など反平氏勢力の脅威は依然として残り、6月2日、高倉上皇は清盛の強い意向により福原行幸を行う。しかし遷都計画の挫折、上皇の体調不良、各地の反乱激化もあり11月には京都に戻った。
徳子は行幸の際は安徳天皇と同輿するなど母后としての責務を果たしていたが、12月になると院号宣下を受けて后位を退き、病床の高倉上皇と同居することが検討された(『玉葉』12月19日条)。安徳天皇と同輿する准母には近衛基実の娘・通子が候補となったが、叔父の服喪で准后宣下が延引されるという事態になった。徳子は代わりの准母として、妹で近衛基通の正室である完子を推した(『山槐記』12月24日条)。結局は当初の予定通りに通子が准母となったが、徳子が安徳天皇の准母の選定について発言力を有していたことが分かる。
高倉上皇の崩御と清盛の死去
高倉上皇の病状は悪化の一途を辿り、治承5年(1181年)正月14日、21歳の若さで崩御した。この前日に上皇の没後に中宮を法皇の後宮に納めるという破天荒な案が飛び出し、清盛・時子も承諾したという情報が流れたが(『玉葉』正月13日条)、徳子は拒絶し、後白河法皇も辞退した。従順だった徳子が両親の意向に逆らったのは、この時だけだったと思われる。代わりに異母妹の御子姫君が後白河法皇の後宮入りする事となる。
高倉上皇の崩御により後白河院政の復活は避けられないものとなり、平氏は国政に関与する手段を失った。清盛は院近臣の解官・畿内惣官職の設置など矢継ぎ早に対策を講じていたが、徳子の中宮の地位を利用して影響力の保持を図った。平頼盛の八条邸への安徳帝行幸が中宮令旨によって諮問され(『玉葉』正月29日条)、高松院領荘園も高倉上皇の遺言と称して徳子に相続される。しかし清盛は熱病に倒れて、閏2月4日に死去した。
清盛の死後、後白河法皇は安徳天皇を八条頼盛邸から閑院に遷し(『吉記』4月10日条)、11月25日に徳子が院号宣下(建礼門院)を受けると殿上人を自ら清撰した(『明月記』12月1日条)。天皇と母后を平氏から引き離し、政治の実権を奪取する狙いがあったと推測される。寿永元年(1182年)には安徳帝准母も、通子から亮子内親王にすげ替えられた(『玉葉』『吉記』8月14日条)。
平氏と後白河法皇の間には当初から解消することのできない対立が存在したが、かつては建春門院が調整役を果たしていた。しかし周囲の状況は、以前と大きく変化していた。各地では反乱の火の手が燃え盛り、後白河法皇も院政停止・幽閉を経たことで平氏に不満を通り越して憎しみを抱いていた。夫を失い父も失った徳子には対立を抑える力はなく、政権の崩壊は目前に迫っていた。
平氏滅亡
寿永2年(1183年)5月、平氏の北陸追討軍が木曾義仲に撃破されたことで(倶利伽羅峠の戦い)、今まで維持されてきた軍事バランスは完全に崩壊した。延暦寺が義仲軍に就いたことで京都の防衛を断念した平宗盛は、徳子に都落ちの計画を伝えた(『平家物語』)。しかし、7月24日深夜、後白河法皇は密かに法住寺殿から比叡山に脱出していた。翌25日、法皇の脱出を知った宗盛は六波羅に火を放ち、安徳天皇・徳子・近衛基通・一族を引き連れて周章駆け出した(『吉記』7月25日条)。都に戻った後白河法皇は平氏追討宣旨を下し、ここに平氏は官軍から賊軍に転落することになる。西国に落ちた平氏は元暦2年(1185年)3月24日、壇ノ浦の戦いで滅亡した。
『平家物語』によると徳子は安徳天皇・時子の入水の後に自らも飛び込むが、渡辺昵に救助されたという。しかし同じ『平家物語』の「大原御幸」の章や説話集『閑居友』では、時子が「一門の菩提を弔うために生き延びよ」と徳子に命じたとしている。いずれが正しいか不明だが、生き残った徳子は平宗盛・平時忠らと京都に護送された。宗盛は斬首、時忠は配流となったが、徳子は罪に問われることはなく洛東の吉田の地に隠棲する。 5月1日には出家して、直如覚と名乗った。
7月9日、京都を大地震が襲い、多くの建物が倒壊した。吉田の坊も被害を受けたと思われ、9月になると徳子は「山里は物のさびしき事こそあれ 世の憂きよりは住みよかりけり」(『古今集』読人知らず)の心境で比叡山の北西の麓、大原寂光院に入った(『平家物語』)。大原を訪れた建礼門院右京大夫は、
御庵のさま、御住まひ、ことがら、すべて目も当てられず (ご庵室やお住まいの様子など、すべてまともに見ていられないほどひどいものだった)。
都ぞ春の錦を裁ち重ねて候ふし人々、六十余人ありしかど、見忘るるさまに衰へはてたる墨染めの姿して、僅かに三四人ばかりぞ候はるる (都ではわが世の春を謳歌して美しい着物を着重ねて仕えていた女房が、60人余りいたけれど、ここには見忘れるほどに衰えた尼姿で、僅かに3、4人だけがお仕えしている)。
と涙を流し、
今や夢昔や夢とまよはれて いかに思へどうつつぞとなき (今が夢なのか、それとも昔が夢なのかと心は迷い、どう考えても現実とは思えません)
仰ぎ見し昔の雲の上の月 かかる深山の影ぞ悲しき (雲の上のような宮中で見た中宮様を、このような深山で見るのは悲しいことです)
と歌を詠んでいる(『建礼門院右京大夫集』)。
大原御幸
後白河法皇が大原寂光院の徳子を訪ねる灌頂巻は古典文学『平家物語』の終巻で、徳子の極楽往生をもって作品は終わる。この大原御幸の史実性については諸説ある。
文治2年(1186年)4月、後白河法皇が徳大寺実定、花山院兼雅、土御門通親や北面武士を伴にお忍びで大原の閑居を訪ねてきた。
徳子は落魄した身を恥じらいながらも、泣く泣く法皇と対面して、「太政大臣清盛の娘(人間)として生まれ、国母となり、わたしの栄耀栄華は天上界にも及ぶまいと思っていましたが、やがて木曾義仲に攻められて都落ちし京を懐かしみ悲しみました。海上を流浪し飢えと渇きに餓鬼道の苦しみを受けました。そして、壇ノ浦の戦いで二位尼は「極楽浄土とてめでたき所へ具しまいらせ侍らふぞ」と言うと先帝を抱いて海に沈み、その面影は忘れようとしても忘れられません。残った人々の叫びは地獄の罪人のようでした。捕えられ播磨国明石まで来たとき、わたしは夢で昔の内裏よりも立派な場所で先帝と一門の人々が礼儀を正して控えているのを見ました。『ここはどこでしょう』と尋ねると『竜宮城ですよ』と答えられました。『ここに苦しみはあるのでしょうか』と問いますと『竜畜経に書かれています』と答えられました。それで、わたしは経を読み、先帝の菩提を弔っているのです」とこれまでのことを物語した。法皇は「あなたは目前に六道を見たのでしょう。珍しいことです」と答えて涙を流した。
没年
大原御幸後の徳子の動静については、はっきりしない。『吾妻鏡』文治3年(1187年)2月1日条の「源頼朝が平家没官領の中から摂津国真井・島屋両荘を徳子に与えた」こと、文治5年(1189年)に配流先から京都に戻った前権少僧都・全真が大原を訪ねたこと(『玉葉和歌集』)が知られる程度である。『平家物語』(覚一本)は建久2年(1191年)2月に没したとするが、この時期はまだ人々に平氏への関心が高く、徳子の死も何らかの記録に残ったはずで可能性は薄い。そのため『皇代暦』『女院小伝』『女院記』などの記述から、建保元年(1213年)に生涯を閉じたとする説が一般的となっている。
ただし角田文衛は、建保元年(1213年)12月12日に殷富門院(亮子内親王)が絶入(気絶)した事実(『明月記』12月14日条)を徳子と取り違えたのではないかとして、同年の『明月記』に徳子死去の記述が全く見えないことから建保元年説に異を唱え、『平家物語』の「延慶本」「四部本」の記述から、徳子は大原から法性寺(延慶本)もしくは法勝寺(四部本)の辺りに移り住み、承久の乱後の貞応2年(1223年)に亡くなったとしている。法勝寺の西南には徳子の妹が嫁いだ四条隆房の管理する善勝寺があり、隆房が徳子を迎えて保護したのではないかと推測している。
陵・霊廟
陵は寂光院隣接地にある(宮内庁管轄の大原西陵)。また安コ天皇とともに各地の水天宮で祀られている。また、京都府京都市東山区にある長楽寺にも墓がある。 
 
 

 

 ■戻る  ■戻る(詳細)   ■ Keyword 


出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。