戦国武将の系譜

戦国時代の終焉川中島の戦い武田の戦い本能寺の変関ヶ原の戦い大阪夏の陣武田信玄上杉謙信織田信長豊臣秀吉徳川家康
戦国武将の知恵 / 太田道灌北条早雲武田信玄織田信長豊臣秀吉石田三成徳川家康黒田如水江戸時代・・・
歴史物語 [織田信長][豊臣秀吉][徳川家康]
戦国時代と家紋氏家氏
 

雑学の世界・補考   

戦国時代の終焉

 戦国大名
 天下統一
 


川中島の戦い

 

 川中島の武田上杉諸将
 東北武将の系譜
   
武田の戦い

 

三方ヶ原の戦い      1573
伊能文書(いのうもんじょ)
武田信玄が朝倉義景に送った書状内容などを記した文書。織田信長包囲網を勝手に解いて離脱した義景を信玄が非難している。
以使僧承候条、得其意候、仍二俣之普請出來候間、向三州陣之砌、
家康出入数候之条、去廿二日当国於見方原逐一戦、得勝利、
三遠両国之凶徒并岐阜之加勢衆千余人討捕、達本意候間、可御心易候、
又如巷説者、御手之衆過半帰国之由驚入候、各労兵勿論候
雖然、此節信長滅亡時刻到來候処、唯今寛宥之御備労而無功候歟、
不可過御分別候、猶附與彼口上候、恐々謹言、
拾弐月廿八日    信玄  花押
謹上  朝倉左衛門督殿

使いの僧より話は伺った。二俣城の普請中に、徳川家康勢と交戦、去る22日三方ヶ原の戦いで勝利し、三河・遠江両国の軍勢と織田方の加勢1000余りを討ち取り、本意を達したのでご安心いただきたい。人づてに聞いたのだが、貴公の兵の大半が戦線を離れて帰国した事にびっくりしている。兵をいたわるのは当然だが、織田信長を滅亡に追い込める好機が到来した時に、そのような寛容な備えでいても、労あるのみで功などは無い。判断を誤ることなかれ。なお、使者に口上を与えたのでそちらも聞いていただきたい。恐々謹言。 
長篠の戦い         1575
甲州征伐(天目山の戦い) 1582  
 
浅井・朝倉の戦い  
一乗谷城の戦い  1573/7 (天正元年) 朝倉義景軍滅亡
小谷城の戦い    1573/9        浅井長政軍滅亡
 
本能寺の変

 

 本能寺の変
 織田信長の「敦盛」/幸若舞 猿楽 能楽
 明智光秀
小牧・長久手の戦い  
1584 (天正12年) 羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い
 
関ヶ原の戦い

 

 関ヶ原合戦
 石田三成
 細川ガラシャ
 徳川将軍家の誕生
   
大阪 冬の陣・夏の陣

 

 大坂の陣
 真田幸村
軍師雑話
雑賀の舟鉄砲
市兵衛は、そのまま兵糧蔵にひそみ、数日のちに出た。罪は、別所家の家臣、被官でないということで不問に付きれた。雑賀の舟鉄砲が、そのまま沙汰やみになったのは、指揮者の市兵衛が、その任務を放棄したことにもよるし、また、戦況はそれどころではなくなっていた。市兵衛が兵糧蔵に入った日から四日目に、本丸、二ノ九とともに連立する新城が、寄せ手のためにおちたのである。
天正八年正月十五日、別所長治は、城内の飢餓の惨状を思い、これ以上家臣、庶人に苦悩を与えるのは罪であるとして、近侍宇野右衛門佐に書状をもたせ、秀吉の部将浅野弥兵衛長政の陣に降伏を申し入れた。その条件は類がすくなかった。
「来る十七日申の刻、長治、吉親、友之ら一門ことごとく切腹仕るべく候。然れども、城内の士卒雑人は不怒につき、一命を助けくだされば、長治今生の悦びと存じ候」
秀吉は、「別所侍従こそ武士の鑑である」としてその申し出をゆるし、長政に命じて酒肴を送った。十六日、長治は城内の士卒のすべてを本丸大広間にあつめて紋別し、十七日、郭内三十畳の客穀に座を設け、白綾の敷物を血に染めて自害した。
山城守吉親、彦之進友之これにつづき、さらに、長治の夫人は男児二人女児二人をつぎつぎに引きよせて刺し、最後にみずからのどを貫いて死んだ。吉親の夫人とその子はもとより、長治の舎弟彦之進友之の新妻も十五歳の若さでその夫に殉じている。
「いまはただうらみはあらじ諸人の命にかはるわが身と思へば」というのが、長治の辞世であった。夫人のそれは、「もろともに消えはつるこそ嬉しけれ後れ先立つ習ひなる世に」雑賀市兵衛の心をくがれさせたこの城主夫妻の美しさは、ふたつの辞世のなかに凝結していた。東播の名族として、歴世十四代の家門をほこった別所家は、ここにほろんだ。
開城後、義観と市兵衛は、石山城にもどった。等岳坊義観はその後、石山城で負傷し、播州に隠れた。義観を開基とする寺院がいまで兵庫のどこかにあるはずである。石山の落城後、雑賀市兵衡は、平蔵をつれて紀州へもどった。治郎次の田を買ったか、それとも嘉兵衛の山田にきめたかは、つまびらかではない。
鵜のような七蔵
ところが、七蔵の禄高は依然として千石だった。
知行をきめるとき、秀吉は、「そちは殿から頂戴した家来ゆえ粗略にはせぬが、禄高は千石じゃ。これ以上はやらぬ。女房どのにもそう言うて、千石相応のぜいたくをせいと申しきかせておくがよい」七蔵は、多少不服だった。直参から陪臣になったのに、禄高がふえないというのは、りくつに合わなかった。
その後、七蔵は、摂津の石山攻め、中国征伐、山崎の合戦などでかずかずの武功をたてたが、秀吉はそのつど最初のことばをくりかえした。
「そちには知行はやらぬぞ。もとどおり千石じゃ」しかし扶持米や知行はくれなかったがそのつど過分なほどの金銀を手づかみで呉れた。そのほうが、七蔵にすれば、知行地をおさめる面倒もなく、人数を召しかかえる世話もなかった。むろん、小梅にしてもそのほうがよかったろう。
ところが、女のぜいたくというのは、たかが知れている。合戦のごとに拝領する金銀は蔵に積まれて使いきれなくなり、ついに貯まるいっぽうになった。
長浜に居を移してから十一年たった。
天正十二年といえば、七蔵の四十八歳の年である。
この正月から、七蔵はきしたる病気もなく月ごとに痩せはじめ、ふた月ほど寝て、枯れ尽きるようにして死んだ。最後の脈をとった長浜の町医が、「お若いころからの戦場ぐらしのご無理が、つもりつもったのでござりましょう」といった。見かたによっては、女房という鵜匠にこきつかわれてついに斃死した鵜であった。
七蔵は死んだが、かれが武功とひきかえに一代かかってふやした金銀だけは残った。
おてんとの間でうまれた七蔵の子は、治兵衛政友といった。
少年のころから才気があった。七蔵の死後、小梅とおてんは相談して、治兵衛には武士をやめさせ、蔵の中の金銀をもとでに、長浜で絹のあきないをきせた。
この家とその一族は、のちにまで近江の商家として栄えた。近江から出たいまの伊藤忠、伊藤万などの商社は、七蔵の家系となにかのつながりがあるのだろうか。くわしくは知らない。
捨て殺しの佐野綱正
家康は、上方でいま一つ、「捨て殺し」の戦略的な集団を残していた。伏見城に籠もる家康譜代の部将鳥居彦右衛門以下千八百人である。三成蜂起のあかつきはいちはやく陥ちるであろうと家康は覚悟し、とくに剛直無類といわれる鳥居彦右衛門を守将にえらんだ。
彦右衛門は、家康が少年のころから仕えてきた男で、家康より三つ年上である。家康は東征の途上、伏見城に一泊し、「死士」となるべき彦右衛門とほとんど夜明かしして昔話などをし、何度か涙をながした。その点、新参者の綱正を大坂留守居に命じたときとは、まるで態度がちがっていた。
「人数を、いま少し付けてやろうか」と家康はいったが、彦右衛門はきわやかにことわり、「どうせ死ぬ身、無用のことでございます。左様なお人数がござるのなら、来るべき大合戦にお使いあそばしませ」といった。家康はさらに、伏見城防衛戦の方法などについてもくわしく指示した。たとえば、「この伏見城は故太閤が贅をつくして築かれた城だ。天守閣には豊臣家の金銀などもおきまっている。鉄丸が足りなくなればそれを鋳つぶして弾丸とせよ」とまでいった。これほどの懇切さは、大坂城西ノ丸の守備隊長佐野綱正に対しては、毛ほどもなかった。
綱正の場合は、文字どおりの、「置き捨て」であった。彦右衛門は譜代、綱正は新参、という親疎の差別だけではなかったろう。
なぜならば、全員死ねばいい伏見城のばあいとちがい、大坂の綱正の使命はそれだけでは片づかなかった。女どもを守る、というむずかしい要素があり、これには家康できえ、「こうせよ」という妙案は湧かなかったのであろう。すべては綱正の「才覚」にまかされていた。
(これは解きようのない謎々じゃ)とおも、つうちに、七月十五日、奉行方(と当時はいっていた。石用三成を謀主とする西軍)は、にわかに大坂城と大坂城下に戒厳令を布き、家康従軍の諸侯の屋敷屋敷に使者を走らせ、「秀頼様のご命令でござる。お女性の皆々様はお国表へ立ちのかれますることは相成りませぬ」と厳命した。むろん人質である。次の段階で大坂城内に収容する含みがある。
このため−つまり諸侯の妻子脱走にそなえるために、市中の警戒は厳重をきわめた。
大坂の出口、橋々がおさ、えられた。たとえば高麗橋は高田豊後守、平野町橋は宮本丹波守、備後橋は生駒修理亮、木町筋橋は蒔田権佐、天王寺口は横浜民部少輔、玉造口は多賀出雲守、といったぐあいにざっと三千人の西軍将士が市中の警戒にあたった。
脱走した者も多い。
黒田長政の母と嫁は水船の底にかくれて木津川口から脱走し、有馬豊氏の妻は、魚問屋の用いる盲船に二重底をつくってそれに忍び、川筋から脱出した。きらに世間をおどろかせたのは玉造に屋敷をもつ細川家の場合である。
忠輿夫人伽羅著は留守居の家老小笠原少斎に胸もとをくつろげて刺させ、火を屋敷に放って、夫人、家来衆もろとも火中で灰になった。
(やったわ)と、この夜、大坂城西ノ丸の小天守閣の上から眼下の玉造の火災をみていた佐野綱正は、わが身とおなじ条件下の事態だけに肝が氷のように冷えた。
「来よ」とお茶阿から急使がきた。綱正は多忙中のことゆえ、家来をやった。
家来がすぐ戻ってきて、「ご自身参られよとのことでござります」と復命した。
(ばかにしてやがる)場合が場合だけに気が立っていたから、さすがの綱正もかっとして、「お茶阿様にお伝えせい。肥州はこの西ノ御丸防衛が人数の手配りでいそがしい。御用がおありなら、そちら様から来よ、と申せ」とわめいた。
(おなじ奉公人ではないか)そう思うのだ。お茶阿は、家康の正室ならばこれは主人同様である。めかけならば法的には奉公人であり、綱正とかわらない。しかも家康の子を生んでいないから、「お袋様」といす特殊な地位でもないのだ。
(閏の伽をする女奉公人がそれほど偉くて、弓矢とる武者奉公のおれは、あのおなごどもの顎でつかわれるほどに下目か)平素なら「君寵がちがう」ということで納得のいくことだが、こうとなってはそんな世俗の通念が働かなくなった。
奮死した佐野綱正だが主命に背いたので所領没収
侍には、自分の生涯を美しくする権利がある。そのためには、主命にも背いた例が古今かぎりもない。この役目、やめたわと心底を固めた。
翌日、家来を残し、綱正はこの四郎左衛門屋敷から姿をくらましている。
伏見に入り、城門をあけてもらい、城内松ノ丸に部署をあてがわれ、七月二十三日から開始された伏見城の攻防戦に参加し、八月一日落城の日、奮戦してついに槍をすて、銃をとり、弾を詰めかえ詰めかえして戦ううちにあやまって二重に装薬した。撃発すると火薬の過剰のため銃身が大音響とともに破裂し、手足を四散きせて自爆死した。
関ケ原の役後、家康は大坂城に進出し、ここに駐留して西軍の所領没収と味方の諸将士卒の論功行賞をおこなった。
佐野綱正は所領没収である。徳川麾下のなかでは唯一の例外といっていい。
「それはあまりに哀れな」と、野戦派諸将から「倭人」といわれている本多正信できさえ、取りなした。
綱正は死を覚悟して伏見城に入り、敵兵でさえ賞讃したほどの壮絶な闘死を遂げているではないか。
家康は、きかなかった。
「かの者は一見、忠死に似ている。しかしわしがあずけた女を疎略にし、それを他人の手にあずけ渡し、自儘に伏見に籠もって自儘の死を遂げている」綱正の不幸は、戦後、誉四村から出てきたお茶阿らが、家康に口をきわめて綱正の悪口をいったことであった。
「わたくしども三人、何度自害しようかと思いましたるほどに心細うございました」といったお茶阿の言葉が、家康の心証につよい影響をあたえ、この苛酷な、異例の処断をきせた。
侍大将の胸毛
勘兵衛は、めしを食いはじめた。舌つづみを打ち、大きな咀嚼音をたて、見ていても壮快なほどの勢いで食いおわると、「茶」「はい、これに」由紀は、勘兵衛の椀に茶をそそいでやりながら、「な」と呼んだ。
「な。当家におりまする小磯と申す者を、渡辺様は、市弥どのになされましたな」「小磯?知らぬな」といってから不意に思いだしたらしく、「ああ、あれかい」「あれかい、では、ひどうございましょう。無理じいに市弥になされましたくせに。おなごこの身が、可哀そうでございます」「勘兵衛は、むりじいにおなごを痛めたことなどはない。あのとき、まだねむりほうけていてよく覚えなんだが、眼もとの美しいおなごであった。数日前から、日に三度、膳部をあげさげするごとに、あの市弥は、勘兵衛ごとき乞食同然の者を愛しゅう思うてくれている様子であったゆえ、ついつい、ああいう仕儀になった」あ、とおもった。勘兵衛は、由紀と小磯を間違えているらしいのである。帯の下につめたい汗が流れた。
あのとき、由紀が抱きすくめられておれば、由紀は当家を出ざるを得ないはめになったことだろう。由紀は、なるほど寝ている勘兵衛をからかいはした。しかしそれはあくまでも「安全」と計算しての遊びで、それを踏みこえてまでして夫でない仇し者と通じようなどという不貞の気持は、毛ほども持っていないつもりだった。
藤堂高虎と渡辺勘兵衛
この重大な一瞬で、政略家の高虎と武略家の勘兵衛とのあいだに致命的な食いちがいができた。勘兵衛は高虎が付いて来ぬのをみるといそいで引きかえし、「殿は、約束を反故になさるや」例の禄をきめるときに約束した軍配のことである。高虎は冷笑した。
「戦さも天下の仕置の一つぞ。うぬらに何がわかろう。道明寺へ行け」「戦さは勝てばよいのじゃ。敵がそこにおるのに後方の御本陣の顔色をみて遅疑する馬鹿がどこにある」「主人にむこうて馬鹿とは何事じゃ」「馬鹿は馬鹿としかいいようがあるまい」勘兵衛が鞭をあげるや、その手兵三百は黒旋風のようになって長曽我部勢に追尾し、久宝寺で激突して五百にあまる敵の後衛部隊を潰走させ、きらに長躯して平野まで進出し、道明寺方面から敗走してくる大坂方の残兵の列を寸断してさんざんに破った。
東軍の諸将のうち、勘兵衛ほどの広域な戦場をくまなく駈けた者はいなかった。摂津、河内の野を阿修羅のように駈けまわった勘兵衛の働きは、東軍随一の声が高かったが、主人の高虎だけはみとめなかった.
認めないのが、当然でもあった。この日の勘兵衛は、藤堂隊とは何の関係もなく馳駆していたにすぎなかったからである。
戦いが終ってから勘兵衛は、血しぶきのついた陣羽織をぬぎすて、あらあらしく高虎の幕営に入ってきて、
「殿、なぜわしに付いて参られなんだか。もしわしの手に三千の人数さえあれば、あのとき、長曽我部も真田も毛利も大坂城に退去させず平野で殲滅できた所であった。されば、藤堂一手の武勇で大坂を攻めおとすことができたのではないか」高虎は横をむいたきり返事をしなかった。
その数日後、この戦場でおなじ敵と戦った井伊直孝が、高虎に、「御家中で筵の指物は何者でござるか」高虎は沈黙した。勘兵衝了のことであったからである。
「あの指物の物主は、北ぐる敵を斬りなびけつつ手足のごとく軍兵を下知していた。あっぱれ大剛の士とみましたが、ご存じではござらなんだか」あとで勘兵衛はこの話をきき、「他家の大将に知られただけでも武者としてせめてもの仕合わせであったわ」と、伊賀へ帰陣後、にわかに禄を返上すると、藤堂家を退転してしまった。
大坂夏の陣・又兵衛の最期
「真田は、来ぬか。−」又兵衛が、愚痴とは知りつつも思わず絶叫したのは、このときである。いま、真田軍一万二千の後詰があれば、この筐ロでつぎつぎと予備隊を投入して疲労兵と交替させ、きらに山上に豊富な銃陣を布いて敵に乱射すれば、東軍潰走は必至であった。が、山上に床几を据えている又兵衛は、意外なほど明るい顔をしていた。
(あたったではないか)原案が、である。これで原案どおり真田軍が来れば、現実の勝利にはなるが、しかし戦術としてその正しさを実証きれた。
(これでいい)どうせほろびるのだ、豊臣家は。又兵衛とその配下の牢人にすれば、武士らしい生涯をここで華やかに終るだけでいい。
時が移った。
又兵衛の手兵は疲労しきっていたが、それでも乱戦のなかをよく駆けまわっている。が、東軍は、水野の第一軍だけでなく、第二軍の本多忠政五千、第四軍の伊達政宗一万が、すでに戦場に到着しつつあった。
又兵衛は、ころはよし、と見て床几を倒して立ちあがり、わずか三十騎の旗本とともに一団になって山を駆け降り、手綱を十分にしばりつつ路上にとびおりようとした瞬間、銃弾に胸板を射ぬかれた。が、落馬しなかった。
驚いて馬を寄せてきた旗本の金馬平右衛門を鞍の上からゆるゆるとふりかえり、「平右。首を打て。敵に取らすな」そういって、鞍上に伏した。すでに、息が絶えている。
又兵衛があれほど待ちぬいた真田幸村の第二軍は、予定より七時間遅れて正午前、ようやく藤井寺村の手前に到着した。夜半丑の割に天王寺口を出発したというから、行動速度は、一里を三時間ちかくかかっている。幸村ほどの神速な行動力をもった武将のこのおどろくべき遅延は、あながち、濃霧のせいばかりとはいえないだろう。
幸村は、おそらく、約束したとはい、え、やはり兵を温存したいと、途中思いかえしたのであろう。真田軍は一万二千で、大坂方最大の遊撃兵力である。これが、むざむざ後藤原案の国分の院馳口で損耗すれば、幸村自身、華々しい死場研がなくなってしまう。
(又兵衛は又兵衛の死場所で死ね)幸村は、思ったにちがいない。べつに不人情でもなく、又兵衛という軍略家をそれにふきわしい好みの戦場で死なせ、自分という軍略家もまた、その軍略が正当と思う場所で、死所を得た
そう思ったにちがいない。
幸村は、せっかく藤井寺村まで進出したが東軍と小競合いをしただけですぐ退却し、翌七日、かれの軍略がもっとも至当する主決戦場である城外四天王寺の台地で、東軍十八万と戦い、しばしば突き崩しつつ、ひとたびは家康の本営にまで突き入り、寡兵の野戦としてはほとんど理想的といっていい合戦を演じ、午後、四天王寺西門を東へひきさがった安居天神の境内で越前兵西尾仁左衛門に首を授けた。大坂落城は、その翌日である。秀頼はついに城門を出なかった。
 

 




武田信玄

 

 山本勘助
   
上杉謙信

 

 直江兼続
上杉謙信と泥足毘沙門天
「我を毘沙門天と思え」、越後の虎と呼ばれた軍神・上杉謙信が発した有名な言葉である。49年の生涯で70回戦いを行い、負けたのはたった2度しかなく、勝率は95.6%で戦国大名の中ではトップ。戦国最強の武将と評価されている。その謙信が幼少の頃から厚く信仰していたのが毘沙門天である。謙信は毘沙門天を崇拝していたのみならず、自らを毘沙門天の化身(生まれ変わり)であると信じていた。
『名将言行録』には、次のような象徴的なエピソードが記録されている。上杉家では盟約を交わすとき、居城・春日山城内の毘沙門堂で行うのを常としていた。毘沙門天像を祀っていた場所である。謙信がまず、座を占めて、重臣と一家の者が順に並ぶことになっていた。ある時、隣国に一揆が起こり、急遽、間諜(スパイ)を放つことになった。しかし、謙信は「急がねばならぬ。出発にあたってその者を毘沙門堂まで連れて行き、毘沙門天に誓約させると出立が遅くなる。すぐ我の前で誓わせよ」と言った。老臣たちは異例なことだと思い、命に従わなかった。謙信は「我あればこそ毘沙門天も用いられる。我なくば毘沙門天もありえない。我を毘沙門天と思って、我の前で神文(誓約)させよ」といって神文させたという。さらに謙信は、「我が毘沙門天を百度拝めば、毘沙門天も我を50度か30度拝まれもしよう」ともいい、毘沙門天との一体化を信じていた。
謙信は戦国乱世の戦いを勝ち抜き、平定するために、越後の居城である春日山城内に毘沙門堂を建てて、毘沙門天を祀り、毎日のようにお堂に籠り読経し、祈念していたという。さらに出陣前には数日間、籠り続けて勝利を祈願して、その神力を得ようとした。
その毘沙門堂に祀られ、謙信が崇拝していた毘沙門天像が、米沢藩上杉家の菩提寺・法音寺に安置されている。この仏像がどのような力を秘めて、謙信はどのようにして祀っていたのか、法音寺の高梨良興住職に取材を申し込んだ。  
泥足毘沙門天は高さ33センチの青銅製の仏像で硬質な重厚感が漂っていた
4月中旬、まだ桜が咲く前で日陰に雪が残っている米沢市を訪れた。米沢駅からタクシーで約10分。米沢藩主上杉家御廟所と隣接している法音寺を尋ねた。上杉家御廟所には、樹齢数百年の杉の木に囲まれて、謙信の霊廟を中心に、その左右に歴代藩主の霊廟が厳かに並んでいた。
法音寺の本堂に入ると、中央に謙信と上杉家の御霊所があり、向かって右に善光寺如来尊、そして目的の毘沙門天像は左側に祀られていた。
身の丈は33.5センチ。青銅製の仏像で、硬質で重々しい雰囲気が漂っている。作者と制作年代の記録はないが、鎌倉時代の名工の作と伝えられている。台座の上に尼藍婆(ニランバ)と毘藍婆(ビランバ)の二邪鬼を踏みつけて立ち、邪鬼は苦悶の表情を浮かべている。頭には宝冠、身に鎧をつけ、右手は腰に当て、左手に宝矛をもち、中国の武人の姿で正面を厳しい表情で睨みつけている。
そもそも毘沙門天とは、「如来」「菩薩」「明王」「天」に大別される仏像のうち、「天」のグループに属する。「天部」に属する諸尊は、仏法の守護神という意味合いを持つ。「天部」の神を代表する者に、仏教を守る四天王がある。東西南北の方位を護る神として、「持国天(じこくてん)」「広目天(こうもくてん)」「増長天(ぞうちょうてん)」「多聞天(たもんてん)」がある。
その中で聖山である須弥山の北方を守るのが、多聞天。サンスクリット語でヴァイシュラヴァナといい、毘沙門天(びしゃもんてん)と訳される。北は鬼門にあたることから重要視され、多聞天は四天王のリーダーで最強とされる。他の三天王が城を一つずつしか持たないのに対して、多聞天は三つの城を持つ。その中心的な位置を占めることから、四天王の中でも単独で祀られて、信仰されるようになっていった。四天王のひとりとしては、「多聞天」と呼ばれるが、独尊としては「毘沙門天」と呼ばれる。
「多門」の名前の通り、仏教の教えの多くを聞いて、様々な鬼神を従えて、仏教を護り、邪悪なものを寄せ付けない。毘沙門天の腹部を見ると、鬼の顔が付いている。通称天邪鬼といわれる鬼神で、元来は水神の名であった。仏教の教えとその信者に害をもたらすものの象徴である。毘沙門天は、この人間最大の敵である煩悩を撃退してくれる神なのである。
また、もともとインド神話では、財宝神クベーラと呼ばれる富と財宝の神であったことから、貧乏神を追い払う力があるとされ、室町時代末期に七福神信仰が広がると、その中の一神である福を授ける「毘沙門さま」として信仰されるようになった。  
毘沙門天像が謙信の戦場まで出かけて加勢した足跡が、堂に残っていた……
では、なぜ法音寺の毘沙門天像は「泥足」と呼ばれているのか?高梨良興住職に、そのいわれをお聞きした。高梨住職は、ゆっくりと、非常にわかりやすく説明をし始めた。「ある時、謙信公がお堂に籠り、夜を徹して祈願していたところ、翌朝、護摩壇(火を焚いて神仏に祈る修法のための壇)の上から外に向かって、点々と毘沙門天尊の泥の足跡が残っていました。これは謙信公の戦陣まで毘沙門天が出向かれて、戦場を駆け回り加勢された跡である、ということで、以来、上杉家ではこの像に『泥足』をつけて、泥足毘沙門天と尊称して呼ぶようになったのです」
その戦いが何であったのか、記録には残されていないが、当時、戦国武将の間で最強と信じられていた毘沙門天と謙信が一体化した姿は、兵士たちの士気に大きな影響を与えて、不敗神話を重ねるごとに謙信と毘沙門天に対する信仰を強めていったことは容易に想像できる。  
護摩を焚き、口で毘沙門天の真言を唱えながら、一体となる修行をした
「しかし、謙信公は具体的にどのようにして、毎日、毘沙門天に祈願していたのでしょうか?」私が疑問に思っていたのは、その方法論である。高梨住職はその質問に対して、「謙信公が帰依していた宗教は真言宗です。真言宗は密教ですので、表に出さないのですが」と前置きしながら語り始めた。
「空海が開祖である真言宗の祈祷の基本は、三密にあります。三密とは仏様の身・口・意の3つで、人間がこの三密の状態になるように修業することによって本尊と一体になることができ、即身成仏の境地へ到達するものです。つまり、謙信公の場合は毘沙門天と一体となることを目指していたわけです。具体的には、護摩を焚いて心で毘沙門天を祈念する。そして、口で真言を唱えます。仏像ごとに真言が違いますので、謙信公は毘沙門天の真言を何度も集中して唱えていました」真言は声に出して言うというよりも、心で唱えるのだという。
では毘沙門天の真言とは何か?「オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ」(オーム、ヴィシュラヴァスの御子よ、吉祥成就)この真言を唱えることで、発願を仏に直接働きかけることができるとされている。
「具体的にどのようにして毘沙門天と一体化するのでしょうか?」さらに尋ねた。「真言を唱えることによって、仏様の中に自分が入っていけるということ。同時に仏様も自分に入ってきてくれる。この状態を『入我我入』といいます。自分と仏様がお互いに一体となるように修行するのです」これ以上は、一人一人の体験と修行の世界なので、言葉で理解することが難しいという。
しかし、真言宗においては自分と仏との一体化は、一般信者にとっても当然の目的であることがわかる。つまり、謙信公が「我は毘沙門天の生まれ変わりである」と信じて、公言することは、真言宗の立場から見るとそれほど違和感がないことなのだ。  
出陣の際に、「毘」の旗印と「刀八毘沙門天」の画像を掲げていた
さらに謙信は出陣の際に、上杉軍の旗印として「毘」の一字を用い「刀八(とうはち)毘沙門天」の画像を掲げている。この「刀八毘沙門天」とはどのようなものなのか、高梨住職がまとめた『法音寺の歴史と宝物』に記されている。それによると、「毘」は毘沙門天の毘そのものであり、「刀八毘沙門天」の姿は、一身五面十臂で左右8本の刀を持ち、他の2本の腕には仏塔と戟(げき)といわれる武器を手にして、足下には獅子を踏まえている。「刀八」とは、もともと中国西域の「菟跋国(とばつ)」に王城鎮護の神として信仰されていた。その思想が日本に伝わり、「菟跋」が「刀八」という文字に変換されて、毘沙門天と合体して祀られるようになったという。高梨住職は、この「刀八毘沙門天」も常に、謙信公と共にあったと語る。
そして、謙信の毘沙門天信仰がよく表れていて、これらの旗印も用いられるものとして「武禘式」(ぶていしき)という出陣の儀式があることが分かった。この儀式では、はたしてどのようなことが行われていたのか?東西の宗教と神秘主義研究の第一人者で、戦国武将たちの呪術についてまとめた『戦国の呪法』の著者、藤巻一保氏に取材をする機会を得た。
藤巻氏には、新宿の喫茶店でお会いすることができた。あらゆる呪術に精通しているというイメージもあったせいか、戦国の軍配者はさもこのような風貌だろう(失礼!)と思われる独特の雰囲気があった。
武禘式の前に謙信は、まず春日山城内の護摩堂に入り、「五壇護摩」を行っていた、と藤巻氏は語り始めた。「五壇法は、真言宗や天台宗が行っていた大がかりな護摩修法で、インド伝来の伝統的な儀式ではなく、室町時代に、日本で作られた修法です。上杉謙信だけではなく、他の武将でも非常によくやられていました。中央の壇には不動明王、東壇に降三世(ごうさんぜ)明王、南壇に軍荼利(ぐんだり)明王、西壇に大威徳(だいいとく)明王、北断に金剛夜叉明王の五大尊を、この世に降臨させて、そして加護と怨敵調伏を祈るための儀式でした」中心になるのは不動明王で、6人から8人の阿闍梨(あじゃり)が不動明王の儀式を行う。そして、他の4壇にはそれぞれ4人から6人の僧侶がついて、各尊の法を修するというものだ。
当初は天皇家などで安産祈願の目的で行われていたが、次第に、怨霊や邪鬼封じ、そして、戦国時代になると敵を倒す、調伏するものに変化していったという。
つまり、藤巻一保氏によると、五壇護摩は神仏の加護を得るだけではなく、敵を倒すための儀式なのだという。この他にも、信玄や他の武将たちが行っていた調伏の呪術について、いろいろ衝撃的な話をお伺いすることができた。しかし、今回のテーマからは離れてくるので、また機会をみてこの武将たちの呪術の全貌について詳しく紹介していきたい。
さて、この五壇護摩が終わってから、次の儀式に移る。「毘沙門堂に移り、守護神である毘沙門天を礼拝して、戦勝を祈願します」ここからが武禘式と呼ばれるものになる。「毘沙門天に献じてあった神水(五沾水・ごてんすい)を腰筒に汲んで、それを戦勝祈願の神水として諸将たちに分け与えていきます」次に謙信は庭に出て床几に坐し、軍奉行が出陣のために全軍の集結を告げて、大将クラスが順次参集する。「この時、最初に入場するのが『毘』の旗を持った先手大将で、次に入ってくるのが上杉軍の重宝である『八幡の御弓』を持った二番大将、そして、関東管領上杉家の宝物である天賜の御旗が続いて入ります」そして出陣の際に、軍神勧請の法螺貝が吹かれる。その後、謙信は馬に乗り、毘の軍旗を先頭にして、春日山城の大手門から戦場に出陣していったという。これが、謙信の武禘式と呼ばれる出陣作法であった。
なお、この武禘式は現在、郷土研究家などにより華やかなお祭りとして再現されて、毎年5月2日に行われているので、興味がある方は観に行くといいだろう。
このように「毘」の旗印は、上杉軍全体のシンボルともいうべきものだったのである。  
謙信の毘沙門天信仰は、幼少の頃から培われていった
では、謙信の毘沙門天信仰と仏教への信心は、一体いつ頃から、どのように形成されていったのか?謙信の幼少の頃にまで、遡ってみていこう。
上杉謙信は、享禄3年(1530)1月21日、越後守護代長尾為景(ためかげ)の末子として春日山城で誕生した。寅年生まれのため、幼名を虎千代という。母は栖吉城(長岡市)主長尾氏の娘で虎御前である。上杉謙信に関する研究書籍『新潟県人物伝 上杉謙信』(新潟日報事業社)など多数の謙信研究の著書を出している花ヶ前盛明氏によると、母は、熱心な真言信者で、観世音菩薩を信仰していたという。観世音菩薩は、阿弥陀如来の脇侍として安置されることもあるが、独尊として信仰される場合は、現世利益的な信仰が強い。あらゆる人々の、あらゆる願いを叶えるとされる。
謙信が深く真言宗に帰依することになるのは、この母の影響が大きかったものと思われる。
そして、天文5年(1536)に春日山城下にある曹洞宗の長尾家の菩提寺林泉寺に預けられた。そして名僧天室光育(てんしつこういく)禅師から14歳までの7年間、厳しい禅の修行を受けたとされている。謙信の素養は、この光育によって培われたと、花ヶ前氏は指摘している。このまま大きな波乱がなければ、謙信の将来は林泉寺の僧侶となっていたはずである。
しかし、戦乱の世は謙信にそのまま僧侶の道を進むことを許さなかった。兄の晴景が病弱で、統率力がなかったため豪族たちが反乱を起こし越後国が混乱してきたのだ。天文12年、謙信は兄を助けるため還俗して栃尾城に入り、晴景に背いた黒田秀忠の一軍を、初陣で見事に撃退する。また、栃尾城での人望が日増しに高まると、ついに春日山城に呼び戻されて、守護代長尾家を相続した。謙信が19歳の時である。
以後、謙信は国内と国外の様々な反乱を収め、戦いに明け暮れることになる。関東管領上杉憲政の支援、そして24歳の時には武田信玄によって領土を奪われた信濃諸将たちから援助を求められてきた。謙信は8000の兵を率いて信濃川中島に出陣した。これが第1回川中島の合戦である。
そのような最中、謙信の毘沙門天への信仰がいよいよ深まっていく。『上杉年譜』によれば、謙信は信州川中島原にあった真言宗の寺院大乗寺を、春日山城の北の丸に移転した。大乗寺の長海和尚から真言密教の戒律を授けられた。その戒律のなかには女犯戒、肉食妻帯戒などがあって、戒律を守るために平生から護摩を焚いて、「不浄を焼き浄める修法」を行っていたという。  
謙信は毘沙門天に代わって上洛 高野山の阿闍梨清胤に師事する
そして謙信は、運命的ともいえる行動に出た。花ヶ前盛明氏の『上杉謙信』(新人物往来社)によると、「謙信は毘沙門天に代わって上洛し、朝廷と幕府を再興したいという大きな夢をもっていた」というのである。
天文22年(1553)、謙信は従五位下弾正少弼に叙任されたことへのお礼を名目に、兵2000を率いて上洛を決行した。後奈良天皇に拝謁して、天盃と御剣を賜った。そして、天皇から「住国ならびに隣国の敵を討伐し、威名を子孫に伝え、勇徳を万代に施し、いよいよ勝を千里に決し、忠を一朝に尽くすべし」との綸旨(りんじ)を頂いた。これによって、戦乱を鎮定する大義名分が出来たことになる。
さらに、謙信の信仰心にとって決定的な出来事が、この機会に授戒して、在俗のまま有髪の僧となったことである。法号は「宗心」である。そして、以前から念願していた高野山へ参詣している。高野山では無量光陰の住職阿闍梨清胤(せいいん)に会い、密教の教えを受けた。清胤は謙信より8歳年上であり、同じ越後出身であることから、両者の交流は深まり、以後、謙信は真言密教の師として清胤に師事し、密教の真髄を究めていくのである。
永禄2年(1559)4月3日、30歳の謙信は、第2回目の上洛を果たしている。第106代正親町天皇に拝謁して数々の幣物を献上して、第1回目の時と同様に天皇から天盃と御剣を賜った。将軍足利義輝には五ヵ条の誓書を修めて、忠誠を誓っている。そして、高野山に登り、無量光陰阿闍梨清胤に会いに行き、清胤から空海の真筆一本が贈られた。  
45歳の時に伝法灌頂を受けて、法体となり、阿闍梨の位に就く
謙信の真言密教への傾倒は、ここまでを第1段階とすると、今度は真言密教の正式な僧侶としての位を得るために、4段階で頂点まで上り詰めていく。
この辺の状況については、今福匡氏が『神になった戦国大名』の中で研究され、まとめられている。真言密教で正式な資格を授かる儀式として、「灌頂(かんじょう)」と呼ばれるものがある。頭に水を灌(そそ)いで、諸仏や曼荼羅と縁を結び、一定の資格を備えるための重要な儀式である。灌頂には、結縁(けちえん)、受明(じゅみょう)、伝法などの種類がある。今福氏によると、謙信が最初に受けた灌頂は、永禄5年(1562)、33歳の時、五智国分寺再建時に無量光陰阿闍梨清胤を招いて行った、受明灌頂であると考えている。この結縁灌頂は、一般の在家信者も対象となる儀式で、仏縁を結ばせるための初歩的なものである。受明灌頂は、弟子としての資格を得て、戒律を守り、修法を毎日実践する許可を得ることを意味する。つまり謙信は、正式に清胤を師として、密教の修法を究める道へ進むのである。
そして第3段階は、天正2年(1574)12月19日、45歳の時、越後へ下向してきた清胤を迎えて、四度加行と伝法勧請を受けた。四度加行とは、十八道、金剛界、護摩、胎蔵界の四度の修行からなる。これらの修行を行い、謙信は法体(僧侶の姿)となって出家した。そして法印大和尚(ほういんだいかしょう)という位を授かった。謙信はこの時に剃髪したことになる。
さらに2年後、謙信は灌頂を受け、清胤から真言密教の秘儀をことごとく授けられて、ついに阿闍梨権大僧都となる。この伝法灌頂は密教の灌頂の中でも最も重要な儀式であると、今福氏は説明する。阿闍梨という指導者の位を得て、口伝などにより弟子を持ち指導することができるようになる。阿闍梨という資格は、密教の修練を深く積んだ者にしか与えられない。謙信の毘沙門天信仰は、真言密教の僧侶へと導き、ついに「戦う僧侶」の姿は、ここで完成するのである。  
毘沙門天の他に、謙信は菅谷不動尊と善光寺如来像を祀っていた
ここまで追跡してきたように、謙信の中心的な信仰は毘沙門天であるが、実は、毘沙門天の他にも尊信する諸仏があった。戦国武将の仏神に対する信仰は、謙信のように宗教心が非常に強い武将であっても、唯一絶対の仏像のみに帰依することはなかった。日本の神様や仏像には得意とするジャンルがあり、武将たちはケースバイケースで目的に応じて様々な神仏を信仰して、その加護を祈っていたのである。
そして謙信の場合、毘沙門天の他に祀っていた仏像として、米沢市の法音寺に安置されている不動明王がある。ここで再び高梨良興住職に登場していただいた。「謙信公が守護神として祀った仏様は、法音寺に3つ伝えられて安置されています。ひとつは、泥足毘沙門天です。その他に、菅谷不動尊と絶対秘仏の善光寺如来像があります」それでは、菅谷不動尊とはどのような姿をしているのか?
「この仏像は、鎌倉時代に製作されたと伝わる木像で、像の高さは28センチの不動明王です。新潟県北蒲原郡菅谷に明王護国寺という、護念上人によって創建された真言宗のお寺にありました。特に眼病治癒の明王“菅谷不動尊”として多くの参詣者を集めていました」建長5年(1253)、寺が雷火で焼失した時、不動尊に池のたにしが付着して、類焼をまぬがれたという伝説が残っている。謙信がこの像に深く帰依していたので、上杉家と共に米沢に移されて、代々祀られ法音寺に安置されてきたという。
さらに絶対秘仏となっている善光寺如来像には、戦国大名たちがこの如来像を手に入れようと激しい争奪戦が行われていたという衝撃的なドラマが隠されていた。
起源を辿っていくと、インドから百済をへて、552年に欽明天皇に献じられ日本にわたってきた。その後、蘇我稲目に賜ったが、保守派の物部尾輿によって難波堀江に捨てられてしまう。推古天皇十年(602)、信濃国人若麻績東人(わかおみあづままろ)が頂き信濃に祀ったのが、信濃善光寺如来尊である。そして、弘治元年(1555)7月、第2回の川中島の合戦の時、この本尊を巡って謙信と信玄の争奪戦があったのだ。この時の模様について、『戦国武将を支えた信仰』の著者・風巻紘一氏が、次のように記している。善光寺は全国的に有名な名刹であったので、この寺を信仰する民衆が非常に多かったという。戦国大名たちは、民心収攬のために信仰の対象である一光三尊の如来像を手に入れようとしたと指摘する。一光三尊とは、一つの後光の中に三体の仏がいる形で、弥陀、観音、勢至の三尊が造られている。風巻氏によると、この如来像は一旦、信玄が獲得して、後に信長、そして秀吉など転々としたという説があるという。
しかし、法音寺に残されている記録によると、次のようになる。「1555年、信州中野城主の高梨政頼は、戦国の兵火を避けるために、ご本尊を謙信公に奉じました。謙信公は、春日山に御堂を建てて、ご本尊を厳重に守護しました」(高梨住職)そして、上杉家の国替えに伴い、泥足毘沙門天とともに米沢の地に移され、法音寺に祀られたとのことである。
残念ながら絶対秘仏であるため、この善光寺如来像の姿を拝むことは出来なかった。ただ、毎年5月15日青葉まつりの法要の日に、前立の仏像が御開帳される。  
謙信が合戦の際に信仰していた様々な仏神とは?
さらに取材を進めていると、謙信にはより広く仏神信仰を行っていたことが分かった。謙信が信仰していた仏像について、風巻紘一氏は『戦国武将を支えた信仰』の中で、5つを上げている。観音菩薩、大日如来、将軍地蔵、摩利支天、飯綱明神がそれである。
まず、観音菩薩はすでに紹介したように、謙信の母が信心した現生利益の仏である。2番目は真言密教の本尊である大日如来。謙信は戦場に出陣するときに、この2つの尊像を黒塗りの厨子に納めて戦地に赴いたという。
そして第3の仏像・将軍地蔵は、菩薩の武神化したもので、身に甲冑をつけ、軍馬にまたがっている姿をしている。第4は摩利支天で、日天子(日輪)に従いあらゆる力を持つ女神。戦国武将が非常によく信仰した神である。
そして最後は、飯綱明神である。信州飯綱山に祭られた山岳信仰の飯綱大権現で、その本体はダキニ天である。その姿は白狐にのった宝剣を持つ小天狗をしている。謙信は、この飯綱明神の像を兜の前立てにしていた。この兜前立は、現在、米沢市上杉神社に残されている。飯綱明神を信仰する者は、生涯不犯を通さなければならないという厳しい戒律があったが、謙信が生涯独身であったのは、この飯綱明神を信仰していたことによるという説もある。
謙信は出陣する際に、神社に参拝して願文を納めている。例えば元亀元年(1570)12月13日、謙信が春日山の看経所に納めた願文の中で、謙信が「願いどおりに越中を手に入れることができたら来年1年間は必ず看経します」として、次のような巻数(かんじゅ)を誓っている。巻数というのは、経文や真言をこれだけの回数をささげますと神に誓う目録である。注意していただきたいのは、ここに登場する神仏の種類である。
阿弥陀仏―真言三百編、念仏千二百編、『仁王経』一巻
千手観音―真言千二百編、『仁王経』二巻
摩利支天―真言千二百編、『摩利支天経』一巻、『仁王経』一巻
日天   −真言七百編、『仁王経』二巻
弁財天  −真言七百編、『仁王経』二巻
愛宕将軍―真言七百編、『仁王経』二巻
不動明王―真言七百編、『仁王経』二巻
愛染明王―真言七百編、『仁王経』二巻
このように謙信が行った読誦の数の多さに驚かされるが、実に多くの神仏に加護を祈願していたのである。
しかし、謙信の信仰心の根底にあったのは、「正義」という考え方であった。高梨住職は、この点について次のように強調する。「普通の戦国武将の場合は、領土を拡大し、天下を取るとか、自分の欲のために戦っていましたが、謙信公の場合は、戦乱の世を終わらせ、天皇を頂点にして平和な国にしたいという正義のために戦うという考え方が信仰の根底にありました。自らが毘沙門天となり京都からみて北方の土地を平安にしたい、という想いを神仏に誓い、戦っていたのです」
神仏と一体化した謙信は、阿闍梨権大僧都となってから4年目の49歳で、不帰の客となった。  
 
織田信長

 

 斉藤道三
   
豊臣秀吉

 

 建築家秀吉
 竹中半兵衛
 利休最後の手紙
 最上義光と駒姫
 淀君
 北政所ねね
秀吉の父親は誰だ
小説やドラマで描かれる秀吉の少年時代はおおむね次のような筋書です。
幼名は日吉丸。半農の足軽だった父親の弥右衛門を幼くして失い、その後、母親が再婚する。秀吉のまま父(継父)となる竹阿弥は、織田家の同朋衆すなわち城詰めの茶坊主だったが、再婚したころ、その仕事はやめていた。秀吉には弟、姉、妹がひとりずついる。秀吉は竹阿弥と折り合いが悪く、家を飛び出し、尾張、三河、遠州を放浪する。土豪集団のボス蜂須賀小六との出会い、浜松での武家奉公などのエピソードを経て、織田家への仕官がかない、出世への糸口をつかむ──。
しかしこうした秀吉像は史実と伝承をつぎはぎしてできあがったもので、歴史的な事実としての秀吉については今なお多くの謎がのこされたままとなっています。
そのひとつが、秀吉の父親は誰かという問題です。たとえば江戸時代のはじめ土屋知貞という幕臣が書いたとされる『太閤素生記』では、木下弥右衛門という名で、織田家に仕える鉄砲足軽であったとありますが、小瀬甫庵の『太閤記』や、『祖父物語(朝日物語)』では、竹阿弥を秀吉の実父と記しています。小瀬甫庵は二代目の豊臣姓関白となった秀次や加賀の前田家に仕えた医師、儒学者で、『太閤記』は秀吉一代記の嚆矢ともいえる作品です。
秀吉は皇族、公家など高貴な人物の落胤であることを示唆する文章が、秀吉のお伽衆の大村由己によって書かれた秀吉伝記『天正記』、高名な歌人松永貞徳の『戴恩記』などに出ており、秀吉は母親がある僧侶と密通して生まれた不義の子どもという説もあります。
秀吉の出身階層、生家の生活レベルについても、武家社会との接点はあるものの、さして裕福ではなかったであろうというのが大方の見方のようです。山川出版社の日本史の教科書では、「張の地侍の家に生まれた」と記述されており、このあたりが現代の常識的な秀吉像のようです。
しかし、真贋論争でも有名な『武功夜話』では「村長(むらおさ)」、イエズス会の記録では「貧しい百姓」とされており、商人説、職人説、さらには被差別民説、サンカ説まであって百家争鳴のありさまです。  
なぜ、豊臣の「母」には権威があるのか
秀吉の実父とされる弥右衛門、継父とされる竹阿弥はともに、「入夫」だという説があります。入夫とは「女戸主と婚姻してその夫となること。また、その夫」(広辞苑)です。これが史実であれば、秀吉の生家の戸主(家長)は、父親ではなく、母親だということになり、豊臣一族は秀吉の母親を族長とする血縁集団ということになります。加藤清正をはじめとする側近家臣の多くも母方の縁者です。その理由は不明ですが、豊臣一族には母系氏族めいたものが感じられます。
弥右衛門、竹阿弥がほんとうに「入夫」であったかどうかは不詳ですが、この二人の父親の影が薄いことはまぎれもない事実です。天下人となった秀吉が、父親を供養したり、顕彰したりした公式記録はなく、墓の所在地や一族的な背景もはっきりしません。母親が大政所(摂政、関白の母親のこと)と称され、天下人の親にふさわしい敬意をうけながら秀吉の側で暮らしていたのとは正反対です。
秀吉とおねの間には子供ができなかったようですが、一族である加藤清正、福島正則らを幼少時から手元において養育しています。清正や正則はのちに秀吉子飼いの大名と呼ばれますが、おねが母親代わりでした。秀吉の死後もおねは、ひとつの政治勢力であり、影響力をもっていました。
秀頼時代の大坂城は淀殿が事実上の最高実力者で、そのそばにいる女官たちとその子息が秀頼を盛り立てました。「さながら女の城であった」としばしば言われる所以です。おね、淀殿はそろって気が強く、それなりの能力もあったというだけの話なのでしょうか。しかし大政所と尊称された秀吉の母親の存在感とあわせて考えるならば、おね、淀殿が持っていた権威が偶然とは思えないところがあります。
女性史研究の草分け、高群逸枝氏の『母系制の研究』によれば、古代の日本列島は母系によって一族が形成されていたが、男系を基本とする大陸文化の導入とともに、母系的な伝統は社会の背後に退いたといいます。これまたひとつの仮説というべきものですが、近現代においても日本では父系を基調としながら、母系の伝統が混在した様相があると指摘されています。
秀吉の一族がそのあたりの文化伝統とかかわるのか。今のところ不明とするほかありませんが、秀吉の父親をはじめ、一族の男たちの影の薄さは気になります。なぜ、豊臣の「母」たちには権威があったのでしょうか。秀吉の一族をめぐる大きな謎のひとつです。  
「太閤素生記」と甲斐姫
研究論文から小説、ゲームに至るまで、秀吉の家族関係のほとんどは、『太閤素生記』という資料によって復元されています。メモ程度の短文が四十箇条ほど書き連ねられたもので、書物というよりも、断片資料といったイメージです。作者は土屋知貞という徳川氏に仕えた中級の武士であったとされています。
土屋知貞の養母が、秀吉の出生地である名古屋の中村の代官をしていた武将の娘で、ちょうど秀吉と同じ年頃であったといいます。この養母が作者に「常に是を物語す」とありますから、伝聞情報ながら、ある程度は信用できるだろうと考えられているようです。書かれた時期は特定されていませんが、どちらにせよ秀吉の死から数十年あとのことです。
秀吉の出自に関係しそうなところを、ここに挙げてみます。(送り仮名、句読点など、読みやすいように加えています)
尾州愛知郡の内に上中村、中々村、下中村と云ふ在所あり。秀吉は中々村にて出生。
父は木下弥右衛門と云ふ中々村の人。信長公の親父信秀 織田備前守 鉄炮足軽也 (中略)五体叶わず中々村へ引き込み百姓と成る (中略) 秀吉八歳の時、父弥右衛門死去。
信秀織田備後守家に竹阿弥と云ふ同朋あり。中々村の生れの者なり。病気故、中々村へ引き込む。所の者、是を幸に木下弥右衛門後家秀吉母の方へ入る。
秀吉母公も同国ごきそ村と云ふ所に生れて木下弥右衛門所へ嫁し、秀吉と瑞龍院とを持ち、木下弥右衛門死去ののち後家と成て二人の子をはぐくみ中々村に居る。
秀吉母は同国ごきその生まれ。後、大政所と号す。文禄二年死去。太閤五十八の年。
母親の出身地とされる「ごきそ村」とは、御器所のことです。現在も名古屋市昭和区には、御器所、御器所町という地名が残っており、地下鉄の桜通線と鶴舞線の交わるところに御器所駅があります。地下鉄であれば、名古屋駅から十五分ほどのところです。
土屋知貞の祖父を昌遠といい、甲斐国の武田信虎すなわち信玄の父親に仕えていたのですが、信虎が息子の信玄によって駿河国へと追放されたとき、これに同行しています。この人の母親が成田氏の娘であったと記されています。忍城(埼玉県行田市)の成田氏は、映画化もされた時代小説『のぼうの城』ですっかり有名になりましたが、美貌の女武者と伝わる甲斐姫はこの城主、成田氏長の娘で戦いのあと、秀吉の側室となったのはご存知のとおりです。という次第であるので、「太閤素生記」の作者は、甲斐姫と血縁があるということです。
知貞の父は病のため失明し、圓都の名で検校となっています。『寛永諸家系図伝』によると、関ヶ原の戦の直前、石田三成は圓都の一族が関東に多くいるのを聞き、その妻子を大坂に送るようたびたび沙汰したが、圓都はこれを無視するばかりか、大坂方の人質となっていた成田氏の一族の者たちを密かに助け出したというのです。原文を引用してみます。
石田治部少輔三成、謀反のとき、使を洛中につかはし、一族の関東にある者をしるして沙汰す。圓都が一族数多関東にあるを聞て、圓都に仰て其妻子を大坂につかはしむべき旨数度に及ぶといへども、圓都きかず。あまつさへ圓都が一族武州忍の城主成田氏、人質となりて大坂にあるを、圓都ひそかにさそひ出してかくし置く。
圓都は、御伽衆として今川氏、北条氏、さらには徳川家康に近侍していたといわれます。論者によっては、秀吉の御伽衆でもあったという人もいますが、よくわかりません。土屋知貞は大坂冬の陣、夏の陣に従軍しており、『土屋忠兵衛知貞私記』という記録を残しています。豊臣氏および大坂城の人びとについて、人並み以上の情報をもっていたのは確かです。
土屋知貞の先祖は、源頼朝が平氏打倒の旗を上げたときに協力した中村宗平の子、土屋宗遠とされています。神奈川県小田原市に中村という荘園があり、宗平はその荘司(管理者)であったといいます。頼朝の側近のひとりで、幕府の重鎮となる土肥実平は二男です。
土肥氏の支流、小早川氏は広島に移住して、当地の名族となりますが、毛利元就の子、隆景を養子に迎えたあと、実質的には毛利家の分家のようになります。ところが秀吉の正妻おねの甥が養子に入って小早川秀秋と名乗り、今度は豊臣家の分家のような形になっています。
埼玉の成田氏の娘、甲斐姫が側室になったことと、秀秋が小早川氏の養子に入ったことのあいだには因果関係はないはずですが、『太閤素生記』の土屋氏によってリンクされています。まあ、これは偶然でしょう。土屋氏も、小早川氏(土肥氏)も本家は相模国の中村氏ですが、秀吉の生まれたのは尾張の中村です。中村など、ありふれた地名、苗字ですが、奇遇といえないこともありません。  
秀吉の生まれた中村
秀吉の生まれた尾張・中村は、現在の名古屋市中村区の一部です。JR名古屋駅は中村区にありますが、ちょうど区の境であり、百貨店やオフィスの立ち並ぶ繁華な街とは反対のほうが中村です。熱田神宮の神領があったと伝わっています。
秀吉の生まれたころ、尾張・中村は、上中村、中中村、下中村の三村にわかれており、秀吉は中中村の生まれであると『太閤素生記』には書かれています。しかし江戸時代のいつのごろか、尾張・中村は上中村、下中村の二村となったため、秀吉の出世地がどこであるのか混乱が生じ、現在、出生の碑があり、豊国神社が祀られているのは上中村にあたる地域です。
中村に残る伝承によると、豊臣氏が滅亡した大坂の陣のあと、尾張・中村からは、秀吉にゆかりのある神社、寺などがことごとく移転させられ、あるいは規模縮小させられているというのです。関係する文書記録が持ち去られた形跡もあるといいます。名古屋在住の秀吉研究者、横地清氏の長年にわたる研究で、そのあたりの事情が明らかになってきました。
その典型的なケースは、日の宮神社です。相当に大きな神社であったとも伝わっていますが、江戸時代に破却されたといい、現在は公園のすみに小さな祠があるだけです。地元には、秀吉の母親はこの神社に日参して、秀吉を授かったという伝承があり、童名の日吉はこれに由来するというのです。
神仏混淆の時代であり、日の宮神社を管理していたのは、中中村の正賢寺でした。この寺の住職の二男が、常滑市の盛泉寺の住職になっているのですが、その教秀という人は正賢寺の過去帳に「母太閤秀吉公之娘」と書かれています。母親が秀吉の娘ということでしょう。教秀という名も秀吉とのかかわりを示唆しています。
「娘」に「アネ」という読みが添えられています。秀吉に複数の娘がいてその姉のほうということではないでしょうから、秀吉の姉(とも)の娘なのでしょうか、あるいは養女の娘でしょうか、諸説ありますが、未解決のままです。  
祖父は鍛冶それとも神官?
秀吉の母方の祖父についてはいくつかの所伝があるのですが、櫻井成廣氏(青山学院大学教授など歴任)の復元系図では、「御器所村の禰宜 関兼員」とされています。秀吉研究の大家、渡辺世祐氏の『豊太閤の私的生活』(講談社学術文庫など)では、秀吉の母方祖父について「美濃(岐阜県)の鍛冶 関兼貞」としており、『諸系譜』(国立国会図書館所蔵)では御器所在住の鍛冶の子孫(あるいは鍛冶?)としています。秀吉の生まれた名古屋には、秀吉の母方祖父について、鍛冶であったという伝承と神官であったという伝承があるようです。
『諸系譜』の「太閤母公系」という系図では、秀吉の母方の先祖は大和国の刀鍛冶であり、渡来系の佐波多村主の子孫とされています。その後、美濃国に移住して代々、鍛冶を営んだあと、尾張に移住したという内容です。秀吉の祖父は天文二十二年死去とあるので、これが正しければ秀吉が十代後半のころまで生きていたことになり、当然ながら交流があったはずです。
所伝は鍛冶説と神官説にわかれているのですが、火をつかって錬金術めいた仕事をする鍛冶師は、洋の東西を問わず、呪術や祭祀に深くかかわっているので、ふたつの所伝がまったく無関係ともいえないところがあります。いずれにせよ確実な史料はなく、断片的な伝承が残っているだけです。
『中興武家諸系図』は秀吉の母について、御器所村の「治太夫」という人の娘であるが、実の娘ではなく「継子」すなわち妻の連れ子で、実の父親は持萩中納言保廣(保廉?)卿であると書いています。持萩中納言とは、都で罪をえて、尾張に配流となっていた公家で、徒然のあまり、当地の女性になじんで出生したのが秀吉の母であるという筋書きです。
あまりにも荒唐無稽ですが、秀吉の母方祖父は公家ということです。もちろん、このような公家は記録されていませんが、この名前は秀吉の伝記にしばしば登場します。秀吉の側近にあって御伽衆といわれる大村由己の『関白任官記』にも、「萩の中納言」として出ており、伝説の背景に何かが示唆されているのかもしれませんが、よくわかりません。  
母のふるさとは土器の産地
『太閤素生記』などによると、母親の出身地は「ごきそ村」、現在の名古屋市昭和区の御器所、御器所町あたりのことで、地下鉄の桜通線と鶴舞線の交わるところに御器所駅があります。地下鉄であれば、名古屋駅から十五分ほどのところです。
江戸時代に書かれた郷土誌『尾張志』では、「此地は古(いにしえ)、熱田宮御神領にて、神事に用る土器を調進する故に御器所と名つけたるよし」と記されています。
熱田神宮におさめるために祭祀用の土器、いわゆるカワラケを焼いていたというのです。江戸時代には、瓦や日用品の土器がつくられていたという記録があります。明治時代以降も御器所にはやきものの伝統が継承され、土器づくりの絵付け人形(名古屋土人形)が愛好家のあいだではよく知られています。伏見人形の類の素朴な人形です。
地下鉄御器所駅前は大都市近郊にありがちなチェーン店の並んだ大通りですが、平凡な風景を乱すノイズのように、十メートル近い鉄のポールがあり、菱形の大型オブジェが掲げられています。
濃い緑の釉薬で色づけされた、現代芸術風のやきもの作品です。歩道にすえられたパネルでは「土」とタイトルをふって、「古くから土器と関わりのある街。土をテーマとする。古くから使われている陶土と灰釉を用い……」と御器所の歴史と作品内容が紹介されています。
秀吉の母親のふるさとは、「土器のまち」なのです。
御器所駅から歩いて十五分ほどのところに、秀吉の母親の暮らしていたと伝承される土地があり、説明パネルが立てられています。
十坪そこらの空き地があるだけです。御器所で秀吉にかかわるのは、この伝承地だけですが、豊臣秀吉のルーツを探るうえで、中中村とともに重要な場所です。  
母のふるさとの古墳群
秀吉の母親は名古屋の「ごきそ村」で生まれたと記録されています。現在の住所表示では、御器所、御器所町、御器所通という地名が飛び地のように点在していますが、ちょうどその三つの地点の真ん中あたりに、鶴舞公園という大きな都市公園が広がっています。花や緑が豊富で、野外ステージ、図書館、公共ホールがあるところなど、日比谷公園とよく似ているのですが、基本設計者が同じ人だそうです。
広大な敷地は東にむかって緩やかな傾斜をなしているのですが、その台地の頂上に、お椀を逆さにしたような丘状の八幡山古墳があります。直径八十二メートル、高さ十メートル。周囲に幅十メートルほどの堀の跡があり、五世紀の造営と推定される国指定遺跡です。丸い丘状をした「円墳」と分類される古墳としては、東海地方で最大の規模です。
円墳として全国最大のものが、埼玉県行田市の埼玉古墳群のなかに現存していますが、ここは有名な忍城水攻めのとき、石田三成が本陣とした場所です。
八幡山古墳とよばれるのは、御器所八幡神社の奥宮にあたるからで、祭りのときには、円墳のうえで湯たて神事が執り行われたといいます。
鶴舞公園に隣接する国立名古屋工大のキャンパス内では、前方後円墳を見ることができます。このあたりには一群の古墳があったことが知られていますが、都市化によってほとんどが消滅しています。御器所では熱田神宮でつかわれる祭祀用の土器(カワラケ)が焼かれていたと伝わりますが、熱田神宮のそばには東海地方で最大規模の前方後円墳「断夫山古墳」があります。
八幡山古墳からは埴輪が出土したそうですが、戦時中の混乱で所在不明になっています。前方後円墳や円墳を舞台とする祭祀では、大量の埴輪や土器が用いられたことが明らかにされていますから、御器所の土器づくりの伝統が、古墳時代にさかのぼることは十分に考えられることです。  
豊臣氏の系図 
大坂夏の陣において直系の一族が滅亡したという事情もあり、豊臣氏の整った系図はまったく伝来していません。秀吉は最高位の関白にまでなっておきながら、実の父親が誰かということさえ確定されておらず、その出身階層にしても農民、武士、職人、商人から、天皇のご落胤説、被差別民説まであって諸説紛々としています。サンカ、山の民の一族とする説まであって、直系の子孫が現存していないという気軽さがあるためでしょうか、言いたい放題がまかり通っています。
しかし秀吉にかかわる系図がまったくないわけではありません。国立国会図書館が収蔵する『諸家譜』、宮内庁書陵部にある『中興武家諸系図』などには、秀吉の先祖を記す興味ぶかい系図がいくつか含まれています。また、秀吉の親類とされる加藤清正、正妻のおね(北政所)の一族にかかわる系図も『美濃国諸家系譜』などに存在しており、一族のバックグラウンドを知る手がかりとなります。
『中興武家諸系図』にある父方の系図によると、秀吉の曽祖父(比叡山の僧侶昌盛法師こと国吉)が近江国浅井郡(滋賀県長浜市)から尾張に移住したことになっています。『諸系譜』でも、近江国浅井郡の人が尾張に移住して、秀吉の曽祖父となっています。
天野信景の名高い随筆『塩尻』でも簡略なものですが、同様の系図が掲載されています。史実であるという保証はありませんが、系図史料のうえでは、秀吉のルーツは近江であるという記述が目につきます。
こうした記述が史実に近いとすれば、秀吉一族の尾張・中村での一族の歴史は百年そこらということになります。尾張に住む秀吉の親類は意外なほど少なく、それが豊臣政権の脆弱さのひとつとなっていますが、名古屋において秀吉の一族は余所者とまでは言えないとしても新参者なのかもしれません。  
物部氏の末裔説
国立国会図書館所蔵の『諸系譜』の系図によると、秀吉の父方の先祖は近江国浅井郡(現在の滋賀県長浜市)の人で、近江の大名、浅井氏の支流とされています。秀吉の曽祖父にあたる人を「昌成」としており、大名浅井家を確立した浅井亮政の祖父の弟としています。
側室の淀殿は浅井氏の娘ですから、近江と尾張に分かれていた家が、秀頼の出生によって再び結びつく──というのはすこし出来過ぎた話で、史実と見なす人はあまりいないようですが、おもしろい所伝ではあります。
ただ、浅井、豊臣の同族説を完全に切り捨てることができないのは、浅井氏の系譜もまた混沌としているからです。
近江の戦国大名とはいっても、亮政、久政、長政の三代の前となるとはっきりしないことが多いのですが、浅井氏の出自については従来、二つの説が有名です。ひとつは配流された藤原氏の公家、正親町三条公綱からはじまる系譜で、もうひとつは古代からこの地に勢力をもっていた物部氏の末裔とするものです。
浅井氏を物部氏の末裔とする説は江戸時代からよく知られており、『柳営婦女伝系』など著名な史料にも記載されています。
秀吉が浅井氏の遠戚であり、浅井氏が物部氏の末裔であるという二つの説がもし、史実であるならば、秀吉は「近江を拠点としていた物部氏の末裔」ということになります。二つの仮定を積み重ねた話ではありますが、気になるところです。  
秀吉と神道
秀吉が特定の仏教の宗派、教団に帰依したという形跡は見受けられません。秀吉の仏教とのかかわりはその場しのぎというか、支離滅裂で、それを秀吉の教養のなさ、育ちの悪さと理解する人は少なくないようです。ほんとうに、そうなのでしょうか。
秀吉は死後、新八幡という神号で祀られることを望んでいたようですが、これは朝廷に認められませんでした。豊国大明神という神号を得て、京都の豊国神社に祀られ、廟墓もそこにつくられました。
秀吉と仏教界の関係が希薄に見えるのは、神道の流儀で葬送の儀礼が執行されたことも一因でしょう。秀吉の信仰は神仏混交といわれていますが、神道がわへの傾きが顕著です。
なかでも稲荷信仰とのかかわりがよく知られており、全国各地に秀吉にゆかりをもつ稲荷神社は驚くほど多く存在しています。名古屋市の熱田神宮の摂社である高座結御子神社には、秀吉が母親につれられてお参りをしていたという稲荷の祠もあります。京都の出世稲荷神社、東大阪市の瓢箪山稲荷神社も有名です。
秀吉の母方祖父を禰宜(神社の神官)とする説があり、母方の親類の小出氏、姉の嫁ぎ先の三輪氏、家老格の蜂須賀氏も神道にかかわる家だという所伝があります。秀吉の人脈には、神道とのかかわりが目につきますが、その背景には何があるのでしょうか。  
木下弥右衛門 (秀吉の実父?)
『太閤素生記』では、秀吉の実父の名を木下弥右衛門として、これが定説となっていますが、ご存知のとおり、この人がほんとうに血縁上の父親であるかどうかは確実ではありません。小瀬甫庵の『太閤記』『祖父物語(朝日物語)』は筑阿弥(竹阿弥)という母親の再婚相手とされる人を秀吉の実父としてあげていますが、弥右衛門と筑阿弥の同一人説までありますから話は混沌としてしまいます。
秀吉の実父が木下弥右衛門という名前だというのも確定的なことではなく、『中興武家諸系図』では中村弥右衛門昌吉、『塩尻』の「豊臣秀吉系」では中村弥助昌吉とされています。秀吉の血縁上の父親であったとしても、木下という苗字であったかどうかは不明ということです。
『太閤素生記』では、木下弥右衛門は織田家に仕える鉄砲足軽で、秀吉が八歳のとき死んだと記されています。弥右衛門が死去したとされる一五四三年は鉄砲伝来の年なので、鉄砲足軽であったはずがないという主張がかつては受け入れられていました。しかし『太閤素生記』は秀吉が死んで数十年後に秀吉の血縁でも側近でもない幕臣の土屋知貞が書いたとされるもので、弥右衛門の没年は必ずしも信用できるものではありません。
また、最近の論調では、鉄砲はさまざまなルートを通じて、一五四三年以前から日本に入っていたという説が有力になっているので、弥右衛門が鉄砲にかかわる仕事をしていた可能性がないとは言い切れなくなっています。
『諸系譜』の杉原氏系図によると、秀吉の正妻おねの父親、杉原定利(道松)は「鉄炮張工」であったと注釈されています。鉄砲づくりに関わっていたということなのでしょうか。もし、これが史実であるなら、秀吉、おね夫妻の父親はそろって鉄砲関係の仕事にかかわっていたことになります。
秀吉の母系、加藤清正の家が代々の刀鍛冶であるという所伝はよく知られていますが、鉄砲生産が本格化するまえ、当然ながら刀鍛冶と鉄砲鍛冶は未分化でした。もしかすると、こうした人脈のなかに弥右衛門はいたのかもしれません。
謎のひとつは、秀吉の側近、家臣団に、弥右衛門の血縁者がほとんどいないことです。唯一ともいえる例外は福島正則で、正則の父は弥右衛門の異母弟であると、『諸系譜』『中興武家諸系図』『落穂集』には書かれています。しかもこの話は確実なものではありません。
天下人となった秀吉が弥右衛門を供養したり、顕彰したりした形跡もないようです。弥右衛門は秀吉の本当の父親ではないと主張する人たちは、このあたりを有力な証拠として示しています。  
大政所、なか (秀吉の母)
秀吉の出自において確実なことは、「なか」という名の伝わる女性が母親であることくらいです。ただ、これが実の名であるかどうかは不詳です。
秀吉は尾張国の中村の出身とされていますが、当時の中村は上、中、下の三か村に分かれており、秀吉は中中村の人です。尾張の地理にうとい誰かが、「秀吉公母 中中村の人」という文章を見て、秀吉の母親は「中」という名前で「中村」に住んでいるのかと読み誤り、秀吉の母は「なか」ということになったという説がありますが、いかにもありそうなことです。
尾張の中村の人なので、豊臣政権の後宮で、「なか」という呼称があったという説もあります。正妻のおねの母親は朝日局(あさひのつぼね)という敬称で知られていますが、これはおねが生まれた尾張の朝日村にちなんだものであるからです。
伝説というしかないのでしょうが、秀吉の母親は配流された公家(持萩中納言)の娘という話があり、系図学の権威、太田亮博士の『姓氏家系大辞典』にも、『東国太平記』を引用するというかたちですが、紹介されています。
秀吉貴種説の発端は、御伽衆の大村由己が書いた『関白任官記』ですから、秀吉が自分の低い出自を隠すため、架空の血筋を書かせたというあたりが定説となっています。あまりにもウソっぽいので、何か裏があるのでは、何かをほのめかしているのではと逆に気になる方も多いのではないでしょうか。
名古屋市昭和区に鎮座する御器所八幡神社の近くに、「豊臣秀吉母宅跡」の表示板があり、ここが持萩中納言という公家が住んでいた「御所屋敷」の伝承地であると書かれています。
名古屋には、秀吉親子にゆかりの寺社がいくつか知られており、おもしろい伝承が残っています。熱田神宮の摂社である高座結御子神社には、秀吉が母親につれられてお参りをしていたという稲荷の祠があり、子育てに御利益のある神社として人気があります。
秀吉の出生地の中中村に、日の宮という大きな神社があったと伝わっていますが、いまは小さな祠として日吉公園の片隅で祀られているだけです。この神社に祈願した母親が、太陽が胎内に入る夢をみて懐妊したのが秀吉であるという伝えが地元には残っています。日の宮は日吉神社系統の神社だったのですが、秀吉の幼名とされる日吉(日吉丸)とのかかわりも指摘されています。
他で紹介しているように、秀吉の母親については、鍛冶(刀鍛冶)の娘、禰宜(神官)の娘という所伝があります。こちらの方が史実らしくはありますが、確実な史料は残されておらず、謎めいたところが多いのは秀吉の父親と同様です。  
竹阿弥 (秀吉の継父)?
『太閤素生記』などにもとづく通説によると、秀吉の母親は、木下弥右衛門と結婚し、その後、竹阿弥(筑阿弥)という織田家の同朋衆すなわち城詰めの茶坊主と再婚したということになっています。秀吉たち四人の子どもの父親がどちらなのかについても諸説があって、『太閤素生記』では秀吉と姉を弥右衛門の子、弟秀長と妹を竹阿弥の子としています。
ところが、小瀬甫庵(豊臣秀次や前田家に仕えた儒者)の『太閤記』、尾張の伝承を記録している『祖父物語(朝日物語)』では、秀吉は竹阿弥の子とされています。
秀吉の母が単なる百姓女であったとは考えにくいということは、かねてより専門家によって指摘されていますが、その根拠のひとつは再婚相手とされる竹阿弥の同朋衆という職業にあります。同朋衆の職務は、将軍や大名の側にあって、茶の湯、連歌、財宝管理など文化領域の側近業務をこなすことです。ありていに言えば、相当のインテリです。結婚という行為は、今日においても過去においても、同じレベルの社会階層から配偶者を選ぶことが一般的です。貧しい百姓女の結婚相手が同朋衆(元同朋衆?)というのは相当に違和感があります。
同朋衆を茶坊主ともいうのは、剃髪して僧のなりをし、茶道が看板芸であったからで、同朋衆のなかから「プロの茶人」というべき人たちが出現しています。確実な系譜ではありませんが、千利休の祖父は足利将軍家に仕える千阿弥という同朋衆だったといいます。天下人となった秀吉は茶の湯の世界に耽溺していますが、その最初の師匠は竹阿弥であったかもしれません。
将軍、大名側近として、上流社会での社交を切り回すのが同朋衆の仕事だから、大名らの私的、政治的な極秘情報に接することも多く、単なる給仕係ではありません。竹阿弥は織田家の内実に通じ、当然、信長とも面識があったはずですが、秀吉が織田家に出仕するとき、竹阿弥がつないだという話は残っていません。そのかわり、秀吉とは不仲で、秀吉を寺に追い出したり、家出した秀吉が三河あたりを放浪するという伝承があって、小説や物語ではこちらの話が定着しています。秀吉と竹阿弥の不仲説に史実としての保証があるわけではないので、鵜呑みにしないほうがいいのかもしれません。
竹阿弥は弥右衛門以上に謎の人物で、本名も一族背景も不詳です。諸説のなかには、木下弥右衛門が出家して竹阿弥を称したという説、竹阿弥という人物は実在しないという説(『豊臣一族』川口素生)もあるくらいです。ただ、系図がまったくないわけではなく、国立国会図書館所蔵の『諸系譜』という系図集では、尾張・知多半島の名族、水野氏の流れとする系図を載せています。この系図では、徳川家康の母方祖父の水野忠政と竹阿弥は同族とされているのですが、それ以上は史料がなく、まったくわかりません。
宮内庁書陵部所蔵の『中興武家諸系図』にある木下系図では、木下半左衛門(藤原高清)という人に高連という子があり、竹阿弥と称し、織田信秀(信長の父)に仕えたと書かれています。にわかには信じられない系譜ですが、もしこれが真実であれば、秀吉が若いころに名乗っていた木下という名字は竹阿弥に由来することになります。  
北政所、おね (秀吉の正妻)
秀吉の正妻、北政所(おね)は秀吉とのあいだに実子ができなかったにもかかわらず、豊臣政権内部で強い発言力をもっていたようです。大阪城内のおねの側近にはキリシタンの女性がいたこともあり、イエズス会宣教師ルイス・フロイスは、彼女をとおして秀吉に陳情することが多く、人となりを次のように高く評価しています。
「彼女はきわめて思慮深く稀有の素質を備えており、他の婦人たちはこの第一夫人に従い、関白はあまりにも大勢の女性をかかえているので彼女と生活を営まないにしても、彼女を奥方と認めている」(文庫版「完訳フロイス日本史」四巻150ページ)
秀吉の正妻おねは、小説や時代劇にもしばしば登場しますが、政治や人事の話にまで口をさしはさみ、時には衆人環視のなか秀吉をやり込めてしまいます。万人が恐れひれふす天下人も尾張なまりの古女房にだけは頭が上がらない。そんな場面を面白おかしく描くのがお決まりのパターンとなっています。これはある程度、史実であったようです。
「大名が留守をする間の政務は日本では年寄(長年大名の政務を補佐してきた腹心)が行ったので、ヨーロッパとは異なり、奥方は表向きのことには口を出さないのが普通だった。これは、中国の男尊女卑思想の影響かもしれない。しかし、いつの時代、どこの世界にも例外があるようで、豊臣秀吉の妻・北政所おねはよく秀吉といい争いをし、そのカカア天下ぶりを見込んだか、諸大名のおねにことを依頼することもよくあったようである」(櫻井成廣『日本史・名城の謎』26ページ)
系譜のうえで気になるのは、おねの母方祖母が大政所(秀吉の母)の姉であるという系図や記録が散見されることです。もしそれが正しければ、秀吉とおねは一族のなかでの婚姻ということになります。おねが豊臣政権のなかで持っていた権威は、こうした血縁が背景にあるのかもしれません。
ただ、おねの系譜もはっきりしない点が多く、史実と確定的できる系図はどこにもありません。一般的には杉原定利(道松)の子とされていますが、『武功夜話』系統の伝承では、織田信長の対抗勢力であった岩倉城の織田伊勢守信安に仕えた林弥七郎の遺児で、杉原氏に養育されたという話になっています。
結婚したときは、浅野長勝(豊臣政権五奉行のひとり浅野長政の父)の養子になっていたようです。これについては、秀吉との結婚をおねの母親(朝日)が嫌ったため、妹夫妻の浅野氏が同情して、おねを養子にしたうえで秀吉に嫁がせたという話が伝わっています。おねの実家の木下氏(杉原氏)は江戸時代にも大名として存続しますが、そのうちのひとつ日出藩(大分県に所領)の関係者が書き残した『木下家系図附言纂』に書かれていることです。  
朝日 (おねの母)
朝日というのは本名ではなく、大坂城や聚楽第の後宮における公家風の呼称であったようで、「朝日の局(つぼね)」と書かれた文書もあります。朝日とは、尾張国朝日村に父親の所領があったことに由来するといい、現在の住所表示でいえば、愛知県清須市朝日のことで、高速道路の清須ジャンクションのあたりです。
この地にある「朝日遺跡」は、弥生時代の環濠集落の跡として有名で、高校の日本史の教科書にもよく紹介されています。居住域のまわりを堀がめぐり、その外側には逆茂木(さかもぎ)や乱杭などの防御施設が作られているので、日本の城としての原型であるといわれています。おねの一族が弥生時代からこの地に住んでいたとは思えませんが、秀吉の一族、家臣には城作りの名手が多いだけに気になるところです。
おねの実家である杉原(木下)氏は江戸時代も小さな大名家として存続し、そのひとつ日出藩(大分県に所領)の家老が記録した『平姓杉原氏御系図附言』によると、杉原家利には男子がいたにもかかわらず、それを他家に養子に出して、長女の朝日に女婿(杉原定利、道松)を迎えて家督を継がせたといいます。この人がおねの父親ということになりますが、入婿だからかどうかわかりませんが、どうも影の薄い存在です。
同書が伝える有名な所伝に、「朝日は自分の娘(おね)と秀吉の結婚を嫌い、許そうとしなかったため、妹の夫妻(浅野氏)がおねを養子ということにして秀吉との結婚を成立させた」というものがあります。このエピソードにおいても、おねの父親(道松)の意志は問題とされていません。大名木下氏の菩提寺である松屋寺(大分県日出町)には、朝日の墓碑は現存しますが、その夫の道松のものは確認されていません。  
国立国会図書館所蔵の『諸系譜』や秀吉血縁の大名であった青木氏に伝わる文書によると、朝日の母親は大政所(なか、秀吉の母)の姉です。もしこれが正しければ、秀吉からみた朝日は母方のいとこにして、義理の母ということになります。当然ながら、おねと秀吉は親類という説が成立します。
宮内庁書陵部が所蔵する『中興武家諸系図』は、朝日について、「大谷刑部少輔吉隆母従弟女也」と記されています。大谷刑部の母は朝日のいとこの娘である、という意味でしょうか。関ヶ原の戦における石田三成の盟友という印象があまりに強烈ですが、この記述を信用するなら、おねの母方の親戚ということになります。おねと秀吉は血縁という可能性があるので、そうであれば、大谷刑部も秀吉の一族です。吉隆の「吉」も要注意です。  
木下定利、道松 (おねの父)
ひと昔まえまで、おねの父親を木下祐久という信長直臣の奉行と同一人物であるとみて、「秀吉はおねとの結婚により木下の名字を使うようになった」「秀吉は貧しい出自だが、おねの父親は中堅クラスの武士だった」というような説明がなされていました。しかし、『織田信長家臣人名辞典』(平成七年刊)で谷口克広氏はおねの父親を木下祐久と同一視する見解に強い疑義を呈し、現在は別人説のほうが支持されているようです。これによっておねの父親の人物像は不明となってしまいました。
おねの実家は、小さいながらも大名として存続しているので、幕府編纂の系図集『寛政重修諸家譜』に、名字は木下、姓は豊臣として記載されています。一六一五年の大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡したといわれますが、姓としての豊臣氏はおねの一族によって継承されているといえます。
『寛政重修諸家譜』において、おねの父親は大名木下氏の始祖とされているものの、「某」として名前、経歴ともに不詳の扱いです。助左衛門という通称と入道号の「道松」のみ記され、もとは平氏で杉原氏であったが、秀吉から「豊臣氏および木下の称号を与えられる」と説明されています。『寛政重修諸家譜』は、各大名が幕府に提出した系図が基本資料になっているので、木下家の人たちは、始祖の道松がどのような人であったか分からなくなっていたのでしょうか。あるいは公表をはばかるようなことがあったという可能性もありますが、よくわかりません。
木下氏の日出藩(大分県に所領)に伝わる『平姓杉原氏御系図附言』では、杉原氏の麁流すなわち傍系であるとし、「一説に林氏と云り」と記されています。杉原氏であるのは確かのようですが、系譜的なつながりははっきりしません。
国立国会図書館所蔵の『諸系譜』では道松と妻の朝日は父方の祖父を同じくし、『美濃国諸家系譜』(東大史料編纂所のサイトで閲覧可)では曽祖父が同じ人物となっています。
信長家臣の木下祐久と同一人物説が否定されたことにより、おねの父親が武士身分であったかどうかさえ不確かになっているのですが、『諸系譜』では道松の職業を「鉄炮張工」としています。この記述を裏付ける史料もないので、異説のひとつというべきものですが、秀吉の祖父、加藤清正の父、祖父を刀鍛冶とする所伝があることとあわせて考えれば、「あわせて一本」とまではいかなくても、有効か技ありの判定はでるかもしれません。詳細はまったく不明ですが、おねの父親が鉄砲という最先端の武器作りにかかわっていたという情報は無視しがたいものです。
天下人秀吉の正妻の父親でありながら、生前の記録はあまりなく、経歴、没年をはじめ人物像もはっきりとしません。入婿として、おねの母の朝日と結婚しているからでしょうか、存在感の希薄さだけが印象に残るような人です。秀吉のまわりには謎の人物が多いのですが、おねの父親もそのひとりということは確かです。  
杉原家利 (おね母方祖父)
おねの一族が先祖であると主張した杉原氏は、伊勢平氏の流れをくむ伯耆守光平にはじまる有力氏族で、室町幕府でも高い地位を得ています。徳川幕府編纂の『寛政重修諸家譜』は一応、この系譜を掲げつつ、疑問を呈し、おねの母方祖父となる杉原家利の前の数代は不明とされ空欄です。家利については、祖父のときから尾張国に住むとのみ記されています。名族杉原氏の支流かどうかも含め、家利より先は不詳というところでしょうか。
国立国会図書館所蔵の『諸系譜』では、秀吉の母は四人姉妹の二女で、長女の結婚相手が杉原家利と記されています。秀吉一門の大名であった青木氏に伝わる文書も同様です。おねにとっては母方祖父で、こうした系譜が真実であれば秀吉とおねは母方でつながる血縁者ということになりますから、秀吉の系譜を考えるときの重要人物のひとりです。
杉原氏は備後国(広島県東部)を拠点とした雄族ですが、『美濃国諸家系譜』(東大史料編纂所のサイトで閲覧可)では美濃国大野郡杉原を本貫地とする杉原氏の系譜を載せ、家利、おねにつなげています。こちらの方が可能性はあるという見解もありますが、決定的な証拠はないようです。
杉原家利が伊勢平氏の名門、杉原氏の支流であることも、秀吉の叔母が妻であることも確実ではないものの、秀吉の母の生家が武士めいた家柄と婚姻をむすべるレベルであったことを推量させるデータです。秀吉の母のあと二人の妹も、青木氏、加藤氏という多少、怪しげですが武士めいた家に嫁しています。ただし、姉妹とされるこの四人の女性については異説が多く、本当に姉妹だったかどうかは不詳です。何らかの血縁はあったようですが、このあたりの人間関係も未解明の謎だといえます。  
浅野長政 (おねの縁者)
浅野長政は織田信長に弓衆として仕えていた浅野長勝の姉の子で、婿養子となって浅野家を継いだといわれています。秀吉正妻のおねも長勝の養女になっているので、血縁はないものの、きょうだいということになります。浅野長政の父長勝は杉原家利(おねの母方祖父)の娘、七曲(ななくま)と結婚しているので、これによって杉原一族との関係が深まったようです。
秀吉には身内として遇され、豊臣政権における五奉行として、石田三成、増田長盛、前田玄以、長束正家とともに重要な政務を担っています。石田三成との折り合いがよくなかったためか、関ヶ原では東軍につき、その子孫は江戸時代の終りまで広島県地方の大名として生き残りました。長政の子孫に「忠臣蔵」の事件の発端、松の廊下の狼藉で有名な浅野内匠頭長矩がいます。お取りつぶしにあったこちらは浅野家の分家筋です。
江戸時代、大名浅野家はその先祖を美濃源氏の土岐氏に求めていますが、浅野氏には内容を異にする系図が何種類もあってその系譜は混沌としています。尾張地域の武家、社家などの系譜を収集し、『尾張群書系図部集』(平成九年刊)にまとめた加藤圀光氏は、「浅野又右衛門長勝以前の系図は全く不詳であり、諸種の浅野系図は伝説の域を脱していない」と述べています。  
木下長嘯子 (おねの甥)
正妻おねの兄家定の長男で、龍野城(兵庫県)、小浜城(福井県)の城主をつとめる豊臣一族の大名でしたが、歌人として名高く、「近世和歌は彼から始まったといってよい」(『国史大辞典』)という評価もあるほどです。
下河辺長流という江戸初期の学者は、国学のみならず近代国文学の始祖的なひとりといわれますが、木下長嘯子の歌風を慕い、その教えをうけたという伝えがあります。下河辺長流は、長嘯子が万葉集を愛読していたことに影響され、万葉集研究に踏み込んだ、という話もあります。水戸黄門として有名な徳川光圀から依頼され、万葉集全二十巻の注釈事業にとりくんだことがよく知られています。この師弟関係の実態には不明なことも多いのですが、長嘯子の歌人としての評価が定着した一因が、下河辺長流からの絶賛にあるのは確かなようです。
関ヶ原の戦のとき、長嘯子(そのころは木下勝俊という名の武士でした)徳川家康に伏見城の守備を命じられたのに籠城戦に参加せず、城を離れたことをとがめられて失脚、その後、京都に隠棲して文人生活を送ります。隠棲とはいうものの、叔母であるおねが、高台寺を守りながら京都で暮らしていたので、その資金援助によってかなりぜいたくな生活であったといいますが、八十歳以上の長寿をえたため、晩年は困窮したとも伝わっています。長嘯子(ちょうしょうし)とは文人としての号ですが、歌を吟ずる長嘯と嘲笑の掛詞で、大名から転落し世の嘲笑(ちょうしょう)を受けながら生きながらえたわが身を自虐した名乗りだそうです。
長嘯子に家督をつぐ資格があった足守藩は弟の血統によってつづき、幕末に至っています。白樺派に属した大正期の歌人、木下利玄は足守藩主の血筋なので、おねの血縁者からは、文学史上に著名なふたりの歌人を輩出していることになります。松尾芭蕉もその崇拝者であったといわれ、京都を訪れたとき、
長嘯の墓もめぐるか鉢叩き
という長嘯子の作をモチーフとした句を詠んでいます。「新日本古典文学大系」(岩波書店)などで主要作品を読むことができますが、柿本人麻呂から寺山修司、塚本邦雄に至る「コレクション日本歌人選」(笠間書院、全六十冊)の一冊として木下長嘯子があり、二〇一二年に出版されています。文人肌の作家、石川淳の『江戸文学掌記』 (講談社文芸文庫)に長嘯子についての論考が収められています。  
加藤清正は明智氏の子孫?
加藤清正は幼少時より、秀吉の身近で養育されたため、子飼いの大名と呼ばれるにふさわしい武将です。
藤原鎌足を遠祖とし、加藤正家を始祖とする系図がよく知られていますが、加藤圀光氏は『尾張群書系図部集』(平成九年刊)において、「全く信ずるに足らず」と切り捨てています。
国立国会図書館所蔵の『諸系譜』では、秀吉の母は四人姉妹で、妹が清正の母とされています。さらに母方祖父(関兼員)に妹がいて清正の祖父の妻と記載されており、これが事実であれば、秀吉と清正の家は二代にわたり婚姻関係をもつことになります。
活字化、書籍化はされていませんが、『中興武家諸系図』という史料が宮内庁書陵部に所蔵されており、清正の父を清忠として「鍛冶を業とす」と記し、母を秀吉の母の従妹(いとこ)としています。このように、秀吉の母、清正の母については従姉妹(いとこ)であるとか叔母と姪であるとか諸説あり、姉妹であることは確定的ではありません。
『美濃国諸家系譜』では、土岐氏の支流明智氏から養子を迎え、その人が清正の直接の先祖となっています。明智光秀が桔梗紋を使っていたことは有名ですが、これは土岐氏の家紋です。清正も桔梗紋を併用しており、この系譜と符合します。
このように加藤清正については、秀吉の母方の縁者らしいこと、鍛冶にかかわる家であったらしいこと、明智氏との血縁があるらしいことなどが所伝として散見されますが、いずれも確実な史料ではなく、その実像はいまだに多くの謎をはらんでいます。  
福島正則
福島正則の系譜は諸説紛々としており、はなはだしく混乱しています。出自については源氏とも平氏とも藤原氏ともいわれますが、貧しい職人階級であるという説もあります。所伝で目につくのは、秀吉の父と異母の兄弟とする説で、『落穂集』(「秀吉公の父木下弥右衛門と腹替りの兄弟の由、一説これ有り」)、国立国会図書館所蔵の『諸系譜』に見えます。
宮内庁書陵部所蔵の『中興武家諸系図』も、秀吉の父と正則の父は異母兄弟であるとしているのですが、清和源氏の系図となっており、遠江の福島正基を直接の祖にあげています。
『中興武家諸系図』では、正遠という人の代で「尾州住。民間に落つ」とあるので、このころ武家身分を失ったようにも読めます。正遠の三代あとが正則の父とされており、「実は中村弥左衛門、別腹舎弟。尾州清須町に住み、樽商売をす」と記されています。正則の父親が、大工であったとか、樽職人であったという所伝はしばしば目にするものです。
福島正則の血縁上の父親は星野成政で、福島氏に養子で入ったという説もあります。
江戸時代の地誌『尾張名所図絵』では、駿府の大名今川氏の重臣であった福島氏の血縁とされています。この福島氏は「くしま」とも読み、久島、九島と書かれることもあります。美濃国を発祥地とする清和源氏の支流で、その代表格が遠江国に流れて今川氏の重臣となり、高天神城(静岡県掛川市)を居城としていました。
今川家の家督争い、いわゆる花倉の乱において、一方の旗頭が福島氏でした。天文五年(一五三六)のことなので、ちょうど秀吉の生まれるころです。このお家騒動で福島氏は負け組となり、一族は壊滅しています。お家騒動の勝者が、桶狭間の戦で討ち死にした今川義元です。
今川氏の領国に居場所のなくなった福島氏の残党のうち、小田原の北条氏に仕えた人がいます。大名北条氏綱の婿養子となった綱成で、この家系は幕府旗本として家名を存続させています。福島正則は少年のころ、けんかで人を殺し、小田原に逃げて北条綱成のもとに身を寄せていたというのです。
幕府編纂の『寛政重修諸家譜』では、福島家について「はじめは平氏であったが藤原氏に改姓した」としたうえで、福島正則の母は「豊臣太閤秀吉の伯母木下氏」と書かれており、少し違った内容です。将軍側近の儒学者、新井白石の書いた『藩翰譜』には、「正則は豊臣家にゆかりの人といふ。いまだ詳らかなる事を知らず」とあります。  
青木紀伊守秀以
青木秀以(一矩、紀伊守)も秀吉の母方の従弟だといわれますが、これまた明確なものではなく、『戦国人名事典』でも「豊臣秀吉の一族」と言葉をにごしています。この青木氏の家系は福井県でつづいており、系図などの関係史料が明治三十年代、東大史料編纂所によって謄写されて保管されているので、現在は史料の多くをインターネットのサイトで閲覧できます。そのひとつである「青木系図」の秀以の項には、「母 豊臣秀吉公伯母」と記されています。伯母(母の姉)とありますが、実際には叔母(母の妹)でしょうか。
『諸系譜』にある「太閤母公系」では、秀吉の母を四人姉妹の二女としていますが、青木秀以の母は三女とされ、「美濃国大野郡揖斐庄に住む青木勘兵衛一董の妻」と書かれています。揖斐庄とは、現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町に平安時代から室町時代にかけてあった荘園で、本来は公家の荘園だったのですが、土岐氏が地頭となって勢力をもっていました。
青木秀以は、はじめ豊臣秀長に仕えて、天正十一年の賤ヶ岳合戦に従軍、四国征討のときの功で紀伊入山城主となり、このとき秀吉の直臣となっています。その後、播磨立石城主、越前大野城主、同府中城主となって、慶長四年、越前北庄城の城主となっています。このころには二十万石を領していたともいうので、有力な大名のひとりであったことがわかります。
しかし、関ヶ原合戦では病床にあって思うように働けず、西軍に属し北庄城で籠城防戦体制を整えたものの、東軍の前田利長に降服し、その年の十月に死去して改易となってしまいます。その猶子、俊矩(秀以の弟)は越前で二万石を領していましたが、養父と同様、関ヶ原合戦後に改易となり、前田利長の庇護のもとにあって死去しています。その長子、久矩も関ヶ原合戦後に浪人となり前田氏の客人となっていましたが、豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に入り、大坂夏の陣で討死しています。久矩の弟の家系が、越前国(福井県)で平吹屋という屋号で酒造業を営み、青木氏関連の資料を伝来することになりました。  
関成政
秀吉の母方祖父が関兼員と伝わっているので、関の苗字が注目されるのですが、秀吉の一門衆には見当たりません。
しいてあげれば、血縁関係があるとは聞きませんが、関成政という武将がいます。天正十二年の長久手の合戦のとき、森武蔵守長可に属して戦い、ともに戦死した人です。
通称は小十郎右衛門尉、関長安とも。東大史料編纂所『美濃国諸家系譜』にある関氏系図、江戸幕府の編纂した『寛政重修諸家譜』では藤原秀郷流として掲載しています。一方、『尾張群書系図部集』では、伊勢平氏の系譜とされ、父親の関長重については、「一宮城主、真清田神社神主」としています。真清田神社は愛知県一宮市にある古社で、尾張国の一の宮です。
この関氏と秀吉の家系がつながる根拠は今のところありませんが、秀吉の祖父、関兼員については尾張国御器所村の禰宜(神官)という所伝があるので、関成政の一族が真清田神社の神主であったことは少し気になります。
関成政の正妻は、美濃金山城主、森可成の娘。有名な森蘭丸とは義理の兄弟ということになります。北政所おねの甥である木下勝俊(長嘯子)も森可成の娘を妻としているので、相婿の関係です。『尾張群書系図部集』の関氏系図では、関成政の男子(名は不詳)は木下勝俊の養子となり、のちに出家すると記されています。このように関氏は木下勝俊を通して、豊臣一族と縁戚関係にはありました。
森可成の別の娘は青木秀重という武将に嫁いでおり、一説によると、可成の母親が青木氏であるといいます。秀吉の母の妹が美濃の青木一董に嫁し、その子の紀伊守秀以が大名になっていますが、秀頼時代の大坂城の重臣には青木一重もいて、青木氏は豊臣の一門衆となっています。青木秀重のことは未調査ですが、秀吉の縁戚である青木一族とつながっているのでしょうか。
関氏はのちに大名となる森氏の家臣筋ということになりますが、森氏と関氏とは何代にもわたる血縁関係があり、実質的に同族化しています。  
 
徳川家康

 

 東照宮御実紀(徳川実紀)
 黒田如水
 黒田長政
於大の方 1
(おだいのかた、享禄元年- 慶長7年 / 1528-1602) 松平広忠の正室で、徳川家康の母。晩年は伝通院と称した。実名は「大」又は「太」「たい」。なお、嘉永3年(1850年)10月29日に従一位の贈位があり、その位記では、諱を「大子」としている。
尾張国知多郡の豪族水野忠政とその夫人華陽院(於富)の間に、忠政の居城緒川城(愛知県知多郡東浦町緒川)で生まれた(青山政信の娘で忠政の養女であったという説あり)。
父・忠政は緒川からほど近い三河国にも所領を持っており、当時三河で勢力を振るっていた松平清康の求めに応じて於富の方を離縁して清康に嫁がせたが、松平氏とさらに友好関係を深めようと考え、天文10年(1541年)に於大を清康の後を継いだ松平広忠に嫁がせた。翌天文11年12月26日(西暦1543年1月31日)、於大は広忠の長男竹千代(後の家康)を出産した。
しかし忠政の死後水野家を継いだ於大の兄信元が天文14年(1544年)に松平家の主君今川家と絶縁して織田家に従ったため、於大は今川家との関係を慮った広忠により離縁され、実家水野家の・三河国刈谷城(刈谷市)に返された。於大は天文17年(1547年)には信元の意向で知多郡阿古居城(阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁する。俊勝は元々水野家の女性を妻に迎えていたが、その妻の死後に水野家と松平家の間で帰趨が定まらず、松平氏との対抗上その関係強化が理由と考えられる。俊勝との間には三男三女をもうける。この間、家康と音信を絶えず取り続けた。
桶狭間の戦いの後、今川家から自立し織田家と同盟した家康は、俊勝と於大の三人の息子に松平姓を与えて家臣とし、於大を母として迎えた。於大は俊勝の死後、剃髪して伝通院と号した。
関ヶ原の戦いの後の慶長7年(1602年)には、高台院や後陽成天皇に拝謁し、豊国神社に詣でて徳川家が豊臣家に敵意がないことを示した。同年、家康の滞在する現・京都府京都市伏見区の山城伏見城で死去。遺骨は江戸小石川の傳通院に埋葬された。法名は傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼。彼女の菩提寺は各地に建てられた。
松平広忠との間の子
徳川家康
久松俊勝との間の子
松平康元 / 松平康俊 / 松平定勝 / 松平忠正夫人(後に松平忠吉(忠正実弟)・保科正直に再嫁) / 松平康長夫人 / 松平家清夫人  
於大の方 2
徳川家康の生母「於大の方」
徳川家康の生母「於大の方」は、14歳のとき、岡崎城主松平広忠に嫁ぎ翌年竹千代(後の家康)を産みました。その後政略的に離別させられ、坂部城主久松俊勝に再嫁します。於大の方は、家康を生んだ後15年間阿久比の地で暮らしました。家康に対しては音信を絶やすことはなく、心のこもる慰問の品を送り続け、少年期の家康の心の支えとなりました。また、家康が今川氏配下の武将として尾張に出陣のおり、坂部城に立ち寄り「於大の方」と再会を果たしたと伝えられています。慶長5(1600)年、関ヶ原の合戦で家康が勝利し天下の実権を握った2年後、慶長7(1602)年8月28日京都伏見城で没しました。なお遺髪は阿久比洞雲院の墓所に分納されています。
薫風
天文16(1547)年の初夏、ここ坂部の城外では、かぐわしい薫風(くんぷう)がそよそよと稲田を吹き渡っておりました。
「のう、お殿様が緒川から新しい奥方様を春先にお迎えになって、もうかれこれ三月になるかのう。おかん様のこともあって、なんとなく華やかなご婚礼も冷たく感じられたが、このごろでは、お城も村も、穏やかに落ち着いて、わしらまでなごんできたわ。」
「そうよのう。これも今度の奥方様のお人がらによるのかもしれんて・・・。」
「奥方様も、聞くところによると、おかわいそうなお方だそうな。初めてお嫁に行かれた岡崎のお城へ竹千代様という3つにもならぬかわいいお子を残して帰されたばかりという ことだ」
「わしら下々の者には、事の次第はようわからんが、いくさというものはむごいものよのう・・・。」
「ご不縁になられたが17歳というお若さでよ、岡崎のご家来衆が大勢泣きながら送って こられたそうなが、国境で皆帰され、村の百姓衆に輿をかつがせたということだ。形原のお城を同じように離縁されたお姉上様を送ってこられた方々が刈谷で皆殺しにされなすったのとは大変な違いだと、三河では、えらい評判だそうな。」
「お若いのに、情をよう心得しゃったお方よのう。・・・お殿様も、 このごろは晴れやかなお顔をお見受けするし、前のお子、弥九郎さまもはしゃぎまわっておられるということだ。」
「ほんに、うれしいことだのう。物騒な世の中で、南では戦が始まっているが、おかげでここは、よい取り入れが出来そうだ。」
「あ、それで思い出した。先ごろ名主さまが城内へ呼び出されて、奥方さまから棉の実をいただいてこられた。綿を作って紡げと言われてな。」
「そうかえ。それはありがたい。なかなか手に入らぬものを・・・。ほんにお心の深いお方じゃ。わしらも精を出さねばのう。」
面影
お大の方は、まだ木の香の漂う一室にひっそりと座っておりました。華やかな調度に囲まれたその部屋は、数か月前の婚礼のなまめかしさを残しつつも、城主の奥方の住まいとしての落ち着きを見せ始めておりました。
夫、坂部城主久松俊勝は、打てば響くような岡崎の広忠とは違い、無口でずっしりした感じでしたが、誠実に傷心の新妻をいたわる優しい心配りを見せ、お大の方が岡崎から抱いて連れ帰った乳飲み子の姫も、この城へ引き取るよう計らってくれました。お大の方は、俊勝の広くたくましい胸がいつでも自分を強く抱き取ってくれる思いで、身も心も、城主の妻として新しく生きようとしていました。
ところが、新しい母になつき、まつわりついては全身で語りかけてくる信俊の姿に、またしても岡崎へ残してきた竹千代の面影を見てしまったのです。
兄水野信元の命に抗し切れず、去年刈谷の楞厳寺(りょうごんじ)に再出発を誓ってこの城へ嫁ぎ、幸せ をつかみそうに見えた彼女でしたが、それだけに、風雲急を告げる岡崎の孤児が思われ、 か細い肩を落として、涙にむせぶのでした。
平和な阿久比の里は、黄金波打つ実りの秋を迎えておりました。
「お方よ。一大事となりそうじゃ。急使によれば、熱田に捕われの竹千代どのを岡崎衆が奪い返そうとする動きがあり、 織田信秀どのは、いかいご立腹とのこと。竹千代どのの身にもしものことがあってはならぬ。そなたの存念を聞かせよ。」
「殿のお心に甘えて、平野久蔵どの竹内久六どのに、熱田への心づけを届けさせていただ きました。その上の重ねてのわがままにござりまするが、どうか、わが身に代えての命乞いに清洲へ参ること、お許しくださりませ。」
「おお、よくぞ申された。わしも同道して参ろう。急ぎ支度をいたせ。」
「はいっ・・・。」
再会
「奥方様っ・・・。奥方様っ・・・。」
庭先でひそやかではあったが、せき込んで呼ぶ声に、お大の方は筆持つ手を止めました。
刈谷から持ってきた持仏の前には、ろうそくの火がかすかにゆらぎ、香の青い煙が一条、 ゆるやかに立ち上がっていました。その前にしつらえた経机に向かって、お大の方は、このごろ日課としている血書の写経を進めているところでした。白磁の小皿には、小豆の汁で溶かれた彼女の指からしぼった鮮血が、残り少なくたまっていました。一字三礼、阿弥陀経を写しながら、薄幸の子、岡崎の竹千代と、 夫俊勝のために、わが身を代えてと祈っていたのです。その写経も後少しです。
「・・・その声は久蔵どのか。何事でありますか。」
時は、永禄3年5月17日の昼下がり、坂部城は戦雲をはらんで、ぴいんと張り詰めた空気に包まれていました。
「奥方様、殿よりの内々の御下知でござる。ただ今、岡崎の元康さまがお見えになられました。」
「ええっ、竹千代が・・・。」
お大の方は、思わず立ち上がっていました。
坂部城主久松俊勝に添って、お大の方はすでに33歳。3児2女に恵まれ、夫に後顧の憂いを与えない、立派な城主の妻となっておりました。
しかし、その彼女にも、薄幸の子の面影がいつもまぶたの裏に焼きついて離れませんでした。涙の別離から、すでに16年。熱田から駿府へ、久六・久蔵や、玄応尼(げんのうに)となった母お富の方を通じて、さまざまな品を届けてはきたものの、長い年月、一度も会い、抱くことのなかったわが子が、戦乱の敵地であるここへしのんで来てくれた。涙のあふれるまぶたの裏で、ふと兄信元の顔がよぎって去りました・・・。
元康は、両手を畳についたまま、ただひたすら母の顔を見つめていました。駿府で世話になった祖母の顔から想像していたとおりの母の顔が目の前にある。
今川義元の命令で、だれの目にも無理と考えられた大高城への兵糧の運び入れを成し遂 げ、明日の総攻撃を前に、ひと目でもよい、まぶたの母に別れを告げたいと、敵味方と別 れた伯父のはからいで、わずかな手兵と駆けてきた元康だったのです。
よちよち歩きに、よく転んでは泣いた、ずんぐりとした体で丸顔の竹千代が、こんなにりりしい若武者元康となって自分の前にひかえている。
お大の方は、体を小刻みに震わせながら、
「・・・お子が生まれましたそうな・・・。」
そう言っただけで、きらりと光るしずくを、 膝の上で固く握りしめた手にしたたらせました。
縁の薄い母子は、言葉もなく、あいさつも忘れて、ただ見つめ合うばかりでした。
時間がない・・・。お大の方は、一心にわが子の食事を調え、元康は、黙ってそれをかきこみ、母も黙って見つめておりました。
そのとき、別間から、むずかり泣く乳飲み子の声が聞こえました。
「母上、元康には兄弟がおりもうした。どうぞ、お子たちをこれへ。」
お大の方は、はじめてわれに帰り、笑顔でうながす元康にちらとほほえみかけて、いそいそと立ち上がります。
短い夜はすでに東の丘の陵線をかすかに染め始め、菩提寺洞雲院でつき鳴らす鐘がいんいんと暁を告げておりました。
元康は、総攻撃に臨む張りつめた心で、心おきなく城門を離れようとしていました。そして、ひっそりとたたずんで、いつまでも騎影を見送っているお大の方の傍らには、戦場では命をかけて相戦うことになるやも知れぬ俊勝のたくましい体が、そっと寄り添っておりました。
松影
慶長7年8月28日、お大の方は、伏見城中の豪華な一室に、静かに横たわっておりまし た。
関が原の戦いによって名実共に天下の棟梁となり、内大臣に任ぜられたわが子家康に2月に招かれて京を訪れていたお大の方は、内大臣の生母として後陽成(ごようぜい)天皇に閲し、高台院 (こうだいいん)(秀吉の正室ねね)にも会い、子や孫に手をとられて京洛の見物を楽しんだのでしたが、7月の半ばに病臥の身となったのです。
家康はじめ、それぞれ一城の主となっている子どもや甥たちの百方手を尽くしての医療看護も、朝廷の思し召しによる社寺での平癒祈願 も、彼女の75歳の定命を延ばすことはできそうもありませんでした。
枕もとで息を詰めて見守っている人々の目をよそに、静かに瞳を閉じているお大の方の脳裏には、彼女の波乱に満ちた人生が走馬灯のようによぎります。
今川義元の討ち死に後、岡崎城を取り戻した家康は、西郡(にしごおり)城主となった夫久松俊勝や忠誠二なき岡崎衆の決死の働きで、荒れ狂った一向一揆も甲州勢の怒涛も切り抜け、次第に頭角を現していった・・・。
しかし、天下を取った信長は、お大の願いをよく聞いてくれた兄水野信元を、こともあろうに、わが子家康に命じて殺させ、また、実の子として慈しみ、後事を託した久松信俊をも大阪四天王寺で切腹させた。幼い二人の孫を呑んで焼け落ちていった坂部城・・・。
そして、あまりにも誠実なるが故に、信長と家康の仕打ちを怒り、長い流浪の末に憤死した夫の俊勝・・・。ただちに黒髪を切っ て、伝通院と号し、愛する夫や亡き人々の冥福を祈ろうとしたわが身・・・。
その後、幾度かの死地を切り抜けていく家康に乞われ、岡崎・浜松・駿府と、生母として居を移して行ったのだが、その家康も今では、天下の大御所としての貫禄を備えてきている。
もう、私の手の届かぬ存在となった。坂部城で生んだ康元は因幡守、定勝は隠岐守に、甥の水野勝茂は日向守と、皆一国一城の主ばかり。
もう、私は用のない身となった。
思えば、15年の短い歳月ではあったが、 傷心の身を夫の翼に抱かれ、多くの幼な子に囲まれながら、必死になって岡崎に残した子を思い、仕送りを続け、血書までしてきた、 あのころが、あの阿久比の里が、私にとっては、いちばんなつかしい・・・。
物音ひとつしない病室の明り障子に、細長く 尾を引いていた庭の松の枝影が、ひそと揺れ たとき、お大の方は深々と沈んで行く意識の中で、思い出深い坂部城の一室に、夫俊勝に 寄り添い、幼な子をあやしつつ、若武者竹千代と談笑している自分の姿を見て、にことほほえんでおりました。 
松平広忠 
(まつだいら ひろただ)は、戦国時代の武将。三河国額田郡岡崎城主。松平宗家8代当主。松平清康の子。徳川家康の父。
「武徳大成記」が大永6年4月(1巻)とし「三家考」および「御九族記」(寛保3・1743年成立)は同年4月29日としている。「改正三河後風土記」(上巻)「徳川実紀」(1巻)がこれを踏襲している。「朝野旧聞裒藁」(1巻)「徳川幕府家譜」は大永6年と記すにとどめている。「松平記」や「三河記大全」は天文18年に24歳で死去とするので、生年は同じになる。このほか25歳とするもの(「創業記考異」ただし一説にとして24歳と記す)また27歳で死去とするもの(「三州八代記古伝集」)もあり、同書の記述から逆算できる広忠の生年は大永3年(1526年)である。「三河物語」は23歳とするが年次の記述がない。
生母
青木貞景の娘とされているが(「徳川幕府家譜」「徳川実紀」1巻)、清康の室であった松平信貞の娘とする異説もある(広忠を「弾正左衛門」信貞の実孫とする『新編岡崎市史6』所収の「大林寺由緒」また「朝野旧聞裒藁」1巻「大樹寺御由緒書」も同旨)。
兄弟
松平信康(源次郎) / 天文9年(1540年)6月6日、安祥において討死(「御九族記」)、生年未詳。
香樹院 / 吉良義安の室(「寛政譜」2巻)。松平信忠の娘「瀬戸の大房」の養女となる(同前。また院号は「御九族記」による。
碓井姫 / 松平政忠の妻(「寛政譜」1巻「長沢」)。のち酒井忠次に再嫁(「同」2巻「酒井」)。「碓井姫」の名は「御九族記」および「寛政譜」2巻「酒井」による。また「御九族記」によれば享禄2年(1529年)生まれ、慶長10年(1605年)10月17日卒、77歳、法名は光樹院窓月香心または大樹寺光誉窓月(ママ)とする。西尾市岩瀬文庫蔵「法蔵寺由緒書」では慶長17年10月17日卒、光樹院殿九心窓月大姉となっており「寛政譜」は「法蔵寺の記録に従う」としながら同年11月27日としている。
成誉上人 / 大樹寺14世住持。天正3年(1575年)4月25日卒(「御九族記」)。
幼名
竹千代、千松丸、仙千代など諸書により異なる。汲古書院刊『朝野旧聞裒藁』によれば以下のとおり。
「烈朝系譜」→竹千代または千松
「松源大譜系」→千松丸
「別本御系図」→仙千代
『三河物語』には、お千千代様、拾三にシテ・・・と記載。『新編岡崎市史』所収「信光明寺文書」天文6年10月23日付け判物写しには「千松丸」とある。通称は次郎三郎であったといい(「三河物語」「武徳大成記」1巻)また「岡崎三郎」と称したことが発給文書より確認されている(『新編岡崎市史』所収「大樹寺文書」天文16年12月5日付け大樹寺宛寺領寄進状)
経歴
「徳川幕府家譜」の記述を一例として示す
天文4年(1535年)の清康の死去により、大叔父の松平信定は「虚に乗りて」岡崎押領を断行。信定を諌めぬどころか黙認という隠居の曾祖父・道閲(松平長親)の姿勢もあり、それゆえ「国中の制法信定次第」で「権威つよくなり、日増しに増長」し、同6年には所領を悉く押領して譜代の衆をひきつけ、また広忠を殺害しようと企てるようになった。
ここから阿部大蔵定吉の働きに救われる。まず天文8年(1539年)、大蔵によって吉良持広の庇護を得て伊勢国・神戸まで逃れ、この地に匿(かくま)われる。1月11日には元服し、持広より一字を拝領して“二郎三郎広忠”と改めた。しかし同年9月の持広の死去後、養嗣子・吉良義安の織田氏加担で庇護者を失うと、大蔵に伴われて三河へ再逃亡。ただ岡崎帰参は叶わぬため、長篠領民を頼んで暫く雌伏。そこから、岡崎帰参を今川義元に執り成してもらうべく駿河へ赴いた大蔵を追うように、遠州「掛塚」に止宿。さらに駿河へ渡って翌9年秋まで滞在する。
天文9年(1540年)義元の計らいで三河「牟呂城」に移される。広忠の帰城を望む譜代衆の働きで、同11年5月31日、松平信孝・松平康孝の協力を得て岡崎へ帰城。同年6月8日に信定は降参した。
天文14年(1545年)岩松八弥による傷害事件が起こるも、同年「安城畷」において織田氏と合戦、勝利を得る。同16年9月「渡理川原」では信孝と戦い、本多忠高の功績によりこれを破る。同年、織田信秀による三河進攻では今川氏へ加勢を乞うも、見返りに竹千代を人質として送ることとなった。
天文17年(1548年)3月19日「駿州」(ママ)小豆坂において織田勢と対陣したが、今川家からの援軍2万余を加えて大勝し、4月1日には「松平権兵衛重弘」兄弟の山中城をおとした。同月「三州冑山」にて信孝と対陣。「菅生川原」で信孝が流矢で戦死すると残兵は敗北した。翌18年2月20日再び織田勢と対陣、勝利を得て織田信広を捕虜とし、これと和して竹千代と交換、26日に今川家との約命どおり人質として駿府へ移送。
天文18年(1549年)3月6日、24歳で死去。
参考附記 / 「寛政譜」2巻は吉良持広の養子として吉良義安と記す。  
広忠 森山崩れと井田野合戦
「三河物語」は清康の死に関して「森山崩れ」と呼び、諸書はこの後に織田信秀による三河への進攻があったと記す。
「松平記」 / 大樹寺付近に布陣した織田勢に対し、松平方は「松平十郎三郎」を大将として700余人で井田郷に陣をとった。味方は兵を二手に分けて合戦し、「随分の侍衆 悉討死」したが、信秀も「譜代衆骨をりて なかなか欺く事ならず」これと和睦し帰陣した。清康の死を天文4年12月5日とするが井田野合戦の年次は記されていない。
「三河物語」 / 「森山崩れ」の「10日も過ぎざるに」として井田野合戦を記す。「三河にて伊田合戦と申しけるは是なり」と述べる。いずれも年次を欠く。味方800の雑兵にたいし信秀の兵8,000とし、双方が二手にわかれて戦ったと説く。「誰見たると云人はなけれ共 申伝えには」との文言がみえる。
「家忠日記増補」 / 信秀が率いた兵は8,000余りと記し、これを二手にわけたとする。同じく年次なし。
「岡崎領主古記」 / 天文4年12月27日「織田家より多勢にて三州に働き」と記す。
「寛永所家系図伝」6巻「高力」 / 天文4年10月清康死去の後、織田備後守三河に出張、伊田郷にて高力重長が討死したとする。
「三州八代記古伝集」 / 清康の死を天文2年12月5日とし、ここから「100ヶ日も過ぎずに」織田方の進攻があったとする。「朝野旧聞裒藁」は年次について特定を避けている。「徳川実紀」は天文5年2月としている。
参考附記 / 「松平記」の松平十郎三郎は清康、信孝の兄弟・松平康孝か(「寛政譜」)。「朝野旧聞裒藁」は「三河国古墳考」ほかを引いて天文11年3月18日卒としている。  
伊勢への放浪と岡崎還住
広忠の岡崎帰還までの経緯を「阿部家夢物語」は次のように記す
天文4年「極月5日」に清康が「御腹を召され」た。伊勢へ船をしたて「大蔵殿」に申しあわせて遠州への下向を決めた。「かけつか」で3月17日に「御若子」に会い、天文5年の夏のあいだ中「懸つか かぢか所」にいた。同8月5日から「今橋」「世喜」「形原」を経て、9月10日に「むろつか」についたが、閏10月7日にむろつかを「ぢやき」して「今橋」へ退いた。「大蔵殿」は再び駿河へ赴き、翌年6月1日に岡崎において本意をとげ、駿河へ迎えをおくって25日に「御若子」が入城した。
「三河物語」はこうである
「伊田合戦」の後「内前」は広忠を「立出し」、そのため「阿部之大蔵」は13歳の広忠に供して伊勢へ逃れた。14歳まで滞在した後に駿河へ渡り、15歳の秋に義元の援軍を得て「茂呂の城」へ入った。「内前」は大久保新八郎に7枚の起請文を書かせ、茂呂を攻撃する。大久保は「有間」へ湯治に行くとの信孝の申し出を受け、この間に広忠を岡崎城へ入れた。その後「内膳殿も御詫事成されて」出仕した。
「松平記」は次のように記す
信秀と縁者であった「内膳」は「御隠居をだまし岡崎知行悉押領」し広忠を「内々にて」追出した。13歳の広忠は「伊勢国へ浪人」の身となり、阿部大蔵がこれに従った。越年後に元服し、吉良持広の「御肝煎」で今川義元へ助力の申し入れがなされた。広忠は駿河に赴き、義元の加勢を得て三河の「もろの城」に移る。譜代の家臣は内密に広忠の帰還をうながすが、これを聞いた信定は「大久保新八」を呼び「伊賀八幡」で7枚の起請文をかかせる。大久保らはこれを破って「松平蔵人」らに相談、「本城」(岡崎城)の留守居であった信孝を「有馬」へ湯治にやり、この間に広忠を城にいれた。広忠の三河帰国は天文6年6月1日で、岡崎入城は同25日、この時17歳。譜代衆「皆々来たり加勢申 中々手を出事ならず」6月8日「内膳」は和睦し、岡崎に出仕した。
「武徳大成記」は年次を附して次のように記す
天文4年12月5日清康が「尾州守山」で死去、10歳の広忠は阿部大蔵らを従えて伊勢・神戸にいた。内膳正信定は「嫡家を奪う志ありて 長親君をたぶらかし」織田家へ内通した。広忠は大久保忠俊らの要請をうけ、翌5年3月17日に伊勢神戸を出て遠州「懸塚」に上陸、「150日ばかり逗留」したのち「今橋」に居住、密かに「世喜」「形原」「室塚」などへ「通じて」信孝・「松平伝十郎」と連絡をとる。閏10月10日阿部は駿河で義元に会い、同年冬に広忠は「参州牟呂」に入る。信定は攻撃を加え、また大久保忠俊に7枚の起請文を書かせる。大久保ら譜代の衆と信孝は談合し、信孝は湯治と称して「有馬」へ行き、12歳の広忠は天文6年5月1日岡崎に帰還した。

「松平記」は森山崩れを天文4年と明記した上でこの時の広忠の年齢を10歳とし(同)、また伊勢行きを13歳としている。天文6年と記す岡崎への帰還には2年しかなく、それゆえ年次と年齢の記述が矛盾する。「武徳大成記」は「松平記」と年次が同じであるが、6年の岡崎帰城を12歳として生年との齟齬を避けている。
「朝野旧聞裒藁」は天文6年(1537年)6月に広忠の岡崎還住が実現したとしている。また上記「千松丸」の名がある『新編岡崎市史6』「信光明寺文書16」の天文6年10月23日付け判物写しは、八国甚六郎、大窪新八郎(ママ)、成瀬又太郎、大原左近右衛門、林藤助に対して「今度入国之儀 忠節無比類候」として15貫文の加増を約しており、『新編 岡崎市史2』はこれを岡崎帰還の功績によるものと考えている。大久保ら5名への加増については「三河物語」「武徳大成記」に記述がある。
異説として「御年譜附尾」(正保3・1646年成立)は岡崎押領を松平信孝によるものとし、これを天文7年(1538年)と記す。また義元への岡崎還住の要請を8年暮とし、駿府行きを9年春、「茂呂」入城は同年秋、岡崎還住を天文10年(1541年)と記述する。これについて「朝野旧聞裒藁」は、信定の岡崎押領を天文7年とするのは「松平記」がその年齢を13歳と記したために生じた誤りではないかと推測している。
参考附記 / 「内前」「内膳」→松平信定(「寛政譜」1巻「桜井」)、「松平蔵人」→松平信孝(同「三木」)、「大蔵」「阿部之大蔵」→阿部定吉(10巻「阿部」。今の呈譜「定吉」につくる、とする)、「大久保新八」→大久保忠俊(11巻「大久保」)、「牟呂城」→諸書により表記が一定しないが『新編 岡崎市史2』は西尾市室町に比定している。  
広忠 織田氏の三河進攻と小豆坂の戦い
広忠の後半生は三河へ進攻する織田氏との戦いに費やされていたようである。
安祥城をめぐる攻防
「岡崎領主古記」は次のように記す。
天文9年(1539年)「尾州勢 安祥城へ取掛」け、6月6日に合戦となった。「安祥方討負城陥」して城代「松平左馬允長家」が切腹した。他に松平甚六、同・源次郎、林藤内、内藤善左衛門、近藤与市、足立弥市、高木入道が討死、「是より安祥 織田家に渡る」こととなった。翌10年8月10日、駿河勢が安祥に寄せ来て「安祥畷」において戦いとなった。
同書はこの後、天文12年(「本多吉左エ門討死」)と同14年の計4回の安祥合戦を記している。
「寛永諸家系図伝」にも織田家による安祥攻めの記述があるが(年次は天文9年6月6日)松平利長らが防戦して敵が退いたと記している(「寛政譜」1巻「藤井」)。また同1巻は松平忠次が参戦したとするだけで(年次なし)その結果についての記述がない。「寛政譜」の忠次の記事は「信秀ついに利を失いて敗走」したというものである(1巻「五井」)。
同じく「武徳大成記」は天文9年の戦いを「織田信秀いくさをやめて引き退く」とし、天文13年には城兵の防戦により織田勢が敗軍したと記す。翌14年のこととして「広忠卿安城の敗れを憂て」とあること、また広忠の死後、今川からの援兵を得て安祥城を陥落させたとの記述があることから、城が織田方の手に渡ったことは認めている。しかしその時期や経緯についての記述がない。
参考附記 / 「松平左馬允長家」→松平長家。「岡崎領主古記」が「親忠主御息」と記すほか「寛政譜」1巻は松平親忠の子・安城左馬助「長家」とし、天文9年6月6日安城において死去と記す。
小豆坂の戦い
「信長公記」は「8月上旬」のこととして小豆坂での戦闘をつぎのように記す。年次の記載はない
駿河勢は三河「正田原」に七段に陣を構え「駿河の由原先懸けにて あずき坂へ人数をだし」安祥から矢作へ出た織田勢と戦いになった。織田備後守、舎弟「与二郎」「孫三郎」「四郎次郎」また「織田造酒丞」が奮戦し、槍傷を負った。「三度四度かかり合い 各手柄と云う事」限りなく、今川勢は兵を「打ち納れ」た。
これを小瀬甫庵「信長記」は天文11年(1542年)のこととして記す(下記刊行本上巻)。
天文壬寅8月10日、今川義元は4万余騎を率いて「正田原」に出陣し、兵を二手に分けて小豆坂に押し寄せた。対する織田勢の兵力は4,000余騎で安城へ出向、織田「孫三郎」を大将として敵陣へ向かった。織田勢は坂の途中で防戦し、河尻与四郎が今川勢の足軽大将「由原」の首を取った。日暮れになって織田勢は坂の下へと追い詰められたが、織田造酒丞、下方左近、岡田助右衛門、佐々隼人正、同・孫助、中野又兵衛らの活躍で今川勢を追い返し、勝どきをあげた。
同書はこの戦いについて、世間では「尾張勢の勝軍」といわれているが「誠にかかる手痛き合戦は前代未聞」であったとし、造酒丞らを「小豆坂の七本槍」と呼んで語り継いだと記している。「由原」戦死について「信長公記」はこれを記さず、逆に「由原」が「那古野弥五郎」の首を討ち取ったとしている。
参考附記 / 織田備後守→織田信秀、「孫三郎」→織田信光(「寛政譜」8巻「織田」)
他方「三河物語」は小豆坂の戦いをこのように記す。年次はない。
今川勢の進出を聞いた信秀は、安祥を経て上和田に着き「馬頭の原」へ陣をとるため進発した。今川勢は藤川から上和田をめざして進軍し、小豆坂を上ったところで両者が遭遇し、戦いとなった。織田勢は上和田から安祥へ退陣し、今川勢も藤川へ戻ったが、「対々とは申せ共 弾正之中之方は二度追帰され申 人も多打れたれば 駿河衆之勝」であったという。また「三河にて小豆坂之合戦と申つたえしは此の事」である。
「松平記」は年次を附してこのように記す。
天文17年(1548年)3月19日、織田勢は岡崎をとらんとして安祥を進発、これをきいた駿河勢は「臨済寺雪斎」を大将として上和田に陣をとり、小豆坂をのぼった。織田勢は「織田三郎五郎大将分にて」坂の途中でせりあいとなった。「朝比奈藤三郎」が岡崎衆に下知して「三郎五郎」を追い崩し、また織田勢も盛り返したため「林藤五郎」「小林源之助」ら「よき者あまた討死」した。「岡部五郎兵衛横槍を入」てもりかえし、「やり三位」を「小倉千之助」が組み討ち、織田勢は「悉く敗軍」した。
諸書の記述は次のとおり
「岡崎領主古記」 / 天文17年3月19日、小豆坂において合戦があり「軍勢多数討死」、今川勢は「千種野」に、織田勢は安祥に退いた。
「寛永諸家系図伝」 / 1巻「松平・泰親庶流」。天文11年8月11日、小豆坂合戦において伝十郎「某」が戦死したとする。
「同」 / 9巻「大久保」。天文11年、臨済寺の長老雪斎が「今川義元にかわりて」安祥をせめたとし、大久保忠勝が「清縄手の合戦」において槍を合したと記す。
「同」 / 3巻「高木」。天文17年小豆坂において高木清秀が首級を挙げ、それを知った織田信秀が自らの旗下においたという。
「同」 / 14巻「山口」。おなじく天文17年山口盛政(山口重政の実父)が首級を挙げ、これを織田信秀に献上したとする。
「家忠日記増補」 / 天文17年3月19日「広忠君軍を岡崎の城より発し駿州の兵と合す」として戦いへの関与を示し、岡崎の兵が今川勢と「是と同く競い進て奮戦」、酒井正親が「鳴海大学助」を討ち取ったとする。内容は前半が「松平記」と同じであるが、後半に至って「織田造酒丞」、下方、佐々、中野らが織田信広と共に奮戦し「駿州の兵利を失て敗亡す」とする。また「七人をして三州小豆坂の七本槍と称す」とした上で、後に「岡崎勢五郎兵衛尉横槍を入れ」織田勢を追い崩したこと、「小倉千之助」が「鑓三位」を討ったことも併記している。
「織田軍記」(総見記) / 天文17年3月、織田信秀は4,000の兵を率い安祥に入城、「正田原」に陣を構えた今川勢と3月12日に小豆坂で戦いとなった。織田勢は大将「孫三郎」信光を「織田造酒丞」が補佐し、河尻が今川勢の先陣「庵原安房守」を討ち取った。夕暮れになって「無勢故戦い疲れ」劣勢となったが、下方、岡田、佐々、中野らが取って返し、敵陣を切り崩した。今川勢は「庵原」をはじめ「三州」の「林」「小林」らが討ち取られ敗軍し「岡部五郎兵衛」が「横槍を入れ」後殿となって駿河へ退却したとする(下記刊行本)。
「三河記大全」 / 天文16年8月、織田勢の大将を孫三郎信光、今川勢を「林際寺雪斎長老」として小豆坂の戦いを記す。「家忠日記増補」とおなじく、織田造酒丞らが引き返したところを岡部が横槍を入れて突き返したとする。また「松平記」において「岡崎衆」とされた林・小林が岡部の横槍によって討ち取られたとするなど、内容に混乱がみられる。
「武徳大成記」 / 天文11年、同17年と2回にわたって小豆坂の戦いを記す。
『新編 岡崎市史2』は17年3月が11年8月に誤伝される可能性を低くみて2回説を支持し、小和田哲男「駿河 今川一族」は今川義元の東三河進出は天文12年からであるとして、11年の戦いはなかったとする説をとっている。
参考附記
伝十郎「某」→「寛政譜」1巻では「今の呈譜に勝吉あるいは信勝に作る」とされている。また「寛永諸家系図伝」には記述がないが「寛政譜」では父「信吉」も戦死したとしている。
「織田三郎五郎」→織田信広(「寛政譜」8巻「織田」)
「岡部五郎兵衛」→岡部長教(「寛政譜」14巻「岡部」)岡部正綱の兄弟とされている。同6巻「水野」、「改正三河後風土記」上巻も同じく「長教」と記す。「朝野旧聞裒藁」1巻および2巻綱文に五郎兵衛「真幸」とあるが、これは「武徳編年集成」上巻の表記によったものと思われる。『新編岡崎市史6』は「三川古文書」所収文書20・天文21年8月25日付・岡部五郎兵衛宛て「今川義元感状写」の五郎兵衛の名に「元信」と注記して採録し『新編東浦町誌 資料編3』は国立公文書館蔵「古今消息集」所収文書2-88・永禄3年6月8日付の岡部五郎兵衛宛て「今川氏真判物」の五郎兵衛を「岡部元信」のこととして解説している。
「朝比奈藤三郎」→「武徳大成記」1巻は「朝比奈藤三郎泰能」と記している。 
広忠 婚姻と離別
「武徳大成記」は於大(伝通院)との婚姻は天文10年(1540年)としている。家康出生の後に離縁することになるが、同書はその理由について、天文12年の水野忠政の卒去により、家督を継いだ水野信元が織田家に与したことにあったとみる。同書は家康誕生を天文11年の生まれとした上で、伝通院との離縁は家康3歳の時のこととしている。
「岡崎領主古記」は於大との婚姻を「天文9年の事成と云」とし、また同13年に離別とする。
於大との関係でいえば、彼女の再婚相手である坂部城主久松俊勝を通じて尾張国知多郡に介入した形跡がみられることである。「寛永諸家系図伝」1巻202では天文15年(1545年)「広忠卿しきりに御あつかいありし故」大野(常滑市北部)の佐治家との和睦が実現したとしている。『新編岡崎市史6』1171項所収の「久松弥九郎」宛ての広忠書状写しに「大野此方就申御同心 外聞実儀 本望至極候」としるされている。 
広忠 死
広忠は天文18(1549年)3月6日に死去したとされている(「家忠日記増補」「創業記考異」「岡崎領主古記」ほか)。ただし『岡崎市史別巻』上巻は3月10日としている。しかし他の史料に所見がなく、誤植と考えられている(『新編 岡崎市史2』)。
死因に関しても諸説がある
病死とするもの→「三河物語」「松平記」など
岩松八弥(片目弥八)によって殺害されたと記すもの→「岡崎領主古記」
一揆により殺害されたとするもの→「三河東泉記」。天文18年3月、鷹狩の際に「岡崎領分 渡利村の一揆生害なし奉る」と記す(下記所蔵本15丁左)。またこれを「尾州織田弾正忠の武略」としている。『岡崎市史別巻』上巻に採録されている。
「武徳大成記」のほか「家忠日記増補」「創業記考異」「烈祖成績」などいずれも病死説を採る。「徳川実紀」「朝野旧聞裒藁」も同じ。『朝野旧聞裒藁』採録記事は次のとおり(1巻737項以下)
「松平記」 / 天文18年春より「御煩あり」、同3月18日卒去。24歳
「官本三河記」 / 同じく「18年春広忠病気」、3月6日卒、24歳
「家忠日記増補」6日卒去、24歳
「三岡記」 / 「御病気」3月6日卒。「病気連年疱証ト云々」とする。
「松平記」が記す忌日は『三河文献集成 中世編』に収められた翻刻、および国立公文書館所蔵の写本2冊はいずれも3月6日となっており「朝野旧聞裒藁」の記述は誤写と思われる。『岡崎市史別巻』上巻は岩松八弥による殺害説をとり、これが『新編 岡崎市史2』に踏襲されている。
葬地と法名、贈官位
葬地は愛知県岡崎市の大樹寺(「朝野旧聞裒藁」1巻所載「大樹寺御由緒書」。「御九族記」および「徳川幕府家譜」に同じ)。法名は「慈光院殿」もしくは「瑞雲院殿」応政道幹大居士(「御九族記」「徳川幕府家譜」19項)で、贈官の後「大樹寺殿」となったとする同寺の記録があるという(「朝野旧聞裒藁」1巻738項所載。「御九族記」おなじ)。
現在大樹寺に加え、大林寺・松応寺・法蔵寺・広忠寺と5つの墓所が岡崎市にある。
また死後、慶長16年3月22日従二位大納言の官位を贈られている(「徳川幕府家譜」19項は「家康公 御執秦」に依るとする)。「御年譜附尾」は「因大権現宮願」として従三位大納言と記し「御九族記」は正二位権大納言としている。なお、嘉永元年10月19日には、太政大臣正一位に追贈されている。
松平広忠 贈太政大臣正一位宣命(高麗環雑記)
天皇我詔良万止、贈従二位權大納言源廣忠朝臣尓詔倍止勅命乎聞食止宣、弓乎鞬志劔乎鞘仁志氐与利、今仁至氐二百有餘年、此世乎加久仁志毛、治免給比、遂給倍留者、汝乃子奈利止奈牟、聞食須其父仁功阿礼者、賞子仁延岐、子仁功阿礼者、貴父仁及者、古乃典奈利、然仁顯揚乃不足遠歎給比氐、重天官位乎上給比氐、太政大臣正一位仁治賜比贈給布、天皇我勅命乎遠聞食止宣、嘉永元年十月十九日奉大内記菅在光朝臣申、
(訓読文) 天皇我詔良万止(孝明天皇、すめらがおほみことらまと)、贈従二位(すないふたつのくらゐ)権大納言(かりのおほいものまうすのつかさ)源広忠朝臣に詔倍止(のらへと)勅命乎(おほみことを)聞食止宣(きこしめせとのる)、弓を鞬(ゆぶくろ)にし劔を鞘(さや)にしてより今に至りて二百有余年、此の世を加久(かく)にしも、治め給ひ遂げ給へるは、汝の子なりとなむ、聞食(きこしめ)す其の父に功あれば、賞子に延(つ)ぎ、子に功あれば貴父に及ぶは古(いにしへ)の典(のり)なり、然るに顕揚(けんやう)の不足遠く歎き給ひて、重ねて官位を上(のぼ)せ給ひて、太政大臣正一位に治め賜ひ贈り賜ふ、天皇(すめら)が勅命(おほみこと)を遠く聞こし食(め)せと宣(の)る、嘉永元年(1848年)10月19日、大内記菅(原)在光(唐橋在光、従四位下)朝臣奉(うけたまは)りて申す、
評価
一般に凡庸、あるいは愚将であると評されている。しかしながらそれは父親である清康や息子の家康の、輝かしい実績と比較しての事に過ぎない。確かに三河統一を成し遂げた清康に比べれば、今川氏の庇護によってようやく松平氏を存続させた広忠は、あまりに情けないと言えよう。しかしながら妻を離縁し、あるいは息子・竹千代を織田方の人質に取られながらも、あくまで今川氏に忠誠を尽くした広忠の判断は正しかったと言える。今川氏は織田氏を攻め、織田信広を生け捕りにして人質交換で竹千代を奪還し、広忠の忠義に報いている。これにより広忠死後の松平氏は滅亡をまぬがれる事になる。 
広忠 妻子に関する伝承
妻に関して
「柳営婦女伝」は三人の室を記している。正室・側室の別を明記する史料はない。またその子に関しても一男一女(「武徳大成記」1巻)二男二女(「参松伝」巻1)二男三女(「改正三河後風土記」上巻および「徳川実紀」)三男三女(「御九族記」巻1)と諸書により記述が異なる。
子女とその生母
生母により分類して以下に示すが、生母について争いのあるもの、広忠の子として争いのあるものはこれを「一説に」とした。ただし存在そのものが疑われている、忠政、恵最、家元についてはこのかぎりではなく、単に所伝のあるものとして列挙した。
伝通院との間にうまれた子 / 徳川家康・多劫姫(一説に)
大給松平二代乗正の娘「於久の方」との間の子 / 松平忠政・樵暗恵最(僧)
平原氏・娘との間の子 / 矢田姫(松平康忠の妻)
真喜姫との間の子(一説に) / 市場殿(荒川義広の妻)
その他 / 三郎五郎家元・内藤信成(一説に)・松平親良
   
戦国武将の知恵

 

信長、秀吉、家康
現在の愛知県から奇しくも出現した三人の天下人すなわち織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の、それぞれの、「部下管理法」は違う。リーダーシップというのは、「トップあるいは組織目的が達成するような、工夫がいる」ということである。三人の天下人の目標は、大体次のとうに整理されている。
一 織田信長の目的は、旧価値社会の破壊
二 豊臣秀吉の事業目的は、新価値社会の建設
三 徳川家康の事業目的は、二人の先輩によって行なわれた事業の整備と、長期維持
いってみれは、
一 信長は破壊
二 秀吉は建設
三 家康は維持管理
である。そうなると、それなりにリーダーシップのとり方が異なってくる。
一 信長は″時間との戦い″を重んじ、勢いリーダーシップは部下に″恐怖感″を持たせることになる。
二 秀吉の場合は、建設が目的だから、多くの人びと、特に底辺にいる働き手のモラール・アップ(やる気起こし)が主体になる。これには、トップとしての秀吉の人気を高め、「秀吉様のためなら」という気分を起こさせることにカ点がおかれる。
三 家康の場合は、長期に亘る維持管理が目的だから、勢いリーダーシップのとり方も「分断支配」を重んじ、「部下相互間における疑心暗鬼の念を助長する」ということになる。つまり「疑いの気持ち」を組織運営のバネにする。というような分析・分類が可能だろう。
だから前田利家が見るところ、信長は常に、「然っておれについて来い」というタイブのトップリーダーだったし、秀吉は、「みんなの気持ちを付度しながら、やる気を起こさせる」というトップリーダーだった。しかし利家の見るところ、秀吉の秀吉たるゆえんは、そういう、「下部の気受けだけを気にしている」というトップリーダーではなかった。信長はかつて利家たちを北陸に派遣したときに、「おれのいる方向へ足を向けて寝るな」と厳命した。このことは言葉を変えれば、「それほどおれを崇めろ」ということだ。この厳命に、信長の部下は全部恐怖心を感じ、「守らなかったら厳罰に処される」と思い込む。
晩年に至った秀吉が五人の大老に対し、「もし法に背くような老がいたら、気付いた者は武装せずに略装で出掛けて行き、相手が意見を聞かずに刀を抜いて来た時も手向かいするな。そのまま斬られてしまえ」と命じたのは、「斬られた者は、相手に斬られたのではなく、この秀吉に斬られたのだと思え」と妙な手討論を展開している。あるいは、「それをおれへの殉死だと思え」ともいっている。伝えによれは、「臨終の際は、秀吉は失禁しながら、五大老たちに頼み申す、頼み申すと秀頼のことを哀願した」と伝えられているが、そういう惨めで情けない秀吉の有様から考えると、この、「法を破った者」に対する、追腹・御手討覚悟の意見・諌言の求め方は、死を前にしたトップリーダーの、「ぎりぎり懸崖に立った者の遺訓」として、厳しい輝きを放っている。
したがって、二月十二日の和談成立の後に、前田利家が徳川家康を訪ね、その後で徳川家康が前田利家を訪ねるということは、秀吉の遺訓による、「迫腹・御手討覚悟の、異見申し立て」の実行であった。単に、「これからは仲良くしまし ょう」という、親善訪問ではない。
 
太田道灌

 

事業の文化化を行った
[ 太田道灌(1432-1486) 室町時代の武将。武蔵守護代、扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長(すけなが)。扇谷上杉家家宰・太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城した武将として有名である。 ]
かれの、「風流心」が、「ゆとりをもった人間」として、その人間性に詩精神と優しさと温もりを感じとるからだろう。これは、「徳川家康のやったことなら認めないけれど、太田道潅のやったことならすべて承認する」という、"何をやったかではなくだれがやったか"という芸人の評価方法が、もっともはっきり表れている例だ。
では、道潅はいったいどんなことをやったのだろうか。一言でいえば、「事業の文化化」である。現在でもよく「行政の文化化」あるいは「文化行政」などという言葉が使われる。両者は違う。「文化行政」というのは、行政が実際に文化事業をおこなうことである。これに対し「行政の文化化」というのは、「行政に文化性を与えて、品性や香りをつけ、国民や住民に温かくわかりやすいものにする」 ということだ。
簡単な例をあげれば、住民に対し出す手紋の宛て名を「殿」などを使わずに「様」に改めることであり(「殿」は「様」より敬意が軽く、現在ではより公的な用語)、また住民からいろいろ問い掛けが出たときにも、「検討いたします」だの「善処いたします」などという応じ方はしない。きちっと「それは必ず実行します」あるいは「それはとてもできません」と、明確に答えることも行政の文化化のひとつだ。なによりも、役所の文書すなわち公文書を、「国民にわかりやすくする」ということが、最たる「行政の文化化」である。だから、本来なら文化事業をさておいても、役所はまず行政の文化化に努力すべきなのだ。 
人事が公正の故に殺された
他人の足を引っぱるのに、よく使われる方法は、「その人間について、悪評を流す」あるいは、「有力者に直接悪口をいう」などだ。
前者は、ひどいのになると、ないことまで捏造して流す。
後者は、たとえば人事を左右できる立場の人間に、「きみは、かれをどう思うか」などときかれる場合と、普段から折あるごとに"先入観"を吹きこむ場合と、ふたつある。
有力者によっては、そういう"人事のご意見番"おいておいて、肝心なときには必ず、そのご意見番の意見をきく、という方法をとっている。
このシステムでは、当然ご意見番の意見が公正でなければならないが、それだけではだめだ。意見をきく有力者自身が公正でなければだめなのだ。
有力者も人間だからやむをえないのだが、有力者自身、すでに出世させたい意中の人間がいる。が、その人間の評判がいまいちパッとしない。そこで、ご意見番に意見をきく。
だが、このときのききかたは、自分の一抹の不安や躊躇を解消するような都合のいい意見を求めている。敏感な人間は、そのへん一を見ぬいて迎合するが、公正な人間はそんなことをしない。堂々と正論をはく。
しかしこういうことは、必ず洩れる。それは有力者が意中の人間をよんで、「おまえを出世させてやろうかと思ったが、かれが反対した」というからだ。うまくいかなかった青任をご意見番に転嫁してしまう。
当然、説明された人間は、ご意見番に、「あいつは、おれの足を引っぱりやがった」とうらむ。小人であるほどうらむ。ご意見番の意見が公正であっても、そうは考えない。
だから、こういう人間にかぎらず、ご意見番が、「あの人間はだめです」といった人間は、すべてご意見番が足を引っぱったことになる。このへんは、いまも変わらない。人間の人間たるゆえんだ。そして人事がほんとうに公正だったら、サラリーマンは逆につまらなくなるのではないか。ドラマも緊張も生命の燃焼感もなくなり、それこそロボットの社会になってしまう。
太田道濯は、こういう"人事のご意見番"であった。公正だった。しかし、公正すぎて、かれが足を引っぱった者から、足を引っぱられ、ついに殺された。 
 
北条早雲

 

優れた町経営
諸国から呼ばれた技術者や商人には、山海の珍物、琴、碁、書、画、小細工、舶来品などの文化的芸術品を売るような商人も集められた。
技術者として集められたのは、鍛冶、鋳物師、大工、皮つくり、唐紙、表具師、大鋸引、銀細工師、螺錮師、縫物師、紙漉き、桶師、笠木師(鳥居や欄干をつくる技術者)、刀の柄巻師、舞々師、鳴門師、石工などであった。
おもしろいのは、これらの枝術者を束ねるのはすべて"忍びの者"であったことである。
これらの連中は、"風魔"、"乱波"、"わっぱ"、"素破"などと呼ばれた。まとめて、「裏武者」といわれていた。北条早雲は、さすがに戦国時代の武将であっただけに、調略の術に長けていた。調略の根本は何といっても、「情報を集めること」である。逆に、「ガセネタを流すこと」ということだ。ガセネタを流して敵をかく乱する。あるいは、ニセの情報を信じさせて裏切り者をつくりだす。これらのことは、戦国大名の誰もが行っていた。その意味では、「東国に理想郷をつくりたい」と志す早雲にしても同じだった。いや、理想郷を戦国時代につくろうなどということは到底不可能なことだったから、よけい、「調略」を使わなければならなかったのである。その点、北条早雲は、「忍者の活用者」としても超一流人であった。
早雲はさらに、「土地の人々の心の捲り所」としての信仰の対象である神社仏閣に対しては手厚い保護を加えた。壊れた寺社は修理し、それぞれ必要経費の面倒をみた。これがまた早雲の評判を高めた。
こういう都市経営の中で、早雲が特に力を入れたのが、「薬業の保護」である。
薬業の知識は前に書いたように、早雲は放浪時代から身につけていた。
したがって、「病気になった人にまず必要なのは薬だ」と考えていた。
「薬業を商店街の核にしよう」などと考える戦国武将は早雲の他にあまりいない。
この目的を達成するために、早雲は京都から宇野藤右衛門定治という人物を招いた。永正元(一五〇四)年のことである。
宇野藤右衛門定治という人物は、日本名を名乗ってはいるが、実は中国から日本に帰化した渡来人である。宇野藤右衛門は、もとの名を陳延祐といった。元の人である。元では重い役について、礼部員外郎というポストにあった。が、元が明に滅ぼされた時に亡命し、日本の筑前博多にたどりついた。この時に、「陳外郎」と、自分の職名をそのまま名に変え、すぐ日本に帰化した。
この陳外郎の息子が、足利義満の命を受けて明にわたった。足利義満は三代の将軍だったが、明との貿易に力を注いでいた。この時陳外郎の子が中国から大量の漢方薬を持ってきたが、この薬が京都御所の公家たちの評判になった。冠の中にいれて、髪の臭気を防ぐなどに使われたために、「透頂香」という名がついた。しかし一般的には、「外郎の薬」と呼ばれた。透項香は単に香料として使われただけではなく、疾、咳、胃腸、中毒、乗物酔い、めまい、心臓その他の急病の特効薬としても有名になった。
陳外郎は、やがて、足利九代将軍義政から、「宇野源氏の名を継いでよい」という許可をもらって、宇野と姓を改めた。そして初代が宇野藤右衛門定治である。
実をいえば、外郎家は香具師の関東総領(関東の支配責任者)だった。したがって、諸国の情報に明るい。また各地の香具師を支配しているから、そのネットワークは計り知れなかった。早雲はここに目をつけた。
同時に、「宇野家を大切にすれば、京都朝廷ともつながりができる」と考えた。つまり、一石二鳥の妙手だった。
その頃北条早雲の名は京都にも鳴り響いていた。
「民にやさしい政治を行い、商人を大切に保護している」という評判が高かった。「その中心になっていただきたい」という早雲の丁重な誘いは、宇野藤右衛門を喜ばせた。宇野藤右衛門は小田原にやってきた。早雲は広大な敷地と屋敷を与えた。そして、「町全体の運営にもカを早くしていただきたい」と頼んだ。 
風度の高い早雲
北条早雲は、同時代の武将たちのいわゆる「ガバナビリティ(統率カ)」や、「リーダーシップ」にないものを持っていた。
「人間的魅力」である。つまりかれの場合は、「早雲様のためなら、命がけで仕事をしよう」「早雲様のためなら、合戦場で戦死しても悔いはない」という、「早雲様のためなら」という"なら"があった。こういうように、他人に"なら"と思わせる資質を、中国では「風度」と呼んでいる。度という言葉がついているからこれは一種の目盛りだ。温度とか湿度とかいうのと同じ意味である。
「風塵が高い」といえば、「この人のためなら」と思う人間がたくさんいるということだ。「風度が低い」といえば、「この人のいうことなら、絶対に信用しない」と逆な反応を示すことである。
今のような世の中では、いろいろと理屈が多くなっているので、人間の気持ちが筋目だって味気がない。しかし人間は何といっても憤の存在だ。「人生意気に感ず」とか、「以心伝心」などの気風がある。
「あ・うんの呼吸」も現存している。「あ」というのは吐く息であり、「うん」というのは吸う息だ。つまり、「呼吸がピッタリあう」という人間関係である。 
民への優しい統治
しかし、早雲が制庄した地域は必ずしも早雲の出現を拍手して迎えなかった。むしろ恐れていた。それは、「伊勢新九郎(北条早雲)という男は策謀家だ。上方からやって来て、いつの間にか今川家に入り込み、当主の信任を勝ち取った」という噂が流れていたからである。里の人々は、「そんな無頼な国盗り男では、何をするかわらない」と話し合って、山の中に逃げ込んでしまった。里の柑に残されていたのは、病んだ老人ばかりであった。早雲は慨嘆した。しかし、かれの心の底にはいつも禅の精神がある。袖仏の気持ちがある。落ち込んだ気持ちを自ら奮い立たせた。かれは村の中をくまなく点検した後に、部下を集めて、こう命じた。
「一人の病人を、三人の兵隊が交代で看病せよ」そうしてかれ自身は、山の中に入った。ついて来た部下が聞いた。
「何をなさっておられるのですか」「薬草を探している」前半生が謎のかれには、長い放浪生活があった。その放浪の旅で、かれは山や野に薬草がたくさん生えていることを知った。今でいえば、「漢方薬の国産化」である。その知識と技術を持っていた。くまなく村の中を見回って、老人たちの病状を診たかれは、「あの老人の病気にはこういう薬が効く。そして、この老人にはああいう薬がいいだろう」と即座に頭の中で判断したのである。薬草の見本を発見すると、かれは部下に命じて、その大量採集を命じた。そして煮たり干したり粉末化したりして、薬を作った。これを老病人たちに与えた。効果てきめんで、病人たちは次々と治った。快癒した老人たちは話し合った。
「早雲様は決して悪い方ではない。むしろ、仏のような温かい気持ちをお持ちだ。山に行って、このことを話そう」そこで快癒した老人たちは山中に行き、退避していた人々にそのことを話した。はじめは疑っていた村人も、やがては信じて里に下りてきた。村の入口に大きな高札が立っていた。
一たとえ空き家でも、勝手に中に入って調度品に手をかけてはならない
一まして、調度品を外に持ち出したり、売り払って金に換えるようなことをしてはならない
一早雲の部下も、里人も、この付から勝手に脱出してはならない
そんな内容だった。早雲は戻ってきた里人の中から、かつての村役人を選び出し、「今までと同じように仕事をしてほしい」と頼んだ。画期的なのは、かれが年貢の率を、「四〇パーセントとする」と宣言したことだ。当時は、「五公五民」といって、五〇パーセントが常識だった。それをいきなり一〇パーセント引き下げた。これが村人を喜ばせた。
「早雲様は生き仏棟だ」と、みんな早雲の支配を喜んだ。
早雲は、こうして着々と領土を広げていった。民に対しては優しかったが、権力者に対しては厳しい。まして贅沢な暮らしをし、民を苦しめている権力者に対しては、かれは容赦なく策謀を駆使して、これを滅ぼした。 
毛利元就 / 三本の矢、本家を補佐するように頼んだ (-1571)
ふつう伝えられきた「三本の矢」の話は、死に面した元就が、三人の息子を呼んで教訓を与えたことになっている。最初、元就は一本の矢を折った。そして、「矢も一本だとすぐ折れる」といって、次に三本まとめて折ろうとした。ところが折れない。元就は「矢が三本集まれば、容易には折れない。おまえたちも兄弟三人が心を合わせてこの矢のように協力してほしい」と伝えたという。
だが、前にも書いたように、長男の隆元は急死していてこの席にはいない。同時に次男の元春も当時合戦中で、父の死には遭えなかったという。そうなると、元就の死をみとったのは、三男の隆景だけだ。それではこの話自体が成立しないのだが、真相は次のようなことだという。
長男の隆元に死なれた元就は、すぐその跡を隆元の子、すなわち自分の孫に当たる輝元に継がせた。しかし、輝元はまだ子どもなのでおぼつかない。元就は、輝元の後見人になったが、それだけではも安心できない。それは、元就自身が老齢なので、いつ死が訪れるか分からないからである。
そこで、ある日、元就は輝元の前に吉川元春と小早川隆景を集めた。そして三本の矢になぞらえて、元春と隆景に、甥の輝元を補佐するように頼んだ。これが、三本の矢の実話だという。
おそらくそうであったに違いない。しかし元就が、二人の子どもをよび集めるついては、もっと深刻な理由があった。それは、本家を越えて、吉川家と小早川家が隆盛を極めはじめていたかわである。
とくに、小早川家の伸長がすさまじかった、小早川隆景は、子どものころ父の元就が見抜いたように、頭が鋭く謀略の使い手でもあった。このため元就は、隆景に毛利家の渉外担当を命じていた。隆景はその方面でも活発な才気を見せた。
水軍は常に打って出る。このため隆景の行動も、次第に増幅され加速度を加えた。また、彼自信も仕事がおもしろくてしかたがない。彼の勢力分野はどんどん広がっていった。これを見ても元就は心配してに違いない。いまでいえば、本社を凌いで支社がどんどん勢力を伸ばしていったことになるからだ。 
武田信玄

 

小さな中枢、大きな現場
武田信玄は、さらに他の戦国武将とは違って画期的なことを行った。それは、かれは甲府に大きな城を作らなかったことだ。かれの居舘の跡は、現在武田神社になって甲府市にある。甲府城というのが残っているが、これは江戸時代に作られたもので、信玄が作ったものではない。
つまり信玄は自分の部下に対して、「人は城人は石垣人は堀」といい切った以上、自分の居館となる大きな城は決して作らなかった。つまり、部下が全部城であり、石垣であり、堀であれば、そんなものは必要ないという考えだ。
しかしこれは単にそういう理解で済むものではない。信玄の行ったことは、現在でいえば、「小さな本社、大きな現場」ということだ。言葉を換えれば、「組織の管理中枢機能は極力コンパクトにして少数精鋭主義でいく。そこで余らせたヒト・カネ・モノは、現場にまわす」ということだ。
ヒトというのは人材だ。カネというのは予算だ。モノというのは資材である。
信玄は、「何といっても実際に仕事をするのは現場だ。そこで必要とする人間や予算や磯材を、本社の方が全部奪い取って現場を痩せさせるようなことをしたら、逆三角形になってしまう。組織というのはピラミッド型の安定した三角形を保つべきだ」と考えていた。
そのとおりで、組織というのはビラミッド型に構成される。そして仕事に応じて三つの層に分かれる。トップ・ミドル・ロウである。首脳部・中間管理職・一般の働き手ということだ。数からいえば、当然下にいくにしたがって増えてくる。ところが全体に、管理中枢機能を肥大化させ、自分のまわりにたくさん人を集めてウハウハ喜んでいるトップが多い。
信玄はこれを戒めた。現在でいえば企画・人事・財政・広報などのセクションは、極力人を減らし巨大化させないという方針をとった。この考えを総合的にあらわしたのがすなわち、「人は城人は石垣人は堀」なのである。 
メモにみる情報戦略
しかし、信玄の経営の才を示すものとしては、「甲州法度之次第」よりは、筆者が「信玄メモ」と呼んでいるもののほうが優れているように思う。このメモは、他国から甲斐の国にやってきた商人の情報を聞き記したものであるが、信玄が並の武将と異なるのは、一つの情報源を盲信することなく、さらにクロスチェックしている点だ。
たとえば、隣国から入国した商人に国情を聞き、メモしたあと、さらに別の隣国商人から聞いて書き加える。その上で分析をし、正誤を判断するのである。
信玄は、このような詳細な情報収集をしていたから各地の情報にはかなり精通していた。そのうえ、家臣を商家に奉公させ、そこから各地に行商人に仕立てて派遣し、諜報活動をさせるまでしたから徹底をきわめたといってよい。しかも、この行商を通じて甲斐や武田家についての偽瞞情報を流して敵将の戦略を混乱させる高等戦術まで用いている。やはり、情報については並々ならぬ感覚と才能を持っていた織田信長さえも、信玄のニセ情報にはふりまわされたという。
国内政治としては、僧侶の妻帯を許可する代わりに、妻帯した僧には新たな税を課したり、富士登山者に入山料を課すなど、ユニークな発想をしている。さらに、御勅使川と釜無川に大規模な治水工事を実施しル信玄堤々を築き、水害防止だけでなく新田開発をすすめたり、甲州内の金山開発をすすめてもいる。 
人の話の聞き方で、4通りの反応から相手を分析
「合戦の話をする時に、例えば四人の若者が聞いていたとする。聞き方がそれぞれ違う。一人は、口をあけたまま話し手であるわたしをジツとみつめている。二番目は、わたしと眼を合わせることなく、ややうつむいて耳だけを立てている。三番目は、話し手であるわたしの顔をみなら、時々うなずいたりニッコリ笑ったりする。四番目は、話の途中で席を立ちどこかにいってしまう」信玄はこれらの聞き方によって次のように分析する。
口をポカンとあけてわたしの顔をみている者は、話の内容がまったく分かっていない。注意散漫で、こういう人間は一人立ちできない。
うつむいてジツと耳を立てている者は、視線を合わせることなく話だけに集中しようと努力している証拠だ。いま武田家でわたしの補佐役として活躍している連中のほとんどが、若い時にこういう話の聞き方をしたものだ。
話し手の顔をみて、時々うなずいたりニコニコ笑ったりするのは、「あなたの話はよく分かります」あるいは「おっしゃるとおりです」という相模を打っているのだ。しかし、これは話の内容を受け止めるよりも、その社交性を誇示する方にカが注がれている。従って、話の本質を完全にとらえることができない。
話の途中で席を立ってしまうのは、臆病者か、あるいは自分に思い当たるところがあってそこをグサリとさされたので、いたたまれなくなった証拠だ。
フロイト顔負けの鋭い人間洞察力である。信玄はしかし、「だからといって、臆病者や注意力が散漫な者をそのまま見捨ててはいけない。それぞれ欠点があっても逆に長所もある。長所を活かして別な面に振り向ければ、はずだ。こいつはだめだというような決めつけ万が一番いけない」といっている。この、「どんな人間にも必ずひとつは長所がある」という態度が、部下がかれに対して、「この大将のためなら、川中島で戦死してもいい」と思う忠誠心を生んだのに違いない。
話の聞き方に四通りの反応を示す若者たちの使い方について、信玄は次のようにいう。
人の話をうわの空で聞いている者は、そのまま放っておけばいい部下も持てないし、また意見をする者も出ない。一所懸命忠義を尽くしてもそれに応えてくれないし、また意見をしても身にしみてきかないからだ。従ってこういう人間に対しては、面を犯して直言するような者を脇につけることが必要だ。そうすれば、本人も自分の欠点に気づき、自ら改め、一角の武士に育つはずだ。
二番日のうつむいて人の話を身にしみて聞く者は、そのまま放っておいても立派な武士に育つ。こういう人間の存在を、一番日の人の話を身にしみて聞かない者に教えてやることも大事だろう。
三番日の、あなたの話はよく分かります、おっしゃるとおりですという反応を示す者は、将来外交の仕事に向いている。調略の任務を与えれば、必ず成功するに違いない。ただ、小利口なので仕事に成功するとすぐいい気になる欠点がある。そうなると、権威高くなって人に憎まれる可能性があるのでこのへんは注意しなければならない。
四番日の席を立つ者は、臆病か、あるいは心にやましいところがあるものだから、育てる者はその人間が素直にその欠点を自ら告白して、気が楽になるようにしてやらなければならない。そうすることによって、その人間も自分が気にしていることを払拭し、改めて奮い立つに違いない。こういう者に対しては、責めるよりもむしろ温かく包んでやることが必要だ。
こういうように、「どんな人間にも必ず見所がある」とする信玄は、新しい人間を召し抱える時にも、「百点満点の完全な人間を採用するな。人間は少し欠点があった方がいい」と命じた。また、「武士で、百人中九十九人に褒められるような人間はろくなやつではない。それは軽薄な者か、小利口な者か、あるいは腹黒い者である」といい切っている。 
勝頼のリーダーシップ
二代目のとるべき道を示された勝頼
とくに、勝頼に対するいろいろな制約、息子の信勝を相続人とし、勝頼はその後見人であるべきこと、あるいは、軍旗の使用権についての細かい注意、さらに遺体の始末、葬儀のやり方、また、「三年間、自分の死は他に告げてはならない」といいながら、「越後の上杉謙信とは、急遽和をむすべ」という、秘密漏洩がつきまとうような戦略まで告げた。
(もっと慎重であって欲しかった)勝頼はつくづくそう思う。
しかし、信玄の長い遺言によって、勝頼の立場は決定的になつた。だれがみても、「勝頼様は、信玄公から期待されていない二代目」というレッテルを粘られてしまった。
たしかに武田信玄は名将といわれる存在だった。その行動は、勝頼のなかなか及ぶところではない。とくに、「情報の収集カと分析力」「決断と行動力」「部下を魅きつける人望」などは、いま勝頼には逆立ちしても追いつけないことだ。
(しかし)と勝頼は、勝頼なりに考える。
(人間は、そんなふうに名声をひとり占めにして、あの世に空っていいのだろうか)少しは、跡を継ぐ者に残していくべきではないのか。それが、先代の愛情というものではないのか。
勝頼の胸の中には、そういう声が次々と湧き立っていた。
武田信玄の遺言が、現代風にいえば、「二代目のとるべき道」を、はっきりと示したということになる。
いまでも同じだが、先代がすぐれた創業者であった場合には、二代目の役目は、「守成」であるといわれる。
守成というのはその文字通り、「守り、成らせる」ということだ。守るというのは、「すぐれた先代が残していった創業的事業をしっかりと守り抜く」ということである。
信玄は毎朝幹部会を開いたが勝頼は廃止
信玄は毎朝幹部会を開いた。出席者はいわゆる、「武田二十四将」と呼ばれた面々だ。この席に自身の得た情報をすべてさらけ出し、「武田企業は、今日一日どのように生きるべきか」と討論させる。この討論によって生まれたものを、かれは、「戦略」と名づけた。戦略が合意されるとこういった。
「この戦略をそれぞれ自分の職場に持って帰れ。そして戦略をどう実行するかという戦術を決めろ。戦術を確定する時には、一般の部下にも参加させろ」と告げた。つまり、「太いスケルトン」は幹部会議で決定するが、「細かい実行方法は現場で決めさせる」ということである。これは現在考えてもかなり民主的な方法だ。
そして信玄は、夕方になるともう一度ミーティングを開いた。
「今朝決めた戦略を、それぞれの職場はどういう戦術で実行したか報告しろ」といった。中には失敗した職場もある。しかし信玄は咎めない。理由は、「戦略は情報によって組み立てた。後でチェックすると情報に間違っている部分があった。したがってその戦略は間違った情報によって組み立てられたのでその職場の長そのものに責任はない。しかし明日は二度とこんなことがないように」慎重にしたい。そのために、今日の結果をきくのだ。したがって集まった連中も、失敗した職場の長をあざ笑ったり、いい気味だ、などといってはいけない。自分たちも同じ過ちをおかさないようにしようという自戒の念を持つべきだ」と告げた。
これは現在の仕組みでいえば、・情報の共有と指示命令の徹底、という「トップダウン」・下からの意見を戦術に生かそうとする「ボトムアップ」という、二本のコミュニケーションのパイプを用意していたということになる。そして、そのフィードバックこそが武田企業の企業運営を活性化すると信玄は考えていた。
(もちろん、戦国時代の武将である武田信玄に、それほどの現代意識はないが結果としてはそうなる)そして、実をいえばこの幹部会議にこそ、二代目の勝頼に対し、「大いなる屈辱感」
勝頼は新城の築城と城下町の地名まで改名
「よし、韮崎に新しい城をつくろう。できるだけ堅固なものをつくりたい。そして新城の所在地を新府と名付けよう」と、新城の築城を命じたほか、城下町の地名まで改名した。
甲府というのは、「甲斐国の府中」という意味である。これは日本の古代国家がつくり出した制度で、日本の国は戦国時代も六十六の国と二つの島に分かれ、合計六十八方国あった。それぞれの国が、当時の古代国家の命令で、「二文字による佳名をつけよ」と命ぜられた。甲斐もそのひとつである。
六十八カ国にはそれぞれ「国府」が置かれた。この国府の所在地を府中といった。したがって甲府というのは、「甲斐国の府中」という意味だ。それを勝頼が、「新府」と名付けるのには、「甲斐国の国府は韮崎に置く。よって韮崎を新府と名付ける」ということである。長い間甲府に拠点を置いてきた武田家は、勝頼の代になって韮崎に本拠を移すという宣言である。
勝頼は甲斐国の中央集権化を目指した
これが、ともすれば自分の利益に走って動向をあいま小にしがちな地侍や土豪たちを束ねていく大きなカになっていた。信玄は自分が制圧した地域の人間たちを決して、「オーダーメード化」はしなかった。それぞれが保ってきた、「レディーメード」をそのまま認めたのである。これがヒラのいわば社業に対する参加意欲を掻き立てた。つまリ、「ヒラの自主性・自立性の尊重」がおこなわれたために、そういう連中が、「仕事に対する納得が得られ、喜びを感じて仕事ができた」という"生きがいの認識"につながっていた。
武田勝頼はそれを、「この際全部簾止する」と宣言した。
勝頼にすれば、「おれには父親ほどの器量はない」という自己能力に対する認識があったから、「おれはおれ流の管理方法でいく」と考えた。
結果論になるが、武田勝頼のこのへんからのやり方は、どうも織田信長的なものに変わっていく。ということは、証拠はないが武田勝頼の頭の中には、織田信長の行動がひとつの規範としてあったのではなかろうか。これはこの物語を書き進めていくうちにもう少し明らかにするつもりでいる。さわりだけをチラリと書けば、武田勝頼には、「領国経営の近代化」と、「甲斐国内における中央集権化」という野望というか志があったような気がする。韮崎に新府城をつくったのはその表れだ。
勝頼は織田信長同様に地侍を自分の直臣とした
織田信長は違った。すべて、「自分の直臣」にしていく。それで天下を押しまわしている。
武田勝頼もひそかに、これと同様のことを考えていたといえる。これがかれの甲斐国における中央集権化の野望である。勝頼は、「そうしなければこの国はまとまらない。なぜなら、おれのほうがいくら地侍や土豪の自主性を重んじて民主的にことを運ぼうとしても、織田信長や徳川家康がそれを認めないだろう。北条も危ない」という四囲に対する状況認識があったからである。
勝頼は統率するためにる畏怖心だけは持たせようとした
こういうきびしい罰が部下たちに恐怖心を与え、「信長様は恐ろしい方だ」と思うようになった。したがって武田勝頼のみるところ、「織田軍団の統制は大将の信長に対する部下の恐怖心によって保たれている」と思えた。勝頼は、「自分はそこまではやらない。しかし自分に対する畏怖心だけは持たせよう」と考えた。
そうなると父の信玄が実行し、部下の間で評判のよかった、「『家庭内の屈託事を解決してから仕事場に出てくる』という現在でいう"フレックスタイム"というのは、いたずらに武士の気持ちをゆるませるだけだ。これを廃止しよう」勝頼はそう思い立った。
もともと父の信玄が生きていた頃から勝頼はこのフレックスタイムを批判していた。かれの考えでは、「こんなことばかり続けていけば、次第になまけ者ばかりが出てくる。家庭に何もおこっていないのに、こういう屈託事があります、と嘘をついて出勤をでたらめにする原因になる。オレはそんなことは認めない。すべて決められた時間には必ず全員がそろうようにさせる」と告げて、フレックスタイムの廃止を宣言した。これは一面、勝頼が自分の若さにまかせ、自分の事業を急ぐために、「オレの現在の最大の閏蔑は時間との戦いである」という認識に基づいていたといえる。時間との戦いというのは、かれが、「甲斐国内の中央集権化」すなわち、「当主であるオレ(武田勝頼)に権限の一切を集中させる」という考えに燃えていたからだ。
こうして家中体制を次第にきびしくひきしめた勝頼は、天正二年(一五七四)二月、三万の大軍を率いて美濃に突入した。父信玄が死んでからまだ一年たっていない。老臣たちは反対した。が、断固として、「美濃に突入する」といい切る勝頼に、老臣たちはあきらめた。
勝頬は見事な指揮ぶりを発揮し信玄が落とせなかった高天禅城を落とした
「こういうことは絶対にしてはなりません」といって断固として反対すべきである。しかし武田家の老臣たちは必ずしもそうはしなかった。
「二代目がああいっているのだからやむをえまい」とあきらめてしまうのである。こういう老臣たちの態度も武田家をしだいにむしばんでいく」武田家が勝頼の時代に滅びたことをすべて、「二代目が凡庸だったからだ。父信玄に似ず不肖の息子だったからだ」といわれるが勝頼だけの責任ではない。
しかし意外な事に武田勝頬は見事な指揮ぶりを発揮した。美濃国に突入以来、たちまち明智城をはじめ十八の城を落としてしまった。老臣たちは目をみはった。顔を見合わせ、「二代目はやるぞ」「案外だな」といいながら、次々とかれらも城を攻め落とした。こうなると弾みがつく。
驚いたことに、天正二年五月には、いままで父の信玄が絶対に落とせなかった高江の高天禅城を落としてしまったことである。これには武田軍団がいっせいに声をあげて勝頼を称えた。
「若大将はすごい!」「父信玄公でさえ不可能だった城を落とした!」武具を叩いてほめそやした。勝頼はほくそ笑んだ。心の中で、(どうだ?オレのカは)とつぶやいた。そして、(これなら信長に負けないカを養えるかもしれない)と思った。しかしこれは思い上がりである。父信玄がよく中国の古い兵法書を読んでは、「敵に勝つためには、敵の実力がどの程度のものであるかを知り、同時にまたこっちの実力も正確に知ることだ」といった。高天神城を落として得意になった勝頼は、この父の言葉の、
敵の実力を知る
自分の実力を知る
という二つの事柄において、「共に正確な認識がなかった」といっていい。ということは、「敵のカを過小祝し、自分のカを過大視した」ということである。
長篠の大敗北、織田軍の革命的戦術
織田・徳川連合軍の足軽隊は、連子川にそった馬防柵の開から筒先を向けている。川は前に書いたように広く深いので、簡単には渡れない。近くまで出た武田方の常馬武者たちは、バタバタと撃ち落とされた。それが土地の研究者が告げるように、「この地域一帯は大きな湿地帯だった」ということであれば、名乗りをあげる前からすでに湿地帯の中に馬を乗り入れさせたということも考えられる。そそっかしいやつは、泥田の中でもがきながら、「やあやあ」などとわめいていたのかもしれない。そこを狙い撃ちにされた。
武田勝頼は驚いた。というのは、こんなことはいままで経験したことがなかったからである。第一、こっち側の名乗りがすまないうらにいきなり鉄砲を撃ちかけるのは卑怯だ。
「戦争の作法も知らぬ」勝頼は怒った。しかし織田・徳川連合軍は、そんなことはおかまいなしだ。
みていると、横一列に並んだ足軽隊は、鉄砲を一度撃つとそのままタツタツタと整然と一番後ろに下がっていく。敵の足経隊は三列に並んでいた。一番前が撃つ。撃つと一番後ろの列に下がる。なにをするのかとみていると、そこで弾込めをする。当時の鉄砲は一発しか弾が撃てないからだ。弾を込めると前へ出てくる。その時は二列目が一番最前列に出ている。そして撃つ。弾込めの終わった三列目は二列目に移り、一列目が撃ち終わって引き上げると交替する。その交替ぶりがじつに鮮やかだ。勝頼は目をみはった。
「いったい、これはどういうことだ!」と驚くだけでなく、最後には呆れた。おそらく武田勝頼だけでなく、こんな目に遭ったら他の戦国武将もみんな目をみはつたに違いない。織田信長は、戦国の合戦方法を一変した。革命的な方法をとった。
いままでは、馬に乗った中間管理職が主要戦闘力であったのが、この場合は一般の兵士が主力になっている。しかもそれぞれが刀や槍を振りまわして、個人で習得した武術を競っているわけではない。ただ鉄砲を撃つという、いまの言葉を使えばチームワークだけで戦争をしている。つまり信長軍団はすでに、「仕事は個人でおこなうものではない、組織でおこなうものだ」という考え方を実行していた。
勝頼は、眼前の光景をみて、(連合軍は、いつそんな練習をしたのだろうか?)と臍を噛んだ。勝頼は明敏な武将だったから、織田・徳川軍団の変質をすぐ察知した。他の戦国武将にはない指揮ぶりだ。
(これは負ける)直感した。そのとおりだった。前面に出た騎馬武者のほとんどが、鉄砲隊によって次々と撃ち倒されていた。
信長は合戦をなくすために速戦即決で勝てる軍団をつくった
「ほんとうですか」勝頼は思わず膝を立てた。快川紆喜がいうのは、「信長は、この国から合戦をなくすために、合戦に勝つ方法をあみ出したのだ」ということである。快川紹喜はうなずいた。そして静かな眼で勝頼をみつめたまま、こういった。
「それが信長殿を強くしているのです。つまり、この国から合戦をなくしたいという志があるからこそ、かれは自分のおこなう常識はずれな行為をすべて自ら是認しているのです」頼は息を飲んだ。快川紹喜の話がやっと頭の中にストンと落ちた。
(そういうことだつたのか)勝頼は気づいた。快川紹喜のいうのは、
信長は、若い時から尾張国で城下町を通る人間たちに凍触し、いま生きている人間たちがいったいなにを求めているのかを探った。
整理した結果、その願いの最大のものがこの国から合戦をなくすことだと気づいた。つまり、いまこの国に生きている民衆は、一日も早く合戦のない国にして欲しいと願っているのだ。
その願いを実現するとなれば、いまこの国の大名たちがおこなつているような合戦方法を続けていたのでは、百年も二百年もかかる。もっと時間を短縮する必要がある。
そこで、信長は合戦の方法を大幅に変え、速戦即決で勝てるような軍団をつくり、新兵器を採用した。
その大規模な実験が、すなわち設楽ケ原の合戦であった。
勝頼は頭の中で整理したことを快川紹喜に語った。快川紹喜はうなずいた。
「よくぞお気がつかれた。そのとおりです」「信長は、志を実現するために、あのような常識はずれな戦法をとったとおっしゃるのですか?」「そうです。いまの世に生きる大名方にとって、志があるかないかが大きな分かれ目になりましょう」
武田の敗北は家臣団構成の古さ
高遠城を抜いた連合軍は、怒涛のごとく甲府へ甲府へと進撃した。
武田勝頼は、ついに新府城を捨てる。そして、都留の領主である小山田信茂に招かれ、その居城である岩殿山に向かった。
ところが、小山田信茂は前言をひるがえし、「都留にあなたをお入れすることはできない」と拒んだ。
勝頼はやむを得ず、方向を変え天目山棲雲寺のふもと田野(山梨県東山梨郡大和村)まで逃れた。が、三月十一日織田軍の先陣である滝川一益の指揮する数千の軍勢が一行を襲った。最後までかれを捨てなかった忠臣たちの防戦もむなしく、ついに勝頼は自殺した。
新羅三郎義光以来の"甲斐源氏"の名門であった武田氏は、こうして滅びた。武田信玄が死んでから、まだ十年経っていない時期である。
『山梨県の歴史』の中にこういう一文がある。
「武田氏はどうしてこんなにもろく滅び去ったのであろうか。勝頼の統率カの欠如、家臣団どうしの内輪もめ、長篠戦後の重税と軍役過重による民心の離反等々、原因はいろいろ考えられるが、所詮は家臣団構成の古さに帰せられよう。辺境型武士団を多くかかえていたことは武田の軍の弱点で、広大な領土も実質は勢力範囲というにすぎず、情勢がわるくなれば、いつでも寝返りを打たれる危険があった。その点、兵農分離をなしとげ、家臣を城下に集めて常時訓練をなしえた、織田の軍に太刀打ちするのはむずかしかった。そこで例の『人は城、人は石垣云々』の歌であるが、実は武田の軍隊組織が巨大な城郭を構築する必要性を覚える段階に、まだ至っていなかったところに、悲劇のもとがあったともいえよう」
とある。重大な指摘である。これは、新しい志を実現しょうとする二代目勝頼に、新しい側近となった長坂釣閑斎が決めたことと一致する」
苦しい時には非情な仕打ちを受けた者は報復する負の遺産も継いだ
みんなの眼が外へ向けられている間はよい。だが、そんな余裕が失われてくると、どうしても過去の不当な仕打ちや怨念が、この時とばかりに立ち返ってくることになる。
降伏した者や家臣たちに日頃情けをかけるということは、ひとたび行き詰まって、なにもかもうまく行かなくなった時にこそ生きてくる。苦しい時に温かく手を差し延べてくれたという思いが、この人の為ならという気を抱かせる。
だが、反対に酷い仕打ちや情の欠けらもない扱いを受けてきた者たちは、この時とばかりに恨みの矛先を向けてくる。情けをかけてもらえなかった、苦難を共にしてくれなかったとなれば、心は容易に離れてしまう。それどころか、報復の対象にすらなってしまう。弱り目にたたり目である。
勝頼は、そうした義昌の心を読み切れなかった。父信玄の仕打ちをたとえ頭でわかっていたにしても、自分の手でおこなったことでないだけに勝顆に読めなかったとしても無理はない。
創業者と苦楽を共にした者の気持ちは、後継者には実感としてわかりようがない。
同様に、怨念や不満が、時空を超えて立ち戻ってくることを、跡を継いだ者には理解できない。だが、そうした心の底に眠っていた思いを読み切ることこそ、創業者にもまして、後継者には必要となってくる。
自身がゼロからすべてを生み出したのではない後継者には、創業者の負の遺産をも引き継がなければならない。そういう宿命を好むと好まざるとにかかわらず背負わされている。
人間は、得てして恩恵を与えてくれたことは忘れてしまうにしても、自分が受けた非情な仕打ちや不当な処遇に対しては、世代を超えて忘れることはないからだ。
後継から創業へ
その現状認識と時代認識は正しい。だが、だからといって、いきなり先代が築いてきたものを、それを担ってきた旧臣たちもろとも否定し、新たな創業者の道に踏み出すなどはどうであろう。
まったくのゼロから出発する以上にそれは難しいことである。新しい創業者としてのステータスを確立したいのであれば、いっそのこと自分が外に出て、裸一貫、まったく違う立場からそれを果たすべきである。
その場合、小なりとはいえ、一から信頼できる者同士が集まって、一から事業を発展させて行く覚悟が必要である。
週去のしがらみや怨念を無視し、創業者と苦労を共にしてきた者たちを煩わしく思うのであれば、後継者の地位に立つべきではない。
だがそうはいっても、後継の立場を自分から放り出すことができないとしたらどうか。
結論から先にいえば、時代認識がどうであれ、まず自分の足元を見つめ、そこから一歩一歩踏み出していくことを心がけるべきであろう。
創業者が築き上げてきた実績とやり方をまず十分検討し、その利点と欠点を洗い出す。その中で、時代に合わなくなったものを一気に排除するのでなく、緊急性と他への影響度を考え、改善していくことでぁる。
価値あるものは極力これを大切に扱い、決して軽く見ないことである。短期的、個人的価値判断のみに偏らず、なにより広い視野に立って、客観的に判断を下していく。
後継者がなにを軽視し、なにを重視するかに、まわりの者は重大な関心を寄せる。それによって今後の方針が見えてくるからである。好悪の感情を剥き出しにしたりすると、真に価値あるものでも、たちまち軽視されていく。それが新しい気風、社風を意図しないままにつくっいく。 
 
織田信長

 

同時代人のニーズを実現した
幸福を主とする「楽市・楽座」を出現させた。楽市・楽座の目的は、
1 規制を緩和する。だれがどんな商売を営んでもよい(この当時は、ものを製造したり販売するのには、いちいち面倒くさい許可と、上納金が必要だった)。
2 進出商工業者には、税金をかけない。
3 関所や船番所を廃止して、旅や物流の妨げになるものを全部廃止する。
4 良貨を流通させる。
などである。これを彼が率先しておこなった。
「兵農分離」の結果、プロ化した兵士を城下町に住まわせて、動員のスピードアップをはかったことに起因する。そして、この「岐阜」というのは日本のどこにもない、中国の地名だ。
中国の西北部に渭水という川(黄河の上流)があって、この川のほとりに岐山という山がある。この山の麓から興ったのが有名な「周」という国だ。興したのは武王という王である。父は文王。周の政治については、孔子も孟子も褒めたたえる。それは、「愛民の政治をおこなったからだ」という。
信長の頭の中には、おそらくこのことがあったに違いない。そこで、「おれも周の武王のような業績を残したい」と考えた。周の武王のような業績というのは、彼が尾張時代から把捉した、「同時代人のニーズを実現する」ということである。これは、「平和に生きたい」から「安定したい」にいたる七つの要望事項を日本に実現することだ。それにはまず、「なによりもこの団の戦争状態を終わらせなければならない」と、「日本の平和化」に力点をおいた。
彼は次から次へと拠点を移す。
清洲城から名古屋城へ、名古屋城から小牧山城へ、小牧山城から犬山城へ、犬山城から岐阜城へ、岐阜城から安土城へ、安土城から京都へ。そして彼が最後に拠点にしたかったのが、おそらく一向宗の総本山である石山本額寺(大阪)だったはずだ。彼の目はすでに海外に向けられていた。 
情報で同時代人のニーズ把握
織田信長は、戦争の天才あり、戦争好きといわれているが、決してそうではない。逆説的な言い方をすれば、「織田信長は、戦争を早く終わらせるために、新しい戦争の方法を考え出した」ということができるだろう。
何のために戦争を早く終わらせたいと思ったかといえば、信長は生まれつきの情報重視論者であつたからである。かれが情報に対して貪警気持ちを持っていたことは、数々のエピソードが物語っている。
織田信長は、若い噴から、うつけ、たわけ、バサラなどと呼ばれていた。なぜそう呼ばれたかといえば、かれが常に尾張の城下町をうろつきまわっていたからである。何のためにうろつきまわっていたかといえば、かれは旅人に積極的に接触した。かれにいわせれば、今の言葉を使うと、「新幹線、インターネット、携帯電話、テレビ、自動車などがない時代に、人がある国からある国へ歩いていくということは、そのまま情報が歩いていくということだ。これをつかまえない手はない」と考えていたからである。
では、「何のために旅人に接触するのか」と問えば、かれはこう答えただろう。「いま生きている同時代人のニーズ(需要)を知るためだ」
かれはやがて、「天下布武」というはんこを使う。この意味は、「天下に武政をしく」ということだ。武政というのは、「武家が政権を握って政治を行う」ということである。その裏には、「公家(貴族)政治はダメだ」という見限りがある。そしてこの時織田信長が「公家政治」とみたのは、足利将軍による室町幕府の政治であった。信長からみれば、「もともとは武士のはずなのに、足利家はいつのまにか貴族化してしまった。やっていることはすべて公家の暮らしだ。あんなぜいたくな暮らしをしていたのでは、一般民衆のニーズは把握できない」と断定していた。今でいえばかれは、「書を捨てよ、町に出よう」という寺山修司さんの言葉を実行していたといえる。
「城の中にいて、ああだこうだと考えていては民衆が何を求めているのかつかむことはできない。それよりも自分が城下町に出ていって民衆と共に行動することによってニーズを把握することができる。しかも日本全体のニーズを把握するのには、何といっても旅人に接触することだ」と考えていた。信長にとって旅人は、「情報をもたらす媒体」であったのである。 
信長と秀吉 / 芸術と政治のあり方
織田信長の事業を継続した豊臣秀吉は、天下人になると芸術家を虐待した。虐待したというよりも、「芸術家も政治権力のもとに屈服すべきである」と考え実行した。千利休が殺されたのはそのためだ。利休は、「織田信長様は、茶人という芸術家を尊敬した。つまり芸術の分野は、政治の分野と両立するものであって、上下関係はないとお考えになっていた。いってみれば芸術の分野はサンクチュアリ(他のカのまったく及ばない聖域)とお考えになっていた。それなりにわたしたち茶人にも尊敬してくださった。ところが豊臣秀吉様は違う。秀吉様はすべての分野が政治権力に屈服しなければ気がすまなかった。わたしに対しても、家臣として仕えることを求めた。それはわたしにはできない。わたしは茶の世界における王者だからである」といった。
この千利休の考え方にもよくあらわれているように、織田信長と豊臣秀吉とでは人間性がまったく違う。秀吉はやはり農民の出身で天下人にまでのし上がったから、「天下人というのは最高の権力者である。政治だけでなく、芸術も支配する」という驕り高ぶった考え方を持っていた。
信長は、この時代では、「能力主義」をとりつづけた経営者だ。トップリーダーがこういう考え方をしていたから、かれのもとには有能な人間が多く集まった。信長は、「身分など関係ない。オレの天下のためにどういうカが発揮できるか、その能力本意によって評価する」と告げた。
しかしかれは、「オレは、天才は好きではない。それよりも苦労して身につけた努力による能力を高く評価する」と告げている。天才だった信長にしてはおもしろいいい方だ。しかしかれは事実、「天才よりも努力家を高く評価する」という部下の評価方法をとった。これによって、豊臣秀吉や明智光秀がのし上がってきたのである。
かれらは信長のいう、「流動者(旅人、悪くいえば放浪者)」の出身である。信長の右腕・左腕となった明智光秀や羽柴秀吉は、まさに流動者出身であった。信長にいわせれば、「このふたりは流動者出身であるだけに情報通である」ということである。明智光秀は当時の大名やその重役たち上層部にあかるく、秀吉は出身のせいか民の情報にくわしかった。信長は居ながらにして、「上と下の情報」に通じることができた。 
文化を給与制度に取りこむ
当時信長には大きな悩みがあった。それは部下に対する給与である。給与はすべて土地で与えられていた。しかし、事業を拡大すればするほど日本列島は狭いので土地に限界があった。
(これをどうするか)信長は悩んでいた。ゆきづまりが迫っていたからだ。これは、外敵に対する危機ではなく、内部に生じた危機だ。
これをどう管理し突破するか。悩み抜いた信長が活路を発見したのは、今井や千利休たちがいう"茶道"の存在であった。信長は思わず、「これだ!」と膝を叩いた。かれの鋭い頭の中に、ある発想が浮かんだからである。一言でいえばそれは、「土地に対する価値観を、文化という価値観に変える」ということだった。具体的には、「部下に土地を与えていたのを、代わりに文化産品を与えることに切り替えよう」ということであった。
しかしそれには、信長自身はもちろんのこと、部下たちも新しいそういう価値観を持つように意識を変革しなければならない。
「それを自分から実行しょう」信長はそう考えた。
かれはこの発想を自分の、「知的財産」と考えた。当時の日本人で、文化を給与制度の中に取りこもうなどと考えた人間は他にいない。これは完全に信長の独創であり、同時にその発想そのものが一つの価値を持った。
信長は、「この価値観を、自分のパテントにしよう」と意気込んだ。
その後のかれは、部下の大名たちに対して、「おまえは土地が欲しいか、それとも他の物が欲しいか?」と聞いた。部下の大名たちは、この頃の信長が茶の道を大切にし、いろいろと有名な茶道具を集めることを知っていた。
そこで部下たちは、「いや、土地はもう結構です。それよりも、あなたが大切にしている茶碗を一ついただけませんか。今、有名な茶碗をいただけると、わたくしのステータスが上がり、部下の心服度も高まります」そういう風潮が生まれていた。これが信長の狙い目であった。 
民を大事にした
信長が、岐阜城を出て、京都に向かったことがあった。岐阜と近江(滋賀県)との境にある山中というところを通過した時、一人の物乞いがいた。まるでサルのような姿になって、信長に手を差し出し、何かくれといった。信長はその男にきいた。
「なぜ、こんな山の中でおまえは物乞いなどしているのだ?」男は応えた。
「昔、この山中を通る落人の女性の着物を剥ぎ、持っていた金品を全部奪ったことがあります。その後、その女性がどうしたのか気になって、毎日苦しんでいるうちに、こんなサルのような姿になってしまいました。おそらく、天の罰が当たったのでしょう。ですから、里へ降りずに、その女性への罪を償うために、こうして物乞いをしているのです」
この時、信長はただそうかと領いただけで、通り過ぎた。が、京都からの帰り道、またサルのような姿をした物乞いに遭ったので、信長は附近の村人を全部集めた。持っていた金を出してこういった。
「この金で、との男に家を建ててやってくれ。そして残りで畑を切り拓き、穀物が実ったらその一部をこの男に与えてやってほしい。残りは、全部皆で分けてやってくれ。この男は殊勝な気持の持ち主なので、皆が優しくしてやれば、やがてはサルからもう一度人間に戻ることができるだろう」
信長の優しい気持にほだされて、村人たちは、必ずそうしますと誓った。一年後、信長がまた山中を通過した時、辺りは見違えるようになっていた。そして、慈しみ深い表情をした一人の中年者が走り出て、信長の前に手をついた。
「誰だ?」聞くと、男は、「あのサルの物乞いでございます」といった。信長は驚いた。
「見違えたぞ。一体、何が起こったのだ?」「あなた様のお蔭でございます。村の人たちが大変温かくしてくださり、いまはこうして村のためにいろいろと働かせていただいております。それと、いつかお話しした私が物を盗った女性が、この間たまたまここを通りかかりました。私は、あの時のことを詫びて、盗った物を全部返しました。女性は、そんなことはもう忘れたといってくれましたが、気持がスッキリ致しました。そんなこんなで、私の気持が洗われ、もう一度人間に戻ることができました。ありがとうございました」
これを聞くと、信長は嬉しそうに笑った。そして男に、「よかったな」といった。
信長が治めた岐阜や安土は、道路や橋が整備された。いまでいえば、都市基盤が整備された。それだけではなかった。信長の治める国では、絶対に強盗や人殺しが出なかったという。
だから、夏でも住む人々は窓や戸を空け放したまま寝ることができた。また、旅人が木の陰で寝込んでしまっても、持っている荷物を盗む者は誰もいなかった。
こんなところにも、信長の意外と人に対する優しい一面がうかがわれる。 
民の昼寝に励まされる
「あいつはとんでもないやつです!」「なぜだ?」馬を止めた信長が聞く。武士はこういった。
「この国の領主さまが命がけの戦いに出て行くというのに、あいつは呑気に昼寝をしています。許せません」「かれは農民だ。われわれは武士だ。それぞれ仕事に役割分担がある。今はきっと暇なのだ。きょうは陽気が暖かいから気分がよくて、眠ってしまったのだろう。放っておけ」「そうはいきません」武士の怒りはおさまらない。バラバラと畑の中に駆け込もうとした。
「どうする気だ?」信長が開いた。武士は振り返っていった。
「血祭りに殺します!」「バカなことはよせ」信長は笑って武士を止めた。
信長は、武士に向かっていった。
「おれは前の拠点の岐阜にいたときに、兵士と農民の区分を行った。それまでは、農民を兵士として動員していた。他の大名は、まだそうしている。おれが、兵士と農民を分けたのは、農民は農村にいて最後まで農業に専念してもらいたかったからだ。兵士として動員してしまうと、農業がおろそかになる。同時に、合戦も農閑期にしか行えない。農繁期になると戻って来なければならない。だからおれは農と兵を分離したのだ。あの土の畑で寝ている農民は、自分の仕事を怠っているわけではない。仕事が終わったから、昼寝をしているだけだ。放っておけ」
「そんなことをいっても、胸が収まりません」
武士はいい募る。信長はもてあました。しかし、いつも短気な信長に似合わず、このときはニコニコ笑いながらその武士にいった。
「おれは、おれの国でああいう光景を見るのは好きなのだ」
「…はあ?」
いきりたっている武士だけでなく、まわりにいた武士たちもみんな信長を見た。怪訝な表情をしている。信長がいった言葉の意味がよくわからなかったからである。
「ああいう光景を見るのは好きだとは、どういうことですか?」農民を殺すと息巻いている武士が聞いた。信長は答えた。
「さっきいったように、農民と兵士とは別な役割分担をしている。おれたち武士は、農民がああいうように、ときには呑気に昼寝ができるようにしてやるべきだ。あいつがグーグー高いびきで寝ているのは、おれたち武士が役割を果たしているということになる。領主としてのおれを信じきっているからこそ、ああいう居眠りができるのだ。おれはあいつの昼寝に逆に励まされるよ。おれも決して間違ってはいないとな」
「・・・?」
武士は眉を寄せた。考えた。次第に信長のいうことがわかってきた。まわりを見回した。みんなうなずいていた。ニコニコ笑っている。信長も笑った。
「よし、それでは進もう」信長は全軍に向かって命令を下すと、高々にいった。
「あの畑の上で寝ている農民たちのためにも、おれたちは今度の戦に勝たなければならない。いいな?」
「はい!」
全軍がいっせいに声を上げた。信長のいった、この国では農民の昼寝が武士を励ましているという言葉が兵士たち全員を大きく勇気づけたのである。信長の意外と知られていない一面だ。かれは民に対し温かかった武将である。 
終始一貫して禅に学んでいた
織田信長といえば、いつも自ら舞った例の『敦盛の舞い』が有名だ。敦盛は「幸若舞い」の一つで、信長が好んで口にした歌だ。
人間五十年下天のうちをくらぶれば夢幻のごとくなり
読んで字のごとく、まさに、「人間の儚さ、無常感」を歌ったものである。下天というのは、限りなく広がる空間のことだ。「それに比べれば、人間の一生など何と短く惨いものだろうか」という意味だ。信長はほぼそのとおり四十九歳で死んでしまう。そんな予感をしていたわけではなかろうが、いずれにしても、「人間の一生は短い泊だから、毎日を遺憾なく生命を燃焼させて生きるのだ」という充実感と緊張感を持っていたことは確かだろう。信長は、岐阜城や安土城にヨーロッパから来たキリシタン宣教師を招いた。そして海の向こうの文明の在り方を聞き、これを部分的に政治に採り入れた。安土城を築いた時には、地域内にあった地蔵の首を全部落とし、これを建築資材として使ったともいう。そんなことを考えると、「信長は、仏教嫌いであり、禅とも縁遠かったのではないか」と思える。ところが違う。信長は、終始一貫して禅に学んでいた。教えたのは妙心寺系のすぐれた禅僧沢彦である。
若い頃の信長は、「尾張のうつけ者」といわれていた。あるいは″かぶき者″″ばさら者″ともいわれた。かぶきというのは、もともとは、「傾く」という言葉からきた。世の中を斜めに生きて、斜に構え、何でも人のいうことに反対し、好き勝手なことをする人間という意味だ。 
 
豊臣秀吉

 

モラールをあげる名人、ニコポンと褒美のばらまき
「籐吉郎は現場にいった。そして自分の眼で塀の壊れた箇所を調べた。やがて工事に従事する労働者たちを呼んだ。約百人いた。藤吉郎はこんなことをいった。
「新しく塀の修理を命ぜられた奉行の木下だ。しかしオレは全くの素人で、こういう仕事のことは分からない。全部おまえたちに任せたい。ただ、同じ任せるにしても手順だけを決めておこう。いま塀の壊れた所をみてきたが、壊れ方は大体どこも同じで、ある箇所が酷く、ある箇所が軽微だったということはない。そこでこの破損箇所を十カ所に分ける。それを修理するために、おまえたちを十組に分ける。一組ずつ一カ所を担当して修理してもらいたい。だれがどの組にいくかは、オレには分からない。おまえたちにはやはり気が合ったり合わなかったり、好きだとか嫌いだとかということもあるだろう。そこでだれがどの組にいくかは、おまえたちで相談しろ。
いまこの塀を早く直さないと、敵が攻め込んでくる。オレたちは男だから、武器を取って戦うが、女子供はそうはいかない。城の中で一緒に暮らしている女子供は、もしオレたちが負けてしまえば、敵の奴隷になったり殺されたりしてしまう。とくに女は、全部敵の慰みものになる。おまえたちは自分の女房がそんな目に遭っても平気か?子供が奴隷になっても平気か?そういうことを考えると、この塀の修理は、一日もないがしろにはできない。いいな?もう一度繰り返す。自分たちで気の合う仲間で一組をつくり、その組が一カ所ずつ修理箇所を選んで工事に励め。おまえたちは、この塀の修理をする目的を、あるいは信長様だけのためだと思っていたのかも知れないが、決してそうではないぞ。おまえたちの家族にも関わりがあるのだ。このへんをよく頭の中にしみ込ませろ。いいな?」
話し終わった藤吉郎は、「オレがこれ以上口を出すと、おまえたちの仕事がやり難かろう。だれがどの組に入るか、どこの破損箇所を担当するか決まったら、報告にこい」そういうとサッサとその場から去った。残された百人余りの労働者たちは、互いに顔をみあわせた。こんなやり方ははじめてだったからである。中にはプツプツ文句をいう者もいた。
「新しいお奉行は無責任だ。オレたちにみんな仕事を押しっけて、自分はどこか行ってしまった」が、みんなの頭の中には共通した新しい思いががあった。それは、「塀の修理は、城の主である信長様だけのためではない。この城に一緒に住んでいる家族にも関係があるのだ」ということだった。いわれてみればそのとおりだ。労働者たちの家族もこの城に一緒に住んでいる。敵に攻められれば、敵の方はそれが武士なのか労働者なのか見分けはつかない。労働者たちもその時は武器を持って戦う。そうなれば、敵にすればやはり殺す対象になる。藤吉郎にいわれて、労働者たちもはじめてそのことに気がついた。ガヤガヤと話をしている時に、藤吉郎の使いだといって、酒樽が持ち込まれた。酒樽を持ってきた者は、「これで賑やかに話し合ってくれと、木下様の差し入れです」みんな一斉にワーと声を上げた。このへんは藤吉郎の巧妙な人使いである。藤吉郎は全体に、その生涯を通して、「かれはニコボンと褒美のばら撒きの名人だった。ニコボンとばら撒きで人の心を釣った」といわれる。信長のように生まれつき城の主の息子に生まれたわけではなく、身分の至って低い家に生まれた藤吉郎がのし上がっていくためには、人の心を掴む上でどうしても避けて通れないやり方だったのだ。
労働者たちは相談した。労働者の中にもリーダー格がいる。そのリーダーを中心に、
だれとだれが一組になるか。
どこの修理箇所を受け持つか。
ということを話し合った。しかしこんなことはいくら話し合っても埒はあかない。人間の好き嫌いは理屈ではどうにもならないからだ。結局、「クジ引きにしよう」ということになった。クジが引かれて、約十人ずつが一組になった。中には気の合わない同士が一緒になった組もある。が、クジ引きは公平だ。文句はいえない。
「おまえは気にくわないけど、まあ一緒にやるか」ということになった。これが藤吉郎の狙ったチームワークの誕生である。そして、工事箇所もクジ引きにした。それを藤吉郎の所に報告にいくと、藤吉郎は、「分かった。よくやってくれた。うれしいぞ。番最初に自分の受け持った工事箇所を修理した組には、オレが信長様から褒美を貰ってやる」といった。藤吉郎にすればここが勝負どころだった。というのは、前の奉行は労働者たちに賃金値上げを要求され、うまくいかなくて失敗した。藤吉郎はそんなことは口の端にも出していない。かれも内々は、(もし働き手たちが、賃金値上げを要求したら困るな)と思っていた。それをかれは、「塀の修理は、おまえたちの家族にも関わりがある」ということで押し切ってしまったのである。しかしそれだけでは労働者たちのモラールは上がらない。そこでかれは、「一番最初に工事を終えた組には、信長様が褒美を出す」というエサをちらつかせたのである。 
秀吉に降った前田利家、人間の痛みを忘れまいとした
湯漬けを食べ終わると、彼は立ち上がった。そして、「ああ、うまかった。まつ殿の腕はいよいよ冴えている。ところで、前田殿」と何気なく振り向いた。
「はじめての土地なので、北ノ庄城にどう行っていいか分からぬ。案内を頼む」「・・・」利家は、秀吉を見返した。その利家の顔を、秀吉も鋭く見返した。日の底が光っていた。それは、「今度は、中立を許さないぞ。はっきり、味方であるという証を示してくれ」という色をたたえていた。利家は、意思表示をしないままに、いつまでも秀吉を見返していた。
秀吉は、やがてふいと視線をそらし、まつにいった。
「まつ殿、ねねから、くれぐれもよろしくとのことだったぞ」「分かりました」こういう会話になんの意味があったのか、まつは、大きくうなずいた。利家は、二人の会話の意味を悟った。秀吉が去ると、利家はまつにいった。
「いよいよ、決心しなければなるまいな?」「そのとおりでございます。おつらいでございましょうが、ねね様の旦那様のお味方をしてくださいませ」「分かった」利家も意を決した。この決断は、利家に訪れた第三の危機を突破するためのものである。利家は、心の一部に痛みを覚えながらも、羽柴軍の先頭に立って、北ノ庄城に案内して行った。
秀吉が、利家という先輩にとった策は、最も苛酷なものであった。それは、自分の軍の先鋒を務めさせたからである。敵がいれば、先を歩く軍は真っ先にやられる。そういう危険な役割を、秀吉は、利家という先輩に与えたのである。しかし、このころの利家には逆らえなかった。力関係で秀吉のほうが、はるかに大きく育っていたからである。
利家の決断は、「これからは、先輩の立場を捨てて、この男の部下として仕えていかなければならない」というものだった。その決断をするにあたって、まつのカが大きく作用した。まつは、たんにねねへの友情だけから、自分の夫を秀吉に味方させたわけではない。まつもまた、戦国に生きる一大名の妻として、どうすれば生き残れるか、ということを彼女なりに考えていたのである。そして、この判断は正しかった。
炎上する北ノ庄城を眺めながら、利家がどういう気持ちでいたかは、はかり知れない。かつての先輩であり、また恩人でもあり、よきリーダーであった勝家が炎の中で死んでいくさまを、彼はじっと見続けていた。そして、「このことを、生涯決して忘れまい」と思った。それは、秀吉に対して恨みを晴らすことではない。そういうことではなく、この事実を人間の痛みとして、覚えておくということである。
「痛みを知らない人間は、人間ではない」 
柴田勝家 / 立つ鳥あとを濁さず
「前田殿、一長年わたしの与力を務めてくださって大いに助かった。しかしすでに信長公は今は亡き身だ。信長公が命ぜられたおぬしの与力の職も、当然信長公の死によって消えた。賤ケ岳で敗れたわたしは、北ノ庄城に戻って秀吉ともう一戦構える。が、おぬしはすでに自由だ。進退は思うままにしてほしい」
利家は思わず勝家の顔を見返した。その表情の底には、かなり苦悩の色が浮いていた。それはこの城に来たときからまつに懇々と、「このうえは、秀吉さまにお味方なさい」と迫られていたからである。まつと秀吉の妻ねねとは柿妹のように仰がいい。そんなこともあって、まつは、「前田家の将来のためには、秀吉さまに味方すべきです」と説きつづけた。利家は律義な性格だから、「そんなことはできない。おれは信長さまから、柴田殿の与力を命ぜられている身だ。たとえ賤ケ岳の合戦に敗れたとはいっても、柴田殿を見捨てることは武士の道に反する」と反対していた。まつは現実的だから、
「そんな固いことをいっていると、この世の中では生きぬけませんよ」と茶化すようにいう。しかし茶化すようないい方はしても、心の中では本気で、「柴田さまを見捨ててほしい」と願っていた。そんな前田夫妻の立場は、柴田勝家にはよくわかる。普通の考え方をする武将なら、「憎い秀吉に一矢報いるために、自分に味方する者は全部北ノ庄城に連れて行こう」と考えるだろう。ところが、勝家は逆だった。「立つ鳥あとを濁さず」ということばが自分の人生信条として生きていた。
「できるだけ身軽になって、他人に迷惑をかけまい。飛び立つ鳥が、自分の今までいた巣をきれいに掃除して行くようなものだ」と考えていた。だから、これから将来のある前田利家を巻き添えにして、自分と一緒に北ノ庄城で殺すような真似はしたくないと思っていた。
(北ノ庄城では、おれと忠実な部下だけが死ねばいい)と考えていたのである。 
小早川隆景 / 心せくことはゆっくり書け (-1597)
企画者が陥りやすいワナの最大のものが、「自己陶酔」だ。つまり、考えた案のすばらしさに自ら酔ってしまって、「早くこのことを他に知らせたい」というあせりが出る。このあせりが、企画書を書くときに誤りを生じさせる。つまり、急ぎすぎる文章を書いてしまうのである。同時にそれは、自分だけわかっているという欠陥を生む。
小早川隆景は、毛利元就の息子だが、豊臣秀吉が最も信頼した武将である。秀吉の参謀は黒田如水が務めていた。ところが、如水は日本一鋭い頭脳の持ち主だといわれていたにも関わらず、秀吉には警戒されていた。カンのいい如水は始終そのことを気にしていた。あるとき、小早川隆景のところに来ていった。
「自分でいうのもおかしいが、わたしはまあ頭がいい方だと思っている。ところが、どうも上様(秀吉のこと)にはお気に召さないらしい。ときおり叱られます。自分でもどうしていいかわからないので、あなたのお知恵を拝借したい」これをきいて隆景はほほえんだ。こう応じた。
「それは、黒田殿の判断と決断が早すぎるからです。わたしは、凡人なので、ひとつひとつ小さな石を積みあげるようにして、案を練ります。おそらくその差でしょう。あなたは、決断力がすぐれているために、すぐズバリと物事をお決めになる。ところが、わたしはグズだから、かなり時間をかけてひとつの結論に到達する。その差ではないでしょうか」「なるほど」如水はうなずいた。そのとき、隆景はたまたま自分の案を口述して、部下に筆記させていた。
ところが部下は、黒田如水という日本一頭の鋭い人物の前で、筆記させられているので、あがってしまっていた。そのために、しばしば書き違えた。勢い、狼狽する。当時、トップの口述を筆記させられるということはたいへん名誉な仕事だった。そのため街気もあって、書き手はいよいよ舞いあがってしまう。この様子を見ていた隆景はニッコリ笑った。そして書き手にいった。
「おい、急いでいるときはゆっくり書け」部下は思わず隆景の顔を見返した。そして、はずかしそうにうなずいた。「わかりました」隆景は、こういうことをいった。「おれがいま何を話しているかを理解してから書け。わからないことは、聞き返した方がいい。わからないままにして書いてしまうと、結局はおれの案全体の意味をとらえることができない。いいか?」部下はうなずいて、筆を置いた。そして、しずかに隆景のいうことを聞き始めた。胸の中で反奏する。そして、わからなくなると、「今おっしやつたことは、どういう意味でございましようか?」と質問した。それに対して、隆景は親切ていねいに答えた。表表を、かみくだくようにして書き手に伝えた。書き手は、隆景が口述している間は筆をとらなかった。口述が終わると、ニッコリ笑って、「お話はよくわかりました。書かせていただきます」といって筆をとった。やがて書きあげた文章を読んで、隆景は満足した。
「よく書けた。おれのいうことを完全にお前は理解している。見事である」とほめた。この一部始終を黒田如水はじっと見守っていた。途中から彼は猛烈に反省した。
(おれははずかしい。頭の艮さを誇って急ぎすぎた。そして、自分の判断力や決断力を信じすぎた。これからは、もっと自分を疑ってかかろう。そうすれば、秀吉公にも満足していただけるだろう)その通りになった。以後、如水は二度と秀吉に疑われることはなかった。 
小早川隆景 / 急ぐことはゆっくり書け、人に好かれないと情報に疎くなる
「急ぐことはゆっくり書け」
これは、隆景があるとき急ぎの文書をかくために、周りにいた部下に口述したときのことだ。
ところが部下は慌てて、筆が震え、また筆の先から墨をぽたぽたと紙の上に落とす。そこで、これを見ていた隆景が「急ぐことほど、落ち着いて書かなければならない」と諭したという。また、「武士は、どんなに才能があっても、人に好かなければ、世間の情報にも疎くなる」といっている。
隆景は、暇があるとよく部下の家の前を歩いたという。そして、ひっそりとしている家や、賑やかに人声がする家を見比べた。城に戻ると彼はこういった。
「どんなに才能があっても、人に好感をもたれず、お客も来ないような武士はだめだ。それは、人が集まらなければ、それだけ情報が入らず、世間に疎くなるからだ」といった。さらに、「人から話を聞いて、すぐに分かったという人間はだめだ。人の話を聞いても、自分が胸の中で、ああでもないこうでもない、と議論し、ああそういうことだったのか、と納得するまで人の話を吟味するようでなければ、ものの役に立たない」ともいったという。これは、説明するまでもなかろう。
さらに、「自分の好きなことは、自分を毒する毒だと思ったほうがいい。逆に、自分のいやなことは、自分を育てる薬だと思うべきだ。人間の一生は非常に短い。だから、人によくいわれるのは難しいが、悪くいわれるない程度のことはできるはずだ」とも。 
 
石田三成

 

洪水に米俵を活用
しかし水の勢いが激しくてなかなか治まらない。秀吉はいら立った。脇にいた三成に、「三成、何とかしろ」と命じた。三成は水勢をじっと見つめていたが、やがてこういった。
「水を静めるのに、お倉の米俵を拝借してもよろしゅうございますか?」秀吉は、眉を寄せた。「米俵を何に使うのだ?」「土俵の代わりに使います。今から土俵を作らせても、到底間に合いません」「なるほど」こんなことをいい出されたら、普通の人間だったらいきなり、「何をバカな!」と目をむくに違いない。「いかに何でも、大切な米俵を、土俵の代わりに使うとは何事か!」と怒るだろう。
しかし秀吉の器量は大きい。同時に三成を信頼していた。秀吉は即座に、(なるほどこいつは頭がいい。土俵の代わりに米俵を利用するなどというのは、なかなか他の人間には思いつかない)そう思ったから、「わかった。使え」といった。
三成はすぐ部下を動員して、「城のお倉や、京橋口のお倉に保管されている米俵を運びだせ。そして、労務者たちを動員し淀川の決壊場所に積め」と命じた。みんな驚いた。
「土俵の代わりに米俵を?もったいない話だ」そう思ったが、三成のきびしい表情を見ると急いで次々と倉から米俵を担ぎ出した。
臨機応変の才覚によって、決壊場所に米俵が積まれ水は治まった。秀吉は三成の才覚に感心した。しかし三成の才覚はそれで終わった訳ではなかった。川の流れが静まると、三成は高札を立てた。
高札には、「丈夫な土俵を一俵持ってきた者には、ここに積んだ米俵と交換してやる」と書かれてあった。つまり、「新しい土俵を持ってきた者には、川の決壊場所に積んである米俵を一俵与える」ということだ。
付近の住民たちは、「本当かよ?」と顔を見合った。しかし、試しに土俵を担いでいった住民が、すぐ濡れた米俵一俵を担いで戻ってきたのを見ると、みんなは、「本当だ」と目を輝かせ、次から次へと土俵を作った。
しかし石田三成は、住民たちが担いできた土俵をすぐ米俵と交換した訳ではない。かれが先頭に立って、土俵のでき具合を十分に調べた。いいかげんな作り方をしてきた者には、「こんな俵では役に立たぬ。作り直してこい」と命じた。住民たちは、「石田様はいいかげんな土俵では米俵をくださらない。オレたちも腹をくくってしっかりした俵を作らなければダメだ」といった。いいかげんな土俵を持ってきた者に三成はこういった。「丈夫な土俵を求めるのはオレではない。おまえたち自身が、洪水から自分たちを守るために必要なはずだ」このいい方は説得力を持った。住民たちも考え直した。
「欲得ずくで俵を作ってもダメだ。自分たちの村は自分たちで守るという考えがなければダメだ。それを石田様は教えてくださった」こうして濡れた米俵は全部新しい丈夫な土俵に代えられた。 
情で失敗した城攻め
奇妙なことが起きた原因は、この水攻め工事に、三成が付近から農民を大主に動員したとである。しかも、タダ働きをさせるのではなく、高い日当と米を惜しげもなく与えた。いままでの徴発とはちがうので、農民はよろこんで参加した。これをきいて、城の中からたくさんの兵が農民に化けて加わった。そしてその米はそのまま城中の食糧にし、金は米にかえて、これも城に持ちこんだ。三成の部下がこれに気がついた。
「城内の敵兵が工事に加わっていますよ」と三成に報告した。三成は笑った。「自分の城を攻める工事を手伝う、というのはおもしろいではないか?」「いや。こちらで渡す米や金が、敵の籠城を長引かせることになります。殺しましょう」「そんなことをしたら、 ほかの農民がこわがってこなくなる。ほっておけ。工事が完成すれば、城兵はどうせ魚のエジキだ」勝者の寛容のようなことをいった。それでなくても知将の三成は、普段から、「あの人は冷たい」といわれていたから、ここは一番、「いや、意外と温かいぞ」といわれたかったのだ。
温情を和けるのはいいが、前線では逆に士気を弱める。緊張感がゆるむ。
″温かく、温かく″をモットーに、敵が人夫になって金と米をかせぐのも黙認するくらいだから、全般的にゆるんだ空気が支配した。それは、土手の各個所の監督、点検にもあらわれた。特に、敵の人夫のいるところは、故にさとられまい、というような気くばりをするから、つい大目に見る。
「ごくろう、ごくろう」で通りすぎてしまう。これが三成の最大の失敗になった。敵の兵は城へ戻ると、石田軍の寛容さを、「まぬけめ!」と大笑いしていたのである。
工事は完成した。石田軍は包囲の態勢に入った。雨が降りはじめた。城をかこんだ堤の中の水かさが増しはじめた。この分だと、敵がいくら工事で米をかせいだとしても、やがては食糧がつきるだろう、と思われた。補給の通が絶たれるからだ。
が、ある夜、豪雨がきた。すごい雨で、堤の中の水は異常に盛りあがった。「これでは、すぐ落城する」水びたしになった城からは、おそらく降参の使者がくるにちがいない、という予測を、石田軍の誰もが持った。三成自身も、「作戦は成功した。おれも知将から武将になれる」とはくそ笑んだ。
どころが、突然、堤が決壊した。中の水が一斉に石田軍をおそった。石田軍は滞れ、水死者が続出した。あわてふためいた石田軍の包囲態勢がめちゃくちゃにくずれた。
決壊場所は、敵兵が工事したところであった。過度の温情を示して、いいカッコをした三成の誤算であった。知将は、やはり″知″でケジメをつけなければだめなのである。柄にない温情を示すと、文字どおり″自分の墓穴を掘る"ことになる。 
 
徳川家康

 

分断策
花と実をバラバラにするというのは、一言でいえば権限の独占をさせないということだ。つまり権限の集中化をセーブするということである。家康が行ったのは、「政策立案権限は、依然として父である前将軍家康が持つ。江戸のフォーマルな幕府は、あくまでも実行機関に徹する」ということにした。彼はこの理念を実行するために、「権限を持つものの給与は安く抑える」「給与の多いものには、権限をもたせない」という方式をとった。そしてこの方式によって分けた大名のうち、幕府の老中をはじめ諸役職につけるのはすべて譜代大名や直参である旗本にかぎった。
外様大名はどんなに給与が多くても一切幕府の仕事はできない。加賀百万石、島津七十万石、細川五十四万石などという大きな大名も、幕末まで絶対に幕府の役職につくことはできなかった。
一方、老中とか若年寄、大目付、あるいは諸奉行などのポストにつく大名や旗本の給与は、いたって低い。せいぜい十万石程度で、普通は五万石か六万石の大名がこのポストについた。家康の「分断策」は、最後まで守られたのである。
いってみれば、これが家康が戦国時代に経験したもろもろの「危機」を切り抜けるための巧みな「背理方法」だった。 
分断支配
「君、君たらずとも、臣、臣たれ」という、使う側にとっては非常に都合のいい論理が走者することになる。この論理が"武士道"として、日本の全武士に適用された。使う側の権力は一段と強くなった。使われる側は、結局は上を見ずに下ばかり見るようになる。
これは、信長・秀吉の両先輩が残していった日本社会を、ローリング(修正)を加えながら長期維持管理するための家康としては、どうしてもそうならざるを得なかった。家康の得意な組織と人事の管理法は、「分断支配」である。家康自身、「ひとりの人間にすべての能力がそなわっているなどということは考えられない。人間には必ず長所もあるが、欠点もある」と告げていた。したがって、「仕事は、複数の人間の組み合わせによってはじめて成功する」という考えを貫いた。かれは少年時代から青年時代にかけて、駿河の今川家の人質になっていた。人間の実態をよくみた。そのためにかれの人生観は有名な、「人の一生は重き荷を負いて遠き道をゆくがごとし。必ず急ぐべからず」という根気強いものになる。同時にこのころかれは、「人間不信の念」 
平和政権の長期維持した論理・施策
これがかれの歴史に対する、「平和政権の長期維持」とも絡まって、独特な「組織と人事の管理運営方法」を生む。それが「分断支配」である。あるいは「船底の論理」といってもいい。船の底は、いくつかのパートに分かれている。いろいろな仕事があるからだ。しかし、座礁などのアクシデントが起こったときには、普段は互いに行き交いができる各パートには、突然厚い遮蔽壁が降ろされる。被害を受けた部分に浸水し、極端にいってそこに生きている人間がいても、遮蔽壁は開けられない。その場にいた人間は、溺れ死んでしまう。が、それを見捨てなければ船全体が沈んでしまう。これが「船底の論理」である。家康の組織管理法をみていると、このことを痛切に感ずる。
それがかれの独特な、「管理職ポストの複数制」であるとかれが今川家の人質から解放されて独立したのは、織田信長が桶狭間の合戦で義元を討ち取った直後のことだ。しかし当時今川家に属していた家康は、義元の倅に、「父の仇を討とう」ともちかけたが、息子はウンといわなかった。そこで家康は独立した。しかしかれは青年大名としてすでに、「今後は民政がたいせつだ」と思っていた。そこで岡崎奉行を任命した。が、単数ではなく三人の複数制をとった。岡崎市民たちは選ばれた三人をみて、こうはやし立てた。
「ホトケ高力・オニ作左・どちへんなし(どっちでもない)天野康景」というものである。高力清長はホトケのように心がやさしく温かい。本多作左衛門重次は、オニのように怖い。しかし、天野康景はそのどっちでもない公正な裁きをおこなうという意味だ。このへんも家康の、「各人の長所と短所をみぬいたうえでの組み合わせ」の例がとられた。同時に、「月番」という制度をとって、一カ月交替で仕事をさせる。させられるほうにとっては、これはあきらかに、「ドッグレース」であり、また市民側の、「批判にさらされる存在」になる。つまり市民たちは、先月の奉行のほうがよかったとか、いや、来月の奉行のほうが期待できるとか比較するからである。いきおい、奉行に選ばれた三人は競争心をもたされ、同時につねに緊張させられる結果を生む。これがのちの徳川幕府の職制に応用される。 
世論が熟すまで静かに待つ
家康は小さな時から他人の家の飯を食ってきたから、人の心の動きをつぶさに見続けてきた。
かれの人生観は、その底においてかなり冷ややかである。だからこそ、かれは慎重と果敢の絶妙なバランスを保つことができたのだ。
そして、そのバランスを保つ柱や台になったのが、「忍耐心」である。しかしかれの忍耐心は単なる、「我慢」ではない。はっきりいえばその忍耐心を支えていたのは、「世論」だった。徳川家康ほど戦国時代の武将で、世間の評判を気にした人物はいない。
かれが天下人への道を歩いてゆく過程を見ていると、必ず世論によって決断を下している。つまり、世論が自分を支えてくれるまでは、静かに待つ。慎重に待つ。そして、世論が自分の方向に風向きが変わったと見れば、たちまち果断な行動に出てゆく。その間、この慎重と果敢の間にあって、ヤジロベエのようにその振子を支えるのが、忍耐心であった。
そしてその世論を形成するためには、時にはかれは常軌を逸した行動にも出る。つまり他から見ると、「あの行動は、少し慎重を欠くのではないか。果敢といっても、あれでは猪突だ」といわれるようなことも行う。
例えば、三方ケ原の合戦だ。都をめざす武田信玄の大軍が、徳川家康がその頃拠点としていた浜松城のはるか北方を通過しようとした。これを知った家康は、攻撃しようとした。部下たちは反対した。また、不時の備えとして織田信長が派遣した応援軍も反対した。
信長自身も、「いま、家康が打って出れば必ず粉砕される。そうなると、家康が敗れた後おれは、上方の反信長軍と信玄の挟み撃ちになる」と警戒していた。家康はそんなことは百も承知だ。
しかし、この時は打って出た。案の定、かれは大敗してしまった。この時の情けない表情の肖像画が現在も残っている。
しかし、敗れても家康は満足だった。というのは、この時から世論が沸いた。それは、「律義な徳川殿」という評判であった。律義な徳川殿というのは、「たとえ敗れても、徳川殿は織田信長殿との同盟を守り抜いた。負けると分かっている戦いにも勇敢に打って出ていった。見事だ」という賞賛の声である。家康はほくそ笑んだが、信長は苦笑した。
(タヌキめ、やりおるわ)とつぶやいた。 
徳川家光 / 献上された苗木を植えたエピソード
<この若い将軍は頼もしい>と思ったからである。大名たちも、家光の幼少年時代を知っていた。そして父母に疎まれ、危うく将軍の座を弟に奪われるような危機に陥ったことも知っていた。それを突破してきた将軍だけに、若年ながらこのような大宣言をしたのだと理解した。
しかし家光はそのままにはすまさなかった。かれはこのハッタリ宣言をした後、列席していた大名を一人ひとり自室に呼んだ。部屋の中には、見事な刀が山と積まれていた。家光は呼び込んだ大名に、その中から一本ずつ取り上げて渡した。そして、「中身をお改め願いたい」と言ってその大名に刀を抜かせた。すべて研ぎ上げられたすぐ斬れるような光を放った。しかし家光は、身に寸鉄もおびていない。自分の刀はどこかへ片づけている。つまり無刀である。
家光にすれば、大名に刀を与えて、「もし新将軍に反心があれば、ただちに斬れ」という姿勢を示したのである。大広間でハッタリ宣言をかまされたうえに、今度はひとりずつ呼び込まれて刀を渡され、「斬りたければ斬れ」という強硬を家光の態度に、大名たちはことばもなかった。
<この若造にはとてもかなわない>と感じた。こうして家康と秀忠の時代には、家臣というよりも同僚的立場で接してきた外様大名たちは、この日をもって完全に徳川将軍家の家臣の座に位置づけられてしまった。
しかし家光は、外様大名たちを臣従させたからといって、成張り散らすようなことはしなかった。かれは植木が好きだった。このことを知った大名たちは先を争って、家光のところに自分の領国で得られた苗木を次々と送り届けた。よろこんだ家光は、植木職人に江戸城の庭に植えさせた。ある日、家光が庭に出てみると植木職人が、大名の献じた苗木の一部を捨てていた。みとがめた家光がきいた.「なぜその苗木を捨てる?」「枝ぶりがよくございませんので。公方さまのお庭にはふさわしくありません」専門家をもって任ずる植木職人は得意気にそう言った。家光は怒った。
「ばかなことを言うな.全部植えろ」「しかし、こんな妓ぶりの悪い木を植えたのでは、せっかくのお庭の風情を壊しますが」植木職人も頑固だ。
<おれの仕事に間違いはない>と専門家としての自信をもっている。家光は植木職人を見すえながらこう言った。
「いいか、その苗木は大名たちがわたしに献じてくれたものだ。おまえが植えているのは単なる植木ではない。大名たちの、わたしへの忠誠心を植えているのだ。わかるか?」「?」植木職人は思わず家光を見かえした。そして、いま家光がいったことばを頭の中で反芻した。やがて、ハッと気がつき、「これは恐れ入りました。わたくしとしたことが、とんだ出過ぎたことをいたしまして誠に申し訳ございません」と、ハチマキを取りその場に正座して手をついた。家光はわらった。
「わかればそれでいい。全部植えてくれ」「はい」こういう話も大名たちに洩れていく。大名たちにしても、「自分が献上した苗木を、上さまは植えてくださっただろうか」と期待して江戸城にやってくる。チラリと庭を盗みみる。献上した苗木はたしかに植えられていた。大名たちはよろこんだ。この家光の、「庭に植えているのは単なる苗木ではない。大名たちの忠誠心だ」ということばは、その後長く大名たちの評判になった。家光は、ハッタリと同時に、大名たちの心を掴む巧みな人心掌撞術を身につけていたのである。名君といっていい。 
天下取り行動はすべて禅僧に学んだ
その意味では、「徳川家康の天下取り行動も、すべて禅僧に学んだ」といっていいだろう。そうなると、少年時代に学んで強い印象を受けた『貞観政要』も『吾妻鏡』も、自家薬籠中のものとなる。はっきりいえば、家康はこれら幼少年時代に学んだ漢書や日本の古典を、「自分の都合のいいように解釈し、活(利)用する」ということになる。しかしそれがどれだけ自分の都合のいいように利用したとしても、家康の根本精神は、「おれは常に天下のために放伐を行っているのだ」という自信があるから、悪いことだとは微塵も思わない。やがてかれが、いろいろな法律を作って天皇や公家の政治活動を制限したり、日本の僧を宗教活動に絞ったり、あるいは大名や直参などの武士活動を制御したり、一般人の行動にも制約を加えたのは、すべて根幹に、「孟子の教えの実践」という信念があったためだ。当時の禅の教えは、必ずしも仏教だけではない。広く漢籍によって学んだ思想や他の考え方も多く取り込まれている。そしてその博学ぶりは、他の仏教プロパーの宗教者よりも、むしろ禅僧の方がすぐれていた。したがって、戦国時代から徳川時代初期にかけてのいわゆる、「知的指導者」は、あげて禅僧である。それが、時代を経るにしたがって、学者に変わっていった。その換期の架橋になったのが、徳川家康だったといっていい。 
情報戦略
世論をひきつけたというのは、家康は最後まで秀吉夫人(高台院)を大事にし、″正妻派″として行動したことである。これが、淀君、秀頼を戴く石田三成たち″愛人派″に反感をもっていた福島、藤堂、加藤、浅野、細川、蜂須賀らの、文字どおり秀吉の子飼いの武将を全部味方にできた。日本ではどうも正妻の座はなかなか強いようだ。だから石田三成の敗北と大坂落城は、″愛人派″の敗北だったのだ。家康の世論を見抜く眼がたしかだったのだ。
もうひとつ。家康の情報戦略でうまいのは、情報の入力、出力の使い分けだ。早くいえば、とりこむ情報は真実を、外に出す情報はデマを、というのが家康の広報操作術であった。
入力、つまり入ってくる情報を真実にちかづけるためには、その情報のもたらし手が、本気で情報を入手し、精度をたしかめて家康に提供しなければならない。それは、虚報を告げたときは殺されるかも知れないという、不断の緊張からしか生れない。家康がそのネットワークに、いつもこういう緊張感をもたらせたのは、最初に書いた″不安″と″不満″、しかも場合によっては殺されるかも知れない、というドツグレースを続けさせたことからである。さらに、せっかく情報を伝えても、フンと鼻の先で笑ったりして、もたらし手に自信を失わせ、逆に不安感をもたせる心理作戦の妙だ。
ネットワーク群は、いよいよ″真実の情報″探求に励むのだ。
逆に、家康を発信主体にする情報は相当にデマが多い。
たとえば、家康が秀吉と干支をまじえた小牧戦争(天正一二年・一五八四)の翌年あたり、家康は背中にデキものができて弱ったが、このとき、「家康は死んだ・・・」という情報を意識的に流させて、関係者の動向をみている。
武田信玄に大敗した三方ケ原の合戦の時(元亀三年一二月二二日)にも、いのちからがら浜松城に逃げこむ家康は、途中で坊主頭の敵の首をプラさげている部下をみつけると、「先に城に戻って、武田信玄の首をとったと触れまわれ!」と、城兵のモラールアップのために、いい加減なことをいわせている。
大坂の陣がすべてデマといいがかりの謀略戦であったことはくわしく書くまでもない。このころになると、家康はもうホンネとタテマエを恥ずかしそうに使い分けた処女の推さはカケラもなく、ホンネむきだしの毀滑なヤリ手婆アそのものだ。三方ケ原の際は、この直後、信玄は本当に死んでしまったから、家康は危機を脱した。人為をこえたツキがあった。 
”頭″と″胴体″を切り離した「分断」戦略
つまり、徳川企業におけるCIはあくまでも「信頼されること」であり、それを保持するための戦略を彼は駆使したのだ。
戦略というのは、
いったん世間に湧いた「徳川家康は信用できる」という評判を、家康だけでなく、家康の部下全員が自分の責任として保持していくこと。
徳川家がどんな危機に陥っても、信頼を失うようなことだけは絶対にしないこと。
そのためには、家臣団がほかの大名家に見られないような結束力を持つこと。つまり、家臣同士が強い信頼感でスクラムを組むこと。
などであった。しかし、信長の破壊期、秀・吉の建設期は、割合にリーダーシップも取りやすい。信長は、ダソプカーのような管理を行ない、そのリーダーシップは″恐怖″を使った。秀吉は、現場のモラールを上げることに力点を置き、いきおい、ニコボン戦術(笑いながら肩を叩き、巧みに味方に引き入れること)や褒美のばらまきで部下たちのモラールを高めた。そこへいくと、維持管理期の戦略やリーダーシップは難しい。 
彦左衛門は遅れた部下の典型
三河のいじましい土豪の息子が、いまは途方もない野望を持ってこの国に君臨しようなどと志していることを、彦左衛門は露ほども予想しなかった。家康の変質に気づかなかった。江戸に入って以来、なぜソロバソ勘定に明るい新興官僚がつぎつぎと登用されるのか、彦左衛門にはわからなかったのである。主人の家康が、「江戸経営」の背景をどこに置いているのか、忠臣を以て任じていながら、それを付度しなかったのは、彦左衛門の怠慢である。社会情勢の変化に伴い、トップは社会から何を求められているのか、また、そうなったときにトップは部下にどういう能力を求めるか、そこに着目しなかった彦左衛門は、それだけで忠臣の資格を欠いた。
(主人は、何をしたがっているか)ということは、忠実な部下なら当然、以心伝心で悟らなけれはならなかった。その回路を彦左衛門は家康との間に設けていない。だから、彦左衛門は、家康にとって、けっして自分で言うほどの忠臣ではなかった。鳶の巣文殊山のころならいざ知らず、少なくとも家康が江戸に入ってからあとは、むしろ、遅れた部下の典型であった。 
民心の求めに応ずる
そういうものの、家康は天正十八年の江戸入りの段階ですでに、体系的・総合的な江戸経営策を持っていたわけではない。意外なほど、家康は自分の行動基準を、「世論の動向」に置いている。つまり、自身を民心の求める方向に従わせるのだ。家康の政治に対する態度は、「聞くことは天下の耳、見ることは天下の日、理は天下の心。この三をとって是非を分明にし、身を摘みて人の痛みを知って、政道する善政なり。代々太平の根元と知るべし」ということにあった。一見、代の民主主義的政治家を思わせるが、もちろん家康はそんな甘い人間ではない。
彼の胸中には徳川家の政権担当の恒久化しかない。しかし、そのためには、民心の求めに応ずることがもっとも近道であることを知っていた。簡単に言えは、「民は、この家康に何を求めているか」を的確に知り、確実にそれに応えることであった。もっと砕いた表現をすれは、民の欲しがるものを与えるということだ。大きく言えは、この国の民は応仁の乱以来、平和を求めている。元亀・天正からは、その平和に、社会秩序の安定が加わった。信長と秀書は、その社会秩序を一応は安定させた。が、平和ということになると、ふたりとも、民の目から見てはなはだ不安だった。ふたりは明らかに外国侵略を頭に置いていたし、秀書は現実に朝鮮に攻めこんだ。家康は、応仁以来まだ満たされていない、この民の平和希求に応えることを根気強く考えていた。皆、忘れているが、民のほうは忘れていない。それに民は疲れていた。休息が欲しかった。家康はこの世論に従いながら、自身の権勢欲を巧みに組織化することを思い立っていた。
「人の痛み」を知るとは、政策を肌理細かくするということだ。政策を肌理細かくするということは、あらゆる地域の実態を知り、そこに轟く人間の欲望を把握するこどである。 
友人をもたない理由
家康がこれまで友だちをけっして持たなかったのには理山があった。家康の人生哲学からすると、友だちほどあてにならないものはないからだ。
(友だちとはいったいなんだろう?)と家康はよく考える。それは、人質になっていた子供時代からの経験である。そして彼は、特に貸借関係がからむと、友情というのは、あっけなく割れてしまうことを何度も経験した。やがて彼は、「必要なのは部下だけだ。政略上、主人として立てる人間は必要だが、友だちなどひとりもいらない。友だちというのは、害あって益なきものだ」という極端な考えを持つようになった。だから彼の経営方法の中では、友だちを何かで煩るということはけっしてなかったのである。
しかし、部下も″必要″なのであって″信用″するということではない。 
身分を問わず能力のある者は登用した
四郎次郎に家康は、「朱印船貿易を担当せよ」と命じた。後藤庄三郎と湯浅作兵衛には、「新しく貨幣の鋳造を命ずる。後藤は金貨を、湯浅は銀貨を担当せよ」と命じた。長谷川左兵衛には長崎奉行を任命し、「茶屋と共に朱印船貿易を扱え」と告げた。こういう人事を見ていると、後世、「身分制とさらに人の下に人をつくったのは家康だ」といわれているが、必ずしも正しくはない気がする。身分制が固定化し、さらに人の下に人がつくられるようになるのはもっとあとのことで、あるいは家康が死んでしまったあとのことかも知れない。その辺は幕府の連中が明治維新まで家康のことを、「神君、神君」と奉ったので、いいことも悪いこともすべて家康のせいにされてしまったような気もする。少なくとも、この頃の家康はかなり公平で、「身分を問わず能力のある者は登用する。その知恵を借りる」という態度をとっていた。そうでなければ、長谷川左兵衛のような商人を長崎奉行という歴とした幕府の要職につけるはずがない。逆にいえば家康は、「機能主義」を採っていたのであって、身分にかかわらずある特性を持っていれば、その能力を自分のために十二分に発揮させるというやり方をしていた。これが家康の人事の特性だ。というのは、駿府城に集めたユニークなブレーンたちはそれぞれ特性を持ってはいたが、やはり当時としての一種のランク付けがある。 
隠居し豊臣家滅亡の悪謀を凝らした
「今後、征夷大将軍職は徳川家の世襲とする」と宣言してみても、決して政権は安泰ではない。むしろ大きな騒ぎの種子を植えつけたようなものだ。
「いずれ、大坂と一大決戦が行われる」ということは、いま大名たちの常識になっている。ただ、それがいつだという見通しが立たないだけだ。だから、駿府城にこもった家康には江戸城以上に大名たちの視線が集まっている。つまり、「大坂との手切れの時期を決めるのは駿府城にいる大御所様だ」ということになっているからだ。そういう視線を家康もよく知っているから、迂闊には動けない。家康のいまの一挙手一投足は、必ず意味を持つ。その意味では家康の行動は世間の注視の網に引っかかり、がんじがらめになっていた。
しかし家康はあきらめない。逆にそういう状況下においてこそ、「豊臣家滅亡の悪謀を凝らす」ことに悪魔的な悦びを感じていた。家康にすれば、(それが隠居したおれの最大の目的なのだ)という気持ちがある。したがって、駿府城に集めた多彩なブレーンの役割は、「悪知恵の限りを絞り出すこと」なのだ。そしてその行き着くところはすべて、「豊臣氏を滅亡させる」ということである。もっと手っ取り早くいえば、大坂械の豊臣氏との間に手切れを宣告し、大合戦を仕掛けることだ。そしてその合戦によって豊臣秀頼の首を取ることなのである。 
秀忠の新機軸・独自性
秀忠の江戸での経営は、たしかに家康が駿府でつくった案を実行することが多い。しかし、秀忠はその実行過程で、つぎのようないくつかの新機軸を加えた。
公の文書には、いっさい徳川家康の名は使わない。すべて徳川秀忠の名で出す。
駿府からの指示は原則である。実態に即して、おかしいところは修正する。
修正は、徳川幕府の威力が増すような、″付加価値″の創造を伴わせる。
実施は公正を旨とし、私情に駆られた特例を設けない。
ざっと見れは、なんということはない。が、この方針を貰けは貰くほど、天下に上がるのは、徳川幕府の威勢であり、将軍徳川秀忠の名である。家康の名ではない。
もうひとつ、秀忠が家康と灘れて、独自に行なったことがある。それは、
直臣団の養成。
である。秀忠には、家康のつけた日付的ブレーンがたくさんいたが、それはそれとして尊重しながら、秀忠は子供のときからの″ご学友″を中心に、「秀忠に忠義を尽くす家臣」の養成を心がけた。 
部下を使うのではない、部下に使われるのだ
「部下を使うのではない。部下に使われるのだ」
家康は″人を使う″のがうまかったが、考忠は″人の心をつかむ″のがうまかった。
目の前で緊張しすぎた部下がへマをやらかすと、突然、居眠りをしたり、いつも、「部下を使うのではない。部下に使われるのだ」と公言したりした。また、「一度信じた部下は、どんな悪評を立てられようと信じ抜く」と言いつづけ、実行した。
細かく注意すれは、これらのすべては父家康のやり方とは反対だ。家康ほ、
まず、人間を疑ってかかる。
部下同士、疑心暗鬼で牽制させる。
という″分断支配”の名手だ。秀忠の管理方法に人気が出るのは当然だ。かつて家康に仕えていた老も、秀忠の部下になって、「先代よりも二代目のほうが好きだ」と言い出す者もいた。″秀忠人気″は確実に上昇していた。 
分断、船底の論理
「今も同じだと思うが、船の底倉は小さな個室に分かれている。機能別にそれぞれ分断されている。これを、「船底の論理」という。船底の論理とい、つのは、たとえばA、B、C、Dというように機能別に職場が分かれていた時、不測の事態によって、A室の璧が破れどつと水が入って来ることがある。その時、すぐA室とB、C、Dの境目の扉を閉じる。これは、「船全体を救うためには、A室をたとえ頼牲にしても、他の横能の安全を保つ」という論理に基づいているからだ。したがって、たとえば水の入って発たA室にそこで働く人間がいたとし、他の部屋との境目に設けられた速断壁が降りてしまった時、ガリガリとその扉を引っかいて、「助けてくれ!」と叫んでも、他の室はこれを見殺しにする。扉を開けて、A室の人間を助ければ、そこに充満している水が他の部屋にどつと流れ込むからだ。非情だが、これが、「船底の論理」である。徳川家康はこの盛底の論理一の活用の名人だった。したがって、「ナニナニちゃん、いる?」と開き、相手がそうだと答えると、「君だけに話すけどね」と言うことは、「そこのパートは、君の責任において最後まで守り抜け」という意味合いを込めている。
徳川家康は武田信玄を尊敬していた。信長と協同して武田氏を滅ばした後も、かれは信玄の軍法や、軍団の編成法、人事管理術などを多分に採り入れた。また武田二十四将といわれた勇猛な信玄の部下の一人、山県三郎兵衛昌景は、自分の部下の軍装をすべて”赤備え”として、武具や旗を朱色に揃えていた。家康はこれを徳川四天王といわれた井伊直故に、「今後井伊軍掃は、赤備えとせよ」と命じて、山県の軍装を引き継がせた。
信玄に有名な言葉がある。「人は城人は石垣人は堀」というものだ。これはその後に続く、「情けは味方仇は敵なり」という言葉によって、「武田信玄は部下の丈ひとりを尊重する大変情け深い武将であった」 
八王子を拠点に徳川の新しい酒つくり
家康の許可を得れば、あとは水を得た魚のようなものだ。正信は合戦は不得意だがこういう調略は大得意である。すぐ服部半蔵に話し大久保十兵衛を呼び出した。大久保十兵衛は四十五、六歳の中年者だった。正信はざっと自分の構想を話した。つまり、「北条色の強い内陸部の切り崩し拠点として、入王子地域を標的にしたい」という案である。けってみればそれは旧北条領内につくる”徳川系の新しい革袋”である。
「新しい酒は新しい革袋に盛る」という古い言葉がある。正信はこれを口にして、「入王子地域から、徳川という新しい酒をつくりたい。それには古い酒を全部洗い流す必要がある」そう言った。大久保十兵衛は目を据えてじっと正信の話に聞き入っていた。かつて主人の武田信玄がこんなことを言ったことがある。
「おれが話をすると、部下は四通りの反応をする.ポカンとロを開けている者、おれの話の節々でいちいち領いたり、笑い返す者、途中で席を立つ者、そしておれの喉のあたりを見詰めてじっと話に開き入る者。ポカンと口を開けているのは、おれの話の内容に仰天している者だ。領いたり笑ったりしている者は、あなたのおっしゃる事はすべてわかりますという交際上手な者だ。途中で席を立つ者は、おれの話の中に何か身に覚えがあっていたたまれなくなった者だ。喉のあたりを見詰めて話に開き入っている者は、おれの話すことをいちいち吟味し、消化している者だ。これが一番役に立つ」
そこでかれは上司の話を開く時は必ずその顔を見ずに、喉のあたりを見るようにしていた。顔を見ると表情が気になって、話の内容から心か離れてしまうからである。
(信玄公はそこまで人の心に通じておられた)と十兵衛はいまだに信玄を尊敬していた。だから今も車信の誌の重大性に気付き、重信の表情を見なかった.正信の喉のあたりをじつと見詰めていた・正信の話が終わると、十兵衛は領いた。
「お話はよくわかりました。で、わたくしの役割は?」「入王子を拠点にして、多摩地域一帯の北条色を消してもらいたい」「大役でございますな」「おぬしをらやれると思う。大久保忠隣棟のご推挙だ」「しかし」大久保十兵衛はニヤリと笑った。が、その笑い方を見て正信は、(この男はすでに策を持っている)と感じた。そこで、「策があれば話してくれ」と脇の服部半蔵を見た。半蔵も腕を組んで射るような視線を十兵衛に向けていた。十兵衛はたじろぎもしなかった。
「では申し上げます」この時大久保十兵衛が話した策というのは次のようなものだった。
織田信長・徳川家康連合軍によって武田家が滅ばされた時、信長の武田処分は非常に過酷だったが、家康の処分は寛大だった。たとえば、膠頼の首実検に際しても、信長はまるで勝頼の首を鞭で叩くような態度を取り、罵った。これに対し家康は地の上に正座し、懇ろに勝頼の首に手を合わせた。したがって、武田家の遺臣たちは徳川家康にひとかたならぬ敏愛の念を持っている。
家康は、武田の遺臣の中から二百五十人を選び、これをお小人組と名付けて自領となった甲斐国内の管理にあたらせている。
このお小人組をそっくり入王子に移し、さらに武田の旧臣を二宮五十人採用して人数を五百人に増やす。新採用者の二宮五十人の中には、甲州スッパをほとんど加える。
新しく編成した五百人隊に上って、多摩地域一帯を徹底的に捜索する。個人宅に蕗み込む時は、万歳のような芸能も活用する。
とくに標的は風塵小太郎の率いる相州乱波なのでこの撲滅に力を尽くす。それには、風魔一族が、徳川家の討伐を受けるような違法行為をするように仕向ける。
というようなものである。正信は服部半蔵と顔を見合わせて目で領き合った。大久保十兵衛の行き届いた策に感心したからである。正信は言った。 
八王子千人隊のはじまり
風魔小太郎−味を追い回しているうちに、本多正信は服部半農や大久保十兵衛と相談して方針を再び修正した。それは、「八王子に集めた五百人隊をさらに五百人増やし、千人とし、その中には北条家の遺臣も加えよう」ということであった。これは徳川家康の判断だった。家康は正信から大久保十兵衛や服部半蔵たちの活躍ぶりを開いたが、必ずしもその成果が思わしくないことを知ると、「部下に無駄な能力を割かせるのは控えよう。それよりもかれらを抱こう」と言った。これは家康の、「占領地域の遺臣に対する懐柔策」であって得意とするところだ。正信も家康のその方針はよく知っていたから従った。
やがて八王子には、既組織の五百人隊に、新しく5百人が増員された。その主たるものは、旧北条家の遺臣が多かった。もっと抵抗するかと思ったが、北条家の遺臣たちは割合に素直に参加した。やはり、再就職の喜びは深かったのである。こうして千人になった組織は、「八王子長柄同心」あるいは、「八王子千本槍衆」と呼ばれた。かれらは屋敷を与えられ、扶持ももらった。隊長株は最高五百石の知行を受けた。ほとんどの隊士は同心扱いを受けたが、他の同心職とは違って、八王子近辺の村落に居住した。そして普段は農耕に徒事した。これはそのまま大久保十兵衛の提案によって、武田信玄の時代にあった、「山道農兵隊」にならったものである。八王子千人同心は、その後朝鮮での戦い、関ケ原の合戦、さらに大坂冬の陣・夏の陣に従軍する。また、大久保十兵衛の得意とする「城造り」や「都市づくり」の手足となって、京都の二条城・伏見城の再建案、駿府城の増築、江戸城の修築などに従事している。
これらの城の建築や修築の総指揮は、藤堂高虎が執っていたので、入王子千人同心はその指揮下に入った。 
豊臣系大名の徹底的な相殺のために柳生一族を使う
家康はこの時すでに、「徳のない政権である豊臣政権を滅ばすことは、決して反逆ではない。豊臣家を滅ばしても、おれは主人殺しの罪には問われない。そのことは、おれが天下人になった後に、徳のある政治を行えばそれで済む」という理論立ても行っていた。しかしいきなり豊臣秀頼に喧嘩を売るわけにはいかない。豊臣家を滅ばすのはもう少し先になる。その前にやることがある。それは、「豊臣系大名の徹底的な相殺」である。
それには、いま佐和山城で謹慎している石田三成をもう一度引っ張り出し、かれに謀反の兵を挙げさせることが必要だ。それには囮がいる。家康の頭の中はくるくると回転した。かれはこの仕掛けに、柳生一族を活用するつもりでいた。伏見にいて、かれは柳生一族の有用性をしみじみと感じていた。服部半蔵とはちがった本来の忍びの術を駆使する柳生宗厳の伊賀者・甲賀者の活用法は、この時の家康の考えにピタリと当てはまっていた。 
家康は上忍中の上忍、豊臣家を善人とし、徳川家が悪人になる噂を撒いた
この二、三年の間における家康の謀略性はまきに、伊賀考や甲賀名のいう「大御所様は上忍中の上忍だ」という本領を遺憾なく発揮している。上忍というのは忍者仲間にいう、「頭脳人」のことで、自ら作戦を立てそれを中忍や下忍に実行きせるという立場にある忍者のことだ。
家康がこの頃上忍として多くの諜者たちに命じたのが、「まもなく戦争になるという空気を煽り立てろ」ということであった。戦争勃発の不安感を植え付けろということである。そしてさらに、「五山の僧の方広寺慧に対する解釈が、牽強付会の説であり、その背後には徳川家のごり押しがあるという噂を撒き散らせ」と命じた。これは、豊臣家を善人とし、徳川家が悪人になるということだ。そういう図式を世間に与えて、いよいよ豊臣家の戦意を煽ろうということであった。
豊臣家はこれに乗った。つまり、「世論はわれわれの味方だ」という認識に立った。そこで、大坂城下の米を全部城内に運び込んだ。また近隣からも糧食を徴発した。同時に、故豊臣秀吉恩顧の大名たちに来援を請う文書戦に出た。これは主として豊臣秀頼、淀君、大野治長、織田有楽斎妄肇などが、それぞれ署名者となって濫発した。同時に、関ヶ原の合戦で家を漬されたり、あるいは石田側西軍に味方したために職を失っている浪人武士を次々と高禄で召し抱えた。しかし、豊臣方から文書をもらった大名たちのほとんどが、「とんでもない」という気持ちで要請には応じなかった。逆に、「こんな文書を受け取った事が知れたら徳川家に憎まれる」と案じ、文書とともに、「徳川将軍家に対し異心は毛頭ごぎいません」と誓紙を出す者が次々と続いた。関ヶ原合戦で徳川軍の先鋒に立った福島正則(広島城主はかつて豊臣秀頼が徳川千姫と結婚した時には、西国の全大名に、「秀頼公に異心のないことを普え」といって血判書を出きせるくらいの斡旋もした。 
女同士で冬の陣の和睦交渉を進める
「手段はあるか?」と本多父子や藤堂の方を向いた。藤堂高虎がいったん本多父子の務を見たあと、控えめにこんなことを言い出した。
「城内にはたしか常高院様がおいでだと思いますが」「おります」阿茶局が領いた。常高院というのは死んだ京極高次の妻お初のことだ。お初はいわゆる″浅野三姉妹″の真ん中の女性で、淀殿の妹で秀忠の妻お江与の姉になる。かつて豊臣秀吉の勧めによって、近江の名族京極高次の妻になった。
高次は貴公子然としていて、激動の世の中に機敏に対応できない。早くいえばぐずだ。そのためお初はイライラした。豊臣家に好感を示し、関ケ原の合戦のときも最初は石田三成に味方しょうとした。お初は叱った。
「そんなに、世の先々が見通せないようでは本当に頼りなくて仕方がなりませぬ。徳川殿にお味方しなさい」と叱咤激励して家康に味方させた。このときの高次は大津城主だった。しばしば城内に撃ち込まれる砲弾の凄まじさに驚いて、高次は逃げ出そうとした。それを励まし叱りつけ、お初はギリギリまで城を保たせた。しかし九月一四日についに降伏してしまった。が、大勝を得た家康は、「よくギリギリまで城を支えてくれた」といって、若狭(福井県)小浜城主にした。やがて高次は死ぬ。忠高という息子がいたが、お初は未が死んだ後尼になり常高院と称して、なぜかその頃大坂城内にいた。やはり長姉の淀殿を頼りにしたのかも知れない。お初にすれば、「男はだめだ。女同士の方が頼り甲斐がある」と感じたのかも知れない。息子の京極忠高は早くから家康に臣従し、いまは今福の陣にあって大坂城への攻撃命令を待っていた。
家康は、「お初殿か・・・」と腕を組んで空を睨んだ。家康の頭の中に人間の関係図が描かれる。一本は、かなり早くから自分に臣従し駿府城にあってまめまめしく仕えている大野壱岐守治純の線だ。治純の兄は大野治長であり、その母は大蔵卿局だ。大蔵卿局は浅井家時代から淀殿の乳母だった。
もう一本が今福に陣を置く京極忠高の線だ。母が常高院(お初)であり、常高院の姉が淀殿になる。さらにもう一本の線が秀忠の娘千姫だ。千姫の夫は豊臣秀頼であり、秀頼の生母は淀殿だ。
いずれの線も淀殿に結びついていく。家康がいま考えているのは、(どの線が、一番和睦交渉を進めるのに有効か)ということである。無言で阿茶局を見た。
阿茶局は家康の気持ちを察してこういった。
「愕りながら、こちら側からはわたくしがお使いをさせていただきましょう。いま藤堂様がおっしゃった、常高院様がお相手になれば幸いかと存じます」「わかった」まさに、あ・うんの呼吸だ。家康は本多父子と藤堂高虎を見ていった。
「城内には織田長益殿と信雄様がおられる。このお二人に話をして、城方の代表を常高院殿になるように仕向けてほしい」「かしこまりました」本多父子と藤堂高虎も、あ・うんの呼吸で領いた。織田長益は風流人だ。信長の末弟である。信雄は信長の息子だ。信雄は最初豊臣秀吉から、「旧北条領を差し上げる」といわれたが頑なにこれを拒んだ。そのためその頃持っていた尾張や伊勢の所領も没収されてしまった。
長益はもともと有楽斎と称するような文化大名だから、あまり合戦などに関心はないし得意でもない。茶をたてて暮らしていた。晩年の豊臣秀吉に招かれて大坂城内で悠々と暮らしていた。おそらく、(太閤殿がもう少し長く生きておられれば、さらに余生を楽しめたものを)と思っているに違いない。こうした慌ただしい状況になると、身の置き場がなくなってまごまごする。したがってその不安定な心を突いて、この話を持ちかければ必ず役に立ってくれるだろうというのが家康の計算だった。
「こちらの希望どおり、大坂方の代表が常高院殿になった暁に、交渉の場をどこにする?」家康が聞いた。阿茶局が間髪を入れずに答えた。
「どこでも構いませぬ。たとえ城内であってもわたくしは出掛けてまいります」家康は黙って阿茶局の顔を見た。随分前だが阿茶局が、「大御所様のためにお役に立つことがございましたら、たとえ女の身でも命を捨てて尽くします」といったことがある。 
過程に全力を注ぐが結果には執着を持たない
「わしは馬上天下を取った。しかし治国は馬から降りて行う」と、「治国平天下」の理想をはっきり掲げた。
一連の手続きを終わった後、家康は本多正信にいった。
「おい、これでおれの役割は終わったぞ」「ご苦労様でございました。あとはゆっくりお休みになることだけですな」「そうだ。わしも早くそうしたい」二人の老人は笑った。
元和二(一六一六)年四月十四日に家康は死ぬ。七十四歳であった。
このとき本多正信は殉死しなかった。周りで答める者がいた。ところが正信はこう答えた。
「おれは、とっくに死んでいる」生きた骸としての日々を送った正信は、その年の六月七日に死ぬ。七十九歳だった。
正信にすれば、まさに家康が死んだ四月の日に、この世におけるおのれは完全に消滅していた。したがって、わざわざ腹を切る必要はなかった。動乱の世とはいえ、凄まじい君臣の仲だったといっていい。
興味深いことは、京都の方広寺の鐘銘だ。「大坂の陣」の口実になりながらも、家康の一面大雑把な性格がそうさせたので、鐘はついに破壊されることはなかった。現在も「国家安康君臣豊楽」の八文字をきちんと刻みつけたまま健在だ。朝鮮との国交回復のときもそうだったが、家康にはこういうおおらかさがあった。つまりかれは、「成し遂げる過程には全身全霊を注ぐが、結果に対してはあまり執着を持たない」ということだ。したがって、「大坂の陣」でも第一次(冬の陣)において、本丸だけを残して裸城にするという和睦条件を勝ち取ったときに、家康の願望のほとんどが燃焼し尽くしていた。
したがって夏の陣は、その延長線における締めくくりであって、今度はかれ自らが総指揮をとって、攻撃の先頭に立つことはなかった。それこそ、「熟した柿が落ちてくるのを黙って待つ」ということであった。御所柿はついに落ちても木下の拾うところとはならなかった。拾ったのは落とし主の徳川家自身であった。
この落首を思い出して、豊臣秀頼とその母淀殿の自決を知った夜、家康は一人でコトコトと笑った。一気に疲れが出た。家康は、虚空の秀吉に告げた。
「秀吉よ、天下というものはな、大きな事件だけで動くものではない。個人の小さなこだわりが世の中を動かすこともあるのだ。豊臣家が滅びたのは、あの日の聚楽第でのきさまの傲慢さにあるのだ。思い知ったか・・・」告げ終わると、(どれ、自分でつくった薬を飲んで疲れを癒そう)と呟いた。 
秀忠は駿府機関を消し江戸城内に陰部分を作った
「わたしは透き通った江戸城「そして透明な政策決定を望んではいるが、それが代がかわったからといって、すぐさま実行できるとは思っていない。おまえがいう陰の部分や黒い部分は依然として江戸城内に轟いている。だからそういう黒い部分や陰の部分に対応して行くためには、こっちもそういう横能や手段を持つことが必要だ」「そこまでおわかりなのに、なぜ駿府城にいた連中を全部解雇なきいますか」「代わりが見つかったからだ」「代わり?」「そうだ」秀忠は領いた。利勝は言った。
「よくわかりませぬ」「利勝よ、わからぬふりをするな。父が駿府城にお集めになっていた黒い部分、陰の部分は今度はおまえたちが肩代わりするのだ」「はあ!」今度こそ本当に驚いて利勝は秀忠を見返した。秀忠はニコリと笑った。こう言った。
「駿府城の連中を解雇することによって、いわゆる駿河機関は消えた。駿河機関を消すことによって、今後は幕府の政策形成とそれを実行する手足とは江戸城内において一体化した。したがって、政策立案に携わるものは、それを自ら行う義務を負う。そのことは合わせて、陰の部分、黒い部分も自分たちがその用を足さなければいけないということだ」 
遊興政策
「後白河法皇はこの梁塵秘抄をお編みになるために、京都の町から白拍子や遊女まで京都御所の中にお呼びになった。そしていま町で流行っている歌はどういうものか、とお聞きになってこの本をつくられたのだ。わたしも同じだ。歓楽街には人間の喜怒哀楽がすべて凝縮している。人間の臭いがプンプンする。彦坂よ、たまには阿部川町の遊女たちをこの城に呼んで、いろいろな意見を聞かせてもらえまいか」「何ということを仰せられますか」彦坂はピックリした。しかし家康は、「本気だよ」といった。
その後、彦坂は家康にいわれたとおり、阿部川町の遊女たちに、「殿様に踊りをみせてあげてくれ」という名目で、岡崎城内に連れてきた。城内の武士はみんなピックリした。遊女の中には、「まあ、何とかさん」と顔馴染みに声を投げる者もいた。声をかけられた者は慌てて逃げた。そんな光景を家康はニコニコしながら見守っていた。しかしかれはこの方法で、遊女たちから、岡崎城下で暮らす人々の本当の姿を知ろうとしたのである。それが政治に役立つと思っていたからだ。だからかれは決して、歓楽街を罪深いものとか、あるいは汚れたものとは考えなかった。
こういう家康の心を知って、城内の武士たちもゆき過ぎた夜遊びを慎むようになった。むしろ逆に、こういう町に出掛けていって、「自分たちが城の役人として何をしなければいけないのか」を知ることのきっかけに役立てたのである。家康の遊興政策は死ぬまでこの方針を貫いた。 
貞観政要をテキストに、部下を水にたとえた
家康か『貞観政要』のことを知ったのは、いつのころかわかりませんが、いつも手もとにおいて、「政治のテキスト」にしていました。
この本は中国の唐の時代(六二七から六四九年)の太宗の言行を呉競という歴史家が記録したものです。内容は、「国を治める者の心がまえ」です。その中でも太宗はとくに、「国民の世論重視」「トップはいかに部下の諌めをきくか」というふたつの点を何度もくりかえしています。
有名な、「水はよく舟を浮かべ、またよくくつがえす」というのも太宗のことばです。太宗の″水”というのは国民のことです。つまり、「国民の支持が得られないと、帝王もその座を追われる」という意味です。
徳川家康もよくこのことばを使いました。ところが家康はこの″水”を″部下”としています。つまり「部下は主人を支えるが、場合によってはうらぎる」という意味にしているのです。子どものときから苦労した家康は、心の一部に″部下不信”の気持ちがあったのでしょう。
しかし慶長五年二月といえば、まだ関ケ原合戦の七ケ月も前です。このころすでに家康に、「天下への志」(あるいは野望)があったといえます。 
貞観政要を愛読、諌言は一番槍よりもむずかしい、人間には必ず取り柄がある
水はよく舟を浮かべまたよくくつがえす
もともとは中国の『貞観政要』という古い本の中で、唐の太宗という皇帝のいったことばです。太宗は″水″を″人民の世論″と考えました。この本は家康の愛読書です。
でも家康は″水″を″部下″におきかえました。何度か部下にうらぎられたことがあったからです。
諌言は一番槍よりもむずかしい
「主人をいさめることは、戦場で手柄を立てるよりもむずかしい」という意味です。耳に痛いことはトップもききたがりませんし、部下もいいません。結局トップは裸の王様になってしまいます。ちかごろ多い企業の不祥事を、見たり聞いたりするたびに家康のこのことばを思いだします。
人間には必ず取り柄がある
取り柄というのは長所やすぐれた能力のことです。家康はいつも「世の中に完全な人間などいない」と、人間の不完全主義を唱えていました。ですから徳川幕府のポストはすべて複数制です。
平氏をほろぼす者は平氏で、鎌倉をほろぼすのは鎌倉だ
平家は源氏によってほろぼされました。その源氏も三代でほろびました。家康はこの状況を、「滅亡の原因は他からの力によるものではなく、内部にあった」と分析します。
いまでいえば社長や社員が「うちの会社は優良で安定している」などと思い、危機意識をもたなければ、すでに家康のいう″内部からの崩壊″がはじまっている、といっていいでしょう。 
イヌの群れを操るタヌキおやじ
徳川家康の人づかいの特徴は、一言でいえば「分断支配」にある。家康は、つねに、「ひとりの人間がすべての能力を持っているということはありえない」と、人間の能力の完璧性を否定していた。
だからかれが幕府を開いたとき、その幹部はすべて「複数任命」であった。家康にすれば、「ひとりの人間が、すべての能力を備えていることはない。当然欠陥がある。その欠陥を他人が補う。つまり、幕府の運営は、幹部の能力の相互補完によっておこなわれる」と告げていた。
こういう扱いを受ける幹部の中には、「そんなことはない。おれの能力は完全だ」と思うものもあったにちがいない。しかし家康はそういう人間に対してこそ、「うぬぼれるな。もっと謙虚に生きろ」と命ずる。
家康の、「ひとりの人間が能力のすべてを兼ね備えていることはありえない」という考え方は、少し勘ぐって考えれば、自信たっぷりな人間に対して頭から冷や水をかぶせるようないやがらせであったかもしれない。だが、家康の力は大きい。自分では、「おれは完全だ」と思う人間も、結局はこの「複数式任命制」に甘んぜざるをえなかった。いってみれば、完全だと思っている能力の一部を、家康が「不完全だ」と判定すれば、部下たちは自分でもそう思うように自己抑制を強いられたのである。この自己抑制を強いられた部分は当然、一種の「不完全燃焼」を起こす。しかし、この不完全燃焼部分は決して、「家康への不平や不満」という形にはならきかった。
むしろ、「おれの能力が完全なことを、家康様に認めてもらおう」という気持ちになる。このへんが、家康が″人づかいの名人"と呼ばれるゆえんなのだ。いわば、家臣すべてに「ドツグレース」をさせる。ドツグレースでは、犬の鼻先にエサをぶら下げて、懸命に走らせる。犬がエサにありつくことは永遠にありえない。しかし、イヌは承知で走る。徳川家臣団はまさにそういうイヌの群れであった。これが家康の、「タヌキおやじ」と呼ばれた真の理由だろう。
また家康は、「デーティー(汚れ)の部分」は、決して自分が背負わなかった。部下に押しつける。それも、部下のほうが自分からすすんでダーティーな部分を背負うような仕向け方をした。その一番いい例が、関ケ原合戦後の石田三成の扱いだ。
関ケ原の合戦で敗れた石田三成は、「拠点である近江(滋賀県)佐和山城に戻って、再起をはかろう」と考、え、戦場から離脱した。ふつうの大将なら、戦いに敗れたのだから潔く討死にするところだが、三成はそうはしない。
しかし、途中でかつての盟友であった田中吉政によって捕らえられ、家康の本陣に連行された。当然、三成は後ろ手に縛られていた。ところが家康は、脇の者に「縄を解け」と命じた。その態度には明らかに、「たとえ敗将とはいえ、大将たる者を後ろ手に縛り上げるとは何ごとだ」という武士の面目を重んずる色があった。脇の者があわてて三成の縄を解いた。家康は座敷の中にいたが、庭先に突き出された三成に、「上へあがりなさい」と言った。三成はあがった。家康はしみじみと告げた。
「合戦というのは、武運があるかないかによって支配される。残念ながら、おぬしには武運がなかった。こういう結果になったのは誠に残念だ」と懇ろにいたわった。まわりの者からみれば、(家康は、ええ格好しいだ)と感ずる。しかし家康は真面目にそういう態度をとった。そして、三成の身柄を本多正純に渡した。
本多正純は、家康の扱いを苦々しく思っていたから、再び高手小手に縛り上げて、しかも門前にムシロを敷き、通行人のすべてが三成をみられるように晒した。徳川家康に従った多くの豊臣糸の武将が、次々と通過する。馬の上から三成をあぎけった。しかし三成は、「きさまたちが裏切ったから、こういう結果になったのだ。もしも秀頼公がご出馬なさっていたら、立場は逆になっていたはずだぞ」とののしり返した。
このケースでいえば、家康は、「ええ格好しい」で、そのところは自分の仕事にするが、三成を虐待し、これを天下にさらして恥をかかせるというダーティーな部分は本多正純にやらせている。しかし本多正純は、そんな家康をずるいとは思わない。「これがおれの役目だ」と割り切って、むしろそれが家康への忠誠心の披涯であるかのごとくふるまう。微塵も家康への不平不満はない。なぜ家康は家臣たちをそういう気にきせるのか、実に不思議だ。 
直政の才覚を見抜いた
家康は"生涯最大の危機"と呼ばれるような場面に何度か遭遇している。なかでも、天正十年六月二日、盟友の織田信長が明智光秀に本能寺で殺されたときがもっとも危険だった。かれはわずかばかりの供をつれて上方へ旅行中だったが、有名な伊賀越えを敢行し、命からがら岡崎城に逃げ帰った。このときの供の中に井伊直政も加わっている。
甲斐の武田氏は、その前に滅亡していた。待ち構えていたように、旧武田領に手を出したのが家康と小田原の北条氏である。
両者は衝突し、戦線は膠着状況になった。冬を前にして両者は、「和睦しよう」と歩み寄った。これが、天正十年十月二十九日のことである。和睦の全権大便として、北条側からは一門の北条氏規、徳川方からは井伊直政が選ばれた。このとき、直政は弱冠二十二歳だった。
さすがに家康の宿将たちが顔を見合せた。
「こんな新参の若造に、大切な交渉の使者を命じていいのだろうか」直政の能力を疑っただけではなく、新参者に対する古手の嫉妬と憎悪の念があった。ところが直政は立派にその役を果たした。
家康は天性の″人づかいの名人″である。かれはよくこんなことを言っている。
「ひとりの人間に、すべての才能が備わっているはずがない。そんな人間はこの世にいない。したがって、それぞれの長所を伸ばし合い短所を補うことが必要だ」これは、「人間はすべて欠陥部分があるから、それを補い合え」ということだけではない。家康の部下管理の基本は″分断支配″である。しかしその前提として家康は、「この人間には、どういう長所があり、それを発揮させればどのように自分を補佐してくれるか」という、その人間の長所(能力)をきちんと見極めている。
直政が十五歳ではじめてあったときから、家康は直政のオ質の中に、「武勇だけでなく、政略の才知も相当にある」と見抜いていた。
北条氏と講和をした家康は、旧武田領のほとんどを支配することになった。このとき家康は、「武田家の遺臣たちは、冷たく突きとばすよりもむしろ、温かく抱き込んだほうがいい」と考えて、大量に旧武田家臣団を再雇用した。武田家で勇名を馳せていた、土屋、原、山県、一条などの諸衆を軍団に組み込んだのである。
人を組み込んだだけではなく、武田家でかれらが使っていた武備も取り込んだ。なかに"武田の赤備え"があった。
武田の赤備えというのは、主として山県昌景の兄、飯富兵部が用いていた武備のことである。飯富隊は、いつも全員が赤い甲肯を着、指物、馬の鞍、鞭にいたるまで全部赤く塗っていた。飯富兵部なきあと、小幡貞政がひきついだ。この部隊が前面に立って、喚声をあげながら突入してくると、相手は思わずひるむ。「武田の赤備え」はそれほど有名だった。
家康は直政に、「おまえの軍団は、小幡衆を継承し、以後備えを赤くせよ」と命じた。直政は承知し、飯富式の赤備えを、井伊軍団に取り込んだ。以後、直政の軍団は、「井伊の赤備、え」として名を高める。
家康はまた直政に、「合戦のときは、つねに井伊勢が先陣を承れ」と命じたので、井伊の赤備えはそのまま、「徳川軍団の先陣」の役割を果たすことになった。 
誠実に忠誠心をつくし抜く男が苦手
大久保忠隣は手ぶらで家康のところにいった。そして、「いったん発見して安心しておりましたら、天野のやつはまたどこかへいってしまいました。懸命に後をたずねましたがついに発見できませんでした。お諦めください」と言った。康景と語り合った内容についてはひと言も告げなかつた。
家康は、「そうか」とうつむき、「せっかくの忠臣を失った。おれがばかだった」と口惜しそうにつぶやいた。その家康の姿を大久保忠隣はじっとみつめていた。
忠隣の胸の中では、康景の、「自分が舞い戻れば、主人の家康公が過ちを犯したことになる。それを天下にさらすことなどとうていできない」と言ったあの言葉が、しきりに渦を巻いていた。
大久保忠隣に匿われた天野康景は、慶長十入(一六一三)年に死んだ。七十六歳であった。
「おれほど人の使い方のうまい人間はいない」とうぬぼれていた家康も、天野康景のようにシンプルで誠実に忠誠心をつくし抜く男の、本心をついに見抜くことができなかったのである。
しかしこれは天野康景のケースだけではない。直線的な忠誠心を持つ三河武士は、康景のほかにもたくさんいた。しかし、得てしてそういう武士はあまり立身出世はしていない。家康の心の中には、こういう武士を苦手とし、どこか退けるような複雑な心理があったのだろう。」 
本多正信 / 家康への悪罵を一身に受け止める
それほど大久保彦左衛門は、本多正信・正純父子を憎んでいた。だからこの原稿の最初に書いた、正信が、「家康公に投げつけられる悪評や汚名のすべてを、自分が弁慶のように受け止めよう」と考えた"つぶて"は、大久保彦左衛門に代表される側からのこうした悪罵であった。正信はそれを正面から受け止めたのである。
しかし、彦左衛門の投げつけるつぶての多くは、本来なら家康に投げつけられるべきものであった。つまり家康の政治が、時世が変わるにつれてどんどん変質していったからだ。そうなると、家康が自分の家臣団に対して持つ、「これからの期待される家臣像」というのもどんどん変わる。
家康は人事管理の名人だったから、だからといってそれが露骨にみえるような切り捨て方はしない。本人が、「知らないうちに切り捨てられていた」、あるいは「気がつかないうちに窓際族にきれていた」と、後日気がつくようなやり方をとる。
しかしこれは家康ひとりがやったわけではなく、当然脇に推進役がいる。本多正信が積極的にその推進役をかって出た家臣だった。
大久保彦左衛門が非難した本多正信の特性を現代風にいえば、「経営感覚にすぐれ、算勘の術にも巧みであった」ということになる。
しかし総体的には、「武士は食わねど高楊枝」という気風がまだまだみなぎっていた時代だから、ソロバン勘定にうつつをぬかすような武士は当然ばかにされる。
しかし、正信にすれば、「家康公は、なによりもこの国の平和化を願っておられる。そんなときにいつまでも、やあやあ遠からん者は音にもきけなどと合戦場のわめき声を上げつづけたり、あの合戦ではこんな手柄を立てたなどと、思い出話にひたっているような武士では困る。今後は、読み書きソロバンがきっちりできる武士でなければ、とても家康公の理念を日本で実行することはできない」と、マクロな政治理念の実行者としての自覚を持っていた。
この正信のような自己変革をおこなえる武士こそが、家康の期待する家臣団であった。これが大久保彦左衛門には理解できなかった。あいかわらず、「おれは初陣の鳶ケ巣山でどうのこうの」などと言っている。
これはいまだに、なくなってしまった軍隊時代を偲んで、集まっては酒を飲んで、「きさまとおれとは同期の桜」などと、軍歌を歌ってありし日の追懐にひたるのと同じことである。
本多正信には、そういうセンチメンタリズムはない。ドライに割り切る。正信自身あまり合戦は得意ではなかった。武功を立てた実績もない。
しかし正信は、若い世代のように、「合戦(戦争)なんて知らないよ」と自分たちの若さを誇るようなこともしなかった。武功派の功績や、心情はよく理解していた。が、「これからは、そういう追懐だけではやっていけない」という先見性も持っていた。 
板倉勝重 / 駿府町奉行を命ぜられた時に妻に相談
そこで勝重は、「きょう、殿(家康のこと)から駿府町奉行を命ぜられた。しかしおれの能力を超えた大任だから、辞退申し上げた。が、たってというお話である。そこで、おれは一応家内と相談をきせていただきますといって戻ってきたのだ。おまえはどう思う?」ときいた。
妻は、「家庭内のことでしたら、わたくしにご相談ということもあるでしょうが、公務のことを、しかも殿さまから直々にいただいたお話を、なんでわたくしにご相談なさる必要がありましょうか。お役目が勤まるか勤まらないかは、あなたさまのお心ひとつでございます。このようなご出世に、なんでわたくしがとやかく申すことがありましょうか。どうぞあなたのご一存でお決めください」と答えた。
殊勝な対応だった。おそらく妻も、夫の表情の変化をみて、(しまった)と、自分の出すぎたふるまいを反省したにちがいない。勝重はその妻を凝視してこういった。
「いや。必ずしもそうではない。駿府町奉行のお役目が勤まるか勤まらないかは、おまえの心ひとつにある。むかしから奉行などという役を勤めて、身を失い家を滅ぼした者がずいぶんと多い。これらの災難の原因の多くは家内の女性からはじまっている。世間には、裁判を有利にしてもらいたいために、奉行ではなくその家族にワイロを贈ったり、いろいろなことを頼みにくる者が絶えない。親近者は、ものをもらったり金をもらったりすると心が揺らぐ。そして、主人に余計な差し出口をする。おれはそういう過ちを犯したくない。
したがって、もし駿貯町奉行職を引き受けたなら、おまえはますます身を慎んで、出すぎることなく、また何が正しく何が間違っているかをきちんとわきまえ、おれの身辺にどんなことが起ころうとも、さし出たことを言わないという決心をもってもらわなければならない。それができるかどうかが問題なのだ。できるか?もしできるなら、おれはこの役目を引き受ける」
妻もばかではない。じっと夫の言うことをきいていた。やがて顔を上げてこう言った。
「ごもっともなお言葉でございます。わたくしは神仏に誓っていまのあなたのお言葉を守ります」勝重はニッコリ笑った。
「それではお受けしてくる。殿はお待ちだ。もう一度城に戻ろう」と言って、礼服に着替えて出ていこうとした。妻が後ろからみると、袴の腰板がよじれていた。そこで妻はなにげなく、「あなた、袴の腰板がよじれておりますよ」と言って手を添えて直そうとした。
すると、勝重は激しい勢いでその手を振りはらい、恐ろしい形相で妻を振り返った。
「いま申したばかりではないか。おれの身にどんな変化が起ころうと、いっさい差し出口はきかないと言ったばかりだぞ。その誓いを忘れるようでは、とてもこのお役は勤まらん。おれは辞退する」と言って礼服を脱ぎにかかった。
妻はおどろいた。「申し訳ございませんでした。自分が誓ったことをすぐ破るようでは、おっしゃるとおりでございます。どうか、お許しください。これからは二度とこのようなことはいたしません」と涙ながらに謝った。
勝重はようやく機嫌を直し、「その言葉を忘れるな」と言って城へ戻っていった。 
板倉勝重 / 誰からも褒められる名所司代
法度の趣旨は「天皇と公家は、今後いっさい日本の政治に関与しない。あくまでも、日本の高い文化の保持と神事に専念する」ということである。
勝重は、衰康の名代としてこのことを皇室や諸公家に告げた。そして、「ご承認のうえ、署名捺印していただきたい」と言って、「この法度に異議なし」を表明する署名捺印をさせた。
もちろん、文句を言う者もいた。しかし、強大化した徳川家康の軍事力の前には、京都朝廷も言いなりになるほかはなかった。
この法度がでたあと、勝重の職務には、「京都朝廷関係者が、この法度を守っているかどうか監視する」ということが加わる。いってみれば、「徳川幕府の京都支社長として、天皇ならびに公家の動向をみまもる」という役割を負ったのだ。
勝重は、根が誠実な男だから、朝廷に対しても別に悪意を持っていたわけではない。単純に、「徳川政権を安泰の場におくためには、他に政治権力を持つ存在を残してはならないのだ」という発想からそうしたまでであった。
家康にとってこの勝重の存在はありがたかった。つまり、朝延から自分が負うべき批判や非難のつぶてを、勝重が京都に乗り込んでいって堂々と自ら受け止めてくれたからである。いってみれば勝重は、「虎穴に入って虎児を得た」存在であった。
勝重はこの後二十年にわたって京都所司代を勤める。やがて、「板倉様は名所司代だ」といわれるようになる。これは、主として京都市民から上がった声だが、それだけではなかった。朝廷内でも、天皇や公家が、「板倉はりっぱな武士だ」と評価しはじめていた。つまり板倉勝重は、「誰からも褒められる名所司代」という名声を手にしたのである。
これには勝重のなみなみならぬ手腕と実績が寄与している。 
天海 / 悪智恵「国家安康君臣豊楽」
「愚僧たちもそう思いよす。鐘の銘文はもっと短く、要点だけを述べればよろしいかと思います」「しかし、当代切っての名僧清韓穀がお書きになった文だ。余計な注文はつけまい」そういいながらも家康は文章の最後の方にじっと視線を注いでいる。天海には家康がどこを気にしているのかよくわかる。というのは片桐且元がこの文案を持ってきたとき、天海が助言して入れさせた文字がいくつかあるからだ。最後の、「国家安康、四海に化を施し、万歳に芳を伝ふ。君臣豊楽」という十六文字(原文は漢文なので)は天海が入れさせたものなのだ。天海にすれば、「全体に、実辞麗句が多すぎて印象が薄い」と思ったからである。もう少しパンチを効かせなければ駄目だと判断した。そこで思いついたまま国家安康以下の十六文字を入れさせたのだが、片桐且元に渡したあと天海の頭に閃くものがあった。それは、(この十六文字は、将来問題になる)という予感であった。その種を自分がまいた。家康は、文章を二人に返した。そして、「その文案を、秀頼殿の方は鐘に銘として彫り込んだのだな」と念を押した。二人の憎は領いた。家康は下がってよいという合図をした。下がりかけて天海が、「大御所様、ちょっとよろしゅうございますか」といった。家康は、「どうぞ」と領いた。しかし眉を寄せた。天海と崇伝はいつも連れ立って行動し、また額を集めて相談しているから、天海だけが残るということはちょっと意外だったからだ。祭伝も同じことを感じたのだろうか、廊下へ出がけにちらと天海を振り返って眉を寄せた。しかし天海はあくまでも残る姿勢を示していたので崇伝は去った。
「なにか」家康が水を向けた。天海は持っていた鐘銘の文案をもう一度家康に示し、「実を申せば、この十六文字はそれがしの才覚によって清韓殿に進言したものでございます」「ほう、そんなことをしたのか」家康は上目づかいに天海を見た。天海は領いた。家康は天海が示した部分を再読した。しかしそこは家康自身がさっき引っかかった箇所だ。特に、「国家安康君臣豊楽」の八文字は気になる。誰が見ても、「徳川家康の名を分断し、豊臣家が栄える」と読める。家康は呆れた。それは天海の悪知恵に対してでもあったが、そういう冒険をあえてする天海の度胸にも驚いたのである。家康はにやりと笑った。そして、「御坊もなかなかの知恵者だな」といった。天海は、「いずれ、この箇所をもって問題といたしましょう」そう告げた。家康は、「うむ。しかし、わしは知らぬよ」そう告げた。天海はにこりと笑った。
「もちろんでございます。たとえ憎といえども、この天海も生命を賭しておりますので」そういった。家康は領いた。そして、「早く戻られた方がよい。崇伝殿が勘繰ると因る」「はい」家康の言葉に天海も早々に立ち上がった。しかし天海は心の中で、(これで、崇伝殿より一歩前に出た)と自己の立場の優位確立を手応えとして感じた。それは自分の助言として清韓に挿入させた「国家安康君臣豊楽」の八文字は、必ず大問題を引き起こすという予感があったからである。それを承知で天海は家康に報告したのだ。
本当をいえば、家康の名をずたずたに引き裂き、豊臣家が栄えるなどという考えを文字にした張本人が自分なのに、天海はそれに賭けていた。これが大問題となり、豊臣家に対する宣戦布告の口実にでもなれば、家康はそれがもともとは天海が考えたことなどということは問題にしない。逆に褒めてくれるだろう。そういう目算が天海にはあった。しかし廊下を歩きながら天海は、(それにしても、わしは知らぬよと仰せられる大御所様も、なかなかの狸殿でいらっしゃる)とひとりほくそえんだ。そして、(もともと駿府城はそういう場所なのだ)と改めて思った。ここには悪知恵を絞り出す連中が群として集められている。 
林羅山 / 「国家安康」と「君臣豊楽」にイチャモン
この直後に、例の方広寺の鐘銘にイチャモンがつけられる。イチャモンの論理を考え出したのは金地院崇伝と林羅山である。鐘銘のなかに「国家安康」と「君臣豊楽」という文字を発見し「国家安康」というのは、家康の名をズタズタに切り刻んだものだ」といい、君臣豊楽については、「豊臣家を君として楽しもう、という意味だ」と言った。
こんなこじつけは、本来なら通用しない。しかし、当時家康の周りにいた天海や崇伝たち学僧も羅山の説を支持し、居丈高になって豊臣家を攻撃した。
豊臣家は狼狽した。「もってのほかの言いがかり」と抵抗したが、家康側は許さなかった。憤激した豊臣家は態度を硬化きせ、大坂城に兵を集めはじめた。こうして、大坂冬の陣が起き、この後の夏の陣によって豊臣家は滅亡する。そのきっかけをつくったのは林羅山である。そのためにかれは、「曲学阿世」の徒と後世に汚名を残した。
しかし江戸時代二宮六十五年間、かれの唱えた栄子学は、徳川幕府の「官学」として位置づけられ、かれの私塾はやがて、「徳川幕府の官立大学」に昇格する。
ここまでの待遇を、羅山が受けるようになったのは、戦国の思想である「君、君たらざれば、臣、臣たらず」という思想を、「君、君たらずとも、臣、臣たれ」という無制限服紘の精神に変、え、日本の仝武士に植えつけたことによる。その意味でも、羅山は「曲学阿世」の徒といわれて仕方がないかもしれない。日本の武士の基本的人権やその主体性・自由・自立性を大きく奪い取ったからである。 
土井利勝 / 煙草騒動は収めたエピソード
秀忠は利勝を呼んだ。「近ごろ、禁令にもかかわらず江戸城内で煙草を隠れ飲みする者がいるときいた。取り締まれ」利勝は、「煙草飲みに対し、一挙に取り締まりをきびしくすることはどうか」と思ったが、秀忠があまりにも激しい煙草嫌いなので、「かしこまりました」とお辞儀をしてその場を去った。
秀忠は利勝を信用していなかった。利勝の反応に、ちょっと疑わしい空気を感じたからである。かれは数人の腹心を呼んだ。そして、「おまえたちに、城内で煙草の隠れ飲みをしている不届きな連中の発見を命ずる。発見したときは、ただちにわたしに報思せよ」と、いわば「煙草日付」のような役を新設したのである。
この目付たちが走りまわった結果、「城内の湯飲み場が、煙草の隠れ飲みをする連中の集まる場所になっている」ことがわかった。目付はこのことを秀忠に報告した。
秀忠は利勝を呼んで、命じた。「こういう噂をきいた。ほんとうかどうか確かめろ。もしほんとうだった場合には、きびしく罰せよ」利勝は、かしこまりましたとお辞儀をしたが、心の中は憂鬱だった。
かれは、煙草飲みに同情していた。つまり、煙草好きは一種の中毒症状になっているので、いきなりこれを禁ずると禁断症状を起こしてしまう。身体に異変を生ずる。利勝にすれば、「場所と時間を決めて、自由に吸わせてやったほうがいいのではないか」と思っていた。しかしそんなことをいえば秀忠から、「ばか者、おまえはわしの煙草嫌いがわからないのか」と怒られるに決まっている。そこで利勝はやむをえず湯飲み場にいった。中から、煙草の煙が流れてきた。
利勝はニヤリと笑った。「やってやがる」「入るぞ」そう断って、いきなり湯飲み場に入った。
中にいた数人の侍はびっくりした。あわてて手で、中にただよう煙を追ったが、そんなことでは間に合わない。全員、うなだれた。どんなお咎めがあるかと、恐れたのである。なにしろ土井利勝は、城中全体の取締総責任者だ。
ところが利勝は、「どうだ、うまいか」とニコニコしながら声をかけた。武士たちは思わず顔を見合わせた。利勝は言った。「おれにも吸わせろ」「はあ?」武士たちはびっくりした。利勝は言う。「おれにも吸わせろよ」半信半疑で利勝の顔をみていた武士たちは、しかし利勝が本気らしいので、キセルに煙草を詰めて火をつけさし出した。長いキセルを口の間にはさんだ利勝は、思い切り煙を吸い込むと、やがてフーツと吐き出し、「うまい。煙草は、隠れ飲みに限るな」笑って言った。
武士たちはまだ警戒していた。しかし利勝は、武士たちに「早く仕事に戻れ」と言うと、そのまま去っていった。
その光景を目付たちが盗みみしていて、すぐ秀忠に報告した。
秀忠は怒って利勝を呼んだ。そして、「城中取蹄の任にある者が、一緒になって隠れ飲みをするとは何事か」と怒鳴りつけた。利勝は一応は、「申し訳ございません」と謝ったが、意を決して自分の考えを述べた。
「煙草飲みは、上さまのお考えになるような簡単なものではございません。これを禁ずれば、身体に異常を生じます。どうか、城内に、適当な場所を設けて、煙草を飲むことをお許しいただきたいと存じます」真剣な利勝の様子に、秀忠も考えた。なにしろ赤ん坊のときから世話になり、ずっと信頼しつづけてきた利勝の言うことだ。理がある。秀忠は、やがて表情を和ませるとうなずいた。
「わかった。わたしが少し行き過ぎたかもしれない。おまえのいいようにとりはから、え」このことが、目付たちのロから江戸城内にもれた。煙草の隠れ飲みをしていた連中は感動した。そろって利勝のところへ謝りにきた。つまり自分たちの現場を発見した利勝が密告などせずに、秀忠から徹底的に叱られたということを、日付からきいたからだ。日付たちも、そういう利勝に尊敬の念を持ちはじめていた。こうして、江戸城内には「喫煙所」が設けられ、煙草騒動は収まった。
こういうように、利勝が弱い者の立場に立ってものを考えるようになったのも、すべて徳川家康の、「宰相学の訓練」によるものである。 
秀忠 / 自分の資質を生かした
「秀忠様はご性格が温和であられる。これからの世の中は、いたずらに武力を誇るような人物ではなく、徳望によって人々を魅きつける資質が必要です」という項日があった。秀忠はこれを利用しょうと考えた。ということは、「自分が生まれつき持っていると言われる徳量を、さらに増やして発揮することだ」ということである。彼は自分の生き方をこの一点に集中した。
「それが、二代目としての俺の生き方なのだ」そう決めてしまうと、大きく道が開けた気がした。
以下は、徳量を再生産し付加価値を生ずることによって、持ち前の徳望を人々に印象づけようとした。 
水戸光圀 / 大日本史
光圀は、自分の政策を発表した。
1 民政を重視し、農民の暮らしを豊かにする
2 『大日本史』の編纂を続行する
3 領内に水道を建設する
4 よこしまな宗教を禁止する
5 農民の負担を軽減するために、雑税のいくつかを廃止する
などであった。
そして最も藩内を驚かせたのは、相続人を定める方法である。光園は「今後、水戸徳川家の相続は、四国高松の松平家と、交替で行う」と宣言した。みんな目を見張った。光囲は実行した。すなわち、兄頼重の息子である綱条を養子に迎えた。頼重には「わたしの息子を、高松の世子にしてもらう」と告げた。頼重は、「そこまでやらなくてもいいのではないか」といったが、光圀は承知しなかった。十八歳のときに読んだ『史記』の「伯夷伝」の衝撃が、ずっと胸の中に残っていた。三男の自分が、兄の頼重を差し置いて水戸の当主になったことに、なんともいえないうしろめたさを感じていたのである。
水戸領内の民政を重視して、民の暮らしを豊かにしたいというのも、そういううしろめたさの裏返しであった。同時に『大日本史』の編纂を続行すると宣言したのも、そのためであった。『史記』の「伯夷伝」に感動した光圀は「日本にも、探ってみればこういう事例がたくさんあるのではないか。それを掘り起こして整理し、後世に伝えよう」と思いたったのである。『大日本史』編纂の企ては、かれが当主になる前の明暦三年(一六五七)から行われていた。かれが三十歳のときである。江戸駒込の中屋敷に史局を設け、編纂に従事する専門の学者たちを集めた。特別な予算も用意した。この事業は相当な金食い虫であったので、批判も多かった。しかし光圀は、藩主になってもこの編纂は続けると宣言したのである。実をいえば、この『大日本史』の編纂は明治三十九年(一九〇六)までかかる。二百五十年にわたる大規模な修史作業であった。かれは、『史記』によって学んだ「人倫の道」すなわち「大義を正す」ということを、水戸藩内だけでなく、日本全体のコンセンサスにしたかったのである。 
徳川吉宗 / 現組織を生かした改革
徳川吉宗は現在でいうリストラクチヤリングあるいはリエンジニアリングをおこなった将軍だが、なんといってもそういう改革を推し進めるのは組織と人間である。吉宗にすれば、江戸城の役人たちだ。従って、改革当初の人事には相当な意欲がこめられる。普通の改革者だったら、「いま役についている人間は全員無能だ。だからこそこんな財政難が起こったのだ。根こそぎ取り換えてしまおう」と考える。ところが徳川吉宗の人事に対する基本方針は違った。かれはつぎのような考え方を取った。
大幅な入れ替えはおこなわない。
守ってきた永年雇用制や年功序列制は重んずる。
定員減はおこなわない。現員を守る。
政策形成に黒幕のような存在は置かない。
しかし、いまいる役人たちがそのままの仕事の仕方をしていいというようなことにはならない。まだ自分でも開発していない能力を引き出させる。
ということであった。はっきりいえば、「現在江戸城に勤務している武士たちを活用し、よそから大幅に新しい血を注入しない」ということである。この方針が立てられたために、かれは紀州和歌山から乗り込んできたのにも拘わらず、和歌山から従ってきた武士たちを江戸城の重い役にはつけなかったのである。
吉宗は改革者のタイブとしては、「独裁型のトップ」である。独裁型のトップがよくとるのは、「少数の側近だけを重用する」という方法だ。いわゆる”腹心″だけを相手にし、何でもこの少数者と相談をして事を進めるというやり方だ。周りの者のほとんどを相手にしない。とくに古くからいる者を相手にしない。
しかし吉宗はそんなことはしなかった。かれはあくまでも、
現在の徳川幕府の組繊を重んずる。
その組織に身を置いている人間は活用する。
ただし自分から辞めるという者は止めない。
もし辞めた場合にはその補填に自分の選んだ人物を登用する。
ということであった。江戸町奉行に大岡越前守忠相を登用したのはその例だ。前任の江戸町奉行が乗り込んできた吉宗の勢いを恐れて、「到底わたくしには務まると思いませんので、辞任させていただきます」と辞表を出したのだ。吉宗は、「そうか。長い間ご苦労だった」といって辞表を受け取った。その江戸町奉行にすれば、あるいは、(自分から辞表を出せば、あるいは上様(吉宗のこと)は慰留してくれるかもしれない)というすけべ根性があったのかもしれない。しかし吉宗はそんな手には乗らなかった。(辞めたい者はどんどん辞めてもらう)自然淘汰を止めなかった。 
徳川吉宗 / 涙をのんで情を捨てる
吉宗は享保十六年(一七三一)に次男宗田武を、元文五年(一七四〇)に四男宗尹をそれぞれ独立させた。江戸城の門の名をとって田安、一席と名のらせた。あとつぎは長男の家重ときめていた。ところが家重は不肖の子で少年のときから酒色にふけり、生活が荒れていた。これにひきくらべ次男の宗武は英明で、城内では、「田安宗武様こそ、次の将軍にふさわしい」とうわさされていた。いつまでたっても家重の行状が直らないので、業をにやした松平乗邑は、ある日吉宗に直言した。
「おそれながら家重様をご廃楠になり、田安宗武様をご世子になさいますように」これをきくと吉宗は何ともいわず、じつと乗邑を凝視浅川その目がみるみる悲しくくもった。乗邑はびっくりした。やがて吉宗は悲痛な声でこういった。
「乗邑、人の親としての吉宗は、おまえのいうとおり宗武をあとつぎにしたい。しかし将軍としての吉宗は長子家重をあとつぎとする。将軍は理を貫く。情は捨てねばならぬ。しかし、おまえはすでに家重を支える気がない。無念だぞ」
まるで飼犬に手を噛まれたかのような悲痛な言葉であった。乗邑はいまさらながら吉宗の筋を重んじ私情を排する気持ちに胸を打たれた。自分のあさはかさに臍を噛んだ。
しかし取りかえしはつかなかった。乗邑は罷免された。
老中職を罷免にはしたが、吉宗はその後の乗邑の暮らしにいつも関心を持った。乗邑がやめるとすぐ、腹心の庭番にそれとなく探らせた。庭番は、「ご失職後、ご友人の大名家にご寄食されております」と報告した。
「なに」吉宗はおどろいた。なぜかときくと、「あのご潔癖なご性格ゆえ、ご在職中ワイロをいっさいおとりになりません。ご俸禄はお役のためにすべてお使い果たしになりました。市中では、自分の家も持てぬバカ者よとあざわらっております」「そうか・・・」吉宗は暗い表情になった。すぐ重役を呼び、「乗邑が潔癖ゆえに住居にもこと欠くとは、いまの世に珍しい稀代の名臣である。不自由のないように手当してつかわせ」と命じた。その後も庭番から、「松平様はすこしおかげんがわるうございます」ときけば、すぐ自分の主治医を派遣して看病させた。寒い日には、「これを着るように伝えよ」と綿いれを届けさせた。そのたびに乗邑は感泣し、「不忠の臣にこのようなご恩情をおそれいります。くれぐれも上様におわびのほどを」と平伏した。報告をうけた吉宗は目をなごませて、「乗邑を罷免したのは将軍としての理である。人間吉宗としては、いまも乗邑が好きだ」と語った。この言葉はすぐ乗邑に伝えられ、乗邑は江戸温か泉角に頭をさげるのであった。  
徳川吉宗 / 本当の吉宗は
徳川将軍家は十五代つづいたが、八代目の吉宗はいろいろな面でユニークな人物だった。身長が百八十二センチあったという。
江戸時代の男性の平均的な身長は百五十センチくらいだったというから、吉宗は圧倒的に背が高い。どんなに多くの人の群れの中にいても、「あ、吉宗さまだ」とすぐわかったという。色は黒かったらしい。そして天然痘のあとが残っていた。
大河ドラマ(入代将軍吉宗)の主役が西田敏行さんだと聞いて、「え、ホント?」と思った方もおられたはずだ。しかし、記録に残る吉宗の実像からすれば、まさに、「ホンモノの吉宗はこういう人物だった」というイメージに相当近い。
吉宗は威厳があったが、だれにでも好かれる人なつこさがあったという。特に子どもに好かれた。子どもとイヌやネコに好かれる人間に悪人はいない。
吉宗は他人や部下が失敗したとき、絶対に大声を出したことがないそうだ。やさしく叱った。
今でもそうだが″叱る″ことと″怒る″こととは違う。叱るというのは相手に愛情を持ち、潜んでいる能力を引き出そうとする行為だ。怒るというのは、失敗の責任を自分が負うのがイヤなものだから、「おまえは何をやっているのだ!」と憎しみの感情を露骨にすることだ。相手は自分が叱られているのか怒られているのかを敏感に見抜く。吉宗は心のやさしい人柄だった。 
 
黒田如水・黒田長政

 

異見会、決断をするのはトップの責任と諫める如水
若者のいうことが目からウロコを落とすような内容だったからである。そうなると若者は得々と自分の考えを語った。若者の言葉は座を感動させた。話が終わると長政が真っ先に拍手した。そして、「君の意見は非常にいい。さすが今の時代を敏感にとらえている。どうだみんな、かれの意見に従おうではないか?」といった。全員が「そういたしましょう」と異口同音にいった。
今まで何もいわずに脇にいて聞いていた如水は思わず胸の中で、「チッ」と舌を鳴らした。しかしその場で長政をとっちめる訳にはいかないので、黙って座を立った。長政はびっくりした。こんなことは初めてだったからである。長政は敏感に、(父上はご気分を悪くされた)と感じた。
そこで急いで、「今日の会議はここまでとする」と宣言して異見会を閉じた。そしてすぐ如水の隠居所へ急いだ。むっつりと不機嫌な顔をしている父にきいた。
「父上、ただいまの異見会で何かご気分をそこねるようなことがございましたか?」「ああ、あった」「何でございましょう。わたくしが何か失策をいたしましたでしょうか?」「した」如水はぶっきらぼうに答える。
長政はびっくりした。長政にすれば、最近自分の議長ぶりは見事でみんなの評判がいい。つまり、「父上の如水公と違って、長政公は独断専行をしない。いつもみんなの意見をきいた上で結論をお出しになる畑どんな下っぱの意見でもよくおききとりになる。非常に民主的な議長さんだ」といわれていた。だから長政にすれば、「自分の異見会の運営は決して間違っていない。父はどちらかといえば自分の考えを部下に押し付けるところがあったが、自分はそういうことをしない。それは父の時代は戦国時代でそうしなければならなかったからで、今は平和だ。平和な時には、合議制を重んじみんなの意見をききながら、ひとつの結論を出していく人が大切なのだ。つまり根気と時間がいる。自分はそれを十分にわきまえているつもりだ」と、自分のやることに自信を持っていた。福岡城内でも、「長政公は非常に民主的な殿様だ」と好感を持たれていた。
ところが今日のオヤジはそれが気にいらないらしい。(いったいどんな失敗をしたのだろう?)長政に思い当たるところがなかった。
そこで、長政は「どこが悪かったのか、おっしゃっていただけませんか?」といった。如水は振り向いてギロリと息子をにらみつけた。
「ではいうぞ。これは前々から気にしていたことだ。落ち着いてきけよ」「はい。伺います」いつもに似ず、長政の方も少し挑戦的だった。(わたしのどこが悪いのですか?というような不満が、つっかかるような言葉に表れた。如水はこういった。
「この城の中に異見会を設けたのは、確かにおまえが考えているように、城に勤める武士全体からいろいろな考えをきき、それを主として決断を下す時の参考にするためのものだ。異見という特別な字を使ったのも、人と同じことをいうな、違うことをいえという気持ちがあったからだ。ところが最近はちがう。みんな同じようなことばかりいっていて、お互いに自分のいいたいことを通すために人の意見をそのままうのみにするという傾向が強くなった。そして最も悪いのは、会議を束ねるおまえが、迎合するようになったことだ。本来主というのは、自分が決断するための意見を下から求めるということであって、下の意見にそのまま従うということではない。かねがねわたしはそのことを心配してきた。今日おまえはついにその過ちをおかした。というのは、今年入ったばかりの新参の若い武士がいったことに、おまえは、あの意見に従いましょうといった。部下のいうことに従う主人がどこにいるか。つまりわたしがいいたいのは、みんなにはどんなことをいわせてもいい。しかし決めるのはおまえだということだ。決断というのは主人一人のものであって部下に渡すことはできない。つまり、部下に渡さないということは、決断したことの責任は絶対に主人が逃れることはできないということだ。そのへんをおまえははきちがえている。今のままだと黒田家は非常に危機に陥るぞ」「・・・」
父親の話をきいた長政は真っ青になっていた。目がつり上がっている。胸は鼓動で早鐘を打つようだ。長政もバカではない。父のいうことはわかった。(いわれるとおりだった)反省の気持ちがわいた。同時に絶望の念もわいた。(オレはダメ息子だ。到底オノヤジにはかなわない)と感じたのである。 
 
江戸時代

 

伊達政宗 / 不動明王のような心で危機を脱した
「恐れてはなりませぬ。不動明王は、この世の悪に対する怒りを退治すべく、自分の体から炎を吹き立てているのでございます」と説明した。そして、「若君も、一隻眼を恥じてはなりませぬ。この不動明王のように、悪を退治するお人におなりあそばせ」といった。あの一言によって政宗はそれ以前の自分とは変わった人間になったことを感じた。
つまり、「あの日からおれは生まれ変わった」という自覚が持てた。眠れぬ夜を、箱根山中の底倉の一室で送りながら、政宗は振転反測した。不動明王の姿がちらついて日の裏から離れない。政宗は反省した。
(あの日、虎哉宗乙師に教えられた初心を、おれはずっと持ち続けていたのだろうか)という疑問だ。師僧は、「世の悪を退治するために、一隻眼をご活用なさい」と告げた。おれは確かにあの日以来、はじらいの気持ちを捨てて、自信を持つ活動家に変わった。しかしその活動の内容は、果たして師僧のいった、「この世の悪を退治する」ということに集中していたのだろうか。
「おれ自身の野心・野望の達成にあったのではないのか」という思いが湧いてきた。こんなことは今までない。かれは目的を達成するたびに、さらに自信を深めた。が、今、「では、その目的は誰のためのものか」と開かれれば、はたと答えに迷う。政宗は、「今までの行動は、すべておれ自身のためではなかったのか」と思いはじめていた。あの恐ろしい不動明王が、炎を吹き立て剣を撮るって、自分に迫って来るような気がする。不動明王は叫ぶ。
「政宗よ、おまえの敵はおまえだぞ」その三日が政宗の脳天を打ち砕いた。衝撃は今も去らない。しかし、その衝撃が改宗の、「助かりたい」というひたすらな思いを遮断した。政宗は己を取り戻した。前田利家と徳川家康は確かに豊臣秀吉の側近であり豊臣政権の実力者だ。しかし、ここで嘆願の姿勢を取って、命乞いをするのはいやだった。
(最後まで、自分を貫き通したい)それがおれの武士道なのだと改宗は自分に言い聞かせた。 
伊達政宗 / 降伏したのは秀吉、家康、家光ではなく時代に対してであった
二代目秀忠から将軍職を譲られた家光が、京都伏見城で行なった将軍宣言は有名である。このとき彼は、主として外様大名を集めてこういった。
「わが祖父家康公と、わが父秀忠公は、あなたがた外様大名のご協力を得て将軍になった。しかし私は違う。私は生まれながらの将軍である。もしこの家光の宣言に不服のある者は、即刻、国へ立ち戻って合戦の準備をされたい。さっそく家光が討伐に向かうであろう」
たいへんな大ハッタリである。しかし家光は本気だった。というのは、将軍になるについて、「伊達政宗だけを警戒しなさい」といわれていたからである。この日の宣言は、外様大名の全部に対してではなく、むしろ政宗一人に対して行なわれたのだとみていい。
このとき政宗はどう対応しただろうか?ふつう、孫のような若僧に、こういう大ハッタリを噛まされては、戦国生き残り大名として、おそらく黙ってはいられまい。「何をいうか、小僧め」と思って、席を蹴立てて国に帰ったかもしれない。が、この日の政宗は違っていた。
政宗は、家光の宣言が終わると、いきなり持っていた扁を開いて、ばたばたと家光を扇いだ。そして、「いや、あっぱれ、あっぱれ!じつに頼もしい将軍家でござる」とおだてた。
それだけではなかった。彼は進み出ると、家光の前に平伏して、「いま、ここにおります大名たちの中に、あなたのような頼もしい新将軍に背くなどという恐ろしい考えをもつものは一人もおりますまい。もし、そのような不心得者がおりましたときは、この伊達政宗が、先頭に立って征伐を行なうでありましょう」といった。
これに続いたのが、藤堂高虎である。高虎もまた、「私も伊達殿に賛成でございます。征伐軍の先頭には、伊達殿と馬の轡を並べるでありましょう」といった。
戦国生き残りの荒大名二人が、真っ先に降伏してしまったから、他の大名たちはもういうべきこともなかった。そのまま全員が平伏した。家光は、こうして宣言したとおり、「生まれながらの将軍」の座を、自らの手にしたのである。
若い日の政宗から、およそ想像もできない降伏ぶりである。政宗は、もはや争う気はなかった。それは、中央政権のもとに参加して、その政権をうまく使いながら、自己企業の存続をはかることが、最も賢明だと思ったからである。
そうさせたのは、なんといっても、時代の流れであった。政宗は常につぶやいていた。
「おれが降伏したのは、秀吉や家康ではない。まして家光ではない。おれが頭を下げているのは、″時代″なのだ。その流れであり、その潮なのだ。これには勝てない」
むだな抵抗をすれば、伊達企業はつぶれてしまう。それは、東北でもしばしば起こった。同僚企業が次々と滅びていった。名門だとか伝統だとかは、ものをいわない。むしろ、そういうものが逆に作用して裏目に出ることさえある。時代のうねりには逆らえないのだ。
そのためには、いつでも、情報に対する緊張感を失わないことだ。時々刻々と変わる世相に対して、緊張の目を向け、耳を立てることである。政宗は、生涯、そういう緊張感を貫いて送った。
伊達政宗が偉かったのは、当初は、「奥州探題」という、家に続いてきた名目を守り抜いて、東北の自治を叫んだことだった。政宗はその叫びを自ら引っ込め、上方政権に屈伏したのだ。しかし、それはたんなる屈伏ではなかった。上方政権がつくり出した文化をとり入れて、東北の地に、「衣食足りて文化を知る」の気風をつくり出したのである。
文化果つるところといわれた東北に、上方文化が繚乱と花を開きはじめた。それを政宗は内需に結びつけた。そしてまた政宗が偉いところは、次々と打つ手が裏目に出ても、決して落ち込みっぱなしにはならなかったことである。すぐ、よみがえった。奮起した。その彼の活力が、周りの人々を勇気づけた。
彼は、いつも周りに対するつむじ風であった。伊達企業は結束して、この創業者の指示に従った。 
伊達政宗 / 東北に築いた文化、伊達者の由来
のちに″伊達者”といわれるようなダンディズムは、すべて政宗が発明したものだ。彼の軍勢は行進するとき、常にきらびやかな服装をした。彼の軍勢が上洛すると、市民たちは、家の中から飛び出して見物するのを楽しみにした。
”伊達衆”の名が起こった。何をやっても伊達の軍勢はパフォーマンス活動に励んだ。政宗が、上方権力に対抗しながら、しかし、逆らわずに生きていく道が”伊達イズム”であった。それは、織田信長に発する「衣食足りて文化を知る」の実現であった。
安土・桃山精神は政宗によって着実に、東北の一角に根づいたのである。しかし、それは単なる模倣ではなくて、政宗が東北の地域特性をふまえながら、安土・桃山文化ない自分なりの付加価値を加えた文化であった。その文化は、いまも脈々と生きつづけている。 
細川幽斎 / 国持ち大名になったことはなく一族繁栄の基盤をつくった
[ 細川幽斎/細川藤孝(1534-1610) 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名、歌人。号は幽斎玄旨。一般に俗名の藤孝で知られる。また一時期、領地の長岡を名字としていたことから長岡藤孝ともいった。足利将軍家の連枝・三淵氏の生まれ。奉公衆・三淵晴員の次男で、母は儒学・国学者の清原宣賢の娘・智慶院。晴員の実兄の和泉半国守護・細川元常の養子となった。初め13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は15代将軍・足利義昭の擁立に尽力するが、後に織田信長に従い丹後宮津11万石の大名となる。後に豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名・肥後細川氏の祖となった。また藤原定家の歌道を受け継ぐ二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもあった。]
そして、義昭に諌言しても聞き入れられず、勝龍寺城に籠ったことは、幽斎にとっても最初に訪れた危機突破の療法になった。光秀は、すでに義昭を見捨て、織田信長のもとに走った。
信長が、そういう光秀をどう受けとめていたかは分からない。「こいつはいままでにしばしば主人を変えている。義昭が落ちぶれると、すぐおれのところに走ってくる。そうなると、おれが落ちぶれれば、こいつは、おれを見捨てて他の大名のところに走るかもしれない。そういう油断のならないやつなのだ」と思ったかもしれない。
いずれにしても、戦国時代は「大転職時代」だから、転職そのものは別に珍しい現象ではないが、使う側としては、いろいろな思いがあったことだろう。
そこへいくと、幽斎の進退はきれいだった。一種の美学があった。信長は、幽斎に目をつけた。それは、義昭を最初に自分に会わせたときも、光秀に比べれば、幽斎のほうが、はるかに誠意が込もっていたからである。信長は、幽斎のところに使いを出した。
「おまえは、義昭に十分尽くした。もう、過去を忘れて、おれを支えてほしい」
幽斎は、信長の誘いに応じた。天正元年(二血七三)七月十日、山城(京都府)の長岡すなわち、桂川から西の地域全部の土地を与えられた。そこで幽斎は、細川という姓を長岡と改めたことは前に書いた。つまり、ここにも幽斎のこまかい心配りがある。それは、細川という姓を捨てて長岡という姓を名のることによって、「自分はもう、義昭の家臣ではありません。信長公の家臣になったのです」ということを表明したことになるからだ。
信長は、以後、義昭の密書によって、自分を攻めようとした大名たちを、片っ端から討ち減ぼす。朝倉も浅井も、あるいは石山本願寺も、すべて攻撃目標になった。中国地方の毛利一族もターゲットに入っていた。
幽斎は、そういう信長について転戦し、数々の武功を立てた。幽斎は、たんなる文化人大名ではなく、戦闘にもまたすぐれた力量を示したのである。彼が受け持ったのは、主として丹波(京都府・兵庫県)・丹後(京都府)の国々である。さらに、信長の命によって中国方面を攻めつづけていた羽柴秀吉に協力し、数々の武功をあげる。再び丹後国に戻って、この方面を制圧した。
その功労に対して、信長は、「おまえの倅、忠興の名義で丹後十二万石を与える」といった。幽斎ははじめて、大きな国持ち大名になったのであるが、名義はあくまでも息子の忠興であって、幽斎ではない。
ここで、忘れないうちに書いておけば、これは重大だ。つまり、幽斎は最後まで、大きな国持ち大名であったことは一度もない。彼は、京都西郊の長岡に与えられた。たかだか三千石の旗本にすぎなかった。死ぬまで、彼が何十万石という国持ち大名になった事実はない。これも幽斎の経営者としての生き方をみる場合に重要だ。
つまり、幽斎は、「細川企業さえその基礎が確立し、長く存続できる見通しが立てられれば、自分などどういう使われ方をしてもいい」と考えていた。したがって、義昭のように、「足利義昭企業」が確立されなければ気がすまないというタイプではなかった。
「細川企業」が確立されればいいのである。その代表者は誰であってもいい。名義人が誰であろうと、世間の見るところは、誰も「あれは細川忠興企業だ」などとは思わない。信長との関係からいっても、当然、「名義人は息子だが、あくまでも実権は親父が握っている」とみる。
「それでいいのだ」と幽斎は思っていた。こういう点、文化性ということが経営者の経営態度に大きく影響するということを物語っている。つまり文化性は、その人間にゆとりを与える。また、考え方を柔軟にする。全体にソフト思考で対応するから、ギスギスしない。鋼のようにピンと張りもしない。だから、起こってくる事実に対しては、むしろ経営一点張りの人間よりも、余裕をもって対応することができる。
「企業人は、趣味をもたなければならない。もっと文化性を身につけろ」といわれるのは、こういうことだ。得意先の人間と会って、互いに趣味を語り合うから仕事がうまくいくということではない。そういう底の浅いことではなくて、つまり根源において文化性がある経営者は、どんな場合にもゆとりをもって対応できるということが大切なのだ。
幽斎は、まさにそういうタイプの経営者であった。だから信長に、「おまえの倅に十二万石やるぞ」といわれて、「いや、倅でなく私にください」などとはいわなかった。これは、信長が、いかに幽斎という人間をよく知っていたかを物語るものだ。
幽斎は、少なくとも義昭の家臣であり、彼を将軍にするために信長に仲介を依頼した。そして、その義昭を信長が追放した。
幽斎にすれば、たまらない出来事であったに違いない。ところが信長がみて、幽斎は決して信長を恨んではいなかった。むしろ信長の行為を当然だとみていた。そういう幽斎に信長は好感をもった。そして、「さぞかし、この男は苦しんでいることだろう」と同情した。
その同情が、「もし、この男に直接十二万石の国をやれば、さらに苦しむだろう。それは、備後の鞍で、侘びしい亡命生活を送っている義昭のことを思い出すからだ。そうすることは、さらにこの男を傷つけることになる」と考えたのだ。そこで、息子の忠興を大名にしたのでる。 
細川幽斎 / 田辺城を死守し大功を天皇からの勅使で和睦された
いよいよ田辺城も落城かと決意した日、幽斎は、この八条宮に手紙を送った。それには、「あなたに、古今伝授の証書を全部お譲りいたします」と書いてあった。古今伝授というのは、一つのパテントであって、誰にも許されるものではない。幽斎は、それを実枝から譲られていたのである。それを今度は門人であった皇弟八条宮に譲ろうというのだ。八条宮は驚いて、このことを兄の後陽成天皇に話した。
そして、「細川幽斎のような文化人を死なせることは、日本の文化のために大きな損失になります」と進言した。天皇もうなずき、「それでは、おまえが勅使として田辺城に行き、城を取り囲んでいる兵を引き揚げさせるようにせよ」と命じた。
八条宮は、謹んで勅使となり、そして寄せ手の大将にこのことを告げたが、寄せ手の大将は承知しない。「この合戦は、武士の争いであって、御所が口を出すことではございません」と突っぱねた。天皇の命にもしたがわないということである。
当惑した八条宮は京都に戻った。しかし、幽斎をそのままにする気はなかった。そこで、再び天皇に頼んだ。天皇はそれではこうしようということで、京都所司代の前田玄以をよんだ。
このころ、まだ豊臣政権は形の上では存在していた。そして、徳川家康は豊臣政権の大老であり、石田三成は奉行である。したがって、関ケ原の合戦は、大老と奉行の喧嘩だということができる。玄以は、その豊臣政権における京都所司代のポストについていたのだ。
天皇は勅使として、玄以に、「京都所司代の責任で、田辺城の因みを解かせよ」と命じた。玄以は、田辺城の包囲軍に対して、勅使を伝えたが、包囲軍はこれも、剣もほろろに蹴飛ばした。「よけいなことをするな」と追い返したのだ。
ほうほうの体で、京都に戻った玄以は、やむをえず、田辺城内の幽斎に使いを送った。使いには自分の息子をあてた。そして、「これこれの事情で、包囲軍に勅命を伝えたが受け入れない。この上は、天皇の御心を安んじ奉るためには、あなたが城を開いて外に出るよりしかたがない。田辺城を開城してほしい」といった。
これに対し、幽斎は、「そんなことはできない。あくまでも城を守って死ぬ」と返事をした。
結局、天皇が乗り出した調停もうまくいかず、田辺憾噌城の日がいよいよ迫ってきた。
しかし、こうなると、御所も意地になった。天皇は公家を三人選んで勅使として田辺城に差し向けた。今度は、「田辺城に籠るものも、田辺城内を囲んでいるものも、朕の命によって和睦を命ずる」というものである。
いままでは、包囲軍と城内の幽斎に対して、ばらばらに和睦を勧告したのだが、こんどはそうではない。いきなり両軍に対して、「和睦せよ」と命じたのである。こうなると、幽斎は勤王家だから、天皇の御心に対していつまでも背くのは不忠の臣になると思った。そこで、包囲軍のほうの動向はどうあれ、「城を開きます」と奉答した。
慶長五年(一六〇〇)九月十二日、幽斎はついに芸域の門を開いた。そして、五百の兵を率いて、自分は丹波(京都府・兵庫県)亀山城に移った。なんと、七月十八日から九月十二日まで六十日余りの籠城であった。たった五百の兵で、これだけがんばったのである。
そして、このことが、家康を勝たせる大きな要因になった。それは、関ケ原の合戦がはじまったのは九月十五日だが、幽斎が田辺城に完五千の兵を引きつけていたために、これが結局は合戦に間に合わなかったのである。
ちょうど家康の息子秀忠が、信濃(長野県)上田城の真田一族に振り回されて、二万人余りの軍勢を足どめされたのと同じであった。
考えてみれば、決して家康は、関ケ原の合戦に楽勝したわけではない。彼自身もいろいろとピンチに陥った。その意味では、幽斎の功績は、家康が深く賞するところとなったのもうなずける。
関ケ原の合戦がすんで、大坂城で家康は諸大名と会った。このとき幽斎には、とくにねんごろに応対し、家康は、「老齢にもかかわらず、六十日余りもよく城をもちこたえてくださった。おかげで、この家康が三成に勝つことができた。このうえは、望みの土地があれば、どこでも与えよう」と告げた。
しかし、このときの幽斎の態度もまた見事である。彼は断った。
「それほどのことはございません。どうか、この老いぼれのことはお忘れください」しかし、家康は承知しなかった。「では、別なかたちで褒美を与えたい。なんでもいってほしい」「さようでございますか」ちょっと考えた幽斎は、こういうことをいった。
「じつを申しますと、寄せ手として石田方に席を置いていたもののなかにも、手を抜いて私を攻めず、それだけでなく、いろいろと石田方の情報を洩らしてくれたものがおります。多数おりますので、できればそのものたちの罪を免じて、領地を安堵してやっていただければ、幸いこれに過ぎるものはございません」
家康は、幽斎を見つめた。「たいしたものだ」と思った。自分に褒美はいらないから、自分を攻めたもののなかで内通したものの罪を許してやってくれ、というのである。
罪を許すだけでなく、その連中が持っていた土地も、そのまま持たせてやってくれというのだ。家康はうなずいた。「あなたのご趣旨にしたがおう。そのものたちの名を書き出してほしい」といった。
幽斎は、家康を信じて、自分に志を通じてきたものたちの名を書き出した。家康は約束を守った。それでも家康は、気がすまなかったらしい。翌慶長六年になって、越前(福井県)のなかから三千石を幽斎に与えた。 
藤堂高虎 / 二番手主義
[ 藤堂高虎(1556-1630) 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。伊予国今治藩主。後に伊勢国津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。何度も主君を変えた戦国武将として知られる。それは彼自身の「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という発言に表れている。築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城した。高虎の築城は石垣を高く積み上げる事と堀の設計に特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。 ]
高虎の二番手主義も、「自分の理念を実現してくれる主人は誰か」という"主人めぐり"に思えてくる。
ふつうなら、つねに"一番手"を走っている先頭グループの主人を選ぶだろう。そのほうが立身出世が速いからだ。しかし高虎は決してそんなことはしなかった。つねに二番手主義を選んだということは、「一番手にいる主人は、滅亡も速い」と考えていたからだ。滅亡の速い主人に仕えると、それだけ自分の生涯もパアになってしまうということではない。高虎にすれば、「自分の理念は、一朝一夕では実現できない。年月がかかる」と思っていた。
つまり、かれの城づくり・町づくりの理念は、あくまでも″平和″が基盤になっているから、日本が統一され、この国から戦争がいっさい消えなけれぼ実現できない。そうなるためには、
自分が長生きすること
自分の夢を実現してくれるような権力者に仕えること
その権力者が、すぐ消え去るようでは困ること
そのためには、長距離走者として、自分も時代とともに走りながらも、決して先頭には立たないこと
という考え方を貫くことが大切だ。 
藤堂高虎 / 周囲との和を大事にした技術者
上下関係のなかで「疑い」が牡まれたときの心得
ふつう技術者というのは、世事に疎いといわれる。まら、あまり人のいうことをきかない。その意味では、人間には二つのタイプがある。
(1)Aタイプゼネラリストといわれる一般的な仕事に携わっている人々。仕事の関係から、人間関係を重視する。だから職場においても「人の和」を重視する。
(2)Bタイプスペシャリストといわれる技術的・専門的な仕事をしている人々。仕事の関係から、自分の知識や技術に自信をもっているので、あまり人間関係などということを考えない。
つまり、Aタイプが、あくまで「人の和」「職場の和」を重視しながら仕事をしていくのに対して、Bタイプは、「自分の知識と技術」を中心にして、仕事をしていく。
だからAタイプは、Bタイプに対して、「職場に対して協調性がない、秩序を乱すし、自分勝手なことをする」と批判する。ところが、Bクイプのほうは、逆にAタイプをこう批判する。「人の和だとか職場の和だとか、そんなくだらないことばかりに神経やエネルギーを使っていて、肝心の仕事は疎かになっている。おまえたちはお粥の群れだ」という。
お粥というのは、本来米粒であったはずのもりが、鍋の中でぐつぐつと煮られて、自己のアイデンティティーを失っているということだ。したがって、権限や責任が曖昧になっている。そして、何が起こっても、その責任の所在がよく分からないような巧妙な仕組みになっている、ということだ。
だから、Bタイプは、「おれたちは握り飯であり、またオーケストラだ」などという。握り飯は、握られていても、一粒一粒の米が「おれは米だ」というアイデンティティーをきちんと示しているからだというのだ。また、オーケストラでは、チームプレーも必要だが、それ以上に、個人プレーがきちんとしていなければ、いい音がでてこない、というのだ。社会で、どっちがだいじが、一概にはいえない。両方ともだいじだ。
藤堂高虎が目指した道からいえば、技術者である。だから高虎も、技術者特有の「自己信仰」が強くて、ほかとの協調性を欠くような人物かもしれない。しかしこれは違う。高虎ほど、人の心を見抜き、また、周囲との和をだいじにした大名はいない。それがまた、彼を成功させた大きな原因になっている。
高虎に、いくつかのエピソードがある。その最大のものは、彼がいつも、「小さなことは大きなことと、大きなことは小さなことと心得よ」といっていたことだ。つまり、小事が大事のフィードバックである。小さなことだと思って、油断していると、意外と大事になることがある。
小事は大事と考えよ。逆に大事にぶつかると、疎んだり怯んだりしてしまって、逆に失敗してしまう。「こんなことは、たいしたことはない」と思うことである。そうすると、意外と大事もみごとに解決することができる。 
細川忠興 / 気疲れする部下は切る
[ 細川忠興/長岡忠興(1563-1646) 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前国小倉藩初代藩主。肥後細川家初代。足利氏の支流・細川氏の出身である。実父は幕臣・細川藤孝。養父は一族奥州家の細川輝経。正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)。忠興の名は織田信長の嫡男・信忠から偏諱を受けたものである。将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称していたが、大坂夏の陣後に細川氏へ復した。足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。 ]
部下はきいた。「私がきらいだ、ということですか?」「それもある。が、それは、理由の一部だ。むしろ、おまえのほうが私をきらっている。あるいは馬鹿にしている、といってもよい」「……」「いいか。私は、上の方針をおまえたち部下に平等に伝えている。情報を人によって按配するなどということはしない。多くの部下は、おまえが得たものと同じ量、同じ質の情報で上が求めるとおりの仕事をしている。
おまえは、自分を変えようとする気持ちがない。自分はすべて正しいと思っている。悪いのは他人であり、特に上司の私だと思っている。ある固定観念があるからだ。ある固定観念というのは、私がきらいだということだ。
仕事に対する意見のちがいなら、歩み寄れる。が、好ききらいはどうにもならない。おまえは私をきらい、私もおまえがきらいだ.同じ職場にいるのはお互いによくない。別れたほうがお互いに幸せだ。このままだと、くだらない気ばかり適って、疲れてしかたがない。第一仕事に身が入らない。どこでも好きなところに行け。ここには置かない」「……」部下はまっさおになった。増長の鼻をへし折られたからだ。
ふつう管理術の面では、"期待される上司像"ばかり求められて、"期待される部下像"ということはあまり論議されない。片手落ちである。しかも、そういう問題児を使いこなせないと、中間管理職は能力不足を問われる。
しかし、部下には、相性が悪くてどうにもならない者もいる。まして「きらいだ」という感情を互いに持っていたら、接点はない。早期に別れるべきだ。細川忠興は、それをびしっと行なった.それが組織のため、ほかの社員のためだ、と信じたからである。
西川甚五郎 / 蚊帳本に付加価値を加えた成功 (-1675)
甚五郎が歩きまわったのは江戸の路地裏である。庶民が住んでいる地域だ。そういう町々は、まだ下水もない、のでしきりに蚊が出ていた。庶民たちは、それをうちわで追ったり、手で叩き潰しながら寝苦しさに耐えていた。甚五郎がフッと思ったのは、(蚊帳をこの人たちに売ったらどうだろうか?)ということだった。発想は決して間違っていない。が、店の者たちは、
「蚊帳なんか作っても、彼らには買うお金がありませんよ」と猛反対した。甚五郎は踏切った。しかし、蚊帳は売れなかった。作ったのは、黒ずんだ色の蚊帳だった。甚五郎は考えた。自分が間違っているとは思えなかったからである。
(庶民は、蚊帳が欲しいはずだ。しかし、作った蚊帳が売れないのは、蚊帳に原因がある)と思った。そんな時、近江の本店に用があって、甚五郎は旅に出た。そして、東海道を通って箱根の山を越えた。箱根の山の中に入ると、疲れたので、大きな木の下で休んだ。思わず、居眠りをしてしまった。目が覚めたとき、彼の目を打ったものがある。それは、太陽の光に輝く若葉の緑だった。キラキラと陽光を照り返す緑の葉の美しさは、何ともいいようがない。それに、とても涼しい感じを与える。葉の群れをみつめているうちに、甚五郎は思わず、(これだ!)と胸の中で叫んだ。
(蚊帳が売れなかったのは、色が悪かったのだ。色をこの涼しい緑色にすれば、必ず売れる!)
そう確信した。
そこで、近江に戻った彼は、親しい染め物犀を呼んで、「何が何でも、涼しい緑の色で蚊帳を染める工夫をしてくれ」と頼んだ。染物師は、甚五郎の激しい情熱に苦笑しながらも、仕事にかかった。
いわゆるもえぎ色に染めた蚊帳は、飛ぶように売れた。甚五郎の作戦が成功したのである。彼は狭い家でゴロゴロと蚊に食われながら、暑い夜を過す庶民の身になってみた。
(ああいう時、庶民が求めるのは何だろうか?)と考え抜いたのである。庶民が本当に求めているのは単に、蚊を追う道具としての蚊帳だけではない。涼しさのはずだ。そうなると、蚊帳の色が涼しくなければだめだ。
そこで甚五郎は蚊を追うだけでなく、涼しさをもたらす蚊帳をつくろうと思ったのだ。これこそ正しく現代でいう、「本体にソフトな付加価値を加える」ということだった。蚊帳という本体に、涼しさという付加価値を加えるヒューマニズムによって、甚五郎の商売は大きく成功したのである。 
熊沢蕃山 / 名臣を育てた「孝」の思想
[ 熊沢蕃山(くまざわばんざん 1619-1691) 江戸時代初期の陽明学者である。諱は伯継、字は了介(一説には良介)、通称は次郎八、後助右衛門と改む、蕃山と号し、又息遊軒と号した。 ]
藤樹が教えたのは、「孝」である。藤樹はこう言う.「孝というのは、親に対してだけでなく、地域に対しても孝をつくす。国(この場合は藩)に対してもつくす。さらに天に対してもつくす。こうすることによって人間の世の中が豊かで思いやりのあるものになる」蕃山は感動した。蕃山は再び池田光政の側で仕えるようになり、光政は蕃山が中江藤掛から学んできたことを、城の藩士たちにも伝えるように命じた。この教えがしだいに広まり、他の大名家から、「池田家の武士は違う」といわれるようになった。例えば、参勤交代では、大名が長い行列をつくって宿場に泊まる。この宿泊ぶりを宿場の人たちは比較した。もっとも評判のよかったのが池田家の武士たちである。それはこうだ。
夜になると、他の大名家では酒盛りなどをして大騒ぎをするが、池田家の家臣たちは静かに宿泊し、多くの武士が読書をしている。
武士たちが眠りにつくと、交代で番をする。火の元に気をつけたり、布団をかけなおしてやったりなど、温かいおこないをする。
池田家が宿場を立つときは、各部屋はきれいに掃除されていて塵ひとつ落ちていない。
「これは、熊沢蕃山先生の教えがいき渡っているからだ」と、宿場の人たちは語り合った。
しかし蕃山を、池田家の武士たちのすべてが歓迎していたわけではない。当時はまだ戦国時代の気風が残っていたので、荒々しい考えをもつ武士も残っていて、悪口を言った。蕃山が城の一室で、熱心な武士たちに学問を敢えていると、いきなりその部屋に割り込んでくる。そしてどっかと胡座をかくと、蕃山をにらみながらまわりの武士たちに大声でわめいた。
「このごろは、この城のなかにもおケッコウという妙な鳥が舞い込んできて、いろいろとつまらぬことを言い立てては、武士を迷わせている。おケッコウどころか、たいへん迷惑な話だ。こんな鳥は、はやく殺さなければダメだ」
ところが蕃山はにこにこ微笑んでいる。そんな蕃山の態度に、怒鳴り込んだ武士のほうが自分をもてあまし、すごすごと部屋から出ていってしまう。すると蕃山は、「では、続きを話そう」と言って、何事もなかったかのように講義を続けた。門人たちは、蕃山の態度に感心した。 
河村瑞賢 / 米座を動員して成功 (-1699)
大勢の見物人が集まった当日、瑞賢はたくさんの米屋を連れてやってきた。米屋はみんな米俵を担いでいる。みんなピックリした。一体何をはじめる気なのだ?と目を見張った。瑞賢は米屋たちを指揮して、落ちた鐘の側にまず米俵を一段に並べさせた。そして、米屋たちを指揮して、鐘をその米俵の上に移させた。鐘が米俵の上に乗ると、今度は反対側に米俵を二段の高さに積ませた。そして、またカを合わせて鐘をそっちへ移す。今度はこっちに三段、そして向こう側に四段というように米俵を活用しながら、鐘を痛めずにうまく次第次第に上に上げて行った。やがて、鐘は元に戻った。これには、見物人たちも驚いた。同業者や役人も目を見張った。はじめは悪意を持っていたこの連中も、最後には拍手して、
「さすがだ!河村は頭がいい」と感心した。
ところが、瑞賢の知恵はこれで終ったわけではない。彼は米屋たちにいった。
「この米俵は、いったん俺が買い取ったものだが、もう必要なくなった。そこでどうだろう?改めておまえたちが買い取ってくれないか?私が買い取った値の半値でいい」米産たちはワッと飛びついて、我先勝ちに米俵を買い戻した。
これを聞いた幕府の重役が苦笑した。そして、「瑞賢の奴はずるい」といった。なぜですかときく部下に、その重役はこう答えた。
「瑞賢が米俵を買った金は、はじめから幕府が払う予算の中に入っている。だから、奴は二重に儲けたのだ」そのとおりだった。こうして、瑞賢はその重役と近づきになり、さらに日光東照宮の修理という大工事まで引き受けるようになった。 
藁科松柏 / 左遷組の私憤を公憤に変えた
[ 藁科松柏(1737〜1769) 米沢藩の藩医。家塾「菁莪館」を開き、竹俣・莅戸・木村など藩の憂国の士を集めた。この「菁莪館」グループが森平右衛門誅殺と藩政改革の中核となる。元服前の治憲(鷹山)に期待し、細井平洲を鷹山の師に推薦している。しかし明和6年、33歳の若さで亡くなった。 ]
例によって、部屋に集まって、本社組の悪口をいっている江戸左遷組のところに、松柏が入ってきた。「相変わらずだな」と苦笑し、しかし、こんなことをいった。
「もうそろそろやめろ。人の悪口はきき苦しいし、いっているおまえたちもあと味が悪かろう?もっと楽しい話をしろ」「おことばだが」竹俣がいいかえす。
「先生もご存知のように、われわれは全部、本国からとばされた者ばかりだ。おそらく二度と本国に召し戻されることはあるまい。そんな状況で、どうして楽しい話などできますか」「そうかな」松柏は笑った。
「人の悪口をいっているほうが楽しいか?」「楽しいですな。溜飲がさがります」「うん、それだけだ。溜飲の中からは何も生まれぬ」「?」「あんたたちの怒りはわかる。が、その怒りは私心だ。なぜ公心に変えないのだ?」「公心?」「ああ。さいわい、あんたたちは江戸にとばされたおかげで、時間だけはたっぷりある。給与も支給されているのだから、食う心配もない。ならば、いま、腹を立てている米沢藩政のどこが悪いのか、何が問題なのか、そして、どうすれば解決できるのか、そういう議論をすることも決してムダではあるまい?」「しかし、そんな議論をしてみても、いったい、いつ役に立つのですか?われわれが本国で役につくことは二度とない」「たとえ役につくことがなくても、議論したことを文書にまとめておけばいいではないか。誰か具眼の士が現われれば、目にとめないわけではない…」「………」左遷組は頻を見あわせた。もともと仕事好きで、藩政を憂えてきた人間ばかりだ。
松柏のいうことはわかった。松柏はこういっていた。
「左遷人事と、本来、会社につくすべき責務とは別だ。混同して、青務を忘れるな」と。
そして、松柏にはすでに″具眼の士″の目算があった。
世子の鹿山である。鹿山は左遷組の師、細井平洲に学問を教わった。その線で、この養子殿はみどころがある、と思っていた。
だから、左遷組の反撃の機会を、鷹山につくってもらおうと、心ひそかに思っていたのだ。
松柏も左遷組である。が、左遷組がまきかえすにしても、左遷されたときのままの人間ではだめだ、と思っていた。
変身ないし自己変革が必要だ、と思っていた。が、松柏自身、ひとりでは自分を変えられない。変えるのには、おれは悪くない、という自信が邪魔をする。グループならどうだろう、とかれは考えた。
「人間が人間に影響を与える。それならば変えられるだろう」そして、おれもそのグループに入ろう、そう思って持ちかけためだ。江戸左遷組の相乗効果をねらった。それに、左遷組はマイナス人間だ。が、マイナスとマイナスをかければプラスになる。そう思った。
万が一、養子殿がわれわれの研究成果を活用してくれるにしても、われわれが昔のままの"トラブルメーカー"では、本国の態度は硬化する。
そのうえ、養子殿にとっても決してプラスにはならない。
「あんなやつらにだまされて」と、本国人は背をむける。
「私憤を公憤に変えよう」というのが松柏の考えであった。
この考えは成功した。極度の財政難に悩む上杉家の当主になった鹿山は、"イエスマン"をきらった。そして、このグループに目をつけ、その研究成果を採用した。そのころは、グループも自分を変えていた。上杉鷹山の改革を成功させたのは、実にこの江戸左遷組であった。
細川重賢 / 改革まず現場から待遇改善
[ 細川重賢(1721-1785) 肥後熊本藩6代藩主。第4代藩主・細川宣紀の五男。熊本藩細川家7代。紀州藩第9代藩主・徳川治貞と「紀州の麒麟、肥後の鳳凰」と並び賞された名君であった。 ]
重賢は、「今は非常時なのだから、普通の人間では役に立たない」と考えていたからである。呼び出された堀平太左衛門は、細川重賢の話を聞いた。そして辞退した。
「到底わたくしには務まりません」「そんなことをいうな。わたしがおまえを見込んで頼むのだ。どうか改革の総指揮をとってもらいたい」「できません」「なぜできぬ?」「重役人にはボンクラが多く、肝心な情報も正しい指示も下の方に示しておりません。今のような状況ではわたくし一人でどんなにがんばっても、何もできません。ですからお断りするのです」「そのへんを改めよう。おまえが思い切った案を立てればわたしが指示して守らせるようにする」「本当ですか?」 堀は顔を上げて疑わしそうに垂賢の方を見た。重賢は堀をまっすぐ見返し大きくうなずいた。
「おまえのいうことはよくわかる。わたしも同じことを感じている。本来ならトップのいうことがミドルを通じてロウに伝えられ、仕事がはかどっていく。見ているとどうも真ん中のミドルのところで情報が留まり、あるいは下からの意見も留っている。
つまり、トップとロウの間に立つべきパイプが曲がっているか、ゴミがたまっているかしているのだ。これをまっすぐ直さなければ、改革は進まない。おまえがまっすぐ直す案を考えよ」「わかりました」
堀の表情は変わってきた。垂賢の話を聞いて、(この殿様は本気だ)と感じたからである。同時に、(この殿様なら、自分が今まで考えてきたことを実行してくれるかもしれない)という希望の光がかいま見えたのだ。そこで堀は重賢にいった。
「改革には当然、まず大倹約を行うこととその次に増収策を展開することと、人づくりを行うことなどが柱になります。しかし大倹約というのは当然城の中の仕事を全部見直す必要があります。見直すということは、やらなければいけない仕事はさらに人や金をつけ、やらなくてもいい仕事は思い切ってやめてしまうということです。人や金を増やされるところは喜びますが、仕事を取り上げられるところは怒ります。人間というのはやはり保守的なもので、総論賛成・各論反対のクセがあります。自分の仕事がなくなったり職場が廃止されるのを喜ぶ者は誰もおりません。そういう嫌がる連中に協力させるには、何といっても改革の目的を徹底的に知らせ納得させなければなりません。特に現場の納得が必要です。まず、殿様から今度の改革のご主旨を、文書にして全員に告げてください」「それはいい方法だな」
重賢は賛成した。
重賢も心の中で、(自分の新しい経営方針を全藩士に徹底したい)と考えていたからである。
しかし自信がなかった。
つまりそんなことをしても、「新しい殿様は、口先だけで改革を行おうとしている。改革はそんな甘いものではない。実際に痛い思いをするのは現場の方なんだ」という声が起こってくると思っていた。
重賢自身は自分から範を示して倹約生活に入るつもりでいたが、見方によっては、「そんなことはあたりまえだ」ということになるだろう。
しかし、今堀乎太左衛門が、「あなたの考えを全員に知らせて欲しい」といってくれたことには感謝した。そこで重賢は、自分の考えを文書にまとめた。細川重賢の「五か条の訓諭」と呼ばれているものである。
訓諭を出すについては堀平太左衛門は、「極力下級武士が納得するような呼びかけをしてください。何といっても改革を現実に推進するのはかれらなのですから」といった。また、「訓諭はいいっぱなしではダメです。下級武士たちがやる気を起こすような待遇改善も考えてください。今は藩が貧乏なので上から下まで一律パーセントで給与が減らされております。せめて下の方だけでも元に戻してください。同じ何パーセント減といっても重役人の何パーセント減と下級武士の何パーセント減とでは、痛みが違います。重役の方はそのまま据え置き、まず下級武士の方から元に戻していただきたいと思います」
重賢は感心した。なかなかこんなことはいわない。堀も上級武士の一人だ。しかし堀は、「わたくしは改革の全体指揮を取るのですから、わたくしの給与だけは元に戻してください」などというセコいことはいわなかったのである。 
上杉鷹山 / 財政改革の決め手は心の改革
それが二代目のときに、一二〇万石に減り、さらに関ケ原の合戦で徳川家康に敵対したため三〇万石に減らされた。四代目の相続人問題でゴタゴタが起こり、この時にまた一五万石に減らされた。昔から比べると一〇分の一以下の規模に縮小された。
にもかかわらず、米沢藩ではリストラを行わなかった。つまり謙信時代の人員、行事、事業いろいろな習わしなどすべて持ち込んだ。これではやっていけるはずがない。したがって、鷹山が九代目の藩主になったときは、完全に財政破綻を来たし、文字どおり火の車の上に乗っていた。高鍋からやってきた鷹山は、まず、「藩財政の立て直し」を行わなければならなかった。
鷹山は、財政再建に対してこう考えた(用語は現代風)。
「財政再建は、単に帳簿面に表われた赤字を克服すればいいというものではない。前バブル時代の悪影響を受けて、今は、この国に住む人々は他人のことを考えず、自分の目先の利益しか追求しない。これは、いってみれば人間の心に赤字が生じているということだ。この克服をしなければ、城の帳簿の赤字を解消したところで何の役にも立たない」
そして鷹山は、論語の「水は方円の器に従う」という言葉で、水を住民、方円の器を環境と考えた。
「住民が心に赤字を生じているのは、生活環境が悪いからだ」ということである。生活環境を人間の住む容器と考えたのである。
そこでかれは、
財政再建の究極の目的は、この国の生活環境を向上させることだ。
そのためには、思い切った仕事の見直しと大倹約が必要になる。
しかし、ただ倹約一辺倒では働く人々が希望が持てない。増収策も必要だ。
増収策を行うのには、この地域の手持ちの資産を最大限活かすことだ。手持ちの資産を活かすということは、資産に含まれている可能性を外き出すことだ。
それでなくても米沢は東北なので、北限の適用を受ける。暖かい国でできる木綿、みかん、お茶、ハゼ(ローソクの原料)などができない。これらは輸入しなければならない。
そうなると、ここでできる品物を高価値化する工夫がいる。
そう考えたかれは、「そういう一連のいとなみができるのは、なんといっても人間だ。人が決め手だ」と考えた。しかし、この"人が決め手だ"ということがわかっても、人間の行いを妨げる壁が三つある。
物理的な壁(モノの壁)
制度的な壁(仕組みの壁)
意識的な壁(こころの壁)
である。このうち、最も変え難いのが三番日の(こころの壁)だ。先例尊重、先入観、固定観念などである。そこで鷹山は、「経営改革はまず、一人ひとりの心の改革がスタートになる」と考えた。かれは、「こころの壁を破壊するためには、何といっても研修が必要だ」といって、興譲館という学校をつくった。藩の研修所である。普通リストラといえば、三Kといって「会議費・広告費・研修費」などを節約するが、鷹山は逆だった。
「財政難のときこそ、研修を強化すべきだ」といった。輿譲館というのは、「譲るという人間の美徳をもう一度興そう」ということである。「大学」という古い本に書かれている。かれは、家臣全員にこういった。
トップは米である。
ミドルは釜である。
ロウワー(一般の従業員)は薪である。
「どんなに米がいい種類であろうと、また薪がオクタン価が高く完全燃焼しても、肝心の釜が割れていたら、決してうまい米は炊けない」というたとえであった。 
藤田東湖 / 評判を支配している組織内小人と融合した
[ 藤田東湖(1806-1855) 江戸時代後期に活躍した水戸藩の政治家、水戸学藤田派の学者。東湖神社の祭神。 ]
「ええ。今井さんの悪口を流したやつは見当がついています。ひとりひとりよびだして、学問・糾弾し、前言を取り消す誓書を書かせるのです。それをまとめて、藩公にお届けすれば、今井さんの異動もお考えなおしくださるでしょう」「人民裁判で、脅迫か…」東湖は苦笑した。そして、「おまえたちの気持ちはよくわかる。が、脅迫してとった誓書など効果はない。かれらはすぐ前言をひるがえす」「そのときは斬ります」「そんなことをしたら、藩士の大部分を斬ることになる」東湖のいうことは、次第に斉昭に似てきた。青年たちは不満だった。
「だめですか?」「だめだ。蜂起はゆるさぬ」東湖はそう制して家に戻った。岡谷繁実(秋元藩士。『名将言行録』の著者)が、東湖を訪ねてきてきいた。
「若い人たちの蜂起をおとめになったそうですが?」「ええ」「なぜですか?」「小人にはとうていかなわないからです」「は?」妙な答えに、岡谷は東潮の顔を見た。
「よくわかりませんが」「正義派は、自分が正しいと思っているからものの考えが粗略です。正しいことをしているという思いあがりで、こまかいことに気を適わないのです。ところが小人は、いつもやましで緊張していますから、どんな小さなことも粗略にしません。粗略な神経と、緻密な禅経で緻密な神経が勝つにきまっています。それに小人狩りをするといっても、数が多いし、またえることがありません。かなわぬ戦いです」「では、あなたも小人に屈するのですか?」「いや、属するのではなく向きあうのです。かれらを軽蔑したり、憎んだりするのでなく、ひとりの人間として向きあうのです。省みると、私には、はじめからかれらへのアレルギーがあったようです」「りっぱですね、さすがです」「ところが」東潮は笑った。「このことは、藩公に教えられたのですよ」
東湖は自分のことばを実行した。小人を狩らず、かれらと融合した。東湖の評判はあがって組織で、いい評判も悪い評判も、とにかく"評判の製造工場″は、つねに組織内小人が支配している。このことを管理者は銘記すべきだ。が、おもねったりおせじを使うことでは決してない。 
吉田松陰 / わたしは師ではなく学友である
[ 吉田松陰(1830-1859) 日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者、兵学者、地域研究家である。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者として知られる。 ]
久保塾から引き継がれた門人の一人に、吉田栄太郎がいる。叔父の五郎左衛門が経営していた久保塾は、学問を教えるよりもむしろ、「生活に役立つ読み書き算盤を教える」を方針としていた。吉田栄太郎の家は貧しかった。そこで母親の、「久保先生のところへ行って、読み書き算盤を習っておいで」という勧めで、栄太郎は久保塾に通っていた。ところが、松陰が塾を引き継ぐと教育方針はガラリと変わった。松陰は叔父のために『松下村塾の記』を書いたが、叔父は必ずしもこの理念を実行しなかった。そこで松陰は、「『松下村塾の記』を、自分の手によって実現しよう」と思い立ったのだった。ところが吉田栄太郎は、たちまち松陰の虜となった。
「これこそ、自分が求めていた本当の学問だ」と目を輝かせた。母親は驚いた。そして、訴えた。
「松陰先生は危険な人だから、もう村塾には行かないでほしい」
しかし栄太郎は開かない。吉田栄太郎は後に、稔麿と名のって、過激な運動に身を投じていった。かれはとくに、藩内の差別に苦しむ人々の解放に努力した。倒幕運動にも参加し、集結中の京都の池田屋で新選組に襲われて、傷を負った。長州藩邸まで戻ったが、なかに入れてもらえず、ついに門前で切腹して果てた。悲劇の志士である。ところで、吉田栄太郎は、家が貧しかったので、「江戸の藩郎に行けば、少しは給与を上げてもらえるかもしれない」と考えた。これが許可された。当時栄太郎を慕う少年が三人いた。大野音三郎、市之進、溝三郎である。三人とも、萩の城下町では持て余し者だった。いまでいう"非行少年"である。栄太郎が十七歳、大野音三郎も十七歳、そして市之進と溝三郎は十四歳だった。音三郎は藩の身分の低い武士の子供で、幼いころ父を失っていたので、母の手で育てられた。そのためか次第に性格が歪んだ。市之進も父親がいない母だけの家庭で育った。そんな事情から母親が甘やかしたのだろう、わがままいっぱいの少年に育っていた。溝三郎は、萩の城下町の骨董商の子だ。しかし、父親に、「家業をつげ」と言われたことに反発していた。溝三郎の見た父は、「客にペこペこお辞儀ばかりしていて、自分というものがまったくない。情けない人間だ」と思っていた。三人それぞれに「自分が非行少年になった理由」をもっていた。そして不思議なことに、三人とも吉田栄太郎を慕っていた。しかし栄太郎は江戸に行かなければならない。ある日松陰に、「先生、わたくしは江戸に行きますので、この三人を預かっていただけませんか」と頼んだ。松陰はニコニコして、「いいだろう」と承知した。三人は顔を見合わせて、松陰をじろじろ見ながら、心の中で、(あまり冴えない先生だな)と思った。松陰はまだ二十八歳だった。松下村塾に入門した三人の非行少年に対し、松陰は、「きみたちは何のために勉強がしたいのだ?」と聞いた。音三郎は、「家にいたくないからです」と答えた。市之進は、「字をうまく書きたいからです」と答えた。溝三郎は、「家業の骨董商をつぐのがいやだからです」と言った。開きおわった松陰は領いた。
「わかった。しかし、学問というのは人のために、藩のために、天下のために行うものだ。その辺からよく話し合おう」松陰はそう言った。そして、「ばくは師ではない。きみたちの学友だ。だから、わたしにすべてを訊けばわかると思わないでもらいたい。わたしも一緒に勉強する。わたしの知らないことも、きみたちはたくさん知っているはずだ。それを敢えてほしい。議論をしよう」そう告げた。松陰は、「わたしは師ではなく学友である」という言い方をだれにもした。また自分のことを"僕"といった。つまり松陰は、「自分は学問の僕である。学僕だ。門人と立場はなにも変わらない。自分が門人に教えることがあるかもしれないが、自分もまた門人から学ぶことがある」と考えていた。 
坂本龍馬 / 無血革命を志た
[ 坂本龍馬(1836-1867) 江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。諱は直陰、のちに直柔。龍馬は通称。他に才谷梅太郎などの変名がある。土佐郷士に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えた。大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。1891年(明治24年)4月8日、正四位を追贈される。 ]
師勝海舟の志を継いだ龍馬は、長崎亀山に貿易グループをつくる。「亀山社中」と称した。この存在を知った土佐藩が乗り出して、「土佐海援隊」に発展させる。しかし龍馬は、海援隊の自主性を主張した。
1 海援隊に入る者は脱藩人(自由人)に限る。
2 海援隊は「射利(利益追求の営業行為)」を行う。
3 その利益によって、海援隊の費用を賄う。
4 海援隊士の給与は全部平等とする。隊長もこの限りではない。
当時としては珍しい会社だった。が、主目的は朝敵の汚名を着ていた長州藩のために、イギリスから艦船鉄砲を買い込むことだった。いわば、密輸会社であり同時に"死の商人"敵色彩をもっていた。この海援隊の管理を行うために土佐藩から長崎出張を命じられたのは後藤象二郎である。龍馬は後藤に、有名な「船中八策」を建言する。それは、「徳川幕府を解体し新政府をつくる。新政府は、旧徳川を中心にした大名の連合政権とする。議会もつくる。天皇をその頂点にいただく」というようなものだ。そして、「そのためには、将軍がまず率先して大政奉還をおこなうべきでだ」と告げた。この構想は、「平和の無血革命」である。 
高杉晋作 / 日本の主権維持に大きな貫献をした
[ 高杉晋作(1839-1867) 江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。諱は春風。通称は晋作、東一、和助。字は暢夫。号は初め楠樹、後に東行と改め、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生とも名乗った。 ]
晋作が頭を剃り、東行と名乗ったのはこの直後である。したがって、「自由な立場で、いよいよ倒幕行動に移る腹なのだろう」と思われたのも当然だ。
文久三年五月十日、長州藩は開門海峡を通過する外国船を片っ瑞から砲撃した。攘夷は天皇の命令だ。したがって将軍が、幕府として五月十日を擾夷期限として奉答したのは、あきらかに公武によって、「攘夷期限が正式に設定された」ということになる。長州藩は勢いを得た。長州藩が徳川幕府に穣夷を迫ったのは、高杉晋作たちにすれば、「幕府にそんな力はない」とみていたからである。高杉晋作は、前年に中国の上海に行って、外国諸列強による国土の割譲と、その割譲された土地内において、中国人民がまるで奴隷のようにこき使われている様をまざまざと見た。晋作は憤慨し、「日本は、絶対に中国の二の舞にはならない」と深く心に決した。しかし、その日本を担う徳川幕府は劣弱だ。時間稼ぎばかりしている。
「このままでは、日本は亡国の憂き目をみる。新しい政府が必要だ」とかれは思った。晋作自身は、すでに開国論者である。
「いつまでも鎖国をしていては、日本は国際社会から取り残される」ということは十分に認識していた。しかし幕府にはその反省がない。今度の攘夷期限奉答も、「期限の設定だけはしておこう」というごまかし政策に違いない。そこで長州藩は、率先して開門海峡を通過する外国船を、実際に攻撃しはじめて攘夷の実をあげたのである。これは、「絶対にできるはずのない擾夷を幕府に追って、幕府をさらに窮地に追い込もう」という、長州藩有志の戦略でもあった。
しかし、砲撃された外国船は黙っていなかった。イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国が連合艦隊を編成して、長州に報復にやってきた。長州藩もよく戦ったが、なにしろ四国の新鋭武器にはかなわない。ついに和睦を申し入れることになった。このとき使者に立ったのが高杉晋作である。そして、当時密出国してロンドンに留学していた伊藤俊輔が急ぎもどってきたので、伊藤を通訳として帯同した。数度にわたる交渉の結果、次の条件で和議が成立した。
一、これから外国船が海峡を通過するときは、親切に取り扱うこと。
一、石炭、食物、水など外国船が必要とする品物は、長州藩で用意し有価で供与すること。
一、風が強く港に避難したときは、外国船の乗組員が下関港に上陸することを認めること。
一、新しく長州藩に砲台は置かない。古い砲台も修理はしない。
いわば、武装解除のうえ、今後は平和な友好関係を築こうというものである。晋作もこんな条件なら別に異議はない。全部承知した。四国側は、「賠償金を払え」と強く要求したのだが、晋作はきかなかった。
「攘夷命令は、天皇と幕府から出たものであって、長州藩はその命に従ったまでだ。籍償金をとりたければ、幕府からとれ」と強行に突っ張ったのである。これには、四国側も言い返せなかった。のちに幕府が長州藩に代わって莫大な賠償金を支払う結果になる。これも幕府の力を弱めた。このときイギリスだけがひそかに、長州藩使節に対し、「関門海峡上にある彦島を有年間租借したい」と申し入れた。イキリスはすでに、香港を同じ条件によって中国から租借していた。晋作は、断固これも拒否した。もしも晋作に、上海の光景が知識としてなく、同時に列強に対する卑屈な精神をもっていたら、承知してしまったかもしれない。そうなると、百年間彦島は、「日本の法のおよばない地域」として、香港、スペインのジブラルタルのような扱いになってしまっただろう。晋作のこの拒否は、「日本亡国」の一端にもなりかねない、外国列強の日本国土租借を見事にはねのけ、日本の主権維持に大きな貢献をしたのである。 
河井継之助 / 常在戦場の危機意識
[ 河井継之助(1827-1868) 幕末期の越後長岡藩牧野家の家臣である。「継之助」は幼名・通称で、読みは「つぎのすけ」。諱は秋義(あきよし)。号は蒼龍窟。 ]
幕末時に、新政府軍と戦った越後長岡(新潟県長岡市)の武士で、河井継之助という人物がいた。陽明学を学び、「知行合二を実践していた。かれが仕えた家は譜代大名の牧野家だったが、この牧野家の家訓に、「常在戦場(常に戦場に在り)」という言葉がある。現代の企業における危機意識はこの、「常在戦場」という気持ちを、いつも持ち続けるかどうかだろう。今の企業社会も戦場だ。競争社会である。ぼやぼやしていれば、たちまちつぶされる。息の根を止められる。そうされないためには、「常に、戦場に在るという危機意識を持つことが大切だ」ということになるだろう。
この夜は、酒がまわると共にこのトップと相当に腹を割った話をした。
「危機に強い知恵者とは、どういう要件が必要か」などということも話し合った。また、「危機でも、その危機をまったく感じ取らない知識人の弱点」についても、かなり辛辣な意見を交換した。
このトップにいわせると、「組織の中には、いわれなくてもわかるタイプの人間・いわれればすぐわかるタイプの人間・いくらいわれてもまったくわからないタイプの人間の三とおりがある」ということであり、「いわなくともわかる人間と、いえばすぐわかる人間が知恵者であり、いくらいってもわからないのは知識人だ」と、きびしい分類をしていた。わたしは笑いだした。
商人の気概を見せたエピソード
「ご用向きは?」「主人に会いたい」あくまでも尊大である。手代はとりつぐ。きいた主人は、「待たせておけ」と相手にしない。
家老は店の一隅で待たされた。暮れのことなので店は忙しい。皆、走りまわっている。が、誰も家老など気にしない。家老はジリジリしてきた。エヘンとか、ウフンとか咳ばらいして、自分の存在を誇示するが、店の者は知らん顔だ。主人からそういいつけられている。店にはほかの客も出入りする。変な務をして家老を見る。家老は屈辱感と憤りで、頭が破れそうになった。
夜になって店は閉じられた。やっと主人が出てきた。
「お待たせしました」とニコニコ笑っている。さすがに店の者はハラハラして奥から見守った。爆発しそうな気分をおさえて、家老はいった。「おれは○○藩の家老だ。金を借りに、わざわざ国もとから江戸に出てきた」恩に着せるような口調だ。主人は無言でキセルにタバコをつめ、火をつけて、深々と吸いこみ、ふうっと煙を家老の顔に吹きつけた。
家老の目に怒りの色が走り、からだがさっと緊張した。刀に手が行くかまえだ。しかし、商人は平然としている。気をしずめた家老は、もう一度「金を借りにわざわぎ江戸へ参った」とくりかえした。主人は横を向いて知らん顔だ。
たまりかねた家老は、「返事をしろ!無礼者め!」とどなった。すると主人はジロリと家老を見つめた。
「それが金を借りる人の態度ですか?」「なに?」「金を借りるのに、そんなにいばる人がありますか。借りたければ、手を突いてたのみなさい」「……」奥にいる店の者は一斉に青くなる。家老は顔を十色に変化させたが、やがて家老は手を突いた。
「たのむ……」といった。
「たのむ、じやなく、たのみます、です」「…たのみます」「誠意がこもっていませんな。いやいやだ。手は突いても、頭はさげず、目も私をにらんでいる。私のほうは、別にお貸ししなくてもいいんですよ」「たのみます!」「大声を出さないでください」「今日、金を借りて帰らなければ、蒲はつぶれるのだ。貸してくれなければ、ここで腹を切る」「それがいやなんです。あなたは腹を切って、あとをどうなさるんですか?無音任というものです」「しか心、おれは遠い国もとからわぜゎぎ」「その、わざわざという考えが私はきらいなんです。私のほうで、おいでくださいとお願いしたわけではありませんよ」
見かねた番頭が、ついに金の包みを持って出てきて、主人を突っついた。さんざんいやがらせをしたのち、主人は家老に金を渡した。そして家老が帰ったあと、「汚ない権力には、あのくらいの気概を見せなければだめだ。何がわざわざ江戸にきた、だ」と吐き捨てるようにいった。主人はいのちがけで、店の者に商人の意地を示したのである。
余談だが、このときの家老は、国に戻ると、武士を捨てて帰農したという。かれもまたこの世がばかばかしくなったのだ。 
浜口梧陵 / 井戸水の思想 (-1885)
これは一種のニヒリズムに近い。そういう冷たい滴が浜口の胸の特に落ちたのだ。そして、この樽にはもともと冷たい滴が溜まっていた。
それは、藩の武士階級による、絶え間のない権力闘争である。政争だ。民不在の政争の明け暮れは、いい加減浜口をうんざりさせていた。改革とか何とかいっても、結局、いままでのそれは、藩政府や藩士が富むためのものであり、年貢を納める農民や冥加金を上納する市民のためのものではない。
そういう憤りが、絶望と絢いまぜになって浜口の胸の樽に溜まっていた。
浜口梧陵は、ここから反撃した。これは、ここを拠点に、それまで自分でさえ気がつかなかった自身の先見性を、市民主体に整理し、それを行動理論にした。その凝縮が木国同友会の綱領であった。綱領というより同友会の設立そのものであった。
浜口の発想は、いうならば、「井戸水の思想」である。恒温の思想といってもいい。深い井戸の水は、現代でいえば水道水にくらべ、水温がちがう。
たとえば、水道水は冬冷たく、夏はなま温かい。井戸水は逆に冬温かく、夏は冷たい。が、井戸水自身に際立った水温の変化があるわけではない。いわば恒温に近い。人間が自分をとりまく季節の変化によって、冷たいと思ったり、温かいと思ったりしているだけだ。
「これで行こう」と、浜口は思った。市民的立場でものを考えること、その立場を純粋次元におくためには、井戸水の恒温の思想で行こう、ときめたのだ。
そして、そうすることによって、いつも、透徹した眼で、これからの社会相を予測できる、と信じた。 
福沢諭吉 / 幸福追求をさせる学問 (-1901)
「一人ひとりの人間に、幸福追求をさせる学問が実学だ」というところにあるとみていいだろう。反対に、「一人ひとりの人間を、不幸にするような学問は学問ではない。虚学であり死学である」ということになる。
明治維新前の実学は、ほとんどが、「経国済民」をモットーにしていた。社会性の前には、自己を主張しなかった。いや、逆に公共のためには、自己を不幸にし犠牲にすることさえすすめるか滅私の美学々があった。
西洋で、″個人の尊厳″をみてきた諭吉に、こんな考えは通用しない。
「個人は、国象のいいなりになる人間の紙片ではない。逆だ。国家は、めざめた個人の堆積の上にきずかれる」という考えだ。
しかし、だからといって、個人が自覚し、自説を持ったからといって、それがすべて正しく、世にうけられるとはかぎらない。世の誰からもうけいれられないような考えは、これまた実学ではない。そこで彼は、塾生に、「自分の考えを世に問え。そのために、自分の考えを自分の言葉で公表しろ」と、演説をすすめた。これは、その考えへの一般の反応をみて、自信を持ったり、反省したりするきっかけをつくろう、ということだ。いわばフィードバック装置である。そうしなければ、ひとりよがりのうぬぼれ屋ばかり生むことになる。これが諭吉式の社会との接触方法であり、公共性についての考え方でもあった。 
 
歴史物語 [織田信長]

 

1 宇治川城の春秋 
(1) 織田信長は「天下布武」を決意する
戦国時代と云うのは、歴史学上では応仁の乱が終った文明十年(一四七八)から始まるが、然し真の激斗は元亀、天正(*1)以後である。織田信長が足利義昭(*2)を擁して上洛し、都の金融資本を握っている四百軒の土倉(*3)の大半が比叡山の還俗僧であり、畿内一円から東海、北陸にはびこる一揆(*4)共が領主に年貢を収めず本願寺に収めている事実に愕然とした。
「このままでは武士は滅び、山門(延暦寺)や本願寺らの宗門国家となってしまう。玉石共に砕く徹底した宗教改革を断行せねば、打ち続く戦乱の世を統一する事はできない。」
信長がこのように「天下布武」を決意した元亀元年(一五七〇)こそ真の戦国時代の始まりと考えるのが正しいと信じる。

(*1) 元亀は1570〜1573の4年間。天正は1573〜1592の20年間。
(*2) 室町幕府の第十五代将軍。石上姫丸城を参照。
(*3) 鎌倉時代および室町時代の金融業者。現在の質屋のように物品を質草として担保とし、その質草に相当する金額の金銭を高利で貸与した。
(*4) 一揆(連合、同盟)は元々、心を一つにするという意味。惣村(*4-1)が支配者等へ要求活動を行うとき、一揆を結成した。
惣村による一揆を土一揆(つちいっき)という。生活が困窮したためというより、惣村の自治意識が高まったため、主張すべき権利を要求して発生した。
ほとんど徳政令(*4-2)の発布を要求したが、支配者である守護の家臣の国外退去を要求した土一揆(播磨の国一揆)、不作により年貢の減免を要求する一揆もあった。惣村から見れば、これらは自らの権利を要求する正当な行為だった。
戦国時代に、戦国大名による一円支配が強化され、惣村の自治的性格が薄まり、土一揆の発生も減少した。
(*4-1) 百姓の自治的・地縁的結合による共同組織(村落形態)。惣(そう)ともいう。
(*4-2) 当時、天皇や将軍の代替わりに、土地・物品が元の所有者へ返るべきとする思想が広く浸透しており、これを徳政と呼んでいた。
[参考]日本の土地制度の変化
(1)中世初期(平安時代後期〜鎌倉時代中期)まで
この当時の荘園公領制においては、
1 公領領主(郡司、郷司、保司などの資格を持つ)
2 公領領主ともしばしば重複する荘官
3 一部の有力な名主百姓
上記の三者が、モザイク状に混在する「名(*4-3)」を管理した。百姓、あるいはその身分すら持たない一般の農業などの零細な産業従事者らは、それぞれの領主や名主(みょうしゅ)に「家人」、「下人」などとして従属していた。百姓らの生活・経済活動はモザイク状の「名」を中心としていたため、彼らの住居はまばらに散在しており、住居が密集する村落という形態はなかった。
(2)鎌倉後期ごろ
「地頭」が荘園・公領の支配を進めたので、「名」を中心とした生活経済は姿を消し、従来の荘園公領制が変質し始めた。百姓らは、水利配分や水路・道路の修築、境界紛争・戦乱や盗賊からの自衛などを契機として地縁的な結合を強めた。まず畿内・近畿周辺で、耕地から住居が分離して住宅同士が集合する「村落」が形成された。「村落」は、その範囲内に住む惣て(すべて)の構成員で形成されたので、「惣村」または「惣」と呼ばれた。
(3)南北朝時代
全国的な動乱を経て、畿内に発生した「村落」は各地へ拡大。支配単位である荘園や公領(郷・保など)の範囲で、複数の惣村がさらに結合する「惣荘(そうしょう)」、「惣郷(そうごう)」も形成された。惣荘や惣郷は、百姓の団結・自立の傾向が強く、かつ最も惣村が発達していた畿内に多く出現した。畿内から遠い東北・関東・九州では、惣村よりも広い範囲(荘園・公領単位)で、ゆるやかな村落結合が形成され、これを「郷村(ごうそん)」という。
(4)室町時代
守護の権限が強化され、守護による荘園・公領支配への介入が増加。惣村は自治権確保のため、荘園領主・公領領主ではなく、守護や国人(*4-4)と関係を結ぶ事が多かった。(守護領国制) 惣村の有力者の中には、守護や国人と主従関係を結んで武士となる者も現れた。これを「地侍(じざむらい)」という。惣村が最盛期を迎えたのは室町時代中期(15世紀)ごろであり、応仁の乱などの戦乱に対応するため、自治能力が非常に高まった。
(5)戦国時代
戦国大名による一円支配が強まり、惣村の自治権が次第に奪われていった。最終的には、豊臣秀吉による「兵農分離(刀狩)」と「土地所有確認(太閤検地)」の結果、惣村という結合形態は消滅。江戸時代に続く近世村落が形成していった。惣村の持っていた自治的性格は、祭祀面や水利面などを中心に近世村落へも幾分か継承され、村請制度(*4-5)や分郷(*4-6)下における村の統一維持に大きな役割を果たした。
(*4-3) みょう。名田(みょうでん)。荘園公領制における支配・収取(徴税)の基礎単位。
(*4-4) こくじん。鎌倉時代の地頭層から発し、南北朝時代から室町時代に諸国の開発を推進した武士層。国人領主。「在地領主」の一般的呼称。
(*4-5) 年貢諸役を村単位で村全体の責任で納める制度。明治の地租改正で村請制度は解体。
(*4-6) ぶんごう。相給(あいきゅう)とも。近世期における領知(*4-7)の一形態で、一つの村落に複数の領主がいる状態。村(郷)が分割されたために分郷とも言った。
(*4-7) 領主が行使した土地に対する支配権や、そこに所属する住民に対する支配権など。 
(2) 民族の興隆は英雄の出現によって左右される
歴史上から見ても民族の興隆は英雄の出現によって左右されるのが常である。日本民族が東アジアにその旗色を鮮明にする第一歩が天智、天武天皇の世(七世紀)である。
それに続くのが安土、桃山(*1)の時代で、
「独創的な発想、強烈な自我と『我は神の子なり』の信念、あくなき猜疑心と征服欲によって民族の独裁者となり、やがては国外に進展する」これが世界の常道である。
例をあげれば、広大な中国大陸を始めて統一した秦の始皇帝。蒙古をその支配下に収め、やがて世界最大の大帝国を樹立したチンギスハーン。等々、枚挙に暇がない。
そのチンギスハーンの孫であるフビライが黄金の国ジパングを二度に及んで侵攻してきた。しかし元寇の狂涛は神風によって潰滅した。その歴史が日本民族の信念となって神国思想を誕生させ、やがて活力の源泉となり華々しく開花する。
それを拓いたのが信長であり秀吉に受け継がれた安土・桃山時代なのである。

(*1) 安土桃山時代(あづちももやまじだい)1568〜1603。織田信長と豊臣秀吉が天下人として日本の統治権を握っていた時代。織豊時代(しょくほうじだい)とも。 
(3) 後世の基準によって時代を論じる事はできない
洋の東西を問わず弱肉強食を常とした古代の世界史は後世に生まれた道徳(基準)によって論じる事はできない。「力は正義」なのであり、ギリシャ民族にとってアレキサンダー、ローマ人にとってはシーザー、中国民族には始皇帝、蒙古民族にはチンギスハーン、そして日本民族には信長、秀吉こそ英雄なのである。
信長は「啼かぬなら 殺してしまえ 時鳥。」の句で知られる。彼の天馬空を駆けるような生涯を顧みて、凄さと五月の薫風のような爽やかさを感じるのは、文武両道を常とし平和ボケしていなかった昔を憧れる国民性であろう。 
(4) 明智光秀は近江坂本城六万石の領主となる
さて、時は元亀三年(一五七三)の春。一山焼土と化した比叡、比良のここかしこに山桜が綻び始める頃。つゝ井筒の井戸家中興の祖・若狭守良弘が、近江坂本城六万石の領主となった光秀の招きで、城の完工祝いに参じた。焼土の上に聳える三層の天守を仰いでその威容に打たれ、唐崎に松を植えて緑を増し、
我ならで 誰かは植ゑむ 一つ松 心して吹け 滋賀の浦風
と詠じて、善政に努める光秀を見て心から羨望にたえなかった。
その三月、松永弾正が再び反旗を翻した。義昭や信玄(*1)と計って信長打倒に参じたものの忽ち攻め立てられて窮地に落ち、幼児二人を人質に自慢の多聞櫓で知られた西洋風の多聞城を献上して降伏する。

(*1) 武田信玄(たけだ しんげん)。本名は武田晴信(たけだ はるのぶ)。1521〜1573。余りに有名な戦国武将。甲斐の守護大名・戦国大名。対立した越後の上杉謙信と川中島の戦いを行ないつつ信濃をほぼ平定。上洛の途上、病没。『甲陽軍鑑』により「風林火山の軍旗、甲斐の虎、上杉謙信の好敵手」のイメージが形成。 
(5) 武田信玄が三方原で徳川家康を破る
信玄が漸く上洛の大軍を遠州に進め家康を三方原(みかたがはら)で完敗させたのがその年(一五七三)の暮である。信長の命により援軍に参じた良弘と島左近ら勇将も武田騎馬軍団の重厚無敵ぶりを見て「手も足も出なかった」らしい。
惜しくも信玄は上洛途上で病没するのだが、武田家はその喪を秘めた。 
(6) 足利幕府は幕を閉じる
信玄の死に気づかぬ義昭は相も変らず策謀を続けたから元亀四年(一五七四)正月、信長は十七条の将軍を非難の絶縁状を叩きつけた。七月、義昭は四千近い奉公衆に護られて二条御所を出ると宇治槇島城(*1)に入り信長打倒の御教書を発して諸将を招いた。
けれど頼りにした信玄は既に世に亡く、本願寺も浅井、朝倉も動かない。家臣の細川も明智も信長方に参じて攻撃軍に加わる有様で、五万の大軍に囲まれてはどうにもならず、幼子を人質にして降伏した。
信長は義昭を殺すつもりであったが、光秀と秀吉が「それでは将軍殺逆の汚名をかぶる」と説得して河内若江の三好義継の城に追った。元の坊主に変り、昌山道休と改めた義昭は孤影悄然と槇島城を落ち、二百年の足利幕府はここに幕を閉じた。それに殉じるように八月には朝倉、浅井が滅亡した。

(*1) 槙島城は重要拠点だったが、現在は城跡の石碑だけが宇治市槙島にある。 
(7) 信長は、朝倉、浅井、長島一揆を滅ぼす
将軍を追放した信長は天皇に迫って天正、「正しく清らかな者が天下の支配者となる」と云う意味を持つ年号に改めさせ将軍職就任を要請したが、「先例なし」と朝廷はこれを認めず、天正二年(一五七四)三月、信長を従三位参議に昇任させただけであった。
信長は不満に耐えず、正倉院の名香、蘭奢待(らんじゃたい)を切り取る特権を強引に勅許させ、天下にその覇者ぶりを誇示したのは不逞としか云い様がない。彼は近世を拓いた天才児であり、その比類なき創造性や数々の革命的政策は秀吉、家康らの遠く及ばぬ存在であった。
光秀や良弘は、生来が詩人肌で名利に淡白な文武両道の武人である。それだけに、信長が朝廷や神仏さえ恐れぬ稀代の独裁者である事を知ると、内心その信条に対して秀吉のように盲従できぬのは当然だったろう。
然し覇者としての信長の武運は強く、朝倉、浅井、長島一揆と次々に壊滅させた。天正三年(一五七五)には長篠で孫市仕込みの三段式銃火網より武田騎馬軍団を全滅して凱歌を轟かせた。 
(8) 明智光秀は石山本願寺を破れず、信長に助けを求める
次には光秀を大将とする丹波征討軍を編成して進攻した。順慶、良弘もその組下となって出陣すると数々の手柄を立て、年末には久しぶりに帰国。
天正四年(一五七六)の正月、順慶は大和守護として宇治槇島城に在った元幕臣・原田直政を招いて春日神社で観世、金剛、金春の三座の薪能を催した。良弘も信長に許されて列席すると、子飼とも云うべき結崎の糸井神社の観世一座の人々ともなごやかな一時を過している。
大和生れの彼らにとって何より念願とするのは崇徳天皇の世から始まった秋の若宮おん祭(*1)の流鏑馬や万民豊楽の祭典が大仏焼亡以来、中絶されたままになっているのを再現する事だった。
然し毛利を頼った義昭の策動によって、四月に入るや雑賀軍団が続々と鉄壁の守りを誇る石山本願寺に入った。これを知った信長は明智軍団に出動を命じる。
原田に率いられた順慶勢は木津を猛攻したが、狙撃されて原田は討死、順慶は辛うじて天王寺に敗走する。勢いに乗じた石山勢の追撃にさすがの光秀も
「急ぎ援軍を賜わねば全滅しかなし」と訴えた。

(*1) 春日若宮おん祭。春日大社の摂社である若宮神社のお祭り。平安時代の保延二年(1136年)に関白藤原忠通が五穀豊穣、万民安楽を祈願したのが始まり。大和一国を挙げて盛大に執り行われる。 
(9) 信長は順慶に大和守護を約束する
それを知った信長は自ら百騎足らずの親衛隊を率いて駈けつけた。銃弾に傷つきながら物ともせず若江城(*1)を落すと順慶を呼ぶ。
「成功すればそちを大和の守護に取立てよう。根こそぎ動員して何とでもして切抜けよ」こう命じたから彼も
「これぞ一期一会の瀬戸際、十五から六十までの男はすべて出陣せい」と厳命して必死に動員にかり立てる。
然し寺々からは
「仏門の身で戦場には行けぬ。不眠不休で戦勝祈願の読経に励むから」と泣きつかれて困り果てた。窮情を見た良弘は一族悉くを投じ、二千近い兵力で天王寺に馳せつける。玉砕覚悟で敵の側背を突き、遂に敵を本願寺内に押返したので、その力戦を見た信長は大いに喜んだ。

(*1) 大阪府東大阪市若江南町2-9-2若江公民分館。現在は城跡の石碑だけがある。 
(10) 信長は安土城を築く
かくて天正四年(一五七六)早春、安土に壮大な七層の天守閣を持つ巨城が完成する。
ここで日本の城について眺めて見よう。楠木正成の千早城は別として戦国時代に入っても城の築城技術はさして進まず、かき上げ土壁に根小屋と呼ばれる櫓程度の木造家屋でしかなかった。しかし元亀元年(一五五八)平尾山姫丸城の三階櫓を見た松永弾正が奈良の多聞城や信貴山城に始めて天守閣を作って将兵を驚かせた。
天正三年(一五七二)、信長は松永から多聞城を取り上げて詳しくその内容を調べると当時、築城の名人とも云われた明智光秀に設計させ、丹羽長秀の指揮下に超突貫工事で出現させたのが安土城(*1)である。
鉄砲攻撃から守る総石垣は近江の穴太衆(*2)の野面積(*3)技術を採用した。大天守閣は、中国大陸から伝わる寺院建築や南蛮風を思い切って取り入れた豪華絢爛たる建物である。外人宣教師(*4)さえも「ヨーロッパに例を見ぬ素晴らしい芸術的な城!」と驚嘆した。
その宣教師によると、一階の石蔵の上に五層七階の設計で、最上部は内外装や瓦もすべて金箔。柱は黒漆で、屋根に金の冠を取付け、朝日夕日にさんぜんと輝いて見えた。六階は八角形で内装は金。外柱は朱塗で、縁側には鯱や龍虎が画かれていたと云う。五十m近い高さの威容を誇る様を見た秀吉や家康は、やがてこれを手本に、より巨大な城を築き上げる時代が到来する。

(*1) 城跡は滋賀県安土町。ハ見寺(臨済宗)の私有地。2006 / 9 / 1より見学料大人500円、小中学生100円。開山時間9:00、最終受付16:00。近くに「信長の館」「安土城考古博物館」がある。
(*2) あのうしゅう。織豊時代に活躍。寺院や城郭などの石垣施工を行った土木技術者集団。滋賀県大津市坂本穴太町(*2-1)出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔であるという。安土城の石垣を施工したことで、信長や秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わる。江戸時代初頭にかけて多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られ、彼らは全国の藩に召し抱えられたという。
現在でも、坂本の町に多数立ち並ぶ「里坊」とよばれる延暦寺の末端の寺院群は、彼らの組んだ石垣で囲まれ町並みに特徴を与えている。
(*2-1) 穴太の里。比叡山の山麓の坂本の近郊。坂本は延暦寺と日吉大社の門前町。
(*3) のづらづみ。石垣の積み方。ほかに、「打込みハギ」「切込みハギ」「算木積み(さんぎづみ)」「布積(ぬのづみ)」等、多数ある。
(*4) ルイス・フロイス。石上姫丸城を参照。 
(11) 筒井順慶は大和守護に、井戸良弘は槇島城主になる
正しく城の黄金時代の幕をきって落した安土城により「天下布武」の道に大きく一歩を進めた信長は、明智光秀の進言で筒井順慶を大和守護に良弘を槇島城主に任じる。
松永弾正によって長く苦しめられていた順慶は今や大和四十万石の領主となった。同じく平尾姫丸城で苦斗した良弘は、足利義昭と家臣の槇島が籠城し、大和守護の原田が住んでいた宇治槇島二万石を与えられた。良弘は城を宇治川城と改めて我世の春を迎える。
宇治と云えば昔から京への東の関門として知られた要地で、当時は茶の本場で有名となっていた。茶は鎌倉時代の禅僧栄西(*1)から種を貰った高山寺の明恵(*2)が新しく育て上げた栂尾茶を宇治万福寺に移植して生れた名茶で、室町以後は最高とされていた。
永祿八年(一五六五)に松永弾正が千ノ利休を招き、宇治橋の中流に設けた三の間から汲み上げた名水で催した茶会が有名である。足利幕府は製茶業者を保護下に入れて生産に力を入れていた。
信長の世になると森、上村氏を茶頭取として召抱え数百人の職人を使って増産して居る。その地の領主には茶道にも詳しい文武両道の武将が必要で、その点から見て信長が良弘を選んだのは人を見る明があったと云える。
良弘は、結崎糸井神社の楽頭職(*3)だった観世一族から幽玄能「井筒」にちなんで贈られた高麗焼の逸品“つゝ井筒”を持っていた。利休の一ノ弟子である山上宗二(*4)がそれを見て「井戸茶碗」と賛え、忽ち茶人の間に大評判となったのも此頃であろう。
更には新領主となった良弘が昔、大和古市ではやった夏風呂と斗茶(*5)を組合せた「淋間茶湯(*6)」の遊びを取入れたのが流行して一段と景気を高めたようだ。

(*1) えいさい。ようさい。1141〜1215。臨済宗の開祖。建仁寺の開山。喫茶の習慣を日本に伝えた。
(*2) 元弘の乱を参照。
(*3) 猿楽演能の権利。
(*4) やまのうえのそうじ。1544〜1590。堺の豪商で茶人。茶匠として豊臣秀吉に仕えていたが、天正12年に持ち前の口の悪さから秀吉の怒りを買い、浪人。前田利家に仕えるが、同14年に再び秀吉を怒らせて高野山へ逃れる。その後、小田原の北条氏に仕えた。同18年の秀吉の小田原攻めの際には、利休を介して秀吉と面会。またも秀吉の怒りを買い、耳と鼻を削がれて打ち首。享年46。
(*5) とうちゃ。闘茶とも。種々の茶を点てて、多数の人に供し、その産地や種類などを当てる茶技。足利義満の頃盛んになり、茶かぶき後、茶道に発展するようになったといわれる。
(*6) 風呂をともなった茶寄合。
(12) 信長は「鉄甲船」を造り、足利義昭は再挙に懸命となる
そんな中にも暑い夏が訪れる。
変らず織田軍の本願寺攻めが続いていたが、孫市の鉄砲隊に多数の将士を失ったばかりでなく、石山に兵糧を輸送して来た毛利水軍を襲撃した織田水軍が新兵器「ほうろく弾」に大敗した。続々と武器や食料が城内に届き、本願寺宗徒の志気は大いに挙った。
信長は下手をするとこちらが総崩れになりかねぬ、と戦況を見た。彼は率先陣頭に立って督戦しながら、毛利水軍を壊滅させる為に「船体を鉄装し大砲を装備した大艦隊を編成する」と云う新戦法を思いつき、九鬼嘉隆(*1)に建造を命じた。その天才的着想に舌をまいた嘉隆は直ちに鳥羽に帰り、突貫作業で七隻の大安宅船(*2)の建造に懸命となる。
天正四年(一五七三)の秋、井戸良弘が槇島城主として領民の信頼を集め、宇治の町が秋祭りで賑わっていた頃。義昭は槇島昭光ら旧臣と共に河内若江から紀伊由良の興円寺などを転々とさすらい再挙に懸命となっていた。やがて毛利を頼って備後の靹に邸を貰い、ここを根拠に上杉・武田らに京都進撃を説き、更に伊勢三瀬谷に隠居している北畠具教(*3)に密使を派し
「伊勢熊野の豪族達を糾合して信長打倒の兵を挙げ、毛利、武田と共同作戦を展開せよ」との御教書をもたらした。具教は腹心の老臣と密謀の末、堀内氏善(*4)に
「伊賀忍者共と赤羽の奥村勢に協力させる故、期を失せず貴下の総力を挙げて長島を攻め取れ、成功すれは長島領はすべてそなたに与えよう」との密書を送った。

(*1) くきよしたか。戦国武将・大名。九鬼水軍を率いた。九鬼氏の第8代当主。志摩の国人の一員として身を起こし、信長・秀吉のお抱え水軍として活躍。3万5000石の禄を得た。後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れて自害。
(*2) おおあたけぶね。軍船。安宅船の大型のものを大安宅と呼ぶ。有名な信長の「鉄甲船」は毛利氏の水軍が装備する火器の攻撃による類焼を防ぐため、当時、世界的にみても珍しい鉄張りだった。大砲と大鉄砲で装備され大阪湾で毛利氏や雑賀衆の水軍と戦った。
(*3) きたばたけ とものり。伊勢国司である北畠家の第8代当主。1528〜1576。伊勢安濃郡を支配していた長野氏と戦い、具教の次男・長野具藤を長野氏の養嗣子として勢力拡大。信長の侵攻を受け、降伏。信長の次男・信雄を養嗣子として迎え入れた。出家して三瀬谷(多気郡大台町)に隠居したが、殺害される。享年49。
(*4) ほりのうちうじよし。1549〜1615。 熊野別当。 安房守。 
(13) 信長、北畠具教の謀殺を命じる
北畠具教の密書を見て勇み立った堀内氏善は諸将を集めると、快速船団を飛ばせて長島城を包囲し、二千の総力で猛攻した。
城主の加藤甚五郎は必死の抗戦を見せたが、十月末の嵐の夜、伊賀忍者隊が城に潜入して放火した。その炎を見て大手口の堀内勢に呼応し、峯づたいの搦手から赤羽勢千五百が一斉に攻め下ったから戦局は一変した。城と運命を共にする覚悟を決めた加藤は城内の「容膝亭」と呼ばれる小亭に火をさけ、僅かな腹心達と別れの盃をくみ交し自刃して果てた。
首尾よく長島を落し、その城主に奥村新之丞を任じた氏善は錦浦一帯までを支配下に入れ、具教に数々の貢を献じて新宮に帰った。しかし、それから僅か一カ月後、武田勝頼に送った具教の密書を手に入れた信長は激怒して、信雄に具教の謀殺を命じた。
天正四年(一五七三)十一月末、具教やその一族重臣二十余人が信雄についた近臣達によって騙し討たれ、剣の名手で知られた具教も死闘の末に無惨な最後をとげる。
それを知った北畠家中は大騒動となった。翌年(一五七四)正月には奈良興福寺東門院主だった具教の末弟が還俗して北畠具親と称し、家の再興に決起した。伊賀の吉原将監らに助けられて伊勢に進攻する。
北畠一万余の家臣群は重代の主家に殉じて義を貫かんとする忠臣や、信雄について一旗あげんと野望を燃やす連中で内乱状態となった。具親勢は多気霧山城を始め、各地で奮闘を重ねつつも、大勢利なく、最後に残された川股谷の森城が落ちるや、義に固い伊賀豪族の尽力で伊賀神戸の我山(*1)に館を築き、北畠再興に努めた。しかし、これが信長の怒りを買い伊賀の大乱を招く導火線となるのである。

(*1) 我山城は三重県伊賀市上神戸字我山。最寄り駅は近鉄伊賀神戸駅。ほかに、三重県名張市奈垣に伊賀北畠具親城跡などがある。 
2 天正伊賀ノ乱 

 

2.1 凱歌編  
(1) 仁木長政は信長に従う
『伊乱記』に云う。
「それ伊陽は固偏の小国なれど京より僅か十八里、西は大川の利を帯び、東は東山の嶮に恵まれ沃野開けて五穀豊穣。然して人情淳朴にして華美に流れず正に天府とも称し得る秘蔵の国なり」
ここで改めて伊賀平氏の歴史を辿ろう。壇ノ浦で一門悉く滅亡したように云われているが、事実はそうでなく北伊賀には長田、服部、柘植の一族が根強く生残り、伊賀忍者で知られた六十六家の大半はその流れを引くと云っても良い。
中でも、有名な服部半蔵が徳川家康に仕え“鬼の半蔵”と愛されていた如く、上忍と云われる百地、藤林、千賀地家は各地の大名に乞われて傭兵契約を結んだ。特に鉄砲渡来後は雑賀、根来にも劣らぬ名人、上手が揃っていた。
伊賀在郷の彼らの日常は後の薩摩隼人の如く、午前中は稼業に励み、午後は忍びの鍛練に専念し団結を固めた。他国の大名守護の介入を許さず、
「伊賀侍は例え甲鉄の網をめぐらせた城にも安々と潜入し、高い壁や深い堀をも飛鳥の如くに飛び越す猛者揃い」と恐れられた。
然し信長が伊勢征圧に乗り出すや、時流の赴く先を察した上野の元守護、仁木長政(*2)は永禄十二.年(一五六九)七月、進んで信長に帰服した。信長も満足して
「今後とも伊賀の動きをつぶさに知らせて忠誠を励めば決して粗略にはせぬぞ」と約している。

(*1) いらんき。延宝7年(1679)に菊岡如幻(*1-1)が編述。天正9年の信長伊賀攻め(天正伊賀の乱)に、伊賀の諸豪が団結して立ち向かった概要を書き記したもの。当時の諸豪らがほとんど網羅されており研究文献としても評価が高い。
(*1-1) きくおかにょげん。1615〜1703。伊賀上野福居町生まれ。出自は清和源氏頼政の流れをくみ、島ヶ原菊岡村より起こったと伝わる。如幻は伊賀上野で質商を営む裕福な商家業を継ぎ、学問を好み、和歌をよくした。「伊乱記」の他に、荒木又右衛門の仇討ち実録「殺法法輪記」、伊賀の地誌「伊水温故(いすいうんご)」、民話を集めた「茅栗草子(しばくりそうし)」、大著「世諺一統(150巻)」などを著わす。また、「伊賀国忍術秘法」や「伊賀忍者考」という、伊賀忍術研究の論考もある。
79歳で没した如幻の墓所は、伊賀市九品寺。菊岡如幻生誕家の前に石碑がある。
(*2) 信長の北畠攻めに先んじ、滝川一益を介して信長に降る『新津秀三朗氏文書』。
(2) 伊賀天正の乱 / 前夜
二年後、元亀二年(一五七一)になるとさすが時勢にうとい豪族達も信長の信頼厚い仁木義視(*1)を伊賀守護に奉じ、十二人の有力豪族を評議衆に選んで国政に参画し、天正三年(一五七五)、北畠信雄(信長の次男)が当主となるやその傘下に参じた。
それだけに最近一部の豪族達が伊賀神戸・我山の北畠具親を助け、反信長派の六角承禎(*2)の娘を妻に迎えさせて再興に尽力している事が判れば信長の侵攻を呼ぶ事は必至である。仁木義禎が何とか思い止まらせんとしたのは当然であろう。
かねて和平派で知られた名張・比奈知の豪族・下山甲斐守、柘植の旗頭(*3)・福地伊予守らは天童山寿福寺(*4)の長老達に時勢の流れを説き
「このまゝでは五百年不乱を誇り神仏の霊場伊賀の郷土も必ず戦火に侵されるのは必定であり何とか和解の道を」と要請した。
長老達も
「先に協議の際に申し上げた通り、文武は両道であるのに最近の若い者は武に片寄って己の名さえ書けぬ者や、僧のくせに明け暮れ槍や刀を振廻して経文一つ読めず善良な里人から鼻つまみになっているのが目に立って何とも心配でならぬ」と色々と血気の荒僧や郷士らを慰め、信長の怒りを買わぬように努めていた。
幸い北畠の亡んだ天正四年(一五七六)は事なく済んだ。

(*1) にきよしみ。伊賀守護として、元亀二年(1571)織田信長の支援を受け、伊賀に入国。しかし、国内に割拠する土豪をまとめきれずに、天正六年(1578)伊賀を追放され甲賀に逃れた。信長の家臣団には「長政」の名があるが、仁木義視と同一人物かは不明。
(*2) ろっかくしょうてい。隠居後の名前。本名は義賢(よしかた)。南近江の守護大名・戦国大名。観音寺城主。第13代将軍・足利義輝らを助けて三好長慶と戦い敗戦。義輝を京都に戻して面目を保つ。従っていた浅井長政が反抗し大敗。重臣惨殺事件で一度観音寺城から追われている。信長の援軍要請を拒絶して大敗。甲賀に逃げ、六角家は滅亡。足利義昭が信長包囲網が形成すると、義賢は仇敵の浅井長政らと結んで戦うが敗れて降伏。監禁されるが信楽に逃亡。その後は不明だが、秀吉が死んだ年に義賢も死去。享年78。
(*3) 集団を率いる者。はたがしら。
(*4) 天童山寿福寺。三重県伊賀市神戸。丸山城跡が近い。最寄り駅は近鉄丸山駅。なお丸山城跡は三重県伊賀市下神戸字坂田。最寄り駅は近鉄丸山駅または上林駅。 
(3) 伊賀守護の仁木義視が追放される。
天正六年(一五七八)になると硬派の代表とも云うべき長田の百田藤兵衛が家重代の家宝である仏像を仁木が返さないのに腹を立て館に押かけて追い払うと云う事件が勃発した。
それを知って上野平楽寺(*1)に集った評議衆は名張の滝野十郎、長田の百田、朝屋の福喜田、木興の町井、河合の田屋、音羽・島カ原の富岡、依那具の小泉、比土の中村、西ノ沢の家喜、布生・下阿波の植田の面々である。いずれも仁木の汚いやり方に腹を立てて百田に味方して、長老達の反対を押切り、
「以後は織田の息のかかった国司などは無用じゃ!」と自主独立体制に戻してしまった。これは何とも時代の流れを知らぬ愚策であったと言わざるを得ない。
命からがら伊賀を脱出した仁木は直ちに安土に参上して信長に伊賀郷士共の驕慢を色々と針小棒大に訴えたに違いない。信長も激怒したろうが、彼を取巻く周囲の情勢から見て、迂闊に手を出して豹悍で聞えた伊賀忍者共に名を為さしめては算盤に合わぬと感じたらしく、暫くは何の動きも見せていない。

(*1) 平清盛の発願で建てられたという。天正伊賀の乱で焼失。天正13年(1585)伊賀一国の領主として移ってきた大和郡山城主・筒井定次が、平楽寺や伊賀国守護・仁木氏の館のあった跡に新城を築いた。 
(4) 雑賀孫市が信長に勝つ
当時すでに三百万石を越える所領を得ていた信長には伊賀十万石は問題ではなかった。それよりも、石山本願寺の難攻不落ぶりに手を焼いた末に
「作戦を変え戦力の根元である雑賀党を鎮圧する事が先決である」と太田党(*1)や根来の杉ノ坊(*2)を口説き落して味方につけた。
天正五年(一五七七)二月、信忠(信長の嫡男)、秀吉、滝川らの名だたる武将が五万の兵を率いて紀伊に進攻した。
三月になると信長も太田党の先導で紀三井寺山麓に陣を進める。大田、根来衆の裏切りを知った孫市は先代以来の縁も深い堀内ら熊野衆に急使を飛ばせて援軍を乞うた。堀内氏善の妾腹の長男・氏治が快速鯨船に乗じて雑賀城に入り、三月三日、戦端は紀ノ川の支流雑賀川で切って落された。
かねて孫市は雑賀一帯の城々の守りを固めると共に、雑賀川に大樽を沈め乱杭を張りめぐらしていた。大軍を頼んで強行渡河にかかった織田軍を河中で痛打したので、さすがの信長もさんざんな目に逢い辛うじて大田城に逃げ込むと云う大敗北を喫した。
「孫市めがやり居るわ!」と口惜しがったと云う。
緒戦の快捷に孫市は味方の志気を高めるべく産土神の矢ノ浜八咫烏神社の社前で大祝宴を開き、根来の杉ノ坊との一騎討ちで傷ついた足で跳びはねながら
「アラ有難や嬉しやな、法敵滅び宗門は末広がりに御繁昌、跛の足をひきずりて扇子かざして跛踊り。」と歌い、
「あたかも狂える如く刀を杖に弓、鳥銃を打ちふり旗差物をかざして舞う」と『紀伊名所図会』は云う。

(*1) 雑賀衆の一部グループ。雑賀衆は「鉄砲傭兵集団」であるが、「一向宗」の信者が多く、本願寺の要請を受けて織田家の軍勢と戦った。しかし一部の雑賀衆と真言宗の「根来衆」は織田側を支援した。つまり雑賀衆は1「雑賀孫市」が率いる本願寺派と、2「根来衆」に近い織田派の雑賀衆に分裂していた。1を「雑賀党」、2は、太田定久とその一族がリーダーとなっていたため「太田党」と呼ぶ。
(*2) 石上姫丸城を参照。 
(5) 雑賀孫市が信長に負ける
然しながら孫市の上機嫌も長くは続かなかった。何と云っても秀吉以下錚々たる武将を擁する五万の織田勢と大田、根来の鉄砲隊との連合軍である。三月十日には紀ノ川左岸の要衝・中津城が落ち、続いて甲崎、東禅寺の各城も次々に陥落した。それを憂えた毛利の小早川隆景(*1)より堀内氏善宛に
「今度信長が雑賀に打って出て城を包囲せるに就き、将軍義昭公よりも各国将兵を率いて尽力するよう下知あり、輝元も出陣する覚悟なれば貴殿にも上意に応じ雑賀に一段と力を副へられ忠義を尽される事が肝要。」との一書を送っている。
然し戦局は一段と悪化して雑賀本城も危うくなり、さすが日本一を誇った雑賀鉄砲集団も「このまゝでは壊滅」と思われた時である。かねて彼の人柄に惚れ込んでいた豊臣秀吉が懸命に
「ここは一時開城して四海に名を轟かせた雑賀党を天下の為に役立てよ」と説いた。宇治槇島城主として攻撃に加わっていた井戸良弘もかねて孫市とは交友があった縁からそれに尽力し「二度と叛かない」と云う条件で降伏させた。孫市が所領安堵されているのは、信長自身が孫市の豪快な男ぶりを愛したからと思われる。

(*1) こばやかわ たかかげ。毛利元就の三男。隆景の小早川氏と、元春の吉川氏の両家が、本家である毛利氏を支えたことから、両家は「毛利の両川」と呼ばれた。しかし隆景の死後、後継者が無く、家中の分裂と関ヶ原の戦い不戦敗により、防長2国への減封となる。 
(6) 松永弾正が爆死する
信長の実力は遠い紀州へ五万の大兵を遠征させる程だった。それを見て伊賀の支配者らは「以て他山の石とすべきであった」のにその好機を逸したのは残念だが、それには大和の松永弾正の叛乱が起きた為でもあるらしい。
松永弾正が三度目の叛旗を翻したのが天正五年(一五七七)の夏である。信長は三度も叛かれながら、それでも弾正の肚が判らず説得使を出している。信長は案外お人好しの面があったようだ。
けれども弾正は頑として聞かず、やむなく信長は幼い人質の兄弟を六条河原で斬りすてる。同年十月には信忠を大将に羽柴(秀吉)、明智、筒井、井戸ら五万をさしむけた。良弘らは北葛城の片岡城(*1)に籠る敵勢を一日で落し、弾正のいる信貴山に向った。
信貴山城は三年の籠城に耐える兵器弾薬食糧を貯えていたと云われる。順慶は、弾正が石山本願寺に援軍を乞う使者を走らせたのを知って、数百の手勢を援軍に偽装して入城させた。そして十月十日の夜に放火した為に豪装な毘沙門堂を始めすべてが落ちた。
それは奇しくも弾正が大仏殿を焼いた十年前と同じ日であり、石ノ上城で殺された愛娘春姫の十七回忌に当る。それを知った良弘は、「因果は巡る」の実感をかみしめながら一段と猛攻を続けた。
弾正は僅か十日しか保たなかった城の悲運を嘆きながらも、信忠が
「平蜘蛛の釜を差出せば命を助けよう」と云う矢文を手にして
「先に九十九茄子をまき上げられたが釜だけはやるものか。わしがあの世まで持ってゆくわい」とせせら笑い、病い圧えの灸をうって天守もろとも爆死したのは有名である。
その火を眺め、良弘は改めて娘の成仏を祈ったことだろう。

(*1) 奈良県北葛城郡上牧町下牧。最寄り駅はJR和歌山線畠田駅。案内板の北側にある雑木林と畑が城跡。片岡城は、室町時代に片岡氏が築く。片岡氏は、筒井氏としばしば戦うが、筒井順昭の娘を娶り、筒井一門に。後、松永久秀と戦い落城。松永が織田を裏切ると、明智光秀によって攻められ落城。 
(7) 北畠信雄、伊賀に丸山城を築く
天正五年(一五七七)の十一月には久しぶりで戦塵をすすいだ筒井順慶が盛大な若宮祭りを催した。
これには槇島の井戸良弘も招かれた。奈良の町は沸き返り、人々は昔懐かしい矢鏑馬にどよめき、宵には薪能が上演されて観世、宝生の名手に交り、順慶や良弘もそれぞれ得意の狂言を舞って興をそえたと記されている。
かねて子のない順慶は光秀の次男・乙寿丸を養子にと望んでいたが、
「長男光慶が弱いでのう」と仲々承知して呉れないので福住家から定次を迎えたのは此頃である。
明けて天正六年(一五七八)の新春二月、伊勢田丸城(*1)の庭園の梅や桃が美しく咲き匂う中に新国主・北畠信雄に目通りを許された名張・比奈知の豪族・下山甲斐はつぶさに伊賀の実情を語ると
「まことに強勇愛すべしとは云え、井の中の蛙の彼らに信長公の大志を知らせる為にも先年具教公が手をつけられていた丸山城(*2)を完成し伊賀鎮護の拠点となさいませ。身共及ばずながら先手となりましょう」と進言した。
信雄も去年熊野征伐に失敗しているだけに大いに乗気となり、直ちに築城に取りかかった。その大将となったのが北畠一門でありながら織田の家老・滝川一益の婿となって滝川三郎兵衛と名乗る才子の源浄院(*3)で里の郷士達には
「伊賀の平和と威勢を示す」と称して盛んに銭をまく。昼夜をとわぬ突貫作業で、六月に入ると豪華な三層の天守閣も姿を見せ始めた。

(*1) たまるじょう。三重県度会郡玉城町田丸字城郭。南北朝時代に南朝方の拠点として北畠親房、北畠顕信によって築かれたといわれる。戦国時代、織田信雄の居城として天正3年(1575)に改築され、三層の天守を備えた城へと生まれ変わるが、5年後に火災で天守を焼失。その後、蒲生氏、稲葉氏、藤堂氏と主を移し、最終的に紀州徳川家の治める紀州藩の所領となる。かつての城内に、玉城町役場および玉城町立玉城中学校がある。
(*2) 丸山城跡は三重県伊賀市下神戸字坂田。最寄り駅は近鉄丸山駅または上林駅。
(*3) げんじょういん。はじめは源浄院主玄。僧侶として木造家に仕える。滝川一益に才能を見出されて還俗、一益の娘婿・滝川雄利(たきがわかつとし)となる。信長の命で織田信雄に仕える。北畠具教暗殺、天正伊賀の乱に関わる。天正伊賀の乱の際、伊賀の豪族を調略し結束力を弱め、織田軍の大勝利に貢献。 
(8) 伊賀の諸豪が、丸山城を乗っ取る
伊勢大湊で、信長の発案した世界最初の鉄装艦が次々に竣功していた頃である。全長二十二m、幅三m、大砲三門を備えた新鋭艦六隻が海を圧して威風堂々と大坂をめざし進航して行った。もし伊賀の強硬派がその目で見れば考えも変ったかもしれない。大海を知らぬ郷士達は噂を聞いて「鉄の船なんぞ浮ぶ訳があるかい」と気にもかけなかったらしい。
備後の毛利へ援軍依頼の旅から帰った北畠具親は、次第に威容を増す丸山城を見て
「これこそ織田の伊賀征服の一歩!」と警鐘を鳴らした。秘そかに寿福寺に集まった評議衆は
「伯父・具教を殺し、滝川の婿になって権勢を驕る源浄院の生臭坊主めに、父祖の地を汚させてはならぬ。城の完成せぬ前に一気に乗っ取れ」と決議したのは時の勢いであったろう。
十月の早暁、百田藤兵衛を大将とし神戸の長浜、比土の中村、猪田の森田一族が猛烈な攻撃を開始し。伊勢でも勇将で知られた野呂彦右衛門や湯浅兵部ら大半を討取って高らかに凱歌を轟かせる。
「高が知れたる田舎郷士め」とあなどっていた滝川三郎兵衛(=源浄院)は城を捨てて生命からがら伊勢路を逃げ落ち、勢いに乗じた郷士達は完成したばかりの丸山城を焼き払って快哉を叫んだ。
評議衆は
「城はすべて焼き払い武器や食糧弾薬は公平に分配する。この勝利に驕らず兜の緒をしめよ」と布告しているが、覇者信長に戦いを挑んだ以上は万全の備えを整えねばならない。それなのに防戦の拠点となる城をむざむざ焼いてしまった。
この事からも当時の評議衆に優れた戦略家を欠いた事が惜しまれてならぬ。 
(9) 荒木村重が、信長に謀反を企てる
それにしても天正六年(一五七八)は信長にとって不運な年で、春には播磨の別所長治が裏切って中国征伐に向った秀吉の足をすくう。秋になると摂津守護に抜擢した伊丹の荒木村重(*1)が
「秘そかに本願寺に内通している」と云う飛報が細川藤孝から入ったから、さすがの信長も「寝耳に水」と驚いただろう。
そこに伊賀天正ノ乱の序曲とも云うべき丸山城陥落の悲報を知ったから、持前の赫怒癖に襲われたに違いない。
然も荒木村重の嫡男に光秀の長女を嫁がせたのは信長である。
「下手をすると取返しがつかぬ大乱にもなりかねぬ」と、信長は急ぎ上洛して光秀に
「予としては村重がそんな不埒な事をする筈もないと思うが確かめて来い」と命じた。
光秀も驚いて伊丹城に急行し、秀吉の方からも黒田官兵衛(*2)が駈けつけて説得に当った。それで荒木も母を人質として安土に参上する旨を誓った。光秀が喜んで信長に報告したのが十月二十日で、それを聞いた信長もホッとしたらしい。
然しながら村重は中川清秀(*3)から
「信長公は虎狼のような方じゃ、長年の功臣でも意に従わぬ時は容赦なく斬りすてるのが常である」と反対されるや再び気が変った。
石山本願寺には
「信長の所業は許せぬ。我たとえ一人になろうとも必ず誅すべし」との書を送り、毛利には
「有岡城で二カ月は支えるから早々に弾薬と兵糧を送って望しい」と密書を出して城の防備を固める。

(*1) あらきむらしげ。武将・大名。利休七哲のひとり。明智光秀より4年前に織田信長に反逆した武将として有名。先祖は藤原秀郷。
(*2) 本名は黒田孝高(くろだ よしたか)。武将・大名。豊前国中津城主。通称の官兵衛、並びに出家後の如水の号で有名。豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。ドン・シメオンという洗礼名を持つキリシタン大名でもあった。
(*3) なかがわきよひで。武将。子に秀政、秀成、糸姫(池田輝政の先妻)。妹は古田織部の妻。出自は清和源氏頼光流の多田源氏の後裔であると称した。 
(10) 荒木村重の一族は滅亡する
そうとは知らず信長は、折しも鉄装の九鬼艦隊が和泉沖淡ノ輪で本願寺方の水軍を一蹴して堺港に入港したのを知って大いに喜び、公卿達を引連れて見物に出かけている。
やがて十一月六日、毛利水軍六百隻が木津川口に接近し、本願寺へ武器と食料補給にやって来た。それを知った九鬼勢は直ちに出撃すると、敵の得意とする「ほうろく弾」など物ともせず、僅か六隻の鉄装艦に備えた十八門の大砲でその殆どを撃沈した。さしも歴史を誇る瀬戸内の村上水軍(=毛利水軍)も顔色なくあわてふためき敗走していった。
鉄装艦の快勝を知った人々は目をむいて驚いた。外人宣教師さえ世界初の鉄艦隊の勝利を本国に急報し、天才児・信長サマの偉業をビッグニュースとして「名にし負う熊野海賊の樹立した輝かしい新兵器の脅威」を賛えている。
やがて村重の心変わりを知った信長は、直ちに村重の両腕である中川と高山に書を送り、“返り忠”をすれば、摂津一国を約する。それと共に、宣教師オルガンチーノを呼び、
「キリシタンの教えを守り主君に叛いてはならぬと説得せい」と命じた。
果せるかな両人は忽ち降伏し、村重一族は悪戦苦闘の末に滅亡。ひとり村重だけが尾道に逃げて生恥をさらす結果となる。
もし村重が光秀の切なるすすめを守れば後世まで千載の汚名を残し、罪もない女房子供を尼ケ崎の松原で『信長記』が伝える
「百余の女房らが悲しみ叫ぶ声は天にも響きこれを見る人三十日の間は身に忘れやらず。更にこの女房に仕えた五百余人を小屋に閉じこめて大焦熱にむせび苦しむ様は地獄の獄卒の呵責にも勝りてふた目と見る人もなし」との惨劇は起きなかったろう。
そして光秀にとっても村重が与力でいれば、本能寺の変後も旗下の中川、高山らの二万は揃って光秀勢に参じたに違いなく天王山の勝者は彼であったかも知らぬ。 
(11) 伊賀の諸豪が、信雄に勝つ
それにしても秀吉が主君の世界的発明を活用して大艦隊を編成し、後の朝鮮の役に用いればアジアの歴史は大きく変ったかも知れないのにと惜しまれる。
世界海戦史を彩る木津川に於ける九鬼水軍の完勝が畿内一円にも広く伝えられていた天正七年(一五七九)の春、さすがの一向坊主共も闘志を失って見えたので信長は久方ぶりに信雄の軍役をといて帰国させた。
地震、雷、火事より百倍も恐い親父の目を逃れて松ガ島で連日遊宴を楽しみ戦塵を落した信雄は一息入れると去年の伊賀丸山城で手痛い惨敗を喫した口惜しさを思い出し、この機会に伊賀一国を我が一手で切り取って父を喜ばせてやろうと思い立った。
かくして血気に逸る信雄が
「今度こそ伊賀忍者で聞こえた凶徒共を皆殺しにせん」と勇み立ち、一万余の兵力を挙げて田丸城を出陣した。第二次の戦いは天正七年(一五七九)の秋半ばに始まった。
信雄の作戦は全軍を三手に分け信雄本隊八千は長野峠から、右翼隊千五百は柘植三郎左衛門が榊原から鬼瘤越えに向い、左翼千三百は秋山右近が率いて青山峠から初瀬街道をめざすと云う計画だった。
処が今度も三千に満たぬ伊賀勢の思いも寄らぬ奇襲や反撃に大敗し、柘植以下数千の死傷を出し、命からがら城に逃げ帰ると云う大惨敗でそれを聞いた信長は激怒して
「そもそも此様な大戦を予に一言も知らせず勝手にやるとは怪しからぬ。我らが直面して居る摂津表の戦いは天下統一の為の大事な一戦で何よりも先にこれに協力するのが父や兄に対する第一の奉公である。それを遠い上方への出陣は難儀じゃから手近な伊賀で手柄を立て、お茶を濁そうと云う魂胆が若気の至りとは云え何とも思慮の足りぬ奴よと無念至極でならぬ。その上に柘植三郎左の如き大切な勇将を討死させ、己だけ醜く逃げ走るとは全く言語道断の振舞。これでは一生親子の縁を切る外はあるまいぞ!」と千雷の落ちるように叱責された。その上、完成したばかりの田丸城が、使い込みのばれるのを恐れた金奉行の放火で全焼する、と云う災難続きに、信雄はしょげきって謹慎した。 
(12) 石山本願寺が、信長に降伏する
やがて天正八年(一八五〇)三月、頼みとする雑賀衆と毛利水軍が敗れて補給を断たれた石山本願寺側は遂に
「信長の要求に屈して石山を去る事が宗門の生き抜く唯一の道である」と決したが、光佐顕如(*1)はそれにしても長島に於ける信長の卑怯な行動から見て天皇の勅命を賜って開城する事が安全と、それ(=勅命)を要請した。
然し長男の教如は
「石山本願寺は蓮如聖人以来の霊場で十一年間仏敵に一歩も踏ませていない。今になってこれを捨てる事は全国数万の殉教者の死を無駄にする事になり余りにも無念である。例え勅旨を賜っても安心は出来ぬ、必ず信長の謀略にかかり取り返しのつかない結果となる事は明らかで絶対に承服出来ませぬ」と力説してやまない。
やがて勅使が到着し、処置に窮した顕如は涙ながらに教如を義絶して弟の淮如光昭を嫡子として石山を去った。
いっぽう教如はあくまで石山に籠城し続けたが、抗戦派の信徒達は次第に軟化して孤立状態となり、天正八年(一八五〇)八月遂に石山を去る。其際、失火か放火か本願寺が全焼してしまったので怒った信長は厳しくその行方を追求した。
教如は各地を転々としながら尚も再挙を計ったが、遂に進退に窮し、側近の者達とも別れて只一人乞食坊主のような姿で雑賀に潜入すると、孫市に救いを求めた。
これより先、顕如夫妻や次男・淮如光昭の一行も孫市に迎えられて紀伊に落ち、鷺ノ森御坊で安らかな日々を過ごしている。顕如から頼られると根が権力に媚びぬ反骨を誇る孫市だけに彼らを雑賀崎の鷹巣洞窟にかくまい追手から守り抜いた。だからこそ今日の東、西本願寺が生れるのである。
漸く十年がかりで本願寺を降伏させた信長はその責任を家老の佐久間信盛(*2)父子らにありと二十五万石を没収して高野山に追放。多くの家臣が続々と彼を追うのを見て、更にそこも許さず、彼らはやむなく熊野に逃げる。その哀れさを見て人々は信長の非情を憎んだ。

(*1) けんにょ。1543〜1592。本願寺第11世門主。諱は光佐。
(*2) さくま のぶもり。1528〜1582。武将。織田信長の家臣。佐久間氏の当主。出羽介、右衛門尉。子に佐久間信栄、甥に佐久間盛政、佐久間安政、柴田勝政、佐久間勝之。 
(13) 信長は順慶に指出検地を命じる
その夏、久しぶりで大和に帰った順慶は信長から
「全土の釣鐘を徴発し鉄砲を作れ」との厳命に続いて
「郡山城の他の城はすべてこわせ、すべての田畑を指出検地し報告すべし」との命に頭を抱えたようだ。
けれども「検地、城割り、兵農分離」は信長の基本政策で否応もなく、やがて明智光秀を奉行とする審査が実施される。指出検地とは書類で提出するのだが、若し偽りを書いたのが判ると容赦なく没収、皆殺しと云うので大和一円は大恐慌だった。
幸いその結果は順調で、順慶とその一門領十六万石、外様大名十三万石、寺社領三石、郷民他四万石、計三十六万石が認められた。
寺社領については信長からも「特に適正にやれ」との指示があった。興福寺一万五千石、東大寺二千石がそのまま認められたが、高野山領の槇尾寺(*1)は拒否して焼払われた。高野山は天皇に訴えたがどうにもならず、それを知った信長は怒って高野征伐を計画した。大将に信孝、参謀長は堀秀政と云うメンバーで着々と準備が進められていた。
処が秋に入った頃それを延期したのは
「山また山の高野よりも京から十八里しかない伊賀を先にやるべし」と変ったらしい。伊賀にとっては大災難だが、然しそうなるのは当然とも云えよう。
従ってそれが決った天正八年(一八五〇)秋から翌年夏までが伊賀にとっては最後の講和のチャンスであった。

(*1) 施福寺(せふくじ)。「まきおでら」は通称。天台宗。大阪府和泉市。槇尾山の山頂にある。空海の髪の毛を切った場所(愛染堂)やその髪の毛を飾っている祠がある。堂内には愛染明王像を囲んで勤操と空海の像が安置。織田信長に焼かれる前は山岳仏教の一大修行地で、行基も修行を行った。現在の本堂は豊臣秀頼が再建。 
(14) 信長は、謎の熱病に伊賀攻めを阻まれる
しかし、それとも知らぬ伊賀の里には昔ながらの長閑な天正九年(一五八一)の初春が訪れる。そして二月に入ると安土では豪勢な大馬揃が光秀の指揮下で挙行され名馬二万頭、将兵見物十余万で賑わった。
天皇はその豪勢さに舌をまき、式が終ると「左大臣昇進」の勅使を派遣したが、信長は喜ぶ処か、
「かねて提案している皇太子への譲位が実現したら受けましょう。」と木で鼻をくくったような態度に朝廷内は大騒動となった。
それを他人目に信長は「伊賀のなで斬り」を実現する決心を固めた。というのは秘かに大馬揃えを見物した伊賀豪族の福地伊予、耳須弥次郎らが内応を申し出たからだ。それを聞いた彼はニンマリと笑い、四千と算定した「伊賀栗の実が熟れたような」伊賀侍の十倍を越える大兵力で一気に叩きつける短期作戦を練った。
出陣は五月始めと予定されていたが、信長が城を出ると俄に熱病に襲われ、七転八倒の重態となり、都の名医を招いて診察させても病の正体がよく判らない。
さすがの信長も気力が衰え、側近の森蘭丸に
「お蘭よ、こんな事を云うのも気が進まぬが、実は伊賀攻めを決めてより毎晩の如く夜叉にも似た翁めが枕元に立ちよって『伊賀攻めを止めよ』と睨みつけくさる。『何をほざく!』と一喝しようとしても凄しい眼光に五体も金縛りになり遂には気を失ってしまう有様で我ながら情けないぞよ」と洩らす程となったらしい。
それを聞いた蘭丸は「こわ只事ならず」と感じて、有名な占師に祈祷させ病魔退散に心を砕いた処、七月になって漸く健康になったので再び安土を出陣した。
然し半里も進まぬうちに又もや大発熱で失神して安土に引返すと云う始末である。 
(15) 伊賀一ノ宮敢国神社が封じられる
困り果てた家臣達は近衛関白に懇請して朝廷の神祇官取締役である吉田家の筆頭を勤める占部朝臣に祈祷を願った結果、正体は伊賀一ノ宮敢国神社(*1)の主神らしい事が判った。
そこで直ちに神霊の怒りを封じる古代からの秘法を講じる事となり、七月末に勅使となった占部朝臣が伊賀をめざして出発。清浄な白布百反を馬につんだ一行が敢国神社に到着したのは涼秋八月の始めであったと云う。
驚き迎え出た宮司達を
「畏くも帝の勅命である」と、偉丈高に脅しつける。定められた修法通り白布で神殿を幾重にも包み込むと、拝殿の〆縄や神具一式を除き、由緒深き古代勒(*2)を軒端に吊して神威封じの儀式を行った。
物々しい修法に何も知らぬ神官や氏子総代らは只々恐れ怪しむのみであったのを
「七日の間はいささかも手にふれてはならぬ、もしそれを破れば神罰により忽ち一命を失う事は必定。」と脅しつけて都に帰った。占部朝臣は蘭丸を招き
「修法を終えたからもはや心配御無用と思われるが、何とか総大将は余人に命じられるほうが安心であろう」とすすめる。
それを聞いた信長は常々
「己の目で見ぬ限り何物も信じぬ」と豪語するのを一変して自ら出馬する計画を中止した。九月始め、信雄に伝家の名刀「藤四郎」の短剣を授けて、総師に任じる旨を内示すると諸将に登城を命じた。

(*1) あへくに。三重県伊賀市一之宮877。御祭神は、大彦命、少彦名命、金山媛命。
(*2) 勒は、くつわ。 
2.2 血戦編  

 

(1) 信長は、全軍五万を配置する
天正九年(一五八一)九月二日、安土城の大広間に旗下の諸将を参集した信長は凛然として
「かねて伊賀の凶徒共は余の天下布武の大志をさまたげたるばかりか、常々より驕奢を極め無道の沙汰を改めぬ振舞は誠に奇怪至極であり、今度こそは断呼討滅する。凡そ僧俗、男女の区別なくすべて些でも抗する者はなで斬りにし、一人も容赦するべからず。全土を焼き払い天下にその酬いを示せ」と秋霜厳烈の出陣を令し、全軍の配置を次の如く明らかにした。
(1) 伊勢口…総大将 / 北畠信雄(兵力・一万)
(2) 柘植口…参謀長 / 丹羽長秀(兵力・一万四千)
(3) 甲賀口…将 / 蒲生氏郷(兵力・七千)
(4) 大和口…将 / 筒井順慶(兵力・三千七百)
(5) 多羅尾口…将 / 堀 秀政(兵力・二千三百)
(6) 初瀬名張口…将 / 浅野長政(兵力・一万)
総計 四万七千人
当時の天下布武をめざす信長の支配領土は四百万石を越え、総兵力は十三万人と云われるからその三分の一を投じた訳である。彼が如何に伊賀武士を高く評価していたかが判り、逆に和を求めれば容易に道は開けたと云えよう。
情報網の整った伊賀郷士達だけに信長勢の来攻はその春以来広く伝えられて居り、中でも甲賀の多羅尾光俊から、去年の夏以来、深くつながりのある島ヶ原郷士衆に大勢を説いた懇切な手紙が届き、和議に合力を要請されていたらしい。
然し強硬派の多い上野、名張の郷士達は、織田の主力・柴田は北陸、羽柴が中国、明智は丹波平定に苦斗している現在の情勢下で大挙襲来の恐れなしと甘く見ていたようだ。 
(2) 伊賀衆は上野平楽寺で軍議を開く
「織田軍五万、七道より進攻開始」の大凶報が伊賀に届いたのは同年九月七日で、直ちに上野平楽寺で評議衆の軍議が開かれる。
十二名の評議衆の筆頭に押された名張の滝野十郎が日頃の温顔に沈痛な色を浮べて敵の状況を語ると、常々から硬派で知られた長田の百田藤兵衛や森田、小沢や、久米の菊岡らもさすがに腕をくみ、天井を睨むだけであった。
評議の細部は残されていないが、島ヶ原の代表である富岡忠兵衛らは一統の合議として
「我ら郷士は民を安んずるのが第一の役目であり、勝てぬ戦さはさけるべし」と和を説いても、タカ派は尚も徹底抗戦を叫び
「勝敗は度外視して末代まで家名を汚さじ」と怒号し論争は深夜まで続いた結果。
「信長勢と我らを比べれば九牛に一毛の大差があり、万に一つの勝算もないが、義をすて降を乞うことは父祖の名を汚すものである。よって正々堂々最後の一兵まで戦い抜き名を千載に止めん。元より一期の戦いであるから各々思いのままに心置きなく戦って花の如く散るべし」と云う決議となった。
その意気たるや正に壮なりとは云え、孫子の云う
「兵は詭道にして国の大事、存亡の危機なり。凡そ敵を知り己を知って初めて勝敗を知る。その基本は次の七則をつまびらかにすべし。主君の道義心。将の能力、天地の利、法令の厳、兵数の大小、兵卒の練度、賞罰の明らかなることこれなり。彼我を比較して“勝算”なくば、断じて戦うべからず。」の大原則にそむいている。さらに「義」の為に戦うと決した以上は、勝つべき戦略を練り上げ、全軍が一糸乱れぬ作戦計画に従って勝利への血路を開かんと奮闘努力せねば「やるだけやった!」とは云えない。かつて正成公が、金剛山千早城の嶮により奇想天外な戦法を展開してねばり強く戦い抜いたからこそ、僅か千余の兵で北条十万の大軍を撃破し得たのである。
我に十倍の大敵に対し、各自が好き勝手に戦っては伊賀勢が如何に勇猛なりと云っても所詮勝利は望み得ないのを知りつつも敢えて戦いを望んだその心底は悲壮としか云えない。 
(3) 信雄は、伊勢路より東禅寺を無血占領する
かくして天正九年(一五八一)九月二十七日、天高く馬肥ゆる秋風をついて歴戦の織田軍五万の将兵は百、千の馬印をなびかせ、きらびやかな甲冑の金具を鳴らしつつ、恰も時雨に急ぐ雲のように旗鼓堂々と七道から伊賀の国境へ雪崩こんだ。
先ず東方伊勢路の戦局を眺めれば、総大将信雄の一万余は全軍一丸となって隊伍堂々と大峠を越え、夕刻には伊勢路の東禅寺を無血占領している。そこを本営とし、厳しく哨兵を配置して
「明日こそは二年前の怨を晴さん」と気負い立った。
これに対して伊賀勢は、前回の勝利の作戦通り、第一線の掛田城の富増、柏尾の本田、別府の城、岡田、勝地の勝木、奥鹿野の羽柴の勇将らは思い思いに父祖伝来の砦に立籠った。防備を固め、社寺の宝物は山中に埋めて敵の迫るのを待受ける。
作戦本部となった天童山寿福寺には郷士、僧兵の他に多数の女、子供や老人達が避難して炊出し、武器弾薬の補給に懸命となっていた。中には伊勢路に到着した敵の余りの大軍と安土から派遣された百戦錬磨の軍監達の迅速な指揮を見て
「こりや一つ処に固まらんと、とてもじゃないがどうにもならんぞ」と勝手に砦を捨てて第二線に退却する者やら、逆にどうせ死ぬなら父祖の地でと最前線に駈けつける者などが入り乱れて大混乱を呈したらしい。 
(4) 滝川一益は、伊勢路より奥鹿野〜老川〜種生を焼き尽くす
翌二十八日早く、伊勢路の本陣では一万の軍を三分して滝川の率いる三千が奥鹿野から老川、種生方面に向う。日置、長野らの三千が比自岐、丸山城へ、残りの四千は信雄が直率して阿保から美旗の参宮道を西進し、前回とはうって変った凄しい斗志で襲いかかる。
忽ちにして掛田砦は百雷の轟くような銃声に包まれた。奥鹿野の久昌寺は猛火に焼け落ち、大村神社や天童山にかくれていた里人や女子供達までが容赦なく殺傷される。神社や寺の内陣、外坊から庭園、泉水まで紅葉を散らしたような血潮に彩られた。
その凄しさに猪田神社を守っていた福岡一族は一斉に比自山に退却して猫の子一匹も見えず、勝ち急ぐ寄手はそのまま進んだので奇跡的に戦火を免れた。また老川極楽寺の本尊が滝川の手で松ガ島城に戦利品として運ばれた為に戦火をさける事かできた。しかし、それ以外のすべてが灰塵と帰し罪もない神官僧侶までが悉く首をはねられた。 
(5) 丹羽長秀は、北伊賀より加太〜柘植七郷に進み、柏野城を落とす
続いて北伊賀に目を転じれば九月二十七日、一万四千の大軍を関の地蔵に集結して陣容を整えた織田軍の参謀総長・丹羽長秀は、内応した福地伊予守の案内で、延々長蛇の陣をなし、加太から伊賀唯一の石垣造りの福地城へ入る。「大軍に切処なし」の諺通り一兵も損せず柘植七郷に進出する。
かねてから和平論者であった柘植の福地や川合の耳須に対しては硬派の田屋掃部介と音羽半六らが
「どうも織田の間者らしい行商人がしきりと出入りしている」との噂で厳しい監視の目を光らせていた。しかし、一戦にも及ばず敵に降伏するとは思わなかったらしく柏野城に集まった上柘植の富田、満田、中村、中柘植の西田、島、下柘植の松山、西川の郷士達は追捕刀(*1)で城に入ると懸命に戦ったが、所詮は衆寡敵せず半日足らずで落城。
意気揚った寄手は霊山寺の大伽藍に放火し、里人は僅かな食糧だけを肩にして山中に逃走したものゝ馴れぬ野宿に病いとなり木の根、岩角に力尽きて倒れる者が算を乱したらしい。

(*1) おっとりがたな。武士が危急の場合に刀を脇に差す余裕もなく、手に持ったままの状態をいう。緊急の場合に取るものもとりあえず駆けつける様子。 
(6) 滝川一益は、春日山を攻めあぐねて大山田に迂回する
柏野城を落した滝川一益は春日山に向い、丹波勢は伊賀国府の置かれていた御代、新堂へ進む。土橋の長橋寺は郷士の評定所や鉄砲練習所のあった軍事拠点だったから激戦となった。原田木工之助と云う豪勇の士は織田勢十余人をなぎ倒して奮死、寺は天を焦がす業火の中で灰塵に帰した。この時、芭蕉の祖父も討死したと云われ
月さびよ、明智が妻と 話しせむ。
の句が残っている。
滝川のめざした春日山には、御代の中村丹後を主将に、西の沢の家喜を副将にして川東の清水、本城、川西の福西、谷村。外山の徳山や新堂の佐々木、金子らの猛者揃いであった。そこで滝川は全軍に対して
「ここに籠った奴らは頼朝公さえ手を焼いた程の勇士の子孫共じゃ、一人残らず皆殺しにして末代までの禍の種を除け」と先頭に立って攻め立てたが、城兵は評議衆でもピカ一の中村に指揮された強兵揃いだけに、さしもの滝川も攻めあぐんだ。
やむなく大山田に迂回し、平田鳳凰寺を抜いて背後から攻める事にした為に丹羽・滝川勢は比自山決戦に出遅れる事になるのである。 
(7) 蒲生氏郷は、甲賀口より友田雨請山城、田屋の砦を落とす
さて北方の甲賀口から南下したのは織田きっての勇将蒲生氏郷で、耳須弥次郎の先導で玉滝寺に本営を置き、脇坂、山岡らを併せて七千の総力を挙げて猛攻した。
これに対する伊賀勢は、友田雨請山城に集った上忍・藤林長門に山門左門、山尾善兵衛ら勇将揃いである。織田軍が名題(*1)の大鉄砲隊の筒先を揃え轟々と射ちまくってもひるまず、城を死守して一歩も退かず防ぎ戦った。
けれど日が落ちる頃になると矢弾がつき、猛火の中を第二線である田屋の砦に集結して再挙を計った。しかし、部落を焼き尽す火煙の中で次々に一族は全滅し、女子供も容赦のない織田兵の刃にかかる。後世「蒲生氏が来る!」と聞くや、泣く子も黙ったと云われる惨劇となった。

(*1) なだい。名題看板(なだいかんばん)の略。原義は歌舞伎劇場の表看板。転じて、「有名な」ものを表す言葉。 
(8) 堀秀政は、多羅尾口より島ヶ原に入る
更に西方の多羅尾口から進撃した堀秀政、多羅尾光弘らの二千三百は甲賀小川郷で二手に分れ、堀勢は御斉峠から一路島ヶ原をめざした。この地の郷士達は源三位頼政(*1)の嫡男・仲綱(*2)を祖とする。去る元弘ノ乱(*3)に際しては笠置山に馳せ参じて忠誠を尽った父祖を誇りとする人々だけに、「天下布武」を号とする右大臣・信長に反抗する事が大義であるとは思えなかったようだ。
去る六月、名ばかりとは云え伊賀守護の仁木義視が上野の館に姿を見せ、内々に伊賀評議衆を招いて信長の「伊賀なで斬り」の意向を伝え、何とか和平成立に尽力せよと説得した。その際に島ヶ原一門三十数家は一致団結し、和平に決した程に大局を見る目があった。
然し代表の富田忠兵衛は徹底抗戦派で、平楽寺での評議には一応和平を説いたものの、決戦ときまるや喜び勇んで単独で比自山に駈けつけている。
織田軍でも信長に愛され側近の一人だった堀秀政は副将・多羅尾からその辺の事情は充分聞いていたらしく、標高八百mの御斉峠を越えても放火開戦を命令せず慎重に兵を進めたらしい。

(*1) 新宮川の開戦を参照。
(*2) 仲綱の次男が有綱。名張の歴史愛好家・吉本貞一氏の話を参照。
(*3) 元弘の乱を参照。 
(9) 堀秀政は、島ヶ原を救う
島ヶ原を一望に見る峠に達した時、路傍に平伏した十六名の人品卑しからぬ郷士が丸腰のまま丁重な態度で言葉をかけてきた。
「これは、これは、堀家の方々とお見受け致す。身共は当島ヶ原の地頭・増地小源太、これに控え居るは、いずれも由緒正しき一統にて御大将・堀秀政殿に嘆願の儀これあり、何とぞ御取なし下され」それを聞いた秀政が拝謁を許すと増地は誠実な面持で弁説さわやかに
「当地一円には聖武天皇の勅願によって天平二年(七三〇)創建されたる観菩提寺正月堂を中心とする七堂伽藍十二僧坊を始め、数々の名社古寺が残されて居ります。これらを空しく焼土と化し、罪なき民を塗炭の苦しみに陥し入れるは地頭たる我らの本意にあらず。一命にかえても格別のお情けを賜りたく、元弘以来、菊一の旗印を賜りたる父祖の誇りを忍んで御願い仕る。」と涙と共に言上すれば、さすがは信長側近の第一の人物とされた秀政だけに
「その心底相判った。誠に神妙である」と即座に承知し、直ちに全軍に
「当地一円の寺社民家には一切乱暴あるべからず」と厳命を下した。
然しいきり立った第一線の将士達は既に林立する伽藍、僧坊に乱入放火を始めて居り、慌てて消火に努めた。辛うじて本堂、楼門と本尊仁王像等は焼失を免かれたので、奉行を置いて治安維持に努めたと云う。
けれども此様な処置は彼個人の独断でやれる筈もなく、かねて信長は島ヶ原郷士の和平論を知って
「抗する者は女子供とて容赦せぬが、降伏する者共は寛大に扱い勝手な乱暴は許さぬ」と内示していたに違いない。 
(10) 堀秀政は、西山郷を焼き尽くす〜高倉神社の不思議〜
それ故に島ヶ原から西山郷に入るや堀勢はその態度を一変して、日本最初の駅と云われる「新家」を始め、建長五年(一二五三)に築かれた補陀落寺への町石街道に立ち並ぶ社寺、民家を次々に火の海と化した。
続いて清和天皇の貞観三年(八六一)創建されたと云う神武大帝を補佐して建国に大功あった熊野高倉下命を祭る高倉神社に対しても山野の柴草を集めて放火した。ところが、火が天正二年(一五七四)に守護・仁木長政の寄進したばかりの神殿に迫るや忽然と現れた童子がヒラヒラと飛廻って火を消し止めてしまう。
怒った寄手の一人、林三郎と云う荒武者が大斧をかざして斬りつけると、斧は我身にはね返って忽ち即死。これを見た猛者達も神罰に震え上って手を合わせると逃げ去ったと云われる。神殿は斧跡を止めたまま、今も現存しているのは不思議で、さすがは武神・物部氏の高祖・高倉下命や応神天皇の御神徳と云えよう。 
(11) 筒井順慶は、大和口より薦生、短野、西田原を焼き尽くす
最後に伊賀南部の要衝名張周辺の戦況を見る。
大和口を進んだ筒井順慶、定次父子の率いる三千七百の軍勢は、九月二十八日、笠間峠の頂上で兵を駐めた。名張方面の伊賀郷士の動静を確かめ、背後を突かれる恐れなしと知るや一気に薦生、短野、西田原の村々に乱入する。
この地の郷士達はかねて筆頭評議衆、滝野十郎の作戦計画通り、要害の地・柏原城に集結していたので何の反撃もなかった。筒井勢は無人の野を行くが如く、沿道の大社名寺は元より拠点となりそうな家々は片っ端から略奪放火し、上野めざして北上を開始した。
その背後を庇うように初瀬街道を三輪、宇陀方面から進撃して来た秋山、芳野、沢らの一万余は、宇陀川の左岸沿いに安倍田、鹿高から錦生、黒田荘へ進んだ。三人は、秀吉の妻・ねねの実家の浅野長政を主将とし、「吉野三人衆」と云われた。彼らは柏原城の伊賀勢に備えて名張梁瀬の宇流布志根神社付近に先陣を置いた。
そして柏原城に籠った敵の奇襲に対する万全の布陣を固めつつ、浅野勢の主力は馬蹄の砂煙りも高く一路上野をめざした。筒井勢と共に桂の里から大滝、そして花垣余野の伊賀上忍の一人、千賀地一族の砦に襲いかかり、忽ち占領して高らかに凱歌を奏した。 
(12) 信雄は、小波田砦を落とす
以上が緒戦に於ける両軍の戦況で伊賀勢にとっては誠に四面楚歌の思いであったろう。
第一線の砦を死守して玉砕した将兵は恐らく千に近く、全軍の三割近い数字でそれも百戦錬磨の勇将猛卒ばかりである。かねてより内心で伊賀侍に大きな恐怖心を抱いていた織田軍に
「皆でかかれば伊賀侍とて案外にもろいぞ!」と大きな自信と勇気を与えてしまったのは、戦略上からも明らかに失敗と云える。
特に北畠(織田)信雄の伊勢勢は
「前二回の恥辱を晴すのは此時」と阿保一円の大村神社や幾多の名寺を次々に焼土と化しつつ、伊勢街道を急進する。羽根の里から美波田平野の馬塚に本営を置くと、観阿弥座旗上げの地で知られる小波田砦の攻略にかかった。
ここには岩崎、竹原を始め父・信長から「必ず首を取れ」と名指しされた程の小波田兄弟、或は太平記でも知られた豪勇・名張八郎の血をひく中村半太等が
「ここが男の死場所ぞ、命を惜しまず、名を惜しまん」と固く誓い合って獅子奮迅の働きを見せつつも衆寡敵せず次々に玉砕。秋晴の野には村々を焼く黒煙が高く低くたなびく中に老若男女の里人らが逃げまどう。哀れな断末魔の叫びを耳にしながら、生き残った郷士達は「最後の死場所」ときめた種生国見城めざして落ちていった。 
(13) 蒲生氏郷は、上野平楽寺に向う
甲賀口から破竹の勢いで友田城を占領した蒲生氏郷は佐奈具に本陣を進め
「先ずは幸先よし」と祝杯あげたが、二十八日の夜半に雪辱の意気に燃えた伊賀勢の急襲を受けて大混乱を呈した。
然しさすがは猛将、翌朝には忽ち陣容を立直し、銀の鯰の前立を朝日にきらめかしつつ悠々と馬上豊かに上野に向う。
当時の上野には平清盛の創建と伝えられる寺領七百石と称された平楽寺が鎮まり、丈六の本尊を中心に七堂伽藍や巨大な楼門、十九の僧坊が林立して威容を誇って居た。楼門が朱に塗られている処から人々から“赤門”と愛称された伊賀第一の大寺である。今度の乱でも伊賀勢の作戦本部となって数百の僧兵がいかめしく警備に立ち、「平楽寺の僧兵」と云えば三つ子も泣き止み(*1)、猛者郷士も途中で会えば必ず道を譲る習慣だったと云う。
従って開戦と決した作戦会議の席上では当然平楽寺側では「ここを拠点として死守せよ」との意見であった。
けれど評定衆は余りにも広大で大軍を相手にしては守りきれぬから
「長田の比自山観音寺に移る」という事に決した。しかし、僧兵達は頑として承知せず、やむなくそれを認めざるを得なかったらしい。

(*1) 三歳の子供でも泣き止む。それほど恐ろしいこと。 
(14) 蒲生氏郷は、上野平楽寺を落とす
蒲生、脇坂ら織田勢七千が耳須弥次郎に案内されて押寄せた時、寺には僧兵と下人合わせて七百余人が勝手知った寺内の要所々々に必死の守衛陣を固めて猛攻撃を展開した。
我に十倍する大軍を相手に一刻はめざましくおめき戦い、さすがの氏郷も手を焼いた。が、半日の激斗が続くうちに僧兵の中でも勇者で知られた面々は悉く討死。玉塔、楼閣のすべてが敵の放火によって雷光の砕け散るように崩壊する。焦熱地獄と化した中で高僧、長老から女子供まで一人残らず焼死んだと云われる。
無惨とも哀れとも比えようもない有様だったが、緒戦に於ける阿保や天童山での悲劇の再現でしかなかったのは「己れを知らず、敵を知らざる鳥なき里の何とか(*1)」で、経も読まず、鎧長刀をもて遊んだ者の辿る修羅道であった。
同じ道を辿ったとは云え一際、死花を咲かせたのは剣の名手で知られた木興の町井左馬充夫妻である。彼は新田義貞を祖と仰ぐ誇り高き家系図と中黒の長旗を子の清兵衛に与えて比自山に向わせた後「共に死にたい」と望んでやまぬ郎党数名と共に父祖伝来の館に籠って好機を狙い敵の背後に斬込まんと決めていた。
然しかねて耳須からそれを聞いていた氏郷は一隊を差向けて館を包囲した。これを知って町井は愛妻お清を呼び
「せめて我ら親子の菩提を弔う為に落ちよ」と命じたが、彼女は頑として聞かず白装束に身を固め手練の薙刀を抱えて夫と共に討って出ると、敵兵多数を倒した夫に折重なって斃れ伏し、その壮絶な最後を見た寄手は
「伊賀には惜しき名花よ」と手厚く葬ったと云われる。

(*1) 「鳥なき里のこうもり」鳥がいない所では、空を飛べる蝙蝠が威張るという意味で、優れた者がいない所では、つまらない者が幅を利かすということの喩え。 
(15) 筒井順慶は、菊岡丹波の砦を落とす
蒲生勢が上野一帯を征圧した頃、長岡山に本陣を置いた筒井順慶は、町井と並び称された久米の菊岡丹波の砦へ襲いかかって火攻めにした。衆寡敵せず彼は猛火の下をかい潜って比自山に落ち延びた。そして平泉寺での評議の席上で
「とかく我ら伊賀侍は進むを知って退く事を知らず、血気に任せて死に急ぐ習性が強い頑固一徹なのが短所である。一時の恥を忍んでも最後までねばり強く戦い抜くこそ真の勇者と云える、各々方どうかこの事を肝に命じ、己れ独りの名利に走って全軍の破れを招く如き所業は固く謹んで貰いたい」と苦言を呈した。これは、命ある限り戦い抜く信念からであろう。
菊岡丹波が辛うじて比自山に辿りついた時、それを知った主将の一人百田藤兵衛は
「よくぞ切り抜けて来られた」と肩を抱いて喜んだ。
兵法家の菊岡と、強硬派の代表であった百田でさえ織田軍の強大な兵力を知って
「前回のように各自が第一戦の砦に籠っては全滅あるのみ。北伊賀の面々には第一の要害である比自山に集まり打って一丸となるしかない。」と力説した。
これは、血気の僧兵や盲蛇の一部の長老らの反対で拒まれ、統一指揮ができなかったからでもあろう。それでも緒戦の崩壊を知るや慌てて百田の意見通り駈けつける郷士が急増した。
中でも小田村の下人・与助と左八が、折から偵察に来た耳須弥次郎の一隊を平井天神で発見して襲いかかり、首尾よくその首を土産にして城に入ってきた。
かねて百田ら幹部は緒戦の敗北が福地、耳須らの裏切からと考えて
「彼らを討取るのは敵の大将北畠(織田)信雄を倒すに等しい功名」と全軍に布告していただけに大いに沸き立った。直ちに彼を士分に取立て「横山甚助」の武名を許す国奉行の感状を与えたから、人々の志気は一段と高まった。 
(16) 伊賀衆は、比自山観音寺に城を築く
伊賀勢の選んだ比自山には伊賀名寺二十五座の一つ観音寺が鎮まる。
寺領三百石を持つ山門に立って東を望めば、伊賀一の宮敢国大社の鎮護される南宮山を中心として連なる東嶺はさながら海波のようにたゆとう姿を浮べる。青山から流れ落ちる河水や白砂の川原には田鶴が舞い、条々と拡がる田園に拡がる民家から昇る炊煙は不老不死の霊雲に似ていた。
南を望めば常磐木が蒼々と聳え立って、秋は紅葉の中で雄鹿の妻を恋うる声も繁く、中腹には伝教大師創建になる西蓮寺も鎮まっている。
西方には山々が重なる中に一条の嶮しい山道が続き、その上に寺の浴室が建っていたので風呂が谷と呼ばれ、何時も颯々(*1)たる松風がざわめいていた。
北辺一帯は断崖絶壁の下に奈良、京に通う細道が通じているが、比自山側は飛ぶ鳥でさえも希な天然の要害で、如何な猛将でも「ここをよぢ登って背後から襲う」などは思いも寄らなかった。
幼少から長田に住み、この地が萬夫不踏の堅城である事を熟知していた百田は、童友の小沢一族や朝屋の福喜田、浅宇田の吉富、高田、上野の上野一族、音羽の城戸らの勇将達と
「いざとなれば節目々々の精強な一族のみでこの城に籠り長期抗戦に出れば、いかな織田勢とて半年は持久可能」と信じていたのも当然であろう。
従って緒戦の敗北を知っても彼らの志気は少しも衰えなかった。島ヶ原の評議衆だった富岡秀行のように、平楽寺で開戦と決すると立ち帰って一同にそれを伝えたが「あくまで和でゆくべし」と拒まれるや、憤然と「父祖の名を汚す事はできぬ」と単身馳せつけた豪の者も交る。参集した棟梁は百三十余人、一族郎党は三千を算したと云われる。
彼らは互に
「この霊場を戦さの庭とする事は誠に恐れ多いが、大慈大悲の御仏の加護にすがり、一期の働きを見せて父祖の名を汚さじ」と心に誓っていたようで、その心根こそ貴く哀れであった。
そしてそれを聞いた人々は我も我もと比自山をめざして集まった。女子供までが石や瓦をつぶて代りに集め、土居築きや防柵作りに汗水を流し、僅か一夜で次々と工事が進んだ。山頂には長田丸と朝屋丸の望楼や「貝吹き坪」と呼ぶ戦斗指揮所が完成した。
俄か作りとは云え、天然の要害と敵の進撃路に設けた大石、巨木の落下設備に助けられて、千早城にも負けぬと思われる堅固な設備の山城建設が昼夜兼行で続けられた。一晩中晴夜の星の如く炎々と天を焦す業火が、寄手の陣からも手に取るように見えたと云われる。

(*1) さつさつ。風が音を立てて吹くさま。 
(17) 比自山城の決戦1〜伊賀衆一勝〜
それを見た蒲生氏郷は
「丹羽軍の到着を待たず、明日早暁を期して出撃せねば手を焼くぞ」と力説した。
諸将も同意し、九月三十日の朝早く、蒲生勢は北方仏性寺より、筒井は朝屋の南方から鯨波の声も凄ましく進撃を開始。島ヶ原一統を降伏させた堀勢は総力をあげて西村の出城から比自山の背後に進む。総勢併せて一万五千の大軍が「我こそ一番乗り」と怒涛の如く秋風を突いて山麓に迫った。
これを見た百田、福喜田の両主将は小沢、町井ら九人を隊長に選んで要処々々に手ぐすね引いて待ち構えた。全軍に迎撃の鬨の声を挙げさせれば、城に籠った百姓や女子供までが咽頭もさけよとばかり叫び、その声は山々にこだまして百雷の轟くようであった。
比自山城の大手口に迫った筒井と浅野勢の五千余は衆を頼んで一気に大門口に迫ったが雨のような矢石に打たれて忽ち潰走した。
搦手の風呂カ谷の急坂を冑を傾けて攻め上った蒲生勢も「父母の仇!思い知れ!」と強弓を引き絞った町井の矢を受けて次々に射倒され、名うての猛者揃いもひるんで見えた。
かくてはならじと軍監・安藤将監が「我に続け!」と先陣に立ったが、主将福喜田に急処を射られて落馬した処を首をかかれる。勢い立った森四郎、高田郷助の両隊長の奮戦で風呂カ谷は人馬の屍で埋まった。
さすがの勇将・蒲生氏郷も「このままでは全滅!」と感じたか、一軍を率いて大手口に転じた。敗色にひるむ筒井、浅野勢に「何とも云い甲斐なき奴原、我に続け」と叱咤して陣頭に立てば、若いだけに負けじとばかり筒井定次が死を決して自から陣頭に立つ。
「それ若殿を殺すな」と筒井の将士が我先にと大門坂を駈け登ったが、主将百田の見事な采配で次々に死傷続出して再び追い崩される。けれど寄手は大軍だけに新手々々と蒲生、筒井が交互に繰出し、伊賀勢でも聞こえた吉住、村田の隊長らも次々に力尽き討死した。
あわやと思われた時、堀秀政は「強襲は無理」と引き鐘を乱打して総退却に転じた。常住寺の西から嶮路をよじ登った堀勢が伊賀の仕掛けた大木に先陣の大半を失うのを見たからだ。
勇将氏郷も無念の歯喰みをしながら攻撃を中止して佐奈具に引揚げる。筒井勢も長岡山に帰って丹羽、滝川勢一万四千の主力の到着を待って再攻する事となった。 
(18) 比自山城の決戦2 / 伊賀衆二勝
旗をまいて去って行く寄手を見て高らかに凱歌を奏した伊賀衆は本日の論功行賞を行った。百田、福喜田らを比自山七本槍とたたえ、中でも森四郎と高田郷助、横山甚助らの武功は後世にまで残される。
そして意気揚った彼らは長岡山の筒井勢に夜襲をかける事に決した。その夜半に長田川を渡って忍び寄り、午前二時を期して一斉に松明に点火して敵陣に乱入した。
順慶は八幡宮付近の本営で熟睡している処を横山勢に不意を打たれ
「もはやこれまで潔く腹を切らん」と云うのを伊賀出身の近習・菊川清九郎が必死になって先に立ち山道を脱出せんとした。
折しも吹きしきる風雨に真暗闇ではどうにもならず、八幡宮に火をつけて辛うじて逃げ落ちたがこの一日で筒井勢は兵力の半ばを失ったと云われる程の大苦戦だった。
島左近と並び家中きっての豪勇を知られた松倉豊後守や、城代家老・中坊飛騨守の嫡男忠政らは「御大将を討たすな」と必死に戦ったが、松倉は落馬して行方不明、中坊は重傷を負うて倒れる惨敗であった。
この凄しい大夜襲は勝誇った織田軍を震い上らせ、中でも松倉の乗馬を分捕った横山の武功は「全軍に比なし」と羨望されている。 
(19) 伊賀衆は、食料がなく、比自山城を脱出する
これ程にめざましく戦った伊賀勢であるのに今年の刈入れ前であったのと平楽寺の食糧庫が炎上した為に全員の腹を満たす米が底をついてしまったのは、勇はあっても備えの甘さを嘆くしかない。
頭をかかえた幹部達が評議の末に決めたのは、
「敵の新手が加わらぬうちに城をすてて名張滝野勢と合流して再挙を計る」ということであり、十月二日の夜半に手負いや女、子供をいたわりつつ思い思いに落ちて行った。
そうとは知らず翌日早暁、丹羽、滝川勢を加えた織田の大軍は一斉に総攻撃を敢行した。前回の猛反撃に恐れを為し、一番乗りを狙う将士もなくジリジリと山麓に迫ったが、砦の篝火が赤々と燃え立っているのに敵兵の姿もなく砦は妙に静まり返っている。
「これはおかしい。伊賀者の事じゃ何か罠をかけるつもりかも知れぬ。油断するな」と戒め合いながら漸く長田丸に突入した。処が、一兵もないもぬけの空だったから顔を見合せ
「天をかけたか他に埋ったか、あれ程の敵勢が逃げ去るのに気がつかなかったとはハテさて呆れ返った者共よ」と舌をまいたらしい。
先夜の怨みをすすがんと決めていた順慶は大いに腹を立て
「草の根わけても探し出し一人残らず斬れ」と厳命して追求したので、巧みに比自山を脱しても柏原城に辿りついた者は少なかった。手負いや家族を抱えてやっと伊賀を抜け出て大和春日山で野宿をしていた者達も信長の厳命で悉く処刑されている。 
(20) 種生国見城は、玉砕する
十月上旬、比自山一帯が織田勢の手に帰した頃。伊陽の野から南の種生国見城に落ちた伊賀衆はここに集結して雪辱を期し陣地作りに懸命となっていた。
この地は前深瀬川の上流にある。山頂には草蒿寺の七堂伽藍が林立した牛頭天王垂跡の霊場で、徒然草で有名な兼好法師の墓も残された要害堅固の城である。
ここに集まった郷士の面々は種生の大竹、小竹、川上や比土の中村、小波田の一族や我山の北畠の残党など五百余人でその中に下山甲斐が名を秘めて加わっていたらしい。
彼は事が志と違って信雄の怒りを買い奈垣城に蟄居する事、二年に及んでいた。時勢は彼の予想した通り最悪となった。伊賀亡国の危機の迫るのを知るや
「郷土の亡びるのを座視するに忍びぬ、せめても伊賀武士として一命を故里に捧げよう」と種生城に入ったのである。
信雄が種生城の攻略を滝川、長野、古田に命じ、六千近い大軍が押し寄せたのは十月上旬と思われる。伊賀勢は比土の中村、今中の両将が指揮を取って懸命に防備を固めここを最後の死場所と定めていたようだ。
果せるかな伊賀勢の力戦は凄しいものだったが、五百対六千では最後に玉砕となるのは当然である。勝ち誇った織田軍は国見城の一角に首斬場を設けて降人やその家族まで容赦なく首をはねた。
荘厳を極めた草蒿寺を焼く猛煙は青山白雲の彼方にたなびき、女、子供の泣き叫ぶ声は田園にこだまして流れ、数々の悲話が今も尚、周辺の村々に残されている。 
(21) 滝野十郎は、名張柏原城で兵糧攻めにされる
「種生国見城、玉砕!」の悲報を聞いた名張柏原城の滝野十郎は伊陽の各地に急使を飛ばして集結を命じた。名ある勇将猛士が続々と入城して棟梁株は四百を越え、続く一族郎党千六百に達した。
参謀長には有名な百地丹波が北伊から馳せつけ、城周辺の要地には布生、福地、大道寺、吉村、吉原、横山の勇将達が籠城して万全の守りを固めた。
彼らは何とかして小波田に本陣を置く信雄の首を挙げるべく日夜機会を狙った。それを知った織田軍は、伊賀ではトップ級の大きさを残す滝川城や桜町中将館と呼ばれる砦を築いて、日夜奇襲に備える。
北伊を征圧した丹羽、滝川勢が信雄軍と合流して柏原城の第一回総攻撃を開始したのは十月八日と云われるが、中旬に近かったと思われる。総勢三万をこえる大軍の一斉に挙げる鯨波の声は名張平野をどよめかした事だろう。
これに対して伊賀勢は滝野小三郎の率いる三百の遊撃隊が出丸から出撃して敵を誘い出し、防柵に構えた本隊が一斉に弓鉄砲を浴びせかける。
軍師百地の宰配に応じて進退する布生。吹井勢の勇猛さは、蒲生氏郷さえ舌をまいたと云い、此日だけでも織田軍の死傷は千五百に近かった。老巧の丹羽は強く信雄に進言し
「力攻めは中止し、各隊は急ぎ防衛線を固めてみだりに出撃を禁ずる」と軍令を発させると、織田信澄を安土に走らせて戦況を報告させた。 
(22) 七十歳の森田浄雲、宮坂で挙兵、玉砕する
信長は
「開戦十日にて伊賀の大半を壊滅し、余すは南辺の滝野城のみ、急ぎ御出馬を乞う」との報に直ちに安土を発した。
『信長公記』によれば、信長が伊賀一の宮敢国大社に一歩を印したのは十月十日の夕刻である。小波田から名張周辺まで駒を進めて戦況を眺め、丹羽の説く「兵糧攻め」を承知し、十三日には帰路についている。
その途上を狙って山中から狙撃弾が飛び側近は色を失ったが、幸い弾はそれて何の怪我もなかった。信長は歯牙にもかけず颯々と馬を飛ばせて去ったが、関心は怒り心頭に発して他日を期したらしい。
然し面目玉を潰された警備隊長らは直ちに徹底的な捜索を行った。その結果、犯人は音羽の城戸、循岡、原田らしいと判明し、彼らの部落一帯を虱つぶしに掃討し始める。
その為に、森田浄雲以下阿波七郷の郷士数百は、不本意な挙兵をすることになる。森田らは、比自山から荒木の忍田砦に落ち、極秘で宮坂の要害に新しい拠点を築いていたのだ。
柏原城と呼応し戦局を覆すためである。ところが狙撃犯探しのために建設中の砦が発見される恐れが出てきた。森田らが工事半ばのままに挙兵せざるを得なくなったのは残念だったろう。
十月十五日それを知って驚いた織田軍では、吉野衆と呼ばれた秋山、沢等三千が直ちに攻撃を開始した。七十歳の森田は秋山と一騎討の末に華々しく討死。一族郎党も悉く主と共に玉砕し、強風に戦火は敢国大社に飛んで大彦命以来の伝統を誇る社殿が空しく烏有に帰した(*1)のは惜しい事であった。

(*1) うゆうにきする。すっかりなくなる。特に、火災で焼けることをいう。 
(23) 百地丹波は、服部半蔵に決別の書を送る
敢国大社の炎上を知った柏原城では「彼らの死を無駄にするな」と十六日の夜、織田勢の周辺の山々に一斉に松明を燃やした。敵を驚かせ、その隙を突いて信雄本陣を急襲するという作戦である。
然し折しも雲がきれて皎々たる月が姿を出し、為に歴戦の丹羽、滝川らは
「これぞ偽兵の策、いたずらに騒がず各自の持場を固めよ」と命じて警戒線を厳しくした為に闇にまぎれての奇襲作戦は失敗。城に呼応して松明を掲げ敵兵を脅かした里人達は片っ端から首をはねられ、犠牲者はおびたゞしい数に達したと云われる。
やがて十月も下旬に入ると丹羽の予想した通り柏原城の食糧も底を突いた。二十六日の夜を期して最後の突撃を敢行する事に決し、百地丹波は知友であった徳川家の忍者・服部半蔵に決別の書を送った。
それを知った半蔵は何とかして三百を数える歴戦の忍者らを徳川家に役立たせたいと家康に願い信長に配慮を乞うて無血講和の道を開くべく奔走したらしい。そして結崎糸井神社の観世座の尽力で滝野と親交のあった大倉五郎次という猿楽師が、滝野を訪ねたのが二十六日の朝である。 
(24) 織田軍と伊賀衆、講和が成立する
その日は主将滝野から柏原城に籠った人々に
「将士は今夜城を出て敵陣に突撃し、一気に雌雄を決する。筋目の老人や女房は城に火をかけて自決、幼い子供や里人らはその隙に後方の竜神岳をこえて生き逃びよ」との軍令が下り、「今日が最後ぞ」と悲壮な決意を固めた朝だったと云う。
城門を入った大倉が服部半蔵の密書と信雄の花押が入った
「開城すれば一切罪には問わぬ。家名の存続も認めよう。但し滝野十郎が全員武器をすて反抗せぬ約条を出し一子を人質とせよ」と云う意外に寛大な書を示した。そして、その内情を語ったので、滝野も百地も疑わず忍者達も徳川隋身を承知した。忽ち講和が成立し、服部半蔵に率いられた数百の伊賀忍者群が後に家康を天下人にする強い絆が結ばれる。
天正九年(一五七三)十月二十八日、伊賀には珍しく小春の穏やかな日に滝野十郎は一子亀之助をつれて北出の本営に出頭すると信雄は
「勝手に国主を追放し、余の家臣多数を殺したのは無法の至りではあるが、井の中の蛙の例えもあり、父の大志を理解し難い向もあったようじゃ。今後国主に忠誠を尽し正直一途に稼業に励む事を誓うなれば一切罪は問わぬ」事を明らかにし、黄金五枚と名馬一頭を与えて調印式を終えた。城受取役には筒井順慶が選ばれて城に入った。滝野と百地はかねての約束により三百近い忍者らを三河に送ると百地は責任をとって「高野山に上って仏門に入る」と称し、やがて根来に潜んだらしい。
主将の滝野は伊賀各地に急ぎの使者を走らせて約定の厳守を命じ、硬骨の郷士達も次々に承知して事は順調に進行するかと思われた。 
2.3 伊賀つゝ井筒哀話 

 

(1) 横山万衛門の悲劇
例え講和条件がどんなに寛大であろうとも長島では二万人を皆殺しにし、北陸でも数万人を容赦なく焼殺したと云われる惨酷な信長の事である。滝野も参謀の百田も爪の先程もトラブルの起きぬよう細心の心くばりを怠らなかった。しかし、思いがけぬ事件が足元の赤目の滝口で勃発した。
これより数日前にかねて赤目砦を守った横山万衛門一族は籠城半月に及ぶや、食つきて食べる糧もなく敵の目をあざむく為にも臼に山土などを入れて杵の音を絶やさなかった。
けれどこのままでは餓死する他はなく遂に砦を脱出する。かつて松永勢に攻められ落城寸前となっていた宇陀の沢源六郎一族を救出して「命の親」と喜ばれたことがあった。その縁を頼りに落ちてゆく途中のことである。
山辺村白坂の里で、計らずも難をさけていた祖母と会い気丈な彼女から
「何とめめしい。南朝の勇者で知られた父祖の名を汚さぬ為にも直ちに帰って城を枕に討死せよ」と僅かな食物を与えられ、再び砦をめざした。これが開城直前のことで彼らは何も知らなかった。長坂子地蔵の前まで潜行してきた時、不運にも織田の巡回兵とぶつかって忽ち乱斗となり、敵多数を討ち果した末に主従十余人が悉く玉砕すると云う悲劇となった。
かねて父から命じられ「事あれば」と待っていた信雄は烈火の如くいきり立ち、それを口実に弾圧政策に一転した。温厚な順慶の代りに滝川三郎兵衛を新代官に任じると滝野、百田以下すべての郷士を国外追放に処する。伊賀を出るなり片っ端から召し捕り、その罪条を窮命して処刑したらしい。 
(2) 増井遠江の最後
詩人は「国破れて山河あり」と詠じるが、伊賀の郷士達は故郷に住むことも許されなかった。あてどなく他郷をさすらう間に僅かな路銀も使い果たし、やむなく妻子を娼婦にしてその日をしのぐ者もいたらしい。
石川五衛門の如く大盗と化す者や、非人乞食となって高野山や紀州根来をめざす途中に病に侵されて野面に朽ちる者もいた。織田領となった近畿十余国に生きる術はなく、僅かに徳川家に仕える服部半蔵に救われた忍者三百だけが活路を見出す幸運に恵まれたのである。
中でも哀れだったのは宇陀の沢家に落ちた人々である。信雄から
「伊賀者をかくまうとは沙汰の限りじゃ、すべて搦め取って首をはねよ。さもなくば沢家は断絶させるぞ」と厳命された。背に腹は変えられず、沢源六郎は彼らを城下の馬場に引き立てて処刑せざるを得なかった。
その中に増井遠江と呼ぶ勇士がいた。彼は人々が仕置場に通じる石橋を渡りつつ
「ああ、これがこの世の渡り納めか…」と嘆くのを聞き
「何を情けない。例えこの首を斬られようと魂魄はこの地に止まって毎夜この橋を飛び廻り恩知らずの沢めに、この怨を果さでおくべきか」と意気高く死に就いた。果せる哉その夜から手毬程もある火の玉が橋上を飛び廻ったと云われ、その怨からか、やがて沢家は信雄に攻められて城は落ち、一族の大半は討死したと伝えられる。 
(3) 横山万衛門の遺言
辛うじて生き延び得た人々も艱苦に満ちた日々にやりきれず
「ああ、今にして思えば開戦前の評議の際に島ヶ原衆のように強く平和の道を選べば良かったものを」と嘆き
「義を重んじて、命を惜しまず、名を惜しめ」と説いた菊岡丹波の雄弁を思い出して
「天下一の名剣で聞こえた浅宇田家の剣よりも、菊岡の舌先三寸こそ恐るべし」との諺を残している。
遺族の中には、赤目砦で奮戦討死した横山万衛門が出撃に際しての言葉、
「古来から文武両道と云う。今度の大難も文盲にして武勇一片のみの国衆の無分別から招いたものじゃ、武に頼る者は武によって亡ぶのが世の常。さりとて武を卑しみ泰平に馴れて文のみにても危うく、常に誠の一字を旨に文武の大道をふみ外す事のあるまじく候也。」を家訓として永く後世に伝えている家もある。
この事からも、和平論を正しいと信じながらも評議衆の結論を重んじて戦場に散った士も少なくなかったようで、その心情に涙なきを得ない。 
(4) 綾姫と中ノ坊忠政
最後に“伊賀つゝ井筒哀話”とも称すべきエピソードによって結ぶことにしよう。
十月一日の夜、筒井家の家老で十八歳の初陣を迎えた中ノ坊忠政は、長岡山で伊賀勢の強襲を受けるや、主君を守って懸命に戦った。しかし重傷で倒れ、あわや首を取られんとした。子飼の郎党の必死の働きにより辛うじて戸板に乗せられ、戦場を切抜けて大和に帰る途上に古山郷安場(*1)の里で遂に息絶えている。
忠僕は涙ながらにこの地に遺骸を埋め、悲報を郡山の新妻・綾姫に報じる。それを聞いた彼女は坐視する気にならず、戦火の中を潜って安場に駈けつけると墓前で泣き崩れた。変り果てた夫の亡骸を焼くに忍びず、その傍に「うつろぎ庵」と号する草庵を建て、父母の嘆くのも聞かず、そのまま生涯をこの地で送ることを決心する。それを知った里人達も恩愛を離れて何くれとなく面倒を見たようで、彼女は念仏三昧の尼僧でその生涯を終えたと伝えられる。
綾姫は幼い頃から忠政の許嫁で、その祝言は「美男、美女の花の宴」と称されて郡山一円から羨望されたという。平尾姫丸城の春姫にも似たその薄幸な運命に、袖を涙で濡らさぬ人はなかっただろう。
乱から満四百年を迎えた昭和五十六年(一九八一)の秋、数々の悲劇に彩られた伊賀全土の戦場を尋ねた。
英魂を弔しつつ、計らずも安場のバス停に近いこの史跡に立ち、「うつろぎ庵・武人ノ碑」から綾姫ゆかりの白樫神社の社殿に咲く白椿の古木を見た。姫の清純可憐にして悲しいばかりの哀切の想に打たれた。若き日に愛唱した「白椿の乙女」
月も輝け青春の 花は涙の贈り物
風に淋しく泣き濡れし 哀れ乙女の白椿
この句を手向けて、戦いの非情さを痛感しつつ、姫の霊の永遠に安らかなる事を祈った。
非業の死をとげた春姫の供養の為にも。

(*1) 伊賀市安場。
3 本能寺の変 

 

(1) 信長は高野山を攻める
天正九年(一五八一)十月、伊賀全土を灰塵に帰し、罪なき人々を容赦なくなで斬りにした信長は、続いて高野山の征伐にかかった。
前年、信長は筒井順慶を大和守護に任じて所領の申告を命じた際、それを拒んだ弘法大師ゆかりの槇尾寺を焼き八百の僧を追放した。「根来寺と共に雑賀攻めに参じよ」と命じたのに、高野山はそれにも応じぬばかりか、荒木浪人を傭って防備を固めていた。信長は怒り、伊賀に向う前の八月、都付近を巡行する高野聖千余人の首を刎ねている。
同年十一月、信孝(*1)を大将に任じて断固鎮圧に向わせた。
これに対して高野山側でも軍師役に橋口隼人を招き、周辺七個所の要地に数千人を動員して築城する。飯盛山城(*2)を中心に一万五千に達する僧兵、地侍、浪人達をかき集めて懸命な防衛戦を固めて迎撃した。
織田の先陣、堀秀政は鉢伏山に城を築くとここを拠点として攻撃にかかった。続いて信孝の率いる一万五千の大軍が飯盛山城に迫る。軍師・橋口や蓮上院らは巧みな作戦で大いに苦しめたものの衆寡敵せず、諸城は次々に落ちた。
もはや壊滅は必死と思われたが、信長は寒気がせまると攻撃を中止させて様子を見守った。寺側が戦力つき、仏敵退散の祈祷にすがっているのを見て、処置は翌年にと考えたらしい。

(*1) 信長の三男。石上姫丸城を参照。
(*2) いいもりやまじょう。大阪府大東市及び四條畷市にある城。標高318mの飯盛山に築かれた山城。
南北朝時代…僧正憲法により築城されるが、楠木正成の攻撃にあい落城する。正平年間、北朝方の高師直が四條畷合戦の折、この地に陣を築く。
戦国時代…天文年間に畠山氏が河内国を領するようになり、家臣の木沢長政に命じて飯盛山に城郭を構える。永禄年間、三好長慶が畿内で勢力を拡大。当城を居城と定め、修復作業を行う。永禄12年、織田信長の河内統一に伴い、破却される。 
(2) 信長は「盆山(ぼんさん)の間」で神になる
明くれば天正十年(一五八二)正月、安土城には新年の年賀客が殺到し、築地の柵が倒れる程の盛況を見せた。信長は参賀の大群集に「盆山の間」で百文の賽銭を取って壮麗極みない七層の天守閣を見物させた。
当時百文で米三升が買えたと云うから結構高い賽銭だが、やがて伊勢神宮の遷宮費に三千貫文(一貫は千文)を寄進している。「他人の褌で相撲を取る」信長らしいやり口である。
バテレン達が
「ヨーロッパのいずこの城や塔よりも遙かに気品に満ちた華麗なる城」と讃えた安土城に、井戸良弘父子が参賀したのは正月三日だった。安土城の黄金に映ゆる七層の天守閣が初日に映えきらめくのを仰ぎながら、百々橋を渡って昨年竣工した總見寺に参じる。
門前の制札には
「寺の本尊は信長自身であり、貧者が詣でれば富者となり、富者は一段と福運と長寿に恵まれる。故に余の生れた日を聖日として必ず参拝せよ。それを信じて実行する者には八十までも長生きし、信じない邪悪な輩には現世も未来も只々滅亡あるのみ」と記されている。
それを見た良弘は若い頃から「人間五十年ひと度生をうけ滅せぬ者のあるべきか…」と信じた信長が今や覇王と化したのを知り、「これでは天罰を受けるかも?」と感じたのは家代々興福寺衆徒だった為だろう。
然しそれを色には出さず、城内を人の渦にもまれつつ進んで行くと、天守閣の「盆山の間」と称する絢爛極みない上段に、さながら神仏の如く信長が端座していた。参賀人の差出す賽銭を冷然と受取り、後に控えた小姓共にパラパラと投げる。
小姓達が汗みどろになって、山のように埋高い賽銭の整理に走り廻っている。それを見て良弘は、毛利の安国寺の僧が
「信長はそのうち公卿にでもなるだろうが、きっと高ころびに転げ落ちるに違いない」と予言したことや、足利義昭が槇島城から退去する際に口惜し気に
「今に見ろ!きっと飼犬に肉をかみちぎられようぞ」と洩らしたと云う話を思い出して、ゾット肌の寒くなるのを感じたようだ。 
(3) 武田勝頼父子、散る
天正十年(一五八二)も早春二月になると信長は自信満々で
「信玄は“人は石垣人は城”と云って居城に作らなかったのに勝頼(*1)は新城を築いたと云う。今こそ甲州攻めの時ぞ」と出陣を令した。先陣となった嫡男・信忠が忽ち高遠城を落とした三月初旬、南蛮衣裳もきらびやかに信長本隊は安土を発した。良弘も光秀傘下に加わり、雲山万里の征途についた。
武田勢にはかつて三方原で良弘と島左近が舌をまいた程の騎馬軍団の面影はなく、一族の穴山梅雪(*2)にさえ裏切られた勝頼に愛想をつかした将士は雲散霧消して千に満たなかった。僅かに真田昌幸の好意を頼りに上州へ向わんとした途中で小山田信茂に欺かれてしまう。三月十一日、天目山上で
おぼろなる 月も仄かに 雲がすみ 晴れて行方の 西の山の端
を辞世に三十七歳で割腹。嫡男・信勝も青春十六歳の花の蕾を散らした。
信長はその首を飯田の町にさらした。また、四月三日、光秀の諌めを拒んで、落武者を庇った恵林寺の快川国師ら百余人を山門に追い上げて焼殺した。その非情さと「心頭滅却すれば火もまた涼し」と喝破して従容と黄泉に赴いたエピソードは有名であるが、それらの光景は、良弘らの涙を誘ったに違いない。
さらに勝利の祝宴で、酒を飲まぬ信長が光秀の言葉に激して満座の中で打ち叩いた話も有名であるが、真疑は判らない。

(*1) かつより。武田信玄の四男。武田氏の第20代当主。
(*2) 穴山信君(あなやまのぶきみ)母は武田信玄の姉。武田勝頼の従兄弟になる。妻・見性院は武田信玄の娘。壮年期に出家し梅雪斎不白と号した。武田二十四将の一人。川中島の合戦など、信玄の主要な合戦に参加。
信玄の死後、従兄弟の武田勝頼とは対立が絶えず、長篠の戦いの際には勝手に戦線を離脱。
天正10年(1582年)、織田信長の甲斐侵攻による土壇場に至って勝頼を裏切り、徳川家康を通じて信長に内応した。
本能寺の変が起こって、信君は急ぎ甲斐に戻ろうとしたが、山城国綴喜郡(現在の木津川河畔。京都府京田辺市の山城大橋近く)で、落ち武者狩りの土民に殺害されたという。 
(4) 井戸良弘の次男・治秀が、明智光秀の娘と結婚する
宇治の領民に迎えられて良弘が槇島城に凱旋したのは四月で、かねて婚約の整っていた次男・治秀の挙式が催され、城内は祝賀の色に満ちあふれた。
井戸氏が城主となってから早くも七年、その所領は二万五千石で、かつて大和での所領と大差はないが、有名な茶所の税収は雲泥の差があった。更に観阿弥座発生地の領主で、父祖代々能楽と茶道を好む良弘の風雅さが、町民達の人気を高めていた。
そして町民だけではなく、組頭である光秀が不骨な田舎侍ばかりの織田家には少ない彼の人柄に惚れ込み、娘をその次男の嫁にやる気になったのである。これは政略的な意味よりも「知己」であったからで、婚礼には信長の代理として万見仙千代(*1)を始め家中の名将が顔を揃え、正しく「城春にして茶園の緑深し」と云う盛況であったろう。
特に亭主席に就いた光秀は子福者で女の子が多く、長女は荒木家から戻されて三宅弥兵次光春に嫁し、光春は明智左馬助秀満と改めた。三女と四女は信長の声がかりで細川忠興と織田信澄の妻となり、五女が長曽我部元親の嫡男・信親に嫁している。そして末娘が今日の花嫁で、母の名と同じくおひろと呼ばれていたようだ。
長男は十兵衛光慶で、宣教師フロイスが「西欧の王侯とも見まがう優美な貴公子」と評した程だが、生来病身だったらしい。次男・十次郎は幼名を乙寿丸と呼び、順慶が定次を養子とした後も再三懇請している程の優れた少年だった。
席に連なった人々は心から若夫婦の前途多幸を願ったに違いない。しかし「世の中は一寸先が闇」の諺通りで、当の光秀さえも夢にも思わぬ激動の嵐が都のやんごとなき辺りから俄かに吹きつけて来る。
然もその震源地が主君信長のまいた種であろうとは神経質な程の君子人である光秀でさえ気づかなかったに違いない。

(*1) 万見重元(まんみしげもと)。1549〜1578。信長の小姓。天正6年(1578)荒木村重が叛逆、その鎮定戦に参加するが、有岡城攻防戦の最中に戦死。だが、『信長公記』天正9年(1581)9月8日条、信長より知行を与えられた者の中に「万見仙千代」がおり、『信長公記』筆者の太田牛一の誤記でなければ重元の子息ということになろう。 
(5) 本能寺の変、前夜
天正十年(一五八二)四月、武田を征圧した信長の勢力と云えば、それまでに征服した畿内、中部、中国十一州に加えて甲斐、信濃、東海、関東五カ国を傘下に入れて四百万石を越えていた。
そして先に記したように、四月三日には、武田に頼っていた六角承禎、織田信賢らをかくまっていた土岐一族の快川国師を焚殺した。また、前関白・近衛前久(*1)が富士見物をしたいとの願いをにべもなく「木曽路へ行け」と拒み、己れ独りが念願の富士の高峯を仰いで意気高く安土に帰っている。
信長に対し朝廷では勧修寺晴豊(*2)を勅使とし
「天下いよいよ泰平となり帝の満足比なく関白、太政大臣、征夷大将軍のいずれの官にも任じ新しい幕府の開設を許す」との綸旨を下した。
けれども信長は、かねて懸案の帝の譲位と己の猶子(*3)である誠仁親王(*4)の即位に就いて何の話もないので、木で鼻をくくった様な態度で追い返してしまう。
苟しくも勅使に対する信長の帝威を無視した態度は忽ち心ある朝臣達を激怒させ、秘かに「今こそ皇室の存続も危うし」と日夜心肝を絞ったらしい。

(*1) 近衛前久(このえさきひさ)。1536〜1612。公家。近衛家当主。関白左大臣・太政大臣。
永禄2年(1559年)越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛した際、血書の起請文を交わして盟約を結ぶ。
永禄8年(1565年)の永禄の変で将軍足利義輝を殺害した三好三人衆・松永久秀は将軍殺害の罪に問われる事を危惧して揃って前久を頼った。永禄11年(1568年)織田信長が足利義昭を奉じ上洛を果たした。義昭は兄義輝の死に前久の関与を疑う。前久は、本願寺の顕如を頼って大坂石山本願寺に。この時、顕如の長男・教如を自分の猶子とする。
天正3年(1575年)信長の奏上で帰洛。後、信長と親交を深め、鷹狩りという共通の趣味により、二人はよく互いの成果を自慢しあったと言われる。以降、信長に要請され、九州に下向して、大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏の和議を図ったり、本願寺の調停を行ったりする。10年近くかかっても攻め落とせなかった石山本願寺を開城させた事に対する信長の評価は高く、前久が息子にあてた手紙によれば、信長から「天下平定の暁には近衛家に1国を献上する」約束を得たという。
天正10年(1582年)6月2日本能寺の変によって、信長が亡くなり、失意の前久は落飾し龍山と号する。しかし、「明智に味方した」と讒言にあい、今度は徳川家康を頼り、遠江浜松に下向した。一年後、家康の斡旋により京都に戻るが、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで両雄が激突したため、またもや立場が危うくなった前久は奈良に身を寄せ、両者の間に和議が成立したことを見届けてから帰洛した。
晩年は一方的に銀閣寺を占拠して隠棲した。慶長17年(1612年)薨去。享年77。
(*2) かじゅうじはるとよ。1544〜1603。公家。武家伝奏を務め、織田信長、豊臣秀吉等と交流があった。その著書『晴豊公記(晴豊記)(日々記)』は信長や本能寺の変に関する記述も多く、史料価値が高い。本能寺の変の前日、本能寺を訪れ信長と会見。変直後に見聞した二条御所等の状況を記録。山崎の合戦後、明智光秀の娘を保護したとされる。
(*3) 猶子(ゆうし)とは、明治以前において存在した「他人の子供を自分の子として親子関係を結ぶ」こと。ただし、養子とは違い、契約によって成立し、子供の姓は変わらないなど、「法的な」親子関係という意味合いが強い。
(*4) さねひとしんのう。1552〜1586。106代正親町天皇の第五皇子。織田信長から屋敷を献上など優遇された。本能寺の変の際、信長の嫡子・織田信忠守る二条御所(二条城の前身)に滞在。信忠は明智光秀軍に二条御所が包囲される直前に休戦協定を結んで誠仁親王を脱出させた。子である邦慶親王は織田信長の猶子。誠仁親王が信長の猶子という説があるが、誠仁親王も邦慶親王もいずれも「五宮」と呼ばれていたのが原因の誤伝か。 
(6) 明智光秀 / その1
歴史上は永遠の謎だが、王城千年を誇る都に住む廷臣、大社寺、上、下京の富豪達の間で幾夜か談合が繰返された末に、その危機を救う忠臣として選ばれたのが明智日向守光秀だったようだ。
足利管領の土岐家の流れをくむ美濃明智の名門に生れながら、戦さに敗れて放浪の旅に出て辛酸をなめた彼は、やがて鉄砲術で朝倉家の客分となる。
永禄十年(一五六七)足利義昭が細川藤孝を伴に朝倉を頼った際、義昭の家臣となり信長への交渉役として美濃に移った。
そしてその秋、信長は三好勢を追払って入洛し、義昭を十五代将軍職に就任させ、光秀を織田家の京都駐在役に任じた。光秀は二人の主に使える事になったが、両主の器量から比べて次第に信長に惹かれていったらしい。
天正元年(一五七三)、義昭が信長の独裁を怒って挙兵した際は信長に参じて槇島の義昭を攻めているが、彼は旧主を「将軍弑逆の汚名をさける為」と称して助命追放を乞い、その命を救っている。
信長は織田の武将には無い深い教養と武略に期待して、光秀を京都管領とも云うべき重職に任じている。また、近江坂本城と丹波亀岡城五十万石の大守とし、朝廷や公卿達との交渉役とした。
そして光秀に接した帝や公卿達もその人柄に好感を持ち
「光秀殿が平生たしなむ処は武芸のみならず、外には五常(*1)を専らにし、内には花月を愛して詩歌を学ぶ」と讃えている程で、咲庵と号して
夏は今朝、島がくれ行く なのみかな。
等の数々の名句を残している。

(*1) 儒教で、人が常に守るべきものとする五つの道。仁・義・礼・智・信の五つ(漢書)。 
(7) 明智光秀 / その2
合理的な知識人であった光秀には信長の玉石共に焼くやり方は心中耐え難いものがあったに違いない。
とは云え、「瓦礫のような漂泊の身から召し出され莫大な領土と将兵を預けて呉れた信長」に対する光秀の忠誠心はその軍令の中にも明らかである。
彼の挙兵の根本は、信長の次のような野望を明らかにしようとした事であったろう。
信長の尊皇は名ばかりである。自分の野望実現の為に尊王を装っているだけだ。
信長は、朝倉、浅井、本願寺、叡山との苦戦を脱するために、将軍や天皇を利用してきた。
そして敵がいなくなった今、信長は天皇に譲位を迫っている。
これは信長が、平清盛や足利義満の如く、国父となり皇位の上に立つ独裁者たらんとしているからだ。
そして正親町天皇が
憂き世として 誰をかこたん 我さえや、心のままに ならぬ身なれば。
と嘆かれている事を知った。
「天皇は天授であり武力や智謀で侵してはならない」と云う古来からの伝統を守るのが武門に在る者の任と痛感していた上に、近年に於ける冷酷な扱いやら、今回の出陣で面目を失した噂等も重なり
「例え、大恩ある主であっても、真の主君は天皇であり、それを傾けんとする者こそ逆賊である」との信条から乾坤一擲!本能寺の挙に出たものに違いない。
そして秀吉もまた内心では信長の野望を非としていた事は、後の賤ヶ岳合戦に際し
「もし信孝、勝家に天下を取らせれば必ず皇位を傾けんとするは必定なれば、天下の為にこれを討ち平げたり」と云い、彼自身はあくまで天皇の臣下の関白として天下統一を計ったのを見ても明らかである。
光秀は常々親交を重ねている公卿から帝の嘆きと彼の決起を切望されているのを知った。そして悩んだ末、信長が驕って僅かな近臣のみで京に入る予定を知るや、五月二十七日、愛宕山に参じて神慮を問うた。遂に決意を固めたのは
「時(土岐)は今、天が下なる五月かな」と発句し、
「国々はなを 長閑なる時(土岐)。」と結んだ事によっても明らかである。 
(8) 信長の最後
天正十年(一五八二)六月一日、これが一期の安土とも思わず、信長は近臣僅か六、七十名を従えただけの軽装で入京した。本能寺の宿坊に一泊すると早朝から、続々と押しかけて来る公卿や豪商達に天下の名器と称される茶道の逸品を賞翫させる。
その日訪れた公卿、殿上人四十余人にかねて主張の「譲位と武家暦の採用」の根廻しを行った。その夜は、嫡男・信忠や京都所司代・村井長門守らと深更まで酒を汲み、上機嫌で明日の参内の構想を練りながら眠りに就いた。その夜、一万三千の将士を率いた光秀が「敵は本能寺に在り」の決意を秘めて急進撃を開始していようとは神ならぬ身の知る由もなかった。
明けて六月二日の早暁、熟睡していた彼はなにやら騒がしい物音に目を覚まし
「足軽共が喧嘩でも始めたのか」と森蘭丸に鎮めさせんとした。これは不思議にも桶狭間で今川義元が信長の急襲に際し感じたのと同じで、さしも稀代の幸運児にも天運の尽きる日が来ていたのだろう。
当時の信長の勢力外にある畿内周辺の敵と云えば、僅か紀伊中南部の地侍共に過ぎない。それだけに我家にでも帰るような気安さで入洛したのだが、慌しく帰って来た蘭丸から
「敵は水色桔梗の旗を翻した大軍にて、光秀の謀叛と思われます」と知らされるや、さすがに信長も一瞬呆然としただが、忽ち光秀の胸中を見抜き
「我ながら抜かったり!」と感じつつ
「是非には及ばず」の只一言、呟いただけで弓を取って力戦。矢つき身も傷つくや
「もはやこれまで」と館に火をかけ、濡れ手拭いで汚れを清め燃え上る焔の中で自刃し、一片の遺骨も止めなかったのは見事である。
人間五十年 夢まぼろしの 如くなり。
の句の通り、四十九歳で後世に語り残すべき数々の忍び草を止めて潔く消えたのは早朝の七時。嫡子・信忠が二条城で華々しく戦って父に殉じたのは午前九時前だったと云う。
天目山で勝頼父子が切腹して僅かに三カ月後でしかない。正に因果は巡る小車の如き宿命と云える。 
(9) 明智光秀、自刃を思いとどまる
「信長父子横死!」の凶報はアッと云う間に洛中洛外を馳せめぐった。奇しくも同日、信長の密命で「紀州雑賀の本願寺一門を皆殺しにして禍根を断たん」と千五百の兵を進めていた丹羽長秀は驚き慌てて引返したと云う。
高野山では「もはや仏の加護を祈るよりなし」と全山を挙げて「信長呪殺の大修法」を始めていたが、不思議にも吉報は満願の日だったから驚喜乱舞して仏恩に感謝したらしい。
比叡山再建に全国を行脚していた熊野三山を始め、全国の寺院が一斉に「天罰!」と沸き立った様は今日の想像以上であろう。西洋より一世紀も早く断行された信長の惨酷極まる宗教革命の挫折を見て彼らが喜んだのは当然と云えよう。
ましてや、信長の命で親、兄弟を惨殺された伊賀一円の遺族らが「時こそ来れ!」と狂気の如く立ち上ったのは当然で忽ち大騒動となった。権勢を誇っていた柘植の福地伊予守らは加太に逃げる。島ヶ原の観菩提寺でも「天罰なり」と沸き立っているが、後には北畠信雄の先陣となった滝川三郎兵衛(*1)らによって全部落を焼き払われた。本堂楼門を半焼したものの、幸い本尊は神明の森にかくして無事だったらしい。名張や赤目でも光秀を救世主のごとく仰ぐ人々も多かったようだが、当の光秀は洛外の妙心寺に入って髪を切り「明窓玄智」と改めた。亡き主の菩提を懇ろに弔うと「今や思い残すこともなし」と別室に入り、静かに辞世をしたため腹を切らんとしたらしい。
けれどそれを知った若僧の急報で光春や斉藤、藤田ら重臣が驚いてかけつけ
「何とか新しい天下人として帝と万民の為に奮起して貰いたい」と懇願し漸く思い止まったと云われる。

(*1) 源浄院。凱歌編を参照。 
(10) 明智光秀、京を発して近江に向う
六月二日の午前。重臣らの進言で改めて天下統一の戦略を練り上げた光秀は、直ちに秀吉と対戦中の毛利に、陸海両路から急使を発して協力作戦を要請した。それと共に、備後の鞆にいた将軍義昭に状況を報じている。これは旧主に毛利勢と共に秀吉を倒すか、協調して上京され将軍職に復帰願い、その下で活躍せんとの政略だったろう。
其他にも柴田と交戦中の上杉家や、組下大名で長い親交を重ねた細川藤孝、大和の筒井順慶、摂津の高山右近や中川清秀らに次々と使者を走らせて参陣を求めると、午後には京を発して近江に向かった。
それは安土城を攻略し、丹羽の佐和山、秀吉の長浜を落して、近江、美濃を平定。柴田勝家の進攻を防ごうとする作戦だったが、これは娘婿の光春や軍師・斉藤利三に任せ、彼自身は大軍を率いて摂津に進み筒井、高山、中川らをしっかりと手中に収めるべきだった。
現に筒井は本能寺の変を知るや大阪の信孝からの救援にも応ぜず、覚弘ら一族を派遣して光秀に協力し、父の井戸良弘と共に近江に出陣して安土城攻略に参加している。
もし光秀が大軍で摂津に進み大阪城に迫る勢を示せば筒井、高山、中川ら一万五千の兵力は続々と参加したに違いない。そればかりか、傑物と云われた娘婿の織田信澄(*1)もその時大阪城にいたのだから合流しただろう。信長の死を知って逃亡者が続出し、途方に暮れていた信孝(*2)は側臣と共に行方をくらましたかも知れぬ。

(*1) のぶすみ。織田信長の実弟・織田信行の子。正室は明智光秀の娘。父・信行が伯父・信長に殺された。幼少のため、信長と信行の生母である土田御前の助命嘆願もあって、柴田勝家の許で養育される。本能寺の変の後、同月5日に信孝と丹羽長秀の軍勢に襲撃されて大坂城で殺害される。首は堺で晒された。享年28。
(*2) 信長の三男。石上姫丸城を参照。 
(11) 徳川家康、伊賀越えの逃避行
天与の絶好の機会を秀吉よりも勝家に重点を置いた光秀の作戦の失敗は後に致命的なものとなる。しかし、神ならぬ身の知る由もなく、勝竜寺城や山崎に僅かな兵を置いただけで慌しく北進した。漸く安土城に入ったのは六月五日で其間に家康一行をも空しく逸している。
家康が本能寺の変を知ったのは、堺見物を終えて京に戻るべく飯盛山麓を急いでいた六月二日の午過ぎで、先発していた本多平八郎が枚方で聞き慌てて引帰して急を報じた。
思いも寄らぬ大事件にさすがの家康も驚愕し、一時は途方に暮れ「本能寺で自刃する」と云い出したらしい。
然し徳川四天王や、鬼の半蔵と呼ばれた伊賀出身の服部半蔵以下の五十余名の勇士と、信長に献じた三千両のうち千両を京、堺の見物料として返されていたのが何よりも幸運をもたらした。信長から案内役につけられた長谷川秀一の尽力で大和の豪族・十市遠光を先達にして、一揆勢に襲われながらも必死に切り抜けた。
甲賀信楽の多羅尾光俊の邸に辿りついた時、出された赤飯を手づかみで貧ぼり食ったと云うから如何に難行軍だったか判る。
六月二日の夜は多羅尾城で一泊すると甲賀忍者群に護られて御斉峠(*1)を越え伊賀に入ると半蔵の要請に応じた柘植三之丞ら二百余人が馳せつけて呉れた。
それは去年信長勢になで斬りにされ、国を焼土とされたばかりでなく、辛うじて他国に逃げ延びた者まで容赦なく処刑されたのに、家康領内だけは手厚く保護された恩返しであった。一行は柘植、加太、と進んだが、加太越えの山中では明智方の敵襲を受け、死傷続出の苦斗を演じつつも無事に切り抜けた。
六月四日には伊勢大湊の船奉行・吉川平助の尽力で白子浜を出帆し、無事に三河浜に到着した時は余程嬉しかったらしく、自から吉川に安着の礼状を認めている。

(*1) おとぎとうげ。標高は630m。滋賀・三重両県境に位置。その名は鎌倉時代に臨済禅の高僧・夢窓国師が伊賀三田の空鉢山寺に来られたときに、村人がここで斎(とき=食事の接待)をあげたことに由来するという。 
(12) 豊臣秀吉、「中国大返し」
家康が無事に岡崎城に入って家臣達を驚喜させていた六月五日、光秀は安土城に残された金銀財宝を気前よく家臣達に散じ、京極高次を将として長浜城を、武田元明には佐和山城を攻略させて近江、美濃を平定した。
七日には吉田兼見卿が勅使となって安土を訪ね、帝の叡慮により征夷大将軍扱いの「京都守護職」に任じるとの光栄を伝えられた。喜んだ光秀は安土の守りを光春に託して京に向う。
九日には朝廷に銀五百枚、五山と大徳寺に各百枚を献じ、京都市民には地租免除を布告して善政を約している。
然しながらその日の午後、秀吉がいち早く毛利と講和して「中国大返し」と名づけた驚くべき猛スピードで姫路に帰り「主殺しの仇を討たん」と意気高く尼崎をめざしていると云う情報が入った。
十日早朝、まさかと信じかねながらも光秀は京を発した。男山八幡から洞ヶ峠に兵を進めて筒井軍の到着を待ったが、一向に姿を見せぬ。重臣・藤田伝五を郡山に走らせて督促させた。筒井家では、光秀が提示した「養子を約していた次男・十次郎を人質として順慶に紀州を併せた百万石を与える」墨付を見た。島左近ら猛将は大いに張切ったが、家老筆頭の松倉が猛反対で「もっと情勢を見るべきである」と力説。重臣達の意見が対立して決まらなかったのは秀吉勢の予想外の急進撃が大きな要因だった。 
(13) 光秀、山崎に布陣
光秀にとって最大の不運は毛利家に走らせた使者が海路は海が荒れて船が出ず、陸路の密使は事もあろうに毛利の陣と誤って秀吉方に飛込んでしまったことだ。秀吉は一時驚転したが情報が漏れぬ様に厳しく警戒を固める。そして、かねて安国寺(*1)を介して進めていた和議を何くわぬ顔で急いで成立させた。
六月六日の朝には高松を出発し、八日朝には姫路城に到着。ここで一日休むと、九日朝には再び猛攻撃を展開した。
彼が尼崎に到着したのは十一日の朝で、途中でも次々に丹羽、池田、筒井ら諸将に使者を走らせて「主君の弔い合戦に参加する」よう要請した。四十里近い距離を一日十里(三十八粁)と云う快速(昭和の陸軍は一日三十二粁を限度)で走破。その凄しい勢いに誘われ諸将は次々に参加し、筒井順慶も十二日使者を走らせて麾下に参じる旨の誓書を出し、一万の大兵を洞ヶ峠から淀川畔に進めんとした。
それを察した光秀はやむなく洞ヶ峠、男山の兵を転じ、淀川右岸の山崎一円に集結して秀吉勢と決戦せんとした。それを知った槇島城の良弘は
「我らが今日あるは光秀殿のお陰なのに武将としてあるまじき不義」と怒る。
「天下分目の大戦なれば身共は淀城の番頭勢と共に淀を下り精兵二千を率い船にて秀吉の側方に突進する覚悟である。よって殿は淀川左岸に兵を止めて機を待ち、ここ一番の切所に一挙に渡河して秀吉本隊の背後を襲われれば勝利は必定なるのみか、筒井の義侠は天下に轟かん。」と烈々血を吐くような密書を送った。これで順慶は亦もうろたえ、島左近と協議して淀川左岸で形勢を見る事にしたらしい。

(*1) 安国寺恵瓊(あんこくじえけい)。1539〜1600。禅僧、大名。俗姓は武田氏で、「安国寺」は住持した寺(安芸安国寺[不動院])の名。毛利氏の外交僧(武家の対外交渉の任を務めた禅僧)から、最終的には僧侶の身分のまま大名となった。 
4 天王山の戦い 

 

(1) 布陣
天正十年(一五八二)六月十二日、光秀は洞ヶ峠(*1)を降りて男山から下鳥羽に本陣を移すと山崎、八幡の兵を撤退させ、淀と勝竜寺(*2)を拠点とした。西国街道を突進して来る敵を山崎の街はずれを流れる円明寺川沿いに迎撃する作戦に変えたのである。
考巧の軍師・斉藤利三が
「四万の秀吉軍に三分の一程度の兵力で決戦を挑むのは不利。ここは一時京をすて近江各地に散在して北に備えている勇将・光春以下五千の兵と合流し、阪本、亀山城によって戦うべきである」と力説しても光秀は
「京都守護の勅命からもそれは出来ぬ」と聞かなかった心境は充分察せられる。
「ああ、荒木村重ら一族二万が健在であったら」と内心痛嘆していたに違いない。
明けて六月十三日、決戦の日は朝から強い雨だった。
光秀は安土城を守る光春らに急ぎ参戦の急使を走らせた。雨の中を下鳥羽から勝竜寺の前方に位置する御坊塚(*3)に本陣を進めたが、その配備は
中央に斉藤、阿閉、柴田、明智茂朝らの近江勢、
右翼天王山麓には松田、並河の丹波勢に伊勢、諏訪、御牧ら旧幕府奉公衆、
左翼には津田、村上らが淀川沿いに守りを固めた。
光秀本陣には筒井から帰った藤田伝五が予備隊として控え、その総勢は一万六千余と伝われる。光秀が最も頼みとする勇将・明智光春以下三千の精鋭の姿が見られなかったのは、何としても惜しまれてならない。
それに対する秀吉軍は、
中央に高山、中川、堀。
右翼淀川堤に池田、加藤、木村。
左翼天王山麓には秀長、黒田が布陣、
続いて秀吉本陣、蜂谷、丹羽、
殿軍は信孝で、總軍三万九千余がびっしり両国街道を埋めていた。
光秀と親交のあった吉田兼見卿がこの日に下鳥羽から山崎近くまで来て観戦しているのは帝の内意を受け「何とか光秀が勝ってくれぬか」と神に祈る気持ちだったろう。

(*1) 京都府八幡市八幡南山。かつて東高野街道の中継地。現在はその少し東を国道1号(枚方バイパス)が通り、交差点の名前として『八幡洞ヶ峠』がある。峠だが、曲がりくねった道はなく線形の良い道路。
(*2) しょうりゅうじじょう。京都府長岡京市に所在した。城名は、付近の同名古刹に由来。本丸および沼田丸趾が1992年(平成4年)に勝竜寺城公園として整備された。
(*3) 御坊塚(境野古墳群)は、京都府大山崎町の東北端に位置する。サントリー京都ビール工場の裏手にあり、御坊塚(境野古墳群)と光秀本陣跡の標識がある。 
(2) 開戦
戦端が切られたのは午後四時過ぎ天王山方面だったと云われる。やはり天王山が戦局を左右する重要地点となった。寡兵ではあっても自由に地の利を選べた明智勢だけに、もし織田軍の中でも「明智の鉄砲隊」で知られた精鋭三千が勇将・光春に率いられて街道を見下す天王山に堅陣を築いて居れば戦局は大きく変ったに違いない。
緒戦は戦さ上手で知られた斉藤勢が凄しい戦さぶりで高山陣を圧して優勢を示した。伊勢ら幕府奉公衆が予想外な奮戦を見せたのは
「この一戦に勝てば再び将軍義昭を京に迎えて幕府再興を実現出来る」と云う期待感からだろう。
緒戦の不利を感じた秀吉は、弟・秀長と黒田、堀軍に
「何としても天王山を攻め取れ」と叱咤し、本陣一万の精鋭のすべてを山崎の隘路に投じる。それと共に右翼の第一線の猛将達に
「一気に円明寺を突破して淀川沿いに敵の左翼を包囲せよ」と激励。猛将・池田勝入斉や加藤光泰らが勢い立って斉藤勢に襲いかかった。
その朝、筒井順慶は、秀吉、長秀から
「きっと命じる、信孝様に従って淀川際に陣取り油断なく救攻せよ」と厳命されていた。しかしこの時、筒井勢一万が峠を下り、突如淀川を渡河して秀吉本隊の背後を突けば、待ち構えていた良弘らは勇躍これに呼応し、戦局は一変したろう。
残念ながら戦場に筒井の梅鉢の馬印は姿を見せなかった。 
(3) 明智光秀、勝竜寺城に退く
二千に満たぬ斉藤勢は包囲されて崩れ始める。予備隊となった明智の猛将・藤田伝五が名題の押し太鼓を轟かせて猛反撃を展開し、戦局は一進一退を繰返す。しかし、山ノ手の明智の勇将・松田太郎左衛門らが討死した為に、遂に天王山は秀吉勢の手に帰し、破局はここから始まった。
激闘二時間にして明智の第一線で奮戦を見せていた斉藤、藤田隊も死傷続出して崩れた。奉公衆の御牧兼顕が本陣に急使を走らせ
「戦さは早これまででござる。身共は残る将士と共に敵陣に突入して討死仕れば殿には一刻も早く勝竜寺に退き後図を計られますよう」と進言する。
光秀は
「死なば共にぞ」と残る旗本隊の全力を投じて最後の一戦を敢行せんとしたが、老臣・比田帯刀が駒の口論にすがりつき、
「日頃冷静な殿にも似ぬお振舞、例え此場は破れても安土、坂本、亀山には光春殿始め五千の味方が健在であり、再挙は決して不可能ではありませぬ、ここは先ず勝竜寺に移られませ」と無理やり引き揚げさせた。 
(4) 明智光秀、落ちる
光秀も思い直して城に退ったが、明智軍の討死は三千を越え傷者を加えれば万に近く彼と共に入城した将兵は千に満たず、如何に死力を尽しても落城は時間の問題と思われた。
慌しく軍議が開かれ、近江勢と合流して戦局逸回を計る事となる。光秀が溝尾勝兵衛、明智茂朝らと数十騎と共に秘かに城を出たのはまだ秀吉が勝竜寺を囲む前だった。秀吉勢は勝ったとは云え、将士の死者は三千三百、傷者は数知らずと云うから、主(信長)を殺した光秀に明智の将士はあくまで忠節を尽した訳で、主従愛の強さが偲ばれる。
城を出た光秀の一行は久我縄手の間道伝いに伏見、深草大亀谷を北上して六地蔵に入ったが、勝竜寺から七里近い暗夜の雨中潜行に疲労困憊しきっていたに違いない。然し彼がここから目と鼻の先にある宇治川城に入れば、良弘父子は必ず其夜はゆっくりと城で気力を養わせただろう。そして翌早朝に宇治川左岸の近道を馬を駈って瀬田に直行したに違いない。さすれば急を知って安土を発した光春以下三千の将士と合流できたろう。
けれど君子の光秀は敗戦の渦中に井戸一族を捲き込む気になれず、六地蔵から道を左にとり小栗栖に向った。これは人力の及ばぬ天運の尽きる処、と云うしかあるまい。
義理固い良弘ら数百が槇島城で待ちわびているのを察しつつも、光秀は冷たい死神の操るままに宇治醍醐村の小栗栖に入った。八幡宮の社前で神助を乞うと疲れきった五体に鞭打って日蓮宗本経寺の裏の竹薮にさしかかった。
折から薮の中の小道を横切る小川の畔りで、落人狩りで一儲けせんと網を張っていた土民・長兵衛の繰り出した竹槍が運悪くも鎧の脇の隙間から横腹を深く貫いた。 
(5) 明智光秀の最後
暫くは傷の痛みに耐えながら馬を急がせていた光秀もやがて力尽きて落馬した。驚いた近臣に囲まれながら最後の気力をふり絞ると妙心寺での辞世に筆を加えたと思われる。
順逆二門無し 大道は心源に徹す 五十五年の夢 覚め来り一元に帰す
「日本の武士の真の順逆は帝に使える大道によるのみであり、その事はかねて心源に徹して居り、秀吉から例え主殺しの汚名をかけられようと“大義親を滅す”と云い、少しも恥ずる処はない。とは云え、帝と天下万民の為に役立たんと奔走した五十五年の理想も今やさめて、幽玄の世界に帰る日が訪れたらしい。」
この詩を残すと溝尾勝兵衛に
「遺骸は深くかくして見つからぬようにせよ」と命じた。
そこで家臣達は涙ながらに遺体は近くの薮の溝に埋め、御首は鞍覆いで包んで勧修寺に近い泥田の一角に埋める。それから或者は主に殉じ、或者は坂本城をめざした。 
(6) 明智光春の最後
十三日の夜半、左馬介光春以下、三千の精鋭は安土を発していた。光秀からの「山崎で決戦」との急使が途中で敵に遮られて遅れた為である。取る物も取敢ず、瀬田にさしかかった処、甲賀忍者共が明智の敗北を知って勢い立ち、大挙して襲いかかった。
それをふり払って大津に入ると天王山で奮戦した堀秀政らが「やらじ」とばかり立ち塞がって激戦となった。有名な「湖水渡り」の名場面が生まれたのは此時である。この日、彼は乱軍の中、琵琶湖中を唐崎ケ浜まで約一里、水馬の妙技を発揮して突破した。敵を驚嘆させつつ、唐崎の松に愛馬をつないで別れを告げる。
歓呼の中に妻子の待つ坂本城に駈け入ると、光秀の愛好した貴重な芸術品をこのまま焼失させるのは国家に対しても申訳ないと堀秀政に譲渡した。その後に最後の一戦を心残りなく戦って光秀夫人以下一門悉くが城と運命を共にした。これは信貴山での松永弾正と比べようもない爽やかさであり、明智の家風が偲ばれる。
天正十年(一五八二)六月十四日、琵琶湖畔を紅に染めて土岐一門の嫡流であった明智一族が
「ときは今、天の下知る 五月かな」と詠じてから僅か十三日で強く美しく哀れに亡び去った。
余談ながら、日本築城史に輝かしい金字塔を樹立した安土城が灰燼に帰したのも其頃である。伊賀から進んだ北畠信雄が何を血迷ったか、父の貴重な遺品とも云うべきこの巨城をむざむざ焼き払ってしまったと云うから論外である。こんな馬鹿殿に伊賀を壊滅させられたかと思えば涙が止まらない。 
(7) 井戸良弘、語る
更に同じ夜、秘かに宇治城を訪れた筒井順慶は良弘の嫡子・覚弘と共に現情勢を語って開城降伏をすすめた。
すると良弘は次男・治秀を傍らにはべらせて、おもむろにその心情を述べたらしい。

本能寺の変を知った時、拙者は君子人と尊敬している光秀殿だけにこれには必ず深い事情があるに違いない。それを聞いてわが行き方を決めようと慌しく馬を飛ばせた。
そして菩提寺でもある洛外の妙心寺にいた彼を訪ねると非常に喜ばれ
「お主にはすべて真実を語ろう。」と帝の意向やら朝臣、社寺の長老から京の町年寄らの動向やら要請を詳しく述べた上で
「我国が神国と誇る由来は神代より一系の天子を仰ぎ、帝は天授にして武力や智謀の覇道によって望んではならぬのを国是としてきたからである。
信長公が稀代の英雄である事はよく判っているが、この歴史と伝統を無視して帝の上に立たんとの野望を抱かれたのは臣として許すべからざることで、幾夜か悩み抜いた末に“大義親を滅す”と涙を呑んでお命を頂戴致した。
心知らぬ 者は何とも 云わば云え、身をも惜しまじ、名をも惜しまず。
この句を示され、さりながらこれは周の武王が悪逆な主君・紂王を除いたのと同じで主殺しと云う家臣としては大罪を侵したもので、かねてより事が成就の際には臣道を全うして入道し、切腹する覚悟をきめていたとのこと。
ところが、光春を始め重臣らは
『殿があくまで自決されるなら拙者共もお供を仕る。なれど、その清廉なお心を以て一歩高く帝の為、天下万民の為に王道にそむかぬ新しき天下人をめざすのが真の大義と云うものではありませぬか。どうかお心を強く持たれ事の成否は天に任せて、思いのままやるだけやり抜き“時利あらず駒行かざる”時こそ共に腹かき切って地獄の果までお供致しましょう。』と涙ながらにかき口説かれて思い直した次第じゃ。
忘れもせぬ天正三年(一五七五)秋、丹波の保月城で波多野一族に欺かれ、九死に一生を得た陣中でそなたに“上様の天下布武が成った時には大国は無理でも一国の主なら必ず”と約したことは今も忘れては居らぬ。
どうであろうと息子達の為にも身と生死を共にしては貰えまいか。」と真情を吐露されたのに答え“人生意気に感ず”と快諾した次第である。
すると光秀公は涙を光らせつつ、今し書き上げたばかりの毛利、小早川殿への次のような書を見せられた。
「きっと飛檄を以て言上す。今度秀吉ら備中にて乱暴を企て、将軍御旗を出し、毛利と共に御対陣の由、誠に忠烈の至りに候。然らば光秀、近年の信長の振舞に怒り、今二日、本能寺に於て信長父子を誅し、素懐を達し候。……将来に将軍本意を上げらるるの条、大慶これに過ぎずよろしく御披露に預かるべきものなり……」
そして数々の政戦両略を説き、有名な明智風呂にも浴させて貰い、杯を交わして前途を祝し必勝を期して居った。
また安土攻略後の十日には、帝よりも征夷将軍の内旨を賜わり、義昭公からも
「首尾よく上洛の際には、身共を副将軍に任じて、朝廷に忠誠な足利幕府を開設して天下泰平を招かん」との返書も届いた由にて秀吉とは協調の策も整ったとか、聞いて居たのに…。然るに天運つきたか、二十余年の知友であった細川一族や組下大名の中川、高山、池田ら戦場で辛酸を共にした友に見すてられ、果は大和四十万石の大守に任じられた貴殿にまで背かれようとは…五十路を迎える身共らには思いもよらぬことであった。

と血を吐くように洩らしたので、三十半ばの順慶は只うなだれて、一言の返す言葉もなかったと云う。 
(8) 井戸良弘、熊野に落ちる
然し良弘はそれ以上は何も云わず
「……とは云え天は時として非情な計らいを示されるのは幾多の歴史の示される通りにて凡夫の身の及びもつかぬ処じゃ」と呟き、ハラリと頭巾を取ると既に髪は落して山伏姿となって居た。
「朝廷は権力に答え、変に応じて将軍宣下は許してもその責を負わぬのが習わしであり、今度のこともすべては光秀殿の独断として処されよう。それは百も承知の上で過ぎし日、妙心寺で入道され“明窓玄智”と改められた光秀公に習い身共も“里夕斉善玄”と号す。例え万人が何と罵ろうと拙者の公に対する尊敬と信義はいささかも変らぬ。もはや二度と世に出る望みはなく、生涯その菩提を弔うことに決め、秘かに熊野に落ちるつもりであった。されど、もし身共が姿をかくすことで息子達や筒井家に罪を及ぼすようならこの場で腹を仕ろう。よしなに計って下され。」と潔く云い放った。
それを見て一同は
「これぞ“士は己を知る者の為に死す”の諺通りじゃ。猿面冠者(秀吉)が勝ちに驕って何と云おうとここで死なせては大和武士の男がすたる」と今後の対策を協議の末に
「明智に参じた責は良弘が一身に負い、城を開け渡して僧となり高野、熊野に入る。井戸家は嫡男・覚弘が当主となり、後見役は今まで通り井上十郎が勤め、順慶は罪が彼らに及ばぬようあらゆる手段を尽す」と確約して、城を受け取ることにしたらしい。
天正十年(一五八二)六月十四日の夜半、良弘は次男・治秀と僅かな郎党と共に槇島城を秘そかに抜け出て姿を消した。 
(9) 戦いの後
翌十五日朝に筒井順慶が遅れ馳せながら醍醐の秀吉本陣に姿を見せる。仏頂面で今にも雷の落した気な秀吉に、順慶は洞ヶ峠に出撃したのは大嘘である事を弁解した。その上で有名な「つゝ井筒」の井戸茶碗を差し出し、良弘の明智に参じた事情を明らかにして詫びた。秀吉は
「何たる曲事か!」と大喝しただけで、後は何も追求せず機嫌を直したと云う。“時勢を先取りする事と人たらしの名人”と云われた秀吉だけに、順慶や良弘を責め立てる事よりも、この井戸茶碗を利休(*1)に見せようと考えたのだろう。そして利休を茶堂(*2)として次の天下人たる貫祿をつけ、やがて捲き起こる柴田らとの天下分目の第二戦に大和衆を味方につけるのが賢明。…と、素早く算盤をはじいたに違いない。
そして後日、吉田兼見(*3)が光秀から大枚の銀子を貰った事が明らかとなっても
「甚だ怪しからぬ事」と叱ったものの、その金を返却させ、不問にしているのも同じ理由からであろう。
古代天皇の親政の世はともかく、承久の乱や建武の中興などの痛い経験から天皇は自ら権力を握らず、時の権力者の意を迎える代り「忠誠と天皇制護持」を求めるのがその伝統政策であった。
従って「敗ければ賊」の諺通り光秀が汚名にまみれたのも当然と云えよう。

(*1) 千利休(せんのりきゅう)。1522〜1591。茶人。何も削るものがないところまで無駄を省いて、緊張感を作り出すという「わび茶(草庵の茶)」の完成者として知られる。七十歳のとき、利休は、突然秀吉に京都の聚楽屋敷内で切腹を命じられる。死後、利休の首は一条戻橋で梟首。死罪の理由は定かではない。「人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 堤(ひっさぐ)る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛(なげうつ)」(辞世の句)。
(*2) さどう。「茶頭」「茶道」とも書く。貴人に仕えて茶事をつかさどった茶の師匠。安土桃山時代に千宗易(利休)・津田宗及らが信長・秀吉の茶頭を務め、江戸時代には各藩にも茶道方という職掌ができた。
(*3) よしだ かねみ。1535〜1610。京都の吉田神社神主の神道家。『兼見卿記』の著者。 
 
歴史物語 [豊臣秀吉]

 

1 良弘熊野落ち 
(1) 井戸良弘、明智光秀の冥福を祈る
天正十年(一五八二)六月十四日の夜深く、良弘は子の治秀と郎党数名と共に槇島城を落ちる。奈良の水門(*1)にある興福寺の末寺に潜んで機会を狙い、せめて熊野に入る前に光秀一族の霊を慰めようと、山伏姿で伏見の醍醐寺三宝院(*2)に入ったようだ。
光秀終焉の地は寺の近くで、黄昏にまぎれて竹薮の中に“明窓玄智”の碑と心ばかりの読経を手向けると近江の坂本に向う。光秀夫人や娘達が自害した湖畔の焼跡に立ったのは夏の盛りに向う七月の始めであったと云う。
良弘が始めて坂本城を訪ねたのは、十年前のことで新装の天主の威容に
「わしも何とか一城の主になろう」と斗志を燃やしたのが、つい昨日のように偲ばれてならない。瞳に露を浮かべた治秀と共に暫し佇むうち、折しも日は早くも叡山の西に沈みかけ、斜光が古びたお堂に映える。青い落葉を焼く煙が勢い良く立昇って、恰も落城の日の情景のように見える。
若く貧しかった頃、緑なす黒髪を売って夫の友をもてなす酒代にしたと云う貞節な光秀夫人。
フロイスから「謹厳でヨーロッパの王侯のように優雅な教養あふれる武将」と称された光秀。
何故に土民の竹槍で悲しい死を遂げねばならぬ運命を天から与えられたのだろう。
人間の価値は死を迎えた際の態度にあるとすれば余りにも悲惨である。
「織田がつき、羽柴がこねし天下餅…」と歌われるが、光秀とて懸命に信長の下で餅をつき上げ、秀吉に劣らぬ武功を重ねている。
僅か十日に過ぎぬ天下人とは云え、彼の行動を見れば決して覇道主義ではなく王道を第一とした智的武将であった為に、返ってあの悲劇を招いたとさえ思われる。
せめてもの慰めは光春の活躍であろう。同じように主・義輝を殺した松永に比べれば、正に雲泥の差で「物の哀れ」を知る武人と云えよう。
そう考えて冥福を祈っていると裏手の森で美しい鳥の音が響き、フト
ほとゝぎす 幾たび森の 木の間かな。
との光秀の遺詠を思い出させた。信長や秀吉とは段違いの風流武将が、もし武運に恵まれれば、日本の歴史は大きな転換を見せたかも知れないと感じる。
然し天は皮肉にも、秀吉と云う「人たらしの名人」と云われる英雄を世に送った。良弘は沁々(しみじみ)と天の非情を感じながら
「もはや都に未練はない」と雲山万里の熊野をめざした。

(*1) 奈良市水門町。興福寺の北東、東大寺の西。JR奈良駅から約2km。
(*2) 京都市伏見区醍醐東大路町22。光秀終焉の地(京都市伏見区小栗栖)まで、約2km。醍醐寺は聖宝理源大師が貞観16年(874)に上醍醐山上に小堂宇を建立。准胝、如意輪の両観音像を安置。真言宗小野流の中心寺院。三宝院は永久3年(1115)創建。 
(2) 良弘、竹原の里に落ちる
良弘の旅路の状況は良く判らない。恐らく吉野下市の興福寺末寺で、蔵王堂(*1)の天台、眞言両派の支配役に多分の寄進を行い、特別の許可証を手に入れる等の配慮も手抜かりなかっただろう。女人禁制の大峯山上の道場に登ると山伏らに交って「奥駆け道」を南下し、玉置山(*2)に向ったと思われる。
古来から修験道には、役行者を開祖に仰ぐ三井寺円城寺(*3)の円珍らの「天台密教派」と、醍醐寺三宝院の聖宝(*4)を祖と仰ぐ「眞言密教派」がある。
聖宝は園城寺を創建した弘文天皇の子孫で空海の弟・眞雅の弟子となり、新宮神倉で十二年間修行した。やがて伏見の醍醐寺を創建した名僧で、理源大師を贈られ醍醐小野法派(真言宗小野流)の祖と仰がれる。
彼らは毎年吉野金峯山蔵王堂を道場として修行し、吉野から熊野をめざすのが常で「当山派」と呼ばれた。
それに対して天台派の山伏達は後に検校・増誉(*5)が天皇、上皇の聖なる身を護る「聖護院(*6)」を創建し、熊野から吉野に向うのが順であるとして「本山派」と呼ばれた。
良弘は、辰市の倭文神社の神宮寺が聖宝を開祖と仰ぐという歴史的な由来と、光秀の最後の地が醍醐寺に近いという縁から、当山派に加わったらしい。
彼らは玉置山までの七十五行場を巡って修業に励む。良弘の一行は途中、「前鬼」から聖宝上人が役行者さえ苦しめられた大蛇を退治されたと云われる「池原」に下りた。そして「浦向」から不動峠を越えた「竹原」の里で、南朝の忠臣で有名な竹原八郎や戸野兵衛の子孫と交りを深めたらしい。
と云うのは、糸井神社の楽頭職だった観世一族とも縁が深かった名張小波田の竹原大覚はこの里の出身とも云われるからである。
暫し滞在を重ねるうち、「南朝こそ正統の天子」との信条から南朝筋目の郷士を誇とする硬骨の古武士らしい生き方を見て、大いに感動した。しかし、余りにも時流を知らぬ生き方に危ぶみもした。

(*1) 金峯山寺本堂蔵王堂。
(*2) 奈良県吉野郡十津川村。
(*3) 滋賀県大津市園城寺町246。一般に三井寺と呼ばれるが、正式には「天台寺門宗 総本山 円城寺」。壬申の乱後、667年に大友与多王(敗れた大友皇子の子)が、父の霊を弔うため創建。天武天皇から「園城」という勅額を賜わったので円城寺と呼ばれる。
(*4) 楠氏と観世一族を参照。
(*5) ぞうよ。1032〜1116。天台宗の僧。園城寺(三井寺)の乗延に師事。大峰山・葛城山で山岳修行。早くから霊験を現した。白河、堀河両天皇の護持僧としても活躍。寛治4年(1090)白河上皇の熊野参詣の先達をつとめて最初の熊野検校に。洛東に聖護院を建立。長治2年(1105)天台座主に任ぜられるが、延暦寺の反対により翌日辞任。85歳で没。
(*6) しょうごいん。京都市左京区聖護院中町。本山修験宗総本山の寺院。同宗派設立以前は天台寺門宗に属した。開基は増誉。本尊は不動明王。近世以降、修験道は江戸幕府の政策もあって「本山派」「当山派」の2つに分かれ、聖護院は本山派の中心寺院。代々、法親王(皇族男子で、出家後に親王宣下を受けた者)が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った。江戸時代後期には2度にわたり仮皇居となった。 
(3) 良弘、再婚する
ある日、良弘は奥熊野の霊峰・玉置山と、新宮の堀内氏にも近く古代熊野の国府であった本宮を一見したいと思い立った。
竹原氏から“熊野は落人の極楽”との諺通りの扱いうけ、彼らの案内で北山川を下って入鹿の里から玉置山奥ノ院に参詣する。別当職や筋目の郷士達と交友を深め、後南朝の悲史を学んだ。修行の月日を送るうちに、「篠尾」の里の郷士で戸野一族の流れを汲む人々の世話を受け、ここで新しい生活の基盤を築くつもりになったらしい。
とは云え、三十万石の大名だった佐久間信盛(*1)さえ、去年、十津川で山伏に殺されたとか、餓死したと云われている落人暮しだけに、気配りも大変だったろう。
そこで良弘は、玉置山の別当から山伏の秘伝書を見せて貰う。山野に自生する植物、山また山と渓谷に群生する熊と狼や猿、猪やら鹿、山女や岩魚の魚類を猟して、その体内から特効薬を作り出して、里人の病いを直すことで共存を計ろうと思い立った。
と云うのも、井戸家には昔から製薬の深い知識が伝わっていたからだ。良弘がその覚悟で困苦に耐えているのを見て戸野の主は喜んだ。彼はその先祖が平家の落人で、兵庫左衛門氏永と呼ぶ侍大将の家柄だった。それだけに、藤原宇合を祖とする大和井戸氏の嫡流の血をこの地に生かして、共に繁栄を計りたいと考えたらしい。
半年ばかりが過ぎた年の暮のこと。良弘が順慶の妹になる妻を亡くし独身であるのを幸い、戸野は朴突な口調で切り出した。当主の姉は、年は四十に近いが、早くから夫と別れて後家を通していた。美人で聞こえたその人を
「是非とも貰って貰えまいか」と言うのである。良弘は
「もうこの年で妻など」と辞退した。しかし、二万石と云う大名であった身を誇らず、人情深く文武両道の武人である人柄を知った姉自身がまっさきに惚れ込んだらしく、話はトントン拍子で進んだ。
天正十一年(一五八三)良弘が満五十歳を迎えた春、山々の雪も消えて里には白梅が綻び始めた頃、めでたく婚礼が催される。

(*1) 凱歌編を参照。 
(4) 秀吉は柴田勝家を倒して大阪城を築く
都では明智を打倒した秀吉が、清洲会議で長老・柴田勝家と信孝(*1)の意見を圧さえて、信忠(*2)の嫡男・三法師を正嫡としその後見役となった。天下人をめざす両雄の争いは今や避けられぬ情勢と成っていた。
天正十一年(一五八三)四月、秀吉は大垣の信孝を攻め、急転北上して賤ヵ岳で勝家を潰走させると北の庄を囲んで自決させた。続いて信雄(*3)に信孝を殺させる。
「彼らは天皇の皇位を奪わんとした、故に帝と天下の為に誅した」と称し、六月には大坂城を築いて次の天下人たらんとした。
天正十一年(一五八三)十一月、秀吉は八年間も織田勢を苦しめ続けた石山本願寺一帯に巨大な大阪城を築き始め、工事奉行は浅野長政(*4)と増田長盛で、一日三〜四万人の人夫が群がり集った。
そして翌年八月には一日千隻にも及ぶ石船につんだ巨石によって完成した本丸、二の丸、三の丸の石垣の長さは十二粁にも達した。その上に高さは安土と同じ五十m程だが、十倍もある広大な天守閣が出現する。
五層八階の最上部には廻廊がめぐらされ、上には鶴、下には虎の金彫刻と黒漆の重厚な装いで瓦は青銅、軒瓦には金で桐紋が輝いている。
それを見た人々は「金城」とも「錦城」とも呼んで賛え、歴戦の武将達も猿面冠者と仇名した秀吉の底知れぬ経済力に目をむいた。
今までは武力の表徴だった城は今や経済力が勝利の根源であることを示し、次の天下人が誰かと云う事を教えた。
そして子飼の加藤、福島の武将や石田、増田の文吏らも一斉に黄金と黒漆塗りの名城を築いて天下に豊臣時代の到来を告げる。

(*1) 信長の三男。石上姫丸城を参照。
(*2) 信長の嫡男。本能寺の変の際、二条城で戦死。
(*3) 信長の次男。北畠信雄。
(*4) あさのながまさ。1547〜1611。長政は豊臣秀吉の正室ねね(高台院)の義弟で、豊臣政権では五奉行の1人。官位:従五位下、弾正少弼。
織田信長の弓衆をしていた叔父の浅野長勝に男子がなかったため、長勝の娘のややの婿養子として浅野家に迎えられこれを相続。長勝の養女となっていたねね(のちの北政所、高台院)が木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に嫁いだことから、長政は秀吉にもっとも近い姻戚となり、信長の命で秀吉の与力となる。
1573年(天正元年)の浅井長政討伐をはじめに、1583年(天正11年)の賤ケ岳の戦い、信長の死後に秀吉が統一事業を継承すると朝鮮出兵などで武功を挙げ、またその卓越した行政手腕を買われて太閤検地や京都所司代としての任務を速やかに遂行するなど、様々な功を挙げて、1593年(文禄2年)には甲斐国22万石を与えられた。
五大老の徳川家康とは親しい関係にあり、秀吉死後は同じ五奉行でありながら石田三成と犬猿の仲にあったとされる(これには近年になって疑問も提示されている)。1599年(慶長4年)、前田利長らとともに家康から暗殺の嫌疑をかけられて、甲斐国に謹慎を命じられた。
1600年(慶長5年)秋の関ケ原の戦いでは家康の子の徳川秀忠に属し、戦後は嫡男・幸長に家督を譲って隠居した。家康は江戸に武家政権を成立させ、1606年(慶長11年)には、長政は幸長の所領とは別に、自らの隠居料として常陸真壁に5万石を支給された。1611年(慶長16年)、真壁陣屋にて死去。享年65。墓所:茨城県桜川市桜井の天目山伝正寺。また、和歌山県高野町の高野山悉地院。
なお真壁5万石は三男・長重が継ぎ、その子・長直が赤穂へ移って、この家系から元禄赤穂事件で有名な浅野内匠頭長矩が出ている。 
(5) 秀吉対家康 / 小牧長久手の戦い
これを見て、自分が天下人になれると考えていた信雄は「話が違う」と腹を立てた。伊勢、伊賀を根拠とし、徳川家康や佐々成政に懇請して味方に加え、更に紀州の豪族らにも呼びかけて何とか拒まんとした。
天正十二年(一五八四)三月、先ず信雄が兵を挙げた。続いて家康が清洲に入って共同作戦を展開すると共に、紀州勢には「和泉、河内に進撃して大阪城を脅かして貰いたい」と要請したので、根来衆が先ず動いた。
それを知った秀吉は、急ぎ岸和田城の守りを固めると、かねて知友の雑賀孫市や九鬼嘉隆を動かして奥熊野の堀内氏善ら豪族を味方につけるべく彼一流の外交政策を進めた。このため北紀は家康方に参じたが、南紀は動かない。氏善は情勢を見て秀吉に応じ南紀を統一すべく、昔は客分として養っていた秀長の家臣・藤堂高虎の処へ子の氏治を送った。親交を深め、南紀統一の機会を待ったのである。
戦は有名な小牧長久手の滞陣となる。功を急いだ池田勝入斉(*1)の要請で若い秀次(*2)を総大将とする三河急襲作戦が完敗して持久戦となる。秀吉方の脇坂安治が上野城を攻め、滝川三郎兵衛(*3)は伊勢に奔る。

(*1) 池田信輝。1536〜1584。恒興とも。入道して勝入と称した。母が信長の乳母。年少より信長の側近となる。父・恒利が織田信秀に仕えた。信秀死後、信長に従い、各地に転戦。信長の弟信行の謀反のとき、信行を討つ。桶狭間で軍功あり、犬山城主となる。荒木村重が信長に叛くと、これを討伐。花隈城を攻め、信長より村重の旧領摂津を与えられ、摂州尼崎に居城を移す。本能寺の変で信長が光秀に討たれると、秀吉と結び、山崎の合戦で奮戦。清洲会議では、秀吉・勝家・丹羽長秀とともに、織田家の四宿老の一人に。秀吉の盟友として賤ヶ嶽の合戦にも参加。その功で織田信孝の旧領を得て、美濃大垣城主に。小牧・長久手の戦いで、討たれた。49歳。後、次男の輝政は大大名となり家名を現した。
(*2) 豊臣秀次(とよとみひでつぐ)。1568〜1595。大名・関白。豊臣秀吉の姉・日秀の子。はじめ三好康長に養子入り。後に秀吉の嫡男・鶴松が死去したため、秀吉の養子。関白職を継ぐ。聚楽第に居住し、秀吉との間に二元政治をひく。その後、朝鮮征伐に専念する秀吉の代わりに内政を司る。秀吉に次男・豊臣秀頼が生まれると、秀吉から疎まれ、奇行を繰り返す。このため高野山に追放され出家。後、切腹を命じられる。享年28。首は秀吉によって三条河原に曝された。
(*3) 源浄院。凱歌編を参照。 
(6) 筒井順慶、死す
秀吉方に参じて小牧にいた筒井順慶はかねての胃病が悪化した。定次に任せて帰国療養に努めたが、八月には再起の望みも危ぶまれる状態となる。
死期を覚った順慶は、父の例にならい熊野に潜んでいた良弘に急使を走らせた。驚いた良弘が秘かに郡山を訪れる。三層の天主を持つ新城に驚きながら、久しぶりに会う順慶が自分より十余才も年下なのにすっかり衰えたのに心を痛めながら、励まし続けた。
八月十一日になると、順慶は枕頭に母の大方ノ局や福住、持明寺、井戸ら一族と、松倉、中ノ坊、島の家老達を集めた。嗣子・定次への協力を頼み、やがて息を引きとった。
時に男盛りの三十七歳で、開祖・順武から四十七代を数えた筒井氏の正嫡は絶え、その早死を惜しまぬ人はなかったと云う。
順慶は、信仰心に厚く、神学、仏、儒教の道にも通じていた。また、領民に対しては常に慈悲を以て接したので、深く尊敬され慕われていた。
また茶道を好み「落葉」と呼ばれる肩衝きの茶入(*1)は知らぬ人もない筒井の名品として羨望された。能楽にも達人と云われ、その『百万』はとても大名藝とは思えぬ見事さであったと賛えられている。
盛大な葬儀が催されたのは十月十六日で、一番の火を先頭に花、灯籠、馬、大刀、輿、長老などの大葬列が二十二番まで長蛇の列を為す。良弘は五番目に並び、天王山決戦に際して最も尽力してくれた知友の島左近と肩を連ねている。これを見ても当時の彼の評価が察せられる。
引導僧は円證寺(*3)の名僧・高範で、当日の布施金が一千貫に達しているのを見てもその盛大さが判り大和守護の名にふさわしい葬儀であったようだ。

(*1) 茶を入れておくための容器。特に茶の湯で、濃茶(こいちゃ)用の抹茶を入れる容器。主に陶器で、形も肩衝(かたつき)・茄子(なす)・文琳(ぶんりん)など種々の形がある。
(*2) 『百万』のあらすじ…ある男が拾った少年を連れて京都の嵯峨に。嵯峨は大念仏の最中。寺の門前で男が念仏を唱えていると、女が現れて人々の念仏の拍子が下手だと言い、自ら音頭を取る(車之段)。女はひとり子を失ったことで心が乱れ、古烏帽子をかぶり笹を手にして狂い歩いている(笹之段)。神々に捧げるといって曲舞を舞う。舞は子の行方を訪ねて諸国を巡った身の上話(クセ)。群衆の中に我が子を探すうち、男に連れた子が我が子と知り、正気に戻る。
(*3) 圓證寺。真言律宗。奈良県生駒市上町4713。予約無しでは拝観できない。0743-79-1170。
890年頃、大和筒井庄(現大和郡山市筒井)に創建。後、戦国武将の筒井順昭が筒井氏の外館とした奈良市林小路町(現奈良ビブレ)に営んだ別院。天文19年(1550)順昭が没した後、息子の順慶が寺に改め、父順昭の菩提寺として寺籍を移す。昭和60年(1985)寺域周辺の市街地高層化による公害騒音震動等の被害が出て、文化財保護継続のため生駒市の現在地に遷寺。復旧された重文の「本堂」は、室町末期の特色をよく現した仏堂。
「本堂」の直ぐ右横に花崗岩製で高さ2.6m、重文の「石造五輪塔」。地輪部に「順昭栄舜坊、天文19年(1550)庚戌六月廿日」の刻銘がある。この五輪塔が「円證寺」旧寺地の当主であった筒井順昭(筒井順慶の父親)の供養塔。
「本堂」の斜め前が、昭和60年(1985)遷寺の時に新築された「奥書院(客殿、至聖坊)」。その一間には、天正13年(1585)筒井定次(順慶の養子)が伊賀の城主になって集めた古伊賀と云う伊賀焼の真髄を伝える名作を陳列した室が設けられている。
「客殿」の前面が「石庭(雪山の庭)」。庭の名は、お釈迦さまが生まれた印度の仏跡ルンビニーへの道すがら、千古の白雪を頂いて天空に聳えるヒマラヤに因んで名付けられた。石は台湾の奥地、花蓮山より先住民の協力によって運び出された「古譚石」で、長い間深い水底で侵蝕された奇石。そして、中央「雲珠砂」の上の石は、印度「霊鷲山」より到来。 
2 秀吉の紀州征伐  

 

(1) 筒井順慶の没後
天正十二年(一五八四)八月。大和四十万石の大守だった順慶の跡目は「定次若年に就き身分不相応」と云う話も出て問題となった。が、信長に愛されて養子となった程の定次だけに、秀吉の裁定で所領は大和十六万石と河内二万石計十八万石に半減で認めた。
然しこの処置が家中に及ぼした騒動が並大抵でなかったのは、月給を半分にされたサラリーマン以上であったろう。
外様大名らは筒井家から離れて羽柴秀長(*1)に仕えた者も多かったが、一門や譜代家臣ともなればそうもゆかず、禄高半減されても渋々承知せざるを得なかったようだ。
井戸氏に就いても覚弘、治秀、直弘三人で併せて二千石程度が認められているが、大和を離れた良弘に就いてはとても旧領を認めるゆとりもなかった。良弘とてそんな気もなく葬儀を終えると再び熊野に帰って行った。良弘が慌しく王置山麓に急いだのは、かねて知友だった細川幽斉に呼ばれて茶会に出た際、秀長とも同席となり
「兄が家康に味方して大坂城を狙っている紀州勢の態度に怒り、やがて和睦すると紀州を征伐して後の患いを断つ決意である」と聞かされた後、
「十津川、北山の郷土達に天下の大勢を説き、和解の道を開いて貰えれば伊賀の如き惨禍はさけられ、共に幸甚であるが」と要請されたからである。
天正十二年(一五八四)秋、良弘は再び霊峰、王置山の英姿を仰ぎ見る熊野篠尾の里に帰った。玉置、本宮一円や戸野、入鹿、竹原の郷士幹部に集合願い、中央に於ける秀吉の動きを詳細に説明した上で、
「秀吉は必ず信雄、家康との和睦を成立させ、現在の畿内に残された紀州征伐を断行して天下人たるの地位を確立するに違いない。織田家の長老・丹羽長秀らも『秀吉の器量たるや古今独歩であり、彼の為す処は大衆も文句なく従う。大衆の帰する処は天下の帰する処であり、余も天の心に従う』と語っている。貴殿らも秀吉の身分の賤しさや“猿面冠者”などの悪名にまよわず、戦国乱世の世を泰平の世となさんとの天の心に素直に従うべきと存ずる」と諄々と説いたらしい。
然し王置山麓の人々はともかく北山(*2)の後南期の筋目を誇る連中は、伊賀党の悲劇を目でみながら、“鳥なき里のこうもり(*3)”の諺通り
「土百姓上りに屈しては先祖に相済まぬ。井戸殿の好意には感謝するが、こればっかりは」と頑として承知せず信雄、家康の口車に乗ったらしい。

(*1) ひでなが。1540〜1591。通称、大和大納言。豊臣秀吉の弟。秀吉の片腕として、文武両面で活躍。天下統一に貢献。
元亀元年(1570) 越前討伐以降、主要な歴戦に参加。天正13年(1585)の紀州征伐後、秀吉から紀伊・和泉などの64万石の所領を与えられる。
天正13年(1585)6月、四国征伐では総大将。功績を賞されて、大和を加増。郡山城に入り、116万石の大大名に。
天正19年(1591)1月22日、郡山城で病死。享年52。
(*2) 和歌山県北山村。三重県と奈良県に囲まれた全国唯一の飛び地の村。良質の杉に恵まれ林業で栄える。伐採された木材は新宮まで筏で運ばれた。明治22年に七色、竹原、大沼、下尾井、小松の5つの村が合併し、北山村と改称。
(*3) 「鳥なき里のこうもり」鳥がいない所では、空を飛べる蝙蝠が威張るという意味で、優れた者がいない所では、つまらない者が幅を利かすということの喩え。 
(2) 秀吉、紀州征伐を決意する
天正十二年(一五八四)小牧長久手で睨みあっているうちに、秀吉は、和泉に突出した根来、雑賀衆の大阪進攻の動きを見た。そこで秀吉は急いで信雄との単独講和を計る。十一月になると伊勢に進出し、信雄と会見して巧に口説き落した。続いて家康とも講和を結ぶと、伊勢に蒲生氏郷、鳥羽に九鬼嘉隆、そして大和の筒井の上に弟・秀長を配して万全を期した。
明けて天正十三年(一五八五)三月始め、秀吉は足元を脅かした紀伊の鎮圧を決意し、十万の大軍を動員した。眞先に根来寺を槍王に挙げんと、秀長、秀次(*1)には和泉の千石堀砦を、細川、蒲生には積善寺砦攻略を命じる。
秀長の先陣となった筒井定次は
「武名を世に轟かすは此時ぞ」と伝家の名刀筒井丸をかざして一気に千石堀を攻略した。秀吉は喜んで
「根来寺の先陣も汝に頼む」と煽り立てる。定次は勇んで風吹峠(*2)を越えて根来寺攻略の体勢をとった。秀吉は、寺領数十万石、僧坊二百、僧兵三万を誇る彼らに
「二万石の寺領を与えるから残りの寺領を返納せよ」と申し入れたが、日本一の鉄砲集団を誇る僧兵達は頭から相手にせず、三月半ば断呼として戦端を開き必死に戦った。
然し秀吉の大軍の前には問題ではなく、僅か数日で壊滅し全山が炎上した。粉河寺も悉く烏有に帰し、三月末には早くも畠山貞政(*3)の城が落ちる、勝ち誇った秀吉軍は続々と太田(*4)、雑賀党の牙城に迫った。
処が田井ノ瀬で雑賀鉄砲隊に迎撃され死傷続出するや、秀吉は力攻めをさけた。延五十万人を動員して紀ノ川を堰止め、得意の水攻め作戦を展開する。さすが豪強で知られた日前宮(*5)を中心とする太田党も手の打ちようがなく、四月末には太田ら五十人が自刃して住民を救った。
秀吉は悠々と和歌浦の風光を賞でながら、次には高野山に使者を派遣する。
「僧でありながら広大な寺領を持ち、浪人共を傭って、天下の安泰をさまたげるとは以ての外」と脅し、根来の惨状を見た高野山側は、木食(*6)が代表して降伏した。

(*1) 秀吉の甥。良弘熊野落ちを参照。
(*2) かぜふきとうげ。和歌山県岩出市。標高200m。紀伊国と和泉国を結ぶ根来街道の途中にある。現在は大阪府道・和歌山県道63号泉佐野岩出線が通る。近辺に根来寺がある。
(*3) 畠山氏(はたけやまし)は武蔵国秩父郡に起源を持つ武士の名族。坂東八平氏から出た秩父重弘の子・重能が畠山を称したことに始まる。
南北朝時代には、足利尊氏に従い、室町幕府創立時の功績によって、越中、河内、紀伊の守護となった。
室町時代、畠山持国(徳本)は、細川氏、山名氏と拮抗する勢力を維持した。しかし、持国の子・畠山義就と養子・畠山政長が家督をめぐって激しい争い、応仁の乱の原因のひとつに。応仁の乱の終息後、畠山氏は衰退の一途をたどる。
天正4年(1576)、最後の当主・畠山高政が死去して滅亡。だが畠山貞政(高政の弟・政尚の子)が江戸幕府の高家の一人となる。
(*4) 太田党。凱歌編を参照。
(*5) にちぜんぐう。名草宮とも呼ばれる。和歌山県和歌山市。一つの境内に日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)の2つの神社がある。最寄駅は和歌山電鐵貴志川線日前宮駅。当時、紀北には五大勢力、1.高野の古義真言、2.粉河の天台、3.根来の真義真言、4.太田の日前宮、5.雑賀の一向宗があった。太田党の日前宮はその一つ。
(*6) 木食応其(もくじきおうご)1536〜1608。真言宗の僧。近江国の出身。
もとは武士であったが天正元年(1573)38歳の時高野山で出家。高野山入山のおり、十穀を絶つ木食行を行うことを発願している。
全国を行脚し、天正13年(1585)豊臣秀吉が根来寺に攻め込んだ際には、秀吉との和議に臨んだ。結果、高野山の復興援助を得る。木食応其も秀吉の方広寺造営に協力。
天正15年(1587)秀吉と島津氏との和睦交渉も力を尽くす。
関ヶ原の戦いで豊臣家との縁から、近江の大津城(守将:京極高次)や伊勢の津城(守将:富田信高)における開城交渉にあたる。
戦後は近江国飯道寺に隠棲。 
(3) 秀長、南紀に進攻する
天正十三年(一五八五)五月に入ると、秀吉は自ら(後の)和歌山城の縄張りを行い“若山”と名づける。秀長を城主に任じ、反抗を続ける地侍共の討伐を命じた。秀吉自身は、鷺ノ森の本願寺顕如に大阪天満の地を与えて布教を許すと、さっさと帰阪して六月には四国攻めに着手する。
いっぽう秀長は桑山重晴を若山城代に任じて北紀を征圧すると、根来や太田と連判状を交して抗戦し続ける海草(*1)、有田(*2)、日高(*3)や口熊野(*4)の豪族達の征伐にかかった。
その鮮やかさを見て秀吉の天下人たる器量に惚れ込んだ堀内氏善(*5)は、藤堂高虎(*6)の客分となっている長男・氏治の尽力でいち早く臣従して許された。表高二万八千石の本領を安堵されたが、代りに本宮、北山一円の逆徒鎮圧に出陣を命ぜられた。
和歌山(若山)城を発した秀長軍の先陣は、蜂須賀、藤堂、青木、仙石ら聞えた勇将の率いる数千である。有田岩村城の畠山定政、市野の宮崎城、田辺別当系の目良城を次々と攻略して南下する。
平家の子孫である和佐城主の玉置直和は、日高郡の旗頭である武田源氏の湯川直春の娘婿だが、秀長軍に臣従して家の断絶を防がんとした。怒った湯川直春は坂ノ瀬で激戦を展開する。玉置直和の急報でそれを知った秀長軍は一挙に湯川直春の本拠亀山城(御坊市)を猛攻し、中紀第一の所領二万五千石を誇った湯川直春も芳養の泊城に落ちた。
この情勢を見た芳養の杉若越後守は秀長に降伏した。攻撃軍の案内役となり大辺路を南下して田辺に乱入、斗鶏神社を始め名社大寺を次々に焼失させる。憤激した目良氏や神官衆徒らは凄ましい夜襲を敢行して、寄手の肝を冷やした。
とはいえ、歴戦の将兵だけに反って闘志を燃やし、寡兵の熊野勢は次第に圧倒される。山本主膳は市ノ瀬の龍松山、湯川直春は田辺の龍神山城に籠り、巨木、大岩を投じて必死に戦った。しかし戦局は敗色を深めるばかりだった。
それを知って本宮、尾呂志、入鹿、竹原の豪族達も懸命に応援に馳せつけたが、衆寡敵せず。中辺路の要衝は次々に陥落し、真砂、近露の勇将達も本宮に敗走する。

(*1) 和歌山県海草郡。
(*2) 和歌山県有田市。
(*3) 和歌山県日高郡。
(*4) 和歌山県田辺市と白浜町の中間地点で、熊野古道が「中辺路」「大辺路」に分かれる分岐点。田辺から海沿いを離れて山中に入るため、「口熊野(くちくまの)」と呼ばれた。
(*5) 宇治川城の春秋を参照。
(*6) とうどう たかとら。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主。何度も主君を変えた戦国武将として知られる。彼自身「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」と発言。築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城。高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴がある。主君変遷…浅井長政→阿閉貞征→磯野員昌→織田信澄→豊臣秀長→秀保→秀吉→徳川家康→秀忠→家光。 
(4) 秀長は大和を加増され、筒井定次は伊賀に移る
天正十三年(一五八五)七月に入ると、海路新宮に到着した桑山、藤堂勢は堀内氏善を先陣に熊野川を溯り、中辺路を進んだ羽柴勢と呼応して本宮鬼ヵ城を落した。更に敵を追って、尾呂志の風伝峠で激戦の末に野長瀬左近以下百六十人を処刑したと云うから、熊野宮信雅王(*1)の後裔も哀れ彼らと共に難に遭われたかも知れない。
勝ち誇った藤堂勢は西山の赤木に本格的な城を築いて北山一帯まで進攻し、平和な山里を荒し廻った。しかし篠尾(*2)に止まって侵攻軍との仲に立った良弘の尽力で、本宮一円は何の被害もなく無血占領できた。
八月上旬、四国征伐から帰った秀長は
「伊勢に次ぐ熊野の霊地を戦火から守り得たのは大功である」と喜んで良弘に領主に拝閲できる「地士」の身分を安堵して、今後の協力を要請している。
さて、秀長と共に凱旋した筒井定次が大坂城に召され、関白に昇任した秀吉から二万石を加増して二十万石を認められたものの
「大和は大坂城を守る第一の関門であるから秀長に譲ってやれ。そなたは伊賀に移って東国への防衛の牙城となって貰う。」と云われたから、正に青天の霹靂だったろう。
然し拒めばどうなるかは明らかであり、一門協議の末に、大和へ残りたい者は秀長に仕える事にして、泣く泣く故郷を捨てたようだ。
定次と共に伊賀、伊勢に移るのは十市、箸尾、福住、岸田、井戸の一門と家老職の松倉、島、中ノ坊、上士筆頭・井上以下の譜代家臣約三千余人。八月下旬に、彼らは初瀬街道から名張をめざして出発した。
それを見て今迄は事ある毎に筒井の善政を賛え、御家安泰の祈願費などを貪っていた多聞院(*3)などは
「元来が大和は春日神領であったのに筒井ら武士共が数代にわたって横領し悪道な政治を行っていた。今度、関白殿の命によって憐れ追い払われるのも当然の報いであり、今になって他人を怨んでも遅い」などと日記に書いているのは社寺の本音であろうが、それにしても書く方も厚い面の皮である。
定次の新領二十万石の内訳は伊賀十二万石、伊勢五万石、山城三万石となっている。けれど、伊賀は三年前の大乱によって荒廃しきって実質は十万石にも満たず、前任の滝川三郎兵衛(*4)、脇坂安治等も治政に手を焼いていた程である。筒井家の幹部達も前途の多難を予想して心細い限りであったに違いない。その足取りもトボトボと頼りなく「喪家の犬の如し」などと評されている。

(*1) 結崎井戸の里を参照。
(*2) 和歌山新宮市熊野川町篠尾。玉置山の南。
(*3) 石上姫丸城を参照。
(*4) 源浄院。凱歌編を参照。 
3 大和百万石 

 

(1) 秀長、湯川と山本の一行を毒殺する
天正十三年(一五八五)八月の末、筒井勢は、父祖伝来幾百年住み馴れた大和神国と誇る「まほろばの里」を追い立てられ、悄然と先の天正ノ乱で手痛い反撃を蒙った伊賀に向った。
代って「大和大納言」と仰がれて温顔に笑をたたえ入国してきた羽柴秀長以下の将兵の志気は正に旭日のように高かった。とは云え、中辺路(*1)一帯の要害の地に籠る湯川、山本の反撃は厳しく新領主・秀長の苦労も並々ならぬものがあった。
秀長は新しい寄手の大将に杉若越後を任じ、三千の兵を与えて龍松山に籠る山本勢を三ヵ月に渡って猛攻したが、僅か三百の敵に苦しめられてどうにも落ちない。
田辺第一の高峰・龍神山の湯川勢も同様で、土地不案内の秀長軍は激しいゲリラ戦に悩まされるばかり。やむなく家中きっての剛腕、藤堂高虎が巧みに時流や本領安堵を説いて漸く和睦開城と決したのはもう年末だった。
天正十四年(一五八六)の春、湯川や山本一行が大和郡山城に参じて秀長に謁見した。父祖伝来の本領を安堵され、安心して藤堂邸に帰り、浴室で汗を流し寛いでいる処を槍で刺殺されたとか酒宴中に毒殺されたと云われている。
人情家で知られた秀長だけに彼らも信用していたのだろうが、かねて秀吉が帰る時
「元来紀州は昔から反骨の強い治め難い土地で知られて居り、お前のように情の厚い男でないと治まらぬ。然し昔からの領主と百姓達の結びつきは極めて固いから甘やかすばかりでもいかん、地侍の難物だけは手段を選ばず思い切った厳罰に処して衆の戒めとせい。」
と懇々と命じていったからだろう。
温和な秀長はその云いつけを守り、藤堂の提案でこの挙に出たのだろうが、何とも残酷な処置である。豪勇で聞えた湯川、山本を始め一族郎党数十人は、悲憤の怒りに燃えつつ無念の最後をとげたに違いない。

(*1) 中辺路。 
(2) 井戸良弘、雑賀孫市を探す
かくて入鹿、竹原、野長瀬氏と共に南朝方として活躍した湯川と山本の両家も没落した。僅かに生き延びた湯川直春の弟・勝重らは熊野川畔の日足の能城(*1)に潜んで帰農した。
一方その功によって藤堂高虎は粉川(*2)で一万石を与えられて大名に列した。秀長は紀伊、大和、和泉百十余万石の大々名として、若山城(和歌山城)に桑山、田辺に杉若、新宮に堀内を置いて治政を進める。堀内氏善の所領は二万八千石だが、これは申告高と思われ、実収はその倍はあったようだ。
井戸良弘が秀長に召され、領内の検地に先立って郷士達が血気の振舞なきよう下工作に北山方面に赴いたのはその秋だったと云う。彼が気になるのは一世の快男児・雑賀孫市の存在である。
孫市は、先年、信長の雑賀攻めに城を開いた。その責任上から、家を小孫市と称された嫡男・孫三郎に譲って隠居し、秀吉の客分となって自由な日々を過ごしていた。然し今度の紀州攻めに際しては、郷党との情義もだし難く、泉州に出陣し、積善寺城(*3)に入っていた。四月半ば、秀吉の開城要請に応じてあっさりと城を出ると、風吹峠(*4)を越えて故郷に帰った。時に孫市は男盛りの四十歳と云われ、以後、史上から沓としてその消息を絶ってしまう。熊野に残る伝えによれば、彼は堀内氏善に乞われて新宮城に入り、悠々自適の生活を送っているうち、氏善の次男・主膳を当主とする有馬家の客分として、その治政に尽力する事になったようだ。
雑賀城を囲んだ秀吉勢に小孫市があっさりと降伏し、秀長に臣従しているのも、孫市の情勢判断に従ったのだろう。進んで秀吉に仕えれば大名格の扱いを受けるのは確実と思われるが、天性自由気ままな孫市だけに堅苦しい宮仕えをする気はなかったらしい。

(*1) 和歌山県新宮市熊野川町に能城山本という土地がある。
(*2) 和歌山県粉河町。和歌山市の東側に位置する。
(*3) しゃくぜんじじょう。大阪府貝塚市橋本。
(*4) かぜふきとうげ。和歌山県岩出市。秀吉の紀州征伐を参照。 
(3) 井戸良弘、雑賀孫市に会う
井戸良弘は孫市が北山に入ったと聞いて、世話になった竹原や戸野一族が彼をかついで一揆を起こしては一大事と考えた。急いで海路、熊野新宮城の堀内氏善、その正妻で九鬼嘉隆の娘の生んだ嫡男・氏弘(後の新宮行朝)と会い、秀長の意向を伝えたと思われる。
かねて良弘のことを聞いていた堀内父子はその人柄に惚れこみ、氏弘も喜んで弟・有馬主膳の城に案内する。折しも北山から帰ってきた孫市の話を聞いたが、それによれば北山の郷士らは天下に武名を轟かせた孫市の衷心からの和睦のすすめにも耳をかさぬ鼻息でどうにもならなかったらしい。
風光明媚な有馬(*1)松原の白砂青松に囲まれた草庵で、大いに意気投合した三人は夜ふけまで語り合ったと云われる。良弘は生のいい鰹の刺身を大皿に盛り上げてすすめながら
「“君と寝ようか、五千石とろか。何の五千石 君と寝よ”との今様も歌うように、拙者はもう宮仕えは御免じゃ、残りの生涯は自由きままに楽しんで送るつもりよ」と豪快に笑い飛ばした孫市にすっかり同感させられたらしい。

(*1) 三重県熊野市有馬町。花の窟を過ぎたところから志原尻河口までずっと松林だった。 
(4) 井戸良弘、大和に帰る
それでも良弘が、北山花知(*1)の里に竹原四郎を訪ねたのは天正十四年(一五八六)の冬に入った頃で、そこで始めて風伝峠で行われた卑劣な策謀を知った。権謀家の藤堂は、死守し続ける郷士勢に手を焼いた末に、和睦を申し入れ
「武器を捨て城を開けば一切罪には問わぬ。もし承知せねば各村々の老幼男女を皆殺しにする」と脅しつけたので、かねて良弘から聞かされ、秀長の人望を信じて開城した郷士百五十八人のすべてを片っ端から首をはねたと云うのである。
「そんな卑怯な話があるものか!よし身共が直に大納言殿に会い確かめて見る」と始めてそれを知った正義感の強い良弘は腹を立てると、急ぎ郡山城に参じて秀長に事情を訴えんとした。しかし折悪しく秀長は病床に伏していて頭も上がらぬらしい。いかに「御目見得地士」の彼でも会うことが叶わなかった。やむなく堀内父子にその状況を語って協議の末、暫くは妻と生まれたばかりの幼児を連れて大和に帰り、後は堀内に善処願う事にした。
まほろばの 里の夕辺に 帰りなん、篝火ゆるる み熊野の山。
と詠じて名残りを惜しんだが、責任感の強い性格だけに、この事は誠に心外だったに違いない。
良弘が世に出る気をすてたのは、明智光秀が常々口癖のように
「坊主の嘘は方便と云い、武士の嘘は策略と称してごまかす。さりとて百姓は哀れにも可愛ゆきものなり」と嘆き、孫市が
「すまじきものは宮仕えよ」と、うそぶいて、浜辺の草庵に名利をすて清貧を楽しんでいるのを見て、つくづく羨ましくなったのだろう。
良弘が秀長から暇を取り一介の地士となったのは間もなくである。熊野から伴って来た妻子と石ノ上田部の館で住み、熊野から送ってくる漢方薬販売を生業としながらその傍らに茶道と能楽に風雅の余生を楽しみ始めるのである。

(*1) 熊野市神川町に花知神社がある。花知神社の案内には、後醍醐天皇の皇子である護良親王が熊野落ちした際、ここで自分の館に迎え守ったのが竹原八郎と記されている。 
(5) 藤堂高虎、仙丸を養子に望む
その頃、郡山城では秀長の嗣子・仙丸(*1)が八才で従五位下宮内少輔に任ぜられている。仙丸は丹羽長秀(*2)の三男に生まれたが、天正九年(一五八一)に秀吉の懇望で男の子のない秀長の養子となった。秀長が大和入城の年には七歳で供に入ったが、その可憐な姿が町民達の目を惹き
「いづれ一人っ子のお姫様の婿となり、次の大和大納言様となられる方よ」と大評判となっていた。
それを知った秀吉は俄かに
「丹羽長秀が世を去った今では豊臣家の安泰を計る上からも一族から嗣子を選ぼう」と思い立ち、甥の秀保(*3)に代らせよと云い出した。
然し秀長は
「亡き丹羽殿に対する義理を欠く」と仲々承知しなかったので秀吉は困り果てていたらしい。それを知って
「ここは一つ秀吉公の気嫌を取ろう」と抜目なく中に入ったのが家老の藤堂高虎で
「身共も嫡子がありませぬ。何とか仙丸様を養子に下され」と云い出し、その魂胆が見えすいているので秀長は非常に怒ったらしい。
この高虎は秀吉に似て越前朝倉浪人の子で、十五で家を出ると浅井長政の足軽となってより生涯に七度も主人を代えたと云われる。新宮の堀内家にも百石で抱えられていた事もあるらしい。
秀長には中国攻めの頃に見出されたと云うから、まだ十年にもならないのだが、やり手を買われて紀州攻めの功によって天正十三年(一五八五)一万石の大名に成り上がったばかりである。それなのに抜け抜けと、主の養子を呉れと云い出したのだから、秀長が怒るのは当然と云える。
高虎も時期尚早と考え、専ら郡山城の拡張に手腕を振いその機嫌を直す事に努めたようだ。筒井順慶が信長の一国一城令に応じて、現在の郡山城を大和唯一の城として大改修を始めたのは天正九年(一五八一)と云われる。天守閣が完成したのは天正十一年(一五八三)四月だが、それから僅か一年四カ月で順慶はその生涯を閉じた。
秀長が入城した天正十三年(一五八三)八月からこの城は大和、紀州、和泉の三国を支配する首都として面目を一新すべく工事が着手された。天正十五年(一五八七)には根来寺の山門が移されて大手門となり、翌年から奈良中の家毎に大石の強制割り宛てが始まり、社寺にも容赦なく供出が命じられた。今日、城壁の諸々に見られる石仏や墓石、土台石はその時の慌しさが忍ばせるが、奈良の商家を移住して城下町が形成されたのは略、天正十五年(一五八七)と思われる。

(*1) 藤堂 高吉(とうどう たかよし)。丹羽長秀の三男。羽柴秀長、次いで、藤堂高虎の養子となった。
(*2) 織田氏の家臣。長篠の戦いや越前一向一揆征伐など、各地を転戦して功を挙げる。政治面においても優れた手腕を発揮し、信長から近江佐和山城や若狭一国を与えられた。
家老の席順としては柴田勝家に続く二番家老の席次が与えられた。織田家の柴田・丹羽の双璧といわれることから、当時「木下」姓だった豊臣秀吉が双方の字を取って「羽柴」の姓を信長に申請し、長秀が秀吉に対し好意を持つというエピソードもある。このことを快く思った丹羽は、柴田とは対照的に秀吉の保護者となり、その後の秀吉の天下統一に大きく寄与する。
(*3) 豊臣秀保(とよとみひでやす)。豊臣秀吉の姉である日秀の子。大和中納言。叔父秀長の養子となり、天正19年(1591)に秀長が没すると大和豊臣家を継いだ。藤堂高虎と桑山重晴が秀保の後見役に任命された。
文禄4年(1595)、療養のために大和十津川にあった折、変死を遂げる。享年17。死因は疱瘡の悪化とされるが、秀保の後見役の藤堂家関係の史料には「十津川に遊覧に出かけたところ、小姓が秀保に抱きつき、ともに高所から飛び降りて転落死した」とある。同じく秀長の養子で藤堂高虎の養子の羽柴高吉への大和豊臣家の家督継承が認められず、大和豊臣家は断絶。 
(6) 北山郷士、検地に対して蜂起する
この年(一五八七)の春に京の三条河原で伊賀の百地に仕えたらしい忍者上りの石川五右衛門という大盗賊が大釜に油を入れて煮殺された事件が大評判となっている頃。
かねてから問題となっていた大和十津川、北山一円での検地が断行された。いわゆる太閤検地である。一介の土民から天下人に成り上がった秀吉が民衆の苦しみや悲しみを充分知り尽くしながら「検地、刀狩」の農民政策を開始したのも其頃である。九州征伐を終え大納言に昇進した秀長は、郡山城に帰ると兄の政治方針を忠実に守って太閤検地と呼ばれる領内の検地に着手し、一枚の隠し田も洩れなく調査せよと厳命した。
「武士の知行は一時、百姓は永久」との秀吉の意向通り農民の移住を禁じ、地侍と農民の結びつきを断ち切って領主の支配力を強めた。「二公一民」と定めると、諸税は排し、反当り一斗以下は無税にし、農民を無償でこき使う事を厳禁して善政を計っている。
本宮や十津川郷民は良弘らの工作もあって素直に検地を受けた。その上で、それをそのまま丁戴する代りに、夫役として毎日四十五人の筏乗りが材木を新宮まで輸送する事を願い出る。秀長はそれを認めた上に、人夫の食料として年八十石を下賜する事にした。
それに対して北山郷民は、検地役人の立入りを拒み
「ここは昔から先祖代々受け継いで来た土地で何も領主から貰ったものじゃないから年貢など納めるものか!」と強気に出て弓鉄砲等を持ち出し騒ぎ立てどうにも手がつけられない。
検地代官を命ぜられた杉若、青木ら武将も、かねて南朝の根拠地として室町幕府も手を出せず治外法権的な扱いを受けてきた土地柄だけに、十津川同様の赦免地にしたいと秀長に申し出た。ところが、彼は
「領主を力づくで脅すと云う態度は誠に怪しからぬ」と激怒して
「今年はもう冬に入り大雪等で成敗できなければ、明年なりとも北山者は悉く首を刎ねる故、そのつもりで此際は忠義を専一に心がけよ」と本宮篠ノ坊に命じている。
それを聞いた北山郷士達は
「成上りの猿面冠者の弟めが何をぬかす」と沸き立ち、北山から神川、西山、入鹿、尾呂志の全郷に檄を飛ばし砦を築いて一斉に蜂起した。風伝峠の怨とは云え、時勢にうとく「盲蛇に怖ぢず」の類であったろう。 
(7) 吉川兄弟、北山郷士を破る
豊臣勢の強大さを知っている堀内氏善は何とか事を穏便にすまさんと色々奔走したと思われるが、硬骨の郷士達は頑として聞かない。天正十六年(一五八八)の九月になると秀長の厳命を受けた吉川平助、三藏兄弟が三千の強兵を率いて乗り込んで来たから、氏善もやむなく先陣となり出撃した。
氏善は有馬城から井戸川を溯り大馬谷を進むと飛鳥郷の境に辛ぬた城を築いて拠点とした。精兵五百を指揮した氏善は、まず飛鳥の神山、野口、佐渡、小坂、大又の村民を集めて時勢を説き味方に加えると、一揆勢の籠った寺谷の多尾岩葺倉山砦に攻め寄せた。
一揆勢の兵力は二千五百余と云うから大和領の北山衆も多数参加していたに違いない。伊賀郷士のように
「南朝の忠臣として勇名を馳せた先祖の名を恥ずかしめるな」と意気高く迎え討った。けれども歴戦の羽柴勢に堀内軍、それに勝手知った飛鳥村の猛者三百余を加えると四千近い大軍である。
岩葺倉山をゆるがさんばかりの鯨波を轟かせて一気に攻め立てた。新式鉄砲隊の一斉射撃と共に勢い鋭く猛攻したから、誇りは高くとも戦馴れぬ一揆勢は死傷続出して崩れ落ち四方の山々に逃げ込んだ。これは優れた指揮者を持たぬ悲しさでもあろう。
大勝に満足した吉川兄弟は南帝三代尊雅王ゆかりの神山光福寺住職から秀長公への献上品として平維盛愛用の赤扇子等を託された。兄弟は、ひとまず新宮に引揚げて冬を過し、明春再攻と決め、凱旋将軍の威勢も高く軍を返した。 
(8) 吉川平助、神倉炎上させ、悪事露見により処刑される
この吉川平助は、家康の伊賀越を助けた伊勢大湊の船奉行である。後に秀長に仕え、七千石の大身だけに、新宮滞在中も暴若無人の振舞で速玉大社の神宝を捲き上げている。神倉聖の制止も聞かず、聖地・天ノ磐盾に登って月見の酒宴を催す等の専横ぶりに、たまりかねた修験者らが暗殺を計ったらしい。熊野年代記は
「天正十六年十月十六日神倉炎上、三藏、平介これを焼くに、大和大納言殿の御用にて十津川北山へ参りたる木奉行にて両人を切殺す。」と記している。
その真相は、「魔所だから登ってはならぬ」と止めるのも振り切って登った二人を、聖達が襲い三藏を斬り捨てた。それに驚いた平助は本堂に放火して早鐘をつき鳴らした。社人達も慌てて駆け登ったが間に合わず悉く炎上してしまった。…と、いうことらしい。
平助達はその前年にも秀長の命で郡山城建造用木材集めに北山にやって来たらしく、池峯明神の神木を伐ったのも彼らと云われる。神官達には「秀長公の落し種」と称して権勢を振い、望んで今回の討伐隊長を命じられたようだ。
神倉炎上事件は、恐らく大検校たる氏善の報告によって秀長の耳にも入ったらしく、平助は即座に召喚された。厳しく詮議の結果、彼が熊野材を勝手に伐り、大阪で売り払って私腹を肥やしていた事が露見した。平助は、その十二月に奈良西大寺前で斬罪に処せられている。
誠に秀長らしい正邪曲道を誤らぬ大領主らしい裁決であったが、これには良弘も大いに尽力しているようだ。 
(9) 第二次北山討伐
然しこれ程に明哲な秀長も、同じ年、兄・秀吉の懇請もあり、藤堂高虎の誠実に期待して、愛する仙丸を彼の養子とした。養育料として一万石を加増して粉川に送っている。
時に宮内少輔高吉、十一才の幼年である。高虎がマンマと二万石の大名となったのは時流を見るに敏と云えよう。然し彼を父とした高吉の人生は決して幸福なものとは云えず、後には名張で生涯を終えるのだが、詳しくは年を追うて述べる事としよう。
翌天正十七年(一五八九)、秀長は、先の風伝峠の卑劣なだまし討ちも作略と称する高虎らの言を信じて北山暴徒鎮圧を命じ、郡山城では着々と戦さ準備が進められた。
春四月に入ると、藤堂高虎、羽田長門守ら名だたる勇将が討伐軍の大将に任じられて新宮に到着し、堀内氏善と共に作戦を練った。
同じ頃、秀吉が検地に向う浅野長政に対して
「反抗する領主は城に追込んで皆殺しにせよ。田畑を隠すような百姓共は女子供まで残らずなで斬りにしてしまえ、その為に国や郡が荒れ果てても一向にかまわぬ」と厳命しているのは信長に習ったのだろう。
恐らく藤堂らも同じように
「源平の嫡流や、南朝に忠節を尽くした名家であろうと天皇の命によって天下を治める予に反抗する者共は一切情など無用」と云われたに違いない。
古代から日本の伝統だった天皇制度を無視して公武の上に立つ独裁者たらんとした信長の態度が朝廷の厳しい反感を買い光秀の叛乱を招いた。それを知って配慮した秀吉も、権力を得れば治世上で万民の幸福等は眼中になかったとは悲しい。
風薫る四月から開始された藤堂、羽田の第二次北山討伐は苛酷を極めた。神ノ上要害城に籠もった一揆勢を敗走させて西山郷に進み、入鹿ノ庄に進んで入鹿城主の入鹿友光以下の地元豪族を次々に討ち取ると北山一円を鎮圧した。 
(10) 北山一揆の残党、田平子峠で虐殺される
然し一揆の残党達が山野に潜み村々にかくれて容易に捕らえられない。これに業を煮やし、藤堂らは風伝峠と同じ策を考えた。西山の赤木に本格的な城を築き上げると村々に布告を廻し
「今度、無事に城が出来上がったので盛大な竣工祝いを催ほす事にした。就いては各村から一人残らず祝いに参上せよ多分の祝儀もつかわすぞ」と巧みに呼び集めた。何も知らずに集った里人の中からかねて一揆の首謀と目をつけていた連中を一網打尽にからめ捕った。
その数は三百数十人と云う多数に上った。情容赦もなく田平子峠で極刑に処したのは藤堂の発案とは云え、温厚な大守で知られた秀長とも思えぬ冷酷無惨なやり方で、それを知った村々では帰らぬ父や夫を恋い慕い
行たら戻らぬ 赤木のお城、身の捨て処は 田平子じゃ。
と云う悲しい里歌を子々孫々まで歌い継ぎ、その怨みは綿々と数百年に及んでいる。
それに比べて、堀内の築いた大里京城では、地元領主だけにそんな悪辣な策謀を巡らす事もなく、検地も無事にすんで民心は安定していた。厳罰主義を断行した赤木城の藤堂に比べて格段の治政を見せている。
それを知った秀長は民の福祉向上にせよと三千石を堀内に加増し、続いて秀吉も翌年小田原攻めの勝利を願って三山に黄金百五十枚を寄進としている。当時の金一枚は十両で十五貫文になるから、一万五千文と云う高価である。米一升が三十文程度だから、総額では七千五百石となる。三山も大喜びで、造営に着工して秀長の善政を賛え、十津川では後の徳川時代まで
トンと十津川 御赦免所、年貢要らずの 作り取り、
と歌ってその善政を喜んでいる。それに比べて、北山郷の郷士や農民達は其後も代官の圧政に堪えられずに、北山、竹原衆は再び阿田和方面に来襲して代官・塩田左内を苦しめている。藤堂のまいた因果の種は、大坂夏ノ陣の後までも熊野の里人に悲劇をもたらしているが、この史実を大和、伊賀の人々は何一つ知らない。 
(11) 風伝峠から赤木城
天正十三年から五年に及ぶ豊臣勢の紀州攻めは幾多の悲劇をもたらしたが、特に熊野、北山一円について『南紀古士伝』は次のように記している。
「天正十三年夏。南朝以来の名家で知られた野長瀬左近らを和議とだまして赤木城に招いた藤堂与右衛門はなおも奥山をふみ越へ本宮神官の尾崎ら百六十人を風伝野にて容赦なく首をはねる。翌年春には龍松山城にて力戦した清和源氏の嫡流である湯川、山本らを和議の使者となって巧みに説得し、郡山城に招き寄せると、先づ湯川直春一族を秀長公に拝閲させ本領安堵で喜ばせた後に邸で酒宴を催ほし毒殺する。それと知った山本主膳、西蔵人ら十三名が城下を脱出したのを紀和国境の眞土峠で待伏せ、丁重な扱いで一泊をすすめて宴を張り、彼を信じ新設の湯殿でくつろぐ山本を板壁越しに七本の長槍で刺し殺し、西ら従者もすべて騙し討った。続いて天正十六年に勃発した北山一揆では主だつ郷士ら三百余を田平子峠で斬首して怨みの里唄を後世に残した」
然し、罠にかかり無残に斬首された里人の死体は弔うことも許されず、深い谷間に蹴落とされ、空しく狼らの餌食になったと云い、今も谷底から吹き上げてくる冷風は腸にしみる。
その怨みからか、温かな人柄で豊臣家の大黒柱であった秀長公はその翌年、二代目の秀保もやがて変死し、大和百万石は絶える。
しかし、手を下した高虎は巧みに勝ち馬に乗り
伊勢は津で持つ…
と歌われる名君として今も尚、高く讃えられているのを見るとつくづく
「歴史は勝者のものでしかないか」と嘆きつつ、山を降った。

(*1) 和歌山県新宮市千穂1丁目9-29。
(*2) 荒木哲宗氏。全龍寺二十七世住職。源平群霊を弔してを参照。 
4 伊賀白鳳城の誕生 

 

(1) 筒井定次、伊賀を治める
筒井定次が伊賀に国替となったのは天正十二年(一五八四)の八月末で、その時彼に従った者は次のようである。
1.一門親族(十市、千石、箸尾、福住)
2.家老、重臣(松倉、中ノ坊、島、芦田、中西。井上、井戸
(註)彼らはいずれも大和時代の五割程度に減禄された。
当時の伊賀は三年前の大乱によって神社仏閣の殆どは焼土と化して見る影もなかった。定次は上野の守護・仁木友梅の邸跡に草館を建てて、ここを治政の中枢とし、平泉・薬師寺の荒地に築城を開始した。
かねて秀吉は彼に気を配って羽柴の姓と従五位下伊賀守に任じた上で
「伊賀は大坂の出城としても秘蔵の地じゃ、文武両道に励みつつ要害堅固な大城を築け」と巨額の資金を下賜した。従って、築城の資金は豊かで、役夫数千人を集めて一日五合の米を支給し、突貫工事を敢行した。これは徳川家康、織田信雄との対戦中でもあったからだ。
その年末、講和が成立してからは治政に気を配り、松倉を名張八千石、岸田に阿保三千石、箸尾に平田二千五百石を与えて領民の景気回復に努めている。
そして首都とも云える上野に中ノ坊、島の家老職を始め一門の福住や十市を配して街の復興に懸命となり、京の豪商・角倉了意を起用して伊賀川の水路を掘削して物資輸送の便を計った。
定次も親交厚い千ノ利休や茶人大名・古田織部に師仕して「破れ袋」と銘した水差しや抹茶器などを造らせ大評判となっているあたり、如何に産業を発展して住民の生計の充實に配慮したかが察せられる。
現在でも盛況を極める天神祭は、彼が入国の際に雷除けの神として奉持してきたものである。秋の大祭には領主自ら能面をつけ、きらびやかな狩衣で行列の先頭に立って今年の豊年を舞い
「白鳳の名にふさわしい絵のように美しく、民にも優しいお殿様」として城下の人々の憧れの的であったとかで白鳳城と云う名が生れたらしい。 
(2) 石田光成、島左近を召抱える
入国早々の天正十三年(一五八五)春、名張領主の松倉勝重が病没したが、嫡男・重政はまだ十二才で家督が継げず、筆頭家老は中ノ坊秀祐が就任。二番家老には島清興の子・左近猛勝が登用されたらしい。
中の坊、島の新家老はいずれも豪雄で知られた硬骨漢だけに思う通りを直言する。若い定次はそれが煙たくって、新しく召抱えた桃谷、河村らを寵愛してろくに会いもせぬと云う状態となった事から、その治政が乱れ始めた。
天正十四年(一五八六)、先ず松倉重政が浪人し、名張城をすてて行方をくらます。続いて島が残る家老の中ノ坊秀祐と別れの宴を開き、互に国の先行を案じつつ、子に譲って近江阪田郡に退身する。
天正十六年(一五八八)になると石田三成が島の浪人を知り三万石の所領の半分を与えて召抱えたのが大評判となった。それを聞いた秀吉が
「主従が同じ禄高と云うのは聞いた事がない。佐吉はさすが大気者よ」と賞賛したと云われ、時に島は三十八才、三成は十才下の二十八才だった。
それにしても島が去って秀吉は伊賀の守りが弱体化するのを恐れ、浅野長政を使者として一万石を加増しすると
「島に続いて一族の福住、森までがそなたが風雅の道に溺れ過ぎると愛想をつかして大和へ帰ったそうな。残る布施、十市、井戸らに分配して行状を改め、一日も築城を急いで大阪の外城たる役目を果たせ」と叱っている。 
(3) 山上宋二、秀吉に処刑される
然しながら一旦、戦場に出ると定次の勇猛さは有名で、九州の島津攻めでは豊臣の姓を許され、天正十八年(一五九〇)の北条攻めには一万の部隊を指揮して菲山城攻めで武功を輝かせている。
この戦いでは秀吉の口ききで千石を加増された井戸覚弘兄弟の活躍はめざましいものがあったと云うが、井戸家にとっては忘れてはならぬ痛ましい出来事が起こっている。
家重代の家宝としてきた世阿弥ゆずりの高麗茶碗を一目見て
「おお、これぞ正しく井戸茶碗」と世に知らしめたのは若き日の千ノ宗易の一ノ弟子の山上宋二であった。
本能寺ノ変の後に順慶が献上した井戸茶碗は秀吉の寵愛惜くあたわぬ品となって茶会には必ず用いた。宗易のすすめによる北野の大茶会が天下の評判を高めていた頃、これを運んでいた小姓が誤って割ってしまい
「あわや切腹!」と思われた時、側にいた細川幽斉が
筒井づゝ 五つに欠けし 井戸茶碗。罪をば我に 負いにけらしな。
と伊勢物語にある業平の「つゝ井筒」の句にちなんだ即興を詠じ、忽ち秀吉の機嫌を直させ小姓を救った話は当時知らぬ者もない評判となっている。
利休さえ一目置いた程のその山上宋二が、師匠に劣らぬ直言癖から
「侘び茶の精神にもとる成金茶道」と秀吉を批判した為に追放されて各地を放浪した末に、天正十八年(一五九〇)には北条家の茶道頭となっていた。
それが大戦となり長陣にあきた秀吉が宋二の話を聞いて召した処、宋二は
「その日は北条家の茶会があるから参上できかねる」と拒んだ為に断罪に処されると云う事件が勃発したからである。
宋二は厳しい処刑にも恐れず、武士さえ舌をまくの豪快な態度で世を辞した。この事は忽ち都に飛び、茶人の間には秀吉の非道を怒る声が秘かに渦まいたのは当然と云える。
大和の里夕斉と号した良弘の茶室でも、宋二を悼む人々がしめやかに追善供養の茶会を開いた。良弘もやがて宗易が非業の死によって佗茶の世界をかざる日が遠くないのを感じたのは、彼自身も太閤の黄金の茶室に茶人として一歩も退かぬ覚悟を抱いていたからだろう。
そしてその予感はやがて現実のものとなる。 
(4) 利休、死す
天正十九年(一五九一)正月、秀吉は奥州を征圧して天下統一を果し、続いて大陸への野望を燃やしていた。その彼にとって柱石とも称すべき只一人の弟・秀長が五十二才で世を去った事は何物にも代え難い打撃だったろう。
秀長と利休が豊臣家の大黒柱であり、秀長もそれを自認していた事は九州の大友宗麟が大坂城で彼に会った際、
「公儀については身共が存じて居り、内々の事は宗易にお任せあれ」と語った事で知られている。その秀長が世を去ったことで利休に禍が及ぶのは必至で、果して翌月になると
「新しい茶器を高価で売った、大徳寺の山門に己の木像を掲げた」等の罪で追放される。大政所やねねがしきりに
「お詫びをせよ」とすすめても、それは出来ぬ、と莞爾として首を振り続けた為に、二月末になると切腹を命じられ
「人生七十、力囲希咄、吾此宝劍、祖仏共殺、」
“七十年と云う信長公に比べれば遙かな歳月を力一杯に努めたが、名利を断ち眞の茶道を悟のは容易ではなかった。然し今や生死の関頭に立ち、練り上げたこの宝劍を振い、祖師も仏陀も共に断ち切って、眞に「利休」名も利も払いすてた天衣無縫の人間となろうと心に誓った。”
と詠じて快川国師にも劣らぬ見事な最後をとげた。黄金の茶室に勝る“わび” と“さび”に満ちた草庵こそ正しい、と死を以て示して茶聖の地位を不動のものとする。 
(5) 秀吉、明を攻める
かつて天才的な人たらしの名人と云われた秀吉は、希代の独裁者であった信長の継承者たる色彩を強めていった。これは、豊臣政権を支えてきた秀長と利休の死による必然かもしれない。信長の特色であった兵農分離によって専門の兵士が誕生した。更に工兵、輜重兵、経理将校を育成して、日本全土を統一した秀吉だが、天下泰平後も彼らの生甲斐を見つける為に更に戦いを求めざるを得なかったのは因果と云えよう。
更には天正十九年(一五九一)の夏、「権力を得た者は必ず腐る」の格言通り、老の掌中の玉であった嫡男・鶴松を失った傷心を癒さんと、太閤は全国に「唐入り」の準備と軍船建造令を発した。
佐和山十九万石の領主となった石田三成は、島左近を奉行として大坂城の西北の守りを固める堅城完成に邁進していたが、それを知って
「その前にやるべき事がある」と叫んだと云う。
島左近から
「家康が服部半蔵を介して、やがて天下を狙うべき情報活動の組織的な伊賀軍團の確立に努め始めたのは、信長の伊賀攻めによって路頭に迷った忍者達を陰密に召抱え出して以来の野望である。したがって此際は万民の泰平を固める為にも、愚かな名を求め危険な外征軍を派遣する前に、関東二五〇万石の徳川を滅ぼして置く事が豊家の為に先決。」と進言されていたからである。
然し如何に寵臣・三成が「直言居士」の仇名通り秀吉の怒りにも恐れずそれを力説しても、「大明伐り取り勝手」の欲望に燃えた武断派の大名達や、小田原攻めに際し一夜城を築き上げた穴生の工兵軍や、米三十万石を金一万枚でかき集めて食糧輸送に鮮やかな手腕を見せた主計将校達を遊ばせては置けない。まず彼らと十五万近い元冠以上の最新式の小銃を装備した大侵略軍團の先陣が巨大な歯車を廻し始める。
大坂城にも劣らぬ十六万坪の巨大な名護屋城が忽ちにして出現し、中国・印度までを支配せんとする太閤の野望は果てしもなく燃え拡がっていった。 
5 悲劇の朝鮮出兵 

 

(1) 秀吉、明攻めの準備をする
秀吉の大陸征服の野望は信長に仕えていた頃から久しい念願だった。関白に就任した天正十四年(一五八六)には宣教師を大阪城に呼びつけ、
「下賤の身から最高の地位に就いた予は、天下を統一して泰平をもたらせば、弟・秀長に任せ、朝鮮と大明を征服して、その名を後世に残す決心である。大軍を渡海させる為に多数の軍船を用意させているが、汝らは充分に武装した洋船二隻に練達の水夫を用意せよ。勿論その代価は望み通りに与える。」と命じている事でも判り、以後着々とその準備を進めている。
秀吉は物量作戦を得意とし、常に敵の二倍以上の兵力を用意するのが常であった。また単に武力のみでなく水攻めや長期包囲作戦で勝利を得て来た。今回も検地と人口調査を行い、百姓でありながら野良仕事に精を出さぬ怠け者は村の連帯責任とし、浮浪人はすべて追放成敗する等を厳命。
各大名に
「海沿いの藩は十万石につき大船二隻、浦百戸に水夫十名を用意せよ、出征兵や水夫の田畑は村中で耕作させて荒れさせず、水夫には二人扶知と家族手当を出す。但し逃亡した者は一族まで厳しく罪を問う」と云った細部に及ぶもので、五山の僧を通訳とし、傷病者用の軍医群を同行させる等の細かな配慮まで見せている。
秀吉の直領には十万石で大船三隻、中船五隻の建造を命じているからその数だけでも大船百隻、中船百五十隻に達する。優れた造船技術を持つ熊野沿岸の港々には注文が殺到して新宮港だけでも百隻を越える程だった。 
(2) 日本軍、緒戦の勝利
文禄元年(一五九二)正月、遠征軍の編成が完了し、先陣は小西、加藤ら十四万、後陣は宇喜多ら六万、名護屋本陣には徳川ら十万が在陣し、総勢三十万に達した。
然し水軍は、九鬼、堀内、来島らの海賊出身は少なく、藤堂、脇坂ら陸将を併せても一万に満たないのが致命傷だった。九鬼軍の日本丸(鬼宿)のように全長三〇m×巾一〇m、乗員百八十名砲六門を備えた大船でさえも、その内容は戦艦と云うより輸送船に近かったと云われる。世界初の鉄装艦隊を実現した信長を師に持ちながら、秀吉はやはり山猿の殻から抜け出せなかったらしい。
三月に入ると秀吉は名護屋に向う。四月始め、食糧は五十万人分の用意が整った。加藤清正らは
「大陸に於て二十ヵ国拝領せしむ」と云う秀吉の言葉に勇躍して海を渡ったが、小西行長を始め、出兵に不満の将も多かった。
堀内氏善は警固船を率い、総師格の九鬼嘉隆の片腕として活躍。諸戦の竹島沖の海戦には、浜田国次らが敵艦五隻を分捕った功により備前長光の名刀を賜り、海口の戦いには尾鷲の世古、古座の高互、小山達も武功を挙げた。
喜んだ秀吉は、氏善に北山五千石を加増、諸将に感状を下して賞し、僅か二十日で首都京城が落ちたと聞くや有頂天となり
「天皇を北京に迎え、秀次を大唐関白とし、日本の関白には秀勝を任じて予は寧波に移る」と燥いでいる。
朝鮮軍の敗因は何か。日本軍の精強と武器の優秀さに比べて、李王朝の腐敗と無能に呆れ、「李王の悪政に苦しむより日本につけ」と云う者も捕虜となった敵兵の中にはいたらしい。従って、もし秀吉に異民族統治に関する国際的感覚が優れて居り、特に儒教に対する民族的信仰を尊重すれば、前途にもっと明るい事態が生まれたかも知れない。
然し残念ながら当時の日本でトップの儒家であった藤原惺窩などは
「日本では儒教は育たず、勝てばいいんで、手段などは問題ではない」事に絶望して韓国亡命さえ考えていたようだ。 
(3) 日本軍、敗戦が続く
第二陣の加藤清正が釜山に上陸し、四月二十日、元の新羅の首都だった慶州に入った。処が先陣の小西勢が手当り次第掠奪し廻っているのを見て怒った。
「放火乱暴をすべて厳禁する。一般民を勝手に人夫に使う事もならぬ」と布告し、直接行長に強く抗議している程である。
その清正でさえ韓国兵から「鬼上官」と恐れられた。儒教を信じる配下の阿蘇越後守と呼ぶ将などは千余の部下と共に投降し、日本の新式小銃を現地で製造して敵の戦力充實に協力した。その名も金忠善と改めて帰化し、王から貴族(両班)を許された程で、現在もその子孫が大邱の友鹿洞で繁栄しているらしい。
緒戦は「神兵」と呼ばれる日本軍の快進撃だった。しかし戦いは続く。明の大軍が韓国を援助する。また韓国水軍の李舜水と云う名將が、鉄装の亀甲艦を主力とする百数十隻の大艦隊を出動して猛威を振い始めるや、戦局は一変した。
巨済島を出撃した彼らはやがて、玉浦に上陸していた藤堂、堀内勢の五十余隻を発見して碇泊中の船團に猛烈な砲撃を加える。不意を打たれた日本軍は大急ぎで船に帰ると必死に戦った。けれども亀甲艦の砲火に次々に炎上し、始めて敗戦と云う痛打を浴びた。氏善は次の泗川沖海戦には亀甲艦の砲撃を潜って突進し、尾呂志伝平衛らの力闘によって敵将李までが負傷すると云う善戦を展開している。
然し六月の唐浦の戦いでは亀井勢が大敗。村上水軍の豪雄・来島通之が戦死して七十余船を失い、全滅寸前に蘇川から駆けつけた堀内勢に辛うじて救われると云う惨敗だった。秀吉は大いに驚き
「水軍単独の戦いをさけ、必ず陸海共同で戦え」と厳命した。亀甲船に対抗すべく大砲数百門と弾丸を昼夜兼業行で製造し、自から渡海して指揮せんとした。
七月には、閑山島海戦が展開されたが、大砲が届かぬ上に重なる敗戦に功を焦った脇坂安治が九鬼、加藤らと協同作戦をとらず単独で突撃した。その為に包囲されて潰滅的な損害を蒙り、救援に向った九鬼軍も旗艦日本丸の帆柱を折られる大苦戦で百余隻を失う。これで制海権を李舜臣(*1)に握られてしまい、やむなく、日本軍は釜山と巨済島に内地から続々と送られて来た三百門の巨砲群を配備してひたすら守勢に立つ。開戦以来の無人の荒野を行く急進撃で「神兵来る」と恐れられた陸上軍も補給難で開城から一歩も進めない。

(*1) りしゅんしん。文禄・慶長の役時の李氏朝鮮の将軍。朝鮮水軍を率いて日本軍との戦いに活躍し、日本軍を苦しめた。その功績から韓国では国民的英雄となっている。 
(4) 日本軍、反撃す
折しも明の大軍が南下して平壤を攻撃し、戦局の不利を案じた小西行長が明の沈惟敬と秘かに和平交渉に入った。これは恐らく始めから共に出兵に反対だった石田三成の意向をも受けての事であろう。
九月に入ると、勝誇った李軍は百六十余隻で釜山に迫り日本軍は専ら陸上砲台で敵の司令官ら多数の将士と百余隻を撃破したが、日本軍も港につないでいた船舶の半ばを失って敗色を深める。
折から秀吉の名代として京城に到着した三成や大谷らは、日本で聞いた景気の良い報告とは大違いの現地情勢に、前途に容易ならぬものを感じた。そこで諸将を京城に集めて軍議の結果、進撃は平壤で中止し専ら守りを固める事とした。
その上で行長に明との講和を促進させたが、文禄二年(一五九三)の正月五日、突如として李如松(*1)の率いる先陣五万の明軍が多数の大砲を繰出して襲来し、
「戦いよりも貿易で親交を計るべきだ」との信念から加藤らと常に口論を続けていた小西は平壤を捨て京城に退却、碧蹄館に陣をしいた。
京城にいた三成は主将・宇喜多や小早川を招いて作戦を練ったが、味方の五万に対し彼は二十万の大軍である。勝誇った李如松は日本軍は京城を放棄したものと考え、意気高く一気に碧蹄館の草原に駒を進める。
日本軍は猛将・立花宗茂を先陣に勇猛果敢に戦い、忽ち敵の先鋒を潰滅させた。驚いた李が本隊を投入すると。名将・小早川隆景は左右から包囲し、宇喜多本隊は立花勢の後方から襲いかかり、明軍は六千を越える大損害を受けて壊走。李如松も命からがら平壌に辿りついた。
この一戦で戦意を喪失した明軍は講和を望み、稀代の山師である沈惟敬らが講和使として名護屋に向った。しかし秀吉から
「南鮮の割譲。明帝の娘を日本の皇妃とし朝鮮王子と大臣を人質とする」等の条件を突きつけられほうほうの態で帰国する。

(*1) りじょしょう。明代の武将。文禄の役で明軍を率いて、日本軍と戦った。 
(5) 豊臣秀頼の誕生
日本軍は明の回答が来る迄は戦線を縮小し、諸将は交替で帰国休養して戦力の充實を計る事となった。かつて精強を誇った八百五十の堀内勢も勇将猛卒の多数を失って五百六十に激減し、辛うじて帰った兵も傷兵に苦しむ者が多く見られ、浦々は哀愁の気にみちたと云う。
更に其頃、太閤秀吉と関白秀次の間には深い溝ができていた。独裁者だった秀吉は太閤となってもその権力をしっかりと握り、秀次の老臣木村常隆介なども
「これではまるで飾り人形に過ぎぬ」と血気盛んな関白を煽り立てる。
元来、秀次は武人よりも文人肌なのは『日本記』『三代実録』『源氏物語』等を筆寫して朝廷に献じている事でも判り、朝鮮出兵を無謀として反対し、弟の小吉秀勝が朝鮮で陣没した事を悲しみ、再三の太閤の渡島意向にも従わなかった。
そして名ばかりの関白の地位にあき足らず、次第にその性格も荒れ、正親町上皇の喪中にも鷹狩や茶ノ湯、平家琵琶やら相撲興行を催し、女漁りに日々をまぎらせていた。
数々の悪評が巷に流れる中に文禄二年(一五九三)八月、秀頼が誕生して人々は千秋万歳を祝いつつ
「これで関白殿も滅亡」と攝いた。 
(6) 秀次の死
喜んで名護屋から帰って来た秀吉は日本の二割を秀頼に与え、秀次の娘を妻として次の天下人にさせようと考えたが、秀次は応じようともせぬ。
秀吉は焦って文禄三年(一五九四)春には共に吉野の花見に誘い何とか承知させようとしたが、実はこっそり影から豊臣家の崩壊を狙う徳川の本多正信らが
「秀頼は太閤の子ではない」等と炊きつけるから、うんと云わない。
折しも文禄四年(一五九五)の春、十津川巡視中の大和中納言秀保(秀次の弟)が家臣に湯泉地の谷へ突落とされて変死する事件が勃発したのは、同じ影が動いたらしい。そして帰国してきた藤堂高虎は何を考えたか「主君の菩提を弔う」と称して出家して高野山に入ってしまった。
結局大和百万石を継ぐ嗣子が絶えた。名護屋に滞陣していた筒井定次が内々国替を切望したが容れられず、郡山には二十万石で増田長盛が入った。然しこれで秀吉の身内は秀次ひとりになってしまい、専制者の秀吉もためらっている内に秀次の乱行は一段とつのり世人は「殺生関白」と噂する。
文禄四年(一五九五)初夏になって明の講和使が北京を出発した頃、秀次がポルトガルの宣教師に
「秀頼は実子ではないから豊臣の世嗣は余しかない」と広言した報が三成の耳に入った。
秀次には、かねて天皇に朝鮮出兵を差止めて貰いたいとか、毛利輝元ら大名に誓紙を出させて忠誠を求めている等の不穏な情報もあり
「もはや放っては置けぬ」と、三成は秀吉に報告した。激怒した秀吉は、遂に堪忍袋の緒を切った。
七月に入ると詰問使を命じられた三成と増田が弁明書を取り、秀吉にその状況を報告した結果、秀次は高野山で切腹となった。今度の事件の主役は、元は秀吉の側室だった菊亭右大臣の娘・一の台で、こっそり秀次の側室となったうえに、あろう事か娘と共に秀次の床にはべっていた事を知ったからだろう。
烈火の如く怒った太閤は、三十余人の妻妾幼児を三条河原で首をはね、次々に殺生塚に投げ込むと云う信長以上の大残虐を見せた。心ある人々は
「先々めでたかるべき政道にあらず」と豊臣家の前途に不安を抱き始める。
かつての秀吉は人を殺す事が嫌いで出来るだけそれをさけたし、人情味も厚かった。それが一の台母娘はともかく他の女子供まで殺すとは、我子可愛いさに冷静な判断も出来なかったようである。この事件は大きな禍根を残し、三成も首切奉行としてすっかり人気を落した。只独り大儲けをしたのは、高野に入って秀吉を喜ばせ、宇和島七万石の独立大名となった高虎のみと云える。 
(7) 秀吉の死
明使が再び来朝したのは慶長元年(一五九六)九月で、その国書が秀吉の要求を無視した上に
「汝を封じて日本国王と為す」と云う文句だったから、秀吉は怒髪天をつく有様で再征を命じる。
諸大名は戦いに疲れ切っていたが天下人たる秀吉の命に背く事は出来ない。慶長二年(一五九七)一月、清正と行長を先陣に十四万の将兵は再び海を渡り、氏善も新造の安宅船に乗じてその警固に当り苦労している。
緒戦は李舜臣が小西のわざと流した上陸日程を疑って王命に従わず敗れた。李舜臣はその罪を問われて一兵卒に降等され、代って臆病な朱元均が総師だったのが我に幸いした。七夕の日、朱の率いる水軍が釜山を襲ったものの折からの嵐に苦しみ、加徳島に上陸した処を逆襲されて大損害を出し、戦意不足の罪で朱は杖刑に処せられる。
そして七月十五日には絶影島に進攻した朝鮮水軍を徹底的に大敗させる海戦が展開した。藤堂、堀内勢は巨済島の島津義弘と海陸呼応して猛反撃を展開し、六百隻の新鋭船で熊川を出撃して大夜襲を敢行した。
総師・朱、以下数千の将兵が壊滅し、日本軍は二百隻に達する敵船を分捕ると戦勝報告に敵兵の耳を削いで送り始めた。惨敗に驚いた李王は再び舜臣を起用したから戦局は悪化する。我軍の損害も五万を超えたと云い、現在も京都の豊国神社(*1)に残る耳塚に埋められた敵兵の数は十万に近いと伝えられ、戦いは一段と惨烈を極めたらしい。
そしてその年の十一月、さしもの朝鮮第一の名将・李舜臣も武運つきたか、露津梁の戦いで島津勢と大激戦の末、これを痛打したが、自からも重傷を負い戦没する
朝鮮水軍のホープ・李の死は将士の志気に大きく響いた。加藤、小西ら陸上軍の苦戦も少しは柔らいだが、それでも兵の中には
「せめて日本の美味い水を腹一杯呑んでから死にたい」と云い残して息絶える者もいて、その死傷者は八万を越えたと云う。
そのような中に慶長三年(一五九八)の年が明けた。名護屋で帯陣中に病となり、帰国療養を命じられた筒井定次の病も漸く快方に向ったと云うので、上野城下も春めいて見えた。しかし南鮮の沿岸で釘づけとなり、苦戦している将兵にとっては正月の雑煮どころではなかった。
五月に入って藤堂、脇坂らが水軍増強の為に帰った為に、氏善らの辛苦は一段と増す。そして八月末、全軍を驚動させる一大悲報が囁かれた。独裁者太閤秀吉の死である。

(*1) 京都市東山区大和大路正面茶屋町。
6 太閤、雫と消ゆ 

 

(1) 次の天下人は誰か
慶長二年(一五九七)正月、かねて「我が大志を継ぐものは三成」と日頃寵愛して来た石田治部少輔が再三諌めるのも聞かず、独裁者・秀吉は再び朝鮮出兵を断行した。その秀吉が病に侵されたのは、翌春。豪華を極めた醍醐の花見の後である。
微賤の身から天下人に成り上がるまで五體を酷使し続けた上に、独裁者となるや美食と荒淫の限りを尽くした事が、その急激な老衰をもたらしたか。または、七年に及ぶ朝鮮出兵の心労が一段と秀吉の死を速めたと云えよう。
慶長三年(一五九八)の梅雨が晴れても一向に恢復の兆も見えぬ五体を励ましつつ、さすが一代の英雄も再び起つ日もない死出の旅の訪れを覚り、己の重大な誤算に愕然となったに違いない。
「人たらしの名人」と称された彼の事だけに、律義面はしていても肚の底に天下取りの野望を燃やし続けている徳川家康の心境は、鏡を見るように明らかだった。
今となって、「絞兎死して走狗煮る」政策を採り小田原平定後に家康を断固として力で征すべきだったとか、朝鮮出兵を命じて戦力を消耗させれば良かった、等と悔んでも後の祭りである。
「天下は力ある者の天下で単に天下人の子と云うだけで保てる世でない」と判っていても、秀吉が関白の座に就いてから二十年に近く、五大老、五奉行制の豊臣政権の組織も出来ている。
何とか秀頼が成人するまでこの幹部達が協力して政治に当ってくれれば、政権は安泰である。そこで秀吉の目が黒いうちに
「家康を引退させてその子・秀康を大老に抜擢し、その弟・秀忠には徳川家を相続させ、所領二五〇万石を両者にわける」
この事を太閤最後の命として遂行せよ、と云うのが三成の秘策とも云われる。
結城秀康は傑物で、三成とも親しかった。後に家康が秀忠に家を継がせた時、
「なぜ兄の私を置いて弟に譲られたか」と問い、
「太閤の養子にやったから」と聞くや
「それでは私は豊臣秀頼と兄弟であり、若し秀頼を殺そうとする者があれば、私は大阪に入城し、あくまでも弟を助けて断固戦います」と云い切った程の人物である。秀忠のように従順だけで、生涯、父に頭の上がらなかった男とは桁が違っていた。
秀吉亡き後、天下を望む器量のある第一の人物は家康であり、次は秀吉の信頼した三成、彼と肝胆相照した上杉の家老・直江兼続、秀吉の軍師として活躍しながらその炯眼さを恐れられ冷遇された黒田如水、そしてこの秀康だったと云う。
尤も伊賀天正の乱で「蒲ぢがくる」と云えば泣く子も黙ったと恐れられた蒲生氏郷は
「家康はけちで家臣を厚遇するのを知らん。あんな器量で天下が取れるものか」と笑ったそうだ。会津九十二万石に封ぜられるや
「もし家康が兵を挙げたらその尻に喰いついて断じて箱根を越えさせぬ」と前田利家に語った利休七哲で詩人。然も大の論語好きのキリシタン信徒と云う豪将・蒲生氏郷が生きていればもう一人ふえよう。 
(2) 秀吉、逝く
然し慶長三年(一五九八)の半ばには秀吉の気力も尽き果ててこの策を實行できなかった。衰え切った肉体を励まして伏見城に諸大名を呼び、僅か六歳の子・秀頼に引見させた後、三成に向い
「せめて秀頼が十五歳になって今日の日を迎えるのを生涯の楽しみにしていたが、天寿はどうにもならぬわ」と涙を流した。続いて七夕の日になると秀吉は再び家康以下の五大老、中老、五奉行を呼び集め
「秀頼様に対して二心を抱かぬ」旨の誓書血判を取る。
集団制で家康を圧さえんとしたのだが、それでも安心出来ない。八月には家康を枕元に招いて
「実の父とも思い、幼い秀頼の面倒を見てくれるよう頼み入る」と千姫(*1)を秀頼の嫁と定め、血縁の情によって野望を押えんとした。
そして八月十八日
「返すがえすも秀頼こと、成り立ち候よう、真に頼み申候、名残惜しく候」を絶筆に六十三歳で世を去った。辞世は
露とおき 露と消えぬる 我身かな……
で知られているが、実は
露と散り 零(しずく)と消ゆる 世の中に、何と残れる 心なるらん。
の句が正しいとの説もある。
子への盲愛に狂った彼の末路には英雄の面目は全くない。天下人として驕り、女色に溺れて、常々死生感を練る事を忘れた男の哀れさが身にしみる。
恐らく秀吉は老衰の果にボケていたに違いない。さもなければ前に述べたような豊臣政権の大改革を断行して禍根を除くか、それとも天下は力ある者の支配に任せて万民の泰平を計るのが天下人たるの任と達観し、
「天下の事はすべて家康に任せる。唯秀頼が成人後はその器量に応じて身の立つように配慮してやって望しい」と云う事を、諸大名は勿論、北政所(*2)、淀君(*3)らを呼び集めた席で明言し悠然と死を迎えたに違いなく、その手本は丹羽長秀(*4)が身を以て教えている。

(*1) せんひめ。豊臣秀頼・本多忠刻の正室。父は徳川秀忠、母は浅井長政と信長の妹・お市の娘である崇源院。
(*2) 豊臣秀吉の正室であったねね。
(*3) 豊臣秀吉の側室。本名は浅井茶々(あざい ちゃちゃ)および浅井菊子(あざいきくこ)。浅井長政の娘。母は織田信秀の娘のお市。織田信長の姪にあたる。同母妹に江(崇源院、徳川秀忠正室)、子に拾(秀頼)等がいる。
(*4) 長秀の最期は、痛む腹を自ら切り裂いた上で、腸を握り出すという壮烈なものだったとも云われる。大和百万石を参照。 
(3) 歴史は道徳を語らず
慶長三年(一五九八)秋、巨星落ちた後にも懸命に、延べ四万隻に達する大輸送作戦をやり遂げ、出征軍を博多港に迎えに出た石田三成が在鮮中の労をねぎらい
「お疲れとは存ずるが、まず上阪され秀頼様を弔問された後、領国に帰られて戦塵を洗い落され、来秋に御上洛下され。其節は茶会でも設けましょう。」と述べると加藤清正は
「貴公らは茶会でも何であろうと好きなようになされよ。我らは野戦七年、労力も金も尽き果てて茶も酒もない有様じゃから、稗粥でも進ぜよう」と皮肉って居る。太閤の屍冷えぬ間に、子飼の大名達の間の文吏派と武人派に大きな溝が出来ていた事が判る。更に大政所(正室ねね)と淀殿(側室茶々)と云う妻と妾の対立がこれに油を注いで、遂には豊家の滅亡となったと云える。
当時の二十万に及ぶ出征兵士の中での死傷は五割に近いと云う。後の日本陸軍のルールでは「全滅」で、日本全国に帰らぬ父や夫を待ちわびて眠れぬ夜を過ごした人々が如何に多かったことだろう。
その中に主に代って、信長の嫡孫の岐阜宰相・秀信勢に加わった井戸覚弘一族は戦利品として高麗茶碗十数個に唐鞍を持ち帰った。そして、恐らく良弘の指示だろう。豊臣秀頼、徳川家康、筒井定次の主筋に各五個を献上している。
天下に井戸茶碗で聞えた名器の本家が選んだ品だけにさぞかし見事な品だったに違いない。喜んだ徳川家康は、一門に配ると共に、その一個を「井戸」と銘して覚弘に返したのが世に大評判となったらしい。
それを聞いた大坂の豪商達は順慶町の定次の邸に押かけて切望し、秀頼に乞うて下賜された者もいて、後世まで天下の名器として落語にまで持囃される程となっている。
然し、これは全くの特例で、朝鮮出兵が如何に日韓両民族に悲劇をもたらせたかは幾百年をへた今日、韓国を訪ねれば明らかである。
秀吉が日本民族の生んだ天才的英雄だった事は間違いないが、彼の存在によって“一将功成らず万骨枯る”と云う悲劇を日本全国の津々浦に波及した事もまた歴史的事実である。「古来征戦幾人か環る」の詩が心にしみる。
敢えて繰返すが、世界史を展望すれば民族の興隆期には大英雄が出現して「強烈な自己主張と猜疑心、吾は神の子の信念と、果知らぬ名利と征服欲」によって、新しい兵器や戦法を組織的に駆使し、まず国家を統一し、次に国外に侵攻するのが歴史の常道である。
そこには必ず流血と残虐な事件が発生する。世界最大の帝国を樹立したチンギスハーンは四十の民族を滅ぼし三百万人を皆殺しとし、美姫五百を奪って我物としたと云われる。その孫クビライは、我国を二度までも侵し、その命のまま、蒙、中、韓十数万が対馬、壱岐、九州を襲って民を殺傷した。「蒙古高麗」の名は「むぐりこくり=むごい」と云う古語を生み、やがて神風と云われる台風によって壊滅した。
秀吉の侵攻はその反撃とも云え、弱肉強食を常とする古代歴史を後世に生れた道徳で論ずる事はできない。歴史は道徳を語らず、常に力が正義なのである。
民族自決、人種平等主義の生まれた第一次世界大戦以後も、スターリンは四千万人を殺し、ヒットラーは八百万人を処刑したと云われる。
条約を無視したスターリンによって満州は地獄と化し、親を求めて祖国を訪れる中国残留孤児が戦後五十年の現在も絶ゆることがなく、涙を誘う。更には不法に奪われた北方領土問題が尚も未解決なのだから、独り秀吉のみを責めるのは酷と云えよう。 
 
歴史物語 [徳川家康]

 

1天下分目の戦い 
1.1 舞鶴城の力斗 
(1) 日本全土の総石高は一八五〇万石
慶長三年(一五九八)八月、秀吉が幼い秀頼の前途を思い患いつつ、名残り惜しく世を去った時、「太閤検地」による日本全土の総石高は次の一八五〇万石に達している。
朝廷公卿 十二万石
寺院    十五万石
神社    十三万石 (計 四〇万石)
武家
 豊臣 二二〇万石
 徳川 二五五万石
 毛利 一二〇万石
 上杉 一二〇万石
 前田   八九万石
 宇喜田 五七万石
 小早川 五二万石
 佐竹   五四万石
 伊達   五八万石
 島津   五五万石
以下三一〇家 七三〇万石 (計 一八一〇万石) [ 総計 一八五〇万石 ]
信長が本能寺で倒れた時、その支配地が四百万石余に過ぎなかった事を思えば、下剋上の戦国乱世を泰平の世にした主役は、やはり秀吉だったと云えよう。
もし彼が大陸制覇などと云う信長譲りの夢を抱かず、あくまで天皇の臣下である関白として万民の泰平をめざし、豊臣一族と子飼の大名達の一致団結に心を配りながら豊臣政権の組織強化に努めれば、例え秀頼が幼くても僅か三年で崩壊するという惨めな事態を招く事はなかったろう。 
(2) 前田利家、死す
明けて慶長四年(一五九八)一月、遺言によって秀頼守役として大阪城に移った前田利家と、伏見城によって政務を任された家康派の対立が生じた。これは今まで律義者で知られていた大老筆頭の家康が、誓紙によって定めた掟を次々破棄した為である。それを知った利家らは
「家康の横暴を見逃す事は出来ぬ」と激怒した。
常々論語を愛し
「以て六尺の孤を託すべく、百里の命を寄すべし、大節に臨みては奪うべからず、君子人か君子人なり」を信条とする利家は
「秀吉公が今わの際に『秀頼の事ひとえにお願い申す』と繰り返されたのを決して忘れはしない。」と死を決して伏見に向かった。
然し利家の病重しと見た老獪な家康は「待てば海路の日和」と考え、逆に歓待して帰した。秀吉の葬儀は方廣寺で盛大に挙行されたが、大役を終えて安心したか、利家の病は一段と重くなった。
閏三月三日、利家は我亡き後三年以内に大乱勃発を予期して
「利長、利政兄弟は各八千の兵を率いて大阪と金沢に分れて詰め、秀頼公に謀反する者あれば金沢の兵は直ちに大阪に馳せつけ、一手となりて忠誠を励め。利長は三年間は大阪を動くな」と遺言し、秀吉の死後僅か八ヵ月で友の跡を追うように世を去った。 
(3) 石田光成、命を狙われ、佐和山に帰る
利家が死ぬと、待っていた加藤、福島ら武断派が
「朝鮮で三成方の目付共が不正な報告をしたから太閤から叱責された。奴らに腹を切らせろ」と三成に迫る。
正義感の強い三成は
「飛んでもない申し条だ。万事は上様の命であり、目付らの口出しを許されぬことは承知の筈じゃ」と突っ放ねた。このため、
「三成を殺してしまえ」と云う騒ぎになる。泉下の太閤は
「何と阿呆共が」と泣いていたに違いない。
その計画を知った三成の朋友の佐竹、宇喜多、上杉が驚いて駆けつけた。しかし何しろ急な話だけに用意が整わない。三成は遂に死を覚悟して家康の邸に乗り込み、刺し違えても豊臣の禍根を断たんとした。
騒動の黒幕だった家康もまさかと驚いたろうが、忽ち大狸の本性を発揮して武人派を圧さえて仲に入り、三成には奉行を辞職して佐和山に隠居するように命じる。
三成も己の失脚よりも、この後のことが気にかかったのだろう。即答せずに直江兼続や上杉景勝らに相談した。すると、景勝は
「いずれ我らも会津に帰るが今度は容易に上洛せぬ決意じゃ。家康は恐らく討伐の兵を起すじゃろ。わしが手強く戦っている隙に貴公は大阪に出て友を集め挙兵されよ」と力強く約した。
それを聞いて三成も大いに喜び固く密約を結ぶと伏見を去るが、その前夜、盟約を知らぬ島左近は
「今空しく佐和山に帰るより、私と蒲生郷舎に二千の兵を授けられれば、家康邸を襲い風上より火をかけ追いつめて必ず討ち取って見せ申す」と強く進言した。しかし三成は上杉との密約を守って島にも洩らさず、黙々と佐和山に帰っている。
帰国直前に直江兼続が当代きっての学者・藤原惺窩を訪ねて
「継絶扶傾(*1)、は古聖の言と聞きますが、今日もこれを行う事が出来ましょうか」と尋ねた有名な話がある。これは絶え傾かんとする豊臣家を救わんと云う意味で直江や三成らの悲願であり大義名分でもあった。が、惺窩は黙して答えなかったという。正しいと云えば命のないのが判っていたからである。

(*1) けいぜつふけい。絶滅せんとする王朝を途絶えさせず、傾きつつある国を助ける。『大唐新語(巻十二)』豊臣家を助け、徳川を抑えること。 
(4) 上杉景勝と石田光成、立つ
慶長四年(一五九八)九月になると、大阪城を我物とした家康は
「前田と浅野が家康暗殺を計った」との噂を流して前田討伐を騒ぎ立てた。それを知った前田側も熱血漢の次男・前田利政は遺言通り決戦を叫び、温和な利長も一時はその気になった。
然し夫の遺言を忘れ、お家大事の母の言葉に従った。ひたすら陳謝し、母を人質にして加賀百万石の安泰を計ったのだが、何とも情ない話である。
これに味をしめた家康は、翌慶長五年(一六〇〇)に入ると、次は上杉討伐にかかる。四月に謀叛の糾問使を派遣し脅し立てたが、かねて三成との密約通り着々と戦備を整えていた上杉方は厳しくはねつけた。
「秀頼公を見放し天下人となろうとも悪人の名は逃れまじく候」と後世に徳富蘇峰(*1)が、関ガ原戦没に於ける比類なき一大快文書と激賞した程の手紙を家康に叩きつけた。
激怒した家康は六月半ば大阪を出陣して北上した。それを知った三成は
「時節到来!」と勇み立ち、七月二日、会津攻に向わんとする親友の大谷刑部を佐和山に招いて家康打倒の計画を打ち明け、尽力を乞うた。
当代きっての戦略家で知られた大谷は
「時期尚早にして勝算なし」と逆に堅く戒めたが、三成は
「豊臣家の将来を思えば時は今しかない。上杉との盟約もあり見殺しには出来ぬ」と譲らない。遂に三成と生死を共にする覚悟を決めた大谷は次の二つを忠告している。
「常々、義を笠にきた横柄な態度を改め、今回の挙兵も毛利、宇喜多を大将に奉じて事を運ぶ事。また智恵才覚に双ぶ者はないが、勇断に欠ける点を反省せよ」
こう手厳しく直言したのも、長年の親友なればこそであったろう。
三成も素直に耳を傾けると、秘そかに招いていた毛利の政僧・安国寺を交えて綿密な作戦計画を練り上げた。
久方ぶりに大阪に姿を見せたのは七月十六日で、計らずも淀川を下る船上で玉造の細川邸が炎上するのを目にして愕然とする。

(*1) とくとみそほう。1863〜1957。ジャーナリスト、歴史家、評論家。徳富蘆花は弟。 
(5) 細川幽斎、防戦す
そして同じ日(七月十六日)、里夕斉・井戸良弘は、細川ガラシャ夫人(*1)の夫である細川忠興の居た宮津城にいたのも不思議な縁であった。
と云うのは、この年はガラシャの父である明智光秀の十七回忌にあたり、かねて良弘は
「太閤在世中は果せなかった供養を、同じように玄旨(細川)、善玄(井戸)と入道した我ら二人で心ゆくまで弔いたいが」と便りをしていた処、幽斉(*2)も喜んで
「天下の名勝である天ノ橋立で供養の茶会を開きたい」との返事が届いた。
それで井戸良弘は、明窓智玄(明智光秀)の命日である六月十三日に予定して旅立つ積りだった。しかし何せ六十半ばを過ぎた年だけに、折悪しく風邪に侵され、一カ月遅れの七月十三日、熊野からやって来た息子の泰弘を伴って宮津を訪れた。
待ち兼ねていた幽斉(細川藤孝)と緑したたる松の根方に茶亭を設け、夏の夜もすがら光秀の冥福を祈ったばかりであった。
そして引き留められるままに滞在するうち、大坂玉造り藩邸での事件の急報が入ったのは十八日の夜だったと云う。
「東軍の諸将の妻子を人質にせよ」との三成の命を受けた島左近が一足先に大坂に入り、諸街道口や安治川、木津川に舟番所を設けて厳戒体制をしき、細川邸を包囲して強引に夫人達を城内に連行せんとした。
かねて夫から
「まさかの場合は潔くし、細川の名を汚すな」と命じられていた妻の玉子はそれを拒んで、留守居役・小笠原少斉に玉砕を命じ、幼い二人の子と共に自刃して果てる。
急便によってそれを知った幽斉は、宮津らの小城を焼き、五百の家臣と共に舞鶴田辺にある丹後十二万石の本城に籠城する。
浮世をすてた一介の風流人として気ままな日々を送っていた良弘は、東西いずれに味方する気もなかったが、窮地に立たされた老友を見殺しにはできず
「頼まれたからにゃ、降りかかる火の粉を払わにゃならぬ」と息子の泰弘や郎党達にも因果を含め、幽斉を補佐した。僅か五百の老幼兵や、近辺から馳せつけた知友の僧らを要所々々の配置につけ、防戦準備に奔走したらしい。

(*1) 明智たま。明智光秀の三女。細川忠興の妻。キリシタン女性として有名。明治期にキリスト教徒らが讃えて細川ガラシャと呼ぶようになったが、この時期は夫婦別姓であり、本来は明智珠と呼ぶべきであろう。
(*2) 細川藤孝(ほそかわふじたか、後の幽斎)と忠興(ただおき、細川ガラシャの夫)の父子は、織田信長の命により、明智光秀とともに丹後を平定。信長から丹後国を与えられ、宮津城と田辺城(舞鶴城)を建てて父子は丹後を統治。本能寺の変の後、藤孝は髪を切って隠居となり幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と称し田辺城に住む。細川幽斎は、剣法を塚原卜伝に学び、波々伯部貞弘から弓術の印可を受け、弓馬故実を武田信富から相伝されるなど、武将として秀でていた。それだけでなく、若くして歌道や連歌の道を学び、「古今伝授」を受けて和歌の伝統を継ぎ、茶道、料理、音曲、刀剣鑑定、有職故実などあらゆる学問、芸能の奥義を極める。当代随一の文人としても名高く、文芸に関する数多くの著述を残す。 
(6) 細川幽斉、引き延ばし作戦に出る
石田三成が細川夫人の悲壮な最後を聞いて人質にする事を中止し、毛利を総大将、浮田を副将に推して作戦会議を開いたのは七月十七日である。
先ず十三条に及ぶ家康の不埒な行為を糾弾した趣意書を各大名に発して義戦参加を求める。そして人質を取られ東軍につくのは必至と思われる舞鶴城の細川幽斉、加賀の前田利長らを含め、次の作戦を決定した。
一、浮田秀家を将とし、石田三成を参謀長とする先陣四万で伏見城を落し、美濃、伊勢に進む。
二、舞鶴城へは小野木ら一万五千、前田に備え大谷ら三万を北陸に進める。
三、総大将・毛利輝元、参謀長・増田長盛ら四万は大坂に在陣し、徳川家康西上の際は全軍を率いて美濃に進み決戦する。
檄文に応じて参集した大名は百二十名、その兵力は十八万人。禄高で云えば九百万石に達し、正しく天下分目の大合戦となった。僅か二十万石の文吏・石田三成の必死の活躍がここまで大勢を動かしたのである。これは当時の大名達の大半が、武人派の加藤らを除いて、家康の野望を憎み、秀吉への義を貫ぬかんとする三成を正論と見たからだろう。
そして、三成にせかされて福知山城主・小野木公郷を大将とする一万五千の大軍がひしひしと舞鶴城を包囲した。砲撃の雨を降らし始めたのは七月二十一日だったと云う。それを知って
「ガラシャが豊臣秀頼公の命を素直に聞けばこんな事にもならなかったろうに。武士の子は義によって死ぬのが常であると、幼な子を刺し殺して自らも死んだと云うが、秀頼公の命に従うのが眞の義であろう。はてさて気丈すぎる嫁も困ったものじゃ、治秀(良弘の息子)の妻にもよう云うて置かにゃならんな」と、良弘は内心そう思いながらも、大手の第一戦の指揮をとり防戦に懸命となったらしい。
西軍の寄手の中には幽斉の歌道の門人も交り、格別怨みのあるはずもない。また里夕斉の親しい大名もいたらしく、中には空弾でお義理で戦うまねをしてお茶を濁している者さえいたと云う。
それでも半月もすれば籠城が苦しくなるのは当然で大将の幽斉自身も世渡りの巧みな人物だけに色々と思案の末に朝廷の八条宮に対し
「古今伝授の奥義がこのまま絶えるのが残念でなりませぬので、是非お譲り申したい」と云う使者を出した。
それを見た親王は勅使となって城を訪れ
「和議を結んで城を開け」と説かれたが、幽斉は
「武人の本意に非す」と拒んで引きのばしを計ったので、朝命を重んじた西軍一万五千が、二ヵ月近くも時を空費することになる。 
1.2 秋風悲し 関ヶ原  

 

(1) 堀内氏善と九鬼嘉隆は、西軍・石田光成に付く
ここで視野を志摩、伊勢の沿岸に転じよう。
古来から、熊野の海賊で有名な熊野別当の嫡流である堀内氏善、九鬼嘉隆らは、かねてより太閤秀吉の恩義に感じていた。諸将が
「太閤は明るくてお人好しな甘さがあったが、家康公は大狸で何とも肝の底が判らぬ恐ろしい男よ」と寒気を感じているのを見ると、黒潮生れの叛骨をむき出して三成の檄文に振い立った。同じ熊野八荘司(*1)の周参見主馬(*2)と協議し、西軍の水軍指揮官として直ちに快速船団に乗じて志摩、伊勢方面に北上した。これが伏見城の攻撃が始まった慶長五年(一六〇〇)七月下旬で、朝鮮出兵で鍛えられた将兵の士気は高かった。
やがて
「伏見城主・鳥居元忠は鈴木孫三郎が討取った」と云う朗報が入る。孫市の子が大手柄を立てた訳で、それを聞いた堀内氏善の嫡子・行朝らは一段と勇み立ち、日頃から家康嫌いの母の義父・九鬼嘉隆に尽力を乞わんと鳥羽港に入る。
去年の秋、鳥羽の嘉隆は航行税の事で家康の裁定に激怒し、大声で怒鳴り散らして、国に帰っている。そして家督を嫡男・守隆に譲り、時勢を睨んでいたから、氏善の要請を快諾した。守隆の留守を預っている城代家老を一喝して城を奪うと、堀内、菅平左衛門らと水軍を編成し、大船団を連ねて伊勢に進み津城をめざす。

(*1) 楠氏と観世一族を参照。
(*2) すさみしゅめ。熊野八荘司。石田三成に仕え、急使としてやって来た。 
(2) 石田光成、決意を詠う
ここで北の会津戦線を眺めれば、西軍の作戦は先づ、上杉景勝が家康の大軍とがっぷり四つに組んで手強く戦っている間に、大阪城で三成が挙兵し北上する盟約だった。
景勝もそれに基づき、白河口に四万の兵を集結する。佐竹義宣は三万の兵を率いて棚倉に進み、家康が鬼怒川を越えるや一斉に包囲攻撃する作戦を立てた。
七月二十一日、家康の本隊が江戸を発したのを知った佐竹はその状勢を三成に急報。
「上杉勢は勇躍、白河城の南革籠原で決戦し、その際、我軍は敵の側方を痛打する」という旨を伝えて来た。
これを見て三成は大いに勇み立ち、八月五日には信州の真田宛に
「まず美濃に進み岐阜中納言と共に尾張に出撃致すつもりである」と報じている。八月八日には佐竹に同様、作戦計画を伝え
「万が一にも家康がうろたえ上り候わば、尾張と三河の間にて討ち果すべく候」と自信満々である。
然し出陣前夜の祝宴では
「万ガ一、余が不尚の為に天運に叶わずとも、豊家の忠臣として天下に名を挙げて死するに聊も怨なし。『白骨を野にさらし、名を万人の岸に止めん』と思うが各々は如何ならんや」と語って
筑摩江や 芦間にとぼす 篝火と、共に消えゆく 我身なりけり。
と詠ずるや、即座に受けた島左近が
名は野原、身は朽ちなわの 住家かな。
と応じ、一同は大いに感動してどよめいたと云われているから、悲壮な決意であったようだ。 
(3) 石田光成、大垣城に入るが、上杉景勝は、動かず
かくして慶長五年(一六〇〇)八月八日、佐和山を父と兄と三千の将士に守らせ、三成は五千八百の兵を率いて出陣した。八月十日、美濃大垣城に迫ると、城主・伊藤盛正に義戦を説いて城を明渡させる。真田宛に
「拙子しかと濃州に在陣致し候、この口の儀、家康程のもの十人登り候とも御心安かるべく、きっと討ち果し申し候」と意気高らかに報じている。
処が東北の戦局は彼の思いも寄らぬ状況となっていた。東軍の先峰・徳川秀忠勢が上杉の第一線の地、白河へ後一日と云う地点にまで迫った七月二十四日のこと。小山(*1)の家康に
「西国大名、悉く石田に参加」との鳥居元忠の急使が到着した。そして急拠、転進が決せられたのである。
宇都宮に結城秀康ら二万を残した東軍は、七月末から豪雨をつき、続々と雪崩をうって引揚げ始めた。これを知った直江山城守兼続や佐竹義宣らは、直ちに追撃して一気に小山の家康本陣を突かんと景勝に迫った。
処が意外にも上杉景勝は
「逃げる敵を追うのは上杉の家訓に背く」と反対し直江が
「それでは三成との盟約に反する、義を守り是非断行されたい」と懇請し、佐竹もまた強く要請したが景勝はどうしても承知しない。
三成が、直江や景勝の誠実を疑わず、大垣から岐阜に進まんとしていた頃。景勝は会津に帰り、義宣も独力では勝算なしとやむなく水戸へ引き揚げると云う事態となっていたのだ。

(*1) 栃木県小山市中央町1丁目1-1に、「小山評定跡」の石碑がある。 
(4) 徳川家康、反転し、伊勢防衛を命ず
それとは知らず堀内氏善ら熊野水軍は安濃津に迫る。伏見城を落した毛利秀元らの陸上軍の三万も、瀬田から鈴鹿越え関ノ地蔵から橋本まで進み、百に満たぬ留守勢に開城を迫ろうとしていた。
今一日早ければ城は簡単に落ちていたろうに、小山で転進を決した家康は、直ちに津の富田信高や松坂の古田重勝らに帰国防衛を命じた。
七月下旬、小山を発した二千の彼らは、三河から小船百余隻に分乗して、安濃津に急航して来たのである。
海上遙かに陸続と南下して来る富田勢を見た西軍は、折しも家康の忍者群がまき散らした
「家康急拠上洛!」の風聞に脅えていただけに
「それ!家康の大軍がやって来たぞ」とあわてふためいた。
先陣の長束正家や安国寺恵瓊(*1)は臆病風にとりつかれ、夜陰に乗じて関ノ地蔵まで総退却。これを知った氏善勢は
「不甲斐ない腰抜け共め」と激怒して海上から攻撃を開始した。それに励まされた西軍が漸く攻撃に転じたのは八月半ばである。
折しも三成は福島正則(*2)、黒田長政(*3)ら猛将達が続々と清洲城に集結し始めたのを知り、二千の兵を岐阜に援兵を送る。それと共に急使を宇喜多秀家に走らせ、伊勢路の諸将を至急大垣に集結させるように要請した。が、時既に遅かった。

(*1) 本能寺の変を参照。
(*2) ふくしま まさのり。母が豊臣秀吉の叔母だったため、幼少より秀吉に仕える。賤ヶ岳七本槍の筆頭格で、豊臣家きっての勇将。
石田三成らと朝鮮出兵を契機としてその仲が一気に険悪に。前田利家の死後、朋友の加藤清正と共に三成を襲撃するなどの事件も起こしている。徳川家康に慰留され、昵懇大名の一人となる。
小山評定では、家康の意を受けた黒田長政にあらかじめ懐柔されていた正則が、いち早く家康の味方につくことを誓約。西軍の織田秀信が守る岐阜城攻めでは、池田輝政と先鋒を争い、黒田長政らと共同で城を陥落させる。関ヶ原の戦い本戦では、宇喜多勢と激闘。
戦後、安芸広島藩主(50万石)となるが、家康死後まもなくの元和5年(1619年)、広島城の一部を無断改修したことから、信濃高井野藩主(4万5000石)に改易された。
(*3) くろだ ながまさ。関ヶ原の戦いで一番の武功を挙げた事から、筑前福岡藩52万3000石を与えられ、その初代藩主となった。父は豊臣秀吉の軍師として仕えた事で有名な黒田孝高(くろだ よしたか、官兵衛、如水)。 
(5) 岐阜城は落ち、石田光成、諸将に美濃口結集を呼びかける
八月下旬には、二手に分かれて木曾川を渡った福島、池田ら四万の東軍は大挙して岐阜城に迫り、血気の織田秀信(*1)は籠城を説く老臣達の意見を
「信長の嫡孫たる者が一戦も交えず城に籠るのはその名を汚す」と木曾川岸に迎撃したものの衆寡敵せず敗走して、前衛陣の竹ガ鼻や犬山も次々に東軍の手に渡った。
折しも伊勢の西軍は安濃津城攻撃の最中で大激戦となったが、城方の反撃は激しく美貌の夫人までが緋縅の鎧に片鎌槍を振って奮戦したという。
織田秀信が敗走した同じ八月下旬、やっと二ノ丸、三ノ丸を落とした時、豊臣びいきの高野の木食上人(*2)が仲に入って開城となり、城の守備は氏善らに預けられた。
勝利の祝盃を挙げる暇もなく、大垣の三成から
「東軍大挙して岐阜城に迫る。諸軍は急ぎ美濃口に参集されたい」との急使が届いた。宇喜多秀家以下の諸将は慌しく大垣をめざして出発する。三成は大阪の輝元にも
「急ぎ出陣して総指揮をとって望しい」という旨の使者を走らせている。しかし、これは使者に任せず自から大阪に馳せつけて輝元の首に縄をつけても引張り出すべきであったろう。
家康が三万の旗本を率いて江戸を発したのは九月一日だから三成が前線を離れて大阪に急行し輝元を説得して共に関ヶ原に到着するには充分間に合った筈で情報不足でこの機を失したのが政戦両略上から大きな誤算となる。

(*1) おだ ひでのぶ。織田信忠の嫡男、織田信長の嫡孫。幼名は三法師。岐阜城主、中納言であったので岐阜中納言とも呼ばれた。
(*2) 秀吉の紀州征伐を参照。 
(6) 家康、四万の軍を率いて清洲に到着す
さて、舞鶴城は細川勢の力斗で、開戦一カ月をへても頑として城は落ちなかった。敵の包囲網をかすめて、良弘は伊賀出身の郎党に美濃方面の情勢を偵察させ、幽斉と戦略を語り合った。
「身共なれば北陸の前田に向った大谷勢と、ここを包囲している小野木勢の合計三万を、直ちに古代からの街道の要地“不破の関”に集結して東軍を待ち伏せるがのう」と嘆じれば、幽斉も諾いて
「左様々々。そして何よりの旗印に千成瓢箪と幼い秀頼公を出馬願い、高見の見物させながらの天下分目の大戦に持込めば云う事はない。さあそうなればお互いに年貢の納め時となろうて。ハッハッハッ」と声を合わせて大笑し、茶会にしたと云われている。
幽斉はその覚悟を胸に収めながら、帝の弟になる八条宮宛に「古今伝授の奥儀」を手品の種に仕掛けたのが効を奏し、僅かな老弱兵で二カ月近くも降伏開城を引き伸していた。そのうち、天下の名城・岐阜城がアッと云う間に落ちた事が西軍の諸将の臆病風をそそった。伏見城を落とした小早川秀秋(*1)は一万六千を率いてさすらい続ける。淀君(*2)の妹婿・京極高次(*3)が大津城に籠って叛旗を翻えしたのが九月上旬だった。
家康側近の記録によればその行動を
「九月十日、熱田着。海辺の村々四、五ケ所炎上し居り、沖には紫に白桐の幕はりたる九鬼嘉隆の大船鬼宿丸ら悠然と浮びたり。よって家康公は一の宮より引返し、清洲城に入らる」とある。
家康は四万の軍を率いて清洲に到着した。この報は、大垣城の北方・杭瀬川をへだてた赤坂に進出していた東軍先陣の士気を高めた。藤堂勢は関ヶ原の宿場を焼いて家康を喜ばせる。

(*1) こばやがわひであき(はしばひでとし)。秀吉の正室・高台院の甥。正室は毛利輝元の養女。羽柴秀吉の養子になり羽柴秀俊に。後、秀吉の命で小早川隆景の養子、秀秋と改名。
関ヶ原の戦いでは西軍に参戦。一説に、当初から東軍と内通していたとも言われる。戦後、西軍の宇喜多秀家領であった備前と美作に移封され、岡山藩55万石に加増。
2年後の1602年に死去。享年21。無嗣につき、小早川家は断絶。
(*2) 太閤雫と消ゆを参照。
(*3) きょうごくたかつぐ。近江で浅井氏の下克上を受け没落した名門京極氏に生まれる。
豊臣秀吉の側室である妹(竜子)や、淀殿の妹である妻(浅井初。常高院)の七光りで出世した事から蛍大名とささやかれた。
関ヶ原の戦いでは居城の大津城に妻とともに篭もり、一万を超える西軍を引き付け関ヶ原へと向かわせなかった。その功により若狭小浜へと封ぜられ、京極氏の再興を果たす。 
(7) 石田三成、毛利輝元に即時出陣を乞い続ける
四万の軍を率いて清洲に到着した家康に比べて、毛利輝元は一向に姿を見せない。西軍の動揺は掩うべくもなく、藤堂や黒田の誘いで次々に内通する将が出たらしい。
焦った三成は、九月十日、周参見主馬に佐和山から水路大津に急行して大阪に馳せつけるよう命じた。毛利輝元宛に
「家康西上の風説もっぱらなり。急ぎ秀頼公を奉じて出馬され全軍に下知を乞う」との一書を持たせ
「必ず直ちに出陣されるよう強く要請せよ」ときつく念を押し、主馬もその責任の重大さに身の引き締まる思いを感じつつ大阪に急行したらしい。
かねて三成は、大谷の作戦計画に基づき、関ヶ原の南に聳える松尾山に豊臣秀頼の本営を置く山城を構築中であった。
まず大垣周辺に集結した八万の西軍で、東軍と対持してその進撃を喰止める。
次に舞鶴を落した福知山の小野木勢一万五千と、目下、大津城攻略に向った毛利元康、立花宗茂の一万五千を落城次第、関ヶ原の戦線に投じる。
そして、やがて到着するであろう輝元の奉じる秀頼公以下四万五千をこの山城一帯に布陣させ、城頭に千成瓢箪の大馬印を翻して決戦を展開する。
と云うのがその大戦略である。
三成は、九月十二日付の手紙で再び増田長盛(*1)宛に
「江濃の境に築いた松尾山城には、中国衆(毛利勢)を入れ置かるべき御分別こそ、尤も存じ候。」と力説している。
これは先日、周参見を大坂に走らせ、輝元に即時出陣を乞わせ、承諾させたのに
「留守を狙い増田が家康に内応するらしい」との噂が飛び、亦もや輝元の腰が上らなかったためである。
「輝元、出馬なき事、家康上らざれば要らざるかと存じ候えども、下々は此儀不審なりと噂し居り候。また貴公(増田長盛)と家康との間に人質は殺さぬ密約あり、為に大軍を率いる秀秋も内通せりと敵側は勇み居る由、このままにては裏切や内通が続出するかと思われるにつき、厳しく処置せられよ」等と色々書き送っているので、三成の苦労が判る。
それにしても目と鼻の岐阜に家康本軍が到着しているのを知らなかった西軍の情報網の頼りなさが痛嘆される。現にこの文書も大津の東軍に奪われて大阪に届いていない。誠にもって“不運”としか云いようがない。

(*1) ましたながもり。豊臣政権五奉行の1人。
秀吉が信長の家臣の頃から仕えていた古参家臣。上杉景勝との外交交渉や太閤検地などで功績を立て、秀吉に大和国郡山城に20万石の所領を与えられる。朝鮮出兵にも従軍。
家康に三成の挙兵を内通し、関ヶ原の戦いには不参加で、大坂城の留守居を務めていた。戦後、家康から所領を没収されたが、一命は助けられて身柄を高野山に預けられた。
1615年(元和元)、徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が大坂の陣で出奔して豊臣氏に与したため、自害を命じられた。享年71。 
(8) 杭瀬川の戦い / 西軍一勝
九月十二日、舞鶴城が降伏開城と決した。
続いて刻々と関ヶ原大戦が迫っていた十三日の早暁から、猛将・立花宗茂(*1)ら一万五千の精鋭を挙げての大津城急襲作戦が開始される。その日のうちに二ノ丸、三ノ丸が陥落、十四日には高野の木食上人(*2)の尽力で降伏開城となる。
然しその朗報が大垣に届かぬ九月十四日、かねて西軍幹部は大谷刑部を交えて軍議の結果
「いかなる家康も九月半ばには上杉、佐竹、真田らに三方から攻め立てられて上洛出来る筈はない。よって九月十六日を期して赤坂の敵を追い立て続いて清洲へ攻め下らん」と結議。準備を急いでいる最中に、上杉や佐竹にからまれている筈の家康が突然大垣の対岸にある赤坂に現われた。そして歴戦の武功に輝く金扇の大馬標を翻したから、三成も愕然としたらしい。それを見た島左近は、味方の志気高揚の為にも、家康の面前で敵を痛打する要ありと進言。
島左近は、蒲生郷舎と共に杭瀬川を渡ると敵前で稲刈を始めた。これを見た中村一栄、有馬豊氏らが柵を出て追い払わんと出撃して来る。それを誘い出し、散々に打ち破ると兜首百八十余を挙げた。意気揚々と引揚げ、家康の鼻をあかせたあたりはさすが島左近であった。

(*1) たちばなむねしげ。陸奥棚倉藩主。のちに筑後柳河藩の初代藩主。
九州平定 / 統虎(幼名)は智勇に優れた名将として、大友宗麟をして豊臣秀吉へ、「義を専ら一に、忠誠無二の者でありますれば、ご家人となしたまわりますよう」と言わしめた程の武将。秀吉から筑後柳川に13万2,000石を与えられ、大友氏から独立した直臣大名に。
小田原征伐 / 秀吉は諸大名の前で、「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花統虎という天下無双の大将がいる」と、高く褒め称えたという。
文禄の役 / 数で誇る明軍を撃破し、小早川隆景が「立花家の3千は他家の1万に匹敵する」と評するほどの獅子奮迅の活躍、秀吉からも感状を拝領。
関ヶ原の戦い / 徳川家康から東軍に付くように誘われたが、「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と言い拒絶。9月15日の本戦には大津城を攻めていたために参加できず、西軍壊滅を知って、大坂城に引き返した。大坂城に籠もって徹底抗戦しようと総大将の毛利輝元に進言したが、輝元は聞かず家康に恭順したため、自領の柳川に引き揚げた。
引き上げる時 / 父の仇である島津義弘と同行。関ヶ原での戦で兵のほとんどを失っていた島津義弘に対し「今こそ父君の仇を討つ好機なり」といきり立つ家臣たちの進言を「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」と言って退けた。島津義弘と友誼を結び、無事に柳川まで帰りついたが、加藤清正や鍋島直茂、黒田孝高(如水)に攻められ、家康への恭順を示すため自身は城に残って、家臣団だけで出陣。
関ヶ原後 / 改易されて浪人に。その器量を惜しんで清正や前田利長から家臣となるように誘われるが、拒絶。清正は諦め、食客として遇したという。しかし徳川家康からの熱心な引き合いは断り難かったようで、まもなく陸奥棚倉に1万石を与えられて大名として復帰。最終的に3万5,000石を知行し、この頃から宗茂と名乗っている。
大坂の陣 / 家康は宗茂が豊臣方に与するのを恐れて、その説得に懸命に当たったという。戦後の元和6年(1620年)、幕府から旧領の筑後柳河に10万9,200石を与えられ、大名として完全に復帰。
島原の乱 / 戦略面の指揮、有馬城攻城時には昔日の勇姿を見せた。諸大名は武神再来と嘆賞。
寛永15年(1638年)、家督を忠茂に譲って致仕・剃髪。寛永19年(1642年)、江戸柳原の藩邸で死去。享年76。
(*2) 秀吉の紀州征伐を参照。 
(9) 石田三成、島津の申し出を拒む
西軍は久方ぶりに胸のすく思いだったろうが、予期せぬ家康の出現に三成は急ぎ使者を大谷に走らせてその意見を求めると、再び諸将を招いて軍議を開いた。
大垣籠城説と関ヶ原で野戦決戦論が出たが、
「東軍は一路佐和山をめざして進撃するらしい」と云う情報が入ったので、野戦決戦論に一決した後で島津義弘から
「家康本陣では遠野の行軍で疲れきったらしく守りも固めず眠りこけていると云う。今夜襲えば必勝疑いなし。我らが先峰を勤める故ぜひとも決行されたい」と強い要請があった。
歴戦武功の義弘の申し出であり、先に墨俣で彼の進言を容れなかった事からも三成は当惑した。諸将と協議の上、再び拒んでいるが、周参見は
「此際は島津の顔を立て少数精兵で家康本陣を奇襲させ、その乱れに乗じて主力は一路関ヶ原に直行すべし」との意見だったらしく、左近がなぜ賛成しなかったか判らない。
その夜七時、折悪しく降り出した大雨の中、秘かに大垣城を発した西軍は、石田勢を先頭に牧田道を迂回して関ヶ原に向った。しかし舞兵庫(*1)と共に泥路に悩みながら行軍していた周参見は
「島津らが家康本陣を襲い、我らは山路五里(二〇粁)を大廻り等せず、街道を直進すれば僅か一刻で関ヶ原に着き“逸を以て労を待てた”(*2)ものを」と嘆じ合ったようだ。

(*1) まいひょうご。前野忠康(まえのただやす)。一般的には「舞兵庫」の名で知られている。妻は豊臣家の老臣・前野長康の娘とされ、その縁で当初は豊臣秀次に仕え、若江八人衆の一人として各地を転戦、活躍。
文禄3年(1593年)に秀次失脚時、豊臣諸将が秀次を見限る中、「秀次公無罪」と信じ、最後まで秀次助命に動いた石田三成に感激。以後、三成と行動を供にした。
三成が加藤清正などに襲撃された時も、三成を命がけで護衛。
関ヶ原の戦いでは石田三成隊の前衛部隊として黒田長政隊や田中吉政隊と激戦、何度も押し返すなど獅子奮迅の戦いをみせた。小早川秀秋隊の裏切りにより西軍が敗北濃厚になると、三成の恩に報いるべく、敵陣へ切り込み、嫡男とともに討死。
(*2) いつをもってろうをまつ。以逸待労(いいつたいろう)。戦力を温存しつつ、敵を疲労させてから攻撃する。『三十六計(中国の兵法書。作者や成立時期は不明)』  
(10) 石田三成、豪雨の中、馬を飛ばして打合せ
そして三成は、豪雨の中を南宮山の毛利秀元、安国寺、吉川ら中国衆に作戦を打合せる。休む暇なく、その日やっと関ヶ原に姿を見せた小早川秀秋の布陣する松尾山城に馬を飛ばせた。
後に勝敗の分れ目となる小早川勢を松尾山城に布陣させたのは大谷刑部一代の失策となる。しかし、刑部としては裏切りを噂される秀秋を第一線に配するよりも山上に置いて、まさかの時の用意にその山麓に脇坂、朽木、小川、赤座の四隊数千を配した。その上で、直接秀秋に対して
「明日こそ正しく天王山なれば秀吉公の霊に応えるべき」ことを懇々と訴えたようだ。
側近の磯野ら小姓連は、三成が戦意の揚らぬ諸将を最後の督励に向かう後姿を見送り
「殿は元来が帷幕の謀将、雨中を飛び廻って風邪でもひかれねば良いが」と案じているが、不幸にもその予感が的中する事になる。
栗原山の長曽我部陣で焚く篝火を目ざし、三成が懸命に馬を飛ばしていた頃。
赤坂の家康は何とか得意の野戦に引込むべく、わざと佐和山攻撃の報を流し、服部半蔵に大垣城の動きを厳しく見張らせると、自分は行旅の疲れを休め、高鼾で寝込んでいた。
「西軍、秘かに城を出て関ヶ原に向う!」の急報が入ったのは夜半で、してやったり、と飛起きた家康は直ちに出撃を命じる。
先峰には福島正則、黒田長政ら豊臣子飼の將を選んだのは、如何にも古狸らしい配慮である。
猪武者の正則は勇み立って、火のつくように部下を叱咤し、雨と霧に煙る中山道を急進し始めたのは午前二時だった。西軍は地の利は得たが、六時間の行軍に“逸を以て労を待つ”作戦を展開する事はできなかった。度々の進言を拒まれた島津義弘などが、すっかりお冠になったのは当然かもしれない。
元来が正義漢で知られた三成だけに、まさか豊家の一族であり、秀頼成人まで関白を約された秀秋が土壇場で家康に味方するとは思えなかったのも当然であろう。家康の目付役が松尾山城に秘そんでいる等とは夢にも思わなかった大谷や三成を責める事はできない。 
(11) 開戦前
慶長五年(一六〇〇)九月十五日、冷雨をついて夜間四里余の山路を辿り、石田勢が関ヶ原の小関に到着したのは、夜半一時過ぎだったと云われる。
途中で三成が単騎、南宮山麓諸将を“天満山の烽火を合図”に進撃し、東軍の腹背を突く作戦を打合せた。休む暇なく松尾山の小早川をたずねて秀頼公への忠誠を力説。大谷陣から本営に帰ったのは朝の五時で、下帯までしとどに濡れ、唇の色もなかった。
下腹に妙にしみ込む痛みを感じながら、それでも三成は
「やるべき事はやった。後は天命に従うのみじゃ」との満足感に浸りながら疲れ切った五体を幕舎の一角に横たえ、一刻ほどトロトロとまどろみ、夜明けを待った。
早暁と共に雨が上る。深い霧が関ヶ原一帯を埋め、相川山麓の笹尾山の石田勢に続く小関の島津、池寺の小西、八幡山の宇喜多、中山道を押えた大谷、そして松尾山、南宮山に布陣した総勢八万余の西軍。
味方を眺めた周参見らは、島左近の令する
「忠義を冑に軍律を守り、必死の覚悟で必勝を期さん」を固く誓い合った。が、この大戦は既に数々の史書が出されているから、ここでは専ら石田勢の敢闘に重点を置き、その活躍を追う事にしよう。 
(12) 島左近、奮戦す
開戦は午前八時で、西軍の最も左翼に陣した石田軍六千の先陣は、相川沿いに島左近、北国街道側には蒲生郷舎を配し、その後方に三成の本陣を置いた。
左近は長男・信勝に
「家康の旗本まで斬り込む覚悟で働け!」と励まし、手兵を二分して一隊を柵内に置いた。柵外の一隊は自からが率い左手に槍、右に采配を持ち
「かかれ!かかれ!」と火を吹くように叫ぶ、その指揮ぶりは正に鬼神の如くであったと云う。
東軍の右翼に陣した黒田長政、田中吉政、細川忠興、加藤清正勢二万は三成の首級を挙げれば功名第一と多勢を頼み、集中攻撃を展開した。しかし島の進退の見事さは目もくらみ肝もつぶれん程の凄しさで家康本陣に迫る勢いを示す。
「このままではいかん何とか島を倒さねば」と感じた黒田の鉄砲隊長の菅野は名手五十名を率いて右手の丘に散開し、猛烈な弾幕を張りめぐらして左近の脚に重傷を与えた。さすがの豪雄も従兵に負われて、暫し、柵内に退いた。
これを見た東軍の田中勢は勇み立って突進したが、石田の大砲隊の猛反撃で忽ち撃退されて敗走。その機に乗じた蒲生郷舎の奮戦で、あわや総崩れ、と見えた折、横合から救援に参じた細川、加藤隊の力戦で辛くも持ちこたえる。 
(13) 島津豊久、動かず
三成は昨夜雨中の各陣廻りで激しい下痢に襲われながら
「此機に東軍の右翼を包囲して一気に家康本陣を突かん」と全予備隊を投じて猛攻し、一時は石田隊の砲弾が家康本陣近くに次々と落下した。苛立った家康は刀を振り廻して近臣を脅かさせる有様で、本多忠勝らが奮戦して必死に喰止めたと云われる。
関ヶ原軍記は
「敵味方おし分けて鉄砲を放ち、矢たけびの声天地をゆるがす。黒煙に日中も暗闇となり敵も味方も入り合い押しつ、まくりつ、攻め戦い、日本国を二つに分けてここを詮度と厳しく争う」と記している。
笹尾山の本陣から眺めれば、盟友・大谷勢は、関ノ藤川を越えて、藤堂、京極隊を押しまくっている。宇喜多隊の先峰・明石全登は、福島正則、寺沢広高隊を四、五町も撃退する勇戦ぶりを示しているのに、隣りの島津勢だけは傍観している。
三成は再三使者を走らせたが島津豊久(島津義弘の甥)は頑と動かない。遂には三成自身が馬を飛ばせ
「共に内府本陣を突かん」と要請しても
「今は各隊が思いのままに戦うのみ」と嘯いた。これは度々の献策が採用されなかった腹いせだろう。島津はかつて三成から財政立直し等で大恩を受け、誓詞を入れて感謝している。しかるに大事の場に臨んで、この態度は、義を知る者とは云えない。
三成は黙って引き返しながらも、大谷の忠告が身にしみる思いであったろう。 
(14) 毛利秀元も小早川秀秋も一向に動かず
けれど開戦以来三時間、戦局は西軍優勢のうちに進んでいる。
「今こそ狼煙を挙げて小早川秀秋、毛利秀元、長曽我部盛親勢四万六千に下山出撃させ、家康軍の背後を突くべき好機」と考えた三成は痛む腹を圧さえつつ
「狼煙を上げろ!」と命じた。忽ち笹尾山の上に白狐のような烽火が天高く立ち昇った。時に午前十一時と云われる。我に倍する東軍に対し、善戦敢闘を展開中だけに、松尾山、南宮山から逆落しに四万の大軍が襲いかかれば、東軍は袋の鼠となる事は必至だった。
然るに毛利も小早川も一向に動かない。長束正家や安国寺恵瓊は毛利と共に進撃するつもりで再々督促の使者を走らせたので、秀元は先陣の吉川広家、福原広俊に出撃を命じた。しかし、かねて家康に内通していた彼らは「もっと情勢を見て」とか「先づ弁当をすませて」等と云い立ててさっぱり動かなかった。
また松尾山の秀秋も内応の約束だったが、眼下に展開する戦局は西軍が優勢なので日和見的な態度に変り、一向に背撃に出ない。家康は
「あの小伜めに計られたか!口惜し々々!」としきりに指をかんだと云う。
そして遂に我慢が出来ず、一か八か、山上の秀秋本陣に誘い鉄砲を打ち込ませた。
「早く態度を決めぬと攻め込むぞ」と云う嚇しで若い秀秋が剛気な性格なら逆に
「何をその気なら一戦交えん」と怒って東軍に攻め込んだろう。
処が慄え上った秀秋はあわてて
「大谷勢の側面を突け」と命令した。それを聞いた先陣の松野主馬は
「そんな馬鹿な話があるか、わしは福島勢に突込む」と云って聞かず、遂には旗を折り、颯々と戦場を去ったと云う。 
(15) 小早川秀秋、裏切る
小早川の一万数千は雪崩のように大谷吉継(刑部)隊を襲った。吉継は半ば予想されただけに六百の決死隊でがっちりと喰い止め、逆にその側面を突いたから、秀秋勢は忽ち四百近く討死し、家康の目付・奥平貞治も首を挙げられた。
崩れ立つ小早川勢を見て藤堂勢が救援に向う一方、「秀秋裏切」と知って笹尾山から銃創の身にも届せず、慌しく援護に馳せつけた島左近の一隊が加わった。大谷勢の死物狂いの反撃が続くうち、かねて吉継が秀秋の裏切りに備えていた昔からの戦友である脇坂安治、朽木元綱ら五千の兵が、これまた鉾を逆さにして大谷勢に襲って来た。
大谷勢がいかに勇猛とは云え、僅か三千に過ぎず、三方から二万の敵を受けては力戦玉砕するしかない。勇将平塚は
名の為に 捨つる命は 惜しからじ…
の句を吉継に送って討死。吉継も
契りあらば 六つの巷に 暫し待て、遅れ先立つ 事はありとも。
と返し、秀秋を呪いつつ、切腹する。
最も勇猛果敢に戦っていた大谷勢の玉砕は、宇喜多軍に波及した。それを見た宇喜多秀家は
「総大将たる輝元が約束を違えて出馬せぬ為に、毛利は只見、秀秋めは裏切。行末どのような世になるか凡そ察しはついた。左様な汚い世に生きとうはない。人面獣心の秀秋めを死出の首途に討ち果して、太閤の下に参じん。共に死なんとする者は続け!」と怒号し、愛馬に鞭打って秀秋本陣をめざそうとする。それを老功の重臣・明石全登は
「大将たる者は最後まで志を捨つるべきに非ず」と慰め励まし、戦場から落した。
三成から
「共に内府本陣に突入を」と懇請されても頑と戦わなかった島津隊は、味方の敗走を横目に敵中を突破して伊勢路に逃れんとした。豊久以下の大半が討死。島津義弘と兵七十が辛くも薩摩に落ち延びている。 
(16) 最後に残った石田勢
最後に残った石田勢は尚も家康本陣を突くべく力戦奮闘を続けた。勝ち誇る東軍を七度も撃退して、日頃から文吏と嘲笑された三成の面目を一変した。特に島左近の勇戦は凄まじく、彼を銃撃した黒田勢の菅野正利などは後々まで彼を賞賛し続けて
「鬼神をも欺くと云われた左近の獅子奮迅の有様は今も尚、瞼に焼きついて離れぬ」と思い出話をしている。
その島も大谷救援に赴いて帰らず、蒲生郷舎(*1)は織田有楽を馬上から斬落しながら敵の包囲下に討死。それを知った嫡子・大膳は
待て暫し 我ぞ渡りて 三瀬川、浅み深みを 父に知らせん。
を辞世に討死した。大剛・藤堂玄蕃を討取った島の嫡子・信勝と共にその死を惜しまれる。
軍師・舞兵庫は、大勢如何とも為し難いと知るや
「いざわしも最後の一稼ぎ」と笑って駒に跨がりつつ、周参見に
「一刻も早く主君を戦場から落し、再挙を計られるよう進言せよ」と命じて戦場に突進した。

(*1) さといえ。関ヶ原の戦いにて織田有楽を負傷させるも、その後討ち取られたという話は、同姓の別人蒲生喜内頼郷との混同とも云われる。 
(17) 石田三成、敗れる
周参見は直ちに本陣に参じ、三成に舞の意向を伝え
「かねて万一の用意にと快速船数隻を朝妻筑摩港に用意させてござる。間道を急げば精々四里、それより湖上を突走れば夕刻には佐和山に着きましょう。直ちに御出発を!」と迫ったが、三成は
「必死に戦っている家臣達を見捨て予独りが逃げられるか、内府を討ち取れば戦局は一変する。勝負は最後の一瞬まで投げてはならぬ」と聞かず、周参見もやむなく前線に戻って死力を尽した。
けれど午後二時を過ぎるや、老躬に鞭打って早暁から奮戦し、黒田の勇将・後藤又兵衛と激闘百合の後、遂に相引きとなった程の豪将・渡辺勘兵衛が重傷の身で三成に名残りを告げに帰ると
「戦さは最早これまで。即刻落ち延びて再挙を計られよ」と熱涙を滴らせた。
渡辺勘兵衛は、三成が五百石の近習の頃、全額を投じ「将来は十万石を与える」約束で召し抱えた勇将だけに、三成もやむなく落ちる気になって
「かねてそなたに十万石を与えんとの約も夢になったのう」と痛恨な面持ちで別れを告げた。そして近習らと共に相川山に姿を消し、周参見が再び本陣に取って帰した時には既に三成の姿はなく
「各自思い思いに戦場を離脱し大阪にて再会すべし」との命令のみが伝えられたので、一族十余人と朝妻筑摩港をめざして馬を飛ばし、幸い敵と会う事もなく乗船すると、一路大津をめざし脱出している。 
(18) 石田三成、捕らえられる
佐和山では敗戦と聞き、千余の決死の救出隊が関ヶ原をめざし、駆けつけたものの遂に主君の姿を発見できなかったのは、三成の天運の尽きる処であったろう。
両軍の死傷者は三万余と云われる。主を討たれた鞍置馬千五百頭が戦場を狂ったように走り廻る中に、午後四時頃から沛然たる豪雨が降りしきり、不破の川水は戦死者の死骸を押し流し、水の色も朱に染んで見えたと云う。
そして一夜が明けた翌朝
「最後までお伴をして生死を共にしたい」と懇願する磯野ら近習に
「大坂で再会しよう。予のことは案ずるな」と笑って只ひとり山路に分け入った三成は古橋村の三珠院に隠れていた。しかし里人の噂となったので、更に山奥の洞窟に移り、百姓与次郎の世話を受けていた。
然し家康の厳命で、金百枚に永代無役の莫大な賞金が賭けられたのを知った与次郎の婿が名主に訴え出た。三百余の追手が洞窟を包囲し、腹を傷めて起居もままならぬ三成は
「もはや天命つきたり」と高月郡井ノ口村の田中吉政の陣に曳かれた。
時に慶長五年(一六〇〇)九月二十一日だった。 
(19) 小早川秀秋の最期
田中吉政は三成の世話で秀吉に仕え出世した間柄だけに三成の顔を見ると
「今度天下の大軍を率いて存分の合戦をなされた智謀の程は、後世長く傅えられましょう。勝敗は天命にて人力の及ぶ処ではありませぬ」と慰める三成も
「秀頼公の為に大害を除き太閤殿下の厚恩に報い奉らんと思い立ったが、武運も尽きたのであろう。乱軍のまま戦いの成り行き敵味方の働きも定かでなかった故、しかと見定めて地下の太閤に報ぜんと存じ、かくの体じゃ」と微笑み、秀吉から賜った正宗の短刀を遺品に与えたと云う。
然し二十五日に大津の家康の陣に連行されるや、本多正純の邸の門前に縄付きのまま晒され、心ない東軍の諸将の冷笑を浴びた。
三成は平然とこれに耐えたが、小早川秀秋が勝者面をして現われた時だけは腹にすえかね、
「金吾!そちはそれでも人間か!日本中にそちぐらい根性の腐った男は二人とおるまい、見下げ果てたる二股武士め!」と叱咤し、秀秋は一言もなく意気消沈して逃げ去ったと云うが、
「おのれ人面疑獣心の秀秋め、三年が間に必ず人の怨念のあるやなしやを思い知らせてくれる!」と叫んで死んだ大谷や三成の祟りであろうか。小早川秀秋は備前ら七十三万石の大守となったのも束の間、二年後には精神錯乱して狂死し、跡絶えて千年の汚名をさらす。
然し裏切りを命じたのは何と北政所(秀吉の正室)であったのを知る人は少ない。 
(20) 石田三成、処刑さる
三成が処刑されたのは十月一日だった。前日は後手に縛られ、首には鉄輪をはめられて、裸馬で堺、大阪を引廻され、当日は輿で都大路を数万の群集の目にさらされた。三成らが洛中を引き廻されるのを一目見ようと数万の貴賎群衆が争って押しかけ、野次馬共が
「治部少輔が天下を取った態を見ろ」とはやし立てると三成は、
「わしが大軍を率いて天下分目の大戦を為した事は天地の破れぬ限り語り継がれよう。そう囃し立てる事はないぞよ」と悠然と笑ったと云われる。途上で獄吏に白湯を所望した処、
「そんなものはない。柿でも食え」と云われ
「柿は身体に毒じゃ」と断る等、最後まで毅然たる態度で数々の逸話を残している。
「大義を望む者は、息のある限り命を惜しみ、本望を達せんと尽すべし」との教訓を歴史上に止めたのは、武人の亀鑑とすべきであろう。この情況を見た公卿・山科言経も日記に
「治部少輔六条河原にて生害、首は三条橋畔に架けらる言語同断なる貴賤群衆なり」と彼を悼み、家康を始めとする心ない野次馬共に憤激している。 
(21) 勝敗とは
私は日本史上を彩る武将の中で最も清廉な英雄と云えば源義経、楠木正成、石田三成、真田幸村、西郷南洲の五人と考えている。いずれも敗軍の将となっているのは
「天は、英雄の末路を悲劇を以て終らせる事により、万世の生命を恵む」と云う詩人の言葉通りと信じている。
只、人間の成功に社会的と人間的の両面があるように、戦いにも浮世の勝敗と人間の勝敗があり、それを判断するものは悠遠な歴史である。義経、正成は帝に殉じ、三成は秀吉に殉じた。勝てば官軍で、徳川時代に三成は姦臣の首魁とされた。家康の子孫・水戸黄門だけはさすがに
「三成は豊家の忠臣なれば憎むべきにあらず」と断じ、哲人大西郷も
「成敗存亡君説く事勿れ 水藩の先哲公論あり。」と詠じてその義戦を賛えているのは嬉しい。 
(22) 九鬼嘉隆、死す
百を数える西軍大名の中でも世界最初の鉄製艦で名を上げながら悲運だったのは九鬼嘉隆である。堀内と新宮に落ち、熊野一円に安住の地なしと知るや、再び志摩の石島に逃れたが、ここも危く、和具の娘婿の青山豊前守邸に潜居した。
その頃、九鬼守隆は何とか我功に代えて父の一命を許されたいと懇請したが、家康は仲々許さない。それを知った九鬼の家臣・豊田五郎衛門は勝手に
「残念ながら御助命は困難と思われます。此際お家の為にも潔よい御最後を」と進言し、嘉隆も覚悟を決めて答志島の潮音寺に移った。
やがて十月十二日、かって日本水軍の勇将として遠く大陸にまで武名を轟かせた豪雄も九鬼家と子孫の繁栄を計る為に、青山豊前の介錯で従容と自刃して、五十九才の生涯を閉じた。父と行動を共にした五男、六男は後を追い、七男は朝熊山金剛証寺に入って出家し、その菩提を弔う事になった。
嘉隆の首を伏見城の家康に見せるべく、青山が涙ながらに答志島から鳥羽城に帰り家臣一同に見送られて出発した。家康の助命書を持った守隆の急使と出会ったのは伊勢の明生茶屋だったと云われる。家臣・豊田の独断を知った守隆は激怒して、堅神村で極刑に処したと云う。
家康から二万石を加増され、守隆の所領は五万五千石となった。しかし父の死を悼んだ守隆は、答志島の山頂に首塚を大隅大明神として祭り、山麓の胴塚に五輪塔を建てて、深くその冥福を祈っている。そして鳥羽城の裏手にある豪壮な菩提寺・常安寺の九鬼家歴代当主の墓碑の林立する中でも中興の祖・嘉隆の五輪塔は一際立派なものである。 
2 筒井と藤堂氏 

 

2.1 筒井と藤堂氏  
(1) 筒井定次、兄を切腹させる
家康に「三成叛く」の第一報を送った増田長盛(*1)が郡山二十万石と金銀七千枚を没収され高野に蟄居した慶長五年(一六〇〇)秋、関ヶ原から急遽伊賀に帰ってきた筒井定次は怏々と楽しまず、日夜酒色にふけっていたようだ。と云うのも、上杉討伐の為に三千の将兵を率いて出陣した後、八月始め、西軍に参じた高槻城主・新庄直頼以下二千余が上野白鳳城を囲んだ。城の留守を託されていた定次の兄・十郎玄蕃充は、島左近のすすめ通り
「とても勝目はない。無益に血を流すより城を開いて領民を戦火から救おう」と一戦にも及ばず高野山に逃走した、とされる。十郎玄蕃充から云わせれば、真の主君・秀頼公の命に従ったまで、と答えるだろう。
八月五日、石田三成が真田昌幸(*2)に送った手紙には「伊賀在陣の西軍は七千余人」とある。
定次はそれを知って急ぎ引帰すと御斉峠を越えて一挙に城を奪回したと云われる。しかし、「一挙に」は、疑問である。
七月末の小山での軍議により、福島、池田、筒井、藤堂の諸将が清洲城に帰ってきたのが八月十五日である。それから岐阜、合渡の合戦から関ヶ原の大戦が展開されたのが九月十五日だから、どう考えても定次が城を取返したのは関ヶ原の大戦が終った九月下旬としか考えられない。家康の内命でやむなく高野に逃げた兄を
「たとえ兄でも責は取って貰わねばならぬ」と切腹させたのはそれ以後だろう。

(*1) 秋風悲し関ヶ原を参照。
(*2) さなだ まさゆき。武将・大名。
信濃先方衆として甲斐武田氏の家臣となった信濃の地域領主・真田氏の出自。晴信時代の武田家に仕え、武田氏滅亡後に自立。後、北条氏や徳川氏との折衝を経て豊臣政権下において大名化する。
上田合戦で二度にわたって徳川軍を撃退し、後世には戦国時代きっての知将、謀将としての人物像が付加され、講談や小説などで知られるようになる。子に、信幸、幸村。 
■■(2) 筒井定次、大坂順慶町の邸で、酒色に憂を晴らす
天下分目の一戦で敗れた西軍の大名達の所領七百万石を没収した家康は、功のあった東軍の大名達に二倍〜三倍の大盤振舞をして天下人面を誇った。秀頼の為に戦った筈であったのに二百数十万石の秀頼領は六十五万石に削られ、全国の金銀鉱山はすべて徳川がまき上げてしまった。
秀吉から与えられた定次の禄高は二十万石だったのに、何故か伊賀一国にも満たぬ八万石程度に削られているらしい。関ヶ原で、定次の家老であった島左近の猛攻で、家康本陣さえ危うかった時、家康の左にいた定次勢は、宇喜多の進撃で敗走した福島勢にまき込まれ、関ヶ原の宿場に退却した。家康はこれを見ていて
「さては定次め。島を三成にやって余を殺させ、己は洞ガ峠をきめこむ気か」と疑ったかも知れない。
上野城が無血降伏すると云う失態を見て、舞鶴城の力斗に喜んで細川に四十万石を認めた家康だけに、信賞必罰の態度にでたのだろうか。
幼少から正義感の強い勇敢な美少年で、信長に愛され、養女・秀子の夫に選ばれ、その葬儀にも十五番目に焼香している程の定次である。かねて朝廷からも
「文武両道は元より、軍略にも秀でた上に人品高尚にして寛容、花の如き容貌の持主であり、筆跡は尊信親王、画は雪舟にもまがう力量を備え、能楽については金春四座の大夫より勝るキリシタン大名なり」と絶賛されていただけに、大坂順慶町の邸で酒色に憂を晴らす日々が多くなったのも無理はない。
その上、秀頼や淀君にも好かれていたらしく、「仏憎けりゃ袈裟まで憎い」の諺通り狸親父が一段と目を光らし、慶長六年(一六〇一)には京都所司代に子飼の家臣・板倉勝重(当時五十七才)を任命して諸大名の動きを厳しく監視報告させ、彼は親豊臣派のブラックリストのトップに置かれたようだ。 
(3) 筒井定次、家康に睨まれる
ここで筒井家の筆頭家老だった松倉勝重と同名の人物が登場するのでまぎらわしいが、板倉勝重は徳川譜代の臣で、天文十三年(一五四四)〜寛永元年(一六二四)、八十才で病死している。
それに比べて松倉勝重は、天正十四年(一五八六)三月、名張で没し、その子・重政は、天正元年(一五七三)生れだから当時十三才である。
重政は家督がつげないのを怒ってか興福寺で出家し、やがて家康に拾われて五条の領主となり、後に島原六万石の大名となる。その子・松倉勝家が有名な島原ノ乱をひき起した。
この鎮圧に向ったのが板倉勝重の子・重昌で寛永十四年(一六三七)、島原で討死。翌十五年(一六三八)には、松倉勝家が責任を問われて切腹しているから、縁は深いが別人である。
慶長七年(一六〇二)、家康は「豊臣秀頼、関白就任近し」の噂を流して、大名共の反応を眺めると、翌八年(一六〇三)には右大臣征夷大将軍に任じられて幕府を開設した。
世は滔々と徳川の流れを強めているのに、正義感のあくまで強い定次は、太閤の遺命を守って、毎年の年賀も先づ秀頼に参じた。
父が残した処から順慶町と呼ばれる館に、大野三兄弟らを招いて茶会など催し、親睦を計るのが常だった。
それを聞いた家康が「定次めはこのままでは置けぬ」と伊賀の上忍・服部半蔵仕込の謀略をめぐらせる。
そしてその肚を読んで手先となったのが、関ヶ原の戦さで忠勤を励み、宇和島八万石から今治二十万石の大名となった藤堂高虎である。慶長六年(一六〇一)に、四十六才で始めて男子が出生してからは、嗣子の高吉(*1)が邪魔になってきたらしいのは秀吉と秀次の因縁がもたらしたのかも知れぬ。
当時、高吉は二十二才で、墨俣で大いに奮戦しているのに、義父・秀長から貰った一万石のままで据置かれた。やがて加藤嘉明(*2)の家臣と争いになるや、家康の裁定で、勝っているのに大洲で蟄居を命じられている

(*1) 大和百万石を参照。
(*2) かとうよしあき。「よしあきら」と読む説もある。伊予松山藩主、のち陸奥会津藩初代藩主。水口藩加藤家初代。賤ヶ岳の七本槍の1人。通称は孫六。 
(4) 筒井定次、「戦いはさけられない」と心に決める
やがて世は慶長十年(一六〇五)に入り、家康は将軍職を秀忠に譲る。慶長十一年(一六〇六)に入ると、井伊直政が彦根城を完工させ、続いて新将軍・秀忠が、家康の命で諸大名に手伝いを命じ、江戸城の大改築にかかった。
秀吉が黒漆と黄金で誇ったのに比べて、家康は、白しっくいの壁と土瓦の代りに鉛と木を貼り合せた軽い新式瓦を採用して、大坂城より二十mも高い六十八mの大天守閣を築き上げている。
白亜の城の偉容は房総半島からも見えたらしく、関東一円の人々を驚かせた。それを知って子飼の井伊は彦根城に、姫路の池田、今治の藤堂らも我遅れじ、とそれに見習い、当世の流行色となる。
それを見て収まらないのは、大阪城の淀君達で、秀頼に天下を譲る気のない事は明らかである、と激怒して、その背信を罵った。
そして秀忠が上洛して婿の秀頼を招いても絶対に行かせず
「もしどうしてもと云うなら、母子心中する」とまで云い、北政所(秀吉の正室)が
「それは秀頼の為にはならぬ」と戒しめても頑と承知しなかった。
それを知った家康は内心深く怒った。
それまで十三歳の秀頼を正二位右大臣に、二十七歳の秀忠を下位の従二位内大臣に奉任していたのを、慶長十二年(一六〇七)には秀頼の右大臣を被免した上に、外様大名並に駿府城の改修に、人夫の提供を命じている。
「どう見ても戦いはさけられない。その時は太閤の恩義に報いるのみ」と定次は心に決めていたようだ。
伊賀に伝わる筒井の治政は良い話は、どうやら後に入国した藤堂の命でかき消されたようで甚だ少ない。
定次は、夏は小田温井の名水で茶の湯を楽しみ、長田のえびす淵で鮎漁に興じ、伊賀川の落合に桟敷を設けて幽翆の気にひたりつつ、歌舞音曲で日のくれるのも忘れたと云われる。
また上野一の美人で知られた酒家の女房を城に呼んで愛妾としたので怒った夫が「好色無類の領主」とふれ廻ったと云う話もあるが、キリシタンを信仰していた彼がそんな事をしたとは信じ難い。 
(5) 家康の奸計、筒井定次に迫る
さて、去る慶長十年(一六〇五)に上洛した家康が、将軍職を秀忠に譲って秀頼に天下を渡す気のない事を明らかにした頃。
その時に連れてきた鷹匠共が、しきりに伊賀に来て、鷹を放し、田畑を荒し廻る。それで怒った百姓がその鷹を殺してしまった。
すると家康は、直ちに所司代の警吏を総動員して厳しく探索し、本人だけでなく彼をかくまった庄屋まで処刑した。それで村人達は
「人間より鷹が大切などと云う馬鹿な話があるものか、」といきり立ち、硬骨の武士達も
「神国大和の頭領であった筒井家の嫡系をうけながら、一言の文句を云えぬ腰抜け殿よ」と陰口をきいたと云う。家康、高虎らは「待てば海路の日和あり」とほくそ笑んだ事だろう。
慶長十二年(一六〇七)になると、恐らく放火と思われる大火によって、城も町々も尽く焼け落ちて大損害となり、例年の天神祭もできなかった。日頃は領民思いの定次も、背に腹は変えられず、重い年貢を取り立てて、城館の修築を強行し、領主たる面目を保たねばならぬ立場に追いこまれた。
いよいよ家康の奸計が断行される時が迫っていた。 
(6) 筒井定次、改易される
やがて慶長十三年(一六〇八)四月、筆頭家老・中坊秀佑の家臣が、江戸家老・葮田大膳の家臣にけんかを吹きかけ、双方に死傷者がでると云う騒動が起った。
いわゆる「けんか両成敗」が常である。しかし下手をすれば一大事にもなりかねぬ、と定次は示談で収めようと苦心している間に、中坊は、彼の妹が家康の愛妾となっていた縁に頼って、直接家康に訴え出た。これは「何とか事を内々ですませよう」とした為と云われるが、恐らく家康の罠であったろう。
家康にとっては正しく「飛んで火に入る夏の虫」だった。六月になると、突如、定次、葮田らは幕府評定所から呼び出され、厳しく取調べが始まり、その席には大御所の家康の顔も見せたらしい。
もちろん、定次と従兄弟の葮田は堂々と反論した。処が、中坊側の証人として出頭した中西、井上、布施らは、口を揃えて主君の定次を非難し、中坊を支持したと云うから黒幕が誰かは明らかである。
そして慶長十三(一六〇八)年六月二十日には家康の名で
「筒井定次、其方儀は、性来が放蕩荒淫の上に、侫臣数名を伴い、大坂順慶町の邸に常住し、専ら大野道大ら兄弟と酒宴を共にする等、政務を怠たるばかりか、在国中も老臣の忠言を嫌って面接致さず。山野に遊猟し、川流に戯れ、国務を放置し、士風を頽廃させたのみならず、常々厳禁のキリシタン宗徒の信仰を捨てざる行状、誠に許し難く、よって伊賀十二万石、伊勢五万石、山城二万石の計十九万石をすべて没収の上、嫡子・小殿丸と共に奥州、磐城の鳥居家に蟄居謹慎を命ず。家康花押。」との沙汰書が下された。葮田大膳は切腹に処されている。
筒井定次は、大名としては恥辱きわまりない罪名下に、改易と云う悲運を辿るのである。
その所領が十九万石なのは表高で、實質は八万石だったようだが、代って家康の配慮で四国から着任する藤堂には、伊賀・伊勢・大和を併せて二十二万が与えられている。 
(7) 中坊秀佑、殺害される
唯一の豊臣方大名と考えていた筒井家の改易は大坂城一円にまで大きな衝撃を与えた。が、もはや豊臣家ではどうにもならなかった。
一件落着後に、中坊らは、家康から謁見され賞詞として
「その心底律儀にして世法を破らず、色欲を離れ、主君に功ありしこと賢臣たるべし。」を賜った。
三千石の徳川直参に取立てられ、中西、井上、布施らもその恩恵に浴した。わけても中坊秀佑は天領の奈良奉行に任命され、京都諸司代と共に大坂監視の重任を託されたようだ。
正しく晴天の霹靂とも云える報を聞いた伊賀一円は
「背中の子を逆さに負うて飛び廻る者もいた」と云う騒ぎで、巷には
中坊飛彈めは 極悪家老、主家をつぶして 奈良奉行。
と、ざれ唄が流れた、とか云われる。
勿論三千近い家臣の中には、定次の真情を知る侍も多く、後の大坂陣で活躍した箸尾、布施、万歳らの忠臣は
「かくなったるも、桃谷らの奸臣や、家康めに主家を売った中坊らのせいである。今に必ず殿の仇を討たん」と無念の涙を流した。
中でも山中友記は、一時は九鬼家に仕官したものの、再び浪人して、慶長十四年(一六〇九)二月、中坊が伏見に赴く途中でその宿に忍び込んで刺殺した。
翌日、伏見の町中に高札を立て
「我は筒井家譜代の臣にて主君の恨を晴さんと中坊を誅した。次にはその嫡子の血祭りをして自決する覚悟である。」と書き残して大評判となっている。それを知った心ある家臣達は「態を見ろ!」と沸き立ったに違いない。
浮世の歴史から云えば、確かに、定次は世間知らずの阿房殿様で、一族や家臣に惨苦をもたらした。然し“義を貫く”人間の歴史から論ずれば、名利にまよわず成敗にとらわれず、ひたすら己の信念に生きて美しく亡びた君子人であった。
ここに定次を讃え、その濡衣を晴し、菩提を弔うささやかな香華としよう。 
(8) 藤堂高虎の入国
それでは彼とは対照的に「世渡り名人」とも云える藤堂高虎の入国を述べよう。
歴史は勝者のものであり、敗者の正義はすべてかき消されてしまうのが常である。神国大和で千年の繁栄を重ねた筒井家も、荒れ狂う徳川の大洪水によって哀れ梅花(筒井の家紋)は散る。
慶長十三年(一六〇八)八月に入ると、そよぐ秋風と共に伊勢の安濃津城、伊賀、大和や伊予で合計二十二万石の大名となった藤堂が入国し、やがて桔梗の花が咲き匂う世となる。
ここで判り易く『高山公(高虎)言行録』を解読すれば
「『紀州、熊野、北山の諸郷、或は吉野の山伏、十津川郷士らが蜂起して東海道に暴走の際は当地で防ぎ支えんが為にも若輩の武将ではとても及びもつかず。』と神君(徳川家康)は判断された。また大坂豊臣方の挙兵に際し戦局不利の場合は、大御所(徳川家康)は上野城、将軍家は彦根城に入って捲土重来を期さんとして、余がその大任に選ばれた。家臣一同もよく其事を察して充分覚悟せよ。然して津は不堅固な平城であるから当分の休息所と考え、“伊賀こそ秘蔵の国で戦斗指揮の根元地と思い”平常は治政に心がけ米麥の生産と貯えに努め、いざ合戦の際に兵糧の尽きぬよう心がけよ。国の守りを堅固にせんが為に、国境の七口に歴戦武功の七人の鉄砲頭を置き、各五十挺の鉄砲を配置すれば何の心配もなし。」
と述べて、高虎は、真先に鉄砲隊長・梅原勝右衛門に名張二万石の大領を与え、三百五十挺の銃隊を、七つの関門に配している。 
(9) 藤堂家の冶政
藤堂家の冶政は『宋国史(藤堂藩の正史)』に詳記されている。詳細はそれを御覧頂くとして、その特色だけを挙げれば
一、無足人「足す事なし」…と呼び、無給ではあるが家柄によって武士の特権を認め、国の守りに備えると共に、村の支配や年貢の取立てに当らせている。
二、他家の名ある浪人を大量に採用して戦力を充実させ、常に幕府の先峰となってその「特恩」に奉じることを第一と定め、それに逆らう者はすべて斬れ、と説いている
三、上忍の千賀地の出身で家康に仕えていた保田妥女(*1)を貰い受け、藤堂の名を許し、やがて城代家老として忍者郡を組織して、情網活動に努めさせている。
そして伊賀の忍者と家康の関係は、天正九年(一五七三)の伊賀の乱以来の縁であり、高虎が妥女を召抱えたのは四国の領主だった頃からだ。家康は早くから筒井の代りに高虎を入れて大坂城攻略の付城とするつもりだったのは明らかである。

(*1) 服部半蔵正成の長兄・保元の孫。 
(10) 藤堂高虎、白鳳城を大修築
やがて慶長十五年(一六一〇)になると、築城の名手と云われた高虎は入国した際、筒井の白鳳城の穴太積(*1)のすばらしさに舌をまき、この堅城の大修築にかかる。定次が大坂城を守る為の出城として東に対して備えたのに対し、高虎は大坂に攻める為に西に対して備えたのである。
史料によれば、
「忍者達を全国の百五十城に潜入させて、その構造を調査した上、西に巾三〇mの深い堀を作り、高さ三〇mの石垣を南北押し廻して築く。南北の両隅に櫓台を作り、今までの本丸と合せて新本丸とする。南に面して二つの出入口を開き、東は古き空堀を用う。西側には新しく南北二八〇mの大石垣を築くもこの高壁は大坂城よりも見事なり。」と記され、本丸の建物は、法隆寺大工の中井大和守や、甲良大工の甲良豊後守が、大挙応援に集まったらしい。
但し秀吉が大枚の金を定次に下賜したのに比べて、吝な家康は知らん顔だった。

(*1) 宇治川城の春秋を参照。 
(11) 多士済々、藤堂高虎の家臣
秀吉は大坂城を守る付城に、東の伊賀上野に筒井、西の彦根に石田を置いた。それに対して、家康は先づ彦根に四天王の一人井伊、そして数多い譜代、外様、の勇将の中から藤堂を選んで伊賀上野に入らせた。家康は藤堂を深く信頼していたに違いない。
「人は石垣、人は城」と云うその家臣団を見ると、石田三成の小姓・磯野、八十島。長曽我部の桑名、中内。増田長盛の家老の保田、渡辺。筒井の一族や、喜多(能楽の祖)など正に目を見張るばかりである。
足軽育ちの高虎が、始めて士を抱えた近江、粉川から始まって、但馬、四国、伊勢、伊賀まで(中には堀内氏善の長男・氏治を新宮城主・若狭守氏弘と誤っているものもあるが)正に多士済々である。
「有為な人物に思い切った高禄を与え」「名門にこだわらず実力主義」のやり方は三成と同じで「近江生れの特色かも知れない」と大いに感服させられる。 
(12) 藤堂高虎の家訓は
私としては、同じ近江人でも高虎のように何よりも「時流を見て利に走る」男よりも、三成の如く
「孔子は仁を云うが、孟子は乱世には義を第一とする。義は必ず不義に勝ち、義のみが世を正し乱を治める道である」との言葉を信じる男のほうが好きだ。学者の孔子、孟子と軍学者の孫子を併せ考えるべきだと思う。
大谷刑部のように、常に孫子の言を座右の銘とし、三成の挙兵に際しても「孫子に説く七則を比べて勝算なし」と止めながら、敢て己を知る者の為に殉じた「世渡り下手」に惹かれるのは、良弘公の血の流れであろうか。
郷土愛の強い生粋の伊賀の人の中には
「己の好き嫌いで勝手にきめられては困る。人間の短所は長所でもあり云うなら伊賀名産こんにゃくの裏表でもあるんじゃ。徳川三百年にわたる伊賀の平和と繁栄に貢献した藤堂家を何と心得るか」とお叱りを受けるかも知れないが
「その分は名張藤堂家の人々は大いに好いとるケン。まあ勘弁してつかさい」と答えることに決めている。
さて、筒井定次が、秀吉から「義を重んじ、文武両道に秀でる領主たれ」との教えを守って、国を滅ぼした先例がある。
高虎は、「常に時の流れに逆らわず義や情に溺れることはなく只々一族と家臣の繁栄を計ること」を旨としたらしい。
その結果、藤堂藩は、三十二万石の領土を永代地として、明治維新まで一粒も減らされたり転封されることなく繁栄し続ける、と云う歴史を残す。
鳥羽伏見での戦さに土壇場で寝返り、幕軍を敗走させたことから色々悪くいわれるが、それは彦根の井伊も同じである。高虎の「常に時勢と共に棹さして逆らわぬ」家訓を守り抜いたと云えよう。 
2.2 幸運の井戸茶碗 

 

(1) 柳生石舟斉と柳生厳勝
慶長十三年(一六〇八)の秋、銀色に輝く江戸城や駿府城が完成し、続いて尾張に義直(*1)の名古屋城の縄張りも始まり、葵の旗風が一段と勢いを増す中に、その先峰を誇る藤堂高虎が意気揚々と入国する。
それを腹立たしく眺めながら一介の浪人となった井戸覚弘、治秀、直弘ら兄弟は大和に帰った。父の良弘を手伝いつつ、晴耕雨読の生活に入るつもりで、柳生宗巌(石舟斉)の長男・厳勝に別れを告げに行った。かつて辰市城の戦いに松永勢に参加して重傷を負い、柳生村の正木坂に引っこんで以来、親しくしていたのである。
石舟斉は松永自刃後、順慶に仕え、二千石の旧領を与えられ良弘一族とも親しくしていた。しかし豊臣秀長の大和入国後、検地で隠し田が発見されて所領を没収されると
兵法の 梶は取れても 世の中を 渡りかねたる 石の舟かな。
と詠じて石舟斉と号し、剣術道場を開いた。やがて豊臣秀次から百石の捨扶持を貰うようになり、他にも大名達から援助を受けて悠々と暮らして居た。
文禄三年(一五九四)に五男の宗矩を連れて駿河に赴き、家康に得意の無刀取りを見せた事から、秀忠の指南役を乞われたが「寄る年波なれば」と、代って若い宗矩を仕えさせた。
関ガ原では宗矩が甲賀忍者衆を集めて功を挙げた事から、元柳生領二千石を加増され、直参三千石の兵法指南番として頭角を現したが、石舟斉は、慶長十一年(一六〇六)、八十歳で世を去った。

(*1) 徳川義直(とくがわ よしなお)。尾張藩の初代藩主で、尾張徳川家の始祖。徳川家康の九男。 
(2) 井戸三兄弟、柳生へ
石舟斉に代った厳勝は、今回の筒井没落に伴い、親しかった井戸一族が大和に帰って百姓になると聞き
「あれ程の人物を野に朽ちさせるのは惜しい。ここで新領の管理を頼みたい。」と懇望され柳生村に新生活を求めることに決めると、七十六才になった父・良弘の事を心配して柳生移住を求めたが
「永年すみ馴れた大和を離れるつもりはない。若い息子らが良く世話を見てくれるからわしのことは心配無用」と云う。
そこで覚弘ら三兄弟だけが正木坂に移ると、道場の世話や年貢集め等に当り、客分として結構日々のどかに過ごしていたようだ。
慶長十四年(一六〇九)になると、家康は、筒井と並ぶ名門の井戸一族が柳生の客分となっているのを知って
「ああ、うっかり忘れて居った!年はとりたくないものじゃ。覚弘には井戸茶碗で大きな借りがあったのよ。彼は良弘の血をひいただけに、名利にもさっぱりした珍しい男よ。そんな人物を片田舎に埋もれさしてはなるまい、是非とも秀忠に仕えさせよ。」と直ちに宗矩を呼んで仲介役にさせた。 
(3) 井戸三兄弟、関東へ
朝鮮ノ役から早くも十年、覚弘が秀頼に献じた五個の井戸茶碗のことは、大坂の豪商の間でも羨望の的になり、幾つかは彼らの手に渡って、知らぬ者はない。様々なエピソードも生れているから正に「茶碗のもたらした功徳」と云える。
仕官のこともトントン拍子で進み、やがて覚弘ら三兄弟が揃って大和を訪ねたのは、慶長十四年(一六〇九)の暮であった。
里夕斉は、成人した泰弘を熊野に帰らせて製薬で生計を立たせ、己は恒吉と晴耕雨読の中で、茶と能を風雅の友として日々を送りつつも達者だった。毎年六月には山崎、小栗栖、九月には関ヶ原の古戦場を旅するのを楽しみとしていたらしい。
里夕斉は、もう五十を越えた覚弘や三十前の直弘まで揃って徳川仕官の話を聞いた。清廉な里夕斉ではあっても、息子達が井戸の血を関東に栄えさせるのも天の恵みと感じたらしく、春風にでも吹かれたような笑を浮べ
「諺にも“馬上で天下は征し得ても、馬上で天下を治める事はできぬ”とか云う。秀頼公に対する太閤の親心は判るが、要はその器量如何じゃ。成り立つように任せるのが天下の為でもあろうよ。いま天下の万民は、朝鮮の役、関ヶ原の大戦と云う大地震に疲れ果てて、何より平和で豊かな世の中を求めている。いかに太閤の子と云っても幼い秀頼公に天下を治める器量はなく、幽斉殿のように世渡り上手な人々はみな、“人たらしの名人じゃった太閤より、律気者のと云われる家康公は十倍も恐ろしい人物。やがて天下は徳川の世となるのは必定”と見ているのは、世を捨てたこのわしにもよく判る。そんな新しい主に望まれたのじゃ、そなたらも精一杯やって見るのも良かろう。只一つ、わしが案じて居るのはもう二年も奥州で蟄居させられている定次父子の事よ。何とかせめて家名の立つように努めるのが、旧主であり、血のつながりも深い汝らの“義”であるのを忘れんでくれい」としみじみ望みを述べた。
息子達も充分承知して、名残りを惜しみつつ、東路を上った。 
(4) 井戸三兄弟、仕官する
途中で駿河城の家康に呼ばれ「将軍家の力になって呉りやれ」と、上々の首尾で謁見できたのも柳生宗矩の配慮だったろう。
江戸に着くや、秀忠に目通りを許され、覚弘は常陸真壁三千石。治秀、直弘も将軍親衛隊である書院番を拝命して、江戸の町を闊歩できる直参旗本五百石の身分となった。前途洋々たる新しい船出を迎えたのだから、関東井戸氏が井戸茶碗を家宝とするのも当然と云える。
それを聞いた里夕斉が喜びながらも治秀に宛て
「武士は一道か浪人のみと固い意思を抱き、数寄者で身を立てようなどと思ってはならぬ」と戒めている。
これは同じように高麗産の大茶碗を所持して、一客一亭の茶会を開き
「あれこそ真に大名の持つべきものよ」と羨望されていた摂津守護の荒木村重(*1)を思い出しての親心だろう。
過ぎし天正六年(一五七八)、荒木村重が信長の命で本願寺への講和使となって赴いたものの失敗し、
「このままでは信長から何時追放されるやら判らん」と叛乱を起こした。
その末に、村重は、城も家臣も失い、楊貴妃と評された妻さえも斬られながら、ひとり尾道に逃げ延びる。
信長の死後、道薫と名を改め、せっかく茶道三昧に暮らしていたのに、秀吉の相伴衆に召され、二度目の宮仕えに出た。
一時は返り咲いたが、秀吉が何かで高山右近をほめると、荒木村重は、昔の右近の裏切りを忘れず、
「彼は言行不一致な男でござる。」とけなした。その為に亦もや追放され、わびしく没している。

(*1) あらきむらしげ。利休七哲のひとり。明智光秀より4年前に織田信長に反逆した武将として有名。
織田信長から気に入られて、天正元年(1573年)、茨木城主に。同年、信長が足利義昭を攻めたとき、宇治填島城攻めで功を挙げた。天正2年(1574年)、伊丹城主。天正6年(1578年)10月、村重は有岡城にて突如、信長に対して反旗を翻した。
信長が本能寺の変で横死すると堺に戻り居住。豊臣秀吉が覇権を握ると、大坂で茶人・荒木道薫として復帰。千利休らと親交をもった。天正14年(1586年)、堺で死去。享年52。 
3 まほろばの落日  

 

(1) 細川幽斎、死す
慶長十五年(一六一〇)の年が明けると、豊臣家の財力を傾けたと云われる京都方広寺の大仏殿再建が進む中に、藤堂家の伊賀上野城の改修工事も急テンポで進行していた。
さすが世渡りと築城の名人・高虎だけに、慶長九年(一六〇四)から着工された西の彦根の井伊城と共に、大坂攻略の東の付城となる事は百も承知だった。
「津は休息所、伊賀上野こそ戦斗指揮の秘蔵の城」と日本一の高石垣の堅固な平山城が出現して、伊賀の人々を驚かせる。
夏八月になると、京都車阪(*1)の東町で風雅な余生を楽しんでいた細川幽斎が病に侵された。里夕斎と同じく、息子・忠興が筑前四十一万石の大守となって世にときめいていても、そちらへは行かなかった。
里夕斎は、四季春秋の変り目には「顔を見せに来い」と幽斎に招かれていたようだ。世渡りは下手な里夕斎も、風流の道にかけては遠慮の要らぬ知己だけに、急ぎ見舞に赴いた。数日を幽斎の病床に侍し、過し日の思い出を語り、互にこれから先の世の流れを案じ合いその旅立ちを惜しみつつ別れた。幽斎は、八月二十日、京都三条車屋町の自邸で死去。享年七十七。
そして幽斎の死を知った覚弘らは、再び江戸移住をすすめた。しかし里夕斎は相変らず「わしは大和の夕暮が好きじゃから」と笑って相手にならなかった。これは名僧の云う「朝々弥陀の来迎を待ち、夕々最後の近づくのを喜ぶ」悟りをめざしていたのだろう。

(*1) 車屋町の誤記か。車屋町は、現在の京都中京区河原町通三条。車阪町は、京都市伏見区深草。 
(2) 浅野長政、加藤清正、死す
やがて慶長十六年(一六一一)の年に入ると、俄かに上洛した家康が秀頼を招き「再び拒むようなら」と覚悟を決めた。
これを知った加藤清正、福島正則、浅野幸長(*1)ら子飼いの大名らは、渋る淀君を説得して、無事に体面をすませ、京、大坂の人々を安心させた。
彼らが健在である限り、豊臣家は安泰だったろうに、その春、先づ浅野長政が没し(*2)、続いて六月になると清正が病に伏す。
これを知った秀頼は驚いて醍醐寺の義円に回復祈願をさせたが、病いは重くなるばかりである。
そして或夕、清正が病床に息子を招き、一冊の論語を取り出して語るには、
「前田利家公の病い重しと聞き、(私、清正が)見舞に参上した時、命すでに旦夕に迫った利家公は、『太閤、死に臨み、“大納言(利家)殿、ひとえに秀頼のことお頼み申す”と繰返された。以後わしは、常に、この本(論語)を心の支えに尽して来たが、これをそなたに献じる。充分熟読されて、臣節を全うされん事を、呉々もお願い申すぞ』と涙を流された。然しあの頃は、石田治部(石田三成)めが憎くて、本を読む処ではなかったが、今になって読んで見るに『以て六尺の孤を託すべく(略)大節に臨んで奪うべからず。君子人か。君子人なり(*3)』との章が心に痛い程しみる。今や秀頼公が、僅か六十五万石の身上に落ちられたのを見て、太閤子飼の者の内争が、主家を傾ける要因だったと悟り、慚愧に堪えぬ。この上は家康公が、どうか君子であって望しいものじゃ。」としみじみ嘆じながら世を去る。(*4)

(*1) あさのよしなが。1576〜1613。紀伊国紀州藩の初代藩主。浅野長政の嫡男。
天正18年(1590年)に後北条氏征伐(小田原合戦)に参加。文禄・慶長の役にも父とともに軍を率いて出陣、慶長2年(1597年)に蔚山倭城(現在の蔚山広域市内)に籠城し、奮戦。
文禄2年(1593年)に父とともに甲斐国府中(山梨県甲府市)を与えられた。文禄4年(1595年)、関白・豊臣秀次の失脚に連座し、能登(石川県東部)に配流。前田利家のとりなしもあってまもなく復帰。
慶長3年(1598年)8月の秀吉没後は、朝鮮でともに戦った加藤清正・福島正則ら武断派に与し、五奉行の文治派・石田三成らと対立。慶長4年(1599年)の前田利家没後には福島・加藤らと共に石田三成を襲撃。
慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に属し、南宮山付近に布陣して毛利秀元、長束正家などの西軍勢を牽制した。戦後には紀伊国和歌山に37万6千石を与えられる。慶長16年(1611年)の二条城における家康と豊臣秀頼の会談で、加藤清正と共に警備も行う。慶長18年(1613年)8月25日に和歌山で死去。享年38。男児が無かったため、弟の浅野長晟が後を継いだ。墓所は、和歌山県の高野山悉地院。和歌山市吹上の曹源山大泉寺。
(*2) 豊臣政権の五奉行の一人。慶長16年(1611)4月7日没。享年65。良弘熊野落ちを参照。
(*3) 六尺(りくせき)の孤とは、早く父を失ってみなし子となった少年。主人が亡くなって、後継者がまだ少年である時に、その弱い少年を大切に守り、非常時に臨んでも、決してその権力を奪わない人。そういう人こそ、君子人(真に尊敬すべき人)である、と云う意味。『論語(泰伯第八)』
(*4) 慶長16年(1611)6月24日没。享年50。 
(3) 真田昌幸、死す
続いて間もなく、九度山の真田庵でも「家康の鬼門」と恐れられた昌幸が没した、と云う訃報が、大和一円にも流れる。(慶長16年6月4日没、享年65)
それを知った里夕斎は、黄金城と称された豪壮華麗な大坂城が大きく傾いたような想いだった。きっと家康めは「待てば海路の日和あり」とかうそぶいているだろう、と天の非情を肌に感じたに違いない。
「真田昌幸殿が亡くなられた」との悲報が熊野本宮の地に流れたのは、慶長十六年(一六一一)の七月で、真田一族と同じく浅野藩の監視下にあった新宮行朝(*1)はこっそり山伏姿になって十津川を上った。
と云うのも真田一族と新宮一門は深いつながりがあるからだ。すなわち、太閤在世中に、共に人質として、大坂城で過した仲なのである。真田幸村の清廉な人柄を見て、年下の行朝は兄に仕えるように接したという。
幸村は、秀吉に見込まれて、“従五位ノ下・左衛門佐”に任官し、豊臣の姓まで許され、大谷刑部の娘を妻にして家庭を持った。その幸村に対して、行朝はまるで弟の如くその家を訪れて雑用をつとめ、新妻から大いに頼りにされた。幸村もまた
「そなたの元服には何とか花を飾らせてやらねばのう」と骨を折ってくれ、首尾よく“左馬介”に任じられて、父(堀内氏善)を喜ばせている。
そんなことから真田(阿波守)と堀内(安房守)の両あわの守は親交を深め、関ヶ原には共に西軍の勇将となって奮戦した。昌幸は上田城で、徳川秀忠と本多正信を奔ろうして、三万八千の大軍を大戦に遅れさせている。
氏善は伊勢湾一円を暴れ廻って制海権を握ると、津城の攻略に大功を立て、もし西軍が勝って居れば十万石級の大名として維新まで栄えたに違いない。
そして敗戦後、堀内は熊野三山大検の神恩から、真田は息子・信幸と嫁の父・本多平八郎の尽力で、命だけは助かった。
九州の清正領(堀内氏善)と紀州九度山(真田昌幸)で共に家康を憎みながら
「太閤との義に背き、君子たる道に反した男が何時までも栄える筈はない。必ず時節を得て亡ぼさずに置くものか」と斗志に燃え続けていたのに、惜しくも先づ氏善、今度は昌幸が世を去ったのは豊臣にとって大きな痛手であった。

(*1) しんぐう ゆきとも。1596〜1645。初名は堀内氏弘。紀伊国新宮城主・堀内氏善(*1-1)の嫡男(六男、または弟とも)。源為義(八幡太郎義家の二代後)の十男・新宮行家を祖とする。受領名は若狭守。
豊臣秀吉が天下を統一する前後からその家臣となり、関ヶ原の戦いでは西軍に属して改易、没落。
浅野幸長が紀伊国和歌山城主に封ぜられると、行朝は500石で召し抱えられたが、待遇に不満をおぼえて出奔。
大坂の役では、旧領回復のため300人を率いて大野治房の寄騎となり、さらに伊東長次の部隊に属した。大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いなどで活躍し、紀州一揆を煽動することによって旧主・浅野家を混乱させている。
大坂城が落城すると一旦逃れたものの、大和国で松倉重政軍に捕らえられて捕虜に。その後、三弟の堀内氏久(七弟、または甥とも)の千姫救出の功により赦免。伊勢国津藩主・藤堂高虎の家臣となったという。また、異説には大和国竜田藩主・片桐氏に70石で仕えたとも伝わる。
(*1-1) 堀内氏善(ほりのうちうじよし)。1549〜1615。氏喜とも。安房守。紀伊新宮領主。堀内氏は熊野新宮別当を代々務めた家柄で、新宮を中心に2万7000 石(一説に6万石)の地を支配した豪族であった。
氏善は天正13年(1585)に豊臣秀吉に属して本領を安堵され、朝鮮の役に際しては水軍を率いて従軍、晋州攻めなどに活躍した。
慶長5年(1600)、関ヶ原の役が起ると義父である九鬼嘉隆とともに西軍に属して伊勢へ侵攻するが、味方主力の敗報を聞き逐電。居城新宮城も東軍に攻め落とされ所領を失い、紀伊加田村に蟄居した。
のち許されて肥後国主の加藤清正に仕え2000石を知行し、宇土城を預けられ、慶長14年(1609)に同地で没したという。ただし、没年については元和元年(1615)説もある。 
(4) 新宮行朝、豊臣秀頼から誘われる
昔から真田家には奏ノ徐福が伝え、熊野山伏達が編み出したと云う忍法が代々伝わり、時の棟梁・霧隠鹿右衛門は、昌幸の密命を受け、江戸、大坂の動静を油断なく見張っていた。
けれど蟄居生活が年を重ねる毎に、その生活は苦しく、浅野の合力米五十石ではとても足りず、家臣達は近郊で自活し、真田紐を行商して日々を支えていたようだ。
行朝が真田庵を訪ねたのは六月の末で、喜んだ幸村は、焼酎と山菜でもてなし、夜ふけまで語り合ったと云う。共に優れた楠木流軍学者だけに、父の遺志を継ぐ盟約を結ばなかった筈はない。
そして行朝がその帰りに大和の里夕斎を訪ねたのは、秘かに秀頼から
「入城すれば若狭守に任じ、大名格として扱う」との内意を受けていたので、父祖代々若狭守を名乗っていた里夕斎の了承を乞うと共に、つもる話をしたかったのだろう。
行朝と里夕斎の親交は前述したように(*1)十年来の縁で、行朝は里夕斎の人柄に憧れさえ抱いていたから、本宮に近い地に暮す泰弘(里夕斎の子)とは兄弟のような仲だった。
けれど一夜を共にして、里夕斎の胸中を察した行朝は「泰弘一族の平和を破るような事は決してせぬ」と約して、別れを告げたらしい。

(*1) 大和百万石を参照。 
(5) 里夕斎の遺言1
大坂城をめぐる風雲が一段と急を告げる中に、慶永十七年(一六一二)の新年が訪れ、里夕斎は八十才になった。
例年のように年賀にやって来た泰弘一家や恒吉らに囲まれて、のどかな初日を浴びながら、ゆかりの金刀比羅井戸の若水に身を清め、糸井神社への初詣をすませた。
それから気嫌よく年蘇を汲み交したが、何を感じたのか毅然とした面持で話し始めた。
思えば遙々と八十年の長い月日をよくも生かして載いたものよと、神仏に感謝する他はないが、一期一会の諺もある。元気な間に、日頃感じている事等を、そなたらに語って置こう。しっかりと胸に収めて置いてくれ。
過ぎし天文三年(一五三四)午の歳、大和結崎郷に生をうけたわしは、幼い頃から『春日神国の聖地に産れた者は、第一に神仏を尊び、先祖を敬い、興福寺衆徒として。また、命を惜しまず名を惜しむ大和武士として。日々武門の業に励みつつも、風雅のたしなみを忘れず、物の哀れを知る有為の人物となれ」』と厳しく鍛えられた。
そして文の道に就いては、糸井神社の楽頭職であった観世一門から能楽を、茶道、立花、連歌に就いては、珠光の流れをうけた千ノ宗易殿の一番弟子である山上宗二殿に師仕して
「名利を去り、和敬静寂を旨とし、何よりも侘とさびを第一とせよ」と教えられて研鑽したつもりじゃ。 
(6) 里夕斎の遺言2
然しながら、生き抜くだけが精一杯の乱世の中だけに、心ならずも修羅の巷も渡らざるを得なかったのは、そなたらもよく存じて居ろう。
そんな中に、計らずも信長公の「天下布武」の傘下に加えられ、光秀殿の与力となって戦陣を共にし、彼の説く君臣の義を重んじる王道思想に感動し「生死を共にせん」と決意した。
残念ながら、公の武運はつたなく「主殺し」の汚名にまみれる結果とはなっても、君子人と仰ぐ信条には変りなく、山伏となって熊野に落ちながらも常に心にあったのは
『武士の嘘を武略と云い、僧の嘘は方便と説く。さりとて百姓は可愛ゆきものでござるぞ』と遺された言葉である。
わしが“武士は一道か浪人じゃ、二度と覇道は歩まず”と、宮仕えをせず、今日に至ったのは、ひたすら公との誓いを果さんが為であったのよ。
信長公は誠に不世出の天才児とは云え、そのめざした覇道はわが国体には許されざるものであった。
それを悟った秀吉は、あくまで臣道を守って古今独歩の英雄となり、天下を統一したのは見事と云える。しかし関白となって以後は、女色と名利の貪欲のままに、狂ったとしか思えぬ晩年であった。
そして彼に仕えて大老筆頭となり、天下一の律義者よと賛えられた家康も、口先だけは
『天下は馬上で制し得ても、馬上で治めることはできぬ。天下の人心を治め得てこそ真の天下人なり』と称したとて、その心情の卑劣さは断じて君子人とは云えぬ。やがては信長以上の覇王となり、主の子を亡ぼし、朝廷さえも支配下に収め、清盛、頼朝のめざした如く、己の血をひく帝を立てんとさえ望むだろう。
覚弘らは彼を主君としたが故に、否応なくその命に従わざるを得ぬが、汝らは父の歩いた道を守り、決して宮仕えはせず、常に野に在って稼業に励み“正直と清廉”を旨とせよ。 
(7) 里夕斎の遺言3
里夕斎は、今年で八十とは思えぬ気迫で二人を見つめ
「泰弘よ。そなたは熊野で、わしの創業の志を継いで、里人に役立つ熊野井戸家を築くのじゃ。そして恒吉は、父祖代々の眠るまほろばの地に在って、中村家の嗣子となり、大神一族の繁栄に尽しながらも、本光明寺井戸家の墓守りもよろしく頼むぞ」と命じて二人に数々の遺品を分け終ると、もはや思い残すことはない、と云った面持で
「さて風雅の道について、父は能と茶道に求めたが、何もそれのみにこだわらず、連歌、立花、聞香、書画いずれにせよこの道は広大じゃ、そちらの好きにせい。なれど、断じて権力や名利に媚びず、真の“わびとさび”に開眼する事。それには我家の家宝である“つゝ井筒の高麗茶碗”を“天下一の井戸茶碗”と世に広めてくれた山上宗二殿や、その師・利休居士殿の生態をしっかりと身につけるのが何より大切じゃ」
そう云いながら里夕斎は、第一の知己であった山上宗二が、秀吉から耳、鼻そぎの惨刑にも毅然と耐えたその人柄、そして、利休が、利を商う堺衆の一介の茶ノ湯者とは云え、天下の名人と謳われ、大名も凌ぐ実力を誇った彼の千軍万馬の勇将に勝る豪快な最後を高く賛えた。
「しかしながら、わしには判らぬのが、利休居士は、何故、太閤から三千石もの禄を貰ったか、と云うことよ。武士たる者の習いとして、主を持つ以上は、生殺与奪の権を託す覚悟が肝心じゃ。
利休殿は、
『侘び茶の心は、草の小座敷にしかず。家居の結構や食物の珍味などは俗世のもの。家は洩らず、衣は暖ければ良く、食は飢えねば充分である。水を運び、薪を取りて、湯を沸かし、茶を立て、仏に供え、人にも施し、我も呑むのみ。花をのみ 待つらん人に、山里の 雲間の草の 春を見せばや。』と詠じた。
その彼が、太閤に抱えられた。黄金趣味の太閤だから、足利将軍の築いた金閣、銀閣に劣らぬ黄金茶道の設計を命じられたのは当然とも云える。
あくまで“侘び茶一筋”を歩むなら、宮仕えをするべきではなかったと思う。
太閤は、利休を処断後も、朝廷の貴族や高僧らの好みに応じた黄金茶道をすすめ、古田織部に命じて書院造りと庭園美の豪壮な大名茶道を創らせた。
けれど一年後には、流罪にした利休の長男・道安と次男・少庵を許している。道安を九州の細川忠興に、少庵を会津の蒲生氏郷に、再任官させたのは後悔したからだろう。
この事をよく銘記して、そなたらはあくまで野にあって一芸に徹し、一隅を照らす理想の下に、大自然の中の“わびとさび”を身につけるようにせよ。
それが世阿弥殿の幽玄能にも通ずる道なり、とわしは考えて居る。」 
(8) 里夕斎、死す
沁々と語った僅か数日後の一月五日の夕方。
里夕斎は、二上山に沈む荘厳な落陽と共に、忽然と世を去った。
里夕斎の葬儀は、一月七日、本光明寺で、知己のみでつつましく催された。その淋しい有様を見た心ない人は「これが二万石の元大名の葬いか」と遺族達を笑ったと云われる。
けれどそれは彼の遺言で「関東の兄達の宮仕えをさまたげるな」との言葉もあったのだろう。
その戒名が、院殿大居士などと云うものでなく「里夕斎善玄」の五字に過ぎないのを見ても、その人柄が偲ばれ、それを固く守った息子達を「さすがに血は争えぬ」と賛える人もいた。
“人は独り生れて、一人こそと死ぬ。供養も墓も侘しくつましいこそ良し”と云うのが里夕斎の遺志であったのは云うまでもない。 
4 黄金城戦記  

 

4.1 冬の陣と北山党  
(1) 林羅山、家康の意に応ず
慶長十七年(一六一二)夏、家康は、藤原惺窩の弟子で新進気鋭の学者林羅山を呼びつけた。
先年と同じ問題を俎上に載せ
「予は武王が主君を討ったのは『逆取順守』であり悪でもあり善でもあると思うが、どうじゃ」と尋ねた。
惺窩と比べて野心に燃え、御用学者の見本のような林は、家康の意に応じ
「私が思いますに、武王は天命に順じ、人心に応じたもので、決して悪ではなく、むしろ天下を乱す大悪人・紂王を除いた善と考えます」と答えている。(*1)
それを聞いた家康は“我意を得たり”とほくそ笑んだ。以後は林を、南光坊天海、金地院崇伝ら側近の一人に加え、後に大学ノ頭に任じ、宋の朱子(*2)の学風を幕府の官学としている。
時に家康は七十を越えて居り、京の二条城にいたが折から
御所柿は 独り熟して 落ちにけり、木の下にいて 拾う秀頼。
などと云う落書を見せられ、京大坂の人心が秀頼に良く、徳川を憎んでいるのを察すると、
「羅山の云うように、天命に順じ、目の黒いうちに何とか秀頼を亡して居かねば、徳川の天下が危ない」と痛感し、此上は手段を選ばず、戦いを挑む決意を固めた。

(*1) 紀元前1100年ごろの中国は「殷」と呼ばれ、紂王(ちゅうおう)は、殷の第30代、最後の帝。辛(しん)、受(じゅ)とも呼ばれる。暴虐な政治を行なった帝王とされ、周の武王に滅ぼされた。
(*2) 朱子(しゅし1130年 - 1200年)。中国の南宋代の儒学者。朱熹(しゅき)の尊称。儒教の体系化を図った儒教の中興者。「新儒教」の朱子学の創始者。
正治元年(1199年)に入宋した真言宗の僧・俊?(しゅんじょう)が日本へ持ち帰ったのが日本伝来の最初とされるが、異説も多い。
後醍醐天皇や楠木正成は、朱子学の熱心な信奉者と思われ、鎌倉滅亡から建武の新政にかけてのかれらの行動原理は、朱子学に基づいていると思われる箇所がいくつもある。
その後は停滞。江戸時代、林羅山が、その名分論を武家政治の基礎理念として再興。江戸幕府の正学に。しかし、この朱子学の台頭により「天皇を中心とした国づくりをするべき」という尊王運動が起こり、後の倒幕〜明治維新へ繋がる。
朱子学の思想は、近代日本にも強い影響を与え、軍部の一部では特に心酔し、二・二六事件や満州事変に、多少なりとも影響を与えたといわれる。 
(2) 伊賀上野の天守閣、一夜にして崩壊
九月には伊賀上野の天守閣も出現して風雲は一段と急を増す。しかし、できたばかりの五層の天守が一夜にして崩壊し、七十人の死傷を出すと云う事件が勃発して、伊賀中を驚動させる。
それは九月二日のことで、凄ましい黒雲と共にまき起った一陣の竜巻によって、木の香も匂う大天守閣が、もろくも崩壊したと云われるが、
「落成した日に老僧が城下に現われ『御神木を使った祟りによってやがて土風(竜巻)によって天守は必ず崩れるぞ』と予言した」と云う伝えもある。或は、家康の命で、藤堂高虎の手によって壊されたとの説もあり、永遠の謎となっている。 
(3) 家康、戦争準備
そんな中に慶長十八年(一六一三)に入ると、幕府は公家諸法度や勅許紫衣等を定めて豊臣家に好意を持つ朝廷や貴族の権限を制限した。上皇(後陽成天皇)や後水尾天皇をひどく怒らせたのは、足利義満や織田信長と同じく、公武の上に立つ独裁的覇者をめざしたからである。
常々『東鑑(*1)』を熟読して、源頼朝や北条幕府の政治をまねた家康だけに“天子は歌道を専らにして政治に関与させず、大名や大社寺との結びつきを禁じ、” 六波羅深題に代る京都所司代を配して監視させた。
更に、家康はかねてより豊臣家の財力を枯渇させる為に、伊勢、熊野、男山、住吉大社の造営寄進やら亡き秀吉の供養の為の方広寺の再興を強く勧めた。何も知らぬ淀君は神仏の加護によって豊臣の繁栄を保たんとしてひたすら寄進を続けた。大仏殿の建立だけでも金十四万両、銀二万三千貫、米二十三万石を投じ、その総計を米に換算すれば三百万石と云う巨額に達している。
その一方で、家康は、国友鍛冶やオランダ船から莫大な大砲と弾薬を購入して、戦争準備を急ぐ。また、奈良奉行・中坊左近(*2)に命じて、まさかの時には十津川郷士千余名を召して戦力を高めさせる処置をとった。
更に、慶長十九年(一六一四)に入ると、かねて井戸覚弘から要請されていた筒井家再興の手段として、定次と不仲だった福住一族の筒井定慶、定之兄弟を郡山城代として一万石を与えた。また、二百石取の与力三十六騎を地士から選んだ。そして、豊臣方の動勢監視を命じ、大和、伊賀の風雲は一段と急を告げる。

(*1) 『吾妻鏡』(あづまかがみ)とは、日本の中世・鎌倉時代に成立した歴史書。「東鑑」とも書く。全52巻、ただし第45巻は欠落している。鎌倉時代を研究する上での基本史料である。
源頼政の挙兵治承4年(1180年)4月に始まり、治承・寿永の乱、鎌倉幕府成立、承久の乱を経て13世紀半ばに宗尊親王が帰京する文永3年(1266年)までの87年間を、日記形式で記述する(漢文)。北条氏の立場による事実の歪曲と思われる箇所がかなりあり、他の史料も合わせて参照する必要がある。
後世の武将などにも愛読され、もと後北条氏が所蔵していた写本(北条本)が1603年、徳川家に献上された。徳川家康は欠落部分を他の大名家から集め、1605年(慶長10年)に『吾妻鏡』を木活字で刊行した(51巻、伏見版と言われる)。家康の座右の書として、幕府運営の参考にしていたという。
(*2) 筒井順敬の家臣・中坊秀祐の子。中坊左近秀政。飛騨守。家康に見出されて弓持旗本から累進し、父の没後に同じく奈良奉行を勤めた。 
(4) 真田幸村と新宮行朝
これを見た九度山の真田幸村は、徳川方の大坂攻略の切迫を知った。九度山近郊に散在して自活しながら命を待っている郎党達に戦さ仕度と信州各地の有志勧誘に出発させたのは慶長十九年(一六一四)五月である。
そして再び訪れた新宮行朝(*1)から
「その作戦計画と成否の公算は如何に」と尋ねられ、次のように答えたと云う。
「豊臣恩顧の勇将が次々に世を去ったのは、天運が豊家を見放されたかとも思われる。日本一の巨城と云う地の利はあっても、勝気な淀殿や肚の底も判らぬ織田一門が権勢を誇る現状では、人の和は望めず、率直に云って、勝算の見込みは極めて少のうござる。
然し秀頼公が太閤の遺孤としての誇りに燃え、滅亡も覚悟で挙兵されるなら、私もこれに応じ、義を貫いて奮戦し、真田の武略を天下に轟かせる覚悟であり、恐らく貴公もその決意と見て、肚の内を打明けた次第でござるが、如何かな。」
と微笑んだその風貌には哲人のような威厳が溢ぎり、始めて見せる幸村の天下の軍略家ぶりには行朝は深く感動した。
「よく打明けて下された。拙者も熊野水軍の雄として広く知られた堀内家の嫡流として、東西手切れの折には、成敗、利欲を離れて大坂に入城し、亡き父・安房守の遺言通り、力の限り戦い抜き、理不尽な野望を専らにする家康父子に一矢をむくい、名を戦史に止めて散る覚悟でござる。されば共に武夫の死花を咲かし申そう。」と固く男の約束を交し
「開戦は今秋までには必至なれば、共に晴々しく入城致すべし」とカラカラと笑って別れたと行朝は記している。

(*1) まほろばの落日を参照。 
(5) 淀君、現実の冷たさを知る
そして慶長十九年(一六一四)七月、莫大な費用と十年の歳月を投じて、漸く方広寺大仏殿が完成し、落慶供養を待つばかりとなった。その頃、かねて家康の意向を受けた本多正信父子や南光坊天海、金地院崇伝、林羅山らのブレーン達は、度々の謀議を重ねた末に、次々と無理難題を吹っかけた。挙句の果に鐘銘に不審ありとして
「大坂城を捨てて国替するか、秀頼が江戸に詰めるか、淀君が人質として江戸に住むか、いずれかに決めよ」と迫る。それも家康からではなく、大坂側から申し出よ、と片桐且元(*1)に命じたのは、開戦の責任を押つける肚である。それを知った福島正則は
「このままでは大坂方が激怒して挙兵するに違いない、そして滅亡するのは必至である。何とかしなければ」と急使を走らせ、
「淀のお袋様が、お江戸に下られ、家康公に御対面して御詫の為に江戸に在住されるのが秀頼公の御運長久を計られる唯一の策で、さもなくば自滅の道しかない」という旨を訴えたが、淀君は一層腹を立てて返事もしなかった。
秀頼も、母を人質にしてまで安泰を計るより、太閤の子として断固戦う覚悟を決め、幼い頃から深く信じてきた且元の登城を求めたが、病と称して出仕しない。やむなく追放を命じたのは九月末である。十月始めには、豊臣子飼の大名達に、入城要請の使者が一斉に飛んだ。
然し頼みとした大名達は一人として応ずる者はなく、江戸で監禁されていた福島正則が大坂藩邸の米八万石と
「家康は城攻めが下手だから、最後まで守り抜き、太閤の名を汚されませぬよう」と激励の密使を送って来た。
毛利輝元は、家臣の内藤元成を佐野道加と変名させ、米一万石、金五百枚を持参して入城させる。加藤清正の嫡男・忠広は、大船二隻に精兵を乗せて入城尽力を約した程度である。淀君は現実の冷たさに「恩知らず共!」といきりたった事だろう。

(*1) 片桐 且元(かたぎり かつもと)。賤ヶ岳の七本槍の一人。近江国浅井郡須賀谷(滋賀県長浜市須賀谷)の浅井氏配下の小領主・片桐直貞の子として生まれる。
元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)9月1日にかけての織田信長による浅井長政への攻撃に際しては小谷城の落城まで一貫して浅井方として戦った。落城前日(8月29日)の日付の浅井長政から片桐直貞に宛てられた感状が現在も残っている。
天正7年(1579年)ごろ、同じ近江生まれの石田三成らと共に長浜城時代の羽柴秀吉(豊臣秀吉)の家臣として仕えたといわれている。天正11年(1583年)5月、信長死後に対立した織田家の柴田勝家との賤ヶ岳の戦い(近江国伊香郡)で福島正則や加藤清正らと共に活躍し、「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられた。
その後は前線で活躍する武将ではなく、奉行人としての後方支援などの活動が中心となる。秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)では、釜山(現在の釜山市)に駐在し、晋州城攻撃などに参加。文禄2年(1593年)に帰国。文禄4年(1595年)には摂津国茨木城主、慶長3年(1598年)には大坂城番となり、城詰めとなる。
且元が与えられた所領は播磨に一万石ほどに過ぎなかったが、秀吉の晩年には豊臣秀頼の傅役の一人に任され、羽柴姓も与えられている。
秀吉死後は秀頼を補佐し、慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦い後、五大老筆頭の徳川家康から大和竜田に2万8千石の所領を与えられた。その後も秀頼を補佐し、豊臣氏と徳川氏の対立を避けることに尽力した。慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘問題が起こって対立が激化すると、且元は戦争を避けるために必死で家康との和平交渉に奔走したが、家康と交渉している間に大野治長や秀頼生母の淀殿から家康との内通を疑われるようになり、大坂城を逐電した。これが徳川方の冬の陣の宣戦理由となっている。
大坂の陣が始まると家康に味方して戦後、4万石に加増された。だが大坂夏の陣後から二十日ほどして、突如の死を遂げている。これには病死説もあれば、秀頼を救うことができなかった(且元は、大坂の陣で家康に味方する代償として、秀頼の助命を嘆願していたらしい)ことからの責任を感じて、自殺したとも言われている。死後、子の孝利が遺跡を継いだ。 
(6) 浪人
それに比べて総勢十万と云われた浪人の中で五人衆と称された元大名は、
真田幸村(信州五万石)五十万石格扱(兵六千着到)
長曽我部盛親(土佐二十四万石)二十万石格 (兵五千〃)
後藤又兵衛 (九州大隅三万石)軍監格 (兵六千〃)
毛利勝永(小倉城主五万石)軍監格 (兵四千五百〃)
明石全登(備前大股四万石キリシタン大名) (兵五千〃)
その他に名を知られた将は塙団右衛門(*1)と新宮行朝くらいであると『山口休庵話(*2)』には記されている。
熊野六万石の堀内家の嫡男・新宮行朝が真田に交り、秀頼の子・国松君を生んだ娘の父で鈴鹿城主の成田隼人正、大和三人衆と云われた秋山右近と三千人近い伊勢、伊賀の名ある勇士が入ったのを、山口休庵は知らなかったようだ。
慶長十九年(一六一四)十月半ばまでに次々と大坂城に参じた将兵は九万に近かったと云い、豊臣家臣団の大野治長以下三万を加えれば、騎乗一万二千、平侍六万、雑兵五万総計十二万を算し、騎乗一名につき竹流し黄金二枚、平侍以下には永楽銭数十貫に扶持米が当座の支度金として配られた。

(*1) 塙 直之(ばん なおゆき)1567〜1615。塙団右衛門の名で有名な勇将。
出自は不明。はじめは織田信長に仕えていたらしい。普段はおとなしい性格なのが、酒を飲むと暴れ出すという悪癖があり重用されなかった。秀吉にも仕えたが重用されなかった。
後に加藤嘉明の家臣として仕え、鉄砲大将として活躍。嘉明に従って朝鮮出兵にも参加、その功績により350石の知行を。
関ヶ原の戦いのとき、軍令違反により嘉明と対立し、そのもとを去った(諸説あり)。
その後、小早川秀秋や松平忠吉、そして福島正則らに仕えたが、いずれも旧主の嘉明の奉公構による邪魔が入って長続きせず、一時期は仏門に入っていた。大坂冬の陣に豊臣方として参加して活躍。翌年の大坂夏の陣で和泉国にて浅野長晟の軍勢と戦って戦死。このときの旗印に「塙団右衛門」と書いて自身の名を天下に知らしめた。墓所は、現在の大阪府泉佐野市南中樫井(みなみなかかしい)地内、大阪府道64号和歌山貝塚線(熊野街道)沿いにある。
(*1-1) 筒井と藤堂氏を参照。
(*2) 『大坂陣山口休庵咄』豊臣家の臣・山口休庵が大坂方として戦った際、大坂冬の陣に於ける城兵の働きを述べた書。 
(7) 新宮行朝と渡辺勘兵衛
新宮行朝が、秀頼の命で赤座、槇島の諸将と共に堺奉行所に向ったのは十月十三日である。徳川方の奉行や応援に馳せつけた片桐勢二百を敗走させ、家康の政商・今井宗薫父子を捕え、多量の武器弾薬を押収して堺を支配下に取戻した。
然し十月末になると、秀頼から引揚の急使を受けた。早暁、部下三百を率いて堺を出発して、住吉大社あたりまで来ると街道沿いに千余の藤堂勢が陣を構えていた。
これは藤堂きっての勇将・渡辺了(わたなべさとる)の一隊で、家康の本陣を住吉大社に設けよとの命をうけ急ぎ占領したのである。しかし、住吉大社の社殿は秀頼が寄進したものだけに、行朝は闘志に燃えた。「何のこれしき」と恐れる色もなく一気に陣前を駆け抜けつつも、心の中では「藤堂勢の中にどうか兄の氏治がいないでくれ!」と念じていたろう。
天下三勘兵衛(*1)の一人で知られた歴戦の渡辺は、その旗差物から熊野水軍の雄として鳴らした堀内勢と見て「ソレ!」と追わんとする部下を圧さえ
「僅かな兵で悠々と我陣を駈け抜けるのは堺に伏兵を置き誘い込んで囲まんとの作戦に違いない、追ってはならぬ」と見送った。
人々は「さすが殿が二万石を奮発しただけある」と感心したものの、やがて何の伏兵もなかった事が判って、他藩からは笑われ、高虎は面目玉を潰す。大野治房(大野治長の弟)も藤堂軍の住吉進出を知り、「新宮勢を見殺しには出来ぬ」と細川忠興の子・興秋、塙団右衛門ら一千を率いて天下茶屋まで馳せつけた処、行朝が一兵も損ぜず威風堂々と引揚げて来たのを見て
「さすがは熊野の豪雄・堀内氏善の嫡流だけある」と大いに感嘆し、その話は秀頼の耳にも達して、緒戦の志気を高めた功賞に約束通り若狭守に昇進させてその勇を讃えている。

(*1) 渡辺了(わたなべさとる)。勘兵衛(かんべえ)の名で有名。
初め浅井氏の将・阿閉貞征家臣。後に「槍の勘兵衛」と称されるように槍の名手。織田信長から直接称賛されたほど。阿閉家を辞して天正10年(1582年)ごろより羽柴秀吉に仕え、2000石で秀吉の養子・羽柴秀勝付きに。山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いで活躍。石田三成家臣の杉江勘兵衛、田中吉政家臣の辻勘兵衛と並んで「三勘兵衛」と評された。天正13年(1585年)に秀勝が没して、浪人。
中村一氏に3000石で仕える。小田原の役で中村勢の先鋒として働き、伊豆山中城攻めにおいて一番乗り。秀吉が「捨てても一万石は取るべき」と賞賛。一氏からの恩賞(倍の6000石)に不満で、再び浪人。
増田長盛に4000石で仕える。関ヶ原の戦いで西軍についた長盛の出陣中に、居城の郡山城を任された。戦後、既に長盛が所領を没収されて高野山に蟄居していたが「主君長盛からの命で城を守っている。それ以外の命によって開城はできない」と、城接収の藤堂高虎、本多正純らに抵抗。家康らによって、長盛に書状を書かせるまで城を守り通した。無事に開城もすませ、その忠義と力量に仕官の誘いが相次ぎ、同郷の藤堂高虎に2万石の破格の待遇で仕える。高虎の居城となった伊予国の今治城の普請奉行を務めるなど、槍働き以外の才能を見せる。藤堂家が伊勢国に移封となると、伊賀上野城代に。
大坂の役では藤堂勢の先鋒を務めるが、冬の陣で、戦い方で主君高虎と衝突。谷町口の攻防戦において長宗我部盛親の部隊に蹴散らされて、落馬して負傷するなど大敗。夏の陣の八尾の戦いで名誉挽回と再び長宗我部盛親・増田盛次の部隊に襲い掛かり300余人を討ち取る活躍。が、独断専行甚だしく、7回にも及ぶ撤退命令を無視して追撃して得たもの。勝ったが損害も大きく、高虎や他の重臣たちから疎まれる原因に。戦後出奔して再び浪人。
仕官の道を探すが、藤堂家から「奉公構」の触れ(仕官を他の家にさせないようにする願い)が出て、幕府からも誘われるが、適わなかった。高虎は「奉公したければ(姻戚関係のある)会津の蒲生家に仕えよ」と命じたが、彼は承知しなかった。寛永5年(1628年)には天海を仲裁役にして奉公構の解除を願う。藤堂家から出された一方的な和解の条件を承知できず、逆に高虎への不平不満を申し立てたため、交渉は決裂。
高虎の死後も、子の高次が奉公構の方針を維持したため仕官できなかった。その才を惜しんだ細川忠興や徳川義直らの捨扶持を細々と受け、「睡庵」と称し、京で没したという。享年九十。 
(8) 作戦会議
慶賀十九年(一六一四)十月末、始めて秀頼と淀君出座の上で作戦会議が開催され、譜代の将に大野三兄弟や織田一族。浪人組からは真田幸村、後藤又兵衞(*1)らの五人衆が参加した。
軍師格の幸村は父と共に練り上げた
「秀頼公は天王寺に進出され、後藤は大和路を進み伏見城を、幸村は山崎から京に進み二条城を落して宇治、瀬田に陣を構え、東西の連絡を断って、太閤恩顧の諸大名を味方に招いて戦い、情勢不利となった場合は城に籠って力戦する。」という出撃作戦を唱えた。
それに対し、淀君の意向を受けた大野治長は、色々と理屈を並べて、最初から籠城説を説いた。結局それに決したのは、細川忠興(*2)が大坂優勢を信じる家臣に
「秀頼公は戦さに関しては乳呑子じゃ、あのお袋が女だてらに色々と嘴を突込むから統一作戦が取れず、落城は早速」と断じた通りの情況で、幸村の五十万石軍師待遇も名ばかりであった。
更に籠城方策に就いても、幸村や軍監の後藤らが
「野田、福島、伝法口まで広く砦を築き兵を配しても大軍の敵に包囲攻撃され次々に落ち味方の志気を失わせる事は必定である。天満川周辺に陸海兵力を充実して固く守るべきだ」と説いても採用しない。
これでは「義の為に美しく死なん」と勝敗や利欲を度外視して入城した幸村達も失望するばかりだった。たまりかねた行朝が、譜代の中でも強行派の大野治房に進言して
「籠城一辺倒の消極策では如何な名城でも落城は必至であり、何とか城外に遊撃隊を置き関東勢の背後を攪乱する戦法を採用すべきである」と力説させ、一方で、かねて計画を進めていた紀伊熊野各地の郷士や山伏に一揆を起させた。そして、豊臣と深い縁戚にありながら味方に参じない浅野長晟(*3)の若山や新宮城を攻略する遊撃作戦を決定したのは、せめてもの慰めだろう。

(*1) 後藤 基次(ごとう もとつぐ)。黒田孝高(如水)・豊臣秀頼の家臣。通称は又兵衞として有名。播磨別所氏家臣・後藤基国(後藤氏当主)の次男。
幼少の頃、父を亡くしたことから、父の友人であった黒田如水に引き取られた。如水の家臣として仕え、数多くの軍功を挙げ、「黒田二十四騎」や「黒田八虎」の一人に数えられた。しかし、如水が荒木村重によって幽閉された際に、叔父基信がその子の基徳・基長兄弟(又兵衛のいとこ)とともに村重方に属したために、又兵衛は一族の謀反を起こした件により連座される破目となり、一時、黒田家中からの退去を余儀なくされた。
後に罪を許されて、再び黒田氏の家臣として仕え、豊前宇都宮氏との戦い、朝鮮出兵や関ケ原の戦いなどに従軍、関ケ原では石田三成隊の剛槍使い大橋掃部を一騎討ちで破るなどの武功で大隈城1万6000石の所領を与えられた。しかし如水の子・黒田長政とは非常に折り合いが悪く、その確執から如水の死後、又兵衛は一家揃って黒田家を出奔した。しかもこの時、長政は又兵衛に対して奉公構という措置を取ったため、又兵衛の智勇を惜しんで全国の大名(細川忠興・福島正則・前田利長・結城秀康など)から召し出しがかかったにも関わらず、いつも長政に仕官を邪魔され、家族とともに長い浪人生活を余儀なくされ乞食の身に零落するほど生活が逼迫したという。
1614年、大坂冬の陣が起こると徳川家康から法外な恩賞を条件に誘われたが、又兵衛は感激するもこれを拒絶して大坂城に入る。「秀頼公には先陣を務めることで、家康公には合戦初日に死ぬことで御恩に報いよう」と語ったという。冬の陣では鴫野・今福方面を木村重成と協力して守備し、上杉及び佐竹勢と相対した。
1615年5月の大坂夏の陣では、大和路方面・国分での迎撃作戦の先鋒として2800の兵を率いて出陣、河内「道明寺の戦い」で徳川方の奥田忠次らを討ち取り、寡兵ながらも奮戦した。しかし伊達政宗軍との乱戦の中、真田信繁軍が霧の発生により行軍に手間取っている間に、片倉重長(片倉景綱[小十郎]の嫡男)率いる鉄砲隊に銃撃された。腰を撃たれ歩行不能となった基次は部下に介錯を命じて自刃したという。享年45。
(*2) 細川忠興は、細川幽斎の息子。舞鶴城の力斗を参照。
(*3) あさのながあきら。1586〜1632。浅野長政(*3-1)の次男。浅野幸長(*3-2)の弟。正室は江戸幕府将軍徳川家康の娘・振姫。官位は従四位下、官職は但馬守・侍従。
近江国坂本(滋賀県大津市)に生まれる。1594年(文禄3年)から豊臣秀吉の家臣として仕えて3,000石を与えられた。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後、江戸に武家政権を成立させた徳川家康に従い、備中国足守藩に2万4,000石を与えられた。1613年(慶長18年)、兄の幸長が嗣子無くして病死したため、紀伊紀州藩を継いで和歌山城主となった。大坂の陣には徳川方として参加し、夏の陣では敵将・塙直之(前述)を討つという大功を挙げた。1619年、福島正則が改易されると、その後を受けて安芸広島藩42万石に加増移封された。1632年に死去、享年48。墓所は広島県広島市の国泰寺。
(*3-1) 良弘熊野落ちを参照。
(*3-2) まほろばの落日を参照。 
(9) 家康、叱られる
家康が二条城に入ったのは十月下旬で、天皇に秀頼討伐の論旨を賜わらん事を再三要請した。しかし、帝はひどく不機嫌で
「秀頼は将軍の婿ではないか、何の罪があって誅伐などというのか」と叱られた。
激怒した家康は、上皇を遠島に処さんと天海らの意見を求めたが
「それでは天下の人心を失う」と反対され、断念すると、片桐且元に先導役を命じて、続々と大坂をめざした。
十一月十五日、家康は、奈良の中坊秀政(前出)の邸を宿とし、観世一座の謡曲などを聞いているが、邸の周辺には十津川隊千余人が厳しく警戒を固め、大坂まで護衛している。
将軍秀忠は、伏見から河内に向い、枚方に泊った。十六日には天王寺に向ったが、先鋒四番隊には筒井定慶らが加わっている。そして殿軍の老中・安藤定信の補佐役として井戸覚弘、親衛隊の中に治秀、直弘らが参加して、茶磨山での家康との会見の護衛に当っている。 
(10) 紀伊熊野の一揆
開戦は十一月下旬で、野田福島から船場に激戦が展開されたが、折しも北山前鬼(*1)を発した一揆が続々と新宮城に向い、それに呼応した山口兄弟が和歌山城に向った。
新宮攻略勢千余の首謀者は、前鬼の修験宿である森本坊(五鬼継)行者坊(五鬼熊)不動坊(五鬼童)小仲坊(五鬼助)である。他に、堀内家の旧臣で浅野から二百名を給されていたのを擲って大坂に参じた湊宗右衛門、津守久兵衛、堀内大学らが、後藤の嫡男・一意や大野道大らの要請によって決起した。その黒幕は、家康の卑劣を怒った醍醐寺三宝院や高野山、聖護院の長老らで、山伏達が多数参加していたようだ。
彼らは野火の如くに熊野北部を手中に収め、十二月の初めには、新宮城を指呼の間に望む対岸に襲来したから、城下一円は大騒動となる。
意気高く大里の京城(*2)を奪って本陣とした通称・前鬼の津久は、十二月七日を期して総攻撃を敢行した。熊野川をはさんで激戦が展開され、山室鬼五郎が三尺五寸の野太刀を水車の如く振廻し、陣頭に立って暴れ廻り、終日激戦が続いた。
後一息で“落城!”と思われた時、尾鷲からの鉄砲隊が関船に乗じて鵜殿河原に上陸。川下から海風に乗じて焼き立て、川上からは本宮の浄楽寺長訓が、狩人や山伏達を率いて襲いかかった為に、戦局は一変した。
その朝、大里を発した総大将の津久は、みみずく型の兜に黒糸縅の鎧をつけ、豊臣家の長旗一流を先頭に山籠にゆられつつ
「今日こそ新宮城に乗込まん」と意気高く進撃した。しかし下田で敗走して来る味方とぶつかり
「数百の鉄砲隊を先頭に永田、石垣ら名うての勇将達が追撃して来る」との思いがけぬ報を受けた。籠人足を始め、逃亡者が続出し、津久が如何に叱咤督励しても、臆病風にとりつかれた連中は、算を乱して敗走してしまった。
さすがに津久一族や、山室、平谷を始め、前鬼山伏ら三百余人は、尾呂志風伝峠で体勢を立直した。しかし再攻撃の兵力が集まらず、紀ノ川を下って若山城を包囲した山口勢も城兵の反撃をうけ苦戦していた。

(*1) 奈良県の下北山前鬼は修験道の宿坊のあった場所。今も山伏のための宿坊「小仲坊」がたった1軒残る(2007年現在)。1300年前、役の行者に鬼夫妻・前鬼と後鬼(ごき)とその5人の子が仕えたという伝説が残る。今も宿坊を守るのは、その子孫。5人の子とは、五鬼助・五鬼継・五鬼上・五鬼童・五鬼熊で、これが、そのまま名字になっている。五鬼童・五鬼熊(ごきどう・ごきぐま)両家は、絶えたらしいが、後の3家、五鬼助・五鬼継・五鬼上(ごきじょ・ごきつぐ・ごきじょう)は健在。
(*2) 今の三重県南牟婁郡紀宝町大里にある京城(みやこじょう) 
(11) 淀君泣きつき、和議が成立
其頃の、大坂攻めの戦況を見よう。
本陣を茶臼山に進めた家康が、二十万の大軍を叱咤激励して猛攻を続けても、さすがは太閤が築き上げた名城だけに頑として落ちない。今福、鴨野の木村重成、後藤又兵衛の奮戦や、真田丸に於ける幸村の健闘によって、寄手の死傷は三万に近かったと云う。
その戦況を見た後水尾天皇は、かねて豊臣びいきだけに、大納言・藤原兼勝らを勅使に派遣して、両軍に和睦を提案され、何とか豊家の存続を計らんとされた。しかし、あくまで豊家の断絶をめざしていた家康は、天皇の勅旨によって和議を結べば後がうるさいと、
「せっかくの勅旨ではあるが、秀頼が応じない場合は、帝の威光を汚す事になるから辞退する」と体裁の良い事を云ってそれに従わなかった。忠義面の片桐且元の提案で、備前島に配備した十数門の巨砲を始め三百門の大砲兵陣地から猛攻撃を展開。この十数門の巨砲は、オランダ船から購入した最新式の五貫匁と云う弾丸を八百mも飛ばせるものだった。
巨弾が、且元が提供した地図によって見事に淀君の居間に命中した。天守閣の柱が砕け、女中数人が即死するのを見て震え上った淀君が、“あくまで抗戦”を主張する秀頼に泣きついた。
和議が成立したのは十二月二十一日である。太閤が一世の智略を傾倒し、真田、後藤以下十万の名将、豪雄を擁した天下の名城が、開戦僅か一カ月余りで和睦せねばならなかったのはなぜか。これは先の軍議で
「城の絶対防衛線を確保する為にいたずらに戦線拡げるな、」と行朝が説いたのに、大野兄弟は大坂湾の制海権を失うまいとして九鬼水軍に惨敗し、遂に天満川一円の制海権まで失い、天守閣を間近に見る備前島に長大な射程を持つ洋式新鋭巨砲を築かせたからである。極秘の城内図面を差出して、その計画を進めたのが桐一葉(*1)で大忠臣とされる且元だった。
さてまんまと和議を結んだ家康は、浅野長晟を呼び
「領内で一揆を起した村々は断固討滅して後日の患いの根を断て」と厳命して再戦近しを囁き、熊沢兵庫に二千の兵を送って尾呂志、入鹿、大沼に進攻させた。
津久勢も途中の難所に大木を吊り、巨石を落す仕掛を設けて必死に抗戦した。大沼竹原渡し場の決戦では、熊沢兵庫が山室鬼五郎と一騎討となり、危うく討たれそうになった程だが、結局は一揆方が衆寡敵せず敗走する。
和歌山城に迫った山口勢も、五百に近い損害を蒙り、囲をといて敗走した、との悲報を耳にしながら、津久らは辛うじて十二月末、前鬼の里に辿りついて再挙を計った。

(*1) 明治期に、劇作家の坪内逍遥が史劇『桐一葉』において忠臣としての且元を描いた。 
4.2 夏ノ陣の激斗  

 

(1) 和睦
冬の陣で和睦案が持上った時、真田や行朝は
「戦局は我に有利であり和議は偽わりである」と抗戦を力説し、秀頼も治長が
「家康も老齢なれば和を結び時を待って」と説くと
「それは且元の云った通りではないか」と頑として聞かずあくまで抗戦を叫び、治房や後藤も
「この堅城で義を守り一致協力して戦えば何年でも守り抜ける、苦しんでいるのは敵方である」と和議に反対し老獪な家康の手に乗ってはならないと力説した。
然し家康のスパイだった有楽父子(*1)は、脅え立った淀君を煽りつけ、和睦成立に奔走した。孝行な秀頼は遂に母の涙に負け、交渉を進めた。元来が聡明で太閤の遺孤たる誇りに満ちた秀頼は一カ月の実戦を経験し、武将として大きく成長した。しかし性来の母思いと人を疑う事を潔よしとしない純真さはそう変るものではなく一路破局へ向っていった。 
(2) 裸城
誓紙に書かれた和睦の条件が
「秀頼の領土は今まで通り、淀君を人質にはしない、浪人達に異議は云わぬ」の三カ条だけで、外壕を埋め、二ノ丸三ノ丸を壊す事は記してなく、口先だけの約束にしたのも家康の罠だった。
家康は秀頼と同じ歳に一向一揆に手を焼いて和を結んだ時も
「寺院は元のまま」と云う条件だったのに、根こそぎ壊し、驚いた相手が違約を責めると
「元々寺のあった処は野っ原じゃった」とぬけぬけと嘯いた程の家康である。
数万人の人夫を大名達から出させ、アッと云う間に外濠を埋めると
「お手伝い致そう」と二ノ丸三ノ丸の取壊しに手を出した時、豊臣方は断固たる態度で拒否すべきであったのに、和議が破れるのを恐れた淀君の命で、泣き寝入りとなってしまった。
それを見た幸村は
「家康、秀忠を夜襲して討取りたい」と懇請したが
「約條に背くことはできぬ」と却下されてしまい、さしも難攻不落の名城も哀れな裸城となってしまった。
その埋立ての総監督を買って出たのが藤堂高虎で、突貫工事を命じたのに進んでいないのを見て、責任者の菅平右衛門を呼び叱りつけると、元の僚友で岩屋城主だった菅は
「工事が工事じゃからのう。力がでんのじゃろう」とこの卑劣な仕事を非難してニヤリと笑ったのを見て
「関ヶ原で救ってやったのを忘れたか!」と即座に首をはねてしまったと云う。家康はそれを聞いて
「我意を得たり」と喜んだろう。 
(3) 家康、再挑戦
豊臣びいきの巷の浪人や庶民達は口々に徳川の非をとなえ、入城を希望する者は城門に列を為した。それを知った京都所司代の板倉勝重は、直ちに家康に急報すると、冬の陣には東軍に参加したが、真田丸での敗戦で浪人していた高名な軍学者・小幡景憲を呼び、家康からの
「全軍が大坂に参集する迄には五十日はかかろう。其間に秀頼が京に進撃し、帝に訴えて天下に義軍を募れば一大事となる。何とかこれを阻み、浪人共を散じる策を取れ」との厳命を伝え、この大役を彼に一任して大坂に走らせる。
「将軍の軍学指南」と云う餌につられて、小幡は何喰わぬ顔で大野治房の配下となり、刻々と情報を送った。
三月上旬、大坂勢が十万に達するや、家康は俄然
「大坂を明渡し、大和か伊勢に移れ。それが厭なら浪人共を悉く追放し、元の家中だけにせよ、それさえ聞けぬとあらば直ちに攻めかかるぞ」と本音を吐いて挑戦して来た。 
(4) 小幡景憲の謀略
それを知った主戦派の大野治房は、三月半ば、新宮行朝を始め、岡部、塙、布施らの他に新規召抱えの小幡をも列席させて、軍議を開いた。
行朝は
「かねて予期した通り、家康の肚は豊臣家の断絶にある。此際直ちに右大臣・秀頼を奉じて上洛し、二条城の板倉らを追討し、帝に挙兵の次第を奏上して、天下に家康の非道を明らかにし、迎撃体勢を確立すべし」と説き、諸将も賛同したが、小幡だけは
「百戦錬磨の家康に城を出て一戦を挑むのは万に一つの勝算もありませぬ。城に籠って固く守り時を待つのが上策である」と反論を述べ立てた。甲州流の軍学者で知られた彼の意見だけに如何にも尤もらしく聞こえた。
然し行朝は一歩も譲らず、次々と論破して激論を展開し、治房も
「宜しい、それでは秀頼公に進言し直ちに出撃せん」と承知した程の巧みな行朝の作戦を聞いて、小幡は内心で冷汗を流しながらも反論した。
この戦略の欠点を指摘して
「先ず第一に為すべき策は、仕度金目あての兵や実戦の役に立ちそうもない老弱兵を篩にかけ、少数精鋭の兵を揃えてから上洛を計るべし」と力説し、治房は自から礼を厚くして招いた小幡だけにコロリと騙されてしまう。 
(5) 小幡景憲の逃亡
和平派の治長は、これによって家康の浪人追放の要求に応じる魂胆もあって、十万の浪人兵を大巾に整理することとなり、やがて“老幼兵や素性の知れぬ百姓兵”らの大量解雇が始まった。
十万と云われる全軍の半ばに達する大縮軍で、大野勢の中でも勇猛で知られた武藤丹波守などは、二百名の隊員中から百五十名も追放してしまう。後で大いに残念がるのだが、予期した以上の縮軍が進むのを見て、小幡は内心ほくそ笑んでいた。折しも、秀頼に心を寄せる京の妙心寺長老より
「小幡は間者である」と急報が入った。
「しまった!」と驚いて治房は直ぐさま追っ手を差向けたが、まんまと伏見城に逃げ込まれた。地団太ふんで口惜しがっても、すべてが後の祭りである。慌てて縮軍を中止して、再募集せんとしたが、兄の治長が資金不足を理由にそれを許さない。
それに一旦追い払われた兵達がその仕打ちに腹を立て素直に帰る筈もない。板倉所司代も各藩に厳命してそれを防ぐ警戒線を張りめぐらせたから、その網に引っかかって斬られた将士も多く、冬の陣の半分になってしまったのは致命傷と云えよう。 
(6) 織田長頼らの逃亡
三月末になると、家康は東軍に再出撃を命じた。その先鋒として高虎を選んだから、勇躍出陣の命が伊賀、伊勢は元より今治の高吉にまで飛び、
「四月五日までに淀城に入城せよ」と躍起になっている。
それに比べて西軍の動きは鈍く、やっと四月三日になって大坂城千帖敷で夏ノ陣の軍議が開かれる。
秀頼は諸将を集めると、前回とはうって代った闘志に満ちた態度で家康の卑劣さを説き
「事ここに至っては最早やむを得ぬ。潔よく決戦して、雌雄を争い、刀折れ矢尽きなば、太閤の子として諸将と共に屍を戦場にさらす覚悟である。」と断じる。
幸村が続いて立ち
「秀頼公が自から大軍を率いて上洛、二条城を攻略し、伏見の敵を追い落し、宇治、瀬田の橋を焼いて東西の連絡を断つと共に、豊臣恩顧の諸将に檄を飛ばし、やがて城南に地の利を占めて大決戦を行う。」と、半年前の行朝と似た作戦計画を提案した。後藤、長曽我部ら歴戦の武将は
「それこそ正に男の死花」と諸手を挙げて賛同したのだが、それを見て肚に一物ある織田長頼は
「軍には統制が何より肝要である。此際、余が総司令官に就任したい」と云い出し、冬ノ陣以来の彼の行動を見ている諸将は
「何を吐すか身の程を知れ」と誰一人承知しない。
すると長頼は
「信長の甥である余が総軍を指揮するのに何故いけないか、それなら余が城にあっても仕様がない」と激怒したふりで席を立ち、そのまま京に脱走した。続いて有楽、長益も逃走したから淀君は半狂乱で床に伏す有様である。
秀頼も
「これではどうにもならぬ」と京都進撃は見送られ、決戦予定地を一巡して将兵の志気を高めることになった。 
(7) 勝算立たず
四月五日、前衛に後藤、木村、続いて金瓢の馬印に愛馬太平楽に跨った秀頼公。中軍には真田、長曽我部。後衛に大野、新宮らが威風堂々と住吉神社から天王寺、岡山一帯の地形を実見して帰城している。
その夜は全軍に豪勢な酒肴が振舞われて少しは気焔も揚ったが、冬ノ陣に比べると半ばにも満たぬ兵力では到底勝算などは立たない。責任を痛感した治房は
「大義親を滅す」と兄・治長を暗殺しても将兵の斗志をかき立てんとしたのは悲壮であった。
秀頼も亦、同感だったのだろう。育ての親の片桐且元、母が常に誇りとする織田一門に次々と裏切られ、今は力と頼む真田、後藤を召して戦いの見込みを尋ねる。
「二十万の関東勢に対し、裸城と僅か五万の兵では……」と真田、後藤らが首をかしげた。それを見て、秀頼は自から筆を取り、故太閤と縁の深い浅野に参加を要請した。しかし彼は家康の婿で
「現在の大領主となれたのは家康公のお蔭である。」と使者を斬りすてる始末。
そんな中に大和松山三万石の福島正頼(福島正則の弟)が、一子・正守を入城させ、蟄居中の増田長盛が嫡子・盛次を送っている。これは家康のやり方のひどさに死を決したからであろう。 
(8) 大坂勢、上洛の好機を逸す
新宮行朝には、浅野に仕えていた兄・主膳や、藤堂に千石で抱えられていた尾呂志伝兵衛らが死を覚悟して馳せつけてくれた。しかし大坂城を目前にして浅野の手にかかって果てた者も多く、やっと三百程度だった。これでは内応の義士をつのっての奇襲戦法しかないと反間苦肉の策をめぐらしていた。
折から大坂城では、大野治長が下城の途中で刺客に襲われ、その首謀者が治房だとか、且元だとの噂が渦まく。
四月五日、藤堂高虎は、上野と名張の守りを固めると、五千の兵を率いて一路淀城をめざして進み、ここを根拠に附近一帯の警備を固め、東軍の到着を待つ。
家康が二条城に入ったのは十八日、秀忠は二十一日で、大坂勢は遂に上洛の好機を逸した。
四月下旬、家康は全軍を二分して大和、河内の両道を進み、河内の道明寺で合流して、城南から総攻撃をかけんとした。
それを知った大野治房は
「筒井家の重臣・箸尾高晴を大将とする布施、万歳ら二千余に、暗峠を越え、郡山城を攻略させて関東勢の肝を冷すと共に、大和熊野に潜伏している豊臣党や本宮山伏達に多額の軍資金を賜って、決起を呼びかけたい」と強く秀頼に訴えた。 
(9) 大坂勢、郡山城を攻略
冬ノ陣の和睦後も、家康から北山一揆の徹底討滅を厳命された浅野長晟は、熊沢兵庫に兵を増派した。熊沢兵庫は、年末までに北山、西山郷一円に残党を追求、頭分の首級数十を若山の長晟に送って鎮圧を報告した。それを聞いた家康は上機嫌で戸田、熊沢らに恩賞を与えている。
然し、湊、津守らは巧みに追手の目を潜めて大坂に帰り、各地には尚も多くの同志の残っている事を報じた。大野治房は喜び、やっと秀頼の許しを得てこの作戦を敢行した。これは先に小幡に一杯食わされ、行朝の意見を取上げなかった詫の意味からでもあったろう。
やがて四月二十六日の夜、突如、暗峠を夥しい篝火で埋めて急進して来る大坂勢を見た郡山の定慶らは忽ち臆病風に吹かれ、一戦も交えず福住城に逃げ走った。一撃で郡山城を攻略した箸尾勢は、二十七日には東北の村々を焼き立て、続いて奈良に進まんとした。それを知った奈良の町民達は大いに驚き、名酒十樽を献じて
「何とか御勘弁を」と懇請し春日山に逃げ込んでいる。 
(10) 秘策
此様な状況から考えても、四月上旬、秀頼が自から大軍を率いて上洛すれば、京、伏見、奈良を一時征圧するのは案外容易だったかも知れず、何とも惜しい事だった。
中でも奈良は筒井一族が久しく支配していた土地である。この春、長く蟄居を命じられていた筒井定次が、父子共に自刃を命ぜられた。冬ノ陣に大坂勢が射放った矢の中に筒井の紋の入った矢があったという理由である。これを知り、深く同情されていた上に、箸尾勢の中では細井兵助を始め、多くの筒井家の旧臣がいて八方奔走したからである。
冬ノ陣ではいち早く奈良奉行所に馳せつけた十津川隊千人は、今回は北山勢に備えていたから、奉行の中坊らは一戦にも及ばず逃走した。それを知った大坂城の治房や行朝は、勇み立って次の作戦にかかった。
と云うのは、秀頼公から郡山奪回を託されていた、四月中旬、治房、行朝は極秘で後藤、真田を招き、
「今度の戦は『思いきった詭道を取らねば万に一つの勝算もない』と考え、郡山攻略の了承を得たが、実はこれに引続いて伊賀上野を落し、更には家康、秀忠出陣後の伏見、二条を焼討するつもりでござる。」と打明けたのが、筒井浪人を幹部とする上野城の焼討である。
茶人大名の古田織部正父子を承知させ、家老・木村宗喜を将とする五百余人で留守の伏見、二条を焼く。出陣して行軍中の家康、秀忠両将を、大坂城から精兵二万を率いた後藤、真田の両雄で挟み討ちにする。と云う痛快な作戦であった。
かねて古田織部の次男・九八郎は、秀頼の寵臣として城に居り、行朝の妻は古田織部の娘である。それだけに、古田織部も今回の家康の余りに卑怯なやり方に我慢がならず、古田一族を挙げて太閤の恩に報いることを約束してくれた。着々と仕度を整えている、と云う。
思わぬ朗報に両雄も手を打って喜び
「急襲作戦は是非とも身共の手で」と勇み立ち、固い約条を交して出陣準備にかかる。幸い郡山から
「案外容易に城を手に入れた。上野も同夜決行の予定であったが折悪しく大雨の為に二十八日夜に延ばしたものの成功は疑いなし」の吉報が入った。 
(11) 露見
一段と勇み立った治房らは、続いて東軍の先鋒として佐野をめざしている五千の浅野勢を地元郷士と呼応して潰滅させようとする。二十八日早暁に、塙、新宮行朝らの勇将と共に出撃した。後に残った後藤、真田の両将は、家康らの首を挙げ、一挙に勝利を手に入れんと綿密な偵察活動を展開していたようだ。
出撃前夜に行朝は
「裏切り者はすべて去った。今、将兵の団結は固く、雄心まさに勃々!」と記している程で、これで成功すれば戦局は一変したに違いない。しかし、土壇場で板倉のスパイに口説かれた老将・御宿勘兵衛が、我子の命を救いたさに密告する、と云う思いもかけぬ事件によって全てが露見した。これは誠に“残念”の一語につきる。
柳生の手で編成された伊賀・甲賀の謀略部隊は、数の上で真田、大野の配下にある大坂方とは比較にならぬ差があったようだ。驚いた板倉の急報により、危うく出陣直前にそれを知って色青ざめた家康は、直ちに出兵を中止した。伊賀城下の二十余人、二条、伏見城を狙っていた古田勢の五十余人を一網打尽にすべく厳命し、それを聞いた藤堂高虎は目玉を白黒させて一隊を上野に走らせ、辛くも全員を捕えた。
古田家の家老・木村以下も間一髪で悉く検挙されて、古田織部も
「天運つきた」と無念の涙を呑んだらしい。 
(12) 樫井の戦い 〜浅野長晟 対 大野治房〜
明けて四月二十八日、神ならぬ身の知る由もなく、郡山の勝戦に意気揚がった治房と行朝は折から「永世不叛」を誓っていた。無礼にも秀頼の使者を斬り捨てた浅野勢の出撃を知るや、自領佐野の郷士達に背撃の準備を命じる。暁闇を突き、自から三千の前衛を率いて意気高らかに大坂城を出撃し、紀州街道を南下した。
その先鋒を命ぜられた新宮行朝、塙団右衛門、岡部則綱らは互いに功を競って、貝塚に猛進撃を続けた。折しも浅野勢の先鋒は、佐野の南方に到着したが
「大坂勢二万が、大挙若山城を襲わんと南下中」との報に驚いて地の利を得た樫井に退却。一方の岡部と塙も先陣争いとなって、あわや乱闘騒ぎを演じつつ樫井の坂に差しかかるや、地形を見た行朝は両将に断固進撃を中止させた。
「この先の要地には必ず敵の伏勢がある。小勢で盲進せず、本隊の到着を待とう」と厳しく説得したが、夜が明けるや、塙と岡部は本隊の到着も待たず、僅かな手兵だけで猪突猛進してしまった。
果せるかな。土手を越えるや、浅野勢の一斉射撃を喰ったが、豪気な塙は尚も屈せず、猛進撃を続けて樫井の町に突入した。しかし脇腹に銃弾が命中して討たれ、岡部も重傷を受けて退却した。行朝が樫井に突入した処、敵は退却して、味方の死体が折重なっているばかり。 
(13) 万策尽きる
行朝は仕方なく、山口、周参見ら遊撃隊を励まして、治房と大坂に帰るや
「伊賀上野、二条城焼討計画が露見して、伊賀、木村以下五十余人が捕まり、茶道大名の古田織部父子も伏見に曳かれた。」との悲報を聞かされた。
これは上洛案を拒まれた行朝が、最後の策として義父・古田織部正に強く協力を要請した“起死回生の策”であっただけにさすが軍略家の行朝も
「もはや人力ではどうにもならぬ豊家の武運の尽き」と長嘆息するしかなかったらしい。
せっかく占領した郡山城の箸尾勢に
「作戦を中止して帰城せよ」と云う悲痛な使者が飛んだのは、四月二十九日だったと云われる。二千の将士は断腸の想いで暗峠を帰ったに違いない。 
(14) 後藤又兵衛、快勝
元和元年(一六一五)四月末、戦況を聞いた秀頼は諸将を集めて軍議を開き作戦を練った結果、
「濠を埋められた裸城で籠城は出来ない。さりとて広大な野戦で大軍を相手にしては、勝算は乏しく、残るは地の利を生かして戦う策のみ。家康は冬ノ陣同様に大和路から来ると思うので、我軍は国分の先の天嶮で迎撃すべし」との意見に決した。
そして前衛は後藤、薄田らの六千。
本隊は真田、毛利、福島らの一万二千が道明寺へ。
別動隊として、河内街道を南下する敵に備え、若江に木村の五千、八尾へ長曽我部ら六千が出撃して側面を突く事となった。
総勢三万に近く、全軍の精兵を傾けての第一決戦と云えよう。
五月一日、先づ、後藤隊が出動し、平野に宿営して本隊を待ちながら、何とか家康、秀忠の本陣奇襲作戦を敢行したい、と真田の忍者隊と八方に斥候を走らせた。しかし、両将は城を出ず、機会を失った。
五月六日の夜半。後藤が先陣となり、国分の兵の地の利を占めて、大和路から進んでくる敵を潰走させんとした。
国分には早くも敵勢が進出している事が判ったので、戦機を失う事を恐れた後藤はやむなく単独で石川を渡河し、小松山の要地を確保すると、鬨の声も凄ましく東軍になだれかかった。時刻は午前四時。
忽ちにして、敵将・奥田忠次を討ち取り、松倉勢を壊滅寸前にまで追いこんだ。主将・松倉重政も危うかったが、勇将で知られた彼が日頃から
「士に貴賤なし、生死を共にせん」と玄米飯で共に呑み喰いしていた家臣達が身代りとなってくれたので、辛くも生き延びたと云われる。さすがは千軍万馬の後藤らしい。 
(15) 木村重成、妻に別れを告げる
「幸先よし!」と全軍が高らかに鯨波を轟かせた頃。
大坂城の華と云われる木村長門守重成もまた四千七百の兵を率い、大和橋から出撃して京街道を守っていた。地形上から見て河内口の東軍は、必ず星(交野)砂田(四條畷)をへて南下し、道明寺で大和勢と合流すると八尾平野に北進するに違いない、と判断した。そして、我は高野街道に近い若江に進み、一挙に家康本陣を突いて死花を咲かさん、と覚悟した。
美しい新妻・青柳が涙ながらに香を焚きしめた兜をかぶり、雄々しく別れを告げた美丈夫・重成は、闇夜の中を提灯一つを頼りに一路八尾から若江に進んだ。玉串川を前に陣をしいたのは午前五時で、道明寺方面の霧の中から激しい銃声が轟いて来るのを耳にしつつ、敵を待っていた。
河内口の東軍は総勢十二万と云う大軍で、重成の判断通り、前夜、家康は星、秀忠は砂田に泊っていた。右先鋒の藤堂は千塚に、左先鋒の井伊は楽音寺に陣して、この日は早朝から道明寺に向い、進軍する予定だった。
然し、夜明前に国分方面で銃声が轟き、斥候の報告によれば八尾、若江方面でもしきりに人馬の動きがすると云う。高虎は、秀忠の指令を仰ぐべく、砂田に向った。その途中で霧が晴れ、八尾・若江一帯の敵勢が側面を突かんとしているのを見る。直ちに右先頭の藤堂良勝、後の名張城主・同高吉や氏勝、左先頭の高刑らに
「右転攻撃!」と命じた。
当日の藤堂勢の戦力は、部将、騎士将校・四四〇騎、鉄砲隊士・五〇〇、弓・五〇張、総計五〇〇〇人と云われる。鉄砲の数は、木村隊の倍はあったろう。
若江の本陣からこれを見た重成は、隊を三分して、右翼隊は藤堂勢に備え、本隊と左翼隊は十三街道を進んで来る井伊隊を攻撃する事を命じた。勇みたった右隊は大いに奮戦して、藤堂良勝以下の大半を討取り、尚も進撃を望んだ。が、重成はそれを止め、若江堤上で早めに昼食を取らせると、午後の決戦に備えて充分休ませた。 
(16) 長曽我部隊、快勝
木村隊に続き、久宝寺から八尾をめざした長曽我部隊六千は、藤堂が迫るのを見て長瀬川堤に兵を伏せ、槍を揃えて待ち構える。八尾一帯は冬ノ陣で大坂方に焼払われ、僅かに家康の侍僧・金地印崇伝ゆかりの地蔵堂(常光寺)だけが残っていた。戦いは長瀬川とこの堂を中心に展開された。
長曽我部勢の先鋒を鉄砲隊で撃破した藤堂高刑らは、勢いに乗じて、追撃した。しかし、堤上に伏せ、一斉に槍で突き上げた盛親勢の力戦に、元は盛親勢の家臣だった桑名一孝が真先に討たれた。さらに高刑、氏勝以下多数を失って敗走。高吉らは本隊から遠く離れた地蔵堂で孤立していた。
藤堂勢の名ある将六人、騎馬六十、兵二百余を討ち取った大坂勢は尚も藤堂の援軍を打破し、長瀬堤上で凱歌も高らかに午後の戦いに備える。 
(17) 木村重成、死す
然しながら国分で緒戦を飾った後藤軍には、伊達政宗を始めとする二万の東軍が八方から襲いかかり、後続の薄田らの到着を待てずに討死。薄田らも各個撃戦の形となって敗走。それを知った若江、八尾口の東軍は多勢を頼んで続々と戦線に加わった。
勝ち誇っていた西軍も、続々と南下して来る大軍の関東勢に押され気味となった。午後の緒戦で、井伊隊の勇将・川手、山口らを討取って奮戦を続けていた木村隊も十時間の激戦に、次第に敗色を深めた。重臣らは
「今日はこれまで。明日に備えて城に引揚げを」と進言したが重成は頑として
「家康の首を取るまでは断じて止めぬ」と一歩も引かなかったのは、ここを死場所と決めていたからであろう。部下を引かせ、孤軍奮斗と云った姿で深田の中で力つき、首を安藤という名もなき若者にさずける。
芳香の漂う美しい首を見た家康は
「生かして置けば天晴な名将となったであろうに。何とも惜しい若者を死なせたものよ」と深く嘆き讃えたのは、和議の使者となって来たから憶えていたのだろう。 
(18) 藤堂高吉、奮戦す
然し主将を失った木村隊の敗走は、長瀬川原で力戦中の長曽我部勢にも大きく響き、久宝寺の大門をしめて懸命に体勢を整えんとした。しかし、藤堂勢の中で、当時、今治二万石の独立大名として家康からも愛されていた高吉が、義父の苦戦を救わんと八尾地蔵堂の返り橋に桔梗の馬印を翻して奮戦した。そして遂に、その凄しい力戦に追い崩された。
関ヶ原で西軍の総参謀長とも云うべき立場にありながら、裏切りの汚名をさらした増田長盛の嫡子・盛次以下が、父の
「せめても太閤の恩返しに、わしに代って戦え」と云う悲壮な言葉に励まされ、必死に支えたものの、力つきて討ち取られた程であった。実子ができてからは、高吉に辛く当る高虎もさすがに文句のつけようもなく
「勝ち誇る敵を圧えたのは高吉なり」と認めている。
敵を追って平野を占領した渡辺勘兵衛は、道明寺から退却して来る西軍を見て襲撃せんとしたが、高虎は頑と承知せず、八尾に呼び戻した。地蔵堂の縁に五百余の敵の首を並べて実見した後、戦没将兵の冥福を祈ってその夜はここで通夜を営んでいる。
その席で、剛将・渡辺は、伊達勢を潰走させた勇師・幸村に挑もうとしたが許されず、兜首はとったものの名ある士はなく、仏頂面をしていた。高虎はこれを見て、元は同じ秀長の家臣で郡山城にいただけに気軽く
「こりゃ勘兵衛よ、えらくふくれて居るがのう、年を考えても見よ。互いに六十になろうが、わしも久しぶり槍を取って泥田の中を飛び廻ったがコレ、この通りじゃ」と脚の槍傷を見せ
「“小事は大事”と諺にも云う。なまじ勝ち誇ってかかって見ろ、あの兵こそ家康公さえ危うかった真田幸村じゃ。今頃は首が飛んでいたに違いないぞよ。」と戒めたのは、全身が傷だらけになったという戦国武将の生残りらしくさすがに立派なものである。
それから風霜三百年、今日近鉄八尾駅に近い地蔵堂を訪ねれば、常光寺の裏の墓所には「勢伊事死碑」が立ち並び、藤堂高刑以下七十一士の墓が残されている。高虎が大坂方の首実験をした寺の縁は今も血染の天井になっていると云うから伊賀ゆかりの方々にはぜひ参拝されて先祖の菩提を弔い、ついでに名物の盆踊りでも楽しんで来られてはいかがだろう。 
(19) 最後の決戦
元和元年(一六一五)五月七日の朝。
昨日の道明寺決戦で勝誇る一万余の伊達の馬鉄砲隊を完敗させた上に、
「関東百万の兵の中に一人の男児なきか」と豪語して悠々と引揚げた真田隊は、天王寺茶臼山の一帯に赤威しの陣を構える。
幸村は昨日の激戦の疲れも見せず、陣地を一巡して将士にねぎらいの言葉をかけて帰ると、総司令官とも云うべき大野治長が慌しく姿を見せて、最後の作戦会議が開かれ、諸将の意見を求めた。
日頃は温和な幸村が何時になく厳しい口調で
「今日こそ最後の決戦となり申そう。なれど敵は百戦錬磨の老将に率いられた我に三倍する天下の大軍だけに、容易な事では勝利は望めませぬ。その為には是非とも秀頼公の出馬を願い、大馬印を四天王寺の城頭に掲げて、親しく将士に激励を賜る事が絶対必要と思われます。恐らく敵は天満や船場からは攻めず、全軍悉く城南の平野方面から襲来する事は必定、よって我軍は天王寺、岡山口に集結して思い切り敵を手元に引きつけ、船場に配した明石殿の精鋭が今宮から瓜生野に潜行し、合図の狼煙が上がるのを見て全軍一斉に家康、秀忠の本陣を挟撃ちし、両将の首を挙げる策以外に勝算はありませぬ」と強く主張し、それを聞いた治長も
「さすがは真田殿の軍略、確かにその他に方策はありますまい。よろしい身共はこれより直ちに帰城し必ず秀頼公の出馬を願い申そう」と固く約して帰っていった。
諸将も勇み立って持場に帰り岡山口の総指揮官大野治房は直ちに配下の部将を集め
「昨日の戦いは余りにも城から遠く進み過ぎた為に敗れた。今日こそ最後の決戦なれば決して茶臼山、岡山口より前に兵を出さず思い切り手元に引き寄せて一斉に猛撃し敵の本営を突く事に決した。諸将はよく軍法を守り、決して勇に逸って軽はずみな抜け駈けはせぬよう部下に充分申し聞かせ、苟しくも軍法に背く者は直ちに斬って捨てよ」と厳しく命じた。
行朝も最前線の陣地に帰ると将士にそれを強く云い含めて戦機の到るのを待ちわびた。 
(20) 狸親父
この日の早暁四時、枚岡を出発した家康は道明寺戦跡を見て平野に着いたのは十時過ぎで、最も難戦と思われる茶臼山には自分が当る事にして桑津に向った。そして、西軍は隊伍整然と開戦を待っているが秀頼自身は未だ出馬していない、と聞くや、使者を城に走らせ「講和すれば二カ国を与える」等と牽制しているのは、最後まで狸親父らしい謀略と云えよう。
日が高くなってもさっぱり秀頼公の出馬がないので、幸村は大助を走らせて再度要請し、秀頼も桜門を出ると旗本三千を率いて天王寺に向わんとした。そこを講和の使者が来たのを知った淀君に止められる。そして馬印だけを使番に持たせて帰ったのは、何としても将士の志気を衰えさせる失策であった。 
(21) 毛利勢の力闘
それに比べて東軍は、開戦を待てと云われていたのに前日の戦いで、家康から
「昼寝でもしていたか」と叱られた本多忠朝や、小笠原秀政、越前忠直らが討死覚悟で先を争って進撃を開始した。これは敵が小勢と見たからである。
西軍の福島、吉田隊がたまりかねて銃撃を始め、幸村が急使を飛ばせて
「明石の騎馬隊の合図の狼煙のあるまでは射ってはならぬ」と命じたが、騎虎の勢い止め難く、その為に明石隊が出るに出られない。
歴戦の武将・毛利も厳しく「射方止め」を命じたが、本多忠朝が自から陣頭に立ち突進して来る。これを見て、やむを得ず隊を二つに分け、本多隊を左右から攻撃した。右隊は奮戦して敵を潰走させ、左隊は本多忠朝を討取った。
徳川四天王の筆頭として勇名を轟かせた本多隊を壊滅させて意気大いに揚がった毛利勢は、続いて小笠原秀政勢に襲いかかった。死物狂いの力闘を見せる秀政父子を討取った上に将兵の大半を壊滅させ、さらに勢いに乗じて秋田、浅野勢をも敗走させ、万丈の気焔を吐いた。
その力闘ぶりは後に東軍の勇将達さえ舌をまいて讃えた程に凄しいものがあった。 
(22) 幸村、死を覚悟す
毛利勢に負けじと、忠直に叱咤激励された越前兵一万三千が、紅のつつじの咲いたような真田の赤隊が粛然と布陣している茶臼山に突進した。
かねて幸村は、天王寺の鳥居前に秀頼公の本陣を置き、合戦前に諸将の陣を一巡して激励され、自から決死の覚悟でここから一歩も引かれず、戦況に応じて適切な采配を取られれば、どんな弱兵でも決して秀頼公を見捨てて逃走する筈はない、と確信していた。
然るにあれ程に懇請したのに未だに姿を見せられず、此様な混戦状況に入ってしまっては最早その機会もない。
故太閤歴戦の瓢の馬印だけが空しく大野治房の陣に翻っているのを眺めて、幸村は子の大助に
「今一度御出馬を乞え」と命じ、
「父上と共に死にたい」と願う子に
「あれ程に願っても出馬されぬのは、父の謀叛を疑って居られるからじゃ、そなたが人質となって是非とも出馬を願うしかあるまい。汝が父と共に死ねば誰がその疑いを晴らせよう。行け!行って秀頼公と生死を共にせよ。これが父の最後の命じゃ」と涙をふるって叱りつけ大助を走らせた。傍で聞いていた軍監の伊木遠雄に
「諸事悉く食い違い、最早どうにも手の打ちようが尽きたようでござる。この上は家康本陣に突入して討死する外はなさそうじゃ。」と嘆じ、伊木も苦笑して
「どうやらそのようでありますなあ、今生の思い出に家康の白髪首を狙って見まするか」と愛馬にまたがった。 
(23) 幸村、猛攻す
かくして後世「真田日本一の兵」と讃えられる幸村の凄しい突撃が開始される。楠木正成が「十死一生ノ戦法」と名づけた三軍縦隊突破作戦で、各隊にそれぞれ幸村と名乗る勇将をつけ「真田のはね槍」と恐れられた十文字槍を閃かせる。
越前忠直の大軍を真一文字に突き破っては合流し、再び突き破っては合流して体勢を整えると、怒涛のような鯨波で敵の肝を冷しつつ、家康本陣をめざす戦法である。
折しも浅野勢が今宮に急進するのを見て
「浅野勢が寝返った!」と流言を飛ばして敵勢をうろたえさせ、疾風の如く家康本陣に斬込むと
「大御所はいずこぞ、真田幸村見参!」と叫んで暴れ廻った。
数万の前軍を突破して真田幸村が本陣に突入して来るとは考えてもいなかった旗本勢は忽ち大騒動となった。旗奉行の保坂、庄田らは、三方ヶ原以来、伏せた事のない大馬印を放り出して逃げ走る。槍奉行の大久保彦左衛門も、血眼になって逃げて来た味方に槍を踏みにじられる。本多正純ら老中までが泡をくって八方に逃げ散った。
家康の側近に残った者は大久保と小栗だけで
「もはやこれまでじゃ。腹を切ろう」と云う家康を必死に励ましつつ逃げ走ったが、三度に及ぶ幸村の斬込みに危うく討取られかけた。
堺南宋寺の伝説では、家康は重傷の後に津久野で死に、秘かに埋葬されたと云い、現に葵の紋入りの碑が残され、後に秀忠や家光まで参詣している点からも、大きな謎が秘められているような気がする。
冬ノ陣で十万を越えた大坂勢が夏ノ陣では五万に満たなかった事は、真田丸で勇名を轟かせた幸村勢の五千名が天王寺の決戦に三千しかなかったのを見ても判るが、幸村の奮戦は目ざましく細川忠興も
「その襲撃に歴々の将とて逃げぬ者はなく、平野八尾まで逃げ走ったる者は生き残られ候」と記している。 
(24) 治房勢、奮戦す
いっぽう岡山に本陣を置いた秀忠は
「開戦は待て」との家康の命を守って待機していたが、天王寺口から激しい銃声が聞こえてきたので進撃を命じ、先鋒の前田隊一万五千が大歓声を轟かせて突進した。
然し行朝と布施を先鋒とする西軍は良く将の命を守って、敵を思い切り引き寄せると、猛烈な一斉射撃を浴びせかけた。そのために前田隊の損害は甚しく、数々に追い崩され、後陣にいた藤堂勢などは「竹薮を押倒して逃げ散った」と云う。
その情勢を見て「時は今」と感じた治房は一挙に秀忠本営の岡山を強襲。書院番で秀忠の側近にいた井戸治秀、直弘らは、番頭・青山忠俊と共に必死に防戦し、老中・安藤対馬守を補佐した覚弘は、殿軍から馳せつけ「かかれ、かかれ」と声を涸らして兵を叱咤し、何とか喰い止めんとした。
然し治房勢の奮戦は見事で、老中の土井、酒井は元より、日頃から武功を誇った旗本勢もくもの子を散らすように逃げ崩れた。その不甲斐なさに腹を立てた秀忠は、自から槍を取ると討死覚悟で突進せんとした。それを見た甲賀者の大平五助が懸命に馬の口を押さえて放さなかった。
正に危機一髪だったが、旗奉行の三枝が押し倒された馬印を必死で立直したので、我先に逃げ走っていた旗本隊もやっと引帰して辛くも立直る事が出来たと云う。
もし治房が小幡の巧言に乗せられず一万を越えていた将兵を半減しなかったら、将軍・秀忠は岡山古墳の一角で討死したろうに、五千に満たぬ兵力では十倍近い秀忠勢を最後まで追い崩す事は出来なかった。
それでも島津軍記は
「今度の大坂勢の合戦ぶりは古今にも比類なき手柄にて筆舌に尽し難く、東軍の勝ちたるはたゞ兵力の差のみ」と讃え、行朝らの力戦ぶりを記している。 
(25) 秀頼、出馬せず
“日本一の兵”と云われた真田勢も三度目の突入作戦で将兵の殆どが討死し、幸村自身も重傷を負い、力尽きて屍を戦野に埋めたらしい。
それに力を得た越前兵が真先に茶臼山に忠直の馬印を立てると、大谷、御宿の諸隊を敗走させ、かの勘兵衛も名もない兵に首をさずけたのは裏切を恥じての自殺ともとれる。
真田と呼応して秀忠本陣の岡山を急襲し、今一歩の処まで追いつめた行朝は、尚も闘志に燃えて井伊の旗奉行・孕石の一隊を突破し、頼宣の家老・安藤帯刀の子・重能を討取り、秀忠本営めざして最後の猛攻を敢行した。木村重成の遺臣らは素裸で秀忠に迫ったが、立ち防がった柳生宗矩によって悉く討ち取られたと云う。
行朝、治房が「最早これまで」と諦め、共に死闘を演じている部下を集めて玉造口に退却し始めたのは、午後の三時過ぎだったと云われる。
開戦前、馬印だけを八町目口の治房本陣に持参した二十人の使番が、敵に比べて余りにも味方の兵が少な過ぎるので、たまりかねて馳せ戻った林伊兵衛が恐る恐る言上したが、秀頼は動かなかった。
折から父の命で馳せつけた真田大介の必死の懇請に、やっと母の制止を振切った秀頼が再び桜門を出て天王寺に向かわんとした処へ「真田隊全滅!」の敗報が届いた。
秀頼は幸村の期待に答えられなかった事からも
「一死はもとより覚悟の上じゃ、断固出撃せよ」と駒を進めたが、前線から帰って来た老将・速水が
「恐れながら屍を乱軍にさらすのは主将の為すべき業にあらず、退いて本丸を守り力尽きるまで戦うべし」と強く諌めると、性来が母思いの貴公子だけに素直に駒を返した。これが勝利への最後の機会を失わせたとも云えよう。 
4.3 落城 千姫救出  

 

(1) 二ノ丸が落ちる
秀頼と直率の旗本三千が一戦にも及ばず空しく本丸に引揚げて間もなく、突如として詰の丸(*1)の一角にある大台所から紅蓮の炎が捲き上った。台所頭の大住与左衛門がかねて片桐且元に内通し、混乱にまぎれて放火したのである。
合戦前に後藤又兵衛がそれを見破り
「大住は怪しい。直ちに処分せよ」と治長に申し入れたのに
「いや、そんな筈はない。彼は太閤子飼の料理人で、倉の鍵などもすべて託され御用大事に精励している実直者じゃ。決して二心など抱く男では御座らん」と聞かなかった。
大住は其場で斬られたが、火は強風に煽られて天を焦がす。それを見た越前勢は
「それ城が燃えるぞ!」と先を争って突進し、三ノ丸の柵を乗越えて、大野邸を始め、片っ端から火をつけ、略奪と暴行を働き始めた。
天王寺、岡山口に於ける大坂方の討死は二万と云われる。それでも秀頼が率先して三ノ丸口まで出馬し、前線から引揚げて来る将兵を励まし、自から陣頭に立って防戦に努めれば、どうだったか。例え堀は浅くとも、広大な二ノ丸がこんなに早く落ちる事はなかっただろう。
真田幸村は玉砕しても、毛利、明石ら歴戦の勇将が懸命に奮戦している。それなのに、肝心の秀頼が譜代の大野らの云うままに早々と本丸に引揚げてしまった。それがこの悲劇を招き、大手を守った新宮行朝も、勝誇る敵中に突入したまま消息を絶った。

(*1) 本丸の規模がふくれ、宮殿化が進むと、戦時の司令部・最後の篭城拠点となる小曲輪(*1-1)が必要となり、本丸の中に別区分として構築された。これを詰の丸(つめのまる)・詰の城あるいは天守曲輪などと呼ぶ。
(*1-1) 曲輪(くるわ)とは、それぞれの役割や機能に応じて城内で区画された小区域のこと。郭・廓の字をあてることもある。近世の城郭では本丸・二の丸のごとく、一般に「○丸」とする。 
(2) 堀内氏久、千姫を救う
明石、岡部らは討死。堀田、野々村は自刃。毛利ら僅かな将士だけが辛うじて本丸に入った。
堀内氏久(*1)も兄達と逸れ、やっと桜御門に辿りついた時、多門櫓は業火に包まれていた。柱の陰で火をさけていた老女中が
「もし!名ある将とお見うけした。妾は刑部卿ノ局じゃ、何とかこれなる御台所様を徳川の本営まで御守護賜わらぬか」と必死の面持で声をかけたから、氏久は驚いた。
「何と云われる。千姫様が夫・秀頼公を見捨てて独り城を落ちられる筈はない。偽りを申されるな」と詰問すると、局は
「いえいえ。これは大野治長殿の計らいで、何とか秀頼公の命乞いの為に参じられるのじゃ。決して我身可愛しさに落ちられるのではありませぬ」と懐から錦の袋に包まれたお守りを取り出した。金糸で綴った見事な葵の紋がキラリと光って見えたから
「さてこそ誠の御台所様か」と驚きながらも
「承知仕った。必ず無事に送り届けて進ぜよう」と引受けた。折から来合せた南部左門とも力を合せ、業火の下をかい潜って城外に脱出した。
大手門を出た処で、かねて親しかった坂崎出羽守の一隊と出逢い、彼の尽力で無事に茶臼山の家康本陣に送り届ける事が出来た。諦めていた孫娘の無事な姿を見て喜んだ家康は、救出にも功労のあった堀内氏久に直参旗本五百石の恩賞を与えたばかりでなく、西軍に参加した行朝以下一族の罪をも許している。
岡山口では最前線で力戦し、秀忠本陣を襲撃して散々な目に会わせた新宮勢である。浅野家の怨みも深く、生延びても極刑は免れなかった筈の堀内兄弟である。それが落城寸前に弟が立てた思いがけぬ功名で助かった。思いがけない幸運が舞い込んだのである。人の運と云うものは誠に不思議なものだ。
それにしても、氏久らが、千姫を護送しながら茶臼山へ向う途中の情況は、惨憺たるものだった。勝誇った東軍は
「ここが稼ぎ時!」とばかりに手当り次第に首を取った。東軍は総計で一万八千の首を挙げたと云うから、兵も町人の見境もなく殺戮を重ねたようだ。
秀忠の書院番に召された覚弘の子・良弘なども大いに奮戦して首を取り、従兵が
「とても重くて持てませぬ」と云うので鼻だけ切って実見に供したそうだ。これでは武士か町人かの区別がつく訳もない。

(*1) 父は紀伊新宮城主・堀内氏善(*1-1)。母は九鬼嘉隆の養女。兄が新宮行朝(叔父とする説も)。江戸幕府旗本。
1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで父氏善が西軍に属して改易。後、和歌山に入った浅野幸長に仕えるが、1614(慶長19)年からの大坂の陣では大坂城に入った。翌年の夏の陣で大坂城落城の際、知り合いだった坂崎出羽守直盛陣まで、千姫を護衛。そのため戦後、赦されて下総国内で500石を与えられ旗本に。1657(明暦3)年8月20日逝去。享年63。京都の天寧寺に葬られた。
なお氏久の功により、同じく大坂方に属して活躍した兄行朝も赦され、藤堂高虎に仕えた。大坂方で実際の戦闘に参加した武将が、陣後に大名に召抱えられた例は非常に珍しい。
(*1-1) まほろばの落日を参照。 
(3) 秀頼、死す
狂乱の夜が明けた翌朝のこと。
片桐且元は、焼け落ちた本ノ丸に入って、あちこち調べていた。そして山里丸の芦田矢倉に秀頼母子が潜んでいるのを発見し、勇んで秀忠、家康に急報した。この時、一言も助命を嘆願しなかったと云うから非道い。彼が二十日ほど後に死んだのは天罰かも知れない。
大野治長や速水(*1)は最後の望みとして千姫を返し、秀頼の助命を嘆願した。しかし泥棒に追銭で、家康父子は
「豊臣一族を断絶させて後害を除く」事に決めて居り、井伊や安藤に命じ、芦田矢倉に一斉射撃を加えて自決を促した。
秀頼は毛利勝永の介錯で二十三才を一期として果てた。
淀君や、大野治長、速水父子、真田大助や清正の家臣の子で鐘銘の責任を感じた清韓上人(*2)まで三十余人が矢倉の炎の中で生涯を終えたのは五月八日の昼であった。
焼落ちた金蔵に金、銀五万枚(時値九百億円)がきらめいて居り、家康に奪われている。佐和山城とは大違いで、石田三成が見たら
「何と金の使い方も知らぬ愚か者!」と大野を叱ったろう。

(*1) 速水 守久(はやみ もりひさ)。豊臣秀吉家臣。はじめ近江国浅井郡の土豪であり、浅井氏の家臣。浅井氏滅亡後に秀吉に仕え、近習組頭、黄母衣衆として近江長浜に采地を得る。小牧・長久手の戦い、小田原征伐などに歴戦し、朝鮮出兵では肥前国名護屋城本丸広間番衆六番組頭を努めた。平時には秀吉の身辺警護にも当たった。奉行として検地などにも活躍し、1万5000石を拝領、後に4万石まで加増された。
秀吉没後も秀頼によく仕え、旗本部隊の中核を担った七手組の筆頭となる。慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘問題が起こり、和平交渉に奔走した片桐且元が逆に内通を疑われるようになると、その調停に尽力する。結局且元は大坂城を退去させられ、その後も続いた豊臣家中の調停に努めた。
大坂冬の陣が始まると、鴫野の戦いで上杉景勝の軍勢相手に奮戦。同様に夏の陣では天王寺の戦いで真田幸村らと並んで藤堂高虎を蹴散らすなど活躍したものの、衆寡敵せず敗北。
徳川家康に秀頼らの助命を嘆願するものの聞き入れられることはなく、自害する秀頼の介錯を務め、その死に殉じた。守久の子である伝吉(出来麿)は、守久の忠節を賞されて許されたという。
(*2) 文英清韓(ぶんえいせいかん)。1568〜1621。臨済宗の僧。伊勢国の出身で、俗名は中尾重忠。出家した後、文禄の役では加藤清正に従い朝鮮半島に。1600年(慶長5年)に京都東福寺の長老、その後南禅寺の長老に。漢詩文に秀で、1614年(慶長19年)4月、片桐且元に命じられ京都方広寺大仏殿の再建工事において梵鐘の銘文を起草。この銘文に不吉な語句があると徳川家康は因縁をつけ、大仏開眼供養の中止を求めた(方広寺鐘銘事件)。同年8月には且元に同行して駿府へ弁明に向かい、五山僧から非難されている。事態は鐘銘問題から徳川と豊臣家との対立に発展し、大坂の陣の遠因に。文栄も連座し、南禅寺から追放。住坊の天得院は一時廃絶の憂き目に。文英は前述した加藤清正との関係で分かるように豊臣氏とのつながりが深く、同じ南禅寺住僧で徳川家康の顧問であった金地院崇伝と政治的に対立、追放されたと思われる。蟄居中に林羅山と知り合い、のち羅山の取りなしなどにより許されたという。 
(4) 秀頼追悼
ここで改めて秀吉没後の歴史を振返ってみる。
死に際して太閤が繰返し秀頼に遺した言葉は
「朝廷を第一として、神仏を尊び、文武に励み、十五才になれば天下人となり、豊家の繁栄と万民の泰平を計らねばならぬ立場を忘れるな」と云う事で、淀君も常にそれを説き、戒めて来た。
秀頼も、元来は、利家、清正、のような剛強な武将が好きで、馴れ親しんできた。そして“文”については、三宝院義演や清韓ら高僧の感化で、深い信仰心と文学詩歌を愛した。
「命を惜しまず、名を惜しみ、物の哀れを知る事こそ真の武人」と信じる貴公子に育っていったようだ。
フロイス(*1)は「長ずるにつれて智勇加わり、キリスト教に対しても理解ある態度を示した」と讃え、十年ぶりに秀頼と対面した家康は、その堂々たる態度に舌を巻き「とても他人の下知など受くべき人物ではない」と判断したらしい。
けれど秀頼の不幸は、何より太閤子飼の優れた人物は大名となって大坂を離れていたことだ。
その上に、内部は、文吏、武断派で対立して、淀君と北政所(秀吉の正室)方に別れ、激しく競っていた。
さらに秀吉にとっては“つゝ井筒の君”である正妻ねね(北政所)が、“妾憎し”の女心から、夫の遺言に背いて、実家の浅野を重く見たことである。
それに側近を取囲んだのが、勝気で独裁的な淀君に、織田一族や片桐のような義心を欠いた臣と、忠実だが古狸家康の足元にも及ばぬ大野らの凡将揃いの為である。
こんな連中に補佐されながらも、秀頼が
「恥辱の中で生きるよりも太閤の子として美しく亡びん」とする道を選んだのはさすがに秀吉の子らしい。しかし、戦さを知らぬ純情な貴公子だけに、重大な戦機に百戦錬磨の真田、後藤らの名将、軍師よりも、幼い頃から親しんで来た譜代の臣の言葉に惹かれた。主将として智・仁・信・勇、厳の五徳のうちの最も大切な勇断に欠け、機を逸し、その死場所を誤った。このことは何としても惜しい。“正義は悲劇によってこそ栄光に彩られる”ということか。
稀代の覇王だった家康に対し、勝敗は論外として決戦を挑んだ秀頼。幼少より文筆に秀で、今も現存する利休の愛詠、
心つけて 見ねばこそあれ 春の野の 芝生に交る 花の色々
を寫した非凡な筆跡と清純な人柄から見て
「命よりも名を重んじ、物の哀れを知って桜花のように散った一ノ谷の敦盛にも似た若大将なり」と信じ、新装なった錦城(*2)をふり仰ぎつつ、豊国神社(*3)に詣で、謹んでその冥福を祈るのみである。

(*1) ルイス・フロイス。石上姫丸城を参照。
(*2) 大阪城の別名。天守閣は、平成9年(1997)、大改修工事によって、外壁の塗り替えや装飾部品の修復、金箔の押し直しなどがなされ、白壁と金箔の輝きで彩られた美しい姿が甦った。
(*3) ほうこく神社。大阪市中央区大阪城2-1。豊臣秀吉、豊臣秀頼、豊臣秀長を奉祀する神社。 
4.4 浪花つゝ井筒  

 

(1) 井戸泰弘
元和元年(一六一五)五月七日の午後、豊太閤が一代の智略をふり絞って築き上げた豪華たる黄金城が、僅か一日の戦いで、天をも焦がさんばかりの業火に包まれて炎上した。
その頃、井戸泰弘と恒吉らは、生駒連峰の暗峠の山中で茫然とそれを眺めていた。
この年の正月早々、和睦が成立したのを聞き、父(里夕斉・井戸良弘)の三年忌を営むべく大和にやってきた泰弘であるが、思いがけず戦雲は再び急を告げた。帰るに帰れなくなった泰弘は
「よし。この機会に、父の云った戦いの非情さを、この目で確かめて見よう」と思い立ち、大和一円から京、大坂まで足を伸ばし、克明に記録に止めている。
そして父が若き日を過した郡山城が大坂方に奪われたのを見て、坐視する気になれず、筒井定慶(*1)の要請に応じて剣をとったり、決戦の有様を一目見んとこの山頂まで足をのばしたりしたのである。
「何と云っても天下の大城だ。三日や五日で落ちる訳はない」と、郎党の井戸野笹之助に七日分の食糧を持たせてやって来た。
だが、五月八日には早くも天守閣は影もなく
「秀頼公自刃!」の悲報が流れた。それで泰弘らは山を降りる。

(*1) 筒井定次と不仲だった福住一族。筒井定次は筒井順慶の養子。冬の陣後、父子共に自刃を命ぜられたことは、夏ノ陣の激斗を参照。 
(2) 落人狩
泰弘らが、京、伏見街道に出ると、容赦ない落人狩が始まっていた。日に百人近い大坂方が片っ端から首をはねられて目を覆う惨情である。
筒井定次の遺臣や、古田織部方に参じた悲運の人々が処刑された日、泰弘はその状況を確かめに行っている。
上野城下では、裸馬に乗せられながら、胸をはり、毅然たる意気を示している夫を見た妻が、さすがに胸をつまらせ
「お前様は、まあ、千石取り等と云う阿呆な話にのせられて」と嘆くと、その夫は
「黙れ!怨を呑んで腹を切られた殿の仇を取ろうとしたわしの気持が判らんかい。二十六日の夜、大雨が降らなんだら、長年貧乏暮しのお前も千石取りの奥方様になれたんじゃ」と、最後の夫婦げんかを演じて磔柱に上った姿を見せられた。
京の六条河原では、家老・木村以下三十余人が、いずれも武士らしい最後をかざって散った。それに比べて群衆の中に交った遺族らしき女、子供の嘆く様は見るに忍びないものがあり、泰弘は“すまじきものは宮仕え”を痛感した。
父が
「覇者に仕えれば否応なく覇道を歩まねばならぬぞ」と残した言葉を思い出したようである。 
(3) 筒井兄弟と古田織部、自刃す
悲劇は大阪城の敗者のみではない。
郡山城で死守を叫んだ弟を圧さえて福住城に落ち、筒井定慶は漸く将兵数百を集めた。再び斗志に燃え「いざ奪回!」に向う途中で、天下の名城で知られた大坂城が僅か二日で落ちたのを知らされる。弟宛に
「そなたの云う通りにすれば良かった。責は一切わしにある」との遺書を残して筒井定慶は自刃した。それを知った弟も
「罪は同じぞ」と跡を追い、哀れ筒井家は再び断絶している。
伏見街道を埋めた一万八千の晒し首の凄しい光景。僅か八つの秀頼の子・国松を情容赦もなく処刑する地獄の鬼さながらの姿。泰弘はそれらを見ては
「もうこんな処にはいたくない」と望郷の念にかられて
「帰りなんいざ故園まさに荒れんとす」と大和を発ったのは六月だった。折しも巷では父の知友の一人であった古田織部が取調べに対し
「云いたき事もあれど、弁解じみて潔からず。腹など切ろう」と悠々と自刃した話が流れていた。
徳川の流れに任せて居れば、千ノ利休一番弟子の茶人大名として浮世を渡ることもできたろうに、義を貫かんとして、身を亡した哀れさを、泉下の父・里夕斉はどう見ていたろう。泰弘はこう思いながら、蝉しぐれも爽やかな吉野の山路を辿った。 
(4) 木村重成 / 浪花つゝ井筒
それにしても東西三十万の両軍の中で花と賛えられた木村重成の颯爽たる生き様に、人々は胸を打たれたようだ。
冬の陣の和睦の為に赴いた局の侍女に化けて行ったが、誰一人男と気づかなかった美丈夫である。見事に調印の大役を果しその凛々しさに一目惚れした淀君付きの青柳と云う十七の乙女が恋い焦がれて病となった。切ない相聞歌を交した末に、めでたく夫婦となったのが、冬ノ陣の和睦後であったと云う。
夢のような日々も束の間、夏ノ陣となって夫の出陣が迫るや、別れの悲しみに堪えかねた彼女は自から命を断たんとした。
それを知った重成は
「腹の子が生まれるまでは」と強く望み、江州馬淵の里の実家に帰し、やがて重成は若江の戦いで散華する。
妻は懸命に夫の遺命のままに生き抜いて、男の子を産むと尼となり、夫の一周忌もすませた後に里親に子を託し、
恋わびて 絶ゆる命は さもあらば さても哀れと 云う人もがな
を辞世の句として夫の跡を追ったと云う。 
(5) ねね
泰弘は、巷に流れる哀切のエピソードを聞きながら、関ヶ原の際の、ねね(秀吉の正室)の態度について父・里夕斉が次のように言っていたことを思い出した。
「ねね殿は、云うならば、秀吉の“つゝ井筒の君”であり、光秀公の妻・ひろ殿も同じような幼馴染の方であった。然るに明智殿は君子人であったのに、秀吉は女狂いで十六人の妾を抱えながら女漁りを止めなかった。だから貞節な彼女も愛想をつかしたのだろう。やがては“尼将軍”と云われた頼朝の政子のように、子を見殺しにして実家の繁栄だけを大事にし、豊家は武運つきて亡ぶかも知らぬ。泰弘よ、それが仏の云う『因果応報の理』であることを胸に刻み、わが家の由来する、“つゝ井筒の心”を忘れまいぞ」
このように強く誡しめていた事を思い出し、郎党の井戸野と語らいながら、伯母峯峠を越えて、泰弘は北山領に入った。 
(6) 紀伊、熊野、吉野の豊臣党の再決起
夏の陣の悲劇から早二カ月、修験の霊場である前鬼の宿に通ずる川合の里には平和の光は尚遠く警備の兵達の目も厳しい。しかし、泰弘には秀長公以来の地士認可状がある。
それに今回は旅立ちに際して二条城に兄達を訪ねて別れを告げた時、板倉所司代からの特別証を貰っていたから街道の通行も自由だった。しかし、池原、浦向に入るや村々の様子は悲惨を極めていたようだ。
と云うのは、次のような事情がある。ここで一ヶ月ほど時間を遡る。
さて、夏ノ陣の始まった四月末、西軍の郡山攻略を知った紀伊、熊野、吉野の豊臣党は再び一斉に決起した。
若山城攻撃に向ったのは山口兵内、兵吉兄弟で、樫井での緒戦後、さらに日高、有田、名草郡内の浅野の苛政に不満を持つ郷士山伏達に広く呼びかけ、その総勢は二千に達した。
北山方面では、竹原新四郎が大坂城から鉄砲隊を率いて馳せつけた。また、平谷の弓の名人で知られた福井三介勢と合流した神川村の堀内大学、西山郷長尾の西村惣右衛門、五味某、花知の長命寺住職、入鹿大栗栖の光明寺住職等が棟梁となって、豊臣家に対する義を叫び、日頃から浅野の重税撤廃を求めて、再び次々に蜂起した。
本宮一円では、山伏神職の梅ノ坊、赤坂大炊之助、池穴伊豆らが玉置山の大峯行者達と呼応した。そして、本宮大社を拠点に、広く十津川方面にまで同士を募り、浅野方の一藹職阪本、竹ノ坊一族を追放せんと計画を進めた。
この外に、飛鳥村小坂の宇城、中村らは泊村の勘左衛門と呼応して木ノ本代官所を襲わんとして居り、一揆の火の手は、広く入鹿、北山、尾呂志郷三十余村を始め大和北山、十津川一円に飛火して正に大騒動となり始めた。
若し大坂城が僅か数日で落ちなかったら一揆勢の主力は若山城を包囲し、別動隊は大和北山から吉野奈良に、或は十津川、高野を席捲して和泉、河内に進撃したろう。現に和泉山中には周参見安親勢が機会を待っていた。 
(7) 豊臣党の戦い、短期で終結す
これに対し浅野藩では前回の一揆討伐に活躍した熊沢兵庫が二千の兵を大里京城や赤木城に配して、彼の所領である北山二千四百石の村々の防備を固めた。
また、藩主長晟は紀伊山口に本陣を置き、若山城をめざす山口一族や小島兵吉勢を壊滅して一刻も早く大坂城に向わんとした。
新宮城では名物家老の戸田六左衛門が控え、田辺城にも浅野左衛門佐から選ばれた豪将が領内を油断なく睨んで一揆の襲撃に備えていた。これは冬ノ陣に七千を越した浅野勢が、天王寺決戦には僅か四千で紀州街道の最後備に配されているのを見ても明らかである。
然し一揆勢の士気を忽ち崩壊させたのは「五月八日大坂城落城、秀頼公自害」の思いがけぬ悲報であった。折しも朝霧で有名な風伝峠の砦で機会を狙っていた浅野勢は勢い立って総攻撃を敢行する。それと共に逆徒の誅滅に多額の恩賞を約したので戦いは短期で終結した。新宮藩も六月十日には
「熊野にて去年ならびに当年一揆を催せる左の者共、只今悉く成敗を申しつけ候也」と布告している。
それによれば平谷の福井三介は、北山池原に潜伏中を捕らえられ、木の本、北山街道の分岐点で梟首、家族六人も磔となった。
堀内大学は、行方不明の為に母と子が代りに捕われた。
竹原新四郎は、大坂落城後に帰り山中に潜んでいる処を捕えられた。
彼らを始め、総勢三百六十余人が鵜殿川原で悉く斬首された。
本宮の梅の坊らは、挙兵直前に竹の坊に密告されて捕ったが、神職のお陰で追放。土地財産は、約束通り竹の坊に与えられた。
花知長命寺、大栗栖光明寺、色川慶福寺の住職達は、僧職とは云え罪浅からず、と斬罪。
若山を襲った山口らも五百名近くが処刑された。
北山一円は、旗本高力忠房勢が厳しい残党捜索を行い、その犠牲者を加えれば大変な数に達し、時の大津奉行で民情視察を行った小野宗左衛門の記録では
「北山村などは全村人影も見えぬ有様で、さすがお上を笠に着る代官も、余りの窮状を見兼ねて、各地に逃亡していた良民の中から百人を杣役に任じて、生計の立直しに尽力した。浅野藩でも、木ノ本山奥の猟師百姓から鉄砲二十人衆を編成して各々年五石を支給し、領内の治安維持に任じるなどの配慮を見せている。これは余程の事である。」としている。 
(8) 平谷−大沼を訪ねて
大阪夏の陣から三百八十余年後の平成九年(一九九七)秋、去年に続いて紀和町の史跡を訪ねて一段と整備された赤木城から平谷の三介地蔵をめざす。
北山連峰が美しく連なる村はずれにいかにも風霜を重ね、顔立ちも定かでない石仏が立っている。
正しくは福本三介と呼ばれたようで夏の陣後に幕吏によって獄門台に架けられたがそれを知った浅野藩は領内平谷に住んでいた娘六人を「はたもの」にかけ耳と鼻を塩づけにして新宮に送らせている。
鵜殿川原には熊野各地から集められた耳や鼻の他に捕らえられた三百余人、和気の庄屋西伝兵衛らは罪もないのに調べもせず磔にされているから、まさに熊野始まって以来の大惨事と云えよう。
三介地蔵にお参りを果たして山を下り北山川を渡るとそこが冬の陣の十二月二十七日、決戦場となった百貫島で多くの名ある勇者の血が流れた。
その上流の竹原には後南朝の義士竹原八郎の墓や小大塔宮の骨置神社が祭られており、ゆかりの花知城も立派に整備されて名所となっている。然るに力戦したであろう子孫の新四郎については何も残されてはいない。
八郎は維新後に大名並みに贈位されているのに新四郎は何の扱いもなく一揆を起こした賊徒のままであり、大阪城の一角の豊国神社には秀吉、秀長と共に秀頼も神と仰がれているのに比べて何とも気の毒でならぬ。
もしこの作戦が成功すれば朝廷のめざす王道政治が蘇り、熊野三山の神領も昔どおり豊かになり「万民の幸福と長寿」を恵む大神への信仰は一段と高まる。ひどい年貢も半減して竹原や北山党の人々は「良き領主様」と親しまれ、やがては「世直し明神」と仰がれて現在も長く祭り続けられているに違いない。そう思いつくと「このままでは数百の義士らの魂も成仏できない」と痛感し、佐古氏や哲宗さんとも相談して「ささやかな慰霊祭でも挙げよう」と云う事になった。
それにしても哀れを極めたのは熊野の里人らで、敗れたが故に浅野の決めた三十九万石の重い年貢高が次の紀州徳川家に受け継がれて、明治維新までの数百年間を搾り取られ続け、里人の生活を豊かにする目はなかったのが気の毒でならない。
帰りは、出征前に芋の葉入りの粥腹で汗水たらして働いていた「大勝コバルト鉱山」跡に誕生した奥瀞温泉に投じたが、せっかく風光明媚な山のいで湯に浸かりつつも、
「正義の軍は敗れるのが世の常とは云え、夏の陣で行朝の作戦が成功したら、この地は正に桃源郷となっていたろうにナア」と、しきりに溜息が出た。 
(9) 井戸泰弘のその後
泰弘らは、父と親交の深かった竹原一族の悲劇を見るに忍びず、乏しい財中をはたいている。これは前述した通り、旅立ちに際して二条城に兄を訪ねた際、板倉所司代からの特別興行証を貰っていたからできたことである。これが無ければ残党の一味とされたかも知れない。
大峯から玉置山に連なる台高山脈に真白な入道雲の沸き立っていた七月、泰弘らは、漸くにして、幸い戦火を免れた我家に帰った。一族揃って祝盃を挙げることができたのは何よりも嬉しかったろう。
かくして再び山野に自生する薬草から各種の漢方薬を作り、熊、猪、鹿、猿、狼などを狩って、特効薬を製造する。そして各地に販売して生計を営むと云う泰弘の日々が始まる。
古来から、熊野は落人の極楽と云われる。それだけに、この大戦の後も、本宮一円には堀内一族、尾鷲方面には真田一族が、尾呂志には阪本一族が住みついた。専ら得意とする猟で暮らしていたらしいから、泰弘にすれば、結構商売になったばかりでなく、多くの友を得て、晩年まで心豊かな日々を送れたようだ。 
(10) 新宮行朝のその後
そして泰弘が兄とも頼んだ新宮行朝はどうなったか。天王寺口から引揚げて二ノ丸の防衛に懸命となったものの、何と云っても裸城だけに八方から迫られてはどうにもならなかった。乱軍の中を突破して、河内の五条に住む知友の宅に潜んでいるうちに弾傷が悪化して立てなくなってしまった。
領主・松倉重政の兵に捕えられ、二条城に曳かれたのが五月下旬である。それを知った浅野長晟は
「引取って極刑に処したい」と家康に再三願った。しかし、家康は断呼許さず、直参旗本に取立てた弟・氏久に渡して療養させた。
傷が癒えた後に、行朝は、旗本取立ての恩命も辞退し、京都北野の里で妻と共に古田父子の菩提を弔っていた。これを知った九州人吉三万石の相良長毎が、新宮十郎以来の源氏の名家が絶えるのを惜しんだ。南北朝時代に南朝の護良親王を擁して奮戦した新宮行定の血を享けた家老・犬童頼成を行朝の養子にと切望してきた。行朝は、その爽やかな人柄を見て承諾し、共に人吉の湯の里でのどかな生涯を終えることになるのは幸運と云える。 
(11) 井戸家嫡流のその後
さらに関東に移った井戸家嫡流の状況はどうかと云えば、これまた我家の春を迎えていたようだ。とは云え、大坂陣直後の江戸城は大騒動。何しろ徳川八万騎が諸大名の見ている前で三里もの大敗走を演じたのである。
天王寺口で危うく命を落しかけた家康は自から訊問に当った。大久保彦左衛門が
「旗は倒れなかった」と必死に頑張ると、畳を高く叩いて
「この強情者!旗が倒れたのは余がこの目で見て居るわい」と叱りつけたと云う。
結局、三河以来の直参旗本だった旗奉行らは領地没収の上追放される。秀忠も負けずに岡山口の取調べに当り、親衛隊全員に幹部以下全書院番の実態を投書させた。
すると、老中土井大炊守は真先に逃げたので「逃げ大炊」、酒井忠勝は「どっちつかずの雅楽頭」と云われる。独り安藤対馬守だけは、補佐の井戸覚弘が「かかれ」と叱咤して馳せつけ、秀忠を助けたので「かかれ対馬」と評されて面目をほどこした。
覚弘は常陸の他に下野領を加えて三千五百石。次男・治秀は五百石。直弘は書院番から大番入りとなり、後には千六百石駿河城代に立身すると、直参旗本の中でも「お殿様」と呼ばれる高級職員となり、肩で風をきって江戸の町を闊歩できる時勢となった。
大久保彦左衛門(当時二千石)の書き残した『三河物語』には
「三河譜代の家臣として、父祖代々の戦場を駈け巡り、親も子も多く討死してしまい、家族は麦や栗、稗の粥をすすって耐え抜いてきた。主家は今や天下人となって日本全土を支配しているのに、我ら大久保一族は、本家が豊臣を滅亡させるのに反対して改易されたのを始めとし、まともに扱われていない。直参の誇りだけは高くても、百俵程度ではその体面を保つのに昔通りの貧乏暮しで、魚や田作りを商って辛うじて生きて居り、中には追放されて諸国を流れ歩いた末に餓死した者もいる。今の徳川家で出世しているのは、主家を裏切った者(本多正信をさす)や、計算に詳しく座持ちの上手な奴、他国から流れてきたお調子者ばかりである。」と腹を立てている。しかし、時代は武骨一徹な彼らより、治政の能吏が必要とされて、農政に明るく能や茶道のたしなみにも深い文武両道の井戸一族には一陽来福の思いであったようだ。 
(12) 家康、独裁軍事政権を完成す
さて漸く宿望を達した家康は“欣求浄土”をめざし、六月には一国一城令を発して全国に散在する四百余の城の取潰しを命じた。
七月になると黒衣の宰相と言われた腹心の金地院崇仏に起草させた禁中、公家、武家、寺社法度を発して徳川幕府の独裁軍事政権を完成させた。
その大綱は、徳川氏を天下人として一切の下剋上を弾圧し「士農工商」は勿論、朝廷、公家、寺社も各々分に過ぎた行動をとらぬよう、
人は唯、身の程を知れ 草の葉の 露も重きは 落つるものかな。
と詠じて厳しく戒める。
頼朝を手本とし、“絞兎死して走狗煮らる”の諺通り、命がけで尽くしてくれた武人派よりも文治派の能臣を重用し、一族功臣であっても幕府組織を乱す者は容赦なく処罰する。また、相続争いの生じぬよう、三代将軍も自ら選ぶなど、秀忠の独裁を決して許さなかった。
日本古来の伝統である「天皇は天授であり、武力や智略で決して左右すべきものに非ず」との聖域にも遠慮会釈もなく踏み込んだ。頼朝が果せなかった“娘を皇后に入れて国父となる”策を強引に進め、秀忠の娘・和子を後水尾天皇の后に内定させる等の専横ぶりで、天下に権勢を誇った。
秀吉が朝廷を第一とし、あくまで天皇の臣である関白として天下泰平を実現したのに比べ、家康は信長以上の覇王となり、天下を幕府の権力下に収めた。天皇の権限に残されたものは僅かに位記を与える事のみだった。 
(13) 家康、死す
元和二年(一六一六)正月、豊臣氏が滅亡して半年後に、好きな鷹狩に出た家康は当時珍重された鯛の天ぷらをしこたま食べ過ぎて発病した。やがて夏ノ陣から一年後の四月半ば、信長より二廻り、秀吉より一廻り上の七十五歳までしたたかに生き延びて没した。
家康の重病を知った朝廷では太政大臣に任じ、死後その墓を日光に移して東照大権現と号するのを許している。これはブレーンの天海や崇伝の入智恵で、伊勢の天照大神に対抗して東照神君と仰ぐものである。日頃から「身の程を知れ」を口癖とした家康の言行不一致も甚しい。
幕府の強請にやむなく許したものの、かねがね家康の潜上を怒っていた後陽成上皇は、翌年三月、秀忠が上洛すると毅然たる態度で
「家康は一生戦いの中で過ごして来ただけに度々王道に背く行為も多かったのは朕も遺憾に思う。然し秀忠、汝は治国の将として世に出たのであるから、家康が豊臣家に対したような殺伐は二度と行わず、民に仁政をほどこし、己に過ちありと気付かば直ちに改めよ」と教え諭されたが、惜しくもその八月崩ぜられた。
この史実一つを見ても、当時の朝廷が家康の非道を怒り、何とか戦火をさけて天下の泰平を計らんと苦心されていた事が察せられる。茶人大名・古田織部の挙兵に至った黒幕には朝廷の影が感じられ、当時の噂話として
「織部は伏見、二条城を焼き、細川忠興と共に天皇を擁して叡山に籠城する。秀頼は精兵三万を率いて家康、秀忠を挟み討つ。利休七哲らの大計画であった」と云うのは、満更嘘八百でもなかったかも知れない。 
5 不白と権兵衛  

 

(1) 家康の十男の頼宣、紀州に入国す
いつしか歳月は流れ元和五年(一六一九)、かねて幕府から睨まれていた福島正則が城を勝手に修理したと因縁をつけられて信州に追われた。代りに浅野家が大坂陣の功として三万石を加増され、芸州四十二万石の大守として転封された。
そして紀州には家康の十男で十八歳の頼宣が、紀伊三十七万石、伊勢松坂十八万石、計五十五万石の御三家当主として入国する。
紀州は難治の国と云うので、第一に頑丈な牢獄を建てて威厳を示した。そして幕府天領である大和十津川との領界を改め、領内各地の由緒ある豪族に地士の身分や扶持米を与えて家門の誇りを認めている。
そして紀州家の付家老には田辺の安藤、新宮の水野、田丸の久野が独立大名扱いで任命された。他に直参旗本が与力として着任し、治政に当って居り、井戸泰弘は直轄領本宮の御目見得地士に選ばれたようだ。 
(2) 川上亀次郎、千ノ宗右に入門す
それにしても何とか其後の史料が残っていないかと色々調べているうちに百年近くをへた享保年間(一七一五〜一七三五)に興味ある資料を見つけた。ここで茶聖千ノ宗易をめぐる茶道系図を調べて見ると次の通りである(次表)。
そして表千家の嫡流である少庵の子の宗旦は、祖父の二の舞をさけて、良弘の云ったように生涯士官せず清貧に甘んじた。「乞食宗旦」などと噂されながらも「和敬静寂」を守り抜いたが、その三人の子は武者小路、表、裏の三千家を興している。
表千家は紀州家茶頭となっている。その付家老である水野氏の新宮丹鶴城に、その当時、川上亀次郎と云う若い茶道見習が、日がな一日雑用に追いまくられつつも健気に茶道修行に精励していたのが判った。
彼の父は川上五郎作と称する藩の茶道衆いわゆる茶坊主で、亀次郎はその次男として享保三年(一七一八)新宮城下に生れた。幼少から身体も逞しく智能も優れていたので、父も将来を楽しみにしていた。当時、天守閣の番頭を勤めていた遊木氏の下で十五歳からお城に上る。茶を汲んだり、行灯を運んだりしながら、茶と花と俳句に懸命だったらしい。
元文五年(一七四〇)、亀次郎が二十二歳の春、千ノ利休七代の正統千ノ宗右が三山詣に新宮を訪れたので
「この機会を逃してなるか」と必死に入門を嘆願した。
一見して宗右もその器量を頼母しく感じたらしく快く許した。藩の重役に
「京に連れ帰って茶道の修業に打込ませれば将来は大器となろう」と折紙をつけてその了解を得てくれた。
亀次郎は天にも昇らん勢いで、師の伴をして新宮を発つと、晴れて京の表千家如心斉宗右の門弟として日夜勉励した。師の云うままに大徳寺の大龍和尚の元に参禅し、形式よりも精神を第一とする禅の道を極める事に没頭した。 
(3) 川上亀次郎、「孤峯不白」の号を贈られる
刻苦精励する事、四年。師の伴をして和歌山に招かれた時、宗右から
「明日は万事そなたに任せるが、『常』の心構えを忘れるな」と命ぜられ、一晩中一睡もせず座禅した末、
「平常心これ道なり」との悟りを開いた。
翌日早く、城内の茶室に行って見ると、床ノ間の大龍(*1)の書『喝石厳』の軸が何故が裏返しになっている。それを見た彼はソッと表に直して立派に亭主役を勤め上げた。それを聞いた大龍は「孤峯不白」の号を贈り
「何事も自然のまま常の心を失わぬことこそ諸道の極意ぞ」と教えた。

(*1) 大龍宗丈。江戸中期の臨済宗の僧。大徳寺三百四十一世。京都生。宗丈は諱、自号は蓑庵。奉勅により入寺、玉林院に南明庵を創る。寛延4年(1751)寂、58才。 
(4) 不白、「宗雪」の名を与えられる
やがて寛延二年(一七四九)、千ノ宗右は彼に利休が茶の根本とする「真の台子」を伝授して「宗雪」の名を与え、門下第一の高弟とした。入門十年足らずでこれを受けるのは異例の事だった。
不白宗雪、時に三十一歳の男盛りで、それを聞いた人々が驚いてその理由を尋ねると、宗右は
「オウ宗雪はな、新宮城で毎夜行灯の油ばかり七年も切り続けて居った故に、あのように見た目には油ぎった大坊主でござるがな、一旦茶室に入りますとまるで人が変わり、『群峯雪を戴くも孤り不白』の号の通り、茶道の極意を身につけた得難い人物でござる」と賞賛した。
一本立ちを許された不白は、ひとまず新宮に帰った。藩の重役にも事情を話し、此上は江戸邸に移って殿様に仕える傍、「江戸千家」を創立したいと願いでると、江戸をめざした。 
(5) 不白、千家一子相伝の“長盆伝”を伝授される
折から江戸の竹本座では竹田出雲の『仮名手本忠臣蔵』が大評判となっていた。水野家の長屋に居を構えた不白はそれを楽しむ暇もなく、江戸に千ノ利休の侘茶の精神を拡める事に専念し、次第にその名を知られ始めた。
折しも京の師から急便が届いたので慌しく上洛した処、日頃から病い勝な上に、子の宗員も幼少である事を案じた宗右の
「此際ひとまず不白に、千家一子相伝の“長盆伝”を伝授し、後日もし宗員に素質あらば宜しくお願いしたい」と云う思いがけぬ師の言葉に驚かされる。
再三辞退したが、切なる師の依頼に一応、伝授を受け、京に於ける表千家一門の人々を訪ねてその結束を固めていた。そのうち今度は江戸から主君・忠昭公、重態の報が入った。
愛顧を受けた主だけに直ちに帰る事にしたが、送別の茶会を催してくれた宗右は心をこめた茶席の終わりに
秋風に 乗りて帰るや 東人。
の句をはなむけとし、去って行く不白の後姿に、しめやかな送り鐘を七打して、別れを惜しんだと云う。 
(6) 不白、精力的な活動を展開する
大力で知らされた五代・忠昭が没したのはその秋である。六代藩主には忠興公が就き、不白は新藩主に仕えながらも精力的な活動を展開した。当時全盛を誇った石州流を追い越し、有力な人々を門下に加えていった。
有名な浅草の非人頭・弾右衛門も、彼の人柄を聞いて是非にも教授願いたいと懇請し
「茶道には人間の差別なし」と信じる不白は喜んで求めに応じた。その事から一時は江戸追放を命ぜられると云う目に逢いながら、少しもひるまず、利休のめざした町人茶道の発展に努めている。 
(7) 不白と泰弘1
宝暦元年(一七五一)に入ると、参勤交替で新宮に帰っていた忠興は、不白の活躍ぶりを聞いて
「直ちに帰国させよ」と命じた。城代家老が、
「不白はもはや当家の一茶道衆に止まらず、天下の不白宗雪であり、江戸千家の総帥だけにむつかしい」と答えると若く豪気でカッとなった忠興は
「家臣の分際で余の命を聞かざる場合は首にしても持ち帰れ」と厳命した。やむなくそれを伝えた処、不白は苦笑して
「泣く子と地頭には勝てませぬな」と快よく帰郷を承諾した。
不白が江戸を立ったのは一代の英傑・吉宗公が世を去った年の夏で、当時の旅日記を開くと

高野に詣で、先君の御霊を弔い、久方ぶりに故園新宮をめざしたが、途中で熊の胆を求める為に廻り道して果無越(*1)に差しかかった。山路は旅人の姿もなく時折に木樵狩人が通うだけの小道で中腹から上は雲霧がたれ込めている。
鳥や獣さえ近寄らぬ程の恐ろしい処で、昼近くなっても霧が立ちこめ、一尺先も判らぬ有様に、山案内の里人と大声で呼び交しつつ懸命に山路を登る。こんな山中にも虻が群がり、目鼻に飛込むので、薄を手に打ち払いながら一句
霧深き、浮世の外に 憂き世かな。
と詠ず。
見れば行手を遮るが如く「山なまこ」と呼ぶ二尺余りの大蛭がうねうねと岩間や樹上にうごめいて居り
「こんな奴に取りつかれたらどうなる事か」
と背筋も寒く
立ち寄らば、大樹の霧や 山なまこ。
と詠じ、急坂を逃げるように登る。
喘ぎつつ、漸く山の尾根に出たが水一杯飲む処がない。生来の肥大漢だけにもう息も絶えんばかりで
「尋ねる家はまだか」と聞けば
「もう直ぐそこじゃ」と云う答えに
「やれやれ」と思いながら歩くうち、山家にしては由緒あり気な厳しい造りの大きな家が見え
「こんな処に」と驚きつつ門を潜ると、軒先に未だ血の染んだ大小二頭の熊の毛皮が干され、物々しい気分が漂っている。
案内を乞うと、奥から昔は大阪方面の名ある武士の子孫と聞く人品卑しからぬ人物が出て来て挨拶を交わす。さすが代々から藩公から直命の御目見得地士らしい器量の持主で
「何はともあれ水を一杯所望」と頼むと香も高い茶を出して呉れた。
天の甘露と心して戴きつつ事情を述べ妙薬を分けて貰いたいと願うと
「前に呑まれた事はござるか」と云う。
「いや始めてで」と答えると
「然らば」と奥の箪笥からほんの少しばかり包んでくれた。
「誠に恐縮なれど、もっと沢山わけて貰いたい。値はいかに高くとも結構でござる」と云っても
「いや熊の胆と云うものは僅かでも効目のあるもの、さりとて病によっては多量に用いても利かぬ事もある。まあそれだけ呑ませて利くようなれば、次回はいくらでもお分け致そう」と答え、幾度頼んでも
「これが我家の掟でござれば」とそれ以上は売って呉れず、
「御名を帳面に記して、次回の証拠と致す」と云うばかり、やむなくお代はと問えば、ほんの僅かである。
人里遠い深山で二人だけの取引だから法外な値を吹っかけても見て居る者もいないのにと一段とその心の奥ゆかしさが嬉しい。
その夜は、主から、曾祖父が利休の一弟子・山上宗二と知友で、“井戸茶碗”の縁なども聞かされ、「とても他人とは思えぬ心地」で進められるままに山家料理で酒を汲み、夜明け近くまで興じ合った。

とあり、この主が二代目井戸泰弘だったらしい。(以下、泰弘と表記)

(*1) 熊野古道小辺路 
(8) 不白と泰弘2
翌日、別れに際して、不白は主に
雲霧に くもらぬ月の 心かな。
の句を贈って、名残を惜しみつつ、再びここからは川舟で一路新宮川原に向う……。
と旅日記は尚も巧みに当時の世相を伝え、さながら眼前に見るような数々の名句も残されて居り、末尾を
故郷の 春や昔の 夕桜。
で結んでいる。
不白は、性来が己を持するに厳しく、人には寛大で、日常はなりふりを構わなかった。深川の材木商の門弟を訪ねた時などは、店の手代から仕事を探しに来た人夫と間違われ、終日待たされたが、別に怒りもせず、海を眺めて待っていたと云う話さえある。
不白を開祖とする“江戸千家”は其後一段と隆盛を極めたが、宝暦三年(一七五三)、師の宗右没後は、幼い子息・宗員を守り立てて、その成長に気を配った。
やがて秘伝“長盆伝”を彼に伝授して表千家の当主として奉じ、自分はあくまでその門下の忠臣として師の意思を裏切らなかった。
不白と宗員の関係は、恰も家康と秀頼の場合と似ている。しかし、その態度は見事で、道にそむかぬ美しい師弟愛を残して、茶道の権威を些かも傷つけない。
明和四年(一七六七)には百会の茶事を催し、利休の墓石を建立して、一門に“心入りの深さ”を貴しとする侘茶の精神を示している。
開祖・利休は“侘”と“寂”の確立に、不撓不屈の精神を堅持して、死をも辞さなかった。その町人茶道の発展に身を挺したのは、実にこの川上不白である。
不白は、晩年、神田明神の一角に“蓮華庵”を結び
「濁り水の中に住んでも汚れを知らぬ蓮の心こそ日蓮上人の不動心じゃ。そして名利を休む心こそ茶道の魂であると“利休”と号された開祖の信条と同じものぞ」と門弟らを戒めている。
その不白宗雪から、泰弘は初対面でありながら「雲霧にくもらぬ月の心の持主」と賛えられていることを、あるべき姿として覚えておきたい。
思うに、泰弘は、「清廉と正直」の家訓を代々貫きながらも「苟かなりと世を益せん」と努めてきた父祖の生き方を内心では大きな誇りと感じていたのではないだろうか。 
(9) 種まき権兵衛 / 生まれ
さて、泰弘は、商売柄、熊野各地の狩人の中にも友が多いようだが、知己の一人と伝えられる「種まき権兵衛」の義侠の生涯に就いて述べよう。
将軍吉宗の“享保の治”の全盛期の頃、熊野相賀村便山に痛快な一人の郷士が住んでいた。
権兵衛が種まきや 烏がほぢくる。三度に一度は 追わずばなるまい。
と後世まで永く歌われた『ズンベラ節』の主人公である。
彼の父は、大坂ノ陣で奮戦の末「日本一の武夫」と讃えられた名ある真田一族(大助とか云う)をかくまってこの地に落ちて来た上村兵部重久と云われる。その祖先は、南北朝末期の明徳年間に名を知られた上村角左衛門重正なる勇将だから、古くからこの地の郷士だったようだ。
延宝三年(一六七五)三月、兵部は没し、宝泉禅寺(*1)に葬られているから、大坂陣では若者だったろう。小山浦に定住した川端左近と共に世を忍ぶ身であった。
権兵衛が生れたのは元禄初年(一六九〇)と云われているから、兵部は彼の祖父かも知れない。いずれにせよ父祖代々武勇の家柄だったに違いない。
その血をうけたからだろう。権兵衛は、若年から武芸に秀で、特に鉄砲の名手で知られた。畑仕事にはさっぱり実が入らず、専ら鉄砲を肩に山野を駈け廻って稼いでいたから、村人の間にあのような民謡が生れたのだろう。二番の歌詞の
向うの小山の、小松の木陰に 十七島田が 出て来て手招く 何をば捨てても、行かずばなるまい。
の句から察して女性にもてたらしい。

(*1) 三重県北牟婁郡紀北町海山区便ノ山 
(10) 種まき権兵衛 / 権兵衛の苔莚
或年の秋に、大台山麓の岩井谷で日が暮れてしまい、権兵衛は大樹の根元で野宿したが、夜半になると嵐模様となって来た。
「これはいかん何処かに岩穴でもなかろうか」と探すうちに、一陣の烈風と共に、巨い鼠の様なものが飛んで来て権兵衛の身体に巻きついた。
さすがの権兵衛もこれには驚いたが、不思議な事に吹きすさぶ雨風を遮ってくれ、少しも濡れず、撫ぜて見ると柔らかな毛のような感触がする。
「さては妖怪か動物か、その正体を見届けるまでは迂闊に動けぬぞ」と息をこらしているうちに漸く明方となった。
よく見れば、年久しく大岩を覆っていた苔が風にはがれて彼にまつわりついたものだった。お陰で一晩中、布団代わりに権兵衛をくるんでくれた事が判った。喜んだ彼は苔を元の大岩に戻して山を下りると、その話を村人に語った。それを聞いた人々は彼の肝の太さに驚いて“権兵衛の苔莚”と語り継いでいる。 
(11) 種まき権兵衛 / 鉄砲の名人芸
また便ノ山の近くに馬越山という大山がある。そこには当時、日本三妖狐と称された「伊勢の柴六」「大和の源九郎」と並ぶ「熊野の三太郎狐」が人々を悩ませていた。しかし、さすがの古狐も権兵衛に手痛い目にあってから何処かへ逃げてしまった。
喜んだ人々は、口々に権兵衛の豪勇と鉄砲の名人芸を讃えはやした。折から領内巡視に来られた紀州公がその話を聞かれて
「是非ともそれを見たい」とお召しになった。
そこで権兵衛も謹んで出頭すると山の頂上から樽を転がり落し、まるで猪の走るように凄しい勢で転がって来るのを三回狙い撃ったが、弾は悉く同じ処に当たったと見え、弾痕は一カ処しかなかった。そこで一同驚いて舌をまき、殿様も大いに満足され、過分な褒賞金を賜った。
此事から権兵衛の名声は一段と高まり、小山浦に住む、大坂ノ陣で祖父の戦友だった川端左近の一族が祝いにやって来て大酒盛となった。川端左近の一族が、その名人芸を賞讃すると、権兵衛はニヤリとして
「内緒話じゃがの、後の二発は空弾だったのよ。これで爺様も、大坂ノ陣の腹が癒えたろう」と高笑いした。その度胸の良さに驚き呆れつつも、彼も落人の子だけに胸の溜飲を一度に下げたと云われる。
大坂ノ陣の敗戦後、彼らの徳川に対する怨が如何に深かったかが察せられる。 
(12) 種まき権兵衛 / 紀州大守からの直命
村人たちは、此頃になると、かねて権兵衛が種をまいても、狩好きでろくに手入れもせず、終には空しく鳥や雀の餌となってしまうのを見て、
「権兵衛の種まきや労するばかり、種はまいても実りやせず、鳥や烏の餌となる」と笑い、“種まき殿”とか、彼が常に大切に持っているズンベラ石から“ズンベラ殿”と仇名していたのも口にしなくなった。
それ処か、猪や鹿の害に手を焼いた各地から礼を厚くして頼みに来る人々が口々にその名人ぶりを讃えるのを見て、我村の誇りと進んで耕作の手伝いや刈入に協力してくれるようになった。それで、便ノ山杉野の彼の屋敷周辺の田畑は豊かな収穫をもたらし、妻子もどうにか飯を食べる事が出来た。
一代の豪商紀ノ国屋が世を去った享保の末、権兵衛の屋敷に木ノ本代官から召出しがあった。
「何事ならん」と参上した処
「紀州大守からの直命で、かねて馬越山頂上の天倉山の岩穴に永年栖みついて、人々に被害をもたらす稀代の大蛇めを、権兵衛に退治させよとのお言葉が下った」と云う。
その大蛇は、かねて尾鷲の鉄砲頭である楠権左衛門と云う藩きっての鉄砲の名手が命を受けて討取るべく狙い続けた。楠権左衛門は、三度も鉄砲を打ちかけたが、刧をへた蛇体は弾丸をはね返してどうしても倒す事が出来なかった。
そして遂に権兵衛が選ばれたもので、それを聞いた彼は
「身に余る光栄でござる。必ず退治仕らん」と約して我家に帰った。 
(13) 種まき権兵衛 / 大蛇退治に出発
その夜、妻子一族を集めた権兵衛は何時になく厳しい面持で
「わしも永年の間、狩猟を業とし、いずれは狩で命を落す事になろうと覚悟をしていたが、今度計らずも大殿様からの格別の命で退治する事になった。かの大蛇めは、わしも度々出逢った事があるが、数百年も前から天倉山に栖む大魔物だけに、或いは、わしがやられるかも知れぬ。が、決して只では死なん。刺違える覚悟で立向かうつもりじゃ、されば今宵は別れの宴となるやも知れん。快よくつきあってくれ」と云い、用意した酒を大盃で傾けると嫡男、次男と酌をして廻った。
やがてほろ酔い機嫌で、近頃尾鷲の船乗共が歌い始めた“ズンベラ節”を歌い、楽し気に水入らずの一夜を過ごした。
明けて翌朝早く、権兵衛は、かねて父が死際に
「この石にわしの一念を宿して置く。若しかの時には一心に念じつつ撫ぜよ。必ず霊験があろう」と遺言して呉れた“ズンベラ石”と、蝦蟇の皮を用いて作った三角形の“魔物を呼び寄せる力がある鹿笛”を懐中に、我家を出た。
時に元文元年(一七三六)の夏で、右手に愛用の筒口が六角形で経文を彫り込んだ六匁の大鉄砲、腰には先祖伝来の名刀をたばさみ、意気高く便ノ山から馬越山をめざした権兵衛の姿は、出陣の武将さながらの勇姿だったろう。
『熊野年代記』によれば、この年の夏は大雨が続き、新宮川原町では出水の度に家をこぼち十三回も大騒ぎを繰り返している。そんな中で権兵衛は、大蛇の通い路にある馬越川の魚飛の岩窟を根拠として、毎夜油断なく待伏せていたらしい。
然し仲々好機がなく、大蛇の巣窟の一つである天倉山に移って、数日間、例の笛を吹き続けた。 
(14) 種まき権兵衛 / 大蛇を退治する
そして遂に、鹿の鳴声と思った大蛇が誘い出されてやって来た。それは八月半ばの夕暮時で、心中で観世音菩薩を念じつつ、四辺に目を光らせていた権兵衛の前に、見るも巨大な大蛇が姿を現した。
好物の鹿と思い、するすると迫って来た大蛇は、木の股に銃身を支えて構えている権兵衛を見るや、怒りに燃え、真赤な舌を閃めかし、巨口を開いてまさに飛びかかろうとした。
その瞬間、
「ダダーン」と銃声が轟いた、と見るや、弾は見事に口中に命中炸裂した。急所の痛手に苦しむ処を、手早く次の弾を装填した権兵衛は、咽頭元めがけて続けて二発まで射込んだ。これで、さすがの大蛇も血へどを吐きながら逃げだした。
大蛇は、尾鷲に通じる谷川の畔で、遂に息絶えた。それで人々は後にそこを“蛇の下”と呼んでいる。
ところが権兵衛も毒気にあてられて其場で気を失い、折から銃声を聞いて駈けつけた村人の戸板に乗せられて、漸く我家に運ばれた。 
(15) 種まき権兵衛 / 権兵衛、死す
権兵衛はやがて正気に返ったが、五体は腫れ上がり、身動きもならない。病床に伏すうち、それを知った無二の猟友、北山村の射場兵衛が心配して見舞にかけつけた。彼の祖先は射場弾正と称し、大台ガ原に出没した猪笹王(*1)と呼ぶ大怪獣を討取った勇士の子孫だけに権兵衛も大いに喜び
「わしは今度の大蛇退治を限りに狩猟を止めるつもりじゃから、全快しても二度と鉄砲に用はないし、若し運尽きて世を去るようなら貴殿に遺品に献じよう。」と最愛の巨銃を彼に与えたのは、さすが豪気な権兵衛も己の寿命の尽きたのを予感しての事だろう。
権兵衛大蛇退治の話は直ちに藩公の耳にも達し、莫大な恩賞が下賜された。しかし、大蛇の怨霊に崇られたか、権兵衛は、その年の十二月二十六日遂にこの世を去り、宝泉寺の一角に「法名慶順」として葬られた。
二十一世紀も近い今日、日本にそんな大蛇がいた等とは信じられないが、『熊野年代記』の中には、度々その存在が記されている。尾鷲、蛇の下には
「大蛇の骨の太さは一生徳利程もあった」と伝えられている。
現に南郡に住んでいた私の曾祖父が、若い頃、山中で出くわした大蛇の巨大さは
「実際は四斗樽程の胴廻りだったろうが、俺には唐傘ぐらいにも見えたぞい」と云う話をこの耳で聞かされた私は、それを信じて疑わない。
権兵衛が、守り本尊とした“ズンベラ石”は、今も尚、宝泉禅寺に残されている。
『ズンベラ節』は、
沖の暗いのに白帆が見える。
の鳥羽浦の民謡と、水野藩家老・関匡作の
紀ノ国は 音無川の水上に 立たせ給うは 船玉山……
の唄と共に、大江戸一円から全国津々浦々で歌い囃された程である。
私達は、種まき権兵衛を熊野の豪雄の一人として高く讃え、その史跡保存を次の世代に強く訴えたい。

(*1) いざさおう。吉野地方に伝わる伝説の怪異・妖怪 
 
戦国時代と家紋

 

秦氏の末裔、穢多頭の「弾家」と明治維新での中核士族の「島津氏」とが同族であるとの根拠のひとつとして、「家紋」があります。両家の家紋は「丸に十字」です。しかし、元の家紋には丸がなくて、唯の「十字」だったのです。
十字と言えば、キリスト教(ヨシュア教)を思い出すひともいるかとおもいますが、キリスト教の十字架は、オリジナルではなく、太陽神ミトラ教の太陽のシンボル、マルタクロス(十字)を導入したものなのです。
そして、マルタクロスのシンボルを用いる景教は、キリスト教から分派したネストリウス派だといわれていますが、それは逆です。
ローマ軍神としてミトラ神(ラテン語ではミトラス神)が信仰されていたのに、392年ユダヤ教の一派である反ローマ帝国のヨシュア教(ギリシャ語でキリスト教)が、突然ローマ帝国の国教となり、そのローマ帝国は、395年東西に分裂するのです。428年東ローマ帝国において、ネストリウス派は、キリスト(ヨシュア)の神聖を認めない「人間キリスト」の宗論を展開するのです。それに対して、東ローマ帝国を影で支配する国際交易商人は、キリストを神格化して、キリスト教布教の名目で異教国への侵入手段として、異教国支配を計画していたのです。431年エフェソスの公開議で、人間キリストを主張するネストリウス派は異端と決め付けられ、435年東ローマ帝国から追放されるのです。その追放されたネストリウス派キリスト教徒達は、東ローマ帝国と対立する隣国ササン朝ペルシャ帝国(293年〜642年)に受け入れられるのです。そして、ネストリウス派キリスト教徒は、ペルシャ交易商人と供に、シルクロードを東進し、北魏(農耕民族の漢民族でなく、騎馬民族の拓跋部が支配。拓跋部は源氏の元。423年〜534年)の都洛陽に渡来するのです。そのころ、北魏では、道教が盛んになり、仏教は弾圧されていたのです。
その東ローマ帝国の教皇に破門されたキリスト教ネストリウス派とは、太陽神(ミトラ神)が先祖がえりしたものです。太陽を崇拝する景教は、元々は太陽神ミトラ教の教義を取り込んだ宗教組織で、中国大陸での布教が成功すると、中国王権から太陽を祀る宗教ということで、景=日(太陽)の京(都)の宗教と言われたわけです。
騎馬民族支配の北魏→隋→唐(日本列島では、騎馬民族支配の飛鳥時代から奈良時代)では、絹織物を求めるペルシャ交易商人が商業の拠点として寺を建立するのですが、それは、ペルシャ寺=ネストリウス派教会=景教寺というわけです。(603年創建と言われる、蜂丘寺「後の広隆寺」は景教寺です。)古代では、異教民との商取引は、神聖な神の下(寺・教会・庭=神が宿る場所)でおこなっていたのです。そして、ミトラ神は軍神だけではなく、オリエントでは異教民との商取引を見守る「契約神」でもあったのです。
では何故、秦氏の末裔、弾家と島津氏の家紋が、景教のマルタクロスなのでしょうか。
日本の家紋は、十六世紀半ば突然に戦国時代の武将率いる軍団の、現代の宣伝旗のように露出度を上げるように、更に遠方から確認できるように、軍団ごとの特徴を簡潔なデザインマークとし、その軍事部族のシンボルマークを施した旗物に現れるのです。
家紋が武士の合戦時に敵味方を確認するマークとして必要なものであるのならば、何故十三世紀の源平合戦で、白旗と赤旗ではなく、家紋が登場しなかったのでしょうか。
鎌倉時代末期、元寇による戦後の論功行賞で、戦費持ち出しの武士団に報いられない百済北条政権は、崩壊寸前だったのです。(元は、百済北条氏が支配する鎌倉の都で禅宗が保護されていることを知っていたので、禅宗僧を元軍の使者として、北条政権に交易を求めてきたのです。それも二度です。しかし、北条政権は、元軍の手先の禅宗僧の密使を二度とも惨殺してしまうのです。それに対して、元軍は、日本列島に1274年と1281年に二度来襲するのですが、元軍船は二度とも暴風雨により壊滅してしまうのです。元軍の来襲は、難破船の荷物の中から種籾や農具多数が発見されたため、日本列島征服を本気で考えていたようです。それは、元軍は、日本列島で金・銀が多く産出されることを知っていたからです。この情報が、マルコポーロにより黄金の国「ジパング」と紹介されることにより、ヨーロッパ諸国の東アジア植民地化政策を助長したのです。)
そこに、後醍醐天皇(1288年〜1339年)が、即位後、院政をやめるのです。そして、第二百済王朝の北条鎌倉政権から都を追われていた藤原氏の暗躍により天皇親政を行い、そして、北条氏により山奥の僻地に追われていた源氏一族の楠正成、足利尊氏、新田義貞などの百済北条政権に不満を持つ地方豪族の武力協力により、1333年北条鎌倉幕府を倒すのです。
では、鎌倉北条政権に反旗を翻した後醍醐天皇とは、どのような出自の天皇なのでしょうか。系図では、後宇多天皇の第二皇子ということですが、「醍醐」の天皇名が気になります。
「醍醐」と言えば、藤原氏全盛時代の平安時代に、反藤原氏の菅原道真を大宰府に左遷し藤原氏全盛の基礎を築いた醍醐天皇(885年〜930年)が在位していました。父は宇多天皇で、母は内大臣藤原高藤の娘、藤原胤子となっていますが、疑問符があります。それは、「醍醐」の文字です。
「醍醐」とは、牛乳製品を発酵する段階で生ずる物質である、乳(にゅう)→酪(らく)→生蘇・酥(しょうそ)→熟蘇・酥(じゅくそ)→醍醐の、五味(ごみ)のことを言うのです。この「醍醐」は、馬が生息していなかった日本列島に馬具が古墳から現れる四世紀以降、オリエントから渡来した騎馬遊牧民族により、日本列島に持ち込まれたものです。つまり、チーズ(醍醐)は、騎馬遊牧民族のご馳走であるわけです。しかし、醍醐(チーズ)は、蘇我王朝、天武王朝が壊滅すると、製品としては存在しなくなり、騎馬遊牧民族の末裔ではない百済王朝・藤原王朝の平安時代では、「醍醐味」として、「最高の美味」の意味の言葉としてのみ存在するのです。
食生活でも、飛鳥・奈良時代の貴族と平安時代の貴族との異民族性が証明できるでしょう。それは、飛鳥・奈良時代では貴族は肉食し騎馬により行動していたのです。それに対して、平安時代の貴族は肉食せず、騎馬をせず、牛車を交通手段としていたのです。
そのチーズ(醍醐)と命名された醍醐天皇の血には、騎馬遊牧民族の血が流れていたのです。醍醐天皇は、父宇多天皇が皇子の時、山里で契った騎馬民族の娘の子であったのです。その「醍醐」の名を引き継ぐ後醍醐天皇により、天皇家は南北に分裂し、南北朝が始まるのです。
1334年の建武の中興での恩賞の不公平による足利尊氏の後醍醐天皇からの離反により、1336年後醍醐天皇は、吉野へ逃れ、ここに北朝(京都朝廷=光明天皇)と南朝(吉野朝廷=後醍醐天皇)に分裂するのです。南朝は、北朝の攻勢により九州(秦氏の末裔島津氏の支配地に藤原氏の本流近衛家は隠棲していた。)に逃れ、一時巻き返すのですが、1339年後醍醐天皇が死去し、南朝を支えていた武将もこの世から次々と去ることにより、1392年足利義満の斡旋により南北朝は合体するのです。しかし、それは表面上です。藤原氏、百済皇族、新羅系源氏武士との三つ巴の戦いは更に続くのです。
九州では、南北朝の戦いが明治維新まで続くのです。そして、江戸末期、藤原氏の流れにある菊池氏の末裔西郷隆盛は、北朝の考明天皇を抹殺して、南朝の皇族大室寅之助(薩長藩により睦仁親王を抹殺し、明治天皇に成代わる。)を、「玉」として明治維新に可担ぎ出すのです。これは正に、645年に蘇我王朝を藤原王朝が簒奪した再現劇です。だから、藤原氏復古の王権簒奪王朝の明治新政府は、史実を隠蔽するため王政復古を唱え、645年大化の改新(虚構の改革)を教科書歴史に取り込み、学校で生徒に刷り込んだのです。
1394年足利義満は、太政大臣となり、ここに室町幕府が確立するのです。
足利氏は源氏一族ですので、鎌倉時代に賎民の穢多に貶められた軍事技術集団の秦氏の末裔は表社会に現れ、それらの技術を庶民生活に反映するのです。室町時代は、職能民・芸能民世界の黎明期です。鎌倉時代、百済王朝や大乗仏教から賎民と貶められた職能民・芸能民達を足利政権は、保護育成するのです。そのひとつが、能楽です。世阿弥は、1402年風姿花伝を著すのです。そして、中国禅宗の文化は、源氏武家社会に取り入れられ書院造が完成し、中国神仙画が日本版山水画として完成するわけです。現在の日本文化の多くの基は、源氏支配の室町時代から興るわけです。
騎馬民族は、商業民族と同じです。それは、騎馬により物流管理を行い、遠方へも広く交易をおこなうからです。騎馬民族末裔の新羅系日本人は、百済鎌倉時代の圧政下で、騎馬により日本全国に独自の商業ネットワークを構築していたのです。
「社会」とは、社(やしろ)で会うことにより、ネットワークを広げることです。鎌倉時代、百済北条政権に賎民に貶められた鎌倉源氏一族の集う社(やしろ)とは、藤原氏により怨霊封じ込めの施設として開発された、「鬼」封じ込めの異界である神社境内であるわけです。
神社とは、鳥居にしめ縄を張った、怨霊封じ込めの「結界」であるわけです。そこには、被征服民族の王が「鬼=敵神」として封じ込められて、祟りをしないように鎮魂させている所なのです。
童謡「とうりゃんせ」の歌詞を思い出してください。「とうりゃんせ、とうりゃんせ、ここはどこの細道じゃ、天神様(菅原道真の怨霊を封じ込めるため、天神として封じ込めた。)の細道じゃ、ちょっととうしてくだしゃんせ、この子の七つのお祝いにお札を納めに参ります、行きはよいよい、帰りは怖い、怖いながらもとおりゃんせ、とおりゃんせ」何故、お参りの帰りが怖いのでしょうか。それは、「神社」が被征服民(反権力者=アウトロー)のネットワーク網の拠点であったからです。そこに集う被征服民の動向を、王権側が探索していたからです。
その結界である神社を商業ネットワークとして、賎民達は同業組合である「座」を組織するのです。その組織を仕切る顔役を、「役座・ヤクザ」と言うわけです。それに対して、比叡山の天台宗は、寺の門前市の所場(しょば)での商業を仕切るのです。この役座が仕切る「座」と仏教組織が仕切る「市」の商業既得権を、戦国時代に織田信長は「楽市楽座」の政策で破壊するのです。
室町時代に庶民の商業活動が活発になったのは、源平時代に平清盛が日宋貿易で、宋銭を多量に輸入していたからです。この流れは、鎌倉時代、室町時代と続くわけです。では、宋銭や明銭は何故日本国に多量に流れ込んできたのでしょうか。それは、日本列島から産出される金、銀、水銀、硫黄などが、宋商人、明商人に多量に持ち出され、その対価としての宋銭であり、明銭であったのです。
この日本列島から産出される鉱物資源に目をつけたヨーロッパ人が、「ジパング」の室町時代末期に訪れるのです。その訪れ方は、宗教者(医者)→病院設立→学校設立→商人の渡来→軍事顧問渡来→軍隊渡来→植民地化の異国侵略方程式そのままです。
鎌倉時代初期から百済王朝や鎌倉北条政権に寄生する皇室・公家・延暦寺配下の寺は国衙領や荘園を経営することによりわが世の春を歌っていたものが、室町時代末期になると、経済的基盤のなかった武士階級は、武家の統治機構である守護・地頭に属する武士達が、地頭請や下地中分として、その国衙領や荘園を侵食し始めるのです。そして、始めは国衙領や荘園の管理者であった武士が、やがてその土地の支配者となり、ついに守護大名と呼ばれるようになるわけです。しかし、仏教組織は、皇室や公家と異なり、武士による荘園侵略を黙ってみてはいませんでした。それは、借上などの高利貸しによる財力にものを言わせ、仏教組織の武装化が更に強化されていくわけです。その武装化仏教の頂点が比叡山の延暦寺です。
この守護大名が、日本列島に多く現れると、必然的に土地争いに発展していくわけです。そして、軍事力のある名も知れぬ小守護大名が、軍事力のない大守護大名の土地を略奪していくわけです。これが、下克上の世であるわけです。
守護大名が自国領の土地を守るには、武力が必要です。そこで、全国の守護大名は、軍事力に力を入れていくわけです。日本全国での土地争いが頻発に起こると、軍人や武器の需要が増していくのです。そこに目をつけた明国の商人が、1542年種子島に「銃」と「傭兵軍」を売り込みに来るわけです。一説では、1543年ポルトガル船が種子島に漂着とあります。
ポルトガルは、1385年アルジュバロダの戦いでカスチラ軍を破り完全独立を果たしたのです。ポルトガル王国は内陸をカスチラ(1479年イスパニア王国となる。)に抑えられているため、経済活動を海外に求めなければならなかったのです。1498年ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開発するも、イスパニア王国では、1492年にはコロンブスによりアメリカ大陸に到達していたのです。そして、その航海術を駆使して西インドに進出し、そこを支配していたのです。そこで、ポルトガル船は、仕方なく黒潮で北上し種子島に漂着したことに、歴史上はなっているようです。
しかし、種子島は、ポルトガル船により偶然歴史上に現れたわけではないのです。この種子島には、出自不明の藤原氏の謎を解くヒントがあるようです。
藤原薬子の乱により蔵人所を置いた前年、809年百済四代目嵯峨天皇が在位した時、種子島に、藤原氏の氏寺である興福寺の末社として、慈遠寺が建立されるのです。それは、藤原氏が、百済桓武天皇の平安京遷都により、奈良の都に封印されてしまってから15年目です。この種子島の慈遠寺建立は、806年空海が唐から帰朝し、真言宗を興したこととの関係を示唆します。それは、宇陀の水銀・銀の交易ルートが、高野山・金剛峰寺→紀州・根来寺→種子島・慈遠寺→中国山東半島と繋がるからです。
何故藤原氏は、孤島の種子島に慈遠寺を建立したかと言えば、「寺」の表の機能が仏像安置場所とすれば、裏の機能は「砦=城=武器庫」だからです。
種子島は、アラビア海→インド洋を抜けてスマトラ海峡を北上すれば、東シナ海の黒潮ベルトコンベアー上に位置するのです。ですから、平安時代末期、ペルシャ平家の平清盛は、南蛮貿易独占のために種子島を占拠し、曾孫の平信基を島主としたのです。
平安時代、藤原氏は、京の都と国際港難波を百済桓武王朝に支配されたため、中国大陸との交易ルートを、種子島→紀州に変更したのです。そして、紀州には興福寺の末寺の根来寺を建立するのです。つまり、藤原氏の国際交易ルートは、中国大陸→種子島(慈遠寺)→紀州(根来寺)となるわけです。
しかし、鎌倉時代初期、ペルシャ平家を滅ぼした武家源氏の棟梁源頼朝により、藤原氏の島津荘園は、秦氏の末裔惟宗忠久が荘園当主となり、惟宗忠久改め島津忠久となり、島津氏の祖となるのです。そして、藤原氏は、近衛家と変身するわけです。しかし、藤原氏の末裔近衛家は、藤原氏得意の「藤原の女」を使う戦略で、島津氏と縁戚関係を結ぶのです。そして、ここから明治維新まで、近衛家のコントロールにより、島津氏(薩摩藩)は行動するのです。(これは正に、イスラエルのエフライム族の巣を乗っ取る、カッコウ・ユダヤのレビ族の行動ソックリです。)
鎌倉時代の新興宗教日蓮宗は、鎌倉では百済北条氏による禅宗保護のため布教ができないため、京で布教を始めるのです。日蓮宗は、騎馬民族蔑視の法華経を解いたため賎民には受け入れられなかったが、現世利益を解いたため欲深い京の町民たちにより支持をうけたのです。この現世利益の日蓮宗は、種子島11代当主時氏により受け入れられ、慈遠寺は、二系統のネットワークルートを得るのです。それは、従来の慈遠寺→興福寺と、慈遠寺→本能寺(日蓮宗)です。本能寺は、日蓮宗の寺であったのです。この本能寺は、島津氏(藤原氏)により、中国から種子島において南蛮密貿易で仕入れた「硝石=火薬の原料」の秘密貯蔵庫だったのです。(イエズス会宣教師ルイス・フロイスの日本史によれば、織田信長の本能寺での死は、「だが火事が大きかったので、どのようにして彼が死んだか判っていない。我らが知り得た事は、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄した人が、毛髪といわず骨といわず灰燼した事である。」と爆死を暗示しています。)そして、1549年イエズス会のフランシスコ・ザビエルが、突然鹿児島に現れるのです。
イエズス会が日本列島に現れたのは、丁度戦国時代の真っ只中です。日本列島は、九州の島津貴久、中国の毛利輝元、四国の長宗我部元親、尾張の織田信長、長野の武田晴信、伊豆の北条氏政、信濃の上杉輝虎達の群雄割拠であったわけです。
これらの武将が表の軍団だとすると、裏の軍団が仏教軍団です。仏教教団は、布施などの集金システムで集めた金を、借上の高利貸しで蓄財し、その財力で僧兵軍団を組織していたのです。戦国時代の主な仏教軍団は三つです。それらは、最大組織の百済京都王朝が支配する比叡山の天台宗の延暦寺と、京の町民が支持する本能寺を砦とする日蓮宗(法華宗)と、そして、賎民を引き入れて軍団を組織した浄土真宗です。それらの三つの仏教軍団が京の都の支配権を争っていたのが、戦国時代であったのです。これらの宗教戦争は、藤原氏、百済皇族、新羅武家源氏の鎌倉時代からの火種が基です。
その宗教戦争に巻き込まれてしまったのが、鎌倉北条政権により、穢多に貶められてしまった、鎌倉武家源氏の残党と秦氏の末裔です。室町時代の武家源氏の世になったのもつかの間、藤原氏は、その流れにある日野家の女を使って、源氏足利氏に食い込むのです。三代将軍足利義満の側室日野業子、四代将軍足利義持の側室日野栄子、六代将軍足利義教の側室日野重子、八代将軍足利義政の側室日野富子など、平安時代での百済京都王朝に藤原の女を側室とする戦術そのままを使うことにより、室町時代の源氏足利氏を、貴族化(藤原氏化)とするのです。
その藤原氏の一族日野有範の子息が、1173年(承安3年)に生まれた親鸞です。親鸞は、法華経布教の元祖比叡山の延暦寺で修学に励むのです。しかし、聖徳太子の夢のお告げを聞き、浄土宗の法然の弟子となったと言うことです。しかし、親鸞の言動は、どうも、ユダヤ教のモーセを思わせます。その浄土真宗の教えは、信心に徹底し、信がさだまったときに必ず仏となる者の仲間に入れる。つまり、浄土教を信ずれば、浄土往生以前にこの世で救いが成就する、と説いたのです。そして、絶対他力の教学を説いたのです。
そして、藤原氏の末裔親鸞が百済京都が支配する比叡山により、過酷な攻撃を受けることにより(敵の敵は味方)、反百済の賎民は、「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」のキャッチフレーズにより、浄土真宗は賎民の味方だと惑わされてしまうのです。
江戸時代、この親鸞の一神教のような、百済大乗仏教への排他的思想により、穢多は更なる差別を受けることになるのです。親鸞は、百済仏教に攻撃を仕掛ける武力を得るために、肉食を大悪とする教義で大乗仏教にイジメられている、穢多に甘言を述べるのです。

それは、「唯信鈔文意」で述べるには、
屠は、よろずのいきたるものを、ころし、ほふるものなり。これは、りょうしというものなり。沽は、よろずのものを、うりかうものなり、りょうし、あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかいをふたごころなく信楽すれば摂取のひかりのなかにおさめとらせまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまう

この「敵の敵は味方」戦術を、戦国時代の賎民や源氏落武者の末裔は、「救い」と勘違いしてしまうわけです。この親鸞の穢多に布教する戦略を、江戸時代の与力・坂本鉉之助が「咬菜秘記」で明快に述べています。

この処に候。穢多ども人間交わりの出来ぬという所が、彼らの第一残念に存する処にて、親鸞という智慧坊主、その処をよく呑み込んで、この方の宗門にては穢多にても少しも障りなし、信仰の者は今世こそ穢多なれど、後の世には極楽浄土の仏にしてやろうと言うを、ことのほか有り難く思い、本願寺へ金子を上げること穢多ほど多き者はなし。死亡後の有るとも無しともしかと知らぬことさえ、人間並みの仏にすると言うを、かくかたじけなく存ずるからは、ただ今直に人間に致してつかわすと申さば、この上なく有り難がり、火にも水にも命を捨て働くべし。

親鸞が唱えた浄土世界を信じた穢多や源氏落武者の末裔は、心をひとつとなし「一向」として、百済貴族や守護大名の領地を攻撃するのです。穢多の多くは、元々鎌倉源氏時代までは武士集団だったので、実践力のない百済兵士や農民兵士の相手ではなかったのです。そして、一向一揆は賎民の自治権を得るため、戦国大名の領地を奪取する目的で、全国に広がっていくのです。
その一向一揆を煽る浄土真宗本願寺の本陣は、源義経が屋島の合戦の時に出陣した渡辺津近くであるわけです。渡辺津は、百済亡命貴族が憎む(663年新羅花郎軍団により本国百済が滅ぼされた。)武家源氏(新羅花郎軍団の末裔)の居住地であったのです。現在の近畿地方での民族差別の元は、約1500年前の朝鮮半島での百済と新羅との闘争であったのです。
この渡辺津周辺は、戦国時代には日本列島の国際交易の中心地となっていたのです。その津の近くにある上町台地は、大和川と淀川による水運も良く、国際交流の歴史も古いため、戦国時代には、ここを手に入れることは日本列島はもちろん世界への交易権を手に入れることと同じ意味と考えられていたのです。織田信長は、この見晴らしの良い上町台地に着目し「そもそも大阪はおよそ日本一の境地なり。」と唱えたほどです。この小坂(おさか→おおさか・大阪)の台地の占領を企てる集団が、海の向こうから現れるのです。それは、イエズス会と行動を伴にする国際交易商人です。
1549年鹿児島に渡来したイエズス会は、他のキリスト布教教団とは異なっていたのです。それは、右手に「聖書」、左手に「銃」を持つ戦闘的キリスト教団だったのです。更に、国際交易商人も同行していたので、キリスト教布教が目的か、商業支配が目的かはっきりしませんでした。(何故、宇陀の山奥に、高山右近ジュストにキリスト教会を建てさせたのかは、キリスト教布教のためだけではないでしょう。そこに、イエズス会の日本列島渡来の裏の目的が現れています。)
日本列島に渡来するまでのイエズス会は、1509年ディウの海戦でインド洋を制覇し、1510年ゴア・コロンボを占領するのです。そして、1511年インドネシア諸島のマラッカを占拠し、銃の武力を背景にキリスト教を布教していたのです。そして、現地人を取り込むシステムとしての、病院設立→学校設立の異民族征服プロセスを飛ばし、いきなり軍隊侵攻で現地宗教組織を破壊して、現地人による傀儡支配層を構築し、キリスト教教会を設立していたのです。そして、1542年インドにザビエルが現れるのです。
しかし、1548年南方に漂流しイエズス会に入信したヤジロー等からの情報により、日本国はインドやインドネシャ諸島の住民と異なり、文化も軍事力も格段と勝っていることを知り、正規の異教国侵略プロセスを辿ることにより、日本列島キリスト教化を目論むのです。
そのためにイエズス会が最初に訪れたのが鹿児島の島津氏です。島津氏は、元は秦氏の末裔です。秦氏は、太陽神を祀る景教(ミトラ教)を信仰していたのです。キリスト教は、その教義の基本はミトラ教からの借用です。12月25日のクリスマスはミトラ神の再生誕生日です。十字架は太陽のシンボル・マルタクロスで秦氏の家紋です。ぶどう酒とパンの儀式は、ミトラ神の牡牛を屠る儀式からの借用です。
それらのキリスト教と景教との共通点を知ることにより、秦氏の末裔で賎民身分から、下克上により戦国大名に成り上がった武将達は、次々にキリスト教に入信、キリシタン大名となっていくわけです。
イエズス会の目的は、日本列島をキリスト教化することです。しかし、イエズス会を経済的に支援する国際交易商人は、日本最大の交易地の小坂(おさか)を支配することです。その目的を果たすには、どの武将を軍事的に支援するかを考えるわけです。
小坂は、渡辺津からの地続きで、そこは新羅花郎軍団の末裔武家源氏の地です。源氏に対抗する軍事部族は、当然平家です。
平安末期の源平合戦で活躍した、ペルシャ平家の発祥地は、伊勢です。伊勢は、古より水銀を求める国際交易商人達の交易地であったのです。その南蛮との水銀交易で莫大な財産を築いて、後白川法皇に取り入ったのが、ペルシャ平家だったのです。しかし、源平合戦で、ペルシャ平家は、武家源氏に敗れて、日本列島から抹殺されたことに歴史上なっているのです。しかし、ペルシャ平家の平維盛の末裔は、ペルシャ平家発祥の地、伊勢に落ち延び関氏となっていたのです。
そのペルシャ平家末裔の伊勢亀山城主の関一政に、イエズス会宣教師オルガンティーノが聖ヨハネ騎士団ジョバンニ・ロルティスを伴って来るのです。そして、ジョバンニ・ロルティスは、軍事顧問として関一政に仕えるのです。そして、ジョバンニ・ロルティスは、関一政夫人の兄、キリスト教に帰依した蒲生氏郷(1556年〜1595年。洗礼名レオ又はレオン)に、軍事顧問として召抱えられるのです。この蒲生氏郷は、織田信長の娘を妻とする、織田信長の家人だったのです。そして、織田信長に謁見するため、ジョバンニ・ロルティスは、蒲生氏郷により、山科羅久呂左衛門勝成と命名されるのです。ここから、尾張の弱小武将であった織田信長の快進撃が始まるのです。
織田信長は、自称平氏と述べていますが、その織田氏の出自がはっきりしないのです。織田氏は、系図では、初代織田久長→梅定→信定→信秀→信長、となっていますが、梅定以前が不詳です。つまり、三代先が分からないのです。
戦国武将で出自が分からないのは織田信長だけではありません。豊臣秀吉、徳川家康も、その出自が分からないのです。
自称平氏の豊臣秀吉の系図は、木下氏初代弥右衛門の子となっていますが、その弥右衛門も不詳なら、母方はまったくの不詳です。つまり、出生地も誕生日もまったく不詳なのです。だから、織田信長も豊臣秀吉も、源氏ではなく出自不詳のため、侍の最高地位の征夷大将軍にはなれなかったのです。
それに対して、自称源氏の徳川家康の系図は、松平広忠と伝通院夫人の子となっていますが、徳川家康の行動(戦闘時、秦氏の末裔服部忍者のバックアップを受ける。穢多頭弾佐衛門を江戸に招き、籠にて帯刀し登城を許す。豊臣秀吉により、一向一揆において武闘力で活躍したため小坂の領地を没収され賎民穢多村に落とされた渡邊村を役人村に格上げした。朝鮮学者を尊敬し朱子学を学ぶ。豊臣秀吉の朝鮮半島での人間にあるまじき蛮行に対して朝鮮王朝に詫びる。藤原氏傀儡の豊臣秀吉の墓を暴き破壊する。)には賎民擁護の姿勢が強く出ているため、その出自が賎民部落出身で、松平氏ではないと疑われています。(江戸時代、家康存命中までは、賎民達が暮らし易かったが、百済の血が流れている三代将軍家光から第三次百済王朝で、弾佐衛門は再び穢多としてイジメられる。そして、1687年(貞享4年)百済系徳川五代将軍綱吉による、生類憐みの令発布により、日本版カースト制度、「士農工商・穢多・非人」が完成する。)
この戦国武将達の出自も不詳なら、その戦国時代に活躍した武士団にも不思議なことがあるのです。それは、家紋の出現です。
家紋の歴史上の出現は、それほど古くはないようです。天皇家の十六弁八重表菊紋は、1198年後鳥羽上皇が、菊を好み、自らの印として愛用としたのが始まりとされています。公式に菊紋が皇室の紋とされたのは、1869年(明治二年)の太政官布告によるのです。
この家紋の不思議は、その図案の元となる動植物などが、日本列島古来のものではなく、オリエント渡来のものが多いということです。天皇家の菊も、日本列島古来の花ではなく、オリエントから渡来したものなのです。
では、このオリエント渡来の動植物等を元にデザインした家紋を掲げる戦国武士団の出自を、どのようにして説明したらよいのでしょうか。
日本列島における軍人の呼び名は、飛鳥時代の兵(つわもの)、平安時代の武士(もののふ)・侍(さむらい)、鎌倉時代の武士(ぶし)、江戸時代の武士(ぶし)・武芸者(ぶげいしゃ)などと呼ばれているようですが、それらの日本列島での軍人はどのようにして発生したのでしょうか。
飛鳥時代の代表的軍事部族の物部氏は、倭族とツングース族との混成軍事部族です。平安時代の武士は、怨霊封じのキヨメを行う新羅花郎軍団の末裔です。そして、侍は、天皇の警護と秘書業務を兼ねる、百済亡命貴族の末裔です。鎌倉時代の武士は、源氏は新羅花郎軍団の末裔で、ペルシャ平家は伊勢に渡来した南蛮軍事部族の末裔で、平氏は、百済亡命軍団の末裔です。家紋の用途が、戦闘状況下での敵味方の識別マークだとするならば、何故、戦国時代まで家紋が出現しなかったのでしょうか。
そこで考えられるのが、戦国時代までに中国大陸から日本列島への、オリエント由来の軍事部族の渡来です。
642年ササン朝ペルシャは、571年生まれのムハンマドによるイスラーム教軍団により、ニハーヴァンドの戦いで破れ、ササン朝ペルシャ帝国は崩壊するのです。ローマン・グラスと絹織物との交易中継国であるササン朝ペルシャ帝国のヤズデギルド三世は、シルクロード交易先の唐国をたより、東方へ敗走するのですが、651年に暗殺され、ここにササン朝ペルシャは滅亡するのです。
しかし、そのササン朝ペルシャ帝国残存の貴族、軍団、商人の多くは、唐国(618年〜907年)に辿り着くのです。それに対して、北からの騎馬民族突厥(チュルク族)の圧倒的軍事力に悩む唐国は、そのササン朝ペルシャ帝国亡命者を庇護するわけです。そして唐国は、その残存ササン朝ペルシャ軍団を唐軍に組み込むことにより、唐軍団は、パミールの西まで勢力を伸ばすことが出来たのです。
唐国は、ササン朝ペルシャ軍団のほかに、もうひとつの宝を手に入れたのです。それは、ペルシャ商人のソグドです。
ソグド人は、オリエントで紀元前一千年ごろから活躍したアラム人を祖先としているようです。そのアラム人は遊牧民出身の国際商業民であったのです。しかし、紀元前八世紀にアッシリア帝国(紀元前933年〜紀元前612年)に、アラム人の政治組織(イスラエル王国を含む)は滅ぼされましたが、そのアラム語は、オリエントでの通商語となり、更に中東全域の共通語へと発展していくわけです。そのアラム語がソグド語、アラビア語、モンゴル語の基となるわけです。
唐国のイメージとしては、東洋人の漢民族の国のように思われますが、実態は、東洋色よりも、オリエント色が強いのです。このソグド商人は、国際商人に相応しく、多言語を話すことができたので、各国の情報も豊富だったのです。(804年唐に留学した空海が、帰国後アラム語の呪文を唱えたのは、藤原氏の依頼により水銀交易のためソグド商人と接触したからでしょう。)
642年ササン朝ペルシャが倒れソグド商人が、唐国に現れた時期が、丁度日本列島で蘇我王朝(突厥系王朝)が、出自不明の藤原氏により倒された時期(645年)と符合するのです。
亡命ペルシャ軍を引き入れた唐軍は、657年西突厥を制圧し、663年唐・新羅連合軍により百済を滅ぼし、668年唐・新羅連合軍により高句麗ほ滅ぼすのです。新羅は、元々ミトラ軍神を祀るギリシャ・ローマ軍により建国された国です。ですから、新羅花郎軍団とミトラ神を祀るオリエントから渡来の唐ペルシャ軍団との軍事連携は、可能だったのです。そして、674年ササン朝ペルシャ亡命王子ペーローズが唐国に渡来するのです。
そのような唐国も、イスラーム軍団がオリエントを支配したことと、北方からの騎馬軍団の来襲により滅亡し、五代十国の分裂時代を経て、960年宋国建国へとなるわけです。
その宋国(960年〜1126年。南朝・南宋国1127年〜1279年)も、北方から来襲した騎馬民族女真が結集して金帝国(1115年〜1234年。)となり、その軍事的圧迫をうけるのです。
南宋国(南朝)は、金帝国(北朝)と平和条約を結ぶのですが、その見返りが、金帝国への絹織物と銀の貢物です。南宋国が、日本国から、宋銭を見返りに、銀・水銀を簒奪したのはそのためです。この南宋貿易で、平忠盛は伊勢の水銀・銀の密輸で財を築き、1132年鳥羽上皇への賄賂で、内昇殿を許されるのです。
やがて12世紀(一説1162年)に、金帝国の北方、ブルカン山ちかくの、モンゴルという部族集団にテムジンが生まれるのです。テムジンは、モンゴル部のなかの更に小連合のボルジギン氏の家柄だったのです。
テムジン(チンギス汗と称す。1206年〜1227年)は、モンゴル集団のリーダーへと浮上したころ、金帝国のタタル部征討作戦を行って「王」の称号を受けたケレイト部のワン・カンの権力を簒奪し、高原の東部と中部の覇者としてのし上がっていくのです。チンギス汗(テムジン)率いるモンゴルは、牧民集団を連合体として肥大化していくわけです。しかし、1227年チンギス汗は、西夏を滅ぼし、帰還の途の六盤山にて死去するのです。
後任のオゴダイ(太宗1229年〜1241年)の下に肥大化し、軍事力を増したモンゴルは、金帝国に挑むのです。そして、六年間にわたる戦闘により、1234年金帝国を倒したモンゴルは、「大モンゴル国」として世界帝国に向けて国力を広げていくのです。
では、何故弱小国のモンゴルが、モンゴル大帝国になれたのでしょうか。それは、金帝国に敗れた騎馬民族国家キタイ遼帝国(907年〜1125年)の軍事力を吸収したことと、国際商人のウイグル人の情報収集力によるのです。
唐帝国も元帝国も、漢民族が国家の運営をしたのではないのです。唐帝国は、軍事の中心は亡命ササン朝ペルシャ軍団で、情報管理はオリエントのソグド商人です。そして、元帝国は、軍事の中心は亡命キタイ軍団で、情報管理は、国際商人のウイグル人であったのです。つまり、唐・元時代の中国大陸には、オリエントから渡来した軍族や商人達で溢れていたのです。
そのような東アジアでのモンゴルが、勢力を増している頃、1219年源実朝は、百済北条氏の陰謀により、公暁により暗殺され、ここに鎌倉武家源氏三代の時代が終わるのです。しかし、その源実朝は、暗殺される三年前、1216年に南宋国(1279年元に滅ぼされる。)の仏工陳和卿を引見して、渡宋を企て、大船の製作を依頼しているのです。このことは、歴史上どのように解釈したらよいのでしょうか。
更に不思議なことがあるのです。それは、1274年の文永の役と1281年の弘安の役の元軍の来襲です。この二度の元軍の大軍団は、二度とも「神風」により壊滅したことに、歴史上はなっているようです。その説明として、元軍は、海洋民族ではなく、騎馬民族のため、操船に不慣れなため、一寸した一夜の暴風雨でも全滅した、と言うことです。
しかし、この説明は、説明になっていません。それは、フビライ(世祖1260年〜1294年)が経営するモンゴル帝国(1271年元・蒙古帝国)の実情を知らないための説明です。
モンゴル帝国は、1260年をさかいに、前後ふたつのモンゴルに分けることが出来るのです。前期モンゴルは、陸上における領地拡大の時代だったのです。しかし、後期モンゴル(1271年に元国と命名)は、南宋国(源実朝が亡命を企てた国)を接収して、南宋国の海洋渡航技術により、ユーラシアはもとより、北アフリカまでを交易圏にする大構想を持って、海洋貿易立国を推進していたのです。
そのために、中国全土を経済圏とする目的で、南北を連ねる大運河の建設に着手したのです。そのため、元国の貿易船は、内陸運河網により、首都・大都(北京)→通州→直沽(天津)→(渤海湾を経由)→属国・高麗→日本へと大型海船が航行していたのです。
そうでなくとも、中国大陸と外洋船によるアラブやイランとの国際交易は、八世紀からおこなわれていたのです。それらのアラブ人の船員が、中国東海岸地区での港湾都市での出来事を物語したのが、シンドバッド(インドの風を利用して船を帆走させる海洋商人の総称)の冒険物語であるわけです。
そのように、八世紀以降の航海術は、外洋の荒波を乗り越える技術を持っていたのです。では、元寇の二度の「神風」による日本史が解説する壊滅の実体は、史実だったのでしょうか。(「神風」とは、明治の歴史学者が創作した概念。)
元寇の記述がある主な資料は、二つあります。日本側が「八幡愚童記」で、高麗側が「東国通鑑」です。八幡愚童記では、文永の役は、「朝になったら敵艦も敵兵もきれいさっぱり見あたらなくなったので驚いた。」とあり、弘安の役は、「大風あり、沈潜多く、多数溺死あり」とあるのです。しかし、高麗側の史料では、文永の役は、「夜半に大風雨があった。多くの船が沈んだ。」とあり、弘安の役は、日本側史料と同じ内容です。
文永の役に対する、日本側と高麗側の記述の違いは、どのように解釈したらよいのでしょうか。
更に、不思議なことがあるのです。それは、文永の役の翌年1275年、元国は、交易を求めて杜世忠を正使として送り込んでくるのです。それに対して。鎌倉幕府は、元使杜世忠を大宰府から鎌倉の刑場瀧ノ口へ連行して処刑してしまうのです。更に、1279年元使周福が、交易を求めて博多を訪れるのですが、周福は博多で処刑されてしまうのです。(戦争状態の時期に、無防備の使節を二度も送ってくることがあるのでしょうか。それも二度の使節は、無抵抗で斬首されているのです。更に、杜世忠は晒し首です。)
この不思議な元国と鎌倉幕府との交易外交交渉の謎解きは、両国の情報を操作する「禅僧」にあるよるようです。鎌倉幕府は、元国の情報を「禅僧」から得ていたのです。それは、禅は、元々中国大陸で発明された宗教組織だったからです。
そして、この鎌倉時代に日本列島に土着した禅宗は、日本と中国との国際交易に深く携わっていたのです。鎌倉幕府は、南宋国との交易を行うために、鎌倉に国際湊を築いていたのです。そして、鎌倉禅宗組織は、元国と鎌倉幕府との直接交易を望んではいなかったのです。
そこで、ひとつの推論が成立つのです。それは、文永の役では、「神風」は吹かなかったと言うことです。では、三万人を乗せた九百隻の元軍の船は、どうしたのでしょうか。そもそも、その九百隻は、本当に正規の元軍だったのでしょうか。
1274年、元帝国となったフビライ政府は、南宋国境線の諸方から全面進軍するのです。呂文煥軍が、長江中流の要地を戦わずに開城させ、南宋国の北の守り、長江の天険が元軍に突破されると、南宋国の諸都市は次々と投降したのです。
このことは、紀元前334年の、楚による越の攻撃の記憶をよみがえらせます。敗れた越の王族残党は、大型外洋船で東シナ海に脱出して、黒潮ベルトコンベーアにて北九州・日本列島の東北に渡来するわけです。
1274年の文永の役の元海軍といわれているものが、南宋国の王族亡命旅団だとすると、北九州に上陸することを拒まれた翌日、突然九州沿岸から一夜にして「見えなくなった」理由が理解できます。南宋国王族亡命旅団が上陸交渉で多少のイザコザがあったかもしれませんが、それは侵略戦闘などではなかったでしょう。(両軍の死者の信頼できる史料が両国に存在しない。)
では、歴史教科書の1281年の弘安の役の東路軍4万と江南軍10万の元寇は、どのように推測できるのでしょうか。
1276年杭州の南宋政府は、元帝国軍のバヤン軍に全面降伏するのです。しかし、杭州開城に反対した南宋軍の王族残党が、幼帝の兄弟をかついで、東南沿海岸を大型外洋船で流亡するのです。しかし、広州湾頭の克Rで、1279年滅亡するのです。
では、それらのことにより、1281年の弘安の役はどのように推測できるのでしょうか。東路軍の4万の元海軍は、紀元前三世紀の徐福の蓬莱国への渡航を思わせます。元寇の東路軍の大半は、元国の属国となってしまった誇り高い高麗軍だったのです。
徐福は、秦始皇帝に不老不死の仙薬を取りにいくと、童男女三千名と技術者と軍隊と種籾と農機具を積んだ船百隻で、日本列島に向かったのです。これが秦氏渡来の先遣隊だったのです。
では、東路軍渡来より遅れて来た江南軍はどのように推測できるのでしょうか。それは、旧南宋軍により構成されているといわれていますが、その多くは南宋国王族の亡命旅団だったのでしょう。
そもそも、元寇に対しての史料が乏しすぎます。文献にしても、八幡愚童記にしても、日蓮宗の資料にしても、仏教・禅宗関係の資料が多いのはどうしてでしょうか。教科書でおなじみの「竹崎季長絵詞」(たけざきすえながえことば)にしても、元渡航全軍が布陣した敵陣に突入した、と言うよりも、南宋国や高麗の亡命者上陸の交渉中に、状況判断を間違えた武将が一騎で無謀にも突入したことを、後で空想上で創作した絵であるかもしれないのです。元軍の弓は、ボーガンのように百発百中です。本当に、元軍であったなら、一騎で突入した日本の武将は絶命していたことでしょう。しかし、竹崎季長武将は、論功行賞の交渉のためにわざわざ鎌倉まで出向いているのです。
そこで、国際交易の旨味を知る宗教組織による「元寇フィクション説」が理解できるのです。
禅宗組織が流すガセ情報を基に、1263年(弘長3年)日蓮が著し、北条鎌倉幕府に提出した「立正安国論」の理論展開の結果である「蒙古来襲の予言」も、「虚構の元寇」を史実とする重要史料のひとつとなっているのです。
フビライの元帝国は、1260年から海洋貿易立国を標榜し、アラビア、インド、そして日本国と国際交易をするために使者を派遣していたのです。しかし、元帝国と北条鎌倉政権と直接国際交易が行われることは、南宋国と密貿易をしていた鎌倉禅宗組織には脅威だったのです。そして、世界情勢を何も知らない18歳の北条時宗は、禅僧蘭渓道隆の言われるままに、北九州に流れ着いた南宋国・高麗亡命軍団を、元帝国海軍と信じてしまったのです。
1281年に北九州に現れた、南宋国亡命軍旅団は、暴風雨に襲われいずこともなく去っていくわけです。しかし、不幸にも遭難してしまった船もあったのでしょう。その難破船の残存物が、元寇の正体を証明します。元寇と言われている元軍の難破船の残留物の多くが、武器ではなく、甕に詰められた「種籾」と「農機具」であったのです。
朝鮮半島最南端に近い新安郡の沖合いの海底から引き上げられた沈船は、1323年と確定されました。それは、二度目の元寇来襲といわれてから、わずか四十年ほどです。その船には、二万点に及ぶ陶磁器や金属器、そして、約三十トン近くの銅銭がつみこまれていたのです。この交易船は、朝鮮半島からどこに向かって行ったのでしょうか。
では、元寇といわれた南宋国・高麗の亡命軍団船は、対馬海流に乗ってどこに消えたのでしょうか。
武器は、その部族の歴史を語ります。日本列島における武器の流れとして、縄文・弥生時代のサヌカイトの石刀、石棒、弓矢などがあります。奈良時代後期になると、騎馬民族の騎士に対する歩兵の武器として、刀を長棒にくくりつけた薙刀が発明されます。これは、藤原氏の興福寺、百済京都の延暦寺の僧兵の武器となります。では、戦国武将が使用した槍は、どの時代に日本列島に現れたのでしょうか。それは、丁度元寇の後、朝鮮半島沖で元帝国と日本列島との国際交易船が沈没した頃、後醍醐天皇が在位した南北朝の頃です。そして、歴史上実践で槍が使用されたのは、南北朝以降のようです。
では、何故突然日本列島に槍が出現したのでしょうか。そして、戦国時代になると、なんと十メートルもの槍も出現するのです。
西洋の歴史上での槍の出現は、ローマ時代のようです。有名なロンギヌスの槍は、十字架のヨシュア(キリスト)を刺したものです。ロンギヌスとは、ラテン語でローマ男性の呼称です。ローマ帝国軍の主な武器は、十メートルの長槍だったのです。その十メートルの長槍と似たものが、織田信長の傭兵軍で使われていたのです。
その織田信長軍の長槍は、斉藤道三が考案したものと言われています。斉藤道三は、多くの戦国武将と同じに出自不詳です。その名の道三とは別称で、本名は利政です。それは、油商人→僧侶→武士への職業遍歴により、斉藤道三と呼ばれていたわけです。
油商人とは、神社ネットワークにより同業者組合の油座を構築する、全国的反体制の商業集団の一員なのです。そして、その油座は、645年まで秦氏が支配していた山城国(山背国)の山崎が本拠だったのです。
奈良時代、藤原氏により、秦氏の神(八幡・やはた)は、神社に封じ込められ「八幡・はちまん」とされ、その氏子は賎民に貶められてしまうわけですが、秦氏は元々オリエントから渡来の技術者集団だったので、その技術を駆使することにより色々な商業製品を生産し、異界である神社をネットワークとして、同業者集団組織の「座」を構成することにより、全国に商業製品の販売網を構築していたのです。
1017年、平安時代のわが世の春を謳歌する藤原氏一族は、その神社ネットワークの商業網を支配するために、本地垂迹説(仏が本家で、神は分家)を発明し、神社を仏寺の支配下に置くわけです。
油商人の商品原料のゴマには二種類あります。それは、荏胡麻(えごま)と胡麻です。荏胡麻は、シソ科で、原産地は中国南部です。日本列島への渡来は、縄文時代です。それに対して、胡麻はゴマ科で、原産地は、アフリカです。
胡麻が歴史上に現れるのは、紀元前1377年、イスラエル民族のエフライム族の祖先ヨセフ族が活躍した、エジプトのイクナトンの時代のようです。胡麻の用途としては、ミイラの保存剤、灯明の油、そして医薬品です。イクナトンは、胡麻とオリーブを支配地で栽培させることにより、経済基盤を築いていたのです。しかし、オリーブはエジプトの気候に合わず、ギリシャやオリエントで盛んに栽培され、今日に至るのです。古代エジプトでは、胡麻油やオリーブ油は、聖なる油(アラブの物語での呪文「オープン・ザセサミ/開けゴマ」に使われるほど、胡麻は魔力を持つ食べ物として用いられた。)として貴重品であったのです。ユダヤ教では、オリーブ油を頭に注がれたものは王になれた程です。
そして、胡麻は、紀元前六世紀頃、エジプトからインドへ渡来して、アュルベーダ医学では、温めた胡麻油を頭部に垂れ流す治療術が開発されるのです。その胡麻は、オリエントの国際商人と供に中国に渡来し、朝鮮半島を経由して、日本列島には200年頃渡来したようです。645年の藤原氏による蘇我王朝史料の焚書により、飛鳥時代の胡麻の歴史は闇の中ですが、日本歴史上に現れるのは、騎馬民族王朝の天武天皇(672年〜686年)により、胡麻が栽培され、食用油として使用されたようです。
平安初期に、鉱物汚染の奈良から荏胡麻搾り技術者が、山城国(山背国)の長岡遷都に伴い移住し(元々山背国は、645年までは秦氏の支配地であった。)、そして、宇佐八幡を長岡に遷座した頃、大山崎宮の灯明用に荏胡麻油を奉献したようです。その八幡(やはた)とは、秦氏の神様です。その神社の神人(神社の奴隷)らが、山崎油座を組織し、平安時代末期から室町時代まで、油販売の独占をしていたのです。
と言うことは、油売りの斉藤道三は、反体制側のひとでもあるわけです。その長槍を考案した斉藤道三は、娘の濃姫を織田信長に嫁がせるのです。では、賎民の娘を娶る織田信長とは、その出自は、何者なのでしょうか。
織田信長から三代先、つまり祖父織田信定は、弾正忠信定と呼称されていたのです。弾正忠信定は、南朝の残党・新田四家と津島七党が支配する尾張国随一の港町の津島の勝幡を略奪し、そこを拠点として南蛮と水銀の密貿易を行うのです。そして、1543年(天文12年)弾正忠は、密貿易で稼いだ永楽銭四千貫を内裏の修理費として朝廷に献上するのです。これは正に、1132年(長承1年)ペルシャ平家の平忠盛が、南蛮密貿易で稼いだ金を、鳥羽法皇に献上して、内昇殿を許されたことと同じ行動です。
では、織田信長の祖父は、ペルシャ平家の末裔かというと、その出自はまったくわからないのです。ただ、分かっていることは、弾正忠信定の墓は、処刑場近くの勝幡の御所垣内(ごしょかいと)にあるのです。
垣内(かいと)とは、奈良時代末期、百済王朝に敗れ、百済王朝にまつろわぬ秦氏や新羅系日本人が押し込められた、捕虜収容所です。後に、差別部落となるわけです。その部落に、平安時代に聖徳太子を発明した比叡山の延暦寺が、法華経で宣伝する、仏罰者と決めつけるハンセン氏病者を押し込めることにより、その部落を穢れ部落としたのです。織田信長による、比叡山延暦寺の仏僧を、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と、全員打ち首とした原因のひとつは、ここ(前王朝である蘇我・天武天皇の肉食する騎馬民族末裔を、菜食の仏教教義の名の下に穢多に貶めたこと)にあるのかもしれません。
イエズス会は、キリスト教を日本国の中心である京の都で布教するために、その許可を比叡山延暦寺に願い出るのです。しかし、京の商業利権を持つ延暦寺は、なかなか許可しません。それは、日明貿易において、延暦寺側は、イエズス会のインド・東南アジアにおける情報を知っていたからです。医師・宣教師渡来→貧民救済→病院設立→多数の宣教師渡来→学校設立→国際交易商人渡来→軍事顧問渡来→軍隊侵攻→植民地化の流れは、イエズス会の布教歴史そのものです。
イエズス会は、国際交易港となった渡邊津は、本願寺率いる一向宗である浄土真宗門徒の軍団により、要塞化された仏寺で軍事的に支配されているので、イエズス会が率いる渡来軍団では壊滅できないことを知っていたから、最初の異教軍団の壊滅目標として比叡山延暦寺を選ぶのです。
そのためには、イエズス会の傀儡軍を日本全国に組織する必要があるわけです。そこで目を付けたのが、仏教教団にイジメられている賎民出身の仏教嫌いの織田信長です。織田信長の仏教嫌いは、実父の仏葬儀で、祭壇の位牌に線香灰を投げつけ、葬儀にも参加しないほどです。僧侶に悪態をつくのは日常茶飯事ですから、仏教界の敵であるイエズス会には、親近感を持つのは当然でしょう。つまり、敵の敵は味方と言うことです。
それに、仏教と武士とは相容れない存在なのです。それは、殺生禁止で「血」を禁忌とする仏教教義は、敵の首を取ることが手柄となる武士の思想とは相容れないからです。つまり、仏教を信仰する武士は、自己矛盾の存在であるわけです。ですから、武士が支配した鎌倉時代に、肉食する騎馬民族を蔑視する法華経を布教しない「禅宗」が中国から導入され、瞬く間に禅が武家社会に普及するわけです。
しかし、武士と言っても、鎌倉武士と戦国武士とは同じ出自ではありません。鎌倉源氏三代滅亡後は、鎌倉武士は百済亡命軍の末裔で、百済北条政権の陰謀により、新羅系武士の源氏は都から追放され落ち武者として生き延びるわけです。それが、南北朝→室町時代の応仁の乱を経て、戦国時代の下克上の世になると、山奥で生息していた源氏落ち武者の末裔は、その軍事力により戦国大名となるわけです。
その戦国大名に対して、イエズス会の宣教師は、キリスト教を布教するのです。その布教を手助けしたのが、元琵琶法師であったロレンソ了斎です。身体不自由の琵琶法師の了斎は、イエズス会の手厚い医療行為を受けるうち、仏教僧からキリスト者へ宗旨替えしたのです。元琵琶法師をイエズス会に入信させたことにより、イエズス会の傀儡軍団が急速に組織されていくわけです。それは、琵琶法師は同業組合である「座」のネットワークにより全国を行脚することにより、戦国大名の出自や動向を良く知っていたからです。
戦国大名からキリシタン大名になった者の中には、イエズス会が支給する「銃」と「火薬」を入手することを目的とした者が少なからずいたかもしれませんが、イエズス会が説く、「人民平等思想」に共鳴した者も少なくありません。それは、平安時代の空海が中国唐からもたらした「肉食賎民カースト思想」、鎌倉時代からバラモン教の差別思想を取り込んだ仏教組織により発明された、一方的に肉食者は悪である「穢多」と蔑称された者でしか理解できないでものです。そして、キリスト者が、騎馬遊牧民族と同じに肉食することも、肉食する賎民から成り上がった戦国大名には共感できたのです。
キリシタンに入信した大名や武将は、打倒仏教軍団(イエズス会は、男色する仏僧が住む比叡山延暦寺を悪魔の館とし、それを破壊することが正義としていた。延暦寺焼き討ちで、多数の若い女性と童子が斬首されています。女人禁制の仏の聖地に何故多数の女性がいたのでしょうか。)で結束していくのです。その主な武将は、

明石全登(ジュスト・宇喜田家臣)、有馬義直(アンドレ・肥前島原領主)、有馬晴信(プロタジオ・有馬義直の子)、有馬直純(サンセズ・有馬晴信の子)、一条兼定(ドン・パウロ・土佐中村一条家当主)、伊藤義兼(バルトロメオ)、宇久純尭(ドンルイス・五島島主)、木村純忠(バルトロメオ・日本初のキリシタン大名)、木村喜前(フランシスコ・豊後領主)、織田有楽斎(ジョアン・織田信長の弟)、織田秀信(織田信長の孫)、織田秀則(パウロ・織田信長の孫)、加賀山興良(ディエゴ・細川家の家人)、蒲生氏郷(レオ又はレオン・織田信長の家臣。ローマ十字軍の聖ヨハネ騎士団ジョバンニ・ロルティス=山科羅久呂左衛門勝成を軍事顧問として召抱える)、木下勝俊(ペテロ・若狭小浜城主)、京極高知(豊臣秀吉、徳川家康に仕える)、熊谷元直(メルキオール・安芸異熊谷氏)、黒田長政(ダミアン)、黒田孝高(シメオン)、小早川秀包(シマオ・筑後国久留米城主)、小西行長(アウグスティノ)、小西隆佐(ジョウチン・小西行長の父)、志賀親次(ドンパウロ・大友義統家臣)、高山友照(ダリオ・飛騨守で右近の父)、高山右近(ジュスト・キリシタン大名でマニラにて死す)、内藤如安(ジョアン・マニラで死す)、蜂須賀家政、畠山高政、松浦隆信(源氏松浦28代当主)、毛利高政(豊後佐伯領主)、毛利秀包(筑後久留米城主)、結城忠正(アンリケ)などです。

戦国時代での多くの戦いは、天下統一が目的ではなく、自国の領土保全が主目的だったのです。キリシタン傭兵軍団で組織した織田信長の軍団が現れるまでは、戦国大名の軍事行動は、敵の領土侵略に対しての防御が主目的だったのです。それは、戦国大名が治める多くの国は、所得を数十倍にもすることが可能な商業経済ではなく、天候に左右され所得倍増が難しい農業主体経済で、日本全国を統一できる戦闘専門軍隊を抱えることができるほど国が豊かではなかったからです。
ですから、多くの国では、少数の専門軍団と大多数の農業兼務の武士団により構成されていたのが戦国時代の軍隊組織だったのです。ですから、出陣の多くは、攻めるも守るも農閑期におこなわれていたわけです。春から秋までの農繁期には、大きな戦いがなかったのはそのためです。
しかし、織田信長は、他の戦国大名とは異なる軍隊を組織していたのです。それが傭兵による軍事組織です。この軍事組織は誰のアイディアなのでしょうか。そして、この戦国時代での傭兵軍の出現と同時に、武家家紋が出現したのです。
傭兵軍の始めはローマ軍と言われています。金持ちは軍隊に入るのを拒み、金の力により「雇い兵」を雇うのです。すると生活手段としての農地を持たない部族が、軍事技術を売り物にするわけです。それが傭兵軍団の始まりです。傭兵軍団は、戦場(仕事場)で働きを潜在顧客にアピールするために、軍事部族のシンボルマークを発明して、旗や盾につけるのです。つまり、軍団紋は軍事部族を潜在顧客に宣伝するためのマークだったのです。
その軍団紋を戦士の標識として採用したのが、1095年に組織された十字紋を戦旗に掲げる「十字軍」です。十字軍は、キリスト教(ヨシュア教)の聖地パレスチナ回復のためにトルコ遠征を目指すのです。
四世紀のパレスチナのエルサレムは、ローマ帝国によりキリスト教の聖地とされるのですが、七世紀にイスラーム軍団によりエルサレムはイスラーム教の聖地(668年岩窟寺院建設)とされるのです。しかし、異教に寛容なイスラーム教は、キリスト教を排除せず、エルサレムはキリスト教とイスラーム教が並存する聖地となっていたのです。
しかし、そのパレスチナは、セルジュク・トルコ(1037年〜1157年)に占領されてしまうわけです。それに対して、1095年教皇ウルバヌス二世がクレルモン公会議でトルコ支配のエルサレム遠征を宣言するのです。1099年十字軍はエルサレムを占領し、エルサレム王国(1099年〜1187年)を建設し、イタリアの商人がエルサレム巡礼者を相手にする宿泊所兼療養所を兼ねる修道院組織を「聖ヨハネ騎士団」として、法王パスクワーレ二世により正式に認められるのです。
そして、修道院組織である聖ヨハネ騎士団は、その度重なるトルコとの戦争で、大軍団の攻撃に対する防御技術(城の建設技術)を確立していくのです。そして、その聖ヨハネ騎士団の末裔が、戦国時代の日本国に現れるのです。
織田信長が支配する尾張の伊勢亀山の関一政に、京都でキリスト教を布教していたイエズス会のグッキ・ソリディ・オルガンティーノが聖ヨハネ騎士団ジョバンニ・ロルティスを伴ってくるのです。
聖ヨハネ騎士団は、一時エルサレムで活躍していたが、1291年のアッコン陥落によりエルサレム王国が滅亡し、キプロス島に逃れ、体制を立て直して1308年ロードス島を征服し、そこを基地としてオスマン・トルコ(1299年建国、1405年トルコ帝国再興)と対峙するのです。
しかし、1522年トルコ帝国軍は、二十万の大軍をロードス島に差し向けるのです。それに対する聖ヨハネ騎士団は六千。五ヵ月に及ぶ戦いで、聖ヨハネ騎士団は、敗退し、ロードス島を撤退するのです。戦国時代の日本国に渡来したジョバンニ・ロルティスは、この戦いでの残党と推測されます。そこで、聖ヨハネ騎士団残党は、イエズス会と出会い合流し、日本国への渡来となるわけです。(イエズス会の書簡史料によれば、対オスマン・トルコ軍との再戦のために、日本国に傭兵軍を求めて渡来したのが、聖ヨハネ騎士団の主目的だったようです。)
1560年(永禄3年)桶狭間の戦いでは、駿府の今川義元軍三万に対して、清洲城に立てこもる織田信長軍は三千です。戦国時代の国が軍隊を維持できる数は、その国の農地面積に比例します。ですから、農地面積が狭い織田信長軍の兵は、当然今川軍よりも少ないわけです。ですから、軍人の少ない弱小織田信長軍の戦法は、白兵戦ではなく、ゲリラ戦・奇襲戦に限られるわけです。
それが、1575年(天正3年)の長篠の戦では、武田勝頼軍一万に対して、織田信長・徳川家康連合軍は二万です。更に、織田信長軍には、一千とも三千とも言われる鉄砲隊も加わるのです。そして、この長篠の戦での設楽ヶ原の攻防戦では、日本国の戦闘では珍しい馬防柵を構築しているのです。(1568年織田信長が入京。本能寺近くに南蛮寺建立。1569年織田信長が、イエズス会宣教師ルイス・フロイスに謁見した後、信長軍の軍団規模、軍備、戦術が激変しているようです。)
鉄砲を模倣するのは簡単です。しかし、その銃で玉を発射させるための「火薬」はどのようにして調達したのでしょうか。火薬の原料のひとつである「硝石」は、日本国では殆んど産出されていないのです。戦国時代の硝石は、スペインが侵略した南米のチリが、主な産出国であったのです。(戦国時代の硝石供給ルートは二つ。ひとつは、マカオ→伊勢→京都・南蛮寺のイエズス会ルート。ふたつめは、上海→種子島→紀州(雑賀鉄砲衆の拠点)→京都・本能寺の島津氏・藤原氏ルート。本能寺は「寺」と言うよりも、堀を廻らせた「出城」。織田信長は、本能寺を占拠し、そこを京での宿泊所とした。本能寺の変は、興るべくして起こった。織田信長は、火薬庫の上で宿泊していたのだから。)
火薬を調製し、鉛球と火薬を装填し、そして火縄に火をつけ、弾丸を的にめがけて発射する技術習得は、長期間の軍事訓練が必要です。織田信長軍は、周辺の国々に対して休みなく攻撃をしていたのです。では、織田信長軍の三千とも言われる鉄砲隊の射撃訓練は、何処で誰が指揮したのでしょうか。その記録がないのは、射撃技術を持った傭兵軍団の渡来が考えられます。
桶狭間の戦いから、この十五年間における織田信長軍団の激増と西洋軍式戦術の変貌振りは、どのように説明できるのでしょうか。
この1560年から1575年の15年間には、戦国大名との戦闘の他に、宗教軍団との戦いがあったのです。
戦国大名との戦いは、桶狭間の戦いの決着は、奇襲攻撃が功を奏して、短時間で着き、そして、長篠の戦の天王山、設楽ヶ原の戦いは四時間ほどで決着がついたのです。それに比べて、三河・長島一向一揆、石山合戦といわれる宗教軍団との戦争は数年から十年もかかっているのです。これは歴史上どのように説明できるのでしょうか。
歴史教科書の説明には宗教組織と織田信長軍との戦争は、ムシロ旗を掲げ鍬や竹やりを武器とする農民軍団とのイザコザ程度のような記述ですが、織田信長軍は設楽ヶ原の戦いでは、武田勝頼軍一万を四時間ほどで壊滅させるほどの破壊力を持っていたのです。更に、飛び道具の「鉄砲隊」もあったのです。そのような強力軍団との長期戦争は、唯の農民軍団では無理でしょう。では、一揆軍は、どのような組織により構成されていたのでしょうか。
1570年(元亀元年)大阪からの立ち退きと矢銭を要求されていた本願寺との石山十年戦争の緒戦・三好三人衆との戦い。1571年(元亀1年)京都の「座・市」経済を支配する比叡山焼き討ちと僧侶皆殺し。1573年(天正2年)「座」のネットワークを支配する賎民による伊勢長島一向一揆鎮圧などの戦争があるのです。(これらの宗教戦争は、その底辺には、借上の高利貸しをおこない、「座」と「市」を経済支配し、関所を設けて通行税を徴収する比叡山延暦寺を頂点とする仏教組織を壊滅し、織田信長が日本の経済を支配することが目的であったのです。それは、イエズス会の国際交易商人と同じです。日本一の商業都市・大阪の奪取は、織田信長とイエズス会の国際交易商人の悲願だったのです。)
そして、1570年に始まる、毛利氏の物資援助や雑賀衆鉄砲隊が援軍する石山本願寺との戦闘が、1580年(天正8年)まで続くのです。このキリスト傀儡軍と仏教軍団との十年宗教戦争は、戦闘だけでは決着できずに、織田信長が朝廷に講和の斡旋を願い出て、本願寺に物資援助をしている毛利輝元と和議の交渉を段取りする段階で、織田信長の突然の和議斡旋の辞退により、本願寺側は武器や食料の援助が毛利氏より得られないため、戦況は織田信長軍に有利にすすめられ、1579年12月(天正7年)本願寺と織田信長は講和を成立させるのです。
そして、織田信長により大阪の本願寺は焼き払われ、大阪はまさに織田信長の支配一歩手前となるのです。そして、織田信長が、最後の仕上げである雑賀衆残党が支援する本願寺顕如の長男教如を壊滅するために、「本能寺」で逗留している時、1582年本能寺が織田信長と伴に爆発するのです。そして、本能寺近くの南蛮寺にて、それを見聞していたのが、イエズス会の国際交易商人フロイスです。
では、織田信長は、誰により爆殺されたのでしょうか。
歴史教科書によれば、1582年本能寺の変は、明智光秀の謀反ということになっているようです。しかし、一寸調べれば、明智光秀よりも疑わしい者がいるようです。そのヒントは、「敵は本能寺」です。
1582年(天正十年)織田信長が、本能寺で明智光秀の一万三千の軍団に取り囲まれ、寝込みを襲われ闘い敗れるのを察知して、自ら火を放ち自害した物語の基は、側近の太田牛一の「信長公記」による刷り込みが原因です。しかし、この「信長公記」は、本当に史実を語っているのでしょうか。
「信長公記」は、織田信長の側近太田牛一(おおたぎゅういち)が日々したためた日記を基に、豊臣秀吉の校閲のもとに現れた書物のようです。ですから、古来よりその記述内容に対して疑問を投げかける人も少なくありません。しかし、本能寺の変後の豊臣秀吉による緘口令や焚書などにより、「本能寺の暗殺」を知るための信頼される史料は、「信長公記」以外には存在していないのが現状のようです。
歴史を物語る場合、その史料となるものが、遺跡や古文書です。遺跡や遺品には言葉がありません。しかし、古文書はそれ自身が物語りであるのです。それらの古文書の多くのものは、社寺に保存され、そして、公家にも日記として保存されているのです。その理由として、社寺は、借上などの高利貸しの記録から借用書類の史料を保存するわけです。
では、何故、多くの公家は日記を付けたのでしょうか。それは、平安時代の比叡山延暦寺が、寺内で行う双六などの賭博により借上の借金を公家に踏み倒されないように、「往生要集」などで地獄思想を布教し、借金を返さない者やウソをつく者を脅すために発明した、ウソつきの舌を抜く「閻魔様」によるのです。その思想によると、キリスト教を真似た「閻魔様による最後の審判」の時、そのひとの生前の行いにより、地獄か極楽かに振り分けられるのです。
ですから、地獄思想を仏僧により刷り込まれた公家達は死後、地獄ではなく、極楽行きを望むため、日々の「良い行いだけ」を記録し、最後の審判の日に備えるわけです。それが、平安時代からの公家日記の始まりです。ですから、日記にある事柄が全て真実とは限りません。それは、ひとは「ウソ」がつける動物だからです。
本能寺の変が、歴史教科書の記述のようではないと疑われる主な原因としては、三つあります。
一つ目は、討ち入りの主目的は敵将の首を取ることです。焼死遺骨でも首は首です。しかし、信長の焼死体が存在しないのです。(通常火災により骨が全て灰になることは疑問。骨が一瞬にして消滅するのは、何らかの化学的燃焼が示唆されます。)
二つ目は、何故明智光秀は、一万三千の軍団を、分散して妙覚寺には向けずに、それほど大きな建物ではない本能寺だけに集結させたのか。(もし天下を本気で取るのであれば、織田信長の息子のいる妙覚寺も同時に襲うことは常識。妙覚寺の約二時間後の襲撃は何故か。)
三つ目は、何故豊臣秀吉軍は、毛利軍と一日で休戦交渉を成立させ、摂津に四日後に戻れたのか。(戦闘状態の毛利軍と一日での休戦は不可能。何故摂津帰還時で、二万の大軍団の食料調達が事前に行われていたのか。)
「本能寺の変」に関しての状況証拠に疑問がある上に、更に織田信長軍の最高武将達にも疑問があるのです。その最高武将達とは、柴田勝家、滝沢一益、明智光秀、羽柴秀吉です。これらの武将に共通することは、多くの戦国大名と同じに、全員出自不詳であるのです。(豊臣秀吉を除いて、他は中年期に歴史上に出現。)
戦国時代とはいえ、織田信長軍団の最高責任者四人とも子飼いの武将ではなく、中途採用でしかも出自不詳であるのです。「誰」が、出自不明の人物を軍人として織田信長に斡旋したのでしょうか。
斡旋者として考えられるのは、イエズス会の京都担当巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノです。(イエズス会宣教師オルガンティーノが、伊勢亀山城主関一政に十字軍の末裔聖ヨハネ騎士団のジョバンニ・ロルティス「日本名:山科勝成」を軍事顧問として斡旋した先例がある。)つまり、織田信長の最高武将の四人は、明国からイエズス会の傭兵としての渡来も考えられます。それは、本能寺の変の一年前、1581年(天正9年)織田信長は、天下統一を誇示するために、京の都で、日本国始めての軍事パレード(五百頭の馬揃え)を、織田信長軍の影のスポンサーであるイエズス会のヴァリニャーノを主賓として行っていたからです。
明智光秀は、十三代室町将軍足利義輝の次弟覚慶(義昭)が三好三人衆により京都から追放され元足利家臣を頼り、各地を流浪している時、覚慶(後の足利義昭)の臣下となったのです。それ以前の経歴は不詳です。そして、明智光秀が、足利義昭を上洛させるため、織田信長に後見人の依頼を願い出た時、織田信長軍にも採用されたのです。つまり、明智光秀は、二人の主に仕えていたのです。
明智光秀の本当の主は、織田信長ではなく、足利義昭(1568年〜1573年室町幕府滅び、京から追放される。毛利氏をバックに上洛を謀る。)だったのです。織田信長に仕えたのは、足利義昭を織田信長の軍事力を利用して上洛させるためだったのです。このことにより、明智光秀が「天下人」を望んでいた、とする根拠は薄れます。それでは、誰が織田信長暗殺の真犯人なのでしょうか。
真実を知る者が、後世の人に知らせる手段として、公の書物の中に暗号として残すことが、古来から行われています。例えば、新約聖書にあるパモス島のヨハネによる、レビ族の聖書改竄を知らせる「ヨハネの黙示録」の「666の謎」、そして、平安時代の多人長による、藤原氏が旧約聖書を基に創作した「日本書紀」(720年)を、平安時代に更に桓武天皇により、蘇我・新羅系王朝を抹殺し、百済王朝有利に日本書紀が改竄されたことを知らせるための「古事記」(812年)などです。
では、豊臣秀吉による「本能寺の変」の史実隠蔽の時期に、誰が、その首謀者をどのようにして後世の人に知らせようとしたのでしょうか。
豊臣秀吉は、太田牛一に命じて「信長公記」を創作させる他に、「本能寺の変」の四ヵ月後に、五山系の儒僧大村由己(おおむらゆうこ)に、「惟任退治記」(これとうたいじき)の記録書を書かせているのです。惟任とは、織田信長が与えた名で、明智光秀は、惟任日向守とも言われていたのです。
豊臣秀吉が、「明智退治記」とせずに、「惟任退治記」とした意味は、明智光秀が織田信長の忠臣であったことを「強調」する意図がミエミエです。つまり、忠臣を装う極悪人「明智光秀」のイメージ創りです。そして、明智光秀の天下取りの意志がある根拠として、本能寺の変の前日に行われたと言われている連歌の会での明智光秀の歌、「時は今天が知る五月かな」を、その証拠としているのです。時(とき)は、明智氏の本姓土岐(とき)氏に「かけた」ものと言われています。
その「信長公記」と「惟任退治記」とにより、後世の人の歴史的常識として「織田信長殺しは、明智光秀」である、と信じられているのです。しかし、織田信長の家臣太田牛一の「信長公記」の一節、明智光秀軍一万三千が老ノ坂から沓掛に差しかかった時、明智光秀が発した「我が敵は本能寺にあり」、が意味をもってくるのです。従来の解釈では、明智光秀軍の敵は、「本能寺に逗留している織田信長」である、と言うことです。
しかし、「敵は本能寺」を「織田信長の逗留している本能寺」とするのではなく、「本能寺」を所有していた者が本当の「敵」であるとすると、従来の意味とはまったく違ってくるのです。
日蓮宗により建立された砦である本能寺は、1536年「天文法華の乱」の京都仏教戦争により比叡山延暦寺の僧兵により破壊され、その後、藤原氏の興福寺系の種子島の慈遠寺とネットワークを結ぶのです。種子島からの硝石は、紀州根来寺を経由して、京都本能寺へ運ばれて、戦国大名に売りさばかれていたのです。つまり、本能寺は、島津氏(藤原氏)の系列寺であったわけです。その本能寺を、1568年(永禄11年)足利義昭を奉じて入京した織田信長が摂取したのです。そして、イエズス会に京での布教を許し、その近くに三階建ての南蛮寺の建立を許すのです。そして、織田信長は、1570年近江姉川の戦いで浅井長政に勝利するのです。
その後、織田信長軍の軍拡が進み、西洋式戦術の快進撃により、近畿周辺国は織田信長の軍門に下ったのです。天下を狙える武将で残るは、織田信長と離反した足利義昭をいただく毛利氏だけです。
その毛利攻めを羽柴秀吉に行わせ、正に天下統一前の時、「本能寺の変」の前日、四十人あまりの公家達を集めて大茶会を、織田信長は本能寺で行ったのです。それらの公家は、近衛公、九条公、一条公、二条公、聖護院の宮、鷹司公、摂家、清華家、などなどです。
近衛公とは、藤原氏の末裔です。鎌倉時代、百済北条政権により、都から追い落とされた藤原氏は、近衛家、日野家、菊池家などに変身していたのです。
この近衛家は、本能寺の変で、不思議な行動を起こしていたのです。「本能寺の変」といわれる「暗殺」が行われてしまった後に、本能寺に集結した明智光秀軍一万三千人は、後続が集結するまで、本能寺から程近くの所で待機していたのです。一万三千人の後続が目的地に到着するには、少なくとも二時間以上は必要だからです。
それは、明智光秀は、織田信長により、征夷大将軍の位を婉曲に拒否する朝廷を脅すため、未明に本能寺に軍団が集結するように密命されていたのです。しかし、本能寺での異変(建物は一瞬の猛烈火のために原型を留めず。)に気づいた明智光秀軍は、父織田信長と確執がある息子信忠が逗留する妙覚寺に向かうのです。
やっと本能寺での異変を知った織田信忠は、妙覚寺より堅牢な建物である隣の二条御所に避難するのです。二条御所に立て篭もれば、援軍が駆けつけるまで持ちこたえることが可能だからです。しかし、二条御所は呆気なく明智光秀軍により陥落してしまうのです。それは、二条御所に隣接する近衛前久邸の屋根から、明智光秀軍の鉄砲隊が一斉射撃をおこなったからです。
何故、近衛前久は、逆賊の明智光秀軍を阻止しなかったのでしょうか。そして、近衛前久は、その後、京から逃亡し、三河の徳川家康に保護を求めていたのです。
その近衛前久の不可思議な行動に勝る不思議が、羽柴秀吉の不思議な昇進です。
毛利軍との戦いを急遽休止して駆けつけたばかりの軍団による、1582年山崎の合戦で、明智光秀軍を壊滅した羽柴秀吉は、1584年最大のライバル徳川家康と小牧・長久手の戦いで敗れますが、1584年(天正12年)従五位に叙爵、その月の内に従四位下参議の口宣案をとりそろえ、翌年の1585年3月正二位内大臣となり、そして、元関白の「近衛前久」の猶子(名義上の子。何故、名義上といえども、出自不詳・賎民の羽柴秀吉が日本古来の貴種である藤原氏の一員となれたのでしょうか。ここに戦国時代の大きな謎が隠れています。)となり、7月には正一位に昇叙し、ここに出自不明・賎民出身初の関白となるのです。
しかし、自称平氏では、源氏武士の最高位の征夷大将軍とはなれないため、更に出自不明では藤原氏を名乗ることができないため、1586年(天正14年)に太政大臣となり、大和王朝の前身王朝「秦王国」の別名「豊国」から、「豊臣」の氏名を発明するわけです。豊国は、藤原王朝より格上であるから、豊国の臣である「豊臣」は、藤原氏より格上であるとの理屈です。
豊臣秀吉(自称平氏)が天下を取ると、反豊臣の武将の末裔(源氏系武士)や改宗しないキリシタン大名(秦氏系武士)は賎民と蔑まれ、穢多部落に押し込められるのです。これは、正に、武家源氏の末裔を穢多として社会的に抹殺した北条鎌倉政権の再現です。そして、1590年、豊臣秀吉の最大のライバル、部落出身の徳川家康(自称源氏)は、関東のひとも住めぬ河口、葦の生える湿地帯「穢土」(えど→江戸)に移封されるのです。そして、そこに現れるのが穢多頭の弾左衛門の一族です。
では、この藤原氏の末裔の近衛前久と豊臣秀吉の不思議な行動と昇進は、誰により、何故おこなわれたのでしょうか。この二人を「駒」として、「本能寺の変」はどのように計画され、そして実行されたのかを推理してみましょう。ヒントは、織田信長軍と行動を伴にしたキリシタン大名は、織田信長暗殺後も引き続き豊臣秀吉と軍事行動を伴に行ったのは何故か、と言うことです。
日本列島の古代が、オリエント諸国での動乱・紛争の結果である、騎馬民族や遊牧部族の東進の影響を大いに受けたように(紀元前三世紀秦氏の先祖徐福の渡来、「ヤマト」のチュルク族渡来の蘇我王朝、そして、645年その王朝を乗っ取ったユダヤ色が漂う藤原氏の渡来などなど。)、中世・戦国時代の日本列島は、ヨーロッパ諸国(ポルトガル・イスパニア)の影響(戦国時代に家紋・エジプト発祥の楕円の印章が出現した。)を大いに受けていたのです。
1347年から1351年間の全ヨーロッパでは、黒死病(ペスト)の大流行により、人口が大幅に減少し、なかには全滅する都市もあったほどです。更に、1353年には、東からトルコ軍のヨーロッパ侵攻も始まるのです。
四世紀ローマ帝国の国教として布教されたヨシュア教(キリスト教)も、中世ヨーロッパでは、国際交易商人が国際交易により富を増大するのに合わせるように、その宗教的権力を増大していくのです。
そのヨーロッパの富の基は、ペスト病を防止すると信じられた「香辛料」です。肉食のヨーロッパでは、肉の腐敗を防止する「香辛料」は、「金」と同等の価値があったのです。しかし、その香辛料の原産地のインド・東アジアは、イスラームの商人達により支配されていたのです。
中世において、キリスト教の布教力を利用して交易地を海外に広げていく国際交易商人は、その香辛料を直接入手(略奪)するために、ユーラシア大陸はトルコとイスラーム勢力に経済的に支配されているため、大西洋の彼方にある未開拓地を目指すのです。その結果が、1492年コロンブス(イスパニア王国)のアメリカ大陸への到達と、1498年ヴァスコ・ダ・ガマ(ポルトガル)のインド航路の発見です。この二人の冒険家(?)により、「香辛料」の原産地のインド・東アジアは、植民地への時代に突入していくわけです。それに手を貸すのが、カソリックの教会組織です。
国際交易商人と結託するカソリック教会組織は、その権力を利用して、1500年キリスト(ヨシュア)降誕祭を利用して、教皇庁は「免罪符」を発売したのです。その「免罪符」を購入すれば、誰でも全ての罪から開放されるというのです。それに対して、1518年マルチン・ルターは95ヶ条の質問を教皇庁に突きつけるのです。これが火種となって、宗教改革に発展していくわけです。この流れから、カソリック教会を脱退して「プロテスタント」組織が生まれるわけです。(広告用語の「プロパガンダ」は、ここから発生した。つまり、カソリック教会側が、プロテスタント布教活動を揶揄して、「ウソッパチの布教・宣伝」として発明された言葉が「プロパガンダ」なのです。)
このプロテスタントの勢力増大に脅威を感じたローマ・カソリック教会は、その巻き返しと、新たな布教地を求める活動を模索するのです。そのようなカソリック教会自身の改革と刷新が推し進められている時、1534年イグナティス・デ・ロヨラ、フランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーブル、ティエゴ・ライネス、アロンソ・サルメロン、シモン・ロドリゲス、ニコラス・ボバディーリャの七名が、「イエズス会」を誕生させるのです。
この「イエズス会」とは、「イエスの同士」の意味の他に、「イエスの軍団」、「イエスの戦闘部隊」という意味も内包していたのです。この「イエズス会」のキリスト布教教団の特異性は、そのバックに、ローマ教皇とポルトガル国王の庇護と経済的援助、更に国際交易商人組織も支援していたのです。
「イエズス会」の目指すところは、「すべてはより大いなる神の栄光のために」を標榜し、「すべての布教手段は神の基に許され」、「地上の王」カソリックの神の教えを異教徒に広めることです。しかし、ポルトガル国王と国際交易商人の考えている事とは、少しズレがあったようです。
他のヨーロッパ諸国より先に、羅針盤による外洋航海術と造船技術と地理学を習得したポルトガルとスペインとは、それぞれの征服先が、東回りのポルトガルと西回りのスペインとに異なっていたのが、地球が丸いため最終的に一点に集約するため、征服地の帰属問題が生じたのです。その解決のために、ローマ教皇の下、ポルトガルとスペインとが異教世界を二分割に征服する事業「デマルカシオン」を発明するわけです。
ローマ教皇はポルドガルに、ポルトガルの海外侵略と抱き合わせに、キリスト教布教を目論んで、新発見地での原住民を奴隷化する権利と貿易の独占権を与えるわけです。スペインは、それに対して異議を申し立て、1494年トルデシーリャス条約を結び、ベルデ岬諸島の370レグアを通る経線を基準に、東側全域をポルトガル領、そして、西側全域をスペイン領とするのです。
つまり、十五世紀半ばの非キリスト教世界は、ローマ教皇の許可の下に、ポルトガルとスペインの「征服予定地」となってしまったのです。勿論、戦国時代に突入する下克上の群雄割拠の日本国も、ポルトガルの侵略支配地として、ローマ教皇により認められていたのです。
イエスの神の守護の下、イエズス会(ポルトガル)は、1530年ポンペイ占拠、1536年インドのディウを占拠をし、そこをイエズス会の拠点とし、1542年ザビエルがインドに現れるのです。その年1542年ポルトガル人(イエズス会宣教師)を乗せた明国マカオ船が、日本国種子島に来航するのです。その孤島の種子島は、鹿児島の島津氏(島津氏は藤原氏の末裔近衛家と親戚関係)の南蛮密貿易地であったのです。(歴史教科書ではポルトガル船種子島に漂着1543年としている。)これは、1549年ザビエルの鹿児島来航への下調べであったのです。
そして、インドを占拠したイエズス会は、1557年中国・明を支配する拠点としてを占拠するのです。しかし、大国の明国はイエズス会渡来軍団だけでは太刀打ちできません。そこで、このマカオを拠点として、東アジア世界征服戦略を練るのです。そのために、まず手始めとして日本国をキリスト教化にして、その後、日本キリスト教軍団を組織して明国を征服する、と言う計画であったのです。
では、そのような視点により、イエズス会は、どのようなプロセスにより日本国をキリスト教化していったのかを考察してみることにしましょう。そして、そこに織田信長の暗殺者が浮かび上がってくることでしょう。
布教とは、幻想(ウソ)をセールスすることです。ひとは、自我という意識を獲得した時点から、不安と恐怖の感情を保持してしまったのです。その不安と恐怖の感情を、自我の意識でコントロールできれば問題はありません。しかし、未だ意識により、不安と恐怖は克服されてはいません。その穴を埋める技術のひとつが、「宗教」という幻想(ウソ)です。つまり、ひとは幻想(ウソ)無しには生きられない動物なのです。
布教がセールスと同じであることは、現代の広告理論は全て宗教の布教手法を真似ていることからも理解できるでしょう。広告・宣伝を揶揄して、「プロパガンダ」と言っていることからも納得できるでしょう。
物やサービスを売ることの手始めとして、マーケティングをおこないます。マーケティングとは、物やサービスを売るための「仕掛創り」のことです。その仕掛創りを行うための材料集めが、市場調査ということです。
イエズス会の宣教師が、1542年明国船で種子島に渡来したのは、日本国の市場調査のためだったのです。その情報を基に、1549年マカオからザビエルが鹿児島に渡来するわけです。
マーケティング理論が良くても、提供する物やサービスが、潜在顧客が望まないものは売ることはできません。
鹿児島を影で支配する藤原氏(鎌倉時代、藤原氏改め近衛家)は、奈良時代から戦国時代の今まで密貿易をおこなっていたため、イエズス会のザビエルが提供するインドや明国の物(銃と硝石)やサービス(キリスト教)に触手を伸ばさなかったのです。元々藤原氏は、蘇我王朝を倒した645年から「イエズス会のような組織」でしたので、イエズス会の布教戦略には乗らなかったのです。その証拠に、イエズス会傀儡軍である豊臣秀吉軍が、1587年(天正15年)九州で最後に闘ったのが島津軍だったのです。
物や宗教サービスを求めるひとは、貧乏人か病弱者のようです。
イエズス会は、占領地を統治する手法として、医師を派遣し、弱者救済を行い、シンパを育て、そして病院を設立し、そこを布教拠点として、国際商人を招きいれ、学校を設立して現地裕福者の子弟を洗脳し、その中から優秀な者を選び出し、布教の後継者として育成していくわけです。
イエズス会がインドでの布教が短期間でおこなわれた原因のひとつは、インドのカースト制度のおかげです。カーストの最上級階層を取り込んでしまえば、その下のカーストは、上カーストに無抵抗になびくからです。
イエズス会は、インド侵略のために、カースト思想を調べつくしていたのです。そのカースト思想が、日本国にも存在しているのを市場調査で知るのです。そして、そのカースト思想が大乗仏教に取り込まれていることも知るのです。
イエズス会宣教師(商人)のフロイスは、パライヤ(タミル語でカースト思想の不可触賎民のこと)を日本国では「エタ」と認識し、「エタ」は「河原者」とも呼ばれ、猿楽、舞々、ささら(竹細工職人、千利休の茶道と関連)、鉢叩、琵琶法師(フロイスの助手ロレンソ了斎の前職業)などの職業に従事して、体制から差別をうけていることを知るのです。そして、その体制から差別を受けている者を探し出すのです。それが、九州長崎の大村純忠(バルトロメオ)と九州大分の大友宗麟(フランシスコ)です。この両名も、数代先の出自が不明なのです。(豊後には1541年ポルトガル船来航)
イエズス会は、その両国(長崎・豊後)が経済的に疲弊していることを調べ上げ、マカオから持ち込んだ品々を気前良く振舞うのです。それは、日本国の市場調査により、日本人は物品を贈られて始めて行動を起こす、ということを知ったからです。つまり、日本国では、何がしかの物品を与えないと、何事もなしえない、ということです。
イエズス会の贈り物に対して、両国はポルトガル船の湊を構築するわけです。このことにより、ポルトガル船の交易ルートが、ポルトガル→インド・ゴア→中国・マカオ→日本国・長崎・豊後と繋がるわけです。しかし、そこから先の日本国の経済中心地の大阪は浄土真宗軍により支配され、そして、政治の中心地の京都は比叡山延暦寺軍により支配されているわけです。
仏教軍団が支配する都へ侵攻するために、次なる基地を求めることになるのです。その候補が、堺と伊勢です。
インドに拠点を確保したイエズス会は、インド管区長であったヴァリアーノが、巡察師となって日本国を統括するに当たって、市場調査を基に布教戦略(ポルトガル王国にとっては植民地化戦略)を練るのです。日本侵略のマーケティングとして、日本国の重要拠点を三地区とするのです。
第一地区の下地区の長崎を、マカオ貿易の補給基地とイエズス会修道士の日本語養成基地とするために、敵対宗教組織の仏教軍団から防衛するために軍事要塞化とする。
第二地区の豊後地区は、イエズス会修道士のための教育地区として、コレジオ(予備教育機関のセミナリオで修学後、高等教育を受けるための施設)と修練院(修道士としての適正を見極める施設)を建設し、マカオから都への中継基地とする。
第三の都地区は、日本国を精神的に統治している天皇と軍事的に統治している将軍をキリスト教に改宗するために、華麗なる教会を都に建設し、キリスト教の華麗なる教典儀式を都で披露する。それにより、天皇と将軍がキリスト者となれば、日本国はキリスト教王国となる。
そのような綿密な布教戦略に基づいてイエズス会は、日本国にキリスト教を布教(侵略)するために訪れていたのです。しかし、歴史教科書では、ポルトガル船の「漂着」とか、イエズス会が「ふらり」と日本列島に現れたと記述しているのは何故でしょうか。
第一地区、第二地区の基地を確保したイエズス会は、第三地区の「都」に侵攻するために、その上陸地候補の「堺」を市場調査するわけです。
「堺」の名の由来は、摂津国と和泉国との境界にあるところからです。奈良時代から、宇陀の水銀交易(イエズス会に同行する国際交易商人も宇陀の水銀・銀の奪取が目的)のため、摂津の難波と紀州の国際交易港があったために日の目をみなかった「堺」にも、室町時代末期の「応仁の乱」と、京での一向宗軍と法華宗軍との戦闘、そして、法華宗と比叡山との宗論抗争の果ての「宗教戦争」に嫌気を刺した都の知識人や豪商などが、ぞくぞく集まってきたのです。それは、「堺」は、外敵を防ぐ堀を廻らせた要塞都市であったからです。そして、それらの都の乱により、難波や紀州の湊を避け、明国船が「堺」を交易港としたからです。更に、三好三人衆による軍事的保護も、自由都市「堺」を、経済の避難所としていたのです。
戦国時代に、そのような社会情勢により、「堺」は一躍国際交易都市となったのです。経済的に余裕がある処には文化の華が咲きます。賭博の一種であった「茶のみ・闘茶」も、ここ堺で、千利休により「茶道」になったのは、明国からもたらされた豪華な茶器や装飾品によるのです。この「茶器」が、織田信長の命を落とす「道具」であったことは、1582年まで待たなければなりません。(戦国時代の茶器は、鎌倉時代、御恩と奉公のために与える土地が鎌倉末期の幕府にはなくなったため、智慧者が「茶器」は、土地よりも高価なものであると刷り込んだことにより、土地よりも価値あるものとなっていた。)
千利休が開発した「茶道」は、キリスト教の赤ブドウ酒の聖杯を回飲みする儀式を真似たものと言われています。茶に添えるお菓子がパンの役割です。しかし、そのキリスト教の聖杯儀式も、ミトラ教の太陽のシンボル牡牛を、太陽の再生を願って屠った時の血(赤ぶどう酒)と肉(パン)を摂ることにより、自身の再生も願う儀式を真似たものなのです。
千利休が、キリスト教の儀式を真似たのか、ミトラ教の儀式を真似たのかは分かりませんが、千利休の周辺には、太陽神ミトラ教が中国大陸で変身した、「景教」を信じる秦氏末裔の賎民技術集団「穢多」の存在が示唆されます。その一例として、千利休が開発したと言われる、外穂の先端を内に曲げる形状の「茶筅」があります。茶筅は、誰でも作れるものではなく、穢多頭の弾左衛門が支配する「ささら」の限定職人でなければ、同業組合を仕切る「役座」にお仕置きをされてしまいます。
更に、「堺」では、仏教にイジメられていた景教を信じた秦氏末裔の多くが、キリシタンに改宗しているのです。飛騨の山奥に暮す金箔貼り技術者の高山右近もキリシタンとなり、その高山右近ジュストは、千利休の「茶道の弟子」となっているのです。室町幕府十三代将軍足利義輝を、三好三人衆と伴に襲った松永久秀も、千利休の茶同朋衆であったのです。「わび・さび」とは異なり、「きな臭い」本名田中、通称与四郎の千利休とは、「せん」(賎民=秦氏末裔)の利休と言うことなのです。
千利休が賎民と深く関係している根拠として、千利休の開発した茶道に強い影響を与えた茶の師匠である「武野紹鴎・たけのじょうおう」は、「堺」の街で商いをする「皮革商」の子息なのです。閑雅な草庵の茶室、侘びの茶道具を創案し、それを千利休に伝えたのは、限定職の皮製品を扱う賎民の子息武野紹鴎だったのです。鎌倉時代、百済北条鎌倉政権に、「かわた」とイジメられた騎馬民族末裔の秦氏・新羅系源氏武士末裔も、戦国時代になると、軍事物資である「皮革」は、戦国武将の需要に生産が追いつかないほどであったので、その財力は並みの戦国大名以上であったのです。その軍事物資である「皮革」が、新興都市「堺」で扱われていたことは、そこ「堺」には、賎民といわれる技術者集団が多く暮らしていたことを示唆します。「堺」が自由都市と言われるのは、「座・市」を支配する仏教組織から自由であるということです。
因みに、戦国時代に現れた科・化学技術を駆使する忍者集団は、秦氏末裔の軍事集団です。部落出身の徳川家康を護る忍者部族の服部氏は、秦氏の末裔だったのです。
戦国時代の「堺」の町は、豪商と知識人と文化人で溢れていたのです。そのような経済的に余裕のある人には、宗教は必需品ではありません。せいぜい教養のひとつです。しかし、イエズス会は、「堺」で茶同朋衆(反仏教者)とコンタクトを取れたことにより、後の仏教軍団壊滅と「本能寺の暗殺」に結びついていくわけです。
イエズス会の都支配の目的(布教)と、ポルトガル王国と国際交易商人の都支配の目的(黄金の国ジパングで金・銀の奪取が目的)は同じではありません。後者の目的は、日本国の地理的支配と経済的支配です。そのためには、六十余国に分かれている日本国を一つにまとめる必要があるのです。その政治的中心は京都です。そして、経済的中心は大阪です。この二つを支配することで、日本国を完全に支配できるのです。そのためには、各国を支配する戦国大名達を滅ぼして、統一国を造ることと、そして、「座・市」、「借上の高利貸し」、「関所の通行税」などで経済支配をしている仏教組織を壊滅することです。
そこで、イエズス会は、戦国時代の日本国を軍事統一し、そして、仏教軍団を壊滅できる武将を探すのです。
戦国時代の武将の人物像は、江戸時代まで生き残った戦国武将の末裔が、先祖の権威を付けるため系図屋に創作させたり、講釈師により創作されたものが大部分なのです。なかには、客観的史料を装い寺社史料や公家日記などを引用して創作したものもあるかもしれませんが、不都合な書類は焚書・改竄されるのが史料の運命ですから、戦国武将の複数の史料を比較検討すると、史実のわけが分からなくなるのが実状です。つまり、戦国武将の出自を証明する「源平藤橘」に行き着く系図は、江戸時代に注文者の都合にあわせ創作されたものだからです。系図を創る「系図屋」とは、隠語で「いかさま師」の意味なのです。(恐らく、応仁の乱から出現した武将の多くは、鎌倉時代、元寇といわれた南宋国か高麗の亡命武士団の末裔でしょう。)
織田信長の人物像もそのひとつです。織田信長についての史料は、それほど多くはないようです。それは、意図的に誰かにより焚書されているようです。特に、イエズス会との関係資料は、フロイスの日本史がなければ、「日本生まれの革命家」のイメージが思い浮かびます。(第一百済王朝・平安時代。第二百済王朝・北条鎌倉時代。第三百済王朝の徳川家光以来の江戸では、百済の守護寺の比叡山延暦寺を壊滅した織田信長の評判は、最悪だったようです。織田信長が、歴史上脚光を浴びたのは、太平洋戦争敗戦後の昭和三十年頃のようです。旧秩序を破壊した織田信長の業績が、時の政府により「革命家織田信長」として利用されたのです。)
しかし、織田信長の行動は、日本人の基準を遥かに超えています。それらは、ヨーロッパ式軍事行動はもとより、従来の武将とは異なり比叡山全僧打首と仏教信者部落老若男女乳幼児まで殲滅、中世ヨーロッパのキリスト教が魔女を火あぶりしたように正親町天皇から国師号を贈られた快川和尚の高僧を焼き殺したこと、キリストの十字架磔を真似ねてロンギヌスの槍を真似た長竹槍での刑罰、楽市楽座の自由経済思想などがありますが、建築技術、特に築城については、ヨーロッパの築城思想が強く出ているのです。それらの、従来の武将と異なる日本的ではない思想行動・技術知識は、誰により織田信長にもたらされたものなのでしょうか。
日本国が中世から近代に変革したのは、1568年織田信長が足利義昭を奉じて京都に入った時(翌年イエズス会宣教師フロイスと謁見)からと言われています。それは、城を中心とした城下町のはしりとしての安土城の築城があるからです。
現在知られている天守閣のある「城」の築城は、それほど古くはありません。元々「城」とは、「土」を固めて「成」った、土塀で囲った陣地であったわけです。
四世紀朝鮮半島から渡来した軍団が、戦闘時の避難場所として山頂を土や石を積んで囲んだ陣地を「朝鮮式山城」というわけです。奈良時代になると、海外交易で財を成した藤原氏は興福寺の「寺」を軍事砦とするわけです。鎌倉時代になると、堅牢で耐火瓦の寺建物は、空堀を廻らし土や石の壁で囲まれた山の山頂に立てられるわけです。これが、山城です。やがて室町時代になると、平地にも堀に囲まれた土や石の塀で囲まれた寺を真似た堅牢な建物が現れるのです。これが平城です。戦国時代になると、城郭は、再び山頂や山麓に建設され、独立した曲輪(くるわ)を要所要所に配置するのです。
そして、戦国末期に織田信長は、石垣の上に「天主閣=織田信長の住居。仏像安置の建物を真似た建物」(この頃、織田信長は、自らをイエズス会の神を超えた存在と信じ、織田信長を「神」として拝ませた。だから、織田信長の安土城は「天守閣」ではなく、「天主閣」なのです。この結果、イエズス会の史料では、「デウスが織田信長の歓喜が十九日以上継続することを許し給うことがなかった」と記述するのです。そして、日本国巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノは、本能寺での織田信長の死に遭遇するのです。)を頂く安土城を建設するのです。これが今に見る「城」の概念です。この堀を廻らし、強固な土壁の塀に囲まれた石垣の上に建設された「安土城」は、インド管区長・日本国巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノが、ヨーロッパのどの城にも及びも着かない立派な城と賞賛したほどです。
では、ヨーロッパ式城を築城し、ヨーロッパ式軍隊組織を持つ織田信長は、どのようにしてイエズス会と接触したのかを考えて見ましょう。
イエズス会は、ポルトガル→インド→マカオ→長崎→豊後と侵攻し、更に「堺」にも拠点を設けたわけです。その手法は、貿易という甘い蜜です。この貿易は、相手側に多大な利益が得られるため、危険を冒してまでその組織の一員になるとこを望むひとが多くいるわけです。しかし、イエズス会と接触を求めるひとは、交易利益のためだけではないひともいたのです。それは、体制にイジメられている賎民です。つまり、足利義輝体制転覆を画策する、三好氏と内通する堺の茶同朋衆などの賎民組織が、堺のイエズス会結社に集まってくるのです。
日本国の海外との正式交易ルートは古から、中国大陸(楼蘭・ローラン)→朝鮮半島(楽浪・ローラン)→博多(伯太・はた・秦)→難波(浪速・ローラン)→奈良・京都と決まっていました。しかし、イエズス会は、この正式ルートを外れて、マカオ→長崎→豊後→堺としたのです。それは、そのルートに、都を追われた反体制の末裔がいるからです。
新興国際都市堺の交易先は、豊後です。そこは、大友宗麟が支配する国であるのです。豊後にはポルトガル船が、種子島にポルトガル船が来航するより二年も先、1541年には来航していたのです。それは、豊後が、古来から、堺と密貿易をしていたからです。
明国と正式交易をしていない「倭寇」は、その本隊の実態は明国の住民が主で、その本拠地が五島列島であるわけです。つまり、倭寇の交易ルートは、明国→五島列島→豊後→堺となるわけです。その先は、日本の経済の中心地難波港から大阪の地は、浄土真宗軍に支配されているので、堺→雑賀→那智→伊勢となるわけです。このルートが、倭寇と言われる「海賊」の交易ルートだったのです。この海賊ルートを、イエズス会が、日本国侵略に利用するわけです。イエズス会の次の拠点造りは、伊勢です。
伊勢は、縄文時代から海外からの交易人が渡来していたのです。それは、伊勢には、宇陀と同じに「朱砂」が産出していたからです。それは当然で、宇陀と伊勢は、中央構造線上に位置しているからです。更に、伊勢湾には、今でも伊良子岬に椰子の実が流れ着くように、南方から黒潮が流れ着くところなのです。ですから、伊勢には、古来からアラブ、インドの南方から渡来する部族が多くいたのです。
七世紀の壬申の乱での、新羅系天武天皇軍の出発点は、伊勢だったのです。伊勢には、朱砂を求める中国大陸からの国際交易人や南方の海人族が多く住んでいたのです。その海人族のシンボルの赤旗を立てて、百済亡命貴族が支配する近江を、天武天皇軍が攻めるわけです。そして、その戦いの勝利を感謝して海人族の神を祀ったのが「伊勢神宮」です。伊勢神宮は、新羅系天武天皇により建立されたものなのです。しかし、平安時代になると、新羅の敵国百済亡命貴族の末裔桓武天皇が政権を支配すると、比叡山延暦寺が布教する騎馬民族を蔑視する(殺生禁止・血の禁忌)、仏教キャラクターの聖徳太子を創作しての「法華経」布教により、肉食・魚食の仏罰者の住む伊勢は「穢れた地」に貶められてしまうわけです。ですから、百済系天皇は代々、伊勢神宮ではなく、宇佐八幡宮を祀るわけです。百済系天皇で、伊勢神宮を祀ったのは、約千年後の明治天皇が始めです。
十二世紀に平安朝廷を支配したペルシャ平家も、その伊勢からの出現です。
この伊勢に渡来した部族には、反体制的心情があるようです。南方から渡来したベンガラ染め(ベンガラ染めとは、インドのベンガル地方から産出する鉄錆の赤染め)のペルシャ平家の平清盛・重衡親子にも、織田信長と同じに、日本の神社仏閣には敵愾心を持っていたようです。怨霊神を封じる神輿に矢を射掛けたり、1180年には平重衡は奈良東大寺の大仏に火を放ち延焼させているのです。
何故、ペルシャ平家は、そのように日本の神仏を嫌ったのでしょうか。それは、ペルシャ平家の京での拠点、祇園にヒントがあるようです。祇園怨霊会が行われると、京の公家達は、穢れ神が来ると、都から避難したのです。つまり、ペルシャ平家の土地神は、平安京の公家達には、穢れ神であったのです。それは、祇園の神は、インドの底カーストの土着神であったからです。
平安時代に、藤原氏の計らいで渡唐の空海により、唐に渡来のインド僧の教えにより、民族差別のカースト思想が、日本国に持ち込まれていたのです。その祇園祭の牛頭天皇とは、インドでの穢れ神であったのです。
しかし、ペルシャ平家も、仏教を笠に着る百済皇室・百済公家には負けてはいません。空海により発明された「日本密教」の神々の全ては、インドのバラモン教・ヒンズー教の神々であることを、ペルシャ平家が知っていたからです。更に、大乗仏教の儀式である、加持祈祷、護符、お守り、呪文などは、空海により密教儀式として発明されたわけですが、それらの儀式は、元々バラモン教・ヒンズー教からの借り物であることも、ペルシャ平家は知っていたのです。
「奈良の大仏」は、空海により「大日如来」に変身したわけですが、その元の名は「遍照鬼」で、インドではバラモン教の系列外の神であったのです。ですから、ペルシャ平家の平重衡は、百済平安政権を守護するその大日如来の遍照鬼(奈良の大仏)に火をつけて燃やしてしまったわけです。
ペルシャ平家は、仏像や仏閣を燃やしてしまいましたが、織田信長は、百済系正親町天皇の高僧を生身のまま燃やしてしまったのです。その異常な仏教嫌悪は、どのようにして生まれたのでしょうか。それは、織田信長の祖父の墓が、刑場近くの垣内(かいと)にあったことが原因のひとつのようです。祖父の実生活は、孫が実際に観察できます。恐らく、織田信長は幼少の頃、伊勢の穢れ地に住む祖父が、仏教者にイジメられていたのを経験していたのかもしれません。「三つ子の魂百までも」、です。
織田信長は、反抗する仏教僧や信者には情容赦をすることはないのに、貧民の身障者には慈悲の心があったようです。それは、織田信長の逸話として、戦のたびに見かける山奥の部落近くにいる皮膚病を患っている身障者を哀れに思い、お忍びでその部落に行き、その部落民を集め、その身障者を生涯面倒を見るように部落民達に強く言い渡し、高価な反物を多く与えた、というものがあるからです。
皮膚病者は、奈良時代では藤原氏が支配する中臣神道により、中臣祓の「国つ罪」の穢れ者とされ、奈良坂の部落に押し込められ、そして、平安時代では、百済系桓武天皇が支配する比叡山延暦寺による法華経により、「仏罰者」として、清水坂の部落に押し込められていたのです。
古代では、病気とは目に見えるもので、その代表が、皮膚病であったわけです。その他の病気は、怨霊により引き起こされていると信じられていたのです。ですから、古代では、御祓いや祈祷は、医療行為だったのです。(現在でも、怨霊退治をビジネスにしているひともいます。)
戦国時代も、法華経により仏罰者と宣伝された皮膚病者は家族から追放され、社会からも追放されていたのです。その皮膚病者を、王権に反抗した秦氏や新羅系源氏武士の末裔の部落に押し込めることにより、穢れ部落を創り出していたのが、藤原・百済王朝だったのです。その社会から追放された皮膚病者を救う組織が、戦国時代の日本国に現れたのです。それが、イエズス会です。
イエズス会の布教基本戦略は、病弱者・貧者を救う活動から始まるのです。1557年九州の大分(大村宗麟・フランシスコの支配地)には、宣教師アルメイダが内科・外科病院を設立して、その一角に、仏罰者と言われる皮膚病者の収容施設を建設しています。1583年には長崎(大村純忠・バルトロメオの支配地)にハンセン氏病者のための病院が設立されていたのです。
そのように、中臣神道や大乗仏教にイジメられていた皮膚病者は、イエズス会の神(デウス)を拝むのは当然でしょう。更に、藤原・百済王権にまつろわなかったために、中臣神道や大乗仏教により、「穢多」として社会的に追放されていた、元貴族や元武士階級やそれに順ずる者も、イエズス会の布教活動に共感を示していくわけです。それらのイエズス会共鳴者達は、神社ネットワークの「座」を拠点に、「役座」の仕切りにより、流浪する遊芸者や各種職人として、鎌倉時代から戦国時代までを、仏教の思想迫害を受けながら生き延びていたのです。
全国を、本地垂迹説により仏教組織が仏寺・神社を支配していた「座・市」を拠点として、流浪する遊芸者や各種職人は、戦国の国々の情報を収集することも、仕事の一部だったのです。そこで、イエズス会も、戦国の国々の情報を得るために、流浪遊芸者と接触するわけです。それが、身障者の流浪琵琶法師である了斎です。了斎は、キリシタンに共鳴してロレンソ了斎となり、イエズス会のための、反政権結社との情報連絡係りとなるわけです。しかし、イエズス会と接触したのは、賎民といわれる流浪遊芸者だけではありません。現政権に不満を持つ公家達もいたのです。
イエズス会は、世界布教(征服)を遂行するために、中国大陸の明国布教(征服)の前哨戦として、明国征服のためのイエズス会日本軍を組織するため、戦国時代の日本国を統一できる人物を物色するわけです。そのための情報協力者としては、公家不満分子、海賊、山賊、流浪遊芸者、密貿易者などの反体制分子です。そして、密貿易地の中継地豊後の大友宗麟からイエズス会に、尾張の国に織田信長という反仏教武将がいることが知らされるのです。
イエズス会は、弱小国ながら少数の軍力で隣国の大軍団とゲリラ戦を行っている織田信長の力量を見極めると、イエズス会日本軍の大将候補として、キリシタンへの取り込みにかかるのです。その戦術が、天皇を頂点として武力で日本統一をスローガンとする「天下布武」の織田信長への刷り込みと、隠れキリシタン公家と藤原氏末裔の陰謀による正親町天皇からの、朝敵征伐の「決勝綸旨」の書状です。
戦国武将達には、全国統一などの概念は、殆んどなかったのです。国の民を養う田畑を他国からの侵略の護りと、他国との境界線の拡張が、戦国武将の戦いの主な目的だったのです。個人経営である荘園経営による農業主体の経済では、日本統一するための兵力は養えなかったのです。つまり、戦国時代の戦いは、農繁期ではなく、刈り入れの終わった農閑期に主におこなわれていたのです。
ただ、農業主体ではなく、伊勢での南蛮密貿易で稼ぐ、尾張の織田信長軍は例外でした。織田信長は、「銭」で、軍人を集めていたのです。「銭」で軍人を集めるための宣伝として、「織田軍には銭があるぞ!」を図案化して、明銭を旗印にしたのが、織田信長軍の銭の旗印だったのです。ですから、織田信長軍は、他の戦国武将と異なり、一年を通して闘うことができたのです。
日本国は、元々各種民族が長い年月を経てオリエント・中国大陸などから渡来し、それぞれの部族国を日本列島内に建設していたのです。それぞれの渡来部族は、それぞれの言語でそれぞれの文化を享受していたのです。その根拠として、戦国時代から約三百年後の明治維新の最初の会議では、各藩出身者の話す言葉がお互いに聞き取れず、理解できないため、筆談で会議をしたほどなのです。(現在でも、地方を旅して、現地のお年寄り同士の会話を聞き取れないことは、誰しも一度は経験しているでしょう。)
国家の統一は、言語の統一から始まるのです。ですから、明治新政府は、日本国統一のため、廓言葉を基本として「標準語」を発明するわけです。
戦国時代に全国統一するためには、コミニュケーションを互いに摂るために、言語の統一が必要だったのです。しかし、日本国では、明治になるまで、各藩はそれぞれの方言で生活していたのです。
織田信長が、もし全国統一を本当に計画していたならば、秦の始皇帝のように、言葉や生活単位の全国統一計画を実行していたはずです。(日本国統一のための行動は、織田信長暗殺後、1582年からの田畑の検地方法や計量基準「6尺3寸・191cmを一間、一間四方を1歩、三十歩を一畝、十畝を一反、十反を一町/米の量りは、京枡に統一した。」を全国一定にした太閤検地からです。この検地により、鎌倉時代からの荘園制度が崩壊して、イエズス会の望む近代日本国中央政権が確立したのです。)
でも、織田信長が、行おうとしていたのは、統一言語の開発や日本全国の検地ではなく、暦の変更で、それも太陰太陽暦を、なんとヨーロッパのグレゴリオ暦(ヨーロッパで紀元前46年から使用されていたユリウス暦からグレゴリオ暦への変更発令は、1582年2月24日だったのです。と言うことは、四ヶ月ほどで、ヨーロッパの最新情報は、イエズス会の情報ルートで日本国に届いていたのです。因みに、日本国では、1873年(明治6年)に、太陰暦から太陽暦「グレゴリオ暦」に改められた。)に換えようと、正親町天皇に強訴していたのです。織田信長は、イエズス会の日本人エージェントから、日本統一思想だけではなく、ヨーロッパの色々な最新知識も刷り込まれていたようです。
イエズス会は、ローマ教皇、ポルトガル王国、そして国際交易商人達の経済援助の下に、日本国統一を目指すために、尾張の弱小武将の織田信長に、ヨーロッパ式軍事戦略、軍資金、武器(ロンギヌスの槍)、銃、火薬、そして秦氏・源氏末裔のキリシタン大名や銃の使用に慣れた傭兵軍団(一時的に、紀州雑賀鉄砲衆傭兵軍も参加していた。後の浄土真宗本願寺派との十年も続く石山合戦では、雑賀鉄砲衆は反織田信長軍の敵対者として活躍した。)を提供してきたのです。それは、日本を統一し、そしてイエズス会日本国軍団を組織して、その武力により、ローマ教皇・ポルトガル王国の最終布教国の中国大陸の明国を、占領するためだったのです。
1580年日本イエズス会は、ポルトガル王エンリケの死を知るのです。イエズス会は、異教国侵略のために、その組織運営資金の多くを、ポルトガル王国から援助されていたのです。
更に、ポルトガル王エンリケの死は、イエズス会に激震をもたらしたのです。それは、イスパニアのフェリペ2世が、ポルトガル王位を兼任し、イスパニア・ポルトガル同君国(1580年〜1640年)としたからです。
イスパニアは世界征服の手先として、ポルトガルのイエズス会に対抗して、托鉢修道会を組織していたのです。そのイスパニアは、1565年フィリッピンを征服し、1571年にはマニラにイスパニアの東洋貿易基地を構築していたのです。十六世紀のマカオのイエズス会(ポルトガル)とマニラの托鉢修道会(イスパニア)は、共に中国大陸への布教を目指して闘っていたのです。
イエズス会にはもう時間がありません。イエズス会が織田信長に軍事援助を始めた桶狭間の戦い(1560年)から本能寺の変(1582年)までの二十二年間に、畿内を中心に、戦国武将軍団、比叡山延暦寺軍、そして浄土真宗軍を壊滅し、政治の中心京都・商業の中心大阪の地を、イエズス会傀儡軍の織田信長が占領したのですが、まだ全国の三分の一を支配したにずきながったのです。
しかし、天下統一直前の織田信長は、残る戦国大名の壊滅に専念するのではなく、天皇をコントロールできる関白の地位を要求して、京での軍事パレードを行ったり、暦の変更を求めたりして、天皇家や公家達と心理戦をおこなっていたのです。それらの織田信長の行動は、早急に、明国侵略手段としての、天皇を傀儡としてイエズス会日本国軍の組織編成を企む、イエズス会の戦略から大きく外れていくのです。そこで、イエズス会は織田信長に見切りを付けて、織田信長に代わるイエズス会日本軍大将候補を選ぶわけです。それらが、源氏末裔の明智光秀と自称平氏の羽柴秀吉です。
そして、正親町天皇と誠仁親王も、無理難題を要求する織田信長を疎ましく思っていたのです。それは、関白の地位を要求され、更に、天皇の祭祀権の根本とも言える古来からの暦を、ヨーロッパで発令されたばかりのグレゴリオ暦への改変を強訴されていたからです。
ここに、イエズス会側と天皇側との暗黙の計画が実行されるのです。それが、1582年6月2日の本能寺の変です。その仕掛けは、本能寺での前日の茶会です。
1587年豊臣秀吉は、薩摩の島津氏を屈服させると、今まで豊臣軍をバックアップしていたキリシタン大名を冷遇し、改宗を迫り、キリスト教の禁止令を発令するのです。それは、イエズス会を経済的に援助していたイスパニアが、イングランドの海外進出のため、海外交易権を奪われ、1588年にはイスパニア無敵艦隊は、イングランド海軍に壊滅されてしまうのです。イエズス会の軍事力は徐々に、イングランドに侵食されていくわけです。
本能寺の変後、明智光秀から直々に援助の要請を受けたが、その申し出を即座に断った高山右近ジュストも、キリシタン迫害の対象者だったのです。その高山右近ジュストの茶道の師匠が、千利休だったのです。
このキリシタン弾圧の豊臣秀吉の変心は、どうして起こったのでしょうか。その原因のひとつとして、1585年に羽柴秀吉が、元関白の「近衛前久の楢子」となったことが考えられます。つまり、羽柴秀吉は、無用者織田信長を謀略により無残に葬る(爆殺)イエズス会の本心を知り、古から天皇を裏でコントロールしている藤原氏側に寝返っていたのです。
何故、出自不明の羽柴秀吉が、名門中の名門藤原氏の流れに入れたのかは、イエズス会と近衛前久や天皇家が関与した織田信長暗殺の弱みを握っていたからでしょう。織田信長に仕えた千利休は、豊臣秀吉にも、茶頭(情報参謀)として仕えていたのです。
1591年2月28日、茶道を開発したと言われる茶人が、豊臣秀吉直々に切腹を命じらるのです。その茶人とは、堺の千利休です。巷では、大徳寺山門の楼上に自身の木造を置いたとか、茶器の売買で暴利を貪ったとか言われていますが、果たして、その史実はどうだったのでしょうか。
1568年上洛した織田信長が、密貿易都市堺に矢銭(軍資金)を課すと、堺の街は二つに分かれるのです。ひとつが抗戦派で、もうひとつが和平派です。その時暗躍したのが、和平派の堺の武器商人の津田宗及と今井宗久です。しかし、その二人は、キリシタンとも内通していたのです。そして、その二人は、茶同朋衆でもあったわけです。その伝で、茶道界を仕切る千利休は、織田信長と知り合うのです。その頃の織田信長は、名器収集に没頭していたのです。そこで、堺の茶道の指導者千利休は、織田信長の茶頭として仕えることになるのです。
織田信長は、三十八の名物茶器を収集していたが、絶品中の絶品と言われる「楢柴」だけが入手していなかったのです。その名器は、博多の武器商人鳥居宗室が所有していたのです。
ここに織田信長暗殺のための仕掛けが完成するのです。茶器は、両手に納まるほどの大きさですが、一国よりも高価であると信じられていた名器は、輸送のため厳重に梱包されたため、大人ひとりが入れる程の梱包物となってしまうのです。
1582年6月に京都に来ていた鳥居宗室は、6月2日には京都を発つ予定だったのです。このことを、千利休は織田信長に伝えたのです。
そこで、織田信長は、6月1日に本能寺で、鳥居宗室に名器「楢柴」の譲渡を要求するため、公家も交えて堺の武器商人達(火薬の原料硝石は、イエズス会との密貿易では最大の交易品)との四十人ほどの茶会開催を企画するわけです。その茶会の前日には、多くの茶道具荷物が本能寺に搬入されていたわけです。
織田信長が、どのような死を迎えたかは知る術はありません。それは、豊臣秀吉の史料焚書と厳しい緘口令、そして公家の日記改竄により、史実が隠されてしまったからです。
分かっていることは、1582年6月2日未明、本能寺は一瞬にして大きな炎に包まれ、、一瞬のうちに全焼してしまったのです。そして、その焼け跡には、織田信長の遺骨の欠片も見つからなかったのです。
逆賊軍と宣伝される、一万三千の明智光秀軍が、本能寺に到着した夜明け前頃には、既に本能寺は焼け落ちていたのです。 
 
氏家氏 (岩出沢)

 

氏家氏は、藤原北家宇都宮氏流といわれ、宇都宮朝綱の子公頼が下野国芳賀郡氏家郷を領し、氏家を名乗ったことに始まる。「宇都宮系図」によれば、公頼の弟にあたる人物として小田氏の祖となる八田知家がおり、氏家氏は早い段階に宇都宮氏から分かれた家であった。
公頼から三代の経朝の甥重定が鎌倉時代の正安年中(1299〜1301)に越中に移り、南北朝時代初期の建武四年(1337)奥州探題に任ぜられた斯波兼頼の執事として随行したのが奥州氏家氏の始めという。江戸時代に成立したという『美濃国諸旧記』の「氏家のこと」によれば、「氏家の先祖は、越中の国の住人なり。中頃足利尾張守高綱の与力にして、氏家中務丞重国というて、延元のころ、北国の戦に武功あり。殊に延元二年閏七月二日、越前国足羽郡藤島の郷に於いて、新田義貞の首を取って、京都に差し上げける。尊氏将軍、其功を賞せられて、美濃国にて闕所の地を多数給わり、是より当国に来り、石津郡高須の庄に住せり」と記され、氏家氏は越中の出身となっている。
足利尾張守高綱は足利斯波高経のことであり、奥州氏家氏の初代とされる重定の子重国は高経に属して活躍、新田義貞の首を取った恩賞として美濃に領地を賜った。そして、子孫は代々美濃に住して、戦国末期に美濃三人衆の一人として勢力を振った氏家卜全が出ている。
氏家氏の奥州下向、諸説
さて奥州氏家氏であるが、先述のように重定が初めて入部したことになっているが、当時の情勢からみてそのままには受け止められないようだ。
南北朝初期の奥州は南朝の勢力が強く、北朝方=武家方は石塔氏が中心となって南朝方と対抗した。その後、吉良・畠山の両氏が探題として奥州に派遣され、文和二年(1353)に至って斯波家兼が奥州探題として下向したのである。そして、延文元年(1356)に大崎家兼は嫡男の直持を同道して上洛、同年に死去した。奥州探題職と斯波氏家督は直持が相続し、弟の兼頼は出羽按察使に任命されて出羽の南朝方に対峙した。
延文元年と同六年に、氏家彦十郎と同伊賀守が斯波直持から宮城郡余目郷内ほかの遵行を命じられていることが『留守文書』にみえている。おそらく、氏家氏は家兼に従って奥州に下り、家兼の死後は直持に仕えたものと思われる。このように、氏家重定が建武四年に斯波氏に随って奥州に移ったことは、誤伝であると断じざるをえない。
重定(道誠入道)は若年の兼頼に代わって、出羽に下り出羽地方の南朝方に対する工作にあたった。重定はすでに相当の老齢であったと思われるが、兼頼の執事となって村山成沢城に居住し、当地で死去したようだ。そして、子孫は代々斯波最上氏の執事をつとめ戦国時代に至った。
重定が出羽に去ったあとは、一族の弾正詮継があとを継いだという。一説には、この詮継が和五年(1349)に足利尊氏より奥州探題斯波氏(のちに大崎氏と改める=以降大崎氏と記す)の監視役を命じられて下向したともいわれる。しかし、こちらの説も年代的にうなづけないものであり、奥州氏家氏の発祥に関してはいずれの説が真実を伝えたものであるかはにわかに判断しがたい。
 南北朝時代の経過をみるかぎり、氏家氏が奥州に入ったのは、斯波家兼が奥州探題として奥州に移った文和元年(1352)以降のことと思われる。そして、この時点における斯波氏と氏家氏の間にはのちのような主従関係はなく、いわゆる上司と部下といった関係であったと考えられる。
大崎氏、筆頭の重臣
さて、出羽に移った重定とそのあとを継いだといわれる詮継の関係であるが、親子のようにも解せられるが、実のところその関係は必ずしも明確ではないのである。重定が道誠入道を称したのは先述したが、詮継もまた道誠入道を称しており、同一人物かとも思われるのである。『下野国誌』に掲載された「氏家氏系図」には、重定の子に重国を記すが詮継の名は見えない。さらに、同系図のどこにも詮継に相当する人物を見出せないのである。さらに、詮継の名乗りは国誌に載る系図の人名とは異流の感を抱かせるものである。
重定と詮継は氏家氏の人物として一族の関係であることは疑いないが、流を分かつ氏家氏であったと思われる。『伊達世臣譜略』によれば、岩出山氏家氏に関して「氏家は姓藤原、その出自詳ならず、先祖又八郎詮継、貞和五年、尊氏将軍の命を受け、大崎監司となり、来たりて玉造郡岩手澤城に住す、子孫遂に大崎家臣となる」と記されている。
貞治三年(1364)、北条一族の塩田時信が数千の軍を率いて胆沢に進攻した。このとき、氏家詮継が大崎氏の名代となって軍を率いて出陣、塩田軍を敗り時信一族五人の首を取り鎌倉に献じた。このころから氏家氏は大崎氏に臣従するようになり、内外ともに第一の家臣として認められる存在となったようだ。
氏家氏は室町時代初期の応永年間(1394〜1428)に岩出山城を本拠とし、奥州探題斯波大崎氏の執事として威勢を誇った。岩手山は一名岩手沢ともいい、『封内風土記』に「岩手澤城は山上にあり、俗に岩出山と云う」とみえ、『観蹟聞老志』には「この名、旧名を岩手澤と云う。大崎家臣氏家弾正なる者の居館なり」とある。これによって氏家氏は岩手澤氏とも称していた。
大崎氏に対立する
奥州探題として重きをなした大崎氏は、奥州武士の崇敬を集め、加美郡中新田・名生などを根拠地として勢力を拡大した。そして、室町期から戦国時代にかけて志田・玉造・加美・遠田・栗原五郡を支配し、戦国大名へと成長していった。同時代の奥州には、伊達・葛西・葦名・最上・南部などの諸氏が割拠し互いに攻防を繰り返した。
氏家氏は大崎氏の執事を務め宿老であったが、大崎氏家中における主流派である笠原一党と対立し、反主流派として大崎氏に反乱すること数回に及んだ。
天文三年(1534)、志田郡泉沢領主新田安芸頼遠が中新田・高木・黒沢らの諸氏を誘って反乱を起こした。大崎義直は新田安芸討伐に出陣したが、このとき、氏家直益は古川・高泉・一迫の諸氏とともに新田安芸に加担して義直軍に対抗した。義直は独力で事態の解決ができず、陸奥守護である伊達稙宗の出馬を請うた。天文五年、稙宗は伊達軍を率いて志田郡師山城に至り、戦備を整えた。そして六月下旬、反乱軍の立て籠る古川城を攻撃して、これを陥れ、ついで高泉城以下の城を焼き払った。
七月中旬には、義直とともに反乱軍の最後の拠点である岩出山城への攻撃を開始した。岩出山城には三千余人が立て籠り、伊達・大崎連合軍の攻撃に抵抗した。戦いは長期戦となり、九月中旬に至ってついに城方が降伏、乱の首謀者である新田安芸は出羽に落ち延びて、数年に及んだ大崎領の内乱は反乱軍の敗北に終わった。しかし、大崎氏家中の混乱はその後も絶えなかった。
その後、直益は家督を嫡子隆継に譲り三丁目城に隠棲した。玉造郡惣領氏家氏八代を継いだ隆継は、三河守を称して累代の岩出沢城を継承した。岩出沢城は天正元年(1573)に隆継が築城したとも言われるが、同地には先代直益の頃から移住していたものと見られている。
大崎氏の内紛
隆継の跡を継いだ吉継(直継)は弾正忠を称した。天文三年の内乱以後、大崎氏家中では権力争いが続き、天正十四年になるとそれが激化した。その争いを決定的なものとしたのは、大崎義隆の寵童である新井田刑部と井場野惣八郎との争いであった。
刑部は義直の寵愛を一身に集めていたが、そこへ惣八郎が現れて義直の寵愛を受けるようになった。刑部は義直の寵愛と実家の武力を背景に傍若無人な振舞が多かったこともあり、惣八郎の控えめな態度が家中には好もしく思われていた。面白くない刑部は、実家に帰り井場野惣八郎を討つ計画を進め、ついでのことに主君義直も詰め腹を切らせようとした。さらに、刑部らは伊達政宗に奉公を誓い援助を頼ったのである。
一方、刑部一党に命を狙われた惣八郎は進退に窮して、氏家弾正吉継を頼った。はからずも弾正は、惣八郎を助けて刑部一党と対抗する形になった。これに対して、義直は調停に苦慮したが、刑部の甘言にのってその身を新井田城に拘束されてしまった。義直を手中のものにした刑部一党は主流派となり、氏家一党を討つべく諸氏に激を飛ばした。
この間、氏家弾正は義直の室や嫡子らを保護するなどし、義直に反抗する気はさらさらなかった。ところが、義直を拉致した刑部一党によって、氏家弾正はいつのまにやら反主流派として攻撃を受ける立場となった。この事態に至って弾正吉継は、片倉景綱を頼り伊達政宗に援助を願い出た。政宗は先に刑部一党から援助を頼まれたが、義直を拉致した刑部一党は心変わりして、政宗との約束を反故にしていた。刑部らの身勝手な仕打ちに怒りを押えかねていた政宗は、弾正吉継一派を援助することにして大崎出兵を決した。
このように、天正十五年(1587)から同十六年にかけての大崎氏の内紛は、新井田・伊場野の小姓二人の確執がそもそもの原因であった。しかし、反主流派の領袖となった弾正吉継が伊達政宗に救援を求めたことで、内訌は伊達氏と大崎氏との合戦にまで連鎖拡大してしまったのである。
大崎合戦と戦国時代の終焉
伊達政宗は、浜田伊豆景隆を陣代として出発させ、留守政景と泉田重光を大将に、小山田筑前を軍奉行に任じ、さらに、長江月鑑斎、田手宗実、遠藤高康、高城宗綱ら大崎領に接する諸氏に動員令を発した。その勢、一万数千という大軍であった。
大崎方は中新田城を主城として、桑折城・師山城に兵を配して伊達軍を迎え撃った。伊達軍の猛攻によって中新田城は本丸を残すばかりとなったとき、大崎原野に大雪が降り出し、突然の天候の変化と大雪による寒さによって伊達軍は兵を撤収しようとした。ここに攻守は逆転し、大崎勢は逃げる伊達勢に襲い掛かった。そこへ、桑折城の城将である黒川月舟斎の勢が加わり、伊達軍は散々に敗れて小山田筑前をはじめ多くの兵が大崎原野を_に染めて討死した。
氏家氏は岩出沢城から出撃したものの伊達勢と合することができず、兵を引こうとしたところを笠原勢と合戦となった。激戦となったが、落日とともに双方兵を引き、氏家勢は岩出沢城に撤収した。のちに「大崎合戦」とよばれるこの戦いは、大崎方の大勝利に終わった。
合戦に勝利したとはいえ大崎氏の力はすでに限界で、結局伊達氏との間に和議が結ばれた。そして、天正十八年(1590)、豊臣秀吉による小田原の陣に家中不穏のため参陣できなかった大崎氏は、豊臣秀吉の奥州仕置によって没落した。それを契機として弾正吉継は伊達氏に仕えたが、天正十九年(1591)に病没し岩出山氏家氏の嫡流は滅亡した。一説に、大崎合戦後の間もない天正十六年に死去したとするものもある。
江戸時代、伊達家中の氏家氏は、吉継の代で断絶した氏家氏を再興したものである。すなわち、直継の娘が富田守実に嫁いで守綱を生んだ。守綱の娘は伊達忠宗の小姓として仕えた中里清勝に嫁ぎ、忠宗は清勝に氏家の名跡を継がせたのである。清勝は氏家主水と改めて、万治三年(1660)に千八百五十石の禄となり、子孫連綿して明治維新に至った。 
 
 

 

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