戦国時代の日本[2]

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雑話 / 長曾我部盛親徳川家康織田信長上杉謙信武田信玄豊臣秀長前田利家蒲生氏郷宇喜多秀家豊臣秀吉毛利元就黒田如水
 

雑学の世界・補考   

朝廷

後土御門天皇
延徳(えんとく) 改元理由:疫病/改元日:長享三年八月二十一日/出典:「孟子」:「開二延道徳一」/選者:菅原長直
明応(めいおう) 改元理由:疫病/改元日:延徳四年七月十九日/改元日:「周易」:「其徳剛健而明応二乎天一而時行」/「文選」:「徳行脩明、皆宣下応受二多福一保中人子孫上」/選者:菅原存数
後柏原天皇
文亀(ぶんき) 改元理由:辛酉革命/改元日:明応十年二月二十九日/出典:「爾雅」:「十朋之亀者、一曰神亀二曰霊亀三曰摂亀四曰実亀五曰文亀」/選者:菅原和長
永正(えいしょう) 改元理由:甲子革命/改元日:文亀四年二月三十日/出典:「周易緯」:「永正其道口感受吉花」/選者:菅原長直
大永(だいえい) 改元理由:兵革/改元日:永正十八年八月二十三日/出典:「杜氏通典」:「庶務微至密、其大則以永レ業」/選者:菅原為学
御奈良天皇
享禄(きょうろく) 改元理由:天皇御即位/改元日:大永八年八月二十日/出典:「周書」:「居二天位一享二天禄一也、国家養レ賢者得レ行二其道一也」/選者:菅原長淳
天文(てんぶんてんもん) 改元理由:兵革/改元日:享禄五年七月二十九日/出典:「尚書注」:「孔安国曰、舜察二天文一、斎二七政一」/選者:菅原長雅
弘治(こうじ) 改元理由:兵革/改元日:天文二十四年十月二十三日/出典:「北斉書」:「祇承二宝命一、志弘二治体一」/選者:菅原長雅
正親町天皇
永禄(えいろく) 改元理由:天皇御即位/改元日:弘治四年二月二十八日/出典:「群書治要二六」:「保レ世持レ家永全二福禄一者也」/選者:菅原長雅
元亀(げんき) 改元理由:兵革/改元日:永禄十三年四月二十三日/出典:「毛詩」、「文選」/選者:菅原長雅
天正(てんしょう) 改元理由:明らかならず/改元日:元亀四年七月二十八日/出典:「文選」:「君以レ下為レ基、民以レ食為レ天正二其末一者端二其本善二其後一者慎二其先一」/「老子経」:「清浄者為二天下正一」/選者:菅原長雅
後陽成天皇
文禄(ぶんろく) 改元理由:天皇御即位/改元日:天正二十年十二月八日/出典:「杜氏通典」:「凡京文武官、毎年給レ禄」/「老子経」:「清浄者為二天下正一」/選者:菅原盛長
慶長(けいちょう) 改元理由:天変地異/改元日:文禄五年十月二十七日/出典:「毛詩注疏」:「文王功徳深厚、故福慶延長也」/「老子経」:「清浄者為二天下正一」/選者:菅原為経
後水尾天皇
元和(げんな) 改元理由:天皇御即位/改元日:慶長二十年七月十三日/出典:明らかならず/選者:菅原為経
寛永(かんえいかんねい) 改元理由:甲子革命/改元日:元和十年二月三十日/出典:「毛詩朱氏注」:「寛広永長」/選者:菅原長雅
後土御門天皇
(ごつちみかどてんのう) 嘉吉2年-明応9年(1442-1500) 室町時代の第103代天皇[在位寛正5年-明応9年](1464-1500)。諱は成仁(ふさひと)。
長禄元年(1457年)12月19日に親王宣下、寛正5年(1464年)7月19日に後花園天皇の譲位を受けて践祚(即位日は、寛正6年(1465年)12月27日)。文明2年(1470年)まで後花園上皇による院政が行われた。
践祚後ほどなく応仁の乱が起き、寺社や公卿の館は焼け、朝廷の財源は枯渇して朝廷は衰微した。乱を避けるため、足利義政の室町第に10年の間避難生活を強いられた。避難生活中には、義政正室の日野富子との密通も噂されていた。乱の終結後、朝廷の古来の儀式の復活に熱意を注ぐが、思うように行かなかった。
明応の政変に憤慨して一時は譲位を決意するが、老臣である権大納言甘露寺親長の諫奏によって取りやめる(『親長卿記』明応2年4月23日条)。その背景には、朝廷に譲位の儀式のため費用がなく、政変を起こした細川政元にその費用を借りるという自己矛盾に陥る事態を危惧したとも言われている。
後土御門天皇は5回も譲位しようとしたが、政権の正統性を付与するよう望んでいた足利将軍家に拒否された。
明応9年9月28日、崩御。享年58。葬儀の費用もなく、40日も御所に遺体がおかれたままだった。このことは近衛政家による『後法興院記』の明応9年11月11日条に「今夜旧主御葬送と云々。亥の刻許(ばか)り禁裏より泉湧寺に遷幸す。(中略)今日に至り崩御以降四十三日なり。かくの如き遅々、さらに先規あるべからず歟(か)。」と記されている。
後土御門天皇は敬虔な仏教徒であり、貧窮は自分の罪障が原因と考えて、阿弥陀仏の慈悲に希望を託した。後土御門天皇は、以下の和歌を詠じた。
誓ありと 思ひうる身に なす罪の 重きもいかで 弥陀はもらさむ
後柏原天皇
(ごかしわばらてんのう) 寛正5年-大永6年(1464-1526) 室町時代、戦国時代の第104代天皇 [在位明応9年-大永6年](1500-1526) 諱は勝仁(かつひと)。諡たる「後柏原」は、桓武天皇の別称柏原帝にちなむ。
文明12年(1480年)12月13日に親王宣下。明応9年(1500年)10月25日、後土御門天皇の崩御を受けて践祚した。しかしながら、応仁の乱後の混乱のために朝廷の財政は逼迫しており、後柏原天皇の治世は26年におよんだが、即位の礼をあげるまで21年待たなくてはならなかった。
また、11代将軍・足利義澄が参議中将昇任のために朝廷に献金して天皇の即位の礼の費用にあてることを検討したが、管領細川政元が「即位礼を挙げたところで実質が伴っていなければ王と認められない。儀式を挙げなくても私は王と認める。末代の今、大がかりな即位礼など無駄なことだ」と反対し、群臣も同意したため献金は沙汰止みとなる(『大乗院寺社雑事記』(尋尊大僧正記)文亀2年6月16日条)など、主要な献金元である幕府や守護大名も逼迫していたために資金はなかなか集まらなかった。費用調達の為に朝廷の儀式を中止するなど経費節約をし、室町幕府や本願寺9世実如の献金をあわせることで、即位22年目の大永元年(1521年)3月22日にようやく即位の礼を執り行うことができた。ただし、この時も直前に将軍足利義稙(10代将軍の再任)が管領細川高国と対立して京都から出奔して開催が危ぶまれた。だが、義稙の出奔に激怒した天皇は即位の礼を強行(『二水記』永正10年3月8日・20日条)して、警固の責任を果たした細川高国による義稙放逐と足利義晴擁立に同意を与えることとなった。
応仁の乱により、公卿は地方に離散し、朝廷の財政は窮乏し、天皇の権威も地に落ちた時代だった。財政難で廃絶した朝廷の儀式の復興に力を入れる反面、戦乱や疾病に苦しむ民を思い続けた。
仏教に帰依し、1525(大永5)年の疱瘡大流行時には自ら筆をとって「般若心経」を延暦寺と仁和寺に奉納した。詩歌管弦、書道に長けていたといわれている。
後奈良天皇
(ごならてんのう) 明応5年-弘治3年(1497-1557) 室町時代・戦国時代の第105代天皇[在位大永6年-弘治3年](1526-1557)。諱は知仁(ともひと)。
明応5年(1497年)1月26日、権中納言歓修寺政顕の屋敷で誕生。大永6年(1526年)4月29日、後柏原天皇の崩御にともない践祚した。しかし、朝廷の財政は窮乏を極め、全国から寄付金を募り、10年後の天文5年2月26日(1535年3月29日)にようやく紫宸殿にて即位式を行う事ができた。寄付した戦国大名は後北条氏、大内氏、今川氏などである。
後奈良天皇は、宸筆(天子の直筆)の書を売って収入の足しにしていた。だが、清廉な人柄であったらしく、天文4年(1535年)に一条房冬を左近衛大将に任命した際に秘かに朝廷に銭1万疋の献金を約束していた事を知って、献金を突き返した。さらに、同じ年に即位式の献金を行った大内義隆が大宰大弐への任官を申請したが、これを拒絶した。大内義隆の大宰大弐任命は、周囲の説得で翌年にようやく認めた。
慈悲深く、天文9年(1540年)6月、疾病終息を発願して自ら書いた『般若心経』の奥書には「今茲天下大疾万民多阽於死亡。朕為民父母徳不能覆、甚自痛焉」との悲痛な自省の言を添えている。また、天文14年(1545年)8月の伊勢神宮への宣命には皇室と民の復興を祈願するなど、天皇としての責任感も強かった。
三条西実隆、吉田兼右らに古典を、清原宣賢から漢籍を学ぶなど学問の造詣も深かった。御製の和歌も多く、『後奈良院御集』『後奈良院御百首』などの和歌集、日記『天聴集』を残している。さらに、なぞなぞ集『後奈良天皇御撰名曾』は、貴重な文学資料でもある。
諡たる「後奈良」は平城天皇の別称奈良帝にちなむ。
正親町天皇
(おおぎまちてんのう) 永正14年-文禄2年(1517-1593) 第106代天皇[在位弘治3年-天正14年](1557-1586)。諱は方仁(みちひと)。
弘治3年(1557年)、後奈良天皇の崩御に伴って践祚した。当時、天皇や公家達はすでに生活に窮するほど貧窮していた。戦国大名・毛利元就の献上金があるまで、3年間即位の礼を挙げられなかった。正親町天皇は、元就に褒美として従五位下・右馬頭という位階を授け、皇室の紋章である菊と桐の模様を毛利家の家紋に付け足すことを許可した。
さらに、本願寺法主・顕如も莫大な献金を行っており、天皇から門跡の称号を与えられた。これ以後、本願寺の権勢が増した。
朝廷の財政は逼迫し、権威も地に落ちかけていた。永禄11年(1568年)、戦国大名の織田信長は、正親町天皇をお護りするという大義名分により、京都を制圧した。 この上洛によって、皇室の危機的状況に変化が訪れた。信長は、逼迫していた朝廷の財政を様々な政策や自身の援助により回復させたその一方で、天皇の権威を利用し、信長の敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現させた。元亀元年(1570年)の朝倉義景・浅井長政との戦い、天正元年(1573年)の足利義昭との戦い、天正8年(1580年)の石山本願寺との戦いにおける講和は、いずれも正親町天皇の勅命によるものである(ただし、本願寺との和議は本願寺側からの依頼という説もある)。その間の天正5年(1577年)には信長の最高位となる右大臣を宣下した。
豊臣氏へ政権が移った後も、豊臣秀吉は御料地や黄金を献上し、正親町天皇を政権の後ろ楯とした。当時、秀吉は中国・朝鮮や東南アジアへの進出という壮大な野望を抱いていた(文禄の役)。明を征服した暁には「叡慮」を明に移し、その後の「日本帝位の儀」をはじめとした朝廷人事についても構想していたとされる。この計画は朝鮮出兵での失敗によって頓挫したものの、その後も皇室と織豊政権の相互関係は続き、結果的に皇室の権威は高まった。
天正14年(1586年)、孫の和仁(かずひと)親王(後陽成天皇)に譲位して仙洞御所に隠退した。文禄2年(1593年)1月5日に崩御した。
永禄10年(1567年)、正親町天皇は高野山(和歌山県)の真言宗堂塔の破壊をやめるよう信長にはたらきかけ、寺院を救った。さらに、信長と本願寺勢力との間の和平を促し、天正8年(1580年)、両者の和解が成立した。この例は、天皇は非力だったとはいうものの、軍事的な支配者の間に割って入り、その意志決定に影響を与えることが可能だったことを示している。
イエズス会の宣教師は、日本には正親町天皇と織田信長の2人の統治者がいると報告書に記述した。コスメ・デ・トーレスは、フランシスコ・ザビエルの後任の布教責任者である。1570年(元亀元年)、以下のように報告している。
正親町天皇の譲位問題
信長が譲位を要求したとする説
正親町天皇は天正元年(1573年)頃から信長にその存在を疎まれるようになる。そして、たびたび譲位を要求されるようになる。同年12月8日の『孝親日記』にその事が記されている。また、2年後には譲位後に居住する仙洞御所の予定地を探していたともされた。信長としては、儲君の誠仁親王を早く天皇にすることで、より朝廷の権威を利用しやすいものにしようという思惑があったようである。しかし、天皇はそれを最後まで拒んだ。ちなみに本能寺の変に関する一説として朝廷関与説が浮上するのも、このような事情によるものである。
信長が譲位に反対したとする説
上記の説とは違い、正親町天皇が譲位を希望して信長がこれに反対していたという説もある。朝廷の内部資料(清涼殿に仕える女官の日誌)である『お湯殿の上の日記』によると、天正9年(1581年)信長が京都で大規模な馬揃えを行った直後の3月9日に、正親町天皇から退位の意向が信長に伝えられた。同年3月24日に譲位がいったん朝議で決定されて、この事を「めでたいめでたい」とまで記されている。それにもかかわらず、『兼見卿記』4月1日の条に、一転中止になったと記されている。これは前述のように当時仙洞御所が存在しておらず、天皇・信長のどちらかが譲位を希望したとしても、「退位後の生活場所」という現実的な問題から何らかの形式で仙洞御所を用意できない限りは譲位は困難であった(実際の正親町天皇の譲位については、それに先立って豊臣秀吉が仙洞御所を造営している)。だが、譲位に関する諸儀式や退位後の上皇の御所の造営などにかかる莫大な経費を捻出できる唯一の権力者である信長が、譲位に同意しなかったからとするのが妥当とされている(戦国時代に在位した3代の天皇が全て譲位をすることなく崩御しているのは、譲位のための費用が朝廷になかったからである)。天正元年の時点で、正親町天皇は57歳(同9年には65歳)、誠仁親王は22歳(同30歳)である。天正9年の時点では、天皇の病気の記事が頻出するようになる。つまり、譲位を行う好機にさしかかっていた。それにもかかわらず、信長が譲位に関して積極的な行動を取らなかったのは、むしろ譲位に消極的だったからではないかという。
後陽成天皇
(ごようぜいてんのう) 元亀2年-元和3年(1571-1617) 安土桃山時代から江戸時代初期の第107代天皇[在位天正14年-慶長16年](1586-1611)。諱を和仁(かずひと)といい後に周仁(かたひと)と名乗った。
天正14年(1586年)7月に正親町天皇の東宮であった誠仁親王が薨去し、皇孫に当たる周仁親王が同年12月15日に、皇祖父にあたる正親町天皇から譲位され受禅した。
後陽成天皇の在位期間は、ちょうど豊臣政権と江戸幕府初期にまたいでおり、前半と後半で天皇に対する扱いが変わっている。豊臣秀吉は、支配の権威として関白、太閤の位を利用したために天皇を尊重し、その権威を高める必要があり、朝廷の威信回復に尽力した。天正16年(1588年)に秀吉の演出した天皇の聚楽第行幸は盛大に行われた。秀吉の死後の関ヶ原の戦いでは、丹後田辺城に拠って西軍と交戦中の細川幽斎を惜しみ、両軍に勅命を発して開城させている。慶長8年(1603年)に、徳川家康は征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開く。朝廷権威の抑制をはかる幕府は干渉を強め、官位の叙任権や元号の改元も幕府が握る事となった。慶長14年(1609年)に宮中女官の密通事件(猪熊事件)では、幕府の京都所司代に厳罰を要請している。
これに先立って後陽成天皇は秀吉の勧めで第1皇子の良仁親王を皇位継承者とした。ところが秀吉が死ぬとこれを嫌って弟宮である八条宮智仁親王への譲位を望むが、廷臣や家康に反対される。関ヶ原の合戦後、後陽成天皇は家康の了承を得て良仁親王を強引に仁和寺で出家させて第3皇子・政仁親王を立てる。
慶長16年、政仁親王(後水尾天皇)に譲位して、仙洞御所へ退く。だが、後水尾天皇とも上手く行かず、父子の間は長く不和であり続けたと伝えられている。元和3年(1617年)に崩御、宝算47歳。
自著に『源氏物語聞書』『伊勢物語愚案抄』などがあり、『日本書紀』を慶長勅版として発行させる。 
勅使と御使
勅使は天皇陛下を中心とされた朝廷の総意として遣わされた。本来は寺社に蔵人(弁官)が派遣される事を指す言葉である。特に格式の高い武家に対し、陣中見舞いや戦勝祝賀を伝えるために派遣された。御使は天皇陛下の御意志として遣わされた。大名に対して物品を下賜するため、公卿が御使として派遣された。
治罰の綸旨
治罰の綸旨とは朝敵討伐の命令である。天皇が公卿(識事・弁官)に命じて作成させる。上皇が発給するものは院宣と言う。
錦の御旗
現存する錦の御旗として、細川頼有下賜の旗が伝わっている。最上段に金色の日輪。右に「天照大神」、左に「八幡大菩薩(応神天皇・戦神)」の神号を記す。特に八幡の文字は、八を石清水八幡宮の神使である鳩を用いて記している。
武家の幡
武家の幡とは征夷大将軍の発給する征伐の御旗である。錦の御旗の下に位置付けられる。
官途奉行
室町幕府の官位申請は、官途奉行摂津氏を通じて行われた。摂津氏が朝廷に挙状を出し、足利将軍の内意であるとして任官の手続きを行うよう申請した。天皇が任官を認めると、職事は上卿に書状を送り、任官の準備を促す。上卿は外記局に書状を出し、任官の旨を記した書状を大名に送るよう命じる。将軍を介するという形態を採ったため、京に将軍がいない場合、直奏が行われることがあった。足利将軍(室町殿)は補任状を発給し、有力大名を守護に任命する。天皇は口宣案を発給し、任官を命じた。
武家伝奏
武家伝奏は幕府の意志を朝廷に上奏し、朝廷の御裁可を幕府に伝える役目。幕府が任命権を持つため、幕府寄りの公家が任命された。慶長八年九月、朝廷は七ヶ条の壁書によって公家に綱紀粛正を促した。これは武家伝奏によって幕府に素行を訴えられる公家が出ることを懸念したための措置である。公家の処罰を口実に幕府が干渉する事を避けようとしたのだ。しかし、慶長十年八月にも八ヶ条の壁書を出したように、風紀を乱す公家がいた。
京都所司代
京都所司代は朝廷の警護、公家の監視、京都の治安維持、裁判を担当。畿内、丹波、近江、播磨の公事を司り、京都、奈良、伏見奉行の統括役も務めた。慶長五年、関ヶ原合戦に勝利した家康は奥平信昌を京都所司代に任命した。慶長六年、板倉勝重が京都所司代に就任。元和六年、板倉重宗が京都所司代に就任。勝重は十九年間、重宗は三十四年間も京都所司代を務めた。
官途の乱発
天文年間、後奈良天皇の御代になると大名への官途授与が増加。資金難に苦しむ朝廷は、大名からの御礼に期待して官途授与を行った。ただし、献金を積んでも任官が許されない官途もあった。足利家当主は代々、左馬頭を最初の任官にした。細川家当主は代々、右京大夫に任ぜられた。この二つの官途は他の大名に与えられる事は無かった。それ以外の官途は献金などの働きかけによって、家格に拘らず任官が許されるようになっていた。
家格を無視した任官
左京大夫は足利一門の有力者が任ぜられる官途だった。しかし、戦国時代には朝廷の逼迫した財政事情により、献金を積めば地方の大名にも授与されるようになった。
大内義興、伊達稙宗、武田信虎、北条氏綱、大内義隆、六角義賢、赤松政村、岩城重隆、大宝寺晴時、結城晴広、大崎義直、大内義長、伊達晴宗、北条氏康、斎藤義龍、三好義継、徳川家康らが任官されている。
一国の守護もいれば、地方大名もいる。この様に官途授与の乱発が起こっていた。
越前守護朝倉貞景は永正元年に弾正少忠、長尾景虎は天文二十一年に弾正少弼に叙任された。弾正少弼は弾正台の次官であり、弾正少忠は弾正少弼より下位に位置付けられる。守護代が守護よりも上の官位に任ぜられたのだ。
永禄三年、大友義鎮は幕府に三千貫を献上し、その返礼として左衛門督の官途を与えられた。左衛門督は管領畠山家当主しか任ぜられないが、永禄年間には三好長慶や尼子晴久、朝倉義景が任ぜられていた。大友家の極官は修理大夫だが、足利義輝の推挙によって左衛門督が与えられた。大友家は守護の名家であり、守護代から成り上がった大名より下位の官途を与える事は出来ない。そこで、極官以上の官途を与える事になった。
所領支配の大義名分
戦国大名は所領支配の大義名分を朝廷の官途に求めた。
天文元年十月、大内義隆は周防介に任官。
天文二年八月、大内義隆は筑前守に任官。
天文五年五月、大内義隆は太宰大弐に任官。
天文五年七月、土岐頼芸は美濃守に任官。
天文九年三月、大内義隆は伊予介に任官。
天文十年九月、織田信秀は三河守に任官。
天文十三年三月、遊佐長教は河内守に任官。
天文十六年八月、毛利隆元は備中守の任官を奏請。
永禄元年正月、三木頼任は飛騨守に任官。
永禄三年五月、今川義元は三河守に任官。
永禄九年、徳川家康は三河守に任官。
永禄十年、織田信長は尾張守に任官。
税の滞納
戦国時代、三条西家が青苧座を統轄していた。大永七年六月十日、三条西実隆は長尾為景に書状を送り、青苧公銭の納税が三年も滞っていると伝えた。
天文十六年二月十七日、後奈良天皇は武田信玄に対し、青苧座への納税が滞っていると批判。甲斐、信濃の業者に納税を命じるよう伝えた。
 
宗教

 

仏教
仏教とは何か
人は「六道(天上界・人間界・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄)」を輪廻する。輪廻とは別の命への転生であるが、それは永遠の苦痛につながる。死、老、病、死、愛別離苦(愛する者との離別)、怨憎会苦(憎悪する人と会う)、求不得苦(欲することを願うも叶わない)、五陰盛苦(生きるが故の苦しみ)を繰り返すことになるからだ。これらの苦しみ、つまり四苦八苦から逃れる術はあるのか。
釈迦は在ると説く。死が苦痛ならば、生への執着(煩悩)をなくせばよい。煩悩こそが苦痛を生む。形在るもの、やがては滅す。これを「空」と呼ぶ。空に従えば、人はいずれは死ぬ。そのような無常を悟れば、生への執着はなくなり、死への苦痛はなくなる。人は苦痛を生む百八の煩悩を持っており、これらを消すことで解脱することが出来る。
解脱とは輪廻から解き放たれることを云う。解脱に至った者を仏陀と云う。釈迦は涅槃に至った最初の仏陀である。釈迦が入滅し、五十六億七千万年を経て弥勒菩薩が民衆を救済する。これが仏教の基本思想である。仏教が広まった背景には、インドのカースト制度から抜け出そうとする人々が、精神的な救いを求めたことが大きいとされる。
釈迦は己のために悟りを開き、仏陀となった。しかし、釈迦のように出家し、すべての煩悩をすてることは難しい。出来る者は限られるし、出来ない者は永遠に輪廻を繰り返すことになる。そうした人々を救い、さらに己も悟りを開くという教えはないか。こうした考えから大乗仏教が生まれた。逆に、己のためのみに悟りを開く仏教を上座部仏教(小乗仏教)と云う。
仏教の基本思想に「浄土思想」がある。人は簡単に涅槃に至ることは出来ない。しかし、すでに仏陀となった者が、人々を自らの側に招き、涅槃に至るための教えを授けてくれるならば、誰もが輪廻から解き放たれることになる。
この仏陀とは阿弥陀如来である。如来とは涅槃に至った者を指す。それは「浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)」に記されている。阿弥陀如来は自分を信じる者を輪廻から解き放つと約束した。この約束を「本願」と云う。人は阿弥陀如来を信仰し、極楽浄土への転生(往生)を望むべきである。そうして極楽浄土を思い描き、やがて浄土を連想させる物を作ることで往生しようとする考え方が生まれた。これを「観想念仏」という。日本では平安時代に源信が広め、平等院鳳凰堂が作られた。
輪廻する「モノ」は霊ではない。「識」である。仏教は霊の存在を認めていない。その意味で日本は仏教国ではなく、霊を認める神道の国だと再認識できる。昔から日本人は仏教の教えを薄め、神道と融合させることで信仰してきた。御盆、御彼岸などは仏教では考えられないことで、それをお寺が行うということ事態が本来はおかしいのだ。 
仏教の宗派
浄土宗 / 法然。観想念仏では大衆は救われない。そうした大衆は自力での涅槃を諦め、阿弥陀如来の救いを信じるしかない。その信心を「南無阿弥陀仏」との言葉にするのだ。これを「唱名念仏」と云う。
浄土真宗 / 親鸞。阿弥陀如来の救いは万人に及ぶ。だからこそ唱名の必要はない。本当に必要なのは阿弥陀如来への信仰である。信仰さえあれば仏僧になる必要もない。だからこそ、それまで戒律として禁止されていた婚姻も許される。親鸞の悪人正機説、一遍の念仏は悪人も往生できるとするものだった。この「悪」とは自ら罪を悔いる者を意味するが、悪党や海賊なども「悪」に含まれている。彼らが一遍の布教を助けたのはそのためである。貯蓄を穢れとする風潮を嫌う商人も、親鸞の教えを支持した。こうして親鸞の宗派は穢れた者でも往生できる宗派と考えられるようになり、女性や卑賤視された者も信者となった。この流れをくむ本願寺は近江堅田、越前吉崎、伊勢長島、安芸広島、そして山科、石山と海や河川による交易の盛んな土地を拠点とした。山地の拠点は特産物で潤う土地に置かれた。寺内町は商人、職人のためにあり、本願寺が悪党や海賊、非人、商人らに支えられていたことは間違いない。
時宗 / 一遍。阿弥陀如来は全ての人を救うとの誓いを立てた。ならば、信仰さえも必要ない。救われることを、ただ喜ぶのみである。
曹洞宗 / 道元。達磨。釈迦の教えを正統に継いでいる。信者は出家して座禅を組む。永平寺は道元、総持寺は瑩山紹瑾。
日蓮宗 / 釈迦は入滅し、人としての仮の体を失う。失ったのはあくまで仮の姿であり、釈迦自身は娑婆に存在し続けている。だからこそ、現世を浄土とするべきである。これを「常寂光土」と云う。これは「妙法蓮華経」に記されている。信者は「南無妙法蓮華経」と唱え、法華経の教えを広めなければならない。他の宗派の信徒を説得し、法華経に帰依させなければならない。この説得を「折伏」と云う。女人救済を掲げる。
密教 / 最も尊き如来は「大日如来」である。大日如来の人間界での姿が、釈迦である。阿弥陀如来も無量光如来、または無量寿如来と云う如来の一人である。大日如来とヒンズー教のシヴァ神は習合された。不動明王は悪を滅ぼすため、大日如来が姿を変えたものであり、習合されたシヴァでもある。 
僧侶
和漢三才図絵より僧侶について記す。
僧は沙門、勤息、乞士(こつし)、比丘などと呼ばれる。一切の貪欲から超脱し、何事も希望しない。これを沙門を言う。善品を勤修し、諸悪を息めることから、勤息と言う。上は諸仏に法を乞い、その教えによって法身を養い、下は施主に食を乞い、その食物によって色身を養う。これを乞士と言う。功徳、過悪、どちらからも離れて正行を修し、その心には畏れるものは何もない。これを比丘と言う。男であれば覡(かんなぎ)、女であれば巫(みこ)と呼ぶ。かつては天皇陛下の御即位も皇族の巫女の神託により決められた。
国師とは仏法をもって天子の師範となる者で、多くは贈号である。大僧正は大納言、正僧正は中納言、権僧正は参議に准じる。法印大和尚位は少将、法眼は侍従、法橋は五位の諸大夫に准じる。
他にも五戒は不殺生、不偸盗、不邪婬、不妄語、不飲酒、である。良い家に住む、身を着飾る、音や舞を楽しむ、金銀を蓄える、むやみに食事をする、の五つを合わせ、十戒とする。十悪とは、殺、盗、淫、両舌、悪口、妄語、綺語、嫉(ねたみ)、恚(いかり)、疑、である。 
本地仏
八百万の神々は仏が日本風に姿を変えて現れたという「本地垂迹説」に則り、様々な神社で御祭神に同一とする仏が祀られるようになった。 
本地垂迹説1
仏教が興隆した時代に表れた神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。
本地とは、本来の境地やあり方のことで、垂迹とは、迹(あと)を垂れるという意味で、神仏が現れることを言う。究極の本地は、宇宙の真理そのものである法身であるとし、これを本地法身(ほんちほっしん)という。また権現の権とは「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が神の形を取って仮に現れたことを示す。
本地という思想は、仏教が各地で布教されるに、その土地で様々な土着的な宗教を包摂する、という性格をもっていることに起因する。それを表すように、仏教の天部の神々のほとんどはインドのヒンドゥー教を由来とする。またその思想概念は、後期大乗仏教で、本地仏大日如来の化身が、不動明王など加持身であるという概念を生むことになった。
これに対し、垂迹という思想は、中国の『荘子』天運における迹(教化の迹)や、所以迹(教化を成立させている道=どう)に由来し、西晋の郭象(かくしょう)がこれを註釈した『荘子注』で、これを聖王(内聖外王)の説明において展開させ、“迹”を王者としての統治・主導とし、“所以迹”を本質的な聖人として引用した。
そして、これを仏教に取り入れたのが後秦代の僧肇で、その始まりである。僧肇は『注維摩詰経』で、魏の王弼(おうひつ)などが用いた“本末”の思想を引用し、“所以迹”を“本”と言い換えて、“本”を菩薩の不可思議なる解脱(悟りの内容)とし、“迹”を菩薩が衆生を教化するために示現した方便という意味で使用した。
日本では、仏教公伝により、奈良時代の物部氏と蘇我氏の対立を見るまでもなく、相互には隔たりがあった。しかし次第にその隔たりがなくなり、仏教側の解釈では、神は迷える衆生の一種で天部の神々と同じであるとし、神を仏の境涯に引き上げようとして納経や度僧が行われたり、仏法の功徳を廻向されて神の身を離脱することが神託に謳われたりした。
しかし7世紀後半の天武期において、天皇を中心とする国造りが整備されるに伴い、その氏神であった天照大神を頂点として、それら国造りに重用された神々が民族神へと高められ、仏教側からもその神々に敬意を表して格付けを上げるようになった。実際には、仏の説いた法を味わって仏法を守護する護法善神の仲間であるという解釈により、奈良時代の末期から平安時代にわたり、神に菩薩号を付すまでに至った。民族神の代表格である八幡神が八幡大菩薩などはその典型的な例である。
しかしながら、代表的な神でない死霊などの小規模な民族神は、この本地垂迹説を用いずに区別した。これはたとえば、権化神(権社神)に対して、実類神(実社神)などがそうである。このため、仏教側では権化神には敬意を表してもよいが、実類神は信奉してはならないという戒めも一部に制定された。これは仏教の一線を守るというあらわれであったと考えられる。
この本地垂迹説により、権現造りや本地垂迹の図画なども生まれ、鎌倉中末期には文学でも本地物(ほんじもの)と呼ばれる作品が創作された。
反本地垂迹説
鎌倉時代中期になると、逆に仏が神の権化で、神が主で仏が従うと考える神本仏迹説も現れた。仏教優位に不満を持っていた神道側が仏教から独立しようという考えから起こったものである。伊勢外宮の神官である渡会氏は、神話・神事の整理や再編集により、『神道五部書』を作成、伊勢渡会神道の基盤を作った。
また、現実を肯定する本覚思想を持つ天台宗の教義を流用し、神道の理論化が試みられ、さらに空海に化託した数種類の理論書も再編され、渡会行忠・家行により、それらが体系づけられた。南北朝時代から室町時代には、反本地垂迹説がますます主張され、天台宗の側からもこれに同調する者が現れた。慈遍は『旧事本紀玄義』や『豊葦原神風和記』を著して神道に改宗し、良遍は『神代巻私見聞』や『天地麗気記聞書』を著し、この説を支持した。吉田兼倶は、これらを受けて『唯一神道名法要集』を著して、この説を大成させた。しかし鎌倉期の新仏教はこれまで通り、本地垂迹説を支持した。 
本地垂迹説2
本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)というのは、神道と仏教を両立させるために、奈良時代から始まっていた神仏習合(神仏混交、神と仏を同体と見て一緒に祀る)という信仰行為を、理論付けし、整合性を持たせた一種の合理論で、平安時代に成立しました。その基礎には仏教以前の山岳信仰と修験道などの山岳仏教の結びつきがあったといいます。
仏教の伝来は538年、あるいは552年ですが、すんなりと日本人が受け入れたわけではなく、紆余曲折があったことは良く知られています。仏教が国家の宗教となったのは奈良時代で、東大寺を建立した聖武天皇の時からでした。これも良く知られています。
ところが、天皇というのは神道の神様を祀る中心的立場にありますね。それで、やっぱり100%仏教とは行かなかったようです。そのほかの人々も同様だったのでしょう。なにせ、貴族も豪族も、みな、うちのご先祖様は何とかという神様だと言っていたのですから。
そこで、神様と仏様が歩み寄る必要が出てきました。歩み寄ったのは神様の方でした。その一番手が八幡神だったそうです。八幡神は応神天皇のことだといいます。八幡様が「私は、元々はインドの神でした」と告白したことで、ほかの神様も右へ習えとなったようです。つまり、神様の立場を「本当は仏教の仏です(本地)が、日本では神道の神としてやってます(垂迹)」ということにして、両者を共存させたわけです。
もっともこれは、日本人が自分に都合の良いように理論をでっち上げたということでもなくて、法華経にその根拠を求めることができるといいます。それに、仏教自体がヒンズー教から沢山の神を入れていましたから、如来、菩薩などが名前を変えて日本の神様になるということは、あってもよいことと考えていたのではないでしょうか。一方、神道の側からすれば、元々、教義も無ければ教祖もいない、八百万の神様が坐す(います)だけ、ということでしたから、さほど気にはならなかったのかも知れません。
本地垂迹説とはこういうことなんですが、これはうまく考えたようにも思えますが、どこかご都合主義的です。明治初年の神道国教政策により神仏は分離され、本地垂迹説も消滅しました。 
本地垂迹3
歴史的に見た日本仏教の最大級の特長の一つに、在来信仰との融和があると思う。
つまり、日本に古くからあったいわゆる「神道」と、これといった大きな対立もなく融合することができた。
例えばインドでは、仏教は土着系?の宗教であるヒンドゥー教と融合した結果、逆にヒンドゥー教に吸収され、見た目には消滅してしまった。(正統な仏教といえるものはイスラム教に破壊されてしまった。)
中国では、一通り伝来した仏教が、中国文明という巨大なふるいにかけられた結果、禅と浄土教という2つのある意味最も即効性のある教えが、中国人の好みに合う?ものとして残り、あとは淘汰されてしまった。ただし、元や清などの制服王朝においてはチベット仏教が信仰されていたが、これはまた意味が異なる。そして道教や儒教と融合することはなかった(一部影響は受けているが)。
日本には飛鳥時代以来、中国経由で仏教が伝えられ、廃れたものもあるが今なお続いているものが多い。そして、それらは神道と共存というより融合して明治維新まで続いたのである。いわゆる「神仏習合」「神仏混淆」である。これは諸外国に例があるのかどうか知らないが、おそらく世界的に見ると宗教としては大変珍しい現象ではあるまいかと思っている。
欽明天皇の時代に仏教が初めて伝来した時、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏との間に激しい対立が起こったことはご存じでしょう。その後、聖徳太子を経て、仏教は鎮護国家の中心として国家の手厚い保護を受け、奈良時代に至り、全国規模の国分寺・国分尼寺の建設、及び東大寺大仏の建立で、国家仏教は頂点に達する。
そうして、あまりに力を持ちすぎた奈良仏教から離れるため、桓武天皇は遷都を決意し、長岡京の失敗のあと、平安京に建設した。その際、都の鬼門の守り比叡山延暦寺と、市中にあって真言密教の中心である東寺が、平安京で最重要な寺院となり、以後も見た限りでは長く仏教の時代が続くのである。
で、その間、神道はどないしたかといふと、一応神社というシステムはあるのだが、これが仏教と融合することで続いているのですな。
どういうことか、少し説明しませう。
奈良時代、奈良の都には巨大寺院が相次いで建設されるが、例えば八幡神という神は仏教の守護神を名乗り出ることによって、東大寺の手向山八幡宮のように境内にいっしょに祀られている。また、藤原氏の氏神である春日神は興福寺を守護している。仏教の守護神という立場に自らを置いているわけである。
平安時代の初めにも、空海は高野山金剛峰寺を開くにあたり土地神である狩場明神や丹宇津姫神に許可を求め守護を請うているし、比叡山延暦寺も、元々信仰されていた山王神という山の神が守護神とされている。
ここには「仏」という外来の神を、日本の土地神が守護するというパターンが見られる。ここではまだ母屋にいて軒を貸してやっているような神々の立場が、何となく感じられなくもない。
平安時代が進むと、さらに両者の関係は密接となる。ここに「本地垂迹」なる概念が生まれる。
本地垂迹の、そもそもの思想的ルーツは『法華経』にあると思われる。
『法華経』は聖徳太子以来、日本人に最もよくよまれた経典の一つである。『法華経』は解釈上、前半の「迹門」と後半の「本門」に分けられる。「迹門」とは歴史上に実際に出現した釈迦牟尼仏についての部分であり、「本門」は実は釈迦牟尼仏は遠い大昔にすでに仏となっており「=久遠実成」、我々が唯一の仏だと思っていた釈迦は実は「真実」そのものであるところの久遠実成の釈迦牟尼仏が地上(=現世)に受肉(=垂迹)して出現したものであるとする。
『法華経』は大乗仏教の割と初期の経典なので、ここではまだ「法身」とか「化身」とかいう用語は使われていないが、「迹門」と「本門」とはそういう関係にある。私は先ほど、わざと「受肉」という言葉を使ったが、キリスト教でいうところの「インカーネーション」、すなわち神の霊が受肉しイエス=キリストとなったとする思想と、真実の存在である久遠実成の釈迦牟尼仏が、現世の釈迦仏として垂迹したという説に強い類似性を感じるのである。
それはともかく、仏教信仰が深く根を下ろすにつれ、仏教中心的な立場はもちろん、神道側からも(自らの権威を高めるつもりなのかどうか)、神と仏は実は同体なのだという説が説かれるようになる。
つまり、日本人が「神」だと思い信じていたものは、仏や菩薩が救済のために相手の機(=状況・資質)に応じて姿を変え出現したものであるとする(=臨機応変)。それを理論的に裏付けたのが、今述べてきたような「本地垂迹」説である。この場合、「神」は「権現」すなわち「権(か)りに現れたもの」とされ、神自体の姿は本体ではないとされる。「権現」に対する言葉は「本地」である。仮ではなく本来の仏という意味で「本地仏」という。
『法華経』の「観世音菩薩普門品」には「観音菩薩が衆生済度のため三十三種に姿を変えて出現する」と説かれており、これも本地垂迹推進者?には都合の良かった説と思われる。
ここに至り、八百万の神々は、たまたま(日本に合わせて)そういう姿をしていただけで、全ては本体は仏なのだという唯仏説が完成する。まさに神道からすれば、軒を貸して母屋をとられた状況である。この思想は平安時代半ばには完成し、以後神道と仏教の基本的な関係を示す思想として、各地に浸透しつつ、明治維新まで普通に行われた。これが神仏習合である。
このように、在来の神と外来の神が完全な融合を遂げた国が他にあろうか?誰か知っていたら教えてください。
なお本地垂迹の実際の例は、山岳信仰などに顕著な例があるが、長くなるので別の機会でご紹介したい。
明治維新に至り、国家神道の立場からいささか乱暴な神仏分離や廃仏毀釈が行われたことはご存じの通りだ。 
本地垂迹4
仏教が興隆した時代に表れた神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。「権」とは「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す。「垂迹」とは神仏が現れることを言う。
鎌倉時代になると、逆に仏が神の権化であると考える神本仏迹説も現れた。
垂迹神と本地仏
神の正体とされる仏のことを本地仏という。神々に付会される仏は、宗派、信仰、寺院、神社によって違っている。日本の神の仏号は菩薩が多く、八幡大菩薩は阿弥陀如来であるなど本地仏の仏号と相違することもある。垂迹神と本地仏の一例を以下に示す。
天照大神 = 大日如来、観音菩薩
八幡神 = 阿弥陀如来
熊野権現 = 阿弥陀如来
日吉 = 天照大神=大日如来
市杵島姫 = 弁才天
愛宕権現 = 秋葉権現 = 地蔵菩薩
素盞鳴 = 牛頭天王
大国主 = 大黒天
東照大権現(徳川家康) = 薬師如来
松尾 = 薬師如来 
本地垂迹説5
目に見えるものだけを信じてはいけないという発想は、日本の思想史の中で、「本地垂迹説」によって初めて現れたものである。
われわれの目に見えるのは、「垂迹」すなわち仮の姿のものであり、その背後には、「本地」すなわち本物の世界が広がっているということである。
その本物の世界をとらえうるかどうかが、大切なことであるとされた。
ここでは現象の裏にあるものを見つめようとする態度そのものが尊重されている。
「神仏習合」という思想はこのようにして形成された。それは単に無秩序に「神」と「仏」を並べるものではなく、また機械的に神と仏を並置するものでもなく、どちらが現象で、どちらがが真の姿であるかということを見届け、そして突きつめようとする態度と結び付いていたのである。
このような神を2つ並べて拝むという態度は、一神教の世界では考えられないことである。
しかしそれを機械的に、違った神をいくつか拝むことというふうに平坦に理解してはならない。そこには神と仏との構造とでもいうべきものがある。
能の大成者である世阿弥は、「風姿花伝」の中で「秘さざれば美なるべからず」と言っている。
隠していなければ美しいものを表現することはできないという意味である。
逆にいうと、美しいものは隠れているんだ、ということでもある。この美を真実という言葉に置き換えるとわかりやすい。
真実はいつも隠れていて、その真実の表面には絶えずそれとは異なった現象がついて回っているということである。
その現象に目をくらまされていてはいけない。
そんなことをしていてはいつまでも、美しいものを表現することはできないんだ、ということを世阿弥は見抜いたのであった。
本当の悲しみは顔の表情に現れないものである。
能面のような微動だにせぬ、表情を変えない表情の中に、深い悲しみや怒りや喜びが無尽蔵に表現されている。
そこにこそ本質があるのであって、そこにある本質こそが一番美しいものであるんだということを、世阿弥は簡潔に「秘さざれば美なるべからず」という言葉で表現した。
明治に入ると「和魂洋才」という言い方をするようになった。
(和魂の魂は、たましいとよむ。たましいの右半分は鬼と書いてある。魂には鬼と関係するものがある。それはさておき、)
和魂洋才とは、「和魂」と「洋才」を同時に2つ並列して並べたものかというと、その現象にあたるものが洋才であった。
それに対して和魂というのは、その洋才の表面から隠れたところにある日本人の本質的な心のあり方をさすものである。
しかもそれは2つ別々のものではなく、本質と現象は絶えず連動しているという本地垂迹説以来の考え方が流れている。
和魂を通して、洋才を学ぶことはできるんだという明治の人たちの意気込みがこの言葉にはある。
最も大事なものは洋才ではない。そのことを片時も忘れないことが大切だとされた。
「文武両道」ということにしても似たようなところがある。
「文」は「文」で一生懸命やり(勉強)、「武」は「武」で一生懸命やること(スポーツ)、これを文武両道だと分けて考える人がいるが、私はそうではないと思う。
荒々しい戦国時代を戦ってきたが戦国武将たちにとって、武は人が生きていく上での最も重要な手段であった。
だから命をかけて、一生懸命に武芸の技を磨いたのだと思う。
しかし平和な時代になって武はもはや不必要になった。武に代わって文というものが重要になってくる。
彼らはその必要に応じて、文を習い始めた。
しかし決して従来の武の精神を、つまり戦いの精神を忘れたわけではない。
文と武は基本的なところで一つのものだ。
文と武は基本的なところで通じている1つのものだ、という発想がこの文武両道なのだと思う。
仮に文だけで独り立ちをした人がいるとする。
あるいは武だけで独り立ちをした人がいるとする。他の教養は全くなしに。
そういう人は私はどこか危ないと思う。
なにが危ないからうまく言えないが、バランスがとりづらいと思うのだ。
人間の体には、多くのものが対になっている。目も2つあれば、耳も2つある。
それはなぜかというと、1つの目がつぶれても、もうひとつの目がそれを補ってくれるからだ。
右耳がつぶれても左耳でものを聞くことができるからだ。
しかし対になっているもののうち、足はそうではない。
足は右足がきかなくなったからといってそのまま、左足だけで歩くことができるかというと歩けなくなる。
足は両方があって初めて歩くことができる。
現象だけを見ずに物の本質を見極めようとするこの本地垂迹説の発想は、日本人の持つ人間関係にも至る所に姿を現している。
どうしようもないような人間であっても、どこかに必ず良いところがあるはずだ。
どんなに極悪人でもそれは現象面のことであって、どこかに本質としてもっと良いものが隠れているはずだ。
そのような人間観を形成させていったのである。
昔、織田信長の時代に、日本に来たキリスト教宣教師たちが言っている。
「日本の農民たちは、宗教に関して、無知どころか、とてもわれわれの手には負えないような、宗教観を持っている。私はこれを切り崩すことができない。」
そう言って、ローマ法王庁にどう教えればいいか、という質問を投げかけている。
それはどういったことかというと、
「日本の農民は、イエスキリストの教えを理解することができる。
その理解力は非常に素晴らしい。
しかし彼らは言う。
仮に私がキリスト教徒になって、そのキリストの御心によって、私が救われるとすれば、それはとてもありがたいことだ。だから私はキリスト教徒になることはできる。
しかし私の祖父や父はキリスト教徒ではなかった。
そしてもう死んでしまっている。
キリスト教徒にとって、異教徒は地獄に落ちる存在ではないのか。
だとすれば私をかわいがってくれた祖父や父は、いまだ異教徒として地獄の底で苦しんでいることになる。
たとえ私は、自分がキリスト教徒になって一人救われることができるとしても、そんなキリスト教の神を絶対に信じることはできない。」
日本の農民たちは、こういうことを投げかけて、ポルトガルの宣教師たちを、ほとほと困らせている。ここでもしキリスト教宣教師たちが、
「あなた方の祖父や父は仏教徒や神道を信じた異教徒ではあったが、それは現象面(垂迹)のことで、本当は日本の神や仏の本体(本地)というのは、キリスト教の神様なんだ」
というふうに、本地垂迹説を援用すれば、その疑問はすんなりと受け入れられたはずなのである。
しかし一神教というもの自体が、そういう本地垂迹説の考え方を受け入れることができない異質のものである。
そこが決定的に違っていたのだ。
だから違うものは違う、嫌いなものは嫌いだ、とはっきり白黒つけていく、自己主張型の文化がヨーロッパでは形成されていく。
しかし日本では、現象面で一見違っても、本当の心の奥底では、もっと良いものがあるのではないかと、絶えず探りを入れていく。
その探りの中に、かすかな明かりでも見れば、彼らを同胞として受け入れていく。
日本人が見知らぬ人には非常に排他的だが、いったん仲間になるととても家族的な雰囲気で交際を行うと言われるのは、こうしたことと関係している。
表面に惑わされない心、表現の奥に隠されているものを見いだそうとする姿勢、見えないところに大切なものが隠されているという視点、そういうものが日本人の多くの人間関係にとって、とても大切にされてきたのである。
人の心が曇っているのは現象である。どんなに心の曇った人間でも、その内側には非常に大切で、純粋なものが隠されている。
また逆にどんなに良さそうな人間でも、一皮むけば、腹の中では何を考えているか分からない。
こういった2つのことを同時に見続けてきた。
ハラの探り合いというものも決して表面だけの付き合いでわかるものではない。
表面から1歩も2歩も踏み込んだところに、本当のものが隠れている。そういう意識を日本人は、多分千年以上かけて、育んできたのだと思う。
われわれは、そのような物を見る目の確かさを今、徐々に失っているのではないか。
表面だけに惑わされているのではないか。結果だけに惑わされているのではないか。
1本の足だけで立とうとしているのではないか。
そんなことからは人間は成長しないのである。
人と人との付き合いは、そんな狭い了見から出てくるものではない。
しっかりと二本の足で立つバランスのよさを保ちながら、じっくりと相手の本質を見ていく。
そのような姿勢が、いま最も必要とされているのではなかろうか。
現象だけを見て、それを信じるものものはバカだと思うように、人間の表面だけを見てそれを信じる人もバカである。
人間の表面に現れているものはタテマエであって、その人間のホンネはそのタテマエのずっと奥に隠されている。
このような発想も、本地垂迹説の発想と非常に似ている。
目の前に写っているものは、実は仮の姿であって、本物はその奥に隠されているという発想は、日本人の人間を見る目を養ってきた。
「本地」「垂迹」説というのは、「本物」と「仮の物」という意味であるが、それはホンネ(本地)とタテマエ(垂迹)というふうにも受け取ることができる。
仮の姿の裏に隠されている本物の姿を感じ取る者だけが、ホンネで話し合える仲になるのである。
それが本物の人間付き合いであるとされてきた。
「ハラを割って話す」という表現にも、ホンネでものを語りあってこそ、人の心が通じ合うという意味が含まれている。決して仮の姿のものにだまされてはいけない。
このように日本人の理想とする人間関係の原型には、宗教観念が強く影響している。
その宗教観念とは、仏教そのものというよりも、仏教と日本古来の神道とを結び付けてきた日本独特の本地垂迹説の考え方に見てとることができる。
「色即是空」という言葉でも、「色」というものは現象を表すものであり、その背後には「空」という本質が隠されている。
本質は隠されたものであって「空」としか表現できないものであるとされた。
私は日本で密教や禅宗が受け入れられたのは、日本にもともと本地垂迹説という考え方があったことと関係しているのではないかと思う。
神は仮の姿であって、仏が本物の姿であるというのが本地垂迹説であるが、それは逆であってもよい。
神が本物の姿であって、仏は仮の姿であるとしても発想的には何も変わらない。
どちらが本物であるかということは、ここではさして重要ではない。
どちらが本物だとしても、その論理構造は同じである。
大切なことは、「現象の裏に隠されている本質を見いだそう」という人間としての基本的な姿勢なのである。
その論理構造こそが最も大切な基本的な構造だと思う。
表面だけを見てだまされるやつはバカだ。本物を見極める力を持たなければならない。
それは商売においてもそうだし、人間関係においてもそうである。
人間は常日頃、仮面をかぶって世の中に出ている。
その仮面の奥に何が潜んでいるかということを、見極める力が必要だということを、日本人は古来から知っていたのである。
そしてこのことは、たんに日本人の考え方や対人関係だけではなく、日本の基本的な政治構造にまで及んでいる。
摂関政治の時代の「藤原」氏と「天皇」の関係にもあてはまるし、院政時代の「天皇」と「上皇」の関係にも当てはまる。
さらに武家社会になっても、「将軍」と「天皇」の関係に当てはまる。
江戸時代の「将軍」と「大御所」にもあてはまる。
あるいは明治期の「内閣総理大臣」と「元老」の関係にもあてはまる。
それぞれ、前者が仮の姿(垂迹)で、後者が本物(本地)である。
もっとも大切でバランスのとれたもの(本地)は、表面的な権力(垂迹)の奥に隠れているという構造が政治的な安定をもたらしたのである。
昭和になって西園寺公望を最後に、元老の存在が消滅するのとほぼ時を同じくして、日本の政治的バランスは崩れ、危険な道をひた走るようになったことは、そのことを象徴的に物語っている。
現在の日本とどこか似ていないだろうか。 
本地垂迹6
日本古来の神祇(じんぎ)信仰と仏教の仏菩薩(ぶつぼさつ)の信仰が同化する、いわゆる神仏習合に基づく考え方で、仏菩薩がこの世の人を救うために仮に姿を現すとし、仏菩薩を本地(真実の身)、神を垂迹(仮の身)とする思想である。もとは『法華経(ほけきょう)』の本門・迹門、『大日経』の本地身・加持(かじ)身などの説に発し、歴史上の釈迦(しゃか)を永遠普遍の超越的な本仏の現れとする思想に基づく。
外来思想である仏教は早くから神祇との習合に努め、奈良時代には、神は仏をいれないとする抵抗を排除して、接近に成功した。神宮寺(じんぐうじ)の出現がそれで、698年(文武天皇2)伊勢(いせ)国(三重県)度会(わたらい)郡に遷(うつ)された多気(たき)大神宮寺が初見である。そして各地の大社に神宮寺の建立をみた過程で、神を罪業(ざいごう)の報いとする劣等感を神祇に植え付け、仏はその神を守るとした考え方や、逆に神は仏を守り、仏法を喜ぶとした考えを生み出したが、神仏の習合に積極的に働いたのは八幡(はちまん)神である。東大寺大仏の建立に協力した宇佐八幡がそれで、菩薩号が与えられたのは八幡神が最初である。こうした神仏習合の進行は神前読経(どきょう)、度僧、写経、写仏の盛行を生み、また寺中に寺を守る鎮守神を置くに至るが、八幡神が大安寺行教(だいあんじぎょうきょう)によって石清水(いわしみず)に勧請(かんじょう)された859年(貞観1)、天台僧恵亮(えりょう)が賀茂(かも)・春日(かすが)二神のために年分度者(ねんぶんどしゃ)を置くよう請うた表に初めて垂迹の語を用いたことは、習合が一段と進んだことを示している。「皇覚(仏)物(衆生(しゅじょう))を導くに且(かつ)は実、且は権(ごん)、大士(だいじ)(菩薩)迹(あと)を垂れて或(あるい)は王、或は神」と説いた。こうした素地は、937年(承平7)筑前(ちくぜん)(福岡県)筥崎(はこざき)宮の神宮寺多宝塔の建立を計画した天台僧兼祐(けんゆう)の申状の「権現(ごんげん)菩薩の垂迹」という表現を生み、神は仏菩薩が権(かり)に姿を現してこの世に迹を垂れたものとしたのである。こうして垂迹としての権現の思想は、平安後期には熱田(あつた)権現、蔵王(ざおう)権現などの権現を生み、それがその本地の明確化を要求するに至った。その初め、幽玄にして計りがたいとされた八幡権現の「本覚(本地)」が阿弥陀仏(あみだぶつ)とされ、熊野権現が弥陀・観音の垂迹とされるにつれて、やがて熊野三山の三所、五所王子などの本地が明らかにされることによって本地決定の傾向が一段と進んだ。またこの動きと呼応して天台、真言両宗では教義的裏づけが行われ、天台に山王一実(さんのういちじつ)神道、真言に両部習合神道が生じた。しかしこれら仏本神迹の説に対して、南北朝期には神国日本の理念にたって神本仏迹の神道論も生じ、北畠親房(きたばたけちかふさ)はその先駆けをなした。 
神像肖像(本地垂迹仏)
仏教・儒教・キリスト教など日本に請来されると本来の姿を変えて発達する、そして仏教は神祇(じんぎ)信仰(しんこう)すなわち日本古来の神道や怨霊信仰と習合する、習合とは複数の宗教を合体させて構成される宗教で神仏習合像はわが国独自のものである、要するに阿弥陀如来や観音菩薩が仮の姿として八幡神や蔵王権現などに垂迹(すいじゃく)するものである、これら神仏習合は渡来信仰と土着信仰、習合発生の場所、習合の過程などが複雑に交錯して結論は出ていない。
本来の姿(本地)を具体的(迹)な姿に変えて現れる、すなわち観音菩薩などは神々に姿を変えて現れる、語彙を変えれば垂迹とは仮に神の姿に変身して現われる事を云う、仏・菩薩が仮姿で来臨するのを影向(ようごう)とも言う。
神像・肖像、要するに仏像以外の彫刻に肖像・神像・仮面などが存在するが、神道には偶像崇拝の慣習は無く、神像は本地垂迹(ほんちすいじゃく)説による神仏習合から仏師によって制作されてものであるが姿形は異なる、また肖像も聖徳太子や高僧など仏教関連の像が全てと言っても良く仏教彫刻の範疇に加えられる。
阿弥陀如来迎図と共に日本独自に出現し発達した神仏は本地垂迹説による神仏習合(日本古来の神と仏を合体して信仰された)を果たして多くの信仰を集めるが日本独自に考え出された像であり経典には無い。
一神教に於いては垂迹神を生み出すのは不可能であるがイエズス会が来日の折に方便を駆使してマリア=卑弥呼(天照大神)・イエス=神武天皇を垂迹させていたら後世キリスト教は日本宗教界に於いて、もう少し多数を占めていたかもしれない。
日本仏教は戒律の消滅と本地垂迹説の影響で土着信仰との摩擦を受ける事無く日本に広まりを見せたと言える、日本古来からの土着の神々は菩薩や明王に変化し双方とも信仰の対象として生き残る事となる。
世界的に見れば新しい宗教が席捲すると在来の宗教は消滅するが、特に日本に於いては輸入宗教が形を変えるため古来宗教も残る。
一例を挙げれば金峯山寺に安置されている蔵王権現の三尊は中尊が釈迦如来・左尊は千手観音・右尊は弥勒菩薩の本地仏とされる,もうひとつ具体例を挙げれば12世紀には四殿で構成される春日大社(興福寺と同一組織内)に五重塔が二棟あり神々から垂迹し春日四所大明神の本地仏として釈迦如来・薬師如来・地蔵菩薩・観音菩薩が安置してあったと言う。
著名な本地垂迹仏に藤原一門が篤く信仰した春日三宮の本地仏として地蔵菩薩が信仰された、これが春日地蔵曼荼羅として奈良国立博物館で所蔵されている。
僧形八幡神像 ・新羅明神像 ・玉依姫命像 ・蔵王権現 ・熊野権現 ・山王権現、摩多羅神(比叡山・真言宗の守護神) ・金毘羅 ・荒神 ・天神 ・白山妙理大権現(注6)などで、垂迹神の代表例を下表で示す。

注1、蔵王権現   金剛蔵王・蔵王菩薩とも言はれ、役小角が金峰山に於いて衆生救済の為感得たと伝える魔障降伏の菩醍とされる。 
姿形は1顔3目2臂・青黒色で忿怒形をとり左手は剣印を示し右手に三鈷杵を持つ。
伝承では役小角が吉野山に、こもった時に現れたとされるが、山岳信仰の中に於いて自然発生的な権現で垂迹尊の代表的な存在を示し、修験道に於ける象徴的存在で弥勒菩薩の化身ともされているが、金峯山寺・三尊の本地仏は釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩とされご利益としては願事成就・怨敵排除などとされる。 
注2、役小角(えんのおずぬ)  634〜不詳 役の行者とも言はれ修験道の開祖。 生駒山・熊野山で修行、孔雀明王の呪術を修得し大和の損城山を中心に活動した呪術者とされる、続日本紀・日本霊異記・今昔物語・本朝神仙記など多くの資料に登場するが修験者の伝承が全てで詳細及び実在したかに付いては不明な点が多い。
注3、本地垂迹  平安時代に本格化し鎌倉時代に整備された思想で「本地」(仏)根本いわゆる本来の姿から「迹」(神)すなわち具体的な姿に変化する事を言う、垂迹された神と、本地とされる仏・菩薩との関係は不定である、詳しくは神仏習合思想と言う。
注4、僧形八幡神  偶像崇拝が存在しない日本神道に最初に登場した偶像と言える、宇佐族(北九州)の氏神で五穀豊穣・銅の産出を司る神であったが、神仏習合信仰から僧形が産出され後に源氏の守護神となり武家に浸透した。
東大寺の像・教王護国寺の八幡宮像・薬師寺の休岡八幡宮像が○国宝指定を受けている、その他著名な社に宇佐八幡宮・石清水八幡宮などが存在する。
注5、金毘羅  金刀比羅宮(ことひらぐう)香川県の金毘羅が著名であるが本来は水難・漁業の神であり鰐すなわち蛟龍(こうりゅう)と呼ばれた。
注6、白山妙理大権現 十一面観音を本地仏としている、道元が帰国前日に「碧巌録」をコピー中に白山妙理大権現が現れて助勢したと言う伝承がある、白山は奈良時代の修験僧である泰澄に依って開山された修験道場で白山妙理大権現が安置されている、因みに白山妙理大権現の本地仏は泰澄が修行時代に念じた十一面観音と言われている。 
神仏習合
土着の信仰と仏教信仰を折衷して、一つの信仰体系として再構成(習合)すること。一般的に日本で神祇信仰と仏教との間に起こった現象を指すが、広義では、世界各地に仏教が広まった際、土着の信仰との間に起こった現象をも指す。以下、日本における神仏習合について述べる。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。
仏教の伝来
552年(538年説あり)に仏教が公伝した当初には、仏は、蕃神(となりのくにのかみ)として日本の神と同質の存在として認識された。日本で最初に出家して仏を祀ったのは尼(善信尼)と『日本書紀』にはあるが、これは巫女が日本の神祇を祀ってきたのをそのまま仏にあてはめたものと考えられている。
寺院の焼亡による仏の祟りという考え方も、仏教には祟りという概念は無いため、神祇信仰をそのまま仏に当てはめたものと理解できる。
神宮寺の建立
日本人が、仏は日本の神とは違う性質を持つと理解するにつれ、仏のもとに神と人間を同列に位置づけ、日本の神々も人間と同じように苦しみから逃れる事を願い、仏の救済を求め解脱を欲しているという認識がされるようになった。715年(霊亀元年)には越前国気比大神の託宣により神宮寺が建立されるなど、奈良時代初頭から国家レベルの神社において神宮寺を建立する動きが出始め、満願禅師らによる鹿島神宮、賀茂神社、伊勢神宮などで境内外を問わず神宮寺が併設された。また、宇佐八幡神のように神体が菩薩形をとる神(僧形八幡神)も現れた。奈良時代後半になると、伊勢桑名郡にある現地豪族の氏神である多度大神が、神の身を捨てて仏道の修行をしたいと託宣するなど、神宮寺建立の動きは地方の神社にまで広がり、若狭国若狭彦大神や近江国奥津島大神など、他の諸国の神も8世紀後半から9世紀前半にかけて、仏道に帰依したいとの意思を示すようになった。こうして苦悩する神を救済するため、神社の傍らに寺が建てられ神宮寺となり、神前で読経がなされるようになった。
こうした神々の仏道帰依の託宣は、そのままそれらを祀る有力豪族たちの願望であったと考えられている。律令制の導入により社会構造が変化し、豪族らが単なる共同体の首長から私的所有地を持つ領主的な性格を持つようになるに伴い、共同体による祭祀に支えられた従来の神祇信仰は行き詰まりを見せ、私的所有に伴う罪を自覚するようになった豪族個人の新たな精神的支柱が求められた。大乗仏教は、その構造上利他行を通じて罪の救済を得られる教えとなっており、この点が豪族たちに受け入れられたと思われる。それに応えるように雑密を身につけた遊行僧が現われ、神宮寺の建立を進めたのだと思われる。まだ密教は体系化されていなかったが、その呪術的な修行や奇蹟を重視し世俗的な富の蓄積や繁栄を肯定する性格が神祇信仰とも折衷しやすく、豪族の配下の人々に受け入れられ易かったのだろうと考えられている。
こうして神社が寺院に接近する一方、寺院も神社側への接近を示している。8世紀後半には、その寺院に関係のある神を寺院の守護神、鎮守とするようになった。710年(和銅3年)の興福寺における春日大社は最も早い例である。また、東大寺は大仏建立に協力した宇佐八幡神を勧請して鎮守とし、これは現在の手向山八幡宮である。他の古代の有力寺院を見ても、延暦寺は日吉大社、金剛峯寺は丹生神社、東寺は伏見稲荷大社などといずれも守護神を持つことになった。
この段階では、神と仏は同一の信仰体系の中にはあるが、あくまで別の存在として認識され、同一の存在として見るまでには及んでいない。この段階をのちの神仏習合と特に区別して神仏混淆ということもある。数多くの神社に神宮寺が建てられ、寺院の元に神社が建てられたが、それは従来の神祇信仰を圧迫する事なく神祇信仰と仏教信仰とが互いに補い合う形となった。
大乗密教による系列化
これらの神宮寺は雑密系の経典を中心とし、地域の豪族層の支援を受けて確立しようとしていたが、一方でこの事態は豪族層の神祇信仰離れを促進し、神祇信仰の初穂儀礼に由来すると見られている租の徴収や神祇信仰を通じた国家への求心力の低下が懸念されることとなった。一方で律令制の変質に伴い、大寺社が所領拡大を図る動きが始まり、地方の神宮寺も対抗上、大寺院の別院として認められることを望むようになってきた。
朝廷側も、国家鎮護の大寺院の系列とすることで諸国の神宮寺に対する求心力を維持できることから、これを推進したが、神祇信仰と習合しやすい呪術的要素を持ちながら国家護持や普遍性・抽象性を備えた教説を整えた中央の大寺院として諸国神宮寺の心を捉えたのが空海の伝えた真言宗であった。一方でこのような要望を取り入れるべく天台宗においても、円仁や円珍による密教受容が進んだ。
この一方で、奈良時代から発達してきた修験道も、両宗の密教の影響を強く受け、独自の発達を遂げることとなった。
怨霊信仰
他方で、このような密教の興隆は王権の相対化をもたらし、藤原氏の勢力拡大に伴う旧来の名族の没落とも相まって、政争敗死者を担ぐことにより王権への不満や反撥を正当化する怨霊信仰が盛んとなった。
この動きは9世紀には御霊会の流行を引き起こしたが、これが神祇信仰に従来からあった怨霊祭り上げの風習に加えて、密教の側からの鎮魂も行われた点に神仏習合の類型を見ることが出来る。特に菅原道真の怨霊が天神信仰へと発展するに際し、仏教の論理により天部として位置づけられたことは、王権に対する祟りの後に祀られて善神(護法善神)となったという考え方が密教の影響であることを示している。
この典型的な例が平将門即位の状況に見られる。将門の新皇即位は、神仏習合の神であり天皇家の祖神でもある八幡神がその位を授け、位記(辞令)を菅原道真が書いたとし、仏教音楽により儀式を行うようにと神祇信仰の巫女が託宣したものであり、王権相対化の論理を正当化する手段としての仏教の影響が強く表れている。
ケガレ忌避の論理
このように呪術的な信仰を求める大衆に対しての仏教の側からの浸透に対抗し、神祇信仰の側からも理論武装の動きが出てきた。
神祇信仰においては従来それほど顕著でなかった二極対立の考え方が発達し、清浄とケガレの二極が強調されるようになった。このため9世紀から10世紀にかけて、従来は祓いで済んでいたケガレ除去の方法が、陰陽道の影響もあり物忌み中心に変わってきていることが確認されている。
神祇信仰の論理性の強化は、仏教側からの侵食に対抗しこれと共生することを可能とした。10世紀末には、浄土思想にもケガレ思想の影響が見られ、往生要集などには本来の仏教の浄穢思想理解のための手段として神祇信仰のケガレを利用した論理が見受けられる。
本地垂迹説
しかし、浄土思想の普及は、ケガレを忌避する神祇信仰に対し、ケガレから根本的に離脱する方法を提示できる仏教の優位を示すこととなった。仏や菩薩を本地であると考え、その仏や菩薩が救済する衆生に合わせた形態(垂迹)を取ってこの世に出現してくるという本地垂迹説は、このような仏教上位の状況下において仏教側から神祇信仰を取り込もうとする動きとも理解できる。絶対的存在としての仏や菩薩と、その化身である神という形を取ることにより、神仏の調和の理論的裏づけとしたのである。
また、このような仏教優位の考え方は、ケガレと日常的に接する武士の心を捉え、以後の八幡神信仰や天神信仰の興隆にもつながることとなった。
更に鎌倉時代になると本地垂迹説による両部神道や山王神道による大祓詞(おおはらえのことば)の密教的解説や、記紀神話などに登場する神や神社の祭神の密教的説明の試みが活発化し、いわゆる中世日本紀といわれる現象が見られるようになった。
ただし仏教の天部の神々も元はヒンドゥー教の神であったように、日本だけでなくインドの地域社会や中国においても、それら土着民族の神々を包摂してきた歴史がある。仏教にはそのような性質が元々具わっていたことが神仏習合を生んだ大きな要因であった。
神本仏迹説
鎌倉時代末期から南北朝時代になると、僧侶による神道説に対する反動から、逆に、神こそが本地であり仏は仮の姿であるとする神本仏迹説を唱える伊勢神道や唯一神道が現れ、江戸時代には朱子学の理論により両派を統合した垂加神道が誕生した。これらは神祇信仰の主流派の教義となっていき、神道としての教義確立に貢献した。
しかし、神仏習合の考え自体は明治時代の神仏分離まで衰えることなく、近現代においても日本人の精神構造に影響を及ぼしている。 
アマテラスの変貌
アマテラスを女神とみるのが、おおかたの日本人の常識になっている。なんといってもスサノオの姉であり、さまざまな絵にも女神の姿で描かれる。ギリシア神話のガイアやインド神話のカーリーに比してグレートマザーにあてはめることも少なくない。
ところが、明治以前にはアマテラスはさまざまな姿で描かれていた。たとえば『源平盛衰記』では衣冠束帯に身をかためた貴人の男性として出てくるし、室町時代の三十番神図には烏帽子をかぶった狩衣姿で笏をもっている。中世の『日本書紀』注釈書である「中世日本紀」でもたいていは男性神として描かれる。
どちらかといえば、アマテラスは男神であるほうが辻褄があう。天岩屋戸で裸体に近いアメノウズメのシャーマニックな踊りを覗くのは、ふつうに考えれば男神の欲情である。しかし、歴史のなかのアマテラスは男神ばかりでもない。『日諱貴本紀』では両性具有にもなっている。
アマテラスは変貌しつづけたのである。
いま東北大学で助教授をしている佐藤弘夫には『神・法・王権の中世』という大冊がある。法蔵館からの刊行で、話題を集めた。黒田俊雄への反論など、研究者の問題についても多くが配慮されている。
本書はそれを一般読者用にしてほしいという法蔵館の編集者の要望で書かれたものらしいが、どうしてどうして、ここには冒頭の長谷寺十一面観音の傍らの雨宝童子に目を止まった話や鴨長明の『発心集』から始まる、心尽くしの工夫が待っていた。
雨宝童子の頭上の扁額には「天照皇太神」の文字がある。古来、仏教を寄せ付けないとされていた伊勢の天照大神がなぜ長谷寺にいて、しかも童子の姿をしているのか。『発心集』には後三条天皇の孫の花園左府が石清水八幡宮に「臨終正念・往生極楽」を祈願したという紹介が出ている。『今鏡』にも『古事談』にも出ている話なのだが、いったいなぜ神様に仏教浄土への約束をあらわす往生極楽を祈れるのだろうか。
佐藤はこうした例をいくつも提示しながら、読者を意外な神仏習合世界に連れていってくれるのである。その連れ去るための説明はこんなに割り切っていいのかというほどに、明快。
そもそも日本の神は、どこか特定の社にいて人の願いを聞くために厳(おごそ)かに待っているものではない。何の前触れもなく突然に意外な場所に出現し、勝手に人々に指令をくだし、そしてパッと消えていくのが日本の神なのである。
したがって神の出現を予測することも、どんな指令がくるかを予測することも不可能である。その指令に従わないばあい、いったいどんな災いがくるかも予測できない。日本の神には「意思の不可測性」があったのだ。佐藤はこれを「命ずる神」とよぶ。
こうして古代、日本の神はまずもって「祟り」(タタリ)としての神という力を示した。災いをもたらすことが祟りなのではなく、神そのものの存在が「祟りという神」だった。これを日本の民俗学や宗教学では神霊という。
やがて祟りを騙るものもあらわれる。たとえば生霊や死霊や邪気やモノノケだ。これは神霊とちがって個人に祟る邪霊であった。
けれども、このような「祟り」の観念は11世紀あたりを境目にして「罰」ともよばれて、変化する。起請文にしばしばその文言があらわれる。「この誓いを破れば神罰が当たる」というふうに。
中世、罰はたいてい「賞」と「罰」とがセットになっていることが多く、そうだとすると、どうやら神様たちは賞も罰も与える神に変わってきたようなのだ。そこで佐藤は説明する、古代の神がひたすら「命ずる神」であったとしたら、中世の神は「応える神」に変わりつつあったのではないか。
では、どのように神は応えたのか。人の「信・不信」によって賞罰に応じたのだ。この時期、「信・不信」とは神への信心と、それを守護する仏法への信心のことをさしている。ということは、信心とは神仏ごっちゃの信心なのだった。
神仏がいつのまにごっちゃになっていたのかなどと思わないでほしい。仏教伝来このかた、仏たちは最初の最初から「蕃神」とよばれ、また「唐神」(からかみ)とよばれてきたような神の一種だったのである。つまりは仏もまた「祟り」をもつものだったのだ。それこそ日本人が当初に解釈した仏というものだった。
それが中世になって、神仏は初めて分類されたのである。そのように見たほうがいい。
分類は、まず「此土(しど)の神仏」と「彼岸の仏」というふうに分かれた。「此土の神仏」が現世における賞罰を司り、「彼岸の仏」が往生極楽を司った。このような中世独得の分類と連結の仕方を本地垂迹説という。
しばしば本地垂迹説は、インドの仏が神の姿をとって日本に出現した説というふうに見られている。神の本地として仏を想定するというものだ。
が、佐藤はこのような見方では本地垂迹は説明がつかないと考えている。日本の神祇観と仏教のイコンの地位を結びつけるのが本地垂迹なのではなく、また「本地−垂迹」の関係はぴったりそのまま「仏−神」の関係にあてはまるものでもなく、むしろ「賞罰を行使する此土の神仏」(怒る神)と「救済を使命とする彼岸の仏」(救う神)の関係こそが本地垂迹なのである。そう考えた。これはまことに明快な見方であった。
こうして中世、神々は賞罰の威力をもって衆生を仏法に結縁させて、最終的には彼岸に導くことを目標としていたわけなのだ。ようするに中世には、垂迹した「此岸の怒る神」と本地の「彼岸の救う神」とが互いに交信しあっていたと見るべきなのである。
それでは、こうした中世における神仏思想の変容や本地垂迹説の確立をへて、アマテラスはどのように変貌してきたのか。
アマテラスを祭る伊勢神宮が、太陽神を祭る地方社から天皇家の祖神としてのアマテラスを祭っていると考えられるようになったのは、6世紀になってからのことである。とくに天武天皇が、皇祖神としてのアマテラスを祭るのが伊勢神宮であるという原型のようなものを用意した。
律令国家の形成にともなって、アマテラスは国家神あるいは皇祖神として一挙に神々の筆頭に躍り出たかにみえる。けれども、そこにはさまざまな矛盾もあった。
たとえばアマテラスは神々の頂点に立つのだとしても、宗教的にはけっして究極の根源神ではなかったし、アマテラスは立場上は国家神に高められてはいても、古代においては天皇と国家の守護神にはなりきれていなかった。実際にもアマテラスはしばしば天皇の身体にさえ祟りをもたらした。
そこでアマテラスの変貌が始まったのである。
まず、アマテラスは日本の「国主」ではないかという見方が生まれてきた。国家と天皇を守るだけでなく、現実世界を監視し、そこへの直接介入も辞さない統治の神としての性格が付与された。「日本国主天照大神」という名称さえ用いられた。
それとともに、古代のアマテラスの「祟り神としての性格」が消失していった。祟り神ではないアマテラスとは、すべての日本人に開かれた信仰の対象になりうるということを意味する。
かくしてアマテラスは、天皇家の守護神だけではなくなったのである。恥ずかしいほどに、開かれた神になったのだ。
このような変貌はアマテラスだけにおこったのではなかった。氏族の占有する氏神としての神々の多くが、その性格をしだいに薄め、貴族や武家や民衆に“共有”される「国民神」としての性格を強めていった。
したがって「国主」に準ずる地位をめざしたのはアマテラスだけではなかった。香取神は「日域無双の名社」に、北野天神は「四海第一の霊社」に鎮座することになり、八幡神は「日本鎮守」の神として、日吉神は「日本国地主」の神として大いにその神威を奮ったのである。
ここに加わったのが本地垂迹説なのである。アマテラスの本地仏は最初は観音菩薩が、また大仏(ビルシャナ仏)が、ついでは大日如来が候補に挙がる。とくに両部神道が登場してくると、伊勢の内宮・外宮は胎蔵界・金剛界に比定されて、アマテラスと宇宙神・大日如来とを重ねる思想がおこってきた。
佐藤はこういう言葉はつかっていないけれど、このようなアマテラスは「祟る神」でも「救う神」でもなくて、まさに「遍(あまね)く神」になりつつあったのだ。
けれども仏教的な宇宙観からすれば、アマテラスはしょせん「日本という辺境」に君臨する神であって、その地位が宇宙に対応するなどということは、神道家たちの計画にもかかわらず、ほとんど了解されるものとはならなかったのでもあった。
アマテラスの変貌。
このことには日本の神仏思想のすべての本質と矛盾が集約されている。本書には述べられていないが、そもそもアマテラスの起源をめぐっては南太平洋から東アジア全域にわたるルーツが想定されているし、卑弥呼との関連やヤマトヒメ信仰やヒルメ信仰との影響関係も議論されてきたし、アマテラスとスサノオの「姉−弟」の相克相依にもなんだか重要な問題が隠されてきたと考えられてきた。傀儡師たちが海神アマテラスを信仰していたという説もある。
もし日本の信仰の頂点にアマテラスが立っているとするなら、こんなにも理解しにくい神を、われわれが長期間にわたってほったらかしにしているのは、まことに妙なことである。逆にアマテラスには正確に暴いてはいけない何らかの謎がひそんでいるのだとしたら、その正体をいつ、どのように日本人が受けとめるべきか、そろそろ準備を始めたほうがいい。 
稲荷社など
今でも江戸の街には、神社や祠が沢山あります。これは、旧来から存在していた様々な祭祀に加え、
徳川家が入府した際に、家臣含め、旧領地にあった神社・仏閣を移転、あるいは招聘し、また、各大名屋敷に祭られた社稷が、屋敷が無くなったあともそのまま残った為でもあります。
現在は寺院と神社は基本的に別れています。これは慶応4年の明治政府が出した「神仏判然令」によります。それまでは神仏混淆の状態で、これは元々、神を信仰していた人達に仏教を広める為、僧侶や為政者達が「神様も仏様も同じもの」と教化活動を行ったのが最初だといわれています。国是となったきっかけは聖徳太子の十七条憲法(604年)の第二条にある仏教を国教とするという詔勅です。その後大化年代(646−649年)の仏教興隆の詔勅を経て天武天皇の詔勅により鎮護国家の仏教として不動のものとなりました。これにより、寺院(僧侶)−神社(神官)−修験者(山伏)という順位が確立しました。
実際の運営においても、神社を統括する寺がありその下に神社が位置するようになります。この寺を「別当寺」(大神社の場合は神宮寺)と呼びました。この構造に沿って生まれたのが「本地垂迹説」なのです。
これも簡単に例を挙げると「弁財天」(七福神の弁天様ですね*仏教守護の天部神)を「本地」(元々の姿)とした場合に、記紀(古事記・日本書紀)に出て来る「宗像三女神」の一柱である市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)を垂迹として、これにより仏や菩薩を拝むことで日本古来の神を拝むことと同義だとされたのです。「宗像三女神」は現在は福岡県の宗像大社に奉られています。市杵島比売命は「いちきしま」から転化し、高名な安芸(広島)の宮島にある厳島神社(いつくしまじんじゃ)の主神となりこちらにも「宗像三女神」が祭られています。(厳島の名前には異説アリ)
全国に弁天神社が数多くあるのですが、前述したように「弁財天」は神道の神様ではありません。本地垂迹により市杵島比売命と同一視され商売繁盛の神として広まり、七福神信仰ともあいまっていつか「弁天神社」が成立していったと言われています。ちなみに現在「弁天神社」と通称される社のほとんどは、ほんとは「厳島神社」だったりします。そして、七福神めぐりで回るお寺の殆どは、逆に「弁天神社」あるいは「厳島神社」の別当寺かその本山が別当寺であるわけです。
もう一言加えれば、「弁財天」は梵語の「薩羅薩伐底」の訳で、本源はインド神話の河川神と言われています。一説にはインダス川の神格化とも言われ、仏教では吉祥天と同一視される事もありますが、信仰の根拠は「無碍弁才(思い通りに話せる力)」を授ける神としてから転化し、非常に古来より様々な守護神として位置付けられてきました。
話しを戻すと、江戸にはたくさんの寺院や神社がありました。これは江戸時代の寺受け制度と檀家の関係もあるのですが、徳川氏入府以前から、もともと寺領として数多くの土地が寄進されていて、末寺としての寺や、逆に垂迹としての神社がありました。そこに三河・駿河・遠江から移転してきた武士が寺を連れて来る訳にはなかなかいかないので、氏神様や垂迹としての神様を屋敷内に奉りました。また、町民層もほとんどは他の土地から移住してきた訳で、元々信仰していた神様の社を市井に見つけて信仰したり、本地の神社に寄進して勧進したりして、爆発的に江戸の神社は増えていったのです。
その中でも稲荷社は、現在でも全国で3万余りの社数を数え、江戸においては言葉は悪いのですが「伊勢屋、稲荷に犬の糞」と多い物の例えにされるほどでした。
稲荷社の祭神は大きくは2系統ありましたが、現在は同一視されたり、混同されています。一つは「宇迦御魂命(うかのみたまのみこと)」で、古事記では須佐之男命(すさのうのみこと)と大神市比女命(おおかみいちひめのみこと)、日本書紀では伊邪那岐命(いざなぎのみこと))と伊邪那美命(いざなみのみこと)から生まれたとされていて、日本書紀の倉稲魂命(うがのみたまのみこと)とは同じ神様です。「宇迦」は「食(うけ)」と同じ意味で食べ物をさし、五穀・食物を司る神で稲に宿る聖霊の神格化と言われます。
もう一つは豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)で、漫画家の山岸涼子様が題材に取り上げてられていたのでご存知の方も多いかと思いますが、食物を主宰する豊穣神で伊勢皇太神宮の外宮の祭神としても知られています。現在の稲荷社はこの他にも、保食神(うけもちのかみ)をはじめ、食物に関する神が合祀されている事が多かったりします。また、この神神は元は同一神であるとの解釈もあります。
宇迦御魂命は別系統の信仰として宇賀神として奉られ、白蛇信仰の祭神でもあったりします。この本地は弁財天であるとされていて、回りまわって、弁天様とお稲荷様が同じになってしまうところが、系統だっていない本地垂迹説の面白いところだったりもします。元々が「人気者カップリングゲーム」みたいな性格も持っていましたから。
さて稲荷社の中で別格なのは、京都の伏見稲荷神社で祭神は「稲荷大明神(稲荷神・稲荷大神)」となっていますがこれは宇迦御魂命の尊称で「翁神(おきながみ)」とも呼ばれます。京都三十六峰最南部の稲荷山西麓に711年に鎮座し、現在は猿田彦神、大宮売神、田中大神、四大神の五座がありこれを総じて呼んでいます。「古風土記」には「伊奈利」と表記されていて、外来系氏族である秦氏の氏神である事が確認出来ます。祭神像は稲束を背負う翁であり、「稲成り」が転化して「稲荷」となったと言われています。
稲荷社が全国に広がるきっかけは諸説あるのですが、弘法大師空海様が東寺(救王護国寺)を建立する際(823年)に秦氏は稲荷山から材木を供出するなどして真言宗との関係が強化され、稲荷社は東寺の守護神として仰がれる事になりました。真言宗側は稲荷神を胎蔵界曼荼羅と「ゆ伽行法」で説く茶枳尼天(だきにてん)に習合(垂迹)させる事として、真言宗の全国布教と共に稲荷社も拡大していったという事です。
豊川稲荷として有名な豊川市の円福山妙厳寺は曹洞宗の寺院なのですが、本尊が茶枳尼天であることから稲荷大明神として崇敬されていたりして、これは現在でも各地に稲荷社以外の稲荷信仰として残っていたりします。その他、神札に狐に跨った小天狗が描かれている茶枳尼天を奉る系統がありますが、これは稲荷信仰ではなくて修験道の系統だったりします。八王子の高尾山薬王院(真言宗智山派)、秋葉権現(静岡県春野町)等がこれにあたります。
稲荷社の神使(みさきがみ)はご存知のように狐です。この縁起も諸説と言うか、伝説や民間伝承迄加えると無限と言って良いほどあります。真言宗との関係で見てみると、「茶枳尼天の別名を白晨狐菩薩(はくしんこぼさつ)ともこれを称し、稲荷の神体これなり」と説いています。これと陰陽師が媒介として狐を使った事や「春夏は田の神、秋冬は山の神」という狐の習性に沿った民間伝承が一致して一般化したとの説が有力です。
時代が下がるに連れて、産業が興り商業が活発化すると稲荷社も農業だけではなくて産業全体の神になってゆきました。そして、一番身近な神として鎮守的な性格が強くなり、江戸の大問題であった火事の神として宝珠が火炎の玉として観案されたり、初午のお祭りの隆盛と共に子供の守り神として、また痘瘡の神ともなってゆきました。
江戸時代が終わり、広大な大名屋敷や武家屋敷が無くなる中で、稲荷社はその地に残ったり、動座したりして街に溶け込んでゆきました。そしてビルの間や、時にはビルの屋上や専用の部屋に鎮座して、現在でも、もっとも身近な神として私達と触れ合っています。 
真言密教の開祖空海
インドに生まれた不空は密教を学び、唐の皇帝に仕えた。この時代、インドから善無畏、金剛智、不空ら密教僧が入唐。密教経典を漢訳し、支那にて密教を広めた。不空の「文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経」は、空海を通じて日本に伝えられ、やがて陰陽道の経典となった。宿曜は天体の運行を知ることで、幸福や不老不死をもたらすものとされた。
宝亀五年、不空は唐で没した。同年、讃岐国屏風ヶ浦で空海が生まれる。幼名は真魚。後に空海は不空の生まれ変わりとされた。空海は佐伯氏の出であるが、同氏は蝦夷、土蜘蛛、八束脛などを祖としている。彼らはいずれも東国常陸の製鉄民と云われ、大和朝廷に仕えて讃岐、播磨など五国の守備に就いた。守りを意味する「塞ぎ」が佐伯姓の由来である。しかし、空海は彼らに対して蔑視感情を抱いていた。「野陸州に贈る歌」、「伴按察平章事の陸府に赴くに贈る詩」などで彼らを戎狄、人面獣心などと非難している。
空海は十八歳で大学に入学。二十四歳で「三教指帰」を記した。延暦二十三年四月、真魚は名を改めて空海を称した。この時、三十一歳。二十四歳からの七年間は記録の無い空白期である。同年七月、後に天台密教の開祖となる最澄と共に唐へ渡った。空海は空白期に資金や人脈を得ていたのだろうか。支那密教の恵果に師事した空海は、その才覚を認められて伝承者となった。大同元年十月、三年に満たないうちに空海は帰国した。
「真言」の「真」は道教の哲学用語である。道教と密教とが交わることで真言密教となった。特に山岳密教で盛んになった「即身成仏」の思想は、道教の神仙思想を吸収したと言えよう。
弘仁元年、嵯峨天皇と空海は筆や書の贈答を通じ、親密な関係となった。弘仁九年十一月頃、空海は高野山は開創。高野山真言密教は東密と呼ばれ、最澄の比叡山天台密教は台密と呼ばれた。
空海が錫杖で水脈を見つけたという伝説は各地に伝わっている。佐渡では錫杖と似た道具を地中に刺し、鳴輪の音で鉱物を識別していたと云う。高野聖などの「聖」は「火治り」のことであり、製鉄民を意味していたという説もある。それを裏付けるように修験者、山伏の修行場の近くには鉱山がある。彼らは鉱脈を見つける能力に長けていたのだろうか。空海自身はそうでなくとも、彼以降の真言密教は製鉄などと関係を持っていたのではないか。
承和二年、空海は示寂した。「本朝神仙伝」には死後も髪が伸び、まるで生きているようだったと記されている。「日本高僧伝要文抄」は死後四十九日を経過しても顔色が変わらず、髪も伸びていたと記している。「元亨釈書」は死後も体は温かかったと書かれている。
延喜二十一年、空海の没後八十六年に当たるこの年、醍醐天皇は空海に「弘法大師」の諡号を追贈した。第四代金剛峰寺座主観賢は報告のため、空海の亡骸のある部屋の戸を開けた。しかし、空海の亡骸は消えており、観賢は泣きながら礼拝をした。そこへ空海が現れ、観賢は空海の髪を剃り、下賜された衣に着替えさせると墓を造り、戸を固く閉じたと云う。大師の入定信仰の始まりである。 
出家する武家の男児
戦国大名は「一子出家すれば九族天に生ず」という思想を持っていた。そのため、男児を仏門に入れて亡き先祖の菩提を弔わせた。男児を仏門に入れることで、家督継承の争いを避けることが出来た。今川義元や上杉謙信は幼少時に仏門に入ったが、後に出家して当主となった。 
徳川家康と仏教
戦国時代まで寺院は宗派に囚われず、僧侶は複数の宗派の教学を学んでいた。各地の葬祭も様々な宗派の僧侶が取り仕切っていた。徳川家康は一宗派に一つの本山を置き、各寺院を宗派ごとに整理した。そして各寺院は本山の指示に従うよう命じた。これを「本寺末寺制度」と言う。家康は僧侶に勉学に勤しむよう求め、寺院の形態も学僧中心に改めた。本寺と末寺の関係を確立し、各地の寺院が独自の行動を取らないよう規制した。この二つを維持するため、寺院に俗世との関係を見直させた。
慶長十四年八月二十八日、家康は紀州高野山に法度を出した。門跡は学問僧が務めることを定め、特に宝性院、無量寿院の住職は学識豊かでなければならないとした。
慶長十八年二月二十八日、武蔵河越喜多院に「関東天台宗諸法度」を出した。関東の天台宗末寺は喜多院の許し無く住職を決めてはならない。末寺は喜多院の指示に従うこと。末寺は喜多院の許可無く総本山延暦寺と交渉してはならない。これによって関東の天台宗寺院は喜多院の指揮下に入った。家康は天台宗を東の喜多院、西の延暦寺に二分し、その勢力を弱めた。喜多院を延暦寺よりも優遇することで、延暦寺の歴史的優位性を否定した。
元和元年七月、「浄土宗諸法度」により、浄土宗寺院は本山の指揮下に入るよう命じられた。新たに寺院を建立する際も、本山の許可を得ることとなった。また、浄土宗は金銭に応じてその秘儀を俗人に相伝することがあったが、家康はこれらの行為を行う者を法賊と厳しく批判し、俗人への秘儀相伝や法脈相伝を禁止した。諸国を往来して金銭を集める勧進僧や、在家に法具を用意して寺院の真似事をする布教行為も禁止した。
晩年の家康は合戦で多くの人を殺めたことに心を痛めていた。その開墾から、大御所時代、天海の勧めにより日課念仏を始めた。これは三尺を超える巻物に南無阿弥陀仏の文字を細かく書き込むというもの。一日、千回を超える時もあったという。生涯、六万遍に及んだという。 
日蓮宗不受布施派への弾圧
文禄四年九月、豊臣秀吉は方広寺大仏千僧供養を主催。日蓮宗妙覚寺日奥は供養を拒否。豊臣秀吉が法華経を信仰していないことが理由である。法華経を信じる者にだけ布施を与え、供養する宗派を不受布施派と言う。他宗派の者はいかに位が高かろうと布施はしない。
日奥は不受布施派であり、供養に参加した日蓮宗僧侶を日蓮の教えを守らない者として非難した。さらに毎月方広寺で行われた千僧供養も拒否。千僧供養を取り仕切った徳川家康は日奥を大坂城に呼び、日蓮宗各派と法論を行わせた。十一月二十日、大坂城にて法論が行われた。
徳川家康「法華宗は妙法をもって躰となすか」
日奥「法華宗は妙法をもって所論となす。仏法を弘めるに、強く上意の命令に背く義はない。仏法、世法は車の両輪の如し。ここにもって仏説の意は、仏法をもって王法に附属す、上意の仰せによって仏法を弘通するものなり」
日奥は日蓮が権力と仏法が両立すると認めていたと述べた。徳川家康は日奥が権力を認めておきながら、千僧供養を拒んだことを非難。
徳川家康「上意に背き出仕をとげないことは法華経の教典にあるのか」
日奥「我が祖師は幕府の命令に背いて流罪、死刑となった」
日紹・日統「上意の命令には理非の二つあり、非命においては身命をなくすといえどもこれに背いて宗義をたてる、理命においてはこれにしたがう。祖師が幕府の命に背いたのは一宗建立のためであった。いま上意の命令に応ずるのも、これまた一宗相続のためである。日奥は何故上意にそむいて宗義を滅却しようとするのか」
日蓮が刑に処せられたのは理のない命令に敢えて背いたためである。千僧供養に参加することは法華経を広める機会となるにもかかわらず、日奥はこれに背いた。日紹、日統はこう日奥を非難した。
徳川家康「何宗にたよらず上意に背くときは破滅である。いま上意にしたがって出仕し、仏法を相続することは祖師に対する奉公である」
徳川家康「大仏供養出仕を拒否することは日蓮宗の宗義にあるのか」
日奥「法華経の大切なことをこの座で申しても御耳には入らないでしょう。追って書面で申し上げます」
日紹、日統「これまでの論議で意見は出尽くした。日奥は何故書面で訴えようとするのか。御前で申せ。」
日奥「・・・」
徳川家康「書面で答えるとは処罰を逃れるためである。敬意を持って己の信ずることを述べよ。相手は述べている。年来の学問はこのようなときのためにある。なぜ直談せずというのか」
日奥「日連以来三百余年、代々の祖師は他宗の施しを受けてはいない。我は祖師のこの法式を守る者である」
日紹・日統「我等は上意に背かず、宗旨の法度を守っている。大仏の出仕を謗法というが、寺領、屋敷などのことでは訴訟を起こし、これを競望とはどうしたことか」
日奥「我は祖師の法度を守るゆえ出仕はいたさぬ」
日奥は対馬に流罪。これは十三年に渡った。不受不施派は江戸期は禁制となった。例えば多古藩では元禄四年、天保九年、天保十一年に摘発が行われた。寛文六年、寛文八年にも逮捕者が出ている。慶長十年には禁制に反対して餓死する者もいた。同藩で信者であることが発覚すると八丈島に流されるため、信者は自分らで葬儀を行うなどして信仰を隠していた。明治九年、不受不施派は解禁となった。 
陰陽道

 

陰陽道の大家阿部晴明
延喜二十一年、阿部晴明が生まれる(八十五歳没説からの逆算)。天徳四年、阿部晴明は天文得業生となる。貞元二年、陰陽師賀茂保憲が没す。正暦四年、阿部晴明は天皇への病気回復の祈祷の功から正五位上に叙せられる。長保二年、阿倍晴明は従四位下に叙せられる。寛弘二年九月二十六日、阿部晴明は没した。 
道教

 

戦国時代の道教
豊臣秀吉の築いた聚楽第の「聚楽」は、道教の経典「上清諸真章頌」に見られる言葉である。
「南方火徳星君信仰」は仏教と道教の融合である。五行思想の南は火の神であり、復活や往生極楽を信仰する道教的な崇拝である。毛利家、大内家、前田家の菩提寺はこの思想を受けているとされる。毛利元就は長寿のために道教の仙薬「菊花酒」を飲んでいたと言う。
中国最古の医学書「神農本草経」の最後に「小便」が記されている。「本草綱目」、平安時代に編纂された「医心方」も糞尿を薬と記している。「医心方」には蛇に咬まれれば人糞を塗ることと記されている。戦国時代、馬糞汁が鉄炮疵に効く薬とされたのは、それまでの医学書に糞尿が薬と書かれていたためである。様々な効用がある糞尿ならば、鉄炮疵にも効くだろうと考えたのだ。戦国期の医師曲直瀬玄朔は腋臭(ワキガ)は小便で洗い、危篤の人がいれば竹筒に入れ地中に埋めた小便を飲ませるよう書き残した。 
徳川家康と道教
家康の薬好きは有名である。彼は漢方医片山予安に薬学を学んだ。駿河浅間神社と久能山に百余種を超える薬草を植えた薬草園を開いた。箪笥の八段目には八の字、万病丹、銀液丹、黄中散などが入っていた。宇喜多秀家が朝鮮から持ち帰った医書「和剤局方」六巻も愛読。同書は宇喜多秀家から妻の病を治した曲直瀬道三に贈られ、後に道三は秀忠に献上。秀忠から家康に贈られた。大久保長安のために鳥犀丹を贈ったこともある。
徳川家康は晩年、道教の仙薬である「銀液丹」を服用していた。材料は水銀とヒ素。家康は死後、東照大権現として神格化される。これは天照大神に対抗した東の最高神を意味する。家康は道教の仙薬を飲んで死んだ。道教は各時代で最高神が変わるが、この頃は老子を神格化した「太上老君」を最高神としていた。道教は優れた偉人を最高神として崇めるのだ。古代天皇も己を神格化するために道教を取り入れたのだろう。家康も道教に従って最高神となる。天海が家康の遺言として大権現を言い張ったのも、道教の要素が含まれていると考えるべきではないか。
道教には「庚申信仰」というものがある。天神は人の善悪を裁き、寿命の長短を決めるというもの。寿命の書き込まれた帳簿を「名籍」と呼ぶ。「抱朴子」などは庚申の日になると、人の体内に住む三匹の虫「三尸(さんし)」はその人の善悪を天神に報告する。三尸虫は鬼神の一種であり、宿主を殺すことで自由となり、死者への供物を食べることが出来る。仙薬のなかには三尸虫を退治する効能の薬があった。日本では三尸虫が天上世界に行かないように御宮に籠もって寝ずの番をする「宮籠り」という風習が生まれた。家康は慶長四年、藤堂高虎宛の手紙に「寸白の虫」が出たと記している。寸白の虫とは条虫、サナダムシのことである。恐らく大便と共に出てきたのだろう。死の間際、自己診断で寸白の虫が原因としたのは、サナダムシに慢性的に寄生されていたためと思われる。家康は寸白退治に万病円(トリカブト)を飲んだと言うが、寸白は三尸虫と考えられていたのではないか。有名な逸話だが、万病円の服用を注意した医師片山宗哲を流罪にしている。
「抱朴子」は「山中を歩いていると七、八寸の小人が馬車に乗っているときがある。これは肉芝であり、捕らえて服用すれば不老不死になれる」と記す。慶長十四年、駿府城の庭に指のない手を天に向ける肉塊が現れ、驚いた家臣は山へ追い払っている。博識の者の説明によると、この肉塊は「封」と呼ばれ、食せば万病を治し怪力を与える薬になったと言う。「封」は肉芝の一種ではないか。また、「見聞談叢」によると家康は林羅山に反魂香の産地を尋ねている。これは羅山の学識を試すためのものであったが、こうしたいくつかの断片を重ね合わせると、家康が神仙思想に興味を示していたという仮説が出来上がる。 
忍びと道教
忍びの起源は諸説あるが、遁甲はその起源のひとつとされる。遁甲とは邪気から逃れる術。つまりは身を隠す術であり、道教と密接な関係がある禹歩(うほ)という歩行法を使う。「日本書紀」推古十年、百済の僧観勒は暦本、天文地理の書、遁甲方術の書を天皇に献上した。役小角を忍びの祖とする説があるが、彼は道教と密接な関係があった。忍術書に記される薬には水銀を使用するものがある。水銀は道教の仙薬であり、なんらかの影響があるのではないか。また、服用すれば数日間、喉の渇きを覚えないという薬もある。効能自体は出鱈目なのだが、不死の仙薬に通じる要素がある。
六甲秘祝という遁甲術の呪文がある。仙道を修め、仙薬を煉るためには霊山に登る必要があるが、六甲秘祝を唱えることで山の邪鬼を払うことが出来る。
臨兵闘者皆陣列在前(敵兵との闘いに臨む戦士たちが前列に陣を張っている)の九字がそれで、臨兵闘者皆陣列在前行の十字でも使われる。天台宗、真言宗にも伝えられた。九字切りは「武者物語」にも記され、由来は不明とされても広く使われた呪術である。 
基督教

 

基督教と仏教、道教の習合
中国浄土宗の経典「無量寿経」は、仏教を意訳するため道教の言葉を用いている。つまり、異なる言語で記された経典などを訳すとき、すでに存在していた道教の言葉を用いることで仏教を理解しようとしたのだ。これと同じことが戦国時代、基督教布教に際して起こった。基督教を仏教、道教に置き換えて翻訳したのだ。
有名な宣教師フランシスコ・ザビエルは日本語が話せなかった。そこで、遭難して宣教師に助けられた弥次郎という日本人がザビエルの通訳となった。弥次郎は大内義隆に天竺の高僧としてザビエルを紹介。弥次郎がザビエルを仏僧と思った理由は、彼が神道と仏教しか宗教を知らなかったこと、そして仏教と基督教の類似点を発見したためである。原始の基督教は仏教を模倣して作られており、何の知識も無しに類似点に気付いたのだから慧眼と言える。ロザリオと数珠、賛美歌と読経、ラテン語の教典は梵語の経典、神父の説教と僧侶の説法など類似点は多数ある。弥次郎の説明により、多くの日本人が基督教を仏教の一派と考えた。弥次郎は基督教の神を大日如来と訳したのだから、これは当然であろう。
「天主」は本来、道教の最高神天皇大帝を意味する。それが戦国時代、基督教の唯一神を指す言葉に当てられた。日本人は基督教の理解、布教のため唯一神をそれまでにあった神々と同一のものとする、つまり習合することにした。これは日本人が古来から持つ柔軟な異文化吸収の好例である。マリアと観音を習合したマリア観音などは有名である。神仏との習合に成功したため、基督教は一時は全国に七十五万人と言われるほどの信者を得ることが出来た。聖書、聖母も本来は道教の言葉とされる。 
布教の背景にある危険性
宣教師の布教目的はその国に基督教徒を増やし、本国からの軍隊と共闘させることにある。つまり、布教を認めることは一時的な貿易の利を得ることにはなっても、最終的には国内に敵対勢力を形成することにつながるのだ。
豊臣秀吉が基督教の布教を認めず弾圧を行ったのも、江戸幕府が布教を行わないとしたオランダとだけ交易を行ったのもこのためである。イエズス会はプロテスタントへの対抗意識が強く、植民地への布教を目的に結成された。その強固な思想から「イエスの軍隊」とまで呼ばれた。彼らは国王の関心を惹くために貿易に協力。宗教によって現地住民を懐柔した。スペイン人宣教師などは日本人切支丹を結集させ、切支丹大名領、さらには日本を軍事基地とすることで支那を制圧しようと考えていた。
天正十三年五月四日、豊臣秀吉はイエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョに対し、日本統一は目前であり、朝鮮や明をも制圧するつもりだと述べた。そして、ポルトガルに対して支那への布教を許可する代わり軍船の派遣を要請。コエリョは同年三月、日本をカトリックに改宗させ、スペインの支那制圧に利用すべきとの書状をフィリピンに送ったばかりである。それを見透かした秀吉の恫喝であろう。
慶長元年、サン・フェリペ号が土佐沖で座礁。この船には三百名近い黒人奴隷が乗っていた。増田長盛はサン・フェリペ号の積荷を接収しようとしたが、船員はこれに激怒し、スペインの領土が西洋からアメリカ大陸、アジアに及んでいることを告げた。これは長盛を恫喝するためであったが、船員はさらに布教によって内部に味方を作る戦略が領土拡大につながったと語っている。フィリピン総督もサン・フェリペ号の積荷接収に抗議したが、秀吉は「貴国は布教によって他国を制圧していると聞く。日本人が貴国で神道を説こうならば貴国の王は喜びはすまい。これを考えろ。サン・フェリペ号の積荷は返そうとしたが、伴天連追放令に違反しているために接収した。この判断に誤りはあるまい。貴国において貴国の法に従わない日本人がいるならば、それは大いに裁いてもらって結構である」と言い放った。 
危険視された基督教
日本人切支丹が西洋人側に付き、それまでの慣習を破った例を挙げよう。
永禄六年、大村純忠は魔利支天象を焼き払い、頭部の雄鶏の飾りを切りつけたと言う。この魔利支天象は鳥甲山のものと思われる。フロイスの記した『日本史』からこの部分を要約する。「戦に向かう最中、純忠は魔利支天象を見つけた。武将らは魔利支天を軍神と崇め、下馬するものだが、純忠は部下にこの象を焼き払えと命じた。寺全体を焼き尽くすと純忠は雄鶏に切りつけ、幾度も予を騙したと罵った。そして、寺のあった場所に十字架を立て、その十字架に敬意を示してから戦に向かった」。
「予を騙した」とはただ事ではない。純忠の行動はそれまで日本人が畏れを抱いてきた神々の領域に踏み入り、打ち壊すという行為である。旧来の観念に縛られないと言うことは、例え朝廷や将軍であろうと敬意を示さず、平然と刃向かうことが出来るようになる。秀吉自身もそういう型の人間だが、為政者の立場になれば考え方も変わってくる。秀吉が切支丹を嫌った要因のひとつであろう。
純忠はイエズス会に長崎を寄進している。秀吉はこれを危険視し、天正十六年に長崎を公領としてイエズス会から没収した。 
宣教師による日本人売買
宣教師は奴隷商人と結託し、日本人を海外に輸出していた。これが豊臣秀吉を激怒させ、伴天連追放令にまで発展した。宣教師は決して布教に従事する平和的な存在ではない。彼らは日本人の売買に関与し、秀吉はそれを止めさせるための交渉を行っていた。
戦国時代、合戦の後には捕虜の売買が日常的に行われており、人買いという商売も成立していた。豊臣秀吉は国内での人身売買を許さず、仲介人や船主を磔刑とした。秀吉の伴天連追放令は、人身売買の禁令を外国人にも発布したのと言えよう。秀吉の通訳であったロドリゲスは、死の間際まで秀吉は布教の話題を取り上げることはなかったと記している。
天文年間、弘治年間頃から主に九州の日本人、特に女性が宣教師によって海外に売られた。弘治元年十月(西暦1555年11月)、マカオの宣教師カルネイロは、多くの日本人がポルトガル商人に買われ、マカオに輸出されていると手紙に記した。やがて、宣教師らは人身売買が日本への布教を妨げると判断。それを受けたポルトガル国王は元亀元年三月六日(西暦1570年3月12日)、ポルトガル人が日本人の売買に関わることを禁止した。合わせて日本人奴隷の解放と、それに反する者の全財産を没収することが決まった。
このように一部の宣教師は人身売買に反対したが、イエズス会自体は人身売買を許可していた。国王の発布した法であっても拘束力は弱く、その後も日本人の売買は続いた。天正十五年、秀吉はコエリョに対し『五ヶ条の詰問』を叩きつけ、南蛮人が日本人を奴隷として売り買いし、他国へ『輸出』していることに激怒している。コエリョは日本人が奴隷を売るから買ったのだ、と反論。秀吉は南蛮人の奴隷売買を日本人が真似てしまったのだと言い返した。
この討論の直後、天正十五年六月十八日に伴天連追放令が発布された。同時に秀吉は、宣教師に海外に売られた日本人を直ちに帰国させるよう命じており、まだ日本の港にいる日本人奴隷は買い戻すよう命じた。慶長元年、イエズス会は奴隷商人への破門を議決。慶長二年四月、インド副王はポルトガル国王名で、日本人奴隷の売買、日本刀の輸出を禁じた。このようにイエズス会も日本人売買禁止令を出したが、従うポルトガル人は少なかった。 
 
政治

 

統治政策
家中統制 / 君臣関係
天文十五年、毛利隆元が家督を継ぐと志道広良は補佐役を命じられた。志道広良は毛利隆元に対して■君は船、臣は水にて候。水よく船を浮かべ候ことにて候。船候も水なく候へば、相叶はず候かと説き、主君という船は家臣という水によって浮いていると諭した。  
家中統制 / 主君の「押し込め」
家臣は当主の横暴に耐えかねると諫言を行う。諫言が聞き入れられず、当主が態度を改めない場合、家臣は当主を押し込め、新たな当主を迎え入れた。陶晴賢は大内義隆を討つと、その甥に当たる大内義長を当主とした。この一件は下克上と言うよりも、押し込めの要素が強い。
戦国時代、大名は家臣を統制しきれないでいた。有力な一門や家臣には相応の配慮を行わなければならない。
甲斐武田家も同様であり、武田信虎は武田家当主としての権威を高めるため、専制政治を行おうとした。信虎は悪行のため追放されたと言うが、悪行と言うのは専制政治である。家臣からすれば自分の権力、権益を守ることが第一であり、それを奪われかねない専制政治は危険な発想なのだ。だからこそ、重臣らは政変を起こし、武田信玄を武田家当主とした。これは「押し込み」と呼ばれる政治手段である。信玄は武田家の統制を取れないまま没したが、信虎の一件があったからこそ専制政治体制が取れなかったのだ。  
家中統制 / 佐竹義宣の家臣粛正
天正十八年、佐竹義宣は常陸の有力国人江戸氏、大掾氏が小田原に参陣しなかったことを理由に攻め滅ぼした。天正十九年二月九日、主家大掾氏を滅ぼされた南方三十三館の当主十五人は、新しい知行割を決めるため太田城に呼び出される。そして梅見の宴に招かれたところを、佐竹義宣によって謀殺された。小田原に参陣しないものを家中に残すわけにはいかなかったのだろう。これによって佐竹家は常陸五十四万石の大大名としての地位を固めた。  
家中統制 / 毛利元就の井上党粛正
井上党は初期の毛利元就政権の中核といえる存在だったが、それ故に権限が極めて強く、毛利元就の命令に従わないことが多かった。毛利元就も井上党の横暴に対し、忍耐の日々を送っていた。
特に井上元兼の弟元盛は毛利元就の後見人でありながら、猿掛城と多治比三百貫を横領していた。このように毛利元就と井上党との関係は早い時期から破綻しており、毛利元就は大内義隆の許しを得て井上党粛正を決行した。
粛正は天文十九年七月十二日、十三日の二日間に行われた。七月十三日、井上元兼は次男就澄と共に屋敷を包囲され、自刃に追い込まれた。
この時代、当主が危惧するほどの権力を持った家臣は粛正される運命にあった。粛正しなければ下克上の危険があったからだ。当時の時代背景からすれば、井上党粛正を毛利元就の非情とすることは出来ない。逆を言えば、粛正を行わないことにより自分が討たれる危険があったのだ。現代的な感覚を捨て、このことを認識しなければならない。 
家中統制 / 尼子晴久の新宮党粛正
尼子家屈指の軍勢「新宮党」の武名は畿内にも伝わるほどだった。その新宮党を尼子晴久は毛利元就の謀略により粛正してしまった。結果として、尼子晴久の愚かさが尼子家滅亡を招いた、とされてきた。尼子誠久の長男氏久の讒言が粛正を招いたという説もあるのだが、問題はこのことではない。真に問題とすべきは単純に新宮党粛正を愚行とする史観である。
当時の尼子家は当主である尼子晴久、新宮党を束ねる尼子国久の二頭政治体制に近い状態であった。そして、尼子晴久は尼子国久の越権行為に業を煮やしていた。
尼子晴久は自身の権力を高め、下克上を防ぐために新宮党を粛正した。尼子晴久は粛正決行前に信頼の置ける家臣を重用するなど、政権基盤の確立に努めていた。毛利元就は越権行為を繰り返した井上元兼を粛正し、井上党を壊滅させた。新宮党も井上党も軍事力の中核であり、両者の粛正はまったく同質である。権力を持ちすぎた家臣は下克上に及ぶ危険があり、粛正によって下克上を防ぐことがあったのだ。それを考えずに愚行と決めつけることは間違っている。
尼子家は後に滅亡したため、新宮党粛正は必要な措置であったと認識されず、単純に尼子晴久の愚行とされたのではないか。大内義隆は天文二十年九月一日、重臣陶隆房に攻められ大寧寺で自刃した。新宮党粛正はこの直後であり、隣国の政変から新宮党に対する危機感を強めたのだろう。  
分国法 / 今川仮名目録
大永六年四月十四日、今川氏親は分国法「今川仮名目録」三十三ヶ条を制定した。今川氏親は十年ほど前から中風を患っており、仮名目録制定の二ヶ月後に死没している。自身の死期を見定めて、後継者の氏輝の領国統治が円滑に進むよう分国法を制定したのだ。大永五年、今川氏輝は十三歳で元服したが、家督継承問題が発生しないように後継者を定めたのだろう。
それまでは足利尊氏の制定した「建武式目」、それを補うための「建武以来追加」が各国で施行されていた。今川氏親は幕府の法を認めつつも、今川家に適した領国経営を行うために仮名目録を制定した。例えば喧嘩両成敗のように今川家独自の裁定を加えている。  
分国法 / 今川仮名目録追加
天文二十二年二月二十六日、今川義元は「今川仮名目録追加」二十一ヶ条を制定。条項の追加だけでなく、仮名目録で定められた規則の緩和も織り込んでいる。その第二十条は極めて有名である。
「不入の地の事、代々の判形を載し、各露顕の在所の事は沙汰に及ばず。新儀の不入、自今以後、之を停止す。惣別不入の事は、時に至て諸役免許を申し付け、又、悪党に付ての儀也。諸役の判形申し掠め、棟別、段銭沙汰せざるは私曲也。棟別、段銭等の事、前々より子細有て、相定むる所の役也。然りと雖も、判形に載せ、別して忠節を以て扶助するにをいては、是非に及ばざる也。不入とあるとて、分国中守護使不入など申す事、甚だ曲事也、当職の綺、その外内々の役等こそ不入の判形出す上は、免許する所なれ。他国のごとく、国の製法にかゝらず、うへなしの申し事、沙汰に及ばざる曲事也。旧規より守護使不入と云ふ事は、将軍家天下一同の御下知を以て、諸国守護職仰せ付けらる事也。守護使不入とありとて、御下知に背くべけん哉。只今はをしなべて、自分の力量を以て、国の法度を申し付け、静謐する事なれば、守護の手、入る間敷事、かつてあるべからず。兎角の儀あるにをいては、かたく申し付くべき也」  
領国経営 / 徳川家康の統治政策
天正十八年から十九年にかけて徳川家康は関東各地で検地を実施した。検地竿は一間を六尺五寸としており、太閤検地とは尺が異なった。文禄年間の検地では六尺二分の検地竿を使用した。慶長六年、大久保長安が甲斐総検地を実施した際には六尺一分の竿を用いた。
江戸前島は江戸氏の所領であり、後に鎌倉円覚寺の寺領となった。豊臣秀吉もそれを安堵していた。前島は江戸の中心部にあり、都市建設に必要不可欠な要地だった。そこで徳川家康は前島を横領した。
西岸の日比谷入江は軍港となった。東岸は商港となり、十本の船入堀が櫛のように掘られた。大型船は喫水線が深いため、浅瀬の商港に停泊することが出来ない。そこで海岸から桟橋を築くのだが、船入堀は海岸を掘ることで桟橋の代わりを務める。こうして江戸は大型船の荷揚げ可能な商港となった。後に日比谷入江は城下町造営と、南蛮船入港阻止のため埋め立てられた。その分、船入堀や水路は整備されるようになった。
関東入封後、徳川家康は塩の安定供給を可能にするため、下総行徳の塩田を整備。内陸に塩を輸出するため、小名木川を開削した。
慶長八年三月、徳川家康は村の統治に関する七ヶ条の定書を出した。村人の村から逃散する権利、代官に直訴する権利を保証。武士には百姓が罪を犯しても直ちに殺害してはならないと定めた。
徳川家康は幾度か大軍勢を率いて東海道から上洛している。東海道は大軍の通過に耐えられる交通網として整備された。慶長六年正月、東海道各宿場に伝馬朱印状、伝馬定書を発給。宿場は馬三十六頭を用意し、積載重量や中継区画についての規定を定めた。また、伝馬役は屋敷地の税を免除された。こうして東海道の陸運は統一規格での運送が可能になった。慶長七年六月、東海道、中山道の各宿場の駄賃の規定が定められた。馬の荷担量は四十貫文として、永楽銭と鐚銭の比率を一対六とした。 
領国経営 / 北条氏康の統治政策
天文十九年四月、北条氏康は公事赦免令を出した。段銭、懸銭、棟別銭を徴収し、その他の税を廃することで領民の負担を軽減した。これにより、段銭は田畑の耕作税で百貫につき六貫を徴収。棟別銭は家屋に対する徴税で一貫当たり三十五文を徴収。懸銭はそれ以外の税の総称で百貫につき四貫を徴収した。
北条氏康は永禄二年十二月に隠居し、北条氏政に家督を譲った。その後、北条氏康は「小田原衆所領役帳」を作成。これは各家臣がどの衆に所属し、どの領地を知行しているかを明記したもので詳細さにおいて全国随一の完成度を誇っていた。  
領国経営 / 由良成繁の統治政策
由良成繁は桐生親綱を破り、上州桐生を所領に加えた。足利長尾家に次男顕長を入嗣させ、顕長に上州館林まで勢力を拡大させた。これにより由良家は上州東部から野州南部に大きな勢力を有するようになった。
天文五年正月、由良成繁は「御家中御法度書之事」、「百姓御仕置御法度の度」を制定。林弾正忠、林伊賀守、大沢豊前守、矢内修理亮らはその奉行となった。  
徳治思想と一揆
領主が不徳の政治を行えば、天はそれを許さない。災害や戦乱は天の怒りが招いたものである。天の怒りを鎮めるには善政を行うか、領主交代しかない。この思想を「徳治思想」と言う。徳の無い領主に対し、百姓は一揆を起こして反抗した。飢饉や疫病によって社会が混乱すると、百姓は領主に対して救済を求めて蜂起した。一揆は富裕層の屋敷や土蔵、寺社を襲撃し、食料や金銭を奪った。また、債務に関する証書を見つければ、それを破り捨てた。  
外交政策(国内)

 

上方外交 / 由良成繁の外交政策
天文二十二年六月、由良成繁は将軍義輝に鷹を献上。返礼として太刀一腰と、次毛氈鞍覆白傘袋免の使用を許された。朝廷に禁裏修理費用を献上し、関東に下向した近衛前嗣に供奉した功から刑部大輔に任ぜられた。また、足利義輝の御供衆となった。
永禄九年、伊達輝宗は由良国繁に鷹を贈った。これは家人の上洛に際し、安全を保証するためであった。
由良成繁没後、嫡子由良国繁は一門横瀬掃部を上洛させ、織田信長に綿百斤を献上した。喜んだ織田信長の斡旋により、由良国繁は従四位信濃守に叙任された。  
同盟政策 / 甲相駿三国同盟
天文二十一年十一月、今川家と武田家の婚姻が行われた。天文二十二年正月、北条氏康の嫡子氏政は武田晴信の娘と婚姻。これにより「甲相同盟」が結ばれ、天文二十三年十二月に晴信の娘は輿入れした。
天文二十三年七月、北条氏康の娘が今川義元の嫡子氏真に嫁いだ。こうして駿河今川、甲斐武田、相模北条の三家は嫡子の婚姻という強固な血縁で結ばれた。「甲相駿三国同盟」の締結である。
この同盟は合戦時の援軍派遣、領土不可侵で成り立っている。例えば弘治元年の第二回川中島合戦では、今川家臣一宮出羽守が武田家への援軍として出陣。さらに今川義元が両家の調停役になっているのだ。
同盟による三家の利点は次の様になる。今川義元は三河、尾張と領土を拡大しており、武田家と北条家と同盟関係を結べば背後を攻められる可能性は無くなる。関東一帯に領土を拡大しようとする北条氏康にしても、関東の合戦に専念出来た。武田晴信も長尾家との合戦に専念出来る。これ以降の三家の領土拡大方針を見ても、三国同盟に利益があったと分かる。 
婚姻政策 / 長宗我部元親の婚姻
永禄六年、長宗我部元親は家老衆に美濃斎藤家から妻を迎えると伝えた。家老衆は遠国ではなく近隣から妻を迎えるよう諫めた。しかし、長宗我部元親は斎藤氏は武勇名高く、その娘も勇将の血を引いている。遠国であろうと問題ではないと述べた。家老衆は元親の思慮深さに感嘆したと云う。吉田周孝が使者として美濃に向かい、両家の縁組みが成立した。 
人質政策 / 前田利長と芳春院
前田利家の生母は芳春院の生母の姉である。利家と芳春院は母方の従兄弟だった。前田利長は徳川家康が関ヶ原合戦に勝てば芳春院を人質とする理由はなく、前田家に戻すものと思っていたようだ。しかし、徳川家康は藩主の母という最大の人質、それも親豊臣派の筆頭的な立場にある加賀前田家からの人質を手放すことはなかった。直筆の書状で芳香院の返還を約束したが、人質政策のためにそれを反故にした。
これは徳川家康、前田利長両者の認識の違いであり、芳春院も当初はすぐに前田家に戻れると思っていたのかも知れない。それが自ら人質となると言う行為につながったのではないか。芳春院が前田家に戻ったのは前田利長没後であり、すでに徳川一門となった三代前田利常の時代である。そして、新たに利常の生母寿福院が人質として江戸に向かっている。  
外交政策(外国)

 

台湾
文禄二年、秀吉は長崎商人原田孫七郎を使者として、高山国(台湾)に入貢を促している。しかし、統一政権がないために成果のないまま孫七郎は帰郷した。
慶長十一年、山田長政はシャムへ向かう際、台湾に入ったと云われる。
慶長十三年、家康は日本に漂着したアミ族の者と、駿河城にて引見している。慶長十四年、有馬晴純は家康の名により、朝貢を促すため台湾に渡海。高砂族との交易、東南アジアとの交易の際の中継地化を望んだが、成功せず、追い返されている。
元和元年、長崎代官村山等安は朱印状を得て、台湾への渡海の準備を行う。元和二年五月四日、村山等安は十三艘の軍船に次男村山秋安を含む三千余名を乗せ、長崎から台湾に出航させた。この時、琉球近海で嵐に遭う。秋安の船を含む三艘は交阯(ベトナム)に漂着。元和三年七月に帰国した。
明石道友の船を含む三艘は、台湾北部に漂着。しかし、そのうちの一艘は高砂族の攻撃を受け、乗組員は総じて自刃している。他の二艘は台湾を出航し、福建省北部の海で、日本近海を偵察していた明人董伯起を捕らえ、帰国した。
七艘は琉球で船を修理し、金門島、澎湖島を経て、台湾の竹塹に上陸。さらに明の沿岸を攻め、交易を求めている。 

明の中期、日本は「互市国」と見なされた。日本が朝貢に応じず、皇帝に臣従しないため両国の関係は貿易のみとなった。支那人に外交や貿易という概念は存在しない。その代わり、自国を世界の中心とする中華思想、周辺の属国が貢物(朝貢)を献じるという冊封体制が存在した。
朝鮮、琉球は支那に従属しており、越南(ベトナム)やシャム(タイ)も朝貢を行っていた。朝鮮は支那の属国になることを強く望んでいたが、越南は支那の属国になることを嫌い、一時的に冊封を受けることはあっても独立を貫く道を選んだ。
徳川幕府は明との関係を「通商国」として貿易のみに限定した。支那による冊封に組み込まれることを避けるためである。林羅山は日本の年号を国書に用い、明の年号を用いることはなかった。これも明からの冊封を避けるためである。
明の商船との私貿易では、慶長十六年には七十艘が来航。慶長十七年には三十艘。十八年に二十艘。十九年には六十艘から七十艘の貿易船が来航した。
支那は特定の港と地域を「市舶司」として、他国との交易をその地域内に限定する政策を執った。これは属国の人間が皇帝の国に立ち入ることを禁じ、関係を最小に保つための政策だった。市舶司は商人や貿易を管理しやすいため、やがてアジアに広まっていった。日本の出島や琉球館、朝鮮の倭館などがその例である。
しかし、市舶司はその閉鎖性が交易を生業とする海民の生活を苦しめることとなり、海賊が生まれる土壌ともなった。
天文十六年、大内義隆が派遣した遣明船が最後の日明貿易となった。慶長十四年以降、徳川家康は朝鮮を通じて明と通商しようとした。しかし、明への取次は朝鮮が独自に日本と講和したと見なされるため拒否された。家康は諦めず、唐入りの際に捕縛された明の将兵を返還して通商の足がかりにしようとした。
慶長八年、加藤清正は捕縛した明兵八十七名を返還した。島津家に捕縛されていた茅国科の返還に際し、島津家久は茅国科の兄である茅国器に書状を送り、島原宗安に交渉をさせた。これによって明から船二隻が派遣されたが、この船は帰国中に海賊に襲撃されてしまった。その後も明の船が薩摩に来航すると、家康は喜んで便宜を図っている。
慶長十五年、徳川家康は長崎に来航した広東の商船に朱印状を与え、どの港でも自由公正な貿易が出来る様にした。同年末、五島に来航した周性如は駿府にて家康に拝謁し、朱印状を与えられた。本多正純は福建総督宛の書簡を周性如に渡し、徳川家康による日本統一と日明貿易再開を皇帝に打診するよう求めた。徳川家康による対明政策は全て失敗し、貿易が再開する事はなかった。 
朝鮮
徳川家康は朝鮮との貿易を年間二十艘と定め、対馬の宗氏が管理した。朝鮮釜山の倭館で貿易が行われた。通常の私貿易の他、宗氏から朝鮮国王に物品を送る「進上貿易」、宗氏が用意した銅や錫を朝鮮が生糸で買い上げる「公貿易」があった。  
シャム
元和7年、江戸に1通の手紙が届いた。山田仁左衛門長正からの手紙であり、宛先は土井利勝、本多正純である。シャム国王から将軍への国書の取り次ぎを求めており、鮫皮と200斤の塩硝が添えてあった。
幕閣は金地院崇伝を呼んで対応を考えた。「異国日記」に「大久保治右衛門六尺、山田仁左衛門、暹羅へ渡り有付、今は暹羅の仕置を仕置を仕置を仕候由也。上様への書にも見えたり、此者の事か。大炊殿、上州へ文を越す」とある。
浅間神社に寛永3年、シャムから奉納されたと伝わる絵馬があった。江戸期の火災ですでに焼失しているが、写しは今日も残されている。「奉挂到立願、諸願成就、令満之所当国生、今天竺暹羅国住居、寛永三丙寅年二月吉日、山田仁左衛門尉長政」。山田左衛門尉長政という今はシャムに生きる男が、願いがかなった御礼に奉納したのだという。
意外なことに山田長政の存在を伝える同時代の史料はほとんど上記のものしか残っていない。そのため、虚構の人物とする説さえある。伝えられている山田長政の画像は明治以降に描かれたものである。服装は近代西洋のものであり、当時の日本、シャムのものではない。幕末から明治の頃の絵と推測されている。
他に山田長政の史料を挙げるとすれば、江戸時代に数冊の本が出版されただけである。元禄年間、「暹羅国山田氏興亡記」が出版される。山田長政の子と知り合いという智原五郎八からの聞き書きであり、山田長政は尾張生まれとしている。シャム王に仕え、約1000石を得たと云う。
同時代の「天竺徳兵衛物語」では、伊勢山田の生まれとされ、シャム一国の王に昇進したとしている。年代不明ではあるが「駿州山田仁左衛門記事」によると、山田長政は尾張生まれで織田信長の子孫を自称したと云う。
タイ側の史料ではバタビア総督クーンが山田長政に送った手紙が残っている。長政からの米が良質であったことを伝え、さらなる通商を求める手紙であった。山田長政は貿易商人としての側面が非常に強かった。
アユタヤは日本、支那、東南アジア、西洋人が貿易のために集まる土地である。シャムの産物は西洋では価値が低いが、日本では高値で取引された。そのため、アユタヤでは日本との貿易が重視されていた。各国の商人は直接貿易だけでなく、仲介料でも儲けていた。オランダのアユタヤ商館を作ったのも対日貿易で利益を得るためである。
江戸時代初期、日本では鹿皮が羽織袴などに用いられるようになった。しかし、国内の鹿はすでに減りつつあり、価格の安いシャム産の鹿皮の需要が大いに高まった。
鹿はメナム上流で狩られ、シャム人の食料となった。シャム人は鹿皮を使わなかった。そのため大量の鹿皮が余った。これに目を付けた西洋人はシャム国王から鹿皮の独占権を入手。シャムの貧困層は西洋人に雇われ、鹿を捕獲することで生計を立てていた。
当時、約8000人の日本人がアユタヤに居住し、オランダや支那と鹿皮の輸出競争を行っていた。日本は鹿皮の対価として銀を支払った。1624年、日本は鹿皮16万枚を購入。そのためオランダ東インド会社が良質の鹿皮を入手出来なくなるほどだった。一部のスペイン人は日本人によって鹿が絶滅する危険性があるとして、鹿皮の輸出を禁止するべきと書き残している。
1629年、東インド会社の記録に「日本人のオプラ(シャムの最高官位)は郎党を率いてバンコクに向かった」とある。このオプラは山田長政だと推測されている。山田長政は左遷されたのだ。当時の実力者チェーク・アマット、若しくは華僑との政争に敗れたためだろうか。1630年、「日本人オプラは死亡、毒殺と思われる」との記録が、山田長政の死を伝える記録である。
山田長政の死後も日本とアユタヤとの貿易は続いた。1634年、オランダは鹿皮の輸出を日本人商人に奪われないように、「シャム国王から与えられた鹿皮の独占権維持のため、日本のシャムに対する言動をシャム国王に訴え、日本人商人に鹿皮が渡らないようにする」とした。
明治時代になると山田長政は駿河の生まれということになった。大正4年、山田長政は従四位を追贈される。さらに昭和に入ると山田長政は日本の英雄として教科書にも載り、大東亜共栄圏の先駆者として賞賛された。 
ローマ
初めてローマを訪れた日本人は、薩摩のベルナルドである。恐らくは武家の出であろうが、残念ながら本名は不明で、洗礼名のみが伝わっている。江戸期からは離れるが、参考のためベルナルドの事蹟を記す。
天文十八年八月十五日、フランシスコ・ザビエル一行が薩摩に入港。ベルナルドはザビエルが初めて洗礼を授けた日本人となった。イエズス会宣教師はベルナルドを思慮慎ましく、基督教への理解力に満ちていると絶賛した。また、宣教師はベルナルドの出自を貴族と記している。恐らく、これは武士のことを指したのだろう。
大内義隆への拝謁が許されたザビエルは、通訳としてベルナルドを連れて行った。天文二十年十一月五日、ベルナルドはザビエルと共に日本を離れた。ザビエルに同行した日本人はベルナルドの他に大友家臣上田玄佐、ジョアン、アントニオ、マテオの四人である。十二月二十七日、マラッカに入港。十二月三十日、マラッカから出航。天文二十一年(一五五二年)一月二十四日、インドのコチンに入港。二月中旬、ゴアに入港。四月十七日、ザビエルは支那への布教のためゴアを離れ、中継地であるマラッカへと向かった。上田玄佐も共にゴアを離れ、日本へ戻っている。ベルナルドは一年ほどゴアに残り、基督教についての勉強に励んだ。マテオもゴアに残った。ザビエルはポルトガル管区長シモン・ロドリゲスに宛てて、ベルナルドとマテオの保護と修学の補助を求めた。単なる好意ではない。日本に帰国した両名がローマを褒め称え、それによって迅速な布教を行おうという裏があった。同様の手紙はポルトガル国王ジョアン三世、イエズス会宣教師イグナチオ・ロヨラにも出された。
天文二十二年(一五五三年)三月、六隻の船がゴアを出航。喜望峰経由でポルトガルへと向かう船団である。ベルナルドはこの船団に加わり、遥かローマを目指した。残念なことに、マテオはゴアで病没していた。九月、船団はポルトガルのリスボンに到着。ベルナルドは聖アントニオ学院にて修道生活を送った。船旅で体調を崩しており、養生を兼ねてのことである。天文二十三年(一五五四年)、イエズス会の手紙にベルナルドの名がいくつか確認出来る。何れも信心深く、勤勉であるが、船旅によって衰弱していると記している。天文二十三年(一五五四年)三月十七日、ポルトガル管区長ジャコモ・ミロンはベルナルドのローマ入りを認める手紙を記す。七月十七日、ベルナルド一行はリスボンを出立。バルセロナを通ってローマへ向かった。途中、ベルナルドは二度も倒れている。
弘治元年(一五五〇年)一月五日頃、一行はローマへ到着。一行の目的は死亡した宣教師に関する報告で、フランシスコ・ザビエルの死も含まれていた。この後、ベルナルドはローマに十ヶ月も滞在。勉学に勤しむ傍ら、ローマの様々な教会に足を運んだ。また、イエズス会宣教師イグナチオ・ロヨラとも面会ている。ロヨアはイエズス会の創設者である。ザビエルもベルナルドの保護を手紙で求めていた。ロヨラは亡きザビエルから送られた重要なる人物として、ベルナルドの無事を喜んでいる。また、ベルナルドの体調を気遣い、断食などは避けるよう話した。ベルナルドはドイツ人フリードリッヒ・フォン・ヴィスベルク神父に日本語の手紙を渡したが、この手紙は第二次大戦で焼失している。ベルナルドは教皇に特別に呼ばれ、その足許に口吻をしたと云う。その際、かつてザビエルと共に日本各地を旅したことを報告している。
弘治元年(一五五五年)十月十八日、ローマを離れて陸路でジェノバへ向かう。ジェノバから船に乗り、弘治二年(一五五六年)二月十二日、リスボンへ到着。コインブラへ移るが、体調はますます悪化。弘治三年(一五五七年)三月三日頃、死亡。コインブラ大学校内の教会に埋葬された。五月、イエズス会の手紙にベルナルドの死について書かれている。永禄元年(一五五八年)二月十四日、ニコラ・グラシタ神父がエマヌール・ロペス神父に出した手紙にも、ベルナルドの死が書かれている。長らくベルナルドの墓は所在不明になっていたが、千九四〇年代、コインブラ大学一帯の区画整理の際に見つかっている。彼に関する記録もイエズス会の「ジャポニカエピストライ」にまとめられた。「インドでザビエルから洗礼を授かるベルナルド」という銅版画があり、おそらく薩摩のベルナルドを描いたものと思われる。
慶長遣欧使節団の渡海にはフランシスコ会のルイス・ソテーロが協力。造船を急ぐため、幕府の船奉行向井家から船大工が派遣されている。慶長遣欧使節団には向井家の家人も乗り込んだ。「津の国の住人、ペドロ・イタミ・ソーマ」はローマ市から公民権を与えられた。慶長四年、長崎奉行寺沢広高によってフィリピンに派遣された伊丹宗昧であろうか。伊丹は慶長九年、呂宋渡海朱印状を賜るなど貿易に積極的な人物であり、慶長遣欧使節団に加わっていてもおかしくはない。同行したペトロ・カスイ岐部は大友家臣の家柄であり、主君大友宗麟と共に切支丹となっていた。元和六年、支倉常長らが帰国した。 
イギリス
慶長五年、豊後臼杵湾にオランダ商船リーフデ号が漂着。その航海士であったイギリス人ウィリアム・アダムスは家康の重臣となった。慶長十八年、クローヴ号が平戸に入港。船長ジョン・セーリスは駿府で徳川家康に拝謁し、イギリス国王ジェームス1世の書簡などを献上。家康はイギリス人に与える朱印状の原案を考えるよう、セーリスに命じた。原案は当初、十四ヶ条であったpooooが、家康が文章を削るよう命じたため七ヶ条にまとめられた。それによると、イギリス船はどの港に入港しても構わない。希望すれば江戸に屋敷を建てることを許可する。帰国の時期は自分で決めることが出来る。死亡した場合、持ち物は没収されない。商品の値段を一方的に決める事を認める。イギリス人が日本で罪を犯した場合、イギリス商館長が罪を裁く。この様にイギリス商船に有利な内容が認められた。この時期、家康は貿易に熱心だったため日本に不利な内容を容認したのだろう。その後、イギリス商館は支那の製品の入荷がうまくいかず経営不振に陥った。さらに商館家主である華僑の李旦に支那の製品を入荷するための費用と騙され、多額の資金を失った。元和九年、貿易の失敗によってイギリス商館は閉鎖された。延宝元年、イギリス商船リターン号は家康の交付した朱印状の写しを持って長崎に来航したが、貿易の再開は認められなかった。イギリスに有利な朱印状の条文が嫌われたのだろう。  
オランダ
1602年、オランダ東インド会社が設立。1603年、マライ半島パタニにオランダ商館が建てられた。徳川家康はウィリアム・アダムスを介し、東インド会社との貿易を考えた。慶長十四年、二隻のオランダ船が平戸に来航。徳川家康にオラニエ公マウリッツからの書簡などを献上したため、返礼として朱印状を交付された。オランダ船は平戸に商館を建て、ヤックス・スペックスを商館長とした。元和三年には秀忠も同朱印状を出している。同時代、支那人の商人ですら長崎に留められ、江戸に入ることは許されなかった。しかし、オランダ商館長は将軍への拝謁さえも認められている。これも家康の発行した朱印状の効力である。
慶長十六年八月、オランダ館長ジャックス・スペックは家康に南蛮鉄を二百個、秀忠と本多正純に百個を献上した。この南蛮鉄はシリアのダマスカス地方の鍛冶がインドのウーツ鉄を鍛造したダマスカス鋼であった。ウーツ鉄は中東、支那などにも輸出されていた。
オランダ東インド総督ヤックス・スペックスはピーテル・ノイツを大使に任命。台湾で日本船から生糸輸出税を徴収することになり、それを説明することが任務であった。幕府はノイツの身分が大使であると知り、書簡の受け取りを拒否。大使は戦争時に援軍を求める役職であり、商業とは関係がないと判断したのだ。幕府の外交感覚は中華思想的な要素があり、維新までこの考えが消えることはなかった。さらに総督がオランダの王族の出でないと知ると、総督の日本での身分は長崎奉行と同程度であるとされた。当然、ノイツは激怒。御朱印船貿易を行っていた末次平蔵の船と争うに至った。ヤックス・スペックスは争うの原因はノイツにあるとして、平戸にてノイツを幕府に引き渡した。幕府は大いに喜び、オランダ商館長は家臣であるとの認識を深めた。スペックスもこれを受け入れ、以後、オランダ東インド会社は日本をよく知る温厚な人物を商館長に据えるようになった。
オランダ側が家臣と思われてでも、日本との貿易を望んだ理由は銀にある。江戸初期の日本の銀の産出量は世界でも一、二を争うほどであった。生糸を輸出することで銀を得られるならば、多少の屈辱にも耐える。オランダ側の態度は、御朱印剥奪による銀の入手不可という事態を避けるためであった。幕末、外国船への警戒のため、幕府は林大学頭に命じ、これまでの対処法を集約した「通航一覧」を大成させる。この中でもオランダは、大坂冬の陣で大坂城に大砲を撃ったこと、島原の乱で原城を砲撃したことなどから、幕臣の扱いを受けている。 
ポルトガル
ポルトガルは日本にイエズス会の宣教師を派遣し、キリスト教を布教し、貿易も行おうとした。マカオ長官の地位はポルトガル国王、若しくはゴア総督から任命される事になっていた。やがてマカオ長官の地位は競売の対象となり、最高入札者が長官となった。2万クルサドでマカオ長官の地位を得たカピタン・モールは、日本との貿易で15万クルサドもの利益を得たと云う。日本と明は通商していないため、支那産の生糸や絹織物はポルトガルを介して日本に販売され、ポルトガルは代価として銀を得ていた。支那は銀を欲していたため、ポルトガルは日本から得た銀で支那と貿易し、さらに利益を得ていた。
慶長年間、ポルトガルは年間十六万斤から二十万斤の生糸を日本に輸出した。相場はポルトガル側の言い値に等しく、家康は早急に対策を打ち出す必要があった。慶長九年五月、糸割符制度を定めて京、堺、長崎の商人に生糸の先買権を与えた。他の地域の商人は生糸を購入する事を禁じられた。購入場所が限られたために商人同士の買い取り競争が無くなり、ポルトガル船も日本側の値段交渉に応じるしかなかった。家康は平常時に安く買い取った生糸を備蓄し、ポルトガル船が入港できない時に販売した。こうして生糸の家格は安定した。また、主要都市の商人は生糸の販売について家康の指示に従うようになり、家康は駿府に居ながら大都市の有力商人を従える事が出来た。慶長十四年、生糸の購入に灰吹銀を用いる事を禁止し、銀の純度が八割程度の丁銀を用いるよう定めた。 
スペイン
スペインはフランシスコ会を日本に派遣し、ポルトガル同様に布教と貿易に努めた。土佐に漂着したスペイン商船サン・フェリペ号の船長は、豊臣秀吉にスペインが日本を攻めると伝えた。そのため、慶長元年、宣教師パプチスタら六名が日本人切支丹と共に処刑された。宣教師ジェロニモ・デ・ジェススは慶長三年に捕縛され、伏見にて徳川家康に拝謁。家康はジェススにフィリピン総督との仲介役になるよう依頼し、メキシコ行きのスペイン船が浦賀に来航することを求めた。その際、スペインの鉱山技師の派遣も要請した。慶長十三年、スペイン船が浦賀に来航した。当時、スペインはアメリカで大量の金銀を得ており、家康はその技術「アマルガム法」を習得しようとしたのだ。アマルガム法を習得した大久保長安は、佐渡にて莫大な量の金銀を算出。徳川家康の財政を支える重臣となった。その後、スペインとの貿易は失敗に終わっている。  
 
経済

 

貨幣  
貨幣とは何か
古来より、人間は物品を得ようとする時に複数の手段を用いてきた。神々に物品を献上する奉納。互いに物品を譲り合う譲渡。両者納得の上での物々交換。他者を惑わせ物品を奪う詐取。武力によって物品を奪う略奪。武力を背景に物品を供出させる収奪。
これらの手法には欠点がある。例えば、食料は長期間の保存に耐えられない。一時的に大量の食料を有しても、翌年には餓死の危機に晒されることがある。
物々交換を行おうとしても、欲しい物と交換出来ないことがある。相手が交換するほどの価値が無いと判断すれば、それまでなのだ。武力で脅せば反撃や報復に遇う事がある。
沢山の魚を釣る漁師と、沢山の木を切る樵ではどちらが裕福なのか。魚も木も広く需要があるため、富の大小を判断することが出来ない。また、手元にある材木を魚と交換する場合、それが適正な交換なのか判断することが出来ない。
やがて人間は物と物との取引を円滑に進めるための道具を発明した。長期間の保存に耐え、特定の集団内で価値があるという共通認識が生まれ、広く流通する物。それが貨幣である。 
貨幣の特性
貨幣は次の三つの特性を有している。
一.交換媒体機能(貨幣は物品との取引に使用出来る)
二.価値保蔵機能(食料などと違い、貨幣は長期間に渡って価値を失わない)
三.計算単位機能(富の保有量を貨幣の有無に置き換えることが出来る)
商品の価格の決定は貨幣経済において極めて重要である。商品の価格が決まらなければ貨幣での取引は出来ない。仮に価格が決まっても、不当な価格では誰も購入しようとしない。
売り手からすれば十分に利益を得ることが出来る価格。買い手からすれば貨幣を支払っても不満の無い価格。こうした相場が形成されるようになって初めて貨幣経済が浸透したと言える。
採集、加工、運搬、販売など様々な工程を踏むことで、商品に価値が付加される。採集した物を加工すれば、それは単に採集しただけの物よりも価値を持つ。加工された物が運搬されれば、それだけで価値が付加される。こうした付加価値を踏まえて商品の価値が決められた。 
貨幣の発行
貨幣は商品の交換に用いられるため、それ自体に何らかの価値を持たせる必要がある。河原の石を集めて貨幣にしても、そこには何の価値もない。これが人の心を魅了する黄金や宝石であれば、大変な価値を持つ。黄金や宝石はその美しさもさることながら、なかなか手に入らないという希少性を有している。この様に広く価値があると認められた物が、貨幣に用いられた。
やがて貨幣は銅などの金属が使われるようになった。溶融した金属を鋳型に流し込むなど、非常に高度な技術で製造されるようになった。製造元も政府が管理するなど、限られた者しか貨幣を造ることが許されなくなった。
金属製の貨幣は重く、高額な取引に用いるには不便である。そこで金額を記した紙を貨幣と見なすことで、高額な取引を円滑に行おうという発想が生まれた。こうして紙幣が誕生した。 
商品価格の決定
物々交換の時代でも価格の決定は重要だった。漁師は魚を、樵は材木を互いに交換したとする。その際、漁師の持つ魚が美味しければ、樵は良材と交換してでも手に入れようとするだろう。逆に漁師の持つ魚が不味ければ、樵は雑木と交換しようとしたり、交換を拒否しようとするだろう。彼等はそれまでの経験から取引の相場を決めていた。
商品の種類が少なければ物々交換でも相場が形成されるが、市場が広がると厄介である。新たに猟師が鹿と何かを交換しようと言い出せば、樵たちは妥当な価格を考えなければならない。鍛冶が包丁を、と交換相手が増えるほど相場は混乱する。
包丁一本と魚一匹の交換は適正なのか。良木一本と鹿一頭の交換は適正なのか。そこには何の基準も目安も存在しない。最悪の場合、相手が包丁という道具を知らなければ、取引自体が成立しない。
こうした問題を解決するために貨幣が用いられた。貨幣は商品の交換を円滑に進める道具であり、商品の価値を置き換える単位になったのだ。
美味しい魚一匹は百文。不味い魚一匹は十文。この様に物品の価値を金額の大小に置き換えることが出来る。特定の集団内で価格が決まれば、以後の取引は円滑に進むようになる。
また、食料は長期間の保存に耐えることが出来ず、直ぐにその価値を減じてしまう。美味しい魚も、一年後には価値が無くなってしまう。しかし、貨幣は特定の集団内での合意があれば、その価値を減じることがない。百文は一年後も百文として機能し、美味しい魚一匹と交換出来るのだ。 
集団化、専業化、分業化の促進
海で魚を釣り、山で鹿を狩り、必要に応じて木を切り出す。これらを全て個人で行うには無理がある。それよりも一定の集団を形成し、各個人が業務を分担し、専門にすることで効率は飛躍的に向上する。
複数の人間が集まって漁に出れば、一人の時よりも多くの魚を獲ることが出来るだろう。潮の流れや魚の習性を知悉し、網や仕掛けを改良する漁師。漁の事は彼等に任せたほうが良い。
流通は流通業者、販売は販売業者が担当することで商売の効率が高まる。専業化と分業化によって大量に獲れた魚は広く流通し、それだけ大量の貨幣と交換される。結果として漁師たちは一人の時よりも多くの貨幣を得ることが出来る。
この様に貨幣経済の浸透は職業の集団化、専業化、分業化を促した。 
貧富の格差
貨幣によって富の長期保存が可能になると、貨幣の保有量の大小が富の大小になった。富の大きい者、つまり貨幣を大量に持つ物は多くの物品を得ることが出来る。貨幣を僅かしか持たない者は、物品を得る事が出来ないため貧しい生活を余儀なくされる。貧富の格差は大きな問題になったが、貨幣を持つことで誰もが平等に豊かになれるため、貨幣は広く浸透したのだ。 
貨幣の流通

 

貨幣の輸入
戦国時代、日本では明から輸入した永楽銭が貨幣として流通していた。南京では民間が銭を模造し、それを日本に輸出して利益を得ていた。この様な私鋳銭は鐚銭として嫌われ、経済を不安定にさせていた。慶長十三年十二月、江戸幕府は永楽銭の使用を禁じた。 
貨幣の鋳造
文禄四年、後藤庄三郎を京から招き、武蔵墨判小判を鋳造させた。慶長六年、江戸、京都、駿河、佐渡にて慶長大判、小判、一分判を鋳造。慶長の貨幣は元禄七年に鋳造終了となったが、それまでに約千五百万両も鋳造された。慶長六年五月、伏見に銀座が作られ、丁銀、小玉銀が鋳造された。これにより銀を主軸とする貨幣体制が作られるようになった。 
甲州金
甲州金は四分で一両、四朱で一分、四糸目で一朱だった。江戸幕府はこれを貨幣体系に取り入れた。 
撰銭
長期の使用によって破損した破銭、欠銭は価値が減じたと見なされ、取引に用いる事を拒否されることがあった。こうした品質の劣化した銭を鐚銭と言う。鐚銭を受け取ったとしても、それが次の取引に使用出来るという保証は無い。別の商人が受け取りを拒否すればそれまでなのだ。
そこで人々は品質の良い銭を選んで取引を行った。その上で鐚銭を使用する場合、次の取引で使用出来ない可能性を考慮し、鐚銭を多めに支払った。これを撰銭と言う。
例えば十文の商品があった場合、買う側は五文を通常の銭で支払い、残り五文を鐚銭で支払うとする。売る側が鐚銭での支払いに難色を示すと、買う側は鐚銭を十文に増やし、合計で十五文を支払って取引を成立させた。十文の商品が実質的に十五文に値上げされてしまうのだ。
逆に撰銭によって取引の効率が低下すると、少しでも商品を売ろうと商人は値下げを実施。これによって取引による利益が減少することがあった。また、値下げをしても商品が売れないという最悪の事態も起こっていた。
この様に撰銭は経済の安定を保つ上で重要な問題であった。大名は撰銭に規制を設ける事で、円滑な取引を促した。
甲州法度之次第の第四十二条に「悪銭の事、市中に立て置くの外は、これを撰ぶべからず」とある。武田家は鐚銭の見本を用意し、それに該当しない銭は良質と見なすと決めていた。
徳川家康は売買の効率を高めるため、撰銭の際に永楽銭と鐚銭の比率を一対二にした。慶長十一年、鐚銭対策として慶長通宝を鋳造した。 
銭飢渇
銭自体の流通量が少なければ、取引の件数は減少する。経済規模に見合った量の銭が無ければ、貨幣経済は成り立たないのだ。「勝山記」によると永正十一年、永正十二年、永正十三年、永正十六年、大永五年、享禄二年に銭の流通量が不足し、取引に支障を来したと云う。この様な状態を銭飢渇と言う。 
割符
戦国時代、今日の為替に類似した割符という取引手段があった。取引に銭は必要だが、高額な商品を購入しようとすると大量の銭を準備しなければならない。売る側も大量の銭を持ち帰らなければならず、大変に不便である。また、大量の銭を輸送すると略奪に遇う可能性がある。そこで、買う側は取引の前に割符屋に銭を預けた。取引の際、買う側は必要な金額分の証書を割符屋に発行してもらい、それを売る側に支払った。売る側は地元に戻ると、割符屋で証書に書かれた分の金額を受け取った。これによって高額な取引、遠隔地間の取引を円滑に行ったのだ。 

 

検地
年貢を得るための基本的な情報を得るため、土地の生産能力(面積、収穫量、立地等)を調査することを検地と言う。検地の結果から年貢の徴収量を決めるのだ。
太閤検地以前の検地は百姓による申告制のため、収穫量が低く見積もられるなど不正確な調査だった。また、太閤検地は一国規模での検地だったが、それ以前の検地は郡単位で行われていた。大名と協力関係にある国人の領地には検地が実施されないこともあった。
大名の直轄地で検地を行えば、年貢の増加分はその大名家の収入になる。大凡、検地を行えば大名の収入は増加した。これは百姓が開墾した新田や、密かに隠し持っていた隠田が見つかり、それが新たに年貢徴収の対象になるからだ。
家臣や国人の土地であれば、年貢は軍役や普請の際の人員を決めるための重要な資料となる。家臣の年貢の取り分が増えれば、それだけ軍役を課すことが出来る。大名からすれば年貢が自身の収入にならなくても、軍役などの面で十分な利益を得ることが出来たのだ。
新たに獲得した領地から年貢を徴収する際にも、検地を行う必要があった。当主が交代した場合、先代の認めた年貢徴収量を維持する場合と、新たに検地で徴収量を定める場合があった。北条家は当主交代の際、領内で一斉検地を行った。
百姓の起こした訴訟(公事)の解決手段として、家臣の所領など限定した範囲で検地を行うことがあった。これを「公事検地」と言う。検地によって過重な年貢徴収を公平にすることが出来るため、百姓も納得した。また、公事検地の際に百姓が立ち会うこともあった。検地の結果、名主の下で働いていた小作人が名請人に格上げされることもあった。
なお、石高を基準に村の貧富を考えることは無意味である。米の生産量が少なくでも、領内に大きな港、材木に恵まれた山林があれば村は豊かな生活を送っていた可能性が高い。
年貢が七公三民、八公二民の地域の百姓は領主に米を搾取され、貧しい生活を送っていたと考えられていた。しかし、こうした高い年貢を徴収されても、それ以外の産業で利益を上げていた可能性があり、一概に貧しいと判断することは避けるべきである。
年貢として米を納めることの出来ない貧しい者。その代表格とされるのが、下人や水呑百姓である。彼らは土地を持つことの出来ない貧しい農民と考えられてきた。
しかし、田畑の必要のない仕事に従事していた者も水呑と呼ばれていた。能登半島では交易業で裕福な暮らしを送る水呑もいた。農業主体の建前(儒教的な士農工商の区分け)からすれば、農業以外の仕事は認められるものではない。だからこそ、下人や水呑など土地を持たない百姓を意味する言葉が出来たのだ。
年貢を滞納した百姓に対し、領主はその家から人質を取った。年貢を納めれば人質は解放された。
課税
鎌倉時代、朝廷が公事(大嘗祭、伊勢神宮造営)ごとに臨時に徴収した課役を「段米」と言う。荘園や公領の区別無しに徴収された。室町時代になると恒久的な課役になり、各国の守護が朝廷に関わりなく自ら徴収するようになった。戦国時代になっても、これは変わらなかった。
田畠一反ごとに定められた課役を「段銭」と言い、年貢とは別に徴収される。現代的な言い方をすれば、「土地に課せられた固定資産税」に該当する。段銭を免除する代わりに年間毛皮十枚を納める皮役、鮎を納める鮎役などがあり、土地を持たない猟師や漁師にも課役があったことが伺える。商人に課せられた課役は「商売役」。職人に課せられた課役は「商人役」と言われた。
家屋ごとに定められた課役を「棟別銭」と言い、年貢とは別に徴収される。現代的な言い方をすれば、「家屋に課せられた固定資産税」に該当する。寺社にも課税されたが、戦火で焼失した場合などは免除されることもあった。
実際に働くことで納める課役を「夫役」と言う。普請役や伝馬役が該当する。夫役を嫌い、代わりに銭を納める者もいたが、これは大名にとっては財源になった。 
関銭
領主は領内を往来する道路に関所を作り、通行料として関銭を徴収した。商人は関銭として支払った金額を商品に上乗せし、販売した。遠方から商品を運べば、関銭が積み重なり、高額で販売しなければ利益を得る事が出来なかった。 
代官と百姓
代官は年貢を納めた百姓に酒を贈り、それにかかる費用は必要経費と考えられていた。百姓と良好な関係を築くことが代官に求められていたのだ。
代官は年貢を売買することで利益を増やした。三日、十三日、二十三日の三日市で売買するが、相場が安いときに売ったり、報告に偽りがあると罷免された。また、年貢として納める鉄を売却し、その分の銭を納めることもあった。
代官はこうした収入、支出が一致する決算書を作成しており、貨幣経済の浸透が帳簿の発達を促したとわかる。帳簿は木簡から発達したとされ、初めは紙の代わりに木の板に走り書きをするものであった。禅宗、律宗、浄土宗の僧侶や山伏はこうした事務処理や会計が得意だった。
一方、百姓は代官の暴力を理由に年貢を軽減するよう領主に求めることがあった。 
義務と権利
領主と村は相互に契約を結び、義務と権利を行使することで生活を成り立たせていた。
領主は春や夏に「下行」や「出挙」を行う義務を負い、百姓に農作物の種を配分した。
下行とは農作物の種などの給付である。出挙とは神に捧げた初穂、上分のうち種籾を百姓に貸し出すこと。出挙の利息は秋の収穫時に取るが、農作物であるため百姓は数倍から数十倍の利息を払うことになる。また、領主は貸し出す際に、米一石当たり田畑一反などの担保を確保した。
出挙として貸し出されたものは米、酒、絹、布など多種多様だった。この初穂を蓄えるために蔵が造られ、その中に納められた物は神の持ち物であった。
領主は百姓が生活に困れば銭を貸し、洪水を引き起こす川があれば治水工事を行った。百姓が生活に困らないように注意を配らなければ、領主はその務めを果たしたとは言えない。百姓が生活に困窮すれば貸した銭は戻らず、川が氾濫すれば年貢の徴収に影響が出る。百姓が暮らしやすい環境を整えれば、安定して年貢を得る事が出来る。その様な領主は名君として慕われた。
百姓は領主から作付けの手助けを受ける代わりに、収穫を納めるという義務を負った。これが年貢である。年貢とは領主が一方的に搾取するものではなく、そこには契約に基づいた徴収する権利があったのだ。
越後色部氏の村の行事に関する記録「色部氏年中行事」の中に、村を領した領主と村人との契約が書かれている。
毎年正月三日、色部氏の館では僧侶や村の長老を招き、祝宴がひらかれた。百姓は祝宴のために酒、肴などを納めた。酒宴の最中、僧侶は紙に色部氏と百姓との契約を書き記す。色部氏と百姓は共に寺社を大切にすること。色部氏は百姓が農耕をしやすいように助け、百姓は色部氏に年貢を納入すること。僧侶はこれらの契約を読み上げ、色部氏と百姓は共に神前で互いに約束を交わし、御神酒をいただいた。この村の風習を「吉書始め」と言い、後に正月の書き初めになった。
百姓が正月の祝宴に来なければ、領主は百姓と年貢徴収に関する契約を結ぶことが出来なくなる。そのため、領主は百姓に引き出物を振る舞い、祝宴への出席を促していた。
この様な年初の契約は各地で行われていた。百姓は領主に自分たちの土地を守り、共に神仏に尽くすことを期待していた。その見返りとして、領主に年貢を納めることに同意したのだ。
過酷な収奪を行う領主は神前での契約を破ったことになり、百姓は領主を見捨てて逃散した。このような状況に追い込まれた場合、領主は慌てて百姓に詫びを入れ、帰村を促した。このような領主を暗君と言う。
敵に敗れて領地を荒らされた領主は、百姓を守るという神前の誓いに背いたと見なされ、その信用を失った。信用を失った領主は百姓の逃散などに苦しみ、結果的にその勢力を弱体化することになった。 
度量衡

 

量 / 桝
戦国時代、全国各地で独自の桝が使われており、容量が統一されていなかった。そのため、取引を行う際には事前に桝の大きさを確認しなければならなかった。同じ一升桝であっても、地域のよって容量が異なるのだ。相良長毎の制定した「相良氏法度」によると、領内で容量の統一された一斗桝を使う事を定めている。この一斗桝は四升で一斗になった。甲斐国国中三郡では甲州桝が使われた。曲尺の方七寸五分、深さ三寸五分五厘余。徳川家康、大久保長安が甲州桝の使用を認めたため、江戸期を通じて国中三郡で使用され続けた。 
衡 / 秤
甲斐武田家では守随家の生産した秤を使用していた。江戸幕府も武田家の政策を踏襲し、計量のために甲州守随秤を使用した。 
売買

 


人と人、人と物とは縁で結ばれている。身近な人同士であれば、縁が深いため物を譲り合う関係が生まれる。信頼関係を深めるため、物の所有権を譲渡するのだ。
これが商売になると関係が一変する。売る側と買う側が顔見知りとは限らない。不特定多数の人々と商品、銭を交換し合う事になる。商人は商品を見知らぬ者に販売するため、神仏の力を借りて商品との縁を断ち切ろうという発想が生まれた。商売は互いに銭と物とを交換する行為であり、互いに利益が得られるように、そして不正が行われないように神々の加護が求められたのだ。
古来、河原のような土地は誰の物でもない無縁の地を見なされていた。俗世と無縁であるが故に神々が降臨しやすく、商売に適した土地と考えられていた。川に近いことから、穢れを払う禊ぎの意味も込められたのだろう。こうした理由から、市は河原などに開かれることが多かった。
三斎市という言葉のうち、「三」の文字は一ヶ月に三回の市が開かれることを、「斎」の文字は神々に見守られた正当な取引が行われることを意味する。五日市は毎月五日、十五日、二十五日という五のつく日に市が開かれることを意味し、実質的に三斎市と同義である。
寺社は神仏に近い聖域であり、寺社の門前で市が開かれた。これが門前市である。寺院の祭日に合わせて市を開く事もあった。
大名は門前市の生み出す経済効果を重んじ、領内の寺院を、そして市を保護した。上杉謙信は居城である春日山城の側に、政務を執る御館を建てた。近隣には越後一の宮である居多神社や、長尾家の菩提寺である林泉寺がある。そして大規模な商業港である直江津を擁していた。直江津を通じて越後府中に入ってきた商品は、門前市を通じて各地に運ばれる。逆に越後国内の物品は直江津から全国各地に運ばれる。大名はこの様に経済的な観点から市を保護していた。
輸送

 

伝馬
人や物の移動を迅速に行うため、大名は領内各地に伝馬役を置いた。自身の発給する印判状を持参する者が来たならば、求めに応じて人や物を馬で運ぶよう伝馬役に命じた。また、印判状を持たない者がいれば、それが重臣であっても伝馬を拒否するよう命じている。
伝馬役は普請などを免除されるという特権を持っていた。運送の際、伝馬役は利用する者から口付銭を受け取ることが出来る。これが彼等の収入になった。印判状を持っていても、口付銭を支払わなければ運送を拒否することが出来た。
伝馬役は印判状を持たず、力尽くで物を運ばせようとする狼藉者への対応に悩まされていた。また、大量の荷物を遠くに運ぶことは重労働であり、伝馬自体が大きな負担になることがあった。特に飢饉が発生すると伝馬役が食料を求めて逐電するという事態に陥った。その場合、大名は期限を決めて伝馬役を免除し、逐電した者が村に戻るよう促した。
同盟関係にある大名を助けるため、領内の伝馬の利用を認めることがあった。天文十八年八月一日、武田信玄は甲斐古関や芦川の伝馬に対し、今川義元の印判状を持つ駿河衆がいれば、その荷物を運ぶよう命じている。 
関所
甲斐武田家や上杉家は関所である諸役所を代官に守らせ、通行者から津料と呼ばれる通行税を徴収し、それを上納させていた。家臣も大名の許可を得れば関所の所有が認められ、それを収入源にすることが出来た。 
津料、駄別銭の廃止
今川家では駿河国と遠江国の津料、遠江国での荷物運送にかかる駄別銭の徴収を取りやめた。これは「今川仮名目録」には津料、駄別銭を徴収する者は処罰すると書かれている。これによって人と物の流通が促進されることになった。後に武田信玄も関所の一部廃止を行っている。 
債務

 

徳政
領主交代、合戦、一揆、飢饉、天災。こうした非常事態に際し、領主は村人の債務を取り消し、その生活を安定させた。これを「徳政」と言う。
領主の交代は村人にとって重要な出来事だった。前の領主との間に結ばれた様々な契約が破棄されるため、新しい領主と契約を結ばなければならなかった。また、前の領主が村同士の争いなどで下した裁定も、新しい領主が認めなければ無効になった。そのため、領主交代は村にとって失った権益を取り戻す機会だった。
新たな領主は村人に対し、前の領主がどの程度の年貢を徴収していたのかを報告させた。これを「指出」と言う。新しい領主は指出によって提出された書類を精査し、村人と年貢の額について交渉し、納入に関する契約を結んだ。
領主は村人に種籾などを貸し付けていた。領主交代によって領主の債権、村人の債務は無くなると考えられていた。つまり、徳政が行われると見なされていたのだ。そのため、新たな領主は前の領主の債権は失われず、村人は領主への債務を返済しなければならないと書状で通知しなければならなかった。やがて、領主は事前に徳政は行わないという条件で種籾などを貸し付けるようになった。
村人は年貢を未納することがあり、領主はその取り立てを行っていた。領主交代が起こると未納分の年貢について、その債務が取り消される事があった。
領主を統轄する大名も村人に種籾などを貸していた。その債権は領主の交代があっても失われず、村人はその債務を返済した。
村同士の争いで前の領主から不利な裁定を受けた村は、新たな領主に裁判のやり直しを求めた。合戦や圧政によって村を離れた村人も、領主交代の際にその罪を許されて帰郷することが出来た。これらも徳政の一種である。 
 
文化

 

大名の教養
和歌、連歌、茶の湯、立花、香、鷹狩、蹴鞠、大鼓、小鼓、太鼓、笛、尺八、謡、能、舞、囲碁、将棋、双六、包丁(料理)。これらは戦国時代の文化人に求められた教養である。公家はこうした芸能を家業にすることがあり、大名に対して和歌や蹴鞠の教授、色紙の揮毫、古典籍の売却などを行った。その礼金を収入にしたのだ。 
大名の趣味
鷹狩を趣味として楽しむ大名は大勢いた。そのため、鷹は献上品、贈答品になることがあった。大名は鷹狩を行うことで、その土地の支配権を示すことが出来た。鷹の雛は巣鷹と呼ばれ、大切にされた。鷹が巣を作ると、その周辺の木の伐採や、狩りを行うことは禁止された。鷹が子育てを放棄しないよう細心の注意が払われたのだ。 
上方文化 / 今川家と京文化
今川家は大内家、朝倉家と共に京文化の取り込みに熱心だった。公家も今川家を頼り、駿府に移住するほどだった。公家は御礼に今川家に自らの得意とする芸能を教授した。今川義元は正月十三日を歌会始の日と定め、毎月十三日には月次会という定例歌会を開いていた。義元は十郎という能役者に目をかけており、館で能を舞わせている。今川領には能役者が訪れ、領民も見物して楽しんでいた。寿桂尼ら女性は香を楽しんでいた。 
茶道
日本の河川の水質は良好で、水は十分に沸騰させれば安全に飲むことが出来る。しかし、支那や西洋の河川の水は沸騰させても飲用出来ないほど水質が悪いという問題を抱えていた。不味い水を美味しく飲む方法。それが茶である。
茶は東アジア各地に自生する植物で、日本でも古くから飲用されていた。「東大寺要録」は天平年間、行基が諸国に堂宇を建て、同時に茶を植えたと記している。何時しか日本での喫茶は廃れたが、支那へ渡った学僧(空海、最澄、円爾、栄西など諸説ある)が大陸の茶を持ち帰り、そこから喫茶の習慣が復活した。
承元五年、栄西は「喫茶養生記」の中で「茶は養生の仙薬なり。延命の妙術なり」と記している。茶は道教の仙薬の様に考えられていたのだ。茶は来客のために出すことから、富裕層の間では茶の席が一種の社交場となった。茶の席における作法が考案され、それがやがて茶道という文化を生み出した。
西洋人による最初の茶の記録は、弘治二年、イタリア人ラムージオの「航海記集成」と云われる。同書は茶が熱病や頭痛、胃痛などを鎮める作用があるとしている。西洋人が支那で見た茶は、栄西の記した仙薬と同じであり、飲用することで薬効が期待されたのだ。
同時代、堺の商人を中心に発展した茶道には多くの礼儀作法があり、使用される茶器は大変な高値が付けられた。日本を訪れた宣教師は茶の席に礼儀作法があることを本国に伝えた。これが西洋人の関心を引いた。茶道は西洋人から文明的な儀式と認識されたのだ。
茶道を大成させた千利休は、ミサを参考に作法を練り上げたとする説がある。例えば、茶を廻し飲む吸茶は葡萄酒の廻し飲みに似ている。葡萄酒を入れる聖杯が皮袋に入っているように、茶器も袋に入れられている。飲み終えた後、茶器を拭うことも、聖杯を聖布で拭うことと似ている(茶器を拭うことは他者が飲むという穢れを払う意味があると思われる)。利休が切支丹かは疑問が残るが、作法の様式にミサの影響があっても不思議はない。 
茶道 / 織田信長と茶道具
織田信長は茶道を愛した武将だった。織田信長に早くから仕えた平手政秀、松井友閑も茶道、連歌に通じていた。
尾張瀬戸、尾張常滑、近江信楽、越前、丹波、備前は六古窯を呼ばれ、古来から陶器の名産地だった。特に尾張、美濃は畿内で使用される陶器の産地として有名で、海上交易を通じて蝦夷や琉球でも販売されていた。織田信長は六古窯の地を全て領し、その販売に大きな影響を有したと思われる。
永禄十一年十月、上洛した織田信長に対し、松永久秀は九十九髪を献上した。今井宗久も松島の壷などを献上している。天正三年十一月二十八日、織田信長は信忠を岐阜城主に任じて、自身は佐久間信盛邸に移った。その際、茶道具ばかり持参したと云う。
織田信長は家中の茶会で茶頭を務める者を重臣のみとした。明智光秀、羽柴秀吉、柴田勝家、佐久間信盛、瀧川一益、丹羽長秀など織田家を代表する家臣でなければ茶頭を務める事は許されなかった。茶会は織田家重臣としての権力を誇示する場となり、使用する茶道具の価値も高まった。 
和歌 / 明智光秀と連歌
細川藤孝は明智光秀が連歌の後の句を前の句にどう繋げるのか知らなかったと記している。明智光秀は連歌会で指摘を受ければすぐに連歌を直し、徐々に歌人として成長していった。
永禄十一年十一月十五日、六句
元亀元年三月二十一日、何船百韻八句
天正元年六月二十八日、坂本城三十六歌仙連歌
天正二年正月二十四日、多聞山城何人百韻
天正二年七月四日、何人百韻、十句
天正二年閏十一月二日、山何百韻坂本城
天正三年五月七日、山何百韻
天正三年五月十五日、坂本城連歌会(島津家久饗応)
天正四年、坂本城一日三百韻
天正五年四月五日、愛宕山千句連歌
天正五年四月六日、第五何田百韻、九句
天正五年九月十四日、連歌会
天正五年十二月二日、百韻連歌会
天正六年三月十日、百韻連歌会、十四句
天正七年七月十八日、丹波亀山城千句連歌
天正九年正月六日、坂本城年始連歌会
天正九年八月十五日、周山城連歌会
天正九年十一月十九日、五吟一日千句
天正十年正月九日、坂本城百韻興行
天正十年五月二十八日、丹波愛宕山西坊威徳院 
和歌 / 歌道の名家東氏
東氏は千葉介常胤の六男胤頼を祖とする名族である。こうした名族は歌道を嗜むことを常としたが、東氏のそれは群を抜いている。胤頼の孫三代胤行は「続後撰集」、四代行氏は「続拾遺集」、五代時常は「続千載集」、六代氏村(行氏次男)は「新後拾遺集」、七代常顕、八代師氏、九代益之(常顕三男)はそれぞれ「新続古今集」に歌が選出されている。このように東氏は歌道に長けた武家として繁栄した。特に十一代常縁は切紙を使うことで「古今和歌集」の正統な解釈を伝授する「古今伝授」を発案。連歌師宗祇に伝授した。古今伝授は宗祇から三条西実隆に、実隆から細川藤孝に伝えられた。常縁は後に将軍足利義尚、関白近衛政家、右大臣三条公敦の歌の師となっている。 
料理 / 伊達政宗と料理
伊達政宗は料理を大変に愛した。「政宗公御名語集」に来客の際の料理の心得が記されている。献立を決める際、相手の好みを弁えておくこと。来客を応対する際、一品だけでも念を入れた料理を用意し、主人の第一の料理と伝えられるようにすること。茶の湯を振る舞う際、前日から道具を用意し、料理も試食をしておくこと。人と振る舞うために料理は第一である。猟師は種々百品、千品を一度に振る舞うよりも、何気ない一種、二種に心を込めること。
岩出山城下では「つと納豆」が作られてきたが、これは伊達政宗が広めたと伝わる。朝鮮征伐に際し、馬の餌に大豆を用意したが、突然の敵襲により煮えたまま稲藁で包み、馬の鞍に括り付けた。数日後、稲藁を開くと納豆が出来ていた。これを食した兵士は上手いことに驚き、政宗に献上。日本に戻った政宗は早速、領民に納豆を作らせたと云う。 
性 / 男色
陶隆房は美男であり、大内義隆とは男色の関係にあった。義隆の寵愛は深く、九里も離れた隆房の居城を訪ねることがあったと言う。義隆はザビエルと共に山口を訪れた宣教師フェルナンデスから男色の罪を説かれ、フェルナンデスに退席を命じたという逸話もある。 
湯治 / 草津温泉
上州草津温泉は信玄も認めた名湯であり、戦傷者の治療に用いられた。また、甲斐武田滅亡直後の天正十年四月、丹羽長秀や堀秀政らが草津温泉に入湯。天正十六年には豊臣秀次が入湯。秀吉も文禄四年に入湯しようとしたが果たせなかった。 
愛玩動物 / 金魚の伝来
「金魚養玩草」に文亀二年正月二十日、金魚が堺に持ち込まれたとある。これが日本における最も古い金魚の記録である。「金魚名類考」は文亀二年正月、元和三年、宝永三年と金魚が持ち込まれたとしている。金魚が日本に持ち込まれた年は文亀二年として間違いはないだろう。 
 
生活

 

戦国時代の村の構成
村人は年齢ごとに長老、中老、若衆と区分けされた。若衆は村を守るために日頃から警備を行い、合戦が起これば村を守るために戦った。領主から要請があれば、自ら武器を用意して出陣した。村の有力者の息子は大勢の下人を率いて出陣し、村の戦力の中核を担った。これらの若衆は「凡下」と呼ばれる。中老は若衆を統率した。
長老は村の政治の中核となり、長年の経験をから他の村や、領主らとの交渉も務めた。領主との交渉では村への乱妨狼藉に対する禁制を得ることが求められた。味方の大名と敵の大名のどちらが有利なのか、それを判断する能力も求められた。
領主は領内の凡下、下人を率いて戦った。武器は凡下、下人が自前で用意するが、兵糧は領主が用意しなければならなかった。合戦は領主や大名にとって大きな出費になった。領主は村の凡下の名簿を作成しておらず、大規模な合戦が起こると名簿の提出を村に求めていた。
村の納める年貢に応じ、大きな村ほど多くの凡下を出陣させなければならなかった。若衆が合戦で討死することを恐れ、村では日雇いの人夫を出陣させることがあった。領主は人夫の出陣を快く思わず、必ず凡下を出陣させるよう村に求め、従わなければ首を刎ねると威した。
しかし、若衆が負傷や討死をすれば村の生産力は減少し、百姓の生活は苦しくなる。領主も減収によってその勢力を弱めることになる。領主は戦力として若衆の出陣を求めていたが、その討死は望まなかった。
村の男児が十五歳になると「刀指の祝」を行った。それまでの童名を改め、成人としての名を名乗った。着物も付け紐で締めるものから、帯で締めるものに変えた。そして刀や脇差を帯に指した。刀は村の有力者など特定の人物しか指す事が出来なかったが、脇差であれば百姓も指すことが許された。刀や脇差は成人の証であった。 
百姓
「百姓」は農民を意味する言葉ではない。様々な仕事に従事する「平民」を意味する。漁師、海女、製塩、海運業、商人、猟師、機織り、炭焼き、木こり、轆轤師、塗師、大工、石切り、鉱夫、鋳物師、鍛冶。他にも多くの職業があるが、これらは役所の書類では百姓と記される事があった。かつて、こうした事実を認識せず、百姓を一括りに農民と定義する史観があった。そのため、日本を農耕社会とする史観が生まれたのだ。日本には山間部や沿岸部という稲作に不向きな地域も多い。それらの地域は次のような物品が生産、加工された。 
山間部(生産物→輸入地での使用方法)
薪・炭→家事、暖房、金属精錬、製塩、製陶
材木→家屋、橋、荷車、船、農具、漆器、紙、日常品
鉱物→貨幣、刃物、農具、日常品
獣肉→食料、薬、毛皮 
沿岸部(生産物→輸入地での使用方法)
魚・鯨・貝・海草→食料、肥料
塩→食料
船→各種輸送
上記の物品を税として徴収すれば、農耕の困難な土地で無理に米を徴収するよりも、効率良く利益が得られる。この様に地域の特性に合わせ、様々な物品が作られ、それが領主に納められていたと考えるべきである。 
村の女性
女性は冠婚葬祭の際に中心となって働くことになる。さらに、円満な近所つき合いも大切な女性の仕事であった。そのため、花嫁修業を通じて礼法や教養を学ぶことが女性に求められるようになった。茶道、歌学、芸事などを学び、嫁ぎ先に免状を持参するのだ。
当時の女性は性に対して開放的で、複数の男性と関係を持つことがあった。フロイスは日本の女性が貞操について驚くほど意識が低いと記している。そのため望まない妊娠も多く、間引きなどはそうして生まれた子供に対して行われたのではないか。
日本では近親婚を禁忌と見なしていたが、実際には盛んに近親婚が行われていた。これは百姓も武家も同じである。女性は家と家とをつなぐ役目を担っており、血縁関係にある家同士がより関係を深めるため、近親婚が行われたのだ。血縁関係にある大名間の政略結婚が繰り返されたのも、家の関係を深めるためである。
女性が人質として相手に送られることがあったが、これは地位が低いためではない。家と家とをつなぐ女性を人質にすることで、両家の関係を良くも悪くも深め、合戦を起こさないようにしようという考えがあったのだろう。 
 
地域の生活

 

山の民の生活
樵や狩人など山に生活する民は、山賊と同一視されることがあった。樵や狩人は立山に侵入して略奪することもあれば、誤って踏み込んでしまい捕縛されることもあった。  
川の民の生活
川での漁業、水運に携わる民を川立と言う。山で切り出された材木は、筏士が筏で下流に運送した。大名は材木を安定して入手するため、筏士に諸役免除などの優遇措置を執った。進軍の際、大名は川立を動員して船橋を架けることがあった。 
琵琶湖の民の生活
琵琶湖の湖上交通では、廻船人の船に「上乗」として堅田の人に乗ってもらう。この時の礼銭が関所料となり、初めて安全が保証された。「上乗」と書かれた旗で関所料を支払ったことを示した。逆に無断で船に乗ると廻船人から攻撃され、積み荷を差し押さえられた。もちろん、命の保証はない。  
海の民の生活
領内に海を持つ大名は海戦に備えて軍船の建造に力を入れた。北条家は造船や修理のために船番匠を召し抱え、年間三十日は公用として出仕させた。それ以上の出仕については五十文の手当を支払った。また、北条家は大型船を伊勢国などの他国から購入していた。
海賊衆は船を造るために山林を保有していた。港や岬、小島に城を構えることで領海内を航行する船を監視。東国の商船は礼銭を支払い、東国の海賊に乗船してもらった。これで東国の航海は安全となり、さらに西国の海での安全も保証される。西国でもまったく同じことをした。この慣例と礼銭は海賊の資金源であり、領海内を航行することを認める関所料であった。
弘治初年頃、伊勢志摩で鯨銛突取漁が始まった。
海の民は製塩を生業にしていた。初期の製塩方法は乾燥した海藻を使うものだった。海藻を積み重ね、その上から海水をかける。海水の塩分濃度は濃くなり、これを煮詰めることで塩を作った。他にもいろいろな方法があったが、この方法が最も多く用いられたようだ。
潮が引くと、砂に塩の結晶が出来る。この砂を集め、木製の容器に入れて海水を注ぐ。かき混ぜて塩分濃度の濃い海水を作り、容器に穴を空けるなどして別の容器に移す。この海水を煮詰めることで塩を作った。
この方法は浜辺の砂を使うため、使用後の砂は積み上げられた。この砂の山を「塩尻」と言い、使う浜辺を「塩田」と言った。やがて元の場所に戻された。塩作りに必要な砂を使い果たすと、浜辺を移動しながら生産を続けた。この方法を「塩尻法」と言う。
三角州などに堤防を作り、堤防内の砂の高さは満干の中位ほどとする。海水を流すための溝を掘る。溝に注がれた海水は毛細管現象によって一面に浸透。これを乾燥させることで塩の結晶の付着した砂を作る。塩の結晶を育てるため乾燥中に海水を流すことがあり、これを「呼び水」と言う。
この方法は「入浜塩田法」と呼ばれ、塩の満ち引きに関係なく塩を作ることができ、さらに浜辺を移動する必要がないという利点がある。
瀬戸内海沿岸の地方では、入浜塩田法により元禄年間、全国必要量の約五割を生産。幕末には全国必要量の八割から九割を生産した。
塩の生産方法は時代によって進歩したが、全ての地域で同じ方法が用いられたとは限らない。各地方に適した方法、古くから伝えられた方法、新しく取り入れた方法など、様々な方法で塩は作られたのだ。
ルイス・フロイスは「日本史」の中で、九州の製塩について記している。
「五島は食料品に乏しいが、漁と製塩は盛んだった。特に製塩は島の主産業で、肥前、肥後からの商船は米など食料品と引き替えに、塩と魚を積んで帰った。藁で作られた大きな竈で海水を煮詰め塩を作る。竈は粘土で固められていた。これらの村では共同で一つの釜を使っていた。塩釜は崩れることがしばしばあり、塩が作れないこともあった」。
大きな土釜に海水を入れる「海水直煮製塩」であり、釜を村で共有する共同作業であった。土釜は崩れることもあり、利益が得られないこともあった。製塩業は忍耐と努力が必要だった。
なお、内陸にある岩城国や下野国北側など猪苗代湖周辺では、塩分を含んだ温泉が湧き出る。それを煮詰めたり、塩田を作ることで塩を生産していた。 
 
職業

 

商人
天正四年六月二十八日、武田家は甲府八日市場に定書を出した。第八条では内藤源三、日貝惣左衛門尉の手形が無ければ、町で綿や麻布の商売をしてはならないと定めた。 
猟師
戦国時代、猟師は猟犬を飼育し、鹿や猪を追い立てていた。獲物の毛皮は武具や装飾品に使われるため、大名は猟師に印判状を与えて猟犬の飼育を許可した。また、毛皮を納める事で猟師は諸役を免除されることがあった。鹿や猪による食害は百姓にとって深刻な問題だった。狩猟によって鹿や猪が減れば、それだけ食害が軽減されることになる。大名は年貢の安定的な納入を促すためにも、猟師を保護していた。永禄三年二月二十一日、穴山信君は黒桂の猟師望月善左衛門に書状を送り、猟犬の飼育を許可した。天正二年十二月二十五日、武田勝頼は猟師木工充に印判状を与え、領国内で自由に狩猟を許可する代わりに、鹿や熊の毛皮を納めるよう命じた。さらに百姓としての御普請役を免除した。穴山信君は某年十一月三日、湯之奥の猟師縫右衛門尉に書状を送り、猟犬三匹を飼う事を認めた。 
鷹取
鷹は神々への奉納や、武家同士の贈答に用いられた。武家は鷹狩りを楽しみ、鷹を献上する者がいれば諸役を免除するなどの恩賞を与えた。
大永四年四月十三日、長尾為景は諏訪社上社に神鷹、神馬を奉納。
天文七年十月、小笠原長棟は諏訪社上社に神鷹を奉納。天文八年六月、諏訪頼重は諏訪社上社に吉田山で捕獲した巣鷹を奉納。
天文二十二年十一月二十九日、金丸宮内丞は武田信玄に鷹を献上。喜んだ信玄は金丸宮内丞に課せられた普請役、徳役などを免除した。
永禄六年四月六日、北条高広は鷹取の源八郎に黒部新六給分などを与えた。
元亀元年十月八日、山浦国清は酒井忠次から鷹を贈られた事に対する御礼を伝えられた。
天正七年七月三日、武田勝頼は上杉景勝に書状を送り、以前に贈った鷹を大切にしてもらっているようで喜んでいると伝えた。
一方、鷹狩りを行わない武家もいた。永禄五年五月、小山田信有は富士浅間大菩薩に願書を出した。それによると小山田家では鷹狩りを代々禁止しており、それに倣って自身も鷹狩りを行わないと誓った。
また、鷹を納めることの出来なかった鷹取に対し、武家は棟別役を課すなどの罰を与えている。  
伝馬業者
有賃伝馬の料金は宿屋、伝馬業者の収入になった。しかし、大名による公用の用件や、距離による減額によっては宿屋、伝馬業者の持ち出し(負担)になった。北条家では各宿ごとに伝馬を置き、朱印を見せれば無料で使用出来るという制度を整えた。朱印状には「常調」の文字が捺された。天正三年三月十四日、武田勝頼は信濃佐久郡に所領を持つ市川豊後守に対し、納品する荷物が関所を安全に通過出来るよう過所を与えた。過所とは関所の通行許可書である。対象となったのは一月当たり三疋分の荷物で、麻、綿、布、木綿、塩、肴などである。  
青苧業者
戦国時代、三条西家が青苧座を統轄していた。大永七年六月十日、三条西実隆は長尾為景に書状を送り、青苧公銭の納税が三年も滞っていると伝えた。永禄三年五月十三日、上杉家は越後府内の商人に書状を出し、直江津を訪れる役所船に課せられた諸役を免除すると伝えた。しかし、二階堂青苧座両所のみは船中で検見をすることにした。永禄七年四月二十日、上杉謙信は柏崎一帯に制札を出し、青苧役を必ず務めるよう命じた。  
紙衣屋
厚紙に柿渋を塗ると耐水性が向上する。それを揉んで柔らかくして、加工をすれば紙性の衣類を作る事が出来る。紙性の衣類を販売する業者を紙衣屋という。  
大工
戦国時代、大工という言葉は職人の棟梁を指した。鍛冶の棟梁も大工と呼ばれた。大名や寺社はこうした職人を召し抱え、城や神社の普請を行わせた。彼等は合戦にも参加し、小屋や柵、井楼などを建設した。天正五年十二月二十一日、広厳院は寺の修繕を行わない大工に憤り、武田勝頼に訴えを起こした。武田勝頼は広厳院の訴えを認め、武田領内の大工を自由に使って修繕を行うよう伝えた。 
御器師、轆轤師
当時、食器は御器と呼ばれていた。御器師、轆轤師という職人が轆轤に乗せた材木を加工し、御器を作った。曲物師や檜物師は薄く削った材木を曲げ、それを繋ぎ合わせて器形に加工した。
木製の御器は使用するにつれて、汚れや臭いが付いてしまう。そこで御器に漆などを塗る事で汚れ、臭いの付着を防止した。
天文二十年十二月二日、穴山信友は下山の轆轤師に対し、甲斐国内の関所の通行を許可。商売に励むよう命じた。
永禄六年十一月二十四日、穴山信君は自身の召し抱える番匠源三左衛門に特権を与え、源三左衛門の命令に背く番匠がいれば道具を差し押さえるよう命じた。
年次不詳ながら穴山信君は領内の大工に対し、源三左衛門の下知に背けば成敗すると伝えている。この様に穴山信君は領内の番匠を統制するため、源三左衛門との関係を深めていた。
永禄八年六月二十六日、穴山信君は轆轤師に知行を与えた。 
塗師
漆は防水剤、塗料、接着剤など幅広い用途に使われた。永禄三年十二月十七日、武田信玄は領内各地に書状を発し、漆を所望するので五日以内に納めるよう命じた。こうして漆五十盃を西保、二十盃を牛奥、江草、亀沢、隼、平林、十盃を七覚に納めさせた。「甲陽軍鑑」永禄十一年、武田信玄は織田信長に蝋燭三千挺、漆千桶、熊皮千枚、馬十一頭を贈った。これは織田信忠と武田信玄の娘との婚約を祝ったものである。毛皮は猟師が、漆は漆師が採取したのだろう。元亀二年、織田信長は武田信玄に漆を所望し、三千盃を贈られた。  
庭師
有力者の屋敷の庭園は河原者が中心になって造営された。庭園には松など様々な樹木が植えられた。河原者は各地に派遣され、良い樹木を見つけると庭園に運び、植え替えを行った。もし、良い樹木が地方の有力者の屋敷にあれば、それを徴発することもあった。神社の巨木も徴発の対象になった。  
兵法者
兵法者(剣術家、砲術家)は大名から技能者として扱われた。職人は技能工として大名から知行を賜ったが、兵法者も同様だった。織田信長は畳指などの技能工に対し、極めて優れた技能を持っていれば「天下一」の称号を与えた。兵法者も優れた武芸を喧伝するため、天下一を称した。  
芸能民
戦国時代、芸能民は祭祀に深く関わっていた。彼等は非人と呼ばれ、人と神とをつなぐ存在と考えられていた。それ故に非人は俗世から切り離された無縁の人々とされていた。人々は芸能民がその芸を披露すると、御礼として銭や米を渡した。人々は神に能を奉納し、楽しんでいただこうとした。猿楽師も無縁の者と見なされていた。大名や民衆も能を楽しみ、やがて大名に召し抱えられる能楽者も現れた。胸叩は胸を叩きながら「節季候、節季候」と唱えた。猿曳は猿に芸を仕込み、その芸を客に見せて対価を得た。年始になると、千寿万歳と呼ばれる人々が家々を訪ね、祝言を述べて礼銭を得ていた。  
奴隷
奴隷は主人に不満を抱くと脱走し、別の主人を見つけた。弘治二年六月二十八日、武田信玄は大須賀久兵衛尉に書状を送った。この五ヶ年の間に脱走した被官がいる場合、以前の様に召し抱えて構わない。被官が別の主人に仕えていた場合、今の主人と交渉し、相手が承諾しないならば届け出ること。
永禄五年三月二十四日、再び大須賀久兵衛尉に書状を送り、脱走した被官を見つけた場合、今の主人に返還の交渉をするよう求めた。また、相手が返還に応じない場合、届け出れば法に従って裁定を下すと伝えた。
「甲州法度之次第」第十五条は奴隷に関する規定。譜代の被官を他人が召し使っていた場合、勝手に処罰をしてはならない。必ず理由を聞いた上で被官を引き取ること。他人の被官を召し抱えてしまった場合、本来の主人から返還の要求があれば応じること。被官を逃がしてはならない。逃がした場合、代わりの者を本来の主人に引き渡すこと。但し、被官が逃げ出してから主人が何の対応もせず、十年が経過すれば被官に対する所有権を失う。これは貞永式目以来の規則である。
第十六条は奴隷の返還に関する規定。脱走した被官を往来で見つけた場合、その主人に理由を糺す前に被官を連れ帰ってはならない。まずは今の主人に被官を預けるべきである。但し、今の主人の家が遠方の場合、五十三日までは拘束出来る。
  
村人の生活

 

村の食事
米食が普及していない地域を貧しいと考えることは誤りである。米は食料になるだけではなく、交易の対価として用いられた。都市部、半島など稲作に適さない地域で米が多く食べられたのも、米が交易の対価として支払われたからである。伊勢、志摩、蝦夷は稲作に適さないが、主食として米が食べられていた。こうした地域に米を輸出し、その地方の産物を輸入すれば、それだけ輸出した地域での米の消費量は減少。その代わりに雑穀の消費量が増加した。米の生産量だけで貧富を考える事は出来ない。東北、北陸、近畿は米の生産量が多い。関東、濃尾、瀬戸内海沿岸は麦の生産量が多い。房総半島、東海地方は米麦が同じくらい生産された。東北、関東は雑穀も多く生産していた。四国、九州は甘藷の生産量が多い。琉球は甘藷が主食の九割を占めた。 
村の食事 / 芋
里芋は正月の雑煮の具、秋の月見の供物などハレの行事に用いられる重要な食品である。米や大豆に比べて保存性が悪く、輸送中に傷む事があった。「勝山記」永正十二年十月十二日夜、雪と雨によって甲斐の田畑が凍結。地中の芋も、菜も凍結してしまい、やがて捨てる事になってしまった。こうして食料が枯渇し、飢饉が発生した。永正十六年冬、食料枯渇に苦しんだ甲斐の住民は、駿河富士郡から芋がらを購入して飢えを凌いだ。天文二十三年、温暖な気候が災いし、穴に入れて貯蔵していた芋が発芽してしまった。住民は慌てて穴から芋を出し、一両日ほど冷ましてから穴に戻した。永禄元年八月五日、大風によって芋や粟の収穫量は半分ほどに落ち込んだ。 
村の食事 / 団栗
秋になると百姓は団栗を拾い集め、それを水に晒し、渋みを抜いて食べていた。 
村の食事 / 茸
天文二年、京都醍醐寺の理性院厳助は信州伊那文永寺に下向。同年六月十四日、神之峰の和久氏は理性院厳助に松茸を贈った。同年八月二十四日、理性院厳助は信州で初物の松茸を食べている。 
村の食事 / 鮭
川を遡上する鮭は人々にとって重要な食料になった。特に越後では鮭を使った料理が多数考案された。頭部の軟骨を使った氷頭なます、背骨に付いた血液で作った背腸という塩辛。これらは今日でも越後の郷土料理として伝わっている。永禄十二年六月十日、北条氏康は上杉謙信から昆布一合、鱈一合、干鮭十尺を贈られた事を喜び、その礼状を記している。文禄二年閏九月三日、豊臣秀吉は上杉景勝が越後の初鮭二尺を献上した事を喜び、礼状を出している。 
村の食事 / 酒
戦国時代、濁酒が広く飲まれていた。酒はハレの行事に飲む神聖な飲み物だった。寺院では建替工事などに際し、大工や番匠に酒を振る舞ったが、これもハレの行事に酒を飲む行為に関連するのだろう。 
村の食事 / 甘味料
砂糖の伝来する前は、飴やアマズラなどが甘味料として用いられていた。砂糖黍の原産地はニューギニア周辺と云われる。古い時期から作物化され、紀元前二千年頃にはガンジス河流域に伝わった。砂糖は日本でも西洋でも高価な薬と考えられていた。慶長15年、直川智が明の福州で得た砂糖黍の苗を奄美大島に植えた。結局、栽培方法が確立されないため砂糖黍の生産は普及しなかった。寛政年間、紀伊で輸入した砂糖黍を製糖する技術が確立された。こうして紀伊、薩摩、讃岐、阿波、和泉、駿河、遠江などで精糖が行われるようになった。 
食料価格
「勝山記」天文十七年の項に、穀物の価格についての記述がある。それによると米五升、粟一斗、大豆一斗、大麦一斗、蕎麦一斗二升。十升が一斗であるから、蕎麦は米の半額以下で取り引きされていたと分かる。 
食生活の変化
天武天皇の肉食禁止令により馬、牛、犬、猿、鶏を食べることが禁止された。これは仏教の殺生禁止を守るためと、農耕のための益獣保護が目的だった。馬や牛を食べると不作になるという信仰もあったようだ。しかし、猪や鹿は田畑を荒らす害獣であり、食べることは許されていた。鶴は神聖視されたため食べられることはなかったが、戦国時代になると食べられるようになった。卵を食べた者は罰が当たるとされていた。「沙石集」などにも卵を食べて罰が当たった者の話が載せられている。戦国時代、南蛮料理に卵が使われていたため、少しずつ卵も食べられるようになった。 
食生活の変化 / 蕎麦切り
蕎麦は高地や寒冷地でも生育することから、広く食されていた。蕎麦の実を磨り潰し、粉状にして保存。それに湯をかけて練り、蕎麦掻きにして食べた。やがて小麦粉を麺にした饂飩が広まると、それを応用して蕎麦粉から麺を打つという調理法が信濃で考案された。こうして、戦国時代の信濃では蕎麦切りが食べられるようになった。天正二年二月十日、木曽定勝寺仏殿の修繕が始まった。その際、蕎麦切りが振る舞われた。 
村の教育
片仮名は口語を聞き書きする際に用いられた。片仮名の書状が見つかると、例えば簡単な片仮名しか書けない農民が、凶作のため年貢を減らしてもらえるよう代官に言上したと考えられてきた。
しかし、この考えは片仮名の特性を考慮していないことになる。実際には会話を書き取ったために片仮名が使われたのだ。
ある百姓は代官に「年貢を納めなければ耳を削ぐ」と威されたと、片仮名で書状に書き残した。百姓は年貢の未納を代官に責められると、その会話を片仮名で書き残した。そして、代官に脅されたため、恐ろしくて年貢を納めに行けないと領主に言い訳をした。この様に、百姓と代官とは対等の駆け引きをしていた。
公式文書の書体は中央の書体に倣う。地方の公式文書でも、書体は中央と同じであり、書体が変わると数年でそれに対応した。倣うのは書体だけではなく、文章上の言葉も中央のものを使用した。つまり、その人の生まれが東北であろうと九州であろうと、文字を書くときは中央の言葉を使用していたのだ。これは現代も同じであろう。
伊達政宗は文禄二年以降、平仮名の濁点を三つから二つに減らした。これも上方の書体に合わせたものである。
文字が共通語としての役目を果たしたため、難しい方言を理解する際には筆談が行われた。筆談で交渉が出来るということは、流通を高める上で非常に役に立った。漢字を使用する国との貿易には筆談が用いられることがあった。 
 
村と合戦

 

村と村との合戦
隣接する村々は利害関係で結ばれており、状況によって協力や対立を繰り返した。山や川の使用権の確保は、村人全員の生死を左右する重要な問題である。そのため、他の村人が山や川を犯せば、武力による報復が行われた。
農業用水を確保するための工事では協力しあうが、その利用を巡って争う。村で管理する山の草木が、他の村の者に切られたとして報復手段を議論する。
こうした協力と対立のなか、村同士の合戦が起こる事もあった。村同士の合戦に備えるため、村人は日頃から戦死者の遺族の養育、財産の管理などの取り決めを作っていた。
村同士の合戦は為政者の処罰の対象になる。村の貧困百姓、乞食は子孫の地位向上と引き替えに、村の有力者の身代わりとなって処刑された。
天正十七年夏、近江国中野村は近隣の青名村、八日市村と水争いを起こし、遂に死者を出した。豊臣家は中野村の問題を裁く際、それぞれの村から代表を一名ずつ呼び、その代表を処罰することにした。中野村では清介という百姓が代表に選ばれた。そこで清介は娘の養育、家屋や田畑の維持管理、夫役の免除を村人に約束させている。
天正二十年夏、摂津国鳴尾村、河原林村は水争いから合戦を起こし、豊臣家に処罰された。その際、村の乞食仁兵衛は庄屋の身代わりとなって処刑されたが、その条件として子孫が乞食にならないように村が保護し、身分を向上させるよう求めた。村は仁兵衛に証文を与え、子孫の保護を約束した。
村だけでは戦えないと判れば、近隣の村に応援を要請することもあった。駆けつけてくれた近隣の村人には御礼として金銭や食料が支払われた。近隣の村が仲介役に入ることもあり、調停に応じない村は近隣の村から縁を切られた。
村と村とが協力しあい、共に敵に立ち向かうこともあった。合戦によって、ひとつの村が乱妨狼藉の被害に遭えば、近隣の村も被害に遭う可能性が高い。そのため、村々は日頃から協議し、合戦に際しては自衛のために共闘することを約束した。実勢に合戦が起こると村々の若衆が合流し、名簿で員数不足が無いかを確認した。 
村と村との対立
和泉国日根荘には土丸村、大木村、菖蒲村、船淵村という村があり、近隣にあったため入山田四ヶ村と呼ばれていた。文亀年間頃の領主は公家九条政基である。日野荘は和泉国と紀伊国との国境にあり、和泉守護細川家や根来衆の合戦に巻き込まれることがあった。
文亀元年六月十七日、和泉国日根荘佐野で六斎市が開かれていた。その市の中、和泉守護細川家の家臣が大木村の村民三名を捕縛。大木村では近隣の村と共に報復の是非を協議。佐野に焼き討ちを仕掛けるべき、細川家から人質を取るべき、などの意見が挙がった。
文亀元年八月二十八日、細川家臣が日根荘を攻め、村や寺院で略奪を行い、番頭の刑部太郎と脇百姓一名が捕らえられた。
文亀元年九月二日、細川家が合戦を起こすことから入山田四ヶ村の村民は、鹿狩りと偽って武装し、夜明け前に山に逃げ込んだ。土丸村では家財一式を運び出すため、牛馬の往来で道が混雑した。村々は事前に会議を開き、どのように対処するかを話し合っていた。
文亀元年九月十九日、細川家臣は日根荘の豪農を捕縛し、家財一式、牛馬などを奪った。
文亀元年九月二十三日、和泉国日根荘の領主九条政基は、百姓の年貢滞納に立腹し、西方村の村役人一名、辻鼻村の村役人や百姓三名をそれぞれ捕らえるよう命じた。彼等は捕縛後、囚人の扱いを受けた。
文亀二年九月一日、根来衆の雑兵は樫之井館から逃げ出す妻女を捕らえた。そのため村では百貫を支払って妻女を取り返そうとしたが、根来衆は承諾しなかった。
文亀三年七月十二日、佐野の六斎市で細川家臣が入山田四ヶ村の村民六名を捕らえた。四ヶ村では直ちに報復について議論が行われた。佐野の有力者三名が粉河街道を通ると判り、待ち伏せして人質にしようとした者がいた。しかし、土丸村の者が反対したため待ち伏せは中止され、有力者の通過を許すことになった。 
 
災害と対策

 

飢饉
飢饉が起こる土地が貧しいとは限らない。平時には交易で豊かな生活をしていても、飢饉の発生で物価が上がると食料が十分に行き渡らなくなる。元々、食料自給率の低い地域であれば、僅かな期間で食料が枯渇し、飢饉に陥った。貧しい土地だから飢饉が発生するのではなく、食料の流通が停滞すると豊かな土地でも飢饉になると考えるべきである。 
非常食
飢饉に際し、百姓は山に入って蕨の根を掘り、川で灰汁抜きをして食べた。村の周囲の自然が荒廃すると、飢饉の際に非常用食料を得ることが出来なくなる。
正嘉三年、鎌倉幕府は「山野河海の法」を定めた。飢饉が起こると百姓は山で長芋を掘り、海で魚介類を得て食べつないでいた。そのため、地頭に山や海での採取を独占し、百姓が餓死しないよう求めた。山や海は領主領民の共同の財産であり、飢饉の際にそれを独占することを禁止したのだ。
「旅引付」によると文亀三年は不作であり、文亀四年二月頃、和泉国日根荘一帯は飢饉に見舞われ、多くの百姓が餓死した。生き延びた百姓は山に入って蕨の根を食べていた。ところが夜になると蕨の粉が盗まれるという事件が発生。そこで村の若衆が見回りをしたところ、寡婦と子供が犯人と判った。寡婦と子供は若衆によって殺害された。
「妙法寺記」は天文三年、天文二十三年と甲斐国が飢饉に見舞われたと記している。百姓は山で蕨の根を掘り、食べつないでいた。
飢饉に備え、様々な非常食が考案された。里芋の茎を縄状に編み、天井にかける。やがて茎は煙で薫製となり、長期保存食となる。加藤清正は芋の茎で畳を作ったと云う。松の甘皮は団子になる。他にも粉にし、一度、煮沸する。そして上に浮いた澱粉を食べるという方法もある。彼岸花の球根には毒があるが、水に付けると毒を除くことが出来る。その上澄みを飲むことで澱粉が取れる。
味噌は古くなって変色しても腐ることはない。数百年前の味噌を食べることも出来るのだ。武田信玄が考案したとされる「信玄味噌」がそれである。
味噌を固めにつくり、草鞋のような形にする。それを天井に吊すと、竃や囲炉裏の煙によって薫製になる。これが味噌の保存性を高めた。タクワンも同じように、百年以上を経過したものでも食べることが出来る。
藁の根元はわずかに澱粉を含んでおり、これを壁土に練り込むことで保存食にすることが出来た。飢饉の際に壁を壊し、中の藁を煎じて飲んだのだ。無論、牛馬の飼料や田畑の肥やしにもなった。 
降雪
大量の積雪は凍死や餓死を引き起こす。道路が遮断されることで食料の購入も出来なくなる。春になれば雪解水によって土石流が発生する事もある。逆に適度な量の積雪が無ければ、翌年に水不足が発生する可能性がある。 
寒冷化 / 甲信越を襲った寒波
「守矢満実書留」文明十五年二月十九日、信濃国諏訪郡は風雨によって気温が下がり、子供や老人が凍死した。
明応八年三月十七日、越後に雹が降った。
「宗祇終焉記」文亀元年十月二十日、越後に滞在していた連歌師宗長は駿河に戻ろうとしたが、雪風が激しいため春を待つ事にした。越後の人々もこの時の大雪に驚いていたと云う。
「勝山記」永正二年、厳冬で河口湖の湖面が凍結した。
永正六年十二月二十五日、富士山北側山麓に大雪が降った。
永正七年、富士山北側山麓では前年からの大雪により多くの鹿が凍死した。雪は四尺ほども積もったと云う。
永正九年、上杉定実は中越地方に向かいたいと考えていたが、大雪のために断念した。同年、富士山北側山麓に大雪が降った。
永正十二年十月十二日夜、富士山北側山麓に雪が降り、大地が凍結したため畑の野菜が凍結。食用にならなくなった。地面が固くなり、芋を掘る事も出来なかった。
永正十四年十二月十五日から三日間、富士山北側山麓に雨が降り続いた。雪も四尺異常も降り積もり、多くの動物が餓死した。
永正十五年八月二十六日夜、富士山北側山麓に大霜が降った。この霜は翌日まで溶ける事はなかった。
「塩山向嶽禅庵小年代記」大永六年四月一日酉刻、甲斐東部に大きな雹が降った。雹は三日三晩溶けなかった。
「天文二年信州下向記」天文二年八月二十三日、信濃の気温が異常に下がり、炉火で暖を取った。
「塩山向嶽禅庵小年代記」天文三年六月一日から三日にかけて富士山に大雪が降った。
天文六年十月十六日、富士山北側山麓に雪が降った。「塩山向嶽禅庵小年代記」は同年十二月九日に甲斐国中地方で四尺以上の積雪があり、竹木が枯れて動物が凍死したと記している。
天文七年正月十七日夜、甲斐に大風が吹いた。二月、三月にも大風が吹いた。この風で麦が不作になった。
天文十四年二月十一日、富士山から流れ出た大量の雪解水によって土石流が発生。甲斐吉田では人馬が押し流されてしまった。
「高白斎記」天文十八年十二月七日、甲斐に大雪が降った。
永禄三年二月二十日、富士山北側山麓に大雪が降った。身動きの取れない鹿や鳥は狩猟の対象になった。
永禄四年正月から二月にかけて甲斐に大雪が降った。焚き火にくべるための薪が不足し、人々は大変に苦労した。
「王代記」永禄八年十月三日、甲斐に大雪が降った。
「信長公記」天正十年三月二十八日、織田軍は甲斐から諏訪に攻め込んだが、大変な寒さで足軽が凍死した。「当代記」は織田信忠の中間二十八人が凍死したと記している。 
日照り
永正二年、富士山北側山麓は日照りに見舞われた。そのため禰宜は雨乞いを行っている。 
洪水
天正十一年七月二十日、関東から東海地方にかけて記録的な豪雨が降り注いだ。北条氏直と徳川家康の娘の婚姻は豪雨によって延期された。三河国では多くの堤防が決壊し、その大洪水は五十年来の事と云われるほどだった。同年七月二十三日にも豪雨が降り、三河国の田畑は洪水の影響で収穫が不可能になった。関東では利根川の堤防が決壊し、同様に収穫が不可能になる土地が急増した。関東は上杉謙信の侵攻によって、東海では徳川家康と武田勝頼の合戦によって大量の樹木が消費された。山林の保水力が失われたところに、豪雨が降り注いだため大洪水が発生した。 
洪水 / 甲信越を襲った大雨洪水
「王代記」明応七年八月二十三日、甲府は暴風雨に見舞われた。同年八月二十八日、信濃西海、長浜、大田和、大原で土石流が発生。多くの犠牲者を出した。
「勝山記」明応十年六月、大雨によって甲斐の農作物が育たなくなってしまった。
永正五年、大雨によって甲斐の農作物は育たなくなった。
永正八年八月、洪水によって甲斐の農作物に被害が出た。
「高白斎記」永正十四年七月十三日、甲斐国中地方は暴雨による洪水に見舞われた。
永正十七年八月十三日夜、大雨が降ったため甲斐の農作物に被害が出た。
大永八年五月十六日、五月十六日に甲斐で大雨が降り、五月十七日に降水になった。
天文二年五月から八月にかけて大雨が降り、富士山北側山麓では農作物が不作になった。「天文二年信州下向記」は同年五月二十一日に天龍川で洪水が発生し、船を出す事が出来なかった。六月五日、八月十六日と天龍川で洪水が発生。八月十七日、知久氏は出陣のため天龍川を越えようとしたが、八月十六日の洪水の影響で川を渡る事が出来なかった。九月十三日にも洪水が発生した。
天文五年五月から七月にかけて富士山北側山麓に大雨が降った。この影響で不作になり、餓死者が出た。
天文八年十二月十五日、諏訪郡では大風と洪水が発生。十二月十六日は諏訪頼満の葬儀が予定されていたが、この洪水で橋が流されたため多くの人々が葬儀に参列出来なかった。
天文九年五月から六月にかけて富士山北側山麓に大雨が降った。
天文十年五月、武田信虎は海野平を攻めたが、この陣中で大雨に見舞われた。大雨は大洪水を引き起こしたと云う。
天文十三年七月九日、信濃大鹿村で大洪水があり、御堂島薬師などが流失した。
天文十五年七月五日、富士山北側山麓に大雨が降り、土石流が発生。山や田畑が押し流された。
天文十九年六月、大雨によって富士山北側山麓に洪水が発生。七月、八月にも大雨洪水が発生し、大量の餓死者が出た。同年八月三日、甲府でも洪水が発生した。
永禄三年、信越一帯は六月から十月にかけて長雨に見舞われる。この影響で不作になった。
永禄四年三月十一日、上杉謙信は越後上田庄、妻有庄、藪神に徳政令を出した。永禄三年の長雨でこの地方の収穫は激減しており、それに対する救済措置だった。 
堤防
川除(堤防)には竹で編まれた籠が使われた。竹籠の中に石を入れて川に沈めれば、川の流れを弱めることが出来る。竹籠の周辺には土砂が堆積し、自然に堤防の役目を果たすようになる。この竹籠は蛇籠と呼ばれた。 
防風林
夏の台風や、冬の大風から家屋や田畑を守るため、防風林が造られた。大風が防風林を通過すると、樹木が障害物となって風の力が弱まるのだ。松や木楢が防風林に植えられた。 
地震
明応七年正月、大和国で地震があった。六月十一日、日向灘一帯に大地震があった。遠江国でも地震が発生した。八月二十五日、東海沖地震が発生。紀伊から房総にかけて大津波が襲い、特に伊勢大湊では家屋一万余戸、溺死五千余名、伊勢志摩で一万余名など膨大な死者を出した。遠江の浜名湖は地形が変わったため海と繋がり、二万六千余名の溺死者を出した。
明応八年正月二日、甲斐一帯に大地震が発生。正月四日、大和や山城でも地震があった。十二月二日、京や奈良に地震があった。
明応九年正月十二日、京に地震があった。
文亀元年十二月十日、越後に地震があった。
天文十八年四月十四日、甲斐に地震があった。 
地震 / 天正十三年の大地震
天正十三年十一月二十九日四ツ半時、北陸を中心とした大地震が発生。飛騨国の帰雲城は倒壊し、この地を治めていた内ヶ島氏理が圧死。同時に起きた洪水のため内ヶ島一族は滅亡した。他国にいたため生き延びた内ヶ島家中の者が泣く泣く帰ると、帰雲城跡は土砂と洪水により淵になっていたと言う。遠く離れた京都三十三間堂の仏像六百体が倒れたと云うから、この地震の規模が非常に大きかったと判る。禁中は祈祷によって地震を収めようとしたが、余震は収まらなかった。飛騨では「帰雲の峰二ツに割れ」と記されるほどで、飛騨の山々は土砂崩れのために形を変えてしまった。前田利家の弟秀継の居城木舟城も倒壊。前田秀継夫妻は圧死している。一柳直末の守る大垣城も被害を受けたと云う。 
帰雲城(かえりくもじょう)
今の岐阜県大野郡白川村保木脇(ほきわき)にあったとされる城である。帰雲城は当地の有力武将:内ヶ島氏の居城であった。寛正年間に内ヶ島為氏により築城された。
天正13年11月29日(1586年1月18日)に天正大地震が起き、帰雲山の山崩れで埋没。城主の内ヶ島氏理ら一族は全て死に絶えてしまい、この瞬間をもって内ヶ島氏は滅亡してしまった。また、そのとき埋まったとされる埋蔵金伝説があることで有名。なお、城のあった正確な位置は現在も特定されていない。保木脇に帰雲城趾の碑が建っているが、その場所が城跡であるとの確証は得られていない。
願泉寺資料
泉州貝塚(現在の大阪府貝塚市)にある願泉寺住職道喜(宇野主水)が安土桃山時代につけていた日記、『貝塚御座所日記』に以下の記述がある。
天正十三年七月五日、未刻、大地震。 天正十三年十一月十一日、夜九ツ半地震。この頃「光るもの」みたるもの多し。 廿九日夜四ツ半過ぎ大地震、十余日止まず。京都三十三間堂の六百体の仏像すべて倒る。飛州の帰雲と云う在所内島と云う奉公衆ある所なり。地震に山をゆりくずし山河多くせかれて、内島の在所へ大洪水はせ入って、内島一類地下人にいたる迄残らず死たる也。他国へ行きたる四人残りて泣く泣く在所へ帰りたる由。彼の在所はことごとく渕になりたる也。
他、「越中国名跡志」という史料にも同様の記述があると言われる。 
木舟城(きふねじょう)
富山県高岡市福岡町木舟にあった平城。木船城、貴船城とも書く。主郭の北と南にも郭を構え、三重の堀に囲まれていた。更に周囲は湿地帯であった。城下町は東西1.2km、南北1km程度であったとみられる。
歴史
元暦元年(1184)、木曾義仲に従って前年の倶利伽羅峠の戦いで活躍した越中国の豪族、石黒光弘によって築かれ、以後石黒氏が治めた。
文明13年(1481)8月、越中国福光城主石黒光義が医王山惣海寺と組んで越中一向一揆勢の瑞泉寺門徒らと戦うが敗退(田屋川原の戦い)。光義ら一族は安居寺で自害し石黒氏本家が衰退。その後徐々に木舟石黒氏が勢力を強める。
天文年間(1532-1554)、木舟城主石黒左近将監が越中国安楽寺城を攻めて城主高橋與十郎則秋を討っている。
永禄9年(1566)、城主石黒成綱が一向一揆方の小倉六右衛門が拠る越中国鷹栖館並びに越中国勝満寺を攻め、これらに放火している。
天正年間(1573-1591)、越中国中田城、越中国柴田屋館(天正3年(1575)頃か)を攻めたとされる。
天正2年(1574)7月、上杉謙信に攻め落とされて臣従した様だが、それ以前にも臣従、離反していたフシがある。
天正5年(1577)12月23日に書かれたとみられる『上杉家家中名字尽』に石黒左近蔵人(成綱)の名が見える。
天正6年(1578)、上杉謙信の死去を契機に成綱は上杉家を離反して織田信長方に付いた。
天正8年(1580)2月、天正9年(1581)4月と2度にわたって一向一揆勢の重要拠点で当時上杉方だった越中国安養寺御坊(勝興寺)を焼き討ち、結果焼亡させているが、その直後に勝興寺の訴えを聞いた上杉景勝配下の吉江宗信によって木舟城は攻め落とされた。因みに同年7月、成綱を始めとする石黒一門30人が信長に近江国佐和山城へと呼び出されたが、その意図が彼らの暗殺である事に気づいた一行は逃走を図るも、近江国長浜で丹羽長秀配下の兵に追いつかれて皆殺しに遭い、豪族としての石黒氏は滅亡している(成綱の子は後に加賀藩に仕えている)。
同年7月、織田方の圧力に抗し切れず宗信が木舟城から海路を使って退去した。結果木舟城は織田方の手に落ちて佐々成政の支配下に入り、重臣佐々平左衛門が入った。
天正12年(1584)、佐々軍15000名、能登国末森城攻略のため木舟城を出発するも撤退(末森城合戦)。
天正13年(1585)5月、木舟城主佐々平左衛門が越中国守山城主神保氏張、越中国井波城主前野勝長と共に、前田方の越中国今石動城を攻めたが、守将の前田秀継、利秀親子によって撃退された(今石動合戦)。
同年8月、豊臣秀吉の北国征伐(富山の役)により成政が降伏(なお、この時に成政は大した抵抗もせずに降伏したと云われているが、成政軍の一部が木舟城辺りで夜討ちを仕掛け、前田軍に数十人の死傷者が出たという記述も在る。成政降伏後に前田軍が慰霊祭を行ったとされるが、その時の死者に対して行なわれたものと思われる)。木舟城は前田氏の支配下に入り、前田利家の末弟である秀継が城主となって4万石を与えられた。
同年11月、天正大地震発生。これにより城の地盤が三丈(約9m)も陥没。木舟城は倒壊して秀継夫妻は多くの家臣等と共に圧死した。遺体が見つかったのは3日も後の事だったと云う。また城下も壊滅的な打撃を受けた。遺領は秀継の子である利秀が継いで木舟城に入った。
天正14年(1586)5月、利秀が上洛途中の上杉景勝を木舟城にて迎えているが、震災の痛手からの立て直しは困難であるとの判断から、その年のうちに廃城となる。行政機能は今石動城に移され、城下の民は四散した。小矢部市の今石動城下に残る糸岡町、鍛冶町、御坊町、越前町などの(旧)町名は木舟城下にあった町名に由来していると云う。慶長14年(1609)に高岡城が築かれるとゆかりの町人が移住し、今日に木舟町の名を遺している。 
鹿狩
武家は大規模な鹿狩り、猪狩りを行った。これは害獣による農作物への食害を減らすため、そして武具作成の材料を確保するためである。台湾から大量の鹿皮が輸入されたが、これも武具作成のためである。鎧の縅糸は鹿皮を鞣して作られた。村では鹿や猪を撃つために鉄炮の保有が許された。鹿狩りは初矢を射た者に功績がある。猪は生命力があるため止矢を射た者の功績になる。 
 
禁忌

 

村人の罪
村人が罪を犯した場合、家屋や田畑を取り上げられて「召放」、つまり追放される。その後、罪が許されれば村に戻ることが認められる。これを「召直」と言い、没収されていた家屋や田畑は返還される。盗み、放火、殺人などを犯した犯人が捕まらない場合、村人同士が投票によって犯人を決めた。これを「入札」と言う。入札は神前にて行われた。これより投票結果は神の意志とみなされ、その正当性が確立されたのだ。入札には村の厄介者の実名が記入された。投票によって犯人に選ばれた村人は、村八分にされるか追放された。 
村の穢れ
穢れとは「気枯れ」のことである。怪我による出血や化膿、病気による衰弱は気が乱れたものとして忌み嫌われた。例えば農耕のために土地を開墾すれば、その土地の形を変えたことで気が乱れ、穢れが発生する。その土地の神への冒涜とされたのだ。平安時代の貴族はほとんど体を洗うことはなかった。天皇は湯殿で腰湯に浸かるが、全身を洗うことはなかった。発生する体臭を消すため、香が好まれるようになった。衛生よりも体を洗うことで穢れを生むことを嫌ったのだろう。
穢れを祓うには「禊ぎ」をする必要がある。禊ぎとは「水濯ぎ」のことで、神聖な水の霊気が穢れを祓うと考えられたのだ。葬儀の後、家に入る前に体に塩をかける。これも葬儀で発生した穢れを祓う意味がある。
非人は当初、「人にあらざる」という悪い意味ではなく、人には行えない神仏の領域に生きる存在とされていた。鎌倉時代の頃まで非人は忌むという差別でなく、むしろ異なる力を持つために畏怖という形で差別された。これはまったく違う種類の差別である。非人は天皇に仕える職能民であり、諸役を免除され、全国の往来を許されていた。天皇の下に武士とも同格だったのだ。僧侶などは非人であるために交渉の使者、つまり俗人には出来ないような仕事を果たした。
初期の日本社会では富を蓄えることを穢れとする風潮があり、金融業を人ではない「非人」、つまり女性や僧侶、山伏が行うようになっていった。僧侶が財力を持つことは批判の対象となるが、この批判は当時の穢れの思想をまったく考えていない。僧侶が財力を持つことは、穢れの思想からすれば当然の流れであった。
死者の埋葬などは非人の仕事であったが、後の時宗は穢れた者も往生できるとの教えを広めたため、非人とともに合戦での戦死者を弔うようになる。
天皇の権威はやがて衰退し、武家が政権を握るようになった。こうした時代の変化により、非人に対する評価は「人ではないと言う神聖視」から「人に値しないという卑賤視」へと変わっていった。都の人口が増え、疫病が多発するようになる。その都度、膨大な数の死者が出るが、その埋葬は非人の仕事である。埋葬を日常的に目撃するようになり、穢れに対する禁忌の念が強まったのだろう。仏教の殺生を禁じる教えも穢れに対する禁忌を大きくした。
後醍醐天皇の敗北により、非人に対する卑賤視はより大きなものとなった。非人の支えであった天皇が、武士に圧倒されたのだ。以降、非人は穢れた存在として貶められていく。江戸時代と鎌倉時代とでは、非人は扱いが大きく違う。非人は罪人であると言うが、現代の感覚で罪人とすることは大きな誤りである。その罪とは「穢れ」であり、死者の埋葬に携わることや動物を屠殺することを原因とした。当時は穢れた人と接することで、それまで穢れていなかった人まで穢れが感染すると考えられていた。これが穢多や非人を部落に押し込め、同じ火を使うことも許さないという差別へとつながった。
葬式を例に取る。人が死ぬと死穢、つまり死によって穢れが発生する。これを甲穢と呼ぶ。甲穢の発生した家に入ると、その人も穢れることになる。これを乙穢と呼ぶ。同じように丙穢が発生し、これ以降は死穢は発生しない。葬式に行ったことで乙穢が発生すると、塩で清めをする。つまり、葬式の穢れは死によって発生し、それが伝染すると考えられてきたのだ。 
 
合戦

 

戦国時代
時代や地域によって国家像は異なる。今日、一般的に考えられている国家とは、歴史や伝統、文化を共有する国民が、その生活の安全を保障し、財産を保護し、子孫に継承していくために構築した集合体である。
古来、日本では天皇陛下を中心とした朝廷が祭祀と政務を司っていた。その支配権の及ぶ領土が日本であり、その内に住む民は日本人となった。神武天皇肇国以来、皇統が途絶えたことは一度もない。他国は君主の交代によって歴史に断絶が生じている。日本は歴史に断絶の無い希有な国家である。
日本人は方言こそあるものの、共通の言語と文字を持ち、国民同士で伝統や文化、価値観を共有することが出来た。四方を海で囲まれており、諸外国からの侵攻が少ないという利点を持っていた。
一方、大陸の国家はどうか。様々な言語と文字が入り乱れ、伝統や文化を共有しない氏族が多い。王家は断絶し、新たな王家が国家を治める。その過程で歴史に断絶が生じる。時間をかければ陸路で相当な距離を移動することが可能で、遠征を行うことが出来る。
日本は大陸の国家と比べて、安全を保障する上で多くの利点を持っていた。その国でなぜ、長期間の国内戦争が起こったのか。
中央、地方を問わず、権力者は政治上の対立を武力によって解決しようと考えた。そして、誰もそれを仲裁する事が出来なかった。この二つの要素により、日本は長期に渡る戦争を余儀なくされていた。それが戦国時代である。 
戦争目的
大名は領土を守り、さらには拡大させるために戦った。大名の軍は領民で構成されており、兵力を増加させるには領土を広げ、より多くの地域から兵を集めることが望ましい。
また、大名の収入は領地の生産力によって左右される。広大な領地を保有する大名は豊かである。仮に領土の生産力が周辺より劣るとしても、領土を広げれば豊かになれる。つまり、大名の基本的な政策方針は富国強兵であり、その手段として領土拡大、つまり合戦が行われたのだ。
家臣は大名に一定の力量があると認めたからこそ臣従している。軍事力のある大名から領地を安堵されれば、一族の生活は安定する。合戦に従えば戦功次第で恩賞を得ることが出来る。逆に大名の勢力が衰退すれば、家臣は離反し、他の大名に臣従する。家臣からすれば自身の領地を守り、一族の生活を守るためには強い大名に従うことが重要なのだ。
合戦で戦功を挙げた家臣は、大名からの恩賞に期待を抱いている。この時、十分な恩賞が得られなければ、家臣は大名に従う義務はないと考える。そして離反し、他の大名に臣従する。これらの要因が重なると、家臣は大名に見切りを付け、下克上によって自ら大名にのし上がろうと画策する。
家臣の離反を防ぐためには強大な軍事力を持ち、合戦に勝利して領土を拡大し、恩賞を与えなければならない。大名は富国強兵と共に、家臣を従えるためにも領土拡大のための合戦を行わなければならなかった。
そもそも、戦争とは政治の一手段である。対話で解決出来ない問題を解決するために武力を用いるのだ。大名の立場が変われば政治目的が変わり、戦争目的も変わる。そのため、大名によって戦争目的は異なっていた。
上杉謙信は武田信玄と信越国境をめぐって戦い(国境争い)、足利将軍家を助けるための上洛戦を試み(将軍家の補佐)、関東管領として北条氏康と関東の覇権を争った(役職の義務)。
毛利元就は大内義隆の仇を討つため陶晴賢と戦い(仇討ち)、やがて中国地方を統治する大大名にのし上がった(領土拡大)。しかし、中央の覇権争いに組みすることを終生、嫌っていた。
織田信長は今川義元と斎藤龍興に勝利したことで自信を深め、足利義昭を擁立して上洛。やがて、日本統一戦争に乗り出した(統一戦争)。
豊臣秀吉は織田家を家臣として従え(下克上)、日本統一戦争に勝利し、そして唐入りに乗り出した(対外戦争)。
戦争目的は明確に定めなければならない。そして、目的は少なく、多正面戦争を避けるよう配慮しなければならない。
上杉謙信は信越国境紛争、関東侵攻、上洛戦という複数の戦争目的に掲げ、その全てに失敗した。武田軍を最後まで信濃から駆逐することが出来ず、北条家に関東を牛耳られ、織田信長の将軍追放を許してしまった。 
 
民衆と合戦

 

百姓と合戦
百姓は大名が誰であれ、草が風になびくように強い方に従った。強い大名とは村を守り、その安全を保障する大名である。安全が保障されない場合、村はどうなるのか。
「別本和光院和漢合運」には、上杉謙信に攻め落とされた常陸小田城で人質の売買が行われたと記されている。身内が人取の被害に遭った場合、親類らは身代金を支払い、買い戻した。「妙法寺記」天文十五年の記述によると、武田軍は相模攻めで人質を取った。その際、人質の親類は武田家に金銭を支払い、人質を取り戻した。その金額は二貫から十貫であった。和泉の公家九条政基の記した「旅引付」によると、文亀二年九月、根来衆に奪われた妻女に対し、村は百貫で取り戻そうとしていた。村人はこのような状況を避けようと必死だった。
「雑兵物語」は江戸時代に記された「戦争の教科書」である。同書を読むと家の側には衣服などが埋めてあり、それを掘り起こすことが常識だったとわかる。敵の領内の田畑を刈り取ることも有効とされていた。だが、勝手に略奪を働けば厳罰に処せられた。討死した者の身につけていた刀、甲冑などは持ち帰ることが許されていたようだ。
同書に「青田をこねる」という言葉が載っている。これは敵地に入った時、苗を植えたばかりの田を踏み荒らすことを指す。他にも敵地で収穫間近の稲を刈り取ることを「青田狩り」、敵地で田畑を荒らし、敵をおびき寄せることを「刈田おびき」と呼んでいた。
二つ以上の勢力に囲まれた村は、複数の相手に年貢を納め中立となることが許された。これを「半納」と言う。攻撃や掠奪を免れるための手段だったが、合戦となるばどちらかに味方をすることになる。大名は半納の村が合戦中に寝返らないよう、名主など有力者の子供を徴兵しようとした。名主らは足軽を雇うことで徴兵に応じ、村人や子供の安全を確保した。
合戦が起これば領主は近隣の住民を居城に入れ、その安全を保障した。百姓が逃げまどい、敵兵に大量に殺害された場合、領主はその能力を疑われることになる。村人は食料や材木を持って避難し、城内の曲輪に小屋を建て、その中で合戦が終わるのを待った。
合戦に際し、領主が出陣すれば領内の守りが手薄になる。領主は村の有力者と交渉し、近隣の城の守りを村人に依頼した。村人は大名から兵糧を支給され、城に入って守りを固めた。村人は村の存亡に関わらない限り、大名同士の合戦に参加することを嫌った。そこで大名は兵糧、恩賞の支給で村人の志気を高め、家の存亡の危機だと頭を下げ、漸く村に加勢してもらっていた。参加しなければ首を刎ねるなどと威した。
合戦に備えるため、領主は居城の修繕を行った。村人も城に避難する権利を得る代わりに、修繕に参加する義務を負った。材木や縄などの用材は村人が用意し、村ごとに割り振られた区画の工事を行った。工事費用は領主が全額支払うが、主に村の年貢を減らすことで支払いに換えられた。 
乱妨狼藉に対する禁制
合戦に勝利した大名は、敵地での乱取りを容認した。これは部下への恩賞であり、食料や金銭、家具など様々な物が乱取りの対象となった。戦場には人身売買を行う商人がいたため、捕らえた人々を売り払うこともあった。
新たな領地を手に入れた大名は、村に対する支配権を強めるため、自軍の乱取りについて禁制を出し、村の安全を保障した。禁制の無い村への乱取りは敵対大名の領地への攻撃であり、容認されていた。乱妨を働いた足軽を討ったとすれば、それは大名への敵意として見なされ、村は攻撃の対象になる。禁制があれば足軽も乱妨狼藉を控えるうえに、仮に乱妨を働いた足軽を討っても問題にならない。
村は大名に金銭、兵粮を支払い、乱妨狼藉に対する禁制を発してもらった。これを制札銭と言う。大名への取次を依頼するため役人に支払う取次銭。文書を書いた祐筆等に支払う筆功。大名に朱印をもらうための判銭。これらの費用は村にとって大きな経済的負担となった。
足軽が禁制を破って乱妨狼藉を行った場合、村は自力で足軽を捕らえ、大名に告訴した。禁制を発した村はその大名の領地であり、領内の乱妨を取り締まらなければならない。取り締まれなければ大名は村を守れなかったとして、村から信用を失うことになる。そのため大名は告訴された狼藉者を処罰した。
大名からすれば禁制を出した村は領土になる。そのため、禁制を得た村は税の徴収に応じなければならなかった。
大名に村を守る力が無いと悟った時、村人は敵対する大名に金銭、兵糧を支払い、乱妨狼藉に対する禁制を求めた。 
寺社に逃げ込む人々
神社は神を、寺は仏を敬う聖域であり、俗世とは切り離された「無縁」の領域と見なされていた。基本的に領主と云えども不法に境内に入ることは許されず、まして境内にいる者を連れ去れることは許されない。そうした行為は神仏への不敬と見なされ、やがて罰が下ると恐れられた。
大永五年八月二日、武田信虎は甲斐向嶽庵に禁制を出した。その第一条は「当庵において、俗徒のいろいあるべからざるの事」、第三条「当庵敷地において、殺生禁断の事」、第五条「時の件断職といえども、いろいと成すべからざるの事」。
こうした特性から、合戦や災害に際して百姓は寺社に逃げ込んだ。 
合戦に参加した女性
合戦に参加する女性もいた。鎌倉時代、未亡人が御家人になることがあった。夫が事情があって戦えない場合、妻は代わりに指揮を執ることが認められていたのだろう。戦国時代、妻が城兵を指揮して籠城したという話が多いが、これも夫の代理として戦うことが認められていたからではないか。妻は夫の従属物ではなく、独自の判断で将兵を指揮することが出来たのだ。
地方の領主となる女性もいた。例として島津家の松寿院の事績を記す。松寿院は薩摩藩主島津斉宣の次女で、本名は隣(ちか)と言う。生後三ヶ月にして種子島久道との婚姻が決められ、十四才で種子島家に嫁いだ。夫との間に四男二女をもうけるが、男子は全て早世。三十三歳の時、夫にまで先立たれてしまった。
そこで、松寿院は実家島津家に願い出て、種子島氏の後継者が決まるまで島を統治することを許された。こうして松寿院は異母弟久珍が島主となるまでの十三年間、種子島を治めた。久珍が死没すると、嫡子久尚が一歳で家督を継いだ。その頃、松寿院は五十七歳になっていたが、甥の代わりに再び島を統治。慶応元年八月、六十九歳で没した。
松寿院の具体的な統治政策だが、彼女は島津家から年間三百両を四年に渡って借り入れ、大規模な土木工事を行った。中種子の大浦川を改修。流れをまっすぐにし、耕作地を広げた。西之表港には防波堤を建設。塩生産のため大浦塩田を作り、製糖業も奨励した。学校を建設し、「大日本史」百巻を寄贈。子供達には筆や墨を配布した。また、先人の偉業を讃えるため、顕彰碑も建設。神社創建にも携わった 
 
思想と信仰

 

死生観
合戦での先鋒、退却戦での殿軍、籠城戦での守将など討死する可能性の高い戦場でも、武士は果敢に戦った。戦場で勇名を馳せれば、恩賞として加増を受けることが出来る。また、合戦で討死をしても、残された家族を大名が養い、子供に家督を相続させてくれる。大名が滅ぼされても、優れた戦歴があれば、他の大名に仕官しやすくなる。こうした事から、武士は戦場で名を挙げることを重んじ、討死や自刃の恐怖を克服しようとした。合戦での勝敗は時の運であり、適切な采配を行うと共に、軍神の加護を受けた側が勝利すると考えられていた。 
軍神信仰
伊勢盛時の家訓「早雲寺殿廿一箇条」の第一条は「第一、仏神を信じ申へき事」である。伊勢盛時は神々を大変に敬っていた。伊勢盛時が伊豆三島大明神に参籠すると、翌年正月二日、大きな二本の杉を一匹の鼠が食い倒し、そして虎へと変化する夢を見た。伊勢盛時はこれを、子年に生まれた自分が山内上杉家、扇内上杉家を滅ぼす瑞兆と喜んだ。
毛利家の軍旗に「頂礼正八幡大菩薩南無九万八千軍神二千八百四天童子十帰命摩利支尊天王」とある。毛利家は軍神を九万八千柱と考えていた。
吉川元春は子の元長に宛てた書状に寺院建立は「一家頼候でも、我等こときの罪深候者ハ成間敷候間、アマタノ加勢ナラテハト存候」と記した。殺生は罪深き故に神仏の加勢が大切と伝えたのだ。
上杉謙信は越中平定の成功と、その間の領国安全を祈るため元亀元年十二月十三日、願文を看経所に奉納している。あミタ(阿弥陀如来)、千じゆ(千手観音)、まりし天(摩利支天)、日天(大日如来か)、へんさい天(弁財天)、あたこせうくんちさう(愛宕勝軍地蔵)、十一めん(十一面観音)、ふとう(不動明王)、あいせん(愛染明王)。これらの軍神に祈りを捧げたのだ。
他にも上杉謙信は毘沙門天、帝釈天、妙見菩薩、飯綱権現も信仰した。「毘」の旗印は毘沙門天の加護を受けようとした物であり、兜の前立には飯綱権現の立像の衣装が施されていた。
兜の中に親指大の仏像を入れたり、仏像を入れた厨子を背負って戦う武将がいた。これを陣仏と云う。上杉謙信は戦場に毘沙門天像を持って行った。泥まみれになった陣仏は「泥足毘沙門」と呼ばれた。
武田信玄は「南無諏方南宮法性上下大明神」、「諏方南宮上下大明神の旗を用いるなど諏訪明神を信仰していた。恵林寺には信玄等身大と云われる不動明王像があり、信玄は胸毛を切り、漆で貼ったと伝わる。永禄元年八月、戸隠大権現神前に願文を奉納。信濃が手に入るかどうか、上杉謙信との和議はどうすべきかを占い、その結果を報告した。
長享元年、大内政弘はスッポン、亀、蛇を鷹の餌にすることを禁止した。大内氏は氷上妙見社を信仰。妙見菩薩は北辰(北極星)とされ、神獣は玄武。スッポン、亀、蛇は玄武に通じるため餌にすることを禁止した。また、大内政弘、義興、義隆の童名は亀童丸。妙見菩薩は亀に乗った童形の菩薩とされ、信仰の様子を感じ取ることが出来る。
不動明王 / 大日如来、シヴァ神と同一。アチャラナータ(山のように動かない=不動)。魔の声を退け、悟りを開いた仏陀の精神、知恵に由来。不動の心で人々を仏の元へ導く。その顔は大日如来が悪鬼調伏する際の形相であり、シヴァ神の破壊の性質を示している。
毘沙門天 / ヴァイシュラヴァナ。須弥山の北方の守護神。インド神話の神クベーラが仏教に習合されたと云う。クベーラは暗黒の主として夜叉羅刹を従えた。毘沙門天はクベーラの力を引き継ぎ、悪鬼をも従える最強の武神となった。毘沙門天は釈迦の説法を最も多く聞いたとされ、故に多聞天とも呼ばれる。インドでは商売の神であったが、日本では軍神となった。
持国天 / ドリタラーシュトラ。須弥山の東方の守護神。
増長天 / ヴィルーダガ。須弥山の南方の守護神。
広目天 / ヴィルーパークシャーダカ。須弥山の西方の守護神。
摩利支天 / マリーチ。光の神で、特に蜃気楼や陽炎と結びつけられるようになった。陽炎が人の目を惑わすことから、軍神として敵の目を欺き、味方を勝利に導くとして信仰された。「兵具雑記」に「一、摩利支天と書て、一字つゝきりて、摩の字ハ、甲の保ロ口付の下に付、利の字は、射向の袖に付、支の字は、馬手の袖に付、天の字は馬に付也」とある。この様な方法で摩利支天の加護を受けようとしていた。
愛宕将軍地蔵 / 「今昔物語集」によると、平諸道の父は戦闘中、矢が尽きた時、氏寺の地蔵に祈りを捧げた。すると小僧が現れ、矢を渡した。さらに小僧は飛んできた矢を諸道の身代わりに受けて姿を消した。勝利の後、氏寺に行くと地蔵の背に矢が刺さっていた。「元享釈書」巻九に坂上田村麻呂が東北征伐に際し、清水寺の僧が勝軍地蔵を作ったとある。こうした戦を有利に導く地蔵への信仰と、愛宕山の信仰とが習合し、愛宕将軍地蔵への信仰が生まれた。
武将は勇敢な生き物を好み、それを神の使いと見なして信仰した。蜻蛉や百足は決して後退りしないことから、勇敢さの象徴として武将に好まれた。
山鳩は霊鳥と考えられていた。鳩だけでなく、合戦中に軍勢の頭上を飛ぶ鳥がいれば、それは軍神の使いと見なされた。鳥が自軍の上から敵軍の方角に向かえば、合戦に勝利することが出来る。逆に敵軍の方角から自軍の側に飛んでくれば、合戦に敗北する。船戦であれば、魚が舟に飛び込んでくれば吉兆とされた。 
呪術
起請文 / 自らの行動を神仏に誓い、言動に偽りのないことを文書に表すこと。また、これに違えれば神仏の罰を受けることも誓った。誓いを記した箇所を前書、神の名を記した箇所を神文と言う。
占上 / 戦法を占うこと。支那で亀の甲羅を焼き、亀裂で神意を占った。この亀裂から「卜」の字が生まれた。占いの結果を口頭で伝えることから「占」の字が生まれた。やがて竹で占うようになったことから、「筮」の字が生まれた。
籤 / 神前で籤を引けば、その結果は神の意志として尊重された。
永禄四年、毛利元就は尼子家に調伏の呪法をかけた。厳島大明神で叱祇尼天、大聖天の力で怨敵退散出来るよう僧に祈らせた。僧は壇上に尼子義久の藁人形を作り、供物を供え、七日七晩断食して祈りを捧げた。七日目の朝、厠から戻った僧は藁人形の首が落ちていることに気づいたと云う。
ある年、毛利元就は家宝の刀が三つに割れる夢を見た。これを琵琶法師の勝都に相談したところ、勝都は大変良い夢だと答えた。刀が三つになれば(州の異字体)になる。毛利元就が新たに州を得る瑞兆というのだ。
天正三年、長宗我部元親は夢の中で矢を放った。すると弓の弦が切れ、矢も壊れてしまった。不吉に思った元親は八幡宮の神主左近に相談。左近は大変良い夢だと元親に告げた。弓が強いからこそ弦も切れる訳で、当年は出陣すべき年と言うのだ。元親は八幡大菩薩が左近の口を借りて合戦の勝利を約束したと喜び、左近に秘蔵の長刀を与えた。左近は返礼に八幡宮の社宝である真盛の太刀を献上。元親は「八幡の利剣」と名付けて陣刀にした。
「上井覚兼日記」によると天正四年九月六日、島津家は伊藤家との合戦に際し霧島社(霧島神宮)で籤を引いた。天正十一年十月十七日には肥後益城郡堅志田口を攻めるにあたり郡山寺で籤を引いた。このとき、一、二と書いた紙と白紙を用意。一を引けば包囲を続け、二は総攻撃、白紙は様子を見ることと決められた。
天正五年十二月、播磨上月城攻めに際して高山右近、福富平左衛門尉が羽柴秀吉の援軍に派遣された。両名が合戦の先陣を巡って口論になると、宮部継潤が籤引きで決めようと提案。困っていた羽柴秀吉はこれを名案を喜び、早速、籤を用意させた。籤には大手、搦手と書かれた紙が二枚用意され、福富平左衛門尉が大手を引き当てている。 
軍配者
合戦で呪術を司る者を軍配者と言う。下野国足利の足利学校では呪術を教えていた。足利学校の卒業生は各地の大名に仕官し、軍配者として活躍した。大名は軍配者の指示に従い、軍を動かした。
五行の属性ごとに甲冑を着る順番が分けられていた。また、「軍侍用集」によると大将の属性によって出陣する季節にも善し悪しがあった。
大将木姓 / 春ハ甲乙日吉。夏ハ凶。但壬癸日を可レ用。秋ハ凶。但甲乙日を用。冬ハ甲乙日を用。
大将火姓 / 夏ハ丙丁日吉。春ハ甲乙日吉。秋ハ甲乙日を用。冬ハ甲乙日を用。
大将土姓 / 四季土用吉。春ハ凶。但丙丁日を用。夏ハ戌巳日吉。秋ハ丙丁日を用。冬ハ凶。但戌巳日を可レ用。
大将金姓 / 秋ハ壬癸日を用。冬ハ戌巳日吉。夏ハ壬癸日を用。春ハ戌巳日吉。
大将水姓 / 冬壬癸吉。夏ハ凶。但壬癸日を用。土用ハ大凶。但壬癸日を用。
誕生星 / 一白水星、二黒土星、三碧木星、四緑木星、五黄土星、六白金星、七赤金星、八白土星、九紫火星。 
陣僧
寺院は領主から寺領を加増、安堵されるという御恩に報いるため、合戦に際しては陣僧を派遣するという奉公をした。僧侶であっても戦場では危険に晒されるため、陣僧の派遣免除は寺院にとって特権だった。
また、僧侶は世俗から離れた無縁の身であるため、大名間の交渉役、連絡役を務めた。どちらにも属さない中立の存在とされたのだ。
僧侶の諸役の一つに飛脚役が賦課された。 
 
兵士と武具

 

軍役
合戦には大量の足軽が必要になる。大名は家臣に軍役を課し、足軽を集めて戦った。家臣は大名から所領を安堵される代わりに、合戦時に兵士や武器を負担した。これは律令制の庸(現物納入)・歳(労働納入)に由来する。検地によって家臣の所領の石高を確認し、軍役を定めた。軍役の内容を記した書状は着到状と呼ばれる。大名は家臣に着到状を送り、その履行を求めた。軍役の義務を果たすためには、足軽の数を集めることが必要になる。その結果、武家同士が部下の中間、足軽の所有権を争うことがあった。別の家に仕官した足軽に対して、前の主人が「自分の部下であり、ただちに引き渡して欲しい」と請求する。新しい主人は当然、これを拒む。こうした争いの後、裁判で足軽の所有権が決められた。 
脱走する足軽
永禄五年二月八日、武田信玄は大井左馬充入道に書状を送り、出陣を嫌って脱走した被官がいれば必ず処罰するよう命じた。天正二年閏十一月三日、武田勝頼は出浦主水佐に書状を送った。軍役を嫌って他所に逃れた被官がいるが、見つけ次第、今の主人と交渉して返還してもらうこと。 
武器
鍛冶師、鋳物師は刀や鑓、鉄炮を生産。切革師、細工師は甲冑などを作成。大名はこうした職人を重用し、城内に職域を設けて武具の生産を奨励した。 
合戦で最も用いられた武器は何か
合戦で主に使われた武器は鉄炮、弓、礫(投石)である。実際に敵を死傷させた武器の割合は、遠距離用の武器(弓、鉄炮、礫)が約70%、近距離用の武器が約30%(刀、槍)と推測されている。これは当時の軍忠状を精査し、統計として得られた数字である。この様に合戦で主に使われた武器は、遠距離用の武器だったのだ。
慶長五年八月二十四日、吉川広家は伊勢津城を攻めた。八月二十六日、吉川家では津城攻めでの死傷者を書類にまとめた。それによると戦傷者は百四十五名。疵は百七十三ヶ所に及び、鉄炮疵が九十三ヶ所、鑓疵が五十八ヶ所、矢疵が二十二ヶ所。鉄炮と矢を合わせると百十五ヶ所になる。全体の三分の二は鉄炮、矢による負傷であった。
矢は200m近い射程距離があり、通常は約60mの距離で使用された。20mほどの至近距離から正確に射抜くことも上策とされた。弓の戦術は発達しており、斜め上に射ることで射程を伸ばしたり、真上に射ることで籠城時に下の敵を攻撃した。
鉄炮に至っては最大射程約500mと云われる。有効射程は約200mで、通常は約100mからの射撃が多かった。正確に撃つため、約20mにまで接近して撃つこともあった。
日本の合戦は遠距離戦主体だった。軍記物には「白刃の林が空を覆い」、「切っ先より火焔を降らし」などの文章表現が多い。その事から、戦国時代の合戦は刀や槍を中心にした白兵戦主体と考えられてきた。これらの文章はあくまでも比喩表現である。それを認識していなかったため、まるで違う合戦像が史実とされてしまったのだ。 

弓 / 合戦での主力武器。鉄炮伝来以降も重用された。弦は折り目があると切れやすくなる。予備の弦は輪状に巻いて携帯した。これを弦巻という。
矢 / 矢尻は先端を尖らせた征矢尻が使われたが、先端を二股にした雁股という矢尻もあった。矢尻の後ろに鏑を付けることもあった。鏑は中が中空で、穴が二つ空いている。矢を射ると音が鳴った。矢羽根には鷲、鷹、鶴、山鳥などの羽が使われた。矢の本体は箆と言う。箆を拳で握り、端から端までの長さを測る。長さが余る場合は指を当てて測った。十二束三伏ならば拳十二個、指三本の長さになる。通常は十二束の長さの矢が使われた。矢は空穂や箙に入れて運んだ。
箙 / 矢尻を受ける箱、矢本体を束ねる部分で出来ており、征矢二十四筋、雁股矢二筋を入れた。
空穂 / 藤や革で作られた筒状の入れ物で、十筋ほどの矢が入る。土俵空穂という数十筋もの矢が入る空穂もある。右腰に付ける。
筈槍 / 弓の先端に付ける刃。敵に接近された場合に使用したと云うが、実際に使われたかは不明。 

槍 / 片刃で長さ七尺ほどの武器。
鑓 / 両刃で二間以上と槍よりも長い武器。長柄鑓、持鑓などがある。合戦は弓、鉄砲、投石が中心で、対陣する両軍が接近した場合に鑓が使われた。鑓は突くものではなく、集団で叩き合うために使われた。二間半から三間が一般的な長さだった。三間以上の鑓は重く、使いにくかった。また、費用や広い置き場も必要になるため、あまり使われなかった。織田信長が三間半の鑓を使ったと云うが、後世にまで普及するようなものではなかった。柄は樫や桜で作られた。竹も使われたが、割れやすいので評価は低かった。 

刀は構造上に問題があり、破損しやすいという欠点があった。堅い物を切ろうとすると鉄の刀身が木の柄を叩き、その衝撃で柄が壊れてしまうのだ。兜や甲冑を切った刀は名刀とされたのは、通常では切れない物を切ったためである。刀は折れ曲がりやすく、柄糸が解けたりと何かと取り扱いに困る代物だった。
刀は敵を組み伏せたり、逆に組み伏せられたときに多く使われた。これは首取りのための攻防で、それ以外では例外的に使われる程度だった。戦国時代、弓矢が無く、刀しか武器がないため戦闘を放棄した武士がいた。しかし、誰も彼を批判することはなかった。これが当時の常識だった。 
鉄炮

 

火薬と鉄炮の発展
火薬は支那で生まれ、アラビア、ヨーロッパの順に広まったとされる。806年に記された「石薬爾雅」によると、シャカ族の僧支法林は仏教の修行のため支那五台山へ向かう。汾州霊石地方で硝石を見つけるが、同地の人々が硝石を錬金術に使用しないことを不思議がっている。支那僧は霊石地方の硝石を錬金術に使用するが、インドのものと比べて品質が劣っているとわかった。後に澤州で再び硝石を採り、実験を行った。火にくべると紫色の炎をあげ、インドの硝石と同等の品質だとわかった。これが火薬の発見につながるというが、インドと支那の交流が火薬の発見につながり、その根底にはインドの不死を求める錬金術があったと認識すべきであろう。
鉄炮は明、ヨーロッパで同時に発達をした。1450〜1470年頃に撃発装置の改良が行われた。これにより携帯火器としての性能が格段に向上した。1515年、ドイツで「歯輪式発火装置」が開発された。歯輪式発火装置はライターの発火法と同じ考えであり、歯車の回転による摩擦で火花を作り、その火花で口薬に点火した。1585年、スペインで「スナッパーン」が発明された。これは燧石(ひうちいし)を当金に打ちつけて発火するもの。1648年、フランスでスナッパーンを改良した「燧石撃発装置」が発明される。十七世紀、スエーデンで紙製薬包が発明される。日本の早合に相当する。 
鉄炮伝来の正確な時期は不明
鉄炮の伝来に関して今日語られている通説は、慶長十一年に薩摩大竜寺住職南浦玄昌が記した「鉄炮記」の記述が出典である。しかし、同書は伝来から六十年以上も経過した慶長年間に書かれた書物で、史料の分類としては二等史料に分類される。他に信憑性のある記録が無いことから、鉄炮伝来については「鉄炮記」の記述でのみ語られているのだ。こうした状況を踏まえ、「鉄炮記」の記述を抜粋し、そこに近年の解釈を加えながら伝来の様子を記してゆく。
天文癸卯秋八月二十五日丁酉に、我西村の小浦に一大船あり、何れの国より来る事を知らず。船客百余人、その形類せず、その語通ぜず、見者以て奇怪なしぬ。その中に大明の儒生一人、五峰と名づくる者あり、今その姓子を詳せず。時に西村の主宰に織部丞と云うもの有り、頗る文字を解す。たまたま五峰に遇いて杖を以て砂上に書していわく、船中の客、いずれの国人なるや知らず、何ぞその形の異なるやと。五峰書していわく、こはこれ西南蛮種の賈胡なり、ほぼ君臣の義を知ると雖えども、いまだ札貌の其中にある事を知らず。
定説では「天文十二年、嵐で難破して漂着した船が鉄炮を伝えた」としている。それが事実ならば、最初にその記述を加えるはずである。記述が無いことから大船は「嵐で遭難した」のではなく、普通に通商を求めてきたと推測できる。重要なのは五峰という人物で、彼の本当の名は「王直」という。驚くべき事に明人倭寇の首領と同一人物なのだ。この大船は王直の持船で、ジャンクと呼ばれる支那船だった。織部丞は筆談の結果、彼らを「怪むべき者に非ず」と判断し、種子島時堯に書を送り、船を赤尾木に移した。
賈胡の長二人あり、一人を牟良叔舎、一人を喜利志多佗猛太という。手に一物を携う、長さ二三尺、その体たるや、中通じ外直くして、重きを以で質となす。
ポルトガル人の牟良叔舎(むらしゅくしゃ)、喜利志多佗猛太(きりしただもうた)は三尺ほどの鉄炮を持っていた。火縄銃は北欧で「ムスケット」、南欧では「アルケビュース」と呼ばれた。「津田流鉄砲口訣記」は「阿瑠賀放至(アルカブース)」と記している。
宣教師の記した「新旧発見年代記」には鉄炮記と異なる記述を載せている。1542年、デオゴ・デ・フレイタスの部下、「アントニオ・ダ・モッタ」、「フランシスコ・ゼイモト」、「アントニオ・ペイショット」の三人が脱走。支那へ向かう途中、嵐によってジャポエス島に漂着したとしている。このように種子島家と宣教師とでは記録が異なるのだ。
時堯その価の高くして及び難きを云わず、蛮種の二鉄炮を求めて、もって家珍となす、その妙薬の擣篩、和合の法をば、小臣篠川小四郎をしてこれを学ばしむ。
時堯は鉄炮に強い関心を抱き、ポルトガル人に依頼し、鉄炮の操作方法を学んだ。時堯は鍛練を積み重ね、その射撃術は精度を究めていく。そして時堯は高額にもかかわらず、鉄炮二挺を購入。初めに購入した二挺の鉄炮は「故郷」、「腰さし」と呼ばれた。「故郷」は西南戦争で失われ、「腰さし」は紀州に贈られたため記録に乏しい。他にも初伝の銃とされる鉄炮が伝えられているが、どれも根拠に乏しい。伝来当時の鉄炮はすでに失われてしまったようだ。時堯は火薬の調合法を小姓篠川小四郎に学ばせている。
この頃、紀州根来寺の杉坊某(津田明算)が時堯に鉄炮を求めたと云う。紀伊と種子島は地図上で見ると距離がある。しかし、紀州は貿易業が盛んな土地である。種子島は日本と東南アジアとの貿易の拠点の一つであり、紀伊からも商人が訪れていたのだろう。時堯は明算の兄、津田算長に鉄炮一挺を渡し、明算に届けさせた。この時、火薬の調合方法も伝えられた。
その翌年、蛮種の賈胡またわが嶋能野の一浦に来る。浦を能野と名づくるは、また小廬山、小天竺の比なり。賈胡の中に、幸いに一人の鉄匠あり、時堯もって天の授るところとなる、即ち金兵衛尉清定なるものをして、其底の塞くところ学ばしむ。漸く時月を経て、其巻いてこれを蔵むることを知る。
時堯は鉄炮の国内生産を考え、その鍛造を種子島の鍛冶八板金兵衛尉清定に命じた。八板金兵衛は美濃の鍛冶で、良質の砂鉄を求め種子島に移っていた。当時は種子島氏は合戦に敗れたため屋久島を失い、屋久島奪回のために戦力を増強している最中だった。種子島は砂鉄の産地であり、製鉄技術に優れていた。量産に成功すれば大きな戦力となり、さらには輸出によって利益を得ようとしたのではないか。津田明算に一挺を贈ったのは、好意ではなく種子島からの鉄炮販売の布石だったのかも知れない。
火縄銃は螺子による取り外しで内部の煤を取り除き、不発や暴発を防いでいたが、当時の日本には螺子の技術がなかったため試作品は暴発を繰り返す。金兵衛は強度で向上させることで暴発を防ごうとするが、それも失敗した。
南蛮船が再び訪れたのは、鉄炮の国産化が息詰まった時だった。王直の記述は無いが、この船は王直配下の倭寇の船ではないか。王直は種子島氏に鉄炮を伝え、売り込もうとしていた。鉄炮に関する通商を求めるため、種子島に使者が来たのではないか。
種子島氏は南蛮船の船員から螺子の構造と作り方を学び、遂に鉄炮の国産化に成功した。螺子の製造は最後の難関であり、螺子の製造成功によって数十挺の鉄炮が作られた。
以上が鉄炮の国産化に至るまでの大まかな流れである。鉄炮は嵐によって漂着したポルトガル人が偶然伝えたのではなく、明人倭寇の首領王直が販売目的で持ち込んだ物だった。
なお、いくつかの書物は鉄炮伝来について異説を載せている。
鉄炮鍛冶で有名な近江国友村にも鉄炮伝来の記録が残されていた。「国友鉄炮記」は元寇の時、元が鉄炮や火矢を使ったとしている。。確かに元軍の使用した「鉄放」は鉄炮の語源であるが、全く別の武器である。元の鉄放は熱した金属塊を投石機で投射するという武器だった。中空の鉄の弾に火薬を詰めているため、炸裂弾としての効果があった。その後、元亀元年、永正七年と二回に渡って南蛮から鉄炮が伝えられたが、使い方までは伝えられなかったため普及しなかった。天文八年八月二十五日、大隅国種子島に南蛮船が漂着。この船から鉄炮が伝えられ、種子島から九州に広まった。畿内や小田原でも鉄炮が使われるようになったと云う。国友村を領した京極氏は、細川晴元に属していた。足利義輝は晴元に鉄炮を渡し、国友の鍛冶に鉄炮を作らせた。これが国友と鉄炮の関係の始まりと云われる。国友村での鉄炮国産化の逸話も記されている。国友村の次郎介が鉄炮を造ろうとしたが、螺子を造ることが出来なかった。ある日、「小刀の欠けたるをもって大根をくりぬくと刃の欠けたる通りに道つきたり、この道理に惑解け、捻とゆうもの出来云々」と螺子の国産化成功の逸話を記している。天文十三年八月十二日、将軍に献上した鉄炮二挺は国友で製造したものと云う。
「甲陽軍鑑」には大永六年、村上新左衛門という西国牢人が武田信虎に鉄炮を伝えたという話が載せられている。
「北条五代記」によると、玉瀧坊という山伏が享禄年間初期に堺に赴いた時、大きな音を聞いた。その場に向かうと、永正七年に唐から伝えられた鉄炮という物が売られていた。大変に珍しいので一挺を購入し、北条氏綱に献上した。氏綱は鉄炮を試し撃ちし、関東に比類の無い宝だと大いに喜んだ。これにより、北条家の武士は鉄炮を宝とするようになった。北条氏康の時代になると、堺から国康という鉄炮鍛冶を招き、さらに根来の杉坊や二王坊などが砲術を教えたため、誰もが鉄炮を持つようになったと記している。
「中古治乱記」は文亀元年秋、南蛮から鉄炮が献上されたと記している。この鉄炮は本体のみで火薬が無く、また技術も伝えられなかったため無用の長物として朽ち果てたと云う。
「蔭凉軒目録」は文正元年、琉球使節から足利義政に「鉄放」が献上され、京で試し撃ちが行われたとしている。
「碧山日録」は、応仁の乱で細川勝元が「火鎗」という携帯火器を使用したと記している。
このように鉄炮伝来についての記録は様々で、良質な史料が無いため「鉄炮記」の記述ばかりが取り上げられている。新たな史料が見つかれば、伝来の時期は大きく遡る可能性がある。日本社会は海を通じて広く他国と交わっており、鉄炮は天文年間以前から日本に伝えられていても疑問はない。
「鉄炮記」は鉄炮の普及の過程もいくつか記している。
その後、和泉の界に橘屋又三郎というものあり、商客の徒なり、わが嶋に寓止すること一二年にして、鉄炮を学ぶこと殆ど熟す、帰施の後、人皆名をいわずして呼んだ鉄炮又という、然して後畿内の近邦、皆伝えてこれを習う。ただ畿内、関西の得手これを学ぶのみに非ず、関東も亦然り
鉄炮の本格的な普及は橘屋又三郎の功績としている。他に種子島家臣松下五郎三郎の乗った商船が、嵐のため伊豆に漂着。五郎三郎が鉄炮を撃って見せると、伊豆の人々は衝撃を受け、鉄炮の術を教わった。ここから関東一円に広まっていったとしている。
天文十八年、島津貴久が合戦で鉄炮を使用。これ以降、鉄炮は合戦の必需品となっていった。ほぼ同時期に九州の猟師は鉄炮で狩りをしており、狩猟の道具や贈答品としても用いられた。
十三代将軍足利義輝は剣術に優れたことで有名だが、鉄炮にも強い関心を抱いていた。天文二十一年十二月、足利義輝は本願寺を通じて硝石十斤を手に入れている。伝来から十年ほどで畿内にも鉄炮が普及していたことが分かる。また、上州金山城主横瀬成繁が鉄炮の鍛錬をしている姿を見た聖護院道増は、天文二十年八月、足利義輝にこの事を伝えている。天文二十二年五月二十六日、横瀬成繁は足利義輝から鉄炮一挺を賜った。道増の書状から、義輝は成繁の鉄炮好きを知っていたのだろう。関東にも鉄炮は普及していた。ただ、この頃は鉄炮衆を組織するほどの数を揃えることは難しかった。天文二十三年、豊後の大友宗麟は足利義輝に鉄炮を献上しており、高級品として贈答用に用いられた。 
鉄炮の性能
伝来したのは狩猟用の鳥銃でヨーロッパでなく東南アジアで使用されたタイプである。東南アジアで改良されたマラッカ式瞬発式点火機を使用したため反応よく発射できた。そのため現代でも十分に使える性能を持つ。
射程距離は約500mだが、命中精度を考えて約200〜100mの距離で使用される。50m先から50cmの的にかなりの確率で命中させることができた。また、30m先の野球ボール大の目標に命中させることも出来る。木などを支えにすれば命中精度をさらに上げることが出来た。
鉄炮は弓に比べて短期間で習熟でき、腕力に関わりなく殺傷力を発揮するため重宝した。現代人でも訓練すれば一分間に四発程度撃つことができると云う。連射によって銃身が熱くなると水で濡らした布で冷やした。「太平不忘記」は水がなければ小便で冷やすことと記している。
一発目を撃ち終えてから次弾装填までの時間に、敵に接近される危険性があった。そのため、弓との併用で装填時間の隙を無くした。日本は源平合戦以前から弓、投石が合戦の主力であり、その割合は戦果の七割を占めた。弓の戦術は非常に発達しており、鉄炮にもそれが応用された。
破壊力を検証する実験が行われており、それによると四寸(約12cm)程度の木の板に1mm程度の鉄板を重ねたものを貫通した。これならば甲冑を貫通することも容易だ。柔らかい鉛玉が熱と衝撃で偏平になるため、射出孔(しゃしゅつこう / 玉が抜け出た箇所の穴)が射入孔(しゃにゅうこう / 玉が当たった箇所の穴)の数倍になることもあり、殺傷力はさらに高まる。射撃時の閃光、爆発音は凄まじく馬を狂奔させることができた。
製造方法は鍛造(加熱したたいて加工する)である。芯鉄に鉄の板を巻き付けていく。作り手により出来にばらつきがあったが、日本刀よりも簡単に製造できたという。鉄炮に使われる鉄の産出地は安芸、出雲、伯耆、石見、播磨など。堺では伯耆産、国友では出雲産の鉄が多く使われた。これらの鉄は海路で若狭、敦賀を経由して購入した。
西洋では高温を放つコークスがあったため、鉄の融点である1800℃まで加熱することが出来た。一方、日本には炭しかない。最も熱の発生効率の高い松の消し炭でも、1200℃程度である。そのため、半融解した鉄を鍛える製法が発達した。砂鉄粉、石英粉、木炭粉を交互に重ね、タタラに入れる。1200℃で飴状になった鉄を固めると、銑鉄になる。その上に石英粉、木炭粉を重ね、再びタタラで溶かすと、玉鋼になる。玉鋼は炭素含有量が高いため、硬く割れやすい。そこで、もう一度、半融解させて叩き、火花と共に余分な炭素を放出する。この時、均等に叩かなければならず、熟練の技を要した。
鉄炮が広まると、耐久テストのために兜や甲冑に試し撃ちをして、それで合格したものが良品とされた。徳川家康の甲冑にも試し撃ちの跡が残っている。 
鉄炮の弱点と解決方法
雨中や大風での使用が困難 / 雨だからといって火縄銃が使用できないわけではない。例えば籠城ならば屋根などの下に入る。野戦ならば雨除けを張る。陣笠も雨よけの効果があった。水火縄なども効果があったらしい。大風は火薬が飛ばされたり、火の粉が飛んでくる。風のない日が最適だが、そうでない時はかなりの注意が必要。
撃つまでに時間がかかり、技量や状況に左右される / 構造上、時間がかかるのは仕方がない。技量を上げるには時間と費用がかかり、その技量も状況(天候、味方の死、恐怖など)によっては発揮することは出来ないのだ。訓練を積むしかない。
突撃中には使用が困難 / 突撃でなく迎撃に効果を発揮するため、通常の戦闘や籠城戦、陣地の防御に使用した方がよい。突撃用に馬上筒が作られ、鞍の前輪脇に専用のケースを用意したが普及はしなかった。馬上筒は西欧でも開発されたが、取り扱いが大変難しかった。合戦での使用は希で、室内などでの不測の事態に用いようとする程度だった。
装填のため身をかがめられない / 装填のためには立つ必要がある。かがんだままでも固定すれば装填は可能だが、火薬が底に集中せず不発や故障の原因になる。構造上仕方がない。
事故が起きる / 鉄炮の出来が悪かったり、使用方法が悪いことが事故の原因になる。適性検査をして鉄炮足軽を選び、鉄炮の事故は厳罰とすることで事故を減らそうとした。
費用がかかる / 破壊力と引き替えの費用ならば諦めるしかない。始め二丁を二千両(現代円で約二億円だが当時はそれ以上の価値がある金額)で購入したことから国内生産が開始されるが、それでも現代円で約二千万円もしたという。後に現代円で五十万円ほどになるが、それは戦国時代も終わる頃の話だった。硝石など輸入に頼らなければならないものもあり、海外貿易の出来ない大名は不利だった。優秀な狙撃手を養成するためには訓練が必要になるが、それにも費用がかかってしまう。硝石の製造方法も怪しげながら伝わっており、苦心した様子がうかがえる。
敵も火縄銃を使用してくる / 敵も火縄銃を使用してくることが最大の脅威。対策としては兆弾効果を期待した南蛮甲冑(鉄製 / 丸みを帯びる)や、竹を束ねた竹束(容易に調達できる竹を束ね兆弾を期待)などがある。 
発射の原理
胴薬と言う玉を飛ばすための黒色火薬を銃口に入れ、次ぎに玉を入れてカルカで突き固める。胴薬と玉をひとつにした早盒が一般的になってからも手順は変わらない。火蓋は鉄炮の右側面にあり、風雨対策の蓋の役目を果たす。火蓋を開け、口薬という胴薬に点火するための黒色火薬を火皿に盛り、火蓋を閉める。この火蓋を開ける行為が「火蓋を切る」という言葉の語源になった。火蓋は鉄や真鍮で作られ、煤が溜まるため掃除が必要になった。火挟という金具に火縄を挟んで点火。引き金を引けばバネによって火挟が落ちる。火蓋の上部には穴があり、口薬に点火する。口薬から胴薬に点火し、その爆発により玉を飛ばす。口薬が上手く燃えなければ、不発になりやすい。 
火薬
九世紀頃に支那で火薬に近い物が考案され、十一世紀頃にはある程度実用化された。火薬は玉薬と呼ばれ、一発の発射には数g〜10g程度必要になる。漆を塗った皮や木などの筒に入れたが、やがて筒は胴乱に取って代わられた。火縄銃に使用されたのは黒色火薬で、材料は硝石・硫黄・木炭。比率は「7.5:1.5:1.5」や「5:2.5:2.5」である。粒子の大小、形状、集合密度、原料の純度や配合割合で燃焼速度、つまり火薬自体の性能が左右される。カルカによる圧力で火薬の集合密度が変わるため、力を加減する必要がある。硝石は大陸からの輸入に頼るしかなかったため、海外貿易という流通ルートを確保した大名は有利になった。 
火縄
火縄の材料は竹や木綿、檜である。薄く細く割った材料を乾燥させ、縄状に編んだため火縄と呼ばれた。色は紺色で、使いやすいように五〜七寸に切って使用する。一時間で約30cm程度燃える。晴天ならば一日に三尋が必要とされた。そのため、相当量を左手に輪にして掛け、先端だけでなく末端にも点火することで再点火の手間を省いた。着火には火打ち石が使われた。竹製の火縄は火持ちが良いが、防湿性、保存性に劣る。木綿製や檜製は火持ちに劣るが、防湿性、保存性に優れる。また、濡れても乾かせば使える。防湿性向上のため漆(うるし)を塗ったり、硝石を染み込ませた水火縄も考案された。 
鉄炮玉
鉄炮玉は球形で直径数mm〜約10mm程度。大筒になるとそれ以上の大きさの玉が使われた。六匁玉、十匁玉が一般的である。材料は鉛や鉄、銅。低い温度で溶ける鉛がよく使われたが、その多くは輸入品であり高価だった。細菌などに触れているため破傷風、壊死などを起こした。玉が不足してしまった時、鉄や焼き物、石、粘土を固めた土玉が使われたという。当時から散弾銃の発想はあり、二つ玉などがあった。二つ玉とは鎖で二つの玉をつなげた物である。射貫は鉛と錫の合金製の玉。通常の玉よりも貫通力がある。門破はいくつもの玉を紙で包んで一つにしたり、先を尖らせたりした城門破壊用の玉である。 
鉄炮の改良
慶長年間、弾金が鉄炮に取り付けられた。これにより、引金を引いてから着火するまでの時間が短縮され、命中精度が向上した。早盒 / 現代の薬莢(やっきょう)に通じる。胴薬と玉をひとまとめにしたもので、装填時間の短縮のため普及。早盒を多く入れるため胴乱(専用の袋)も普及した。螺子 / 銃口を掃除する際、螺子で取り外しを行う。煤が溜まると不発、暴発の原因となり、掃除は必要不可欠だった。 
鉄炮の訓練
鉄炮の稽古は小目当と町打がある。小目当は十五間から六十間先の角(標的)に描かれた星(黒丸)を撃つ。町打は城下から離れた場所で行う長距離射撃訓練である。鉄の鉄炮玉は何度でも使えるため稽古に便利だが、軽いため命中率が悪い。また、摩擦が強く、銃口を痛める恐れがある。練習用に紙を固めた紙玉、味噌を紙で包んだ味噌玉も使われた。 
火縄銃が織田信長の天下統一を阻んだ
「長篠合戦鉄炮三段撃ち」のように織田信長は火縄銃を有効活用し、天下統一目前にまで上り詰めたとされてきた。現在、三段撃ちは根拠のない俗説であるという認識が広まっているが、それでも織田信長が火縄銃を有効活用したという説は根強く信じられている。火縄銃は力の有無にかかわらず大きな殺傷能力を持ち、命中させることさえ出来れば大きな脅威となる。この均質な火力が鉄炮の最大の特徴である。だからこそ、大量に保有した大名は強大な戦闘力を持つ事になる。しかし、一人の大名が火縄銃を独占することは不可能である。織田家だけでなく、甲斐武田家も雑賀衆も鉄炮を導入していた。各地の大名が鉄炮を有効活用していたのだ。鉄炮の活用は織田信長だけの業績ではない。だからこそ、織田信長は雑賀衆の鉄炮に悩まされ、本願寺との和睦までに時間を費やしてしまい、最終的に本能寺で討たれてしまった。雑賀衆の鉄炮が織田信長の天下統一を阻んだのだ。 
鉄炮に関する宗教的思想
岸和田流砲術の秘伝書は鉄炮に関する宗教的思想を知る上で大変に貴重である。
「四方かための大事」には次のように記されている。目当場の東西南北に降三世明王、軍茶利明王、大威徳明王、金剛明王を祀る。中央には大日大不動明王を祀る。「天長地久こたん閻魔、息災安穏、天下太平国土安穏」と三遍唱え、印を結ぶ。これにより災いを避けることが出来るとしている。
「鉄炮打様之大事」は鉄炮を不動明王の知恵の利剣としており、鬼神悪魔も恐ると云う。
「鉄炮立はじまりの事」は鉄炮の由来を記している。鉄炮は釈迦の弟子である無意鬼が造り、釈迦は説法の際に鉄炮で周囲を鎮めた。日本の弓矢を鎮めるため、大唐から鉄炮が伝来したと云う。
「鉄炮位名之事」は天地開闢の頃から鉄炮はあり、大唐から筑紫、豊後に伝えられたとしている。
この様に岸和田流は鉄炮の由緒を仏教、神道と結びつけた。他にも鉄炮に撃つ際に読む巻物も伝えられている。巻物を読めば、鉄炮で殺生をしても功徳によって成仏出来るというのだ。こうした思想は鉄炮の普及に一役買ったと思われる。 
国友村の衰退
一般に「大坂の陣の後、近江国友村は急速に貧しくなった」と云われている。しかし、これは信じがたい。鉄炮の需要が減ったため、徐々に衰退したとするべきだろう。
大坂の陣に際し、国友は膨大な量の鉄炮を製造。徳川方の諸大名も注文したから、その代金で国友の財政は潤った。戦後、家康は国友に対して諸役免除の特権まで与えたのだから、数年間は豊かに過ごせるだけの財力はあっただろう。
元和元年、徳川家康は国友の鉄炮鍛冶に鍛冶賃一万四千八十九石一升を支払った。これは大坂の陣に使用された鉄炮の代金で、全て百匁玉の鉄炮とすれば四十四挺分、三十匁玉の鉄炮ならば四百三挺分にもなる。
元和三年、徳川家は国友に大筒七十三挺を発注。元和十年、鉄炮が完成すると国友寿斎らは尾張徳川家に対し、九尺の大筒の運搬には一挺当たり五十六名、七尺の大筒では一挺当たり四十名が必要と伝えた。そして、七十三挺では計三千二百八十六名もの人足が必要とした。大筒の運搬は太い綱を通し、綱を結んだ棒を人足が担いだ。
元和十年、国友の鉄炮鍛冶は徳川家に大筒七十三挺を納入。この時の大筒の値段は銃身九尺、鉄炮玉百五十匁が三百六十三石二斗五升。同じく銃身九尺、鉄炮玉百匁が三百四十二石二升二合。銃身七尺、鉄炮玉百匁で二百八十三石三斗。七十三挺で計二万二千三百八十七石六升六合であった。
寛永三年、国友は諸役免除の特権を返上し、代わりに幕府から鉄炮の注文を受けた。製造のために千石、鍛冶への代米として五千石が与えられた。寛永十四年、島原の乱に際して国友に鉄炮の注文があった。以後、国友は毎年、少数定量の鉄炮を幕府に納めるようになった。
寛永五年の鉄炮の価格は百匁玉の鉄炮が一挺三百二十石。五十匁玉の鉄炮が一挺七十五石。四十匁玉の鉄炮が三十五石。鉄炮は依然として高価であった。
国友では報酬の配分を均等と定めていた。しかし、寛永年間頃になると惣代が取り分を多くし、鍛冶への配分が少なくなることがあった。寛永十年、国友は幕府から鉄炮百挺の注文を受けた。代金は九千八十五石余で、手付米として六千石が先に支給された。この時、惣代四名が二千五百石を、七十余名の鍛冶で三千五百石を分けることになった。鍛冶は配分の少なさに激怒。遂に代表十名が寛永十二年、報酬を均等に分けるよう幕府に訴えている。 
江戸時代の鉄炮
江戸初期には連装式火縄銃が考案された。二連装、三連装なら理解できるが五連装、八連装、果ては二十連装となると効果に疑問が残る。これらは引き金を引けば全弾発射するもので、連続して発射するものではない。
江戸時代、二千発を約十時間連射し続け、千六百二十八発が命中したという記録がある。また、二千百発中、千九百四発が命中したという記録もある。数挺の鉄炮を交換しながら撃ったと思われる。
江戸時代、西洋の新技術を取り入れる機会があった。日本の鉄炮は狩猟や武芸など命中精度が要求されたため、命中精度よりも速射性を高めた西洋の鉄炮は受け入れられなかった。
1886年、ボルト式シャスポー銃が発明されるまで火縄銃は西洋でも主力武器であり、日本が特別に遅れていたわけではない。幕末、命中精度よりも速射性が求められるようになり、装填時間の早い燧石銃が導入された。  
特殊兵器
攻城用の兵器
亀甲 / 文禄二年六月、加藤清正が朝鮮征伐時に使用したとされる特殊兵器。亀の甲羅のように樫の木で枠を作り、車輪を付けて牛皮を張る。中に人が入り、押しながら城門や石垣に迫っていく。弓、鉄炮は弾かれると云う。
釣井楼 / 台車に柱を立て、滑車を付ける。厚い板で作った箱に縄を付け、滑車を使って上に引き上げる。箱には物見が入り、敵城や陣地を偵察する。 
防具

 

甲冑
具足 / 戦国時代、当世具足という形式の具足が用いられた。胴は鉄板製が多く、複数の鉄板を蝶番でつないで作成された。五枚胴であれば五枚の鉄板をつないでいる。丸胴という一枚板の胴もあった。着用の際は胴の右側にある引合せという部分から着用した。足軽の具足は大名が貸し出した。こうした具足は御貸し具足、御借り具足と呼ばれた。収納を容易にするため、陣笠は重ねて保管された。具足も胴の前後を分けて保管した。これらには貸し出し時の利便性を考え、符丁や番号が記された。自軍の兵の識別のため合印が描かれた。甲冑は黒漆によって黒く染められた。赤漆で赤く染める者もいた。
小具足 / 顔面や喉など甲冑や具足では保護出来ない部分を守るための防具。面頬、喉輪、籠手、佩楯、脛当など。
腹巻 / 従来使われていた大鎧よりも軽量で、着脱も簡単なことから普及した。江戸時代、腹巻は胴丸と呼ばれるようになった。
胴丸 / 背面が大きく開いている。そのため、背板で背面の隙間を塞ぐ者もいた。江戸時代、胴丸は腹巻と呼ばれるようになった。
兜 / 兜は鉄板を鉄鋲でつなぎ合わせて作った。一枚板で作られることはほとんど無かった。兜を目立たせるため立物という飾りを付けた。武将は自身の信念や信仰に基づき、兜全体や前立に意匠を凝らした変わり兜を愛用した。 
旗印
旗指物 / 敵味方の識別のため目印として用いられた。また、自軍の武威を誇示することも出来た。用途に応じて様々な旗が立てられた。
馬印 / 武将の所在地を示すための旗。
幟旗 / 陣所の周囲に立てる大きな旗。 
軍配
軍配は団扇同様、涼を得るための道具だったが、身近にあることから軍の進む方向を示すために使われるようになった。革に漆を塗って頑丈にした。円形、方形、瓢箪形など様々な形の軍配が作られた。また、呪術的な意味から日輪や梵字、九曜星などを描いた。合戦の場で敵味方の軍に流れる力の流れを気と言う。「中原高忠軍陣聞書」に扇の使い方が記されている。昼は日の丸の描かれている方を表にして、骨を六つ広げて残り六つは畳んでおく。逆に夜になると裏の三日月の描かれている方を表にして、骨を六つ広げて残り六つは畳む。合戦に勝てば扇を全て広げる。悪日に合戦をする場合、昼は月の描かれている方を表に、夜は日の丸の描かれている方を表にする。 

 

軍馬
戦国時代の日本馬は西洋馬に比べて体格で劣っていた。日本馬は山岳地の多い日本の地形に適応したため、前足の筋肉が発達。山岳地の多い場所での移動、輸送に適していた。
当時の日本馬の大きさは四尺が基準だった。四尺一寸であれば「一寸」、四尺二寸であれば「二寸」と呼んだ。特に四尺八寸以上の馬は「八寸にあまる」と呼ばれ、体格の良い馬として評価が高かった。しかし、大きな馬は乗り降りが大変になるため、扱いに困るという一面もあった。
軍勢を指揮する武将は馬に乗り、足軽は徒歩で移動した。合戦時には武将も馬から下りて戦った。指揮官級の武士だけが馬に乗るため、戦国時代に騎馬隊は存在しなかった。騎馬隊を編成しての戦闘訓練など行われておらず、騎馬隊による突撃などは不可能だった。合戦時には馬を射てから武者を射た。
鞍には兵糧の他、馬が食べる大豆を入れた袋も付けられた。馬の飼料として主に大豆が与えられた。
西洋では馬に蹄鉄を付けるが、日本の馬は藁沓を履いていた。
馬が逃走したり、狂奔すれば周囲は混乱する。敵の強襲と勘違いし、逃走する足軽もいた。そのため、大名は馬を逃がしたり、狂奔させた者を厳罰に処した。
乗馬 / 武将の乗る馬。
輓馬 / 車両を引く馬。
駄馬 / 荷物を運ぶ馬。牛も使われた。
厩 / 馬の居住する小屋。床を板敷きにして馬が汚れないように気遣った。帯状の布を上から吊し、馬の腹に巻き付けた。こうすれば馬は常に立ったままになる。馬は眠る時も立ったまま眠った。
馬丁 / 馬の世話係。馬取り、口取りとも呼ぶ。主人が馬に乗る際にその手伝いをする。馬丁は馬櫛(垢取り)、箒、塵取り、熊手、釜、木槌、馬杓、鼻捻、水桶、飼葉桶を使った。馬杓は馬に水を飲ませるための柄杓。鼻捻は棒に紐の付いた道具で、狂奔した馬の鼻を捻り大人しくさせるために使った。
手明 / 弓や槍を持たず、合戦時に主人の馬を引く者。武器を持っていては馬を引くことが難しいため、手明は武器を持たなかった。
乗馬についても出陣の儀式が行われた。これを馬祝いと言う。手綱は褐色、浅黄色に白を混ぜた色で染める。腹帯は二重にして使う。馬祝いは厩で行うと良い。この時、馬を厩から出して乗ることは後祝いと言い、宜しくない。その場合、馬に乗り、具足の上帯と腹帯を解いて結び直す事。中門の妻戸に馬を引き立てて乗るとよい。馬の頭は南向きに引き立てるとよい。
馬の嘶きで吉凶を占うことがあった。馬厩の中や、馬に乗る前に嘶くならば吉。乗馬後に嘶けば凶である。その場合、弓を脇に挟み、具足の上帯と腹帯を結び直す事。 
軍事物資

 

大きく変わる自然環境
築城や合戦は自然環境に大きな影響を与える。山に城を築けば、土木工事によって山の地形は大きく変わる。戦場になった土地は略奪や放火で荒れ地になる。大規模な合戦が起これば、戦場周辺の環境は一変した。洪水を防ぐための治水や、水運の利便性を向上させるための河川工事、農地を増やすための開拓。これらの土木工事は環境に大きな変化を与える一方で、人々の生活を大幅に向上させた。 
軍事物資の調達
大量の物資が無ければ合戦を行うことは出来ない。城の建設に必要な材木や、武具の生産に必要な炭などを入手する際、大名はその権力を駆使して領内各地から材木を集めた。大名や、その家臣は物資を調達するため、一部の野山や河川に対して独占的な獲得権を持った。こうした地域は立野、立山、立川、立海と呼ばれた。家臣は大名に臣従する際、自身の持つ立山や立野を安堵してもらうことがあった。寺社も社殿の増改築の物資を得るため、立山などを持っていた。村の有力者も立野などを持ち、牛馬の史料や田畑の堆肥を得ていた。 
資源を奪い合う村々
戦国時代、村と村との境界は曖昧であった。そのため食料や水、物資の所有権を巡り、村と村との争乱が繰り返された。村は大名に争乱を訴え、裁定を仰いだ。大名は自身の権益を侵害しているか、かつて発行された朱印はどちらの村を有利にするのか、などを調べて裁定を下した。資源を巡る争いを防ぐため、複数の村が山林の資源を共同利用する。これを入会と言う。大名は村同士の争いの解決策として、山林を入会するよう命じることがあった。 
資源の不足と略奪
山林の樹木は有限である。山林の巨木が切り尽くされると、寺社の境内に生える巨木が切り出しの対象になった。そのため、寺社は大名から領内の巨木の伐採を禁じる朱印を発給してもらい、巨木を保護した。戦地で材木が調達出来ない場合、手近な家屋や寺社を破壊し、その柱などを材木に転用した。こうした行為は「壊取(こぼちとる)」と呼ばれた。寺社に使われた良質な建材は、城の材木として最適だった。民家の建材も簡単な陣屋の建設や、薪の調達などに役立った。 
乱伐によって発生する禿山
無計画な伐採や、戦火によって野山の植生は変化する。最悪の場合、土や岩肌が露出する禿山になってしまう。禿山からは必要な資源を得ることが出来ない。こうなると大名も百姓も生活に困窮することになる。禿山は保水力が失われており、雨水は地中に留まることなく河川に流れ出てしまう。その結果、洪水が多発することになる。大名は山林などの資源が枯渇しないよう、家臣に伐採禁止や植林などの保全を命じた。 
資源の維持
針葉樹である杉や檜、樅、栂などは建材に用いられた。これらの木は切り株から再生する可能性が低いため、人為的な植林を行わなければ森林を維持することは出来ない。クヌギの様な広葉樹は薪や炭に用いられた。これらの木は切り株から再生するため、森林の回復は自然に任せることが出来る。こうした特性から、戦国時代になると針葉樹の植林の技術が向上した。植林は「成り立ち」、「はやす」と言われた。伐採を命じるときも、その土地の植生を考え、一坪当たり竹二本など制限を設けていた。上野国世良田の長楽寺住職でる義哲は、「長楽寺永禄日記」を書き残している。同書には当時の植林に関する記述がある。上野国では杉の枝を土に立て、根を生やさせて苗木にした。これらの行為は取木や挿し木と呼ばれた。苗木を植えた後、周囲の雑草を刈り取り、覆いを被せて苗木を保護した。苗木が根付いてしばらくすると植え替えを行った。そして、苗木が大きくなると植林する土地への植え替えが行われた。 
立山の監視者
大名は立山を保全するため山奉行や山守を置き、侵入者を監視させた。どの地域が立山や立野なのかを示すため、注連縄が張られることがあった。注連縄の内側は立野であり、百姓らが無断で侵入したり、物を取れば奉行らに捕縛された。侵入を黙認した者も処罰された。侵入者の抵抗に備え、山守は武装していた。樵は誤って立山に侵入することがあり、山守に遭遇することを恐れていた。最悪の場合、山守は鎌や斧を振るう樵と戦った。 
山奉行と山造
大名は山林に奉行を置き、木の切り出しを管理させた。山奉行は大名から命令を受けると、山に居住する山造という職人に木の切り出しを命じた。山造は山作とも呼ばれた。大名は材木の切り出しを命じる際、その用途や寸法を細かく伝えた。材木に運搬などを助けるために人夫も附けられた。山造は大名の要求に応えるだけの材木の加工技術を持っていた。室町時代、木の切り出しに大鋸が使われるようになった。それまで木から板を作るには、木に楔を打ち込んで割り、それを手斧や槍鉋で成形した。大鋸は二人引きであり、板を切り出すまでの時間を大幅に短縮することが出来た。大名は大鋸引きに給分を与え、柱や板を納めさせた。 
建材の寸法
柱は本、角材は丁という単位で数えられた。角材の断面は建てたときの安定性を考え、長方形に切られた。断面は一辺が五寸、もう一辺が六寸に揃えられることが多かった。この寸法は五六と呼ばれた。他に四六に切られることがあった。四六の規格は不明だが、恐らく一辺が四寸、もう一辺が六寸だったのだろう。榑という角材の規格もあった。榑は律令制で長辺六寸、短辺四寸、長さ一丈二尺と定められていた。鎌倉時代に長さが七尺から八尺に改められた。戦国時代にも榑という規格は使われた。
壁や塀の板は幡板と呼ばれた。
寺社の建設には高度な建設技術が必要になるため、大工や幡匠を雇って改築や修繕を行った。 
職人に対する手当
北条家では職人に一日当たり十七文の公用(給金)を与えていた。職人は一年のうちに大名の命令で動員される日数が決まっていた。その日数を超えて動員される場合、手当として五十文が支払われた。 
軍事物資 / 竹
竹は強度と弾力性に優れた材木である。竹で編まれた籠は丈夫で、中に石を入れれば川除(堤防)に使うことが出来る。立てに割った竹を捩ると強度に優れた縄になる。
筍は食用になる。過度に採りすぎると竹藪が減少してしまうため、大名は筍の採取を制限して竹藪を保護した。
真竹やハチクの様に太い竹は大竹、女竹の様に細い竹は大和竹と呼ばれた。孟宗竹は江戸時代に支那から輸入されたため、戦国時代の日本では使用されていない。北条家では大竹を伐採する際、印判状に切る本数を明記し、それを土地の所有者に見せてから竹を切った。これにより大竹の過剰な伐採を防いだのだ。
一方、大和竹の伐採は土地の所有者に断りを入れる程度で済まされた。大和竹は数を集めて束にして使用することが多い。大量に集めるために印判状を出さず、現場の判断に任せたと思われる。
鑓の柄は木や竹で出来ている。木は堅いが重く、柄が長くなると持ち運びが不便になった。竹は軽いが、敵を叩く際に撓ってしまう。木も竹も一長一短の特性があった。短い柄であれば材料は入手しやすいが、長い柄になると入手が困難になる。竹は木よりも育ちやすく、長い柄を作る上で便利だった。そのため、竹が鑓の柄に使われる事が多かった。
各家によって使用する柄の長さは違った。織田家の鑓は三間半長柄鑓、三間長柄鑓。徳川家は三間長柄鑓、九尺持鑓。武田家は三間長柄鑓、二間半長柄鑓。上杉家は三間長柄鑓、二間半長柄鑓。後北条家は二間半長柄鑓、二間持鑓。織田家の鑓は長いが、そのために重く、扱いにくかったと思われる。
旗指物は竹竿に旗を附けた物である。長さは一丈以上になり、それを背の筒に指して敵味方の識別に使用した。鑓持は旗指物を指さないが、鑓に紙を付けて敵味方の識別にした。
鉄炮を防ぐ手段として、数十本の竹を束ねた竹束が考案された。竹束に木製の板を合わせることで楯にしたのだ。攻め手は城に接近すると竹束の間から銃口を出し、城方に銃撃を加えた。
細かく切った竹を捩れば火縄になる。竹は木綿より安価で簡単に入手出来るため、火縄の材料として重宝された。 
軍事物資 / 松
赤松は日当たりが良ければ、多少は痩せた土地であっても成長する。森林伐採で木々が減少すると、赤松はその場所にいち早く生える。この特性によって、松の数は増加の一途をたどった。日常生活での伐採や、合戦による大量伐採は山林の植生に大きな影響を与えていた。松を庭園に植えると、景観を美しく見せる事が出来る。そのため、公家は屋敷に植える松を山から取り寄せた。将軍や有力な大名になると、家臣の邸宅に雄々しい松があれば、それを所望して手に入れた。松脂を含んだ松は燃焼しやすく、松明や篝火に使用された。松の落ち葉は焚き火に使われた。松の実は食用になる。松の根元には松茸が生える。この様に松を植えることで食料を得ることも出来た。 
軍事物資 / 杉
古来、日本人は神が天から降りる際、杉を目印にすると信じていた。真っ直ぐに、大きく成長した杉の偉容が信仰に結びついたのだろう。大きな杉は神社の御神木として崇められた。杉は建材に適している。大名は杉の植林を行い、建材の枯渇を防いだ。 
軍事物資 / 栗
栗の木は育てやすく、切っても切り株から再生する。さらに実は食用になる。この特性から、栗を大量に植えることで林が造営された。雨に強く、強度があるため材木として重宝された。また、薪、炭にも使われた。大名は出陣に際し、食卓には打鮑、勝栗、昆布が用意された。「打ち勝って喜ぶ」という縁起を担いだのだ。このように栗は出陣の儀式にも使われるため、大名は栗が枯渇しないよう植林を行っていた。 
軍事物資 / 木楢
木楢の実は団栗と呼ばれる。団栗を植えることで木楢の苗を増やし、植林が行われた。木楢も栗と同様の特性があるため、建材や燃料などに幅広く用いられた。 
軍事物資 / 漆
漆の実は蝋燭の原料になる。漆の蝋燭は会津地方の特産品として、各地に輸出された。 
軍事物資 / 槐
槐はマメ科の樹木で、豆を実につける。豆は薬や染料になった。幹や枝は薪、炭になる。枝には棘があり、伐採の際には怪我に注意しなければならない。有刺という特性を活かし、家と家との境界を示すために槐が植えられる事があった。境界を破ろうとした者には棘が刺さるのだ。 
軍事物資 / 柴
柴とは小さな雑木である。百姓は柴や草を鎌で刈っていた。柴を集めて焚き火を熾したのだ。 
軍事物資 / 草
山林や草地では草刈りが行われた。百姓は鎌で草を刈り、牛馬でそれを運んだ。草は牛馬の飼料に使われたり、腐葉土にすることで田畑の堆肥になった。枯れ草を集めれば焚き火を熾すことが出来る。城攻めの際、草は城の堀を埋めるために使われた。寺社の境内に草地があれば、百姓はそれを牛馬に食べさせた。寺社は境内に牛馬が入ることを嫌い、大名に境内での放牧禁止の禁制を出してもらった。川の下流には土砂が堆積し、やがて島のような地形を形成する。これを洲と言う。洲の土砂は川の流れによって流失しやすく、葦や蒲などの草が長く根付くことで漸く安定する。人々は洲を開墾し、田畑に変えていった。 
軍事物資 / 鉄
城や軍船を建造する際、釘や碇が必要になる。合戦では刀や鉄炮など鉄製の武具が必要になった。大名はこれらの鉄製品を安定的に得るため、鍛冶や鋳物師を召し抱えた。鍛冶や鋳物師は鉄を溶かす際に蹈鞴を使用し、送風を繰り返して炭を高温で燃焼させた。そのため、北条家では鍛冶に招集をかける際、鉄と共に炭俵を支給していた。 
南蛮鉄
鉄炮と同じように南蛮鉄も南蛮から伝来した。南蛮鉄はその形状から「ひょうたん鉄」と呼ばれた。他にも楕円形の「木の葉鉄」、棒状の「短冊鉄」がある。
岩鉄鉱を原料に、高温溶融。生木や葉を化炭剤として加え、六時間ほど強熱精錬。ある程度の大きさに調整し、鍛造する。和鉄と比較して炭素、硫黄の含有量が少し高く、燐は十倍(0.1%)も含んでいる。けっして良質な鉄ではない。和鉄に粗悪な南蛮鉄を加えると金気が穢れ、刀に神霊が宿ることもないと貶す者もいた。具足など、刀以外の用途に向いているという意見もあった。
『剣刀秘宝』(貞享元年・大村加卜) / 「日本の銑のごとき鉄なり」「オランダ人朝鮮人さして来る剣を多く見けるに、みな銑卸しのごとき鉄にして打ちたり。焼刃もあれども、なめくじりの虫ののたれたるがごとくあるなり」「異国に刃鉄あらば、なんぞこれ(注・日本刀)を望まん」
『剣工秘伝志』(文政四年・水心子正秀) / 「彼の鉄は我国の鉄には劣るべし、実に我国の鉄にてつくりたる刀は万国にすぐれて見ゆるなり、然れば、南蛮鉄などは好むべきものにあらず」「しかるにこの品近来は渡らざる故、若き輩はついに見ることもなきようになるべし」
このように南蛮鉄の評価は低かったが、和鉄に比べて溶解させやすかったため、混ぜて使用する者がいた。 
卸し鉄法 / 銑(ずく)やヒ(けら)を半溶融させ、炭素を除く。これを叩き、鉄滓(てつさい)を除く。こうして鉄を精製する。
慶長十六年八月、オランダ館長ジャックス・スペックは家康に南蛮鉄を二百個、秀忠と本多正純に百個を献上した。この南蛮鉄はシリアのダマスカス地方の鍛冶がインドのウーツ鉄を鍛造したダマスカス鋼であった。ウーツ鉄は中東、支那などにも輸出されていた。元和七年五月二十三日、オランダ人とイギリス人が長崎平戸で幕府の使者に棒鉄二把を贈る。翌二十四日、松倉豊後守にも棒鉄一把が贈られる。 
 
戦闘の様相

 

調略
朝倉宗滴は「朝倉宗滴話記」のなかで、「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝事が本にて候事」と記している。武士は勝利こそが本分であり、そのために調略を用いることを卑怯と考える者はいなかった。
合戦に無理攻めは禁物である。大名の軍は領民で構成されているため、合戦で死傷者が出れば村の生産力は低下する。そのため、大名は長期間の外征や城攻めなど、損害の多い合戦を嫌った。
多くの死傷者を出しながら、敵対する大名を滅ぼしたとする。近隣の大名がこの事を知れば、今が好機と言わんばかりに侵攻を受けるだろう。兵力に余裕の無い状況を作ることは滅亡に直結するのだ。
こうした状況を避けるには、敵を寝返らせるなどの調略が必要不可欠である。敵が内通に応じれば、即座に開戦を決断しなければならない。時間が経過すれば内通が露見する可能性が高くなり、内通者が危機に晒される。また、変心をして再び元の大名に仕えようとするかもしれない。こうした状況を避けるため、開戦の決断が必要になる。
逆に味方の城が調略を受けて敵に寝返った場合、早急にこれを取り戻さなければならない。その城は敵にとって橋頭堡であり、そこを起点に次の領土侵攻が行われるからだ。味方は寝返った城を攻め、敵はその城を守ろうとする。こうして城攻めや合戦が引き起こされた。
諜略 / 敵を口説き、寝返らせること。敵が寝返れば味方の志気は大いに高まった。逆に敵の志気は下がり、その後の戦闘を有利に進めることが出来た。
計略 / 町人や百姓、僧侶から才覚ある者を選び、敵国に潜入させ、情報を得たり、混乱させること。 
開戦

 

開戦
政治問題が解決しない限り、大名同士の戦争を止めることは出来ない。他の大名に仲裁に入り、双方が交渉の場に立つことを合意しなければ戦争を止めることは出来ない。交渉を繰り返しても妥協することが出来ず、事態が暗礁に乗り上げた時、いよいよ開戦の狼煙が上がる。多くの戦争は双方が妥協を拒否し、自己の権益を守ろうとした時に発生する。この時、双方とも相手に対する憎悪が渦巻いており、戦争を回避することは容易ではない。 
開戦の日取り
合戦の日にち、理由を通知することを陣触れと言う。天正十五年三月一日、豊臣秀吉は九州征伐に出陣。天正十八年三月一日、小田原征伐に出陣した。二度の合戦に勝利したことから、豊臣秀吉は三月一日は縁起が良いと考えるようになった。文禄元年三月一日、豊臣秀吉は朝鮮征伐のため渡海しようとした。黒田如水は合戦の際、九日に勝ちを収めることが多かった。そのため、黒田如水は九日に出陣すれば合戦に勝てると考えるようになった。慶長五年八月、豊後攻めを九月九日に行うと家臣に伝えた。家臣は黒田如水に早急に攻めるべきではないかと意見したが、如水は九日は縁起が良いと答えた。九月九日、黒田如水は中津城を出陣。九月十三日、石垣原合戦で大友吉統を打ち破った。 
出陣の準備
連歌は参加者が詠んだ和歌の上の句に対し、別の参加者が下の句を詠んだ歌を指す。これを続けることで参加者の連帯感が深まっていく。
連歌は呪術の一種であり、出陣前に連歌会を開き、それを神前に奉納して戦勝を祈願した。これを出陣連歌と言う。戦国時代、連歌は大変に重要な行事と考えられており、夢の中で詠まれた歌が瑞兆と喜ばれることもあった。
天正六年十一月、耳川合戦に際して島津義久は連歌の夢を見た。「打敵は立田の川の紅葉哉」。また、大永三年、毛利元就は「毛利乃家わし乃はを次脇柱」という歌を詠んだが、これも夢に出てきた歌と云う。毛利家(鷲の羽は家紋)を次ぐ脇柱(元就は次男)という巡り合わせを詠んだ歌である。
武将は開戦の三日ほど前から妻妾との関係を絶ち、その接触を避けた。特に産後三十日以内の妻がいる場合、夫が妻に近付くと身の汚れが移り、討死すると考えられた。そのため、出陣式は男性ばかりで、支度も甲冑に身を包んだ小姓らが行った。
出陣の前には宴が開かれる。手前右に昆布、向こう右に勝栗、左に打鮑が用意される。「打ち勝って喜ぶ」の縁起を担いだのだ。打鮑とはアワビを干したもので、細長に三枚、五枚乗せる。これを食べながら、酒を三献いただく。酒は少なく、少なく、多くと三段階に分けて注がれた。
甲斐武田家は出陣の際、「勝て打て喜ぶ」の意味から勝栗、打鮑、昆布の順に食した。帰陣の際は「打ち勝ち喜ぶ」の意味で打鮑、勝栗、昆布の順で食していた。
次に武将は神社に参拝し、戦勝を神仏に祈願した。大将が右手に弓、左手に軍扇を開き、「えいえい」と叫ぶ。すると部下が「応」と鬨の声を上げる。この掛け声は陽である左から、陰である右へと続いていく。軍神を招き入れるために低く小さい声から、高く大きな声へと高低差をつけた。合戦が終わると軍神を帰すため、掛け声を逆に行った。
出陣に際し、弓を持った兵が一度だけ弦を打った。これは一打ち、つまり人討ちにつながるという呪いである。鎧の上帯の端は切り捨てられた。これにより上帯が解きにくくなり、勝利するまで鎧を脱がないという決意を表したのだ。
出陣に際し、杉などの樹木に矢を放って合戦の吉凶を占うことがあった。こうした杉は、矢立の杉と呼ばれた。 
移動

 

行軍
道の幅は一間半ほどしかなく、大軍の往来に支障を来すことがあった。これは敵軍の侵攻を阻むためだったが、自軍の出陣の際には悪影響を与えていた。織田信長は本街道の道幅を三間二尺、脇道は二間二尺に広げた。また、道の左右に松や柳を植えさせたと云う。行軍中、旗竿が折れることがあった。この時、持つ部分より上が折れれば吉、下が折れれば凶とされた。厩の中や馬を引いている最中に馬が嘶けば吉。鐙に足をかけた後で嘶けば凶である。その場合、弓を脇に挟んで上帯、腹帯を結び直せば良いとされた。 
船橋
軍勢が大きな川を渡る時、船橋を架けることがあった。船橋とは船を横に何艘も並べ、板を渡したものである。縄で結んで船を固定し、板には筵が敷かれた。大名は村に命令を出し、漁業船や水運船を集めて船橋を造らせた。川岸の領主は船橋を架ける際、その指揮を命じられた。領主は川岸に住む川立と呼ばれる人々を集め、船橋を架けさせた。川立は漁業や水運に携わっており、船を供出するなど船橋の架橋の中心的役割を担った。川の深さや流れの速さを熟知した川立は、どこに船橋を架けると良いかを進言しただろう。 
海上輸送
海や川があれば、大量の軍勢や物資を船で戦地に送ることが出来る。海に面した大名は、海上輸送と海戦のために海賊衆を召し抱えた。武田信玄は駿河を領有すると即座に海賊衆を取り込んでいる。優れた海賊衆であっても悪天候では航海が出来ず、目的地への到着が遅れることがあった。某年二月二十八日、上杉景勝は須田満親に書状を送り、海が荒れたため船での援軍派遣が遅れていると伝えた。大名は他国の軍船や商船が海岸に漂着した場合、船頭を捕らえて詳細を報告するよう領主に命じた。 
補給・休憩

 

小荷駄
小荷駄とは牛馬を用いて兵糧などの物資を運搬する部隊を指し、小荷駄奉行が置かれた。補給に関する重要な役目であることから、小荷駄奉行は経験に長けた有能な人物が選ばれた。牛馬二頭に口取は三人。これを侍二十名から三十名、足軽四十名から五十名が護衛する。難所では鉄炮足軽も護衛した。小荷駄が前線に紛れることは禁止された。戦闘の妨げになるばかりか、貴重な物資を奪われる危険性があったからだ。百姓や野伏せりが兵糧を目当てに小荷駄を襲うこともあった。
小荷駄押し / 小荷駄が行軍すること。 
兵糧
合戦の際に必要になる兵粮は、三日程度の用意は足軽が自前で用意した。それ以上の期間に消費される兵糧は、大名が年貢の備蓄などを切り崩して用意した。
大名は行軍中に村々に立ち寄り、兵糧を購入した。現地で兵糧を購入しながら戦場に向かったのだ。また、兵糧不足に備えて家臣や足軽に銭を渡し、戦場を往来する商人から兵糧を購入させていた。
大量購入によって兵糧の値段が高騰し、思うように兵糧が購入出来ないこともあった。逆に高騰した地域で兵糧を売却し、利益を得る大名もいた。
兵糧が手に入らない場合、敵地で乱妨狼藉を行って兵糧を確保した。また、拐かした人々を売り払い、銭を得ていた。
戦場では携帯しやすく、保存性の高い食料が求められた。炊いた米を水洗いし、乾燥させれば干飯になる。湯をかければ柔らかくなり、食べやすくなる。袋に入れれば携帯しやすく、行軍中でも食べることが出来るため、干飯は重宝された。玄米を鍋で炒った炒米は、干飯と同じように食べられた。餅も焼くだけで食べやすくなり、表面に黴が生えても中身は食べられる。
豆を煮て擂り鉢で潰し、麹を加えて丸めておくと、行軍中に発酵が進む。戦場に着く頃には味噌として食べることが出来た。これは陣立味噌と呼ばれる。里芋の茎を味噌で煮ると味が染み込み、湯をかければ味噌汁として食べることが出来る。これは芋がら縄と呼ばれた。
梅干は米と良く合い、腐敗を防止する作用もあることから、よく食べられた。
糧袋 / 直径八寸、深さ一寸ほどの細長い袋。腰兵糧を入れ、口紐で結ぶ。決まった持ち方は無いので、必要に応じて体に結びつけるなどした。 
商人と戦場
戦場には多くの武士や足軽が集まるため、商人にとって非常に魅力的な環境だった。商人は食料や水を持って戦場に向かい、それを足軽らに販売して利益を得た。雑炊などの食料。酒、煙草などの嗜好品。陣中では商人による市場が造られるほどだった。
商人の販売する食料の価格が高騰した場合、陣中で食糧不足が発生している可能性が高い。そのため、大名は捕らえた敵兵から陣中の食料価格を聞き出し、食糧備蓄がどの程度かを推測した。
百姓は食料に余剰があれば、それを商人に売却した。大名は高札を立て、百姓に食料の売却を促した。
籠城によって外部からの補給が絶たれた場合、城内で飢饉が発生することがある。合戦で消費される兵糧は大名が用意しなければならない。そのため、城主は籠城に際して大量の兵糧を商人から購入した。
足軽は敵地で様々な物を奪っており、それを買い取ろうとする商人もいた。また、逆に足軽に商品を脅し取られることもあった。脅し取られる時は大方が食料欠乏時で、奪った食料を仲間に分け与えて飢えをしのいだという話が伝わっている。
半手商売 / 敵の領内の商人と売買すること。 
陣屋
城攻めの際、大将や足軽が休憩する陣屋が建てられた。その際に必要な材木は現地で調達された。多くの商人が陣を訪れるため、陣屋建設用の材木の販売も行われたと思われる。陣屋では飲酒や博打のため、足軽同士の喧嘩が起きる事があった。炊事や煙草の火の不始末で火事が起こる事もあった。こうした事態に馬が驚き狂奔すると、陣屋は大混乱に陥った。 
戦場の炊事
足軽は炊事などに使用する薪を現地で確保した。大将は足軽同士が薪を巡って争わないように、各部隊ごとに交代で採取させ、それを全軍に分配させるなど配慮した。 
戦場の排泄
陣屋の側で用を足すと悪臭がするため、離れた場所で用を足すのが礼儀だった。雪隠小屋が造られることもあった。戦場で排泄する際、大名は陣屋の側で用を足すなと命じた。遠くまで歩く事を面倒に思い、陣屋の周辺で用を足す足軽がいたのだろう。大名はこうした足軽から罰金を徴収した。 
遊女
合戦が起こると各地から遊女が集まり、足軽を相手に客引きをした。都市部の周辺で合戦があれば、足軽は遊郭に足を運んでいただろう。大名は足軽の勝手な外出を嫌い、遊郭へ行く事を禁止するなど対策を講じた。 

足軽は陣中での飲酒を楽しみにしていた。冬場は体を温めるため酒を飲む事もあっただろう。商人は陣中で酒を売りさばいた。戦場で支給された米を使い、自ら酒を作る足軽もいたと云う。その一方、大酒を呑んで問題を起こす足軽がいた。二日酔いで行軍や戦闘に支障を来す足軽もいただろう。大名は不測の事態を避けるため、過度の飲酒を禁止した。また、酒宴の様に他者を巻き込んで呑む事も禁止した。宣教師は日欧の飲酒に関する違いを書物に記している。欧州では酩酊することは恥辱であり、他者に飲酒を無理強いすることは無い。日本では酩酊するまで呑む事は普通であり、酒の無理強いも行われている。 
煙草
戦国時代、煙草が日本に伝わった。煙草は商人によって各地で販売され、大名や足軽は煙草を嗜むようになった。商人は戦場でも煙草を販売した。煙草の火の不始末は火災に繋がる。大名は火災を恐れ、歩き煙草を禁止するなど対策をとった。  
博打
多数の足軽が集まれば、自然と双六などの博打が行われる。遊女と共に博打に興じる事もあっただろう。博打の勝敗を廻り、殺傷事件が起こる事もある。そのため、大名は陣中での博打を禁止した。 
情報

 

偵察
合戦に際し、正確な情報収集は必要不可欠である。大名は正確な情報を得るため、物見に偵察を命じた。物見の報告によって敵軍の所在に関する情報を得たとしても、実際に戦場に辿り着く頃には敵軍は移動している可能性が高い。そのため、情報を得たら敵の行動を見極め、迅速に敵陣に攻撃を仕掛けるべきかを判断しなければならない。敵陣の位置も情報通りの場所なのか、それよりも移動をしているのかを考える必要がある。
物見 / 本隊に先行して敵の位置、数などを報告する。正確な報告が求められたため、武勇才智に優れた者が物見になった。百名規模の大物見、五十名規模の中物見、五名規模の小物見に分かれた。周囲四里の偵察は遠物見と言う。敵国や敵陣に潜入する忍物見と言う。
物見番 / 長期に及ぶ偵察や、敵の情報を継続して伝える必要がある場合に置かれる。 
伝令
正確な伝令が無ければ、軍の行動は円滑に行う事が出来ない。また、軍の規律が乱れていては集団行動など出来ない。そのため、戦国大名は伝令を重んじ、軍の規律を乱す行為には厳罰を下した。大名は陣鐘や太鼓、法螺貝を鳴らし、命令を伝達させた。鐘が無ければ寺社の鰐口などを奪い、それを使用した。 
合言葉
合言葉 / 敵味方を識別するための符丁。合戦直前まで合言葉は知らされない。夜戦では特に重視された。籠城の際、味方からの使者を見分けるためにも使われた。敵に知られると意味が無いため、一日ごとに変えると良い。
合印 / 敵味方を識別するための符丁。例えば刀に布を巻き、それが左巻きか右巻きか、何重に巻いたか等を問うことで敵味方を識別した。 
戦闘

 

戦闘目標
戦争において、戦闘目標の第一は敵軍の撃破である。領地確保に力を注いでも、敵軍に余力が残っていれば再び戦争になる。一方、敵軍を徹底的に撃破すれば領地の確保は決定的なものになる。 
戦場
野戦の場合、戦場には軍を展開出来るだけの広さが求められる。平原や河原などが戦場に適していた。関ヶ原合戦や三方ヶ原合戦は平原で、姉川合戦や耳川合戦は河原が戦場になった。また、坂や峠を行軍する途中で合戦が起こることもある。畷という田畑の畦道が戦場になることもあった。沖田畷合戦などが該当する。逆に狭い島を戦場に選ぶこともある。厳島合戦は大軍の行動を封じるため、毛利元就は敢えて厳島を戦場に選んだと云う。城攻めの場合、城の立地によって戦場が決まる。城は防御力を高めるため山や川辺に築かれる。平地に築かれる場合、そこは流通や生産の拠点であることが多い。 
陣立
本陣 / 総大将が陣取る陣営の中枢部。軍旗を立てることから旗本とも言い、総大将の直参の家臣が護衛した。敵軍や盗賊の攻撃から陣を守るため尺木(柵)が組まれた。夜襲に備えるため、本陣の前後に篝火が焚かれた。火の管理として、一ヶ所につき三名の篝奉行が交代で見張りを担当した。本陣の警備のために番兵が置かれた。
陣営 / 総大将の座所。移動しやすいように幔幕を周囲にめぐらせる。陣屋という小屋を建てることもあった。
先陣 / 本陣前に配置された軍勢。先備、先手とも呼ばれる。複数の陣で構成され、最前線の陣は先鋒と呼ばれ、敵軍に一番最初に攻撃をかけた。
二の手 / 先鋒同士の交戦の後、両軍が部隊を投入した状態。二の手の活躍によって勝敗が決する。
遊軍 / 戦局の推移によって必要な場所に投入される部隊。
後陣 / 本陣後方に配置された軍勢。後備とも言う。
殿軍 / 退却時に追撃に備える軍勢。複数の陣で構成される。
伏勢 / 攻撃部隊と別に構成され、必要に応じて攻撃部隊の援護に入る。
陣立 / 本陣の位置、各部隊の配置、人数などの構成を陣立と言う。陣立を記したものを陣立書と言う。 
軍令
合戦時の規則を定めたものを軍令と言う。これに背いた場合、戦功があっても処罰された。また、主従や妻子にまで処罰が及ぶこともあった。
基本的に喧嘩、放火、口論、遊興、押し売り、乱取りは禁止された。銭湯に入ることを禁止する軍令もあった。銭湯には湯女がおり、売春をしていた。戦意喪失や性病を嫌ったのだろう。酒や煙草を禁止した家もあった。他にも下記の行為が禁止された。
命令が無いにもかかわらず、勝手に行動すること。
奉行の指示に逆らったり、軍法に背くこと。
手柄を立てるために先陣を差し置いて敵に攻撃すること。
配置の際、勝手に陣取りすること。前に出ようと割り込んだり、押したりすること。
配置の際、脇道すること。
陣中で馬を放すこと。
浪人が家臣に無礼を働くこと。
陣所の前後左右で用を足すこと。
天文二十二年、毛利元就と毛利隆元は下記の軍令を定めた。
一、動かけ引の儀、其日ゝの大将の下知に背き候者は、不忠たるべく候。たとい何たる高名、又討死を遂げ候共、忠節に立つべからざる事
一、小敵、又は一向敵も見えざる時、ふかく行き候て、敵少も見え候へば、其時引き候。以ての外曲事に候。以後において、左様仕り候する者、被官を放つべき事
一、敵を追い候て出で候はん時も、分きりを過ぎ候て出で候はん者は、是又面白うしなわせ候はん事、たとい忠に候共、立つべからざる事
一、事極まり候て、こらへ候はん所を、退き候はん者をば、一番に退き足立て候ずる者を、被官放つべき事
一、所詮、其時の大将、次には時の軍奉行の申す旨を背き候する者は、何たる忠成共、忠節に立つまじき事
右五ヶ条、此の度に限らず、当家法度たるべく候。神も照覧候へ、此前を違うべからざる者也
大将の下知には必ず従うことが重要であり、背けば戦功を挙げても忠節とは見なさない。敵前逃亡は許さない。敵を追いつめたとしても、勝手に攻撃をしてはならない。敗北しても勝手に逃げ出すことなく、味方を支えるべき時には戦うこと。繰り返すが大将や軍奉行の命令に背く者は、不忠である。 
軍勢
一般的に合戦は大軍を有した方が有利になる。大軍が侵攻してくると知れば、危機感を抱いて寝返る敵将も出てくる。敵よりも多くの兵を集める事は、合戦に勝利するための最善の策と言える。
その一方で、大軍はその人数の多さが弱点になることがある。作戦行動中、予期せぬ出来事から攻撃目標を変更することがある。その際、大軍だと末端に伝令が届くまで時間がかかり、どうしても隙が生じる。そのため、敵の強襲を受けると味方の陣営を立て直すのに時間がかかり、敵軍が本陣に肉薄することがある。
敵兵は大軍と戦う事で心理的に結束深め、一致団結して激しい抵抗を見せることがある。少数の敵であっても、油断すること無く戦わなければならない。
また、大軍を養うための兵糧など、補給の問題が出てくる。大軍による籠城は食料の早期枯渇を引き起こす可能性が高い。補給路が確保出来ない場合、大軍での出陣は注意が必要になる。 
陣形
野戦では相手よりも有利な場所に布陣することが鉄則だった。基本的に山や坂の上など、相手よりも高所に布陣した方が有利とされる。
古来、様々な陣形が考案されたが、合戦時に陣形を決めて布陣することは困難だった。どのような形で敵と遭遇するか、どこで敵と交戦するかは予測が難しいからだ。しかし、武将は陣形を学び、どのような布陣が有利なのかを考える一助とした。
軍略 / 陰陽道に基づく陣法のこと。
武略 / 陣取りを行い、合戦の備えを行うこと。
八陣 / 呉子、孫子、諸葛亮が考案した陣形に由来する。魚鱗、鶴翼、長蛇、偃月、鋒子、方円、衡軛、雁行の八陣を指す。
魚鱗 / 中央部を敵陣側に迫り出した陣形。
鶴翼 / 両側を敵陣側に迫り出した陣形。敵陣を包み込むように攻撃する。
長蛇 / 直線的な陣形。前陣が攻撃を受けた場合、後陣が援護するため前に出た。
偃月 / 円弧状の陣形。
鋒子 / 傘形の陣形で、少数で大軍を迎え撃つために用いられた。
方円 / 円形の陣形。陣営の防御の際、味方が少数であれば方円の陣形を組むと良いとされる。籠城時に婦女子を守るために用いられた。
衡軛 / 平行な二線の陣形。山間の地での戦闘や、敵城周辺で放火をする際に有利とされる。
雁行 / 雁が列を成して飛ぶように、斜めの列からなる陣形。 
戦法
戦法とは戦闘を行う上での基本要項である。誰の招集によって誰が参集するのか。何人の軍勢が、どのような装備を調えるのか。その軍勢は戦場でどの様に戦うのか。これを明確にして、各部隊に徹底させなければならない。戦法とは軍勢の基本的な戦い方を指している。
兵器は一定の数が無ければ役に立たない。強力な兵器があっても、その運用を前提とした戦法が無ければ役に立たない。
戦国時代、西洋から鉄炮が伝来した。当初は鉄炮の数が少なく、大名はそれを戦力として有効活用することが出来なかった。やがて鉄炮の国産化が成功すると、大名は鉄炮を大量に保有することが可能になった。漸く鉄炮は戦闘の主力になったのだ。交代射撃など弓の戦法が応用出来たため、鉄炮は急速に普及していった。弓の戦法という土台が無ければ、大名は鉄炮の運用に苦慮しただろう。
戦国時代の基本的な戦闘方法は下記の通りである。
大名の軍勢は一門、家臣で構成される。大名は軍勢の招集を伝える際、伝令を送ると共に鐘や狼煙という合図を発する。一門や家臣は軍役帳に基づいた数の軍勢を率いて参集。大名は軍勢を率いて出陣する。
戦闘では鉄炮、弓、飛礫が主力になった。鉄炮の伝来は戦法に大きな変化を与えた。日本人は源平合戦の頃から弓と飛礫を戦法の基本としており、そこに火器が加わった。交代射撃など鉄炮を使った戦法は弓の応用で対応出来るため、大名は鉄炮の購入や生産を急がせた。鉄炮は連射しにくいなどの欠点があるため、弓と飛礫の有効性は減じることがなく、戦国時代が終わるまで使われ続けた。
両軍は戦場で徐々に接近し、相手が鉄炮や弓の射程距離に入ったと見なせば射撃を開始する。敵軍に死傷者が増え、乱れが生じたならば突撃を敢行する。白兵戦では鑓を中心に用いる。鑓を持った兵が横一列に並び、敵を叩きながら進撃する。死傷して動けない敵がいれば、刀を使って首を刎ねた。
大名はこの戦法が効果的に発揮されるように武器を集め、家臣に訓練を命じていた。 
戦術
戦場において、戦法が最も効果的に運用、応用されるために考え出された術。それが戦術である。例えば、敵を前後から挟み撃ちにする戦術を練ったとする。それは挟み撃ちが最も効果的に戦法が発揮出来ると考えたからである。戦法の不明確な軍勢に戦術を決めることは出来ない。
知略 / 敵の弱点を攻めたり、動揺や攪乱を誘うこと。
機略 / 戦局に応じて臨機応変に対処すること。
奇略 / 相手の裏をかくこと。
伏兵 / 山や森に身を隠し、敵に不意打ちをかけること。
示強 / 旗や幟を多く立て、敵を恐れさせること。
示弱 / 敵を引きつけるため、わざと弱いふりをすること。
佯退 / わざと退却し、追撃してきた敵に不意打ちをかけること。
釣野伏せ / 島津家の行った戦術。戦場に事前に伏兵を潜ませる。囮となった部隊は撤退に見せかけ、伏兵のいる地点に敵軍を引き寄せ、挟撃を仕掛ける。
捨て奸 / 島津家の行った戦術。退却戦の途中、敵陣に向かって突撃を仕掛ける。殿軍は全滅するまで敵軍と戦い、殿軍が全滅すれば別の部隊が殿軍となる。こうして本隊が戦場を脱するまで殿軍が戦い続ける。 
戦場の霧
戦場は常に不確定要素で満ちあふれている。将兵は疲労によって志気を失い、恐怖によって錯乱する。敵の陣地を攻めようにも、敵兵との遭遇を恐れて行軍速度は低下する。飢餓と渇き、怪我と病は軍営に満ちあふれる。情報は錯綜し、誤解と疑心が軍勢全体を包み込む。敵軍は誇張によって強大に映り、自軍は脆弱に感じる。偵察で得た情報が正しいのかをめぐり、貴重な時間が軍議に割かれる。周到に練り上げた作戦は偶然の事態に対応出来ず、刻々と修正を加えなければならない。
どれほどの名将であっても戦場で何が起こっているのかを正確に把握することは出来ない。何かを把握したとしても、次の瞬間に事態は動いてしまうのだ。こうした不確定要素は「戦場の霧」と呼ばれている。
大名は戦場の霧と、霧に悩まされる自身の心と戦わなければならない。判断の誤りは死に直結する。その心労によって大名の心は擦り切れていく。見通しの立たない戦局の中で、なにをどう決断するのか。名将とは誤った判断の少ない将を指すと言える。名将は自らの決断に自信を抱き、それを遂行するために全軍を統率する。そして、その戦果によって決断の正しさを証明するのだ。 
偶然
偶然は戦局を左右する。それは事前に計画する事も、予期する事も出来ない。行軍中に偶然にも敵の本陣前に辿り着いた。流れ弾が偶然にも敵将に当たり、敵軍に動揺が走った。大名はこうした偶然による機会を活かし、勝利へとつなげていく。偶然を活かすことが出来なければ、それは愚将と罵られる。無論、偶然によって自軍が苦境に陥ることがある。しかし、それは相手にとっても偶然の出来事である。少しでも相手の好機の芽を摘み取り、状況が自軍の有利になるよう務めなければならない。 
勝機
刻々と推移する戦局の中で、大名は攻撃の機会を見定めなければならない。
敵勢がまだ集結していない時。
人馬の食事前、食事中。
敵が進行方向を迷っている時。
敵が陣取りを終えていない時。
敵の備えが乱れた時。
敵が作戦を決定出来ず、迷っている時。
敵が疲労している時。
敵の大将が陣から離れた時。
敵が長距離移動の最中、疲労や隙、乱れが出た時。
敵が川を渡っている時。
敵が難所を通過している時。
敵が油断したり、安心感を抱いている時。
敵が次の行動に迷っている時。
敵が恐怖心を抱いている時。 
救援
敵の領土に隣接する城ほど攻撃を受けやすい。その城を守る城兵は、敵に攻められても大名が援軍を派遣するという信頼を抱いている。もし、大名が援軍を派遣しなければ城兵は危機に晒される。大名自身の信用も失墜し、味方は次々に敵に寝返っていく。そのため、援軍派遣は大名にとって重要な役目だった。
攻城戦で疲弊した攻め手は、籠城救援に駆けつけた敵軍の攻撃を受ける可能性があった。この救援の軍勢を後詰と言う。攻め手と後詰とが接触することで、大規模な合戦が発生することがあった。
武田信玄が海津城を築城すると、上杉謙信はこれを攻め落とそうと出陣攻撃。海津城救援に武田信玄が駆けつけたため、両軍は激突。こうして川中島合戦が起こった。
徳川家康が長篠城を攻め落とす。武田勝頼は長篠城奪回のため出陣。織田信長は同盟を結んでいた徳川家康を助けるため出陣。こうして長篠合戦が起こった。 
言葉合戦
合戦中に大声で罵り合うことを言葉合戦と言う。うまくいけば敵の志気が下がった。逆に敵の戦意が高まり、実力以上の力を発揮することもあった。しかし、激怒した者が勝手に戦闘を始めたり、不用意に突撃をかけることもある。そこで多くの武将が軍令で言葉合戦を禁止した。 
黎明攻撃
軍の動きが察知されにくい夜間に戦闘の準備を行い、夜明けを待って攻撃を仕掛けた。 
夜戦
夜戦は敵の攪乱が目的であり、参加する兵士は功名を目的としてはならなかった。敵の首を取ろうとしてはならないし、撤退の合図があればすぐに退却しなければならなかった。また、夜戦は敵味方が判りにくいため同士討ちの可能性が高かった。そこで合言葉、合印が重視された。
籠城の際、味方の志気を高めるために攻城側を夜襲することがあった。夜間の城攻めでは敵味方とも篝火を焚き、明け方まで攻防が繰り広げられた。銃声や言葉合戦は城方の安眠を妨げ、士気を低下させた。
夜討 / 敵陣への夜襲。
夜込 / 敵城への夜襲。
夜軍 / 夜間、両軍が戦うこと。
夜討四策 / 夜討に適した四条件。敵が到着した日の夜。合戦を終えて疲労した日の夜。台風や大風の日の夜。占いで敵方に吉凶事あるとの結果が出た日。 
放火
放火は敵の勢力を削ぐため広く使われた戦術である。風の強い日を選んで決行された。敵城だけでなく、町や田畑も放火の対象になった。「守矢満実書留」文明十二年二月六日夜、信州諏訪郡の諏訪神社上社は火災に見舞われた。諏訪神社下社の金刺興春たちが東大町の大橋詰めに火を放ち、その混乱に乗じて略奪を行ったのだ。同年三月九日、諏訪神社上社で御立増の神事が行われた。その最中、金刺興春らは上西大町に放火。神事に参加した人々は、宿に置いてきた荷物が奪われる事を恐れて鳥居前に殺到。混乱の最中で圧死する者が続出した。下社の者は混乱に乗して略奪を開始した。 
追撃
戦局が不利になった時、軍勢は戦場から撤退しようとする。この時、戦局優勢な軍勢は敵軍を追撃し、より多くの損害を与えようとする。撤退する軍勢は殿軍を編成し、追撃する軍勢を足止めしようとする。追撃も深追いが過ぎれば自軍の損害が大きくなる。これでは領地の確保が難しくなる。逆に領地の確保を優先しようとすれば追撃が疎かになり、敵軍に与える損害が少なくなる。 
死傷

 

治療
合戦で負傷した場合、足軽は自分たちで治療した。矢が刺されば毛立箸で引き抜いた。その際、相手を布で縛るなど固定した。
負傷者に食べさせる米は柔らかく炊き、湯水はあまり飲ませないようにした。
尿で傷口を洗う事もあった。尿は意外にも無菌であり、生水で傷口を洗うよりも安全と云える。しかし、尿と飲むと痛みが和らぐなど、効能の期待できない治療も行われていた。 
殺戮

 

根切り
元亀元年八月十三日、大石芳綱は山吉豊守に書状を送る。その中で武田信玄が殺戮を行った様子を、「已前箱根を押し破り、男女、出家まで斬り捨て申し候」と記した。
天正二年十一月七日、佐竹義重は上杉謙信に書状を送り、上杉軍が上州金山城一帯を攻めた後、猿窪地の側に陣を張り、「男女とも残らず打ち終え」たと記した。 
 
拠点の攻防

 


城は古来、「き」と呼ばれた。その後、「じょう」と呼ばれるようになり、戦国時代半ばに「しろ」と呼ぶようになった。
城には防御のために堀、築地(土塁)、尺木(柵)、塀が構築された。堀はただ土を掘るのではなく、柱や横木で補強し、土を固めて倒壊を防いだ。堀を掘った際に出る土は積み上げられ、土塁になった。尺木は材木を井桁に組むため、その間に隙間が生じる。攻防の際にその隙間から攻撃や目視が可能になった。土壁には石や萱を混ぜた赤土が使われた。塀は雨風から保護するため、簀俵で覆われた。
永禄六年六月、相模国東郡と三浦郡、武蔵国久良岐郡の村々は玉縄城の塀の構築を命じられた。村の貫高によって担当する区間の長さが決められ、十六貫ごとに一間分の塀を構築することになった。
この時に作られた尺木の寸法は次の通りである。径一尺五寸、長さ九尺の栗の木を用意し、それを一間に一本ずつ立てた。この柱は男柱と呼ばれ、柵の基礎となった。男柱と男柱との間には、長さ七尺の小尺木が三本立てられた。男柱と男柱を繋ぐように竹が横に通され、男柱や小尺木と縄で結ばれた。横に通す竹は一間ごとに上下二本ずつ用意された。一間当たり四束の竹束が補強として使用され、縄で男柱や小尺木に結ばれた。こうして尺木が作られた。
織田信長の安土城、豊臣秀吉の山崎城、明智光秀の郡山城の石垣には、逆さにした地蔵や五輪塔が用いられている。他にも各地で逆さにした五輪塔などが城跡から発掘されている。墓石の上に城を建てるなど、禁忌の対象である。それを敢えて犯すことで、逆に良い城が建つことを願ったのだと推測される。縁起の悪いことを逆さにして、縁起を良くするという呪いなのだろう。
城郭 / 城の最も重要な区域。
詰城 / 本丸。
外城 / 本丸を囲う外郭。
根城 / 軍勢の根拠地となる城。
端城 / 本城を支えるための城。支城。
出城 / 本城の前方に、本城の防衛目的で築かれた小城。
付城 / 敵城への攻撃目的で築かれた小城。向城とも言う。
根小屋 / 兵の宿舎。城は山に、根小屋は麓に建てられることが多かった。
虎口 / 城の出入り口。城塁がその部分だけ途切れることから、最も攻撃を受けやすかった。虎口を攻める敵を迎撃するため、虎口に至る通路を直角に曲げるなどの工夫をした。道を曲げることで敵の攻撃を分散し、逆に味方の攻撃を集中させることが出来た。
桝形門 / 虎口に至る通路を桝形に調え、その先に門を備えた形式。
武者溜 / 桝形門の内側に作られた柵で囲われた区域。出陣の際は武者溜に集まった。
馬出 / 桝形門の外側に作られた小さな塁。出陣の際に馬を揃える区域。また、虎口の防衛の役目もあった。
武者走り / 城の内側から城塁に上るための道。幅三間。
犬走り / 堀と城塁の外側に出来る小道。幅一尺五寸。
石垣 / 多少の地震でも崩れることはない。それは、地震の揺れを内部で分散させるからである。地面に粘土を敷き、わざと揺れるようにする。地震が起こると土台が揺れ、振動を分散。石垣も余裕を持たせて積み上げてあるため、土台同様にわざと揺れる。建物への揺れは軽減される。石垣の角は間を空けず、長方形の石で組んである。その上に櫓が載るため、大きな揺れでも動くことはない。これで石垣自体を保護することが出来る。
掘 / 水掘、空掘、沼田掘がある。幅は十五間ほど。深さは決まっていなかった。空掘の場合、敵が掘から上がってくる可能性があった。そこで堀の中に落とし穴を掘ったり、仕切を作って移動を妨げた。
櫓 / 城塁の角となる部分に建てられ、周辺の監視や石垣を支えるための重りとなった。櫓を攻め落とす場合、味方の陣中から櫓の下まで穴を掘り、地中に爆薬を仕掛けるという方法がある。城側は地中に瓶を埋め、警戒のため地中を掘る音を拾ったと云う。
多聞櫓 / 永禄年間、松永久秀は城塁の上に長屋形の建造物を構築。通常の櫓の役目の他、兵の宿舎や倉庫も兼ねた。櫓は城の一区画に建てられるが、多聞櫓は塀のように城を囲んだ。
矢狭間 / 城壁に空けられた小さな穴で、籠城時に鉄炮や矢を放つために使われた。矢狭間は重要なため、平時から死角が無いか確認する必要があった。そこで城内から矢狭間を使い、矢や鉄炮を掃射することがあった。これを矢狭間くばりと言う。
石落とし / 建物の一部を城壁の外に張り出させたもの。城壁を登る敵兵に弓を射たり、石を落とした。
水の手曲輪 / 給水地のある曲輪。
天守 / 城の中枢部。城主の権威の象徴となった。「元亀二年記」の元亀二年七月十四日の項に、上京町衆が二条城天守の前で踊ったと記されている。これが天守の初見で、二条城は織田信長が築いたものである。このことから、天守は織田信長が最初に建てたと推測される。
砦 / 必要に応じて築かれる簡易的な城。本拠地、本城の防御目的に建てられることが多い。狼煙台、緊急時の陣所となった。
取出 / 敵地攻撃の橋頭堡。
乱杭 / 城を攻められた時、通路に杭を打って敵の人馬の進撃を封じた。桶を埋めたり、網を張ることも有効だった。また、攻城側も乱杭を打ち、籠城側の突撃に備えた。
鹿砦 / 木を切り出し、枝の部分を尖らせる。これを通路上に設置すれば敵の進撃を封じることが出来た。乱杭同様、城攻側も籠城側の攻撃を防ぐため鹿砦を用いた。
虎落 / 竹を筋違いに組み、縄で結んだもの。矢や鉄炮を防ぐため城や砦に設置される。
柵 / 竹を並べて縄で結んだもの。矢や鉄炮を防ぐため城や砦に設置される。
縄張 / 城を築くための設計。城は攻められにくく、守りやすい場所に建てることが最良。城自体を堅牢にするだけでなく、周囲の地形(山や川)を利用することも大切だった。
普請 / 城を築くための土木工事。普請奉行が置かれ、軍師が土地の善し悪しを判断した。
作事 / 城を建築すること。 
城兵の炊事
城兵は日々の生活に使用する薪を確保するため、城外に出て薪を集めた。その際、出入り口で手判という身分証を見せ、門番に城の門を開いてもらった。敵国との境界に近い城の場合、城兵は外で敵兵に遭遇しないよう注意を払った。大名は薪の入手を容易にするため、立山を設けて百姓らによる木の伐採を制限した。 
城兵の排便
城主にとって城兵の排便の始末は重用な問題だった。糞尿は城外に運ばれ、土に埋められるなどの処理がされた。城の近くに埋めると悪臭がするため、遠くに埋められた。役目を終えて城を明け渡す際、城主は城内の糞尿が始末されているか、確認をした。次の相手に失礼がないよう気を遣ったのだ。城内の糞尿をかき集め、城を攻める敵兵に頭から浴びせることがあった。これを食らった敵兵は大変に悲惨な状態になったであろう。 
籠城
敵軍の侵攻を阻むため、城兵は城に籠もって応戦した。城の防御力は高く、城攻めには多大な犠牲を覚悟しなければならなかった。そのため、攻め手は城攻めを嫌い、兵糧攻めを行った。敗北を悟った城主は、城兵の助命と引き替えに降伏した。
攻め手は見せしめとして干し殺しを行う事があった。
後詰 / 籠城戦で城方の援軍として派遣された部隊。後詰が無い場合、籠城軍の士気は低下。援軍が無いために城兵が降伏したり、敵に攻め落とされることになる。
後巻 / 城を包囲する軍勢を、援軍がさらに包囲すること。城攻めで疲弊した時に攻撃を受けるため、武将は後巻にされることを大変に嫌った。
籠城の際には下記の物を確保する必要があった。
水の確保 / 水が無ければ堅城も数日で落城する。水源を絶たれないように最大の注意を払う必要がある。日頃から桶に水を貯めておくと良い。水が尽きたことを悟られないように白米で馬を洗ったという話も伝わっている。
食料の確保 / 食料、塩、武器の確保が最重要。日頃から食料を備蓄しなければならない。節約のため、籠城中は一汁一菜にすること。
物資の確保 / 敵が攻めてくると分かれば、仕えそうな物は全て城に入れること。運べない物は埋めたり、燃やすこと。敵に使われることを考えれば捨てた方が良い。薪や縄を欠かしてはならない。火を焚くことも物を運ぶことも出来なくなる。
武器の確保 / 器物は錫製、鉛製を選ぶと良い。いざという時に鉄炮玉に加工出来る。城内に鍛冶を入れると加工の役に立つ。籠城時には城壁を登ろうとする敵兵に、上から石をぶつけた。石を縄で縛り、城壁に吊し、必要に応じて縄を切る。こうすれば力の無い婦女子でも応戦出来た。
樹木の確保 / 樹木の実は食用になり、幹からは武具や薪を作ることが出来る。城内の樹木は葉や実が食用になる種類を選ぶ。竹は用途が広いため、竹藪も確保すること。大工がいると役に立つ。
視界の確保 / 城の周囲に樹木が生い茂っていると、敵の居場所が把握できない。周囲の樹木は切り払い、見通しを良くすること。 
城攻め
攻城戦には相応の覚悟が必要になる。籠城をすることで城兵の心が一つにまとまり、攻め手に大きな損害を与えることもある。城攻めの損害は領主の損害になるため、無理攻めは嫌われた。損害を少なくするために降伏勧告を行い、開城させることが多かった。
城攻めの際、攻め手は勢楼(井楼)という偵察用の櫓を築いた。高所から城内の様子を調べ、城攻めを優位に奨めたのだ。勢楼の上から鉄炮や矢で攻撃を仕掛ける事もあった。
攻め手は城兵の突撃を防ぐため、陣の周囲に堀を掘った。その際に土を盛って築山も造った。築山の上に俵に土を入れた物を置き、城方の銃撃を防ぎながら応戦した。築山の後ろでは藁で俵が編まれ、土を入れて前線に運ばれた。
城に向けて突撃する際、足軽は竹束を持ち、城の堀に到達すると大量の草を投げ込んで埋め立てた。草は土よりも軽く、運搬が容易なために埋め立てに用いられた。深い堀を何ヶ所も埋め立てる場合、城の周囲の草は刈り尽くされただろう。
総攻め / 城攻めの戦法。
力攻め / 城攻めの戦法。敵城を攻撃し、兵の武力で攻め落とす。力任せの戦法であり、味方の損害も多いことから下策とされた。城攻めは多くの死傷者が出るため、どの武将も嫌った。
巻攻め / 城攻めの戦法。敵城を包囲し、戦意を喪失させる。包囲されたからといって迂闊に攻撃を仕掛ければ、矢や鉄炮玉を浪費することになる。
蒸攻め / 城攻めの戦法。敵城を包囲し、持久戦に持ち込む。
兵糧攻め / 城攻めの戦法。敵城の食料供給を絶ち、絶食状態にする。
水攻め / 城攻めの戦法。敵城の水源を絶ち、渇水状態にする。鉱夫に坑道を掘らせ、井戸を破壊し、地下水を別の方向に流した。これにより、敵は井戸から水を汲む事が出来なくなり、乾きに苦しんだ。逆に攻城側の水源を絶つため、籠城前に周囲の井戸を埋めることもある。
灌流攻め / 水捌けの悪い低地に城を攻める場合に用いられる。周囲の河川の水を流し込み、周囲からの補給を絶つ。
火攻め / 城攻めの戦法。敵城に火を放ち、その部位を攻めることで城を落とす。強風の火に敵城に火矢を放つこともあったが、城側も警戒しているため成功しにくい。風上の民家や木材に火を放ち、城に燃え移るように誘導するとよい。消火のため城内の水を使わせることも出来る。城の燃えやすい部位には泥を塗ると良い。
仕寄 / 籠城側が城内に敵兵を入れ、逃げられないように退路を塞ぐこと。敵兵を包囲することが出来た。 
金堀
鉱山で採掘に従事する鉱夫は、その能力を買われて合戦に参加することがあった。武田家は金堀を統轄する金山衆を重視し、検地の対象から除外するなど特別な扱いを受けた。
永禄五年正月、武蔵松山城攻めの際、武田信玄は金堀に坑道を掘らせ、櫓二つを倒壊させた。その際、城方が籠城に備えて水を溜めていた大瓶が割れてしまい、水と共に大量の土砂が坑道に流れ込み、金堀の半数が死傷するという大惨事になった。
元亀二年正月、武田信玄は駿河深沢城攻めに金堀を参加させた。北条氏政は上杉家に書状を送り、戦況を伝えている。それによると北条軍は後詰のため正月十日に小田原を出陣したが、武田軍が金堀を使って本城の外張りを崩した。正月十六日、城主は後詰を待たずに降伏した。同年二月十三日、武田信玄の発給した印判状の中に、駿河深沢城攻めに参加した金堀に褒美を与えると記されている。
元亀四年正月、三河野田城攻めでも武田家の金堀は動員された。金堀は城の水の手を断ち、渇きに苦しんだ城兵は開城を余儀なくされた。
天正二年、武田勝頼も遠江高天神城攻めで金堀を動員。櫓を崩して開城させた。
天正三年五月、三河長篠城攻めでも金堀が動員されている。 
村の城
合戦が迫った場合、村では村人同士が大声で叫び合い、早鐘を突いて危険を知らせ合った。狼煙が焚かれることもあった。危険を知りながら見て見ぬ振りをした者は、後で村八分にされた。こうして村は即座に武装し、家財一式を移したり、「村の城」に逃れるなど状況に応じた対処が為された。
「村の城」は山や森に建てられた。材料は木や草などが使われ、簡素な建物だったと云われる。合戦が起こると、村人はその中に避難したのだ。乱妨狼藉から逃れるため、村人は村の周囲を掘で囲むこともあった。このように村は自衛のための陣地を構築し、合戦に備えていたのだ。
戦火から逃れるためとはいえ、村人が武装をして山に逃れることを領主は嫌った。攻める側からすれば、それは一種の敵対行為に映る。そのため村人は鹿狩りのため武装して山に入った、などと大名に偽りの報告を行い、敵対行為と見なされないように注意した。
神社や寺院は公界と呼ばれ、聖域として攻撃の対象から除外される傾向にあった。そのため、合戦、村人の避難場所になった。当時の考えでは、寺社の敷地に一度埋めた物は神の所有物となり、誰の物でも無くなる。そのため、神が物を守ってくれるという信仰が生まれた。百姓は寺社に家具などを預けたり、敷地に埋めるなどして家具を戦火から守ろうとした。 
 
勝敗の行方

 

勝利
戦争における勝利とは戦闘で敵軍に多大な損害を与え、戦闘意欲を喪失させ、降伏に追い込むことである。敵が降伏すれば政治的要求、例えば領地の割譲などを強いることが出来る。無論、合戦で敵の大名を討つことが出来れば決定的な勝利が約束される。
戦闘で敵軍に与えた被害が小さければ、敵は戦闘意欲を失わない。降伏をしたとしても、過度な要求を突きつければ再び戦争になる。逆に敵軍に与えた被害が大きければ、相当な要求が可能になる。敵は戦力と戦意を喪失しており、要求を拒むことが出来ない。
合戦に勝利すると、大名は部下に乱取りの許可を出した。
大名は合戦の勝利を祝うため、祝宴を開いた。酒の酌をする者は紙をこより、それで髪を結ぶ。大将は土器に、一杯につき四度つがせ、計十六度分を呑んだ。
肴は「討ち勝って悦ぶ」の縁起から打鮑、勝栗、昆布と決められていた。飲み終わったら三度、勝ち鬨を挙げた。これは副将の役目である。その後、軍監が敵兵の首に向かい引導を渡した。
新たな領土を得た大名は村に禁制を発して支配権を確認した。その際、自軍の兵に対し、逃げ出した村人が村に還住するため乱妨を働かないよう命じた。村人が村を離れる事は逃散と見なされ、領主である大名への反逆と考えられていた。
大名は村人の還住について安全を保証し、罪を問わないと伝える必要があった。そうでなければ村人は村に戻れず、大名は課役や年貢を得る事が出来なくなる。また、敵対する大名に禁制を求めるなどの行為があった場合、それを不問にすると伝えることもあった。 
敗北
降伏を示す方法は特に統一されていなかった。一般に城から笠を上げたり、振ることが、降伏の意思表示だったようだ。この笠がかぶる笠なのか、手で差す傘なのかまでは判別出来ない。降伏の後に敵将に城を明け渡して退去したり、敵に捕縛された。
籠城戦の場合、城主や守将の自刃と引き替えに城兵の助命が行われることがあった。助命された城主も、剃髪するなど降伏を意志を示した。
敗走の際、大名を助けるため身代わりになる家臣がいた。家臣は大名の着用していた甲冑を借り受け、本隊と別方向に逃れる事で敵を引きつけた。
恭順の意志を示すため、伝来の家宝を差し出すことがあった。また、子女を人質として差し出すこともあった。 
略奪と強姦
敗北した側の将兵の末路は悲惨である。敗走する落ち武者が村に入った場合、村人はこれを討ち取って手柄にした。これによって勝利した大名に敵意が無い事を示したのだ。また、落ち武者の持ち物は奪い取られた。敗走する足軽は身軽になるため具足を脱ぎ捨てた。そのため追撃を受けると大量の死傷者を出した。川が有れば我先にと船に乗り、その重みで船が沈む事もあった。女性がいれば身分の貴賎を問わず強姦され、衣服を奪われ裸のまま放置された。そのまま拐かされ、下女や遊女として売られることもあった。 
戦功

 

手柄
武将も足軽も討ち取った敵の首を持ち帰ることで、戦功を証明した。取った首は首袋という綱で出来た袋に入れたり、紐で体に結び付けた。騎馬の場合、鞍に結び付けた。敵兵の衣装も剥ぎ取り、首を包んで運ぶこともあった。
首の代わりに鼻や耳を取ることもあったが、鼻には髭がついていることから男女の区別がつけやすく、こちらが多かったようだ。ただし、髭がなければ女の鼻と思われるため、必ず上唇ごと削ぎ落とした。鼻は甲冑の鼻紙入れに入れたようだ。
他にも倒れた味方を安全なところまで運んだり、取られた味方の首を取り返すのも手柄となった。
首注文 / 将兵の取った首を書き記した台帳。これを基に恩賞が与えられた。
参戦 / 合戦に参加すること自体が恩賞ものだった。
負傷 / 負傷の程度に応じた金、土地を与えられる。
討死 / 遺族に金、土地が与えられる。また、後継者の所領も安堵された。
一番槍 / 合戦で真っ先に敵陣に突撃をかけ、それに成功した者。大手柄で、有名な賤ヶ岳七本槍もこれだった。同じく二番槍や、撤退時に一人で敵を引きつけた者も一番槍並みに評価された。
槍脇 / 槍を持って戦う者を援護すること。首を取ったことを証明する証人が必要だったが、多くはこの槍脇の者が証人となったのだろうか。または、槍合わせの末に首を取ったもの。
一番首 / 真っ先に本陣に運ばれた首。一番という縁起をかつぎ、首の身分を問わず高く評価された。一番槍、二番槍と同様に二番首もあった。
大将首 / 文字通り大将格の首。合戦を左右するため高く評価された。しかし、実戦派は大将の首が取れるのは敵が負けたときだけとして、さして大きな手柄ではないと考えていた。
数首 / 足軽の首。この中に名のある武士の首が入っていることもあって、それを見分けるには注意が必要。武田勝頼の首も数首に紛れていたという話が伝わっている。
子細首 / 合戦の原因になった者や、援軍などの理由で自軍を苦しめた者の首。
高名組打 / 身分の高いものと戦い、その首を取る。当然ながら、大きく評価された。
色附 / あらかじめ剛勇名高い敵や、目立つ敵を討つと予告しておき、その通りに討つ。
場中ノ功名 / 場中ノ勝負とも。弓や鉄砲で撃たれた敵を、その最中に飛び出していって討つ。
後殿 / のことで、難しいことや討たれる確率が高くなることから、見事にやり遂げれば大きく評価された。上杉家の甘粕景持は、川中島合戦での殿軍を見事にこなし、敵味方から賞賛された。撤退時に大将に附いて守る将附もあった。逆に敵を追撃する味衆も評価された。
崩れ際 / 味方が勢いづき、敵が崩れていくときに首を取るもの。または味方が崩れかかったところを助けるもの。姉川合戦での榊原康政などが有名。近いものとしては、敵との押し合いで押し勝つ小返があった。
討捨て / 大事な合戦であったり、合戦が疎かになったりするので首を取らないように命令が出る。この場合は上役が部下の手柄を正確に把握する必要があった。ちなみに討捨ての命令が出ても、首を取る者はいたようだ。
死に首 / 自ら敵を討つのではなく、すでに死んでいる敵の首を取るもの。死んでいるので大将首でも褒められはしないが、場合によっては仕方がない。これが場中ノ功名によるものならば評価された。
追首 / 総崩れした敵を追い、首を取る。崩れ際が進んだ状態で、これは逆に手柄とはされず、むしろ取っても意味はないという意見すらあった。さらに逃げまどう下人などを討つのは手柄どころか卑怯者とされた。
小児ノ首 / 子供の首。これで恩賞を貰おうなどとすれば非難を浴び、罰せられた。女首も同様だが、美貌の小姓の首は女性と見分けがつきにくく、それが論議になることがあった。
奪首 / 他人の取った首を奪うもの。拾い首に近い。もしくは、置いてあった首を奪うもの。これは厳罰に処せられた。
拾首 / 倒れた敵から首を取るもの。これは手柄とするかの区別がつきにくいが、味方が倒れ、持っていた首を拾って自分の手柄とすることや、もしくは落ちている味方の首を敵の首と偽るものは罰せられた。
病首 / 合戦後、怪我や病気で動けなくなっている者の首。動けない者を討つのだから、これは卑怯者の行為とされた。
味方討 / 同士討。文字通り、味方を討っておきながら、それを敵と偽るもの。発覚すれば妻子まで処罰された。
作り首 / 身分の低い者の首に、身分のありげな兜をかぶせること。これで身分の高い者を討ったことにした。 
供養

 

首実検
合戦の勝敗は運で決まり、討つときもあれば討たれるときもある。だからこそ、武将は首に礼儀を尽くすことを重んじた。
「甲越軍記」によると、上杉家では大将が敵の大将首を見ることを「首対面」と呼んでいた。甲冑を帯びた武士の首であれば「首実検」、足軽の首であれば「見知」と呼んだ。
「中原高忠軍陣聞書」は敵の大将の首を挙げた場合、大将は乗馬の蔵の左側に首を付けて運んだと記している。
首を水で洗い、腐敗防止と清めのために切断面に塩を塗り込む。これを塩漬けと言う。首を運ぶ時、酒に浸すこともあった。
以下は「武者物語」に記される首実検の様子である。
戦場の場で首を大将に見せるときは、首を布で隠し、弓を下に置く。その弦を大将の方に向け、それから首を見せる。首を隠し、弓を持って退出する。首は身分の低いものから洗い、髪を結う。身分の高い者ならば、櫛でとかし、こよりで結う。名もなき首は、左ないの縄を一尺四寸にし、髪をしばる。こま結びとして端を引き締め、輪はつくらない。
首を大将の元まで運ぶ者は、兜をかぶせず、両側の耳の穴に指を差し込んで持ち、首を板の上に置く。ひざまずきながら首の右横顔を大将に見せる。この板は、幅八寸四方で作られ、角は丸く加工されていた。材質は栴檀の木が使われた。古来より栴檀は晒し首を乗せる板に使われていた。首を入れる器には蓋があり、そこに氏名、官職などを楷書で記した。
身分のある者の首は、首桶に入れ、その蓋に氏名を記し首には札をつけない。首桶の周りにはお経、念仏などを記す。桶の高さは一尺五寸。口の直径は八寸。蓋の上には卍を記す。二枚の布を縫い合わせたもので桶の上を結ぶ。木棒の矢(棒型で先を平らに切り落とす)を一本、その上にさしておく。首につける札は、長さ四寸、幅七分。先を将棋の駒のように尖らせ、紐をつけて、左の耳ぶにくくりつける。これに氏名などを記す。
大将の身につける物は、鎧(小具足も可)、扇、刀、太刀。床机の上に熊や虎の皮を敷き、それに腰掛ける。そして、右手で太刀の柄を持ち、太刀を少し抜きながら、左目で首を見る。これは横目であり、気持ちは敵と相まみえるかのように。左足を右足で踏み込むようにする。略儀では立ったままでおこない、内容は同じである。首の左右には、小鳥の羽を使ったかぶら矢を二本立てる。
首から四尺離れた所に弦の張った弓を置き、そこから一丈離れた所に大将がいる。大将が午年生まれでない場合、午年の者を大将と首の間に立たせ、「むら重藤の弓」を持たせる。この「重藤の弓」は、大将の持つ弓で、漆塗りの弓に藤を多くの箇所の巻いて飾った物。むら重藤はその数が少ない物。大将の左右に立つ者は、鑓をかまえ、太刀を抜き、鎧に身を包む。大わらわ(兜をつけるときの姿で、髪をほどいておかっぱ状にする)となり、同じく合戦に臨むような気持ちを持つこと。注文(首の説明)を読む者は、家中に一人と決まっている。大将の右側で読み上げる。
首実検の際、次の呪文を唱える。「諸悪本末無明来実験直儀可処有南北(しょあくほんまつむみょうらいじっけんちょくぎかしょゆうなんぼく)」。意味は不明である。だが、この呪文により成仏し、祟りを受けることがなくなると云う。略儀であっても、呪文は唱えること。
恨みを抱いた首は、目は左寄りで顔をしかめ、歯咬みしているという。こうした首は祟りを避けるためにも、首供養をしなければならない。
首は自分の城に入れてはならない。怨霊による祟りを恐れたためである。首の数が多くとも、そのなかで身分が高い首を七分、八分見ればよい。
首には五つの種類があるという。「右眼、左眼、天眼、地眼、仏眼」である。眼がつくことから、目で見分けるのだろう。
こうして首実検が終わると、運んできた者は板ごと首を持ち、左に回って退出。大将は扇を二度、三度動かした。その後、大将は酒を呑み、首実検をした者を一人召し寄せ、盃を与えた。その際の肴は、帰陣の際と同じ並べ方にした。 
首供養
敵兵は恨みを抱いたまま死んでおり、供養をしなければ怨霊になって祟りを起こす。そのため、大名は敵兵の供養を行った。天正十二年六月二十八日、島津家は耳川合戦大友軍戦没者の七回忌大施餓鬼供養を行った。
首供養は首三十三個ごとに行われた。首九十九級であれば、三度の首供養が行われた。
首を敵側に送り届けるときは、すずし(薄い生糸の織物)を二尺、二枚縫いつけて、その上に首を置く。四隅を重ねて結び、首桶に納めた。
首は山や川に捨てられた。首を捨てるときは、死喚の方角(詳細不明、陰陽五行説の方位か)に捨てる。方角は日によって異なる。子馬卯酉の日であれば、卯の方角から九つ目の亥(北西、北北西の間)。丑未辰戌の日は、辰の方角から九つ目の丑(北東、北北東の間)。寅申巳亥の日は、巳の方角から九つ目の寅(北東、東北東の間)。この方角に首を運び、さらし首にする。
この儀式を行うと味方に敵対する者が全て呼び寄せられ、道連れにされると考えられていた。死喚の方角に悪人がいるときは、これを討ち、その首を卯、辰、巳の方角から九つ目の所に捨てる。
首は生前に罪があれば、その大小を勘案し、場合によっては引き回しや獄門に処すことがあった。
将軍、公家の首を獄門にかける場合、板は栗の木を使う。栗の木が無ければ、梨の木を使う。大将首は母衣に包んでかけるが、これを仏陀がけと言う。多くの首を獄門にかけるならば、左に首の木、右に梨の木を立て、合歓(ねむ)の木を横に渡して首をかける。
縄は箙(えびら / 矢を入れ背に負う器)の上帯を用いる。箙をしていないときは、鉢巻、鎧の上帯でも可。
首を乗せる台は、身分の高い者ならば公卿(高い脚のついた三宝のようなもの)に、低い者ならば足打折敷(低い脚のついた角盆)に乗せる。 
滅亡と再興

 

滅亡
大名の軍勢は様々な要素で構成されており、一つでも要素が欠ければ戦争の遂行は不可能になる。欠けた要素は弱点になり、大名を滅亡に追い込んでいく。名将も運に見放されては敗北する。名家であっても後継者に恵まれなければ衰退する。経済力が無ければ戦争継続は不可能である。有能な家臣も、忠誠心や志気が低ければ従わせることが出来ない。将兵の数が多くても、武装が貧弱では戦えない。堅固な城に籠もっても、食料が無くなれば降伏するしかない。同盟を結んでも破棄されてしまっては意味がない。自身の弱点を把握し、それを克服しようと研鑽を積むことは大切である。しかし、弱点を克服するには多大な時間と労力が必要になる。それ以上に努力をしても、運を常に味方につけることは不可能である。そのために多くの大名が滅亡を余儀なくされたのだ。 
再興
長宗我部兼序の嫡子千雄丸(国親)は一条氏に養育され、滅亡した長宗我部家を再興した。これは大変に幸運なことであり、長宗我部家はそのまま滅亡しても不思議ではなかった。 
 
戦国時代の終焉

 

戦国時代とは「内乱の時代」である。内乱とは中央政府の権力が弱体化し、地方の出先機関が行政刷新、地方分権、独立などを掲げた時に発生する。
足利幕府は六代将軍足利義教の死後、形骸の一途を辿った。朝廷はその経済力を幕府に頼っており、幕府の衰退によって経済的に窮乏。その結果、朝廷も幕府も戦乱を止めることが出来なくなってしまった。戦乱は途絶えることなく続き、遂に日本全土に広まった。
不安定な政治情勢の中、各地ではより強大な軍事力や経済力を得るため、大名同士の合戦が続発。無能な主君に従うことに危機感を抱いた家臣は、合議の上で主君を追い落とし、自ら大名にのし上がった。下克上である。
内乱を終わらせるには、中央政府が軍事力で地方を従えるか、地方が軍事力で中央政府を滅ぼすしかない。全国規模の戦乱は強大な権力、軍事力、経済力を持った下克上の世の寵児豊臣秀吉が終息させた。
徳川家康は豊臣秀吉の死後、豊臣秀頼に対して最後の下克上を実行。最終的に大坂夏の陣で豊臣秀頼を討ち取った。この頃になると徳川家に刃向かう大名は存在せず、内乱は完全に終息。戦国時代は終焉を迎えた。 
戦乱の拡大

 

永享の乱
永享十年、大和国多武峰で越智氏、箸尾氏が幕府に背いた。これに大覚寺門跡義昭(足利義教弟)が加勢。後南朝から皇子を戴いた。幕府は足利持氏討伐のため兵を送り、同時に大和平定の綸旨も発給された。世阿弥の一族は越智氏に荷担しており、これが原因で世阿弥は足利義教に追放されたと云われる。永享十年八月、鎌倉公方足利持氏が幕府に背いた。これにより「永享の乱」が勃発した。足利義教は足利持氏が大和の乱に関与したとして、後花園天皇に治罰の綸旨の発給を要請。八月二十八日付で大和平定、持氏討伐の綸旨が発給された。当初、綸旨発給は秘されていた。九月、足利義教は能筆家世尊寺行豊に命じ、錦の御旗の銘を書かせた。 
戦国時代の遠因嘉吉の変
嘉吉元年六月、六代将軍足利義教が播磨守護赤松満祐に殺害された。「嘉吉の変」である。管領細川持之は、赤松氏を朝敵として綸旨を発給するよう朝廷に要請し、受理された。しかし、錦の御旗は発給されなかった。権大納言万里小路時房は「建内記」に、「足利義満の時代には綸旨発給の要請が度々あった。しかし、足利義満の時代の末頃、応安年間や康暦年間以降から綸旨の要請がなくなった。これは大変によろしくない」と記している。 
乱発される治罰の綸旨
嘉吉三年十一月、大和の筒井光宣を討つため、幕府は朝廷に治罰の綸旨の発給を要請。文安二年正月、赤松満政討伐のため、治罰の綸旨が出される。 
畠山義就討伐の綸旨
寛正元年閏九月、畠山義就討伐のため、治罰の綸旨が出された。畠山義就は討伐軍に攻められ、河内岳山城に籠もった。 
後土御門天皇の御即位
寛正五年、後花園天皇が御譲位。御土御門天皇が御即位遊ばされた。 
文正の政変
文正元年、政所執事伊勢貞親、蔭涼軒真蘂が失脚。「文正の政変」である。文正元年十二月二十日、後土御門天皇の大嘗会が行われた。これは細川勝元と山名宗全の合戦を予感した上皇が急がせたものである。十二月二十五日、畠山義就が入京し、千本閻魔堂に布陣した。 
応仁の乱
応仁元年正月、朝敵であった畠山義就が赦免される。これにより、畠山義就は河内、紀伊、越中守護に復帰。一方、管領畠山政長は失脚し、斯波義廉が管領に就任した。畠山政長は相国寺の北、上御霊社の森に布陣。山名宗全は上皇と天皇に室町第への動座を求めた。畠山政長討伐のため、治罰の院宣が出される。大納言日野勝光は綸旨発給の功から内大臣に昇進。応仁元年正月二十日、上御霊社合戦が起こり、畠山義就は畠山政長を破った。畠山政長は摂津に敗走した。五月、細川勝元が室町第を占拠。畿内一帯は細川家、山名家による全面戦争に突入した。「応仁の乱」である。応仁元年六月一日、細川勝元は武家の幡、治罰の綸旨の発給を要請。日野勝光は将軍足利義政に対し、守護間の私闘に武家の幡を発する必要はないと進言。武家の幡が発せられないと知った細川勝元は激怒し、日野勝光を誅殺しようとしたと云う。 
後花園上皇の苦悩
応仁元年六月十四日、後花園上皇は応仁の乱の責任は、畠山政長討伐の院宣を発した御自身にあると嘆かれ、出家の意志を実弟貞常親王に伝えた。上皇は手紙の中で自らの不徳を悔恨している。
「今度世上大変の事、時刻到来とは申しながら、尚々驚き嘆き入り候次第にて候。それにつき候ては、予あらましの事、年来の本望にて候えども、在位の間の事は、兎角堪忍を致し候。御代始め大義共、悉く申沙汰し候。今に於き候てはその執心候わぬ所に、かゝる大乱出来し候。いよいよ人間の交無益千万の事にて候程に、近日風度捨世の本意を遂げ候べき心中にて候」
(この度の戦は時の流れとはいえども、ただただ驚いています。出家は私の本望ではありましたが、在位していたときはそれを忍んでいました。(御土御門天皇の)御代の始めの儀式を行うことが出来ました。今となると俗世への執心など無いとろこに、このような大乱が起こり、いよいよ世俗との関わりと断とうと思いまして、出家の本意を決めました)
「日来の本望にて候上、当御代の始に当り候てかようの珍事出来し候事、人目じちも旁た面目無き次第にて候。万一漏脱の儀候ては、武家より定めて抑留申し候わんずる。口惜しく候。無上菩提の妨になり候わぬ様に、いかにも御隠密にて御了簡肝要にて候。かしく」
((出家は)年来の本望であり、御代の始めにこのような事が起こってしまい、ただただ恥じ入っております。(出家の意志が)万が一にも漏れては、武家が押し止めようとします。そうなっては口惜しいことです。無上菩提の妨げにならないよう、くれぐれも内密に御了解ください。お願いいたします)
大乱勃発の責任を取るため、後花園上皇は出家の決意を固められた。一方、将軍足利義政は大乱を調停する事が出来ず、戦禍を広げてしまった。 
後花園法皇の停戦への祈り
応仁元年七月六日、伏見宮貞常と関白一条兼良が使者となり、幕府に動乱平定を命じた。しかし、細川勝元はこれを無視した。
応仁元年七月九日、三宝院門跡義賢と前内大臣正親町三条実雅が使者となり、再び幕府に動乱平定を厳命した。
応仁元年八月、西軍に属する大内政弘が海路、畿内に入った。細川勝元は上皇と天皇に室町第への動座を求めた。後花園上皇は室町第にて密かに出家。法皇となられた。幕府は法皇に討伐の綸旨の発給を求めるも、法皇はこれを断固として拒否なされた。
応仁元年十月三日、法皇は両軍和睦のために天下静謐の院宣を寺社に発給。神仏に天下静謐の祈りを捧げよと命じられた。さらに東西両陣に勅使は派遣なされ、和平せよと命じられた。しかし、細川勝元は先の院宣の天下静謐とは山名宗全を討つことであるとして、東軍諸侯を鼓舞した。
応仁二年十二月、西軍足利義視討伐のため、治罰の院宣が出された。法皇は長引く戦乱を終わらせるため、遂に東軍に院宣を出されたのだ。将軍義政、朝敵足利義視討伐を諸侯に命じる。 
後南朝残党討伐の綸旨
文明二年四月、後南朝残党討伐のため、治罰の綸旨が出された。文明九年九月二十八日、畠山政長は畠山義就を討伐するため、綸旨の発給を足利義政に求めた。伝奏広橋兼顕はこの件を天皇に奏上。畠山義就に後南朝残党討伐のため、治罰の綸旨が出される。この綸旨は畿内の寺社や伊勢北畠氏に宛てられた。 
大内政弘の朝廷政策
文明十年、大内政弘は亡父教弘へ従三位を追贈するため、前関白一条兼良に献金を行った。文明十一年六月、大内政弘は使僧文蔵主を京に送り、亡父教弘への従三位追贈を一条兼良に催促した。七月二日、文蔵主は弁官局壬生晴富に大内政弘の書状を渡した。文明十一年九月二十九日、壬生晴富は女官を通じて天皇に、大内教弘への従三位追贈を奏上。天皇は幕府を通じて申請するよう命じた。これを受けた大内政弘は日野富子に献金し、追贈の件で足利義政の説得を依頼した。しかし、足利義政は将軍以外に従三位になった武家はいないとして、これを拒否。十月八日、文蔵主は壬生晴富に追贈の件は断念すべきかを相談した。 
畠山義就討伐の二度目の綸旨
文明十五年八月、畠山義就討伐のため、治罰の綸旨が出された。 
六角高頼討伐の綸旨
延徳三年八月、足利義材は公家領を横領した前近江守護六角高頼を討伐するため、治罰の綸旨と錦の御旗の発給を要請。発給が受理された。一大名を討つために綸旨と御旗が同時に発給されたことは異例である。 
明応の政変
明応二年、細川政元は将軍足利義材を追放し、新たに足利義澄を擁立した。「明応の政変」である。越中に逃れた足利義材は、越前朝倉氏らの協力を得るも、入京に失敗。周防の大内義興の下へ逃れた。そのため、北陸地方や中国地方では細川政元の横暴に怒りが高まり、足利義材も周防から諸大名に細川政元と戦うよう呼びかけた。 
後柏原天皇の即位
明応九年九月、後土御門天皇が崩御。勝仁親王が践祚され、後柏原天皇として即位なされた。朝廷は後土御門天皇の火葬を行うため、大葬費を幕府に要請した。しかし、幕府からの献金は遅れに遅れ、漸く十一月七日に百貫が献上された。それまでの四十三日間、後柏原天皇の御遺体は内裏に安置されていた。十一月十一日、泉涌寺で後柏原天皇の御遺体が火葬された。 
延期される即位の大礼
文亀元年三月、後柏原天皇は即位の大礼を挙行するため、足利義澄や伊勢貞陸に即位費の支出を命じた。五月、細川政元は隠居を考え、家臣安富元家の屋敷に入るなど中央の情勢は不安定だった。文亀元年六月九日、前将軍足利義材を匿う大内義興を討つため、治罰の綸旨が出された。これは義材が諸侯に政元討伐を命じたため、庇護者の大内義興を討とうとしたものである。綸旨を宛てられた大友親治、義親父子は僅かに兵を進めただけであった。文亀元年閏六月、即位惣奉行摂津政親は諸国の守護に宛てて、大奉幣米段銭と即位要脚段銭の徴収を命じた。文亀元年七月二十三日、大友軍、豊前馬岳城合戦で大内軍に敗れた。八月十日、細川政元は安芸や石見の士豪に大内征伐を促すも、兵は集まらなかった。治罰の綸旨の効力は薄れていた。
当初は文亀元年十二月二十三日に即位の大礼が予定されていたが、献金が集まらずに延期となった。 
若狭の一揆
文亀二年二月十六日、朝廷は献金不足は細川政元の責任と批判し、政元の分国から段銭を徴収するよう命じた。しかし、二月十七日、細川政元は足利義澄と対立し、逼塞してしまった。若狭守護武田元信は段銭徴収に積極的だったが、そのため若狭では武田元信への怒りが高まっていた。事態を重く見た朝廷は、禁裏料からの段銭徴収だけ免除させるため、三条西実隆らが交渉に動いた。しかし、文亀二年六月、若狭で段銭徴収に反対する一揆が発生。若狭武田氏の一門が一揆勢に殺害されるという大事件に発展した。朝廷は萎縮し、即位の礼は遅延することになるが、少しずつ献金を集めようと考えるようになった。 
細川政元の諫言
文亀二年八月、細川政元は酒宴中に足利義澄に諫言を行おうとした。しかし、足利義澄が諫言を聞こうとしなかったため、細川政元は激怒して途中退席。同月、細川政元と不仲になった足利義澄は岩倉金龍寺に逃れた。この頃、足利義澄は参議中将への任官を希望し、前関白一条冬良に働きかけを行っていた。しかし、任官に際しての拝賀奏慶には多額の費用が必要になる。そのため、費用を支出することになる細川政元は激怒し、高い官職を得ても家臣が臣従しなければ意味がないと諫言した。朝廷も後柏原天皇の即位の大礼を行おうとしているが、足利義澄と同様、実質が伴っていなければ無意味であると言い放った。こうして参議中将任官は中止され、即位の大礼の延期となった。
文亀三年五月、即位の大礼のため、細川政元の分国摂津から朝廷に百八十貫の献金が行われた。 
大内義興の上洛
永正四年、大内義興が足利義材を擁立して上洛するという噂が京を飛び交った。永正五年四月、十一代将軍足利義澄は大内軍を怖れて近江甲賀に逃れた。
永正五年六月、大内義興が入京。足利義材が将軍に還任し、足利義尹に改名。大内義興は後柏原天皇に対し、文亀元年の治罰の綸旨の件で事を荒立てることはしないと奏上した。
永正五年七月、大内義興帰国の噂が流れた。大内義興の武力が無くなれば、足利義澄が京に攻め込むことは確実である。天皇は三条西実隆に宛てて「天下の一大事にて候」と伝えた。関白近衛尚通も「天下一変すべし」と危惧した。
永正五年七月二十一日、天皇は女官を通じ、大内義興の昇進の内意を三条西実隆に伝えた。八月、大内義興は従四位下に昇進。九月、大内義興は天皇の命により従四位上に昇進。大内義興は御礼として天皇に太刀と銭百貫、三条西実隆に太刀と銭二十貫などを献上した。 
足利義尹の忠節
永正六年三月、将軍足利義尹は内裏にて小番参仕を勤め、天皇を大いに喜ばせた。永正七年、将軍足利義尹は後柏原天皇に即位の大礼を挙行することを誓い、朝廷では即位伝奏が決められ、職員定が行われた。永正七年末、朝倉孝景が即位の大礼のために銭五百貫を献上した。永正八年四月、即位の大礼のために千貫近い献金が蓄えられていたが、伊勢神宮内宮仮殿の造営のために八百貫が使われた。これにより、献金集めが再び行われるようになった。 
大内義興の昇進とその批判
永正九年三月、大内義興は従三位に昇進。大内義興は天皇に太刀と銭五十貫、三条西実隆に太刀と銭十貫を献上。しかし、実隆は自身の日記に田舎武士が上階を所望したと記し、その段取りをしたことを愚かしい、非難されても仕方がないとしている。 
進まない大礼の準備
永正十二年二月、後柏原天皇は将軍足利義稙に本年中に即位の大礼を挙行することを厳命した。しかし、即位の大礼は延期された。永正十四年十月、将軍足利義稙は即位の大礼の費用の献上を約束したが、その年に実施されることはなかった。 
大内義興の帰郷
永正十五年、大内義興が周防に帰国した。十一月、足利義稙は即位の大礼のため千貫を朝廷に献上。 
足利義稙と源氏の長者
永正十六年、足利義稙は源氏の長者となった。この時、源氏一門で最も官位の高い者は従二位大納言久我通言であったが、従二位権大納言の足利義稙が長者となった。 
細川澄元の決起
永正十六年十月、漸く即位の大礼の日程が決まった。しかし、足利義稙は費用不足と細川澄元の決起を理由に大礼の延期を求めた。後柏原天皇は激怒され、足利義稙に大礼を絶対に延期しないよう厳命した。しかし、足利義稙が細川澄元との合戦のために出陣すると、即位の大礼は延期されることになった。鷲尾隆康は日記に後柏原天皇が大変に憤慨なされていると記した。 
足利義稙の追放
永正十七年、細川澄元は摂津で細川高国と交戦。これを破った。三月、阿波から三好軍が上陸し、入京した。五月、細川高国は京から三好勢を駆逐。しかし、足利義稙が細川澄元と結び、細川高国と対立するという事態に発展。八月、即位の大礼が予定されていたが、十月に延期された。十月、即位の大礼は翌年三月二十一日に延期された。大永元年三月七日、将軍足利義稙は細川高国に京を追われ、数人の近習と共に淡路に逃れた。 
後柏原天皇の即位の大礼
大永元年三月二十日、細川高国は宮中に入り、後柏原天皇の警護を勤めた。三月二十一日、遂に後柏原天皇の即位の大礼が挙行された。必要とされた費用三千貫のうち、約二千貫は幕府が用意した。即位の大礼を挙行することが出来なかった天皇は、九条廃帝(懐成王)のみである。後柏原天皇はこうした先例があるため、何としても即位の大礼を挙行しようとしたのだ。なお、明治維新以降、九条廃帝は仲恭天皇という諡号を追贈されている。 
武田元信の昇進
大永元年十一月、若狭守護武田元信が従三位に昇進。天皇に銭五十貫、外記局に二貫を献上した。 
細川高国の武蔵守任官
大永元年十二月、細川高国は従四位下武蔵守に任官。細川家当主は細川頼之以来、将軍拝賀や判始(新将軍が初めて御教書に花押を書く儀式)などで武蔵守を名乗った。細川高国は十二代足利義晴の将軍拝賀に伴い、武蔵守に任官された。この任官により、細川高国の細川家相続の正当性が強調された。東坊城和長は官途奉行摂津元造が細川高国の任官に関わっていないことを非難。従四位下は三条西実隆を通じて直奏し、武蔵守は幕府が直奏した。これらは官途奉行を通さない行為で、先例がないと言う。細川高国は御礼として天皇に銭百貫を献上した。 
後奈良天皇の即位
大永六年四月七日、後柏原天皇が崩御なされた。天皇は生前、即位の大礼は挙行出来たものの、大嘗会を行うことが出来なかった。大嘗会を行う事が出来なかった天皇は、崇光天皇以来、二人目である。同日、将軍足利義晴は関白近衛尚通に対し、後奈良天皇の即位の大礼の費用について相談している。四月十四日、幕府は葬礼伝奏甘露寺元長、諒闇伝奏中御門信、践祚伝奏万里小路惟房と共に後柏原天皇の葬儀の費用について相談した。朝廷は葬儀に千貫が必要と訴えたが、幕府は六百貫しか支払うことが出来ないため、葬儀も即位の大礼も延期された。
四月二十九日、践祚の儀式が行われた。五月三日、後柏原天皇の葬儀が行われた。皇室の菩提寺である泉涌寺は葬儀のため献金に奔走したと云う。 
細川晴元の挙兵
大永六年八月、細川尹賢と香西元盛が合戦を起こした。細川高国が香西元盛を殺害すると、香西元盛の一族である波多野氏や柳本氏は激怒し、細川高国に対して蜂起。細川澄元の子晴元も挙兵した。
大永七年二月、細川晴元に属する三好元長は阿波から京に侵攻。足利義晴と細川高国は近江に逃れた。 
北畠材親の昇進
永正七年十月、伊勢守護北畠材親は大納言に任ぜられた。北畠材親は天皇に銭二十貫、三条西実隆に銭五貫を献上した。 
細川高国の死
享禄四年、細川高国は天王寺崩れで討死した。 
昇進に失敗した大名
天文四年七月二十一日、能登守護畠山義総の使者が修理大夫の官位を申請。同月二十二日、美濃守護土岐頼芸の使者も修理大夫の官位を申請した。しかし、畠山義総は樽代十貫、土岐頼芸も銭十貫しか献上しなかったため、共に拒否された。 
阿蘇惟豊の昇進
天文十八年八月、阿蘇惟豊は従二位に昇進。御礼として天皇に銭百貫を献上した。 
 
天下人の政権構想

 

豊臣秀吉はなぜ、征夷大将軍にならなかったのか。その理由として、古くから血統上の問題から将軍になれなかった云われている。征夷大将軍になるために足利義昭の養子になろうしたが、断られたという俗説さえある。そのため、仕方なしに藤原氏の養子として関白に就任したと云うのだ。
この話は新井白石の創作した俗説らしい。豊臣秀吉の偉大さは誰もが知っている。しかし、徳川家の御用史家新井白石としては、何が何でも徳川家康を豊臣秀吉の上に置かなければならない。そこで、豊臣秀吉でさえなれなかった征夷大将軍に徳川家康は就任した、いう話を創ったのだ。
源頼朝、足利尊氏、徳川家康と源姓の武家が将軍に就任して政権を樹立したため、源姓の将軍こそ武家の頂点という印象を受ける。
では、そもそも源姓とは何なのだろうか。源氏以外に征夷大将軍はいなかったのだろうか。
また、あまり注目されないが徳川家康は源氏の長者となっている。これはどの様な地位だったのだろうか。
これらの点について考察し、戦国時代の終焉を考える上での補助としたい。 
賜姓
嵯峨天皇は五十人もの子供をもうけた。彼ら全員を皇族としては財政不足になるため、新たに「源姓」を与えて子供を臣下とした。
弘仁五年五月八日、嵯峨天皇は皇子の信、弘、常、明、貞姫、潔姫、全姫、善姫に源姓を与えた。
承和二年、仁明天皇は父嵯峨天皇に倣い、皇子に源姓を与えた。
このように天皇から姓を賜ることを「賜姓」と言う。源とは「源を天皇とする」という意味であり、源氏は皇族に準じる格式であった。読みが「水元(みなもと)」に通じるため、源氏の氏神は石清水八幡宮となった。
姓は数代を経た皇族に与えられ、その子孫のみが姓を受け継ぐという伝統があった。そのため、同姓であれば系図を遡ると祖先が同じであると確認することが出来た。
しかし、源氏の場合、同じ姓であっても祖が同じとは限らない。複数の皇子が源氏を称しており、蘇我源氏だけでも数名の皇子が祖先として存在していたのだ。
源氏は天皇から親王に与えられるという特性を有していた。一方、平氏は二世代から三世代を経た皇族にのみ与えられていた。そのため、仁明源氏と仁明平氏、文徳源氏と文徳平氏などのように、祖を同じとしながら姓を賜った時の代数で家格が左右されることがあった。
後に平氏、源氏が権力を有したために誤解しがちだが、当初の両氏の地位は決して高くはない。多くの源氏、平氏は都での出世が望めず、荘園からの収入を得るため地方に移った。関東で平氏が力を持ったのはこのためである。
特に文徳天皇の血統である清和源氏、陽成源氏は、後に皇統が光孝天皇の血統に変わったために冷遇された。これは平氏も同様である。賜姓源氏は村上源氏を除いて公卿の地位を失っていったのだ。
元慶八年二月、光孝天皇が即位。仁和三年八月二十六日、光孝天皇は崩御なされた。そして、第七子である源定省が即位され、宇多天皇となられた。宇多天皇は賜姓貴族から天皇に即位した初の人物である。 
陽成源氏と清和源氏
元慶七年十一月、陽成天皇は乳兄弟の源益を撲殺したと云われる。これが事実ならば天皇御自身が人を殺めたという大事件である。
永承元年、源頼信は石清水八幡宮に願文を奉納した。
「敬んで先祖の本系を明め奉れば、大菩薩(八幡大菩薩 / 武神応神天皇)の聖体は忝なくも某が二十二世の氏祖なり。先人(父)は新発(源満仲)、その先は経基、その先は元平親王、其の先は陽成天皇、其の先は清和天皇、其の先は文徳天皇、其の先は仁明天皇、其の先は嵯峨天皇、其の先は桓武天皇、其の先は光仁天皇、其の先は天智天皇、其の先は施基皇子、其の先は舒明天皇、其の先は敏達天皇、其の先は欽明天皇、其の先は継体天皇、其の先は彦主人王子、八幡宮五世孫也」
源頼信の子孫には源頼朝がおり、一族は清和源氏と呼ばれていた。しかし近年、祖の行為を恥じ、陽成源氏から清和源氏に姓を改めたとする説が提示されている。 
源氏の長者村上源氏
同じ姓族の中から、「氏の長者」が選出されることがある。氏の長者は一族の氏寺の祭祀、一族の推挙などを行った。例えば藤原氏ならば祖の不比等の直系が長者を務めた。藤原道長も藤原氏の長者となっている。
源氏の場合、当初は嵯峨源氏のなかで最も官位の高い者が長者となった。おそらく、最初の「源氏の長者」は仁明天皇の弟である源信(従四位下参議)であろう。後に仁明源氏が勢力を失うと、源氏の長者は村上源氏の手に移っていった。
村上源氏は光孝天皇の血筋を引いていた。村上源氏の源師房は藤原道長の娘婿となり、藤原摂関政治を支えた。この様に中央の政治に密接に関与したため、他の源氏が地方で武士になる中、村上源氏だけは公卿の地位を保っていた。そして、源氏の長者も村上源氏に世襲されていた。
村上源氏の久我家に伝わる「宇宙」の印判は、応神天皇の御物という伝承がある。村上天皇、具平親王を経て久我家が拝領したと云われる。宇宙印は按摩面の矢羽と共に同家の家宝であった。
室町将軍は将軍拝賀の際、久我家から按摩面の矢羽を借用していた。徳川家康も大阪夏の陣の際、按摩面の矢羽を借用したと云われる。 
源頼朝は源氏の長者ではなかった
木曾義仲は征夷大将軍に源氏として初めて就任した。後に源頼朝や足利尊氏も将軍職を務めたため、将軍職は源氏のものという認識が醸成された。
建久三年、清和源氏源頼朝は征夷大将軍に就任した。この時、源氏の長者は村上源氏土御門通親である。建仁二年、通親が没すると弟唐橋通資が源氏の長者となった。
源家、足利家、徳川家は何れも源氏である。しかし、征夷大将軍は必ずしも源氏の長者と一体ではない。将軍として源氏の長者になったのは、足利義満が最初である。この様に源頼朝は源氏の長者ではなかった。 
淳和奨学両院別当
源氏の長者は「淳和院別当」、「奨学院別当」を兼任した。特に奨学院別当について、北畠親房は「職原抄」の中でそれを務める者が源氏の長者であると記している。同書には淳和院別当を源氏の長者が中納言、大納言の時に務め、大臣に上がると他の源氏の者に任を譲ると書かれている。
奨学院は在原業平の兄行平が、皇族の子弟の教育のために創設した大学別曹である。同院には賜姓貴族も入ることができた。
仁和三年、在原行平は奨学院を勧学院に準ずる大学別曹にするため、朝廷に申請を行った。在原行平は寛平五年に没している。その後、昌泰三年に奨学院は勧学院に準ずる大学別曹となった。
淳和院は淳和天皇の離宮である。
天長十年、淳和天皇は仁明天皇に譲位した後、淳和院に移られた。後に淳和大后は淳和院を尼寺にしている。
元慶五年、桓寂法親王は淳和院、大覚寺、檀林寺を総括する役職を朝廷に申請した。こうして淳和院別当が置かれることになった。淳和院は鎌倉時代、すでに寺院としての役割を果たせなくなり、戦国時代頃には廃絶されている。両院の別当が何時から置かれ、その最初が誰なのかは確定されていない。 
藤原氏の征夷大将軍
源実朝の死により、源頼朝の嫡流は途絶えた。そのため藤原氏や親王が鎌倉に招かれ、将軍職を務めるようになった。
嘉禄二年、四代将軍藤原頼経を源姓に改めようとする動きが、御家人のなかから起こった。藤原頼経は二歳で関東に下向し、二代将軍源頼家の娘を娶った。そして、婿養子の形で将軍職を相続した。
御家人側は三歳以下の幼児が養子になれば、養家の姓を継ぐことができるという「戸婚律」を根拠として、藤原頼経の改姓を望んだのだ。その後、北条氏は御家人を代表して藤原氏の氏社である春日大社に意見を求めたが、遂に藤原頼経の姓を改めることは出来なかった。
建長四年、後嵯峨天皇の第一皇子宗尊親王が関東に下向。十一歳で六代将軍に就任した。文永七年、七代将軍惟康王は源姓を賜った。これにより、一時的に後嵯峨源氏の征夷大将軍が誕生した。霜月騒動を起こした安達泰盛が賜姓を促したという。
弘安十年、惟康王は親王となった。これにより、後嵯峨源氏は一代限りのものとなった。
歴応元年、源氏である足利尊氏が征夷大将軍に就任した。これ以降、足利氏が征夷大将軍職を世襲した。 
征夷大将軍と日本国王
応永九年、足利義満は明から日本国王に封じられた。この時、足利義持が四代将軍を務めており、征夷大将軍が日本国王に封じられたわけではない。むしろ、足利義満は源氏の長者として日本国王に封じられたと考えることが出来る。
応永十五年、足利義持は父義満の死を明に伝えた。この返礼の書に日本国王とあった。明は足利義持を日本国王に封じたのだ。
応永十八年、これを知った足利義持は激怒し、明と断交した。これは英断であったが、その後、足利氏は貿易の利益を求め、明から日本国王に封じられることを認めるようになった。永享五年に六代将軍義教が、八代将軍義政が日本国王に封じられている。 
豊臣秀吉の政権構想
豊臣秀吉はなぜ征夷大将軍に就任しなかったのか。血筋の問題だが、豊臣秀吉は藤原姓近衛氏の猶子となることで解消している。猶子とは言え、五摂家として関白に就任したのだ。血筋の問題は解消されたとすべきである。将軍就任問題だが、豊臣秀吉は藤原姓のままでも将軍に就任出来たと思われる。藤原姓の征夷大将軍はかつて存在したのだから。
天慶三年、平将門征伐のため藤原忠文が征夷大将軍(征東大将軍)に就任した。嘉禄二年、藤原頼経が鎌倉幕府四代将軍に就任している。藤原頼経は二代将軍頼家の娘を娶っているが、姓は藤原氏である。幕府内では源姓に改めるべきという意見が出たが、藤原氏の氏神である奈良春日大社の神判により改姓は実施されなかった。五代将軍頼嗣も藤原姓である。
豊臣秀吉が将軍職を望んだならば、こうした故事から就任を正当化することが出来る。故事来歴を尊ぶ公家は賛同するしかない。
しかし、豊臣秀吉は将軍にはならなかった。それには理由がある。豊臣秀吉は織田秀信に代わって政権を手に入れた。そのため、政権簒奪の悪評を早急にうち消さねばならなかった。
政権樹立の正当性。豊臣秀吉はそれを皇室の権威に求めた。つまり、関白である。
関白とは天皇陛下に代わり政治を担う職である。関白に就任した者は、天皇から日本国全体の政治を任されたことになる。豊臣秀吉の政権を否定することは、天皇陛下の権威を否定するも同然である。政権簒奪の悪評など、天皇陛下の権威の前では霞んでしまう。
戦国時代、朝廷の権威は低下したと云われる。しかし、実際には武家は領国支配の正当性を朝廷の官位に求めていた。今川義元や徳川家康は三河支配のため三河守に叙任されている。伊達稙宗は陸奥支配のため、陸奥守に叙任された。武家は朝廷に権威があると認識しており、その官位には支配の実効権があるいう共通認識を抱いていた。
また、朝廷は朝敵討伐の綸旨の発給、停戦命令の発給など合戦に介入する力を持っていた。豊臣秀吉は私戦禁止令の発布に際し、天皇陛下の大御心であるから従うようにと求めている。 
豊臣姓の創始
豊臣秀吉は正親町天皇から「豊臣姓」を賜った。豊臣姓は苗字ではないから、正しい読みは「豊臣秀吉:とよとみのひでよし」になる。
木下家は秀吉の親族であったことから豊臣姓を下賜された。そのため、江戸時代でも姓は豊臣、苗字は木下であった。「寛政重修諸家譜」も木下家を豊臣氏に分類している。現在も青山霊園にある木下家の墓石には、豊臣の姓が刻まれている。
豊臣秀吉は有能な家臣にも豊臣姓を下賜したが、これは「同じ姓を与える」という破格の待遇であった。豊臣氏の嫡流として豊臣秀吉の子孫が存続していれば、その中から豊臣氏の長者が生まれていたはずだ。 
日輪受胎の子
豊臣秀吉は自身を日輪の子、つまり皇胤であると主張した。天正十三年八月に記された「天正記」(関白任官記)の中で、豊臣秀吉は父が天皇であると暗喩している。
文禄二年、高山国(台湾)に宛てた国書の中に、懐妊した大政所は部屋中に日の光が満ちあふれる夢を見たと書かれている。その光に包まれて生まれた自分には生来の徳があり、高山国にまでその徳を広げるつもりであると記している。
天照大神の神格は太陽に由来する。太陽の光に包まれて生まれたということは、豊臣秀吉が皇胤であるという比喩なのだ。天皇実父説、日輪受胎説から判るように、豊臣秀吉は家系を天皇家に結びつけようとした。
豊臣家が政権を維持したまま続いた場合、豊臣姓は間違いなく源平藤橘の上に位置する最高の家格になったはずだ。天皇を父に持ち、武力で日本を統一した日輪の申し子の家系なのだから。 
唐入りのための政策
豊臣秀吉は家格を上げるためだけに皇胤を称したのだろうか。家格ならば関白の家柄とするだけでも十分ではないか。豊臣秀吉の唐入りを考える時、家格の問題は非常に重用である。
古代日本を統治した大君は、支那の皇帝に対抗するため天皇という称号を創設した。豊臣秀吉はその意義を完全に理解していたため、自らの父を天皇としたのだ。
皇帝は支那を世界の中心と考え、周辺国は貢ぎ物(朝貢)を行う野蛮な属国とする世界観を持っていた。これを「中華思想」と言う。支那において「皇」、「帝」の二文字は皇帝以外に使用は許されず、周辺国の統治者は皇帝から国王に任命された。
朝鮮は支那の属国になることを大変に喜んだが、越南(ベトナム)などはそれに強い不満を持ち、武力侵攻が行われれば徹底抗戦を行っていた。
日本は海を隔てていたために、そうそう攻められることはなかった。それでも、勝手に属国に封じる支那に強い不満を抱いていた。大君は中華思想の世界から脱するため、禁じられた「皇」の文字を使用し、天孫神話と結びつけるために天皇という称号を考案したのだ。
足利義満は皇帝から日本国王に封じられている。この時、足利義満は征夷大将軍職を子の義持に譲っていた。四代将軍足利義持はこれを国辱と考え、自身が日本国王に封じられると、毅然とした態度でこれを拒絶した。しかし、六代将軍足利義教は貿易のため、日本国王に封じられることを認めてしまった。
こうした歴史がある以上、征夷大将軍に就任することは自らを支那皇帝の下に位置付けることになる。少なくとも支那の皇帝はそう見なす。敵と戦うならばそれと対等、もしくは凌駕する存在になろうとするのは当然である。
そこで、豊臣秀吉は冊封体制から脱した天皇家と血縁があると称し、さらに関白という天皇を補佐する役職に就いた。これにより、豊臣秀吉は国内の権力基盤を調えつつ、敵に対しても下に見られることなく合戦を行うことが出来た。
豊臣秀吉はその血筋が問題になって将軍に就任しなかったのではなく、政権思想から敢えて拒絶したとすべきである。 
征夷大将軍の復権
関ヶ原合戦に勝利し、徳川家康は政治の実権を握った。その権力を確固たるものにするため、豊臣秀吉(豊国大明神)の権威を否定し、自身の政権簒奪を正当化する必要があった。
これは織田信長の政権を否定した豊臣秀吉とほぼ同様の路線である。徳川家康はその正当性を、武家の棟梁である征夷将軍職に求めた。
戦国時代、足利家の没落によって征夷大将軍の権威は失墜していた。徳川家康は失墜した征夷大将軍の権威を底上げし、関白以上の付加価値を付け、真の武家の棟梁たる徳川将軍家を興そうとした。 
徳川家康の政権構想
徳川家康は源氏である新田氏の子孫を称し、征夷大将軍職に就任した。
新田氏は足利氏と敵対した経緯があり、その残党は長年、捕縛の対象とされていた。その新田氏を称する将軍が現れたのだ。それなりの正当性が必要になる。
徳川家康は将軍職と同時に源氏の長者に補任された。将軍職の影に隠れがちだが、これは大変に重要なことである。
源氏の長者は公家である村上源氏が世襲していた。武家の源氏では、足利義満が初めて源氏の長者に補任されている。以降、足利義教や足利義政、足利義稙らが源氏の長者に補任された。その後、源氏の長者は村上源氏の家に戻っていた。徳川家康は足利義稙以来の武家の源氏の長者となった。
これは武家の源氏の正統が、足利氏から新田氏に移ったことを意味する。新田氏である徳川家康が将軍就任を正当化するために、源氏の長者の権威が必要と見なされたのだ。
二代将軍徳川秀忠を除き、徳川家の将軍は全て源氏の長者を兼ねている。徳川秀忠が補任されなかった理由は不明である。徳川家康が源氏の長者を譲らなかったことが要因に上げられる。
大御所政治を成立させるには、大御所に将軍以上の権威が必要になる。徳川家康は源氏の長者を将軍職のより上位に位置付けた。駿府の大御所は源氏の長者であり、江戸の将軍は氏の長者に従う。それが徳川家康の考案した二元政治機構である。 
 
関ヶ原合戦

 

豊臣秀吉の死
文禄四年九月、豊臣秀吉は方広寺大仏千僧供養を主催。出仕を拒否した日蓮宗妙覚寺日奥は、後に対馬に流されている。
慶長元年、大地震によって方広寺大仏殿、大仏が倒壊した。
慶長二年三月八日、豊臣秀吉は花見を行い、桜を愛でた。四月十一日、徳川秀忠に長女千姫が生まれた。
慶長二年七月十八日、一尺五寸の信州善光寺阿弥陀如来像が方広寺大仏殿に遷座された。豊臣秀吉は夢のお告げを請け、倒壊した大仏の代わりに信州善光寺の阿弥陀如来を大仏殿に遷座させたのだ。先に如来像が到着していた大津から、阿弥陀ヶ峰までの短い道程に迎えのための大行列が出来たと云う。しかし、如来堂供養は遅れてしまった。
慶長三年正月五日、豊臣秀吉は醍醐寺五重塔を修理した。当時、応仁の乱の影響で醍醐寺内は荒廃していた。二月九日、豊臣秀吉、醍醐寺五重塔修繕の進行状況を自ら確認している。この日、醍醐寺座主義演は豊臣秀吉から花見の計画を語られた。義演は大変に感激し、「義演准后日記」に「神恩忘れるべからず」と感謝の言葉を記している。義演にとって豊臣秀吉は終生の恩人であった。
慶長三年二月二十日、豊臣秀吉は醍醐寺金剛輪院の修理を命じる。竹田松梅を庭園普請奉行とし、醍醐寺庭園を築造。現在も残る醍醐寺三宝院である。
慶長三年三月十五日、醍醐の花見が開かれた。花見総奉行は前田玄以、石田三成、長束正家が務めた。醍醐寺境内には八つの茶屋が設けられ、豊臣秀吉は嫡子秀頼を伴い、順々に茶屋を廻った。五月九日、聚楽第の名石「藤戸石」が醍醐寺三宝院の庭園に運ばれている。
慶長三年五月中旬、豊臣秀吉が病に臥した。豊臣家は全国の名僧、神官らに秀吉の病気平癒を祈祷させた。
この頃、豊臣秀吉の病は善光寺如来像の祟りではないかと噂されたと云う。そのため、善光寺如来堂供養が早急に行われた。しかし、豊臣秀吉が快復しないことから、八月十七日、遂に阿弥陀如来像は信州善光寺へと戻されることになった。
慶長三年八月十八日、豊臣秀吉が六十三歳で没した。遺体は方広寺大仏殿の裏山、阿弥陀ヶ峰に移された。喪は伏せられた。醍醐寺座主義演は慶長四年一月五日に豊臣秀吉の死を知ったと云う。
喪を伏せたまま、阿弥陀ヶ峯に豊臣秀吉を祀る神廟の建設が始められた。八月二十五日、徳川家康と前田利家は豊臣秀吉の死を伏せたまま、朝鮮在陣の諸侯に帰国を命じた。十月十九日、徳川家康は加藤清正、黒田長政に帰国を促した。 
重臣間の亀裂
慶長四年正月三日、石田三成は島津義久が徳川家康との関係を深めていると考え、詰問をしている。島津義久は子の忠恒と共に、石田三成に宛てて証文を出している。同日、徳川家康は島津邸を訪問し、島津義弘の朝鮮での戦功を賞賛。刀と馬を贈った。
慶長四年正月十日、豊臣秀頼は前田利家に守られ、伏見城から大坂城へ移った。この様に、前田利家が実質的な豊臣秀頼の後見人を務めていた。徳川家康も大坂の片桐貞隆邸に入っている。
慶長四年正月十一日、身辺に危機が迫っていると感じた徳川家康は、片桐邸を離れて舟で枚方方面に逃れた。途中で井伊直政と合流し、伏見の自邸へと戻っている。
慶長四年正月十九日、前田利家、毛利輝元、浮田秀家、上杉景勝の四名は、徳川家康、伊達政宗、福島政則、蜂須賀家政に豊臣秀吉の遺命に背いたとして詰問を行った。彼等は豊臣家の承認を得ないまま、勝手に大名間の婚姻を結んだのだ。
伊達政宗は剛胆にもそのような掟は知らないと言い返した。徳川家康は媒酌人から豊臣家へ届け出があったと思っていたと反論。さらに、この詰問は自分を大老の役職から外そうとする陰謀であり、それこそ豊臣秀吉の遺命に背くものと反論した。同日、徳川家康は有馬則頼に招かれて屋敷を立つが、井伊直政から石田方の謀略であると告げられ、屋敷へと戻っている。藤堂高虎も石田三成に謀略の意志があると徳川家康に報告した。
慶長四年二月五日、四大老と徳川家康は和解し、互いに誓書を交換をした。
慶長四年三月五日、前田玄以は朝廷に豊臣秀吉を神として祀ることと奏上した。
慶長四年閏三月三日、前田利家が死去した。同日夜、加藤清正、黒田長政、浅野幸長、福島政則、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明は石田三成を殺害しようと決起。閏三月四日、石田三成は徳川邸へ逃れ、徳川家康に助けを求めた。徳川家康は諸侯を抑え、閏三月十日、結城秀康を護衛として石田三成を佐和山城を送り届けた。
慶長四年閏三月十三日、徳川家康が伏見城西ノ丸に入った。「多聞院日記」に徳川家康が天下殿になったと記されており、当時の徳川家康の権勢が伺える。
慶長四年四月十五日、醍醐寺座主義演は醍醐寺潅頂堂にて、豊臣秀吉の御霊のために理趣三昧の法楽を行った。 
豊国神社創建
慶長四年四月十七日、勧修寺大納言晴豊と正親町中納言季秀は豊臣秀吉に神号「豊国大明神」を贈っている。
慶長四年四月十八日、豊国神社の正遷宮祭が行われた。多くの公卿、門跡らが参列。神体を羽車に乗せ、四神旗が立てられた。前駆は吉田兼見が、後駆は吉田兼治が担当。宗源行法、清祓の神事が行われた。
豊国神社は三十万坪もの広大な社地、一万石の知行地を有していた。別当は神龍院梵舜が務めた。四月十八日、八月十八日が例大祭と定められた。
慶長四年四月十九日、豊国大明神に正一位が追贈された。諸大名の豊国神社参拝は四月十九日から行われた。豊臣秀頼の名代として、徳川家康が豊国神社に参拝。毛利輝元、上杉景勝、生駒親正、中村一氏、堀尾吉晴、小出秀政らが参拝。
慶長四年四月二十日には結城秀康、池田輝政、加藤嘉明、大谷吉継、京極高次、脇坂安治、堀直政が参拝。四月二十一日、真田昌幸、最上義光、伊達政宗、里見義康、立花宗茂、小西行長、木下家定、村上義明、中川秀成、宗義智が参拝。四月二十二日、宇喜多秀家、加藤清正、浅野長政、蜂須賀家政、鍋島直茂、田中吉政が参拝。江月二十三日、増田長盛、前田玄以、長束正家、浅野幸長が参拝。四月二十四日、細川藤孝が参拝。
慶長四年四月二十四日、正遷宮祭が終了した。諸侯から金子三百七十余枚、銀子百九十九枚が奉納された。公卿らからは三百三十貫文が奉納された。
慶長四年七月十八日、北政所が参拝。九月二日には島津義弘が参拝した。なお、これ以降も豊国神社の造営は続けられた。社人会所は慶長十九年に建てられている。
豊国神社創建当時、豊臣家の栄華は続くと考えられており、多くの神官が豊国神社に採用されようと吉田家に働きかけたと云う。 
上杉征伐
慶長四年九月七日、徳川家康は旧石田三成邸に入った。九月九日、徳川家康は大坂城にて豊臣秀頼の重陽の祝いを述べた。
慶長四年九月十二日、徳川家康は石田正澄邸へと移り、九月二十七日には大坂城西ノ丸へ入った。十月十二日、徳川家家康は大野治長を結城秀康に預け、浅野幸長を蟄居させた。
慶長五年春、ヘロニモ・デ・ヘスースがフィリピンに渡海。フィリピン総督に対し、日本にメキシコ貿易加入を促すよう求めた。しかし、フィリピン総督は日本が性能の高い船舶を持てば、マニラに侵攻する可能性があると指摘。簡単に貿易に加えないよう求めた。
慶長五年四月一日、徳川家臣伊奈昭綱は上杉家に使者として派遣され、上杉景勝に上洛を求めた。西笑承兌も非違八ヶ条を挙げ、上杉景勝に上洛を求めた。
慶長五年四月十八日、豊国神社で例大祭が行われた。四月十九日、徳川家康、宇喜多秀家、小早川秀秋、最上義光が参拝した。
慶長五年四月二十七日、島津義弘が大阪城に入城。徳川家康は島津義弘に対し、上杉征伐を行う場合、伏見城留守役を務めるよう依頼した。五月三日、伊奈昭綱が戻り、上杉景勝が上洛を拒否した報告。五月七日、三中老、三奉行は徳川家康に上杉征伐を中止するよう求めた。
この非常時に際し、前田利長は生母芳春院を徳川家に人質として送った。前田利長は徳川家康が政治の実権を握れば、芳春院を前田家に戻すと思っていたようだ。しかし、徳川家康は関ヶ原合戦後も芳春院を前田家に戻そうとしなかった。徳川家康は直筆の書状で芳香院の返還を約束していたが、人質政策のためにそれを反故にしたのだ。芳春院も当初はすぐに前田家に戻れると思っていたのかも知れない。それが自ら人質となると言う行為につながったのではないか。芳春院が前田家に戻ったのは前田利長没の没後、三代前田利常の時代である。そして、新たに前田利常の生母寿福院が人質として江戸に向かっている。
慶長五年六月二日、大坂城にて上杉征伐のための軍議が開かれた。六月十七日、鳥居元忠、松平家忠、内藤家長は伏見城留守居役となった。六月十八日、上杉征伐のため諸侯は出立。六月二十九日、鶴岡八幡宮で戦勝祈願が行われた。
慶長五年七月二日、徳川家康が江戸城に入城。七月七日、十五ヶ条の軍令を定め、七月二十一日に出陣すると定めた。七月八日、先鋒榊原康政が出陣。七月十九日、徳川秀忠が前軍を率いて出陣。同日、島津軍、小早川軍が伏見城攻撃を開始。
慶長五年七月二十一日、徳川家康が上杉征伐に出陣。八月一日、伏見城が陥落した。石田三成はこの隙を突き、徳川家康に対して挙兵した。 
関ヶ原合戦での軍事物資
慶長三年十二月二十五日、醍醐寺は寺領四千六百石余が安堵された。境内に武士や奉公人が居住すること、寺領内の竹や木を伐採することを禁止した。
慶長五年五月二十八日、豊臣家は醍醐寺に守護不入の製紙を出した。これは慶長三年十二月二十五日に定められた寺領安堵、境内侵入禁止を書面で確認したものである。七月十三日、大坂周辺では開戦が近いという噂が流れ、伏見の人々は荷物を急いで京に運び出した。
慶長五年七月十七日、醍醐寺座主義演は寺の周囲に堀を造ることにした。七月十八日、毛利輝元が大坂城に入城したという知らせを受けた義演は、醍醐寺の守りを強固にするよう命じた。七月十九日、石田軍による伏見城攻めが行われた。
慶長五年七月二十二日、石田軍は醍醐寺を訪れ、伏見城攻めに使用するため、境内の木や竹を伐採すると通告した。義演は同年五月に出された守護不入の製紙の写しを作り、醍醐寺の南北の構えに打ち付けた。これは神社の前に掲げられた制札のように、木の札に文章を写したと思われる。
慶長五年七月二十五日夕方、醍醐寺座主義演は小早川秀秋から製礼を貰い、それを境内の構えに打ち付けた。制礼には乱妨狼藉の禁止、竹木伐採の禁止、田畠刈取の禁止が記されていた。
慶長五年七月二十八日、石田軍の足軽約百五十名が醍醐寺に入り、伏見城攻めのために竹木の伐採を強行すると通告。義演は激怒し、石田軍を追い払うため雇っていた侍に応戦させた。そして、門を閉じて早鐘を突かせた。周辺の百姓は武装して醍醐寺に駆けつけ、石田軍に一斉攻撃を仕掛けようとした。石田軍は恐慌し、攻撃の中止を懇願した上で逃走した。しかし、石田軍も手ぶらで帰るわけにはいかず、日野郷に立ち寄って竹を伐採して帰った。
慶長五年七月三十日、豊臣家は醍醐寺に制礼を出し、境内での乱妨狼藉や竹木伐採などを禁止した。同日、石田軍は醍醐寺付近にある勧修寺村に入り、竹木を伐採した。 
関ヶ原合戦
慶長五年八月二日、徳川家康は石田三成を討つため、下野小山で開かれた軍議で大坂に戻ることを決定。結城秀康を上杉家への抑えとして残した。
慶長五年八月三日、豊臣秀頼の名で豊国神社に湯立釜が五つ奉納された。そのうち、一つが壊れるという凶事が起きた。八月五日、徳川家康が江戸城に入城。八月六日、豊国神社に湯立釜が三つ奉納されたが、またも一つが壊れた。西軍敗北を予感させるような出来事である。
慶長五年八月十日、石田三成が大垣城に入城。八月十二日、徳川家康は細川忠興に但馬国、加藤清正に肥後国と筑後国を加増した。八月十四日、東軍先鋒が清洲城に入城。八月二十一日、東軍が岐阜城を攻撃。
慶長五年九月一日、徳川家康が江戸城から出陣。九月十三日、徳川家康が岐阜城に入城。九月十四日、徳川家康は岐阜城を出立。赤坂岡本にて軍義を開き、十五日に出陣することを決めた。
慶長五年九月十五日、美濃関ヶ原にて徳川家康率いる東軍、石田三成率いる西軍が激突。関ヶ原合戦である。東軍は辛うじて勝利を納めた。
慶長五年九月十七日、東軍は佐和山城を攻め落とした。九月二十日、勅使が徳川家康に派遣され、戦勝を祝賀した。十月十日、徳川家康が大垣城に入城。徳川秀忠も大垣城に入城した。徳川秀忠は信州上田城攻めに時間を費やし、肝心の関ヶ原合戦に遅参した。徳川家康はこの大失態に激怒し、徳川秀忠に拝謁を許さなかった。
九月二十一日、石田三成は田中吉政に連れられて大津に送られた。十月一日、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊は六条河原にて処刑され、三条橋に首を晒された。
戦後、徳川家康は西軍に属した大名八十七家を改易し、四百十四万六千二百石を没収。さらに三家から二百七万五千四百九十石を没収した。十月十日、毛利家は三十六万九千石のみ安堵された。十月十五日、論功行賞が行われた。 
北政所と石田三成
津軽家三代当主信義の母は石田三成の娘(津軽信枚側室)で、北政所の養女となった辰姫である。これまで北政所と石田三成は対立していたと云われたが、辰姫を養女にするなど両者の関係は良好だった。
木下家のほとんどの人物が西軍に属し、東軍に属したのは木下家定の三男延俊だけである。理由は木下延俊が細川忠興の娘を娶ったためである。この様に木下家は総じて石田三成に加勢し、共に徳川家康と戦ったと言える。 
徳川家による情報操作
淀殿は徳川家康との関係を深めた。豊臣秀頼は徳川家康の孫娘を娶ることになっていたし、徳川秀忠の妻は淀殿の妹であるから、そうした血縁を信頼したのだろう。
豊臣恩顧とされる武将は徳川家康に加勢したが、これは淀殿が徳川家に加勢したためではないか。「多聞院日記」には豊臣秀吉の死後、徳川家康が淀殿を娶るという噂があったと記されている。当時の感覚でも、淀殿と徳川家康は良好な関係を築いていると感じられたのだろう。徳川家康は淀殿と接近することで、豊臣恩顧の大名を味方につけたのだ。
徳川家康は大坂夏の陣で豊臣秀頼を討っている。そうなると、徳川家康が淀殿の支持によって関ヶ原合戦に勝ち、それを仇で返したという史実は都合が悪い。
江戸時代、淀殿は暗愚であり、彼女や重臣が豊臣家を滅ぼしたという俗説が流布した。暗愚な淀殿は奸臣三成と組んで挙兵するが、石田三成は神君家康公に滅ぼされた。北政所も淀殿を嫌っており、神君家康公に味方した。家康公は大阪城を退去すれば豊臣家を存続させるという寛大な処置を提示したが、淀殿は天下の情勢を知らずに拒否。さらには家康公を呪殺しようとしたために滅ぼされた。
現代でもこの史観が残っていることを考えれば、情報操作は成功したと言えよう。 
石田三成に対する誹謗中傷
江戸時代に記された「石田軍記」は、石田三成に対するを誹謗中傷のための書である。同書は、石田三成が出世のために豊臣秀吉の色小姓となったと記している。
さらに「去程に島左近は、まざまざと愛子の討たるるを、援けんと思ふ心もなく、空知らずして落行きし」と記されている。嶋左近が関ヶ原合戦で嫡男信勝を見捨てたとして、心得有る武士が笑ったと云うのだ。嶋左近の猛攻は、戦った黒田武士が最も高く評価している。石田三成やその関係者を貶めるため、こうした俗説が流布されたのだ。
「兼見卿記」の天正十九年三月八日の頁には、千利休の妻子は石田三成に拷問、蛇責めされ死んだと記されている。しかし、利休の妻は慶長五年まで存命していた。この頁には「慥かならず」と記され、伝聞を書き留めたものと判る。当時、すでに石田三成に対する反感があり、それが噂を生んだと推測される。千利休自決への関与も、その妻子の処刑も事実無根である。
「伊達成実記」には、石田三成が豊臣秀次事件の首謀者と記されている。豊臣秀次事件後、石田三成に対する誹謗中傷があったのだろう。それを裏付けの無いまま、事実と書いたのだ。「甫庵太閤記」も同様の記事が書かれているが、同書の資料的価値は非常に低く、単なる娯楽作品にすぎない。 
名将石田三成
石田三成の旗印は「大一、大万、大吉」である。大とは天下を意味するものなり、天下のもと一人が万民のために、万民が一人のために命を注げば、すべての人間の人生は吉となり、泰平の世が訪れる。こうした意味が込められていた。近年の再評価により、石田三成は各分野に秀でた万能の士であり、戦国末期の傑出した逸材と評されている。
石田三成は賤ヶ岳合戦で戦功があり、政治面のみならず、武勇の面でも秀でていた。加藤清正や福島正則を武断派、石田三成を文治派とする構図は根本から間違っている。これらの俗説、先入観によって石田三成の人物像は歪められているのだ。
石田三成の所領は十九万四千石である。わずか十九万四千石の大名が、徳川家康と戦うため毛利輝元を動かし、日本全域を巻き込む大合戦を引き起こしたのだ。これは驚くべき事である。石田三成と同じ状況に置かれた場合、徳川家康を相手に挙兵する人物がどれだけいただろうか。上杉景勝、直江兼続、宇喜多秀家、真田昌幸など多くの名将が石田三成の戦略に賛同した。そして、関ヶ原合戦では終盤まで東軍が圧倒されていた。小早川秀秋らは、西軍の優勢に驚き、寝返る機会を掴めずにいたのだ。
石田三成の行為を「勝てるはずのない相手に挑んだ愚行」とするのは馬鹿げている。確かに石田三成は敗北した。しかし、単純に愚行という評価を下すべきではない。勝てるはずのない相手と戦ったことが愚行というならば、毛利元就が陶晴賢を討った厳島合戦はどう評価すれば良いのか。この頃の毛利元就は勇将であっても、その勢力は陶晴賢には及ばない。徳川家康は自分以上の勢力を持つ今川家から独立を果たした。真田昌幸は徳川軍を大いに打ち破り天下に武名を轟かせている。 
石田三成の子孫
石田三成の長男重家は助命され、妙心寺寿聖院第三世となり、済院宗亨大禅師と称した。後に遠い姻族に当たる岡部宣勝から庇護を受けている。岡部宣勝は家康異父弟松平康元の外孫である。
津軽家も石田三成の子孫を養い続けた。津軽為信は石田三成を介して豊臣秀吉と接触。石田三成は津軽信建の元服の際、烏帽子親を務めている。津軽信建にとって石田三成は実父も同然だった。
関ヶ原合戦寺、津軽為信は徳川家康に加勢。一方、津軽信建は石田三成に加勢した。津軽信建は三百名の兵を率いて出陣しようとしたが、石田三成は大阪城に残るよう命じた。これが結果的に石田三成の系統を救うことになる。
関ヶ原合戦後、石田三成の次男重成は津軽信建に匿われ、若狭経由で津軽に逃がされた。重成は津軽で杉山源吾と名を変え、深味郷で十年ほど隠棲。そして大館に移り、正式に津軽家臣となった。慶長十六年、弘前城が完成すると、杉山源吾は大坂から持参した豊臣秀吉座像を祀った。杉山源吾の没年は慶長十五年四月二十八日、二十二歳という説がある。これは隠棲の期間と一致するため、杉山源吾を守るために偽情報を流したのだと思われる。位牌には没年は不明ながら四月八日と書かれている。没年として最も有力なのは寛永十八年四月八日、五十三歳説である。法名「道光院殿覚翁了関居士」。長男の杉山吉成は津軽信枚の異母妹を娶り、家老として千三百石を知行した。杉山吉成の「成」の一字は石田三成に通じている。 
 
徳川将軍家の誕生

 

将軍就任への準備
慶長六年、徳川家康は伏見に銀座を置き、貨幣を鋳造させ、白銀の品定めなどを行わせた。こうして慶長金銀(大判、小判、一分金、丁銀、豆板銀)が流通することになった。
慶長六年、徳川家康はフィリピン総督に宛てて、貿易を求める書翰を送っている。徳川家康は貿易による利益を外様大名ではなく、徳川家に集約させようと考えていた。
慶長六年、徳川家康は各地の御料所を整理し、山科郷などに集約。愛宕郡一乗寺村千六百十八石を十九家の公家に分配した。五月十五日、徳川家康は朝廷の御料地、親王門跡の封地を定めている。
慶長六年八月、板倉勝重が京都所司代に就任。八月十日、家康は豊国神社に寺領を寄進した。八月二十四日、上杉景勝は会津百二十万石から米沢三十万石に減封された。
慶長七年一月一日、諸侯は江戸城にて徳川家康に新年の祝意を伝えた。一月六日、徳川家康は従一位に叙任された。同月、徳川秀忠は二十万石の加増を受けた。
慶長七年二月二十日、「言経卿記」に徳川家康は源氏の長者に輔するという内旨を拝受したと記される。
慶長七年三月十四日、徳川家康は豊臣秀頼に新年の祝意を伝えた。六月十一日、家康は豊国神社極楽門を近江竹生観音に寄進し、豊臣家は新たに新神門を建立した。六月二十四日、徳川家康は江戸に文庫を建て、金沢文庫の書物を移した。七月二十四日、豊国神社社領のうち二百石が真言宗智積院に寄進された。八月十日、徳川家康は豊臣秀頼に象を贈った。
慶長七年、前年に続いて徳川家康はフィリピン総督に対し、貿易を求める書翰を送った。日本が濃毘数般(ノヴァ・イスパニア)との貿易に加われば、呂宋も日本の関東の港を使う事が出来るようになり、風難を避けることが出来ると互いの利益を強調した。徳川家康はスペイン船が関東の港を寄港地として使う事を提案したのだ。フィリピン側の消極的な姿勢からこの話は廃案になったが、家康がノヴァ・イスパニアとの貿易を切望していたと判る。
慶長七年、京では豊臣秀頼が関白に、徳川秀忠が将軍になるという噂が流れた。「義演準后日記」の慶長七年十二月晦日の項に「秀頼卿関白宣下之事、仰せ出さると云々、珍重々々、江戸大納言ハ将軍宣下云々」とある。 
徳川家康の征夷大将軍就任
慶長八年一月二十一日、「光豊公記」によると徳川家康に征夷大将軍、右大臣補任の内旨が出されたと云う。二月二日、山科言経と西笑承兌は伏見城で徳川家康に「吾妻鏡」の講義を行い、将軍職について話し合った。将軍就任の打ち合わせだろう。
慶長八年二月十二日、朝廷で徳川家康を将軍に補任するかが陣儀された。上卿は大納言広橋兼勝、奉行弁は参議烏丸光広。結果はあらかじめ決められており、徳川家康への将軍宣下が行われることになった。広橋兼勝と共に、参議勧修寺光豊が勅使となり、伏見城の徳川家康に将軍宣下を伝えに向かった。その行列は二百人を超えたと言う。すでに山科言経、冷泉為満らが伏見城におり、徳川家康に勅使が派遣される事を伝えていた。
勅使を迎える際、徳川家康の装束は折烏帽子、香直垂、前後腰帯であったと云う。そして、伏見場内対面所にて勅使を迎えた。徳川家康は上段中央南面に着座。土御門久脩による御身固があり、勧修寺光豊が将軍宣下を祝賀した。広橋兼勝らが徳川家康の前に出ると、南庭で副使が二拝し、御昇進と二度、大声で言った。左大使壬生孝亮が宣旨を献上。高家大澤基宿が宣旨を徳川家康の御前へと運ぶ。徳川家康はこれを拝受し、脇へと置いた。長井右近が宣旨の入っていた葛蓋に砂金二袋(金二十両相当)を入れ、大澤基宿が壬生孝亮へと渡した。大外記押小路師生が右大臣の宣旨を献上。儀式の内容は将軍宣下とほぼ同じである。
こうして徳川家康は征夷大将軍に就任した。源氏の長者、淳和奨学両院別当、牛車、兵仗の宣下も同時に行われている。同日、結城秀康も従三位に昇進した。
慶長八年三月二十一日、徳川家康は二条城に入城した。三月二十五日、将軍宣下の御礼のために参内。後陽成天皇に銀子千枚、新上東門院に銀子二百枚、中和門院に銀子二百枚、政仁親王へ銀子百枚、長橋局に銀子五十枚などを献上した。
行列の一番は朝夕住人、同朋善阿弥。二番は京都所司代板倉勝重。三番は雑色。四番は随身左右各八騎。五番は白張横一列七人。六番は諸大夫歩行左右各八騎(竹中重義)。七番は御車(家康)、布衣左右各九人、太刀持本多康俊。八番は騎馬諸大夫左右各五騎(森忠政、佐渡身義高)。九番は乗輿之衆(結城秀康、細川忠興、京極高次、池田輝政、福島正則)。
慶長八年三月二十七日、後陽成天皇は二条城に勅使を派遣。徳川家康の将軍就任祝賀として馬代黄金三枚、太刀を下賜した。この頃から公家は徳川家に取り入るようになった。彼らは昵懇衆と呼ばれた。四月一日、二条城で将軍補任祝賀の能が行われた。
慶長八年四月二十二日、豊臣秀頼が内大臣に補任された。勅使は大納言広橋兼勝、参議勧修寺光豊。五月十五日、徳川秀忠の娘である千姫が崇源院に伴われ、伏見に入った。七月二十八日、豊臣秀頼が千姫を娶った。千姫は船で大坂に入城した。乗輿の警護は大久保忠隣。輿の受け取りは浅野幸長。
慶長八年八月一日、伏見城にて八朔が祝われた。門跡、公家も参加している。八月十七日、徳川秀忠の殿舎の障屏に京と大坂の絵が描かれた。絵師は狩野光信。
慶長八年十月十六日、徳川家康は右大臣を辞任。同年、醍醐寺座主義演は醍醐寺三宝院庭園の藤戸石の裏に築山に豊国神社を勧請した。 
徳川家康の財源
徳川家康は幕府の財源として金銀山を大変に重視した。それは金銀を掘る山師らへの厚遇からも判る。「山例五十三条」は慶長年間に出されたものだが、元となった法令は天正元年閏五月の書状に遡る。
当時、徳川家康は駿河日陰沢金山に山師保護の自筆書状を送っており、早くから金銀山を重視していたようだ。
山例五十三条の内容を抜粋すると以下のようになる。
名城の下であろうと金鉱があれば採掘して構わない。
山師金掘師を野武士と呼ぶこと。
山師金掘師は関所を通る際、見石(鉱石の言い当て)に合格すればこれを許可する。関所の役人はその能力の真贋を確かめるため、あらゆる鉱石を見せて言い当てることが出来るかを確かめること。
金鉱を見付けたならば領主国主への届け出は勿論、村役人にも届けること。
山師金掘師は金鉱探しなどで山に入るならば、山の中ではあらゆる事をしようと許す。
届け出も無しに勝手に採掘をしないこと。
日本全国どの鉱山で働こうと、粗末な扱いを受けたならば奉行所に訴えること。
山師金掘師が殺人を犯して山に逃れたならば、子細を改め、そのまま働かせること。ただし、主殺しと親殺しを犯したならばその罪は言い逃れを許さず、縄をかけること。
一山一国。他の者の指揮下には入らないこと。
山師金掘師の序列は金山師、銀山師、鉛山師、銅山師とする。
諸人が金銀を宝とすることが出来るのも、山師らの御陰である。その功績は重大である。
素人が金鉱を見付けたとしても、山師しか採掘は許さない。
山師は野武士と呼ばれたり、天下人から金銀採掘の功績を賞賛されるなど格別の厚遇を受けていた。徳川家康がこのような命令を出したため、江戸時代の山師金堀師は高給取りであった。
文禄四年五月、豊臣秀吉は石見銀山の山師を佐渡に派遣。山師によって鶴子銀山の開削が始まった。代官が鉱山を管理し、山師に米や生活用品を販売していた。豊臣秀吉の死後、徳川家康は佐渡を接収しようと考え、家臣長谷川重吉、商人田中清六らを派遣し、現地の役人と交渉を始めた。
慶長四年二月、前田利家は領内の多くの百姓が佐渡に鉱夫として移住したため、越中や能登で罰金を徴収するよう禁令を発した。
慶長六年六月、田中清六、河村彦左衛門、吉田佐太郎、中川主税の四人が佐渡奉行となった。
慶長七年、前田利長は百姓が他国の金山で働くことを禁止し、それに反する者は処罰すると定めた。この年、佐渡の銀産出量は一万貫に迫り、好景気に沸いた佐渡に近隣から多くの百姓が流れていった。
採掘に際し、鉱夫は運上山を支払った。これは採掘に関する税金で、支払えば誰もが一定期間の間、自由に採掘する権利を得ることが出来た。慶長六年、佐渡奉行は運上山を一ヶ月から十日に変更した。これにより採掘の回転が速まり、より多くの鉱夫が採掘に加わることが出来た。
鉱夫が期間中に鉱脈を掘り当てると、採掘に掛かった費用の支払いという名目で一定期間、優先的に採掘する権利が与えられた。鉱脈を掘り当てれば大金を得ることが出来るため、鉱夫は仕事に勤しみ、それによって採掘量も向上した。期間終了後、鉱脈は代官の物となり、山主を集めて運上山を競りにかけ、高額落札者から採掘を始める事を許可した。
慶長八年、佐渡四奉行が罷免され、大久保長安が佐渡代官となった。既に掘られた間歩を有効活用するため、鉱脈を横方向にも掘り進む方法を採用。間歩の再採掘には資金が必要になるため、山主も容易に手を出さなかった。そこで長安は大工を雇い、再採掘を行わせた。これを合力大工と言う。採掘資材は無償支給にした。
また、大久保長安は水銀流しを導入して生産効率を上昇させた。採掘した鉱石は代官所で役人と山主とが話し合い、互いの取り分が決められた。これを荷分山と言い、鉱石の取り扱いは運上山から徐々に荷分山へ改められていった。物価上昇を抑えるため、相川港を整備し、大型船による搬送で商品の価格を抑制した。
慶長年間、佐渡は人口増加によって物資が不足し、物価が上昇。効率優先の採掘によって乱雑な間歩が掘られ、崩落や水没が発生するなど多くの問題を抱えていた。 
徳川秀忠の征夷大将軍就任
慶長九年八月十二日、豊国大明神七回忌法要の臨時祭が始まる。八月十五日、町人の踊りが行われ、後陽成天皇も天覧遊ばされた。諸大名は参加しなかった。八月十六日、臨時祭が終了した。
慶長十年二月二十四日、徳川秀忠は江戸を出立。三月十五日、押小路師生と山科言経は徳川秀忠の大臣昇進、結城秀康の中納言昇進について話し合った。
慶長十年三月二十一日、徳川秀忠は軍勢を率いて上洛。前陣は榊原康政、次陣は伊達政宗。こうした諸大夫の列は十八番に及ぶ。鉄砲約六百名、弓約三百名、槍約四百から約五百名。馬上の秀忠と、歩行約二百から約三百名。騎馬約千名。その他を含めれば約一万名もの行列と云う。京の民衆はこれを見物した。
慶長十年四月七日、徳川家康は徳川秀忠に将軍職を譲ると奏請した。徳川家が将軍職を世襲すると宣言したのだ。
慶長十年四月八日、徳川家康が上洛し、二条城に入った。四月九日、醍醐寺座主義演は日記に徳川秀忠の将軍職就任が近いと記した。
慶長十年四月十日、徳川家康は禁中に参内。年四月十二日、豊臣秀頼が右大臣に補任された。征夷大将軍は左右の大臣から補任されるという慣例があった。徳川秀忠が内大臣豊臣秀頼を無視し、左右の大臣に任じられるには憚りがある。そこで、豊臣秀頼を右大臣として、その下に徳川秀忠を入れたのだろう。このように徳川家主導の昇進のためか、豊臣秀頼による御礼の参内はなかった。四月十三日、神龍院梵舜が源氏系図を家康に提出。四月十五日、徳川家康が伏見城に入った。
慶長十年四月十六日、朝廷では徳川秀忠を将軍に補任するかが陣儀された。上卿は中納言勧修寺光豊。奉行は頭左中弁広橋総光。徳川秀忠の将軍宣下が決まると、伏見城へ勅使大納言広橋兼勝、少納言西洞院時直が派遣された。既に伏見城には昵懇衆が将軍宣下祝賀に訪れていた。
徳川秀忠は紅直垂の装束で勅使を迎えた。儀式の内容は徳川家康の将軍宣下とほぼ同じである。宣旨の取次は細川忠利が務めた。同日、越前秀康は正三位権中納言に、松平忠輝は従四位下左近衛権少将に昇進。
慶長十年四月十七日、徳川秀忠が二条城に入った。四月二十六日、徳川秀忠は将軍宣下御礼のため参内。
行列の順は次の通りである。一番は雑色二十名。二番は長持。三番は先打として青山忠成、板倉勝重らが務めた。四番は随身衆として島田兵四郎、牟礼江右衛門らが務めている。五番は白張十二人。六番は歩行諸大夫八十名であり、これは毛利秀就や浅野幸長らが務めた。七番は騎馬諸大夫十四騎。松平忠吉、小笠原秀政らが務めた。八番は塗輿衆十二名。上杉景勝、毛利秀元、京極高次、伊達政宗、島津家久、福島正則、松平忠輝、佐竹義宣、最上義光、堀秀治、蒲生秀行、前田利光が供奉した。
徳川秀忠は禁中にて後陽成天皇に白銀千枚、女院に白銀二百枚、政仁親王へ白銀三百枚、女御へ白銀百枚、典侍へ白銀三十枚、内侍へ白銀二十枚、長橋局に白銀五十枚を献上。醍醐寺座主義演は徳川秀忠の権勢は豊臣秀吉に匹敵すると日記に記した。
慶長十年五月朔日、諸侯は駿府城にて将軍徳川秀忠に拝謁した。結城秀康は上杉景勝に礼を示すため、席を譲ろうとした。上杉景勝はこれを辞そうとしたが、結城秀康は先に拝謁を、と申し出た。徳川秀忠は両名が席を譲り合っていると知り、結城秀康を先に、上杉景勝を後と定めた。諸侯は結城秀康の礼儀を重んじる態度に感じ入ったと云う。
慶長十年五月十日、徳川家康は豊臣秀頼に上京を促した。しかし、豊臣家はこれに応じなかった。徳川家康は諦めずに松平忠輝を大坂城に派遣し、豊臣秀頼に上京を促している。
慶長十年八月、家康は皇居造営、拡張のため公家を相国寺に招き、意見を伺った。また、造営予定地の視察も行った。京都所司代板倉勝重は造営予定地にある公家の屋敷を他に移すなど、造営の準備を取り仕切った。
慶長十年十一月十九日、淀殿の申し出により、豊国神社社頭にて連歌の会が開かれた。 
大御所政治
慶長十一年三月一日、江戸城増築工事が開始される。三月二十日、徳川家康は駿府に入った。そして四日間滞在し、駿府に隠居城を築くことを決めた。その準備として、領主内藤信成を近江長浜に転封させた。
慶長十一年四月二十八日、徳川家康が参内。武家の官位について、全て幕府の推挙を得るを奏請した。
慶長十一年十二月七日、徳川家康は田弾国王に書を送り、奇楠香を求めた。十二月二十四日、松平忠輝と伊達政宗息女五郎八姫の婚儀が行われた。五郎八姫は切支丹として知られている。
慶長十二年三月五日、徳川家康の四男松平忠吉が死去した。閏四月八日、徳川家康の次男結城秀康が死去。
慶長十二年五月二十日、徳川家康は朝鮮来聘使に拝謁を許した。六月、板倉勝重は朱印状を偽造した者を処刑した。
慶長十二年七月三日、家康はほぼ完成した駿府城に入城。十月十四日、徳川家康は生前分与として金三万枚、銀一万三千貫を徳川秀忠に贈った。
慶長十二年十二月、西笑承兌が没した。翌年から承兌の代わりに金地院崇伝が幕府に重用されることとなった。
慶長十二年十二月二十二日夜、失火により駿府城本丸が焼失。徳川家康は竹腰正信邸に逃れ、本多正純邸にて年を越した。大久保長安から建築費用が献上され、七重の天守の建設を開始された。同年末、皇居の造営が完了した。
慶長十三年二月十四日、駿府城本丸の上棟式が行われた。三月十一日、駿府城本丸殿が完成。徳川家康が入城した。
徳川家康が江戸城に在城した期間は四年ほどに過ぎないが、駿府城には死去するまで在城した。この頃、駿府城建設の人夫のために多くの遊女が駿府に集まっている。彼女らを巡って争う事件が多く、徳川家康は遊女と女歌舞伎を追放。代わりに遊郭を造った。後の二丁目遊郭である。
慶長十三年春、徳川家康は本因坊算砂、大橋宗桂の囲碁や将棋の勝負を見物。八月二十五日、徳川家康は駿府城で徳川秀忠を饗応。八月二十六日、江戸増上寺住職存応らを駿府城に招き、仏法について講義させた。九月一日、駿府城完成祝賀のため派遣された勅使を饗応。九月十二日、徳川家康は江戸に向かった。十二月、豊臣家は方広寺大仏殿の再建を開始した。
慶長十四年正月二十五日頃、徳川家康は九男義直の居城として、尾張名古屋を選定した。そして、名古屋城の築城を命じた。二月、徳川家から伊勢神宮造営のため六万俵が献上された。
慶長十四年六月一日、駿府城は本丸女房局から失火し、火災に見舞われた。煙草の火の不始末による失火と云う。徳川家康は激怒し、禁煙令を出した。そして女中二名を火炙りに、女中二名を流罪とした。
慶長十四年七月七日、徳川家康は島津家久の琉球征伐を賞し、琉球を加増した。七月二十五日、阿蘭陀国王に復書を送り、通商を許可した。
慶長十四年、前フィリピン臨時総督ロドリゴ・デ・ビベーロがメキシコへの帰途、上総岩和田に漂着。徳川家康はビベーロを通じて貿易を行おうと考えた。ビベーロは鉱山運営に関する知識を習得しており、その面でも徳川家康から信用を得た。その後、メキシコは日本人商人と商船の保護を、日本はスペイン船の保護と外交使節の厚遇を盛り込んだ協定事項が成立した。
慶長十五年、政仁親王(後水尾天皇)は元服の儀を済まされ、四辻公遠の娘およつを添臥しの女官とされた。後のおよつ御寮人である。
慶長十五年二月十二日、徳川家康は板倉勝重を通じて天皇に政仁親王への御譲位を奏請。閏二月十七日、徳川家康は娘の松姫が死去したため、御譲位の延期を奏請した。徳川家康の権勢、ここに極まれりという感がある。
慶長十五年五月、松前慶広は徳川家康に膃肭臍(オットセイ)を献上した。オットセイはアイヌの言葉でオット(漢字で膃肭)と呼ばれていた。膃肭臍とはその陰茎、睾丸である。膃肭臍は精力剤として珍重されていた。徳川家康も精力剤として膃肭臍を服用したのだ。
慶長十五年六月十二日、方広寺大仏殿の地鎮祭が行われた。八月十四日、島津家久が琉球国王尚寧を引き連れて駿府城に入城。八月十八日、徳川家康は島津家久と尚寧を饗応。
慶長十五年八月十九日、豊国大明神の十三回忌法要が行われる。九月二日、吉田兼見が没した。神龍院梵舜は萩原兼従を連れ、豊臣秀頼、徳川家康、徳川秀忠に拝謁した。
慶長十五年八月、三浦按針の造った南蛮船サン・ブエナベンツーラに京の田中勝介ら二十二名の商人、そしてビベーロが乗船し、出航した。そして、無事に太平洋を横断し、メキシコに到達した。ビベーロ救出の謝恩大使としてメキシコ副王の大使セバスチャン・ビスカイーノがサン・フエナベンツーラに乗船し、日本に派遣された。
慶長十六年、田中勝介らは帰国し、徳川家康に太平洋航路について報告。一方、ビスカイーノは日本沿岸の測量を開始。これが幕府の警戒を招き、ビスカイーノの動きは牽制された。 
 
大坂の陣

 

後水尾天皇御即位と大坂和平
慶長十六年、新造皇居の修理が行われた。同年、徳川家康は天領の年貢を全て江戸に納めるよう命じた。その一方で美濃、伊勢、近江の年貢は駿府に納めさせている。
慶長十六年一月十七日、徳川幕府は禁裏に新年の祝意、御譲位の日程について奏上した。
慶長十六年三月六日、徳川家康は駿府を出立し、尾張義直、水戸頼房、松平忠直の叙任御礼言上のために上洛した。これは口実であり、実際には豊臣家を家臣として存続させるため、内々で交渉を行うために上洛をしたのだ。
慶長十六年三月二十三日、新田義重に鎮守府将軍、松平広忠に権大納言が追贈される。同日、徳川家康は子と孫を連れて参内。
慶長十六年三月二十七日、後陽成天皇が御譲位なされた。そして、政仁親王が御即位遊ばされた。後水尾天皇にあらせられる。上皇は後水尾天皇に御譲位なさることを最後まで由とはされなかった。その理由は定かではない。譲位に際しても三種の神器を天皇に譲ることを拒み、京都所司代板倉勝重が仲介に乗り出す事態となった。後水尾天皇は三種の神器を継承なされたのは、慶長十七年七月八日のことである。
慶長十六年三月二十八日、二条城にて徳川家康と豊臣秀頼が対面。祝宴の席で、先に徳川家康が杯を空け、豊臣秀頼がこれを受けた。こうして豊臣家の徳川家への臣従は確定し、合戦による豊臣家滅亡の可能性は薄らいだ。豊臣恩顧の大名はこれを大いに喜び、京の町人も後水尾天皇御即位と、合戦回避を祭りのように喜んだ。
慶長十六年四月十二日、徳川家康は参内し、後水尾天皇の御即位を祝賀した。四月二十八日、徳川家康は駿府城へ戻った。五月、徳川家康は病んだ金地院崇伝に薬を与えている。九月十五日、呂宋人が駿府に引見された。九月十六日、神龍院梵舜は徳川家康に藤原氏系図を提出。九月二十日、徳川家康は南蛮製の世界地図を見た。 
奉公時大仏殿に使われた材木
慶長十六年、方広寺大仏殿造営のために大和国吉野の白川村で栂が切り出された。長さ十間半、末口二尺二寸という巨木だった。巨木は新宮の宇土浜に運ばれたが、そこで伊賀屋、泉屋、京屋という商人に奪われてしまった。村を束ねる次右衛門は商人に用材が奪われたこと、代金が支払われないことを大久保長安に訴えた。 
大坂和平の破綻
慶長十七年、徳川家康は公家に対して家学を学び、素行を改めるよう勧告書を出した。また、放鷹も禁止した。
慶長十七年三月二十一日、本多正純の与力岡本大八が火炙りに処された。同日、肥前の大名有馬晴信の流罪も決まった。
岡本大八は有馬晴信に旧領返還の斡旋を申し出て、白銀六百枚を詐取した。岡本大八は詐欺の発覚を怖れ、何と徳川家康の朱印を偽造したのだ。しかし、一向に返還の話が挙がらないため、有馬晴信は本多正純に訴え出た。こうして岡本大八の不正が発覚した。
牢獄の中で岡本大八は有馬晴信が長崎奉行長谷川藤広に恨みを抱き、暗殺を計画していたと暴露。事の真偽を確かめるため、有馬晴信は審議にかけられた。その席でも岡本大八は陰謀を強弁。有馬晴信は返答にしどろもどろになり、捕らえられることとなった。これを「岡本大八事件」という。慶長十七年三月二十二日、有馬晴信は甲斐に流され、五月六日に切腹した。
この事件は両者の処刑では終わらなかった。本多正信と対立する大久保忠隣の一派大久保長安が事件を裁いた。これにより、両者の対立はさらに深まった。そして政治の暗闘の末に切支丹禁令が強化されたのだ。
岡本大八と有馬晴信は切支丹であり、その関係で両者は結びつき、詐欺事件が発生した。朱印状の偽造まで起こした以上、切支丹は将軍家の権威が通用しない不穏分子と見なすべきである。本多正信はこう述べ、家康に切支丹禁令の強化を認めさせた。
元々、豊臣秀吉の出した切支丹禁令は取り消されてはいない。徳川家康が政権を握ってからは曖昧になっていただけである。本多正信の意見は正論として通り、切支丹禁制は強化された。
慶長十七年春、徳川家康は林羅山や藤原惺窩に湯武放伐について質問した。「湯武放伐」とは夏の桀王を滅ぼして湯王が殷を興したこと、殷の紂王を滅ぼして武王は周を興したことに正当性を見なす思想である。天子に徳が無ければ、天は新たに徳のある人物を王に任命という易姓革命思想に基づいている。
徳川家康は自身を徳の有る湯王や武王に、豊臣秀頼を徳の無い桀王や紂王に見立てたのだ。藤原惺窩は湯王や武王は天命に従って欠徳の君を滅ぼしたので、これは悪行ではないと返答した。この返答が豊臣討伐に利用されると悟った藤原惺窩は、急いで京に戻ったと云う。七月二十五日、徳川家康は多門院良尊と密教について談じた。
慶長十八年二月十八日、徳川家康は天台宗の論議を聴いた。二月二十八日、関東天台宗法度が制定される。三月十五日、神龍院梵舜は徳川家康に続日本紀を贈った。四月十日、徳川家康は新義真言宗の論議を聴く。
慶長十八年四月二十五日、大久保長安が急死した。五月六日、大久保長安が金銀を横領していたことが発覚。七名の子供は切腹を命じられ、隠してあった金銀五千貫は回収された。
慶長十八年六月、前年の勧告書を法令にした「公家諸法度五ヶ条」が定められた。公家は家学を学ぶこと。公家と雖も素行の悪い者は処罰する。役職を懈怠無く務めること。用事がない時は町を徘徊しないこと。博打を行う者や傾奇者を召し抱える者は流罪とする。こうした内容が法律として制定されたのだ。
慶長十八年六月三日、徳川家康は林道春に論語を講じさせた。八月二十八日、徳川家康は平戸に入港したイギリス船司令官ジョン・セーリスに拝謁を許した。そして七ヶ条の覚書を与え、通商を許可した。
慶長十八年十二月六日、相洲中原で徳川家康に大久保忠隣の不正を直訴する者がいた。徳川家康は駿府帰城を中止し、江戸城に入った。そして伊勢、三河の大名に年賀の上洛の中止を命じ、駿府の馬廻衆や番衆を江戸に呼び寄せた。
慶長十八年十二月、伴天連追放令が発令された。十二月二十二日、金地院崇伝は伴天連追放の条文を一夜で書き上げている。
慶長十九年正月十九日、大久保忠隣が改易された。理由は許可無く養女を山口重政に嫁がせたためというが、何らかの不正による改易、もしくは本多正信との対立が原因と云われる。大久保忠隣は切支丹禁令の奉行として京にいた。そこで捕らえられ、そのまま近江に配流された。
慶長十九年二月九日、徳川家康は真言宗の論議を聴く。二月二十日、徳川家康は曹洞宗の論議を聴く。
慶長十九年三月、徳川家康は五山の僧を駿府に呼び、論語の「為政篇」の一句を与えて作文させた。「為レ政以レ徳、譬如下北辰居二其所一、而衆星共上レ之(政を為すに徳を以てす、譬えば北辰の其の所に居て、衆星の之に共が如し)」。五山の僧は北辰(北極星)を家康に見立て、不動の北辰のように徳川家は安泰と賞賛する文を提出した。徳川家康はこれに失望している。不動の北辰となるための徳とは何か、どうすれば諸侯を衆星のように従えることが出来るのかが知りたかったのだ。徳川家康は五山の有能な僧のみ厚遇し、無学の僧のいる院の知行を没収した。
慶長十九年三月八日、朝廷は勅使を派遣し、和子入内を認めた。そして徳川家康に太政大臣、准三后宣下の内旨を伝えた。しかし、徳川家康はこれを拝辞している。
慶長十九年三月二十五日、徳川家康は古今伝授を受けるため、冷泉為満を駿府に招いた。四月五日、徳川家康は五山の僧に群書法要、貞観政要、続日本紀、延喜式から法度の参考となるものを選ばせた。 
方広寺大仏殿の梵鐘
慶長十九年四月十六日、豊臣家は方広寺大仏殿の梵鐘を鋳造。六月二十八日、方広寺大仏殿の梵鐘を釣り下げた。
慶長十九年七月、天海は方広寺大仏開眼供養の際、天台宗と真言宗、どちらを左班に据えるのかと豊臣家に質問した。左班とは上席のことである。天台宗を左班としなければ、天台宗の僧侶は開眼供養に出席しないと主張したのだ。豊臣家は天台宗を左班にすると返答した。
慶長十九年七月二十一日、徳川家康は方広寺大仏殿の梵鐘の銘が自分を呪うものとして激怒。「駿府記」によると、徳川家康は上棟の日が吉日でないことにも不満を抱いていたと云う。武将は合戦の日時を占いによって決めるほどであったから、吉日でない日に上棟を行うことに不快感を抱いたようだ。そして、開眼供養を八月三日、大仏殿供養を八月十八日にすべきと主張した。八月十八日は豊臣秀吉の十七回忌である。
慶長十九年七月二十六日、片桐且元が弁明のため駿府に入った。しかし、徳川家康は拝謁を許さなかった。
昔から梵鐘の銘の批難は徳川家康の悪辣非道な謀略と言われてきた。徳川家康は方広寺の鐘銘を批判させるため、五山七老を重用。特に相国寺有節瑞保、東福寺集雲守藤、南禅寺英岳景洪がそれに従っている。
「前征夷大将軍従一位右僕射源朝臣家康公」。右僕射とは右大臣の唐名で、敵を倒し悪を払う役職であるためこの名がついた。豊臣秀頼も右大臣であり、同じく梵鐘に右僕射と書かれている。「国家安康君臣豊楽」。国家安康とは徳川家康を呪ったのではなく、その名にちなんだ吉字を選んだものだ。君臣豊楽も豊臣の名にちなんだ吉字であり、それ以上の意味はない。これらは梵鐘の銘を記した文英清韓の林羅山に対する弁明である。文英清韓に理があることは明らかである。
仏教各派が徳川家に阿諛追従するなか、妙心寺の海山宗格だけは文英清韓を弁護した。愚者である林羅山では、名筆として名高い文英清韓の筆を知ろうとしても無理である。文英清韓は凶事を望んで文を記したわけではなく、天下太平を祈って吉字を記したのだ。こうした主張にこそ理があるが、当時は正論が通らなかったのだ。
慶長十九年七月二十九日、片桐且元は神龍院梵舜に大仏殿落慶供養の延期を告げた。「当代記」八月三日の項に方広寺の賑わいが記されている。醍醐寺三宝院が導師を、妙法院が呪願師を務めた。天台宗五百人、真言宗五百人の僧侶が参加。六百石もの餅がつかれ、三千余名が参集した。しかし、徳川家康が立腹していると伝わると、こうした人々は帰って行った。
慶長十九年八月十二日、神龍院梵舜は豊国大明神の十七回忌法要の延期を決めた。八月二十日、本多正純らは片桐且元に対し、鐘名の件と牢人招集について詰問。鐘名については片桐且元に理があったが、牢人招集については否定することは出来なかった。
一方、正栄局と大蔵卿局も鐘名事件の弁明のため駿府城を訪れており、阿茶局が両名の応接を任された。片桐且元は豊臣秀頼の江戸参勤、淀殿の人質、国替えのどれかを認めることが和解の条件を告げられた。これを報告した且元は大坂城の有力武将から裏切り者と攻め立てられた。正栄局と大蔵卿局の報告では和解は問題なく成立することになっており、誰も条件など口にはしなかったとされていた。片桐且元は暗殺の危機を知り、居城茨城城に蟄居。遂に豊臣家を見限り、徳川家に味方することを決意した。
慶長十九年十月一日、神龍院梵舜は豊国神社社頭にて天下安泰の祈祷を行った。同日、板倉勝重は大坂騒擾を徳川家康に報告。遂に徳川家康は開戦を決意した。 
大坂冬の陣
慶長十九年十月二日、伊勢踊りの衆が豊国神社にて伊勢踊りを踊った。同日、豊臣家は大坂籠城に備えて諸国から兵糧を大量に購入した。そのため、京都所司代板倉勝重は諸国に対し、豊臣家への武器、兵糧の販売を禁止した。
慶長十九年十月六日、徳川家康は藤堂高虎と軍議を行った。十月八日、藤堂高虎が先鋒として駿府を出立。十月十一日、神龍院梵舜は豊国神社社頭にて天下安泰の祈祷を行った。同日、徳川家康が駿府を出立。
十月中旬、徳川軍は大坂への行軍に際し、東海地方の村々に兵糧、薪、藁などを通りに運ぶよう命じた。徳川軍は村を通過する際、兵糧などを購入して補給を行った。徳川家は大坂での補給を容易にするため、近隣の港に入港する商船を保護した。
十月二十二日、阿茶局は大坂城に入り、淀殿から誓紙を受け取った。十月二十三日、徳川家康は二条城に入城。片桐且元は大坂城を絵に描き、城攻めの方法を説明した。十月二十五日、藤堂高虎と片桐且元は大坂城包囲の先鋒を務めることになった。
慶長十九年十一月十日、徳川秀忠が伏見城に入城。十一月十一日、徳川家康は徳川秀忠と対面した。十一月十八日、神龍院梵舜は豊国神社社頭にて天下安泰の祈祷を行う。これで祈祷は三回目である。切迫した事態が伺える。
慶長十九年十一月十九日、「大坂冬の陣」が開戦した。
慶長十九年十月二十五日、稲葉典通は徳川家、豊臣家の兵糧購入によって兵糧の値段が高騰したと嘆き、国元に早々に兵糧を送るよう求めた。一方、吉川家では十一月、大坂周辺での兵糧高騰で利益を上げようと考え、国元に売却出来る米を送るよう命じた。兵庫での米の値段は一石当たり上々米三十二匁、中米二十六匁、下米二十四匁であった。その頃、世間の相場は一石当たり十七匁から十八匁であったと云う。
慶長十九年十一月二十八日、神龍院梵舜は萩原兼従と共に徳川家康の本陣を、十一月三十日には徳川秀忠の陣を見舞った。
慶長十九年十二月十九日、両軍は講和した。講和の条件として大坂城は本丸を残し、二の丸、三の丸を破却することになった。また、織田有楽斎と大野治長は徳川家に人質を出した。金地院崇伝は「本光国師日記」に大坂城内堀は講和の条件に従って埋められたとと記している。十二月二十七日、神龍院梵舜は大坂城にて大野治長らと会談した。 
大坂夏の陣豊臣家嫡流の滅亡
慶長二十年正月三十日、徳川家康は遠州中泉に入った。二月一日、徳川家康は本多正純から大坂城取り壊しの様子の報告を受けた。二月十一日、江戸に戻る途中の徳川秀忠も遠州中泉に入り、徳川家康と話し合った。二月十四日、徳川家康は駿府城に戻った。
慶長二十年三月十二日、板倉勝重は大坂城から浪人衆が退去していないと報告。三月十五日、徳川家康は豊臣家の使者に拝謁を許した。
慶長二十年四月、徳川家は豊臣家の補給路を断つため、大坂周辺への商船の入港を禁止した。四月五日、豊臣家の使者は国替えだけは免れたいと徳川家康に懇願した。四月十日、尾張義直の婚姻のため、徳川家康は名古屋城に入った。そして豊臣家の使者である青木一重に拝謁を許し、牢人が追放されなければ敵意を解くことは出来ないと伝えた。
慶長二十年四月十七日、豊国神社の例大祭は延期された。四月十八日、徳川家康が二条城に入城。四月二十三日、土御門泰重は京都の飢饉が深刻になり、米二升が一匁で売られていると日記に記した。四月二十六日、二条城にて徳川家康と徳川秀忠は軍議を開いた。
慶長二十年四月二十九日、徳川家康は大坂攻めの出陣の日を五月三日と決めた。同日、樫井で浅野長晟勢と大野治長勢が交戦。五月三日、雨天のため徳川軍は出陣を中止し、五月五日に変更した。
慶長二十年五月五日、徳川家康は二条城から、徳川秀忠は伏見城から出陣。五月六日、豊臣軍は大敗し、後藤基次らが討死した。五月七日、大坂城に総攻撃が行われ、城内から火の手が上がった。真田信繁は徳川家康の本陣に突撃をかけ、討死を遂げた。
慶長二十年五月八日、大坂城は落城し、豊臣秀頼は自刃した。淀殿らも共に自刃している。千姫は家臣に伴われ、事前に大坂城を脱出し、徳川家康の陣に送り届けられていた。五月二十三日、豊臣秀頼の嫡子国松が六条河原にて処刑され、豊臣家嫡流は断絶した。 
蜂須賀家の豊国神社勧請
蜂須賀家政、至鎮父子は慶長十九年八月十六日、豊国神社を阿波に勧請した。慶長十九年は秀吉の十七回忌であるが、同年十一月には大坂冬の陣が起きている。不穏な空気は漂っていたはずだ。そのような状況下で豊臣秀吉を祀ったということに、蜂須賀家の豊臣家に対する忠誠心を感じることが出来る。
時勢のため後に廃祀されたが、寛政六年に再建された。 
その後の豊臣氏皇室に流れる豊臣の血統
浅井長政と市殿の三女、後の二代将軍徳川秀忠の正室となる小督は、初め織田信長の甥である佐治一成に嫁いだ。豊臣秀吉によって離縁された後、豊臣秀勝の妻となり、長女完子を出産。徳川家光の異父姉である完子は慶長九年に公家九条忠栄に嫁ぎ、四男三女をもうけた。これは淀殿の斡旋という。長男道房は九条家を継ぎ、次男康道は二条家を継いだ。両家では縁組みが度々交わされ、血を絶やすことなく明治に至った。幕府も流石に手が出せなかったのだろう。正に淀殿の英断である。
その子孫である九条節子は、驚くべきことに大正天皇の皇后となられている。つまり、現在の皇室には豊臣家の血が流れているのだ。 
 
朝廷と幕府の暗闘

 

豊国大明神の神権剥奪
豊臣家滅亡の直後から豊国神社の破却は進められていた。慶長二十年五月十八日、穢中により神龍院梵舜は豊国明神社の神事を略した。五月十九日、神龍院梵舜は豊臣家滅亡の余波が豊国神社に及ぶと考え、この日から徳川家康の側近に社領安堵を懇願する。
慶長二十年六月十八日、本多正信は伏見城にて豊国神社破却を秀忠に進言。同日、豊国神社にて月例祭が再開されたが、行法祈念は略された。
慶長二十年七月九日、徳川家康は二条城にて南光坊天海、金地院崇伝、板倉勝重と話し合い、豊国神社の破却を決めた。七月十日、神龍院梵舜らに豊国神社破却の沙汰が下される。神官の知行、および社領は没収。方広寺大仏殿住職照高院興意は職を解かれ、聖護院にて遷居。天台宗妙法院常胤が新たに方広寺大仏殿住職となり、寺領千石を加増された。神主萩原兼従は豊後にて千石を知行することが決まるが、正式に拝領したのは徳川家康の没後である。
豊臣秀吉の墓も移された。神号「豊国大明神」は廃止され、「国泰院俊山雲龍大居士」に改められた。京都所司代板倉勝重が豊国神社の破却を進めた。豊臣秀吉の長男棄丸(実は次男)の菩提寺祥雲寺は、智積院日誉に下げ渡された。祥雲寺住職海山は棄丸の遺骨を持って妙心寺に移ったと云う。七月十一日、豊国神社にて最後の神事が行われた。
元和元年七月末、北政所は豊国神社の処遇を「崩れ次第」に任せるよう徳川家康に嘆願した。徳川家康はこれを受け入れ、徳川神社の一部の存続を許した。こうして豊国神社は風雨によって社殿が傷み、倒壊しようともそのまま放置されることとなった。北政所の嘆願は破却を免れるための、正に窮余の策であった。
元和元年八月四日、徳川家康は駿府へと向かった。八月十八日、醍醐寺座主義演は徳川家に憚り、醍醐寺での豊国大明神の法要を中止した。そして、毎月十八日の法要も中止している。豊国神社では神事を略すも、神龍院梵舜ら十数名が参拝。片桐貞隆も参拝している。
元和元年八月末、豊国神社はその大部分が破却された。豊臣秀吉の神廟、社殿は残された。また、神龍院梵舜が徳川家康から賜った神宮寺も残されている。十月一日、神龍院梵舜は豊国神社に洗米を献げた。以降、神龍院梵舜は毎月一日と十八日に参拝を続けた。
元和元年十二月四日、徳川家康は隠居城建設のため伊豆泉頭を実検。年明けから建設工事を行うことにした。
元和元年十二月十八日、妙法院常胤が豊国神社の参道を塞いだ。このような嫌がらせを受けるほど、豊国神社の権威は失われていた。 
禁中並公家諸法度
慶長十八年六月十六日、徳川家康と秀忠は二条昭実と二条城で会見し、禁中並公家諸法度の制定に連署をした。同日、「公家衆法度」が制定された。公家は家伝の学芸に勤しむことなど、九ヶ条が提示された。違反者は朝廷ではなく幕府が処罰するため、朝廷の権威を侵害する法であった。七月十五日、中和門院は禁中にて天皇と上皇の和解について論議した。
慶長二十年七月七日、「武家諸法度」が公布。七月十三日、慶長から元和に改元された。
元和元年七月十七日、「禁中並公家諸法度」が公布された。これは禁裏を法の下に置いた最初の法令である。その主な内容をまとめるとこのようになる。
第一条:天皇は諸芸能を学ぶことを第一とする
第二条:親王の座位は太政大臣、左右大臣の下位とする
第三条:清華家の大臣辞任後の座位についての規定
第四条:第五条、大臣、摂関任官に関する規定
第六条:養子に関する規定及び女性の家督相続の禁止
第七条:武家と公家の任官は別とする(武家任官に際し、公家に同位の者がいても可とする)
第八条:改元の規定
第九条:天皇陛下、公家の礼服についての規定
第十条:昇進についての規定
第十一条:関白、伝奏、奉行らの申し渡しに違反する者は流罪とする
第十二条:罪の重さは名例律によって定める
第十三条:摂家門跡の座位は親王門跡の下位とする
第十四条:第十五条、僧正、門跡、院家の叙任についての規定
第十六条:紫衣勅許に関する規定
第十七条:上人号の勅許の規定
徳川家は法を持って天皇の上に立つ。日本史上、最も倫理観の乱れた時代でもある戦国期でさえ、天皇の権威は地方大名にとって絶対的なものであった。応神天皇、神功皇后という戦神の存在も大きいが、何より注目すべきは天皇の持つ合戦調停権、朝敵討伐令である。
加賀の前田家や薩摩の島津家、長州の毛利家が挙兵した時、朝廷がこれに味方すればどうなるか。徳川将軍は将軍職を剥奪され、朝敵として追われる身となる。徳川家康はこれを恐れた。将軍職が天皇に仕える役職である以上、天皇と表立って対立することは出来ない。
ならば、天皇を将軍の発した法の下に置き、調停権や討伐例などを勝手に発しないよう監視する。諸大名への官位叙任は恩賞などの価値を持つため、幕府の有利になるよう発給を要請する。徳川幕府における京都所司代の位置は、正に禁裏の監視役であった。
七月二十四日、諸宗寺院法度が公布された。 
徳川家康の神格化
元和二年正月十二日、徳川家康は隠居城建設を急遽中止。正月二十一日、徳川家康は病に臥した。茶屋四郎次郎清信、榊原清久の献じた大鯛二匹、甘鯛二匹の天麩羅を食べたところ、腹痛に苦しんだと云う。正月二十三日、平戸英国商館のリチャード・コックスは「風評によると皇帝とカルササマとの間に、戦争が起ころうとしている」と記した。
元和二年二月朔日、徳川秀忠は駿府に向かうため江戸を立つ。二月二日、徳川秀忠が駿府城に到着。二月三日、徳川秀忠は全国の名僧、神官、陰陽師らに家康の病気平癒を祈祷させた。三月四日、神龍院梵舜は用人弥兵衛を豊国神社に代参させ、御神籤で駿府行きの吉凶を占わせる。三月十八日、神龍院梵舜は駿府に向かうため京を立つ。三月二十四日、神龍院梵舜は駿府に到着。三月二十五日、神龍院梵舜は金地院崇伝に駿府到着を報告し、「神道御祓」を進上した。四月朔日、神龍院梵舜は駿府浅間神社にて「豊国ノ祈念」を行った。
元和二年四月二日、徳川家康は遺産の配分を定めた「金銀の覚」を記した。四月十五日、徳川秀忠は下向していた神龍院梵舜に対し、父家康の死後、その御霊を神として祀るか、仏として葬るかを相談した。四月十六日、徳川家康の御霊は吉田神道によって神として祀られることが決まった。 
徳川家康の死
元和二年四月十七日、徳川家康が没した。懸命に看病を続けていた榊原清久が、その最後を看取った。金地院崇伝の「本光国師日記」に遺言が記されている。
「臨終候ハバ、御体をは久能へ納、御葬礼をハ増上寺にて申付、御位牌をハ三洲之大樹ニ立、一周忌も過候て以後、日光山に小さき堂をたて、勧請し候へ、八州之鎮守ニ可レ被レ為成との御意候、皆々涙をなかし申候」
これとは別に、榊原清久は神職となり、生前同様に家康仕えるよう遺言を受けた。徳川家康は自身が神として祀られることを承知しており、神職も指名していたのだ。
徳川家康の遺体は久能山に運ばれた。そしてその御霊を祀る仮殿の建設が早急に行われた。四月十九日、久能山山頂の仮殿に徳川家康の御霊を遷宮。祭主は神龍院梵舜、榊原清久が務めた。仮殿は三間四方で、鳥居、井垣、燈籠一対など神社に必要な様式が整えられていた。四月二十二日、大工頭中井正清は久能山に神社造営を命じられた。四月二十五日、徳川秀忠は榊原清久を神官職に任じ、父家康の最後を看取ったことを讃えた。
元和二年五月三日、金地院崇伝と南光坊天海は徳川家康の神号をめぐり対立。神龍院梵舜と崇伝は「大明神」を、天海は「大権現」を主張した。この時、天海は「山王一実神道」を提唱している。
徳川秀忠、金地院崇伝らの反対を受けた天海は、豊国大明神の子である豊臣秀頼は滅んだと述べた。この言葉で徳川秀忠は考えを改め、父家康の神号として「権現」を選定した。 
東照大権現と山王一実神道
徳川家康の御霊は徳川家の手により、天照大神に比肩する最高位の神として祀られた。天皇が天照大神の子孫として日本を統治するように、徳川将軍は東照大権現の子孫として日本を統治したのだ。
山王一実神道は南光坊天海が提唱したもので、天台宗の山王神と釈迦を同一視する信仰方法に立脚している。天台宗は釈迦如来、薬師如来を信奉した。山王神を釈迦の垂迹であるとして、比叡山の守護神に祀っていた。
一方、真言宗は大日如来を信奉し、垂迹という形で大日如来と天照大神を同一視していた。天台宗は釈迦如来と大日如来を同一視するようになり、ここに天照大神、山王神、釈迦如来、薬師如来、大日如来を習合信奉する思想が生まれた。
こうした思想を背景に、比叡山の守護神である山王神を中心として神仏を習合した信仰。これが山王一実神道である。
権現とはこの世に仮の姿(権)に現れた神仏を意味する。徳川家康という人間を祀るのではなく、神仏の垂迹(仮の姿)である徳川家康を祀るのだ。
天海は権現の論理として「空仮中」を挙げた。徳川家康の場合、空として薬師如来、仮として徳川家康、中として東照大権現として存在した。特に天台宗は薬師如来と天照大神、釈迦如来、大日如来を同一視しているのだから、東照大権現はあらゆる神仏を包括する圧倒的な存在に昇格した。
実際、日光東照宮では中央に東照大権現を祀り、右に天照大神と同一とされる山王権現を、左に冥府を司る魔多羅神を祀っている。中央の徳川家康の神格は左右の神を上回った。 
徳川家康の遺産
徳川家康の遺産のうち、駿府城の蓄財や宝物は主に義直、頼宣、頼房に譲られた。徳川秀忠には生前分与として、慶長十二年十月十四日に小判三万枚、銀一万三千貫が譲られている。それとは別に刀剣千百六十二振のうち、上物の百二振を徳川秀忠は譲られた。徳川家康の娘や孫娘には反物三百反が贈られた。また、その生母や阿茶局にも金二千両や反物五十反が渡されている。
相続した遺品について、尾張家は詳細な記録を残している。紀伊家が相続した遺産の内容は不明な点が多い。水戸家は尾張家、紀伊家の約六割程度の遺品を相続したと思われる。
現在、判っているだけで尾張義直は金一万八千九百四十九貫余、銀十万千三百三十三貫余、小判二百七十三万四千九百四十四両を相続。紀伊頼宣はほぼ同程度の遺産を相続。水戸頼房の金の相続額は不明だが、銀は一万二千五十貫、小判百三万四千四百六十七両を相続した。兄弟三人に金四万貫余、銀二十一万貫、小判六百四十万両が譲られたとも云われる。
他に久能山宝庫に金銀子百数十万両が納められており、宝物などとの合計額は同時代の日本の年間総石高を凌駕する。
「駿府御分物刀剣元帳」によると、尾張義直と紀伊頼宣は同等数の、水戸頼房は両名の約六割の刀を相続している。
「駿府御分物御道具帳」によると、尾張義直は十七領の鎧具足を相続。鎧下着、弓矢、馬具、旗、指物、陣太鼓、銅鑼、軍配なども譲られた。これらの作成に必要な鹿皮、鮫皮、熊皮も遺産に含まれている。金沢文庫からも多数の蔵書が遺産として譲られた。現在まで残っているものは国書二十八冊、漢籍百八十九冊、仏典四十二冊である。茶器の名物、大名物は二十四品。茶壺は四十六品。天目茶碗十六品、高麗茶碗八品、釜七品。他に花入、香炉、茶杓なども附けられた。香木十種八十八貫余。薬百八十二種。薬袋や計量のための分銅。掛軸三十点、屏風十九点、能面十四点、能装束六十三品、鷹の鈴、反物二百九十八種、紙一万九千四百九十帖、蝋燭四万二百六十六挺。シャボン、砂糖、葡萄酒、焼酎、水銀、鏡、眼鏡、遠眼鏡、コンパス、時計、鉛筆、鋏。
尾張家だけでもこれほど多彩な品が、それも膨大な量が譲られた。江戸、紀伊、水戸や他の血縁者に分けられた遺産を考えれば、それこそ途方もない規模になる。 
徳川家に取り入ろうとする公家
元和二年六月二十二日、神龍院梵舜は京へ出立。六月二十八日、細川忠興は子の忠利に手紙を送った。その一文に「金地院、御前弥遠くなり申し候」とある。金地院崇伝は徳川秀忠から煙たがられていたようだ。
元和二年七月三日、神龍院梵舜が京に到着。七月四日、神龍院梵舜は徳川家康の神号が決まったことを廣橋大納言兼勝に報告した。
元和二年七月六日、金地院崇伝は細川忠興に手紙を送った。そのなかで本多正純を通じ、土井利勝と昵懇になるべきと進言している。土井利勝は徳川秀忠の第一の側近であり、この頃から権勢を強めていた。
元和二年八月、徳川家への忠勤を示すため、江戸に下向しようとする公家が急増していた。徳川家は武力では国内第一、権威でも五摂家以上という立場にある。公家は我先に取り入ろうと必死だった。八月二十五日、朝廷は下向する者を籤で選定すると決めた。八月二十六日、後水尾天皇は公家の江戸下向に強い不快感を示された。広橋兼勝は下向の理由を各自書き記し、その内容によって暇を与えるかを決めるとした。
元和二年九月二十五日、妙法院の僧が豊国神社神宮寺境内に無断で入り、草を刈るなどの無法行為を行った。十一月十一日、萩原兼従の豊後国内の所領が速見郡朝見庄立石村千石に決まった。 
日光東照社の造営
元和二年十一月、日光にて徳川家康を祀る東照社の社殿造営が始まった。普請奉行は本多正純。大工棟梁は中井正清が務めた。
元和三年三月、日光東照社が創建された。三月十五日、徳川家康の遺体が久能山から日光へ移された。四月八日、改葬が行われ、徳川家康の遺体は院廟塔に納められた。四月十四日、日光東照社の仮殿遷宮が行われた。
元和三年四月十七日、東照大権現一周忌法要をもって正遷宮祭が行われた。朝廷からの院使は参議西洞院時慶、奉幣使は参議清閑寺共房、宣命使は参議中御門尚長。後水尾天皇は「東照大権現」の勅額を下賜した。咒願師として梶井法親王最胤、證誠として正覚院権僧正豪海、武家伝奏広橋兼勝、三条西実條、日野資勝が遣わされた。以降、四月十七日の神君命日は大祭、九月十七日を臨時大祭と定められた。 
日光に東照宮が創建された理由
日光男体山は古来より霊山と崇められていた。天応二年三月、勝道上人が開山したと伝わっており、源頼朝も信仰が厚かったと云う。日光は関東では知られた神域であったため、神君を祀る神域に選定されたのだろう。
また、道教的な宗教観から日光を聖域にする構想が生まれたと推測することが出来る。日光は徳川家康に縁の深い土地を、三本の直線を結ぶことで選定されたのだ。
徳川家康の生まれた「岡崎」と、死没した「駿府城」を直線で結ぶ。「久能山東照宮」もこの直線に含まれる。徳川家康の生涯のうち、誕生から死までを意味するのが一本目の直線である。
久能山東照宮は北北東を背にしている。その方角には「富士山」、徳川氏発祥の地である「世良田」がある。不死を意味する富士山と、発祥の地をつないだものが二本目の直線である。これは人から神への生まれ変わりを意味する。
そして、江戸から北に三本目の直線を引き、二本目の直線との交点をとる。北は天帝の方角であり、死を司る玄武の方角である。徳川家康の人としての生涯、不死の神への生まれ変わり、天帝と一体化するための北への埋葬。三本の直線はこうした意味を持っている。日光東照宮は、この交点上に位置しているのだ。
明治二十三年、上州赤城村津久田の井戸跡から720gもの純金で作られた家康像が発見された。赤城山は江戸城、世良田東照宮を線で結んだとき、その延長上に位置している。この家康像も呪術的な意味が込められていたと推測される。
東照宮は塀や門、天上、壁といった部分にまで細かな装飾が施されている。そのほとんどが漆を塗られていた。男体山付近は雨が多く、自然と湿度が高くなる。年間降雨量は東京の三倍であり、年の半分は雨が降ると云われる。装飾に使われた漆が湿気から材木を保護し、その美しさを永く伝えることが出来た。 
後陽成上皇の崩御
元和三年六月四日、大澤基宿は勅額下賜の御礼として参内。金百枚を献上した。
元和三年六月十四日、徳川秀忠が上洛。六月二十九日、伏見城に入った。六月三十日、武家伝奏広橋兼勝、三条西実條が伏見城に遣わされる。七月五日、親王らも伏見城に赴く。七月七日、伏見城にて猿楽が催された。七月十九日、尾張義直が従三位中納言に叙せられる。七月二十日、紀伊頼宣が従三位中納言に叙せられた。
元和三年七月二十一日、徳川秀忠が参内。後水尾天皇に銀子千枚、綿二千把を献上した。上皇には銀子三百枚、上皇御料にも銀子三百を献上。女院御所に銀子三百枚、さらに御分配料として二百枚。国母に銀子二百枚、綿五百把、さらに御分配料として二百枚。御摂家方に銀子百枚をそれぞれ献上した。
この時、徳川秀忠は上皇に天皇と和解するよう進言したが、上皇は和解を拒否したと云う。
元和三年八月、榊原清久は東照大権現の神託を夢で受け、名を「照久」に改めた。
元和三年八月二十五日、後陽成上皇が危篤に陥った。後水尾天皇は上皇の手をとられ、自ら薬をお飲ませした。しかし、中村通院の日記によると、上皇は一度も天皇を見ようとしなかったと云う。
元和三年八月二十六日、後陽成上皇は崩御なされた。四十七歳。腫れ物が原因と云う。 
久能山東照社の創建
元和三年十二月、久能山東照社が建立された。 
和子入内の準備
元和四年六月二十一日、京都所司代板倉勝重は武家伝奏広橋兼勝の邸宅を訪ねた。和子の入内についての打ち合わせを行う。そして、和子の入内は元和五年に行うと決まった。
元和四年七月十五日、盂蘭盆の日、板倉勝重は京に花火を上げた。これは後水尾天皇への献上であり、京に初めて花火が打ち上げられた日でもある。和子入内が決まったことを祝賀するためであろう。
元和四年九月、和子入内に備えて、小堀遠州が普請奉行となって御殿の建設が始まった。九月九日、「時慶卿記」に「女御入内事、来年無之由風説」が流れたと記される。和子入内が延期となったとの噂が京で流れたのだ。
この年、およつ御寮人は後水尾天皇の皇子を出産した。御名は加茂宮と申されるも、その事績は定かではない。徳川秀忠は東福門院の子を天皇に、と画策していた。加茂宮は夭折されたため(暗殺か)、特に幕府の力で事績が消されたものと思われる。
元和四年十月十二日、彗星が現れた。当時、彗星は不吉なものと忌み嫌われた。十一月五日、吉田神道家は朝廷から彗星調伏を命じられた。十一月九日、萩原兼従は禁中にて祈祷を始めた。祈祷は紫宸殿、清涼殿の南庭で行われた。十一月十五日、祈祷開始から七日目の結願の日の明朝、彗星は姿を消した。公卿らは萩原兼従の祈祷を大いに賞賛した。
元和五年五月二十七日、徳川秀忠が伏見城に入った。諸大名や公家は山科にて将軍を出迎えた。越前忠直は病のため、徳川秀忠の上洛に供奉出来なかった。
徳川秀忠上洛に先立ち、京では切支丹の大規模な捕縛が行われた。六十二名の切支丹が捕らえられ、改宗に応じなかった五十二名は七条河原で火炙りにされた。二歳の女子、四歳の男子、八歳の盲目の女子、妊婦まで処刑されるなど、過酷な内容であった。
元和五年五月二十八日、勅使武家伝奏広橋兼勝、三条西実條が伏見城に遣わされる。六月十八日、右大臣近衛信尋、八條宮智仁親王、伏見宮邦房親王らが伏見城にて徳川秀忠に拝謁。この時、近衛信尋と邦房親王は席次を巡って言い争っている。
元和五年六月二十日、およつ御寮人は後水尾天皇の女児を出産。梅宮、後の文智女王である。上洛中の徳川秀忠は激怒しただろう。
元和五年六月二十八日、妙法院常胤は神宮寺を引き渡すよう、神龍院梵舜に要求した。神龍院梵舜が金地院崇伝に確認を取ると、梵舜の神宮寺社領領有は認められていないとの返答を受けた。
元和五年七月十四日、関白二条昭実が没した。徳川秀忠は親幕府派の九条忠栄を関白に就任させた。これは天皇の権威を侵害するもので、後水尾天皇は御譲位を考えられたと云う。七月二十五日、徳川秀忠が参内した。
元和五年八月十四日、金地院崇伝は徳川秀忠の上洛に供奉。神龍院梵舜は崇伝に直接会うが、この時は神宮寺社領領有は認められているとの返答を受けた。
元和五年九月朔日、妙法院常胤は京都所司代板倉勝重に働きかけ、神宮寺社領引き渡しを認めさせた。
元和五年九月五日、後水尾天皇は近衛信尋宛の書状に御譲位の意志を記された。徳川秀忠と折り合いが悪く、入内の話も進展しないことから面目を失った。弟の一人を即位させ、自分は出家して隠棲する。この書状は藤堂高虎に渡された。天皇が御譲位されれば、当然ながら和子入内の話は白紙となる。徳川秀忠への強烈な意志表示であった。 
豊国大明神の神龍院勧請
元和五年九月五日、豊国神社社殿、神宮寺の破却は避けられないものとなった。板倉勝重の使者が、神龍院梵舜に神宮寺の屋敷の引き渡しを命じたのだ。これより僅かな期間、梵舜は最後の抵抗を試みた。引き渡しの延期である。
元和五年九月七日、徳川秀忠は摂津尼崎城に入った。その後、大和郡山や奈良を見物した。後水尾天皇の御譲位の意志を無視したと見るべきか。
元和五年九月九日、神龍院梵舜は重陽の節句の神事を行った。同日、板倉勝重の使者が梵舜を訪ね、神宮寺を妙法院に引き渡すよう命じた。九月十二日、妙法院常胤は豊国神社そのものを引き渡すよう、神龍院梵舜に命じた。梵舜は「分別成り難し」と返答した。九月十四日、板倉勝重は豊国神社、神宮寺が妙法院に引き渡すよう神龍院梵舜に命じた。最早、これ以上の抵抗は出来なかった。
元和五年九月十五日、神龍院梵舜は豊国神社に暇を乞うため参拝。九月十六日、神龍院梵舜は妙法院常胤に豊国神社を引き渡した。破却の最中、梵舜は吉田山神龍院に豊臣秀吉の神体を移した。九月十七日、神龍院梵舜は板倉勝重と伏見にて会合。むしろ、上洛している徳川秀忠への訴えと考えるべきか。この時、神龍院梵舜は豊国神社破却は不当であると訴えた。
元和五年九月十八日、徳川秀忠が伏見城を立つ。同日、幕府は六名の公家を乱行の罪で処罰。この罪状は根拠のないもので、天皇の側近を追放するという恫喝であった。万里小路充房は丹波篠山に流罪。四辻季継、高倉嗣良は豊後へ流罪。中御門宣衡、堀川康胤、土御門久脩は出仕停止。
このうち四辻季継、高倉嗣良はおよつ御寮人の兄である。明確な禁裏圧迫であろう。土御門久脩の子泰重は激怒。日記に何の確証もなく父が罰せられたことを「無道之法制、迷惑千万、無道第一之事」と記した。さらに処罰に荷担した広橋兼勝を「三百年以来之奸侫之残族臣也」、「イルカ、守屋之臣倍せる者也」と辛辣に書きつづった。イルカとは蘇我入鹿であり、広橋兼勝を朝廷を滅ぼしかねない侫臣としたのだ。
後水尾天皇もこの処罰に強く憤られ、土御門泰重に慰めの言葉をかけられると同時に、徳川秀忠や広橋兼勝、板倉勝重への怒りを露わにされたと云う。
元和五年九月二十八日、京都所司代板倉勝重が解任。後任は嫡子板倉重宗となった。先の公家への処罰が逆効果であると知った幕府は、板倉勝重を処分することで事件の沈静化を図ったのだ。
しかし、天皇はこのようなことで妥協される方ではなかった。十月十八日、後水尾天皇、再び近衛信尋宛の書状に御譲位の意志を記される。公家の家柄を無視され、なんの罪もなく罰せられては禁中は廃れると記された。全くの正論である。
元和五年十二月十一日、神龍院梵舜は神龍院にて遷宮祭を行い、豊国大明神を勧請した。 
鎮守大明神
元和六年一月十三日、鷹司信尚は左大臣を辞任し、散位となった。近衛信尋が左大臣に昇進した。
元和六年一月十八日、神龍院梵舜は神龍院内の豊国大明神に神供を供えた。梵舜は北政所にも神供を進言し、北政所は初尾百疋を供えた。
神龍院梵舜は秀吉の神号を「鎮守大明神」に改めた。以降、梵舜は毎月十八日に鎮守大明神への社参を行った。一月二十三日、梵舜は神宮寺の材木を用い、吉田神社の一角に「西二階ノ屋敷」の建設を始める。二月十九日、神龍院梵舜は神龍院住職を辞した。以後、西の御殿に居住。吉田兼治の三男瑛蔵主が神龍院住職となった。 
和子入内
元和六年二月二十七日、藤堂高虎は御譲位の意志を示された後水尾天皇を配流する、その上で自身は腹を切ると公家を恫喝。同日夜、近衛信尋が使者となり、天皇が御譲位の意志を変えられたことを藤堂高虎に通達。高虎は大いに喜んだ。
元和六年二月三十日、京は大火に見舞われた。三月十日、先月から頻発する火災のため、改元の儀が持ち上がった。
元和六年五月一日、神宮寺旧門が神龍院に移された。五月八日、和子は入内のため江戸を立つ。酒井忠世、土井利勝らが供奉。五月二十八日、和子が二条城に入る。
元和六年六月十八日、和子が入内。後水尾天皇は和子の入内を、古の女御入内の形式で行われた。当初は六月八日に入内とされていたが、和子が二条城にて発病したため、十八日に延期された。
阿茶局が母堂代わりとして付き添い、従一位に叙せられた。天皇に銀子千枚が献上されたが、土御門泰重は少なすぎると批判している。銀子千枚はけっして少額ではない。やはり、望まれざる入内であること、父久脩が理由もなく処罰されたことが酷評の原因と見るべきだろう。和子付きとして弓気多昌吉ら武家も禁裏に入った。弓気多昌吉は目付を務めた人物で、徳川秀忠から朝廷の監視をするよう密命を帯びたものと推測される。諸大名の参列はなかった。七月十七日、近衛信尋は和子入内を祝賀するため、禁中にて和衆踊りを披露した。
元和六年閏十二月二十五日、梵舜は鎮守大明神に北政所の病気平癒を祈願。閏十二月三十日、北政所は鎮守大明神に祈祷料、神供、灯明料として銀子百枚、鳥目百疋を奉納。
元和七年、妙法院常胤が没した。堯然が妙法院住職となる。一月二日、右大臣西園寺実益が辞任。花山院定熙が右大臣に昇進。一月十二日、右大臣花山院定熙が辞任。内大臣一条兼遐が右大臣に昇進。権大納言正三位二条康道が内大臣に昇進。兼遐は後水尾天皇、左大臣近衛信尋の御実弟である。康道の妻は後水尾天皇の御妹であり、天皇の周囲は側近で固められた。
元和七年七月、近衛信尋と板倉重宗は禁中に花火を献上。以後、夏の風物詩となる。
元和七年十一月十九日、前関白鷹司信尚が落馬によって没した。三十二歳。 
徳川秀忠の日光東照社参拝
元和八年四月十二日、徳川秀忠は日光東照社を参拝しようと江戸を立つ。これは徳川家康の七回忌法要のためである。四月十六日、徳川秀忠が日光に到着。この時、徳川秀忠は異常とも思えるような厳戒態勢を布いていた。細川忠利は同月二十四日の書状で、山を二重三重にも囲み、役人は五万から六万も動員されたとしている。越前忠直の動向を警戒するためか。
元和八年四月十八日、徳川秀忠は東照社に参拝。四月十九日、徳川秀忠は日光を立つ。帰途、徳川秀忠は宿泊予定地の宇都宮城には入らず、壬生にて休んだ。宇都宮城主本多正純に不信を抱いたためと云う。井上正就が宇都宮城に入り、宿泊地を調査した。四月二十一日、徳川秀忠が江戸に到着した。
元和八年六月、榊原照久は従二位に昇進。榊原照久は久能山東照社の神官であり、天照大神を祀る伊勢神宮の神官(正三位)を上回る権威を持ったことになる。これを認めれば、徳川家康が天照大神を超えたことになる。朝廷は後にこの事に気付き、伊勢神宮の神官も従二位に昇進させた。
元和八年七月四日、北政所の夢枕に豊臣秀吉が立ったと云う。七月六日、神龍院梵舜は北政所の申し出により、豊臣秀吉の御霊を慰めた。八月十八日、醍醐寺座主義演は、醍醐寺にて豊国大明神二十五回忌法要を営む。
元和八年十二月十八日、親幕府派の筆頭であった広橋兼勝が没す。六十五歳。後水尾天皇の側近中村通村が武家伝奏となった。 
徳川家光の征夷大将軍宣下徳川将軍家の安定化
元和九年五月十二日、徳川秀忠は嫡男家光への将軍職譲渡のため江戸を立つ。六月八日、徳川秀忠が京に入る。諸大名、公家はこれを迎えた。六月十五日、関白九条幸家、左大臣近衛信尋、右大臣一條昭良、八條宮智仁親王、伏見宮貞清親王らが二条城にて徳川秀忠に拝謁。六月十七日、真言宗高野山、天台宗比叡山の僧が徳川秀忠に拝謁。六月十八日、五山、大徳寺、妙心寺、臨済宗の僧が徳川秀忠に拝謁。
元和九年六月二十五日、徳川秀忠は塗輿にて参内。塗輿は天皇、門跡のみに許されるものであり、徳川秀忠の権勢、奢りが伺い知れる。徳川秀忠は拝謁の儀の前に後水尾天皇、東福門院と食事を共にした。徳川秀忠は天皇の子を身籠もった和子と対面したかったのだろう。後水尾天皇は年来の憤りをお隠しになられた。
同日、徳川秀忠が後水尾天皇に拝謁。「徳川実紀」はこのことを「対面(対等の立場)」と記し、将軍が天皇に「拝謁」したとは書いていない。徳川家にとって天皇は同格の存在としたかったのだ。
元和九年六月二十八日、徳川家光が江戸を立つ。行列の一番は松平忠次、水谷勝隆、松平重綱。二番は松平康長と保科正光。三番は酒井忠世、内藤忠興、前田利孝、細川興昌、西郷正員、及び那須衆。四番は青山忠俊、青山宗俊、新庄直好、松前公広。五番は阿部正次。家光の本陣がそれに続く。後押は安藤重長、水戸頼房。
元和九年七月十三日、徳川秀忠が二条城に入る。徳川家光は伏見城に入った。徳川家光は伏見城にて諸大名、公家から迎えられる。朝廷からは勅使大納言三条西実條が派遣された。
元和九年七月二十三日、徳川家光が参内。天皇に銀子五百枚を献上した。
元和九年七月二十七日、徳川家光を将軍に任じるかが陣儀される。上卿は大納言三条西実條、奉行は参議正親町季俊、奉行弁は勧修寺経広。徳川家光は同日、征夷大将軍に就任し、源氏の長者となった。
元和九年閏八月五日、徳川家光が京を立つ。閏八月十一日、徳川秀忠は禁裏に一万石を寄進。それまでの本御領一万石と併せて二万石となる。閏八月十四日、徳川秀忠が参内。閏八月二十一日、徳川秀忠が京を立つ。十一月十九日、和子が後水尾天皇の女子を出産。女一宮である。 
豊臣秀頼の怨霊
元和九年、千姫は男児(本多忠刻の子)が早世したことを豊臣秀頼の怨霊の仕業と考え、伊勢慶光院の周清尼に供養を依頼。七寸に満たないほどの正観音の座像が作られ、豊臣秀頼自筆の南無阿弥陀仏の名号、周清尼の記した願文が入れられた。周清尼は豊臣秀頼自筆の名号を入れることで座像を御神体とし、寺の続く限り末代まで後生を弔うとした。さらに千姫が子宝に恵まれれば、豊臣秀頼の御霊の力によるものと崇拝するので怒りを静めていただきたいと記した。この願いは淀殿の御霊へも出されている。寛永三年五月七日、千姫の夫である本多忠刻が没す。三十一歳。同月、諸大名は千姫が前田光高に嫁ぐと噂した。十二月六日、千姫は落飾し、天樹院と号した。 
北政所の死
元和十年二月三十日、寛永に改元。九月二十二日、徳川秀忠は江戸城西の丸に移る。十一月八日、和子が中宮に冊立。中宮とは皇后を指す。南北朝期以降、絶えた称号であった。後水尾天皇は禁裏の儀を古に戻されることを願っておられ、和子の中宮冊立もその一環として行われた。寛永元年八月十二日、神龍院梵舜、萩原兼従、吉田兼英は鎮守大明神に北政所の病気平癒を祈祷。寛永元年九月六日、北政所が没した。 
相次ぐ武家の昇進
寛永三年閏四月二十一日、醍醐寺座主義演が入滅。六十九歳。終生、豊臣秀吉からの神恩を忘れることはなかった。
寛永三年五月二十八日、徳川秀忠は上洛のため江戸を立つ。六月二十日、徳川秀忠が上洛。御三家、駿河忠長も供奉。その際の序列は尾張義直、紀伊頼宣、駿河忠長、水戸頼房。駿河忠長が叔父頼房より上位に位置付けられたのは、駿河忠長の官位が従三位と水戸頼房より上であったためである。紀伊藩付家老安藤直次はこれに激怒。将軍の世継ぎでもない忠長が、権現様の御子よりも上に位置するとは不可解と主張した。徳川秀忠はこれを受け、駿河忠長と水戸頼房の序列を入れ替えた。
寛永三年七月十二日、徳川家光は上洛のため江戸を立つ。八月二日、徳川家光が京に入る。
寛永三年九月六日、後水尾天皇が二条城に行幸。これは正親町天皇が豊臣秀吉の聚楽第に行幸されて以来のことである。それに先立ち、徳川秀忠は左大臣、徳川家光は従一位左大臣に昇進した。
徳川家光は禁中に天皇のお迎えに上がり、行列に供奉。行列の一番は中宮和子、二番は中和門院、三番は後水尾天皇。こうして数千人からなる公家の行列が二条城に入った。この行列は諸大名から招集された三千三百二十七名が警護した。他に千二百名ほどが各小路を守った。天皇の御膳は金で造られ、後に禁裏に献上された。他にも茶道具、風呂までもが金で造られていた。これは小堀遠州が仕立てたと云う。
徳川家光は後水尾天皇に白銀五万五千両、御服三百五十領などを献上。徳川秀忠は天皇に黄金二千両、白銀二万五千両、御服二百領などを献上。こうした献上物は京都所司代の管理下に置かれ、実際には天皇の手に渡ることはなかったと云う。
行幸の後、徳川秀忠は太政大臣に昇進。尾張義直、紀伊頼宣、駿河忠長は従二位大納言。水戸頼房、前田利常、伊達政宗、島津家久は従三位中納言。越前松平忠昌、蒲生忠郷は正四位下参議。佐竹義宣、森忠政は従四位上中将。上杉定勝、池田光政、藤堂高虎、井伊直孝、毛利秀就は従四位上少将。細川忠利、京極忠高は従四位下少将。松平直政は侍従。このように有力大名の昇進が相次ぎ、江戸期において寛永年間は最も武家の官位の高い時期となった。 
紫衣事件
寛永三年十一月十三日、和子は後水尾天皇の皇子を出産。高仁親王と名付けられる。徳川家の血の入った皇子であり、徳川秀忠は狂喜しただろう。
寛永四年七月十九日、紫衣事件が起こる。金地院崇伝は臨済宗大徳寺、妙心寺に圧力をかけるため、高僧の紫衣を剥奪した。徳川家康の定めた「勅許紫衣法度」に違反することを根拠にしたが、これは紫衣を許してきた後水尾天皇の権威を否定することとなった。細川忠興は七十から八十通の紫衣の綸旨が反故にされ、天皇は恥をかかされたと記した。後水尾天皇が年来の御譲位の意志を固められたのはこの時であろうか。
寛永四年十一月、徳川秀忠は仙洞御所の「ちょうなはじめ」の日程を決める。徳川家の血の入った皇子が生まれるまで、秀忠は天皇の譲位を防ごうと躍起になっていた。しかし、和子は高仁親王を生んだ。最早、天皇が譲位しても徳川家に打撃を与えることは出来ない。徳川秀忠は高仁親王への譲位を待ち望んでいた。
寛永四年五月二十一日、神龍院梵舜は豊国神社再興の沙汰が下る夢を見た。翌日、鎮守大明神に洗米を捧げ、再興を祈願した。
寛永五年二月六日、徳川秀忠は仙洞御所の造営の日程を決める。三月十日、沢庵宗彭、玉室宗伯、江月宗玩の三名は紫衣剥奪の無道を記した嘆願書を幕府に提出。金地院崇伝はこれに目を通した。崇伝は紫衣を賜る高僧は三十年以上の修行を遂げ、千七百則の公案を開悟するものとした。沢庵らはこれに反発。僧籍に入って三十年では没する者が多い。年数に拘るべきではない。公案は数をこなすことではなく、開悟することこそが目的であるとした。さらに崇伝の理論では仏法は絶えるとした。 
皇子の夭折
寛永五年四月、徳川家康の十三回忌法要のため、徳川秀忠と徳川家光は日光東照社に参拝した。
寛永五年六月十一日、高仁親王が三歳で夭折した。徳川秀忠の策略は皇子の夭折によって失敗した。九月二十八日、和子は後水尾天皇の皇子を出産。
寛永五年十月六日、和子の出産した後水尾天皇の皇子が夭折。これでは徳川家の血の入った天皇を擁立することは出来ない。徳川秀忠は再び譲位を止まるよう後水尾天皇に求めなければならなくなった。 
徳川秀忠の計画失敗
寛永六年二月、沢庵宗彭、玉室宗伯、江月宗玩の三名は江戸に下向するよう幕府から命じられる。紫衣事件の余波である。この件に関し、後水尾天皇は譲位の御意志を幕府に伝えることになされた。
寛永六年五月十一日、勅使武家伝奏三条西実條、中村通院が江戸に下向。中和門院の使者として藤江定時も同行した。天皇の御譲位の意志を幕府に伝え、沢庵宗彭、玉室宗伯、江月宗玩の減刑を促すことが目的であった。幕府はこれを受け入れなかった。
寛永六年五月、豊国神社再興の噂が京に流れる。梵舜も五月一日の日記に、豊国神社再興の噂について記している。
寛永六年七月二十五日、沢庵宗彭が出羽上ノ山に配流される。玉室宗伯は陸奥棚倉に配流。妙心寺の仏僧東源は陸奥津軽に配流。同じく妙心寺の仏僧単伝は出羽由利に配流。江月宗玩は許された。
寛永六年八月、徳川秀忠と徳川家光は後水尾天皇に御譲位延期を求めた。和子の身ごもっている子供が男子であれば、その皇子を天皇とする。秀忠は和子の出産まで譲位を延期させようと必死であった。八月二十七日、和子は後水尾天皇の女子を出産。徳川家康、秀忠の二代に渡る作戦は完全に失敗した。 
春日局参内事件
寛永六年十月十日、徳川家光の乳母お福(春日局)が後水尾天皇に拝謁。春日局参内事件である。お福は三条西家の猶子として参内したが、無位無官の者が天皇に拝謁するなど前代未聞のことであった。天皇は憤慨されたが、やむを得ずお福に天盃に授けた。この時、お福は春日局に名を改めた。
天皇は春日局参内に際して、御自身の胸中を詠まれた。
「あし原やしげらばしげれおのがままとても道ある世とは思はず」
徳川家という芦がいかに生い茂ろうと、そこに正しき道はないという意味である。 
後水尾天皇の御譲位
寛永六年十月十五日、土御門泰重が禁中に呼ばれる。十月十六日、土御門泰重は中院通村と話し合った。おそらく、前日から天皇御譲位について話し合ったのではないか。十月二十四日、宮中で神楽が催される。これは春日局の願いによるもので、御不快に思われた後水尾天皇は別室で香会を行われた。十月二十七日、土御門泰重は女一宮を内親王に叙するための準備を始める。十月二十九日、女一宮は内親王に宣下された。
この時、土御門泰重に天皇御譲位は知らされていない。それほど天皇御譲位は内密に進められていたのだ。御譲位によって幕府が受ける衝撃を和らげようと、天皇の近臣は必死であった。十一月二日、武家伝奏中院通村が大納言に昇進。
寛永六年十一月八日、後水尾天皇は御譲位なされた。徳川秀忠に対する強烈な意思表示である。近臣は天皇が年来の病(背中の腫瘍)のため、鍼灸による療養を行うとの。当時、天皇の玉体に鍼を刺すなど以ての外であった。そのため、上皇として治療を受けるとしたのだ。
御譲位は突然のことで、摂家であろうと知らされていなかった。当時、天皇の御譲位が間近であると推測した公家は少なくないはずだ。ただ、それがあまりに突然で、公家にも幕府にも何の通達もなかったことに驚きがあったのだろう。西洞院時慶は事の子細は知らないまま、急いで参内した。西洞院時慶は日記に大納言中御門宣衡が御譲位の理由を知っていたと記した。女一宮の内親王宣下の準備を行った土御門泰重でさえも、日記に「何の御用か知らず候ゆゑ、不審の事也」と記している。
驚愕した京都所司代板倉重宗は、近衛信尋、武家伝奏中院通村に子細を尋ねた。そして、天皇の御譲位の意志は覆るものではないと知り、急いで事態を江戸に通達した。
御譲位によって年来の宿願が破綻した時、激怒した徳川秀忠は「上皇を隠岐島に流す」と言い放った。徳川家光らの諫言で中止となったが、徳川秀忠の天皇観がわかる逸話である。
幕府は復位を望むも、上皇の意志は固かった。以後、幕府は天皇の動向を規制するため、天皇に意見することの出来る摂家を重視するようになった。なお、御譲位に伴い近衛信尋は関白を辞任。一条兼遐が関白に昇進。摂政となった。
寛永六年十二月八日、細川忠興の書状に「禁中方御譲位の事に付き、公家衆と板倉毎日せりあひの由候事」とある。板倉重宗は上皇に復位を求め、公家と毎日のように交渉をしていた。
寛永六年十二月十日、後水尾天皇は腫瘍の治療を受けられた。土御門泰重、中院通村、四辻季継が同席。医師の通仙院、慶祐が診察。玉体に触れることは許されていないため、脈を計り、鍼で治療すべきと助言するに留まる。鍼は四辻季継が打った。 
徳川秀忠の悪行
寛永六年十二月二十七日、細川忠興は子の忠利に書状を送る。
「又かくし題には、御局衆のはらに宮様達いかほども出来申候を、おしころし、又は流し申し候事、事の外むごく、御無念に思し召されるゝ由候。いくたり出来申し候とも、武家のお孫よりほかは、御位には付け申すまじくに、あまりあらけなく儀とふかく思し召さるゝ由候」。
徳川秀忠は東福門院の生んだ皇子を皇位につけるため、他の女御の皇子は殺害、もしくは流産させたと云うのだ。徳川秀忠という男は温和な人物とされるが、このような一面も有していた。 
明正天皇の御即位
寛永七年五月二十一日、徳川秀忠が発病した。五月二十四日には快復。八月十八日、神龍院梵舜は鎮守大明神に豊国神社再興を祈願。
寛永七年九月十二日、明正天皇が御即位。わずか七歳、それも称徳天皇以来約八百六十年ぶりの女帝である。御生母は東福門院だが、女帝では徳川の血が皇室に入ったとは言えない。徳川秀忠が激怒したのはこのためである。
寛永七年九月十四日、酒井忠世、土井利勝、金地院崇伝は武家伝奏中院通村の解任を求める。通村は幕府の恫喝に屈せず、あくまでも天皇のために尽くした硬骨の人物である。幕閣は親幕府派の日野資勝の武家伝奏就任を要請した。
寛永七年九月十八日、鎮守大明神三十三回忌法要が神龍院にて行われる。十一月、仙洞御所が完成。十一月、松平光長の妹亀子が秀忠の養女として高松宮好仁親王に嫁いだ。 
徳川秀忠の死
寛永七年十二月、徳川秀忠が発病。林信澄が看病し、五百石を加増された。寛永七年十二月十日、後水尾上皇は東福門院和子と共に仙洞御所に移られた。当初、内裏よりも大きくしてはならないなどの制約があったが、結局、御所は内裏よりも大きなものとなった。寛永七年十二月二十一日、神龍院梵舜は花山院殿に鎮守大明神を祀っていることを打ち明ける。寛永九年正月二十四日、徳川秀忠が没した。五十四歳。徳川秀忠の死により、朝廷と幕府の対立は終息に向かった。三代将軍徳川家光は徳川系天皇の擁立には関心を持たなかったからだ。以降も朝廷は幕府から圧力を受けるが、皇位簒奪の危機は完全に回避することが出来た。 
神龍院梵舜の死
寛永九年十一月十八日、鎮守大明神にて御火焚きの祝いが行われる。同日、神龍院梵舜が八十歳で没した。梵舜の無念は察するに余りある。彼の死後も豊国大明神は密かに祀られ続け、そして明治になると豊国神社は再興された。以て瞑すべきであろう。 
寛永の大造営
寛永十一年六月十一日、松平忠次、本多政遂、前田利孝は軍勢を率いて江戸を立つ。これは徳川家光の上洛に供奉するためである。この年の上洛は異例と言えるほどの大軍を率いており、その数三十万とまで言われた。
寛永十一年六月二十日、徳川家光は上洛のため江戸を立つ。七月十二日、徳川家光が京に入る。内大臣三条西実條、大納言日野資勝が勅使として迎える。徳川家光が二条城に入ると、院使の大納言阿野実顕、大納言中御門尚長がこれを迎えた。七月十七日、徳川家光は朝廷からの太政大臣就任要請を固辞。拒否の理由を年齢、人徳共に不足しているためと説明した。
寛永十一年七月十八日、徳川家光が参内。姪の明正天皇に拝謁。銀千枚、綿千把、太刀を献上。儀式が終わると仙洞御所にて後水尾上皇に拝謁。銀五百枚、綿五百把、太刀を献上。七月十九日、諸大名は二条城にて徳川家光の参内を祝った。
徳川家光は御三家に太政大臣就任要請固辞を諸大名に知らせるべきかを問う。御三家は知らせるべきと進言。徳川家光は固辞の理由は謙遜の姿勢によるものと諸大名に説明した。これ以降、諸大名の官位は低くなっていく。大名側も謙遜しなければならなくなったのだろう。これが徳川家光の最後の上洛となった。次に上洛した将軍は十四代家茂である。
寛永十一年八月、徳川家光が日光東照社に参拝。十一月、「寛永の大造営」が始まる。造営奉行秋元泰朝、大工棟梁は甲良宗広。甲良宗広は仁和寺流の建築術を修めていた。
寛永十三年四月、寛永の大造営が終了した。一年五ヵ月の間に二十三棟の社殿が造られた。寛永の大造営以降、二十年から三十年ごとに改修が加えられた。
秋山泰朝は寛永の大造営にかかった費用を「日光山東照大権現様御造営御目録」にまとめた。金五十六万八千両、銀百貫匁、米千石。金箔二百四十八万五千五百枚、材木十四万七十六本、のべ参加人数四百五十三万三千六百四十八人(一日約一万人が作業)。
現代円にして約四百億円の大工事であった。そのなかでも本殿は五十数億円、のべ三十三万数千人が造営に参加。陽明門は十五億円、のべ十三万人が造営に参加していた。造営の費用は徳川家光の手許金によって支払われ、諸大名からの献金は一切、無かった。諸大名は資金ではなく五重搭、石鳥居、燈籠、太刀を献上している。
寛永十三年四月、徳川家光は日光東照社の改築祝賀のために参拝。
寛永十七年四月、徳川家康の二十五回忌法要のため、徳川家光が日光東照社に参拝。
寛永十九年四月、徳川家康の三十三回忌法要のため、徳川家光は日光東照社に参拝。
徳川家光は東照社造営に莫大な金額を投じ、全将軍中、最も東照社を社参した将軍となった。将軍の社参は計十九回であり、徳川家光の社参はそのうち十回を占めている。
後年、将軍社参の費用の捻出が困難になり、将軍社参は激減した。十代将軍徳川家治の社参に際して二十三万人、馬三十万五千頭が供奉した。用意された食事ののべ数は三百五十三万四百四十人分である。莫大な費用がかかるため、東照宮参拝の実施が出来なかったのだ。
逆を言えば、家光時代の徳川家は財力に恵まれていたと分かる。また、祖父家康に尊敬の念を抱く徳川家光ならば、たとえ財政不足に陥っていても、供回りを減らして社参したことだろう。 
東照社、朝廷より宮号を許される
正保二年十一月三日、後光明天皇は徳川家光からの奏請により、日光東照社に「宮」の号を許された。寛永二十年十月三日に御譲位された明正天皇の外祖父が家康であったため、祖神として祀られるようになったのだろう。
正保三年四月十七日、奉幣使が東照宮に遣わされた。同年、朝廷は応仁の乱のころから途絶えていた伊勢神宮奉幣使を再興。同時に日光東照宮にも奉幣使を派遣することとなった。これは天皇の祖廟である伊勢神宮に派遣されるもので、前年の宮号下賜同様に東照大権現の神威を高めることとなった。
勅使の奉幣は慶応三年まで続けられた。勅使は例年、五十名ほどの供奉者を連れ、金幣を唐櫃に入れて約十五日をかけて日光へと向かった。三月末に京を発し、中山道、碓氷峠から上野国を通り、下野国に入った。この時に通る例幣使街道の杉並木は今日も残されている。これらは松平正綱が植えたものである。
正保三年八月、榊原照久が没した。六十二歳。久能山照久寺に葬られた。 
徳川家光の死
慶安四年四月二十日、徳川家光が死去した。慶安四年五月六日、後水尾院は落飾なされ、法皇となられた。東福門院が京都所司代に伝えるまで、幕府はこの件を全く知らなかった。 
徳川家光と豊国神社
神沢貞幹が寛政三年に記した「翁草」に、徳川家光は豊臣秀吉は徳川家を取り立てた恩人と考えており、豊国神社の再興を認めようとしてたとある。しかし、酒井忠世の反論により、中止された。
神威は人の敬う所に生じる。人が敬わなければ神威は生じない。特に廃された神に神威はない。神威がないならば祟りなど起きるはずもない(現在の秀吉に祟りを起こす力はない)。秀吉を祀ろうとしても、子の秀頼は徳川家の敵である。祀られた秀吉の神威に邪気が流れ、災いを呼びかねない(祀れば、その力が逆に災いを呼ぶ)。秀吉の霊に力を持たせないために、豊国神社は再興するべきではない(豊臣家の祟りを防ぐために、怨霊を祀ってはならない)
怨霊を鎮魂するために「祀る」という行為があるのだが、祀ることで怨霊が力を持つのでは本末転倒である。徳川家光は忠世の意見を受け入れ、豊国神社再興を諦めたと云う。 
由井正雪の乱
慶安四年七月十三日、徳川家綱が征夷大将軍に就任。慶安四年七月二十三日、「由井正雪の乱」が発覚。正雪は楠木流の兵学を修得し、菊水の旗まで用意していたと云われる。 
民間人の東照宮参拝
承応三年、東照宮の屋根が銅葺きに改められた。足尾銅山の銅三十五万貫が使用された。明暦元年、「日光山下知条々」が制定される。そのなかに民間人の東照宮拝見を許可する項目がある。各藩が拝見の許可書を出し、先に知らせを受けた東照宮側が氏名と許可書を確認。堂者(拝見者)は参詣切手を受け取り、決められた宿場に宿泊。翌日、着衣を改め、堂者引き(案内人)に連れられて拝見をした。拝殿に向かっての礼拝が許された。
万治三年八月十三日、萩原兼従が没した。 
豊国神社再興の夢、潰える
寛文五年十一月十日、吉田神道九代兼敬、萩原兼従の子員従の両名は神道家吉川惟足と共に徳川家綱に拝謁。豊国神社再興を願い出た。
徳川家光の兄保科正之は仮に徳川家が衰退したとき、豊国神社の先例に倣い、東照宮が破却されれば大変なことになると考え、豊国神社再興に力を入れる。保科正之が吉川惟足と親交を深めていたことも再興の理由の一つである。大老保科正之の後押しによって、将軍家綱、幕閣の面々も豊国神社再興を承諾。
寛文五年十二月十二日、徳川家綱は吉田兼敬の神祇管領職を保証。萩原員敬には豊国神社の再興を認め、萩原家の所領を豊後から丹波竹田に移すこととした。豊国神社再興が認められたのは、惟足が保科正之に働きかけたためである。
この措置に天台宗妙法院が猛反発。神君家康公が「秀吉を神から仏に変え、大仏の側に墓を築き、石塔を印として祀る」と書面に残しており、豊国神社再興は神君の遺命に背く行為とした。萩原員従は困惑し、幕閣に働きかけようとした。
しかし、徳川家康の書状が残されていることが理由となり、豊国神社再興は中止となった。妙法院は神廟への参道上に鎮守社新日吉神社を創建。参道を完全に封鎖した。 
元禄の大造営
天和三年、大地震により東照宮社殿が破損。元禄年間、「元禄の大造営」によって修復されている。元禄二年四月一日、松尾芭蕉が東照宮を拝見した。 
豊臣秀吉神廟の伝説
「定基卿記」に元禄元年十一月朔日、国学者野宮定基の下に妙法院に奉公していたという老人が現れたとある。老人の語った豊臣秀吉の神廟は、屋根は瓦葺き、四方は方形の板張り、中は二間ほどの板敷きであり、瓶が埋められていた。その瓶上に二間四方の石が置かれていたと云う。妙法院二代堯然の頃、盗賊が瓶を掘り当て、中の甲冑、太刀、黄金を持ち去るという事件が起きた。盗掘された物が戻るはずもなく、妙法院は瓶を下の場所に埋め直す。上の大石はあまりに重く、動かせないのでそのままにされたと云う。 
豊富稲荷大明神
文化八年三月一日、醍醐寺座主高演が三宝院庭園内の豊国明神社を再建。徳川家を憚り、祭神を「豊富稲荷大明神」とした。 
 
武士の終焉

 

豊国神社の再建
明治元年閏四月六日、大坂城付近にて豊国神社再興が認められた。この計画はさらに具体的になり、五月一日、阿弥陀ヶ峰にて豊国神社再興が認められた。さしもの妙法院も維新の波には逆らえなかった。同年十月、妙法院から豊国神社の社領が剥奪された。
明治六年、豊国神社は別格官幣社と列格された。明治十三年、豊国神社の社殿が再建された。他の寺院に渡っていた寺宝も豊国神社に返還された。
明治三十年四月十三日、豊国会によって豊国神社修築工事が開始された。四月二十八日、神廟付近から経文の記された瓦が出土。延享四年、豊臣秀吉の百五十回忌法要が妙法院で行われた際、経文の記された瓦が豊臣秀吉の遺体の入った瓶の上に埋められた。その瓦が出土したと判った。
そして、豊臣秀吉の遺体の入った瓶が発掘された。発掘された豊臣秀吉の神廟には、副葬品も大石もなかった。地中に七、八尺の玄室があり、木棺の破片が見つかった。当初、豊臣秀吉の遺体は木棺に納められのだろうか。
豊臣秀吉の遺体は手を組み、胡座をかくようにして西を向いて納められていた。問題の瓶は高さ三尺ほどの粗悪品で、「ひねりつち」の五文字が刻まれていた。遺体を瓶から出す際、遺体は崩れ落ちたと云う。そのため、遺体を拾い集め、厳重に保存された。
調査の結果、これまで豊臣秀吉の神廟にあるとされた巨大な石、かつて盗掘された副葬品の入った瓶などは見つからなかった。
他に豊臣秀吉の遺物として、豊国神社に伝わる厨子に豊臣秀吉のものと云われる歯が残されている。本人のものかは断定出来ないが、科学的な調査は行われている。上顎左第七番臼歯(第二大臼歯:奥歯から二番目の歯)。歯根部が萎縮しており、老化によって自然に抜け落ちたと推測される。歯の全周に歯垢が付着しており、両隣の歯は抜け落ちていたとわかる。下の歯との咬合面にも歯垢が付着しており、下の歯も抜け落ちていた。 
寛永の大造営を廻る論争
約一年半という僅かな期間に日光東照宮の寛永の大造営が終了したとは信じられず、明治になると十三年をかけて造営されたという説が出された。
大正十年、平泉氏は「日光山東照大権現様御造営御目録」などから一年五ヵ月で東照社が造営されたとする説を発表。
昭和初期、大熊氏が大工棟梁甲良宗広の子孫宅から史料を発見し、一年五ヵ月造営説を裏付けた。 
観光地化した神域
昭和二十六年、法隆寺、中尊寺、日光東照宮が国宝に指定された。霊廟という精神的、宗教的に重要な造営物であること。限定された範囲内に一時代の建築美を極めた造営物が立ち並び、一流の技能者たちが総力を結集して作り上げたこと。保存状態が極めて良好であること。これらの点が考慮されたのだ。
そして平成十一年十二月、日光東照宮は世界文化遺産に指定された。十七世紀の日本を代表する芸術的、文化的造営物であること。日本の建築史における価値が極めて高いこと。なるほど、そのような面からすれば東照宮は世界遺産に相応しいだろう。
しかしながら、かつての将軍家の聖域は観光地化してしまい、そこに神性を感じる要素は薄れつつある。江戸時代であれば絶対に目にすることの出来ないものを、現代に生きる私たちは少額を支払えば見学できるのだ。観光地化した現在の東照宮を徳川家康や徳川家光、天海はどのように思うのだろうか。
 
藤堂高虎と長宗我部盛親

 

藤堂高虎(一五五六〜一六三〇年、伊勢津藩三十二万石の初代藩主)は、北近江の土豪に出自を持ち、一生に七回も主君を替えた「渡り奉公人」の代表格といってよい武将である。そのせいもあってか、あまり評判がよくない。しかしこれは、武士は一生を一人の主君に尽くすべきとする江戸時代の封建道徳によるもので、戦国武将を評価する物差にはならない。

私は、高虎の不人気を決定づけたのは、司馬太郎の歴史小説にあるとみている。高虎は、数々の戦場で槍下の高名を重ねた武功者である。それにもかかわらず、「みずからの処世法も、利と射倖心で動いている」(『関ヶ原』)というように、司馬は高虎を近江人の類型にあてはめて、計算高い俗物武将の典型として描いている。            
これに対して司馬の土佐人へのまなざしは、ことのほか温かい。幕末の風雲児・坂本龍馬の「発掘」はいうまでもないが(『竜馬がゆく』)、この国の戦国武将に対しても格別である。          自らの才覚で四国最強の戦国大名へと急成長しながら、豊臣秀吉の攻撃の前に屈し、それゆえに動員された九州遠征において自慢の嫡男を失い、日ならず最愛の妻にも先立たれた長宗我部元親(一五三九〜九九年)の生き様を、司馬は僻遠の豊かな人間模様のコントラストのなかで、みごとに描きあげている(『夏草の賦』)。            
司馬は、近江人高虎と土佐人元親を類型化された武将像の対極に位置づけている。しかしこの二人の間に、きわめて篤い信頼関係が結ばれていたことをまったくふれていないのである。

天正十三年(一五八五)、秀吉の実弟・豊臣秀長は四国攻撃の総大将を務めたが、その重臣だった高虎は元親に降伏することを勧めた。講和がなり土佐一国を安堵された元親が大坂城に伺候した折り、高虎は一行の案内役に任じられ歓待した。          
司馬は高虎を「交渉ごと、お祝いの使者、もめ事の調停、宴会の接待などには長じた男だ。そういう露骨な功利主義をおおいかくすすべも知っている」(『関ヶ原』)とみる。   
確かに、高虎はなにごとにおいてもそつがなかった。しかし長宗我部氏の家督を継いだ盛親(一五七五〜一六一五年)への気配りをみると、高虎はもっと血の通った武将として描かれてもよかったのではないかと思う。                             
高虎は、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦い直後に、かつての元親との交誼から、西軍に属した盛親の本領安堵のために奔走したが、改易となってしまう。そこで高虎は、長宗我部旧臣を大量に召し抱えた。                                 

その筆頭が、桑名弥次兵衛だった。彼は、元親・盛親二代にわたって仕え、土佐中村城代となった重臣だが、高虎と面識があったことから二千石もの高禄で迎えられたのである。                       弥次兵衛は、牢人中の盛親の経済援助をしていたといわれている。当然、高虎はこれを知っていたに違いない。苦労を重ねて牢人から大名へと這い上がった高虎だからこそ、敗戦大名の旧臣をすすんで引き受け厚遇したのであろう。他にも事例をあげよう。   
たとえば近江出身の池田秀氏は、伊予で二万石を領有する大名だったが、関ヶ原の戦いで西軍に属し改易となった。高虎は、同郷のよしみで家康に赦免を願い出たばかりか、それが叶うと五千石を与えて重臣に加えた。秀氏は、伊賀上野城の外郭に広大な屋敷地を構えたが、それは後に「池田丸」と呼ばれている。                    
あわせて、高虎の人となりを伝えるエピソードを紹介しよう。それは、かつて仕えた織田信澄(信長の甥)の子息の仕官を援助したことである。
本能寺の変の後、彼は芦田庄九郎昌隆と名乗り、高虎に庇護されていた。関ヶ原の戦いに呼応して、当時高虎の所領であった南伊予では三瀬騒動といわれる一揆が発生するが、昌隆はその頭目三瀬六兵衛を討ち取った。                        
しかし大坂の陣において昌隆は、高虎のもとを去って秀頼に与する。淀殿が父信澄の従妹にあたるためであろう。彼は、家康も認める戦功をあげ、戦後は高虎の推挙で二千石の大身旗本になり、織田信重と名を改めた。                         
これらからは、同郷人や主筋を大切にする律儀な高虎の姿が伝わってくる。しかし司馬文学において、高虎は常に端役にすぎない。これに対して、盛親は好んで取り上げられている。なんといっても、ドラマティクな人生を歩んだからである。              
関ヶ原の戦いにおいて、家督を継いで間もなかった盛親は、判断を誤って戦場からはるかにはなれた陣所に留まったまま、軍勢を進めることができなかった。牢人となって十五年間も京都で雌伏した末、旧臣達を従えて大坂に入城し、大坂夏の陣の野戦において徳川勢にもっともダメージを与えたのである。司馬は、「盛親も武士の子に生まれ、一代に両度も天下の覇権を分ける合戦に馬を馳せることができたのは、千載に一度もめぐりあえぬ幸いであったと存じている。関ヶ原では存分の働きができなかったゆえ心残りが多かったが、このたびの戦いでは、侍一代のほまれをかけて快う働きたい」(『戦雲の夢』)と、戦争に臨んだ盛親に語らせている。
そこには、会稽の恥をすすぎ武士として生を全うしようとする盛親像が凝縮されており、大坂の陣を活写した『城塞』と同様に、ロマンを追求する武将の滅びの美学が横溢している。しかし現実に、盛親とその旧臣達がなんら成算なく、ただ美しく死ぬための理由で大坂に結集したのであろうか。

盛親は、それまでの経緯から徳川方に荷担しなかった。たとえ与したとしても、土佐国主への復活は無理なことは、誰の目にも明らかだった。当時の盛親にとって最大の関心事は、年老いた旧臣達に最後の就職のチャンスを与えることにあった、と私は思う。この時代、たとえ敵軍に属したとしても、誰もが認める武功をあげた者には、戦後、大名たちが競って仕官の声をかけたからである。        
戦国動乱の末、諸大名は自家の存続を賭けて鎬を削った。そのために、親友同士はもちろん親子兄弟においてすら、敵味方に分かれることさえあった。それでも不幸にして改易となった時、主君は家臣の再就職のために、あらゆる手段を講じたのである。
勝者側の大名も、旧知の敗戦大名やその家臣のために、相身互いと様々に奔走した。高虎の如才のなさも、盛親の一途さも、実はこの時代の大名当主があわせもつ気質といってよい。

私は、いかなる大名も、決して「男のロマン」に人生を捧げたりはしなかったとみている。現代的に表現するならば、彼らは「社長」なのであり、何千・何万の「社員」とその家族を路頭に迷わせるわけにはいかなかったのであるから。                   
現実の大名とは、あくまでも計算高い政治家だった。今なお私達を魅了してやまない司馬文学ではあるが、当然のことながら、そこで紡がれる人間群像はあくまでも「物語」であって、実像とは一定の懸隔があるとみなければならないのである。 
 
戦の諸説

 

応仁の乱は細川、山名の対立が畠山の両派の対立と絡まって起きる
 [花の館・鬼灯]
浄土寺 分っております。しかし、何ごとにも時期というものがあります。事態はさし迫っております。もはや、少しの猶予も許されぬのです。
富子 (笑う)まるで天下の一大事が起ったような、(からかうように)何をそんなに気負い立っていらっしゃるのですか。
浄土寺 御台所はご存じのはずです。管領畠山家の一族のうちの内輪もめ。と申すのは、畠山政長と畠山義就との間の家督相続をめぐる根の深い争いです。
富子 いまさら、何を目くじらを立てて。あの二人の争いは、もう十年も前から続いていることですよ。
浄土寺 ところが、細川、山名の対立が、畠山の両派の対立にからみあって、事態はもう、滝つ瀬がごうごうとたぎり落ちるような、合戦寸前の差し迫ったところまで来ております。お分りでございましょう。畠山一族の内紛に乗じて、細川、山名が、弓矢で事を決しようとしているのです。戦いがはじまります。その戦いは、この京の街だけではない、一波が万波を呼ぶがごとく、諸国津々浦々まで波及し、あちらの大名、こちらの小名、それら無数の家々が、それぞれ、家督争い、所領争いをこの機会に解決せんものと、一方が細川を頼れば、他方が山名を頼る、といったぐあいに、中央の争いはすでに地方の争いに、地方の争いはただちに中央の争いにと結びついているのです。 
信長に叛逆した村重は何もしなかった
[花の館・鬼灯]
村重 竹阿弥、忘れたか。わしは、虫いっぴき、殺せぬような。
竹阿弥 左様。まことに不思議。(おどけたようにぐるぐるまわりながら、うなずく)あなた様は一介の牢人から荒大名にのしあがったわりには虫も殺せぬお人でござった。戦の場でも後ろで采配をふるうのみで、槍先で(まねをし)人を殺したこともまずまずなかった。思えば、殺さなんだゆえに、摂津の土蒙どもはあなたを信用したのであろう。
村重 わしが殺したかったのはたった一人、織田信長。
竹阿弥 あなた様は殺しそこねた。逃げた。
村重 でほない。恃みの中国の大勢力なる毛利氏が。
竹阿弥 毛利。(鼻息で村重への軽侮を短くあらわしつつ)毛利が伊丹のあなた様に援軍を送るとの約束を破ったからであると?
竹阿弥 (狐憑きの表情になって)破ってはおらぬ。まだわからぬ。毛利氏はかならず来る。要するにわしのせいではない。
竹阿弥 わしのせいでは?いつもそうでございますな、あなた様は。虫も殺さぬ男というのは、つまりは虫のいい男ということなのか。(息を入れて)信長と申せばもはや天下をおおう一大暴風のようなものでござる。人間も、神でさえも、また仏でさえも、信長といえばおぞ気をふるっている。(思い入れて)天魔。それに対し、あなた様ほ、信じがたいほどの勇気ではあるが、反逆なされた。
村重 (自嘲するように)勇気か。……勇気といえるかどうか。わしは追い詰められておった。あの天魔のような信長めに、わしは忠誠心を疑われていた。光秀、明智日向守光秀が、わしに耳打ちしてくれたことがあった。(低声で)貴殿は疑われている。貴殿の配下が、敵方の石山本願寺に兵糧を売った、そのことで上様は、信長は、あなたに謀叛の心がある、と。わしにとって、あらぬ疑いとはいえ、あの信長めに、天魔めに、一旦疑われればサソリの(腕をつかみ)毒を受けたも同然。あのときわしにのがれる道があったか。(思い入れて)謀叛以外に……。
竹阿弥 早まりなされたわ。
礎叩 いや、聞け。わしは決断した。
竹阿弥 決断、ご家来のたれもが反対した。あなた様お一人が決断なされた。
村重 いや、聞け。わしは、わしが持っている摂津の国の五つの城−伊丹、尼ケ崎、花隈、それに高槻、茨木の城、その城々の門という門を閉出し、京の信長に対して反逆を宣した。信長めは、泡を食ったわ。あの信長があろうことか、哀れなほどの猫なで声を出し、わしをすかすがごとく、なだめの使いをよこしおった。覚えているか、使いとして、明智光秀も来おった。それに、木下藤吾郎、いやさいまは羽柴筑前守秀吉、あの猿のような顔をしたくだらぬ小男もきおった。(笑う。だんだんいい気持になって)たれもが、泡を食いおった、その使いの誰もがわしの膝をさすり、手をとって、摂津守よ、おぬしに不足不満があれは上様は三カ国でも五カ国でも与えてとらすとおおせられておるぞ、謀叛などはやめよ、などと申しおった。うそじゃ、人をだますことの名人のあの信長めが、左様にわしをすかして、あげくは(胸を突くまねをして)グサリ。わしは振りきった。荒木摂津守村重は、戦ったわ。(剣を抜く。が、すぐ、剣を落す。茫然)
竹阿弥 (静かに剣をひろって村重の鞘におさめ、やさしげに)本当のことを申し上げましょう。あなた様は戦ったのではない、じつは何もなさらなかった。勝ちもなさらず、負けもなさらず、籠城一カ年あまり、あなた様はお城に居すくんでいなさっただけではござりませぬか。
村重 わしは、待っていたのだ。
竹阿弥 毛利を。
村重 中国の大勢力なる毛利氏の来援を。わしは信長の敵である毛利氏と密約した。毛利氏は海を越えて、伊丹へ大軍を送ってくると。たしかに毛利氏は約束した。しかし、三月待っても来ず、五月待っても来ず、一年待っても。 
 
長曾我部盛親

 

盛親の柔弱なところが土佐二十二万石に影響した
ある夜、盛親耕は田鶴の手足を動けないようにして、まず小袖を剥ぎ、下に襲ねたものを一枚ずつ剥いだ。田鶴は、最後の布がその下半身から除かれるまでは必死で抗ったのだが、ついに力をうしなった。盛親は灯あかりのなかで、田鶴の体を濁として見た。盛観の手が田鶴の女に触れた。それらは、盛観がいままで接したどの女よりも、みごとに成熟していた。田鶴のあどけなさを思うとき、むしろ盛観は裏切られたような気にきえなったほどである。
しかし、盛観は田鶴の顔をみた。田鶴は泣いていた。大粒の涙をこばし、唇をまげ、まるで童女のような泣き方だった。やがて声を出し、ついには手のつけようのない泣き方で泣きはじめた。
(これほどりっぱな大人の体をもっているくせに)盛観はおかしくなった。この利口な娘は、明るくて子供っぽい自分の性格を、人一倍つよい羞恥心をかくす武器としてたくみに使っているようだった。
「泣きやめい。もうせぬわ」そこが、盛親の柔弱なところかもしれない。つい、田鶴の羞恥心をまもることに盛親は協力してしまった。男なら、田鶴の感情などはしんしゃくせず、カをもって田鶴の体を切りさくべきであったろう。女に対しても、また、土佐二十二万石の大領を率いて立つ場合にも、盛観のこの性格は微妙に働いた。しかし田鶴にすれば、そういうやきしさこそ、悔いなく好きだったのである。 
先代元親がえらすぎたので家臣らは政治がわからなかった
山伏はむろん変装である。実の名を高島備中守といい、近江甲賀郷の郷土であり、のちの世にいう甲賀忍者のことだ。いわゆる伊賀者のように身の軽い者ではなく、国に帰れば代々の所領と郎党をもつ蒙族だから、大名間の密使などに用いられる。同国佐和山の城主石田冶部少輔がさしむけたのであろう。
(むろん、八歳の秀頼公のお智恵ではない)盛親は、重臣をあつめて評定をひらいた。
「よいか。石和につくか、内府にお味方申しあげるか、それぞれの存念を申せ」一同の顔をみた。筆頭家老久武内蔵助、十市縫殿助、立石助兵衛、桑名弥次兵衛、香曾我部左近、宿毛甚右衛門、近藤長兵衛、斎藤与惣右衛門、蜷川杢左衛門、斎藤摂津守といった顔ぶれが、ならんでいた。どれもこれも土佐者らしいいっこくな顔つきだが、槍をとっての戦場の働きならともかく、こういう問題になると苦手のようであった。
先代元親がえらすぎたのである。元親在世中はすべて長曾我部家のことは元親自身の考えから出るのみで、重臣たちは相談にあずかることがすくなく、そのために中央政治への関心がうすかった。たれもかれもが、だまっていた。盛観は、事のおこりから説明し、家臣の議論が出るところまで誘導しなければならなかった。 
水口ノ関を無事に通った山内家との運の違い
「おなじ水打ノ関でも、山内対馬守の家来市川岩見(山城)という使者は、みごとに通りぬけたというのが京大坂のうわさであるぞ」
雲兵衛が報じてくるうわさに、そういう挿話まではいっていた。遠州榔棚で六万八千石を領す山内対馬守一豊(のちに長曾我部家の所領土佐に封ぜられた人物)は、家康に従って上杉征伐のために関東に従軍していたが、途中石田の挙兵をきき、家康への加担を決意するとともに、大坂屋敷にある妻子の身を気づかって、家臣市川石見を使者につかわした。
石見は、水口ノ関で人止めをしているとき、熱田の神主の姿に身を変え、烏帽子をかぶり幣をもって、関所にはいった。番士は不審を覚えた。
市川石見といえば山内家でも聞こえた蒙勇の士で、その顔は他家の者にまで見知られている。関所役人は色めきたった。
「やあこれは神主にあらず、もとは若狭の市川と申し、対馬守の家人にて隠れなき精兵じゃぞ。からめとってあますな」
石見、すこしもさわがず、というのが雲兵衛の文章である。「これは思いもまらぬことを承り候ものかな。市川某に似たるとは、熱田八剣のご神罰を蒙り候べし。熱田の禰宜に相違なし」と弁じた。番士の一人が進みでて、「問答までもなし。幸い、関所に石見を見知ったる男あり、その者を召せ」石見がその男と対面したところ、むかし故郷の若狭で武勇をみがきあった旧友だったという。男は石見をひと日みて、はたと膝をうった。
「さても世にはよく似たる者もあるものかな。疑いもなく石見じゃ。ただし、石見には水月のもたりに太刀傷のあとがある。これが石見のしるしじゃ」
調べてみると、傷あとはなかった。むろん、旧友が石見の急を救おうと思って打った芝居なのである・が、なおも番士の疑いが晴れず、「神主ならば祝詞をよめ」と要求したところ、石見は市川家に伝わった鳴弦の文をろうろうと読みあげた。鳴弦の文とは山伏作法のひとつだが、番士にそこまでの知識はなかったから、石見は無事通過することができたという。
−運というものは奇妙なものだ、とのちに京の相国寺門前に隠棲した盛観は、このことをふしぎに思うことがあった。水口ノ関を無事に通った山内家は掛川六万石の小大名から一躍土佐十二万石をつぎ、関を通れなかった長曾我部家はその所領をうしなっている。盛親は、十市、町をねぎらい、その無能を責めなかった。(これが運というものだ) 
盛親は関ヶ原で一瞬の決断を見送った
九月十四日は、夜にはいって細雨がふりはじめた。雲兵衝からの注進によると、大垣城に滞陣していた三成麾下の西軍は、日没とともに西へ移動しはじめた。主決戦場を関ケ原にえらんだのである。大垣城を隠密に進発した大軍は、石田勢を先鋒とし、島津、小西、宇喜多の順で、無灯火のまま、馬に枚をふくませ、武者ひとりひとりが具足の草摺に荒縄をまき、闇夜を手さぐりで野口村から牧田への道をはうように進んでいるという。雨は、夜ふけとともにはげしくなっている。夜気にこごえながら、西軍数万の主力は、運命の時間にむかってぬかるみの道をのぼりつつあった。
「−で、敵は動いたか」東軍は、大垣からほどもない中山道赤ノ宿に滞陣している。雲兵衛はくびをふり、「まだ」「動かぬのか」「手の者数人を伏せてござりますゆえ、いずれ左右があきらかになりましょう」雲兵衛は、具足もつけず、寸鉄もおびていない。髪はよもぎのように乱れたのをわらしべでくくり、よごれた野良着をまといつけていた。
「さがって、火にあたるがよい」「いや、いま一度、赤坂の敵陣をさぐって参りましょう」雲兵衛はいきいきとした足どりで出て行った。よほど諜者が好きにできているのだ。合戦がはじまるまでの山野を、寸刻を惜しんで、この男は魔性のように駈けまわるのである。
物見は、敵方だけでなく、おなじ南宮山の味方のほうへも出してあった。間断なく物見がもどってきては、報告してゆく。が、どの報告も、判でおしたように同じであった。山頂の毛利、吉川は動かない。山腹の各所に布陣している安国寺恵瓊、長束正家の凍も、雨に垂れたまま、動きそうもなかった。
盛親は、焦燥を覚えはじめた。毛利の動きにならうといっても、文官あがりの安国寺や長束ほど泰然とはできないものが、血のなかにあった。何度、兵をまとめて西軍の主力に合しようと思ったか知れなかった。このとき、盛親がみずからの行動に決断をくだしておれば、関ケ原の戦いの帰趨は、どうなったかわからない。関ケ原の勝敗は、紙一重の差で石田方がやぶれた。しかし、長曾我部勢六千六首騎が阿修羅のはたらきをすれば、勝運ははたして、なお家康のほうにかがやきえたか。−と、盛観は、後年、この機会をなすことなく踏みはずしてしまった自分の不運を悔いることが多かった。五十年の人生に、人は、たった一瞬だけ、身を裂くほどの思いをもって決断すべき日がある。盛親の場合、その一瞬を見送った。 
盛親は自然の流れに任せてきた
(おろかろなことだ)と盛親はおもった。そのような安住よりも身を焼くような苦悩のほうをおれはえらぶ、とおもった。(が、身を焼く苦悩とはどういうものだろうか。考えてみれば、それきえ自分にはないではないか)それは、妙な実感だった。
盛親は、崖の松さえつかんでいない自分にはじめて気がついたのである。自分を救うために足掻いたことはなかった。かつて一度もなかった。ただ自然の流れに任せて長曾我部家の世子になり、土佐の太守になり、きらにその位置から消えた。一度といえども太守になるために努力をしたことはなく、太守の位置から落ちまいとあがいたこともなかった。林豪は人はたれでも断崖の松をにぎっているといったが、うまれつきそういうものをにぎったことのない自分に、盛親はいま愕然と気づいたのだ。
(なんということだ)長曾我部盛観といえば、かつては諸侯の世子のなかで、出色の者であるといわれた。その武勇と才質において卓抜した天稟をもってうまれた。それがただ、なすところもなく三十余年を生きてきたにすぎないのではないか。
(おどろいた男だ。おれは)自分をふりかえれば、見たこともない動物がそこにいるように思われた。
(おれはいったい何者だ。おれの人生はどう作りあげねばならないのか)が、すでに遅かった。いまになって気づいても、すべてが失われている自分になにをするすべがあるのだろう。 
盛親ら牢人は大坂の陣で侍としての命の捨てどころを見つける
「それは、わしにもげせぬことだな」
盛観は、ひとごとのように笑った。事実、盛観はふしぎでならない。目日のある者なら、もはや東西の勝敗のめどはつくはずなのである。いったんはこの城に運命を賭けて入城した諸国の牢人も、先が見えた以上、休戦をさいわい、さっさと追城すればよさそうなものなのに、ほとんどの者は身動きもしなかった。ばかりか、冬ノ陣このかた、なおも新規に入城してくる牢人が絶えないのである。
「城衆には死神がついておるのじゃよ」林豪がいった。
「かもしれぬ。−関ケ原このかた」と盛観が、おのれにつぶやくように語りはじめた。
関ケ原ノ役で西軍が敗け、牢人が町や野にみちた。かれらはその後、身の浮かぶことをねがい、ひたすらに合戦のある日を待ちこがれてきた。が、不幸にも、その後十数年も平和がつづいた。待ちくたびれて老い朽ち、病死する者もあり、百姓商人になるものも出た。こんにち城内にある牢人衆は、生活にひしがれつつも、かろうじて生きのびてきた者ばかりなのである。この籠城は、かれらの不運な生涯における最後の機会だとたれしもが考えていた。たとえ大坂が敗けるとわかっているにせよ、城を出る気にはなれなかった。出たところで、かれらにはろくな生活が待っていないのである。
「この牢人どもには」と盛親はいった。
「仕官にありつきえている世の武士どもの幸運への憎しみがあるのだ。この気持、武士でなければわかるまい。関ケ原の敗戦以来、どの牢人にも自分の運のなきは身にしみてわかっている。こんどの大坂の籠城は、運のよい者へ、運わるき者たちが、ねた刃を研いできた遺恨の籠城といえるだろう。これしか生きる通がないのだ。かれらが望んでいるのは勝って禄にありつきたいというよりも、・むしろ、ともかく侍として世を終えたいということなのだ」「妙な人間のあつまりじゃな」「それが、侍というものらしい。わしは、そういう牢人どもに推きれて棟梁になっている。入城したころは、十に一つでもこの合戦に勝って長曾我部家を再興したいと考えていた。しかし、いまはあの牢人どもに、侍としての命の捨てどころを得きせたいとのみ思うようになっている」「いわば、死神の棟梁じゃな」「うむ」「やめたわ」と林豪は、いった。
「わしはおぬしを説教して城をぬけ出きせようと思うてやってきたが、死神どものおもりをしている以上、棟梁みずからがぬけ出すわけにはゆくまい。やめた。ひとは、おのおの自分の気に入った生き方で世を送るのが仕合せのいちばんじゃ。事がここまできたからには、他人がとやかくいうこともない」「和上、酒でものむか」「いや、大野修理亮どのに用がある。今夜は大野どのの屋敷でとまるゆえ、お里だけをのこしてゆこう。明朝、むかえにくる」 
 
徳川家康1

 

三河衆は質朴で困苦に耐え利害よりも情義を重んずる
尾張衆から悪口をいわれるような後進地帯であった。ただ国人が質朴で、困苦に耐え、利害よりも情義を重んずるという点で、利口者の多い尾張衆とくらべてきわだって異質であった。犬のなかでもとくに三河犬が忠実なように、人もあるじに対して忠実であり、城を守らせれば無類につよく、戦場では退くことを知らずに戦う。この当時すでに、
−三河衆一人に尾張衆三人。
ということばすらあったほどで、尾張から大軍が侵入してくるときも、三河岡崎衆はつねに少数で奮戦し、この小城をよくもちこたえた。守戦でのつよさではかれらは天下無類というふしぎな小集団であった。ついでながらこの小集団の性格が、のちに徳川家の性格になり、その家が運のめぐりで天下をとり、三百年間日本国を支配したため、日本人そのものの後天的性格にさまざまな影響をのこすはめになったのは、奇妙という他かない。
家康というのは、幼時、下ぶくれで目が大きく、童としては狂操なところがまったくなかった。婦人がみれば憐れをそそるほどに可愛い少童だったであろう。あわれといえば家康の郎党である岡崎衆が、とくにその女房どもが、「世に、若殿ほどあわれなお子がおわそうか」と、涙ながら、手仕事のあいまあいまにこの少年の不幸をつねに語りあったことも、「三河岡崎衆」という、この酷薄な乱世のなかではめずらしいほどに強固な主従関係、というよりもはや共同の情緒をもつ集団をつくりあげて行ったことに、大いに役立っている。家康は、数えて三歳のときその生母於大が、突如ふってわいた政治的事情のためにこの岡崎松平家を去らぎるをえなくなり、母子生別した。さらにかれ自身も六歳のとき、人質としてこの三河を離れ、他国に流寓した。少年の運命としては、もっとも劇的である。
三河岡崎衆を結束させたのは、この少年の悲劇性であろう。三河人は、先進的な商業地帯である尾張の住民たちよりも、はるかに濃く中世的な情念を残している。岡崎城下に氷雨の降る宵など、郎党たちは家々で、「若殿はいまごろどうおすごしであろう」と、涙まじりに語ったにちがいない。
まったくばかな話で、家康はこの六歳のとき人質として送られるさきは東隣の強国、酸河今川家であったはずであるのに、途中かれの身柄を盗む者があり、しかもそれを青銭石貫文という安さで、西隣の織田に売りとばしてしまったのである。悲劇もここまでくれば、滑稽というほかない。
話を順序だてると、家康の岡崎松平家というのは半独立国で、東隣の遠江と駿河の両国をもつ今川家の武力を後楯としてたのみ、それによって西隣からの尾張織田家の脅威をしのいでいた。尾張衆が矢作川をこえて侵入してくるときは、岡崎松平家としては十日も城をもちこたえさえすれば、酸河から応援の大軍がかけつけてきてその急場をすくってくれるという関係であり、この今川家に対する従属のつながりを強くするために六歳の家康が駿府(静岡市)におくられることになったのである。 
家康は13歳で長いものに対する巻かれかたの態度が巧み
さて、家康は岡崎城に入った。
岡崎城の本丸には、今川家から派遣されている城代で、山田新右衛門という男が住まっている。普通なら、帰国した家康の宿所として本丸を空けるべきであったが、家康のほうからさきに、「貴殿が城をまもってくれていればこそ、岡崎も安泰なのです。私はまだ年若であり、古老たちの話もききたいゆえ、二ノ丸をもって宿所とします」と、人をしてそう言わしめた。面憎いほどのへりくだりかただが、その効果はあった。この話はすぐ駿府の今川義元の耳に入った。それまで義元は家康の帰郷を多少危ぶんでいたが、これをきいて大いに安心し、
サテサテ分別アツキ少年カナ
と、感じ入ったというのである。家康の後年の性格なり資質なりは、すでにこの十三四のときに成立していたのであろう。これは後年、豊臣家をほろぼすというその決断をするその瞬間までは、長いものに対するこの種の巻かれかたの態度が巧みで、そのことは巧みという技巧的なにおいはいっさいなく、天性の律義さから発露しているようにも他人にはみられ、しかもひとだけでなく自分でも自然に自分の律義さを信じ、さらにひるがえっていえばかれの律義は決して律義ではなく自分の鋭鋒をかくすための処世的なものであったことをおもえば、これほどふしぎな人物もまず類がない。この堅牢複雑にできあがった二重性格は、その幼少期の逆項と、少年期、敵国の織田家や今川家ですごした人質としての生活環境の苛烈さが自然につくりあげたものであろう。かれがこのような苛烈な生いたちでなく、もし後世、なに国かの草深い里で大庄屋の旦那としてでもうまれていれば、多少の女好きによる出入りはあるにせよ、おだやかで福々しい一生を素直に送った人物であったかもしれない。 
徳川集団ほど織豊時代のにおいと無縁で信玄に傾倒した
信玄というのは諏訪法性の兜をかぶり、叡山からおくられた大僧正の僧階をもち、鎧の上に排の衣をかさねて軍陣に出る。このふしぎな軍装は、当時、すでに遠江に有名であり、かれの敵たちはつねにこの信玄像を想像してはおぞけをふるった。
家康も、武田圏と隣接しているだけに、その恐怖は死刑を宣告された囚人にひとしい。が、この物学びのいい男のおかしさは、これほど信玄を怖れながら、若いころから信玄をひそかに尊敬していたことであった。かれはつねづね信玄の民政の仕方、軍陣のたてかたから平素の心がまえまで知ろうとし、後年、武田家が勝頼の代でほろびとき、武田の牢人といえば百人であれ千人であれ、ひとまとめで召しかかえ、かれらから信玄の遺法をきき、陣法を研究して徳川家の後期における先鋒部隊である井伊勢のそなえをすっかりそのやりかたにあらためさせた。井伊の士卒は具足までことごとく赤かった。「武田の赤備え」といわれたものが赤一色であったからであり、家康の信玄への傾倒はそこまで徹底している。
どうやら家康には、信玄の性質と相似たところがあるらしい。たとえば家康は信長をまねなかった。家康は信長の同盟者として信長に運命を託し、終始信長にひきずりまわされ、それほどに深い縁をむすんだわりには家康はついに信長の好みや思考法はまねず、晩年も信長という人物についてそれを賞めあげたような談話を残していない。秀吉に対してもおなじである。家康は秀吉につかえているときは自分の責苛をいささかもみせず、つねにいんぎんであった。しかしその時期、内々の場で家来たちにひそかに洩らす言葉は、秀吉のあの派手なやりかたに染まるな、ということであった。たとえば茶ノ湯がそうであろう。信長・秀吉の好みによってあれほど一世を風靡した茶ノ湯についても、徳川家の諸将だけはそれに染まらず、そういう会合に出ず、家康の好みどおり依然として三河風の質朴さをまもりつづけていた。家康とその三河持の集団は豊臣期の大名になっても農夫くさく、美術史で分類される安土桃山時代というものに、驚嘆すべきことにすこしも参加していない。かれらには他の大名を魅了した永徳も利休も南蛮好みもなにもなく、自分たちの野暮と田舎くささをあくまでもまもった。
徳川集団ほど、織豊時代のにおいと無縁の集団もない。
そのように、家康は味方の信長からまなばず、敵の信玄に心酔したところがいかにも妙で、三河者にとっては、商人のにおいのする尾張者よりも、おなじ農民のにおいのする甲州者により親近の思いがあったのかもしれない。 
三方ケ原への決戦で自殺的な行動に出ようとした家康の不思議
信長は、信玄をおそれ、その故にまわらぬよう、信玄に対し、人間の頭脳で考えられるかぎりの大嘘をつき、つぎつぎにつき続けて信玄を足止めし、その心を撫でつづけてきた。信長にすればいま一歩であった。いま一歩すれば信長は信玄に対抗しうる情勢と兵力をつくり得るのだが、いまはまだ信玄という虎をその洞窟からひき出してはならない。が、家康は信長からみれば勝手な外交をし、結果としては虎を引きだすはめになった。もっとも、家康にいわせれば情勢はそうではない。虎自身がかれ自身の意志で出てきたのであり、当方の媚態外交は限界にきていた。これ以上媚態をつづけてはかえって食われるだけであり、このあたりで媚態を一都して滅亡を覚悟したうえでの決戦の準備をすべきであった。
信長は、結局は家康が作った新情勢に屈せざるをえず、かれはやむなく上杉・徳川同盟に自分も参加した。が、この浜松城移転と対上杉同盟の一件は、信長の家康観をわずかに変えさせた。
家康は信長にとって織田圏の東方警備の番犬であるにすぎなかったのが、その番犬自身が多少意志的になり、自分の判断で行動しはじめたのである。ただしこのことは、家康の世評の「律義」の範囲内でのことであることを、家康は再三信長に言いつづけることをわすれなかった。
「それが、織田家にとって御為になることなのです。もし信玄が押し寄せてくれば、それがしは死力をつくしてふせぎます」「ふせぐのもよいが」と、信長は、家康が、自分の桶狭間のころのような冒険主義になっていることに、頭をかかえこみたいほどに当惑していた。信長にすれば武田信玄に対する冒険はいっさい不可で、いままで築きあげてきたすべてを瓦解させることになる。
「もし武田勢が浜松に押しよせてくれば軽戦したのち退却し、城を置きすてて岡崎までひきさがるがよろしかろう。浜松で防戦しても無駄の無駄である」と、しばしば人をやって家康に説かせた。家康はそのつど、「なるほど、そうでもありましょう」とか「よくよく思案つかまつる」とか言い、できるだけ顔をおだやかにして力づよくうなずき、言葉だけは曖昧にしておいた。家康の本心は、その場合は浜松城を一歩も退かず、千に一つの勝目もない戦いを滅亡を賭して戦ってみるつもりであった。この病的なほどに用心ぶかいこの男の性格のどこを押せばこういう常軌のはずれた決意が出てくるのであろう。家康という人間は、どうにも一筋縄では解きあかしにくいことは、すでに触れた。本来、用心ぶかくて守嬰的で功利的なだけの性格なら、ここで武田方に転ぶのが一番であった。げんに、このときの家康の条件と類似の条件下におかれた戦国の諺将は無数にいる。かれらはみな武田へころぶという反応をし、目前の危機を脱しているのであ。たとえ武田へころばなくても、信長が勧めるように岡崎へ逃げ、さらに尾張へ逃げこんで織田士力に合流し、それでもって戦うというのが普通の反応であった。生来の豪胆さを決してもちあわせていない家康が、右のどの行動類型にもはまらず、意外にも自殺的な行動に出ようとし、げんに出たことが、家康のふしぎといっていい。 
築山殿の考えられぬヒステリー 築山殿はその母親に金を出し、その甲州うまれの娘を自分の侍女にした。
信康には、築山穀自身が口説いた。
「この娘はどうか」という露骨さである。大名たる者はまず第一に嗣子をつくることが大切である、徳姫どのはなるほど子をうんだが女児であった、あれではどうやら女腹かもしれず、ゆくすえが案じられる、三郎(信康)どのはぜひともこの娘を幸して男児を生ませ候え、とすすめた。
信康は、多淫であった。べつだんの抵抗もなく母親のすすめをうけ入れ、この娘を愛した。その後、熱中した。女は、母親の住む築山御殿に置いている。信康は、毎夜築山御影で夜をすごした。徳姫には、−母御前にお会いするためだ。といっておいたが、せまい城内ではうわさがきこえぬはずがない。すぐ徳姫の耳に入った。
「ひともあろうに姑どのがその女をすすめられた。しかも武田に縁故の女である」という内実が、尾張からきた女中たちの手で知りたしかめられた。もっともそれ以上の秘謀まではこの段階では知られていない。ともあれ、岡崎城内は、徳姫を中心という尾張系の女中たちと、築山御殿にいる駿河系の女中たちのあいだに、仇敵以上の険悪な空気がかもされた。奥に奉仕する三河武士たちは、この両派の相剋をみて、手をつかねているほかなかった。
この空気のなかで、焦ったのは実家の背景のうすい築山穀のほうであった。さらに滅敬との情事が、城内に知れわたっていることも、彼女をあせらせた。焦りが、彼女を行動へ飛躍させた。ともかくも密謀を拙速ながら実現しなければならない。
彼女は、滅敬をせきたて、これを密使として甲斐に送った。彼女が武田晴頼に示した内容というのは、すでに正気の沙汰ではない。
「信長と家康は、私の手で殺しましょう」というものであった。家康が、彼女の姦通を理由に自分を殺すかもしれない。殺されるよりもさきに殺そうとおもった。
「信康に対しては、徳川家の封土をそのまま安堵してやって佗しい」むろん、信康自身の知らぬことであった。
さらに築山鞍は、最後に女らしい一項をつけくわえることをわすれなかった。これが、彼女にとってもっとも重要なことであったかもしれない。
「おねがいがあります。武田被官のうちで、しかるべき者をおえらびくだされて、私をその妻にさせてくださるように」
というのであった。ヒステリーであろう。しかしそれが昂じてこういう壮大な計略まで幻想し、しかも幻想だけでなく実際にその計画を行動にうつした女性というのは、おそらく史上この築山殿しかいない。
武田勝頼は当然よろこんだ。おりかえし返事を岡崎へ送った。むろん勝頼は築山殿の申し出をすべて可とし、とくに最後の一項については具体的に示した。 
信康を自害に追い込んだ酒井忠次と大久保忠世を徳川家の柱石として栄えさせた
家康はさらに信康を三転させて、遠州二股城にうつさせている。このときの警備責任者は二股城の守将大久保忠世であった。大久保は世故人情に通じた男で、当然、(大殿は、若殿をにがそうとされているのではないか)と察したはずであったが、この大久保も徳川家のオトナとして信康に対する痛烈な批判者のひとりであった。かれは信康にそのすきをあたえず、すみずみまできびしく警備した。ついに家康は、そのかすかな期待をあきらめざるをえなかったにちがいない。その手もとから切腹の介錯人を二股城に送った。
天正七年九月十五日、信康は、みごとに腹を切った。十文字に切った。その死に方は、この青年が尋常の者でないことを十分に示した。
介錯人が、首を打つ。が、当の服部半蔵は悲嘆とおそれのあまり、太刀をふりおろすことができなかった。かわって遠州侍の天方葉という者が打った。
後年、家康は夜ばなしの席でこの半蔵に、「鬼の半蔵といわれたそちでも、主の首はうてぬものよの」と、涙とともに語ったことがある。
築山殿は、信康の自害よりも前、遠州浜松にちかい富塚というところで、家康の手もとから派遣された二人の介錯人によって害された。その介錯人(岡本時仲、野中重政)はいずれも三河者からえらばず、遠州での新付の者がえらばれた。両人が駆けもどって家康に復命すると、家康は吐息をつき、「女のことだから計らいようもあろうに、なさけ強くも果てさせてしもうたか」といったため、両人はおそれ、そのうち野中重政は逐電してその故郷の遠州堀口村に隠棲してしまった。
家康は、晩年になるまで、この事件をおもいだしては愚痴をくりかえしたが、はるかな後年、城内で辛苦の舞をみたことがある。曲は「満仲」で、満仲の郎党が、若君の身がわりに、ということでわが子の美女丸の首を切ってさしだす、そのくだりにさしかかったとき、家康は目に涙を溜め、酒井忠次と大久保忠世のほうをふりかえって、「あの舞をみよ、よくみよ」と、言った。両人は顔をあげることができなかったという。
これもはるかに後年、酒井忠次が自分の子の家次の待遇について家康に頼みごとをしたとき、家康はふと、「そちも子の愛しいことがわかったか」と、いったことがある。
家康という男の驚嘆すべきところは、こういう事件があったにもかかわらず、酒井忠次と大久保忠世の身分にいささかの傷も入れず、かれらとその家を徳川家の柱石として栄えさせつづけたことであった。忠次も忠世も、家康のそういうところを知っていたために右のように深刻な皮肉をいわれながらも、反乱も脱走もせずに徳川家の股肱としてはたらきつづけたのであろう。家衆が、その妻子を自害させたことよりもむしろこのことが、家康のふしぎさをあらわすものかもしれない。家康という男は、人のあるじというのは自然人格ではなく一個の機関であるとおもっていたのかもしれない。かれの三十七歳のときの事件である。 
家康は若年から天下取りを目標から逆算して自分の行動をきめたことは一度もなかった
−世も、早これまで。と、呉服商茶屋四郎次郎がいったが、この実感は家康において巨大であり、かれが営々と構築してきたこの世の作業が、すべてこの一瞬でがらがらと崩れ去ったようにおもった。
(もはや、道はない)と、おもった。家康はすでに少壮の身で老熱した外貌をもっていたし、げんに晩年老檜といわれた。しかし人間の性格のふしぎさは、一筋や二筋の糸で織られているものではないらしい。家康の立場を考えると、かれは織田家の家来ではない。信長は彼のあるじではなく同盟者であった。それも苛烈なほどに彼に要求するところの多かった同盟者であった。かれはその信長の猜疑心のために、妻子まで処刑せねばなら頂かった。それでもなお、この戦国の世の離合集散常ならざる人心のなかにあって、二十年もという長期間、一度も信長を裏切ることなく同盟をまもりつづけた。そのほうが得であるため彼はそれを守ったというのは、信長が結果として中央を制したというそういう結果論からみた見方であろう。家康という男の意思の持続力には、損得の計算を越えたにぶい、しかし堅牢な情念というものがその性格の底にあるにちがいなかった。
さらにこの人物は、後世からみれば、結果として天下人になった。しかし若年からこの時期まで、この男は天下取りを目標にしてそこから逆算して自分の行動をきめたことは一度もなかったことだけはたしかであった。
家康は元来が自衛心のつよい性格で、かれは三河の郷国を守ることだけにその能力のかぎりをつくしてきた。三河を防衛するためにはその東隣の遠州を奪って遠州をもって武田からの防衛の最前線にしようとした。かれの願望のせい一杯に膨れたところが遠州征略ぐらいであり、信長から、−駿河一国を三河殿に参らせる。といわれたとき、なかば本気で(しかし半ばは巧妙な擬態で)それをいったん遠慮したが、この遠慮のほうはかれの存外、正真正銘の本心であり、さらにはこのときに擬態を示したのは、かれの本心とはべつに作動した自衛上の知恵才覚というべきものであったかもしれない。要するにこの男は、織田信長というこの辛辣すぎる同盟の相手に対し、本心から畏服し、頼っていた形跡が濃い。かれは元来が、自己を肥大化して空想することのできないたちで、自分の能力や勢力をつねに正確にしか計算できず、さらに計算をひろげて、自分の存立のために必要な数値を、信長の能力と勢力から借り出していた。それが、いま信長の死でにわかに外れたのである。
針ほどに小さな魚のむれが、川面を刺すように泳いでいる。その水に、家康は右足を浸け、左足を股座に掻いこみ、「死ぬ。−」と、わめいていた。
すでに近畿の諸街道は明智勢の手でおさえられているであろう。国へも帰れず、この上方の地で落人狩りの錆槍にかかるとすれば、ここで右大臣信長のあとを追って自害して果てるほうがましであった。 
徳川の傘下に入ることは安堵感があり、これこそ士にとって最大の魅力
元来、人君とは家来や被官にとって一面虎狼のようなもので、いつその既得権をとりあげられるか、あるいは時と場合によっては命もろとも召しあげられるかわからないという存在であった。げんに家康があらたに手に入れた甲信駿という旧武田圏の在郷々々の地侍たちも、故信玄や故勝頼に対してつねに虎の呼吸をうかがうようにして仕えてきた。ところがこの海道諸国で、「三河毀」とよばれている家康にかぎり、いまだ一度もその種の酷なことをしなかったという、ふしぎな経歴をもっている。だけでなく、彼は自分にそむいて反乱した家臣たちを大量にひきとってもとの知行のままにし、過去をいっさい問わなかったという、ほとんど信じがたいことを平然とやっている人物であり、そのことはすでに世間に知られていた。
奇妙といえば奇妙な男だが、しかし家康はそれだけの男であった。かれは積極的な人心収穫術をつかったこともなく、さらにどうにもならぬほどに彼は生来の苔薔家というべきところがあったため、有能の士を厚遇するということは一切しなかった。が、ひとびとにとって徳川の傘下に入ることは、他のどの大名に仕えるよりも安堵感があった。ただこの安堵感こそ、士にとって最大の魅力であるであろう。この安堵感が、五カ国の士たちをして家康のもとに集まらしめ、結束させ、新参の士も徳川家の古いむかしからの譜代衆であるかのような心映えを示させるもとになった。この天正十一年、秀吉の勢いがこう竜が天に昇るようにのぼりつつある時期にあって、東海の小覇王にすぎない家康の頼れるものといえば、三河をはじめ五カ国の士の結束以外になかった。 
秀吉に対し家康の独立姿勢は三河の挿疑心から出ていた
地方政権は、たとえ地の利を得て地形を利用し、中央の大軍をひき入れてこれをなやますことがあっても、ついには勝てない。それが数正の計算であった。古来、無数の事例がそう証明していた。数正の弱気では決してない。
(殿も、降伏なさるべきだ)と、織田信雄が秀吉と単独講和してしまったとき、数正もおもった。が、家康はそれをせず、「あのこと、三介(信推)どのがご勝手に羽柴と和睦なされた。祝着であると申しあげはしたが、しかしかといってこの自分が和睦せねばならぬということはない」と、家康はおもい、秀吉には十分のあいさつをして兵を戦場からひきあげ、ふたたび東海の小覇王として独立の姿勢をたもったのである。
家康がとったこの行動の理由は、いくつもあった。そのなかで、もっとも重要な理由は、恐怖であった。
「秀吉は、えたいの知れない調略家だ」ということであり、「和睦して秀吉の陣屋へゆけば、かならず謀殺される」という疑いから家康の感覚は解放されることがない。家康は史上比類のない打算家であったが、その打算の基底にはつねに恐怖心があった。家康でさえそうである以上、摩下の三河衆にいたっては、「秀吉はかならず殿を殺す」という以外の前途を想像する想像力をもたなかった。そのあたりは山三河人たちの気分でできあがっている三河衆たちの世間狭さということもあったであろう。家康が殺されるという想像がひとすじに成立してしまう以上、三河衆にとってこれほどの恐怖はない。家康ひとりを殺せば、家康がきずいた東海の小帝国はたちどころに消えてしまい、士も卒も路頭に投げだされざるをえない。家康をふくめて三河衆のすべてが、他国から支配されることのつらさを、いやというほどに経験してきた。家康が成人するまでのながい期間、三河は隷属の歴史であり、他国人はすべて悪魔であったと三河衆はおもっている。駿河今川氏に領有されていたときは、三河でとれる米は今川氏が持って行ったし、尾張織田氏に隷属一同盟というかたちで−していたときは、戦場ではつねに危険な部署のみがわりあてられた。それほど働きながら、家康の息子の信康が、信長の命で殺された。信長のその理由は、織田家の息子たちが凡庸者ぞろいで、つぎの代になれば信康にしてやられるかもしれないという不安からであり、真偽はどうであれ、すくなくとも三河衆はいまでもそう信じ、故信長に好意はもっていない。ましてその政権を簑奪した秀吉を信ずるはずがなく、秀吉がどういう甘言を用いるにせよ、かれが尾張衆の代表者である以上、奸佞でないはずがない。
「ゆめ、羽柴に乗ぜられまするな」と、三河の老臣というおとなは、家康に対しすがりつくように懇願した。それがこの時期の三河集団というものであり、家康の独立姿勢というものがかならずしもかれのすぐれた打算の能力からのみ割りだされたものではなく、洞穴のなかに入って出てこないけものの挿疑心から出ていた。 
家康は譜代に薄く酬いて徳川の世を永らえさせた
元来、家康は功労のある譜代の者にもわずかしか領地をやらず、無類の苔薔家といわれた。たとえば太閤秀吉がまだ在世のころ、伏見城で大名たちが雑談をし、秀吉なきあとの天下のぬしはたれか、という話額になったとき、当時、諸大名のなかでもっとも聡明といわれた蒲生氏郷が、「すくなくとも徳川どのではあるまい。あの苔薔さではとてもひとがついて来ず、従って天下のぬしにはなれぬ」といったことがあり、それが事実でもあるのでこの言葉は当時、世間にいい囃され、ついには家康の耳にも入った。
家康の苔薔は評判であった。
かつて秀吉が、関八州のぬしである小田原北条氏を滅ぼしたあと、その領土二百十余万石をそっくり家康にやることによって、家康をその成立の壷である東海から根こそぎ引きぬいてしまったが、いずれにしても家康はとほうもなく大きな封土をもつことになった。当然ながら功臣たちに大きく分け前をあたえるべきところ、最大の功臣の酒井忠次(すでに隠居し、子の家次が当主)にさえ上州碓氷で三万石であり、代々忠功をはげんできた大久保忠隣がわずか武州羽生で云石、他の諜臣の本多正信が相模甘縄で一万石というぐあいで、他は推して知るべしで、このことは秀吉の側近のあいだで評判になり、秀吉が見かねて、あるとき、徳川殿、せめて井伊(直政)、本多(平八郎忠勝)、榊原(康政)などという天下にひびいた男どもには十万石も食ませ候え、といったために家康はやむなくその三人を十万石にした。もともとの勘定はこの三人も三万石程度でおえておくつもりであった。そのような、家康の出し惜しみのいきさつを秀吉のまわりの諸侯は知っていたから、蒲生氏郷はそういったのである。
ところが、家康は関ケ原の一勝で天下をとったあと、これに協力した豊臣系諸侯(いわゆる外様大名)には気前よく大領をわけあたえた。この家康の勘定の矛盾は、譜代のひとりである大久保彦左衛門が、終生ロぎたなくののしっていたところだが、しかし彦左衛門程度の頭では家康の苔薔な性格はわかっても、家康の政治的算数はわからなかったのであろう。天下をとるための計算は家康は別個の配慮からやったわけであり、外様大名に大盤ぶるまいをすることによって、一気に天下の鬱気を散じ、政情を安定させたのである。
しかし家康は、すでに死期の近いことをさとったこの時期、かれのこの政治原理の秘密を、秀忠と側近たちにだけあかしておき、あかすことによってのちのち彼等を誤らしめまいとおもった。
「わしが三河、遠州、駿河といった譜代の侍どもに薄く酬いたのは、ゆえのあることだ。かれらを大大名にしてしまえば、みずからその富力を悼んで、江戸の将軍を軽んずるようになる。かれらを薄禄にとどめておけば、貧なるがためにたがいに気心をあわせて江戸を仰ぎみるようになるからである。徳川の世がつづくもつづかぬも、譜代の臣の結束いかんにあり、すべてそのためである」
譜代の臣は薄禄だが、外様大名よりは格は上であるとし、さらに幕閣の政務はすべて譜代の臣にとらせるという名誉をあたえ、外様大名は大封をもつとはいえ天下の政治に対する参政権をあたえないということで差別をした。譜代大名は薄禄とはいえ、この差別をつくることによって大きな優越感をもつのである。 
 
徳川家康2

 

利家がいる間は待つしかない家康
ただ利家だけが警戒を要する相手である。利家は織田信長の部将であった諸大名のゆるがない信頼を、あつめている。石田三成と犬狗の間柄である加藤清正、福島正則でえ、利家に刃をむけることはなかろうと、家康は見ていた。
家康は北政所と親しい福島正則、加藤清正、浅野幸長ら尾張から出た武将と、淀殿に近い石田三成、長束正家、増田長盛ら近江出身の奉行との対立を利用し、豊臣政権の分裂をはかって漁夫の利を得る機をうかがっている。
だが、利家は武将派、奉行派を統率して秀頼を守りたててゆく器量をそなえた、唯一の存在であった。
家康は利家を中心とする豊臣勢力と戦うとしても、仕懸けられるのを待つほかはない。
秀吉迫孤の秀頼に対し弓を引くことになれば、戦うための名分が立たなかった。
「仕懸けられしときは、やってもよいが、それまでは待つほかはあるまい。まずは相手を釣りだすほかに、手はあらずか」利家には家康をのぞく三人の大老と五奉行のほか、加藤嘉明、浅野幸長、佐竹義宣、立花宗茂、小早川秀包、小西行長、長宗我部盛親が味方するにちがいなかった。 
利長への謀略
この事件は事実であったか否かは分からない。利長が淀殿と密通したという形跡は見当らず、諸事に慎重でともすれば乾坤一榔の好機をさえ見逃すきらいのある彼が、思いきった決断をするとは考えられない。
また、大野修理亮、土方勘兵衝はともかく、浅野長政は家康と親密な間柄で、石田三成と疎遠であるのに、突然謀殺に加担するというのもうなずけない。利長も、利家生前から細川忠興とともに家康を支持し、三成を嫌っていた。
このような疑問があるので、この事件は家康が自分に追随してくる増田、長束をもちい、讒言をさせ、前田家の声威をおとしめようとしたとの推測が生じてくる。
家康が五大老のうちで、自分に対抗しうる唯一の存在であった利家の威望をうけついだ利長の勢力を、なんらかの手段で減殺したいと考えをめぐらし、このような事件をつくりあげたと見るのである。
このような見方も根拠のないことではない。事件発覚のあと、家康謀殺に関与したされる浅野長政は武蔵八王子に蟄居させられたのみで、重罰をうけていない。
土方雄久は常陸の佐竹義宣に預けられたが、慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原開戦の直前に許されている。大野修理亮治長は下野結城へ流罪となったが、おなじく関ケ原役のまえに許された。
彼らが謀殺をたくらんだのが芙であれば、執念ぶかい家康はかならず破滅に追いこんだにちがいない。
利長がもし家康に対抗して決起すれば、天下の形勢はどの葺に変化したか。おそらく家康は利長に呼箸る大坂方の大兵力に包警れ、絶体絶命の窮地に立たされたであろう。家康謀殺は、前田利政がくわだてたとする説もある。利政は家康対決する慧を常家康の出様しだいではいつでも合戦に応じる支度をととのえていた人物である。
家康は下手に刺激すれば、藪つついて蛇を出す結果となりかねない危険を覚悟で、利長を桐喝したわけである。
家康の動さの君には細川忠興がいた。忠輿は利良が家康の疑いをうけ、憤激して決戦の覚悟をさめたとさには、説得する役割をうけもっていた。家康は優柔不断の利長が、忠輿に諭されたときはたやすく軟化するであろうと読んでいたのである。 
三成の人質政策は失敗、秀吉のような器量がないため
西軍の士気は旺盛というわけではなかった。諸将はさまぎまな思惑を抱いている。石田三成に反感を抱いている者も多かった。三成は豊臣政権の奉行として、秀吉遺訓に背いた家康討滅の師をおこすに際し、恩顧の大小名が参陣するのは当然であると考えていた。
諸将は利によって動くものであり、大義名分は欲望を糊塗する飾りにすぎないという現実を、家康はわきまえており、三成は忘れていないまでも軽視した。
三成は強大な豊臣政権で、秀吉の懐刀として才腕をふるう時期が長かったので、気づかないうちに、尊大、傲岸の気風が身についていた。
家康に従い東下した諸大名が、家康方に就いているわけでもないのに、大阪に残留している彼らの妻子を人質として大阪城へ入れようとしたことも、人情を解しない措置であった。
大坂と他の地域との交通を遮断すれば、城下の屋敷にいる諸大名の妻子はそのまま西軍の人質となる。なかには逃走する者もいるであろうが、おおかたは残るであろう。
だが三成は人質を引きたて、城内に監禁し、反豊臣方の大小名を牽制、威嚇しようとした。彼は人質を引きたてるとき、抵抗する者があればみせしめとして殺害してもよいと命じる強硬姿勢を見せた。
その結果、細川ガラシャの事件がおこり、家康と東下した諸大名のうち、豊臣方へ戻るか中立したであろう者まで激怒させ、徳川方の勢力を増大させることとなった。
このような失敗は、三成の武将としての感覚が欠けているためにおこったと考えぎるをえない。
人質政策は秀吉が多用しているが、三成が秀吉のまねをして成功すると決ってはいない。器量の大小によって、政策を受容する側の反応が追ってくる。三成には、他人をたらしこむ秀吉の魅力がそなわっていなかった。 
家康は関ヶ原合戦がはじまってのちの展開は読めなかった
家康にも、合戦がはじまってのちの展開は読めない。両軍あわせて十五万の軍勢が激突するのである。
しかも家康は、合戦に際しての布陣を、自らの采配によっておこなうことができなかった。東軍主力の豊臣系客将たちを、わが家来のように動かすのは不可能である。
気にいらないことがあれば猛虎のように憤怒を爆発させる福島正則が、一番の難物である。彼の面目を損じるような命令を下せば、敵前で同士討ちをやりかねない。
家康はこれまでの五十九年の生涯で、針のめどをくぐり抜けるような難関を、幾度も越えてきた。
敵と命の迫り取りをする合戦では、どれだけ策謀を練っても、偶然に賭けなければしかたのない条件が、かならず残る。読みをかさねたのち、なお曖昧な状況が残っていても、生死を分ける決断をあえてするか否かは、武将の勇気気にかかっている。
家康は事がまかり違えば、死ぬ覚悟をさめていた。いかなる変化がおこっても、できるかぎりの善戦をしてみせる。どうしても挽回できない窮地に追いつめられたときは、死ぬだけであった。
数も知れないほどの敵味方が討死にするさまを見てきた家康には、死は人をすべての苦痛から解き放ってくれる、永遠の眠りであると分っている。
−農が死ねば、秀忠が弔い合戦をしてくるるだわ。あとのことを、思い悩むまでもなし−
家康は馬を西へ進めるにつれ、胸苦しいばかりに湧きあがってくる恐怖の金気くさいにおいを呼吸する。彼はそのにおいに慣れており、気がたかぶってくればとてれだけ頭が冴えわたり、状況判断が鋭敏になってくる。
東軍先手の福烏隊が関ケ原に到着したのは、寅の七つ半(午前五時)頃であった。前夜からの雨はまだ降りつづき、濃霧が垂れこめ、一間先も見えない。
冷えこみのきびしい、山間の夜明けであった。遠近で鶏鳴が聞えている。
突然、静寂をやぶって誰何の叫び声があがった。
「そこにおるは何者じゃ。敵か味方か」「なにを、おぬしどもこそ、いずれの人数じゃ」するどい応酬がとぎれると、まばらに銃声がはじけた。
福島隊の先頭が、西軍後尾の宇喜多隊小荷駄と接触したのである。両軍はいったん霧のなかへ退き、たがいに斥候を出して前方を偵察した。
東軍はただちにその場に停止し、霧のはれるのを待った。東軍の斥候が、西軍諸隊の関ケ原の高所に散開布陣し、中仙道を托して東軍迎撃の態勢むととのえているのを偵知してくると、街道に停止していたおよそ七万の士卒は、丸山から関ケ原西端に散開布陣し、霧がはれるときを待った。
家康は西進の途中、先行諸隊からの注進を受けつつ関ヶ原に達した。後は西軍布陣の状況を偵察させてのち、本陣を桃配山に置くことにした。 
関ヶ原も持久戦では勝敗は分からなかった
天下分け目の大合戦が、わずか半日のあいだに結着を見るに至るとは、東西双方の将領たちの誰もが想像しえなかったことであった。
豊臣家を代表する官僚の三成が、野戦の名将の仕懸けた大博打にひきこまれず、冷静に自らのとるべき方途を見宅め、持久戦に持ちこめば、家康は鋭鋒を挫かれ、さまぎま困難な状況に直面することになったであろう。
三成がとるべき第一の手段は、東軍西上の陽動作戦に乗せられることなく、大垣城にたてこもることではなかったか。 
秀忠への教え
家康は、かねて秀忠に教えていた。
「小身の侍どもには日頃より、わけて目をかけておくべきだで。国持ち大名どもは、わが家大事と思いて、時に従い勢いにつき、家名の長く保つべきように心を砕くのが、古今の常態でやあらあず。それにひきかえ、小身者はわがはたらきを褒められ、覚えられておるばかりにて、いつまでも恩に着るものだでなん」
あるとき、家康は駿府城をおとずれた秀忠の年寄衆を召し寄せていった。
「おのしは、将軍の心に叶いて使わるると見えて、このたびも使いに越されしよな。およそ主の心に叶うはむずかしきことなるに、おのしがようなるは、よほど賢き性にてあらず。おぬしがようなる者が心がけにより、大小名が将軍に懐きもし、怨みをふくむことにもなるだわ。主人の気にいり、威勢の身につくに従いて、驕奢の心いつとなくできるものだでなん。さようにならぬよう、いよいよ謹慎いたし、物事を粗略にしてはならぬ。人を推すにも私意なく、人品の正邪をたしかめ、奉行、頭人にふさわしき器あらば、われと仲悪くともこだわりを捨て、登用いたせ」
秀忠老臣は、おそれいって家康の訓諭を聞く。
「おのしどもは重役なれば、己れひとりにて万事を沙汰し、人には何もいわせぬようにしたく思う心のできるものだわ。この心あらば、どれほど賢く才あるとも、はなはだ害あるものだでなん。たとえば駕籠をかくに、同じ背丈の者二人があるうえに、添え肩の者二人がおりてこそ、長途険所をも過ぐることができるだわ。いかに剛力なる者にても、一人では駕寵をかくことはできぬ。二人おるとも、身の長短つりあわねば危うさことにはあいなる。天下国家を治むるは、このうえもなき重荷だで。それを持ちこたえ落さぬためには、あまたの諸役人を養いおかねばならず。それをおのれひとりにて主人の相手ができようと存ずるのは、大なる心待ちがいだわ」 
家康の回顧、野戦の名人といわれた
家康は鷹をつかいつつ、過ぎてきた月日をふりかえった。彼は野戦の名人といわれているが、生涯のうちで快勝したのは、関ケ原合戦と大坂冬、夏の両役のみであった。
十九歳で桶狭間に出陣したときから、彼は合戦で勝ったことがなかった。天正十二年(一五八四)、四十三歳のとき、小牧長久手の戦いでは、一万六、七千の兵力で秀吉の十万の大軍を撃破した。野戦の名将といわれるようになったのは、そののちのことである。しかし家康はこのときも局地戦では勝ったが、結局秀吉の政治力に屈服した。
家康は戦国乱世を、合戦に負けながら生き抜いてきた。彼は屈服しつつも、勝者に自分を高く評価させ、重用させる。
敗北しても、損害を軽微にとどめているので衷亡することはない。自分を打ち負かした相手に従いつつ、わが力を温存して生きのびてきた。負けるが勝ちというふしぎな戦略で、難所を乗りこえてきたものである。
家康は関ケ原合戦で、それまでの五十八年の歳月のうちにたくわえてきた不屈の闘志を、一挙にあらわした。
−いま思うてみれば、農が傾がような鈍物がよくぞここまでやってきたものだで。やはり運気と申すべきかのん。運がなけりゃ、いままでのうちに死んでおりしがや−
家康は孫のような少年の頼宣、鶴千代の手をとり、鷹のつかいようを覚えさせ、終日楽しんだ。 
家康の名言
彼らは忙しさに気が散らかっているが、しばらく日が経てば家康が去ったあとの大きな空虚に気づかされるのである。家康の遺訓は、慶長八年(一六〇三)正月十五日、六十二歳の春にしたためたとされている。自筆の原本があらわれていないので、側近の学者らが、まとめたものであろうと推測されているが、ひろく世に知られている内容はつぎの通りである。
「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくがごとし。いそぐべからず。不自由を常とおもえば不足なし。こころに欲おこらば、困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもえ。 勝つ事ばかり知って、まける車を知らぎれば、害その身に至る。おのれを責めて人をせむるな。及ばぎるは過ぎたるよりまされり。 慶長八年正月十五日 」
人はただ身のほどを知れ早の葉の露も重さは落つるものかは
家康は長い人生の競争で、優勝者となることをおそれていた。頂上まで登りつめた者は、坂を下りてゆかねばならない。
敗北をかさねつつ、勝者にわが立場を高く売りつけ、次善の地位を保ち生きのびてゆく戦略は、遺訓のなかに記されている。
家康はさまぎまな名言をのこした。
「人を使うにはそれぞれの善所を用い、ほかの悪しきことは、叶わぬなるべしと思い捨つべし」 家康は人材の必要を、ひたすら説いた。
「数寄道具、刀、脇差の類に、名物、名作、いかほども雑蔵の雑物の片隅に埋もれてありと聞かば、さだめて勢をだして取りだし、われに見せて悦ばせんと思わぬことはあるまじきぞ。器物は何ほどの名物にても、肝要のとき用に立たず。宝の中の宝というは、人に留めたり」 家康が人材を大切にしたのは、徳川政権の存続を願うためである。
戦場で彼を打ち負かした名将たちの子孫は、おおかたが泡沫のように消え去っている。家康はわが子孫が、十五代にわたり将軍として、日本に君臨するとは想像していなかったのではあるまいか。 
 
織田信長1 / 破壊と創造

 

田楽狭間の論功行賞で情報収集した梁田を功労者にする
田楽狭間の論功行賞がその場で行われた。信長は、「本日一番の功労者には、三〇〇〇貫の土地を与える」と告げた。
一貫は約一・五石になる。従って、三〇〇〇貫は四五〇〇石の土地に相当する。ほとんどの兵は、敵の大将の首を取った服部・毛利の二人が最大の功労者だと考えた。
だが、信長が「この者である」と言って、三〇〇〇貫の土地を与えたのは梁田政綱であった。梁田は今日の合戦に参加していない。昨夜のうちに信長が、「ご苦労であった。明日は休め」と言って、家に戻してしまっていた。
「合戦に参加していない染田が、なぜ最大の功労者なのか」兵たちは明らかに不満の色を浮かべ、「納得がいきません」と口にする者もいた。
信長にしてみれば、(よくぞ開いてくれた)という思いだっただろう。信長は、昨夜のいきさつを話した。それでも兵たちは半信半疑な表情だった。
「梁田が持ってきた情報の重大性もある。だが、それだけではない」と信長は言った。
「なぜ梁田が情報をつかみ、おまえたちにはできなかったかだ。そこに染田とおきえたちとの違いがある。梁田のところに情報が集まるのは、やつが常に地域に溶け込み、そこに住む者と深く接触をしているからだ。
梁田に情報をもたらした老人は、命懸けだったはずだ。本来なら、今川に情報を持っていく方がよい。それが、身の危険を冒しても、染田のところに行ったのは、それだけやつに恩義を感じていたからだ。普段から役立ちそうな者に目をつけ、その者の身になって汗を流してやる。その積み重ねがあるからこそ、ここぞという時に恩を返してくれる。よいか、ただ待っていても情報は集まらない。また集まったとしても、ろくなものではない」
信長は染田への論功行賞によって、自らの評価のモノサシを部下に強烈に印象づけた。誰が大将の首を取ったか、という多分に戦場での運に左右される武功よりも、日頃の用意周到な準備と問題意識がモノをいう情報収集・分析を上位に置く信長の考え方は、織田軍団に深く浸透した。 
信長は拠点を移し一所懸命の思想の破壊を実行
信長がこの「一所懸命の思想の破壊」で実行したことのひとつが、「本拠の移転」であった。
天文三(一五三四)年、尾張の名古屋城に生まれた信長は、およそ二十年の間、ここを拠点にしていた。父の信秀は、このころ古渡城にいた。
弘治元(一五五五)年に二二歳になった信長は、一族内の内紛を鎮圧して、清洲城に移った。そして、水禄六(一五六三)年、三〇歳になった信長は美濃征庄の拠点として、小牧山城に移った。そしてさらに永禄一〇(一五六七)年、三四歳の時に、美濃を征圧し斎藤氏の拠点であった稲葉山(井の口)城へ移動し、この地を「岐阜」と改めた。
そして天正四(一五七六)年、四三歳の時に安土城へ移る。ちなみに、安土のあづちという地名は、こじつけだが信長が実現しようとしている"あゆち"に語音が似ている。ここが信長の最後の拠点である。
天正一〇(一五八二)年、四九歳になった信長はこの年六月二日の早朝、明智光秀によって殺される。しかし、信長はこの時点でもまだ「本拠の移動」を考えていたと推測できる。その地は、恐らく大坂の一向宗の最大拠点であった石山本願寺だっただろう。一向宗関係者を退去させた後、この城を拠点にして信長がその後目指していたのは明らかに「東南アジアとの国際交流」である。
信長の「本拠の絶え間ない移動」は、確かに「天下への道」を目指す必然として、やらなければならなかったことではあった。だが、それだけではない。信長は、「拠点を移動させることによって、部下の一所懸命の思想も併せて破壊していく」と考えていた。ともすれば、安定を得たがる部下たちに対し、「状況は常に流動している。おまえたちの足元も、いつひっくり返るか分からない」という不安定感を与えることによって、緊張と新しい事業に対する意欲を掻き立てようとしたのだ。彼の部下管理は、「創造は破壊から生まれる」というものだ。
さらにここで、「兵農分離」を実施に移す。兵農分離のメリットのひとつに、プロ化した武士を短時間に大量動員できる点がある。そのためには、彼らを城下町に集めて住まわせる必要があった。そこで信長は、岐阜に本拠を構えた時、兵士たちの「共同住宅」を城下に造り、「至急、尾張にいる家族を呼び寄せろ」と命じた。だが、部下たちはただ顔を見合わせただけで、信長の命令に従わなかった。合戦が終わり、岐阜に引き揚げた後に兵士たちに休養を与えると、彼らはすぐ尾張に飛んで帰る。家族は依然として尾張にいた。信長から見れば、これは明らかに、「悪しき一所懸命の思想」の表れだった。だから口を酸っぱくして、「一日も早く家族を岐阜に呼び寄せろ」と言うが、部下たちは言うことを開かない。ついに業を煮やした信長は、相変わらず尾張の家族のところにいる部下たちの留守を狙って、その居宅を焼き払ってしまった。 
天下一の称号を持つ職業人と同格とする信長
絵画関係でも、画家が輩出する。技を競い合う。芸能面においても同じだ。特に能楽が盛んになれば、各地から長年修業してきた芸達者が次々と現れる。茶の湯は言うまでもない。千利休ほかの茶の名人が次々と現れた。そして信長や秀吉の「茶頭」として活躍する。
初期の茶人は、「唐物」を大切にし、その所有量の多さを誇り合ったが、次第に「国内生産の茶道具」が重んじられるようになり、優れた陶磁器の技術者が輩出した。
着る物も、そのデザインや仕立て染色などに工夫が凝らされ、一挙に高級化していく。食事も一部の権力者しか食べられなかった、普茶料理が次第に一般化する。
こうして「衣食住」全般にわたって文化という「付加価値」が重んじられるようになれば、当然「内需」が膨む。従って、安土・桃山文化は、文化政策ではあったが、同時に「経済成長の大きな起爆剤」でもあった。安土・桃山時代ほど、「内需だけで」経済が高度成長した歴史的状況は少ない。
大名も変質した。織田有楽斎・古田織部・小掘遠州など、茶道や造園・作庭あるいは絵画面においてのみ、その才能を発揮し、合戦場における武闘など一切関わりなしとする武士まで現れてきた。そして、社会はそれを容認した。そこまで日本は変質し始めていた。
「旧価値社会」は見事に破壊され、新しく「文化を主体とする新価値社会」が出現しつつあった。その火つけは、何といっても信長である。信長が、「一所懸命の思想」による「土地を至上の財産とする」という日本人の財産観を根底から覆してしまった。一所懸命を破壊すると同時に、信長は「文化による新社会」を創造した。
この文化振興による経済発展を進める時に、信長が活用したのが、あらゆる職人や芸能者の第一人者に「天下一」という称号を許し、税免除などの特権を与えることだった。
「天下一の大工」「天下一の石工」「天下一の鉄砲作り」「天下一の陶器作り」「天下一の花作り」などである。
これは信長が、様々な技芸者の優劣を決める唯一の権威者の位置に立つことを意味する。時の権力者が、こうした称号や勲章などを付与することによって、自らの権威を箔づけしようとする事例は少なくない。
だが、信長の性格からして、そうした虚名にはまるで関心がなかったはずだ。やはり、それぞれの道を極めた者への素直な称賛と、それを通じた技芸者間の競争促進、そして、さらなる文化の興隆を目的に、「天下一」の号を定めたと考えるべきだろう。
さらに言えば、信長は、(天下一の称号を持つ職業人はおれと同列・同格である)とさえ考えていたのではないか、と筆者は想像する。 
言わなくても分かる部下を求めた信長
信長は部下を次のように分けている。
一言わなくても分かる部下
二言えば分かる部下
三いくら言っても分からない部下
秀吉は「一」だった。余計な説明はいらない。「分かりました」とおでこをピシャリとたたくと、信長が意図した通り活躍する。今までの戦歴を見ても、その実績はすべて「言わなくても分かる部下」として機能してきた。
これに次ぐのが明智光秀や細川藤孝だ。彼らはやはり初めから「天下を視野に収める」という生き方を続けてきた。それぞれ浪人生活が長いが、その流浪生活も肥料になったのだろう。情報通だ。しかもその情報を一つの経路からのみ求めない。広く天下から情報を得る。そのため、「今がどういう世の中なのか」ということは、光秀や藤孝に聞けばすぐに分かる。尾張一国からのし上がり、美濃・近江と団子をひとつずつ串に刺してきた信長にすれば、この二人の感覚や意見はしばしば目からウロコが落ちるほど新鮮であった。
美濃を制圧し「天下布武」を宣言した時の信長は、「周の武王を目指す」気概に燃えていた。だが、その気概は単なる志にすぎず、それを実行する手段を持っていたわけではない。京都に入って初めてそれに気がついた。
(これは容易なことではない)信長は深い峡谷の両側にある崖に両足を開いて立っていた。しかもその両足は、長い竹馬に乗っている。峡谷は、激流でアワを吹いて信長が落下するのを待っている。天下布武を目標に、自分なりに成功の道を歩いてきたつもりだが、振り返ってみれば、相当危険な場所に身を置いてしまったことを改めて知った。
足元を見下ろせば、その光景は異様であった。信長に心から帰服するような連中は一人もいない。むしろ疑惑と憎悪の光を目に宿し、「いつ、信長を倒してやるか」と虎視眈々と狙っている。その連中をひそかに、旧権威によって操っているのが、皮肉にも自らが擁立した将軍足利義昭であった。
信長が改めて「部下の用い方」を再考したのも、一言で言えば、(自分が置かれている状況をどのように理解し、どのように自分のやることに協力してくれるか)という基準で部下を評価し始めたということでる。 
比叡山焼き払いに対し近江の一般民衆からはあまり非難の声は上がらなかった
元亀二(一五七一)年九月一二日、信長はほとんど全軍を動員して、比叡山の東西南北の出入り口を塞がせた。早朝、まず坂本の町を焼いた。翌一三日には、山上の東塔・西塔・無動寺谷に放火した。指揮を執る光秀は、気が進まないまま部下に命じて松明を振り周させた。信長は、「逃げ出す者はすべて斬れ」と命じていた。
一四日には、わずかに残った坊にも放火した。そして一五日には完全に山上の妨も焼き払ってしまった。根本中堂・山王二一社・東塔・西塔・日吉山王御社関係の一〇八社なども、すべて焼き尽くした。当然、納められていた仏像・宝物・経巻・文書なども灰になった。それだけではない。山中や坂本にいた僧俗数千人がすべて殺された。
比叡山焼亡の報はたちまち日本全国に広まった。特に京都を中心にした上方人の動揺は大きかった。公家の山科言継はその著「言継卿記』の中で、「仏法の破滅説くべからず、説くべからず、王法が何にあるべきことか」と悲鳴を上げている。
ところが意外なことに、近江の一般民衆からはあまり非難の声は上がらなかった。驚いて口がきけなかっただけではない。彼らは比叡山の僧兵たちの傍若無人な振る舞いに反発を感じていた。
しかも、近江の一般民衆の中に多い一向宗徒を比叡山が弾圧したため、恨みを持つ者も多かった。信長を敵視する一向衆だが、この一件に溜飲を下げた者も少なくなかった。知識人層は意外にクールな見方をした。「太閤記」などを書いた当時の記録史家、小瀬甫庵は、「山門(比叡山)を亡す者は山門也。信長にあらざるべし」と言い放っている。 
信長の懲罰の特徴は過去の過ちを許さないこと
「本願寺攻撃に、身を入れないで怠けてばかりいた」というものだった。だが、本当の理由は別のところにある。三方ケ原の戦いの時、佐久間は徳川家康への援軍の隊長格として浜松城に赴いた。
「徳川殿がどんなに血気にはやろうと、絶対に武田信玄と戦ってはならぬ。浜松城を死守しろ」という信長の命にもかかわらず、佐久間は、戦いにはやる家康の勢いに呑まれて、三〇〇〇人の織田軍を率いて出撃し、大敗を喫した。この時、同僚の平手汎秀は戦死してしまった。
林秀貞の追放については、遠い昔の信長への反抗であることを明言している。勝家と一緒になって、弟の信行を擁立したことを罰しているのだ。つまり二四年も前の出来事を理由に、自分に害となる可能性のある人物を排除したわけだ。
信長の人事の特徴が「機能主義・能力主義」にあることは以前にも触れた。だが、その裏には、過去の過ちや不忠を、年月を経た後も決して忘れずに報復するという恐ろしいほどの執念深さがあったのも確かである。(中略)
すさまじい断罪ぶりだ。相当に、ネチっこい文章であり、小さな針を棒のように大きく扱って、ことさらに非を鳴らしている。古いことも結構入っている。三河国苅屋の領主時代のことや、山崎の代官時代のこともあるが、やはりこの一九項目の中で、めぼしい罪というのは一六番目に咎めている「遠江国での出来事」である。これは言うまでもなく、元亀三(一五七二)年の三方ケ原の戦いのことだ。
当時浜松に拠点を定めていた徳川家康は、北方を通過する武田信玄の軍に、自分の方から合戦を仕掛けた。この時、信長は家康に三〇〇〇の援軍を提供し、その大将として佐久間信盛や平手汎秀たちを派遣していた。信長はあらかじめ佐久間・平手に、
「家康は若い。老練な信玄の作戦に引っかかって出撃しようとするかもしれないが、死を賭して家康を諌め、武田軍の通過を待て」
と厳命した。ところが、家康は決戦を主張してやまず、周囲の反対を無視して三方ケ原へ突出した。こうなるとやむを得ない。佐久間信盛と平手汎秀は徳川軍と一緒に出撃した。結果、老檜な信玄の作戦に引っかかり、徳川・織田連合軍は大敗を喫し、信長が派遣した大将のひとり、平手汎秀は戦死した。信長にとって、はらわたが煮えくり返るような事件だった。
「あれほど出撃するなと言っておいたのに、佐久間のやつはいったい何をしていたのか。まして同僚の平手まで死なせるとは何事か!」信長は、怒りで体を震わせた。
三方ケ原の戦いは八年前の痛恨事だが、二八年という時間は、信長の怒りを鎮めるには短すぎた。
否、信長の激情は時間によって癒やされることなどなかった。彼の心の一角にはいつも「自分の言うことを開かなかった部下」に対する怒りが渦を巻いていた。そして、これが時折、連鎖反応を起こす。ひとりの人間が犯した罪を思い起こすと、「あいつもだ、こいつもだ」と、次々と飛び火していくのだ。
その意味で、柴田勝家、前田利家、佐久間信盛とその息子信栄、そして林秀貞などは、信長の胸に怒りの連鎖を引き起こすひとつの環であった。彼らのうちのひとりが何らかの失策を犯すたびに、信長の記憶は、彼らの過去の失策を次々と呼び起こした。
信長の場合、怒りの炎がいったん燃え始めると、相手に徹底的な屈辱を与えない限り、その炎が消えることはない。そのため、部下への懲罰は、執拗で、かつ人格侮辱の傾向を持った。 
光秀の反逆心の原因は
秀光がよく言われるように「相当前から、信長に逆意を砲いていた」という説は信じ難い。この軍法を書いた時点では、光秀には信長に対する謀意などかけらもなかったはずだ。後に彼が本能寺の変を起こす原因となった何らかの感情は、ほんのわずかな期間に芽生え爆発的に膨らんだことになる。
では、光秀を短期間にそこまで追いつめた信長の行為とは一体どのようなものだったのだろうか。
信長は、いわゆる世襲についてはあまり関心を持ってはいなかったと言われる。確かに、出身や家格などを無視して、能力本位で人物を登用してきた。ところが、この頃の信長には一族重用の傾向が表れている。武田討滅戦の総大将には嫡男の信忠を命じたし、さらに、信忠の弟たちにも、大事な仕事を任せている。そのひとつが、三男の神戸信孝の四国征伐への登用である。
織田家の宿将たちは、(ご一族に冷たかったお館が、ようやく真っ当な家族愛を示されるようになった)と受け取った。しかし、流動者出身の中途採用者は、中でも特に光秀は、(おれたちを、使い捨てになさるおつもりではないのか)と警戒心を抱いた。
光秀が明智光秀軍法で表明した信長への忠誠心に偽りはない。しかし忠誠心というのは相対的なもので、差し出す側と受け取る側の心がひとつに結びついて初めて成立する。
(差し出すおれは純粋無垢だが、受け止める信長棟は果たして・・・)という危惧を光秀はいつも抱いていた。息子たちの重用によって、その危惧が現実のものとなり、光秀の忠誠心は揺らいだ。
一方、信長は単純な愛情から一族を登用したわけではなかった。彼には彼なりに、そうせざるを得ない事情があったのである。支配地域の拡大とともに、信長の天下布武の事業は加速度を増していた。征庄地域ごとに現地採用の部下が増え、組織も急速に肥大化に向かう。これを隅々まで統制するのは、いかに信長でも至難の業となった。(中略)
その頃、羽柴秀書は毛利攻略の最前線にいた。石山本願寺との戦いを有利な形で終結させ、武田家を滅ぼした信長にとって、毛利家は最後に残された強敵であった。
「何をグズグズしておる」信長はついに声を荒らげた。「いえ、丹州の国侍に対する動員令を、信孝様に撤回していただかなければ、ここを動くわけにはいきません」信長は険しい表情で光秀を睨みつけながら、大きくうなずいた。「分かった。貴様が兵を出さぬと言うなら、丹波を取り上げるまでよ。ついでに坂本も返してもらおうか」
光秀は驚愕した。まさか信長がそこまで極端なことを言い出すとは思ってもいなかったからである。思わず見返すと、信長は大まじめな表情で、目を鋭く光らせていた。光秀は、背中にヒヤリとするものを感じた。こんな時の信長には一切逆らってはいけない。だが光秀は言わずにはいられなかった。
「それでは、私の所領国が一切なくなってしまいますが・・・」「ならば、毛利と戦って切り取ってこい。出雲と石見(いずれも島根県)あたりがよかろう」
光秀は呆れて信長の顔を見つめ返した。言いようのない不安の雲が心の中にわき立った。光秀が所領している地域は京都、すなわち天下の中心に近い。しかし出雲や石見では、「織田政権の管理中枢機能」から遠く切り離されてしまう。
実例がある。上杉謙信の進撃を抑えるためという名目で、雪深い北陸に送られた柴田勝家や前田利家、佐々成政、不破光治たちである。彼らは、一国一城の主になったとはいえ、二度と織田政権の中枢に戻ってこられないだろう。柴田家中の諸将は、柴田らが体よく「左遷」させられたと見ていた。
(信長様は、その程度にしかおれの存在を評価していなかったのか・・)光秀は絶望した。
信長には別の底意もあった。信長は自分の家臣を「知型」と「情型」の二タイブに分けて考えていた。知型の幹部は「何のためにやるのか」という目的を重視する。行動を起こすためには、まず道理が必要であり、それだけに理屈っぼい。
反対に情型は「何のために」などということにはあまり頓着せず、「誰のために」を重んじる。光秀は典型的な知型人間であり、一方、秀吉は情型人間であった。
光秀は、「おれの給与は組織から出ている。信長様個人からではない」と考える。
ところが秀吉の方は、「おれの給与や出世はすべて信長棟のサジ加減ひとつだ。信長棟はまた単なる主人ではなくいろいろなことを教えてくださった師でもある。足を向けては寝られない」と思う。トップとしてどちらがかわいいかと言えば、それは当然情型だ。秀吉がおべっか使いで、時に背中がくすぐったくなるような調子のいい世辞を言うことくらい信長も承知している。しかし秀吉は口舌の徒ではない。信長の意図を先読みして、与えられた地域で天下布武の事業を見事に展開してみせている。それに比較し、「おれの給与は織田組織からもらっているので、信長様個人ではない」と考える光秀は、使いやすい部下とは言えない一面があった。たとえ上司の命令であっても、理非曲直を言い立て、納得するまでは頑として動こうとしない。そうした態度がしばしば、気短な信長の癪に触った。合理的な思考能力に優れた信長は、光秀の理屈がよく分かる。分かるだけに、理にこだわり、素直にうなずかない光秀を余計に小憎らしく感じた。
天下人として比類のない権勢を手にしたこの頃の信長は、配下の人間はすべて自由に動かせる手駒と見るような組織管理観を持ち始めてもいた。 
■本能寺の変 

 

イエズス会の日本人の報告
彼は光秀と気があい、諸国放浪のあいだにたまたま明智家に逗留し、およそ一年ほど足をとどめ、抱え素破のような生活をしていた。太郎妨の仲間には、近江醒ヶ井の葦駄天という早駆けの達者がいた。
葦駄天は秀吉の抱え素破で、羽柴家の内情を知っている。章駄天と太郎坊は、たがいに情報を交換しあっているので、光秀には秀吉の内情があらまし分っていた。
秀吉は近習たちに、賄賂をしきりに贈っていた。そのため、近習たちは彼の失策を信長に届け出ず、手柄だけを言上する。
信長は近習たちのいうことを、すべて信用するわけではない。深海にひそむ魚のように、まったく人の噂にものぼらない、秘密の情報網をそなえているので、近習たちが隠す事柄を知って知らぬふりをしている。
ただ彼らがかばい、その長所を褒めあげる秀吉のような部下は、もともと信用しているだけに、寛容に扱い、その能力を十二分に活用するほうが、得策だという考えを持っているので、欠点、失敗をも、見逃せる性質のものは見逃してやる。
天正五年(一五七七)、京都下京四条坊門通室町姥柳町に建てられた、南蛮寺にいたイエズス会マカオ巡察使オルガンチーノは、当時の日本人について、教団への報告書に記している。
「日本人は全世界でもっとも賢明な国民であり、彼らはよろこんで理性に従うので、われら一同よりはるかに勝っている。(中略)
彼らと交際する方法を知っているものは、彼らを己れの欲するように動かすことができる。
これに反し、彼らを正しく把握する方法がわからぬ者は、おおいに困惑ずる。この国民は、怒りをおもてにあらわすことを極度に嫌う。
彼らはこのような人を気短い、すなわちわれらの言葉で小心者と呼んでいる。理性にもとづいて行動せぬ者を、彼らはばか者と見なし、日本語ではスマンヒト、すなわち『澄まぬ人』と呼ぶ.彼らほど賢明、無智、邪見を判断する能力をもつものはないように思われる。彼らは必要でないことを表にあらわさない。はなはだ忍耐づよく、交際においては非常にていねいである。(中略)
彼らはたがいに、おおいに褒めあう。
通常、誰も無愛想な言葉で他人を侮辱せず、筈で人を罰しない。
もし誰か召使いが主人の耐えられないほどの悪事をはたらくときは、主人はまえもって何らの憎悪や激昂の徽をあらわすことなく、彼らを殺してしまう。
信長は天皇の特権の歴を変えようとする
上さまは、誠仁親王御即位のあとに官位を腰戴するつもりではないかという者もあれば、御即位は上さまの思し召しのままに進められるはずだから、はかの理由があるのだろうと反論する者もある。
信長は勅使側のたっての願いにより、五月六日に女官たちと面会をしたが、座官をうけいれるとはいわなかった。
その日の夕刻、信長は琵琶湖に三膿の大船を出し、勅使軋饗応させ、そのまま大津へ送りかえさせた。
信長は、それまでに朝廷を恐れさせる意思表示をしていた。天正十雪山月、甲州平均に出馬するまえに、暦の改正をするといったのである。
中国古来の思想では、暦は天子が制定することになっている。
日本でも古代から朝廷の陰陽寮で、陰陽頭が暦をつくつてきた。陰陽頭には、土御門家が世襲で任命され、全国の陰陽師を統率している。
土御門家のこしらえる京暦は、全国の暦の基準となるべきものであったが、天正年間には地方により、京暦とことなる暦を用いるところもあった。
信長が京歴にかえて使おうとしてのが、尾張、虚張、美濃で用いる三島暦である。
信長が上京によって光秀に命を預けた状態に
信長は蒲生賢秀を安土城留守居とし、五月二十九日にわずか数十人の近臣とともに京都に入り、四条西洞院の本能寺に泊る予定であった。長子信忠は、塵下の手兵五百騎を引きつれて、信長より早く二十一日に京都に入り、二条妙覚寺に宿陣した。
ほかに、信長の馬廻り衆三、四百人も京都に入った。
このような情況を考えると、信長が本能寺に泊ったとき、変事がおこっても彼を護って戦える人数は、せいぜい千人足らずということになる。
渡海の機を大坂、堺で待っている、信孝、長秀の部隊は、すでに阿波に渡海している者もいて、寡勢である。
信長が上京すれば、軍事力において光秀の軍団以外の兵力が四散している、奇妙な真空地帯にいることになる。光秀の家老たちが亀山城に集結させている兵数は、一万三千余であった。
織田政権の群臣は、考えようによっては、信長が光秀に命を預けた状態になっていることに、思い及ばなかった。三十四万石の大名であるとはいえ、光秀が家康さえ屈従した信長を襲う可能性があると、考える者はいなかった。光秀が信長に謀叛できるような器量の持主ではないと、誰もが思いこんでいたのである。
だが、光秀は信長のもとではたらいてきた十四年のあいだに、「梢を渡る猿猴」といわれた、信長の変り身のはやさを学んできた。それで、いまならば、かならず信長と信忠を倒すことができると気づくと、謀叛をする考えにとりつかれたのである。
光秀は信長と信忠を倒せる好機にかけた
光秀は考えにふけつた。自分が立てば、勝家、秀吉、長秀、信孝、一益、信雄と家康らが攻めてくるだろう。彼らの勢力は、それぞれ単独であれば、対抗できないこともない。
しかし、合同して攻撃してくれば、光秀に勝ちめはない。ただ、彼らはすべて当面する敵があるので、ただちに攻撃してこられない。彼らが協力しあい、あるいは単独で来襲するまでに、光秀は畿内を手中に納め、さらに近国をも平定できる。
そのうえで、彼らに対抗すれば圧倒できる可能性はある。光秀は思い惑った。どれはどの大名が自分に味方をするか.考えたところで答えは出てこない。
ただ、信長と信忠を倒せることは確実である。二人を亡きものにして、天下政権を手中にする好機は、いまをおいてはない。
このまま備中へ出陣すれば、光秀主従は中国路でくりかえし難局にあたらされて消耗し、破滅への道を辿らされる見通しが大きい。
それよりも、眼前の好機をつかみ、興亡を一挙に決すべきではないか。信長は齢を重ねるにしたがい、人を信じることいよいよすくなく、残忍の所嵐が多くなってきている。
武田勝頼征伐のとき、甲府恵林寺の名僧快川紹書が、十年生別に信長に敵した佐々木(六角)承禎の子、次郎をかくまっていたことが分ると、紹亭以下の僧をすべて山門にのぼらせ、焼草を積み、焚殺した。正気の沙汰とはいえない。
信長に所領を召しあげられ、破滅の淵に押しやられるよりは、成否あいなかばする賭けを試みるほうがいい。
坂本城での独居の日をかさねるにつれ、ひとつの決断をめぐる考えに光秀は疲れはてた。
−人はどうせ一度は死ぬる。濃は信長に尽し、ひきたてられて、日本国にも数なき身のうえとなったが、このまま信長に鼻面とって引きまわされ、奈落の底へつきおとさるるを、待たねばならぬ義理はなし。
ゆく先は眼に見えておるものを、思いきってやらねばならず。このままにては水に溺れて死ぬる犬のごときものでや−光秀はやはり、眼前の好機を見逃すつもりはなかった。
信長の最期
「いかなる者が押し寄せしか。謀叛かや」信長が両膝にカをこめると、他人のもののように震えた。
−キンカめが、叛きおったか−信長は敏感に察した。ほかに信長を攻めるほどの敵は、畿内にはいない。光秀が叛いたのであれば、もはや打つ手はない。
信長は絶望に歯ぎしりをした。
椎子に小袴をつけただけの森蘭丸が駆けつけてきた。素槍を手にした蘭丸は、膝をつき、息をきらせ言上する。
「明智が手の者どもが、乱入してござりまする」やはりキンカかと、信長は死ぬ覚悟をきめた。
「是非に及ばず。しばし取りあいしてやらあず」信長は弓を手に、空穂を小姓に持たせ、蘭丸と表御殿に走った。身動きできなくなるまで戦うのである。
表御殿の小姓衆と、御堂の遠僧兵のもとへ集まってきた。
厩にいた矢代勝介、伴正林と中間二十四人は、表御殿へ駆けつけようとしたが、外へ出ることもできず、斬り伏せられた。
御殿の入口を守る小姓たちは、必死に敵を支えつつ、雨のような銃丸に倒されてゆく
森蘭丸、カ丸、妨丸も息絶えた。
信長は弓を射るうち、弓絃が切れると、二間柄の馬上槍をふるい、むらがる敵を突き伏せ、殴りつけ、荒れ狂ったが、肘に槍先をうけ、骨が白くあらわれた。
信長は高声に命じた。
「女は苦しからず。急ぎ罷りいでよ」それまで傍についていた女房衆は、死を覚悟していたが、信長に挨拶をした。
「ながのお暇申しあげまする」女房たちは涙に頼をぬらしつつ、立ち去った。
信長は生き残っていた数人の小姓とともに、殿中の奥ふかく入りこみ、戸口に錠をかけた。明智の軍兵たちは、あとを追い、首級をあげるべきか、しばらくためらったが、功名心にかりたてられ、掛矢で戸を打ち砕いた。
信長は湯殿の流し場で、血と汗に汚れた手と顔を洗い、手拭いで体を拭いているところであった。誰かが放った矢が背に浅く刺さったが、信長は引き抜く。
彼は薙刀を手にしたが、傍の小姓をふりかえっていった。
「今生の縁もこれまでだわ。微塵となりて空へ帰ろうでや」ひとりの小姓が、燃える松明を手にしていた。
傍に石蔵への降り口が、暗くひらいていた。信長は廊下に溢れた鎧武者が、わが首級をあげようとわれがちになだれこんでくるのを見ると、小姓に命じた。
「投げいれよ」松明が、弾薬の充満する石蔵のなかへ投げこまれた。
地鳴りとともに、表御殿が笛に浮きあがり、天地をゆるがす衝迫が、本能寺を取りかこみ、蟻のようにむらがる軍兵たちの聴覚を奪った。
「地震じゃ」惟任勢が立ちすくむなか、黒煙が何本もの巨大な芭蕉の葉のような形に、中空へ伸びてゆく。木片、金屑のまじった土壌を吸った光秀は、馬上で背を曲げ、咳きこんだ。
やがて真紅の火焔が、煙のあいだから長い舌をゆらめかせはじめ、裂けちぎれた多くの屍体の焼ける、妙に食欲をさそうにおいが、濃くひろがってきた。
「煙硝蔵がありしことを、忘れておりしだわなん」光秀は、頭上から降ってくるものを避けようともせず、傍に馬首をそろえる明智秀満に、ひとりごとのように低い声でいった。
「信長はわれらに首級を授けぬままに、消えゆきしでやなも。さても意地りよき仁にてござりました」秀満は、感に堪えないようにいった。
光秀の最期
光秀を助けるために、近習土岐兵太夫、甥の明智兵介、溝尾の息子五右衛門、光秀の姪婿隠岐内勝らが身代りとなり、斬死にをした。
勝竜寺城は東西、南北ともに一町ほどのちいさな平城であるが、幅十間の濠と深田に囲まれた要害である。
本丸矢倉に登ると、城の四方に寄せ手の睾火、松明の光りがゆらめいていた。
光秀の傍に、勝章守城代三宅藤兵衛がきて、声をかけた。
「殿、夜のあけぬうちに坂本へお立ち下され。われらはこれより打って出て、最後の一戦をいたしまする」千人足らずの兵で勝竜寺城を守っていても、夜が明ければ落城は必至である。それよりも暗いうちに打って出て、運がよければ落ちのびようと、考えているのである。
光秀は再挙を拒むことができない。彼のために命を捨てた大勢の家来たちに酬いるため、いま一戦を試みる義務があった。
光秀は、溝尾庄兵衛射ら三十余騎を連れ、子の刻(午前零時)頃、城外へ出た。雨が降ってはやむ翌で、羽柴勢の漂のあいだを巧みにくぐりぬけ、通りすぎ、久我縄手から伏見へむかった。
大亀谷から桃山北方の麓を東南に越え、小乗栖京都市)から勧修寺、大津への道を辿ろうとしたが、小乗栖で、竹薮のあいだから突きだされた槍に、光秀は脇の下をしたたかに貫かれた。
溝尾が大喝した。「これは何者の狼籍をいたすか」溝尾の大喝に、落武者狩りの一揆は逃げ散った。
光秀はかろうじて三町ほど馬上で痛みをこらえていたが、ついに下馬して溝尾に後事を托した。苦痛が激しく、自害を望んだので、溝尾が介錯することにした。
光秀はかねてより辞世を記しておいた紙片を、鐘の引きあわせからとり貯し、溝尾に渡した。
「逆順無二門、大道徹心源、五十五年夢、覚来帰一元」進士件左衛門、比田帯刀らの家来が、光秀とともに切腹した。 
■下天は夢か 

 

若き信長は宿老たちの合戦談議を熱心に聴き戦い覚えこんでいた
「御大将、大勝利だぎゃ。追うところだわ、ここは」昂奮した物頭たちが、眼をいからせ猛りたつが、信長はおしとどめた。
「使い番、退貝じゃ」信長の命に応じ、法螺貝が大、小1小、大、小、小と鳴り渡った。
退陣の手際も、あざやかであった。全軍の半隊が槍を伏せ、折り敷いて敵の追撃に備え、残りの半隊が退き、半町歩んで折り敷く。つづいて遅れた半隊が立って一町を退く。
半隊ずつ交互に繰り引いてゆく退陣は、敵の追撃を許さない迅速なものであった。
馬匹をつないだ場所に全軍を戻すと、信長は土を捲いて駆け去った。一里ほど疾駆して海際の山中に足をとどめる。
「ここで夜を明かすのじゃ」信長の読みはあたった。
まもなく追撃してきた敵勢が、山麓を怒涛のように通りすぎていった。
三州幡豆の山中に野営した信長勢は、夜明けまえに帰途についた。
細作を先に働かせ、敵状をあらかじめつかんだうえで、信長は全軍を先手、旗本、小荷駄備え、後陣備えと四陣に編成し、疾駆して那古野域へ向った。
四陣の兵は左手、右手、中手と三手に分たれ、いつどの方角から敵に襲われても、機敏に応戦しうる隊形をととのえていた。
平手政秀は、軍書の講述をうけるのを嫌い、石合戦、竹槍あわせなど、荒びた遊びをことのほか好む信長が、いつのまに大将としての武役を、こころえたのであろうとおどろくばかりであった。
彼は信長が日頃から、宿老たちの合戦談議を熱心に聴き、信秀が出陣まえと、合戦ののちに古渡城でひらく評定の座に、姿をあらわすのを知っていた。
だが、黙然と一隅にひかえているだけで、たまに信秀に意見を聞かれても、心きいた受け答えもしない信長が、大人たちの語りあう軍議を綿密に分析、岨噛し、戦いの段取りをひそかに覚えこんでいるとは、思いもしなかった。
信長は、学問と名のつくことはいっさい嫌いであった。うつけ殿と家来、町人どもにかげぐちをきかれるほど、行儀作法をわきまえず、小姓、近習にも乱暴者をそろえ、日がな子童を狩りあつめ、竹槍合戦、印地打ちなど、血を見るほどの荒んだ遊戯を好む。
政秀は、信長に鋭敏な洞察力がそなわっているのを知っていた。信長は家来の心の動きを察知する能力が、子供とは思えないほどするどい。
彼は自分を軽蔑し、嫌っている相手を正確に見分け、執念ぶかくいじめるのである。
「やはりお血筋じゃ、若さまはうつけどころか、なみはずれて、するどき頭を持ってござる。しかし、惜しいことには意地がわるく、家来に慕われぬ。それにご学問ができぬのが痛手じゃ」政秀は息子たちに愚痴をいっていた。 
斉藤道三との堂々とした対面
「こたびはお舅さまには、尾張においで召され、はじめてご拝顔をかたじけのうし、おうるわしきみ気色のほど、祝着至極と存じまする」「うむ、今日のよき日和がように、聟殿の水際立ったるいでたちをば、はじめて眼のあたりにして、縁組みいたせしは誤りならずと、道三このうえものう、うれしゅう存ずる。まずはごゆるりとおくつろぎあれ。盃事などいたそうではないか」堀田道空が指図して、酒肴の膳がはこばれる。
ふだんは物事の順序をはぶき、性急な談議を好む信長が、道三の話しぶりにあわせ、おとなしくあいづちをうつさまは、林通勝ら織田の宿老の眼にも、ひとが変わったかのように思えるほどであった。
「聟殿には、六匁筒をいかほどお持ちかな」「きよう、およそ二百挺がほどでござりまする」道三は、信長の応答を開き、眉の辺りにかげりをみせた。
南蛮渡来のあたらしい武器の、数をそろえた信長に、圧迫されるものを感じたからである。
「鉄砲は弾丸込めに暇がかかり、合戦にはさほど役立つまいが。大枚をついやして二百抵もそろえられしは、なにゆえかのう」道三は盃を手にしつつ、信長をけなし、狼狽させてやろうと、毒のこもった話しぶりであった。
信長はいっこうに、道三の悪意を感じないふうをよそおう。
「さよう、仰せらるるごとく、鉄砲は値も高きうえに、一挺では埋伏しての狙い撃ちほどのことにしか役立たず。しかし数をそろえなば、使いようにてなかなかに戦の用に立つものでごぎりまするに」道三は胸のうちで、さもあろうとうなずく思いであった。
彼のみならず合戦の年功を経た武将は、鉄砲というあたらしい飛び道具を、毛嫌いしていた。
「あれは弱き武者の使うものじゃ。音ばかり大きゅうて、なにほどの働きもない」「馬を走らせなば、弾丸込めする間に踏みにじれよう。また弓矢のほうが勝負は早かろう」鉄砲の効能を否む声はたかいが、信長のいうように数をそろえれば、恐るべき戦力となるにもがいなかろうと、道三は思った。 
吉野とは一心同体であった
「吉野はおもしろき女子だのん」「なにゆえにござりまするか」「いつにかわらず、酒をこころゆくまで呑めと、すすめおるだわ」歯を見せる信長に、吉野はなにげない風情で応じる。
「呑みたきものを呑めば、よいのでござりまするに。欲するままに呑んでお寝みあそばいて、身に毒になろうはずはござりませぬわなも」信長はおちつきはらっている吉野に、そういわれると、気分がなごやかになる。
吉野は信長の気質、嗜好をすべてこころえていた。彼女は信長に惚れこんでいるので、努力することなく、恋人の性格に同化している。
つまり、二人は一心同体であるといえた。
信長が熟睡できるのは、吉野と閏をともにした夜だけであった。
彼は生駒屋敷に泊ると、翌日の陽が中天にのぼるまで、ひたすら熟睡をむさぼることもめずらしくはなかった。体内に溜った疲労が、泥のように溶けて流れ出ていったのがわかる。こころよいめぎめのときを迎えるまで、吉野は信長を寝かせておいた。
奇妙、茶筅の二人の男児と、生れてまだ一年にならない徳姫を、信長とのあいだにもうけた吉野は、いまでは彼をがんさい(いたずら)息子のように見ることができた。
「あなたさま、ききほど兄さまより聞き及びしに、駿河の治部大輔が間者ども御領内へ入りこみ、ご難を加うるやも知れずと、肝を寒ういたしおりまするほどに、これよりのちお外出の折りには、かならずお供のご人数を多数ご用意あすばされて、ちょーだいあすわせ」信長は酒をふくみつつ、吉野をながしめに見た。
「戦ごとは、女性の口出しいたすところにあらず。さようなることは申すでないぞ」吉野は黙らなかった。
「間者風情に命をとられては、犬死にと申すものでございまするに」信長は、険しい眼になった。
信長は彼の死を口にした青野に、心を刺された。疑心が黒雲のように湧きあがってくる。
「吉野は、傾が死ぬのを待っておるのかのん」信長の薄い上唇が、内心の不興を示しひんまがった。
青野は表情を変えた。
「なにを申されまする。富野があなたさまより後に残って、なにを楽しみに生きられまするかも。あなたさまがお果てになったるときは、私も死にまするものを、なんでさようなことを勘考いたしましょうぞ」信長は吉野のはげしい口調に、気勢を挫かれた。
―この女子は、いつわりを申してはおらぬだわ−吉野の上気したあでやかな顔を見つめる信長の心中に、感動がひろがる。 
村抜けを防ぐために徳政を行う
野山に霞たなびき、桜が景色にはなやかないろどりをそえる頃、信長は領内諸郡に地子銭、段銭の諸税を半減する、徳政の高札を立てさせた。
各地頭にも同じ璧息の触れ書きをまわす。徳政をおこなう理由は、永禄このかた合戦がつづき、在郷諸村に命じる軍役、陣夫役もたび重なり、男手すくなく田畑の荒廃がはなはだしいためであった。
諸村の疲弊は、信長の治世になっていやまさるばかりである。郷中の勇士はいうにおよばず、百姓衆の屈強な若者たちが陣夫として狩りだされ、落命して帰ってこない。
種播きの季節がきても、男手がなければ耕作もで.きぬままに、老人、女子供は故郷を捨て、村抜けして流浪の旅に出た。
信長が今川勢との存亡を賭けた一戦をまえに、戦費の窮迫にもかかわらず徳政をおこなったのは、領民の村抜けが跡を絶たず、しだいにはげしくなってきたからであった。 
今川の大軍へ死を決して戦う
宿老筆頭の林通勝が、それまでくりかえし唱えつづけている戦法を、渋りつつ口にした。
「敵は三万、味方はわずかに三千を揃うるが精かぎりなれば、平場にてのご合戦には打つ手もござりませぬ。ただ、要害として知られしこの清洲にたてこもり、戦をひきうけ相戦うよりほかの策はなしと、存じまする」信長は林の申し出を一蹴した。
「そのほうが戦策は、大軍勢を小勢にてひきうくるに、寵城がよしといたす、世間の者十人が十人ともに思いつくごとき、何のかわりばえもなきものだわ。さような戦をいたさば、敵は思い通りの布石をば生かしてくるだわ。いまは今川治部が思いのほかの手をうつときだでや」信長は評定の場に居流れる侍大将どもを見渡した。
信長の内部で、なにかが砕け散った。
−債は明日は死ぬ。されば思うがままに戦うてやらあず−窮地に追いつめられた信長の脳中から忽然と恐怖が失せ、闘争本能が燃えあがった。
彼は幕下諸将を睨めまわし、いいはなった。
「いにしえより英雄といわるる者の興亡は、たんだひとつ、機を得るやいなやにかかっておったのだぎゃ。城をたのんで戦機を失い、生死の関頭に及び生命を全うせんとするごとき者は、すべて自滅せぎるはなし。父上のご遺誡には、他国より攻め来りしとき、寵城いたさば、将は心略し、卒は気変ず。ゆえにかならず国境を越え、野戦に生死を決せよと仰せられておるのだで」
信長は心中に檄するものをおさえかね、円座のうえに仁王立ちとなり、叫ぶように諸将に命じた。
「儂はのう、夜が明けりゃ城を出て今川の狢めを退治いたすでや。儂について参る者は力を早くし大功をいたせ。われに十倍の敵と決戦いたすは、男子の本懐と申すべし。男たるもの、大敵を避け城に隠るるは、恥もきわまりしというべきでや」
林ら宿老たちは、不興げに顔をそむけたが、気鋭の諸将たちは、信長の本心を聞きふるいたった。物頭のひとり岩室長門守が立ちあがり、朋輩に呼びかける。
「このたびわれらが猪武者殿に与して一命を棄てんか。これいわゆる前世の悪因緑と申すものよ。かくなるうえは、われら輩いざともに打ちいでて、死に花を咲かすべし」評定の間に、つわものどもの不敵な笑い声が湧きおこった。
彼らは笑いつつ感きわまり、節くれ立った両の手を顔に押しあて、涙をかくした。評定が果て、小姓、女中が酒肴をはこび、出陣の宴がひらかれた。「今生のおもいでに、わが殿が敦盛の舞いを拝見つかまつりとうござりまする」声に応じ信長は扇子を手に立った。 
長篠合戦で勝頼を騙して誘いこむ
一信盛は長閑に申しいれた。
「私はかねて主人信長に恨みを抱いている。ついては、このたび勝頼公が信長と決戦されるとき、私は戦いの最中に裏切り、織田本陣をついて信長を討ちとるであろう」佐久間信盛は当時、織田家随一の重臣であった。
「甲陽軍艦」では、設楽原出陣のとき、信盛と家康がそれぞれ六千の兵を率いていたとしているが、同列の軍団長といえる地位にいたようである。
信盛摩下の寄騎には、水野信元がいた。家康の外伯父であるが、天正三年十二月二十七日に、武田勝頼への内応の容疑で、信長の命で家康に殺される人物である。
水野信元は信玄存命の頃から、武田家に心を寄せていたようで、三方ケ原合戦のときにも、織田家援軍として戦場に向ったが、到着が遅れ、内通の噂が立ったことがある。
佐久間信盛も織田信秀以来の老臣として、とかくさしでロをききたがり、信長に疎まれている。
信盛には謀叛のきぎしはないが、信長は勝頼をだますには格好の人物であると、考えたのではあるまいか。
信盛を用いての謀略が、真実であったか否かは分らない。信長と首脳の将領たちが秘密のうちに運んだことである。
ただ、信長は決戦のまえに断言していた。
「四郎はきっと、ひとすじに押してくるだでや」武田勢が設楽原に攻め寄せてくるとの確信を、信長は何によって得たのか。
信盛ではなくとも、有力な織田軍団の部将が、戦いのさなかに寝返りをうつと勝頼をだましていた事実が、あったにちがいないと思われる。
(私は設楽原をおとずれたとき、戦場となった地域の、想像をうわまわる狭隘な窪地であるのにおどろかされた。現在は当時よりいくらか平坦になっているといわれるが、それでもいたるところに小丘あり段差あり、とても騎馬軍団が疾駆できるような地形ではない。そのような場所へ、武田勢が突撃してゆくのは、正気の沙汰とは思えない。勝頼は、もっと有利な条件で戦う機会をえらぶことができたのに、なぜ自ら破局に向っていったのか。やはり彼の判断を迷わすだけの誘引を、信長が仕掛けたのであろう) 
天下を用いる信長
信長は、越前平定ののち、伊達輝宗への十月二十五日付の書状で越前、加賀の状況に触れている。
「越賀の凶徒数万を撫で切り、即時平均に属し候。この両国多分に一揆のたぐい、物の数にあらず候といえども、時にあたり天下に対しその禍をなすのあいだ(中略)討ち果し候」文中に、天下の語があらわれている。信長は自ら「天下」の主体になろうとしていた。
天下とは、中国で生れた観念である。天の覆う下、あめがしたという意で、全世界を指す。
日本において、源頼朝以来の武家政権がもちいた天下の語は、天皇の支配圏を意味していることが多い。
中国の「礼記」に「天下を公となす」とあり、「六韜」には、「天下は一人の天下にあらず、すなわち天下(万民)の天下なり」とあるのは、天下の権は私するものではなく、公共のものであるという意である。
信長は天下を禁裏と同義にもちいることもあり、天皇の全領土とその住民の意を托してもちいることもあった。
彼はまた、信長に味方することが天下のためになるという。この場合は、天下と自分が一体で自分が公共を体現していると考えている。
信長は日本全土の戦国大名の領国のうえにあって、それらを統合し、大名のすべてを望むがままに動かせる中央政権を、天下と呼びたかったのである。
「上さまは、ほんにふしぎなお方でいらせられまする」
安土仮御殿で、信長と楽しい日を送っているおなべが、閏のうちでつぶやくことがあった。
「なにがふしぎかのん」黙って天井を睨んでいた信長が聞く。
彼は常に考えにふけっている。たまに好きな小歌のひとふしをくちずさむこともあるが、すぐにやめる。
解決せねばならない問題を、あまりにも多くかか、えこんでいるので、つぎからつぎへと考えごとに熱中せねばならない。
「お傍におりますれば、諸事にお心をおくばりあそばいて、おなさけのほどもひとしお身に沌みまするに、ひとたぴ表の問においであそばさるときは、ご家来衆のおそれはばかるきまは、ただごととも思われませぬ。上さまにはにわかに鬼神の乗りうつるかのごとく見えまするに」信長はみじかい笑い声をたてる。
「人にはそれぞれ世渡りをいたすに、方便をつかわねばならぬものでや。儂が家来どもはもとより、遠方よりおとないし剛の者どもにも、おそれあがめらるるようにいたすは、儂の方便だわ。安土に本城を普請いたすもまた、天下を治めんとする方便だがや」彼には自分の盛運を誇ろうとする気はない。夢幻の生の苦味をかみしめているかのような孤独の余韻が、言外にたゆたっていた。 
贅沢をせず質素な食事をとり、睡眠を惜しみ、懸命の努力をつづける
信長は永禄十一年(一五六八)生野銀山を収め、代官生熊太兵衛に精錬法を研究させた結果、灰吹き法を用い、莫大な金銀を得るようになっていた。
織田の軍勢は、軍装、兵器は新品をそろえ、金銀金具もまばゆいばかりであったといわれていた。軍資金が豊富でなければ、一挺の価格が米十五石といわれた鉄砲を、三千五百挺も装備することはできない。
当時、十万人の兵力を動員できるのは、信長だけであった。十万人の兵摂は、言分で米五百石である。
一カ月では一万五千石。四斗俵にして三万七千五百俵である。馬糧、陣営具、弾薬など、合戦に必要な品をととのえ、兵站能力に万全を期するためには、莫大な財力のうらづけが必要であった。
信長は一代で成りあがった僣上者が、好んで衣食住にあらわす贅沢には、まったく興味を示さなかった。
彼が贅沢をあえてするときは、自らの権威と富力を誇示することによって、他者を慴伏させようと考えているのである。
信長は安土城の本丸に日本の城郭建築に前例のない七層の天主をあげる年来の構想を、実現しようとしていた。
彼は「天下」と呼ぶ中央政権を確立するために、自分の全能カをかたむけようとつとめている。安土の天主は、「天下」の象徴となるのである。
質素な食事をとり、睡眠を惜しみ、常に諸方の反対勢力ヘの対策に心をくだき、懸命の努力をつづける信長を見る側近の男女は、専制君主への畏れよりもつよく、敬愛の念を抱いていた。 
朝廷の権威を超越した政治家としての行動をとっていた
城内各層の座敷に描かれた賢者、儒者、仙人仙女、釈迦、天人、三皇五帝などは、信長が彼らの誰よりもすぐれた、最高の存在であることを、絵を見る者に覚らせるためにえらばれた画題であった。信長は地上最高の神にふさわしい朝ごとの儀式をおこなうため、全国から数首体の神像、仏像を安土城に集めている。
彼はそれらを崇拝するのではなく、それらに自らを崇拝させる儀式を、毎朝欠かさずくりかえしていたのである。
信長とともに起居するおなべは、後が禅仏信仰を人間が心の拠りどころとして求める幻想にすぎないとしながらも、自らをなみの人間ではないと信じはじめているのを知っていた。
信長は自分が宇宙の意志の体現者として、現世に生れてきたのかもしれないという考えを胸中で育てている。
「なべ、儂は近々に官位を辞するでや」「それはなにゆえにござりまするか。ご真意のほど、なべにお洩らしあすばされてちょ−でいあすわせ」四十五歳の春をむかえても白髪もなく、沈んだ白督の肌に張りを失わない信長は、宙に鷹のような眼差しをすえ、つぶやく。
「儂はこののち五、六年も経つうちには、万国安寧、四海平均をいたすだで。さすれば、海のそとはたらき場所を求めねばならず。さようなる世になれば、儂にはこれまでがようなる位階は似あうまいでや」おなべは信長の言葉に気がたかぶり、鳥肌が立った。
「上さまは、まことに人にてはおられませぬ。智恵の泉というもおろか、私には生き神さまとしか見えませぬ」信長はすでに、朝廷の権威を超越した政治家としての行動をとっていた。
彼は天正三年十一月、権大納言になってのち、公家、寺社に所領を給付するとき、相手の格式によって、「進覧」「進献」「進之」「宛行」などの語句を用いている。
それらはすべて、信長が「新地」として与えたもので、書状に天下布武の朱印が捺された。
新地は石高で表示されており、直接支配を命じているところから、荘園制にかわる近世知行制度がとられたと見てよい。
信長は、輿福寺別当職の補任のような天皇の権限にかかる事例にも、決定権を持とうとしていた。
彼は朝廷の経済と政治を、「天下」政権によって掌握しようとした。 
重臣らへの処断
信長折檻状に記されている彼の落ち度としては、とくにとりあげるほどのものはない。信長が気にさわっているほどには、客観的に失策といえるような事例はなかった。
叱責の主な理由は、五年間石山を攻囲しながら、これというはたらきがなかったということであるが、信長が本願寺攻略の方針としたのは、カ攻めを避け、包囲をもっぱらとする長期作戦である。
五十余の支城を設け、諸国門徒の応援をうけている石山本山は、織田勢が全力をあげ攻めかかっても、こゆるぎもしない態勢をととのえていた。
拙速策をとれば、敗北するばかりであったため、信長は石山を包囲しつつ、本願寺に協力する敵を各個に撃破していったのである。
本願寺が屈服すると、信長がその間の事情を忘れたかのように、信盛の無能を責め、家中最長老の地位を奪い、知行貯えのことごとくを召しあげたのは、苛酷の処断といわざるをえない。
信盛と息子の甚九郎正勝は、天王寺砦において信長の使者から覚書をうけとると、とるものもとりあえず、高野山へ向った。ぐずついていると殺されかねない。
信盛は夢斉定盛、正勝は不千斎定栄と号し、剃髪して高野山に住む。父子は金剛峰寺小坂妨に金子八両余と渋紙包み四個をあずけ、賄を頼んだ。
万が一のときは常灯、卵塔内の石灯などの建立を依頼しているのもあわれである。
「信長公記」によれば、信盛父子はやがて高野山をも逐われた。
「ここにもかなうべからざる御諚について、高野を立ちいで、紀州熊野の奥、足に任せて遂電なり。しかるあいだ、譜代の下人に見捨てられ、かちはだしにておのれと草履をとるばかりにて、見る目も哀れなる有様なり」
信盛父子を追放したのち、八月十七日に京都へ戻った信長は、家老の林通勝と重臣安東伊賀守父子らの知行を召しあげ、追放した。
信長があげた通勝の罪科は、二十五年前の弘治二年(妄五六)、柴田勝家とともに信長の弟勘十郎信行を織田家の後継者にかついだ罪であった。
通勝はそののち信長に忠誠をつくしている。彼の息子林光時は、「槍林」の異名をもつ勇士であった。
信長は光時の勇猛を愛し、家中随一の勇者をさだめる投票をおこなったとき、光時を中傷する票が七つあったのを、すべて無効としたほどである。
光時は天正元年(妄七三)九月、信長が伊勢長島一向一揆を攻め敗北したとき、殿軍として奮戦し討死にした。
信長は、林一族のそのような功績を無視し通勝にいい渡した。
「そのほう、弘治年中譜代の家老に似あわぎる悪逆謀叛の条、糾明のうえは一命を取るが本意なれども、先年のいきさつあれば助けてとらすでや」通勝が二十五年前、信長を謀殺しようとした弟美作守のたくらみに同調しなかったため、命だけは助けてやるというのである。通勝とともに信行をおしたてた柴田勝家に、何の答めもないのは、ふしぎな裁量であった。 
朝廷の特権・歴の改正をいいだす
朝延には、旧制度を徹底して破壊してゆく信長に対する、不安感がわだかまっている。仏教から現世の権力を剥奪した荒技への反感もある。
しかし、現在の信長の意向に、反対できる公家はいなかった。
信長が将軍任官を拒むのは、朝廷の官職からはなれ、あらたな権力機構をうちたてるためかも知れなかったが、それは家来たちの想像の域をこえていた。
信長は勅使側のつよい要請によって、六日に女官たちと面会したが、任官を受ける意志表示はしなかった。
彼は夕刻に及び、琵琶湖に三根の大船を出し、勅使を接待させて、そのまま大津へ送らせた。酒肴の膳部をまえに、湖上の涼風に吹かれる勧修寺晴豊の胸に、信長への恐れがわだかまっている。
信長はその年の二月、暦の改正をいいだしていた。
暦は天子が制定するというのが、中国古来の思想である。日本でも古代から朝廷に陰陽寮を置き、陰陽頭が作暦をおこなってきた。
当時の陰陽頭には土御門家が世襲で任命され、全国の陰陽師を従えていた。
同家のこしらえる京暦は、諸地方の暦の基準となっているが、天正年間には地方によって、京暦と異なる暦も多かった。
信長が京暦にかわらせようとしたのが、尾張美濃で用いられている三島暦であった。
三島暦は相模、下総から信濃東北部、越後にひろく用いられている。上杉景勝、真田昌幸、北条氏直らが、三島暦を使っていた。
京暦が宣明暦を基本とするのとは、別の暦法に拠ったものであろうが、三島暦には、天正十年十二月に閏月があった。
京暦によれば、天正十一年一月に閏月を置くことになる。
久備は尾濃の暦師賀茂在政と対決させられた。
信長は久備に命じた。
「京暦を尾張の暦にあわせて、閏十二月を立つるがよからあず」京都へ戻った久備の報告を開いた朝廷諸官は、騒然となった。
天子が国の制度として定める暦の内容を、信長が変更するのは、大問題であった。朝廷の権威がこの一事で揺らぎかねない。
三月に入って信長が信濃、甲斐へ出陣したため、暦の論議は中断きれているが、信長はかならずこの件をふたたび実現しようとするにちがいなかった。
天下を統一するためには、暦の統一をかならず実現せねばならない。だが信長が自ら暦の制定者になるのは、天皇の権威をないがしろにする行為といえた。
朝廷では、信長が将軍職を拝任しなければ、大政大臣、関白のいずれかに推す用意をもととのえていた。
天正十年二月二日に大政大臣に補任された近衛前久は、わずか三カ月の在任ののち、このとき辞官していた。信長のために席を空けたのである。だが信長は、ついに官職に就く意志をあらわさなかった。
彼は勅使が安土を去ったのち、おなべの方にみじかい感懐を洩らした。「いまとなりては、遅きに過ぐるだわ。もはや位などは望まぬ。儂はのん、いまは何びとも思い及ばざることを、勘考いたしおるのだで」「それは、いかなることにござりまするか」おなべはたずねたが、信長は口辺にかすかな笑まいのかげを浮かべたのみであった。 
秀光叛逆をそそのかしたのは足利義昭かもしれない
また明敏な信長は、それほどまでに光秀を追いつめておれば、当然彼の窮余の反撃があるかも知れないと、警戒するであろう。
光秀に信長襲撃をそそのかしていたのは、備後の鞍の浦に亡命していた足利義昭であったかも知れない。
本能寺の変の当日、光秀は信長父子を討ちとめたのち、備中高松で羽柴勢と対峠している小早川隆景に、つぎの密書を送った。
「急度、飛檄をもって言上せしめ候。こんど羽柴筑前守秀吉こと、備中において乱妨を企て候条、将軍御旗を出され、三家御対陣の由、まことに御忠烈の至り、ながく末世に伝うべく候。然らば光秀こと、近年信長に対しいきどおりを抱き、遺恨もだしがたく候。今月二日、本能寺において信長父子を誅し、素懐を達し候。かつは将軍御本意を遂げらるるの条、生前の大慶これに過ぐべからず候。この旨、宜しく御披露に預かるべきものなり。誠憧誠恐。
六月二日
惟佳日向守
小早川左衛門佐殿」
この密書は光秀の使者が、闇夜のため羽柴の陣所を小早川の陣所とまちがえたので、秀吉の手に入ったものであるとされている。
これは後世の偽書ではないといわれるものだが、光秀の決断にあたり、裏面から義昭がはたらきかけていたのではなかろうかと、想像できる文面である。
義昭は京都の公家、町衆と常時交流を保っていた。光秀は丹波を領国としたのちにも、京都に多くの重臣をとどめ、義昭と同様に旧来の勢力と密接な関係をつづけている。
朝廷にとって、天正十年六月初めに予定されている信長の中国、四国親征の途次の上洛は、彼が中央政権を確立するための、名目的地位を表明する機会として、重視すべき時期であった。
信長はこのときに、朝廷から推された征夷大将軍任官につき、奉答する用意をしていたと考えられる。
安土へ下向した勅使に格別の返答をしなかった信長は、上洛に際し自らの意向をあきらかにしなければならない。
勅使が安土に持参した誠仁親王の御消息にも、「よろず御上洛の時申し候べく候」と記されており、信長には奉答の必要があった。
彼がいかなる名目を欲していたかは知るすべもないが、天下を体現する自らの地位をどのように位置づけるかの、重大な意志表示である。
朝廷は、彼の返答がどのようなものかと、危催の念を抱きつつ待っていたにちがいない。
信長はすでに、暦統一の件で朝廷を凌ぐ権力をめざそうとする意向をあらわしていた。
朝廷と、京都の永遠の繁栄を期待する町衆にとって、信長は不要であるのみか、危険な存在となっていた。
公家と町衆には、先祖代々幾多の戦乱に堪えぬき、京都で生きてきたながい伝統がある。
「信長は、四囲、中国を平らげたのちは、城を安土から大坂へ移しょりますやろ」「その先は、どこへいきよるやろか。しまいには唐、天竺へ城を持ちよるやら分らん」彼らはひそかに、このような言葉をかわし、信長を危険人物と見るようになっていたであろう。
「いまのうちに、信長を退治するのが上分別というものどす」「どうやって退治するのやろ」「日向守はんをけしかけるのや。そうおしやす」彼らは自分では動かない。
義昭のような人物を語らい、光秀をそそのかさせるのである。
光秀はこののち衰運に向うであろう立場にいる。彼が思いきって叛逆し、信長を倒せば、朝廷、京都町衆はもとより、寺社勢力、信長に淘汰され、あるいは人材登用の恩恵に浴さず閑却されている地侍勢力が、こぞって味方につくとささやきかけるのがよい。 
■石田三成 

 

主人の給与は家臣のために使い果たす
三成はもともと、「主人からいただく給与を残すのは不忠者だ。全部使い果たさなければならない。それも、いい家臣を養うために使うのが最もいい。自分の暮らしなど、贅沢をすべきではない」と言っていた。
だから、彼の拠点である佐和山城の構築も、いたって粗末なものだった。
関ケ原の大勝後、東軍の大名たちは先を争って佐和山城へ押し寄せた。城を落としそ中に侵入した。
「石田三成はまがりなりにも、豊臣政権の五奉行の一人だった。さぞかし財宝を準えそいることだろう」そう思い、城を落とした後は、部下たちにその財宝を配分しようと考えたのである。
ところが、城に踏み込んでみると、何もなかった。ないどころではない。諸大名たちは呆れた。三成の城内は、彼の住んだ本丸にしても床は板張りであり、それも粗末な材木が使われていた。徹底的に漁ったが、何もない。大名たちは顔を見合わせた。
「奴がふだん言っていたことは本当なのだ」つまり、「主人からもらった給与を倹約して、自分のためにため込むようなのは武士の風上にも置けない。いただいた給与は、全部主人のために使い果たすべきだ」ということを、三成は本当に実行していたのである。 
朝鮮出兵での反感が関ヶ原敗因の遠因
この朝鮮出兵で石出三成が担当した仕事は、
基地としての名護屋城の築造
渡鮮する大名軍の渡海業務(そのために、披は秀吉から命ぜられた十二名の船奉行の筆頭を務めた)
諸武士、武器弾薬などの調達
在鮮軍の監督奉行(これは、大谷吉継、増田長盛と連名で命ぜられた)
京城で諸将を招集し、今後の軍略の評議
明の講話使節との交渉
などであった。しかし、文官である披は、武官連中と意見が合わず、現地ではしばしばトラブルを起こした。特に豊臣系の大名たちの恨みを買った。豊山系の大名たちは、「石田三成は、ろくに戦争のことを知らないくせに、われわれにいちいち文句をつけたり、あるいはわれわれが行った業績を故意に歪めて、太閤殿下に報告した」特に加藤清正は、「立てた手柄を全く無視し、蔚山の苦戦を誇大に報告し、いかにも自分が怠け者であり、作戦下手であったと報告した」と怒った。これに福鳥正則や黒田長政、あるいは細川忠興などが加わって、「反石川三成連合」をつくった。この朝鮮戦線における意見の相違は、結局は開ケ原合戦の特にこれら豊臣系の大名たちが、すべて徳川家康に味方する遠因になる。 
秀吉に欺き政治路線を信長公の復活の野望をもった
石田三戌は、はじめて野望を持った。それは、「秀吉にもし何かあった後は、秀頼公を擁して、織田信長公の志を継承して実現したい」ということであった。つまり、豊臣政権の継続性は願うが、しかし政治路線としては、「秀吉のそれではなく、信長のそれを復活させる」ということである。
石田三成は自ら言い出して、「秀頼公への忠節の誓い」ということを、しきりに口にするようになった。同志を語らって、誓紙を出した。そして、全大名にも、これを強要した。徳川家康は、「石田、いったい何をはじめる気だ?」と眉を寄せた。しかし、この一連の行動に豊臣秀吉は気をよくした。
「佐吉の奴は、もう一度心を改めて、俺に犬のような忠誠心を発揮してくれる。可愛い奴だ」と一時期の誤解とわだかまりを捨てて、三成にほとんどのことを託すようになった。まさかその三成が、自分の政治路線を放棄して、死んだ織田信長のそれを復活させようと思っているなどとは、微塵も考えなかった。
もう一つ、三成が心を決めたことがある。それは、「この世の真実を、自分の手で掘り起こそう」ということである。この世の真実を掘り起こそうということは、三成から見て、
いまの世の中は、嘘で固められている。
その嘘が事実や真実として通用し、罷り通っている。
しかもその嘘を、事実や真実として世の中に伝えているのは、豊臣秀吉をはじめ徳川家康などの、野望のある大名だ。ということだ。 
天下で実現しようとした3つの目的
「しかし、いまの石田三成には、不思議に悔いはなかった。それは披が、この天下で実現しょうとした三つの目的、すなわち、
豊臣秀頼公を戴いて、織田信長公の政治路線を引き継ごうとしたこと。
徳川家康をはじめとする、嘘つきどもが練り固めたこの世の中を復し、もっと真実味のある社会を建設しようとしたこと。
そういう世の中が来たら、その時こそ、本当に石田三成の本領が発揮できたであろうこと。
この三つの目的に対し、たとえ敗れたりとはいえ、石田二議は全力を出し尽くしたからだ。おそらく、その気持ちを本当にわかってくれたのは親友の大谷吉継だけだったに違いない。大谷吉継も苦労人だ。だからこそ、彼もはじめは徳川家康に味方しようとしたのに、気持ちを翻して三成に味方してくれたのだ。
しかし、真実は常に虚偽に敗れる。本当のことよりも、嘘のほうが強い。それが現実だ。そのことをはっきり認識しただけでも、石田三成はこの企てを実際に行ったことを悔いてはいなかった。
三成たちが斬られたのは六条河原の刑場である。三成、行長、恵竣の首は、先に自殺していた長束正家の首と共に、三条大橋のたもとに晒された。三成はこの時、四十一歳であった。三成の遺体は、三成と親しかった大徳寺の円鑑国師が引き取った。そして、同寺の三玄院に懇ろに葬られた。 
 
上杉謙信

 

大義には哭くが小義には哭かない、理想へは独往邁進
由来、謙信は多感な質である。激しやすく感じやすい。二十歳ごろまでは、まま女のごとく泣くことすらあった。その前後には、多感なるばかりでなく、多情の面も性格に見られたが、翻然、禅に入って心鍛をこころざしてから一変した傾きがある。といっても多情多感な性は、もとより持って生れたもの、禅によってそれが血液から失くなるはずはないが、その強烈を挙げて、将来の大志へ打ちこめて来たのである。大義には哭くが、小義には哭かない。怒れば国の大事か武門の名かで、平常は至極無口になった。たいがいなことは、切れ長な瞼の辺で笑っている。ちと、壮年者には似あわないがそういう風格に変じて来た。
そのかわり理想とするところへは独往邁進、着々と無言で進んでいる巨歩のあとが窺える。そのもっとも偉なのは、上洛朝拝の臣礼を、彼のみは怠らずにいることである。
京都と越後との距離は、小田原の北条より、甲斐の信玄より、また駿府の今川家よりも、どこよりも遠かった。けれど信玄も義元も氏康も、各と自国の攻防と一身に気をとられて、まだその挙のないうちから、謙信は、天文二十二年のまだ弱冠のころに逸はやく上京し、時の将軍義輝を介して、朝廷に拝し、天盃を賜わり、種々の献上物を尊覧に入れなどして、臣謙信の把る弓矢の意義を世に明らかにしていた。
つづいて、おととし永禄二年にも上洛した。度々の彼の忠誠に、朝廷におかれても、御感悦はいうまでもなかったが、関白の近衝前嗣などは、ひそかに彼のために.案じて、(遠隔の地、こうお留守になされては、御本国の領も、さだめしお心もとないことでしょう。あとの御守備はだいじょうぷなのですか)と、訊ねたことがある。
すると、謙信は、(ほかならぬための上洛。領土のことなど、一向に捨て置いてもかまいません)と、答えた。 
「上杉陣」「武田陣」
戦争とは、結局、人の力と力との高度なあらわれである。古今、いつの時代であろうと、その行動の基点から帰速まで人の力にあることに変りはない。政略、用兵、経済、器能の働きはもちろん、自然の山川原野を駆使し、月自烈日の光線を味方とし、暗夜暁闇の利を工夫し、雲の去来、風の方角、寒暑湿乾の気温気象にいたるまでのあらゆる万象を動員してそれに機動を与え、生命を吹き込み、そして「我が陣」となす中心のものは人間である、人間の力でしかない。
また、箇々のものも、他に求められるまでもなく、各々磨かなければ、時代の戦国を生きぬいては行かれない。
どしどし踏みつぶされ、落伍してゆく。
惜しまれるものの生命すら、顧みられず、また、顧みる混もなく、先へうごいて行く世だった。惜しまれもせぬものの生命などは、何ともしない。
わけていま、永禄四年ごろは、後の天正、慶長などの時代よりは、もっともっと人間が骨太だった。荒胆だった、生命を素裸にあらわしていた。
越後衆も甲府衆も負けず劣らず、そうであった。
対立して称ぶところの「上杉陣」「武田陣」というその「陣」なるものは、そうした人の力のかたまりであった。平常の心の修養と肉体の鍛錬をここに結集して、敵味方に不公平なき天地気象の下に立ち、「いで!」とたがいの目的、信念をここに賭し、ここに試そうとするものである。
従って、その集結、その「陣」を構成している簡々の素質の如何によって、陣全体の性格と強勒かまた脆弱かのけじめが決まる。
いま、千曲川をへだてて、雨宮の渡しにある武田の陣と、妻女山の上にある上杉陣とを、そうした観点から見くらべたところでは、いずれが強靭、いずれが脆弱とも思われなかった。どっちの陣営も、その旗の下にある宿将、謀将、部将、士卒まで、実に多士済々といってよい。
名君のもとに名臣あり、ということばから推せば、その偉さは、やはり主将の信玄にあり、謙信にあるのかもしれない。
越後の名臣と、世間から定評あるものは、宇佐美、柿崎、直江、甘糟だといわれているし、甲州の四臣として有名なものには、馬場、内藤、小畑、高坂がある。
また、過ぐる年の原之町の合戦では、単騎、上杉勢の中へ奮迅して来て、二十三人の敵を槍にかけ、槍弾正という名を詣われた保科弾正や、それに劣らない武功をたてて鬼弾正とならび称された真田弾正のような勇士も、その部下にはたくさんいた。
槍弾正も、鬼弾正も、甲州方の勇士であるが、上杉勢の下にも、武勇にかけてなら、彼に負けを取らないほどな者は、無数といっていいほどいる。
謙信が、人いちばん目をかけていた山本帯刀などは、阿修羅とさえ称ばれた者であった。いつの戦いでも、退け鉦が鳴って味方が退き出しても、いちばん最後でなければ敵中から帰って来なかった。そしてその帰ってくる婆はいつも兜のいただきから草鞋の緒まで朱に染まっていた。また、どんな大将首を獲っても、腰につけて持って帰ることはしなかった。 
第4次川中島の先手をうった謙信
これは余談だし、ずっと後の事でもあるが、繊田信長が桶狭間で義元の中軍へ突撃したときでも、その宮中に斬り入るまでは義元の居どころは的確に知れなかったのである。あなたこなた姿をさがすうちに、溜塗の美々しい輿があったので、初めて、ここと信念され、信長の部下たちは一層男気づいて功を競い合ったというほどである。
そのほかにも、人いちばん要心ぶかい信玄には、八人の影武者があったなどともいい伝えがあるが、それまでにはどうあろうか。しかし、家康や信長などの陣中生活を見ても、本陣には名代を置いて、自分はひそかに前線の先手に立ち交じって直接に下知をしていたというような例はいくらもあるから、信玄にしても、常備八人の影武者はどうか分らないが、名代を用いた場合などは屡々とあったものと観て大過はなかろうと思う。
それとまた「車掛り」の陣形そのものの効果にも疑問説がある。けれど山鹿素行の兵書によると、
車ガカリハ敵方ノ備エ立テ三段四段ナルニ用ウレバ功大ナリ。コレハ小事トハ臼ウ。サレド大事二用イ、敵備エ十段十一段トナリテハ利アラズ。
とあるのを考え合せると、輪形陣の価値は十分認めているが、相手の備え如何によることを強調している。この説に反対して、車掛りを否定している論者には、同時代の萩生徂徠などがある。徂徠は、武田方のこの時の陣形はいわゆる魚鱗十二段の重厚な構えであるから、謙信が車掛りを用いるわけはないというような点を強弁している。
けれど、陣形というものは、常に変化をふくんでいるもので、虚即実であり、正即奇である。いつでも早速に相変化転するのが陣形の本質で、鶴翼でも蛇形でも鳥雲の陣でも、そのままに固執したりするのでは、死陣であって活陣ではない。
−車掛り!と、信玄が直感したせつなに、信玄が、原隼人正へ向って疾く疾くと味方の諸部隊へ伝令を急がせたのは、いうまでもなくそれに対する「変」を直ちに命じたのである。
しかもこの場合、いささか信玄の面にも慌て気味のあらわれたわけは、この瞬間まで、彼は自分が、(越後勢の機先を衝いている)と、信念していたものだった。妻女山へ奇襲攻撃隊を向けていることといい、ここに陣取って、それに依る敵の崩れを待ちぶせている要筆陣といい、すべて先手を取ってさしている将棋として局面を観ていたのである。
ところが.その立場は逆転して来た。
謙信はすでに、迷いなく、ここへ邁進して来つつあるのに信玄は、事態の直前に、味方の布陣を更えなければならないという必要に−つまり後手に立たされてしまったのである。
若輩謙信に、いやしくも用兵の神智と技術において、この一手を見事出鼻にさし込まれた信玄としては、その老練な分別や、最後の必勝を信念しても、人間的に、「小さかしき謙信の振舞」と、感情を怒らせずにはいられなかった。その分なら目にもの見せてくれるぞ−との覇気に満々たらざるを得なかったのである。 
信玄との一騎打ち
何か、附近で、異様な大声がしたので、ひとしく、そこに在った顛が、うしろを振向いた払き、「信玄っ、そこかっ」と、巨大な猛獣に踏み股がった巨大な人間のすがたが、ふたつの昨では見きれないほど、すぐ前に大きく見えた。
−あっ.謙信。ここにいた者は直感したにちがいない。帷幕のうちではあり、君側まぢかにいた人々はみな檜とか長巻とかの武器は持っていなかった。また一時に、「すわ」と、狼狽した味方同士のあいだでは、太刀を引抜く間隔さえお互いに保ち得なかったので、「おのれッ」ひとりの法師武者は、そこにあった床几を遠く投げつけた。
中ったか、中らないか、床几の行方も知れない。ただ雨の如く杉の柴がこぼれ落ちた。その巨杉の横枝へ、馬上の謙信のすがたは支えられたかと思われたが、届身、一躍すると、もう混雑の人々の中へ放生月毛の脚は踏みこんでいた。
「くわッ」と、響きがした。謙信のロから発した声か、挺下ろした小豆長光の肯か、せつなに、一人の法師武者は、彼の切ッ先からよろよろと後ろに什れ、陣幕の紐を断って仰向けに転がった。
しかし、それは、信玄ではない。−信玄は、身を避けて、あだかも薮の中へ胴を潜めた猛虎のように、双の眼をひからせて、謙信のすがたを見ていた。
いや、その時が、それを見るというまもなかったほどである。謙信は、右覗きに、一太刀伸ばした体を左転して信玄のほうへ向けるや杏、ふたたび、「かっッ」と、さけんだ。
正しく、こんどのものは、謙信の腹の底から出た声である。信玄は突嗟、右手の軍配団扇を伸ばし、わずかに面を左の肩へ沈めた。
しびれた手から軍配団扇を捨てた。そして大鳳が起つように身の位置を変え、太刀のつかへ手をかけたとき、謙信の二太刀目が、彼の転じたあとの空間を斬った。
その、せつなであった。御小人頭の原大隅は、彼方に落ちていた青貝柄の槍を拾って、「うわうっ」と、噛みつくような声を放って駆けて来たが、主君信玄の危機、間一髪に、その槍で、馬上の敵を突き上げた。
謙信は、見向きもせず、「横山、卑怯なるぞ」と、三太刀めを振りかぶりながら、馬ぐるみ、信玄の上に確りかかろうとしていた。
右の腕に負傷した信玄が、その肘を抱えたまま、身を翻して、後ろを見せかけたからである。
その後ろ肩を臨んで、小豆長光のひかりが一閃を描いたが、ほとんど同じ一瞬に、放生月毛は一声いなないて竿立ちに脚を上げてしまった。−余りに気の急いた為、一檜、むなしく突き損じた原大隅が、「ちいッ」と、ばかり反れ檜を持直して、謙信の馬の三射有力まかせに撲りつけた為であった。 
第4次川中島の真の勝利は
そこでこの永禄四年の川中島の大戦というものは、いったい甲越のいずれに真の勝利があったものか、武門はもちろん世上二一般の論議になり、ある者は、謙信の勝ちといい、ある者は信玄の勝利といい、当時からすでに喧しい是々非々が取交わされていたらしい。
太田三楽入道は、戦国の名将として、妙なくも五指か七指のうちには数えられる兵学家の一人であるが、その人の戦評として、次のようなことばが伝えられている。
「川中島の初度の槍(明方より午前中の戦況)においては、正しく十中の八まで、謙信の勝目なりといっても誇張ではない。陣形から観ても、上杉の先鉢はふかく武田勢の三陣四陣までを突きくずしておる。かつてその旗本まで敵の足に踏みこませた例はないと誇っていた信玄の身辺すら、単騎の謙信に踏み込まれたのを見れば、いかに武田軍が一時は危険なる波乱状態に陥入ったか想像に難くない。かつは、有力なる大将たちも、幾人となく、枕をならべて集れ、信玄父子も傷つき、弟の典席信繁までが討死をとげたことは、何といっても惨たる敗滅の一歩てまえまで追いつめられていたことは蔽いようもない事実といわねばならん……けれど、後度の戦(午後より夕方まで)になっては、まったく形勢逆転して、十に七ツまでも、信玄の勝利となったは疑いもない。
この転機は、妻女山隊の新手が上杉軍の息づかれを側面から衝いた瞬間から一変したものであり、上杉方の総敗退を余儀なくされたのは、首将謙信自身、陣の中枢を離れて、一挙に速戦即決を迫らんとしていたのが、ついにその事の半ばに、敵甲軍の盛返すところとなったので、謙信の悲壮窮まる覚悟のほどを思いやれば、彼の遺恨に対して一掬の悲涙なきを得ない。−一しかし、や上のように双方を大観すれば、この一戦は、勝敗なしの相引というのが公平なところであろう」
太田三禁の戦評のほかに、徳川家康が後年駿府にいたとき、元、甲州の士だった横田甚右衝門とか、広瀬共演などという老兵を集めて川中島の評判をなしたことも伝えられている。
家康がいうには、「あの折の一戦は、甲越ともに、興亡浮沈のわかれともなるところだから、軽々しくうごかず大事とったことは、双方とも当然といえるが、それにしても、信玄はちと大事を取過ぎている。謙信が妻女山の危地に拠って、わざと捨身の陣容をとったことに対し、信玄は自分の智恵に智空けの形が見えた。また、九月九日の夜半から暁にかけて、謙信が妻女山を降りて川を捗る半途を討つの計を立てていたら、おそらく越軍の主力は千曲川に漬滅を遂げたにちがいない。それを八幡原に押出して、相手の軍が、平野を踏んでから後を撃つ構えに出たのは、信玄に似あわしからぬ落度である。要するに信玄は、謙信の軍を観て、首将謙信の心事を観ぬくことが少し足らなかった」
なお、兵学蒙の一芸なども、いろいろあるが、総じて、三楽と家康の批評にほぼ尽されている。
ただ、なおここで、現代から観ていいうることは、信玄はあくまで物理的な重厚さと老練な常識を以て臨み、謙信はどこまでも、敵の常識の上に出て、学理や常識は想到し得ない高度な精神をふるい起して、この戦いをこれほどにまで善く戦ったということである。 
謙信の晩年の心境
義清は真っ蒼になっている。聞き澄ますその薄い耳たぶにも血の色はなかった。
「−さるにこの謙信が、何故信玄と長年戦って来たかと申せば、元来、謙信には謙信の信条があってのことです.自分、年二十三にして、初めて、国内平定の業一まず備わり、微勲天聴に達するところとなり、畏くも、叙位任官の便寵を賜う。−微購、遠くに坐ら、またひとたびの朝敷もせず、さきに優渥なる天恩に摸す。勿体なきことの極みと、すなわち翌年、万難を排し、上洛して、闕下に伏し、親しく咫尺を拝し、また天盃を降しおかる。…実に謙信が弓矢把る身に生れた歓びを知ったのはこのときにであった。戦わん、戦わん、この土にうけた生命のあらん限りはと、戦うことの尊さ、戦うことの大なる意義、それらのことどもも、同時に、肝に銘じ、心魂に徹し、わが生涯は御階の一門を守りて捨てん。悔いはあらじと、深く深く心に昔うて退京いたした」
「……」
「爾来、謙信の弓矢は、それ以外に、つがえたことはない。こえて永禄二年初夏、ふたたびの上洛にも、その前の折にも、長くも、綸旨を降しおかれ、隣填の乱あらば討つべし、皇土をみだし、民を苦しめるの暴国あらば赴いて平定せよと、不才謙信に身にあまる御諚であった。およそ臣子の分として、この叡慮にお応え申し奉らぎるものやあろう。遠く、この北越の辺隅にあっても、一日とて、そのありがたい優諚をわすれたことはない。いわんや、兵をうごかすの日においては−」
夜は時雨となったらしい。雨樋をあふれる雨だれの音が烈しく軒下を打つ。
禅家にも似た道者羽接、鶯茶の頭巾、室に妻もない謙信であったが、烈々、こういう問題に真情を吐き出してくると、そのひとみは実に若い.ともすれば義清とともに涙を沸らせてしまいそうであった。しかし義滑の眼は飽くまで小乗小愛の悔みに溺れ、彼の眼は大乗の海にも似て、満満たる涙をたたえながらも、なお仰ぐ人をして、何か洋々たる未来と曖昧を抱かしめる。 
 
武田信玄

 

勝頼は戦闘では信玄を上回るが時代を見抜く先見カに欠けていた
謙信は永禄四年の川中島合戦ののち、身命を捧げて戦った家来たちに有名な血染めの感状を与えた。
信玄は功績に応じて所領を与えるのみであった。実利を重んじる性格があらわれていておもしろい。
謙信、信玄はともに神仏の存在を信じていた。謙信は自らを昆沙門天の化身と思いこんでいたし、信玄は神仏に合戦の勝利をみちびかせようとした。
勝利を祈願して、実際に勝てば社殿仏閣を造営し、寺社領を寄進するが、敗北すれば社殿などを焼きはらうと神仏を威嚇するのである。
中世の花といわれた二人の精神内容が超現代人ともいうべき信長の明晰な現実認識といささかくいちがう点が、興味をひく。
私は信玄とその子勝頼の事蹟を調べてみて、彼らの時代における武田の戦力が想像以上に戦国群雄のうえに屹立した存在であったのを知り、おどろくばかりであった。
武田勝頼は実際の戦闘では信玄をはるかにうわまわる勇敢な行動をあらわしたが、時代の推移を見抜く先見カに欠けていた。
やはり信玄とは器がちがったといわざるをえない。
兵員二万五千人、軍馬一万頭を擁し、四倍の敵を撃破しうる戦力があるといわれた武田軍団も、長篠設楽原合戦ではその戦法が時代に遅れていた弱点を露呈した。
いったん時代の進歩にとりのこされた者のうえには、陽は二度とあたらないのが政治経済の原則である。
勝頼は勇猛な侍大喝軍兵の聯刀を発揮しうる手段を開発しなかったために、新横軸をひらいた信長長に倒されたのである。
甲斐武田の最期のだまされたような脆さは、生存競争の縮図を見るようで、いまもかわらない人生のさまをあらわしているといえよう。 
信虎追放
海野平の海野棟網と支族の真田幸隆は、上野国平井(群馬県藤岡市)に逃れ、南洋元直、矢沢綱頼ら滋野一族はおおかたが降伏した。
信虎は六月に甲府へ凱旋した。
彼は六月十四日、駿河の今川義元をたずねた。帰陣ののち、ひさびさに娘と婿に会おうという、保養かたがたの忍びの旅であった。
晴信の家来鞠井青白斎政武の記した「高白斎記」に、つぎのように記されている。
「六月小丙辰十四日己巳、信虎公御立チ駿府へ御越シ。甲府ニオイテ十六日各々存ジ候」
信虎の近臣でさえ、二日後に主君の駿河行きを知ったほどであった。
信虎は重臣板垣信方、飯富兵部(虎昌)にすすめられ、駿河府中へ出向いたが、そのまま二度と甲府へ戻らなかった。
晴信がただちに足軽勢を駿遠国境の河内境へつかわし、街道を封鎖したからである。
「甲陽軍鑑」によれば、晴信は信虎の供をして駿河へ出向いた侍たちの妻子をことごとく捕え、人質とした。
このため信虎のもとに踏みとどまる家来は一人もおらず、すべて甲斐に逃げ帰ってきた。
信虎は晴信が板垣信方らの重臣たちと仕組んだ無血クーデターの計略に乗せられ、駿河へ追放されたのである。
信方、兵部らは、今川方の重臣太原雪斉、岡部常憲らとあらかじめ連絡をとり、信虎を駿河に留めおく手筈をととのえていたといわれる。
「塩山向岳禅庵小年代記」に、信虎追放につき記されている。
「信虎平生悪逆無道なり。
国中の人民牛馬畜類ともに愁悩せり。
然るに駿州大守義元、信虎の女を娶り、これに依り辛丑六月中旬、駿府にゆく。
晴信、万民の愁を済わんと欲し、足軽を河内境に出しその帰道を断ち、位に就き国々を保つ。
人民ことごとく快楽の咲いをふくむ」「王代記」も簡単に触れている。
「武田信虎六月十四日駿州へ御出。十七日巳刻晴信屋形へ御移。一国平均になる」諸記録には信虎追放を惜しむ声がなく、晴信のクーデターを褒めたたえるのみである。
二十一歳の晴信は四十八歳の信虎を追放し、甲斐の国主大名となった。
信虎追放の真相は分らないが、およそ三つの理由が推測されている。
第一は信虎が晴信を廃嫡し、信繋に相続させようとしたためであるとする。
第二は信虎が残虐の行い多く、民衆の怨みを買っており、飢饉あいついで餓死者続出する領国経営の失敗が覆いがたくなったため、家臣からの反揆を回避するにはクーデターをとらざるをえなくなったとする。
信虎はそれまで武力で制圧し従属させてきた甲斐の国人勢力に疎まれ、孤立の状態に追いこまれていたのである。
第三は、「甲陽軍鑑」人物伝にあり、今川義元の謀略によるものとする説である。
義元はかねて甲斐併呑の機をうかがっていたが、信虎は舅にあたり、道義のうえからも討つことができないうえに、武勇すぐれた豪傑である。
そのため晴信を甲斐国主に取りたてれば、野望実現の機もあると考え、晴信に謀叛をすすめ、信虎を駿府へ引きとった。
真相はいずれであるか分らないが、信虎追放のもっとも重要な理由である「悪行」悪逆「無道」のふるまいについて、信虎在世当時の文書には、具体的な例がまったく述べられていない。
近世はじめになって、「甲陽軍鑑」で乱行について語られる。
信州伊那で八十過ぎの信虎が孫勝頼と会い、伝家の宝刀左文字を抜きはなち、振りまわした。
「この刀では五十人に余る者を手討ちにいたせしが、そのうちには、ここに侍る内藤修理(昌豊)と名乗る者の兄もおりしことであった。儂は袈裟がけに斬って棄てたのじゃ」信虎が自ら過去の乱行を口にしているが、これはフィクションであろう。
江戸期正徳、享保年間に出された「武田三代軍記」のなかではじめて信虎が妊婦の腹を裂いたとか、愛猿を誤殺した家来を切腹させたという行状が語られる。
このような事情をいろいろ考えてみると、信虎が追放された最大の原因は、やはり領国経営の失敗であったといえる。
彼の治政は国内統一につぐ領土拡大の合戦がつづくなかで、家来、領民に苛酷な負担をかけざるをえなかった。
農民たちは合戦がはじまれば雑兵として駆りだされ、死傷者も続出した。
甲斐の国内に敵が侵入してくれば、田畑は踏み荒され、荒廃してしまう。
大軍の移動、情報収集に必要な、伝鳥制度、狼火台の強化にも、大勢の百姓が従事しなければならない。
戦費を調達するための、各種の税金も課されるうえ、毎年天災、疫病、飢饉がつづく。このような国内の不満を爆発させないための唯一の手段が、信虎追放であった。 
晴信は景虎とはちがい、実利を重んじる性格
晴信は景虎とはちがい、実利を重んじる性格であった。
彼は他国への侵略をはじめるまえに、謀略をかさね、敵の重臣を寝返らせる。家中の士には勝利の暁に手厚い恩賞を与えると約する。
勝ちを得たときには約束を実行する。
晴信は家来に実利を与えることによって、士気を振起した。彼は戦略に熟達し、合戦に際し、再起を望めないほどの打撃を与えることはなかった。
信濃経略にあたっても、降伏した小領主は許して先手衆として用いる。戦功をたてた場合は征服した相手の所領を分け与えた。
大勢力である小笠原、村上らは討滅する方針を変えない。
彼は孫子の兵法を実戦に活用した。
長尾景虎との戦いに及んでも、その鋭鋒をいったんは避けて退却し、機を見てふたたび進出する硬軟両様の作戦を用いていた。
景虎上洛の留守中、晴信は信濃の占領地域の地侍を懐柔し、調略を用いて北信濃征服の手筈をととのえている。 
信玄と謙信の一騎打ち
「信玄の周囲を御中間衆頭、二十人衆頭たち大豪の者二十人ほどが取りかこみ、襲いかかる者どもを斬りはらう。中間頭原大隅守虎吉が信玄を助けるため必死に青貝柄の槍をふるった。
原は信玄に太刀を打ちおろす政虎の乗馬に槍をつけたが、槍先ははずれ馬の尻を叩く。
政虎の馬はおどろき、竿立ちになって走り去った。
信玄は肩先を二カ所傷つけられた。
「川中島五箇度合戦之次第」には、つぎのように記している。
「武田方勝ちに乗って追い討ちにつかまつり候。信玄勇みよろこびて旗を進められ候ところに、大塚村に備えを立て申し候越後勢宇佐美駿河守走行二千ばかり、横槍に突きかかり、信玄旗本を御幣川へ追い込れ候ところへ、越後の渡部越中守五百余駆けつけ、(中略)武田の人馬河水に流るる輩、また討たるる者数を知らず候。謙信旗本勢もとって戻し、信玄旗本を討ちとり申し候。
信玄も三十騎ばかりにて川を渡し、引退き候ところを謙信川中へ乗りこみ、信玄を二太刀切りつけ申し候。
信玄も太刀をあわせ、戦いに申され候を、近習の武田の侍ども謙信をなかに取りこめ候えども、謙信切打払い、なかなか坂付くべきようこれなく候。
そのけ均に信玄と謙信と間切れいたし、押しへだてられ候。
その刻、謙信へ懸り候武田近習の侍十九人、切りつけられ候。そのみぎりは謙信とは知らず、甲州方にては越後侍荒川伊豆守にて候と取り沙汰つかまつり候。
のち政虎(謙信)と承り、討ちとむべきものを残り多しと皆々申し候由。
信玄も御幣川を渡り、生萱山土口をこころざし、先陣後陣ひとつになりて敗軍にて候」
武田側の資料には、このように政虎が信玄に一騎討ちを挑んだと記されているが、上杉側の資料には、この件についての記載はすくない。
「越佐資料」のうち、「澹白斎日記」には、つぎのように述べられている。
「同(天文)廿三年八月十八日、川中島二三日ノウチ十八度ノム最、十一度ハ謙信勝利、六度ハ信玄勝利(一度分不足ナリ)、信玄旗本ヲ御幣川へ追イコミ、川中ニテ馬上ニテ謙信、信玄卜渡り合イ、太刀ウチナリ。サレドモ水深キタメ勝負ナシ」
ここには天文二十三年とされているが、内容は永禄四年の大合戦についての記述である。政虎と信玄はやはり河中で斬りあったことになっている。
「上杉年譜」の記録は永禄四年秋九月十日に信玄が雨宮の渡しを越えようとするとき、襲撃されたとする。
「荒川伊豆守馳セ来り、信玄卜見スマシ、三太刀マデ討ツトモ徹ラズ。信玄太刀ヌキ合スル間モナク、団ヲ以テ受ケハズス。スデニ危ウカリシトコロニ、従兵原大隅守卜云ウ者、槍サシノバシ、進ミ出ル。伊豆守ガ馬ヲ丁卜打テバ、馬オドロキ飛ブウチニ、信玄忽チ運ヲ開ク。サレドモ薄手ヲ負ウテ進退安カラズ。ナオサラ大将討タサジト従兵集リ来、身ヲ以テ隔テヌレバ、武威モ強カリケン、危急ノ命ヲ免レ(略)」
「上杉年譜」は上杉家の正式な記録であり、ここにいつわりを記載するはずはない。
これを信じるならば、信玄に斬りかけたのは政虎の家来荒川伊豆守である。
上杉側では総大将の政虎が信玄に三太刀斬りつけ、手癖を負わせたのであれば、武勇の誉れとなるため事実を隠しはしないであろう。やはり荒川伊豆守の手柄であったとみるほうが正しいように思える。
信玄が故に斬りつけられ負傷したのは事実である。彼は政虎自身に斬りつけられれたとするほうが、政虎配下に斬られたとするよりも面目がたつと考え、そのように吹聴したのかも知れない。 
信玄の軍法
「はじめの子供は成人いたせしのちも、心がまえに劣っておるゆえ、どれほど戦場往来をいたすとも、物事の見分けができず、行儀も乱れがちにて進退を誤ること多き者となるぞ。かようの者はよき家来も、忠言を受くべき朋友も持てぬのだぞ。これにひきかえ、頭を垂れ、耳をすましおる小童も、武勇すぐれし侍になるのじゃ。またすこし笑いなどして話を聞きおる小童も、のちには武勇すぐれし侍になるであろうが、あまりに才知にすぎて傲りたかぶり、人より憎まるるほどの者になるぞ。また、座を立ちて去ぬる小童は、のちに十中八、九は臆病者となるに違いなし」
信玄は日頃から大将の機略について語ることが多かった。
大将は軍陣に出たとき、弱敵、小敵、強敵、破敵(撃破すべき敵)、随敵(服従させるべき敵)など、さまざまの敵に応じて、武略、智略、計略を巧みに用い、勝利を獲得しなければならないという。
「武略とはおのれが領分の城々をよく構え、陣を正しく張ることを申すぞ。智略とは相手によりてさまざまに攻めくちを変えることを申す。よき大将がおらぬまま、策を用いてこなたの隙をつかんといたす敵には、こなたよりも策を用うべし。よき大将が正面より挑みかかるときは、こなたは策を用ゆる様子を見せつつ正面より応ずべし。よき大将もおらぬに正面より仕懸けてくる敵には、一気に取り懸け突き崩すのだぞ。智略と申すは、敵に仕懸けてみて動きを探り、兵を進める中途を攻め、伏奸を使うて殺し、敵中に忍びを入れ、内応する敵の侍によるなどして敵の陣営を乱し亡ぼすことだぞ。また計略と申すは、知恵のすぐれし出家、町人、百姓などを敵の領分につかわし、敵の弱点を調べて攻めることじゃ。敵の家来のうち邪欲つよき者を寝返らせるのも計略だ。武略、智略、計略を十分にわきまえこれを用い勝つことがすぐれし軍法と申すぞ」
信玄は大将たる者が守らねばならないつぎの五つの条件があるという。
一、大将は家来の能力を正しく判定し、家来の得意とするところを知ったうえで、はたらかせねばならない。
一、侍はもとより、諸奉公人をも含め、手柄の上中下をよく見分け、鏡に映るがごとく公平に評価し、えこひいきなく賞罰をおこなわねばならない。
一、手柄をたてた武士には、ふさわしい恩賞を与えねばならない。
一、大将は家来のすべてに慈悲をかけねばならない。
一、大将が事にあたり、あまりに怒ることがすくないときは、家来は油断をする。
油断があらわれると自然に思慮ある家来も法度軍律にそむくようになり、上下ともにその害を受けることになる。 
長男の太郎義信の自害
その年の春、太郎義信は自害した。「甲陽軍鑑」にはこのように記述しており、義信が子の年(永禄七年)から座敷牢に入れられたとしている。
だが、磯貝正義氏の研究によれば、永禄八年六月の「甲州二宮造立帳」の冒頭に、「参千疋義信(花押)」の寄進高が記されており、このときまで幽閉されていなかったことが立証されるという。
義信が謀叛を企てたのが真実であったか否かは不明である。
永禄十年(一五六七)十月十九日、義信は三十歳を一期として死ぬ。遺骸は東光寺(甲府市東光寺町)に葬った。法号は東光寺殿青山良公大禅門である。死因は自害であるとも、病死であるともいわれる。
「東光寺三和尚法語」という住職の記録によれば、義信は久しい幽閉のあいだに病いを得て、武人の暮らしを棄てた。時は至り、父子親ありの情にたがわず、死の直前に多年の謹慎をゆるされ、事理もおのずからあきらかとなった。
義信は臨終に先立ち、その夕、長禅寺福恵老師に生死の因縁を問い、大悟して死んだという。
信玄は義信が死ぬ二カ月前、家中将士の動揺を防ぐため、甲斐、信濃、上野の将士二百三十七人から起請文を受けとり、それを信濃小県郡下之郷大明神(上田市塩田町生島足島神社)に納めた。 
合戦の勝敗は六、七分ほど勝てばよい
信玄は家来の大身、小身によらず、手柄次第で褒美を与えたので、家中諸臣に不満、うしろめたさを持つ侍はいなかったといわれる。
信玄は大身と小身の家来の手柄がおなじである場合は、小身者を優先して貯めた。そうしたのは大身の者は日頃優遇されているからであるとした。
「勝負の事、十分を六分七分の勝ちは、十分の勝ちなり」信玄の慎重堅実な性格を示す言葉である。
合戦の勝敗は十分のところを六、七分ほど勝てばよい。とりわけ大合戦のときはこの心掛けでとりかからねばならない。
八分の勝ちでさえ勝ち過ぎである。九分、十分の勝ちはやがて味方大敗のもとになると信玄はいう。
リアリストの信玄はわが生涯の起伏をも見通していたようである。
「弓矢の嘩取り様の事、四十歳より内は勝つように、四十歳より後は負けざるように」合戦において、四十歳まではひたすら勝つように心掛け、四十を過ぎてのちは負けないよう心掛けるべきであるというのである。敵を押しつめつつも、思案工夫をめぐらし位語にしてゆくほどの、二心の余裕を持たねばやり損じると、信玄は着実な前進を心がけていた。 
信玄は家来どもの心情を理解し、長所短所を見きわめようとする
信玄は自らの領国を見廻りに出かけたとき、諸村の住民の暮らしぶり、山の竹木の茂りようなどを詳しく見覚えておき、知らぬふりをして家来たちにその様子をたずねる。
詳しく返答する者がいると、かさねて聞く。
「そのほうは、儂の申すところへは再々参りしか。それとも俵の供をいたせしときに見覚えしか」信玄はいつ何事を聞いても詳細に返答する者を取りたて、他国へつかわす使者として用い先方の様子をうかがわせ、国境の状況をも調べさせた。
また家来どもの心情を理解し、長所短所を見きわめようとするのも、日頃から常に心がけることであった。
近侍する者の親が病床に就くと、その様子を詳しくたずねる。孝心の篤い者は内心がおのずと言葉にあらわれる。親に冷淡であれば、病状について詳しく知らない。
信玄は日頃からいっていた。
「金は火をもって試み、人は言をもって試みると申す。いろいろと問ううちに、言葉によって本性を探ることができるものでねえらか」信玄は傍に仕える奥近習と言葉を交すうちに六人を撲り分け、「耳聞き役」に定めた。
彼らの役目は家中の侍。他国からきて奉公する新参者の手柄の真偽を聞きだすことである。
手柄はたしかに立ててはいるが、しばしば偽りを口にする考またよき友人を持ちながら無頼の性格である者。
大身の侍あるいは出頭衆といわれる歴々の者ばかりに礼を尽していても、朋輩のあいだでは平気で無礼をはたらく者。酒をすごしたとき酒乱となる者。
諸事について、人に立腹させるふるまいをする者。武具の手入れを怠る考内福で諸道具をしきりにもてあそぶが、武芸には心をいれず熱心でない者。
このようなさまざまの家来どもの行状について耳聞き役に調べあげさせ、その善し悪しを述べさせるのである。 
信玄に敗れた家康
家康は風雪のなか、闇にまぎれ後退するうち、しばしば危地に立たされた。信長の甥大橋与右衛門は十二月二日に家康への使者として岐阜を出立した。二十二日の日没後に三方原に到着する。西北の風がはげしく吹きつのり、雪霧交り飛びかい眼もあけられない有様で、東西の見分けもつかない有様であった。このとき与右衛門の馬が流れ矢に当り倒れた。与右衛門はやむなく徒立ちで合戦の物音のする辺りへむかう。途中犀ケ崖の傍に甲冑をつけた武者がひとり立っている。敵かと身構えたが仕懸けてくる様子もないので徳川の侍であろうとその前を通り過ぎかけた。
「待て、そのほうは織田の手の者か」「いかにもさようじゃ。御辺はいずれの仁かのん」与右衛門は足をとめ、油断なく刀の柄に手をかける。
「儂は家康じゃ」与右衛門は驚く。徳川方の総大将がひとりでいるのである。
「これはお見それいたし、ご無礼の段恐れいってござりまする」彼が信長の口上を伝えようとしたとき、家康が叫んだ。
「敵がきたぞ。母衣をはずせ」与右衛門は母衣布をはずし、籠をおろし踏みやぶるうち、武田勢が襲いかかってきた。薄闇のなかで乱闘がはじまった。与右衛門の従者吉田市蔵、妻木彦八は敵刃を受け討死をした。
与右衛門が家康とともに斬りたてられ危ういところへ、家康旗本の松平蔵人が数騎の従者を従えあらわれ、かろうじて命をつないだ。
地形にうとい武田の騎馬武者は、犀ケ崖の地際になだれ落ち、与右衛門は家康を奉じ浜松をめざし逃れた。 
信玄死去
伊那街道を北上しつづけ、平谷、浪合と山桜のほころびる山中を進み、駒場(長野県下伊那郡阿智村駒場)に達したとき、信玄はついに息をひきとった。
「甲陽軍鑑」に記す。
「一、四月十一日未の刻(午後二時)より信玄公卿気相悪しくござ候て、御脈ことのほかはやく候。
また十二日の夜亥の刻(午後十時)に、口中にはくさ出来、御歯五つ六つ抜け、それより次第によわり給う。
すでに死脈うち申し候につき、信玄公御分別あり。各譜代の侍大将衆御一家にも人数を持ち給う人々ことごとく召し寄せらる。信玄公仰せらるるには、六年さき駿河出陣まえ、板坂法印申し候は、膈というわずらいなりといいつる」
信玄は天正元年四月十二日、駒場の山中で息をひきとった。
遺体は駒場長岳寺にひきとられ、荼毘に付された。
信玄は死にのぞみ勝頼を枕頭に呼び寄せ、つぎのように遺言した。
「儂は家督を継いでのち、隣国他郡を攻め伏せ、一事として望みを達しえないことはなかった。だが妄執の随一は、帝都に族旗を立てえなかったことじや。
儂がみまかりしことが露顕いたさば、怨敵どもはかならず時節をうかがい蜂起いたすにちがいなし。それゆえ三、四年がほどは喪を秘し、分国の備えを堅固にして国を鎮め、義兵を撫育し、おのしが一度なりとても都に攻めのぽってくれたなら、たとえ死んでも歓喜いたすぞ」
信玄の享年五十三歳。大勝大夫兼信濃守、従四位下。法名は恵林寺殿横山玄公大居士であった。
勝頼、家老衆は遺言により喪を秘し、遺骸は甲府躑躅ケ崎館に安置した。
信玄死去の情報を心.ちはやくつかんだのは、飛騨の江間輝盛である。江間は上杉謙信と同盟していたが、信玄の死後十三日を経た四月二十五日、つぎの書状を謙信に送っている。
「一、信玄の儀、甲州へ御納馬候。然るあいだお煩いの由に候。また死去なられ候とも申し成り候。いかがか不審に存じ候」  
勝頼は武威を内外に認めさせようとした
勝頼の生母は信玄に滅ぼされた諏訪頼重の娘諏訪御前である。彼は信玄第四男として生れたが、武田の家督を相続すべき資格のない庶子であったためであろう、生年が知られているが、月日は残されていない。
彼は永禄五年(一五六二)、十七歳で伊那高遠城代の地位に就く。伊那地方の支配者となったのである。だが永禄八年(一五六五)八月、信玄嫡男義信の謀叛が露顕したため、急遽後継者としてたてられた。
勝頼は同年十一月、信長の姪である苗木(遠山)勘太郎の娘を室に迎え、二年後に嫡男信勝をもうけた。
信玄が勝頼を後継者として遇するようになるのは永禄末年頃からであった。勝頼は常に信玄と行動をともにし、信玄にかわって領内に下知状を発するようになる。
だが武田の一家衆、譜代衆のあいだには、勝頼が信玄の跡目を継ぐことについて釈然としない者が多かった。
「勝頼殿は亡き太郎さまとはちがう。太郎義信さまご存命なれば、伊那の郡代におとどまりなされしお人じゃ。いかにもご器量に不足ありと存ずるぞ」
家中に不満の声があるのを勝頼は知っている。
彼は武将としてすぐれた器量をそなえ、勇敢であった。体躯は人なみすぐれ、合戦にのぞみ陣頭に雄姿をあらわすと士卒は勇みたった。
信玄在世の頃のように全軍団の結束が緊密でないとはいえ、その戦力は織田、徳川にとって恐るべきものである。
甲斐、信濃、飛騨、越中、西上野の軍勢二万五千余を率いた勝頼は、まず高山城に襲いかかり、一気に攻め落す。
さらに苗木、串原、香野、今見、阿寺、孫目、大居、鶴居、瀬戸崎、振田、中津川、幸田、妻木、大羅、千駄帰の十五城を奔馬のいきおいで攻略し、ついで明智城を攻めた。
明智城は恵那郡西南の盆地にあった。信長は嫡男信忠とともに明智城救援にむかったが、武田勢に前途をさえぎられ引き適し、明智城は陥落した。
勝頼は攻撃のいきおいをゆるめず東美濃一帯を劫掠したのち、四月には三河に入り、足助、安城、田代、浅谷、八桑らの諸城を攻撃し、足助城を陥れ下条信氏を入れた。
武田勢はあたるべからざるいきおいである。織田、徳川の戦力を無視するかのような傍若無人の行動であった。
いったん甲府に戻った勝頼は、つぎの攻撃目標を高天神城にさだめた。
高天神城は遠江小笠郡の標高百三十二メートルの山上にある堅城で、元亀二年(一五七一)三月に信玄が二万余の兵をもって攻撃したが、ついに抜くことができなかった。
勝頼は信玄でさえ陥落させられなかった難攻不落の城を攻め、わが武威を内外に認めさせようとした。  
勝頼は織田の鉄砲の威力を検討していた
だが決戦のまえの戦評定で、賛否さまざまの議論がたたかわされたであろうことは想像できる。勝頼のとった方針は無謀としかいいようがなかったからである。
対戦のまえに、勝頼は織田、徳川勢の鉄砲の威力について検討していた。織田勢は連子橋から北方の山裾へおよそ二十町ほど馬防柵をつらねている。
勝頼は織田勢の装備する鉄砲が千挺ほどであるとの情報を入手していた。種子島筒の有効射程は二百メートル、人体必中射程は百メートルである。
筒口から鉛弾と硝薬をいれ、柳杖でつき固め装填するのに二十秒から二十五秒かかる。甲斐駒が甲胃武者を乗せ、起伏の多い地形を走る速度は時速三十キロメートル前後である。
百メートルを走るのが十二秒ほどであるので、二百メートルの有効射程外から突撃しても、一発を射たせ二発目を装填しているあいだに馬防柵の際まで達し、斬りこめる。
折柄梅雨の悪天候で、設楽原は連日の霧雨に草木は露を帯び、湿気は濠々とたちこめている。
鉄砲の硝薬は木炭、硫黄、硝石の粉末を混合したものであるが、いずれも吸湿性がつよく、雨中ではもちろん雨の晴れ間でも射撃は困難をきわめるであろうと勝頼と幕僚たちは考えていた。
信長の率いる五畿内鉄砲衆の中核である根来衆の射撃能力が、いかに高度なものであるかを武田の将領たちは知らない。
長篠に集結した武田勢一万五千人のうち、精強を誇る騎兵は四千騎に達していたといわれる。
勝頼が長篠城周辺に布陣せず、寒狭川を渡って見通しわるく狭陸な設楽原で待ちうける織田、徳川勢に立ちむかった理由は謎とされている。
騎馬隊が威力を発揮できる場所は平原である。長篠城周辺は開豁地で、武田勢は機動力を発揮できるが、設楽原は狭苦しく小丘陵の重なる谷間のような地形である。
そのような所で三段に馬防柵をつらねて待つ三倍の故にむかってゆくのは、馬場信春らが判断した通り敵の思う置にはまりにゆくことになる。
勝頼がそのような愚挙をあえてしたのはなぜか。信長が狭い設楽原で待ちかまえていても、武田勢が攻めかけてこなければ合戦はなりたたない。
信長は謀略で勝頼をおびき寄せたのである。  
武田勢は上下ともに不敗の自信が仇となった
長篠合戦のまえ、武田勢の士気は天をついていた。天正元年の秋、勝頼が遠州へ出陣したとき、軍勢の最後尾に小者十五人が挟み竹をかついで行軍していた。
挟み竹とは、衣服を二枚の板で覆い、そのうえを竹で挟んだもので、彼らは侍衆の衣裳を運んでいたのである。
そこへ突然徳川の騎馬武者三酪があらわれ、草履取り一人を突き伏せた。附近に武田の軍兵はいなかった。このようなとき、甲宵に身をかためておらず、脇差しか帯ていない小者たちは逃げ散るのが当然である。
襲われた場所は久能と掛川の中間で、徳川の本拠地浜松城の間近であった。だが武田の小者たちは逃げず、立ちむかって騎馬武者一騎を打ちおとし搦めとって生捕りにし、他を追い払った。
このようなことは異例であった。戦場往来をかさね太刀打ちの技をこころえた騎馬武者が、一騎でも十五人の小者を追い散らすのは苦もないことである。
ところが武田の小者たちは彼らを圧倒する強みをあらわした。徳川方に負けるはずがないと思いこんでいたのである。
この出来事を知った馬場信春、内藤修理、山県昌景、高坂弾正らは、武田勢の前途を危惧したという。
「かようのことがあるのは、よくよく勝頼御先手が強きがゆえにてあるら。信玄公のご威勢かさなり、われらの軍力が頂きにさしかかっておるに違いねえら。頂きより先は下るよりほかはなし。危うきことにごいす」
このような挿話があるほど、武田勢は上下ともに不敗の自信を抱いていた。
そのため設楽原で、刀槍を交えるまえに銃弾で強剛な軍兵が薙ぎ倒されたとき、武田勢は織田徳川勢の戦法を卑怯と見た。  
長篠の戦いは慢心が敗北の原因
勝頼は三重の馬防柵を構え、鉄砲数千挺をそろえ待機する敵に誘いこまれ、無謀な突撃をくりかえした。
信長が三千五百挺の鉄砲隊の射撃で武田椅馬隊を潰滅させようとしても、馬防柵を攻撃させなければ戦法を生かすことはできない。信長は武田勢に設楽原へ攻めいってこさせるための、さまざまの謀略活動をおこなっていたに違いないが、勝頼が敵の注文に乗せられたのは慢心していたためである。
勝頼は戦えばかならず勝つと慢心していた。彼は信玄も落せなかった徳川の属城高天神城を陥落させ、また美濃の明智城をも陥れた。
彼は信玄も及ばないほどの武将の資質が自らにそなわっていると錯覚していた。
また勝頼は信長、家康よりもはるかに年齢が若いのに、戦術においては保守的であった。当時鉄砲の威力は全国に知れ渡っていた。紀伊雑賀衆が鉄砲隊の威力を買われ、傭兵隊として活躍したのは永禄年間からである。勝頼は自軍に鉄砲を装備させ、さらに鉄砲製作工場をいとなむことが可能であったのに、新兵器の活用を怠った。
勝頼が甲府へ戻ってのち、設楽原敗戦の噂がひろまった。なにしろ戦死者の数がおどろくばかりに多い。
そのうえ、合戦では後方にいてめったに討死することのない信玄以来の宿将が、ほとんど骸を長篠の野にさらした。
山県昌景、馬場信春、内藤昌裕豊、原昌胤、真田信網、甘利信廉、土屋昌次らが揃って討死を遂げ、敗戦の原因を糾明しようとしても、合戦直前の軍議に列した将領はほとんどが生きていない。
勝頼が甲府へ戻ったのち、城下には死者を弔う読経の声、鉦の音が絶えまもなくつづいた。  
勝頼は親戚衆の圧力にも屈服せざるをえなくなっていた
親戚衆は信玄死去のあと勝頼が屋形の地位についたことに、内心不満を宿していた。勝頼は他に相続人がいなかったため信玄のあとを継いだが、庶腹の四男に過ぎない。
このため穴山信君らは勝頼を屋形と敬うことなく、朋輩のように見ていた。
勝頼は有力な親戚衆と外様の侍大将たちとの対立を統一する力量を持っていなかった。
「弾正の申し条も分るが、いまとなっては信豊、信君に腹切らすのは無理じゃ」
勝頼は敗戦の大失態に動揺していた。
表面では強気をよそおっているが、不敗をもって聞え、法螺貝、押し太鼓を鳴らせ鶴翼の陣形で攻め寄せれば、いかなる敵をも動揺させた武田勢が、鳥威しとさげすまれていた新兵器の鉄砲攻撃のまえに瓦解した。
合戦の相手方が名を聞くだけで戦慄した椅羅星のような侍大将が数十人、織田、徳川の弱兵に討たれ現世から消え去ったという事実がひろまるにつれ、武田軍団の扶桑随一といわれた巨大な声価は消滅していった。
「こんどの勝頼は信玄とは違うぞ。信長の仕懸けし罠のうちへ、おのれより陥りにいでしというではないか。武田の運もそろそろと尽きかけてきたようじゃ」
このような評価が近国の侍たちのあいだでささやかれる。
「長旅で負けしは、親戚の者どもが勝頼の下知を聞かざりしゆえと申すぞ。勝頼は四男ゆえ、崇められておらぬのであろう。家中の者どもが派をたてしは滅亡の兆しじゃ。勝頼も荒武者にて知られし男だが、国を治むる器量はないわ。命知らずにて聞えし名和無理之介宗安、飯尾弥四右衛門助友、薙刀の名人にて世に知らぬ者なき波合備前も、鉄砲にあたり世を去りしとか。いずれも張子の虎のごとき哀れなることにてありしよ」
甲州流軍学に従った騎馬攻撃は、もはや時代に遅れた戦法で、畏怖すべき威力をそなえてはいないとの噂がひろまるばかりである。
勝頼は親戚衆の圧力にも屈服せざるをえなくなっていた。信玄は生前、能力のある外様の侍大将たちを重用していた。
「戦は賢こき大将がやるものだぞ。血筋大事にては合戦取りあいができぬだわ。誰なりとも才あれば一軍を任して仕損じはねえら」
信玄は家柄血統に固執したがる親戚衆を戦力の中核としていなかった。
実力のある侍大将たちを側近に置き、軍評定をひらいて戦術、戦略を立案した。  
勝頼の統率力が弱いために家臣団内部の暗闘が明るみへ噴き出て滅亡
傍らに仕える上揩ヘ短刀でわが喉を突き通し、北の方の足にとりすがって死ぬ。
勝頼は生き残った侍たちとともに湧き出るように数をふやす地下人どもを相手に戦っていたが、織田勢が到着すると力尽きた。
滝川一益の部隊が押し寄せたとき、勝頼は具足櫃に腰をおろしていた。伊藤伊右衛門永光という侍が勝頼に斬りかかると、勝頼は立ちあがり刀を構えようとしたが、疲労困憊しており何のはたらきも見せずに斬られた。
兵粮にも窮し、飢えていたといわれる。
織田信長は三月五日に安土城を進発し、十四日に浪合(長野県下伊那郡浪合村)で田野から届けられた勝頼父子の首級を実検し、翌日飯田の町で梟首した。
彼は十三日に柴田勝家あてに、甲斐の戦闘が終了したと書状で知らせている。
「武田四郎勝頼、武田太郎信勝、長坂釣閑、典厩(武田信豊)、小山田はじめとして、家老の者ことごとく討ち果し、駿、甲、信とどこおりなく一篇に申しつけられ候あいだ、気遣いあるべからず候」
勝頼の従兄弟信豊は虚病をつかい参戦することなく、信州小諸城の城代下曽根某を頼って落ちのびたが、殺された。
小山田信茂も降伏したが斬られた。
信長は四月二日に上諏訪を立ち甲府躑躅ケ崎館に入り七日間滞在ののち、十日に甲府を出立し駿河へむかった。
信長は甲府滞在中に恵林寺を焼き、武田家重臣たちを斬った。「甲陽軍鑑」にはつぎのように記されている。
「信長甲府へ御著あり。春中より計策の廻文題し給う。武田の家の侍大将衆皆御礼を申せとありてふれらるる。
その二月末、三月始時分に、むたと信長父子の文を越し給うに、あるいは甲州一国をくれべき、信濃半国をくれ候わん、あるいは駿河をくれべきなンどとの書状をまことに思い、勝頼公御親類衆をはじめ皆引き籠り給うが、この触れを実と思い御礼に罷りいで、武田方の出頭人の跡部大炊、諏訪にて殺さるる。
遭遥軒は府中立石にて殺さるる。小山田兵衛、武田左衛門佐、小山田八左衛門、小菅五郎兵衝この四人は甲府善光寺にて殺さるる。
一条殿は甲州市川にて家康に仰せつけられ殺さるる。出頭人秋山内記は高遠にて殺さるる。長坂釣閑父子は一条殿御館にて殺さるる。典鹿父子は小室にて殺さるる。大熊も伊奈にて殺さるる。(中略)高坂源五郎も川中島にて殺さるる。山県源四郎も殺さるる。駿河先方衆も勝頼公御ためを一筋に存じたるをば成敗なり。甲信駿河侍大将いずれも家老衆おおかた殺さるる」
信長は二月末から三月初旬にかけ、信忠と連名の書状を武田の重臣たちに送り、内応すれぼ過大な恩賞を与えると調略をおこなっていたのである。
武田の諸侍は信長の甘言を信じこみ、勝頼に背いて破滅させたが、自らもあとを追うこととなった。
扶桑随一といわれる戦力を誇った武田騎馬兵団を率いる勝頼は、織田、徳川、北条を甲信の山岳に迎え撃ち、激戦を展開してしかるべき条件のもとに和睦する機会をえらぶことができたのに、なすところもなく家中が四分五裂して自壊の道を辿るよりほかはなかった。
勝頼の統率力が弱かったために、信虎、信玄以来の家臣団内部の暗闘が、一挙に明るみへ噴き出たための滅亡であった。
勝頼とともに死をえらんだ家来は、「景徳院牌子」によれば僧二人、士三十三人、女子十六人、計五十一人である。
「甲斐国志」では士四十六人、侍婦二十三人等、主従合計七十二人となっており、実数は分らない。
大廈の崩壊はあまりにも脆かったといわざるをえない、武田家の終末であった。  
 
豊臣秀長

 

秀長は兄と同体の名補佐役
補佐役−それは、参謀ではない。専門家でもない。もちろん、一部局の長、つまり中間管理理者でもない。そしてまた、次のナンバー1でもない。
「この人」は、豊臣家という軍事・政治集団の中でナンバー2の地位にあった。それは、秀吉がまだ木下藤吉郎とすら名乗っていなかった頃から、関白太政大臣として天下に号令するようになるまで変らない。「この人」からナンバー2の地位を変えたのは、「この人」自身の病死だけである。
「この人」は、豊臣家の外的発展と内部調整において多大の功績を残した。時には、兄・秀吉すらなし得ぬことをした。兄・秀吉がやりたがらぬこともした。秀吉が行うことにも協力した。だがそれを、自らの姿が目立たぬようになし遂げた。「この人」の役割は、驚くべきプランを提唱することでもなければ、一部局を率いることでもなく、兄・秀吉と同体化することだった。
「この人」は、経歴の古さにおいても、実績の多さにおいても、実力と権力の大きさでも、兄・秀吉に次ぐ存在だった。誰疑うこともないナンバー2だった。だがその故をもって、次期ナンバー1を目指すことはなかった。「この人」の機能は、「補佐役」であって「後継者」ではなかった。
「この人」は、そういう役回りを不満に思いはしなかった。むしろそれを自分の天命と考え、よき補佐役たることに誇りを持っていたことだろう。「この人」は、兄と自分が一体となって形成する豊臣家のトップ機能の堅固さにこそ歓びと満足を感じていたに違いない。「この人」は参謀として謀をめぐらすこともなく、専門家として才技を誇ることもなく、次のトップとなることを望まず、何よりも自らの名を高めようと欲することなく生きた。それ故にこそ兄・秀吉と同化し真のトップ機能の一部となり得たのだ。
「この人」の死は、豊臣家の首長機能を著しく弱体化した。よき補佐役を失った秀吉は、ただ一人で首長の機能全部を果さねばならなくなり、多忙と孤独、独善と焦りに陥ち込んでいく。このため、豊臣政権における内部調整の不備が、「この人」の死と共に噴出する。「この人」に代るよき補佐役が見つからなかったのだ。
史上に、優れた首長は数多い。天才的な参謀も少なくない。才能豊かな専門家や忠実勇敢な中間管理者も多数登場する。だが、よき補佐役はごく少ない。そして、補佐役を描いた物語はなおさらに少ない。 
兄の家来になる
土間に跪いた兄は、板の間の小竹に両手を差し伸べるようにして、語り出した。
「確かに俺は墟が多い。しかし、生れも賎しく力もない俺が出世して行くためにはそうもせにゃならんのじゃ。俺はこうなると先に決めてから励む、これはこうするというてからやってみせる、まずは自分を追い込んでしもうてから、生きるためにあがく。それでのうては、這い上ることはできんのじゃ。分ってくれや、小竹・・・・」兄は、つい先刻までのおどけた陽気さとはがらりと変って、涙声になっていた。
「危ない渡世じゃにゃあ・・・それは・・・」小竹は、半ば同情しながらも戒めをいった。
「そうじゃ。危ない橋も渡らにゃあならん。怖いこともあるわい。しかし、それをやり抜くのが出世の道じゃ。俺がな、小竹・・・」兄は、膝這いのまま板の間に上り込んで来て、小竹の膝を抱きかかえた。
「汝に頼みたいのはそこじゃ。俺は、とにかく、前に走る。上を見ながらひたすらに計る。なればこそ、汝にあとをしっかりと支えてもらいたいんじゃ」兄はそういって、「頼む……」と両手を合せた。
小竹は、うなずいた。兄にこう告白されると、怒りようもなかった。それ以上に、陽気に大法螺を吹いている兄の心の底にある孤独な淋しさを見せられた思いがして、(捨てられない・・・)という気になっていた。
「分った・・・」小竹は、ぽつりと呟いた。
「な、なってくれるか、俺の家来に・・・」兄は、大声で叫び、小竹の両手を握った。
「なる・・・」小竹は、自らの悪いを断つように強くいった。
「但し、一つだけ条件がある」「何じゃ、何なりというてくれ・・・」兄は急き込んだ。
「来年の田植えまでに、ほんまの組頭になってくれ。その上で、改めて迎えに来てくれんか。おっかあをがっかりさせとうないからな・・・」小竹は、ただそれだけをいった。
この瞬間、「この人」は二つの決断を下していた。そのは不安と困難に満ちた海にこの馴染み薄い兄と共に船出する覚悟であり、もう一つはこの兄の補佐役として労多く功少ない立場に身を置く決心だった。 
上手に内部を調整・固めた
小一郎は、大男を見上げて鼻で笑った。
「素手の掴み合いなど戦さの用に立たんわい。これで俺を斬ってみろ」といって、腰の刀を抜いて大男の胸元に突きつけた。相手も刀を出して打ちかかって来たら、ひとたまりもないだろう。小一郎は怖かった。だが、懸命に耐えた。
「骨が鳴るほど身が震えても退かずに進む度胸があれば武士は勤まる」といった兄の言葉を思い出した。
果して大男はあとずさりをした。小一郎はそれを追って進み、長屋の枚壁に追いつめた。そこで素早く刀を返し、柄の方を差し出した。
「さ、やれるか・・・」最早、相手に斬る気力のないことを見てとった小一郎は、ニヤリとした。
「流石…」そんな声がした時、小一郎は刀を鞘に収め、短い説諭をして自分の長屋に戻った。戻ってからはじめて、骨が鳴るほどに身が震えた。だが、刀を突きつけた時には、不思議と剣先が揺れなかったことを思い出して、自ら満足した。
こんなことがあってから、足軽たちも小一郎のいう事を聞くようになった。だが、それにも増して、彼の権威を高めたのは、小まめに日々の面倒を見たことだろう。
兄から借りた僅かな銭を因っている者には貸してやった。だが、必ず次の俸給日には取り返した。二度日に貸す時には利子も取った。借金が損だと教えるためだ。そしてその利子を蓄えて、十日に一回の酒盛りの時にみんなに酒肴を貫い与えた。
博打は適度に許した。但し、賭金の一割は組のために上納させ、病気などで困った者に見舞いを出す制度を作った。そして必ず、月ごとに利子と上納金の額を全員に教え、自分の手元にかすめ残していないことを明らかにした。
相談事は時間を惜しまず聞いてやった。親元に帰る者には、僅かでもみやげを持たすようにした。その代り、帰りが遅れた者からは必ず給金を引いた。幸いなことに、このみやげ代と罰金とはほぼ釣り合い、兄かち借り受けた米銭が減ることはなかった。
なかでも小一郎が精を出したのは、喧嘩・もめ事の仲裁だった。双方から念を入れて事情を聞いたし、当事者以外の証言も求めた。悪い者には雑役を命じたり厳しい教練をさせたりする一方、悪くない者には酒などを飲ませた。苦情処理ともめ事の仲裁は、生涯「この人」の最も得意とした所でこうした努力の結果、ニカ月を経ずして足軽たちも小一郎を尊敬し、その言葉を重んじるようになった。 
兄には自分が必要と自覚し不遇も耐える
二千人を指令する軍政司令官という役割と四首長という封禄とは、いかにもアンバランスだ。当時としては常識破りのこのやり方こそ、信長式である。この天才肌の苛烈な主君は、能ある者には重責を与え大軍をまかすが、封禄の方はそう気前よく増しはしない。それによって有能な成上り者と能力の乏しい累代の重臣との均衡を取っていたのだ。
「能ある者には権を、功ありし者には禄を」という人事管理の要領を、若き日の信長は見事なまでに実行していたわけだ。
この体制で、最も割を喰うのは能力者の補佐役だ。仕事が多く責任が重い割には封給が低い。今、藤吉郎の実弟、木下小一郎はそんな立場にある。
「この人」のしなければならない仕事は多い。木下組の足軽や新付の地侍の管理、配下諸城の監督、新領の年貢取立てや地割の変更、そして木下家自体の家政と経理などだ。有能な兄は主君に呼ばれて留守勝ちだから、これらの仕事のほとんどは小一郎の肩にかかって来る。
だが、禄は少ない。未だに四十貫に過ぎない。家臣の統率、配下の監督、情報の収集などに、かなりの人数を自前で斉えねばならぬ兄としては、これ以上を弟一人に与えるわけにはいかない。
もし、この頃、木下小一郎が望んだとしたら、兄と別れて織田家に仕えて、百貫取りの直参として独立することも容易かったであろう。この時代、ちょっと気の利くものなら兄弟別々に主君に仕え、それぞれ直参の武士として一家をなすのが普通だったのである。
だが、小一邸は、そんなことを一切考えなかった。「この人」が不満のなかった百姓暮しを捨て武士の社会に身を投じたのは、独立の侍として成功するためではなく、兄・藤吉郎の補佐役となるためだったのだ。
(兄者には俺が要る・・・)そう考えることが、小一郎には心地よかった。兄は恐ろしく頭がよく活動的で努力家で驚くほどに大胆だ。人心収穫の術と機を見るに敏な感覚でも卓抜している。だが、そのあまりにも積極的な性格にはどこか危なっかしい所がある。無能者への寛容と些事に対する緻密さを欠くようにも見える。あるいはそれは、前に進むことを急ぐあまりの多忙さが原因かも知れない。だが、原因が何であれ結果は同じだ。自分が居なければ兄は何かに躓くに違いない。 
生涯主役になろうとは望まないよう言い聞かせた
(掩は、一人では大した武将にはなれん・・・)小一郎はまた、そうも考えた。あまりにも機敏で大胆で人生に対する闘志に燃える兄の側にいるせいか、「この人」には自分の至らぬ所もよく見えた。所詮は「補佐役」に適するように生れついている、と思うのだ。
(どうせ補佐役なら兄のそれになり、生涯主役になろうとは望まぬことだ・・・)小一郎は、そう心に決め、何度も自分にいい聞かせていた。そして同時に、乏しい禄をせっせと蓄えもした。「この人」は、兄とは違って生涯女好きでもなければ派手好みでもなかった。物欲も大きくなければ、目立ちたがりもしなかった。ただ銭を蓄えることだけは、百姓暮しの間に身についた習慣通りに続けていた。
幸い、今日までの所、大胆な兄と丁寧な弟との組合せは巧く行っている。
「小一郎、いずれまた御加増のこともあろうでなあ・・・」常に前を見つめている兄は、そんな言葉で小一郎への感謝の気持を表現した。お前の禄が少な過ぎるのは分っている。いずれ御加増頂けばお前の手当も増してやるぞ、という意味なのだ。
だが、弟は、それも望んでいなかった。ただでさえ出世を急ぐ兄が焦って失敗でもすれば大変だ、という心配の方が先に立つ。補佐役たるもの、主役がひっくり返ったのでは元も子もない。 
多忙な兄をよく支える
「藤吉郎も、ようやっとるわい」信長は甲高い声で満足気にそういった。伊勢の軍事攻略における滝川一益の働きと、京の行政における木下藤吉郎の手腕とが、この時期の信長を大いに喜ばせた。
(確かに兄もようやる・・・)この信長の言葉を伝え聞いた木下小一郎秀長は、よき兄を誇りに思った。京の安定と繁栄の功績の幾分かが、織田家の京都奉行の一人・木下藤吾郎にあることは疑いもない。小人、足軽という最下級の身から出発したにもかかわらず、兄は高貴な人々の雲集する都でも今や臆することがない。出自の賎しさに対するこだわりも消えたし、古い仕来りにとらわれることもない。主君・信長の性格と政策をそのまま反映させた木下藤吉郎のやり方が、古都に積ったしがらみを打ち破り、物事を単純化して、かえって万事を円滑にしているのだ。京人の陰湿な抵抗を排するために、木下藤吉郎のような全くかけ離れた男を奉行に就けた信長の人事は巧妙かつ効果的であったといえる。
織田信長は、こうした兄の功績を認めて、また一段と地位を高めてくれた。つい三年ほど前までは雲上人のように思えた信長の側近・武井夕庫の上位に置かれたのだ。但し、禄の加増は案外少ない。能力ある者には惜しみなく権限を与えるが、禄は比較的低く抑えて、家中のバランスを保つのが、信長流の人事管理、人材登用術である。このため、木下藤吉郎の指揮下にある京都駐留軍の大半が織田家からの「借物」で、木下家自身の家中は少ない。内部の調整に当る小一郎には、依然として苦労が尽きない。
しかも、小一郎の仕事はそれだけではない。兄の地位が高まるにつれて、その第一の家臣である小一郎も注目されるようになった。京都奉行に取り入ろうとする者はみな、その弟にもすり寄って来る。貴人高僧から大名や商人座頭まで、いろんな連中が小一郎を訪ねて来る。
(しんどい事や)と、小一郎は思う。二十歳過ぎまで尾張・中村郷の首姓であった身には、都の高貴な人々と付き合う作法がひどく窮屈だ。長ったらしい文章の往来も面倒だ。しかも、彼らの持って来る話はみな複雑でこみ入っている。都の者はみな、気の遠くなるような昔から説き起して「我が家の土地を何某が・・・」と権利回復を訴えたりする。だが、その相手方もまた同じことをいう。どの時代を基準にするかで正邪が変るのだ。
小一郎は、少しでも重要と思う問題は兄にそのまま上げる。しかし、細かな事は自分の判断を付けて兄に伝えて、決済のみ仰ぐ。そうでもしないと、兄が多忙になり過ぎるからだ。 
秀吉の前後半とでは登場人物が変わっていく
太閤秀吉の生涯を見る者は、そこに登場する人物が前半と後半とで全く変っていることに気づくだろう。秀吉が天下人となって豊臣の姓を名乗る頃に、活躍する史上の有名人のほとんどは、天正初年のこの頃にはまだ現われていない。
一方、この稿に列記した木下藤吉郎時代からの家来たちの多くは、天下人となった秀吉の周囲からは消え去っている。『太閤記』の前後半を通じて名が現われるのは、御一門衆の秀長や木下、浅野の一族を別とすれば、蜂須賀小六と堀尾茂助吉晴、それに仙石秀久、加藤光泰の四人ぐらいだが、このうち仙石、加藤の両人は一時秀吉の勘気を受けて追放されたのを、小一郎が救済して復帰させてやったものだ。
秀吉草創期の家臣たちのほとんどは、病死した竹中半兵衛らのほかは、大抵戦死するか秀吉白身の手で追放または処刑されている。先に列記した「黄母衣衆」の中でも、尾藤甚右衛門、神子田半左衛門らは刑死であり、一柳市介、宮田喜八らは戦死し、大塩金右衛門、中西弥五作らはその末路が分らない。 
正月祝いでも秀長は留守を守った
天正二年(一五七四)元旦、織田信長は岐阜城において恒例の正月祝賀の儀を行なった。生涯徹底した無神論者であったこの男も、正月だけは大いに祝う。むしろ無神論者であるが故に、正月というような無神のけじめを大事にした。信長は、神仏嫌いだがお祭行事は大好きである。
殊に、この年の正月は、織田家にとって最高に目出度い。朝倉、浅井を討ち亡ぼし、足利将軍義昭という邪魔者を追い、本願寺とも和睦をした。その上、宿敵武田信玄も天命冬きて消え去った。今は、久し振りに交戦中の敵がいないから、織田家の諸将はこぞって岐阜に参集できた。
北近江十二万石の領地を得た新大名、羽柴秀吉も、多数の組下与力の部将や織田家に降った近江の城主。豪族を引き連れて参加した。だが、その時も小一郎秀長は小谷城の留守を務めていた。誰もが出たがる晴がましい席は他人に譲り、誰かが務めねばならぬ目立たぬ役を果すのが、この人の習いとなっていた。
正月祝賀の儀は、大勢が列座する表の行事と、高位の一族。重臣だけが許される内輪の酒宴に分かれる。朝のうちに行なわれる表の行事では、大広間の正面、一段高い主君の座の信長に対して、諸将や公家、寺社の使いが次々と祝言を言上し、贈物を披露する。羽柴秀吉も御前に進み、連れて来た与力衆や近江の新参衆を信長に引き合わせた。
「何某はこれこれの功あり」とか、「何の誰はかくかくの家柄血筋」とか紹介すると、信長が短い言葉を掛けてやる。ただこれだけのことで「お目見えを得た」ことになり、武士としては大いに箔が付く。三度四度とお目見えをたまわり殿様に氏素姓まで覚えられれば、家中でも重視されるようになる。
それほどだから、武士はみなこういう席に出たがる。この機会に何人の組下や部下を殿様のお目見えに浴させるかが重臣たちの手腕となり、勢力拡張の基にもなる。この織田家で、それを最も厚かましくするのは羽柴秀吉だった。 
超多忙な織田軍
しかも、小一郎の勉学は、今日の受験生のような楽な条件で行なわれたものではない。この頃も織田家の将兵はみな、超多忙である。
織田信長は、何物かに追われるように生き急いでいた。去年は、長篠で武田勝頼を破り、越前一揆を平定した。領国内の橋と道を修理し、主な街道には並木まで植えさせた。外征。内治共に大いに進んだわけだ。これを機会に、家督を長男。信忠に譲って楽隠居するといい出し、茶道具だけを持って岐阜城を出たりしたこともあった。
だが、それも束の間、今年の正月には、近江。安土に巨城を築くことになり、着工後一カ月すると、早くも安土に移住して来た。まだ、石垣も櫓もない工事現場に仮小屋を建てて住み込んだのだ。これでは、築城総奉行の丹羽長秀はじめ、安土近くに領地を持つ羽柴秀吉や明智光秀などは落ち着いていられない。何しろ信長という人物は、遅延を嫌い言い訳を許さぬ性格である。
長浜の築城を終ったばかりの羽柴家は、またしても将兵、領民を大動員して、安土の築城を手伝った。領民の労苦も大変だが、これを治める領主も楽ではない。不安が昂じて一揆にならぬよう四辺に目を配らねばならない。食糧の手当も貨銀の支払いも公平迅速にやらねばならず、その手当に借金をすることもある。十二万石の領主になったのは有難いが、内実は火の車なのだ。
だが、事はそれだけでは済まなかった。織田信長の軍事的成功と安土進出は、各地の勢力に不安と脅威を与えもした。なかでも鋭敏な反応を示したのは大坂石山の本願寺である。そしてその本額寺の背後には、中国の毛利がついていた。
「本願寺再び不穏」の報を得た信長は、投降した旧敵、阿波の三好康長(笑岩)や、大和の原田直政、紀州の根来衆らにこれを監視させると共に、明智光秀、猪子兵介、蜂屋頼隆らを派遣した。それが刺激となったのか、本願寺は決起、再び織田家と戦端を開いた。
この年(天正四年)五月四日、織田方は三千挺の鉄砲を斉えて討ちかけたが、本願寺勢の逆襲にあい、原田直政が討死、諸勢も散り散りになり、ようやく天王寺砦に入った明智、猪子は包囲されるという大敗を喫してしまった。武田椅馬隊には絶大な効果を上げた織田鉄砲隊も、神出鬼没の本願寺勢のゲリラ戦法には翻弄されたわけである。 
兄に劣る弟と冷笑されても愚直を装って耐える秀長
「羽柴秀吉は、昨年秋の播磨討入りでも多額の借金をした。今また、大軍を擬して西下するとなると、織田信長から資金を引き出す以外にない。だが、こと金に関しては、信長も甘くはない。近江十二万石の領地に加え、「中国十カ国斬り取り次第」の特権まで得た秀吉は、自領からの収入と占領地での稼ぎで戦費を賄うのが原則になっている。信長の側から見ても、この上、秀吉にだけに資金まで与えるとなると、家中の公平さを失し、家臣団の統制を損ないかねない。秀吉が、北陸で犯した軍令違反(柴田勝家との対立から無断撤退した事件)の罪をまぬがれるために多額の金品を費消したが、それは、秀吉の責任であって信長が補填すべき事柄ではない。何よりも、この時期織田家には北の上杉謙信に備えねばならぬという事情があった。
こうした事情を考えれば、播磨の諸侯の間に離反の動きがあるという程度では、信長から大量の資金を引き出すことはできない。それは、秀吉白身の青任で行なった調略の失敗を意味するだけだからである。織田家の資金を使えるのは、誰もが納得するほどの決定的な状況が発生した場合に限られる。
しかし、こんな事情を播磨の連中に知らせるわけにはいかない。これが知れ渡れば、秀吉の権威と信用は失墜し、味方を繋ぎ止めることも行政統治もできなくなってしまう。今、小一郎が、恐怖と不安に脅えながらも、敢えて呑気な建前論を繰り返しているのは、こうした事をことごとく熟知していたからである。
たとえ、「兄に劣る弟」と冷笑されても愚直を装って耐えねばならない。補佐役たる者は、時としてあほうになり切る才覚もまた、必要なのだ。 
中国攻め渦中、功は少ない留守を守りきる
「二カ月半ほど前、宿敵武田家を完全に亡ぼした織田信長は、戦勝祝いの終るのも待たずに、天下平定の軍を四方に進めさせた。自身は武田攻めに功労大であった徳川家康を上方見物に招待したりしながらも、諸方の軍を遊ばせたりはしない。羽柴秀吉には中国毛利への攻撃再開を促し、三男の信孝と丹羽長秀には四国攻めの準備を命じる。東では滝川一益をして関東の北条を攻めさせ、北では柴田勝家に命じて越後の上杉景勝を追わしめた。織田五軍団は、徳川家康の接待役に当っている明智光秀以外、休む間もなく四方の平定に当っていたのだ。今の織田家には、四隣の敵を一度に相手にしてなお余裕あるほどの実力が備わっている。事実、北陸方面を担当する柴田勝家は、織田主力が武田領を攻め潰している間にも、上杉方の越中魚津城を陥している。羽柴秀育とて安穏とはしておれない。
羽柴秀吉は、まだ武田勝頼の死の伝わらぬ三月十五日、早くも行動を起していた。二万の大軍を率いて山陽道を西へ。目指すは毛利方の防衛前線拠点・備中高松城だった。
「今度は毛利に止めを刺す戦さじゃ。みな、心してやれい」出陣に当って兄・秀吉はそう叫んだ。天正五年に中国政めの総大将に任じられて以来丸五年間、秀吉はそういい切れるほどの優勢を築き上げていたのだ。
「楽な五年間ではなかった…」小一郎秀長はそう思う。中国攻めの総大将という大役を与えられた時、兄・秀吉は雀躍りして歓んだものだ。中国十カ国を領する毛利は、当時も今も織田家の最大の敵である。それを攻める総大将こそは、家中第一の部将である。尾張中村の水呑百姓の小停が、足軽として仕えてから二十七年やそこいらでこの地位に就けたのは奇蹟であり、信長の織田家ならではのことだ。
それだけに毛利との戦さは苦しかった。相手は二百万石の大領の主であり、唐南蛮とも交わる先進性と豊かな財源の持ち主だ。おまけに強力な水軍を摸して機動力も抜群、家中の結束も固い。その戦力と縦深性は、山国の武田家の比ではない。
だが、何より厄介だったのは毛利の外交力だ。織田信長に京を追われた足利将軍義昭を引き取り、本額寺と結び、雑賀・根来の衆を唆し、播磨の別所を叛かせるなど、巨大な外交戦略を展開して織田方を苦しめた。中でも毛利外交の白眉は、織田家の高級部将荒木村重を叛乱に導いたことだ。この時ばかりは羽柴秀吉も、危うく退路を断たれて滅亡する所だった。
だが、織田信長はそれ以上の強靭さと機動力を発揮、九州の大友らを動かして毛利の動きを牽制し、畿内の敵を一つ一つ叩き漬していった。この間、羽柴秀吉も何度か招集され、各地の戦さにこき使われた。そんな時、留守を守るのは、大抵小一郎秀長の役だった。
留守居といっても平時の城代とはわけが違う。大敵毛利と直面する最前線を、僅かな兵で守るのだから恐ろしい。兄・秀吉が主力部隊を連れて転戦している間に毛利の大軍が攻め寄せればまず命はない。内部から裏切り者がでてもいけないし、軍資金と兵糧の持ち出されたあとのやり繰りも楽ではない。それでいて、無事に終れば誰も功を認めてはくれない。そんな損な役回りを、小一郎は確実に務めた。
やがて、その甲斐はあった。戦さでも外交でも織田方が優勢になったのだ。兄・秀吉は外交調略の達人で、尼子の残党を使ったり、鳥取城主だった山名皇国を出奔させたりした。中でも最大の成果は備前、美作二カ国の領主。字書多直家を寝返らせたことだ。これによって、五十余万石の兵が鉾を逆にしたのだから大きい。今日の中国筋における織田家の優位は、これによって決したといってもよい。
去年(天正九年)の七月から十月末まで丸四カ月にわたった鳥取城の兵糧攻めを破れなかったことが、毛利軍の実力低下を如実に示している。今回の出陣に当って、兄・秀吉が「毛利に止めを刺す」と豪語したのも、これだけの背景があってのことだ。 
常に味方の力に合った戦さで連戦連勝の秀長
「世に、長久手での徳川の勝利ぼかりが名高く、伊勢での羽柴方の働きはあまり伝わっていない。自らの武名を轟かせたかった一方の主役。徳川家康と、あくまでも補佐役に徹した小一郎秀長の違いであろう。この人は、自らが築いた軍事的優位をも、兄・秀吉の外交手腕の一部に提供したのである。
それ以降の戦さになると、もう兄・秀吉の手を煩わす必要さえもなかった。小牧・長久手の戦いの翌年(天正十三年)、徳川・北畠に与した紀州の根来・雑費の僧徒や四国の長宗我部元親らを平定したのは、小一郎秀長だ。そして、のちに(天正十五年)九州全島をまたたく間に平定したのもこの人である。兄・秀吉が、多少とも戦場らしき所に立ったのは、小高が四国の終戦処理に当っている間に起った嘩中の佐々成政攻めの時ぐらいで、あとの戦さでは、秀吉はただ小高の攻め取った跡を賑々しく歩いて見せただけである。
長久手の戦いで局地的勝利を収めた徳川家康が、結局は秀吉の軍門に降らざるを得なかったのも、小一郎秀長が四隣を平定してしまったからだ。小牧の対陣から一年経つと、徳川は依然として五カ国を持つだけなのに、羽柴は七カ国の領地を加え、北畠・長宗我部を味方にしていたのだから、家康も抵抗のしようがなかったのだ。
だが、小一郎秀長が行なったこれらの平定戦も、誰にでもできるほど容易いものではなかった。現に、長久手では甥の秀次が大敗しているし、九州平定戦では先行した仙石秀久、長宗我部元親らが、戸次川の合戦で島津の強兵に惨敗を喫している。戦さは、大勢力を背にすれば必ず勝てるほど単純なものではない。
その点、小一郎秀長の戦勝記録は凄まじい。小一郎は生涯のうちに大小百回以上も戦場に立ったが、一度として失敗したことがなかった。弱兵寡勢を率いる時はよく守って崩れず、大軍を持つ時はけれん味のない戦術で故に乗ずる隙を与えなかった。何よりもこの人が得意としたのは、兵軸と諸将の調整だ。小一郎は、将にも兵にも安心感を与える術を心得ていたのである。
そんな小一郎の作戦には、武勇を誇る土佐兵も、勇猛第一といわれた薩摩隼人も、手も足も出なかった。戸次川で、仙石、長宗我部、大友の大軍を破った島津勢も、この人が来るとたちまち薩摩一国に追い詰められてしまう。
小一郎は、常に味方の力に合った戦さをした。そんな戦さができるのは、功名を狙うことも名声を求めることもなく、補佐役に徹した人間の特権なのかも知れない。
しかし、小一郎秀長が賎ケ岳の合戦以降に卑した功績は、軍事よりも内治にこそ大きい。天正十年の山崎の合戦から同十三年の四国平定までの丸三年間に、羽柴秀吉は織田家の一部将から天下人に成上った。羽柴の領地は一挙に十倍、動員兵力も一万から十万になった。しかも、かつての主筋に当る北畠信雄や伝統ある大大名の毛利、上杉らをも従えたのだ。内治も諸大名との関わりも一挙に変えねばならない。だが、それに当る人材と組織は三年の間にできるものではない。
例えば、今、どこかの大企業の子会社だった中堅企業が、三年の間に事業規模が十倍になり、従業員数が一万人から十万人になり、かつての親会社をはじめ数々の一流大企業を買収して足下に収める好運に恵まれたとしたら、この会社の経営陣はどれほど忙しいだろうか。かつては親会社の人事本部や財務本部に統括されていた人事。資金も、今はこちらが指導しなければならない。グループ全体の調整も必要だし、政治家、役所、諸外国との付き合いも一挙に増える。しかもこの会社は、もとはといえば二流の子会社、人材は乏しいとあっては、トップのオーバーワークは避けられまい。
天正十三年、紀州、四国を平定し、徳川家康を配下に加えた頃の羽柴家とは、そんなものだった。軍事的勝利はしたものの、内治の不備は著しい。人材の不足はいうまで濁ない。これまで秀吉の部下として働いた連中は、戦さの経験は豊富でも内治には暗い。昔ながらに大声を張り上げて駆け廻るばかりで、規則も手続きもわきまえない。文字さえ読めぬ者さえ少なくない。加藤光泰や神子田正治のように、急に大領を得たのに有頂天になって、片っ瑞から浪人者を雇い入れて破産する阿呆さえ多かった。彼らには、四万石で雇える人間の数さえ分らなかったのである。
一方、のちに豊臣政権の政治で重きをなす文治派官僚はまだ若かった。石田三成はやっと二十五歳、大谷吉継もほぼ同じ、四十歳になっていた増田長盛も購ケ岳ではまだ槍働きをする程度の地位だったし、長束正家は丹羽長秀の経理担当者だった。 
 
前田利家

 

拾阿弥を斬って勘当され牢人になる
その後、拾阿弥は信長の威光にかばわれていると知って、利家を侮蔑する態度が露骨になってきた。
家中の侍たちのあいだでも、武辺をもって知られた利家が意地をつらぬくか否かが話題になった。たとえ主君の意に反しても傷つけられた面目を回復するため、拾阿弥を斬るべきだという意見が馬廻り衆のあいだに多い。
「よからあず。信長旦那が何と仰せであろうと、拾阿弥めを首にしてやるだわ」蝉の声が降るような油照りの昼さがり、利家は二の丸曲輪の馬場先で、向うから歩いてくる拾阿弥と行き会った。
茶筅髷の刷毛先を風になびかせ歩み寄る利家の、殺気を放射する両眼に射すくめられ足をとめた拾阿弥は、傍の矢倉で信長が涼んでいるのを見て安堵し、胸を張って近寄ってきた。
まさか信長の眼前で狼藉ははたらくまいとたかをくくっていた拾阿弥は、利家が刀を抜いたのを見て仰天した。
「旦那さま、お助けを」絶叫した拾阿弥の首は、刀の一閃を浴び宙に飛んでいた。
信長は利家が自分の目前で拾阿弥を斬ったのを見て、血相を変えた。
「あやつは儂が仕置が気に入らぬとて面当ていたしおっただぎゃ。この場を去らせず成敗もしてくれようぞ」信長は矢倉から駆け下りようとしたが、柴田勝家、森三左衛門(可成)が立ちふさがった。信長は勝家の厚い胸を突きとばそうとしたがこゆるぎもしない。
「退け、権六。三左も何をいたす。儂の袖をつかみ取りおさゆるつもりか。両人ともに利家同様斬りすててくれようぞ」勝家は信長の両肩を押えた手をはなさなかった。
「旦那さま、何卒お気をお鎮め下されませ。又左は得がたき武者にてござりまする。手癖の許しき拾阿弥を討ち果せしとて、血気にはやりしのみなれば、お見逃がしなされませ。侍の意地をたてしまでにござりまするに。かほどの罪にて又左を成敗なされば、旦那さまになつきし侍衆も輿をさますは必定と存じまするだわ」「権六殿の申さるる通りにござりますれば、又左を勘当なさるるともご成敗はなりませぬわい」勝家と三左衛門がとりついて離れないので、二人を引きずって動こうとした信長はしだいに平静をとりもどした。
「よからあず。又左めは今日限り勘当いたす。いずれへなりと出てうせよ」信長はそのまま奥御殿へ入ってしまった。
利家は牢人するよりほかはなかった。彼はのちに「亜相公夜話」で述懐している。
「人というものは非運の境涯に打ち沈んでみなければ、友の善悪もおのれが心底も分からぬものよ。儂は若年の頃拾阿弥を斬りしゆえ牢人いたせしが、そのときにはかねて兄弟同様仲のよかりし朋輩はおおかたが見舞いにもきてくれざったわい。森三左と柴田勝家のほかには、二、三の御小姓が心を通わせてくれしのみじゃ」利家は熱田の社家松岡氏に寄食した。柴田勝家らが松岡に頼み、新館を預かってもらったのである。
血気さかんな利家は信長の勘当が不当な措置であると憤り、連夜酒を幹んでは荒れ狂う。膂力すぐれた利家をなだめるのは容易ではない。 
桶狭間で功をあげても勘当は解かれなかった
藤八郎は首実検の場へでかけるまえ、利家に告げた。
「馬廻り衆のあいだにては兄弟がはたらきをほめる声が高うござるでなん。儂も肩身が広いというものでや。さすがは又左が槍だわ。冑首三つを取りしと評判だで」利家はうなずきもせず濁酒をあおっているが、内心ではこれで勘当が許されようと安堵していた。
「皆の衆、追手御門の御馬場へおいで召されよ。間なしに御首実検にござるだで」使い番が触れにきて、利家たちが遠侍の溜り場を出ようとしたとき、直垂姿の柴田勝家が急ぎ足にあらわれた。
勝家は利家を手招いた。
「又左よ、こなたへ参れ」利家は勝家の立つ木陰へゆく。
「おのしゃあ短気者ゆえ、立腹すりや慮外のふるまいをいたすやも知れぬ。儂が何をいうたとて腹立てぬと約定いたせ」「いきなり何と仰せられる。権六殿こそおちつき召されよ」利家はするどい眼差しになった。
勝家はまばたきして、どもりながらいう。
「信長旦那はのん、おのしはいまだ勘当いたしおるゆえ、実検の場には出るなとの仰せだわ」利家は全身から力が抜けおちるような落胆を覚えた。
勝家は利家の肩に手を置きなぐさめる。
「われらが旦那にはひとかどの流儀がござるだで。万夫不当の勇気あるお方なれば、主人と仰ぎ一命を預けて悔いなきご器量よ。それゆえおのしもいまはつれなきお扱いを受くるともひたすらに耐えよ。旦那はのん、おのしほどが猛者をば心底より見捨てなさるるわけはない。しばしは時を待ちて、いま一度手柄をたてよ。そのときこそ儂がおのしの帰参を願い出てやらあず。あとへは退かぬだわ」 
勘当が許され信長側近に
利家がいう。「いま思いだしてござりまするに。それがしが六兵衛に槍を打ち落され、とっさにあやつの槍の柄をつかみ、太刀を抜いて斬りつけしところ、引きはずされ腰帯をつかまれ投げ飛ばされて、気が遠くなりかけてござりまする」「ほう、そのときに斬り棄てられなんだものよのう」「さようにござりまする。死にもの狂いにはね起き、あやつの右肘を斬り落せしゆえ寿命をつなぎし次第と存じまするに」利家は信長から大盃を受け、一気に呑みほした。
利家は三百貫の知行を与えられ、帰参を許された。石高に直せば三千石以上である。
彼は清洲に屋敷を与えられ、妻子とともに住む。信長側近の青年将校としての威勢がふたたび戻ってきた。
利家は新居の庭先で幼ない娘を抱き、幸運をよろこぶ。
「陣馬にて稼ぐときは、一寸先は闇だわ。いつ首を取られるやら分らぬままにもがきまわり、われにかえればわが身は安泰にて、敵の亡骸が前に転がりおる。まことに思うてみれば、修羅の巷よのん。命さえつながっておればこのように勘当も許され、郎党を数多く養うほどの所領も拝領いたすこととあいなるだわ。この世のことは運任せにて、先をはかれぬものだで」
利家は家族むつまじく暮らしているときも将来いかなる運が待っているやら分らないと考える。彼の身内で荒々しい殺気がうごめく。いかなる危難が襲いかかってきても、この五体に満ちあふれる力で押しひしいで通るまでだと、彼は霧に包まれたような不安な前途を見渡す。 
織田と浅井の大喧嘩を止めた武勇伝
勝家も激昂した三田村勢に斬りつけられ、やむをえず数人を倒した。
「喧嘩じゃ、尾張衆を皆殺しにしてやれ」浅井勢の長屋から大勢の足軽衆が得物を手にしてあれわれ、柴田勢に襲いかかる。尾張衆はついに総崩れとなり、浅井長政の寄宿する清水寺の辺りまで追われてきた。
このとき赤母衣を背負った前田利家が長槍をかかえあらわれた。
「汝わはいずれの者でや。狼藉いたさばその分には差し置かぬぞ」利家は怒号し、長槍をふるい浅井の足軽衆を殴りつけ薙ぎはらう。
彼は雲霞の軍兵を相手にたじろかず荒れ狂い、柴田勢はようやく踏みとどまった。
喧嘩による死傷者は織田側が五百人、浅井側が三百五、六十人であった。大規模な合戦に匹敵する損害であった。
騒動がおさまったあと、前田利家の名が両家の軍兵のあいだに知れ渡った。
「あの皆朱の槍を振りまわして、われらの前に立ちふさがった侍は、よほどの命知らずじゃ」「まことにさようじゃのう。何千人のわれらが固執の狂いたって押し寄するのを、たんだひとりでくいとめおったからには、よほどの胆玉よ」浅井家陣所で、利家の噂をする者が多かったが、織田家の長屋でもおなじ声が聞かれた。
「あのときばかりは、又左が槍のありがたさが身に沁みて分ったでや。大波のうねるがように押し寄せてくる浅井の者どもの前に、一騎駆けにて立ちふさがるは常人のなしうる技にてはない。おそろしき男だで」殺人の技に慣れた数千人の荒くれ男が血しぶきあげて乱闘する有様はすさまじいものであった。近寄るさえはばかられる修羅場に単身で馬を乗りいれ、なだれをうって寄せてくる浅井の軍兵たちを押しとどめたのは、槍先の威力ばかりではなかった。
狂いたつ浅井勢が足をとめたのは利家が鬼神のように見えたからであった。生死の境を切りぬけてきた軍兵たちには、利家常人の域をぬきんでた気魄が伝わったのである。利家の噂は信長の耳にもとどいた。 
賤ケ岳の戦いの後、勝家、秀吉との対面
戦場を離脱した勝家は近臣百余人とともに北国街道を北へ走り、橡ノ木峠を越え越前に戻り、虎杖(福井県南条郡、今の板野)、今ノ庄(南条郡)を経て府中(武生市)に達した。
府中城には利家父子が帰着していた。勝家は城門をあけさせ入城した。
柴田勢が軽崩れになったのは、利家の戦場離脱が原因であったが、勝家はその行為を一切咎めなかった。
利家の家来のうちには勝家を討ちとり、秀吉への手柄にせよとすすめる者もいたが、利家は一蹴した。
「親父殿に刃をむけられるかや。やむなきことにてありしとはいえ、面目なきばかりだわ」具足をつけた利家は勝家を城内へ招く。
「朝からの取りあいにて腹が減ったでや。湯漬を所望いたす」利家が酒肴を出すと勝家主従は腹を満たした。
「いまひとつ無心いたすが、替え馬を呉れぬかや」勝家は馬を貰うと、利家に別れの挨拶をした。
「このたびは又左にいろいろと骨折りをしてもろうたが、かくあいなりしうえは秀吉を頼むがよい。儂に義理をたてることはなきゆえにのん」柴田勝家が利家の退却をなぜ責めなかったのか。利家の予想外の行動は柴田勢全軍の敗北につながる重大な背信であったが、勝家は利家の主人ではなく、織田政権下の北国衆として前田領と境界を接する国主である。
利家は隣国の誼みで勝家に味方して出陣したが、織田政権の主導権を握ろうとする勝家と秀吉との抗争に際し、いずれか一方に加担しなければならない理由を持っていない。
柴田、羽柴双方の諸将のうちに、事の成りゆきに従い合戦に参加したが、戦闘に積極的に協力する意志が乏しいまま中立の態度を保とうとする者が多かった。
賤ケ岳を守る桑山重晴、岩崎山の高山重友がともに戦わず逃げたのも、利家と同様の立場にいたからである。
利家は娘の豪を秀吉の養女としている。また勝家のもとへおなじく娘の摩阿を人質としてつかわしている。双方に誼みを通じていた利家が戦わずに退却したのを、勝家はつよく責めることができない。
勝家は甥の盛政と意見がくいちがい、堅剛に殺到する秀吉の大軍をまえに、全兵力を二分するという、作戦指揮のうえで重大な失策を犯した。
利家が退却せざるをえないような状況を、勝家と盛政がつくりだしたといえる。勝家が利家をつよくなじることがなかったのは、このためである。
勝家が府中を離れ、北ノ庄城へ帰ったあと、利家はまもなく押し寄せてくる羽柴勢に抵抗するため防備を固めた。
「鉄砲を持つ者を、城下より集めて外曲輪に置け」城下の猟師、地侍を狩り集め陣形をととのえるうち、二十一日夜、羽柴勢があらわれ銃撃戦がはじまった。
府中城では外曲輪に侵入しようとする羽柴勢と城兵とのあいだに白兵戦がおこなわれ、死傷者も出たが、二十二日に秀吉が府中に到着し、和議を申し出た。
「川角太閤記」によれば、秀吉は府中城追手門の際まで馬を進め、利家父子の安否を問い、門をひらかせ奥へ通った。
利家の妻まつが出迎えると、秀吉は上機嫌で告げた。
「嬶殿よ、このたびの合戦はご亭主の又左殿が勝たせてくれたでや」まつは手をつき、戦勝を祝う。
「羽柴殿にはこのたびのご大勝、祝着至極に存じまする。こののちは亭主利家と息子利勝をば、お馬のお口取りになと追い使うてちょーでいあすわせ」 
前田利太(慶治)
いつのまにか屈強な家来数人があらわれ、利太は彼らに命じる。
「この足を買いしゆえ、屋敷へ戻り金子を持参いたせ」主人は足を利太の膝の下に組み敷かれて身動きできず、泣きだした。
「わたいが悪うござりまいた。どうぞ勘弁なはっとくれやす」利太は叱りつけた。
「商人の店先は戦場じゃ。侍が真剣にて命の遣り取りをいたすとおなじ気合いにて商いをいたさねばならぬに、勘弁せよとは何事か。このうえはどうあっても足を切り取って持ち帰るぞ」
店先は黒山の人だかりである。
町じゅうの寄合衆、年寄が出てきて侘びをするが利太は聞きいれない。
町奉行が仲裁に入って、ようやく利太は手を引いた。この事件ののち、京都の町なかで不作法な姿で商いをする者がいなくなったという。
利太が利家のもとを離れ上杉景家に仕えたのは、義父利久の死後まもない頃であったようである。
「常山紀談」によれば、利太が金沢を出奔したのは、行状を利家に意見されたためであった。
利太はひとりごとをいった。「たとえ、一万戸の封地を持つ大名であっても、自由に行動できなければ匹夫にひとしい哀れな境涯である。このうえは出奔して、勝手なふるまいをいたし世を送ろうよ」
利太は一日、利家に申しあげた。「茶をおもてなしいたしとう存じますれば、おいでられませ」利家はよろこんだ。
「おのしが茶をふるもうてくれるか。よろこんで参ろうぞ」利家は利太の屋敷へきた。
利太は風呂に水をたたえておき、利家を誘った。
「温風呂をたててござりまするに。おはいりなされませ」「おう、これは心ゆきとどきしもてなしだわ」利家は湯殿へゆく。
利太は自ら湯加減を見るふりをしていう。
「ちょうどよき按配にござりまするわなも」利家は風呂に入り、冷水と知って飛び出し小姓に命じた。
「馬鹿者にあざむかれ、水風呂に入ったぞ。あやつを引っくくって連れて参れ」小姓たちが利太を捕らえようと戸外へ走りでたが遅かった。
利太は裏門の前に置いていた松風という駿馬に乗り、鞭鐙をあわせ駆け去った。 
北条征伐、秀吉の心境を知り抜く
秀吉本陣にいた利家は、八王子城を陥れてのちも昵懇衆が役目をはたすことなく遠ざけられていた。
浅野長政が利家を従前の通り側近に置くよう進言したが、秀吉はゆるさなかった。利家は秀吉の内心を知りぬいている。
いったん落度を責めた家来をたやすくゆるせば、威厳をそこなうことになると思っているのである。
「月日は薬だわ。日数をかさぬるうちに殿下はわれらが落度を忘れなさるるだで」利家は秀吉の眼につく場所に身を置くのをはばかっているが、存在を知られるように巧みにふるまっている。
彼は北条氏直が和睦をもとめ、城を出て家康陣所をたずねたと聞き、膝をうった。
「これにて上さまが天下一統の光栄が成ったるぞ。天下に名だたる北条の家ももはや仕舞いとあいならあず。あわれなるものよのう」「上さまは氏直殿に上総、下総二カ国をお渡しなさるると聞いてござりますが、なにゆえ仕舞いとなるのでござりましょう」家来が聞くと利家はこともなげにいった。
「おのしゃあ褌がゆるんでおるのだわ。締めなおせ。上さまは先方より降参いたせし者には何のみやげも呉れてはやらぬわい。みやげを出すのは相手が手ごわきはたらきをいたしおるあいだのことよ。まずは見ておるがよい。愚かなる氏直めが、横っ面を力まかせにはたかるるがごとき目にあうはが必定だで」事態は利家の予測の通り進展した。 
秀吉の天下、利家はすさまじい攻撃性と用心深さをかねそなえていた
利家は関東諸城攻撃の際、北条勢に対する扱いが寛大にすぎたとして秀吉の怒りを買った。敵勢の降伏をゆるし、調略によって城を陥落させる方針は、利家が独断でおこなったのではなく、浅野長政、木村一と合議したうえでとったものである。
武州鉢形城を明渡させるとき、利家、長政と木村一が連署して発した制札の前二条はつぎのようなものであった。
(町田文書)
「一、鉢形城うけとる者ども濫妨無道の儀、一銭切りになすべきこと。
一、地衆と喧嘩口論の儀、理非を立ていれず、まずこなたの者を成敗せしむべきこと。」
鉢形城をうけとる味方の軍勢が乱暴狼藉をしたときは、一銭を盗んだ者を斬りすてる厳罰の方針をとる。
城にたてこもっていた地元の侍衆と味方の兵が喧嘩口論をしたときは、理非を論ずることなく、まず味方の兵を処断するという制札の文面は、敵に寛大にすぎると見られてもしかたのない内容である。
だがこの件によって譴責されるならば、浅野長政、木村一も同罪である。
岩沢よしひこ氏の研究によれば、利家は松井田城を草したのち、武蔵、上野の夏年貢の取りたて、制札御判銭の上納額、松井田城に置く守備隊、降伏させた新田、桐生両城から上納させる御礼銭の額、城内に蓄えられていた兵粮の処分についての指示を仰ぎ、秀吉はこれに対し詳細な指示を与えているという。
利家が占領方針について秀吉の蒜にそむき、独断専行した形跡はないと見ていい。
秀吉は利家のとった戦法、軍勢の指揮に不満を示したのではなかった。彼は百年にわたって関東に覇をとなえた北条氏の勢力を一掃するためには、地侍を徹底弾圧しなければならないとみていた。
これまで農兵組織を形成していた武士家族の農村復帰を、秀吉は認めなかった。兵農を分離してゆく方針をうちだしはじめていたのである。
上杉景勝、前田利家のとった、降伏する者を許し優遇する方針は、秀吉が今後全国に命令する厳しい検地をおこなううえで寛大にすぎた。
「上様のおそろしさは、いまでは信長旦那とかわらぬだわ」利家はひそかに利長にいう。
「昔の秀吉と、いまの上様は別のお人柄だわ。天下人ともなれば、あのようにお人柄が変るものかのん。そらおそろしきばかりだで」秀吉は信長麾下の侍大将の頃は、柴田勝家、丹羽長秀、前田利家ら譜代衆の歴々に会うと愛想笑いをして腰を屈めすれちがった。
異風な「又左が槍」が前方にみえると、秀吉は怯え眼を伏せ、見あげるような長身の利家に道を譲った。
−あの時分を思わば夢のようだわ。昔の籐吉郎は、儂が素槍をひっさげて出でしのみにて、顔色あおざめ横丁へ逃げいりしが、人の運気と申すは分らぬものだで。いまでは儂が上様の不興を買わぬかと怯えおるだわ。思えばなさけなきものよ。バサラの又左といわれしほどの者が、猿のひと睨みにすくみあがるだわ−
命がけでの戦場往来をかさねたあげくに得た八十余万石の所領は、いったんわがものとすれば子々孫々に無事に伝えたい。そのためには、かつては眼中になかった秀吉の威嚇をうければ怯えざるをえない。
利家は豪胆と細心、槍先に一身を預けるすさまじい攻撃性と、妻に蓄財の癖をたしなめられるほどの用心深さをかねそなえていた。 
名護屋では多くの大名たちと交わり、孤立しがちな大小名にあたたかく接する
名護屋が朝鮮渡海の根拠地となったのは、潮流のぐあいがよいためであった。博多からではいったん西へ迂回する航路をとらねばならない。
名護屋在陣中、秀吉は茶湯、連歌、蹴鞠、能、囃子、踊り、舟遊び、瓜畑遊びなどさまざまの遊技をみずから楽しみ、将士にもすすめた。
利家も屋敷内に茶室を設けた。
利家の茶室には博多の豪商で茶人として天下に聞えた神屋宗湛、秀吉の侍医、秘書官である施薬院全宗が招かれた。
利家は家康との喧嘩騒動以後、疎遠に傾く伊達政宗との間柄を旧にもどすため、揃いの小袖をつけさせた数百人の家来たちの行列を伊達の陣所へつかわし、黙り踊りを披露させた。
政宗は利家の気遣いをよろこび、家来たちを集め返礼の踊り興行をする。利家はかねて密接な関係をもつ北国大名、織田政権以来の朋輩である諸大名との縁をさらにふかめるいっぽう、あらたな知己を得ようとこころがけた。
全国大小名のあいだにわが名をひろめ、勢力を扶植するには、名護屋在陣のうちに交際を八方にひろめるべきであった。
利家、家康はともにできるだけ多くの大名たちと交わるようつとめている。
奥羽の大名は言葉の訛りがつよく、上方衆とつきあいにくいうえに、派手な消費生活に馴染んでいないので、名護屋での暮らしむきに苦労が多かった。
陸奥九戸城主の南部信直は国許への書状につぎのような事情を記している。
「上方衆は遠国者が気がきかぬととかくなぶりがちに扱おうとするので、あまり他出しないでいる。ただ月に一度ずつ前田利家殿のところへでかけ、諸国大名との交際をするうえで恥をかかないようこころがけているばかりである」利家は名護屋在陣中、あまり羽振りのよくない孤立しがちな大小名にあたたかく接し、彼らが秀吉に叱責されるようなことがあれば事情を詳しく聞きとったうえでとりなしてやる。
心細い状態で日を送っている弱小大名は、彼らにとって眩しいばかりの存在である利家からとりわけて親密な扱いをうければ、ありがたさが身にしみて忘れられない。
秀吉が大坂城に滞在しているあいだ、利家と家康は政権にとって重要な過書の発行など交通行政を負担していた。
「多聞院日記」などによると、秀吉が朝鮮渡海を思いとどまった時期に京都では利家が渡海するとの噂が流れていた。彼が豊臣政権の重要人物として政権の重要人物として政権にいた証拠であるといえる。
利家は名護屋での生活が気にいっていた。作戦の進みぐあいでは朝鮮へ向うことになるかもしれないが、できることならいまのままでの日送りをしたいと考えている。彼にはいとしい側室のちよがいた。 
前田利家、利長父子の仲が睦まじかったことを伝える挿話
前田利家、利長父子の仲が睦まじかったことを伝える挿話は数多いが、文禄三年四月に利家が利長に銀五百枚を贈ったこともそのひとつである。
銀五百枚といえば、現代の三十億円に相当する。
利家は名護屋在陣のあいだ、利長から兵粮、金銀、人足を加勢させたので「すりきり」となっているであろうと案じていた。「すりきり」とは窮乏の意である。
利長は利家が彼の手許不如意を懸念していると聞くと、文禄三年春、あかね袋に金子五百枚をいれたものを、聚楽の利家屋敷へ持ちこんで見せた。
利家はことのほかによろこんだ。村井豊後、奥村助右衛門らがおどろいてみせた。
「肥前(利長)さまには、これほどの貯えをお持ちなされておらるるとは、思い及ばざることにてござりまいた」利家は腹をゆすって笑う。
「儂は肥前がすりきりいたしおるべしと推量せしゆえ、金子千枚ほどをつかわすべしと思いおりしが、かようの貯えを見せしは父母に孝行の仁をなす者だわ」利家は秀吉の式正がお成りも無事に終ってのち、村井豊後を使者として金子五百枚を利長のもとへ持参させた。
「これはなにゆえに下さるのじゃ。手許は足りておるに」利長が不審に思って聞くと、村井豊後は笑って利家の口上が伝えた。
「大殿さまには、金子は千枚ほどもお持ち候えば、何事についても心案じ申さざるものゆえと仰せられ、これをご進上なされしものにござりまするに」利長は金子を受けとり、ひとかたならず感動した様子で、豊後にみやげとして金子二十枚、袷、単衣の衣類を与えた。
家臣たちはその様子を伝え聞き、よろこびあった。
「父、父たり、子、子たりとはかようの事をいうのであろう」伏見築城並量絹のときも利家父子は扶けあった。
前田家は宇治川をせきとめる大工事を命ぜられたが、そのとき利家がいった。
「宇治川をせき切るとは、末代までに聞ゆる普請にてあらあず。儂も土俵を持ちはこびいたしてやらあず」利家は家来たちのとめるのもかまわず、背の高い家来を呼ぶ。
「刑部よ、こなたへ参れ。儂と畚を運ぼうではないかや」斎藤刑部という家来は利家とともに天秤棒で畚をかつぎ、土俵を二度はこんだ。
彼はわざと転んでしおらしげにいう。
「大殿さまは御大力者なれば、私は肩が痛うてなりませぬ」利家はことのほか機嫌よく笑い、さらに長九郎左衛門連龍の家来で六十歳ばかりの鈴木という者を相手に数度畚を運んだ。
利長も全身に汗を流すまで畚運びに精を出した。
「大殿さまがなさるることを、われらが幾層倍かいたしてあたりまえじゃ」その夜、まつが利家をひやかした。
「年寄りのひや水とは申しまするが、さても上さまは中納言の位にても、畚をお持ち遊ばされしとは驚きいってござりまするわなも」利家は笑って答えた。
「宇治川をせきとむるは古今になきことゆえ、中納言が土俵を持ったのだで」利家の伏見屋敷は伏見城月見櫓の堀ひとえ下に設けられることとなった。
非常の際には一番にかけつけられる場所に屋敷地を与えられたのは、秀吉の信頼がもっとも解かったことをうらづけている事実である。
利家は壮年の頃までは「又左が槍」の勇名をうたわれ、その武辺は天下にかくれもないものであったが、算勘にあかるく細心な反面もそなえていた。 
秀頼後見として利家の地位は高まった
実際の博役は、利家ひとりであったわけである。
秀頼後見として、豊臣政権における利家の地位は従来よりもなお高まった。秀吉は利家に預けていた越中新川郡一郡をあらためて加俸し、さらに秀次の伏見屋敷を利家に与えた。
利家は八月二十四日に拝領した屋敷に入った。これによって秀次亡きあとの空隙を利家が埋めたかのような外見となり、彼と秀吉との絆がいっそう強まった。
秀吉は十月二十四日、利家に招かれ茶会に出向いた。相伴は家康、金森法印、織田有楽斎である。
「ここの座敷もなかなかに趣ありてよき眺めだわ」秀吉は秀次を切腹させ、妻妾、家来を処断したことも忘れたかのように上機嫌で茶を飲み、書院で相伴衆と歓談し酒宴にのぞみ、夜がふけてのち伏見城へ帰った。
同月二十六日にも茶湯昼会がおこなわれ、秀吉はふたたび出向く。「菅利家卿語話」に、つぎのような挿話が記されている。
秀次が切腹してのち、秀吉はつぎの意向をもらした。
「こののちは大納言(利家)をお拾の博といたすなれば、あとをよく頼まねばならぬ。ついては、秀次の所領なりし美濃、伊勢を大納言にやろうと思うだで」側近の石田三成、増田長盛らは日頃利家と対立していたので、さっそく言上した。
「御意はごもっともにござりますれども、利家は世にならびなき武辺者にて、さてまた短気者にて上さまのお扱いを薄しと存ずれば、その日にも謀叛つかまつりかねまじき仁にて、至って外聞を気づかいおりまする。されば関白さまのご普請なされしお屋敷は、いまほどは伏見にて一番の出来ばえなれば、それをおつかわしになられ、さてまた越中新川郡をご加増なされませ。名あって実なきこそよけれ。利家に関白さま御旧領をおやりなされば、あやつは増長いたし、上さまに弓を引かんとの存外なるたくらみをいたすやも知れませぬ」
利家は三成らの讒訴について伝え聞いても笑いすて、動じる様子がなかった。 
金沢繁栄の基礎をつくる
金沢の名は天文十五年(一五四六)以降用いられてきた。利家が入城してのち金沢の地名が、それまでの尾山にかわりひろくいいならわされるようになる。
金沢の名称は、金を掘る沢という意で、昔金沢城の南に沢があり、そこが金い沢といわれたという。
犀川上流の片麻岩層に金が含まれており、河流に削られた岩盤の土砂のうちに砂金がまじっていた。
玉泉院丸から金谷出丸の辺りで砂金が多量に採掘された時期は、長くつづいた。
利家は尾山に入城すると、佐久間盛政在城以来の尾山八町が町並みを大改造した。彼は大手門前一帯の尾坂下の地域に、尾張町を中心とする諸町をいとなんだ。
その辺りはかつて浄土真宗道場が集まっていたが、利家は町人町に変貌させ、他宗派寺院を招く。
尾張町は利家が尾張荒子に在住のとき、前田家に出入りしていた町人たちを呼び寄せ住まわせ、町造りをはじめたものである。
尾張町がひろがり、あらたに新町と呼ぶ地域が開発され、さらに金沢城正面から北国街道に沿う中町が形成されていった。
利家は尾坂下に米座を裁許する商人たちをあつめたので、尾張町、十間町に米仲買、米商人が軒をつらねた。 
利家は家康との決戦は避けられないものと見ていた
三成は豊臣政権の台所を預る奉行として、数十万の軍勢を遠征させても、兵站を確立させる卓抜な能力をそなえているが、良らの才能に頼りすぎるきらいがあった。
わが意見に絶大な自信をもち、他人のいうところに耳をかさない。巨大な政権を運営してゆくために、三成のような行政、経理の能力をそなえた幕僚は必要である。
だが前線で命をかけて戦う武将たちは、三成の指図をしばしば不服とした。彼らはいう。
「算勘ばかりで、兵を動かせしこともなき者の采配が聞けようか」右近は利家のために諸大名の動向を探っていた。彼は豊臣氏が家康勢力と対決するのは、利家在世のあいだでなければならないと見ている。彼は利家にすすめた。
「上さまが薨じなされしなれば、大納言さまのおとりなさるべき道は、ただひとつにござりまする。内府はかならず御掟がそむく挙に出でて参りまするゆえ、そのときに時を移さず非をなじり、一気に打ち亡ぼさるることにありと存じまする。合戦には潮時があることはよくご承知なれば、いまさら申しあぐるまでもござりますまい」「あいわかった。儂もさよう心掛けておるだわ。儂の死にたるのちにては、豊臣家のお味方数十万の軍勢に采配いたす器量ある者はおらぬでなん」利家も、家康との決戦は避けられないものと見ていた。
右近はいう。「内府は用心ぶかきゆえ、はじめはなにかと小細工をいたし、たやすくは仕掛けて参らぬと存じますれば、そのときを狙いひと打ちに打ちひしぐべきものであろうと勘考いたしまする」利家もおなじ考えを抱いていた。
「その通りだわ。あれは粘り腰つよきゆえ、いったん長陣に持ちこめばうるさき相手だわ。合戦のかけひきは、儂も心得ておる。右近殿はこののち諸侍の内輪の様子を探ってくれい」「かしこまってござりまする」利家はわが命もながくないと見ていた。彼は秀吉亡きあと、なんとしても秀頼を天下人の座にすえたいと念願している。
そのためには武力に訴え、家康を亡きものにしなければならない。
「治部少(三成)は、いかにも煮えきらぬ男だで。奉行などいたし、御本陣ばかりにおりしゆえか。あれも賤ケ岳にて一番槍をつかまつりし頃は、なかなかに気性はげしき者にてありしが、いまでは内府と一戦いたすことなく済むものならば、そうありたしなどと甘き考えをいたしおる。あれでは内府に裏をかかれ、辛き目を見るは必定でや」
右近は前田家の前途を、あらまし予想していた。利家の在世するあいだであれば、家康勢力を一気に覆滅することは可能である。豊臣方の諸大名は、利家の采配に全幅の信頼をおいている。 
病床での家康との対面で子・利長を頼む
利家は訪れた家康を中の間の病床で迎えた。家康には有馬晴信だけが同道していた。家康に供奉する侍たちは、書院のつぎの聞から玄関に至るどの座敷にも満ちあふれ、酒肴の饗応をうける。
酒席がにぎわう頃、黒衣をつけた石田三成が座敷に姿をあらわしたので、家康の家来たちは興をさました。
利家は家康の盃に酒をつぎ、刀をみやげに差しだしつつ頼んだ。
「それがしは、はやこれが暇乞いにて死にまする。肥前(利長)がこと頼み申しまするぞ」家康は利家の衰えたさまをあらためて眺め、涙をこぼす。有馬晴信ももらい泣きをした。家康は利家の頼みにこたえず、なぐさめるのみであった。
「大納言様には、やがてやがて御気色もよくなられ、めでたきご本復にもなられそ候て、お料理上手におわすなれば、それがしもそれを食べたきものにござるだわ」家康の接待は神谷信濃がとりおこない、村井勘十郎がともに酌をした。
大坂に屋敷を構える諸大名はすべて前田屋敷へ出向き、酒宴に列したので、屋敷のうちは立錐の余地もない有様であった。
家康一行が前田屋敷を辞去したのち、利家は利長を病床へ呼ぶ。傍には右近のほかに誰もいない。
利家は布団の下から氷のように磨ぎすました抜き身の大刀を取りだし、利長に見せていった。
「今朝ほど、おのしに心得ておるかやといいしとき、器量を持ちての返答をいたせしならば、すなわち内府に会いて、この場を去らせず斬り殺せしだわ。されどもおのしが応答は、腑抜けしものなりしゆえ、内府を殺すのをやめしでや。あやつを殺さば天下に立つ者はおらぬがや。五奉行はじめ、器量の老二人もなくては、家康ほどの者にても生かせておかねばならず。おのしがことをあやつに頼みしだわ」
利家は利長にいった。「それがしが死にてのちも、前田の家に別条はなかろうよ。おのしはおとなしきゆえ、天下はやがて家康が手に入ろうとも、滅ぼされはせぬだで」利家は家康が伏見へ帰ってのち、病床での明け暮れを過ごした。 
近習小姓たちに昔話を語り聞かす
彼は病床で気分のよいとき、近習小姓たちに昔話を語り聞かす。飽きることなくわが過去を話すのは、前田家を支える重臣となるであろう若者どもに、人生においてわきまえねばならない生きてゆくための智恵を、いい残しておいてやろうとの配慮からであった。
近習たちは利家の言葉を胸中に刻みつけた。
利家は焙じ茶に唇をうるおしつつ、昔話を語った。
「儂が若きときにてありし。信長旦那がお眼をかけたる茶坊主が、銀の金具を盗みおってのん。儂は旦那のおらるる矢倉の下にてそやつを斬りすて、勘当とあいなりしだわ。そのとき、儂が朋輩にてお傍衆をつとめし者どもの、常は兄弟ほどに仲よき衆はいずれも沙汰なく、しかじか見舞いもいたさぎりしだわ。佐々内蔵助はその茶坊主をかわいがりしゆえ、そのときより儂と仲あしくなり、のちのちまでも敵のごとく憎みあいしだで」
利家は紙よりも薄かった同僚のふるまいを思いだすかのように、眼をとじる。
「儂がつきあいし友の数は多かれども、牢人いたせし難義の最中に、森三左衛門(可成)、柴田修理(勝家)殿のほか、二、三人ばかりが儂を扶けてくれしだわ。また関東陣にて小田原征伐のみぎり、太閤さまに讒言いたされ、御前を遠ざけられしとき、これまた儂がもとへ日頃出入りいたし目をかけてやりし者どもは、おおかた儂が仇となり、讒訴をかさねしだわ。われらの人数一万有余これあるを、太閤さまにわずか四、五千なりなどと申しあぐる痴れ者もありしだでなん。しかれども蒲生飛騨(氏郷)、浅野弾正(長政)などは、太閤さまが御前にてことのほか、儂のために弁じてくれしだわ。とかく人間は牢人したし、あるいは讒訴されしとき味方してくれる者はすくなく、心もひがむものだわ」
近習たちは利家が、猪子内匠、住吉屋宗無などが牢人したとき、利家があたたかい心配りをした理由に、あらためて気づく思いであった。 
小姓たちをわが子のように慈しんだ
利家はいう。「かようのことは、さだめて勘十郎などがわざにてあるべし。さようであろうがや」同座の者はどっと笑い崩れ、利家はいたずらを咎めず機嫌がよかった。
利家近習の奥野金佐衛門、小塚藤十郎、村井勘十郎ら、年少の小姓たちは、昼夜側近に侍し、日が暮れると疲れて夜咄の席で居眠りをすることがあった。
そのとき利家は顔色を変え、きびしく叱責した。
「儂が信長旦那にご奉公いたせしとき、御前にてさようなふるまいをいたせしならば、たちまち役を替えられたであろうがや。こののちさようのふるまいをいたさば、小姓には使わぬでや」利家は小姓たちに厳格な態度で臨んだが、実際はこまかく配慮をしてわが子のようにいつししんだ。
利家は夜咄を夜の白むまでつづけたのち、しばらく閨へ入ったかと思うと起床する。金沢城に在城のとき、前夜遅くまで家老たちを集め咄したのち、短かい熟睡からさめた彼は、隣座敷で眠りこんでいる小姓たちを起さないよう、物音をたてず床をはなれ、庭へ出た。
その様子を見たじゅようという茶坊主が、気をきかせたつもりで小姓たちに声をかけて起した。
「お殿さまは、はやさきほどお起き遊ばされ、表へお出でなされてござりまするぞ」小姓たちはおどろいて床をはなれ、利家の傍らへ従った。
利家はことのほか機嫌がわるく、茶坊主を叱りつける。
「子供には夜昼のさかいなく詰め奉公させておるゆえ、わざわざ儂がそろりと起きて、寝させてやろうといたせしに、誰が起せと申せしかや。ここな出過ぎ者めが」彼は腹立ちをおさえかね、茶坊主を杖で二、三度打ちすえた。
利家は村井勘十郎がもっとも年少であるのに勤めにはげむのを見て、とりわけてかわいがり、彼が寝ているといつまでも起させず、頃あいがよかろうと思うと自分で呼び起した。
「もはや、刻限も参りしぞ。子供よ起きやれい」その様子は、祖父が孫をいつくし心ようであった。 
利家とまつの生涯
まつとしての自主性・独立性に基づいて利家と共生していた
戦国時代は、いわゆる「危機の連続」の時代だ。信長、秀吉、二人の天下人に仕え、加賀百万石の礎を築いた前田利家と、その正室まつ(松とも書く)夫婦の場合は、時代としての危機に、「個人」としての危機の連続が加わった。したがって、かれら二人は、時代と個人の両面から危機のダブルパンチを受けていた。かれらの生涯は、「危機の克服」の生涯といっていい。
女性が男性に意見をいったり、あるいはその補助をしたりするのを、「内助の功」という。山内一豊の妻・千代が、へそくりを出して織田信長が開催した馬揃え(閲兵式)のときに、貧しい夫に立派な馬を買ったエピソードが、その有名な例だ。ところが千代は、実はもっと積極的な貢献をしている。関ケ原の合戦がはじまる直前に、千代は自分の判断で上方の状況を詳しく調べ、それを夫と同時に徳川家康にも手紙で詳細に知らせているのだ。家康が会津の上杉征伐を突然断念し、Uターンして上方に戻ってきたのは、この山内一豊の妻の手紙が大きく働いたからだといわれる。これは千代が自分自身の判断で行なったことであって、別に夫の一豊からいわれてやったことではない。
千代には、女性としての自主性・独立性と自己判断というものがあったことになる。いまでいう、
情報の収集
情報の分析判断
摘出した問題点についての考察
どうすればよいかという選択肢の設定
などを、自力で行なつたといえる。これは男性をしのぐような行動であった。したがって家康が感動したのである。
前田利家の妻まつの場合も同じだ。
まつは単に夫の利家に対して、「内助の功」を打ち立てたわけではない。まつはまつとしての自主性・独立性に基づいて、自分の意志と行動力を持っていた。つまり、戦国時代には他にも例の多い、「自覚した一個の女性」としての立場を守っていた。
そうなると、夫と共に暮らしているからといっても、常に内助の功を行なうということにはならない。むしろ、現在でもしばしばいわれる、「男性との共生」といっていい。いってみれば、「二人三脚で、訪れる危機を一つひとつ克服していった」ということだ。
まつとねねの友情は生涯続く
当然、話題は亭主のことになる。まつもねねも、このころは少女から娘の域に達していたから、多少分別も出てきた。ということは、亭主に対する欲も出てくる。欲が出れば、競争心もわく。したがって、話は「亭主殿の今後」ということにも及んだ。男たちの話していることを、二人ともよく耳にしていたので、
「どちらのご亭主殿が、先に一国一城の主になるかしら」などということを話題にする。まつは、「それは、わたくしの亭主殿に決まっているでしょう」と胸を張る。「あら、そうかしら」と、ねねは目を丸くして、「違うでしょう。先に一国一城の主になるのは、うちの亭主殿ですよ」といい返す。しばらくの間は二人とも、「うちのほうが先だ」といい合っているが、しまいにはばかばかしくなって、「どちらでもいいではありませぬか」と、手を打ち合わせ、肩を抱き合って笑い合った。まさに姉と妹のような親密さである。(中略)
「どちらの亭主が先に一国一城の主になっても、わたしたちはいままでどおり仲良くしましょうね」ということでは一致していた。そんなことで気まずい思いをしたくなかった。別な見方をすれば、「亭主は亭主、わたしたちはわたしたち」と、夫たちとは切り離した女性だの別世界を二人で構築していたということになる。これは、生涯続く。夫が死んだ後、ねねは高台院、また、まつは芳春院と、院号を名乗る。しかし、二人の親しい心のこもった交遊は、死ぬまで続く。
前田家を守るために徳川の人質になる
利家の死後、前田家は危構に襲われる。それは、前田利長の動向に、「豊臣家に謀反の色あり」というガセネタを家康が飛ばしたからだ。そして家康ら、「豊臣家の名において、前田利長を討代する」と宣言した。
驚いたのが、前田家である。このとき、敢然と、「そんな事実はございません。わたくしが人質となって前田家の証しを立てましょう」といって、すでに将軍職に就いていた徳川秀忠のいる江戸城へ、自ら人質になって出掛けていったのが、利家の死後、剃髪して芳春院となったまつだった。
まつは江戸幕府における女性の人質の第一号である。まつはその後、十数年を江戸城で過ごす。江戸での暮らしは、まさに人質としてのものであった。豊臣家が滅びた綾、ようやくはじめて金沢への帰国を許される。まつは六十八歳になっていた。
利家とまつは共生
共生というのは
互いに互いの人格を重んずる。どちらが「主」で、どちらが「従」だという関係は保たない
お互いの能力を、自主性を持って発揮する。それなりに実績を上げる
しかし、得られた実績は互いに差し出し合い、プラスするか、あるいは、掛け算のような相乗効果を狙う場合もある
そして、結果得られた利益は、平等に分配する
というような関係だろう。前多利家とまつは、まさしくこういう関係を保ち続けた。 
前田家三百年
前田利家−信長・秀吉から冷遇、天下思想を理解できず
「財政通」なのだ。しかしソロバン勘定の達者なかれが、果たしてどこまで、この、「信長の天下思想」を理解していただろうか。それは、政治プロパーの理想家と、数字重視の財政家(現実主義者)とは、根幹での発送が全く違うからである。信長が前田利家を、最後まで北陸の地に釘付けにしたまま、「天下人として行う中央政治の補佐役」として重用しなかったのには、それなりの理由があるのではなかろうか。つまり、「利家の能力の限界」というか、自分との資質の差を見抜いていたような気がする。そしてこの、「冷遇」は、そのまま信長が死んだあとの大下人、豊臣秀吉の時代にも引き継がれる。秀吉は確かに晩年において、「五大老の一人」並びに、「相続人秀頼の博役」として利家を利川する。しかしそれは、徳川家康という油断のならない存在にに対する押さえとして利家を利用したのであって、信長以来秀吉に引き継がれてきた、「あゆち思想の日本国内への普及」という事業の理念を、利家が完全に理解していたと評価したわけではあるまい。
前田利家−自分に生きる道を探る、マイナスをプラスに
若い頃からの友人である利家に対しても、「おまえさんは、北陸の押さえとしてずっとそこにいてもらいたい」ということだ。裏返せば、「中央政権には関与しなくていい」ということである。そうなると前田利家の考え方も、次第に独自なものに変わらざるをえない。それは、信長や秀吉から冷遇された、「屈辱感や劣等感をどうプラスに変えるか」ということだ。冷遇というのは、受け身の受け止め方だ。しかし利家はこれを、「打って出る前向きのパワーに変えよう」と思った。それは、この段階にいたって、かれもようやく「それ以外、自分に生きる道はない」と考えたからである。この、「マイナス要因を、プラスに転換させる」ということがそのまま、「百万石文化の創造」に結びついて行く。そこまで利家がそえたかどうかはわからないが、信長・秀吉の政治行動を見ていて、「俺には到底あの考えに追いついて行けるだけの能力がない」と、どこかの段階で利家は認識したことだろう。その方面での自分の能力の限界をさとったのだ。そうなると、「自分の能力で展開できる事業というのは一体なにか」ということに思い致す。それが、利家の、「北陸における文化国の建設」であった。もっといえば、「俺なりのかぶき精神・ばさら精神を、この北陸において実現しよう」ということである。この辺から、前田利家の「天下からの分離」がはじまる。今の言葉を使えば、「北陸での気方自治主義の実現」である。
前田利家−北陸文化立国は中央の理解者がいないと不可能
前田利家はつくづくと、(今後は、秀吉の力を無視しては、何ごともなし得ない)ということを感じた。織田信長からいわれた、「あゆち思想を、北陸で実現する」ということについても同じだ。現在でいえば、「中央集権の枠の中でしか、地方自治は保てない」ということだ。利家は改めて、「人間関係の大切さ」を向けるようになった。それは、「北国に、ひとつの文化立国を行う上でも、中央に理解者と、協力者を沢山増やさなければ、実現は不可能だ」
利家の原体験を生かす、弱い立場、苦しい立場に置かれた方々に声を掛ける
一夜、利家はこのことをまつに語った。まつは頷いた。
「ようやく、そこにお気付きになりましたか」と笑った。まつは、「そのようなお仲間をお増やしになるのには、やはり弱い立場、苦しい立場に置かれた方々に、お声を掛けるのがよろしうございまし⊥う」といった。それは若き日の利家が、同朋衆の十阿称を殺した時の浪人生活の苦しさを、まつも、「利家の原体験」として忘れなかったからである。あの時利家が一番心を慰められたのは、やはり自分に同情し、一日も早く信長の怒りを解いてくれるように尽力してくれた柴田勝家らわずかな先輩たちであった。その柴田勝家も滅びた。前田利家は、木下籐吉郎時代から秀吉とは昵懇だ。秀吉の性格も知り尽くしている。天下人となった秀吉は、その政権を維持するためには、今までのような調子のよさだけでは保てない。やはり、非情な手も打つに違いない。
(そういう時に、弱い立場・苦しい立場に立った者を擁護することが、今後の俺の仕事の一つになるかもしれない)利家はそう思った。この考えに立って、かれが擁護した大名に豊後の大友宗麟や、陸奥の南部信直、あるいは同じ伊達政宗などがいる。
前田利家の遺言状
自分の病気はもう回復できない。近々死ぬだろう。死んだら長持入れて金沢へ送り、野田山に葬って欲しい。
自分が死んだら、二男の利政を金沢へ戻し、金沢城の居留守役にせよ。利長・利政兄弟のもとで、軍勢は一万六千人ほどあるはずだ、そのうち、八千は大阪に詰めさせ、残りの八千は金沢に置いて利政の命令で動かせ。時の勢いで大阪で面倒が生じ、秀頼様に謀反を起こそうとするものが出た場合は、利政は八千の軍勢を連れて上洛し、利長と一つとなって力を尽くすように。その時金沢城の留守は、篠原出羽守一孝と利長の腹心の者一人を添えるように。
自分が隠居料としてもらっていた加賀石川と河北および越中氷見郡の土地は、利長に与える。能登の一万五千石は、利政へ残したらどうだろうか。
判金千枚、脇差三振、刀五腰に札を着けて置いたから、利政に渡して欲しい。その外は帳面に書いてある。残らず利長へ譲る。
金沢に置いてある金銀諸道具は、全部帳面に書いておいた。利長におく。しかし、自分が死んでから三年間は、利長は加賀へ戻ってはならない。まあ、そのうちに徳川家康たちとの対立も薄らぐだろう。
武道ばかりに熱中するのはよくない。文武二道の武士は少ないが、分別がいいものだ。こういう武士をいろいろな情報を集めて探し出し、新参でもいいから情けをかけて召し抱えるべきだ。 
 
蒲生氏郷

 

信長の商人の扱いに習う
「いいか、氏郷」そういって話をつづけた。
「天下取りであらせられる信長さまは、商人、特に行商人からおまえに話したようなことを学んでも、それはそのまま役に立つ。しかし、常に汲の上の木の葉のように揺れ動くわれわれは、きれいごとだけでは済まない。いわば、信長さまは行商人から美しいことだけを学んでいる。しかし、おれたちはそうはいかない。この日野の里で、おれと、おまえの父親が、どれほど商人を優遇してきたかおまえもよく知っているはずだ。が、その商人たちがおれたちに対してどういうことをしたか。決して、信長さまのいう美しいことだけではないぞ。商人たちは時におれたちを騙す。それも、悪辣な騙しようをする。あいつらはずるい。いいか、氏郷、おれが、商人たちから学ぶのは、信長さまのいうような実しいことではなく、逆にずるさと醜さだ。このことをしっかりと腹にすえておけ。商人に騙されてはならん。戦国大名として生きぬくためには、決して商人のずるさに騙されてはならんのだ。おまえが学ぶべきは、むしろ商人の美しさではなく、ずるさだ。信長さまに騙されてはならない」
「……」氏郷は唖然としていた。なかばロをあけて祖父の顔を凝視していた。
(なんという酷いことを!)胸の中で、しきりに抗議の声が騒いだ。しかし、それはロに出せなかった。というのは、氏郷は、祖父がいっていることも、決して荒唐無稽なことだとは思わなかったからである。かれは、子供の噴から、祖父と父が保護してきた日野の里の商人の実態を知っていた。この里で商いを営む商人たちは、たしかに、美しさよりもずるさを全面に出した。そうしなければ生きていけなかったからである。祖父の語ることは、決して事実を歪めているのではない。
(が、それだけでいいのだろうか?)氏郷は考えた。たしかに商人にずるさがあることは事実だ。が、祖父のいっていることはいままでの商人のあり方であって、信長さまのいっているのは、これからの商人のありようだ。祖父は間違っていると思った。しかしそれをロにすれば、祖父は怒るだろう。
祖父や父が、冬姫を、必ずしも歓迎しないのは、そういうずるさに満ちた商人から学んだ原則が二人を支配しているのではないかが
美しさと醜さとは、楯の両面である。表と裏だ。信長さまは表を語り、祖父は裏を語っている。が、どちらを選ぶかは別な問題だ。おれはどちらを選ぶのか?そう考えて氏郷は心を決めた。
(美しさを選ぼう。信長さまのいう商人のいいところを学ぼう)それは信長が、商人をたんに支配者を富ませる税の負担者として扱うのではなく、もっと人間的な扱いをしていたからだ。かれらの創造性や自主性を重んじ、人間として生きていく様を信長は見ていてよろこんでいた。武士でなくても、そういうような営みができることを信長は信長なりに評価していた。信長は幅の広い人間だった。器量の大きい人間である。
(祖父は間違っている)と思った。祖父のこだわる商人たちのずるさや、古さは、信長さまの主張する新しさや、知恵によって粉々に打ち砕かれるだろうと思った。その時は、祖父や父も、日野の里の商人の古さにしがみついているわけにはいかなくなる。必ずその日がくると少年の氏郷は思った。 
秀吉は時間の常識を打ち破って勝利
信長による桶狭間の奇襲などは、敵の意表に出て、その弱点に味方の兵力を敢然集中する戦法だ。
秀吉は信長に学ぶところが大きい。が、このところの中国の諸城、三木城の掛し殺し、鳥取城の飢え殺し、高松城の水攻めで見せた大規模な土木工事的攻城戦は、かつて日本の将のだれもが考え出せなかった独創の片鱗をあらわにした。そして山崎の合戦に至る中国地方からの大転戦は、一気に多くの諸将の意識を一変させてしまった。
合戦の勝敗を決する最も重大な要素は、ほかでもない、「時間である」ということを、光秀との戦いで秀吉は万人の胸に鮮やかに印象づけて見せたのだ。
それまで、だれ一人として時間の常識にしばられ、二時間は二時間、一日は一日、五日は五日というように、一様に同じ思考の上に立って物事を考えてきた。
秀吉が高松城から兵を返すには、どう急いでも十日はかかる。いや、毛利方に対する処置を考えれば半月以上はくぎづけになるはずである。だれもがそう思う。そして、すべての考えがそれを前提として構築されていく。
明智光秀にしても、柴田勝家にしても、そして蒲生父子も、「時間の常識を打ち破る」ということの、いかに勝敗を決する重要事項であるか、ということに気づいてはいなかった。
ところが秀吉という男ただ一人が、一刻一秒の時の流れと競い、これを追い越すかのように、時間の常識にしばられている人々の頭をかすめとんで、本来、絶対にその地には存在し得ない時間に、忽然と全軍兵を集結させてしまっていたので凍る。
いや、秀吉はこの一事に自分の考えられるだけのすべてを掛け、他を犠牲にして顧みなかったのだ。これは、氏郷に、いまでも繰り返し身体中を震撼させるだけの衛撃を与えた。そして、同時に、その一事のお除で、自分はまだこの世にいる、という思いを痛切に味わわせられた。
あの時、柴田勝家は、この一事を腰の片隅にすら、想い浮かべなかっただろう。だからゆっくりと進軍した。そして「時間」を失った。勝家はいってみれば秀吉に負けたのではなく、時間に敗れたのだ。 
部下に対して給与と情が車の両輪を使う
「かれの本領は、部下に対する基本的な考え方にあると思う」「基本的な考え方とは?」聞き返す家康に、秀吉はこう答えた。
それは、氏郷がいつもロにすることだが、部下に対しては、給与と情が車の両輪だということだ。どっちが欠けても駄目だ、ということをかれはよくいっている。情一辺倒では部下が増長するし、また情だけで、給与を与えなければ、不満に思う者も出てくる、この二つの輪をうまく使いこなすことが、人使いに一番大事なことだ、ということです」「給与と情は車の両輪−なるほど、うまいことをいいますな」。 
利家と家康の見方を見誤る
「もし、太閤殿下にもしものことがおありになったときは、秀次さまの家臣になりますか?」氏郷は、笑ってこう答えた。
「だれが、あんな愚か者の部下になるものか」部下は、この答えを聞いて、「それでは、次に天下の主となるのはどなたでしょうか?」氏郷は答えた。
「まず前田利家だ」「もし、前田さまが天下の主にならないときは、どなたさまがおなりでしょうか?徳川家康さまでしょうか?」部下もなかなかしつこい。氏郷は、笑いながらいった。
「前田殿がならないときは、このおれがなる。徳川殿は、部下に給与をケチっていて、あんな器量では、とうてい天下の主にはなれない」
それなりに蒲生氏郷の、他の大名に対する見方が現れている。しかし、徳川家康と前田利家に対する見方は、完全に誤っていた。こういう誤算が、蒲生氏郷にとってのその後を、悲劇的なものにしたのかもしれない。蒲生氏郷は、少し自信が強すぎた。蒲生日野の六万石から、伊勢松坂十二万石になり、やがて会津黒川四十二万石になったあと、さらに九十二万右の大大名にまで立身すれば、多少そういう驕りが出てくるのかもしれない。向かうところ敵なしという気概が吹き上がり、(やがては、天下そのものも取れるかもしれない)と思いはじめたのだ。それはなによりもかれが、(おれは信長公の婿だ)と思っていたからである。 
怯弱なわが子への思い
氏郷に対する太閤秀吉の愛惜の念もあるにせよ、次代秀行による蒲生家は自分の力のみでは威令をおよぼしえない、「太閤取立て」の権威によってのみかろうじて成り立ちうる大名と化していくのである。
そしてさらに、三年後に、蒲生家家臣団の内紛(蒲生四郎兵衛と蒲生左文郷可らの対立)を収められぬことを理由に、秀行は宇都宮十二万石に転封されてしまう。
だが、そうした行く末は、いまの氏郷にはわかりようはずもない。しかしながら、自分の身体の内部を蝕みつつある病魔と、怯弱なわが子の質を想えば、聡明、深慮の氏郷の心には、自ずと闇莫たる気持が湧いた。
氏郷は、仁右衛門の隣に端座している仁五郎に向かっていった。
「おまえが武家の家に生まれた看であったら、おれの手元に置いて戦さの駆け引き、人の扱いを教えてみたいが、おまえの父の話から推しておまえを決して手放しはすまい。だが、これだけはいっておこう。信長さまがおまえと同じ十三歳の時のおれにいった言葉だ。それはな、いつの世にあっても、人を衝き動かすものは時代の空気だ、これを他に先んじて感受できる者のみが、天下に静をとなえうる、ということだ。天下に覇をとなえるとは、なにも武人のごとく武力や権力を行使できる、ということだけではない。おまえの父のように、商いで立つ者たちにとっては、その人と、商法と、家が万人に認められるということだ。おまえも、いまよりあと、この言葉を忘れるな。また、おれがいまひとことつけ加えるとすれば、これから以後、武力がものをいう時代は終息に向かい、その次にくるものは、治国太平の世だ。そうなれば、国を富ませるのは、おまえたち商人の力に負うところが大きくなる。常に世の流れを見きわめ、人の心の底にある欲望というものを、じっと見詰めていかねばならないぞ。人間の欲望は、本能に根ぎした醜いものもあれやそればかりではなく、心をなぐさめ、精神を高めようとする限りない額望もある。心のなぐさめや美しさといったものは、なにも公家や権力者や富んだ者のみがこれを求めるのではない。一介の庶民に至るまで、心の底にひそめているものだ。ただ、その日の糧を求める看たちにとっては、飢えを凌ぎ、寒さを防ぐことにいまは追われているだけのこと。それらが満たされたあとは、たとえ表れる形は違っても美しいもの、心のやすらぎをもたらせてくれるものに、無意識のうちに気が向いていくものだ。人の欲するものがなにかを絶えず読み取りつづけなければなら。ないおまえたち商人にとっても、この事は忘れてはならぬことだ。仁五郎、おれの言葉の意味がわかるか」
鶴千代にでも語り聞かせるかのような氏郷の口調に、それまで瞳を据えてじっと氏郷を見詰めながら聴いていた仁五郎が、「はい。いま、お言葉のすべてがわかったわけではございませんが、これから折り折りに、父に教えてもらって、宰相さまのお教えをかみしめるようにいたします」 
会津若松の町を開いた恩人
やっと、会津の拠点に戻れたのは、翌文禄二年十一月二十四日であった。そして、前に書いたように翌三年正月には、すぐまた京都に向かった。なんともめまぐるしい移動であった。
そういう意味からいえば、蒲生氏郷は、いまでも、「会津若松の町を開いた恩人」といわれているが、実際にかれが会津若松にいたのは、天正十八年から文禄四年のあしかけ六年である。
しかも、実際に会津に滞在したのは、通算して、半年間にすぎない。
が、その間に、かれは現在も、会津若松開拓の恩人といわれるほどの業績を上げたのである。落ち着いて、かれが会津で仕事をしたのは、天正十八年の秋と、文禄元年の春だけである。それも、城造り、町造りの構想を示すにとどまって、かれが自らその指揮を取ったわけではない。それにもかかわらず、かれがいまだに会津開発の恩人だといわれるのは、なんといっても、かれの優れた都市計画力と、また実際の都市造成力にあったといっていいだろう。
西野仁右衛門父子と会ったあと、蒲生氏郷は会津若松を発って京都に行った。京都にいる豊臣秀吉が、蒲生氏郷を放さないのだ。おそらく、秀吉は不安なのだろう。侵略が必ずしも思うように進んでいない。朝鮮軍も強い。豊臣軍は、勝つ戦場もあったが、負ける戦場もあった。全体的に戦線は膠着状況にあった。それが秀吉を焦らせ、いたたまれない不安感を持たせる。
そういう時の秀吉にとって、氏郷は精神安定剤になる。氏郷がそばにいるというだけで、心のやすらぎを覚える。そういう活用のされ方に、氏郷は別段異を唱えなかった。かれ自身も体力が非常に弱っていたからである。
蒲生氏郷は、九州の名護屋城にいた頃から、次第に健康が思わしくなくなっていた。ときおりめまいがした。自分を支えるのに、冷や汗を流すような努力をつづけていたが、そのことは口に出さなかった。 
三成の讒言で蒲生家断絶は秀吉は決めていた
二月七日、蒲生氏郷は死んだ。四十歳であった。
辞世は、前にも触れたように、
限りあれば吹かねど花は散るものを
心短き春の山凰
とされた。かつて、京都で千利休と詠み合った歌である。
氏郷が死んだあと、豊臣秀吉は相続人として、鶴千代を指名した。鶴千代は蒲生秀行と名を変え、会津若松城の城主となった。しかし、秀吉はまるまる秀行に氏郷の跡を継がせたのではなかった。次のような布告を発している。
鶴千代を相続人とする。
家康の息女を嫁づける。
鶴千代は秀吉の東北における名代とする。
台所のことは、氏郷が定めたとおりとし、なお、徳川家康、前田利家、前田玄以、浅野長吉らの指示に従うこと。
城持、年寄らは、相続人である鶴千代に誓紙を出して忠誠を誓うこと。
一見すると、秀吉は少年の秀行に、温かい保護策を講じたというように読める。
が、実態は違った。ここで重要なのは、台所、すなわち経営のことについては、徳川家康ほか、三人の大名の指示に従えということだ。これは、見方を変えれば、蒲生氏郷の所領を秀吉が取り上げ、家康たちに合同経営させるということだ。その名代として、秀行を置いたということになる。結局、ていのいい所領没収であった。鶴千代改め秀行は、そう扱われていたのである。その証拠に、まもなく蒲生家には内紛が起こり、怒った秀吉は、秀行を宇都宮十二万石に、減封してしまう。そして、蒲生家はやがて滅びてしまう。
その意味では、蒲生家断絶は、かなり前からの規定の路線であって、石田三成の讒言が、豊臣秀吉を動かし、秀吉は毒して蒲生氏郷を警戒していたといっていい。この警戒心は、徳川家康にも引き継がれ、ジワジワと氏郷の子、孫をいたぶって、結局は家そのものを潰したのだ。なぜ、警戒されたかといえば、やはり、いくら隠しても蒲生氏郷が持っていた、天下への野望を見ぬかれていたためだろう。秀吉も家康も、その点は敏感だった。氏郷は、生前、徳川家康とはかなり親しくいろいろな助言を受けているが、その助言が家康の本心からの友情に基づいていたのかどうか疑問だ。徳川家康は狸おやじだった。 
 
宇喜多秀家

 

主人の給与は家臣のために使い果たす
直家は五十余人の総勢のうち、十人を屋形と城の留守居に置き、逃げる敵を追う。海賊の人数は味方に倍するが、直家たちの奇襲をうけ、陣形を乱したので、反撃の態勢をととのえられない。
直家たちは宙を飛ぶように走り、兵船の碇泊している浜辺に迫った。
「あれを見い。やっとるぞ」直家は海上を指さす。
篝火を燃やす三腹の兵船から、十六人の宇喜多勢が射かける矢をうけた海賊たちは、水際で右往左往していた。
彼らは兵船の人影をめがけ、さかんに矢を射かけるが、舷に立てつらねた掻楯のかげにいる直家の家来たちは、巧みに身を隠して防ぎ矢をするので、多くの海賊が矢を受けた。
直家は引き連れてきた同勢に命じた。
「まだ斬りこむんは早いけえ、しばらく矢戦をせえ」闇中で弓弦が鳴り、軍兵たちのかけ声がひびく。
海賊たちは横手から矢を射かけられ、度を失った。
「こりや、いけん。もう支えられんぞ。船を取り返すまでに、皆やられようぞ。散れ、散れ。ここにおりやあ、皆殺しにされらあ」彼らは、槍を担ぎ四方へ逃げ走る。
直家らは、すかさず彼らのあとを追った。
ふだんは残忍な所業に慣れた鬼のような海賊たちも、追ってくる城兵の足音を聞くと、魔物に襲いかかられるような恐怖に駆られ、悲鳴をあげ、息をきらせて逃げるばかりである。
直家は敵に追いすがり、槍を横薙ぎに振って倒し、家来にいった。
「それ、こやつの首をとれ」彼は、足をもつれさせてよろめき逃げるあらたな敵を、背中から突く。槍先に胸板をつらぬかれた相手は、空をつかみ倒れる。すばやく槍を手もとに引いた直家は、つぎの敵を求めて走った。
半刻ほどの戦いで、宇喜多勢は海賊五十余人を倒し、十余人を生け捕りにした。
「海賊の船は、乙子の浜へまわせ。生け捕りにした奴輩は、弓を引けんように肱の筋を切って追い放せ」宇喜多勢は兵船に乗りこみ、櫓を操って磯伝いに乙子へ戻った。
翌朝、直家は戦勝の祝宴をひらいた。
犬島海賊に大打撃を与えた直家の声威はあがった。直家をほめたたえる評判を聞き、彼のもとへ復帰する旧臣があいついだ。 
織田方につき戦さの大博打に命をかける
宇喜多直家は一万余人の兵を備前と播磨の国境に集め、畿内の情勢を見守っていた。
「石山本山には三万俵の兵粮が入ったけえ、織田がいかに天下の兵をこぞって攻めたてようとも、こゆるぎもせんじゃろう。石山のまわりは大川、沼地が取り囲んどるけえ、攻めロは天王寺ロばかりよ。織田もいよいよ危ねえことになったもんじゃが。毛利は淡路岩屋と明石に陣を進めておるが、なんというても瀬戸内の船手が総がかりで出張っておるけえ、海は押さえられてもしかたがなかろう。いま信長は紀州の雑賀衆を攻めに出向いたというが、合戦に勝って紀州を平均すればよし、仕損じりやあすべてはおしまいだ。毛利が織田にかわり、公方を押したて上洛することになろう。そうなりやあ、儂らは遅れてはならんぞ。播州一国をわが手で切り従えるぐらいのことをせにゃあ、おえんぞ」
直家は家老、属将たちと軍議を練った。
彼は毛利と同盟して播州に勢力を延ばし、さらにつぎの発展にむけ策謀をめぐらす。わが命のあるかぎり、領土の拡張をはかるのみである。
直家の脳中には、祖父の無残な最後の姿が鮮明に残っている。彼は祖父にかわって、宇喜多氏を大発展させねばならない。
−浮世には善もなけりやあ悪もねえぞ。力の強え者が弱え者を討ち亡ぼして、わが領分をふやしていきょうても、誰も悪人とはいわんのじゃ。弱え者は正しいことをしとっても、悪者にされらあ。ほんじゃけえ、戦にゃあ負けるわけにいかんのじゃ−
考えて見れば、合戦は大博打であった。勝つか負けるか、いずれにしても確率五十パーセントの博打である。
勝てば相手の財産がすべてわが手に入る。負ければ何もかも失い、わが命まで奪われる。
戦国武将は、大博打うちである。
戦いに勝つために、もっとも必要なことは情報の収集であった。敵の内情を探り、その戦力を把握してはじめて勝機をつかむことができる。
直家は多数の細作(間者)を駆使して、四方の情況を探らせていた。 
秀吉は母・お福を側人にする
岡山城に入った秀吉は、浮田忠家以下の重臣たちに迎えられ、本丸主殴で具足を脱ぎ、湯風呂で道中の塵を落とす。
「八郎穀とお福の方に目見えいたすに、むさき姿ではなるまい。五体を磨きたて、香をたきしめて参るが、武士のたしなみだで」風呂からあがった秀吉は、紫地に萌黄、自、コバルト、赤の色もあざやかな、南蛮模様を染めだした絹地の小袖をつけ、皮袴に縫箔の肩衣を着て、大広間へ出向いた。
上段の間に、小姓、女中を従えた八郎とお福が待っており、秀吉を見ると色代(挨拶)をした。お福は薄紅小袖のうえに、金銀箔置きのうちかけをかさねていた。
−これは、噂に聞きしよりも勝る尤物だわ−
秀吉はお福の艶やかな容姿にこぼれるような色香を見て、思わず胸の鼓動をたかめた。
お福は三人の子を持つ三十七歳の、開ききった花であった。秀吉は小柄な体躯には似あわない、戦場往来で鍛えあげた響きのこもった力づよい声音で、声をかける。
「八郎殿は母御に似て、姿のよき若君だわ。兵法を身につけ成人いたさば、世に稀なるすぐれし大将分におなり遊ばすでござろう。儂は先年男子を失いしゆえ、八郎殿がようなる若君を、猶子にいたしたきものよ。儂が子となれば、侍従にも取りたて、大大名となるようにはからおうぞ」「お懇ろなる思召しのほど、かたじけのう存じまする」八郎がたしかな口調で礼を述べた。秀吉がかさねていう。
「いかがかな。お福殿。八郎殿に羽柴の家をも嗣いでもらいたきものだで」「身にあまるお情けにて、もったいなきばかりにござりまする」秀吉は目を細め、お福の甘やかな声を聞いた。彼は岡山城に三日間滞在した。そのあいだ、お福は毎夜彼と閨をともにした。 
秀吉の養女・豪姫を妻に迎える
宇喜多秀家が、豪姫を妻に迎えると決まったとき、諸大名の羨望が彼にあつまった。豪姫の父前田利家は加賀百万石の太守で、秀吉の信任がもっともあつい大名である。
豪姫は、秀吉と利家がともに織田政権の侍大将で、隣り合った長屋に住んでいた頃、利家の側室の子として生まれ、むつきのうちから秀吉に貰われ、北政所が手塩にかけて育てた。
才気にあふれた豪姫は、父に似て大柄な美貌の姫君であった。秀吉夫妻は彼女を実子のように思っている。その秘蔵の子を、秀家が妻とすれば、今後のさらなる栄進は、疑いなかった。
秀吉は摂津茨木へ鷹狩りに出向いた際、持参するはずであった百両ほどの砂金を、聚楽第の自室に置き忘れできたので、金子を管理する役の老女に調べるよう、申しつけている。
当時の金子百両は、現代の六千万円に相当する価値がある。わずか数日のあいだの鷹狩りに、それほどの砂金を持参したのは、諸人にチップを与えるためであろう。
日本の金銀山の開発は、戦国期に入った頃からしだいにさかんになり、ゴールド・ラッシュの様相を呈し、豊臣政権下では「金銀野山に湧きいで」と形容されるように、ピークに達していた。
大名のあいだでは金銀が外交の道具に使われ、贈答がおこなわれる。極東へ進出してきたヨーロッパ人たちは、日本が黄金の国であると見て、蜜にたかる蟻のように長崎へおとずれ、貿易の道をひらこうとした。
日本が弱小国であれば、たちまち彼らの侵略をうけたであろうが、全ヨーロッ人をうわまわるといわれる戦力を擁する日本に対しては、貿易を望むほかはなかった。
信長在世の頃、金銀の主要な用途は輸入品の決済にあった。豊臣政権のもとでは、兵根米調達の決済にまで、金銀を用いた。
天正十七年三月、豪姫は秀家正室として輿入れした。大坂城下備前島の宇喜多家屋敷には、大船十艘に山積みされた嫁入りの荷が運びこまれ、祝宴がひらかれた。
前田家からは、豪姫付きとして家老中村刑部が従い、家来、女中も多数従う。
豪姫の婚儀は、豪華をきわめ.たものであったと想像できる。 
国元の重臣たちは秀家の施政に失望
余人の及ばない栄達の道を歩んできた秀家は、備前の太守にふさわしい闊達な性格であるが、あまたの人材を統率するには、経験が足りない。
秀吉は宇喜多家中の内紛を未然におさえるために、助力してやらねばなるまいと考える。彼は花房助兵衛と嫡男職則、次男職直を、常陸太守佐竹義宣に預けた。常陸は助兵衛の生国である。
秀吉が助兵衛の身柄を預かったことで、風波は収まったかに見えたが、国元の家老たちは秀家の措置を不満とした。
「殿は太閤殴下の羽交いのもとにさえおれば、安泰でおられると思うてござるのじゃ。あいもかわらず、上方で伴天達狂いどもを重宝して、こののちもわれらを用いては下さらぬじゃろう。われらとて黙ってはおれんぞ。助兵衛が常陸へいってしもうたとて、憤慨の士は大勢おるんよ。皆が力をあわせて、殿にご改心をお頼みせにゃいけん」国元で、もっとも強硬な態度をあらわしたのは、浮田詮家であった。
彼は戸川達安、花房正成、岡家利、新免宗貫、浮田織部、生石惣左衛門、梶原平次らと意を通じあい、長船紀伊守の弾劾をおこなおうとした。
秀吉は、宇喜多家の家老たちが派閥をつくり、いがみあっていることを知って、秀家を呼び、命じた。
「伏見の城普請もできあがりしゆえ、そのほうが家中の家老どもを召し寄せ、城中の結構せみせてやれい」「がしこまってござりまする」秀家は、家中に深刻な動揺がおこっているのを知らなかった。
太閤検地によって、家臣の知行を削り、寺社領をも召し上げ、二十万石の封地をふやしたことが、重臣たちに秀家不信の思いを募らせていた。
宇喜多家では、豊臣政権のもとで過重な軍役を繰り返しつとめてきた。島津征伐、小田原攻め、朝鮮在陣と、一万人をこえる出兵を繰り返したのである。
この結果、家中財政の窮迫、農地の荒廃が領民を苦しめた。国元の重臣たちは秀家の施政に、しだいに失望していった。秀家は直家のように、生きぬくために戦国の辛酸をなめてきた経験を持たないので、家中諸棒が不満を鬱積させているのに気づかなかった。 
秀家は関ケ原で敗れ薩州に落ち延びた
五郎左衛門は、落ち武者詮議の手がのぴてくるのを警戒し、裏手の洞穴に筵を入れ、秀家主従をかくまう。
秀家主従は洞穴にいて、追っ手に発見されたときは、五郎左衛門に迷惑をかけることになるので、早々に立ちのかねばならないと、気を焦らせた。
秀家は進藤三左衛門にいった。
「儂はかねて島津父子と泥懇にて、約せしこともあるけえ、いったん薩摩へ落ちのびようかのう」「さようの儀ならば、拙者が謀をなし、追っ手の眼をくらませまするゆえ、殿は勘十郎とただちにここを立ち退かれ、薩州へお渡りなされませ」三左衛門は、宇喜多家の重宝である国次の佩刀を秀家からうけとり、大坂へ出て本多忠勝に申し出た。
「それがしの主秀家は、北国に逃れおりましたが、石田、小西、安国寺の人々が生け捕りとなりしと開きてより、おのが行く末をはかなみ、自害いたしてござりまする。よって、ご遺骸を茶毘に付し、家来の一人が高野山へ参りししだいにござります」三左衛門はいったん殉死しようとしたが、秀家の妻子がこののちきびしく訊問をうけるであろうと思い、主人の侃刀を証拠として持参したと告げた。
忠勝かち国次の銘刀をうけとった家康は、秀家の死を疑わなかった。秀家が生きているかぎり、国次を手離さないであろうと思ったためである。
秀家は黒田勘十郎と矢野五郎左衛門を供に従え、古駕籠に乗って大坂へむかった。途中、幾度か追っ手の詮議をうけたが、大病人が有馬の湯へ湯治に軒く途中であるといいぬけ、大坂の宇喜多屋敷へ夜中にたどりつく。
豪姫は二度と会うこともなかろうとあきらめていた秀家を眼前にして、夢かとよろこび泣きむせぶ。
五郎左衛門は黄金五十両、小袖五かさねを褒美に与えられ、帰っていった。秀家は妻子とつかの間の時を過ごしたが、備前島に隠れ住むことが発覚すれば、命はない。
彼は間もなく天満橋際から便船に乗り、薩摩へ落ちのびていった。 
流罪地八丈島で困窮し没する
だが、秀家たちの生活はその後も楽ではかなかった。前田家からの贈りものは、いったん代官の手にはいるので、すべてを与えられるわけではなかった。
秀家の家来たちは、それぞれ農耕、漁拷にはたらかねばならなかった。
慶長十六年、秀隆が二十歳になったとき、代官奥山縫殴介の娘わかを妻にむかえたが、暮らしむきは楽にならなかった。
秀家は、八丈島にきて二年めに、名主菊池左内につぎの借用書をさしだしている。
「このたぴ便りもこれなく、米にさしつかえ困りいり候。米、島研一升、鰹節三節、お貸し下されたく候」ある年、江戸から八丈島に赴任した代官谷庄兵衛が、秀家を陣屋へ招き接待した。秀家は食膳の握り飯を一個だけ食べ、二個を懐紙に包み持ち帰った。
庄兵衛はそれを見て、秀家の窮状を知り、白米一俵を贈った。
慶長十九年、秀家の嫡男秀隆と妻のわかとのあいだに、嫡男太郎坊が生まれた。その前後に、秀家は側女のやえに太郎丞という男児を生ませた。道珍斎も、身辺の世話をする水汲み女とのあいだに男児をもうけた。
狭い島内で、食物にもこと欠く月日が過ぎていった。
秀家は長命して、八丈島で五十年の歳月を過ごし、明暦元年(一六五五)十一月二十日、八十三歳で没した。 
 
豊臣秀吉

 

桶狭間への途上、一軍には信長について行く固いものが貫いていた
信長は、心のうちで、(この男、使える)と、思ったらしく、鞍つぼを叩いて、「いみじくも申した。信長の見るところと合致する。即座に、旗本へ加わり候え」「はッ、忝う存じます」甚内は、人数のうちへ、飛び込んだ。道はやや低く、だんだん畑を駒の頭下がりに駈けなだれた。
一条の河があった。
水は浅く、踏み渡るのも惜しいほど澄んでいた。信長は、顧みて、「この河の名は?」訊ねると、汗と埃を寄せ合って蔆めきつづく旗本の中から、毛利小平太が、「扇川にて候」と、答えた。
信長は知っていたが、わざと答えさせたのである。さッと軍扇をひらいて、後方へ振って見せた。
「末広川か。さい先よし。かなめも間近ぞ。渉れ渉れ」死地へ向かって、急いでいるとは知りながら、何か、華々しくさえあって、後髪を引かれるような暗い心地は少しもしないのである。
ふしぎなのは、信長という大将のそうした魅力であった。彼に従いて行く千余の人間は、ひとりも生きて帰ろうとはしていないのに、なぜか、絶望的ではなかった。絶対の死と。絶対の生と。
それは二つで一つだった。信長は、誰もが最も迷いやすいその二つの手綱を一つ手につかんで先へ駈けていた。兵の眠から信長の姿を見ると、それは勇敢な死の先駆者にも見え、また大きな生と希望の先達とも仰がれた。いずれにしても、この人の後に従いて行くからには、どういう結果になっても、不平はないという固いものが一軍を貫いていた。
死のう。死のう。死のう!藤吉郎すらも、それしか、頭の中になかった。 
桶狭間の奇襲
「あッ、織田のッ」驚愕を革めて、「織田の奇襲ぞ!」と、ようやく事態を正しく知ったほどだった。
夜討を襲けられた場合よりも、狼狽はむしろ甚だしかった。信長を見くびっていた点と、白昼であったことと、烈風のため敵を営中に見出すまで、敵の近づく整音すらも知らずにいたためだった。
いや、それよりも、本営の幕将たちを安心させきっていたものは、味方の前衛にあるともいえる。本陣付の部将松井宗信と井伊直盛の両将は、ここの丘を距ることわずか十町ほど先の地点に屯して、主陣護衛の約束どおり千五古ばかりの兵で、きびしく固めていたはずなのである。
その外陣の衛星から、(敵、来る)とも、(敵、近づく)とも、何の合図もないまに、義元以下、宮中の幕僚たちは、いきなり獅子奮迅の敵影を、眼のまえに見たのである。内乱か、謀叛か、と、疑ったのも無理な狼狽ではなかった。
信長はもとより、前衛部隊のいるような地点には出なかった。太子ケ嶽を縦横して、いきなり田楽狭間の直前へ駈けあらわれ、閑の声をあげた時は、もう信長自身でさえ、槍をふるって、義元の幕下の士と、戦っていた。
信長に槍をつけられた敵の士は、それが信長とは恐らく知らなかったろう。
敵の二、三名を突き伏せて、信長はなおも、本陣の幕へ近く駈け寄っていた。
「楠のあたりぞッ」信長は、味方の強者が、自分のそばを追い越して、驀しぐらに行く姿を見ると云った。
「駿河公万を逃すなッ。義元の床几は、彼処の楠の巨木を繰る幕のうちと覚ゆるぞッ」地形から視て、彼は、何とはなくそう直感に云ったのである。将の床几をすえる場所というものは、その山相を観れば自然にわかるし、その場所は、一つ山に必ず一カ所しかないものだった。 
桶狭間で秀吉は信長の一弟子という心をもった
すぐ林佐渡と、佐久間修理の二人へ、旨を達しておいた。
梁田弥二右衝門政綱に、沓掛城三千貫の宋地を与う−という賞賜を筆頭に、服部小平太、毛利新助など、約百二十余名への賞賜を、信長は、口頭でいって、それを佐渡と修理に記録させた。
小者の瑞の−誰も知らないようなことまで、信長の眼は、いつのまにか見ていた。
「於犬には、帰参をゆるしてとらす」最後にいった。
それはすぐ、前田犬千代に、その夜のうちに伝えられた。なぜならば、全軍が城内へはいっても、彼一名は、域外に止まって、信長の沙汰を待っていたからである。
藤吉郎には、何の恩賞もなかった。勿論、藤吉も、恩賞の沙汰をうける覚えがなかった。けれど彼は、千貫の知行以上のものを、たったこの言のうちに身に享けた。それは、生れて初めて、ほんとの生死の線を通って釆た尊い体験と、眼のあたり信長から身をもって教えられた戦というものの機微、人心の把握など、総じて、将たる器の大度を見たことであった。
「よい主を持った。信長様に次いで果報者は、この俺だぞ」彼はそれ以来、信長を主君と仰ぐばかりでなく、信長の一弟子という心をもって、信長の長所に学び、由来無学鈍才な自身を研くことに、一層心をひそめていた。 
信長は民へ信念と徳を示し清新な希望をかかげた
信長を信じろ。と、令してみたところで、民心が自分の思うままに向くわけもない。領民の本義にもとるやつは縛るぞ。と、圧力を加えてみたらどうなるか。これも覚つかない。
心の形体はどうにでも取れる。法令を布くはやすいが、法令に心服させるのは難しい。
いや民心には、法令と聞くと、内容を汲まないうちに、先に厭うような性格さえある。かつての遠い時代の暴圧が民層の.なかに深くしみこんで、生理的にさえなっている。
では、法令と被治者、これはいつも溶けあわない片恋か。
「−で、あってはならない。ふたつが離反すれば、必定、国は亡ぶ。…国主の任とは」信長は思う。むすぶことだ。歓んで民心がうけとるような法令でなくてはならない。そんなことをしていたら国政は成り立つまい。−こう自問自答してみながら、「そうでない」と、信念した。
民衆はもとより生活の豊かと安心を渇仰しているが、といって、放悉な快楽とか安易な自由とか、そんなものにのみ甘やかされて歓んでいるほど愚なものでもあるまい。
一個の人生にしたところで、余り気まま暮しな人間や、物に困らないものが、却って、幸福でない例を見ても、総括した民心というものにも、難難する時代と、共栄謳歌する時代と、こもごもの起伏があっていい。なければ却って、民心は倦む。
「まちがっていた」信長は、そこに思い至って、ひそかに悔いた。
祖先以来の受領地、尾張にあっては、ずいぶん艱苦を領民に強いたが、岐阜の占領地へ来ては、前の斎藤家が、放漫な施政をしていたので、華美自堕落に馴れている新領土の民には、きょうまで、信長としては極めて生ぬるい政策をとって、徐々に馴らして行こうという方針でいたのである。
「まずい。民心を知らないものだ。かえって領民は、前の領主のやり方と、似て非なる信長のやり口を疑っていたろう。信じないはずだ」自堕落な領主の下に、自堕落に生きて、滅亡を告げ果てた歴史を眼で見ている領民である。彼らが今求めているのは、斎藤家のそれとはちがったものであるにちがいない。
自分だに、信念と徳を示せば、彼らはよろこんで、艱苦を享受するにちがいない。むしろ清新な希望をかかげ、民心に、艱苦せよということであった。 
叡山の焼き討ちの賛否
そんなことは誰もいう常識というものだ。八百年来、その常識がさまたげて来たればこそ、夙に、山門の腐敗堕落は嘆かれながら−何人もそれを革めることができずに今日へ来てしまったのだ。−畏れ多くも、白河法皇の御ことばにさえ−朕の心のままにならぬものは、双六の賽と賀茂川の水−とある。山法師どもが、日吉の御輿を奉じて来る時は、朝廷の御威厳すら、光もなかったと史書にも見える。源平の騒乱に、またその後の乱世、この山が、どこに国家の鎮護たるつとめをして来たか。衆民の心に安心と力を与えて来たか」
信長は、突然、右の手を、いっぱいに横へ撮った。
「−今の世の通りだ。数百年来どんな国家の大患という時でも、彼らは、自分たちの特権を汲々と守ることしか知らぬ。愚民から献じさせた財をもって、城廓のような石垣や山門を築き、内に銃槍を蓄えて−しかも、日ごろの行状に至っては、荒淫混食、心ある人間には、できないような生活も平然とやっておる。法燈修学の想廃など、いうもおろか、破戒乱行の末世と申すも過言でない。−左様なものを焼き払う物になんの惜しみがあろうぞ。色をなして諌めだてするそちたちの心がむしろ信長には解せぬ。止めるな、信長は断じてやる」「仰せは、いちいち御尤もですが、われわれ三名も、断じて、お止めいたします。死すとも、この座は起ちませぬ」
信盛、夕篭、光秀の三人は、同時にまた両手をついて、あたかも諌言の砦のように主君の前をうごかなかった。
叡山は天台、石山は門徒、宗派はちがうが、仏徒であることに変りはない。
その仏徒の団結は、教義のうえでは、他宗とよび合っているが、信長に対抗することだけには、完全に一致し、完全に同じ性格をあらわしている。
浅井、朝倉と通じたり、将軍家を利用したり、各地の残党に利便を与えたり、越後や甲州へまで密使を送ったり−また信長の領土を中心として、気ままな野火のように、一揆を蜂起させて、信長を奔命につからせてしまおうと謀ったり−すべては霊山の大堂に住む憎形の策や指命であった。
この特殊な世界−不可抗力とされている、法城の清掃を措いて−織田軍の行動はなし得ないし、信長の理想の行えないことは、三人の臣も、充分に知っていた。
だが、信長がここへ着陣してからの命令というのは、(−全山を取り詰め、山王二十一社を初め奉り、山上の中堂も、坊舎堂塔、すべての伽藍も経巻も笠仏も、ことごとく焼き払え)と、いう余りにも過激なもので、しかもその焼討ちにかかったら、(有智無智の憎たるを問わず、貴憎と堂衆のけじめなく、憎形たれば一人ものがすな。児童、美女とて仮借するな。 
秀吉は叡山焼き討ちを家臣がやりすぎたと触れることを献策する
「もとよりのこと。仰せのごとき暴をなせば、上下の怨嗟をうけ、諸方の敵方に乗ぜられ、末代、穀の悪名は拭うべくもおざるまい」
「いや、そこが、ちと違いましょう。……叡山へお手入れのうえは、断じて、徹するまでやるべしとは、この藤吉郎が献策で、実は殿の御発意ではござらぬ。さすれば、いかなる悪名も呪阻も、藤吉郎が負うべきで−また自身、そう決意いたしておりますので」
「僭越でおざろう。何で一木下ごときを、世人がとがめよう。織田軍として行うたことは、すべて殿の御名に帰してくる」
「もちろんです。−が、各々もなぜ藤吉郎に御加勢くださらぬか。あなた方三将と藤吉郎とが、殿の御命令以上、騎虎の勢いで徹底的に−つい、やり過ぎたのだと−世間に触れたらよいわけではござらぬか。忠の大なるものは、諌言して死処に迫らざるにあり−とかいいますが、藤吉郎にいわせれば、忠諌して死んでもなお、真の忠臣には忠義がし足りないであろうと思われる。−むしろ生きて、悪名、罵誉、迫害、失脚、何でも殿に代って、身にひきうけんと藤吉郎は所存いたすが…各々にはまた、お考えがちがいましょうか」
うなずきもせず、否定もせず、信長はだまって聞いていた。
するとやがて、武井夕挙がまず云った。
「木下。お身のことばに同意いたす。・・・わしは同意いたすが?」彼が顧みると、明智、佐久間のふたりも、異存のない旨を、共にちかった。
−信長の命令を命令以上、勝手に超えて行動したものとして、徹底的に叡山焼討ちの挙に出ようというものである。
それなら信長の決心もつらぬけるし、死をもって忠諌に出た三名の臣道もとどこうという藤吉郎の提案である。
「名策である」夕奄は、嘆声に似た声で、こう彼の機智を貯めたたえた杭、信長はすこしも歓ばない顔していた。むしろ、よけいな斟酌など要らぬことである−と、いわぬばかりだった。それに似た色が、ちらと光秀の面にも見えた。光秀も、心のうちでは、正直に、藤吉郎の説に感じていたが、何か自分たちの真実をもってした忠諌まで、彼の一言に、その功を奪われてしまったような嫉みが、胸のどこかで滲み出していたのだった。 
信長は文化人であり野生人であった名将
女性の心というものをこの殿はどうしてこうよくご存じなのだろうか。恐ろしい気もするし、また良人にとっても自分にとっても、頼もしい御主君ではあると、真実思われた。彼女は、うれしさや間の悪さや、どうしていいか知れないような心地だった。
−ともあれ、こんなふうに、寧子の印象はよかったし、御前の首尾も上乗であった。
そして岐阜城を退がる折には、とても身に持ってなど帰れないほど、莫大な賜わり物をもらった。
目録だけを先にいただいて、彼女は城下の旅舎へ帰った。そして待ちかねていた老母へいちばん多く語ったことは、「信長様といえば、たれもみな震い恐れるので、どんなお方やらと思っておりましたら、世にも紗ないほどお優しい御主人でいらっしゃいます。あんな優雅な殿が、馬上となれば、鬼神も恐れるようなお人になるのかと、思わず疑われました。お母様のことも、何かとごぞんじで、よい枠をもち、日本一の幸せ者ぞと仰せ遊ばし、またわたくしへも、筑前ほどな男は、海内幾人もおるまい、よい良人を選び当て、そもじも眠が高いことよ−などとお戯れも仰っしゃいました」と、いうようなことだった。
老母も眼をほそめて、「そうか。そうかいの…」と、さも欣しげに聞き入った。
およそ名将といわれるほどな人物は、魔下の将士の心服をうけているばかりでなく、個々の将士の家族たちからも、頼もしい親柱として慕われもし尊敬をうけていたようである。もっともそれくらいな景仰をあつめていなければ、それらの最愛な良人や、ふたりとない子を、自分の馬前で死を競わせることはできなかったに違いない。それもただ華やかに散るだけでなく、死ぬ者も、あとに残る者も、ともにそれを歓びとし、誇りとしたことを見ても、将たる人の平素には、戦略や政治以外にも、なみならぬ心がけを要したであろうと思いやられる。
民衆の杷憂を知らない、また世間や人間を知らない、いわゆるお大名とか殿様なるものは、まったく泰平の永きに慣れた末期の子孫のことで、信長の時代、実力がすべてを決した戦国の世では、そんな特殊人の存在はゆるされなかった。義昭でも義景でも、また今川義元のごときでさえも、位置や名門に鼻如としていれば、たちまち時代の怒涛が覆して行った。
だからこの時代に立つ一万の大将たる資格には、高い教養と位置と権力のほかに、庶民の実体がよく分っている者でなければならなかった。一面、文化人であるとともに、一面、野性人でもあることが必要だった。
旧態の頽廃を一掃するにも、生々と新たな建設へかかってゆくにも、そう二つの機能が、絶対な力だった。純粋すぎる文化人でもいけないし、純然たる野性だけでも成就しないことだった。
信長はどうやらその資格に適合した大将であったらしい。
とにかく、寧子も秀吉の母も、それ以来は、一しお君恩をふかく感じて、夜も岐阜城のほうへ足を向けて寝ない−といったような心を真実にいだいて、それがまた母子のあいだでも、夫婦のあいだでも、自分が主人として家の子郎党をしつけるにも礼儀や情操の基本になった。
甚だしい乱世にも、平和面の社会や家庭の内部までは、さまで乱脈にならずにいたのも、個々の家庭や主従のうちに、そうした強固な情操と家風の美があったからであろう。
−さて、母子の旅はつつがなく、不破をこえて、春の湖を、やがて駕籠のまえに迎えた。
その日今浜の賑わいは、今浜が始まって以来のものであったという。いや、今浜という地名まで、秀吉が築いた新城とともに、長浜と改められた。町をあげての祝賀には、その意味もふくまれていた。 
朝鮮出兵で正確な情報を得なかった
秀吉は事態を深刻と判断するほどの情報を得ていない。現地の百姓は日本の百姓と同様に、支配者が交替しても頓着せず、戦乱とは関係なく耕作にはげみ、新しい主人に年貢を納め、以前とかわらない生活をつづけてゆくであろうと考えている。
朝鮮住民がはじめは日本軍を倭冦のたぐいだと思い、やがて李王朝の圧政からの解放者であると見たのち、しだいに恐るべき侵略者であると排斥し反抗するに至った過程を、秀吉は知らされていなかったようである。
たがいに理解しあえない言葉の障壁が、占領地支配政策をすすめえない重大な欠陥となり、百姓たちがひたすら日本軍を恐れ、秋の収穫さえ放棄して山間に逃げこむ深刻な状況がおこりつつある事実は、現地に身を置かねば把握できない。
日本国内でも奥州と薩摩の人が会えば、言語はまったく通じないが、文書は理解できる。朝鮮、明国の住民との意思の疎通もさほど困難ではなかろうと、秀吉をはじめ諸大名は朝鮮へ侵入するまで考えていたが、現地の状況はそのようななまやさしいものではない。
日本人どうしであれば、片言で意思を分りあえる方便もあるが、朝鮮語はそうはゆかない。結局、疑心暗鬼を生み、日本軍は作物の実りのない荒涼とした広大な朝鮮八道で孤立した。
秀吉は強大な武力を備えた日本軍が、異国でさまざまな困難に遭遇してもそれを克服し、期待する通りの戦果をあげるであろうとの考えを変えないでいた。 
乞食が一人もいないほど好景気
当時日本の人口は四千万人に接近していたといわれる。日本の数十倍の国土を有している明国の人口が六千七十万人といわれていたのを考えると、おどろくばかりの稠密な人口であったわけである。
「信長公記」を著した信長お弓衆太田牛一がのちに秀吉に仕え、「太閤さま軍記のうち」を著すが、そのなかに、秀吉在世中の日本が政治経済の大発展期に遭遇していたと記すくだりがある。
「太閤秀吉公御出世よりこのかた、日本国々に金銀山野にわきいで、そのうえ高麗、琉球、南蛮の綾羅錦繍、金瀾、錦紗、ありとあらゆる唐土、天竺の名物、われもわれもと珍奇のその数をつくし、上覧にそなえてまつり、まことに宝の山に似たり」
太田牛一は武人であるので、秀吉右筆の大村由己のように舞文曲筆を用いず、儒教道徳観念に左右されていないので、当時の事情を客観的に把握しているといわれる。
彼は民間の大好況について記す。
「むかしは黄金を稀にも拝見申すことこれなし。当時はいかなる田夫野人に至るまで金銀沢山に持ちあつかわずということなし」
「太閤秀吉公御出世よりこのかた、日本国々に金銀美もっぱらにましまし候ゆえ、路頭に乞食ひとりもこれなし。ここをもって君の善悪は知られたり。御威光ありがたき御世なり」
全国どこにも乞食が見あたらないというのは、非常な好景気に湧きたっていた事実を裏書きするものといえよう。
室町期の通貨は明銭と砂金であったが、信長は天正大判を、秀吉は大判、小判を鋳造した。金貨をこしらえるだけの財力がととのっていたのである。
秀吉は現代の六、七千万円に相当する小判を常に小姓に持たせ、諸人への心付けとして使っていた。
文禄期は建設ブームの時代であった。秀吉はじめ諸大名が築城、居館造営など大建築工事をあいついでおこない、農民に夫役を命じた。
このため農民は労賃を得て豊かな生活ができ、乞食をする者などはいなくなった。暮らしむきに余裕ができると子供がふえ、人口は増加の一途を辿っていった。
当時の武士階級は財力をそなえていた。商人の規模も後世にくらべると桁はずれに巨大である。
元禄期の豪商川村瑞賢、奈良屋茂左衛門、紀伊国屋文左衛門、淀屋辰五郎などが巨万の富を築いたというが、文禄期の博多商人の足もとにも及ばない規模にすぎなかったといわれる。
日本の金銀が海外へ流出し、国力が衰えてくるのは寛永期になってのちのことである。
秀吉は有りあまる国富をもって隣邦と共栄をはかるべきであったのに、戦乱をひきおこしたのはあきらかな過誤であった。
大航海時代を出現させたスペイン、ポルトガルが「地獄の使徒」といわれるほどに残忍な所業をあえてして、未開大陸の掠奪をおこなってはいたが、日本はなぜ同文同種の朝鮮、明国とあいたずさえ、あらたな未来を拓こうとしなかったのか。
時代の趨勢であったとはいえ、戦国の蛮風が悔やまれてならない。 
先見性と他人を大事にして栄達の道を歩んできた
秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた頃、出世のいとぐちをつかんだのは、信長に命ぜられた仕事を常に百パーセント以上、有数十パーセント、時には二百パーセントも達成する好成績をあげたからであった。
薪奉行となると、清洲城の暖房をそれまでの半量の薪でおこなう。塀のつくろい普請をすれば、前任者が要した工程の三分の一の期間にやり遂げる。
そのような業績は秀吉の機智によるものであるとして、さまざま語り伝えられているが、彼を支えていたのは部下の足軽、中間たちであった。
当時、足軽の年間の手当は米一石八斗であったといわれる。自分の衣服、食料は与えられてもそれだけの俸給で妻子は養えない。
彼らは兵士のような危険に満ちた職業をやめ、妻子とともに平和な生活をたのしみたいが、実現は不可能であった。
戦場へ出陣すれば、戦死、怪我の災厄がいつわが身にふりかかるか知れない。敵と自刃を交えれば生き残れる確率は五十パーセントである。怪我をして運よく負傷が癒えても、体が不自由になれば乞食に転落しかねない運命が待ちうけている。
そのような境遇に身を置けば、どうしても刹那的な快楽に傾き、博打をさかんに打つ。
病気になり怪我をしても貯えがないので、死ぬまで医療をうけられない。
秀吉はこのような小者たちに薬を与え、医師を呼んでやった。彼は自分に金銭の余裕があれば、そうしないではいられなかったのである。
秀吉が小者のうちの一人を救ってやれば、その朋輩がことごとく秀吉に心服し懐いてくる。
他の奉行が指揮して作事普請をおこなわせると、彼らはできるだけ怠けようとする。要領よくはたらいていると見せかけ手を抜くので、仕事に余分な日数がかかる。
秀吉が指図をすると、足軽小者は惜しみなく力をついやし協力した。彼らは秀吉を味方、身内と見るようになったのである。
延麿寺焼き討ちの際、秀吉は自分の持場へ逃げてきた僧俗はできるだけ落ちのびさせた。延麿寺の宝物のうち後世にのこったのは、秀吉が見逃してやったものがおおかたであるといわれる。
秀吉は信長が山内の一字も残らず焼きつくし、僧俗ことごとく撫で斬りにせよと厳命を下してはいるが、部下が無駄な殺生をせず、寛大な措置をとったことが判明しても、咎めだてはしないであろうと見抜いていた。焼き討ちでは、光秀のほうが秀吉よりもはるかに残酷な仕打ちをしている。
このように鋭敏な先見性と他人への思いやりによって栄達の道を歩んできた秀吉は、永禄四年(一五六一)織田家中間頭をしていた三十五歳のとき、十二歳年下のおねを妻とした。槽樺の妻のおねは利発で、秀吉が信長の信頼をかち得て昇進するための力強い協力者となった。
おねは子を産まなかったが秀吉が天正二年(一五七四)長浜十二万石の城主になったとき、城下の町政に関与するほどの才気をそなえていた。秀吉は大名家では表と奥の別をあきらかにし、表は政事軍事をつかさどる男の領分として女性の介入を許さないのがふつうであったのに、おねを政事にかかわらせた。
このような秀吉の方針が、豊臣政権確立ののちに北政所派と淀殿派の対立を招く結果となった。 
秀次破滅の原因は関白の地位に異常な執着をあらわしたから
秀次破滅の原因は関白の地位に異常な執着をあらわしたことにあった。
石田三成ら秀吉奉行衆は、秀次が将来お拾に政権を継承させる意志がないと見ていた。
秀吉の死後、お拾とのあいだに武力衝突が起きないとはいえない。秀吉も、ついに秀次を見放すことになった。将来に禍根を残すより、いまのうちに処分するよりほかに方途がないと判断したのである。
秀次は秀吉にいつ見放されるかと恐れるあまり、自らの地位をかためようとさまざまの術策を試み、いっそう破滅の淵に近づいてゆく。
秀次の妻一の台局の父萄亭晴季は、婿に進言した。
「太閤との疎遠をもとへ戻すには、禁裏のおとりなしを頼まれるがよかろうと存じまするが、いかがでどざろう」秀次は晴季の意見に同意し、朝廷へ白銀五千枚を献上した。現代の価値にすれば三百億円である。
この事実はたちまち石田三成らの探知するところとなった。朝廷側の斡旋がすすめられるまえに、秀次への疑惑が深まった。
「関白さまはご謀叛なされるやも知れぬ。禁裏にたいそうな金銀を献上してお味方を願ったそうな」不穏な情報を得た三成は、ただちに秀吉にその旨を言上した。秀吉はさきに秀次から金子を借用した諸大名が、彼に対し忠誠の誓書を差しだしたとの噂をも聞いていたので、ついに決断した。
「事の虚実を乱すべし。このままには打ちすておけぬだわ」秀吉の命を受けた三成と増田長盛は、七月三日に聚楽第へおもむき、謀叛を詰問した。
三成らは数百の軍兵をともなってゆき、聚楽第では家老木村常陸介の指図で、輪火縄に点火した足軽鉄砲隊が待機していたといわれる。 
外様を五大老にした遺言は家康、利家、三成らの協議によって作成されという説
秀吉が後事を托する遺言の舟容は、彼がみずから語ったものではなかった。そのすべてが家康、利家、三成らの協議によって作成され、それを秀吉が読み聞かされ追認したものにすぎないとする説がある。
病苦にさいなまれ気力消耗して意識障粍とした状態の秀吉が、五大老、五奉行の制度をとりきめたと三成たちから聞かされると、その是非を判断する分別もはたらかないまま認めたというのである。
秀吉は生産に針のメドをくぐるような難関を数えきれないほど突破して生存闘争に勝ちぬき天下人となった、常人の及びがたい先見性、洞察力をそなえた非凡の人物である。
他人の心中を見抜くわざにおいては、諸大名のうちで彼に及ぶものがいないといっていい。
そのように思慮ぶかい秀吉が至上の宝としていつくしんだ秀頼の将来を預ける五大老のうちに徳川、前田、毛利、上杉の四人の外様大名を加えたのはふしぎである。
また五奉行に浅野長政をのぞき石田三成以下の事務官僚ばかりをそろえたのも、有事の際の戦力にならない偏った人選である。
足利将軍家が弱体といわれながら徳川将軍家とおなじく十五代の命脈を保ちえたのは、将軍家の政治を運営する中枢機関がすべて一門、譜代衆で構成されていたためであったといわれる。
織田政権が天下一統の中途で瓦解した原因は、政権の中枢に光秀、秀吉らの新参衆を置いていたことにある。信長亡きのちその遺産を手中にした秀吉は、外様衆がなおさら信用できない存在であるのを知りつくしているはずであった。
戦国大名の家臣団は一門衆、譜代衆、新参衆、国衆に分けられる。一門衆は大名の一族で主人と血縁によってつながっている。譜代衆は親または祖父、そのうえにさかのぼる祖先から代々仕えてきた家来で、主人との緊密な一体関係は一門衆につぐ。
彼らは主人を中心に鉄の団結を誇り、主人と生死をともにする。信長には郡古野衆と呼ぶ一門譜代衆がいた。家康には松平十八郷の松平衆がいた。秀吉は小者として信長に仕え出世してきたので、譜代衆はいない。一門衆も彼に彼に兄弟が少なかったため、蓼々たるものであった。弟の秀長、姉ともの子の秀次、秀晴、秀保。おねの甥の秀俊。ともの嫁いだ三好氏の一族。おねの実家の杉原、木下両家の者。おねの義兄妹浅野長政、宇喜多秀家などが、わずかに数えられるのみである。
浅野長政は五奉行に名をつらねたが、豊臣秀長とは比較にならない器量であった。
秀次の処刑は、豊臣家の基盤をゆるがす大事件であった。秀吉が秀頼の成人するまで政権を秀次に預けておけなかったことは、早期の一族崩壊を暗示するものであった。
秀吉が自らの一代によって形成した家臣団の根幹としたものは、子飼衆、直参衆である。
子飼衆としては堀秀政、加藤清正、福島正則、加藤嘉明らがいる。蜂須賀小六は秀吉よりも十二歳年上であったが、秀吉が台頭する頃から彼を支え盛りたててきた。
おねの親族である杉原氏、木下氏も秀吉の初期の家来である。彼らは直参衆のうちにかぞえられる。秀吉に征服され服従したのではなく、自ら彼の麾下に駆せ参じた直参衆は、尾張衆、美濃衆、近江衆、摂津衆、播磨衆など数多い。
「黄母衣」「団扇差物」「赤母衣」「金切裂差物使番」などと呼ばれた戦場での馬廻衆はすべて直参である。
秀吉直参の大名として「武家事紀」に掲げられる者は、つぎのような人々である。
小西行長、黒田孝高、黒田長政、浅野幸長、浅野長居、前野長康、蜂須賀家政、仙石権兵衛尉、脇坂安治、平野長泰、大谷吉継、青木紀伊守、山口玄蕃頭。
新参衆は、主家が秀吉に敗北した際、自ら望んで秀吉の家来になり、あるいは秀吉の調略に応じて帰服した侍たちである。おなじような経過で秀吉に服属した大名は国衆、あるいは外様衆と呼ばれる。
秀吉の天下一統に際し、武力で抵抗できないためやむをえず服従した外様大名は、情勢しだいではいつ敵対するか分らない危険な存在である。中国、四国、九州、関東、東北には強大な戦力をたくわえる外様大名がいた。
小早川隆景、有馬豊氏、立花宗茂、上杉景勝、毛利輝元、長宗我部元親、島津義久、大友義統、竜造寺政家、秋月種長、有馬晴信、高橋元種、筑紫広門、松浦隆信、大村喜前、徳川家康、伊達政宗、佐竹義重、最上義光、宇都宮朝房、結城晴朝、里見義康、成田民兵、相馬義胤、南部信直、秋田親実らである。
秀吉は外様衆の動静を警戒し、その所領配置に慎重な配慮をしていた。
外様衆のうちで最大の勢力をたくわえている家康が天正十八年(一五九〇)小田原役ののち関東六州へ移封されたのは、外様衆の信望をあつめる台風の日のような存在を秀吉に懸念されたためである。
秀吉は家康から三河、遠江、鞍河、甲斐、信濃を取りあげ、関東へ移対して、その支配力を弱めようとした。
家康の父祖伝来の領地である三河を中心とする旧領は、領民の統治がゆきとどいていたが、関東へ国替えをすれば、土蒙、地侍衆、百姓町人たちをあらためて手なずけねばならない。
新領主が旧来の慣習を無視し強権をふるえばたちまち叛乱がおこるので、慎重な地ならしが必要であった。
秀吉は取りあげた家康の旧領には山内一豊、加藤光泰ら直臣を置き、東海道、東山道の要衝を押えて関東の情勢を監視させた。
秀吉にこれほど危険視されつつも国替えののち破綻を見ることなく営々と関東統治に力をつくし、実力をたくわえてきた外様大名最右翼の家康が、なぜ大老に選ばれたのか。
五大老のうち伏見、大坂に常駐し豊臣政権の中枢にいて揖取り役をつとめるのは、利家、家康の二人である。
健康をそこない出仕もままならない状態になっている利家が枢機に参与できなくなれば家康の独壇場になり、彼が鰹節の番をする猫と化することは容易に想像できる。
利家も秀吉の旧友ではあるが、賤ケ岳合戦のとき柴田勝家の陣営から調略により羽柴方に寝返った前歴をもつ。天下の情勢を鋭敏に察知する彼が、秀頼をいつまで守っているかはわからない。いざとなれば彼自身が覇権を狙ってもふしぎではない。
五大老のうち信を置けるのは、秀吉の養子として育てられた宇喜多秀家のみである。
このような人選は、家康、利家らの最高実力者が秀吉の懐刀である三成と協議し、たがいの力関係を考量したうえで決めたのであろうと想像できる。
豊臣政権に五大老の必要はなかったといえよう。五奉行を政治の最高機関として、事務官僚ばかりではなく、加藤清正、福島正則の子飼衆、あるいは黒田長政、細川忠興ら直参衆の武将を加えれば、外様大名を威服させうる軍事力をそなえることもできたわけである。
だが石田、長束、増田らの奉行たちは、秀吉の虎の威を借る狐として清正ら武将に嫌われていた。
佐和山十九万四千石の領主にすぎない三成は、秀吉に忠誠をつくし豊臣家の繁栄をひたすら願っていたが、主君亡きあとの情勢を考えてみれば、利家、家康の意見をうけいれ、自己の保身を考えざるをえなかった。
秀吉の保護を失えば、清正らに闇討ちされかねないのである。 
竹阿弥(秀吉の継父)?
『太閤素生記』などにもとづく通説によると、秀吉の母親は、木下弥右衛門と結婚し、その後、竹阿弥(筑阿弥)という織田家の同朋衆すなわち城詰めの茶坊主と再婚したということになっています。秀吉たち四人の子どもの父親がどちらなのかについても諸説があって、『太閤素生記』では秀吉と姉を弥右衛門の子、弟秀長と妹を竹阿弥の子としています。
ところが、小瀬甫庵(豊臣秀次や前田家に仕えた儒者)の『太閤記』、尾張の伝承を記録している『祖父物語(朝日物語)』では、秀吉は竹阿弥の子とされています。

秀吉の母が単なる百姓女であったとは考えにくいということは、かねてより専門家によって指摘されていますが、その根拠のひとつは再婚相手とされる竹阿弥の同朋衆という職業にあります。同朋衆の職務は、将軍や大名の側にあって、茶の湯、連歌、財宝管理など文化領域の側近業務をこなすことです。ありていに言えば、相当のインテリです。結婚という行為は、今日においても過去においても、同じレベルの社会階層から配偶者を選ぶことが一般的です。貧しい百姓女の結婚相手が同朋衆(元同朋衆?)というのは相当に違和感があります。
同朋衆を茶坊主ともいうのは、剃髪して僧のなりをし、茶道が看板芸であったからで、同朋衆のなかから「プロの茶人」というべき人たちが出現しています。確実な系譜ではありませんが、千利休の祖父は足利将軍家に仕える千阿弥という同朋衆だったといいます。天下人となった秀吉は茶の湯の世界に耽溺していますが、その最初の師匠は竹阿弥であったかもしれません。
将軍、大名側近として、上流社会での社交を切り回すのが同朋衆の仕事だから、大名らの私的、政治的な極秘情報に接することも多く、単なる給仕係ではありません。竹阿弥は織田家の内実に通じ、当然、信長とも面識があったはずですが、秀吉が織田家に出仕するとき、竹阿弥がつないだという話は残っていません。そのかわり、秀吉とは不仲で、秀吉を寺に追い出したり、家出した秀吉が三河あたりを放浪するという伝承があって、小説や物語ではこちらの話が定着しています。秀吉と竹阿弥の不仲説に史実としての保証があるわけではないので、鵜呑みにしないほうがいいのかもしれません。

竹阿弥は弥右衛門以上に謎の人物で、本名も一族背景も不詳です。諸説のなかには、木下弥右衛門が出家して竹阿弥を称したという説、竹阿弥という人物は実在しないという説(『豊臣一族』川口素生)もあるくらいです。ただ、系図がまったくないわけではなく、国立国会図書館所蔵の『諸系譜』という系図集では、尾張・知多半島の名族、水野氏の流れとする系図を載せています。この系図では、徳川家康の母方祖父の水野忠政と竹阿弥は同族とされているのですが、それ以上は史料がなく、まったくわかりません。
宮内庁書陵部所蔵の『中興武家諸系図』にある木下系図では、木下半左衛門(藤原高清)という人に高連という子があり、竹阿弥と称し、織田信秀(信長の父)に仕えたと書かれています。にわかには信じられない系譜ですが、もしこれが真実であれば、秀吉が若いころに名乗っていた木下という名字は竹阿弥に由来することになります。 
 
毛利元就

 

毛利家を軸にした大きな森を造る
こういう光景を、毛利元就は黙って見詰めていた。このころのかれは、まだ存命中だった大方様から、「身内をお固めなさい」と助言されていた。大方様のいうには、
毛利家を軸にした大きな森を造ること。
その森は、毛利という大木を中心にすること。
しかし、毛利が大木になるためには、身内の結束が必要なこと。
毛利という大木ができたら、回りに生えている木を、”毛利の森”に加わるように仕向けること。周りの木というのは、いうまでもなく地侍・国人衆であること。
しかしいままでのありさまを見ていると、毛利家も一本の地域の木なので、まだまだ″毛利の森”に参加させるだけの魅力が、毛利家にない。
″毛利の森”に参加していれば、自分の持っている土地や住民が安堵される、という保証能力を養う必要がある。
そのためには、毛利という木が、他の木よりも抜きんでて大木にならなければ駄目だ。
毛利が大木になるためには、幹を太く達しくし、同時に枝葉も強く達しく育つ必要がある。
この助言は、毛利元就にまた新しい発想を生ませた。 
仕事一方ではない、教養の深い人間
子供のときから、井上一族に牛耳られて釆たので、かれの、「人間不信」は決定的である。
しかし、家族に対する期待は大きく、「毛利の木、その木を増やした森」の造成には、生涯努力を惜しまなかった。いわば、「毛利丸」という一般の船に乗り合わせた仲だという思いが強い。したがって、
毛利丸は、運命共同体である。
この舶に乗り合わせた者は、力を合わせて毛利丸を、目的地に漕ぎ寄せなければならない。
船の長は元就であり、今後は家長がこれを務める。
したがって、一族山門とはいえ、すべて船の長に従わなければならない。少なくとも、自分は家長の家族であるということを誇りにすることは構わないが、それをひけらかして、権威に結び付けてはならない。
家長と、それ以外の家族とは、むしろ主従の関係にある。
という考え方をしていた。
元就は、文芸方面にも幅広い関心を示し、またかれ自身も和歌を作っている。したがって、いまでいえば、「仕事一方ではない、教養の深い人間」といっていいだろう。しかしかれ白身、武人として生き抜いた信条は、「武略・調略・計略を重んぜよ」といい続けたように、あくまでも戦略を重視した。 
三本の矢に込められた思い
一 何度繰り返しても同じことだが、当家の家名である毛利の姓を行く末ながく維持して、子孫末代の後まで相続するように努力してもらいたい。
一 二男の元春と三男の隆景は、それぞれ吉川、小早川という他家を相続し、その姓を名乗っているが、それはほんの当座のことであって、あくまでも毛利家の生まれだということを忘れずに、毛利という家名を軽んじたりおろそかにしてはならない。ゆめにもそういうことを考えることは、不都合千万嘆かわしいことだ。片時といえども、そんなことがないようにしてもらいたい。
一 ことさらいうまでもないが、兄弟三人が少しでも仲違いするようなことがあったら、もはや三家がこ山家ながら存続することができず、滅亡するものだと思ってほしい。
一 長男の降元は、元春、隆景の両人を力に頼み、内外にわたって物事を処理してもらいたい。そうすれば、何の支障や邪魔も起こるまい。また元春や隆景両人は、本家の毛利家が安泰であれば、その威光によってそれぞれの分家の方の処理も出いのままに行くはずだ。かりそめにも、本家の毛利家が衰微して行くようなことがあれば、人間の心は変わりやすいものだから、吉川、小早川の家の家中収締りも、きっとうまく行かなくなる。その辺は、三人ともよく考えてもらいたい。
一 もしも、元春と隆景の気持ちが、隆元の意志と違うようなことがあっても、隆元はひとえに我慢をしてもらいたい。また、隆元の意見が元春、隆岩と適うような場合は、両人は降元の意見に従ってもらいたい。両人は、他家の相続をしていても、心は常に毛利本家に似いておいてもらいたい。
この後、三人の母親である故妙玖に対する追善供養を命じたり、あるいはかれらの姉であった人物の法要も怠ってはならぬとし、また育ちつつある一族の小さな子供たちに対する配慮もしてほしいと書いている。
そして、わが一族は、思いのほか多くの人数を殺している。したがって、この報いは必ずやって来る。そのことについては、あなた方に対しても気の毒だと思うが、よくよく心得てもらいたい。元就一人で、この報いを受け止めるつもりだが、天の意思は分からない。場合によっては、元就一人で受け切れず、あなた方三人にもこの報いが行くかもしれない。そう覚悟してほしい。 
元就は権限を部下に任せないという不信感をもっていた
また元就は、重役にたいしてもある種の不信感を持っていた。つぎの言葉はそのことをよく物語っている。
「昔から国を奪う者は、必ずその家の重役に決まっている。したがって賢明なトップは絶対に自分の権限を下にまかせない。下にまかせると、そのまた下の部下は自分の出世や給与が多くなったことを、権限をまかせた重役のおかげだと思い込んでしまう。トップの存在を忘れる。やがては、トップがいるかいないか、その存在が稀薄になってしまう。
重役への権限の委譲は、重役の威を高めるのに役立つだけで、決してトップのためにはならない。この現象が進むと、結局は重役が自分の威を頼んでトップを追放し、国そのものを奪い取ってしまう。心すべきだ」
この言葉は、毛利元就が中国地方の支配者だった大内義隆の総務部長をつとめていたときに、義隆にたいし諌めの言葉として口にしたものだといわれる。
当時大内家では、陶晴賢という重役の勢いが増し、義隆が晴賢の能力を頼んで、「これも任す、あれも任す」と、しきりに権限の委譲を行なっていたので、元就は総務部長として、社長である大内義隆の危機を感じ、「重役への権限の委譲も虔を越すと、その重役がトップにとって代わります」 
人間に対する不信をもつ元就
毛利元就の話を書くのに、最初からかなり彼の人間の蹴らしさを並べ立ててきた。一言いえば毛利元就は、織田信長のようなタイブとは違う。彼の性格の中には、
人間に対する不信
とくに部下に対する不信
あるいは家族に対する不信
狷介孤高の性格
それでいてけっこうマイホーム主義
自己領土確保主義
中国地方だけを重視するモソロ−主義
などがはいりこんでいる。したがってマイホーム主義にしても、ふつうにいわれる家族愛や家族を信じることから生まれたものとは思えない。逆にいえは、「誰も信じられないから、せめて家族だけでも信じさせてくれ」というような必死の気持ちがうかがえる。だから、三本の矢の教訓にしても、
こうしなければならない
こういうことはしてはならない
という、"must"(ねばならぬ)と"never″(決してしてはならない)との生き方読本であって、ゆとりもなければ面白味もない。彼は自分に厳しい。そのため、他人にも厳しい。しかしそれは元就にすれば、「おれは自分に厳しいからこそ、他人にもそれを求めるのだ」ということになる。
こういう彼の性格は、いったいどういう経験から培われたのだろう。 
母親代わりに自分を育ててくれた大方殿にまつわりついた元就
元就は違った。六十二歳にもなって、自分の長男に、「親父としてのおれは、子供の頃こんなに不幸だった」と、くわしく書き綴っている。見方によっては、「未練な人だ」と思われる。しかし元就にとって、この幼少年時代の不幸な経験は、「その後の彼を名将に仕立て上げるバネ」になっていた。元就はいつも、
「みなし子同様の幼少年時代」を、自分が生きていくパワーの源泉にしていた。
「意識して、自分の不幸な経験を前向きに生きるバネにする」というやり方は、現代の私たちにも参考になる。しかし、「母親代わりに自分を育ててくれた大方殿に、始終まつわりついた」という一文は、胸を絞られる。ひたむきな大方殿への思慕の情がしのばれる。「それほど元就は淋しかったのだ」と、可哀相になる。 
毛利モンロー主義の誤り
毛利元就がつくった「カラカサ連合を主軸にした中国地方経営」は、現在でいえば「地方分権の実現」である。
元就が安芸国の吉田・郡山城を拠点としてその周辺だけで連合していたものが、大内氏を滅ばしやがて尼子氏を滅ぼした後、彼のいまでいう事業範囲は、広島県、山口県、島根県、鳥取県、岡山県、さらに兵庫県の一部にまで及んでいく。
そうなると、安芸国から発生したカラカサ連合も「広域連合体」にまでなったということだ。
そして還暦の年に元就は有名な"三本の矢の教訓"を行なう。この教訓は、「弓の矢は一本だとすぐ折れる。三本そろえばなかなか折れない。三本の矢と同じように長男の隆元、次男の元春、三男の隆景が心を合わせて毛利家を守り抜け」というものだ。これは、「家族の結束によって毛利企業を守り抜け」という意味である。しかし元就が三人の息子に行なった訓戒は、それだけではない。もっと重要な発言があった。彼は三本の矢の教訓にくわえて、つぎのようなことを言っている。
「毛利家は絶対に天下のことに関心を持ってはならない。ましてや、その争いに巻き込まれてはならない」
これは、「中国地方に広域自治連合をつくったので、それを守り抜け。中央集権とは関わりを持ってはならない」ということである。元就が「天下」といったのは、天下人として織田信長を頭のなかに描いていた。しかし信長にたいする元就の考え方は、「あいつは野望家で、日本の国と国民を自分の思いのままにしようとしている。せめて中国地方だけでも、あいつの言いなりにならない国と住民を育て、守り抜きたい」ということだ。言ってみれば、「地方分権を確立して、中央集権とは無縁でいたい」ということである。現在の日本の状況は、
国は仕事をセーブし、つまり最小限(ミニマム)の仕事を行なうチープガバメソト(小さな政府)になる。
国と地方自治体とは同格である。
地方自治体は、最大限(マキシマム)の仕事を行なう。
そのための財源調整を行なう。
という方向で進んでいる。これは、いわば国のほうが「ナショナルミニマム」に徹し、地方は「ローカルマキシマム」に徹していこうという流れだ。
毛利元就は、言ってみれば中国地方に、「中国道あるいは中国州」を確立した。広域自治体連合である。そしてこれを守り抜こうと考えた。しかし、戦国時代でこれは不可能だ。
というのは、「ナショナルミニマム」が実現していないからである。織田信長はそれを実現しようとして必死に努力していた。元就の見方は間違っている。 
ほしかった国際性
もう一つある。それは、大内氏を滅ばした後、毛利元就は下関港を掌撞した。彼は大内氏や尼子氏がねらいつづけた「銀山」を手にしたが、「港湾の活用」に対して思いをいたさなかった。もっと言えば、下関港の向かいには門司港がある。そして、その脇には博多港もある。私は、「なぜ、毛利元就はこれらの三つの港を活用し、国際社会に乗り出さなかったのだろうか」と考える。それは大内氏がすでに、「東南アジアとの貿易によって富を蓄えていた」という事実があるからである。
幕末に、開明的な大名といわれた薩摩藩主島津斉彬が、徳川幕府の首脳部にこんなことを言っている。
「なぜ、幕府は下関港を直轄地としないのですか?長州藩にゆだねておくと、あとでロクなことは起こりませんぞ」そのとおりになった。明治維新の火は下関港から燃え上がった。多くの志士たちはほとんどこの港から立ち上がった。
関ケ原の合戦で、毛利家は徳川家康にひどい目にあわされたから、「その復讐の火を、下関から燃え上がらせたのだ」と言えないこともないが、しかし、もしも毛利元就が、下関・門司・博多の三港を活用して、大内氏と同じように東南アジアに進出していれは、日本の歴史も大きく変わっていただろう。
「歴史に"もし"はない」ということを十分承知しつつも、「もし、元就がそこまで踏み込んでいたら」という思いは、私の胸の中で燃えさかっている。 
 
黒田如水 / 小田原陣

 

   坂口安吾

天正十八年真夏のひざかりであつた。小田原は北条征伐の最中で、秀吉二十六万の大軍が箱根足柄の山、相模の平野、海上一面に包囲陣をしいてゐる。その徳川陣屋で、家康と黒田如水が会談した。この二人が顔を合せたのはこの日が始まり。いはゞ豊臣家滅亡の楔が一本打たれたのだが、石垣山で淀君と遊んでゐた秀吉はそんなことは知らなかつた。
秀吉が最も怖れた人物は言ふまでもなく家康だ。その貫禄は天下万人の認めるところ、天下万人以上に秀吉自身が認めてゐたが、その次に黒田如水を怖れてゐた。黒田のカサ頭(如水の頭一面に白雲のやうな頑疾があつた)は気が許せぬと秀吉は日頃放言したが、あのチンバ奴め(如水は片足も悪かつた)何を企むか油断のならぬ奴だと思つてゐる。
如水はひどく義理堅く、主に対しては忠、臣節のためには強いて死地に赴くやうなことをやる。カサ頭ビッコになつたのもそのせゐで、彼がまだ小寺政職といふ中国の小豪族の家老のとき、小寺氏は織田と毛利の両雄にはさまれて去就に迷つてゐた。そのとき逸早いちはやく信長の天下を見抜いたのが官兵衛(如水)で、小寺家の大勢は毛利に就くことを自然としてゐたが、官兵衛は主人を説いて屈服させる。即坐に自ら岐阜に赴き、木下藤吉郎を通して信長に謁見、中国征伐を要請して、小寺家がその先鋒たるべしと買つてでた。このとき官兵衛は二十を越して幾つでもない若さであつたが、一生の浮沈をこの日に賭け、いはゞ有金全部を信長にかけて賭博をはつた。持つて生れた雄弁で、中国の情勢、地理風俗にまでわたつて数万言、信長の大軍に出陣を乞ひ自ら手引して中国に攻め入るなら平定容易であると言つて快弁を弄する。頗る信長の御意にかなつた。
ところが秀吉が兵を率ゐて中国に来てみると、小寺政職は俄に変心して、毛利に就いてしまつた。官兵衛は自分の見透しに頼りすぎ、一身の賭博に思ひつめて、主家の思惑といふものを軽く見すぎたのだ。世の中は己れを心棒に廻転すると安易に思ひこんでゐるのが野心的な青年の常であるが、世間は左様に甘くない。この自信は必ず崩れ、又いくたびか崩れる性質のものであるが、崩れる自信と共に老いたる駄馬の如くに衰へるのは落第生で、自信の崩れるところから新らたに生ひ立ち独自の針路を築く者が優等生。官兵衛も足もとが崩れてきたから驚いたが、独特の方法によつて難関に対処した。
官兵衛にはまだ父親が健在であつた。そこで一族郎党を父につけて、之を秀吉の陣に送り約をまもる。自分は単身小寺の城へ登城して、強いて臣節を全うした。殺されるかも知れぬ。それを覚悟で、敢へて主人の城へ戻つた。いはゞ之も亦また一身をはつた賭博であるが、かゝる賭博は野心児の特権であり、又、生命だ。そして賭博の勝者だけが、人生の勝者にもなる。
官兵衛は単身主家の籠城に加入して臣節をつくした。世は青年の夢の如くに甘々と廻転してくれぬから、此奴裏切り者であると土牢の中にこめられる。一刀両断を免がれたのが彼の開運の元であつた。この開運は一命をはつで得たもの、生命をはる時ほど美しい人の姿はない。当然天の恩寵を受くべくして受けたけれども、悲しい哉、この賭博美を再び敢て行ふことが無かつたのだ。こゝに彼の悲劇があつた。
この暗黒の入牢じゅろう中にカサ頭になり、ビッコになつた。滑稽なる姿を終生負はねばならなかつたが、又、雄渾なる記念碑を負ふ栄光をもつたのだ。かういふ義理堅いことをやる。
主に対しては忠、命をすてゝ義をまもる。そのくせ、どうも油断がならぬ。戦争の巧いこと、戦略の狡猾なこと、外交かけひきの妙なこと、臨機応変、奇策縦横、行動の速力的なこと、見透しの的確なこと、話の外である。
中国征伐の最中に本能寺の変が起つた。牢の中から助けだされた官兵衛は秀吉の帷幕に加はり軍議に献策してゐたが、京から来た使者は先づ官兵衛の門を叩いて本能寺の変をつげ、取次をたのんだ。六月三日深夜のことで、使者はたつた一日半で七十里の道を飛んできた。官兵衛は使者に酒食を与へ、堅く口止めしておいて、直ちに秀吉にこの由を告げる。
秀吉は茫然自失、うなだれたと思ふと、ギャッといふ声を立てゝ泣きだした。五分間ぐらゐ、天地を忘れて悲嘆にくれてゐる。いくらか涙のおさまつた頃を見はからひ、官兵衛は膝すりよせて、さゝやいた。天下はあなたの物です。使者が一日半で駈けつけたのは、正に天の使者。
丁度その日の昼のこと、毛利と和睦ができてゐた。その翌日には毛利の人質がくる筈になつてゐたから、本能寺の変が伝はらぬうちと官兵衛は夜明けを待たず人質を受取りに行き、理窟をこねて手品の如くにまきあげやうとしたけれども、もう遅い。金井坊といふ山伏が之も亦風の如く駈けつけて敵に報告をもたらしてゐる。官兵衛はそこで度胸をきめた。敵方随一の智将、小早川隆景を訪ね、楽屋をぶちまけて談判に及んだ。
「あなたは毛利輝元と秀吉を比べて、どういふ風に判断しますか。輝元は可もなく不可もない平凡な旧家の坊ちやんで、せゐぜゐ親ゆづりの領地を守り、それもあなたのやうな智者のおかげで大過なしといふ人物です。天下を握る人物ではない。然るに秀吉は当代の風雲児です。戦略家としても、政治家としても、外交家としても、信長公なき後は天下の唯一人者で、之に比肩し得る人物は先づゐない。たま/\本能寺の飛報が二日のうちにとゞいたのも秀吉の為には天の使者で、直ちに踵をめぐらせて馳せ戻るなら光秀は虚をつかれ、天下は自ら秀吉の物です。柴田あり徳川ありとは云へ、秀吉を選び得る者のみが又選ばれたる者でせう。信長との和睦を秀吉との和睦にかへることです。損の賭のやうですが、この賭をやりうる人物はあなたの外には先づゐない。あなたにも之が賭博に見えますか。否々。これは自然天然の理といふものです。よろしいか。秀吉の出陣が早ければ、天下は秀吉の物になる。この幸運を秀吉に与へる力はあなたの掌中にあるのです。だが、あなた自身の幸運も、この中にある。毛利家の幸運も、天下の平和も挙げてこの中にありですな」
隆景は温厚、然し、明敏果断な政治家だから、官兵衛の説くところは真実だと思つた。輝元では天下は取れぬ。所詮人の天下に生きることが毛利家の宿命だから、秀吉にはつてサイコロをふる。外れても、元金の損はない。そこで秀吉に人質をだして、赤心を示した。
けれども官兵衛は邪推深い。和睦もできた。いざ光秀征伐に廻れ右といふ時に、堤の水を切り落し、満目一面の湖水、毛利の追撃を不可能にして出発した。人は後悔するものだ。然して、特に、去る者の姿を見ると逃したことを悔ゆる心が騒ぎだす。
官兵衛は堤を切り、満目の湖を見てふりむいた。それから馬を急がせて秀吉の馬に追ひつき、さゝやいた。毛利の人質を返してやりなさい。なぜ? 官兵衛はドングリ眼をギロリとむいて秀吉を見つめてゐる。なぜだ! 秀吉は癇癪を起して怒鳴つたが、官兵衛は知らぬ顔の官兵衛で、ハイ、ドウ/\馬を走らせてゐるばかり。もとより秀吉は万人の心理を見ぬく天才だ。逃げる者の姿を見れば人は追ふ。光秀と苦戦をすれば、毛利の悔いはかきたてられ、燃えあがる。人質が燃えた火を消しとめる力になるか。燃えた火はもはや消されぬ。燃えぬ先、水をまけ。まだしも、いくらか脈はある。之も賭博だ。否々。光秀との一戦。天下浮沈の大賭博が今彼らの宿命そのものではないか。
アッハッハ。人質か。よからう。返してやれ。秀吉は高らかに笑つた。だが、カサ頭は食へない奴だ。頭から爪先まで策略で出来た奴だ、と、要心の心が生れた。官兵衛は馬を並べて走り、高らかな哄笑、ヒヤリと妖気を覚えて、シマッタと思つた。
山崎の合戦には秀吉も死を賭した。俺が死んだら、と言つて、楽天家も死後の指図を残したほど、思ひつめてもゐたし、張りきつてもゐたのだ。
ところが兵庫へ到着し、愈々決戦近しといふので、山上へ馬を走らせ山下の軍容を一望に眺めてみると、奇妙である。先頭の陣に、毛利と浮田の旗が数十旒りゅう、風に吹き流れてゐるではないか。毛利と浮田はたつた今和睦してきたばかり、援兵を頼んだ覚えはないから、驚いて官兵衛をよんだ。
「お前か。援兵をつれてきたのは」
官兵衛はニヤリともしない。ドングリ眼をむいて、大さうもなく愛嬌のない声ムニャ/\とかう返事をした。小早川隆景と和睦のとき、ついでに毛利の旗を二十旒だけ借用に及んだのである。隆景は意中を察して笑ひだして、私の手兵もそつくりお借しゝますから御遠慮なく、と言つたが、イエ、旗だけで結構です、軍兵の方は断つた。浮田の旗は十旒で、之も浮田の家老から借用に及んで来たものだ。光秀は沿道に間者を出してゐるに相違ない。間者地帯へはいつてきたから、先頭の目につくところへ毛利と浮田の旗をだし、中国軍の反乱を待望してゐる光秀をガッカリさせるのだ、と言つた。
秀吉は呆れ返つて、左右の侍臣をふりかへり、オイ、きいたか、戦争といふものは、第一が謀略だ。このチンバの奴、楠正成の次に戦争の上手な奴だ、と、唸つてしまつた。けれども唸り終つて官兵衛をジロリと見た秀吉の目に敵意があつた。又、官兵衛はシマッタと思つた。 

中国征伐、山崎合戦、四国征伐、抜群の偉功があつた如水だが、貰つた恩賞はたつた三万石。小早川隆景が三十五万石、仙石権兵衛といふ無類のドングリが十二万石の大名に取りたてられたのに、割が合はぬ。秀吉は如水の策略を憎んだので故意に冷遇したが、如水の親友で、秀吉の智恵袋であつた竹中半兵衛に対しても同断であつた。半兵衛は秀吉の敵意を怖れて引退し、如水にも忠告して、秀吉に狎れるな、出すぎると、身を亡す、と言つた。如水は自らを称して賭博師と言つたが、機至る時は天下を的に一命をはる天来の性根が終生カサ頭にうづまいてゐる。尤も、この性根は戦国の諸豪に共通の肚の底だが、如水には薄気味の悪い実力がある。家康は実力第一の人ではあるが温和である。ところが黒田のカサ頭は常に心の許しがたい奴だ、と秀吉は人に洩した。如水は半兵衛の忠告を思ひだして、ウッカリすると、命が危い、といふことを忘れる日がなくなつた。
九州征伐の時、如水と仙石権兵衛は軍監で、今日の参謀総長といふところ、戦後には九州一ヶ国の大名になる約束で数多あまたの武功をたてた。如水は城攻めの名人で、櫓をつくり、高所へ大砲をあげて城中へ落す、その頃の大砲は打つといふほど飛ばないのだから仕方がない。かういふ珍手もあみだした。事に当つて策略縦横、戦へば常に勝つたが、一方の仙石権兵衛は単純な腕力主義で、猪突一方、石川五右衛門をねぢふせるには向くけれども、参謀長は荷が重い。大敗北を蒙り、領地を召しあげられる始末であつた。けれども秀吉は毒気のない権兵衛づれが好きなので、後日再び然るべき大名に復活した。如水は大いに武功があつたが、一国を与へる約束が、豊前のうち六郡、たつた十二万石。小早川隆景が七十万石、佐々成政が五十万石、いさゝか相違が甚しい。
見透しは如水の特技であるから、之は引退の時だと決断した。伊達につけたるかカサ頭、宿昔青雲の志、小寺の城中へ乗りこんだ青年官兵衛は今いづこ。
秀吉自身、智略にまかせて随分出すぎたことをやり、再三信長を怒らせたものだ。如水も一緒に怒られて、二人並べて首が飛びさうな時もあつた。中国征伐の時、秀吉と如水の一存で浮田と和平停戦した。之が信長の気に入らぬ。信長は浮田を亡して、領地を部将に与へるつもりでゐたのである。二人は危く首の飛ぶところであつたが、猿面冠者さるめんかじゃは悪びれぬ。シャア/\と再三やらかして平気なものだ。それだけ信長を頼りもし信じてもゐたのであるが、如水は後悔、警戒した。傾倒の度も不足であるが、自恃の念も弱いのだ。
如水は律儀であるけれども、天衣無縫の律儀でなかつた。律儀といふ天然の砦がなければ支へることの不可能な身に余る野望の化け者だ。彼も亦一個の英雄であり、すぐれた策師であるけれども、不相応な野望ほど偉くないのが悲劇であり、それゆゑ滑稽笑止である。秀吉は如水の肚を怖れたが、同時に彼を軽蔑した。
ある日、近臣を集めて四方山話の果に、どうだな、俺の死後に天下をとる奴は誰だと思ふ、遠慮はいらぬ、腹蔵なく言ふがよい、と秀吉が言つた。徳川、前田、蒲生、上杉、各人各説、色々と説のでるのを秀吉は笑つてきいてゐたが、よろし、先づそのへんが当つてもをる、当つてもをらぬ。然し、乃公だいこうの見るところは又違ふ。誰も名前をあげなかつたが、黒田のビッコが爆弾小僧といふ奴だ。俺の戦功はビッコの智略によるところが随分とあつて、俺が寝もやらず思案にくれて編みだした戦略をビッコの奴にそれとなく問ひかけてみると、言下にピタリと同じことを答へをる。分別の良いこと話の外だ。狡智無類、行動は天下一品速力的で、心の許されぬ曲者だ、と言つた。
この話を山名禅高が如水に伝へたから、如水は引退の時だと思つた。家督を倅せがれ長政に譲りたい、と請願に及んだが秀吉は許さぬ。アッハッハ、ビッコ奴、要心深い奴だ、困らしてやれ。然し、又、実際秀吉は如水の智恵がまだ必要でもあつたのだ。四十の隠居は奇ッ怪千万、秀吉はかうあしらひ、人を介して何回となく頼んでみたが、秀吉は許してくれぬ。ところが、如水も執拗だ。倅の長政が人質の時、政所まんどころの愛顧を蒙つた。石田三成が淀君党で、之に対する政所派といふ大名があり、長政などは政所派の重鎮、さういふ深い縁があるから、政所の手を通して執念深く願ひでる。執念の根比べでは如水に勝つ者はめつたにゐない。秀吉も折れて、四十そこ/\の若さなのだから、隠居して楽をするつもりなら許してやらぬ。返事はどうぢや。申すまでもありませぬ。私が隠居致しますのは子を思ふ一念からで、隠居して身軽になれば日夜伺候し、益々御奉公の考へです。厭になるほど律儀であるから、秀吉も苦笑して、その言葉を忘れるな、よし、許してやる。そこで黒田如水といふ初老の隠居が出来上つた。天正十七年、小田原攻めの前年で、如水は四十四であつた。
ある日のこと、秀吉から茶の湯の招待を受けた。如水は野人気質であるから、茶の湯を甚だ嫌つてゐた。狭い席に無刀で坐るのは武人の心得でないなどゝ堅苦しいことを言つて軽蔑し、持つて廻つた礼式作法の阿呆らしさ、嘲笑して茶席に現れたことがない。
秀吉の招待にウンザリした。又、いやがらせかな、と出掛けてみると、茶席の中には相客がをらぬ。秀吉がたつた一人。侍臣の影すらもない。差向ひだが、秀吉は茶をたてる様子もなかつた。
秀吉のきりだした話は小田原征伐の軍略だ。小田原は早雲苦心の名城で、謙信、信玄両名の大戦術家が各一度は小田原城下へ攻めてみながら、結局失敗、敗戦してゐる。けれども、秀吉は自信満々、城攻めなどは苦にしてをらぬ。微募の兵力、物資の輸送、数時間にわたつて軍議をとげたが、秀吉の心信事は別のところにある。小田原へ攻め入るためには尾張、三河、駿河を通つて行かねばならぬ。尾張は織田信雄のぶかつ、三河駿河遠江は家康の所領で、この両名は秀吉と干戈かんかを交へた敵手であり、現在は秀吉の麾下きかに属してゐるが、いつ異心を現すか、天下万人の風説であり、関心だ。家康の娘は北条氏直の奥方で、秀吉と対峙の時代、家康は保身のために北条の歓心をもとめて与国の如くに頭を下げた。両家の関係はかく密接であるから、同盟して反旗をひるがへすといふ怖れがあり、家康が立てば信雄がつく、信雄は信長の子供であるから、大義名分が敵方にあり諸将の動向分裂も必至だ。
さて、チンバ。尾張と三河、この三河に古狸が住んでゐるて。お主は巧者だが、この古狸めを化かしおはして小田原へ行きつく手だてを訊きたいものだ。古狸の妖力を封じる手だてが小田原退治の勝負どころといふものだ。ワッハッハ。さうですな、と如水はアッサリ言下に答へた。先づ家康と信雄を先発させて、小田原へ先着させることですな。之といふ奇策も外にはありますまい。先発の仲間に前田、上杉などゝいふ古狸の煙たいところを御指名なさるのが一策でござらう。殿下はゆる/\と御出発、途中、駿府の城などで数日のお泊りも一興でござらう。しくじる時はどう石橋を叩いてみてもしくじるものでござらうて。
このチンバめ! と、秀吉は叫んだ。彼が寝もやらず思案にくれて編みだした策を、言下に如水が答へたからだ。お主は腹黒い奴ぢやのう。骨の髄まで策略だ。その手で天下がとりたからう。ワッハッハ。秀吉は頗るの御機嫌だ。
ニヤリと如水の顔を見て、どうだな、チンバ、茶の湯の効能といふものが分らぬかな。お主はきつい茶の湯ぎらひといふことだが、ワッハッハ。お主も存外窮屈な男だ。俺とお主が他の席で密談する。人にも知れ、憶測がうるさからう。こゝが茶の湯の一徳といふものだ。なるほど、と、如水は思つた。茶の湯の一徳は屁理窟かも知れないが、自在奔放な生活をみんな自我流に組みたてゝゐる秀吉に比べると、なるほど俺は窮屈だ、と悟るところがあつた。
ところが、愈小田原包囲の陣となり、三ヶ月が空しくすぎて、夏のさかり、秀吉の命をうけて如水は家康を訪問した。このとき、はからざる大人物の存在を如水は見た。頭から爪先まで弓矢の金言で出来てゐるやうな男だと思ひ、秀吉が小牧山で敗戦したのも無理がない、あのとき俺がついてゐても戦さは負けたかも知れぬ、之は天下の曲者だ、と、ひそかに驚嘆の心がわいた。丁度小牧山合戦の時、折から毛利と浮田に境界争ひの戦乱が始まりさうになつたから、如水は秀吉の命を受け、紛争和解のため中国に出張して安国寺坊主と折衝中であつた。親父に代つて長政が小牧山に戦つたが、秀吉方無残の敗北、秀吉の一生に唯一の黒星を印した。なるほど、ふとりすぎた蕗みたい、此奴は食へない化け者だ、と家康も亦律義なカサ頭ビッコの怪物を眺めて肚裡とりに呟いた。然し、与くみし易いところがある、と判断した。 

温和な家康よりも黒田のカサ頭が心が許されぬ、と言ふのは単なる放言で、秀吉が別格最大の敵手と見たのは言ふまでもなく家康だ。
名をすてゝ実をとる、といふのが家康の持つて生れた根性で、ドングリ共が名誉だ意地だと騒いでゐるとき、土百姓の精神で悠々実質をかせいでゐた。変な例だが、愛妾に就て之を見ても、生活の全部に徹底した彼の根性はよく分る。秀吉はお嬢さん好き、名流好きで、淀君は信長の妹お市の方の長女であり、加賀局は前田利家の三女、松の丸殿は京極高吉の娘。三条局は蒲生氏郷うじさとの妹、三丸殿は信長の第五女、姫路殿は信長の弟信包のぶかねの娘、主筋の令嬢をズラリト妾に並べてゐる。たま/\千利久といふ町人の娘にふられた。
ところが家康ときた日には、阿茶局が遠州金谷の鍛冶屋の女房で前夫に二人の子供があり、阿亀の方が石清水八幡宮の修験者の娘、西郷局は戸塚某の女房で一男一女の子持ちの女、その他、神尾某の子持ちの後家だの、甲州武士三井某の女房(之も子持ち)だの、阿松の方がたゞ一人武田信玄の一族で、之だけは素性がよかつた。妾の半数が子持ちの後家で、家康は素性など眼中にない。ジュリヤおたあといふ朝鮮人の侍女にも惚れたが、之は切支丹キリシタンで妾にならぬから、島流しにした。伊豆大島、波浮はぶの近くのオタイネ明神といふのがこの侍女の碑であると云ふ。徹底した実質主義者で、夢想児の甘さが微塵もない人であつた。
秀吉は夢想家の甘さがあつたが、事に処しては唐突に一大飛躍、家康のお株を奪ふ地味な実質策をとる。家康は小牧山の合戦に勝つた、とたんに秀吉は織田信雄と単独和を結んで家康を孤立させ、結果として、秀吉が一足天下統一に近づいてゐる。降参して実利を占めた。
和談の席で、秀吉は主人の息子に背かれ疑られ攻められて戦はねばならぬ苦衷を訴へて、手放しでワア/\と泣いた。長い戦乱のために人民は塗炭の苦に喘いでゐる。私闘はいかぬ。一日も早く天下の戦乱を根絶して平和な日本にしなければならぬ。秀吉は滂沱ぼうだたる涙の中で狂ふが如くに叫んだといふが、肚の中では大明遠征を考へてゐた。まんまと秀吉の涙に瞞着された信雄が家康を説いて、天下の平和のためです、秀吉の受売りをして、御子息於義丸を秀吉の養子にくれて和睦しては、と使者をやると、家康は考へもせず、アヽ、よからう、天下の為です。家康は子供の一人や二人、煮られても焼かれても平気であつた。秀吉は光秀を亡してゐるのだから、時世は秀吉のものだ。信雄といふ主人の息子と一緒なら秀吉と争ふことも出来るけれども、大義名分のない私闘を敢て求める家康ではない。あせることはない。人質ぐらゐ、何人でもくれてやる。
秀吉は関白となり、日に増し盛運に乗じてゐた。諸国の豪族に上洛朝礼をうながし、応ぜぬ者を朝敵として打ち亡して、着々天下は統一に近づいてゐる。一方家康は真田昌幸に背かれて攻めあぐみ、三方ヶ原以来の敗戦をする。重臣石川数正が背いて秀吉に投じ、水野忠重、小笠原貞慶、彼を去り、秀吉についた。家康落目の時で、実質主義の大達人もこの時ばかりは青年の如くふてくされた。
秀吉のうながす上洛に応ぜず、攻めるなら来い、蹴ちらしてやる、ヤケを起して、目算も立てぬ、どうともなれ、と命をはつて、自負、血気、壮んなること甚しい。連日野に山に狩りくらして、秀吉の使者を迎へて野原のまんなかで応接、信長公存命のころ上洛して名所旧蹟みんな見たから都見物の慾もないね。於義丸は秀吉にくれた子だから対面したい気持もないヨ。秀吉が改めてくるなら美濃路に待つてゐるぜ、と言つて追ひ返した。
けれども、金持喧嘩せず、盛運に乗る秀吉は一向に腹を立てない。この古狸が自分につけば天下の統一疑ひなし、大事な鴨で、この古狸が天下をしよつて美濃路にふてくされて、力んでゐる。秀吉は適当に食慾を制し、落付払ふこと、まことに天晴あっぱれな貫禄であつた。天下統一といふ事業のためなら、家康に頭を下げて頼むぐらゐ、お安いことだと考へてゐる。そこで家康の足もとをさらふ実質的な奇策を案出したのであるが、かういふ放れ業ができるのも、一面夢想家ゆゑの特技でもあり、秀吉は外交の天才であつた。
先づ家康に自分の妹を与へてまげて女房にして貰ひ、その次に、自分の実母を人質に送り、まげて上洛してくれ、と頭を下げた。皆の者、よく聞くがよい、秀吉は群臣の前で又機嫌よく泣いてゐた。俺は今天下のため先例のないことを歴史に残してみようと思ふ。関白の母なる人を殺しても、天下の平和には代へられぬものだ。
ふてくされてゐた家康も悟るところがあつた。秀吉は時代の寵児である。天の時には、我を通しても始らぬ。だまされて、殺されても、落目の命ならいらない。覚悟をきめて上洛した。
家康は天の時を知る人だ。然し妥協の人ではない。この人ぐらゐ図太い肚、命をすてゝ乗りだしてくる人はすくない。彼は人生三十一、武田信玄に三方ヶ原で大敗北を喫した。当時の徳川氏は微々たるもの、海内かいだい随一の称を得た甲州の大軍をまともに受けて勝つ自信は鼻柱の強い三河武士にも全くない。家康の好戦的な家臣達に唯一人の主戦論者もなかつたのだ。たつた一人の主戦論者が家康であつた。
彼は信長の同盟者だ。然し、同盟、必ずしも忠実に守るべき道義性のなかつたのが当時の例で、弱肉強食、一々が必死を賭けた保身だから、同盟もその裏切りも慾得づくと命がけで、生き延びた者が勝者である。信玄の目当の敵は信長で家康ではなかつたから、負けるときまつた戦争を敢て戦ふ必要はなかつたのだが、家康たゞ一人群臣をしりぞけて主戦論を主張、断行した。彼もこのとき賭博者だ。信長との同盟に忠実だつたわけではない。極めて小数の天才達には最後の勝負が彼らの不断の人生である。そこでは、理知の計算をはなれ、自分をつき放したところから、自分自身の運命を、否、自分自身の発見を、自分自身の創造を見出す以外に生存の原理がないといふことを彼らは知つてゐる。自己の発見、創造、戦争も亦芸術で、之のみが天才の道だ。家康は同盟といふボロ縄で敢て己れを縛り、己れの理知を縛り、突き放されたところに自己の発見と創造を賭けた。之は常に天才のみが選び得る火花の道。さうして彼は見事に負けた。生きてゐたのが不思議であつた。
大敗北、味方はバラ/\に斬りくづされ、入り乱れ前後も分らぬ苦戦であるが、家康は阿修羅であつた。家康が危くなると家来が駈けつけて之を助け、家来の急を見ると、家康が血刀ふりかぶり助けるために一散に駈けた。夏目次郎左衛門が之を見て眼血走り歯がみをした。大将が雑兵を助けてどうなさる、目に涙をため、家康の馬の轡くつわを浜松の方にグイと向けて、槍の柄で力一杯馬の尻を殴りつけ、追ひせまる敵を突落して討死をとげた。
逃げる家康は総勢五騎であつた。敵が後にせまるたびに自ら馬上にふりむいて、弓によつて打ち落した。顔も鎧も血で真ッ赤、やうやく浜松の城に辿りつき、門をしめるな、開け放しておけ、庭中に篝かがりをたけ、言ひすてゝ奥の間に入り、久野といふ女房に給仕をさせて茶漬を三杯、それから枕をもたせて、ゴロリとひつくり返つて前後不覚にねてしまつた。堂々たる敗北振りは日本戦史の圧巻で、家康は石橋を叩いて渡る男ではない。武将でもなければ、政治家でもない。蓋し稀有なる天才の一人であつた。天才とは何ぞや。自己を突き放すところに自己の創造と発見を賭るところの人である。
秀吉の母を人質にとり、秀吉と対等の格で上洛した家康であつたが、太刀、馬、黄金を献じ、主君に対する臣家の礼をもつて畳に平伏、敬礼した。居並ぶ大小名、呆気にとられる。秀吉に至つては、仰天、狂喜して家康を徳としたが、秀吉を怒らせて一服もられては話にならぬ。まだ先に楽しみのある人生だから、家康は頭を畳にすりつけるぐらゐ、屁とも思つてゐなかつた。
秀吉は別室で家康の手をとり、おしいたゞいて、家康殿、何事も天下の為ぢや。よくぞやつて下された。一生恩にきますぞ、と、感極まつて泣きだしてしまつたが、家康はその手をおしいたゞいて畳におかせて、殿下、御もつたいもない、家康は殿下のため犬馬の労を惜む者でございませぬ。ホロリともせずかう言つた。アッハッハ。たうとう三河の古狸めを退治てやつた、と、秀吉は寝室で二次会の酒宴をひらき、ポルトガルの船から買ひもとめた豪華なベッドの上にひつくり返つて、サア、日本がおさまると、今度は之だ、之だ、と、ベッドを叩いて、酔つ払つて、ねむつてしまつた。 

小田原の北条氏は全開東の統領、東国随一の豪族だが、すでに早雲の遺風なく、君臣共にドングリの背くらべ、家門を知つて天下を知らぬ平々凡々たる旧家であつた。時代に就て見識が欠けてゐたから、秀吉から上洛をうながされても、成上り者の関白などは、と相手にしない。秀吉は又辛抱した。この辛抱が三年間。この頃の秀吉はよく辛抱し、あせらず、怒らず、なるべく干戈を動かさず天下を統一の意向である。北条の旧領、沼田八万石を還してくれゝば朝礼する、と言つてきたので、真田昌幸に因果を含めて沼田城を還させたが、沼田城を貰つておいて、上洛しない。北条の思ひ上ること甚しく、成上りの関白が見事なぐらゐカラカハれた。我慢しかねて北条征伐となつたのだ。
秀吉は予定の如く、家康、信雄、前田利家、上杉景勝らを先発着陣せしめ、自身は三月一日、参内して節刀を拝受、十七万の大軍を率ゐて出発した。駿府へ着いたのが十九日で、家康は長久保の陣から駈けつけて拝謁、秀吉を駿府城に泊らせて饗応至らざるところがない。本多重次がたまりかねて、秀吉の家臣の居ならぶ前で自分の主人家康を罵つた。これは又、あつぱれ不思議な振舞をなさるものですな。国を保つ者が、城を開け渡して人に貸すとは何事です。この様子では、女房を貸せと言はれても、さだめしお貸しのことでせうな、と青筋をたてゝ地団駄ふんだ。
小田原へ着いた秀吉は石垣山に陣取り、一夜のうちに白紙を用ひて贋城をつくるといふ小細工を弄したが、ある日家康を山上の楼に招き、関八州の大平野を遥か東方に指して言つた。といふのは昔の本にあるところだが、実際は箱根丹沢にさへぎられてさうは見晴らしがきかないのである。ごらんなさい。関八州は私の掌中にあるが、小田原平定後は之をそつくりあなたに進ぜよう。ところで、あなたは小田原を居城となさるつもりかな。左様、まづ、その考へです。いや/\と秀吉は制して、山々控へた小田原の地はもはや時世の城ではない。二十里東方に江戸といふ城下がある。海と河川を控へ、広大な沃野の中央に位して物資と交通の要地だから、こゝに居られる方がよい、と教へてくれた。さうですか。万事お言葉の通りに致しませう、と答へたが、今は秀吉の御意のまゝ、言ひなり放題に振舞ふ時と考へて、家康はこだはらぬ。秀吉の好機嫌の言葉には悪意がなく、好意と、聡明な判断に富んでゐることを家康は知つてもゐた。
二十六万の陸軍、加藤、脇坂、九鬼等の水軍、十重二十重に小田原城を包囲したが、小田原は早雲苦心の名城で、この時一人の名将もなしとは言へ、関東の豪族が手兵を率ゐてあらかた参集籠城したから、兵力は強大、簡単に陥す見込みはつかない。小早川隆景の献策を用ひて、持久策をとり、糧道を絶つことにした。
秀吉自身は淀君をよびよせ、諸将各妻妾をよばせ、館をつくらせ、連日の酒宴、茶の湯、小田原城下は戦場変じて日本一の歓楽地帯だ。四方の往還は物資を運ぶ人馬の往来絶えることなく、商人は雲集して、小屋がけし、市をたて、海運も亦日に/\何百何千艘、物資の豊富なこと、諸国の名物はみんな集る、見世物がかゝる、遊女屋が八方に立ち、絹布を売る店、舶来の品々を売る店、戦争に無縁の品が羽が生えて売れて行く。大名達は豪華な居館をつくつて、書院、数寄屋、庭に草花を植え、招いたり招かれたり、宴会つゞきだ。
この陣中の徒然に、如水が茶の湯をやりはじめた。ところが如水といふ人は気骨にまかせて茶の湯を嘲笑してゐたが、元来が洒落な男で、文事にもたけ、和歌なども巧みな人だ。彼が茶の湯をやりだしたのは保身のため、秀吉への迎合といふ意味があつたが、やりだしてみると、秀吉などとはケタ違ひに茶の湯が板につく男だ。小田原陣が終つて京都に帰つた頃はいつぱしの茶の湯好きで、利久や紹巴じょうはなどゝ往来し、その晩年は唯一の趣味の如き耽溺ぶりですらあつた。一つには、彼の棲む博多の町に、宗室、宗湛、宗九などといふ朱印船貿易の気宇遠大な豪商がゐて茶の湯の友であつたからで、茶の湯を通じて豪商達と結ぶことが必要だつたせゐもある。
如水は高山右近のすゝめで洗礼を受け切支丹であつたが、之も秀吉への迎合から、禁教令後は必ずしも切支丹に忠実ではなかつた。カトリックは天主以外の礼拝を禁じ、この掟は最も厳重に守るべきものであつたが、如水は菅公廟を修理したり、箱崎、志賀両神社を再興し、又、春屋和尚について参禅し、その高弟雲英禅師を崇福寺に迎へて尊敬厚く、さりとて切支丹の信教も終生捨てゝはゐなかつた。彼の葬儀は切支丹教会と仏寺との両方で行はれたが、世子長政の意志のみではなく、彼自身の処世の跡の偽らざる表れでもあつた。
元々切支丹の韜晦とうかいといふ世渡りの手段に始めた参禅だつたが、之が又、如水の性に合つてゐた。忠義に対する冷遇、出る杭は打たれ、一見豪放磊落でも天衣無縫に縁がなく、律義と反骨と、誠意と野心と、虚心と企みと背中合せの如水にとつて、禅のひねくれた虚心坦懐はウマが合つてゐたのである。彼の文事の教養は野性的洒脱といふ性格を彼に与へたが、茶の湯と禅はこの性格に適合し、特に文章をひねくる時には極めてイタについてゐた。青年の如水は何故に茶の湯を軽蔑したか。世紀の流行に対する反感だ。王侯貴人の業であつてもその流行を潔とせぬ彼の反骨の表れである。反骨は尚腐血となつて彼の血管をめぐつてゐるが、稜々たる青春の気骨はすでにない。反骨と野望はすでに彼の老ひ腐つた血で、その悪霊にすぎなかつた。
ある日、秀吉は石垣山の楼上から小田原包囲の軍兵二十六万の軍容を眺め下して至極好機嫌だつた。自讃は秀吉の天性で、侍臣を顧て大威張りした。どうだ者共。昔の話はいざ知らず、今の世に二十六万の大軍を操る者が俺の外に見当るかな。先づ、なからう、ワッハッハ。その旁に如水が例のドングリ眼をむいてゐる。之を見ると秀吉は俄に奇声を発して叫んだ。ワッハッハ。チンバ、そこにゐたか。なるほど、貴様は二十六万の大軍がさぞ操つてみたからう。チンバなら、さだめし出来るであらう。者共きけ、チンバはこの世に俺を除いて二十六万の大軍を操るたつた一人の人物だ。
如水はニコリともしない。彼は秀吉に怖れられ、然し、甘く見くびられてゐることを知つてゐた。如水は歯のない番犬だ。主人を噛む歯が抜けてゐると。
だが、かういふ時に、なぜ、いつも、自分の名前がひきあひにでゝくるのだらう。二十六万の大軍を操る者は俺のみだと壮語して、それだけで済むことではないか。それは如水の名の裏に別の名前が隠されてゐるからである。歯のある番犬の名が隠されて、その不安が常に心中にあるからだ。それを如水は知つてゐた。その犬の名が家康であることも知つてゐた。その犬に会つてみたいといふ思ひが、肚底とていに逞しく育つてゐたのだ。 
 

 

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